伯爵と妖精
あいつは優雅な大悪党
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)妖精博士《フェアリードクター》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)青騎士|伯爵《はくしゃく》
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目次
その男、紳士か悪党《ワル》か
サー・ジョンの十字架
真実と偽りのフーガ
海辺の一夜
青騎士|伯爵《はくしゃく》とメロウの島
ふたつの鍵《かぎ》と犠牲《ぎせい》の血
星は伯爵《はくしゃく》のあかし
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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その男、紳士か悪党《ワル》か
「さて、ミスター・ゴッサム、いろいろと世話になったね。礼がしたいのだけど?」
そう言って痩身《そうしん》の若者は、気取った口ひげの男にピストルを突きつけたまま、妖艶《ようえん》に微笑《ほほえ》んだ。
「……やめろ、か、金ならいくらでもやる……」
太った身体を震《ふる》わせ、縛られた男はかすれた声を出した。
「それはご親切に。ではついでにもうひとつ、幻のスターサファイアといわれる、メロウの星≠いただきたい」
「あ、あれは……、本当に幻で、伝説上の宝石で、存在しない……」
口ごもるゴッサムから、いったんピストルを離し、彼はゆっくりと部屋の中を見まわした。
「せっかくこの、あなたにふさわしい舞台を、そして特別席を用意したというのにね。僕をよろこばせてくれる気はないと」
ゴッサムは、白い大きな椅子《いす》に縛りつけられていた。ここは精神科医である彼の研究室だ。棚にはずらりと、ホルマリン漬けにされた脳の標本が並ぶ。
椅子に縛られた被験者を、冷酷《れいこく》な目で見つめるのはこれまでゴッサムの側だったが、今は立場が逆転していた。
被験者であるはずの若者が、ピストルを手に、並べてあったメスをもてあそぶ。
乱れてはいるが鮮やかなほどの金髪、くたびれた古着をまとっていても、ゆっくりと部屋の中を歩きながら意味ありげに薬瓶《くすりびん》をするりと撫《な》でる指先や、振り返りながら静かに威圧する視線や、動作の隅々まで優雅に見える青年の、隠された素性《すじょう》をゴッサムは知らない。
だがおそらく、ただのごろつきではなかったのだ。今ゴッサムの目の前にいるのは、とんでもなく危険な本性をあらわにした獣だった。
それは、獲物がどのくらい弱っているかを確認するように、ゴッサムのまわりを一周する。
そして再びピストルを持ちあげた。
人を一瞬で魅了する完璧《かんぺき》な微笑みに、絶望的な恐怖心をゴッサムはいだく。
なまりのない上流英語《キングスイングリッシュ》で、死神のごとく青年は告げる。
「ミスター、そろそろ僕はおいとましなければならない。メロウの星≠ェ存在しないというのは残念だ。あなたにも、永遠に目にする機会はないということかな」
引き金に指がかかる。
「ま、待ってくれ」
すべてを吐き出してしまうしかないのは、死の恐怖からではなかった。死んでもなお、この男の内にひそんだ悪魔が、とことん彼をさいなむために追ってくるに違いない、そんな不安からだった。
「……宝石の存在が、幻かそうでないかは、妖精博士《フェアリードクター》と呼ばれる者にしかわからないようなのだ。なにしろほら、あれは妖精が謎の鍵《かぎ》を握っているだけに、妖精の専門家ならば見つけだせるかもしれないと」
「妖精の専門家? 胡散臭《うさんくさ》い霊媒師《れいばいし》ならロンドンにいくらでもいるが?」
「……フェアリードクターという仕事は、今ではすたれかけている。スコットランドやウェールズの僻地《へきち》にはかろうじて現存しているというが、高齢者で半分|棺桶《かんおけ》に足を突っ込んでいるような連中ばかりだ。それもそうだろう、今どき妖精など、信じているのは子供だけだ」
「しかしその、子供だましな妖精博士の知恵がいると」
「ああそうだ。メロウのことはもちろん、ピクシーだのシルキーだの、本当に[#「本当に」に傍点]どういう存在なのか、誰にわかるという? だが、妖精のことなら何でも知っているというのがフェアリードクターだ」
「で、この宝探しの適任者は? 老人ばかりだと言うが、あなたのことだ。ぬかりなく、使えそうな人物を見つけたんだろう? そのフェアリードクターとやらを」
どうせ見抜かれていると、ゴッサムは観念する。
「……ああ、ああ見つけた。スコットランドのエジンバラ近郊の町に……」
青年は、まだ見ぬ恋人の消息でも聞くように、やわらかな笑みを浮かべながら耳を傾けていた。
ゆっくりと、ピストルをおろす。ゴッサムは安堵《あんど》の息をつく。
が、次の瞬間、薄暗い実験室に、無情な銃声が響きわたった。
* * *
妖精に関するご相談、よろず承ります。
妖精博士《フェアリードクター》、リディア・カールトン
家の前に立てられた手書きの看板は、今日も通りすがりの人々の失笑を買っていた。
「母さん、妖精って本当にいるの?」
「おとぎ話よ。いるわけないじゃない」
「いいえ、いるわ」
垣根《かきね》から身を乗り出し、リディアは通りかかった母子の会話に口をはさんだ。
「妖精はね、見えなくてもちゃんといるの。寝る前に、コップに入れたミルクを窓辺に置いておくと、ブラウニーがやって来るわよ」
にっこりと、子供に笑いかける。しかし、立ち止まりかけた子供の手を、母親が強く引いた。リディアをキッとにらみつけ、足早に立ち去る。
あのおねえさんはおかしいのよ、とか何とか、言い聞かせているのだろうと思いながら、リディアは頬杖をつきつつ母子の背中を見送った。
「リディア、いくら言ったって無駄《むだ》さ。妖精が見えない奴は一生見えない。信じない奴は、妖精に蹴られたって気のせいだと思う。まあのんびりやれよ」
庭木の枝に寝そべっている、長毛の灰色猫がそう言った。
言葉を話し、二本足で歩くその猫は、リディアの友人だ。首にネクタイを結び、毛並みの乱れを常に気にするほど身なりにうるさいが、よいしょと身体を起こしへそのあたりをかく姿は、オヤジくさいとリディアは思う。
「ねえニコ、どうにかして妖精博士《フェアリードクター》の仕事を理解してもらう方法はないものかしら」
「そうは言ってもなあ。フェアリードクターがあちこちにいて、妖精がらみのトラブルが日常的に起こって、人々に知恵を求められた時代は終わったのさ。今はもう、十九世紀もなかばだぜ」
「でも、妖精はいなくなったわけじゃないわ。人のそばにいて、いいことも悪いこともするのに、誰もが無視してるなんておかしいと思わない? 見えないってだけで、どうしていないことになってしまうの?」
力を入れて語ったとき、垣根の外からおずおずとした声がかかった。
「あの……、郵便ですけど……」
郵便配達の若者は、ひどく警戒した様子で、垣根越しに手紙を差し出した。
自在に姿を消せる妖精猫は、とっくに消え失せていた。声を張り上げてひとりごとを言っていたように見えただろうか。
「あ、ひとりごとじゃないのよ。今そこに猫がいたの」
リディアは取り繕《つくろ》おうとしたが、郵便屋は引きつった愛想《あいそ》笑いを返す。
「いえ、本物の猫じゃなくて、ちゃんと話せる猫……」
説明しようとするものの、どう言っても頭がおかしいと思われそうだ。そのうえ彼女は、郵便屋のバッグにもぐり込もうとする小妖精《ブラウニー》を見つけ、思わず声をあげていた。
「こらっ、何してるの! 手紙にいたずらはやめなさい!」
わらわらとブラウニーが逃げ出せば、もともと郵便物でいっぱいになっていたバッグから、手紙がいくつかこぼれる。
「……ごめんなさい。ブラウニーってばほんと、いたずら好きで」
拾い集めた手紙を差し出す。硬直しながら受け取った郵便屋は、逃げるようにリディアの前から立ち去った。
「またやっちゃったわ」
はあ、とため息をつく。
どのみちすでに、リディアはカールトン家の変わり者娘として有名で、人間の友達はいない。妖精が見えて、彼らと話ができることを隠そうとしなかったためだ。
開き直って妖精博士《フェアリードクター》を名乗り、自分の能力を役立てたいと考えているが、今のところ彼女の熱意は空回りしている。
「何だよ、新入りの郵便配達員に退《ひ》かれたくらいで落ちこむなよ」
家の中へ入っていくと、今度はニコは、ソファに腰かけ新聞を広げていた。
「おまえのせいよ」
むっとしながらリディアは返す。
郵便屋の青年に興味があるわけではないが、リディアくらいの少女たちと彼が、楽しそうに談笑しているところはよく見かけていた。変化の少ない田舎町に、新しくやってきた若い男性は、それだけで少女たちに注目されている。
リディアがほんの少し期待したのは、彼女の噂《うわさ》を知らない人なら、ふつうに話をしてくれるかもしれないということだったが、結局早々に、変わり者だと印象づけてしまったようだ。
人から理解されないことを、リディアはそれほど淋しいと思わずに来た。幼い頃から妖精たちと遊んだりケンカしたりと忙しかったからだ。けれど彼女も十七歳、年頃の少女だ。世の男性にことごとく避けられてしまうのは、少々悩むべき事態だった。
「ふーん、お尋《たず》ね者だってよ」
ニコはさっと話題を変えた。
ソファで足、いや後ろ足を組み、前足で新聞を広げている猫の姿を、町の人たちに見せてやりたいと思う。そうすれば、世の中は未知の存在がまだまだいると、気づいてくれるのではないか。
「ロンドンの精神科医、ゴッサム氏宅を襲《おそ》った強盗犯、主人に重傷を負わせた上、大金を奪って逃走中」
「まあ、ロンドンの事件がこんな田舎町の新聞にまで載ってるの?」
「逃走してるからだろ。それに、被害者の息子が、報奨金《ほうしょうきん》を出して犯人を捜してる。アメリカで百人は殺してる連続強盗犯に似てるって。二十代前半、金髪に……」
凶悪そうな似顔絵も載っていたが、それよりもリディアは、たった今届いた葉書に気を取られた。
「ちょっとニコ、これ父さまからの葉書よ。ロンドンへ来ないかって言ってるわ。復活祭《イースター》を一緒に過ごそうって」
「めずらしい。クリスマス休暇《きゅうか》だってなかったのにな」
リディアの、唯一の家族である父は、博物学の教授だ。現在はロンドン大学で教えている。
自然界に存在するあらゆるものの種類や性質を調べ、分類するというのが博物学だが、研究に熱中するあまり、休暇があれば収集や観察に精を出し、どこへでも出かけていく父からの、久しぶりの手紙だった。
「行くのか? ロンドンは物騒《ぶっそう》だぜ」
「そうね。でもどうせ、大物強盗に会ったって、あたしには大金なんてないもの」
*
リディアの母は、妖精博士《フェアリードクター》だった。父と結婚するまでは、北部の島に住んでいて、村人たちに持ちかけられる妖精に関する相談に乗りながら、中世から幾世紀《いくせいき》を経ても、ほとんど変わらない暮らしをしていたという。
しかしそれも、二十年以上も前の話。
今でも、大英帝国に属しながらも辺境の島々では、独自の文化を保った生活をしているというが、リディアは母の故郷へ行ったことはない。
余所者《よそもの》である父と結婚することで、母は故郷を捨てたのだという。リディアが行っても、きっと歓迎されないだろう。
幼い頃に亡くなった母のことは、わずかしか覚えていないが、母に語り聞かされた妖精の話は不思議とよく覚えている。妖精の種類や習性、独自の決まりごと、つきあい方、リディアが母から受け取った遺産だ。
だから母のように、一人前のフェアリードクターになろうと心に決めた。妖精が見えるということを、恥じたり隠したりしたくなかった。
変わり者だったって、べつにいいじゃない。
妖精が存在する限り、きっと、フェアリードクターを必要としてくれる人もいるはずだから。
留守宅を家つきゴブリンにまかせ、リディアは父の元へ向かうべく、ニコとともに港へやって来たところだった。
家の前の看板には「しばらく休業します」と書いてきた。不都合に思う人は今のところいないだろう。
蒸気船がいくつも停泊している波止場《はとば》は、積み上げられた荷の隙間《すきま》を歩く乗船客でごった返していた。
ここから船に乗って、ロンドンへ向かう予定だ。
ニコは、まるでふつうの猫のように、リディアのスーツケースの上に乗っかっていた。
「自分の足で歩きなさいよ。重いんだから」
「四つんばいで歩くのは、疲れるんだよな」
そう言って、わざとらしくミャーと鳴いた。
「失礼、ミス・カールトン?」
声をかけられ、リディアは立ち止まる。
見知らぬ男が、軽く帽子を上げて微笑《ほほえ》んだ。
「どうもはじめまして。あなたの父上にはいつもお世話になっています、ハスクリーと申します」
「ええと、父の同僚の方?」
「ええ、大学で助手を務めています。今日はお嬢《じょう》さんをお迎えに来ました。ロンドンまで、おひとりではご不便でしょう?」
丁寧《ていねい》な話し方をする。年の頃は二十代後半くらいだろうか。紳士的な人だと感じた。
「わざわざ、あたしを迎えに来るように父が? それじゃあ職権《しょっけん》濫用《らんよう》ですわ」
「ご心配なく。大学の用件でエジンバラまで来たものですから。お宅へ使いをやったのですが、すでにお留守だったので、行き違いになったかと心配していました」
父にしては気が利くわ、とリディアは思った。
研究以外には、子供みたいにおっとりのんびりしていて、まるで気のまわらない人なのだ。
「ありがとうございます、ハスクリーさん。それにしても、あたしがカールトンだって、どうしてわかったんですか?」
「ひとり旅のレディは、なかなか目立ちますよ」
たしかにそうだ。それもリディアくらいの、未婚の若い娘が、ひとりで船に乗るなんてそうそうない。だいたい彼女がひとりで暮らしていることすら、それなりの階層の家庭ではあり得ないから、ますます変わり者のレッテルを貼られてしまうのだが、あの家には家政婦《ハウスメイド》が居着かないのだからしかたがない。
夜ごと、妖精たちが騒ぐ家なのだから。
「じつのところ、髪の色が錆《さび》……いえ赤茶色だとしかわからなかったもので、助かりました」
錆色、と彼が言いかけてやめたのは、そんなふうに陰口をたたかれることを日ごろ気にしているだけに、リディアは少し落ちこんだ。
たしかに、くすんだような赤茶はそんな色合いだし、自分でもコンプレックスに感じている。
父が彼にそう言ったのだろうか。むろん父は、年頃の娘ならひどく気にする些細《ささい》なことなど、気づくはずもない鈍感な人だからしかたがない。
ともかくリディアは、この親切な紳士にはなんの落ち度もないと思い直し、微笑んだ。
髪の色をとりたててほめることはできないとしても、今のところハスクリー氏は、リディアをふつうの少女だと思っている。だからレディとして扱ってくれているし、それでじゅうぶんではないか。
けれど、やはり妖精話をしたら変わるのだろうか。とはどうしても気になってしまうことだった。
表向きは態度を変えなくても、変わり者だと思うのだろう。
そんなふうに考えれば、結局リディアは、自分の方から、他人に対して一歩引いてしまうのかもしれなかった。
どう思われても、あたしはあたし。
気を取り直して自分に言い聞かせ、荷物を彼に預ける。
リディアには重いスーツケースを軽々下げて、彼が歩き出すと、ケースから飛びおりたニコがささやいた。
「おい、信用するのか? あの先生にかぎって、こんなふうに気がまわるなんておかしいぞ?」
「じゃあいったい、何の目的があってあたしに近づくっていうの? 身代金《みのしろきん》目当ての誘拐《ゆうかい》なら、もっとお金持ちをねらうでしょ? うちときたら、少しでも余裕があれば、父さまが収集と研究につぎ込んじゃうのよ」
ニコは不服そうだったが、反論の余地がなかったのか黙り込む。
警戒する必要もなく、ハスクリー氏はまっすぐに、リディアが乗る予定だった客船へと乗り込んだ。
思いがけなかったことはといえば。
「あの、あたしのチケットはこんな上等の個室じゃないんですけど」
案内された船室が、ずいぶん広い部屋だったのだ。
「ええ、教授が予約を入れたので。こちらをお使いください。私は隣の部屋にいますので、何かあったらいつでも呼んでくださいね」
それだけ言って、彼は立ち去る。
結局、何の問題も危険もなさそうだった。
「ほらニコ、勘《かん》ぐり過ぎよ」
リディアは広々としたベッドに身を投げ出す。
「出航までは、まだ時間があるわね」
そうつぶやいたとき、部屋の片隅で不自然な物音がした。
「……何?」
クローゼットの方だったと、そっと近づいてみる。思い切って、勢いよく戸を開く。
が、中は空っぽだ。
ほっとしたそのとき、背後で気配が動いた。
カーテンの影から突然出てきた人影は、リディアの口を手でふさぎ、後ろから羽交《はが》い締めにする。
力いっぱいもがこうとするが、動けない。ニコが背中の毛を逆立ててうなるが、しょせんは猫だ。役に立たない。
「助けてくれ、お願いだ……」
と、侵入者《しんにゅうしゃ》は、リディアの耳元でささやいた。
助けてくれって、こっちがお願いしたいわよ。そう思いながらも抵抗する。
「静かに、聞いてくれないか。あの男は、……きみをここへ連れてきた男は、悪党の手先だ。このままじゃ、きみもひどい目に遭《あ》うよ」
意外にもおだやかな、品のある口調。それに、ハスクリー氏が悪党の手先?
リディアが力を抜くと、もう叫んだりしないと判断したのか、侵入者の男は、彼女の口元から手を離した。それでもまだ、リディアのことはつかまえたままだ。
「どういうことなの? あなた、誰?」
「あの男につかまって、監禁《かんきん》されていた。どうにか逃げ出し、この部屋に身をひそめたんだ。そうしたら奴が、ここへきみを連れてきた。奴は僕が逃げたことにじき気づくだろう。でもきみだって危険なんだ。だから力を貸してほしい」
「わけがわからないわ」
「時間がないんだ。出航までに抜け出さないと。あとでゆっくり説明するから、信じてくれとしか言えない」
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ようやく解放され、リディアは彼に向き直った。
ひょろりと細身の青年だった。乱れた褐色《かっしょく》の髪に無精《ぶしょう》ひげ、貧相な服装に惑わされないようよく見れば、顔つきは若く、二十歳そこそこくらいなのではないかと思われる。
いかにもだらしのない格好なのに、不思議と品のある顔立ちをしている。その力強い視線は堂々とリディアを見据え、あまいような灰紫《アッシュモーヴ》の瞳で困惑させた。
「またつかまったら、あなたはどうなるの?」
「殺される」
言葉よりも、彼の両手首に血をにじませた、縄《なわ》の痕《あと》が恐ろしかった。首筋にも、ナイフを突きつけられたかのような、細い傷がいくつもある。
「この部屋は通路の突き当たりにあるだろう? ハスクリー、ってのは偽名だろうが、あの男の部屋の前を通らないと、どこにも行けない。そうやって、きみをここに軟禁《なんきん》するつもりだ。外へ出れば、あの男と一緒にいる弟たちが君のことを見張る。奴らは八人兄弟で、今船にいるのは六人、どいつも体格のいい、力技が得意な連中だ。ハスクリーはその長男、団結して悪事を働いているんだ」
彼は足音を忍ばせ、ドアの方へ歩み寄った。
「そっと抜け出そうとしても、ドアに仕掛けた糸が引かれて、きみがドアを開けたことはすぐ、隣の部屋にわかるようになっている。きみのことはおそらく、眠らせるかどうにかして、適当な港でおろすつもりだろう」
よくよく見れば、ドアノブのところに細く透明な糸がきらりと光った。
それでじゅうぶんだ。父に頼まれた助手が、こんなことをする必要はない。
リディアは腕を組み、青年の前に立った。
「で、どうすればここから逃げ出せるの?」
ハスクリーのいる部屋の前で、リディアは大きく息を吸いこんだ。
自室のドアを開けたからには、ハスクリーはすでに、リディアが廊下に出たことを知っている。戸を一枚|隔《へだ》てたすぐそこで、聞き耳を立てているのかもしれない。
そして彼女は、目の前のドアをたたく。
ややあって、ハスクリーが顔を出した。
「おや、どうかしましたか、お嬢《じょう》さん」
「じつは、部屋の中で奇妙な音がするんです。クローゼットの中に何かいるみたいな……。気味が悪いので、見ていただけません?」
顔色が微妙に変わった。ハスクリーはあわてた様子で、部屋の中にいる仲間に声をかける。
「おい、隣の部屋だ。間違いない」
何が間違いないのか、リディアに不審《ふしん》がられるかもしれないと気にする余裕はなかったのだろう。
「お嬢さん、変質者かもしれません。危険ですからここでじっとしていてくださいね」
部屋の中には、ハスクリーを含めて、たしかに六人の屈強《くっきょう》そうな男がいた。
彼らがそろって、慎重にリディアの部屋の中へ消えるのを見計らって、廊下の柱に身を隠していた青年が、ドアの前をすり抜けた。
「行こう」
いかにも自然に手を取って、駆け出す彼に、リディアもついていく。
「ニコ、ついてきてる?」
姿を消しているニコの、しっぽだけが一瞬見えた。
「おい、逃げたぞ!」
声が聞こえる。
早々と気づかれてしまい、リディアの手を引いている青年の舌打ちが聞こえた。けれども彼は、そのまま階段を駆け下りる。
そのとき、デッキの柵《さく》を乗りこえ、追っ手がひとりこちらへ飛びおりた。
ハンドバッグをつかまれ、リディアは悲鳴をあげた。
青年が回り込み、男の足元を払う。
リディアのバッグをつかんだまま、男は手すりにぶつかり、勢いあまってそのまま海へ落ちてしまう。
「あたしのバッグ……」
「振り返っちゃだめだ」
再び、腕を引かれるまま、リディアは走るしかない。
デッキを駆け抜け、また階段を下り、橋げたを通過してようやく船外へ出るが、それでも立ち止まることなく波止場《はとば》の人込みをかきわけながら彼は急ぐ。
息切れして苦しくなりながら、必死だったリディアは、ただついていくだけだった。
ようやく立ち止まったときには、ふたりして床に倒れ込んだ。
荒い呼吸をくり返し、激しく打つ鼓動《こどう》をなだめ、やがて落ち着いてきたリディアは、自分の伏せている床が、ずいぶんふかふかとしていることに気がついた。
なんてやわらかい絨毯《じゅうたん》。そう思いながら頭を動かし、ゆっくりと見まわせば、そこは貴族の館かというような、豪華な家具や調度品に囲まれた室内だった。
「……ここ、どこ?」
「船だよ」
すぐそばで、まだ仰向けに倒れたままの青年が答える。
窓の外は海だ。波止場も見える。たしかにここは船の中で、さっきとは別の客船のようだが、こんな特別室に無断で入り込んだりしたら叱られてしまうのではないか。
「ねえ、ちょっと」
「悪いけど、しばらく休ませてくれ。……体力の限界……」
そのまま彼は目を閉じると、もうリディアがいくら声をかけても、ネジがきれたみたいに反応しなくなった。
しかたなく、リディアはひとり立ちあがる。
なんとなく、部屋の中を確かめる。広めのリビングに、寝室が三つ、それから書斎、洗面室にシャワーもついている。
「すごい……、こんな船室もあるのね」
部屋の外へ出なかったのは、乗務員に見つかりたくないのと、もしかしたらハスクリーたちが追ってきているかもしれないと気になったからだった。
「胡散臭《うさんくさ》いよなあ」
ニコの声だ。壁を飾る大きな絵を眺めながら、ヒゲをひくつかせる。
「そいつ何者だ?」
「さあ、でもあたしたち、おかげでだまされずにすんだわ」
「どうだかねえ。そいつにだまされてんのかもよ」
そうなのだろうか。リディアは少し不安になる。けれど、ハスクリーと名乗った男が不審者《ふしんしゃ》だったのはたしかだ。大学で働いている助手の船室に、弟だとしても屈強な用心棒ふうの男が何人もいる必要は、どう考えても思い浮かばない。
「彼の話を聞くしかないわね」
革張りのソファに腰をおろす。シルクのクッションに身体をもたせかけると、あまりに心地よくて、リディアはついうとうととした。
「おい、起きろよリディア」
ニコのしっぽが頬《ほお》に触れる感触と、水音に我に返る。
思いがけず時間が経ってしまったようで、外は暮れかけ、薄暗くなった室内に、オイルランプの明かりがともっていた。
気がつけば、絨毯に寝転んでいたはずの青年はそこにはいなくて、ドアを開け放したままの洗面室に姿が見えた。
鏡越しに目が合う。リディアは思わず目を見開く。
褐色だったはずの髪の毛は、鮮やかな金髪になっている。無精ひげも剃《そ》ってしまったらしく、前髪を指でかきあげながらにっこりと微笑《ほほえ》めば、別人かと思うほど優雅だった。
「起きたの。なかなかかわいい寝顔だったよ」
「……はあ」
「きみの猫が怒らなければ、もっと眺めていたかったんだけどね」
クッションの上でニコは、知らんふりをしながら後ろ足で耳を掻《か》いた。ふだんなら、そんな猫みたいなまねはしたくないと言っているくせに。
「ていうか、あなたその髪」
「ああ、ちょっと染めてたんだ。地毛だと目立つからね。どのみち、連中にはバレたわけだけど」
濡れた髪を無造作《むぞうさ》に拭く。光沢のある金髪から覗《のぞ》く瞳は、間違いなくあの灰紫《アッシュモーヴ》だ。
その場で彼は、すり切れたシャツを不快そうに脱ぎ捨てた。
「レディの前ですよ、ご主人様《マイ・ロード》」
言いながら部屋に入ってきたのは、褐色の肌の少年だった。たぶん、リディアと同じくらいの年齢かと思われる。けれどやけに落ち着きはらっていて、にこりともしない召使いだった。
というか、召使い? それに、「ロード」?
「これは失礼。どうにもまだ、頭の中がうまく切り替わらないな」
若い召使いは、かかえてきた新しい衣服を彼に着せようとして、傷に気がついたようだった。
「ロード、お怪我《けが》を……」
「かすり傷だよ。どうせ衣服で隠れるから、このまま着替える」
そう言って彼は、召使いの肩に手を置いた。
「悩むな、レイヴン。このくらいのことで、人を殺す必要はない」
殺す? リディアは、不穏《ふおん》な会話に眉根《まゆね》を寄せた。冗談にしても悪趣味だ。
「はい」
と答えた召使いの表情は、冗談に笑うでもなく、主人を傷つけた相手を殺すべきか、本当に悩んでいるのかどうかもわからない。淡々と、慣れた手つきでボタンをとめる。
「ですが、間に合わないのではないかと心配しておりました」
「予定どおりだよ、レイヴン。こちらがミス・カールトンだ」
「ちょっと、どうしてあたしの名前を知って……」
「ハスクリーたちが探していた少女の名前は、リディア・カールトンだ。つまりきみがそうなんだろう」
それから彼は、急に思い立ったように召使いの手を止めさせ、リディアの方へ歩み寄った。
「申し遅れました、レディ。エドガー・アシェンバート伯爵《はくしゃく》です。どうぞよろしく」
手を取って、指に軽く口づける。
呆然《ぼうぜん》とする彼女を、おもしろがるように微笑んだ。
はっと我に返り、リディアは彼の手をぴしゃりとはねつける。
「は、伯爵? あなたが?……信じないわよ。あたしはロンドンに行く用があるの。おいとまするわ」
「もう遅いよ、船は出航した」
「ええっ!」
急いで窓辺に駆け寄ると、すでに陸地は、うっすらとした島影になっている。
「どういうことなの! これじゃ誘拐《ゆうかい》じゃないの! それにあたし、荷物はさっきの船に置いてきたままだし、バッグは落として一文《いちもん》無《な》しだし、この船に勝手に乗り込んだりして、無賃乗船になっちゃうじゃない!」
「心外だな。きみのことはきちんとロンドンへ送りとどけるよ。用が済んだらね。それから、身の回りの物は不自由ないように取り計らうし、ここは僕の船室だ。きみのチケットもちゃんとある」
「じゃ……もともとあたしをこの船に乗せるつもりだったのね? ハスクリーさんにつかまってたとか、ぜんぶお芝居ってこと?」
「あれは本当だ。芝居で自分の身体《からだ》に傷をつける趣味はないよ」
手首と襟元《えりもと》に傷。生々しいそれが目に入れば、リディアは責め立てる勢いをそがれる。しかし。
「奴につかまるしか、きみに近づく方法がなさそうだったからね。なにしろ僕は、きみの顔も特徴も知らなかった」
てことは、わざとつかまった?
「だったら……、髪の毛染める必要ないじゃない」
「ああ、それはね、つかまる意図があったって連中に思わせないためだよ」
リディアはめまいを覚える。すっかり混乱して、肝心《かんじん》の彼の目的を問いただすのも忘れていた。
「レイヴン、何時だ?」
リディアが悩んでいるうちに、さっさと彼は話を変える。
「もうすぐ七時です」
「急がないとディナーが始まる。ああそうだ、きみも着替えた方がいいな。オイゲン侯爵《こうしゃく》夫妻の席に招待されているんだ。デンマーク貴族で、僕をこの船旅に誘ってくれた。紹介なしにはなかなか乗れない船だからね」
リディアを乗せ、そのうえハスクリーが立ち入ることのできない船。ちょうどこの日、この港に停泊している絶好の船に、うまく招かれたなどあり得ない。船に目をつけた彼の方から近づいて、その侯爵夫妻に取り入ったのではないのだろうか。
ひょっとすると、とんでもない男につかまったのかもしれないと思えてきた。
「冗談じゃないわ、ミスター……」
「エドガーと呼んでくれ、リディア」
不信感いっぱいに、にらみつけるリディアにはかまわず、彼は機嫌よく続けた。
「アーミンはどこだ? リディア嬢《じょう》にドレスを」
「ええ、用意してますわ。レイヴン、そのタイはカフスの色に合わないわよ。こちらになさい」
ドレスとネクタイを持って、現れたのは男装の若い女性だった。脚にぴったりとしたスマートを身につけ、少年の召使いと同様、黒い上着を着ている。
髪は肩までしかないが、ひとめで女性とわかるのは、身体の曲線を隠そうとはしていないからだった。
彼女も召使いなのだろうか。
「ロード、どうなさいます?」
「そうだね……、彼女の言うとおりにしよう。でもアーミン、そのドレスはあんまり僕の好みじゃないな」
「エドガーさまが着るわけではありませんわよ」
「わかってるけどね、できればもうちょっと襟元が開いてた方が」
「ディナーの席に下心はいりません。こちらのほうがお嬢さまにはお似合いです」
きっぱりと言い切る。召使いとはいっても、彼女の場合はもっとうちとけた間柄に見えた。
「さ、お嬢さま、こちらへどうぞ」
寝室の方へ案内され、着替えを勧められる。
「あの、自分でできますから」。
人に手伝ってもらうことに慣れていないリディアはそう言った。
がしかし、結局ひとりで着替えられなかったのは、リディアが知るよりもずっとフォーマルなドレスだったからだ。
コルセットやクリノリンから着付け直さなければならず、繊細《せんさい》すぎるリボンやレース、ビーズ飾りに気を使いながらどうにか着せてもらう。
「では髪を結いましょうね」
少しばかり、子供扱いされている。
鏡の前にリディアを座らせ、にっこりと微笑む彼女は、そう劣等感を覚えるほど、女っぽい色気のにじむ人だった。
きりりとした顔立ちだが、けっして男性的ではない。そっけない短髪も、女らしさをそこなわない。
しみひとつない白い肌、髪も瞳も黒に近いブラウンで、くっきりした眉に花びらのような赤い唇。
鏡に映るリディアは、抜けるような色白とはいえず、赤茶の髪はぱっとしないし、金緑色の瞳は個性的すぎて人を不安にするらしい。目鼻立ちはくっきりしていて、美人だと父だけは言ってくれるが、せっかちな性格も災いしてきつい印象に輪をかける。
くわえて『変わり者』だから、女の子として見られたことがない。
十七にもなっておろしたままの髪は、たしかに子供っぽいとわかっているが、いつもうまく結えないし、誰も気にしやしないのだ。だからリディアがひとりでできるのは、せいぜい三つ編みでまとめるくらいだった。
「アーミン、時間だよ」
外から声がかかる。
「ただいま。さ、できましたわ」
ぼんやりしている間に、鏡の中にいるのは見慣れない清楚《せいそ》な令嬢《れいじょう》になっていた。が、それも一瞬目にしただけで、自分の姿をゆっくり検分するひまもなく、リディアは部屋の外へと送りだされた。
「いいね、ますます美人さんだ」
「からかわないで」
「なぜ? もう少し笑った方がかわいいと思うけどな」
「何のために笑わなきゃいけないの?」
「僕のために」
なんなの、この人。リディアは正直に、不快感を顔に出す。
「……考えてみれば、どうしてあたしがディナーに同席しなきゃいけないのよ」
しかし彼は、しれっと言った。
「だって、おなかすいてるだろう?」
それはそうだ。昼食には駅馬車の待合所でパンをかじっただけだった。
「じゃなくて、ひとりで食べた方が気楽だってこと」
「もったいない、それじゃあきみを見せびらかす機会がない」
「はあっ? あたしはね、あなたのアクセサリーじゃないわ」
「もちろん、主役はきみだ。僕は引き立て役。気に入ってもらう自信はあるよ。エスコート役の不手際《ふてぎわ》が女性の価値を下げるごとはままあるが、うまくやれば、お互いをより魅力的に見せることができる」
結局自分のためじゃないの。
反発心を覚えながらも、ダイニングルームの前まで来てしまっていた。
ドアマンがうやうやしく扉を開ける。慣れきったレディファーストの作法で促《うなが》されれば、結局リディアは扉の中へと進み入る。
「いいかい、リディア。今からきみは、僕を見せびらかす。そのつもりで」
ずいぶん傲慢《ごうまん》なせりふだ。
けれどそれは、口先だけではなかった。
広いホールに、波のように音楽が漂う。シャンデリアと銀器と、貴婦人方の宝石のきらめきと。いくつものテーブルに、それぞれ談笑の花が咲く。
そんな中で戸惑うリディアを、そつなくエスコートするエドガーの振る舞いは、どこから見ても申し分のない貴族だった。
ぼろぼろの格好をしていたときは、一見貧弱にも思えた痩身《そうしん》は、仕立てのいいイヴニングコートをまとえば、労働とは縁がない優雅な身分にぴたりとはまる。
真っ白な高襟《たかえり》にはカスケードに結んだタイ。ボタンホールは三色スミレ。
鋭さとあまさをあわせ持つ顔立ちも、輝くばかりの金髪も、これほど貴族らしさをそなえた人はそういないだろうと思わせた。
リディアが感じていることは、誰もがいだく感想だったに違いない。若き伯爵《はくしゃく》としてエドガーは、老|侯爵《こうしゃく》夫妻はもちろん、同席した仰々《ぎょうぎょう》しい名前の面々を魅了した。
そしてリディアはというと、友人と紹介されたものの、特に気を使うこともなく、黙って料理を堪能《たんのう》しているだけでよかった。
エドガーの話によると、リディアはエジンバラの祖父母のもと、小学校で慈善《じぜん》活動に精を出す良家の子女で、これからリーズへ引っ越した幼友達の結婚式に出席するのだとか。若い娘の小旅行を厳格《げんかく》な父親はなかなか許可しなかったが、エドガーが往復付きそうと申し出て、ようやく許しが出たのだとか。
よくもまあ、そんなに話を作るものだ。
「それにしても、伯爵はご友人思いなんですのね」
「美しい女友達の気を引くためなら、誰だって熱心になるってことだ。なあ伯爵?」
「わかっていただけますか? でも彼女は、いつまでたっても友達という言葉しか、僕に許してはくれないのですよ」
今日会ったばかりじゃないの。
だが彼の、一途《いちず》な若者のふりは、孫を見るような視線を送る侯爵夫妻はもちろん、年長者たちにういういしい印象を与えることに成功している。
「あら、もったいないわ」
「船旅は日常を離れるいい機会ですもの、海の上でなら、どんな女性も少しくらいはあまい気持ちになるというもの。ねえ、お嬢さん?」
「そういうものかな、リディア」
やさしげな声を向けられ、本当に彼に好意を寄せられているかのような、奇妙な気分におちいる。
「……さあ、どうかしら」
悪い気はしないようでもあり、半分腹立たしくもあり、愛想なくリディアは答えるが、少し淋しげに彼は肩をすくめた。
それが周囲のあたたかい同情を集める結果になるのも、計算済みだ。
「彼女の父上に信頼されている身としては、これ以上|口説《くど》けないのがつらいところですよ」
魅力的な伯爵に想いを寄せられながら、羽目をはずしたりしない身持ちの堅い娘。エドガーはリディアを、聖女のごとく演出してしまう。
彼を見せびらかすとはこういうことか。
隣にいるだけで、別のテーブルに着く令嬢たちからも、羨望《せんぼう》の視線が注がれる。
でもそれは、リディアにとって意味はない。この場でだけは心地よくても、エドガーはもちろんリディアの友人ではなく、にせ物の宝石で飾り立てられているようなものだ。
ならエドガーは何のために、にせ物の女友達で自分を飾るのだろう。ゲームを楽しんでいるかのようでもあるけれど、これがゲームなら、彼自身が盤上の駒《こま》に見えてしまう。盤をおりれば、何者でもない存在。
伯爵だというのは、本当だろうか?
「ああそういえば、アシェンバート伯爵、あなたはあの、高名な青騎士|卿《きょう》の血筋なんだってね」
テーブルの端に座っていた男が言った。ついさっき、チョーサーを熱く語っていた文学者だ。
「高名とは言い過ぎです。ほとんどの英国人にとって、青騎士卿はハムレット同様架空の人物ですよ。彼ほど有名でもありません」
「まあ、だったら青騎士卿って、実在しましたの? F・ブラウンの小説なら知っていますけど、とても不思議な物語だったわ」
青騎士卿の物語は、リディアも知っていた。エドガーがその血筋だという、思いがけない話に興味を惹《ひ》かれ、耳を傾けた。
問いかけた貴婦人に、学者が解説を始める。
「ええマダム。小説のモデルとなったのは、エドワード一世に忠誠を誓った騎士。彼は王がまだ皇太子だった頃から、ともに十字軍を率いた人物です。妖精国から来たと言い、また数々な異国の冒険譚《ぼうけんたん》を語り、人々を魅了したとか……。ブラウンの創作は、青騎士卿の家来たる妖精たちの働きがたのもしく、不可思議な幻想小説に仕上がっていますね。でも、妖精の家来はともかく、エドワード一世の側近に、青騎士卿と呼ばれた人物は存在したのですよ」
エドガーは黙ったまま、やわらかく頷くのみで、学者に好きなように語らせていた。
「現に青騎士卿は、エドワード一世によって英国伯爵に叙《じょ》せられています。彼が妖精国の領主であり、その忠誠を永遠に受けることによって、イングランド王が妖精の棲《す》む幻の領土にも君臨するというのは、英国流のユーモアではありませんか」
「違うわ。青騎士卿は本当に、妖精族の領主だったのよ」
リディアは思わず口をはさんでいた。
皆の視線が注がれる。ああまた、バカにされるんだわ。そう思いながらも、学者の話に反発を覚えれば、黙っていられなかった。
「ええと……だって、ミスター、青騎士卿の実在は信じるのに、妖精国を冗談だと決めつけるのはどうしてですか? 同じように言い伝えられているのに、片方は真実で片方は作り話だなんて、おかしいわ」
「お嬢さん、妖精話は荒唐無稽《こうとうむけい》すぎるが、青騎士卿に爵位を与えたという文書が存在するからには、彼の実在は疑いようもないのだよ」
「そうですね。でもその文書には青騎士卿について、イブラゼル伯爵、と明記されていますよ。イブラゼルとはゲール語で、海の彼方にある幻の妖精郷。となればこれも真実。当時の人間が、妖精国の存在を冗談と考えたでしょうか」
エドガーはにっこりと笑う。
助けられた、のだろうか。
リディアに向けられていた周囲の不審《ふしん》げな視線は、あっさりとほどけていた。
「たしかに、昔の人は妖精も悪魔も、存在を疑わなかったそうですもの、エドワード一世もそうだったのでしょうね。でしたら、伯爵ご本人にうかがいたいわ。妖精国に領地をお持ちですの?」
「もちろん、先代から譲り受けました」
さらりと言ってのければ、それこそ英国流のユーモアと受け取れる。
「あら、招待していただきたいわ」
「連れて帰ることができるのは花嫁だけと、先祖代々決まっているのですよ」
「まあまあ、そんなふうに口説かれたら、リディアさんが妖精の国を信じないわけにはいかないのもわかりますわね」
「てことは、少しくらいは脈がある?」
エドガーはまた、リディアに慈《いつく》しむような視線を送った。
冗談と割り切った会話。けれども誰も、妖精を否定しない、奇妙な空間。
ちょっとしたごっこ遊びのよう。
リディアはバカにされたりせず、エドガーの話術ひとつで、あたたかい目で見守られる。
自分では好きになれない、くすんだ赤茶の髪を、くせがなくてうらやましいとほめられ、魔女や妖女を連想させるらしい緑の瞳も、ペリドットにたとえられる。
上質のお酒と、シャンデリアのきらめきと、香水の香りに酔う。
妖精族を治めるという人間の領主、青騎士伯爵の末裔《まつえい》は、もしかしたらリディアを理解してくれるのだろうかなどと、ぼんやりと考えていた。
「……なんだか、一生分のほめ言葉を聞き尽くしたような気分だわ」
デッキで風にあたりながら、リディアはつぶやいた。
海は暗く、何も見えない。蒸気船の白い煙が、月を覆うようにもやもやと浮かんでいる。
「まったく、あの召使いども、おれの食事だと皿に入れたミルクなんぞ出しやがった。猫じゃあるまいし、皿からミルクを飲めるかっての」
デッキチェアにふんぞり返り、灰色の猫にしか見えないニコはスコッチを舐《な》めた。つまみは魚のフライだ。
「なあリディア、明日の朝はパンケーキとベーコン、熱いミルクティを、ちゃんとした食器で出せと言っといてくれよ」
「自分で言いなさいよ、しゃべれるんだから」
チッと彼は舌打ちした。
「おれが言ったってな、たいていの人間は聞こえないふりをしやがる」
そりゃあ、猫がしゃべったなんて、認めたくないだろうから。
「ところで、あいつの目的は何だったんだ?」
「まだ聞いてない。でも彼、青騎士伯爵の血筋を名乗っているの。そのことと関係があるんじゃないかしら」
[#挿絵(img/star sapphire_045.jpg)入る]
「青騎士……っていうと、妖精国に領地を持ってるって伝説のあれか? なら伯爵《はくしゃく》さまは、あんたのこと、フェアリードクターとして協力を求めてるのかもしれないわけだ」
つまり、リディアがフェアリードクターと名乗っていることを知っているのだろうか。
けれど、酔いが醒《さ》めはじめた頭では、彼が妖精族の領主で理解者だなどとは思えない。もっと現実的な、策士《さくし》タイプに見える。
「でもまあ、かかわらない方がよさそうな気がするけどな。ハスクリーって奴と伯爵さまは、敵対してるわけだろ。どっちも色男ぶりやがって。たいしたことねーってのに」
「エドガーは、ハンサムだと思うわ」
「ありがとう」
背後からのその声は、当人だった。深い考えもなく言ったことだが、本人に聞かれるとは思わなかったから、リディアは赤面する。
「いえあのっ、これはっ、一般論を客観的に述べただけよ! だからって、あなたに好感を持つかどうかは別問題ですから!」
「そうだね。きみをなかばむりやり、この船に乗せたわけだし、簡単に心を開いてもらえるとは思っていない。ところで、誰と話してたの?」
「え、……それは」
ちらとニコの方を見る。さっさと彼は、猫らしくまるくなっている。
「おかしい? 猫を相手にひとりごとなんて」
リディアはもう開き直ることにした。
「どうして? 動物と気持ちを通わせられるなんてすばらしいよ」
ぜったいにそんなこと思ってないわ。と考えるものの、エドガーはわずかにもからかうような表情を見せなかった。
ただ、ニコの乗っかっているデッキチェアのそばにある、スコッチのグラスに気づいたらしい。
「飲み直してたの? やっぱり気疲れした?」
少し酔ったから風にあたると言って席を外してきたのに、飲み直すだなんて酒乱みたいじゃない。
恥ずかしくて、そうして知らん顔しているニコに腹を立て、リディアはヤケになりながら言った。
「あ、あたしじゃなくて、ニコが飲んでたのよ。こいつってば、酒飲みだし行儀《ぎょうぎ》も態度も悪いし、そのくせネクタイの趣味と毛並みのツヤにはうるさい猫で、皿からミルクは飲めないとか、朝食はパンケーキとベーコンとミルクティがいいとか、無茶ばかり言うんだから!」
さすがにエドガーは、不思議そうにリディアを見た。
ああそう、やっぱりあたしは、わざわざ青騎士|卿《きょう》の子孫を名乗るこの人から見ても、単なる変わり者なのね。そう気づくとため息がもれる。
「おかしかったら笑っていいのよ。あたしに、何をさせたかったのか知らないけど、このとおりどうかしてるの。次の港でおろして……」
思わず言葉につまったのは、急に彼がリディアに歩み寄ったからだった。
アッシュモーヴの瞳が、おだやかに彼女を見おろす。ランタンの光だけでも、金色のまつげがくっきりと見える距離だ。
「な……何よ」
「妖精博士《フェアリードクター》は、普通の人に見えないものが見え、聞こえない声をも聞くという。なるほど、きみのその、淡い緑の瞳は、世界の謎さえ見透かしてしまいそうだ」
やはり彼は、リディアがフェアリードクターだと知っていたようだった。
「大げさだわ。そんなにたいしたものじゃないし」
「いや、光を透かすと、虹彩《こうさい》が金の花みたいに輝くんだね。ますます神秘的だ」
だからこそ魔女めいてみられる瞳を、他人にはじめてほめられ、リディアは正直うろたえた。
「……だいたいあなた、本当に青騎士卿の子孫なの? だったらあなたも、妖精が見えるのかしら? でなきゃ自分の領地へ行けないわよ」
「そうなんだ。けれど、先祖が持っていた境界を行き来する能力も、妖精と語らう言葉も、世代を経て失われていった。僕が受け継いだのは、伯爵の称号だけ。父も祖父も、その前の世代も世界中を旅しながら外国で暮らしてきた。ようやく僕は英国に戻ってきたけれど、女王|陛下《へいか》にご挨拶《あいさつ》しようにも、青騎士伯爵を継承《けいしょう》するあかしの、エドワード一世に贈られた宝剣がない」
言いながら、エドガーがさらに距離をつめるものだから、リディアは少しずつ後ずさる。
「ほ、宝剣?」
「三百年ほど前の当主、ジュリアス・アシェンバートは、自分の領地のどこかにそれを隠したのち、長い旅に出たまま異国で死んだ。隠し場所は謎めいた散文で記され、妖精が守っているとか、妖精に関するいろいろな手順があって、もはや不思議な力を失った僕には理解しきれない」
「領地って、妖精国?」
「人間の住む土地にも、領地や城はあるよ。爵位とともに拝領したもの、手柄を立てて与えられたもの、譲り受けたもの」
「それで、フェアリードクターを……」
「けれども問題はそれだけじゃない。宝剣を飾っている、大粒のスターサファイア、それをねらっている者がいる」
「じゃあ、それがあのハスクリーさんなの?」
「そう、きみをさらおうとしたあいつ。奴は宝剣が爵位を証明することは知らないが、同じ宝をねらうものとして僕に殺意を持っている。僕が死ねば伯爵家は絶える。奪われる前に見つけ、伯爵家の地位をはっきりさせなければならない。リディア、僕に力を貸してくれ」
また一歩、下がらねばならなくなったリディアは、足元に段差を感じ、不意にバランスを崩した。
倒れそうになる。階段だと気づく。
そのときさっと、エドガーの腕が背中にまわされた。力強くささえ、引き寄せる。リディアは反射的に、彼に抱きつく。
「気をつけて。暗いからね」
吐息《といき》のようなささやき。
父親以外の男性と、こんなに密着したことはない。
「は、離してよ」
「このままじゃ落ちるよ」
リディアが彼にしがみつくしかないのを、おもしろがっているとしか思えなかった。
「……いいかげんにして!」
ダンスでもするように軽やかに、リディアをかかえたまま身をひるがえす。階段の手前まで彼女を引き戻すと、少々残念そうに彼は腕をほどいた。
にらみつけるリディアに、不敵な笑みを向ける。きっと、思い通りにならない女の子はいないと思っている。
なんだか腹が立つ。
「あたし、あなたが青騎士卿の後継者《こうけいしゃ》だって信じたわけじゃないの。ニセモノを手伝って、青騎士卿の宝剣を盗む手伝いをするわけにいかないわ。だから」
「断る? それできみは、ここから泳いで帰るかい?」
「海に突き落とすとでも言うの?」
不安になって、リディアは急いで、手すりと彼からさらに離れた。
「まさか。僕はそんな極悪人じゃないよ。ただね、忠告しておくよ。無一文《むいちもん》では、次の港から家へ帰ることもロンドンへ向かうことも難しい。それに、ハスクリーたちは今、きみを血眼《ちまなこ》になって捜しているよ」
つまり、リディアに選択の余地はないということだ。
おもいきり脅《おど》されている。じゅうぶん極悪人じゃないのと思う。
彼は、上着の内ポケットから鍵を取りだした。
「きみの船室。僕と同じフロアの向かい側だ。自由に使ってくれ」
それを彼女の手に押しつけ、薄暗い通路へと消えた。
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サー・ジョンの十字架
十六世紀、エリザベス女王の宮廷に、アシェンバート伯爵《はくしゃく》という人物がいた。青騎士|卿《きょう》の子孫だという彼は、世界中を旅してきた冒険家でもあり、自分が見聞きした不思議な逸話《いつわ》を、宮廷に集まる人々に語った。
幾多《いくた》の話のうち、彼の先祖である青騎士卿の物語を、ひとりの聞き手がまとめた、という形で語られているものが、F・ブラウン著、『青騎士伯爵・妖精国からの旅人』という本だ。これは、リディアもよく知っていた。
母が亡くなってから、父が読み聞かせてくれたたくさんの物語、その中のひとつだ。
これは本当の話だと、父が言っていたのは覚えている。もちろん、妖精の存在を知っているリディアは、少しも疑わなかった。
国をつくる妖精族には、妖精の王がいるものだが、中には人間を王と認めている種族もあるのかと、感心しただけだ。
実在したという青騎士卿をモデルにした創作、おそらくそのへんがこの本についての定説で、妖精に関しては創作だと、当然思われていることだろう。
けれどリディアは、この不思議な物語のどの部分を取っても、あり得ないことではないと思っている。
エドガーの言っていた宝剣に関することも、この物語に記されている。
ラストの部分、青騎士卿がエドワード一世のもとを去るシーンがある。妖精国へ帰ると言うのだ。宮廷には戻ってこないのかと問う王に、
「もちろん王がお呼びになるなら、いつなりと参じます。わたくしはいつまでも王の臣下。けれども妖精国は、こちらとは時間の流れが違います。向こうでの一年が、こちらでの百年にあたる場合もあり、また向こうで数十年を過ごし年老いてもこちらでは数日しか経っていないということもございます。ですから陛下《へいか》、いつ何時《なんどき》わたくしが、またはわたくしの子孫が、陛下のもとに戻ってまいりましても、どうかそれとわかっていただけますように」
すると王は、青騎士卿に自分の剣を与えた。エドワード一世の名において、いつ何時であろうと、イングランド国王は青騎士伯爵を認め宮廷に迎え入れると。
それから何度か、青騎士卿の後継者は、英国宮廷に現れたらしい。
そのうちのひとりが、青騎士卿の物語を書いたブラウン氏と会ったのだろう。
そして今は、エドガーがその末裔《まつえい》だという。
彼が手に入れようとしているのは、伯爵の身分を明かす、エドワード一世の宝剣。それを見つけるのが、リディアに依頼されたフェアリードクターとしての仕事。
「まあいいんでないの? 協力してやれば?」
ニコは今朝から、めずらしく機嫌がよかった。というのも、パンケーキとベーコンの朝食が、きちんと出されたからだ。
「おまえね、昨日は胡散臭《うさんくさ》いって言ってたじゃないの」
「だってそうしなきゃ、文無《もんな》しのまま見知らぬ土地に放り出されるんだろ」
あの脅《おど》しは、本気なのだろうか。
「だけど協力しても、宝剣を見つけられるとは限らないわ」
「前金で受け取っておけばいいさ。せいぜいふっかけてやれよ。あ、金さえもらえばトンズラするって手もあるな」
首にナプキンをかけ、生意気にもナイフとフォークをあやつって、ベーコンを口に入れる猫は、気楽にいいかげんなことを言う。
お金を請求するなら、責任を持って遂行するのが仕事というものだ。しかしリディアが迷っているのは、エドガーが本物の、宝剣の継承者《けいしょうしゃ》かどうかわからないからだ。
とはいえニコの言うように、お金をもらって逃亡でもしない限り、協力を拒否するのは難しそうだ。
「父さまに手紙を書かなきゃ」
リディアは、窓辺の文机《デスク》から、そなえつけの便せんと封筒《ふうとう》を取り出した。
『親愛なるお父さま、ロンドンに着くのが少し遅れそうです。アシェンバート伯爵という方に、妖精のことで依頼を受けたの。あの青騎士卿の後継者だそうよ。本当かどうか知らないけど、仕事を終えるまで解放してくれそうにないわ』
ハスクリーと名乗る男に監禁《かんきん》されかかったことも書こうかと迷った。が、心配させるだけになりそうなのでやめる。
『とにかく、わたしのことは心配しないで。それではお父さま、お身体《からだ》に気をつけて』
宛名を書き、封をしたとき、ノックの音がした。
現れたのはエドガーだ。「おはよう」とさわやかに微笑《ほほえ》む。明るい金髪が朝日にまぶしい。
神さまはこいつをひいきしすぎではないだろうか? とねたましく思うほどだ。
「何か用?」
「これからのこと、打ち合わせをしておこうと思ってね」
我が物顔で部屋へ入ってくる。ソファのひとつに腰をおろす。ついてきた異国人の召使いは、ドアのそばに控えれば微動《びどう》だにしない。
ニコはすでに食事を終え、クッションの上で身体を伸ばしていたため、めずらしい食事姿がエドガーの目に触れることはなかった。
「まず、これを見てくれ」
そばのテーブルに、エドガーはコインを置く。彼と向かい合うようにリディアも座り、コインを手に取った。
「古い金貨ね」
「伯爵家の紋章《もんしょう》が入っている。それに、何か刻んであるだろう? 言い伝えによると、妖精が刻んだ妖精の文字らしい」
「小さすぎてわからないわ」
「フェアリードクターなのに?」
リディアは少々むっとする。
「あのね、こんなの虫|眼鏡《めがね》で見ればいいじゃない。妖精がどうこうって話になると、何でも謎めいたふうに思えて、不思議な力であっという間に解決! なんて期待するのかもしれないけど、フェアリードクターの武器は妖精に関する知識と交渉能力なの。あたしは魔法使いじゃないわ」
「よくわかったよ。で、これが拡大鏡で読みとった写し。今度は読める?」
さっと紙切れを差し出され、リディアはあからさまに眉《まゆ》をひそめた。
最初から出せばいいのに。
そのうえそれは、少々ひん曲がった癖《くせ》のある文字の集まりではあったが、妖精うんぬんに惑わされずに見れば、アルファベットだとすぐにわかったのだ。
「……おもいきり英文じゃない。あなた、あたしを試してる?」
「きみの実力を、僕は知らない。世の中には、たいていの人には見えないのをいいことに、幽霊《ゆうれい》や妖精や未来のできごとについて、自分だけは知っていると言いたがる人種がいる。でもきみは、何でも不思議に結びつけないし、僕には理解できないからといって、いいかげんなことを言うつもりはないようだ。それがわかっただけでも、お互いにとってプラスだろう?」
あっけらかんと言われ、リディアはますます眉根を寄せた。けれども、なめられるなんてしゃくだ。
「青騎士卿の子孫なのに妖精が見えない伯爵さま、ならあなたは、これを刻んだのは本当に妖精だと信じてるのかしら?」
「これは人が刻んだものだ。少なくとも、この程度の細かい細工なら、人間の手でやれないことじゃない。妖精が存在する証拠にもならない」
「つまりあなたは、基本的には妖精を信じない人なのね。それなのに、妖精が守るという宝剣の存在を信じて、いかさまかどうかもわからないフェアリードクターに探させるの?」
「青騎士卿の剣そのものには、歴史的ないわれがあるだけで謎めいたところはないよ。問題はその隠し場所だ。それを示す言葉として、妖精の名が使われている。リディア、フェアリードクターの武器は、妖精に関する知識と交渉能力だと言ったね。僕はその、知識の方がほしい。不思議な力はいらない。ここに刻まれた言葉の意味がわかればいい。そのために妖精を信じない僕が、フェアリードクターの協力を求めることは、きみのプライドを傷つけるのかい?」
挑戦的な目を向けられれば、リディアは、こいつに認めさせてやりたいという気分になる。
フェアリードクターが、昔から必要とされてきた理由を。
妖精と人とのつながりは、知識だけではほどけないほど深いのだ。
「エドガー、あたしに知識以上のものを求めないと、宝剣は手に入らないわよ」
「たのもしいね。ならまずはこれを読んでくれ」
一息ついて、リディアは紙片を手に取った。
「緑のジャックはスパンキーのゆりかごから。月夜にピクシーとダンス。シルキーの十字架を越え。プーカは迷い道。……何よこれ」
「それが知りたい」
そんな調子で、妖精の名が続く。とにかくリディアは、最後まで目を通す。
「……メロウの星は星とひきかえに。さもなくば、メロウは悲しみの歌を唄う。……これで終わり?」
「メロウの星というのが、宝剣を飾るスターサファイアのことだよ」
「じゃあともかく、この最後が肝心《かんじん》の、宝剣に関することなのね。星とひきかえにってどういうことかしら」
「それもわからないが、ほかの部分もわからない」
「前半は、やっぱり隠し場所のヒントか何かだと思うけど。伯爵家の土地はどこにあるの? 行ってみないことには、どうとも言えないわ」
「所有する土地や建物が、英国中に点在していてね」
エドガーは地図を広げた。赤いバツじるしがあちこちにあった。
「どこから調べればいいの?」
「それも知りたい」
リディアは閉口《へいこう》する。しらみつぶしにやっていたら、とてつもなく時間がかかる。なのにこいつは、「知りたい」のひとことで押しつける。
それはまあ、向こうにとっては、リディアに依頼した仕事だからだが。
仕事か、とリディアはつぶやく。
結局、引き受けるしかなさそうだ。
けれど前向きに考えてみれば、フェアリードクターへのめずらしいくらいまともな依頼だった。
一人前になりたいなら、こんなところでつまずいているわけにはいかないと、ヤケクソになりつつリディアは闘志をかき立てる。
どの土地が重要なのかも、さっきの言葉の中にヒントがあるのではないか。
メモと地図を見比べる。とある特徴に気づく。
「あら、アイルランド系の妖精が多いのね」
「へえ、そうなのか? でも、アイルランドには土地も屋敷もないな」
「それに、メロウってアイルランドで言う人魚のことだけど、これが宝剣を指すってことは、海に近い場所かも」
アイルランドに近い西岸をたどる。アイリッシュ海を望む沿岸に、一カ所しるしがついていた。
「あ、ここは? マナーン島。島なら、人魚伝説のひとつやふたつありそうだわ」
「なら、ここからせめよう」
ロンドンへ行くのに、ずいぶん遠回りな旅になりそうだった。
「言っておくけど、ただ働きはいやよ。前払いにしてほしいわ」
「いいよ。いくら?」
そういえば、これまでほとんどまともな依頼を受けたことがなく、料金も具体的に考えたことがなかったと、今さらながら気がついた。
けれど、そんなことがばれたら足元を見られると、リディアは必死にポーカーフェイスを装う。
安くしすぎてもなめられそうだ。
思い切って、五本指を開いてエドガーの前に突き出した。
「レイヴン」
リディアの提示に何の感想もはさまず、彼は召使いを呼んだ。
レイヴンは、指示も聞かずにさっと部屋から出ていくと、じきにまた戻ってくる。その手には当然のように、小切手を乗せた黒檀《こくたん》のトレイがあった。
リディアの目の前で、エドガーはサインを入れる。渡された小切手を見て、リディアは「え」と声をあげそうになった。
「それでいい?」
五十ポンドとものすごくふっかけたつもりだったのに、五百?
こんな大金をぽんと渡されては、かえって恥ずかしくて、訂正できないではないか。
「契約《けいやく》成立だね。期待しているよ」
エドガーが立ちあがりかけたとき、レイヴンがはじめて、リディアに声をかけた。
「レディ、お手紙お出ししておきましょうか?」
デスクに置いた封筒を見つけたようだ。よく気がつく召使い。ふだんならリディアはそう思っただろうが、さすがにそのときは、瞬時に不穏《ふおん》な空気を感じ取った。
レイヴンは、リディアが部外者と接触を持とうとしていることに気づいて、わざとエドガーに聞こえるようにそう言ったのだ。
「いいの、自分で出すわ」
あわててそう返すが、エドガーが封書に鋭い視線を送ったのがわかる。
「誰に手紙を?」
「……父さまによ。ロンドンに着くのが遅れるって、連絡しておかなきゃ。いけないの?」
「こちらの動きがもれてしまうようなことは困る。ハスクリーたちに先回りされてしまう」
「ただ遅れるってことを報《しら》せるだけじゃない」
「それだけでも、きみが僕に協力していることは明白だ。いいかいリディア、契約成立した以上、僕が雇い主だ。秘密は厳守《げんしゅ》してもらわなければならないし、言うとおりにしてもらいたい」
きつい口調ではなかったが、有無《うむ》を言わせない独特の迫力があった。
人を従わせることに慣れている。静謐《せいひつ》な眼差しや凛《りん》と通る声質や、すっくと立った姿勢や、何もかもが貴族の本質をそなえていて、彼の言葉を絶対だと思わせる。
かすかに反発を覚えながらも、リディアは黙るしかない。
「無理を言ってすまないね。けれどリディア、僕をわずらわせないでくれ。その方がきみのためだよ」
ひそかに手紙を投函《とうかん》したりすれば、海に放り込まれるのだろうか。そんな不安がふとよぎるような、おだやかな声音だった。
おだやかなのに怖いと思う、奇妙な感覚。
リディアにわかるのは、結局、ハスクリーに軟禁《なんきん》されかかったのと同じ状態なのではないかということだけだ。
エドガーとハスクリーと、どちらがリディアにとってましな相手なのか、くらべようもないからわからない。けれど向こうの方が、もっとわかりやすい相手だっただろうとは思う。
父への手紙は、デスクの上に残されたままだが、取りあげようとまでしないのは、投函させない自信があるからだろう。
事実リディアは、そうする気力を失っている。
忠実な召使いは、エドガーにとって単なる使用人ではなく、利口な右腕だ。それとも共犯者というくらいの連帯感を、リディアは見たような気がしていた。
ひょっとすると本当に、エドガーを傷つけた者を殺すくらいのことはするかもしれない。
「おい、今度からミルクティはもっと熱くしてくれよ。おれは猫舌じゃねーんだよ」
出ていこうとしたエドガーとレイヴンに、ニコが言った。どういうつもりでいきなり言葉を発したのか、ニコの方をリディアは凝視したが、エドガーは気づいたふうもなく、レイヴンがかすかに振り返ったが、空耳とでも判断したのかすぐに主人のあとに続いた。
「青騎士|卿《きょう》の子孫ね。猫がしゃべるとは、ハナから信じないおつむじゃ、妖精は見えやしねーだろうし、理解もできないだろうぜ」
だとしたら結局、にせ者に協力することになるのだろうか。
どのみち、選択の余地などないのだ。リディアは、とらわれの身になったかのような脱力感を覚えていた。
それからは船室を出るたび、アーミンがそばにいた。
気さくに話しかけてくる彼女には、レイヴンのような得体の知れなさはないが、それも見せかけだけかもしれない。なにしろあの、エドガーの使用人だ。
「リディアさん、今日は日差しが強うございますわ」
ひとり甲板《かんぱん》へ出たリディアに、日傘をさしかける。
男装のメイドに興味の視線を向ける乗客もいたが、アーミンはまるで気にしていない。
リディアは、日焼けを怖れるほど繊細《せんさい》なお嬢さまではなかったが、アーミンの白い肌はうらやましく思った。
「この国にはめずらしく、いいお天気ですね」
そう言った彼女の横顔は、どこか異国の太陽を懐かしんでいるように見えた。
「アーミンさん、外国へ行ったことがあるの?」
「アーミンとお呼びください。ええ、わたしは英国人じゃありません」
「そういえば、エドガーもずっと外国にいたって……。それは本当なんですね」
「エドガーさまを信用できませんか?」
「だって、いろいろと……。だいたい最初の出会いが、いきなり後ろから羽交《はが》い締めよ。それになんだか、やさしいのか怖いのか、紳士なのか違うのかわかりにくいし、そもそも本当に伯爵《はくしゃく》なの?」
彼女は、やわらかく微笑《ほほえ》むだけで、主人について言及《げんきゅう》はしなかった。
「それにあの、レイヴンって人。若いのに、まるで表情がないんだもの。エドガーが笑うなとでも言ってるの? そう命じられたら、徹底的に守りそうだわ」
「レイヴンはああいう子なんです。けっして命じられているわけでは。ああでも、エドガーさまの言いつけなら徹底的に守るかもしれませんね」
ああいう子、という言い方に、親しさがかいま見えた。それも、やさしく見守っているかのような間柄《あいだがら》だ。
リディアの疑問を感じ取ったのか、アーミンは言った。
「レイヴンはわたしの弟なんです」
「えっ、でも……」
「肌の色が違うのは、父親が違うせいです。ねえリディアさん、妖精のことなら何でもご存じだとか。彼らの世界へ行ったことがありますか?」
「……ええまあ、信じなくてもかまいませんけど、入り口はどこにでもあるわ。日陰と日なたの境界や、風向きがふと変わる場所、サンザシやニワトコの茂み、シャムロックの葉陰」
「わたしたちの国でも、精霊の存在は信じられていました。もっと恐ろしいものとしてですが。そんな精霊の血を引くといわれる子供が、ときおり生まれる、それがレイヴンなんです」
「え、本当に? じゃあ彼も、精霊が見えたり話ができたりするの?」
「どうなんでしょう。あの子はあまり、他人に精霊の話をしたがりませんので」
人に話したがらないというのは、わかる気がした。リディアだって、黙っていられる性格ならそうしたかもしれない。もっとも彼女は、母のことを忘れないためにも、堂々と不思議な世界に目を向けてきた。
けれどリディアも、幼い頃から妖精の取り換え子だとささやかれてきたものだ。
父にも母にも似ていないし、瞳の色はめずらしいし、ゆりかごの中でひとり何かを目で追ったり、急に笑ったり、もう少し大きくなってからは見えない何かに話しかけながらいつまでもひとり遊びを続けると、子守り役が気味悪がったらしい。
変わり者と呼ばれるのは無視できるけれど、取り換え子と呼ばれるのは、母とのつながりも思い出も、否定されるようでつらかった。
「やっぱり、いやな思いをしたんでしょうね。人には理解されにくいもの」
「そうですね。それにレイヴンの場合は、悪霊の化身です。もともと忌まわしい存在として、世間からは遠ざけられる宿命なのですから、姉であるわたしでさえも、すべてを理解してはやれません。……追われるように故郷を捨て、けれどもわたしたちは、エドガーさまのそばに、ようやく居場所を見つけた」
「……妖精国の伯爵だから?」
「伯爵であろうとなかろうと、哀しい方だからですよ」
哀しい? リディアには、傲慢《ごうまん》で強引で、他人も自分もゲームの駒《こま》みたいにあやつって、危険な駆け引きや宝探しを楽しんでいるように見える。
首を傾げたリディアに、アーミンは赤い唇をゆがませた。微笑みとも哀しみともつかない表情でつぶやく。
「あの方のやさしさもきびしさも、哀しみの一部。だからわたしたちの哀しみを受けとめてくれる。妖精の国が、あの方に本当の安らぎをもたらしてくれればいいのですけれど」
本当の安らぎとは、どういう意味なのだろう。
青騎士卿の子孫が帰るべき場所だからか、それとも本物ではないからこそそう願うのか、リディアにはわからない。
エドガーと、レイヴンとアーミン。彼らがどういう人たちなのかも、多様な面を次々に見せられ、その像がますますゆらいだ。
警笛《けいてき》が鳴った。低く震える音が、薄青い空にすいこまれていく。
デッキで談笑していた一団が、海上を見てなにやら指さすのにつられ、リディアも首を動かした。
軍の巡視艇《じゅんしてい》だ。大きな黒い影がこちらに近づいてくる。と思うとこちらの船がゆっくりと速度を落としていた。
「何かあったのかしら」
アーミンか、不安げに眉《まゆ》をひそめた。
「お部屋へ戻りましょう、リディアさん」
アーミンがリディアを連れて戻ったのは、エドガーの船室だった。窓辺に立って、怒ったような顔で黒い巡視艇の姿を凝視していたエドガーは、何がおかしいのか不意ににやりと笑い、リディアの方に振り返った。
「ハスクリーが僕たちを捜しているのかもね」
「え、まさか。軍をつかって?」
「まあ、じきにわかるだろう」
ハスクリーの手がのびてきているかもしれないのに、エドガーにはさほどあせる様子はなかった。
彼の言ったとおり、しばらくして部屋に船長がやって来た。
船長が説明するには、この船に危険人物がひそかに乗り込んだ可能性があるということで、巡視艇から船内を調べに来たのだそうだった。
ひょっとするとそんなふうに、ハスクリーが誰か有力者にでもねじ込んだのかもしれない。リディアとエドガーが、この船に逃げ込んだところは見られていた可能性はある。
やがて現れた軍人は、数人の部下を引き連れ、少佐《しょうさ》を名乗って慇懃《いんぎん》に言った。
「もうしわけありませんが伯爵、お部屋を確認させていただいてよろしいでしょうか」
「どうぞ。危険な人物がこの部屋にひそんでいたら困る。使っていない部屋もあるから、よく確認してくださいね」
エドガーは堂々と、ソファに腰をおろしたまま言った。
部下に調べさせている間、少佐は、レイヴンとアーミンの身分を確認し、リディアにも簡単な質問だけをして、彼女の部屋に入る許可も求めた。
「あの、危険な人物って、どういう人なんでしょう」
ハスクリーの通報なら、どんなふうにねじ込んだのか、好奇心もあってリディアは訊《き》いていた。
「それが、ロンドンで起こった強盗事件の犯人かもしれないということでしてね。人質《ひとじち》を連れている可能性もあるという情報も入って、緊急を要すると判断されたわけです」
「人質をですか」
「ええお嬢《じょう》さん、若い女性を脅《おど》して連れ去ったとか。あなたくらいの年頃だ」
「少佐、彼女をおどかさないでくださいよ。ただでさえ気味の悪い話だ。ちまたで噂《うわさ》の、ロンドンの強盗犯といえば、アメリカで百人殺しているという、あれでしょう?」
エドガーの言葉に、新聞に載っていた事件を、リディアはようやく思い出していた。
ハスクリーは、実際に起こった強盗事件の犯人が逃亡しているのを利用したのだろうか。そうして、人質がいると吹き込んで、リディアのことも一緒に捜させようとしているのかもしれない。
たぶん、エドガーとリディアがチケットを用意しているとは考えていず、名簿《めいぼ》にはない無賃の乗客をとらえさせるつもりなのだ。
「ああこれは申しわけありません。ですが伯爵《はくしゃく》、アメリカの殺人鬼だという噂は、単に特徴が似ているだけでしょう。その男は処刑されました」
異常はないと、部屋を調べていた部下たちが告げる。そのとき、少佐の後ろでメモを取っていた部下が、急に口を出した。
「そういえば例の強盗犯、若い男で金髪、瞳は紫と……」
少佐はあからさまに眉をひそめた。
「ロイン君、もういい」
「なるほど、ありがちな特徴だということですね。ここにもひとりいる」
さらりと、エドガーは言った。
リディアは思わず彼に見入る。そういえば、同じ特徴だ。でもそれだけなら、本当に何人でもいるだろう。
けれど。
奇妙な胸騒ぎを感じながら、リディアはエドガーから目が離せない。
「いやはやまったく。では私たちはこれで。ご協力に感謝します」
「ご苦労様」
少佐たちが出ていってしまうと、リディアの視線に気づいたように、エドガーが振り向いた。
あわてて彼女は視線をそらしたが、あまりの不自然さに、疑いの気持ちが彼に見透かされただろうと思うと自分に腹が立った。
「リディア」
「な、な何?」
「あと二時間ほどでスカーバラの港に着く。船を下りる用意をしておいてくれ」
何も問わず、エドガーはいつもの隙《すき》のない笑顔を向けただけだった。
「ロイン君、いったいどういうつもりだね。伯爵を強盗犯扱いする気だったのか?」
「いえあの、少佐、ただ似てるなあと」
「似ていないぞ。あの似顔絵はいかにも悪人面だった」
「そうなんですけど、絵はあてになりませんから。それに……、髪や瞳の色はともかく、重大な特徴があるじゃないですか。それを確かめればはっきりすると思いまして」
急ぎ足で通路を歩いていたえらそうな軍人は、急に足を止めると部下の方に向き直った。
「なら君は、伯爵に向かって舌を出せと言うつもりだったと?」
通路のランプ台の、陽当りのいい大理石に寝転んでいたニコは、昼寝を妨げられてぴくりと耳を動かした。
「そんな屈辱的なことをさせて、何もなかったで済むと思うのか? 当然拒絶したあげく、上に文句を言うに決まっている。それに、舌にクロスの入れ墨があるというのは、アメリカの殺人鬼の方だ。ロンドンの強盗犯と混同するのは、民衆の興味をあおる低級紙《ゴシップペーパー》だけにさせておきたまえ」
「……すみません。でもあの、本当にアメリカで処刑されたんですか? 通称サー・ジョンと呼ばれた強盗殺人犯は、高貴な雰囲気を持つカリスマ的な人物で、縛り首になってさらされた死体は、どうにもそれらしくないという噂も……」
少佐は、部下に向かってあからさまに肩をすくめた。
「首をくくられた死体に、高貴もカリスマもあるものか。それにロイン君、もうひとつ基本的に間違っている。私たちが捜すべきは、特等船室の主《あるじ》ではなく、どこかにひそんでいるだろうゴロツキだ」
ふむ、とヒゲを撫《な》で、ニコは軍人たちが通り過ぎるのを見送ると、二本足でてくてくと、リディアの部屋へと戻る。
「なんだかなあ」とひとりつぶやいた。
*
スカーバラの港で船を下りたリディアたちは、鉄道で西へ向かっていた。
窓から見える風景は単調だ。そして汽車の中では、不穏《ふおん》な気持ちのまま、コンパートメントでエドガーと向かい合っていなければならないのが、リディアには苦痛だった。
彼女はしばしば、意味もなく席を立った。
「おいおい、あんまりそわそわしてると、不審《ふしん》に思われるぜ」
二本足で立ったまま、ニコが通路に姿を現す。
「ねえニコ、さっきの話だけど、まさか……ねえ」
「軍人さんが違うと判断したんだから、違うんじゃねーの?」
「そうよね、強盗殺人犯があの完璧《かんぺき》なキングスイングリッシュをしゃべるとは思えないもの」
そう思うのに、何かが引っかかる。
最初からエドガーにまとわりつく、胡散臭《うさんくさ》さのせいだ。
「だからさ、舌を調べりゃいいんだよ」
少佐たちの話を立ち聞きしたニコから、リディアは十字《クロス》の入れ墨の話を聞かされていた。
舌に入れ墨なんて、どれほど頭がイカレたら思いついてそのうえ実行するのかと理解に苦しむ。しかし、その情報は貴重だった。どうすれば確認できるのか、ニコに話を聞いた船の中から、リディアはずっと悩んでいるのだ。
「けど、舌なんかふつう見えないもの。それに入れ墨はアメリカでの話で、何もなかったとしても、ロンドンの事件の犯人じゃないって証拠にはならないんでしょ?」
「とりあえず、人殺しでなきゃ安心できるだろ。ロンドンではいちおう、被害者は生きてるんだから」
それはたまたまではないのだろうか。でもまあ、ニコの言うとおりかもしれない。
できればはっきりさせたい。
しかし結局、何のアイディアもないまま、リディアはコンパートメントに戻ってくる。
エドガーの方を見れば、ステッキをひざに置いたまま、窓に寄りかかって目を閉じていた。
居眠りしているのだろうか。
この隙に、どうにかして……。
忍び足でリディアは彼に近づいてみる。目を覚ます気配はない。頬杖《ほおづえ》をついたうたた寝でさえ優雅で、絵画にすればそのまま豪華な額縁《がくぶち》に納まってしまいそうだ。
金の髪が白い頬に淡く影を落とす。
リディアは唇に注目する。
けれどいくら口元を凝視しても、舌が見えるわけはない。
口に指を突っ込んだりしたら、いくらなんでも起きるだろう。そう思いながらもリディアは視線を惹《ひ》きつけられ、エドガーの前に身を屈めたままその場を離れられなかった。
(男の人って、ふつうもっとごつごつしてない?)
長いまつげ、形のいい唇、細いあご。美術品を鑑賞するかのような気持ちで、なんとなく、触れてみたい衝動《しょうどう》にかられる。
指をのばしかけたとき、ふっと唇が動いた。それは薄く笑みを浮かべる。
まぶたを開いた彼と、間近で目が合う。
「何か?」
リディアはそのまま固まった。人差し指を彼の鼻先で止めたままだ。
「このまま唇を寄せてくれるなら、寝たふりしておこうと思ったんだけど、つつかれそうになるとは思わなかった」
「え……と、これは……」
「べつに、さわってもいいよ」
「は、そんなこと」
あわてて手を引っ込める。その場から逃げ出そうとすれば、エドガーに肩をつかまれた。
「ああごめん、女性に恥をかかせちゃいけないね。きみの期待になら、よろこんで応えよう」
さらに顔を近づけられ、リディアはあわてふためいた。
「ち、違うの! 舌を……」
「舌? |フランス風《ディープ・キス》が好みとは」
「な、何考えてんのよこの……!」
必死でエドガーを押しのけようとしながら、彼の肩越しにリディアは、お茶を運んできたレイヴンの姿を見ていた。
が、彼は、リディアが座席に押し倒されようとしているのもかまわず、無表情のまま、お茶をテーブルに置いて去ろうとした。
「ちょっと、そこのあなた、助けなさいよっ!」
「レイヴンはね、僕が今きみの細い首をへし折ろうとしてたって止めやしないよ」
とんでもない忠誠心。こいつらみんな、強盗仲間?
無性《むしょう》に腹が立った。一瞬我を忘れ、相手がいちおう伯爵《はくしゃく》だと、ほんの少しだが遠慮していた意識が飛ぶと、極悪人に手向かっているつもりで手を振りあげた。
平手が命中し、ようやくエドガーはリディアを離す。しかし彼女は、それだけではおさまらず、目についたティーカップを投げつけようとした。
「エドガーさま!」
レイヴンの声に、リディアは我に返る。
けれどそのときすでに、割り込んだレイヴンの腕に、熱い紅茶がかかっていた。
「ご……ごめんなさい。ねえ、すぐ冷やさなきゃ」
「大丈夫です、ご心配なく。お茶を入れ直してきます」
「もういいから、アーミンに手当をしてもらえ」
主人の言葉には素直に頷《うなず》き、出ていくレイヴンを、リディアはため息とともに見送った。
「まあそう気にしないで」
しれっとエドガーは言う。
「あ、あなたがいけないんじゃない! むりやり……、それに首をへし折るとか、怖いこと言うから」
「それはもののたとえだよ」
「あなたにお茶がかかってたらよかったのよ! あたしはレイヴンに怪我《けが》させるつもりなんかなかったんだから」
「はあ、じゃあ殴られた僕のことは気にしてくれないのか」
「当然でしょ!」
ぴしゃりと言って、彼女はコンパートメントを飛び出した。
「やめとけリディア、伯爵さまを傷つけようとした女だって、殺されるぞ」
洗面室にレイヴンの黒い後ろ姿を見つけ、近づいていこうとすれば、ニコのささやきが聞こえた。
まさか。と不安になりながらも、紅茶をかけておいてこのまま無視するのも気が引ける。
レイヴンは、歩み寄るリディアの足音には気づいているだろうが、振り返らない。
「あの、火傷《やけど》になった?」
おそるおそる、声をかける。
「たいしたことはありません。それより」
ようやく振り向いた顔は、相変わらずにこりともしなかったが、怒っているようにも見えなかった。
「あなたの言うように、あのときエドガーさまを止めるべきでした」
「そしたら、エドガーは紅茶を投げつけられずにすんだってこと?」
「まさかレディが、そんなことをするとは想像しませんでしたので」
少々むっとしたリディアは、彼に怪我をさせたすまない気持ちが半減した。
「言っておきますけど、エドガーにせまられてよろこぶ女ばかりじゃないのよ」
「ええ、勉強になりました」
きまじめな返事は、どうやらリディアをからかっているのでも、責めているのでもないようだ。言葉を飾らないぶん、無表情でもエドガーよりわかりやすいかもしれなかった。
「あなた、お幾《いく》つ?」
ついでに、疑問に思っていたことを訊《き》いてみる。
「十八歳です」
「そうなの。あたしよりひとつ上なのね」
「童顔ですから」
それもきまじめに言う。
たしかに、瞳が大きいせいか、実際の年齢よりいくぶん少年ぼく見える。だからこそ笑えば、とても人なつっこい印象になりそうなのにと思う。
「ねえ、もし、エドガーが人を殺そうとしてても、本当に止めないの?」
「止めるというよりは、私が殺すでしょう」
けれども、平然と言ってのけるところにぞくりとさせられた。エドガーとは違って、この人が言うと冗談には聞こえない。
「主人のために手を汚すの? でもそこまでするのって、忠誠心をはき違えてない?」
「私が罪を犯すとしたら、それはエドガーさまのためだけ。それ以外の人殺しはしなくていいのだと教えてくださいました。理解するのには、時間がかかりましたが」
意味が、よくわからない。ただリディアは、暗い底なしの淵《ふち》に立たされているような気分になった。
レイヴンの、漆黒《しっこく》の髪と同じ色だと思っていた瞳は、こうして近くで見れば、深い緑がかっている。
精霊の血を引くというのは、もしかしたらこの瞳のせいだろうか。そう思えば引きこまれる。
すると彼も、じっと彼女の目を覗き込んだ。
「あ、ごめんなさい。あなたの目の色が気になって。ほら、あたしも緑の目なの。こちらでは緑は妖精の色だから、それもあたしの場合は妖精が見えたりするわけだし、他にもいろいろ妖精のイメージに重なっちゃうみたいで、取り換え子って呼ばれてるわ。あの、取り換え子っていうのは、妖精が人間の赤ん坊をさらって、代わりに自分たちの子供を人に育てさせるのだけど」
はからずとも見つめ合ってしまった気まずさに、まくしたてたリディアが、一息つくのを待って、彼は言った。
「精霊は森に棲《す》むもの。イングランドの森は淡く、あなたの瞳のように陽《ひ》の光をまとった色。私の故郷は、鬱蒼《うっそう》と茂る、光の届かない濃い緑。私には、この国の妖精たちは明るすぎてよく見えませんが、私の精霊もあなたには見えないのでしょうね」
ほんのかすかに、彼が笑ったようにも見えた。それはそれは、暗く淋しい微笑《ほほえ》みで、同じように精霊とつながる能力を持っているのだとしても、違う種類の人なのだという気にさせられた。
異国の、精霊の化身《けしん》。
青騎士|卿《きょう》は旅を好み、遠い異国でのできごとを物語っては、宮廷をわかせたともいう。
東洋の国々は、そのころはまだ、英国人にとって妖精国よりも遠く、謎に満ちた場所だった。
不思議な家来を引き連れ、妖精の国から来た伯爵の物語。
ふとリディアは、遠い昔の伝説に、青騎士卿の冒険譚《ぼうけんたん》に自分が巻き込まれているような気分になった。
彼らは、再び人間界へやって来た、青騎士伯爵とその家来?
それとも、強盗殺人鬼?
*
終着駅で汽車を降りた頃には、あたりは夕闇に包まれつつあった。
たいていの駅は郊外《こうがい》にあるため、駅舎の外には馬車道が一本通っているだけで閑散《かんさん》としている。乗降客は少なく、誰もが急ぎ足で散ってしまえば、リディアたちのほか、近くに人影はなかった。
馬車を連れてくると言って、レイヴンがひとり通りへ出ていく。駅舎の裏手に、馬車の待機所があるはずだった。
「旦那《だんな》、馬車をお探しで? どちらまで?」
そのとき、建物の陰から現れた男が声をかけてきた。
「いや結構。召使いが馬車を呼びに行っている」
エドガーはそっけなくあしらう。
「まあそう言わずに、お安くしときますぜ」
そう言いながら近づいてきた男は、いきなりリディアの腕をつかんだ。
声をあげる間もなく、のどにナイフが突きつけられる。
エドガーとアーミンが身構える。しかし気がつけば、物陰から現れた男たちに周囲を取り囲まれていた。
「動くなよ、サー」
声の方に振り向けば、フロックコートの下に隠したピストルをちらりと見せながら、男がひとり進み出た。
ハスクリーだった。
「ああ、ハスクリー君か。きみにそんな名前があるとは知らなかったが」
エドガーは、バカにした口調で言う。
リディアにやさしく声をかけたあのハスクリーとは別人のように、彼は恐ろしい形相《ぎょうそう》でエドガーをにらんでいた。
「何を気取ってやがる。貴族ごっことはあきれるな」
「ごっこじゃないよ。それにね、僕は『サー』ではなく『ロード』だ。間違えないでくれ」
「ふざけるな! 父の金で豪遊か?」
「君の父上がくださった慰謝料《いしゃりょう》は、悪いけどはした金だったよ。とても納得はできないが、まあいいさ。金に困っているわけじゃない」
「慰謝料だと? ごっそり奪った上に、父が探していた宝石まで奪うつもりか? おまえのせいで父は……」
「彼が病院で生死の淵をさまよっているのは、きみがむやみに発砲《はっぽう》したからだ。僕に向けて撃ったって、後ろの父上に当たるかもしれないことくらい、自分の腕前を考えれば明白だろう? なのにまるで、僕がやったかのように吹聴《ふいちょう》するとはね」
「うるさい、黙れ! 二度とその、えらそうな口をたたけないようにしてやる!」
あっけにとられながら、リディアはふたりの会話を聞いていた。
いったいどういうことなのか。エドガーが、ハスクリーの父親のお金と宝石を? ハスクリーが発砲して父親に当たった?
「いいか、カールトン嬢《じょう》は我々に協力してもらうからな。おい、そいつらを縛り上げろ。警察に突き出して、縛り首にしてやる」
「ああ、それできみと父上の罪も明らかになる。一緒に処刑台へ行くか? それとも、そちらが先かな」
エドガーが言うと同時に、リディアのすぐそばで黒い影が動いた。
ひそかな羽音がたてる風のように、リディアの頬をかすめた影は飛ぶ。
リディアを拘束していた男が、声も立てずにその場に崩れた。首がねじ曲がり、すでにこときれている。
影はさらに舞う。
大鴉《レイヴン》。
ハスクリーの銃口《じゅうこう》から守るように、主人の前に舞い降りる。
さっとかまえたのは細いナイフだ。
レイヴンを取り押さえようと、ハスクリーの仲間たちがいっせいに動いた。
船の中にいた顔ぶれだけでなく、そこらで集めたごろつきのような連中も混じっている。
[#挿絵(img/star sapphire_085.jpg)入る]
レイヴンひとりでは、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》だと思われた。
しかしもうひとつの、つむじ風が吹いた。
アーミンが、すぐそばにいた男を一撃で蹴り倒したのだ。そのままナイフを片手に、レイヴンに加勢する。
彼女の男装は、動きやすさのためなのだと納得しながら、リディアはあっけにとられていた。
青騎士|伯爵《はくしゃく》と、謎めいたふたりの家来は大鴉《レイヴン》に白貂《アーミン》? それこそ、おとぎ話めいている。
いつのまにかエドガーが、リディアのそばにいた。と思うと、ぐいと腕を引く。
その瞬間銃声が鳴って、足元の地面に穴があいた。
さっとレイヴンが身をひるがえす。高く蹴り上げた足が、ハスクリーの腕からピストルをはね飛ばす。
そのままくるりと向きを変え、エドガーを背後にかばいながら、向かってくる男たちを確実にかわしていく。
「エドガーさま、この先の角に辻《つじ》馬車が」
「ここをまかせてもいいか?」
「お気をつけて」
簡潔な言葉がかわされると、エドガーはきびすを返し、リディアの腕を引いたまま走り出した。
馬車にともる明かりが、夕闇の奥にちらりと見える。しかしリディアは、もつれたスカートのすそに足を取られ転ぶ。立ちあがろうとする彼女の鼻先に、サーベルの刃先が突き出された。
「彼女はこちらにもらうと言ったはずだ。ジョン、どうあがいてもおまえは、ゴミだめで死ぬのが似合いのごくつぶしだ」
ジョン、て誰?
ハスクリーがリディアをつかまえる。
どうして、と彼女は頭にくる。誰も彼も、あたしをだまして、脅《おど》して、どうしてこいつらの思い通りにならなきゃいけないの?
ハスクリーが刃物を持っていようと、頭に血がのぼればどうでもよくなった。無我夢中で、リディアは暴れ、抵抗した。
「ゴッサム、やめろ!」
エドガーが叫ぶ。指に噛《か》みついたリディアにハスクリーが逆上したのか、サーベルを振りあげたのだ。
エドガーに突き飛ばされながら、刃先が彼をかすめ、上着の肩口を裂くのをリディアは見ていた。
エドガーは苦痛に眉をひそめる。
ハスクリーが再び踏み込んでくると、怪我《けが》を負いながらも、エドガーはステッキを振った。
杖から引き抜いた剣《レピア》がしなる。ハスクリーのサーベルと鋼が交わり、からめ、はね飛ばす。そのままの勢いでそで口を切り裂かれ、ハスクリーはあわててエドガーから距離を取った。
再びエドガーはリディアを引きずり走る。ようやく辻馬車を見つけると、彼女を押し込むようにして乗り込んだ。
「あ……あなた誰よ! ジョンって? ゴッサムって……」
わめき立てかけたリディアの口を、彼は乱暴に手でふさいだ。
「出してくれ、早く」
エドガーの怪我も、あきらかに連れ去られようとしている状況で押さえつけられている少女の存在も、紙幣《しへい》を押しつけられた御者《ぎょしゃ》は詮索《せんさく》しなかった。
[#改ページ]
真実と偽りのフーガ
うち捨てられた井戸だったが、涸《か》れてはいなかった。草に埋もれていた手桶《ておけ》を洗い、リディアは水を汲《く》む。欠けたカップとゆがんだ鉄鍋は、台所だったと思われる土間《どま》の隅で拾ってきた。
壊れかけた無人のあばら屋は、風にあおられ木戸が泣くような音を立てている。
道から少し離れているこの場所は、林が目隠しになって、日が暮れてしまえば、ハスクリーたちが追ってきたとしても建物があるとは気づかれないだろうと思われた。
「なあリディア、とっとと逃げた方がいいんじゃないか?」
井戸を囲う石垣《いしがき》に、ニコが姿を現した。
「どこ行ってたのよ。はぐれたかと思ったわ」
「ちゃんとくっついてきてたぜ。姿を見えなくしてたけどさ」
「そうよね、おまえって危険なときはさっさと消えるの」
「んなこと言ったって、あの乱闘でどうしろと? あんたを見失わないようにするのが精一杯さ。それより、水汲みなんかしてる場合じゃねえだろ」
リディアはため息をついて、ニコの隣に腰かけた。
そうかもしれない。逃げるなら、今がチャンスなのではないか。
あばら屋の中で、エドガーがこちらを見張っているのかもしれないが、彼は怪我《けが》をしている。今なら逃げおおせるかもしれない。
怪我をしたエドガーにむりやり馬車に乗せられてから、どのくらい走っただろうか。しばらくして、彼は馬を止めさせた。御者《ぎょしゃ》にはこのまま隣町まで走るようにと、そうしていくらかの口止め料も上乗せしてお金を握らせ、畑を縫《ぬ》うあぜ道を歩き出した。
たぶん、ハスクリーが馬車を追うことを想定したのだろう。
そうして、日暮れとともに見つけたこのあばら屋で、夜を明かすことにしたのだ。
拘束されているわけでもないのに、結局リディアは、ここまでエドガーが促すままについてきた。
まっ暗な夜道、街灯のひとつも、人家もない野の道では、強盗犯の存在でも心細さをなぐさめてくれるのだろうかと思うと理不尽《りふじん》な気持ちでいっぱいだった。
そう、強盗犯なのだ。
「あいつ、やっぱ手配中の強盗だったんだな」
「……みたいね」
エドガーは、ハスクリーと名乗っていた男のことを、ゴッサムと呼んだ。ゴッサムという名は、新聞に出ていた、強盗にあって殺されかけた被害者の名前だ。
ハスクリーはゴッサム氏の息子。エドガーが屋敷から金を奪ったとき、ねらいをはずして自分の父親を撃ってしまった。
とにかくリディアにも、そこまでは理解できた。
「でも彼は、奪ったお金のことを慰謝料《いしゃりょう》だって言ってたわ。それに、ゴッサム親子も何か悪いことしてるみたいな言い方だったし」
「リディア、悪党どうしが仲間割れで殺し合おうが勝手にすればいいさ。けどおれたちが巻き込まれてやることはないだろ。舌の入れ墨を見るまでもなく、あいつはただの強盗じゃない。サー・ジョン、って呼ばれたろ? アメリカで処刑されたはずの……」
「わかってるわよニコ。でも」
リディアは手のひらにできた浅い切り傷を見つめる。ハスクリーに抵抗しようとしてできたのだ。
「あたしをかばってくれたわ」
「あのな、それはあんたがいないと、青騎士卿の宝剣が見つけられないからだろ」
「そうなんでしょうね。けど、あたしを助けておいて自分が死んだりしたら元も子もないじゃない」
「だから死んでないし、死にそうな怪我でもないってことだ。あんたの同情を買うためなら、五百ポンドより安いかもな」
まったく、ニコの言うとおりなのだろう。
そしてニコは、手のひら、というより前足の肉球に置いた白い粒をリディアに示した。
「こいつを湯に溶かして奴に飲ませろ」
「何なの?」
「妖精秘伝の眠り薬さ。奴を眠らせるんだ。そうすりゃ、追われてつかまる心配もない。今ならあの、歩く武器みたいな召使いもいない」
「そっか。……そうよね、逃げるチャンスは、レイヴンとアーミンもいない今なのよね」
「しっかりしてくれよ」
本当に、どうかしている。
逃げ出さなければ、強盗犯に何をされるかわからないというのに。
ニコから受け取った粒を手に、リディアは立ちあがった。
はずれかけた木戸をくぐってあばら屋に入れば、エドガーは、狭《せま》い部屋の隅で、疲れ切ったように壁に寄りかかって座り込んでいた。
弱り切った怪我人に見えれば、このまま逃げ出すのがためらわれるほどだ。
危険な人に見えないと思うのは、あまい考えだろうか。
暖炉《だんろ》には火がともっている。彼がマッチを持っていたのだろう。壊れた椅子《いす》や、さまざまながらくたが薪《まき》の代わりに赤々と炎を立てていた。
「あんまり動くと、傷によくないわよ」
外へ出ていったリディアが、戻ってきたことを不思議に思っているかのように、顔をあげた彼は少し首を傾げた。
そんなふうに見せかけているだけかもしれないが。
「火をつけただけだ」
リディアは、水を張った鉄鍋を、暖炉にかける。それからエドガーの方へ少し歩み寄った。
「痛む?」
「少しね」
「コンフリーよ。葉を揉《も》んで傷口に貼っておくといいわ。止血と殺菌の効果があるから」
薬草を、彼女はエドガーの前に差しだした。
しばし戸惑い、何か言いたげに目を細めた彼は、けれど黙ってそれを受け取る。
「暗いのに、よく見つかったね」
「そのことなんだけど、あなたのカフスをひとつくれない?」
「ああ……、薬代か」
シャツのそで口から、ガーネットのついたカフスをはずす。どこかなげやりに、リディアの方へ放り投げる。
「誤解しないでね。もらうのはあたしじゃないの」
言ってリディアは、それを窓から放り投げた。
「外に誰かいるのか?」
「妖精よ」
「それはまた、ありふれた野草にふっかけてくれる」
「だって今はまだ、それだけ育ったコンフリーはないわよ」
少ししんなりとした草をじっと眺め、エドガーは急にくすくすと笑い出す。
「これがきみの、妖精との交渉能力?」
「なによ、あたしの妖精話がおかしいの?」
「いや、……今一瞬、妖精を信じそうになった自分がおかしいんだ」
「その程度では信じられないってこと?」
「さあ、どうなんだろう。それよりも僕は、きみがまだ目の前にいることが信じられない」
そんなふうに、弱気な態度に出られると、逃げようとしている自分の方が悪人に思えた。
リディアの代わりに負った怪我でもあるのに、弱っている人を置き去りにするのだ。だからせめて傷の手当てをして、それから逃げ出すつもりなのよと、リディアは言いわけのように心の中でつぶやく。
レイヴンとアーミンだって、ハスクリーと同様、馬車を追っていくに違いないのだから、あせる必要はないし、夜明け間近の方がリディアも危険な暗闇を歩かなくてすむ。
けれどもこんなふうに、気持ちがゆれるのもおかしな話だ。
だって、だまされたのはあたしの方なのに。
リディアは、エドガーから少し離れて、きしむ椅子に腰をおろした。
「どうして? 人をだましたり脅したり、思い通りにするのは得意じゃないの、伯爵《はくしゃく》さま?」
「魔法は解けてしまったよ」
「あたしは最初から魔法になんか惑わされてないわ」
そうだろうか、と思いながらもリディアは強がる。
今も、この人が持つあやうい魅力に抗《こう》せず、ここにとどまっているのではないのだろうか。
そう思いながらも、心の中で強く否定する。
それはたしかに、乙女心をくすぐる容貌や言葉を持っている人だけれど、リディアが彼に感じているのは、そういうあまいものではなく、むしろ怖いもの見たさだ。
生まれながらの貴族のようでいて、残忍な犯罪者。巧みな話術と完璧《かんぺき》な微笑《ほほえ》みで人を虜《とりこ》にしてしまう。けれどその華やかな振る舞いで真実をかくし、うそで他人を利用する。
なのになぜ、彼女をかばって怪我をしたのか。
ニコの言うように、リディアの同情を買うためなら安いかもしれないが、それは結果的にそうなったのであって、あのとき一瞬の判断で、そこまで考えたとは思えない。そもそもあのときのリディアの行動は、無謀《むぼう》すぎてふつうならあり得ないことだろう。
だから、謎めいた彼の、真実を知りたいと思ってしまう。
けれどそれも、彼が使う魔法なのだろうか。
「ねえ、あなたは誰なの? ロード・エドガー? それともサー・ジョン?」
フロックコートを脱ぎながら、しばし迷って、彼は答えた。
「エドガー、それが僕のファーストネームだった」
「だった、ってどういうこと?」
「死んだからだよ。十二のとき、その名を持つ少年は、両親とともに死んだ。反逆を疑われ、父は家族を殺して自殺。家系は断絶。だから、今の僕は亡霊だ。君の好きなように呼べばいい」
「でも、あなたは生きてるじゃない」
「そう、生きてはいる。……レディの前で悪いけど、失礼するよ」
そう言ってジレと、そして血で汚れたシャツも脱いでしまうと、整った眉《まゆ》をひそめながら傷を確かめる。
どのみち、暖炉から離れた彼のいる場所は薄暗く、リディアはべつに気にならなかった。
エドガーは、淡々と言葉を続けた。
「でもね、助けられたわけじゃない。目覚めた場所は地獄、アメリカ南東部の町だ。……白人|奴隷《どれい》をほしがっていた男に売られたわけで、死んだはずの人間は、そこでは人間じゃなかった。四年目にそこから逃げた。レイヴンとアーミンと一緒にだ。下町に身をひそめ、追っ手をかわし、生きるためには何でもした」
壮絶な話を聞きながらも、怪我《けが》の手当を手伝う気になれないのは、やはり不信感でいっぱいだからだろう。
これだって、本当かどうかわからない。
「強盗殺人も? 本当に、百人殺したの?」
「噂《うわさ》ってのは尾ひれが付いて大きくなる」
「どうなのよ」
「僕らは最下層のゴミだめにいた。同じ年頃の少年たちが、盗みや身体《からだ》を売るかして、ようやくしのいでいる場所だ。野良犬のように生きているだけで、文字も読めず、考えることもせずあきらめきっている。けれど彼らは知らないだけだ。大金が眠っている場所も、どうすればそれに手が届くのかも、それが世間では存在しないはずの、表に出せないきたない金だということも」
「……そうやって、主人《サー》になったのね」
「ドブネズミの王様かい? まあそうかもね。王様は、軍隊を指揮するだけ。計画を立て、人を配置し、武器を与え、『|行け《ゴー》』と命じる。戦場では死人が出ることもあるだろう。それはたしかに僕の責任なのだから、人を殺したことがないとは言わないよ。でも、きみが不安になるといけないから言っておくけど、渡した報酬《ほうしゅう》は盗んだものじゃない。日雇いの仕事もしたし、いかさまギャンブルで巻き上げた金を元手に、ああ、こういうのもお気に召さないかもしれないけどね、ともかく事業に出資し株を買い集めた。それが今の僕の財産だ。幸運にも、貴族を名乗っても疑われないくらいにふくらんだ」
リディアはもう、黙って聞いているしかない。エドガーは他人事《ひとごと》みたいに、表情ひとつ変えずに語り続けた。
「けれど僕は、名前も身分もない死んだはずの人間だ。正当なビジネスでも他人の名義で取り引きする。どこへ逃げても、奴隷の刻印はつきまとい、追っ手の影に怯《おび》え続ける」
「奴隷の……刻印?」
「知っているんだろう? 僕が背負っている十字架のことを。……汽車の中で、調べようとしたじゃないか」
気づいていて、あんなふうにふざけたことを。
むっとしたのが顔に出たのか、彼はそんなリディアに目を細めた。
「かわいい反応をするものだから、つい」
どうして、深刻な話をしながらも、こんなせりふが言えるのか。
「今度は煮え立った湯をぶっかけるわよ」
「もうしないよ」
「いいわ。じゃあ、本当に入れ墨があるのね」
「入れ墨じゃないよ、焼き印だ。僕を死なせなかった男が、自分の家畜につけたしるしさ。どこから入れ墨の噂が流れたのか知らないが、あちこちのギャングがまねしたらしくて、おかげで隠れ蓑《みの》になったけどね」
サー・ジョンを模倣《もほう》する強盗団のリーダーが、あちこちにいたということだ。
ならば残忍な人殺しの噂は、本当のところ誰がやったことかわからない。リディアはいつのまにか、そんなふうに都合よく考えているのだった。
「じゃあ、ゴッサムという人は? どうやってあなたは英国へ帰ってきたの?」
「ゴッサムは医者で、人体実験の材料を探しにアメリカへ来た。それも奴は、精神医学の研究のために、犯罪者の脳ミソをほしがっていた」
「の、脳ミソって……、それに人体実験?」
「そうだ。密告があってつかまった僕は、数日後に絞首刑が決まっていた。それを極秘に、ゴッサムがすり替えた。関係者にかなりの金を積んだはずだ」
「それで、脳ミソを取られたの?」
「おもしろいことを言うね」
そうかしら、と思うリディアは、話の内容があまりに常識離れしていて、受け入れられなくなってきていた。
ほどいたネクタイを包帯代わりに、傷口に巻きつけた彼は、そういったことに手慣れている様子だ。
きっと、怪我なんて日常|茶飯事《さはんじ》だったのだろう。
「せっかく生きた犯罪者をロンドンまで運んできたんだから、いろんなデータを取ろうとしたんだよ。薬物を投与されたり、拷問《ごうもん》同然の苦痛の数々。実験体は僕だけではなかったし、生きたまま頭を開けられ、中身をいじられた被験者も見た。奴は犯罪者の研究だけでなく、罪のない人間も実験に使って大勢殺している」
想像しただけで気分が悪くなる。リディアには、そんな世界は理解できそうにない。陰謀《いんぼう》と狂気がうずまく裏社会。そこに巻き込まれた人間が何を見て、何を感じるのか想像もできない。
だからたぶん、この人のことは、自分には理解しきれないのだろう。
「あたしには、妖精がいることよりも、人のそんなゆがんだ心の方が信じられないわ。平気で人を売買したり、実験材料にしたり、良心を持たない人間がいるというの?」
リディアは目を伏せ、そう言うのがやっとだった。
「きみは幸福な少女だ。でもね、人はどんな残酷《ざんこく》なことでもする生き物なんだよ」
空気が動く気配を感じ、はっと顔をあげる。
いつのまにかエドガーがすぐそばに立って、リディアを見おろしていた。
二十歳《はたち》そこそこの青年なのに、文字通り身ぐるみはぎ取られ、名前も身分も過去も失い、ただ自分の能力だけで生き残ってきたというのが真実なら、この魅惑的な微笑みの裏に何を隠しているのか、他人にわかるはずもない危険な人だ。
彼が手にしているのは、剣《レピア》を仕込んだ杖。リディアは身体を硬くする。
「青騎士|卿《きょう》の物語と伝説は、子供のころから知っていた。あの金貨は、アメリカの骨董品《こっとうひん》屋で手に入れた。いずれイギリスへ帰り調査をするつもりだった。だが僕は、ロンドンにいてもゴッサムに監禁《かんきん》されたまま、動きが取れない。だからゴッサムに金貨を見つけさせ、スターサファイアの隠し場所だとそれとなく教え、奴が調べあげてくるのを待った。レイヴンとアーミンが迎えに来るまで、奴に殺されるわけにはいかなかったから、その駆け引きも時間を稼《かせ》ぐにはちょうどよかったんだ。そのせいで、こうして奴と、宝をめぐって争わなければならなくなったけれどしかたがない」
「……でもそれじゃ、あなたは青騎士卿の子孫じゃないわけでしょう? あたしを協力させたって、本物でないなら、メロウが守ってるっていう剣を手に入れるのは無理よ」
「それでも僕は、宝剣を手に入れるしかない」
「にせ物の身分を手に入れて、うれしいの? 本当のあなたの名前を取り戻すべきじゃないの?」
少し身を屈め、彼はリディアに顔を近づけた。
「にせ物には価値がないと思うのは、間違いだよリディア。反逆の烙印《らくいん》を押された家名を取り戻して何になる? 奴隷の少年も、ギャングのリーダーも死んだ。にせ物でも、僕には大きくて存在感のある名前が必要なんだ。僕を地獄に引きこんだ連中が、誰も手出しができないだけの、確実な力がいる。伯爵《はくしゃく》の身分が手に入らないなら、本当にゴミだめで死ぬだけだ。きっと、にせ物を本物にしてみせるよ」
やさしく説き伏せるようにそう言って、杖《ステツキ》をリディアの目の前に差しだした。
「な、何なのよ」
「強盗が刃物を持っていては、きみが眠れないだろう? あずけておくよ」
リディアから離れ、彼はまた隅の壁際に座り込んだ。
本当の自分は墓の中。そこから他人の所有物として偽りの生を生きてきたなら、すべてはうそ。この人にとっては、本物もにせ物もなく、価値あるにせ物かそうでないかの違いだけ。
リディアに語ったことも、本当かどうかわからない。
けれどこの人なら、ガラス玉をまとってもダイヤモンドに見せてしまうだろう。リディアは、そんなふうに目をくらませられながらも、なぜガラスをダイヤだと思ってはいけないのかと、彼の主張に巻き込まれそうになった。
もしかしたら、この人が身につける青騎士伯爵の称号は、他の誰より似合うかもしれないという、奇妙な感覚にとらわれる。
そのうえ彼は武器をあずけ、あくまでリディアに対し紳士的な姿勢を見せている。同情を引こうという意図なのかもしれないし、じっさいリディアは、彼が悪人ではないと思いたがっている。
けれどもちろん、警戒心もある。わざわざ武器をあずけるのは、リディアに逃げ出す気があるかどうか、試そうというつもりなのではないか。
逃げられれば、エドガーは困るはず。青騎士卿の宝剣を手に入れるのは困難になるし、ハスクリーたちや警察につかまる危険も増す。
少女のひとりくらい、ステッキをあずけたところで、どうにでもできると思っているのかもしれない。
なら、逃げるそぶりを見せたらどうするのだろう。犯罪者の本性を見せるのだろうか。
そんなものを見てしまう前に、眠り薬を飲ませてしまうのが賢明だ。
リディアは意を決して立ち上がり、暖炉《だんろ》にかけた鍋を覗《のぞ》き込んだ。湯を欠けたカップにすくい取る。
ニコに渡された薬の粒を落とし、ミントの若葉を入れて、それをエドガーに差しだした。
「お茶なんてものもないけど、少しは気分が落ち着くわよ」
「ああ、ありがとう」
屈託《くったく》なく微笑《ほほえ》む。
しかしその笑みの奥に、鋭い気配を感じ、リディアは背筋が凍りつくような緊張感に包まれた。
カップを受け取ったエドガーの手が、リディアの手に触れる。思わず手を引こうとすれば、ぐいとつかまれる。
「何を入れたの?」
「え……、な、何のこと……」
「悪い奴はね、あらゆることを警戒している。きみはこっそりとやったつもりでも、ミントの葉以外に何か入れたのは見えていた。こういう極悪人を刺激するのは危険だよ」
「離してよ」
「離せばきみは逃げる」
「……当然でしょ、あなた強盗犯なんだから!」
さらにリディアは、刺激するようなことを言ってしまう。
「つくづくきみは、防衛本能がないんだね。ハスクリーにつかまったときもそうだったけれど、がむしゃらに逃れようとするだけじゃ、命がいくつあっても足りないよ」
「あ、あたしを殺すっていうの?」
「まさか。そんなことをしたら、宝剣のありかがわからくなる」
「脅《おど》したって、言いなりになんかならないから!」
「やっぱりきみはわかっていない。人を言いなりにする方法なんていくらでもある。世間知らずのお嬢《じょう》さん、自分が息をしていることすら許せないほど、絶望することなんて想像できないんだろうね」
哀しい人、そうエドガーのことを表したアーミンの言葉を、そのときリディアは思い出した。
怖いと思う気持ちより、目の前の彼が、はじめて本当の自分をリディアの前にさらけ出しているように見えて、胸が痛んだ。
それは、犯罪者の本性などではなく、あたりまえの幸福も将来も、何もかも奪われた者の苦しみだ。
「……あなたは、そんなふうに絶望したの」
ふと彼は、眉をひそめた。
よけいなことを言って怒らせてしまったのだろうか。
本当にあたしって、危険を察知する本能がいかれてるのかもしれないわ。
そう思ったとき、急にエドガーが手を離した。
苦悩の表情を浮かべたまま、彼はうつむく。
やがて小さく、「そうだ」とつぶやく。
「青騎士伯爵の宝剣だけが、僕の希望だ。リディア、僕を見捨てるのか」
まるで、恋人を引き止めようとするかのように、視線がすがりつく。リディアはまた、自分がとらわれの身も同然だということを忘れそうになる。
「……そんなこと言われたって」
「行かないでくれ」
「わけがわからないわ。あなたはあたしを脅して、言いなりにするつもりなんでしょ」
「どうしても行くというなら、僕はここで死ぬ」
「ちょっと待ってよ、それが脅し?」
「最後の希望が消えるなら、生きているほど苦しむだけだ」
リディアが渡したカップを眺めていたかと思うと、思いつめたように彼は中身を飲みほした。
「これが毒薬なら、僕が死ぬと言ったところで、きみの心は痛まないわけだけれど」
「ま、まさか。眠り薬よ」
「そう。なら、目覚めたときに運命が決まるわけだ。きみが目の前から消えたなら、僕の命はそれまで……。ああ、悪くはないな。僕の運命はきみのもの。情熱的な愛の言葉みたいじゃないか」
[#挿絵(img/star sapphire_107.jpg)入る]
冗談じゃない。
困惑するしかないリディアに、彼は哀しげな、けれどこのうえなく優雅な微笑みを向けた。
「おやすみ、僕の妖精」
ふざけた言葉も、彼の口に上れば切実な求愛のよう。あまく耳にまとわりつく声を残し、コートにくるまった彼は、床に横たわった。
すぐに眠りに引きこまれていく、無防備なエドガーの姿を、リディアは突っ立ったまま眺めていた。
「あーもう、ひやひやしたぜまったく」
ニコが姿を現す。
「リディアってば、薬を入れるタイミングが悪いんだよ。ま、結局飲んでくれたからよかったがな」
エドガーを足先でつつき、薬が効いているのを確かめる。
「さ、行こうぜリディア」
テッド、とあの男はエドガーを呼ぶ。
記憶から消え去ることのない声は、眠りの中でいまだに彼をさいなんでいた。
テッド、おまえは完璧《かんぺき》だ。下賤《げせん》の者など冷ややかに見下し、光をまとって立っているだけでいい。おのずと崇拝者《すうはいしゃ》が、おまえの足元に群がるだろう。
教えてやる。人をあやつることがいかにたやすいか。そうとは気づかせないまま、誰でもおまえの思うとおり働くようになる。
そしておまえは、私になるのだ。私と同じように考え、人を支配し、あやつるようになる。
そんなことができるはずがない。
なぜならエドガーは、そう言った男の前から逃げ失せた。思い通りにはならなかった。
戦争で怪我《けが》を負ったという、醜《みにく》くゆがんだ半顔を仮面で隠した男。プリンスと名乗り、エドガーをあやつり人形にしようとした。
人前に出られないあの男の代わりに、彼の思い通りに動きしゃべり、働く、忠実で魅力的な人形をほしがっていた。
自我も意志もはぎ取って、動く抜け殻《がら》にしようなどという、悪魔じみた実験が成功するわけがない。
けれどもふと、エドガーは不安になる。
こうしてあがき続けている何もかもが、あの男の意図ではないのだろうかと。
逃げるために、身を隠すために、生きるために、結局エドガーは、あの男にたたき込まれた手段を利用しているからだ。
自分の立場を上に置き、相手に対して寛容《かんよう》に、そうして自分を魅力的に見せることができればほぼ成功だ。
他人をよろこばせるのも不安にさせるのも、同情させるのも怯《おび》えさせるのも、あとは意のまま。感情をあやつって、自分に有利に動かす。
しかしそうやって動かす相手は、本当の味方ではないと、エドガーは気づいていた。
主人と奴隷《どれい》ではなく、カリスマと崇拝者でもなく、気持ちが対等になったとき信頼が生まれる。けれどそれは、誰とでも築けるものではなく、簡単には成立しない。
理屈抜きに彼の仲間だといえるのは、レイヴンとアーミンだけだ。
しかたがないから、その場しのぎに簡単な方法を使う。しょせん他人にエドガーたちの苦しみはわからない。利用するだけすればいいと割り切ってきた。
リディアも利用するためのひとりにすぎず、引きこもうとしたが、うまくいかなかった。
あの年頃のうぶな少女なら、簡単に落とせるかと思っていたのに、すんなり信用しなかった。ゴッサムの長男の出現で、こちらの素性《すじょう》が知られてしまったのは計算外だが、たまたまエドガーが負った怪我は、リディアの同情を引くのに有利になるはずだった。
だから身の上話をした。彼女は迷っている様子ではあったが、やはり信用することはできなかったのだろう。
彼女が薬を入れたのを見たとき、エドガーに残された手段はひとつだけになった。
暴力で言いなりにするしかない。
なのになぜ、みすみす逃がしてしまうようなことになったのか、自分でもよくわからない。
『あなたは、そんなふうに絶望したの』
憎むべき犯罪者を目の前にして、どうして相手のことなど考えるのだろう。どうやって自分を守るか、それだけで精一杯のはずの場面で。
金緑の妖精族の瞳に、エドガーは、自分がどんなふうに映っているのかわからなくなった。
いつもなら、他人に自分がどう見えるのかわかっているつもりだ。意識して自分を演じわけ、相手に与える印象をつくり出すのには慣れているはずなのに、リディアは、極悪人になりきろうとしたエドガーの、いくつもの仮面の奥を見透かしたかのようだった。
行かないでくれと、ただの心情を吐き出すしかできなかったなんて、自分でもあきれる。
死んでやるなんて、どう考えても脅《おど》しにもならない。
けれどもう、どうでもいい。
いっそのこと、毒を盛ってくれればよかったのにと思う。
ただの眠り薬は、しかししだいに眠りの力を薄め、彼を覚醒《かくせい》へと誘《いざな》う。
光がまぶたを刺激する。
エドガーは、ゆっくりと目をあける。
朝日があばら屋の天井から、壁の隙間《すきま》から身体《からだ》の上に注ぐ。
ああもう、夜が明けてしまった。
ひとりきりの夜明けが。
「みゃあ」
鳴き声を耳にし、身体を起こしたエドガーは、首にネクタイを結んだ灰色の猫を、窓枠のところに見つけていた。
リディアの猫だ。なぜここに、そう思うと同時に、暖炉《だんろ》のそば、椅子《いす》の背もたれに寄りかかり、彼の杖《ステツキ》を抱いたまま眠っている少女の姿が目に映った。
「まったく、やってらんねーよな」
ニコはつぶやきながら、途方に暮れた顔つきでリディアの方を見ている青年に、スコーンをひとつ放り投げた。
頭に当たって、彼は振り向く。まだ、わけがわからない様子で首を傾げているのは、リディアが逃げなかった理由に悩んでいるのか、それとも、前足でスコーンをかかえている猫の方が不可解なのか、どちらだろう。
そばに落ちたスコーンのことも、猫に食べ物を恵んでもらったとは思いたくなさそうにちらりと見やる。
「食えよ」
しかしニコは、わざと横柄《おうへい》に言ってやる。
「ええと、ニコ、だったかな。せっかくだけれど遠慮するよ。君が熱い紅茶にこだわるように、食べ物を恵んでもらうのは僕の主義にかかわるんでね」
「ふーん、おれの言ったこと聞こえてんじゃないか」
「……なんとなくだけどきみ、感じ悪いよ」
「ああそうか。あんた、聞こえてんだけどそうとは意識できないタイプか。そういう中途半端な人間もたまにいるわな。まあいいけどね、おれの言うこと理解できるんならさ。いいか、この大悪党、リディアに何かしたらただじゃおかないからな」
口を大きく開け、牙を見せたニコの、敵意は通じたようだった。
「そう、リディアのことが心配なんだね」
彼は、再びリディアの方に視線を動かした。
「どうして、逃げなかったのかな」
「知らねえよ」
ニコにとっては、大きな不満だ。
悪党が自分で死んでくれるなら、その方が世間のためだと言ってやったのに、リディアは出て行かなかった。
結局、リディアのために怪我を負ったエドガーへの同情が勝ったのか。本当に彼が死んでしまったら、後味が悪いと思ったのか。
たぶんリディアは、頼られたら突き放せないのだとニコは思う。妖精の取り換え子と言われ、さんざん変人扱いされながらも、彼女は人を憎んだことがない。
それどころか、人と妖精をつなぐ架《か》け橋に、自分のような能力を持つ者がいるのだと信じ、いつか誰かに必要とされるはずだと思っている。
今は彼女をバカにしている町の住人を相手に、フェアリードクターの看板を掲げていることからして、お人好しきわまりないが、もしも誰かが困っていたなら、迷わず親身になるだろう。
だからエドガーのことも、見殺しにするほど憎めなかったのだ。
「まさか、僕に惚《ほ》れたとか」
「ありえねえだろ」
「だろうね」
さし込む淡い光が、リディアの髪を紅茶色に輝かせる。
立ちあがったエドガーが、ゆっくりとリディアに近づこうとする。ニコはさっと、彼女のひざに飛び乗った。
「近づくなってかい? ちょっとさわるだけだから、大目に見てくれ」
「ふざけんな」
かまわず彼は手をのばす。頬《ほお》にかかる、さらさらした髪の毛に触れる。
リディアは、うっすらとまぶたを開いた。
妖精が見える、金緑の瞳に光が射し込む。
「おはよう、リディア」
こともあろうにエドガーは、ニコの隙《すき》をついて、リディアの手を取って口づけた。
「は……、何すんのよ、このスケベ!」
あわててリディアは飛びのいた。
「べつに何も。きみの猫が見張ってたし」
本当に、こんな軽薄《けいはく》野郎に同情してよかったのかよと思いながら、ニコはため息をつく。
「おいリディア、スコーンもらってきてやったぜ、朝メシにしよう」
ニコが放り投げたスコーンを、両手で受けとめながら、彼女はまだ不審《ふしん》げにエドガーを見ていた。
「もう嫌われたかと思っていたから、また会えてうれしいんだ」
「……嫌いよ。あたしはうそつきが嫌いなの。だからあなたも嫌い」
「でも、見捨てないでくれたわけだ」
「それは、あたしはフェアリードクターで、あなたに依頼を受けたからよ。だけど、青騎士|卿《きょう》の宝剣を手に入れてあげるっていうんじゃないわよ。メロウが守っているなら、あなたの手の届くものじゃないってことをはっきりさせるため。メロウは、悪い妖精じゃないけど危険な力も持っているわ。それをあなたみたいな、妖精を認めない無謀《むぼう》な強盗に教えるのも、フェアリードクターの役目だからよ」
「僕の身を案じてくれると取ってもいいのかな」
「……ていうか、あたしのポリシーの問題なの」
「力を合わせて、きっと宝剣を手に入れよう」
「ちょっと、エドガー、人の話聞いてる?」
「ああ、その名で呼んでくれるんだね」
「……だって、あなたの本当の名前なんでしょ?」
「うれしいよ、リディア」
まるでエドガーのペースだ。手を握られてリディアはたじろぐ。
「あなた、本当は死ぬ気なんかなかったんじゃ……」
当たり前だろ、とニコは思う。
「きみがいてくれたから生きてるんだよ。命の恩人だ」
「いいからもう、離して!」
この男、危険なメロウよりやっかいかもしれないぞと、ニコは先が思いやられるのだった。
*
ロンドンのカールトン教授の家に、市警察《スコットランドヤード》が訪ねてきたのは、彼が知り合いの警部に相談を持ちかけてから間もなくのことだった。
娘のリディアから数日前に届いた手紙には、家を出る日時が書き記されていたが、船がロンドンに着く予定日になっても、彼女は来ない。その後連絡もないのが気がかりで、スコットランドの自宅へ、どうしたのかと問う手紙を送ったものの、返事を待つのももどかしく、念のためにと警部に相談していたのだった。
家に来た警察官が言うには、リディア・カールトンの名前でチケットが購入された客船には、彼女が乗った形跡はないということ。そしてその船がフォース湾を出発した日、ロンドンで起こったゴッサム邸強盗事件の犯人によく似た男が同じ港で目撃され、若い娘を連れ去ったという証言もあるとのことだった。
「いえ、まだお嬢《じょう》さんが連れ去られたと決まったわけじゃありませんがね」
警察官はそうつけ加える。
「それで、何か変わったことはありませんか? 犯人からの連絡や脅迫《きょうはく》……、直接的なものではなくても、不審《ふしん》人物がうろついているとか、気になるようなことは」
「何もないが、何かあってからでは遅いから、警部に相談したんじゃないか」
日ごろのんびりしたカールトンも、大切なひとり娘のこととあっては、あせらないわけにいかなかった。
強盗犯に連れ去られたかもしれないなんて、とんでもない。
くしゃくしゃと髪をかけば、もともとのボサボサ頭がさらに乱れた。
「では、もしも犯人からの接触があれば、すぐに報《しら》せてください」
「接触がなかったら? 今すぐに娘を捜してはくれないのか?」
「今のところは例の強盗犯を追うのみで、それも英国中が捜査の範囲。あるいはすでに、外国に逃亡したかもしれず、お嬢さんとの関連も決め手に欠けます。お嬢さんだけを捜すというのは、まず難しいということをご理解ください」
事務的にそう告げ、警察官が帰ってしまうと、カールトンはソファに座り込んで頭をかかえた。
訪ねてきた弟子に肩をゆすられるまで、放心しきっていた彼は、はっと我に返る。
「教授、どうかしたんですか? ご気分でも?」
「あ? ああ、ラングレー君か」
カールトンはまるい眼鏡《めがね》をかけ直しながらしばし考え、急に立ちあがった。
「そうだ、こうしてはいられない。娘が誘拐《ゆうかい》されたかもしれないんだ」
「ええっ! 本当ですか?」
「だから捜しに行く。ラングレー君、仕事のことは君に頼む」
「ちょっと待ってください、捜すって、いったいどこへ?」
「スコットランドの自宅を確認して、それから……」
言いながら彼は、寝室へ入るとスーツケースを広げる。クローゼットを開けて着替えを放り込んでいく。
「ご自宅からは、何の返信もないのでしょう? それに、何か手がかりはあるんですか?」
「……ない」
警察も捜しようがないというものを、個人で捜せるわけがないのだ。
カールトンは、脱力してベッドに座り込んだ。
「落ち着いてください。メイドにお茶を淹《い》れてもらいましょう。それから、できることを考えてみた方が」
ラングレーは、師匠の扱いにはいくぶん慣れていた。研究以外はまるで無能と実の娘に評されるカールトンは、弟子から見てもそんなところがある。痩《や》せぎみの身体《からだ》、服装にも髪型にも無頓着《むとんちゃく》、書物を広げながら大学内を歩けば、溝にはまり木にぶつかり犬に噛《か》みつかれるといったありさまだ。
しかしそんなことは、教え子たちにとって教授の真価にかかわるものではない。
「ああ、そうだね。君のいうとおりだ。取り乱してすまない」
少しだけ冷静になって、カールトンは考えた。
もしも誘拐などという大事ではなく、ちょっとしたトラブルで到着が遅れているだけなら、待っていればいずれ解決するだろう。
リディアはしっかりした娘だし、だからこそ彼は、離れて暮らしていてもさほど心配したことはなかった。そのうち連絡が入るか、ひょっこり現れるに違いない。
けれどもし、事件に巻き込まれたとしたら。
相手が強盗犯なら、金目当てに脅迫してくるかもしれない。それまでこちらは、動きようがない。
それとも金目当てではなく、逃亡のための人質なら、用が済めば解放されるのか、それとも……。
考えるほどに、カールトンは恐ろしくなる。ブランデー入りの紅茶も、気持ちを落ち着けてはくれない。
「ゴッサム邸を襲《おそ》った強盗犯……ですか、もし本当にそうだとしたら、奇妙なつながりですね」
弟子の言葉に、カールトンはふと顔をあげた。
「つながりとは?」
「だってほら、ゴッサム医師といえば、何度か大学にいらしたことがあるじゃないですか。教授に、幻の秘宝について訊《たず》ねていらっしゃった」
カールトンは、博物学の中でも鉱物に通じている。とくに宝石には詳しく、現存している宝石だけでなく、かつて存在したもの、伝説や幻の範疇《はんちゅう》に含まれるものまで、系統づけ分類しようとしている。
たとえば、栄光をもたらすというアレキサンダーのエメラルド、あるいは破滅をもたらすというクレオパトラのルビー、果てはさらに謎めいた、カサンドラの水晶、サロメのジャスパ――、ソロモン王のアイオライト。
あくまで、自然界が生み出した奇跡の遺産を総合的にまとめようとする試みの一環で、先頃はやりの神秘主義的《オカルティック》な意向はない。
だがそういった方面から、質問を受けることは多々あった。
そんな中に、ゴッサム医師の名前を、ようやくカールトンは思い出す。たしか、幻のスターサファイアについて訊ねてきたのだった。
「ああ、そういえば。メロウの星≠ニいう石が本当に存在するのかと興味を持っていたあの紳士か」
「本当にあるんでしょうか?」
「まあ伝説だからね。三百年ほど前にはたしかにあったようだ。アシェンバート伯爵《はくしゃく》という実在の人物が所有していた。しかし彼が、というか、その伯爵本人のことかどうか微妙だが、それをメロウにあずけて姿を消したという話は、かのF・ブラウンの『青騎士伯爵』の追記にしか出てこない。あれは創作だという話もあるから、確たる証拠《しょうこ》にはならないし、伯爵は外国へ出かけたきり行方《ゆくえ》知れずという記録もあるから、宝石も一緒に失われたかもしれない。たとえば、船が難破でもすれば、何もかも海の底だ。メロウというロマンチックな話は、そこからきたのかもな」
だがそれと、リディアがいなくなったことと、関係があるのだろうか?
ゴッサム邸に押し入った強盗が、リディアをねらう?
何かがつながりかけたとき、メイドがまた来客を告げた。
「ゴッサム氏のご子息だという方がいらっしゃっています」
「なんだって?」
居間を飛び出した教授は、自ら玄関へ赴《おもむ》き、客を招き入れる。
ゴッサム医師の三男だと名乗る男は、応接間のソファに腰をおろすと、こう切りだした。
「父が強盗に撃たれ、入院したのはご存じですね? じつはそのことで、カールトン教授にお知らせしなければならない重要なことがございます」
「メロウの星のことかね?」
三男は少し驚いたような顔をした。しかしすぐに平静を取り戻し、頷《うなず》く。
「強盗は、金ばかりでなくメロウの星≠ノも興味を持ったのです。教授におうかがいした話を参考に、父は宝石の所在を調査し続けていました。そうして、隠し場所を示すと思われる、伯爵家のコインに刻まれた謎の詩にたどり着いたのですが、それも強盗に奪われてしまいました。詩は、妖精の名前が連なるもので、意味がまるでわからなかったので、父が妖精に詳しい人物を捜しておりましたところ、教授、あなたの亡き奥さまがフェアリードクターだったということを耳にしました」
まさか、と思いながら、カールトンは、汗ばんだ手のひらを握る。
「そうして、現在はお嬢《じょう》さんが、フェアリードクターの看板を掲げていらっしゃるとわかり、ぜひご相談をと考えていた矢先でした」
「ああそういえば」
唐突《とうとつ》にラングレーが口をはさんだ。
「しばらく前にゴッサムさんに道でお会いしたことがあって、教授のお嬢さんのことを聞かれました」
「リディアがフェアリードクターだと、君が話したのかね」
「いえその、まあ、世間話の延長のようなつもりで……。とはいえ僕がお嬢さんとお会いしたのは何年も前のことですし、特徴を聞かれても髪の毛が鉄錆《てつさび》っぽい赤茶としかおぼえていませんでしたが」
もうしわけなさそうにラングレーは言う。
弟子が言ってしまったとしても、カールトン自身、娘のことを隠していたわけではないのだからしかたがない。
「いや、ラングレー君、君のせいじゃない。……それでつまり、娘のことを強盗も知ったと?」
「まことに遺憾《いかん》ですが。それで、もしかするとすでにお嬢さんが犯人の手の内にいる可能性も」
「ああ、それは警察《ヤード》にも聞いたよ」
深くため息をつき、カールトンはうつむく。最悪の事態だ。
三男は微妙に眉《まゆ》をひそめた。
「そうですか。でも警察は、あまりあてにはなりません。今のところ長兄が、強盗犯の特徴を各地の新聞に載せ、賞金をかけて情報をつのっています。そこで教授、ぜひご協力いただきたいのですが」
「私にできることなら何でもするが」
「スカーバラから西へ向かう汽車に、お嬢さんと強盗らしき目撃談がありました。強盗に脅《おど》されて宝石探しに協力しているのだとすると、その方向でお嬢さんが目星をつけそうな場所はありませんか?」
「しかし、私は娘と違って、妖精に詳しいわけではないのだ」
「ですが私どもよりはご存じでしょうし、何よりお嬢さんの安否がかかっています」
まったく、その通りだった。
三男に差し出されたのは、詩を書き写した紙と地図。三百年前にメロウの星≠所有していた、アシェンバート伯爵にゆかりのある場所にしるしをつけたと彼は言った。
リディアなら、どこに向かうのか。
「それから教授、お嬢さんを助けるためにも、ぜひ私たちとご同行願いたいのです」
「もちろんご一緒させていただきたい。今すぐ出発できるかね?」
「ええ、ですが行き先は」
「馬車の中で考えよう」
カールトンが、仕事以外のことでこれほど迅速《じんそく》に判断するのは、弟子のラングレーにとってりもはじめて目にする光景だった。
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海辺の一夜
汽車と馬車を乗り継ぎ、リディアたちがようやくやってきたのは、海辺の静かな町だった。アイリッシュ海はもう目の前で、リディアの立っているこの窓辺からも、月明かりを浴びた海がよく見える。
一方、部屋の中に目を向ければ、曲線も優雅な椅子《いす》に腰かけたエドガーが、この館の主人を相手に、葡萄酒《ぶどうしゅ》のグラスを傾けていた。
町の地主《ジェントリ》であるこの館の主人は、伯爵《はくしゃく》を名乗るエドガーのことをすっかり信用している。
物取りに襲《おそ》われ怪我《けが》をしたとか、従者とはぐれたとか、エドガーの作り話はお手のもので、医者を呼ばせ、新しい服を用意させ、そのうえ地主の知人らしい某貴族のことを、さも社交界で面識があるかのように吹聴《ふいちょう》して、館に宿泊する約束を取りつけてしまった。
伯爵をもてなすのは名誉なことだと、地主はいたく感激している。
「ところで伯爵、マナーン島へ行かれるのですか? これといって何もない島ですが」
「あそこはいちおう、僕の島なのですよ。父の代では訪ねることはなかったようなのですが、爵位《しゃくい》を継ぐことになった以上、所有地をこの目で確かめておこうと思い立ちまして。なにしろ我が家の領地は、各地に散在しているもので」
医者にきちんと手当を受けた傷は、もうあまり痛まないのだろうか。酒は当分禁じられたというのに、かまわず飲む。
まばゆい金髪は、あばら屋で横たわっているときでさえ輝きを失わなかったが、シャンデリアの下ではさらに映える。
一方リディアは、自分の髪に目を落とす。室内の明かりは、彼女のくすんだ赤茶の髪を暗く見せるから好きではない。エドガーの金髪がうらやましくなれば、どうして両親と同じ明るい色に生まれなかったのだろうと思う。
いっそ知的な黒髪だったらよかったが、鈍い赤茶はあまりにも中途半端なのだ。
もっとも、たとえ金髪だったとしても、あんなに気取った優雅さは自分にはないけれど。
田舎町の地主の館で、ふだんは引き立てるべき人もない数々の高価な家具や調度品が、彼のような人物の訪問を待ち望んでいたかのように見えてしまって、リディアは自分でもあきれていた。
「そうでしたか。これは失礼なことを申しました。そういえば、島には古い城が建っておりますな。棲《す》んでいるのは人魚ばかりという噂《うわさ》ですが、それも伯爵のもので?」
人魚、その言葉に反応し、リディアは耳を傾けた。
「おそらくその城は、十六世紀に建てられたものです。当時の当主が島ののどかな風情を気に入り、別荘を建てたと聞いてますが……。人魚が棲んでいる? それは初耳ですね」
「まあ単なる噂ですよ。あの島は、人魚伝説の宝庫ですから」
「どんな? どんな伝説があるんですか?」
リディアは思わず口をはさんでいた。その勢いに、地主は戸惑う。
「そ、そうですねえ……」
「彼女は妖精には非常に興味があるんですよ。それに僕も、島のことなら聞いてみたい」
「いえまあ、私もそう詳しいわけではなく、人魚と聞けば誰でも知っているような話です。その歌声を聞いた者は、虜《とりこ》になって海の中へ引きこまれるという。島の周囲は潮の流れが急だと言いますから、船が遭難《そうなん》するたび、人魚の伝説が流れたのでしょう」
「船の事故がすべて偶然とは言い切れませんわ。だって人魚は、波も潮もあやつれるもの。それに、マナーン島の人魚は、どうして海ではなく、城にも棲むようになったんですか? 何か言い伝えられてませんか?」
リディアがまじめに訊《たず》ねるほど、地主は困惑と苛立《いらだ》ちを眉間《みけん》ににじませた。大の男が妖精話などできるかと思っている。
それはリディアに対する、ごくふつうの人々の反応だ。いつも、彼女の言葉は不可解で腹立たしいものと受けとめられてきたから慣れている。
気にしない、そっとそうつぶやくだけだ。
けれどメロウの情報は、今のところリディアにはない。些細《ささい》なことでも知りたいところだった。
「誰か城で人魚を見た人でも?」
エドガーが重ねて問えば、地主はようやく返事をした。
「見たというより、城の奥から歌声が聞こえるとか、すると翌朝、城に入り込んだらしい泥棒の死体が浜に打ちあげられるとか、そんな話です。しかしまあ、妖精だの幽霊《ゆうれい》だの、子供じみた連中がよろこぶだけで、どうせ根も葉もない噂ですよ」
子供じみていると言われ、リディアは頭にきた。言い返したくて口を開こうとしたとき、エドガーが言った。
「僕はけっこう、根も葉もない噂話は好きですけどね。なかなか大人になれなくて困りますよ」
切り返され、困惑する地主を見れば、リディアは少し胸のすく気分だった。
「いえいえ、そういうつもりでは。……ああ、そろそろ伯爵、私は休ませていただきますが」
そわそわと、地主は立ちあがった。
「どうぞお構いなく」
「あの、ひとつお願いがあるんですが」
リディアがそう言ったのは、むかつきついでだった。
「何でしょうか?」
「妖精の通り道をつくってもかまいませんか? この部屋、さっきから迷子の妖精でいっぱいになってるんですけど」
当然、しかめっ面《つら》が向けられたが、彼女の方はこれ以上|不愉快《ふゆかい》になりようもない。
「ちょっとした遊びですよ、ご主人。差し支えなければ、彼女の好きにさせてやってください」
「変わった妹さんですな。ではごゆっくり」
それを承諾の言葉にして、地主は部屋を出ていった。
「ちょっと、妹って何よ」
聞き捨てならない言葉に、リディアは振り返ると、エドガーをにらみつけた。
「そうしておかないと、男女ふたりきりじゃいらぬ誤解を招くよ」
「その方がかえってあやしいじゃない! どうしたって兄妹に見えないわ!」
「そう? だったら訂正してこようか? 本当は人目を忍ぶ恋人どうしだって」
「ち、違うでしょ!」
「ひどいな。そんなにいやがらなくても。それより、本当に妖精が迷子になってるの?」
リディアはつんと顔を背《そむ》け、水差しのレモン水をグラスに注いだ。それを手に、部屋の隅へ歩み寄る。
「だとしたら今きみの目には、この部屋にわらわらと群《むら》がっている妖精が見えているのか」
「ええそうよ。この部屋は、たまたま通り道になってるみたいね」
エドガーはテーブルにグラスを置く。そのとき彼は、器用に小妖精が寝転んでいる場所を避けた。
そういえばさっきから、彼は一度も妖精を踏んづけたりしていない。見えはしなくても、敏感な性質なのだろうか。
地主など、妖精の上に座るわ、クッションで押しつぶすわ、歩けば蹴散らすわと散々だったから、リディアは見かねて申し出たのだ。
きっと地主は、夜な夜な妖精の仕返しを受けていることだろう。
もともと鈍感そうだから、知らない間に髪の毛を抜かれようと青あざができていようと、気づいていないのだろうけれど。
ともかくリディアは、妖精たちのために壁際にひとしずくレモン水をたらした。
窓辺からドアの方へ、誘導するように少しずつ水滴《すいてき》を落としていく。
興味を持ったように近づいてきたエドガーが、不思議そうに壁際を覗き込んだ。
「それが道しるべ? 妖精の行列がこのへんにできてるわけか」
「そうよ」
「どんな妖精?」
「ブラウニーの一種よ。茶色くて小さくて、くしゃくしゃした顔の」
「ふうん、で、道案内は僕でもできるのかな?」
「やってみたいの?」
にっこりと、彼は頷《うなず》いた。
レモン水のグラスを受け取り、リディアが教えるままに水滴をたらす。
「ついてきてる?」
子供みたいにうれしそうな顔をする。
「ええ。でも見えないのに、楽しいの?」
「想像するとおかしいね。こういうのも、フェアリードクターの仕事なのか?」
「そうよ。人と妖精が共存しやすいように気を配るの。妖精にも信頼されなきゃ、どんな取り引きもできないもの。それに、見えないからって踏みつけられて、だから妖精たちはいたずらで仕返し、なんて悪循環《あくじゅんかん》、不毛でしょう? ちょっとでも妖精のことを気にかけて、家の窓辺やドアに目印のリボンを結んでおくだけでもうまくやっていけるのに、そんな知恵も忘れられてしまったわ」
聞いているのかどうか、エドガーは、ふふと笑いながら、ドアの隅に最後のひとしずくをたらした。
薄くドアを開け、リディアは妖精たちが残らず出ていったのを見届ける。
「でもあなた、妖精なんていないと思ってるんでしょう?」
「僕の現実にはいない。夢の中の存在だね。でもきみは、誰よりもずっと現実の幅が広いんだろう。ほら、目のいい人は遠くまで見えるじゃないか。きみの話を聞いていると、そんなものだと思えなくもないな」
「……変わってるわね」
いつもは他人に言われる言葉を、自分が口にしたのははじめてだった。
「あ、ごめんなさい。その……バカにしてるんじゃなくて、なんていうか、驚いてるの。そんな考え方、はじめて聞いたから」
「そう?」
騒がしい妖精たちが去ってしまうと、急にリディアは、エドガーとふたりきりを意識した。
道しるべをつくるために、壁際で肩を寄せ合っていた距離のまま、彼がこちらをじっと見おろすからだ。
それに今は、ニコもいない。
「な、なんだかあたし、しゃべりすぎてるわね。妖精のこと、家族以外でこんなに話したのはじめてで……、ふつうはバカにされるだけだから。ああでもあなたも、変な女だと思ってるかもしれないけど」
気恥ずかしくて、会話を途切れさせまいとする。
「そんなことは思ってないよ」
「そう。……本心なら、あなたもやっぱり変わってるわ。でもね、さっき地主さんの前で、あたしが妖精の話をするのをいやがらなかったでしょ? そういうのって、意外とうれしいみたい。おかげで、言いたいことが言えたわ。いつもなら、よその家で困ってる妖精を見かけても、なかなか口には出せなくて。なのに、味方をしてくれる人がいるってだけで、気が強くなっちゃうのね。でもあなたがそんなふうなのは、宝剣を見つけるまで、あたしの機嫌をそこねないためだってわかってるし」
何を言っているのか、だんだん自分でもわからなくなってくる。
「それにあなたってうそつきだから、口先だけでいくらでも、あたしの気分をよくするようなことが言えるんだって思うのに、うっかりだまされそうになるの。……楽しそうに道しるべをつくったりするから、あたしのこと、わかってくれる人じゃないかって……」
あれ? これじゃあまるで、告白でもしているみたい。
「ていうか、あの、誤解しないでね。あたし、あなたのこと信用してないのよ。でもちょっとだけ、ほんの少しうれしかったってだけ……、……ちょっと、髪の毛さわらないでよ」
「猫の毛みたいにやわらかいのに、ちっとももつれないのは、妖精がしょっちゅう梳《と》かしてるの?」
いったいどうすれば、そんなせりふが思い浮かぶのかと思いながらも、あまりにもやさしげに微笑《ほほえ》むものだから、リディアはどうしていいかわからない。
「……妖精は金髪が好きなのよ。こんな鉄錆色《てつさびいろ》に興味ないわ」
「キャラメル色」
「は?」
「そう言った方がきみには似合う」
こんなに単純なことで、髪の毛をもてあそぶ失礼な男に、平手を振りあげられなくなるなんて。
「食べてみたらあまいのかな?」
こいつ、油断も隙《すき》もない。そう思いながらも、リディアはそれが不愉快なのかどうかさえわからなくなっていた。
そのとき、ドアがノックされた。
エドガーは少し肩をすくめ、リディアから離れる。「どうぞ」と返事をする、リディアはほっと息をついた。
「エドガーさま、遅くなりました」
メイドに案内されてきたのは、レイヴンとアーミンだった。
彼らと離ればなれになっても、エドガーには心配している様子はなかった。目的地がマナーン島とはっきりしているのだから、向こうがちゃんと見つけてくれると、かまわず先へ進んできたが、本当に駆けつけてくるのだから大したものだ。
修羅場《しゅらば》をくぐり抜けるのに慣れているなら、はぐれたときの行動パターンなどお互い知り尽くしているのだろう。
「アーミン、レイヴン! 無事だったか?」
うれしそうに両腕を広げ、まるで父親のようにふたりを抱擁《ほうよう》する。エドガーが、彼らに惜しみない愛情を注いでいるのがわかる。
単なる主従じゃない、この人たちは家族なんだ、とリディアは思う。
「リディアさんも、お怪我《けが》はありませんでした?」
アーミンがやさしく声をかけてくれるが、なんとなくリディアは疎外感《そがいかん》を覚えていた。
「ええ、あたしは……」
むしろエドガーに怪我をさせてしまったことを、このふたりにもうしわけなく思う。
「心配するな、リディアはちゃんと僕が守った」
「本当ですか? どちらかというと、エドガーさまの方に身の危険を感じたんじゃありません?」
「あのねアーミン」
「何か間違ってます?」
「いいや。わかってるならあと十分遅れてきてほしかったね。せっかくいい雰囲気だったのに」
「あら、十分ですむんですか?」
ふたりの会話をよそに、リディアはそのとき、レイヴンの鋭い視線を感じていた。もしかしたら、エドガーの怪我に気づいている? それがリディアのせいだということも?
「あの、あたしもう寝ます。おやすみなさい」
エドガーとの間にあった奇妙な気分と、不自然な動悸《どうき》を引きずりながら、リディアはこの場から逃げ出すことにした。
「アーミン、きみが変なこと言うから、リディアが逃げちゃったじゃないか」
そんな声を背後に聞きながら、急いで応接間から遠ざかった。
*
(なあ見たか? あれはフェアリードクターだよ)
(ああ、この町で見かけるのは百年ぶりだよ)
(マナーン島へ行くとか言ってたよ)
(マナーン島へ、ならわしらも帰れるのか?)
(メロウが解放されたら、帰れるぞ)
ざわざわと、小妖精《ブラウニー》がつぶやくのを耳にし、館の庭を二本足でてくてく歩いていたニコは立ち止まった。
「おい、チビども。帰れるってどういうことだ?」
(わっ、なんだ猫か)
「おれは猫じゃない。フェアリードクターの相棒だ」
(なんでもいいけどな。フェアリードクターの仲間なら、メロウを助けるよう言ってくれよ)
「メロウがどうなってるって?」
(ずっと嘆《なげ》いてるんだ。島の主人が帰ってこないからな)
(メロウが嘆くと、海が荒れる。昔はおれたちゃマナーン島に棲《す》んで、陸との間を行き来しながら暮らしてたんだが、メロウのせいで海が渡れなくなっちまった。親戚《しんせき》とはもう三百年も会ってない)
「そりゃ気の毒に。しかしメロウを救うのは、帰ってこないっていう島の主人でなきゃ無理なんじゃないのか?」
(人間のことならフェアリードクターがどうにかできるだろう)
「無茶言うな。まあとにかく、メロウのことは伝えといてやるよ。その代わり、奴らが守っているものについて知りたいんだが」
[#挿絵(img/star sapphire_139.jpg)入る]
(守ってるもの? って何だ?)
「帰ってこない主人からあずかったものがあるだろう」
(はあ、そんな話も聞いたような。しかしおれたちゃ、島から離れたきり。向こうのことはよくわからん)
ふむ、とニコはヒゲを撫《な》でて考える。
「向こうに親戚がいるんだな。ならそいつらに聞いてみたい。船に乗っけてやるから、一緒に島へ行かないか?」
(人間の船にか? 乗ってもいいのか?)
妖精たちは色めきだった。昔ながらの魔除けやまじないが忘れられつつあっても、船は海という恐ろしく不可解な領域に漕《こ》ぎ出さねばならないもの。妖精や、目に見えない悪いものが近づかないよう守りが施されていて、彼らは人の船で島へ渡ることはできなかったのだ。
「フェアリードクターに話をつけといてやる。その代わり、親戚におれを紹介してくれ」
約束はすんなり成立した。
あとはマナーン島の小妖精が、貴重なメロウの情報をどの程度持っているかだ。
「リディアってばほんと、怖いもの知らずだからさ」
とニコはひとりごちる。
メロウなんてこれまでに見たこともないくせに、突っ込んでいこうとしているのだ。同行者が本物のメロウの主人、青騎士|伯爵《はくしゃく》ならまだしも、泥棒を連れていってどうするつもりなのか。
「世話が焼けるよ、まったく」
これでもニコは、リディアが赤ん坊の頃から見守っている。のほほんとして日々を過ごしているだけではない。いろいろと陰で支えている、つもりなのだ。
「いっそのこと、メロウが強盗どもを海の中へ連れ去ってくれないもんかね」
そして彼は、薄く開いた窓から館の中へと身をすべらせた。
*
暖炉《だんろ》の明かりだけになった部屋の中、エドガーはひとり、ソファに身をうずめ、身じろぎもせずにいた。
能天気な軽口と笑顔で、リディアをからかっているときには見せたこともない、深刻な顔つきで考えていたのは、これからのことだ。
「エドガーさま、そろそろお休みになった方が」
そう言って、部屋へ入ってきたのはアーミンだった。
「おまえも座れよ。飲まないか?」
しかしアーミンは、突っ立ったまま、悩んだように口を開いた。
「あの、ひとつお聞きしたいことがあるのですが」
彼女がそんなふうにあらたまってする質問には、おおかた予想がついた。
「ああ、リディアのこと? あれからどうやって連れてきたか、聞きたい?」
哀しげに、彼女は眉《まゆ》をひそめた。
「そんな顔をするな。僕が平気で卑劣《ひれつ》なことをする男だって、わかっているだろう」
「……平気なはずありません。いつだってあなたは、苦しんでいらっしゃいました」
エドガーは、小さくため息をついた。
「心配するな、アーミン。リディアには何もしていない」
「本当ですか?」
「できなかったんだ。どうしたことか」
半分情けないような、そんな気持ちでエドガーは言ったが、アーミンは泣きそうな顔のまま、ほっとしたように力を抜いた。
「それではリディアさんは、わたしたちがだましていたことを知りながら、まだ協力してくださるのですか?」
「彼女には、泥棒の片棒をかつぐ気はないよ。本物の青騎士伯爵でなければ宝剣を得るのは不可能だと、現物を目の前に僕らを説き伏せるつもりでついてきているんだ」
エドガーは、頬杖《ほおづえ》をつきながら、自嘲《じちょう》気味に微笑《ほほえ》んだ。
「リディアはおもしろい娘《こ》だ。思い通りになりそうでならない。なのにとんでもなくお人好しで、裏表なんかこれっぽっちもなくて、思ったことだけが口に出る。そのうえ僕みたいな悪人でも、すがりついて懇願《こんがん》されれば見捨てられなかったりするらしい」
状況が想像できなかったのか、アーミンが首を傾げた。
「少しばかり昔話をしたよ。……不思議だけれど、彼女がどんな反応をするのか見てみたかったような気がする」
「……どんな反応を?」
「僕は脳ミソを取られたから少しおかしいとでも思ってるんじゃないかな」
思い出しながら、エドガーはくすくす笑った。
「でもね、彼女にとっては妖精の存在よりも信じがたいことを信じてくれた。彼女はうそが嫌いなんだそうだ。取り繕《つくろ》ったりごまかしたり、たぶんそういうのは、あの不思議な瞳で見抜くよ。でも僕にはうそしかない。偽りの名前、偽りの生、何もかもがうそ。僕にとっては、本気のうそと、そうじゃないうそがあるだけだ。そしてたぶん、本気のうそだけが僕の真実だって、彼女にも通じたんだろう」
青騎士伯爵を名乗ることは、切羽詰まった本気のうそ。それだけがエドガーの希望で、あきらめるくらいなら死ぬと言ったのも、本気のうそだ。
「それなら、リディアさんにはすべてをお話しするのですね」
「いや、それはできない」
さっきからひとりで、彼が考え続けていたことだった。けれどどれほど悩んでみても、結論は変わらなかった。
リディアは、エドガーにとって仲間ではない。彼女がエドガーの策略《さくりゃく》には乗らず、ただ自分の意志でここにとどまっているのだとしても、それは彼の願いを理解したからではない。
リディアにとってエドガーが、卑劣な犯罪者であることは、動かしようのない事実。
にせ者が宝剣を手に入れるためには、どうあがいても卑劣な手段にたよるしかないのだ。
「リディアには、妖精の詩の謎を解いてもらう。その先は、本当にメロウが存在しようとしまいと、最初の予定どおりにする」
「……なぜです? エドガーさま」
「なぜ? 決まっているじゃないか。僕は青騎士伯爵の血筋じゃない、単なる泥棒だ。宝剣のありかを知るのにはリディアの協力が必要だが、彼女の仕事はそこまでだ。僕たちは、どんな手を使っても宝剣を奪い取らねばならないんだよ」
立ち上がり、彼はアーミンに歩み寄った。
「アーミン、そんなにリディアのことが気に入った?」
「何の罪もないお嬢《じょう》さんです。とても正直で、堂々と陽《ひ》の下を歩いている……。幸福な人を、傷つけたくはありません」
「わかるよ。僕だって、好きこのんで悪事に手を染めてるわけじゃない」
「でも、エドガーさまも、リディアさんのことは気に入っておられるでしょう?……だからこそ、わたしたちがにせ者だと知られても、手荒なことをせずに情に訴えたのではないのですか?」
ふ、と彼は笑った。哀しい青と残酷《ざんこく》な赤が混ざり合う、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳を細める。
「……おまえは僕を買いかぶってるよ」
そのときエドガーは、かすかにゆれるカーテンに気づき、はっと意識を向けた。窓辺のカーテンの陰に、灰色の、ふさふさしたしっぽが覗《のぞ》いている。
リディアの猫。そう思うと同時に、大股《おおまた》で窓に歩み寄った彼は、猫が身をひるがえすより早く、がしりと首根っこを押さえつけていた。
「ニコ、立ち聞きかい?」
猫は、怒ったように鳴いた。
猫に話を聞かれたことが、問題になるだろうかと思いながらも、この猫の言葉がわかるとリディアが言っていたことを思い出せば、ほうってはおけない気がした。
それに、どうにもこれは、人間じみたところがある。
バカげた考えだとしても、エドガーは、たった今もてあましている苛立《いらだ》ちをニコに向ける。卑劣なことも残酷なことも、必要なら実行できると確かめたかった。
まっすぐ暖炉《だんろ》の方へ歩み寄ると、彼はまるで薪《たきぎ》のように、ニコを放り込もうとする。
「げっ、やめろ、おいっ!」
「エドガーさま、何をするんですか!」
アーミンが止めようと、エドガーに抱きついた。すんでの所でニコは逃れ、マントルピースの上に飛び乗る。
アーミンと床に倒れ込んだエドガーは、顔だけをニコの方に向けた。
「冗談だよ、ニコ」
「そうは思えねえな、おぼえてろよ!」
猫はさっと姿を消したように見えた。暗がりに紛れ込んだだけだろう。
エドガーはため息をつく。床に座り込んだまま、まだ彼に抱きついているアーミンの短い髪を撫《な》でた。
顔をあげた彼女は、悲しげにエドガーを見つめた。
「あなたはときどき、わざと悪人になろうとする。やさしさや思いやりの気持ちを、振り捨てようとするかのように」
「おまえたちを守るためだ。非情でなければ生き残れない」
「わたしやレイヴンだけでなく、どうかご自分も大切にしてください」
「わかってるよ」
アーミンの唇が彼に触れた。それは一瞬で離れたが、彼女はまだエドガーに身体《からだ》を寄せたままだっ。た。
「……すみません」
「あやまることはない」
「エドガーさま、宝剣をあきらめることはできませんか?」
迷った末に、口にした言葉だとわかる。けれどもエドガーには、アーミンが弱気になっているだけに思えた。
彼女がこれ以上、人を犠牲《ぎせい》にしたくない気持ちはわかるけれど、今さら迷うわけにはいかないのだ。
「僕たちが自由を得るには、あれしかないんだ。あきらめたら、奴から逃げ切ることはできないよ」
「どのみち、手に入れられないかもしれません。そのために罪を重ねるよりは……。わたしにはどうしても、あの方から逃げ切ることはできないような、それが自分の宿命のような気がするんです」
「プリンスは万能じゃない。おまえはもう奴の下僕《げぼく》ではなく、僕の大切な仲間なんだ。昔のことなんて忘れろ」
そっと身体を離したアーミンは、苛立たしげに眉根《まゆね》を寄せた。
「なら、わたしを抱いてください」
切羽詰まった表情に、エドガーは戸惑う。
「わたしのすべてを、あなたのものにしてください。恋人になりたいなどと望んでるのではありません。主《あるじ》があなただと、確信したいだけ。でないと不安なんです。いつまでも、プリンスに鎖《くさり》でつながれているようで」
「おまえはモノじゃない。もう奴隷《どれい》でもない。そんなことをしなくても、主人が僕であることに間違いない」
「そうでしょうか。わたしがプリンスの女だったから、穢《けが》らわしいと感じているんじゃありませんか?」
「バカなことを」
「だって、いつでもこんなに近くにいるのに、わたしの気持ちに気づいているくせに、知らないふりをする……」
エドガーは、アーミンを抱きよせていた。
かわいそうな娘。プリンスが所有していた若く美しい女奴隷たち、その中のひとりだった。彼女とその弟が大切な友となり、守りたいと思えたときから、エドガーは生まれ変わろうと心に決めた。非力な自分にできることがあるなら、救いたいと思う。
[#挿絵(img/star sapphire_149.jpg)入る]
彼女の望みをかなえるのが、そんなに難しいことだろうか。
白い首筋に唇を寄せる。やわらかく、彼女の腕がエドガーを抱く。
けれど、そうやって愛そうとしながら、彼自身も自分の中にある呪縛《じゅばく》を意識していた。
アーミンがいまだプリンスに縛られているように、たぶんエドガーも縛られているのだ。
エドガーは、プリンスの所有物ではあったが、他の奴隷とは完全に立場が違っていた。
あの、得体の知れない結社、そのリーダーであるプリンス≠フ身代わりに仕立てあげられようとしていたからだ。
あの男の嗜好《しこう》、考え方、仕草や動作のひとつひとつをたたき込まれた。あの男が学んだことは、すべて学ばなければならなかった。それは多岐《たき》に渡る学問を網羅《もうら》し、プリンスがただ者ではないことはわかったが、エドガーには彼について考える余裕は与えられなかった。
理不尽《りふじん》な現実。精神的にも肉体的にも追いつめられ、思考を奪われ、少しずつ他人に作り変えられていく感覚。本当の自分がどんなふうだったのか、だんだんわからなくなってくる恐ろしさ。
アーミンも、もともとプリンスのことを教えるために、エドガーの前に現れた。そんな性癖《せいへき》までたたき込もうとはあきれかえる。
けれどそのことで、エドガーは、自分の状況のばかばかしさに気がついた。
連中がやろうとしていることは、あまりにも呪術《じゅじゅつ》めいている。
そこから彼は、すべてにあきらめきっていたアーミンを説き伏せ、支配者に抵抗を試みた。命令に背《そむ》くことが最初の抵抗。だから彼女には一度も触れていない。アーミンも、エドガーの反抗心を主人に密告することはなかった。
あのときから、彼女とは信頼し合い、ともに戦ってきた戦友だと思っている。
プリンスの女だったからといって、穢らわしいなどと思ったことはないつもりだ。けれどあの男と同じように、アーミンを扱いたくはないのはたしかで、今は自由な男女だとしても、彼女を抱けばプリンスの呪縛がよみがえりそうな気がして怖いのだ。
「……ごめん、アーミン」
結局エドガーは、彼女を突き放すしかないのだった。
*
リディアは急いでドアから離れた。
暗い廊下《ろうか》を走って逃げる。どうしてあたしが逃げなきゃいけないのよ、と思いながらも、エドガーとアーミンのあんな場面を見てしまっては気まずいとしか言いようがなかった。
話までは聞こえなかったが、しっかり抱き合っていた。
あのふたり、できてるの?
恋人がいるのに、誰にでもあまい言葉をささやくなら、ずいぶんな軽薄《けいはく》男だ。
「どうでもいいんだけど」
なぜだか落ちこみそうな気分を、追い払うように言い捨て、リディアは階段を駆け下りようとする。と、踊り場の暗がりから、ぬっと人影が現れた。
「きゃあっ!」
思わず声をあげ、しりもちをつく。
「すみません、レディ。大丈夫ですか?」
レイヴンだった。リディアは急いで立ちあがった。
「あ、あの、台所へ行こうと思って。寝る前に熱いミルクがほしいなって……」
何も問われていないのに、言いわけめいてしまう。どうにもレイヴンには、エドガーに対する危険人物と目をつけられているような気がするからだ。
紅茶をかけるわ、怪我《けが》をさせるわ、嫌われても当然なのだが、無表情に物騒《ぶっそう》なことを言ううえ、ケンカのレベルではない戦闘能力を見せた彼は、さすがに恐ろしい。
「でしたら、私がお持ちします。お部屋でお待ちください」
「い、いえっ、けっこうです。そんな、毒入り……、じゃなくて、あの」
「毒?」
鋭い視線が向けられる。一瞬で首をへし折られた男のことを思い出す。駅舎でハスクリーたちに取り囲まれたとき、彼女にナイフを突きつけた男だ。骨の砕けるいやな音を間近で聞いてしまったけれど、自分の場合でも聞こえるものなのだろうかと考えれば、リディアは怖くなってパニックになった。
「や、来ないで、……殺さないで!」
「すみません」
「え」
いきなりあやまられ、思わず顔をあげて彼を見る。
「私が恐ろしいのですね。気がつかなくてもうしわけありませんでした」
相変わらず無表情だったが、リディアは急に罪悪感をおぼえた。
もしかしたら、傷つけてしまったのではないか。レイヴンがリディアに何かしようとしたわけではないのに、勝手に怯《おび》えて人殺し扱いしてしまった。
あのときだって彼は、ごろつきのナイフからリディアを守ってくれただけだ。
思い直した彼女は、立ち去りかけたレイヴンを呼び止めた。
「あの、ごめんなさい。……ひどいこと言ったわ。あなたのこと傷つけるつもりじゃ……」
振り返った彼は、不思議そうにも見えた。
「人殺しが恐ろしいのは当然です」
「でも、あたしを殺そうとかしたわけじゃないのに」
「…………」
そこで黙り込まれれば、ひどく不安になる。
「え、まさか、あたしを殺すつもりなの?」
「今のところ、それがエドガーさまの利益になるとは思えません」
「利益って……、じゃあ場合によってはあたしを殺すのね」
「お答えできかねます」
気味が悪い。宝剣を探す協力を渋ったりすれば、エドガーは今のところリディアに向けている好意を裏返すかもしれないということだろうか。
そうなったらレイヴンは……。
やっぱり、あのあばら屋で逃げればよかったかもと、少々後悔をおぼえていた。
けれど同時に、リディアはフェアリードクターとしての責任感でマナーン島へ行くことを決めたのに、協力を強制するかのように脅されたことに腹が立った。
「待ってよ。あたしを脅《おど》そうったって無駄《むだ》よ。あたしは、自分がするべきだと思ったことしかするつもりはないわよ」
「……妖精博士《フェアリードクター》というのは、ずいぶんと自由なのですね」
「そ、それはそうよ。フェアリードクターは強制されてなるものじゃないもの」
「うらやましい。私は生まれ落ちたときから、強制的に精霊の奴隷《どれい》です。戦いと殺戮《さつりく》の精霊が私の中にいて、ときには私の意志や肉体もあやつります」
「えっ、今もいるの?」
そこに何かがひそんでいるとでもいうみたいに、彼は胸に手をあてた。
「はい。王にしか従わない精霊、これを持って生まれた者は、かつては王の戦士でした。けれども故国は、すでに英国の植民地、王はもうおりません。精霊は従うべき主人もなく、無差別に血を求める。それを救ってくださったのがエドガーさまです。今は、あの方が精霊の主《あるじ》」
「それじゃあ、彼が命じれば、あなたの意志に関係なく、精霊が人を殺すってこと?」
「エドガーさまは命じたりしません。ですから精霊は、私が主人の敵と感じた相手に襲いかかります。けれども主人の敵とはいえ、むやみに人をあやめるわけにはいかないのが今の私の立場。手加減をおぼえなければなりませんでしたし、自分で状況を判断し、危険の程度を推《お》し量《はか》らなければならなくなりました」
「……当たり前のことだわ」
「そうですね。でも私は、それまで自分という意志があることすら知りませんでした。精霊が暴れるのを止める方法も知らず、幾度《いくど》もあたりを血の海にしました」
冷や汗を感じながら、リディアは納得していた。十字の入れ墨を持つというサー・ジョンが、殺人鬼と呼ばれた所以《ゆえん》は、レイヴンを連れていたことによるのだと。
「それでもエドガーさまは私を見捨てることなく、赤子のように無知だった私に、大切なことをいくつも教えてくださいました。そうしてようやく、人間らしい自由を得たのです。あの方のために働くことが私の使命。主を失えば、私の魂は、残忍な精霊に支配されてしまうのですから」
「なら、エドガーでなくても、主人がいればいいんでしょう?」
「では、たとえばあなたに、私を引き受けることができますか? ほうっておけば不愉快《ふゆかい》な人間に片っ端から噛《か》みつく猛獣《もうじゅう》の、犯した罪をすべて背負い、善悪を教え、飼い馴らすことができますか。そうしてその凶悪な存在に、けっして殺戮を命じないということが」
猛獣使いになど、なれるわけがない。けれどもエドガーは、そのうえひとりの人生を引き受けているというのだ。
命じさえすれば邪魔者《じゃまもの》を排除してくれるというしもべを持ちながら、けっして命じない。そうやってレイヴンの意志を守るというのは、やさしいようで難しいのではないだろうか。
要求をしないところで成り立つ、完璧な信頼関係。
だからこそレイヴンは、エドガーが命じなくても、彼のためだと判断すれば、手を汚すことをためらわないのだろうと思った。
「リディアさん、あなたが私のことを不愉快に思うのは当然です。ですからどうか、エドガーさまを困らせるようなことはなさらないでくださいね」
やっぱり脅されてるんだわと思いながら、立ち去るレイヴンを見送る。
フェアリードクターとして、メロウに接する難しさよりも、エドガーを筆頭に彼らの不可解さの方が、もしかしたらリディアにとって大きな問題になるのかもしれない。
リディアには想像もできない、暗い世界を生きてきた人たちに、単純な同情を寄せたのは、間違いだっただろうか。
エドガーとふたりでいる間に、リディアは、少しは彼のことがわかったような気になっていた。根から悪い人ではないと思うし、リディアにはこれまで無縁だった、やさしさや気遣《きづか》いも持って接してくれた。
単なるご機嫌取りだとわかっていても、リディアにとってつらかったり傷ついたりする言葉から、彼はさりげなく救ってくれる。
計算だけではない、本質的な人柄もあるのではないかと思った。
けれどたった今見かけた、アーミンとのこと、そしてレイヴンの話を聞けば、またリディアにとって、エドガーが謎だらけの人に見えてくる。
「あたし、だまされてるの?」
「ああまったく、だから信用するなって言ってるだろ」
いつのまにやらニコが、不機嫌な顔つきで階段の手すりに座っていた。
「やっぱり奴ら、ヤバイ連中だぜ。見てくれよ、しっぽの先が焦《こ》げちまった」
「まあ、どうしたの?」
「エドガーの奴に、暖炉《だんろ》に放り込まれそうになったんだよ。どうやらおれ、まずいことを立ち聞きしちまったらしいな」
「立ち聞きって、何を?」
「はっきり聞いたわけじゃないけどさ、奴らはまだ、あんたに隠してることがあるんだ。どうしても宝剣を盗むために、よからぬことを計画してるみたいだぞ」
「……そう」
「とにかく、マナーン島にはあんたの見立てどおり、メロウが棲《す》んでいて宝剣を守ってるようだからな。この先が問題だ」
「宝剣を守ってるって、それもたしかなの?」
「島出身の小妖精《チビ》どもが、メロウが主人に何かをあずかったらしいことは言っていた。でもって、主人が戻ってこないことを嘆《なげ》いてるらしい」
「地主さんは、メロウが城に棲んでるって言ってたわ。とすると、宝剣が隠されているのは、城だってことなんでしょうね」
「なあリディア、奴のためにあんたがメロウと争う必要はないんだぜ。わかってるよな」
「ええ、……そうね」
どのみちリディアは彼らの仲間ではない。エドガーが本物の青騎士|伯爵《はくしゃく》の血筋でないなら、メロウは宝剣を渡さないということをはっきりさせようとしているだけだ。
けれども彼に引き下がるつもりはなく、メロウととことん争うつもりだとしたら、リディアは争いに巻き込まれることになる。
「やばくなったら逃げるしかねーな。メロウにかなうわけないし」
メロウは賢く美しく、ときには危険な妖精だ。嵐の前に海上に姿を現す、不吉《ふきつ》なしるし。海で死んだ人の魂を好んで集めるともいう。気質は人とよく似ていて、人間と親しくなる場合もあるが、中には血を飲む種族もいる。
何よりも、その美しい歌声が問題だ。人はとりこにされ、彼らの思うままに海の底へ引きこまれてしまうというが、その魔力に抗《こう》する力が、おそらくないのだから恐ろしい。
彼らがその気になれば、人にはほとんど抵抗するすべがないのは、嵐のただ中の小舟と同じ。
新米フェアリードクターのリディアは、多少の知識はあってもメロウと接するのははじめてだし、駆け引きができるとは思わなかった。
できればエドガーに、メロウの恐ろしさをわかってもらって、宝剣をあきらめてもらえないだろうかと考えていたが、どうやら彼は、そんなに簡単な人ではなさそうだ。
いざとなったら、エドガーを見捨てることになるのだろうかと、リディアは考えてみる。
(キャラメル色。そう言った方がきみには似合う)
たったそれだけの言葉が、リディアの心に染みこんで、彼が死ぬのをただ見ていることができるのだろうかと不安になる。
犯罪者で、うそつきで、いまだリディアに重要なことを隠しているらしい彼。
それなのに、もしも自分がメロウを説得できるなら、彼は青騎士伯爵になれる、彼が本来属していた、明るい場所へ帰ることができるのだと考えてしまう。
そんな実力が、リディアにあるはずもないのに。
「奴らなんざ、メロウに引きずり込まれて溺《おぼ》れちまえばいい。どうせ悪党だ。その方がさっぱりするってもんさ」
しっぽにハゲをこしらえられたからか、ニコはやけに過激になっていた。
[#改ページ]
青騎士|伯爵《はくしゃく》とメロウの島
マナーン島は、海岸沿いに切り立った崖の目立つ島だった。
海鳥の舞う、淡い緑色をした島影は、こここそ青騎士|卿《きょう》の妖精国、|幸福の島《イプラゼル》なのかもしれないと思わせるほど神秘的にも見えたが、周りを囲む荒海に、リディアはすっかりへたりきっていた。
マナーン島へ渡るための船は、小さな漁船しかなく、しかも激しくゆれたのだ。
島の周囲は年中波が荒く、慣れた船乗りでないと危険だという。行き来するのは漁師だけのなかば孤立した島に、ようやくたどり着いた彼らは、船主の勧めで村に一軒しかないという宿《イン》を訪ねたところだった。
「煎《せん》じ薬ですが、船酔いに効きますよ」
にこやかに彼らを迎えてくれた初老の男性は、宿の主人だというトムキンス氏だ。
「……すみません」
リディアはなかばぐったりと、長椅子《ながいす》の背もたれに寄りかかりつつ、薬のカップを受け取った。
「それにしても、船酔いはこちらのお嬢《じょう》さんだけですか。はじめてこの島を訪れて、ぴんぴんしているという方がめずらしいですね」
主人は、エドガーたちに笑顔を向けた。
どうしてみんな平気なのだろうとリディアは不思議に思う。妖精猫のニコはともかく、エドガーも、レイヴンとアーミンも、今にもひっくり返りそうな波の中、平然としていた。
「そりゃ、あれどころじゃない世間の荒波をくぐってきてるからだろ」
ニコがリディアのそばでささやいた。
「ニコ、おもしろくないわよ」
「元気じゃねーの」
苦い薬を、どうにかのどに流し込む。
「ところでご亭主《ていしゅ》、この島に古い城があるだろう?」
「はいございます。もしこの宿が窮屈《きゅうくつ》でしたら、向こうをお使いになりますか?」
エドガーは、警戒するような視線を向けた。
城といえば、青騎士|伯爵《はくしゃく》の城しかない。彼の目的はもちろん、その城を調べることだが、いきなり城を使ってもいいという亭主の言葉を不審《ふしん》に思ったのだろう。
「その城は、誰でも勝手に使えるのか?」
「まさか。われらの領主の城でございます。ですがサー、こんな辺鄙《へんぴ》な島へわざわざいらっしゃったということは、あなたさまは伯爵家の後継者《こうけいしゃ》なのでございましょう?」
突然核心をつかれ、みんなして黙り込んだが、エドガーひとりがにやりと笑った。
「なるほど、青騎士伯爵と称して、いったいどれほどのにせ者がこの島に現れたことか。そういう来客には慣れきっているわけだ」
「ちなみに、我が家は代々伯爵家の執事《しつじ》、もしもあなたさまが本物だと判明したあかつきには、お仕えすることとなりますのでどうぞよろしく」
言って宿の主人は、上着のポケットから鍵を取りだした。
「城の入り口の鍵《かぎ》です。どうぞお使いください。伝説の宝物を見つけようと、戸や窓を壊す連中が絶えませんでしてね、修理も大変なもので、最近はそれと申し出られた方にはお渡しすることにしています。それから、失礼を承知で申しあげておきますが、室内の調度品や貴重品などは数も種類も管理されておりますので、持ち出されたりしませんよう。たとえそうしたくとも、この島から運び出すのは不可能だとご記憶くださいませ」
「しっかりしているな。きみになら、これからも執事をまかせておけるだろう」
不遜《ふそん》にもエドガーは言う。
「光栄にございます。なお、この島を去る気になりましたなら遠慮なくおっしゃってください。すぐに船を用意します」
「そうやって、あきらめた者もいるわけか?」
「残念ながら私の知る限り、どなたもこうしてお話しした三日以内に、浜辺に藻屑《もくず》と一緒に打ちあげられておりますな。そういうことですのでサー、このままお別れとならぬよう祈っております」
「あの、城へ行った人は、みんな海で死んでるってことですか?」
リディアは、まだ波にゆさぶられる感覚から脱しきれないままだったが、会話はどうしても気になって口をはさんだ。
「そうですよお嬢さん。メロウに海へ引きこまれたのでしょう」
城でメロウの唄う声が聞こえると、翌日浜に死体があがるという言い伝え、リディアは昨日地主に聞いたことを思いだしていた。
「あなたは、メロウを見たことがあるんですか?」
「純粋なメロウは存じませんがね、島の者は皆、メロウの血を引いています。だからこそこの島は、遠い昔、もともとの領主の手に余り、青騎士卿に譲渡《じょうと》されたとか。島民はメロウと一緒に、新たな主人をたいそう歓迎したと伝えられております」
「メロウの血を? とするとご亭主、あなたにも水掻《みずか》きや鱗《うろこ》があるのかな?」
「いいえ、背中にひれが」
「さすがは青騎士伯爵家の執事だ」
エドガーは、冗談だと思っているのだろうか。ただおもしろがっているようだった。
「どうりで魚くさいと思ったよ」
ニコがひっそりとつぶやいた。
*
緑のジャックはスパンキーのゆりかごから。
月夜にピクシーとダンス。
シルキーの十字架を越え。
プーカは迷い道。
ワームの足跡に沿って。
ファージャルグの右側へ。
デュラハンの足元をくぐり。
レプラホーンの宝物。
クルラホーンの寝床。
バンシーについていけ。
メロウの星は星とひきかえに。
さもなくば、メロウは悲しみの歌を唄う。
城は、断崖《だんがい》に面した高台にあった。
ゴシック風の尖塔《せんとう》を持つ青い城は、淡い緑の島を見おろしながら、風景に違和感なくとけ込んでいる。
いかにも別荘らしい、優雅な建物だった。
船酔いもおさまったリディアは、皆と一緒に城へとやって来ていた。
「メロウの島か。ここに目をつけたリディアは正しかったようだ。城に宝剣があるのは間違いないな」
エドガーは、リディアの方を見て満足げに微笑《ほほえ》んだ。
しかしリディアにとって困難なのはここからだ。気持ちを引き締める。
「そうね、この島が緑のジャック≠諱B木の葉で覆われた緑の精霊。船から見えたこの島は、うずくまる木の葉男そのものだったわ」
「なるほど、コインの詩の最初の言葉か。では次のスパンキーは?」
「鬼火《おにび》のこと」
「墓地を探せばいいのかな」
「いいえ、スパンキーは洗礼前に死んだ子供の魂だというわ」
「それなら墓地ではなく、別の場所に埋葬《まいそう》されますわね」
アーミンが、これは開きっぱなしになっていた門の方へと近づいた。
門から奥へと続く道も、その両側に広がる庭園も、三百年も無人の城だとは思えないほど手入れが行き届いている。
島の人々が、いつか戻ってくると信じている領主のために、城を美しく保ち続けているのだろう。
「しかし、この城は別荘だ。子供の墓があるとしても、いったいどこの誰のだろう」
「そうですね。城が建つ前から、墓だけあったのかもしれませんが」
「それとも、慰霊碑《いれいひ》のようなものかもしれないな」
エドガーとアーミンが並んで歩く。男装のアーミンだが、質素《しっそ》な服装も肩までしかない髪も、女性らしい艶《つや》を隠してしまうことはない。
肩が触れ合いそうなふたりの距離に、リディアはゆうべのことを思い出し、ひとり赤くなってしまうのだった。
あのあとどうしたのだろう。朝まで一緒だったのだろうか。
「まずはその、スパンキーのゆりかご≠ニやらを手分けして探そう。リディア、きみは僕と一緒においで」
「えっ!」
おどろいたのは、いきなり声をかけられたからだ。妄想《もうそう》に気づかれてしまったようで気まずかった。
「な、なんであたしが一緒に?」
「迷子になりそうだから」
レイヴンとアーミンは、すぐにそれぞれ、庭園の奥を調べに向かった。
エドガーがリディアから目を離そうとしないのは、ニコが立ち聞きしたことと関係があるのかもしれない。
宿《イン》でニコは、出かけると言って別行動をとった。
海辺の町から小妖精《ブラウニー》の一団を、船に乗せて島へ渡してやったのはニコの提案だったが、彼らが無事|親戚《しんせき》と会えたかどうか、確かめに行ったようだ。
ついでに、この島のメロウのこと、メロウが伯爵《はくしゃく》の宝剣を守るためにどんな役割を持っているのか、情報を集めてくると言っていた。
同じ島に棲《す》む妖精族だ。人の知らないメロウのことを、少しくらいは知っているのではないか。
小妖精族もこの島の住人なら、メロウと同様青騎士伯爵の領民として暮らしてきたはずなのだ。
地主の屋敷で妖精を助けたことで、意外な協力を得られるならありがたかった。
しかしニコは、リディアのこの仕事に乗り気なわけでは決してない。エドガーにはただならぬ敵意をいだいている。それは暖炉《だんろ》に放り込まれそうになったからではなく、しっぽの毛が焦《こ》げたことだけにつきる。妖精族というのは、えてして些細《ささい》なこだわりに忠実で根に持つものだ。
だからたぶん彼は、エドガーがひどい目にあうことを望んでいる。そのための情報収集なのだろう。
エドガーは、ニコがふつうの猫ではないとどの程度気づいているのか。猫がしゃべるとは信じていなくても、警戒心は持っているからこそ立ち聞きに腹を立てたのだろうし、当然リディアのことも警戒しているだろう。
それならいっそ、彼の思い通りにそばにいて、何を隠しているのか探ってやろうじゃない。
強気になろうとしながら、リディアは彼についていくことにした。
「ねえ、怖くないの?」
「何が?」
「宝剣を盗もうとしたニセ伯爵は、メロウに海に引きこまれるのよ。みんな死んでるって、トムキンスさんが言ってたじゃない」
「僕に言わせれば、間抜けな連中だ。宝剣を泥棒から守るためにはりめぐらされた罠《わな》に引っかかったんだろう」
「メロウのせいじゃなくて、罠だって言うの? それであなたは、引っかからない自信があるの?」
彼女の方を見て、にっと笑う。
「もしものときは、僕のために悲しんでくれる?」
「は? そういうことはアーミンにたのみなさいよ」
「アーミン? なぜ?」
「こ……恋人なんでしょ」
なんだか責めているみたいな言い方になってしまった気がして、リディアは恥ずかしくなってうつむいた。
「違うよ。安心して」
「どうしてあたしが安心しなきゃいけないの!」
「単なる僕の希望」
なんなのよ、とリディアはつい、眉間《みけん》にしわを寄せる。
「あのね、人をからかうためにそういうこと言うのやめてくれない」
「からかってるつもりはないけど。なら話題を変えよう。きみの理想のタイプは?」
ちっとも話題、変わってないじゃない。
苛立《いらだ》つのは、エドガーのリディアに興味があるかのような発言を、単なる軽口だとわかっているのに、気持ちが動かされそうになることだ。
お世辞でさえ、リディアには縁がなかったからだろうか。
「まじめで正直な人。……恋人じゃないのに、抱きしめたりキスするなんて最低」
「ふうん、もしかして、見てたんだ」
墓穴《ぼけつ》を掘って、リディアはますます赤くなった。その様子を彼はおかしそうに見ていたが、それ以上からかおうとはしなかった。
ゆっくりと、庭園の小道を進む。
「アーミンは大切な仲間なんだ。彼女が幸せでいられるよう、何でもしてやりたいと思っている」
まっすぐ前を見つめる横顔は、いつになく真剣だった。
恋人ではないという。でも特別なんだ、とリディアにもわかる。ふざけてからかう相手ではなく、抱きしめるのも、最低なんて言ってしまえるような軽々しい意味じゃない。
やっぱり彼らのことは、リディアの少ない経験も、想像力も及ばない。妖精が見えても、人と接するのが苦手だった彼女には、当然のことかもしれなかった。
「そう、特別な人なのね。あの、覗《のぞ》いてたわけじゃないのよ、部屋の前を通りかかったから……。ごめんなさい、あたしがとやかく言うことじゃなかったわ。あたしには、あなたのことはちっともわからないけど、でもたぶん、あなたのそばにいる人は幸せね」
遠くを見つめながら、しばし考え込んでいた彼は、そのままの表情をゆっくりリディアの方に向けた。
「きみは、羽でもあるの?」
「え?」
あまりに唐突《とうとつ》で、不思議な質問だった。
「なんとなく、虹色の蝶《ちょう》の羽を隠してるんじゃないかと思って」
それは、妖精の取り換え子と呼ばれるのとは、まるで違う感覚だった。
たぶんリディアの、人の言葉をくもりなく受けとめ、自分を取り繕《つくろ》うことも知らないまま、思ったままが口に出る不思議さを、別世界の住人のようにとらえたのだろう。
恥ずかしくなるくらい気取ったせりふではあったけれど、妖精になぞらえられても不愉快《ふゆかい》な印象はなく、ただリディアは、エドガーには妖精そのものに見えるのかもしれない自分のことを、やわらかく受けとめていた。
エドガーがそばにいると、これまでとは違う自分になれるような、そんな瞬間がたびたびある。悪人だと思おうとしても、リディアはそのたびに複雑な気持ちにさせられるのだ。
何気なく彼が足を止めた場所で、リディアも立ち止まった。
庭園の一画《いっかく》に、ほこらのようなものがある。
小さな天使の像がおさめられたそこは、あきらかに子供のための墓地だった。
「眠れる人魚の子供たちのために≠ゥ。たしかに慰霊碑《いれいひ》のようだけど、人魚の子供とはどういうことだろう」
「島の人はメロウの血を引いてるって言ってたじゃない。きっとメロウの血が濃すぎて生きられなかった子供たちよ。昔なら、洗礼も受けられなかったでしょうし」
「なるほど。こういった孤立した島なら、住民はみな親戚だ。近親婚《きんしんこん》が重なれば、ある種の病気や特質が現れやすくなるのも頷《うなず》ける」
「メロウのせいじゃないって言いたいの? ……そりゃ、本当のところはわからないけど、島の人々はメロウの血筋を信じてる。あなたは、そういう場所の領主になるつもりなんでしょう?」
「領主が妖精を信じなくてはいけないのか? べつにどうでもいいじゃないか。人魚だろうが病気だろうが、島民に鱗《うろこ》やひれがあってあたりまえならそれだけのことだ」
あたりまえ。信じないけどあたりまえ。
不思議なことを耳にした気分だった。
見えないものは信じない、けれどそこに存在する現象は、少なくとも鱗やひれのように見えるものがあるというなら、それはすんなり受け入れるという。リディアは不思議に思いながらエドガーを見た。
妖精を信じない人は、妖精が見えないという状態を受け入れるのではなく、そんなものはいないと結論づけ、そちらを信じたがるものだ。
だから、妖精を見てしまう他人のことも否定する。けれどエドガーの理屈では、彼自身は妖精がいるとは思っていないが、いてもべつにかまわないということだ。
だからリディアのことも、バカにしない。
「……もしかして、レイヴンの精霊のこともそんなふうに考えてる?」
「レイヴンの? ああ、あいつがきみに話したの?」
「ええ、恐ろしい精霊に、生まれつき支配されてるって」
「へえ、めずらしい。レイヴンはきみを気に入ったようだね。同じように妖精にかかわる者だからかな」
気に入られてるわけないわ、とリディアは思うが黙っていた。エドガーに不利になることをしないよう、釘を刺されているだけだ。
「レイヴンの精霊がいるかどうか、僕にはわからない。ただ彼がどういう人間で、何が必要で、僕に何ができるのかがわかっていればいいだけだ」
だから精霊ごと引き受けた。怖いもの知らずだわと、リディアは思う。
でもそれは、心が強い証拠《しょうこ》なのかもしれない。世界がどれほど、彼にとって未知なものであっても動じないという神経。重要なことは、自分にできることをするだけだと割り切っている。
自分にとってたしかな現実を持つことは、あたりまえのようでいて案外難しい。人の心は惑わされやすいものだから、魔物の付け入る隙《すき》もある。けれど彼のような人なら、悪《あ》しき者たちの接触にも流されにくいことだろう。
たとえ妖精が見えなくても、彼が本当に青騎士|伯爵《はくしゃく》の血筋ならよかったのにと、気がつけばリディアは考えていた。
そうだったなら、心から協力できるのに。
「とにかく、ここがスパンキーのゆりかごには違いなさそうだね。とすると、次は月夜にピクシーとダンス=Aこれは?」
「あ、ええと、ピクシーがつくるフェアリーリングのことだと思うわ。月夜に妖精が踊った輪が、草の上にできるの」
「輪ね、たとえばあんな?」
エドガーが指さしたのは、芝生《しばふ》の上に石がまるく並べられている場所だった。
「そうね、そうかも」
近づいていくと、エドガーはかまわず輪の中へ足を踏み入れた。
「あっ」
リディアが思わず声をあげ、彼は振り向く。
「何?」
「……ううん、本物のフェアリーリングじゃなかったんだわ」
「本物だったらどうなるんだ?」
「妖精につかまっちゃうことがあるから」
「へえ、そうなのか。それにしてもリディア、見てごらん。この位置からだけ風景が変わる」
リディアもそっと輪の中に入ってみた。すると、乱雑に植わっているかのように見えた周囲の木々が、すっと一直線に並ぶ。その先に、今まで枝葉に隠れていた建物が姿を現す。
城の建物、そこには、人を招くかのように扉がついていた。
いや、近づいてよく見れば、扉が描かれているだけだ。壁には小さな埋《う》め込みの採光《さいこう》窓しかない。
「これじゃあ中へ入れないわ」
「どうせ鍵《かぎ》は正面玄関のものしかない。そこから入って、建物内のこの位置を調べてみればいいよ」
ふたりで戻ろうとしたときだった。
近くの茂みが、不自然にがさりと動いた。
現れたのは黒い服の男たちだ。
ゴッサム家の兄弟たち、その中からハスクリーが進み出、目の前に立ちふさがる。彼は周囲を見回し、レイヴンとアーミンがいないのを確認しつつにやりと笑った。
「やあジョン、また会ったな」
「きみもしつこいね」
エドガーはうっとうしそうに片方の眉《まゆ》を上げた。
「メロウの星≠ヘこの城のどこかにあるようだな。あとは俺が見つけてやる。おとなしく彼女を解放するんだ」
「解放? 妙なことを言う」
「おまえはカールトン嬢《じょう》を誘拐《ゆうかい》したんだ。そしてむりやり連れまわしている。強盗犯が大学教授の令嬢を誘拐、世間ではそういうことになっているからな」
「でもねえリディア、あいつにつかまったら、何をされるかわからないよ。僕の方が無難だと思うけど?」
「強盗のくせに何を言う! ミス・カールトン、その男の言うことを信用してはいけない」
どっちもどっちでしょ。リディアは少しあきれていた。
「レイヴン、こっちだ!」
唐突《とうとつ》にエドガーが叫んだ。ハスクリーたちが身構え、あたりを見回す。
風もなくあたりの木々がざっと音を立てた。と思うと、端のひとりがうっとうなって倒れる。
「くそっ、ひるむな! 相手はひとりだぞ」
「エドガーさま、こちらへ」
いつのまにか、すぐそばにアーミンがいた。エドガーとリディアを招き、狭《せま》い小道へと導く。ハスクリーたちから少し離れたそのとき。
「リディア!」
呼んだのは、聞き覚えのある声だった。こちらに駆け寄ってこようとしているのは、リディアの父だ。
「父さま! どうしてここに」
「おまえが誘拐されたと聞いて……」
父に歩み寄ろうとしたリディアの腕を、しかしエドガーがつかんで止めた。
「き、君が誘拐犯か? リディアを離せ」
「はじめまして、カールトンさん。お嬢さんには大変お世話になっています」
エドガーは平然と、ありふれた挨拶《あいさつ》を返す。
「何が目当てだ、私にできることなら何でもする。娘に手を出さないでくれ」
「ご心配をかけてもうしわけありません。でも僕は真剣なんです。どうかお父さん、お嬢さんを僕にください」
「な、何言ってんのよ!」
しかし彼は、ぐいとリディアの肩を抱く。
[#挿絵(img/star sapphire_179.jpg)入る]
「本当ならきちんと、交際のお許しをいただくべきでした。でも彼女に夢中になって、すっかりまわりが見えなくなってしまったんです」
「は」
「彼女がそばにいて、この愛の熱を少しでも冷ましてくれなければ、きっと僕はすぐに死んでしまいます」
いったい、恥ずかしげもなくこんなせりふを口にして、許される人間がそうそういるだろうか?
「ま、待ってくれ……」
リディアの父は、娘でさえこれまで見たこともないほど取り乱した様子で、口をぱくぱくさせた。
「……本当に、こんなおてんばがほしいのかね?」
「父さま!」
「僕にとっては最高の女の子です。彼女しか、深い愛で僕を救ってくれる人はいないでしょう」
「ちょっとエドガー、それ意味が違うでしょう!」
彼を救うのは、もちろんリディアの愛ではなく、宝剣を見つける能力だ。
「それは、リディアは最高の娘に間違いない。しかし君ね、感情のままに未婚の娘を連れまわすのは、男として無責任だと思わないのかね」
この状況が、誘拐犯との対峙《たいじ》ではなく、娘に焦《こ》がれる青年との対面だと、カールトンは頭を切りかえつつあるらしかった。
「そうですね。反省しています」
「だから、違うでしょ!」
「ジョン、彼女を離すんだ!」
再び現れたハスクリーが、リディアにはこの混乱の救い主に見えた。もっともそれは気のせいで、ハスクリーはこちらに向けてピストルをかまえていた。
「まちたまえ、リディアが向こうにいるんだぞ」
「わかってますよ教授。だがあいつは、お嬢さんを殺してしまうわけにはいかない。極悪非道の強盗でも、宝石を見つけるまではね」
「ゴッサム。カールトンさんに何を吹き込んだか想像はつくが、きみこそ宝石のためなら極悪非道だって、すぐにばれてしまうようなことはやめた方がいいよ」
薄く微笑《ほほえ》んで相手をにらみつけるとき、エドガーは、鋭くも優雅な彼らしさが顕著《けんちょ》になる。決闘の場面だったなら、この瞬間に勝負が決まってしまうのではないかと思えるほどだ。
「早く、彼女から離れろ」
苛立《いらだ》った声を出すハスクリーを、カールトンが不安げに見た。脅《おど》してみせるためにか、ハスクリーは引き金に指をかける。
「おい君、やめてくれ!」
エドガーに向けられた銃口《じゅうこう》は、すぐそばのリディアにも危険なものだ。それを止めようと、カールトンがハスクリーの腕をつかむ。
「アーミン、リディアを頼む」
エドガーがささやいた。
「はい」
簡潔な返事とともに、リディアはアーミンの腕に引かれた。エドガーがステッキから剣《レピア》を引き抜く。同時に、銃声が鳴る。
振り返ろうとしたが、アーミンが茂みへとリディアを引きこみ、向こうで何が起こっているのかわからない。
しかし、別の小道へ出たとたん、アーミンは急に立ち止まった。
リディアをかばうようにして、数歩後ずさるが、ハスクリーの弟たちにすっかり取り囲まれていた。
*
リディアは父とともに、城の一室に閉じこめられた。
乱暴にも連中は、建物の窓を壊して城に侵入《しんにゅう》し、一画《いっかく》に陣取った。どうやら逃れたらしいエドガーとレイヴンを追いつめつつ、メロウの星≠盗み出すつもりらしい。
ハスクリー、いやゴッサム兄弟にだまされ、ここまで連れてこられることになったカールトンは、意気消沈《いきしょうちん》のため息をついた。
「つまりは私は、ゴッサムに利用されたのか」
「父さま、ごめんなさい。こんなことに巻き込んでしまって」
「いや、おまえだって巻き込まれたんだ。すまない、私の宝石の研究が、こんなことを引き起こすなんて」
そもそもの発端《ほったん》は、ゴッサムがエドガーを研究材料にしようとしたことか、それともエドガーがゴッサムを利用しようとしたことか。しかしもう、そんなことは問題ではなかった。
リディアは、長椅子《ながいす》に横たわるアーミンのそばに身を屈めた。
リディアと父は、どうせ抵抗もできないだろうと手荒なことはされなかったが、アーミンは殴《なぐ》られ、両手を縛られ、気を失っている。
縄《なわ》をほどいてやりたいが、勝手なことをすればアーミンを痛めつけるとハスクリーは言った。
リディアはハンカチで、彼女の切れた口元の血をぬぐう。
「それで結局、さっきの青年は……」
「ち、違うのよ父さま、あれはひどい悪ふざけで、あたしはただ、フェアリードクターとしての依頼を受けただけ」
「そうなのか。本当に駆け落ちではないのか?」
「当たり前でしょ。あたしはそんな娘じゃないわ」
ほっとしたように、教授は気の弱い笑みを浮かべ、ずり落ちかけた丸|眼鏡《めがね》を押し上げた。
「強盗だといううえ、誘拐《ゆうかい》犯であるはずの男に、お父さんと呼ばれるのは心臓に悪いな。おまえが本気なら、反対するのもどうしたものかと悩んでしまったよ」
「やだ、父さま。悪党でもあたしがよければいいの?」
「どこかよほど、いいところがあるのだろうかと思ってね。いいのが顔だけでは困りものだが」
「外見だけで選んだりするもんですか」
「ただ気になったのは……、彼は貴族だね」
「ええ、本人はそう言ってるし、言葉も何もかもそう見えるわ。でも父さま、貴族が強盗より問題なの?」
「ときどき彼らは、強盗よりもたちが悪い。……私の偏見《へんけん》かもしれないがね。でもまあ、さっきのが単なる悪ふざけなら関係ないが」
「本気です」
いつから気がついていたのか、アーミンが薄くまぶたをあけ、つぶやいた。
「エドガーさまがリディアさんをほしがっているのは、本気です。あなたを思い通りにするために必要だとなれば、本気で愛してみせるでしょう」
彼の素性《すじょう》を知らないままなら、リディアはエドガーの見せるあまい夢にひたって、信じ切って、言いなりになっていたのだろうか。
「アーミン、わかってるわ。あたしが宝剣を手に入れるための道具だってことは」
「いいえリディアさん、あなたの知らないことはまだあります。もしかしたら、こうして敵の手におちた方が、あなたにとってはよかったのかもしれません」
彼女は深い悲しみに打ちひしがれたように目を伏せた。
「わたしは、エドガーさまに、冷酷《れいこく》な悪人にはなってほしくない……。本当は、やさしくて思いやりのある方なのに、わたしたちのために心を鬼にして、人をだましたり傷つけたりするのを、これ以上見ているのはつらいのです」
彼がリディアに隠していることがあると、ニコが言っていたのはこのことだろうか。
「エドガーは、あたしをどうするつもりなの?」
頭痛をこらえるように顔をしかめ、半身を起こしたアーミンは、思いつめた様子で、やがてまた口を開いた。
「青騎士|伯爵《はくしゃく》の宝剣に関する情報は、二種類あります。リディアさんにも見せた、妖精の詩が書かれた金貨は、模造品がいくつもあるらしく、この島に宝石をねらって何人も訪れたというのはそのせいでしょう。でももうひとつ、銀でできた鍵《かぎ》があるんです。それはたぶん、ひとつしかありません。そしてそれには、金と銀、ふたつそろってこそ意味があること、宝剣を手にするためには血が必要だというようなことが記されています」
「血?」
「人魚に捧《ささ》げる犠牲《ぎせい》、あるいは、誰かが犠牲にならないと宝剣が手に入らない仕掛だと、エドガーさまは考えています」
メロウは人の魂を、宝石のように集めたりもするという。青騎士伯爵の後継者《こうけいしゃ》に、宝剣を守る代償《だいしょう》として、人の魂を差し出すよう求めたというのは考えられる。
「じゃ……、あたしを犠牲にするつもりだったってこと?」
リディアは、震える両手でこぶしを強く握りしめた。
あの大うそつき、どういうことよ。と、胸がむかつくほど怒りがこみあげる。
それは信用なんてしてないけど、でも最初から、そんなことを考えていたのだとしたら悲しい。
彼の言葉の中に、これっぽっちも真実はなかったのだということになる。
ひどく落ちこんだ気持ちで、リディアは椅子に身を投げ出した。
「仕掛じゃないわ。メロウはいるはずよ。条件さえ満たせば宝剣を得られるなんて間違いだわ。本物の青騎士伯爵でないなら、誰にとっても死あるのみよ」
「だとしたら、エドガーさまにとっても、宝剣に手を出すのは危険なことです。ですからわたしは……」
「話してくれたのね、アーミン」
エドガーのことを、本気で好きなのね。そう思いながらリディアは、思いあまった決意に緊張感をにじませた、彼女の横顔を眺めやった。
「とにかく、私たちはここから出られないわけだし、人魚に会う機会はなさそうだよ」
カールトンは、リディアとアーミンの会話をどこまで理解しているのかわからないが、張りつめた空気をほどこうとしたのか、どこかとぼけたようにつぶやいた。
「でも、ゴッサムが宝剣についたスターサファイアをねらっています。あの男も、リディアさんの知恵が必要です。もちろんエドガーさまも、このまま引き下がるはずはありません。だから今のうちに、もうしあげておかなくてはならないと思いました。あなたに話したことで、エドガーさまを裏切ることになるとしても、宝剣をあきらめてくださるなら……」
そのとき、乱暴にドアが開いた。
ゴッサム家の長男、ハスクリーが、大股《おおまた》で踏み込んでくると、リディアの前に立った。
「ミス・カールトン、さっそくでもうしわけないが、一緒に来てもらおう」
アーミンの予想はさっそく当たったようだ。
「いやよ。宝石を盗む協力なんてしないわ」
「いいや、どうあっても協力してもらう。もしもメロウの星を、あの男に横取りされるようなことがあったら、教授の身の安全は保証しない」
「……ちょっと、父さまを人質《ひとじち》にしようっていうの?」
「君が素直に言うことを聞いてくれれば問題はない」
リディアには、どうすることもできない。
「宝石さえ手に入れば、あたしたちを解放してくれるのね?」
「約束しよう」
「リディア……、私のことは気にするな」
「大丈夫よ、父さま。きっと戻ってくるわ」
父娘の抱擁《ほうよう》も許されないまま、リディアはハスクリーに連れ出された。
リディアについてきたのは、ハスクリーと、その弟が三人だった。他の兄弟は、カールトンとアーミンの見張りに残ったのか。エドガーたちを探してもいるのかもしれない。
けれど、ハスクリーたちにエドガーを探す必要はないとリディアは思う。
彼がどこに現れるか、彼女は知っている。
建物の南側、庭園に沿った場所を目指して歩く。目印はまるい採光《さいこう》窓。そこからは、さっきエドガーと見つけたフェアリーリングが、芝生《しばふ》の丘の上に見えるはずだ。
「おい、本当にこちらでいいのか?」
ハスクリーは、リディアが逃げないよう腕をつかんだまま、もう片方の手にピストルを握りしめていた。エドガーとレイヴンの襲撃《しゅうげき》を警戒しているのだろう。
「だまってついてきたら? どうせ、あなたたちにはわからないんでしょう」
「生意気な小娘だな。俺たちをあざむこうとしてみろ、ただじゃすまないからな」
「わかってるわよ」
やっぱり、こちらの方がエドガーよりずっとわかりやすい。リディアをいい気分にさせておいて、殺すことを考えるような回りくどさはない。
どうせ利用するだけなら、最初から悪人|面《づら》して、脅《おど》して怖がらせて言いなりにすればよかったじゃないの。
そうしたらリディアは、こんなに傷つかずにすんだのにと思う。
……傷ついているのだろうか。
信用していないと言いながら、泥棒の片棒をかつぐつもりはないと思いながら、彼がリディアの、フェアリードクターという役目を理解してくれているように感じるのがうれしかった。
だから、メロウの剣を得るのは無理だと説得できるような気もしていた。
目的も違うし、仲間にはなりようもないけれど、エドガーのことを憎めないとリディアが思う、同じ感情をいだいてくれているかもしれないと期待していた。
でもそれは、リディアの幻想だ。
つきあたりのドアを開けると、吹き抜けのホールになっていた。階段が交差する奇妙な空間だ。その片隅に、採光窓から光が射し込んでいる。
外壁に扉が描かれていたあの場所だ。
ハスクリーが警戒するように、リディアを引き寄せる。
窓がひとつしかなく薄暗いホールは、階段や柱の陰に何かが潜《ひそ》んでいそうにも思える。
「おい、おまえら、奥を調べろ」
弟たちに彼は命じた。が、後ろについてきているはずの彼らの、気配《けはい》も返事もない。
はっと振り返ったハスクリーの目に映ったのは、三人ともが床に倒れ伏している姿だった。
と同時に、リディアはすぐそばで空気が動くのを感じた。ハスクリーがはね飛ばされる。
倒れながらもピストルを持ちあげようとした腕を、おもいきり踏んづけたのはレイヴンだ。
ピストルをもぎ取ると、彼はそれを倒れたままのハスクリーに向けた。
「やめて、父さまが人質になってるの! その人を殺したら、きっと父さまもアーミンも……!」
だがリディアの声など、レイヴンの耳には届かないのか、感情のかけらもない冷たい視線で彼はハスクリーの眉間《みけん》にねらいを定める。命乞《いのちご》いなど通じはしないと悟《さと》るしかないような、死神の視線だ。
「レイヴン、もういい」
奥の階段から、声とともにエドガーが姿を見せた。
そのひと声に、レイヴンは腕をおろす。しかし同時に、みぞおちに蹴りの一撃を見舞わせ、ハスクリーはぐったりとのびた。
「リディア、無事で何よりだ。きっとここへ来てくれると思っていたよ。当然コブつきも予想していたけどね」
やわらかく光を吸いこむ金の髪。不敵な笑みをたたえた、完璧《かんぺき》な美貌《びぼう》。
もう惑わされないわ、とリディアは自分に言い聞かせる。
「でも、あなたにとっても困ったことになってるわよ。あたしがメロウの星≠見つけて、ハスクリーに渡さないと、父さまが殺されるの」
「つまり、僕たちは宝剣を争わなければならないわけだ」
宝剣は、リディアが詩を解読し、エドガーが隠し持っているという銀の鍵がないと手に入らない。エドガーはまだ、リディアが鍵のことを知っているとは思っていないから、協力すると見せかけて、最後に宝剣を奪い取るしかなさそうだ。
「でもリディア、アーミンもつかまっている。こいつらが邪魔者《じゃまもの》だっていう、僕たちの利害は一致するんじゃないか? メロウの星≠奴らに渡す必要はないよ。父上を助けられるよう、僕も尽力《じんりょく》できると思う」
エドガーが、赤の他人であるリディアの父の命を、心配してくれるとは思えなかった。剣さえ手に入れれば、見捨てるに決まっている。
リディアのことだって、犠牲《ぎせい》にしようと思っているくらいだ。
けれどもとりあえず、リディアは頷《うなず》く。
「問題は、本当に宝剣が見つけられるかどうかね」
「さっそくだけど、次の妖精だ。シルキーの十字架≠ニは?」
階段を上がり、リディアはエドガーのそばをすり抜けて進む。いくつか並ぶドアの前を通り過ぎ、ようやく見つけたしるしの前に立ち止まった。
「どこにも十字架はないけど?」
「この模様、ナナカマドの木よ。ドアの材質もそうね。シルキーは幽霊《ゆうれい》みたいな妖精で、ナナカマドの木でできた十字架が苦手なの」
ドアを開けると、狭《せま》い通路が続いていた。
三人は、さらに先を急ぐ。
妖精の詩のとおりに道をたどっていくのは、リディアにはそう難しいことではなかった。
フェアリードクターとしては、当然の知識があればほぼわかるといったところだ。
しかし宝剣は、青騎士|伯爵《はくしゃく》の子孫が受け継ぐべきもので、妖精の知識さえあれば誰でも見つけられるようでは困るはず。
やはり問題は、この先の、メロウのところにあるのだろう。
「アーミンはどんな様子だった?」
歩きながらエドガーが訊《き》いた。
「無事よ。でも彼女は、すごく機敏だし武器を扱えるでしょ、だから縛られてて」
「そう」
心配しているのか、横顔が曇る。レイヴンはどうなのだろうと盗み見るが、彼が姉のことをどの程度気にしているのかは、表情からは少しもわからなかった。
「……エドガーのこと、心配してたわ。宝剣を盗もうとすれば、どんな危険な罠《わな》があるかわからないもの」
「でもね、僕に青騎士伯爵の名を継ぐことができれば、アーミンもレイヴンも危険と背中合わせの生活から逃れられる。とくにアーミンは、ふつうの若い女性らしくおしゃれをして、髪ものばして、きっとたくさんの男が彼女に想いを寄せるだろう。そしたら彼女が、心から信頼できる男も現れる」
彼女は、エドガーしか見ていないのに。
「ほかに方法はないの? あなたたちを追ってる人が、あきらめてさえくれればいいんでしょう? アメリカと違って英国では、奴隷《どれい》を持つことはできないんだし」
「今の世の中、力に抗《こう》するのは力しかないよ。そんな、生やさしい相手じゃないんだ」
どんなふうに恐ろしい相手なのか、リディアには想像もできない。ただ、そこから逃れることよりも、アーミンは、エドガーが人を犠牲にすることの方が怖いのだ。
そんな彼女の気持ちは、リディアにも理解できる。
宝剣の隠し場所へは、確実に近づいていた。
しかしリディアには、どうやってエドガーと対決すればいいのかわからないままだ。
そもそも彼を出し抜いて、宝剣を奪うことができるのか。できなければ、彼の思惑《おもわく》どおり、犠牲としてメロウに魂を取られてしまうのだろうか。
それとも、リディアがエドガーに勝つとすれば、彼の方が死ぬかもしれない。
リディアが死なせてしまうことになる。
プーカは迷い道。ワームの足跡に沿って。ファージャルグの右側へ
ひとつずつ、詩の謎を解きながら進んでいく。
「エドガーさま、お待ちください」
急にレイヴンが口を開いた。
数歩先へ進み、周囲の気配に耳を澄ます。
「誰か近づいてきています」
ようやく、リディアにも足音らしいものが聞こえてきていた。
近くに別の通路があるのか、下り階段のきしむ音だ。やがてそばにあるドアの方へ、気配が動く。
レイヴンが音も立てずに動き、ドアのそばへ身を寄せた。エドガーはリディアを壁際へ引き寄せる。
ドアノブがかすかに動いたそのとき、レイヴンがドアを蹴り開けた。隣室《りんしつ》へすべり込むようにして、人影につかみかかる。ぐいと相手の首に腕をまわす。
「レイヴン、わたしよ」
ナイフを突き立てる寸前だった。それがアーミンだと気づいた彼は、ゆるりと腕をほどいた。
エドガーがほっと力を抜く。
「アーミン、逃げ出せたのか」
「エドガーさま、もうしわけありませんでした」
「いや、無事ならいい」
「あの、父は……?」
「わたしだけ別室に連れ出されたんです。その隙《すき》にこうして。ですから、お父さまはまだとらわれの身だと思います」
すまなさそうにそう言って、彼女はエドガーに歩み寄った。
「ゴッサムたちがじきに追ってきます。この狭い通路で見つかったら、動きが取れません。隠れやすい場所へ移動した方がいいと思います」
「しかしこれが、宝剣の隠し場所へ通じる道だ。このまま先を急ごう」
エドガーは、今さら遠回りするつもりはないようだった。リディアに先を促《うなが》し、歩き始める。
「連中を宝剣の場所まで案内してしまうだけです」
「そうなる前に、手に入れる」
アーミンが落胆《らくたん》したように見えたのは、宝剣の場所へエドガーを近づけたくない気持ちからだったのだろう。けれどそれ以上、彼女はエドガーに意見することはなかった。
「姉さん、らしくないな」
レイヴンがそっと声をかけたのが、リディアの耳にも届いた。
「ええそうね、つかまってしまうなんて」
「そうじゃない」
レイヴンはそう言ったきり口をつぐんでしまった。
アーミンはリディアに、重要なことを話してしまった。その心境の変化を、弟だけは感じ取っているのだろうか。
首のない奇妙な絵があった。リディアは身を屈《かが》め、その下の壁を調べた。
「この絵がデュラハンか?」
「そうよ、首なしの妖精なの。足元ってことは、あ、ほら、壁がはずれるわ」
開いたそこへ、リディアはもぐり込む。階段が下へと続いている。
それを下りきると、急に外の風景が目の前に広がった。
断崖《だんがい》に張り出した、テラスのような場所だった。
もともと城は、海に面した崖の上に建っている。その、最も海側に突き出た部分らしい。
簡素な手すりの向こう側は、目もくらむような高さの絶壁《ぜっぺき》と海だ。強い風が容赦《ようしゃ》なく吹きつける。
「道は行き止まりのようだけど?」
エドガーの言うように、この先進めそうな場所がない。かといって、通ってきた階段にも分かれ道はなかった。
次の言葉は、レプラホーンの宝物≠セ。
「レプラホーンは靴を縫《ぬ》う妖精。地下に宝物を隠してるというわ」
「地下か。まさかここから飛びおりろってわけじゃないだろうね」
そんなことをしたら、いくらなんでも死ぬだろう。真下では、ごつごつとした岩場を荒い波がたたきつけるようにしてうねっているのだ。
詩の意味についてリディアは考え込むが、ここへ来て急に行き詰まってしまったことは認めないわけにいかなかった。
「ちょっと待って、少し考えさせて」
「ここで敵に追いつめられたら、逃げ場がありません」
アーミンが不安げに背後を見やった。
「少しだけ待とう」
そのままみんな、黙り込んだ。リディアは一生懸命に考える。レプラホーンにまつわる逸話《いつわ》を思い出そうとする。
しばらくして、アーミンが再び口を開いた。
「エドガーさま、宝剣を得るのは、やはりわたしたちには無理なんです。……わたしは、一生プリンスの目に怯《おび》え逃げ続けるとしてもかまいません。こうすることがわたしやレイヴンのためなら、もう、やめましょう」
「アーミン、バカなことを言うな。おまえがいちばん、プリンスの恐ろしさを知っている。奴の呪縛《じゅぼく》を、必ず僕が断ち切ってやると約束しただろう」
目を伏せたアーミンは、じっと考え込んでいたが、やがて顔をあげた。
「エドガーさま、それもきっと不可能です」
そしてリディアの方を見る。
「プリンスは、わたしの望みも弱みも知っています。わたしが、エドガーさまと逃亡を続けることに幸せを感じていると……。同じ目的を持ち、支え合いながら、他の誰も寄せつけずかかわらない、閉鎖的《へいさてき》な仲間意識。その輪の中でだけわたしが、エドガーさまを独占できる幸せにひたっていられるのだと知っています。もしもプリンスから自由になれるとしたら、あなたとわたしの関係も、ありふれた主従になってしまう。それをわたしが恐れていると、見抜かれているのです」
「……アーミン、何を」
「もうしわけありません、エドガーさま。あなたを見張り続けることができるなら、当分手出しはしないでいてやると言われておりました」
「まさか……、プリンスにか?」
エドガーは、声に憤《いきどお》りをにじませた。
プリンスと口にするとき、その顕著《けんちょ》な怒りが、リディアにも耳障《みみざわ》りに聞こえる。エドガーたちを奴隷《どれい》にしていた人物のことだとわかるが、それだけではなく、もっと深く、彼らにとって憎悪《ぞうお》と畏怖《いふ》とが混ざり合った強い感情を呼び起こす存在だ。
「僕たちの動きが、これまでも奴に筒抜《つつぬ》けだったと?」
「アメリカで処刑されそうになったとき、実験材料を探していたゴッサムを利用することにしたのはあなたの考えでした。でも、ゴッサムのことをわたしに教えたのはプリンスです。あの方は、そうやってわたしたちを支配し続けている。わたしたちがあがき続けるのを楽しんでいるように思えます」
「……この、宝剣のことも奴は知っているんだな? そうして高みの見物でもしているというわけか」
「知っています。宝剣など存在しないと考えているようでした。でもあなたは、リディアさんの力で確実に宝剣に近づいている。もし手に入れば、プリンスと縁を切ることができるかもしれない。でもそれは、あなたにわたしの裏切りが知れてしまうということ。だから、迷いました。宝剣をあきらめてくださるなら、もう少しだけおそばにいられる……。でも、何よりもわたしは、あなたを危険にさらしたくない。エドガーさま、この先に進むのは、青騎士|卿《きょう》と縁のないわたしたちには無謀なことです。裏切り者とののしってくださってもかまいません。もはやわたしにできることは……」
不意にリディアは、アーミンの腕に抱きすくめられた。
「リディアさん、恨《うら》むならわたしだけを」
「やめろ、アーミン!」
エドガーが叫んだときには、リディアの身体《からだ》は手すりを越え、断崖に向けて押し出されようとしていた。
とっさにつかまろうとしたのはアーミンの身体で、しかし彼女も、リディアと一緒に飛び込むつもりだったからどうにもならない。
視界の天地が反転した。
とてつもなくゆっくりと、空と海をながめている気分に酔ったそのとき、ぐいと身体が引っぱられた。
レイヴンが、かろうじてリディアのそでをつかんだのだ。
彼は同時にアーミンの服もつかんでいたが、ふたりもささえるのはきつそうだった。そのうえそでは今にも裂《さ》けてしまいそうだ。リディアは必死で、手すりの柵《さく》をつかもうと手をのばす。
その手を引いたのはエドガーだった。
「レイヴン、こっちは大丈夫だ」
リディアの腕をしっかりとつかまえ、彼は慎重《しんちょう》に引っぱり上げる。
抱きかかえられテラスに倒れ込んだとき、リディアは無意識にエドガーにしがみつきながら、なだめるように髪を撫《な》でられるのを心地よく感じていた。
「レイヴン、何をしてる!」
しかし、エドガーが再び叫んだ声に我に返る。
レイヴンは、どうにかアーミンの腕をとらえていた。しかしなかなか引きあげようとはしない。
アーミンが、弟の手を振りほどこうとしているのだ。
「お願い、レイヴン。わたしを自由にして」
助かっても、エドガーのそばにはいられない。プリンスの呪縛だけがつきまとう。
「離すな、ぜったいに死なせるな!」
エドガーが駆け寄ろうとした。
そのとき、彼女の腕がするりと離れた。
深い崖の下へ、あっという間にすいこまれていく。
リディアは目をつぶる。
悲鳴もなにも、強い波の音に水音さえ聞こえず、再び目をあけたときには、白く高い波頭《なみがしら》、何ごともなかったかのごとく岩場にうち寄せていた。
エドガーは、力が抜けたようにその場に座り込んだ。
[#改ページ]
ふたつの鍵《かぎ》と犠牲《ぎせい》の血
「エドガーさま、お許しください」
ひざまずくレイヴンは、いつもの淡々《たんたん》とした様子に見えた。
けれども、不可抗力《ふかこうりょく》でアーミンを助けられなかった、そういう意味の謝罪ではないことは、リディアでもわかっていた。
彼は姉のために、手を離したのだ。
死を選んだ姉のために、主人の命《めい》に背《そむ》いた。
精霊をエドガーにゆだねているというレイヴンが、命令に背くのはよほどの覚悟の末だろう。
「許す」
だからエドガーは、静かにそう言う。
座り込んだままひざをかかえ、金の髪に指をうずめた彼は、激しい憤《いきどお》りをどうにか押さえ込んでいるように見えた。
それはたぶん、自分に向けた怒りだ。
「……おまえにあやまらなければならないのは僕の方だ。アーミンの苦しみを受けとめてやれなかった。悩んでいる様子はあったのに」
吐息《といき》のように、つぶやきがもれる。
抱いてやれればよかったのに、と。
昨日の夜のことだと、リディアは直感していた。それと同時に、エドガーがアーミンのことを、幸せになれるよう努めたいと言っていたことを思いだした。
アーミンの片想い、けれどエドガーが彼女のことを、家族のように思っていたことは、アーミンもわかっていたはずだった。
だからあまりにも、やりきれない結末。
「結局……、いまだに僕もプリンスの奴隷《どれい》だ。あの男がすべてで絶対だった記憶は、容易にほどけるものじゃない。こうして、逃亡を続けている迷宮の先に、出口が見えたと思ったらあいつが待ちかまえているような……。何年たっても、そんな不安が薄れることはなかった。僕でさえそうなんだから、奴の女として過ごしてきたアーミンはもっと、深い傷と恐れや不安を背負っていたはずなんだ」
自分が自分でなくなり、ただ人形のようになって生きているだけの絶望を、共有する者にしかわからないこと。
プリンスという男のもとで、彼らがどんなに苦しんできたのか、リディアには想像もできない。けれどアーミンの気持ちは、少しだけならわかる。
裏切りの奥にある、誰に強要されたものでもなく、支配されることもない彼女だけの切ない本音は、少しはわかるつもりだ。
リディアを道連れにすれば、エドガーがリディアを殺すことはない。どのみちアーミンは、裏切り者のままエドガーのそばに居続けることはできない。エドガーがプリンスにつかまるまで、でなければ彼女の裏切りが発覚するまでの、つかの間の逃避行《とうひこう》だった。
いつかは終わるはずの、淡い恋。
だから今、この場所で、すべてを終わらせようとしたのだ。
ゆるりと、エドガーは立ちあがった。
「少しだけ時間をくれ。すぐ戻るから」
建物の方へ入っていく彼の背中は、消えてしまいそうなほど、はかなげに見えた。
彼女のためにと、青騎士|伯爵《はくしゃく》の宝剣を求めたことが、彼女を追いつめてしまったのだとしたらあんまりだ。
ふつうの娘として、髪をのばして着飾って笑っていられるようにと、エドガーは望んでいたのに。
「泣いてくれるのですか、姉のために」
レイヴンがそう言って、リディアは自分の頬《ほお》を伝う涙に気がついた。
「あなたを、殺そうとしたのに」
殺すつもりだったのだろうか。ふとそう、疑問に思う。最初からそう考えていたなら、アーミンは、リディアにエドガーの計画を話す必要はなかった。ならば、彼女があの話をしたということは、リディアが生きて宝剣のありかへ到着するそのときを考えていたことになる。
リディアを道連れに飛びおりようとしたけれど、本気で殺すつもりなら、レイヴンの動きの早さを知っているからには、もっと確実なやり方があったかもしれない。
このままだと、宝剣は手に入らず、エドガーもリディアも死ぬかもしれない。そしてアーミンはこれ以上エドガーを裏切れず、プリンスからも逃げ切れなかった。
だから死を選んだ。
彼女の唯一の望みは、エドガーがリディアを犠牲《ぎせい》にすることなく、気持ちをあらため、たとえ宝剣を得ることができなくても、新たに自由になれる道を見つけてくれること。そうではなかっただろうか。
そのために、いまだエドガーをプリンスにつないでいる自分という糸を、断ち切って見せたのではないか。
「……あたしは、たった数日しか彼女のことを知らないのに。わかったようなつもりになってるだけかもしれないけど……。あなたの方がずっとつらいはずなのに」
「つらい……、そうなんでしょうか。よくわかりません。私には、自分が何を感じているかさえ、気づくのは難しくて。だから姉のことも、唯一の肉親だという感覚しかなく、それはそばにいて助け合うのが当然の、けっして失われることのない存在だと思い込んでいたような気がします。彼女にも悩みや葛藤《かっとう》があって、苦しんでいたのに、私はいつも、自分のことで精一杯だった」
相変わらず淡々と、冷静すぎる言葉でレイヴンは語った。
「いいえ、わかっているはずよ、あなたにもちゃんと感情があるわ。彼女を思って手を離したのなら、誰よりも深く彼女を愛して、傷ついてる」
深い緑の瞳が、リディアに向けられる。やっぱり人を不安にさせる暗い瞳だと思うけれど、今は人を射すくめるような鋭さは感じなかった。
「リディアさん、姉はあなたに、何か言いませんでしたか」
「な、何かって?」
「……いえ、いいんです。あなたの胸にしまっておいてください」
エドガーの計画を、アーミンがリディアに話してしまったかもしれないと、レイヴンは気づいているのだ。
けれども彼は、エドガーのしもべ。主人が罪を犯すことを苦慮《くりょ》するよりも、望みをかなえることに尽力《じんりょく》しようというのだろう。
それがリディアを罠《わな》にはめることだとしても。
「エドガーさまは、自分の身のために宝剣を得ようとしているのではありません。あの方の胸にあるのは、|貴族の義務《ノブレス・オブリージュ》、ただそれだけです」
それはまるで、主人の立場をリディアに弁解するかのように。
けれどもよくわかる。
ノブレス・オブリージュ。主君として、家臣やその家族、領民たちを守り導くというつとめ。封建《ほうけん》領主《りょうしゅ》の時代から騎士道精神を受け継いできた階級は、けっして優雅なだけの身分ではなく、人々の上に立つだけに、重大な責任と義務を背負っていた。
戦《いくさ》の最中に、部下や民《たみ》を捨てて逃げるなど許されない立場だ。
エドガーは、レイヴンとアーミンのために、戦うことをやめずに来た。たぶん今も、引き下がるつもりはないということだろう。
「リディア、ちょっと来てくれ」
戻ってきたエドガーは、まだ心痛《しんつう》を引きずっている様子ではあったが、ごくふつうにリディアを呼んだ。
「レプラホーンが地下に隠しているというのは、金貨じゃないか?」
そうして、階段の裏側へリディアを招く。
「ええそうだけど。何かわかったの?」
「青騎士伯爵の金貨だよ。妖精の詩が刻んであるこれだ。それにここ、壁に穴があるだろう? 金貨とぴったり同じ大きさだ」
「ほんとだわ!」
「入れてみる?」
リディアは頷《うなず》く。
壁の隙間《すきま》へコインが落ちていく。と同時に、からくりの動く音とともに、階段が動き始めた。
やがて床にぽっかりと穴があく。さらに下へ階段が続いている。
「行こう」
エドガーに続いて、リディアも穴へと入っていく。最後にレイヴンがついてきた。
このまま進めば、リディアの身には危険がせまることになる。けれど父を助けるためにはメロウの星≠ェ必要で、リディアは先へ進むしかない。
エドガーとともにひとつ謎を解いたことが、共同作業のように思えて、ともに宝剣を目指すことに気持ちが高まっているのも否《いな》めない。けれどその一方で、命を懸《か》けて、このまま他人を犠牲にし続けていいのかとエドガーに問いかけようとしたアーミンの行動は、エドガーが本気でリディアを殺すつもりだということを証明している。
罪を犯させたくないと願ったアーミンの気持ちが、エドガーに届けばいい。しかしそう考えると同時に、すぐ後ろにいるレイヴンの気配に否定される気がした。
きっと彼らの決意は、そんな感傷では動かない。
レイヴンは、姉の死の意味と願いに気づいていながら、エドガーについていくつもりだ。そしてエドガーは、レイヴンのためだけにでも、|貴族の義務《ノブレス・オブリージュ》をまっとうしようとするだろう。
けれど彼らのように、リディアにも守るべきものがある。もちろん父だ。
修羅場《しゅらば》をくぐり抜けて生きてきたこのふたりを相手に、世間知らずの自分がかなうわけはないと思いながらも、行くしかなかった。
*
「おい、先生じゃねえか。なんでここにいるんだよ」
声は、カールトンが監禁《かんきん》されている部屋の中で聞こえた。だがこの部屋には、彼のほかに誰もいないはずだ。
不審《ふしん》に思いながら見まわすと、窓辺に灰色の猫が腰かけていた。
そう、まるで人間のように、ネクタイを結んだ猫がちょこんと腰かけているのだ。
「ニコ……」
もちろんこの猫が、猫ではないことは知っている。知っているつもりだが、目《ま》の当たりにするたび違和感がある。
[#挿絵(img/star sapphire_211.jpg)入る]
「リディアが、ゴッサムたちに連れていかれた。宝石を探すために……」
猫は窓から飛びおり、二本足でてくてくとカールトンに歩み寄り、器用に腕、いや前足を組んだ。
「どういうことだ? リディアは金髪の貴族と一緒だったはずだけどな」
本当いうとカールトンはいつも、ニコを持ちあげていろいろ調べてみたい衝動《しょうどう》にかられるのだが、姿はともかく相手が対等な紳士だとすれば、じろじろ見るのさえ失礼に当たると思い我慢する。
リディアの母の相棒でもあったニコは、リディアのことも幼い頃から見守ってくれている。
カールトンともいちおう長いつきあいだ。妖精が見えないカールトンにとって、唯一接することのできる妖精だった。
「そうだったんだが、ゴッサムにつかまったんだよ。私もゴッサムにだまされて、リディアを捜すためだとここまでついてきたんだが……」
「どっちにしろ、リディアは宝剣の隠し場所へ向かってるわけか。……まずいな」
「まずいのか? あの貴族の青年が、リディアをメロウの犠牲にするかもしれないとか、男装の女性が言っていたが」
「ああ、メロウと青騎士|伯爵《はくしゃく》との約束では、本物の伯爵家の子孫がいない限り、宝剣を手にすればどうしても死人が出るみたいだぜ」
近づいてくる足音に、ニコは口をつぐんだ。そうしてさっと姿を消す。
ほぼ同時に、乱暴にドアが開けられた。部屋へ入ってきたゴッサム家の長男は、殴《なぐ》られたことがひとめでわかる悲惨《ひさん》な顔だ。
リディアにはハスクリーと名乗っていたらしい彼は、あきらかに不機嫌に、カールトンに八つ当たりするかのように椅子《いす》を蹴った。
「あんたの娘は、また強盗に連れ去られたぞ」
「はあ、どちらにしろ、私にとって最悪の事態には変わりないんだが」
「あんたが俺たちの手にある限り、娘はメロウの星≠奴に渡すわけにはいかない。命じたとおり宝石を手に入れようとするだろうが、あの男は姑息《こそく》だ。小娘ひとりに手に負える相手じゃない」
「君の手にも負えないようだ」
ハスクリーは、ひくりと眉《まゆ》を動かしたが、苛立《いらだ》ちは押さえ込んだ。
「……とにかく、奴を追って宝石をいただく。あんたも来るんだ」
次男と三男が、カールトンを両側からかかえるようにして立たせた。
ニコの姿を探すが、見えないままだ。しかしそのへんにいるはずだと、彼はつぶやく。
「どうやら時間がなさそうだ」
「しかたねえ、とにかくおれが先に行く。先生はこれを持っててくれ」
声だけが聞こえると、ミントの葉が、カールトンの内ポケットに舞い込んだ。
「ブラウニーが香りをたどって来るはずだからな」
「おい、何をしゃべっている」
「べつに、独り言だよ」
ため息をつきつつ、カールトンは連れられるままに部屋を出た。
母親と同じ、フェアリードクターになりたいというリディアのことを、カールトンは反対しなかった。けれどもその特殊《とくしゅ》な能力を隠していないために、こんなことに巻き込まれてしまった。
妖精が見える体質を受け継いでしまったリディアも、苦労の絶えない人生を送るのだろうか。それよりも、母親に似た何よりの問題は、どうしようもない男に弱いというところかもしれない。
貴族で強盗で誘拐《ゆうかい》犯、カールトンは、今リディアと一緒にいるはずの男を思い浮かべ、やるせない気持ちになった。
*
どこまでも深く、階段は続いていた。曲がりくねった通路と階段が交互に続く、地下道といったそこは、蝋燭《ろうそく》がなければまっ暗で何も見えなかっただろう。
地下室があるだろうとの予想をしてか、レイヴンが蝋燭を持っていた。その明かりをたよりに、三人は進んでいた。
「まだ続くのかしら」
リディアは、閉鎖的《へいさてき》な空間に息苦しさを感じはじめていた。
一歩ずつ、最悪の終焉《しゅうえん》へ向かっているようだと思う。事実、宝剣を手に入れる方法を知っているらしいエドガーから、それを取りあげる方策《ほうさく》もないまま、リディアはただ、彼らのための生贄《いけにえ》として運ばれていくようなものだった。
そんなふうに感じてしまうのも、この暗い地下道のせいだ。
生命の気配がまるでない人工的な空間は、リディアを不安にする。地下を好む妖精すら、気配の片鱗《へんりん》もないのはどうしてだろう。そのこともリディアに、不自然な印象をもたらし不安をあおる。
すでにメロウの影響の範囲なのかもしれないが、そもそもメロウだって接したことのない妖精で、リディアには不安な材料だ。
父を助けるためという強い決意がそがれ、よくないことばかり頭に浮かんだ。
すぐ前にいるエドガー、後ろにいるレイヴン、逃げ場はどこにもない。彼らに殺されるとわかっていて、どうしてついてきているのだろうと思う。
ますます息苦しい。
エドガーが振り向いた。なんとなくぎくりとさせられた。
「リディア、疲れたのか?」
「ちょっと……空気が薄くない?」
「火はちゃんと燃えています。問題はないかと」
レイヴンの声を聞きながら、リディアはめまいを感じ、よろけて転びそうになった。
エドガーに支えられる。彼が何か言ったがよくわからない。
「いや、さわらないで」
今はただ、触れられたくなかった。さらに息苦しくなり、冷や汗がでる。すっかり彼女は混乱していた。
「落ち着いて、リディア」
暴れようとすれば、腕をつかまえられる。そのうえ、鼻と口を手のひらでふさがれ、息ができなくなる。
なにこれ、殺されるの?
リディアはますます、必死になって抵抗した。
「じっとして、ゆっくり息を吐くんだ」
空気が足りないのに。
むやみに暴れれば、階段から足がすべった。
エドガーにかかえられたまま落ちる。
「きゃーっ!」
落下に驚き、おもいきり悲鳴をあげた。そうやって、胸にたまっていた鉛《なまり》のような空気をすべて吐き出してしまったからか、リディアは少し落ち着きを取り戻す。息苦しさがやわらいでいる。
「そうだ、あわてないで、ゆっくり呼吸をするんだよ」
蝋燭明かりの届かない、まっ暗な場所で、彼女を抱きかかえているエドガーの声がした。
どうやら落ちたのはほんの少しの距離だ。
延々と続いてきた階段は、それで終わりのようだった。
「エドガーさま!」
「大丈夫だ、レイヴン」
こちらに駆け寄ってこようとしている蝋燭明かりに向かって、エドガーが言う。
「リディア、怪我《けが》はないか」
「……ええ……」
それもそうだ。エドガーにかかえ込まれていたのだから。
「あの、あなたは……」
「なんともないよ。数段の高さで助かった」
蝋燭の明かりが届くと、彼はリディアを離し、気遣《きづか》うように見おろしながらやさしげに微笑《ほほえ》んだ。
「まだ息苦しい?」
「少しおさまってきたみたい」
「空気を吸いこみすぎてたんだ。きっと緊張してたうえに、この暗闇の圧迫感にまいってしまったんだろう」
そう言われて、リディアは思いのほか緊張を強《し》いられている自分に気がついた。
「あんなことがあったばかりなのに、平静でいられるわけないよね。無理をさせてごめん」
アーミンが死んだことを言っているのだとわかる。リディアもあのとき、もう少しで落ちるところだった。それはそれで、ショックなできごとだったけれど、それよりもずっと、彼女を緊張させていることがある。
自分は怯《おび》え続けているのだ。
最悪の事態を。
何度もリディアは、エドガーに助けられた。
ハスクリーに追われたときも、彼はリディアを守って怪我をした。アーミンが彼女を道連れにしようとしたときも、そして今も、助けてくれた。
ずっと彼は、リディアを気遣って、やさしい言葉をかけてくれる。信用してはいけない人だとわかっていても、信用したくてついてきたのかもしれない。
だから、ただ死ぬのが怖いのではなく、エドガーに殺されるのが怖い。
そのとき彼が、どんなに残酷《ざんこく》で冷たい目をこちらに向けるのだろうと思うと震える。
変わり者と誰からも理解してもらえないリディアのことを、あるがままにそういう人だと受け入れてしまえるのがエドガーで、けっしてお世辞ではないほめ言葉ももらったような気がしている。
けれど彼に殺されるとしたら、リディアに向けられたやさしさも笑顔も思いやりも、ぜんぶうそだったことになる。
エドガーが強盗だと知ったとき、リディアは逃げようとしていた。そうとわかっていても彼は、力ずくで言いなりにしようとはしなかった。フェアリードクターとしての、リディアの能力を必要とし、ただ行かないでくれと懇願《こんがん》した。
それは、彼女の意志を尊重してくれたのではなかったのだろうか。
あのときからリディアは、彼に利用されているのではなく、対等な協力者になれたつもりだったけれど、そうではなかったのか。
エドガーに、すべてをくつがえされてしまうのが、なによりも怖い。
もしかしたら、そんなことは起こらないかもしれないと期待する気持ちにすがって、リディアは先へ進んできたのだ。
「もう少し休んだ方がいいね」
この言葉も、思いやりなんかでなく、じきに否定されてしまうのかもしれない。
エドガーの、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳をリディアはじっと見つめた。
女の子に見つめられるなんて慣れきっているのだろう彼は、やわらかな笑みを返す。
「あたしのこと、殺すの?」
思わず口にしてしまった。
驚くでもなく、目をそらすでもなく、こちらを見つめたままの彼に、ぞくりとした。
「何を言い出すの」
「殺すつもりなら、やさしくなんかしないでよ。悪人の顔して、ナイフでもちらつかせて、怒鳴るとか殴《なぐ》るとかしたらどうなのよ」
「まだ混乱してる?」
「こんなの理不尽《りふじん》だわ。あなたのこと悪人だと思えないのに、殺されたら誰を恨《うら》めばいいの? あたしは、フェアリードクターとして誰かの役に立ちたかった。あなたは、強盗でも大うそつきでも、本当にあたしの能力を必要としてくれてるんだと思いたかったから、ここまで来たのに……」
「必要としてるよ、きみのことを」
「あたしの命もいるんでしょう?」
「どうしてそんなふうに思うんだ? きみを殺す理由なんかないじゃないか」
「あたしはあなたの仲間じゃない。あたしのことも父のことも、切り捨てても心は痛まないでしょう。それだって理由になるわ」
困り切ったようにエドガーは、リディアを覗《のぞ》き込みながら額《ひたい》の髪をかきあげた。
しばし考え込み、そうして思い切ったように、彼女の方に手をのばす。
一瞬びくりと震えた彼女に戸惑い、けれどもういちど、そっと頭に触れる。
やさしい手つきで髪を撫《な》でるのは、小さな子供をなだめるかのようだった。
「ずっとそんなふうに、自分たちを守るためならなんでもしてきた。それで戦っているつもりだったけど、僕は情けない男で、逃げることに精一杯だっただけだ。怖いから、あえて後ろを見ないように、過去を忘れようとばかりしながら、あの男から逃げ切れていないことに気づけなかった。だから、……高い代償を……。もう、誰も傷つけたくない。きみのことは仲間のように思ってる。僕を信じてくれ」
まっすぐ目を見て語られれば、信じそうになる。
でもきっと、うそばっかりだ。
本気でうそのつける人だから。
本音を織り交ぜながら、重大なうそをつく。そうやって人の気持ちを動かしてしまう。相手に自分がどんなふうに見えるかわかっていて、心をつかむくらいお手のもの。
けれどリディアにできるのは、だまされることだけだ。だまされて裏切られるしか、どうにもできないのだと悟《さと》ったのは、エドガーのうそが、このうえなく真剣だったから。
彼の、目的を達するという決意はゆらぎようがない。
「お願い、父を助けたいの」
ならせめて、ひとつだけでも、リディアの真剣な願いを聞き入れてほしい。
「もちろんわかっているよ」
その言葉だけはうそではないようにと祈りながら、リディアは、身体《からだ》に力を入れて立ちあがった。
ドアの向こうは酒蔵《さかぐら》だった。とはいえ、人間のための酒蔵とは思えない。こんなに地下深くにあるのは、このあたりに棲《す》む何かのために、城を建てた人物が用意したのだろう。
酒蔵は、酒好き妖精クルラホーンの寝床だ。ここにクルラホーンらしき住人は見あたらなかったが、詩の意味はここを指していると思われた。
どこからともなく水音が聞こえてきていた。
波の音、そしておそらく、海へと流れ込む地下水の脈が近くを通っている。
メロウの棲みかが近いのなら、ここはメロウの酒蔵かもしれない。
そして酒蔵の奥は、三方向に道が分かれていた。
「どちらへ行けばいいんだろう」
「どんな様子か見てきましょう。ここでお待ちください」
壁にかかっていたランタンに火を移せば、酒蔵の中は蝋燭《ろうそく》一本よりも明るく、広さもあるため閉塞感《へいそくかん》は薄れる。
だからレイヴンは、再び狭《せま》い通路へリディアを連れていくよりはと、ひとりで見に行くことを申し出たようだった。
「気をつけるんだぞ」
レイヴンが通路の奥へ消えると、エドガーは、並ぶ酒樽《さかだる》を手持ちぶさたにたたいてみたりしていた。
「樽はどれもカラだね」
城の主人がいなくては、メロウに酒をふるまう者もいないということか。
リディアは壁際に座って待つ。と、ふわふわしたものが腕をくすぐった。
「リディア、おれだ」
ひそめた声は、ニコだ。姿を消したままのニコが、リディアのひざに飛び乗った。
「いいか、よく聞けよ。この島に棲むブラウニーが、一緒に酒を飲んだ男メロウから聞いたことだ。メロウは何百年も戻ってこない伯爵《はくしゃく》を待ちくたびれている。このさい誰か、宝剣を持っていってくれないものかともらしたそうだ。誰でもいいってわけにはいかないだろうと、ブラウニーが言ったところ、『伯爵とは星とひきかえにすると約束した、条件さえそろえばいい』『星って空の星か?』『メロウの海に瞬《またた》くのは、海で死んだ人の魂さ』……条件をそろえるってのは、宝剣の場所までたどり着くことだろう。そして誰かをメロウに差し出せば、泥棒だろうとメロウは宝剣を渡しちまう可能性があるってことだ」
妖精と人間の間で、たいていの場合重要なのは契約《けいやく》だ。情《じょう》や義理などというものは、人間どうしの間でしか成立しない。メロウが伯爵を領主と認めているとしても、それは青騎士|卿《きょう》との取り引きの結果で、彼らが宝剣を守るのも、契約があるからだ。
彼らは契約を破ったりはしない。しかし、契約を守る以上のこともしない。伯爵の子孫かどうかを確認する方法が、金貨と銀の鍵《かぎ》を持ち、宝剣の隠し場所まで到達することなら、メロウはそれ以上、宝剣を受け取りに来た人物の素性《すじょう》を疑わないということだ。
リディアはエドガーの目を気にしながら、さりげなく頷《うなず》く。ニコは続けた。
「宝剣のありかはすぐ近くなんだろ? 見つけたら、あの貴族より先に剣を取れ。それで奴に切りつけろ」
え? 思わず声が出そうになるのを、どうにかこらえた。
「それがメロウに対する合図だ。少しでも傷をつけることができればいい。剣を濡らした血、そいつがメロウの餌食《えじき》ってことになるらしい。じきにハスクリーたちが、先生を連れてこっちへ来るが、混乱するなら好都合だ。貴族さまがハスクリーたちを相手にしているうちに、あんたは青騎士卿の宝剣を見つけて取るんだ、いいな」
リディアの手に触れていたニコのふさふさした毛の感触が、さっと消え去ったのは、エドガーがこちらへ近づいてきたからだった。
「何か聞こえない?」
「え、何も……。水音じゃないの。ずっと聞こえてるもの」
ごまかしながら、リディアは水音に耳を澄ますと、エドガーがまた言った。
「ほら、女の泣き声みたいなのが聞こえる」
「泣き声……? そうだ、バンシーだわ」
リディアは立ちあがった。
かすかに聞こえるのは、風が岩場を吹き抜ける音なのかもしれない。しかしバンシーの泣き声のようでもあった。
水辺で泣くバンシーの姿が目撃されると、近いうちに人が死ぬという。不気味な妖精の泣き声は、誰の死を予感しているのだろう。
宝剣でエドガーに切りつける。それしかリディアの助かる道はない。
武器を人に向けることなんてできるのだろうか。しかしできなければ、彼がリディアに剣を向ける。
「バンシーというと、次の詩の妖精だね」
「ええ、きっとそれがヒントね」
リディアは壁に耳を押しあてた。風の音がよりはっきりと聞こえる場所を探す。それは三つの通路のうち、真ん中のひとつだった。
ちょうど、レイヴンが右端の通路から戻ってきた。
「ここは行き止まりでした」
「こっちよ。これが正しい道だと思う」
再び三人で進む。
道は、そう長くはなかった。少し行くと、岩場にぽっかり口を開けた暗い空洞《くうどう》を横切る吊り橋があり、それを渡りきれば、岩壁に取りつけられたドアがあった。
ドアに近づこうとしたリディアを、エドガーが止める。
「バンシーの次はもうメロウだね。なら慎重《しんちょう》に行動した方がいい」
「慎重にって?」
「宝剣に近づいた者はみんな死んでるんだろう? ここには何か仕掛がありそうだ。ほら、歯車の一部が見える」
橋を造っているロープがつながる岩陰に、たしかに仕掛めいたものがあった。
エドガーは、コートの内ポケットからカードを取り出した。銀の薄い板状のものだった。片面におうとつがあり、妖精詩の金貨と同様細かな文字が彫られているのがわかるが、内容まではわからない。それが、アーミンの言っていた、青騎士伯爵の宝剣の謎に触れる、エドガーが隠していたものなのだろうか。
「それは?」
「このドアを開く魔法の鍵」
ドアノブのそばには、銀板が入るくらいの細い溝があった。それが鍵穴だということか。
そのとき酒蔵の方から、急に騒がしい足音が聞こえてきた。ランプの明かりがうごめく人影を大きく映し出すと、それはやがてこちらを照らす。
「ジョン、待て! これ以上好きにはさせないぞ!」
「いいかげん、きみの顔を見るのは飽きてきたよ、ハスクリー君」
「おい、つかまえろ」
不遜《ふそん》なエドガーの態度に警戒しながらも、ハスクリーは弟たちに指図《さしず》する。
慎重に近づいてこようとしている彼らを後目に、エドガーはドアに歩み寄った。
そのとき、どこからともなくうなるような音が聞こえてきた。ゴッサムたちも立ち止まる。
岩の空洞を振動させながら、嵐のような音がこちらに近づいてくる。
「……何だ……?」
ひるんだ男たちのつぶやきが、悲鳴に変わったのは、急に突風が吹きつけたからだ。
「メロウだわ、メロウの魔力よ……」
リディアはつぶやいた。
吊り橋が激しくゆれ、つかまっていても振り落とされてしまいそうだ。
おさまりそうにない風のうねりに重なって、美しい歌声が聞こえる。
幻聴《げんちょう》かとも思えるそれは、聞こえるというよりは身体の奥に忍び込むような歌声だ。夢のような響きで人を眠りに誘う。
どうにか吊り橋のロープにつかまっているのに、力が抜けていきそうになる。
ここから落ちて、浜辺に藻屑《もくず》と打ちあげられることになったのだろう、幾人《いくにん》もの泥棒たちのことをぼんやりと考えていると、エドガーがリディアの腕をつかんだ。
「リディア、レイヴン、こっちへ来るんだ。ドアにつかまってろ」
風に逆らいながら、エドガーはふたりを引き寄せる。そして素早く、銀板をドアの隙間《すきま》にさし込んだ。
唐突《とうとつ》に、風がやんだ。同時にメロウの歌声も途切れる。
呆然《ぼうぜん》とへたり込んでいるリディアを、エドガーは開いたドアの中へと引きずり込む。と同時に、歯車が動き始める。
何が起こるのか考えるひまもなく、いきなり吊り橋が真ん中で切れた。
底なしの暗い穴へ、橋だったものがすいこまれていく。ハスクリーたちはあわてて向こう側に飛び移る。
こちらへ進み出ていたひとりが、戻りきれずにドアの方へ飛ぼうとした。
「きゃあっ!」
リディアが悲鳴をあげたのは、落ちかけたその男が彼女の足首をつかんだからだ。
リディアの腰に腕をまわし、彼女が引きずられるのを防いだエドガーは、なんとかはい上がろうとしている男の腕を踏みつけた。
「さわるんじゃないよ、下衆《げす》野郎」
あっという間に蹴り落とす。
かろうじて、垂れ下がった吊り橋のロープにつかまった男は、宙づりになりつつも罵倒《ばとう》の声をあげたが、あっけにとられながらリディアは、エドガーのことを、やっぱり怖い人だと思った。
敵なら情け容赦《ようしゃ》は必要ない、そんな世界に住んでいるのだ。
まったくの悪人などいないと信じたくて、やさしい言葉を鵜呑《うの》みにし、すぐに同情するリディアは、隙だらけに見えるだろう。
剣を奪って切りつけるなんて、無理ではないのか。
「おい、教授がどうなってもいいのか!」
落ちてしまった吊り橋の、深く暗い穴に隔《へだ》てられた向こう岸で、ハスクリーが叫んだ。
「父さま!」
ハスクリーは、カールトンを前方に引きずり出す。
「お嬢さん、宝石を取ってくるんだ。でないとこいつを、ここから突き落とすからな」
手出しのできない場所で、ハスクリーがいくら騒ごうと関係ないからか、エドガーは我関せずといった様子で、ドアの奥へと進み始めた。
「待って」
リディアはあわてて彼を追う。
「父さまを助けて、約束したでしょう?」
「宝石を渡したとしても、あいつが父上を無事帰すとは思えないな。きみのことも、犯罪の証人だ。まとめて殺されるよ」
「でも、このままじゃ……」
「まだ宝剣は手に入っていない」
それどころではないとでもいうのか、エドガーはじっと前方を注視していた。
そこは、広い天然の洞窟《どうくつ》のような場所だった。
張り出した岩がじゃまで奥の方まで見渡せないが、向こうがぼんやりと薄明るいのはわかる。
外の明かりがもれているのだろうかと思ったが、違っていた。何かが淡く発光しているのだ。
エドガーはゆっくりと近づいていく。リディアも離れずについていく。しかしふたりとも、同時にふと足を止めた。
明かりに包まれた場所に、動く何かが見えたからだった。
発光しているのは、そのあたりの岩だ。薄い苔《こけ》のようなもので覆われ、それが淡い光を発している。
岩に囲まれた水たまりが、天井から落ちてくる水滴《すいてき》に波立ち、反射した光をゆらす。青白い光が漂うそのあたりだけ、海の底のように見えた。
そこに立ちあがった人影は、ひとりの少女だった。青白い光だけをまとった少女の髪は、身体を覆いなお引きずるほど長い。
「メロウ……」
リディアのつぶやきを聞きとめたエドガーは、不思議そうに振り向いた。
「メロウ? 足があるけど」
「人の姿になるくらいわけないわ」
「しかし、僕にも見えるし、人間の少女にしか見えない」
「わざわざ見えやすいようにしてるのよ。それに、人間がこんなところで、たった今まで閉じこめられてたっていうの?」
エドガーはまわりを見回し、抜け道らしきものもない空間だと確認する。
「無理があるな」
「少なくともここには、あなたの考えているような機械的な仕掛はなさそうよ」
「だからあきらめろとでも? メロウに、青騎士|卿《きょう》の子孫が本物かどうか、見分けられるとは思えないけどね」
そうだろう。この場に現れた人物が、伯爵家の血を引いているかどうかなんて、いくらメロウでも知りようがない。だからこそ何か、伯爵の資格を判断する条件があるはずだった。
おそらくそれは、青騎士伯爵とメロウがかわした取り引きの中にある。だとしたら、妖精に関する知識があり詩の謎を解いた者、入り口の鍵を持っていた者、「星は星とひきかえに」という意味を理解した者を、後継者と見なすということではないか。
そういう意味ではエドガーの考えるとおり、条件を満たせば宝剣を得られる。仕掛があるのと同じことだったのだ。
「ようこそいらっしゃいました」
メロウが言った。
「さて、どなたにお渡しすればよろしいのです?」
「どこにある」
エドガーが訊《き》いた。
「見えませんか?」
リディアは目を細めた。
光がゆれてちらつく。
宝剣はどこに?
ぼんやりと、岩陰に青白い像が浮かんでいた。
エドガーも気づく。彼の方が先に動いた。
「リディア、影だ」
しかし、ニコの声にはっとする。
あれは、宝剣にあたって反射した光の像だ。剣の影にすぎない。なら本体は。
リディアは走った。エドガーとは反対方向に。
水たまりの縁《ふち》にひざをつき、水中に腕を突っ込む。
乱反射した光が、岩陰に浮かんだ剣の像をかき消した。
「……何?」
エドガーが振り返ったときには、リディアは水の中から銀色に輝く刀身《とうしん》を引き抜いていた。
青騎士卿の宝剣だ。
錆《さび》ひとつなく、たった今鍛えられたかのように鋭く光る諸刃《もろは》の剣。青い宝石がひとつ埋《う》め込まれている。
リディアは柄《つか》を握りしめ、エドガーに向き直った。
「動かないで」
深刻なリディアの様子を、神妙な顔で彼は見つめる。
「……知ってるのよ。この剣とひきかえに、メロウに人の魂をわたさなきゃならないのは」
エドガーは驚くでもなく、淋しげに微笑《ほほえ》んだ。
「そう。どうやら僕の負けだね。きみの好きにすればいい」
あっさり引き下がられると、リディアは戸惑いを感じた。彼を切りつけるにはこの場の勢いに乗るしかなかった。宝剣を奪おうと襲《おそ》いかかってくれないなら、とてもこんなものを振り回せない。
「レイヴン、手出しはするな」
そのうえ、隙をねらってじりじり動こうとしていたレイヴンを止めてしまう。
しかし彼は、リディアの迷いを承知の上だ。
[#挿絵(img/star sapphire_235.jpg)入る]
剣など扱ったこともなければ、人を傷つけるのも怖いと思う彼女の心理を見抜いている。
だからこそ、しおらしい態度なのだと思っても、リディアはなかなか動けなかった。
せっつくように、ニコがそでを引っぱる。
「迷うな、リディア。やらなきゃやられるぞ。それとも奴と一緒に、そろってメロウの餌食《えじき》になるつもりか?」
ニコの言うとおりだ。
メロウの星は星とひきかえに。さもなくば、メロウは悲しみの歌を唄う
この場でメロウに約束のものを差し出さなければ、メロウは歌を唄う。それは、この場にいる全員が、海底に引きこまれるということだ。
ゆっくりと、エドガーがこちらへ歩み寄ろうとした。
「動かないでって言ってるでしょ!」
「近寄らなきゃ切れないよ」
「そうだ、そいつはリディア、あんたのことを殺すつもりだったんだぞ!」
エドガーは、かまわず至近距離まで近づいてきた。
「本当にあたしを殺すつもりだったの?」
「怖いの? 震《ふる》えてるよ」
「そんなことしないって言ったのはうそ? あなたは父を助けてくれるって言ったわ。それもうそ?」
「うそじゃないよ」
この大うそつき。そう思いながらも、リディアは迷い続ける。
「教えて、あなたの言葉の中に、本当のことはあるの?」
「そんなこと知ってどうするの」
「だって今まで、あたしのこと守ってくれたでしょ。あれがぜんぶうそだって、思いたくないのよ。アーミンを失って、あたしはあなたたちの苦しみを、ほんの少しかもしれないけど共有したつもりよ。だから父を助けたいあたしの気持ちも、あなたがわかってくれたんじゃないかと思いたくて……」
それこそ、今知ったところでどうにもならない。
エドガーは、不愉快《ふゆかい》なのか不可解なのか、眉《まゆ》をひそめた。
「なぜ迷うんだ? きみを殺そうとした男なんて、死んで当然じゃないのか。僕を切ったって、誰もきみをとがめないよ」
「リディア、あーもう、何やってるんだよ!」
ニコがあせる。
「……どうすればいいのよ!」
たぶんリディアには、どうしてもエドガーに剣を向けることができないのだ。
じっとこちらを見ていたエドガーが、あきれたようにくすりと笑った。
「僕みたいな極悪人でも、切りつけるのは怖い? なら、こうすればいいんだよ」
ぐいとリディアをつかまえる。あっという間に剣をもぎ取られる。
目を細めて宝剣を眺めた彼は、なぜだか悲しげに見えた。
「お人好しすぎるよ、リディア。世の中には、どこまでも冷酷《れいこく》な悪人がいるというのに」
ゆるりと剣を動かす。リディアは硬直したまま動けなかった。
しかしエドガーは、不意に剣の向きを変えた。刀身を自分の手のひらに押しつける。
そのまま引く。
「え……」
手のひらから血があふれ、刀身を濡らした。そしてこぼれ、床にぽたりと落ちる。
呆然《ぼうぜん》とするリディアの目の前で、彼はたよりなげに微笑んだ。
「どうしてなんだろう。きみには、うまくうそがつけないな」
それから、もうひとり、呆然としている少年の方を見た。
「レイヴン、すまない」
「エドガーさま……!」
激しい波の音が、地鳴りのように近づいてくるのを感じていた。と、岩間の水たまりから、急に水があふれ出す。
見る間に激しい波になって、こちらに襲いかかる。
この空洞《くうどう》を一気に水で満たすほどの勢いに、リディアは思わず目を閉じた。
しかし水にのまれる感覚は訪れず、ただ波の音だけが押し寄せ、そして去る。
目をあけたとき、巨大な波はどこにもなく、水たまりはただの水たまりで、そしてリディアの足元には、宝剣が落ちていた。
エドガーの姿だけがない。
メロウがゆっくりと、こちらへ近づいてきた。
剣を拾い、そして差し出す。
「剣によって傷つかなかった方。どうぞこれを」
「……それでいいの? あなたたちはこれを、伯爵《はくしゃく》家の後継者《こうけいしゃ》のために守ってきたんでしょう?」
「伯爵は亡くなりました。ずっと昔、わたしたちも助けることのできない遠い海で」
「伯爵家の血筋が途絶《とだ》えたってことなの?」
「それはわかりません。ただあれからずっと、長い年月が過ぎても、正しく謎を解ける人が現れなかったのは、そういうことなのでしょう。これまで伯爵家の後継者は、長くても百年を待たずに、妖精国と人の領地を行き来しておりました。けれどもう、伯爵家の人間がいないなら、妖精博士《フェアリードクター》にしか、ここへ来ることはできないだろうと思っておりました。あなたがそうでいらっしゃいますね」
「それであなたたちは、フェアリードクターを待っていたの?」
メロウの少女は、切なげに頷《うなず》いた。
「メロウ一族が、この海に暮らすことを許してくださったのは伯爵です。伯爵が、人とわたしたちとの間を取り持ち、平和に暮らせるようにしてくださいました。けれど伯爵がいなくなり、年月が過ぎ、島の人々に混じるメロウの血は薄れ、隔《へだ》たりができてきました。わたしたちは宝剣を守るために、島の周囲の海を絶えず波立てるものの、海へ投げ出すのは盗賊《とうぞく》ばかりで、もともとは村人や島を訪れる人々にはけっして迷惑をかけないよう、お互い合図を送りあっていたのです。けれどもしだいに、その方法が忘れ去られ、わたしたちは島に近づく船が盗賊か漁師か商人か、見分けられなくなってしまいました」
「それでこの島は孤立しているのね」
「メロウの数も減っております。ここでの暮らしに失望し、故郷の海へ帰った者も少なくありません。でもわたしたちのほとんどは、伯爵との約束を破るわけにもいかなかったのです」
メロウは剣を、リディアの手に握らせた。
「けれどこれで、約束は果たされました。剣は人間界のもの。この島も、人の土地。わたしたちは去ります。人の土地を治める者は、妖精国から来た青騎士卿の子孫でなくても、事足りるでしょう。すべてはおまかせしたいと思います」
柄《つか》に埋《う》め込まれた大きなサファイアに、引き寄せられるようにリディアは見入った。
そして気づく。サファイアの中に六すじの光がない。
高貴な碧《あお》い石、サファイアの結晶に、夜空の星を閉じこめたかのようなスターサファイアは、石の中に放射状に、乳白色の光が輝くめずらしい宝石だ。なのにこの、シルクの光沢を持つサファイアには、星の輝きだけがない。これではスターサファイアではなく、ただのサファイアだ。
「……星がないわ」
「それは伯爵が持っておられるのです。伯爵家のしきたりでは、宝剣を置いていくときは必ず、サファイアの中の星だけを抜き取って、身体のどこかに刻みつけることになっています。それを受け継いだ後継者がいないなら、宝石に星を取り戻すことはできません」
メロウの星は星とひきかえに
そうだったのか。あれは本来、伯爵の後継者が受け継ぐはずの、サファイアの中の光のことだ。青騎士伯爵の宝剣は、人の魂ではなく、伯爵がこの宝石から取り去っていた『星』そのものを、再び石に戻すことで得られたはずなのだ。
けれど本物の伯爵が現れない。メロウは約束に縛られ続ける。だから解釈を変えるしかなかった。
メロウの国に星のごとく瞬《またた》くのは、死者の魂。それとひきかえに、メロウは約束を果たすことにしたのだ。
でも、だとしたら……。
リディアは何か貴重なことを思いついたような気がしながら、それが何かわからずに考え込む。
しかし戸口の方が急に騒がしくなって、考えを中断させられた。
「リディアさん、ハスクリーたちが来ます」
橋が落ちた部分に、酒蔵《さかぐら》からはずしてきたらしいはしごを渡したのだ。そうしてこちらに渡ってきたゴッサム兄弟が、戸口からなだれ込んでこようとしていた。
メロウはさっと姿を消す。
レイヴンが戸口に立ちはだかろうとした。エドガーがいないのに、どうしてだろうと思う。
大切な主人がメロウに連れ去られた。その原因であるリディアを恨《うら》まないのだろうか。
それよりも、エドガーが切れなかったリディアを、自分も守らなければならないとでも思っているかのようだった。
レイヴンを目の前に、ハスクリーたちは立ち止まった、しかし強気な言葉を吐く。
「おい、剣をよこせ。さもないとおまえの親父が……」
そのときニコが、急に姿を現した。
ハスクリーの頭のうえに、ひょいと飛び乗る。彼の帽子を、おもいきり踏みつける。
「ニコ、危ないわ!」
「チビども、遅いぞ! こっちだ、やっちまえ!」
甲高《かんだか》い歓声が、ハスクリーたちの背後から聞こえた。
小妖精《ブラウニー》たちだ。群《む》れになって、わっとこちらに押し寄せてくる。
リディアが地主の館で助けた顔ぶれもいる。
「みんなハゲにしてしまえ!」
毛先の焦《こ》げたしっぽを振り回しながら、ニコはあおる。
小妖精たちは駆け足で、またある者はネズミの背に乗り、ある者は蝙蝠《こうもり》にしがみついて、ハスクリーたちに襲いかかった。
足によじ登り、身体中に噛みつき、髪の毛を引っこ抜く。
たぶん、妖精の姿は見えていない。何が起こったのかわからないまま、ハスクリーたちは悲鳴をあげる。
「父さま、こっちよ!」
妖精によじ登られはしたものの、攻撃は免《まぬが》れていた父を、リディアは騒ぎの渦《うず》から遠ざけた。
「リディア、よかった……、無事だったんだな」
ひとしきり抱き合い、再会を喜び合えば、リディアの中に決意が芽生える。
大切な人を守りたい気持ちも、そのために迷う気持ちも、守りきれなくてつらい気持ちも、誰でも同じだ。
リディアは何も失わずにすんだ。けれどこのまま終わらせるわけにはいかないのだ。
父の腕から離れた彼女は、わけがわからないという様子で突っ立っているレイヴンに歩み寄った。
「ひとつだけ教えてほしいの。あなた、エドガーが持っていた銀の鍵《かぎ》に書かれていたことをおぼえてる?」
「少しなら」
「メロウは人の魂とひきかえに宝剣を渡すとは、はっきり書いてなかったでしょう?」
「ええ、それは。ただ最後の部分に、剣を得た者は、剣を試さねばならない。流された血をメロウは海へ連れ去るだろう≠ニ」
金貨にあった、メロウの星は星とひきかえ=Aそして銀板にあったその言葉が、青騎士|伯爵《はくしゃく》とメロウとの約束の、重要な部分には違いない。ふたつを結びつければ、メロウに人の魂をささげることで宝剣を得られると取れる。
けれど、星がサファイアの中の光を指すなら、剣で血を流すことはそれとは関係ない、別の意味になる。
それがリディアに引っかかったところだ。
「ここはまかせてもいい?」
不可解そうに、レイヴンは首を傾げた。
リディアはハスクリーたちの方を確認するが、妖精たちにぼろぼろにされつつあるようだった。
「彼らはもう、争う意欲も力もなさそうだけど、いちおう気をつけて、父と一緒に城から出て」
「リディアさん、あなたは?」
「何もできないかもしれない。でも、できるだけのことはやってみるわ」
それから、心配そうな父の方を見る。
「父さま、あたしはフェアリードクターだから」
「わかった。気をつけるんだぞ」
宝剣を握り直し、ついさっきまでメロウがいた、光る苔《こけ》の岩にリディアは近づいた。
「ニコ、お願い」
「まさかリディア、メロウと取り引きするつもりじゃ……」
そばへやって来たニコは眉間《みけん》にしわを寄せ、不満げにヒゲをゆらす。
「この水たまりからメロウの海につながってるんでしょ? 妖精なんだから、妖精の道は案内できるわよね」
「そりゃ……、しかしな、取り引きをしくじって、メロウの棲《す》みかでメロウを怒らせてみろ、海の底じゃあっという間におぼれ死ぬぜ」
「そんなことわかってるわよ」
「あの貴族のためか?」
「彼はあたしに、うそはつかなかったわ」
「あんなの一瞬の気まぐれだ。直前まで、あんたを殺《や》る気満々だったし、今ごろ殺っときゃよかったって後悔してるに違いない。後悔できる状態ならだがな」
「ニコ、案内してくれないならひとりで行くわよ」
「あーもう、わかったよ!」
ニコはリディアにしっぽを差し出す。
「しっかりつかまってろよ」
[#改ページ]
星は伯爵《はくしゃく》のあかし
浅いはずの水たまりに入れば、深い海の底へとリディアとニコは沈んでいった。
海とはいっても、そこはすでに妖精界だ。海底にある別世界の空間で、呼吸はできるし溺《おぼ》れることはない。冷たくもなく身体《からだ》も濡れない。
ただ水の中を歩くような、身体にまとわりつく圧力と浮力を感じるだけだ。
目の前を青い魚の群れが横切った。ニコに連れられて、リディアはほのかに明るい光の見える、前方へと進んでいく。
そこはメロウの町だった。
貝殻《かいがら》や海草で飾り立てられた家らしき建物が、丘状《きゅうじょう》に並び立つ。上方に瞬《またた》く明かりは、メロウが集めた船乗りたちの魂か。
「見ろ、人間だ」
「自由に歩き回ってるぞ」
「てことは、オレたちのものじゃないのか」
「それにあの、小さい生き物はなんだ」
「妖精のようだが」
「ちっ、見せ物じゃねーぞ」
ニコが不愉快《ふゆかい》そうにつぶやいた。
メロウたちがちらちらと、岩陰からこちらを覗いているのがわかる。女のメロウは、上半身は人間にそっくり、というよりむしろ、人間以上に美しく、下半身だけ魚のように鱗《うろこ》に包まれ尾ひれがあるのはよく知られたとおりだが、男のメロウは顔や腕も鱗で覆われ、頭や背中にひれがある。容貌は魚類に近い。
集まってくるメロウにじっと見られ続け、リディアは立ち止まった。
「ねえ、ついさっき、人間がここへ連れ去られてきたでしょう? 見かけなかった?」
「魂を抜き取る前なら、牧場にいるだろうよ」
ひとりが指さした方向へ向かう。
すぐに、緑の海草に覆われた丘が見えた。
魚の群れが輪を描くように、牧場の中を泳いでいる。それをぼんやりと眺めている金髪を、リディアはすぐに見つけた。
「エドガー! よかった、まだ魂を抜き取られてなかったのね」
駆け寄るリディアに、不思議そうな目を彼は向けた。
「きみが夢に現れるなんて。やっぱり僕のことを恨《うら》んでる?」
「夢じゃないわよ」
「いや、これは夢だろう。海の底で僕は、平然と魚が泳ぐのを眺めているんだよ。それに、つねってみても痛くない」
「まあそうね、あなたにとっては、夢を見ているのと同じような状態かもしれないわね。でもあたしは今、夢を見ているわけじゃないわ」
唐突《とうとつ》にエドガーは、リディアの頬をつねった。
「痛たたっ……、何すんのよ!」
「本当だ。どうなってるんだ?」
「もうっ、どうでもいいわよ! とにかく、あたしと一緒に来るのよ。いちおう、あなたを助けに来たんだから!」
リディアは、彼のそでをぐいと引いた。しかし彼は、突っ立ったままその場を動こうとしなかった。
「助ける? でも僕にはもう、助かっても何の希望もない。アーミンは死んでしまったし、レイヴンを救ってやるには力が足りなかった」
「レイヴンにはまだあなたが必要なはずよ」
「プリンスのもとへ連れ戻されれば、彼の精霊が僕に従うということも、せいぜい悪用されるだけだ」
「つかまらなきゃいいんでしょ」
「無理だと言っただろう? これまでだって、逃げ続けているつもりで泳がされていただけだった。それにきみのことも、ひどいだまし方をしたのに僕を助ける必要はないよ」
あたしをだましたこと、認めるのね。
リディアは落胆を感じながら、けれどそれならなおさら、簡単に死なせてなんかあげないと思う。
「このまま死んだら、あたしは許さないわよ。だってあなたは、あたしにしたことを悔やんで自分を切ったわけじゃない。……宝剣のサファイアに星がないのに気づいたからでしょう? スターサファイアでないなら、青騎士|伯爵《はくしゃく》のあかしにならない。自分のやって来たことは無駄《むだ》だったって悟《さと》ったから、望みを捨てただけなのよ」
エドガーは悲しげにリディアを見つめ、そしてため息のように笑った。
「その通りだ。なのに……」
「あたしを殺そうとしたこと、心から悔やんでもらうわ。傲慢《ごうまん》な気持ちで他人を犠牲《ぎせい》にすれば、自分にもはね返ってくるって思い知るのね。……だから、あなたがあのときあたしを切っていたら、けっして手に入らなかったものをあげる」
「…………」
「うまくいくとは限らないけれど。うまくいったらたっぷり反省するのね!」
再びそでを引けば、わけがわからずにか呆然《ぼうぜん》としたまま、それでも彼は歩き出した。
「おいおい、勝手に連れていっちゃ困る」
牧場の管理人らしいメロウが現れ、リディアを止める。
「勝手にじゃないわ。これからかけ合うんだから、伯爵の宝剣を管理していた責任者を教えてちょうだい」
宝剣を突き出してすごめば、管理人は肩をすくめ、丘のてっぺんにある家を指さした。
「人間はかわいそうだ。女がこんなにきついのばっかりなら、魂の明かりになった方がましだぜ」
メロウの同情するような視線を、エドガーが苦笑いでやり過ごすのを眺め、少々むかつきながら、リディアは牧場をあとにした。
「どうせあたしはきついわよ」
「きみのその、はっきりしたものの言い方が、僕はけっこう好きなんだけどね」
「おだてたって、助かるかどうかはわからないわよ」
「冗談じゃないぜ。リディア、今ならまだ引き返せるぞ」
ニコがリディアの肩に飛び乗り、ささやく。
聞き入れる様子がないとわかると、彼はエドガーに向かって言った。
「おいこの野郎、命が助かったって、助かったと思うなよ。てめーのその金髪、チビどもにむしり取らせてやらなきゃおれの気はおさまらねえ」
「ニコ、それは無理よ。ブラウニーには、エドガーも一緒に道しるべをつくってあげたんだもの。恩人にそんなことはできないわ」
「なにい? こいつも手伝ったっていうのか? くっそー! だったら何のためにこいつを助けに来たんだよ! おれが助けてやる理由なんかないじゃねーか!」
「悪かったよ、ニコ。しっぽの毛が生えてくるまで、隠せるくらいすその長い上着をプレゼントするよ」
夢の中だと思っているせいか、ニコと言葉が通じることも、エドガーはふつうに受けとめていた。
「……本当か?」
上着に魅力を感じたのか、ニコは態度をやわらげた。
「ああ、約束する。帰れたらだけどね」
丘の頂上の、ヒトデの門をくぐり抜ければ、レース状に連なったクラゲのカーテンに迎えられた。
その向こうから、メロウがひとり現れた。
青騎士伯爵の城で会った、あの少女だ。
リディアとエドガーを交互に眺め、困ったようにため息をついた。
「フェアリードクター、いったいどういうおつもりですか」
「責任者はあなたなの?」
「わたしの父です」
「会わせてほしいの」
「……こちらへどうぞ」
部屋の中へと案内される。
メロウの家には屋根がない。壁というほどのものも少なく、岩や海獣《かいじゅう》の骨でできた柱とアーチが並び、海草や貝殻のカーテンで仕切られているという様子だった。
とびきり美しい、真珠貝《しんじゅがい》で飾られた柱のある部屋に、彼女の父親だというメロウはいた。
「リディア、大丈夫なのか? 頑固そうなメロウだぞ」
ニコがささやく。
「さあ、どうかしら」
リディアは敬意を表してお辞儀《じぎ》をする。エドガーはただものめずらしそうに、ずんぐりした男のメロウを見おろしていたが、リディアにはそれはそれでかまわなかった。
「フェアリードクターのリディア・カールトンです」
「何用《なによう》か」
「メロウの星≠受け取りに来ました」
言って、宝剣のサファイアを示してみせる。
「それは伯爵が持っている。本物の伯爵が戻ってこない限り、サファイアに星は入れられないと聞いただろう」
「そこをなんとかしてほしいんです。このサファイアがメロウの星≠ニ言うからには、もともと星を入れたのはあなた方ではないのですか?」
「そうだ。国王と青騎士卿との絆《きずな》をあかすしるしとして、卿の従者だったわれらの先祖が、ふたりの目の前で入れた星だ。だからといって、また星を入れろと言うのか? それはできない。伯爵はいないのだ」
「彼が伯爵です。金と銀の鍵《かぎ》を手に入れ、謎を解いて宝剣の隠し場所までやってきました。あなた方は、かつて伯爵と交わした約束どおりの条件を満たす者を、新たな伯爵と認めるつもりだったはずです」
エドガーは驚いたようにリディアを見たが、口ははさまなかった。
「だが、最後の条件を満たしていない。宝剣によって血を流した」
問題はそこだった。
「青騎士伯爵が、あの場で宝剣を試すことを条件に盛り込んだのはなぜですか? あれは本来条件ではなく、あらゆる陰謀《いんぼう》の可能性から、伯爵の継承者《けいしょうしゃ》を守る手だてだったのではないですか?」
メロウが黙り込んだので、リディアは、慎重《しんちょう》に言葉を選びながら続けた。
「伯爵の血を引く者は、自分の血筋を知らないまま、誰かに利用されるかもしれない。また彼をだまし、宝石を手に入れるためについてきている者もいるかもしれない。けれどもこの剣は、魔法を帯びた剣。伯爵の後継者とその信頼できる部下たちを傷つけることはできない、違いますか?」
「……そのとおりだ、地上の娘よ。伯爵だという人物が宝剣を受け取りに来た、そのとき彼ら全員に、剣を試してもらう。宝剣によって血を流す者がいるならば、取り除くこともわれらの役目だった」
本物の伯爵なら、星とひきかえにするという意味を取り違えたりはしない。犠牲《ぎせい》に捧《ささ》げるべき人を連れてくるわけもなく、自分の身分を証明する宝剣のある場所へ連れてくるのは、信頼できる人物だけであるはずだ。
けれどもし、その場で血を流す者がいれば、邪《よこしま》な考えを持った人物が紛れ込んでいる証拠になる。本物の伯爵がその場にいるならなおさら、メロウは伯爵を守り、邪な人物を排除しなければならなかった。
「なら、血を流した人の魂とひきかえに宝剣を手放したあなたたちは、伯爵との約束をゆがめたことになります」
「約束は言葉どおりに実行した。違うというなら娘よ、そなたが手にしている宝剣を取り返し、あの場にいたすべての者を海に引きずり込まねばならぬ」
ああ、メロウと取り引きなんてやっぱり無謀《むぼう》だったかもしれない。このままじゃまずいわと、リディアは懸命に考える。
「それは……、あなたたちの本意ではないはずです。途絶《とだ》えたかもしれない伯爵の子孫を、永遠に待ち続けるのは、あなたがたにも島の人々にとっても不幸なこと」
リディアは、のどに引っかかるつばを飲み込んだ。どうにかこちらの意図を、納得させなければならない。
「ですから彼を、新たな伯爵に。そう認めてくださいませんか」
メロウは、いささか不愉快《ふゆかい》そうにエドガーを見た。
「宝剣泥棒を認めろと?」
「ええ、泥棒で人を虫けらのように扱う極悪人ですが、貴族の義務だけは心得ています」
「だけはって、あんまりだな」
エドガーにはかまわず、リディアは続けた。
「あなた方が人間の領主に求める役割はそれでしょう? この島にあなた方が住み続けることも含めて、彼がすべて引き受けます」
「ちょっと待ってくれ、リディア」
「できないとは言わないわよね。あなた貴族でしょう。領地に妖精がいるくらい何よ」
「まあそうだけど。メロウに認めてもらっただけでは領主にはなれない」
「だからサファイアに星さえあれば」
「そうまで星が必要だというなら、われらの立場も理解してもらいたい。フェアリードクターよ」
「もちろんそれは」
「われらが為《な》すべきことは、ただ青騎士伯爵との約束をまっとうすることだとわかっていただけるかな」
「……ええ」
「リディア、だめだ!」
ニコがいきなり叫んだ。
メロウがしかけた駆け引きの罠《わな》だ。リディアがそう気づいたときには遅かった。
いつのまにかひたひたと、水がリディアの足元に忍び寄っていた。
「よかろう。星はやる。ただしそなたとひきかえだ。フェアリードクターの魂は、ただの人間より価値がある」
メロウにとって重要なのは、伯爵との約束をたがえないこと。リディアはそこに付け入って、エドガーをむりやり伯爵《はくしゃく》として認めさせるつもりだったが、足元をすくわれた。
あくまでメロウは、宝石の星とひきかえにすべきものを、人の魂だとするつもりだ。
エドガーを伯爵にする利点はあっても、新たに星を与えるという約束はどこにもないからできないというのだ。
「待ってくれ」
そのとき、エドガーが、リディアの前に進み出た。
「きみたちが結んだ契約《けいやく》の、本当の意味は、伯爵の後継者《こうけいしゃ》が持つ星を受け取って、サファイアに刻むことなんだよね。なら、僕の星とひきかえてくれればいい」
何を言い出すのかと、リディアはあせる。
「あ……あなた星なんか持ってないじゃない」
「持ってるよ、ここに」
おどけたようにエドガーは舌を出し、クロスの焼き印を見せた。
星というには痛々しくて、リディアは正視できなかった。
「青騎士伯爵の星じゃないけれど、ようは約束を破れないというメンツの問題なんだろう。なら、形式さえ整っていればいいじゃないか。これなら解釈を変える必要もなく、きみたちは約束を言葉どおりに実行するだけだ」
「おもしろいことを言う」
「最初にリディアが言ったように、きみたちがこの島に暮らす権利を守る。むろん、きみたちが僕を認めてくれるならば」
毅然《きぜん》と言うエドガーは、かつてメロウと対峙《たいじ》しただろう青騎士|卿《きょう》を彷彿《ほうふつ》とさせた。
メロウが迷ったように見えたのは、ほんのわずかの間だった。
ぬかるみ、沈みつつあったリディアの足元から、さっと水が引く。
「四方星《テトラスター》か。まあよかろう、スターサファイアは六方星《ペンタスター》であるはずだが、メロウの星≠ェそうだと決まっているわけではないからな」
風、いや波のうねりが、リディアとエドガーを取り巻いた。
「新しい青騎士伯爵、メロウがあなたの民《たみ》となったことを、お忘れなさるな」
「波が来るぞ」
ニコが言って、リディアのスカートをつかむ。と同時に、リディアはエドガーに抱きよせられた。
「な、何するのよ!」
「危なそうだから」
「あたしは大丈夫よ」
「いや、僕が」
「は?」
「きみにつかまってた方が安全そうじゃない?」
「……つかまるって、抱きついてるじゃないの!」
「いちおう感激の気持ちも込めて。きみが身体《からだ》をはって助けてくれたことに」
「勘違いしないで、あたしは自分の仕事をしただけなんだから。……それに、ツメがあまかったわ」
しっかりとかかえ込まれる。彼の肩に頬《ほお》を押しつけているしかない状態で、けれどリディアは、急に緊張が解けて、泣きたい気持ちにさせられた。
もうだめかもしれないと思ったけれど。
「そういうところも、…………」
エドガーの言葉は最後まで聞き取れず、ふたりと一匹は激しい流れに飲み込まれた。
*
「お嬢さん、……お嬢さん、大丈夫ですか」
身体をゆすられ、リディアはうっすら目をあけた。
「ああよかった、気がついた」
知らない男の人がふたり、こちらを覗《のぞ》き込んでいる。民家らしい簡素な一室に、リディアは寝かされていた。
「あなた、海岸に倒れていたんですよ。私たちが見つけたんですがね、この家の方は、あなたには見覚えがない、島の住人ではないというし、もしかするとミス・カールトンでは?」
まだぼんやりとした頭で、リディアは頷いた。
「はい、……そうです。あなた方は……?」
「州警察です。ロンドン市警から、あなたが誘拐《ゆうかい》されこのマナーン島に監禁《かんきん》されている可能性があるという報告を受けまして、調べに来たわけですが」
「二日前にあなたの父上、カールトン氏から、届け出があったようです」
父は、ゴッサム兄弟とここへ向かう前に、どうやら警察に報《しら》せていたようだ。
リディアはあわてて身体を起こす。すぐそばでニコがにゃあと鳴いた。
エドガーは?
「ところで、あなたと一緒に浜辺に倒れていたあの男ですが」
警官が首を動かした方向、戸口が開け放されたままの隣室《りんしつ》に、リディアもつられるように首を動かせば、ベッドにエドガーが横たわっている姿が見えた。
警官は戸口に歩み寄り、不審《ふしん》げにエドガーを眺めた。
「あなたを誘拐したとされる、ゴッサム家強盗犯と特徴が似ているようですが」
「いえあの、それは……」
リディアが戸惑っていると、警官のうちひとりが、暖炉《だんろ》のそばに立てかけられた剣に気がついた。
抜き身のままの青騎士伯爵の長剣は、このありふれた民家にぽつんと置かれていれば、現実離れした洞窟《どうくつ》の中で見ていたよりも、うっとうしいほど仰々《ぎょうぎょう》しい宝剣だった。
「ずいぶん時代錯誤な剣ですな。この物騒《ぶっそう》なものを手に脅《おど》されていたとか……」
「さわるな」
エドガーが隣の部屋で、けだるそうにのそりと身体を起こした。
「それは僕の剣だ」
鋭い気迫におされたのか、警官はとりあえずそれをもとの場所へ戻す。しかし気を取り直したように問いかけた、
「お目覚めですか。失礼ですが、お名前をお聞かせ願えますかな」
「伯爵!」
そのとき、表の扉が勢いよく開いた。
駆け込んできたのは宿の亭主《ていしゅ》、もとい、伯爵家|執事《しつじ》のトムキンスだ。
執事はエドガーを目にとめると、急いで姿勢を正し、ふたりの警官に目礼し、きびきびとした動作で新しい主人に近づきひざまずいた。
[#挿絵(img/star sapphire_263.jpg)入る]
「お帰りなさいませ、|ご主人様《マイ・ロード》」
彼の家系の何人の執事が、そう口にする日を待ち望んできたのだろう。それほど彼は感慨《かんがい》深げに見えた。
「このような普段着で失礼します。この家の者が報せてくれたのですが、なにぶん突然のことで、伯爵が生きて[#「生きて」に傍点]戻られたと聞き、急ぎ駆けつけたしだいでございます」
「ああ、気にするな」
「ちょっと待ってください。……とすると、こちらは」
警官はまだ、不審げな顔で執事に尋ねた。
「マナーン島領主のアシェンバート伯爵でございます」
「本当ですか? この島に領主が住んでいるという話は聞いたことがありませんが」
「長いこと外国にいらっしゃいましたからね」
「トムキンス、水を一杯くれないか」
エドガーは、警官の疑問などどうでもよさそうに、さも当然の態度で執事を扱う。もっとも人を使うのは、彼にとって慣れきったことなのだろう。
「はい、お待ちください」
執事は嬉々《きき》として台所へ向かった。
「では伯爵、ミス・カールトンとはどういういきさつで、浜辺に倒れることになったのですか? 彼女は誘拐されたという報告が入ってきているのですが」
「あの、この人はあたしを助けてくれただけです!」
思わずそう言ったリディアは、どうして自分がこの悪党をかばうようなことになったのだろうと思わないでもなかった。
けれども結局、リディアは自分の意志でエドガーについていったのだ。彼が恐ろしい意図を隠しているとは気づかないままに。そして気づいてからも、逃げ出せなかった。
あまつさえメロウの町まで助けに行って、今さら警察に売るつもりになるはずもない。
「あたしをさらおうとしたのは、ゴッサム家の八人兄弟で、今は城の地下室でのびてると思います。彼らをつかまえてください」
「八人も地下室でのびている? 伯爵、勇敢《ゆうかん》に戦ったのはあなたですか?」
エドガーは首を横に振り、彼も答えを知りたそうにリディアの方を見た。
「ええと、……あたしの友人たちです」
「できればその方たちにも事情をうかがいたいのですが」
リディアは返事に戸惑う。妖精だなんて言えば、どうせ笑われるに決まっている。
そんなリディアの様子に、察したらしいエドガーが、代わりに言った。
「無理でしょう。妖精ですから」
そしてリディアに微笑《ほほえ》みかける。秘密を共有する仲間に対するように。
怪訝《けげん》な顔で、警官ふたりは顔を見合わせた。
戸口がまた、騒がしくなった。
駆け込んできたのは、今度はカールトンだ。レイヴンも一緒だった。
「父さま!」
リディアは父に駆け寄り、抱きついた。
お互いの無事を心からよろこび合いながら、エドガーとレイヴンがしっかり手を握り合うのを視界の隅で眺めていた。
たぶん彼らにとっては、手放しでよろこべる結末ではない。アーミンを失った悲しみは大きいだろう。
けれどリディアは、エドガーに殺されることはなかった。アーミンの死が、父のために必死だったリディアの気持ちをエドガーに教えたのかもしれない。
だからたぶん、エドガーがリディアを切らずに自分の血を流したのは、宝剣に星がないことを絶望しただけではないのだと思う。
すべてがうそではないのかもしれない。
自分を剣で傷つけながら、リディアにはうそがつけないと言ったことも。
できるなら人を傷つけたくないと思う気持ちも、エドガーの本音だったから、リディアと父を助けるという約束を、あのとき守ろうとしてくれたのだ。そう思いたい。
「おいリディア、外へ出てみろよ」
ニコの声に、ようやく父から離れる。
カールトンは、娘との再会の抱擁《ほうよう》が終わるのを待ちかまえていた警官に、さっそく質問責めにされる。ゴッサム兄弟をレイヴンと一緒に縛り上げ、城の門柱にくくりつけてきたと、父が話すのを聞きながら、リディアは建物から一歩外に出た。
目の前には海岸が広がっている。
この島へ来たときとはうって変わって、おだやかな波が浜辺に打ち寄せていた。
小妖精《ブラウニー》が丸太の船を漕《こ》ぎ出すのが見える。
これからは彼らも、昔のように陸と島を自由に行き来できるようになるだろう。
ブラウニーたちに礼を言ってくると、ニコが駆け出していくのを見送って、リディアは再び家の中へ戻る。
暖炉《だんろ》のそばに立てかけられた青騎士伯爵の宝剣を手に取れば、深く碧《あお》い海色の、サファイアの中心に輝く、十字の星がまぶしく見えた。
「不思議なものだね。やっぱり僕には、すべて夢だったかのように思えていたんだけど、この宝石は現実だ」
いつのまにか、エドガーがそばにいた。
そんなふうに距離をつめられると、ついさっき抱きしめられていたことを思い出し、妙に意識してしまう。エドガーにとってはあれも、夢の中のできごとのように感じるのだろうけれど、リディアにとっては完全に現実の記憶だ。
「それで、少しは反省したかしら?」
恥ずかしさを紛らすためとはいえ、かわいげのない口調だと自分でも思った。
「ああ。想定外のお人好しと一緒にいると、想定外のことばかり起こる。ちっともこっちの思い通りにならないし、どうにも調子は狂うし、死ぬ思いをするってことがよくわかった」
しかし、にやりと笑って答えるエドガーの方が、もっとかわいげのない返事だ。というより、ケンカを売っているのかと勘《かん》ぐりたくなる。
「ちょっと待ってよ、あたしがどうしようもないお人好しだって、バカにしてるの?」
「まさか。心から感謝しているよ。それと、ちょっとばかりうぬぼれたくなるな。きみは僕のことを、どうしても見捨てられないんだね」
艶《つや》っぽい目で覗《のぞ》き込まれ、リディアはますますたじろいだ。
「は……、勘違いしないでって言ったでしょ」
「でもね、自分を殺そうとしていた男を助けに来るかな、ふつう。これが勘違いじゃなくても、僕としては大歓迎だけどね」
「あ、あたしはね、あなたに反省させたかっただけ! なのに、助けてあげたのにその不遜《ふそん》な態度は何なの? だいたいね、想定外だとか、人が思い通りになるとか思うことじたい大間違いなの。その神経がどうかしてるってことよ」
「いちおう、きみを信用させるツボははずしてなかったと思うけど。本当のことを知らなかったら、とっくに惚《ほ》れてたでしょ?」
はなはだしいうぬぼれだと頭にきても、優雅な笑みに惑わされそうになる。こいつってば本当に、どうしようもない。
「あなたってやっぱり、傲慢《ごうまん》な悪党だわ。いいところもあるかもなんて大間違いね。いい、あたしあなたのこと許してないし、許す気もないから!」
さっとリディアは、彼のそばをすり抜ける。
「待って」
「今さら取り繕《つくろ》ったって……」
「剣は置いていってくれ。メロウとの約束が守れなくなるからね」
さすがにリディアはブチキレた。
宝剣を、乱暴に放り出す。
「これさえ手に入ればいいんでしょ。これで仕事は完了ですからね、二度と顔も見たくないわ。金輪際《こんりんざい》あたしにかかわらないでちょうだい! わかった?」
降参するように、エドガーは両手をあげる。そんなおどけたしぐさも、バカにされている気がして腹が立つ。
さよならっ、と息巻いて、リディアは彼に背を向けた。
警官と話し込んでいた父を引きずり、民家を出る。
「父さま、早く帰りましょ。いやなことばかりだったから、さっさと忘れたいわっ!」
「なかなか、ストレートに怒るよね、彼女は。いっそ気持ちがいいくらいだ」
わざとエドガーに聞こえるように言ったリディアの捨てぜりふを聞きながら、宝剣を拾い上げ、彼は楽しそうに目を細めた。
レイヴンが彼に歩み寄る。
「エドガーさま、なぜわざわざ、リディアさんを怒らせるようなことを言ったのですか」
「照れ隠しかな」
「はあ」
「そんなところもかわいいけどねって、抱きしめながら言ってしまったから」
「照れるほどのことでは。もっと恥ずかしいことを、日ごろから平気で口にしておられるように思いますが」
「わかってないね、レイヴン。口先だけのことなら平気で言えるんだよ」
「……でしたら、絶交されてしまっては意味がないのでは」
エドガーは、ふふ、と不敵に笑う。
しかしその笑みを静かにくもらせ、神妙《しんみょう》に目を伏せた。
「当分、自粛《じしゅく》するべきだろう?」
レイヴンの、無表情に黙り込んだだけにも見える瞳に、複雑な戸惑いと悲しみの色が宿る。
彼の肩に、そっと手を置く。
「花を摘《つ》みに行こう。彼女に手向《たむ》けるために」
* * *
「ちょっと、何よこれーっ!」
ロンドンのカールトン宅で、父とともに無事|復活祭《イースター》を迎えたリディアが、新聞を握りしめて大声をあげる事態に陥《おちい》ったのは、二週間後のことだった。
記事は、ほぼ三百年ぶりに帰国した伯爵《はくしゃく》家の子孫が、女王|陛下《へいか》に謁見《えっけん》し正式に認められたというものだったが、問題はそこではない。
妖精国にも領地を持つという、伝説的な伯爵家の末裔《まつえい》、彼が専属のフェアリードクターを雇っているという部分だ。
その名前が、『リディア・カールトン』
「冗談じゃないわ!」
リディアは父に訴えようと書斎へ走る。と、姿見の前でポーズを取っているニコに気づき立ち止まった。
しっぽも隠せる、仕立てのよい外套《がいとう》をまとった猫は、鏡を覗き込みながら満足げに胸のあたりの毛並みを整えている。
「ニコ、それ……」
「ああ、さっき届いたんだ。ちゃんとおぼえてたってのはたいしたもんだよ。悪党だがセンスはいいほうじゃねえか?」
いやな予感がする。
「リディア、おまえに手紙が来てるよ」
そこへ父がやって来た。
ニコの件に気を取られ、何げなく手紙を受け取ったリディアは、封印|蝋《ろう》の仰々《ぎょうぎょう》しい紋章《もんしょう》に気づき、さらなるいやな予感に眉根《まゆね》を寄せた。
おそるおそる封を切る。
『拝啓《はいけい》、ミス・リディア・カールトン
このたび当伯爵家は、貴女を顧問|妖精博士《フェアリードクター》として採用することとなりました。つきましては近日中に、当家タウンハウスまでお越しください。なお、貴女が伯爵家の顧問として、英国領妖精国の統治に関与することは、女王陛下も了承済みです。この申し出をすみやかにお受けになることが、貴女の名誉のためでもあるとお伝えしておきますので、熟慮《じゅくりょ》くださいますように。
イブラゼル伯爵 エドガー・J・C・アシェンバート』
すでに断れる段階ではないということだ。
リディアは、怒りに震《ふる》えながら両手のこぶしを握りしめた。
「……あの、大悪党ーっ!」
[#改ページ]
あとがき
こんにちは。
久しぶりに、新しい物語をお届けします。
というわけで、舞台はヴィクトリア朝あたり。
華やかな貴族社会を背景に……したかったのだけれどちょっと違うような気もするけれど、まあいいか、ということで、こんな話になりました。
華やかなのは約一名ですが、がんばっていますので、たぶん作者の最初の目論見《もくろみ》はどうにか達成できた……はず、です。
これまでの作品を読んでくださっている方、タイプは違いますがこちらのコンビも楽しんでいただけましたでしょうか。またはじめて私の本を手にとってくださった方、もしいらっしゃいましたら気に入っていただけるといいなと思っております。
しばらくのあいだ、中世に毛の生えたくらいの時代を書いてきていたので、今回はいろいろと新鮮でした。
なにしろもう、お茶を飲む習慣がある!
ハイティだかアフタヌーンティだか、何でもかかってきやがれ、と思いつつも、そういったシーンが入らなかったのは心残りですが、お茶があるのは大助かり。
コーヒーもココアもあるもんねー、とか言ってみたりして。
個人的に紅茶が好きなこともあるのですが、とにかく酒ばっかり……てのは現代の感覚では乙女や青少年のイメージじゃないよなあ。と悩まなくていいのがうれしいところでした。
さて、『伯爵と妖精』というタイトルどおり、ここでもうひとつ書きたかったのは「妖精」です。
現在、私たちが思い浮かべる妖精のイメージというと、蝶《ちょてつ》やトンボのような羽のついたかわいらしい子供たちといったものではないでしょうか。このようなイメージは、十九世紀頃からできあがってきたようです。
有名なところでは、もう少し後の時代になりますが、シシリー・メアリー・パーカーという画家の「花の妖精」の絵本など、目にしたことのある人もいるかと思います。
久々にこの絵本を引っぱり出して見てみたのですが、当時近所では売ってなくて、翻訳版《ほんやくばん》は品切れで、遠くの大型書店の、輸入絵本フェアまで買いに出かけたことを思い出しました。
インターネットという便利なものが、まだなかったのでしたよ……。
しかしまあ今のところ、この話に出てくる妖精は、かわいく無害というわけではありませんね。
ちなみにタイトルの「妖精」は、妖精そのものではなく、絵本のような妖精のイメージをヒロインに当てはめてみました。
ところで、妖精には人型のものはもちろん、動物型のものがけっこういます(というか、そのように言い伝えられているようです)。
ニコは猫型ですが、猫はただの猫でさえ妖精に近い存在だと思われているのだとか。
動物としても、つかみどころがなく謎めいているということでしょうか。
犬の妖精もいますが、こちらは現実の犬とは性質も外見も隔たりがあります。
牛のように巨大で目が光るとか、いかにも魔物っぽい特質をそなえていたりしますから、猫とくらべるとそのへんの違いがおもしろいです。
そのままでは妖精にならないってことなのでしょう。
話は変わりますが、私は最近、イギリス製のアクセサリーにはまってしまいました。
チャームという、小さな銀製の装飾品です。
ネックレスやブレスレットにいくつかつけて使います。
形は様々で、クローバーやハートといったものから、鳥籠《とりかご》や汽車、鍵《かぎ》、ノアの箱船、魔法のランプなどなど。どれもこれも、細工が凝《こ》っていてかわいいのです。
とても小さいのに、天使の持つベルがゆれるとか、動物の手足が動くなんて仕掛があったり、ふたを開くと中にはさらに小さなラッキーアイテムが入っていたりと、とにかく見てるだけでも楽しい。
おそらくメーカーも無数にありますので、デザインも際限《さいげん》なくあるのでしょう。
チャームというのは、お守りとか魔よけのことだそうで、それぞれの形に由来《ゆらい》や意味があるようですが、だいたいは幸運のお守りといったところでしょうか。
気に入ったチャームを組み合わせて、自分好みのアクセサリーにできるっていうのがうれしいので、いろいろと集めたくなってしまうのですね。
お守りとしてのチャームの起源は、かなり古そうなのですが、現在のような形でアクセサリーとして定着していったのが、ヴィクトリア朝ごろからなのだとか。
いっそアンティークがほしいなあと思ったものの、そうそう手に入らず。
でも幸運を呼ぶお守りだし、英国製だから執筆の気分も盛り上がるはず、なんて言いわけしながら買ってしまってます。
効果があったならいいのですが(笑)。
とまあ、そんなこんなでできあがりましたこの作品、楽しんでいただけましたでしょうか。
久々の新作なので、ちょっとドキドキしています。
そしてイラストの高星麻子さま、ありがとうございました。どのキャラもステキで、うれしくてドキドキしています。
願わくは読者のみなさまにも、ドキドキしながら読んでいただけますように。
さいごまでおつきあいありがとうございました。
それではまたいつか、こうしてお目にかかれることを祈りつつ。
[#地付き](ホームページ http://www03.upp.so-net.ne.jp/gokuraku)
二〇〇四年 一月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 あいつは優雅な大悪党」コバルト文庫、集英社
2004(平成16)年3月10日第1刷発行
2007(平成19)年2月20日第10刷発行
入力:でつぞう
校正:でつぞう
2008年3月8日作成