TITLE : 潤一郎犯罪小説集
潤一郎犯罪小説集 谷崎 潤一郎
目 次
日本に於けるクリップン事件
白昼鬼語
或る罪の動機
私
途上
前科者
黒白 潤一郎犯罪小説集
谷崎潤一郎著
日本に於けるクリップン事件
クラフト・エビングに依って「マゾヒスト」と名づけられた一種の変態性慾者は、云う迄もなく異性に虐待されることに快感を覚える人人である。従ってそう云う男は、――仮りにそれが男であるとして、――女に殺されることを望もうとも、女を殺すことはなさそうに思える。しかしながら一見奇異ではあるけれども、マゾヒストにして彼の細君又は情婦を殺した実例がないことはない。たとえば英国に於いて一千九百十年の二月一日に、マゾヒストの夫ホーレー・ハーヴィー・クリップンは、彼が渇仰の的であったところの、女優で彼の細君なるコーラを殺した。コーラは舞台名をベル・エルモーアと呼ばれ、総《す》べてのマゾヒストが理想とする、浮気で、我が儘で、非常なる贅沢屋で、常に多数の崇拝者を左右に近づけ、女王の如く夫を頤使《いし》し、彼に奴隷的奉仕を強いる女であった。その犯罪が行われた正確な時刻は今日もなお明かでないが、前記一千九百十年の二月一日午前一時以後、コーラは所在不明になり、誰も彼女を見た者がない。夫クリップンは人に聞かれると、妻は転地先で病死した旨を答えていた。が、五箇月を経てからスコットランド・ヤードの嗅ぎつける所となり、刑事が彼に説明を求めると、彼は極めて淡白に、「死んだと云ったのは〓なんです。実は一月三十一日の晩に夫婦喧嘩をしましてね、それをキッカケに妻は怒って家出をしちまったんですが、多分亜米利加《ア メ リ カ》へ行ったんだろうと思うんです。亜米利加は妻の生国で、いい男があったらしいから、きっとその男の所へ行ったんでしょう。アレが死んだと云い触らしたのは、そうでも云って置かないでは世間体が悪いものですからね」と、直ちに澱みなく陳述した。そうして刑事をヒルドロップ・クレセント三十九番地の自宅へ案内し、家じゅうを隈なく捜索するに任せた。此れで事件は曖昧の裡に葬られ、彼の嫌疑は一応晴れたにも拘わらず、クリップンは何に慌てたか、翌日急に何処かへ姿を晦ましてしまった。それが七月十二日で、同十五日に刑事が再び彼の留守宅を捜索したところ、石炭を貯蔵してある地下室の床の煉瓦の下から、首と手足のない一個の人間の胴であろうと思われる肉塊を発見した。コーラが見えなくなってから、実に五箇月半の後であった。
私は茲にホーレー・ハーヴィー・クリップン事件を舒述するのが目的でない。だから成るべく簡単にして置くが、彼に就いて特筆すべきは、此のクリップンこそ、無線電信の利用に依って逮捕せられた最初の犯罪者であった。彼は一旦アントワープに逃げ、七月二十日亜米利加へ向って同港を出帆する汽船モントロス号へ、ミスタア・ジョン・ロビンソンなる仮名の下に乗船した。然るに此のロビンソン氏には彼の息子と称する一人の美少年の同行者があって、それがどうも、男装をした女らしいと云うところから、遂に船長ケンダル氏の疑いを招き、ケンダル氏より無線電信を以てその筋へ紹介するに至った。斯くして同月三十一日、リヴァプールより跡を追いかけた警官のために、船中に於いて彼と男装をした女とは捕縛せられた。ではその女は何者であるかと云うに、エセル・ル・ネーヴと云う者で、クリップンが可愛がっていたタイピストであった。即ち彼はだんだん細君に飽きが来ていて、此のタイピストを情婦に持っていたのである。
私は読者諸君に向って、此の事に注意を促したい。と云うのは、マゾヒストは女性に虐待されることを喜ぶけれども、その喜びは何処までも肉体的、官能的のものであって、毫末も精神的の要素を含まない。人或いは云わん、ではマゾヒストは単に心で軽蔑され、飜弄されただけでは快感を覚えないの乎。手を以て打たれ、足を以て蹴られなければ嬉しくないの乎と。それは勿論そうとは限らない。しかしながら、心で軽蔑されると云っても、実のところはそう云う関係を仮りに拵え、恰もそれを事実である如く空想して喜ぶのであって、云い換えれば一種の芝居、狂言に過ぎない。何人と雖《いえども》、真に尊敬に値する女、心から彼を軽蔑する程の高貴な女なら、全然彼を相手にする筈がないことを知っているだろう。つまりマゾヒストは、実際に女の奴隷になるのでなく、そう見えるのを喜ぶのである。見える以上に、ほんとうに奴隷にされたらば、彼等は迷惑するのである。故に彼等は利己主義者であって、たまたま狂言に深入りをし過ぎ、誤まって死ぬことはあろうけれども、自ら進んで、殉教者の如く女の前に身命を投げ出すことは絶対にない。彼等の享楽する快感は、間接又は直接に官能を刺戟する結果で、精神的の何物でもない。彼等は彼等の妻や情婦を、女神の如く崇拝し、暴君の如く仰ぎ見ているようであって、その真相は彼等の特殊なる性慾に愉悦を与うる一つの人形、一つの器具としているのである。人形であり器具であるからして、飽きの来ることも当然であり、より良き人形、より良き器具に出遇った場合には、その方を使いたくなるでもあろう。芝居や狂言はいつも同じ所作を演じたのでは面白くない。絶えず新奇な筋を仕組み、俳優を変え、目先を変えてやって見たい気にもなるであろう。マゾヒストが一とたびそう云う願望に燃え、何とかして古き相手役、古き人形を遠ざける必要に迫られた時には、マゾヒストであるがために、却って恐ろしい犯罪に引き込まれがちであり、そうして又、普通の人より一層容易にそれを為し遂げ得ることは、読者にも想像が出来るであろう。なぜなら彼は彼の病的な本能の故に、たとい内心では相手を嫌うようになっても、嫌忌の情を男らしく、堂堂と表白することを欲しない。欲しないのみならず、彼の性質としては先天的にそれが出来ない。もう此の女はイヤだと思いながら、女が依然として暴威を振って、彼を叱ったり殴ったりすると、矢張りその刹那は、その快感に負かされて誘惑される。彼の弱点を握っている女は、全く油断をし、心を許し、いよいよ傲慢な態度を続ける。男はセッパ詰まる所まで誘惑に引き擦られて行き、そのためになお胸中に憎悪を貯え、だんだんあがきがつかなくなって、結局何か陰険な方法で、相手の女を除き去るより外に手段がなくなってしまう。(散散人形をいじくり廻して、使えるだけ使ってから、それをごみ溜めへ捨てるのである。)相手は油断しているのだから、乗ずる隙は幾らでもある。そのことは訳なく実行される。そうして世間は、彼の如く女に柔順であった男に、何等の疑いをも挟まない。現にクリップンがそうであった。あのように細君の我が儘を大人しく堪えた紳士が、恐ろしい罪を犯す筈はないと云う風に、一時は思われたのであった。
クリップンは最後まで自白しなかったので、彼がいかなる時と場合に、いかなる手段でコーラを殺したかは、遂に今日に至るまで知られていないが、ただ英国の法廷は、コーラが見えなくなったこと、地下室の床下から一箇の肉塊が現われたこと、クリップンが突然情婦を男装させて逃亡を企てたこと、彼が知り合いの薬種商から、性慾昂進剤として徐徐に多量の劇薬を買い求めつつあったこと、及び肉塊の内臓にそれと同じ劇薬が含有されていたことなどから、コーラを毒殺したものとして彼に死刑の判決を与えた。しかしながら当時の科学の程度では、地下室の肉塊がコーラの死屍の一部分であることを学問的に立証することは至難であった。その肉塊はそれほど損傷し、腐爛していた。そうして胴体から切り離された首と手足とが、いつ家から運び出され、何処へ遺棄されたかに就いては、多分犯罪の露顕する前、復活祭の休暇を利用して彼が情婦のエセル・ル・ネーヴとディエップへ旅行した時に、船の甲板から英吉利《イギリス》海峡へ投じたものであろうと云う推測以外に、確たる事は分らないでしまった。
クリップン事件のあらましはざっと上述の如くである。そこで私は、読者諸君に今一つ此れと似た事件、――日本に於けるクリップン事件とでも云うべきものを、以下に紹介しようと思う。その事件とは外でもなく、二三年前に京阪地方の新聞紙を騒がしたところの、兵庫県武庫郡○○村字××に於ける、会社員小栗由次郎なる者の私宅に起ったあの出来事を指すのである。私がそれを再び取り上げて読者の興味に訴える所以は、当時新聞にはいろいろの記事が現われたけれども、孰《いず》れもあの事件を正当に観察していなかった。徒らに誇張した形容詞を並べ、その血なまぐさい光景や、「兇暴を極め、残虐を極め」た「奸佞《かんねい》なる」犯罪を書き立てたのみで、あの事件が第二のクリップン事件であり、マゾヒストの殺人であると云う点に、特別な注意と理解とを向けた新聞紙はなかったように、考えられるからである。それに事件が関西でのことであるから東京の新聞は軽く取り扱っていたので、知らない人も多いに違いない。私はそれを探偵小説的に書くのが目的ではなく、記録に基いて事実を集め、既に知られた材料を私一流の見方に依って整理して見る、つまり与えられた事柄の中心を置き換えて見る、そうして出来るだけ簡結に、要約的に諸君の前へ列《なら》べて見ようと云うのである。
それは大正十三年の三月二十日午前二時頃のことであった。阪急電車芦屋川の停車場から五六丁東北にあるBと云う農家の主人は、隣家の小栗由次郎方と覚しき方角から、番犬の唸るらしい響きと、人の叫ぶような声とを聞いた。あの辺の地理を知らない人のために記して置くが、大阪と神戸とを連絡する電車に二線あって、一線は海岸に沿うて走り、他の一線は六甲山脈の麓を縫うて、高台の方を走っている。阪急電車とは後者を云うので、その沿線はつい最近にこそ急激な発展をしたものの、当時は今の半分も人家がなかった。殊に線路から上の方、――山手の方は、その時分は至って淋しい場所であって、昔から村に居住している百姓以外には、去年の地震で関東を落ち延びた罹災民をあてこみの借家が、やっと二軒建っているのみであった。此の二軒のうち一軒はまだ借り手がなく、他の一軒に、約二箇月程以前から小栗由次郎が住んでいた。前記のB家はそこから四五間東寄りにあって、小栗の住宅に最も近かったのである。が、B家の主人はその夜そう云う物音を聞いても、余り怪しみはしなかった。彼は小栗が大きな番犬を飼っていることを知っていたし、近頃毎夜今時分にその犬が「ウー」と牛のように唸るのを、しばしば聞いたことがあった。人の叫び声に就いても、それが小栗の家からなら不思議はなかった。なぜかと云うのに、小栗の家では時時奥さんがヒステリーを起こして、亭主を打ったり蹴ったりして大乱痴気をやると云うので、その噂はもう、越して来てからまたたくうちに村じゅうに知れていたからであった。
いったいそう云う昔ながらの田舎の土地へ赤い瓦の文化住宅が建てられて、都会人らしい若い夫婦が移って来れば、それでなくても村民の注意を惹くのは必然であるが、殊に此の夫婦は、彼等の噂の種になるのに甚だ恰好な材料であった。村民たちの見たところでは、夫婦は一匹の犬を飼っている以外には、女中も置かず、二人きりで住んでいた。亭主は大阪の船場にあるBC棉花株式会社の社員だそうで、三十五六の男であった。細君と云うのは、実際の歳は二十四五かも知れないけれど、ようよう二十前後にしか見えない若さで、此の女が真っ先に村民の眼を驚かした。彼女は毎日午後になると、留守宅に鍵をかけて、太い鎖で犬を曳きながら、散歩に出かける。その時の服装が異様であって、此の近所には珍しい断髪の頭に、派手なメリンス友禅の、それも色の褪めかかった、ひどく古ぼけた振袖を着て、紫のコール天の足袋を穿いた風つきはなかなかの美人であるだけに、どう考えても癲狂院のしろものであった。そして彼女は、犬を連れて一と廻りすると、一旦家へ帰って来て、それから大概、午後二時時分に、今度は恐ろしくハイカラな、キビキビとした洋服を着、鞭のような細いステッキを振りながら、電車で何処かへ出かけて行った。あの奥さんは亭主の留守に家を空けて、毎日何処へ行くのだろうと、久しく問題にされたものだが、間もなく彼女は、大阪の千日前や神戸の新開地へ出演する歌劇女優であることが分った。つまり夫婦は共稼ぎをしているのであった。細君は夜が遅くなるものだから、朝のうちは床の中で眠っているらしく、亭主はいつも、会社へ出勤する時刻、――午前七時頃に、表や裏口へ鍵をかけて出るのが見られた。亭主の帰りは、午後六時頃に会社から真っ直ぐ戻る場合もあり、細君の出ている小屋へ廻って、十一時前後に、仲好く腕を組みながら帰宅する場合もあった。従って、昼間はめったに顔を会わせる暇のない夫婦であるから、家へ帰ると、夜が更けるまで話し合っているのに不思議はないのだが、どう云う訳か三日にあげず喧嘩が始まって、夜半の一時二時頃になると、夫婦の激しい掴み合いや格闘の響きが、平和な村の眠りを破った。そればかりでなく、その喧嘩の内幕に就いても、奇妙なことが発見された。と云うのは、最初村の人たちは、亭主がやきもち焼きなので、細君をいじめているのであろうと想像していたのに、だんだん様子を探って見ると、怒鳴りつけたり殴ったりするのは細君の方で、亭主はあべこべにひいひい泣きながら、赦しを乞うているのであった。さてこそ「あの女はヒステリーだ、何ぼ女優でも変だと思ったが、やっぱり幾らか気がおかしいんだ」と云うような噂が、ぱっとひろまってしまったのである。
そう云う訳だから、その晩前記のB家の主人は、その犬の声や物音を聞いても、別に気にかける筈はなく、「又やっているな」と思っただけで、直ぐに寝入ってしまったのだが、それから三時間ばかり過ぎた明け方の五時近く、主人が再び眼を覚ますと、隣家の物音は微かながらもまだ続いていた。しかし今度は、犬の吼えるのは聞えないで、多分亭主が例のひいひい悲鳴を挙げているのであろう、「堪忍してくれェ!」とか、「御免よう!」とか云うらしい声が、途切れ途切れに、さも哀れッぽく、力なく響いた。主人はその時、今迄喧嘩が明け方迄も続いたことは一度もないので、此れは少し変だと思った。そうしてなおよく聞いて見ると、どうもいつもの喧嘩ではないような気がした。喧嘩なら細君の罵る声や、ぴしゃりぴしゃりと亭主の横ッ面を張り倒すような音がするのに、それがちっとも聞えて来ない。ただしーんとした静かさの中に、亭主の悲鳴ばかりが聞える。その悲鳴がまた、じっと耳を澄ましていると、「堪忍してくれェ!」と云うのではなく、「助けてくれェ!」と云うようである。……
B家の主人が、後に証人として出廷した時に述べたところは右の如くで、彼は此れ以上此の事件には関係がない。彼は第一に小栗由次郎の叫び声を聞いたが、それがハッキリしなかったので、現場へ駆けつけることを躊躇していた。するとたまたま、小栗の家の前を通りかかった第二の男が、此れは明瞭に「助けてくれェ!」と云う声を聞いた。以下は主として第二の男の証言に基く事実である。――
その男は、小栗の家から更に五六丁東北の方の小山から切り出す石を、車に積んで魚崎の海岸へ運ぶ馬方であった。彼はその朝の五時少し過ぎに同家の前へさしかかった時、「助けてくれェ」と云う声が二階の窓から聞えたので、思わず立ち止まってその方を見上げた。窓には何の異状もなく、更紗の窓かけが垂れ下っており、締まりのしてあるガラス障子には、朝日が赤くキラキラと反射していた。にも拘わらず、助けを呼ぶ声は頻りに繰り返されるので、直ちに家の中へ踏み込もうとしたけれど、表口にも裏口にも厳重に鍵が懸っていた。拠んどころなく、彼は台所のガラス障子を破って這入り、階段を駈け上って、声のする部屋と思われる方へ走って行った。と、その部屋の襖が一枚外れて、三尺ばかり開いていたので、覗き込もうとすると、中からいきなり狼のような巨大な犬が「ウー」と唸って飛び着いて来たので、馬方は「あっ」と云ったまま、仰天して後ろへ退った。とたんに彼は、誰か室内に居る男が、「エス! エス! エス!」と、一生懸命に声を張り上げて、犬を制するのを聞いた。犬はそれきり大人しくなって、敵対行動を止めはしたものの、猶且警戒するように、馬方の体に附き纏いながらヒクヒク臭を嗅いでいた。
次ぎの瞬間に室内を見廻した馬方は、寝台の上に、一人の男が赤裸にされ、鎖を以て両手と両足を縛られているのを認めた。彼は体じゅうを滅多矢鱈に打たれたものらしく、ところどころにみみず腫れが出来、血が流れていた。疑いもなく助けを求めたのは此の男で、そうして又、たった今犬を叱ったのも此の男に違いなかった。が、それよりもなお悲惨なのは、寝台の脚下に仰向けになって倒れている、一人の若い断髪の女の屍骸であった。女は派手な刺繍のあるパジャマを着て、――馬方の言葉に従えば「支那服を着て、」――右の手に革の鞭を持ったまま、むごたらしく頸部を抉られ、傷口から流れる血の海の中に死んでいた。馬方の混乱した頭には、咄嗟の場合、此の物凄い光景がぼんやりと瞳に映ったのみで、此れらの事が何を意味するか、とんと解釈がつかなかったが、間もなく彼は、さっきのエスという犬が同じように血を浴びて、その唇から生生しい赤いすじを滴らしているのを発見した。「犬が女を喰い殺したのだ、」――彼にはやっとそれだけが分った。何となれば、エスはその時馬方に対する警戒を解いて、再び屍骸を嬲《なぶ》り始めた。その屍骸には、――始めて彼は気が付いたのだが、――頸ばかりでなく、到る所に喰いちぎったような傷痕があった。
程なく警官と警察医の臨検となり、縛られていた男、即ち小栗由次郎と、証人の馬方とは、一応警察署へ引致されたが、そこで図らずも、小栗の説明で此の不可解なる惨劇の内容がすっかり分った。小栗の云うには、死んだ女は芸名を尾形巴里子《はりこ》と云う歌劇女優で、自分の内縁の妻である。そしてその晩も、彼はいつものように巴里子に折檻されていた。巴里子は彼を素裸にさせてから、寝台の上へ臥《ね》ることを命じ、然る後にその手と足とを犬の鎖で緊縛した上、革の鞭をしごいて体じゅうをぴしぴしと殴った。彼は苦痛に堪えられないでひいひいと悲鳴を挙げつつあった。ところが一方、此の十日程前に、わざわざ上海から取り寄せたジャアマン・ウォルフドッグ(独逸《ドイツ》種狼犬)があったが、体量十三四貫もある猛犬であるから、階下の一室へ繋いで置いたのに、それが悲鳴を聞くや否や、主人の危急の場合と見て、突然綱を引きちぎって扉を蹴破り、二階の部屋へ駈け込んで来て巴里子に躍りかかったかと思うと、一撃の下に彼女の喉笛を喰い切ってしまった。
巴里子が何故に彼を折檻したかに就いては、小栗は自分が浅ましい変態性慾者、――マゾヒストであることを隠さなかった。巴里子は決してヒステリーの女ではなく、寧ろ小栗を喜ばすために暴威を振っていたのであった。尚又、何の必要があってそんな猛犬を飼ったかと云うのに、自分(小栗)は元来犬好きの方ではなかったけれども、巴里子の感化で、今では夫婦とも犬気違いになっていた。犬に対する巴里子の嗜好はなかなか専門的であって、犬と云うものは、婦人が戸外を散歩する時の欠く可からざる装飾である。犬を連れて歩かない婦人は、美人の資格がないのである。その目的に添うためには、小さな繊弱な犬よりも、大きな頑健な犬の方がいい。成るべく慓悍《ひようかん》な、獰猛な犬であればある程、それに護衛されながら行く婦人の容姿が、一と際引き立って魅惑的な印象を与える。と、そう云うのが巴里子の持論であった。そして彼女は、小栗と同棲するようになってから、早速土佐犬と狼との混血犬を買い込んだが、それがディステンパーで斃《たお》れたので、今度はグレート・デンを買った。ところがそのグレート・デンは、毛の色合や体つきが彼女の皮膚や服装と調和しないことに気が付き最近に至ってそれを神戸の犬屋へ売って、代りに独逸の狼犬を取り寄せることにしたのであった。村の人たちが、彼女が連れて歩いているのを、屡《しばしば》見たと云う犬は、即ちグレート・デンのことで、巴里子は狼犬の方が到着する前に、歌劇の一座に加わって半月ばかり九州へ巡業に出かけ、帰って来たのが事件のあった前日の午後であった。そうして実に此の一事こそ、犬好きの彼女が犬に喰い殺されると云う惨禍を齎《もたら》した原因であった。巴里子も小栗もたびたび猛犬を手がけていた結果、犬を恐れる観念が乏しく、油断していた。それでも小栗は、今度の犬は取り分け性質が荒荒しいことを知っていたから、彼女の留守中にそれを自宅へ引き取って以来、毎日毎夜馴らす練習を続けていた。特に彼女の帰宅する日は、万一の事を慮って、階下の一室へ押し込めにしたくらいであった。が、それが却って悪かったのか、犬は事件の突発するまで彼女に親しむ機会がなく、主人を虐げる悪魔であると視たのであった。
警官は念のために小栗の家の間取りを調べた。それは前にも云う如く文化住宅式の借家で、中は二階が日本座敷、階下が西洋間になっていた。当夜惨劇の起った部屋は、八畳敷の畳の上に鉄製の寝台(ダブルベッド)が据えてあり、そこが夫婦の寝室――と云うよりも、巴里子が夜な夜な彼女の哀れなる奴隷の上に、有らゆる拷問と体刑を科する仕置き場であった。犬は階下の西洋間の方に、鎖を以て繋がれていたので、その鎖の一端は、窓の格子に絡ませてあった。しかしながら、狼犬が狂い立った場合に、その鎖を絶ち格子を捩じ曲げることは困難でないと断定された。況んやその部屋には鍵をかける設備がなかった。そして扉のハンドルも十分廻してあったかどうか疑わしく、ここらが小栗の油断であった。要するに其処を飛び出した犬は、二階へ上って、訳なく日本間の襖を外した。
馬方の外にB家の主人、歌劇団の俳優、神戸の犬屋、その他村の人たちが証人として調べられたが、彼等の陳述は小栗の言葉と一致していた。小栗はせめて、自分の手を以て最愛の女の仇を報じたいと云う希望を述べた。彼の願いは同情を以て聴き届けられ、彼は警官のピストルを借りて、その場で犬を射殺してしまった。事件は斯くの如くにして落着を告げ、その日の夕刊には、「犬に喰い殺された女」、「歌劇女優犬に殺さる」「亭主は変態性慾者」等の数段に亙った記事が現われて、此の驚くべき夫婦の秘密が明るみへ曝し出されたけれども、それもほんの五六日世間の視聴を集めただけで、次第に忘れられたのであった。
ところで読者諸君のうちには、その後約五箇月を経た同年八月中旬頃の二三の新聞に、「人形を入れた不思議な行李」と云うような記事が隅ッこの方に小さく出ていたのを、読まれた方があるであろう。その行李は相州鎌倉扇ヶ谷某氏所有地の雑草の中に遺棄されていて、発見されたのは八月十五日の朝であった。届け出でに依って警官が中を改めると、一箇の等身の人形が出て来た。それは針線や木の心の上に紙や布を巻きつけた、しろうとが作った拙《つたな》い人形で、案山子《か か し》に近いものであったが、顔だけは念入りに出来ており、断髪の鬘を冠っていた。警官はその顔だちと、断髪の頭と、着せられてある派手なパジャマの模様とで、女の人形であることを知った。そうして最初は、多分横須賀の水兵か何かが、船中の慰みに使ったのだろうと見当をつけた。なぜかと云うのに、その人形にはなまめかしい香水と白粉の匂いが沁み込ませてあり、行李の蓋を開けたとたんにそれがぷーんと警官の鼻を打ったのであった。けれども一つおかしいことは、人形の頸部に、何等かの凶器で深く傷痕を抉ったらしい傷痕があった。而も一度でなく、抉っては又その穴を直し直しして、幾度もそれを繰り返したものに違いなかった。警官がそこを更に綿密に調べるに及んで、ほんの刺身の一と切れぐらいな、乾燥した肉の塊が傷痕に附着していた。試験の結果、それは牛肉であることが分った。
私は読者に、此れ以上説明する必要はあるまい。
ただ何故に小栗由次郎は、その行李を自宅の床下に長く隠して置かなかったか、それをわざわざ運び出して、遺棄したのはなぜであるか、と云うに、彼にはその行李の中の物が人形でなく、巴里子の死体であるかの如き恐怖を与えた。その人形が家にある限り、彼は安眠が出来なかった。第一に彼が考えたのは、それを床下へ置き去りにしたまま、他へ移転する策であった。しかし此れには非常な危険が予想せられた。第二に彼は、それを密かに解体して、部分部分を、徐徐に、少しずつ、粉粉に砕いてしまうか、或いは捨ててしまおうと思った。実際彼はそうしようとして、或る時床下からその荷物を取り出し、行李の蓋を開けたのであったが、彼にはとても、その人形の顔を正視し、それに手を触れる勇気がなかった。彼は何よりもそこから発する香水の匂いを怖れた。それはコティーのパリスであって、死んだ女の体臭と云ってもいいくらい、彼女に特有な匂いであった。その人形を粉粉にするには、もう一度彼女を殺す胆力を要した。而も今度は自分の手を以て、直接にその事をしなければならない。――彼は慌てて行李の蓋を締めてしまった。
犯罪が発覚した当時、彼は大阪のカフェエ・ナポリの踊り児と同棲していた。即ち日本のクリップンにもエセル・ル・ネーヴがあったのである。
白昼鬼語
精神病の遺伝があると自ら称して居る園村が、いかに気紛れな、いかに常軌を逸した、そうしていかに我が儘な人間であるかと云う事は、私も前から知り抜いて居るし、十分に覚悟して附き合って居るのであった。けれどもあの朝、あの電話が園村から懸って来た時は、私は全く驚かずには居られなかった。てっきり園村は発狂したに相違ない。一年中で、精神病の患者が最も多く発生すると云う今の季節――此の鬱陶しい、六月の青葉の蒸し蒸しした陽気が、きっと彼の脳髄に異状を起こさせたのに相違ない。さもなければあんな電話をかける筈がないと、私は思った。いや思ったどころではない、私は固くそう信じてしまったのである。
電話のかかったのは、何でも朝の十時ごろであったろう。
「ああ君は高橋君だね。」
と、園村は私の声を聞くと同時に飛び付くような調子で云った。彼が異常に興奮して居る事はもうそれで分ったのである。
「済まないが今から急いで僕の所へ来てくれ給え。今日君に是非とも見せたいものがあるのだから。」
「折角だが今日は行かれないよ。実は或る雑誌社から小説の原稿を頼まれて居て、それを今日の午後二時までに、どうしても書いてしまわなければならないんだ。僕は昨夜《ゆうべ》から徹夜してるんだ。」
こう私が答えたのは〓ではなかった。私は昨夜から其の時まで、一睡もせずペンを握り詰めて居たのであった。なんぼ園村が閑人のお坊ちゃんであるにもせよ、此方の都合も考えずに見せる物があるからやって来いなどと云うのは、あんまり暢気で勝手過ぎると、私は少し腹を立てたくらいだった。
「そうか、そんなら今直ぐでなくてもいいから、午後二時までに其れを書き上げたら、大急ぎで来てくれ給え。僕は三時まで待って居るから。……」
私はますます癪に触って、
「いや今日は駄目だよ君、今も云う通り昨夜徹夜をして疲れて居るから、書き上げたら風呂へ這入って一と睡りしようと思ってるんだ。何を見せるのだか知らないが、明日だっていいじゃないか。」
「ところが今日でなければ見られないものなんだ。君が駄目なら僕独りで見に行くより仕方がないが。……」
こう云いかけて、急に園村は声を低くして、囁くが如くに云った。
「……実はね、此れは非常に秘密なんだから、誰にも話してくれては困るがね、今夜の夜半の一時ごろに、東京の或る町で或る犯罪が、……人殺しが演ぜられるのだ。それで今から支度をして、君と一緒に其れを見に行こうと思うんだけれど、どうだろう君、一緒に行ってくれないか知らん?」
「何だって? 何が演ぜられるんだって?」
私は自分の耳を疑いながら、もう一遍念を押さずには居られなかった。
「人殺し、……Murder殺人が行われるのさ。」
「どうして君は其れを知って居るんだ。一体誰が誰を殺すのだ。」
私はウッカリ大きな声で斯う云ってしまってから、びっくりして自分の周囲を見廻した。が幸に家族の者には聞えなかったようであった。
「君、君、電話口でそんな大きな声を出しては困るよ。……誰が誰を殺すのだかは、僕にも分って居ない。精しい事は電話で話す訳には行かないが、僕は或る理由に依って、今夜或る所で或る人間が或る人間の命を断とうとして居る事だけを、嗅ぎつけたのだ。勿論その犯罪は、僕に何等の関係もあるのではないから、僕は其れを予防する責任も、摘発する義務もない。ただ出来るならば犯罪の当事者に内証で、こっそりと其の光景を見物したいと思うのだ。君が一緒に行ってくれれば僕もいくらか心強いし、君にしたって小説を書くよりは面白いじゃないか。」
こう云った園村の口調は、奇妙に落ち着いた、静なものであった。
けれども、彼が落ち着いて居れば居るほど、私はいよいよ彼の精神状態を疑い出した。私は彼の説明を聞いて居る途中から、激しい動悸と戦慄とが体中に伝わるのを覚えた。
「そんな馬鹿げた事を真面目くさってしゃべるなんて、君は気が違ったんじゃないか。」
こう反問する勇気もない程、私は心から彼の発狂に憂慮し、恐怖し、而も甚だしく狼狽した。
金と暇とのあるに任せて、常に廃頽した生活を送って居た園村は、此の頃は普通の道楽にも飽きてしまって、活動写真と探偵小説とを溺愛し、日がな一日、不思議な空想にばかり耽って居たようであるから、その空想がだんだん募って来た結果、遂に発狂したのであろう。そう考えると私はほんとうに身の気が弥立《よだ》った。私より外には友達らしい友達もなく、両親も妻子もなく数万の資産を擁して孤独な月日を過ごして居る彼が、実際発狂したのだとすれば、私を措いて彼の面倒を見てやる者はないのである。私は兎に角、彼の感情を焦ら立たせないようにして、仕事が済み次第早速見舞いに行ってやらなければならなかった。
「成る程、そう云う訳なら僕も一緒に見に行くから、是非待って居てくれ給え。二時に書き上げて、三時までには君の所へ行ける積りだが、事に依ると三十分か一時間ぐらいおくれるかも知れない。しかし僕の行く迄は、必ず待って居てくれ給えよ。」
私は何よりも、彼が独りで家を飛び出すのを心配した。
「いいかね、それじゃおそくも四時までにはきっと行くから、出ないで待って居てくれ給え。いいかね、きっとだぜ。」
こう繰り返して、彼の答えを確めてから、漸く電話を切ったのであった。
が、私は正直に白状する。――それから午後の二時になるまで、机に向って書きかけの原稿の上に思想を凝しては見たものの、私の頭はもう滅茶滅茶に惑乱されて、注意が全然別の方面へ外《そ》れてしまって居た。私はただ責め塞ぎの為に、夢中でペンを走らせて、自分でも訳の分らぬ物を好い加減に書き続けたに過ぎなかった。
狂人の見舞いに行く、それは園村の唯一の友人たる私の義務だとは云いながら、実際あまりいい気持ちのものではなかった。第一、私にしたって彼を見舞いに行く資格があるほど、それほど精神の健全な人間ではない。私も彼の親友たるに背かず、毎年此の頃の新緑の時候になると、可なり手ひどい神経衰弱に罹るのが例である。そうして今年も、既に幾分か罹って居るらしい徴候さえ見えて居る。此の上狂人の見舞いになんぞ出かけて行ったら、いつ何時、病気が此方へ乗り移ってミイラ取りがミイラにならぬとも限らない。或いは又、園村が今夜行われると信じて居る殺人事件が、たとえ事実であったにしても、――そんな馬鹿げた事がある筈はないが、――私は到底彼と一緒に其れを見に行く好奇心も勇気もない。殺人の光景などを目撃したら、園村よりも私が先に発狂してしまいそうだ。私は全く、友人としての徳義を重んじて、いやいやながら園村の病状を見舞いに行くだけの事であった。
原稿がすっかり出来上った時は、ちょうど二時が十分過ぎて居た。いつもならば、徹夜の後の疲労のお蔭でぐったりとなって、少くとも夕方まで熟睡を貪るのであるが、四時と云う約束の時間が迫って居るし、それに興奮させられたせいか私は睡くも何ともなかった。で、一杯の葡萄酒に元気をつけて、今年になって始めての紺羅紗の夏服を纏うて、白山上の停留場から三田行きの電車に乗った。園村の家は芝公園の山内にあったのである。
すると、電車に揺られながら、私は或る恐ろしい、不思議な考えに到達した。園村が先刻《さつき》、電話口で話した事は、ひょっとすると満更の〓ではないかも知れない。今夜のうちに市内の某所で或る殺人が行われると云うこと、其れは少くとも園村に取っては、明かに予想し得る出来事であるかも知れない。そうして、その予想の的中を見る為には、是非とも私を同伴して犯罪の場所へ誘って行く事が必要であるのかも分らない。――つまり園村は、私を、この私を、今夜のうちに某所に於いて彼自身の手で殺そうとして居るのではあるまいか。「お前に殺人の光景を見せてやる。」こう云って私を誘い出して、彼自身の手で、私の生命の上にその光景を演じて見せようとするのではなかろうか。――此の考えは突飛ではあるが、滑稽ではあるが、決して何等の根拠もない臆測だと云うことは出来なかった。勿論私は、其のような残酷な悪戯の犠牲に供せられる覚えはない。私は彼に恨みを買ったことも誤解されたこともないのであるから、常識を以て判断すれば、彼が私を殺す道理は毛頭ない。けれども若し彼が発狂して居るとしたら、誰が私の臆測を突飛であると云えるだろうか。荒唐無稽な探偵小説や犯罪小説を耽読して気違いになった人間が、その親友を不意に殺したくなったとしたら、誰が其れを不自然だと云えるだろうか。不自然どころか、其れは最も有り得べき事実ではないか。
私はもう少しで、電車を降りてしまおうとした。私の額には冷たい汗がべっとりと喰っ着いて心臓の血は一時全く働きを止めたらしかった。そうして次ぎの瞬間には、更に別箇の、第二の恐怖が、海嘯《つなみ》のように私の胸を襲って来た。
「こんな下らない空想に悩まされるようでは、事に依ると己ももう、気が違って居るのではなかろうか。さっき電話で話をしたばかりで、園村の気違いが忽ち移ってしまったのではなかろうか。」
此の心配の方が、以前の臆測よりも余計に事実らしいだけ、私には遥かに恐ろしかった。私は何とかして、自分を狂人であると思いたくない為に、以前の空想を強いて脳裏から打ち消そうと努めた。
「己は何だって、そんな愚にも付かない事を気に懸けて居るんだ。園村は先たしかに、自分は今夜行われる犯罪に関係がない、下手人が誰であるか、犠牲者が誰であるかも全く知らないと云ったじゃないか、彼はただ、或る理由に依って、殺人が演ぜられるのを嗅ぎつけたのだと云ったじゃないか。そうして見れば、彼は決して己を殺そうとして居るのではない。やっぱり発狂した為に、或る幻想を事実と信じて、己と一緒に其れを見に行く気になって居るのだ。そう解釈するのが正当だのに、なぜ己はあんなおかしな推定をしたのであろう。ほんとうに馬鹿げ切って居る。」
私は斯う腹の中で呟いて、自分の神経質を嘲笑った。
それでも私は、御成門で電車を降りて、園村の住宅の前へ来た時まで、彼に会おうと云う決心はまだハッキリと着いて居なかった。私は彼の家の傍を素通りして、増上寺の三門と大門との間を、二三度往ったり来たりして散散躊躇した挙げ句、どうにでもなれと云うような捨て鉢な料簡で、園村の家の方へ引っ返したのであった。
私が、立派な西洋間の、贅沢な装飾を施した彼の書斎の扉を開けると、彼は不安らしく室内を歩き廻りながら、焦れったそうに暖炉棚の置時計を眺めて居るところであった。うまい工合に、時刻はきっちり四時になって居る。洋服のよく似合う、すっきりとした体格を持って居る彼は、品のいい黒の上衣に渋い立縞のずぼんを穿いて、白繻子へ緑の糸の繍《ぬ》いをしたネクタイにアレキサンドリア石のピンを刺して、もうすっかり、外出の身支度を整えて居た。宝石の大好きな彼は、か細く戦いて居るようなきゃしゃな指にも、真珠やアクアマリンの指輪をぎらぎらと光らせて、胸間の金鎖の先には昆虫の眼玉のような土耳其《ト ル コ》石《いし》を揺がせて居た。
「今ちょうど四時だ、よく来てくれたね。」
こう云って、私の方を振り向いた彼の顔の中で、私は何よりも瞳の色を注意して観察した。が、その瞳は例に依って病的な輝きを帯びては居るものの、別段従来と異った激しさや、狂暴さを示しては居なかった。私はやや安心して、片隅の安楽椅子に腰を下しつつ、
「一体君、さっきの話はあれはほんとうかね。」
こう云って、わざと落ち着いて煙草をくゆらした。
「ほんとうだ。僕はたしかな証拠を握ったのだ。」
彼は依然として室内を漫歩しながら、確信するものの如くに云った。
「まあ君、そうせかせかと部屋の中を歩いて居ないで、腰をかけてゆっくり僕に話して聞かせ給え。犯罪が行われるのは今夜の夜半だと云ったじゃないか。今からそんなに急がなくってもいいだろう。」
私は先ず彼の意に逆らわないようにして、だんだんと彼の神経を取り鎮めてやろうと思ったのである。
「しかし証拠は握ったけれど、僕は其の場所をハッキリと突き止めて居ないのだ。だからあんまり暗くならないうちに、一応場所を見定めて置く必要があるのだ。別に危険な事はなかろうけれど、済まないが君も今から一緒に行ってくれ給え。」
「よろしい、私も其の積りで来たのだから、一緒に行くのは差し支えないが、場所を突き止めるのにもあてがなくっちゃ大変じゃないか。」
「いや、あてはあるのだ。私の推定する所では、犯罪の場所はどうしても向島でなければならないのだ。」
こう云う間も、彼は其の証拠とやらを握ったのが嬉しくって耐らないらしく、平生陰鬱な、機嫌の悪い男にも似ず、いよいよ忙しく歩き廻って、元気よく応答するのであった。
「向島だと云うことが、どうして君に分ったんだね。」
「その理由は後で精しく話すから、兎に角直ぐに出てくれ給え。人殺しが見られるなんて、こんな機会は、又とないんだから、外してしまうと仕様がない。」
「場所が分って居さえすれば、そんなに慌てないでも大丈夫だよ。タクシーで行けば向島まで三十分あれば十分だし、それに此の頃は日が長いから、暗くなるには未だ二三時間も間がある。だからまあ、出かける前に僕に説明してくれ給え。話を聞かしてくれなくっちゃ、一緒に連れて行って貰っても、君ばかりが面白くって、僕は一向面白くも何ともないからね。」
私の此の論理は、正気を失って居る彼の頭にも、尤もらしく響いたものか、園村は鼻の先で二三度うんうんと頷いて、
「じゃ簡単に話をするが……」
と云いながら、相変らず時計を気にして渋渋と私の前の椅子に腰を落した。それから彼は上衣の裏側のポッケットを捜って、一枚の皺くちゃになった西洋紙の紙片を取り出すと、それを大理石のティー・テエブルの上にひろげて、
「証拠と云うのは此の紙切れなのだ。僕は一昨日の晩、妙な所で此れを手に入れたのだが、此処に書いてある文字に就いて、君も定めし何か知ら思い中《あた》る事があるだろう。」
と、謎をかけるような調子で云って、一種異様な、底気味の悪い薄笑いを浮かべながら、上眼使いにじっと私の顔を視詰めた。
紙の面《おもて》には数学の公式のような符号と数字との交ったものが鉛筆で書き記されてあった。
――6 *; 48*634; 1; 48835; 4 12 ? 45……こんな物が二三行の長さに渡って羅列してあるばかりで私には無論何事も思い中る筈はなく、どう云う意味やら分りもしなかった。私は其の時まで園村の精神状態に就いて半信半疑の体であったが、斯う云う紙切れを何処からか拾って来て、犯罪の証拠だなどと思い詰めて居る様子を見ると、気の毒ながら彼が発狂して居ることはもう一点の疑念を挟む余地もなかった。
「さあ、一体此れは何だろうか知ら? 僕は別段思い中る事もないが、君には此の符号の意味が読めるのかね。」
私は真蒼な顔をして、声を顫わせて云った。
「君は文学者の癖に案外無学だなあ。」
彼は突然、身を反らしてからからと笑った。そうしてさもさも得意らしい、博学を誇るらしい口吻《くちぶり》で言葉を続けた。
「……君は、ポオの書いた短篇小説の中の有名な"The Gold-Bug"と云う物語を読んだことがないのかね。あれを読んだことがある人なら、此処に記してある符号の意味に気が付かない筈はないんだが。……」
私は生憎ポオの小説を僅かに二三篇しか読んで居なかった。ゼ・ゴオルド・バッグと云う面白い物語のある事は聞いて居たけれど、それがどんな筋であるかも知らないのであった。
「君があの小説を知らないとすると、此の符号の意味が分らないのも無理はないのだ。あの物語の中にはざっとこんな事が書いてある。――昔、Kiddと云う海賊があって、アメリカの南カロライナ州の或る地点に、掠奪した金銀宝石を埋蔵して、その地点を指示する為に、暗号文字の記録を止めて置く、ところが後になって、サリワンの島に住んで居るウィリアム・ルグランと云う男が、偶然その記録を手に入れて、暗号文字の読み方を考え出した結果、首尾よく地点を探りあてて埋没した宝を発掘する。――大体斯う云う筋なのだが、その小説中で一番興味の深い所はルグランが暗号文字の解き方を案出する径路であって、それが非常に精しく説明してあるのだ。そこで、僕が一昨日手に入れたと云う此の紙切れには、明かにあの海賊の暗号文字が使ってある。僕は、或る所に捨ててあった此の紙切れを見ると同時に、何等かの陰謀か犯罪かが裏面に潜んで居る事を、想像せずには居られなかったので、わざわざ拾って持って来たような訳なのだ。」
その物語を読んで居ない私には、彼の説明がどの点まで正気であるやら分らないので、残念ながら、一応彼の博覧強記に降参しなければならなかった。
「ふふん、大分面白くなって来たぞ。そうして君は、此の紙切れを何処で拾ったんだね。」
私は母親が子供の話に耳を傾けるような態度で、こう云って唆かした。その癖腹の中では、学問のある奴が気違いになって、無学な人間を脅かすほど始末に困るものはない。今にどんなとんちんかんを云い出すか、見て居てやれと思ったりした。
「此れを拾った順序と云うのは、こうなんだ。――ちょうど一昨日の晩の七時ごろ、例に依ってたった独りで、僕が浅草の公園倶楽部の特等席に座を占めて、活動写真を見て居たと思い給え。君も知って居るだろうが、彼処《あすこ》の特等席は、前の二側《かわ》か三側ばかりが男女同伴席で、後の方が男子の席になって居る。たしかあの日は土曜日の晩で、僕が這入った時分には二階も下も非常な大入だった。僕は漸く、男子席の一番前方の列の真ん中あたりに一つの空席《あきせき》があるのを見附けて、其処へ割り込んで行ったのだった。つまり、僕が腰かけて居た場所は、男子席と同伴席との境目にあって、僕の前列には多勢の男女が並んで居た訳なのだ。僕は最初、それ等の客を別段気にも止めなかったが、暫く立つうちに、ふと或る不思議な出来事が、自分の鼻先で行われて居るのを発見して、活動写真を其方《そつち》除《の》けに、その出来事の方へ注意深い視線を向けた。僕の前にはいつの間にか三人の男女が席を取って居た。何分にも場内が立錐の余地もなく混み合って居たし、特等席の客の中にも立ちながら見物して居る者が、ぎっしり人垣を作って居たくらいだから、僕の周囲は暗い上にも更に暗くなって居た……。」
「……それ故僕には、その三人の風采や顔つきなどは分らなかったが、彼等の一人が束髪に結った婦人で、あとの二人が男子であると云う事だけは、後姿に依って判断された。それから又その婦人の髪の毛が房房として、暑苦しいほど多量であるところから、彼女が可なり年の若い女である事も推定された。二人の男子のうちの、一人は髪の毛をてかてかと分け、一人はキチンとした角刈りの頭を持って居た。三人の並んで居る順序は、一番右の端が束髪の女、真ん中が髪を分けた男、左の端が角刈りの男だった。こう云う順序に並んだところから想像すると、右の端の女は真ん中の男の細君か、或いは情婦か、少くとも彼と密接の関係のある婦人であって、左の端に居る角刈りは真ん中の男の友人か、何かであるらしかった。――君にしたって、僕の此の想像を間違って居るとは思わないだろう。こう云う場合に、もし其の女が二人の男に対して、同等の関係を持って居れば、彼女は必ず二人の真ん中へ挟まるだろうし、そうでなかったら、特に関係の深い方の男が、もう一人の男と女との間へ挟まるに極まって居る。……ねえ、君、君だってそう思うだろう。」
「はは、成る程そうには違いないが、えらく其の女の関係を気に病んだものだね。」
私は彼が、分り切った事を名探偵のような口吻で、得得と説明して居るのがおかしくてならなかった。
「いや、その関係が、此の話では極めて重大なのだ。僕が先云った、不思議な出来事と云うのはその女と左の端に居る角刈りの男とが、真ん中の男に知られないようにして、椅子の背中で手を握り合ったり、奇妙な合図をし合ったりして居るのだ。初め女が男の手の甲へ、何か指の先で文字を書くと、今度は男が女の手へ返辞らしいものを書き記す。二人は長い間頻りにそれを繰り返して居るのだ。……」
「はは、そうすると其奴等は、もう一人の男に内証で、密会の約束でもして居たと見える。だがそんな事は、世間によくある出来事で、不思議と云う程でもないじゃないか。」
「……僕はどうかして其の文字を読みたいと思って、じっと彼等の指の働きを視詰めて居た。……」
園村は私の冷やかし文句などは耳に這入らないが如く猶も熱心に自分独りでしゃべって行った。
「……彼等の指は、疑いもなく、極めて簡単な字画の文字を書いていた。僕は容易に、彼等が片仮名を使って談話を交換して居る事を、発見してしまったのだ。それに大変都合のいいことには、真ん中の男が、恰も僕の直ぐ前の椅子に腰かけて居て、その左右に彼等二人が居たものだから、出来事は全く僕の真正面で行われて居たんだ。で、僕が片仮名だと気が付いた途端に、女は又もや男の手の上へそろそろと指を動かし始めた。僕の瞳は、貪るようにして彼女の指の跡を辿って行った。その時僕が読み得た文句は、クスリハイケヌ、ヒモガイイと云う十一字の言葉だった。而も其の文字が男にはなかなか通じなかったと見えて、女は二度も三度も丁寧に書き直して執拗《しつこ》く念を押した。男はようよう其の意味が分ると、やがて女の手の上へイツガイイカと書いた。二三ニチウチニと女が返辞をしたためた。……その時真ん中の男が、偶然に少し体を反らしたので、二人は慌てて手を引込めて、何喰わぬ顔で活動写真に見惚れて居るようだった。彼等の秘密通信は、残念ながらそれでおしまいになったのだが、しかし、クスリハイケヌ、ヒモガイイと云う十一字の文句は、果して何を暗示して居るだろう。イツガイイカとか、二三ニチウチニとか云う文句だけなら、密会の約束をして居るのだと推定する事も出来るけれど、クスリだのヒモだのが密会の役に立つ筈はない、女は明かに、男に向って恐しい犯罪の相談をして居るのだ。『毒薬よりも紐を使って、……』と彼女は男に指図して居るのだ。」
園村の説明は、もし彼の精神状態を知らない者が聞いたならば、どうしても真実としか思われないような秩序整然とした、理路《りみち》の通った話し方であった。私にしてもうっかりして居れば、「おや、ほんとうかな。」と、釣り込まれそうになるのであった。けれどもよく考えて見ると、たとえ暗闇だとは云え、多勢の人間の居る中で、片仮名で人殺しの相談をするなんて、そんな馬鹿な真似をする奴が、ある訳のものではない。やっぱり園村が一種の幻覚に囚われて、何か別の意味を書いて居たのを、自分の都合のいいように読み違えたのだろう。私は一言の下に彼の妄想を打破してやろうかと思ったが、彼の気違いがどの程度まで発展するか、その様子を飽く迄観察してやろうと云う興味もあって、わざと大人しく口を噤んで居た。
「……そうだとすると、僕は恐ろしいよりも寧ろ面白くなって、何とかしてもう少し彼等の密談を知りたかった。何時の幾日に何処で彼等の犯罪が行われるのか、それが分りさえすれば、密かに見物してやりたいと云う好奇心が、むらむらと起って来た。すると、暫く立って、好い塩梅に二人の手は再び椅子の背中の方へ、次第次第に伸びて行った。が、今度は女の手の中に小さな紙が丸めてあって、其れが男の手へそうッと渡されると、二人は又もとの通りに手を引込めてしまった。その光景をまざまざと見て居た僕が、どれほど紙切れの内容に憧れたかは、君にも恐らく想像が出来るだろう。――男は紙切れを受け取ると、大方其れを読む為なんだろう、間もなく便所へ行くような風をして、席を立って行ったが、五分ばかりすると戻って来て、その紙切れをくちゃくちゃに口で噛んで、鼻紙を捨てるように極めて無造作に、椅子の後へ、即ち僕の足下へ投げ捨てたのだ。僕はそれをこっそりと靴の底で踏みつけた。」
「だがその男も随分大胆な奴だねえ。便所へ行ったくらいなら、便所の中へ捨てて来れば宜かったろうに。」
と、私は冷やかし半分に云った。
「その点は僕も少し変だと思うんだけれど、多分便所へ捨てるのを忘れてしまって、急に思い出して其処へ捨てたのじゃないか知らん? それに此の通り暗号で書いてあるのだから、何処へ捨てたって大丈夫だと云う積りだったのだろう。まさか此の暗号の読める奴が、つい眼の前に控えて居ようとは考えられないからね。」
こう云って彼はにこにこ笑った。
ちょうど時計が五時を打ったが、好い塩梅に彼は気が付かないらしく、全然話に没頭して居る様子であった。
「……写真が終って場内が明かるくなったら、僕は三人の風采をつくづく見てやろうと思って居たんだが、彼等は其れ迄待ってはくれなかった。角刈りの男が紙切れを捨てると、女はわざと溜め息をして、詰まらないからもう出ようじゃありませんかと、真ん中の男を促して居るようだった。女の声はいかにも甘ったるく、我が儘な、だだを捏ねて居るような口振りだった。彼女がそう云うと、角刈りが一緒になって、そうだな、あんまり面白くない写真だな、君、出ようじゃないかと、相応じたらしかった。二人は急き立てられながら、真ん中の男も不承不承に座を離れて三人はとうとう出て行ってしまった。前後の様子から察すると、二人は初めから活動写真を見る気ではなく、ただ暗闇と雑沓とを利用して、秘密の通信を交す為に、其処へ這入って来たに過ぎないのだ。しかし彼等が居なくなったお蔭で、僕は易易と此の紙切れを拾うことが出来た。」
「で、その紙切れに書いてある暗号文字はどう云う意味になるのだか、それを聞かせて貰おうじゃないか。」
「ポオの物語を読めば造作もなく分るんだが、此処に記してあるいろいろの数字だの符号だのは、みんな英語のアルファベットの文字の代用をして居るんだ。たとえば数字の5はaを代表し、2はbを代表し3はgを代表して居る。それから符号の†はdを表わし*はnを表わし、;はtを表わし、?はuを表わして居る。そこで此の暗号の連続をABCに書き改めて、適当なパンクチュエーションを施して見ると、一種奇妙な、斯う云う英文が出来上る。――
in the night of the Death of Buddha, at the time of the Death of Diana, there is a scale in the north of Neptune, where it must be commited by our hands,
いいかね、斯う云う文章になるのだ。尤も此の中にあるWと云う字は、ポオの小説の記録には載って居ないんだから、彼等はWの代りにVの暗号を使って居る。それから此の中のLやRやNの花文字は君に分りいいように僕が勝手に書き直したので、別に特殊な花文字の符号がある訳ではない。ところで此れを日本文に飜訳すると先ず斯うなるね。――
仏陀の死する夜、
ディアナの死する時、
ネプチューンの北に一片の鱗あり、
彼処に於いて其れは我れ我れの手に依って行われざるべからず。
ね、こうなるだろう。一見すると何の事やら分らないが、よく考えると、だんだん意味がはっきりして来る。『仏陀の死する夜』と云うのは、六曜の仏滅にあたる日の晩と云う事なんだろう。今月の内に仏滅にあたる日は四五日あるが、一昨日の晩に女が二三ニチウチニと書いたところから察すると、ここで仏滅の日と云うのは、正しく今日の事に違いない。次ぎに『ディアナの死する時』と云う文句がある。此れは恐らく、ディアナは月の女神だから、月が没する時刻を指して居るのだろう。それで、今夜の月の入りは何時かと云うと、夜半の午前一時三十六分なのだ。ちょうど其の時刻に、彼等の犯罪が行われるのだ。それから面倒なのは其の次ぎの文句、『ネプチューンの北に一片の鱗あり。』と云う言葉だ。此れは明かに場所を指定してあるのだが、此の謎が解けなかったら、とても殺人の光景を見物する訳には行かない。……
ネプチューンと云う名詞が、全く僕等の想像も及ばない、彼等の間にのみ用いられて居る特有な陰語だとすれば、甚だ心細い訳だが、前のディアナだの、仏陀などから考えると、必ずしもそんなむずかしいものではなさそうに思われる。ネプチューンと云うのは海の神、若しくは海王星を意味して居る。だからきっと、海或いは水に縁のある場所に違いないと僕は思った。その時ふいと僕の念頭に浮かんだのは向島の水神だった。君も御承知の通り、あの辺は非常に淋しい区域だから、そう云う犯罪を遂行するには屈竟の場所柄でなければならない。『ネプチューンの北に一片の鱗あり』――して見ると、水神の祠か、でなければ八百松の建物の北の方に鱗形の△こう云う目印を附けた家だか地点だかがあるのだろう。『水神の北』と云う、極めて漠然たる指定だけしかない以上、その目印は案外たやすく発見される場所にあるように考えられる。『彼処に於いて其れは我れ我れの手に依って行われざるべからず。』――此の場合の『其れは』と云う代名詞が殺人の犯罪を指して居ることは敢て説明するまでもないだろう。『行われざるべからず』――must be commitedの、commitと云う字の意味から考えても、犯罪事件であることは分りきっている。『我れ我れの手に依って』と云うのは、その女と角刈りの男との両人が力を協《あわ》せてと云うことなんだ。クスリハイケヌ、ヒモガイイと云う言葉と対照すれば、いよいよ此の謎は明瞭になって来る。もはや一点の疑念を挟む余地もないのだ。ここに犯罪の犠牲者となるべき人間の事が、書いてないのは惜しいような気がするけれど、あの晩の出来事から推定すると、大方三人の真ん中に居た髪をてかてか分けた男が、附け狙われて居るのだろう。尤も其の犠牲者が誰であろうと、別段僕等の問題にはならない。僕等はただ此の暗号の謎を解いて、場所と時刻とを突き止めて、彼等の仕事を物蔭から見物する事が出来さえすれば沢山なのだ。そこで、今から僕等の取るべき行動は、向島の水神の附近へ行って、鱗の目印を探しあてる事にあるのだ。――さあ、もう此れだけ説明したら、事件がいかに破天荒な、興味の深いものであるか分っただろう。そうして目下の場合、僕等に取っていかに時間が大切であるかと云う事も、君は考えてくれなくてはいけない。僕は先から此の事件を君に報告する為に、一時間半も貴重の時を浪費してしまった。……」
成る程、そう云われて見ると、既に時計は五時半になって居たが、六月の上旬の長い日脚は、まだ容易に傾きそうなけはいもなく、洋館の窓の外は昼間のように明るかった。
「浪費した事は浪費したが、お蔭で大変面白い話を聞いた。君はそれにしても、一昨日から今日までの間に、鱗の目印を探して置けばよかったじゃないか。」
こう云いながら、私は此の場合、彼に対してどう云う処置を取ったものかと途方にくれた。私はそろそろ、一旦忘れて居た昨夜からの徹夜に疲れを感じ始めたので、成ろう事なら彼のお供を断りたかった。此れからわざわざ向島まで出かけて行って、めあてのない探偵事業の助手を勤めるなぞは、考えて見ても馬鹿馬鹿しかった。そうかと云って、彼を独りで手放すのは、猶更安心がならないのであった。
「そりゃ、君に云われる迄もなく、僕は昨日の朝から一日かかって、水神の附近を隈なく捜索したんだが、鱗の目印は何処にもないんだ。そうして見ると、多分其の目印は犯罪の行われる当日にならなければ、施されないものなのだ。彼女はきっと、今朝になってから何処か彼の附近へ目印を附けたに違いない。尤も僕は昨日のうちに、大概この辺ではあるまいかと思われるような場所を二つ三つ物色して置いたから、今日は其れ程骨を折らずに見附かるだろうと予期して居る。しかし何にしても暗くなっては不便だから、直ぐに出かけるに越した事はない。さあ立ち給え、早くしよう。そうして用心の為めに、君も此れを持って行き給え。」
こう云って、彼はデスクの抽き出しから一挺のピストルを取って、其れを私の手に渡した。
彼が此れ程熱心に、此れ程夢中になって居るものを、止めたところでどうせ断念する筈はない。要するに彼の妄想を打破する為には、やっぱり彼と一緒に向島へ行って、今日になっても鱗の目印などは何処にもない事を説明してやるのが一番適切である。そうしたら如何に園村が気が変になって居ても、自分の予想の幻覚に過ぎなかった事を悟るだろう。私はそう気が付いて、すなおにピストルを受け取りながら、
「それじゃいよいよ出かけるかな。シャアロック、ホルムスにワットソンと云う格だな。」
こう云って機嫌よく立ち上った。
御成門の傍から自動車に乗って、向島へ走らせる途中に於いても、園村の頭は依然として其の妄想にばかり支配されて居た。ソフトの帽子を眼深に被って、腕を組みつつじっと考え込んで居るかと思うと、忽ち次ぎの瞬間には元気づいて、
「……今になれば分ることだが、それにしても君、此の犯罪者は一体どう云う種類の、どう云う階級の人間だろうね。せめて彼《あ》の晩に、彼奴等の服装ぐらい確めて置けばよかったんだが、どうも真暗で見分けがつかなかったんだよ。兎に角、ポオの小説にある暗号文字を使ったりなんかして居るんだから、決して彼の女も男も無教育な人間ではないね、いや無教育どころか、可なり学問のある連中だね。……ねえ君、君はそう思わないかい。」
などと云った。
「うん、まあそうだろうな。案外上流社会の人間かも知れないな。」
「けれども亦、一方から考えて見ると上流社会の人間ではなくって、或る大規模な、強盗や殺人を常職とする悪漢の団員のようにも推定される。それでなければ、ああ云う暗号文字などを使用する訳がない。あの暗号文字は、可なり面倒なものだから、僕のような素人が読むには、一一ポオの原本と照し合わせて行かなければならない。ところが此の間の角刈りの男は、僅か五六分の間に便所の中であれを読んでしまったのだ。して見ると彼等は、あの暗号を年中使用して居て、僕等がABCを読むと同じ程度に、読み馴れて居るに違いない。畢竟彼等は、暗号を使わなければならないような悪い仕事を、今迄に何回となく繰り返しているのだ。……さあ、そうなって来ると、彼等はなかなか一と通りの悪漢ではないように感ぜられる。」
われわれを乗せた自動車は、日比谷公園の前を過ぎて馬場先門外の濠端を、快速力で疾駆して居る。
「しかしまあ、彼等が何者であるか分らないところが、僕等に取っては又一つの興味なのだ。……」
と、園村は更に語り出した。
「……僕は最初、彼等の犯罪の動機となって居るものは、恋愛関係であろうと思って居たけれど、彼等が若し、恐るべき殺人の常習犯であるとすれば、恋愛以外に何等かの理由が伏在して居るのかも測り難い。いずれにしても、僕等にはただ、今夜の午前一時三十六分に、向島の水神の北に於いて、何者かが何者かに紐を以て絞殺されると云う事だけしか分って居ないのだ。そこが著しく僕等の好奇心を挑発する点なのだ……」
自動車は既に丸の内を脱けて、浅草橋方面へ走って行った。
* * * *
それから三時間ほど過ぎた、晩の八時半ごろのことである。私は、気の毒なくらい鬱《ふさ》ぎ込んで、黙黙として項垂れて居る園村を、再び自動車に乗せて芝の方へ帰って行った。
「……ねえ君、だからやっぱり何か知ら君の思い違いだったんだよ。どうも君の様子を見るのに、此の頃少し興奮して居るようだから、成るべく神経を落ち着けるようにし給え。明日からでも早速何処かへ転地をしたらどうだろう。」
私は車に揺られながら、むっつりと面を膨らせて考え込んで居る園村を相手に、頻りにこう云って説き諭して居た。
実際、その日の夕方、六時から八時過ぎまで私は園村に引き擦り廻されて、水神の近所をぐるぐると探し廻ったが、案の定鱗の目印などは見附からなかった。それでも園村は飽く迄剛情を張って、見附けないうちは家へ帰らないと称して居たのを、私は散散に云い宥めて、やっとの事で捜索事業を放棄させたのである。
「僕はほんとうに此の頃どうかして居る。君にそう云われると、何だか気違いにでもなったような気がする。……」
と、園村は沈んだ声で呻くように云った。
「……だがしかし、どうも不思議だ。どうしたって、彼処《あすこ》辺《いら》に目印がなければならない筈なんだが、……僕がいかに神経衰弱にかかって居たって、一昨日の晩の事は間違いがある訳はない。もし僕に何等かの間違いがあるとすれば、あの暗号の文字の読み方か、或いはあの文章の謎の解き方に就いて、何処かで錯誤をして居るのだ。兎に角僕は内へ帰って、もう一遍よく考え直して見よう。」
彼がこう云って、未だに妄想を捨ててしまわないのが、私には腹立たしくもあり、滑稽にも感ぜられた。
「考え直して見るのも宜かろうが、こんな問題にそれ程頭を費したって詰まらんじゃないか。たとい君の想像が実際であったにもせよ、そんなに骨を折ってまで突き止める必要はありはしない。僕は昨日から一睡もしないので、今日はひどく疲れて居るから、此の辺で一と先ず君と別れて、内へ帰って寝る事にする。君も好い加減にして今夜は早く寝る方がいい。明日の朝遊びに行くから、それまで決して、独りで内を飛び出さないようにし給えよ。」
いつ迄彼に附き合って居ても際限がないから、私は浅草橋で自動車を降りて、九段行きの電車に乗った。全く狐につままれたようで、何だか一時にがっかりしてしまった。向島へ着いてから三時間の間、彼は捜索に夢中になって、私に飯さえ喰わせなかったので、急に私は溜らない空腹を覚え始めた。が、その空腹も、神保町で巣鴨行に乗り換えた時分から、俄に襲って来た睡気の為めに分らなくなってしまった。そうして小石川の家へ着くや否や、いきなり床を取らせて死んだようにぐっすり眠った。
それから何時間ぐらい眠った後だか分らないが、表門の戸を頻りにとん、とん、と叩くらしい物音を、私は半分夢の中で聞いた。ぶうぶうと云う自動車の喘ぎも聞えた。
「あなた、誰かが表を叩いて居るようだけれど、今時分誰が来たんでしょう。自動車へ乗って来たようだわ。」
こう云って、妻は私を呼び起した。
「ああ、又やって来たか、あれはきっと園村だよ。先生この頃少し気が変になって居るんだよ。ちょッ、困っちまうなあ。」
私は拠《よんどこ》ろなく睡い眼を擦り擦り起き上って、門口へ出て行った。
「君、君、ようよう僕は今、場所を突き止めて来たんだよ。ネプチューンと云うのは水神じゃなくて、水天宮の事だった。僕は誤解をして居たのだ。水天宮の北側の新路で、やっと鱗の目印を見附け出した。」
私が門の潜り戸を細目に明けると、彼は転げるように土間へ這入って来て、私の耳に口をあてながらひそひそとこんな事を囁いた。
「さて、此れから直ぐに出かけようじゃないか。今ちょうど十二時五十分だ。もうあと四十六分しかないのだから、僕ひとりで行こうかと思ったんだけれど、約束があるからわざわざ君を誘いに来たのだ。さあ、大急ぎで支度をして来給え。早くしようよ。」
「とうとう突き止めたかね。だが、もう十二時五十分だとすると、今から行ってもうまく見られるかどうか分らないね。あべこべに其奴等に見附かったりなんかすると危険だから、君も止したらいいじゃないか。」
「いや、僕は止さない。見る事が出来なかったら、せめて門口にしゃがんで居て、絞め殺される人間の唸り声だけでも聞きたいもんだ。それに、僕が先見て来たところでは、目印の附いて居る家は小さな平屋で、二た間ぐらいしかない、狭っ苦しい住まいなんだ。おまけに夏だもんだから、障子も何も取り払って、一二枚の葭簀と簾が懸って居るだけなんだ。そうして君、裏口の方に大きな肘掛窓があって、其処の雨戸が節穴や隙間だらけで、其処から覗くと内の中が見透しになると来て居るんだから、恐ろしく都合がいいじゃないか。――さあ、こんな話をして居るうちにもう十分立っちまった。今ちょうど一時だ。行くのか行かないのか早くし給え。君がいやなら僕は独りで行くんだから。」
誰がそんな所で人殺しなんぞする奴があるもんかと、私は思った。だが咄嗟の場合、私は彼を独りで放り出す訳にも行かないので、迷惑千万な話であるが、やっぱり一緒に附いて行くより仕方がなかった。
「よろしい、待ち給え、直ぐに支度をして来るから。」
私は室内へ取って返して、大急ぎで服を着換えた。
「どうしたんです、あなた、此の夜半に何処へおいでになるんです。」
妻は目を円くして云った。
「いや、お前にはまだ話さなかったが、園村の奴が二三日前から気が狂って来て、妙な事ばかり云うので、弱ってるんだ。今夜も此れから、人形町の水天宮の近所に人殺しがあるから見に行こうと云うんだ。」
「いやだわねえ、気味の悪いことを云うのねえ。」
「それよりも夜半に叩き起されるのは閉口だよ。しかしウッチャラかして置くと、どんな間違いをし出来すかも知れないから、何とか欺して芝まで送り届けて来よう。どうも全くやり切れない。」
私は妻に云い訳をして、彼と一緒に又しても自動車に乗った。
深夜の街は静であった。自動車は白山上から一直線に高等学校の前へ出て、本郷通りの電車の石畳の上を、快く滑走して行った。私はまだ、夢を見て居るような気持ちであった。
入梅前の初夏の空は、半面がどんよりとした雨雲に暗澹と包まれて、半面にチラチラと睡そうな星が瞬いて居た。
「もう十七分! 十七分しかない!」
と、松住町の停留場を通り過ぎる時、園村は懐中電灯で腕時計を照らしながら云った。
「もう十二分!」
と彼が再び叫んだ時、自動車は彼の頭のように気違いじみた速力で、急激なカーヴを作りながら、和泉橋の角を人形町通りの方へ曲って行った。
私たちは、わざと竈《かまど》河岸《が し》の近所で自動車を捨てて、交番の前を避ける為めに、そこからぐるぐると細い露地をいくつも潜った。あの辺の地理に精しくない私は、園村の跡について真暗な狭い道路を、すたすたと出たり這入ったりしたので、未だに其処がどの方角のどう云う地点に方《あた》って居るか、はっきりとは覚えて居ない。
「おい、もう直ぐ其処だから、足音を静にし給え! それ! その五六軒先の家だ。」
黙って急ぎ足で歩いて居た園村が、こう云って私にひそひそと耳打ちをしたのは、むさくろしい長屋の両側に並んで居る、溝板のある行き止まりの露地の奥であった。
「どれ、どこの家だ、どこに鱗の目印が附いて居るんだ。」
すると、私のこの質問には答えずに、園村は立ち止まってじっと腕時計を視詰めて居たが、忽ち低いかすれた声に力を入れて、
「しまった!」
と云った。
「しまった! しまった事をした! 時間が二分過ぎちまった。もう三十八分だ。」
「まあいいから目印は何処にあるんだ。その目印を僕に教え給え。」
私は、彼がこんなに熱中して居る以上、せめて鱗形に似通ったようなものが、何か知ら其辺にあるのだろうと思ったので、こう追究したのであった。
「目印なんぞはどうでもいい。後でゆっくり教えてやるからぐずぐずしてないで此方へ来給え。此方だ此方だ。」
彼は遮二無二私の肩を捕えて、右側にある平屋と平屋との間隙の、殆んど辛うじて体が這入れるくらいな窮屈な庇合《ひあわい》へ、ぐいぐいと私を引っ張って行った。と、何処かに塵埃《ご み》溜《ため》の箱があるものと見えて、真暗な中でいろいろな物の醗酵した不快な臭が、ぷーんと私の鼻を衝いた。それから耳朶の周りに蜘蛛の巣が引絡まって、かすかにぷすぷすと破れたようであった。私より五六歩先に進んで行った園村は、いつの間にか其処に彳《たたず》んで、息を凝らしつつ、左側の雨戸の節穴へ顔を押しつけて居た。
庇合の右側の方は一面の蔀《しとみ》であって、左側の、――園村が今しも顔を押しあてて居る所には成る程彼が先刻話した通りに、大きな肘掛窓があって、節穴や隙間だらけの雨戸が篏まって居るらしく、其処から室内の明りがちらちらと洩れて輝いて居た。その光線の強さから判断すると、家の中には極めて明るい眩い電灯が煌煌と灯って居るかの如く想像された。私は何の気もなく近寄って行って、園村と肩を並べながら、一つの節穴に眼をあてがって見た。
節穴の大きさは、ちょうど拇指《おやゆび》が這入るぐらいなものであったろう。今まで戸外の闇に馴れて居た私の瞳は、其処から中を覗き込んだ瞬間に、度ぎつい電灯の光に射られたので、暫く視力が馬鹿になって、ただ眼前に二三の物影がちらつくのを、ぼんやり眺めただけであった。私にはむしろ、自分の傍に立って居る園村の、激しい息づかいがよく分った。そうして死んだような静かさの中に、彼れの腕時計のチクタクと鳴るのが、さながら興奮した動悸のように感ぜられた。
が、一二分の間に、だんだん私の視力は恢復しつつあるらしかった。最初に私の見たものは縦に真直にするすると伸びて居る、恐しく真白な柱のようなものであった。それが此方へ背中を向けて坐って居る一人の女の、美しい襟足の下に続く長い項の肉の線であると気が付く迄には、更に数秒の経過があったかと覚えて居る。実を云うと、その女の位置があまりに窓際近く迫って居て、殆んど節穴を蔽わんばかりになって居たので、それを人間の後姿だと識別するのは、可なり困難な訳であった。私は纔《わずか》に、潰し島田に結った彼女の頭部から、黒っぽい絽お召の夏羽織を纏うた背筋の一部分を見たばかりで、腰から以下の状態は私の視界の外に逸して居たのである。
さまで広くもない部屋の中には、どう云う訳か非常に強力な、少くとも五十燭光以上かと思われる電球が灯って居る。私が始めに、女の項を真白な柱のように感じたのは無理もないので、少し俯向き加減に坐って居る彼女の襟頸から抜き衣紋の背筋の方へかけて、濃い白粉をこってりと塗り着けた漆喰いのような肌が煌煌たる電灯の下に曝されながら燃ゆるが如く反射して居るのである。私と彼女との距離がいかに接近して居たかは、彼女の衣服に振かけてあるらしい香水の匂いが、甘く柔かく私の鼻を襲いつつあったのでも大凡想像する事が出来る。私は実際彼女の髪の毛の一本一本を数え得るほどに思ったのであった。その髪の毛はたった今結ったばかりかと訝しまれるくらいな水水しい色光沢を帯びて、鳥の腹部のようにふっくらと張った両鬢にもすっきりとした、慄いつきたいような意気な恰好をした髱《たぼ》にも、一と筋の乱れさえなく、まるで鬘のように黒くてかてか輝いて居る。彼女の顔を見る事の出来ないのは残念であるが、しかし其の撫で肩のなよなよとした優しい曲線と云い、首人形の首のようにほっそりと衣紋から抜けでて居る襟足と云い、耳朶の裏側から生え際を縫うて背中へ続いて行くなまめかしい筋肉と云い、単に後姿だけでも、彼女が驚くべき艶冶《えんや》な嬌態を備えた婦人である事は、推量するに難くなかった。こんな意外な場所で、こんな美しい女の姿に会っただけでも、此の節穴を覗いた事は徒労でなかったと私は思った。
ここで私はもう少し、彼女を見た刹那の印象と、最初の一二分間の光景とを記載して置く必要がある。たとえ園村の抱いて居る予想が間違いであるにもせよ、真夜半の今時分に、こう云う女がこう云う風をして、こんな所にじっとして居ると云う事実は、兎に角不思議であらねばならない。彼女の頭が潰し島田である事から判断すると、彼女は決して素人の女ではないらしく、芸者か、さもなければ其れに近い職業の者である事は明かである。髪の飾りや衣裳の好みが派手で贅沢で、近頃の花柳界の流行を追うて居る点から察するに、芸者にしても場末の者ではなく、新橋か赤坂辺の一流の女であろう。それにしても彼女は、其処にそうやったまま全体何をして居るのか、私にはまるきり見当が付かない。私は先「こんな所でじっとして居る」と書いたが、彼女は全く活人画のように身動きもしないで、文字通り「じっとして居る」のである。恰も私が節穴を覗き込んだ瞬間に凝結してしまった如く、項を伸ばしてうつむいたなり、化石のように静まって居るのである。――事に依ったら、彼女は戸外の跫音に気が付いて、俄に息を凝らしつつ、耳を澄まして居るのではなかろうか。――私はふとそう考えたので、慌てて節穴から眼を放しながら、園村の方を顧みると、彼は依然として熱心に顔をあてがって居る。
とたんに、今までひっそりとして居た家の中でたしかに何者かが動いたらしく、みしり、みしり、と、根太の弛んだ畳を踏み着ける音が、微かに響いたようであった。園村の狂気を嘲りながらも、いつの間にか好奇心に囚われて居た私は、その物音を聞きつけるや否や、再びふらふらと誘い込まれて眼を節穴へ持って行った。
ほんのちょいとの間――たった一秒か二秒の間であるが、その隙に女の位置と姿勢とは多少の変化を来たして居た。恐らく今の物音は其の為であったのだろう。節穴の前に塞がって居た彼女は、斜に畳一畳ほどを隔てて、部屋の中央に進み出た結果、私の眼界は余程拡げられて、室内の様子が殆んど残らず見えるようになって居る。ちょうど私の彳んで居る窓の反対の側、――向って正面の所は、普通の長屋にあるような、腰張りの紙が、ぼろぼろに剥げかかった黄色い壁であって、左側は簾、右側は葭簀の向うに縁側が附いて居て、外には雨戸が締めてあるらしい。先から、彼女の頭の蔭に、何か白い物がちらつくように感じたが、今になって見ると、それは手拭浴衣を着た一人の男が、彼女の左の方に、ぺったりと壁に寄り添うて此方を向きながら立って居るのである。男の年頃は十八九、多くも二十を越えては居ないだろう。髪を角刈りにした、色の浅黒い、背の高い、何処となく先代菊五郎を若くしたような俤《おもかげ》を持った青年である。私が特に先代菊五郎に比べた所以は、その青年の容貌が昔の江戸っ子の美男子を見るようにきりりと引き緊まって居るばかりでなく、涼しい長い眸と稍《やや》受け口に突き出て居る下唇の辺りに、妙に狡猾な、髪結新三だの鼠小僧だのを聯想させる下品さと奸黠《かんかつ》さとが、遺憾なく露われて居たからである。
男の顔には怒るとも笑うとも付かない、落ち着いて居るようで而も何事をか焦慮して居るような、不可解な表情がありありと浮かんで居る。が、それよりも更に不可解なのは、彼の場所から一二尺離れた、左の隅に立ててある真黒な案山子のような恰好の物体である。私は暫く案山子の正体を極める為にいろいろに体をひねらせて眼球の位置を変えなければならなかった。
よくよく注意すると案山子は黒い天鵞絨《びろうど》の布を頭から被って、三本の脚で立って居るのである。――どうしても其れは写真の機械であるように思われる。此の狭い室内に強力な電灯が灯されて居る事や、女が身動きもせずに居る事から考えると、或いは男が彼女の姿を写真に取ろうとして居るのであるらしい。けれども彼等は何の必要があって、わざわざこんな夜更けに、こんな薄穢い部屋の中で、写真を取ろうとするのだろう。何か秘密に写さなければならない理由があるのだろうか?
私は当然、此の男が、或る忌まわしい密売品の製造者であって、今しも此の女をモデルにして、それを作ろうとして居る最中である事を想像した。それで始めて此の場の光景が解釈された。
「何だ馬鹿馬鹿しい。園村の奴、己を大変な所へ引っ張って来たものだ。もう好い加減に彼奴も気が付いただろう。」
私は園村の肩をたたいて「飛んだ人殺しが始まるぜ」と云ってやりたいような気がした。事件の真相が分って見れば、彼の予想の全然外れて居たことは明かになったものの、私の好奇心は更に新な方面へ向ってむらむらと湧き上るのであった。昨日の午後から名探偵のお供を云い付かって東京市中を散散引き擦り廻された揚句、こんな滑稽な場面に打つかったかと思うとおかしくもあるが、一概に笑ってしまう訳には行かなかった。人殺しではない迄も、やっぱり其れは一種の小さな犯罪である。その光景が将に演ぜられんとするのを、夜陰に乗じて戸の隙間から窃《ぬす》み視ると云う事は、私をして殺人の惨劇に対すると同様な、名状し難い恐怖を覚えしめ、緊張した期待の感情を味わせるのに十分であった。私は普通の潔癖からでなく、むしろ全身に襲い来る戦慄の為に、危く顔を背けようとしたくらいであった。
しかし、写真の機械は其処にぽつねんと据えてあるばかりで、男は容易に手を下しそうもない。彼は相変らず突き当りの壁に凭れて、女の方を意味ありげに視詰めて居るのである。そうして私が此れだけの観察をする間、彼も女と同じように身動きをする様子がなく、じっと立ったまま、例の佞悪な狡そうな瞳を、活人形のガラスの眼玉の如くぎらぎらと光らせて居る。女の姿勢は、以前の通りの後ろ向きではあるが、今度は膝を崩して横倒しに坐った腰から下がよく見えて居る。畳に垂れて居る羽織の裾の裏から、投げ出した右の足の先の、汚れ目のない白足袋の裏が半分ばかり露われて、其上に長い袂の端がだらりと懸って居る。先、纔《わず》かに彼女の上半身を窺っただけであった私は、全身を見るに及んでいよいよ彼女の凄艶な体つきが自分を欺かなかった事を感じた。何と云うなまめかしい、何と云うしなやかな姿であろう。寂然と身に纏うた柔かい羅衣《うすぎぬ》の皺一つ揺がせずに坐って居るにも拘わらず、そのなまめかしさとしなやかさとは体中の曲線の有らゆる部分に行き亙って居て、何か斯う、蛇がするするとのた打ってでも居るような滑らかな波が這って居るのである。驚愕の眼を〓《みは》りながら眺めて居れば眺めて居るほど、私の胸には、嫋嫋たる音楽の余韻が沁み込むように、恍惚とした感覚が一杯に溢れて来るのであった。
私の瞳がどれ程執拗に、どれ程夢中に、彼女の嬌態へ吸い着いて居たかと云う事は、部屋の右の方にある図抜けて大きな金盥が、その時まで私の注意を惹かなかったのでも明かであろう。実際、此の部屋にこんな大きな金盥が置いてあるのは、写真の機械よりも一層不可思議な謎であって、此の女さえ居なかったら、私は疾うに気が付いて居る筈であった。金盥とは云うものの其れは西洋風呂のタッブ程の容積を持った、深い細長い、瀬戸引きの楕円形の入れ物で、縁側に近い葭簀の前の畳の上に、直にどっしりと据えられて居るのである。
彼等は一体、此の盥を何に使おうとするのだろう。こう云う場所に据え附けてある以上、勿論沐浴の用に供するのではない事はたしかである。……一方に写真の機械があって一方に金盥がある。そうして真ん中に女が坐って居る。全体何を意味するのだろう?……斯う考えて来ると私にはだんだん盥の用途が判然して来るような心地がした。つまり彼等は「美人沐浴之図」とでも云うような場面を写そうとして居るのに違いない。それにしては、女が着物を着て居るのは変であるが、今にそろそろ支度に取りかかるのだろう。彼等が先から黙ってじっとして居るのは、大方写真の位置を考えて居るのだろう。そうだ、きっとそうに違いない。そう断定するより外に、此の場の謎を解く道はない。……
私は独りで合点しながら、猶も彼等の態度を見守って居た。が、彼等はなかなか用意にかかりそうな風もない。女はいつ迄もいつ迄も元の通りに坐ったまま俯向いて居る。男も棒のように突ッ立ったきり女の姿を睨んで居る。しんとした、水を打ったような深夜の静けさの中に、此の室内で音もなく働いて居るたった一つの物は、男の瞳だけである。その瞳も、一途に女の胸の辺から膝の周囲へじろじろと注がれるだけで、決して外を見ようとはしないらしい。写真を写す為めに位置を撰定して居るにしては、あまりに奇怪な眼の動き方である。私は一応念の為に、その瞳から放たれる鋭い毒毒しい視線を伝わって、男の注意が何処に集まって居るのかを検べて見た。
何度見直しても、どう考えても、男の視線は疑いもなく女の胸から膝の上に彷徨《さまよ》うて居るのである。のみならず、項垂れて居る彼女自身も、自分の胸と膝の上とを視詰めて居るらしく感ぜられる。後つきから判断すると彼女は左右の肘を少し張って、恰も裁縫をする時のような形で両手を膝の上に持って行きつつ、其処に載せてある何物かをいじくって居るのである。そう気が付いて見るせいか彼女の膝の上には何か黒い塊のような物がもくもくして居て、それが彼女の体の蔭にある前方の畳の方にまで、ずうッと伸びて居るらしい。
「……誰か、男が彼女の膝を枕にして寝て居るのではないか知らん?……」
ふと、私が斯う思った瞬間に、突然、ずしん! と重い物体を引き擦るような地響きを立てて、彼女は写真の機械の方に向き直った。彼女の膝の上には、一人の男が首を載せたまま仰向けに、屍骸になって倒れて居たのである。
私がそれを目撃した刹那の気持ちは、何と形容したらいいか、兎に角未だ嘗て経験した覚えのない、息の詰まるような、体中に血の気がなくなって次第に意識がぼけて行くような、恐怖の境を通り越して、寧ろ一種のエクスタシーに近いくらいの、縹渺とした無感覚に陥ったのであった。――屍骸であると云う事が分ったのは、その男が寝て居る癖に眼を明いて居るのみならず、瀟洒とした燕尾服を着て居ながら、カラアが乱暴に毟り取られて居て、真紅な女の扱《しご》きのような縮緬の紐が、ぐるぐると頸部に絡まって居た為である。そうして、断末魔の苦悶の状態を留めたまま、逃げ去った自分の魂を追いかけるが如く空を掴んで居る両手の先が、ちょうど女の胸元の、青磁色にきらびやかな藤の花の刺繍を施した半襟の辺にとどいて居る。彼女は屍骸の脇の下に手を挿し入れて、鮪のように横わって居るものを、自分の体をひねらせると同時にぐっと向き直らせたのであるが、向き直ったのは胴から上だけで、でっぷりと太った、白いチョッキが丘の如く膨れて居る下腹から以下の部分は、くの字なりに曲ったまま以前の方に投げ出されて居る。彼女の繊細な腕の力では、大方その便便たる腹の重味を、どうにも処置する事が出来なかったのであろう。――そう思われる程、その男は小柄な割に著しく肥満して居るのである。顔はハッキリとは分らないけれど、鼻の低い、額の飛び出た、酒に酔ったような赤黒い皮膚を持った、三十歳前後の醜い容貌である事だけは、横から見ても大凡そ想像する事が出来る。
此処に至って、私は今の今迄気違いであると信じて居た園村の予言が、確実に的中した事を認めない訳には行かなかった。ふと、私は心付いて、殺されて居る男の頭を見ると、銀の鱗の模様の附いた女の帯に接触して居る其の髪の毛は、果して園村の推測の如く、綺麗に真ん中から分けられて、てかてかと油で固めてあったのである。
新しく私の眼に映じたものは単に男の屍骸ばかりではない。首を垂れて、膝の上の屍骸の表情を打ち眺めて居る女の、頬の豊かな、彫刻のようにくっきりとした横顔も、今や歴歴と私の視野の内に現われて来た。天井に燃えて居る白昼のような電灯が、その美しい皮膚を照らすのを喜ぶが如く光りを投げて居る女の輪廓は、櫛の歯のように整った睫毛の端までも数えられるほど、刻明に精細に一点一劃の陰翳もなく浮かんで居るのである。その伏し目がちに薄く開いて居る眼球の上の、ふっくらと持ち上った眼瞼《まぶた》の上品さ、その下に続いて心持ち険しいくらい高くなって居る鼻の曲線の立派さ、其処からだらだらと降りて下膨れのした愛らしい両頬の間に挟まりながら、際立って紅い段段を刻んで居る唇の貴さ、下唇の突端から滑らかに落ちて、顔全体の皮膚を曳き締めつつ長い襟頸に連なろうとする頤の優しさ、――それ等の物の一つ一つに私の心は貪るが如く停滞した。
恐らく、彼女の容貌が斯く迄美しく感ぜられたのは、此の室内の極めて異常な情景が効果を助けたのであったかも知れない。だが、それ等の事情を割引きしても、彼女が十人並以上の美人であることは疑うべくもなかった。近頃の私は、純日本式の、芸者風の美しさには飽き飽きして居た一人であるが、その女の輪廓は必ずしも草双紙流の瓜実顔ではなく、ぽっちゃりとした若若しい円味を含みながら、水の滴るような柔軟さの中に、氷の如き冷たさを帯びた目鼻立ちが物凄く整頓して居て、媚びと驕りとが怪しく入り錯《まじ》って居るのであった。
そうして若し、その女の容貌の内に強いて欠点を求めるならば、寸の詰まった狭い富士額が全体の調和を破って些か卑しい感じを与えるのと、太過ぎるくらい太い眉毛の、左右から迫って来る眉間の辺りに、いかにも意地の悪そうな、癇癖の強そうな微かな雲が懸かって居るのと、こぼれ落ちる愛嬌を無理に抑え付けるようにして堅く締まって居る唇の閉じ目が、渋い薬を飲んだ後の如く憂鬱な潤味を含んで、胸の悪そうな、苦苦しい襞を縫って居るのと、――先ずそれくらいなものであろう。しかし其れ等の欠点さえも、此の場の悽惨な光景には却って生き生きと当て嵌って居て、一層彼女の美を深め、妖艶な風情を添えて居るに過ぎなかった。
思うに私たちは、此の男が殺された直ぐ後から室内を覗き込んだのであったろう。或いは私が最初に節穴へ眼をあてがった時分には、まだ其の男の最後の息が通って居たかも知れなかった。壁に沿うて立って居る角刈りの男と其の女とが、長い間黙黙として控えて居たのは、犯罪を遂行した結果暫らく茫然として、失心して居たのに違いない。……
「姐さん、もうようござんすかね。」
角刈りの男は、やがて我に復《かえ》ったようにパチパチと眼瞬きをして、低い声で斯う囁いたようであった。
「ああ、もういいのよ。――さあ、写して頂戴。」
と、女が云って、剃刀の刃が光るような冷たい笑い方をした。その時まで下を向いて居た彼女の眼は、急にぱっちりと上の方へ〓《みひら》かれて黒耀石のように黒い大きい眸《まなざし》の、不思議に落ち着き払った、静かに溢れる泉にも似た、底の知れない深味のある光が、始めて私に分ったのである。
「それじゃもう少し後へ退っておくんなさい。……」
男が斯う云ったかと思うと、二人は急に動き出した。女はずるずると屍骸を引き擦って、部屋の右手の金盥の近くまで後退りをして再び正面を向き直る。男は例の写真の傍へ寄って、女の方へレンズを向けつつ頻りにピントを合わせて居る。女はまた、凜凜しい眉根を更に凜凜しく吊り上げながら、ややともすれば膝の上から擦り落ちようとする太鼓腹の屍骸を、羽がい絞めにして一生懸命に支えて居る。屍骸の上半身は前よりも高く抱き起こされて、ちょうど頭の頂辺が彼女の頤《あご》の先とすれすれに、がっくりと顔を仰向けたままである。その様子から判断すると男が写真に取ろうとして居るのは潰し島田の女の艶姿ではなく、奇怪にも絞殺された人間の死顔であるらしい。
「どうです、もうちっと高く差し上げて貰えませんかね。あんまりぶくぶく太って居るので、腹が邪魔になって、下の方が写りませんよ。」
「だって重くってとても此れ以上持ち上がりゃしない。ほんとうに何て大きなお腹なんだろう。何しろ二十貫目もあった人なんだからね。」
こんな平気な会話を交しながら、男は種板を入れて、レンズの蓋を取った。
写真が写されて、レンズの蓋が締まるまでは可なり長かった。その間、燕尾服を纏うた屍骸は両腕を蛙のように伸ばして、首をぐんにゃりと左の方へ傾けて、恰も泣き喚いて居るだだッ児が母親に抱き起こされて居るような塩梅に、だらしなく手足を垂れて居た。頸部に巻き着いて居る緋縮緬の扱きも、一緒にだらりと吊り下がって居たことは云う迄もない。
「写りました。もうよござんす。」
男がそう云った時、彼女はほっと息をついて、屍骸を横倒しに寝かせて、帯の間から小さな手鏡を出しながら、――こう云う場合にも其の美しい髪形の崩れるのを恐れるが如く、真珠とダイヤモンドの指輪を鏤《ちりば》めた象牙色の掌を伸べて、島田の鬢の上を二三遍叮嚀《ていねい》に撫でた。
男は簾の向うの勝手口の方へ行って、水道の栓をひねって居るらしく、バケツか何かへ水を注ぎ込まれる音がちょろちょろと聞えて居た。それから間もなく、一種異様な、医師の薬局へでも行ったような、嗅ぎ馴れない薬の匂いが鋭く私の鼻を襲って来た。私は始め、男が写真を現像して居るのだろうかとも思ったけれど、それにしては余りに奇妙な薬の匂いで、嗅いで居るうちに涙が出るほどの刺戟性を持って居る工合いが、何処か知ら硫黄の燻るのに似て居るようであった。
すると、男は簾の蔭から両手にガラスの試験管を提げて出て来て、
「ようよう調合が出来たようですが、どんなもんでしょう。此のくらい色が着いたら大丈夫でしょうな。」
と云いながら、電灯の真下に立って、ガラスの中の液体を振って見たり透かして見たりして居る。
不幸にして化学の知識の乏しい私には、二つの試験管に入れてある液体が、いかなる性質の薬であるか分らなかったが、奇妙な匂いは明かに其処から発散するのであるらしかった。男の右の手にある方の薬液は澄んだ紫色を帯び、左の手の方のはペパアミントのように青く透き徹って居て、それ等が電灯の眩い光線の漲る中に、玲瓏として輝く様子は、真に美しいものであった。
「まあ、なんて云う綺麗な色をしてるんだろう。まるで紫水晶とエメラルドのようだわね。……その色が出れば大丈夫だよ。」
こう云って女がにっこり笑った。今度は以前のような物凄い笑い方ではなく、大きく口を開いて、声こそ立てないが花やかに笑ったのである。上顎の右の方の糸切歯に金を被せてあって、左の隅に一本の八重歯の出て居るのが、花やかな笑いに一段の愛嬌を加えて居る。
「全く綺麗ですな。此の色を見ると、とても恐ろしい薬だとは思えませんな。」
男は猶もガラスの管を眼よりも高く差し上げて、うっとりと見惚れて居る。
「恐ろしい薬だから綺麗なんだわ。悪魔は神様と同じように美しいッて云うじゃないの。」
「……だが、もう此れさえあれば安心だ。此の薬で溶かしてしまえば何も跡に残りッこはない。証拠になる物はみんな消えてなくなるのだ。……」
此の言葉を男は独り語の如くに云いながら、つかつかと金盥の前へ進んだかと思うと、その中へ試験管の薬液を徐《しず》かに一滴一滴と注ぎ込んだ後、再び勝手口へ戻って、バケツの水を五六杯運んで来て、盥へ波波と汲み入れるのであった。
それから彼等は何をしたか? その薬液で何を溶かしたか? そうして又、あの硫黄に似た異臭を発する宝玉のような麗しい色を持った薬は、何から製造されて居るのか? 全体そんな薬が世の中にあるのか?――今になって考えて見ても、私はただ夢のような気がするばかりである。
やや暫らくして、
「こうして置けば、明日の朝までには大概溶けてしまうでしょう。」
男が斯う云ったのに対して、
「だけどこんなに太って居るから、外日《いつぞや》の松村さんのような訳には行きはしない。体がすっかりなくなる迄には大分時間がかかるだろうよ。」
と、女が従容として答えたのは、その屍骸が二人の手に依って掻き抱かれて、――依然として燕尾服を着けたままで、――どんぶりと薬を湛えた盥の中へ浸されてから後の事である。
屍骸を漬ける時、彼女はかいがいしく襷がけになって、真っ白な二の腕を露わして居たが、投げ込んでしまってからも襷を取ろうとはせず、井戸の中のヨカナアンの首を見て居るサロメのように、両手をタッブの縁について、一心に水の面を眺めて居た。その左の手の、手頸から七八寸上のところには、ルビーの眼を持った黄金の蛇の腕輪が、大理石のような肉の柱にとぐろを巻いて、二重に絡み着いて居るのを、私はありありと看取することが出来た。
しかし、殺された男の体がどう云う風にして薬に溶解しつつあるのか、残念ながら私は其れを精しくは見届ける訳に行かなかった。前にも断って置いた通り、盥は西洋風呂のような形をした背の高いものなので、纔かに表面に浮き上がって居る屍骸は太鼓腹と、その周囲にぶつぶつと湯の沸《たぎ》る如く結ぼれて居る細かい泡とが窺われるに過ぎなかったのである。
「はは、今日の薬は非常によく利くようじゃありませんか。御覧なさい、此の大きな腹がどんどん溶けて行きますぜ。此の工合いじゃあ明日の朝までもかかりやしますまい。」
角刈りの男が斯う云って居るのに気が付いて、更に注意を凝らして見ると、驚くべし、腹は刻刻に、極めて少しずつ、風船玉の萎むように縮まって、遂には白いチョッキの端が全く水に沈んでしまった。
「うまく行ったね。あとは明日の事にしてもう好い加減に寝るとしよう。」
女はがっかりしたようにぺったりと畳へ坐って、懐から金口の煙草を出してマッチを擦った。
角刈りの男は彼女の云うがままに、縁側の方にある押し入れから恐ろしく立派な夜具を出して来て、それを部屋の中央に敷いた。どっしりとした、綿の厚い二枚の敷蒲団の、下の方のは猫の毛皮のように艶艶とした黒い天鵞絨で、上の方のは純白の緞子であった。軽い、肌触りの涼しそうな麻の掻い巻には薄桃色の薔薇の花の更紗模様が附いて居た。女の夜具を延べてしまうと、男は次ぎの間の玄関へ行って、別に自分の寝床を設けて居るらしかった。
女は白羽二重の寝衣に着換えて、ぼっくりと沼のように凹む柔かい蒲団の上に足を運んだ。そうして、雪女郎のような姿で立ち上がりながら、手を上げて電灯のスウィッチをひねった。
もし其の際に女が明りを消さなかったら、……あの晩の私たちは、危険な地位にある事をも忘れて、果てしもなく其の光景に魂を奪われて居た私達は、多分夜の明けるまで節穴に眼をあてがって居たであろう。急に室内が真暗になったので、私はやっと、自分が一時間も前から、狭苦しい露地の奥に立ち続けて居た事を想い出したのであった。いや、正直な話をすると、暗くなってからも未だ私たちは何かしらを期待するものの如く、半《なかば》は茫然として窓の前に彳んで居た。
夢から覚めたような私の胸の中に、続いて襲って来たものは、いかにして彼等に跫音を悟られないように、此の露地を抜け出す事が出来るかと云う不安であった。此の窮屈な、一人の体が辛うじて挟まるくらいな庇合の中で、万一靴の音がカタリとでも響いたら、それが彼等に聞えないと云う筈はない。先からひそひそと囁き交して居る彼等の私語が、一つ残らず、私の耳へ這入った事実に徴しても、彼等とわれわれとの距離がいかに近いかは明かである。若しも彼等が、われわれに依って自分等の罪状を目撃されたと気が付いた場合に、私たちの運命はどうなるであろう。彼等が悪事にかけてどれ程大胆な人間であり、どれ程巧慧《こうけい》な手段を有し、どれ程緻密な計画を備え、どれ程執念深い性質を持って居るかは、今夜の出来事で大概想像する事が出来る。たとい私たちが此の場を無事に逃れたとしても、彼等に一旦附け狙われた以上、われわれの生命はいつ何時脅やかされるか分らない。あの、金盥に放り込まれて五体を薬で溶かされてしまった燕尾服の男の運命が、いつわれわれを待ち構えて居るかも測られない。――少くとも私たちは、それだけの覚悟を持って、昼も夜も戦戦兢兢として生きて行かなければならなくなる。それを思うと迂闊に此処を動く訳には行かなかった。
私は自分が、今や絶体絶命の境地に陥って居るような気がした。私は兎に角もう二三十分もじっとして居て、彼等が眠りに落ちた時分に、こっそりと立ち退くのが一番安全の策であろうと、咄嗟の間に考えを極めた。私よりももっと路地の奥に這入って居る園村は、私が動かなければ勿論其処を出る事は出来なかったが、彼もやっぱり同じような事を考えたと見えて、寧ろ私の軽挙妄動を戒めるが如く、私の右の手をしっかりと握り緊《し》めたまま、息を殺して立ち竦んで居た。
私にしても園村にしても、よくあの場合いにあれだけの分別と沈着とを維持して居られたものだと思う。歯の根も合わずに戦いて居た癖に、よく此の両脚が体を支えて居られたものだと思う。仮りにあの時、私たちの戦慄が今少し激しかったとしたら、私の胴や、私の腕や、私の膝頭の顫え方が、もう少し強かったとしたら、あんなに迄完全に、針程の音も立てずに居られたろうか? 私のような臆病な人間でも、九死一生の場合いには奇蹟に類する勇気が出て来るものだと云う事を、今更しみじみと感ぜずには居られない。
だが、仕合わせにも私たちはそんなに長く立ち竦んで居る必要がなかったのである。なぜかと云うのに、電灯が消えてから多くも十分と過ぎないうちに、程なく室内から安らかな熟睡を貪るらしい女の寝息と、角刈りの男の大きな鼾とが、――何と云う大変な奴等であろう!――さも気楽そうに聞えて来たからである。私たちは其れで始めて命拾いをしたような心地になって、注意深く靴の爪先を立てて路地を抜け出た。
表へ出ると、園村は私の肩を叩いて、
「ちょいと待ち給え。僕はまだ鱗の印を君に紹介しなかった筈だ。――ほら、彼処《あすこ》を見給え。彼処に白い三角の印が附いて居るだろう。」
こう云って、其の家の軒下を指《ゆびさ》した。成る程其処には、ちょうど標札の貼ってある辺に、白墨で書いたらしい鱗の印が、夜目にも著しく附いて居るのを私は見た。
考えれば考えるほど、凡べてが謎の如く幻の如く感ぜられた。謎にしても余りに不思議な謎であり、幻にしても余りに明かな幻であった。私はたしかに、その光景を自分の肉眼で目撃したには相違ないが、それでもどうしても、未だに欺かれて居るような気持ちを禁ずる事が出来なかった。
「もう二三分早く駈けつければ、僕等はあの男が殺される所から見られたんだね。惜しい事をした。」
と、園村が云った。二人は期せずして再びうねうねと曲りくねった新路を辿りながら、人形町通りへ出て江戸橋の方角へ歩いて行った。私の頬には、湿っぽい気持ちの悪い風が冷え冷えと当った。半分ばかり晴れて居た空にはいつの間にか星がすっかり見えなくなって、今にも降り出しそうな、古蒲団の綿のような雲が一面に懸って居る。
「園村君、……たとい低い声にもせよ、往来でそんな話をするのは止した方がいいだろう。そうしてわれわれは、此れから何処を通って何方《どつち》の方へ帰るんだね。夜半にこんな所をうろうろして、係り合いにでもなったら厄介じゃないか。」
私は苦苦しい顔をして、たしなめるように云った。私の方が園村よりも余計興奮して、常軌を逸して居るらしく見えた。
「係り合いになる? そんな事はないさ。それは君の取り越し苦労と云うものさ。君はあの犯罪が明日の朝の新聞にでも発表されて、世間に暴露するとでも思って居るのかい? あれ程巧妙な手段を心得て居る奴等が、跡に証書を残したり、刑事問題を惹き起したりするような、ヘマな真似をする筈がないじゃないか。殺された男は、恐らく単に行方不明になった人間として当分の間捜索されて、やがて忘れられてしまうに過ぎないだろう。僕はきっとそうに違いないと思う。だからよしんばわれわれが彼奴等の仲間であったとしても、われわれの罪は永久に社会から睨まれる恐れはないのだ。僕が心配したのは、社会に睨まれる事ではなくて、彼奴等に睨まれやしないかと云う事だったのだ。あの男とあの女とに睨まれたが最後、僕等は到底生きて居られる筈はないから、其の方がいくら恐しいか知れなかった。しかしまあ、好い塩梅に彼奴等の目を逃れる事が出来た以上、僕等はもう絶対に安全だ。何も心配する事はないのだ。そこで、僕等の生命の危険が確実に除かれたとなると、僕は此れからいろいろやって見たい仕事がある。……」
「どんな仕事があるんだい? 今夜の事件はもうあれでおしまいじゃないか?」
私には園村の言葉の意味がよく分らなかったので、こう云いながら、にやにやと笑って居る彼の表情を不審そうに覗き込んだ。
「いや、なかなかおしまいどころじゃない。此れから大いに面白くなるのだ。僕は彼奴等に気取られて居ないのを利用して、わざと空惚けて接近してやるのだ。まあ何をやり出すか見て居給え。」
「そんな危険な真似はほんとうに止めてくれ給え。君の探偵としてのお手並はもう十分に分ったのだから。」
私は彼の酔興に驚くと云うよりも寧ろ腹立たしかった。
「探偵としての仕事が済んだから、今度は別の仕事をやるんだ。……まあ精しい話は自動車の中でしよう。どうせ遅くなったのだから君も今夜は僕の家へ泊り給え。」
こう云って、彼は今しも魚河岸の方から疾駆して来る一台のタクシーを呼び止めた。
自動車はわれわれを載せて、中央郵便局の前から日本橋の袂へ出て、寝静まった深夜の大通りの電車の軌道の上を一直線に走って行った。
「……ところで今の続きを話そう。」
と、園村が私の顔の方へ乗り出して云った。その時分から、彼はだんだん活気附いて来て、何か知ら尋常でない輝きが其の瞳に充ちて居た。私はやっぱり、彼の精神状態を全くの気違いではない迄も多少狂って居るものと認めざるを得なかった。彼の神経が妙な所で鋭くなったり鈍くなったりする様子や、頭脳が気味の悪い程明晰に働くかと思うと、急に子供のように無邪気になったりする工合いは、どうしても病的であるとしか思われなかった。病的になって居ればこそ、今夜のような恐ろしい事件を予覚する事が出来たのに違いない。
「僕が此れからどんな事をやろうとして居るか、僕にどんな計画があるか、それは話して居るうちに自然と分って来るだろうと思うが、それよりも先ず、君は今夜の彼の犯罪の光景を、どう云う風な感じを以て見て居たかね? 無論恐ろしいと感じたには違いないだろう。しかしただ恐ろしいだけだったかね? 恐ろしいと感ずる以外に、たとえばあの女の素振なり容貌なりに対して、何か不思議な気持ちを味わいはしなかったかね?」
こう畳みかけて、園村は私に尋ねた。
しかし私は、それ等の質問に応答すべく余りに気分が重重しくなって居た。私の頭の奥に刻み付けられた彼《あ》の場の光景、――恐らくは一生忘れることの出来ない、彼の光景を想い出すと私はまるで幽霊に取り憑かれたようになって、ぼんやりと園村の顔を見返すだけの力しかなかった。
「君は多分、あの節穴から室内を覗いて見る迄、僕の予想を疑って居たのだろう。君は始めから、人殺しなどが見られる筈はないと思って居たのだろう?……」
と、園村は私に構わずしゃべり続けた。
「君は昨日から僕を気違いだと思って居た、気違いの看護をする積りで、あの路地の奥迄附いて来たのだろう。君が僕に対して、腹の中では迷惑に感じながら、いい加減な合い槌を打って居る様子は、僕にはちゃんと分って居た。僕は君から気違い扱いにされて居るのをよく知って居た。いや、事に依ると、君は未だに僕を気違いだと思って居るのかも知れない。けれども僕が気違いであってもなくっても、あの節穴から見た光景は、最早疑う余地のない事実なのだ。君にしたって其れを否む事は出来ないのだ。そうして君は、僕と違って彼の光景を予め覚悟して居なかっただけ、それだけ僕よりも驚愕と恐怖の度が強かったに違いない。少くとも僕の方が君よりも冷静にあの光景を観察したと僕は思う。あの、女の膝に転げて居た屍骸が始めてわれわれの眼に這入った時、僕の驚きは恐らく君に譲らなかったかも知れないが、僕が驚いた理由は、君とは全く違って居ただろうと思う。……
……君は大方、あの女がまだ後ろ向きで居た時分には、膝の上に何が載っかって居るのだか気が付かずに居ただろう。従って、あの女と角刈りの男とが、何をしようとして居るのだかも分らずに居ただろう。ところが僕は早くからその蔭に屍骸が隠れて居ることを信じて居たのだ。君も覚えて居るだろうが、女は最初節穴を一杯に塞ぐくらいに僕等の側近く坐って居た。おまけに僕の覗いて居た節穴の位置は、君のよりも一尺ばかり低い所に附いて居たので、僕は暫くの間、女の背中から右の肩の先と、その向うの壁の一部分と、金盥の側面とを見たに過ぎなかったのだ。それから中途で、女が一間ばかり前へにじり出ただろう。君はあの時、ちょいと穴から眼を放したようだったが、女は膝で歩きながら畳を一畳ほど前へ擦り出て行ったのだ。けれども依然として僕等の方へ真後ろを向けたままで一直線に擦り出て行ったのだから、無論その蔭に何があるか見えはしなかった。ただわれわれは、その時始めて、あの女の後ろ姿を完全に見る事が出来るようになっただけだった。女は体を左の方へ少し傾げて、両手を膝の上に載せてちょうどお針をして居るような恰好で坐って居ただろう。……ねえ君そうだったろう?……あの恰好を一と眼見ると、僕は其の膝の間に絞め殺された首のあることを直覚したのだ。ちょいと見れば何でもないようだが、あの恰好は決して、普通の物を膝の上に載せて居る場合の姿勢ではないのだ。君は気が付いたかどうか知らないが、女は脊骨と腰の骨をぐっと伸ばして、頸から上だけを前の方へ屈めて、何となく不自然な俯向き方をして居ただろう。あの女は体つきが非常に意気でしなしなして居たし、それに柔かいお召しの着物を着て居たから、余程よく注意しないと其の不自然さは分らないけれど、兎に角何か重い物を膝に載せて、全身の力でじっと其れを堪えて居るような塩梅式だった。そうして其の力は、殊に彼女の両方の腕に集まって居たらしく、左右の肩から肘へかけて、一生懸命で力んで居る為めに、筋肉のぶるぶると顫えて居る様子が、微かではあるが僕にはハッキリ感ぜられた。而も其の戦慄は折り折り彼女の長い袂に伝わって大きく波打った事さえあるのだ。それで僕の考えるのは、女はあの時、既に殺されて倒れて居る男の傍へ擦り寄って、死骸の上半身を自分の膝へ凭れさせて、ほんとうに息が絶えたかどうか試して見ながら、念の為にもう一遍首を絞付けて居たのだろうと思う。それでなければあんな恰好をする筈がないのだ。腕が顫えるほど力を入れて居たのは、両手でしっかりと縮緬の扱《しご》きを引っ張って居た為めなのだ。そう云う訳で、僕はあの時から女の蔭に死骸のある事に気が付いて居たので、其れがいよいよ僕等の眼に這入った際には、格別驚きもしなかった。僕が驚いたのは、寧ろ彼の女の容貌の美しさだった。あの時まで犯罪の方にばかり注意を奪われて居た僕は、彼の女の顔が見えた瞬間にどんなにびっくりしただろう。……」
「そりゃ僕だってあの女の器量は認めるさ。」
私はその時、何となく園村が癪に触って、突然意地悪く口を挟んだ。
「……認めることは認めるが、君が今更あの女の容貌を讃美するのは変じゃないか。成る程非常な美人には違いないけれど、あの位の器量の女なら一流の芸者の中にいくらも居るだろうと思う。君が以前新橋や赤坂で遊んだ時分に、あれ程の女は居なかったかね。」
私が斯う云ったのは可なり皮肉の積りであった。なぜかと云うのに、園村は近頃、「芸者なんぞに美人は一人も居ない。」と称して、ふっつり道楽を止めてしまって、西洋物の活動写真にばかり凝って居たからである。そうして時時女が欲しくなると、わざと吉原の小格子だの六区の銘酒屋などへ行って、簡単に性慾の満足を購って居たのである。一時は随分、親譲りの財産を蕩尽しそうな勢いで待ち合い這入りをして居た癖に、此の頃の彼の芸者に対する反感は非常なもので、「浅草公園の銘酒屋の女の方が彼奴等より余程綺麗だ。」などと屡《しば》私の前で公言して居た。それ程趣味が廃頽的になって居るのに、今夜の女を褒めると云うのは、少し辻褄が合わないように感ぜられた。
「そりゃ、単に器量から云ったらあのくらいなのは新橋にも赤坂にも居るだろう。……しかし君、あの女は必ずしも芸者ではないらしいぜ。」
と、園村は少し狼狽して苦しい言い訳をした。
「けれども潰し島田に結ってああ云う風をして居れば芸者と認めるのが至当じゃないか。少くともあの女の持って居る美しさは、芸者の持って居る美しさで、それ以上には出て居ないじゃないか。」
「いや、まあそう云わないで僕の話を聞いてくれ給え。成る程風采や着物の好みなどから見れば、あの女は芸者らしくも思われる。それから又、あの顔立も、芸者の絵葉書などによくあるタイプだと云う事は僕も認める。しかし君は、あの女の太い眉毛から眼の周囲に漂って居る不思議な表情――あの物凄い、獣のような残忍さと強さとを持った表情に、気が付かなかっただろうか。あの唇のいかにも冷酷な、底の知れない奸智を持って居るような、そうして而も悔恨に悩んで居るような、妙に憂鬱な潤いを帯びた線と色とを、君はどう感じただろうか。芸者の中の一人でもあのような病的な美を持って居る者があるだろうか。一つ一つの造作から云えばもっと整った顔の女はいくらもあるだろう。だがあれ程の深みを持った美しさが、芸者の中に見られるだろうか。ねえ君、君はそう思わないだろうか?」
「僕はそう思わんよ。……」
と、私は極めて冷淡に云った。
「……あの顔は綺麗には綺麗だけれど、やっぱり在り来りの美人のタイプに過ぎないと思う。君はあの場合をよく考えて見なければいけない。あの女はあの時人を殺して居たのだぜ。ああ云う恐ろしい悪事を行って居る場合には、どんな人間だって物凄い顔つきをするじゃないか。その表情に深みが加わって、病的になるのは当り前じゃないか。ただ彼の女は、非常な美人である為めに、病的な美しさが一層よく発揮されて、一種の鬼気を含んで居るように見えただけの事なんだ。若しも君が彼の女に待ち合いの座敷か何かで会ったとしたら、普通の芸者と撰ぶ所はなくなってしまうさ。……」
私たちがこんな議論をして居る間に、自動車は芝公園の園村の家の前に停まった。
もう四時に近く、短い夏の夜はほのぼのと白みかかって居たが、私たちは一と晩中の奔走に疲れた体を休ませようと云う気にもならなかった。二人は再び、昨日の夕方のように書斎のソオファに腰を掛けてブランデーの杯を挙げつつ、盛んに煙草の煙を吐き、盛んに意見を闘わして居るのであった。
「それはそうとして、君はあの女の器量をなぜそんなに詮議するのだね。それよりもあの犯罪の性質の方が、僕には余程不思議な気がする。」
私は斯う云うと、園村は唇へ当てて居た杯をぐっと一と息に飲み乾して、それをテエブルの上に置きながら、
「僕は彼の女と近附きになりたいのだ。」
と、半分は焼け糞のような、その癖妙に思い余ったような、低い調子でこっそりと云って、長い溜息を引いた。
「又始まったね、君の病気が。」
と、私は腹の中で思うと同時に、それを口へ出さずには居られなかった。
「……悪い事は云わないから、酔興な真似は好い加減に止めたらいいだろう。君はあの女に接近して、燕尾服の男のような目に会ってもいいのかね。いくら君が物好きでも、絞め殺されて薬漬けにされたら往生じゃないか。まあ命が惜しくなかったら近附きになるのも悪くはあるまい。」
「近附きになったからって何も殺されると極まった訳はないさ。始めから用心して懸かれば大丈夫さ。それに君、先も云った通り、彼の女はわれわれに秘密を掴まれて居る事を知らないのだから、無闇に僕を殺す筈はない。其処が大いに面白い所なんだ。」
「君はほんとうにどうかして居る。気違いでない迄も余程激しい神経衰弱に罹って居る。実際気を付けた方がいいぜ。」
「ああ有り難う、君の忠告には感謝するが何卒《どうぞ》僕の勝手にさせて置いてくれ給え。僕は此の頃何となく生活に興味がなくなって体を持て余して居た所なんだ、何か斯う、変った刺戟でもなければ生きて居られないような気がして居たんだ。今夜のような面白い事件でもなかったら、それこそ却って単調に悩まされて気が違ってしまうだろう。」
こう云ううちにも、園村は我れと我が狂気を祝福するが如く続けざまに杯の数を重ねた。平生から酒に親んで居る彼は、軽微なアルコール中毒を起して、しらふの時には手の先を顫わせて居るくらいだのに、だんだん酔が循《まわ》るにつれて顔色が真青になり、瞳が深い洞穴のように澄み渡って、奇妙に落ち着いて来るのであった。
「殺される恐れがないと云う確信があるのなら、近附きになるのもいいだろう。――しかし君、君はあの女にどう云う風にして接近するのだね。あの女の身分や境遇が分って居るのかね。仮りにあの女の商売が芸者だとしても、無論一と通りの芸者でない事は極まり切って居る。あの女は何の為めに人を殺したのか、何処からああ云う恐ろしい薬を手に入れたのか、それから又あの角刈りの男とはどう云う関係に立って居るのか、そう云う事をよく調べてから接近した方が安全だろうと思う。せめて其の位は僕の忠告を聴いてくれ給え。」
私は心から園村の様子が心配で溜らなくなって来た。
「ふふん。」
と、園村は鼻の先であしらうような笑い方をして、
「その点は僕も気が付いて居る。あの女と角刈りの男とが、どう云う人間だかと云う事も大凡そ見当が附いて居る。目下の僕は、いかなる手段で、いかなる機会を利用したらば、最も自然に彼等に近附くことが出来るかと云う、その方法に就いて考えて居るところなのだ。若しあの女が君の云うように芸者であるとしたら接近するのに雑作はないのだが、僕にはどうもそうは信じられない。」
「僕にしたって芸者であると断言した訳ではないさ。ああ云う風をして居る女は、芸者の外には、余りないと思って居るだけさ。僕には其れ以上の解釈は付かないのだから、あの女が芸者でないとしたならどう云う種類の人間なのだか君の考えを話してくれ給え。いや、そればかりでなくあの犯罪の動機も、わざわざ屍骸を写真に取った訳も、その屍骸を薬で溶かしてしまった理由も、それからあの恐ろしい薬の名も、君に若し解釈が出来るのなら教えてくれ給え。僕にはあの不思議な出来事の一つ一つが、まるで謎のように感じられるばかりで殆ど説明が付かないのだ。僕は先から、あれに就いての君の考えを聴きたいと思って居たのだ。」
私は斯う云う問題を提供して、気違いじみた彼の頭の働きをいよいよ妙な方面へ引き入れる事が、園村の為によくないだろうとは思って居た。にも拘らず、こんな質問を試みないでは居られないほどあの犯罪の光景は私の好奇心を煽り立てて居たのである。
「それは僕にも分らない点がいろいろある。しかしまあ、大体僕の観察したところを話して見よう。――」
こう云って、彼は教師が生徒に物を教えるような口吻で、諄諄《じゆんじゆん》と説き始めた。
「実は僕も、それ等の疑問をどう解いたらいいか、今現に考えて居る最中なので、ハッキリとした断案に到達した訳ではないのだが、先ず第一に、あの女が芸者でないことだけは確かだと思う。僕が此の間活動写真館で会った時には、あの女は庇髪《ひさしがみ》に結って居た。そうして少くとも片仮名の文字を書いて居た左の手には、今夜着けて居たような指輪を嵌めては居なかった。それから又、先われわれが節穴へ眼を着けた瞬間に、あの女の着物から、甘味のある芳ばしい香の匂いがわれわれの鼻を襲って来ただろう。ところが此の間の晩は、僕とあの女との距離がもっと近かったにも拘らず、且僕の嗅覚は特に鋭敏であるにも拘らず、何の匂いもしなかったのだ。けれども此の間の女と今夜の女とが別人であると云う訳はない。屍骸を薬で溶解して迄も、完全に証拠を湮滅させようとして居る人間が、ああ云う重要な相談を他人に任して置く筈はないだろう。あの晩の女が片仮名だの暗号文字だのを使って、角刈りの男と重大な打ち合わせをして居た様子から判断しても、必ず彼女は今夜の女と同一人でなければならない。そうだとすると、あの女は日に依って衣裳だの持ち物だのを取り換える癖のある人間なのだ。あの女が犯罪を常習とする悪人だとすれば、ますます変装の必要がある訳なのだ。場合によっては、芸者の真似をして潰し島田に結う事もあろうし、束髪に結って女学生と見せかける事もあろうと云うものだ。もしあの女が芸者だとすれば、此の間の晩だって指輪を嵌めて居てもよさそうなものだし、香水ぐらいは着けて居そうなものじゃないか。それに、今夜の着物に着いて居たあの匂いは、普通の芸者が使うような香水の匂いではない。……」
「……あの匂いが何の匂いだか君には分ったかね?……あれは香水ではないのだよ。あれは古風な伽羅の匂いだよ。あの女の今夜の着物に伽羅が焚きしめてあったのだ。まあ考えて見給え。今時の芸者で衣服に伽羅を焚きしめて居るような女はめったにないだろう。あの女が余程変った物好きな人間だと云う事は明かだろう。いかに物好きであるかと云う証拠には、襷掛けになって屍骸を運んだ時、左の腕に素晴らしい腕輪が嵌まって居たのを君は見なかったかね。あの腕輪は普通の芸者が着けるものにしては、余り趣味の毒毒しい、あくどいものだ。それをあの女が潰し島田に結って伽羅の香の沁みた衣裳を着けながら、腕へ嵌めて居ると云うのは、随分突飛な、不調和な話じゃないか。詰まり何と云う事もなく、ただもう無闇に変った真似をする事が好きな女なのだ。それから君は、あの女に殺された男が、燕尾服を着て居たと云う事も、考慮の内に加えて見なければいけない。あの場合の燕尾服は何にしても奇抜千万で、ますます此の事件を迷宮へ引き入れてしまうが、燕尾服と芸者とは少し対照が妙じゃないか。それから又あの女は、角刈りの男に向ってこんな事を云って居たね。『恐ろしい物は凡べて美しい。悪魔は神様と同じように美しい。』とか何とか云ったね。あの文句は、芸者が云うにしては生意気過ぎる。それに此の間の暗号文字の通信などを考えると――あの英文を彼女自身で作ったのだとすると、とても芸者なんかに出来る仕事ではない。尤もそう云う教育のある女が、芸者になる事も絶無ではないが、もしあれ程の器量と才智とを持った芸者が居るとしたら、それをわれわれが今迄知らずに居る筈がない。第一芸者などが、あの恐ろしい薬液をどうして手に入れる事が出来るだろうか? のみならずあの女は、あの薬の調合法迄も心得て居て、角刈りの男に指図して居たようじゃないか?――こう云ういろいろの理由から、僕は彼女を芸者ではないと信ずるのだが、最後にもう一つ、僕の推定を確かめる有力な根拠があるのだ。と云うのは、女が先、屍骸を薬液の中へ漬けた時、『此の男は太って居るから体が溶けてなくなる迄には時間がかかる。此の間の松村さんのような訳には行かない。』と云っただろう。そう云ったのを君は覚えて居るだろう。……ところで君は、あの松村と云う名前に就いて、何か想い出した事はないかね。」
「そうだ、松村と云ったようだった。――しかし、別に思い中たる事もないけれど、その松村が何だと云うのだね。」
「君は先達《せんだつて》、――ちょうど今から二た月ばかり前の新聞に、麹町の松村子爵が行方不明になったと云う記事の出て居たのを、読んだか知らん?」
「成る程、ハッキリとは記憶して居ないが、読んだような覚えもある。」
「その記事は朝の新聞と前の日の夕刊とに出て居て、当人の写真が掲載されて居た。そうして夕刊の方には可なり精しく、家族の談話までも載せてあった。それで見ると子爵は行く方不明になる一週間ばかり前に、欧米を漫遊して帰って来たのだが、洋行中に憂鬱症に罹ったらしく、東京へ帰っても毎日家に閉じ籠った切り誰にも人に会わなかったそうだ。で、或る日余り気が塞いで仕様がないから一と月ばかり旅行をして来ると云って邸を出たなり、行き方が知れずになったのだと云う。
……子爵は京都から奈良へ行って、それから道後の温泉へ廻ると云って居たそうだ。誰も供を連れては行かなかったが、家令の一人は中央停車場まで見送りに行って、現に京都迄の切符を買って汽車に乗り込んだところを見届けて来たのだと云う。要するに家族の意見では、旅行の途中気が変になって、自殺でもしたのではないだろうか。出発の際には多額の旅費を用意して行ったし、別段遺書らしいものも発見されないから、覚悟の自殺ではないまでも、ふらふらとそんな気になったのではないだろうか。と云う事だった。それから十日ばかりの間、松村家では毎日子爵の肖像を新聞へ出して、懸賞附きで行く方を捜索して居たようだが、何等の有力な手懸りも得られなかった。尤も、子爵が東京を出発した明くる日の朝、京都の七条の停車場で子爵の肖像にそっくりの紳士が、年の若い貴婦人風の女と連れ立って、プラットフォームを出て来るところを、ちらりと見たと云う者があった。が、家令の話では子爵は長い間欧羅巴《ヨーロツパ》へ行って居られた上に、帰朝されてからも孤独の生活を送って居られたので、社交界に一人の顔馴染もいる筈はなく、そうかと云って、勿論花柳社会などへも足を入れられた事はない。だから子爵が若い貴婦人を同伴して居たと云うのは、有り得べからざる事実であって、多分人違いか何かであろう。と云う事だった。その後もう二た月にもなるけれど、子爵の消息が分ったと云う記事も出なければ、屍骸が発見されたと云う報道も伝わらない。結局未だに、子爵は死んでしまったとも生きて居るとも分って居ないのだ。僕はあの新聞を読んだ時には、それ程気に留めても居なかったけれど、先《さつき》女の口から「松村さん」と云う名前を聞いた時、ふと、其れが子爵の事に違いないように感ぜられた。あの女に殺された松村と云う男が、もしや子爵ではあるまいか知らん? いや、確かに子爵に相違ない、きっとそうだ。と云うような気がした。……いいかね、君もよく考えて見てくれ給え。子爵は東京から京都迄の間で生死不明になって居る。若しも京都へ着く前に汽車の中で何等かの変事があったとすれば、それが分らずに居る筈はない。そうして見ると、やっぱり京都へ着く迄は何事もなかったのだ。子爵の身の上に異変があったとすれば、それは京都へ着いてから後の事なのだ。のみならず、七条の停車場で見たと云う人があるばかりで、その後子爵の姿が何処の停車場にも、何処の宿屋にも見えないのだとすると、子爵は京都の中で、自殺したか、殺されたかに違いない。ところで自殺にもせよ其れが普通の方法を以てしたのならば、而も京都の市中で行われたとしたならば、今日まで屍骸が発見されずに居る道理はないだろう。……いいかね、そこで僕は考えたのだ。先彼の女は、燕尾服の男の屍骸を指さして、『此の男は松村さんと違って太って居るから。』と云ったね、して見ると女が殺した松村と云う男は痩せて居たのだと云う事が分る。そうして、子爵の松村なる人も写真で見ると、非常に痩せて居る。……
……女はまた、松村なる人の名前を呼ぶのに、『松村さん』と云って特にさん附けにして居る。其れは女が其の男と余り親密な仲でない事を示すと同時に、或る意味に於ける尊敬を払って居るのだと考える事は出来ないだろうか。たとえばわれわれが、自分に何等の関係もない人の名を呼ぶ場合に、普通は誰誰と云って呼び捨てにするけれど、其れが社会の知名の士であるとか華族の名前である場合には、大概誰誰さんと云ってさん附けにする。女が特に松村さんと云ったのは、松村なる人が華族であって、且自分とは深い馴染でないからではあるまいか。男が彼女の情夫であるとか、旦那であるとか、兎に角親しい仲の者であったなら、其奴を殺してしまった場合に、何もさん附けにする筈はないだろう。『松村の奴は』とか、『あの野郎は』とか云うべきところだろう。単に此れだけの理由を以て、あの女に殺された松村と子爵の松村とが同一人であると推定するのは、或いは早計であるかも知れない。しかし此処にもう一つ、その推定に根拠を与える有力な事実がある。それは東京を独りで出立した子爵が、七条停車場へ着いた際には、若い貴婦人を同伴して居たと云う噂のある事だ。子爵家の家令は、子爵が如何なる種類の婦人とも交際がないと云う理由を以て、その噂を否認して居るけれど、仮りにその婦人が汽車の中で子爵と懇意になったとしたらどうだろう。交際嫌いな子爵の平生から推して見て、そんな事は絶無であると云えるかも知れない。しかしその女が、奸智に長けた婦人であって、最初から子爵を籠絡する目的で、巧妙な、用心深い手管を以て接近して行ったとしたら、而も其れが身なりの卑しくない、容貌の美しい婦人であるとしたら、子爵が其の女に気を許す事がないだろうか。子爵は多額の旅費を用意して居たそうであるから、その金を巻き上げる為に女が東京から子爵の跡を付け狙って居たのではないだろうか。……こう考えて来ると、どうも僕にはその貴婦人が昨夜の女であって、子爵は確かに京都の町の何処か知らで、あの女に殺された挙げ句、体を溶かされてしまったのではないかと思う。……」
「すると君の意見では、あの女は汽車の中で悪事を働く箱師の一種だと云うのだね。」
「うん、まあそうだ。……子爵の所在が未だに発見されない所を見ると、あの女に殺されて薬液の中へ消え失せてしまった松村なる人が、子爵であると考えるのは最も自然じゃないだろうか。そこで子爵とあの女とが以前からの馴染でないとすれば、無論子爵は所持して居た金の為に命を落したのだろう。あの女は確かに箱師には違いないが、しかし一と通りの箱師ではなく、何か大規模な悪徒の団員の一人であって、それが片手間にそう云う仕事をしたのだと見る方が至当ではないだろうか。あの女は、東京と上方と両方で同じような犯罪を行って居る。あの薬液やあの西洋風呂を据え付けた家が、京都にもあるに違いない。此れにはきっと東海道を股にかけて盛んに例の暗号通信を交換しつつ、頻頻と有らゆる悪事を行って居る兇賊の集団があるのだ。……」
「成る程、だんだん説明を聞いて見ると君の観察は中たって居るようにも思われる。そうして今夜殺された燕尾服の男も、やっぱり華族か何かだろうか。」
こう云って私は更に園村に尋ねた。正直に白状するが私はもういつの間にかすっかり園村の探偵眼に敬服して、一から十迄彼の意見を問い質さなければ気が済まないようになって居た。
「いや、あれは華族じゃないだろう。僕の想像するところでは、今夜の殺人は松村子爵の場合とは大分趣を異にして居る。」
云いながら園村は椅子から立って、洋館の東側の窓を明けて、煙草の煙の濠濠《もうもう》と籠った蒸し暑い部屋の中へ、爽やかな朝の外気を冷え冷えと流れ込ませた。
「僕は或る理由に依って、今夜の男は彼等悪漢の団員の一人であろうと推定する。」
園村は先ずこう云って、再び元の席へ戻りながら、不審そうに眼瞬きをして居る私の顔をまじまじと眺めた。
「あの男は比の間活動写真を見て居た時の様子から判断すると、あの女の情夫か亭主でなければならない。君はあの男が燕尾服を来て居た為に、貴族であると思うのかも知れないが、今夜のような、ああ云うむさくろしい路地の奥へ、貴族ともあろう者が燕尾服を着て来るだろうか。それよりは寧ろ、貴族に変装して何処かの夜会へ出席した悪漢が、自分の住まいへ帰って来たところだと観察する方が、余計事実に近くはなかろうか。あの男が女の情夫であるとすれば、どうしたってそう解釈するより外に道はない。殊に女は、先ず写真を写す時にこんなことを云って居た。『……ほんとうに何て大きなお腹なんだろう。何しろ二十貫目もあった人なんだからね。』と云って居たじゃないか。『何しろ二十貫目もあった人なんだからね。』と云う一語は、彼女と其の男との関係を説明して余りあると僕は思う。」
「うん、それも君の観察が中って居るような気がする。そうだとすると、詰まり女は角刈りの男に惚れた為に、あの男を邪魔にして殺したと云う訳なんだね。」
「さあ、当然其処へ落ちて来なければならないのだが、何だかそうでないようなところもある。君も見て居ただろうけれど、屍骸が盥へ放り込まれてから、角刈りの男は最初に女の蒲団を敷いて、それから次ぎの間へ別に自分の床を取って寝たようだったね。のみならず、男は始終女の命令に服従して、女を『姐さん』と呼んで居たね。二人が惚れ合って居るのだとしては、あの様子はどうも腑に落ちないじゃないか。そうして更に不思議なのはあの写真の一件だ。屍骸を溶かしてしまって迄も証跡を晦まそうとするものが、何の為に写真なんぞを取って置くんだろう。自分の手で以て殺した男の俤なぞは、夢に見てさえ恐しい筈だのに、何の必要があってあんな真似をしたんだろう。孰《いず》れにしてもあの殺人は、余程奇妙な性質のもので、案外なところに其の原因が潜んで居るのじゃないか知らん?」
「案外な所に潜んで居る? と云うと、たとえばまあどんな事なんだ。」
「たとえばね、――此れは僕の突飛な想像に基いて居るのだけれど、――あの女は何か性的に異常な特質があって、人を殺すと云う事に、或る秘密な愉快を感じて居るのではないだろうか。そうして、さほどの必要もないのに、ただ殺したい為に殺すと云うような癖があるのではないだろうか。あの女の行動をよく考えて見ると、此の想像を許す余地は十分にある。いいかね君最初子爵は汽車の中で近附きになっただけで、彼女に殺されてしまったのだ。此の場合の殺人は、金を盗んで其の犯跡を晦ます為であったかも分らない。だが、子爵の所持金はどれほどあったか知れないが、たかが旅行の費用に過ぎないのだから、多くも千円には達しないだろう。それんばかりの金を盗むのに、命迄も取らないだって済みそうなものじゃないか。たとえば子爵に魔睡薬を嗅がせるとか、仲間の男を使って自分以外の者の手で仕事をやらせるとか、あれほどの女なら外に犯跡を晦ます方法はいくらもあるじゃないか。而も其の殺し方が一と通りの方法ではないのだ。わざわざ子爵を京都の市中へおびき出して、彼等の巣へ連れ込んだ上、殺した挙げ句に薬漬けにしたり頗る面倒な手段に訴えて居る。それが昨夜の殺人になると一層不思議だ。金銭の為でもなく、そうかと云って必ずしも痴情の果てでもないらしく、燕尾服の男は殆ど無意味に殺されて、おまけに屍骸を写真に取ると云う厄介な手数迄もかけられて居る。此の一事だけでも、あの殺人には女の道楽か、病的な興味が手伝って居るのだと云う事は明かじゃないか。僕が思うのに、恐らく子爵も其の屍骸を写真に取られたのじゃないか知らん。いや、もっと想像を逞しくすれば、彼女は今迄に同じ手段で何人となく男を殺して居て、それ等の屍骸は悉く写真に写されて居るのではないだろうか。自分の色香に迷わされて命を捨てた無数の男の死顔を見ることが、ちょうど恋い人の俤に接するように、狂暴な彼女の心を満足させるのではないだろうか。少くともそう云う変態性慾を持った女が、世の中に存在しないとは限らないだろう。……」
「そう云う女がある事は、僕にも想像出来ない事はない。けれども、たまたまあの燕尾服の男が彼女の慾望の犠牲に挙げられたのには、何か外にも原因がなければなるまい。彼女が君の云うような物好きな女だとしても、男と見れば手当り次第に殺したくなる筈はなかろう。たとえば彼の角刈りの男が殺されないで、特に燕尾服が殺されたのは、どう云う訳なんだろう。」
「それは斯うなんだ。――あの燕尾服の男は彼女の情夫である上に、多分あの悪漢の集団の団長だったからなのだ。詰まり彼女は、自分よりも優勢の地位にある意外な人間を殺す事に興味を持ったのだ。角刈りの男は彼等夫婦の子分であるから、殺そうと思えばいつでも殺せる。そんな人間を犠牲にしても面白くはない。松村子爵を狙ったのも、子爵が社会の上流の貴族であると云う事が、きっと彼女の好奇心を唆かしたのに違いない。それに、団長の場合には、彼を殺せば自分が代って団長の地位を得られると云う利益が伴って居る。現に角刈りの男は彼女の命令を奉じて女団長の指揮の通りに働いて居たではないか。」
「成る程。」
と、私は園村の説明にすっかり感心して云った。
「そう云う風に解釈すれば、どうやら謎が解けて来るようだ。詰まりあの女は恐るべき殺人鬼なんだね。」
「恐るべき殺人鬼、……そうだ。であると同時に美しい魔女でもある。そうして僕の頭の中には恐るべきだと云う事は理窟の上から考えられるばかりで、あの女の美しい方面ばかりが際立って居る。ゆうべの光景を想い浮かべて見ても、ただ素晴らしい怪美人だ、此の世の中の物としも思われないほどの妖艶な女だと云うような感情のみが湧き上がって来る。昨夜《ゆうべ》節穴から覗き込んだ室内の様子は、確かに殺人の光景でありながら、其れが一向物凄い印象や忌まわしい記憶を留めては居ない。其処には人が殺されて居たにも拘らず、一滴の血も流れては居ず、一度の格闘も演ぜられず、微かな呻き声すらも聞えたのではない。その犯罪はひそかになまめかしく、まるで恋の睦言のように優しく成し遂げられたのだ。僕は少しも寝覚めの悪い心地がしないで、却って反対に、眩い明かるい、極彩色の絵のようにチラチラした綺麗なものを、じっと視詰めて居たような気持ちがする。恐しい物は凡べて美しい、悪魔は神様と同じように荘厳な姿を持って居ると云った彼女の言葉は、単にあの宝玉に似た色を湛えた薬液の形容ばかりでなく、彼女自身をも形容して居る。あの女こそ生きた探偵小説のヒロインであり、真に悪魔の化身であるように感ぜられる。あの女こそ、長い間僕の頭の中の妄想の世界に巣を喰って居た鬼なのだ。僕の絶え間なく恋い焦れて居た幻が、仮りに此の世に姿を現わして、僕の孤独を慰めてくれるのではないだろうかと、云うようにさえ思われてならない。あの女は僕の為に、結局僕と出で会う為に、此の世に存在して居るのではないだろうか。いや其れどころか、昨夜のあの犯罪も事に依ると僕に見せる為に演じてくれたのではないだろうか。――そんな風にまでも考えられる。僕はどうしても、たとえ自分の命を賭しても、あの女と会わずには居られない。僕は此れから彼女を捜し出して、彼女に接近する事に全力を傾ける積りで居る。…………君が心配してくれるのは有り難いが、どうぞ何も云わないで勝手にさせて置いてくれ給え。前にも云った通り、僕はあの女の秘密を探るのが目的ではない。僕は彼女を恋いして居るのだ。或いは崇拝して居るのだ、と云った方が適当かも知れない。」
こう云って園村は、両手を後頭部に当ててぐったりと椅子に反り返りながら、眼を閉ったきり暫くの間沈思して居た。
それほどに云うものを、何と云って諫めていいか言葉も分らず、おまけにもう、口をきくだけの気力が失せてしまったので、私も同じように椅子に仰向いたまま沈黙して居た。そのうちに燃え上がるような酔が体中に瀰漫《びまん》した疲労を蕩かして、二人は深い快い綿のような睡りの雲に朦朧と包まれて行った。此のまま二日も三日も打《ぶ》っ通《とお》しに寐てしまいはせぬかと、半分眠りかけた意識の底で考えながら、……
私は、あの殺人の事件があった明くる日一日を園村の家に寐通して、夜遅く小石川の家に帰った。心配して待って居た妻は、私の顔を見ると直ぐに、
「園村さんはどうなすって、やっぱり気違いにおなんなすったの?」
こう云って尋ねた。
「気違いと云うほどでもないが、兎に角非常に興奮して居る。」
「それで一体ゆうべの騒ぎは何だったの? 人殺しがあるなんて、まあ何を感違いしたんでしょう。」
「何を感違いしたんだか、正気を失って居るんだから分りゃしないさ。」
「だってあれから水天宮の近所までいらしったんでしょう。」
私はぎっくりとしながら、さあらぬ体で云った。
「なあに、あれから欺したり賺《すか》したりして、やっと芝の内まで送り込んでやったのさ。誰があの時刻に水天宮なんぞへ行く奴があるものか。ほんとうに人殺しがあったのなら新聞に出るだろうじゃないか。」
「そりゃそうだわね。だけどまあ、どうしてそんな事を考えたんだか、気が違うと云うものは変なものなのねえ。」
こう云ったきり、妻は別段疑っても居ないようであった。
私は二日振りでようよう自分の家の寝床の上に身を横たえながら、もう一遍昨日からの出来事を回想して見た。抑《そもそ》も昨日の午前中、ちょうど自分が約束の原稿を書きかけて居た際に、園村から電話がかかって来たのが此の出来事の発端である。若しもあの出来事が夢であったとすれば夢と事実との繋がりはあの電話の時である。あれから自分はだんだんと迷宮の中へ引き込まれ出したのである。園村の気違いが自分に移ったのだとすれば、確かにあの時が始まりである。何かあの辺で自分はチョイとした思い違いをして、それからとうとう本物になってしまったのらしい。……そんなら何処で思い違いをしたのだろう。
だが、いくら考え直して見ても、私には思い違いをしたらしい箇所が見付からなかった。私が昨夜見た事は、矢張りどうしても真実に相違なかった。昨夜の午前一時過ぎに、水天宮の裏の方で、殺人罪が犯された時は、現在自分の肉眼を以て目撃した事実であった。たとい私は狂者と呼ばれても、その事実を否定することは出来ない。すると、その事実に就いて園村が下したところの判断は、大体中《あ》たって居るのだろうか。あの犯罪の性質や、あの女や、角刈りと燕尾服の男や、それ等に関する園村の意見は正鵠を得て居るだろうか。――それを私が説破するだけの反証を挙げる事が出来ない以上は、矢張り正当と認めるより外に仕方があるまい……。
私の此の不安と疑惑とは五六日続いた。その間に二三度園村の邸を尋ねたが、いつも彼は不在であった。何か用事があると見えて、此の頃は毎日朝早くから外出して、夜遅くでなければお帰りがないと、留守番の者が不思議そうに語った。
ちょうど私が一週間目の日に尋ねて行くと、彼は珍しくも在宅して居た。そうして機嫌よく玄関へ迎えに出ながら、
「おい君、大変都合のいいところへ来てくれた。」
こう云って俄に声をひそめて、
「今、僕の書斎へあの女が来て居るんだ。」
と、喜ばしそうに私の耳へ口を寄せて云った。
「あの女が?……」
そう云ったきり、私は次ぎの言葉を発する事が出来なかった。よもやと思って居たのに、彼はやっぱり彼女を掴まえて来たのである。いや、或いは掴まえられたのかも知れない。そうして酔興にも私を紹介しようと云うのである。
「そうだ、あの女が来て居るのだ。……此の五六日僕は始終家を空けて、水天宮の近所を徘徊して、あの女を附け狙って居たのだが、こんなに早く近づきになれようとは予期して居なかった。僕が如何にして、如何なる順序で彼女と懇意になったかは、孰れ後で精しく報告する。まあ兎に角君も会って見たらいいだろう。」
こう云っても、私がまだ躊躇して居るので、彼は私の臆病を笑うように、
「まあ会って見給えよ君、別に危険な事はないから、会ったって大丈夫だよ。」
と云った。
「そりゃ、君の書斎で会う分には危険な事はなかろうけれど、此れを機会にしてだんだん懇意になったりすると、……」
「懇意になったっていいじゃないか。僕とは既に友達になってしまったのだから。」
「君は自分の物好きで友達になったのだから、今更止めたって仕様がない。しかし僕は物好きのお附き合いだけは御免蒙る。」
「じゃ、折角内へ呼んで置いたのに、君は会ってくれないんだね。」
「会って見たいと云うような好奇心は十分にある。だが、表向きに紹介されるのは少し困るから成るべくならば蔭へ隠れてそうッと見せて貰いたいものだ。……どうだろう君、書斎では隙見をするのに不便だから、日本間の方へ連れて行って貰えないだろうか。そうしてくれると、僕は庭の植込みの間から見てやるが。」
「そうかね、それじゃそうして上げよう。成るべく君の見いいように、客間の縁側へ寄った方で話しをして居るから、君はあの袖垣の蔭にしゃがんで居るがいい。彼処ならきっと話し声まで聞えるだろう。その様子を見た上で、若し気が向いたらいつでも紹介して上げるから、女中を取り次ぎに寄越し給え。」
「はは、まあ有り難う。恐らく取り次ぎを煩わす必要はないだろう。」こう云いかけて、私は急に或る心配な事を想い出したので、ぐっと園村の手を引捕えて念を押した。
「だが君、いくら友達になったからと言って、われわれが彼女の秘密を知って居ると云う事を、君はまさかしゃべりはしないだろうね。その為に君は殺されてもいいとしても、僕迄が飛ばっ塵を受けるのは迷惑だからね。」
「安心し給え。その点は僕も心得て居る。女は僕等に覗かれた事を、夢にも知りはしないのだ。勿論今後とても僕は決して口外しやしないから。」
「そんならいいが、ほんとうに用心してくれ給え。あれは彼女の秘密であると同時に僕等の秘密だと云う事を、忘れずに居てくれ給え。二人の生命に関する秘密を、僕に断りなしに勝手に口外する権利はないのだから。」
私は非常に気に懸ったので、わざと恐い顔付きをして、こんな言葉で特に彼の軽挙を戒めて置いた。
私はその日、庭の袖垣の蔭に隠くれて再びあの女を窃み視る事になったが、その様子を此処にくだくだしく書き記す必要はない。ただ、女が紛う方なき彼の晩の婦人であった事と、その日は割り前髪に結って一見女優らしい服装をして居た事と、腕には相変らず例の腕輪が光って居た事と、最後に容貌の美しさは節穴から覗いた時に少しも異らなかった事を、附け加えて置けば十分である。
園村は既に彼女と余程親密になって居るらしかった。何でも二三日前に、浅草の清遊軒の球場で知り合いになったのだそうであるが、彼女は球を百ぐらいは衝くと云う話しであった。
「あたしの身の上は秘密です。誰にも話す訳には行きません。ですからどうぞ其の積りで附き合って下さい。」
彼女はこう云って、其れを条件にして園村と交際し出したのだと云う。で、園村はいよいよ自分の推察が中たって居たことを心中に確かめながら、わざと彼女の住所や境遇を知らない体裁を装って、毎日毎夜、東京市中のバアだの料理屋だので落ち合って居た。昨日は新橋の停車場で待ち合わせて、箱根の温泉へ一と晩泊りで遊びに行って、ちょうど其の帰りに、芝公園の自分の家に連れて来たところなのであった。
* * * *
こんな工合いにして園村と纓子《えいこ》――女は自分をそう呼んで居た。――との関係は、一日一日に濃くなって行くらしかった。たまたま私が訪問しても彼は殆ど家に居る事はなかったが、彼と彼女が連れ立って自動車を走らせたり、劇場のボックスに陣取って居たり、銀座通りを手を取り合って散歩したりして居るのを、私は屡見ることがあった。その度毎に彼女の服装は変って居て、或る時は縮緬浴衣に羽織りを引っ懸け、或る時は女優髷にマントを纏い、或る時は白いリンネルの洋服を着て踵の高い靴を穿いて居た。そうして、その美しさに変りはなくとも、日に依って彼女の表情はまるで別人のように見えた。
そのうちに、或る日、――多分二人がそう云う仲になってから一と月も過ぎた時分であったろう。――非常に私を驚かした事件が持ち上がった。と云うのは外でもない。園村の周囲には纓子ばかりでなく、いつの間にか例の角刈りの男迄が附き纏って居る事を、私は偶然発見したのである。それを見たのは三越の陳列場であって、私が其処に開かれて居る展覧会へ出掛けて行った時、園村は纓子の外に角刈りの男を連れて、意気揚揚と三階の階段を降りて来た。園村の方でも私を避けたようであったが、私は思わずギョッとして立ち竦んだまま声をかける気にもならなかった。角刈りの男は滑稽にも大学生の制服を着けて、書生が主人の供をするように、鞠躬如《きつきゆうじよ》として二人の跡に随行して居たのである。
「あの男が出て来る以上は、園村はどんな目に会うか分らない。もう好い加減に捨てて置くべき事態ではない。」
私はそう思ったので、今度こそは是非とも彼の酔興を止めさせようと決心して、明くる日の朝早く山内の彼の住まいへ押しかけて行った。ところが更に驚くべき事には、玄関へ出た取り次ぎの書生を見ると、それが角刈りの男であった。
今日は久留米絣の単衣物を着て小倉の袴を穿いて居る。私が主人の在否を尋ねると、彼は慇懃に両手を衝いて、
「お居ででございます。」
と云いながら愛嬌のある、しかし賤しい笑い方をした。
園村は書斎のテエブルに凭れて、ひどく機嫌が悪そうに塞ぎ込んで居た。私は話声が洩れないようにドーアを堅く締めてから、つかつかと彼の傍へ寄って、
「君、君、角刈りの男が内へ入り込んで居るじゃないか。あれは全体どうした訳なんだ。」
こう云って、激しく詰問すると、
「うむ。」
と云ったきり、園村はじろりと私を横眼で睨んで、ますます機嫌の悪い顔付きをする。多分私に尋ねられたのが恥しいので、そんな風を装おって居たのかも知れない。
「黙って居ちゃ分らないじゃないか。あの男は書生に住み込んででも居るようだが、そうじゃないのかね。」
「……まだハッキリと極まった訳でもないんだけれど、学費に困って居ると云うから、当分内へ置いてやろうかとも思って居る。」
園村は大儀らしく口をもぐもぐと動かして、不承不承に漸くこんな返辞をする。
「学費に困って居る? するとあの男は何処かの学校へでも行って居るのかね。」
「法科大学の学生なんだそうだ。」
「そりゃ、当人はそう云って居ても、君は其れを真に受けて居るのかね。ほんとうに法科大学の学生だと云う事を確かめたのかね。」
私は畳みかけて斯う詰った。
「ほんとか〓か知らないけれど、兎に角当人は法科大学の制服を着けて表を歩いて居る。あの男は纓子の親戚の者で、あの女の従兄に当たるのだそうだ。そう云って紹介されたから、僕も其の積りで附き合って居るのだ。」
何も不思議はないだろうと云わんばかりに、平気な態度で斯う答えると園村の様子は、寧ろ私に反感を抱いて、うるさがって居るようにしか思われなかった。私は暫くあっけに取られてぼんやりと彼の眼付きを見守って居たが、やがて気を取り直して声を励ましながら、
「君、しっかりしないじゃ困るじゃないか。」
こう云って、彼の背中をいきなり一つ叩いてやった。
「君はまさか真面目でそんな事を云って居るのじゃあるまいね。あの男や女の云うことを、一一信用して居る訳じゃないだろうね。」
「だけど君、彼等がそう云うのだからそう思って居たっていいだろう。何も殊更に彼等の身の上を詮索する必要はない。もともとあの連中と附き合う以上は、そのくらいの覚悟がなくっちゃ仕様がないんだ。」
「しかし、殊更に詮索しないでも、あの男とあの女とが寄る処には、如何なる危険が発生するかと云う事は、既に分って居るのじゃないか。君が纓子に恋して居るのなら、女の方は已むを得ないとして、せめてあの男だけは近附けないようにするのが当然じゃないか。」
私がこう云うと、園村はまた横を向いて黙ってしまう。
「ねえ君、僕は今日、君に最後の忠告をしに来たのだ。僕は此の間、君があの男を連れて三越へ行ったところを見たので、余計なおせっかいかも知れないけれど、捨てて置かれなくなったからやって来たのだ、僕を唯一の親友だと思ってくれるのなら、どうかあの男だけは遠離《とおざ》けるようにし給え。」
「僕にしてもあの男の危険な事はよく知って居る。けれど僕はあの男の面倒を見るようにと、纓子からくれぐれも頼まれたのだ。……僕はもう、纓子の言葉に背く事が出来なくなって居る。……」
そう云って園村は、私に憐れみを乞うが如く、伏し目がちに頸を垂れた。
「君はそれでも済むかも知れない。しかし此の間も云ったように、あんまり無謀な事をされると、結局僕迄も危険に瀕するのだから、僕はどうしても黙って居る訳には行かないのだ。已むを得ない場合には、彼奴等を警察へ訴えるかも知れないから、そう思ってくれ給え。」
私が気色ばんで見せても、彼は一向狼狽する様子もなく、却って妙に落ち着き払いながら、
「訴えたところで警察に臀尾を押えられるような連中ではないのだから、詰まり僕等が彼奴等に恨まれるばかりだよ。そうなったら猶更君は困りゃしないかね。――まあそんな事は止したらよかろう。ほんとうに心配しないでも大丈夫だよ。僕だって命は惜しいのだから、迂濶な事はしゃべりゃしないよ。」
「それじゃ、何と云っても君は僕の忠告を聴いてくれないんだね。そうなれば自然、僕は自分の安全を謀る為にも、此の後君には近附かないようにする積りだが、君は勿論そのくらいな事は覚悟しているのだろうね。」
「さあ、どうも。……今更仕方がない。」
それでも園村は驚いた風もなく、折り折りじろじろと私の顔に流《なが》し眄《め》を与えるばかりであった。――恋愛の為ならば命をも捨てる。況んや一人の友人ぐらいには換えられない。――彼の眼付きは斯う云う意味を暗示して居るようであった。
「よし、そんなら僕は此れで失敬する。もう此の内には用のない人間なのだから、……」
こう云い捨てて、すたすたとドーアの外へ出て行く私の後ろ姿を、彼は格別止めようともしないで悠然と椅子に凭れたまま見送って居た。
* * * *
こうして私は園村と絶交してしまったのである。気紛れな男の事であるから、そのうちには又淋しくなって、何とか彼とかあやまって来るだろう。きっと私を怒らせた事を後悔して居るに違いない。――そう思いながら、私は空しく一と月ばかり過したが、其の後ふっつりと電話も懸からなければ手紙も届かなかった。あの時はああ云うハメになったので、ついムカムカと腹を立てたようなものの、私にしても心から園村を疎んじて居た訳ではなし、余り音信の途絶えて居るのが、しまいには何だか心配で耐らなくなって来た。
「事に依ると、園村は殺されてしまったのじゃないか知らん? 燕尾服の男のような目に会わされやしないかしらん? さもなかったらこんなにいつ迄も私を放って置く筈がない。」
私は始終其れを気に懸けて居た。が私には、友情以外の好奇心もまだ幾分かは残って居た。纓子と称する女と角刈りの男とは、あれからどうなったであろう。不思議な彼等の内幕が、少し園村にも分っただろうか。
待ちに待って居た園村からの書信が、それでもとうとう私の手許へ届いたのは、九月の上旬頃であった。
「ふん、先生やっぱり我慢が出来なくなったと見える。」
私は急にあの男が可愛くなったような気がして、忙しく封を切って見た。が、手紙の最初の一行が眼に這入ると同時に、私の顔は忽ち真青になった。なぜかと云うのに、其の一行には、――「此れを僕の遺書だと思って読んでくれ給え。」――こう書いてあったからである。
「此れを僕の遺書だと思って読んでくれ給え。僕は最近、否多分今夜のうちに、纓子の為に殺される事を予期して居る。彼等は恐らく例の方法で、僕の命を取ろうとして居る。――そうして其れは、いかに逃れようとしても逃れられない運命でもあり、また僕としても、其れ程逃れたいとは思って居ない。要するに僕が死ぬことは確かだと思ってくれ給え。
こう云ったら君は嘸《さぞ》かしびっくりするだろう。僕の殆ど途方のない物好きと酔興とを、憫笑《びんしよう》もすれば慨嘆もするだろう。だがどうか僕を憎むことだけは、若しも憎んで居たとしたら、――考え直してくれ給え。命を捨てて迄も飛び込んで行く僕の物好きを、ただ単純な物好きとのみ思わないでくれ給え。僕は此の間明かに君に対しては無礼だった。あの時の態度は君に絶交されるだけの価値は十分にあった。正直を云うと、僕はあの時、恋しい恋しい纓子の為ならば、僕の最後の友人たる君を失っても、惜くはないと云う覚悟だった。寧ろ余計なおせっかいを焼く君なんかは、此の後来てくれない方がいいとさえ思って居た。そんな気持ちで僕はわざわざ君を怒らせるように仕向けたのだった。命をさえも惜まない僕に、どうして君との友情を惜んで居る余裕が有り得よう。其れも此れも、みんな僕の物狂おしい恋愛の結果なのだから、何卒悪く思わないでくれ給え。僕の性格を知り抜いて居る君の事だから、今になればあの時の無礼を赦してくれるに違いないと僕は堅く信じて居る。平素から理解に富み、同情に富んで居る君が今夜限り此の世を去って行く僕を、憐みこそすれ憎んで居よう筈はない。そう思って僕は安心して死ぬ積りで居る。
しかし、どうして僕は死ななければならなくなったか、いかにして事件が其処まで進行したか、その経過を今生の際に一応君に報告して、君の無用の心配を除くのは、僕の義務であらねばならない。僕は此の手紙に依って、自分の義務を果たすと同時に、改めて僕の最愛の友たる君に、自分の死後に関する事件をお頼みしたいのだ。
その後の事件の経過に就いては、精しく書けば殆ど際限はないのだが、ただ極めて簡単に書き記して、あとは大凡そ君の推察に任せて置こう。――詰まり、彼等が僕を殺そうとして居る第一の原因は、纓子に取って僕と云う者の存在がもう今日では邪魔にこそなれ何等の愉快をも利益をも与えなくなってしまったからだ。なぜかと云うに、僕は既に自分の全財産を残らず彼女に巻き上げられてしまったからだ。彼女が僕と懇親になったのは、思うに始めから僕の家の財産が眼当てであったらしい。……
「……僕には其れがよく分って居ながら、やっぱり彼女を愛さずには居られなかったのだ。そうして第二の原因は、彼等の秘密が追い追い僕に知れ渡るようになった事で、此れが僕を殺そうとする最も重大な動機であるらしい。彼等は自衛上、僕を生かして置く訳には行かなくなったのだ。
彼等が僕を殺そうとする計画のある事を、僕はどうして感付いたか、それは精しく説明する迄もなく、此手紙に封入してある別紙の暗号文字を読めば、君にも自ら合点が行くだろう。此の暗号文字は、内の庭先に落ちて居たのを、ゆうべ僕が拾ったので、疑いもなく纓子と角刈りの男との間に交された秘密通信である。彼等は例の符号を用いて僕を暗殺する相談を凝らして居る。此の通信の内容がどう云う意味を含んで居るか、此の間の方法に依って飜訳して見れば直ぐに明瞭になる。要するに彼等は今夜の十二時五十分に、又しても例の場所で例の手段に訴えて僕を殺そうとして居るのだ。僕は定めし彼女に首を絞められた挙げ句、屍骸を写真に写されるのだろう。そうしてあの薬液を湛えた桶の中に浸されるのだろう。斯くて明日の朝迄には、僕の肉体は永遠に此の地球上から影を消してしまうのだ。考えて見れば、脳卒中で頓死するよりも、大砲の弾丸で粉微塵になるよりも、もっと気持ちのいい死に方だ。況んや其れが自分の一命を捧げて居る女の手に依って行われるに於いてをや。僕はそう云う風にして自分の生涯を終る事を、何等の誇張もなしに、此の上もない幸福だと思って居る。
しかし纓子は、どう云う風にして僕を水天宮の裏迄連れ出す積りか、それはまだ明かでない、尤も僕は今日彼女と一緒に帝劇へ行く約束になって居るから、その帰り路に何とか僕を欺いて彼処へ引っ張り込む計略なのだろう。大概そんな事であろうと、僕は見当を附けて居る。
僕の物好きは、最初はただ彼女に接近して見たいと云うのに過ぎなかった。けれども今では自分の全身を犠牲にしなければ已み難くなって居る。僕にしても命が惜ければ、今夜の運命を避ける方法がないでもなかろうが、そんな事をしたいとは夢にも思わない。それに又、彼等から一旦睨まれた以上、今夜だけは逃れたにしても到底いつ迄も無事で居られる筈はない。孰れにしても今夜の運命はとうから僕の望んで居たところなのだ。
だが、君を安心させる為に僕は特に断って置く。彼等は自分たちの秘密の一部が僕に嗅ぎ出された事を内内感付いては居るものの、君と僕とが彼の晩節穴から覗いた事や、暗号通信を拾われて読まれた事や、其れ等の事件は未だに気が付かずに居るらしい。少くとも僕以外に彼等の秘密を知って居る君と云う者があることは全然彼等の想像にも上がって居ない。だから僕が殺された後、君にして自ら進んで彼等の罪状を発くような行為に出でない限り、君の位置は絶対に安全な訳である。此処に封入した暗号通信の紙片は、ただ僕の記念として永く君の手許に秘蔵して貰いたい。此の紙片を証拠として彼等を訴えるような軽率な真似は、返す返すも慎んでくれるようにお願いして置く。僕も勿論、君の為めを慮かって、節穴の一件は最後まで口外しない覚悟で居る。僕は何処までも、彼女の色香に迷わされ、彼女の計略に乗せられて死んだ者だと纓子に思い込ませてやりたい。彼女を恋し、崇拝して居る僕としては、その方が彼女に対して余計に深切であり、フェイスフルであると思う。
「そこで、僕が君への頼みと云うのは外でもない。今夜の十二時五十分に、君は例の水天宮の裏の路地へ忍び込んで、再び此の間の晩のように、窓の節穴から僕の最期を見届けてはくれないだろうか。いかにして僕と云うものが此の世から失われて行くか、その様子を蔭ながら検分してはくれないだろうか。既に話した通り、纓子の為に有るだけの物を巻き上げられてしまった僕は、この世に遺すべき一文の財産もなく、あったところで其れを譲るべき子孫もなく、又君のように芸術上の著述があると云うのでもない。その上屍骸を迄も薬液で溶かされてしまったら、僕が此の世に嘗て存在した痕跡は、完全に影も形もなくなってしまうのだ。僕が生きて居たと云う事実は、ただ君の頭の中に記憶となって留まるだけなのだ。そう思うと、僕は何だか淋しいような心地がする。せめては僕の生前の印象を、少しでも深く君の頭へ刻み付けて置きたいような気持ちがする。それには君に僕の死に様を見て貰うのが一番いい。君が節穴から覗いて居てくれるかと思うと、僕も意を安んじて心置きなく死ねるような気がする。此れ迄にも散散我が儘な仕打をして君に迷惑をかけた挙げ句、最後にこんなお願いをするのは、重ね重ね勝手な奴だと思われるかも知れないが、此れも何かの因縁だとして諦めてくれ給え、そうして是非、僕の此の頼みを聴き届けてくれ給え。
死ぬ前に、一遍君に会いたいと思って居たのだけれど、此の頃は絶えずあの二人が僕の身辺に附き纏うて居るので此の手紙を認めるのさえ容易ではなかったのだ。首尾よく今日のうちに此れが君の手許迄届いてくれるかどうか、そうして今夜の十二時五十分に君が間に合ってくれるかどうか、僕は今そればかりを心配している。
それから、もう一つの肝心なお願いは、決して僕の一命を救ってやろうなどと云う深切気を起してくれない事だ。僕が彼女に殺される事を祈って居るのは、断じて負惜しみではないのだ。若しも君が、余計な奔走や干渉をしてくれたら、たとい其の動機が友情に出でて居るにもせよ、僕は却って君を恨まずには居られない。その時こそ、僕はほんとうに君と絶交するかも知れない。僕の性情を理解してくれないような人なら、友人として附き合う必要はないのだから。」
園村の手紙は、此れでぽつりと終って居る。それが私の家に届いたのは、ちょうど其の日の夕方のことであった。
さて、私は其の晩どうかしたか。彼の切なる頼みを斥けて、彼の危急を救わん為に悪徒の一団を警察へ密告したか。それとも彼の希望を容れて、何処迄も彼の唯一の友人としての義務を尽したか。――勿論、私としては後者を択ぶより外はなかったのである。
私は、その晩例の節穴から覗き込んだ光景を、到底ここに詳細に物語る勇気はない。同じ惨劇にしても、此の前の時は自分に何の関係もない一人の燕尾服の男に過ぎなかったのに、今度は自分の親友がむごたらしく殺されるところをまざまざと見せられたのである。どうして私に、それを精しく描写するだけの冷静を持つ事が出来よう。
嘗て園村に暗い横町をぐるぐると引き廻された私は、あの家の位置がその方角にあったか忘れてしまったので、それを捜し中てる迄には一時間ばかり近所の路地をうろうろしなければならなかった。そうしてようようあの家を見附け出したのは、指定の時間の十二時五十分よりも五六分早い時であった。――云う迄もなく、鱗の目印は其の門口に施されてあった。もしも目印が附いて居なかったら、私は大方捜し出す事が出来なかったかも知れない。――かくて私は彼が彼女に絞め殺される刹那から、写真を取られてタッブへ投げ込まれた時分迄、始終の様子を一つ残らず目撃したのである。おまけに、此の前の時は凡べてが後ろ向きに行われたようであったが、その晩は加害者も被害者も節穴の方へ正面を向いて、恰も私の観覧に供するが如き姿勢を取って居た。園村の眼は、屍骸になってから後も、じっと節穴の此方にある私の瞳を睨んで居るようであった。
彼が、頸部へ縮緬の扱きを巻き着けられながら、死に物狂いに藻掻き廻って、いよいよ息を引き取ろうとする瞬間の、重い、苦しい世にも悲しげな切ない呻き声。同時ににっこりと纓子の頬を彩った冷ややかな薄笑い。――角刈りの男の残忍な嘲りを含んだ白い眼玉。それ等の物がどんなに私を脅やかしたかは、読者の想像に任せて置くより仕方がない。
死体の撮影や、薬の調合や、万事此の前通りの順序で行われた。最後に傷ましい彼の亡骸が西洋風呂へだぶりと浸されると、
「此奴も松村さんのように痩せて居るから、溶かしてしまうのに造作はないね。」
こんな事を纓子が云った。
「ですが此の男は仕合わせですよ。惚れた女の手に懸かって命を捨てれば、本望じゃあありませんか。」
こう云って、角刈りは低い声でせせら笑った。
室内の電灯が消えるのを待って、忍び足に路地を抜け出した私は、茫然とした足どりで人形町通りを馬喰町の方へ歩いて行った。
「此れでおしまいか、此れで園村と云う人間はおしまいになったのか。」
そう考えると、悲しいよりは何だか馬鹿にあっけないように感ぜられた。平素から気紛れな、つむじ曲りの男であっただけに死に方迄がひねくれて居る。酔興も彼処まで行けば寧ろ壮烈であると私は思った。
すると、それから二日目の朝になって、私の所へ一葉の写真を郵送して来た者がある。開いて見ると、それは紛う方もなく一昨日の晩の、園村の死に顔を写したもので、発送人は無論誰とも書いてはなかった。
写真の裏を返すと、見覚えのない筆蹟で、下の如き長い文句が認めてある。――
「われわれは、足下が園村氏の親友であったと云う話を聞いて、この写真を記念の為に足下に贈る。足下は或いは、園村氏の不可思議なる行く方不明に就いて、多少の消息に通じて居られるかも知れない。しかし此の傷ましい写真を御覧になったならば、その間の秘密を一層明かにせられるであろうと思う。兎にも角にも、園村氏は某月某日某所に於いて横死を遂げたのである。
なおわれわれは、園村氏から足下への遺言を委託されて居る。其れは、芝山内なる同氏邸宅の書斎の机の抽き出しに、若干の金子が入れてあるから、どうか其れを足下の自由に使用して貰いたい、此れは同氏がいよいよ自己の運命の避け難きを悟った時、われわれに云い残された言葉であるから、われわれはただ正直に其れを足下に取り次ぐ迄である。
われわれは、足下の人格を信頼して居る、足下にして其の信頼に背かない限り、われわれも亦決して足下に迷惑をかける者でないと云う事を、茲に一言附け加えて置く。」
此の文句を読むや否や、私はそっと写真を手文庫の底に収めて堅く錠を卸した後、直ちに芝の園村の家に向った。
ところがどうであろう、彼の邸の玄関には、今日も依然として、角刈りの男が書生の役を勤めて居る。そうして、私が何とも云わないうちに、彼はいそいそと私を奥の書斎へ案内するのであった。
するとまた、どうであろう、書斎の中央の安楽椅子には、一昨日の晩殺された筈の園村が、ちゃんと腰をかけて、悠悠と煙草をくゆらして居るのである。私はハッと思った途端に、
「畜生! さては園村の奴め! 長い間己を担いで居たのだな。」
そう気が付いたので、つかつかと彼の傍へ寄って、
「何だい君、一体どうしたと云うんだい。今迄の事はみんなあれは〓だったんだね。僕は担がれたとも知らずに、飛んだ心配をしたじゃないか。」
こう云いながら、穴の明くほど彼の顔を覗き込んだ。実際、外の人間なら格別、相手が園村では私にしても怒る訳には行かなかった。
「いや、どうも君には済まなかった。――」
と、園村は遠くの方を見詰めながら、徐《おもむろ》に口を開いた。その表情は例の如く憂鬱で、「一杯喰わせてやった。」と云うような得意らしい色は、毛頭も現われて居なかった。
「いかにも君は担がれたに相違ない。しかし此の事件は、最初から僕が担いだ訳ではないのだ、前半は僕が纓子に担がれ、後半は君が僕に担がれたのだ。それも決して一時の慰みで担いだ訳ではないのだから、どうか其の点は十分に諒解してくれ給え。」
彼は斯う云って、その理由を下のように説明した。
纓子と云う女は、嘗て某劇団の女優を勤めた事もあって、その容貌と才智とを売り物にして居たが、先天的の悖徳狂《はいとくきよう》である上に性慾的にも残忍な特質を持って居るので、間もなく劇団から排斥されて不良少年の群に投じ、此の頃では専ら金の有りそうな男を欺す事ばかり常習として居た。ところが茲に、以前園村の邸の書生を勤めて居たSと云う男があって、其の後堕落をした結果纓子と知り合いになった為に、彼女は園村の噂をSからたびたび聞かされるようになった。園村と云う人は、金があって、暇があって、始終変った女を探し求めて居る物好きな男だ。気むずかしい代りには、多少気違いじみた性質があって、惚れた女になら自分の全財産は愚か、命までも投げ出しかねない人間だから、あなたの智慧と器量とで欺して懸かれば、きっと成功するに違いない。あなたを一と眼見たばかりで、忽ち釣り込まれてしまうようなウマイ計略を授けて上げるから、是非一つ試して御覧なさい。――こう云ってSは纓子にすすめた。
園村が例の暗号文字の紙片を拾った活動写真館の事件から、水天宮の裏の長屋で燕尾服の男が殺されるまで、それ等は凡べて纓子が仲間の男を使って、Sの案出した方策の下に、園村をわざわざ節穴へおびき寄せる手段だったのである。暗号文字の文章は、Sが面白半分に考えたので、角刈りの男はそれを殊更園村に拾わせるように落したのであった。人体を溶かすと云う青と紫との薬液も、勿論出鱈目のいたずらなので、燕尾服の男はただ殺された真似をしたに過ぎなかった。松村さん云云と云った言葉も、偶然彼女が新聞に出て居た松村子爵の事件を想い出して巧に応用したのであった。こうして園村の趣味や性癖を知悉して居るSの策略は見事に的中して、彼は忽ち纓子に魅せられてしまった。
さて此処までは園村が纓子に欺されたので、此れから先は私が彼に欺されたのである。彼は纓子と懇意になってから、程なく自分が担がれて居たと云う事を悟ったにも拘らず、それ程迄にして男を欺そうとする彼女の物好きを、――彼自身にも劣らないほどの物好きを、寧ろ喜ばずには居られなかった。彼の彼女に対する愛着はその為に一層募るばかりであった。担がれたのだとは分りながらも、彼はあの晩路地の節穴から見せられた光景を〓のようには思えなかった。自分もどうかしてあの燕尾服の男のように、纓子の手に依って命を絶たれたい。そう云う願望のむらむらと湧き上がるのを禁じ得なかった。
彼は纓子の思いのままに翻弄された。金でも品物でも欲するままに与えた。そうして最後に「私の財産は残らずお前に上げるから、何卒私をお前の手で、此の間のようにして本当に殺してくれ。此れが、私のお前に対するたった一つの願いだ。」こう云って、熱心に頼んだのであった。しかし、纓子がいかに物好きな不良少女でも、まさか其の願いばかりは承知する訳に行かなかった。
「そんならせめて私を殺す真似だけでもやってくれ。私は其の光景を、私の友達に見せてやりたいのだから。」
そこで園村は斯う云って頼んだ。――思うに園村がこんな真似をしたがるのは、単に好奇心ばかりでなく、何か彼に独特な異常な性慾の衝動が加わって居るのであろうか。――
「此処迄話をすれば、もう大概分っただろう。君を担ぎたくって担いだのではない。園村と云う人間が殺された事実を、僕も出来るだけ君と同様に真に受けて居たかったのだ、君に節穴から覗いて居て貰ったら、あの晩の気分や光景が、余計真に迫るだろうと考えたのだ。纓子さえ承知してさえくれれば、僕はいつでも本当に死んで見せる。」
と、園村は云った。
やがて扉の外に軽いスリッパアの跫音が聞えて、其処へ纓子が這入って来た。彼女はたびたび恐ろしい悪戯に用いた縮緬の扱きを両手で弄びながら、私へ紹介して貰いたそうに二人の男の間に立って、悪びれた様子もなく莞爾として微笑した。
或る罪の動機
博士を殺した下手人が常に博士の忠僕であった書生の中村であると分った時、博士の遺族の人人は皆驚いたのである。未亡人も、令息も、令嬢も、等しく言いようのない恐怖と戦慄とに撲《う》たれたのである。なぜなら、それが如何なる動機に基いて実行に迄持ち来たされたか、又あの善良な博士が如何にして災害を受ける原因を作り得たか、全くそれらが意料の範囲を逸していたから、――そうして人は、一般に、災害が何等の発見し得べき理由もなく訪れて来たとき、況んやそれが極めて陰険に、巧妙に、恰も一箇の事業を遂行するが如くに綿密な計画を以て遂行されたとき、一層その恐怖を大にするものであるから。――詰まり彼等は、人はどんなに完全に幸福であり善良であっても、いつ何時いかなる禍《わざわい》の犠牲になるかも知れないと云う事を、痛切に感じたのである。其の事は博士に徴して真理であるばかりでなく、加害者たる中村に徴しても真理であった。何となれば、――彼等の見る所では、――中村も博士と同じく幸福であり善良であったから。博士の殺されたのが偶然の禍であるとしたら、中村の博士を殺したのも、抑もその考えが中村の頭に発生したのも、矢張り偶然の禍であるとしか、彼等には思えなかったから。
で、その時、――と云うのはE探偵が紛れもない指紋に由って彼の犯罪を立証し、博士が殺されたその書斎で、遺族の人人の面前に於いて彼の自白を迫った時、中村は口辺《くちべり》に薄笑いを洩らしながら、「しまった」と云う風に頭を掻きながら、静かに言った。
「ああ、お分りになりましたか。――では仕方がございません、先生は私が殺したのです。――」
その態度は、落ち着いてはいたが横着とは見えなかった。不思議にも矢張り今迄通りの正直で忠実な書生に見えた。その素振りや物の言い振りは少しも今迄の中村を裏切らない、彼に似つかわしいものであった。強いて異点を求めれば、ただ顔色が平生よりもやや、青褪めていただけである。
「私が殺したに相違ございません、皆様は嘸《さぞ》びっくりなさいますでしょうが、私は気が違ったのでも何でもないのです、正気で実行したのです。どうか私を出来るだけ憎んで下さいまし。」
彼はそう云って、未亡人や、令息や、令嬢や、――一座を視廻しながら、はにかむように笑った。その時彼の青褪めた頬には処女のそれのような紅味がさした。
「あなた方は、なぜ私が正気で先生を殺したか? 大恩を受けた博士を殺す気になったか? きっと其の事をお疑いになるでしょう、私に取ってはそこに明かな理由があっても、あなた方は其の理由を到底想像なさる事は出来ますまいし、又お出来にならないのは御尤もだと存じますから。」
「では君は、その理由を話してくれ給え。」
と、令息が第一に尋問の語を発した。彼の調子は、中村に釣り込まれたせいか矢張り奇妙に落ち着いていた。書生に対する言葉としてはいつもより叮嚀《ていねい》なくらいであった。
「お尋ねになる迄もなく、私の方からも聞いて頂きたいのでございます。」
中村はそう言って、哀願するような眼付きをして、さて続けた。――
「その理由を、あなた方がよくお分りになるようにお話しするには、何から申し上げたらいいかちょっと見当が付かないのです。いつか一度は申し上げる時もあろうかとは思って居ましたけれども、こんなに早く其の時が来たのは全く意外なので、順序よくお話しするだけの用意が出来て居ないのです。……しかし、兎に角私は聞いて頂かなけりゃなりません、私が先生を殺しましたのはまあ、一と口に云いますと、全く殺す理由がないと云う所に理由があったのでございます。先生は申す迄もなく立派な人格の方でした。そしてその人格にふさわしい幸福な家庭の御主人であり、円満な生活を送って居らっしゃいました。先生の周囲に居られる方方は、奥様でも、御子息でも、御嬢様でも、みんな先生のように純潔な、美しい性質の方方でした。いや、あなた方ばかりではありません、斯く申す私にしても、皆様に可愛がられ又皆様によく仕えて、円満な家庭の空気を助けて居たと存じます。私は出来るだけ忠実に、正直に仕えた積りですし、あなた方もそれを信じて下さいました。ではなぜ先生を殺したか? 何処に殺す原因があったか? と云いますと、先生がそれ程円満な人格の方だった事、先生の周囲がそれ程幸福に充ちて居た事が、それが直ちに原因になったのです。此の事に就いて、私は先ず私の人間からして説明しなければなりませんが、……」
中村はここで言葉を区切って、いかにも苦しそうに息を深く吸い込んでから、
「全体私は、――」
と、一種厳粛な感じを起させる、微かな顫え声で云った。
「全体私は、いつ頃からそう云う風になったのか自分でもよく分りませんが、もう余程以前から、世の中と云うものを非常に淋しく、味気なく感じるようになって居ました。斯う云うとあなた方は、それは多分境遇の然らしめた所であるとお考えになるかも知れません。成る程私は子供の時分に頼りのない孤児として育ちましたし、先生の御宅へ御厄介になる迄は、随分不仕合わせな目に遭いましたから、或いはそんな事が影響していないとは限りませんが、しかし私の此の厭世観は決して外界の事情から来たものではなく、案外根の深いものであるように、私の生れつきの性分の中に其の芽が含まれて居たように、私自身には思えるのです。なぜなら私が世の中を詰まらなく感じるのは、自分の意志が思うように充たされない為めではなく、寧ろ私は意志と云うものを、此の世の中の何物に対しても抱き得ない為めなのです。もっと突っ込んで云えば、私は此の世の中に何一つとしてほんとうのものはない、真に欲しいと思う値打ちのあるものはない、みんな虚無だ、みんなたかの知れたものだ、と云うような気がしました。そうして其の気持ちは此の二三年来、徐徐に如何ともし難い重苦しい持病のようになって、私の精神と肉体とに喰い込んで居ました。そうです、確かに肉体にも喰い込んで居たのです、私はそれを心で感じるばかりでなく、明かに体で感じていたのですから。あなた方は私が酒も呑まず女にも近付かないと云う理由で、品行の正しい青年だとお思いになったでしょうが、それは私に強い意志があったからではなく、実は少しも意志がなかったからでした。そりゃ私にしたって、うまい物を喰えばうまいと思います、綺麗な女を見れば綺麗だと思います、だがその後から、うまいのが何だ、綺麗なのが何だ、と、直ぐそう思うのです。そうして、多少の労力を払って迄うまいものを喰ったり綺麗なものに接したりするのは、馬鹿げて居るような、大儀なような気になるのです。そんな物質的な慾望などはどうでもいいとして、精神的な物事に対してもそう云う無感激な状態に陥ったとしたら、その淋しさはどのくらいであるか、恐らくあなた方には想像も付かない事でしょう。あなた方は私を温和な柔順な青年だとお考えになったでしょうが、その実それは私が無感激の結果だったのです。意志のない私は、ただあなた方の命令通りに動きました、そうするより外私の生き方はありませんでした、私はせめてもあなた方と云うものがあって、私の体を動かして下さるのを張り合いがあると思いました。若し私に他人の意志が働きかけてくれなかったら、私は一つ所に停滞して、じっと動かずに居て、死んでしまったかも知れません。実際私は、もうしまいには生きて居るのか死んで居るのか分らなくなって居ましたから。――何かおかしい事があってあなた方がどっとお笑いになるとする、私もそれを見て成る程おかしいとは思う、が、おかしいのが何だ、と、直ぐそう思うと、笑うのさえも大儀になる。のみならず一層悪い事には、笑って居る人間が馬鹿らしく見えて来る。みんな分り切った事じゃないか、泣いたって、笑ったって、感心したって、それが結局何になるんだと云うような気がする。もうそうなると人間はおしまいです、その人にとって人生と云うものは、唯一つの単調な、無意味な存在に過ぎなくなるんです。――ああ、私は此の呪うべき気持ちの為めにどんなに長い間苦しんだでしょう。若し私の此の気持ちが単なる厭世観から来て居るのなら、哲学とか宗教とかに訴える手段もあったでしょうが、困った事には、今も云うようにそれは私の体質に喰っ着いて居るので、寧ろ厭世観よりも前にあったものなのです。私の厭世観なるものは却てそれから生じて来た結果に過ぎないと云えるでしょう。私は屡《しば》そう思いました、誰だって恐らく理窟の上からは、此の世の中にほんとうの物があるかどうかを、断言する事は出来ないだろう。誰だって私と同じように、笑ったところで泣いたところで、世の中の事は結局たかが知れて居ると、冷静に考えればそう思うだろう。しかし人間と云うものは理窟ではそう思いながら、可笑しい事があれば笑うし、悲しい事があれば泣くように出来ている。それが人間の常なのだ。すると自分には、何か人間として欠けて居る所があるのじゃないか。自分には人間の持つべき筈の感情と云うものがないのじゃないか。――そうだ、自分には意志がないと同時に感情がないのだ、自分にあるものは唯つめたい理性ばかりだ。そしてその理性に従えば、世の中には真に善い物もなければ悪い物もない、して悪いものもなければしないで悪いものもない、人間はどんな事をしたって構わないが、又どんな事をしないだって差し支えない。したいと思えば泥坊をしたって詐欺をしたって悪いとは云えないし、したくなければ懐手をして寝転んで居るがいい。自分はしたくないから何もしないので、それで一向差し支えはないんだと、私はそう云う考えで居ました。そう考える事は人間として頗る情ない、不仕合わせな事ではありましたけれども、それより外にどうしても考えようがなかったので、それは決して間違っては居なかったと思います。自分が斯うして生きて行くのは、自分としては最も自然であり、最も正しい生き方であると云う気がしたのです。……」
「ああ、ほんとうに、あの時分の気持ちは今でも忘れられませんが、実に苦しゅうございました。神とか、善とか、道徳とかを信ずる事が出来る人には、正しく生きる事が同時に幸福に生きる事であり、安心して生きる事にもなりましょうけれども、私の場合にはそうはなりませんでした。私には正しく生きる事が絶えざる不幸の意識であり、不安の原《もと》になったのです。人間らしくないとは云っても私も矢張り人間ですから、自分ながら恐ろしいような、薄気味の悪いような気もしました。私の考えは、真理として間違っていないが、人間としては間違って居るのじゃないだろうかとも思われました。人間として此れが一番悪い事で、泥坊をしたり人殺しをしたりする方が、まだ此れよりは善い事だ、幸福な事だと、そうも思いました。で、兎に角私は人間になりたかったのです。泣いたり怒ったり、泣かしたり怒らしたりする事の出来る、人間になりたかったんです。何かしら感情らしい感情を持ちたかったんです。……」
「そうすると君は、何かしらやってみたい為に人を殺したと云うのかね?」
と、その時令息が再び尋ねた。
「そうです、まあそう云ってもいいかも知れません。ですがそれには、もう少し込み入った心持ちがあった事を申し上げなけりゃなりません。何かやって見たいから人殺しをした、――ただそれだけでは一向説明にはなりませんから。――あなた方は私が、そんな風に孤独に淋しく生きて居た間に、あなた方御自身はどう云う風に暮らして居らしったか、それを考えて頂きたいと思います。あなた方は、先生も奥様も御子息もお嬢様も、一人として私がどんなに苦しんで居るかと云う事を、察しては下さいませんでした。勿論それは察し得られる訳がない、察しないのが当り前だと仰っしゃるでしょう。成る程、私も御尤もだとは思います。しかしあなた方は察して下さらないばかりでなく、御自分たちは非常に満足に、幸福に暮してお居ででした。あなた方の御様子を見ると、『人間は神を信じ、道徳を奉じて居さえすれば、決して不仕合わせはないのだ』と云う事を、信じ切って居らっしゃるようでした。私はあなた方を見ると、一層孤独の感を深め、自分の不幸を痛切に感じたのですが、あなた方にはそれがまるきりお分りにならない。御自分たちの幸福が、他人に迷惑を掛けて居ようとは夢にもお思いにならないばかりか、却って他人をも幸福にさせて居ると信じて居らっしゃる。そして和気靄靄たる家庭の空気に浸って居らっしゃる。私は別にあなた方を羨ましいとは思いませんでしたが、しかしあなた方が偶然の幸福を必然の報酬のように思って、自分たちはそうでなければならないように考えて居らっしゃるのを、反感を以て見ないでは居られませんでした。なぜなら、私に云わせればあなた方が幸福でなければならない訳はなく、私が不幸でなければならない訳もないのですから。あなた方は、正しく生きよう、信仰に生きようと云う旺盛な意志と情熱とを持って生れていらっしった。けれどもそれはあなた方の努力の結果でもなければ、そう云う風に生まれた事に、何等の必然もありはしないでしょう。あなた方はそう云う人間にお生れになった、しかしそうでなくてもよかったのだ、私のような人間に生まれたって仕方がなかったのだ、そうでなければならない事は何もないのだ。――と、私は思うのです。ですからあなた方の幸福は全く偶然の賜物であるのに、先生を始め、誰方《どなた》もそれを反省なさる様子がない。それでいいのだ、そうあるべきだと思って居らっしゃる。私はあなた方の幸福を奪い取ろうとは思いませんし、又取ろうとしたって、生まれ変って来ない限りは取れるものではありません。けれども、ただあなた方が、あなた方御自身で標榜なさる通りに、何処までも人生を正しく観察し、真理と正義とに依って生きようとなさるなら、一応御自分たちの偶然の幸運をお認めになってもよかろうと思うんです。そして私のような不運な人間に対して、ちょっと一と言ぐらい御挨拶があっても然るべきです。『どうも己達はお前に比べると大分割がいいようだが、これも運だから仕方がない、済まないけれどもあきらめてくれろ』と、そう仰っしゃってから、多少私に遠慮しながらでも、そっと御自分たちの幸福をお楽しみになるのが礼儀ではないでしょうか。それがほんとうの正しい道ではないでしょうか。ほんのちょっとした事ですけれども、その御挨拶がなかったのが非常に私には淋しゅうございました。そりゃ、あなた方に私の不運を知って頂いたって仕方がないのだし、又知らせようと思ったって、知らせる方法もないようなものですから、要するに仕方がないの一言で尽きてしまうのですが、仕方がないと思えば思うほど余計やるせない気がしました。怒ったって仕方がない、恨んだって仕方がない、あなた方の察しの悪いのを咎めたって仕方がない、何をしたって結局たかが知れて居る、と、私は又思いました。私は決して、鼓を鳴らしてあなた方を攻めようと云う勇気も出ないし、酔興もありませんでした。けれどもその為めに一層苦しく、じっとして居ると息が詰まりそうな気がしました。…………」
「……そこで、私が先生を殺しましたのは、そう云う重苦しい気持ちが募り募った結果だったと、そう云うより外はありません。私は何も最初から人を殺そうと思った訳じゃないのですが、――どうせ人を殺したってたかが知れてるとも思いましたが、――しかし先生を殺すことは、何かする事のうちでは一番しばえがある事のように感じたんです、なぜかと云うと、先生はあなた方のうちでも一番幸福な円満な方で、あなた方の幸福は先生の存在を中心として居るので、先生が居なくなったらあなた方も少しは不幸になられるだろう。そうしたら今迄の幸福が偶然だと云う事をお悟りになるだろう。――それを悟って頂いたって勿論大した意義はありそうにも思えませんが、しかし決して悪い事じゃない、悟らないよりはいい事だ、少くともあなた方に正しい人生の観方を教える事だ。それに私としては、今迄の不公平が多少取り除かれる訳で、まあいくらかは運命の片手落ちを矯正する事が出来る。と、そんな風に思ったんです。尤も世の中にはあなた方ばかりでなく、もっと好運な人たちも沢山あるでしょうし、何も先生に狙いを付けなくってもよさそうなもんですが、しかし先生は最も私の手近な所に居らっしゃいました。私は無精な人間ですから、そんなに遠い所へなんか動いて行く気はありませんでした。まあ云って見れば、私の眼の付くような所に居らっしゃったのが、先生の災難なので、同時に私の災難でもあるんです。こう云うと甚だ勝手のようですけれども、事実そうに違いないんです。私のした事は意志の働きと云うよりは、水が自然に流れたようなものなので、偶然にも傍に低い所があったもんだから、つい其の方へ流れて行ったんだと、そう解釈して頂きたいんです。……」
「いや、そんな事は云えない筈だ。」
と、E探偵が鋭い語気で口を挿んだ。
「お前は予め非常に綿密な計画を立てて、誰が見ても故殺とは思えない陰険な手段で実行したのだ。それでもお前は意志がなかったと云う積りか?」
「成る程、そのお尋ねも御尤もです。」
と、中村は、いかにも我が意を得たと云う風に頷いて見せた。
「確かに、私は非常に綿密な計画を立て、陰険な手段を考えました。ですがそれは、何も実行しようと云う意志があったからじゃないんです。私は最初、実行よりも寧ろ空想を楽しんで居たのです。私のような人間に取っては、実行は容易でない代りに、空想はどんな事でも考えますから、――実際、空想にでも耽らなければ、私はどうして孤独の時を過ごすことが出来たでしょう。あなた方のお考えでは、実行の意志があったればこそ計画したんだと仰っしゃるでしょうが、私は大概空想だけで満足しました。実行の為めの空想ではなく、空想の為めの空想を描いて、それで纔《わず》かに慰めて居ました。ただその空想が、真実性を帯びて居る程余計感興をそそったことは事実なので、従って私の計画は非常に綿密な点迄頭の中に描かれて行きました。私はありありと、恰も実行して居る通りに、その時の光景を見、心理を経験する事が出来ました。そしていつもなら、ただそれだけで止めてしまう所だったのに、余り空想が真実に近附いた結果ついほんとうに実行する気になったんです。全く、空想に釣り込まれてウッカリやってしまったんです。私のような人間になると、空想と実行との間に大した距離があるようには感じられないものですから、空想の積りでいつの間にか実行してしまったり、実行の積りで知らず識らず空想して居たり、そんな事はいくらだって有り得るので、ウッカリやってしまったと云うのが何より正直な告白なんです。ただ私は空想の中で指紋と云うものを深く考えて置きませんでした。空想と実行との違った点はそれだけでした。――私の空想がもう少し精密であり、指紋と云う事に細かい注意が払われて居たなら、恐らく凡べてが考え通りに行ったでしょう。私は長く、私の罪を発見されずに済んだでしょう。発見されたって格別悪い事はないのですが、しかし私は刑罰と云う肉体的苦痛を受けるのは、余り感心しませんから。――」
それから中村は、間もなくE探偵に引っ張って行かれた。
「御機嫌よう、――」
と、彼は書斎を出る時に、まだニヤニヤ笑いながら、一座の人人を顧みて云った。
「斯うなるくらいなら、空想だけにして置けばよかったんですね、――どうもやっぱり、私の方がよくよく不運に出来ていると見えますよ。」
私
もう何年か前、私が一高の寄宿寮に居た当時の話。
或る晩のことである。その時分はいつも同室生が寝室に額を鳩《あつ》めては、夜遅く迄蝋勉と称して蝋燭をつけて勉強する(その実駄弁を弄する)のが習慣になって居たのだが、その晩も電灯が消えてしまってから長い間、三四人が蝋燭の灯影にうずくまりつつおしゃべりを続けて居たのであった。
その時、どうして話題が其処へ落ち込んだのかは明瞭でないが、何でもわれわれは其の頃のわれわれには極く有りがちな恋愛問題に就いて、勝手な熱を吹き散らして居たかのように記憶する。それから、自然の径路として人間の犯罪と云う事が話題になり、殺人とか、詐欺とか、窃盗などと云う言葉がめいめいの口に上るようになった。
「犯罪のうちで一番われわれが犯しそうな気がするのは殺人だね。」
と、そう云ったのは某博士の息子の樋口と云う男だった。
「どんな事があっても泥坊だけはやりそうもないよ。――何しろアレは実に困る、外の人間は友達に持てるがぬすッととなるとどうも人種が違うような気がするからナア。」
樋口はその生まれつきの品の好い顔を曇らせて、不愉快そうに八の字を寄せた。その表情は彼の人相を一層品好く見せたのである。
「そう云えば此の頃、寮で頻りに盗難があるッて云うのは事実かね。」
と、今度は平田と云う男が云った。平田はそう云って、もう一人の中村と云う男を顧て、「ねえ、君」と云った。
「うん、事実らしいよ。何でも泥坊は外の者じゃなくて、寮生に違いないと云う話だがね。」
「なぜ。」
と私が云った。
「なぜッて、精しい事は知らないけれども、――」と、中村は声をひそめて憚るような口調で、「余り盗難が頻頻と起るので寮以外の者の仕業じゃあるまいと云うのさ。」
「いや、そればかりじゃないんだ。」
と、樋口が云った。
「確かに寮生に違いない事を見届けた者があるんだ。――つい此の間、真ッ昼間だったそうだが、北寮七番に居る男が一寸用事があって寝室へ這入ろうとすると、中からいきなりドーアを明けて、その男を不意にピシャリと擲《なぐ》り付けてバタバタと廊下へ逃げ出した奴があるんだそうだ。擲られた男は直ぐに追っかけたが、梯子段を降りると影を見失ってしまった。後で寝室へ這入って見ると、行李だの本箱だのが散らかしてあったと云うから、其奴が泥坊に違いないんだよ。」
「で、その男は泥坊の顔を見たんだろうか?」
「いや、出し抜けに張り飛ばされたんで顔は見なかったそうだけれども、服装や何かの様子ではたしかに寮生に違いないと云うんだ。何でも廊下を逃げて行く時に、羽織を頭からスッポリ被って駈け出したそうだが、その羽織が下り藤の紋附きだったと云う事だけが分っている。」
「下がり藤の紋附き? それだけの手懸かりじゃ仕様がないね。」
そう云ったのは平田だった。気のせいか知らぬが、平田はチラリと私の顔色を窺ったように思えた。そうして又、私も其の時思わずイヤな顔をしたような気がする。なぜかと云うのに、私の家の紋は下り藤であって、而も其の紋附きの羽織りを、その晩は着ては居なかったけれども、折り折り出して着て歩くことがあったからである。
「寮生だとすると容易に掴まりッこはないよ。自分たちの仲間にそんな奴が居ると思うのは不愉快だし、誰しも油断して居るからなあ。」
私はほんの一瞬間のイヤな気持ちを自分でも恥かしく感じたので、サッパリと打ち消すようにしながらそう云ったのであった。
「だが、二三日うちにきっと掴まるに違いない事があるんだ、――」
と、樋口は言葉尻に力を入れて、眼を光らせて、しゃがれ声になって云った。
「――此れは極く秘密なんだが、一番盗難の頻発するのは風呂場の脱衣場だと云うので、二三日前から委員がそっと張り番をして居るんだよ、何でも天井裏へ忍び込んで、小さな穴から様子を窺っているんだそうだ。」
「へえ、そんな事を誰から聞いたい?」
此の問いを発したのは中村だった。
「委員の一人から聞いたんだが、まあ余りしゃべらないでくれ給え。」
「しかし君、君が知ってるとすると、泥坊だって其の位の事はもう気が付いて居るかも知れんぜ。」
そう云って、平田は苦苦しい顔をした。
ここで一寸断って置くが、此の平田と云う男は私とは以前はそれ程でもなかったのに、或る時或る事から感情を害して、近頃ではお互いに面白くない気持ちで附き合って居たのである。尤もお互いにとは云っても、私の方からそうしたのではなく、平田の方でヒドク私を嫌い出したので、「鈴木は君等の考えて居るようなソンナ立派な人間じゃない、僕は或る事に依って彼奴の腹の底を見透かしたんだ。」と、平田が或る時私をこッぴどく罵ったと云う事を、私は嘗て友人の一人から聞いた。「僕は彼奴には愛憎を尽かした、可哀そうだから附き合ってはやるけれど、決して心から打ち解けてはやらない」と、そうも云ったと云う事であった。が、彼は蔭口をきくばかりで、一度も私の面前でそれを云い出したことはなかった。ただ恐ろしく私を忌み、若しくは侮蔑をさえもして居るらしい事は、彼の様子のうちにありありと見えて居た。相手がそう云う風な態度で居る時に、私の性質としては進んで説明を求めようとする気にはなれなかった。「己に悪い所があるなら忠告するのが当たり前だ、忠告するだけの親切さえもないものなら、或いは又忠告するだけの価値さえもないと思って居るなら、己の方でも彼奴を友人とは思うまい。」そう考えた時、私は多少の寂寞を感じはしたものの、別段その為めに深く心を悩ましはしなかった。平田は体格の頑丈な、所謂「向陵健児」の模範とでも云うべき男性的な男、私は痩せッぽちの色の青白い神経質の男、二人の性格には根本的に融和し難いものがあるのだし、全く違った二つの世界に住んで居る人間なのだから仕方がないと云う風に、私は諦めても居た。但し平田は柔道三段の強の者で、「グズグズすれば打《ぶ》ん擲るぞ」と云うような、腕ッ節を誇示する風があったので、此方が大人しく出るのは卑怯じゃないかとも考えられたが、――そうして事実、内内はその腕ッ節を恐れて居たにも違いないが、――私は幸いにもそんな下らない意地ッ張りや名誉心にかけては極く淡白な方であった。「相手がいかに自分を軽蔑しようと、自分で自分を信じて居ればそれでいいのだ、少しも相手を恨むことはない。」――こう腹を極めて居た私は、平田の傲慢な態度に報ゆるに、常に冷静な寛大な態度を以てした。「平田が僕を理解してくれないのは已むを得ないが、僕の方では平田の美点を認めて居るよ」と、場合に依っては第三者に云いもしたし、又実際そう思っても居たのだった。私は自分を卑怯だと感ずることなしに、心の底から平田を褒めることの出来る自分自身を、高潔なる人格者だとさえ己惚《うぬぼ》れて居た。
「下がり藤の紋附き?」
そう云って、平田が先《さつき》私の方をチラと見た時の、その何とも云えないイヤな眼付きが、その晩はしかし奇妙にも私の神経を刺したのである。一体あの眼付きは何を意味するのだろうか? 平田は私の紋附きが下がり藤である事を知りつつ、あんな眼付きをしたのだろうか? それともそう取るのは私の僻《ひが》みに過ぎないだろうか?――だが、若し平田が少しでも私を疑ぐって居るとすれば、私は此の際どうしたらいいか知らん?
「すると僕にも嫌疑が懸かるぜ、僕の紋も下がり藤だから。」
そう云って私は虚心坦懐に笑ってしまうべきであろうか? けれどもそう云った場合に、ここに居る三人が私と一緒に快く笑ってくれれば差し支えないが、そのうちの一人、――平田一人がニコリともせずに、ますます苦い顔をするとしたらどうだろう。私はその光景を想像すると、ウッカリ口を切る訳にも行かなかった。
こんな事に頭を費すのは馬鹿げた話ではあるけれども、私はそこで咄嗟の間にいろいろな事を考えさせられた。「今私が置かれて居るような場合に於いて、真の犯人と然らざる者とは、各各の心理作用に果たしてどれだけの相違があるだろう。」こう考えて来ると、今の私は真の犯人が味わうと同じ煩悶、同じ孤独を味って居るようである。つい先まで私は確かに此の三人の友人であった、天下の学生たちに羨ましがられる「一高」の秀才の一人であった、しかし今では、少くとも私自身の気持ちに於いては既に三人の仲間ではない。ほんの詰まらない事ではあるが、私は彼等に打ち明けることの出来ない気苦労を持って居る。自分と対等であるべき筈の平田に対して、彼の一顰一笑に対して気兼ねして居る。
「ぬすッととなるとどうも人種が違うような気がするからナア。」
樋口の云った言葉は、何気なしに云われたのには相違ないが、それが今の私の胸にはグンと力強く響いた。「ぬすッとは人種が違う」――ぬすッと! ああ何と云う厭な名だろう、――思うにぬすッとが普通の人種と違う所以は、彼の犯罪行為その物に存するのではなく、犯罪行為を何とかして隠そうとし、或いは自分でも成るべくそれを忘れて居ようとする心の努力、決して人には打ち明けられない不断の憂慮、それが彼を知らず識らず暗黒な気持ちに導くのであろう。ところで今の私は確かに其の暗黒の一部分を持って居る。私を自分が犯罪の嫌疑を受けて居るのだと云う事を、自分でも信じまいとして居る。そうして其の為めに、いかなる親友にも打ち明けられない憂慮を感じて居る。樋口は勿論私を信用して居ればこそ、委員から聞いた湯殿の一件を洩らしたのだろう、「まあ余りしゃべらないでくれ給え。」彼がそう云った時、私は何となく嬉しかった。が、同時にその嬉しさが私の心を一層暗くしたことも事実だ。「なぜそんな事を嬉しがるのだ、樋口は始めから己を疑って居やしないじゃないか。」そう思うと、私は樋口の心事に対して後ろめたいような気がした。
それから又斯う云う事も考えられた。どんな善人でも多少の犯罪性があるものとすれば、「若し己が真の犯人だったら、――」と云う想像を起すのは私ばかりでないかも知れない、私が感じて居るような不快なり喜びなりを、此処に居る三人も少しは感じて居るかも知れない、そうだとすると、委員から特に秘密を教えて貰った樋口は、心中最も得意であるべき筈である。彼はわれわれ四人の内で誰よりも委員に信頼されて居る。彼こそは最もぬすッとに遠い人種である。そうして彼が其の信頼を贏《か》ち得た原因は、彼の上品な人相と、富裕な家庭のお坊っちゃんであり博士の令息であると云う事実に帰着するとすれば、私はそう云う境遇にある彼を羨まない訳に行かない。彼の持って居る物質的優越が彼の品性を高める如く、私の持って居る物質的劣弱、――S県の水呑み百姓の伜であり、旧藩主の奨学資金でヤッと在学しつつある貧書生だと云う意識は、私の品性を卑《さも》しくする。私が彼の前へ出て一種の気怯《きおく》れを感じるのは、私がぬすッとであろうとなかろうと同じ事だ。私と彼とは矢張り人種が違って居るのだ。彼が虚心坦懐な態度で私を信ずれば信ずるほど、私はいよいよ彼に遠離《とおざか》るのを感ずる。親しもうとすればするほど、――うわべはいかにも打ち解けたらしく冗談を云い、しゃべり合い笑い合うほど、ますます彼と私との距離が隔たるのに心付く。その気持ちは我ながら奈何《いかん》ともする事が出来ない。……
「下がり藤の紋附き」は其の晩以来、長い間私の気苦労の種になった。私はそれを着て歩いたものかどうかに就いて散散頭を悩ました。仮りに平気で着て歩くとする、みんなも平気で見てくれればいいが、「あ、彼奴《あいつ》があれを着ている」と云うような眼付きをするとする、そうして或る者は私を疑い、或る者は疑っては済まないと思い、或る者は疑われて気の毒だと思う。私は平田や樋口に対してばかりでなく凡べての同窓生に対して、不快と気怯れを感じ出す、そこで又イヤになって羽織りを引っ込める、と、今度は引っ込めたが為めにいよいよ妙になる。私の恐れるのは犯罪の嫌疑その物ではなく、それに連れて多くの人の胸に湧き上がるいろいろの汚い感情である。私は誰よりも先に自分で自分を疑い出し、その為めに多くの人にも疑いを起こさせ、今迄分け隔てなく附き合って居た友人間に変なこだわりを生じさせる。私が仮りに真のぬすッとだったとしても、それの弊害はそれに附き纏うさまざまのイヤな気持ちに比べれば何でもない。誰も私をぬすッとだとは思いたくないであろうし、ぬすッとである迄も確かにそうと極まる迄は、夢にもそんな事を信ぜずに附き合って居たいであろう、そのくらいでなければわれわれの友情は成り立ちはしない。そこで、友人の物を盗む罪よりも友情を傷ける罪の方が重いとすれば、私はぬすッとであってもなくっても、みんなに疑われるような種を蒔いては済まない訳である。ぬすッとをするよりも余計に済まない訳である。私が若し賢明にして巧妙なぬすッとであるなら、――いや、そう云ってはいけない、――若し少しでも思い遣りのあり良心のあるぬすッとであるなら、出来るだけ友情を傷けないようにし、心の底から彼等に打ち解け、神様に見られても恥ずかしくない誠意と温情とを以て彼等に接しつつ、コッソリと盗みを働くべきである。「ぬすッと猛猛しい」とは蓋し此れを云うのだろうが、ぬすッとの気持ちになって見ればそれが一番正直な、偽りのない態度であろう「盗みをするのも本当ですが友情も本当です」と彼は云うだろう。「両方とも本当の所がぬすッとの特色、人種の違う所以です」とも云うだろう。――兎に角そんな風に考え始めると、私の頭は一歩一歩とぬすッとの方へ傾いて行って、ますます友人との隔たりを意識せずには居《い》られなかった。私はいつの間にか立派な泥坊になって居る気がした。
或る日、私は思い切って下がり藤の紋附きを着、グラウンドを歩きながら中村とこんな話をした。
「そう云えば君、泥坊はまだ捕まらないそうだね。」
「ああ。」
と云って、中村は急に下を向いた。
「どうしたんだろう、風呂場で待って居ても駄目なのか知らん。」
「風呂場の方はあれッ切りだけれど、今でも盛んに方方で盗まれるそうだよ。風呂場の計略を洩らしたと云うんで、此の間樋口が委員に呼びつけられて怒られたそうだがね。」
私はさっと顔色を変えた。
「ナニ、樋口が?」
「ああ、樋口がね、樋口がね、――鈴木君、勘忍してくれ給え。」
中村は苦しそうな溜め息と一緒にバラバラと涙を落した。
「――僕は今迄君に隠して居たけれど、今になって黙って居るのは却て済まないような気がする。君は定めし不愉快に思うだろうが、実は委員たちが君を疑って居るんだよ。しかし君、――こんな事は口にするのもイヤだけれども、僕は決して疑っちゃ居ない、今の今でも君を信じて居る、信じて居ればこそ黙って居るのが辛くって苦しくって仕様がなかったんだ。どうか悪く思わないでくれ給え。」
「有り難う、よく云ってくれた、僕は君に感謝する。」
そう云って、私もつい涙ぐんだ、が、同時に又「とうとう来たな」と云うような気もしないではなかった。恐ろしい事実ではあるが、私は内内今日の日が来ることを予覚して居たのである。
「もう此の話は止そうじゃないか、僕も打ち明けてしまえば気が済むのだから。」
と、中村は慰めるように云った。
「だけど此の話は、口にするのもイヤだからと云って捨てて置く訳にゃ行かないと思う。君の好意は分って居るが、僕は明かに恥を掻かされたばかりでなく、友人たる君に迄も恥を掻かした。僕はもう、疑われたと云う事実だけでも、君等の友人たる資格をなくしてしまったんだ。孰方《どつち》にしても僕の不名誉は拭われッこはないんだ。ねえ君、そうじゃないか、そうなっても君は僕を捨てないでくれるだろうか。」
「僕は誓って君を捨てない、僕は君に恥を掻かされたなんて思っても居ないんだ。」
中村は例になく激昂した私の様子を見てオドオドしながら、
「樋口だってそうだよ、樋口は委員の前で極力君の為めに弁護したと云って居る。『僕は親友の人格を疑うくらいなら自分自身を疑います』と迄云ったそうだ。」
「それでもまだ委員たちは僕を疑って居るんだね?――何も遠慮することはない、君の知ってる事は残らず話してくれ給えな、其の方がいっそ気持ちが好いんだから。」
私がそう云うと、中村はさも云いにくそうにして語った。
「何でも方方から委員の所へ投書が来たり、告げ口をしに来たりする奴があるんだそうだよ。それに、あの晩樋口が余計なおしゃべりをしてから風呂場に盗難がなくなったと云うのが、嫌疑の原《もと》にもなってるんだそうだ。」
「しかし風呂場の話を聞いたのは僕ばかりじゃない」――此の言葉は、勿論それを口に出しはしなかったけれども、直ぐと私の胸に浮かんだ。そうして私を一層淋しく情けなくさせた。
「だが、樋口がおしゃべりをした事を、どうして委員たちは知っただろう? あの晩彼処《あすこ》に居たのは僕等四人だけだ、四人以外に知って居る者はない訳だとすると、――そうして樋口と君とは僕を信じてくれるんだとすると、――」
「まあ、それ以上は君の推測に任せるより仕方がない。」そう云って中村は哀訴するような眼付きをした、「僕はその人を知って居る、その人は君を誤解して居るんだ、しかし僕の口からその人の事は云いたくない。」
平田だな、――そう思うと私はぞっとした。平田の眼が執拗に私を睨んで居る心地がした。
「君はその人と、何か僕の事に就いて話し合ったかね?」
「そりゃ話し合ったけれども、――しかし君、察してくれ給え、僕は君の友人であると同時にその人の友人でもあるんだから、その為めに非常に辛いんだよ。実を云うと、僕と樋口とは昨夜その人と意見の衝突をやったんだ、そうしてその人は今日のうちに寮を出ると云って居るんだ、僕は一人の友達の為めにもう一人の友達をなくすのかと思うと、そう云う悲しいハメになったのが残念でならない。」
「ああ、君と樋口とはそんなに僕を思って居てくれたのか、済まない済まない、――」
私は中村の手を執って力強く握り締めた、私の眼からは涙が止めどなく流れた、中村も勿論泣いた。生まれて始めて、私はほんとうに人情の温かみを味わった気がした。此の間から遣る瀬ない孤独に苛まれて居た私が、求めて已まなかったものは実に此れだったのである。たとい私がどんなぬすッとであろうとも、よもや此の人の物を盗むことは出来まい。……
「君、僕は正直な事を云うが、――」
と、暫く立ってから私が云った。
「僕は君等にそんな心配を懸けさせる程の人間じゃないんだよ。僕は君等が僕のような人間の為めに立派な友達をなくすのを、黙って見て居る訳にゃ行かない。あの男は僕を疑って居るかも知れないが、僕は未だにあの男を尊敬して居る。僕よりもあの男の方が余っぽど偉いんだ、僕は誰よりもあの男の価値を認めて居るんだ。だからあの男が寮を出るくらいなら、僕が出ることにしようじゃないか。ねえ、後生だからそうさせてくれ給え、そうして君等はあの男と仲好く暮らしてくれ給え。僕は独りになってもまだ其の方が気持ちがいいんだから。」
「そんな事はない、君が出ると云う法はないよ。」
と、人の好い中村はひどく感激した口調で云った。
「僕だってあの男の人格は認めて居る。だが今の場合、君は不当に虐げられて居る人なんだ。僕はあの男の肩を持って不正に党《くみ》する事は出来ない、君を追い出す位なら僕等が出る。あの男は君も知ってる通り非常に自負心が強くってナカナカ後へ退かないんだから、出ると云ったらきっと出るだろう。だから勝手にさせて置いたらいいじゃないか。そうしてあの男が自分で気が付いて詫《あやま》りに来る迄待てばいいんだ。それも恐らく長いことじゃないんだから。」
「でもあの男は剛情だからね、自分の方から詫りに来ることはないだろうよ、いつ迄も僕を嫌い通して居るだろうよ。」
私の斯う云った意味を、私が平田を恨んで居て其の一端を洩らしたのだと云う風に、中村は取ったらしかった。
「なあに、まさかそんな事はないさ、斯うと云い出したら飽く迄自分の説を主張するのが、あの男の長所でもあり欠点でもあるんだけれど、悪かったと思えば綺麗さっぱりと詫りに来るさ。そこがあの男の愛すべき点なんだ。」
「そうなってくれれば結構だけれど、――」
と、私は深く考え込みながら云った。
「あの男は君の所へは戻って来ても、僕とは永久に和解する時がないような気がする。――ああ、あの男はほんとうに愛すべき人間だ、僕もあの男に愛せられたい。」
中村は私の肩に手をかけて、此の一人の哀れな友を庇うようにしながら、草の上に足を投げて居た。夕ぐれのことで、グラウンドの四方には淡い靄がかかって、それが海のようにひろびろと見えた。向うの路を、たまに二三人の学生が打ち連れて、チラリと私の方を見ては通って行った。
「もうあの人たちも知って居るのだ、みんなが己を爪弾きして居るのだ。」
そう思うと、云いようのない淋しさがひしひしと私の胸を襲った。
その晩、寮を出る筈であった平田は、何か別に考えた事でもあるのか、出るような様子もなかった。そうして私とは勿論、樋口や中村とも一と言も口を利かないで、黙りこくって居た。事態が斯うなって来ては、私が寮を出るのが当然だとは思ったけれども、二人の友人の好意に背くのも心苦しいし、それに私としては、今の場合に出て行くことは疚しい所があるようにも取られるし、ますます疑われるばかりなので、そうする訳にも行かなかった。出るにしてももう少し機会を待たなけりゃならない、と、私はそう思って居た。
「そんなに気にしない方がいいよ、そのうちに犯人が捕まりさえすりゃ、自然と解決がつくんだもの。」
二人の友人は始終私にそう云ってくれて居た。が、それから一週間程過ぎても、犯人は捕まらないのみか、依然として盗難が頻発するのだった。遂には私の部屋でも樋口と中村とが財布の金と二三冊の洋書を盗まれた。
「とうとう二人共やられたかな、あとの二人は大丈夫盗まれッこあるまいと思うが、……」
その時、平田が妙な顔つきでニヤニヤしながら、こんな厭味を云ったのを私は覚えて居る。
樋口と中村とは、夜になると図書館へ勉強に行くのが例であったから、平田と私とは自然二人きりで顔を突き合わす事が屡《しば》あった。で、私はそれが辛かったので、自分も図書館へ行くか散歩に出掛けるかして、夜は成るべく部屋に居ないようにして居た。すると或る晩のことだったが、九時半頃に散歩から戻って来て、自習室の戸を明けると、いつも其処に独りで頑張って居る筈の平田も見えないし、外の二人もまだ帰って来ないらしかった。「寝室か知ら?」――と思って、二階へ行って見たが矢張り誰も居ない。私は再び自習室へ引返して平田の机の傍に行った。そうして、静かにその抽出しを明けて、二三日前に彼の国もとから届いた書留郵便の封筒を捜し出した。封筒の中には拾円の小為替が三枚這入って居たのである。私は悠悠とその内の一枚を抜き取って懐に収め、抽出しを元の通りに直し、それから、極めて平然と廊下に出て行った。廊下から庭へ降りて、テニス・コートを横ぎって、いつも盗んだ物を埋めて置く草のぼうぼうと生えた薄暗い窪地の方へ行こうとすると、
「ぬすッと!」
と叫んで、いきなり後から飛び着いて、イヤと云うほど私の横ッ面を張り倒した者があった、それが平田だった。
「さあ出せ、貴様が今懐に入れた物を出して見せろ!」
「おい、おい、そんな大きな声を出すなよ。」
と、私は落ち着いて、笑いながら云った。
「己は貴様の為替を盗んだに違いないよ。返せと云うなら返してやるし、来いと云うなら何処へでも行くさ、それで話が分って居るからいいじゃないか。」
平田はちょっとひるんだようだったが、直ぐ思い返して猛然として、続けざまに私の頬桁を擲《なぐ》った。私は痛いと同時に好い心持ちでもあった、此の間中の重荷をホッと一度に取り落したような気がした。
「そう擲ったって仕様がないさ、僕は見す見す君の罠に懸ってやったんだ。あんまり君が威張るもんだから、『何糞! 彼奴の物だって盗めない事があるもんか』と思ったのがしくじりの原なんだ。だがまあ分ったから此れでいいや、あとはお互いに笑いながら話をしようよ。」
そう云って、私は仲好く平田の手を取ろうとしたけれど、彼は遮二無二胸倉を掴んで私を部屋へ引き摺って行った。私の眼に、平田と云う人間が下らなく見えたのは此の時だけだった。
「おい君達、僕はぬすッとを捕まえて来たぜ、僕は不明の罪を謝する必要はないんだ。」
平田は傲然と部屋へ這入って、そこに戻って来て居た二人の友人の前に、私を激しく突き倒して云った。部屋の戸口には騒ぎを聞き付けた寮生たちが、刻刻に寄って来てかたまって居た。
「平田君の云う通りだよ。ぬすッとは僕だったんだよ。」
私は床から起き上がって二人に云った、極く普通に、いつもの通り馴れ馴れしく物を云った積りではあったが、矢張り顔が真青になって居るらしかった。
「君たちは僕を憎いと思うかね、それとも僕に対して恥ずかしいと思うかね。」
と、私は二人に向って言葉をつづけた。
「――君たちは善良な人たちだ、しかし不明の罪はどうしても君たちにあるんだよ。僕は此の間から幾度も幾度も正直な事を云ったじゃないか。『僕は君等の考えて居るような値打ちのある人間じゃない。平田こそ確かな人物だ、あの人が不明の罪を謝するような事は決してない』ッて、あれほど云ったのが分らなかったかね。『君等が平田君と和解する時はあっても、僕が和解する時は永久にない』とも云ったんだ。僕は『平田君の偉いことは誰よりも僕が知って居る』と迄云ったんだ。ねえ君、そうだろう、僕は決して一言半句もウソをつきはしなかっただろう。ウソはつかないがなぜハッキリとほんとうの事を云わなかったんだと、君たちは云うかも知れない。やっぱり君等を欺して居たんだと思うかも知れない。しかし君、そこはぬすッとたる僕の身になって考えてもくれ給え。僕は悲しい事ではあるがどうしてもぬすッとだけは止められないんだ。けれども君等を欺すのは厭だったから、ほんとうの事を出来るだけ廻りくどく云ったんだ。僕がぬすッとを止めない以上あれより正直にはなれないんだから、それを悟ってくれなかったのは君等が悪いんだよ。こんな事を云うと、いかにもヒネクレた厭味を云ってるようだけれども、そんな積りは少しもないんだから、何卒《どうぞ》真面目に聞いてくれ給え。それほど正直を欲するならなぜぬすッとを止めないのかと、君等は云うだろう。だが其の質問は僕が答える責任はないんだよ。僕がぬすッととして生まれて来たのは事実なんだよ。だから僕は其の事実が許す範囲で、出来るだけの誠意を以て君等と附き合おうと努めたんだ。それより外に僕の執るべき方法はないんだから仕方がないさ。それでも僕は君等に済まないと思ったからこそ『平田君を追い出す位なら、僕を追い出してくれ給え』ッて云ったじゃないか。あれはごまかしでも何でもない、ほんとうに君等の為めを思ったからなんだ。君等の物を盗んだ事もほんとうだけれど、君等に友情を持って居る事もほんとうなんだよ。ぬすッとにもそのくらいな心遣いはあると云う事を、僕は君等の友情に訴えて聴いて貰いたいんだがね。」
中村と樋口とは、黙って、呆れ返ったように眼をぱちくりやらせて居るばかりだった。
「ああ、君等は僕を図図しい奴だと思ってるんだね、やっぱり君等には僕の気持ちが分らないんだね、それも人種の違いだから仕様がないかな。」
そう云って、私は悲痛な感情を笑いに紛らしながら、尚一と言附け加えた。
「僕はしかし、未だに君等に友情を持って居るから忠告するんだが、此れからもないことじゃないし、よく気を付け給え。ぬすッとを友達にしたのは何と云っても君たちの不明なんだ、そんな事では社会へ出てからが案じられるよ。学校の成績は君たちの方が上かも知れないが、人間は平田君の方が出来て居るんだ。平田君はごまかされない、此の人は確かにえらい!」
平田は私に指されると変な顔をして横を向いた。その時ばかりは此の剛腹な男も妙に極まりが悪そうであった。
それからもう何年か経った、私は其の後何遍となく暗い所へ入れられもしたし、今では本職のぬすッと仲間へ落ちてしまったが、あの時分のことは忘れられない。殊に忘れられないのは平田である。私は未だに悪事を働く度にあの男の顔を想い出す。「どうだ、己の睨んだことに間違いはなかろう。」そう云って、あの男が今でも威張って居るような気がする。兎に角あの男はシッカリした、見所のある奴だった。しかし世の中と云うものは不思議なもので、「社会へ出てからが案じられる」と云った私の予言は綺麗に外れて、お坊っちゃんの樋口は親父の威光もあろうけれどトントン拍子に出世をして、洋行もするし学位も授かるし、今日では鉄道院○○課長とか局長とかの椅子に収まって居るのに、平田の方はどうなったのか杳として聞えない。此れだからわれわれが「どうせ世間は好い加減なものだ」と思うのも尤もな訳だ。
読者諸君よ、以上は私のうそ偽りのない記録である。私は茲に一つとして不正直な事を書いては居ない。そうして、樋口や中村に対すると同じく、諸君に対しても「私のようなぬすッとの心中にも此れだけデリケートな気持ちがある」と云うことを、酌んで貰いたいと思うのである。
だが、諸君もやっぱり私を信じてくれないかも知れない、けれども若し――甚だ失礼な言い草ではあるが、――諸君のうちに一人でも私と同じ人種が居たら、その人だけはきっと信じてくれるであろう。
途 上
東京T・M株式会社員法学士湯河勝太郎が、十二月も押し詰まった或る日の夕暮れの五時頃に、金杉橋の電車通りを新橋の方へぶらぶら散歩して居る時であった。
「もし、もし、失礼ですがあなたは湯河さんじゃございませんか。」
ちょうど彼が橋を半分以上渡った時分に、こう云って後ろから声をかけた者があった。湯河は振り返った、――すると其処に、彼には嘗て面識のない、しかし風采の立派な一人の紳士が慇懃に山高帽を取って礼をしながら、彼の前へ進んで来たのである。
「そうです、私は湯河ですが、……」
湯河はちょっと、その持ち前の好人物らしい狼狽《うろた》え方で小さな眼をパチパチやらせた。そうしてさながら彼の会社の重役に対する時の如くおどおどした態度で云った。なぜなら、その紳士は全く会社の重役に似た堂堂たる人柄だったので、彼は一と眼見た瞬間に、「往来で物を云いかける無礼な奴」と云う感情を忽ち何処へか引込めてしまって、我れ知らず月給取りの根性をサラケ出したのである。紳士は臘虎《らつこ》の襟の附いた、西班牙《スペイン》犬の毛のように房房した黒い玉羅紗の外套を纏って、(外套の下には大方モーニングを着て居るのだろう)と推定される縞のズボンを穿いて、象牙のノッブのあるステッキを衝いた、色の白い、四十恰好の太った男だった。
「いや、突然こんな所でお呼び止めして失礼だとは存じましたが、わたくしは実は斯う云う者で、あなたの友人の渡辺法学士――あの方の紹介状を頂いて、たった今会社の方へお尋ねしたところでした。」
紳士は斯う云って二枚の名刺を渡した。湯河はそれを受け取って街灯の明かりの下へ出して見た。一枚の方は紛れもなく彼の親友渡辺の名刺である。名刺の上には渡辺の手でこんな文句が認めてある、――「友人安藤一郎氏を御紹介する右は小生の同県人にて小生とは年来親しくして居る人なり君の会社に勤めつつある某社員の身元に就いて調べたい事項があるそうだから御面会の上宜敷御取計いを乞う」――もう一枚の名刺を見ると、「私立探偵安藤一郎 事務所 日本橋区蠣殻町三丁目四番地 電話浪花五〇一〇番」と記してある。
「ではあなたは、安藤さんと仰っしゃるので、――」
湯河は其処に立って、改めて紳士の様子をじろじろ眺めた。「私立探偵」――日本には珍しい此の職業が、東京にも五六軒出来たことは知って居たけれど、実際に会うのは今日が始めてである。それにしても日本の私立探偵は西洋のよりも風采が立派なようだ、と、彼は思った。湯河は活動写真が好きだったので、西洋のそれにはたびたびフィルムでお目に懸って居たから。
「そうです、わたくしが安藤です。で、その名刺に書いてありますような要件に就いて、幸いあなたが会社の人事課の方に勤めてお居での事を伺ったものですから、それで唯今会社へお尋ねして御面会を願った訳なのです。いかがでしょう、御多忙のところを甚だ恐縮ですが、少しお暇を割いて下さる訳には参りますまいか。」
紳士は、彼の職業にふさわしい、力のある、メタリックな声でテキパキと語った。
「なに、もう暇なんですから僕の方はいつでも差し支えはありません、……」
と、湯河は探偵と聞いてから「わたくし」を「僕」に取り換えて話した。
「僕で分ることなら、御希望に従って何なりとお答えしましょう。しかし其の御用件は非常にお急ぎの事でしょうか、若しお急ぎでなかったら明日では如何でしょうか? 今日でも差し支えはない訳ですが、斯うして往来で話をするのも変ですから、――」
「いや、御尤もですが明日からは会社の方もお休みでしょうし、わざわざお宅へお伺いするほどの要件でもないのですから御迷惑でも少し此の辺を散歩しながら話して頂きましょう。それにあなたは、いつも斯うやって散歩なさるのがお好きじゃありませんか。ははは」
と云って、紳士は軽く笑った。それは政治家気取りの男などがよく使う豪快な笑い方だった。
湯河は明かに困った顔付きをした。と云うのは、彼のポッケットには今しがた会社から貰って来た月給と年末賞与とが忍ばせてあった。その金は彼としては少からぬ額だったので、彼は私《ひそ》かに今夜の自分自身を幸福に感じて居た。此れから銀座へでも行って、此の間からせびられて居た妻の手套《てぶくろ》と肩掛けとを買って、――あのハイカラな彼女の顔に似合うようなどっしりした黒い毛皮の奴を買って、――そうして早く内へ帰って彼女を喜ばせてやろう、――そんなことを思いながら歩いて居る矢先だったのである。彼は此の安藤と云う見ず知らずの人間の為めに、突然楽しい空想を破られたばかりでなく、今夜の折角の幸福にひびを入れられたような気がした。それはいいとしても、人が散歩好きのことを知って居て、会社から追っ駈けて来るなんて、何ぼ探偵でも厭な奴だ、どうして此の男は己の顔を知って居たんだろう、そう考えると不愉快だった。おまけに彼は腹も減って居た。
「どうでしょう、お手間は取らせない積りですが少し附き合って頂けますまいか。私の方は、或る個人の身元に就いて立ち入ったことをお伺いしたいのですから、却って会社でお目に懸かるよりも往来の方が都合がいいのです。」
「そうですか、じゃ兎に角御一緒に其処まで行きましょう。」
湯河は仕方なしに紳士と並んで又新橋の方へ歩き出した。紳士の云うところにも理窟はあるし、それに、明日になって探偵の名刺を持って内へ尋ねて来られるのも迷惑だと云う事に、気が付いたからである。
歩き出すと直ぐに、紳士――探偵はポッケットから葉巻きを出して吸い始めた。が、ものの一町も行く間、彼はそうして葉巻を吸って居るばかりだった。湯河が馬鹿にされたような気持ちでイライラして来たことは云うまでもない。
「で、その御用件と云うのを伺いましょう。僕の方の社員の身元と仰っしゃると誰の事でしょうか。僕で分ることなら何でもお答えする積りですが、――」
「無論あなたならお分りになるだろうと思います。」
紳士はまた二三分黙って葉巻を吸った。
「多分何でしょうな、其の男が結婚するとでも云うので身元をお調べになるのでしょうな。」
「ええそうなんです、御推察の通りです。」
「僕は人事課に居るので、よくそんなのがやって来ますよ。一体誰ですか其の男は?」
湯河はせめて其の事に興味を感じようとするらしく好奇心を誘いながら云った。
「さあ、誰と云って、――そう仰っしゃられるとちっと申しにくい訳ですが、その人と云うのは実はあなたですよ。あなたの身元調べを頼まれて居るんですよ。こんな事は人から間接に聞くよりも、直接あなたに打《ぶ》つかった方が早いと思ったもんですから、それでお尋ねするのですがね。」
「僕はしかし、――あなたは御存知ないかも知れませんが、もう結婚した男ですよ。何かお間違いじゃないでしょうか。」
「いや、間違いじゃありません。あなたに奥様がおあんなさることは私も知って居ます。けれどもあなたは、まだ法律上結婚の手続きを済ましては居らっしゃらないでしょう。そうして近いうちに、出来るなら一日も早く、その手続きを済ましたいと考えて居らっしゃることも事実でしょう。」
「ああそうですか、分りました。するとあなたは僕の家内の実家の方から、身元調べを頼まれた訳なんですね。」
「誰に頼まれたかと云う事は、私の職責上申し上げにくいのです。あなたにも大凡《おおよ》そお心当たりがおありでしょうから、どうか其の点は見逃して頂きとうございます。」
「ええよござんすとも、そんな事はちっとも構いません。僕自身の事なら何でも僕に聞いて下さい。間接に調べられるよりは其の方が僕も気持ちがよござんすから。――僕はあなたが、そう云う方法を取って下すった事を感謝します。」
「はは、感謝して頂いては痛み入りますな。――僕はいつでも(と、紳士も「僕」を使い出しながら)結婚の身元調べなんぞには此の方法を取って居るんです。相手が相当の人格のあり地位のある場合には、実際直接に打つかった方が間違いがないんです。それにどうしても本人に聞かなけりゃ分らない問題もありますからな。」
「そうですよ、そうですとも!」
と、湯河は嬉しそうに賛成した。彼はいつの間にか機嫌を直して居たのである。
「のみならず、僕はあなたの結婚問題には少からず同情を寄せて居ります。」
紳士は、湯河の嬉しそうな顔をチラと見て、笑いながら言葉を続けた。
「あなたの方へ奥様の籍をお入れなさるのには、奥様と奥様の御実家とが一日も早く和解なさらなけりゃいけませんな。でなければ奥様が二十五歳におなりになるまで、もう三四年待たなけりゃなりません。しかし、和解なさるには奥様よりも実はあなたを先方へ理解させることが必要なのです。それが何よりも肝心なのです。で、僕も出来るだけ御尽力はしますが、あなたもまあ其の為めと思って、僕の質問に腹蔵なく答えて頂きましょう。」
「ええ、そりゃよく分って居ます。ですから何卒《どうぞ》御遠慮なく、――」
「そこでと、――あなたは渡辺君と同期に御在学だったそうですから、大学をお出になったのは確か大正二年になりますな?――先ず此の事からお尋ねしましょう。」
「そうです、大正二年の卒業です。そうして卒業すると直ぐに今のT・M会社へ這入ったのです。」
「左様、卒業なさると直ぐ、今のT・M会社へお這入りになった。――それは承知して居ますが、あなたがあの先の奥様と御結婚なすったのは、あれはいつでしたかな。あれは何でも、会社へお這入りになると同時だったように思いますが――」
「ええそうですよ、会社へ這入ったのが九月でしてね、明くる月の十月に結婚しました。」
「大正二年の十月と、――(そう云いながら紳士は右の手を指折り数えて、)するとちょうど満五年半ばかり御同棲なすった訳ですね。先の奥様がチブスでお亡くなりになったのは大正八年の四月だった筈ですから。」
「ええ」
と云ったが、湯河は不思議な気がした。「此の男は己を間接には調べないと云って置きながら、いろいろの事を調べている。」――で、彼は再び不愉快な顔付きになった。
「あなたは先の奥さんを大そう愛して居らしったそうですね。」
「ええ愛して居ました。――しかし、それだからと云って今度の妻を同程度に愛しないと云う訳じゃありません。亡くなった当座は勿論未練もありましたけれど、その未練は幸いにして癒やし難いものではなかったのです。今度の妻がそれを癒やしてくれたのです。だから僕は其の点から云っても、是非とも久満子《くまこ》と、――久満子と云うのは今の妻の名前です。お断りする迄もなくあなたは疾うに御承知のことと思いますが、――正式に結婚しなければならない義務を感じて居ります。」
「イヤ御尤もで、」
と、紳士は彼の熱心な口調を軽く受け流しながら、
「僕は先の奥さんのお名前も知って居ります。筆子さんと仰っしゃるのでしょう、――それからまた、筆子さんが大変病身なお方で、チブスでお亡くなりになる前にも、度び度び煩いなすった事を承知して居ります。」
「驚きましたな、どうも。さすが御職掌柄で何もかも御存知ですな。そんなに知って居らっしゃるならもうお調べになるところはなさそうですよ。」
「あはははは、そう仰っしゃられると恐縮です。何分此れで飯を喰って居るんですから、まあそんなにイジメないで下さい。――で、あの筆子さんの御病身の事に就いてですが、あの方はチブスをおやりになる前に一度パラチブスをおやりになりましたね、……斯うッと、それは確か大正六年の秋、十月頃でした。可なり重いパラチブスで、なかなか熱が下がらなかったのであなたが非常に御心配なすったと云う事を聞いて居ります。それから其の明くる年、大正七年になって、正月に風を引いて五六日寝て居らしったことがあるでしょう。」
「ああそうそう、そんなこともありましたっけ。」
「その次ぎには又、七月に一度と、八月に二度と、夏のうちは誰にでも有りがちな腹下しをなさいましたな。此の三度の腹下しのうちで、二度は極く軽微なものでしたからお休みになるほどではなかったようですが、一度は少し重くって一日二日伏せって居らしった。すると、今度は秋になって例の流行性感冒がはやり出して来て、筆子さんはそれに二度もお罹りになった。即ち十月に一遍軽いのをやって、二度目は明くる年の大正八年の正月のことでしたろう。その時は肺炎を併発して危篤な御容態だったと聞いて居ります。その肺炎がやっとの事で全快すると、二た月も立たないうちにチブスでお亡くなりになったのです。――そうでしょうな? 僕の云うことに多分間違いはありますまいな?」
「ええ、」
と云ったきり、湯河は下を向いて何か知ら考え始めた、――二人はもう新橋を渡って歳晩の銀座通りを歩いて居たのである。
「全く先の奥さんはお気の毒でした。亡くなられる前後半年ばかりと云うものは、死ぬような大煩いを二度もなすったばかりでなく、其の間に又胆を冷やすような危険な目にもチョイチョイお会いでしたからな。――あの、窒息事件があったのはいつ頃でしたろうか?」
そう云っても湯河が黙って居るので、紳士は独りで頷きながらしゃべり続けた。
「あれは斯うッと、奥さんの肺炎がすっかりよくなって、二三日うちに床上げをなさろうと云う時分、――病室の瓦斯ストオブから間違いが起こったのだから何でも寒い時分ですな、二月の末のことでしたろうかな、瓦斯の栓が弛んで居たので、夜中に奥さんがもう少しで窒息なさろうとしたのは。しかし好い塩梅に大事に至らなかったものの、あの為めに奥さんの床上げが二三日延びたことは事実ですな。――そうです、そうです、それからまだこんな事もあったじゃありませんか、奥さんが乗り合い自動車で新橋から須田町へおいでになる途中で、その自動車が電車と衝突して、すんでの事で……」
「ちょっと、ちょっとお待ち下さい。僕は先からあなたの探偵眼に少からず敬服して居ますが、一体何の必要があって、いかなる方法でそんな事をお調べになったのでしょう。」
「いや、別に必要があった訳じゃないですがね、僕はどうも探偵癖があり過ぎるもんだから、つい余計な事迄調べ上げて人を驚かして見たくなるんですよ。自分でも悪い癖だと思って居ますが、なかなか止められないんです。今直きに本題へ這入りますから、まあもう少し辛抱して聞いて下さい。――で、あの時奥さんは、自動車の窓が壊れたので、ガラスの破片で額へ怪我をなさいましたね。」
「そうです。しかし筆子は割りに呑ん気な女でしたから、そんなにビックリしても居ませんでしたよ。それに、怪我と云ってもほんの擦り傷でしたから。」
「ですが、あの衝突事件に就いては、僕が思うのにあなたも多少責任がある訳です。」
「なぜ?」
「なぜと云って、奥さんが乗り合い自動車へお乗りになったのは、あなたが電車へ乗るな、乗り合い自動車で行けとお云い付けになったからでしょう。」
「そりゃ云い付けました――かも知れません。僕はそんな細細した事迄ハッキリ覚えては居ませんが、成る程そう云い付けたようにも思います。そう、そう、確かにそう云ったでしょう。それは斯う云う訳だったんです、何しろ筆子は二度も流行性感冒をやった後でしたろう、そうして其の時分、人ごみの電車に乗るのは最も感冒に感染し易いと云う事が、新聞なぞに出て居る時分でしたろう、だから僕の考えでは、電車より乗り合い自動車の方が危険が少いと思ったんです。それで決して電車へは乗るなと、固く云い付けた訳なんです、まさか筆子の乗った自動車が、運悪く衝突しようとは思いませんからね、僕に責任なんかある筈はありませんよ。筆子だってそんな事は思いもしなかったし、僕の忠告を感謝して居るくらいでした。」
「勿論筆子さんは常にあなたの親切を感謝してお居ででした、亡くなられる最後迄感謝してお居ででした。けれども僕は、あの自動車事件だけはあなたに責任があると思いますね。そりゃあなたには奥さんの御病気の為めを考えてそうしろと仰っしゃったでしょう。それはきっとそうに違いありません。にも拘らず、僕は矢張りあなたに責任があると思いますね。」
「なぜ?」
「お分りにならなければ説明しましょう、――あなたは今、まさかあの自動車が衝突しようとは思わなかったと仰っしゃったようです。しかし奥様が自動車へお乗りになったのはあの日一日だけではありませんな。あの時分、奥さんは大煩いをなすった後で、まだ医者に見て貰う必要があって、一日置きに芝口のお宅から万世橋の病院まで通って居らしった。それも一と月くらい通わなければならない事は最初から分って居た。そうして其の間はいつも乗り合い自動車へお乗りになった。衝突事故があったのは詰まり其の期間の出来事です。よござんすかね、ところでもう一つ注意すべきことは、あの時分はちょうど乗り合い自動車が始まり立てで、衝突事故が屡《しば》あったのです。衝突しやしないかと云う心配は、少し神経質の人には可なりあったのです。――ちょっとお断り申して置きますが、あなたは神経質の人です、――そのあなたがあなたの最愛の奥さんを、あれほど度び度びあの自動車へお乗せになると云う事は少くとも、あなたに似合わない不注意じゃないでしょうか。一日置きに一と月の間あれで往復するとなれば、その人は三十回衝突の危険に曝されることになります。」
「あははははは、其処へ気が付かれるとはあなたも僕に劣らない神経質ですな。成る程、そう仰っしゃられると、僕はあの時分のことをだんだん想い出して来ましたが、僕もあの時満更それに気が付かなくはなかったのです、けれども僕は斯う考えたのです。自動車に於ける衝突の危険と、電車に於ける感冒伝染の危険と、孰方《どつち》がプロバビリティーが多いか。それから又、仮りに危険のプロバビリティーが両方同じだとして、孰方が余計生命に危険であるか。此の問題を考えて見て、結局乗合自動車の方がより安全だと思ったのです。なぜかと云うと、今あなたの仰っしゃった通り月に三十回往復するとして、若し電車に乗れば其の三十台の電車の孰《いず》れにも、必ず感冒の黴菌が居ると思わなければなりません。あの時分は流行の絶頂期でしたからそう見るのが至当だったのです。既に黴菌が居るとなれば、其処で感染するのは偶然ではありません。然るに自動車の事故の方は此れは全く偶然の禍です。無論どの自動車にも衝突のポシビリティーはありますが、しかし始めから禍因が歴然と存在して居る場合とは違いますからな。次ぎには斯う云う事も私には云われます。筆子は二度も流行性感冒に罹って居ます、此れは彼女が普通の人よりもそれに罹り易い体質を持って居る証拠です。だから電車へ乗れば、彼女は多勢の乗客の内でも危険を受ける可く択ばれた一人とならなければなりません。自動車の場合には乗客の感ずる危険は平等です。のみならず僕は危険の程度に就いても斯う考えました、彼女が若し、三度目に流行性感冒に罹ったとしたら、必ず又肺炎を起すに違いないし、そうなると今度こそ助からないだろう。一度肺炎をやったものは再び肺炎に罹り易いと云う事を聞いても居ましたし、おまけに彼女は病後の衰弱から十分恢復し切らずに居た時ですから、僕の此の心配は杞憂ではなかったのです。ところが衝突の方は、衝突したから死ぬと極まってやしませんからな。よくよく不運な場合でなけりゃ大怪我をすると云う事もないし、大怪我がもとで命を取られるような事はめったにありゃしませんからな。そうして僕の此の考えは矢張り間違っては居なかったのです。御覧なさい、筆子は往復三十回の間に一度衝突に会いましたけれど、僅かに擦り傷だけで済んだじゃありませんか。」
「成る程、あなたの仰っしゃることは唯それだけ伺って居れば理窟が通って居ます。何処にも切り込む隙がないように聞えます。が、あなたが唯今仰っしゃらなかった部分のうちに、実は見逃してはならないことがあるのです。と云うのは、今のその電車と自動車との危険の可能率の問題ですな、自動車の方が電車よりも危険の率が少い、また危険があっても其程度が軽い、そうして乗客が平等にその危険性を負担する、此れはあなたの御意見だったようですが、少くともあなたの奥様の場合には、自動車に乗っても電車と同じく危険に対して択ばれた一人であったと、僕は思うのです。決して外の乗客と平等に危険に曝されては居なかった筈です。詰まり、自動車が衝突した場合に、あなたの奥様は誰よりも先に、且恐らくは誰よりも重い負傷を受けるべき運命の下に置かれて居らしった。此の事をあなたは見逃してはなりません。」
「どうしてそう云う事になるでしょう? 僕には分りかねますがね。」
「ははあ、お分りにならない? どうも不思議ですな。――しかしあなたは、あの時分筆子さんに斯う云う事を仰っしゃいましたな、乗り合い自動車へ乗る時はいつも成る可く一番前の方へ乗れ、それが最も安全な方法だと――」
「そうです、その安全と云う意味は斯うだったのです、――」
「いや、お待ちなさい、あなたの安全と云う意味は斯うだったでしょう、――自動車の中にだって矢張りいくらか感冒の黴菌が居る。で、それを吸わないようにするには、成るべく風上の方に居るがいいと云う理窟でしょう。すると乗り合い自動車だって、電車ほど人がこんでは居ないにしても、感冒伝染の危険が絶無ではない訳ですな、あなたは先この事実を忘れてお居でのようでしたな。それからあなたは今の理窟に附け加えて、乗り合い自動車は前の方へ乗る方が震動が少い。奥さんはまだ病後の疲労が脱け切らないのだから、成るべく体を震動させない方がいい。――此の二つの理由を以て、あなたは奥さんに前へ乗ることをお勧めなすったのです。勧めたと云うよりは寧ろ厳しくお云い付けになったのです。奥さんはあんな正直な方で、あなたの親切を無にしては悪いと考えて居らしったから、出来るだけ命令通りになさろうと心懸けてお居ででした。そこで、あなたのお言葉は着着と実行されて居ました。」
「……………………」
「よござんすかね、あなたは乗り合い自動車の場合に於ける感冒伝染の危険と云うものを、最初は勘定に入れて居らっしゃらなかった。居らっしゃらなかったにも拘らず、それを口実にして前の方へお乗せになった――ここに一つの矛盾があります。そうしてもう一つの矛盾は、最初勘定に入れて置いた衝突の危険の方は、その時になって全く閑却されてしまったことです。乗り合い自動車の一番前の方へ乗る、――衝突の場合を考えたら、此のくらい危険なことはないでしょう、其処に席を占めた人は、その危険に対して結局択ばれた一人になる訳です。だから御覧なさい、あの時怪我をしたのは奥様だけだったじゃありませんか、あんな、ほんのちょっとした衝突でも、外のお客は無事だったのに奥様だけは擦り傷をなすった。あれがもっとひどい衝突だったら、外のお客が擦り傷をして奥様だけが重傷を負います。更にひどかった場合には、外のお客が重傷を受けて奥様だけが命を取られます。――衝突と云う事は、仰っしゃる迄もなく偶然に違いありません。しかし其の偶然が起こった場合に、怪我をすると云う事は、奥様の場合には偶然でなく必然です。」
二人は京橋を渡った、が、紳士も湯河も、自分たちが今何処を歩いて居るかをまるで忘れてしまったかのように、一人は熱心に語りつつ一人は黙って耳を傾けつつ真直ぐに歩いて行った。――
「ですからあなたは、或る一定の偶然の危険の中へ奥様を置き、そうして其の偶然の範囲内での必然の危険の中へ、更に奥様を追い込んだと云う結果になります。此れは単純な偶然の危険とは意味が違います。そうなると果たして電車より安全かどうか分らなくなります。第一、あの時分の奥様は二度目の流行性感冒から直ったばかりの時だったのです、従って其の病気に対する免疫性を持って居られたと考えるのが至当ではないでしょうか。僕に云わせれば、あの時の奥様には絶対に伝染の危険はなかったのでした。択ばれた一人であっても、それは安全な方へ択ばれて居たのでした。一度肺炎に罹ったものがもう一度罹り易いと云う事は、或る期間を置いての話です。」
「しかしですね、その免疫性と云う事も僕は知らないじゃなかったんですが、何しろ十月に一度罹って又正月にやったんでしょう。すると免疫性も余りアテにならないと思ったもんですから、……」
「十月と正月との間には二た月の期間があります。ところがあの時の奥様はまだ完全に直り切らないで咳をして居らしったのです。人から移されるよりは人に移す方の側だったのです。」
「それからですね、今お話の衝突の危険と云うこともですね、既に衝突その物が非常に偶然な場合なんですから、その範囲内での必然と云って見たところが、極く極く稀な事じゃないでしょうか。偶然の中の必然と単純な必然とは矢張り意味が違いますよ。況《いわ》んや其の必然なるものが、必然怪我をすると云うだけの事で、必然命を取られると云う事にはならないのですからね。」
「けれども、偶然ひどい衝突があった場合には必然命を取られると云う事は云えましょうな。」
「ええ云えるでしょう、ですがそんな論理的遊戯をやったって詰まらないじゃありませんか。」
「あははは、論理的遊戯ですか、僕は此れが好きだもんですから、ウッカリ図に乗って深入りをし過ぎたんです、イヤ失礼しました。もう直き本題に這入りますよ。――で、這入る前に、今の論理的遊戯の方を片附けてしまいましょう。あなただって、僕をお笑いなさるけれど実はなかなか論理がお好きのようでもあるし、此の方面では或いは僕の先輩かも知れないくらいだから、満更興味のない事ではなかろうと思うんです。そこで、今の偶然と必然の研究ですな、あれを或る一個の人間の心理と結び付ける時に、茲に新たなる問題が生じる、論理が最早や単純な論理でなくなって来ると云う事にあなたはお気付きにならないでしょうか。」
「さあ、大分むずかしくなって来ましたな。」
「なにむずかしくも何ともありません。或る人間の心理と云ったのは詰まり犯罪心理を云うのです。或る人が或る人を間接な方法で誰にも知らせずに殺そうとする。――殺すと云う言葉が穏当でないなら、死に至らしめようとして居る、そうして其の為めに、その人を成るべく多くの危険へ露出させる。その場合に、その人は自分の意図を悟らせない為めにも、又相手の人を其処へ知らず識らず導く為めにも、偶然の危険を択ぶより外仕方がありません。しかし其の偶然の中に、ちょいとは眼に付かない或る必然が含まれて居るとすれば、猶更お誂え向きだと云う訳です。で、あなたが奥さんを乗り合い自動車へお乗せになった事は、たまたま其の場合と外形に於いて一致しては居ないでしょうか? 僕は『外形に於いて』と云います、どうか感情を害しないで下さい。無論あなたにそんな意図があったとは云いませんが、あなたにしてもそう云う人間の心理はお分りになるでしょうな。」
「あなたは御職掌柄妙なことをお考えになりますね。外形に於いて一致して居るかどうか、あなたの御判断にお任せするより仕方がありませんが、しかしたった一と月の間、三十回自動車で往復させただけで、その間に人の命が奪えると思って居る人間があったら、それは馬鹿か気違いでしょう。そんな頼りにならない偶然を頼りにする奴もないでしょう。」
「そうです、たった三十回自動車へ乗せただけなら、其の偶然が命中する機会は少いと云えます。けれどもいろいろな方面からいろいろな危険を捜し出して来て、其の人の上へ偶然を幾つも幾つも積み重ねる、――そうすると詰まり、命中率が幾層倍にも殖えて来る訳です。無数の偶然的危険が寄り集まって一個の焦点を作って居る中へ、その人を引き入れるようにする。そうなった場合には、もう其の人の蒙むる危険は偶然でなく必然になって来るのです。」
「――と仰っしゃると、たとえばどう云う風にするのでしょう?」
「たとえばですね、ここに一人の男があって其の妻を殺そう、――死に至らしめようと考えて居る。然るに其の妻は生れつき心臓が弱い。――此の心臓が弱いと云う事実の中には、既に偶然的危険の種子《た ね》が含まれて居ます。で、その危険を増大させる為めに、ますます心臓を悪くするような条件を彼女に与える。たとえば其の男は妻に飲酒の習慣を附けさせようと思って、酒を飲むことをすすめました。最初は葡萄酒を寝しなに一杯ずつ飲むことをすすめる、その一杯をだんだんに殖やして食後には必ず飲むようにさせる、斯うして次第にアルコールの味を覚えさせました。しかし彼女はもともと酒を嗜む傾向のない女だったので、夫が望むほど酒飲みにはなれませんでした。そこで夫は、第二の手段として煙草をすすめました。『女だって其のくらいな楽しみがなけりゃ仕様がない。』そう云って、舶来のいい香のする煙草を買って来ては彼女に吸わせました。ところが此の計略は立派に成功して、一と月ほどのうちに、彼女はほんとうの喫煙家になってしまったのです、もう止そうと思っても止せなくなってしまったのです。次ぎに夫は、心臓の弱い者には冷水浴が有害である事を聞き込んで来て、それを彼女にやらせました。『お前は風を引き易い体質だから、毎朝怠らず冷水浴をやるがいい。』と、其の男は親切らしく妻に云ったのです。心の底から夫を信頼して居る妻は直ちに其の通り実行しました。そうして、それらの為めに自分の心臓がいよいよ悪くなるのを知らずに居ました。ですがそれだけでは夫の計画が十分に遂行されたとは云えません。彼女の心臓をそんなに悪くして置いてから、今度は其の心臓に打撃を与えるのです。詰まり、成るべく高い熱の続くような病気、――チブスとか肺炎とかに罹り易いような状態へ、彼女を置くのですな。其の男が最初に択んだのはチブスでした。彼は其の目的で、チブス菌の居そうなものを頻りに妻君に喰べさせました。『亜米利加《ア メ リ カ》人は食事の時に生水を飲む、水をベスト・ドリンクだと云って賞美する』などと称して、妻君に生水を飲ませる。刺し身を喰わせる、それから、生の牡蠣と心太《ところてん》にはチブス菌が多い事を知って、それを喰わせる、勿論妻君に勧める為めには夫自身もそうしなければなりませんでしたが、夫は以前にチブスをやったことがあるので、免疫性になって居たんです。夫の此の計画は、彼の希望通りの結果を齎《もたら》しはしませんでしたが、殆ど七分通りは成功しかかったのです。と云うのは、妻君はチブスにはなりませんでしたけれども、パラチブスに罹りました。そうして一週間も高い熱に苦しめられました。が、パラチブスの死亡は一割内外に過ぎませんから、幸か不幸か心臓の弱い妻君は助かりました。夫はその七分通りの成功に勢いを得て、其の後も相変らず生物を喰べさせることを怠らずに居たので、妻君は夏になると屡下痢を起こしました。夫は其の度び毎にハラハラしながら成り行きを見て居ましたけれど、生憎にも彼の註文するチブスには容易に罹らなかったのです。するとやがて、夫の為めには願ってもない機会が到来したのです。それは一昨年の秋から翌年の冬へかけての悪性感冒の流行でした。夫は此の時期に於いてどうしても彼女を感冒に取り憑かせようとたくんだのです。十月早早、彼女は果たしてそれに罹りました、――なぜ罹ったかと云うと、彼女は其の時分咽喉を悪くして居たからです。夫は感冒予防の嗽《うが》いをしろと云って、わざと度の強い過酸化水素水を拵えて、それで始終彼女に嗽いをさせて居ました。その為めに彼女は咽喉カタールを起こして居たのです。のみならず、ちょうど其の時に親戚の伯母が感冒に罹ったので、夫は彼女を再三其処へ見舞いにやりました。彼女は五度び目に見舞いに行って、帰って来ると直ぐに熱を出したのです。しかし、幸いにして其の時も助かりました。そうして正月になって、今度は更に重いのに罹ってとうとう肺炎を起こしたのです。……」
こう云いながら、探偵はちょっと不思議な事をやった、――持って居た葉巻きの灰をトントンと叩き落すような風に見せて、彼は湯河の手頸の辺を二三度軽く小突いたのである、――何か無言の裡に注意をでも促すような工合いに。それから、恰も二人は日本橋の橋手前迄来て居たのだが、探偵は村井銀行の先を右へ曲って、中央郵便局の方角へ歩き出した。無論湯河も彼に喰着いて行かなければならなかった。
「此の二度目の感冒にも、矢張り夫の細工がありました。」
と、探偵は続けた。
「その時分に、妻君の実家の子供が激烈な感冒に罹って神田のS病院へ入院することになりました。すると夫は頼まれもしないのに妻君を其の子供の附添人にさせたのです。それは斯う云う理窟からでした。――『今度の風は移り易いからめったな者を附き添わせることは出来ない。私の家内は此の間感冒をやったばかりで免疫になって居るから、附添人には最も適当だ。』――そう云ったので、妻君も成る程と思って子供の看護をして居るうちに、再び感冒を背負い込んだのです。そうして妻君の肺炎は可なり重態でした。幾度も危険のことがありました。今度こそ夫の計略は十二分に効を奏しかかったのです。夫は彼女の枕許で彼女が夫の不注意から斯う云う大患になったことを詫りましたが、妻君は夫を恨もうともせず、何処までも生前の愛情を感謝しつつ静かに死んで行きそうに見えました。けれども、もう少しと云うところで今度も妻君は助かってしまったのです。夫の心になって見れば、九仞《じん》の功を一簣《き》に欠いた、――とでも云うべきでしょう。そこで、夫は又工夫を凝らしました。此れは病気ばかりではとてもいけない、病気以外の災難にも遇わせなければいけない。――そう考えたので、彼は先ず妻君の病室にある瓦斯ストオブを利用しました。その時分妻君は大分よくなって居たから、もう看護婦も附いては居ませんでしたが、まだ一週間ぐらいは夫と別の部屋に寝て居る必要があったのです。で、夫は或る時偶然にこう云う事を発見しました。――妻君は、夜眠りに就く時は火の用心を慮って瓦斯ストオブを消して寝る事。瓦斯ストオブの栓は、病室から廊下へ出る閾《しきい》際にある事。妻君は夜中に一度便所へ行く習慣があり、そうして其の時には必ず其の閾際を通る事。閾際を通る時に、妻君は長い寝間着の裾をぞろぞろと引き擦って歩くので、その裾が五度に三度までは必ず瓦斯の栓に触る事。若し瓦斯の栓がもう少し弱かったら、裾が触った場合に其れが弛むに違いない事。病室は日本間ではあったけれども、建て具がシッカリして居て隙間から風が洩らないようになっている事。――偶然にも、其処にはそれだけの危険の種子が準備されて居ました。茲に於いて夫は、その偶然を必然に導くにはほんの僅かの手数を加えればいいと云う事に気が付きました。それは即ち瓦斯の栓をもっと緩くして置く事です。彼は或る日、妻君が昼寝をして居る時にこっそりと其の栓へ油を差して其処を滑かにして置きました。彼の此の行動は、極めて秘密の裡に行われた筈だったのですが、不幸にして彼は自分が知らない間にそれを人に見られて居たのです。――見たのは其時分彼の家に使われて居た女中でした。此の女中は、妻君が嫁に来た時に妻君の里から一緒に附いて来た者で、非常に妻君思いの、気転の利く女だったのです。まあそんな事はどうでもよござんすがね、――」
探偵と湯河とは中央郵便局の前から兜橋を渡り、鎧橋を渡った。二人はいつの間にか水天宮前の電車通りを歩いて居たのである。
「――で、今度も夫は七分通り成功して残りの三分で失敗しました。妻君は危く瓦斯の為めに窒息しかかったのですが、大事に至らないうちに眼を覚まして、夜中に大騒ぎになったのです。どうして瓦斯が洩れたのか、原因は間もなく分りましたけれど、それは妻君自身の不注意と云う事になったのです。其の次ぎに夫が択んだのは乗り合い自動車です。此れは先もお話したように、妻君が医者へ通うのを利用したので、彼は有らゆる機会を利用する事を忘れませんでした。そこで自動車も亦不成功に終った時に、更に新しい機会を掴みました。彼に其の機会を与えた者は医者だったのです。医者は妻君の病後保養の為めに転地する事を勧めたのです。何処か空気のいい処へ一と月ほど行って居るように。――そんな勧告があったので、夫は妻君に斯う云いました、『お前は始終煩ってばかり居るのだから、一と月や二た月転地するよりもいっそ内中でもっと空気のいい処へ引っ越すことにしよう。そうかと云って、余り遠くへ越す訳にも行かないから、大森辺へ内を持ったらどうだろう。彼処なら海も近いし、己が会社へ通うのにも都合がいいから。』此の意見に妻君は直ぐ賛成しました。あなたは御存知かどうか知りませんが、大森は大そう飲み水の悪い土地だそうですな、そうして其のせいか伝染病が絶えないそうですな、――殊にチブスが。――詰まり其の男は災難の方が駄目だったので再び病気を狙い始めたのです。で、大森へ越してからは一層猛烈に生水や生物を妻君に与えました。相変らず冷水浴を励行させ喫煙を勧めても居ました。それから、彼は庭を手入れして樹木を沢山に植え込み、池を掘って水溜まりを拵え、又便所の位置が悪いと云って其れを西日の当るような方角に向き変えました。此れは家の中に蚊と蠅とを発生させる手段だったのです。いやまだあります、彼の知人のうちにチブス患者が出来ると、彼は自分は免疫だからと称して屡其処へ見舞いに行き、たまには妻君にも行かせました。こうして彼は気長に結果を待って居る筈でしたが、此の計略は思いの外早く、越してからやっと一と月も立たないうちに、且今度こそ十分に効を奏したのです。彼が或る友人のチブスを見舞いに行ってから間もなく、其処には又どんな陰険な手段が弄ばされたか知れませんが、妻君は其の病気に罹りました。そうして遂に其の為めに死んだのです。――どうですか、此れはあなたの場合に、外形だけはそっくり当て篏りはしませんかね。」
「ええ、――そ、そりゃ外形だけは――」
「あははは、そうです、今迄の所では外形だけはです。あなたは先の奥さんを愛して居らしった、兎も角外形だけは愛して居らしった。併し其れと同時に、あなたはもう二三年も前から先の奥様には内証で今の奥様を愛して居らしった。外形以上に愛して居らしった。すると今迄の事実に此事実が加わって来ると、先の場合があなたに当て篏る程度は単に外形だけではなくなって来ますな。――」
二人は水天宮の電車通りから右へ曲った狭い横町を歩いて居た。横町の左側に「私立探偵」と書いた大きな看板を掲げた事務所風の家があった。ガラス戸の篏った二階にも階下にも明りが煌煌と灯って居た。其処の前まで来ると、探偵は「あはははは」と大声で笑い出した。
「あはははは、もういけませんよ、もうお隠しなすってもいけませんよ。あなたは先から顫えて居らっしゃるじゃありませんか。先の奥様のお父様が今夜僕の内であなたを待って居るんです。まあそんなに怯えないでも大丈夫ですよ。ちょっと、ちょっと此処へお這入んなさい。」
彼は突然湯河の手頸を掴んでぐいと肩でドーアを押しながら明かるい家の中へ引き擦り込んだ。電灯に照らされた湯河の顔は真青だった。彼は喪心したようにぐらぐらとよろめいて其処にある椅子の上へ臀餅《しりもち》を搗《つ》いた。
前 科 者
一
己《おれ》は前科者だ。そうして而も芸術家だ。己のあの忌まわしい破廉恥罪が暴露して、いよいよ監獄へ送られた時、平生己の芸術を崇拝して居た世間の奴等は、どんなにびっくりしただろう。せめて犯罪の性質が、女にでも関係があるなら、何とか彼とか同情のしようもあろうけれど、純然たる金銭上の問題で詐欺を働いたのだから、凡べての人が愛想をつかしたのも無理はない。最後の最後まで、己に好意を持って居てくれた二三人の友だちも、あの時以来すっかり己を見放してしまった。いや己自身ですら、己を見放したくらいであった。
「なんだ馬鹿馬鹿しい、僅かばかりの金を欲しがって、何と云う浅ましい、愚劣な真似をしたものだ。己は此れでも芸術家だと云う事が出来るのか。やれ新進の美術家だの稀世の天才だのと、人にも云われ、自分でも己惚《うぬぼ》れて居た癖に、こんなみじめな態《ざま》を演じて、恥ずかしいとは思わないか。」
己は自分で斯う云って見た、己は何よりも、此の事件に依って、自己の優越の傷つけられたのが口惜しかった。世間の奴等から、詐欺だの、悪党だの、破廉恥漢だのと呼ばれる事は必ずしもそれ程口惜しくはない。(己は実際、生まれつき悖徳性《はいとくせい》を持って居るのだから、そう呼ばれたって不都合だとは思わない。)詐欺だろうが悪党だろうが、己は世間の善人よりも遥かに勝れた天才と叡智とを持って居るのだから、その点に於いて、己は彼等よりも優越な種族だと信じて居た。(信じない迄も、そう云う風に、自己弁護を試みて居た。)ところが、優越な種族であるべき筈の人間が、彼等の拵えた法律に触れて、彼等の社会の制裁を受けるべく、暗い牢屋へ入れられても、己自身の胸の中に、優越の感情が残ってさえ居れば、己はまだ「優越」を叫ぶ権利があるかも知れないが、悲しいかな、己はすっかり自分で自分を見下げ果ててしまった。獄屋に繋がれると同時に、己の日頃の傲慢はあとかたもなく消えて行って、臆病な、意気地のない、弱弱しい気持ちばかりが己の頭に巣を喰うようになった。己は世間に対し、詐欺を働いた相手に対し、顔向けのならないような心地がする。今迄彼等より優越であると思って居た己は、その実彼等よりも遥かに劣等な階級に属する、智力の足りない、勇気の乏しい、哀れむべき痴呆であるように感ぜられる。第一、あの時迄己を憎んだり呪ったりして居た人間が、あれ以来、急に態度を一変して、反って己の先天的欠陥に、憐愍の情を催して居る。全く己を不具者扱いにして、一段高い所に立って、己の性癖を気の毒がり、己の犯罪を笑い草にして居る。彼等から敵視されて居た己は、いつの間にか彼等から滑稽視されてしまって居る。そうして己は気の毒がられたり滑稽視されたりするのを、我れながら尤もな事だと思い、いよいよますます自らを卑しゅうして居る。実際こうなっては、人間もおしまいだ。……
二
あの時、己があんなになって迄も猶己を捨てないで居てくれたのは、己の女房と友人の村上とだけだった。己はほんとうに、あの二人にだけは心の底から感謝しなければならない。あの二人が居なかったら、己は事に依ると、首をくくって死んで居たかも分らない。
「君が牢屋に這入ったに就いて、君と云うものをよく知らない世間の人が驚いたのは当然の事だ。けれども、何も、君自身迄がそんなに失望したり落胆したりする理由はないじゃないか。君が破廉恥罪を犯したと云う事は、平生の君の性格と少しも矛盾してはいない。君の生涯に、今度のような事件の起こり得ることは、前前から分り切って居た。僕は君がそう云う人間であるのを承知で、而も君の天才を信じて居たのだ。そうして今でも信じて居るのだ。僕にさえ予想の出来たことが、君自身に予想の出来なかった筈はない。君は今度の事件に依って、始めて憐むべき人間になったのではない。君は以前から非凡の芸術家であると同時に、憐むべき欠陥を備えた人間だったのだ。ただ、今度の事件が起こる迄は、君は平生自己の優越の方面ばかりを正視して、劣等の方面を忘れて居る日が多かった。しかし、君は其れを忘れて居ても、知らなかったとは云われまい。知らないどころか、君は随分、持って生まれた自分の悪い性癖を呪ったり嘆いたりして居たじゃないか。……要するに、今更うろたえたり口惜しがったりするには及ばない。殊に今度の事件の為めに、自信をなくしたなどと云うのは滑稽千万だ。君の自信は始めから、君の芸術に対してのみ存在の理由を持って居たのだ。君は動《やや》ともすると、その旺盛な自信力を知らず識らず不正当な範囲に迄拡大して、君の人格全体に賦与する傾向があったけれど、其れはちょうど、或る食物を美味であるから滋養があると考えるような間違いだった。君の人格は最初からゼロであるが、君の芸術的天分は最初から偉大であった、君は前科者になった今日でも、君の芸術に対しては依然として自信を把持するに差し支えはない。人格上の不具者は真の芸術家たる能わずと云う議論は、一応尤ものようだけれど、畢竟君の天才を嫉視する凡庸の徒の俗説に過ぎない。君のような卑しむべき悖徳《はいとく》漢にして、猶且偉大なる芸術的作品を世に示して居ると云う事実が、雄弁に彼等の俗説を打破して居る。君の頭の中にある悖徳性も、芸術的空想も共に天から授かって居る以上は、人為的に其れをどうする訳にも行かない。われわれは、地球の回転を止める事が出来ないと等しく、君の犯罪的傾向や芸術的感興を如何ともする事は出来ない。君は此の後とても、たびたび牢へ入れられるような悪い事をするだろう。そうして又、天下を驚倒するような創作をも発表するだろう。君はすりや巾着切りと同じ種属の人間であり、同時にダンテやミケランジェロの住んだ世界に迄飛躍する。君は社会の公道を大手を振って歩く事の出来ない、肩身の狭い不具者なる事を自覚しつつ、一面に於いて、自己の天才を飽く迄も恃《たの》んで居るがいい。」
三
こんな文句を、村上は長い長い手紙に書いて、己の許へ送って来た。己はあの手紙を読んだ時、生まれて始めて、真に感激の涙と云うものを味わった。(己は全体、多くの罪人がそうであるように、生来涙もろい性分で、泣く事は上手だったが、ほんとうに、腹の底から涙を流したのは、あの時だけだった。)己は確かにあの手紙のお蔭で救われた。あの手紙を読んでから、己は急に命が惜しくなり、自殺するのを思い止まった。一旦己を見捨ててしまった自信力が、再び俄に、涌然として己の胸中を襲って来た。「己は社会的不具者なるが故に、」と云う前提から「憐むべき劣等人種である。」と云う結論を発見して悲観して居たのが、今度は同じ前提から、「己の芸術は天才的である。」と云う結論を引き出す様になった。己は自ら省て、過去の犯罪を恥ずると同時に、ますます自己の芸術的天分を信ぜずには居られなくなった。己の勇気は百倍した。
己は村上の手紙を膝の上に乗せてじっと其れを視凝《みつ》めたまま長い間いろいろの事を考えて見た。――
成る程、村上の云う通り己が憐むべき悖徳狂であることは、己自身にも、また或る一部の友人の間にも以前から分り切って居た事だ。現に今迄に幾度となく、己は他人の物を欺き取り盗み取った覚えがある。にも拘わらず、今度の事件が起こる迄、其れが格別大した問題にならなかったのはなぜだろうか。己の友人や崇拝者や保護者たちは、今日迄己の不徳義を許して置きながら、たまたま己の行為が法律に触れただけの事で俄に己を軽蔑するのはなぜだろうか。己が獄に投ぜられたと云う事実は、己が罪人としての立派な形式を備えたと云うだけで、格別己の内容に変化が起った訳ではない。彼等の己を好愛し、崇拝し、保護した所以のものは、己の天才にあるのだとすると、己の境遇が外面的に変ったからと云って、遽遽然《きよきよぜん》として己を擯斥《ひんせき》し忌憚《きたん》するのは、全く理由のないことである。其処へ行くと、村上の態度は飽く迄も徹底して居る。少しく己惚れの強い言い草かも知れないが、彼は己の天才を認めて居る点に於いて、彼自身の天才を証拠立てて居る。
多分、世間の奴等は、今迄己を此れほどの破廉恥漢だとは思って居なかったのだろう。己がちょいと不都合を働くのは、芸術家に有りがちのずぼらの結果であって、腹からの悪人ではないと極めて居たのだろう。一体文明社会の人間は、めったに人を悪人だと思いたがらない。石川五右衛門や村井長庵のようなブリリアントな悪党が出て来ない限りは、大概の罪人を善人の部に入れようとする。彼等は、自分たちの住んで居る世の中には、善人が多いのだ。と信じなければ、不愉快で溜まらないのだろう。だから彼等は、自分の周囲に罪人を発見すると、いろいろの方面から其の男の心理状態を弁護し、説明し、結局何とか彼とか口実を設けて、彼を善人にしてしまう。そうして而も、そう解釈するのが近代的だと心得て居る。
四
例えば彼等の知人の一人が何か悪事を働いて検事局へ送られた場合に、彼等は必ずこんな事を云う。
「あの男も人はいいんだけれど、詰まり馬鹿なんだよ。」
こう云って無理にも罪人を善人であったとする。「好人物」とか、「馬鹿」とか云う性質は、その人を善人だと信ずるのに、最も有力な口実となるのである。
彼等の口実は、まだ此の外にも沢山ある。怒りっぽいと云う事、臆病と云う事、神経質と云う事――此れ等の特質は皆彼等の抱いて居る「悪人」と云う概念には、あて篏まらないものであるらしい。
「悪党がって居る癖に、あの男は直きに腹を立てる。やっぱり彼奴《あいつ》は人が好いんだね。」とか、「あの男は悧巧だけれども、胆ッ玉が小さいからとても悪い事は出来やしない。」とか、そんな簡単な理由の下に、造作もなく人を善人にしてしまう。前にも断って置いた通り、彼等が人を善人にしたがるのは、弱者に対する深い同情の結果ではなく、自己の不快を蔽わんが為めなのである。
己は、自分が悖徳狂である事は、十分に知り抜いて居たのだけれど、幸か不幸か、彼等の拠って以て善人なりとする特徴を具えて居た為めに、長い間悪人の部類へ入れられずに済んで来た。己は馬鹿ではなかったがしかし確かに或る点に於いて、怒りっぽくもあり、臆病でもあり、神経質でもあり、好人物でもあった。お蔭で己は悪事を働く度び毎に「君は人がいいんだけれど……」と、彼等に云われた。それを結句いい事にして、己はますます増長したものだった。
折角世間が善人にして置いてくれるものをたって悪人になりたくはないが、何と云っても己は悪人に相違ないのだ。一体好人物であるが故に、臆病であるが故に、或いは又怒りっぽいが故に、彼は善人であると云う理窟は何処にあるのか、善人と悪人との間に劃然たる区別はないと云う事は勿論或る程度まで真理に違いない。問題は其の程度にあるのだが、己は善人悪人の区別を、世間の人が考えて居るほど、曖昧なものだとは思わない。見方に依っては、両者の間に可なり「劃然たる」区別があるのだ。
己に云わせると、善人悪人の区別は、どうしても「誠意」若しくは「愛情」の有無に帰さなければならない。こんな事を云ったら、中にはきっと反対する奴があるだろう。「世の中に誠意のない人間は居ない。どんな悪人でも、心の底の何処か知らに、知らず一片の誠意が潜んで居る筈だ。」と云うだろう。ところがそれは飛んでもない間違いなのだ。「少くとも、微塵の誠意も愛情もない人間が、一人だけは確かに居る、それは己だ。」と云ってやりたい。
「しかしお前は、他人の不幸を見て涙を流したことがあるだろう。それはお前に愛情があり、誠意がある証拠ではないか。」
こんな詰問をする奴があったら、よっぽどおめでたい人間だ。涙なんて云うものは、田舎芝居の寺小屋を見たって、だらしなく流れ出すことがあるものだ。涙が「誠意」や「愛情」の証拠になって溜まるものか。
五
己も最初は涙に対して多大の信用を置いて居た。親父にしみじみと意見された時や、たった一人の妹が死んだ時や、そう云う場合に、「ああ悪い事をした。」「ああ可哀そうな事をした。」と思って、さめざめと泣き崩れた覚えがある。「こんなに涙が出る以上は、現在己の胸の中に湧き上がった感情も真実に違いない。己は今度こそ、ほんとうに後悔したのだ。ほんとうに善人になったのだ。己にもやっぱり誠意があったのだ。」――そう思って喜んだのも幾度だか分らない。ところが生憎にも、涙と云うものは人間の魂の深い所に源泉を発するのではなく、極めて上ッ面の、気分とか情調とか云うものに支配されるのだ。畢竟、自分の周囲を取り巻いて居る情調に対して、最も感覚の鋭敏な者が、涙脆いと云う事になるのだ。
己の経験に拠ると、不思議にも善人よりは悪人の方が、気分に対する感覚が鋭敏に出来上がって居る。凡べて犯罪性を帯びた人間には、独立した自己の情操と云うものがなく、全然周囲の気分に依って左右されて居る。彼等は実に相手の顔色を読むことが上手である。相手が悲哀の感情を抱いて居れば、自分も直ぐに悲しい気持ちになり、相手が高潔なる道徳的のセンチメントを持って居れば、自分も忽ち善人であるような心地がする。だから涙脆い人間は、善人よりも悪人の方に多いのである。
気分に対する感覚が鋭敏であるが故に、彼等は往往にして神経質だと思われ、怜悧だと思われる。自分で悪事を働いて置きながら、その時の気分に依っては、彼等は随分悪を憎み攻撃する事がある。かかる場合の彼等の感情は決して偽りではなく、心からそう思い込んで居るのである。
己も悪人の御多分に洩れず、相手次第でいろいろに気分の変る男である、善人と話しをして居ると、己はいつでも自分が善人になった気で居る。そうして相手の一言一句に賛成し、同感する。しまいには其の善人の云おうとする事や、考えて居る事が、企まずして自然と此方の胸中にも浮かび出るようになる。たまたま先方の腹の中を、此方からぴたりと旨く云い中《あ》てて、相手の賛同を得たりすると、己はいよいよ図に乗って、自分を善人だと信じてしまう。だから一度でも己と会話をした人は、大概己が好きになるらしい。
悪人が人を欺くのは、欺く事に興味があるのではなく、寧ろ人に好かれたいと云う希望から、相手の気分に順応する結果であろうと思う。悪人は人を欺く事よりも、人に好かれる事が愉快な為めに、心にもない〓をつくのである。
「そんな矛盾した理窟はない。人に好かれることを望むならば、なぜ悪事を働くのだ。」
こう云う疑問に対しては、
「悪人であればこそ人に好かれたいと思うのだ。」
と、答えるより仕方がない。恐らく此の気持ちは、己のような悪人に生れて来なければ、ほんとうに理解する事は出来ないだろう。
悪人は善悪種種の気分に対して鋭敏なる感受性を具えているけれども、其の気分たるや、極めて上ッ面なもので、決して彼等の魂の奥までは浸潤しない。彼等の魂の奥の方には、「自分は忌まわしき悪人である。」と云う意識が、時時刻刻に変化する気分とは無関係に、ちゃんと潜在して居るのである。此の故に凡べての悪人は、心中常に孤独を感じ、寂寞に悩んで居る。彼等が人に好かれたいと願うのは、其の為めなのである。
六
しかし、いくら他人に好かれても、他人の感情に融合しても、要するに何処迄行っても気分の範囲を出る事は出来ない。人に好かれれば好かれるほど、感情が一致すればするほど、彼等はますます孤独の感を深くする。自分と相手とは、表面上どんなに親密らしく見えても性格の本質には、踰《こ》ゆる事の出来ない相違があって、自分は先天的の悖徳狂であると云う僻み根性が、絶えず彼等に附き纏って居る。己は悪人だから、善人の心理状態はよく分らないが、善人にはいかに孤独な場合でも、神とか良心の慰藉とか云う者があるそうである。して見ると、真に孤独の意味を知って居る者は、悪人だけではないだろうか。彼等の孤独の背景には、神だの良心だのと云う光明や色彩は寸毫もなく、ただ真黒な、暗澹たる闇があるばかりである。その堪え難い孤独から紛れようとして、彼等は頻りに世間との交際を求める。従って彼等の交際は、ただ賑やかに冗談を云い合ったり、酒を飲み合ったりするのが目的で、芝居を見たり、うまい物を喰ったりするのと、余り大した違いはない。
けれども、人間は気分ばかりで附き合って居る訳には行かない。長い間にはいつか必ず、気分の奥に隠れて居る魂と魂とを、見せ合わなければならない時機が到来する。そうなると悪人は善人に捨てられてしまう。己なんかは悪人のうちでも余程聡明な方だから、成るたけ魂を見せ合わせなければならないほどの、親密な関係を作らないように、始終気を付けて交際して居た。その為めに己はどんなに頭を使い、神経を痛めたか分らない。己の方では相当の距離を保って出来るだけ上ッ面の交際を続けようとしても、中には先方からどしどし距離を踏み越して、魂をさらけ出して親密な交際を挑んで来る奴がある。「己は悪党なのだから、そうされては困るのだ。」と、腹の中では呟きながら、己の方でも拠んどころなく本性を現わす、結局其の男に不義理を重ね、不徳義極まる行為を示して、絶交される迄もなく、此方から遠ざかるような始末になる。殊に己は普通の悪人と違って、諸方面に崇拝者だの保護者だのを持って居るのだからそう云う危険が非常に多い。金があって、正直で、熱心なる芸術の愛好者だと云うような篤志家が、己の盛名を慕って接近して来る度び毎に、己はいつでも一種の不安を感ぜずには居られない。
「孰《いず》れ此の男とも、絶交しなければならないようになるのかなあ。」
そう思うと、遣る瀬ない淋しさ悲しさが込み上げて来る、そんな男が現われた場合には、構わずどんどん悪事を働いて早く絶縁してしまうか、然らずんば極めてあっさりと附き合って誘惑に脅やかされぬように、予防線を張るのである。
七
そんな次第であるから、己は己の知人を最初から二た通りに分けて置く。不義理をして絶交されてもいい人と、不義理をせずに体裁よく交際を続けて行く人と、こう云う風に分類して、その積りで附き合うのである。此の計画を実行するには、なかなかの苦心が要る。第一、己は始終前者に属する友人と、後者に属する友人とを、接触させないように努めなければならない。前者に対しては赤裸裸に己の悖徳性を発揮し、後者に対しては飽く迄芸術の面目を維持しようとする。
断って置くが、己は何も故意に、金のありそうな奴とか、欺すに都合のいい奴とかを、知人の中から択び出して前者に加えるのではない。彼等が二つの種類に分けられるのは、多く偶然の機会に因るのである。此の男には今に迷惑をかけそうだなと思っても、どうかした工合いで、何事もなく済んで行く事もある。此の人とは清く交わって行きたいと考えても、ひょいとした弾みで、悪癖を出す事もある。だから大体二た種類に分けてあるとは云うものの、前者に属して居た人が段段後者に加わったり、後者の一人が突然前者に変ったりする。彼等の運命は、己にも全く分らない。ところで、此の計画が成立する為には、「己の知人は己の悪事に対して、何等の復讐をも摘発をもする筈がない。」と云う、一個の仮設的条件を必要とする。若しも彼等が、己の悪徳を感付いた際に、秘密を守ってくれるだけの親切がなかったら、後者に属する友人もみんな己の陋劣なる品性に愛想を尽かして、遠離ってしまうだろう。詰まり、「己の知人は悉く親切であり、善人である。」と云う予想を基礎にして、己の友人操縦策が成り立つのである。己は自分を悪人であると信ずると共に、世間の人を善人だと極めて居るのである。
おかしな事には、悪人ほど他人の善を信じたがる者はない。彼等は、自分が年中〓をつくから、他人も〓をつくのだろうとは思って居ない。〓をつくのは自分ばかりで、他人は皆正直だと考えて居る。(それ故に彼等は孤独を感ずるのである。)此の意味に於いて彼等は至極おめでたく出来上がって居る。悪人は屡《しば》人を欺く代わりに、自らも欺かれ易い人間である。悪人の性質に、おめでたい所がなかったとしたら、彼等の悪は成功する訳がない。
「彼奴はおめでたいから善人だ。」
と云う、世間の常識判断は、悪人の心理を解せざること夥しいものである。世間の常識は善人の常識であって、悪人の常識ではないのである。
さて、上に述べた二た種類の友だち以外に、一人で此の二た種類を兼ねて居る友達がある。己が忌まわしい悖徳漢であることを知りつつ、己の為めに一再ならず迷惑を蒙りつつ、猶且己を見放さないで、誠心誠意を以て己と交際しようとする。たとえば彼《あ》の村上のような男である。彼等は詰まり己の人格を疎んじながら、己の天才に未練を繋いで居るのである。
「君は不徳義だ、恥知らずだ」
こう云って、ぶつぶつ不平を鳴らしながら、彼等は辛抱強く己に喰ッ着いて来る。己の悪癖につくづく惘《あき》れ果てながら、己の創作に接すると、「あッ」と驚嘆の声を挙げて、そのまま己の罪悪をも不都合をも忘れてしまう。
八
そう云う連中に対しては己は何処迄もずうずうしくなる。「此れでもか、此れでもか。」と云わんばかりに畳みかけて悪事を働く。己のように意志の薄弱な人間に、彼等のような寛大な、なまじっか理解に富んだらしい態度を示すことは、お互の不幸であって、要するに己の犯罪をますます多くさせる結果に終るのであるが、そう気が付いた時分には、既に両方とも引くに引かれないはめになって居る。
「また欺されたか、糞忌ま忌ましい!」彼等がこう思う時は己の方でも、「また彼の男を欺してしまった。悪いことをしたなあ。」と思う。それで両方とも容易に絶縁しようとはしない。「あれ程の天才芸術家と、金の為めに分れなければならなくなるのは悲しい事だ。」と彼等は考える。「あれ程己の芸術を愛して居てくれる人に、不信を重ねなければならないとは、何と云う辛いことだろう。」と己も考える。己も彼等と共共に、己自身の悪性に就いて嘆声を発しながら、極めて不愉快な、重苦しい感情を抱いて交際を続けて行く。……
己が今度、牢屋へ這入るようになったのも、元はと云えばそう云う関係の友人と、絶交すべくして絶交せずに、余り深く附き合い過ぎた為めなのだ。己は勿論、あの友人に対して少しも恨みを云う筋はない。恨むどころか手を合わせて感謝するのが当然である。だが己もあの友人も、余り不愉快を忍び過ぎた。あの人は、途方のない己のずうずうしさに対して、もう少し断然たる処置を執ってくれればよかった。こんな事を云うと、自分の不都合を棚に上げて罪咎もない相手の人を非難するように聞えるけれど、己は己自身を不具者と認めて居るのだから、相手の人に頼るより外仕方がないのだ。
己があの人――K男爵と懇意になったのは、今から三四年前、己の油絵が始めて文展に出品された年のことである。K男爵の名は、その以前からディレッタントの青年貴族として、己たちの仲間へ知れ渡って居ただけに、あの油絵が男爵に買われたことは、他の何人に買われるよりも、己に取って光栄であり幸福であった。あの当時、絵の具の費用に迄窮して居た己は、一挙にして三百円と云う大金が手に這入ったのみならず、美術批評家として定評のある男爵に認められた事によって、世間一般からも認められる事が出来た。
「君ぐらいの伎倆があれば、西洋なら立派に喰って行かれるのだが、日本ではまだ油絵が流行らないから仕方がない。」
男爵は折り折りこう云って、己の貧乏に同情を寄せてくれたけれど、しかし兎に角、女房を貰って一家を構え、粗末ながらアトリエを建てて、どうやらこうやら暮して行けるようになったのは、全く男爵のお蔭である。そればかりか、男爵は機会のある毎に諸種の美術雑誌で己の芸術を賞揚し、己の前途を祝福してくれた。
己は男爵と交際する始めに当って、特に自分の悪癖を警戒して已まなかった。男爵の邸を訪ねて珍らしい泰西の名画の複製を見せられたり、美術上の意見を聞かされたりする度び毎に、年に似合わぬ男爵の該博なる学識と、典雅なる人品とに多大の敬意を払わずには居られなかった。
九
「こう云う立派な人と万一絶交しなければならなくなったら己はどんなに悲しいだろう。己の頭の奥に、此の人の夢にも想像することの出来ない、忌まわしい悪い魂が宿って居ると云うことは、何と云う情ない事実だろう。己は生涯、少くとも此の人に対してだけは、悪い魂を見せてはならぬ。何とかして、清く美しく交際を保たねばならぬ。」己は男爵の前へ出るといつもそう思った。いつも誘惑と戦って居るような危険を覚えずには居られなかった。だからほんとうの浄い交際、親密の間にも自ら尊敬があり、馴れ馴れしい内にも一と通りの礼儀のある、己に麗わしい友誼が続いたのは、ほんの一年ぐらいではなかったろうか。二人は間もなく最後の遠慮を撤廃して赤裸裸で向かい合うようになった。二人の関係を其処まで進ませた罪は、どうしても双方にあると己は思う。せめて男爵が十も二十歳も歳が上で、年長者としての圧力を持って居たらば、あんなに迄恥じ知らずの交際をするようにはならなかったろう。何を云うにも男爵は己と同年の青二才で、しかし非常の平民主義の、極端に正直な好人物であった。彼は己から恩人扱いにされたり、華族扱いにされるのを嫌って、何処までも芸術家の仲間へ入れて貰いたかった。お互に名前を呼び捨てにして、乱暴な書生気質を発揮して居るうちはまだ好かったが、己はいつしか、彼が男爵である事を忘れてしまい、彼はまた己の芸術を真面目臭って褒めたりなんかしなくなった。此れが一番悪い事だった。
爾来三四年の間に、己は幾度彼を欺いて金を借り倒したか分らない。多い時は百円、少い時は五十円――額は大概そのくらいだが、Kは其の金を惜しむよりも、寧ろ己に欺されるのを喜ばなかった。殊にその欺し方の、余り空空しく、狡猾で、鉄面皮を極めて居るのが、彼には溜まらなく不愉快であったらしい。己が借金を申し込みに行くと、最初の五六回は気持ちよく貸してくれたのに、だんだん手数が面倒になって、しまいには二人共、黙然として睨み合って居るような光景が屡演ぜられた。
「君にしても僕にしても、こう云う話をするのは決してお互に愉快ではない。君にしたって、こんな話を持ち込んで来る時は嘸《さぞ》かし厭な思いをするのだろう。それは僕にも無論よく分って居る。……」
Kは、息苦しい沈黙に堪えられないと云う風に、こう云って口を切るのが常であった。
「……恐らく僕と同じ程度に、君は不愉快を感じて居るに違いない。君は僕が、人から借金を申し込まれると、断り難い性分だと云うことを知って居る。その弱点を知って居られるだけに、僕は誰よりも、君から頼まれた時に一層断り難く感じる。その事は君はよく知って居る筈だ。」
一〇
「そう云われると、僕は何だか君の弱点に附け込んで居るように聞えるけれど、僕はなまじっか君の性分を知って居るだけ、余計気持ちが悪いんだよ。僕はいかにも、君が人から金を貸せと云われると、断り切れない性分なのを知って居る。君に云わせれば、その弱点を呑み込まれて居るだけ、僕に対して余計断り難いと云うだろうけれど、僕の方では其の為めに却って頼み難いのだ。君の弱点を知って居ると云うことが、今度は僕の弱点になるのだ。僕に対して君は最も断り難い事情を持ち、君に対して、僕は最も頼み難い地位に立って居る。だからいつでも金の話が持ち上がると、二人は散散梃擦らなければならなくなる。それを承知で、こうして君に頼むのだから、よくよくの場合だと思ってくれ給え。」
己がまた長長と、こんな調子で弁明する。KはKの好人物をさらけ出し、己は己の薄志弱行を告白し、双方がヘルプレッスな状態になって助け船を待って居る。そうして孰方《どつち》も積極的に動こうとしないから、話が容易に片附かない。そのうち二人はいよいよ胸糞を悪くする。
「話をすれば話をするほど、いやな気持ちになるばかりだから、いつも好い加減に切り上げて、結局君に用立てる事になってしまうんだが、しかしよくよくの場合と云うのが、そう君のようにたびたび起るのはどう云う訳だろう。こう云うと君の言葉を疑うようで悪いけれど、……」
と、Kは妙に改まった口吻で、遠廻しに質問の矢を放つ。平生なら可なり思い切った人身攻撃を試みる癖に、借金の問題が搦まって来るとお互いにぎこちない物の云いようをして、猶更わざとらしい、不自然な情勢を作り上げてしまう。
「よくよくの場合と云うことを精しく説明するとなると、僕は此の上にも不愉快な気持ちを忍ばなければならないから、その事情は大凡《おおよ》そ推察して貰うより仕方がない。だが兎に角よくよくの場合なのだ。たびたび起るにしても、やっぱりよくよくの場合なのだ。」
己はまるでだだっ児のように条理の立たない返辞をする。けれどもこんな事を云う時に限って、だだを捏ねて居る積りでなく、自分の腹の中では、確かによくよくの場合だと信じ切って居るのである。
「そんなら君、そのよくよくの場合に、若しも僕が承知をしなかったら、どうなるんだね。誤解してくれては困るが、僕は決して、君が〓をついて居ると云うのではない。君は全く自分でよくよくの場合と信じて居るのだろう。だが、よくよくの場合であるような気がして居ても、案外よくよくの場合でないことがありはしないかと、僕は思うのだ。君は今日僕のところへ金を借りに来れば、大概成功するだろうと予想している。そうして多分その予想は、的中することになるだろうが、(Kはこう云って如何にも悧巧そうににやりと笑うのが常である。)若しその予想がなかったら、君は恐らくよくよくの場合になる迄、ぽかんとして放って置きはしないだろう、詰まり事態がよくよくの場合まで漕ぎ着けるのは、僕から金を借りられる予想があるからではないのかね。」
一一
「しかし君、何処迄がよくよくの場合で、何処からがよくよくの場合でないと云う、劃然たる区別がある訳じゃないのだから、君から金を借り得られると云う予想があった為めに、故意によくよくの場合を作ったと云うことは出来ない。任意の二つの事件が、相前後して存在する場合に、後者を前者の結果であるとする訳には行くまい。」
己はつい躍起になって、こんな屁理窟を云う。尤も、屁理窟である点は、Kの説も己と同様なのだが、金を借りようとする弱味があるので、兎角己の方が受け太刀になり易い。それが又Kに取っては一つの愉快であるらしい。なぜかと云うと、彼は学識の点に於いて、己に勝って居るにも拘わらず、芸術的感覚が己より遥かに鈍いために、美術上の議論を闘わすと、近頃は往往己に遣り込められる事がある。Kは此の際を利用して、其の鬱憤を晴らすことが出来るのである。Kの遣り方は卑怯ではあるが、己もK自身も、それを卑怯だと感付くだけの余裕がなく、矢張りいつもの美術上の議論をする己と同じ気持ちで、互いに言い捲くられまいとする。
「そりゃ、君はそう云う風に思って居るだろうさ。――けれどもだね、よくよくの場合と云う事は外に方法がないと云う窮境にあることを意味するだろう。そこで若し僕から金を借りられると云う予想がなかったら、そうして実際僕が金を貸さなかったら、君は一体どうするのかね。」
「どうすると云って、……僕は君から金を借りられない場合を考えて置かなかったから、どうしていいか自分にも全く分らないが、ただもう途方に暮れると云うより外、仕方がないだろう。少くとも、僕は君にこんな話を持ち出す迄に、出来るだけの手段を講じて見たのだ。八方へ駈け擦り廻って金策をしても、遂に成功しなかったので君の処へやって来たのだ、だから君に断られれば、今度は誰に頼もうと云うあてもないのだ。」
己はこう云って、話題を屁理窟から実際問題の方へ向き直させる。それをKはまた屁理窟の方へ引っ張って行く。
「君のよくよくの場合が、僕から金を借り得ると云う予想とは、何等の関係もなく発展したのだとすれば、君は当然、僕に断られた時を考えなければならないじゃないか。」
「そう云われればそうかも知れないが、僕は御承知の通り、金の事に就いては行き当たりばったりの人間だから、先の先迄考えるような事をしないのだ。断られた場合にどうするかと云う質問を受けて見ると、成る程己はどうする気だったろうと考える。しかし考えたところで別段方法もないのだからまあその時に打《ぶ》つかって見なければ分らないのだ。」
「そうだろう、君はいつでも、その行き当たりばったり主義で通して来たのだろう。つまり、よくよくの場合で、事体が行き詰まってしまっても、その場になれば自然と解決の道が開けて、思ったよりは何事もなく君は其処を乗っ切って来たのだろう。今度にしても、打つかって見なければ分らないと云うのは、手段が尽きたと云う事ではなく、何とかして凌げない事もないと云う意味になるだろう。だから君のような行き当たりばったり主義の人には、よくよくの場合と云うものはない事になる。」
一二
全体、Kがこう云う工合いに屁理窟を並べるには、いろいろの動機があるのだ。彼は自分が好人物である事――自分の情に脆い性質を、己に看破されて居る為に、己から借金を申し込まれると、どうしても拒絶する事が出来ないと云う、けれどそれは一面の真理であって、他の一面から見ると、外の人になら訳もなく貸してやる場合でも、己に対しては、性質を呑み込まれて居る為に、却って快く貸す事が出来ない。己に金を貸すのは、恩恵を施したような気がしないで、何となく馬鹿にされたような気がするのである。そこで、馬鹿にされまいとする努力が、此のうねうねした屁理窟となって現われる。
その位なら、いっそきっぱりと己の頼みを撥ねつけて了えばいいのに、其処が飽く迄も、彼の性質で「いやだ。」と云い切る事が出来ない。結局己の予想通り、金を貸さねばならなくなる事は自分にもよく分って居る。大袈裟に云えば、自分の行為が他人の意志に支配されて居ると云う意識――此の意識が彼の自尊心を甚だしく傷付けるので、彼は何等かの形式に於いて、己に勝たなければ承知しない。金は取られても負けたくないと云うのが、彼の腹なのである。金を取られる以上は、事実は彼の負けであるかも知れないが、せめて自分が勝ったような気持ちになり、相手に負けたような気持ちを与えたいのである。
己の第一の目的は金にあるのだから、早く議論に負けてしまえばいいのだが、己としては、一種のディレンマに陥らざるを得なくなる。己は社会へ顔向けも出来ない破廉恥漢の癖に、非常識に負けじ魂の激しい人間で、他人の恩恵を強請しながら自分を「負けた」と認める事が嫌いである。
「議論には負けましたが、どうぞ金だけは貸して下さい。」
こう云って、哀願する気にはなれない。
勿論、Kの意見に反抗して居る間はいつ迄立っても金を受け取る段取りにならないから、出来得る限りは譲歩して、Kの論理を通させるように心懸ける。実際に又、論理の対象となるものは己の性癖なのだから、勢い己の方が冷静を失して、Kに遣り込められる場合が多い。すると、議論に負けるのはまだいいとして、余り明白に負け過ぎたら、相手が金を貸したくも貸す理由を失いはせぬか、と云うような懸念が、己の胸に湧いて来る。Kの方でも、金だけは取られるものとして、屁理窟を並べて居るのだが、「よくよくの場合でない。」と云う彼の意見をあわよくば己に承認させて、借金の口実を消滅させようと云う魂胆が、まるきりないのでもなさそうである。だから己は利害関係の上からも、うっかり負け過ぎる訳に行かない。さればと云って、勝ち過ぎては猶更いけない。
それでなくても受け太刀のところへ、そう云う心配のある為めに、己の論理は一層たじたじになり、曖昧になる。Kは得たりと附け込んで、ますます妙竹林な詭弁を発揮する。おまけに彼は不断から論理的頭脳の明晰を以て自ら任じ、動《やや》ともすれば其れを誇示する癖があるのだから、始末が悪い。
一三
「……君は先《さつき》、何処迄がよくよくの場合で何処からがよくよくの場合でないと云う、はっきりした区別はないと云ったろう。それは君の云う通りに違いない。よくよくの場合と云うのは、外面に現われた境遇に存するのでなく、要するに其の人の気分にあるのだ。気分に依ってはいつでもよくよくの場合だと感ずる事が出来るのだ。若し僕から金を借り得る予想がなかったら、君は現在の難関を、いつもの行き当たりばったり主義で、『よくよく』だとも思わずに、通り過ぎてしまったかも知れない。……」
「いや、そんな事はない。予想があってもなくっても、実際よくよくの場合なのだ。君に断られれば、僕はほんとうに困っちまうのだ。」
「困ると云って、どのくらい困るのだ、失礼ながら、君は年中貧乏で、困る困ると云って居るじゃないか。」
「それはそうだけれど、今度は特に困り方がひどいんだよ。絶体絶命に陥って居るんだよ。」
「そんなら僕に断られたら、家でも畳んで、夜逃げでもするかね。」
「まさか、夜逃げもしないだろうが、諸処方方に不義理があって、顔から火の出るような、恥ずかしい思いをしなければならない。……」
夜逃げをすると云った方が、目的を達する上に都合がいいのだが、己には妙な虚栄心があって、其れが殆んど本能的に頭を支配して居る為め、利害得失を顧慮する隙もなく、ついつい斯う云ってしまうのである。
「それ見給え。夜逃げもせず、家も畳まずに済むとすれば、今迄の困り方と大した違いはないじゃないか。そりゃ成るほど、恥ずかしい思いもするだろうけれど、そんな事を苦に病んで居たら、君は此れ迄、こうして世の中を渡って来られはしなかったぜ。君は随分、端から見るとはらはらするような事を、平気でやって来たじゃないか。世間の義理と云うものに対しては、君は可なり無神経な、暢ん気な人間だと僕は思って居る。」
こう云われると、己は冷やりとする。Kは明かに己の悪い魂を諷刺して居るのである。「それほど義理を重んずる君なら、借りた金を一遍だって返したことのない僕のところへどの面下げて無心に来られるのだ。」――Kの意見は、言外にこう云う結論を暗示して居る。己は黙って、下を向いて、私《ひそか》に憐れみを乞うばかりである。
「いつも議論が此処迄来ると、お互いに嫌な気持ちになるから、余り深入りせずにしまうが、僕は兎に角、君を暢ん気な人間だと思いたい。君もそう思われることに、多分異存はないだろう。だから君に取って、絶対に困るとか、よくよくの場合とか云うものは、存在しないのだ。君はただ、その時の気分で、そう感じたり、感じなかったりするのだ。もっと極端な云い方をすれば、僕から金を借りる事を予想する為めに今の場合をよくよくと感じるのだ。君は其れを自分で意識して居ないかも知れないが、きっとそうに違いないと思う。」
一四
Kの顔には、包み切れない勝利の色が輝く。彼は、うつ向いて痙攣的に唇を顫わせて居る己の、打ち負かされた姿を尻目に懸けながら、あたかも案出した自己の論理に無上の満足を感ずるが如く、新らしい葉巻に火を点じて、悠悠と安楽椅子に反り返る。……
「Kの云うことがほんとうなのかも分らない。」
と、其の時己は腹の中で考える。
己は今迄、確かによくよくの場合だと信じて居た。けれども詮じ詰めて見れば、己には真のよくよくの場合と云うものはない。金のことに就いて、己はどんなに困っても、未だ嘗て痛切に、恥ずかしいと感じた覚えはない。己はいつでも「どうにかなる」と、たかを括って居た。そうして此の「どうにかなる」の一面には「世間の義理さえ踏み潰せば」と云う条件が含まれて居たのだ。現在の場合、万一Kに断られたとして己はどれほど困るかと云うに、多少極まりの悪い思いをするだけである。そのくらいな極まりの悪さなら、従来幾度となく打つかった覚えがあるが、眼をつぶって通り越しさえすれば、跡に苦労の残るほどの事ではない。
「……そうだ、考えれば考える程よくよくの場合でもなんでもないのだ。それだのに己は何だって、こんな大騒ぎをしたのだろう、何だって『困る、困る』と思ったのだろう。」
己は自ら省みて、自分の胸にきいて見る。要するに己が「よくよく」と認めたのは、己の実際の境遇ではなくって、己の空想の産物だったのである。己は勝手に、現実の場合とは異ったものを、頭の中に拵らえ上げて、其の幻影に悩まされて居たのである。……
話は少し横道へ外れるけれども、序《ついで》であるから茲に一言して置くが、凡べての犯罪性を帯びた人間には空想家が多い。(その意味に於いて、一般に悪人は善人よりも芸術家である。)彼等は、世の中を在るがままに見る事が出来ないで、絶えず空想を以て彩色する。故に彼等の見る世界は善人の見る世界よりも、遥かに刺戟に富み、誘惑に富んだ、美しい幻影の世界である。そうして、その刺戟と誘惑とが、殆んど彼を脅迫せんばかりに度を強めて来た時に、彼等は全く抵抗力を失って犯罪を敢えてするようになる。彼等に取って、空想は事実よりも価値があり力がある。彼等は自ら作った幻影に導かれて悪を営み、而もその悪の為めに苦しんでいる。彼等は往往空想によって未来をも現在と信じ、現在をも過去と信じたりする。だから彼等には、はっきりした時間の観念と云うものはない。彼等の頭の中にはただ「永遠の悪」が宿って居るのである。
普通の常識で云えば、悪人の方が善人よりも物質的だとされて居る。悪人自身も、そう云う風に考えて居る場合が多い。ところが事実は反対である。彼等の眼から見れば、物質の世界は空想の世界の反映であって、後者の方が余計実在的なのである。不幸にして、彼等の持って居る魂は悪の魂であるが、その魂の働きのみが、彼等の為めに真実なのである。
一五
さて、己はKに説得されて、今迄己を脅やかして居た者が、単なる幻影に過ぎなかった事を悟った以上、最早金を借りる必要はなくなった訳である。己は宜しく自ら進んで借金の申し込みを撤回すべきである。それだのにおかしな事には己はやっぱり諦める気にならない。
「困って居ようが居まいが、何でも彼でも金が欲しいのだから兎に角貸してくれ給え。」
己の腹の中を率直に表白すれば、詰まり斯う云う文句になる。理由も何もない、ただ無闇に金が欲しいのである。「よくよくの場合」と云うのが、たとい幻影であったにもせよ、幻影は幻影として、己の慾望を刺戟するに十分である。
「成る程君の云う通りかも知れない。僕は事実、そんなに困らないでもいいのかも知れない。けれども何だか僕には困って居るような気持ちがするので、その気持ちの為めに、僕は依然として悩まされて居る。そうして見れば僕はやっぱり困って居るに違いないのだ。何処迄行っても、僕の困って居る事だけはほんとうなのだ。」
己に斯う云われると、Kはちょっと弁駁することが出来ない。己の此の云い草は、屁理窟ではあるが、一応論理が整って居て、打ち込む隙がないように見える。けれどもKは一旦己をやり込めて、沈黙させた事に依って、既に溜飲を下げて居るのである。
「金の事に就いて、君と議論を始めると、いつでも此の通り果てしがない。僕はいくら説明を聞いても、金を貸すだけの理由を発見しないんだが、君が飽く迄貸せと云うものを、貸さないと云う訳にも行くまいから、まあ貸すことは貸すとしよう。――だが君、今度だけは一つ是非返してくれ給えな。僕は君から無心を云われる度び毎に、一一長たらしい理窟なんぞを云いたくはないけれど、君がいつも『返す、返す。』と云って簡単に借りて行きながら、一遍も返した例がないもんだから、その為めに僕は出し渋るようになるのだ。僕は君に貸した物を、返して貰いたくはないんだが、しかし君のように、いかにも大丈夫らしく『返す、返す。』と云いながら、返してくれないと、全くいい気持ちはしないんだよ。それも一度や二度のことじゃないんだからね。」
「ああ分った、実際僕が悪かった。僕だって始めから欺す積りではないんだけれど、ついついそう云う風になってしまうんだ。それは君も知って居てくれるだろうが、何にしても僕が悪いんだから。……」
「悪い善いなぞと云いたくない。兎に角返してくれさえすれば、僕の気持ちは済むのだからね。」
「ああ大丈夫だよ。今度こそきっと返すよ。」
「君が大丈夫だと云っても、例に依って始めから欺す気ではないだろうが、少しも信用出来ないから成るべく早く金を返して、ほんとうに信用させてくれ給え。それじゃ期限は今月一杯として置こう。」
「いいとも、今月一杯なら正に大丈夫だ。二十日頃になれば、二百円ばかり這入るのだから。」
金が借りられるとなると、己は俄に大きな事を云う。しかも、こんなに迄確からしく威張って置きながら、とうとう返さずにしまうのである。
一六
こう云う風にして、己は此れ迄何十遍となく、Kを欺いては再び臆面もなく借りに行き、例の如く議論を闘わし、例の如く期限を誓い、例の如くすっぽかす事を繰り返した。Kと云う好人物の友人がある事は、薄志弱行な己をして、際限もなく背信を重ねさせる因だった。己はどうかすると、「このまま金を借り倒して、絶交されてしまったら、どんなに気が軽くなるだろう。」とさえ思うのであった。
そう思うには思っても、二人は決して絶交しそうもなかったのに、期せずして其れが実現されるようになった。いかに寛大な、いかに好人物のKでも、己が彼に対して法律上の詐欺を働き、おまけに其の事件が法廷へまで担ぎ出されてしまっては、彼の欲すると否とに拘らず、世間の手前、己と関係を絶たざるを得なくなったのである。
忘れもしない、それはちょうど去年の秋、十月の末の出来事である。此れが大事件になるとも知らずに、己はいつものような厚かましい態度でKの許へ無心に出かけたほど、其の日の己は今迄よりも特に一層厚かましかったかも知れない。なぜかと云うと、恰も其の日から十日程前に、「ほんの二三日」と云う条件で、金を借りたばかりだったのである。其の金を返さずに置いて、今度は殆んど其の倍額に近いものを、貸して貰おうとするのであるから、己も直ぐには云い出せなかった。暫くの間己は己の〓タ・セクスアリスに就いての告白を、真面目な調子でKに話して聞かせて居た。
その時分、己は半年ばかり前から或る一人のモデル女に惑溺して、彼女の為めに多大な時間と金銭とを浪費しつつあった。彼女は、マゾヒズムの傾向を持って生れて来た己に、始めて十分な満足を与えてくれた異性であった。それ迄、己の奇怪なる性慾の要求を、纔《わず》かに補填して居たさまざまな空想。――有りと有らゆる忌まわしい、むごたらしい、血だらけな幻影が、生きた人間の肉体を着けて、其処に実現されたものが己と彼女との関係であった。然し不思議な事には、頭の中の幻影が実現されると同時に、空想に特有なる美しさは忽ち消滅して、現実の醜悪のみが遺憾なく暴露された。
「己の頭の中に描いて居た光景は、こんな浅ましい、こんなあっけない、こんな穢らしいものだったろうか。」
己は歓楽に従事しながら、屡こう考えざるを得なかった。己の歓楽が、空想に依って充たされて居る間は、いつ迄立っても、freshnessを失わないのに、それが一と度び現実の世界に移ると、厭倦、疲労、羞恥などの感情が割り込んで来て、溌溂たる快感をどろどろに濁らせてしまう。美しかるべき彼女の肉体と、その肉体の下に虐げられて居る己自身の肉体とは、己の空想が永遠の美しさを以て輝いて居るのと反対に、だんだん生き生きとした光りを鈍らせて、遂には鉛のように陰鬱な重苦しい曇りを帯びる。それは己に取って意外な悲しい発見であった。
一七
「君はゴオティエの書いたボオドレエル評伝を読んだことがあるかね。」
と、Kは己の告白を聞いてから云った。
「ゴオティエは斯う云って居る――ボオドレエルの詩の中にある女性は、箇箇の、現実の女ではなく、典型的な『永遠の女性』である。彼はUne Femmeを歌わないでLa Femmeを歌って居るのだって。――君のようなMasochistの頭の中にある女の幻影も、やっぱり或る一人の女性ではなくて、完全な美しさを持つ永遠の女性なんだろう。だから現実に行き当たると、直ぐに失望するのだろう。」
Kの観察は確かに中たって居た、己は此れ迄、極端なる女性崇拝者であったが、その崇拝の対象となって居るものは、己の『悪い魂』が空想して居る女性の幻影に過ぎなかった。己がたまたま、一人の女を恋するのは、その女の中に自分勝手な幻影を見て居るのであった。だから幻影と実際との相違が明かになるや否や、己はその女の中に幻影を求めようとする。こうして己は、次から次へと女を取り換えたが、常に失望と幻滅の悲哀とを繰り返して居る己には、世間一般の男子が経験するような恋愛の味が分らないのである。強いて己にも恋愛があると云うならば、その相手は己の頭の中に住む幻影の女である。(己は女房を持って居るが、彼女が己の恋愛と何等の関係もないことは断るまでもない。)こう云う風に考えて来ると、己はつくづく自分を非物質的な人間であると感ぜざるを得ない。徹頭徹尾、己は空想に生きて居るのである。
完全な美しさを具えた空想の世界から、飜って不完全に満ち、醜悪に満ちた現実の世界を眺める時、己はいつでも一種の呪咀と軽蔑とを感ずる。そうして、己の抱いて居る空想を何とかして此の世に表現しようとする要求を起す。その要求が性慾的衝動となって動き出すと、己は必ず失敗するが、芸術的衝動となって動いた場合に、己の空想は始めて立派に表現される。己のような罪人の脳裡には、嘸《さぞ》かし穢らしい思想の数数が、蛆虫の如く一杯に群がって居るのだろうと想像する人があったら、何卒《どうぞ》己が今迄に発表した創作を見てくれ給え。あれ等の絵画の全幅に溢れて居る豊潤な色彩や、幽玄な光沢や、端厳な線条や、ああ云うものが数限りなく、宝石を鏤《ちりば》めたように己の頭の中を塞いで居るのだ。悪の魂が織り出す幻影の世界は、まるで伽藍の壁画のように荘厳なのだ。
己は大体、以上に述べたような意味を、細細とKに語った。
「今度と云う今度こそ、僕はもうほんとうに、女には懲り懲りした。半年の間、彼女の為に芸術を抛《なげう》って居たことを、僕はしみじみ後悔して居る。僕の行くべき道は、芸術より外にはないのだ、僕はどうかして、一日も早く彼女と手を切りたいのだ。」
こう云って置いて、己は急転直下して、彼女に百円の手切金をやりたいから、……と、遂に本音を吐いたのである。
一八
「随分道中が長かったね。大方しまいには、そう云う話になるんだろうと思って居た。」
Kの、いかにも好人物らしい平和な眼の球が、苦しそうに光ったけれども、彼は案外驚かずに、こう云って軽く受け流した。己が先から、あんなに真面目らしく、深刻らしく語り続けた告白を、始めから一種の疑惑を以って聴いて居たほど、それほどKが己に対して僻んでしまったと云う事実は、少からず不愉快を覚えさせた。「今日は余程むずかしい。結局貸すには貸してくれても、大分議論が面倒だろう。」己は直覚的にそう感じた。
「……君の告白は恐らく真実なのだろう。しかし、いかに真実だからと云って、一旦金の問題と結び着いて来る以上、僕は其の告白を、虚心坦懐で聞いて居る訳には行かない。君が其の告白の真実を、是非とも僕に信用して貰いたいと云う誠意があるならば、特に今日のような、金の話を持ち出す場合には、その話を避けるのが当り前だ。僕にはどうしても金を借りたい為めに、君が其の告白を利用して居るのだとしか思われない。……」
こんな風にして、お極まりの論戦の火蓋が切られた。二人のおしゃべりは此れから何時間続くだろう。どうかすると午前中に始まって、電灯のつく時分迄かかる例であるから、今日も大概、夜にならなければ鳧《けり》が附かない事であろう。今から六七時間、論理の梯子段をお互いに高く高く継ぎ足して、言葉の数数を山の様に積み重ねて、何処で終りになると云う当てどもなしに、ずるずる引き擦られて行かねばならない。――それを考えると、二人は期せずして、論戦の最初から一種の苦労と圧迫とを感ずるのであった。決して、運動会の遊戯の様に勇気凜凜《りんりん》たる競争心を以って、従事する訳には行かなかった。
「だが君、僕にしたって此の間君に借りたばかりで、又借りに来るに就いては、その理由を精《くわ》しく説明しなければならない。説明するには否でも応でも告白をする必要があったのだ。告白その物が真実ならば、金の問題と結び着いたからと云って、急に真実性を失う筈は無いじゃないか。」
「それはそうだろう。――けれども僕が滑稽に感じるのは、金を借りる為めに告白をすると云う、根本の動機を忘れてしまって、恰も告白の為めに告白をして居るような、真面目らしい調子になって居る、君のその態度にあるのだ。君が金を借りる必要以上に告白の真実を高調するのがおかしいと云うのだ。君は告白の中に現われた熱誠に依って、僕に痛切な感動を与え、その感動を利用して、僕から金を借りようとする風に見える。――実際はそうじゃなかろうが、何となくそう云うように見える。それが僕には変な気持ちを起させるのだ。君は何だか告白の真実性から、『友人の金を借りてもいい。』と云うジャスティフィケーションを生もうとして居るように見えるのだ。」
「そう思うのは君の邪推だよ。根本の動機は金にあるのだがしゃべって居るうちにその動機を忘れてしまって、告白その物の興味に駆られて、ついつい深入りするような事は、誰にだって有り得るだろうと僕は思う」
一九
「だから僕は、君に一応の注意を与えたのさ。君の告白を聞いてみると僕は君の心境に多大な同情を寄せざるを得ない。君が将来、その女と手を切って、飽く迄も芸術に身を委ねると云う事は非常に結構だと思うけれども、其れと金を貸す貸さぬの問題とは、全然別だと云う事を、十分に知って居て貰いたいのさ。――君の告白がどんなに立派であろうとも、君はその為めに、いつもより堂堂と、僕から金を借り得る理由はない。よくよくの場合だから貸してくれと云うのと、何等の相違がないと云う事を了解して貰いたいのだ。」
「いや、それはそうじゃないだろうと思う。今迄はただ困って居るような気持ちがした為めに、金が欲しくなったんだが、今度の場合は、僕の気持ちの為めではなくて、僕の芸術の為め、僕の芸術を救わんが為めなのだ。君が若し、僕の芸術を愛して居てくれるなら、そうして其の健全なる発達を望んで居てくれるなら、今度の金だけは無意義なものではない筈なんだ。」
「けれどもだね、君が今、僕から借りた金でその女と手を切ったにしたところが、此れから先、第二、第三の女が出来て再び肉慾生活に没頭するような事が、絶対にないだろうか。君は恐らく、其れに対して自分自身を保証する事が出来ないに違いない。従来とても、君はたびたび今度のような後悔をした。而もその後悔が一向役に立たないで、頻頻と同じ過ちを繰り返して居るのだから、将来も、君が生まれ変って来ない限り、その過ちは始終発生するものと見た方が確かだろう。そうなると、僕は要するに君の臀拭いをして居る事になるのだ。君の芸術の健全なる発達を期する為めには、此の後永遠に、君が女と手を切る度びに金を出さなければならなくなるのだ。」
「君がそう思うのは、やっぱり僕の真実な告白を、信用してくれないからだろう。僕は先も云ったように、今度こそはほんとうに後悔して居る。何とかして今後は過ちを再びしまいと決心して居る。そりゃ、僕は御承知の通り薄志弱行な人間だから『絶対に』とは云いかねるけれど、同じ後悔でも、今迄の場合とはまるで心持ちが違うのだから、……」
「それ見給え。結局『心持ち』と云うことになって来るじゃないか。よくよくの場合でなくても、よくよくのような気持ちがすると同様に、ほんとうの後悔でなくても、ほんとうのような気持ちがするのだ。従って僕は今度も、君に金を貸す事に意義があるとは考えられない。よしんば告白と云う景物が附いて居たところで、不愉快を感ずる程度はいつもと同じ訳になる。」
Kの不愉快は、寧ろいつもより一層甚だしいようであった。それだけに又、己の方でも余計胸糞が悪かった。なぜ己はこんなに迄、Kに邪推されなければならないのだろう。僅かばかりの金を借りる為めに、こんなに迄自分の弱点をさらけ出す必要があるだろうか。Kには如何なる権利があり、根拠があって己の告白を、己の言葉の一つ一つを執拗に吟味し、穿鑿《せんさく》し、追究するのだろう。――そう思うと、己は忌ま忌ましくてならなかった。
二〇
「そりゃ成る程、僕の後悔は単なる気持ちに過ぎないかも知れないけれど、兎に角僕が痛切にそう感じて真面目に告白して居るのに、君が傍から其れを覆して行かなくってもいいだろう。たとい其れが気持ちであったにもせよ、何も君から非難されたり攻撃されたりする理由はないように思う。告白をして居る当人が、ほんとうだと云う以上、君もす直に、ほんとうだとして取ってくれてもいいじゃないか。」
「僕は何も、攻撃や非難をする積りではないのだから、その告白が唯の告白でなく、金の問題と関聯して来るから勢い君の本意を疑わなければならなくなる。君にしたって、予め薄志弱行と云う逃げ路を作って置く程のあやふやな後悔を、何もわざわざ、金を借りようとする場合に云い出さなくてもいいじゃないか。君の告白する態度が純粋でないから、従って告白その物にも権威がなくなる訳だと思う。」
己は勿論、自分の後悔をあやふやだと思って居なかったのであるが、不思議にもKの意見を聴いて居るうちに、だんだん自信を失って、「まさにあやふやに違いない。」と考えるようになってしまう。折角自分で確かだと信じて居る後悔がぐらつき出すと、残るものは、「金が欲しい。」と云う一念ばかりである。ただ其れだけが確かなものである。やっぱり己はKから金を借りられると云う予想を抱いて、其の予想を実現せんが為めに後から告白を附け加え、而も其れを痛切なる後悔の結果だと、誤認して居たものらしい。
「そのくらいなら始めから、いっその事いつものように、困るから貸してくれ、よくよくの場合だから貸してくれと、簡単に云ってくれた方が、まだしも僕には気持ちがいいのだ。君があれほど熱心に打ち明けてくれた告白迄も、僕が疑わなければならないようになっては、二人の間の友情と云うものは到底成り立たない事になるが、そうなったのは畢竟君の責任なのだ。君一人ならどうでもいいけれど、君の為めに僕迄がだんだん擦れっ枯らしになって行くのが僕には堪まらなく厭なのだ。――僕はほんとに百や二百の金なんぞ、少しも惜しいと思うんじゃない。君が実際に困って居る場合なら、僕は喜んで貸して上げるのだ。ただ貸した為めに却ってお互いの人格を損ずる結果になるような、そんな金だけは貸したくないと思うんだ。君だって今日や昨日の友だちではなし、長年附き合って居るのだから、僕の気持ちを了解してくれてもいいじゃないか。」
Kは泣きたくなったように瞳を潤ませて、訴えるような調子で云った。成ろう事なら、百円の金を僕の前へ叩きつけて、不愉快極まる論判を易く切り上げてしまいたいとさえ思って居るらしかった。
己も、Kの衷情を聞いて見れば、涙ぐまずには居られなかった。「ああ、己は何と云う悪党なのだろう。正直で、親切で、斯く迄善良な友人を、こんなに苦しませて何が面白いだろう。」己は覚えずKの足下に身を投げ出して、両手を合わせて、「僕がつくづく悪かった。どうか許してくれ給え。」と、云いたいような気分になった。
二一
だが、それ程迄に感動しながら己はどうしても、借金の申し込みを撤回する気にならなかった。己の心中に萌して居る「金が欲しい。」と云う一念は、己にはどうする事も出来ないのだった。
二人は何でも、午後の二時頃から晩の八時頃迄、飯も喰わずにしゃべり続けて居た。己はもう別に云う事がなくなって、「今度こそは確かに返すから貸してくれ。ほんの一週間、一週間立てば百五六十円這入るのだから。」と云うような文句を、理窟もなしに繰り返して居た。
「一週間立って金が這入るならそれ迄待ったって知れたものじゃないか。女と手を切るのに、一日を争う必要はないじゃないか。」
こうは云ったものの、Kの方では道理を以て己を説き伏せるのは、無駄だと考えるようになったらしかった。それは己の涙ぐんで居る顔つきを見て、多少気の毒にもなったのであろう。
「そんなら斯うしようじゃないか。君も自分の薄志弱行を認めて居るのだから、今度は一つ書き付けを取って置こうじゃないか。――それもただの書き付けでは、君の意志を動かすだけの効力がないから、何か君、担保物を入れ給え。」
今度だけは必ず貸したものを取り返して見せる。取り返さなければ承知しない。――そう云う意気込みがKの口もとにありありと現われて居た。
「そうだ、いい事がある。確か仲通りの大雅堂の七人展覧会に、君の静物が一枚出て居たね。あれを僕に百円で売ったと云う証文を書いてくれ給え。あの会の会期は確か来月の十日迄だったろう。それ迄に金を返してくれさえすれば、僕はいつでも君に証文を返すとしよう。もし君が返せなかった場合には、あの絵なら悪くないから、僕が買って置くことにしよう。」
「あの絵はそんなに出来がよくないのだから、君の書斎に飾られては大きに困るな。」
己はKの容易ならない決心を見て心中私《ひそか》に愕然とせずには居られなかった。そうして自分が明かに彼から侮辱されて居るのを感じた。が、それでも未だに、例のさもしい初一念を飜そうとしなかった。
「だから決して、僕があの絵を買わなくてもいいのだよ。君に書き付けを書かせたって、それを世間へ持ち出そうのと云う料簡はないのだから、買い手があれば其の人に売って、その金を僕に返してくれてもいい。第一君、一週間以内に金が這入るのなら、何も心配はいらないじゃないか。――僕にしたって、抵当流れとしてあの絵を受け取るより、一週間以内に金を返して貰った方がどんなに気持ちがいいか分らない。その為めに、君に証文を書かせるのだから、ほんとうに今度だけは約束を守ってくれ給え。」
証文を書いて迄も、万一金を返さなかったら、殊にあの油絵が長く此の書斎の壁間に掲げられたら、――その油絵が眼に入る毎に、二人はどんなに不愉快であろう。そう云う危惧と不安とは、Kの胸にも己の胸にも浮かんで居た。証文を書く方も、書かせる方も、等しく背水の陣であった。
「願わくば己の意志が堅固でありたい。こんな危うい所迄漕ぎ着けた以上は此れを機会に、せめてKに対してでも、信頼すべき友人となりたい。そうしてKを喜ばせてやりたい。」
己は心に斯う祈りながら証文に印を衝いた。
其の後の事は、普《あまね》く世間に知れ渡って居るから、改めて書く迄もないだろう。満更当てがないのでもなかったが、一週間立っても、百五十円の金は己の懐へ這入って来なかった。そればかりならいいけれど、己はあの絵を二重売りして、その金をも使ってしまった。まさかにKがあの証文を明るみに出すような事はあるまいと、たかを括って居たのである。
後で聞いて見ると、七人展覧会の会期が終った時、Kは箱根の別荘へ行って居たのだそうである。そうして、不断から己を憎んで居たK男爵家の家令が、わざと気を利かせた体裁で、意地悪くも会場へ絵を取りに行ったのだと云う、己を其の筋へ訴えたのも、大方あの家令に相違ない。己は此れでも悪人ではないのだろうか。やっぱり「人のいい、おめでたい」人間だろうか。今ではもう、己は後悔する勇気もない。Kに対してのみならず、己は世間一般の人に対して、ほんとうの告白をして置こう。――
「己は確かに悪人だ。微塵も誠意のない人間だ。それ故どうか其の積りで、己を出来るだけ卑しみ、疎んじ、遠離けてくれ。ゆめゆめ己に近づいたり、尊敬したりしてくれるな。ただ其の代り、己の芸術だけは本物だと思ってくれ。己のような破廉恥漢の心にも、あのような素晴らしい美しい創造力があることを認めてくれ。芸術の生命が永遠であるならば、それは生み出す己の魂を真実の己だと思ってくれ。己が悪人で居るのは、己の肉体が此の世に生きて居るほんの僅かな間だけなのだから。」
黒 白
一
床ばなれの悪い水野はその日の朝もいつものように十時頃に眼を覚まして、仰向けに天井を視つめながら、蒲団の中でエーヤシップを吹かしていたが、そのうちにふと或ることを思い浮かべた。
「ははあ、そうか、あすこへ本名を書いてしまったか。」
――彼は覚えず大きな声でそう云ってしまってから、誰《たれ》も聞いてもいないのに不安らしく眼をキョロつかせた。それは何も人に聞かれて悪いことを口走ったからではない。実は此の頃よく大声で独り言を云う癖がついたのが気違いになる徴候のように思えて余りいい気持ちがしないのである。尤もこの癖は今に始まったのではなく二十時代からあるのだけれど、近頃特に甚だしくなりつつある。頭の中が朝から晩までぼんやりしていて、物を考え続けると直きに疲れてしまったり、それからそれへ聯想が外《そ》れて途方もない横道へ脱線したりするのみでなく、その間を通り過ぎるいろいろの妄想、――種種雑多な、前後に何の連絡もない、たとえばぱっと障子へ射す鳥影のような一瞬間の考えが、自分でも気が付かぬうちにひょいと独り言になって口から外へ飛び出すのである。そうして飛び出してしまってから慌てて自分を叱るように、
「馬鹿!」
と怒鳴ることがあるが、それがまた独り言の上塗りになる。「己はどうかしてこの癖を止めなければいかん」――彼は今迄にも幾度となくグッと心を抑えつけてみた。が、その抑制が殆ど五分と続いたことはなく、いつの間にか忘れられて、彼の頭は彼とは全く関係なしに、さまざまな映像を宿しては消し、宿しては消しするのである。だから自分の心でありながら、自分の物でないのも同じで、頭と云うよりは肩の上へタンクが載っかっているようなものである。おまけにそのタンクには恐ろしく臭い汚物が沈澱していて、ほんの上ッ面の所だけを水が流れては、ぽたりぽたりと漏ってくる奴が独り言になって出るのだと思えば間違いはない。
自分で自分の精神を支配することが出来ない人間、――自分の脳髄が活動写真の映写機みたいに、而も自動映写機みたいになってしまって、勝手なフィルムを展開させ魑魅魍魎《ちみもうりよう》を跋扈《ばつこ》させるのを、手をこまぬいて眺めているような人間になったら、もう人間の値打ちはない、徴候どころか半分以上きちがいになりかけている。ぜんたい彼にこう云う癖がついたと云うのは、恐らく常にひとりぼっちで、友達らしい友達もなく佗しく暮らしていることが最大の原因であるのは、彼自身にはほぼ分っていた。つまり一日話し相手がなく、声を発する機会のないのが、自分は淋しくないつもりでも、自分の中にある何かしらが淋しさを感じるのである。そう云えば二三年前、女房を持っていた時分には、こんなにたびたび独り言は云わなかった。何を云われても「ウム」とか「フム」とか口のうちで答えたきりで、今ではどんな顔をしていたか想い出せないような女房ではあるが、それでも傍にいた間は一日のうちに二度や三度はしゃべったことがあると見える。自分はしゃべらないにしても女房の方はしゃべった筈である。それが今では自分の声にしろ人の声にしろ、兎に角「人間の声」と云うものがパッタリ室内に聞えない。そこで彼は「人間の声」が聞きたさに独り言を云うのである。その証拠にはいつも必ず誰もいない時に限って口走る、どうかすると「アー」とか「ウー」とか云う声を、ただ唸ってみることもある。
「構うもんか、本名を書いたって、――」
そう彼がもう一ぺん独り言を云ったとたんに、塔のように細長く積もった煙草の灰がパラパラ唇の上へ崩れ落ちたので、苦い顔をして、まだ五分ばかり残っている吸いあまりを枕もとの茶呑み茶碗に突込むと、顔を見られるのを恥じるようにすっぽり夜着をかぶってしまった。そして真っ暗な中を視つめながら長い間、何を考えているのだか眼だけはぱっちりと開いていた。
さっきからたびたび彼の独り言に出る本名と云うのは、二三日前に書き上げた原稿の中の名前なのである。四月号の「民衆」へ載せる小説を、二十日ほど前から書き始めてようよう一昨日、ギリギリ結着の締め切りと云う日に使の者に手渡したのだが、それが取って置きの材料の、彼としては得意の作品だったので、雑誌の出るのが待ち遠のような――もう十五六年も原稿生活をしている彼にもときどきこんなことはあるのである。――気がして、ところどころを想い出しては味わっている最中に、ふとモデルの名前に誤って本名を記した部分がたしかに二三ケ所あるらしいように考えられて来た。
「児玉、児島、児玉、児島、……」
と、彼は三度目に蒲団の中で、闇を見入ったまま口走った。
彼は前にも初恋の女をモデルに使って、ウッカリ本名を書いてしまったことがあったが、幸いその時は原稿のうちに気が付いたので活字にならずに済んでしまったようなものの、そう云うことからどんな災難を背負い込むかも知れないと思って、それ以来成るべく名前のつけ方には気を付けるようにしていた。が、困ったことには、たとえば児島なら児島を全然かけはなれた音や字面がまるきり違う名前に変えてしまったんでは、折角モデルを使ってもどうも実感が伴わない。たまたまそのモデルが物語中の重要人物であればあるほどなおそうなので、それだけにまたモデルの蒙むる迷惑も大きい。だから彼にだけモデルの人物を髣髴させるに足るような、何処か感じの似通った名を考え出すのが一番いいのだが、そうすると矢張り一般の読者にも分るような、あまり本名と違わぬものになってしまうので、彼は此れにはなかなか苦心するのである。そうして名前が似過ぎた時は年齢とか容貌とか、何かを多少取りかえて云い抜けの道を拵えて置くくらいなことは常にやっている。ところが今度はそんな暇がなかったものだから、実は最初に、児玉でちょっと間違い易いなと思わないでもなかったけれど、とうとうそれで通しているうちに、だんだん油が乗って来て、締め切り前の一日二日は殆ど徹夜でペンを飛ばしたので、「児玉、児玉」と書いていたものがいつの間にやら「児島、児島」になったのである。
それも場合によりけりだが、大体その小説の構想と云うのが例の如く彼一流の悪魔主義的、廃頽的のものであって、一人の男が全く痕跡をとどめぬように誰《たれ》でもいいから他の一人の男を殺し得るや否やと云うことに興味を持ち、その目的を遂行するのに最も都合のいい人間を選び出して、首尾よく世間に知れないようにその男を殺してしまうと云う筋なのである。そうして殺す方の男のモデルは作者自身であるらしく、殺される方のモデルに選び出されたのが児島であった。
その小説の主人公と云うのは、水野と同じような経歴を持つ文士であって、……。彼は生れつき自分以外のいかなる人間に対しても心からの愛を感じたことがない。此の世の中は一から十まで出鱈目である。――そう云うのが彼の作品の底を流れている人生観であるのだが、そのうちにだんだん彼の芸術的才能が衰えるに随って遂にその思想を生活の上にまで実行しようとするようになる。第一彼はそう云う人間であるからして親しい友達がある訳でもなく、孤独に、陰険に暮らしているので、創作の感興が湧かないようになってしまっては、そんな事でもしなかったら余りに淋しく、余りに手持ち無沙汰である。第二に彼は、自分にも果して良心の苛責と云うものがあるかどうか――そんなことを思うと云うのは、もう完全に気違いになっているのだが、彼は自分では気が付かない――彼は良心の苛責とは一種の神経衰弱のようなもので、人間の神経と云うものは甚だ脆弱に出来ていて、少しばかり頭を激しく使ったり、ちょっとした異常な刺戟に接したりすると、直きに疲労して病的になるので、何も不道徳を犯した場合に限ったことはない。だから良心の苛責を受けずに悪事を遂行しようとするには、一方において成るべく神経を欺くようにし、他方において漸次神経を悪事に馴れさせ痲痺させるようにすればいいのだと云う風に考えた。そして、「神経を欺く」とは、実に「理性的に導く」ので、……決して恐るるに足らないこと、むしろ己れの信念に忠実な勇者であることを、教え込むのである。そうして置いて神経の顔色を見ながら少しずつ悪事を働いて行けばしまいにはどんな大胆な事でも平気でやれるようになる。彼は此の通りの計画を立てて、静かにこっそりと実行し始めた。最初は人を欺くこと、陥れることを、――それも相手からは人情に厚い人だと思われて感謝されるような仕方で、――試みて行った。彼の神経は果して彼の註文の如く次第に痲痺して、良心の苛責は感じられないようになった。「それ見たことか、……」――彼は心でそう云って、…………。
それから後の彼は最早悪魔の化身であった。何処まで行ったら良心の苛責が感じられるか、此れでもか此れでもかと云う風に、だんだん図に乗った揚げ句、最後に彼は最悪の行為、――「人を害する」ことをどうしても一度やってみなければ、良心の問題を解決するのに物足りないように思えた。……彼はおもむろにあたりを見廻して適当な犠牲者を捜した。
彼の犯行は犯行のための犯行である。それ以外に何等の理由もあるのではなく……。なぜならそう云うものがあっては、いくらかでも道徳的にジャスティフィケーションが与えられる余地を生ずるかも知れぬから。それゆえ犠牲者となるべき人は、個人的に交渉の薄い者ほどいい。またその方が発覚のおそれが少いと云う点もある。たとい……鼻をあかしてやることが出来ても、法律で罰せられてしまっては何にもならない。……
で、そう云ういろいろな条件に当て篏まるべき人はと思って、彼がもう一度あたりを見廻した時に、そこに一人の男が……視野の中をうろついていた。
彼(小説の主人公)がなぜその「児玉」と呼ばれる男に目をつけたかと云うのに、それは今も云う通り彼とは殆ど交渉のない男だからである。昔から用意周到な犯罪者が証拠を悉く堙滅してしまってもなお且どこからか嗅ぎつけられるようになるのは少くともその痕跡を己れの良心の上に留めるからである。外部の足痕は拭うことが出来ても、心の上に残した痕は容易に拭い去ることが出来ない。が、既に良心の痲痺した彼はその点について心配はない。綿密な注意を払いさえすれば、内部的にも、外部的にも精神的にも、物質的にも、完全に痕跡を消すことが出来る。余す所は、証拠はないが彼が下手人ではなかろうかと云う漠然とした憶測、ぼうッとした噂がひろまるような事情があるかないかである。どうも彼奴が怪しいと云う風に、一般の眼が彼に向けられ、万人の指が彼をさすようなことになっては、そこから破綻が生じないものでもない。然るに児玉と云う男は以前或る婦人雑誌の記者をしていて、二三回彼を訪問したことがあるけれども、それ以外にはときどき街頭で擦れ違ったり、活動小屋などで顔を合わせたりするだけである。そうして今ではその男も、その婦人雑誌も、彼とは何の関係もない。彼はただ、その男が婦人雑誌の記者を罷《や》めてから、埼玉県の大宮在に引っ込んで或る全集ものの編纂に従事していること。その編纂の仕事のために毎週二回、月曜日と金曜日とに出京すること。出京した時は大概東京で晩飯を喰べ、八、九時頃の汽車で帰ること。それから最後にその男の家は大宮駅から約十町ほどの町外れにあって、夜は殆ど人通りのない淋しい路を一二町通らなければならないこと、等等の事実を、直接または間接に小耳に挟む機会があった。と云うのは、彼がその男を銀座通りの活動小屋で見かけることがあるのは、いつもその男が仕事のために出て来た時で、「はあ、月曜と金曜には出て来ます」と、挨拶のついでにそう云うばかりでなく、「や、お先へ失礼します。遠方だものですから。今時分の汽車で帰らないと、……」と、映画を見ていても一と足先に立って行くのがきっと八時前後であった。彼はそう云う風にしてその男とは五六度外で偶然に会っているのだが、その男の友達で彼の所へも出入りする男に、矢張り或る雑誌の記者があって、いつぞや郊外生活の話が出た時、「郊外生活もいいですが、余り不便なのも考えものですよ」と云うようなことから、児玉の家の噂が出て、辺鄙な場所に住むことのいかに物騒で、いかに淋しいかという例証に、可なりこまごまとその路の様子などを描写した上、「まあ一週に二度だからいいが、とても毎日通うんじゃアあんな所に住めませんな」と、その記者が語ったことがあった。
彼は児玉について、特に自分から捜索したのでも何でもなく此れだけの事実を聞き知っているのである。この、疎遠な関係にありながら、その人の行動なり生活なりがかくまで此方に分っている場合は、めったに有り得ない。見渡したところ、児玉以外にそんな好都合な位置にいる者は一人もない。何も知らない児玉に取っては、たまたまその位置に居合わせたのがこの上もない不運だけれども。…………
人はいつ何時どんな災難に遭うか知れない。崖の下を通っていて上から落ちて来た石につぶされる。粘土《ねばつち》で足をすべらしたはずみに、ほんの一寸か二寸の違いで谷へ転げ込む。不意に往来で心臓痲痺を起す。――児玉の死は、つまりそういう死に方の一種である。ただもう一人の生きた人間が石や粘土の代りになるに過ぎない。そうしてそのもう一人の人間は石や粘土と余り違わないところの、良心のない男である。児玉は殺される瞬間まで、いや、殺された後に幽霊になっても、どうして自分が死んだのか恐らく見当も付かないであろう。
彼はいよいよそれを決行する前に、児玉が今もなお月曜日と金曜日に出京するか、今も大宮在に住んでいるか等のことを、成るべく人に感付かれぬように確かめる必要があったが、それもいつまでに決行せねばならぬと云う期限があるのではないのだから、調査を急ぐに及ばなかった。ごく自然に、偶然の機会に、その全集に関係のある人たちや児玉の友人の記者などから、話のついでのように少しずつ聞き込む分には誰も訝しむ者はなかった。彼はその上でひそかに自身大宮へ出かけて、児玉の住宅附近の模様やそこから停車場への路すじを実地に踏んで見、距離や時間を測って見た。次ぎに最も苦心をしたのは殺害《せつがい》の手段であった。彼の考えでは、出来得るならば兇器も偶然に手に入れたものの方がいい。決行の日に何か路ばたに落ちているようなものを拾って、それを使って目的を遂げ、再びそれを路ばたへ捨てる。そう行けば一番理想的である。もちろん刃物や銃器の類を盗むことはよくない。それは犯跡を余計に残す結果になる。彼の望む兇器とはそんなものでなく、至って平凡なもの――たとえば一本の手拭、縄、あき罎、棒きれ、など。――なお註文を云うなら、血を流さずに最初の一撃で昏倒させてしまえるもの、それも二三尺はなれた所から適確に加えられるもの、――何かしらそう云うものが、停車場から彼が《おおよ》そ此処と定めた淋しい路の或る一地点へ行く間に落ちていないであろうか。彼は踏査に出かけた日に途途そんなことを考えながら歩いた。そうして少くとも四種類の兇器が、その路上でやさしく得られることを知った。一つは町はずれの普請場の空地に置いてあるコンクリート用の鉄筋、一つは路ばたに積んである薪、他の二つは或る百姓屋の納屋の壁に立てかけてある鍬と鉈、――これらのうちのどれか一つが決行の当夜得られないことはないであろう。万一得られなかった場合には、急ぐことはない、その晩はきれいにあきらめて、偶然がそう云うものを彼に得させてくれるまで、幾晩でも気長に繰り返してみることである。
「恰好な人」――児玉を彼が見出してから、遂にそのことを行うまでには、これだけの思慮を費し、最も好都合な条件の具備するのを待つのに約半年の時がかかった。そうして日の短い十一月の末の、或る金曜日の月のない晩に、和服に二重廻しと云ういつもの散歩のいでたちで、彼はぶらりと神楽坂の下宿を出て、児玉より一と汽車早く目的地に着いた。上野から大宮へ行く汽車はいちばん知人に遇う恐れのない線ではあるが、そう云う場合を予想して、平素の通りの、あたりまえの身なりで出かけたのである。――
「で、児玉はとうとう殺されたんだが、あれを児島が読んだとして、果してどんな気がするかしらん?」
――水野はそれまで小説の筋を追って来て、そこでちょっと小首をかしげた。
児島は小説の中の児玉が自分をモデルにしたのだと云うことに気が付くだろうか? それより先に、児島はあれを読むだろうか?――水野は最初不用意のあいだに、多分読みはしないだろうと何となくそうきめ込んだのだが、今思えば随分おおざっぱな考えであった。なぜなら児島は現在でこそ文壇に縁の遠い或る百科辞典の編輯に従事しているけれども、もともと「ユモレスク」と云う娯楽雑誌の記者をしていたのだから、文学趣味の男であることに間違いはない。そうだとすれば、それが月月の雑誌の――殊に「民衆」のような一流の雑誌の――創作欄に眼を通さないはずはなかろう。尤も、雑誌ずれ、文壇ずれのした男は、却って今の小説を馬鹿にしてかかって、パラパラとページを繰ってみるぐらいで、一一ていねいには読まないかも知れぬ。そう云うことは確かに有り得る。現に水野にしたところで、毎月寄贈される雑誌をひろげては見るが、読むのは重《おも》に肩の凝らない随筆や説話の類の方で、創作の方は、特にすきな作家、或いは個人的に親しい作家のものであるか、取り扱われている材料に楽屋的興味のあるものか、よくよく評判の高い作品か、などでなければめったに読みはしないのであるから、児島も大方そうであろう。水野は決して児島に取って「個人的に親しい」と云う程の作家ではないし、恐らくは「好きな作家」の一人でもなかろう。ただあの作が文壇の問題になった場合には読むかも知れない。それともう一つ予想されるのは、誰か第三者があれを読んで、「おい、君がモデルになっているぜ、作者がウッカリ君の本名を書いているんだ」と云うようなことを本人に吹き込んだとしたら?――いやそんなこともある筈はない。第三者があのモデルに気が付く訳はない。児玉が児島になっていたにしろ、児島と云うのは普通世間によくある名前だ。間違えるのに不思議はなかろう。――いやいや、そうでもないかな、小島なら普通だが児島だと矢張りあの児島を連想させるかな?――けれども彼が児島をモデルにするなどとは、彼以外には殆ど思いも付かなくはないかな?――が、それでも何でも、児島があれを読まないときめていたのは早計だった。少くとも読む可能性はある。ずいぶん読みかねないような気がする。読まないとするより読むとして置く方がいい。……
すると問題が始めに復って、児島があれを読んだとして、気が付くであろうか? ぼんやり読み過ごしてしまえば、あたり前なら気の付きようはないのである。しかし終りの方へ来て、「児玉」の代りに「児島」の文字が眼を射た時、「おや」と思うようなことはないか。そうして改めて又読み返して、それからだんだん「これは変だ」と感じ始めるようなことは?……そう云う風にかんぐり出したら、気になる所はいくらもある。たとえば児玉は前には婦人雑誌の記者で、現在は或る全集物の編纂委員になっている。一方児島は前には娯楽雑誌「ユモレスク」の記者で、今では或る百科辞典の編輯員である。児玉の家は大宮にあって、児島の家はその一つ手前の駅の浦和にある。そうして児島も一週に一二回仕事のために東京へ出て来る。なお悪いことに、児島と水野との交際の度は、小説中の主人公と児玉とのそれと殆ど同じで、ときどき外で遇うこともあり、二人に共通な雑誌記者の友達もあり、水野はその雑誌記者の鈴木という男から児島の近状を聞かされているのである。
此れだけの事実の類似が発見されたら、児島はそれを偶然の類似とは考えまい。「ふん、己をモデルに使ったな」と、きっとそう思う。ところで類似がただ此れだけにとどまっているならそうイヤな気もしまいけれども、作者はあくどい筆つきで「児玉」の人柄や人相や体つきや声音のことまでも書いていて、それが又児島そのままであるうえに、決して感じのいい男のようには描写されていないのである。
ありていに云うと、小説中の主人公が児玉を犠牲者に選んだのには、少しも個人的の感情が加味されていない訳だが、水野が児島を選んだのには、そこに多少の、「何だか虫の好かない奴」と云うくらいな、かすかな悪意が働いていないことはなかった。世の中に「人に殺されそうな顔をした奴」と云うような人間がいる筈もないけれども、もしそう云う人間がいたとしたら、児島なんぞがさしずめそれである。――水野の頭には、前から何だかそんなものがあった。人を殺すのに、殺される男の人柄によって罪の軽重がありようはないようなものの、しかし理窟なしに、あの男よりこの男の方が殺しいい、この男なら殺してもそんなに悪い気がしない。と、云うような感じがすることはある。たとえば芝居で貢の十人斬りなどの場面に、浴衣がけでふらふらと出て来て、出あいがしらに何の訳もなく、ほんの気まぐれにだアと浴びせられて殺されちまう奴がある。そう云うのに限って、大概痩せた、色の黒い、風采の上がらない、顔も体つきも至って貧弱な、まあそう云っては悪いが虫けらのような、吹けば飛ぶような人体をしている。水野は自分も余り風采のいい方ではなく、痩せてヒョロヒョロしているものだから、ひとしきり「角海老」へ通った時分に、いつづけをした揚げ句の昼ひなか、浴衣がけで本部屋の長火鉢の向うに据わりながら、どろんとした二日酔いの気分でいる折なぞ、「こう云う時にお客の誰かが貢のように気がふれ出して十人斬りでも始めやしないかな。そうして己が飛ばっ散りを喰って殺されるんじゃないかな」と、よくそう思い思いした。児島はつまり一と口に云えばそのタイプなのである。水野が始めて児島に会ったのは、あれはたしか、鈴木と一緒に一二度訪ねて来たことがあった、その最初の時だったであろうが、「何と云う下らない顔をした奴だろう」と、一と言二言しゃべっている間にすぐにそう云う印象を受けた。ぜんたい下らない顔と云うものは、一時間や二時間向い合っていても、眼の前からいなくなれば五分もたつと忘れてしまうものだけれども、児島の顔は下らな過ぎると云う点で却って彼は覚えていた。生れは何処だか知れないが、いずれ東京人ではない。東京人にはあんなつるつるした、きめの細かい顔はない。血色も鳶色と云うのか、茶色と云うのか、いっそ思い切って真っ黒ならいいのに、それがこう、古ぼけたボックスの靴の皮みたいな感じがする。そうして鼻が低くって、眼の光りが弱くって、口にも額にもこれと云う特徴もなければ変化もなく、顔が一面頬っぺたのように平べッたく、それでいて総べての造作が妙にチマヂマと小作りなのである。だから何のことはない、血色のみでなく全部が靴のような顔だ。と云ってしまえば一番いい。そこへ持って来て又その声が成る程こう云う顔から出るのは此れでなければならないと云ったような、味もそっけもない、カサカサした、そのくせ発音の曖昧な声で、しかも口のうちでもぐもぐと唇の動くのが分らないような云い方をする。声はしているが、顔を見ているとそんな風はなく、靴がものを云っているのと同じである。
そう云う男であるからして人に接する態度なども間が抜けていて快活にからから笑うとか、気の利いたしゃれや冗談を云うとか、そんな芸当も出来そうにもなかった。が、それならそれで、風采のみすぼらしいのを自分でも苦にしているような遠慮がちな様子が見えればであるが、気に喰わないのは、へんに無神経なずうずうしいところがあるのである。初対面の時はそれほどでもなかったけれど、そののち電車で乗り合わせた時、此方《こつち》は知らん顔をして新聞をひろげていると、向うからわざわざ立って来て、
「やあ、……」
と、馴れ馴れしく声をかける。その「やあ……」と云うのが、例の口のうちでもぐもぐと聞き取れない発音で、なつかしみや親しみがあるのではない。だから何のためにこう馴れ馴れしいのだか、当人は馴れ馴れしいつもりではなく、これがあたりまえで、ちょっと挨拶しなければ悪いと云う考えなのだか、とんと心持ちが判然しない。一度は浅草の活動小屋で、うしろから黙って水野の肩を叩く者があるので、振り返って見ると児島であった。そして、
「暫く……」
と云って、もじもじしているから、
「やあ、」
と、水野も応じたことは応じたものの、別に話すこともないので正面を切っていると長い間傍を去らないで、ときどき思い出したように、此の頃は忙しいかとか、何を書いているかとか、活動は始終見に来るのかとか、此方がろくな返辞もしないのに、根気よくこだわっているのであった。但、水野も余り人のことは云われない方で、煮え切らない、ねばり強いところがあるものだから「イヤな奴だ」とは思いながら、そうそっけなく扱わずに、何とか彼とか合い槌だけは打ったのである。それに「イヤな奴」と云うものは、全くそいつの顔が見られなくなってしまうのも、何だか人生が淋しくなったような気がするもので、矢張りたまには相手になって、その下らなさ加減、イヤさ加減を味わいながら、腹の底で軽蔑してやるのもまんざら面白くないことはない。そんな訳で、児島は詰まらない人間のわりに、常に水野の頭の中の隅っこの方に牢名主の如く据わっている一個の存在ではあった。そして往来で出遭ったりすると、五六分間は立ち話をする程度になっていたのである。
水野は自分ではそれまでに意識していなかったのだが、彼が今度の小説の構想を思い付いたのはそもそも児島と云うものが、――彼の頭の中にある児島の映像が、知らず識らず彼を導き、彼にヒントを与えたのであった。児島の姿が彼の眼の前を往ったり来たりしていなかったら、恐らくあの筋を考え出しはしなかったであろう。そこには多少真面目ないたずら気分、「よし、よし、彼奴《あいつ》を使ってやれ、あんな無神経な奴に何が分るもんか」と云ったふうな、日頃の軽蔑から発足したからかい半分の興味さえも、手伝っていないとは云えなかった。だから、小説の中では児玉と主人公との間に個人的の反感は毛頭ないことになっているし、あっては却って都合が悪い道具立てになっているにも拘わらず、作者は第三者の地位を利用してところどころに彼の悪意、いたずら気分をちょいちょいほのめかした気味合いがあり、児玉を形容して「こんな不景気な面をした男は」とか、「見るからに貧相な、情ない存在」とか、云わでものことまで、興味に釣られて筆をすべらしているのである。
そしてその中には「ボックスの靴の皮みたいな血色」と云う言葉さえ使われているとしたら、児島がいくら血のめぐりの悪い男でも決していい気持ちはしないであろう。尤も作者の方から云えば、小説の中の人物を読者が勝手に実在の人物と結びつけて彼れ此れ云われては、結局何も書けなくなる。小説は小説、実際は実際と区別して考えてくれないでは困る。両者の間にモデル関係のようなものがあったとしても、作者は純粋に芸術的良心を以て筆を下すので、善意にも悪意にも、絶対に私意を挿《さしはさ》んではいないのである、と、そう突っ放してしまうことも出来るが、それなら児島と児玉との間にもう少し距離を置けばよかった。児島が浦和に住んでいるなら、児玉の方は大宮にしないで、横浜方面なり千葉方面なりにすればよかった。一方が百科辞典の編輯員で一方が某全集の編纂員と云うのも、せめて学校の教師とか、会社員とか、何とかしようがあったものを、その前身までが両方とも雑誌記者であるなぞは全く余計な類似であった。それほどにせずともあの小説の筋に差し支えはないのだし、児玉の殺される場所が大宮在でなく鶴見在であったところで、別に効果が弱くなる訳はないのである。水野が始めにそのくらいな注意を払わなかったのは、締め切り間際に急いで書いたからだけれども、矢張り児島を軽く扱っていたせいがあったので、故意に似せたと云われても仕方がないように思われる。
しかしそれが何だと云うのだ? あの男が感づく? 腹を立てる? はは、タカが相手は児島ではないか。腹を立ててどうする事が出来るんだ。「ひどいなあ、ボックスの靴の皮とは。――」そう云ってにやにやするくらいが落ちではないか。此の頃己は余程どうかしている。こんなことが気になると云うのは神経衰弱が大分昂じて来ているんだな。――水野はまだ蒲団にもぐったまま眼をぱちくりやらせながら、「なあんだ、下らない」と云う風に自分に云いきかせてみるのだが、おかしなことには直き連想が一と廻りしてはそこへ戻って来て、いつからともなく又そのことを思いつづけているのであった。
彼は今までにも何度となく、人殺しを取り扱った小説を書いていた。そうして殺す方の男は大概どこか彼自身をモデルにしていた。彼は何人小説の中で人を殺しているであろう。のみならず殺される方の人間も、今度の場合いほど露骨でなくとも常に誰かしらモデルがあって、彼の私生活を知っている者には、おおよそ見当が付くのである。現に彼の女房が逃げ出したのは、三度も四度も続けさまに女房殺しの小説を書いた結果であった。当時女房のところへは方方から同情の手紙が舞い込んで、「奥さま、あなたの夫は恐ろしい人です。あなたはあれをお読みになってどんな気持ちがなさいましたか」と云うようなことを云って来た読者が幾人もあった。水野氏はまた細君を殺した、此れで二度目だ、これで三度目だと、文壇でも作品そのものの批評よりもその方の噂が高かった。そして女房はとうとう恐じ毛づいて無断で家出《うちで》をしてしまったのだが、その時なぞは彼は明かに女房に悪意を持ち、追い出し策が主たる目的ではないまでも、その作品をそれに利用する気があったのは確かである。「ふん、うまく行ったぞ、此れでやっとせいせいした。」――と、彼は心でせせら笑って、計略の図に中《あた》ったのを喜んだに違いないのである。
そう云うことが積り積っているのだから、考えて見るともう今までにもどれほど人の恨みを受けているかも知れない。モデル問題がもとになって何か災難が起こりはしないか。――と、そんな予感がすると云うのも、詰まりはそれを気に病んでいるからなのだが、万一児島が恨んだとして、どう云う災難が起こり得るだろう? 復讐手段を取るにしてからが、彼一人ではどうすることも出来ないだろうし、文壇に縁の遠い現在の児島に、排斥運動を始めるだけの便宜もあるまい。では法律に訴えるか?――しかし児島は、何一つとして実害を受けているのではない。今度の小説が出たために社会的地位を失ったとか、勤め口を棒に振ったとか云うのではない。実を云えば児島などよりもっと損害を受けているモデルがいるのである。児島のはただ作品の上で漫罵され、軽蔑されただけで、靴の皮に比較されたと云うような、話にもならぬたわいのないことばかりではないか。それも作者が飽くまで否認してしまえば、女房と違って、児島をおどかしても作者に一文の利益もないのだから、確かに彼をモデルにしたと云う理由も根拠も見出だすことが出来ないだろう。すると児島は目的を達しないばかりか、自分の顔が靴の皮に似ていることを法廷で広告するようなものだから、裁判沙汰にもする筈はない。ではどうかするか。どうしても復讐する気があるなら、あべこべに彼が水野を殺すか?
水野は「ふん」と、声を出して鼻の先で笑ってみたが、しかし案外ああ云う男が人を殺すかも知れないのである。あの曖昧な、気心の分らない陰険な様子は、犯罪性を帯びているように思えなくもない。水野が小説に書いている通りの方法を逆に水野の上に行えば、このくらい痛快な復讐はない訳で、少しく想像力のある男なら、実行の勇気はないにしても頭の中に浮かべるだけは浮かべるだろう。そうして明け暮れそのことばかり考え詰めているうちに、だんだん妄想に誘惑される。ああ云うシンネリムッツリした男にはありそうなことである。或いは無神経な人間だから、そんな面倒な過程を経るまでもなく、始めから「殺してやる」と云う計画でどしどし大胆に進むかも知れない。
「神経衰弱、神経衰弱……」
と、水野は四たび目に、今度はひどく大きな声で独り言を云った。
彼の考えが糸のようにもつれて、それから暫くあらぬ方角をうろうろうろと一と廻りしてから、再びもとの問題へ戻って来た時であった。ふと彼は、ここにもう一つ心配な場合があるのを想い浮かべた。それは外でもなく、もしも児島があの小説の中の児玉と全く同じ状態のもとに殺されるようなことがあったら、自分が嫌疑を受けはしないか? と云うことであった。もちろんそれはめったにないことで、よくよく不運な場合だけれども、しかしそうとも限らぬと云うのは、誰か第三者が、――水野に恨みのある者が、始めから彼を陥れてやる目的を以て児島を殺さないものでもない。そうだ、何処か彼には分らない暗い蔭から、じっとその機会を待っている者があるとしたら、実際今が絶好の時期だ。人を殺して、その罪を完全に第三者になすりつけることが出来るように物事が配列されている瞬間、――そう云う瞬間はそうたびたびあるものでないが、それを水野は誰かのために作ってやって、自分がなすりつけられる役を買って出たようなものだ。
巧妙なる殺人を小説に書いたつもりの彼は、巧妙に自分が殺される種を蒔いてしまった。人のために落し穴を掘っていたものが、いつのまにか自分の落し穴を掘った。最も陰険に、誰にも世間に知れないように人を亡きものにする手段とは、あの作品の中のことでなく、あの作品と、あれを書いた作者の水野と、モデルの児島と、それからもう一人の蔭で様子を窺っている男と、この四つの物の関係の間に成り立つことだ。こう云う風な配列の瞬間において、選ばれた男は児島ではなく水野なのだ。児島が先に殺されるには違いないが、それは道具に使われるので、蔭の男の終極の目的は、乃至興味は、罪を首尾よく水野に負わせて、法律の手で彼を殺すところにある。この計画は、あの作品が発表された後であれば、十分に可能なことだ。小説の中の主人公が児玉に対して計画したことよりも、遥かに可能だ。この可能に気が付いた者は、別に水野に恨みはなくとも、単なる興味からででも、実行してみたくなるであろう。要するに彼の小説には続篇があるのだ。彼は最初にそこまで考えて、前篇の方、児玉が殺される話の方を小説の中の小説にすればよかった。即ち殺人を取り扱った小説が因で、ほんとうの殺人事件が起こる。そうしてその小説の作者が疑われ、死刑に処せられる。――その全体を一つの小説にすべきであった。そうしたらあの前篇だけよりもどんなに傑《すぐ》れたものが出来たろう。のみならずそれまでを小説にしてしまえば、続篇にあるような不祥事が実際に発生するのを予防することにもなる。すでに続篇が書かれていたなら、蔭の男はそれを実生活で模倣することに格別の興味を感じないであろうし、罪を作者になすりつける可能性が余ほど怪しくなり、却って彼自身が嫌疑を招く恐れがある。……
「しまった事をした。一と月延ばして貰えれば全部あれを書き直すんだが、もう原稿を取り返す訳には行かないかな。」――水野の不愉快は二重であった。一つは折角苦心をして異常な構想の作品を書いたつもりのが、実は中途はんぱなもので、もっと複雑な自然な構想が、それから編み出され得ることを見逃していたこと。一つはそれを見逃したことから、今や自分を非常な危険に曝しつつあること。が、原稿を取り返そうとしても最早到底駄目であるのは明かであった。「民衆」と云う雑誌は毎月おそくも十日には締め切り、たいてい月のうちの二十日前に市場へ出る。ところが今度の彼の原稿は、二日置き三日置きぐらいに五枚十枚と社の使いの者に渡して、社ではそれを受け取ると直ぐ印刷所へ廻していた。そうして彼が最後の分を渡したのが十三日の朝であった。それから今日までまた三日も過ぎたのであるから、今頃はちょうど校正も済み、本刷りにかかっているに違いない。たといかかっていないにもせよ、すでに来月号の予定に組み入れてあるものを何等か重大な理由もなしに、社がオイソレと返してくれる訳がない。尤も作者の一身に取っては彼の運命に関することだから重大な理由となり得るけれども、今から大急ぎで印刷所へ駆けつけて編輯者に訴えてみたところで、誰がそんなことを真に受けよう。
「君、君、あの小説をあのまま載せられては困るんだがね。あれが出ると、あの中の児玉にあたる人間が実際に殺される。そう云う事がきっと起る。そうすると僕が警察に捕まる。二人の命にかかわるんだ!」
しかし編輯者は此方が気を揉んでいる半分も本気で聞いてはくれないだろう。
「冗談じゃない! そんな馬鹿馬鹿しいことが……あなたはどうかしているんですか。」
そう云って、真面目になればなるほど茶化してしまうだろう。
水野自身も馬鹿馬鹿しいとは思うのだけれども、一抹の雲がだんだんひろがって空を一面に蔽うように、じーっと蒲団にもぐっているうちにその心配は次第に大きくはびこって行った。得て災難と云うものは馬鹿馬鹿しいことから起こるものだし、それに今度は、どうも何かしら起こりそうな予感が、最初からしていた。「なんだ下らない」と打ち消せば打ち消すほど、「いや下らなくはないぞ。そろそろ貴様にも積悪の報いが来るんだぞ」と、脅やかす声が聞こえていた。まだしも今のうちに気が付いたのは悪運の尽きない証拠だから、兎に角用心に如くことはない。そこであの原稿を取り返す訳に行かないとしたら、どうしたらいいか?
そうだ、「児島」を「児玉」に訂正だけでもして貰うことだ。そのくらいな事ならまだ間にあう。あの間違いは最後の十枚ぐらいの部分で、十三日の朝に渡した中にあるのだから、いくら急いでも本刷りにかかってはいないだろう。ひょっとすると校正係りが気を利かして直してくれたかな?――そう行けばしめたもんだが、締め切りに三日もおくれているので、とてもそんなことに気が付く余裕はなかっただろう。何しろ民衆社と来ては社長がセッカチで、社員がみんなそそッかしやで、仕事が敏速な代りに雑誌はいつも誤植だらけだ。とすると、あれが直ってなんぞいる筈はない、よし、電話で交渉してやろう! 一刻も早いがいい。――そう思ったとたんにパッと蒲団をはねのけて立ち上がった水野は、直ぐ又、何処で電話をかけたらいいかが心配になった。と云うのは、此処の下宿には電話室がなく、玄関の上がり口に電話が附いているのである。別段人に聞かれても差支えはないようなものの、「児玉」だの「児島」だのと夢中になって大きな声で談判していたら、やっぱりちょっとおかしくはないか。なぜあの人は下らない誤植をそんなに気にするのか知らん? そう思われるのは面白くない。では自働電話にするか? と云って宿に電話があるのに、ことさら外へかけに行くのも変か知らん?
そう云う風に神経を使い出すと何も彼も分らなくなって、何処で電話をかけようと孰方《どつち》でもいいことであるのに、水野は暫く部屋から出たり這入ったりして迷い抜いた末、結局自働電話にしようと決心するまでには、それからまた三十分もかかったのであった。
彼は下宿から一番近い自働電話の前に来た時、どう云う積りかそこを通り越してその次ぎの角の自働電話まで小走りに走った。そしてあたりに気を配って、往来の人通りを見定めてから、やっと中へこっそりと這入った。
「ああ、あなたは、……ああ、水野さんですか。」
「民衆」の印刷を引き受けている印刷会社を呼び出してみると、いい塩梅に編輯主任の原田がいた。
「ああ、原田君、……あの、此の間の原稿にたいへんな間違いを書いちゃったんで、是非とも直したいんだけれど、……それもほんの終りの方の十枚ばかりなんだけれど、……間に合わないでしょうか。」
「間に合わんですなあ。あれはあの日に全部徹夜で校正を済まして、明くる日から本刷りにかかったので、もうとてもいかんですなあ。」
九州訛りの、新派の芝居に出る巡査のような口のききかたをする原田は、妙に間伸びのしたおうような調子で云うのであったが、それが面憎く落ち着いて聞こえた。
二
「困ったなあ、それは。……」
「どう云う間違いをされたですか。」
「それがその、……あの小説には……」
モデルがあると云おうとして、慌てて彼は云い直した。
「……あの中に児玉と云う名が出て来るでしょう?」
「はあ、はあ、あの殺される方の男ですな。」
「え、そう、それを僕は終りの方でうっかり間違えて児島と書いてしまったんだが、何とかならんもんでしょうか?」
「そんなところが何ケ所ぐらいあるですか。」
「五六ケ所は確かにあるんだ、いや、事によるともっとあるかな。――校正係りが直していてくれれば有り難いんだが、君は気が付かなかったでしょうか?」
「待って下さいよ。終りの方の十枚ぐらいのところですな?……ちょっと今校正係りにきいてみます。」
そう云って一旦引っ込んだが、二三分すると戻って来て、
「あー、今校正をしらべたですがねえ、やっぱり直っておらんですよ。」
と、原田はその太い地声を、輪転機の音に消されまいとして一層太く、向う河岸から呼ぶように怒鳴るのであった。
「だけどもあれをあのままにして置いちゃ、僕は勿論雑誌としても不体裁じゃないですか……。」
「いやあ、大丈夫ですよそれは、読者は大概察しるですよ。僕も読んだことは読んだですが、別に気が付きはしなかったです。」
「しかし君、仮りに児島という人間がいて、自分がモデルにされたんだと思いはしないかしらん? そんなことになると困るんだがなあ。」
水野はさっきからそれを云おうか云うまいかと、腹の中でとつおいつしていたのだけれども、相手が大掴みの豪傑肌の原田だから、へんな所へ気を廻すことはあるまいと思ったので、それでも成るべく用心しながら切り出してみた。すると案の定、原田は何とも答えないでただガラガラと陽気に笑う声が暫く電話口にひびいた。
「いや、ほんとうに笑いごとじゃあないんだ。……」
「水野さん、コジマと云う人間は日本中に何人おるか知れんですよ。」
「そりゃあそうだ。そりゃあそうだが、あのコジマのコは普通の『小』の字じゃないんだからな。『小児』の『児』の字なんだからな。」
「それだからどうしたですか。」
「それだからその、……ザラにある『小島』とは違う訳なんだ。……」
「あなた児島と云う人を実際モデルに使ったですか。」
そう何でもなく、からかう積りで云ったに違いないのだが、原田の口からこんな言葉が飛び出す以上は、いよいよ油断がならなかった。
「いや、そうじゃないんだ。」
「そうだって差し支えないですがなあ。」
「そうじゃないんだが、実は知っている人に児島と云うのがあることはあるんだ。だから心配しているんです。」
要するに、いつまで押し問答をしても原田はガラガラ笑うばかりでてんで相手にもなってくれない。電話を切ってしまってもまだその笑い声が彼の耳についていた。
もう仕様がない、予期の如く訂正は駄目ときまった。これが「民衆」のような一流の雑誌でなかったら、作者の我儘も、もう少しは通るし、編輯主任も原田のように威張っていないし、外の雑誌は仕事もそんなに速くはないから、まだ十分に間に合うのだが、運の悪い時は総べて物事がこう云う風になるのである。もうどうしてもあと四五日の間にはあれが世間へ発表される。それから、多分あの小説の殺人と同じ時候――日の短い十一月の末頃になると、児島が殺される。そうして己は監獄へ打《ぶ》ち込まれる。……
下宿の二階へ戻った水野は、今度は机に頬杖をついてまだくよくよと考えていた。が、滑稽なことにはこんな愚にもつかない空想にひたって人に聞かれても恥かしいような取り越し苦労をしていながら、どこか心の隅の方では、「己は創作のためになら敢て生命の危険をさえ冒すところの、壮烈なる芸術家だ」と云ったふうな誇りを感じているのであった。――どうだ、えらいもんじゃないか。何と云っても己は普通の作家とは違う。己の書く物はいつもこう云う苦しみの中から生れるのだ。万一今度の作品のために己が殺人の嫌疑を受け、そして死刑になったとしても、己は自分の芸術のために死ぬのだ。その時己は絞首台の上から声高く叫んでやろう、――「諸君、どうか僕の最期のさまを、――一人の立派な芸術家が芸術のために命を捧げるのを見てくれ給え。僕は始めから、あの小説を書けば自分に禍が来ることを知っていたのだ。僕の芸術的熱情はそんなことを顧慮する暇がなかったのだ。僕は決して国家の法律を、裁判官を恨まぬであろう。僕は予言する、僕の死後に必ず真の犯人が発見され、そうしてその事が僕の作品を、僕のこの世に遺した事業を、永久に価値づけるであろうことを!」――己はふだんは臆病だけれども、実際その時に臨んだら、案外悲壮な気分になってあっぱれな覚悟がつくかも知れない。それに引き換えて可哀そうなのは、一番馬鹿を見るのは児島だ。彼奴は己の小説がもたらす危険の性質が、恐らく見通せはしないだろう。「人をモデルに使うなんて、――たとい小説にしろ殺される男に使うなんて、実に怪しからん!」――彼奴に分るのはここまでなんだ。「たとい小説にしろ」ではない、ほんとうに殺される男に使われる運命にあること、それがあの小説の彼に波及する終末の結果であることまでは、とても彼奴には分らないんだ。それが分ったら彼奴は己の十倍も二十倍も慌てるだろうが、無神経な人間は仕合わせなもんだ。するとやっぱり殺されたって仕方のない男なのかな……水野の唇にはニヤリと意地の悪い薄笑いが上ぼった。
彼はそれから毎朝蒲団で眼を覚ますと何より先に枕もとの新聞をひろげては、恐いものを見るような気持ちで来月号の雑誌の広告へ気を配ったが、飛び抜けて派手な「民衆」と云う白抜きの文字が、威嚇する如く彼の瞳に映ったのは二十日の朝のことであった。彼の作品は創作欄の一番終りに廻されていて、「人を殺すまで」と云う題の下には、例によって編輯者が挑発的な文句を並べた次ぎのような説明が附いていた。――
「悪魔主義者の彼は遂に芸術を実行した。彼の思想、彼の人生観はそこまで行かねばならなかった。良心の苛責とは何ぞや? これを知らんがための哲学的殺人。飽く迄独自の境地に突進するこの作者近来の傑作にして、凄惨、複雑、深刻を極め、正にドキンシーの塁を摩すもの。」
読んで行くうちに彼は再び、いやな前兆に充ちた不安の雲が心の隅隅までひろがるのを感じた。
此の広告文は原田の下に働いている中沢の仕事だ。ド・クインシーを引き合いに出したのはあの男に違いない。そうして何より悪いのは、小説の筋の説明だか作者の身の上を云っているのだか分らないような書き方をしている。「悪魔主義者の――」から「――哲学的殺人。」迄が筋の梗概で「飽く迄――」から以下が作者乃至は作品の提灯持ちになっているのだが、二つの区別が一見甚だ明瞭を欠いている。「悪魔主義者の彼は遂に芸術を実行した。」――此の「彼」は小説中の彼であるにも拘わらず、むしろ作者を指しているような印象を与える。彼自身でさえ、たった今此れを読んだ時に思はずギョッとしたくらいであるから、一般の読者はなおさら錯誤を起こすであろう。もちろんそれが此の広告文の狙いどころで、「彼」なるものが小説中の主人公でもあり又作者の水野でもあるような混乱した感じに読者を導き、無意識のうちに「作者が人を殺すのだ」と云う風に思い込ませて、彼等の好奇心を動かすことが出来さえすればいいのである。そうすると此の文章は彼の小説そのものよりも一層悪い結果を及ぼす。なぜなら此れを読んだ人たちは、たとい小説を読まないでも、すでに水野を「恐ろしい人」、「人殺しをしかねない人」と云うように、先入主的に考えてしまうであろう。その時児島が殺されたとしたら、最早問題は簡単である。世間はただ「悪魔主義者の彼」がいよいよ「芸術を実行した」と、そう思うだけである。実際此の広告は此の上もなく危険だ。此れが出たので彼の立ち場は前より幾倍も不利になった。此の広告に最も強く挑発される者は恐らく蔭の男であろう。此れを読む以上、蔭の男は今や形勢がその思う壺へ来たのを見て、決然として起つであろう。
その日の午後、呪うべき雑誌「民衆」は彼の手許へ届いたが、彼は封を切って机の上に置いたきり、暫く遠くから恨めしそうに表紙の文字を眺めていた。それから恐る恐る、溜め息をしながらそれを膝の上へ持って来て、ちょうどその小説にあたるところをバラバラとめくって、少しずつ終りの方だの始めの方だのを、運だめしのおみくじでも引くように、チラと読んでは止め、読んでは止めしているうちに、とうとう一字も余さず読んでしまった。彼はもう一ぺん、今度は第一ページからゆっくりと読んだ。次ぎには「児島」と云う名前がいくつ出ているか数えてみた。五六ケ所はあると思ったのに意外にも三ケ所だけしかない。しかし一つでも二つでも間違っている味は同じであって数の少いのが一向彼の心配を減ずることにはならなかった。それにだんだん調べると、最も間違えては工合いの悪い所ばかり間違えているので、その一つは「ウムと云って児島は仰向けに倒れた。ただ、それきりであった」と云う一節、一つは「顔は暗いので分らなかったが、その屍骸は彼に何等の感じをも与えなかった。殆ど紙屑が捨ててあるのと同じであった。……生きていても曖昧な存在であった児島は、屍骸になっても曖昧であった」と云う一節、なおもう一つはその殺人の記事が新聞に出るのを主人公が読むところで、記事が抜萃してあるのだが、その一節にはこうあるのである。――
「それは隅の方の眼に付かぬ場所に、『疑問の死体』と云う見出しでほんの二三行書かれているに過ぎなかった。『もと某婦人雑誌記者児島直次郎《なおじろう》(三十五)は昨暁午前六時ころ埼玉県大宮在の自宅を距《さ》る数町の地点で死んでいるのを通行人が発見。他殺の疑いあり目下厳探中。』――此れだけの文句が水死人や行き倒れの記事と並んでいた。新聞迄が『偶然の災難で死んだ人間』と同じに扱っているのであった。」
間違いの中《うち》でも此の新聞記事の抜萃――「児島直次郎(三十五)」とあるのが一番気になる。なぜなら児島の本名は仲次郎《なかじろう》であって、ここでは五字のうちの四字までが、――七音のうちの六音までが、――同じなのである。どうしてこんなにまで不注意であったか不思議のようだが、いったい作者が作中の人物の姓名を考える場合には、当然彼の記憶のうちにある多くの実在の人物の姓名が次ぎ次ぎに浮かんで来る訳で、それらと呼びかたの近似したものが出来上がる傾きがあるのである。水野の頭には、それが誰の名であると云うはっきりとした意識はなしに、ぼんやり「何とかナカジロウ」と云う語呂が記憶されていた。そして児島の姓を「児玉」と変えたとき「児玉何雄」でも「児玉何右衛門」でも語呂が悪く、「児玉何次郎」にするのが一番感じが出るように思われ、何気なく「児玉直次郎」としたのが、今になってみれば矢張り児島の「仲次郎」から来ているのであった。こうなって来ると心配なのは年齢である。三十五と云う歳にしたのはいい加減に付けたのだけれども、こう物事が妙な廻り合わせになる時には、どんな悪魔のいたずらで事実と暗合していないものでもない。三十五でないとしたところでどうせ一つか二つの違いに極まっている。水野は今迄自分勝手な妄想を描いて、影も形もない恐怖と独り相撲を取っていたのが、ここにそれが形を備え、活字になってまざまざと彼の眼の前に置かれたのである。彼はさしあたって、児島が何とか抗議を持ち込んで来はしないか、いかに無神経な男でも此れを読んだらうなされないはずはないと思った。
幸いにして此の作品が黙殺されてしまえばいいが、批評家どもが今に何を云い出すか、文壇にどんな評判が立つか、彼はそれを聞くのが恐さに、世間がしずまってしまうまでじーッと蒲団にもぐっていたいような気がした。例の独り言を云う癖がそう云う時にはまた一倍とはげしくなるのが常であって、此れはちょうど、地震嫌いが地震の最中に自分の体をゆすぶっているのと同じように、ハタの噂を聞くまいとして自分でのべつ幕なしにがやがやしゃべりまくるのである。「あ、誰かが何か云っている。」――そう思うとすぐ急き立てられるようになって、続けざまに三つも四つもあわてて独り言を云う。
「馬鹿、お前はどうかしているぞ!」
「いよいよ己の運命も極まったかな。」
「ふん、冗談云うない!」
「児玉、児島、児玉、児島、――」
「あ、もし、もし、あなたは水野さんですか?――」
独り言の種類を挙げたら際限もないが、一番終りの、自分で自分の名を呼ぶ場合は、時とすると非常に長い問答体に迄引き延ばされることがある。――
「あ、もし、もし、あなたは水野さんですか?――はい、わたくしは水野でございます。あなたはあんな小説をお書きになって、そらっとぼけていらしってはいやでございますよ。――へえ、わたくしが? 何もそらっとぼけてはおりませんがねえ。――あら、いけませんわ、あなた、人殺しをなすった癖に。――それは小説でございますよ。――いいえ、実際にも。わたくしちゃんと知っておりますわ。――」
まだこの先が何処までも続いて、不安な時ほど一層長くなる。答える方は地声で云うのだが、尋ねる方はなまめかしい声で、若い女と電話ででも話しているように云うのである。
それでも新聞の月評がぽつぽつ彼の眼に触れないではいなかった。彼が漠然と受け取った感じでは、文壇は彼の悪魔主義に飽きが来ているような模様で、折角の今度の傑作も「又か」と云う風にあしらわれ、大概の月評が多少の反感と冷罵とを以て遇しているらしかった。
「水野氏の『人を殺すまで』はいくらか趣向は変えてあるが例に依って例の如きものである。人殺しの小説でなければ悪魔主義的作品でないと思っているかに見えるのも困りものである。」
と、皮肉を云っているのもあり、
「強いて深刻がろうとしてその実深刻でも何でもない概念の遊戯に終っている。此の作者のものはいつも此れだ。小説の主人公のような全然良心の苛責を感ぜぬ人間などがあるものでない。あればそんなのは狂人である。悪魔主義と云えども良心の苛責を感ずるところに人間苦があり、複雑な問題が生じるのだ。此の作者は人間が分っていないのである。」
と、大分手きびしいのもあり、
「心理小説としては浅薄、犯罪小説としては単純。」
と、あっさり片附けたのもある。
長い間作家生活をしている彼は此んな悪評には馴れているので、むしろ此の際余り持ち上げられない方が、こっそり葬られてしまう方が、却って有り難いのであった。それに彼が読んだ限りでは、いい塩梅に誰もモデルの問題に言及していない。気が付かないのか気が付いていても批評の範囲でないからか、或いは児島に遠慮しているのか、細君の時はあんなに物議を醸したのに今度はいやにひっそりしている。ゴシップ欄にでも出るかと思ったら、新聞にも週刊雑誌にも何の噂も現われない。一と月ばかり立つうちに次第に彼は大胆になって、散歩のついでに本屋の店頭でいろいろなものをあさってみたけれど、誰か一人ぐらいは気が付きそうなものだのに、やはり何もない。そうなられると又そのひっそりしているのが妙に薄気味わるくもあった。
こう云う時に誰か親しい友だちでもあればそれとなくきいてみられるのだが、あいにく彼はひとりぼっちで、訪れる者もめったにないので困っていると、或る日民衆社の中沢が原稿を頼みにやって来た。いつもなら用談が済めば無愛想に追い返してしまうところを、その日は何となく話しかけながらだんだん話題をその方へ持って行って、遠廻しに探りを入れてみると、中沢の方はケロリとして一向そんな問題が頭にありそうな気《け》もなかった。
「ではどうか、今度の原稿は少うし早く頂きたいですな。遅くも来月の五日までに出来ませんかな。」
「五日と、――五日は早いなあ、十日まで待って貰えんかなあ。」
「いやあ、そりゃあ困りますよ。此の頃は雑誌の発行が遅れるんで社長がやかましく云うもんですから、今月から締め切りを早くしたんです。」
「君ンところは仕事が速いんだから、締め切ってから一週間もあれば出せるんだろうが。――」
「だって、あなた、この前みたいに十日と云うのが十三日にもなられたりしちゃ弱るんですよ、印刷所の方から苦情が出て。」
「それで誤植が沢山あると云う訳かね。」
「ええ、それはどうしてもそうなりますよ。――」
そう云ってから、中沢はふと想い出したようにニヤニヤした。
「あ、そうそう、此の前何だか、原田君がひどくおかしがっていましたぜ。」
「へえ、何だって。」
「えらく狼狽して電話をかけられたと云うじゃないですか。」
「はあ、はあ、そんなことがあったね。で、それがどうしたと云うのさ。」
「なんでもあなたが、名前を間違えて書いてしまったから是非直してくれ、直してくれないと大変だって、詰まらないことをひどく気にしておられたと云うんで、――」
「は、は、は、――そのくらいに強く云わないと原田君には感じないと思ったからね。」
「しかし原田君の話では、電話口で泣き声を出されて、あとで児島君に恨まれるからって本気になって――」
急に水野がドキンと胸をつかれたような顔をしたのが判ったのか、中沢もはっとして言葉を控えた。
「コ、ジ、マ、クン?――コジマクンて君、誰のことだ?」
此れはいけない、此んなにドギマギしてはいけない、そう思いながら水野は声が自然と吊り上るのをどうする訳にも行かなかった。
「先にあのう『ユモレスク』の記者をしていた児島仲次郎と云う人、――あれをモデルにされたんだそうじゃないですか。」
「誰がそんなことを云うのだ?」
「いや、あなたが御自身電話でそう云われたそうですぜ。」
「じょ、じょうだんじゃない!」
水野はやっと笑い声でそれを云うことが出来た。
「僕はそう云ったんじゃないよ、児島と云う名前は有りふれた名前で、日本中に何十万人、何百万人の児島がいるか知れないから、そのうちには偶然ああ云う性格に似通った人があると見ていい。するとその人が自分をモデルにされたと云う風に考える恐れがあるからって、――」
彼はいつの間にか、うそをつく気でも何でもなく、原田の云った言葉を自分が云ったもののように思い込んで、それへ勝手な理窟を加えているのであった。
「――そして万一、――ま、そんなことが実際起こると考えるのはちょっと滑稽なんだけれど、しかし万一、その或る児島と云う人があの小説と同じような状態で殺されるようなことがあると、僕が嫌疑を受けるからね。」
「あはははは、」
「いや、ほんとうにさ。――原田君にはそうまでは云わなかったんだが、実際創作していると盛んに空想が湧いて来て、神経が妙に興奮し出して、小説と現実との区別が付かなくなるもんだから、いろんなことを考えるんだよ。またそのくらいにならなけりゃあ、いい物は書けないんでね。」
「そりゃあそうでしょうなあ。」
中沢は、そこは原稿取りの記者だけに、直ぐと作者の意を迎えてさも感心したように云った。
「――バルザックなんぞも、始終自分の創作の中の人物と、まるでそこにその人がいるように大きな声で話をしたもんだそうですからなあ。」
「うん、そんなことは僕にもある、知らない者が聞いていると、独り言のようだがね。」
「下女を殺すのは毒薬がいいって、――あの、馬琴の話があるじゃないですか。」
「そうだよ、そう云う経験は誰しも作者にはあるんだよ。」
水野はしゃべっているうちに何の訳もなく安心して来た。そして次第に図に乗りだして、自分もバルザックのような大作家の気になっていた。
「僕等にもその気持ちは分らないことはありませんな。ですからあの時にもそう云ったんですよ、原田君はおかしがるけれども、水野氏のように人殺しの小説ばかり書いておられると、自分で自分の書く物が恐ろしくなって来るんだろうって。――詰まりそれだけ真剣なんですな。」
「は、は、まあそんなもんかも知れんね。それに君、大概仕事をする時は夜中の二時か三時頃だろう? 夜がしーんと更けた時分にじっと机に向いながらあんな小説を書いていると、余りいい気持ちはしないもんだよ。」
「どうですか、そう云う時に恐くってたまらなくなって、先を書くのを躊躇するようなことはありませんか。」
擦れからしの中沢は、それが作家を喜ばせる一番有効なお世辞だと信じているらしく、文学青年が云いそうなことを真顔になって尋ねるのであった。
「恐いことは恐いが、恐ければ恐いほど止められない――と云ったような工合いだね、筆を休めると恐くなるから一気に夢中で書き続ける。臆病な馬が走り出すと止まらないようなもんだな。」
「水野氏は悪魔主義者だと云うけれど、実は頗るの善人なんだろう、だからあんなことが気になるんだろうって編輯の者がみんなそう云っていましたがね。」
「えせ悪魔主義者だと云うんで、何処でも評判がわるいようだよ。」
「いや、そう云う意味じゃないんです。えせ悪魔主義と云うのと善人と云うのとは違いますから……」
「君のことを云っているんじゃない。あの小説も大分方方で悪口を云われたよ。」
「へえ、いや、そんなことはなかったでしょう。――」
と、中沢のそらとぼけて云うのが見え透いていた。
「――悪口を云った者がありましたか知らん?」
「ありましたか知らんて、悪口ばかりで褒めた者なんぞなかったじゃないか。」
「そうでしたかなあ。――そんなことはありませんぜ。僕は何処かで褒めてあるのを見ましたぜ、確かに。第一非常に面白いじゃないですか、児島という男が靴の皮みたいだなんて云うところは、実によく感じが出ている。あなたでなけりゃ書けませんよ。」
「おい、おい、児玉だよ、児島じゃあないよ。――」
そう云っているうちに、水野の顔が又だんだん曇り始めた。
「あ、そうか、――どうも最初に児島君だと思い込んじまったもんだから。――」
「君はしかし、その児島君と云う人を知っているのかね?」
「僕は実は一と月ばかり『ユモレスク』の方を手伝ったことがあるんです。あなたも児島君は御存知なのじゃないですか。」
「さあ、二三度会ったことはあるか知らん? 知っていると云うほどじゃあないがね。兎に角モデル問題が起こらんように、ほんとうに気を付けてくれ給え。」
間もなく玄関まで送って出た水野は、そこで中沢が靴の紐を結んでいる間、後に立ってモジモジしていたが、
「君、さっきのモデル問題ね、あれは君ばかりでなく、みんながそう思っているのかしら?」
と、そうっと横顔を覗き込みながら尋ねた。
「いや、そんなことはないでしょう。僕は児島君を知っているもんだから、ふいとそう思ったに過ぎないんでしょう。」
「しかし、社の内部の人たちはどう? 編輯の方にそんな噂があるんじゃないかね?」
「あったって今では忘れていますよ。いつ迄覚えているもんですか。」
まだ何かしら聞いてみたいことがあるんだがと思っているうちに、中沢はもう靴の紐を結んで、
「では、……」
と云い捨ててさっさと帰って行ってしまった。
「馬鹿野郎」
と、その後姿へ投げ付けるように、水野は覚えず口汚い調子で云った。折角安心していたのに余計なことを聞いてしまったと思う心と、聞いていいことをしたと云う念とが、頭の中で入り乱れた。それより何より彼に一番意外であったのは、中沢が児島と面識のある間柄だと云う事実である。児島はあんな曖昧な人物だから、自然人目にも付かないだろうし、交際の範囲も狭いだろうと、独りで極め込んでいたところへひょっこり彼を知っている中沢と云う者が、事もあろうに民衆社の内部から現われて来ようとは、全く寝耳に水である。そう思うと彼は、自分の迂濶を恨むよりは、中沢の奴、それならそれとなぜ早く教えてくれなかったのかと、まるで故意にでも隠していたように腹が立ってならないのであった。
今になって考えれば、あの時軽率に電話をかけたのが此の上もない失策であった。あんなことさえしなければ原田に笑われもしなかったろうし、編輯部内に噂がひろまりもしなかったろう。中沢のように、ああ頭から思い込んでいられては、いつ又、どんな所でうっかり口を滑らさないものでもない。「児島が靴の皮みたいだと云うところは、実によく感じが出ている」と彼奴は云った。彼奴がほんとうにそう感じたとすると、彼奴以外にも、児島を知っている者は皆そう感じるに違いない。彼奴は恐らく、己がいくら打ち消しても腹の中では「なあにやっぱり児島を書いたんだ」と思っているだろう。或いは面白半分に方方へ云い触らすかも知れない。そう云えばあの物騒千万な広告文を書いたのも彼奴だ。実際忌ま忌ましい奴だ。……
彼はさっき中沢と話している間にも、もしほんとうに児島が殺害された場合、自分が容疑者として挙げられるようなことになったら、当然此の男が証人として喚ばれるであろう、そうしたら此の男は、今の会話のいきさつを詳しく陳述するであろうと、それを絶えず考慮に入れて用心しながらしゃべっていた。「ま、そんなことが実際起こると考えるのはちょっと滑稽なんだけれど」と前置きをして彼がその馬鹿馬鹿しい心配を打ち明けたのは、実は策略から出たのであった。彼の頭には予審に於ける判事と中沢との問答のさまが、下《しも》のように描かれていたのである。――
(判事)「……それから被告は証人に対して何と云ったか。」
(中沢)「水野さんは、そんなことを考えるのは滑稽だけれども、万一あの小説と同じような殺人事件が実際に起こると、自分が疑われると云って心配していました。」
(判事)「証人はそれを聞いてどう感じたか。」
(中沢)「余り突飛な空想だと思って笑いました。」
(判事)「それから被告は何と云ったか。」
(中沢)「すると水野さんは、創作家が創作する時の心理状態をいろいろ説明して聞かせました。」
(判事)「何と云って説明したか、それを詳しく述べて見よ。」
(中沢)「創作していると、盛んに空想が湧いて神経が興奮するものだから、小説と現実との区別が付かなくなる。それで非常に突飛なことを考えたり、自分で自分の書くものが恐ろしくなったりする。と云うようなことでした。私はバルザックや馬琴の例を引いて、そう云うことは有り得ることですねと云いました。」
(判事)「そのバルザックや馬琴の例と云うのは?」
――こう云う風に問答が行われるとすれば、さっきの会話は彼のために不利ではない。中沢がバルザックと馬琴の例を偶然想い浮かべてくれたのは、彼の心理を裁判官に理解させるのに何よりも有効である。少くとも判事は、小説を書いたのが水野だから実行したのも水野だと云う風に、頭から極めてはしまわないであろう。
しかし考え直してみると、実行する意志があったから、わざとあんなことを打ち明けたのだと取られはしないか。彼は小説を書いているうちに、芸術を実行に移したい慾望に駆られた。ここに於いて世間を欺くために殊更あんな電話をかけ、云わゆる「馬鹿馬鹿しい心配」を中沢に洩らした、そして中沢を誘導してバルザックや馬琴の例を想い出させるように仕向けた、と、そう裏の裏へ気を廻されはしないか。「或る児島と云う人があの小説と同じような状態で殺されるようなことがあると、僕が嫌疑を受けるからね」と云ったのは、少少まずかった。打ち明けるならもっと詳しく、何から何まで打ち明けてしまう方がよかった。児玉が児島仲次郎に似ていることを下手隠しに隠すよりは、無意識の間にモデルに使ったと云う程度に認めるべきであった。そして自分は多くの人人に恨みを受けている覚えがあること、それらの一人がいつか恨みを報いようとして機会を窺っていたとすれば、今が絶好の時であること、等の事情を明白にして、児島仲次郎が実際に殺害される危険、自分が蔭の男から陥れられる恐れ等が、必ずしも突飛な空想でないゆえんを、ほんとうに中沢に納得させるべきであった。中沢ばかりでなく、世間一般が彼の憂慮を諒解し、蔭の男の存在を予想してくれるようにすべきであった。
だが今からでもその方法がないことはない。それは此の前のをあのまま前篇として、今度頼まれた創作にあの続篇を書くことである。「人を殺すまで」はもともとそう云う計画を以て始めたのでないから、どうせつながりが不細工になるけれども、そんなことを云っている場合でない。渾然たる作品を完成するよりも禍を防ぐ方が急務だとすれば、芸術上の野心は放棄してしまおう。それにしても今日から続篇が発表される迄の期間、約一ケ月半の間が問題であるが、蔭の男はそんなに早く決行しようとはしないであろう。水野がいかに物好きでも、人殺しの小説を書いて一と月も立たぬうちにほんとうに人を殺すはずがないから、小説と事実とが余り時間的に接近していては、却って彼に嫌疑を移すのに都合が悪いと思惟するであろう。するとここ当分はまあ何事も起こらぬと見ていい。そして続篇が発表されてしまえば蔭の男は先手を打たれて迂濶なことは出来なくなる。それでも絶対に安全とは云い切れないが、万一その場合に児島が殺されたら、水野一人が疑われるようなハメにはならない。……
三
その明くる日から机に向い始めたが、最初に彼が苦心したのは標題であった――
人を殺すまで 続篇
或いは
続篇 人を殺すまで
こう二た通り原稿用紙へ書いてみたけれども、どっちも彼の気に入らなかった。彼は考えを纏めるために、ざっと腹案を下のように書きとめていた。
〓 ここに一人の悪魔主義的傾向を持つ作家がいて、「人を殺すまで」と云う小説を発表する。本来ならば此れの全部が前篇。即ち小説「人を殺すまで」は前篇の中の一部をなす。しかし今度は已むを得ぬから、一箇独立した「人を殺すまで」と云う創作だけが切り離されて前篇となる。
〓 続篇は、前篇のような小説を書いた男があったと云う風にして書き起こす。その男は右の小説を書いてしまってから偶然その小説中で殺される児玉と云う人間が、小山と云う実在の人間にいろいろの点で似てしまったことを発見し、その小山が小説の通りの状態で殺されたならば、自分が嫌疑を受けはせぬかと恐れる。彼は悪人ぶっているが、その実えせ悪魔主義者であって、臆病な善人なのである。すると果たして、恐れていた通りの事件が起こり、小山が殺される。彼は遂に警察に引致され、取り調べられる。「いいえ、断じて僕が殺したのではありません、きっと僕に恨みのある男が、僕を陥れるためにした仕業です」と彼は泣き声になって弁解する。しかし刑事は彼の言葉を信じない。「ハハ、馬鹿を云え、そんなうそを云って罪を他人に塗り付けるのが、やはり悪魔主義の一部か。」刑事はあざわらう。そして彼を野蛮な方法で拷問する。彼は遂に苦しみに堪えず「殺したのは僕です」と云ってしまう。予審から公判に移され、前の自白を取り消すけれども、検事は痛烈なる論告をし、裁判官も彼を犯人と認める。此の時彼の以前の妻が証人として出廷し、彼に不利な陳述をなす。「此の人は芸術を実行しかねない人です。私も殺されそうになったので、それが恐さに別れたのです。小島さんを殺したのはきっと此の人でしょう」などと云う。そして死刑の宣告を受け、間もなく刑を執行される。然るに彼の死後真の犯人が現われる。犯人は「己は社会の安寧のためにあの悪魔主義者を葬むってやったのだ、ああ云う奴は殺して了った方がいいのだ」と豪語し、「小島を殺したのは気の毒だったが、それも仕方がない、己と小島と二人がかりであの悪魔を退治したのだ」と云い、莞爾として服罪する。世間は真の犯人の恐るべき復讐に戦慄するけれども、しかも無実の罪で死んだ作家を一層憎み、当然の報いを受けた者として誰も同情しなかった……
――彼はこの手記の〓の項の中の「偶然」の二字へ、特にそのことを忘れないように圏点を附した。が、終りの方で「小山」と書くべきのをまたいつの間にか「小島」と書いていた。
さてそう云う風に書きとめてみると、「人を殺すまで」と云う題は一つの切り離された小説の名であるから、それを全体へ押しひろげるのは適当でない。〓は〓の続きであるが小説「人を殺すまで」の続篇でない。正確に云えば「『人を殺すまで』を書いた男が殺されるまで」――そう云うのがほんとうである。それでは小説の題として余り冗長になるけれども、しかし今度の作品は成るたけ多くの人に読まれることが必要であるのを考えると、型を破った奇抜な題で注意を惹く方がいいかも知れない。のみならず、此の題であればいくらか続篇の意味にもなり、題だけで既に内容の一半を予想せしめることが出来る。思えば彼は、今まで自分も作物《さくぶつ》の中で幾人もの人を殺したが、今度は自分が殺される話を書くのである。すると多少の罪ほろぼしにもなるではないか。
こうして彼の原稿用紙の第一ページには、改めて、「人を殺すまで」を書いた男が殺されるまで
と云う標題が二行に置かれた。
「さあ、此れでいい、此れで安心だ、一日も早く書き上げて蔭の男の鼻を明かしてやることだ。」――彼は毎日書き続けて行った。が、例によって最初の十枚二十枚を突破する迄が容易でなかった。峠を越してしまいさえすれば割り合いに速力は早いのだけれども、いつでも彼は、書き始める迄が大変で、書き始めてから大凡その山が見えるまでが、又恐ろしく日数がかかる。先ず毎朝眼を覚ますのが十一時前後、それから寝床で煙草を吹かしたり、妄想に耽ったり、新聞を読んだりして、顔を洗って朝と兼帯の昼飯を済ませるのが彼れ此れ午後二時ぐらいになる。そして机に向っては見るものの、昼間のうちは一枚以上はかどることは殆どない。一行ばかり気を張り詰めて書いたかと思うと、もう直ぐ彼の頭の中には小説の筋と関係のない空想のきれぎれが雲のように群り湧くので、それが何とか鎮まる迄は自分でどうすることも出来ず、仕方がなしに頬杖をついて窓の外を眺めたり、仰向けにふんぞり返って天井を睨んでいたりする。そうして雲の晴れ間を窺ってはまたペンを執って一二行書く。書いているうちに再び朦朧と雲が湧き上がる。ちょうど後から後からと押し寄せる波の間を掻いくぐって進むようなものである。それでもどうしても雲の騒ぎが止まない時は、腹立たしそうにペンを投げ捨てて、ふいと外へ散歩に出て、晩の九時か十時頃迄その辺を一と廻りうろついて来る。彼が相当に長い物を書き出したら、こう云う時が必ず始めに一二週間は続くのである。
その一二週間の間の或る日のことであった。その日も一向にはかどらないので、昼間は仕事を諦めることにして、いらいらした気分を紛らすため銀座の方へ出かけた彼は、夕方、久しぶりで鮨の立ち喰いをしてから、ローヤル・シネマにかかっている「チャング」と云う映画を見に這入ったのが、五時頃であった。彼が二階の特等席に着いた時に、ちょうどその「チャング」の絵の終りの方が映写されていて、森の中から現われた象の大群が土人の小屋を踏みにじっている場面であった。土人に飼われている真っ白な猿が木から木の間を逃げ廻るのが美しいなと思っていると、とたんにうしろから、水野の肩を黙って叩く者があった。
「やあ、……」
そのもぐもぐと云う声は、振り返って見る迄もなく児島に違いない。……
「やあ、……」
彼も同じように曖昧な声で云って、薄暗い中に腰をかがめて挨拶をするその人影の方へ軽い会釈を返したきり、直ぐ又スクリーンの方を向き直った。いつかは児島に出遇うようなことがありはしないか……ときどきそう思わないこともなかったのだが、でもまあ、明るい往来でバッタリ出っくわすよりは、こんな所で映画を見ている最中だったのは有り難かった。此処なら話しかけられてもゴマカシがつくし、そのうちにもう二三十分で此の絵が終ったら出てしまおう、いや、そうこそこそと逃げ隠れするのも却って変かな、と、内内方略を考えていると、児島は一と側《かわ》後の列からぐるりと前へ廻って来て、ちょうど右隣りの空いた席の腰板のスプリングを長いことばたんばたん云わせて、そこへおもむろに帽子を挟んで、腰を据えた。そして暫く絵の方を見ていたかと思うと、微かな身じろぎの気はいがして、心持ち肩を水野の方へ寄せた。
「あなた……おひとり?……」
「う、……」
そう殆ど聞き取れないくらいに口のうちで云って、水野はわざと振り向きもせずにいた。が、正面を向いたままでいて眼の隅の方に映っている相手の様子から判断すると、それなり又余念もなく絵に気を取られているようである。洋服の膝を揃えて、その上へぼてぼてした外套を二つに折って載せている。スクリーンの上にさっきの美しい白い猿が大映しになると、その銀光が真正面から照り返すので、折り折りぱっと、体から鼻の頭へかけて明かるくなるのだけが分る。わざわざ己の隣りへ来たのはどう云うつもりなのか知らん、今に何か云い出す気なのか、己が見て見ない振りをしているように、此奴《こいつ》もこっそり此方《こつち》を探っているのじゃないかなと思っていると、間もなく靴の先でゴトゴトと貧乏揺すりを始めた。ゴトゴト、ゴトゴト、……と、二三分続いてはふいに止める。そして又、直きにゴトゴト、……と始める。いったい人間が貧乏揺すりをする時は、上の空でいる証拠ではないか知らん。他人の素振りに一生懸命注意するとか、何か腹に一物を貯えてじっと考え詰めるとか云う時に、こんなにせわしなく体を揺すぶる奴はあるまい。いや、案外奴さん、なかなか陰険なところがあって、此方を油断させる計略なのかな。貧乏揺すりは伝染するものだから、此方も計略の裏を掻いてゴトゴトとやってやるかな。それともそんな陰険なのでなく、小便でもこらえているのかな。……
「うふふふふ、」
何かおかしな場面でもあったのか、貧乏揺すりが止んだとたんに笑うのが聞えた。小鼻の周りに皺が寄って、唇が笑いのために歪んでいるのが見える。と、その唇がひょいと水野の方を向いた。
「面白いですなあ、……」
「はは、」
押し出されたように水野も笑ったが、実は笑ったのではなく、「は」と云う声を二つハッキリと発音しただけであった。
「あなた、始めから御覧になったですか。」
「う、……いや、……君は?」
「今、……たった今来ました。」
それきりお互いに又暫く黙っていた。
児島はいつもこんな工合いにぼつりと一と言しゃべってはあとの言葉を直ぐには続けない男であるから、別に不断と変ったところはないようなものの、それでいてやっぱり水野にはそのシンネリムッツリした様子が気にならないではいなかった。とにかく此の絵はもう十分か五分で終る。そうすると客席が明かるくなる。それまで待っていたものか、一と足先へ帰ったものか、たった今来たと云う児島はどうせ居残るのであろうが、彼は此の場合いどうしたら一番自然であるか。今迄にもこう云う場所で児島と遇ったことがあるが、そう云う時にどうしていたか、その時の通りにするのが最もいいように思われる。しかしだんだん考えてみると、水野の方が先へ帰ったことは一度もない。「僕は家が遠いですから……」と、小説の中の児玉と同じことを云って、児島の方が彼より先へ帰るのである。それに彼は今、「始めから御覧になったですか」ときかれた時、言葉を濁しては置いたけれど、「う、……いや、……」と、否定の返事をしてしまった。始めを見たのでないとすれば、この絵がもう一遍廻って来る迄待たないのはおかしい。……だが己は、いったい何で児島をそんなに恐れるのだ。会って話してみた方がいろいろ参考になるじゃないか。此奴が果たしてあれを読んだか、己に対してどんな感情を抱いているか、今でも浦和に住んでいるか、そう云うことは一と通り聞いて置いても悪くはない。近頃は浦和の方を引き払って、東京市の真ん中にでも移転していると云うようだったら、もうその一事で己の心配は余程軽くなる、……なあに此奴が、又あんな風に貧乏揺すりをしている奴が、モデルの事なんぞ何で気にかけているもんか。……おい児島君、「靴の皮」……君、ふ、ふ、「靴の皮」とは実際うまく附けたもんだ。……こうして見るとやはり此奴は殺されても仕方のない男だ。なあ君、そうだろう? 君、君、貧乏揺すりを止め給え。君は近いうちに殺されるんだぜ。……水野ははっとして両手でしっかり腕木を掴んだ。彼はたった今、「君は近いうちに……」以下の文句を非常に低い声でではあったが、ひょいと独り言に云ったのである。彼のタンクはとうとう水を洩らしてしまった。同時に児島も貧乏揺すりを止めていた。そうしてパッと明かりがついた。
その時「靴の皮」は此方を見てニヤニヤしながら、
「どう、……此の頃は?……何か書いておられる?」
といつもの極まり文句を云った。
「う、……うん、……」
「長いもの?……」
「うん、……ちょっと少し、……」
「では忙しい?」
「うん、いや、そんなに忙しくは――」
そう云いかけたが、忙しいとして置く方がいつでも逃げるのに都合が好いと思ったので、
「――ないんだけれど、毎日規則的に書いているもんだから……」
「書くのは夜? 大概は。」
「ああ、大概今時分から。……」
児島は「はあ」だか「へえ」だか分らない「アー」と長く引っ張った鼻声の返辞をして、再びちょっと間を置いてから尋ねた。
「やはり此の前のようなもの? 今書いているのは?」
水野はさっきからの会話の間、意識してそうしたのではないが、そっちを見るのを恐れるような気持ちが働いていたために、成るべく児島の顔のある方へ首を振り向けずに話していた。彼の眼には階下の三等席の群衆やら、舞台に垂れている金ピカの幕の模様やらが無意味に漠然と映っていて、その眼の隅の焦点のぼやけたところにわずかに児島のうすぼんやりした輪廓が存在していた。此の世に曖昧に生きている男は、彼の眼の中でも甚だ曖昧に扱われていた訳であった。そして今の児島の言葉が聞こえた時、蛇のようなものに這い寄られて尚更身動きが出来なくなってしまったように、水野はやはり正面を見ていたが、その一瞬間三等席の群衆と金ピカの幕の模様とが眼の中でゴチャゴチャに入り乱れた。
「此の前のようなものと云うのは?」
――彼はそう聞こうとして、それを唇へ持って行った拍子に、
「う……まあ、どんなものになるか……」
と、まるで違った言葉になって出てしまった。
「何処へ出すの、『民衆』? やはり?」
「ああ、多分、……」
「来月号?」
「ああ」
ここで又、水野の気持ちでは二三分間の沈黙があった。――
「あれは面白かったですねえ、此の前のは。――」
「ああ、あれ?」
早口で云って、頤《あご》でうなずく――と云うよりは、二三度ピョンピョンと空を弾いて、急に腋の下を擽《くす》ぐられでもしたように彼は体じゅうをピクッとさせた。
が、児島はそこまでいろいろくどくどとしゃべって来ながら、もうその先は何も云わないで、再び不得要領に貧乏揺すりをしているのである。水野は此の男の気心の知れなさ加減を、凡そ今日ぐらい忌ま忌ましく、腹立たしく感じたことはなかった。折り折り人をぎょっとさせるようなことを、小出しに出すのは、わざとであるのか、何でもないのだか、此の男だけに判断がつかないのは始末に困る。「あれは面白かったですねえ。」と云うのも、外の男が云うのなら明かに皮肉と取れるが、この男では何とも云えない。ぼうっとただそんなことを口に出したまでかも知れない。そしてさっきの独り言を此の男は聞いたのだろうか。あの時ぱたりと貧乏揺すりを止めたのは、何かしら耳に這入ったに違いないように思えるけれども、果たして明瞭に聞いたとすればもう少し手答えがありそうなものである……
その時水野はいつの間にか場内が暗くなっていて、次ぎの映画が始まっているのに心付いた。けれども彼はどんな絵を見つつあるのだか、頭の中の妄想とフィルムの上の幻影との区別が付かなかった。ただ彼の経験したのは、「チャング」の前に五六巻物の喜活劇があって、その一場面に太った男が頭からメリケン粉の汁を浴びせられるところがある、そのメリケン粉が熔岩のようにどろどろとその男の顔を流れる感じが、滑稽なよりは変に物凄く、或る残酷なたくらみを連想させたことである。彼には観客のどっと笑い崩れる声までが恐ろしかった。
「映画の中ではこう云う喜劇が一番危険だ。」
と、彼は思った。
そんな風にして二人はそのまま二時間ばかり隣り合っていたであろう。と云うのは、水野が此処へ這入って来たのが五時頃としてちょうど今、廊下の突き当たりの柱時計が七時になっているのである。もう此のくらい附き合えば先へ帰っても逃げたようにはならないであろう。実はどうせこうなった以上、もっといろいろ話しかけて気を引いてみたいような好奇心はある。「あれは面白かったですねえ、此の前のは。」――此の言葉はどう考えてもやはり気になる。しかし此の男と何時間一緒にいても結局要領を得ない上に、だんだん此方が薄気味悪くなるばかりである。ここで神経を変に不安にさせられると、又四五日は仕事が出来なくなってしまう。早く帰ってせっせと原稿を書き上げる方が得だ。
「やあ……では失敬……」
彼は相手が絵の方へ熱心な眼を向けている隙をねらって、突然そう云って席を立った。
「お帰り?」
「ああ……仕事をしかけているもんだから、……ちと遊びにやって来給え。」
――此の「遊びにやって来給え」は先から折りを覗っていたところの、次ぎの質問を云わんがための伏線であった。
「……君は此の頃は、先のところにいるの? 浦和の方に?」
「えああ」(児島の「ええ」でもなく「ああ」でもなく、その中間を行くような返辞は「えああ」と書くより方法がない。兎に角日本語にはない発音である。万国音標文字を用いて〓と書くのが或いは一番正しいであろう。)
「ああ、そう、ではさよなら。」
水野はちょっと頭を下げて出て行こうとした。ところが児島は会釈を返す様子はなく、そろそろと腰を浮かして、又腰かけの板をごとごとさせながら、臀の下から帽子を出した。
「僕もそれでは……」
水野はほかの観客の眼ざわりになることも忘れて、立ち止まらずにはいられなかった。
「……君も帰るの?」
「えああ」
「だって……君は『チャング』の始めの方を見ていないんだろう?」
「えああ……八時の汽車で帰るもんだから……」
児島は水野が椅子場の人ごみを押し分けて廊下の降り口まで来たときに、後から追い付いて完全に肩を並べた。そして一緒に階段を下りて、和服の水野が下足を受け取っているうちに、一と足先に往来へ出て切符売場の前に立っていた。
「どっちの方? あなたは?」
こうなると又、直ぐに電車へ乗るのが妙になって来た。
「さあ、散歩して行こうかしらん。」
「はあ。」
今度はいやにはっきりとその「はあ」を云った、思う壺だと云うように。……
それは「日の短い十一月の」中旬のことだった。銀座通りはもうすっかり夜になって、年の暮れを思わせるようなうすら寒い風が吹いていた。二人は夜店の並んでいる側の方を、何とも云わずに京橋の方へ歩き出したが、しかけた仕事があるはずの一人も、八時の汽車で帰ると云うもう一人も、それにしてはゆっくりした歩調であった。何だか息詰まるような工合いで、下を向いて歩いていた水野は、児島の顔が地面から彼を見上げているように感じた。そう思うのは気のせいかも知れないけれど、どうも児島は、わざとゆっくりゆっくりと、ことさら彼の古ぼけた靴を水野の眼に入れるようにして歩いているのである。
「寒いですねえ。……」
暫くしてから、とうとう靴がものを云ったのである。
「寒いねえ、今夜は。」
鸚鵡返《おうむがえ》しに答えた水野は、それだけでは余り心が沈んで来るので冗談めかして附け加えた。
「どうも何だよ、歳を取って来るせいか年年寒さが身にこたえるよ。この塩梅では今年の冬が思いやられるね。」
そしてその後へ「あはは」と笑い続ける積りだったのに、うまく声が出ずにしまったが、児島の方が
「はは。」
と笑った。
「水野さんはおいくつですか。」
「来年はもうちょうどになる。」
児島の歳を聞いておく必要があることを、その時ふいと思い浮かべた。
「君はいくつだったかね。」
「三十五です。」
「は――あ、まだ若いんだなあ。」
彼の耳には、自分のそう云っている声が悪魔の嘲りのように響いた。
「けれど、四十ぐらいに老けて見られることがあるんで……」
「どうして? そんなことはないだろう。」
「僕は痩せていて、色が黒いですから。」
そう云って置いて、又児島は「はは」と笑った。
此の男はいったい何処まで歩く了見なんだろう。こうして己をチクリチクリと刺すようなことを云いながら、いつまで引っ張って行くのだろう。――水野は「こんな下らない奴」と思いながらだんだん自分が圧迫された気持ちになるのをどうすることも出来なかった。のみならず彼の頭には、又いつの間にか新たな心配が湧き始めていた。こんな風に二人で歩いているところを、もし第三者に――たとえば中沢のような男に、――見つかったらばどうであろう。そしてその後に此の男が殺されたとしたら?……あの時児島はあの小説の作者と一緒に銀座通りを歩いていた。それは殺される少し前のことだった。するとあの作者と児島とは相当交際があったことは争われない。――そう云う断定が下されることになるであろう。「被告、お前はモデルに使うほど児島と親しくはないと云うが、昭和×年十一月十五日午後七時より八時に至る間に於いて被告と被害者とはローヤル・シネマから京橋の方へ相携えて歩いていたと云う事実があるのはどうか?」裁判官はこう問い詰めるであろう。こんどのことが悪魔の仕業であるとすれば今夜もきっと誰かの眼に付くに違いない。それもその男が声をかけてくれればいいが、此方が知らない間に、向うだけに見られていたら一層困る。活動小屋ならまだよかったのに、選りに選って人通りの多い銀座の歩道を、しかも夜店の出ている方を此の男と連れ立って歩くとは、何と云う不用意だったろう。
「もう何時かな。」
彼はそう云って、ことさら帯の間から時計を出した。
「七時三十二分と、……君、汽車の時間はいいのかね。」
「えああ、まだいいです。」
「八時と云ったんじゃなかったかね。」
「もう一と汽車おくらして、何処かで夕飯でも喰べて、……あなたは御飯は?」
「僕は済んだよ、さっき鮨の立ち喰いをしたんだ。」
此のうえ晩飯の附き合いまでさせられてはたまらない。ここで別れるのが上分別だが、電車へ乗ればまた此奴も乗って来はしないか。困ったことに彼の下宿は湯島にあるので、上野の駅へ行く児島と同じ方向へ帰るのである。「では広小路まで御一緒に。――晩飯はあの辺で喰べてもいいです。」――どうもそんなことになりそうである。と、向う側を一台のタクシーが走って来たので、彼は手を挙げて呼びながら、
「あ、あれで僕は失敬するぜ。」
と、急いでそれへ乗り移ろうとした。児島がぐずぐず云う暇もなく、あっと云う間に車が止まって、バタンと中から戸を締める。――と、そうお誂え向きに行くはずだったのを、あいにく車は向う側から此方側へ移るのに大迂廻して、ようやくそれが彼の前へ止まる迄には、児島がポッケットから敷島を出して、マッチを擦って、悠悠と火をつけてから、恰も一緒に乗る人の如く後ろに寄って来るだけの時間があった。
「君は?……どうする?」
扉に手をかけてステップに片足を乗せた水野は、結局それを云わせられるハメになった。
「よろしいですか、途中まで。……」
「僕の方は構わんけれど……晩飯は?……」
「広小路でおろして貰って、あの辺で喰べてもいいです。」
ちょうど予期していた通りの言葉を云った。
此の男と自動車に相乗りする日があろうとは夢にも思わなかったことだが、それで今、何尺立方かの箱の中に並んで腰かけて、日本橋通りを揺られて行くのである。しかし此の方が銀座の歩道や電車の中よりも、人眼につく恐れは少いであろう。豆電灯のともっているのが気になるけれど、でも自動車の中と云うものは、まして忙しい日本橋通りなどでは、めったに通行人からは注意されないものである。まあいい、どうせもう十分か十五分だ、広小路で下りそうもなかったら、上野の駅まで送り届けてやる迄のことだ。
「君は活動が好きだと見えるね、ときどき会うことがあるじゃないか。」
と、今度は水野の方から云った。
「えああ、……いつもしまいまで見られないんで、……」
そして間を持たせて、
「……遅いと、家の者が恐がるんです、物騒な所だもんだから。……」
「そう、駅から遠いのかね。」
「十丁ぐらい、……その間には田圃路があって、月のない晩なんか真っ暗なんです。」
水野がひょいと面を挙げると、真正面に児島の顔がある。それは箱の天井に取り付けた小さな鏡に映っているのだが、児島自身は気が付かないのか、相変らず無表情な眼であらぬ方角へ視線をやりながら話をしている。今夜始めてこの男の顔をこう云う角度から眺める機会を持った水野は、じっと見ていると、何だか死相が現われているように思われてならなかった。「死相」と云うのがどんな相だか知らないけれども、どうもいつもの児島の顔とは何処か違う。「靴の皮」は「靴の皮」でも、そこにこう、運命の神様から極印を打たれた痕がある。まさにこんなのが死相である、人間が死ぬ前にはテッキリこんな相になるに違いないと云う感じが、知らない者にもピタリと来るように出ているのである。
「あ、此処で止めて……」
そう云う児島の声がして車が止まった。もう広小路へ来たのである。
「此処で失礼します、どうも大変……」
「やあ」
「あの、今度の小説を楽しみにしています。……」
「やあ」
ともう一度水野がうなずくのと
「はは」
と児島が笑うのと同時であった。
上野の方へてくてく歩いて行く姿が夜の雑沓の中に紛れる、とたんに車は左へ曲って切り通しの坂を上って行く。しかし水野は今一度銀座へ引き返そうかしらんと思った。今から帰って机に向ってもとても仕事が手につかないのは明かである。うっかり散歩に出たお蔭で飛んだものに打つかった。そして完全に邪魔されてしまった。今日だけならばいいけれども恐らく当分、少くとも四五日は何も出来ない……。
彼が下らない取り越し苦労として馬鹿にしながらもその実危惧していたことが、一つ一つ事実となって行くのである。児島は今も浦和に住んでいると云った。年齢は三十五であると云った。此の一事が既に恐ろしい暗合であるのに、彼の家から浦和の駅までに淋しい田圃路があって、距離が約十丁であると云う、その数字までが児玉の方と同じなのである。ただここに一つ、児島は水野を脅やかすために、わざと小説に似せた事柄を並べたのではないか、と云うことが想像出来る。今日のあの男の様子では、モデルの一件を感付いていることはほぼ確かである。帰りが遅いと家族の者が恐がると云っていたから、或いはあの男の女房なり子供なりが、あの小説が出て以来児島の身の上を心配し出して、作者を恨んでもいるであろう。あの男にしても一寸の虫にも五分の魂で、いくらか怒ってはいるのだろう。とすると、それを根に持って、正面から問い詰める気力もなく、腹癒せにいたずらをしてみたのではないか。あの男にそんなしゃれッ気がありそうにもないが、どうもそう取るのが一番自然だ。さもなかったらああまで暗合すると云うのが余りおかしい。
「なんだ、そんな事だったのか。」
彼はそう思って一応は安心してみた、が、また直ぐさっきの鏡に映った死相が眼の前に浮かぶのであった。
実を云えば、もともと児島が彼を恨もうと恨むまいと、そんなことは二の次ぎの問題で、それより児島が殺されるかどうかの方が大切なのだが、あの男自身はまるきりそれに気が付かぬらしい。あの「靴の皮」先生、人を脅やかすよりも自分が脅えなければならないのに、そして浦和を早速引き上げて市内へ転居するとか、夜は銀座なぞをうろつかないで早く家へ帰るとか、何とか用心すればいいのに、ああ油断しているのが全くあぶなくて見ていられない。蔭の男は今ならやすやすと機会を掴める。そうすると又気になるのは、「日の短い十一月の末」と云うのがもうあと十日ほどのうちに迫って来ている。彼の前篇と続篇とが発表される間に此の厄日が挟まっていることは、前から分っていたはずだったのを、水野はいつも一方ではイヤに神経過敏でありながら、一方ではやりっ放しの、何処か一本肝心なところが抜けているものだから、それを今日まできれいに見逃していたのであった。
間もなく宿へ帰った彼は、玄関を上がりしなに、
「おかみさん、今年の暦はありませんかね、あったらちょっと貸して下さい。」
と、帳場の障子の中へ云った。「日の短い十一月の末」に「金曜日の月のない晩」があるかどうかを調べてみたくなったのである。
「こんなのでよろしゅうございますか。」
かみさんが出してくれたのを、彼は引ったくるように懐へ入れて梯子段を上がるのを待ち遠しそうに、部屋へ這入ると外套も脱がずに明かりをつけた。そして電灯の球の真下に立ったまま十一月小とあるところを開いた。
ある、ある、十一月の二十五日がその日である。陰暦の晦日で金曜日、――まるで彼の小説の腹案を書きとめたもののように、ちゃんとそこにある。「どうです、此の通りですよ」と、暦は彼にそう云っている。ちょうどその文字の上に一ときは明かるい電灯の円光が落ちているのを、水野はそのまま棒のように立ちつくして眺めていた。今更己は驚きはしないぞ、大概こうなることは分っていたのだ。――負け惜みでなく、そんな気がした。それから机の前に据わって、再び暦を長いこと視詰めていた、未だに外套も帽子も脱ぐことを忘れて。――
彼は何時間そうやって考えていたであろう。気が付いた時には電車の音がぱったり聞えなくなっていて、夜中の二時半頃であった。彼はびっくりして、たった今眼を覚ました人のように部屋の中を見廻した。彼が此の一二年来の独身生活の根城にしている八畳の室内は、しーんとして、明かるく静かに、そこらじゅうにある物が一つ一つくっきりと、絵にかいた静物のように映った。床の間寄りには布団が敷いてある。さっき彼の外出中に下女が敷いて置いてくれたのである。その洗いたてのシーツの白さが眼に痛いように沁みる。それから本棚に並んでいる書物、その背中の金文字が、此れは何の本、次ぎのは何の本と云う風に、順順に明瞭に印象される。どうして己はこんな工合に頭が冴えて、落ち着いていられるのかな。恐いと思っていたことが案外恐くない。此の様子ではいよいよ二十五日が来て児島が殺されても、依然として落ち着いていられそうである。そうして警察に捕まって、未決監へ放り込まれて、最後に死刑の宣告を云い渡される刹那に臨んでも、「とうとう来たな」と、平気でそう思いそうである。が、落ち着いているような気がするのは実に神経の上ッ面が暫くぼうっと痲痺した結果かも知れない。こう平静なのが、やがて心のしん底から大きな恐怖のひたひたと浸して来る前兆であるかも知れない。机の上にはまだ暦がひろげてあって、その傍には十枚ばかり出来上がった原稿が積んである。彼はそれを、やはり静物の絵を見るように無関心な気持ちで眺めた。それが自分の書いた物だとは思えなかった。書いたとしても、それを書いていた時から今までの間に十年も二十年もの遠い隔たりがあるような感じがした。……
今、己が此の暦を視詰めている此の真夜中に、蔭の男もひそかに一室に閉じ籠って、同じように机に向かって、暦を視詰めているであろう。――水野の奴、事によるとあの続篇を書くかもしれない。そうするとそれが発表される前に決行しなければならぬ。幸いここに二十五日と云う日がある。来年の十一月の末まで待っても「月のない金曜日」と云うお誂え向きの日がなかったら都合が悪い。よし、少し時機は早過ぎるが、此の二十五日にやッつけてやれ。――蔭の男は鉛筆を取って、暦の二十五日のところへ縦に黒い線を引く。……引くのが見える。……
水野も鉛筆を取って彼の暦の二十五日のところへ、
コノ日ハ大厄日、予ノ運命ノ決スル日、コノ日ガ無事ニ通過セザレバ安心ナラズ。
と書こうとして止めた。下女が掃除に這入って来て開けて見ないものでもない。心の暦に書き留て置けばそれでいい。
では今日からその日まで、まる十日間と云うものを如何にして過ごそう? その日の運勢が決するまでは続篇を書くことも無意味であり、それより、何より最早全く感興が失われてしまっている。もともと今度の作品は自己防衛の手段として考え付いた仕事であった。そうして今やその手段では防衛の目的が達せられそうもなくなって来た。ほかに何か手段はないか?
児島が殺されることは最早防ぎようがない。その日にそれが起ることは確実と見ていい。ただその場合、彼に疑いがかからないようにすることである。――
そうか、今日から十日間成るべくひとりぼっちでいることを避けるようにする。殊にその日、二十五日の午後八時以後明くる日の朝まで、どこに誰と一緒にいたかが分るようにして置く。――此れが最上の方法である。昼間は下宿の二階からは一歩も出ないようにして、ときどき下女を部屋へ呼び入れて用を云い付けることにすればそれで大体証明されるようなものの、困難なのは夜から朝迄の間である。こう云う時に女房がいてくれたらいいのだけれど、女房はおろか交友さえもないのであるから都合が悪い。いっそ遠くへ旅行に出るか。――それも一策ではあるが、差し当って旅費がないので、金の工面に廻って歩いたり、数時間も汽車へ乗ったりする間が心配である。おまけに生来の旅行ぎらいである彼は、旅行に懇意な宿屋もなく、顔を知っている者もないので、どんな場合に、ひとりぼっちで長い間放り出されるようなハメにならぬとも限らぬ。やっぱりここの下宿にいるのが安全である。今直ぐ、この瞬間から彼の居所がハッキリ極まっている訳である。ただこの部屋に誰かもう一人いてくれたらば申し分がないのである。兎に角絶えずは不可能であるが、ひとりぼっちでいる時間を出来るだけ切り詰める。少くとも一時間以上誰にも会わなかったと云うようなことがないようにする。此れだけは今日の夜明けから二十五日迄ずっと実行しなければならない。そうして夜はもし適当な附き添い人が見付からなかったら、夕方から待ち合いへ行って一と晩じゅう……寝ていれば済む。その方ならば行きつけの家も馴染の女もないことはないのである。
その日の朝から滑稽なことが始まった。彼が布団へもぐり込んだのは明けがたの五時過ぎであったが、方方の部屋が戸を明けて廊下にぽつぽつ人の足音が聞え出した時分から、彼はときどき眼を覚まして咳ばらいをしたり便所へ起きて行ったりした。
「水野さん、今朝はたいそうお早いんですね。」
便所の戸口で下女がそう云ったのは八時頃であった。
「いや、まだ寝るんだよ。――どうしたんだか昨夜《ゆうべ》から馬鹿に小便が近くなっちゃって、――」
「御病気?」
下女は冷かすように云って「ほほ」と笑った。
「馬鹿を云え。」
「だって何か原因がおありになるんでしょう。」
「さあ、何処かでお土産を背負って来たかな。――独り者は仕方がないさ。」
此れはうまい、当分痳病患者になってちょいちょい便所へ通ってやろう。――と、水野は思った。
四
それから十時迄の間に彼は二回便所へ立った。が、痳病の真似も実行してみると容易でない。何しろ昨夜からおちおち眠る暇がないので、だんだん睡気がたまって来て、うっかりすると一時間以上寝過ごしてしまう危険がある。十時の次ぎには、ついとろとろと浅い眠りを貪っていたのが、知らぬ間にぐっすり寝込んで、はっと驚いて眼を覚ますと十一時半になっていた。
「や。これはいかん、もう一時間半になるぞ。」
彼は慌てて便所へ行って、廊下で二三人の人に見られて来た。
ぜんたい一時間という時間を限ったのが、何から割り出した勘定なのだか、我ながら馬鹿げていた。犯罪の場所が浦和だとすると、此の宿屋から浦和の間を往復するには、いかに切り詰めても二時間はかかる。すると二時間まではいい、せめて二時間は続けて安眠が出来なかったら、此れから十日間に体がへとへとになってしまう。かんじんの二十五日になって、疲労の結果寝過ごすような事があったら大変である。彼はまたそう思い直して、一時間を二時間に伸ばした。そして十一時半の次ぎには、きっちり二時間目、一時半まで兎も角も眠った。
二時には彼が朝飯兼帯の昼飯を喰うのが常で、さっきの下女が膳を持って這入って来た。
「水野さん、御病気はいかがでございます?」
「おい、おい、そう病気病気って云うなよ貴様。」
「だって御自分でそう云っていらしったじゃありませんか。何処で貰っていらっしゃいましたの?」
「それは分らんよ、始終だからな。――しかし己のは慢性なんで、陽気の変り目にはときどきやられる。このごろのように秋から冬へ変る時分が極悪いんだ。冷かさないで少しは同情するもんだぜ。」
「おほほほ、何と云って同情したらよございましょう。」
「ま、それには及ばん、折角だが外に同情してくれる人があるんだからね。」
「まあ、呆れた、病気になってもまだお懲りにならないんですか。ほんとうに、何か薬でも買って来ましょうか。」
「ふうん、えらく君は親切だねえ。買って来てくれるのは有り難いが、薬の名前が覚えにくいぜ。」
「なんて云うんですの。」
「白檀油は臭いがするし、胃腸を悪くするのでいかん。サンタル・モナールか、メチーレン・ブリュウか、アレオールがいいんだがな。――」
下女を捕えて出来るだけ長く無駄口をたたいているうちに、ふと彼は又一策を案じた。と云うのは、此れはほんとうに利尿剤を飲んだ方がいい。そうすれば尿が実際に近くなるから、眠っていても自然に眼が覚める。それに尾籠な話だけれど、ブリュウの這入った薬を飲めば尿が青い色に染まるので、それだけ人目に付くことになり、病気を広告することが出来る。
彼は食事を済ませると、大学の裏門の近所にある薬屋まで出かけて行った。そしてサンタル・モナールとメチーレン・ブリュウとを一と瓶ずつ買って来て、それをれいれいしく机の上に置いた。此の間に要した時間は三十分であった。
それにしても晩には何処かへ女を抱きに行くのであるが、あいにく彼の財布には十円札が一枚しかなかったところへ、今の薬を買ったので五六円残っているだけであった。此れから十日間毎晩遊びに行くとすると、少くとも二三百円懐になければ心細い。おまけに近頃は八方塞がりで何処の家にも相当に払いが溜まっている。質屋にも利息が滞っているのでちょっと行きにくいし、それに身の廻りを見渡したところ、これという金目な品物もない。まあ持って行くなら、ナルダンの懐中時計だが、此の際時計は何よりも必要である。――あ、そうそう、時計のぜんまいを巻くことを忘れてはならんぞ。うっかり時間を見違えては大変だぞ。――すると民衆社へ泣きついて原稿料の前借りをするより仕方がないけれど、此処にも不義理が重なっているうえに、今度の原稿も書けるかどうか分らないと来ている。
創作家として文壇に出てから十何年にもなり、四十近い年配に達しているのだから、本来ならばもう少し信用があってもいい訳だのに、彼は何処でも金銭上のことに就いては評判の悪い男であった。それと云うのが、天才と云うものは放縦な生活を送るべきものだと云ったふうな若い時からの己惚《うぬぼ》れが、未だに頭にこびりついているからである。彼の悪魔主義なるものは、要するに茶屋や待ち合いや雑誌社や友人の金を借り倒すことがそうなのである。だから孤独に暮らしているのも、自分ではそれも天才作家、悪魔主義者の資格のように考えて得意がっているものの、その実金銭問題がもとで友達をなくしたり、世間から爪弾きをされたりした結果の自衛策であるに過ぎない。彼がもう一つ自慢にしているのは、決して濫作をしないと云うことだが、此れも格別芸術的良心がどうのこうのと云うのではなく、ただ怠けもので、ぐうたらで、いよいよ金がなくなるまでは十日でも二十日でも寝転んでいたいだけなのである。それで民衆社にも長いこと持ち越しの借金が、ざっと千円にはなっているだろう。その金額も確かなところは覚えてもいない。二三年の間に、百円二百円ぐらいずつ、「この次ぎにきっと返すから」と云っては借りて来たものが、積り積ってそのくらいにはなっているらしい。社の方でもしまいには諦めて、当分前の貸しは据え置きとする代り、彼に対しては新しい貸し出しを断然拒絶することに極めていた。尤も社長もさる者だから金を見せなければなかなか仕事をしない男であるのを知って、たとい十枚でも五枚でも、書けただけの原稿を渡しさえすればその枚数だけの稿料をいつでも引き換えに支払うと云う名案を出した。これでも外の雑誌社よりは余程寛大な方なので、目下の彼は此の屈辱的な条件に甘んじて、民衆社を第一の得意先にしているのである。そして「人を殺すまで」を書いた時にも、毎日五枚十枚と書いて渡してはそれだけの金を貰っていたものだった。「……ええ、幾ら幾ら下さい、シュミースを脱ぎます。ええ、お次ぎは幾ら下さい、靴下を脱ぎます。水野君の原稿料の貰いかたは恰も西洋の娼婦のあれだ。民衆社長も考えたものなり。」当時ゴシップにそんな悪口が出たことさえあった。
けれども外に工夫もないので、四時頃便所へ立ったついでに電話で中沢を呼び出してみると、
「やあ、僕も近日一ぺんお伺いしようと思っていたんですよ。いかがですか、原稿の方は? 大分お出来になったですか。」
と此方がヘドモドしている間に、いきなりそう云う催促であった。
「ああ、ぽつぽつやっているけれど、なかなか進みが遅くってね。……」
「もう何枚ぐらいお出来になったですか。」
「さあ、まだやっと。――」
まさか十枚とも云いかねたので、
「十――七八枚、二十枚ぐらいなものかしらん。」
「大丈夫ですかなあ、そんなことで。」
「大丈夫だよ、そろそろ油が乗りかけて来たんで、これからはうんと速力が早い積りなんだ。」
そう云って置いて、透かさずに少し哀れっぽい調子で続けた。
「それからあのう、実は電話をかけたのは、折り入って頼みたいことがあるんだけれど……どうだろうかしら? 暫く前借をしなかったんだし、久しぶりに三百円ほど貸して貰えないだろうかしら?」
が、電話はそれきり返辞をしない、中沢のむずかしい顔をして黙り込んでいるのが見えるような気がした。
「あ、もし、もし、……」
「はあ」
「どうだろうかしら?……」
「困るですなあ、」
「しかし兎に角社長に話してくれ給えな。どうしてもその金がないと、実はその、何なんだ、……」
彼はその時まで口実を考えて置かなかったのだが、こう云うことには馴れたもので、咄嗟にすらすらといくらでも出まかせが云えるのである。
「……いつかもちょっと話したことのある高利貸ね。彼奴《きやつ》が僕を訴えると云って騒いでるんでね、……訴えられたって恐いことなんかないんだけれど、そんなことを云っては毎日のようにおどかしに来るんで、お蔭で仕事が手につかないで、うるさくって弱ってるんだよ。」
お蔭で仕事が手につかないと云う文句を、彼は特に利かせてみた。
「とても駄目だろうとは思いますがね」と云い残して、社長へ取り次ぎに這入った中沢は、直き二三分で戻って来て、
「あのう、社長が云うんですが、此の前お約束した通り、原稿料はやはり原稿と引き換えでなければ差し上げる訳に行かない。それでお出来になっただけをお寄越しになったらどうでしょうか。二十枚お出来になっているなら、百六十円お払い出来る勘定ですから……」
「それんばかりじゃ仕様がないがなあ。」
「しかし高利貸なんて云うものは、訴えると云ったってなかなか訴えはしませんよ、三百円のところを半金おやりになればそれで一時は解決しますよ。後はお書けになりさえすれば払っておやりになれるんだから、ぐずぐず云う訳がありゃしません。」
こう明快に云われてしまうと、水野は二の句が継げなかった。
「あ、もし、もし、いかがですか。そうされては? それでよろしければ今直ぐにでも頂きに出ますが。……」
「はーあ、君が来てくれるですな?」
「僕は今日は忙しいんで、誰か使いの小僧をやります。」
「金は持たしてよこすですね、百六十円?」
「ええ、もちろん。その代り原稿は間違いなく二十枚渡して頂きたいんです。」
小僧が来るならしめたものである、金は此方へ受け取って、原稿は十枚だけ封をして渡してやればいい。――彼は奥の手を出すことに極めた。
「水野さん、民衆社から使いの方がいらっしゃいましたよ。」
下女がそう云って取り次いだのは、五時十五分過ぎであった。
「どんな人だい?」
「小僧さんですよ、十六七ぐらいの。お目にかかってお渡しするものがあるんだそうです。」
「ああ、そう、今下へ行くから待たして置いてくれ。」
彼は急いで原稿用紙の一枚を取って、それへ鉛筆の走り書きをした。――
先刻は電話にて失礼。
重重申し訳がないのだが、原稿は二十枚出来ているのだけれど、読み返してみるといろいろ気に入らない所があるのでもっと筆を入れたいと思うのです。で、ここに取り敢えず始めの方の十枚だけを御渡しして、残りは至急に訂正出来次第お届けします。今度の物は実に嘗てなき苦心の作にて……
此れではうそがひど過ぎるかな、余り書き方がずうずうしくはないかな。どうせずうずうしいんだが、それでも余り怒らせてしまうと、中沢の奴、直ぐに談判に来るかもしれない。……彼はビリビリと引き裂いて、始めの書き出しを、
中沢君、実に実にすみません、僕は君を欺いたのです、欺く積りはなかったのだが、結果は欺くことになりました。……
と、そう直してみたが、それも何だか手を合わせて拝んででもいるようで見っともない。やっぱり簡単に、何でもないことのようにあっさり詫《あや》まった方がいいかな。……
使いが来るまでに一時間もあったのだからその暇に考えて書いて置けばよかったものを、不愉快なことは少しでも先へ伸ばしたがるたちなので、いざと云う急場に迫らなければ此んな手紙は書く気にならない。出来ることなら眼をつぶっている間に手がひとりでに動いてくれて、ブランシェットの遊びのように勝手な文句を綴ってくれれば一番有り難い。いつでも彼はそう思うので、何を書いたか自分にも記憶が残らないくらいに急いで書いてしまいたいんだが、急げば急ぐほど字句の末に引っかかって、二三枚ビリビリ破いて捨てなければ、一度にすらすら書けた例しがないのである。結局その日も五六枚無駄をして、再び最初の「先刻は電話にて失礼」の書き出しに復ってしまった、それから以下も大体似たり寄ったりで、
……今度の物は実に嘗てなき苦心の作にて、決して怠けていたのにあらず(のにあらずは少し横着に聞えるので、直ぐそれを真っ黒に塗りつぶしてのではありませんとした。)実はこの十枚もまだほんとうは意に満たないのですけれど、一枚も上げないで金だけ受け取っては済みませんから、孰《いず》れ印刷する迄にもう一度見せて貰うことにして、お預け申します。十枚分だけの稿料を受け取るのが至当ですが、貴説の如くせめて半金だけやらないでは高利貸の奴、とても承知しそうもなき故、臨機の処置を取りました。事情幾重にも御諒察を乞う。
此れを読んだら地団太踏んでくやしがるだろうなと思いながら、彼はその手紙を四つに畳んで封筒に入れて、又二三度も封を切ったり、上書きを書き直したりした。が、手紙にはそんなに念を入れて置いて、肝心の原稿の方は、机の引き出しに突っ込んであったのを、不吉な物にでも触れるようにして読み返しもせずに封じてしまった。
金百六拾円也 御稿料
中から札を抜き取って引き出しの底へ収めてから、そう書いてある四角な西洋封筒の表を、彼は暫く眺めていた。とうとう巧くせしめてやった、此の金は欺して取った金だと思うと、濃い墨色で達筆に書かれた文字までが間抜けに見える。
「さて、どうしようかな。何処へ出かけてやろうかな。」
――じっと「百六拾円也」を視詰めているうちに、やがて彼にはその文字の形がいろいろなみだらなものに見え始めた。頭の中が一つの五色眼鏡になって、さまざまなほの白い、木の枝のようにあっちからもこっちからも有りと有らゆる曲線をさしかわす。それが自分の知っている女のものだか、活動で見た女優のものだか、孰れは過去のいかなる時にか彼の官能を刺戟したことのあるものが、悉く生き生きと、一層美化された幻想となってよみがえって来る。同時に、彼の体には天使のような翼が生えて、それらの淫蕩な木木の間を枝から枝へ浮游する。……
僅か百六十円なのだが、兎に角金の顔さえ見れば彼はいつでもこんな工合にそわそわして、忽ち浮かれ出すのである。そして最初の目的も何もみんな何処かへ消し飛んでしまう。おかしなことにはあの四角な西洋封筒がヒラヒラと彼の懐へ舞い込んだ刹那から、今迄自分が何を恐れ、何を心配していたのだったか、そもそもこの金を工面した動機は何であったか、総べてケロリとなってしまって、ただ「女……」と云う一念ばかりが後に残った。どんな悪人でも悪い事をすれば多少は後悔するものだろうが、水野は人から金を欺して取った後でも、此れ迄の経験ではついぞイヤな気持ちがしたことはない。大概の場合、却って反対に「いいことをした、欺してでも何でも取った方がよかった」と思う。まして今日の金はそれで歓楽を買えるばかりか、此の数ケ月来悪夢のように彼を脅やかし続けていた恐怖の影を払ってくれたので、二重の意味で彼には救いの神であった。
「ふん、やっぱり非常手段に訴えた値打ちがあったぞ。」――例によって彼はそう思わざるを得なかった。
なんだ、此のくらいならもっと早く金を作ればよかったんだ。たった百六十円――それがこんなに有効に働くところをみると、此の間じゅうの心配は要するにたわいのない脅迫観念だったんだな。己の神経衰弱は金さえあれば直るんだ。長らく女に接しなかったので頭を悪くしていたんだ。……
「あら、水野さんお出かけ?」
下女がニヤニヤしながら云うのを上の空に聞き流して、いつの間にか彼はもう日の暮れた切り通しの坂を、広小路の方へステッキを振り振り歩いていた。ときどき変な薄笑いが唇に上った。
「はは、手段が目的になってしまったぞ。」
彼は大声で独り言を云ったが、その声までが嬉しさにぞくぞくしていた。こう云う時には一としお激しく連想の糸がたぐり出されて、検微鏡で見る微生物の活動のように種種雑多なものが組んず解《ほぐ》れつするのが常で、彼はその時はどう云う訳か大石内蔵之助のことを考えていた。そうだ、大石内蔵之助が遊んだのだって……ちょうど今の己のようにそわそわして山科から繰り出したんだろうな、そして
「大石内蔵之助、大石内蔵之助。」
と、口走りながら歩いて行った。
四十に近い歳でありながら遊びとなると未だに斯うも胸が跳るのが奇妙である。考えてみると二十前後に放蕩の味を覚えた頃の心持ちも今とちっとも変りはない。独身者のせいかとも思うが、嘗て女房を持っていた時代にも、その女房があるために一としお隠れて出かけるのが愉快であった。此の塩梅では大方五十六十になっても斯うなのであろう。そのくせいよいよ目的地へ着いてしろものを眼の前に据えてしまうと、決して期待していたほどの歓楽があった例しはなく、「なんだ此れか、こんな女にあこがれていたのか」と、そう思うのに極まっていて、たいがいいやアな、胸糞の悪い気分になって帰って来るのでありながら、それでいて又懲りずまに、再び出かける時分には相変らずわくわくするのである。だから懐に金を抱いて、つい一時間か二時間先の未来をいろいろに夢想しながらこうして歩いている時間が、彼には最も幸福であった。「慌ててはいかんぞ、慌ててはいかんぞ」と、彼はしきりに勇み立つ心をおさえた。そして百六十円の金を一番有効に使うために、彼れか此れかと考えあぐんだ。
何処の家にもざっと百円内外の借りが出来ている。すると此のうちの百円は今夜じゅうになくなって、明日から九日間は六十円で過ごさねばならない。仕方がない、まあ築地の「蔦の家」へでも行こう。あすこは借金も確か六七十円のはずだし、あの小金と云う女もちょっと好きだ。顔は感心しないけれど、あの体つき……
「ああ。」
と彼は溜め息をついて突然何かを振り落すように首を振った。たった今、歩いている足の先が晦《くら》くなって、凡そ想像し得る限りの白い屈曲したしなやかな塊りが、円いのや、細長いのや、大きいのや、小さいのや、美しいとも醜いとも云いようのない交錯したものを、頭の中へ毛虫のようにうじゃうじゃはびこらせたからである。彼は夢中で広小路の四つ辻に立ってタクシーを呼んだ。そして
「築地まで。」
と命じたが、万世橋へさしかかった時分にふと思い直して、
「あ、君、君、銀座までやってくれ給え、何処か京橋辺でいい」
と、運転手の背中へ怒鳴った。……前にすき腹をこしらえかたがた景気に一杯飲んで行こうと考えたのである。
日本酒ならば少しは行けるが、もともと飲める口ではなく、二三合がせいぜいと云うところだけれども、こう云う時には手っ取り早く酔いを買うために強い西洋酒を飲む癖があって、それから三十分の後には、彼は銀座の「ロンドンバア」の一隅の椅子を占めていた。ここの店はちょうど汽車の三等のように椅子と椅子とが向い合っていて、背中の凭れが高く、衝立ての間へ挟まったような工合になるのが、人に顔を見られるのが嫌いの彼には都合がよいので、折り折り来ることがあるのである。しかしその晩は何処のテエブルも皆相当に賑わっていて、両側共に空いている一廓は一つもなかった。彼の前にはサラリー・メンらしい二人の男とタイピストかと思われる洋装の女が腰かけていた、と云うよりは、実はその女のむき出しの腕がチラと眼に這入ったので、ちょうどその向うが空いてるのを幸いに割り込んだのであった。彼がそこへ腰を下すと、
「ナイン、ナイン、イッヒ、カン、ヌール、ウイスキー、トリンケン。」
と、女がドイツ語で云うのが聞こえた。
なるほど、女の前にはウイスキーのグラスがある。サラリー・メンと見える男の、紺背広を着たのと、茶色のを着たのとが、むき出しの腕にすれすれに右と左から女を挟んで、これは二人ともカクテルを飲んでいる。女は今のドイツ語を云ってしまうと、ちょうど水野が向い側へ現われたので、日本人ばなれのした力の強い眼ざしで睨むような一瞥を投げてから、それなり急に澄まし込んで、テエブルの上へ右の手を伸ばして、親指と人さし指と中指とでグラスをぐるぐる廻している。サラリー・メンも今まで元気にしゃべっていたのに違いないのだが、邪魔者が来たのでしらけたような形になって、しょざいなさそうにカクテルをすすっている。水野は多少気の毒なことをしたような、またいい気味でもあるような感じで、成るべく小さくなってはいたものの、それでもテエブルの上のウイスキーのグラスのふちを囲んでいる三本の指が、恰も彼がアスパラガスを註文したように鼻先にあるのを見ない訳には行かなかった。どうもこう云う指やてのひらをむき出しにするのは甚だよくない、此れを眺めているとこの女の全身が見えて来る、詰まり体じゅうがむき出しになっているようなもんだ、この女は素ッぱだかになってテエブルの上に、己の鼻先に寝ているんだ。……水野は何だかそんな気がした。別に非常に美しいと云う指でもないのだが、たとえば今もグラスをいじくっている恰好などが何処か巧者に物馴れたところがあって、小指を「く」の字に曲げている様子が馬鹿に意気である。此の指は小股が切れ上っている、――と云うと妙だが、全く脚のようにしなしなした長い指だ。それにまたてのひらが長くって、そんなに始終動かしてはいないのだけれど、ちょっと物を摘まんだり放したりするだけで、恐ろしく撓《しな》うてのひらであるのが分る。
三人ともまだ黙っているので二人の男との関係がはっきりしないけれど、魔性の女でもないらしいと云うのは、顔にも何処にも白粉気が微塵もない、そうして色が白ければだが、肌は鳶色に黒いのである。ただその黒さになめらかな脂気があって、腕の肉づきなどは、ガブリと一と塊食い取ってやってもなお相当な太さを保つであろうほどである。服装も純ドイツ風の地味な好みで、その着古るしたよれよれの地質が、そっくり皮膚の色に調和している。先のドイツ語と云い、この洋装の趣味と云い、恐らくドイツ帰りであろう。顔が帽子でよく分らないが、髪はシングルに切っているらしく、歳のころは二十七八、九にはなっていないだろう。
「ちょいと、ウイスキーをもう一つ。」
やがて女はそう云って、その立派な腕の肉をむくむくさせて、飲み乾したグラスを空にかざした。
「お盛んですな。」
と、その時紺背広が、会社の重役に向ってするような、いじけた野卑な笑い方をして、眼の角から女を見上げた。
「そう? そんなでもないことよ。」
「どのくらい上がれるんです。」
と、今度は茶色の方が云った。
「さあ、気が向いたらいくらでも飲んでよ。」
「では気が向いて貰いたいもんですな。」
紺背広がそう云って、眼つきでしていた野卑な笑いをえへらえへら声に出した。
「あたしなかなか酔わないことよ。その代り酔ったら往来でも何処でも寝てしまうの。」
「すごいんだなあ。」
「でもそんなことはめったにないわ。ウンテル・デン・リンデンで一ぺんあったきり。」
「ベルリンの?」
「ええ、そしてドイツのおまわりさんに叱られちゃったわ。」
ところへ女給がウイスキーを運んで来たのを、女は一と息に八分目ぐらい飲んだ。そろそろ気が向いて来たのかも知れない。
「あなたがたはどうなすったの。そのカクテルは先からあるんじゃないの。」
「おい飲まないか君。」
と、茶色が紺色を頤でしゃくった。
「飲む、こうなったらいくらでも飲む。」
「こうなったらッて、どうなったの?」
「あはははは、出ましたな、ドイツ仕込みが。」
「ヒンデンブルグ、ヒンデンブルグ。」
「ヒンデンブルグとはどう云う訳? ワルウム?」
「だって攻撃が猛烈じゃないですか。いいでしょう? あなたのことをミス・ヒンデンブルグと云っても?」
「フロイラインと云って頂戴。」
「フロイライン・ヒンデンブルグか。しかしドイツ仕込みの人がウイスキーとは変ですな、ビールはお飲みになりませんか。」
「ドイツのなら飲むわ、日本のはいや。」
「と云う訳ですか。けれど日本のビールだけはそうドイツのに負けないって云う話ですぜ。」
「そう云ったってやっぱり駄目よ。上海へ行けばレーウェン・ブラウがあるんだけれど。」
女は頗る鮮やかにウムラウトを発音した。
此れはおかしい。此の二人と此の女とは前からの知り合いではないらしい。往来ででも道連れになったか、それよりは多分此のテエブルでたった今言葉を交したのだろう。先水野が割り込んだ時が、ようよう両方から遠慮しいしい云い合いを始めたところだったに違いない。それにだんだん水野の好奇心が動いたと云うのは、女は二人の隙を狙っては、じっと彼を見るのである。それがあの強いまなざしで、ほんの一瞬間ではあるが、黒眼を一杯に見開いて謎をかけるように睨む。試しに此方が見返してやっても、少しもひるむ様子がなく、却って又眼を大きくして睨み返す。日本の女は決してこう云う睨みかたをしない。此れは確かに西洋のストリート・ウオーカーがする眼つきだ。すると此のフロイラインはドイツで何か仕込まれて来たのか。「ひょっとすると此奴はどうか出来るのかも知れんぞ。」――水野は最初及びも付かない夢のようにそれを考えていたのであったが、次第に夢ではないように思われて来た。そして今度はその意味を籠めて見返すと、それに応じて睨んで来る眼にちゃんと手答えがあるのである。始め女にそうされた時は、余り意外で水野ははっと赧くなった。がそのうちに睨めっこはますます頻繁になって、女は二人のサラリー・メンよりも、水野を相手に、より多く眼で話をした。
「いかがです、僕等は晩飯前なんですが、お差し支えなければ附き合ってくれませんか。」
「御馳走して下さる?」
「ええ、勿論。あなたのために財布の底を払うことが出来れば、大いに光栄の至りですな。」
「ダンク、シェーン! 何処へでも行くわ。」
そう云って女はまた水野を見た。「なぜ黙ってるのよ、あたし此の人たちと行っちまうわよ。」――その眼が彼にはそう聞えた。
「そう極まったら早い方がいい。兎に角出ようじゃないですか。」
「おい、君、勘定!」
と、茶色が勢いよく叫んだ。
「まあ、そんなに急がないだっていいことよ、あたしもう一杯ウイスキーを飲むの。」
「しかし此処は出ましょうよ、兎に角……ねえ、フロイライン・ヒンデンブルグ。」
「もう『ヒンブル』にしようじゃないか、『ヒンデンブルグ』はあんまり長いや。」
「それよりあなた方は何と云うお名前? 名刺を頂戴。」
「あ、これは失礼失礼、僕はこう云う人間です。――」
「僕も此の男と同じ会社に出ています、どうか今後は是非御交際を――」
茶色と紺色とが同じように紙入れから名刺を出して女の前に捧げた。
「ああ、そう、保険会社の社員なの?」
「ところで一つ、あなたの名刺を頂きたいもんですな。」
「名刺は持っていないけれど、あたし独逸の領事館のタイピストをしていたのよ。だけど今は遊んでいるの。」
「どうです、僕の会社へ這入りませんか。」
「何処でもいいから這入りたいわ。お酒飲みでも構わなければお世話して頂戴。」
此のサラリー・メンたちは馬鹿な奴等だ。彼等は未だに此のフロイラインがどう云う種類の婦人であるか気が付かずにいるのである。そして女の方からはチョイチョイ謎を持ちかけているのに、それが彼等には一向通じない。酒飲みのタイピスト! 面白い奴が見付かった、此奴を晩飯に誘って行ってからかってやろう!――彼等の考えていることはせいぜいその辺なのであろう。女はそれが分って来たので、「話せない奴だ」と内内軽蔑し始めたらしいのが余所眼にも見える。それに二人とも学校を出て間もなさそうな歳ごろだから、財布の底をハタかせたところで知れたものだし、女の眼からは子僧っ児のように思えるに違いない。だから盛んに水野の方へ色眼を使っているのである。そして何とかして青二才のサラリー・メンから此方へ乗り換えようとして、しきりに努めているのである。――水野はてっきりそうであるとは思うのだけれども、しかしそれならどうしたらいいのか。彼はこう云うモダーン・ガールに今迄一度も打つかったことがない。第一自分も酔っているので、もし推定が間違っていたら大変である。モダーン・ガールと云うものは何でもないことにでも男を強く睨み返すのかも知れないし、あの眼つきから魔性の女だと極めてしまうのは、早計かも知れない。うっかりチョッカイを出したら、あの逞しい腕が伸びて来て、ピシャリと横ッ面をやられそうである。……
水野は金銭問題になるとあんなにずうずうしいくせに、女にかけては自分の風采の上がらないことを知っているので、甚だ意気地がないのである。二人の保険会社員は気の利かない奴でも何でも、彼よりはずっと歳も若いし、元気で生きのいい魚のようにピンピンしている。それをこの女が自分の方へ乗り換えようとしている?……ふん、馬鹿を云っちゃいけない、己惚れもいい加減にするがいい、己は芸者の小金ぐらいが相当なんだ、こんなハイカラなモガが、なんで己なんぞ相手にするもんか。
と、その時彼は、テエブルの下で何かが彼の足の先へ触れたように感じた。おや、と思っているうちに又触れる……一度、二度、三度……
「さあ、では御一緒に――」
「御迷惑かも知れませんが、是非附き合って頂きましょう。」
「ええ行きますとも――あたし御飯よりもお酒のうまい所がいいのよ。」
「引き請ます、いいところへ案内しますよ。」
二人の男が立ち上がって女を促している間に、水野は何度か足の先に物を感じたが、それが何であるかはテエブルの下を見る迄もなく女の顔に書いてあった。彼女の尖った靴の先が、桐の柾《まさ》の下駄を穿いている彼の紺足袋の拇趾《おやゆび》のところを押すのである。こう云う時に何か西洋では、此方からも「イエス」か「ノー」かを表示する或る一定の方法があるのではないかしらん? たとえば向こうがウインクした時に此方もウインクしてやると、直ぐその女が自分の傍へ寄って来ると云う話は聞いているけれど、テエブルの下だったら此方の足で踏み返してやったらいいのかしらん? 「此奴あたしに気がありながら、折角合図してやったのに返辞もしない。」――女はそう思って怒っているか軽蔑しているか孰方《どつち》かだろう。彼は慌てながら下駄でおずおずと床を探ったが、あいにく靴の先はその辺になかった。ひょっとして男の靴にでもあたったら事だし、此れ以上足を伸ばすには姿勢からして変えねばならない。女はもうウイスキーの最後の一滴を飲み乾して、グラスをテエブルの上に置いた。そして後ろの凭れにかけてあった栗鼠の毛皮の袖口の附いた外套を取って立ち上がった。
「ちょいと、外套を着せて下さらないの?」
「へえ、へえ。」
「いやンなっちゃうわね、そんなことじゃモボの資格がないことよ。」
女の美しく張り切った、電灯の光りを照り返すつやのいい肩が、外套を受け取って立っている紺背広の前に向けられた。茶色は一と足先に出て店の真ん中に据えてあるユンケル・ストーヴにあたっていた。
「実にいい体をしてますなあ、あなたは。日本人には珍らしいや。」
「そう、どうも有りがと。」
立派な腕がするすると袖の中へ隠れる。女はヴァニティー・ケースを開けて、手袋を篏めて、ケースの蓋に附いている鏡で帽子を直している。――ちょうどその時である、水野は足の拇趾の上が一層強く、一層長く、じーっと押されつつあるのを感じた。女はテエブルを中に隔てつつ恰も彼の頭の上に立っていたので、下から見上げると、顔はケースの蓋のかげに隠されていたが、ふいとその蓋が微かに斜にずれたかと思うと、左の眼だけが一杯の黒眼になって彼を見下しているのである。彼は体じゅうが凍ったような気がした。もういよいよぐずぐずしている場合でない、何とかしなければいけないんだ、早く早く、……
「意気地なし!」
そう云わんばかりに、いやと云うほど拇趾の上が踏まれた。そして眼をそらして、パチンとケースの蓋を締めて、女は彼に後ろを向けた、踏まれたあとの痛みがまだ足の上にしびれている間に。……
二人の男の間に挟まって女が戸口を出てしまうまで、まだひょっとすれば機会があるような、何か好運の神様が思いもかけぬ奇蹟を現わして下さるような空頼みがされて、全然望みを捨ててはいなかったが、三人の姿はとうとう往来に消えてしまった。……一分、二分、三分……と、それでも水野は、ついその辺で二人をまいて直ぐに戻って来るのではないかと、一人一人這入ってくる客を見のがさないようにしながら、根気よく戸口の方を眺めていた。が、それから三十分もそうしていたけれど、遂に女は来ないのである。もう仕様がない、大変なものを取り逃がしてしまった。何と云う馬鹿なことをしたんだ。自分の方から一つも働きかけないでどうにかなるような気がしていたなんて、間抜けとも横着とも云いようがない。こうなることは始めから知れきっているじゃないか。それも機会がなかったのじゃない。女は此れでもか此れでもかと仕向けてくれたのに、今度こそは今度こそはとだんだん先へ伸ばして行って、しまいまでキッカケを掴まずにしまった。最後に外へ出て行ってからだって、直ぐにあとを追っかければまだ機会があったんだ。それと云うのが、女がその方の手練手管を何でも凡べて心得ているテクニシアンらしいので、万事向こうへ任して置けば大丈夫と云う依頼心があったからなんだが、いくら魔性の女だって虚栄心はある、此方が手出しをしないのにあれ以上の事が出来るもんか。ましてあの女はそんな安っぽいのじゃないんだ。まあ、ちょっと考えてみろ、あんなのが外に何処にいる? あの全体のキビキビした感じ、断髪の頭、白粉気のない顔、洋行帰り――己はああ云うタイプが趣味に合わないのじゃない。とてもああ云うのは相手にしてもくれまいと思って、近寄らなかっただけなんだ、それが金のためにしろ何にしろ、あんなに己に未練を残して行くなんて、こんな事が此れから二度とあるもんじゃない。罰あたり奴!
いつもであったら一杯のジンビタスを舐めるようにして啜りながら陶然となるのに、その晩の彼は焼け半分にもう三杯目のグラスを飲んでいた。そしてときどきテエブルの下へ眼をやっては、紺足袋の爪先に微かな靴の泥が附いているのを、恨めしそうに見るのであった。
「どうなすったの、今夜は大分召し上がるのね。」
女給の一人が煙草の火をつけながらそう云ったのを幸いに、彼は尋ねた。
「君、先此処にいた女ね。」
「ええ」
「あれ、何処の女だい?」
「さあ、何処かのタイピストじゃないの。」
「ときどき此処へ来るのかい?」
「うちへはあんまり来ないのよ、モナコへよく行くそうだけれど。」
「何処だ、モナコと云うのは?」
「直き此の先、新橋の方へもう五六丁行ったところ。」
そうか、まだ失望しないでもいいんだ、時間をはかってモナコへ行って待っていてやろう。ことによると今夜のうちに会えるかもしれんぞ。
彼の頭にはもう小金の幻はなかった。ただ何とかして取り逃がした機会を呼び戻したいばかりであった。会える、会える、きっと今夜のうちに会える、今夜は宿を出た時から何かいい事がありそうな予感がしていたんだ。ぜんたい好運の神様はただ偶然にあの女を見せてくれたのじゃなかろう。本来ならば真っすぐ築地へ行くはずの己が、此のバアへ寄ったと云うのも縁だ。そうしていつもはモナコへ行くと云う女が、やはり此のバアへ来て、同じテエブルに向かい合わせたのも縁だ。しかも向かい合わせると直ぐ、女の方から秋波を寄せた。――あのハイカラが、あたりまえなら到底見向きもしそうもない己のような男にただならぬけぶりを見せたと云うのは、よくよくの縁だ。大方好運の神様があの女の眼に宿ってくれたのだろう。それに折りも折り、己の懐に百六十円の金がある。こう云う風に凡べてお誂え向きに運んでいるのは、天があの女を授けてくれたのだ。よし、どうしても己は掴まえてみせる。今夜会えなければ此れから毎晩でもモナコへ行ってやる。それでも会えなければ、モナコで聞けば分るだろうから、あの女の家へ訪ねて行くなり、手紙を出すなり、どうにでもする方法がある。そこまで度胸を極めてしまえば確かなもんだ。どう転んでも此の四五日じゅうには会える……
あの女がさっきここを出て行ったのが七時ちょっと過ぎだった。あれから晩飯を喰いに行ったとして、まずその間が二時間はかかるだろう。それからモナコへ廻るとすると、九時ごろになるか知らん。それともあの二人の孰方《どつち》かと話が出来て、待ち合いへでもシケ込むか知らん。いや、ああ云う女は待ち合いではあるまい。ホテルの一室か、でなければ多分あの女の巣があるのだろう。麹町か、麻布か、赤坂か、あの辺の高台の閑静な一廓にある小ぢんまりした洋風の家。……見付きは品のいいしもうた家で、大使館員か外務省の役人でも住みそうな構えで、入り口のところは標札も読めないくらいに門灯がほの暗く、しーんとして空き家のように、扉がひっそり締まっている。呼鈴を押すと中から支那人のアマが出て来て黙って戸を開ける。そして小声で、「ヘルアイン!」とドイツ語で云う。女について二階へ上がると、そこに秘密の寝室がある。ふかふかと体の落ち込む安楽椅子、長椅子、ダブルベッド、レースの窓かけ、暖炉棚、……だんだん酔いが廻るにつれて、水野はそんな夢のようなことを取り止めもなく想像しながら、まるで自分が、フランスの淫蕩な小説中の主人公にでもなったように考えるのであった。東京の真ん中にああ云う女が出没して、銀座のカフェエやバアなどへ男を釣りに来ると云うのが第一に夢だ。思えば東京も開けたもんだ。こんな事があろうとは人の噂にも新聞記事にも聞いたことがない。どうせ警察の耳へ這入れば長いことはないだろうから、ほんとうに今のうちだ。
九時十五分前に彼は「ロンドンバア」を出て、銀座通りを急ぎ足に歩いて、五分の後には「カフェエ・モナコ」の前へ来ていた。が、彼が中へ這入ろうとするより早く、中からさっきの三人連れが陽気にきゃっきゃっとふざけながら出て来た。
「それ見ろ、予覚があったんだ!」
――その瞬間、水野は体がバネ仕掛でぴんと跳び上がったような気がした。南無三! 実にあぶなかったぞ! 一と足遅ければ取り逃がしたのに此処で又パッタリ会うと云うのは、いよいよ今夜は只ごとでない。さあもう逃がさんぞ。何処まででも喰っ着いて行くぞ。こう云う女はきっとあけすけに、「それなら金をいくら下さい」と事務的な口調で請求するだろう。よろしい、談判は早いに限る。どうか正直に云って下さい。僕は出来るだけの事はしますよ。あなたの為ならどんな犠牲でも払いますよ。その代り少ししつこいですがね。……彼は何処をどう歩いているのか、ただ女の後ろ姿に話しかけながら附いて行った。……もし、もし、此処に、ついあなたの後ろに、懐にたんまり金を持ったいい鴨が歩いているんですがね。……何とかして一と言それを知らせる方法はないもんかな。そうすれば今直ぐにでも己の方へ来るんだろうがな。……
「此処は何処? 東京? 横浜?」
「此処はウンテル・デン・リンデンさ。」
「酔っ払って寝ちゃあいけないぜ。」
「寝ちまうわ、ほんとうに。」
同時に茶色と紺色とが「わあッ」と云う声を挙げた。両側の男と腕を組みながら歩いていたのが、いきなり脚をだらんとさせて二人に吊る下がったのである。
「これ、これ、冗談じゃないよ、こんな所で!」
「とても重いや、此の女は!」
「ナチュールリッヒ! イッヒ、ハアベ、……」
「分ったよ、分ったよ、ドイツ語はもう御免だ。ビッテ。アウフ、ヤパアニッシュ!」
「でも感心にそのくらいなことは云えるんだね。」
「ま、何にしても起きて貰おうよ。」
「何処なのよ、此処は? 銀座にしちゃあ暗いじゃないの。」
「銀座の裏通りを歩いてるんだよ。もう直ぐ其処が有楽町だ。」
「じゃあ此のまんま引き擦って行って頂戴。」
「仕様がないなあ、こんなだらしのない女は見たことがないなあ。」
「此奴ほんとに酔っているんじゃないぜ。そんなに飲んじゃいないんだからな。」
「構わず自動車へ乗っけちまおうよ。」
そう云う二人の男どもも大分まわっているらしい。三人ながら暗い横丁をもつれ合って五六間よろよろと歩いて行ったが、
「待て、待て」
と云って、茶色が電車通りの方へ自動車を見つけに走って行った。
さあ困った、今の間に此方も自動車を捜して置かなけりゃと思っているうちに、間もなくタクシーが女の前に止まって、中から茶色が飛んで降りた。
「おい、おい、此のお荷物を有楽町の駅まで運んでくれ給え。」
と、紺色が運転手にそう云っている。
「へえ、お一人だけですか。」
「うん、己たちは乗らない。」
「料金は頂けるんですか。」
「どうしようか、払っといてやろうか。」
「そのくらいなものは持ってるだろう。」
もう正体もなくなっている女の体は、二人がかりで脚を畳むようにされて、車の中へ押し込まれた。水野はそれが走り出したあとから、全速力で有楽町まで駆けて行った。
ずいぶん今日は心配したりわくわくしたり、手の内の玉を拾ったと思うと落したり、いろいろに運命が変った日だが、何もかも此れが最後の努力だ。あの車が駅へ着いて、女が電車へ乗り移るまでに首尾よく此方が行き着けるかどうかで一切が極まる。此れが今日の総決算だ。……そう思いながら水野は一生懸命に駈けた。痩せてひょろひょろしているので、駈けるには都合がいいのだけれど、和服に二重廻しだし、それにいつでも室内にばかり閉じ籠って運動したことがないものだから、たまに走ると忽ち息が弾んで来る。ものの二三丁も走った時分には、女の車はとうに見えないで、反対に彼の足の方がだんだんのろくなり始めた。彼はせいせい云いながら、ときどき立ち止まって、今にも破裂しそうにドキンドキン響いている心臓の上をおさえた。それにもう一つ困ることは、彼の特別の体質なのか、息切れがするほど駈け出すと必ず吐き気を催すのである。空腹の時でもそうであるのに、今夜は胃の腑へたくさん物が詰まっているのでなおさらたまらない。彼は走りながら、さっきのピタスが苦いおくびになって出るのを何度となく呑み下したが、呼吸が迫って来るにつれ、しまいにはげえげえ喉を鳴らして、至るところの往来へたった今喰べた酒や洋食をぺっぺっと吐いて行った。それがまた滑稽にも、吐いた物が一つ一つ、あ、ビフテキの切れッ端が出た、ジンが出た、サラダが出たと云う風に、吐きながらちゃんと分るのであった。彼は銀座の裏通りから有楽町の駅に至る何丁かの区間の鋪道の上に、ずうッと自分の通った所だけ五六間おきに痕が残るさまを想像した。実は夜の作戦上、大いに精力を養うつもりでせいぜい脂っこい物を喰べて置いたのが、お蔭でみんなフイになりはしないかと思うと、それもなかなか心配であった。……大方あの女は横浜らしいが、桜木町行きは何分置きに出るんだろう。五分置き? 十分置き?……、夜は昼間ほど頻繁でないとして、十分置きぐらいかしらん? すると最も運のいい場合を考えても、十分以上遅れてはならんぞ!……彼は途中でタクシーを掴まえるはずであったが、たった一台通りすがったのは手を上げたのにどんどん走って行ってしまって、それきり通らなかったのか、或いは余りあせったので眼に入らなかったのか孰方かであった。
「桜木町まで、二等一枚!」
あてずっぽうに切符を買って、彼が有楽町の駅の階段をプラットフォームへ駈け上がった時は、確かに女の車より十五分以上遅れていたが、駈け上がる間に彼は何と云う理由もなく、きっと女がプラットフォームにいるに違いない気持ちがした。
果たして女は、放り出されたような形に、はすッかいにベンチにもたれて、両手で寒そうに外套の肩のあたりを掴んだまま寝ていた。裾から下はスカアートが見えずに直ぐ肉色の靴下で、遠くからだったら、法被の男が臀ッ端折りで寝ているようにも見えるであろう。こうしているとただ脚ばかりの人間である。
五六人の客が不思議そうに往ったり来たりしていたが、水野はそんなものを気にも止めなかった。そして黙ってつかつかと女の隣りへ腰かけて、おもむろに袂からエーヤシップを出した。彼の鼻先には、膝を組んでいる女の脚の、ぴんと空中へ跳ね上がった靴の先があった。
「ふん、先は此れが紺足袋の上を踏んだんだな。」
水野はそう思いながらその靴の先を暫くぼんやり視詰めていた。さてどうしよう、掴まえるだけは掴まえたが、……そうして今や肩を並べて一つベンチに腰かけているには違いないが、……これからどうなると云うのだろう。が、どうなるにしても女は此処にいるのである。この上はただ眼を覚ますのを待つばかりである。彼はニヤニヤとうす笑いが込み上げて来るのを無理に噛み殺した。自分も酔ってはいるのだが、よくこんなに迄ずうずうしい真似の出来るのが不思議であった。それにしても女は眼を覚ました時、直ぐに彼を想い出してくれるであろうか。「おや、あなた此処にいらしったの、先は失礼しちゃったわね。」――と、バツを合わしてくれればいいが、あの時の事はほんの気紛れで、酔った間に忘れているのではないだろうか。それを考えるとこうしてたわいなく酔いつぶれた姿を傍に置いて、靴下の下に血管の透いて見える足の甲を眺めながら、こっそり享楽している時間の長い方が望ましかった。
「もし、……もし、もし、」
駅員がやって来て女を起こしながら、うさん臭そうに水野を見た。
「いや、もう少しそうッとして置いた方がいいでしょう。大分ウイスキーを飲んでいるんです。」
「此の婦人は?――あなたのお連れなんですか。」
「ええ、」
と、小声で彼は云った、ゆめうつつのうちに女が聞いてくれることを祈りながら。……
電車がしきりなしにプラットフォームに停まる。客がぞろぞろと吐き出されて又ぞろぞろと吸い込まれる。それがぐわうッと走り去った後の空に邦楽座の活動写真の看板のイルミネエションが光る。あたまの上の発着順を知らせる信号灯がぱっぱっと色を変える。そんなものが水野の眼には何の意味もなく映っていた。丸の内を越えて来るつめたい夜風がコンクリートの床にあたって足をすくうように吹き上げるのが、ほてった頬によい気持ちであった。と、一時間ばかり立った時分、十一時頃になって女はときどきずり落ちそうになる臀のいずまいを直し始めた。もうそろそろ眼が覚めるなと思っていると、やはりだらしなく凭りかかったままちょっと帽子へ手をあてて、半ばは眠っているらしくふらふらと立ち上ったが、ちょうど其処へ来合わせた桜木町行きの二等室へよろよろしながら這入って行った。水野は彼女の背中とすれすれに、文字通り寸分の隙もなく跡について、彼女がばたんと腰を下す直ぐその左へ、一見亭主か何ぞのようにぴったり寄り添って席を取った。車台の中はいい塩梅に適当な程度に雑沓していた。と云うのは、今しも二人が陣取ってしまうと、それで椅子は満員になって、同時に三四人乗り込んだのが、向う側の視線を遮るように二人の前にかたまって立っている。女はと見ると、車掌台に近い隅の席に掛けたのが、再び凭れに片肘を乗せて頬杖をついたままぐったりとなっているのであった。
それにしても女は何処までを意識しているのだろうか、酔っていたはずのものがひとりで立って、自分の乗るべき電車へ乗って、逸早く空いた席を見付けた。それが全然夢中であるのか或いはぼんやりと分っているのか。ウイスキーは日本酒と違って身体は利かなくなるけれども、気は確かなものであるから何も彼も承知の上かも知れない。とすると水野にも気が付きながら、わざと素振りに出さないのであろうか。もう先からずいぶん長いこと傍にいるのに、一度も顔を水野の方へ向けないと云うのが、そう云えば怪しくないこともない。水野は電車へ乗り込んだ時に、確かに彼女の後ろから少し手荒くぐいと肩を押し上げてやったのを覚えている。しかしあの時は咄嗟の場合で振り返る余裕はなかったとしても、今は互いに外套を隔てて腕と腕と、臀と臀との肉同士がグリグリ揉み合っているのである。それも水野はいくらか故意にそうしているのに、へんに押して来る人だぐらいには感じそうなものである。尤もこの女の触官は男の肌ざわりに馴れ切っていて、毎晩それに触れながら寝るので、水野の腕も椅子の凭れやクションと同じく、あるべきものがあるようにしか思わないのかも知れない。が、何にしてもグリグリの度が激しい。女の体は首と胴と腰と、三つの関節が一つ一つ別別になって、電車が揺れるたびごとに揺れる。どんと停まると、一旦右へ撓ってから、今度はどんと水野の方へ弾ねっ返す。たまにはアワや鉢合わせをしそうになるが、そう云う時にはっとして眼を開けるでもなく、悠悠として張りこの虎を極め込んでいる。水野は幾度か帽子の鍔や毛皮の襟がやって来てすうっと頬を撫でるのを感じた。次第に彼は大胆になって、どんと此方へ弾ね返す時に、逆に此方からも打つかって行った。そしてそうしながら、少しずつ手を後ろの方へ廻した。彼の考えでは、女は背すじに何か虫のようなものが這うのを知覚していいはずであった。虫は背中から腰の方へ廻ったり、脇の下を探りかけたり、手袋をはめた左の手の指にからんだりした。蒲田を通り過ぎた時分には客がまばらになって来たので、ちょうど車掌の眼の前に曝されたが、車掌の方が見かねて顔を外らすほど、恥も外聞も忘れていた。そしてしまいには二重廻しの袖の下で女と腕を組んでいた。
桜木町の終点へ着いた時は、女が組まれた腕をはずしたのと、水野が急いで手を引いたのと同時であった。彼女は立ち上がって、やはり水野を見返りもせずに、前よりしっかりした歩調で一と足先につかつかとプラットフォームを出て行った。
「もし、もし、」
と、水野は駅の構内を出るや否や、女が市電の停留場へ行き着くまでに走って行って、歩調を合わせて並んで歩きながら、馬鹿に丁寧に帽子を取って二三度ピョコピョコお辞儀をした。
「あの、僕は先刻ロンドンバアでお眼にかかった者なんですが、……」
「はあ?」
「ほら、あなたの向い側のテエブルにおりましたでしょう?――」
「はあ、そう」
と、此の「そう」を女は西洋風のアクセントで云った。
「はあ、はあ、あなたでしたわね。よくお分りになったわね。」
「電車から御一緒だったんですよ。あなたの隣りにかけていたんです。」
「あら、あたし酔ってたもんだから、――それは失礼しちゃったわね。」
女は停留場の前を通り過ぎてしまうので、彼も追いすがるように喰っ着いて行かねばならなかった。
「あのう、どちらですかお宅は?」
「あなたはどちら?」
「僕――御迷惑でなければ自動車でお送りしてもいいんです。」
「ああ、そう、――どうしようかしら? あたし、実はこの近所なんですけれど、本牧の方にも家があるの。」
水野はあまり横浜へ来たことがないのであるが、それでも本牧と云うところが駅からどのくらい離れていて、どう云う場所柄であるかは、うすうす聞いていないでもなかった。そして成るべくなら本牧の方へ行きたいと思った。
「では今夜は、どっちへお泊りになるんです?」
「さあ、どっちにしましょうか。――」
そう云ってようよう立ち止まりながら、
「――あたしどっちへ泊ってもいいのよ、だけどこの近くの家の方は妹が二人いるもんだから、狭くってごじゃごじゃしているの。」
「へえ、妹さんがいらっしゃるんですか。」
水野はちょっとその妹と称するものにも気が引かれて、そっちへ行くのも悪くないように思われ出した。
「ええ、三人で一つ部屋に寝ているものだから、窮屈なのよ。やっぱり本牧へ帰った方がいいと思うわ……。」
「本牧のお宅と云うのは、あなた一人っきりですか?」
「ええ、二階が全部あたしの部屋で、下の人とはちっとも交渉がないようになっているの。静かで、海の直ぐ近くで、そりゃいい所なの。」
「じゃ本牧へお送りしましょう、その方がいいですよ。」
「あ、ちょいと、ちょいと、」
と、女はタクシーのガレージの方へ駆けて行こうとする水野を呼んで、
「あたしタクシーは嫌いなのよ。今いい車をそう云うから、電話をかける間待っててくれない?」
と、ひとりでずんずん自働電話の中へ這入った。
車を命じているだけか、それとも外にも都合があるのか、話はなかなか手間が取れた。水野は五六間はなれた所に立っているので、何を云うのか聞えないのだが、一つ済ませると、又ヴァニティー・ケースから鰐口を出して、銀貨を投げ込んでいる。硝子戸越しに此方から見ると、手袋を篏めたままケースの蓋のボタンを押したり、鰐口の金具を摘まんだりする手の運動が、いかにも器用で、なまめかしく、先テエブルの上に載っていたあのてのひらや指の姿が又しても浮かんで来る。やはり此の女は悪くないな、こうして遠くから眺めても、そう云う商売をしているような下品なところは少しもないし、全く会社の事務室からでも抜けて来たように堅気に見える。己はいつでも長続きがしないが、今度は当分楽しめるかも知れないぞ。ほんとうにいい友達が出来た、事に依ったら女房にしようか知らん?……
「お待ち遠さま。今直ぐ此方へ廻しますって。」
そう云いながら女は出て来て、
「五分ばかりよ。」
と、手袋の端をまくって、男持ちのようなガッシリした腕時計を見た。
五
もう十二時を過ぎているので、町は寝しずまってしまったらしく、駅前の広場はガランとしていた。広場の向うに橋が二つかかっていて、その川のあちら側も一軒残らず戸をとざしていた。女はしきりに左の橋の方を見張っていたが、果たして五分ばかり立つと、その方角に明かりが見えて、それが広場へ近づくと、女が何とも云わないうちに、車は二人の前に停まった。そして黙って二人を乗せたまま、又前の橋の方へ戻って、暗い街路を静かに走って行くのであった。
水野は一向自動車の知識がないので、何と云う車だか分らないけれども、兎に角非常にいい車であるらしいことは揺れ方で分った。
「あなた、マッチを持っていない?」
と、女は独逸の紙巻を出して、その端をとんとん手のひらで叩いた。
「ここにあります、――」
「ありますは心細いのね、女が煙草をくわえたらマッチを擦ってくれるもんだわ。」
「そうか、成る程、――僕はあなたのようなモガと合い乗りをしたことはないんでね、その点に於いちゃ先の保険会社員以下なんですよ。」
「あなた、あれを見ていらしった?」
「見ていましたとも。外套を着せてくれないッて、あなたが皮肉っていたでしょう。あれから何処へ行ったんです?」
「Aワンへ行こうって誘われたんだけれど、あたしお酒を飲む方がいいから、カフェエへ行ったの。」
「カフェエ・モナコでしょう?」
「ええ、そう、――そうして出たらあなたに遇ったのね。」
毛皮の襟の中にある女の鼻さきに、くすくすと云う笑いが起こった。
「へえ、知ってたんですか。」
「知らないと思っていたの?」
「驚いたなあ、酔っていたのはうそなんですか。」
「うそじゃないけれど、あの人たちをまこうと思って少し大袈裟に暴れてやったの。だけど有楽町の駅ではほんとうにうとうと寝ちまったわ。」
「電車の中でも寝ていましたね、桜木町へ着くまで。」
「冗談じゃないわ。くすぐったくって寝れるはずがないじゃないの。」
「失敬失敬、実は僕の方が酔ってたんでね」
「うふふふふ」
水野は慌てて照れかくしに煙草を吸ったが、女の笑い声を聞くと顔が一時に赧くなった。
「そんなに弁解しないでもいいわ。でもその前に、なぜあたしに返辞しなかったの?」
「ああ、あの時?」
「そうよ、――あなたはあれが分らなかったの?」
「分らないこともなかったんだが、どんな合い図をしたものかと思って考えていたんだ。それにちょっとおッかなくもあったし、――」
「どうして?」
「もし間違えたら大変だと思って。」
「あなたずいぶん人がいいのね。」
「そう見えるかな。――しかしあの二人よりは僕の方がまだ気が利いているんだがな。彼奴《きやつ》等はとうとう、あなたが何だかと云うことに気が付かないでしまったんだから。」
「あなたはそれにいつ気が付いたの?」
「僕はテエブルの向う側に腰かけると直ぐ気がついたんだ。君は(と、そこから彼は「君」を使った。)僕を真正面からじっと強く見詰めただろう? ああ云う眼つきは普通の女がするはずはないと思ったんだ。」
「あなた洋行したことがあるの?」
「ないけれども聞いているさ、西洋ではああ云う眼つきをするんだってね。」
「ふふん」
と云って、女は悪びれた様子もなく、ただ鼻の先でかすかな笑いを洩らしたのにいくらか自嘲の響きがあった。
本牧と云うのはどっちにあるのかまるで方角は分らないのだが、車の走っている左側は海岸で、右側にはところどころバラック建ての安普請の、歯の抜けたように断続しているのが見える。そうして至る所の空き地にぼろぼろに崩れた煉瓦の柱や壁の一部が廃墟の如く連なっているのが、ヘッド・ライトに照らされてときどきぼうッと闇に浮かんだ。
「何処だろう、此処は?」
「山下町よ、ニュウ・グランドが見えてるでしょう。」
「だがここら辺はどうしたんだろう、此の焼け跡みたいな所は? 近頃にこんな大きな火事があったかしらん。」
「大地震の跡がまだそのままになっているのよ。あなた横浜は始めてなの?」
「正直を云うと、まあ始めてのようなもんだ……。しかし話には聞いていたけれど、随分ひどくなってるんだなあ。こんな所へ来ようなんて、君に会わなければ夢にも考えるはずはないね。……」
女がニュウ・グランドと云ったのは、多分行く手の道の方に新築されている高い建て物がそれなのであろう。その向うは山にぶつかっていて町らしいものは何も見えない。
「何処が一体横浜なんだ。」
「此処が横浜じゃあないの。」
「けれども馬鹿に淋しいじゃないか。本牧は何処?」
「あの山の向うよ。」
「あの向うにそんな賑やかな所がありそうにも思えないな。」
「本牧って別に賑やかな所じゃないわ。――地震の前はこの辺が一番よかったのよ。ちょっと外国のような感じがして。」
ニュウ・グランドの傍を過ぎると、山が突きあたりに迫って来た。山の麓には川があって、それが海へ流れ込むところに、旧式な鉄の橋が見える。車はその橋を渡って山の方へ真っ直ぐ坂道を上るのかと思うと、橋の手前を、海へ突き入るように左へ曲る。とたんにまたもう一つ橋が現われて、間もなく海の平面と続いただだッ広い原の真ん中へ出ると、その練兵場のような空き地を一直線に走るのである。
「君は地震の時分には此処にいたのかね。」
「あたし地震は知らなかったの、あの時分日本にいなかったから。」
「ベルリンにいたの?」
「ベルリンにも行ったことはあるけれど、重にハンブルヒにいたの。」
「何年ぐらい?」
「二年ぐらい。……」
「何をしていたの?」
「或るドイツ人と結婚していたので、その人の都合でハンブルヒにいたの。」
女はそのドイツ人と死に別れたと云うこと、夫は死ぬ時に多少の遺産を残して行ったので、当分はのんきに遊んでいたのだが、もう此の頃では殆ど使い尽くしたと云うことなどを、問われるままにぽつりぽつり語るのであったが、何だか出まかせを云っているようで、何処迄信用していいかアテにはならない。
「で、ドイツの領事館にいたと云うのは?」
「いたことはいたけれど、ほんのちょっとだけなの……」
「どのくらい?」
「ほんのわずかよ。」
そういい加減に胡麻化してしまって、
「だけどあたし、ほんとうにタイピストか何かのように見えるでしょう?」
「兎に角ドイツ人を旦那に持っていたことだけは君の好みを見ると分るね。派手なハイカラは誰にも真似が出来るけれども、君のような地味なハイカラは、そう云う人に仕込まれないじゃなかなかこうは行かんからね。それに白粉を塗らないのはえらいよ。」
「あたし色が黒いのに顔にも何処にも白粉をつけていないでしょう、だから誰でも女事務員と間違えるのよ。」
「それで僕も先は大いに躊躇したのさ。ところで君、――」
と云って、水野はぐっとつばきを呑んだ。
「女事務員らしく、事務的に相談しようじゃないか。」
「ええ、どうぞ、――」
「君の要求を云ってくれ給え。」
「まだその前に条件があるわ。……」
その時ちょうど車が停まった。
話に夢中になっていたので、先の原ッぱを通り越したのも知らなかったが、停まった所はそこから路が細くなっていて、両側にはごみごみした小さな家が並んでいる。あとに附いて行くと、暗いしめっぽい路次の中を抜けたり這入ったり、ぐるぐると幾曲りもして、とある一軒の裏口の方へ廻った。女は鍵を取り出して、その家の雨戸を開けるのである。
這入った家の中は真っ暗で、開けた雨戸の隙間からさす外の明かりで見当を付けると、そこは台所の流しもとであるらしく、板の間の向うに障子が篏まっている。間取りの工合など勿論分りようはないが、此の様子ではせいぜいあの障子のあちらに六畳と四畳半と、二畳の玄関があるぐらいであろう。下にはどう云う人間が住んでいるのか、ガタピシ音を立てても誰も起きて来るけはいもなかった。
「下駄を持って上がって頂戴――。ステッキもあるんじゃないの。」
女は中から戸締まりをして、自分の靴を提げながら、再び先へ立って障子を開けて、
「此処、梯子段よ。今明かりをつけるから待ってて頂戴。」
と、狭い急な段を上って行った。
二階も同じように狭くるしくはあるのだが、電灯の下で眺めると思ったよりは花やかな感じであった。梯子段を上り切った廊下に新聞紙を敷いて、その上にいろいろな形の女の靴が何足も並べてある。
「あたし此の二階で自炊しているのよ。ちょっと寝室を見てくれない?」
そう云いながら、女は持っていた靴をその新聞紙の上に揃えた。
寝室の広さは八畳ぐらいなものであろう。クリーム色の網をかぶせた電灯が天井から下がっていて、床には緑の色のさめた花莚が敷いてある。ダブルベッドが殆ど部屋の三分の一を塞いでいて、そのほかには床の間にぼろ隠しの更紗の帷が垂れているのと、小さな化粧台と、石油ストーヴと、安楽椅子と安食堂にあるような曲り木の椅子が一脚ずつと、それだけでもう部屋の中は一杯になっている。壁には至る所に映画俳優の写真がピンで留めてあるのだが、ヤンニングスやウエルネル・クラウスや、ドイツの俳優のものばかりである。そして室内を一番なまめかしくしているものは、化粧台の鏡の前に並べてある香水の罎や一輪ざしや、ふらんす人形や、その他いろいろの化粧道具で、それらが雑然とちらばっている間に、四十恰好の太ったドイツ人の肖像が立てかけてあるのは大方彼女の亡夫なのであろう。女は水野がその辺を見廻しているうちに、外套を脱いで床の間の帷の中へ入れて
「先のマッチを貸して頂戴。」
と、石油ストーヴに火をつけてから
「今お茶を入れるわね。」
と、ストーヴの上に載っていた薬罐を提げて出て行ったが、床の間の壁の後ろにあたる次ぎの間の方で水道の音がシャアシャアと聞えた。
ひとり残されて待っている間に、水野はすっかり先の酔いが覚めたのを感じた。それにしても此の部屋の様子は、彼が勝手に想像していたフランス小説の一場面とは大分違っている。いつぞや軽井沢へ行った時、或るハイカラな日本人が間借りをしている百姓家の離れへ招かれたことがあったが、それがちょうどこんな風だった。女はいいが此の部屋は少し心細い。此れでは明日の朝になって悲しい気持ちがするんじゃないかな。……隣りの部屋では炊事場の水の音がまだちょろちょろと聞えて、茶碗を洗ったり、皿を揃えたり、断髪の頭で靴下にスリッパアを突っかけながら、女はチョコマカと小まめに働いているらしい。……
成るほど、ああ云う所が矢張りドイツのハウスワイフ式なのかな。案外あんなのが所帯持ちがいいかも知れん。料理も出来ればミシンも出来、それで男を楽しませる……………………。どう云う条件を持ち出すのだか分らないが、話の模様では一と月か二た月試しに同棲してみるのもいいな。そんなことから己の新しい生活が開けないものでもないし、少くとも先の女房のようなぼんくらと一緒に暮らすよりはましだ。何しろ此の家では余り陰惨過ぎるから、せめて郊外の文化住宅へ這入って、支那人のアマでないまでも綺麗な小女の二人も置いて、……
女は薬罐を提げて来て、それをストーヴの上に置いてから、再び炊事場へ引き返して茶器を持って這入って来た。
「何をそんなに見ているの?」
「先から感心しているのさ。」
「どう云う訳?」
「なかなかよく働くじゃないか。――横浜には便利なアパートメントのようなものはないのかね。」
「あるけれども、矢張り此の方が経済だわ。こうしていると割りにお金がかからないのよ。」
女も酒が覚めたのであろう、差し向いに椅子にかけながらそんなことを云うのが、先の保険会社員をてこずらしたあばずれであるとは思えないほど落ち着いている。帽子を取った顔は頬骨がやや高く、歳も二十九と云うところは動かぬであろう。水野は今は何のためらうこともなく、あの見事なてのひらを執って自分の膝の上に載せながら話すのであった。
「……僕もわざわざ東京から附けて来たんだ。今更引っ返そうと云っても電車はないし、今夜はここに泊めて貰うより仕方がないが、君のその、条件と云うのを聞きたいもんだね。」
「条件と云ったって別にむずかしいことじゃないわ。ただね、……一と月とか二た月とか、そのくらいの期間を極めて貰いたいの。」
「それでも僕は差し支えないが、一と月と云っても毎日会う訳には行かないんだから、……じゃ、こうしたらどうかしらん、たとえば一週に二度なら二度として、何曜日の何時から何時までと極める……その他の時間は云う迄もなく君の自由だ。その間に君が何をしようと、此方もそんなことまでは知りたくもないし、知ろうともしない……。」
「それはそうだわ、約束の時間以外の時は完全にあたしのものだわ。そしてあなたは、あたしのことに就いて一切秘密を守って下さる?」
「お互いさまにね。」
「ええ、勿論。――日本の男は直ぐ方方へおしゃべりをする癖があるけれど、西洋ではそう云うことは絶対にないわ。どんな親しい友達にでも、女の関係なぞを無闇に話すものじゃないわ。だから容易なことでは世間に知れる気づかいがないの。」
「詰まり君と僕とは、会っている時だけが恋人同士で、その他の時はあかの他人と云う訳なんだね。」
「ええ、そう思ってくれたらいいの。もし往来で会うことがあっても、電車の中とか、人ごみの場所とか、お互いに連れがある時などは決して挨拶をしないこと。――」
「それは、僕の方からも望むところだ。」
「お互いに身分や本名を聞かないこと。手紙の遣り取りをしないこと。――」
「じゃ、君を呼ぶ時は何と云ったらいい?」
「ただ『君』でいいじゃないの。こうして向い合っているのに名を呼ぶ場合はないんだから。あなたは『あなた』と云う男、わたしは『わたし』と云う女よ。」
「条件と云うのはそれだけ?」
「此れだけをあなたはきっと守れる?」
「よろしい、凡べて承知した。」
「ではこうしましょう、最初は一と月と云うことにして、一週に二度来て頂戴。……兎も角それでやってみて、イヤだったら一と月目に止めること。ね、それでどう?」
「それで、……費用はどうしたらいい?」
「一と月百六十円でどう?」
「しかし……それはいつ払うんだね。」
「勿論始めによ。約束が成り立つと同時によこすの。」
成るほど、一と月に八日会えるとして百六十円の勘定になる。水野はちょうどそれだけの額を持っていたのだが、大分こまごまと使ったので、まだ調べてはみないけれど十円内外は不足しているに違いなかった。
「どうだろう君、今ここに僕は百三四十円はあるんだ。そのうち帰りの電車賃や何かを除いて、残りを全部君に渡す、足りないところは此の次ぎに持って来ることにしては?」
「そうね――」
女は下を向いて、ずるそうな眼で考えながら云った。
「――そんな無理をしないでも、此の次ぎに持って来てくれればいいわ。ね、そうなさいよ。それにあたし今夜は何だか気がすすまないの。――」
「なぜ? そりゃ困るなあ。」
「困ることはないじゃないの。あなたに来る気がありさえすれば二三日のうちに会えるじゃないの。」
「だって――そりゃあ――折角此処まで追っかけたのに――このまま帰れって云うのかい、こんな時刻に?――」
「こんな時刻って、もう三時よ。夜が明けるのは遅いけれど、省線電車は五時頃からあるわ。」
「じゃ、それ迄こうして話しているのか。」
「それでもいいし、睡かったらその寝台で寝て頂戴。朝の十時までは差し支えないわ。十時になったら起して上げるから。」
「君はどうする?」
「あたしは心配しないでもいいのよ。ひとりで起きていても構わないし、安楽椅子でも寝られるんだから。」
どう云う積りで急にそんなことを云い出したのだろう。事務的なところを発揮して、約束の額が一文でも欠けたら取り引きしないと云うのだろうか。けれど百六十円に対する百二三十円を受け取るとしたら……損はないはずである。……損得の胸算用は別として金のことは几帳面にしないと気が済まないたちなのだろうか? そう云う風にキッパリ極まりをつけるのが、矢張りドイツ流なのだろうか?
水野にはそれが、男をじらす手段であるとは思えなかった。男はわざわざ東京から附いて来たのである。もう此れ以上じらす必要はないはずであり、此の女のテキパキとした気象ではそんな足もとに付け込むようなアクドイことをしそうもない。それに女としてみれば、ここで男を逃がしてしまえば、果たして此の次ぎに来るかどうかはアテにならない訳であるから、そうなると身も蓋もなくしてしまうことを考えねばなるまい。それだのに此の女は、見す見す百二三十円の金を眼の前にしながら、振り向こうともしないのである。では何のためにロンドンバアであんな意志表示をしたのだろう? 酔った紛れのいたずらかしらん? 女は十時になったら起すと云った。するとその時分に誰かと約束があることを想い出したのであろうか? が、女の腹はどうであっても、結果はじらすことになる。……
「でも、……いいじゃないか、そんなことを云わないだって!……よう、君、君……」
「又今度……今度いらっしゃいよ。」
「どうしてさ? なぜ急に気が変ったのさ?」
「気が変ったんじゃないけれど、あんまり遅くなっちゃったんだもの。……十時には人が来るんだから。」
女は水野の手のひらの間からそっと自分の手のひらを抜いて、
「あたしお腹が減っちゃったけれど、あなたはどう?――たしか黒パンと腸詰があったわ。」
と、立って次ぎの間の方へ行った。
「ああ、ゆうべからの骨折りが結局こんなことで終るのか。」――水野はちょうど、鼻の先に餌《え》を見せられて何処まででも走って行く犬のようなものに自分が思えた。「おいでおいで」をされるので息せき切って飛んで行くと、相手はその間にまた二三丁先へ行って「おいでおいで」をやっている。そして此の次ぎに約束の金を持って行くと、いきなりそれを引ったくって今度は「赤んべえ」をするのじゃないか。こうなって見ると予覚はすっかり外れてしまった。何かいい事がありそうで、何もありはしなかった。運命の神様はしまいまで彼を飜弄した。きのうの夕がた、真っ直ぐ築地へ行っていれば、こんな馬鹿げた苦労をせずとも小金の顔が見られたであろうに。……考えるなら今のうちだぞ。此の金を渡してしまってから、「一昨日おいで」を喰わされたら何にもならんぞ。いっそこんな面倒なのはアッサリ諦めて、帰りにずっと築地の方へ廻ったらどうかな。……
「水野さん、あなたとっくりと考えてみたらどう?」
と、彼は小金の調子を真似て小声で云ってみた。
いや、折角だが己はやっぱりフロイラインの方にしよう。芸者なんて時勢おくれのしろものには飽き飽きしていたところへ持って来て、此の女が打つかったんだ。何しろ小説家に取っては経験が第一だからな、……殊に女との経験が。……こう云う女を知って置くことは新時代を解することだと思ったら、仮りに此の金を全部欺されて取られたとしても損はない訳だ。矢張りそれだけ経験が豊富になり、何かの材料になるのだからな。小金の方へ行っていたらゆうべのうちに此の金はなくなっていただろう。そして今ごろは歓楽の峠を越して、「なあんだ、此れっきりか」と、後悔し始めている時分だろう。此方は此れからが楽しみなんだ。峠はおろか、まだ口もとへも這入っていないんだ。こう云う風に出来るだけ男の好奇心をつのらせ、期待を大きくさせて置いて、なかなか本舞台にかからないように仕向けられると、興味は深くなるばかりだ。それに金の点から云っても、築地へ行けば一ぺんに使ってしまって、あとには必ず借金がかさむのに、此方はその金が一と月も有効なのだ。此れでどうして「ゆうべはいい事がなかった」のだ? 飛んでもない!……
が、それはそれとして、彼は先から頻りに尿を催していた。実はきのうの午後に飲んだ利尿剤がゆうべ一と晩じゅう作用していて、銀座へ出てからも幾回となく厠へ行ったのが、此の二階へ来てからはずっとこらえていたのである。と云うのは、女にそれを訴えると、下の厠へ這入ってくれるな、此処に此れがありますからと、西洋流の白い磁器で出来た壺を出しかけるのである。しかし水野はメチーレン・ブリュウの溶解した、見るからに異様な色をした液でその器を染めるのを恐れた。こう云う女は衛生思想が発達しているに違いないと思うと、詰まらぬ疑いを受けたくないので、「いいよ、いいよ、我慢してしまうよ。僕は疳性だもんだから、便器だと工合が悪いんだ」と、出来るだけ辛抱していたのが、だんだん積り積ったのであった。馬鹿なことをした、あんな薬を飲まなければよかった、――彼は今更腹が立ってならなかったが、いろいろそう云う都合の悪い事情を考え合わせると、矢張り女の云うように今日は一旦引き上げた方がよさそうであった。
「どう? あなた、おいしいわよ此のヴルストは。」
女は黒パンの一とひらの上へ、うすく輪切りにした腸詰を載せてから、拇指と人さし指とでパンの角を摘まみ上げながら、顔と直角に、手品使いが刀を飲むようにして口の中へ持って行くのである。
「それとも睡かったら寝て頂戴。」
「有り難う――それより話の方を先へ極めて貰いたいね。今日がいけなかったら、何曜日が都合がいいの?」
「そうね、もう今日は木曜日ね――あたし金曜日と火曜日なら差し支えないんだけれど、でも今週はちょっと困るわ。来週の火曜日からにしてくれない?」
「どうしてさ? 明日がちょうど金曜日だから、明日来てもいいだろう?」
「それがちょっと……ちょっと困ることがあるの。」
そう云って女は、面の憎いほど落ち着いて腸詰を切っているのである。
こいつ、いよいよ足もとに附け込むんだな。――水野はそれを知りつつもだんだん相手の思う壺へ篏められて行くように感じた。いったい彼は貧乏なくせにたまに懐に金が這入ると、何かにそれを使ってしまうまでは気が済まない性分なので、そんな時には無理にも何かしら買いたいものを拵える。そして「此れを買おう」となると、今度は矢も楯もたまらなくなる。だからいつでも商人たちに足もとを見られて、高く吹っかけられるのだが、そうなるとなお遮二無二ほしくなって来て、ますます相手を附け上らせて、結局馬鹿な値で買わされてしまう。女は彼のその性質を見て取ったのかどうか分らぬが、こう云う風に駆け引きを始められると、もう何処までも際限はなしに、ずるずる引きずって行かれるのである。それに水野はもし来週まで延ばされたら、その間に虎の子の百三四十円がぽつぽつ崩れて行きそうなのも心配であった。すでにゆうべから十円ばかり減っている。今のうちなら何とかなるけれど、万一百円が欠けるようになったら、再び百六十円にするのは容易でない。そんな事から此の女に会えなくなったらどうしたらよかろう。……
「ねえ、君、ほんとうに来週でなければ駄目?」
「ほんとうに駄目、考えてみたけれど今週は時間の繰り合わせがつかないの。」
女の言葉を聞いている水野は、恰も語学の教師のところへ個人教授の弟子入りに来たような気がした。
「あなた、そんなにあたしが気に入った?」
「気に入ったから頼むんじゃないか。」
「そんなら大人しく云うことを聴くもんよ。来週の火曜日に待っているから来て頂戴。時間は午後ならいつでもいいけれど、何時と極めて置いてくれたら桜木町へ迎えに出ているわ。」
「ひどいなあ。――」
「何時に来られて?」
「じゃ、一時として置いてくれ給え。だけど少しぐらいおくれたって待っていてくれるだろうね?」
「あたし、誰と会う時でも十五分迄は待つことにしているの。十五分立ったらさっさと帰るわ。」
そうと話が極まってしまうと、まさか寝て行く訳にも行かないし、急に追い立てられるような気持ちになって、不承不承にその家を出たのはもう明けがたの五時近くであった。「電車路迄行って上げるわ」と、女は彼を送って来たが、まだおもては夜のように暗く、ぼんやり白みかかった空には星が寒そうに光っていた。むやみに路次が入り組んでいるので、さっぱり見当は付かないながら、多分来た時とは違うのであろうと思われる方角を五六丁ばかり附いて行くと、ふいに家と家との庇合《ひあ》わいのような狭いところから、だだっぴろい草っ原のような道へ出た。
「ほら、あすこが停留場よ。分って?――」
そう云って女は立ちどまった。
見るとそこが電車路で、女の指さす二三丁先に赤い電灯がともっていた。
「――あすこで待っていると桜木町行きが来るわ。」
「ふむ、…………では今度の火曜日――二十二日の午後一時だね?」
「ええ、――今日と同じ服を着て改札口のところに立っているわ。」
別れの合い図に女はちょっと手を挙げたきり、又庇合わいのような路へ引き返してしまった。
水野は利尿剤の利きめがいよいよ急を訴えていたのだったが、そこから停留場へ行くまでの間にやっとその苦しみを逃れたものの、電車へ乗ると俄かにゆうべからの疲れが出て、ぐったり窓に凭りかかったまま何を考える力もなかった。なまけ者の、ぐうたらの机に向っては一時間と根気の続かない彼が、恐らく此れほど一生懸命に活動したことはついぞ一度もなかったであろう。彼は一昨日の晩暦と睨みくらをした時から、ざっと三十時間の間おちおち眠っていないのである。が、睡けが襲って来るのには余りに疲れ過ぎているのか、身体じゅうが鈍くしびれているようで、何処か頭のしんの方にずきずきした痛みを覚えた。早く自分の宿へ帰って、楽楽と手足を伸ばしたいと云うより外には、彼は慾も得もなかった。そして桜木町へ着いて、省線電車に乗り換えたまではぼんやり意識していたけれども、間もなく車内のヒーターに蒸されてぐっすり東京まで寝通してしまった。
下宿の前でタクシーから転げるように降りて、そのまま二階へ上がろうとすると、上がり口で掃除をしている下女に出会った。
「あら! お帰んなさいまし、昨晩はどちら?」
「おい、熱いお茶が飲みたいんだ。済まないが湯を持って来てくれ。」
「あのう、お帰りになり次第、何時でもいいから直ぐに知らせるようにって、たびたびお電話なんですが……」
「ふうん? 誰から?」
「中沢さんと云う方から、――」
「へえ、中沢?……」
――そうか、そんな人間もいたんだっけな。……
「どうしましょう、お知らせしましょうか。」
「構わんよ、放って置いてくれ。」
「でもまたきっとかかって来ますわ。――きのうお出かけになると直ぐに訪ねていらしって、お留守ですと申し上げると、お出先は分らないか、どんななりをしてお出かけになったかって、いろいろお聞きになるんですの。そうしてそれからしっきりなしに電話がかかって、夜中の二時にも起されましたわ。」
「構うもんか! いくらかかってもまだお帰りにならんと云うんだ。」
「だって、困りますわ、それじゃあ、……もうゆうべッからうるさくってうるさくって、……」
「だから相手にならないがいいんだ。どんな事があっても知らせちゃあならんぞ!」
そう彼は云い捨てて梯子段を駈け上がったが、折角ゆっくり休もうとしている矢先に腹が立ってならなかった。なんだ中沢の奴、百六十円ばかりの金がどうしたと云うんだ! 貴様の金じゃああるまいし、民衆社の屋台骨でそれんばかりにグズグズ云うことがあるもんか! 貴様それほど社長に忠義を尽したいのか。原田に胡麻を摺るよりはちっと芸術家を大事にしろ! 人を何だと思ってるんだ。憚りながら痩ても枯れても己は一家の文学者だぞ! 貴様の商売は己たちのお蔭で成り立つんだぞ! 貴様のような奴には此のくらいなことをしてやる方が薬なんだ。資本家の走狗め! ジャアナリズムの寄生虫め!……
部屋へ這入るともうこらえ性もなく羽織と足袋とを脱いだだけでそのままごろりと敷き放しになっている布団の中へ転げ込もうとしたとたんにふと妙なものが眼に止まった。――机の上に、まだあの暦が置いてあるのはいいのだが、その横に何か、鉛筆でこまごまと文句を書いた紙切れが、イヤでも彼の注意を惹くように拡げてあって、インキ壺でおさえてある。
水野さん!
実に困るじゃありませんか! 社長はひどく怒っています。あなたのことを詐偽だと云って、かんかんになっているのです。僕は先刻あなたのお手紙と原稿とを頂くと直ぐに此処へまいりました。ところがあなたは御不在でした。それで已むを得ず唯今午後十時、再びお訪ねしたのですが、今以てお帰りがないのです。僕は何と云って社長に復命したらいいか、云うべき言葉を知りません。あなたはそれでもいいでしょうが、僕の立ち場を考えて下さい。御承知の通りあの金は僕が責任を持ってお貸ししたのです。万一あなたの居所が分らず、原稿も頂けないとなると、僕は辞職しなければなりません。それともあなたの悪魔主義は僕の如き薄給者に職を失わせて、自ら快とせられるのでしょうか? 敢えてあなたにお尋ねします。何卒《どうか》何卒夜中の二時でも三時でも構いませんから、お帰りになり次第社へ電話をかけて下さい。それまで僕は一睡もせず、家にも帰らず、編輯室に待っています。おたよりがなければ又何度でも伺います。御不在中に此の部屋へ這入って斯くの如き手紙を書くことの失礼は存じていますが、憂慮と焦燥の余りに出たこととお赦しを乞います。ほんとうに僕を憐れんで下さい。僕は泣きたいくらいです。
どうしていいか分りません。
どうしていいか分りません。
「おい、誰が中沢を部屋へ入れたんだ?」
鉄瓶を提げて這入って来た下女の顔を、激しい権幕で水野は睨んだ。
「此の手紙で見ると、中沢は二度来たんだな?」
「ええ、二度目に十時頃にいらっしって、原稿がどのくらいお出来になっているか調べて見たいから、誰か帳場の人に立ち会ってくれと仰っしゃるので、旦那が仕方なくお連れ申しました。それもほんの机の上を御覧になっただけでしたけれど。……」
畜生、何と云う無礼な奴だ! 刑事みたいな真似をしやがって!――もう何も彼もうそがバレてしまったと思うと、極まりが悪いよりは口惜しかった。
「いくら立ち会ったからって、人の留守に部屋へ通すと云う法があるか! おやじに己が怒っているとそう云え。それから己が帰って来たことは決して知らせてはならないんだから、帳場へ堅く念を押しといてくれ。いいか、きっとだぞ。」
這《ほ》う這《ほ》うの体で下女が出て行った後で、立て続けに急須をしぼって、がぶがぶ六七杯茶を飲んでから、大急ぎで布団へもぐってすっぽり頭から夜着を被った。ああは云ったが、隠し切れないで、今に中沢が来るんじゃないか。……なあに、まさかの時は度胸を据えちまえ、どうせ今度は書けないに極まっているんだから、晩《おそ》かれ早かれ喧嘩しなけりゃならないんだ。……ぼんやりそんなことを考える暇もなく、体が深く沈んで行くような気持ちになって彼は五分と立たないうちに昏昏と眠った。
それから何分、……何時間ぐらい立ったのであろう、誰かが肩を揺す振りながらしきりに「もし、もし」と云っているのを、半分夢で聞いていた水野は、それが自分を起しているのだとは判っていながら、義理にも起きる気になれないほど睡かったが、声の方も強情に、
「もし、……」
と云ってはだんだん強く揺す振るので、しまいにふっと眼を明くと、彼のどろんとした瞳に五十恰好の宿の亭主の顔が映った。
「お休みのところを何ですが、ちょっとお起きになって下さい。……」
「はあ、何の用?」
「民衆社のお方がいらしって、下で待っておられますがね。」
「君、何と云ってくれたんです?」
「唯今寝《やす》んでおられるからと申してあります。」
「そ、そんなことってあるか君、……来ても留守だと云うように、先もあんなに……」
「へえ、それは承っておったのですが、昨日もおいでになっていろいろと事を分けてのお頼みで、何かたいへんあの方がお困りのようなお話でしたから、よろしゅうございます、お帰りになったら間違いなくお知らせいたしますと、わたしが引き請けておりましたんで、……どうもそうそう御不在であるとも云いかねますんでな。……」
「それならそのように、最初に僕にそう云ってくれたらよかったじゃないですか。」
「へえ」
と云って、亭主は一向恐縮した様子もなく、平気で鼻のあたまへ垂れた老眼鏡の奥から此方を見ている。その無神経な顔つきがひどく癪にさわるけれども、実はこのところ三月も払いが滞っているので、強いことも云えなかった。亭主の奴、多分その方の鬱憤があるので、一も二もなく中沢に同情したんだろう。そしてグルになってセッセと原稿を書くように監督すれば、払いが貰えるとでも思っているんだろう。よし、覚えていろ、そんな事をすりゃ誰が払ってやるもんか。
「ようございましょうな、此方へお連れ申しても……」
そう云っている時、廊下に中沢の足音が聞えた。
「御免下さい、もうお眼ざめになったですかな――。」
「やあ」
と、枕の上に膝をついてふてくされたように横っ倒しに寝転んだまま、水野はへんに興奮した震え声を出した。
「いかがでしょうか、這入ってもお差し支えないでしょうか。」
ずうずうしく二階へ上がって来ながら、障子の外でわざと叮嚀にそんなことを云うのが中沢でなければ出来ない芸当で、入れ違いに亭主が出て行った閾際《しきいぎ》わに洋服の膝を揃え、身体の半分を廊下の方に置いてチラと水野の顔色を覗ってから、執事が御前様の前へ出たように、両手を畳へ一杯につけてへいつくばるようなお辞儀をした。この男がイヤに下手に出る時に限ってロクな事《こと》はないのである。
「やあ、……きのうはたびたび来たそうですな。」
「はっ」
と云って上げた顔は、実際当惑している以上に、ことさら凄みを持たせようとして謹厳に装っているのが分った。
「あのう、君の手紙は確かに読んだです。……」
「はっ、お留守中に闖入しまして、どうも甚だ……」
「いや、僕が悪かったです。詐欺だと云われても仕方がないです。……」
「そ、そんなことはもう、……ゆうべは全く血迷っていたんで、ついあんなことを書いてしまったんで……」
「しかしなかなか辛辣だね、――『それともあなたの悪魔主義は僕の如き薄給者に』かね。――」
「いやあ、いけません、いけません!」
水野は先から、相手のわざとらしい謹厳な面つきを壊してやろうとかかっていたのだが、とうとう中沢はそう云いながら頭を掻いて、いつもの狡猾な笑いを洩らした。
「……あれはその、……ほんとうに血迷っていたんですから。」
「あはははは」
「……それよりあなたのお手紙を拝見した時の方が、どんなにびっくりしたか知れませんよ。正直を云うと、僕はいつでもあなたのことを社長の前では褒めているんです。水野さんはそんな不信用な人ではない。それは作家のことだから、気分によっては約束したものが書けないこともあるけれども、そんなことを云ったら水野氏一人に限ってはいない。いったい社長は創作家と云うものを何と心得ているんだ。資本家が労働者を搾取するような了見でいるのは怪しからんことだ。もともと創作と云う仕事に対して原稿料が安過ぎるのだから、値上げをすることが出来ないなら、せめて前貸しぐらいには気持ちよく応じてくれないと、直接あなたがたにお願いに出る僕の立ち場が非常に困る。それを一一やかましく云って、何円貸したから是非とも何枚貰って来いと云うのじゃあ、まるで家賃の取り立てにでも行くようだって、機会がある毎に云うんですけれど、頑冥で更に聞き入れないんです。社長はいいかも知れませんが、僕等のような下ッ葉の役目は辛いもんですよ。つくづく雑誌の編輯員なんてイヤになりますなあ。」
「イヤなら止したらいいじゃないか。」
「喰えさえすれば誰がやるもんですか。僕が社長なら、なあにあなた、二十枚のところを十枚頂いているんですから、一日や二日おくれたって安心して待っているんですがね。」
そう云って置いて中沢は、此の男の癖の猥談をする時の卑《さも》しい眼つきをした。
「ところでゆうべは、全体どちらへいらしったんです?」
「いや、別にそんな訳ではないさ。」
「どうですかなあ、――なんだかひどくめかし込んでそわそわしながら出て行かれたと云うじゃないですか。」
「なあに、君の方から金が届いたんで、そいつを例の高利貸しのところへ持って行こうと思ってね、散歩がてら出かけたんだが、帰りにその高利貸しと一緒に銀座の方をぶらついたんだよ。」
「へえ、で?――」
と云って中沢はつばきを呑んだ。
いつも女の話になると、雑誌の用はそっち除けにムキになって膝を乗り出す男ではあるのだが、うっかり油をかけられてゆうべの出来事をしゃべってしまうと、後で急所を掴まれてギュウの音も出ないことになる。「どうせそんなことだろうと思っていましたよ、だからあなたには金を貸す訳に行かないんですよ」と、いい加減しゃべらして置いてからヒラリと体をカワさないものでもない。それは水野も心得ているけれども、実は誰かにしゃべりたくってムズムズしている矢先だったので、
「で?――」
と云って小鼻をヒクヒクさせている相手を見ると、腹の底からニタニタ笑いが込み上げて来て、云うまいとしても半分口へ出かかってしまった。
「――それっきりと云うことはないでしょう? それから銀座でどうなすったんです?」
「あのう、ロンドンバアと云うのがあるだろう、……」
「あります、あります、――」
「あすこへ偶然這入ってみたんだよ、高利貸しと一緒にね。――」
「へえ、ま、高利貸しはどうでもいいですが、……」
「いや、その高利貸しと酒を飲みながら話していたんだよ、……するとテエブルの向う側にタイピストのような断髪の美人がいて、最初は何でもなかったんだが、……」
「ほう、それがどうかなったんですか。」
「うふふふふ。」
「いやですぜ、いやですぜ、そんな気味の悪い笑い方をしちゃあ。……」
「それがこう、……その、……テエブルの下で妙ないたずらを始めたんだ。」
彼は何処までも高利貸しを添えることを忘れなかった。そして保険会社員の役を高利貸しに振って、それから先は本筋の間へ有ること無いことを交ぜ合わせて話した。
「何しろ銀座街頭に断髪のストリートガールが出るなんかいくら君でも聞いたことはないだろう?」
「驚いたですなあ、僕もずいぶん早耳の方なんですが、……ほんとうですか、それは?」
「ほんとうにも何にも、その目的で立派に家を構えているんだから大したもんじゃないか。高利貸しの奴は馬鹿で気が付かないんだが、僕にはちゃあんと一と眼で分っちゃったんだ。あなたは洋行したことがあるんだろうって、女も感心していたがね。」
「それでとうとう横浜迄行かれたんですか。」
「うん、……僕もゆうべは原稿を書かなけりゃならないんだし、そんなことをしている場合じゃないんだが、何しろそう云う意志表示をされちゃ黙っている訳に行かないじゃないか。」
「どんな所なんです、女の家は?」
「外の見つきはそうでもないんだが、中はなかなか豪奢なもんだね。安楽椅子に腰をかけて花やかな室内を見廻した瞬間は、ちょっとフランス小説の主人公になったような気がしたね。」
中沢の眼がみるみる羨ましそうに光った。
「えらい収穫でしたなあ。――で結局目的を達したんですか。」
「勿論」
と云って、水野はグッと反り身になった。
「しかし安くないでしょう、そう云う女は? いったいどのくらいかかるんです?」
「それが君、今も云うように金はすっかり高利貸しに払ってしまったあとなんだろう?――だから懐には幾らもないんだ。」
「へえ、へえ」
と云ったが、何を云うかと云ったように中沢は眼をパチクリさせた。
「僕も実は、こうと知ったら払わなけりゃあよかったと思って、地団太踏んだね。そんなことに使える金じゃあないんだけれど、そうなるともう民衆社も糞もあるもんか、義理も人情も忘れちまえッて云う気になるから恐ろしいよ。今考えると実にアブナイところだったね。」
「ま、それはいいですが、いくらおやりになったんです?」
「ウィー、フィール? って云ったら、フュンフツェーンと云うんだ。」
「え?」
「すべてそう云う談判はドイツ語を使うんだよ、その女は。――何しろ本場仕込みだからペラペラ流暢にやられるんで、僕にも半分は聴き取れないんだが、肝心なところは大概分るさ。」
「じゃあ僕なんかはとても資格がないですなあ。――それでいくらなんですか、今のは?」
「フィフティーンエン。」
「へえ、そんなら普通じゃないですか。」
「まさにリーゾナブル・プライスだね。」
「そうですとも! 十五円なら決して高かありませんぜ。僕にだって資格があらあ、――一つドイツ語を勉強して出かけますかな。」
「ドイツ語三ケ月速成教授、――なんと云う看板を探して歩くんだね。」
「三ケ月でもまどろッこしい。――一ケ月――一週間と云うのはないかな。」
「あはははは」
「あはははは、――しかし、何んでしょう、酒を飲んだり、自動車へ乗ったり、物を喰べたりなんかすると、まあ何や彼やでざっと三十円なければ心細いでしょうな。」
「うん、そのくらいはどうしてもかかる。ほんとうを云えば四十円だな。」
ズバリと云って、抜け抜けと空うそぶいてしまう積りであったが、さすがに中沢が妙な顔をして黙っているので、何とかあとを胡麻化さなければならなかった。
「それがその、……こう云う訳なんだ……テエブルの下でいたずらをされた時から、きっとこの女はどうにかなると思ったんで、実は少しばかり金を残して置いたんだ。……」
「へえ、じゃ、まだその時まで高利貸しに渡しておしまいにならなかったんで?」
「う、……うん、……何処かで一杯飲みながら金の取り引きをしようと云うんでね、……」
「そうですか、それはいい都合に行ったですなあ。」
此れだけ油を搾ってやれば沢山だと云う眼付きで、口先だけはしらじらしく中沢は云った。
「尤も大部分は払ったんで、残したのはほんの僅かなんだよ。いくら僕が一文なしでも、十円ぐらいは別に持っていらあね。」
「へえ、へえ、成アる、……で、そんなことよりそれから先を聞きたいですな、いよいよと云う肝心なところを。……」
「態度……、媚びの現わしかた、愛情の示しかた、――何から何まで、ドイツ式と云うのかどうか、悉く西洋流で、まるで日本の女のような気はしなかったね。全く夢を見ているようで、僕に取っては凡べてが最初の経験と云っても……」
「ま、ちょっと、……ちょっと待って下さい! そうあなたのように独りで悦に入っていないで、もう少し具体的に説明してほしいですな。たとえばその……」
それから三十分ばかり、水野は相手を思う存分興奮させるべく西洋艶情史の一場面を捏造して、幹から枝を生やし、葉を添え、花を附け加え、微に入り細を穿って行った。中沢は「ふん、それから」「ふん、それから」の一点張りで、ときどき乾いた唇をなめた。聴き手がそんなに熱心になると話す方にも心持ちが伝わるので、水野はだんだん図に乗り出して、しまいにはもう、自分でもそれが虚構であるとは思えないようになるのであった。そして相手が羨ましそうな嘆声を洩らすたびごとにすっかり有頂天になって、事実その通りの歓楽を味わったのと同じ喜びに浸ることが出来、果ては甘い回想にさえ耽るのであった。
「や、もう……もう沢山……」
しまいに中沢はムラムラと襲い来る妄想を追い払うように体をゆすった。
「もう少し……もう少しだよ……」
「じょ、じょうだんじゃない! そのくらいで十分……」
「あははは、具体的に説明しろって、君の方から云い出したんだぜ。」
「それはそうですが……ひどいなあ、ほんとうに! ゆうべあなたがそう云う悦楽を恣にしつつある間に、僕の方じゃあ血眼になって電話口へお百度を踏んでいたんですぜ!」
「済まない、済まない、それを云われると一言もないよ。しかし今になって考えても僕は決して後悔しないね。君を血眼にさせただけの値打ちはあったね。」
「あれだ! まるで手が附けられないや!」
ずうずうしいのに気を呑まれながらも、さすがにむっとしたらしく云ったが、そこでようよう正気に返ったように、
「いけない、いけない、つい猥談に身が入ってしまって……」
と、急に中沢は頭を掻いた。
「……僕はいつでも此れだから困るんですよ。……それでその、なんだか話がとんちんかんになってしまって変ですけれど、一体全体原稿の方はどうなるんでしょう。……」
「さあ、まだどうも……ゆうべの気分が一種の余韻を引いているんで、……」
「いえ、ほんとうに――先も申し上げたように僕は始終あなたを弁護していたので、こう云う事が出来てしまうと、社長に対して甚だ面目を失するんですよ。昨日の金は何にお使いになったにしろ、それは過ぎ去ったことですから今更仕方がありませんが……」
そう云い出した顔を見ると、いつの間にか最初の仔細らしい表情に戻っているのが仮面《め ん》をかぶり変えたように鮮やかであった。
「……すでに社長は、あのお手紙で欺されたと云って怒っていたところへ、あれから直ぐに何処かへお出かけになったと云うので、ひどく機嫌を悪くしているんです。それみろ、なまじっか金を貸すからこんな事になったんだって、散散あたり散らすんで、ナニ、ちょっと散歩に出られたんでしょう、まさかあの金を持って何処へ行かれるはずもないから、直きに帰って来られるでしょう、あしたの朝は間違いなく後の原稿を貰って来ますからッて、やっとなだめて置いたんですが、今日はまだ社へ出て来ないんで、今のうちに頂けるとたいへん都合がいいんですが、いかがでしょう? どうかそれだけは是非とも聴いて下さらないと困るんですが……」
「でも君、今直ぐと云うのは少し無理だな。……」
「しかし、後の十枚は出来ている、ただちょっと筆を入れるだけだと云うようなお手紙だったと思いますが……」
机の上を調べて置きながら、何喰わぬ顔でそんな風に詰め寄って抜き差しならぬ穴ぼこへ落し込むようにするのが、此の男の遣り口なのである。水野は折りがあったら喧嘩を吹っかけて物別れにしてやろうと狙っているのだが、いい気になってのろけを云ってしまった後では、もうそう云うキッカケがなく、ジリジリ雪隠詰めにされて、否でも応でもうそからまことを出さなければならなくなった。
「うん、それは出来てはいる。……出来てはいるが、筆を入れるにしたところで、そう今直ぐと云う訳には……」
「では何時間ぐらいかかりましょうか、……一時間……二時間ぐらい?……」
「そう、……二時間でもどうかしらん、いくら急いでも三時間ぐらいは、……」
「よござんす、三時間かかるとしても午前には出来る訳ですから、それ迄お待ちすることにしましょう。」
「だけども君にそうしていられると困るんだがな。……僕は誰かが傍にいられたら仕事をすることが出来ないんだから。」
「え、きっとそうでしょうと思いましてね、……それで、実はその部屋を別に取ってあるんですよ。」
「何処に?」
「此の下宿に。――先に亭主にきいてみたら、ちょうど此の下の三十番と云う、梯子段を下りたところにある部屋が空いていると云うんです。それでそいつを半月ばかり借りることにしたんですよ。――詰まり、あなたの原稿がすっかり書き上がるまでですな。」
そう云って中沢は、水野が思わず憎憎しい眼で睨んだのを、平気で見返しているのである。
「監視附きとは驚いたな。社長がそうしろと云うのかね。」
「ええ、そうなんです。そうでもしなければ安心がならないから、当分僕はあなたの専門の係りと云うことになったんです。殊に横浜と云うものが出来てみると、又雲隠れをされると云う危険が殖えた訳ですからな。」
「まさか、君、あれは一ぺんこっきりだよ。二度と行くところじゃないからね。」
「どういたしまして! そいつがアテになりませんや。」
そして中沢は、
「ではお邪魔になると何ですから、今から三時間、――十一時半になりましたら上がってまいります。どうかそれ迄に是非お願いいたします。此れでやっと安心しました。」
と、また馬鹿叮嚀なお辞儀をして出て行ってしまった。
「あぶない、あぶない、此れを見つかったら大変!」
――水野はほっとする暇もなく、待ちかねたように内懐へ手を突っ込んで、先から下腹の方へ落ちかかっていた紙入れをおさえた。余りくたびれ過ぎていたので、それを引き出しへ入れるのも忘れて寝てしまったのだが、でもほんとうにいいことをした。何しろ此の下宿には人の留守に家捜しをする刑事のような奴がいるんだ。おまけに亭主までが其奴の廻し者なんだ。うっかりこんなものを引き出しなんかへ入れて置いたら、忽ち見付けられて「一旦お預かりいたしましょう」と来るかも知れない。危険、危険!
何処へ隠したらいいだろう。……
しっかりそれを懐で掴んで、彼は布団をはねのけて立った。そして廊下の人通りに気を配りつつ一番部屋の奥の隅ッこへ行て、壁の方を向いて、顔を懐へ突っ込んだまま臍の上で紙入れの中をかぞえた。十円札が一枚、……二枚、……十一枚、……十二枚、……十三枚、……十四?……ハテ、おかしいぞ、十四枚あってもいいはずなんだが、……慌ててもう一度勘定してみたが、やっぱり十三枚しかない。蟇口の方をしらべると、五円札が一枚に銀貨を取りまぜて八円五十六銭ある。都合百三十八円五十六銭也、――ゆうべのうちに二十一円四十四銭と云うものが消えてなくなっているのである。広小路から京橋迄のタクシー代、ロンドンバアの払い、有楽町桜木町間二等往復電車賃、桜木町から本牧迄の自動車賃……と、ここまでは確かに覚えがあるが、その金はせいぜい十五円どまりで残りの八円内外は何に使ったのか、どう考えても想い出せない。ケチのくせにだらしのない彼にはこんなことは始終あるので、七八円ならまだしも、時には百円ぐらいの額が、いつのまに何に費やしたのか、とんと見当が付かなかったりする。だから正味自分が使ったような気がするのは持っていた金の七割か八割で、後はどぶの中へ捨てたのと同然に消滅してしまう。……が、まあいいや、此れに二十一円四十四銭足しさえすれば、いつでもあの女が自分の物になるんだ。それより此れを何処へ隠したもんだろう?……彼は十三枚の札を紙入れから抜いて、四つに畳んで、手のうちに握りながら、暫く室内を往ったり来たり、窓の外をうかがったり、障子の隙間を気にしたりした。そしてしまいに書棚へ行って、いろいろの本の間へ挿してみては出し、挿してみては出し、三十分もそんなことを繰り返した揚げ句、ようやく札を三つの束に分けて、英訳のブランデスのメインカレンツ・イン・ナインティーンス・センチュリ・リテラチュアの第一巻と、第三巻と、第五巻とのページの中へ順順に入れた。それから鉛筆でノートの端へ、
ブランデス……一、三、五
と書いた。と云うのは、この前本の名を忘れてしまって、金を捜すのに大騒ぎしたことがあるからである。
六
札の処分は首尾よく済んだが、これから十一時半までに何でも彼でも十枚の原稿を書くのかと思うと、彼は机に向っただけでウンザリした。もう今からは剰すところ二時間である。そしてその間に十枚、一枚が四百字として二時間に四千字! 頭がミシンの機械のように運転するのでなかったら、そんな速業が出来るもんでない。手紙を書くのでも容易でないのに、まして「今度の物は実に嘗てなき苦心の作」だとか、「読み返してみるところいろいろ気に入らない所があるのでもっと筆を入れたい」だとか、さんざんエラそうに吹聴したところの、創作の一部なのである。彼の普通の速さで行けばどうしても此れだけに二日か三日はかかる。もうこうなったら出鱈目でも何でも構わないのだが、出鱈目にしても考えるだけの暇がいる。第一彼は、前に渡した十枚の中にどんなことを書いたのだったか、あの時はただ金を欺して取ることにのみ熱中したので、今になってはとんと記憶がないのである。覚えているのは「『人を殺すまで』を書いた男が殺されるまで」と云う標題ばかりで、冒頭の文句さえ思い出せない。尤も彼が始めてその稿を起したのは今から約二週間前であった。それから十日ほど過ぎて、十五日の晩児島に遇った以後全く仕事を放擲してしまい、十六日の夕方民衆社の使が来る迄、原稿は引き出しに押し込んだままであった。だから十枚目を書いたのは十四日の夜中のことで、十五、十六、十七と、その後三日立っているうえに、その三日間が児島の事件、金の事件、フロイラインの事件と云うふうに波瀾重畳を極めたので、彼の気持ちでは十日も立ったようなのである。今迄五枚十枚ぐらいずつ、二日置き三日置きに原稿を渡す場合、たいがい手許へ一枚でも半枚でも余分に続稿を残しておくか、でなければ渡した部分の最後のページの最後の一行を書き取って置いて、それに続けて行ったものだが、今度は余裕も残してなければ、最後の一行がどう云う文字で終っていたか、何も書きとめてないばかりか、そこが会話であったか、地の文であったか、ちょうど文章の終り目であったか、中途半ぱなところであったか、それすら忘れてしまっている。せめて書き損じの切れっぱしでもあったらと思って、紙屑が一杯抜き差しもならぬほど詰っている机の引き出しを捜してみると、奥の方に二三枚の原稿用紙へ乱雑に走り書きをしたものがある。それが棒のようによれよれになっているのを、無理に引きずり出して皺を伸ばした。
人を殺すまで 続篇
或いは
続篇 人を殺すまで
最初の一枚にそう書いてある。ははあ、そうか。此れはプランを記したノートか。成るほど、いつぞやこんなものを書いたことがあったっけ。――
(1)ここに一人の悪魔主義的傾向を持つ作家がいて、「人を殺すまで」と云う小説を発表する。本来ならば此れの全部が前篇。……しかし今度は已むを得ぬから、一箇独立した「人を殺すまで」と云う創作だけが切り離されて……
格別用もない書きつぶしばかり出て来て、肝心の今から書きつづけようと云うあたりを思い出させる材料になりそうなものは何一つ見つからなかった。水野は原稿屑を掻き廻す事は断念すると、ぐたりと腹這いになり、それからまたごろりと仰向けになった。
そう云う姿勢になって見ると、必然の勢いとして先から五体の要求していた睡眠の慾望が旺んになって来る。さればと云って中沢の奴が下の三十番で監視しているのが気にかかって、思い切って眠ってしまうだけの勇気もない。下宿のおやじと中沢とが今更糞忌ま忌ましくてそれに今迄は女の一件で忘れてしまっていた例の「人を殺すまで」の不安がまたへんに新らしく思い出されて来たりする。それを追っ払うためにも結局は原稿を早く書くことが第一の急務と云うことにもなる。……
起きなおると眠気覚ましの積りでもう一度中沢の奴を怒ってやろう――そうしてその序に、この前渡した原稿の切れ工合いを一つ中沢から聞き出してやろうと思い付いた。奴は平常《ふだん》から愛読者だと云い触らして水野の原稿に限っては受け取って社へ持って帰る途中でそれを読んでみて、自分が水野氏のイの一番の読者だと云って喜んでいるなどと云ったこともあった。何でもまだ中沢をそれほど下等な奴とも思っていない頃のことで、社長の振る舞い酒の席か何かであったが、そんなことを云ったのを聞いた覚えがあって、自惚れの強い、いい気な水野は、それを編輯者のおべっかだろうとは思いながらも、一面では本当かも知れないような気もしているのであった。万一、出鱈目ででもあったら、そいつをとっこに取って喧嘩を吹っかけてやるのも一策である。
「万一、出鱈目であったら――畜生!」
水野は例の独り言を云いながら階段を下りて行った。三十番の入口の唐紙を開けると、中沢は瀬戸の火鉢の上へ両足を投げかけて横になってぼんやり煙草を吹かしていた。とろんとした眼付きは、本当にこの男もゆうべ寝ずにいたのか、それとも先聞かされた西洋艶情史の気分を妄想しているのに違いなかった。
「君、何をしているのだね。」
そう云われると、びっくりして起き直って、急にいつもの通りズボンの膝頭も窮屈そうにかしこまると、今まで脊中に当てていた座布団をまだ突っ立っている水野の足もとへすすめた。
「どうだね、さっきの女の話は、……」
水野はうっかりからかいそうになって、気が付いて言葉を噛みつぶすと、不機嫌極まる顔付きをして見せながら、すすめられた座布団の上へ傲然と据わった。そうして急には口をきかなかった。実は頭がぼんやりしていて、何と云い出したらいいのだか言葉が見付からなかったのである。
「実に不愉快だな。」
一と言そう云ったきり、やっぱり後の言葉が出て来ない。
「はッ?」
と、中沢は、水野の言葉を促す積りで、何事かわからないが、兎も角もひどく恐縮して見せた。
「留守のうちに、部屋の中を掻き廻した奴があって、書きかけの原稿が見付からないのだ、心覚えのようなものではあるが、実に困る。」
「はッ。僕はお部屋へはお留守中踏み込みましたが、しかし」
「いや、何も君が掻き廻したとは云うのじゃないがね、……」
それから一層横柄に続けた、
「……こう云うことがあるから僕は、無闇に人を自分の部屋へ入れるのがイヤなんだ。単に僕の偏屈なためばかりじゃないんだ。人が見れば紙屑のようなものでも僕にはどんな大事なものだか知れないんだからね。現にこの間の原稿の控えも取って置いたのだし、二三枚は殆ど完全に出来ているんだし、その先だって箇条書きではあるが、綴り合わせれば兎に角間に合う程度には組み立ててあったんだ。……だが妙だなあ。」
と、最後の一句をわざと独り言めかして云った。
「それはお困りで。……いや、僕としても実に困りましたなあ。」
「しかし、困りましたなあでは済まんじゃないか。」
そう云って彼は威丈高になった。
「君は読んで知っているはずだがどう云う風に切れていたかね。」
「は――さあ、つい――何しろ今度は泡喰ってしまったもんですから、途中で拝見するどころではなかったので……」
「君はこの前の時だって見なかったんだろう? だからあんな書き違いをそのまま刷ってしまうような不体裁なことになったんで、あれは君にも責任があるんだ。そう云う態度が此方へも反射するものだから、書く方でも折角感興が湧きかけた時に駄目になってしまうんだ。殊に僕はほかの連中とは違うんだからね。君も駆け出しの記者ではあるまいし、各作家の気質ぐらいは呑み込んでいそうなもんじゃないか。……」
この筆法で続けられてはたまらないと思ったのか、
「ま、それでは兎に角――」
と、中沢は腰を浮かせながら、
「――ちょっとでも早い方がいいと思いますから早速電話をかけてみましょう。編輯者としての御不満は重重御尤もですから、その御注意は後でゆっくりお叱りに預かります。」
水野は中沢の室《へや》を出て行く足音を聞きながら、いっそ奴を社へ使いに出してその留守に韜晦してやると云う一策もあるな、と考えたが直ぐその後から、今逃げたところで本牧へ行ける訳でもないのだからと考え直しているうちに、本の間へ挟み込んだ金のことやら、残りの金策やら、いかにして次ぎの火曜日迄の時間を送るべきかと云うことやらを思い続けて、もう原稿のことなどは忘れてしまった時分に、
「や、お待たせしました。」
と、中沢が這入って来た。
「いい塩梅に、まだ校正の方へ廻っていませんで、ちょうど廻そうと云うところなので、その使いを此方へ寄越すように云って遣りました。十五分もすればまいります。」
彼は自分の部屋へ帰ると、もうどうしても逃れる方法はないと覚悟した。むしろ火曜日迄の間に何でもいいから書きなぐって出来るだけ枚数を殖やせば自然金策にもなる訳だ。それにしてもこうすき腹ではやりきれない。彼は焼け糞に長くベルを押して女中を呼ぶと、急いで菓子を持って来させて、茶を飲んでは喰い、茶を飲んでは喰い、いつの間にか平げてしまっていた。原稿を持って来た中沢に一切部屋の中へ這入ることを禁じて、机の前へ据わり込んだ時分には、本当に正午頃迄には八九枚はやりとげる決心であった。
内内心配していたのだが今になって読み返してみると、案外よく書けているのに彼はわれながら感心した。そうしてあの時だってあんなに書きなぐって此れほどの効果を得ているのなら、今日だってやりさえすれば出来ないはずはないと思いながらも、さて一行も書き出せなかった。ただペンを持ってみたり、置いてみたり、ペン先の工合いを直してみたりなどばかりしていた。今日もこの一段落の着いたところで行き詰まって考えあぐねてしまったのである。あせってみても仕方がないと自分をなだめながら、先からそれが気になっていたのだから、一応それを見たらば落ち着きが出るだろうと、ちょっと立ち上がったと思うと、ブランデスを三冊とも本棚から取り出して来た。そして寝転びながら、もう一ぺん札の挟まっているページを一一叮嚀にめくり返して、
「火曜日、火曜日。」
と、溜め息交りに独り言を云った。
それから間もなく、ゆうべの電車の中の女の姿や、自分の酔態を想い出して、自分の体温であたたまった畳をあだかも女の肌ででもあるかのように感じ出し、それが揉み合い押し合い、弾み返して最後には車が揺れている気持ちまで感じたが、それきり彼は寝入ってしまっていた。
呼び起された瞬間に、
「あ、そうだ、中沢がいたんだっけ。」
と、直ぐ想い出すと、むっくり起き上がった。
みると、枕にしていたらしい三冊のブランデスは崩れてしまって、その一冊の表紙にはよだれがねっとり喰っ着いていた。それを手早く積みなおして、その上にしっかり片手をついて用心深くおさえつけながら中沢を呼び入れた。
「実によく眠った。これで頭がせいせいしたよ。」
と、彼は中沢に文句を云わせまいと早速に手を伸ばしてペンを取ると、それを相手に突きつけながら、
「君、済まないがちょっと筆記したまえ。口述でやろう。ねえ、そうしてくれたまえ。」
中沢はさすがに仏頂面になったが、それでも下手に出られたので、出されたペンを取らない訳には行かなかった。少しでも睡眠をしたせいであろう、水野は出鱈目をしゃべって見ると、兎も角も文句は後から続いて出て、一時間半ばかりの後には四枚と二行ばかり出来ていた。
「今日は一つ此れだけでかんべん願いたいな。――何しろゆうべの今日としては此れでも大努力なんだからね。いや、御苦労、御苦労。――君、飯は? 僕はまだだぜ。」
口述の惰勢で、水野は一種興奮した口調でしゃべり続けた。そして中沢が茶を一杯啜っている間に、またしても西洋艶情史の一節をしゃべり出した、もちろん口から出まかせなのだが、眼の前にチラついている希望だけになかなか熱があった。
「そう云う勢いで創作の方も話して下さると、筆記も大いに捗るんですがなあ。」
などと、中沢は急ぐと云う口の下から、すっかり尻を据えてしまって、三時になったと云うのでやっと出かけて行った。
或いは口述して書かしたり、或いは自分で筆をとって書いたり、日曜日にも中沢の居催促を休ませなかった。水野の腹では、出来栄などは一向問題でないのだから、ただ火曜日の朝迄に今迄渡したのと合わせて四十枚は書いてしまい、それでもう一度、民衆社から百五十円ばかり引き出さなければならなかった。そんな下心があろうとも知らず、いつにない仕事の捗りと、その合い間合い間を慰ませる猥談とに満足している中沢を、水野はおかしがっていた。それに内心に弾みがあるせいか、進むにつれて作の出来栄もまんざらではないような気がする。
月曜日の朝は三十四枚目から書き出すことになって、もう五六枚と思うと頭の働きが鋭くなり自分で書いているのはもどかしいので、一気呵成にやっつけてしまおうと、また口述を始めた。四時になるとかっきり四十枚目になった。民衆社の会計は五時迄あるはずである。印刷工場の受け附けも五時までのはずである。
「まあここで一服。」
と、水野は畳に片肘をついたが、煙草を引き出して火をつけながら、足を突き延ばして、そのまま大の字に寝そべってしまった。
「どうだい、この辺で一旦切り上げては? 大分溜まったから、此れを一と先ず工場へ届けて貰おうじゃないか。校正を急いで出させて、早く見せて貰いたいな。そうするとなお調子がつくから。――そうそう、そのついでに会計の方へも用があるんだがな。ナニ、今度は大丈夫さ、渡しただけのものをくれと云うのだから。――一つ久し振りでうまいものでも喰いに出かけようか。君もこの間から疲れたろう。」
「僕なんかどうでもいいですが、あなたこそほんとに、今度は大奮発をして頂いて。此れなら僕も大威張りです。だんだん面白くもなってきますし、……」
「此の勢いで今夜は徹夜するとして、どこへ行こうか、君、英気を養いに? 下宿の飯ばかり喰って君に鞭撻されていたんでは、僕も体が続かんからね。」
「どこでもお供いたしますが、ロンドンバアは危険ですな。はははは」
「はははは、今度は君が掴まるぜ」
「はははは」
中沢は活気づいて出て行ったが一時間とは立たないうちに帰って来た。小松の鰻にしようと云うことになった。すぐ赤い顔になりながら中沢がしきりに盃を上げるのを、水野は却って好都合だとばかりに飲ましていた。中沢は酔っぱらってしまって、あなただの君だの先生だのを混用しながら、自分の仕事などはもう超越して、しきりにロンドンバアだのフロイラインだのを連発するのを、水野は相手にもせずに、さて此奴をどうしてまいたものだろうかと工夫をめぐらしていた。
表通りに出ようと云う横町で、中沢が立ち小便を始めた時、水野は急に大通りへ飛び出すと、通りがかりの円タクを素早く掴まえて、乗り込んだ後から、中沢は水野の前に停った車を認めたものと見えて、浮き足ながらあたふたと駆けつけた。
「何をしているんだ、早くやらんか。」
と水野は運転手に怒鳴りつけた。振り返って見ると、中沢は両手をひろげて追いかけるような恰好をしていた。
「どちらへまいります。」
と、問われても水野にも行き先は分っていなかった。車はその方向へ走っていたし、咄嗟に思い付いて、
「新橋駅」
と答えた。このまま直ぐに横浜へ今晩のうちから出かけていてもいい。
駅の時計を見ると未だ七時になったばかりであった。こんなに早いのかなと思いながら自分のを出して見ると七時半を過ぎていた。二三日前に中沢から聞いて合わせたはずだったから、奴は早く仕事を切り上げたいと思って三十分ほどかけ引をしやがったかも知れないと思いながら、自分の時計を直した。さてここへ来て考えて見ると、今から横浜へ出かけても明日の昼迄どうして暮していいやら分らない。どこかでもう少し時間をつぶす方法はないものかと待ち合い室の椅子に凭りかかっていたが、金は一体全部でどれくらいあったかなと胸算用し始めた。ブランデスの中から取り出して来たのが確かに十三枚、それから先受け取ったのが百五十円、それに細かいのが先日の残りの八円なにがし。小松で使ったのが十五円ばかり、それに自動車の払い。すると存外あるはずなのだが、ほんとうにそれぐらいあったかしら。懐へ手を入れて紙入れの厚みを一寸試してみたが、気になるので一遍改めてやろうと便所の中へ這入った。
時間にも金にも予猶があるのを見ると彼はもう暫く銀座あたりを散歩する気になった。うっかりするときっとそこらをうろついているに違いない中沢に捕まらないものでもないので、一寸躊躇しないでもなかったが、その時にはまたその時で、君を探していたのだよ、とか何とか云ってもう一度カクテルの一杯も飲ませたら訳はないと高をくくってぶらぶらと歩いて行った。夜の長くなった初冬の人の出盛る時刻だった。もしかすると奴はここに来ていまいものでもないな、と中沢のことを考えながらロンドンバアの前を通り過ぎた。彼はモナコへ行って見る気になっていた。ひょっとするとそこでフロイラインを一と眼見る幸運があるかも知れないからである。実際明日まで待ち切れない気持ちだった。モナコは一杯の人ごみだった。酔い覚めでプレインソーダを一杯命じながらやっと片隅へ腰を下して何気なく別の一隅を見ると洋装の女が一人いる。洋装が目立ったのでもしやフロイラインではないかと眼にとまったのだが、似ても似つかぬ顔つきなのに眼を転じようとする瞬間にその女の傍にいる中老人は見ると同業のT氏であった。するとあの女がM子だなと思った。向うでは気が付かぬらしいので顔ぐらいは知り合っているが知らぬ顔をしていた。そうだそうだタイガーへ行けばNI氏もいそうな時間だなと思った。肝心のフロイラインはもとよりどこにもいなかった。
今迄洋服と云うものは着ようとも思っていなかったが、相手の女の事を思うと、今度は自分も一つ洋服でも着てみようかと云う気になったものらしく、自分でも気の付かぬうちに彼は或る店のウインドウの前に立って、外套にでもするらしい派手なスコッチやホームスパンのきれ地などが拡げられてあるのを視入っていた。
「一着分三十八円也――か。」
洋服と云うものは案外安いものらしいぞ。その次ぎの窓は洋品店であった。女の肉色の靴下は彼女を想い出させるのに痛切であった。彼は暫くそれを見ていたがつかつかとその店の中へ這入って行った。
例によって用もないものを買いたい衝動がぼつぼつ始まっていたのだ。最初女に土産でもと思わぬではなかったが、気の利かぬものなどならばない方がいいとそれは止めることにした。ふと気が付いたのはステッキだ。三年ほど前の夏散歩の帰りに買ったのを、今も握っているのだが、余り貧弱だから、彼《あ》れか此れかと選んだ末に極めたのは黒檀に象牙の握りのあるものであった。十七円五十銭。それに半麻のハンカチを二枚。こんなものだけでは何だかもの足らぬ。女の手袋を見ているうちに自分のを欲しくなったが、これはまだ洋服を用意してなかったのに気が付いた。いつまでも店のあちこちをきょろきょろ見ていたが、いや、こんなことをして無駄使いなどをしていては大変だった。
店を出てしまって考えると今買ったステッキも洋服好みで今着ている着物には似合わしくなかったような気がする。一体彼はへんにケチな所があっていつも買い物のあとで、やれ高かったとかもっといいのがあったはずだったとか、そんなことばかり思う癖があった。一方また見え坊で気の弱い所もあるのでみすみす気に入らないものを売りつけられてしまうこともよくあった。
これは和服でこそ不似合いだが洋服ならば悪くなさそうだ、とそれを糸で編んだ黄色い袋からスルスルとぬき出してもう一ぺん握ってみた。振ってみた。ブルドッグの首の彫刻は握り工合いは悪くなかった。古いステッキをどこかへ棄ててしまおうと思い立った。どこがいいか――いや、それよりも一たい今夜はどうするのか。矢っ張り横浜へ行ってどこかで一と夜明かそうかな。この間から仕事に追われて満足にも寝なかったが、今夜はぐっすり熟睡をして体力を養成して置かなければ……。彼はひとりでニヤリと品の悪い笑いを浮かべながら足は再び新橋の方へ向っていた。ステッキを棄てようと、博品館の横を川に添うて暗い方へ曲った。棄てようと云う古ステッキへ別に理由もなく新らしい袋をはめてみた。通りすがりに土橋の上から、それを投げ込んでしまった。
彼は一二等待ち合い室の冷やりとしたレエザアの腰掛けの隅にぐったり身をもたせて、自分の下駄があんまり上等でないのを気にしていたが、と顔を上げると、向う側の椅子に先から自分を見ていたらしいひとりの女の眼とぶつかった。誰だったろう、あの女は? 確かに何処かで見覚えがある。――そう思ってじっと視詰めると、女の方でも見返しているようである。水野はそれが以前の彼の女房であると気が付く迄には五六分かかった。それにしても妙な時に妙な所で出会ったものだが、一緒に暮らしていたころでさえろくろく口もきかなかったのが、二三年前に別れたきり長いこと消息を絶っていたのと、たいへん歳がふけてしまって地味ななりをしているのとで、まるで人間が違ったように思われる。なんでもあれから何処かへ再縁したような話を風のたよりに聞いたことはあった。文士の女房は懲り懲りだと云って、全く別な方面の男を夫に持って、田舎で暮らしていると云うような噂もあった。もとから余り丈夫の方ではなかったものの、血色なども前よりは青ざめて、やつれが眼立って見えるのは、いろいろ苦労をしたのに違いなく、今も恐らく幸福に過してはいないのであろう……。
その時女は傍に置いてあった小さな風呂敷包みを取って立ち上がった。そして彼の方へ寄って来て、
「暫く」
と、声をかけた。口もとに淋しい、皮肉な、決して好い意味を含んでいない微笑を洩らしながら。
「暫く、…………」
と、水野も同じように云って、帽子を被ったままうなずいてみせたが、女はその間に彼の腰掛けの前へ来て、その横の席が空いているのへ掛けようかどうしようかとためらいながら佇んでいるのが、何かしら水野の方から話しかけてくれるのを待っていると云う風であった。
「どうなすって、此の頃は?――お変りもなくって?」
「うん、己の方は相変らずだが、……どうしている、お前は?」
「あたし、……近頃は東京にいないの。」
「何処にいるんだ?」
「田舎の方に引っ込んでいるの。」
「何処? 遠い所?」
「え、……いいえ、……じき近いところ、……」
「鎌倉の方かね。」
「もう少し、……汽車で二時間半ばかりかかるの。」
そう云ってもじもじしていたが
「小田原なのよ。」
と、直ぐ云い直した。
「ときどき東京へ出て来るのかね。」
「めったに出ることなんかないわ。――きょうはあのう、ちょっと用事があって二人で来たんですけれど、途中で余所へ廻ったので、此処で待ち合わせしているの。」
女は「途中で余所へ廻った」と云う文句の上になければならない「夫が」という言葉を、わざとあいまいに呑み込んでしまって、はにかむような表情と苦笑いとで意味を覚らせるようにした。そして九時三十五分を示している柱時計を振り返って云った。
「十時に此処へ来るはずなの。」
「じゃ、まだ間があるんだね。此処へ掛けたらいいじゃないか。」
「ありがと、…………」
人のいい、愚鈍なところに一種可憐な味わいがあると云えばある女であったが、云われるままに素直にそこへ腰を下して、毛糸の肩掛けを寒そうにおさえている様子に、水野ははからずも昔の俤を見たように感じた。
「誰かを待っていらっしゃるの?」
「己か?」
「ええ。」
「いや、……、アテもなく此処へ来ちまったんだが、時間は早いし、どこへ行こうか迷っているんだ。」
「おひとりなの、今でも?」
「うん、あれから此方、ずっと独身生活をしている。」
「その方がいいのね、あなたのような方には。」
「いいかどうか分らないが、己は一人の女には長続きがしないんだから、仕方がないな。それよりかお前の今の人はどうなんだ? やさしいかね?」
「やさしいにはやさしいけれど、……」
「何をする人? 商人《あきんど》?」
「いいえ、」
「会社員?」
「いいえ、そう云うものとはまるで違うの。」
「学校の先生?」
「いいえ、――メソジスト教会の牧師なの。あたしあれからクリスチャンになったのよ。」
「そうかい、牧師の奥さんかい。そうして田舎で幸福に暮らしていると云う訳だね。」
「あんまり幸福でもないのよ。」
女はそう云って、諦めたような淋しい笑い方をした。
「でも己のところにいるよりは幸福だろうが……」
「ええ、それはそうなの。」
「そんなら、まあ幸福の方じゃないか。」
「あなたのところよりよくっても幸福だと云えはしないわ。あなたのところはあんまり不幸過ぎたんだわ。」
「そいつは御挨拶だな。しかし人間と云うものは、どうせそう望むような幸福が得られるもんじゃないと思って、いい加減なところで我慢しなけりゃいけないんだよ。慾にはきりがないんだから……」
女はだまってうなずいたようであった。水野の眼には、うなじを垂れてしとやかに耳を傾けている肉づきのいい襟足が見えた。髪は艶がなく、赤くそそけているけれども、苦労をしたわりに痩せたふうはなく、却って前よりは年増ざかりの脂ぶとりに肥えているのは、矢張り此の女が無神経なせいなのか、それとも口では何と云おうと、無意識ながら現状に甘んじているのであろう。彼は毛糸の肩掛けの下に覗かれる背すじの方から…………。此のめいせんの綿入れを着た、黒繻子の腹合わせ帯の下で息づいている十三四貫の肉体が嘗て己れの「女房」と称するものだったのだ。己は此の肉体の太ったところが気に入ったのだが、間もなくそれが嫌いになった。此の肉体は太っているばかりで弾力がなかった。緊張がなかった。人のいい女は、肉体に迄もその人のよさが宿っているのか、手ざわりでそれが感じられた。云わば眠っているような肉体であった。が、いったい此の女の云う幸福とは、どんなことを意味するのであろう。こう云う女でもそれほど幸福を追うのであろうか。
「クリスチャンになったのはどう云う訳だね。感ずるところでもあったのかね。」
多少冷やかされたような気がしたのか、女はかすかに「ふふ」と笑った。
「え? どう云う訳さ?」
「別に訳なんかありはしないわ。」
「お前、此の世に神様があると思うのか?」
「そんなことは分らないわ。――けれども今に分って来るからって云われたの。」
「今の人にかい?」
「ええ」
「じゃ、神様でなく今の人を信じるんだね。」
女は折り折り首を振ったり、苦笑いをしたり、「ええ」とか「いいえ」とか云ったりするぐらいで、はかばかしくは話さないけれどもそれでいながら口をきくのがイヤではないらしく、傍を離れずにいるのである。二人が夫婦でいたときにはこんなふうに並び合ってものの半時間としゃべったこともなかったのにと思うと、水野はガラにもなく感傷的な気分になった。
「それならお前、今のようにしていればほんとうに仕合わせじゃないか。それで不平を云ったりしたら罰があたるぜ。」
そう云った拍子に水野は眼がしらが熱くなった。「せいぜい可愛がって貰うがいい。己も蔭ながら幸福を祈っているよ」と云いたかったのだが、その拍子に涙がうるんで来そうに思えた。
「ああ」
と云って、女は立ち上がって、今しも待ち合い室へ這入って来た背広姿の方を見た。水野よりは二つ三つ歳の若い、度の強そうな眼鏡を掛けた、争われない牧師タイプの男である。
「あれが水野と云う人なの。」――と、女がそう云っているらしく、男はチラと此方を見たが、挨拶にでも来るのかと思うと、そのまま夫婦は切符売場の前へ行って、汽車の時間が迫ったのか改札口の方へ出てしまった。
その後ろ影を見送りながら、水野はひとり、まだぼんやりとベンチに掛けていた。若い時から放浪生活には馴れているので、今更淋しさを感じる訳はないのであるが、それでも停車場と云うものは何だか旅に行き暮れたような郷愁を覚えさせるもので、ましてこう云う寒い晩には一と入である。彼は悪い時に悪い人に遇ったと思った。未練気もなく別れてしまった妻であるから、路傍の人に対するような心持ちではいるのだけれども、どう云うものか今夜に限って「自分は宿なしである」と云う感じが、しみじみと胸に沁みる。しきりに本牧の女のことを空想するように努めてみても、結局もとの哀愁の感じへ戻って来る。彼の眼には、小田原行きの車室の片隅に仲睦まじく並んでいる夫婦の姿がまざまざと映った。あの色のなまじろい青んぶくれの顔をした男は、成るほど親切に違いなかろう。何処か甘ったるい好人物らしい様子が見えるのも、あの女と並ぶのには似つかわしいように思われる。少くとも水野が並ぶよりはあの男の方が篏まっている。牧師と云うものはどんな生活をするのだか知らないが、祈祷や説教をするより外には格別用もない平和な暮らしをしているのだろう。彼は二人の住んでいそうなささやかな草葺きの田舎家を想った。家の後ろには南の丘に蜜柑畑があり丘の麓には小川がちょろちょろと流れている。妻は朝な朝な裏口へ出てかいがいしくはねつるべの水を汲む。昼は日あたりのいい縁はなに据わって針仕事をする。日の暮れ方には門口へ立って夫の帰りを待っている向うに、薄紫の襞を畳んだ足柄箱根の連山が、夕靄の空に聳えている。彼は夫婦が夕餉の膳に着く光景や寝物語りの様迄も心に描いては、淡い羨望を感じるのであった。それは自分もそう云う生活をしてみたいと云うのではない。そう云う生活が出来たらば嘸《さぞ》楽しみであろうものを、生れつきそれに適しないように作られた自分の性質が淋しいのである。二十三四の学生時代から今日になる迄の生涯の間に、僅か足掛け三年ではあるが自分も家庭を持ったことはあった。自分はたった一ぺんで懲り懲りした。己のような人間は二度と女房や所帯などを持つものではないと、その時ふつふつイヤになった。だから女房を叩き出して、下宿住まいをしているのであるのに、――そして不断はそれが芸術家の天職に忠なる所以であると自負しているのに、どうして今夜はこんな弱気になったんだろう。そう云えば今夜ばかりでなく、近頃ときどきこんなことがあるのは、矢張り歳のせいかも知れない。若い時分にはそんな女女しい気持ちなど起ったことがなく、たまに起っても酒色の楽しみに浸っていれば直ぐに紛れてしまったものだが、今では反対に、それが折角の楽しみの妨げをしようとするのである。……
十時半と云えば彼には宵の口である。こんな時に早くから旅館の布団にもぐって、寝られない夜を過すのは最もいけない。
「酒だ、酒だ、何と云っても酒に限る。」
そう思って彼は、兎も角も時間を消すために駅の近所のおでん屋の暖簾をくぐった。
七
眼が覚めたのは朝の十一時過ぎであった。いい塩梅にぐっすり安眠はしたけれども、ゆうべあんまり飲み過ぎたせいか、少し後頭部が鈍痛を感じている。彼は寝台から乗り出して、窓のブラインドを引き上げた。仰向けに眺めると、ガラス障子の外は隣りのビルジィングの裏側になっていて、コンクリートの太い煙突が聳えている空はカッキリと晴れ、白い雲が八階建ての屋根の上を静かに流れて行くのが見える。その空の色や雲の影や、朗かな日の光りを眼にしながら、なま暖かい室内のスチームに蒸されていると早くも春が来たように覚えて、今日の歓楽の上首尾なのが思いやられる。ゆうべ横浜へ行きそびれて夜中の一時頃にこのホテルへ紛れ込んだ時分にはどんより雨模様に曇っていたので、あしたは降らなければいいがと願っていたのだが、此れなら上上吉である。……
「凡べて悪事を働くには、カラリと晴れた青空の見える日に限る。」
いつの頃からか彼はそう云うモットーを抱いていた。悪事と云うなかには人を欺すこと、金を騙ること、放蕩に耽ること、そのほかいろいろあるけれども、お天気さえよければ不思議に良心の苛責がない。それほど天気の影響に支配されるのは彼の体質のせいであろうか、或いは彼のように孤独な生を送っているものは、始終晴れやかな色彩に触れないでは、直ぐにも哀愁が襲って来るせいであろうか。彼は遊びをするのにも成るべくならば夜よりも昼間を好んだ。ゆうべなぞも思いがけない人間に出遇って飛んだ感傷家にさせられてしまったが、あれも「夜」のさせた業だ。あれが今朝のような天気だったら、あんなうっとうしい気持ちにはならなかったに違いない。見ろ、あの青い青い空の色を! あの日の光りを! これで懐には三百円近くの金があって素敵な女が待っているんだ! 何と己は幸福ではないか。
ベッドの中でそんなことを考えているうちに、彼はふと、髯を剃らなければならないなと思った。実はきのうの朝剃ったばかりで、まだそれほど生えてはいないし、いつもなら二三日は放って置くのだが、相手がああ云うハイカラだから、西洋流にキレイさっぱりしていないと、「あなたは野蛮ね」と云われるかも知れない。第一このさわやかなお天気に対しても、髯面では気が退ける。ゆうべ銀座で下らない買い物をする暇があったら、ジレットでも買って置けばよかった。
「君、風呂へ這入る前にちょっと顔をあたりたいんだが、このホテルに床屋はないかね?」
彼はボーイを呼んで尋ねた。
「さあ、床屋はございませんですが。」
「安全剃刀はないかしらん?」
「剃刀もございませんですが、丸ビルへ参ったら売っておりましょう。お入用なら買って参ります。」
「じゃ、大急ぎでジレットを買って来てくれたまえ。」
ボーイに五円札を渡すと、彼はベッドから弾ね起きて、部屋の中を落ち着かない足どりで往ったり来たりしながら、ときどき窓際へ寄っては空の色を覗いた。ふん己は四階建てのてっぺんにいるんだ。下界の奴ばらとは人種が違う。中沢が何だ、前の女房がなんだ、あんな蛆虫めらのことなんか眼中にあるもんか! 彼はピョンと一つ跳ね上がるような恰好をして踵でぐるぐると二三度廻った。
十二時迄には電車へ乗らなければならないし、その間に飯も喰うとすると、時間は今からキッチリである。彼は西洋風呂の中でジレットを使いながら気が気でなかったが、せわしないうちにも例の歓楽の門出に起るいろいろな妄想が湧いて来るのを、いかんとも防ぎようがなかった。一時迄には桜木町へ着く。するとあの女が此の間の服を着て改札口に立っている。それから?――それからどうしたらいいであろう。何か破天荒な遊びの方法はないか知らん? 何にしてもあの本牧の家は余りみじめだ。ああ云う女と恋をするのにふさわしい、もっとハイカラな、もっと新鮮な、そうしてもっと花やかな背景はないだろうか。いっそ此のホテルへ連れて来たらどうかしらん?……彼は浴槽の中で仰向けになってシャボンの泡の流れている自分の腕を眺めながら、ああもしよう、こうもしようと云う風に勝手な夢を描くのであった。しまいにはそこにないものが余りハッキリと眼に見えて来て、暫くうっとりとなったかと思うと、また気が付いてははっと起き直って身体をごしごし擦ったりした。いかん、いかん、こう己のように妄想にばかり囚われていたら、もうそれだけで疲れてしまう。女に会うまでは何もそんなことを考えてはいかん。早くせっせと身体を洗って、腹をこしらえて、東京駅に駈け附ける。――目下のところ注意をそれだけに集中するんだ。そう思いながら、時間の立つのが分っていながら、彼の頭はなかなか意志通りに働かないで、一方で「遅くなる、遅くなる」と戒める傍から、一方で際限もなく幻を追いかける。だからこんな時の彼は無数の空想と取っ組み合いしているので、後から後から、押し寄せる奴を払い除けて行くのが容易でなかった。
「さあ大変、もう十二時に十五分しかないぞ!」
彼は慌てて体もろくろく拭わずに着物を取って、着ながら壁のベルを押した。
「勘定! 大急ぎだ。飯を喰おうと思ったんだが、もう時間がない。大急ぎで書き付けを持って来てくれ給え!」
濡れた体へ外套を着たので汗がぽたぽた玉になってこぼれたけれど、それをハンカチで拭く暇もなかった。ボーイが来るより先にエレベーターで帳場へ降りて、釣り銭も検《しら》べずに会計を済ましてそのまま一目散に駈け出すと、
「あ、ステッキ、ステッキ」
と、怒鳴りながら、ボーイが二三丁も後からゆうべのブルドッグの首をかざして追って来たが、ええ、ままよ、ステッキなんか貴様にくれてやる! とちょっと振り返ってみたばかりで、駅前の広場をアタフタと走った。彼は今日ぐらい東京駅の広場をだだっぴろいと感じたことはなかった、ホテルの角を曲った時から建物はちゃんと見えているのに、走っても走ってもまだ向うにある。今からあれへ辿り着いて、長い長い建物の横を電車の口まで行って、また長い長い地下道を通ったり、階段を上ったり下ったりして、長い長いプラットフォームへ出るまでのうんざりするほどの道中が、考えただけでもいらいらして来て、何だってこんな不便な停車場をこしらえたんだろうと、腹が立ってならなかった。そして走りながらげえげえと喉を鳴らして、胃の腑に残っている宵越しの不消化物をペッペッと吐いた。
いい塩梅に、彼が乗り込むと間髪を入れずに車はプラットフォームを離れた。時刻が時刻なので、二等の室内はまばらであったが、そのまばらな中に紅いものや、白いものや、きらびやかな色が沢山ゆらゆらとしているので、這入ったとたんに彼は覚えず眼を見張った。何処か外国の大使館の夫人とか令嬢とか云う連中であろう。船の人を送迎に行くらしく、十七八のマドモワゼルの前に大きな花籠が置いてある。その外に姉娘かと思われる二十ぐらいのと、母親らしい五十前後のと、三人連れの婦人に交って、父親らしい品のいい老紳士と十三ぐらいの男の児と、その一行が大半を占めていて、日本人は二三人しか乗っていない。そして車が動き出すと、盛んにペチャクチャとその婦人どものおしゃべりが続いた。「西洋人はいくら美人でもシャボン臭いような気がする。あれは映画で見るべきものだ」と云うのが彼の持論であったが、こう露骨な服装を間近にしてみると、矢張り興奮しないではいられない。それに今日は本牧の女とこの毛唐たちとが必然的に結び付けられて、もう一時間もすればこう云うのを我が物にするんだと、妙に嬉しさが込み上げて来る。何のことはない、先《さつき》風呂に入りながら空想していた頭の中の幻が、眼の前へ現われたようなものだ。考えると西洋人と云うものは奇態な人種だ。女迄が一生懸命に運動をして、バタだの、牛肉だの、脂っこいものをたらふく喰べて、出来るだけ肉体を発達させて置いて、さてこう云う風な挑発的な衣服を着ける。婦人の風俗と云うものが、いかにしたら最も有効に、最も適確に、そして最も激烈に…………刺戟することが出来るかと、そればかりを念頭に置いて意匠を凝らしているのである。男は始終見馴れるに従ってだんだん神経が痲痺するから、そいつを刺戟するために女のなりは日に日に猛烈に、辛辣になる。こんななりをして白昼堂堂と往来へ出るのは、裸で歩くよりよっぽどひどい。彼等の衣服は暑さ寒さを凌ぐ役はしないで、………誇張する役をしている。此れではトルストイが「クロイツェル・ソナタ」で攻撃したのも尤もな話だが、トルストイでなくっても、大概な男は朝から晩まで煩悩を燃やし続けるだろう。実際此れを見ると、何がなしに「生きたい」と云う感じが起る。「生きなければ損だ。人生にはこんな美しい動物があるんだ、此奴《こいつ》を手に入れるために、一生懸命働いて、金を儲けて、――」と、詰まり西洋の男子の進取的で勤勉で、活動的なのは、こんなところから来ているんだろう。女の服装が彼等を動かすプロペラーなんだ。己が四日間に三十枚を書き飛ばしたのも矢っ張り本牧と云うプロペラーのせいだからな。……
彼は桜木町で降りると、プラットフォームを並んで行く西洋人の一行の肩の間をすり抜けて、地下道の階段を夢中で駆け下り駆け上がった。と、彼のプロペラー――フロイラインの緑色の帽子が、改札口の人ごみの中に見えた。
「あ、いた、いた。」
彼はもう少しで手を挙げそうにしたが、女は彼を認めると、ぐっと強く眼に力を入れて合い図してから、そのままくるりと踵を返して一と足、先に駅の出口で待っていた。そこに立っている彼女と、今しも改札口を出た彼との間には自然五六間の距離があったので、遠くから見るせいであろうか、咄嗟に彼は軽い幻滅に似たものを感じた。成るほど服装から持ち物まで此の間の通りだけれども何だかあの時の印象と違っている。第一今日はタイピストのようではなくどう見ても売笑婦になりきっているのが不思議だ。そうかと云って化粧の仕方が違うのでもない。矢張りサバサバとした、白粉けのない顔をしているのに、いったい何の加減だろう。昼と夜とで別人のように感じの変る女があるがそう云うたちなのか。それとも此の間は此方が酔っていたせいだろうか。いや、それより今日は女の方がしらふのはずだが、真面目になると却って化けの皮が剥げるのかしらん。……何だい、こんな女なのかい? 中沢の奴を羨ましがらせたり、中途でまいたり、四日間に三十枚も書いたり、散散大騒ぎをして己が追いかけた相手と云うのは。…………
「ちょうど一時ね、正確だったわ。」
女は彼が行き着くとそう云って腕時計を見た。
「待ったかね、大分?」
「あたし三分前に来たの。」
そして、西洋人の一行が二人の傍を通り過ぎて自動車に乗ろうとしているのを、横目で眺めながらぼんやりしていると、
「どうする、此れから?――本牧へ行く?」
と、促すように云った。
「行ってもいいけれど、……どうしよう?」
「どうでも、……」
相変らず事務的なソッケない口調である。水野はいよいよ馬鹿を見たような気がして来た。此の様子では折角の期待が、詰まらないことに終りそうである。「どうでも」と云うなら、「では失敬、君は此の間ほど僕の興味を引かなくなったよ」と云ってやろうか。そうしたら「そうですか、どうもやむを得ないわね」と、平気で破談に応じるかも知れない。……が、彼は二の足を踏みながらも、此処まで来るともう引っ返す気になれない。まあそう云わずに遊んでみるさ。詰まらない詰まらないと思うからいけないんだ。なあに。なかなかいいじゃないか。もう一遍よく此の体を見ろ、此の腕を、……
「ねえ、何処か面白い所へ行こうよ。」
「行ってもいいわ、何処?」
「君が何処か知っていないか。」
「あなた、ボートを漕げる?……あたし海へ出て見たいわ。」
「そいつは困った。僕は運動は一切駄目なんだ、ボートもテニスも。」
「じゃ、郊外をドライヴしましょうよ。」
「しかし大凡そアテがなくっちゃ。自動車で鎌倉迄行こうか。」
そんな風にして、彼は我れからずるずると引き込まれて行った。
「ところで何処へ行くにしても腹をこしらえて行きたいんだが、……何か横浜にうまいものはないかね。」
「それより早く行ったらどう? 鎌倉で喰べたらいいじゃないの。」
「そいつは少し残酷だな。僕は今朝からなんにも喰べていないんだよ。時間におくれたら大変だと思って、起きると直ぐに飛んで来たんだ。」
「ふふ、」
水野がわざと滑稽めかして云ったので、女は愉快そうに笑った。
「じゃ、駅の食堂へ行ったらいいわ。」
「そんなものよりも――君、何が好きだい? 君の好きなところへ行こうじゃないか。」
「あたしは今はお腹がいいの。お酒飲んでもいいけれど。」
「支那料理はどう? 横浜はうまいと云うじゃないか。」
「いや、いや、あんなもの!」
そう云って女は顔をしかめた。
「あなた、あんな不潔なものを喰べるの?」
「大丈夫だよ、みんな熱く煮てあるんだから。」
「いや、いや! 臭くって、汚くって、非衛生的で、……とても野蛮だわ。」
「君は上海にいたことがあるんだそうじゃないか。」
「上海にいたって、チャプスイなんか一ぺんも喰べやしなかったわ。いつも洋食ばかりだったわ。いいから食堂へ入らっしゃいよ。」
そう云いながらずんずん階段を上がるので、水野もそれに喰着いて行くと、二階の食堂のドーアを開けて、
「今日はア」
と、女は始終此処へ来るらしく、気軽に声を掛けた。
「いらっしゃいまし。」
水野はボーイが「オヤオヤ、今日はまた変な男を咬えて来たぞ」――と、そんな眼付きをしているような気がするので、小さくなっていると、女は外套を脱いで、例のみごとな腕を出した。
「何になさいます? お食事ですか。」
「この人は喰べるの、あたしは飲むの。何にしようかしら? コニャックは何?」
「ヘネシーか、マーテルか、まあそんなところですな。――ヘネシーならエキストラがございます。」
「ヘネシーは嫌い。マーテルを頂戴。」
などと女は、何か水野には分らない通なことを云っている。
「なんだい、そのマーテルと云うのは? ウイスキーと違うのか。」
「コニャックよ、此れは。」
「コニャックと云うのは、ブランデーの一種だろう?」
「ええ、そう。」
「おかしいな。君はウイスキーばかり飲むんだと云ってたじゃないか。」
「いつ、そんなことを云って?」
「ロンドンバアで保険会社員を掴まえて、ドイツ語でそう云ったよ。イッヒ、カン、ヌール、ウイスキー、トリンケンって。」
「そりゃ出任せにドイツ語を使っておどかしてやったんだわ。あたし西洋酒は大概なものは好き、日本酒は口が臭くなるから嫌いだけれど。――あなたも今日は日本酒を飲んじゃいけなくってよ。」
そして女は、又あのきゃしゃな手付きをして、小指を「く」の字に曲げながらグラスを挙げた。
「どう? あなたもこれを飲んでみない?」
「さあ、僕はウイスキーにしようか、……」
「でも此れを飲んで御覧なさいよ。日本人にはブランデーの味が分らないのよ。飲みつけるとこの方がウイスキーよりうまいんだけれど。」
「君はドイツ仕込みのくせに、――ブランデーと云うのはフランスの酒じゃないか。」
「そりゃドイツへ行けばもっとうまいものがあるわ。ラインでこしらえるラインワインの方がフランスの葡萄酒よりずっとうまいの。ほんとうの酒のみは彼《あ》れが一番だって云うわ。」
「その酒は日本に来ないのかね。」
「来たって、日本にあるのは駄目なの。ラインへ行ってほんとうの生のを飲まなければうまくないの。」
女は酒の講釈から始まって、ライン地方の想い出をなつかしそうに語るのである。水野は自分も附き合いにその酒を飲んでみたけれども、一向どこがうまいのか分らなかった。が、すき腹に強いアルコールが這入るので、非常に早く酔いが廻る。「早く酔え、早く酔え」と、彼はおまじないのように念じながら飲んだ。酔ってさえしまえばだんだん女が美しく見えて来る。此の女の姿が此の間ロンドンバアの時のように、あれ以来頭にでっち上げていた幻影のように、或いは大使館の令嬢や夫人と劣らぬくらいに、其れほど立派に、其れほど素敵に、……それ、それ、もうそろそろ見えて来たじゃないか。だから酔うに限ると云うんだ。な? どうだ? こんなところを一と眼中沢に見せてやりたい。「へっ、水野さん、うまくやってますなあ! とうとう掴まえたんですね。――」
「あなた、約束のものはどうして?」
女は水野の眼の中にある空想を読んだかのように、突然云った。
「う、……ああ、……いつでもいい、此処に持っているんだ。」
「じゃ、今頂戴。――ペイメントはアドヴァンスよ。」
水野は女の手とケースとがテエブルの下へ這入ったのを見ると、懐から札の束を抜いて、同じようにテエブルの下へ手を差し入れた。
「いいかね、十六枚ある。」
「確かに、――ダンクシェーン!」
テエブルの下で、ぱちんとケースの蓋が締まった。同時に女の頬の上に媚びるような笑いが浮かんだ。
「君は一体、月にどのくらい収入があるね。」
「どのくらいあると思って?」
「五百円から千円ぐらい?」
「兎に角あたしの生活は千円かかるの、収入があってもなくっても。」
「何にそんなにかかるんだろう、着物でも沢山拵らえるのかね。」
「あたし着物は地味なんだし、大概切れを買って来て自分で縫うんだから、わりにかからないんだけれど、ただ何となく贅沢なのよ。自動車だって毎月百円ぐらいは払うわ。」
「そりゃなかなか贅沢だな――僕だって君、自動車代は月に二百円ぐらいなもんだよ。」
水野はそう云って、わざと鷹揚に附け加えた。
「随分乗るのね。あなただって贅沢じゃないの。」
「僕のは仕事のためだからね。女の自動車は贅沢品だが、男のは実用品だよ。――しかし月月千円もかかるんじゃあ、君の先の御亭主はよっぽど金がいっただろうなあ。」
「西洋人は自分の奥さんが千円ぐらい使うのは当りまえだと思っているわ。だから西洋ではお金がないと結婚することが出来ないのよ。日本人は貧乏のくせに結婚して、奥さんを汚くして置くんだもの。あれはひどいわ。そんな所へお嫁に行く女も悪いわ。」
「そうだよ、あれは女も悪いんだよ。好きな人なら手鍋を提げても構わないって云う主義だからね。」
「あたしだったら、月に千円お小遣いをくれなければいや。」
「くれたら結婚する気があるかね。」
「そりゃしないとは限らないけれど、日本人は真っ平よ。」
「日本人だって例外はあるさ。僕なんぞは贅沢な女の方が好きだな。」
「そう? だけどフラウに持って見ると後悔するわよ。我が儘で、おてんばで手が附けられないから。」
「そう云う女がいいんだよ、可愛がるのに張り合いがあって。――いっぺんそう云うのを女房に持ってみたいもんだな。そして思いきり贅沢をさして、欲しいものは買い放題、うまいものは喰べ放題、何でもしたいと云うことをさせて勝手気儘に振る舞わせて、――僕は昔から、そう云う女をフラウに持つことを始終夢に見ていたんだが、日本の女には今迄それに値するようなのが一人もないんだ。あるかも知れないが、僕は一度もぶつかったことがないんだ。それで今でも独りぼっちでいるんだがね。」
「そう? あなた独身なの?」
「持っていたことはあるんだけれど、馬鹿なんで叩き出しちゃったよ、二三年前に。――それからずっと独身なんだ。夢が実現される迄は、いつまでも待つ積りなんだ。」
テエブルの下で女の靴の先がさわった。テエブルの上には手のひらと腕とが彼の触覚をそそるように伸びている。胃の腑がみちると彼には別な食慾が湧いた。彼は体じゅうがうずうずして来た。直径三四尺のテエブルがたまらなく邪魔になった……。
「僕は君の此の腕が好きなんだ。……」
自動車へ乗ると、待ち構えたように彼は女の手を取って、腕をぶらんぶらん振った。
「ロンドンバアで会った時に、最初に僕を迷わしたのは此の腕なんだ。実に素晴らしい、実に!」
「誰でもそう云うわ、腕が素敵だって。――」
「素敵だとも! こうして振っているだけでも愉快だ。此奴をぶらんぶらんいつ迄でもおもちゃにしていたいね。」
「よかったらおもちゃにして頂戴。」
「怒らない? こんなにしつっこくして?……」
「いいえ、ちっとも、――あたししつっこいのが好きよ。」
水野は若い時分には文学青年の常としてプラトニックラヴなどを口にしたことはあるけれども、その実ついぞ精神的の恋愛なるものを経験したことがないのである。彼は一種の女性崇拝者ではあった。が、そう云う男の常として、女を余り美しく、余り神に近く空想するものだから、実際にぶつかってみると、いつも幻滅を感じさせられる。男に取って、女が神でなくなった時はおもちゃになるより外はない。水野が今迄に恋らしい関係を結んだ女は、みんなおもちゃに過ぎなかった。それは恋らしいものではあったが、ほんとうの恋とは違っていた。ほんとうの恋を知らない彼には、何処がどう違うかは分らないけれども、兎に角こんな生ぬるいものではないんだろう、真の恋愛と云うものには魂と魂との交感する悦楽、心の底からの陶酔があるんだろうと貧乏人が金持ちを羨むように、ぼんやりそう云う境涯を想像していた。四十に近くなって迄そんなことを考えるのは滑稽のようだが、今日迄数多くの女の肌に触れて来ながら、一度も女の「心」に触れたことがないと云うのは、女の罪と云うよりも彼の方に精神的の要素が欠けているように思えて、ときどき淋しくなるのである。自分は嘗て地上から天界へ引き上げられるような恋愛を知らない。有頂天の歓喜、忘我の境地と云うものを解しない。そしてだんだん歳を取って、とうとうそれを味わうことなしに死んでしまう。その不満足がいつも頭にあるものだから、女を変える度毎に、今度こそは今度こそはとアセるのである。そして此の頃ではだんだん横着になって来て酒の力で自分を欺くことを覚えた。芸者でも淫売婦でも誰を掴まえてでも彼は訳なく恋に陥る。酔った勢いで無価値な女を理想の女性に迄祭り上げて、歯の浮くようなお世辞を云ったり、甘ったれたり、せびったり、溜め息を吐いたり、我れながらよくもこんな馬鹿らしい真似が出来ると思われるような狂言をする。が、いくら上手に芝居をしても、狂言は結局狂言であるから、そう云う恋から真の陶酔が湧くはずはない。酔ったようでもどこか心のしんの方が常に冷たくさめている。或る程度まで燃え上がると忽ち自ら嘲る声が内から起って、ぷすぷすくすぶって消えてしまう。……
「君はほんとうに僕のおもちゃになってくれる気があるかね?」
「おもちゃになって上げているじゃないの。人の腕をさんざん振り廻しているくせに。……」
「いや、僕の云うのは腕じゃないんだ。」
「腕ばかりでなく、何処でもおもちゃにしたらいいわ。」
「おもちゃになると云うことはむずかしいことだぜ。僕は今迄いろいろの女をおもちゃにしたけれど、完全におもちゃになれた者は一人もなかった。君ならそれが出来るだろうと思うんだが、……」
「どんなことそれは?」
「君、僕をほんとに酔わしてくれることが出来るか。芝居でもいい狂言でもいい、何でもいいから、いかにもほんとうの恋のようにみせかけてくれることが出来るか。それが出来れば僕はいくらでも金を出すんだが……」
「じゃ、あなたの註文を聞かして頂戴。あなたはどんな女がいいの?」
「どんな女にでもなれると云うの?」
「多分なれるだろうと思うわ。それがなれなければ今の生活は出来やしないわ。」
女はいかにも自信のある、徹底的にその職業を理解している口調で云った。
車はいつの間にかバラック建ての町の中を通り過ぎて、左手にひろびろと海の景色がひらけていた。右手の山には地震の時の崖崩れが、未に生生しい赤い肌を曝している。そんなものが視野の中をぱっぱっとかすめた。彼は車の走るのと共に、心がどんどん走るのを感じた。
「あたしの先の人、あのドイツ人ね。あの人は妙な癖があって、ずいぶんいろいろな註文をしたのよ。」
「いろいろな註文て?……」
「たとえばあの人は女の泣き声が好きだと云うの。それであたしに泣けと云うの。――大きな声で泣くんじゃなく、しくしく小声で囁くような風に。……それを聞くのが愉快だと云うの。」
「君は云われた通りにしたかい。」
「ええ、したわ。あたしうまく泣いてやったわ。お前ほど泣き方のうまい女はないと云って、それでひどく可愛がったわ。特別にうまく泣けた時は、後で馬鹿に機嫌がよくって、着物でも何んでも買ってくれたわ。」
「其奴《そいつ》は一種の変態だな。」
「男って誰でも変態だわ。もっとおかしな人だってあるけれど、あたしは大概なうるさい註文でも聴いてやるのよ。或る男はあたしに唖になれと云ったわ。」
「どうして?」
「口をきくのがうるさいと云うのよ。非常に気むずかしい、そのくせにはにかみやの人で、己はお前に口をきく必要はない、黙っておもちゃにしていればいいと云うの。」
「そいつはえらい、その人はなかなか要領を得ている。無論西洋人だろうね。」
「ええそう、日本人でむずかしい要求をする人なんかありゃしない。極まり切っていて詰まらないわ。恋と云うものは一つの芝居なんだから、筋を考えなければ駄目よ。」
「じゃ、僕のために筋を考えて貰いたいもんだね。」
「いったいあたしをどう云う女だと思いたいのよ。」
「僕は女と恋をすると、いつでも後で後悔するんだ、淋しくなるんだ。恋をしている刹那でも、決して前後を忘れるほどに夢中になれたことがないんだ。始終何処かに、此れはほんとうの恋ではない、うそだと云うような気がしているんだ。」
「今時そんな、ほんとうの恋なんてありゃしないわよ。みんな芝居をしているのよ。――あなたは詰まり、芝居をするのが下手なんだわね。」
「そうかも知れない。しかし相手の女優にもよるんだ。」
「あたしは名優よ、安心していらっしゃい。――そしてあなたがいつ迄も興味を感じるような、変化のあるシナリオを書いて上げるわ。」
「変化のある、そうして色彩のある……」
「テクニカラーね。」
水野は膝の上に女の手のひらを持って来て、薬指と中指とを、観世よりのようによじりながらもてあそんでいた。
八
水野はそれから四日間を全く上の空で暮らした。それ迄の彼の生活の鎖がその日に至ってぽつりと切れて、それから後は書物の中へ白紙のページが這入ったように、空虚になってしまっている。その間に何をしたか、いかにして、何処に過したか、二人で鎌倉迄自動車を駆った日から、彼は絶え間なく何かに乗って、揺られ続け、走り続けていたのである。彼は若い時分にはずいぶん諸処を漂泊したり、三日も四日も遊里に流連《いつづけ》した覚えはある。が、三十五六になってからはさすがに少し落ち着いて、無茶をするにも大凡そ締めくくりを附けていたし、第一血気の時分のようには体力が続かなかったのだが、それが今度と云う今度は、疲れ切ってしまいながらも、死骸になって大道へ倒れながらも、ほこりに塗れつつずるずる引きずられて行った。その四日間は言葉通り彼には「天地晦冥」であった。彼はその間に日の目も見たことがないような気がする。あの日の朝横浜へ出掛けた時には青空であったが、その後の空にはただ女の身体があった。その後の太陽はただ燃えるような瞳であった。あの晩に鎌倉へ泊まろうと云ったのを、女がどうしてもここへ泊まる訳には行かない、あたしの家へ来いと云うので、また本牧迄引っ張って行かれたのが夜の十二時過ぎであった。そしてあのごみごみした路次の奥の裏木戸を開けて、二階へ上がってみると、驚いたことには、あの部屋の中にいろいろな物が備えてあった。女はぼろかくしの帷をしぼって床の間一面に張ってある鏡を示した。……興奮剤だの魔睡剤だの、人を狂気にするような酒だの、有らゆるものを出しかけて、「まだいくらでも飽かせないようにして上げる」と云った。あくる日の朝、彼は余分に持っていた金を残らず渡して、無理にもう一と晩泊ったことは確かだけれども、昼と夜とが全然転倒してしまっていて、日の変ったのも分らなかった。ときどき眠っては眼が覚めると、女はその暇に次ぎの間の方で用をしていたり、何処かへ電話をかけに行ったり、せっせとまめに働いていた。そして「あなた眼が覚めたの? よく眠れて?」と云いながら、直ぐまた彼を魔術にかけた。折り折り電灯の色を変えて、赤や紫や黄や、さまざまの女になった。女が男に、男が女に、獣のように、神のように、筋と場面とが一と眠りする度毎に変った。二日目の晩、彼は東京へ帰って来て、ナルダンの時計を質に入れてやっと五十円の金を作った。もちろん下宿へは寄らなかったが、始終見馴れている質屋の番頭の顔迄が、何だか違っているように見えた。彼は番頭が自分を覚えていてくれたのが不思議であった。自分はすっかり別人になってしまっていて、誰が見ても分らないのが当りまえのように思えた。そしてその晩から翌翌日の朝になる迄、再び丸の内のホテルの一室にぐったり眠り通したものの、眠りながらしっきりなしに幻想に襲われ続けた。赤や紫の女が何処迄も追って来た。関節と云う関節のうずくような感じがだんだん馬鹿になって来て、寝たまま身体が腐ってしまいそうな気がした。
疲れが非常に激しい時は、明くる日になってもそれがそれほど現われないで、二日立ち三日立つうちに次第に体へ及ぼして来る。彼は三日目の朝になって、前前日の刺戟の結果を一層強く節節に感じた。にも拘らず、何のためにその寝台から起き上がって、再びあの女に会いに行く気になったのか。体のどこにそんな力が残っていたのか。その日も桜木町で待ち合わせる筈の約束を重んじたのであるか。払った金が無駄になるのが惜かったのか。それとも二日二た晩襲われ通した夢の世界の続きであったのか。――彼は女が恋しいよりは恐ろしかった。遊びに行くと云うよりはぴしぴし体じゅうを鞭打たれに行く感じであった。人は高い建て物のてっぺんや、絶壁の縁に臨んだ時、身を躍らして我れから脚下へ飛び降りたくなる。彼は恰もそれと似た気持ちであった。恐ろしい遊びだと思いながら、不思議にその方へ引っ張って行かれた。そして半分は無意識のうちにボーイを呼んで勘定を払って、此の間忘れたブルドッグのステッキを受け取って、ふらふらとホテルのエレベーターの箱に這入った。伸び縮みする鉄製の扉が、ぴしゃんと彼を箱の中へ封じ込めたとき、彼は咄嗟に未決監の監房を想った。こんな箱の中に女と二人きりでいたらばと云う気もした。とたんにエレベーターが四階の床から沈下し出した。彼はぐらぐらと眩暈を感じて両手でしっかり壁をおさえた。
その日の約束は午後四時と云うので、桜木町の駅の地下道はもう薄暗くなっていた。彼は改札口に立っている女の唇を見た。何より先にそれが眼に付いた。栗鼠の毛皮の外套を着て、両手でバックを提げているのが、鞭を提げているように思えた。
「きっちり四時よ、今日も正確だったわね。」
と、女は同じようなことを云った。そして、
「どうしたの、青い顔をしてるじゃないの。」
と済ましてそんなことをきいた。
水野は何を云われても殆ど口をきかなかった。黙って女の行くところへ行き、倒れるところに倒れた。彼は体を飴か粘土のように……「あなたが唖になったのね、その方がいい」と女が云った。そして粘土をちぎるように両手で口を割って、酒を注いだ。飲んでも飲んでも彼は少しも酔わなかった。同時に興奮もしなかった。ただ頭痛がして、顔がますます青くなって、気力が衰えるばかりであった。すると女は何か分らない白いバタのようなマッサージクリームを彼の手足へ塗抹した。彼は始めて刺戟らしい刺戟を感じた。粘土のように死んでいた肌が忽ち蘇生した。
「では此の次ぎの火曜日よ、それまでにその青い顔を直していらっしゃい。」
嘲るようにそう云った声を二階に残して、彼が梯子段を降りたのは、その明くる日の朝の六時であった。女は午迄はいいと云うのを、彼は逃げるようにして表へ出ると、何処をどう歩いたか本牧の終点へ辿り着いて、そこから電車で駅へ戻った。もう懐には、やっと東京へ帰れるだけの金しかなかった。
「湯島迄」
彼は小型自動車へ乗ると、そう云ったなり、狭い腰掛けの上へ突き倒されたように倒れて眠った。
それから何分ぐらい立ったのか、ときどきどかんと車が揺れて右へ左へ曲って行くのを、夢現のうちに覚えていたが、やがて或る所で止まったと思うと、
「もし、……もしもし、……」
と云いながら、運転手が窓から顔を出した。
「もし、……どちらへ着けたらいいんです?」
「湯島へ行くんだ。」
「もう湯島ですよ。何処迄おいでになるんです?」
「何処だい、此処は? 坂の中途へんか。……」
寝ていた彼の眼には家並みの軒先が見えるばかりで何処だかさっぱり分らなかった。眼の前を走る満員の電車の地響きががんがんと耳もとに鳴った。
「坂を登り切ったところにいるんですよ。」
「じゃ、……もう二三丁行ってくれ、左側に床屋があるだろう床屋が、……」
「へえ、……」
「床屋の角にポストがあって、手前の角に荒物屋がある、……そこを左へ曲ってくれ。それから三軒目の右側の下宿屋だ。」
車が下宿の前で停まると彼はようやく身を起したが、「今払うからちょっと待ってくれ」と云い捨てて、その儘二階へ上がってしまった。そして独りで布団を敷いて、中へもぐり込んでから女中を呼んだ。
「あら、いつお帰り?」
「済まないが、門に自動車が待っているんだ。……」
「へえ、またお出かけ?」
「そうじゃないんだよ。金を払ってないんだから、帳場へそう云って立て換えて置いて貰ってくれ。」
又おやじがぐずぐず云うだろう。どうせ素直に立て換えるはずはないのだから、何とか云って来ないうちに寝てしまってやれ。……彼はそんなことを思う暇さえなく、女中の跫音が廊下に聞えている間に忽ち眠りに落ちてしまった。
が、眠りは案外続かないで十一時頃には布団の中で眼を覚ましていた。横浜を出たのが六時だから、多分此処へ帰って来たのが八時頃であったろう。すると僅かに三時間しか眠っていない、熟睡したにはしたけれども、睡けはまだ溜まっているのに、いつもの癖でちょうど十一時に覚めたのである。此の間ホテルのベッドへ倒れた時よりも一層つかれている訳であるが、それほどに感じない。あの時には体じゅうが痛かったのが、今朝は痛みが拭ったように去ってしまって、後頭部の鈍痛もなく、却って頭が冴え返ったような気がする。ただこう、体が軽くなり過ぎたようで、生活力と云うか、気魄と云うか、何か一本肝心なものがスポンと抜け落ちてしまっている。全身の血が急に一升も減った時にこんな感じがするのではないかと思われる。寝ているからいいのだが、立ったら恐らく足がふらふらして歩けないのかも知れない。何しろ何しろ疲れを覚えないだけに猶気味が悪い。此の間の疲れは三日目が頂上であったが、今度のは更にゆっくりと、一週間も過ぎた時分に深刻にやって来るのであろう。今の分ではいろいろな物を飲まされた口の中が、ひどくただれているのだけが不愉快である。煙草でも吸ってみたらばと思って、夜具から手ばかり伸ばして枕もとを捜した。と、煙草でない外の物がガサガサと触った。留守中に来た数通の手紙と、二三日分の新聞とを、寝ている間に下女が持って来たものらしい。彼は慌てて手を引っ込めて、一層布団へもぐりながら首をちぢめた。
どうせ留守中に来ている手紙にロクなものはない。手にさわった工合いでは五六通あるらしいが、その大部分は中沢から来たんだろう。日本橋でまかれて以来何処へ消え失せてしまったのか、二日立っても三日立っても影も形も見せないので、奴気違いのようになって日に何遍でも追っかけ引っかけ矢鱈に書きなぐったんだろう。「至急親展」、「大至急〓」などと赤インキで記して、横へ二重円の圏点を打った、慌ててイキリ立ったような封筒の文字を見ただけで内容は読まずとも分る手紙が、つい枕もとに束になって押し寄せているのを想うと、ちぢめた首をなかなか伸ばす気になれない。そうかと云っていつまでこうしてもいられないし、孰《いず》れ一度は手に取らなければならないんだが、手に取った以上は矢っ張り中を読みたくなる。何とか読まずに葬ってしまう法はないか。……彼は首をちぢめたまま、再び手だけを外へ出して、もう一度手紙にさわってみた。と、手にあたるところには三通しかない。一通は四角な西洋封筒、二通は日本封筒で、民衆社のは蝋引のつるつるした紙のはずなのだけれど、どうもそうでないらしい。彼はその三通を思い切って布団の中へ持ち込んで、ちょっとばかり隙間から明かりを入れて先ず日本封筒の一通を、恐る恐る裏を返して見た。差し出し人は活版刷りで「××県××郡××町立図書館」とある。此れは作者に「著書の御寄贈を乞う」と云う例の手紙に極まっている。他の一通も活版刷りで「クヰーン編輯局」とある。此れは婦人雑誌からの原稿の註文だろう。残りの西洋封筒の一通は、鉛筆で宛名が記してあって、差し出し人の署名がない。大方未知の読者からでも来たんだろうと思いながら、それでも封を切ってみた。中には一寸に一寸五分ぐらいな小さな紙きれがあるだけである。それは何かの切り抜きで、「もと某婦人雑誌記者児島仲次郎(三十五)は昨暁午前六時ごろ埼玉県浦和在の自宅を距《さ》る数町の地点で死んでいるのを通行人が発見。他殺の疑いあり目下厳探中」とある。ははあ、己の小説の切り抜きかな。いや、そうでない、「民衆」の創作欄とは組み方が違う。するとこんな記事が新聞に出たのかな。いや、誰かがいたずらにわざとこんなものを刷ったんじゃないか。てっきり中沢の仕事だろう。……
彼はだんだん布団の隙間を大きくして読んでいたが、いつの間にかその切り抜きを持ったまま首を外へ出していた。明かるいところでよく見ると、切り抜きの裏面に「十一月二十六日東京朝日新聞朝刊記事」と、鉛筆で書き入れてある。彼は枕もとの朝日新聞を取って拡げた。第七面の下の方に「元婦人雑誌記者殺さる。」と云う小さな見出しがあって、記事は正しくそこに載っている。彼は煙草に火をつけて、ゆっくりゆっくりとそれを吸いながら読み返した。が、何度読んでも同じことである。確かにそこにその通りに刷ってある。
「ふふん、とうとう予覚があたったな。」
彼は鼻さきでちょっと笑った。予覚があたったのを誰かに威張ってやりたいような気持ちであった。一瞬間、薄暗い中にいる児島の顔と白い猿が飛んでいる「チャング」の映画の一場面が想い出された。ただそれだけで、不思議に動悸もしなければ、顔色も変らなかった。
火の消えた煙草を長い間すぱすぱやりながら考えていた彼は、そこでもう一本新しいのへ火をつけ直して、再び新聞の字面を眺めた。「児島仲次郎(三十五)」――するとあの男は殺されたに違いない。此れだけの記事が出る以上、それは厳然たる事実である。あの曖昧な一つの人格は此の世から消え失せたのである。が、どう云うものか此の動かすべからざる事実に対して一向それにふさわしい厳粛な感じが伴わない。殺人の記事でもそれが社会的に重大な価値のある場合いには、特に大きな活字を使って二段も三段も打っこ抜いて記載されるから、人の視聴を惹くけれども、小さな見出しで、こんな書き方をしたものは、殆ど毎日のように一つや二つは眼に触れながら、ろくろく読んで見る者もなく、読んでも直ぐに忘れてしまう。児島の死は此の記事が与える印象以上の何物でもない。詰まり活字の面での死である。その点に於いては小説の中での死と同じである。いや、此の記事を書いた記者は、小説家ほどにも頭を使いはしなかっただろう。日常茶飯の仕事として唯機械的に筆を走らしたのだろう。それにしても文句迄が彼の書いたのと同じなのも妙だ。こう云うものには一定の型があるから、誰が書いてもこうなるのかも知れないが、何だか此れを読んでいると、自分の小説の一部のような気がする。まさか新聞社が自分をからかったのでもあるまいが、小説の中でいろいろのモデルを使い馴れている彼には、現実と作り話との距離が普通の人の考えるほどに劃然としていない。実際に死んでも小説で死んだのと大した変りはないように思える。
だがこの西洋封筒の差し出し人、この切り抜きを送って来た男は何者だろう。今朝の新聞の記事であるから恐らく今朝早く此れを切り抜いて、どこかこの近所から投函したのに違いない。消印の文字がハッキリしないが、本郷区内か、下谷か、小石川か、神田辺にいる奴の仕事だ。矢っ張り中沢ではないのかな。わざと西洋封筒などを使ったところが少少臭いぞ。そうでなければ児島を殺した蔭の男の仕業かも知れない。
障子が開いて、下女が十能に炭火を持って這入って来た。いつもなら冷やかすところだのに、今朝は無愛そうに、乙に澄ました顔をしている。
「おい、この手紙はいつ来たんだ。」
「今朝まいりました。」
「今朝のいつごろ?」
「つい先でしたわ。持って這入ったらお休みになっていらしったから、そこへ置いておきましたの。」
「ふうん、じゃ、己が帰って来てからだな。」
「ええ」
「留守ちゅうに中沢が来ただろうね。」
「いらっしゃいましたわ。」
「何度ぐらい来た?」
「一度。」
「一度?」
「ええ、」
「たった一度かい?」
「ええ、」
「そりゃおかしいな。いつ来たんだ?」
「三四日前に夕方御一緒にお出掛けになったでしょう? あの明くる日の朝でしたわ。」
「それっきり来ないのか。」
「ええ、」
「電話は?」
「かかりません。」
「外に誰か来た人はないか。」
「いいえ、どなたも。」
いよいよおかしい、どう云う訳だろう。やいやい催促に来られる時はうるさくって、癪に触って、つくづくイヤになるけれども、こう音沙汰がなくなられても気味が悪い。中沢の奴、いくら何でもとうとう腹を立てたのだろうか。それとも責を負って辞職したか、免職にでもなったのだろうか。そうだとすると気の毒は気の毒だ。自分のことが原因であの男の口が乾上ったとなったら、寝覚めが悪くないこともない。しかし中沢がどうなろうと、此のままで済むはずはないから、代りの編輯員が来るなり何なり、手詰めの談判がありそうなものだのに、電話もかからないと云うのは変だ。社長を始め社員全部があきれ返って、匙を投げてしまったのかしら? 兎に角しいんと鳴りを静めていると云うのはただごとでない。何か曰くがなければならない。
「中沢が来た時、どんなふうだったね。怒っているような様子だったかね。」
「さあ、どうでしたか、わたしはお目にかかりませんの。」
「誰が取り次ぎに出たんだ。」
「取り次いだのは誰だか知りませんけれど、水野さんが御留守なら旦那はいないかって仰っしゃって、旦那と話してお帰りになったんですって。」
ふうん、そうか、おやじと何か牒《しめ》し合わしてあるんだな。おやじに聞けばほぼ形勢が分るのだろうが、彼奴にそんなことを尋ねるのも業腹だ。電話をかけて、それとなく探りを入れてみようか。――いや、待て待て、向うが鳴りを静めているなら此方も知らん顔をして、ウッチャラかして置いてやれ。孰れしまいには慌て出すに極まっているんだ。もう今頃はおやじの奴が電話で密告した時分かも知れない。「今朝帰りました」「今寝ております」「そろそろ起きた様子です」などと、此方の様子を手に取るように一一報告しているんだろう。「起きましたかな」「ええ起きましたよ」「では直ぐ行きます。それまで何処へも出しちゃいけません。」「承知しました。もう今度こそ逃がしゃしません。シッカリ掴まえて置きますから、大急ぎでいらしって下さい。」などと相談しているだろう。するともう直き編輯員が青筋を立てて飛んで来るかな。……
内内心待ちにしながら、――何だかひどく楽しみのような気にさえなりながら、水野は悠悠と昼飯を喰った。が、一時間立っても二時間立っても、矢張り電話もかからなければ訪ねても来ない。外出するような様子を見せたら、おやじが干渉するかと思って、試しに外套を着て、わざとトントンと足音高く梯子段を降りて、帳場の前を通って、下駄箱の傍をうろうろして、さて表へ出てみたが、おやじの奴、障子の中ガラスからちょっと此方を覗いたばかりで何とも云わない。ついでに一と風呂浴びて来る積りで、懐にシャボン箱と、手拭いと、銭湯の回数券とを忍ばせて出て、一時間も長湯をつかって、久し振りにせいせいとしながら帰って来たが、それでも何とも云う者はない。少少湯気に上がった形で、体がぽかぽかしているせいか、奥の方に潜伏していた積日の疲労がその時ようよう一種のけだるい感覚になって全身に拡がって来たので、彼はゴロリと横になったまま、又ぐうぐうと眠ってしまった。
夕方、眼が覚めてみると頭が重い。今朝は身体じゅうが軽くふわふわしていたのが、矢っ張り一時の現象だったので、寝ている間に熱でも出たのか、病人のようなものうさが手足に行きわたっている。胃が弱っているとみえて、先喰べた午飯がまだこなれないで胸につかえているのが分る。ことによると此のままどっと枕にでもつきそうな気がする。まぶたが脹れて、顔がむくんでいるようなので、書棚の隅に突っ込んであった手鏡を出して映してみた。血色が悪い。痩せている顔が一層ゲッソリと頬がこけて、唇がバサバサにひびが入っている。こう云う時には髯でも剃ってやろうか知らん?……そうそう、あの安全剃刀はどうしたろう。確か外套のポッケットへ入れたはずだが。……彼は立って行って、壁に吊ってある二重廻しの内かくしをさがした。平べったいニッケルのジレットの箱が手に触った。思えば此の間じゅうから稼いだ金の大部分は痕かたもなく消えてしまって、残ったのはこのジレットとブルドッグのステッキばかりだが、よく此れだけでも忘れずに持って帰ったものだ。彼は再び書棚の前に据わって、ニッケルの箱をパチンパチンと開けたり締めたり、剃刀の部分部分を組み立ててみたり解いてみたりしながら、頭の中では全く別なものの部分部分を空想していた。それからふと、例のブランデスの一巻と三巻と五巻とを棚から下して、ページをばらばらとめくってみた。中から五円札の一枚でも落ちてくれればしめたもんだけれど、ブランデスが打ち出の小槌ではあるまいし、勿論そんなうまいことがあろう訳はない。……
今度は来週の火曜日だが、横浜へ行く電車賃もないのではどうにもならない。結局原稿を書くより外に仕方がないが、何とか体面を傷つけないように民衆社と妥協する方法はないかしらん? 社の方でも己と喧嘩してしまっては今迄払った原稿料がフイになるから、何とか渡りを付けたいのだろう。己の方から折れてさえ出れば、少しはぐずぐず云うにしても腹の底ではホッと安心するだろう。一つどんな工合いだか電話をかけてみようかしらん? いやいや、此方から折れては降参した形になる。今度は全部脱稿する迄金を払わんとか、一層厳重な監視を附けるとか、弱みを見せたら際限もなく附け上がっていろいろな条件を持ち出すだろう。矢っ張り向うがジレて来る迄痩せ我慢した方がいいかな。……だがそうすると次ぎの火曜日の金策は?……
彼は梯子段の降り口を往ったり来たりして躊躇しながら、こうしているうちにも向うからかかって来ることを祈っていたが、とうとう我慢がしきれなくなって電話口へ降りて行った。が、どう云う訳か受話器がジイジイと鳴るばかりで、いくら呼んでも容易に民衆社は出て来ない。二度三度も交換手と云い争った揚げ句、ようようのことで「お出でになりました」と云うので、
「もし、もし、あなたは民衆社ですか。」
ときいてみると、聞き覚えのない間の抜けた声で、
「はあ、」
と誰かが返辞をする。
「中沢君はおられないですか?」
「はあ、あなたは?」
「僕は水野ですよ、――水野。」
「はあ、水野さん――」
「ええ、中沢君がおられたら、ちょっと、どうぞ、電話口まで。」
「はあ、御用件は?」
「それはあのう、直接話さないと分らないことなんですが、……」
「はあ、はあ、では暫くお待ちを。」
そう云っているのは給仕か何からしかったが、引っ込んだと思うと直ぐに出て来て云うのであった。
「中沢さんは二十分ほど前に帰ったそうです。」
「そんなら誰でもいいですが、編輯の人を呼んでもらえないでしょうか。」
「編輯の人はもうみんな帰ってしまったんですが。」
「そりゃ困ったな、原田君は?」
「原田さんもおりません。」
「誰かいないでしょうか、誰でもいいんだが。」
「誰もいません。」
「はあ、そう、……それでは又かけますが、僕から電話があったことを明日でもそう云って置いて下さい。」
二十分ほど前に帰ったと云うのだから、兎に角中沢が免職になっていないことは確かだが、そうだとすればあれきり下宿へ尋ねて来ないのがますます変だ。そう云えば給仕の調子もイヤに無あいそうで、なんだかいつもとは様子が違う。社が大騒ぎをして所在を捜し廻ったり、社長がそのために癇癪を起したりしているほどならいくら給仕でもうすうす事情を知らなくはあるまい。それに「水野です」と云っても驚きもしないで、「御用件は?」などと云っている。本来ならば飛びつくようにして早速社長へ御注進に及ぶべきだのにああ落ち着いているのは、ぼんやりなのか、不忠実なのか、それとも或いは「水野さんから電話がかかっても相手にするな」と云い含められているのだろうか。「社の方ではもうあなたには用はないのです」と、そう云わんばかりに扱ってやれとでも命令されているのだろうか。此の推測が中《あ》たっているとすると、いささか今度は手ごわいかも知れない。出掛けて行って、社長の面前で頭を下げて、場合によったら謝罪状の一札も入れなかったら、無事に治まらないかも知れない。
まあもう一日形勢をみてやれと思って、その晩は早く床に就いたが、疲れている証拠には昼間さんざん眠ったのに、まだいくらでも寝られるのであった。彼はその明くる朝も十一時に眼を覚ました。そして枕もとへ手を伸ばしてみたけれど、新聞が置いてあるばかりで、今朝は郵便物が一通も来ない。もともと友達が少いのだから、手紙の来ない日は珍らしくないようなものの、悪い事をした後のせいか、きのうの電話以来すっかり世間に見放されてしまった気がして、妙に淋しい。心待ちにしている中沢からは矢張り何とも云って来ないし、せめて女中でも掴まえて冗談を云おうとするのだが、その女中たち迄がよそよそしくして? いるのは、おやじに何か吹っ込まれているのかしらん?
「おい、まあ此処へお据わり。」
彼は膳を持って来た女中が、早早立って行こうとするのを呼び止めてみた。
「何御用?」
「いやに澄ましているじゃないか――僕が何処へ行っていたか中てて御覧。」
「ふふ、」
「ふふとは何だ?」
「ふふ、」
笑ったと思うと、逃げるように出て行ってしまった。
午後になってからたった一本郵便が来た。見るとそれも西洋封筒の開き封のもので、差し出し人の署名がない。中から出たのは端書《はがき》版へ活版刷りにした左の如き文句であった。――
父仲次郎儀永永病気の処薬石効なく本月二十五日午後十時死去仕候に付此の段御通知申上候
追而来る二十九日(火曜日)午後二時より三時迄谷中斎場に於て告別式相営み可申候
男 児 島 輝 雄
二十五日に死んだものが二十九日の葬式と云うのは大分ゆっくり過ぎるようだが、恐らく死体が警視庁へ廻されて、検査や解剖に附せられたのだろう。この通知状を貰った以上は告別式に出掛けて行って、線香の一本も手向けて来なければ悪いけれども、いったい水野はそれほどの因縁があるんだろうか? 児島の遺族は何と思って此の通知状を彼に宛て寄越したのだろう。死んだ仏が彼と交際があったことを何処から聞き込んだのだろう。児島の人名簿のようなものに水野の宛て名が載っていて、それを無造作に書いたのだろうか、生前一度も手紙を遣り取りをしたことがないのであるから、多分児島は水野の住所姓名を控えては置かなかっただろう。すると誰かが遺族の者に入れ智慧をして、わざと皮肉に此れを寄越させたのではないか。水野の奴、どんな顔をして告別式にやって来るか見てやれ、と、そんないたずらをたくらんだ者があるのじゃないか。……
彼はそのへんに散らばっているその日の朝の新聞を取って、七面のところを拡げてみた。有り体に云うと、きのうも一寸気にかかったので内内記事を捜してみたのだが、児島のことは二十六日の朝刊に出たきりで、その日の夕刊にも、明くる日の朝のにも夕方のにも、何も後報が出ないのである。もちろん出すほどの価値がないからではあろうが、「目下犯人厳探中」とあったその犯人は捕縛されたのか、捕縛されないでも大凡そアタリが附いているのか、殺された原因は意趣らしいか、物取りらしいか、過失らしいか、それらの事情に就いてまるで報道するところがない。水野はつい十日程前まではそのためにさんざん悩まされて、我れながら滑稽なくらい取り越し苦労をしたのであるのに、いよいよ強迫観念が事実となって児島が殺された今となっては、間に本牧の女の事件が挟まってしまったせいか、ぼつりと連絡が切れたような工合いで今更怯えもしなければ、重大視する気にもならないのであった。実は成るべくその恐怖を意識の下へ追い込もうとしていた傾きもないではなかった。凡べて激しい神経衰弱の患者は、愚にもないことを案じたり恐れたりするけれども、或る一定の合理的な対象があるのではなく、時によっていろいろなものに向けられるのだからそのこつを心得て気を転じるようにすれば、案外訳なく恐怖や心配が静まってしまうことがある。水野はそれを自分で知っていて、児島の方を忘れるために本牧の方をわざと誇張し、ことさら其方へ熱中したような気味合いもあった。
が、こう云う死亡通知状がれいれいしく眼の前に置かれてみると、意識の下へ押し隠されていた危惧がだんだん心の表面へ、こっそり忍び足で寄せて来るのを防ぎようがない。子供の時分に暗い夜路などを歩いていると、後ろでばさばさと無気味な音がして、それが何処迄も跡について来る。振り返ってみれば正体は分るのだが、子供にはその勇気がなく、あれは木の葉がそよぐのだ、風が梢を渡るのだと無理にも安心しているうちに、もうどうしても風であるとは思えないような音になって、狐か、狸か、大入道かに違いないことが分って来ても、それでも自分の足音で掻き消したり、鼻唄をうたってごまかしたりしながら、せっせと歩いて行くうちに後ろの音はいよいよ近づいて、肩とすれすれになり、しまいにぬっと雲を突くような大入道が眼の前に立ちはだかる。子供はとうとうわあッと云って臀餅を搗いてしまう。水野もうすうす自分の跡を追って来る黒い影のあることを此の間から感じつつあった。中沢から何のたよりもないのも、電話で民衆社が不思議な挨拶をしたのも、下宿のおやじが黙ってじろじろ睨んでいるのも、女中たちの素振りがそっけなくて一向冗談に乗らないのも、――要するに世間全体が申し合わせたように彼を見放してしまった如く見えるのは、彼の身持ちの放埒なのに、あいそを尽かしたばかりでなく、外に何か、もっと重大な理由が発生したからではないのか。それは今のところ、嫌疑と云うほどのハッキリとした形を取ってはいないまでも、疑惑の眼が悉く彼に向けられていて、そのために彼の周囲がしーんと静まっているのではないのか。……水野の頭は、考えまい考えまいとしていたことながら、いつの間にかその黒い影で一杯になっていた。もう神経をどうにも外へ転じさせる道はなかった。彼はしきりにフロイラインの肉体のきれぎれを、腕だの、足だの、胴だのを想い出しては、その空想に浸ろうと努めてみたが、女の幻は知らず識らず児島の姿に変るのであった。
もしほんとうに人人が彼を疑っているのだとしたら、そもそもそれを云い出した者は誰であろう。彼と彼の小説のモデルとの関係、――それを知っている者は、児島が死んでしまった後には幾人もいない。有っても一人か二人のはずである。それが世間へ知れ渡って、宿の女中の態度までが変るようになるには、誰か「人を殺すまで」のモデルの一件を云い触らした者がなければならない。そこまで形勢が進んでいるなら、警察や新聞社の耳へも這入っているだろうのに、直接彼に向っては何処からも何とも云う者がないのはなぜかしらん。或いは彼自身の知らない間に、着着彼の身辺が捜索されつつあるのだろうか。それならしかし驚くことはない。最後に児島に会った十五日以後、彼の所在は大概誰かが知っているのだ。犯罪のあった二十五日の前後へかけての行動が最も問題になるだろうが、それが表沙汰になったら、本牧の女を連れて来て証人に立たせることが出来る。……秘密を守る約束であったが、まさかそうなったらあの女も事実を否認することはなかろう。……いや、そうでないかな、売淫行為が明かになれば自分も罪になる訳だから、西洋流に飽く迄利己主義に出て、冷酷にシラを切るかな。……あの女にはそう云う残忍なところがないでもない……。
その時彼は急に顔色が青くなった。と云うのは、今日にも彼が検事局へ送られて二十五日の晩の行動を問われたとしたら、必然本牧の女の家にいたことを説明しなければならなくなる。「それは何と云う女の家か」と、検事は尋ねる。然るに彼はその質問には答えられない。彼は女の姓名を知らない。「ではその家の町名番地は?」――次ぎにそう云う質問が来る。が、それにも彼は答えられない。「では道筋は分っているだろう、その家へわれわれを同道してみよ。」――そう云われても彼は検事を女の家迄連れて行くことが出来るかどうか甚だ怪しい。彼は今迄に三度もそこへ行っており、行く度毎に少くとも三四時間、長い時は十時間以上も遊んだことがあるのだから、家の内部はよく知っている。外部の様子も実は何となく知っているような気がしていたけれど、よく考えるとただ大凡その方角が呑み込めているばかりで、電車路からどう曲るのだか、何番目のどう云う路次にあるのだか、さっぱり分っていないのである。彼は本牧と云う土地に不案内である上に、行く時も帰る時もいつも夜更けか明け方の暗い時分に限っていた。強いてそうした訳ではないが、そう云う廻り合わせにばかりなっていた。そして大概は行ける所まで自動車で行って降りてから先は歩いたのであるがその自動車の停まった場所が明かでない。尤もその場所が分りさえしたら、そこから女の家迄はほんの二三町の所であるから、出鱈目に歩いても見つかりそうに思えるけれども、どれも同じようなゴミゴミした路次を出たり這入ったりしたのだから、行ってみないことには果たして突き止められるかどうかもアテにならない。見付からないでうろうろ戸迷いするようだったら、検事はなお更あやしむだろう。家も分らない、姓名も知らない、そんな女を月極めの妾にして、此の間じゅうから遊んでいた? そんな馬鹿げたことがあるか。一体その女に就いてお前は何を知っているのだ?――その時何と答えるか。彼はその女がドイツ語を解することと、もとドイツ人の夫を持っていたことと、嘗てその夫とハンブルヒに暮らしたことがあることと、――それだけを知っているに過ぎない。それとても女自身の口から出たので信を置くには足らないのである。その外には銀座のカフェエ・モナコへ出入りすることと、桜木町駅の食堂のボーイが馴染みであることを挙げ得るけれども、モナコやボーイに尋ねても女の住所が分らなかったらどうするか。仮りに住所が分ったとしても、女が飽く迄彼との関係を否認したら、二十五日の夜女の家に確かに彼がいたと云うことを、誰が証明してくれるか。女に二階を貸している階下《し た》の人たちを取り調べるか。が、彼等は一切顔を見せないのであるから、あの晩二階に誰がいたかを明言することはむずかしかろう。「男と女の声がしました。そう云うことは始終あります。」と、そう云えるだけに過ぎないであろう。すると今度会う時にあの家の町名番地をよく調べて置く必要があるが、それが明日の火曜日であって、同時に、児島の告別式があるのである。しかも女とは桜木町へ午後一時と云うので、告別式は二時から三時までの間であるから、どちらかを放擲しなければならない。
告別式へ行く義理合いはないのだから、その方を止めればいいようなものの、しかし行ってみたい気がしないでもない。児島が殺された時の状況、その後の模様、犯人の心当りなど、新聞では分らないことが遺族に会えば分るかも知れないし、彼等が水野をどう云う眼をもって見ているのか、何の積りで死亡通知状を寄越したのかも、大凡そ推察出来るであろう。附き合いの広い男ではなかったけれど、多少文壇にも関係していたことがあるから、水野の知っている顔も少しは式場に見えるであろう。するとそう云う連中が彼にいかなる態度を示すかも知って置きたい。が、そうなると今度は本牧の方が又気になる。此方は何も明日の一時に限ったことはないのだから、もう一日先へ延ばしてもいいのだが、それを知らせる方法がない。仮りに明日違約したとすると、女は果たしてどうするだろうか。約束の時間より十五分以上は待たないと云うのだから、待ちぼけを喰わされて腹を立てることはないだろうが、でもその次ぎの会合の打ち合わせをする機会がない。明日の次ぎは金曜日であるが、黙っていてもその日の午後一時に桜木町へ来てくれるかしら? 明日の違約がもとになってそれきり縁が切れてしまったら大変であるから、矢張り明日会って置く方がいいか。告別式が午後三時迄だとすると、一時に桜木町で会って、事情を話して、急いで谷中へ引っ返して来る、そして式を済ませた上で、再び桜木町へ戻るか。尤もそうすると日が暮れてしまうから、本牧の道筋を確かめるには不便だけれど、明くる日の昼間になってからゆっくり調べられるであろう。場合によったら女に訳を打ち明けて、万一の時には証人に立って貰うように、彼女の義侠心に訴えてもいい。――彼は一応そう考えたが、ふと又、今夜のうちに本牧へ行ってみるのも一策だと思った。今から行っても女が家にいるかどうか、いても会ってくれるかどうかが疑問だけれども、いなければいないで置き手紙をしてくればいい。第一、ひとりで出かけて行って首尾よくあの家が突き止められれば、それだけでも目的の一半は達する。
ようようのことでそう極めると、鉛筆を取って原稿用紙へ置き手紙の文句を綴ってみた。――
僕は今夜、急に約束を変えねばならない必要を生じたので、その断りを云うために突然此処へ訪ねて来たのだ。「僕」と云うのは、毎週火曜と金曜とに君に会いつつあるあの男のことだ。嘗て君を「フロイライン・ヒンデンブルグ」の名をもって呼んだあの男だ。僕は君が会うべき時間でない時に勝手に君を訪ねたのを深く咎めないように祈る。と云うのは、急に大切な用が湧いたので、明日の午後一時にはどうしても桜木町へ行くことが出来ない。それで明日は午後五時にしたい。同時刻に間違いなく桜木町へ来ていてくれたまえ。
――例によって彼は何度も書き直しをした。そして以上の文句の後へ、
此の原稿用紙には御覧の通り欄外に或る姓名が印刷してある。此れは一人の小説家の名前だ。此の名の男と僕との関係は君の想像に任せるとして僕は説明しないであろう。詳しい話は明日お目にかかってから。
と、そう書き加えたが、何も書かずに想像させた方がいいと思って、また消してしまった。それから封筒の表紙へはフロイライン・ヒンデンブルグと記した。
九
明かるいうちに行きたかったのだが、何事にまれ一つの決心がついてからそれを実行に移す迄にぐずぐず時間をつぶす癖がついているので、宿を出たのは四時過ぎであった。行きがけに例のブランデスの十巻もあるのを風呂敷に包んで持って出て、森川町の古本屋へ寄って、桜木町行きの電車と自動車賃とを作った。そんなこんなで桜木町へ着いた時は彼れ此れ七時になっていたろう。彼は兎も角も腹をこしらえるために駅の食堂へ上がった。
「いらっしゃいまし、今日はおひとりで?」
と、ボーイが云うのをキッカケに、女の家を尋ねてみたが、
「さあ、あの婦人は方方に家があるようでしてね。」
と、至極曖昧なことしか云わない。
「いや、本牧の方に一軒あるだろう。それがどの辺だか知りたいんだが。」
「へえ、旦那はいらしったことがないんですか。」
「行ったことはあるんだけれど、横浜は不案内なところへ持って来て、いつも夜遅くだもんだから、どの辺なんだか分らないんだよ。自動車を降りてから又歩くんだが、その降りる所がハッキリしないんだ。」
「運転手にきいて御覧になったら?――駅前のタクシーなんでしょう?」
「それが違うんだ。タクシーは嫌いだと云って、何処だか外のガレージから呼ぶんだ。」
「そんならそのガレージでおききになったら訳ありませんや。」
「そのガレージを知らないんだよ。あの女が自働電話をかけると、それから五分ばかりして、何でも向うの橋の方からやって来るんだ。」
「ふうん、――」
と云って、ボーイは首をかしげながら、
「そいつあ悪くすると尋ね当てるのが骨ですぜ。」
「どうして?」
「あの婦人はなかなか用心深いんですよ。いざと云う時しっぽを掴まれないように心掛けているんですよ、――此処へもたびたび来るんですが、名前だって明かしたことはないんですから。」
「そりゃそうだろう、僕にも名前を云わないのだからな。」
「そのくらい秘密にしなけりゃ、直ぐに警察に知れてしまうし、いいお客が附きませんや。――万事が毛唐の遣り方ですな。」
「いろんなお客を連れて来るかね。」
「連れて来ますよ。日本人は旦那の外に二三人ぐらいで、大概外人が多いようです。」
いつ迄ボーイと話していても仕方がないので、彼は半ばは失望しながら、駅前のタクシーに乗った。
「ええと、――何しろ本牧へ行くんだがね。草っ原のようなところに電車の通っている道があるだろう?」
「へえ、へえ、」
「何でもあの辺に違いないんだ。」
「終点からいくつ手前なんです?」
「そいつが分っているくらいなら世話はないんだが、……あの辺にこう、ひどくゴミゴミした路次の入り組んだ町があるだろう?……」
「さあ、――」
「ま、何でもいいから行ってみてくれ、行けば見当が附くかも知れない。」
彼が車から降りたところは多分違ってはいないだろうと思われたのだが、それから路次へ這入ってみると、目的の家を捜し出すことの容易な業でないことが分った。第一彼はその家の標札すらも見たことがないので、尋ねるにも尋ねようはなし、おまけにどの家も皆同じような造り方だから、彼の記憶を呼び起す目じるしがない。いつも裏木戸から出入りをしたので、表の格子がどんな工合いであったかも覚えがなく、そうかと云って一一裏の方へ廻ってみたりしたら、空巣ねらいと間違えられないものでもない。幾度も出たり這入ったりした揚げ句、やっと一軒荒物屋の店を見付けて、こうこう云う風の女が二階借りをしている家はないだろうかときいてみると、
「へえ、断髪の女ですかい?」
と、奥から主人らしいのが腑に落ちぬような顔付きで云う。
「ええ、そうですよ、二十八九の、洋服を着た女事務員のようなんですよ。」
「そんな女はついぞ見たことがありません。此の辺にいりゃあ直ぐに眼に付くはずですが。」
「そうですかねえ。確かにこの辺なんですが。……」
「何処ぞお間違えじゃあないんですかい。そう云う女の住む所じゃあないんですから。」
こんな問答を行く先先で二三度も繰り返したが、何処できいても心当りがないと云うのに一致していた。路次が違っていたにもしろ、まるきり見当が外れていそうなはずはないから、大体あの家は此の一廓の近くにあるに極まっているのに、誰も見た者がないと云うのは余ほどおかしい。現に女は彼を二階に待たして置いて、昼日中銭湯へ這入りに行ったり、自働電話をかけに行ったりしたことがあった。と、そう気が付いた時、彼は自分の尋ね方が悪かったのではないかと思った。なぜならあの女が日中外へ出る時は大概浴衣がけの上へ筒袖の外套を着て、男のソフト帽に似た帽子を被って、一見ごろつき書生のような風態をしていた。矢張りボーイが云ったように女は常に用心深く、出来るだけ近所へ眼立たぬ工夫をしていたのである。だから断髪とか、洋服姿とか云って尋ねたのでは分る訳がない。そうだ、此れは湯屋を捜すことだ。湯屋できいたらひょっとすると知れるであろう。――それから彼は風呂屋の煙突を捜して歩いたが、此の考えはうまく中たった。
「ああ、あの方は時時いらっしゃいます。何でも此れから五六軒先の田中さんの二階にいらっしゃるようですよ。あすこで聞いて御覧になったら分るかもしれません。」――
二軒目の湯屋でそう云われたので、その家を捜し中てて、裏の方へ行ってみると、木戸は締まりがしてあるけれど、成る程此処に違いなかった。彼は表へ廻って、そっと格子を明けようとしたが、そこも締まりがしてあって、中は真っ暗になっていた。
「御免……」
と云ってみたが、返辞がない。いつものことで空家のようにひっそりしている。思い切って続けざまに声をかけながら、格子をとんとん叩いてみると、
「おう」
と云う睡そうな返辞が聞えて、障子の紙が明かるくなって、奥からどてらを着た男が出て来た。
「ちょっとお尋ねしたいんですが、……あのう、二十八九になる断髪の女の人が二階を間借りしているのは、確かお宅ではなかったでしょうか。」
「へえ?――あなたは?」
「僕は二三度その女を訪ねて、こちらへお伺いしたことがあるんです。名前は知らせてありませんので、申し上げても分るまいと思うんですが、……」
「へえ、……手前どもにはそんな女はおりませんがね。……」
そう云うのが明かりを背にして突っ立ったままなので、どんな男だか分らないながら、胡散そうに此方をじろじろ見守っている様子であった。
「……何と云う女をお尋ねなんです?」
「さあ、先の名前も知らないんですが、……おかしいな、どうも、確かに此処のお宅のように思えるんだが、……お宅ではあのう、お貸しになっておられないんでしょうか?」
「貸していたことはありますけれどね、……此の頃はだあれもいやあしません。」
その口調から態度から推して、矢っ張り此処に違いないんだが、刑事が調べに来たとでも思っているのであろう。相手がシラを切る気でいるのを押して尋ねるのも無益であるし、それに恐らく、女は今夜は何処か外へ泊っているので、此処へは帰って来ないのかもしれない。
「や、どうも飛んだ失礼をしました。」
彼はそう云って、その家の前を一旦二三町立ち去ってから、再びそうっと裏口の方へ取って返した。そして木戸に手を掛けてみると、ずるずると開いた。ハテな、中から締まりがしてないのでは、今に戻って来るのじゃないかな。女はいつも帰って来ると厳重に締まりをするのであるから、今は二階は留守なのに極まっている。彼はよっぽど、女の跫音を真似ながら二階へ上ってやろうかしらんと思ったけれど、さすがにそれだけは躊躇されたので、懐に持って来た手紙を出して、それを木戸の上がり口の、女が靴を脱ぐ時に必ず眼に付く場所へ置いた。
此れで問題の家は突き止めたし、手紙を届けて置きさえすれば、明日はゆっくり告別式へも出られるし、……と、彼は目的を達したような気になって、それから三十分の後には東京行きの省線電車に揺られていたが、もしあの家が間違っていて、女があれを読まなかったら? と、またその事が心配になり始めた。そればかりでない、先のボーイが云うように女が飽く迄秘密を尊ぶのであったら、たとい読んでも読まない振りをするだろう。そうだとしたら五時には来ないで、一応一時に来てみるだろう。そして腹の中では、勝手に留守を荒されたり、探偵のような真似をされたりしたのを甚だ不満に感ずるだろう。或いはそれを口実に絶交するようなこともあるだろう。女は彼の本名を知りたくないと云う程だから、況んや彼の心配事件などに関係したくはないに極まっている。するとあの手紙に、名を刷ってある原稿用紙を使ったのはまずかった。既にその一事が、女の機嫌を損ずるに足る落ちどである。……結局彼は、徒労でも何でも、明日の一時に桜木町まで来てみなければ安心がならなかった。わざわざ今夜本牧まで出かけて行ったことが無駄骨になってしまうけれども、それでもどうも仕方がなかった。
そうは云うものの、手紙は十中の八九迄女の手に入ったに違いないから、どうせ男は来るはずがないとたかをくくって、多分一時には待っていないだろう。――水野はそう思いながら、明くる日兎も角も十一時半に宿を出て、約束の時間に桜木町へ行ってみた。と、女はちゃんと改札口のところに立って、地下道を出て来る彼の姿を見守っていた。そして男が改札口を出るより先に、いつもの通り自動車を呼ぶべく電話の方へ歩いて行くので、
「あ、君、君、」
と呼びながら、水野は後ろから追いすがった。
「なあに?」
「今日はちょっと、……都合の悪いことがあるんだ。」
「あ、そう、」
と、自働電話のボックスの前で立ち止まった女は、
「じゃあ止めるのね?」
と未練気もなく、サバサバと云った。
「いや、止めるんではないんだが、……」
君は手紙を見なかったかね、と、そう云おうとして考え直して、
「二時から友達の葬式があるんで、五時でないと来られないんだ。」
「そう、――じゃ五時にしましょう。」
「大丈夫だね、五時にきっと待っていてくれるね。」
「ええ、きっと、――五時十五分過ぎ迄は。」
「実はその断りを云うためにわざわざ一時にやって来たんだよ、待ちぼけを喰わせちゃ悪いと思って。」
「そりゃ御苦労さま。十五分立てば帰っちまうから、そんな心配はいらなかったのに。」
「じゃ失敬、此れから大急ぎで谷中の斎場迄行かなくっちゃ。」
「左様なら、――」
女はすたすたと、もう停留場の方へ行くのであったが、その後ろ姿を見ると、水野は急に好奇心が湧いて何とか云わずにいられなくなり、またばたばたと走って行った。
「どうしたの?」
女は彼の跫音に振り返ってきいた。
「君、ゆうべの手紙を見なかったかね?」
「手紙?――」
「ああ、」
「あたしに宛てて?」
「実はゆうべ、僕が自分で持って行ったんだ、本牧の家へ。」
「ふうん、――そうしてそれを誰に渡して?」
「裏の締まりがしてなかったから、あすこを明けて放り込んで帰って来たんだ。」
「知らない、あたし、そんなものは。――階下《し た》の人に会わなかった?」
「会ったことは会ったが、内にはそんな人はいないと云うんだ、――」
「それじゃあ、あなた、家が違っているんじゃないの。」
「そうかしらん?――」
「そうに極まっているじゃないの。――どんなことが書いてあって?」
「今云っただけさ。」
「ただそれだけ?」
「ああ、――それでも心配だったから出て来ちまったんだ。」
機嫌を損じやしないかと内心ハラハラしていたのだが、格別そんな様子もなく、
「馬鹿気てるわね、二度も無駄足をしたりなんかして。」
と、笑いながら云い捨てて、女は電車に乗ってしまった。
矢張りあんなことをきかない方がよかったかしら?――ひとりになると水野は直ぐに又そのことが気にかかった。一分前にしたことを次ぎの一分には後悔する、彼の生活はそれの連続のようなもので、そのくらいなら一つの行為をする時によく後先を商量すればいいのだけれど、ついうっかりとその場の衝動に駆られてしまう。女は果たしてあの手紙を見なかったのだろうか? ゆうべの家は間違っていたのだろうか? どうしてもそうとは思えないのだが、それにしては女の素振りが余りにも自然である。長い間の熟練でうそを云う技巧が弥縫の痕を残さないほど発達しているとしても、ああ迄平気で空とぼけることが出来るだろうか。手紙を見ていないからこそ一時に待っていたのではないか。……いや、矢っ張り見たには見たんだが、此方の性質を知っているので、こう云うこともあろうかと思って、念のために来たのかしらん?……
水野はムシが知らすと云うのか、なぜと云う理由はないようなものの、此れきり女に会えなくなるような、五時に待つとは云ったけれどもその実アテにならないような予感がした。約束を厳守することを自慢にしている女であるから、来ると云ったら来るに違いない、が、もしかすると腹の中では此れきり縁を絶つことに極めていて、一時の気休めを云ったのではないかと、何だかそんな気がするのであった。女は矢張りあの手紙を読んだかもしれない。そして男が約束を破ったのを怒っているのかもしれない。男は勝手に文通をし、名の刷ってある用箋を用いた。もし多少でも文学趣味のある女なら、すでに男の職業の何であるかを知ったであろう。小説家などと関係するのは秘密の洩れるもとだと知って、内内は警戒し出したであろう。或いはもっと深く、何かの事件で係り合いにでもなりはしないかと、直覚的に感じ始めたであろう。……それからそれへと考えて来ると、いっそ告別式を止めても女を逸しないように努めた方がよかったと思えた。
谷中の斎場へ着いたのは彼れ此れ三時近くであった。彼は受け附けへ名刺を置く時、係りの者がどんな態度を取るだろうかと危ぶみながら、恐る恐る差し出してみたが、誰も「ははあ、此の男か?」と云うような顔をする者もなかった。時刻が遅いせいか、ずっと場内を見渡したけれども、知った人は一人もいない。突き当たりの霊柩の傍に腰掛けているのが児島の未亡人であろう。彼は静かに進んで行って、写真の前にうなじを垂れた。そしてついでにその肖像をつくづくと見上げた。フロックコートの半身像で、「靴の皮」の感じがよく出ている。その意味に於いて想い出の多い写真である。彼は香を摘まんで、一度、二度、三度、いんぎんに香炉の上に捧げた。と、
「やあ。」
と云って、彼の袂を引く者がある。振り返ってみると中沢であった。
「やあ、……」
「あなたが御出でになったって、受け附けの者に聞きましたので、飛んで来たんです。――お忙しいところをどうも、わざわざ恐れ入りましたな。」
「いや、なあに、――君は葬儀委員なのかね。」
「ええ、まあ。――文壇の方方も少しは見えるだろうからと云うんで、その方の応接を頼まれたんです。ところで未亡人に悔みをお述べになりますか? 何なら御紹介いたしますが。……」
「有り難う、……しかし取り込み中だろうから、何なら遠慮した方が、……」
「構わんでしょう、あらかた式もすんだんですから。……何しろ不慮の災難で、ずいぶん気の毒なんですから、御迷惑でもお会いになって慰めてやってくれませんか。ほんとうによくいらしって下さいましたね。あなたがわざわざ御出でになって下さろうとは、誰も思ってはいませんでしたよ。生前故人とそれほどの御交際がおありになったと云うんではなし、……」
「そうでもないさ、モデルに使ったりしたんだからね。」
水野はハハと声だけで笑ったが、中沢は笑わなかった。
「あなたに慰めていただいたら、遺族の者も光栄に感じますよ。いかがでしょうか、御迷惑でしょうか?」
「迷惑なことなんぞないけれどね、……」
「では此方へ」
と、中沢は皆迄聞かずに、ひとりで心得て未亡人の前に進んだ。
「奥さん、創作家の水野さんです。交際嫌いの方なんで、めったに何処へも御出でにならない方ですのに、今日はわざわざお忙しいところをいらしって下さいましたんで……」
未亡人はハッと恐縮したような風に席を立って、下を向いたまま丁寧に頭を下げたが、同時にチラと、素速い上眼で引ったくるように水野を睨んだ。そして再び席に着いたかと思うと、ハンケチで強く眼の上をおさえて、額をぶるぶる震わせて、急に激しく泣き出してしまった。
「此れはいけない」
――水野は咄嗟にそう感じた。この女は何もかも知っているのだ。中沢の紹介に対しても、何か生前の交誼に対する感謝の辞ぐらいはあってもいい筈だのに、己の顔を見ると、いきなり黙って泣き出したのは変だ。そう云えば今己を見る眼付きには憎悪が燃えていた。……
「どうも何ですな、このたびは誠に……」
それでなくてもこう云う挨拶が頗る不得手である水野は、何とかその場を繕わなければならないと思いながら、そう云ったきり言句に詰まった。そして暫く立ってから、
「誠に不慮の御災難で、……」
と、ようよう先の中沢の言葉を使った。
「全くですよ。病気で亡くなられたんなら諦めようもあるんですが、……」
と、中沢は例の、原稿の催促をする時と同じ謹厳な表情を作って横合いから口を挟んだ。
「……お泣きになるのも御尤もです。殊に児島君は人の恨みを受けるような方ではなかったんだし、……」
「あのう、その後何か手懸りでもあったのかね?」
と、仕方がないので中沢の方を振り返って云った。
「いや、まだ一向ないんだそうです。」
「いったい事件が起ったのは何時頃なんだね。」
「二十五日の、多分十時か十一時頃だろうと云うんです。何しろその路と云うのが馬鹿に物騒な所なんだそうですよ。」
「へえ、すると物取りの仕業かしら?」
「品物は何も取られていないんです、ねえ、奥さん。」
二人が話している間に未亡人はすっかり泣き止んでいたが、その青白い顔を見ると、水野も同じように青くなった。
「はあ、ちょうど月給日でございましたので、お金を持っておりましたんですが、それには少しも手が着いておりませんので……」
未亡人はその時始めて口をきいた。それが今迄泣いていたのに似合わないしっかりした声で、ピシ、ピシと、止めを刺すように句切って云って、云いながらも絶えず上眼で水野の方を睨むのであった。
「はあ、はあ、成アる……二十五日は月給日でしたな。」
と、中沢が又水を向けるような調子で、
「そうしてみると、矢っ張りこれは意趣でしょうかな。まさか児島君のことだから、女に関係した事件でもないでしょうが、……」
「わたくしには隠しておりましたかも知れませんけれど、そんなことは絶対になかったろうと存じますの。――あったにしましても、そのために人様から恨まれますようなことは、……」
「何か最近に、変な様子でもあられたでしょうか?」
「はあ、……あのう、……女のことではございませんけれど、大分神経衰弱がひどいように申しておりまして、己は人に殺されそうな気がしてならないなんて、申したことがございますの。」
「へえ、いつ?」
「さあ、……それはあのう、今月の十五日の晩でございましたかしら。銀座で活動を見たとかで、遅く帰って参りまして、どうも帰り路が物騒でいけない、あんまり淋し過ぎるから東京へ越した方がいいなんて、いつもはそんなことを申しませんのに、その晩に限ってイヤなことを申しますので、なぜそんなことを云うんですかってききましたら、どうもあの路を歩いていると、今に誰かにやられそうだって申しますんです。」
「ふうん、……」
と、中沢は仔細らしく云って、
「ぜんたい児島君はそんなことを気にする人じゃないですがなあ。矢っ張り虫が知らしたんですかなあ。」
「わたくしも妙だと存じまして、そんなことを云い出すには何か原因があるのかと思いましたんですが、いや、何も原因はない、己は人から恨まれるようなことはしていない、ただ何となくそう云う予覚がするんだと申しますの。それでわたくし、そんならこんな淋しい所にいるのは止して、一日も早く市内へ引っ越しましょうって申しまして、年内には是非そうするはずになっておりましたんですが、とうとうそれが間に合いませんで、こんなことになってしまいまして、……」
「ええと、今のそのお話の、妙なことを云い出されたのは今月の幾日だとか仰っしゃいましたな?」
「十五日でございます。」
「十五日と、……その日に東京へ出られたんですな。」
そう云って中沢は、極くあたりまえな表情で、その実探るように水野の眼の中を見た。
「東京で何か、変った事件にでも出遇ったのかしら? こう云う場合の人間の心理は、僕なんぞより水野さんの方がお分りのはずですが、……」
「さあ、何かあったのかも知れんね。……」
おい、おい、なぜそんな詰まらないうそをつくんだ! なぜ十五日には一緒に活動写真を見たこと、銀座通りを歩いたこと、広小路迄同じ自動車で帰ったこと、児島の顔に死相が現われたように感じたことを、正直に云ってしまわないんだ。馬鹿だなあ己は! 自分で自分の墓穴を掘っているんだ!――水野はそう思い思いいつものオッチョコチョイを出してしまった。それと云うのが、いかにも中沢が勿体ぶって仰山に持ちかけたのに乗せられた形もあるのだけれど、不断から下らないことにもうそをつくのが慢性になっている人間は、大事な場合についその癖が出てしまう。ちょうど慌て者が慌ててはいけないと深く自分を戒しめながら、いざと云う時矢張り周章狼狽して命を落すようなものである。
「あったんですな、きっと、……」
と、中沢は追っかけて云った。
「……殊に帰りが遅かったんだとすると、誰か知っている人にでも会って気になる事を云われたとか、何か異常な物でも見たとか、云うようなことがあったんじゃないでしょうか。……如何でしょう、創作家の想像力を以てしたら、そう云う場合が考えられないものでしょうか。」
「それは、そう云う場合はあるさ。」
「案外そう云う方面から手懸りが付くかも知れませんな。殺されるような気がすると云われたのが、根拠のない漠然たる恐怖でなしに、何かその晩の事実に深い関係があると云うような。……」
「君、君、いい加減にしたまえ、イヤにオドカスじゃないか。」
――水野は折りをうかがってそう切り出して、「実はその晩はこうこうなんだよ」と、冗談まじりであっさり白状してしまおうともがいていたのだが、それを知ってか知らないでか、中沢は何処までも真面目くさってそのキッカケを与えないで、
「その晩誰に遇ったのか、それが分るといいんですがな」
などと、水野の出鼻を挫くようにばかりするのであった。
斎場を出ると彼は直ぐに東京駅へ引っ返したが、頭の中はフロイラインのことよりも中沢の投げた不思議な謎を解釈するのに忙しかった。ぜんたいあの男は葬儀委員を頼まれるほど、故人と親密な間柄ではなかったはずだ。雑誌「ユモレスク」の編輯を手伝っていたことがあって、その時分にちょっと児島を知っているだけだと、いつぞや自分でそう云っていた。それが今日はあの通り式場の世話を焼いたり、未亡人と馴れ馴れしく話したりしているのはおかしい。奴が此の間の小松以来、己を恨んでいるのは分る。そう云えば今日も原稿の話が出ていいはずだのに、奴は一と言も云い出さなかった。此方も業腹だから何も云い訳をしなかったが、奴の方では、黙っているだけ深く根に持っているのだろう。そして己があのモデルの事を気にしているのを利用して、変に凄みを持たせた口調で脅かして、内内快哉を叫んでいるのだろう。こうなって来るとあの切り抜きを送ったものはあの男に違いない。が、彼の復讐は単に己を脅やかすだけで満足するのか、実際己を罪に陥れなければ承知しないのか、それが気になる。……
が、彼の不安はそれだけでなく、約束通り五時に桜木町駅へ行ってみると、いつもは必ず改札口に立っているべき女の姿が見えないのであった。ああ、先の予感が中たったんだなと、彼は思った。来るものならばもう今迄に来ているだろう。矢っ張り今日は来ない気なんだ。彼はそれでもよもやに引かされて十五分待ち、二十分待ち、とうとう一時間待ってしまったが、又本牧へ行ったところで、要領を得ないに極まっているし、結局茫然として引き返すより仕方がなかった。そして帰りの電車の中でも女のことと児島のこととがごっちゃになって、いろいろと彼の空想を刺戟しないでは措かなかった。彼には何だか、女が急に姿を隠したと云うことが児島の問題に関係がありそうに考えられて仕方がなかった。ロンドンバアで偶然知り合いになった女と、児島の事件とは表面何の連絡もないようだけれども、しかし一概にそうも云えない。何だかそこに裏の裏があって、あの女が始めから水野を陥れるために一と役買って出たのではないか、うしろに蔭の男がいて、そいつがあの女をあやつっているのではないか、と云うような気がした。考えてみればああ云うハイカラなモガタイプの女が、いくら商売だからと云って、格別金がありそうにも見えない水野のような男に眼を付けたと云うのが変だ。秘密秘密と、凡べてに秘密一点張りで、名前を明かさなかったのもおかしい。それから会う日を火曜日と金曜日に極めたのも深いたくらみがあったからで、二十五日の夜の水野の行動を世間から隠すようにしたのかも知れない。畜生! とうとう己は蔭の男の陥し穴にかかったかな。かかるまいかかるまいと警戒しながら、女にかけては眼がないものだから、ついうっかりと乗せられたかな。……
冗談じゃない、そんな馬鹿げたことがあるもんか! 女を使ったり、何の罪もない人を殺したりして迄己を陥れようとするなんて、そんな面倒なことをする奴が今時の世の中にあるもんか。みんな己の飛んでもない妄想なんだ。……水野はそれを全く根も葉もない恐怖、さもうそらしいことだと云う風に考えてもみたが、しかしそれなら何のために女が姿を隠したのか。強いて推理すれば、水野自身は自分に嫌疑のかかっていることを知らないけれども、世間では已にみんながそれを問題にしているのではないか。そしてあの女は、昨夜の手紙で水野の本名を知ってしまったので、係り合いになることを避けたのであろうか。或いは此処にも中沢のいたずらが働いていると取れなくもない。と云うのは、水野のノロケを聞かされたので、モナコか何処かであの女を掴まえて、内内ものにしたと云うような事はあり得る。だとすれば、何か中沢があの女に吹き込んだかも知れない。「今にあの男は人殺しの罪で挙げられるぞ、お前も早く逃げちまわないと、きっと証人に呼び出されるぜ」などとオドカシたかも知れない。――少くとも此の想像の方が前のよりもほんとうらしい。……
十
それから水野には手持ち無沙汰な日が続いた。民衆社からはあれきり何とも云って来ないし、宿の女中は変な顔をしているし、毎朝枕もとへ手を伸ばしても一通の郵便も来ていない。今迄の孤独は自分の方から交際を避けていたのであるが、今度のように世間の方から捨てられてみると、生活に落ち着きがなくて不安である。それも山の中にでも引っ込んでいるなら格別、大都会の真ん中の下宿屋の二階にいながらひとりぽっちにされているのは、身体が宙に浮いているような心地がする。せめて金でもあればいいのだが、散歩に出るにも電車賃に差し支えるので、一日部屋に寐転んでいるより仕方がない。たまに廊下に出てみると、宿の人間の凡べてが彼を避けるように、こそこそと前を擦り抜けて行く。気のせいかも知れぬが、どうもそうとしか思われぬ。彼の前ではしんと静まり返っていて、蔭ではしきりにこそこそ噂しているらしい。やがてその噂がだんだんに大きくなって、しまいに警察の耳へ這入って、刑事が訪ねて来るようになるのだろう。が、こうして放り出されているよりは、刑事でもいいから来てもらいたい。いっそ此方から警察へ出向いて、「僕は此れ此れの人間をモデルにこう云う小説を書いたんですが、一応取り調べる必要はありませんかね」と、訴えてみたらどんなもんだろう。……
又一方では、本牧の女のことも忘れられないで、次ぎの金曜日が来ると、駄目とは知っても電車賃を工面して、横浜まで出かけて行ったりした。告別式の日はあんなことになったけれど、しかし女は一と月分の前金を取っているのである。そう頭から捨てられたものと極めてしまうのも早計である。あの日は何か、急病でも起って来られなかったのかもしれない。などと云う想像も凡べて空頼みに終って、女は影も形も見せない。夕方、がっかりして帰って来た彼は、部屋の障子を開けると、覚えずはっと胸を躍らした。机の上に一枚の名刺が置いてある、――留守中に誰か訪問客があったのである。
「民衆社員、渡辺次郎」
と記してある。ハテ、渡辺なぞと云う社員は聞いたこともないが、なぜ中沢が来ないのかしらん?
彼は女中を呼んで尋ねた。
「此の名刺は? 此れは何だね。」
「はあ、お出かけになると間もなく、その方が御出でになりましたの。」
「何時頃?」
「一時頃でしたか知ら。」
「何も言伝てはなかったのか。」
「中沢さんが出ますんですが、忙しくって手が放せませんので、代理に参りましたって、――」
「帰ったら電話をかけろとも云わなかったかね。」
「はあ、あのう、晩にもう一ぺん、八時頃に伺いますって、――」
此れは原稿の事ではない、何か外の用事だな、――と直覚的にそう感じた。
八時になると渡辺と云う男は果たしてやって来た。矢張り見覚えのない顔で、中沢よりは一つか二つ歳上らしい三十五六の男である。代理にしてはこの男の方が風采が立派であるが、中沢に教わって来たものか障子のところで型の如くへいつくばって、八字髯の口もとに追従笑いを浮かべながら、
「や、始めまして……」
と、叮嚀にお辞儀をした。
「君が渡辺君と云う……」
「はあ、左様で、……中沢が出ますはずなんですが、此の頃はあのう、宣伝部の方の手伝いをいたしておりますんで、忙しいものでございますから、わたくしが代理に伺いましたような訳でございます。」
「そうだってねえ、先も来てくれたんだそうだが、生憎ちょっと出ていたんで、失敬しちゃった。」
「恐れ入ります。」
「ま、そこでは話が出来ないから此方へ来たまえ。――君は何かね、前から民衆社にいたのかね、ついぞ見かけなかったようだが、……」
「ああ、左様でございましょう。一と月ほど前に編輯の方へ這入りましたんで、――何分よろしくお願いいたします。」
少し話しているうちに、男は始終機敏な眼付きで部屋の中へ気を配るような様子であった。何処か編輯長の原田に似たところのある茫漠とした印象を与える太った体格が、実は相手を油断させる保護色なので、案外見かけよりは血の巡りの鋭い、神経質な奴らしい。水野が何か云うたびに、中沢式の「はっ、はっ」と云う受け答えをして、恐縮したように頭を下げながら、文壇の噂、出版界の景況、雑誌の売れ行きと云う風に、取り止めのない世間話をするばかりで、なかなか用向きを云い出さない。
「何と申しましても、此の頃のように一般の経済界が沈滞しておりましては、出版界も思わしいことはございませんな。不景気になると、雑誌などは却って売れると云いますけれど、そいつも程度問題でして、近頃はどの雑誌でも殆ど儲かっていると云うのはございません、まあ一杯一杯に行きましたらいい方なんで、……」
「『民衆』なぞはどんなもんかね。」
仕様ことなしに、そんな話の相手になっていた。
「え、お蔭様で『民衆』だけはどうにかこうにか儲かっているようでございます、諸先生方のいい原稿が頂けますもんですから。」
「何しろ『民衆』は原稿料がいいからね。……小説なぞは金のたかに依って手加減をする訳にも行かんが、矢っ張りそれだけ書く方でも身を入れるんだよ。」
「そう申しては何ですが、幾分そう云う傾きもございますかも知れませんな。先生のお書きになりますものなんぞ(と、此処でこの男は先生を使った。)孰れも結構でございますが、いつぞやのあの、『人を殺すまで』とか云う題の小説あれはわたくし、実に傑作中の傑作ではないかと存じます。……」
「はあ、はあ」
と、よい加減に聞いていた水野は、とうとう我慢がしきれなくなった。
「で、今日の用件と云うのは何かね?」
「はあ、あのう、実は何でございます、――此れは中沢が出まして申し上げなければならんのでございますが、御承知の通りああ云う行きがかりになりましたんで、ちょっとお伺いしにくいと申しておりますんで……ま、先生の方ではどう云う感じをお持ちになっていらっしゃるか……」
「いやア、僕の方では何とも思っている訳がないさ。中沢君とはつい此の間も或る所で会ったんだが、その時もお互いに気持ちよく話したくらいなんだからね。」
「しかし何か、お留守中に勝手にお部屋を荒したりしまして、お原稿を紛失させたとか云うので、ひどいお怒りを被っているとか云うことで……」
「なあに、あれは書く物がうまく書けないんで、気がムシャクシャしていたんで、腹立ち紛れについ云い懸かりを云ったんでね。文士と云うものは至って我が儘なもんだから、そんなところへ来合わせたのが災難なのさ。」
「そう仰っしゃって下されば当人も安心いたしますが、自分は原稿に手を着けた覚えなんぞないのに心外でならないんだが無断で御部屋へ這入りましたのが何と云っても落ちどだからって、ひどくショゲておりますんです。」
「でも此の間会った時なんぞ、そんな風でもなかったぜ。あの男はずうずうしいから、口で云うほどショゲてもいなかろう。……なんにしてもあの時の事は僕が悪いんだ。僕の方こそ民衆社に済まないと思っているんだから、原稿の方も、君の方で書けと云うならいつでも喜んで書く気なんだ。」
「へえ、実はその、原稿のことに就きまして……」
「はあ、原稿のことで?……」
「あれは、その、誠に申しにくいんですが……」
「はあ、はあ、どう云うこと?……遠慮なく云ってみてくれたまえ。もうあの先はいらんと云うのかね?」
「へえ、いえ、頂くことは是非頂きたいんですが、あれはあのう、大凡そあの先が何枚ぐらいで、大体の筋はどう云う風なものか、それを伺って参るように編輯長が申しますのです。」
「おかしいなあ、面倒なことを云うんだなあ。……ほんとうを云うと、あの小説は中途で怠けたもんだから、すっかり感興が失われてしまっているんで、僕もあんまり後を書きたくないんだよ。……」
「それは惜しいじゃございませんか、折角あれだけの立派なものが……」
「いや、それで、何もあの小説に限ったことはなかろうから、新たに別な物を書いて上げようと思うんだ、稿料の借りもあるんだしするから……」
「けれども中沢の話では、あれは先生が取って置きの材料で、すっかり腹案がお出来になっていらっしゃるんだそうじゃございませんか。それに打ち明けたことを申しますと、『人を殺すまで』が此の頃ぽつぽつ問題になっておりますようですから、矢張りその続篇を頂いた方がよろしいんです。」
「此の頃ぽつぽつ問題になっている? そんなことがあるのかね、あれはずいぶん前のものだぜ。」
「へえ、近頃又、文学的の価値は別としまして、それ以外の意味から問題になっておりますようですが、……」
水野ははっとして相手を見たが渡辺は平気でそう云っているだけであった。
「それ以外の意味って?」
「へえ、あのう、此の間の殺人事件以来大分世間が好奇心を以てあのお作品を読むようになっておりますんですが、……」
ははあ、そうか。それで民衆社長の奴、己にあいそをつかしながら急に続篇が欲しくなったんで、わざわざ社員を寄越したんだな。よしよし、それなら此方も足もとに附け込んでやれ、此の間の借金は当分据え置きのこと、そして新たに稿料の幾分を前払いすること、それがイヤなら御免蒙ること、とそう切り出してやるか。何にしても悪くない話だぞ。児島の殺されたことが己に斯う云う好運を授けようなんて、全く運は分らない、だから世間は一寸先は闇だと云うんだ。己だって何も、金にさえなるならあの続篇を書かないでもないんだ。……
「へえ、そうかい、其奴は僕は初耳だねえ、……」
「何か、あの小説の中のモデルは此の間殺されました児島と云う人なのだと云うことで、……事実そうなのでございましょうか?」
「いや、そう正面からきかれると困るがね、そいつは読者の判断に任せるより仕方がないな。」
「けれど、私は気が付きませんでしたが、現にあの中に児島と云う名が出ておるそうじゃございませんか。それに先生はあれをお書きになった当時、此の小説が発表されると、モデルの男がほんとうに殺されるかも知れないって、予言なすったと云うことですが……」
「はは、冗談に中沢君に話したことはあるんだが、とうとう其奴が事実になってしまったんで、甚だ寝覚めが悪いんだよ。だが世間ではそんなこと迄知っているのかい?」
「児島と云う人が気の毒なんだ、新聞や雑誌では書きませんけれど、蔭ではみんなが噂しておるんです。中には先生があの小説をお書きになって、全くあの中の主人公と同じ気持ちで、児島君を殺されたんじゃないかなんて、……」
「それ、それ、それだよ、それで僕も時には神経衰弱になるくらい心配したんだよ。ちょっと誰でも考えるこったからね。」
「へえ、まさか世間が真面目にそんなことを考えるんでもございますまいが、そうであったら面白いと云う訳なんですな。殊に先生は悪魔主義者であられるし、……」
「はは、或いは僕が殺さないのはうそかも知れんね。」
「しかし、いかがでございました、あの殺人事件が新聞に出ました時は? ちょっとびっくりなさいましたでしょうな。」
「それが妙なものでそうびっくりはしなかったね。とうとう予言が中たったかって云うような気がしたね。しかし此の頃になってから実はちょっと気味が悪いんだよ。」
「どう云う風に?」
「そんな工合いに面白半分の噂が拡まると、其奴が警察の耳へ這入る。今に刑事でもやって来やしないかと思って、……」
「ですが、刑事が調べに来るくらい迄は、却って面白うございますな。まだやって来ませんかしらん?」
「冗談じゃないよ、世間は面白がるかも知れんが、当人は飛んだ迷惑だよ。」
「そのくらいな迷惑はよろしいじゃございませんか。そうなると続篇が一層売れますんですがなあ。」
「成るほど、僕が未決へでも入れられると、民衆社のためには宣伝になるなあ。」
「作家としてもいい経験になるじゃございませんか。いかがです、一つ、お這入りになっては?」
「原稿料は奮発するかね?」
「よろしゅうございます、きっと出させます。宣伝費として出しましてもいい訳です。」
「あはははは、それじゃいっそのこと、此方から警察へ頼みに行くか。或いは僕が殺したのかも知れませんから、兎に角未決へ放り込んで下さいましッて。」
「いえ、冗談でなく、先生が御自分で駈け込まれるのは変ですから誰かに頼んで訴えさせるようにするんですな。そうしたら間違いなくやって来ますよ。未決迄はどうか知れませんが、一と晩か二た晩留置場の御厄介になるだけでも利き目がございますよ。」
「大きにそれが、一と晩か二た晩で済めばいいけれど、ますます嫌疑が深くなって、犯人に違いないと云うことになってしまうと大変だな。何しろ僕は平生が平生だから、裁判官の心証は甚だ悪いに違いないよ。」
「そうして先生が犯人だとなりますと、智的の犯罪で、刑はどうしても重くされますから、死刑は間違いのないところですな。」
「そうなったら原稿料をいくら貰っても合わないじゃないか。」
「へへ、けれど民衆社は万歳でございますな、作者が身命を賭した作品だと云うので、非常な評判になりますでしょうから。」
「そう君のようにジャーナリストの神経を働かされちゃ、作者の方は助からんよ。――いや、冗談もいい加減にしよう、こんなことを云って云い中《あ》てることがあるからな児島君の例もあるし……」
「しかし、ほんとうに、いかがでございましょう、或る程度迄は、先生が犯人かも知れないと云うことを世間に信じさせますことは?……実は何です、その件も是非御相談をして、お願いして見るようにと云う社長の命令なんでございますが……」
「いったい真面目な話なのかい? 何だか、あんまり馬鹿げているが……」
「社としましては雑誌さえ売れましたらいいのですから、大真面目なんでございます。……それに、その、先生の立ち場から考えましても、そう云う嫌疑をお受けになることが決して名誉を傷つけることになるまいと存じますのですが……仮りに私が裁判官といたしましても、もし先生のお作品なり傾向なりをよく研究しておりましたら、論理的に先生を犯人であると考えますのが自然であろうと思いますのです。ま、そんなことは兎に角、少くとも警察へだけは引っ張って行かれても差し支えないと云う覚悟をなすって頂きとうございますな。……」
「で、その噂を拡めるには、民衆社員が八方へ云い触らすと云う訳かね。」
「云い触らすだけではございません、或いは警察へ引き渡す迄のお手伝いをいたしましてもよろしいので、……」
「ははあ、君はそうすると……」
「へえ、もうお分りでございましょうが……」
「刑事なんだね。」
水野がそう云った時に、渡辺はッポケットから名刺を出していた。
「お察しの通り、私はこう云う者なんです。つきましては甚だ恐縮なんですが、兎も角も一応取り調べをさせて頂きたいんで……」
「ええ、よござんすとも。どうぞ御遠慮なく……」
「決して先生をお疑いすると云う訳ではございませんので、警察の方としましても随分迷惑なんですが、何分世間の噂がやかましいものでして、捨てて置くと云うことも出来かねますもんですから……」
「ええ、ええ、それはそうでしょうとも。一向そんな御斟酌には……」
水野は少し声が甲高くはなったけれども、わりあいに落ち着いた調子で云えた。――
「さあ、ではまあ、お茶でも入れますからゆっくりと一つお取り調べを願いましょう。」
「いえ、此処ではちょっと何なので、……御同行を願いたいんですが……」
どきっとすると同時に一層甲高く、
「はあ、そう、」
と、さわやかにさえ聞える程にはっきりと云った。
「――此れから直ぐに行くんですか?」
「へえ、夜中を恐れ入りますが、……」
「なあに、創作家と云うものはみんな宵っ張りの朝寝坊でね、夜なら何時でも平気なんです。しかしあしたの朝迄には帰してもらいたいもんだがな。」
「え、それはもう、あなたがたをそう理由なく御引き留めするようなことはないはずです。いろいろお仕事がおありでしょうし、飛んだお妨げをいたしまして相済みません。」
「仕事なんぞは構やしないが……しかし滑稽だな、あなたは最初民衆社員だと云って来られたが、こうなると矢っ張り、民衆社の提灯持ちをするような結果になっちゃったな。」
「あははは、何しろ嫌疑だけにしましても前例のないことなので、新聞は騒ぐでございましょう。が、まあ、先程も申し上げました通り、何も御経験になりますから、一度はよろしゅうございますよ。」
刑事がそう云っている間に、「では」と云って身軽に立ち上がって身仕度をした。机の引き出しから二円ばかり這入っている蟇口を取って懐に入れて、二重廻しを着た。
「お待ち遠でした。さあ御一緒に。」
先に立って梯子段を降り、いつも散歩に出る時と同じような態度で女中たちを見廻した積りだったが、へんにキマリの悪いような、負惜しみのような苦笑いの出るのを抑える訳には行かなかった。
「あー、タクシーを呼んでくれたかね。」
刑事は玄関で帳場へ怒鳴った。
「参っております。」
と、障子を開けて顔を出したおやじは、忌まわしいものを見るように水野を見た。
「大分寒くなりましたな、今夜などはめっきり冷えます。」
車が走り出すと、刑事は煙草に火をつけた。
「煖房の設備は行き届いているんでしょうか。起きているのは構わないが、寒いのは困るな。」
「え、お寒くないように、十分注意させましょう。」
「拷問に掛けて無理に白状させると云う話があるが、そんな事をされやしないでしょうな。」
「昔はそんな野蛮な風習もございましたが、此の頃はとんとございません、まして先生方に対して、……」
「大丈夫でしょうな、ほんとうに? 僕は体が弱い上に非常に臆病と来ているんで、拷問に掛けられたら一時逃れに何を云い出すか、自分でも信用が出来ないんだ。」
「はっ、はっ、は、」
「いや、ほんとうに、笑い事じゃないんですよ。」
「さあ、――さあ参りました。私が御案内いたします。」
刑事は一と足先に立って、廊下を二つ三つ曲った先のドーアに手を掛けながら、
「どうぞ此方へ」
と、叮嚀にお辞儀をしたが、その叮嚀さに、やや嘲弄の気色が見えた。同時に後ろに靴の音が聞えて、
「やあ、水野さんですか、」
とさも心安そうな調子で云いながら、もう一人紺の脊広の男が彼をその部屋へ押し込むようにして這入って来た。色の青白いキメの荒い、トゲトゲしく痩せた男で、彼は勿論こんな人物から「やあ、水野さん」などと云われる覚えなぞはないのである。
「夜分遅く御足労をかけまして、飛んだ御迷惑で……」
が、水野はなぜか先のようにすらすらと応酬することが出来ない。それは一つは此の男の変に不愉快な人相のせいかもしれないが、一つは部屋の中の狭い薄暗い、陰惨な壁の色のせいでもあったろう。渡辺の方が下役と見えて、その間に椅子を運んで来ると、上役の方は先ず横柄に自分が腰掛けて、
「まあ、お掛け」
と、水野にすすめた。
「それで早速なんですが、今夜突然御足労を願ったのは、いつぞや御発表になった『人を殺すまで』と云う小説、――あれに関して少少お尋ねいたしたい事があるのです。詰まり問題の要点は、あの小説の主人公、――あの人を殺す男の人生観と、作者自身の人生観との間にいかなる関係があられるか。……」
「此れは私どもしろうとの考えなんですが、……」
と、下役の渡辺が水野を力づけるように云った。
「……小説の主人公と作者とは、矢張り或る程度迄は似ているものではないのでしょうかな。……そうでなければああ迄詳しく心理を描写することは容易に出来ないと思うんですが……」
「ええ、それは、作品にもよりますが、大体創作家には二た通りのタイプがあるんです。詰まり自分と云うものを全く隠して書く人と自分を書くことに興味を持つ――自分以外の人間も書かないことはないけれども、結局は何を書いても自分の説明になってしまう人と、……一と口に云えば客観的傾向の作家と、主観的傾向の作家とですな。」
「そして水野さんは、――あなたは孰方《どちら》のタイプなんです?」
「僕は主観的の方であると、自分では信じます。」
「すると、小説『人を殺すまで』は、あなた御自身の心境を物語っているものだと云うことになりはしませんかな。」
「勿論そうです。僕は此の場合、そうでないと云った方が都合がいいことは分っていますが、そう云っては僕の芸術上の立ち場がゼロになりますから……」
その時水野は後ろの方で鉛筆がスルスルと紙の上を走る音を聞いた。振り返ってはみなかったけれども、疑いもなく誰かが彼のしゃべるのを記録に取っているのである。
「よろしい。ところであの主人公は彼の人生観をいろいろな場所でいろいろに云い現わしていますな。たとえば『此の世の中は一から十まで出鱈目である。』『己は生れつき自分以外のいかなる人間に対しても心からの愛を感じたことがない。』『良心の苛責とは一種の神経衰弱のようなものである。』等等の言葉、――此れらはあなた御自身の感想であると認めて差し支えはないのでしょうな。」
「仰っしゃる通りです。」
「なお又、作者が主人公の性格や境遇を説明して、『彼は極端なニヒリストである。』『彼はそう云う人間であるからして、従って親しい友達もなく、孤独に、陰険に暮していた』と云っているのは、矢張り作者が作者自身を説明しているものと取ってもよいのでしょうな。」
「それも仰っしゃる通りです。しかし一言お断りして置きたいのは、世の中にはそう云う性格や人生観を抱いている人間は僕ばかりではあるまいと思う。ただ公衆に向って『自分はかくの如き人間である』と正直に告白するものがないのは、そう云う人間は社会の常識は云わゆる悪人の中へ入れられ、人類の共存共栄のためには許すべからざる存在であるとされますから、うっかりそんな告白をするとどんな迫害に遭うかも知れない、それが恐ろしいからなのです。僕は社会が悪人であると云うならばそれでも差し支えありません。けれども僕はうそは云わない。実生活の場合、個人同志の応対の際には盛んにうそをつくけれども、筆を執って創作に従えば、どんなに自分に都合の悪いことがあっても、勇敢に赤裸裸に自分を丸出しにして見せます。僕はその点に於いて世の云わゆる善人よりも正直であって、信用の出来る人間である積りです。そうしてそこに芸術家としての誇りを持っているのです。」
「けれどもですな、――そう仰っしゃられるとわれわれの方は一種の眼つぶしを喰ったようで却って判別に迷うのですよ。あなたは正直だと云われるが、それは芸術の上でのことで、実生活の場合、対人関係になって来ると盛んにうそをつくとも云われる。詰まり都合の悪いことは悉く芸術に託してしまって、実生活では猫を被っておられると云うことになる。ところでわれわれには芸術のことは分らんのだし、又われわれの知りたいのはあなたの芸術ではなくて実生活の方面なんだから、現にこうしてあなたを取り調べる際に、何処までが芸術家としての正直なあなたで、何処からが社会人としてのうそつきのあなたであるか、そこの区別が付きかねるんですよ。そこであの小説の中の今引用した言葉の後に、『――彼は自分の芸術的才能が衰えるに従って、遂にその思想を生活の上にまで実行しようと思うようになった』とか、『創作の感興が湧かないようになってしまっては、そんなことでもしなかったら余りに淋しく、余りに手持ち無沙汰である』とか云ってあるのはどうなんです。実際にあなたは、芸術的の才能が衰えたと自覚しておられるんですか。」
「ああ、そこだけが実際の僕と小説の主人公との違いなんですよ。僕はまだ創作の感興が衰えたとは思っていませんし、現に創作をなしつつある小説『人を殺すまで』は、僕の才能が衰えていない何よりの証拠です。僕がもしほんとうに小説の主人公の如く才能が衰えたなら、或いは思想を実行にうつす慾望を感じるかも知れませんが、幸か不幸か、まだそこ迄には至っていないのです。」
「そこが重要な点なんですがね、正直のところ、われわれにはあの小説が果たしてあなたの才能を証拠立てるに足るほどの作品であるかそれとも既に感興の衰えを示しているものであるかの区別が付かない。御承知でもありましょうが、あれは文壇での評判はよろしくなかった、失敗の作だと云う者が多かった……」
「問題は世評のよしあしではないんですよ。世評はどうでも、作者自身が自己の才能を見限ってしまったか否かにあるんですよ。」
「ええ、ええ、詰まりあなたの心の中での問題だと云うことになるんですな。そして先も云った通り、われわれには正直なあなたとうそつきのあなたとの区別の付けようがないんですから、あなたの心の真相を掴むことが出来ない。あなたとしても自分の言葉をわれわれに信じさせる道がない。……いかがです? そう云うことになりはしませんか。あなたは良心を痲痺させるためには、人を欺したり、陥れたり、少しずつ悪事を重ねて行って、神経を馴れさせるようにすればいいとも云っておられる。そう云う人の言葉をわれわれが信じないのは当り前だと云うことをお認めにならんでしょうか。」
「それは原則としては認めてもよろしい、……」
「原則として認められる。――で今の場合は?」
「今の場合は僕の云うことを信じて頂きたいんです。僕は自分の才能に対しては、矢張り芸術家としての自信と正直とを以って話しているんです。」
「けれどもそれがうそでないと誰が云えますか。」
「ほんとうでないとも云えない訳じゃないですか。」
「ですから此れは何処まで行っても水掛け論で、要するにあなたに向ってこう云うことを質問するわれわれが馬鹿だと云うことになる。そこで一つ、別な方面から考えてみましょう。仮りにあなたがあの主人公と完全に同じであって、思想を実行にまで持ち来たしたとする、即ちあなたがあの児玉とも児島とも書いてある男を殺したとする。あなたは随分巧妙に犯跡を隠されたけれども、たまたま前にああ云う小説を発表していられるので疑いを招き、われわれの前へ呼び出されて取り調べを受けたとする。その場合にわれわれが今と同じような質問をしたら、われわれのあなたから得られる答えは、矢張り今のとそっくり同じではないでしょうか。」
「それは同じになるかも知れませんな。」
「すると、もう一遍云い直してみると、仮りにあなたが人を殺しておられても、あなたは今のように答えられる。――あなたが犯人である場合と、然らざる場合と、われわれから見える外形に於いては何の違いもない。――そう云うことですな。」
「それはそう云うことになるかも知れません。しかしあなたの仮定には一つの無理があるように思われます。もしほんとうに僕が思想を実行に持ち来たす意志があったとしたなら、人の疑いを招くようなああ云う小説を書く訳がない、……」
「それは逆にも考えられますよ。人を殺した人間がまさか自分でああ云う物を書く訳がない、――そう思わせるために殊更あれを書いたかも知れない。それほど皮肉に取らないでも、あなたはあれを書かれた当時は意志はなかった、しかしあれを書いたと云うことが却ってあなたを刺戟して、つい実行に出たかも知れない。――そう云う想像は出来ないでしょうか。あなた御自身の豊富なる想像力に訴えて頂きたいんですが、……」
「いや、それだけの想像力がお有りになれば、あなたも小説家になれますよ。」
「それから次ぎに、あの小説にはもう一人モデルがあるように世間では云っております。主人公はあなたであって、殺される方の児玉乃至は児島と書かれている男は、先日殺害された児島仲次郎であると云うこと。――此れもお認めになるでしょうな。いや、勿論お認めになるに違いない。あなたは『児玉』と書くべきところをうっかり『児島』と書いてしまわれた。それに就いて民衆社へ電話をかけられた。民衆社員中沢なる者があなたを訪ねて行った時、あなたはまだ気にしておられた。等等の事実は、少くともあなたがモデルと実在の人物との類似を意識しておられることを説明しているんですから。」
「書いてしまってからは気になりました。しかし書いている当時は無意識……」
「それはあなたの心の中での事件ですから、問うだけ野暮として置きましょう。それを信じると信じないとはわれわれの自由です。――そこでこう云うことになります。一方に於いて『人を殺すまで』と云う小説があり、一方に於いてそれと全く並行するところの、少くとも外形に於いては、時、所、人物、凡べて完全に並行するところの、――『人が殺された』と云う現実がある。あなたはその小説の作者であり、小説の世界の主人公と、現実の世界のあなたとは並行しておる。繰り返して云いますが、外形に於いてはあなたもそれを否認する道がない。殊に重要なのは、小説の中の犯罪と同じ月、同じ日、同じ時間に現実の犯罪が行われている。あなたは十一月の十五日の晩、散歩から帰って来られて、帳場から暦を借りられた。そうしてそれが十六日の晩まで机の上に拡げてあった。中沢があなたの不在中にあなたの部屋へ行った時、十一月二十五日のところが開けたままになっているのを見た。そこであなたが外形に於いても小説と並行していないことを証拠立てるには、問題の日、即ち十一月二十五日に於けるあなたの動静を明かにするより外にないのです。われわれの調べた限りに於いては、それが分っていないのですが、……」
「あなたは火曜日の晩以来、下宿へ帰って来られなかったそうですな。」
と、渡辺が後を引き取って云った。
「ああ、それです、それに就いては非常に困っているんです。僕はあなた方の質問が結局そこへ落ちて来ることを予想していたんですが、何故僕が火曜日の晩以来いなくなったかと云うことを説明するには、一人の女を出して来なければならないんです。そうして問題の二十五日の夜に於ける僕の動静を知ってるのは、ただその女一人しかない。ところが僕は、その女の名も知らなければ、素性も知らない、住所も知らない。だからあなた方に在りもしない女を捏造したと云われても、――まるでお伽噺のようだと云われても、不幸にして弁解の辞がないんです。尤も僕が火曜日の午後一時頃、一人の洋装をしたタイピスト風の女を連れて桜木町駅の食堂へ這入ったことは、恐らくあの食堂のボーイが証明してくれるでしょう。その女こそは、十六日の晩銀座のロンドンバアで出遇って以来、僕と或る種の契約を結んだところの、主に外人を客に取っている職業婦人なんですが、そうして二十五日の晩に泊ったのはその女の家なんですが、ではその家はどこかと云われても、僕にはそれを確かに此処だと指し示すことが出来ない。僕はその女を月極めにして、毎週火曜と金曜とに遇うはずでしたが、二十五日の次ぎの火曜日以来、女は不思議にも姿を見《み》せません。纔《わず》かに望みを属しているのは、あなた方から横浜の警察へ照会して、そう云う種類の女を探して頂いたら、或いはうまくその女を捕えることが出来るかも知れないと云う一事です。けれども多分あの女は掴まらない。非常に用心深くって凡べてに秘密を守っているので、恐らく警察の眼には触れない。仮りに掴まえたとしても女はこう云う面倒な事件に係り合うのを避けるために、証拠のない限りは否定するでしょう。そうしたならば、一緒に駅の食堂へ上がったことと、鎌倉のホテルへ行ったことと、ロンドンバアの一つテエブルに腰掛けたことと、有楽町駅のプラットフォームのベンチに泥酔しているその女を介抱していたこととを、それぞれの証人によって明かにすることが出来るだけです。そうしてそれは孰れも二十五日よりは以前のことです。僕は二十三日以後、二十五日の朝迄は丸の内ホテルにいました。此れはホテルでお調べになれば分ることです。しかも肝心の二十五日の午後四時からは、全く女と二人きりでいた。仮りに本牧に泊った家を突き止めたとしても、その家の者は女以外に誰一人として僕の顔を見てはいません。二人をそこへ運んで行った自動車さえも、女が特に呼び寄せたもので、僕はその車の種類も番号も何も知らない。――一言にして云えば、僕は運命のいたずらで、最も嫌疑を蒙むるべき事件の起った瞬間に、全く世間から姿を消すような地位にハマリ込んでいた。僕はその時その女からお伽噺の隠れ蓑を着せられていた。強いて臆測すれば、誰かが僕を陥れようとして、その女を道具に使って、……」
「はは、それはあなたの続篇に出る蔭の男の話ですな。あれは民衆社の校正刷りで拝見しましたが、小説の方なら孰れゆっくり本になってから拝見しましょう。」
「あ、そう、そう、水野さんはたいそう痛い目を恐れておられるんですがね。」
と、渡辺が上役の方へ妙な眼配せをしながら云った。
「ひどく臆病なたちなんで、痛い目に遇うと直きに白状してしまうッて、自分で云っておられるんですが、――どんなもんでしょう? 試しにちょっと……」
「そ、そ、そんな――…………、そんな卑怯な事ってないじゃないですか。」
水野は急に泣き声を出したが、上役はそれを打ち消すように大きく笑った。
「はっ、はっ、はっ、いや、……ただあなたには良心の苛責がないそうだから、少しばかり外《ほか》から苛責を手伝ってみるだけですよ。」
「ああ」
と云って水野はデスクに突っ俯したが、直ぐに誰かが後ろからその右の手を掴んだ。
「少し痛くなりますよ。」
そう云う声が聞えると同時に、彼は指と指との間へ鉛筆のようなものが挿し込まれるのを感じた。
――了――
本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。(編集部)
この作品は昭和四年四月新潮文庫版として刊行された。
表記は新字新かな遣いに改めた。
Shincho Online Books for T-Time
潤一郎犯罪小説集
発行 2001年7月6日
著者 谷崎 潤一郎
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861094-6 C0893
(C)Emiko Kanze 1929, Corded in Japan