伯爵と妖精
あまい罠には気をつけて
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)霧男《フォグマン》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)顧問|妖精博士《フェアリードクター》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)エドガーさま[#「さま」に傍点]
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目次
霧の都《みやこ》の闇の向こう
ボギービーストの妖精卵《ようせいたまご》
キャラメルとオレンジ
高貴なる悪魔
ガラス越しの想い
あいつの無慈悲《むじひ》な復讐《ふくしゅう》
祝福は春風にのって
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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霧の都《みやこ》の闇の向こう
「ずいぶんと霧が出てきましたね」
声をかけられ、緊張しながらうつむいていた少女は、馬車の外に目をやった。
霧が重くたれ込めはじめた街の風景は、うすぼんやりとして幻めいている。
見あげれば、シティの建物群から突き抜けてそびえるセントポール大聖堂は、輪郭《りんかく》がぼやけ、霧の都を見おろす巨人のようだった。
「こんな日は物騒《ぶっそう》な事件が起こりゃすいとか。あなたのようなレディが、ひとりで辻《つじ》馬車を待つには不向きな日ですよ」
少女は遠慮がちに、隣に座る声の主をちらりと見たが、すぐに視線をひざに置いた自分の手へ戻した。
「ええ、本当に。侍女《じじょ》とはぐれて困っていたところでした。ご親切に感謝しています、伯爵《はくしゃく》」
「まあそう、かしこまらないで。きみのようなかわいいお嬢《じょう》さんとご一緒できて、僕は幸運ですよ」
「い、いえ、そんな……」
お世辞《せじ》だとわかっていても胸が高鳴る。内装も立派なこの馬車の持ち主を、内気な少女はまともに見ることさえできなかった。
外国から帰国したばかりの、美貌《びぼう》の青年貴族。遠目でもすぐに目につく鮮やかな金髪と優雅な立ち居振る舞い。洗練された話術で紳士淑女を惹《ひ》きつけ、魅了すると評判の人。
|社交界の季節《ザ・シーズン》はまだだというのに、上流階級の娘たちは、ロンドンに来てひと月もたたないらしい彼の噂《うわさ》で持ちきりだ。
そんな伯爵が、会ったことがあるとはいえまともに話をしたこともない少女を覚えていて、なかなか馬車がつかまらなくて困っていたところに通りかかり、家まで送ってくれることになるなんて、想像もできなかった。
チャリティバザーの手伝いは、外に出るのが億劫《おっくう》な彼女には気が進まない役目だった。上流階級の娘にとって、慈善《じぜん》事業にかかわるのは義務のようなもの、一種の花嫁修業だとはわかっているが、人込みで侍女とはぐれ、天候は悪化するし、さんざんな日だと思っていたところだった。
少女は確認するように、またちらりと彼を盗み見る。
ロザリーが妬《や》くかしら、と思うのは、伯爵に一目惚《ひとめぼ》れして積極的に話しかけていた従姉《いとこ》のことを思い出したからだった。
「おとなしいんですね」
顔をあげなくても、彼がやわらかく微笑《ほほえ》んだのがわかる。
「それとも、よく知らない男の馬車に乗ってしまったことを後悔していらっしゃる?」
「まさか……。アシェンバート伯爵はおやさしい紳士だと、みんなおっしゃいますもの」
「噂は、霧のようにどこからともなくわいて消える。誰も本当のことなど知らないし、興味もないのですよ」
不意に彼が身体《からだ》を寄せ、少女は硬直した。
しなやかな指が彼女の髪にのばされる。
が、わずかも触れることなくそれは離れ、彼は木の葉を一枚つまみ上げていた。
「失礼、風に吹かれてこんなものが」
思わず視線を上げれば、目が合ってしまう。
隙《すき》のない微笑みに、ふと暗い影がひそんでいるような気がして、少女は身震《みぶる》いした。
よく知らない人。たしかにそうだ。
たいそうな名前や身分を持っていても、正しい人か、本当に紳士かどうかなど、彼女にわかるはずもない。
「ロンドンの霧には悪意がある。いったい何人の少年少女が、この霧にのまれて消えてしまったかご存じですか、レディ・ドーリス?」
「い、いいえ」
彼から目を離せないまま、少女は首を横に振った。
「悪意にのまれてしまわぬように、お気をつけて」
馬車は止まっていた。
御者《ぎょしゃ》にドアを開けられ、彼女の屋敷の前だと気づけばほっと胸をなで下ろす。
このまま霧の奥深くへ連れ去られてしまいそうだなどと、ちらりと考えた自分がバカバカしくなった。
けれども、いっそう濃く視界をさえぎりはじめた霧の向こうに、伯爵の馬車が去っていくのを見送れば、あの人の領国は霧の彼方にあるのかもしれないと、ふと思う。
アシェンバート伯爵の正式な名称は、イブラゼル伯爵。
妖精国の領主だと噂されているから。
「ドーリス、どこへ行ってたの? 今の馬車、アシェンバート伯爵がいらっしゃらなかった?」
「ロザリー、ええ、あの……」
門の前で彼女を呼び止めた従姉は、すっかり見ていたのか腹を立てているらしかった。
「わたしを出し抜こうってつもり?」
「そんな」
「ちょっと、わたしの目が見られないの? あなた最近、隠し事してない?」
「何も、隠してなんかないわ」
少女はあわてて否定した。
「いいこと、あなたはわたしに隠し事なんかできないのよ。妖精に誓ったのを忘れてないでしょうね」
「もちろんよ」
「なら言いなさい。この間からこっそり書いてた手紙は何?」
「み、見たの!」
「何よ、わたしが見ちゃそんなに困るものなの!」
ということは、さすがに中身は見ていないのか。少女はほっとするが、その様子がさらにロザリーを怒らせた。
「やっぱり、隠し事してるじゃない! 誓いを破ったら、妖精に罰を受けるってわかってるの?」
ロザリーとふたりで、妖精に誓いを立てたことを思い出す。お互いに親友として、隠し事をしないという約束。破ったりしたら、霧男《フォグマン》が罰をもたらすのだと彼女は言った。
「でもロザリー、霧男って本当にいるのかしら……」
「いるわよ! もう知らない、ひどい目にあったって助けてあげないから。あなたなんて、霧男にさらわれていなくなっちゃえばいいのよ!」
霧男、ロンドン子なら誰でも幼い頃に聞かされているだろう霧の妖精。おとぎ話を信じている年頃ではないが、怖いと思うのはどこかで信じているからなのだろう。
霧男につかまった、かわいそうな子を見たことがある。幼いころの断片的な記憶だが、夢ではなかったと思う。そのせいで、いまだに霧男という言葉は、彼女にとって暗闇と死を連想する不安な気分そのものだった。
霧男にさらわれたら、どうなってしまうのだろう。
去ってしまう従姉のオレンジ色の髪を眺めながら、彼女は霧の中にひとり、置き去りにされてしまうような孤独を感じていた。
* * *
そこはロンドンでも、屈指《くっし》の豪邸が並ぶメイフェア地区。その一画《いっかく》に、エドガー・アシェンバートの邸宅《パレス》はあった。
ひと月ほど前に英国に帰国したばかり、ということになっている、弱冠《じゃっかん》二十歳《はたち》の伯爵が買い上げた白亜《はくあ》の建物、その中の一室が、リディアの仕事場だ。
顧問|妖精博士《フェアリードクター》として、強引に伯爵家に雇われることになった十七歳の少女は、ここに通いはじめて二週間になる。
妖精国《イブラゼル》の領主として英国伯爵の位を持つエドガーは、しかし本物のアシェンバート家の血筋ではなく、素性《すじょう》の知れない人物だ。貴族の出であることは間違いなさそうだが、妖精のことなどまるきりわかっていない。
ほとんどの人間がそうであるように、彼も妖精の姿を見分けることができないし、声を聞くこともできないが、伯爵家の所有地として受け継いだ土地には妖精たちが住んでいて、彼を領主と認めているからには、フェアリードクターに頼る問題が生じることもあると考え、リディアを雇うことにしたらしい。
妖精と人間が隣り合って暮らしていた時代から、妖精に関する知識と交渉能力を持つフェアリードクターの仕事は、両者の間を平和に取り持つことだった。
しかし現在、十九世紀ともなっては、妖精の存在はおとぎ話の中に押し込められ、彼らが隣人《りんじん》だったことなど誰もが忘れかけている。フェアリードクターという存在も、もうめずらしいくらいだ。
だからリディアが故郷の町で、フェアリードクターを名乗っても、仕事の依頼はおろか、変人扱いされるだけだった。そんな時代に、正式にフェアリードクターとして雇われたのだ。まだまだ未熟なリディアには畏《おそ》れ多いくらい名誉ある地位だといえたが、とてもじゃないがありがたい気がしないのは、何を考えているのかわからない雇い主のせいだった。
今日もリディアは、仕事部屋だということになっている部屋のドアを開けたとたん、脱力感に見舞われた。
一面、花束だらけだったのだ。
「なによこれ……」
「旦那《だんな》さまからの贈り物です」
背後からの声は、執事《しつじ》のトムキンスだ。ずんぐりした身体に似合わぬきびきびした動作で、さらにひとつ、大きな花瓶《かびん》を窓際に置いた。
「本日旦那さまはお出かけですので、リディアさんにはごゆっくりお過ごしくださいとのことでございます」
エドガーが留守と聞いて、リディアはほっとしていた。
「なら今日は、どこにも出かけなくていいのね」
なにしろ毎日のように、観劇だのお茶会だの演奏会だの、エドガーの娯楽につきあわされている。いったい、それのどこがフェアリードクターの仕事なのかと言いたいが、うまく言いくるめられたまま二週間が過ぎてしまった。
リディアはまだ、まともに仕事をしていない。しかしエドガーは、はたして仕事をさせるつもりでリディアを雇ったのだろうか?
まるで彼の玩具《おもちゃ》だわとリディアは思う。
この部屋だって、とても仕事部屋だとは思えない。
萌葱《もえぎ》色を基調にしたカーペットや壁紙、上品なレースと刺繍《ししゅう》で飾られたソファにクロス、たっぷり襞《ひだ》を取ったシルクのカーテン。
キャビネットに並んだガラス細工や陶器《とうき》の人形からしても、年頃の令嬢《れいじょう》の私室といった様子だ。いったいどういうつもりなのか。
「それから、衣装がいくつか届いておりますので、寸法《サイズ》に間違いはないかご確認ください」
「え、衣装?」
立ち去りかけたトムキンスを呼び止める。
「はい。来月ロイヤルオペラハウスへお出かけになるためのものです」
「オペラ? 聞いてないわ」
「では近いうちにお聞きになるでしょう。それ以外にも今後、相応の場所へ出るためには必要になるだろうと、いろいろそろえさせております。いえ、お気を悪くなさいませんように。これは当家から支給される備品のひとつですので」
「あの、でも、相応の場所って? あたしの仕事には関係ないでしょう? だいたい、勝手にオペラの予定なんて入れられても困るもの」
どのみち彼にとって、女の子は自分を引き立てる装飾品だ。そう感じているから、花束のプレゼントも華やかな場所に連れ出されるのも、リディアは反発をおぼえるのだ。
「あなたがそのようにおっしゃった場合、わたくしにドレスを着せてオペラハウスへ引っぱっていくとエドガーさまは申しておりました。どうかこの老人を憐《あわ》れんでくださいませ」
単なる脅《おど》しとも言い切れないのがエドガーだ。リディアは頭をかかえたくなった。
「ねえトムキンスさん、あのエドガーにつかえてて疲れない?」
もともとこの伯爵家の執事を勤めてきたという家系の彼は、三百年ぶりに現れた当主として、エドガーに嬉々《きき》として仕えているが、あの軽薄《けいはく》な若造《わかぞう》に満足しているのだろうかと不思議に思う。
「リディアさん、執事を振り回してこそ主人なのですよ。主人の無茶をいかにさばききるかが執事の資質というものです」
「……勝負の世界なのね」
にこりと微笑《ほほえ》む彼は、やりがいに燃えている様子だった。
「でもあたしは、エドガーと勝負なんかごめんだわ」
リディアはショールを羽織《はお》り直し、仕事部屋を出る。
「どちらへ?」
「自由にしてていいんでしょ? 少し外を歩いてきます」
ここでじっとしていたら、エドガーの思い通りにされている自分に苛立《いらだ》ちそうだ。
「今日も午後から霧が濃くなりそうですよ」
「わかるの?」
「ええ、湿気で背中のひれがうずくのですよ」
「じゃあ、それまでには戻ります」
復活祭《イースター》をすぎたというのに、春風は道草でもくっているのか、ロンドンは一向《いっこう》に春らしくならず、霧の日が続いていた。
いったいいつまで、ロンドンにいることになるのだろう。もともとリディアは、父と復活祭を過ごすために、スコットランドの田舎《いなか》町から出てきただけのつもりだった。
ロンドン大学の教授として、こちらで暮らしているリディアの父は、本当のところ、娘をひとりだけでスコットランドの自宅へ置いておくのは心配だったようで、このままこちらで暮らせばいいと言う。
けれどリディアにとって田舎の家は、幼い頃に亡くした母とのかすかな記憶の拠《よ》り所でもあるし、何より草木と妖精の多い場所で気に入っている。
祖母が亡くなり、リディアがひとりだけになったときも、だから父は無理にロンドンへ呼び寄せようとはしなかった。今も、リディアが田舎暮らしを選んでも、認めてくれるだろう。
しかし、問題なのはエドガーだ。
伯爵《はくしゃく》家に雇われたからには、エドガーが許可してくれないと、勝手にロンドンを離れるわけにもいかない。
ただリディアは、どちらかというと一方的なやり方で雇われることになったわけで、解雇《かいこ》されることを怖れる必要もないのだから、そのへんは強気な気持ちでいる。
妖精にかかわる仕事なんて、しょっちゅうあるわけではないし、エドガーの遊びにつきあうことが仕事だとはとても思えないから、雇われフェアリードクターのまま田舎に引きこもることも可能なのではないか。
それをうまくエドガーに認めさせる方法はないものかと考えながら、リディアは公園へ向かい、ぶらぶらと歩いていた。
「まあったく、こっちの魚はまずいったら」
そう言ったのは、いつのまにかそばにいた猫だ。
いや、猫ではなく妖精なのだが、今は煉瓦塀《れんがべい》の上を、猫のふりをして四つんばいになって歩いていた。
「ニコ、店先でつまみ食いするのはやめなさいよね」
「野良猫どもでさえ寄りつかないわけがわかったよ。おれの食いもんじゃねえ」
人通りが少なくなるのを見計らって、塀から飛びおりたニコは、二本足で立つ。ふさふさした灰色の毛並みと、首のネクタイをささっと整え、紳士気取りで胸を張る。
「じゃあ、それは何なの?」
しっぽでくるりと大事そうに包み込んでいるものに、リディアは気がついた。
「カンヅメだとさ。軒下で昼寝してた|家付き妖精《ホブゴブリン》の話じゃ、ロンドンでいちばんうまいんだそうだ」
「でもそれ、魚の缶詰よ」
「なにい、魚? こんな魚見たことないぞ」
「だから缶の中身よ。魚のハーブ漬けって、ラベルに書いてあるじゃない」
「えっ、これは入れ物なのか? そんなはずないだろ、入れるところがないじゃねえか」
「まあそうね。ふたが溶接《ようせつ》されてるんだから、道具がないと開けられないわね」
缶をくるくると眺め回し、たたいて硬さを確かめていたニコは、理解するとともに頭にきたらしく、背中の毛を逆立てた。
「くっそーっ、あのホブゴブリンめ、だましやがったな! 自分で開けられなくて食えないからって、おれのクルミパンを横取りしやがって! それも中身が魚だと?」
彼が投げ捨てようとした缶詰を、リディアは手に取った。
「まあいいじゃない。あとで開けてもらいましょう。魚でも、これは遠くで捕れたものよ、きっと」
それから彼女はニコとともに、緑|生《お》い茂る公園の小道へと入っていった。
空は低く曇り、霧がうっすらと立ちこめはじめていたが、木々のある場所はそれだけで落ち着ける。
こんな天気だから人の姿は少なく、枝の間から顔を出すリスや小鳥に紛れて、小妖精の姿があった。
スコットランドの森とはくらべものにならないが、ロンドンにもまだまだ妖精はいるようだ。リディアに見られているのがわかると、妖精の見える人間がめずらしいらしく、わらわらと集まってきた。
ベンチに腰かけ、リディアは妖精たちのおしゃべりに耳を傾ける。それは意味を追うよりも、小鳥のさえずりを聞くように音を楽しむのが心地いいと、知っている人は少ないだろう。おだやかな時間を過ごしているうち、急に視界が悪くなってきた。たまたま霧の濃い部分に入り込んでしまったようだと思いながら、リディアはくぐもった犬の吠え声を耳にしていた。
妖精たちがさっと散っていく。犬の声はさらに近づいてきているようだ。
「やだわ、ニコ。野良犬でもいるのかしら」
「冗談じゃないぜ。おれは消えるからな」
「え、ちょっと、ニコ!」
彼が消えると同時に、すぐそばの茂みがガサリと動いた。
うなりながら、大きな野犬がリディアに歩み寄る。一匹、二匹と集まってきて彼女を囲む。
「やだ……、来ないでよ!」
飛びかかってこようとした一匹に、思わず缶詰を投げつけた。命中して、犬は地面に転がったが、かえってほかの犬を刺激してしまっただけだ。
枝をもぎ取ろうとしたとき、木の背後から人影が現れた。
霧の中から浮かびあがってくるかのような、黒ずくめの大きな姿。
「霧男《フォグマン》……」
思わずつぶやいたのは、妖犬を引き連れ霧の中から現れるという不吉な妖精を、彷彿《ほうふつ》とさせる姿だったからだ。
男はリディアに手をのばす。
きつい薬品の匂いが漂い、クラリとする。
何? 人さらい?
が、急に男は、身体《からだ》を硬直させて動きを止めた。そのまま崩れるように、その場に倒れる。
流れ出す血が地面を真っ赤に染めていくのを、すぐそばに突っ立ったまま無表情に眺めているのは、褐色《かっしょく》の肌の少年だった。
リディアは彼を知っている。歩く武器みたいな異国の戦士。エドガーの忠実な従者だ。
「きゃあ!」
気がつけば、リディアの目の前に猛犬の牙があった。
はっと振り向いた少年のナイフがひるがえる。一撃でのどを切り裂《さ》く。
間髪《かんはつ》を入れず、リディアの前に回り込んだ彼は、飛びかかってくる犬を次々になぎ払った。
「行きましょう、リディアさん」
「でもあの、レイヴン、どうしてあなたが」
「早く、この場を離れた方がいい」
促《うなが》され、彼のあとについて走る。
ようやく、まばらながら人が行き交う場所まで来ると、リディアは急に気分が悪くなった。
緊張が解けたものの、薬品と血の匂いとが、まだまとわりついているようだったからだ。
衣服や髪を確かめるが、少しも汚れていないのに、見えない返り血を浴びたような気がしている。
レイヴンに助けられたのはたしかだが、感謝するよりも恐ろしいと思うのは、彼の容赦《ようしゃ》ないやり方のせいだ。
もうちょっと手加減するとか……、と言いたいけれど、彼にとってその判断基準が、リディアの感覚とはかけ離れているらしいことは知っていた。
「レディ、どこかお怪我《けが》を?」
「いえ、……大丈夫よ」
今は触れられたくなくて、リディアはどうにか背筋を伸ばした。
都会は物騒《ぶっそう》なところだ。
昼間でもひと気のないところは危険だなんて思わなかった。
人込みではスリやひったくりに気をつけなければならないし、かといって人の目がなければ、強盗や変質者が隙《すき》をねらっている。
ロンドンの地理に慣れないリディアなど、ひとりでふらふら歩いていれば、目をつけられても不思議ではない。
だからといって、レイヴンが自分のあとをつけていたというのは、リディアにとって気持ちのいい話ではなかった。
エドガーの忠実な召使いは、猛獣《もうじゅう》みたいな殺人鬼でもある。リディアにとっては、得体の知れない部分が多い。
しかし得体が知れないのは、彼を従えているエドガーにしても同様だった。
「リディア! よかった、無事だったんだね」
花だらけの仕事部屋へ駆け込んできたエドガーは、大げさにそう言って、さっとリディアの両手を取った。
眉《まゆ》をひそめるしかないリディアに、無邪気《むじゃき》なほどにっこり微笑《ほほえ》みかけるが、彼の内面に無邪気などという部分はあり得ない。
リディアは急いで手を振り払った。
「ええ、助かったわ。あなたがレイヴンにあたしのあとをつけさせたおかげでね」
せいぜい嫌味っぽく言ってやるが、エドガーにはまるきり通じなかった。
「役に立ててよかったよ」
「じゃなくて、どういうつもりなのよ! 変質者が現れなかったら、あたしが何も知らないうちに、どこで何をしてたかレイヴンが逐一《ちくいち》あなたに報告してたってことでしょ?」
「そんなつもりはないよ。純粋に、きみの護衛をさせただけだ」
本当かしら。
いかにも心配そうにこちらを見おろしている彼を、リディアは観察しつつにらみつけてみたが、端整《たんせい》な顔立ちとあまい色をした灰紫《アッシュモーヴ》の瞳はいつも、彼のたくらみを隠してしまう。
エドガーはリディアにとって、「よくわからない人」のままだ。
戸口から、静かにレイヴンが入ってくるのが見えた。
「リディアさんにお薬を。頭痛がするとのことでしたので」
「本当かい、リディア。怖い思いをしたせいだね」
さらに覗《のぞ》き込むように近づくものだから、リディアはソファの上で身体をずらす。
親密な距離をつくり出すことに、少しもためらいがない彼は、自分の容貌《ようぼう》や言葉や仕草が、相手にとって不愉快《ふゆかい》ではないはずだと知っているのだからタチが悪い。
変わり者と疎外されてきたために、男性に接近されることに慣れていないリディアにとって、不愉快でないことが居心地悪いのだが、かまわず彼はリディアの額《ひたい》に手をあてた。
「熱はないようだけど」
「……血を見たせいなの、もう大丈夫よ!」
レイヴンの方に、エドガーの注意が向けられる。そのおかげで、リディアからはようやく少し離れてくれた。
「血? 殺したのか?」
「はい」
レイヴンはいつも、ほとんど表情を変えない。エドガーにはどこまでも忠実で、言いわけひとつせず淡々《たんたん》と質問に答えるだけだ。
「何人?」
「ひとりと四匹です」
「四匹?」
「犬を使っていました」
考えるように少し黙り、エドガーはまたレイヴンに言う。
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「わかった。もういいよ」
頷《うなず》き、レイヴンは薬の入ったグラスと、もうひとつブリキのかたまりをテーブルに置いた。
「リディアさんの落とし物を、拾っておきましたので」
リディアが犬に投げつけた、缶詰だった。
いびつにへこんだそれを、エドガーが不思議そうに持ちあげる。
「魚の缶詰?」
「いえ、武器でしょう、おそらく」
レイヴンが冗談を言うとは思えないから、リディアがいつも投げつけるために缶詰を持ち歩いているとでも思っていそうだ。
なんだか情けなくなりながら、ずっと猫のふりでクッションに身をうずめているニコをにらみつけた。
我関せずと、ニコはあくびをする。
「ふうん、どうやって使うのかな?」
レイヴンを見送ってから、エドガーはからかうように言った。
「試してみたい?」
リディアはヤケクソになるしかない。
「いや、遠慮しておくよ」
にっこり笑って、彼は向かい合わせのソファに腰かけた。
「ところでリディア、できればこれからは、ひとりで出歩かないようにしてほしい。レイヴンが苦手ならメイド頭《がしら》でも連れていってくれればいいし、送り迎えはこれまでどおり馬車で」
「そんな大げさなことしなくても、これからは気をつけるわ」
「べつに大げさじゃないよ。良家の子女ならほとんどそうしてる」
「でもあたしは貴族じゃないわ。それにひとりで行動する方が慣れてるし、好きなの」
「ここはスコットランドじゃなくて、女王|陛下《へいか》の都《みやこ》だよ。身なりや振る舞いで判断される。きみの父上は王立アカデミーの会員でもあるし、上流社会でも名を知られた学者だ。その娘なんだから、レディの常識を意識しておいた方がいい」
「父はそんなの気にしないもの」
「だけどきみが立派なレディになることに反対するかな。そんなに堅苦しいことじゃないよ。基本さえはずさなければ、ちょっとした奇言《きげん》や奇行《きこう》は問題にならない。妖精が見えようが声が聞こえようが、思う存分妖精について語ったって、個性のひとつと思ってくれる」
そういうものなのだろうか。
田舎《いなか》の町でリディアは、妖精が見えることを公言していたために変人扱いされていた。一方でエドガーは、妖精国|伯爵《はくしゃく》という肩書きを公言しながら、問題なく受け入れられている。
貴族社会が妖精の存在を信じているわけではなく、その名称を代々受け継いできた家系に年季の入ったユーモアを認めているだけだが、そんなふうに受け入れられるのも、エドガー自身が文句なく貴族的に振る舞えるからだろう。
「だからあなたみたいなもとギャングが、堂々と貴族|面《づら》していられるのね」
「そういうこと」
しかしリディアは、貴族みたいに振る舞いたくなどない。それが理にかなっていたとしても、エドガーの思い通りというところが引っかかるのだ。
「あたしをレディに仕立てあげたいのは、単なるあなたの暇《ひま》つぶしでしょう? この仕事部屋だって花束だって、どうかしてるわよ」
「気に入らなかった? 何もかも、きみのイメージでそろえたつもりなんだけど」
「はあ? どこがよ」
「たとえばこの薔薇《ばら》、アイスグリーンの花を咲かせるめずらしい品種なんだよ。ランプの明かりのもとで見れば、ちょうど金緑に輝いて、きみの瞳のようだ」
そばにあった薔薇に唇《くちびる》を寄せる。こちらに注がれたままの熱い視線に、リディアはまぶたに口づけを受けたような錯覚《さっかく》を起こす。
立ちあがったエドガーは、言葉を続けながらリディアの方へ歩み寄った。
「そしてきみは花園の妖精。ここにきみが座ることで、この部屋は一枚の絵のように完成する。思った通りすばらしい風景だ。ああそう、できることならきみのそばに、小さなスミレが咲くことを許してくれないか。いつでもきみを見つめていたい僕の代わりに、キャラメル色のその髪を美しく引き立てると……」
「ああもうっ、わかったわ! だからやめて」
訊《き》くんじゃなかったと、目の前に差し出されたスミレを、エドガーの瞳の色に似た花を、脱力しながら受け取る。
この女たらしに語らせたら、相手が誰だろうとほめ言葉を延々と垂れ流すだろうということを忘れていた。
しゃべり足りなさそうに、エドガーは肩をすくめた。
恥ずかしくないのかしらと思うようなせりふを、堂々と聞かせてしまうのが彼の特技だが、本音じゃない。わかっていても、少しでも気を許せば、心に忍び込んでくるかのようでリディアは困惑させられる。
「レディとして扱うのは、きみを使用人のひとりとして雇ってるわけじゃないからだ。この伯爵家の一員として、なくてはならない存在だからだよ」
いつになくまじめな顔つきで、リディアの座っているソファの背もたれに手を置く。
「伯爵の立場はきみがくれたものだから、これは僕だけのものじゃなく、きみがいてこそなんだと思ってる。フェアリードクターとしてのきみは、貴重なパートナーなんだ」
「あたしは裏方がいいわ。着飾って、あなたの付属品になんかなりたくないもの」
「宝石は、人の目を惹《ひ》きつけてこそ価値がある。若く美しいフェアリードクターを裏方にしておくなんて宝の持ち腐れだね」
若い小娘だということは事実だが、美しいかどうかは主観的な問題だ。彼女は身内以外にほめられたことなどないし、自分が魅力的だとも思わない。外見も性格もキツイとしばしば言われてきた。
エドガーは例外だが、どうせ誰彼かまわずほめまくっているに違いない。
そう思ったら、なんだかむかついた。
「だから、何のために? あなたを目立たせるためでしょう」
「そうじゃない。つまり……、いつでもそばにいてほしいと言っているんだよ」
少し戸惑ったような、遠慮がちな口調に、切ない気持ちを秘めた告白かと思ってしまいそうだった。
リディアは必死で、冷静になろうと胸の動悸《どうき》を静める。
エドガーは、信用してはいけない人。根から悪い人ではないけれど、必要なら悪人にもなれる人だ。
リディアの能力が伯爵家に必要なら、どんな手を使っても逃がすまいと思っているだけ。
「……そんなに、あたしを監視しておきたいの? あなたがアメリカで処刑されたはずの犯罪者だってこと、知ってるのはレイヴンのほかにはあたしだけだからなのね? 誰にも言うつもりなんかないから、安心して。あなたを伯爵と認めた妖精たちのためにも、フェアリードクターとして手伝えることはするわ。だからあたしをおだてたり、口説《くど》くふりなんてする必要ないのよ」
目を伏せたエドガーは、ふと落ちこんだように見えた。
どうして? 心外だったから?
心外なはずないじゃない、と思うのに、リディアは罪悪感を覚える。リディアをパートナーだと言った言葉にうそがないのなら、疑って否定した自分は、彼を傷つけたのだろうか。
「そう、……そんなに嫌われてるとは思わなかった」
「あの、そういうわけじゃなくて」
去りかけた彼を呼び止めるように、リディアは立ちあがっていた。
「なら、嫌われてないのかな僕は」
くるりと振り返ったエドガーにいきなり手を握られる。
「べつに、嫌いってほどでも……」
「どちらかというと好き?」
「は」
女の子ならきっと誰でも、あまい幻想をいだいてしまうだろう微笑《ほほえ》みが目の前にせまる。
「ど……、どっちでもないわ! あたしは伯爵家のフェアリードクター、それ以上でも以下でもないんだから、下世話な話はやめて。手を離してちょうだい」
彼の目を見たまま、どうにか毅然《きぜん》と言えたと思う。
苦笑いを浮かべたエドガーが、手を離してくれたのだから、色気も何もありはしないと、気分を害してくれたのだろう。
「わかったよ。ならきみがよろこんでくれそうな話をしよう。霧男《フォグマン》って知ってる?」
背を向けかけていた彼女は、思わず彼に向き直った。
「霧男がどうかしたの?」
「ふうん、妖精の話になると、金緑の瞳が輝くんだね。さしあたり、僕の強力なライバルは妖精ってことか」
リディアはもう、エドガーのぼやきなど聞いていなかった。公園で襲われかけたときのことを思い出したからだ。
もちろんあれば、妖精などではなく人間だったけれど、今また霧男という言葉を聞くなんて、何かの因縁《いんねん》だろうかと思う。
「それについて、きみの意見を聞きたいというご婦人が来ている。いやなことがあったばかりで、もし疲れていないなら、会ってみてくれるかい?」
リディアが部屋から出ていくのを眺めながら、ニコはクッションの上で身体《からだ》を起こし、椅子《いす》に座り直して足を組んだ。
「あーあ、まるきり伯爵《はくしゃく》の思うつぼだな」
銀のスプーンを手に取り、自分の姿を映しながらネクタイを直す。
妖精族も高等になるほど、鏡に姿を映し出すのも消すのも自由自在なのだ。
よく猫に間違われるのは不本意だが、彼は今のところ、この高貴にも見えるいぶし銀の毛並みと、宝石のような瞳と、りりしいヒゲを気に入っている。
「どうなのかねえ。奴が悪党なのはわかりきったことだし、リディアに悪さしない限りは、おれが出ていくほどのこともないだろうけど」
と言いつつニコは、伯爵としての地位を固めはじめたエドガーの屋敷に、リディアが出入りすること自体は、まんざらでもなく思っていた。
というのも、ここの紅茶はすばらしくうまいからだ。
食事も酒もかなりいい。ロンドンは、空気は悪いしうるさいし、うっとうしい街だが、もうしばらくならいてやってもいいかと思う。
「しっかし、奴のあまったるい芝居を聞かされてるうちに紅茶が冷めちまったよ」
「淹《い》れ直しましょうか?」
部屋に入ってきたのは執事《しつじ》だった。
「ああ、熱いのをたのむよ」
ニコはティーカップを差し出す。
人魚《メロウ》の血を引く執事は、ニコの正体に早々と気づいていた。なのでニコも隠すのはやめた。
エドガーは、かすかに勘《かん》づいているかもしれないが、ニコはまだ気を許すつもりになれないので、いちおう猫のふりを通している。
向こうだって隠していることは多々あるのだから、こちらの秘密をあかしてやる義理もない。
多少の違和感を与えておいて、不可解な存在だと感じさせておくくらいがちょうどいいだろう。
「なあ執事さん、伯爵の奴、何をたくらんでやがるんだ?」
「はあ、と申しますと?」
熱いダージリンを注ぎながら、執事は気のない返事をする。
「このまえ、ひとりで下町の方へ出かけるのを見たぞ。いつもの完璧《かんぺき》なファッションからは想像できないくらい、小汚い格好で庶民に紛れ込んでた」
「人違いではありませんか?」
「間違うもんか。あいつのド金髪はダサイ帽子で隠せても、存在感は隠せやしない。どうしたって目立つんだよ。あんたもわかるだろ。何が違うのかわかんねえが、違うって思わせる雰囲気を持ってるんだ」
「そうかもしれませんね」
「じゃあ三日前、奴が馬車に乗せてた娘、誰だ?」
「どなたか乗せておりましたか」
「ウォルポール嬢《じょう》……、って呼ばれてたそうだけど、それってどうなのかね。奴がねらってるわけ?」
「さあ、よく存じません」
「ふう、執事は主人の秘密をもらさないってやつかい? よくできた執事だよ」
トムキンスは、ぶ厚い唇《くちびる》を微笑《ほほえ》みの形にゆがませただけだった。
さかな。
とニコに舌なめずりを誘う風貌《ふうぼう》は、メロウに似ているせいだろう。
ニコはふと、テーブルの上の缶詰に目をやった。
「そうだ、あれ開けてくれよ。缶詰」
「このままお召し上がりに?」
「ちょっと味見するだけさ」
ポケットから、執事はノミを取り出す。何でも持ち歩いてるんだな、とニコは感心する。
本当にロンドンいちうまい食べ物なのだろうかと、じっと缶を見つめながらよだれを飲み込む。そのとき、缶が微妙に震《ふる》えたように見えた。
食べようとしているニコに抵抗するような、敵意のこもった気配《けはい》を感じる。
「ちょっと待った!」
ノミで穴を開けようとしていた執事を、ニコは止めた。
そして缶をつついたり、振ってみたり、軽く牙を立ててみたりした。
もういちどテーブルに置けば、それは逃れるようにかすかに動いた。
何か、得体の知れないものが入っている?
しかし、缶という密閉された構造上、開けなければ中身はわからず、何が入っているかわからないのに、むやみに開けるのは危険すぎるだろう。
「とりあえず、味見はやめとくよ」
腕を組んで、缶詰を見おろしながらニコは言った。
エドガーに案内され、南向きのサロンヘリディアが入っていけば、女性がひとり、緊張した面《おも》もちで立ちあがった。
「お待たせしました、ミセス・マール。彼女がフェアリードクターの、リディア・カールトン嬢です」
それを聞いて女性は、やや表情をゆるめた。
「まあ、こちらが……。魔女というと老女のイメージがあったものですから。こんな若いお嬢さんに、恐ろしい話などしてよろしいのかしら」
妖精博士《フェアリードクター》は魔女じゃないのよ、と引っかかったが、よくある誤解だ、いちいち目くじらを立てては大人げないと思い直す。
「ご心配なく。妖精のことでしたら、恐ろしさはよくわかっていますから」
エドガーは、マール夫人に椅子を勧めた。
「それで、ドーリス・ウォルポール男爵《だんしゃく》令嬢《れいじょう》が、霧男《フォグマン》に連れ去られたかもしれないとのことでしたが?」
腰をおろしたマール夫人は、エドガーの問いかけにまたうなだれた。
「そうなんです。お嬢さまが、三日前から家に戻っていません。チャリティバザーの手伝いに出かけて、その場ではぐれたというのが付き添っていたメイドの話でしたが、それきり行方《ゆくえ》がわからないのです」
男爵家の令嬢がいなくなった。しかも、霧男にさらわれたという話らしい。深刻な内容に、リディアは気持ちを引き締めた。
マール夫人の説明によると、十六歳のドーリス嬢には両親がなく、後見人《こうけんにん》の叔父《おじ》と、ひとつ年上の従姉《いとこ》と一緒に暮らしているという。
ウォルポール男爵家で、以前家庭教師をしていた夫人は、結婚を機に辞めてからも令嬢とは親しくしていたそうだ。男爵家の遠縁ということもあって、令嬢の行方不明を知り、友人として行方を気にかけている。
しかしこういったことは、上流階級の令嬢にとっては後の縁談にかかわる不名誉にもなり得るために、男爵家の方で内々に捜索されているが、夫人が霧男の話をしたところ、笑われて終わったらしい。
それはまあ、リディアもよく妖精の話をして笑われているからわかる。
そこでマール夫人は悩んだが、結局、ドーリス嬢が事件に巻き込まれたという事情をあかしてしまうことになるのを承知でエドガーに相談した。
とても誠実で信頼できそうだと感じたからだそうだ。が、だまされてるわね、とリディアは思う。
ミセスとはいえまだ若いマール夫人は、なかなかの美人だし、エドガーがいい顔をしそうなのもわかる気がした。
「あの日は、数歩先も見えなくなるほど霧の濃い日でしたからね」
エドガーがそう言った。
しかしそれだけなら、ふつうに考えて誰も、霧男にさらわれたなどとは言い出さないだろう。
「でも、どうして霧男なんですか? 霧の日にいなくなったとしても、……このごろは、霧男の存在を本気にしている人はあまりいませんわ」
「ええ、実を言うとわたしも信じているわけでは……。すみません、ご相談にうかがっておいて。でも、霧に消えてしまったかのようにまるで手がかりがないんです。それにお嬢さまは、霧男のような妖精の存在を信じているところがありました。妖精卵《ようせいたまご》≠ニかいう遊びにも夢中になっておりまして。占い遊びのようなものだと聞いていますが、妖精との約束を破ったから、霧男に罰を受けるかもしれないなんて言って、怖がっていたのを思いだしたので、どうしても気になって」
「妖精卵?」
「知らないのか、リディア。女の子の間で流行《はや》ってるんだよ」
どうして女の子の遊びをエドガーが知ってるのよ。そう言いたくなりながらも、愚問《ぐもん》だと思う。
「アルファベットを書いた紙の上に、ガラス玉とコインを置くんだ。数人でコインの上に指を乗せる、で、ガラス玉の中にいるという妖精に呼びかける。友達どうしが約束をして妖精卵≠ノ誓うってのと、質問をして妖精が答えるってやり方がある。質問の方は、目には見えない妖精がコインを動かしてアルファベットをたどるから、意中の人と相思相愛《そうしそうあい》になれるのか、自分をひそかに想っている人がいるか、いろいろ教えてもらえるってわけさ」
「やったことあるのね」
「あるよ。おもしろいね、みんな夢中になってキャーキャー言ってた。未来の恋人は? なんて質問に自分のイニシャルの上にでも動かしておけば、すごく意識してくれるんだから、口説《くど》くよりずっとカンタンだ」
この、ろくでなし男。
リディアが不愉快《ふゆかい》そうににらみつけても、にやりと口の端で笑う。けれども夫人の方に顔を向ければ、さっと深刻そうな表情をつくってみせる。
「ですからマール夫人、妖精卵は単なる遊びですよ。妖精なんかいなくても、参加者のうち誰かが故意に、あるいは無意識にコインを動かしているだけです。ただ彼女たちは、妖精の力だと信じ込んでいるから、約束を破ったり質問の途中でコインから手を離したり、妖精を怒らせることを少しばかり怖れているわけです」
「でも、妖精がいないとは言いきれないわ。彼らはいたずら好きだもの。ガラス玉に何か、妖精が興味を持つようなものがあれば、近寄ってきて占いに加わる可能性はあるわ」
夫人は不安げに身を乗り出した。
「ということは、もし妖精の機嫌をそこねたりすると、連れ去られるなんていうこともあるんでしょうか」
「そうですね……、ないとは言えませんけど、霧男《フォグマン》はコインの遊びに加わるような妖精じゃありませんわ。悪意のかたまりみたいな、魔物といっていい精霊です。人と取り引きなんかしません」
まあ、と驚きの声をもらし、夫人は身震《みぶる》いした。
「ねえエドガー、妖精卵の遊びで、霧男が罰を下すなんて本当?」
「さあ、僕が加わったときは、霧男なんて言葉は出てこなかった。ただの『妖精さん』。女の子たちが心配する罰も、そんなたいしたことじゃなかった気がする」
「……そうよね。でなきゃ遊びにならないもの。となると、妖精卵の遊びと霧男が、ドーリス嬢の言葉でだけどうして結びついているのかが気になるわ」
「でもリディア、もっと別の、いたずら好きな妖精が連れ去る可能性はあるわけだ」
「それは、今の時点では何とも」
「じゃあどうする? これはきみの仕事の範囲かい?」
妖精の仕業《しわざ》か人為《じんい》かを見極めるのも大切なことだ。リディアは迷わず、夫人の方に顔を向けた。
「もちろん、調べてみます。少しでもお役に立てるなら」
「あのう……」
ふと、マール夫人は怪訝《けげん》そうに口をひらいた。
「今ここで、妖精を呼びだしてお嬢《じょう》さまの行方《ゆくえ》を訊《たず》ねるとか、水晶玉に問いかけるとか、していただけないのですか?」
どうやら、フェアリードクターの役目が、霊媒《れいばい》や占いと混同されているらしい。
「ええと、あたしには、魔法のように謎を解いてみせることなんてできません。妖精に関して少し詳しいというだけで、妖精が残しているかもしれない手がかりを探すことができるだけなんです」
これには、マール夫人は落胆《らくたん》したようだった。
その様子に、リディアも落ちこむ。
彼女は答えを求めてここへ来たのだ。でたらめでも何でも、不思議な力を持っているという人物に、男爵令《だんしゃく》嬢が今どこでどうしているのか、そこはこの世なのか別世界なのか、はっきり示してもらえると期待していたのだろう。
神秘的な力を依頼人の目の前で披露することはまずない、フェアリードクターは地味な能力だから、なかなか理解してもらえず、あてにしてもらえない。
だからいつも、変わり者という目で見られるだけ。
「それでは意味がありませんか? マール夫人。あなたが人に訊ねてまわるように、リディアは妖精に訊ねることができます。ドーリス嬢の身に起こったことが、ひと気のない場所でのできごとなら、妖精だけが見ていたかもしれない」
エドガーがそっと声をかける。どうやらその説明は、彼女を元気づけたようだった。
「ええ、そうですね。どうか、ミス・カールトン、よろしくお願いします」
リディアは恐縮しつつも頷《うなず》く。
エドガーは彼女に片目をつぶってみせた。助け船を出してくれたのはわかるけれど、深刻な場面で緊張感がないというか不謹慎《ふきんしん》というか。
しかしフェアリードクターのことを、不思議とエドガーはよく理解している。彼自身が、もともとリディアに、不思議な力よりも妖精に関する知識を期待していたせいかもしれないが、最初から、過度にめずらしがったり恐れたりもしなかった。
悪党だとわかっていても彼を突き放しきれない理由は、こういう部分にあるのだろう。
なにしろこれまで、リディアの能力を正しく受けとめてくれる人はいなかったから、それだけでエドガーの欠点には目をつぶってしまいがちになる。
そんなだから、振り回されてしまうのだろうか。
「伯爵、ありがとうございました。妖精だなんて笑われそうな話を、親身に聞いてくださったのはあなただけです」
マール夫人は、いくぶん落ち着きを取り戻した表情でエドガーの方を見た。
「そのうえ、フェアリードクターなら何とかしてくれると励ましてくださって。妖精のことなんて、わたしなどにはどうすることもできませんもの」
え、エドガーから言い出したの?
さすがにリディアは怪訝に思う。
どう考えても彼は、今回のことが妖精のせいだと感じてはいない。妖精卵の占いを、不思議なことは何もない遊びだと断言していた。それなのに彼の方から、フェアリードクターが何とかすると持ちかけるなんて、無責任ではないか。
なんとなく、意図的にリディアをこの件に引きこもうとしているような。
「とんでもない。ドーリス嬢とは面識がありますし、僕としても心配ですからね」
にっこり笑う彼に、リディアは不信感いっぱいの眼差《まなざ》しを向けた。
考えてみればこいつが、純粋な人助けなんてするだろうか。
それとも、女性の前でいい人を演じたいだけ?
何だかわからないけれど、都合よく利用されている気分になる。
もしかしたらまた、犯罪まがいのことをたくらんではいないだろうか。
そのときリディアの頭にふと浮かんだのは、こいつが犯人じゃないか、という、根拠はないが法を犯すことなんてどうとも思っていない、もと強盗に対する疑いだった。
[#改ページ]
ボギービーストの妖精卵《ようせいたまご》
あやしい。
どう考えてもあやしいじゃない。
リディアは自宅のキッチンで、ビスケットが焼けるのを待ちながらも、苛立《いらだ》ちをおさえきれずにいた。
エドガーへの疑いが、もしかしたら現実味をおびつつあるとわかったのは、あとでニコに聞かされた話からだった。
ニコが言うには、エドガーはドーリス・ウォルポール男爵《だんしゃく》令嬢《れいじょう》と、彼女がいなくなった日に会っている。馬車に乗せていた、というのがたまたまだとしても、マール夫人はそんなことは知らないようだったし、たぶんエドガーも話していない。
「まさか、あいつがさらったの?」
霧男《フォグマン》のことなど吹き込んで、怯《おび》えさせ、妖精がかかわっているように思わせておいて連れ去ったとか。
いくら彼がもと犯罪者でも……、と考えながらもわからなくなる。
「でも、何のために?」
「売っぱらってんだよ、若くてきれいな娘は金になるってことさ」
ニコが調理台の上に姿を現す。父秘蔵のスコッチの瓶《びん》をかかえながら。
「お金ねえ、それはないと思うんだけど」
たぶん、お金には不自由していないみたいだし、伯爵《はくしゃく》としてこの英国で、名前も地位も手に入れた今、彼が再び犯罪に手を染める目的がお金だというのは、リスクが大きすぎて考えにくい。
今の彼に、そんな危ない橋を渡る理由などないはずだ。
しかし不審《ふしん》な点が多い。
「だってなあ、あいつが変装してちょくちょく出かけてるのって、港や下町の酒場だぜ。犯罪の匂いがするだろ。あとは高級カジノのほうにも出入りしてるが、単なるギャンブル好きっていうにはあやしい気がするんだよな。あんたに令嬢の行方《ゆくえ》を調べさせるのは、人の目をそらすためだって」
ニコが開けようとしたスコッチの瓶を、リディアはさっと取りあげた。
「もう、父さまの楽しみを奪わないの」
舌打ちしつつ、ニコはリディアの方に紙切れを放り投げた。
「見ろよこれ、あいつの部屋で見つけたんだぞ」
拾い上げれば、タブロイド紙の切り抜きだ。
「ロンドンの霧に消えた子供たち……。人身《じんしん》売買組織が暗躍《あんやく》か」
それはブラジルで英国人によって助けられたという少年の話だったが、彼はロンドンからさらわれ、農場に売られたと言っているのだそうだ。彼が乗せられた船には、同じ境遇の少年少女が何人もいたという。
『ロンドンの街角から、急に姿を消す子供は絶えない。霧男≠ノさらわれるなどという妄想《もうそう》が真実みを帯びるほど、ほとんどの場合、消えた子供たちの行方は知れない』
そんなふうにまとめられていた。
「ほかにも似たような記事の切り抜きを集めてあった。よからぬことをたくらんでるのは間違いないんだよ。あんたが襲《おそ》われかけたことも、無関係じゃないかもよ」
「……あれもエドガーの仕業《しわざ》だって言うの? レイヴンが殺してしまったのよ」
「うーむ、なんかよくわからんが、やっぱりあいつのまわりは危険なんだって。リディア、とっととスコットランドへ帰るか? とはいったって、伯爵さまと縁を切るのは容易じゃなさそうだがな」
エドガーはかつて、奴隷《どれい》として売られたことがあると言っていた。こんな記事を集めるのも、そのころのことを調べている可能性もある。
人としての自由を奪われ、売られた経験のある者が、また誰かを売るなんてことをするだろうか。
そう思いたいのは、世間知らずのリディアのあまさかもしれないけれど。
「お嬢さま、ビスケットが焦《こ》げてしまいますよ」
メイドの声に、あわててかまどを覗《のぞ》き込む。鉄板を取り出せば、どうにか焦げついてはいなかった。
「よかった。久しぶりに焼いたけど、ちゃんと母さまの味になったかしら」
今日は日曜日だ。そしてめずらしく父が家にいる。朝から親子で教会に出かけ、午後のお茶のために、リディアは母のレシピで菓子を焼いた。エドガーのことさえなければ、心穏やかに過ごせるはずの休日なのだ。
エドガーの邸宅《パレス》とはくらべようもないが、リディアの父が暮らすこの家では、メイドと料理女を雇っている。リディアが自分で家事をする必要などないのだが、母がそうしていたように、ビスケットを焼くことだけは自分の役目だと思っている。
フェアリードクターだった母の、ハーブ入りビスケットは、妖精にふるまうためのものでもあったからだ。
リディアは、ひとつをかまどの火の中に、もうひとつを窓辺に置く。ニコはとっくに、焼きたてにかじりついている。
お茶を淹《い》れるのはメイドに任せ、ビスケットを盛った皿を手に、居間へ向かう。
父と話す男性の声がするのは、弟子のラングレー氏が来ているようだった。
「ああ、リディアお嬢さん、おじゃましています」
「こんにちは、ラングレーさん。ちょうどよかったわ。ビスケットが焼けたの、召し上がっていってくださいな」
「それはありがたい。ねえカールトン教授、リディアさんがいらっしゃるだけで、この家もずいぶん明るくなりましたよね」
「そんなにこの家は暗かったかね?」
石や骨格標本や珍獣《ちんじゅう》の剥製《はくせい》が、居間に散乱している家では、ふつうの感覚の客は五分で退散するだろう。
「暗いというより、ご婦人には近寄りづらいですよ。骸骨《がいこつ》だけでもしまったらどうです? リディアさんのためにも」
カールトンは純粋に、心外だという様子で、まるい眼鏡《めがね》を押し上げながら部屋を見まわした。
「私には落ち着ける空間なんだが、リディア、やっぱり気味が悪いかな?」
「いいえ父さま、ちっとも」
「はあ、さすがは博物学者のお嬢さんだ。あなたのように理解のある女性ばかりなら、独身に甘んじている学者たちにも幸運が訪れるんですけどね」
そう言うラングレーも、二十七歳独身だ。
「おや、君はリディアを口説《くど》きに来たのかね?」
「教授、もしかして心配なさってます? 僕などでも気になるのでしたら、リディアさんが恋人を連れてきたら大変なことになりそうですね」
「リディアはまだまだ子供だよ」
ここへ来てカールトンが、リディアを子供扱いしたがるようになったのは、離れて暮らしていたひとり娘がすでに年頃だということに、急に気づいたせいだろうか。
あの天然口説き魔伯爵の、リディアに対する態度は、カールトンにかなりのショックを与えているようだった。
メイドがお茶を運んでくると、早速ニコが口をつける。リディアの隣に座って、カップとソーサーをつまみ上げるニコは、しかしラングレーの視界には入らない。猫がいることは気づいているかもしれないが、驚かないのはきっとそれ以上は認識していないからだろう。
もっともニコの話によると、かつては母の相棒だったニコが言葉をしゃべる不思議な猫だということに父が気づいたのは、結婚して二年も経ってからだというから、ラングレーの場合もそういう人なのだろうと思う。
同じ学問を志すせいか、父とラングレーはどこか似ているとリディアは思う。
ちょっと頼りなさそうなところとか。学者としては立派でも、ほかのことには不器用そうなところとか。
ビスケットを口に入れ、まあまあのできだと満足しながらリディアは、にこやかな父を眺めながら、休日の午後のおだやかなひとときにひたる。
日曜日は何がいいって、あの悪党の紳士|面《づら》を見なくていいところだわ、とつくづく思う。
しかしそのひとときは、メイドのひとことで消え去った。
「旦那《だんな》さま、アシェンバート伯爵がお見えです。お嬢さまにご用だそうですが」
「えっ、やだ、追い返して!」
反射的にリディアはそう言う。
「リディア、伯爵を門前払いにするわけにはいかないだろう。こちらにお通ししてくれ」
父がそう言うのはもっともなことだが、リディアは脱力感を覚え、ぐったりと椅子《いす》にもたれかかった。
エドガーが本物の伯爵ではないことは、カールトンも漠然《ばくぜん》と気づいているだろう。しかし紋章院《もんしょういん》に認められた以上、彼を伯爵と呼ぶことに問題は感じていないようだ。
カールトンにとって貴族とは、どのみちそういう、得体の知れない人種だからだ。
そういうわけで彼は、フェアリードクターとして認められたいと願うリディアが、伯爵家に雇われることも、黙って許してくれた。
もともと断りようのない雇い方だったが、リディアにとって条件に問題はなく、考えた末に自分の意志で受け入れたつもりだ。
それを認めたからには、エドガーはカールトンにとって娘の雇い主であり伯爵であり、敬意を持って接するべきだと考えているのだろう。
ややあって、カールトン家の居間に現れたエドガーは、相変わらず優雅ないでたちだった。
そのまま夜会に出かけるのではないかというふうな、黒のイブニングコートにワインカラーの色鮮やかなジレ。だが何よりも彼を目立たせるのは、明るい金髪と天使の微笑《ほほえ》みだ。
中身はたぶん、悪魔だけど。
「おじゃまします、カールトン教授」
「ようこそ、伯爵。いつも娘がお世話になっております」
「いえこちらこそ」
帽子《トップハット》をメイドにあずけ、当たり障りのない挨拶《あいさつ》とともに父と握手を交わすエドガーを横目に、リディアは憂鬱《ゆううつ》な気分で立ちあがる。
カールトンがラングレーを紹介するのを待って、彼女は口を開いた。
「で、あたしに用って何なの?」
「リディア、いきなり失礼だよ。伯爵、どうぞおかけください。お茶でもいかがですか? リディアが焼いたビスケットしかありませんが」
[#挿絵(img/agate_055.jpg)入る]
「それは興味深い。ぜひいただきますよ」
興味深いって、未知の食べ物じゃないわよ。
リディアはかすかに眉根《まゆね》を寄せた。
エドガーは、ふくれっ面《つら》の彼女に微笑みかけ、わざとすぐ隣の席を選んで座る。そこに陣取っていたニコの、首根っこをつかんでどけてまでだ。
憤慨《ふんがい》したニコがきたない言葉で罵倒《ばとう》したが、たぶん猫がわめいたくらいにしか聞こえていないのだろう。
「なるほど、不思議な味がするね」
ビスケットを口にして、エドガーは言う。
「お口に合わないならそう言っていいのよ」
「知ってしまうとクセになりそうなのはきみみたいだ」
カールトンがわざとらしく咳《せき》払いをした。
「そういえばカールトン教授、先日、あなたの新しい論文を拝見しましたよ」
エドガーはさっと話題を変え、きまじめな視線をカールトンに向けた。
「ほう、博物学に興味がおありですか」
「自然は突き詰めるほど奥が深い。まさに驚異という言葉は博物学のためにあると驚かされることばかりです。結晶構造についての分析など、非常に興味深く拝見しました」
語りはじめれば彼は、いとも簡単にカールトンの気を引いてしまう。学者を相手に、教えを請《こ》う若い学徒のような立場でいながら、的確な返答と質問で会話を盛り上げる。
それにしても、エドガーにとって惹《ひ》きつけ丸め込むのが得意なのは女性ばかりではないらしい。たぶん、どんな種類の人間にも、自分を好意的に見せる方法を知っている。
処世術《しょせいじゅつ》を心得ている彼らしいといえばらしいが、本当に論文には目を通しているようだし、娘から見ても学問バカの父親を懐柔《かいじゅう》するには、これ以上ない的確さだ。しかし。
ちょっと父さま、そんなにうち解けないでよ。と言いたくなるほどだ。
「そういえば教授、古い文献で見かけたのですが、妖精の卵《たまご》≠ニ呼ばれる石があるとか」
エドガーが言ったその言葉に、リディアは引きつけられた。
妖精卵といえば、男爵令《だんしゃく》嬢がいなくなった事件にかかわることだ。それもエドガーが、このうえなく疑わしい事件の。
「ええ、そういう呼び方をする石がありますね」
「父さま、その妖精の卵って本物なの?」
「鉱物の話だよ。ロマンティックな呼び名だが、ちょっとめずらしい瑪瑙《めのう》のことだ」
「瑪瑙って、あれ?」
キャビネットに飾られた、数々の石ころの中に、子供の頭ほどの瑪瑙の原石がある。
カールトンは立ち上がり、キャビネットから持ち出したそれをテーブルに置いた。
原石の外側は、黒っぽいざらざらとした石にすぎない。その内側に、色鮮やかな縞模様《しまもよう》を持つ宝石が隠れているとは思えないほどだ。
「こうしてみると瑪瑙そのものが、石の卵に閉じこめられているかのようですね。殻《から》を割ってはじめて、中身が見える」
エドガーが興味深げに眺めるテーブルの上の瑪瑙は、すでにふたつに割れていて、断面のきらきらした瑪瑙の層をあらわにしていた。
「でも、妖精の卵って呼ばれる瑪瑙は、こういうものではないんでしょう?」
「その呼び名は、ある瑪瑙につけられた固有名詞だからね。種類のことではないんだ。文献によると、乳白色にグリーンの模様が入った美しい石だそうだ。ペパーミントリーフというこの種の色合い自体がめずらしいが、妖精の卵≠ヘ加えて水入り瑪瑙だという」
「水入り瑪瑙って?」
話を振ったのはエドガーなのに、リディアが質問する形になっているのは、たぶんエドガーはすでに、「水入り瑪瑙」がどういうものかくらいは知っているのだろう。
「この瑪瑙の原石で見ても、石の中央に空洞《くうどう》があるのがわかるだろう? ここに、水が閉じこめられていることがあるんだ。ただしこのように割ってしまっては、水は確認できない。一瞬で蒸発《じょうはつ》してしまうからね」
「ではどうすれば、水があるとわかるんですか?」
「振ったときに中で水の音がします。そういう石を見つけたら、外側から少しずつ削っていくわけです。薄く薄く、中心に近づいていったときに、中身がかすかに透けて見えます。大地の奥で眠り続けていた、太古の水のゆらめきです」
想像して、リディアはため息をつく。薄いくもりガラスのようになった瑪瑙の色を透かし、その中心にはじめて届く陽《ひ》の光はどんなふうに見えるのだろうと。
「おそらく妖精の卵という呼び名のイメージは、ペパーミントの葉脈《ようみゃく》で包んだような色合いと、水を不思議な生き物に見立てたためではないでしょうか」
「でも父さま、そのめずらしい瑪瑙なら、本当に妖精が入り込んでしまうことがあるかもしれないわ」
リディアの突飛《とっぴ》な発言に、慣れていないラングレーだけがきょとんと顔をあげた。
「妖精は美しいものが好きだし、瑪瑙の中の水は天地創造の六日間に閉じこめられた神秘の水だってことでしょう? 妖精を引き寄せて、とりこにするにはじゅうぶんだわ。それに宝石は、光を取り込んで閉じ込める石よ。魔力も閉じこめる力があるもの。妖精も、入ってしまったら出られなくなるわね」
「たしかに、そのような使われ方をしたという記録はあるね。ほかの水入り瑪瑙は知らないが、妖精の卵≠ノ限って言えば、悪さをする悪魔を封じ込めたという逸話《いつわ》を持っているよ」
「ではその、妖精の卵と呼ばれる石は、今もどこかにあるんでしょうか?」
「あるのじゃないですかな。十六世紀初頭にはカンタベリーの修道院にあったようです。以降のことは記録がないのですけど」
そこまで聞いて、ふとリディアは疑問に思った。
「でもエドガー、女の子たちの間で流行《はや》ってる妖精卵占いは、瑪瑙じゃなくてガラス玉を使うんでしょう?」
世界にひとつしかない妖精の卵≠ニいう宝石を、占い遊びに使うわけはない。
「ああそう、ここまでは僕の興味の話」
興味って、妖精に興味なんかないくせに。
「そっちの妖精卵なんだけどね、売ってる場所がわかったよ。見に行かないか?」
「え、これから?」
「それできみを誘いに来たんだ。クリモーン庭園《ガーデンズ》の、日曜だけのイベントらしい」
そしてエドガーは、カールトンを見る。
「カールトン教授、これからリディアさんと出かける許可をいただけますか? 彼女にお願いしているフェアリードクターとしての仕事のことなんです」
「仕事なら、リディアが行くというのを止めるわけにもいかないが、もう夕刻だよ。遅くなりそうなのかな」
「あの手の遊戯施設《プレジャーガーデンズ》は、最近風紀が乱れていると聞きますからね」
ラングレーが心配そうにリディアを見た。
「用が済めば、きちんとお宅までお送りします。それに僕がついていますから、ご心配には及びませんよ」
スリやかっぱらいの巣窟《そうくつ》に紛れ込んだって、彼ほどあぶない人はそうそういないだろうと思い、リディアはあきれた。けれども、問題の妖精卵について調べるなら、現物を手に入れ、どんなふうに売られているのか、知っておく必要はあるだろう。
それに、エドガーにも確かめたいことがある。
「行きます。ちょっと待っててくれます? 用意をしてくるわ」
立ち上がりかけたリディアに、ラングレーが声をかけた。
「あのー、リディアさん、忘れてました。よかったらこれ」
差し出されたのは、リボンで束ねた数本のマーガレットだ。
「いつも手ぶらでおじゃましてばかりなので。ああそうだ、今日はビスケットをごちそうさまでした」
「まあ、ありがとうございます」
それは素直にうれしくて、リディアはにっこり微笑《ほほえ》んだ。
帽子とショールを取ってくると、リディアは、エドガーが待たせていた馬車に乗り込んだ。
レイヴンを連れてきていたらしく、馬車の脇《わき》に彼は、直立不動で待っていた。
走り出した馬車の中、隣からじっと注がれるエドガーの視線をリディアは感じ続けている。
居心地が悪くてしょうがない。
「……何なの? どうしてそんなに見るの?」
「考えてみれば僕は、きみがあんなふうに笑うなんて知らなかった」
「は?」
「ラングレー氏から花をもらって、心からうれしそうだったよ。僕が花を贈ったときは、きみは少しもよろこんでくれなかったのに」
「そういうわけじゃないけど、あなたの場合、心がこもってないっていうか……」
言ってしまってから、ひとこと多かったかしらと思う。エドガーとは出会いからしてうさんくさい状況だったからか、ついきつい調子になってしまう。けれど心がこもってないなんて、決めつけるのは悪いことかもしれない。
「そう。女の子はどうでもいい男からの豪華な花束よりも、好きな男が摘《つ》んでくれた道ばたの花の方がうれしいんだよね」
そんなふうに落ちこんでみせるのは、いつもの彼の手だとわかっているのに、結局リディアは悪いことをしたように感じてしまう。
いいかげん学習するべきだと思うのに、ふだん華やかで自信たっぷりなエドガーだけに、戸惑わされるのだ。
「ラングレーさんは近くに住んでるから、よく家へ来るってだけよ」
「近く?」
「二軒先の下宿屋」
「レイヴン、聞いたか?」
はい、とエドガーの向かいに座っている少年が答えた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。どういうつもりよ!」
なにしろレイヴンは、エドガーにとってじゃまな者は容赦《ようしゃ》なく殺すと公言しているのだ。
「ちょっとした嫉妬《しっと》」
「じゃないわよ、そ、そんな簡単に……」
うろたえるリディアを眺め、エドガーはくすりと笑った。
「冗談だよ、レイヴン」
「わかっております」
「今のところはね」
やめてよ、とリディアは脱力する。
「何が嫉妬よ、あたしのこといつも、からかって振り回して、おもしろがってるだけじゃない。それにラングレーさんは、教授の娘に気を遣《つか》ってるだけ。あたしのことよく知らないから、ふつうの少女みたいに扱ってくれてるのよ」
「ちっとも自分の魅力をわかってないんだね」
「自分のことくらいわかってるわ。これまでずっと変わり者って言われてきたのよ」
「きみの目は、不思議な世界を映す。耳は風のざわめきにさえ言葉を聞き分ける。そうだと知ったら誰だって臆病《おくびょう》になるだろう。だってね、好きな女の子に自分の何もかも、無様《ぶざま》な部分まで見透かされてしまうかもしれないなんて怖いからさ」
本当に、口がうまいんだから。
乗せられるものかと、リディアは切り返した。
「だったらあなたも、あたしをあざむこうなんてやめたら? 知ってるのよ、ドーリス嬢《じょう》がいなくなった日、あなたが彼女を馬車に乗せたってこと」
「ふうん、誰がそんなことを?」
しかし彼は動じもせず、あまいせりふの延長のようにささやくのだ。
「あの日あなたは、港へ行ったわ。ドックランドの倉庫街に馬車を止めて、何をしてたの? それから、メイドとはぐれていたドーリス嬢をバザー会場の近くで馬車に乗せて、でも彼女はそれきり姿を消した。どう考えてもあなたがいちばんあやしいじゃない」
「きみは千里眼《せんりがん》なのか?」
「港に住んでた小妖精を、あなた、馬車の屋根に乗せたまま帰ってきたのよ。見たこともない高級住宅街に連れてこられて、途方に暮れてた妖精がお屋敷をうろついてたから話を聞いたの」
直接話を聞いたのはニコだが、まあそういうことにしておく。
さすがに彼は肩をすくめ、居ずまいを正す。
「いくら口の堅い召使いをそろえても、きみと結婚したら浮気もできやしないのか」
「浮気性とは結婚なんてしません」
くす、とかすかな笑いがもれたのは、向かいの席からだ。
「レイヴン、今笑ったね」
「とんでもない」
感情をほとんど見せたことのないレイヴンでも笑うのかと、不思議に思いながらまじまじと彼を見る。しかしすでに、神妙《しんみょう》な顔つきでエドガーの責め立てを否定するレイヴンが、どんな顔をして笑ったのか、想像もできなかった。
ひょっとすると、無表情のままだったかもしれない。
「リディア、たしかにドーリス嬢を馬車には乗せたけど、屋敷の前まで送っただけだよ。彼女に会ったのは本当に偶然だし、いなくなったと聞いて驚いたんだ。彼女をおろしたところを妖精は見てなかったのかい?」
「ええ、残念ながら。しばらく居眠りしてたようよ」
「……役に立たない妖精だ。とにかく、これはうそじゃない。信じてくれ」
もともとの大うそつきを、どうやって信じろというのか。
「じゃあどうして、人助けなんてする気になったの?」
「さすがに気になるじゃないか。屋敷の前でおろしたのに、そこから彼女が消えたんだとしたら……。たしかに僕が疑われても不思議はない。だからこそ、真実を確かめなきゃならないと思ったんだよ」
でも彼のうそは、真実よりももっともらしい。伯爵だなんて大きなうそを本当にしてしまう人だから、リディアには、彼の言葉の真意など見分けられはしないのだ。
「ほかに、あたしに隠してることはない?」
「ないよ」
「またあたしをだましてない?」
「そんなわけないだろう?」
真剣な口調も視線も、うそでごまかすことができる人なのに、疑う気持ちよりも、信じてみたいと思ってしまうのはどうしてだろう。
ほどなく馬車は、にぎやかな装飾と音楽に包まれた、クリモーンガーデンズへと到着した。
馬車を降りて門をくぐれば、広い敷地のあちこちで、催し物が繰り広げられている。ロンドン一の娯楽の殿堂は、リディアにははじめて見るほどの人込みだ。どちらを向いても人だらけ。いったいどこから、こんなにたくさんの人が集まってくるのだろう。
サーカスのテントの前を通り抜け、中国《チヤイナ》のオーケストラに耳を傾ければ、ピエロの綱渡りが大歩道で始まる。
はじめて見るものばかりで、目を奪われそうになるが、遊びに来たわけではないとリディアは気を引き締めた。
「どこへ行きたい? 象の曲芸なんておもしろいと思うけど」
「は? 妖精卵《ようせいたまご》は?」
「あとでいいじゃないか。せっかく来たんだし、楽しんでいこう」
かまわず彼女を引っぱっていく。
「ちょっとエドガー、妖精卵が売ってるって本当なの? うそなんだったら帰るわよ。休日まであなたのわがままにつきあう気なんてないから」
「手厳しいな。わかったよ。でも用が済んだら、少しでいいから時間をくれ。休日だからこそ、義務感抜きで僕と過ごしてほしいんだ」
そんなに、休日までもリディアのことを監視しておきたいのだろうか。
まったく、エドガーの考えていることはわからない。
「義務感がなかったら、つきあう必要ないと思うわ」
「どうして? 楽しんでもらえるはずだと思ってるんだけど」
「楽しみたいなら別の女の子を誘えば? あなたにコロッとだまされる子なんて、いくらでもいるでしょ。仏頂面《ぶっちょうづら》ばかりのあたしより、よろこんでついてくる女の子の方がいいじゃない」
「きみの仏頂面も嫌いじゃないよ。笑ってくれるともっとうれしいけどね」
「だから、そうやってからかうのはやめてって言ってるでしょ」
「あのねえリディア、からかってるとか秘密を知ってるのはきみだけだからとか、否定的に考えすぎだ。きみを気に入っていて、一緒に過ごしたいと思うのは、不自然なことかい? 遊びに誘わなきゃお互いを知る機会がないし、ぜんぶ、正直な今の気持ちだよ。出会って間がないのに、いきなり真剣だとかきみだけだとか言える段階じゃないだけで、もっときみのことを知りたいし、僕を知ってほしいから、こうして誘うんだ」
本当だろうか?
ああ、こんなふうにすぐだまされそうになるから、おもしろがられるのね。
そう思いながらもリディアは頷《うなず》く。
「……わかったわ。少しくらいなら、遊んでいってもいい」
「ありがとう。少しずつ愛をはぐくもう」
まじめかと思えば茶化《ちゃか》される。リディアは苦笑する。
人込みを歩くためにつながれた手を意識しながら、結局黙ってついていく自分は、どうかしているのかもしれない。
うそでもお世辞でも、ほめられればうれしいなんて。
それでもリディアには、エドガーのことを信用しきっていない冷静な部分がある。彼がリディアにかまうのは、利用価値があるからだと思う。
エドガーが自分を好きになるなんてあり得ないという感覚は、彼がどう言おうと根源的なものなのだ。
漠然《ばくぜん》とリディアが思い描いてきた出会いや、惹《ひ》かれ合う理由や、そうしてはぐくむ関係が、エドガーとはまるで重ならないからだ。
とりたてて特徴はないけれど、やさしくて思いやりのある人がいいと思っていた。不器用で、ちょっと世話が焼けるくらいにだらしないところがあっても、いつも寝ぐせ頭でも、妖精が見える自分のことを理解してくれて、おだやかな気持ちで向き合っていけるような人。
たぶん、父のような。
上流英語でささやくあまい言葉や、テイルコートが隙《すき》なく似合うすらりとした体躯《たいく》、動作のすみずみまで洗練された印象や、微笑《ほほえ》めばやわらかく、けれど人を威圧すればぞくりとするほど鋭く、繊細《せんさい》で貴族的な美貌《びぼう》を持った人と、どう考えても釣り合うわけがない。
エドガーだって、自分にどんな女性が似合うのかくらいわかっているはずだし、そもそもリディアは貴族ですらない。
このごろは、お金さえあれば中流の人間が社交界に出ていくし、貴族でも資金がなく、家屋敷を売って借家《しゃくや》暮らしという場合もあるというが、エドガーを見ていると、やっぱり貴族は庶民とは別の生き物だとさえ思う。
「そこだよ、妖精のショーが見られるって触れ込みだ」
エドガーの声に、リディアは、ピンク色をした小屋に目を向けた。
人込みの間から覗《のぞ》けば、中にステージらしきものがあり、男性がカードや花を宙に浮かせていた。
「手品じゃないの」
「目に見えない妖精が、カードを持って飛び交ってるつもりなんじゃないか?」
「妖精なんていないわよ」
「フェアリードクターが言うんだから、そうなんだろうな」
手品がひととおり終わると、ステージ上で妖精卵≠フ販売が始まった。
色とりどりのガラス玉が並べられる。どれにも妖精が入っているのだという。占いのやり方も解説していて、女性たちが熱心に聞き入っていた。
ひとつ買ってきて、エドガーがリディアに手渡す。
「どう? 中身は」
「何も入ってなさそう」
「あの手品師は、ここと契約《けいやく》している芸人のひとりだ。しょっちゅう扮装《ふんそう》と名前を変えて、いろんな企画を催しているけど、とくに不審《ふしん》な点はないね」
「少なくとも、このガラス玉には妖精を惹《ひ》きつけるようなものは何もないわ。ほら、色が濁《にご》ってて美しいガラスじゃないし、中はまるきり空洞《くうどう》でしょ? 何か妖精の好きなものが入っていたら別だけど、これだったらまだ、きれいな井戸水をガラスの器に入れておいた方が、妖精を呼べるわよ」
「とすると、ドーリス嬢《じょう》がいなくなった原因を、妖精のせいにするのは無理があるか」
「そうね……。でも妖精のせいじゃないと判断するには、もう少し調べてみたいわ」
考えながらリディアは、ガラス玉をエドガーに返した。
そのとき、小屋の中ほどでガラスの割れる音がした。「きゃあ」と女性の悲鳴があがる。誰かが妖精卵を割ってしまったらしい。
と、連鎖《れんさ》したかのように周囲でいくつかガラス玉が割れた。
破片で怪我《けが》をした人もいるらしく、騒然となる。
それを静めようと、手品師が声を張り上げた。
「ああ、お嬢さん方、妖精の扱いにはお気をつけくださいよ。くれぐれも、手荒く扱ったり悪口を言ったりなさらないよう。怒って卵を破裂させることがありますのでね」
「……いいかげんなことを」
リディアはつぶやく。
「体温で膨張《ぼうちょう》するガスでも入っているのかも。破裂させたのはサクラだろうと思うけど、人込みで破片をとばすなんてあぶないな」
「おい、リディア、上だ!」
そのときニコの声がした。
姿を消してついてきていたらしい妖精猫に教えられ、視線を上げたリディアは、小屋の天井近くの梁《はり》に妖精の姿を見つけていた。
赤ん坊ほどの大きさ、老人のようなしわくちゃの顔、毛に覆われた身体と小さな角を持った小鬼妖精《ボギービースト》。
梁に座って笑っていた妖精は、ふと首をこちらに動かした。
リディアと目が合う。
(ほう、見えるのか?)
とたんにそれは姿を消した。
はっと振り返ったリディアは、エドガーが持っている妖精卵に目を落とす。
「エドガー、それ捨てて!」
「え?」
急いで彼の手からもぎ取る。小屋の外へ放り投げた瞬間、ガラス玉が破裂した。
わけがわからない様子の彼を引っぱって、逃げるように小屋を出る。
見まわすが、妖精の姿はもうあたりには見あたらなかった。
「ボギービーストがいたの」
「ボギー……、聞いたことはあるけど、どんな妖精だっけ」
「意地悪な奴よ。性質は小悪魔。そんなに利口じゃないけど、|悪い妖精《アンシーリーコート》の一種だわ」
「そいつが、さっきから小屋の中で妖精卵を割ってたのか?」
「さあ、手品師があわててなかったから、サクラが割ったのもあるんでしょうけど、ボギービーストが便乗《びんじょう》してたのはたしかだわ」
あれはたまたま現れたのだろうか。それとも、妖精卵と何か関係があるのだろうか。
あるとしたら、ドーリス嬢のことも、妖精とは関係ないと決めつけるのは早計《そうけい》になる。
考え込んだリディアの手を、エドガーが持ちあげた。
「怪我《けが》を?」
投げた瞬間に破裂した、ガラス玉の破片で切ったようだ。指先に血がにじんでいる。
手袋を取って確かめれば、それほど深い傷ではなかった。
「大丈夫よ。このくらい、舐《な》めておけば治るわ」
言いながら、はっといやな予感を覚えたリディアは、急いで手を引っ込め、エドガーの前からしりぞいた。
「どうして逃げるんだ?」
「なんだかあたし、だんだんあなたの考えそうなことがわかってきたみたい」
「傷を治してあげようと思っただけなのに」
にやりと彼は笑う。
「けっこうです!」
本当に、油断も隙《すき》もないんだから。
早足で歩き始めるリディアに、湖でボートに乗ろうと彼は誘う。
少しなら遊びにつきあってもいいなんて、言わなきゃよかったと少々後悔していたが、薄暗くなりはじめたクリモーンガーデンズは、ガス灯の明かりにきらびやかに彩《いろど》られはじめ、ますますにぎやかな風情《ふぜい》だ。
エドガーがこのまま帰る気になるとは、とうてい思えなかった。
「なんてことするのよ。もう少しで伯爵《はくしゃく》に怪我をさせるところだったじゃない!」
オレンジ色の髪の少女が、足元を見つめ怒鳴《どな》りつけた。そこにいる醜《みにく》い妖精の姿は、通りかかる人々には見えていないだろう。
ひとり怒鳴っていれば注目を浴びるのに気づき、少女は木の陰に身を寄せて声を落とした。
「あの女のほうをねらってって言ったでしょ!」
(でもお嬢さま、あいつはオレのことが見えるんですよ。ええ、見えるってだけじゃない、オレがガラスを割るのを察知したんです。あれは妖精博士《フェアリードクター》ですよ)
「だからどうだっていうの? おまえはわたしの下僕《げぼく》なのよ、言うとおりにすればいいの!」
(……はい、お嬢さま)
「不吉《ふきつ》なことを起こして、怖がらせて怯《おび》えさせてやるの。ドーリスみたいに、ロンドンからいなくなればいいのよ」
言い捨て、スカートのすそを蹴るようにして、少女は歩き出す。
伯爵とふたりで歩いていく、赤茶の髪の少女のあとをつけるためだった。
伯爵家に出入りしていて、エドガー・アシェンバートと親しそうにしている娘は、自分と同い歳くらいに見える。
印象的な金緑の瞳に惑わされなければ、目立つほど美人でもないし、自分の方がよほど伯爵には釣り合うと思う。
妖精のしもべをもっているのだから、魔法の力でなんだって思い通りになるはずだと、彼女は信じ込んでいた。
(ちっ、なーにがお嬢さまだ。てめーだってご主人様の奴隷《どれい》なんだからな)
ボギービーストがひそかに言い捨てるのを、ニコは木の上から聞いていた。
(偉そうにしやがって。オレさまがおとなしくしてんのは、ご主人様の言いつけだからだ。は、今にみてろよ、小娘め)
こぶしを振りあげつつ罵倒《ばとう》していたかと思うと、ボギービーストはあごに手をあて考え込んだように見えた。
(だが、フェアリードクターが何か嗅《か》ぎつけてるとなるとやっかいだぞ。じゃまなんかされたらご主人様の苦労も水の泡だ)
ひとりごとをしゃべりながら、ボギービーストはゆっくりと消えた。
「やれやれ、なんだか面倒くさそうなことになってきたぞ」
しっぽをゆらゆらさせながら、ニコはつぶやく。
「伯爵さまもなあ、単なるおふざけなら大目に見るが、何考えてんのかはっきりしねえし、要注意だよまったく」
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キャラメルとオレンジ
風もなく、波立ちもない静かな湖面を、すべるようにボートが行き交う。ランタンの明かりが、異国風に飾り立てられた遊覧ボートを夢のように彩《いろど》れば、湖面にともるいくつもの光と優雅な舟影が交錯《こうさく》し、湖は幻想的な色合いに包まれていた。
貸し切りのボートの上で、リディアは、ロンドンにはなんてひま人が多いのかしらと考えてしまう。すれ違うボートの上からは、着飾った男女が談笑しながら通り過ぎる。
もちろん、働く必要のない階級、ひま人なのはエドガーもそうだ。
十人は乗れるだろうボートに、桟橋《さんばし》で待っていたレイヴンも加えて、今は三人だけだ。漕《こ》ぎ手がふたり乗り込んで、ゆったりと櫂《かい》をあやつっている。
「クリモーンガーデンズのクライマックスは花火だよ。湖上がいちばんの特等席だ」
「花火が見られるの?」
「そうだよ、見たことある?」
「ないわ」
「なら、僕はラッキーだ。きみの新鮮な感動につきあえる」
レイヴンがシャンペンを開ける。細いグラスを手渡され、注がれた金色の液体を眺めていると、映り込んだ炎のゆらめきだけで酔いそうだった。
「乾杯しよう。勇敢《ゆうかん》な僕の妖精に」
「勇敢なって……」
「さっき助けてくれたじゃないか。怪我《けが》を負ってまで」
大げさすぎる。それに「僕の」は余計《よけい》よ。
けれどなんだかもう、エドガーがどんなに恥ずかしい言葉を口にしようと、ありふれたことのように思えてしまう自分もいた。
慣れたというより、この人にとっては、きらめく演出も、どこにいようとその場の主人のように振る舞うことも、とくべつなことではなく日常だから。
クッションを敷いたベンチは広々としているのに、隣に腰をおろしたエドガーとの距離が近すぎるような気がしたが、シャンペンを流し込めばどうでもよくなった。
「花火、どこで見たの?」
言ってしまってから、どうしてそんなことを訊《き》くつもりになったのだろうと思う。
じつのところリディアは、彼の過去についてはけっして訊かないと、心に決めていた。
複雑そうだし、知ったら余計な問題が身に降りかかりそうだし、何よりそこまでかかわるつもりはない。
貴族の家に生まれ育ち、しかし陰謀《いんぼう》に巻き込まれ、家族とともに死んだことにされた彼は、アメリカの富豪に売られた。そこから逃げ出し、追っ手をかわしながら生きのびるためにはどんなことも厭《いと》わず……。
漠然《ばくぜん》と聞かされたことだけでも、まともに信じたら心臓に悪すぎるから、リディアは半信半疑にとらえている。
だからなにげない世間話の中でさえ、過去に触れる言葉は避けてきたはずだった。
「子供のころ、荘園邸宅《マナーハウス》ではパーティがあるごとに花火が上がっていた。敷地内に自然の湖があって、こんなふうにボートをいくつも浮かべていたな」
その返事に、少しほっとする。悲惨《ひさん》なアメリカでのことを、思い出させたわけではなかったからだ。
けれども、本当なら彼が受け継いだはずの、マナーハウスも広大な土地も、リディアの知らない由緒《ゆいしょ》ある家名も、すべて失ったことを考えれば、つらい思い出かもしれない。
そのとき彼のそばには家族や友人たちがいて、恵まれた容姿の裏に隠すものは何もなく、無邪気《むじゃき》に笑っていたはずだ。
いろいろと考えるものの、それ以上はリディアには、知る必要のないことだった。この人の過去を共有できるとしたら、未来も共有できる人しかいないだろうから。
急に黙り込んだリディアを、エドガーは物足りなさそうに見た。
「もう訊いてくれないの?」
「え?……ええと、あたしべつに、あなたの過去に興味ないもの」
「あ、そう」
ああまた、きつい言い方になってしまった。
「じゃなくて、あの、昔のことよりこれからの方が重要だと思うの。あなたはもう、れっきとした英国|伯爵《はくしゃく》なんだし、過去は、あたしが知るべきことじゃないわ」
上《うわ》っ面《つら》な言い方だと自己|嫌悪《けんお》を感じながら、ひそかにため息をつく。
「なら、ある知人の話をしよう。彼はね、妖精の卵《たまご》≠ニいう瑪瑙《めのう》を持っていたんだよ」
エドガーが興味を示した妖精の卵≠ニ呼ばれた不思議な石。思いかげない言葉に、リディアは関心を持って振り返った。
「そう、カールトン教授の話を聞いて確信した。彼が持っていたものは、悪魔を封じたという逸話《いつわ》のある妖精の卵≠ノ間違いないと思う。でも彼は、子供のころにそれをなくしてしまったんだそうだ」
「どうしてなくしたの?」
「はっきりとは覚えてないらしいんだけどね、霧男《フォグマン》につかまったんだとか」
そして、霧男というキーワードまで飛び出す。どうやら、エドガーがこの事件に首を突っ込んだ真の理由がそこにあるようだった。
「少なくともそのときはそう信じたほど、まっ暗な場所にいたそうだ。魔法にでもかけられたみたいに、少しも身体《からだ》が動かず、逃げることもできなかった。そしたらそこへ、女の子の姿をした妖精が現れた。きれいなドレスを着た、かわいらしい妖精だった。妖精なんて見たこともないのに、そんなふうに思うほど、彼の意識は夢とうつつの狭間《はざま》にいたんだ。そして彼は、助けを求めようとした。そしたら、リディア、おとぎ話によくある決まり事のように、女の子の妖精たちは、ひきかえに何をくれるのかと言ったそうだ。その少年が持っていたのは、例の妖精の卵≠セけだった。だからそれを渡した。女の子たちは、助けてあげると言って消えた」
ふと口をつぐみ、彼は空を見あげる。まだ、花火は上がらない。
「それで彼は、助けてもらえたの?」
「いいや。たぶんね、彼のいた暗闇は、どこかの倉庫だよ。そのまま荷物のように運ばれ、船に乗せられて売られたのさ」
奴隷《どれい》として売られたエドガーと、同じ場所にいたのだろうか。
「その人はまだ、アメリカに?」
「死んだよ」
「……彼の、妖精の卵≠、見つけてあげようと思ってるの?」
「違うよ、リディア。彼を見つけてやりたい。もしかしたら、霧男に連れ去られたまま、誰にも助けてもらえないまま、本当の彼は、いまだ暗闇に横たわっているのかもしれないと思うことがある。そうだったらいい、今なら助けてあげられるかもしれない。ここには、優秀なフェアリードクターがいる」
死んだ人を助けたいという。エドガーらしくないほど、不思議な言葉だった。
真意をはかれないまま、リディアは彼をただ見ていた。
「ロンドンの霧に紛れて消えてしまった……、行方《ゆくえ》がわからないままそう語られている少年を、霧の中から引きずり出せたら、死ななかったことになるんだろうか。ねえリディア、助けてやってくれないか?」
ごく静かな表情でそう語る。そんなことは不可能だとわかっていながら、救いを求めているのは、ふと、同じ境遇にいただろう彼自身であるような気がした。
ドーリス嬢《じょう》の失踪《しっそう》に、人為的《じんいてき》な事件だと思いながらも霧男の話を重ね、リディアを巻き込んだ理由も、同じところにあるのかもしれない。
エドガーの過去を知る必要なんてない。けれど彼が、過去のできごとで苦しんでいるなら、傍観《ぼうかん》しているわけにはいかないと思ってしまうのがリディアだ。
「それは、あたしにできることならなんでも……」
彼がリディアに何を求めているのか、わからないままそう答える。へたなことを言えば、利用し尽くされかねないけれど、彼の苦しい胸の内はうそではないと思うから、リディアは心乱される。
「ありがとう」
はからずとも間近で見つめ合ってしまった。
内心どうしようもなくうろたえているのに、動けないのは、獅子《しし》に出くわした野ネズミの心境だろうか。
怖いけれど、金色の毛並みをした優雅な獅子に触れてみたいような。もしかしたらその美しい牙にさえ、と、薄く笑みをたたえた唇《くちびる》に見入る。
え? な、なによそれ! ああもう、シャンペン一杯で酔っぱらったのかしら。
ネズミの気分でいっぱいになったリディアの頭の中には、ロマンチックのかけらもなかったが、やわらかく肩を抱きよせられる。
「いつも思ってたんだけど、きみはカモミールの香りがするね。あのビスケットと同じだ」
どうしよう、と思ったそのとき。
「あ、花火!」
音とともに、光の花が空に開いた。
一瞬にしてリディアは、はじめて見る花火に目を奪われた。
「うわ、すごいわ! きれい……」
たった今自分の中を占領していた妙な気分など吹き飛ぶ。空を見あげ、花火に見入ったリディアに、エドガーは笑い出した。
何がおかしいのか、おもいきり笑う。
「な、なによ。だって本当にすごいんだもの。あ、またあがったわ」
「いや、きみが、せまっている僕よりも、花火に心を奪われたようだから」
ちょっと自信なくすな、とやっぱり笑いながら言ったエドガーは、意外と上機嫌に見えた。
シャンペンを飲みほし、レイヴンにも勧める。もちろん彼は、かたくなに辞退する。
ふざけてからむエドガーをかわしながら、一艘《いっそう》、するりと近づいてくる船影に、最初に視線を向けたのはレイヴンだ。
何であろうと主人に近づくものには警戒《けいかい》を向ける鋭い視線だったが、ボートの上にあったのは、上流階級らしく着飾った少女の姿だった。
「まあ、伯爵じゃありません? 奇遇ですわね」
くるくる巻いたオレンジ色の髪。ビスクドールみたいに白い肌、瞳の大きな美少女だった。
「これは、レディ・ロザリー・ウォルポール。ご機嫌いかがですか?」
ウォルポール? もしかして、男爵《だんしゃく》家の血縁なのだろうか。
そういえば、男爵令嬢はひとつ年上の従姉《いとこ》と叔父《おじ》と暮らしていたという。
少女のそばには、三十すぎくらいの男性がいた。身なりにお金をかけているのがわかる、なかなかのハンサムだ。彼女が紹介するには叔父だということで、グレアム・パーセルと名乗った。
「はじめまして、アシェンバート伯爵。ご挨拶《あいさつ》するのははじめてですが、ピカデリーのクラブで何度かお見かけしていますよ」
男性が帽子を取って挨拶すると、エドガーも会釈《えしゃく》を返す。
「ああ、とすると、あそこで耳にしましたが、社交界きってのプレイボーイと噂《うわさ》されているグレアム卿《きょう》とはあなたのことでしたか」
どうやら同じ部類の女たらしどうしらしい。そうなると、お互いライバル心があるのかどうか、エドガーの微笑《ほほえ》みに冷たい気配《けはい》が混じるのをリディアは感じていた。
「ねえ伯爵、そちらは?」
そう言った少女がリディアに向けるのは、好奇心と侮蔑《ぶべつ》の入り交じった視線だ。品定めされるように、上から下まで眺められ、リディアは少々|不愉快《ふゆかい》になった。
「リディア・カールトン嬢です」
「どちらのカールトンさん? お父さまのお仕事は?」
「あたしは、フェアリードクターのカールトンです」
父親の地位で娘がランク付けされるのは、ごく当たり前のことだったけれども、リディアは反発を感じてそう言う。
「まあ、あなたが噂の、妖精の専門家? わたしと同じくらいのお歳だと思うけど、仕事を持っていらっしゃるなんて大変ね」
良家の娘は働かない。そういう意味では蔑《さげす》まれたのだとわかるけれど、誇りを持ってフェアリードクターを名乗っているのだから、べつにかまわなかった。
「仕事というより、彼女は僕の相談役で、パートナーみたいなものです」
「でも伯爵、あなたが雇ってらっしゃるわけでしょう?」
今度は使用人扱いらしい。
「ロザリーさん、アーサー王が魔術師マーリンのことを家来のように考えたでしょうか? まあそういう、対等な関係なんですよ」
こういうふうにかばわれると、不本意ながら、リディアは少しドキドキしてしまう。
「ステキですわね。でもわたしなら、魔法使いよりもお姫さまにたとえられたいわ」
しかし、なかなかとんでもないお嬢さまだ。
「そういえば、いつも一緒にいらっしゃるドーリス嬢はどうされたんです?」
エドガーってば、そんな大胆な訊《き》き方をして。リディアはさすがに心配になったが、ロザリーは意外なほどさらりと答えた。
「体調を崩して、田舎《いなか》で療養してますの」
「おや、それは心配ですね。あなたも淋《さび》しいことでしょう」
「それほどでも。ドーリスは内気すぎて、いつもわたしについてくるでしょう? おもりをしなくてもいいから、今は気ままに過ごせていますの」
[#挿絵(img/agate_087.jpg)入る]
強がっている、のでなければずいぶんだとリディアは思った。従妹《いとこ》が行方《ゆくえ》不明だというのに。
それとも、彼女にも事情が伏せられているのだろうか。
「それより伯爵《はくしゃく》、わたしもそちらにおじゃましたいわ。お友達のリディアさんとふたりきりを楽しんでいらっしゃるのでなければ、せっかくだからご一緒したいのですけど」
この子、エドガーが好きなのね。
それにしても、ずいぶんあからさまに好意を示す女の子だった。横目でちらりとこちらを見る、リディアへのライバル心もあからさまだ。
「ロザリー、失礼だよ」
叔父がたしなめる。
「いいえ、グレアム卿。僕はかまいませんよ」
しかしエドガーが、女の子の申し出を拒絶するわけはないのだった。
「本当に? うれしいわ。おじさまに連れてきていただいたけど、若い方がいないと話がはずまないもの」
「これでも若いつもりなんだが」
「おじさま、そろそろプレイボーイは返上《へんじょう》して、身を固めた方がよろしくてよ」
苦笑いを浮かべ、彼女の叔父はエドガーの方を見た。
「お言葉にあまえて、伯爵、姪《めい》をおあずけしてよろしいでしょうか。じつのところ、これから用がありまして、そろそろ戻らねばならないと言って彼女を怒らせたところなんですよ」
「ええもちろん、美しいレディとご一緒できるなんて光栄です」
やっぱり、誰にでも同じようなこと言うんじゃない。
ますます挑戦的にリディアを見るロザリー嬢の視線も不愉快で、あがり続ける花火も、このまま楽しめるとは思えなかった。
「ちょうどいいわ、エドガー、あたしは帰ります」
「え、どうして?」
「遅くなると父さまが心配するもの」
彼は少し残念そうに首を振ったが、それだけだった。
「そう、ならレイヴン、リディアを送っていってくれ」
引き止めないのね。
……べつにいいけど。
人形のような美少女は、桟橋にボートをつけると、嬉々としてボートを移り、エドガーのそばに駆け寄った。
あれだったら、いろいろ口説《くど》く手間もいらないんじゃないかと思う。
関係ないわとつぶやきながら、リディアは湖畔《こはん》を離れた。
女の子は、どうでもいい男からの豪華な花束よりも、好きな男が摘んでくれた道ばたの花の方がうれしいんだ。
そう言ったエドガーの言葉を思い出したのは、寝室の窓辺に飾ったマーガレットが目に入ったからだ。
ラングレー氏が、リディアをふつうの女性として扱ってくれるのは素直にうれしい。
エドガーが彼女をレディとして扱ってくれるのは……、なぜか素直に喜べない。
素直に喜ぶのは怖いような、いけないような気がしている。
距離を保っていないと、深みにはまってめちゃめちゃにされそうで。
その不実な感覚が何なのかわからないまま、ただリディアは怖れている。
明かりのともったテーブルで、ちっともページの進まない本を閉じたリディアは、別の一冊を取りだし、表紙を開いた。
押し花になった一輪のスミレをつまみ上げ、捨てようとし、花に罪はないのにと思い直す。
この花だけを持って帰ってきたのは、ただ単に好きな花だったから。深い意味なんてない。
薄い色合いがめずらしいと思っただけで、彼の瞳の色に似ているなんてこと、関係あるはずがない。
とにかく、エドガーの言葉なんかに惑わされてはいけないのだ。最初からわかっていたことだけれど、親切なのは自分にだけかもしれないと思いそうになっていたことを、リディアは心底後悔している。
「やっぱり、単なる女好きじゃないの」
そんなことで不機嫌になるのもしゃくだから、気持ちを落ち着けようと深呼吸した。
「おい、リディア」
あわてて本を閉じる。振り返ればニコが戸口に立っていた。てくてくと歩きながら、彼は部屋へと入ってくる。
「何あわててんだ?」
「べ、べつに」
「あのボギービーストのあとをつけたぞ。そしたら、ウォルポール男爵《だんしゃく》家のタウンハウスへ入っていった」
「男爵家って、いなくなったドーリス嬢《じょう》の家じゃない」
「だな。でもって、ボギーにいたずらをさせてたのは、くるくる巻いたオレンジ頭の女だ」
「……ロザリー?」
「名前は知らねーよ。クリモーン庭園《ガーデンズ》でその女、あんたのこともドーリスみたいにロンドンからいなくなればいいとか言ってたな。伯爵《はくしゃく》に近づきたいみたいだぞ、気をつけた方がいいぞ」
エドガーに好意を持っているらしいのは、湖上で会ったときに感じていた。
しかし、彼女がボギービーストを使ったというのは思いがけないことだった。あのとき、リディアに怪我《けが》でもさせるつもりだったのか。
それより聞き捨てならないのは、「ドーリスみたいに」という部分だ。
彼女が、従妹《いとこ》でもあるドーリス嬢を、どうにかしたというのだろうか。
「でもニコ、ボギービーストがどうして彼女の言いなりになってるの?」
「いや、そいつのご主人様は別にいるみたいなこと言ってた。で、本当のご主人様のために、女の子に従ってるようだぜ」
「ご主人様って誰?」
「それもわからないが、女の子はご主人様の存在とか、まるで知らないみたいだ」
妖精の姿が見えたとしても、彼らのことを知らないまま接触するのは危険なことだ。そのせいで昔から、妖精にだまされたりひどい目に合う人がいて、フェアリードクターは助けを求められてきた。
とくに、いたずらをしかける悪い妖精は、わざと人に姿を見せたり話しかけたりすることがある。
見えても見えないふり、聞こえても聞こえないふり、そうすることで危険が回避できると昔の人は知っていたが、このごろはそんなふうに教える人もいないのだろう。
ロザリーという彼女が、ニコの言うようにボギービーストをあやつる影の主人を知らないまま、妖精と接しているのだとすると、妖精に関する知識も理解もないのに、不思議な力を得たようなつもりでいることになる。
彼女にとっては危険なことだ。
ドーリス嬢がいなくなることをロザリーが望んだのだとしても、そこにボギービーストの思惑《おもわく》がからんでいるなら、ロザリーも妖精のしかけた罠《わな》にはまっていることになる。
ドーリス嬢について聞き出すにも、まずロザリーとボギービーストの接触を断たなければならない。
でも彼女が、すなおにリディアの言うことを聞いてくれるだろうか。
今日のあの態度を見ていたら、無理なんじゃないかと思う。
どうやら、ドーリス嬢の件は、思ったよりも面倒な事態がからんでいそうだ。
と考えながらもリディアは、一方で、エドガーが持ち出した妖精の卵≠ニ霧男の話が気になっていた。
占い遊びのガラス玉は、水入り瑪瑙《めのう》とは何の関係もない。なのにエドガーはつなげて考えている。
単なる言葉の関連というには、こだわっているように思える。
なぜなのか。
妖精卵の占いとは関係ないはずの霧男を、ドーリス嬢が怖れていたことと似ているような。
「……あれ?」
一瞬、リディアの中で何かがつながったような気がした。しかしそれが何なのかはつかめないまま、もうわからなくなってしまう。
ただぼんやりと思うのは、エドガーはまだ、何か隠しているのかもしれないということだけだった。
ウォルポール男爵家は、貴族としては新しい部類だが、資産家の家だ。当主は、まだ十六歳のドーリス嬢。彼女の両親は、十年前の船の事故で亡くなった。同じ船に、彼女の従姉《いとこ》であるロザリーの両親も乗っていた。
同時に親を失ったふたりの少女は、それから一緒に暮らしている。
彼女たちの後見人《こうけんにん》が、男爵家と血縁のあるグレアム・パーセル卿《きょう》だ。
以来男爵家では、正統な跡継ぎであるドーリスをさしおいて、ロザリーとグレアムが好き勝手にしている様子がうかがえる。
地味でおとなしい男爵令嬢と、派手で気の強いその従姉。自然に人目を引き輪の中心になるロザリーのそばにいて、ドーリスは付き人のように言いなりになっていた。
けれども身分はドーリスが上。男爵家の当主なのだ。だからこそあの気位の高い少女は、ドーリスよりも目立ちたかった。
人前でも、しばしばドーリスに意地悪な態度をとり、優越感《ゆうえつかん》にひたっていた。
いなくなってせいせいしている、とふたりきりになってうちとけたロザリーは、はっきりとエドガーに言ったのだった。
子供のころから、ひとりじゃ何もできない子だった。気が弱くて臆病《おくびょう》で、だから妖精卵《ようせいたまご》に誓った約束を破ったあの子に、霧男が罰を与えに来るって言ってやったら本気で怖がって、霧のロンドンから逃げ出し田舎《いなか》に引きこもった。そうも彼女は言った。
いずれにしろ、何でもよくしゃべる女の子だ。
エドガーは彼女とは、上流階級のちょっとした集まりで何度か会っているが、その都度貴重な情報源になってくれていた。
それとなく訊《たず》ねれば、嬉々《きき》として答える。男爵家の内情を、何から何まで聞き出すのは、あっけないほど簡単だった。
さて、次の手は。どの駒《こま》をどう動かすか。
考えながらエドガーは、深く眉根《まゆね》を寄せる。
まるでゲームだ。自分がやろうとしていることは、勝利を収めたとしても何の価値もないことなのではないか。
むりやり、そんな考えを頭から追い出す。ゲームでも、はじめた以上勝たねばならない。それだけだ。
チェックメイトまであと何手だ?
「お帰りなさいませ、旦那《だんな》さま」
出迎えた執事《しつじ》に、帽子とステッキと上着を押しつけるようにあずけると、エドガーはホールへ出てきたレイヴンに歩み寄った。
「レイヴン、リディアは? 妬《や》いてたか」
「妬いていたか……ですか?」
予想外の質問に戸惑った様子で、レイヴンは首を傾げた。
「ほかの女の子と親しくする僕を見て、妬いてくれるなら脈があるかと思うだろう?」
「はあ、ですがエドガーさま、妬いているかどうかを確かめるようには言いつけられませんでした」
きまじめに、彼はそう言う。
「……なるほど、そうだった。忘れていた」
「それにそのような事柄は、私には判断がつきかねます」
生きた武器のように扱われ、自分の感情や意志を、自分のもののように感じることのできなかったレイヴンだ。他人の気持ちはさらに理解しにくいようだった。
一見|漆黒《しっこく》に見える彼の瞳は、光を透かすとかすかに緑がかっている。彼の故郷では、それは殺戮《さつりく》の精霊を宿しているしるしなのだという。
王に従い、戦うために生まれた精霊の子は、秀《ひい》でた戦闘能力を持っている。と同時に、人間的な感情が薄く、容赦《ようしゃ》もためらいも、理由さえ必要なく、命じられるままに人を殺す。
戦争のための武器に、心など必要はないのだとしたら、このうえなく理想的な戦士かもしれない。
精霊が本当にいるのかどうかエドガーにはわからないが、レイヴンはそういう少年だ。しかし、本当に心がない人間などいるはずがないのだ。
武器として扱われればそうなるしかなくても、彼は感じることも考えることもできる。
『王』の代わりとなったエドガーに、ただ従うのではなく信頼関係を築きながら忠実に仕えようとつとめている。その気持ちが、少しずつ主人以外の人間にも向けられるようになればいいと思う。
ホールの階段をあがり、自室のドアを開けながら、エドガーは、レイヴンに頼んでおいたもっと重要な事柄へと頭を切りかえた。
「ええと、ならおまえに頼んだことについて聞こう」
「リディアさんは無事自宅へ戻られました」
「不審《ふしん》な者は?」
「誰も現れませんでした」
考えつつ、ソファに身を投げ出す。
「そう。僕がリディアを連れてクリモーンガーデンズに行くことは耳に入っていたはずだし、リディアがひとりで帰ることになったあの状況は、絶好のチャンスだと思ったのにね。ま、やつが直接手を下すわけはないけど、手下も用意していなかったってことなのかな」
「あの、エドガーさま、このままリディアさんをおとりにしてよろしいんですか?」
「おまえが不安を感じるなら考えるが?」
「いいえ、そうではありません」
リディアを守りつつ、襲《おそ》った者をとらえるというエドガーの言いつけは、レイヴンにとってそう難しいものではないはずなのだ。
もちろんレイヴンが言いたいのは、リディアを勝手におとりにするという、無神経なやり方はどうなのかという意味だとわかっている。
彼がそんなふうに気遣《きづか》いを見せるのは、エドガーと自分の姉に対する場合を除けば、これまでにないことだった。
レイヴンの姉、自由を手に入れる直前に死んでしまったアーミンのことは記憶に新しく、思い出せばエドガーの胸も痛む。リディアを利用することに反対していた彼女の気持ちを思えば、レイヴンがためらうのも当然だろう。
しかしエドガーが何もしなくても、リディアがロンドンにいて、伯爵《はくしゃく》家のフェアリードクターという肩書きが人の興味を引くものである以上、そして彼女の能力に金銭的価値を見出すだろう者がいる以上、いつかねらわれる可能性はある。事実、伯爵家に出入りする者をかぎまわっている不審な動きを彼は察知していたし、だからリディアの護衛をレイヴンに頼んでおいたところ、公園での事件が起きたのだ。
あのときは、濃い霧で状況が把握しづらく、犬がいたこともあって、レイヴンは犯人の目的を確かめることまでは気がまわらなかった。
いずれにしろ、不穏《ふおん》なたくらみがあるならさっさとおびき出してたたくべきだとエドガーは思う。敵を見定め、危険を取り除くことは、リディアのためでもあるはずだ。
そしてそれは、何よりエドガーの目的のためでもあった。
「プリンスの手駒《てごま》が誰か、確認するためだ。密輸に船を使い、ときには注文どおり盗品を都合したり、人身《じんしん》売買にも手を出している人物が、このロンドンにいるはずなんだ」
アメリカでエドガーを監禁《かんきん》していた、プリンスと呼ばれる人物は、あやしげな結社の頂点にいる。名前も出自《しゅつじ》も、結社の目的さえ不明だが、彼のもとを逃れてきたエドガーとレイヴンにとって、憎むべき人物だ。
その手下、つまりは、かつて瀕死《ひんし》のエドガーを船に乗せ、アメリカまで運び、プリンスに引き渡した張本人に復讐《ふくしゅう》することが、当面のエドガーの目的なのだった。
条件を満たす人物については、ある程度調べがついている。しかし今のところ、単なる犯罪者かプリンスの息のかかったものか、決め手がない。
「例の人物は、リディアさんをターゲットにするでしょうか。先日の、公園でのことは、偶然の変質者とも判断がつきませんし」
「するはずだよ、特殊な能力のある人間に、プリンスが高い金を払うことを知っている。プリンスのところにいた異能力者のひとりが、僕と同じ船に乗せられてきたことはわかっているし、ここ数年のロンドンでも、霊能力者が何人か消えている。奴がプリンスの手下なら、リディアがフェアリードクターだと知った以上目をつけるはずだ。きっとまた動く」
プリンスに命じられ、エドガーをアメリカへ送った英国人は、単なる便利屋に過ぎないのかもしれないが、直接エドガーにかかわった憎い人物だ。
そしてエドガーは、自分が生きていること、反旗《はんき》を翻《ひるがえ》そうとしていることを、プリンスに示してやりたいと思う。
「もう少しだ。みんなの仇《かたき》を討ってやれる」
苦しいつぶやきに、力がこもる。
プリンスのもとを逃げ出したとき、エドガーのそばにはレイヴンとその姉のほかにも、何人かの仲間がいた。
しかしプリンスの追跡は厳しく、エドガーは彼らを守りきることができなかった。
「エドガーさま、復讐は、姉や仲間たちのためですか。もしもそうなら、誰も、そんなことは望んでいないのではないかと思います」
かもしれない。けれど、逃亡を計画したのも指揮したのもエドガーだ。彼を信じてついてきた、なのに無残にも殺された仲間たちに何ができるというのだろう。
伯爵の地位を得たエドガーは、もう身元不明のごろつきではない。プリンスも簡単には手出しできない。ならばこのままおとなしく、そして確実に身を守ることに徹すれば、連中とは無縁の、新しい人生を歩めるのかもしれない。
過去を、完全に捨ててしまいさえすれば。
けれど、仲間の犠牲《ぎせい》の上に今の自分があるのに、捨ててしまうことなどできるだろうか。彼らの協力がなかったなら、エドガーも逃亡などできなかったはずなのだ。
「レイヴン、結局、おまえだけになってしまったな」
頬杖《ほおづえ》をつき、つぶやく。レイヴンは突っ立ったまま、神妙《しんみょう》に目を伏せた。
「僕の逃亡を助けてくれた誰も、ここまで連れてきてやれなかった。自由にしてやると約束したのに」
「もうしわけありません」
「なぜあやまる?」
「……誰も、後悔していないと思います。今のあなたを見れば、心から喜んでいると思います。でも、……うまく言えません」
「じゅうぶんだよ、レイヴン」
立ち上がり、彼はレイヴンの肩を抱いた。
十八歳という年齢のわりに小柄に見える東洋の少年、今は彼だけが、エドガーがここにいる理由だった。
「何だって? リディア、もういちど言ってくれないか?」
「だから、昨日クリモーンガーデンズにいたボギービーストは、ロザリーさんが使ってたみたいなの」
「いや、そのあとだ」
「ドーリス嬢《じょう》がいなくなったことと、ボギービーストは関係あるかもしれないわ」
「じゃなくて」
「妖精のことをよく知らずに接するのは危険だから、そのことも含めて、ロザリーさんに事情を聞いて、あなたから忠告をしてくれないかしら」
なぜかエドガーは、難しい顔をする。女の子を言いくるめるのなんて得意なはずではなかったのか。
「だめなの? 彼女、あなたになら素直に話をしそうだし、忠告も受け入れてくれるんじゃないかと思ったんだけど。どうせまた会うんでしょ?」
「つまりきみは、少しも妬《や》いてくれないのか」
「は……?」
伯爵邸に出勤したばかりのリディアは、仕事部屋へ入る間もなくエドガーにつかまり、サロンで世間話につきあわされていた。
ついでにと、ゆうべ考えていたロザリーとボギービーストのことを話してみたのだが、エドガーの頭の中はさっぱり理解できない。
「なんであたしが妬かなきゃいけないのよ。あなたが誰と親しくなろうと自由だし、これであ爵《と》たしのことあちこち連れまわすこともなくなるならありがたいわ」
ああ、なんだか、エドガーといるほどきつい性格になってしまいそうだ。
「本当にそう思ってる?」
ええ思ってるわよ。だから好きなだけ、ロザリーってお嬢さんでもほかの名家のご令嬢《れいじょう》でも誘えばいいじゃない。あたしにかまってるだけ時間の無駄《むだ》よ。
と言いたいのをこらえたのは、それこそ妬いているように聞こえそうだったからだ。
妬いている、なんてそんなわけはないのだから。
「あのね、そんな話をしてるんじゃないの。とりあえずボギービーストを遠ざけるには、ナナカマドの木でつくった十字架を身につけておくといいわ。それでだめなら、また考えるけど」
「ああ、きみが妖精のことに心を砕くその半分でも、僕に気持ちを向けてくれればいいのに」
広々とした部屋の中、テーブルを挟《はさ》んで座っているエドガーとは距離があってよかったと思う。
こいつのあまい言葉なんか、右から左へ聞き流してやるとゆうべ決意したリディアは、目の前に堅いガードを築いたつもりでエドガーをにらむ。
「そんなにうさんくさそうに見ないでくれ」
「あなたほどうさんくさい人いないじゃない」
きっと簡単に女の子の警戒《けいかい》を解いてしまうだろう笑顔もあまい視線も、はね返してやるんだから、とますます身体《からだ》を堅くする。
「今日は、いつもに増して隙《すき》がないね」
あたりまえでしょう。
「旦那《だんな》さま、お客さまです」
部屋へ入ってきた執事《しつじ》の声に、リディアはほっとさせられた。ようやく、彼の話し相手から解放されるわと思ったところが。
「エドガー、会いたかったわ!」
執事の案内も待ちきれずにか、オレンジのくるくる巻き毛が飛び込んでくる。まっすぐに、エドガーに歩み寄る。
「おはよう、レディ。今日も一段と美しいね」
女王さまみたいな態度で、堂々と手を持ちあげ、挨拶《あいさつ》のキスを受ける。もちろん少女は、リディアのことなど視界に入っていない。
「ねえエドガー、これからワッツ邸でウィーンから来たピアニストの独演会があるの。行ってみない? ワッツ夫人のごく身近な人だけの集まりなんだけど」
「僕がおじゃましてもいいのかな」
「もちろんよ。わたしをエスコートしてくださるなら。それにあなたとは、みんなお近づきになりたがってたもの」
これ幸いと、リディアはそっと部屋を出ようとした。
「そうだ、ロザリー。きみね、ナナカマドの十字架を身につけた方がいいらしいよ。うちのフェアリードクターが言うには、悪い妖精を遠ざけるためだって」
しかし思わず足を止める。そんな言い方をしたら、もろに反発くらうじゃない。
案の定《じょう》、ロザリーの視線がリディアに突き刺さった。
「ちょっと、フェアリードクターさん。変な言いがかりつけないでくださる?」
しかたなく、リディアは彼女に向き直った。
「言いがかりじゃないわ。ボギービーストが身近にいるのは知ってるんでしょ? あれは危険な妖精だわ」
「わたしのしもべよ。わたしを守護してるんだから、わかったようなこと言わないで」
「そんなの見せかけだけよ。あなた妖精のこと、ちっともわかってないわ。あれが身近にいるとよくないことが起こるの。もしかしたらドーリス嬢の病気だって、妖精と関係があるかもしれないし」
リディアが言いたいのは、病気ではなく、行方《ゆくえ》不明の原因だが、いちおうロザリーが話した病気だという説のまま伝える。
「ドーリスのこと、わたしのせいだって言うの? わたしが何かしたってこと?」
「そうは言ってないけど……」
「わたしのせいじゃないわ! あの子が約束を破ったからよ。妖精卵《ようせいたまご》に誓いを立てたのに、破ったから妖精を怒らせたんじゃない。怖がりのくせに、だから怯《おび》えて過ごさなきゃならなくなって、身体をこわして田舎《いなか》へ引きこもったまま人に会えなくなったのは、わたしには関係ないわ!」
どうやらロザリーは、本気でドーリスが田舎で療養していると思っている。男爵《だんしゃく》家が体面上、そう公表しているのを、疑っていないようにリディアには見えた。
だとしたら、彼女はドーリス嬢とはケンカをしただけで、トラブルに巻き込む意図などなく、「いなくなればいい」と言っていたのもそれだけのことなのだろうか。
しかし、ロザリーにつきまとっている妖精はボギービーストだ。彼女には些細《ささい》なケンカのつもりでも、あれが余計なことをしでかす可能性はある。
「でもロザリーさん、ボギービーストは勝手に、あなたや、あなたのまわりにいる人たちをだましたり罠《わな》にはめたりする可能性があるのよ。だから……」
「あなた、わたしがエドガーと親しくするのが気に入らないのね」
リディアには、いきなり話が飛んだようにしか思えなかった。
「は?」
「だから、わたしを侮辱《ぶじょく》するためにそんなこと言うんでしょ」
「あたしは、あんなタラシになんか興味ありません!」
「ムキになるところがあやしいわ」
もうこうなったら、まともに妖精の話なんかできない。
エドガーの方をちらりと見るが、彼は仲裁《ちゅうさい》する気なんか少しもなさそうだった。むしろ、けしかけたわね、とリディアは憤慨《ふんがい》する。
自分をめぐる女の子のケンカをおもしろがっている。
しかしリディアには、彼女とケンカをする理由などない。
逃げようとするが、回り込んでまでロザリーは引き止めた。
「あなた、美貌《びぼう》も色気もわたしに勝ち目がないからって、そんなところで足をひっぱろうとするのはやめてちょうだい。だいたい、瞳の色が魔女みたいだわ。それとも、フェアリードクターって人間じゃないのかしら。人に化けてる妖精さん?」
「何ですって?」
エドガーを争う理由なんかないはずだった。けれど女の子として、気にしている外見をけなされれば、リディアも黙っていられなかった。
ただでさえ、昔から妖精の取り換え子と言われて傷ついてきたのだ。
「あなただっていうほどたいしたことないじゃない。派手に見せてるだけで、その縮《ちぢ》れ毛、こてをあてるのに何時間かかるの?」
ロザリーのコンプレックスをつついたらしく、彼女は眉間《みけん》に深くしわを寄せた。
「くせ毛じゃなくったって、そんなキタナイ鉄錆《てつさび》色じゃあね」
「これは、キャラメル色なの!」
あまりにも腹が立って、リディアは我を忘れてそう言っていた。
リディア自身も好きになれない中途半端な髪の色を、そう表現するのはエドガーだけだ。言葉ひとつでチャーミングな色に思えるのだから不思議なものだが、そこにこだわっている自分が恥ずかしくなる。
エドガーの方を気にするが、今のところそんな心境に気づかれる心配はなさそうだった。
「ならエドガー、オレンジとキャラメルとどちらがお好き?」
ロザリーがそう言って、彼に話を振ったからだ。
「そうだなあ、キャラメルはまだ味見したことがない」
それって、どういう……。
わざとらしく恥じらうように、けれど勝ち誇ったように微笑《ほほえ》むロザリーを見て、理解したリディアは思わず赤面した。
信じられない。手が早いだけの軽薄《けいはく》男。
「ばかばかしい、これ以上つきあってられないわ!」
ロザリーを押しのけ、大股《おおまた》で部屋を横切り、戸口へ向かう。うぶなのね、というロザリーの声をはね返すつもりで、力まかせにドアを閉めた。
仕事部屋にこもったものの、リディアは不愉快《ふゆかい》な気分に悶々《もんもん》とさせられたままだった。
エドガーとロザリーが外出する馬車が、玄関に横付けされるのを窓辺に見おろしながら、彼がふと顔をあげたのにあわててカーテンを閉める。
「べつに、あいつが軽薄男だったって関係ないじゃない。出会ってすぐキスしようと、誰とそうしようとあたしには……」
振り返りかけ、はっと口をつぐんだ。
というのも、レイヴンがそこにいたからだった。
「な、なんなの? ノックくらいしてよ」
「すみません。返事がありませんでしたので」
聞こえないくらい、腹が立っていたようだ。
「そう……、ごめんなさい。でもあなた、エドガーさま[#「さま」に傍点]について行かなくていいの?」
「リディアさん、エドガーさまはそれほど軽薄ではありません」
まじめな顔で、いきなり彼はそう言った。
聞こえてたのね、とリディアは気まずい気分になった。
「軽薄なのは口先だけです。強引に手を出したりはしません。相手が望んでいるなら別ですが」
そういうのを軽薄って言うのよ。
「ですからリディアさん、エドガーさまをもう少し信頼してくださいませんか。フェアリードクターとして認めていらっしゃいますから、遊びでキスなんてできません。あなたが許さない限りは」
「許すわけないじゃない」
「それならそれで、ご不満はないはずです」
「そ、それはそうよ。あなたが言うとおりならね。でも、信じられないわ。きのうだっていつだって、隙《すき》なんか見せたら何されるかわからないってふうじゃないの。あたしは、フェアリードクターとしてここにいるだけなのに、取り巻きの女の子みたいに扱わないでほしいの」
「賭《か》けてもいいです」
「主人思いなのね」
「逃げなくても、隙を見せても大丈夫ですよ」
エドガーのためなら何でもする。主人の敵や邪魔者を葬《ほうむ》ることよりも、おそらくレイヴンにとっては難しい、リディアをなだめるということまでやろうとしている。
ただその忠誠心に感服させられた。
どう考えても、従者にしてみれば迷惑なほどいいかげんな主人だ。しかしレイヴンにとっては、唯一の、すべてを受けとめてくれる大切な主人なのだ。
レイヴンの中にいるという、殺戮《さつりく》の精霊を受けとめ、鎮《しず》めることに成功しているのはエドガーだけだというから。
だからこれ以上エドガーを否定するのも、主人を信頼するレイヴンに悪いような気がした。
「いいでしょうよ。賭け金を決めてちょうだい。でも遊びでキスなんかされたら、あたし、あのすました顔をぶん殴《なぐ》るわよ」
レイヴンは、深い緑の瞳をこちらに向けたままわずかに口の端を上げただけだったが、それで賭《かけ》は成立した。
よく考えてみれば、リディアが勝つにはキスされなければならないのだが、そう気づいたのはもっと後のことだ。
とにかくそのときは、エドガーを試してやろうという気分にもなっていた。
本当のところ、彼がリディアのことを、軽く見ているのかそうでないのか、確かめたい気持ちがあったのだろう。
「それから、落とし物です」
レイヴンが、手の中に収まるほどの白っぽい玉をテーブルに置いた。
「さっきのサロンに落ちていました」
自分のではないと言いかけ、口をつぐむ。
縞瑪瑙《しまめのう》だと気づいたからだった。
純白ではなく、淡いグリーンの葉脈《ようみゃく》に似た縞目がある。
ペパーミントリーフの縞瑪瑙? 振ってみれば、中で水音がする。急いで窓辺に持ち寄り光に透かせば、薄く削られた部分から黒っぽい水がかすかにゆらめいて見えた。
まさか、妖精の卵=H
本物だろうか?
その昔、誰かが悪魔を封じたもの?
エドガーの知り合いが持っていたもの?
サロンに落ちていたというなら、落としたのは、ロザリー?
「……ねえ、レイヴン。昨日、エドガーがボートの上で言ったこと覚えてる? 霧のロンドンからさらわれて、アメリカで死んだっていう少年のこと」
部屋を出ようとしていたレイヴンは、足を止め振り返った。
「はい」
「あれは、本当のこと? エドガーの友達なら、あなたも知っている人でしょう?」
「エドガーさまを慕《した》い、ついてきた仲間たちはたくさんいました。誰もが売られてきた、似たような境遇だったわけですから、特定の人物のことではないと思います」
「仲間たちって、まさかみんな……」
「死にました」
「どうして?」
「ことごとく殺されました。プリンスは、裏切り者を許しません」
霧に消えたようにいなくなり、売られた子供たち。エドガーが霧の中から助け出したいと言ったのは、特定の誰かのことではなく、すべての仲間たちのことなのだろう。
霧が連れ去ったのではなく、売られて死んでしまった彼らを助け出すことは不可能だとわかっているから、彼は空想する。
もしも彼らが、悪意ある人間ではなく霧にさらわれていたなら。もしもいまだに霧の中にいるのだとしたら、どんなことをしても救い出すだろうと、たぶん、死なせてしまったことを悔やんでいる。
すべての、彼自身も含めた子供たちへの鎮魂《ちんこん》の祈りのように、エドガーは、霧と妖精の卵≠ノこだわっている。
「でも、ふたりの妖精に会ったのはエドガーさまのことです」
「え?」
「以前に、聞いたことがありますから」
「そ、そんなことあたしに言っちゃっていいの?」
「べつに口止めされていません。妖精の卵がどうのという話までは知りませんが」
あ、そう。
レイヴンの口からはっきり聞かされて驚いたけれど、リディアもうすうす感じていたことだった。
あの話が、同じ境遇の仲間たちを象徴的に説明したことだとしても、エドガー自身の体験も重ねた話だろうと思った。そしてふたりの妖精に会ったのがエドガーのことなら、もともと妖精の卵≠持っていたのも彼だったのではないだろうか。
瑪瑙はそれほどめずらしい石ではないが、質のいいもの、希少な色合いのものは宝石として価値がある。
大きな宝石の場合、人手に渡れば、割られ、断片を加工されて売り払われてしまうのがふつうだが、このままの形で残っているということは、裕福な家人が保管してきたはず。
ならば妖精の卵≠持っていた少年は、下層の出ではあり得ないのだ。
「ねえ、エドガーのほかにも、仲間に貴族の子供はいたの?」
「いいえ。私の知る限りでは」
どこか暗い倉庫の中で、霧男《フォグマン》の幻を見ていたエドガー。これとひきかえに取り引きをしたのに助けられず、そうして彼もいまだ、失った仲間たちと同様に、深い霧にとらわれたまま抜け出せない自分を感じているのだろうか。
助けてと、リディアに訴えかけていたけれど……。
「リディアさん、私はエドガーさまのために命を捨てても悔いはありません。誰もがそうだったと思います。でもエドガーさまは、死んだ本人に悔いがなかろうとつらいのでしょうか」
「それは、つらいと思うわ」
きまじめな表情でリディアに問いかけた少年は、少し目を伏せた。
「エドガーさまはいつでも、主人でありリーダーでした。弱音を吐くことも、助けを請《こ》うこともなく、みんなの信頼を背負ってひとりで立っていました。もっと対等な友人として、うちとけた関係の仲間もいましたけれど、エドガーさまの弱みを受けとめることができたかというと疑問に思います。私たちのリーダーは、挫折《ざせつ》も後悔も迷いも見せない、それが私たちの誇りでした」
でも、人はそんなに強くはない。エドガーがかかえていた重圧と、それでもなお仲間を引っぱっていこうとした意志の強さに敬服する。
たぶんレイヴンも、平和を手に入れた今は、そのことに気づいたのだろう。
「でも今は、少し気持ちを休めてくださったらいいのにと思うのです」
「あなたがそう言ってあげればいいのよ。主従よりも、対等な親友だと彼は思ってるはずよ」
レイヴンは、しかし強く首を横に振った。
「私には無理です。私の中の精霊は、エドガーさまを主人と認めているからこそ従うのです。けじめを曖昧《あいまい》にしてしまったらとんでもないことになります」
レイヴンの精霊のことは、リディアにはよくわからないが、彼が従者の姿勢をけっして崩さないのには、深いわけがあるのだとは理解した。
「ですからリディアさん、どうかエドガーさまを嫌わないでください」
「え、べつに嫌ってないけど……」
唐突《とうとつ》な言葉に戸惑わされる。
「エドガーさまが完璧《かんぺき》でなくても、失望しないでくれますか?」
「あたし、あいつが完璧だなんて思ってないわ。だって軽薄《けいはく》だし悪党だしうそつきだし、欠点だらけじゃないの」
主人に対してずいぶんなことを言ったにもかかわらず、レイヴンはその返事に満足したかのようにすみやかに退出した。
呆然《ぼうぜん》としたまま、リディアは取り残される。
「だから、何が言いたかったの?」
もはや戦場の君主ではないエドガーに、休んでもいいよと言ってやってくれということなのだろうか。
弱音や愚痴《ぐち》を受けとめる役目を、レイヴンはリディアに求めているのだろうか。
でもそんなの、あたしでなくたって、さっさと恋人でもつくればいいじゃない。候補なんていくらでもいるんだし。
ふと、ロザリーの顔が頭に浮かべば、また腹が立ってきたリディアは、レイヴンの話にエドガーのつらさを思いやっていた気持ちが吹き飛んでしまうのだった。
調べものがあると言って、リディアは伯爵《はくしゃく》家を早退した。
ニコはリディアがいなくなった仕事部屋に忍び込むと、そおっとクローゼットの扉を開け、奥に隠しておいた箱を静かに取りだした。
耳を押しつけると、箱の中からかすかなつぶやき声が聞こえる。箱の中にしまっておいた缶詰が、なにやらぶつぶつ言っているのだ。それはまだ、ニコが聞き耳を立てていることに気づいていない。
(ローズマリー、セージにバジル、いい香りのするハーブがたっぷり)
聞き取りにくい声だが、歌うような抑揚《よくよう》で、そう言っているのがわかる。
(樽《たる》いっぱいの、ローズマリーにうずもれた寝床、ロンドンにあんなすてきな場所があるなんて)
(ああでも、だまされた。缶詰工場? ハーブの寝床でうたた寝したら、いつのまにやら缶の中)
「なんだおまえ、居眠りしてる間に缶詰にされたのか」
ニコがつい口を出してしまうと、それはぱたりと黙り込んだ。
[#挿絵(img/agate_119.jpg)入る]
ハーブ漬け魚の缶詰工場で、ハーブにうずもれて眠り込んでいたらしいこいつは、妖精のたぐいだろうが、そのまま缶詰に閉じ込められてしまったようだ。
心地よすぎる香りと眠りに時を忘れたのか、えらく間抜けだと思う。が、ニコも妖精族であるからには、ひとつのことに夢中になると、ほかのことに注意がまわらなくなるのは日常|茶飯事《さはんじ》だ。もちろん妖精族は、自分がそんなふうに抜けているなどとはけっして考えない。
「それにしても、だまされたって誰にだ?」
缶詰の中身は、しまい込まれてほうっておかれた苛立《いらだ》ちと、ニコに対する警戒《けいかい》心から、反抗的に缶をゆすった。
「だからさ、冷静に話をしようぜ。おまえは何者なんだよ。言えば開けてやるって言ってるだろ」
ニコはこの間から、同じ質問をくり返している。缶詰の中身は、最初しゃべろうとしなかったが、クローゼットにしまい込まれて埒《らち》があかないからか、かすかな声を出すようになっていた。
しかし声が聞こえにくいのは、缶に封じ込められているせいだ。
「おれが何者か先に言えって? おまえが何かわからねえのに正体がばらせるかよ。フェアリードクターに会わせろ? 信用できないからおれがまずおまえのことを確かめてるんだよ。は? おまえこそ信用できないって言われてもな」
なかなか強情《ごうじょう》だ。
どうやらこいつは、あちこちで缶を開けろと暴れたために、気味悪がられて誰にも開けてもらえなかったらしい。そこで静かにしていた方がいいと考えたが、今度は獣くさい妖精が自分のことを食べようとしていると感じて警戒している。
おまえなんか食うかと、ニコは言ってやったが、缶詰などという不気味なものを食べようとする妖精がいるということの方が、こいつには信じられないようだ。
人間にしか開けられない缶詰、そして妖精にとって信用していいと思える人間となれば、フェアリードクターしかいない。だからフェアリードクターによる仲裁《ちゅうさい》を、缶の中身は求めているが、ニコにしてみれば、こいつが悪意をもっていないと言いきれないところが問題なのだ。
出してやったとたんリディアに危害を加えられては困るから、押し問答をくり返しながらねばっているのだった。
そして結局、対話は要領を得ないまま終わる。密封されて力を閉じ込められているから、缶の中のものはいまひとつ元気がない。覚醒している時間が短く、すぐに眠り込んでしまうので、これでまたしばらくは話ができなさそうだった。
しかしこれがニコのことを、よほど警戒しているのもわからなくもない。誰かにだまされてこんなことになったのなら、警戒心も強くなるだろう。
かわいそうな気もするが、こいつが悪いもので、そのせいで誰かに閉じ込められたのだとしたら出してやるわけにはいかない。リディアに話してみるかどうかも、微妙なところだ。なにしろ彼女は、筋金入りのお人好し、危険よりも哀れに思って出してしまうに違いない。
だからニコは、これの声がリディアの耳に届かないよう、注意深く箱の中に入れて、クローゼットの奥に隠しておいたのだった。
そのとき、ノックもなく部屋のドアが開いた。ニコは缶詰をあわててテーブルクロスの下に放り込み、椅子《いす》に座り直す。何気なくティーカップを持ちあげたが、入ってきたのはエドガーだった。
ああクソッ、間違ったじゃないか。
猫のふりをしなければならなかったのに。
帰宅したエドガーが、リディアの仕事部屋のドアを開けたとき、目に飛び込んできたのは、灰色の猫が優雅にティーカップを傾けている姿だった。
テーブルに届くように、椅子の上に重ねたクッションに腰かけている。
湯気と香りを味わうように鼻をひくつかせ、ひとくちすすると、ソーサーにカップを戻す。
エドガーの方をちらりと見て、何事もなかったかのように椅子の上で姿勢を変える。つまりは、猫らしい座り方に。
たった今見たお茶を飲む猫の姿は、目の錯覚《さっかく》だったのだろうかと思うくらいふつうの猫が座っているだけだった。
「リディアは帰ったと聞いたけど、きみは一緒に帰らなかったのか」
「けっこうここが気に入ってるんだよ。ベルを鳴らせば入れたての紅茶が出てくるしな」
クッションに寄りかかり、満足そうに目を細める。
鳴き声は、ふと意味のある言葉のようにも聞こえる。エドガーは、ニコがふつうの猫ではないかもしれないと、あらためて考えさせられた。
テーブルをはさんでニコの正面に座る。
「なあニコ、リディアは僕のこと、どう思っているんだろう」
「うさんくさいタラシ」
と、ニコの冷たい視線は言っているような気がした。
「それはまあ、仕方がないよね」
「おいっ、納得するかよ」
「でも、今のところ彼女には、好きな男はいないだろう? チャンスはあると思っているんだけど」
「はあ? つーかあんた、くるくるオレンジ巻き毛のお嬢《じょう》さんは?」
「ロザリーはね、ただのお友達。向こうもそう思ってるよ」
「いいかげんだなー、そうは思えない親密ぶりだぞ。だいたいあんたの、リディアへの接し方だって、ふざけてるとしか思えねえよ」
あきれたというふうに、ニコはひじ置きに寄りかかり、頬杖《ほおづえ》をついた。
微妙な体勢だが、あり得ないともいえない。
「ふざけてるわけじゃないけど、僕だってそんなに自信ないし、ふられるのはいやだ」
「うそつけ。リディアみたいなのがちょっとばかりめずらしいだけだろ。言っとくけど、リディアとあんたは住む世界が違いすぎるんだ。リディアはそこんとこわかってて、あんたとは距離置いてんだから、引っかき回さないでくれ」
まともに叱られた気がして、エドガーはため息をついた。
自分がリディアをそばに引き止めている理由は、何なのだろう。
伯爵家のためには、フェアリードクターが必要だと思う。それだけでなく、彼女に興味や魅力を感じているのはたしかだが、もちろん、住む世界が違うのもわかっている。
意外性があって不思議で、話していると楽しいから追いかけたくなる。たぶんそんな感覚なのだけれど、住む世界が違うと知っていながら何の葛藤《かっとう》もないなら、軽い気持ちなのも事実だろう。
「もう少し、リディアがうち解けてくれるといいんだけどなあ。ニコ、どうすればいい? きみならリディアのこと、よく知ってるだろう?」
こんなふうに、猫に問いかけてみるのも、ゲームみたいな軽い気持ちだ。
ギャングとうち解けられるかよ。とでも言うように、彼はしっぽをゆらゆらさせた。
それとも、ただで教えられるかよ、と言ったのだろうか?
思いつき、エドガーは執事《しつじ》を呼ぶ。
用件を聞いて出ていった執事は、銀のトレイを持って戻ってきた。
脚のついた銀器に、あまい香りのする菓子が乗っかっていた。エドガーはそれを、ニコの方へ押し出した。
「フランスから届いたばかりの、リキュール入りのチョコレートだ。きっと気に入ると思うけど?」
やや身を乗り出して、ニコはその、茶色いまるいものをじっと眺めた。
首にネクタイを結んだ猫が、上品な手つきでチョコレートをひとつ取りあげても、不思議な光景には見えなかった。
口に入れ、味わうように舌の上で転がしていたニコは、恍惚《こうこつ》と目を細める。
「好きなだけ食べていいよ」
「リディアにうそ、つくなよな」
それが彼のアドバイスなのだろうか。
銀器を両手で、いや両前足で、かかえるように引き寄せたニコは、そう言ったような気がした。
[#改ページ]
高貴なる悪魔
それはかつて、グラナダ王家が大切にしていた宝物のひとつだったという。
天地創造の神秘の水が閉じこめられているという水入り瑪瑙《めのう》。この水入り瑪瑙に触れた魔物は、結晶の中に取り込まれてしまうという言い伝えにより、持ち主は魔物の害を避けることができる、つまり魔よけの石と信じられていた。
グラナダ王国からイギリスに持ち込まれたいきさつは不明だが、淡い緑の葉脈《ようみゃく》に似た繊細《せんさい》な模様、卵《たまご》ほどの大きさから『妖精の卵』と呼ばれ、より薄く削られた底の部分を光に透かせば、太古の時代に閉じこめられた水の影が見えたという。
「間違いないわ、同じものよね」
目の前の、水入り瑪瑙と見比べながらつぶやき、リディアは書物の続きを目でたどった。
それは長い間、聖オーガスティン大修道院に保管されていたとの記録がある。が、十六世紀に修道院が解体されたおり、慎重に隠されたという。
この瑪瑙にはかつて都《みやこ》を震撼《しんかん》させた悪魔が封じ込められているらしいとわかり、敵国に渡れば、大変なことになると信じられたからだ。
「まあねえ、昔なら悪魔にそれほどの力があるって信じられてたのかもしれないけど」
一説には、王家が保管することになったとも言われている。妥当《だとう》だが残念ながら、現在まで受け継がれているという証拠《しょうこ》はない。
あるいは当初から、物好きな貴族の手に渡ったとも言われている。王家にしろ貴族にしろ、高貴な血筋は魔物も怖れるといった俗説は古くから流布《るふ》していたし、悪魔がひそむ石とて怖れず、めずらしい貴石のひとつと収集し、ひっそりと大切にしている家系があるとしても不思議ではない。
「父さまの文章って、学者にしてはセンチメンタルよね」
本を閉じ、書棚に戻す。この水入り瑪瑙のことを調べるために、急ぎ家へ帰ってきたリディアは、ようやく目当ての記述を見つけたものの、情報はそれだけしかなく、父の書斎《しょさい》で考え込んだ。
目の前にある水入り瑪瑙に、悪魔がひそんでいるのかどうか、眺めていてもわからない。
「ともかく、貴族の家に譲渡《じょうと》されたなら、エドガーの家にあったとしても不思議じゃないわけね」
彼の家に何が起こったのかリディアは知らないけれど、とにかくエドガーはこの石を持ったまま連れ去られ、売られたのではないか。
そのとき、レイヴンの言っていたことがたしかなら、ふたりの妖精の姿を見ている。
あれはたぶん、本物の妖精ではなく、きれいな服を着た女の子がそんなふうに見えただけだろう。本物の妖精なら、ひきかえにした約束をたがえたりしない。
だとしたらこの瑪瑙を受け取った女の子は、今もそれを持っているかもしれず、つまりはロザリーが、そのときの少女かもしれないのだ。
(おい、そいつを返してもらおうか)
ふと見ると、窓の外にボギービーストがはりついていた。
「いいわよ。持っていけば?」
リディアは窓を開けてやる。しかし、ボギービーストは部屋に入ってこようとはしなかった。
(オレさまを引っかけようったって無駄《むだ》だぞ。おまえが持ってくるんだ)
瑪瑙に触れれば中へ吸い込まれることは、知っているようだった。
神聖な魔よけの石。近づけば危険なのに、わざわざこれを持っているロザリーに、ボギービーストがまとわりついているのはどうしてだろう。
ボギービーストの主人がロザリーでないなら、何のためにその主人は、彼にロザリーのそばにいるよう命じたのか。
ロザリーがこの妖精の卵≠フ持ち主であることと、それは関係があるのだろうか。
わからないことばかりだ。
「落とし主になら返すけど?」
リディアは瑪瑙を手に、ボギービーストに歩み寄った。
(わっ、こっちへ来るんじゃない)
細長い手足を振り回したボギービーストは、バランスをくずし窓の縁《ふち》から落っこちた。
(クソ女! おまえなんか、あの方ならあっと言う間に……)
「あの方って?」
(な、何でもない。いいから外へ出ろ。お嬢《じょう》さまが馬車でお待ちだ。落とし物を受け取りに、わざわざお越しなんだからな)
ロザリーが来ている?
なら彼女に会って、疑問点を確認するまでだ。
リディアは瑪瑙を手に部屋を出た。
数件先の曲がり角に、馬車が停《と》められていた。待っていたロザリーに、「乗って」と命令するように言われ、リディアはそのとおりにした。
「伯爵《はくしゃく》家のアラブ人召使いが、石を拾ってあなたに渡したって言ったけど」
レイヴンはアラブ人じゃないのでは、と思ったが、よく知らないので黙っておく。
「ええ、あずかってるわ。でもロザリーさん、あなた、あれが何だか知ってるの?」
「魔法の石よ、何でもわたしの願いをかなえてくれるわ」
馬車が動き出していた。
「どこへ行くの?」
「ゆっくり話ができるところよ。リディアさん、わたしに言いたいことがあるんでしょう?」
ボギービーストの姿は、馬車の中には見えなかった。
「まずは、石を返してくださる?」
もちろん、リディアのものではないのだから、取りあげておくわけにもいかず、ロザリーに渡す。
「ねえ、あなたの妖精はいつからいるの? もしかして、この石を手に入れたときから?」
「いいえ、何年か経ってからだったと思うけど。この石、妖精の卵なのよ。孵化《ふか》するのに時間がかかったらしいけど、妖精はここから生まれてきたの。持ち主に仕えるためにね。そう言っていたもの」
妖精の卵≠ニ呼ばれていても、この水入り瑪瑙から妖精が生まれることはあり得ない。中に入ったものは、自力ではけっして出られないのだから。
そもそもそれが、ボギービーストがロザリーをだまそうとしてついたうそだ。言ってやりたかったけれど、今のところ冷静に話をする気らしいロザリーに、頭ごなしに否定するような言葉は慎《つつし》むべきだと思った。
ともかく、ボギービーストは、この瑪瑙が何か知っていて、ロザリーに近づいた。彼のたくらみは妖精の卵≠ノ関することなのだ。
「あの、ロザリーさん、あなたこれをどうやって手に入れたの?」
と、彼女は急に顔を曇らせた。
「あなたにこれをくれた人は、どうして貴重な魔法の石を手放したのかしら」
「……何が言いたいの?」
きつい口調でにらまれる。
「ただあたしは、この妖精の卵≠ェ持ち主の願いをかなえるとか、そういうものじゃないと思うから、前の持ち主のことを聞きたかっただけ」
「いいわ、教えてあげる。わたしの前の持ち主は、妖精の恩恵《おんけい》を受けられなかったの。当然よ、石を持ってたって、盗んできただけなんだもの」
「盗んだって、本当なの?」
「そうとしか思えないわよ。だから妖精は私のそばを選んだの。もうすぐ着くわよ、私がこれと出会った場所に。落ち着いて話ができるところよ」
夕刻になって、また霧が出てきていた。馬車が止まった場所は河岸のどこかで、古い建物が並んでいた。
使われている様子のない、倉庫のような一軒へ、ロザリーは入っていく。リディアも続いて入っていくが、ほこりっぽくて蜘蛛《くも》の巣だらけだ。高いところに円窓があるだけで、薄暗くてカビ臭かった。
小部屋のドアを開け、何もない場所でロザリーは立ち止まる。
「八年前、だったかしら。ここに男の子が転がってたのよ。焼けこげた服を着てて泥だらけで、浮浪者《ふろうしゃ》の子供みたいだったわ。それでわたしはすぐにわかったの。この子は悪いことをしてつかまったんだわって」
「え、ちょっと待って。そうとは限らないんじゃ……」
「そうにきまってるわよ。手足を縛られてたし、何も悪いことしてない子がそんな目に合うわけないじゃない。だいたい、下町の溝で寝起きしてるような子が、一度も泥棒をしたことがないと思うの?」
短絡的すぎてあきれたが、自分中心に世界がまわっているのだろうお嬢さまにとっては、それ以外考えようがないのだろう。
「その子はわたしたちに、助けてって言ったわ。あつかましいわよね。でも、その子が握りしめてた石に気がついたから、くれたら助けてあげるって言ってみたけど、こんなきれいな宝石、安物じゃないわよ。どう考えたってあの子が盗んだものでしょ。泥棒を助ける必要なんかないわ。そう言ってやったの」
「その子、怒らなかった?」
「さあ、そんな元気もなさそうだったわよ。そういえばドーリスは、仕返しに来ないかって心配してたけど」
一緒にいたのはドーリスなのか。
「ドーリスが霧男《フォグマン》を怖がるのは、あの男の子のせいよ。あの子がうなされながら、霧男がどうとかつぶやいてたから、連れ去られちゃったと信じてるのね」
汚い倉庫に、きれいな身なりの少女がふたり。妖精みたいに見えたという……。
考えながらリディアは、少年が横たわっていたという床の上に屈《かが》み込んだ。
ほこりの積もった床板にそっと触れる。
エドガーの過去に触れているような、そんな気分になった。
深い霧の闇から、時間を超えて手を差しのべられるものならば。あたしが。
バカなことを考えている。
そしてふと思う。ここにいたのがエドガーなら、今の彼は、迷い込んだふたりの少女をどう思っているのだろう。
本気で妖精だったと思っているはずはない。そのときは妖精みたいに見えたとしても、あとで考えれば人間だったとわかるだろう。
いずれにしろ彼は、水入り瑪瑙を少女に渡した。彼の出自《しゅつじ》を証明するかもしれない唯一のものを、見知らぬ少女に渡したのは、少女が妖精でも人間でも、そうするしか助かるチャンスがなかったからだ。
けれども助けはなく、自力で逃げ出すまで何年もかかった。
たくさんの犠牲《ぎせい》を払った。
水入り瑠璃を取りあげていったふたりの少女が、ロザリーとドーリスだと彼が知ったら。
……まさか、もう知ってる?
だから、ドーリス嬢《じょう》の行方《ゆくえ》不明に首を突っ込んだ? そしてリディアに、霧男と妖精の卵≠フ話をした?
え、ちょっと待ってよ。
だとしたらエドガーはどういうつもりでいるのか。ドーリス嬢を捜すのに協力なんてするつもりはさらさらなくて……。
ドアの動く風を感じ、リディアは振り返る。と、視線の先でドアが閉じられ、同時に外で、掛け金のおろされる音がした。
「ロザリーさん? 何をするの? 悪ふざけはやめて」
「ふざけてなんかないわ」
「ここを開けてよ!」
激しくドアをたたいたが、ロザリーはクスクス笑うだけだ。
「はっきり言って、あなたじゃまなのよ。伯爵《はくしゃく》とは釣り合わないんだから、もう彼に近づかないで」
「バカなことやめて!」
「わたしの妖精が、あなたに思い知らせるためにはこうするのがいちばんだって言うから、しばらくここでおとなしくしててちょうだい」
「……ボギービースト……、あいつの言うことなんか信用しちゃだめ! それにエドガーは、彼もきっと何かたくらんでるわ。ロザリーさん、あいつのあまい言葉にだまされちゃだめよ!」
「ほらやっぱり、わたしに嫉妬《しっと》してるのね」
「あーもうっ、ちがっ……」
「じゃ、ごきげんよう、リディアさん」
その言葉を最後に、リディアがいくらドアをたたこうと、外からの反応がなくなった。
「……どうしよう、ニコを連れてくるんだったわ」
けれど彼は、伯爵家のやわらかい椅子《いす》と紅茶を気に入っていたから、仕事部屋に居残っていた。まだ家に帰ってきてもいないだろう。
「ほんと、いざってときにいないんだから」
とにかくリディアは、こみあげる不安と動揺を押し込め、冷静になろうとした。
大声を出して助けを求めてみる。しかしこの近所は空き家ばかりだったように思う。
戸の隙間《すきま》からもれるかすかな光しかない小部屋は、ますますリディアを絶望的な気持ちにさせた。
エドガーも八年前、こんな気持ちでここにいたのだろうか。まだ子供だったうえに、衰弱《すいじゃく》した状態でこんなところに。想像するだけで、息苦しくてたえられない気持ちになる。
じっとしていられず、もういちど声をあげてドアをたたく。力任せに体当たりしてみる。
と、バキッという音とともにドアが壊れ、リディアはドアの残骸《ざんがい》と一緒に外側へ倒れ込んだ。
「うそっ……、やだ、あたしそんなに怪力じゃ……。まあ、掛け金のところが腐りかけてたんだわ。古い倉庫で助かったかも」
しかしこの小部屋からは出られたとはいえ、倉庫そのものの入り口の鍵《かぎ》は閉まっていた。こちらは鉄の扉で、壊れそうにない。
それでも、天窓から射し込む明かりとじゅうぶんな広さがあるだけ、さっきよりは落ち着いていられた。
そういえば、ロザリーはこの倉庫の鍵を持っていて、自分でここを開けたのだった。
どうしよう。まさかこのまま何日もほうっておかれて衰弱死……、なんていくらなんでも、そこまでするつもりはないと思いたい。
別の出口がないか、リディアは建物の奥を調べることにした。
ロザリーが鍵を持っていた。子供のころにもここへ来て、少年を見つけたというのだから、ここは彼女の家の所有物なのだろうか。
しかし、だとすると、少年をここへ閉じこめていたのは、彼女の家の誰かだということになる。
つまり、エドガーを売りとばした人物が、ロザリーの身近に……?
だんだん、頭が混乱してきていた。
リディアは肝心《かんじん》なことを何も知らないまま巻き込まれているからだ。
たぶんエドガーは、いろんなことを知っている。知っていて、何かたくらんでいる。
リディアはたぶん、彼のたくらみに利用されている。
「あいつ、隠してることはもうないってうそばっかり……、きゃあっ!」
また声をあげることになったのは、床板を踏み抜き、転んだからだった。
立ちあがろうとしたとき、か細い声が聞こえた。
「誰か……いるんですか?」
若い女性の声だった。
「え、だ、誰?」
「すみません、あの、わたし、ドーリス・ウォルポールと言います」
「ドーリス……、男爵《だんしゃく》令嬢の?」
「はい……。あの、差し支えなければ助けてくださいませんか? もしあなたが、悪い人たちのお仲間でないなら」
声のするドアの前へ歩み寄る。その部屋もドアに掛け金がかけられていて、中から開けることができないようだった。
リディアが掛け金をはずしてやると、中から出てきた女の子が、倒れるようにリディアに寄りかかった。
「大丈夫ですか?」
「ええ……、力が抜けて、急にほっとしたものですから」
「あの、でもあたしもここに閉じこめられたんです。今は出口を探してたところで」
「まあ、あなたも叔父《おじ》に?」
「叔父? あなたを閉じこめたのは……、グレアム卿《きょう》なの!」
おろしたままの髪も、地味な服装も、貴族の娘らしさはどこにもなく、やつれた顔つきの少女は、助かったわけではないと落胆《らくたん》したのか木箱の上にふらふらと座り込んだ。
彼女が言うには、正面の扉に鍵がかかっているなら、出入り口はほかにはないとのことだ。この倉庫は、船会社を持っているグレアム卿のもので、昔ロザリーとこっそり探検したことがあるのだそうだ。
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少年を見つけたときのことだろうと思ったが、それよりリディアは、グレアム卿のことを聞きたかった。
「じつはわたし、叔父がウォルポール家の財産を使い込んでいることを知ってしまったんです。それで、以前家庭教師だった方に相談しようと手紙を書いたらそれが見つかってしまって……。しばらくは、叔父の部下らしい誰かの屋敷に監禁《かんきん》されていました。でも今朝《けさ》ここへ放り込まれて、外国へ売りとばされるんだと聞かされました。そういうことを以前からやっていたみたいで、……財産に手を出しただけでなく、そんな犯罪まで犯していたなんて……」
「じゃああなたは、ボギービーストのせいで姿を消したわけじゃなかったのね」
「ボギー……?」
「ロザリーさんの妖精です。彼女とケンカをして、妖精に怯《おび》えていたって聞いたの。それであたし、ミセス・マールにお話をうかがって、あなたのことを捜していたんです」
「マール先生が? あの、あなたはいったい」
「リディア・カールトンと言います。アシェンバート伯爵《はくしゃく》家のフェアリードクターなんです。マール夫人は、あなたが話した妖精のことが気になって、伯爵に相談したと言ってました」
「……アシェンバート伯爵家の……」
ほっとドーリスは息をつく。リディアが味方だとはっきりしたからだろう。
「たしかに、妖精には怯えてました。ロザリーとは、妖精卵の占いをしたときに、親友として隠し事をしないと誓いを立てていて、でもわたし、彼女に叔父のことを話せませんでした。だって恐ろしい話で……。それにロザリーは派手な叔父とは気が合ってたっていうか、信用していたみたいだから、確証もなく言うわけにいかなくて。でもわたしが悩んで、沈んでいたので隠し事をしてるって気づかれてしまって、彼女を怒らせてしまいました」
「それで、霧男《フォグマン》に襲われるとでも脅《おど》されたの?」
「ええまあ……。でも本気じゃなかったと思います。ロザリーは、いっぱい意地悪なことを言うけど、そんなに悪い子じゃ……。それにわたし、こうなるまでは霧男のことを怖がってたけど、本当に恐ろしいのは、妖精よりも人間だって思います」
そうかもしれない。妖精は、彼らの世界の決まり事さえ知っていればよき隣人《りんじん》なのだ。
倉庫の中はますます暗くなってきていた。夜になれば、完全な闇に包まれるだろう。それに寒さも増してくる。
ロザリーがいつまでリディアを閉じこめておくつもりなのかは知らないが、彼女の気がすむまで、ここでじっとしているわけにはいかなかった。
ドーリスを運び出すために、またグレアムの手下がやって来る可能性があるからだ。
「とにかく、ドーリスさん、ここから出ることをあきらめちゃいけないわ」
リディアは精一杯元気よく言って立ちあがった。
「でも、どうするんですか?」
「何か使えそうな道具がないか探しましょう」
ケケケ、とそのとき、奇妙な笑い声が聞こえた。頭上を見あげると、梁《はり》の上にボギービーストがいた。
「おまえは……、よくもロザリー嬢《じょう》にいいかげんなこと言ったわね。どういうつもりよ!」
(フェアリードクター、あんたがじゃまなんだよ)
「あたしがおまえに何をしたっていうの? ロザリーとエドガーをくっつけたいなら、あたしにいたずらするなんてお門《かど》違いよ」
ボギービーストは、ぴょんと梁から飛びおり、積んであった木箱の上に立った。
(はん、あの女、伯爵とつきあえるなんて本気で思ってんのかね。バカなおつむだ)
「……おまえ、何をたくらんでるの?」
またケケケと、ボギービーストは意味深《いみしん》に笑う。耳まで裂《さ》けた口をさらに醜《みにく》くゆがませて。
「ねえ、リディアさん、何かいるの?」
不安げにドーリスが身を寄せた。
「ええ、ロザリーにつきまとってる妖精です。見えませんか?」
「わたしには……。見たことがないんです。ときどき、そのへんにあるものを動かして見せてくれたけど」
(そいつ、ニブい女だぜ。こうしてオレさまが姿を現してるのに見えねーんじゃな。男爵令嬢の方が、あの方のためには役に立ちそうだったが、しかたねえから従姉《いとこ》の方を使うことにしたんだ)
「あの方って、おまえの本当の主人ね。……それって、グレアム卿なの?」
(は? バカにすんなよ。どうしてオレさまが人間なんぞに仕えるんだ?)
人間じゃない。ボギービーストの主人は。
水入り瑪瑙《めのう》を手に入れたロザリーのもとへ現れた。
こいつの主人は、まさか、瑪瑙に封じられたという。
「……悪魔……?」
チッチッとそれは舌を鳴らす。
(あの方はそう呼ばれるのが大嫌いさ。あんな連中と一緒くたにしてもらいたくないね。悪魔なんかより偉大な、霧男《フォグマン》さまさ)
フォグマンが、ロザリーの水入り瑪瑙の中に……。
リディアが驚いている様子に満足し、調子に乗ったボギービーストは、ぺらぺらとさまざまなことをまくし立てた。
(あの方をあんな石の中に閉じこめるなんて、ひどい話だよ。そのうえ石の持ち主は、これまでずっと、あの方に声さえ出させない高貴な血筋だ)
リディアの父が書いていたように、貴族の血が妖精の卵≠守ってきたということだろうか。
中に閉じ込められた魔物の力が、わずかにももれないように守ってきたのが貴族の血筋。
ウォルポール男爵《だんしゃく》家のような新しい貴族ではなく、中世からの古い血筋には、潜在的に魔を寄せつけない力があったという。
(だがな、ようやくあの方も自由になれる。オレさまがあの方の声を聞きつけて、お助けすることになったんだからな。ああ、オレさまにも運が向いてきたってことさ。霧男《フォグマン》さまとともに、昔の威厳を取り戻すんだ。このごろのガキは、オレさまがつねってやっても恐がりもしねえ。ボギービーストを何だと思ってやがんだ)
子供のころは妖精が見えやすいものだが、このごろはそうでもなくなってきている。妖精の存在感が薄くなってきているからか、恐ろしい妖精の話を聞くことも少ないせいか、つねられても、何が起こったかわからないのだろう。
(見てろよ、人間ども。霧男さまの復活だ。ロンドンの霧は、再び恐怖に彩《いろど》られるんだ。青騎士|伯爵《はくしゃく》の奴なんぞにじゃまはさせない。今度こそ霧男さまが、奴を葬《ほうむ》ってやるんだからな!)
「あ、青騎士伯爵?」
思わずリディアは声をあげた。
それはつまり、今現在、青騎士伯爵の名を受け継いでいるエドガーのことだ。
(そうだ、フェアリードクター、おまえが奴の手下だってことはわかってるんだからな!)
「伯爵があなたたちに何をしたっていうのよ」
(決まってんだろ、霧男さまを封じ込めたのは青騎士伯爵だ。水入り瑪瑙を壊せば霧男さまは外へ出られるが、長年封じられたままで力が弱っていらっしゃる。だがそれは、霧男さまを封じた青騎士伯爵の命を喰《く》らえばもとに戻る。外へ出てすぐ伯爵を喰えるよう、オレさまが条件を整えるのさ。奴を葬ってこそ、あの方は完全に復活できるんだ!)
「リディアさん、大丈夫ですか?」
くらくらとめまいがした。ドーリスに支えられる。
(青騎士伯爵、長いこと行方《ゆくえ》不明だった奴がようやく現れた。準備は整ったってわけさ!)
青騎士と呼ばれたのは、妖精国の領主としてイングランド王に忠誠を誓った人物だ。その子孫、アシェンバートの家名を持つ当主が、代々青騎士伯爵でもあるわけで、伯爵は領地の妖精国と人界を行き来し、不思議な力を持っていたと伝説的に語られている。
だとしたら、いつの時代の青騎士伯爵かは知らないが、霧にのみこんで人を連れ去ってしまう霧男をこらしめようと、神聖な水を秘めた瑪瑙を使い、封じ込めた人物がいたということだ。
そのときからずっと、霧男は復活と復讐《ふくしゅう》の機会をねらっていた。
長い間、修道院や古い貴族の家に保管されてきた瑪瑙の中で、じっとしているしかなかった霧男は、妖精の卵≠ェロザリーの手に渡ったときから、かすかな魔力を瑪瑙からにじませ、動き始めたのだ。
魔力の呼びかけにこたえ、数年後に現れたのがボギービースト。この妖精と手を組んで、霧男は、貴族社会と縁のあるロザリーを利用しながら、青騎士の名を継ぐ伯爵を捜していた。
三百年近く不在だった青騎士伯爵の継承者《けいしょうしゃ》として、エドガー・アシェンバートがロンドンに現れたのはひと月ほど前。すでに彼のことは、社交界に知れ渡っている。ロザリーがエドガーを知ったときから、ボギービーストと霧男は、彼を仇《かたき》として目をつけていたということか。
しかしそんな、何百年も前の恨《うら》みを晴らそうとされても、エドガーは本物の青騎士伯爵の血筋ではないのだ。むろん、霧男と対決する力があるはずもない。
だいたい、リディアにだってそんな力はない。
エドガーには何かしら自分の思惑《おもわく》があって、ドーリス嬢の失踪《しっそう》に首を突っ込み、ロザリーに接近しているのだろうが、ロザリーもいわば、瑪瑙の中の霧男とボギービーストにあやつられ、エドガーに接近しているのだ。
瑪瑙から霧男を出してしまったらおしまいだ。でもどうすれば……。
リディアは考えながら、ちらりとボギービーストを盗み見た。瑪瑙の中の霧男が、小鬼妖精なんかを仲間にしているということは、こいつがいなければどうにもできないからだ。
封じられているから、誰かの手を借りるしかなく、呼びかけに応じたのはこいつだけだったのだろう。
なら、ボギービーストに手出しをさせなければいい。
つかまえておけるようなものが、何かないだろうか。
そしてリディアは、足元に転がったガラス瓶《びん》に目をつけた。
スカートのすそで隠し、ふらついた振りをして座り込む。瓶をそっとつかみ取る。
ボギービーストの毛むくじゃらの身体《からだ》、そこから毛を一本でも抜き取って、瓶の中へ入れる。肉体のない妖精は、毛一本だって魂そのものだ。毛を取り返しに瓶の中へ入ったところで、ふたをして閉じこめてやるつもりだった。
たかが小瓶、永遠に閉じこめておけるわけではないが、しばらくは時間が稼《かせ》げるだろう。
(どうした、フェアリードクター? 霧男さまと聞いて恐れ入ったか)
「……そんな、恐ろしい妖精……、あたしはかかわりたくないわ……」
リディアはわざと、怯《おび》えて泣くふりをする。
(ま、フェアリードクターったっておまえみたいな小娘じゃ、相手にもならないわな)
威張《いば》りくさったボギービーストが、リディアに近づいてくる。薄気味悪いにやにや笑いを浮かべ顔を覗《のぞ》き込もうとする。
いまだ、とリディアはボギービーストにつかみかかった。
が、それはするりと身体を縮め、ネズミほどの大きさになってリディアの腕をすり抜ける。
あっと思ったときにはもう、リディアの髪の毛をつかんだボギービーストは、抜き取った髪をガラス瓶の中に放り込み、ふたをしてしまった。
急に気を失い、倒れたリディアに、ドーリスが駆け寄る。
「リディアさん、どうしたの? しっかりして」
けれど、ドーリスがいくら呼びかけても、身体をゆすっても、リディアは目覚めない。
ボギービーストを閉じこめるはずだったのに失敗した。
逆にリディアの魂を、妖精が瓶の中に閉じこめてしまったのだった。
伯爵《はくしゃく》邸へやって来たカールトンが、リディアが帰ってこないとエドガーに告げたとき、すでに彼はあちこち娘を捜し回った様子で、そのうえ乗り物を使うことを失念し、歩いてここまで来たらしかった。
家政婦の話では、昼すぎに早退してきたというリディアは、カールトンの書斎《しょさい》にこもっていたが、夕方になってまた出かけたのだという。
そのときリディアは、忘れ物を届けにいくと言って、外出というほどでもない軽装だったらしい。
「すみません、伯爵。もしかしたらまた用ができて、こちらにいるのではないかと思ったもので」
玄関先でリディアがいないことを確認すると、カールトンはすぐまた出ていこうとした。
「カールトンさん、どうか気を落ち着けてください。これから僕も、心当たりを訪ねてみますから」
引き止めながら、エドガーはそう言う。
執事《しつじ》に外套《がいとう》と帽子を用意させ、レイヴンを呼ぶ。
話を聞いたエドガーは、すぐさまロザリーのことを思い浮かべていた。
演奏会のあと、伯爵邸へ戻ってきたところ、ロザリーが落とし物をしたと騒ぎ出した。レイヴンが、拾ったものをリディアに渡したと言ったとたん、血相を変えて飛び出していったからだ。
彼女の落とし物について、レイヴンは、「イースターエッグのような石」だと言ったが、エドガーは妖精の卵《たまご》≠セと直感していた。
それはかつて、彼が持っていたものだった。
エドガーが育った家、広大なマナーハウスの一角にあった『|驚異の部屋《ワンダーチェンバー》』は、先祖代々の収集|癖《へき》によって、古今《ここん》東西の珍品であふれかえっていた。文字通り、訪れる人を驚かすための部屋。あやしいいわく付きのものも数知れず、正体不明のミイラや剥製《はくせい》の数々を愛《め》でる感覚は、悪趣味だが貴族の間ではめずらしいことではなかった。
妖精の卵≠ヘ、そこに飾られていたもののひとつだ。
薄い葉脈《ようみゃく》で包まれているかのようにも見える縞模様《しまもよう》、中に閉じこめられた水。石の中でその影が動くのが不思議で、子供心に惹《ひ》かれていた。
それが瑪瑙《めのう》だということも、妖精の卵≠ニいう異名《いみょう》を持っていることも、それにまつわるいわくも知らないまま、父のものである『驚異の部屋』から勝手に持ち出していた。いつでも、ポケットに入れていたのは覚えている。けれどいつなくしたのかは覚えていなかった。
ロザリーが、あの瑪瑙を持っているのを知るまでは。
彼女とはじめて会ったのは、とある貴婦人が主催するお茶会の席だ。妖精卵の占いに使うガラス玉を子供だましのおもちゃだと言って、ロザリーは女の子たちにあの瑪瑙を見せていた。
あのときエドガーの記憶の断片が、急にひとつに結びついた。
縛られたまま朦朧《もうろう》としていた冷たい部屋。不快な悪夢にさいなまれ、霧男《フォグマン》の気配《けはい》に怯《おび》えた夢うつつ。幻かと思っていたふたりの女の子。いつも持ち歩いていた水入り瑪瑙を、手放したことを思い出した。
そして彼は気がついた。ロザリーがあのときの少女なら、エドガーを苦しめた人物は、彼女の身近にいることになるのだ。
そこからエドガーは、自分の誘拐《ゆうかい》にかかわった人物として、彼女に近いグレアム卿《きょう》に目標をしぼり込み、調査を進めたのだった。
ロザリーがグレアムの悪事を知らないということは、すぐにわかった。ただのわがままで天真欄漫《てんしんらんまん》なお嬢《じょう》さまだ。
そうと知っていたから、リディアの言うボギービーストの存在も、エドガーにはあまり関心がなかった。グレアムとそれらが無関係なのは間違いないのだ。
だからリディアが帰ってこないことも、何かあったとしたらロザリーとの今朝《けさ》のケンカの延長であって、グレアムとは関係はないはずだ。
だが、ロザリーの身辺にはグレアムがいる。リディアがいるのを見つければ、状況は悪化する。
「あの、リディアはまた、危険なことに首を突っ込んでいるんでしょうか」
「大丈夫ですよ。思うに、ちょっとわがままな知人に引き止められているのではないかと」
できるだけ何気ない口調で、エドガーは言った。カールトンが、あまりにも不安そうに彼を見るからだ。
リディアとは似たところを探す方が難しい、痩《や》せぎみでくたびれた風体《ふうてい》の男性は、とぼけた印象に輪をかける丸|眼鏡《めがね》を押し上げ、その奥の瞳をまっすぐエドガーに向けた。
「伯爵、リディアはあなたを信用しています。フェアリードクターは、時には危険な仕事ですが、伯爵家のために働くことを選んだ娘を、守ってやってくれますか」
学者らしい鋭い観察眼は、とっくにエドガーがどういう人間か見抜いているのだろう。
今、リディアが事件に巻き込まれつつある可能性にも気づいている。
それでいて彼は、リディアが信用するなら何も言うまいとしているのだ。
とてもよく似た、お人好しの父娘だ。
「もちろんです。お嬢さんは僕の恩人なのですから、何があっても守りますよ」
その言葉に納得したように、カールトンは立ち去った。
恩人だと思っているのはうそではない。
けれどリディアは、カールトンが言うようにはエドガーを信用してはいない。当然だろう。うさんくさい犯罪者とは、それなりに距離を置くべきだと思っているはずだ。
そしてエドガーも、リディアに手の内すべてを見せることはできない。
じつのところ、彼女はレイヴンやかつての仲間たちとは違うから、距離感に戸惑っている。
どん底の体験を共有した仲間とは違うし、他人の不運な過去など、聞かされてもリディアは迷惑するだけだろう。
はたしてそれが、リディアに正確な事情を告げないまま利用する言いわけになるのかどうかわからないまま、結局エドガーは中途半端に彼女を利用しているのだった。
「ふうん、少しくらいは、あんたにもとがめる良心があるのかね」
難しい顔をしていただろう自分に向けられたような気がした、足元の鳴き声はニコだった。
「ニコ、どこへ行くんだ?」
「リディアを捜すんだよ。あんたになんかまかせておけるかよ」
さっと駆け出していったニコが、ドアの外で急に姿を消したように見えたのは、通りにたちこめた霧のせいだろうか。
レイヴンが差し出したステッキを受け取り、エドガーも外へ出る。
「エドガーさま、たった今情報屋のひとりから報《しら》せが届きました」
「悪い報せか?」
「このタイミングでいえばそうです」
「……リディアを公園でねらった男は、グレアムが雇っていたんだな?」
「はい。|犬使い《ドッグテイマー》≠ニ呼ばれていたあの男は、しばしばグレアムが利用していたようです。グレアムはほかにも、アシェンバート伯爵家のフェアリードクターをねらうようにと下町のごろつきに声をかけていました。以前にも、霊媒師《れいばいし》や透視者や予知夢《よちむ》を見る少女などをさらう手伝いをした男が、今回は断ったと話していたとか」
「ということは、グレアムは間違いなく、プリンスの手先だ」
少し考え、エドガーはまた問う。
「で、それは?」
彼が手にしていた、へこんだ缶詰が目についたのだ。
「フェアリードクターに届けてくれと、うるさく言うので」
「誰が?」
「これがです」
なんだかよくわからないが、レイヴンが不愉快《ふゆかい》そうでもなく、丁重《ていちょう》に上着のポケットにしまったので、まあいいかと思うことにする。
「ところでレイヴン、こうなったら計画を変更しなきゃならないな」
「……はい。自宅に戻ったなら心配はないと思っていたので意外でした。リディアさんも公園でのこと以来、ひとりででかけることはひかえていたようですし」
ひとりではなかったから、でかけたのだろう。ロザリーは、どういう手段を使ったのかわからないが、カールトン家の家政婦を通さずに、リディアを外に呼びだしたらしい。
ただ落とし物を受け取りに行ったなら、ふつうに訪問するはずだ。リディアに含むところがあったから、外へ呼びだしたと考えるのが妥当《だとう》だとすると、ロザリーは、エドガーが考えていたよりずっと、リディアを敵視していたのだろうか。
ドーリスのことは、すでにグレアムがあやしいといくらかの調査からつかんでいたエドガーは、ただ情報を得るのに都合がいいからと、ロザリーに接近したつもりでいたが、彼女の動きに注意を払っていなかったことを後悔していた。
「女性のことは、わかったつもりになってはいけないということを忘れていたよ」
「らしくありませんね」
まったく、とつぶやきながら、エドガーは馬車に乗り込んだ。
ウォルポール男爵邸《だんしゃく》の小間使いが、ひそかに頼まれたとロザリーの部屋へ持ってきた手紙は、エドガーからのものだった。
会いたいという言葉ひとつに、有頂天《うちょうてん》になった少女は、貴族たちが利用することで有名なホテルへとひとりで向かった。
ロンドンにタウンハウスを持たない地方貴族が、長期滞在するために使うことが多いが、そうでなくても、隠れ家のように借り切っている貴族も多い由緒《ゆいしょ》あるホテルだ。
ロザリーが案内された部屋も、落ち着いた家具に囲まれたゲストルームだった。
金髪の伯爵《はくしゃく》が、彼女を出迎える。彼の笑顔に、勝ち誇った気持ちになる。
「驚いたわ、急に会いたいだなんて」
「どうして? 僕がきみに夢中なのは気づいているんだろう?」
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳に切なげに見つめられれば、彼女は心ときめいた。
「でも、お別れしてから数時間しかたってないのに」
「数時間もたったんだよ。それに、もっとふたりきりで話をしたかった」
妖精の言ったとおりだ。言うとおりにすれば、思い通りの幸運が訪れた。
彼がささやく心地のいい言葉に身をゆだね、勧められるままにワインを口にし、ロザリーはすっかりいい気分になっていた。
リディアとかいうあの子、エドガーが危険だなんて、そんなはずないじゃないの。
少しくらい危険な男だって、魅力的な女の前じゃ忠実になるものよ。
「じつはね、きみに渡したいものがあったんだ」
「あら、何かしら?」
天鵞絨《びろうど》のケースを開けると、ルビーのネックレスが入っていた。
「まあ、これをわたしに? こんなに高価なもの、いいのかしら」
「気に入った?」
「ええ、もちろんよ」
「なら、リディアの居場所を教えてくれ」
聞き間違いかと思った。エドガーは相変わらず、恋した女性を眺めるように、やさしくロザリーを見つめていたからだ。
「……何ですって?」
「知っているんだろう? リディアがどこにいるのか。まだきみと一緒にいるかと思ったのに、男爵家の小間使いは、きみはずいぶん前に家に戻っていてずっとひとりだという。でもリディアは、きみと会ってから行方《ゆくえ》知れずだ」
急に頭に血がのぼった。侮辱《ぶじょく》されたとばかりに、ロザリーはネックレスを投げ返した。
「失礼ね、リディアさんのことなんか知らないわ! これも、お受け取りできませんから!」
「僕に返してもらってもね。それは、グレアム卿《きょう》からきみへのプレゼントだから」
「おじさまから……?」
わけがわからない。クスッと小さく笑ったエドガーは、ふと、ロザリーには見たこともない青年に思えた。
見たこともない、冷酷《れいこく》な微笑《ほほえ》みだ。
「このホテル、グレアム卿がオーナーだったって知ってた? でも彼には莫大な借金があってね、それもまた、贅沢《ぜいたく》やギャンブルで負けた負債《ふさい》なんだけど、ここも抵当《ていとう》に入っていた。で、僕は彼の債権者《さいけんしゃ》として、ついさっきここを差し押さえたから。この部屋も、グレアム卿が使っていたものだからまだ彼の荷物がそのままになってるけど、おもしろいね、自宅には置いておけないような、興味深いものがいっぱいあるよ」
たとえば、とエドガーは立ち上がり、書類の束を差し出す。混乱しきったロザリーが受け取れずにいると、そのまま床にばらまいた。
「彼は、ドーリス嬢《じょう》のものであるはずの財産を使い込んでいた。もちろん、きみの方も被害にあってるよ。しかしそろそろ穴埋めができなくなってきた。どうするか、と考えたわけだ。まず、ドーリス嬢が姿を消す。きみはふだんから彼女を思い通りにしたがっていたし、しばしば一方的な意地悪をしていたことも、知っている人は多い。そこでだ。きみの派手で見栄っ張りな、気に入った男がいればカモにされているとも気づかず貢《みつ》ぐ、という性格が重要になる。グレアム卿は何度か、きみの浪費を止めるべく、男を追い払ったりしているね。幸い、かどうか熱しやすいが醒《さ》めやすいらしく、貢いだ男のことをきみはすぐに忘れた。しかしそれを逆手にとって、彼はきみがドーリス嬢の財産に手をつけたように見せかけることにした。そしてきみもいなくならば、世間は、きみがドーリスを亡きものにし、隠しきれなくなって姿を消したと解釈する」
足元に散らばった書類のいくつかは、ロザリーが高価な買い物をしたかのように、彼女の筆跡に似せたサインが入っていた。ルビーのネックレスも、彼女の買い物と見せかけるためのものだろう。
「きみの危機についてここまで教えたんだ。僕の質問にも答えてほしいね」
漠然《ばくぜん》と、叔父《おじ》のたくらみを理解しながらも、ロザリーは目の前のエドガーに怯《おび》えた。
この人、いったい何者なの?
やさしくおだやかな美貌《びぼう》の伯爵、そんなふうに思っていたのに、整った顔立ちが今はぞくりとするほど冷たく見える。
あとずさり、逃げようとするが、彼はロザリーの腕を強くつかんだ。
[#挿絵(img/agate_159.jpg)入る]
「こ……声を出すわよ」
「好きなだけどうぞ。このフロアにはほかに客はいないし、支配人には話を通してある。女の子の悲鳴が聞こえても気にしないでくれってね」
リディアはどこ、と彼はさらに問いつめた。
「わたしに何かあったら……、あの子は誰にも見つけられないわよ……」
「そう」
言った彼は、ふと首を動かし別の誰かに呼びかけた。
「窓を開けてくれ」
ロザリーはそのときはじめて、褐色《かっしょく》の肌の召使いが部屋の隅にいたことに気がついた。
エドガーは、彼女を窓辺へ引きずっていく。
「や、やめて! 何をするのよ!」
「話す気がないなら、きみに何かあったとしても僕にとっては同じことだ」
何の躊躇《ちゅうちょ》もなく、彼はロザリーののどをつかむ。苦しむ彼女を窓から押し出そうとする。
「ワインで酔って、羽目をはずして転落、ってところかな」
殺される。本気でそう思ったロザリーは、我を忘れて泣きわめいた。たぶん、リディアにしたことをわめきながらしゃべったはずだ。
いつのまにか、床に座り込んでいた。すすり泣きながらも、身体《からだ》の震《ふる》えはとまらなかった。
それなのに、強い眠気を感じていたのは、ワインに何か入れられていたのだろうか。
「まるで世間知らずのお嬢さん。きみのために世界がまわっていると信じられるのは、無知だからだって学んだ方がいいよ」
さっと外套《がいとう》を羽織《はお》った彼は、召使いと部屋を出ていこうとする。
「そうそう、ワインもここにあったものだからね。何が入ってたのか知らないけど」
いやだ、怖い。このままここで倒れていたら、おじさまが来て……。
けれどロザリーを置き去りにして、金髪の悪魔は立ち去った。
昔、こんなふうに無慈悲《むじひ》にも、彼女が置き去りにした少年の金髪が、なぜだかふと思い浮かんだ。
[#改ページ]
ガラス越しの想い
転がされた瓶《びん》の中で、リディアは悲鳴をあげた。壁にぶつかって瓶が止まり、したたかに背中を打つ。
「痛《い》った……、もう、何するのよ! このチビ! ハゲ! でべそ!」
ガラス瓶をもてあそぶボギービーストを罵倒《ばとう》するが、それは何を言われても、腹を抱えて笑うだけだ。
もっともリディアも、本当に痛いわけではない。魂だけ瓶詰めにされた彼女は、自分の身体《からだ》が小さくなって瓶の中に入れられてしまったような感覚だが、あくまでそれは、リディアのイメージに過ぎないのだ。
瓶と一緒に転がる感覚も、頭をぶつけたと感じるのも、イメージだ。
そうわかっていても、痛い気がする。
しゅっと身体を縮めたボギービーストは、リディアと同じくらいの大きさになって、瓶の外で小躍《こおど》りした。
(バカなフェアリードクターだ。オレさまをつかまえようなんてするから、こんな目に合うんだぞ!)
わかっていたはずだった。妖精をつかまえようとすれば、彼らの世界に踏み込むことになる。そのときはリディア自身も、彼らの法則に支配される。
ボギービーストと同じように、髪の毛一本で封じ込められる危険に身をさらしてしまったのだ。
(さあて、どうしようかな。このままおまえを河へ捨ててやろうか?)
さすがに怖くなった。そうなれば、どことも知れない大海を、永遠に漂うことになるかもしれない。
そのとき、ボギービーストがギャッと叫び声を上げた。
リディアの目の前で、ふさふさした毛のかたまりに押しつぶされたのだ。
ガラス瓶の壁に張りついて見あげれば、巨大な灰色の猫が足元にボギービーストを踏みつけながらにんまり笑った。
「ニコ!」
「何やってんだよ、リディア。こんな奴の術に引っかかったのか?」
ニコは何度もボギービーストを踏みつけ、蹴り飛ばすと、それは壁にぶち当たってぱっと消えた。いわば気を失ったようなもので、時間が経てば再生するだろうが、しばらくはもとに戻らないはずだ。
ともかくいやな奴の姿が消えて、リディアはほっとした。
「助けに来てやったぞ」
「もしかしてニコ、さっきから窓のところで、あたしがいじめられてるの見てたでしょ」
垂れ下がったしっぽに、リディアは気づいていた。なのにいつまでたっても何もしてくれないニコに、業《ごう》を煮やしていたところだ。
ニコは、意味もなくヒゲを撫《な》で、ネクタイを直した。言いわけを考えているのだ。
「いちおう、チャンスをうかがってたんだよ」
ボギービーストが小さくなったから、ようやく追い払えると判断したわけだ。
「まあいいわ。……ありがと」
それでもまあ、見つけてくれたことにリディアは感謝している。
「ここがよくわかったわね」
「カールトン家の|家付き妖精《ホブゴブリン》が、ビスケットのお礼にあんたのこと見守ってたんだよ。家にボギービーストが現れたから、気になってついていったらしい」
「そう、母さまのビスケットはさすがに妖精好みなのね」
「で、あんたの身体はどうしたんだよ。どこにあるんだ?」
「それが、どこかわからないところへ運ばれちゃったの」
リディアが瓶詰めにされて間もなくのこと、倉庫へ男が数人入ってきたのだった。
その中のひとりはグレアム卿《きょう》で、ドーリスを連れ出しに来たらしかった。
必死にリディアを起こそうとしていたドーリスを見つけ、いるはずのない少女の存在に、彼らは少々面食らった様子だったが、ほかに誰もいないことを確認すると、ドーリスを縛りあげて運んでいった。
すぐ外の河岸から小舟に乗せたらしく、水音と船のきしむような音が聞こえていた。
リディアは瓶の中で、意識のない自分を覗《のぞ》き込むグレアムの様子をうかがっていた。
『死体ですか?』
部下のひとりが問う。失礼ね、とリディアは思う。
『いや、眠っているだけのようだ。しかしこの娘、アシェンバート伯爵《はくしゃく》と一緒にいたフェアリードクターじゃないか』
『フェアリードクターって何ですか?』
『よく知らないが、霊媒師《れいばいし》や占い師みたいなものだろう。不思議な力があるらしいが』
違うわよ、と言いたい気持ちをこらえ、リディアは彼らの様子を見守っていた。
『そういえば、サー、先日|犬使い《ドッグテイマー》≠チて奴に依頼したんじゃなかったですか? フェアリードクターって娘をさらってくるようにって』
えっ?「犬使い」ってまさかあのときの、霧の公園に現れた……。
『ああ、しかし奴は殺された。伯爵家には腕の立つ者がいるらしいとわかって、これまで誘拐《ゆうかい》を引き受けていたごろつきどもが及び腰になってしまったからな、新たな請負人《うけおいにん》を探していたところだった』
『ありふれた娘に見えますが、本当に高く売れるんですか?』
『あの男は、不思議な力のある人間なら、どんなに高値でも買う。伯爵家顧問という肩書きまでついている娘だぞ、何らかの能力があるのはたしかだろう。まとまった金を得るには格好の獲物だ』
どうやら、誰かに売りとばそうというつもりらしかった。
どうしよう、とあせりながらも、瓶の中のリディアには、どうすることもできなかった。
『あの男が命じるとおりに、盗品や密輸品を運んでいるだけでは、リスクが大きいだけで大した金にならない。下賤《げせん》の子供も高値はつかない。これまで売った異能力者は、たいした力もなくお気に召さなかった様子だし、ここらで機嫌をとっておきたい』
『では、これがその娘だとすると、このうえなく好都合ですな』
『ロザリーが嫉妬《しっと》して、この娘を閉じこめたのだとドーリスが言っていたな。なら、ロザリーさえ黙らせれば、誰もこの娘の行方《ゆくえ》を知らないということか』
ああもう、やめてよ、さわらないでよ!
そう思いながらもリディアは、自分の身体が運び出されるのを眺めているしかなかった。
「なるほどね」
話を聞き終えたニコは、腕を組んでつぶやいた。
「で、グレアムって奴があんたを売りつけようとしている、あの男って誰だ?」
「知らないわよ」
言いながら、リディアはふといやな予感を覚えた。
八年前、ここから売られたエドガー。つまりグレアムは、エドガーを奴隷《どれい》にしていた人物とつながっている。たぶんグレアムは、エドガーのほかにも同じ人物に白人奴隷を都合しているのだ。
もしかしたらリディアも、「プリンス」とやらに売られてしまうのだろうか。
「どうしよう、ニコ……」
「シッ」
リディアの入った瓶を手に、ニコが物陰に隠れる。表の扉が開く音がしたからだった。
濃い霧とともに、人の気配《けはい》が流れ込んでくる。靴音が倉庫の中に響く。
ランタンの明かりで注意深く周囲を照らしながら、人影は奥へと入ってきた。
「誰もいないようです」
「遅かったかな」
エドガーの声だった。レイヴンと一緒だ。
捜しに来てくれたのだろうか。
けれどこんな姿では、目の前に出ていくわけにもいかない。
リディアはニコと、物陰から覗き見た。
「グレアム卿が来たんでしょうか」
「レイヴン、ハンカチが落ちている」
それをレイヴンが拾い上げた。
「D・Wと刺繍《ししゅう》がありますね」
「ドーリス・ウォルポール?……ここはグレアムの倉庫だというし、ドーリス嬢も閉じこめられていたってことか?」
ちょっとまって、とリディアは考える。彼らは、何の疑問もなくグレアムの名前を出した。ドーリスが叔父《おじ》に監禁《かんきん》されたと気づいていたのだろうか。
いったいいつから? そして知っていたのなら、どうして妖精話を取りあげてまでリディアを巻き込んだのか。
「では、リディアさんも男爵《だんしゃく》令嬢《れいじょう》と一緒に?」
「その可能性はあるな」
考え込んだらしいエドガーが、暗がりでも目立つ金髪をかきあげる。外套《がいとう》に身を包んだ、すらりとした体躯《たいく》を薄汚れた柱にもたせかけ、深刻そうにつぶやいた。
「プリンスの手に渡ったらどうにもできない。船が出る前に、ロンドンの港で取り戻さないと」
プリシスの?
グレアムが言っていた「あの男」とは、やはり「プリンス」という人なのか。エドガーが、そこまで知っていたということは……。
リディアはさすがに、いやな予感がしていた。
「リディアをおとりになんかするんじゃなかった」
おとり?
「しかしエドガーさま、この場合は不可抗力《ふかこうりょく》です。グレアムがリディアさんに特殊な能力があるとは知らなくても、ここでドーリス嬢と一緒にいれば、当然連れ去られたでしょう」
「そうだけれど、知られているということは、奴はリディアを厳重に監禁するだろうし、確実にプリンスに売りつけるということだ」
「おとりってどういうことよ! ちょっとエドガー、あたしをグレアム卿にさらわせるつもりだったってこと?」
思わずリディアは叫んでいた。
「……リディア?」
「まさか、人が隠れられるような場所は……」
レイヴンの言うように、人が入り込めるとは思えない隙間《すきま》をあえて覗き込んだエドガーは、ガラス瓶《びん》を抱きかかえた灰色の猫を見つけただろう。
「ニコ? 今の声はきみ……じゃないよな」
「どうすんだよ、リディア」
ぼやきながらニコは、隙間から出ていく。
「しかたがないから説明するわ。あたしの声が聞こえるみたいだし」
信じてくれるのかね、となげやりながら、二本足でエドガーの前に立ったニコは、ずいと瓶を頭上にかかげた。
「でもまず、エドガー、あなたの方からしっかり説明してもらうわよ。おとりの意味をね!」
リディアの声がする瓶を見おろし、彼は眉根《まゆね》を寄せ、まばたきをくり返した。
「レイヴン、何か見えるか?」
と、レイヴンの方に振り返る。
「はい」
「見えるのになぜ驚かない?」
「奇妙なものが見えることは、たまにありますから」
「ちょっと、あたしは奇妙なものじゃないわよ」
「よろしければエドガーさま、その中にあるものについてご説明しますが」
「なら教えてくれ。僕には小さなリディアに見えるが?」
「だいたい間違っていないと思います」
「だいたいって何よ! ふたりでコントはやめて!」
「リディア、いったいどうしてそんな姿になってしまったんだ?」
瓶を手に取ったエドガーは、興味|津々《しんしん》といった様子で、コルクのふたを取ろうとした。
「ああっ、だめよ! ふたを開けたらあたし死んでしまうわ!」
「えっ? どうして?」
「だってここには、あたしの身体《からだ》がないんだもの。グレアム卿が持っていったの。身体がないところで魂を離したら、魂は行き場がなくて消え失せちゃうのよ」
あわてて彼は、ふたから手を離す。
「ということは、きみの身体を取り戻して、この瓶の中にあるきみの魂を身体に戻さなければならないわけだ」
リディアは頷《うなず》く。
「エドガーさま、でしたら何よりも先に、手を打てることはしておいた方が」
「そうだな。レイヴン、ホテルへ戻ってグレアムを見張れ。じきに債権《さいけん》処理のことが奴の耳に入る。あの部屋にいるロザリーを見つければ、ドーリスとリディアのいる船に乗せようとするだろう。奴の人買い船がどれか、特定する」
「はい」
「ロザリー……、彼女はどうしたの? ねえ、まさか彼女に何かしたの?」
しかしエドガーは、リディアの声は無視して続ける。
「それからあらゆる手を使って、奴所有の船すべて、出航できないよう圧力をかけろ」
伯爵《はくしゃく》家の応接間の、ランプがともるテーブルの上で、リディアはむっつりと黙っていた。
「怒ってるかい?」
美しい黒檀《こくたん》の椅子《いす》に座ったエドガーが、困惑気味にこちらを見ていたが、リディアはひざをかかえて座り込み、そっぽを向いていた。
本当のことを聞かされれば、これが怒らずにいられるだろうか。
最初から、自分をプリンスに引き渡した男への復讐《ふくしゅう》のために、エドガーはリディアを利用していたのだ。
ドーリス嬢《じょう》が消えた原因がグレアムだということも、リディアがねらわれている可能性もわかっていて、あえてリディアをグレアムの目につくように仕向けた。
グレアムが盗品や人身《じんしん》の売買に手を出していることはわかっていたというが、プリンスと取り引きをしている人物なら、フェアリードクターという特殊な才能が、高値で売れると考えるはずだからだそうだ。
クリモーン庭園《ガーデンズ》でグレアムに会ったのも計算のうちだ。
そしてロザリーの好意も、復讐のために役に立つから利用した。
エドガーがあの倉庫へやって来たのは、ロザリーからリディアの居場所を聞き出したからだという。しかしロザリーは、素直に話したわけではなさそうだし、そのへんをエドガーははぐらかしている。
あくまで言葉の断片から、彼は、グレアムがロザリーも売りとばしてしまうだろうと知っていて、彼女を危険な場所に放り出してきたと想像できただけだが、それだってあんまりではないか。
あんなに親しく接しておいて、利用していただけだなんて。人を何だと思っているのだろう。本当に最低。
うそじゃないとか、何も隠していないとか言いながら、人をだます。あまい言葉でいい気分にさせるのも、そうやってだますためだ。
だまされたのはこれがはじめてではないというのに、だからこそ余計にリディアは、少しでも信じようとしてしまうお人好しの自分が情けなかった。
「危険な目にあわせるつもりはなかった。連中には、きみに指一本触れさせないつもりで」
「言いわけは聞きたくないわ」
強く言うと、彼は黙る。
リディアは空腹を感じ、ますます気分が滅入《めい》っていた。
眠り続けている彼女の身体は、夕食抜きなのだから当然だろう。
「寒い?」
気づけばリディアは、身体をかかえ込むようにして肩をさすっていた。
「たぶん……。せめてショールを羽織《はお》っていくんだったわ」
「暖炉《だんろ》のそばへ行くかい?」
「無駄《むだ》だと思う」
「そう、だね」
少し考え、エドガーは、リディアの瓶《びん》を両手でそっと持ちあげた。
「人の魂って、みんな自分を小さくしたみたいなのかな」
「さあ。でもこれは、あたしが自分をこんなふうにしかイメージできないからだと思うわ。どうせなら、もっと美人になっちゃえばよかった」
「じゅうぶんきれいだよ、リディアは」
「おだてたって、あたしは怒ってるんだから。……ちょっと、何するのよ」
そのまま彼は、リディアを瓶ごと腕に抱きかかえた。
「こうした方が暖かいかなと思って」
「無意味だって言ったでしょ。あたしの身体は、きっと冷たくて暗いところに転がされてるんだから」
そう言いながらリディアは、エドガーにはそんな恐ろしい記憶があるのだと気がついた。
少なくとも彼女は、孤独や不安や絶望を、今は感じなくてすんでいるけれど、たったひとり動けないまま、まっ暗な倉庫やどこか知らない場所に閉じこめられていたらと、思い浮かべるだけでも恐ろしい。
ロザリーに閉じ込められていた、わずかな間だけでも、どうにか落ち着こうと必死だったけれど、今にも叫び出したいくらい不安でたまらなかったのだ。
「少しの辛抱だよ。きっとすぐに助け出すから」
彼の表情を見ることはできなかったが、声は真剣に聞こえた。感情を抑え込んで、強く誓うように発せられた言葉は、復讐の決意に似ていたかもしれない。
ガラスを撫《な》でる繊細《せんさい》な指を眺めていれば、リディアは自分自身に触れられているような気がしていた。
エドガーには憤《いきどお》りを感じているはずなのに、子供みたいに頭を撫でられて安心している自分を想像している。
リディアを助けようとしてくれているのは、間違いないのだと思う。
敵には容赦《ようしゃ》なく、他人は言葉巧みに利用する。けれど信頼する仲間は、身を削っても守ろうとする人だ。
ただリディアは、ひどく中途半端な位置にいる。
利用されるくらいには他人で、守ろうとしてくれるくらいには仲間。
それもしかたがないと思う。彼にとって身内も同然の仲間は、苦難を分かち合った人たちで、正義もきれい事もない状況を体験した人たちだ。
今はもう、レイヴンしかいない。
思い至れば、自分がおとりにされたことよりも、エドガーの心境にリディアは胸を痛めた。
「ねえ、復讐って、グレアム卿《きさつ》をどうするの?」
どうしようかな、とはぐらかすのは、リディアには刺激が強すぎるようなことを考えているのだ。
「復讐という方法しかないの? 死んでしまった友達にしてあげられることは、それしかないと思ってる?」
「ほかに、何ができるっていうんだ?」
「あなたあたしに、霧に紛れて消えてしまった少年を助けてやってくれって言ったわ」
「あれは……、感傷的すぎたね。いくらフェアリードクターでも、死者を救い出すことなんてできないだろう?」
[#挿絵(img/agate_177.jpg)入る]
「そうね。でもあなたは生きてる。あれは、ひとりの少年の話じゃないんでしょう? 何人も、同じ境遇の少年がいたって、レイヴンに聞いたわ。あなたのことも含まれてたんでしょう?」
「どうだろうね」
なげやりな口調に、かすかな苛立《いらだ》ちも混じっていた。自分だけが生きていることを嫌悪《けんお》しているかのようだった。
「本当に助けが必要なのは、あなたじゃないの?」
彼は答えなかった。
「あなた自身がまだ、霧の中にいるのよ。だから、仲間たちが犠牲《ぎせい》になったことを受け入れきれないでいる……。だけど、グレアム卿に復讐したって、あなたが救われるとは思えないわ」
エドガーのかすかなため息を、リディアは感じていた。それがどういう種類のものかはわからなかったけれど。
「小さいままのきみも、悪くないな。いつでもそばに置いておける」
「えっ、あたしはいやよ! おなかはすくし寒いし、身体《からだ》が病気になったらどうするのよ!」
エドガーだったら、このままリディアをペットのようにしてしまうことだってやりかねない。リディアは真剣に抗議した。
「冗談だよ。本当は、冷たいガラス瓶なんかじゃなくて、生身のきみを抱きしめたい気分なんだ。きみに触れて、あたたかさを確かめたい。でもそんなことをしたら、生身のきみは、僕をひっぱたいて逃げ出すんだろうと思っただけ」
そりゃそうよ。
けれど少しだけリディアは、今だけは瓶の中にいる小さな自分でよかったかもしれないと感じていた。
でなければ、おとりにされた憤りをかかえたまま、エドガーのそばになんかいられなかっただろう。
彼がかかえている絶望や悲しみに、こんなふうに触れる機会はなかっただろう。
ガラス瓶ごと抱きかかえられながら、さっきからリディアは、エドガーが泣いているかのようだと感じている。
静かに心の中で、死んだ仲間たちのために復讐しかできない自分を嘆《なげ》いている。
傲慢《ごうまん》で自信家で、弱みなんか死んでも見せないタイプだと思う。悲しそうでも落ちこんで見えても、それすら計算ずくでリディアを振り回す人だ。
今だって、本心なんかわかりはしない。それでも、泣きたがっているのかもしれない彼のそばに、こうして言葉を交わせる距離にいられてよかったような気がしている。
レイヴンの言ったことが引っかかっているからだろうか。
エドガーは誰にも寄りかかれず、ひとりで立っているしかない人だと。だから彼が、戦うために閉じこめるしかなかった弱音や悲しみを、無関係なリディアだからこそ覗《のぞ》き見せることがあるかもしれないけれど、彼の弱いところを嫌わないでくれと、たぶんそう言いたかったのだ。
おとりにされて、危険な目にあっているのに、嫌いになれないなんてお人好しが過ぎるかもしれない。けれど。
ボギービーストの奴に瓶詰《びんづ》めにされた、フェアリードクターとしては間抜けな失敗をしたリディアでも、エドガーが必要に思ってくれて、こうしてそばにいることで少しでも救いになれるのなら、今は素直によかったと思うのだ。
ガラス越しに、彼のシャツに頬《ほお》を寄せる。生身だったら絶対にできないこと。
不思議と、彼のぬくもりが伝わってくるような気がしていた。
魂だけになっても眠ってしまうものなのか。
気がつけば、瓶の中まで朝日が射し込んでいた。
どういうわけかリディアは、クッションやシーツに瓶ごとくるまっているような状態だった。無意味だとわかってるのに、無駄《むだ》なことに神経を注ぐものだ。
バカバカしいけれどもほのぼのした気持ちにさせられながら、瓶の底で横になっていたリディアは起きあがろうとし、様子がおかしいのに気がついた。
身体が重くて動かないのだ。
もちろん本当の身体ではないが、鉛《なまり》になったかのようで、半身を起こすのさえやっとだ。ガラスの壁面にもたれかかり、リディアは頭痛とめまいをこらえた。
不意に自分がかき消えてしまいそうな不安を覚える。人にとって魂だけという状態はとても不安定なものだから、この身に何か起こっているのだろうか。
部屋の中を見まわすが、リディアの視界の範囲には誰もいない。
「エドガー、……どこにいるの?」
「おいおい、どうした? えらくあいつに頼ってるな」
灰色の猫が、ぬっと目の前に顔を出した。
「ニコ」
ゆうべはニコは、自宅へ戻っていた。リディアは知人の家でパーティに巻き込まれ酔いつぶれて泊めてもらうことになったとかうまくごまかしながら父に説明するためだった。父に心配をかけたくなかったし、こんな姿を見せるわけにもいかない。
「いくらあの伯爵《はくしゃく》さまでも、身体がここにないあんたに手出しはできないはずだけどな」
「変なこと言わないで。……ちょっと気分が悪くて、どうしようって思っただけ……」
「気分が? リディア、それはまずいぞ」
ニコは深刻そうに前足を組んだ。
「何がまずいって?」
部屋へ入ってきたのはエドガーだ。瓶の底でぐったりしているリディアに気づき、心配そうに覗き込んだ。
「どうしたんだ、リディア」
わからない彼女の代わりに、ニコが答えた。
「人間ってのは、魂だけで生きていけないからな。長いこと身体を離れてたら、妖精の魔力で瓶に閉じこめられたとはいえ、少しずつ生気を失ってくんだ」
「なんだって? なら急がなきゃならない」
あわてているからか、エドガーはニコと話をしているという自覚がないようだった。
「で、グレアムの奴がリディアをどこに監禁《かんきん》してるかわかったのかよ?」
「リディアが乗せられたところを見たわけじゃないが、船の目処《めど》はついている。ただ面倒なことに、奴の船会社はウォルポール男爵《だんしゃく》家が半分出資しているものだから、差し押さえるわけにもいかず……」
「あー、悪いが人間社会の仕組みを学んでる時間はないんだ。かいつまんで言ってくれ」
「つまり、勝手に船を止めるのも、中を調べるのも難しい」
「はあ? あんたもと強盗だろ。武器持って襲いかかって強奪《ごうだつ》しろよ」
「きみは誤解しているようだが、僕はそんな下品なやり方をしたことはない」
「ドロボーに下品も上品もあるか!」
「あの……、警察にグレアム卿《きょう》の悪事を話したら……」
リディアは提案してみたが、時間がかかりすぎる、とエドガーは言った。
自分がどのくらいもつのかわからないが、一日も待てない気がしている。グレアム卿のように地位のある人物が相手だとなると、証拠《しょうこ》も確実なものを集めなければならないし、警察なんてすぐには動いてくれないだろう。
「なら伯爵、時間のかからない方法を考えてくれよ」
エドガーが考え込んだ時間は、ごくわずかだった。
「わかった、奥の手を使おう」
「そんな手があるならもったいぶるなっての」
「使えるかどうか、考えながらやるしかないけどね」
執事《しつじ》を呼んだ彼は、外出を伝える。何か走り書きしたメモを手渡す。
「それからトムキンス、ここへ来るようにとレイヴンに使いをやってくれ」
フロックコートの内側に、エドガーがピストルをしのばせるのを眺めながら、リディアは苦しい息をついた。
自分が感じている息苦しさと、そのためにエドガーに無謀《むぼう》な判断をせまっていることへの息苦しさだ。
こんなふうに彼は、いつでも決断しなければならなかったのか。
もしかしたら人の命を左右する決断をひとりで下し、最善の方向へと導かなければならなかったのかもしれない。
「リディア、しっかりしろ。必ず助けるから」
ガラス瓶を手にし急ぐ彼の横顔は、戦場に赴《おもむ》く騎士さながら、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳に火の色が勝《まさ》る。
この言葉通り、最善の結末がおとずれるとは限らない。現実には彼は、多数の仲間を失っている。
きっと幾度《いくど》も、言葉通りにはいかなかったことだろう。それでも自分がそうやって、先頭に立たねばならないという覚悟が、彼にそう言わせるのだ。
うそになるかもしれない約束を、自信たっぷりに言ってのけるだけの覚悟を持っている。
きれいな瞳の色、そしてきれいな人。
女の子がまいってしまうような、そういう種類の魅力とはちがう、うわべのそつなさや口のうまさともちがう、心の芯《しん》から惹《ひ》きつけられるような力を、ほんの一瞬だけれど彼の中に見たような気がしている。
根っからの貴族。無慈悲《むじひ》な悪党。軽薄《けいはく》な女たらし。カリスマ的な指導者《リーダー》。
あなた、本当は何者なの?
どれが本当のエドガー?
本当のあなたなんて、少しも知らない。そんなあたしのために、どうして必死になるの?
「ねえ……、うまくいく可能性はあるの?」
馬車の中で、リディアは息苦しさをこらえながら訊《き》いた。
「もちろん」
エドガーは即答した。
「……うそよ」
「心配しなくても、僕にまかせて」
それもうそ。確信なんかあるはずもないのに、ついてくる者が不安になるようなことは言わない。
「そんなこと言ったって、失敗することもあるでしょ?」
「リディア、弱気になってるね」
「あたし……、まかせて安心できるほど、あなたを信用してないわ。もしも助かったって、手放しに感謝なんかしないわよ。……だってこうなった責任は、あなたにもあるんだから」
「そう言われて、きみを見殺しにするほど、僕は悪党だと思われているわけ?」
「……知らない、あなたのこと、ちっともわからない。……あたしは仲間じゃないんだから、いざとなったら見捨てることも考えてるでしょ? 見捨ててもいいのよ。あたしがいちばんいやなのは……、失敗して、あなたが後悔したり苦しんだりするのは、たまらなく不本意だってことなの。あたしのこと利用したあなたなんかに、中途半端に同情されたくない。あなたの傷になんかなりたくない。そういう重荷はごめんだってことなの」
しばし困ったように、首を傾げていたエドガーは、やがておかしそうに少し笑った。
「ありがとう、リディア。少し気が楽になったよ」
「……違うわよ、本当にあたし、あなたが嫌いだって言ってるの……!」
それはうそ。
何もかも、ひとりで背負おうとしないで。
本当に言いたかったことを、うまく言えなかったことを、エドガーはわかってくれたようだった。
「でもね、きみを手放すわけにはいかない。僕たちはふたりそろってこそ、幸運の妖精が味方してくれるような気がしないか?」
そうかしら。あたしはあなたのおかげで、ついてないことばかりよ。
それでも、ほとんど理解されないフェアリードクターという役目を、理解してくれる人が現れたことは幸運なのだろうか。
「だからリディア、きみも僕を見捨てたりしないでくれ。あきらめないで、ふたりで戦おう」
変な人。あたしがどんなに、あなたのやり方に失望してるかわかってないのね。
けれどリディアは、おとりにされたこと自体、腹が立ちはしたけれど、傷つけられたように感じてはいないのだ。
やがて馬車は、グレアム卿《きょう》の事務所がある通りにさしかかっていた。
少し手前で馬車を止めたエドガーは、レイヴンが到着するのを待って、馬車の外でなにやら話をしていたが、再び戻ってくると、リディアの瓶《びん》を手に馬車を降りた。
ニコも後からついてくる。
事務所へと入っていき、責任者に会いたいと告げたエドガーの前に、社長だという男が現れた。
「きみでは話にならない。グレアム卿を呼んでくれ」
「ここは私が任されております。ともかくお話をうかがいますが」
「僕が若造《わかぞう》だと思って、バカにしてる?」
いかにも面倒な貴族といった態度で、エドガーは太った中年の男を見くだしつつ威圧《いあつ》する。
「いえ、とんでもない。ただオーナーはこちらに来られることは滅多《めった》にありません。すみませんが、サー……」
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》が来たと言えばいい」
「失礼しました、ロード」
「すぐに来ないと、後悔することになると思うけどね」
「……と、もうしますと?」
「きみたちが何を運んでいるのか、知っているってことだ」
その男はあわてた様子で、エドガーを別室へ連れていった。
グレアム卿がまもなくやってきたところをみると、こちらにいないというのはうそだったのだろう。
グレアムが借金をしていた、銀行やカジノから集めた債権《さいけん》は、すっかりエドガーが買い取った。返済の滞《とどこ》っていたそれらを、一気に回収にかかったエドガーのせいで、グレアムは自分の財産をことごとく取り上げられようとしている。
とはいえエドガーはいくつも偽名を持っているために、グレアムは、誰が何のために自分を追いつめようとしているのか、すぐには把握できないでいるだろう。
それでも当然グレアムは、取り上げられるのを少しでも防ごうとしているはずで、この船会社を隠れ蓑《みの》にしようとしているだろうことをエドガーは見越して、彼がここにいるはずだと訪ねたようだ。
「これは伯爵、私にご用とはいったいどういうことなんでしょうか」
応接室に現れたグレアムは、平静を装っていたが、疲れ切った様子ははっきりと見て取れた。
「いろいろ言いたいことはあるのですが、なにぶん急いでいますので、失礼を承知で申し上げる。僕のフェアリードクターを返してもらいたい」
えらく直接的なやり方だ。大丈夫なのだろうかと心配になりながらリディアは会話に注意を向けようとしていたが、けだるさは増すばかりだ。状況を把握するのがやっとで、意見するような余裕もなかったが、どのみちもうエドガーにまかせるつもりだった。
「何のことやらわかりませんね。何を運んでいるとか、言いがかりをつけにいらっしゃったのは、姪《めい》が何か失礼なことでもしましたか?」
「これはビジネスの話ですよ。興味がありませんか?」
エドガーは横柄《おうへい》に、足を組んで座ったままだ。グレアムが座ろうとしないのは、あきらかにさっさと追い返したがっているとわかったが、かまわず彼は続けた。
「あなたから買い取ろうと言っているんです」
「何をです?」
「もちろん、僕のフェアリードクターを」
「ですから、何のことだか。そもそも伯爵、あなたの家の顧問フェアリードクターだという少女の話なら、売買するなどという話自体おかしいでしょう。私が売りつけるとしたら犯罪です」
「申し上げたように、僕は急いでいる。何よりもこれが、あなたと取り引きをする理由です。話がおかしいとか犯罪だとか、この際どうでもいい。誰かが僕の宝石を盗み、それを売って利益を得ようとしているとしても、僕は宝石を取り戻すために相応の代金を払うつもりです」
「おもしろいことをおっしゃいますね。しかし残念ながら、私には宝石の心当たりがいまひとつ……」
おそらく早急に、まとまった金が必要になっているのだろうグレアムは、まだ慎重《しんちょう》ながらもエドガーの話をはねつけるのはやめたようだった。曖昧《あいまい》な言い方をする。
「ということは、あなたの手元にはないわけですね。ですがグレアム卿、宝石商にお知り合いは多いはず。仲介をお願いできればありがたい」
「まあ、……そうですね」
もったいぶりながら、考える素振りを見せはじめた。
「貴重で希少な品々を、親しい方々のために都合することはまああります。ですが簡単な仕事ではない、危ない橋を渡らねばならないことも多く、運よく目当てのものが見つかったとしても法外な値が付きます」
「なるほど」
エドガーは淡々《たんたん》と先を促《うなが》す。
「まずひとつに、法を犯す連中と取り引きするわけですから、秘密を厳守することが条件です」
自分で法を犯してるくせに。
「わかっていますよ。どうせ権力者と癒着《ゆちゃく》している。訴え出たところでこちらにとっていいことは何もないと承知しているからこそ、取り引きをお願いしているんです」
「ではもうひとつ。失礼ながら伯爵、あなたにお支払いいただけますでしょうか」
人をさらっておいて、そのうえ大金をふっかけようなんて。リディアは苦しいのも忘れるくらい腹が立ったが、あいにく、抗議の声をあげる力はなかった。
「そちらの希望は?」
グレアムが言ったのは、とんでもない金額だった。少なくともリディアの感覚では、何を買えばそれだけの大金を生きているうちに使い切ることができるのか、想像もできなかった。
「今すぐリディアのいる場所へ案内してくれるのなら払いましょう」
え? エドガー……、いくらなんでも、そんな大金と引きかえにだなんて。あたし、一生かかっても返せない……。
「それは……難しいですね。ここでお待ちいただくしかないでしょう」
「一刻も惜しいのです。ここで僕が待っていて、もしも手遅れとなった場合、一セントもお支払いできませんよ」
「手遅れ?」
「リディアは病気なんです。眠り続けているはずで、ほうっておけば手遅れになります」
「……なるほど、それでお急ぎと。となると問題ですね。ご案内して、手遅れだった場合は?」
リディアの動揺とはうらはらに、商談は、奇妙なほど淡々と進められていく。
「その場合は、あなた方の責任ではない。お支払いします」
エドガーがそう言うのは、一刻も早くリディアの身体《からだ》に瓶《びん》の中の魂を戻さなければならないからだ。
しかしグレアムにとって、さらってきた少女を隠した場所へ、エドガーを案内するというのは、保身《ほしん》のためにはなるべくやりたくないはずだ。それでも、確実に商談を成立させるためにはそうするしかない。
ともかくグレアムは、のどから手が出るほどほしい大金と、リスクとを天秤《てんびん》に掛け、結局、大金を取ったようだった。
エドガーが書類にサインする羽根ペンの音を聞きながら、リディアは悲しくなってきていた。
どうして、そんなにまでしてと、わからなくなる。
リディアがいなくても、英国中を捜せばフェアリードクターはまだ少しくらい存在するだろう。そちらにお金をかけた方がずっと経済的で危険もないはずだ。
だいたい、伯爵家にフェアリードクターがなくてはならないものかどうかも疑問だ。
「伯爵、案内できるのはあなたひとりです。従者の方にはお待ちいただきますよ」
レイヴンを連れていけないなんて。考えていたよりも、エドガーが危険な取り引きに応じたのだと気づき、リディアはうろたえた。
リディアを監禁《かんきん》している場所へ、エドガーひとりで入っていくということは、そこでグレアムがエドガーをどうにかしようと思うなら、簡単にできてしまうことになる。
「結構。ぐずぐずしている時間はありません」
それなのにエドガーは、リディアの瓶を大切そうに自分でかかえたまま、グレアムの言うとおりにしようとしている。
「武器も置いていってください」
エドガーはすなおに、フロックコートの内からピストルを取りだし、テーブルに置いた。
「ところで、その瓶は何です?」
「ただの空き瓶ですよ」
エドガーは薄く笑ってそう言うだけだ。グレアムにリディアのことは見えないらしく、不思議そうな顔をしたが、それ以上問いただす必要は感じなかったようだった。
エドガーは奇妙な人だ。妖精が見えないうえにとても現実的な感覚の持ち主なのに、レイヴンの中の精霊を認めているし、リディアの能力も疑っていない。ニコがしゃべるとは思っていないのに、ニコの言葉がわかっている。
リディアに対して、平気で無神経なことをするくせに、ときどき誰よりも、理解していてくれる。
このまま死んでたまるかと必死になっているリディアと同じくらい、彼も必死になってくれている。
とりあえず女の子には、やさしい紳士を演じる人。このやさしさもその延長かもしれない。なのに、おとりにされる程度の自分でも、お姫さまみたいに大切にされているかのような勘違いをしてしまう。
勘違いでも、リディアはエドガーのために意識を保とうとつとめている。気を失ったら、そのまま魂が散じてしまいそうだから。
そうなったらエドガーは、またひとつ苦しみを背負うかもしれないと、今はちょっとばかりうぬぼれた気分にさせられているから。
レイヴンに見送られ、エドガーはグレアムと馬車に乗った。姿を消したままついてきているニコがそばにいるのを感じながら、リディアは、もう少しだよとエドガーが励ます声を聞いていた。
[#改ページ]
あいつの無慈悲《むじひ》な復讐《ふくしゅう》
そこは大英帝国の玄関口。世界中から物と人が集まってくる港は、テムズ河を行き交う船であふれかえっていた。
曇り空のもと風もなく、たちこめたスモッグに冷たい霧の混じる大《グレーター》ロンドンは、黒い影となって浮かびあがる魔物のようだ。それは植民地からもたらされる莫大《ばくだい》な富を、際限《さいげん》なく食い尽くしていく。
ドックランドに並ぶ倉庫群と運搬用の馬車、積み荷のそばを通り過ぎながら、すべてを霧の中にのみこむ巨大化した霧男《フォグマン》にも似た都《みやこ》の姿を、とりとめもなくリディアは空想しているのだった。
やがて馬車は、桟橋《さんばし》のそばで止まる。そこからボートに乗せられて、停泊しているいくつもの船の間を縫《ぬ》って河面《かわも》を進む。
そしてグレアムは、エドガーを大型帆船のひとつに案内した。
屈強《くっきょう》な船乗りたちに取り囲まれ、敵意のこもった視線を浴びれば、狼《おおかみ》の群《むれ》に迷い込んだかのような気がする。しかしエドガーは、顔色ひとつ変えない。むしろ、うっとうしそうに視線を返せば、細身の若造の内に獅子《しし》の気配《けはい》を感じたかのように、狼たちは萎縮《いしゅく》する。
彼が、グレアムのような上流の人間を黙らせるのに使う高貴で聡明《そうめい》な印象とは別の、もっと本能的な風格を見せられたような気がすれば、リディアはまた不安な気持ちになった。
リディアを助けようとしてくれているエドガー、しかし彼は常に、リディアからは見えない側面をもっている人なのだ。
それでもリディアはたぶん、危険な方のエドガーも嫌いになれなくて、ひどい目にあっても許してしまうのだろうと思う。
そこに、彼の哀しさが見えてしまうから、どうしても憎めない。
そしてぼんやりと気づいてもいる。たった今も、エドガーはもうひとつの側面で何か画策《かくさく》していると。
こうしてひとり、敵の中心地へ乗り込んだ目的は、リディアを助けるためだとしても、それだけですませるつもりはない。
結局、どんなに最悪な状況でも、利用できるものは利用するのだ。
けれどもう、好きなようにすればいいわとリディアは思う。
どれだけ腹を立てても、どうせ憎めないのだから。
船乗りではない用心棒ふうの男を数人引き連れ、グレアムは薄暗い階段を降り船室の通路を奥へと進む。
やがて立ち止まり、警戒《けいかい》も厳重な部屋の鍵《かぎ》を開けさせて、エドガーとふたりだけで中へ入った。
「で、僕の宝石はどこに?」
いちいちむずかゆいことを言うと、リディアはぐったりしながらも赤面する。
「そちらのドアの向こうです」
部屋の奥にあったドアを、グレアムは指さした。
もっとひどい倉庫みたいな場所に放り込まれているのかと思ったのに、いちおう部屋らしい場所に入れられているのは意外だった。
エドガーはドアに歩み寄る。開けようとしたが、鍵がかかっているようだった。
「鍵は?」
言いながら彼は、背後の異常を感じ取ったように、警戒しながら振り返った。
グレアムがエドガーにピストルを向けているのが、リディアにもちらりと見えた。
「グレアム卿《きょう》、それは何です」
予想はしていたのだろうか、エドガーはとぼけたようにそう言った。
「伯爵《はくしゃく》、私を見くびらないでいただきたい。いくつも偽名を使って、私の財産を取りあげようとしているのはあなただとか」
「ほう、そんな根拠がどこに?」
「ロザリーが言いましたよ。ホテルを差し押さえたのもあなた、そのうえ私のことを調べまわっているそうで。何をたくらんでいるんです?」
「ロザリー……、なるほど。そう言ってあなたに助けを乞《こ》うた少女を、奴隷船《どれいせん》に積み込んだわけですか。当初の計画通り、ウォルポール家の財産を彼女が使い込んだことにして、貢《みつ》いだ男と失踪《しっそう》したとでもするんですね」
どうして、お金のためにそんなことができるのだろう。後見人《こうけんにん》として保護すべき姪《めい》をふたりも……。
ドーリスも今ごろどこか暗い場所で、また泣いていることだろう。気の強いロザリーだって、怯《おび》えているに違いない。
けれどリディアも、何もできない。少しずつ小さな自分の姿さえ薄れていくような心許《こころもと》なさにたえながら、自分がまだ息をしていると意識し続けるのが精一杯だ。
「伯爵、どうやらあなたは知りすぎている。大西洋にでも沈んでもらいましょうかね。確実に死体は見つかりませんから」
銃口《じゅうこう》をエドガーに向けながら、グレアムは引き金に指をかけた。
「リディア、ちょっとごめん」
いきなりあやまられ、何のことかと思った瞬間、エドガーは瓶《びん》を放り投げた。
見捨てていいって言ったけれど、そんな。
壁に激突するかと思った。が、リディアはふさふさした毛の中にかかえられた。
「ニコ……」
しかし、ほっとする間もなく銃声に身がすくむ。
ランプが砕け散った。かと思うと、エドガーがグレアムにつかみかかり、武器をもぎ取ろうと取っ組み合う。
はずみでか、銃声がまた響く。
すぐに、異変を感じた男たちが、部屋の中へ駆け込んできた。
ニコは瓶をかかえながら机の下に身を隠す。
「ニコ、エドガーが殺されるわ」
「おれにどうしろと?」
「それは……でも……」
体格のいいひとりが、エドガーをグレアムから引き離そうと、頑丈《がんじょう》な腕を彼の首にまわしたのが見えた。
そのとき突然、男の身体《からだ》がのけぞり、その場にがくりと倒れた。
黒い影が、リディアたちの隠れているデスクの前を素早く横切る。手斧《ておの》が宙を舞い、グレアムの手から銃をはね飛ばす。そのまま影は、別の男に襲いかかる。
レイヴンだ。
一見|華奢《きゃしゃ》な少年がそばをかすめただけで、屈強《くっきょう》なボディガードが声を立てる間もなく倒れる。
一方でグレアムは、倒れた手下の手からナイフを拾い、立ちあがろうとしているエドガーに向き直った。
「エドガーさま!」
レイヴンがそちらに気を取られた隙《すき》に、背後から飛びかかろうとした男がいた。
しかしさっと振り返ったレイヴンは、素早く回し蹴りを入れた。
男の巨体が、奥のドアをぶち壊して転がる。
「ニコ、リディアを早く!」
エドガーの声に反応し、ニコが壊れたドアの向こうへ飛び込んだ。
簡素なベッドの上に横たわる、自分の姿をリディアは見つける。
その身体に駆け寄ったニコが、瓶のふたを開けた瞬間、リディアは意識を失った。
それは魂が身体と馴染《なじ》みあうまでの、わずかな間だったのだろう。
リディアはあたりが静まりかえっていることに気づき、ゆっくりとまぶたを開いた。
自分の身体が思い通りに動くことに、かすかな違和感をおぼえながら半身を起こす。
こわれたものが散乱した部屋の中、グレアムの用心棒たちはあちこちに倒れたまま動かない。立っているのは三人だけだ。
グレアムに背後からピストルを突きつけているのはレイヴンで、グレアムの襟首《えりくび》をつかんでいたエドガーは、リディアが目覚めたのに気づいて仇《かたき》から手を離した。
「リディア、もとに戻れたのか?」
乱れた髪を気にもせず、こちらに向けられた無防備な笑みに、リディアは痛みをともなう奇妙な感覚に包まれた。
やたら気恥ずかしくて、つい彼から目をそらす。
ひざの上の妖精猫に気づき、ほっとすると同時に、リディアはニコをかかえ込んでいた。
「ニコ、ありがとう……」
「いや、なに。リディア、もういいってば、毛並みが乱れるだろ」
ニコは猫みたいにさわられるのは嫌いだ。立派な紳士が愛玩《あいがん》動物のように撫《な》でられるのをいやがらないわけがない。しかしリディアは、ニコを手放すとどうしていいかわからなくなりそうで、じたばたされるのもかまわず抱いていた。
「あのさ、こういう場合は僕に抱きついてくれるものじゃないのか?」
不満げに、エドガーは金の髪をかきあげる。
たぶんたった今、リディアはそうしたいような衝動《しょうどう》にかられ、けれどとても恥ずかしい気持ちになって戸惑っているのだ。
「だって、あなたに抱きつくなんてあぶなすぎるもの」
レイヴンは大丈夫だと言ったけれど、そんなの信用できない。今はまだ、とっさの場合に殴《なぐ》りつけるだけの力が出ないかもしれない。
などと考えながら、本当にレイヴンの言うとおりだったとしたら、口では調子のいいことを言っていても、女の子として見られていないことになるのだろうか、なんて思い、どうでもいいじゃないのと否定する。
やっぱり、今の自分はどうかしている。
「……でも、助けてくれたことは感謝してるわ。ありがと……」
ふとエドガーは、覗《のぞ》き込むようにして顔を近づけた。
「少し顔が赤いね。気分は悪くない?」
「だ、大丈夫よっ」
視線を避けるようにして、思わずニコを持ちあげれば、エドガーと間近で見つめ合うことになったニコは、不愉快《ふゆかい》そうにひとつ鳴いた。
苦笑いを浮かべ、エドガーはリディアとニコから離れると、再びグレアムの方に向き直った。
「おい、こんなことをしてただですむと思ってるのか?」
グレアムが強がった声を出す。
しかしエドガーは、まるきり無視してレイヴンに問いかけた。
「レイヴン、船の外は?」
「はしごをはずしておきました。逃げた船乗りが仲間を呼ぶとしても、時間がかかるでしょう。船内の者は、あらかた河に放り込みました」
答えながらレイヴンが差し出した書類を、エドガーは破り捨てる。どうやら先刻、グレアムとかわした契約書《けいやくしょ》のようだったから、レイヴンが奪い取ってきたということだろう。
「契約はなかったことに。ということでグレアム卿、落ち着いて話ができそうだ」
「話? 何の話をするっていうんだ」
「あなたの隠し財産について」
あきらかにグレアムの顔から血の気が引くのは、少し離れたリディアにもわかった。
「グレアム卿、あなたは盗品や違法に売買された品々を運搬する際、いくらか抜き取って自分のものにしていた。それを親しい貴婦人宅の地下に隠していましたね。彼女には、希少なワインの貯蔵に向いているとか言って、自由に地下倉庫を使わせてもらっていた」
「……そんなもの、知らない」
「べつにかまいませんよ。その貴婦人にも借金がありましてね、自宅を売らなければならなくなったので、僕が買いました。地下にあった安っぽいワインはあなたのものだというので、別の場所に保管してありますが、あの家はもう、中にあるものも含めて、何もかも僕のものです。地下室の棚でふさいだ部屋、貴婦人も知らないうちにつくられた隠し部屋にあるあれが誰のものだろうと、僕がいただいた。それだけです」
リディアはニコを離すのも忘れ、ニコは身動きもせず、エドガーとグレアムのただならぬ緊張感に巻き込まれる。
「あなたの散財|癖《へき》や、ウォルポール家の財産に安易に手を出したりしたのは、いざとなれば隠し財産があるとタカをくくっていたからなのでしょう? だがいざとなれば、貴婦人宅は売られていた。こういう恋人は、飽きたからといって無下《むげ》にしないのが肝心《かんじん》ですね。でなければ、あなたに相談する前に家を売ってしまうことはなかったかもしれませんよ」
悪魔のような微笑《ほほえ》みは、リディアのよく知らない方のエドガーだ。
「とはいえあなたは、地下室に隠したものにはまだ誰も気づいていないはずだと、侵入《しんにゅう》を試みた。他人の手が入った地下室は、隠し部屋があるはずの壁が塗り込められていた。掘り出すのは容易ではないとあせっていたところ、ドーリス嬢《じょう》に男爵《だんしゃく》家の財産の使い込みを知られた。……とまあそういうところですか」
「何が、目当てだ」
さすがにグレアムも、エドガーの執拗《しつよう》で完璧《かんぺき》なほどのたくらみに、ただならぬものを感じたようだ。
「あなたの身の破滅」
「殺すつもりか……?」
「僕が手を下す必要もないでしょう」
ステッキの先を、グレアムの胸元に押しつける。
「厳重に封印された南アフリカのダイヤモンド、横流しを防ぐために刻印を施された金塊《きんかい》、あれはプリンスが扱っている荷ですよ。ご存じでしょう? あの男は、自分がだまされたり裏切てられたりするのは我慢ならない。あなたが荷を抜き取っていたと知ったら、ただではすまないでしょうね」
「ま、まさか、プリンスを知っているのか? いや、ま、待ってくれ、それだけはやめてくれ、……伯爵、何でもする、全財産もっていってもかまわないから……」
「僕はあなたの破滅を望んでいると言ったんですよ。あなたを箱詰めにして、刻印つきの金塊のひとつとともにプリンスのもとへ届けるってのはどうです? 僕からの贈り物だと気づいたときの、奴の顔が目に浮かぶようだ。きっとあなたに、僕への憤《いきどお》りまでぶつけるでしょうね」
それはおそらく、グレアムを使ったプリンスへの宣戦布告《せんせんふこく》。
エドガーの、グレアムへの復讐《ふくしゅう》は、もっとも許せない人物への復讐の、第一歩に過ぎないのだ。
リディアは背筋に冷たいものを感じていた。
「あ、あんたは、何者だ?」
「ご存じのはず」
「……うそだ。伯爵だなんてうそだろう……!」
「おや、それなら僕の名前を、思い出してもらえますか? ねえグレアム卿《きょう》、八年前にお会いしたときは、死にかけた浮浪児《ふろうじ》みたいだと、僕を見て笑ったんでしたよね。僕は、あなたの顔を覚えてやろうと思ったのですが、目がかすんでよく見えなかった」
グレアムが瞳を見開く。足が震《ふる》えている。
「そんな、まさか、あの……」
そのあとに続く言葉は、エドガーの本当の名前だったのかもしれない。けれどリディアには聞き取れないほどかすかな声だった。
「プリンスは自分のものを、手荒に扱われるのも許せない。あなたもそれは学んだようで、リディアは丁重《ていちょう》に扱ってくれたようですね。僕のときははなはだしい荷物扱いで、プリンスを怒らせたあなたはずいぶんな目にあったと聞いていますよ」
急にグレアムは、叫び声を上げながら目の前のエドガーにつかみかかろうとした。
が、ひざ蹴りを入れたエドガーは、よろめいたグレアムをさらにステッキで殴《なぐ》りつけた。
リディアは小さく悲鳴をあげ、目をそらす。
[#挿絵(img/agate_207.jpg)入る]
それ以上エドガーは、彼を痛めつけようとはしなかったが、同情のかけらもない冷たい視線は、懇願《こんがん》も言いわけも通用しないことを物語っていた。
いっそ激昂《げっこう》に駆られた態度を見せられた方が恐ろしくはなかっただろう。
抵抗するグレアムを、レイヴンが押さえつけ、気絶させるまで、冷たくにらみ続けていた。
エドガーは、抑えきれない憎しみを、グレアムの向こうにいるプリンスに向けている。
でも、憎んだって復讐したって、失ったものは戻らない。
エドガーも救われない。
プリンスの手を逃れ、自由を得たというのに、また厳しくて孤独な戦いの中に身を置こうというのだろうか。
そんなのあんまりだ。
ため息をついてリディアの方に振り返ったエドガーは、さっきの冷酷《れいこく》な気配《けはい》をすっかりひそめた、紳士的な方の彼だった。
「ごめんね、リディア。いやなものを見せてしまった」
こちらに歩み寄り、行こうか、と手をさしのべる。拒絶し、自分で立ちあがったリディアは、エドガーをじっと見あげた。
「あの人を、箱詰めにするの?」
「きみは、知らなくていい。共犯者じゃないんだから」
かすかに、淋《さび》しげに眉《まゆ》をひそめた。
そう、リディアは彼の仲間じゃない。大切な仲間を救おうとするかのように、必死に助けてくれたけれど、共犯者じゃないから、これ以上彼にはかかわれない。
でも、納得できない。
「エドガー、何のためにあたしを、フェアリードクターとして雇ったの? 伯爵としての、新しいあなたを手助けするためじゃなかったの?」
「……そういう話はあとにしよう。そろそろここから出ないと、こいつの手下たちが戻ってくるかもしれないからね」
「何言ってるの? だったら早く、ドーリスとロザリーを捜して助け出さなきゃ。ふたりもこの船に運ばれてるんでしょ?」
「助ける義理はないと思う」
リディアは一瞬、耳を疑った。
「ど、どうしてっ?」
「そんな時間はないし、どうせこの船は出航できない。中を調べられることになるよ」
調べられるのはいつのことか。数日、数週間? そんなの見殺しにするのも同然だ。
「でもっ、あたしたちはふたりが監禁《かんきん》されてるのを知ってるのよ、知ってて見捨てるなんて……」
そこまで言って、リディアは気づく。
知っていて、エドガーは八年前、見捨てられたのだ。
「恨《うら》んでるの? ロザリーとドーリスは、妖精の卵《たまご》≠あなたから奪って、なのに助けてくれなかったから?」
彼は少し、困惑気味にリディアを見た。
「よくおぼえてないな」
「八年前に、あの河べりの倉庫に監禁されてた男の子を見たって、ロザリーが話したの。泥棒だと思って、彼の水入り瑪瑙《めのう》をうばったきり……。あれはあなたのことなんでしょ? グレアム卿があなたをプリンスに引き渡すために監禁してた倉庫へ、ロザリーたちが入り込んだのね?」
ふう、とついたため息は、つらい過去を思い出したせいではなく、リディアの干渉にあきれているように思えた。
「だとしても、べつに恨むほどのことでもないよ。リディア、彼女たちにとって、薄汚い少年を見捨てるのなんて当然のことだ。自分には関係ないばかりか、かかわって得することなんかないとわかっているからね。悪いけど僕も、彼女たちが叔父《おじ》の餌食《えじき》にされたことは知ったことじゃ……」
エドガーが最後まで言う前に、リディアは平手を振りあげていた。
小気味よい音があたりに響く。
うわ、とニコがつぶやいたので、自分が何をしたのか気づいたが、リディアの胸の中のもやもやは、エドガーをたたいたくらいでは晴れなかった。
「あなたってホントに悪党ね! ロザリーの気持ちにつけ込んで、あまい言葉で釣って利用して、もういらないから見捨てるっていうの?……やっぱり恨んでるんじゃないの。本当はあのとき、助けてほしかったんじゃないの! 関係なくても、かかわって損をするだけでも、助けてくれる人がいれば、あなたは救われたのに……」
彼の冷酷さに頭にきているのに、彼がそんなふうに救われない考え方をする一因に、リディアは胸を痛める。
何がいいたいのかよくわからないまま、あふれ出す感情を吐き出すだけだ。
「だから、あたしは助けるわよ! ロザリーとドーリスを、あなたの代わりに助けるわ! 得にならなくったって、助けたいと思う気持ちは誰だって持ってるはずだもの。あたしを助けようとしてくれたあなたは、損得だけだったの? そうじゃないと思ったし、そう信じたいから、あたしはふたりを捜すわ!」
言い放った勢いのまま、エドガーにくるりと背を向ける。
「ニコ、行くわよ!」
面倒くさそうにしながらも、ニコはベッドから飛びおり、堂々と二本足でリディアについてくるのだった。
「レイヴン、意味がわかったか?」
しばし呆然《ぼうぜん》とさせられたエドガーは、リディアとニコが出ていった戸口を見つめながら、ぼんやりと問うた。
「理屈はよくわかりませんが、エドガーさまのために出ていかれたような気がします」
「……僕もそんな気がする」
たたかれた頬《ほお》に手を触れれば、痛みよりも熱を感じた。
情熱的な愛情表現だったのではないかとさえ思うほどだ。
どういうわけかリディアは、エドガーには思いもよらない言葉を口にし、思いもよらないことをする。
そのためにエドガーは、思いがけない方向に、引きずられるように動かされてしまう。
周到に準備した計画をかき乱されて、けれども彼女が新しい道を開いてみせたからこそ、今の彼があるのだとすれば、今度もまた。
「エドガーさま」
レイヴンが呼び止めた。エドガーが黙ったまま部屋を出ていこうとしたからだった。
「リディアをひとりにしておけない。グレアムの仲間がまだひそんでいるかもしれないし」
「彼はどうしましょうか」
気を失っているグレアムのことだ。
「ほうっておけ」
復讐よりも、リディアが向かった方向にこそ、大切なものがあるような気がする。
彼女の不思議な色をした瞳は、エドガーには見えなかった貴重な何かを見ているのかもしれないから。
人影のない船内を、リディアは歩き回った。ときどき嵐が去ったかのように荒れた場所があるのは、レイヴンが暴れたあとだろうか。
それは人と争って荒れたのではなく、レイヴンがエドガーを捜したあとだと思われた。
斧《おの》のようなものでドアというドアが破られているのだから、船乗りたちはレイヴンを止めるよりも逃げ出したことだろう。
あの無表情で暴れるところを想像すれば、本当に歩く兵器だと思う。
そんな船内を、リディアは慎重《しんちょう》に調べてまわるが、なかなかロザリーたちは見つからなかった。
「ねえニコ、何か感じないの?」
「何を感じろってんだ」
「匂いとか」
「おれは犬じゃねえ」
そのときリディアの耳に、女性の悲鳴が聞こえてきた。
「こっちだわ!」
リディアは駆け出す。追いかけてきながら、ニコが言った。
「おい、気をつけろよ。叫んでるってことはほかにも誰かいるんじゃねーか?」
そういえばそうだ。
こちらのことを気取《けど》られないように注意しながら、悲鳴のするほうへ急ぐ。
通路の曲がり角で立ち止まり、すぐ近くで争っている気配《けはい》を感じながら覗《のぞ》き見れば、薄暗い場所でもオレンジ色の髪の毛が目立つ。
ロザリーが、太った男にかつがれ、連れていかれそうになっていた。
「あの男、グレアムのところの社長だわ」
「ふうん、レイヴンが来て騒ぎを起こしたから、別の場所に運び出そうってことか? おい、リディア、どうするんだよ」
ニコが振り向いたときには、リディアはすでにモップを握りしめていた。
「いくわよ、ニコ」
「ええっ、バカ、やめろって! 無謀《むぼう》すぎ……」
しかし彼女は、勢いよく飛び出す。背後から男をめがけて、モップの柄を振りおろした。
「うわっ……!」
声をあげ、よろけた男はロザリーから手を離す。
「この、クソアマ」
怒った男が、リディアからモップをもぎ取るのに時間はかからなかった。リディアをつかまえようと、身を乗り出す。
そのとき、ロザリーが男の足にしがみついた。前のめりになって倒れた彼に、さらに噛《か》みつく。
急いでモップを拾ったリディアも、再び殴《なぐ》りつける。
はいつくばりながら逃げようとした男は、あやまってそばの階段から船底へ転げ落ちた。
「早く、扉を閉めるのよ!」
扉になっている床板を、ふたりで必死に持ちあげる。
激しい音を立てて閉じた床板に、留め金をかけてしまえばもう、閉じこめられた男がどれだけ怒鳴《どな》っても怖くはなかった。
急いでその場から離れ、静かになった場所でほっと息をつき、顔を見合わせたふたりは、どちらからともなく表情をゆるめた。
「ロザリーさん、船底に閉じこめられてたの?」
「ええ……、でもさっき、いきなりあの男が入ってきて、わたしを連れ出そうとして……」
そこで彼女は、リディアにしたことを思い出したらしく、不安そうにあとずさりした。
「それより、どうしてあなたがここにいるの? あの人……エドガーが来てあなたの居場所を教えろって言って……。彼に助け出されたんじゃないの?」
「まあそうなんだけど、あなたを助けに来たのよ」
彼女はふと、怒ったような顔になる。そしてリディアから目を背けた。
「そんなはずないわ。だってわたし、あなたにひどいことを……」
「そうね、あれはひどいわよね」
「だからわたし、エドガーに殺されそうになったのよ!」
「えっ?」
「本当よ、最悪よあの男! ……脅迫《きょうはく》するのなんて慣れてるって感じで、あのあまい顔で微笑《ほほえ》んだまま殺そうとするの」
やりかねない。想像できてしまうことに、リディアは少し憂鬱《ゆううつ》になった。
本気で殺すつもりはなかったと思いたいが、それは単に、エドガーにとってそんなことをしても利益にならないはずだからだ。
「……ええ、あいつは最悪よ。あたしだって、だまされてばかりだもの」
「うそ、あなたあいつの仲間じゃない。助けに来たなんて言って、わたしをどうするつもりなの? 仕返ししようっていうの?」
「違うわ。ねえロザリーさん、閉じこめられて、怖くて不安な気持ちがわかる?」
少し肩を震《ふる》わせ、ロザリーは怯《おび》えたような視線を上げた。
「……わかる……、だから、こんなことになったのも、自業自得だって思ったの」
「だったら、あたしの言葉を信じてちょうだい。あなたがどんな思いでいるかわかるから、助けたかったのよ」
にっこり笑って、リディアはロザリーに手を差しのべた。
「さあ、行きましょ。まだドーリスさんを捜さなきゃならないし、早く船から逃げ出さないと、悪いやつらが戻ってくるかもしれないの」
彼女がリディアの手を取ろうとしなかったのは、まだ半信半疑だったからだろう。それでもロザリーは、リディアについてこようとする様子を見せた。
ドーリスのことが気になったからかもしれない。
「ドーリスもこの船にいるっていうの?」
「たぶん、いると思うわ。彼女も、あの倉庫に閉じこめられていたの。あのあと倉庫にグレアム卿《きょう》が来て、あたしと一緒にこの船に運んだはずだもの」
ロザリーは驚いたような顔をした。ドーリスが倉庫にいたとは思わなかったのだろう。しかしグレアムが犯人だということは、すでに自分もこんな目にあったからにはわかっているようだった。
「おじさまが、ドーリスを監禁《かんきん》してたなんて知らなかったの。身内だし、信用してたのに、財産目当てにこんなことするなんて……」
不安げに、ロザリーは立ち止まった。
「わたし、ドーリスに会えないわ。いっぱい意地悪したし、いなくなればいいなんて言ってしまった……。だから、こんなことになってるなんて何も知らないまま、田舎《いなか》で療養してると思ってたの。お見舞いの手紙さえ出そうともせずに、向こうから何の報《しら》せもないことに腹を立ててたくらいだもの」
「でもドーリスさんは、べつにあなたのこと怒ってなかったわよ。仲直りしたいなら、あやまればいいじゃない」
「あやまる?」
けれどロザリーは、ひどく怪訝《けげん》そうに返した。
「わたし、あやまったことなんてないわ。そんなことしたら、負け犬みたいじゃない」
「そういう問題じゃ……」
「だってドーリスが、隠し事をするからいけないのよ。おじさまのこと、ちゃんと教えてくれればこんなことにならなかったのに」
「でもあなた、彼女に悪いことしたと思ってるんでしょ?」
「だけどあやまるなんていやよ。事故で同時に両親を亡くしてから、わたしがドーリスを守ってきたのよ。泣いてばかりのあの子の保護者はわたしなのよ。あの子と仲良くしていいのはわたしだけなのに、あやまったりしたら、わたしがいやな子だって言ってるようなものじゃない。そしたらドーリスは、わたしから離れていくわ」
「すごい独占欲ね」
「だって、ドーリスがいなかったら、たったの七歳で急に家族を失って、同じ苦しみをわかってくれるあの子がいなかったら……」
「じゃあ、なおさら早く助け出さなきゃ」
「でもいや、会いたくないし、あやまらないわよわたし!」
頑固《がんこ》なまでに拒絶するのは、ドーリスや自分の身にせまる危険よりも、わがままで支配するようにしかつなぎ止める方法を知らなかった親友に、絶交を言い渡されるかもしれない瞬間が怖いのだろうか。
立ち止まったまま、意地でも動かないといった様子のロザリーを、リディアはどうすることもできなかった。
「ドーリスさんはあたしが捜すわ。だからあなたは、そこの部屋に隠れてて。いい? グレアム卿の仲間には気をつけて、見つからないようにね」
ロザリーは返事をしなかったが、これ以上もたもたしている時間はないと思った。
彼女のそばを離れ、あきれた様子のニコがついてきていることを確認しながら、まだ調べていない部屋を探しはじめた。
「面倒だな、人間ってのは。なんでそんなひねくれたことをするかな」
ニコがつぶやく。
「そうね。好きなら好きって言えばすむことなのにね」
けれど、ロザリーの気持ちもわからなくもない。好意を持っていても受け入れられるとは限らないし、信頼や期待を裏切られたとき傷つくのは怖い。
妖精が見えると言い張る少女として、変人扱いされてきたリディアも、人には好かれないとあきらめている自分がいる。
ただ見えるだけならともかく、母のようになりたいと考えた彼女は、妖精のせいで怪我《けが》をしたり不利益をこうむっている人々に助言を試みてきたが、言いがかりだとかいやがらせだとか、迷惑に受けとめられただけだった。
フェアリードクターとしての能力を、理解してもらいにくいのはしかたがないと思っているから、誰かを好きになっても、たぶんきっと、気持ちを伝えることなんかできなくて、最初からあきらめるのだろうと思う。
あからさまに変人扱いしなくても、妖精が存在すると思っていない人にとってリディアのような能力は、気味が悪いという感覚をどうしたってぬぐえないだろうから。
……エドガーはどうなのだろう。とそのときふと考えたのは、リディアに対して屈託なく接してくれるめずらしい人だからだった。
でも、本当のところ彼が、リディアの能力を気味悪く感じていないかどうかはわからない。
フェアリードクターの能力を認められることと、人としてふつうに受け入れられることとは違うと思えば、慎重になるしかなくて、ついガードを固くしてしまう。
その一方で、仲間のように感じてくれるならうれしいし、できるなら信頼したいと思う。だからふたりの少女を見捨てるような無責任なことを、エドガーにはしてほしくなかった。能力だけでなく、リディアの気持ちを理解してほしかった。なのに素直に伝えられず、ひっぱたいてケンカを売ってきたなんて、ひねくれているのはロザリーとそう変わらないだろう。
本当のことを告げるのは、案外難しいことなのかもしれない。
あの大うそつきも、本当のことが言えないだけなのだろうか。
プリンスから逃げるためだとしても、犯罪まがいの数々は人には言えない過去だろう。仲間たちを思っての復讐《ふくしゅう》も、平和に生きてきた世間知らずのリディアに説明できることではなかったのだ。
だからうそをついたまま、危険は承知でリディアを利用した。そのくせ思いがけないほど心配し、親身になって助けようとした。
本心の見えない人。
でもまるで見えないわけじゃなくて、ときどき見えたような気がしてしまうから、リディアは巻き込まれてしまう。
エドガーがリディアを巻き込み、妖精の卵《たまご》≠ニ霧男《フォグマン》の話をしたのは、おとりにするためよりも、ただ誰かに救いを求めたかっただけなのかもしれないなんて、都合よく考えてしまう。
湖のボートの上で、死んでしまった仲間を霧の中から助け出してほしいと言った、あれこそが彼の本音ではないかと思ってしまう。
瀕死の状態でとらわれていた彼は、妖精の幻を見たつもりで、水入り瑪瑙《めのう》とひきかえに取り引きをしたつもりで、ずっと暗闇の中で助けを待ち続けている。そんなイメージがまとわりつくのは、妖精の、約束をけっしてたがえないという性質を、リディアが知っているがゆえの感傷なのだろうか。
八年前にエドガーと取り引きをした妖精が、抜き差しならない理由で約束を守れなかったのだとしたら、自分がどうにかしなければならないと、責任を引き継いだかのような気持ちになっている。
フェアリードクターとして、守れないままの約束は、妖精にとっても人にとっても不幸なことだと知っているから。
「ニコ、足音が聞こえない?」
ふと物音に気づき、リディアは立ち止まった。しかしニコの返事はない。
「ねえニコ、どこへ行ったの?」
あの気まぐれな妖精猫は、ふといなくなるから頼りにならない。そう思いながらも、人の気配に身を固くしたリディアは、もういちど耳を澄ます。たしかに足音が近づいてくる。
暗い扉の奥へ身を隠そうとしたそのとき、背後からぐいと引き寄せられた。
「きゃ……」
「静かに。僕だよ、リディア」
エドガーだと気づき、どうにか叫び声をのみ込む。
近づいてくる気配《けはい》は、船内に取り残された水夫か、何が起こっているのかわからないままあたりをキョロキョロとうかがっているふうだ。大きなナイフを手にしていて、通り過ぎようとする足音に、見つかるかもしれないと思えば激しく心臓が鳴った。
気取《けど》られないよう扉を閉めてしまえば、まっ暗で何も見えなくなるが、足音がすぐそばにせまれば暗闇くらいどうってことはない。
けれどそれが行ってしまっても、動悸《どうき》はおさまらない。エドガーがいつまでも、リディアの身体《からだ》に腕をまわしたままだからだ。
「行っちゃったわよ」
「うん」
「だから、離してってば」
しかし彼は、なかなかリディアを離そうとしなかった。
「こんな暗がりで手を離したら、きみがここにいると確信が持てなくなりそうだ」
「そこの戸を開ければいいじゃない」
「きみだったらよかった……」
「何言ってるの?」
「夢うつつに見た妖精がきみだったら、あのとき、僕をこんな暗闇の中から連れ出してくれたかもしれないのに」
いつもの調子がいいだけのせりふ? それとも違うのかどうか、あっさりした口調からはわからなかった。
暗くて表情も見えない。ただ彼の腕は、力を入れすぎないようとても慎重《しんちょう》に、リディアの身体にそえられている。それだけのことだが、貴重な本音を聞いたかのような気がしている。
「……なら、あたしが連れ出してあげる」
まじめにそう言ってしまったが、ロンドンブリッジから飛びおりるくらいの度胸が必要だった。笑われるかと思ったのに意外にも彼は、考え込んだように黙っていた。
やがてぽつりとつぶやく。
「八年も前の話だよ」
吐息《といき》が髪をくすぐる。リディアは鼓動《こどう》の高鳴りを、どうすればエドガーを救えるのかと真剣に考えているせいだと思うことにする。
「まだ、遅くはないはずよ。あたしが八年前の約束を果たすわ。あなたが見た妖精は、どうにもならない理由があって約束を守れなかっただけで、約束は必ず果たされるものなの。だから、一緒に彼女たちを助けましょう。復讐なんてしなくていいの。誰かを恨《うら》む必要もないわ。あなたはもう、憎しみに頼らなくても生きていけるはずよ」
じっとしていられなくて、リディアがドアのほうへ踏み出すと、エドガーはゆるりと腕をほどいた。
薄暗い船内の光でも、開いた扉の隙間《すきま》から闇に射し込めば、まぶしいと感じる。
「どうしてきみは、ロザリーを恨まないんだ? それに、僕のことも」
彼は光に目を細めた。
どうしてだろう。その答えは、考えるほどのこともなくわかっていた。
「だってあたしは、救われていたから。あなたがガラス瓶《びん》の中のあたしを、励まし続けてくれた。監禁《かんきん》されてる間もずっと孤独じゃなかったし、暗闇に怯《おび》えることもなかったから、誰も憎まずにすんでるの」
ふたりで通路へ出る。
悩んだような顔をしたエドガーが、リディアの言葉に何を感じたのかはわからない。しかし彼が、ドーリスを助けるために協力してくれるつもりになったのはたしかだった。
「こっちは調べた?」
「ううん、まだよ」
「行ってみよう」
結局エドガーは、グレアムのことを放り出して、リディアを追ってきてくれたのだ。
復讐をあきらめたとまではいかないのかもしれないけれど、リディアに歩み寄ってくれている。
軽薄《けいはく》な態度で、からかったり茶化《ちゃか》したりするくせに、リディアが感じていることや、本当に言いたかったことを、ちゃんと察してくれるところが不思議な人。
だからついリディアは、気恥ずかしいくらいに思っていることを口にしてしまった。
もしかしたら、深刻にきまじめに暗闇から連れ出してあげるだなんてしゃべっているリディアのことを、エドガーはおもしろがっているかもしれないのに、わかってくれたと信じてしまうのは、おめでたい性格だろうか。
「ねえリディア、きみには本気で惚《ほ》れてしまいそうだ」
唐突《とうとつ》に、そんなことを言う。やっぱりおもしろがられている。
それとも……?
ううん、いくらおめでたくても、そこまでバカじゃないんだから。
「あなたのその手のせりふは、絶対に信用なんかしませんっ」
きっぱり言ってやっても、エドガーは笑っていた。
いろんなことが重なりすぎて、そのときリディアは、もうひとつの問題をすっかり失念していることに気づいてもいなかった。
ニコがリディアのそばを離れたのは、やっかいなものを見つけたからだった。
ぴょこぴょこ飛び跳ねるように駆け回っていたボギービーストは、昨日ニコが消してやったにもかかわらず、早くも姿を取り戻している。その姿をちらりと目の端に感じたニコは、急いでそれを追ったのだった。
「面倒なヤツだよ、まったく」
ニコはそう思いながら、そっとボギービーストのあとをつけた。
何かを探している様子だった。オレンジ髪の少女だろうか?
匂いを確かめるように鼻をひくひくさせながら、ロザリーがいるはずの方へと向かっていく。
船の中にたちこめているのは、濁《にご》りきったテムズ川の匂いと、スモッグが混じった不快な霧の匂いだけだ。それはこの町のどこにいようと、漂っているものだった。
匂いよりむしろ、ニコは湿気を感じる。ヒゲや毛並みにまとわりつく、じっとりしたものが、いつもに増して重いような気がする。
どのみち今日も、ロンドンは霧に包まれている。風もなく、重く冷たい湿気に包まれている。
いつになったら春風が吹くのだろう。
(ああ、ご主人様がお呼びだ。早く行かなきゃ叱られるぞ)
ボギービーストがひとりごとをつぶやいた。ニコは聞き耳を立てながらついていった。
(まったく、毛むくじゃらの化け猫にやられるなんぞオレさまとしたことが)
おれは化け猫じゃないぞ。
(だがフェアリードクターは瓶《びん》の中だ。身体《からだ》を持ってかれちまったからな、手出しも何もできやしねえ。それにこの船にゃ、青騎士|伯爵《はくしゃく》がいる。絶好のチャンスだぞ。奴を葬《ほうむ》ればご主人様の復活だぞ)
青騎士伯爵? エドガーのことじゃねえか。
船内を駆け回っているらしいボギービーストは、エドガーの姿を見かけたのだろう。しかし、瓶の中から助け出されたリディアがここにいることは知らないようだ。
ボギービーストに、伯爵と何の関係があるというのだろう。
よくわからないままあとをつけるが、やがてボギービーストは、ロザリーが隠れている部屋を探しあてた。
(ここだ、ご主人様の声がするぞ)
声? だがニコには聞こえない。ボギービーストとは波長の合う声なのかもしれないが、だとすると『ご主人様』とやらは、不穏《ふおん》な部類の存在だと思われた。
ドアのわずかな隙間から、ボギービーストは中へとすべり込む。ニコも姿を薄くしてドアを通り抜ける。
明かり取りのまるい窓際に、ロザリーが座り込んでいた。近づいていったボギービーストは、人には見えないよう気をつけたまま、「ご主人様」と声をかけた。
もちろん、ロザリーにではない。何かがいるらしいのは、ロザリーが握りしめている薄緑の石の中だ。
「あれがご主人様かよ」
強い魔よけの力は、ニコにもわかる。触れれば中にすいこまれ、大変なことになると本能的に知っている。
「つまりは、あれにすいこまれた間抜けな奴だってことだろ?」
それ自体は美しく、非常に魅力的に見えるが、触れられないからこそ魔よけの石なのだ。
(ご主人様、遅くなってもうしわけありません。いえもう、お待たせいたしません。今すぐこの小娘を働かせます。ああ、先触れのことですか? ええ、奴なら罠にはめてやりましたよ。バカな奴で、大好きな葉っぱにうずもれて眠ってる間に閉じ込められちまいました。あなたのじゃまをするものなどおりませんから、どうぞご心配なく)
先触れ、とは何のことだろう。ボギービーストと主人の敵だろうか。だとしても、手出しできなくなっているらしいとだけはわかる。伯爵のフェアリードクターであるリディアのことも瓶詰めにしたし、間抜けな小鬼妖精《ボギービースト》にしてはなかなかやり手だ。
などと感心している場合ではない。
さらにニコが観察していると、ボギービーストはぴょんと飛び跳ねて、ロザリーの正面に立った。
人にもよく見えるようにと、姿をはっきりさせる。
(ああお嬢《じょう》さま、お捜ししましたよ。こんなところに閉じこめられているなんて、いったいどうなさったんです?)
たった今小娘呼ばわりした少女に、急にへつらった調子になる。うつむいていたロザリーは、はっと顔をあげた。
「妖精……、おまえこそどこへ行ってたのよ。わたし、おじさまにだまされて、大変な目にあってたのよ! なのにいくら呼んでもおまえは姿を見せなくて……」
[#挿絵(img/agate_231.jpg)入る]
(もうしわけありません。ちょっとした事故で、気を失っていたようなものなんです。ああでも、もう大丈夫ですよ。これからオレの言うとおりにしてくださいましたら、何もかもうまくいきますからね)
「どうするっていうの? おじさまの仲間に見つかったら、また閉じこめられてしまうわ。船の中だし、逃げようにもわたしは泳げないのよ。早く助けを呼んできてよ」
(そうそう、さっきお見かけしたのですが、この船にはあの伯爵がいらっしゃいます。きっとお嬢さまのことをお救いするために……)
「なんですって! どうしてあの男がいるのよ! 冗談じゃないわ、わたしあの男には絶対近づかないから!」
(えっ、そ、それはまたどういうわけで。伯爵はお嬢さまの理想の方だと……)
「わたしを殺そうとしたんだから! 急に、態度を変えて……。おじさまだって、あんなにやさしかったのに、男なんてもう二度と信用しないから!」
ボギービーストがうろたえているところを見ると、奴はロザリーをエドガーに近づけたいらしいとわかる。
ロザリーが持っている石の中の『ご主人様』を標的に近づけ、葬るためなのだろう。
ロザリーがエドガーに惚《ほ》れ込んで、積極的に近づいてきたのも、石の中にいるものが青騎士伯爵と呼ばれる人物の存在に気づき、魔力を働かせたせいもあるのではないか。
目当ての青騎士伯爵が、女にはことごとくいい顔をするタイプだったのは、渡りに船だったに違いない。
ボギービーストとその主人にとって、少女をあやつり伯爵に危害を加えるために、恋に溺《おぼ》れさせるというのは、もっとも単純でいて思い通りにしやすい手段であるはずだ。
(そ……、そうだ、お嬢さま、そんなことがあったのなら、あの男をのさばらせておいてはいけません)
ボギービーストは、ロザリーを動かす別の方法を思いついたようだった。
(思い知らせてやるのです。いいですかお嬢さま、その宝石には魔法の力があります。それを使えば、あなたをないがしろにした男をこらしめることができます)
「こらしめる……?」
(ええ、オレにまかせてください。ああ、妖精の卵≠落とさないように気をつけて。大丈夫です、あなたには勇気がありますから)
石の中の何かが、またロザリーの心の隙《すき》につけ込む。彼女をあやつろうとしている。
封じ込められているとはいえ、あんなものを長いこと持っていれば、にじみ出す力に影響を受ける。
本来なら、ああいったものに耐性《たいせい》の強い人間が保管しているべきなのだ。
昔なら聖職者や貴族、今はそういった地位にいるとしても適任とは限らないが、影響を受けにくい人間というのはいるのだから、ロザリーみたいに感化されやすい少女が持っているべきものではない。
しかし、現実には彼女が持っている。
ボギービーストに促《うなが》され、魔力にあやつられ、ロザリーは立ちあがる。
エドガーにあこがれていた気持ち、なのに裏切られ、ひどい目にあって怖れる気持ちが、今度は憎しみにすり替えられてしまっている。
まずいなと、ニコはつぶやく。
「うーん、あのタラシはどうなろうと知ったこっちゃないんだがな。このままじゃリディアが巻き込まれてしまうぞ」
彼らより先に、ニコは部屋を抜け出す。
リディアに報《しら》せなければと、二本足で駆け出した。
[#改ページ]
祝福は春風にのって
薄暗い通路を歩きはじめたエドガーとリディアのそばへ、音もなく近づいてくる影があった。
リディアは、いきなり目の前に立ちはだかった人影に、驚いて悲鳴をあげた。
反射的に、そばにあった柱にしがみつけば、「すみません」と淡々《たんたん》とした声が届く。
よく見れば、レイヴンだった。
「び、びっくりした……」
「リディア、どうせなら僕にしがみついてくれればいいのに」
どんな状況でも、こういうせりふを思いつくってどうなのよ。
「……本能的に避けてるの!」
ふいと顔を背《そむ》けるが、離れて行動していたらしいレイヴンが戻ってきたということは、リディアをからかっている場合ではないということなのだろう。エドガーはすぐに、神妙《しんみょう》な顔をレイヴンに向けた。
「エドガーさま、ボートが複数横付けされました。じきにグレアムの仲間が侵入《しんにゅう》してくるかと思います」
「わかった。急ごう」
「ドーリス嬢《じょう》はこちらです」
レイヴンが誘導する。
「どうしてわかるの?」
「船底で叫んでいたグレアムの手下に聞きました。船内で騒ぎが起きたので、部外者に発見されないよう眠らせて場所を移したようです」
ロザリーとやっつけたあいつのことだ。あのときは、ドーリスに続いてロザリーも隠すつもりだったところを、リディアが通りかかったというわけだろう。
歩きながらレイヴンは、エドガーにピストルを手渡す。グレアムのところに置いてきたはずのものだ。それから彼は、リディアの方を見た。
「そうだリディアさん、これを忘れていました」
レイヴンが差し出したのは、いつやらの缶詰だ。
「あの、それはべつにあたしの武器ってわけじゃないのよ」
しかしレイヴンは、彼女が受け取るべきものだと信じ込んでいるのか、差し出したまま待っているだけだ。
「リディアには持って歩くのはじゃまかもね。僕が持っておこう」
エドガーがそう言って、ようやく納得したように缶詰を手渡す。
再び急ぎ足で、ふたりはレイヴンについていくが、急にあたりが騒がしくなりはじめていた。
「リディア、走れる?」
「ええ」
返事をすると同時に、エドガーが腕を引く。三人で駆け出すが、騒がしい声はしだいにせまってくる。
「いたぞ、こっちだ!」
誰かが叫ぶ。
「エドガーさま、私が彼らを引きつけます」
「わかった、まかせる。ドーリス嬢の居場所は?」
「この突き当たりです。倉庫の奥に荷で隠されたドアがあります」
エドガーが頷《うなず》くと同時に、レイヴンはきびすを返す。
リディアはエドガーとともに、再び先へ急いだ。騒がしい声がやや遠くなったのは、レイヴンの方を追っていったのだろう。
グレアムの仲間は、今この船に何人くらいいるのだろう。レイヴンは大丈夫だろうか。
今になってリディアは、自分がとても無謀《むぼう》なことをしているのだと気づき始めていた。
ドーリスとロザリーを見捨てられないと息巻いたけれど、ふたりを助けるどころか、エドガーとレイヴンも危険にさらしているのだ。
エドガーの自分勝手な考えは許せないけれど、彼がもともと考えていた、リディアを助けた上|復讐《ふくしゅう》を成し遂《と》げて無事船から脱出できるはずの計画を、行き当たりばったりにしてしまったようなものだった。
「どうしたの、リディア。怖くなった?」
でも、あのふたりを見捨ててしまったら、たえがたい後悔を背負うだろうと思う。
とりあえず船を出ても、ふたりを助け出す方法はあったかもしれないけれど、彼女たちにとってつらい状況を長引かせるのはいやだった。
エドガーが、ふたりを見捨てることに少しも疑問を感じないままだなんて、いやだった。
正義感のゆえではなく、エドガーに単なる悪党ではない部分を期待しているのだとは気づかないまま、リディアは強く首を横に振った。
「怖くないわ、これはあたしの意地だから」
「前向きなんだね」
「違うわ、無謀なだけよ。……わかってるけど、後悔したくないもの」
「僕は、後悔してばかりだ。僕の最大の罪は、生きていることだと思うくらい」
なんてこともなさそうに、さらりと彼は言ったけれど、意味の重さにリディアは戸惑った。
「そんなはずないじゃない」
「僕がいなければ、仲間たちのほとんどは今も生きていただろう。アーミンも……。それにレイヴンも、あの本能的な殺戮《さつりく》の衝動《しょうどう》を、僕にあずけるなんてやり方でなくて、きちんと自分のものとしてコントロールできるようになる方法があったかもしれないと思うんだ」
「でも、あなたがみんなを、プリンスの支配から解放したんでしょ?」
「解放……、レイヴンしか生き残っていない」
「あなたの仲間は、奴隷《どれい》のまま生きていたかったと思うの? だったらついていかなかったはずよ。あなたは自由を与えたわ。少なくとも、心は誰にも縛れないってことを教えたんじゃないの?」
まっすぐ前を見つめたままのエドガーは、リディアが思いつくような言葉など、とっくに何度も何度も、考えてきたのだろう。
荷が積み上げられた倉庫の奥へ、ひとりごとのように語りながら進む。
「そんなふうに思おうとしてきた。でもときどき、それが僕のエゴにすぎないような気がして……」
突き当たりの荷の奥には、レイヴンの言っていたとおりドアがあった。
「ここか。鍵《かぎ》がかかってるね」
エドガーはそれに意識を向けることで、話を打ち切ったように見えたから、リディアもただ頷いた。
彼は内ポケットから取りだしたピン一本で、その鍵を開けてしまう。
由緒《ゆいしょ》正しい貴族の家で生きてきたならあり得ない特技だ。
開いたドアから覗《のぞ》き見れば、部屋と言うよりはクローゼットのような狭い場所で、ドーリスが押し込まれているのはすぐにわかった。
「ドーリスさん、しっかりして」
身を屈《かが》め、リディアは彼女をゆり起こそうとしたが、目覚めそうにない。
「薬で眠らされているんだ。僕が運ぼう」
「おい、リディア、大変だ!」
そこへ、あわてた様子で駆け込んできたのはニコだった。
「ニコ! どこへ行ってたのよ」
「いいから早く逃げろ。やっかいなことになるぞ」
リディアの足元でニコはまくし立てる。
「わかってるわ。グレアムの仲間たちが近づいてきてるんでしょ」
「はあ? そんな連中よりもっとやっかいなものだよ! ボギービーストが戻ってきやがった、でもって奴のご主人様と一緒にロザリーをあやつって、伯爵《はくしゃく》を殺そうとしてるぞ!」
はっ、そうだったわ。
リディアはようやく思い出していた。
「エドガー、忘れてたわ! 霧男《フォグマン》があなたをねらってるの!」
「フォグマン?」
ドーリスのそばに屈み込んだ彼が、怪訝《けげん》そうに振り返った。それもそうだろう。彼にとってはおとぎ話の中の存在に、いきなりねらわれていると言われても、実感がないに違いない。
「そんなものに恨《うら》まれる覚えはないけど」
「おいリディア、あれは霧男なのかよ!」
さすがにニコもあわてふためく。
「ボギービーストが言ってたもの。ねえニコ、霧男の弱点を知らない?」
「あんな魔物みたいなのに弱点なんか、あったとしてもおれたちにどうにかできるもんじゃないだろう? そういや、あれにも敵がいるみたいだったけど、葉っぱと閉じ込めたとかなんとか、ボギーの奴が言ってたっけな」
「敵って何? 葉っぱって?」
「知らねえよ。いや待てよ、似たような話をどっかで……」
「だからリディア、どうして僕がねらわれるんだ?」
話が飛び交い、リディアは混乱寸前だ。
「ええと、つまり、霧男は青騎士伯爵を恨んでるのよ。伯爵家の先祖に、妖精の卵≠フ中に封じ込められたの。あなたが青騎士伯爵の名を継いだから、あなたを喰《く》らってよみがえろうとしているの」
「ちょっと待って、妖精の卵≠フ中に霧男が?」
「あなた、古い家系の貴族でしょ? だからあなたの家にあったときは、その血筋のおかげで、瑪瑙《めのう》の中の霧男はわずかにも外と接触できなかったの。でもロザリーの手に渡って、封じる力が弱まったから、ボギービーストを呼んで、復活のために何年も、青騎士伯爵を捜してたんだと思う」
「……で、僕がロザリーと会ったことで」
「ええ、青騎士伯爵としてのあなたが現れたのを知って、ねらってた」
「なら、霧男に襲われたらどうすればいいんだ?」
リディアは頭をかかえる。そんなことは、リディアにもわからない。悪意のかたまりみたいな妖精は、見ない触れない近づかない、この鉄則を守ることしか知らないのは、未熟者で経験不足だからだ。
フェアリードクターを名乗っていても、ちっとも役に立たないじゃない、と苛立《いらだ》ちながら、何とかしなければと考える。
「チッ、世話の焼ける。青騎士伯爵なら、霧男と互角《ごかく》に戦えるってもんだろうよ」
ニコが不満げにつぶやいた。
「だってエドガーは本物じゃないもの。そんな力がどこにあるのよ」
「本物じゃなくても襲われるのかな。僕を喰らっても、霧男は復活できないんじゃないのか?」
「それは、向こうだって存在がかかってるんだから、とにかく喰らってみるでしょ」
「なるほど」
「それに、青騎士伯爵の力というより、名を継いでいる人物ってだけで価値があるのかもしれないし」
ボギービーストに瓶《びん》詰《づ》めにされて苦しんでいて、エドガーにおとりにされて腹を立てて、ロザリーとドーリスを助けなければと考えながらエドガーの本音に気持ちをゆさぶられ、とにかく霧男に対して手を打つことをすっかり忘れていたのはリディアの失態だった。
ボギービーストがそんなに早く戻ってはこないだろうと、気をゆるめていたせいもある。
とにかくこのことは、フェアリードクターとしての重大なミスなのだ。
あ! と急にニコが声をあげた。
「ローズマリーだ、リディア!」
「何のこと?」
「だから、ローズマリーの葉っぱが……ああ、なんてこった」
わけがわからず首を傾げる。しかしそれ以上、ニコの混乱した説明を聞いている場合ではなかった。
「とにかく、僕たちの問題はそれだけじゃなさそうだ」
バラバラと足音が近づいてきていたのだ。
倉庫の入り口へなだれ込んでくると、リディアたちを取り巻く。
立ちはだかる男たちの間から、グレアムがこちらへ進み出た。
「伯爵、立場が逆転したようだな」
意識を取り戻したグレアムが、仲間に囲まれて自信を回復したらしく、にやりと笑った。
「私を罠《わな》にはめようと、ずいぶん画策《かくさく》したわりには最後のツメがあまかったわけだ」
「それはどうかな」
「たったひとりで何ができる。あの歩く凶器みたいな男は、船底に閉じこめたぞ」
なるほど、リディアが船底に閉じ込めたはずの、太った男も取り巻きの中にいた。
「彼を見くびらないでもらいたい」
しかしエドガーは、淡々《たんたん》と返す。
船が、ぐらりとゆれた。
いや、ゆれたのは船ではなく、倉庫に積み上げられた荷だ。それが傾いたかと思うと、グレアムたちの頭上へ一気に崩れ落ちる。
その上へ舞い降りたのは黒い人影。
木箱や樽《たる》の直撃を、かろうじてまぬがれたグレアムに、レイヴンが飛びかかり押さえつける。
首にナイフを突きつければ、残ったグレアムの部下たちも動けなくなった。
しかしほっとする間もなく。
「リディア、やつらが来た!」
崩れた積み荷によじ登り、ニコが叫んだ。
息を切らせて、ロザリーが駆け込んでくる。
ボギービーストが彼女の肩の上でにやりと笑う。
「ロザリーさん、やめて、あなたはそれにあやつられてるのよ!」
けれどリディアの声は、彼女の耳には届いていなかった。
瑪瑙に閉じこめられた邪悪なものが、にじみ出す力でロザリーを包み込んでいる。
ごく弱い力でも、ロザリーのエドガーに対する好意と恨みと共鳴して、彼女の意志をとらえてしまっている。
ロザリーはたぶん、今自分が何をしているのかすらわかっていないだろう。
(伯爵はそこだぞ、やっちまえ!)
ボギービーストが叫ぶと、ロザリーはためらいもなく、大切にしていたはずの水入り瑪瑙を床にたたきつけた。
わずかに入ったひび。
けれども、何万年と閉じこめられてきた聖なる水が外気に触れる。一瞬にして蒸発し、消え失せる。
と同時に、いやな匂いのする霧が吹きだし、船内に一気にたちこめた。
グレアムたちの動揺の声がするが、数歩先さえ見えないほどの濃い霧だ。
リディアには、すぐそばにいるエドガーがやや霞《かす》んで見えるだけだ。
「リディア、伯爵から離れろ!」
離れた場所からニコが叫ぶ。
霧男《フォグマン》のねらいはエドガーなのだ。
「早く、行って」
霧の奥にうごめく気配《けはい》を見つめながら、エドガーは言った。
「エドガーさま、どこですか!」
レイヴンの声。
「レイヴン、来るな!」
霧男だ……。
リディアはそれに、視線を引きつけられた。
黒く濃い影が霧の中に凝縮《ぎょうしゅく》する。
ひとつだけではない。いくつも生まれる異形《いぎょう》の姿は、霧男が引き連れている妖犬だ。うなりながら、ぐるりと取り巻く。
もっとも巨大な霧男の影が、ゆらゆらと身体《からだ》を動かしながら、エドガーを見定めたような気がした。
と、ふくれあがり襲いかかる。
「リディア、早く逃げろ」
「……いやっ!」
押しやろうとするエドガーに抗《あらが》い、リディアは思わず彼にしがみついていた。
同時に、ねっとりとした闇がふたりに覆い被《かぶ》さる。息が詰まるような圧迫感だ。
巻き込まれ、のみ込まれたのか、足元に床の感覚がない。急に寒さを感じれば、真冬の空気にさらされているみたいだった。
「これは……、霧男の腹の中?」
リディアもよく知らない。まっ暗で何も見えず、指先がしびれるほど冷たい。
少しずつ、生気を吸い取られていくような、脱力感がある。
「ごめんなさい……」
くやしさに打ちのめされながら、リディアはつぶやいた。
「ごめんなさいごめんなさい、あたしが未熟者だからこんなことに。ほんとに、役に立たないフェアリードクターでごめんなさい、生意気なことばかり言って、あなたを助けられなくてごめんなさい」
「そんなに、悪い気分じゃないよ。きみが自分から抱きついてくれるなんて。それにきみはなかなか、僕の前で笑ってくれないけれど、泣いてくれるってのはぜいたくかもね」
やさしく髪を撫《な》でられながら、リディアは彼に抱きついていることをようやく意識したが、この暗闇で離れるのは怖かったから、そのままにしていた。
今は、エドガーが危険な人だろうと女たらしだろうとどうでもいい。運命をともにするしかないのだから。
「こんなときに不謹慎《ふきんしん》かもしれないけど、教えてほしいな。最後までつきあってくれるのは、フェアリードクターとしての責任感? それとも、少しくらいうぬぼれてもいいのかな?」
「あなたってば、頭の中にそれしかないの?」
泣きながらあきれながら、リディアは少しおかしかった。
どうしてとっさに抱きついてしまったのか、自分でもよくわからない。ただ、この人をひとりきりにしたくはなかった。
振り返れば大勢の仲間がいても、彼らを導くために前を向いて歩いていかねばならなかった彼は、孤独だった。先頭を行く者の視界には、誰の姿もないからだ。それでも道を切り開いて進んできたのに、気がつけばついてくるのはレイヴンだけ。
自分が仲間たちの希望となれたのか、少しでも救いとなれたのか、信じようとしてもわからなくなる気持ち。
重くのしかかるのは、彼らの犠牲《ぎせい》の上に自分だけが生き残っているということ。
そんな彼の心を、ちらりと見せられたと思うのは、リディアの錯覚《さっかく》かもしれないし、まただまされているだけかもしれないけれど、彼をひとりにしたくないと思った。
「……淋《さび》しそうに見えたからよ」
「うーん、それって同情?」
「ぜいたく言わないで」
身体を寄せ合っていても、寒くて凍りついてしまいそうだった。
「きみは、あたたかいね」
「え、寒くないの?」
「いや、そういう意味じゃ。ああでも、なんだかこれが、さっきからあたたかくなってて」
「何が?」
エドガーが内ポケットから取りだしたのは、例の缶詰だった。
よく見れば、淡く輝いている。
わずかながらも、それが霧男の暗黒の領域を押しのけているのだ。
「なにこれ……」
「缶詰だよ」
「わかってるわよ。でも、……」
「そういえばレイヴンは、これがフェアリードクターに会いたがっていたとか言ってたような」
「缶詰がしゃべったっていうの?」
「まあ彼も、精霊の血を引くと言われているだけに不思議なところがあるからね」
もしかして、だからレイヴンは最初から、この缶詰をリディアの武器だと言ったのだろうか。
妖精らしい何かが入っていると気づいていたから?
リディアに何かを求めている缶詰、いや、おそらくその中身。
ハーブ漬けの魚? ではなくて、霧男を押しのける力。
缶に閉じ込められてしまうくらいだから、けっして強い力ではない。けれど霧男に勝《まさ》るとしたら、これが持つ属性のせいだろうか?
……霧男を追い払う性質を持っているのは。
リディアは急にひらめいた。
ニコが言っていた、ローズマリーの葉っぱはこのことだ。ボギービーストにだまされ、ハーブ漬けの缶詰に閉じ込められることになった、この中身が彼らの敵。
草葉のさわやかな香りを包み込んで、現れるはずの妖精だ。
「エドガー、助かるかもしれないわ! この缶を開けられれば」
「缶詰を開ける道具は持ち歩いてないな」
「そっか、そうよね」
リディアは一気に落胆《らくたん》した。
こんなふうに行き当たりばったりにならないよう、周囲に気を配って異変を察知して、よく考えて準備をしておけば、霧男を退《しりぞ》けられたかもしれないのに。そのチャンスはあったのに、それもリディアの未熟さゆえに逃がしてしまったのか。
「ああもう、ほんとにあたしってバカ。絶望的だわ」
「やっぱり、中身が食べられるように開けないといけないのか?」
「ううん、穴があきさえすれば。たぶん魚は入ってないと思うわ」
「吹っ飛ぶかもしれないけど、どう?」
言って彼は、ピストルを取り出す。
中身は大丈夫かしら、と思わないでもなかったが、妖精だし、と思い直す。
「やってみましょう」
「リディア、よけてて」
足元に缶詰を置く。リディアは耳をふさぎながら、エドガーの後ろで息をのむ。
銃声《じゅうせい》、と同時に缶がはじけ飛ぶ。
瞬間、何かが中から飛び出した。
強い風が巻き起こる。
ふたりを取り巻く重い霧を、風が押しのけ、巻き上げ、吹き飛ばしていく。
地響きにも似たうめき声は、霧男の悲鳴だろうか。巨大な黒い影は、風に抵抗しようともがいているように見えた。
あたりのものを手当たり次第にのみ込み、溶かしていく黒い霧。けれどそれは、風に包まれているリディアたちには近づけない。
風に触れれば、霧は散じてしまうしかないからだ。それが自然の精霊たちの属性《おきて》。
意志を持った霧のかたまりは、それでも風と争い、姿を保とうと黒い渦《うず》をつくりながら、苦し紛れにあらゆるものに襲いかかる。
グレアムたちのものらしい悲鳴が聞こえた。
霧は流されながら、近くにいたグレアムたちをのみ込んでしまったようで、その姿がちらりと見える。
しかしそれよりも、彼らを取り込んだままの霧を、風が容赦《ようしゃ》なく蹴《け》散《ち》らし巻き上げれば、霧とともに人も物も、何もかも消えてしまうさまがさすがに恐ろしかった。
[#挿絵(img/agate_253.jpg)入る]
ようやく船底の風景が、視界にぼんやりと映りはじめる。
風の中にニコの姿を探せば、ロザリーとドーリスと、そしてレイヴンを、霧の触手《しょくしゅ》から遠ざけ風の方へ導いているのが見えてほっとした。
一段と風が強くなれば、リディアは目も開けられないままよろけそうになる。
エドガーにささえられ、腕に包み込まれるのを感じながら、ボギービーストのののしり声が、風にまぎれて消えていくのを聞いていた。
どうにか顔をあげることができると、うっすらと青い空が見えた。
倉庫の天井は、すでに突き破られている。風は霧を巻き上げながらさらに上空へ駆け上る。
空気みたいに透き通って薄い、空色の羽根が舞うその姿がちらりと見えた。
「シルフ……」
リディアはつぶやく。
缶の中に閉じこめられていた先触れが空に飛び出せば、|風の妖精《シルフ》が群《むれ》をなしてやって来る。
春風の訪れだ。
突風となって上空から、都に横たわる河面《かわも》を一気に吹き抜けていく。
大きく船がゆれるのを感じながら、けれどそれも、シルフに守られているのがわかるから、リディアにとってはゆりかごの中にいるようなものだった。
霧男《フォグマン》の、最後の気配《けはい》が風に散《さん》じると、風の妖精たちはそのまま空へ去っていく。
「エドガー、もう大丈夫よ! あたしたち、霧男にのみ込まれずにすんだわ!」
霧男に取り込まれた闇の中から、こちらの世界へ戻ってきた感慨《かんがい》に、リディアは声をあげた。
「ああ、そのようだね」
エドガーが無事ここにいる。
ひとりにしなくてよかった。
無謀《むぼう》でも行き当たりばったりでも、助けたいと願う気持ちに妖精の奇跡の力は働くのじゃないかなんて、能天気にも思う。
ほっとして力が抜けそうになるリディアをささえるのは、エドガーの腕だ。
いつまでも彼にしがみついていることに気づいたが、頬《ほお》に手が触れても、いつもみたいに逃げなきゃと思うほどの危機感がなかった。
いつになくおだやかに、彼が微笑《ほほえ》んでいたからだろうか。
陽《ひ》の光が射し込めば、純金みたいに輝く金髪を間近にみとれ、灰紫《アッシュモーヴ》の扇情的《せんじょうてき》な瞳にとらわれる。
この距離と雰囲気はちょっと、まずいかも。
そう思うのに、殴《なぐ》りつけるどころか、頬にそえられた手が導くままに顔をあげる。
ううん、大丈夫だって、エドガーはそんな人じゃないってレイヴンは言ってたし。
でも。
え、ちょっと待ってよ。
ぜったい何もしないなんて、レイヴンのうそつ……き……?
唇《くちびる》は、リディアの額《ひたい》にやさしく触れた。そして彼はにっこりと笑う。
「やっぱり、キャラメルの方が好きかな。もったいなくて食べられないくらい」
* * *
|霧の都《ロンドン》を吹き抜けた風は、街にこもっていたスモッグまでも一掃《いっそう》し、おだやかな日差しが注ぐ春の日をもたらした。
グレアム卿《きょう》と彼の悪事に荷担《かたん》していた人物が消えてしまったことについては、さまざまな噂《うわさ》が飛び交いはじめているが、真相は霧の中、といったところだろう。
霧男《フォグマン》とともに闇の国へ連れ去られただろう彼らのことは、リディアにもどういう状況でいるのか想像がつかない。
妖精としての霧男は、復活を果たせずに地上から去った。またいつか力を蓄《たくわ》えよみがえるのかもしれないが、長い時間を要するだろう。
グレアムが消えてしまったことで、エドガーはプリンスにケンカを売る機会を逸《いっ》したわけだが、案外せいせいした様子でいる。
復讐《ふくしゅう》をやめる気になったのかどうか、リディアにはよくわからないが、グレアムの末路を思えば、とりあえずの恨《うら》みは晴らしたことになるのだろうか。
ただエドガーが、仲間のために復讐したかったのは、末端の手先にすぎないグレアムなどではなかったはずだ。
だからリディアは、彼が死んでしまった仲間のためにすべきことは復讐ではないと感じてくれたのではないかと思いたい。
ともかく、エドガーが片付けた事後処理は手早く、グレアムがウォルポール男爵《だんしゃく》家の財産を使い込んでいたこととそれを知ったドーリス嬢《じょう》を監禁《かんきん》したこと、ロザリーをその犯人に仕立てあげようとしたことだけが公《おおやけ》になっている。
リディアのこと、そして船の中の惨状《さんじょう》は、リディアがドーリスの友人として彼女の行方《ゆくえ》を捜していたところ、グレアムの船があやしいとつかんだ。事情を聞かされたエドガーが付き添って、グレアムの船を訪問しようとしたが、船乗りたちと乱闘になった……、などというふうに説明されているはずだ。
生き残っているのは、事情をよく知らない雇われ船乗りか、知っていても密輸を告白するわけにもいかず、永遠に黙っているしかない連中だ、とエドガーは言った。
こういうあたり、やっぱりこいつは本物の悪党だと思わないでもない。
けれどリディアは、事件の心労を癒《いや》すためにとエドガーからの提案で、三日間の休みをもらったあと、相変わらず、これといって仕事もない伯爵《はくしゃく》邸に出勤した。
その日、ロザリーとドーリスがリディアを訪ねてきた。
眠らされていたドーリスは、もちろん霧男が暴れたことなど知らず、ロザリーもあやつられていたために何も覚えていなかった。
霧男とボギービーストが去ったあと、我に返ったロザリーは、眠っているドーリスを見つけ、駆け寄って泣きじゃくった。
あきれるくらい素直にあやまり、すがりついていたロザリーのことを、ドーリスは知らないだろうが、あれからふたりが仲直りしたらしいことはたしかだ。
「しばらくドーリスとふたりで、田舎《いなか》で過ごすことにしたの」
ロザリーは、以前のすました様子で言った。
「ロンドンは、いろいろと騒がしいものですから」
おっとりと、ドーリスが微笑《ほほえ》む。
「そうね、それがいいわ」
「わたしは田舎なんて、退屈できらいなんだけど、ドーリスがひとりじゃ淋《さび》しいって言うものだから。この子ってばいつまでたってもあまったれで……」
相変わらずのロザリーだが、ドーリスに肘《ひじ》でつつかれ、「わかってるわよ」と言いつつ神妙《しんみょう》な顔になった。
「あの、いろいろごめんなさい。それから、助けてくれてありがとう。……これを言いに来たの」
意外と、ドーリスの方がお姉さんなのかもしれない。
「助けられたのは、あたしだけの力じゃないから。でもロザリーさん、もう妖精にはかかわらない方がいいわよ」
「わかってる。……妖精の卵もあの妖精も、ちっともわたしを守ってくれなかったもの。妖精なんて、信用できないってことね」
まあいいか、とリディアは思う。ロザリーがボギービーストと接触することになったのは、妖精の卵≠手に入れたからだ。もともと妖精の姿を見る能力があるわけではないなら、あのボギービーストのように悪意ある妖精につかまる心配はそうないだろう。
「それよりリディアさん、わたしたちと一緒に行かない?」
「え?」
「わたしたち、友達になれると思うんだけど。あなたなら、ドーリスと仲良くしてもかまわなくてよ。ねえ、田舎は何もないけど、友達が三人集まれば退屈しないと思うの」
ロザリーは本気らしく、目を輝かせる。
「でもあたしは、やらなきゃいけないこともあるし……。もちろん友達にはなれると思うわ」
「ねえ、本当のところどうなの? あなたエドガーに脅《おど》されたりしてない? もしむりやり働かされてるなら、わたしたち、ここからあなたを救出しなくちゃと思ってるの」
顔を寄せ、急に内緒話でもするようにささやく。
「だ、大丈夫よ。そんなことはないわ」
「本当のこと言っていいのよ。誰にも言わないから」
「あの、本当に脅されてなんかないから、心配しないで」
「ロザリー、無理|強《じ》いはよくないわ」
ドーリスが言うと、少し不満げながら彼女は引き下がった。
「じゃあ、そのうち遊びに来てくれる?」
「ええ、もちろん」
「おや、僕は誘ってくれないの?」
戸口からの声に、ロザリーとドーリスが固まった。
「あ、お帰りなさい、エドガー。今ふたりが来てくれたところなの」
「ようこそ、お嬢さん方。ゆっくりしていってくださいね」
にこやかなエドガーに、ロザリーの顔がますます引きつる。
「いえっ、わたしたちもう失礼します!」
「あら、来たばかりじゃない」
「ごめんなさいね、リディアさん。あまり時間がなくて。近いうちにお手紙書くわ!」
ロザリーはドーリスを引っぱるようにしつつ、エドガーを遠巻きに避けて戸口へ急ぐ。
部屋から出ると、そのまま振り返りもせず駆け出していった。
「そんなに怖がらなくてもいいじゃないか」
エドガーは不満げにつぶやく。
「だって怖いんでしょう」
「ロザリーはともかく、どうしてドーリス嬢まで逃げるんだ?」
「当然ロザリーに、あなたがいかに極悪人か吹き込まれているわよ」
少し肩をすくめたが、女の子に嫌われるという事態も、さほど気にしたふうもなかった。それよりも、不思議なものでも見るようにリディアに顔を向ける。
「きみは怖がらないんだね。ロザリーに聞いたんだろう?」
どきりとさせられたのは、自分でも疑問に思っていることを指摘されたからだった。
もちろん詳細を聞いたわけではないが、優しい態度を急にひるがえすような男、近づきたくないと思って当然だ。場合によってはリディアも、同じような目にあうかもしれないのだ。けれどもう。
「いまさら。あなたが極悪人なのはとっくに知ってるもの」
「だけどきみは、そんな極悪人に泣きながら抱きついてくれた」
「だからあれはっ、動揺してただけよ!」
「まあそう、頭ごなしに否定しないで。あれから僕は、きみについてずいぶん考えたんだ」
「あたしの何をよ」
「そう、きみの不思議について。結局きみのおかげで、みんな助かったわけじゃないか。僕は復讐《ふくしゅう》だけが目的で、きみを利用した。でもきみは僕を助けてくれたし、グレアムの悪だくみの犠牲《ぎせい》にされかかっていたドーリスとロザリーも救った。結局、あのふたりが助かったことで、二重に僕は救われた気がしている。きみはやっぱり、幸運の妖精なんじゃないだろうか」
そんなに美化されるようなことじゃない。助かったのはシルフのおかげだし、それも偶然に助けられたのだ。
幸運の……なんてあり得ない。リディアは、何の力もない未熟者だ。
「あれ? 何か落ちこむようなこと言った?」
「そういえばあたしも、あれから考えてたことがあるわ」
「何?」
「あたし、今回のことでよくわかったの。フェアリードクターとして、まだまだ未熟すぎるってこと」
あらたまった気配《けはい》を感じたのか、エドガーはかすかに眉《まゆ》を上げる。
「だから、このままじゃ伯爵家の顧問なんてできない……」
「ちょっと待って、リディア。まさか、出ていくって言うのか?」
「スコットランドに戻って、もっとよく勉強を」
「何がいけないんだ? 僕にいけないところがあるなら直す努力をする。だから別れるなんて言わないでくれ」
「どうして別れ話になるのよ」
「まさか、好きな男ができた? そいつが僕からきみを引き離そうとするなら、決闘を申し込む。きみのために死ねる男でないなら、僕は引き下がるつもりはないよ」
「もう、ふざけないで!」
茶化《ちゃか》してもうやむやにできそうにないと思ったのか、彼は億劫《おっくう》そうにそばのソファに腰をおろした。
「ふざけてるわけじゃない。どれほど僕がきみを必要としているか、わかってくれないのか?」
「でもあたし、フェアリードクターとしてあまり役に立ってないもの」
「霧男から救ってくれた」
「偶然うまくいっただけよ」
「フェアリードクターとしてよりも、きみのまっすぐで純粋なところが、たぶん僕には必要なんだ。もう誰も恨《うら》まなくていいと教えてくれたきみがいなくなったら、誰が僕をなぐさめてくれるんだ?」
「あたしは、一人前のフェアリードクターになりたいの。あなたをなぐさめる恋人になりたいんじゃないから」
「恋人! いい響きだね。そばにいれば気が変わるよ」
最上級の、魅惑的な視線を向けるのだから。
しかしエドガーの大きな問題点は、それが本気なんかじゃないということだ。
相変わらずリディアは、彼の口説き文句を信用する気になれない。
額へのキスも、いつもの悪ふざけなのか、同志に対する友情表現なのか、それとも……。とにかくわけがわからないまま、リディアは受け入れてしまった。
意識しすぎるのも子供みたいだから、忘れたふりをしているが、彼の顔を見れば恥ずかしい気持ちにさせられる。どういうつもりだったのか気になるのに、そんな自分に苛立つから、あえて、フェアリードクターとしての自分について考え続けているのだ。
「あのね、エドガー……まじめな話をしてるの」
「一人前になるための勉強なら、ここでもできるだろう?」
「ロンドンは妖精の種類も数も少ないのよ。伯爵《はくしゃく》家の顧問ったって、仕事なんてないじゃない。あなたの遊び相手に雇われたつもりなんてないのに、不本意だわ」
「もしかして、仕事がしたかったの?」
まったく意外そうに言うから、リディアは怪訝《けげん》な気持ちになった。
いったい、あたしのことを何だと思ってるのかしら。
「そりゃ、たくさん仕事をして、経験を積んでこそ一人前になれるってものでしょ」
「それならそうと、早く言ってくれればいいのに」
え? と首を傾げているうちに、エドガーはトムキンスを呼んだ。
そうして彼に持ってこさせた一抱えほどの箱を、リディアの前に置く。
「何これ……」
「嘆願書《たんがんしょ》」
箱の中身は、手紙の束だ。
「つまり僕が伯爵家の後継者《こうけいしゃ》だとあちこちの小領地に報《しら》せが行ったとたん、領主不在の長年に妖精とのつきあいに悩まされながらも耐え忍んできた人々から、現状の不満を訴える手紙が押し寄せてきた。さすがに、青騎士伯爵家の土地には、妖精国でなくてもいまだに妖精の住民が多いらしいね」
妖精が作物をもっていく。屋根の上で夜中に騒ぐ、泉を占領する、家畜を逃がしてしまう、洗濯物に足跡をつける……。
昔から、フェアリードクターが携《たずさ》わってきたトラブルの数々が、手紙の束になっていた。
「どうして、早く見せてくれなかったの!」
「だって、着任早々仕事の山だなんて、きみがいやになってやめてしまわないかと」
「だからって、何週間もため込んでおくことないでしょ!」
文句を言う時間ももったいなくなって、すぐさまリディアは、箱ごと窓辺のテーブルに移す。明るい場所に座り込んで、手紙に目を通すことに没頭《ぼっとう》する。
「でもリディア、今度のことでよくわかった。青騎士伯爵を名乗るってことは、この家系に特有の、不思議な力を持っていた先祖の恨みも背負うことなんだね。きみの話によると妖精たちは何百年と生きるらしいし、伯爵の継承者《けいしょうしゃ》は悪い妖精をこらしめるようなことをやってきたようだ。とすると、人間が代替わりしようと関係なく、あの霧男のように伯爵への恨みを持ち続けている妖精がまだいるかもしれないわけだ」
「悪いけど、あとにしてくれない?」
文面に集中したかった。なるべく早く、対処の仕方をまとめて返事を出さなきゃと、やりがいを感じればリディアは夢中になった。
「いいよ、ふたりの時間はいくらでもある。僕が伯爵でいるかぎり、きみを手放すわけにはいかないからね」
もちろん、彼女は聞いていなかった。
レイヴンが紅茶を運んで来る。律儀《りちぎ》な手つきでティーカップを並べる少年を見やり、エドガーは機嫌よく微笑《ほほえ》む。
「どうやら、別れ話は流れたようだ」
「そうですか」
「ところでレイヴン、キスの賭《かけ》はどちらの勝ちになったんだ?」
気にしたように、彼は窓辺のリディアの方を見た。
「今の彼女には聞こえてないよ」
「引き分けです。エドガーさまが中途半端なことをなさいますから」
「怒ってるのか?」
「いいえ。ご命令なら私はどんなことでもするつもりです。ただ、私に賭など持ち出させてリディアさんに隙《すき》をつくらねばならないほど、唇《くちびる》を奪うのがあなたにとって難しいことだとは思えません」
「だってリディアは、僕が近づくのをやたら警戒《けいかい》するんだよ。あれを強引にっていうのは、ものすごく悪いことをしようとしているみたいな気分になるじゃないか」
「じゅうぶん悪いことだろ」
戸口で声がした。二本足で立っている猫がそう言った。ような気がした。
「そう? 僕はリディアと、もっと親しくなりたいだけ。百の言葉を重ねるより、ひとつ唇を重ねるほうが親密な気分になれる、それが男と女ってものだろ」
「なのに、せっかくのチャンスを逃したのですか?」
レイヴンは、やっぱり少しばかり怒っているらしい。エドガーのふざけた頼み事をがんばって実行し、リディアに賭を承諾《しょうだく》させたのに、子供にするようなキスで努力を水の泡にされたのだ。しかし感情をうまく出せないレイヴンにしては、いい兆候《ちょうこう》だと思う。
頬杖《ほおづえ》をつきつつ、エドガーは笑う。
「おまえがもっとも苦手な分野で苦労してくれたのに、悪いと思ってるよ。でもなんていうか、あのときリディアがいつになく隙だらけで、つけ込むのはいけないような気分になったんだ」
それはそう、もったいないとしか言いようのない気分だった。気に入りのワインを開けるのは、それにふさわしいときでなければならないように。
「ふうん、理性はあるんだな。もっとやりたい放題なのかと思ってた」
こちらへ近づいてきたニコは、テーブルを囲む椅子《いす》に飛び乗る。ティータイムに加わろうというふうだ。
ネクタイをした猫の前にもレイヴンは、当然のようにカップを並べた。
猫が優雅にお茶を飲もうと、憎たらしい口をきこうと、エドガーはだんだん抵抗感がなくなってきている。
「ニコ、僕をケダモノ扱いしないでくれ」
「ケダモノは年中発情しないぞ」
レイヴンが、かすかに笑ったようだった。
リディアのまわりには、不思議なことが日常のようにある。霧男《フォグマン》の姿をエドガーは見たわけではないが、自然現象というには特異な霧と風を見た。
彼女がそばにいると、自分の知らない世界に目を開かされる。
エドガーが知っている殺伐《さつばつ》とした現実からはかけ離れたリディアの感覚が、彼の中にシルフの春風のごとく吹き込んだ。そうして彼を、霧の中から引きずり出してくれた。
八年前に迷い込んだ、深い霧の中から。
同じ境遇にいた何人もが死に、エドガーは生きている。それを苦痛に感じてきたけれど、霧男に呑《の》まれてさえもリディアがそばにいようとしてくれたとき、彼は救われていた。
エドガーの過去とは無関係なリディア、彼を助ける義理もないはずの彼女が、ごめんなさいと泣きながらしがみついてきたとき、細くやわらかな腕にこもる力に、心のもろさをささえられた。
今ここに、最後まで見捨てまいとしてくれる人がいるなら、生き残ったことも罪ではないのかもしれないと思えた。
憎しみと後悔しかなかった彼に差し出された、それはあたたかい救いの手だった。
おだやかな春の日がいつまでも続くわけではなくても、今しばらくはこんな晴れの日を過ごせればいいと思う。
リディアのそばに、レイヴンがそっとティーカップを置くのを眺めながら、エドガーはつぶやく。
「この調子じゃ、僕は当分かまってもらえそうにないな」
「だから手紙を隠してたのかよ?」
銀のスプーンを片手に、ミルクをたっぷり注いだ紅茶を、灰色の猫はかき混ぜている。
「でもまあ、ここにいてくれるなら我慢するよ」
ふと彼は、ニコの隣にもうひと組、ティーカップがあるのに気づいた。
心地のよい春風が、開け放した窓から流れ込み、キャラメル色のリディアの髪と淡いブルーのカーテンをゆらす。
風《シルフ》が運んできた花びらがひとつ、紅茶の中にはらりと落ちた。
[#改ページ]
あとがき
こんにちは。『伯爵《はくしゃく》と妖精』、いかがでしたでしょうか。
なんかもう、『口説《くど》き魔と妖精』かもしれませんが、どうぞよろしく。
今回は、ロンドンでのお話です。十九世紀のロンドンというと、切り裂《さ》きジャックやシャーロック・ホームズの物語が思い浮かぶ人も多いでしょうか。
どちらも十九世紀も末ごろになりますが、この時代はなんとなく暗い雰囲気で、ミステリーの舞台というイメージがありますね。
リディアたちのロンドンは十九世紀の半ばですので、まだそういった世紀末的な閉塞感《へいそくかん》は薄いかもしれません。
とはいえ巨大な霧の都《みやこ》、何が起こるかわかりません。伯爵《はくしゃく》とフェアリードクターの騒動と顛末《てんまつ》を楽しんでいただけましたなら幸いです。
余談ですが、現在のロンドンに霧はほとんどないそうです。
自然現象としての霧がまれになっていることと、何より石炭を燃やしまくったことによるスモッグがなくなって、かつての霧の都のイメージは一新されてしまったようです。
名物がなくなった(?)というのは、いいことなのか残念なのか。
それにしても、視界が悪くなるほどのスモッグ……、めちゃくちゃ健康に悪そうです。
呼吸困難におちいりそう、と思ったら、それが原因で死亡する人も少なくなかったとか。
それはともかく、あくまで神秘的で退廃的《たいはいてき》な霧のイメージがあったので、そのように想像してくださいませ。
ところで今回の話、瑪瑙《めのう》が出てきました。私の家にもひとつ、瑪瑙の原石があります。
大きくはないのですが、見た目で想像するよりもずっしりと重いです。
残念ながら水は入っていません(笑)、でも中央に空洞《くうどう》があります。空洞の壁が水晶の細かな結晶で覆われていて、光があたるときらきらするところが美しくて気に入っています。
瑪瑙も水晶も、同じ「石英《せきえい》」という鉱物なんですね。ひとつのかたまりの中に、仲良くおさまっていても当然だということなのでしょう。
瑪瑙というのは半透明の石英の総称だそうで、色あいはさまざまです。私の瑪瑙はグレーと薄紫のグラデーションをもった縞《しま》瑪瑙。
そういえば、エドガーの瞳の色に近いかもしれません。
高価なものでなくても、色とりどりの石には惹《ひ》かれます。
近ごろはパワーストーンなどと、石がお守り(?)になったりもするようですが、効果のほどはともかく、天然石にはなんとなくロマンチックな響きがありますよね。
と考えつつふと思い出したのですが、私がはじめてダンナにもらった誕生日プレゼントは、とても立派な天然石でした。
アンモナイトの化石。
石は石でも、ロマンチックかどうか微妙になりますなあ。
渦《うず》巻きがくっきりしていて立体感もあるし、なかなか気に入っておりますが。ええもちろん、古代のロマンを感じさせてくれます。
話は変わりますが、私、最近ものすごーく久しぶりに血の検査をしました。
検査というと、注射器で血を抜かねばなりません。
以前はこれがけっこう好きで、血が注射器にたまっていくのを眺めていたものなんですが、久しぶりだったので目をそらしてしまいました。
軟弱になったなあ……(そういう問題か?)。
本当は怖いんだと思います。でも怖いもの見たさで見てしまうというか、そしてじーっと見ていられたら合格! (何が?)みたいな達成感というか高揚感《こうようかん》があるのではないでしょうか。と自己分析してみたり。
検査の結果は、とくに問題なかったのでよかったです。
具合の悪いところとは無関係に、内科系の医院に行くたびに私が指摘されるのは、「扁桃腺《へんとうせん》が大きい」ということ。
そんなに立派なものなんでしょうか。
他人の扁桃腺を見たことがないので、よくわかりません。
念のため、扁桃腺は口蓋垂《こうがいすい》のことではありません。そう思っていた人が身近にいたので不安になったのですが、口蓋垂の一般名称は恥ずかしいのでここに書くのはやめておきます。
近い場所にあるとはいえ、勘違いされていると、大きいなどと話している私としてはなんだか恥ずかしい気持ちになるので、いちおうことわらせていただきました。
で、扁桃腺です。子供の場合はこれが大きいと高熱が出やすいらしくて、手術で切り取ったりするというのですが、私は当時の主治医《しゅじい》の判断でそのままになったようです。
子供のころからだと言うと、お医者さんもあーそう、という感じで話は終わるので、大人になれば問題ないのでしょう。
まあふだん、日常生活に置いて「扁桃腺の大きさ」について話題にするようなこともありませんので、このことはお医者さんに指摘されたときにだけ思い出すのでした。
さて、雑談はこのくらいにしまして。
読者のみなさま、最後までのおつきあい、ありがとうございました。
リディアやエドガーと一緒に、妖精たちと戯《たわむ》れていただけたならうれしいです。
前回に続き、すてきなイラストをつけてくださいました高星麻子さまにも、御礼申しあげます。
そしてまたいつか、みなさまに、彼らの物語を手に取っていただけるよう願っております。
[#地付き](ホームページ http://www03.upp.so-net.ne.jp/gokuraku)
二〇〇四年 七月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 あまい罠には気をつけて」コバルト文庫、集英社
2004(平成16)年9月10日第1刷発行
2005(平成17)年11月15日第6刷発行
入力:でつぞう
校正:でつぞう
2008年3月16日作成