神の系譜 竜の源 高句麗
西風隆介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)西風《ならい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)水野|弥生《やよい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)竜[#「竜」に傍点]
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〈帯〉
長らくお待たせしました!
ついにあの興奮が戻ってきた。
この世の根源に挑む知的フィクションの白眉。
シリーズ最高傑作登場!
遠隔透視の謎を解く
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〈カバー〉
川越の西隣、埼玉県日高市で幼稚園児二人が誘拐された。
ともに五歳の男の子で、ひとりは神社の境内で発見された。
発見された少年の首にもう一人の幼稚園児のカバンがかけられていて、身代金要求の手紙が。
生駒刑事からの願いは御神にその子の居場所を特定してほしいというものだったが…
文学部・心理学科・認知神経心理学研究室の分室『情報科』の室長を務める火鳥竜介はウェブサイトで超常現象、オカルト、神話伝承などを扱うフォーラムを複数主宰していて、そこに書き込みがあった。保育園の保母からで、ひとりの園児が高句麗のお姫様が竜の背中にのってお山に飛んでいくといいだしたという。お姫様が竜を踏んづけてなどという話になったが、何か悪いことがおこっていて、この園児の言葉は吉か凶かというような質問だった。高句麗の姫というのは、日本神話に登場する菊理媛と関係があると一部で強く言われていて、黄泉比良坂のシーンに登場するから暗黒世界の女神なのだが正体不明なのだ…。歴史部の面々も総登場の新たなる大きな謎は!!
西風隆介《ならいりゅうすけ》
◎長年住み慣れた下北沢から離れなけれはならなくなった。というのも大家の都合でマンションが建て替えするという事情。
その慌しさの中で、シリーズ最高傑作となりそうな予感!
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書下ろし長篇超伝承ミステリー
神の系譜 竜の源 高句麗
[#地から1字上げ]西風《ならい》隆介
[#地から1字上げ]徳間書店
[#地から1字上げ]TOKUMA NOVELS
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目 次
第一章 七不思議
第二章 台詞
第三章 前夜祭
第四章 捻れ
第五章 羊
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『源威集』抜粋。
永承六辛卯、朝敵奥州安倍頼時、同子共貞任・宗任等誅伐ノ為ニ、相模守兼武蔵守源頼義清和六代転任陸奥ニ、長子義家八幡太郎後陸奥守、次男義綱賀茂次郎後美濃守、義光新羅三郎幼少ノ間在京、永承六年三月、源頼義戦将ノ勅ヲ蒙テ幾程ヲ経ス、東八カ国ノ輩相従出京、武蔵国ニ逗留ノ間、符中六所宮、本南向ヲ俄ニ北向立改ム、奥州合戦ノ間擁護為メ也。
『日本書紀』抜粋。
天智天皇五年、冬十月、甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄鄒等進調、大使臣乙相奄鄒、副使達相遁、二位玄武若光等。
『續日本紀』抜粋。
靈龜二年五月辛卯、以駿河、甲斐、相摸、上総、下総、常陸、下野七國高麗人千七百九十九人、遷于武藏國、始置高麗郡焉。
以下の文章は『在日本大韓民國民団湘南中部支部』のホームページ『韓日古代史への旅』(二〇〇五年四月十七日更新)より、中略などはせずに転載した。
☆神社・神宮の起源はどこから来たか
韓国の古史、三国史記によると紀元六年春正月に新羅二代目の南解王《ナムヘオウ》によって祖神廟が祭られたとある。三国史記1.P10
その後新羅二十一代|※[#「火+召」、第3水準1-87-38]知王《しょうちおう》のとき西暦四八七春二月、神宮を奈乙《なおつ》〔慶州市塔里=始祖赫居世生誕地〕においた。とある。
―三国史記1.P82より 金富軾著 井上秀雄・鄭早苗訳 東洋文庫 平凡社―
いまある神宮の元は祖神廟であることがこれによりうかがえるわけであるが、そうすると来年二〇〇六年は神社・神宮創建二千年[#「六年は神社・神宮創建二千年」は太字]という節目の年ということになるわけである。〈太字は赤字〉
本来であれば、節目の年を控えて大々的な記念行事が発表がされても良いようにも思われるがいまのところそうした動きはなく、これからも起きそうな気配は全くない。日本古来の伝統文化を自称している手前まあ、無理もないと思うが。
さて、その世界初の神宮に祭られた新羅初代国王、赫居世《ヒョク・コセ》であるが実はヒョクは名前でコセは日本では「様」にあたる尊称だといわれています。それが日本では神社の社が「コソ」となりコセ→コソ(神社)と次第に転訛し神社→社《やしろ》とも読まれています。つまり、神社とは神様と呼んでいることになるわけです。
伊勢には小社《オコソ》神社社をコソと呼ぶ名前に村社大社《ムラコソオオコソ》がある。新羅に由来する呼び名が神社にも及んでいることを証明しています。
―三重県津市史― ―江戸学者 判信友―
その新羅では仏教が入ってくると神宮なる形は消滅していきます。韓国では、新興勢力の台頭と共にそれまでの体制を否定してしまいます。仏教文化もやがて儒教に取って変わります。それが日本においては各地に拡散、やがては精神的支柱としたモリ(韓国語で頭)となり鎮守の森(杜)ともなり、営々と今日に受け継がれて来ました。
神輿をかつぐ時のかけ声「ワッショイ」は韓国語のワッソの転訛とは今では一般的に知られるところです。受容した文化を文物ともに受け継いでいくのは日本の特徴といえるでしょう。
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第一章 七不思議
「これはね、こーくりのおひめしゃまよ」
お絵かきの時間に、この絵はなあに? と保母にたずねられた少女が、ませた表情をしながらも、ったない口調でいった。
「あら、きれいな高句麗《こうくり》のお姫さまよね。まっ白のお服を着ているのね」
白の画用紙に白のクレヨンで描《えが》かれていて、赤でくしゃくしゃっと顔らしきものがあり、そして青くて長々とした雲のようなものに乗っている。
「お姫さまは、お空を飛んでいるのかしら?」
「しょーよ。りゆのせなかにのしぇてもらって、しょらをとんでるのよ」
「……りゆ? そうそう、あの竜[#「竜」に傍点]ね」
テレビの昔話などによくある構図だったのを保母は思い出した。
「このおやま、しぇんせえしってる? しょーでんさまのおやまよ」
少女は、画用紙の左上にこんもりと茶色で描いたそれを指さしながら、勝ち気にいった。
「あっ、それは聖天《しょうでん》さまのお山だったのね……すこしぐらいなら、わたしも知ってるわよ」
聖天は、しょうて[#「て」に傍点]ん、と濁らない場合もあるが、この地域では濁っていうようである。
「こーくりのおひめしゃまがりゆにのって、しょーでんさまのおやまにとんでいくのよ」
少女は晴れやかな顔で嬉《うれ》しそうにいった。
ところが、横にいた男子が、彼女のお絵かき帳をのぞき込むなり、
「こま[#「こま」に傍点]のひめが、りゆをふんでるー!」
いきなり大声で叫びだした。
すると、他の園児たちまでもが口々に、
「ふんでるー!……」
「ふんじぇるー!……」
「ふんだー! ふんだー!……」
「ふんでるふんでるー!……」
「ふんだ! ふんだ! ふんだ! ふんだ!……」
なにが面白いのか、いっせいに叫びはじめた。フローリングの床を手でばんばんと叩きながら。
少女は、胸にお絵かき帳をかかえもって今にも泣き出さんばかりに背中を丸めた。が、ふっと顔をあげると、まったくの笑顔で、
「ふんでる! ふんでるー!……」
少女もいっしょになって騒ぎはじめた。
けれど、いつもとは喧噪《けんそう》の度合いがちがっていた。
教室は、ことさらにがらーんとしていて、それでなくても辺鄙《へんぴ》な場所にある少人数の幼稚園なのだが、今日は半分ほどの園児しか来ていないからだ。
昨日の今日である。あのような出来事があった翌日だから、しかたないのかもしれない。それに、窓の外に目をやると、鼠色《ねずみいろ》をした車がこれ見よがしに門の前に停《と》まっていて、黒っぽいスーツ姿の男たち三人にとり囲まれるようにして夫は話している。
わたしたちが何をしたっていうのよ!
彼女は怒りがこみあげてきていた。どこに、誰にぶつけようもない怒りであったが。
園児たちの喧噪が、ぴたりと止《や》んだ。
保母が、険しい表情をしたからにちがいなかった。
「……ごめんなさいね」
笑顔を繕《つくろ》っていいながら、
「さあ、つぎは良太《りょうた》くんの番ね、どんな絵をかいたのかしら……」
だが、さっきの少女が、引きつけを起こしたように泣きはじめた。そして他の園児たちも、わんわん、わんわんと泣き出した。
「――だいじょうぶよ! だいじょぶですよ! ふたりのお友達は、すぐ帰ってきますからね」
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「さあて、どないしよう」
土門巌《どもんいわお》は緊張感のない関西弁でいう。
「二学期も終わったことやし、ぼちぼち、自分らも本格的に動き出さなあかんでえ」
いってから、炬燵《こたつ》布団につっこんでいる手をすりすりして、長い上半身をゆらゆら揺する。
「ぼちぼち……てお墓? それとも犬の名前?」
麻生《あそう》まな美《み》が小声でつぶやいた。彼女も子猫のように背中を丸めていて寒そうだ。
「なにいうてんねん。春の文化祭のことや。そろそろお題[#「お題」に傍点]を決めへんと間《ま》にあわへんぞう。それに今度の文化祭こそは新入部員を獲得せえへんと、ついについに、我が栄光と伝統ある歴史部の灯《ひ》がぁ〜」
と土門くんはしばらく唸《うな》ってから、
「そうやそうや、水野《みずの》さんのことを忘れとった。歴史部の灯は水野さんが守りつづけてくれはる」
左どなりで、背筋をしゃんと伸ばして品よく座っている水野|弥生《やよい》を見やった。
「いいえ、わたしひとりだけになってしまったら、歴史部をやめます」
弥生は、ゆったりした口調で、きっぱりという。
「そんな冷たいこといわんかっても……いざとなったら、天目《あまのめ》が落第してくれるから」
ご指名にあずかった天目マサトだが、くったくのない笑顔で首を左右にふった。
「なに馬鹿なこといってるの! 土門くんこそ落第すればいいじゃない。部長なんだから責任とって」
「責任とるんやったら姫のほうや。姫があんまりにも難しい話ばっかりするもんやから、何十人もおった歴史部員がつぎつぎとやめていって、あげくのはてには顧問の先生までもがぁ〜」
と土門くんは、半分でたらめ半分ほんとうのことをいう。
四人が足をうずめている電気炬燵は、古風な書院座敷《しょいんざしき》にふさわしい木目調のそれだが、いかんせん長方形で、その遠い辺に土門くんとまな美は座っている。まな美が反撃の言葉をさがしていると、弥生が、はーいと手をあげていう。
「土門先輩に味方するわけではありませんが」
そう前置きをしてから、
「春の文化祭のテーマは、簡単なほうがいいと思いますよ。難しいと、新入生には何が何だかさっぱりわからないですから……」
「水野さんええこという。あっ、面白《おもろ》そうやな、と誰もが即座にとびつくような簡単なお題[#「お題」に傍点]がええ」
「そういうのって、逆に難しいわよ」
まな美は口をとがらせぎみにいい、
「だったら土門くん、何かいいのある?」
「えー……たとえばやなあ、自分らのM高校があるんは埼玉県やろう、そやから埼玉に関係しとう話で、とっつきやすそうなのといえば……」
土門くんは、ぶつくさと考え事を口に出していってから、
「姫、こんなんはどないやろか。埼玉県にある五重塔を紹介して、その秘密をさぐる」
「――ん!」
まな美はきつく睨《にら》んでから、
「そんなものがあるわけないでしょう」
「な、ないんか?」
「五重塔は、全国で二十いくつしかないのね。埼玉県にはひとつもないの!」
「まあなんてかわいそうな埼玉ぁ……」
土門くんは心底哀れっぽくいってから、
「そやけど、その二十いくつってなんや? 姫にしてはあやふや[#「あやふや」に傍点]な」
「じゃあたとえば、土門くん、浅草寺《せんそうじ》にはお参りしたことある?」
「何回も行ったことあるで。店と家の途中にあるから、ついふらふら〜と」
土門家は骨董店《こっとうてん》を営んでおり銀座線の上野広小路《うえのひろこうじ》に店がある。家は東武鉄道の岩槻《いわつき》だから、浅草《あさくさ》は乗換駅になるのである。
「だったら、雷《かみなり》門から入って仲見世《なかみせ》をまっすぐに抜けると、仁王《におう》門があって、その左手がわに五重塔が建っていたでしょう?」
「おう、あったあった。けっこう立派なやつが」
「すると、あの五重塔は、数に入れていい?」
「え? あかんのか?」
「あれは三十年ほど前に再建されたコンクリート造りなの。瓦《かわら》は、なんとアルミ合金製よ」
まな美はすこし嬉しそうにいい、
「たしか、家光《いえみつ》さんの建てた五重塔が、ずーっと残っていたんだけど、関東大震災にも耐えてね。けど空襲で焼けてしまったのよ」
「うーん残念な経緯《いきさつ》はわかったけど、それは数には入れられへんやろ。鉄筋こんくりーとやし」
「だったら、こちらはどう? 弘法大師《こうぼうだいし》ゆかりの四国のお寺だけど、明治時代に五重塔を再建したのね。もちろん純粋な木造よ」
「うわあ、それこそ微妙やなあ」
「こういう微妙なのがけっこうあるから、数は確定させずに、あやふやにいうの――」
「なるほど、そういう裏があったんやなあ」
土門くんはゆらゆらと身体《からだ》を揺すりながらいい、左右にいる弥生とマサトも、うなずいた。
「埼玉県に五重塔がないのはわかった。そやったら格《らんく》をひとつ下げて、四重塔はどないや?」
土門くんは、こりずにいう。
「あるわけないでしょう! こういうのは奇数と決まってるの!」
「そ、そないに怒らんかったって、ええやんか」
土門くんが可愛《かわい》げに謝っていると、まな美は、ぺろりと舌を出してから、
「とはいっても、四重塔は実際、ないこともないのね」
「え! なんやて?」
「場所は埼玉じゃないんだけど、八角・三重塔というのが、それね」
「うん? それけっきょく三重塔ちがうん?」
「わたしも実物は知らないわ。けど、写真で見るかぎりでは、どう見たって[#「どう見たって」に傍点]四重塔なのよ」
まな美は、ことのほか力説していった。
「みょうな話やなあ。ほな、ちょっくら調べてみよか……」
いうと土門くんは、炬燵布団から手をひき抜いて、自身の前においてあった紅柄色《べんがらいろ》をしたノートパソコンの蓋《ふた》をあけた。ポロローンと軽やかに音楽《メロディ》が鳴って、休止《スリープ》モードだったらしく十秒ほどで使用可能になる。それはひと月ほど前に部費で購入した歴史部専用のパソコンだ。持ち運ぶんはどうせ自分やろ! そう土門くんがごねた関係もあって、十一型ワイド液晶の軽くて小さなそれであるが、ボディの色は女子ふたりの好みをとおされて、苺《いちご》チョコレートのような赤茶の――紅柄色である。もちろんPHS携帯端末(カードサイズのエアーエッジ)がスロットインされていて、そのままネット環境につながる。
「姫、グーグルの準備ができやした。検索|言葉《ワード》は何がええ?」
「たしか信州のどこかよ。お寺の名前は自信がないわ。四重塔で出てこないかしら?」
「四重塔? ためしてみよか……」
土門くんは、バスケットボールを鷲《わし》づかみにできるほどの巨大な手で、小さなキーボードにかちゃかちゃ打ち込んでいく。
「……おっ、三百件ほどヒットしたぞう。たとえば、『わがまちの遺産・安楽寺《あんらくじ》八角三重の塔』、この塔は一見四重塔に見えますが」
「そうそう、それよ。間違いないわ」
「ほんじゃ、このページをひらいてみよう……」
十一型ワイドの小さな液晶を、右と左からマサトと弥生がのぞき込んだ。そうやって三人でインターネットの画面を見ながら、まな美と会話するというのが最近の定番で、姫に対抗できるんはパソコンしかない、というのが土門くんの最近の口ぐせだ。
「……エラー。ページを表示できませんでした」
「なに遊んでるのよ!」
「しゃーあらへんやんか。ほな、別のページを」
「……あら、写真が出ていますよ」
弥生がいう。
「それに麻生先輩のいわれたとおりで、これは四重塔ですよね」
「ほんまや。八角形をした塔で全国にひとつしかなく国宝やそうやけど、そんなんはおいといて、これは誰がどう見たって四重塔や。なあ天目?」
マサトも、大きくうなずいている。
「でしょう。わたしのいったとおりだわよね」
まな美は嬉しそうだ。
「そやけどなんが書いてあるぞう。どれどれ……人によっては四重塔ではないかといいますが、建築学上、一番下の屋根は裳階《もこし》……難しい漢字やなあ、つまり、ひさしであるということが明らかとなっていますので、正確には『裳階つき木造八角三重塔』という……のやそうやで姫」
「そうそう、そんな説明だったわ、たしか。でも建築学上っていわれてもね」
「うん。自分らは見かけでしか判断でけへんので、歴史部れべるでは、これは四重塔と決定!」
「そうそう、たしか多宝塔《たほうとう》も、おなじ説明だったと思うわ。要するに、これは二重塔なんだけど……」
「偶数やんか。業界[#「業界」に傍点]ではご法度《はっと》の」
「だから二重塔とは呼びたくないのね。たとえば、川越《かわごえ》の喜多院《きたいん》を検索してくれる、土門くん」
「これは埼玉県やな。しかも、あの天海僧正《てんかいそうじょう》ゆかりのお寺や……」
「一階が四角い建物で、二階が円形になっているのを、多宝塔と呼ぶのね。けれど、一階の屋根をひさしだと考えて、つまり一層の宝塔に、四角いひさしがついている、そう考えるそうなのよ」
「……出てきたぞう。これやなあ」
「可愛らしい建物ですね。二階が円《まる》くなっていて、ついている手すりも円くって、それが白地に朱色ですから、すごく奇麗《きれい》ですよね」
弥生の趣味にあったらしく、目を輝かせていう。
「そうそう、つぎは根来寺《ねごろじ》の多宝塔というのを検索してくれる。そちらはもっと豪快だから」
「おっ、根来寺かあ……」
「土門くん、お参りしたことあるの?」
「いや、行ったことはあらへん。けど根来寺は骨董業界では大変有名なんや。根来|塗《ぬり》という漆器《うるし》があるから。もっとも、偽物《にせもん》だらけやねんけど」
「わっ……」
ページがひらいて、マサトが感嘆の声をもらした。
「うわあぁぁぁ……」
土門くんも、わざとらしく驚いてから、
「すごい迫力やなあ、こっちは朱色やのうて、白壁に焦茶《こげちゃ》や。それにさっきの喜多院のやつよりも、何倍も大きそうやんか」
「そうよ。特別に大塔[#「大塔」に傍点]と呼ばれていて、高さも、並《なみ》の五重塔なんかよりも、はるかに高いのよ」
まな美は力強くいってから、
「室町時代の建築で、もちろん国宝ね。わたしも一度ぜひ見てみたいんだけど、この冬休みに行かない土門くん? マサトくん? ねえ水野さん?」
――せっせと勧誘する。悪徳セールスマンのごとくに。
「まあまあそれはさておき、姫、二重塔つまり多宝塔いうんは、全部こういう形なんか?」
「そうよ。だいたいこの形ね」
「自分、二重塔はけっこう見た記憶あるんやけど、二階が円うなっとったいうんは、今はじめて気づいたぞう」
いってから、土門くんはけたけた笑う。
マサトも笑っているところを見ると、おなじ穴の狢《むじな》のようだ。
「それに二重塔も実際にあって、もうどう理由付《こじつ》けしたって二重塔としか呼べない! ような建物がね。わたしここは行ったことがあるんだけど、群馬県の水沢寺《みずさわでら》を検索してくれる。漢字は、ふつうの水に沢で、沢は旧字かもしれないわ」
「どれどれ……」
「こちらは六角形をした塔で、二階のところも六角形なのね。それに仁王門も、ちょっと独特の雰囲気があったわよ」
まな美は意味ありげにいう。
「……出てきたぞう、この写真やな。そやけど、自分が思とったんと雰囲気ぜんぜんちがうでえ。これ国籍おうてるか?」
「どこか、中国のような雰囲気ですよね」
――弥生もいう。
「ここは、和風と唐《から》風の折衷《せっちゅう》様式らしいわ」
「それにやなあ姫、一階は柱だけで、壁があらへんみたいやねんけど?」
「そこにはね、塔の中心に、六地蔵さまが台におかれてあって、地獄・餓鬼《がき》・畜生・修羅《しゅら》・人間・天人の六道を見守ってくれているお地蔵さまね。その台を手で持ってぐるぐる廻してお祈りするのよ。メリーゴーランドみたいに」
「な、なんやて?……」
「それと、仁王門の写真はある?」
「……下のほうにあった。そやけどこれも、古風で唐風で部分的に極彩色《ごくさいしき》で、この二階の手すりのところから、ジャッキー・チェンが飛びおりてきても違和感ないぞう」
「その二階には、仁王門の裏がわからあがれるのね。せまくてすごい急な階段で、金ぴかの仏像が飾ってあって、もうちょっとした忍者屋敷だったわ」
「に、忍者屋敷にメリーゴーランド? このお寺は遊園地なんか?」
まな美は、小悪魔顔でうなずいている。
「それにお寺の住所は伊香保《いかほ》町やから、あの有名な伊香保温泉やんか。冬場はやっぱり温泉にかぎる。姫、自分ここやったら行ってもええでえ」
土門くんは、でれーと嬉しそうにいい、マサトも微笑《ほほえ》んでいるので、まんざらではなさそうである。
「わたしは一度お参りしてるから、遠慮しとくわ」
「なっ、なんちゅうやっちゃ」
弥生が、再度はーいと手をあげていう。
「埼玉県には、五重塔はない。けれど、二階建ての多宝塔はある。すると、三重塔はあるんですか?」
「たしかあったと思うわ。土門くん、グーグル!」
「人使い荒いなあ……」
ぶつくさ文句をいいながらも土門くんはパソコンをあやつる。
「……あった。ずばり『埼玉の三重塔』。奇特《きとく》な人がまとめてくれてはった。埼玉県には三重塔は三つあるそうや。川口《かわぐち》市の西福寺《さいふくじ》。比企《ひき》郡吉見町の安楽寺。そして行田《ぎょうだ》市の成就院《じょうじゅいん》。三つとも江戸時代の建物《たてもん》や」
「面白そうなのある?」
「どうかなあ……さっきの、めりーごーらんどみたいな奇抜なやつはない。それだけはいえる」
「あっ! ひとつすっごい三重塔を思い出したわ。土門くん! 成田山新勝寺《なりたさんしんしょうじ》!」
まな美は、パーンと炬燵の天板を叩《たた》いていう。
「ますます人使い荒いなあ……ところで、それどんな漢字や? 成田山はわかるけど」
「新しく、勝つ、お寺ね」
「お正月になると、よく名前をききますよね?」
「そうそう、初詣《はつもうで》の人出ランキング、一位は明治神宮、二位がこの成田山新勝寺、三位は川崎大師《かわききだいし》、もう定番だわよね。けど、わたしたち歴史部の初詣は、あそこにかぎるわ」
まな美が、秘密めかしてつぶやいていると、
「出てきたぞう。――うわあぁぁぁぁぁ!」
三人そろって驚きの声をあげた。
「どう? すごいでしょう」
「金ぴかの金具に極彩色や! とくに屋根の裏っかわがすごい!……」
土門くんは首をかたむけて下からのぞき込むようにして画面に食い入る。そうやっても意味はないが。
「……雲の紋様がびっしりと。それも浮き彫りにしてから彩色しとう。それに金色の竜もたっくさんならんどうし、もう日光の陽明門《ようめいもん》くらすやあ……」
土門くんはあきれたのか、しばらく笑ってから、
「やー、ええもん見せてもろた。こういうのけっこう面白いやんか。なあ天目? 水野さん?」
ふたりも同意してうなずいた。
「姫、こういった塔の話どないや? 埼玉県だけではちょっと弱そうやから隣の県ぐらいにまで広げて、面白そうな塔をつぎつぎと紹介していく。わかりやすいから新入生にもうける[#「うける」に傍点]思うぞう」
「単に紹介するだけ? なぞ解きはしないの? それにインターネットで調べると、こうやって簡単に出てきちゃうじゃないりそういうのでいいの?」
「うーん、そないいわれると身も蓋もない……」
土門くんが頭《こうべ》をたれてしょげていると、弥生の背中がわの障子に人影がよぎった。そしてドタドタとよろめくような足音が響いてきて、
「やー、お待たせしちゃって……」
そんな声とともに、障子の戸が一枚ひらいた。
白のハイネックのセーターに薄茶色の冬スーツを着たやさしそうな顔立ちの三十がらみの男性が両手で石油ストーブを抱えもって部屋に入ってきた。
なお歴史部の四人は、終業式のあと部室で雑談してから学食で昼食をとり、そしてここ第二部室≠ノやって来ているので学校の制服姿である。
「こんなに急激に寒くなるとは想像だにしてませんでしたから準備ができてなくって」
男はそんな言い訳をしながら、床《とこ》の間《ま》の前あたりに石油ストーブをおろして、火をともした。
「ですが、あまり期待しないでくださいね。すけすけの欄間《らんま》がはまってますから、暖かい空気がどんどん逃げていってしまうので」
ここは七・五畳の和室だが、くし状になっている筬《おさ》欄間が襖《ふすま》の上の二面にあるのだ。
「そやったら、こういうのがええんちゃいます」
いいながら土門くんは首を左右にふっている。
「はいはい、扇風機みたいな暖房機ね。なんていいましたっけ……今度用意しときますよ」
「土門くん!」
まな美が小声で叱責《しっせき》する(遠くから)。
「三時のおやつは、後《のち》ほどお持ちしますね」
そういい残すと、男は部屋から出ていった。
しばらくしてから土門くんはいう。
「さっきの男《ひと》、なんちゅう名前やったっけ?」
「桑名竜生《くわなりゅうせい》さん! いいかげん覚えてあげたら」
「そやったそやった……」
「あったあった、これやこれや」
かちゃかちゃとパソコンをいじりながら土門くんがいった。
「なに?」
「実をいうと自分、お題[#「お題」に傍点]をひとつ用意してあったんや。こんなんはどないやろ……」
いうと土門くんは、背筋をしゃんと伸ばして姿勢を正してから、
「えー、あるところに、定吉《さだきち》という丁稚《でっち》はんがいてはって、番頭《ばんとう》さんから用事をいいつかります」
なにやら語りはじめた。
「定吉、この手紙を、本町の平林《ひらばやし》さんのところまで届けてくれるか。へい、よろしゅおます。と店を飛び出したはいいけれど、えー、本町の誰さんやったかなあ? 定吉は忘れてしまいます。手紙には宛先が書いてあるんやけど、定吉は漢字が読めません。すいません、これどない読むんですか? 道ゆく人にたずねます。これはやな、たいらばやし[#「たいらばやし」に傍点]と読むんや。ありがとうございます。このへんに、たいらばやしさんは居てはりませんか? たいらばやしさ〜ん。すると道ゆく人が、そんな家はあらへんで、ちょっと貸してみ、これはやな、ひらりん[#「ひらりん」に傍点]と読むんや。そやったら、たいらばやしかひらりんさ〜ん、たいらばやしかひらりんさ〜ん。するとまた道ゆく人が、そんな家はない。これはやな、一八十《いちはちじゅう》の木木《もくもく》と読むんや。平林の漢字をばらすとそうなんねん。かくして定吉は、た〜いらばやしかひらりんか、いちはちじゅうのもぉくもく。た〜いらばやしかひらりんか、いちはちじゅうのもぉくもく……」
土門くんは、長い両腕をばたつかせながら旋律《メロディ》にのせて何度か口ずさんだ。
まな美が小さく拍手してからいう。
「うん、すこし面白かったけど、それはいったいなに?」
「知らへんか? これ古典落語の名作やんか。あの寿限無《じゅげむ》寿限無、五劫《ごこう》のすりきれ、海砂利水魚《かいじゃりすいぎょ》の水行末《すいぎょうまつ》! 雲来末《うんらいまつ》! 風来末《ふうらいまつ》! ぐらいに有名な」
土門くんは力をこめていう。
「知らないわよ。寿限無はきいたことあるけど」
「天目も知らへんか? こんな古い屋敷に住んどってのくせに」
マサトは激しく首をふった。
――家は関係ない。
「で! その落語がいったいどうしたというの?」
まな美にきつく問われて、
「みんな落語きかへんねんなあ……」
土門くんは、ぶつくさとしばらくぼやいてから、
「この落語に出てきた平林《ひらばやし》、もしくは平林《たいらばやし》、まさに同《おん》なじ漢字をしとうお寺が、埼玉にあるんを見つけたんや」
まな美は、首をかしげてすこし考えてから、
「それって、平林寺《へいりんじ》のことじゃないの? 新座《にいざ》市の野火止《のびどめ》にある」
「あっ、あれはへいりん[#「へいりん」に傍点]と読むんか。それは落語にも出てけえへんかった読み方や。その平林寺をちょっくら調べてみた。すると、いかにもいわく因縁《いんねん》のありそうなお寺で、建てはったんは、松平信綱《まつだいらのぶつな》や。松平はたくさんおってやけど、これはそんじょそこらの松平ちゃうぞう。俗に知恵伊豆《ちえいず》とも呼ばれとう、切れ者《もん》や」
「あの島原の乱を鎮《しず》めた、幕府がわの武将でしょう? そして川越藩主よね?」
「そや! 原城《はらじょう》にたてこもる天草四郎《あまくさしろう》に最初こてんぱん[#「こてんぱん」に傍点]に負けとって、板倉重昌《いたくらしげまさ》は討ち死にするし、これ家康《いえやす》さんの側近な。それでしゃーあらへんから知恵伊豆・信綱が出張《でば》っていってやっつけたんや」
土門くんは滔々《とうとう》と語る。
――戦乱の世の物語は、もちろん戦国時代もだが、彼のもっとも得意とする分野なのである。
「そしてさらに調べてみると、その平林寺は、元はといえば岩槻にあったお寺で、それを信綱の遺言《ゆいごん》で、息子の輝綱《てるつな》が今ある場所に移動させとうねん。そしてや、岩槻にあった元の平林寺を建てはったんは、誰あろう? あの太田道灌《おおたどうかん》なんや!」
「あら……」
その著名人《ビッグネーム》には、一同、さすがに注目せざるをえない。秋の文化祭でもさんざん調査をしたし、社寺や城の呪術《じゅじゅつ》的な配置に関しての、いわば黒幕《キーマン》だからである。
「さらにいうと、松平信綱は、家光さんの小姓《こしょう》で、家光より八歳ほど年上やねんけど、家光が生まれるとすぐに仕《つか》えるねん。そやからまあ、家光のわがままをきいてあげる、お兄ちゃ〜ん、いう感じゃ」
土門くんは、ぐじゅぐじゅにかみ砕いて説明をし、
「そしてずーっと家光の側近として仕えるんやけど、家光といえば? あの天海僧正や! つまり自動的に、いや必然的に、信綱は天海とも親しゅうなる。実際、三人が関係しとう話はけっこうあるみたいなんやで。ほら、太田道灌に天海僧正、面子《めんつ》がそろたやんか――」
いってから、ことさらに眼光鋭くじーっと三人を見まわした。
「すると、あの平林寺も、徳川幕府のひいた魔方陣《まほうじん》に組み込まれている、てこと?」
「この面子と経緯《いきさつ》からいっても、じゅうぶん考えられるぞう。どないや姫?」
「どうかしらね……」
まな美は、頬杖《ほおづえ》をついてしばらく考えてから、
「まず、岩槻にあった平林寺だけど、建てたのは道灌じゃなくって、父親の太田|資清《すけきよ》のほうじゃなかったかしら?」
「え? え? ど、どうやったかなあ……」
まな美の鋭いつっ込みに、土門くんはうろたえる。
「でもまあ、岩槻城も、道灌と父親がいっしょに築いたという説が一般的らしいから、お寺もいっしょに建てのたかもしれないし」
土門くんは、うんうん、と子犬のようにうなずく。
「けど、今ある平林寺は、あの淨山寺《じょうさんじ》などとはちがって、関東でもよく知られているお寺なのね。だから、その種の調査《しらべ》はついていると思うんだけど」
「有名なお寺なんか?」
「もちろんよ。遠足[#「遠足」に傍点]で行くぐらいの……」
「えんそくう!?」
土門くんは、頓狂《とんきょう》な声でいう。
「平林寺には、何万坪もの広い境内林《けいだいりん》があったでしょう。あれは国の天然記念物なのよ。いわゆる武蔵野《むさしの》の原生林が、あそこにだけ残ってるのね――」
「そやそや、地図で見ると、あたり一面まっ緑になっとった」
「土門くん、地図は出せる?」
「おう。こういうんはグーグル地図《マップ》がわかりやすいぞう」
土門くんは、いくつかある無償のインターネット地図を使いわけているようだ。
「平林寺が見つかったら、そこから南のほうに下《さ》がってくれる。……すると、JRの三鷹《みたか》駅があるはずだから。……さらにもうすこし南に下がると、またまっ緑の大きな公園が見えてくるはずよ。……その一角に、深大寺《じんだいじ》というお寺があるから」
「わたしも深大寺なら行ったことありますよ。お蕎麦《そば》を食べに……」
弥生は、大和撫子《やまとなでしこ》らしく慎ましやかにいい、
「あっ、深大寺蕎麦かあ、自分|喰《く》うたことはあらへんねんけど名前ぐらいやったら知っとうでえ」
土門くんはがつがつと下品にいって、マサトも知っているらしく上品にうなずいた。
「深大寺の周辺には何十軒もお蕎麦やさんがあるから、そこで各人自由にお昼ご飯を食べるのね。それに深大寺は、このあたりでは、二番目に古いお寺なのよ」
「え? そやったら一番目は?」
「……浅草寺《せんそうじ》」
めずらしくマサトが答えた。
「あっ、それは前に姫に教えてもろたなあ」
「けどね、浅草寺の本尊は、漁師が隅田川《すみだがわ》でひろった一寸八分の観音像で、その後誰ひとり見たことがない絶対秘仏だから、存在しないというのが定説ね。ところが、この深大寺のほうは、白鳳《はくほう》時代のご本尊が現存[#「現存」に傍点]してるのよ」
「なっ、なんやてえ!」
土門くんは、亀のように首をつき出させて驚いていってから、
「ちなみに、白鳳時代とは、大化の改新の六四五年から、平城京遷都の七一〇年までをいう」
――律儀に注釈した。ひさしぶりに。
「ここの白鳳仏が、関東地方では最古の仏像なのね。それに秘仏じゃなくって、いつ行っても見られるわ。深大寺は縁起《えんぎ》もしっかりしていて、だから関東圏では、もう別格[#「別格」に傍点]のお寺ね」
まな美は、威厳にみちた声でいってから、
「じゃあつぎは、西のほうに移動してってくれる。すると大きな、府中《ふちゅう》競馬場があるはずだから」
「……あったあった。こんな馬鹿でっかいやつは見逃さへんぞう」
「その競馬場の左肩あたりに、お寺がふたつあって、その上に、大國魂神社《おおくにたまじんじゃ》があるはずよ」
「……おっ、あるぞう。そやけど聞いたことあらへん名前の神社やなあ」
「それは、ちょっと困りものだわよね!」
まな美は、やおら腕組みをして憮然《ぶぜん》とした表情でいってから、
「土門くんを責めるわけじゃないけど、マサトくんも、水野さんも、知らないでしょう?」
ふたりは、ちょっとおそるおそるうなずいた。
「大國魂神社は、総社《そうじゃ》で、つまり武蔵国《むさしのくに》では一番の神社なの。建物が大きいという意味じゃないわよ。そして創建は、景行《けいこう》天皇の四十一年――」
といってから、まな美は土門くんを見やる。
いつものように、西暦への変換をうながしているわけだが。
「姫、あかんあかん」
土門くんは首をふって冷たくいい放つ。
「ダメなの?」
「あかんのん決まってるやんか。そもそも景行天皇の年代が確定してへん! それに、百五十歳ぐらいまで生きた天皇さんちゃうかったっけ?」
「うーんしかたないわね、ともかく、大國魂神社は武蔵国の一番の神社で、そしてこのあたりでは最古の神社ってことね」
「姫ぇそのこのあたりいうんはどのあたりのことをいうんやあ?」
土門くんは、もそもそ〜と一口言葉でたずねる。
「それは……わたしん社《ち》こそが東京で最古の、あるいは関東で最古の……といっている神社が、五つは、いや十ぐらいは、ううん、百[#「百」に傍点]はあるわ!」
まな美は、なかばやけっぱちでいった。
「なんやあ、神社も骨董屋といっしょなんやな。でっきるだけ古ういうんが、仕事や……」
「でも何度もいうけど、大國魂神社だけは、別格[#「別格」に傍点]ね。というのも、この大國魂神社のすぐわきに、かつては武蔵国の、国府《こくふ》がおかれてあったの。つまり今でいうところの県庁所在地ね」
「なるほど、そういう場所やったんかあ……」
「ここは府中市でしょう。名前に出てるじゃない」
はーい、と弥生が手をふっていう。
「国分寺《こくぶんじ》市、あるいはJRの国分寺駅がありますよね。あれは関係ないんですか?」
「もちろん関係あるわよ。市がちがっているからわかりづらいんだけど、府中市のすぐ北どなりが、国分寺市で、つまり国府があった大國魂神社の北がわに、国分寺と国分尼寺《こくぶんにじ》を建てたのよ」
「あっ、そういうことだったんですね……」
弥生は、感心したふうに首をふった。
「今ざーっとたどってきたのが、わたしが中学生のときに行った一日遠足のコースね。平林寺で武蔵野の原生林にふれて、深大寺でお蕎麦を食べてから関東最古の仏像を鑑賞し、つぎに武蔵国の総社の大國魂神社にお参りして、時間があれば国分寺と国分尼寺の跡地を見る。どう? なかなか充実した遠足でしょう」
まな美は、ことさら嬉しそうに自慢げにいった。
「武蔵国の、事始《ことはじ》めを訪ねる、そんな遠足ですよね」
弥生が(そしてマサトも)賛辞していると、土門くんだけは、なにやら指を折って数えながら、
「お寺に行って、お寺に行って、神社に行って、さらにお寺の跡地を見る。ええ――?」
そしてまな美の顔を不審げに睨《にら》みつけてから、
「その遠足の遠足委員会は、姫が牛耳《ぎゅうじ》っとったん、ちゃうん!?――」
まな美は、ふゅ――と吹けない口笛を吹いてごまかす。
「案の定や! 思《おも》たとおりや! 今どきの中学生が、お寺お寺お寺神社! ふつうそんな遠足行かへんわい!」
土門くんは、ここぞとばかりに悪態をついていい、
「姫が行っとった中学校では、さぞかし、まわりのみんなは迷惑しとったんやろうなあ」
「してないわよ。ふん!」
「ですけれど……」
弥生が、仲裁するかのようにいって、
「武蔵国の事始め、といったテーマは、春の文化祭にはふさわしいかもしれませんよ。自分でいっておいて手前味噌《てまえみそ》ですが」
古風な家柄がにじみでるような表現でいう。
「あっ、ほんまやなあ。新年度に新入生を相手に、事始め、意味もぴったしやんか。それに自分らの学校が立っとう場所も、武蔵国やし、もちろん今おる第二部室[#「第二部室」に傍点]も――」
この古めかしい数寄屋造《すきやづく》りの屋敷は、いうまでもなくマサトの自宅だが、埼玉県|春日部《かすかべ》市の古利根川《ことねがわ》ぞいの一隅に鬱蒼《うっそう》とした鎮守《ちんじゅ》の森に囲まれてある。
「うーん……」
だが当《とう》のまな美は気のりしないような表情で、
「武蔵国の事始めというテーマは、そうそううまくいくとは思えないわ」
「な……なんでや?」
「ちょうど今、大論争のまっただ中だから」
「え? どんな論争や?」
まな美は、そういった核心には応《こた》えずに、
「まさに火中の栗をひろう、てことにならなければいいけど」
ますます謎《なぞ》めかしていった。
「火中の栗ぐらいやったら、ひろたろやないか! 分厚い手袋つけて――」
土門くんは威勢よくいう。半分だけ。
「ほんとよね土門くん? まっ赤赤《かっか》の栗でもひろうのよ! だったらやってもいいけど」
「おう、武士に二言はない。けど骨董屋は嘘つきや」
「どっちなのよ!? それにマサトくんは? 水野さんはどう? このテーマでいいと思う?」
マサトと弥生は、たがいに顔を見あわせてから、頼りなげにうなずいた。
「そうね、春の文化祭まではまだ余裕あるし、うまくいきそうになければ、あっさり退《しりぞ》けばいいわ」
「そやそや、話はころっと変わるけど、姫のおにいさんやったら、ええお題[#「お題」に傍点]もってはるんちゃうやろか? 研究室《あそこ》の秘密の金庫の中にでも、ふふふ」
土門くんは、悪巧《わるだく》みを語る悪党のようにいう。
「そうそういつも頼めないわ。それに最近なんだかすこし冷たいのよ。教えてくれそうにないわ〜」
まな美は小刻みに身体をゆすって、口をとがらせぎみにいった。
「そやけど姫のおにいさんは、いわば最後の手段にとっとこか。自分ら全員でうぇ〜んと泣きつけば、すぺしゃる[#「すぺしゃる」に傍点]なお題を出してくれはるやろう」
「そういうことならば、じゃあ」
「ちょ、ちょっと待った――」
まな美の言葉をさえぎって、土門くんはいう。
「姫、いきなり明日の二十三日に行く[#「行く」に傍点]ーいうつもりやろ。けど自分は用事があるからあかんぞう」
――翌十二月二十三日は、天皇誕生日で国民の祝日である。
「ピアノのお稽古《けいこ》かしら?」
「ちがわい! 明日は親父《おやじ》が一日おらへんから自分が店番せなあかんのや。まあなんて親孝行な息子やろうか。輝ける勤労青少年に、愛の手を〜」
と土門くんは、巨大な両手を大蜘蛛《おおぐも》のごとくに天にかざすのであった。
「じゃあ、明後日《あさって》の二十四日、朝の九時に京王線の府中駅ね。――遅れないでよ土門くん!」
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「へっ、くしゅん!……」
T大学は、教養や理数系などの大半の学部を東京都下に移転させたが、文学部と経済学部そして医学部を都心の一等地に残したままで、だからおのずと建物は老朽化し、その古びた文学部本館の四階のすみっこに、『文学部・心理学科・認知神経心理学研究室』の分室扱いとなっている『情報科』があり、研究室と資料室のつづきのふた部屋からなっているが、小さいほうの資料室の窓ぎわに置かれた傷だらけのスチール仕事机《デスク》に向かって、パソコンの一太郎《ワープロ》画面で、なにやら一心不乱に書き物をしていた『情報科』の室長・火鳥竜介《かとりりゅうすけ》は、ひと嚔《くしゃみ》してから、ひとり言をつぶやいた。
「……だ、誰だ? おれの噂《うわさ》してやがんのは?」
それは一見迷信めいているようにも思えるが、そういったことに科学的な解説を試みようとするのも彼の仕事のうちであったろうか。
――コン、コン。
となりの研究室に通じている内扉を(そこはギーギーと煩《うるさ》いので竜介が在室のときには常時|開《ひら》いているが)上品にノックする音があって、ノリのよくきいたシミひとつない白衣をはおった、すらりとした美人が、暗色のスチール書棚の角から姿をあらわした。――助手の西園寺静香《さいおんじしずか》である。
彼女は、洒落《しゃれ》た有田焼《ありたやき》のマグカップをひとつと、二、三枚の紙を手にたずさえていて、歩いてくると仕事机《デスク》のはしにそっとマグカップをおろした。
「あ……ありがとう」
香り立つ煎茶《せんちゃ》がなみなみと注がれてあったので、竜介は思わず顔がほころんだ。
「それと、興味深い書き込みがありました」
A4の紙にプリントアウトされたそれが、竜介に手渡された。
「どれどれ……」
ここ『情報科』ではウェブサイトで超常現象・オカルト・神話伝承などを扱うフォーラムを複数主催していて(管理はふたりの院生)そこへの書き込みだ。竜介は、紙に目を落としながらも、手ではマウスを動かして一太郎《ワープロ》の画面を終了させた。どうやら見られたくない文章を書いていたようだが。
「……ふーん、面白いねえ」
そして声に出して読みはじめた。
「わたしは幼稚園の保母をしています。お絵かきの時間に、ひとりの園児がこんなことをいい出しました。高句麗のお姫さまが、竜の背中にのってお山に飛んでいくと。いえいえ、高句麗のお姫さまが竜を踏んづけて、とそんな話にもなりましたが……実はわたしの身のまわりで今ちょっと悪いことがおこっています。この園児の話は、吉ですか? それとも凶でしょうか?」
書き込みの日時は昨晩で、ハンドルネームを使っていない匿名者からのそれだが、竜介は、その書き込みに対しての返信《レス》にもざっと目を通してから、
「……そもそもだな、幼稚園児が、高句麗のお姫さま[#「高句麗のお姫さま」に傍点]、なんてことをいい出すこと自体が、変だ[#「変だ」に傍点]!」
ぶっきら棒にいうと、マグカップを口に運んでお茶をすすった。それはいつもどおりにとびっきりに甘露《かんろ》だったので、至上の幸せ、そんな表情をした。
静香はすこし笑いながら、
「レスを読んでみましても、作り話じゃないかって、否定的な意見が多かったようですし」
「ところがだ――」
竜介は、口調をあらためていう。
「こういった話題が子供の口から出ても、そう不思議ではないような地域が、あることはあるんだ」
「それは……日本にですか?」
「うん、もちろんさ」
いってから竜介は、どうぞ、と壁ぎわのソファのほうをさし示した。長話になりそうだったし、それに真横に立たれていると、ちょっと会話しづらい。
静香は、細長い応接テーブルをよけて廻り込むと、その鳩血色《ルビーレッド》をした豪華なソファに慎《つつ》ましやかに腰をおろした。竜介も回転椅子《デスクチェア》をそちらに向けながら、
「高句麗の姫、高句麗の姫、高句麗のひめ、こうくりのひめ、こうくりのひめ……」
呪文のように何度かくり返していい、
「……こうくりのひめ、こくり[#「こくり」に傍点]のひめ、くくり[#「くくり」に傍点]のひめ、菊理媛《くくりひめ》」
「えっ?」
静香が、華《はな》やいだ笑顔で疑問符を呈した。
「正しくは、菊理媛神《くくりひめのかみ》。草花の菊[#「菊」に傍点]という字をあてるので、キクリヒメ、とも読んだりする。ともあれ、日本の神話に出てくる女神さまだ」
「高句麗の姫が、日本の神話に登場するんですか? 名前を変えて……」
「もっとも、これは定説ではなく、一部でそう根強くささやかれているわけさ。それに日本の神話とはいっても、本編のほうではなく、日本書紀の一書《あるふみ》のひとつに、ちらっと出てくるだけなんだけどね」
「それは異伝などが紹介されている、箇所ですね」
静香も、最近は竜介の話にそこそこついていけるようになってきた。
「それは、イザナギとイザナミの物語の、一場面《ワンシーン》だ。イザナミが、火の神・カグツチを産んださいに火傷《やけど》をして、それが原因で死んでしまう。夫のイザナギは、妻に逢《あ》いたい一心で黄泉《よみ》の国へと降りる。だが、イザナミは変わりはてた姿になっていて、見て驚いたイザナギは逃げ出す。怒ったイザナミは、まさに悪鬼の形相になって追ってきて、黄泉比良坂《よもつひらさか》という場所で両者は対峙《たいじ》する。するとイザナギは、そこにあった大岩で道を塞《ふさ》いでしまい、そして離縁を宣言しちゃうわけだ」
とそこまで一気に話すと竜介は、しおれた表情になって、ぼそっとつけ加える。
「まあ、イザナギって、けっこう冷たい男なんだ」
「男の人って、みなさんそうですよね。年老いて醜くなった妻には、見向きもしないんでしょうから」
静香も、咎《とが》めるような口調でいった。
「はははっ……」
竜介は、すこし胡麻化《ごまか》し笑いをしてから、
「これは本編のほうなんだが、その大岩をはさんで、イザナミは、わたしはあなたの国の人間を一日に千人殺してやりましょう、と呪っていい、かたやイザナギは、ならば一日に千五百の産屋《うぶや》を建てよう、といい返して立ち去り、その後黄泉の穢《けが》れを落とすために禊《みそぎ》をすると、アマテラス・ツクヨミ・スサノオなどが産まれた……て話さ。そして一書のほうでは、この黄泉比良坂の場面《シーン》に、菊理媛が登場するんだ。ふたりが争っていると、泉守道者《よもつもりみちひと》という黄泉の国の案内人のようなものといっしょに姿をあらわして、そして菊理媛が何かをいうと、イザナギがそれを褒《ほ》めて、喧嘩をやめて立ち去って行った……とそんな話なんだ」
「菊リヒメは、どういったんですか?」
「それが書かれてないんだ」
「え?……」
静香は、鳩が豆鉄砲を食らったようなきょとんとした顔を竜介に向けてから、正直な感想をいう。
「とっても変な話ですね」
「実際変な話さ。それに菊理媛は、誰それの子供だといったような神の系譜[#「神の系譜」に傍点]などもいっさい語られてなく、正体不明の女神なんだ。けれども、かえってそれが幸いしてか、とっても有名|神《じん》になる」
「えっ?……」
「人間は謎めいたものに惹《ひ》かれるんだな。しかも黄泉の国にあらわれているし。だから流行《はや》りの言葉でいえば、暗黒世界《ダークサイド》の女神さまだ」
「………」
静香は、うなずきながら微笑んでいる。
「たとえば、キリスト教世界では、黒いマリアというのがいて、マグダラのマリアだけど、その黒いマリア信仰のほうが大衆からは圧倒的に支持された。またヒンドゥーでは、ダーキニやドゥルガーやカーリーなどの毒々しい女神さまが大人気だ。彼女らと、|位置どり《ポジション》的には、いっしょだ」
――古今東西の他の宗教と比較して論ぜられる、それが竜介の(妹・まな美にはない)長《た》けているところであろうか。
「菊理媛は、正体不明だから、古来から様々に解釈されてきた。だが真《ま》っ当《とう》な学者なら思いつくのが、彼女は巫女《みこ》ではないだろうか、といったことだね」
「巫女ですか?……」
静香はすこし考えてから、
「それは、現代のではなく、古代の巫女のことですね。死者に通じていたという」
「そう。見鬼者《けんきしゃ》と呼ばれていた本来の巫女だ。イザナミは死に、イザナギは生きている。両者をとりもつような役で登場するんだから、まさにそうだろう。してみると、連れそってあらわれた泉守道者の役どころは、審神者《さにわ》ってことにもなるだろうか……」
竜介は、話しながら桑名|竜蔵《りゅうぞう》のことが頭に浮かんだ。かたや静香も、同様に竜蔵のことを思ったようだが、それは竜介にとっては(複雑な事情があって)想像の埒外《らちがい》である。
「……そして、このような正体不明の、しかも一書にちらっとしか出てこない、菊理媛を、主祭神にしているとある[#「とある」に傍点]大きな神社があって、それが白山比盗_社《しらやまひめじんじゃ》なんだ。全国に何千という分社がある」
「しらやまひめ神社ですか……」
静香が、知らなそうな表情で復唱したので、竜介はA4紙の裏にさらさらっとペン書きをして、手渡した。
「……これで、比刀sひめ》と読むんですか?」
「そう。特殊な漢字でね、神社や神の名称以外にはまず使われないと思うな。相応に理由《いわれ》があるんだろうけど、まあそれはさておき。――白山《しらやま》っていうのは白山《はくさん》のことだ。北陸にある」
「そうしますと、書き込みにあった『お山』というのは、白山のことなんでしょうか?」
「うん、そうじゃないかと、まっ先に思いついたんだけどね」
――けれども、この竜介の推理は疑問《クエッション》だろう。単に『お山』とぼかされて書き込まれていたのには、それなりの理由《わけ》があったようだ。
「この白山比盗_社と菊理媛の、つまり白山《はくさん》信仰に関しては、折口信夫《おりくちしのぶ》や五来重《ごらいしげる》や、そして柳田国男《やなぎたくにお》などの錚々《そうそう》たる先人たちが論じていて、誰がどういったかまでは覚えてないが、みなさん方向性は似たりよったりで、およそこんな話になる」
竜介は、前置きをしてから語りはじめた。
「白山を開山したのは泰澄《たいちょう》という人で、修験者《しゅげんじゃ》だ。時代は七〇〇年代のはじめ。『泰澄|和尚《おしょう》伝』によると、白山の火口|跡《あと》にちょっとした池があって、そこから白山比唐ェ九頭竜王《くずりゅうおう》に化身してあらわれたそうだ。けれど、この和尚伝は鎌倉時代の作なので、たぶんに潤色《じゅんしょく》されている。彼に関してたしかなことは、父親は秦氏《はたし》で、つまり渡来人《とらいじん》だったってことだ。もうこのあたりからして、あやしい……」
竜介は、いかにも怪しそうにいってから、
「そしてかたや、韓神《からかみ》信仰というのが、当時は隆盛をきわめていた。もっとも、この韓神は、中国の唐《とう》という字ではなく、韓国の韓《かん》という字をあてる。つまり朝鮮半島由来の信仰ってことだ。これは日本書紀などにもはっきりと書かれていて、村々の祝《はふり》の教えのままに、或《ある》いは牛馬を殺して、諸々《もろもろ》の社《やしろ》の神を祭る……というのがそれで、たしか大化の改新の前後あたりに出てくる。だが日本は、すでに仏教を国策として導入していたから、この手の殺生《せっしょう》は許されない。だから禁止令が出される。その後も何度となく禁止令が出されるんだけど、最後の最後まで従わなかった地域があって、それが北陸なんだ」
「……まさに、白山のあるところですよね」
「そう。たしか八〇〇年代の初頭ぐらいまで、禁止令が出された。そして、これを別角度から考証《こうしょう》すると、これはまあ、あくまでも学問ということで……」
竜介は、しおらしくお断り[#「お断り」に傍点]をいってから、
「日本にも、かつては身分制度があった。いわゆる士農工商だけど、さらに下がいて、穢多《えた》と非人《ひにん》だ。ところが、その彼らがかつて住んでいたと考えられる集落と、白山比盗_社の分社の分布が、きれいに一致するらしいんだ」
「あら……」
静香は、ごくごく控えめに驚いてから、問う。
「それはどういうことなんですか?」
「その彼らが、江戸時代やそれ以前に、おもにどんな職についていたかというと、革のなめし業で、つまり、牛馬の殺生なんだ」
「……なるほど」
静香は、話がつながったので、安堵《あんど》したようにうなずいた。
「仏教で禁じていても、必要不可欠な職業なのでね。とまあ、そういった傍証《ぼうしょう》もあって、白山こそが、韓神信仰の中核であった、とそう考えられるだろう。白山比盗_社は、字面《じづら》からいくと見目|麗《うるわ》しくって、それに今でこそ、御利益《ごりやく》は縁結びだそうだけど」
「え? 縁結びの神社なんですか?」
静香は、すこし嬉しそうにいった。
まもなく三十路《みそじ》を迎えようとしている女性にとっては、それは切実な問題である。
「まあ、イザナギとイザナミの喧嘩の仲裁をして、縁をとりもっているので、そう的《まと》はずれでもない。だが、白山比刀Aつまり菊理媛の実像は、大いにちがっていたはずだ。たとえば、ヒンドゥーのダーキニは、インドにはカースト制度があるが、その最下層の人たちから信仰されていた女神で、こわい反面、とっても力強い、虐《しいた》げられている民には、そういった力強い神が必要だからね――」
説明しながら竜介は、タール一ミリの煙草を一本つまみ出すと仕事机《デスク》のはしっこで、トントン、と叩いた。吸っていいか? と許しを求めているわけだが、静香はこわい目をしながらもうなずいた。最近吸うな吸うなと研究室の他の全員から(といっても三人だが)煙たがられていて肩身がせまいのである。
竜介は、火をつけた煙草を片手に話を再開した。
「じゃ、つぎは本国のほうの信仰を見てみよう。朝鮮半島には白頭山《はくとうさん》という山がある。あちらの発音ではペクトゥサンで、中国名では長白山《ちょうはくさん》ともいうが。ところで、西園寺さんはこの歌は知ってるかな? アーリラン、アーリラン、アーラーリーヨー、アーリラン峠を越ーえてゆく……」
竜介がハミングするように軽く歌うと、
「……アリランという歌ですね。最初ぐらいしか知らないですけれど」
静香は、すこし驚いたように目を輝かせて、微笑みながらいった。
竜介は父親ゆずりの美声で、めったに披露しないが歌も[#「も」に傍点]とっても上手なのである。
「アリランは朝鮮を代表する民話だけど、その歌詞に白頭山が出てくる。いわば朝鮮民族の聖地のような山なんだ。高さは二千七百メーターすこしで、偶然にも、日本の白山とそう変わらない。それに、白頭山以外にも、白という字がつく山が、朝鮮半島には数えられないぐらいにあるそうだ。けど、それほど雪深い国ってわけじゃない。朝鮮民族は、この白という色に特別のこだわりがあって、みずからのことを『白衣民族』と称しているぐらいに……」
「あの民族服の、チマチョゴリですね」
竜介は、うなずいてから、
「今でこそ原色も使っているけど、百年も遡《さかのぼ》れば、白一色だったはずだ。これは中国がわの史書にも度々《たびたび》書かれていて、中国の特使が訪れると、みんながみんな白一色の服装だったので、驚かれている。じゃ、朝鮮半島には染色の技術がなかったのか? そ、そんな馬鹿な……」
竜介は、みずからいって苦笑してから、
「地つづきで中国なんだから、技術が入ってこないわけがない。要するに、白が好き、そういう民族なんだ。それに白服をきれいに保つことのほうがよほど難しい。葉っぱにちょっと擦《こす》れたぐらいで色は着くし、カレーうどんなんて食えたもんじゃない!」
「はははは……」
静香も思わず笑って、口を手で押さえた。
「さて、この白い布に関して、独特の宗教的な風習がある。死霊祭《しれいさい》に用いられる白布《しろぬの》のことを、朝鮮《あちら》では道という字を書いてキル、橋という字でタリ、あるいは魂の道、などと呼ぶそうで、長い白布を道や橋に見立てて、その上にご神体を置き……これはまあ位牌《いはい》のようなものだが、それを送っていくような儀式がある。そうそう、そのさいに竜船歌《りゅうせんか》を唱《うた》うといったような記述も、たしかあったはずだ……」
竜介は、思い出しながらいってから、
「けどこれは、ヴィシュヌ神《しん》の乗る舟がナーガで、つまり多頭の竜で、ナーガは、あの世とこの世とをつなぐ架け橋と考えたりもするので、ヒンドゥーのほうから来ているのかもしれないが……」
「たしか、九頭竜王が白山比唐ノ化身して、とそんなお話でしたよね」
「うん、根っこはいっしょさ」
竜介は事も無げにいってから、
「かたや日本にも、布橋灌頂《ぬのばしかんじょう》と呼ばれる独特の儀式がある。山あいにかかっている橋に長い白布を敷いて、その橋の上を、白い服の、いわゆる死装束《しにしょうぞく》に身をかためた人たちが渡るんだ」
「え!? 生きている人が、そのような服を?」
静香は、たいそう驚いていった。
「そう。死を疑似《ぎじ》体験するわけだ。けど灌頂って言葉から仏教儀式だと扱われて、神仏分離令《しんぶつぶんりれい》で途絶《とだ》えていた。が、復活させて今は立山《たてやま》でやっている。やはり北陸にある霊峰ね。江戸時代には白山でもやっていて、というよりこちらが本家なんだが、六十歳の還暦《かんれき》を迎えた男女が、おなじく白の死装束で白山に入って白布の橋を渡り、そして下山してくると、赤ん坊になったと称して、お祝いをしたそうだ」
「それは……生まれ変わるって意味なんですか?」
竜介は、うん、と軽くうなずいてから、
「白山は、立山もそうだけど、死者のおもむく霊山だ。そこに一度入って――出てくる。こういうのを死と再生の儀礼[#「死と再生の儀礼」に傍点]という。そして柳田国男など三人の先人たちは、そろって、これは日本固有の信仰だと説いている。だが、これは|???《ペンディング》だろう。かといって、布橋灌頂に相当する儀式が、ズバリ、白頭山に残っている、わけでもないんだ。それに元来あちらさんは、この種の資料にきわめて乏しくって」
静香は、うなずいだ。朝鮮半島の資料はないないと何度も愚痴《ぐち》を聞かされたことがあるからだ。
「さらには、白頭山が十世紀ごろに大噴火を起こして、日本にまで灰が降ってきたほどの。だから何もかもが吹き飛んじゃって」
「あら……」
「しかも白頭山のある場所が、それはそれは悪くって、考古学《けんきゅう》できない。北朝鮮と中国の国境なんだ」
「………」
静香は、反応できずに、顔をふせて苦笑した。
「そうそう、いうまでもないけど、白頭山が立っているところは、かつての高句麗だ」
静香は顔をあげると、和《にこ》やかにうなずいた。
「白布が敷かれた橋は、あの世とこの世との境目だから、つまり黄泉比良坂だ。そこにあらわれる菊理媛は、死と再生の女神で、もとは韓神信仰の巫女で、すなわち高句麗の姫であった。……とまあ、途中の論証はちょっと弱くもあるんだが、だから定説には至らない、けど根強くささやかれている理由さ」
そして、竜介は冗談っぽくつけ加えた。
「暗黒世界《ダークサイド》の女神さまね……」
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――遅れないでよ土門くん!
と釘を刺されていたにもかかわらず、待ちあわせ場所の府中駅・南口の改札前に姿をあらわしたのは、午前九時を四、五分すぎていた。
府中駅は、特急や準特急などすべての列車が停車する京王電鉄の主要駅のひとつで、人口約二十五万の府中市の表玄関にふさわしく、大きくて立派な高架駅である。線路は三階部分にあり、二階が改札だが広々としていて、高架歩道橋《ペデストリアンデッキ》を通じて百貨店やトイザらスなどにも直結している。
「みんなおそろいやな。ほな行こか……」
土門くんは、悪びれた様子もなくいうと、先導してすたすた歩きはじめた。
改札の上の表示板にも、大國魂神社|↓《こちら》の案内が出ているので、まず迷うことはない。そして出口の階段をおりると高架下で、目の前は広い道である。
「あら……」
あたりを一瞥《いちべつ》するなり、まな美が不満そうに声をもらした。
「どないしはったん姫?」
「景色がぜんぜんちがう。わたし冬に来るのは初めてなのね。夏は、ここは軽井沢かしら……て感じの素敵な道なのよ」
「なるほど、すっごい太い並木がつづいとうけど、葉がぜんぶ落ちてしもて骸骨[#「骸骨」に傍点]やもんな。それにカーカーと墓場のような声で烏《からす》も鳴いとうし……」
土門くんは朝早々(恒例となっている)縁起の悪いことをいって、歴史部の四人は、その並木にそってある歩道を左のほうに歩きはじめた。道ぞいには商店が立ちならんでいるが、まだ大半シャッターをおろしたままである。
車道は二車線で一方通行のようだが、走っている車はそう多くない。太い並木は、高さ五十センチ・幅二メーターほどの石積みの塀《へい》で囲まれてあって、土が盛られていて黒緑色の下草を茂らせている。それが道の両がわにあり、その外がわが歩道だから全体的にはかなり幅広の道だ。そんな並木道が、まっすぐに二百メーターほどつづいている。
「しょやけど、なんちゅう寒《しゃむ》さやぁぁぁ……」
歩きはじめてすぐに、両肩をスルメイカのようにすぼめながら土門くんがいった。
空は、青空がところどころ見えてはいるが九割方は白雲で、陽は照っていない。それに大寒波が襲来ちゅうであることは重々わかっているから、四人ともふかふかのダウンジャケットを着用だ。――色は背の高い順に、瑠璃紺《るりこん》(枯れた青紫色)、御召茶《おめしちゃ》(高貴な青緑色)、一斤染《いっこんぞめ》(ひかえめな淡い紅色)、猩々緋《しょうじょうひ》(鮮やかな冴えた赤色)で、まな美のそれだけフードつきである。
百メーターほど進むと、左手がわは窓がほとんどないモダンな建物になった。しかも五、六階建てで長々とつづいている。ここもまだシャッターはおりているが、どうやら百貨店のようだ。
そして右手がわの植え込みの中に、武者姿の銅像が立っていた。前には黒くて艶やかな板石がおかれ、白文字で説明が刻まれてある。
「にゃになに……源義家《みなもとのよしいえ》公と、けやき並木《にゃみき》」
土門くんは寒さで口がまわらないふうにいう。
「へー、ここは『馬場《ばば》大門けやき並木』いうて、国の天然記念物やそうや。源|頼義《よりよし》と義家の父子が、奥州平定の『前九年《ぜんくねん》の役《えき》』のさいに、大國魂神社に戦勝を祈願し、勝ったんでお礼として、けやきの苗木千本を寄贈したことにはじまる。その後、たびたびの暴風雨と、昭和二十四年のキティ台風によって、けっこう折れた。……東京府中ロータリークラブ」
土門くんが適当に略して読んでいると、マサトが、肩にかついでいた重たそうなカメラ鞄《かばん》の中から大型の一眼レフ・カメラをとり出して撮影をはじめた。彼は、歴史部では写真担当なのである。
「ちなみに『前九年の役』とは、一〇五一年から一〇六二年までで、実際は十二年ほど戦《たた》こうとったんやけど、誰かが勘違いして以来ずーっとこう呼ばれとう」
すこし先には、府中市観光協会の案内板も立てられてあって、
「……このけやき並木は大國魂神社の参道[#「参道」に傍点]で、江戸時代には、こっから五百メーターほど北に木製の一之鳥居《いちのとりい》が立っとった。そして現在は昭和二十六年に寄進された大鳥居、つまり二之鳥居が境内《けいだい》に立っとうそうや。……てことは、参道の上に駅がまたがっとう造りなんやな」
土門くんは、後ろをふり返って見ながらいった。
「というより、京王線の駅と大國魂神社が合体している造りなのよ」
「姫そこまでいうんはどうかと思うぞう。しょやけど、おぉぉぉぉ〜しゃぶ!」
土門くんは、心底ふるえているようだ。
マサトがおなじ場所でぱしゃぱしゃと何枚も写真を撮るので立ち止まらざるをえず、身体が暖まらないのである。だが、まな美と弥生は顔を見あわせて、くすくすと悪戯《いたずら》っぽく笑っている。
その先で、車道はT字路になっていたが、広々とした参道はさらにまっすぐつづいている。
四人は信号のある横断歩道を渡った。
「うわあ、すっごい大きな石に書いとうなあ。それに魂《たましい》のとこに、いっかにも魂がこもってそうや」
――大國魂神社。
骨太の達筆な字で彫られているやや古びた石柱がでーんとつっ立っていて、そして注連縄《しめなわ》が巻かれている太い神木が左右にそびえ、天に向かってわっと枝をひろげている。
「葉っぱがあらへんからなあ……」
土門くんはいかにも何かいいたげだが、その二本のけやきの大木には低い朱色の柵囲《さくがこ》いがしてある。
そして、そこから先は境内――神域である。
十メーターほど先で、石壇にのった狛犬《こまいぬ》を左右にしたがえて、見上げんばかりの御影石《みかげいし》の大鳥居(二之鳥居)がお出迎えだ。
が、土門くんひとり、つつつーと右がわに逸《そ》れて小さな赤い鳥居のほうに歩いていく。その周辺だけ、まだたくさんの落ち葉が積もっていて、黄色いので銀杏《いちょう》のようだが、彼の巨大なスニーカーに踏まれてさくさくと乾いた音をひびかせた。
「……土門くん。それはお稲荷《いなり》さんよ」
まな美が背後から声をかけた。
「ほ、ほんまやあ。狛犬《こまいぬ》のかわりに、赤い|前掛け《えぷろん》をつけたお狐《きつね》さんが座っとう」
その稲荷の社《やしろ》は、ごくありきたりの古びた朱色の木造で、土門くんは中はのぞかずに(手もあわせずに)踵《きびす》を返した。
まな美の影響で神社仏閣《じんじゃぶっかく》にはそこそこ慣れてきた土門くんではあったが、お稲荷さんは……ちょっとこわい、が正直な感想だ。
四人は、あらためて大鳥居をくぐって、参道を先へと進みはじめた。
木立に囲まれた幅十メーターほどの道だが、定規《じょうぎ》でひいたかのようにまっすぐな石畳が中央にとおっていて、左右は砂利《じゃり》だ。さらに縁石があって一段高くなった地面に木々が植わっている。落葉樹(骸骨《がいこつ》)にまじって杉などの常緑樹もある。車の音などは後方に遠のき、神域らしい静寂に包まれてきた。
人は、ちらほら歩いている。
だがその幾人かは陰《かげ》≠ニ呼ばれている御神《おんかみ》・天目マサトの私的な護衛で、いついかなる場所でも目立たぬよう遠巻きにつき従っているから、歴史部の面々が気にかける必要はない。とくにまな美と土門くんは――。
「提灯《ちょうちん》がきれいに並んでいますよね」
弥生が、前方を見上げながらいった。
店や銀行などの屋号入りの白地の提灯が、横二十個ほどで五段に、いわば横断幕のように掲げられてあって、それが先々まで何幕もつづいている。
「もうじきお正月だから出してるのね。もちろん、お祭りのときにも出るはずだけど」
「そやそや、さっきのけやき並木の案内板にも書いてあったぞう、たしか、くらやみ祭り……とか?」
「それは五月の連休にあるお祭りね」
「くらやみ祭りやで姫、くらやみ祭りぃ[#「くらやみ祭りぃ」に傍点]〜」
土門くんは、いかにもいかがわしそうにいって、
「そうそう、想像どおりのお祭りよ」
まな美は冷たくあしらう。
「え? ほんまか? ほんまか?……」
「わたしは夏にあるすもも祭り[#「すもも祭り」に傍点]のほうが好きだわ。この参道にそって、すももを山積みにして売っているお店がたっくさん出るの」
「え? すももだけ売るん?」
「すももにもいろんな種類があるのよ。赤に黄色に紫にと色もさまざまだし、笊《ざる》で好きなのが選べるの。網の袋に入れて店先にも吊るされていて、もうそこらじゅうがすももだらけで楽しい気分になるわよ」
「それは素敵そうですね。そのお祭りには、わたしもぜひ来てみたいです」
「たしか夏休みに入ってすぐのころよ。じゃあ水野さんいっしょにね」
女子ふたりは、きゃっきゃと喜んでいる。
「天目、自分らはくらやみ祭りのほうがええなあ」
その問いかけには、マサトは、そっぽを向いていて応えない。
「それに東洋では、桃やすももは神聖な果物なのよ。あの淨山寺のお地蔵さまも、すももの木から彫った、そんな伝説だったでしょう」
「あ、そやったそやった。すもももももも……おぉぉぉぉ〜しゃぶ!」
土門くんは思い出したかのように身ぶるいする。
「それとすもも祭りのときにだけ、神社の売店で、烏《からす》の絵の団扇《うちわ》が売られているわ。いわゆる八咫烏《やたがらす》なんだけど……」
まな美が謎めかしてつぶやいた。
が、土門くんには聞こえなかったのか、
「ぉぉぉ〜鳥居がある。そこそこ立派なぁぁぁ」
ふらふらと左に折れて、参道から直角にひかれている細い石畳のほうに歩いていく。身ぶるいをつづけながら。
「これはとっても重要な神社よ」
まな美は、こころ新たにして解説する。
「この石の鳥居は、明神《みょうじん》鳥居と呼ばれていて、くぐってきた大國魂神社の大鳥居と、おなじ形式ね」
三人も、その細い石畳に歩を進めた。
鳥居の先には、左右に小さな石の灯籠《とうろう》が立っていて、左に金属製の案内板があって、さらにもう一対古い石灯籠が立っていて、その奥が社殿だ。狛犬は見あたらない。
「こちらに祀《まつ》られているのは、天鈿女命《あめのうずめのみこと》ね。あの天《あま》の岩戸《いわやと》のシーンで、踊った女神さまね」
日本の神話の中でもよく知られている一幕なのでまな美が簡単に説明すると、
「摂社《せっしゃ》! 宮之盗_社《みやのめじんじゃ》」
土門くんが、いかにも拙者[#「拙者」に傍点]というふうに案内板を読みはじめた。
「この神社の創立は大國魂神社と同《おん》なじで景行天皇の御代……一一一年[#「一一一年」に傍点]であると伝えられ、古くから芸能の神、安産の神として崇敬されている。例祭日は七月十二日で、文治《ぶんじ》二年……一一八六年、源|頼朝《よりとも》より武蔵国じゅうの神職に天下太平の祈願を行うよう令して以来、毎年この日の夕刻より翌朝にかけて、国じゅうの神職が参加し終夜|神楽《かぐら》を奏し祈祷《きとう》が行われた。この祭りは青袖《あおそで》・杉舞《すぎまい》祭りといわれる。今は国じゅうの神職は参加しない。また、頼朝の妻|政子《まさこ》が当社に安産を祈願したという伝えもある。安産祈願のおりに願いを託した絵馬を奉納し、無事願いが叶うと御礼に底のぬけたひしゃくを納める風習が今でも行われている。……北多摩|神道《しんとう》青年会」
絵馬は、和服姿の女性が手をあわせている絵柄で、社殿の左わきに、絵馬を立てかける木の棚がおかれてあって、ひしゃくを挿《さ》す竹筒が立っている。
「そやけど、この一一一年いうんは、あかんぞう」
土門くんは、以前の話をぶりかえさせていう。
「あのへんで年代が確定してるんは卑弥呼《ひみこ》ぐらいで、亡くなったんが二四七、八年や。そのお墓を箸墓《はしはか》やとすると、つまり倭迹迹《やまととと》ひももも……おぉぉぉぉ〜しゃぶ!」
説明の途中でふるえはじめた。
この宮之盗_社の周辺はとくに常緑樹が多く、うす暗くて、いっそう寒々とはしている。
「ふふふ……そろそろ許してあげようかしらね」
まな美は、弥生に目配せをしていうと、手にもっていたリュックから薄っぺらい何かとり出して、しゃかしゃかと音をたてながら土門くんに手渡した。
「……あ! ほかろんやんか! み、みんなこんなええもん使《つ》こてたんか?」
「駅の改札のところで配ったのよ。土門くんひとり遅れてきたから、もらい損ねてるの」
「そ、そういう罰[#「罰」に傍点]があったとは……そやけど、これすぐには暖まらへんのとちゃうかったやろか」
包みを破ると、土門くんは両手で拝むようにもって、しゃかしゃかふっている。
「摂社[#「摂社」に傍点]……というのは、本社ととくに縁が深い神さまが祀られている神社で、その他は末社《まつしゃ》というのね。だから入口のところにあったお稲荷さんは、末社」
まな美は説明を再開していう。
「このお社は、前から見ると四本の柱が立っているから、つまり間隔は三つなので、三間社流造《さんげんしゃながれづく》りね。比較的多くある形ね……」
くすんだ朱色の社殿で、屋根も似たような色である。賽銭箱《さいせんばこ》はおかれているが鈴などはなく、柵がしてあって壇上にはあがれない。三間のうち左右の二間には障子の戸がはまっていて(障子に見えるのは白いガラスのようだが)、中央は木の二枚扉だ。障子戸の上には色あせた奉納絵がかかっていて、大正八年という年号が見える。中央の扉には可愛らしい小窓があいていて、それはハートを逆立ちさせたような形で……いや、桃(すもも)もしくは宝珠《ほうじゅ》を模《かたど》っているのかもしれないが、そして、その扉の上には神社名が書かれた(かろうじて字が判読できる)古びた額がかかげられてある。マサトは、そのあたりを順ぐりに写真におさめながら気づいたことがあった。
大正時代の奉納絵には、宮乃盗_社と墨書きがあり、土門くんが読んだ案内板と乃の字がちがう。それは許せるとしても、古い額はさらにちがっていて、
――宮乃賣神社。
賣は、売の旧字である。
まな美が、社殿の右がわに廻りこんでいきながら説明をつづける。
「この神社の、ちょうど後ろあたりから東がわに、武蔵国府の国庁《こくちょう》跡が発見されているの」
「えっ? こ、こんなとこにあったんかあ……」
土門くんはいかにも意外そうにいい、手ではまだしゃかしゃかふっている。
「四角形の塀で囲まれてあって、一辺が百メーターぐらいだったらしいわ」
「百メーターか……けっこう大きいなあ」
「けど、それはあくまでも中央の施設ね。さらに外がわに、何倍かの大きさで塀をめぐらしていたようで、それは国衙《こくが》っていうのね」
まな美は、マサトの写真撮影が一段落つくのを待って、社殿の裏がわへと歩き出した。
そこは立木のあいだに設《もう》けられている大國魂神社の駐車場だ。が、車は一台も停まっていない。それに未舗装で、地面もけっこう起伏があり、車の停車位置は白ペンキでぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]に描かれている。
「ここ、掘ったんやろか?」
地面の砂利を、バスケットシューズ(白地に青のげじげじ模様が入っているナイキの限定モデル)で蹴り散らしながら土門くんがいった。
「……だと思うわ」
「また気が向いたら掘ろ、そんな感じゃなあ」
すると弥生が、さらに前方の、一メーターほど低くなっている駐車場の外を指さしながらいう。
「赤字で、看板に何か書いてありますよう……」
そこはもう住宅街の一角だが、工事用のフェンスで囲まれた更地《さらち》があって、そこに立っていた看板だ。
四人とも目はいい。
「やったあ!……」
小躍りしながら駆けていった。
――埋蔵文化財発掘調査[#「埋蔵文化財発掘調査」に傍点]。
発注者・府中市遺跡委員会。工事件名・武蔵国府保存目的の確認調査(その6)に係わる表土除去等作業委託。施工区域・府中市宮町2―5他。
生《なま》の発掘現場などそうそう見られるものではない。だが今は無人で、フェンスはことのほか厳重だ。ぐるりを歩きまわってみたが、かろうじて見える隙間《すきま》からも、青いシートが地面をおおっていて、様子はまったく窺《うかが》い知ることができない。
「くっ……けちんぼ!」
土門くんが捨《す》て台詞《ぜりふ》を吐《は》いて、一同はしかたなく境内にもどった。
宮之盗_社のとなりには屋根のついている土俵《どひょう》があって、黒っぽい石碑が立っていた。
「なになに……大國魂神社|八朔相撲《はっさくずもう》は、天正十八年八月一日、徳川家康公の江戸入城を記念して、天下泰平、五穀豊穣《ごこくほうじょう》を祈る奉納相撲として始まったもので、幕府より水引幕を献納せられた由緒ある相撲である……そうやで」
土門くんが案内板などをいつも声に出して読むのは、ひとつにはカメラ撮影で忙しいマサトにもわかるように、といった配慮からである。
「大相撲は今は両国《りょうごく》の国技館でやっているでしょう。けど本来は――」
まな美は、その吹きっさらしの質素な土俵を指さしながら、
「ここでやるべきなのよ[#「ここでやるべきなのよ」に傍点]!」
「うん。姫、一理ある」
参道をはさんで反対がわに目を転じると、ガラスと灰色のコンクリートの三階建てで、府中市立中央図書館が立っている。
「あの図書館の奥に白っぽい建物が見えているけど、あれは府中市役所ね」
「……現在の国庁や。昔はあっちにあったんやけど、こっちに移ったいうわけやな」
「東京も、武蔵国に含まれているでしょう。だから本来あそこには、市役所のようなちっぽけな建物ではなく、東京都庁が立ってるべきなのよ[#「東京都庁が立ってるべきなのよ」に傍点]!」
「まあまあ姫、気持ちはわかる気持ちは……」
そのすこし先の左がわには、常緑の木々に囲まれて、威風堂々の白い石鳥居が立っていた。奥の壇上に鎮座している灰紫色の石碑は高さ四メーターほどで、忠魂[#「忠魂」に傍点]、そんな文字が彫られている。
「これは神明《しんめい》鳥居の形式で、まあ、靖国《やすくに》鳥居といってもいいでしょうね……」
まな美は、それまでとはうって変わって、まったく冗談ぽくない慎《つつ》ましやかな口調でいった。
参道の右がわにも、日露戦役記念、などの黒っぽい石碑が立っていて、マサトが、それらも手抜かりなく写真におさめていきながら、そしてようやく大國魂神社の門が正面にせまってきた。
だが、そこはいわば十字路になっていて、けっこう人どおりが多く、キーキーと油切れの音をきしませながら横切っていく自転車も――。
「ここを右に行くとね、すぐ近くにJRの府中本町駅があるの」
「なるほど、とおり抜けの道やなあ……」
舗装道路だが車は通行できないようで、右も左も五十メーターほど先に石の鳥居が立っているのが見えた。だが左のほうでは、だぼっとした鳶《とび》ズボンに地下足袋《じかたび》姿の男たち六、七人が、その石鳥居に長い梯子《はしご》をかけて何かの作業をやっている。
どうやら注連縄を新調しているところらしく、それに梯子にのぼっていた男の背中には江戸の町火消しのような印半纏《しるしばんてん》が――。
「あら、いなせだわ〜ん」
まな美が嬉しそうに鼻にかかった声でいった。
「それ、ばった[#「ばった」に傍点]の一種か〜ん?」
土門くんが悪口をいって、きつく睨まれた。
門は、それほど大きくはなく、緑青《ろくしょう》のふいた銅葺《どうぶ》き屋根がのっている素木《しらき》造りだ。左右には木の塀がつらなっていて、蒸栗色《むしくりいろ》(あわい茶色)のペンキで塗られている。
もちろん門の前には狛犬が、三段重ねの石台にのって鎮座していた。だが左右にすこし離れすぎているせいか、それに苔《こけ》むした暗色でやや小ぶりなので、あまり目立たない。
「えー……当神社は、景行天皇四十一年五月五日に大神の託宣によって創立せられ、武蔵|国造《くにのみやっこ》が代々奉仕して祭務を司《つかさど》った。その後大化の改新により国府がこの地に置かれ、国司《こくし》が祭政を司った。そのさい国内諸社の奉幣巡拝《ほうへいじゅんぱい》の便により、ここに国内の諸神を祀ったので『武蔵総社』と称し、また国内著明の神社六つを祀ったので『六所《ろくしょ》明神』『六所宮』とも称された。鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く……府中市観光協会」
土門くんが、塀の前に立っていた案内板を適当に読みとばした。
「国司は、国中のおもだった神社に定期的にお参りするよう、朝廷から義務づけられていたのよ。でも遠い神社にはそうそう行けないでしょう。だから一ヵ所にまとめてしまって、それが総社[#「総社」に傍点]なのね」
まな美が補足説明をしながら、四人は、太い丸柱に支えられている門のひさしの下に入った。
全体的にくすんだ焦茶色で装飾的な彫りはほとんどない。その代わりにとばかりに、柱の上部や梁《はり》には新旧の千社札《せんじゃふだ》がところせましと貼られている。
「ん? 柱が六本あるぞう。まん中の二本は数えへんから、これは四脚門《よつあしもん》いうんや」
土門くんは以前まな美に教えてもらった。
「これは享保《きょうほう》時代の門らしいけど、当時は神仏習合《しんぶつしゅうごう》だったから、造りはお寺の門ね。でもこちらでは随神門《ずいしんもん》と呼んでいて、かつては随神の像がおかれてあったらしいわ」
もっとも、門の左右に像をおけるような空間《スペース》は今はない。それに頭上には、神社ならではの暖簾《のれん》のようなものがかかっていて、
「こういうんはなんちゅうんや?」
「門帳《もんちょう》よ……門の帳《とばり》と書いて」
まな美は、こともなげに説明する。
それは赤青二色の縦帯《たておび》で区切られた白地の門帳で、菊の紋が二個ずつ配されている。その菊の紋は、高貴をあらわしている紫色だ。
随神門をくぐると、ひらけた中庭のような場所に出る。右にはすこし離れて、近代建築の校倉《あぜくら》ふうの宝物殿《ほうもつでん》が建っているが、黒に金のヒョウタン模様の扉は、朝早いせいかまだ開いていない。左にもすこし離れて二階建ての長屋があるが、こちらは結婚式場だ。その長屋の前に、袴《はかま》をはかせたような独特の形をした古い木造が建っていて、
「あれどっかで見たことあるぞう……」
と土門くんが、つーとそちらに寄っていく。
「右と左に、地面に囲いがあるでしょう。これは鶴石[#「鶴石」に傍点]と亀石[#「亀石」に傍点]と呼ばれているわ。写真をお願いね」
勝手に歩きまわる土門くんは無視され、まな美はマサトにいった。
それらは、地面から五十センチほどつき出ているごつごつした岩で、細い立木に囲まれてある。
「こちらが……亀石ですね」
小さな石柱がわきに立っていて、彫られている文字を確認しながら弥生がいう。
「……ですけど、亀の形はしていませんよ?」
「そうなの。鶴石のほうも、まったく鶴には見えないわ。日本庭園には、対になっている鶴石・亀石はよくあるそうだけど、ここのは離れすぎているわよね。だから何なのか謎の石[#「謎の石」に傍点]で……この大國魂神社の、いわゆる七不思議[#「七不思議」に傍点]のひとつね」
「あら、そんなのがあるんですね……」
弥生も嬉しそうにいい、
「あるわよ。この先つぎつぎと出てくるから」
さも回転寿司のごとくに、まな美は得意げにいった。
マサトが写真を撮りおえて、三人が中央の石畳を進みはじめると、土門くんがもどってきた。
「あれは鼓楼《ころう》や……て。太鼓をたたいて時間を知らせるための塔や。たしか日光にもあった。そやけどここのは古うない。幕末に再建したそうや」
その説明からしても、近くに行って見るまでもなさそうだったので、マサトは歩きながら何枚か写真を撮った。
「それと案内板によると、家康さんが命じた慶長《けいちょう》の造営のさいに、鼓楼と対《つい》に三重[#「三重」に傍点]塔も建てたそうや。そやけど四十[#「四十」に傍点]年後に火事で燃えてもた……」
韻《いん》をふんで笑い話のように土門くんはいう。
「かりに残っていたとしても、明治の神仏分離令で三重塔はどうなったことやら。こちらは仏教の建物だから」
「すると、三重塔はおしゃか[#「おしゃか」に傍点]いうわけやなあ」
ほかろんで身体がぽかぽかと暖まってきたせいか、土門くんは口がよくまわるようになってきた。
右手に木造の手水舎《てみずや》が建っていた。
こりにこった複雑な造りの銅葺き屋根をのせて、竜や鳳凰《ほうおう》や唐獅子《からじし》などの見事な木彫で飾りたてている逸品だ。だがどうしたことか、軒下は目の細《こま》かな金網ですっぽりと囲われている。
「最近お寺や神社から値打ちもんがよう盗まれるいうけど、泥棒よけかあ? それとも崩《くず》れかけとんやろか?」
「たしか鳩よけじゃなかったかしら……なんにしても無粋《ぶすい》よね」
「写真撮られへんやんかな、天目」
「せっかく奇麗なのに、残念ですよね」
そんな不平不満を和気藹々《わきあいあい》と語りあいながら、四人は手を洗って口をゆすいだ。
「わっ! なんちゅう冷たい水や――」
土門くんはさらに文句をいう。
手水舎の先にはもうひとつの門があって、こちらは朱塗りで、おなじ色をした廻廊《かいろう》が塀のように左右につながっている。だが門の手前にはやはり狛犬が居座っていて、
「うんうん、今までで一番立派や」
腕組みをした土門くんが、さも骨董屋が値踏みするみたいに、何度かうなずきながらいった。
人の背丈ほどの、溶岩が吹き出したような奇岩の台にのっていて、緑の苔がビロードの外套《マント》のように背中をおおっている。
「手の下にあるんは玉《たま》や……思たけど、よう見たら子供の狛犬や。狛犬さん阿《あ》・吽《うん》いうけど、こっちがわは阿やろ。あっちがわは……あっちがわも、こころもち阿やぞう」
「狛犬にはいろんな形があるのよ。それもこの大國魂神社の、七不思議のひとつね……」
まな美は、弥生に目配せをしながら、ささやいた。
朱塗りの門は最近の造りで、こちらでは中雀門《ちゅうじゃくもん》と呼ばれている。やはり菊の紋の門帳がさがっていて、くぐると、いよいよ神社の奥座敷といった空間だ。そして長々とまっすぐに延びてきた参道の石畳も、この先二十メーターほどでお終《しま》いである。
正面には、威風堂々とした黒っぽい建物が鎮座している。
「あれが大國魂神社の拝殿《はいでん》ね。手前に張り出してきている大きな三角形のひさしは、千鳥破風《ちどりはふ》……鳥が翼をひろげているような形でしょう。さらにまん中から、小さな曲がったひさしがせり出しているけど、あれは唐破風《からはふ》……あそこが向拝《こうはい》ね」
青黒い銅葺き屋根で、くっきりした横スジの模様が美しい。建物は素木《しらき》造りだが焦茶色にくすみ、屋根の要所に入っている金色の飾り金具が、ほぼ唯一のアクセントだ。やはり目をひくのは大棟《おおむね》(屋根の頂上部の横木)に点々とついている金色の菊の紋だろうか。軒下の左右に吊されている白い提灯や、さらには正面中央下にでん[#「でん」に傍点]と据《す》え置かれている巨大な素木の賽銭箱にも、大きな菊の紋が入っている。
「これは明治十八年だから……」
「一八八五年や」
土門くんがぼそっと注釈する。
「……百二十年ほど前の建物ね。この拝殿の奥には、神さまが祀られている本殿《ほんでん》があるんだけど、そちらは見えなかったと思うわ」
が、石畳の右がわの地面にすこし柵がされていて、ブロックやら砂やら青いシートなどが積まれてあって、さっきからトンカン! トンカン! と金槌《かなづち》の音が響きわたっている。
拝殿の右手奥に目をやると、新しい建物(簡素なプレハブのような)があって、正月をひかえて突貫工事中らしく、ちょっと慌ただしい。
だが四人は、なにはともあれ、向拝のひさしの下に進み入った。
ここには鈴はない。各人が、財布から小銭をとり出して賽銭箱に投げ入れてから、しばし手をあわせた――。
ところで二礼二拍手一礼≠ヘ、明治以降の国家神道のごり押し[#「ごり押し」に傍点]だという理由で、まな美はやらない。土門くんは元来信心深くないし、マサトは自身が神だからするのは変だし、弥生はアマノメの氏子《うじこ》なので他の神は拝まない。つまりそれぞれの理由で、歴史部の面々はそろってやらないのである。
そして参拝を終えるや、
「ぴ……」
土門くんは、愛用のカシオの腕時計《プロトレック》を指でつっつきながら、なにやら首をかしげている。
マサトはぱしゃぱしゃと付近のカメラ撮影をはじめ、重たいカメラ鞄は弥生がもって助手の役目をし、まな美は向拝の軒下を指さしながら、
「マサトくん、この注連縄の、たれさがっている白い紙垂《しで》を撮ってね」
てきぱきと指示を出した。
……ん? 紙垂?
わざわざそのようなものをと、マサトは不思議にも思ったが、とりあえず写真にはおさめた。
賽銭箱の向こうには、五段ほどの木の階段があって、十数枚の格子戸がずらりと並んでいる。
中央上には古めかしい横長の額がかかっていたが象形文字《しょうけいもじ》のような字体で、土門くんが、んーと唸りながら眺《なが》めていると、
「あれは、総社六所宮、と書かれているの」
まな美が教えてくれた。
「そうかそうか、総[#「総」に傍点]、これが読まれへんかったんや。お化けか霊魂みたいな字で」
――たしかに、そのようにも見える。
また、白い提灯の下には、朱色をした大小ふたつの穴があいているだけの簡素《シンプル》で骨董的《レトロ》なおみくじ箱がおかれてあって、弥生が、
「この小さな穴のほうに百円を入れるんですよね」
と、ゆったりしたテンポで物事を進めている。
そして右がわは柵があって工事中なので、四人は左のほうへと歩きはじめた。
くぐってきた中雀門の左がわの廻廊は、お守りなどの神社グッズ売り場である。その先に目をやると、白壁に銅葺き屋根の二階屋が建っていて、社務所《しゃむしょ》である。右どなりには小さな赤い門がついている平屋もあって、そちらは御祈祷《ごきとう》待合所である。
拝殿の背後には、高さ二メーターぐらいの朱塗りの塀がつらなっている。かなりの広い空間を(バスケットボールのコートぐらいだろうか)四角い形で囲っているのだ。まわりには砂利のしかれた地面があって、そして数多くの細々《こまごま》とした施設が周囲をとりまいている。
「中が見えますよ。あそこの囲いの隙間《すきま》から……」
弥生が、朱塗りの塀の拝殿のすぐ後ろあたりを指さしていった。
「あら、ほんとだわね……」
「ほんまや!」
全員、そちらに小走りに寄っていく。
朱塗りの塀は、柱(細長く厚みをもった板)を柵状に並べている造りなので、角度や場所によっては見えなくもないのだ。――囲いの中には平らにならされた地面があって、そして奥に、横に長く独特の形をした朱塗りの木造が建っているのが見える。
「変な造りや!? 扉が三つもあるやんか!?」
マサトもさっそく写真に撮ろうとしたが、レンズが引っかかる。花形のフードを外したが、それでも塀の隙間に入らない。彼が常用しているのは28〜80ミリのズームレンズだが、F2・8という明るさで、つまり大口径レンズなのである。
その様子を見ていた土門くんが、吉田カバン製の苔緑色《モスグリーン》をした|肩掛け鞄《ショルダーバッグ》の中をあさって、なにやら銀ピカの小箱をとり出すと、手にかかげもって、
「でじたるかめらやあ!」
――高らかに宣言した。
が、自身では撮ろうとはしないで弥生に手渡した。
「全自動《おーと》やからぼたんを押せばええ。水野さんに任す」
土門くんの巨大な手だとうまくいかないと予見したようだ。
「どのボタンかしら……このボタンですよね……」
などと弥生はマサトと相談しながら、その小さなデジタルカメラごと、塀の隙間から中にすっぽりと入れて撮影をはじめた。
「えー、東京都指定有形文化財、大國魂神社本殿」
土門くんは、横に立っていた案内板を読む。
「律令《りつりょう》時代国司が国内の大社六社を国府に勧請祭祀《かんじょうさいし》し、武蔵総社または六所社と称したのがこの大國魂神社である。本殿のうち中殿は大國魂大神、御霊《ごりょう》大神、国内諸神、東殿は小野《おの》大神、小河《おがわ》大神、氷川《ひかわ》大神、西殿は秩父《ちちぶ》大神、金佐奈《かなさな》大神、杉山《すぎやま》大神を祀る。この本殿は四代将軍|家綱《いえつな》の命によって寛文《かんぶん》七年三月に完成したもので、その後数回修理を行っているが、部分的に室町時代末期の様式をとどめ、江戸時代初期の神社建築として保存の価値がある。また特異な構造形式は遺例少なく珍しい。構造は九間社流造り、向拝五間、銅板葺、三間社流造りの社殿三棟を横に連絡した相殿造り……東京都教育委員会」
「本殿の奥は九間なんだけど、手前の向拝のところは柱が六本で、つまり五間なのね」
「え?|…………《脳内でイメージでけへん》それ数学的におうとんか?」
「あとから写真を見ればわかるわ」
御祈祷待合所の赤い門の右どなりには、水神社というのがあって、小さな石造りの社《やしろ》についている竜の口からはこんこんと清水がわき出ている……境内の井戸は地下約百二十メーターより汲みあげた御神水です。神様にお供えしたり飲料の他に大切にご使用下さい……との社務所の木の立て札があった。
水神社の右どなりには、重量四八五〇sのさざれ石[#「さざれ石」に傍点]がおかれてあって、皇太子殿下御成婚記念として平成五年に奉納されたそうである。
その右どなりには、松尾《まつお》社の額がかかった小さな石鳥居が立っている。くぐって右がわには、サントリー武蔵野ビール工場(東京都唯一のビール工場)謹製《きんせい》の緑色の大瓶ケースや、大多摩・澤乃井・国府鶴などの東京都酒造組合奉納の地酒の化粧樽が積まれてあって、奥に畳二枚ほどの小《こ》ぢんまりした素木の社殿が建っている。木の案内板によると……松尾神社由緒、祭神は大山咋命《おおやまくいのみこと》、醸造の守護神。寛政《かんせい》十二年(一八〇〇年)に武蔵国の醸造家の懇請《こんせい》により松尾大社(京都市左京区)より勧請せられた神社で、祭神は太古より醸造の守護神と共に開拓の祖神として御神徳高き神であらせられ……とのことだ。
その松尾社の右どなりは、がらりと雰囲気がちがう。そこだけ鬱蒼とした常緑樹に囲われていて、うす暗い場所である。古びた石鳥居が、木々の葉になかば隠れるようにして立っていた。
石段がわずかに二段、笠《かさ》でっかちで竿《さお》がひょろりと細い石灯籠が左右に立っていて、わきには巽《たつみ》神社と彫られた小さな石柱がある。――石灯籠には触れない事、そんな注意書きの立て札はあるが、案内板などは見あたらない。
「こちらは何の神社かというと……」
石段をあがり石鳥居をゆっくりとくぐりながら、まな美が説明をはじめた。
「近くの市場に、市神《いちがみ》さまを祀る神社があって、まあ市場の守護神のようなものかしら。ところが川筋の変更でとり壊しになるので、こちらに遷座《せんざ》させたらしいのね。江戸のなかばごろの話だそうよ。そして祭神は、市杵嶋姫命《いちきしまひめのみこと》。でも実質は弁財天《べんざいてん》ね。商売繁盛の神さまの……」
他の三人もあいついで石鳥居をくぐったが、ここはそう広くはない空間で、もう定員いっぱいだ。
「そうそう、なぜ巽神社って名前かというと、大國魂神社の本殿から見て、辰巳《たつみ》、つまり東南の方向にこの神社を遷座したから……らしいわ」
奥には、石の台にのった焦茶色をしたごく小さな社《やしろ》がおかれている。
土門くんは、まな美の説明をよそに、地面にしゃがみ込んだ。
社の手前には、やはり左右に狛犬が座っているのだが、苔むしていて古びて黒ずんでいて小さいので、目線を下げないとよくわからないのだ。
「……うんうん。今までに見てきた中で、一番ぶさいくや」
それが土門くんの出した結論だ。
「愛嬌《あいきょう》のある顔をしていますよね。どこか河童《かっぱ》みたいで……」
弥生も、くすくす笑いながらいう。
――ん!?
その狛犬の片方を写真に撮っていて、マサトはおかしいことに気がついた。
「あれ? あんゃ!」
土門くんも、右と左を見比べて気づいたらしく、
「姫。この狛犬は絶対変やぞう! あきらかに逆になっとうで。これやと狛犬さん吽・阿や!――」
「うん、そうよ」
まな美は、こともなげに肯《うなず》いてから、
「この大國魂神社は、いろんなものが逆になってて、俗に、鏡の神社[#「鏡の神社」に傍点]、ていわれているぐらいなのよ〜」
と語尾をふるわせて嬉しそうにいう。
「な、なんやてえ〜」
土門くんも語尾を長々とふるわせる。
「麻生先輩が、先ほどらいおっしゃっておられた、七不思議ですね」
「そうよ。じゃあこのあたりで、大國魂神社の七不思議の全貌《ぜんぼう》を、みんなにも教えてあげるわね」
「それ知っとうぞう」
土門くんが、みょ〜なことをいい出した。
「ひとつ、待つのは嫌《いや》やーと神さんがいいはったせいで、神社の境内には松の木がない。ふたつ、境内にはたくさんの鳥が飛んどうけど、本殿の屋根にはけっして糞《ふん》は落とさへん。みっつ、境内のどっかに立っとう樅《もみ》の木からは年がら年じゅう雨のように雫《しずく》がふってくる。よっつ、えー……もう覚えてへん。ともかくもやな、大國魂神社の公式ほーむぺーじいうんがあって、そこに出とったぞう」
「うんうん、予習してきたことは認めてあげるわ」
まな美は、小学校か幼稚園の先生のように褒《ほ》めていってから、
「それらはいわば、おもて向きの七不思議ね。あたり障《さわ》りのないことが書かれているのよ。わたしがいおうとしているのは……」
「つまり、あたり障りがある話なんやな? 神社にとっては!――」
土門くんは興味津々の表情でいう。
「障りがあるとは断定できないけど、どっちにせよ、一般にはあまり知られたくないわぁ、といった感じの不思議ね。さっそくだけど土門くん、さっきデジタルカメラで撮っていた本殿の写真、見られる?」
「おう、見えるで」
ふたつ返事の土門くんは、弥生から返してもらって上着のポケットにしまっていたそれをとり出すと、ボタンをひとつだけ押して、まな美に手渡した。
「うーん……このカメラの液晶じゃ小さすぎるわ。もっと大きなので見られないの?」
わがままな姫を、土門くんはひと睨みしてから、
「しゃーあらへんなあ、そやったら店開きしょっか、もうちょっと広いとこに行って――」
すたすたと鳥居をくぐって外へ出ていく。
そして苔緑色《モスグリーン》の|肩掛け鞄《ショルダーバッグ》を石段の横の石積みの上におろすと、中から紅柄色《べんがらいろ》の歴史部《ノート》パソコンをとり出して、鞄《バッグ》を下敷《クッション》きにして蓋《ふた》をあけてスタンバイさせた。かたやカメラの底をあけてメモリーカードを抜きとると、小さなカードリーダに入れて、それをパソコンのUSB端子にさし込んだ。
「店開き、完了やあ!……」
土門くんは、日ごろこういったことはよくやっているらしく、手慣れたものである。
そして他の三人も、歴史部《ノート》パソコンの液晶画面《ディスプレイ》に顔を近づけて、のぞき込んだ。
「……あら、お皿の写真じゃない?」
古伊万里《こいまり》の染付《そめつけ》(白地に藍)で唐獅子が三匹いる牡丹唐草《ぼたんからくさ》文様の丸皿のそれだ。
「し、しまった。消してへんかった」
土門くんは頭をかきかきしながら、
「このかめらは元来業務用なんや。うちの店もほーむぺーじを持っとって、それに載せる売り物《もん》の写真を撮っとうねん……」
言い訳しているうちに、さっき撮られた大國魂神社・本殿の写真が画面いっぱいに表示された。
「どう? そこにも狛犬がいるでしょう」
「あ……これが狛犬か。階段の陰に立っとうけど、金色と鼠色《ねずみいろ》のやつ……」
本殿は、正面から見ると向拝は五|間《けん》で、十段ほどの階段が三つ(三間)あって、つまり隙間がふたつあり、そこにおかれているのだ。
「スマートですね。狛犬というより、どこかエジプトの猫のようですけど……」
弥生も不思議そうにいう。
「その鼠色というのは、銀箔《ぎんぱく》ね。つまり金と銀よ」
「銀が酸化しとんやなあ。そんなことより、ここの狛犬も左右が逆で、吽[#「吽」に傍点]・阿やぞう!――」
ウンのところに渾身《こんしん》の力を込めて土門くんはいうと、すじでもちがえたのか、首の後ろを手でさすっている。
「じゃあつぎの七不思議にいくわね」
まな美は、あくまでも冷静にいう。
「その写真にちょうど写っていたわ。階段の上、向拝の軒下に、注連縄《しめなわ》が張られているでしょう。そこから白い紙垂《しで》がたれ下がっているけど、その一枚だけを大写《アップ》しにできる? 土門くん……」
「できるでえ。この白い紙のとこでええねんな?」
と、マウス矢印《ポインタ》の先で確認してから、土門くんは、紙垂のひとつを画面いっぱいにまで拡大させた。
「――ここに、実物[#「実物」に傍点]があるわ」
まな美は、すぐ後ろに立っている巽神社の石鳥居についていた紙垂[#「紙垂」に傍点]を指さしていってから、
「一見おなじなんだけど、この両者はちがっているのね。見比べてみるとわかるわ」
「ええー……?」
土門くん、のみならず弥生も、そしてマサトまでもが声に出して疑問符を呈してから、
「……ふむ。これは近づけたほうがええ」
その歴史部《ノート》パソコンを片手でひょいと持ち上げると、土門くんは石鳥居に歩み寄っていく。
細い注連縄が左右の丸柱に巻かれて張られてあって、たれさがっている紙垂は、手で触れるほどの高さにある。
そしてしばらくは、三人で写真画面と実物をながめすかししてから、先陣をきって弥生がいう。
「やはり麻生先輩のおっしゃったとおりで、鏡になっていますよね」
土門くんも同意してうなずいてから、
「この紙垂いうんは折り方がいまいち[#「いまいち」に傍点]わからへんねんけど、その折り方が逆や! いうことはわかったぞ」
まな美は笑いながら、
「折り方は実は簡単なんだけど……半紙の切り方のほうにコツがあって……ともかく、折っていく方向が逆[#「逆」に傍点]なのね」
「そやったら、これどっちが正しいんや? どっちが標準なんや?」
「もう断然、こちら――」
まな美は見えている実物[#「実物」に傍点]のほうを指さしていい、
「大國魂神社の本殿の紙垂は、それと拝殿の軒下にあった紙垂もそうなんだけど、この二ヵ所だけがちがっているのね。もう例外中の例外で――」
あ! それで写真を撮るようにと彼女は……マサトは今ごろになってようやく謎が解けた。森羅万象《しんらばんしょう》のすべてを見通せる彼ではあるが、歴史部員として徘徊探索調査《フィールドワーク》中には神の能力を使ったりはめったにしないのだ。そんなの興醒《きょうざ》めではないか……。
「――ここ以外には、こういった逆の折り方をする紙垂を使っている神社は、わたしは知らないわ」
「へー、なんでここだけが逆なんや?」
「土門くん。それをわたしに聞かれても困るわ。だって、それが七不思議のひとつなんだから」
「まあ、いわれてみれば」
土門くんは、とりあえず納得してうなずいた。
「じゃ、つぎの七不思議にいくわね。これは土門くんも気づいていたようだけど、拝殿のところでお参りをすませた直後に、腕時計を、ぴ……と」
「あ! 思い出したぞう」
「ところで、今日はどっちをしてるの?」
「古いほうや。あのGPS腕時計は部費で買うてもろたんやけど、大きゅうて重とうて最近|使《つこ》てへんねん。緯度や経度はいんたあねっと[#「いんたあねっと」に傍点]の地図でも詳しゅうわかるから……」
土門くんは、うだうだと言い訳めいたことをいってから、
「ともかくもやな、手をあわせて拝んどったら違和感をばりばりに感じてきて。自分にはこうーなんちゅうか、もって生まれた野生の勘いうんがあって」
「なにが野生の勘よ! 骨董屋のくせして!」
まな美は小声で文句をいう。
「それにやな、参道を歩いとったときから、変やなあーとは思とったんや。北から、南に向かって歩いてきたやろう。そしてそのまままっすぐ建物《たてもん》にぶつかった。すると案の定、拝殿は、本殿も同《おん》なじやけど、真北[#「真北」に傍点]を向いてたやんか!? ぴ」
土門くん愛用のカシオの腕時計・プロトレックは方位・気温・気圧などが測定できる。が、ぴ……は腕時計から音が発せられているわけではなく、彼が口でいっているのである。念のため。
「――姫、こういうんはありなんか? 真北を向いとう神社はふつうなんか?」
「ううん。まったくふつうじゃないわよ。めったにないと思うわ」
「そやったら、なんでや!?」
土門くんは、ぶっきら棒に問う。
「それをわたしに聞かれても。だから再々《さいさい》七不思議だっていってるでしょう!」
まな美は怒っていってから、
「じゃあつぎにいくわよ。あそこに、本殿の屋根が見えているでしょう……」
と、すぐ右ななめ上を指さした。
四人が今いる場所は境内の南東(巽神社の巽[#「巽」に傍点])の角っこで、つまり本殿の背中がわが見えているのである。もちろん朱塗りの塀があって下半分は隠れているが。
「こちらに見えている屋根の端《はし》っこを妻《つま》というけど、その妻の上に、神社独特の飾りで、棒が二本ついてるでしょう。バッテンの形をして……」
「兜《かぶと》の角《つの》みたいにも見えとうやつやな」
マサトは、それらを一眼レフ・カメラのファインダーごしに見て、写真を撮りはじめた。
「あの飾りのことを、千木《ちぎ》というのね。その千木に関してなんだけど、上の端の切断面、これが垂直に切られている場合は、そこに祀られている神さまは、男神《おとこがみ》。水平に切られている場合は、女神《おんながみ》。そんな俗説[#「俗説」に傍点]があるのよ」
「どっちやあ?……」
大國魂神社・本殿の屋根にある千木の上端の切断面は誰がどう見たって、……水平である。
「それともうひとつ。千木と、向こうがわの千木とのあいだの、屋根の棟《むね》に、円い横棒が等間隔にのってるでしょう……」
「魚の骨みたいに見えとうやつやな」
「まさにそうなんだけど……あれは鰹木《かつおぎ》っていうのね。その本数が奇数の場合は、祀られている神さまは、男神。偶数の場合は、女神。これもそういった俗説[#「俗説」に傍点]があるのよ」
「何本やあ?……ひぃふぅみぃよぉいつ……」
大國魂神社・本殿の棟にのっている鰹木の本数は誰がどう数えたって、……八本《やあ》、つまり偶数だ。
「屋根にある千木と鰹木、どちらからいっても、さし示しているのは女神《おんながみ》。つまり祀られているのは、女神《めがみ》さまってことになりますよね」
弥生が、結論を整理していった。
「――姫。自分が立《た》て看《かん》を読んだやろう。東京都教育委員会のやつ。神さんの名前がたっくさん書いてあったけど、あんなかに女神さんがおったんか?」
「国内諸神にはもちろん含まれているけど、とくにいないわ」
「そやったら、どないなってるんや[#「どないなってるんや」に傍点]!?」
土門くんは喧嘩腰でいう。まな美とは身長差が三十センチほどあるから頭ごなしに。
「だから再々再々いってるでしょう。それが七不思議だって!――」
「ふ〜ん」
土門くんは一転しまりのない笑顔になって、
「やー、優秀な姫のこっちゃから、謎をふるからには、きっとみずからで解いとってにちがいあらへん、思て鎌《かま》をかけてみたんやけどー……?」
「残念だったわね」
機嫌をなおして、まな美はいう。
「実際わたしは解いてないわよ。けど大國魂神社の七不思議は、この裏の七不思議も、そこそこ知られているのね。ここは有名な神社だから……」
「ふーん、ということは、みんなそれなりにちゃれんじ[#「ちゃれんじ」に傍点]しとってやねんなあ」
察して、土門くんはいった。
[#改ページ]
そのころ、T大学の『情報科』の資料室のドアをノックする人影があった。
比較的若い男で、青色《ブルー》系のアイビーストライプのネクタイを凜々《りり》しくしめて、細身の|濃い藍色《ネイビーブルー》のスーツに身をかためている。
が、コートは着ていないし手にも持っていない。車の中に置いてきたからだ。この文学部本館の建物に横づけして停車させた。ふつうそういった場所に停めるのは憚《はばか》られるが、男が乗ってきたチャコールグレイ(目立たない鼠色)の車は一見普通車だが実は特殊車両なので、まず咎《とが》められることはない。
しばらく待ったが、室内からは応答がない。
男は腕時計に目をやった。
――十時半である。
もう来ているころだろうとふんで訪ねてきたのだが、よみが甘かったようだ。それに、時間を約束したわけじゃなかったので、先方のせいにはできない。
出直そうか(車にいったん戻ろうか)などと考えていると、ガチャ、と音がして、となりの『情報科』の研究室のほうのドアが開いた。
若い女性が、ひょこんと顔を出した。
白衣をまとっていて、赤縁《あかぶち》の眼鏡《めがね》をかけている。それに頭につけたふわふわっとした白い|髪留め《カチューシャ》が、どこか、最近東京の秋葉原|界隈《かいわい》で流行《はや》っているとかいう……ご主人さまお帰りなさいませ……の喫茶を彷彿《ほうふつ》とさせた。無論、男の趣味ではないが。
それに、ここには何回も訪ねてきていた彼ではあったが、その女性とは面識がない。上着の内ポケットに手を入れて黒い手帳をとり出しながら、
「あのう、自分は……」
自己紹介しかけると、バタンとドアが閉じられて、その彼女は部屋の中にひっこんでしまった。
……ふむ!?
そしてしばらくすると、資料室のほうの施錠が内がわから解かれて、ドアが開いた。
さきほどの女性が顔を出して、どうぞどうぞ、と手招きをするので、室内に入ると、彼女はくるりと背中を向けるや、書棚だらけのせまい通路をとっとと先に歩いて行く。そして内扉をすーっとくぐって、となりの研究室に入ってしまった。
男はけっきょく、自己紹介できずじまいだ。
ま、何かにつけて他人とタイミングがあわない、そんな人間がときおりいるが、彼女はそうなのかもしれないと男は思った。
ともあれ、勝手知ったる部屋とばかりに、奥まで歩いていって、赤いソファに腰をおろした。
そして毎度思うことだが、なんと場違いでゴージャスなソファであることか! それに今日は、いつもお茶を運んできてくれる美人で上品な助手の先生がいないようなので、男は、ちょっとがっかりだ。
そうこうしていたら、突如、映画『ロッキー』のテーマ曲が聞こえてきた。
――男の携帯電話の着メロだ。
彼は、学生時代にボクシングをやっていたこともあって、着メロはずーっとこれで通している。
「はい。……あ、岩船《いわふね》さん」
部署は異なるが、上司からの連絡であった。
「……ええ、今ちょうど先生の研究室に来てるんですよ。ですが、まだお見えになってなくて……ええ、その後変化なしですか……いったい何やってんだろ犯人は?……はい、もちろん、そのつもりで来ていますので……ええ、何としてでも神さまに[#「神さまに」に傍点]」
男は、ひそひそ声になって、
「あの神さまの少年の力が借りられるよう、精一杯先生にお願いしますので……そうですね、たしかに時間の余裕がありませんよね……それも重々わかっていますから……はい。……はい」
―――
[#改ページ]
「……みんなのちゃれんじ[#「ちゃれんじ」に傍点]は、何点ぐらいなんやあ? 姫が採点するに」
「まあ、三十点ってところかしら」
まな美は酷評《こくひょう》していい、
「どの謎解きも、いわゆる芯[#「芯」に傍点]のようなものがないのね。雰囲気で論を展開させていってるだけで」
「そやったら、自分らにも、この七不思議を解ける余地がまだまだ残っとういうわけやなあ、ふむふむふむふむ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ……」
土門くんは嬉しそうにいってから、なおも無気味に笑いつづける。
パソコンを|肩掛け鞄《ショルダーバッグ》にしまって歩きはじめると、すぐ左に案内板が立っていた。
「ふ、ふ、ふ……府中市指定文化財・市天然記念物。大國魂神社境内樹木の一部」
――土門くんが読む。
「境内の樹木群のうちには、特に大木や巨木が多く、その長い歴史の流れの中にあって、ここを訪れる人々を見守り続けている。中でも本殿の裏手にある大銀杏《おおいちょう》は、幹の周囲(目通《めどお》り)八・六メートル、樹高二十・三メートルの巨木で、大國魂神社の七不思議に数えられ……。姫! ここにも七不思議があったで! 七不思議が!……府中市教育委員会」
「それは公式《おもて》の七不思議ね。裏の七不思議にも通じてはいるんだけど」
「そやけど、どこにあるんや? その大銀杏とやらは……」
土門くんは(マサトと弥生も)目の前に茂っている境内林の中をきょろきょろと見廻した。
「大銀杏の木は、林の中じゃなくって、通路の先にあるのよ」
「な、なんやてえ……すると、あのお化けみたいに見えとう木か? まだ百メーターも先やんか!」
そんなにはないが、三十メーターほどは先だろうか。四人は、その通路を進みはじめた。
右がわには本殿の背後の塀がつらなっていて、左がわは鬱蒼とした林で、とくになにもない。まさに境内の裏[#「裏」に傍点]といった場所である。
「そやけど、これ南面《みなみめん》なんやろ? ぴ」
「そうよ」
「やっぱり、なんもかも逆《さか》さまなんやなあ……」
マサトが、立ちどまり、立ちどまりしながら写真を撮りはじめた。近づくと巨木の全景が写らないからである。
「残念ですよね……また来年の秋にでも……」
背後から弥生がささやきかけている。
その大銀杏は、もちろんのこと葉がすっかり落ちてしまっていて、だが黄色い落ち葉が吹きだまってまだ地面のそこかしこに積もっている。
「ところで姫、これはどういう七不思議なんや?」
「もう見えてきたからわかるけど、根の部分がすごいでしょう」
「おう、地面にあふれ出して小山みたいになっとうな」
「あの根のところに小さな貝が棲《す》んでいたらしく、今でもいるのかどうかは知らないけど、その貝を煎じて飲むと薬効があるって噂になって……」
陸棲のキセル貝が生息していて、産婦の乳が出ないときに煎じて飲むと乳の出がよくなる。もしくは不妊治療に効く。あたりが正しい言い伝えで、まな美はもちろん知っていたが土門くんの手前語らない。
「……けっこう根がほじくり返されたらしいわ。それが公式《おもて》の七不思議ね」
「裏にも通じとんやろう。そやったら裏[#「裏」に傍点]は?」
土門くんはがつがつと飢えてるように聞く。
「ここの大銀杏は、銀杏としては東京都では二番目の木なのね。全国でも三十位ぐらいには入るそうよ」
「な、なんとまあ……」
「もちろん大國魂神社では、一番に太いご神木ね。そんな大木が、このような境内の裏のすみっこに人知れずひっそり立っている」
まな美は言葉を重ねて強調していい、
「それが変でしょう?」
「あ……いわれてみれば」
「鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》でも、そして荏柄天神社《えがらてんじんしゃ》さんでも、おもての一番目立つところに立っていましたよね、大銀杏の木は……」
弥生は、ひと月ほど前に四人で行った江ノ島と鎌倉への旅を思い出していった。なお、彼女が歴史部の探索旅行に加わった、それが最初である。
「それとさっきの、巽神社、これも七不思議のひとつね。もちろん裏のほうの」
「なんでや!?」
「それは見たとおりで、狛犬が逆になっていたでしょう。それと、となりにあった松尾神社、こちらの祭神の大山咋命は、たしかに醸造の神さまではあるんだけど、比叡山《ひえいざん》の山神《やまがみ》で、あの山王《さんのう》よ」
「あっ、山王|一実《いちじつ》神道の山王[#「山王」に傍点]やなあ、天海僧正があやつったという……」
「もちろん日吉大社《ひよしたいしゃ》や日枝神社《ひえじんじゃ》の祭神でもあって、永田町にある日枝神社は、皇居の裏鬼門を守っていて、皇城之鎮《こうじょうのちん》、て額もかかっているぐらいで」
「……ちん?……」
土門くんは極小の声でつぶやく。
「つまり、それぐらいに有名な神さまってことね。それとこちらがわには……」
まな美は、大銀杏の右手がわに顔を向けながら、
「木の陰になって見えにくいけど、あそこに建っているのは、東照宮《とうしょうぐう》ね。その向こうには、住吉《すみよし》神社と大鷲《おおとり》神社があるのよ」
それらは境内の西面にあって、松尾神社などは東面にあったのだ。なお大銀杏の木は南西の角っこにそびえている。
「水神社はさておき、松尾神社も含めて、いずれもが錚々《そうそう》たる神社なのね。ところが、巽神社は、元はといえば市場の守護でしょう。神さまに優劣をつけるのは烏滸《おこ》がましいけれど……」
まな美はしおらしくいってから、
「格が、断然落ちるのよ。ここは総社で、格式的には最上位だから、そこに市神社などを遷座してくる、のがそもそも不思議なの。それに神社の名称まで変えてしまっているから、ますます謎めいちゃうでしょう」
「おう、謎めく謎めく。いかにも変や!……」
そして四人は、西面の通路を北に進みはじめた。
素木造りの電話ボックスぐらいの小屋があって、格子戸のガラスごしに中をのぞき見ると、白い馬が口をかっと開いてこちらを睨んでいた。――木造の神馬《しんめ》で、それは神馬舎なのだ。
とそのあたりから、通路が極端にせまくなっていた。新装工事中の簡易建物《プレハブ》のせいである。
右にはその二階屋が迫っていて、左がわは質素な木の塀で囲われている。民家の門のような木戸があるが閉じてあって、その木戸の柱に釘でうちつけられた『東照宮』と墨書きされている粗末な表札が、ほぼ唯一の身の証《あかし》だ。
囲いの隙間から中がのぞけた。
十段ほどの階段がついた高床式のそこそこに大きな社殿が建っていたが、くすんだ小豆《あずき》色で飾りっ気はない。樹木の葉がけっこう茂っていて、うす暗く、冬なのにじめっとした感じで、いかにもうらぶれたといった雰囲気だ。
「あ〜ん、家康さんかわいそうに……」
土門くんにいわれると、よりいっそうみじめさが漂ってくる。
「最初は久能山《くのうざん》に祀られて、一年後に日光に改葬されたでしょう。その旅の途中で、こちらにも一泊しているのね。だから数ある東照宮の中では、由緒は正しいんだけど……」
それにトンカン! トトンカン! と工事の音が騒々しい。
それでなくてもせまい通路なのに資材がおかれ、半完成の建物の窓からは、ガー……となにかを削る音とともに、パパパパパパパ……と火花が飛び散っているのが見える!
四人は、小走りに駆けていって、となりの神社にすべり込んだ。
朱塗りの鳥居が立っていて、わずかだが石畳がしかれ、奥にある社殿は小ぶりだが(畳三枚ほどか)素木造りで比較的新しい。
昔の高札《こうさつ》ふうの美しい木の案内板が立っていて、土門くんが読みはじめた。
「えー……住吉神社。大鷲《おおわし》神社。祭神は……」
「それ鷲《わし》と書いて、とりと読むのよ」
さえぎって、まな美がいう。
「おとりさまの大鷲《おおとり》神社ね。酉《とり》の市の」
「え? なんやて?」
土門くんは真面《まじ》で知らない顔をする。
「土門くん家《ち》はお店だから、商売繁盛の熊手を、もらいに行くでしょう? 酉の市に? 十一月だからもう終わっちゃってるけど」
「なにいうてんねん。商売繁盛は、笹もって来〜いの、えべっさんに決まっとうやんか!」
「あ……戎《えびす》神社ね。けど、東京埼玉《こちら》にはあったかしら?」
「もちろん西宮《にしのみや》のえべっさんや。神戸からやと電車で十五分ぐらいなんや。そやけど、商売繁盛で笹もって来〜いの有名なかけ声は、西宮ではいわへんな。一度だけ大阪の今宮《いまみや》にも行ったことがあんねんけど、このかけ声をずーっとテープで流しとって、うるさいうるさい。そのてん西宮のほうが上品なんや。それにやな、福娘のきれ〜な巫女《おねえ》さんが、福笹を手渡してくれはんねんでえ……」
でれーとした顔になって土門くんはいう。
「こちらに越してきても、今なお戎神社なの?」
「もちろんや! 神戸の本家は百年ぐらいの店やけど、ずーっとえべっさんで、今さら浮気なんかでけへんぞう。自分は学校があるから行かれへんなったけど、福笹は親父《おやじ》がもろてくる。いつも正月明けにあんねん。十日戎《とおかえびす》いうて――」
「へー……」
まな美としては、その土門くんの話は、ちょっとした目から鱗《うろこ》だ。商売繁盛は酉の市[#「酉の市」に傍点]の熊手[#「熊手」に傍点]だと思い込んでいたが、それは関東だけの風物詩のようである。
「えー……祭神は、表筒男命《うわつつのおのみこと》、中《なか》筒男命、底《そこ》筒男命、そして大鷲大神《おおとりのおおかみ》」
土門くんは、高札のつづきを読みはじめた。
「住吉神社の御本社は、大阪市住吉区にあり、その御分霊を祀っている。祭神の三筒男は神功皇后《じんぐうこうごう》三韓御征伐の皇軍を守護し給うた神で、海上守護の神、除災招福の神として崇敬せられている。大鷲神社の御本社は、大阪府堺市|鳳《おおとり》北町の大鳥神社で、その御分霊を祀っている。もとは武運を守護する神として信仰されたが、現在ではおとりさま≠ニ称され海運の神、商売繁盛の神としての信仰が厚い……」
「住吉神社はいいとして、大鷲神社の祭神の、大鷲大神って、ぼやかされているのね。なぜぼやかす必要があるのか逆に謎だけれど……ともかく、祭神は日本武尊《やまとたけるのみこと》ね。これはどこのおとりさま[#「おとりさま」に傍点]も、もちろん大阪の本社も、新宿にある花園《はなぞの》神社なども一緒よ」
「やまとたけるのみことかあ、いかにも日本《にっぽん》男子を代表しとうような名前や。けど、ちょくちょく耳にするわりには何者《なにもん》かは知らへん……」
その土門くんの妙に的を射ている言葉をうけて、弥生は(マサトも)笑いながらうなずいた。
まな美は、しかめっ面をしながらも、説明する。
「命じられて九州の熊襲《くまそ》を討伐したかと思うと、休むまもなく東国の征伐を命じられる、悲運の皇子《おうじ》さまね。そして彼の父親は、景行天皇なのよ」
「あ……そやったら、この大國魂神社がでけたいうんと、同《おん》なじころの話か」
「そうよ。記紀神話《ききしんわ》では、日本武尊の物語は、景行天皇の章で語られているわ。それに東国の征伐って、このあたりも含まれているのね→→→」
直下の地面を、まな美は何度も指さしていった。
「なるほど、そのへんでようやく大和朝廷も、この野蛮人どもが住んどった関東を」
もちろん土門くんの冗談《じょうだん》だが、
「平定したというんやなあ……そやから、記念にこの神社を建てた、いうわけか」
「まあ、ごく大雑把《おおざっぱ》な歴史の流れとしてはね。というのも、日本武尊の物語って、複数の人間の英雄談を重ねているらしいのね。だから年代的にも、実際にはかなり幅がありそうで……」
「そりゃそうやな。関東の蛮族《ばんぞく》にも意地がある。そう簡単に征伐されたりはせえへんかったやろう」
土門くんは、なぜか蛮族の味方をしていう。
「それと、説明書きにあった六所宮のひとつに、金佐奈《かなさな》大神っていたでしょう。これは埼玉の……田舎にある……わたしは参詣したことはないんだけど」
まな美は小声で申し訳なさそうにいい、
「金鑽《かなさな》神社というのが本拠地ね。ここも日本武尊と関係があって、彼が東征のさいに、倭姫《やまとひめ》から、草薙剣《くさなぎのつるぎ》と、そして火打ち石をさずかるんだけど」
「その倭姫いうんは、倭迹迹《やまととと》ひももも……卑弥呼の、つぎのつぎぐらいやろ?」
まな美は、うなずいてから、
「それらを戦いに役立てて勝利し、帰り途《みち》で、その火打ち石を地元の人にさずけ、神の依代《よりしろ》として祀ったというのが、金鑽神社の由来ね」
「ほう、なるほどなるほど……」
「この金鑽神社の創建も、景行天皇の四十一年で、つまり大國魂神社とおなじなのよ。だからこのあたりの年代で東国が平定された、そういった設定なのね、記紀神話では……」
まな美の説明が一段落したのを見はからって、弥生がいう。
「あのう……ここにある狛犬には、一本の角《つの》があるんですけど?」
鳥居をくぐってすぐわきに、石台にのって小さな狛犬が座っているのだ。木々の葉に半分隠れてしまっているが。
「それ、どっかで聞いたことあるぞう。角があるんが本物《ほんもん》の狛犬で、角がないんは獅子《しし》や。そして狛犬と獅子が対になっとって、狛犬いうんや」
まな美も、うなずいてから、
「角のない獅子が右にいて阿、角のある狛犬が左にいて吽。それが標準的《スタンダード》らしいけど……左右ともに獅子の狛犬のほうが、たぶん多いんじゃないかしら」
「すると、ここも違《ちご》とんねんなあ……」
右に、角のある狛犬がおかれていて、しかも吽だ。
「左のは角がない獅子やけど、こっちも吽やんか。狛犬さん吽・吽やぞう!……いいにくい」
「教典などに定義されているわけじゃないから、形は様々なのね。でも阿・吽は、仏教の仁王像《におうぞう》からきているので、こちらは守られているのがふつうね」
「そやったら、中国はどないなっとんや?」
「中国の狛犬には、阿・吽の形式はないはずだわ。あそこは仏教国じゃないから――」
まな美は断言していう。しかも素っ気なく。
「そやったら、韓国は? つまり朝鮮半島は?」
「あそこはね……」
まな美は、んーと可愛げにしばらく唸《うな》ってから、
「朝鮮半島には、そもそも狛犬の文化はないわ」
これもまた、断言していった。
「ええ? 狛犬は、高麗《こうらい》の犬と書いて、高麗《こま》犬とも読むやんか。そやのに朝鮮半島にはいてへん、いうんは変やで?」
「その漢字のことに関しても、説明しだすと、一時間や二時間ではすまないわよ」
と、まな美が恫喝《どうかつ》ぎみにいったので、
「ほんじゃあま、それはまた別の日に……」
土門くんは、とりあえず退散した。
その先は、右手には廻廊の横門があって、もちろん開いていて、拝殿の前あたりが見えている。つまり、ぐるっと一周してきたわけだ。
だが、まな美は、逆に左のほうへと先導していく。
やや広い舗装された空間があって、出入口のところに木のテーブルがおかれ、祓串《はらえぐし》(細かい紙垂《しで》を束ねたもの)が立てられていた。
「ここは車をお祓《はら》いする場所ね」
まな美は簡単に説明しながら、そこを通りすぎて外へ出てしまった。
「ど、どこへ連れていく気や、姫?……」
「おもしろい景色を見せてあげるわ」
その先は、いちおう舗装はされていたが、完全な裏道で、車はもちろん人っ子ひとり歩いていない。蒸栗色をした神社の外塀がつらなっていて、それを左に見ながら、どんどん奥に進んでいく。
「南へ行く気やなあ……ぴ」
しばらく歩くと道が左に曲がり込んでいき、前方に柵があって行き止まりだ!
かと思いきや、まな美は、そのわきにあった路地に突入していく。そこはほとんど獣道《けものみち》に近い。右がわは民家の裏塀で、左は鬱蒼とした林である。
「麻生先輩、大丈夫ですかあ?……」
女子は一般的に方向感覚に乏しくよく道に迷う、弥生は自身がそうであるらしく心配していった。
そんな人もすれちがえないほどの隘路《あいろ》が七、八十メーターつづいていて、葉のない大木が一本、正面に行く手をふさぐようにそびえ立ち、その背後にはまたしても金属の柵が!
「あ……よかったよかった、柵が開いとった」
そして四人は、ようやく、ひらけた場所に出た。
「ほらね!」
まな美は、してやったりの笑顔だ。
そこは赤土の地面で、子供が走りまわれるほどの広さはあり、周囲には細い木がまばらに立っていて、一段低いところに景色が広がっているので、つまり高台のはしっこ、といったような場所である。
その左手奥に、一メーターほどの石垣の壇にのって、緑青《ろくしょう》がまだらにふいた屋根の、古びた素木造りがぽつねんと建っていた。社殿というよりはお寺ふうの小さなお堂で、四畳半程度の大きさだ。
「あれはね、金比羅《こんぴら》神社なの……」
そちらに歩いて行きながら、まな美がいった。
「おっ、知っとうぞう。こんぴら船船お池に帆かけてしゅらしゅしゅしゅー……」
土門くんは陽気に唄いながら、軽快にスキップを踏んでいく。
……その歌詞は厳密にいうと間違っているのだが、まな美はあえて訂正しない。
「金比羅さまって、たしか船の神さまですよね」
弥生も、すこしは知っているようだ。
まな美はうなずいてから、
「金毘羅さまは、元々は十二神将《じゅうにしんしょう》の筆頭の宮比羅《くびら》で、インドでは鰐《ワニ》の神さまなのね。だから船の守り神になって、海の見えるような高台に建っている例が多いの。左がわに、JRAの競馬場が見えているでしょう。右にはサントリーのビール工場が……」
それぞれ前方を指さしていった。
境内の松尾神社に奉納されて積まれてあった緑色の大瓶ケースは、その工場の製品だ。
「すると、あのあたりまで、かつては海がせまっていたんですか?……」
まな美は、ごめんねと苦笑してから、
「かつては、あのあたりは多摩川《たまがわ》だったそうよ。今はすこし南にあるんだけど、洪水をおこしまくる暴《あば》れ川で、昔は川幅がもっと広かったらしいのね」
「すると、ここの金比羅さまは、川をいく舟の、守り神だったんですね」
「まあそうでしょうけど、荒ぶれる多摩川を鎮《しず》める、そんな意味もあったのかもしれないわ」
「やー……近くで見ると、おんぼろの建物《たてもん》や」
社殿(お堂)のぐるりを見てまわっていた土門くんが、ふたりのそばにもどって来ていった。
マサトは、まだ写真を撮りつづけている。
「この金比羅神社は、神仏分離令のさいに、大國魂神社から外されちゃったのよ」
「え? そやったら、これお寺なんか?」
「どっちともいえないわ。本家の香川にある金刀比羅宮《ことひらぐう》だって、つまり歌詞にある象頭山金比羅大権現《ぞうずさんこんぴらだいごんげん》だけど、すごく微妙な立場よ。金刀比羅宮の建物は神社なんだけど、宗教的には、神社本庁とは無関係なのね」
「な? なんやて!?……」
「もうどちらでもいい話よ!」
まな美は、みずから蒔《ま》いた種を刈らずにいい、
「この金比羅神社は、かつての大國魂神社の別当寺《べっとうじ》さんが面倒を見ているらしく、下に二軒あって」
そちらを漠然と指さしながら、
「真言宗と、天台宗のお寺なんだけど」
「あ! ぐーぐるの地図に載っとったやつやなあ。競馬場の左肩に寺がふたつあった」
「そうそう。それね」
「そやけどな、――姫!」
土門くんが、急にこわい顔になっていう。
「今から、まさかそのお寺に行く! いうんちゃうやろな!?――」
「え〜?……だめなのう……」
まな美は媚《こ》びた声で、しだれ柳のように身体をゆすって、しなだれていった。
かたや弥生は顔を背《そむ》けているし、マサトも写真を撮る手をとめて、後ずさりをはじめた。
「自分は絶対に行かへんぞう。行きたいんやったら姫ひとりでどうぞ――」
土門くんが断固いいはるのも、無理からぬところだろうか。
その金比羅神社の横から、下《くだ》っていく階段|道《みち》が通じてはいるのだが、もうその付近から周囲はお墓で、そこから府中競馬場の外壁までのかなり広々とした土地が、もう見渡すかぎりにおいてお墓の林で、その墓地の奥まったすみっこにお寺らしき建物の屋根がぽつんぽつんと見える、そんな立地なのだ。
「しかたないわねえ」
まな美は、すねていってから、
「別当寺さんに話をうかがうと、神社の言い分とはまたちがった話を教えてくれたりもするのよ、実際。それに天台宗の安養寺《あんようじ》さんのほうには、きれいな形をした高麗《こうらい》門があって、それも必見なのよ、実際。それにここは慈覺大師《じかくだいし》の創建なんだから……」
なおもくどくどと未練がましくいった。
が、土門くんは馬耳東風素知らぬ顔で、後ろをふり向いたり前を見たりしながら、ぴ、ぴ、と盛んに口ずさんでいる。
「どう? わたしがここに連れてきた意味がすこしはわかったかしら?」
「おう。さすがは姫――」
土門くんは、そのてんは素直に頭《こうべ》をたれてから、
「要するに、後ろに見えとう林は、南面の境内林のつづきやろう。するとや、この林ん中をまっすぐにつっきると、つまり北にいくと、本殿にぶちあたるはずや。そしてほんのちょっと左に、あの大銀杏の木が立っとうねん」
「じゃ、七不思議の謎は、すこしは解けた?」
「むむむむ……」
土門くんは(さも青春映画のように)腰に手をあてがって前方を眺めながら、
「ここは高台で見晴らしええもんなあ。昔はもっともっと奇麗な景色やったはずや。すると、ぴーんとひらめくことがある。――水野さんひらめいた?」
弥生は、自信はなさそうだが、うなずいている。
「――天目もひらめいた?」
すこし離れた場所にいるマサトも、うなずいた。
「ということはやな、ほかの人間もみんな同《おん》なじようなことはひらめいとんのかもしれへんなあ」
土門くんは俄然《がぜん》弱気になっていい、
「すると、七不思議の謎解きとしては、姫がいうとった三十点か」
「なにいってんのよ! まだ十点にも満たないわ」
「く……そやけど、自分簡単にはへこたれへんぞう。ぴ、ぴ、ぴ、ぴ……」
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第二章 台詞
「――先生。朝早くからすいません」
竜介が『情報科』の資料室に出向くと、鳩血色《ルビーレッド》のソファのところに、埼玉県南警察署の生駒《いこま》巡査部長が待っていて、きょーつけの姿勢で頭《こうべ》をたれながらいった。
彼は、竜介よりも十歳ほど若いが、いわゆる殺人課の刑事だ。
それに、朝早く、とはいってもかれこれ十一時で、ちょっとした皮肉が込められていそうではある。
朝九時すぎに竜介の携帯電話に、先生おりいってお願いが……とかかってきて、だったら大学で、と待ち合わせをしたのである。
大学も当然冬休みに入っているから出る出ないは勝手だが、幸いなことに、研究室の誰かしらが先に来ていて、彼を部屋に入れてくれたのだ。
竜介は、脱いだダウンジャケットをハンガーにかけてスチール書棚にひっかけてから、いつもの回転椅子《デスクチェアー》にゆっくりと腰をおろした。
「……で、どのような用事なんでしょうか?」
よく知った仲だが、わざと他人行儀《たにんぎょうぎ》にいう。
殺人課の刑事からのお願い[#「お願い」に傍点]なんてロクな話じゃないにきまっている。
「では、さっそくですが」
生駒は、ソファにすとんと座って、
「事件は四日前におこりました。現場は、埼玉県の日高《ひだか》市です。先生ご存じですか?」
「んん?……」
竜介は、実際、知らない。
「川越《かわごえ》市の西どなりなんですが、ここ東京から見ましても、八王子《はちおうじ》市の北に位置していますから、かなり西[#「西」に傍点]……て感じです。人口五万人ぐらいの市で、つまり田舎でして、しかも現場は市街地じゃありませんから、ものすごく田舎です」
生駒は、田舎田舎と強調していう。
「はい。場所と雰囲気はだいたいわかった――」
竜介はうなずいて、先をうながす。
「その日高市の僻地《へきち》で、幼稚園児がふたり、誘拐されたんです。ともに五歳の男の子です」
「え? ふたりも?」
「これは犯人がわの、ちょっとしたミステイクらしいんですが、順を追ってご説明しますね」
生駒は、メモ帳をひらいて見ながら、
「園児が十五人ほどの、ごく小さな幼稚園がありまして……青葉《あおば》幼稚園、ありきたりの名前です。保父さんひとり、保母さんひとり、近所の主婦がひとり、このかたは給食の賄《まかな》いさんです。保父さんと保母さんは夫婦です。そして僻地ですので、スクールバスでの送り迎えです」
「うん。かよえないよね」
「それもこったバスを使っていまして、フォルクスワーゲンのタイプUという一九七〇年代の……」
「知ってる知ってる」
男子たるもの、そういった車は即座にイメージがわかなければ失格だ。
「しかも、素晴らしくきれいにペイントしていて、ジャングルと動物の絵で……保父さんみずからが描いてるんですが、この彼は、以前は千葉に住んでいまして、車に絵を吹きつけるような仕事をやっていたそうです。今でも注文があれば描くとのことですが……やはり注文|主《ぬし》は……おもに暴走族です」
生駒は、意味ありげに笑ってから、
「それに夜は、幼稚園の校舎を、英会話スクールに貸していまして、土日も、陶芸教室などを開いているそうです。まああれこれ多角経営でないと、やっていけないようです」
「そのワーゲンのバス、それほど大きくないでしょう。園児十五人も乗れる?」
「いえ、乗れません。あれは八人乗りですから、運転手ひとりと園児十人までです。十二歳未満は、三人で二人の換算になりますので」
生駒は専門柄すらすら説明してから、
「それと、これは事件とも関係するんですが、この幼稚園では、預かり保育というのをやっています。幼稚園としての通常営業は、朝八時半から午後の二時半までなんですが、預かり保育を希望しますと、朝七時半から、夜の六時までになるんです」
「なるほど、ふたグループに分かれるわけだな」
「ええ。ですから小さなワーゲンバスでも、送り迎えが可能なんです……で、事件は、その二時半のバス便でおこりました。えー……かりにAくんとBくんにしますね。Aくんは通常の園児、Bくんは預かり保育の子供です。ところが、放課後、BくんがAくん家《ち》に遊びに行くーといい出しました。なんでも、新しいテレビゲームが入ったそうで……」
ふたりして、すこし笑ってから、
「このような場合には、当然、親の承諾が必要です。だからBくんの母親に電話を入れて、確認をとっています。それにAくんBくんは家《いえ》が近所で、以前にも何度となく、おなじ寄り道があったらしく、だからバスで送っていった保父さんがいうには、これっぽちの不安もなく、ふたりをAくんの家の前でおろしたそうです」
「だが[#「だが」に傍点]……さらわれた?」
「はい。拉致《らち》されたときの経緯《いきさつ》は、ある程度わかっています。といいますのも、翌日、Bくんが解放されたからです」
「あん?……」
竜介としても、それは意外だったので、回転椅子から思わず身をのり出させた。
「AくんBくんの家からは五キロほど離れた、どちらかというと市の中心部に近く、とはいっても充分に田舎ですが、そこにちょっとした鎮守の森がありまして、つまり小さな神社が建っているんですね。えー……名前は、九万八千神社といいます」
「ええ?……」
「先生、ご存じありませんか?」
「知るわけないだろう、そんなディスカウントしたような神社――」
「やー、先生は極端に物知りだから、きっと知ってると思ったんですけど」
「――知るか!」
竜介はかみつくようにいいながらも、妹・まな美の顔が脳裏に浮かんだ。彼女なら知っていそう[#「彼女なら知っていそう」に傍点]だからである。
「えー……ともかく、その九万八千神社の森で、近所の農家の人が、椎茸《しいたけ》の苗木を保管していまして、うす暗くって適度に湿気があっていいらしいんですね。その苗木の様子を見にいったら……Bくんが泣いていまして、それで保護されたわけです。翌日のお昼すぎですが……」
「椎茸の苗木っていうのは変。正しくは、榾木《ほたぎ》、もしくはほだ木[#「ほだ木」に傍点]という」
竜介は腕組みをして、さも物知り顔でいった。
母方の実家(鳥取県の大山《だいせん》)に行くと、そこかしこで椎茸栽培をやっていて、いわば食べ放題なのだ。
生駒は軽くうなずいてから、
「Bくんには、幸いなことに怪我などはありませんでした。もっとも、麻酔薬、たぶんクロロホルムだと思われますが、それをかがされた後遺症が、若干あったようです。頭がぼーとするような……」
「すると、麻酔で眠らされて、運ばれて、その森に捨てられた、てこと?」
「そうです。その神社の森は、ちょっとした丘にあるんですが、車できわまで入れるようです。それに百メーターもいくと、かなりの交通量の県道川越日高線が通っています。ですが……その丘の下にはお寺が建っていて、裏は墓地になっていまして、さらにその裏が、神社の鎮守の森なんですよ。だから想像しますに、景色は[#「景色は」に傍点]……」
竜介も苦笑しながら、
「そりゃ泣くな……五歳児がそんなところで目を覚ましたら」
「ですが、何度もいいますけど、けっして奥地じゃないんですよ。すぐ近くに民家もあったようですし。つまり自分がいいたいのはですね、Bくんは、発見されやすい場所で、捨てられた……解放されたってことなんです」
「なるほどね。山の中なんかに置き去りにされると、凍死しちゃうよね。この寒さだから」
生駒も大きくうなずいてから、
「それに夕方ではなく、まっ昼間の解放でしたし。けれど、だからといって、犯人は人間味あふれるやさしい人柄だ、なんて早合点しないで下さいね」
「するもんか。そもそも誘拐犯に、人間味もへったくれもない!」
「ごもっともです。それに解放されたBくんには、犯人サイドからの、取引のメッセージが託されておりまして」
「うん。案の定」
「それに、先生も充分にお察しだと思いますが、Bくんは、ごくごく普通の庶民の家の子供です。かたやAくんは――」
竜介は、こくりとうなずいた。
「父親は県会議員で、おじいさんは一部上場会社の会長、曾《ひい》おじいさんは、もう亡くなられていますが、国会議員で大臣もされていました。そして元来、地元の山林王で、ですがゴルフ場用地としてかなり手放したようです。この日高市近辺は、いわゆるゴルフ場銀座なんですよ。もっとも、今は閑古鳥《かんこどり》が鳴いてるそうですが……」
しがない大学講師と平刑事なのでゴルフとは縁がないふたりは、意地悪く笑ってから、
「そしてBくんの事情聴取から、さらわれたさいの様子がわかってきました。Aくんの家は、小高い丘の上に建っていまして、ジグ……ザグ……ジグ、と道が通じてはいるんですが」
生駒は、手を左……右……左と動かして示し、
「舗装されていて車は入れるんですけど、スイッチバックをしないと、家までは辿《たど》りつけないんです。登山電車のように」
竜介は、うんうん、とうなずきながら笑った。
「だから幼稚園のバスも、その道までは入りません。手前に停車して、プップーとクラクションを鳴らすと、家の人が……たいていはお手伝いさんですが、窓から顔を出すなりして合図を返す。そういう決め[#「決め」に傍点]だったんです。実際当日も、子供ふたりがバスから降りたところを、お手伝いさんが確認しています。ところが、いくら待っていても、上まではあがって来なかったわけです」
「すると、そのジグザグの道の途中で、さらわれたの?」
「はい、事実そうなんです。その道は、いわば死角だらけ[#「死角だらけ」に傍点]だそうで……まずもって、高さ百五十センチぐらいの白塀《しろべえ》がつらなってるんです。だから、人はいっくらでも隠れられます」
「上の家からは見えないの?」
「木がたくさん植わっていて、見通しがすごく悪いそうです。しかも、その道はもちろん私道なんですが、途中に門のようなものはいっさいなく、誰だってあがって来られるそうです」
「あら……定型的な田舎の家なんだな」
竜介は苦笑しながら、あきれ顔でいった。
「白塀の蔵《くら》が三棟ほど建ってて、それは江戸時代のもので、家は戦前の木造建築だそうです。蔵は頑丈でしょうけど、現代的なセキュリティとはいっさい無縁です。最初のジグ……」
生駒は、ふたたび手で示しながら、
「の坂道をあがった先に、家の駐車場があります。六、七台停められるそうですが、どうやら犯人は、その駐車場にひそんでいたようで。そこも白塀で囲まれています。そして、AくんとBくんが、つぎのザグ……を歩きはじめた途端《とたん》、背後から襲われて、顔をふさがれて意識を失った、てことなんです」
「すると、犯人はふたりいたわけだな」
「ええ、最低ふたり、てことになりますね。それにずーずーしくも、その駐車場に、直《じか》に車を乗り入れてたんじゃなかろうか、といった説まで浮上してきているそうです」
「タイヤ痕《こん》でも、見つかったの?」
竜介は知ったかぶりして聞いてみる。
「いえ、そういった情報まではありませんが。このAくんの家は、青葉幼稚園からは歩いても五、六分と近く、二時半のバス便では、一番最初に立ち寄る場所なんですよ。つまり[#「つまり」に傍点]……」
「なるほど、時間が正確なんだな」
「ええ、日々一分と狂わないと、運転手の保父さんは豪語されていたそうです」
「逆に、それが危険なのか。銀行の現金輸送車などとおなじ理屈じゃないか」
生駒も、うなずきながら、
「ねらわれたが最後、犯人に、ごくスムーズに事を運ばれてしまいます。ただ犯人にとって唯一の誤算は、道を歩いてきた子供が、ふたりいたこと」
「けど、犯人は、柔軟に対応できたんだなあ」
「まあ、見ようによっては柔軟ですが、別角度から考えますと、十二月は二十三・二十四・二十五と三連休なんですよ。つまり銀行が、しまってしまいます」
「そうか! 身代金を用意させるためには、もう日にちを後《あと》にずらせなかったのか」
「それにうかうかしてると、幼稚園も冬休みに入っちゃいます。だから犯人サイドとしては、当初の青写真どおりに、なかば強引に、実行に移したんではないでしょうか。そして解放されたBくんに、脅迫状が託されてあったわけですが……まずBくんの首に、Aくんの幼稚園のカバンがかけてありまして、そのカバンの中に、犯人からの手紙が入っていました。プリンターで印字されたもので、――お宅の息子は預かった。返してほしくば身代金を用意しろ。逆らうと息子の命はない。おって連絡する。そんなお定まりの文面です」
「その身代金の、金額は?」
竜介がたずねると、生駒はぼそっとつぶやく。
「……五おくえん」
「わお!……」
「これは極秘ですよ。警察関係者でもごく一部しか知りませんから。それにAくんの家にとっても、さすがに即日は無理だったらしく、翌二十二日になって、ようやく揃《そろ》えられたようです。なんでも東京の銀行から運ばせたとか」
「ふーむ……」
竜介は腕を組みなおして唸った。
……ま、お金があるところにはあるんだなというのが正直な感想だ。
「ところがところが[#「ところがところが」に傍点]ー」
生駒が声の調子を変えていう。
「その後犯人サイドからは、いっさい何もいってこないんですよ。いわゆるナシのつぶて[#「ナシのつぶて」に傍点]ってやつで」
「じゃ、電話がないの?」
「そうです。おって連絡する、と脅迫状でいっておきながら、その連絡がないんです[#「ないんです」に傍点]!」
生駒は応接テーブルを両手で叩いていった。
竜介は、えー……とすこし考えてから、
「警察が下手に動いたから、犯人がヘソを曲げちゃったんじゃないの?」
「それはないですよ。だって、二十日の夕方に子供ふたりの行方不明が判明して、近隣の自警団が動いて、山や川の捜索などをやって、もう町じゅう大騒ぎになっているのに、今さら警察に動くな! ていうほうに無理があります」
「たしかにね……」
「それに脅迫状の文面には、警察に関しては、なにも触れられてませんでしたから。それに警察だって、最大細心の注意を払っていますので……Aくんの家の近辺には、警察車輛など一台も停まってません。それに県警の専従班は、尾根づたいに家に入ってるんですよ。ジグザグの道からではなく!……」
「じゃ、警察に落ち度がなかったとすると、犯人から連絡がない理由《わけ》は?」
「わかりません。それこそ犯人サイドの特殊事情なんでしょう、仲間割れとかその他もろもろ……警察《われわれ》には推測できません」
「うーん、それは困った状況ですねえ」
生駒刑事からのお願い[#「お願い」に傍点]が何であるのかは現時点でもほぼ察知できた竜介だったが、あえて他人事《ひとごと》のようにいった。
「それに、拉致されたのが二十日で、脅迫状が二十一日、そしてもう……二十四日」
生駒は指を折って数えながら、
「正直なところ、ちょっと危《やば》いんですよう。時間がかかればかかるほど、生存率が低くなっていきますから」
「うん、そうだろうね」
軽く相槌《あいづち》をうってから、竜介は渋々の表情を作っていう。
「まあ、かの御神《おんかみ》にお願いすれば、その子の居場所ぐらいは特定できるとは思うけど……」
竜介はごく控えめにいったのだ。
御神・マサトがその気になれば、誘拐犯は狂ったように走り出してそのまま交番に駆け込む、なんて摩訶不思議《まかふしぎ》な芸当も可能だろう。
「先生がそうおっしゃられるのを待っていました。森羅万象を見通せるという御神さまの力をお借りできないかと、最初《はな》からそのつもりでお願いにあがったわけでー……」
生駒はいうと、応接テーブルに顔をこすりつけんばかりに低頭する。
「だけれども、この種の依頼をいったんうけちゃうと、噂になって、この事件もあの事件もと、難事件があるたびにお呼びがかかり、埼玉県警だけじゃなく警視総監からも、やがては一国の首相から直々に依頼が、のみならずアメリカの大統領からも、はてはイギリスの女王陛下からも――」
竜介は、ことさら大袈裟にいった。
「そ、そんな、|007《ダブルオーセブン》のようなことにはなりません。情報源は秘して、御神のことはけっして口外しませんから……」
生駒は、なおも頭を低くしていう。
「まあ、南署さんにはあれこれと一方《ひとかた》ならずお世話になってますから、今回かぎり、ということで」
「はい、今回かぎりです!」
と生駒は威勢よく即答したものの、次回もあるだろうなと内心思いつつ、同様に竜介も感じながら、
「すると、これは依藤《よりふじ》警部さんからの、依頼?」
「いえ、本件には依藤は関係してません。知ってるかもしれませんが、たぶん知らんぷりするでしょう」
「ええ?……」
「そもそも、本件は南署の管轄ですらありません。日高市《あそこ》はさすがに遠すぎます。この件は、岩船からのたってのお願いなんですよ」
「あっ、鑑識の……」
鑑識課の係長(現場の責任者)で、五十すぎという年齢のわりには鄙《ひな》びた感じがする小柄な人だ。竜介は、もちろん面識がある。
「解放されたBくんは、何度もいいますけど、ごくごく普通の庶民の家の子です。そのBくんと岩船が親戚で、伯父《おじ》さんにあたるんですよ」
「ははははっ……」
生駒の話のもっていきようが面白かったので竜介は笑った。彼は、南署きっての語《かた》り部《べ》として知られている。
「Bくんは妹さんの子供ですから、岩船姓ではないんですけどね。それに本来は、岩船みずからがお願いにあがるのがすじ[#「すじ」に傍点]なんですが、日高市《あちら》に行ったきりで、もどって来れないんですよ。それで白羽の矢がたちまして、自分が……」
生駒はいって、ふたたび頭をさげる。
「けど、岩船さんって、御神のことを嫌ってなかったっけ?」
「ええ、嫌ってました。というより死ぬほど怖がってました」
生駒は半分笑いながらいう。
「怖がっていたから、逆にこれしかないと思いついたらしく……窮鼠《きゅうそ》猫を噛《か》む、て心境でしょうか」
「その諺《ことわざ》は微妙にあってないぞ。落語にある、まんじゅう怖い……じゃないのか」
ふたりして冗談をいいあってから、
「岩船は、甥《おい》ごさんが行方不明になった日の夜から、あちらにすっ飛んで行きまして、解放された後も、捜査協力で居残ってるんですよ。子供の事情聴取などにも立ち会ってますので……ところが、その後は、日に日に風あたりがきつくなってきたらしく」
「なんとなくわかるなあ……」
「自分の甥は助かってるのに、Aくんは行方知れず。それに自分|家《ち》は庶民ですが、かたや地元のちょー名士。このままAくんに万が一のことでもあったら、埼玉ではとうてい暮らしていけません。一族郎党、路頭に迷うと岩船は泣いてまして……」
「うん、路頭に迷う条件はそろっている。それに岩船さんを助ける云々《うんぬん》よりも、こういった人でなしの犯罪にこそ、神さまは出張《でば》っていくべきで!――」
竜介は、ささやかにひと演説ぶってから、
「じゃ、さっそくだけど、資料をそろえてくれないかな」
「どういった資料が、お要りようですか?」
「まずAくんの写真。顔がはっきり写ってるやつね。もちろん本名も。それと、Bくんの写真もあったほうがいいな。できれば、Aくんのご両親の写真も。さらには、Aくんの家の写真、とくに拉致現場の、ジグザグの道や駐車場などを」
生駒は、せっせとメモ書きしながら、
「けっこうあれこれと要るんですねえ……」
「いや、Aくんの顔写真一枚だけでも充分《オッケイ》なんだが。たとえば、ネット検索をするときにも、AコンマBコンマCコンマ……と単語を増やしていくと、いわゆる絞り込みができて、意とする情報に到達しやすくなる。これと雰囲気いっしょさ」
「へー、インターネットとおなじなんですねえ」
「いや、ネットはまだまだ幼年期で、この先どんどん進歩していく。するとやがては、脳の働きと似かよってくるだろう、ていうのがぼくの説。それにネット検索は単語《ワード》によるけど、御神などの場合はちがうからね。あっ、そうそう、幼稚園の先生の写真もあったほうがいいんじゃないか。暴走族とのからみで、どうせ警察は疑ってるんだろう?」
……生駒は、笑っている。
「それらの資料が整ったら、ぼくのところへ」
といいかけて竜介は、今日は(夕方あたりからだが)野暮用《やぼよう》があったことを思い出して、
「いや、直接届けてくれないかな、春日部にある御神の屋敷に。生駒さんもご存じでしょう?」
「まあ、車で通ったことはあるので場所は知っていますけど、木が鬱蒼と茂っている森……としか?」
生駒は頼りなげにいう。
「門は二ヵ所にあって、木に隠れてんだけど探すと絶対に見つかるから。その門の前で手をふると、誰かしら出てきてくれるから。防犯カメラで四六時中モニターしているので。もちろん、ぼくのほうから電話は入れておくから」
竜介は、どたばたと早口で説明し、
「……そうですよね、考えりゃ、今日はクリスマス前夜祭《イヴ》ですもんね。先生も何かとお忙しいでしょうから」
生駒は、ぶつくさと小声で厭味《いやみ》をいった。
白衣をまとって、ふわふわっとした白い|髪留め《カチューシャ》をつけた若い女性が、ノックもせず声も出さずに、まるで幽霊のように部屋に入ってきた。
院生の五月女《さおとめ》だが、両手にマグカップをもっているので、ふたりに飲み物を運んできたのだ。
「すいません。ちょうどお暇《いとま》しようかと思ってたところなんですが」
生駒がすこし腰を浮かして会釈《えしゃく》をする。
……間《ま》の悪さはさすが五月女だなと、竜介は内心苦笑した。それに自身に手渡されたカップも中身は珈琲《コーヒー》である。竜介は部類の日本茶党なのだが、彼女は西園寺さんのようには気は利《き》かない。だが赤いフレームの眼鏡をずり落としぎみに精一杯に愛想笑いを浮かべてお辞儀をすると、そそくさと研究室にもどっていった。
生駒は、またしても自己紹介をしそこねたが、それよりも、ご主人さま……の妄想[#「妄想」に傍点]がふたたび頭の中でふくらんでいって、吹き出すのをこらえながら珈琲をすすった。
「あっ、ひとつ忘れてました」
生駒は、メモ帳をぺらぺらとめくりなおして、
「Bくんが拉致されていたあいだに見聞きした、犯人サイドの様子ですが……」
「あっ、なるほど」
竜介も、聞くのを忘れていた。
「Bくんが見ているのは、男ふたりです。背はふつう。ひとりはややデブで、ひとりはスリム……なんですが、ともに黒の目出し帽をすっぽりとかぶっていて、顔はもちろん、年齢なども不詳です」
「その帽子、今や悪党の代名詞[#「代名詞」に傍点]だよな」
生駒も、不機嫌そうにうなずいてから、
「ですが特筆すべきは、男ふたりは対等の関係ではなく、スリムのほうが命令口調で、つまりデブは手下。さらには、そのデブのほうだけ、ぶつ切れの日本語をしゃべっていたようで」
「ぶつ切れって?」
「まあ、てにをは[#「てにをは」に傍点]がないとでもいいましょうか」
「すると、国籍があやしい……てこと?」
「そういう臭いがぷんぷんしますね。最近、日本人の悪党《やくざ》が、アジア人の不法滞在者を雇って悪事を働かせる、そんな事件が多発してますので。それと、監禁されていた部屋は、おんぼろの和室で、畳がふがふが浮いてるような感じで、もちろん雨戸が閉めてあって、だから暗いんですが、石油ストーブが燃えていて、それがまあ唯一の明かりで……犯人たちは懐中電灯を使ってて……などなど、Bくんはさすが鑑識課員の甥ごさんで、細かなことをあれこれ覚えてたんですが、自分がここでうだうだ説明してるより、御神さまに透視していただくほうが先決ですね」
いうと生駒は、ソファから威勢よく立ち上がった。
「ありゃ……とはいったものの」
竜介がアンニュイな表情で首をかしげた。
「えっ?」
「その肝心要《かんじんかなめ》の、御神がつかまればいいけど」
「ご旅行かなにかですか?」
「あの私立M高校も、冬休みに入ってるんじゃないかと」
「ええ、学校は全国的に冬休みですが?」
「すると、妹がどっかに連れまわしてるんじゃなかろうかと」
「あ! 歴史部[#「歴史部」に傍点]――」
生駒も気づいたようで、
「あの可愛らしい妹さんと、背の高《た》っかーい男子生徒と、そして身辺警護の奇麗《きれ》〜な娘さんといっしょに」
「目に浮かぶじゃないか」
「ええ、目に浮かびますねえ」
………
………
………
………
[#改ページ]
「へっ……へっっっぐぢぁん!」
「く、くしゅん!……」
「だ、だれや!? 姫の悪い噂しとんのは?」
「なにいってるのよ! 土門くんのに[#「のに」に傍点]決まってるじゃない!」
ふたりして罪をなすりつけあっていると、
「く、くしょん!……」
「くすゅん!……」
うしろで、マサトと弥生までもが。
四人は、あの後、大國魂神社《おおくにたまじんじゃ》の境内《けいだい》にもどると宝物殿の扉が開いていたので中をざーっと見学してから(写真撮影は不可だったから短時間で)、そして府中駅まで歩いて行って電車に乗り、特急でひと駅となりの調布《ちょうふ》駅で降りて(乗車時間は五、六分)、北口の改札を抜け、駅前の雑踏をちょうど歩きはじめたところであった。
調布駅は、特急や準特急などすべての列車が停車する京王電鉄の主要駅のひとつで、人口約二十一万の調布市の表玄関にふさわしい……かどうかは何ともいえず、ほぼ平屋の見すばらしい駅舎だし、もちろん駅ビルなどはなく、京王|相模原《さがみはら》線(京王よみうりランドや京王多摩センターなどに向かう路線)とつながっているのだが平面交差しており、しかも線路が地上面にあるせいでいわゆる開かずの踏切の多発地帯でもあって、今現在、駅と線路の地下化工事が粛々《しゅくしゅく》と進行中だ。
北口の駅前は、ぐるりを中低層のビルで囲まれた大きなロータリーで、バスやタクシーの発着で混雑をきわめている。そのロータリーは、ハートを逆立ちさせたような(桃もしくは宝珠の)形であることは、ほとんど知られていない。その宝珠《ハート》の形にそうように、曲面が多用された造りになっている十階建てほどの調布パルコがあり、それが近隣では一番に大きな建物だ。
その白くて優美なビルを左に見ながら百メーターほど進むとスクランブル交差点があって、赤信号で足止めされた。横に通っているのは二車線道路だ。
「この道は、旧甲州街道なの……」
まな美が、手を左右に動かして説明する。
「さっきの大國魂神社の境内の入口、石の大鳥居が立っていた前に、広い道が走っていたでしょう。あれもおなじで、旧甲州街道なの」
「そやったら、この道を左にずーっと行くと、さっきのとこに出るんやなあ」
「うん」
まな美は予習して地図が頭に入っていたからあっさりうなずいたが、弥生は、すこし首をかしげている。
信号が青に変わった。
だがまな美は、スクランブルの交差点がわではなく、右ななめ方向につっきって歩きはじめた。
「姫! ど、どこ行くんや?……」
「あのビルのあいだに、細い道が見えてるでしょう。あそこに入りたいの――」
証券会社とパチンコ店のあいだの路地だが、まな美以外にも何人かが、そちらを目ざして(逆方向からも)ななめにつっきっている。
「あれが古くからある道なのよ。いっそのこと歩道の白線を引くべきだわ、あっちがわに向けて……」
勝手なことをいっているうちに渡りきった。
すると、土門くんは立ち止まって、
「うわあ……えらいとこやなあ」
見上げていきながら惚《ほう》けた声でいった。
弥生も、あたりをきょろきょろ見廻して、ちょっと唖然としているし、マサトも、さっそくカメラをとり出して撮影をはじめた。
左の証券会社のビルのわきには細長い石の円柱が立っていて、式内郷社《しきないごうしゃ》『布多天神社《ふだてんじんしゃ》』と達筆な字で彫られている。つまりここは参道の入口なのだ。
が、かたやパチンコ店のビルのがわには、電信柱のような銀色の円柱が立ち、上部に『天神通り商店街』の横書きの電飾看板がT字の形でのっていて、その上にあろうことか! ゲゲゲの鬼太郎《きたろう》がちょこんと腰かけているのである。
のみならずその円柱には漫画の一ページが大きく引きのばされて貼られてあった。
「『ばかやろう、おまえだまされてるんだ』」
――土門くんが口真似をして読む。
なお、それは鬼太郎の台詞《せりふ》である。
そして下段のコマでは、あやしげなキノコ雲が町全体をすっぽりとおおっていて『外側では調布市をつつむ異常な気体で大さわぎであった』そんな説明書きがある。
「うわあ……なんとでぃーぷ[#「でぃーぷ」に傍点]な場所やろうか」
土門くんが、めずらしく英語で感想を述べた。
証券会社のビルのがわもすこし先に、太い手すりに腰かけて、等身大のゲゲゲの鬼太郎[#「ゲゲゲの鬼太郎」に傍点]がいる。
「作者の水木しげるさんが近くに住んでいて、こうなっちゃったらしいわ」
四人は、幅四、五メーターほどのタイル敷きの参道を歩きはじめた。
すると、景色は一変する。
近代的なビルに囲まれていたのは入口だけで、上は住居・下は店舗の古びた二階屋が左右にずらりと軒をならべ、その二階の窓からは干された洗濯物がちらちらと……そんなひと昔前の商店街の道だからである。飲食店が多いようだが、居酒屋などはまだシャッターをおろしたままだ。壁の赤ペンキが毒々しい南国食堂の前のベンチには、等身大の、黄色いねずみ男[#「ねずみ男」に傍点]がごろんと寝そべっていた。
「ふぁははははは……」
土門くんは吹き出して笑いながら、
「やー……調府[#「府」に傍点]ってすごいとこなんやな。さっきの府中も姫がいうたとおりで、けっきょく駅と神社が合体しとったし、この調府[#「府」に傍点]も負けず劣らずやあ」
「東京都下って、大なり小なりこんな感じよ」
まな美は独断的にいってから、
「そうそう土門くん、どこか勘違いしてなあい?」
「え? なにをや?」
「間違っていたらごめんなさいね。もしかしたらと思っていうんだけど……」
まな美は、しおらしく前置きしてから、
「さっきの府中市は、国府だったから、その府の字をもらって府中なのね。でもこちらは……調布の布《ふ》は、布《ぬの》という字を書くのよ」
「げげげ!」
土門くんは(場所柄)鬼太郎のように驚いて、
「姫いつから他人《ひと》の頭ん中をのぞけるようになったんや!? この……妖怪……猫|娘《むすめ》があ!」
ちょうど右の手すりに、一反もめん[#「一反もめん」に傍点]にまたがって空を飛んでいる、猫娘[#「猫娘」に傍点]の等身大の像があった。
「ふん」
似てないとばかりにまな美は鼻であしらってから、
「調布と府中って、となり町でしょう。わたしも以前に勘違いをしてたことがあるのよ……たしか幼稚園のころに。だからこちらには日が浅い土門くんなら、もしかしてと思って……」
「ふん、どうせ自分は幼稚園れべるや! その漢字のことよりも、そもそも調布と府中が区別でけへんぞう。電車に乗っとったら、どっちで降りるんやったか……絶対に迷う。してみると天目! おまえはどうなんや? 自分と同《おん》なじでこっちには日が浅いやろう?……」
マサトは素知らぬ顔で写真を撮っている。猫娘と一反もめんの。……ちょっとあやしいが。
「ともかくも、国府のことはいったん忘れて、こちらのキーワードは、布《ぬの》ですからね。布よ[#「布よ」に傍点]――」
まな美は、明るい声で強調していった。
天神通り商店街の道は二百メーターほどまっすぐにつづいていたが、途中には、手入れのよくいきとどいた稲荷神社がひとつと、古い民家の前に等身大の子泣き爺《じじい》が座っていたぐらいだろうか。
商店街の出口のところも、入口同様に電飾看板の上に鬼太郎がちょこんと腰かけていて、前に見えるのは車やトラックがひっきりなしに走り抜けていく四車線道路だ。――現在の甲州街道である。
信号のついた横断歩道があって、道は先にもまっすぐにつづいている。だが甲州街道の向こうがわは木々がけっこう茂っていて、その道の奥のほうに、白い大鳥居が立っているのが見えた。
青信号で横断歩道を渡りながら、
「ぴ、ぴ……」
土門くんは何度か口ずさんでから、
「この直線の道は、要するに神社の参道やろう。で方向は……真北に向いとうかー思いきや、ちょっとずれとって、北北北東ぐらいやな」
「そのはずよ。この参道は、深大寺《じんだいじ》のほうを向いているから」
「な、なんやて? あの蕎麦寺《そばでら》か。そういえば、そろそろお腹すいてけーへんか姫? 天目え?」
土門くんは、話をまったく脱線させていう。
「神社の参道が、どうして深大寺のほうを向いているんですか?」
弥生が、軌道を修正してたずねた。
「神社といっても、神仏習合《しんぶつしゅうごう》していた時代には区別はないし、ちょうど横に見えているけど、元別当寺さんの大正寺《たいしょうじ》ね……」
道の右がわには蛇腹《じゃばら》のようなスジが入った現代的《モダン》なコンクリート塀がつらなっている。門の付近だけが古びた素木造《しらきづく》りの寺らしい門である。
「……こちらは後で寄るとして」
まな美は、そのまま道を直進しながら、
「ここから深大寺は、直線距離だと一キロとちょっとしかないのね。そしてこのあたりでは、深大寺が格別古いでしょう」
「そやったそやった。ご本尊は白鳳《はくほう》時代やとか」
土門くんが思い出して補足した。
「新しいのを創るさいに、古くからある神社仏閣を基点にする、これはよく用いるやり方なのね。あの埼玉の淨山寺《じょうさんじ》を基点にして、芝《しば》の増上寺《ぞうじょうじ》や小石川《こいしかわ》の傳通院《でんづういん》が建てられたように」
それは秋の文化祭での、歴史部の謎解きの白眉《はくび》であったが。
「もっとも、縁があるからそういった建て方をするのね。だからこちらも、それなりに縁が……」
話しながら歩いてきたが、白い大鳥居はもう目の前である。
あたりには常緑の大木が多く、その石の大鳥居に葉がおおいかぶさらんばかりだ。
「これはよくある明神鳥居《みょうじんとりい》の形式ね。大國魂神社などとおなじく……」
手前には(これもお約束の)神社名が彫られた太い石柱が立っていて、大鳥居の左わきに、高札ふうの古びた木の案内板がおかれてあった。
「延喜式内社《えんぎしきないしゃ》・布多天神社。由緒――」
いつものように土門くんが読む。
「当神社は、延喜式|神名帳《じんみょうちょう》、醍醐《だいご》天皇の延長《えんちょう》五年、九二七年につくられた書物にも記されている、多摩郡でも有数の古社《こしゃ》である。もと多摩川畔の古天神《ふるてんじん》というところにあったが、文明《ぶんめい》年間、一四六九|〜《から》八七年、多摩川の洪水を避けて、現在地に遷座《せんざ》された。そのとき祭神……」
とそこまで読んで、うらめしそーにまな美の顔を見やる。
「それはね、少彦名命《すくなひこなのみこと》、て読むの。それと、布多天――神社じゃなくって、布多――天神社ね。ここは天神さまなのよ」
あ、なるほどなるほどと土門くんは合点《がってん》してから、
「えー……その少彦名命に、菅原道真命《すがわらのみちざねのみこと》を配祀したと伝えられている。また往古《おうこ》、広福《こうふく》長者という人が、当社に七日七夜|参籠《さんろう》して神のお告げをうけ、布を多摩川にさらし調《ととの》えて、朝廷に献《たてまつ》った。これが本朝における木綿の初めという。帝この布を調布、読みはテツクリ、と名づけられて以来、このあたりを調布の里と呼ぶようになったといわれる。……布多天神社宮司謹記」
土門くんは読み終えてから、
「へー、それで調布いうんか、そういう経緯《いきさつ》やったとは知らへんかったぞ。TシャツもGパンも綿百%大好き人間の自分としては、感動的な秘話や!」
ひとりでひとしきり感心している。
「……うーん、けど、その説明書きはあまり真《ま》にうけないほうが……」
などとまな美はつぶやきながら、ともかく四人は、石の大鳥居をくぐって境内の中に進み入った。
そこは小さな運動場ぐらいの広さの、いわば前庭《まえにわ》のような場所で、赤土の地面に大小さまざまな木が植わっている。常緑の大木にはシラガシの名札がかかっていた。そして中央だけが舗装された道で、そこをゆっくりと歩きながら、まな美はいう。
「多摩川に、さらすてつくり[#「てつくり」に傍点]、さらさらに、なにぞこの児《こ》の、ここだ愛《かな》しき。――万葉集の東歌《あずまうた》の中で、そう詠《よ》まれているのね」
「おっ! 万葉集とは古い! ますますすごいやんか!」
土門くんは、なおのこと興奮していった。
「ところが、万葉集で詠まれている、このてつくり[#「てつくり」に傍点]は、木綿ではなさそうで」
まな美はごくごく冷静にいう。
「ええ? そやったら何や!?――」
「綿花《めんか》から糸や布を作るさいには、水にさらす必要はとくにないらしいのね。染色するんだったら話は別だけど」
「そ、そやったら、多摩川にさらしたーいうさっきの説明書きは、いったいなんや!?……」
マサトは、そんなふたりのやりとりを聞きながら不謹慎にも笑ってしまった。参道の入口のところにあった、鬼太郎の台詞がふと思い出されたからだ。
『ばかやろう、おまえだまされてるんだ』
「……これも説明しだすと一、二時間かかるから、また別の機会にね」
「そういうのをな、姫、蛇《へび》の生殺《なまごろ》しいうんやぞ!」
土門くんが、いかにも骨董屋らしい古めかしい表現で悪態をついた。
二段ほどの石段があって、梅の花弁《はなびら》の紋とともに奉[#「奉」に傍点]、そして献[#「献」に傍点]、ひと文字ずつ彫られたやや太い石柱が右と左に立ち、高さ一メーターほどの石の柵がつらなっている。そこはいわば中門《なかもん》(中雀門)で、石段をあがると足もとが上等な石畳に変わった。
まっすぐ二、三十メーター先に、拝殿の建物が見えている。
右がわに手水舎《てみずや》があった。焦茶にくすんだ飾りっ気のない木造だが、近づくと、竜の口から水が勢いよく流れ落ちはじめた。下部に赤外線《ハイテク》のセンサーがついているようだ。だがどうしたことか、ひしゃくが一個しかない。順番待ちである――
中門の左わきに巨大なご神木(葉はない)がそびえていたが、それ以外は、華奢《きゃしゃ》で低い木がそこかしこにたくさん植わっている。
「ふ、ふ、ふ、ふ……鎌倉の荏柄天神社《えがらてんじんしゃ》へ行ったときに、これ教えてもろたぞう」
その低い木々を指さして土門くんが得意げにいう。
「これは梅の木で、菅原道真さんが、梅酒の中に浸《つ》かっとうしわしわ[#「しわしわ」に傍点]の梅が大好きやったからやあ」
どこか間違って覚えているようだが。
――四人とも手と口を清めて、歩きはじめた。
右がわには、そこそこに大きな神楽《かぐら》殿が建っていて、十脚ほどの青い長椅子が前におかれてあった。
左には朱色の小さな鳥居が立っていたが、稲荷大明神《いなりだいみょうじん》、と染め抜かれた赤い旗がはためいていたので、一目瞭然だ。もちろん土門くんは寄らない。
そして石灯籠《いしどうろう》が左右に立っていて、つづいて小さめの黒ずんだ狛犬《こまいぬ》が、石の高台にのせられてあった。
左がわに説明板が何枚か立っていて、土門くんがざーっとななめ読みをする。
「えー……布多天神社境内で開かれる市《いち》の繁栄と商売繁盛を祈願して、寛政《かんせい》八年、一七九六年に建立《こんりゅう》された市内ではもっとも古い狛犬……やそうや」
左右ともに口は半開きで阿・吽は判然としない。
「それとやな……布多天神社本殿は、市重宝建造物で、一間社流造《いっけんしゃながれづく》り、向拝《こうはい》の柱頭に象鼻《ぞうばな》や獅子頭を飾る。装飾等に江戸時代中期の特色が見られ、社蔵する宝永《ほうえい》三年、一七〇六年の棟札《むねふだ》から、建立年代が明らかであることも貴重である……そうやけど、本殿は覆屋内《おおいやない》にあって、外からは見ることはでけへんとのこと。……調布市教育委員会」
また、狛犬のすこし先の右がわには、ほぼ実物大の青黒い牛の像が寝そべっていた。平成二年に奉納された新しいものだ。梅と牛は、天神さまにはつきものである。
拝殿は、銅葺《どうぶ》き屋根の素木造りで、大國魂神社のそれと似たような形だが、格子戸の数(中央が四枚、左右が二枚ずつ)からいって、半分ぐらいの大きさだろうか。
左右に石の柵(手すり)がついた四段ほどの石段をあがって、はり出してきている唐破風《からはふ》のひさしの下に入った。つまりそこが向拝だが、拝殿の建物全体が石の壇の上にのっているようだ。
四人は、梅の紋がついた賽銭箱《さいせんばこ》に小銭を投げ入れてから、銘々のスタイルで手をあわせた。
参拝を終えると、賽銭箱の右がわの台におかれてあったプラスチック箱入りの派手なデザインのそれらを土門くんが睨《ね》めつけていきながら、
「えー……華《はな》おみくじ、招き猫おみくじ、幸福《しあわせ》おみくじ、天然石おみくじ」
そして賽銭箱の左がわの台のほうへ移動し、
「えー……おみくじ、子供おみくじ、恋みくじ」
その三つは簡素な木製の箱であったが。
「ここは、おみくじの百貨店《でぱーと》やあ!」
土門くんがべたべたの感想を述べて、他の三人もさすがに苦笑した。
拝殿の左には平屋の社務所が建っていたが、四人は石段をおりると、逆のほうに歩き出した。そちらには大小さままざな境内|末社《まつしゃ》がおかれている。
それに拝殿の横に廻り込んでいくと、柵があって近くには寄れないが、背後の建物(本殿)が見えた。やはり銅葺き屋根の素木造りである。
「あれは覆屋内とかいうやつやな。説明書きにあった」
「でも、形は神社らしいふつうの建物でしょう。とくに屋根についている飾り[#「飾り」に傍点]などは……」
まな美が、ほのめかしていった。
「あ! ほんまや!」
「ほんとですよね」
マサトも、さっそく写真に撮りはじめた。
「……千木《ちぎ》は、上の切断面は垂直や。そして鰹木《かつおぎ》のほうは……ひぃふぅみぃよぉいつ、つまり奇数や。てことは、えー……どっちやったっけ?」
土門くんは、なさけない顔を弥生のほうに向ける。
「この場合は、たしか男神《おとこがみ》ですよね」
「そやったら、菅原道真さんはこれで合《お》うとうとして、もうひとりの……少彦名命《すくなひこなのみこと》も、男なんか?」
「うん」
まな美は、当然とばかりにうなずいた。
「そやけど、この少彦名命って、どんな神さんなんや? 自分初聞きやぞう……」
「土門くん知らないの? 一寸法師《いっすんぼうし》じゃない」
「ええ?……」
「つまりね、一寸法師のお伽話《とぎばなし》のもとになった神さまでもあって、大国主命《おおくにぬしのみこと》が出雲《いずも》の美保《みほ》の岬《みさき》にいると、ガガイモの実の小舟に乗って、蛾の羽《はね》のようなもので身をつつんだ……つまりイメージとしては、蓑虫《みのむし》かしらね。そんな小さな神さまが流れてきたわけよ」
「どんぶらこっことかあ……」
土門くんは、怪訝《けげん》そうに合いの手を入れる。
「そして名前をたずねても、答えないのね。まわりの神々も、知らないっていうし。だから物知りの案山子《かかし》にたずねて、ようやく素性《すじょう》がわかるのね」
「なんやて? 案山子?」
「まあそれは、物語を先に進めるための潤滑油のようなもので。そして彼は……古事記では神産巣日神《かみむすびのかみ》の子供、日本書紀では高皇産霊神《たかみむすびのかみ》の子供と、少々くいちがうんだけど、ともかく、大国主命と兄弟《あにおとうと》となりて、その国を作り堅《かた》めよ、と命じられるのね。だから二神《ふたり》で協力して、この国を造ったわけ」
まな美は、地面を何度も指さしていい、
「けど、国造りを終えると、少彦名命は常世《とこよ》の国に帰っちゃうのよ。淡島《あわしま》という島で、粟《あわ》の茎にのぼって、その茎にぴょーんとはじき飛ばされて」
「あぁ? なんちゅう妙ちくりんな神さんや!?」
「変わった神さまだけど」
まな美は、標準語にいいなおしていい、
「武蔵国の事始め、をひも解くには、鍵をにぎっている神さまともいえそうよ」
「うーん意外やったなあ、そんな小舟に乗って流れてきた一寸法師に鍵にぎられとったとは……」
土門くんは、腕組みをしてしばし考え込んだ。
拝殿の右がわには、小さな稲荷神社、畳二枚ほどの社殿で鳥居・狛犬・手水舎の一式がそろっている金刀比羅《ことひら》神社と大鳥《おおとり》神社、そして石の祠《ほこら》のように小さな御嶽《みたけ》神社・祓戸《はらえど》神社・疱瘡《ほうそう》神社などがおかれてあって、ざーっと見て廻りながら、マサトが写真におさめた。
「いよいよ、本格的にお腹すいてけーへんかあ?」
「しかたないわね、じゃ、急ぐわよ」
四人は足早に、布多天神社の境内を抜けた。
出口の大鳥居のところで、宮司謹記の説明書きを横目に見ながら、まな美がいう。
「そうそう、延喜式神名帳は、九二七年に作られているけど、菅原道真さんが亡くなったのは何年《いつ》?」
「それは延喜三年、つまり九〇三年や」
「だとすると、ちょっと変なことに気づかない?」
「な、なんやろか?……」
すたすた歩きながら、土門くんは考えてから、
「わかったぞ! その神名帳にはやな、天神の名前はのうて、布多神社と書かれとったんや、どや?」
「さすがは土門くん、いいとこつくわね。でも残念ながら、布多天神社、と記されてあったの」
「な、なんやと!?……そんなに早《は》よう、道真さんの怨霊[#「怨霊」に傍点]が、こんな関東にまで襲ってきたとは思われへんけど?」
「実際そのとおりよね。京都にある北野天満宮《きたのてんまんぐう》の創建だって、村上《むらかみ》天皇の天暦《てんりゃく》元年だから」
「それは九四七年や。年代があべこべ[#「あべこべ」に傍点]なっとうやんか!?……」
「つまりね、道真さんとは直接関係のない天神社というのがあって、ここもその一社《ひとつ》だったのね。この話も説明しだすと長いから、また別の機会にね」
「そういうのをな、蛇[#「蛇」に傍点]、姫[#「姫」に傍点]の生殺しいうんやぞ」
「なっ、なにいってんのよ!――」
まな美は、さすがに怒って叩きにいく。
そうこうしていたら寺の門を通りすぎたので、
「別当寺の、大正寺さんには寄らないんですか?」
弥生が心配していった。
「――寄らへんぞう!」
土門くんは依怙地《いこじ》になって道を直進すると、甲州街道を走ってきたタクシーを、すかさず止めた。
彼は助手席に、他の三人は後部座席だ。そして運転手に行き先をたずねられて、土門くんがいった。
「深大寺蕎麦ぁ!……」
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生駒刑事が、埼玉県南警察署に帰り着くと、三階の大部屋のすみっこの、刑事課の彼の事務机《デスク》の上のパソコンにメールが届いていた。
――岩船《rock.ship@》さん、からである。
T大学を出がけに携帯電話で連絡を入れておいたので、その返事のようだ。
メールを開けてみると、クリップの表示があり、つまり添付資料があるとの知らせで、RARファイルが添付されてあった。それは圧縮ファイルの一種だが、一般的なZIPなどよりも高性能なので最近愛用者が多い。そして解凍すると、JPGの写真が五枚出てきた。
いわゆるAくん・Bくんの胸から上の写真と、Aくんの両親それぞれの顔写真、そしてAくんの家をやや遠くから撮った全景写真などだ。けれど、幼稚園の保父さん・保母さんの顔写真は手に入らなかったようである。
ま、それはなくてもいいだろうと生駒は思いながら、それらの写真を印刷《プリント》すべく、席を立った。
パソコンは各人に備わっているが、カラー印刷機《プリンター》は頻繁には使わないので刑事課には一台しかなく、通路がわに置かれている(窓がわは係長席だ)。
その印刷機の電源を入れて、Lサイズの写真用紙をセットし、横にある切り替えスイッチに依藤・野村《のむら》・生駒・植井《うえい》……などの名前が並んでいるので、自身のボタンを押すと準備完了だ。
そして席にもどって、印刷ウィザードに従っていくつかの項目にチェックを入れ、最後にOKをクリックすると|…………………………《ヘッド・クリーニングのためカラ運転をはじめ》印刷を開始するまで何分も待たされるのは毎度のことだ!
三、四年前の旧式の印刷機《プリンター》なので仕方がない。それに順調《スムーズ》に動いたとしても、Lサイズ五枚の印刷に五分ぐらいは優《ゆう》にかかるのだ。生駒は、席を立って珈琲《コーヒー》でも飲みにいくことにした。
自動販売機などは、通路をずーっと行った先の、この大部屋の出入口の、エレベーターと階段がある付近にある。それに生駒は、まだ昼食をとってないのだが、この用事を片づけるまでは我慢の子で、それもあって、甘ったるいミルク紅茶《ティー》に変更した。
すでに昼食を終えた防犯課の若い課員が何名か、その付近にたむろしていたので、すこし四方山話《よもやまばなし》をしてからデスクにもどると、ぴったし! 五枚目の写真が印刷機からはき出されるところであった。
生駒は、各々の写真の裏面に、簡単な説明書きを添えた。たとえばAくんの写真には、本名の『高比良優也《たかひらゆうや》』と『この少年の居場所を探して下さい。お願いします』のコメントなどをだ。
そして、それらの写真を紐《ひも》つきの茶封筒(埼玉県南警察署の屋号入り)にしまった。
実は、彼が気ぜわしく立ち働いていたあいだも、刑事課の係長席には依藤[#「依藤」に傍点]が座ってはいたのだが、新聞を手に読みふけっていて、まったく無反応[#「無反応」に傍点]である。
ま、知ってても知らぬ半兵衛《はんべえ》を決め込んでいるのかもしれないが、これ幸いにと生駒も、茶封筒を手にたずさえて、いっさい何も告げずに席を立った。
通路を小走りに抜けていってエレベーターに乗り、一階の表玄関から出て、駐車場に停《と》めてあった鼠色の警察車輛にさっそうと飛び乗るや、エンジンをスタートさせ、いざ出発……させようとしたそのときに、映画『ロッキー』のテーマ曲が聞こえてきた。
「はい。……あ、総務課ですか」
男性課員からの電話であった。
「……え? 自分の出張旅費の伝票に、記入ミスがあるって?……お金が出ない? それは困りますよ。締め切りが今?……だったらすぐ行きますから!」
生駒は、車のエンジンはかけたままで、署の建物の中にとり急ぎもどった。………
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途中、野川《のがわ》という小さな川を渡って、そして高速道路(中央自動車道)のごつい[#「ごつい」に傍点]橋桁《はしげた》の下をくぐった。あたりの景色が、俄然《がぜん》田舎じみてきて、左に折れてしばらく走ると、タクシーは停車した。
――運賃《メーター》は九百円である。
歴史部の会計係の、まな美が支払った。
四人が降り立ったのは、車道がふくらんでロータリーふうになっているバス停の前で、いわば深大寺の表玄関のようなところだ。
『武蔵野の水と緑と寺とそば』
そう題された巨大な観光地図が横に立っている。あたりには木々が多く、ふり返って見ても、車道の向こうがわは林である。
バス停から直角に幅十メーターほどの広い石畳の道(参道)が奥にのびていて、四人は、そちらに歩きはじめた。
和の情緒たっぷりの、やや古風な二階建ての店舗が両がわに軒をつらねている。
「……えらいにぎわっとうなあ。温泉|街《がい》で土産物《みやげもん》屋がならんどう、そんな雰囲気や……」
けっこう人が多く、老夫婦に子供連れの家族《ファミリー》に若いカップルもいるし、歴史部の四人が歩いていてもそう違和感はない。
そして土産物屋のとっかかりが、まっ黄色の服を着た等身大のねずみ男[#「ねずみ男」に傍点]が眠たそうな顔で『セール! 目玉もち三百円』を商いしている『鬼太郎茶屋』という店で、
「なるほど、ここが元締めやなあ……」
屋根の上には巨大な下駄が!
かと思うと、横に立っている木の枝には、みすぼらしい藁葺《わらぶ》きの鬼太郎ハウスが!
「この店、あとで寄りましょうねえ……」
意外にも、弥生が顔をほころばせていった。
「この記念写真も、あとで撮ろうぜえ……」
観光地などにはよくある顔だけが円く抜けている板絵が立っていた。だが、鬼太郎・ねずみ男・猫娘[#「猫娘」に傍点]のとりあわせなので、女子ふたりは嫌そうに顔を背《そむ》けた。
もっとも(場所柄)生《なま》蕎麦や乾蕎麦や蕎麦|饅頭《まんじゅう》などの蕎麦関連の商品を並べている店が大半のようだ。そしてごくごく小さな橋を渡ると、左がわに瓦屋根つきの案内板が立っていて、木の厚板に細かな文字でなにやらびっしりと書かれたあった。
「深大寺そば調べ。えー……創業|文久《ぶんきゅう》年間、元祖『嶋田屋』第五代店主しらべ」
土門くんは、最初と最後だけを読んでから、
「文久は一八六〇年ちょっとやから、そこそこに老舗《しにせ》やな。――姫、この店に入るんか? 先に玄関が見えとうぞう」
「どうしようかしらね。蕎麦が食べられるお店は、この付近だけで何十軒もあるのよ」
そういえば右がわも、赤い暖簾《のれん》が入口にかかっているが、蕎麦屋のようである。
「これだけ多いと、あたりはずれが激しい[#「激しい」に傍点]と思うわ。水野さん、おいしいお店どこか知ってる?」
「いいえ、わたしも小学生のころに、一度だけ来たきりなんですよ」
弥生は首をふっている。
「わざわざこんなとこまで来て、おいしゅうない蕎麦なんか食《く》いとうあらへん!」
マサトも、うなずいている。
「しゃーあらへんなあ、また店開きすっか……」
いうと土門くんは、すたすた歩きはじめた。
嶋田屋の先で、石畳の道はT字路になっていて、その付近に腰かけられる場所があるのを土門くんは目ざとく見つけたようだ。
「さすがにかっこ悪いから、みんなで囲ってやあ」
いいながら、石のベンチに腰をおろした。
すぐ横に十段ほどの石段があって、その上にある深大寺の茅葺《かやぶ》き屋根の山門がもう見えている、ような場所である。
土門くんは、自身の膝《ひざ》の上で紅柄色《べんがらいろ》の歴史部《ノート》パソコンの蓋《ふた》をあけてスタンバイさせながら、
「こういう場合にはやな、ぐーぐるで、深大寺、こんま、蕎麦、こんま、らんきんぐ……いう感じで検索すればええんや」
自慢げに能書きをたれた。
「ところで土門くん、ランキングは片仮名よ」
「知っとうわい!……」
「……お! あったぞう。『深大寺そば行脚《あんぎゃ》』いう専門のほーむぺーじを作っとう人がいてはった」
そのランキングの特AとAクラスの中から、一軒の店を選んだ。決め手となったのは、この場所から一番近い! といった単純なものである。
パソコンをしまってから、四人は、T字路を右の方向に歩きはじめた。
さらさらと澄んだ水が流れている幅一メーターほどの水路にそって、緋毛氈《ひもうせん》が敷かれたベンチが並び、赤い野点傘《のだてがさ》も何本か小粋《こいき》に立てられてあった。
右がわは土産物屋で、手焼き煎餅《せんべい》や、陶磁器を並べている店もあり、みたらし団子・くず餅《もち》・みそ田楽《でんがく》・甘酒などの蕎麦関連以外も売られている。
やがて左がわに、白茶の壁に木枠の窓がはまっている古びた平屋が見えてきた。そのあたりは常緑の木々が道におおいかぶさらんばかりである。
「ここや! いかにも……いう感じや!」
さも山寺の山門のような無骨な木の門があって、くぐると目の前は太い孟宗《もうそう》の竹やぶだ。ちなみに店の名前は『雀のお宿』という。
竹やぶを背にした屋外にも席があって、離《はな》れふうの薄っぺらい小屋も建っている。それらを横目に見ながらスロープを歩いていくと、建物の入口の暖簾をくぐった先に食券売り場があった。
「せっかくだからお蕎麦屋さんをハシゴしない?」
そんな悪魔のささやきめいたものを、まな美がつぶやいたこともあって、四人そろって一番質素なもりそば[#「もりそば」に傍点]を注文した。
古びた民家ふうの店内に入ると、そこかしこで石油ストーブが焚かれていて、ぽかぽかと暖かい。六人がけの木の大テーブルがあいていたので、四人はそこに陣どった。壁ぎわには古い洋風の飾り棚(戦前の日本製か)が置かれてあって、店内の白壁にはところどころ、わざとに穴ぼこがあいていて、なかなかの風情である。
「そうそう土門くん、パソコンで地図を出せる?」
「出せるで。……いったい何を見たいんや?」
紅柄色の外側《ボディ》で内側は濃い鼠銀色だから、こういう場所で出して使っても、そう違和感はない。
「まずね、この深大寺を地図に出してくれる。そして、正確[#「正確」に傍点]に西の方に移動していって欲しいの……」
「そういう場合はやな、ぐーぐる地図《まっぷ》が使えそうやけど……」
土門くんは、パソコンを小器用にあやつりながら、
「……けれど、この地図のあかんとこは、方眼紙のような目盛りがついてへんことや。基準点をどこにあわすか、そういうことが難しいねん」
すこし文句をいってから、
「おっ、深大寺が出たぞ……卍《まんじ》が打ってあんのは、たぶん寺の本堂かな。これを基準にしてええか?」
「うん」
「えー……そやったら、横についとう拡大縮尺ゲージのマイナスところに合わそう……そして、西に移動していけばええねんな……すると、調布飛行場の上を飛んで……警視庁警察学校の校舎を越え……東府中駅が上に見えるぞう……下に府中競馬場が見えてきた……そして、ありゃりゃ!?」
土門くんは、ちょっと驚いてから、
「大國魂神社の建物《たてもん》にぶち当たるな。正確にいうと、拝殿のほうや……」
まな美は、大きくうなずいてから、
「深大寺も大國魂神社も、何度も建てなおしているから、一番最初の建物で比較できないと、なんともいえないんだけど……」
「なるほど。これぐらい微妙にずれとう場合は、詳しゅう調べてみる価値大[#「大」に傍点]やな。芝の増上寺や、|鳩ヶ谷《はとがや》の慈林寺《じりんじ》の場合もそやったし……するとやな、大國魂神社のほうが古そうやから、あっちを基準にして、こっちが建てられたいうことか?」
「まあ、その可能性もある、てことぐらいかしらね」
まな美は、断定をさけていってから、
「それともうひとつ、大國魂神社の大鳥居の前の道、つまり旧甲州街道を、西のほうにすこし行ってくれる。すると、高安寺《こうあんじ》というお寺があるはずだから」
「あの道は……そうつながっていたんですね」
弥生が、テーブルの反対がわから身を乗り出させて液晶画面《ディスプレイ》をのぞき込みながらいった。彼女も、遅ればせながらに地理を理解できたようだ。
「これやろか?……龍門山・高安寺いうんがあったけど?」
「そう! それよ。そのお寺は、もともとの名前は、安国寺《あんこくじ》なのよ」
「それって、もしかして、あの足利《あしかが》のか?――」
土門くんが濁声《だみごえ》でいって、まな美がうなずいて、そして四人して苦笑した。
歴史部においては、足利将軍や室町幕府の評価はあまり芳《かんば》しくないのである。
「そして今度は、その高安寺から、真北の方向に移動してってくれないかしら」
「ほな、高安寺の卍を基点にして、上にあがっていくぞう……まず京王線を越えて……JRの北府中駅を越え……そして府中刑務所をかすめ……うん!? これか!? 遺跡の印とぶちあたったぞ。――武蔵国分寺跡」
「それそれ!」
まな美は、舌ったらずぎみにいってから、
「そのふたつが、そういった位置関係にあるものだから、かつては、高安寺が、武蔵国府の有力な候補地だと推理していた学者さんもいたのね」
「あ! なるほどなるほど――」
土門くんは大袈裟《おおげさ》に合点してから、
「なんちゅうたって、南北|直線《らいん》こそが、この種の謎を解き明かしていく生命線[#「生命線」に傍点]やもんな。誰しも考えることはいっしょや! ははははははは……」
しばし高笑いをつづけた(店内だから小声で)。
秋の文化祭のさいには、地図にそのような南北線をさんざん引いた記憶が、マサトにも……ある!
「もっとも、その後、大國魂神社の周辺から国府の跡が発掘されはじめたので、この説は立ち消えになってしまったんだけど」
「そやけど、この高安寺つまり安国寺は、武蔵の国分寺にあわせて建てたんか? 足利が――」
「もちろんそうよ。天皇になり代わりたかった尊氏《たかうじ》なんだから、やりそうなことでしょう?」
「まあ、そうやな。するとそのころには、国分寺がまだ残っとってんな?」
「うーんそれが残念なことに、そのほんのすこし前に燃えてしまっているのよ……」
まな美は、いかにも悔しそうにいってから、
「そうそう、鎌倉末期の武将で、新田義貞《にったよしさだ》って知ってるでしょう」
「もちろんや。拳兵してわずか十五日で鎌倉幕府を滅ぼした豪傑や。そのくせにけっきょくは尊氏に負けてしもて、強いんか弱いんか、あほなんか賢いんかようわからへん悲運の武将や」
「武蔵の国分寺はね、その能《のう》なしの戦《いくさ》馬鹿が、火をつけて燃やしちゃったの!」
「な、なんやとう……」
まな美がきつい言葉を吐《は》いていると、ちょうど蕎麦が運ばれてきた。
仲居さんが、怪訝そうな顔でテーブルを見廻している。
「ハハハ……ほな、お味はどないやろか……」
土門くんが場を繕《つくろ》って、割り箸をパーンと威勢よく割ると、薬味をつゆに入れて、さっそく食べはじめた。
「……うんうん。つるつると、おいしいおいしい」
「……腰が強いですよね」
「……蕎麦の味がするわよね」
「……おいしい」
とまあ、おおむね高い評価が出そろったようだが、いかに知識豊富な歴史部の面々といえどもそこは高校生で、蕎麦のほんとうの美味《うま》い不味《まず》いまではわかろうはずもない。
「……その新田義貞が燃やしたいうんは、ひょっとして、分倍河原《ぶばいがわら》の戦い、とかいうやつのときか?」
土門くんが、話をもとにもどしていった。
「……そうよ。府中駅のひとつ西どなりに、分倍河原駅があって、そのあたりが戦場ね」
「あ!……こんなとこやったんかあ……」
土門くんはパソコンの地図で確認し、そして蕎麦をひと口、じゅるじゅるッ、とすすってから、
「そ、そやけど、ぜんぜん河原っぽくあらへんぞう。前に東芝のビルとか建っとうし?」
「……かつては、そのあたりまで多摩川の河原だったのよ。その分倍河原の戦いでは、最初は新田軍が負けるのね」
まな美もおちょぼ口で、ちゅるちゅるッ、と蕎麦をすすってから、
「そ、そして逃げていくときに、武蔵の国分寺が、鎌倉がたの砦《とりで》にされちゃかなわないと考えたらしく、火を放ったのね!」
「……な、なんちゅうやっちゃ」
「それにひょっとしたら、まだ七重塔が建っていたかもしれないのよ。その時点では!――」
まな美が、いっそう語気を強めていった。
「七重塔って、なんなんですか?」
弥生は上品に、箸を蕎麦|猪口《ちょこ》のふちにそろえて、口ももぐもぐさせずにたずねた。
「……そもそもね、聖武《しょうむ》天皇が国分寺建立の詔《みことのり》を出して国分寺・国分尼寺を全国展開したときには、七重塔もいっしょに建てているのよ」
「それ、なんとなく聞いたことあんなあ……そやけど、七重塔いうんは名目《めいもく》で、実際には三重塔あたりでお茶を濁《にご》しとったんちゃうん?……」
「ち、ちがうわよ! きちんと七重塔を建てているわ。もちろん、武蔵国にも立派なのが建っていたのね。けど『続日本後紀《しょくにほんこうき》』によると、承和《じょうわ》二年に……これは平安時代のほうの承和[#「承和」に傍点]よ」
「そやったら、八三五年やな」
――南北朝時代にも、貞和《じょうわ》という年号があるのだ。
「その年に落雷があって、一度燃え落ちてしまうのね。けれど、その十年後ぐらいに再建の許可がおりて、ふたたび七重塔が建てられているのよ。そしてその後は、燃えたとか倒れたとかの、特別な記録はないのね。だから新田義貞が火を放つまでは、立っていた可能性が充分考えられるのよ!」
「ほう……そやったら、よその国分寺には、七重塔は残ってへんのか?」
「ひとつも残ってないわ。だから新田の馬鹿[#「馬鹿」に傍点]さえ火をつけなきゃ、もう国宝中の国宝で、武蔵国の一番の宝として、威張れたのにぃぃぃ!!……」
まな美は体じゅうで地団駄を踏んでいった。
「経緯《いきさつ》はわかった。それは怒ってええぞ姫――」
土門くんも味方していってから、
「まあ、そういうあほ[#「あほ」に傍点]なことをしたやつには天下はとれへん、そういう宿命やな。あの信長もしかり」
至極まともなことをいうと、蕎麦の最後のひと口を、じゅるじゅるッ、と音をたててすすった。
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10
――生駒は、ちょっと道に迷っていた。刑事としてはあるまじき話ではあったが。
御神が住まいとしている鬱蒼とした森の屋敷は、春日部市の古利根川《ことねがわ》の土手から一本入った道ぞいにあって、生駒がそこをゆっくりと車で走ってみると、たしかに、森の切れ目らしき箇所がチラと見えはしたのだ。
けれど、その道は舗装はされていたが農道に毛の生えたような細い道で、しかも運悪く別の車に後ろからあおられていて(これも警察車輛としてはあるまじき話だが)、避《よ》ける場所はないし脇道《わきみち》はないし、あっても田んぼの畦《あぜ》のような赤土の道だし、どこかUターンできそうな場所を……と探しているうちに、ずるずると走ってきてしまったのである。
そしてなんとかUターンをして、再度チャレンジしている最中なのだ。
――よし! ここだ!
その森の切れ目に、車の鼻っ先をつっ込ませて、とりあえず停車した。
木々が茂っていて、|横っ腹《サイド》を葉っぱでこすりそうだったが、まあなんとか進めそうだ(自前の車じゃないから少々のすり傷ぐらいは……)。
生駒は一速《ローギア》でゆっくり発進させた。
すると、じゃりじゃりと音がして、小石がポップコーンのように跳《は》ねて車の底にもあたった。生駒はふと、お寺や神社などに敷かれてある目のそろった砂利が頭に浮かんだ。そういった神聖なる場所を車のタイヤなどで穿《ほじく》り返してはいけない[#「いけない」に傍点]! のはいうまでもないことだからである。
それに前方の木梢《こずえ》の陰に、瓦屋根がのった古めかしい木の門が立っているのが見えた。どうやら、ここで間違いなさそうだ。
生駒は、車を止めてサイドブレーキを引いた。
そしてドアから出ると、外は凍りつくような寒さで、身震いしながらコートをひっかぶると、資料の入っている茶封筒を手にもって歩きはじめた。
門はすぐ先である。入口(森の切れ目)からも三十メーターあるなしだろう。この砂利道が曲がっているせいで、車道からは見えなかったのである。
まるで大名屋敷のようなご大層な古い門であったが、表札などはかかっていないようだ。
だが生駒は、例のものをさっそく見つけた。
ひさしの下にカメラが据えつけてあって、筒先がこちらを睨んでいたからだ。ま、監視カメラのたぐいはそれ一台だけじゃないだろうが、そんなことよりもまず――生駒は警察手帳をとり出すと、縦にぱらっと開《ひら》いて、カメラのほうに示した。
すると、ぎぎぎ、ときしむ音がして、門の横にある勝手口のような木戸がわずかに開《あ》いた。
「――その場でお待ちください。今、屋敷のものがまいりますので」
凜々《りり》しい男の声が聞こえてきたが、姿はあらわさない。
生駒は、夏に日光の山寺『恙寺《つつがじ》』で遭遇した(詳しくは、山門へとつづく石段わきの簡易舗装の山道で御神が乗っていた車の助手席から降りてきた)とある男性のことがふと頭をよぎった。依藤係長がガンを飛ばしたがまったく動じなかった威風堂々とした初老の男で、生駒は、その彼が出てきたらおっかないなーなどと内心びくびくしていたのだ(これもまた殺人課[#「殺人課」に傍点]の刑事としてはあるまじき、だが)。
そうこうしていたら、ぎぎぎー、と木戸が大きく開いて、若い男がとび出してきた。
ロゴ入りの小さな|継ぎ接ぎ布《パッチワーク》がたくさんついている小洒落《こじゃれ》た分厚いカーディガンをはおっていて、
「すっ、すいませんすいません。やー、お待たせしちゃって……」
走って来たらしく、すこし息を切らせながらいった。
「いえ、こちらこそ。自分は埼玉県南警察署の刑事で、生駒といいます」
再度、ぱらっと警察手帳を開いて示した。
「はい、先ほど火鳥先生のほうから……」
といいながらも怪訝そうな顔つきになって、
「あのう、その警察手帳はほんもの[#「ほんもの」に傍点]ですか?」
「ハハハッ……いや、オモチャじゃないかってよくいわれるんですよ最近」
生駒は吹き出して笑いながら、
「実は三年ほど前にですね、この今の形に変わったんです。それに警察手帳といっても、メモ書きできる部分はなくなりまして、純粋に身分証です」
――警察手帳のデザインが一新されたのは二〇〇二年の十月一日である。
「あ、それはそれは、知らぬこととはいえ」
ぺこぺこと頭を下げてから、
「自己紹介が遅れまして、ぼくは桑名竜生といいます。当家の……まあ小間使《こまづか》いのようなものでしょうか、はははは……」
自嘲《じちょう》ぎみにいうと、人なつっこく笑った。
ともあれ(あの初老の男性とは真反対のような彼なので)生駒としてはひと安心で、
「では、さっそくですが、これが見ていただく資料です」
――薄っぺらい茶封筒をさし出した。
竜生は、うけとると中身を確かめるように手ですこしふってから、
「たしか、写真でしたよね?」
「はい」
「これはお預かりするとしても、あいにく、御神さまが不在でございまして」
「あ……やっぱり、歴史部ですか?」
「ええ、この寒空だというのに、朝早くから出かけて行かれちゃいました」
竜生は苦笑しながらいって、
「けれども、ご用の内容からしますと、お急ぎですよね?」
「はい。できますれば――」
「うーん、何時に帰ってこられることやら? まあ外で夕飯までは食べてこないとは思うんですが、それに当家の主人《あるじ》も、間《ま》が悪く本日は不在でして」
それは爺《じい》こと桑名|竜蔵《りゅうぞう》のことであるが。
「ともあれ、ぼくのほうから一度電話を入れてみましょうか? 御神さまの携帯に」
「はい。そうしていただけますと、助かります!」
生駒はびしっと背筋をのばすと、小さく頭《こうべ》をたれていった。
「えー……ですが、何度もいいますけど、ぼくはほんとに小間使いの立場なんで、あまり期待しないでくださいね」
竜生は、くどくどと卑下《ひげ》していった。
「いえいえ、お任せいたします!」
生駒としては、彼に託すしかない。そして辞去しかけたが、ふと思いついたことがあって、
「ところで、パソコンとかはご使用ですか?」
「ええ、毎日のように使ってますよ」
「じゃあメールとかも?」
「はい、ぼくは携帯の文字を打つのは苦手なんで、もっぱらパソコンのメールのほうを……」
「そうしますと、つぎからは、資料などはメールで送らせていただいても、かまいませんよね?」
「ええ、わざわざ来ていただかなくても、そちらのほうがよっぽど便利ですし……」
生駒は背広の内ポケットから名詞をとり出すと、
「ここに自分のメール・アドレスが出ていますから、一度|空《から》メールを打ってください」
「はい、承知いたしました」
竜介とかわした、今回かぎり! な〜んて約束はどこ吹く風の生駒であった。
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11
歴史部の四人は、またたくまにもりそば[#「もりそば」に傍点]をたいらげると、女子ふたりは化粧室にしばらく消え、そして店を出るといったん寺の正面(土門くんがベンチに座って店開きしたあたり)までもどってから、あらためて十段ほどの石段を上りはじめた。
すると土門くんが、ええなあ! ええなあ! と感嘆の声をあげつつ、自身のデジタルカメラをとり出して撮影をしはじめたこともあって、山門のわきに立っていた金属製の案内板は――
市重宝(建造物)
深 大 寺 山 門[#「深 大 寺 山 門」は太字]
[#地付き]指定平成十年十二月二十五日
桁行《けたゆき》三・五五メートル
梁間《はりま》二・三二メートル
建物は一間薬医門《いっけんやくいもん》、切妻造、茅葺である。主柱、控柱ともに丸柱、上下|粽付《ちまきつき》、下に基礎を履き、薬医門特有の前寄り屋根を構成する。
この門は和様《わよう》を主調とするが、禅宗様(唐様)を併用し、一部に大仏様《だいぶつよう》(天竺様)も巧みに取り入れた意匠的にも優れた建物である。
深大寺は、慶応元年(一八六五)の大火によって建物の大半を失った。この山門はそのときの災禍《さいか》を免れた建物の一つであって、寺で保管する元禄八年(一六九五)の棟札によって建立年代が明らかである。
[#地付き]平成十三年十二月十二日建立
[#地付き]調布市教育委員会
――マサトが、パチリと写真におさめた。
左右につらなっている木の塀は素木《しらき》で焦茶色《こげちゃいろ》だが、門の柱や梁にだけ朱が塗られてあって、それが色衰《かせ》ていて、また軒下にかかげられた『浮岳山《ふがくさん》』の額も元はたぶん金色だったのが褪《あ》せていて、それらが茅葺きの屋根とあいまって、えもいわれぬ風情《ふぜい》をかもしだしている。
その山門をくぐると、ひらけた境内だ。
右手の塀ぎわに鐘楼《しょうろう》が建っていたが、石の基壇も低く、意外なほど小ぶりである。
右ななめ奥には、茅葺き屋根であるのにむしろ現代的な、白壁に焦茶(古木《こぼく》)の縦すじだけ[#「だけ」に傍点]が入っていて窓のほとんどない、シンプルで独特の形をしたかなり大きな建物が見える。――まな美の説明によると、あれは慶応《けいおう》の大火の直後に再建された庫裡《くり》で、寺の台所兼居間のようなものだそうである。
そして、まっすぐ四、五十メーター先に、茂った木々を背にして瓦屋根の大きな本堂がある。白壁に素木造りだが、木の色がまだ浅い茶色で、比較的新しい建物のようだ。
本堂へと幅二メーターほどの石畳がつづいていて、その中ほどに、銅葺き屋根がのった小さくて可愛らしい東屋《あずまや》が建っていた。そこからは白い煙が立ちのぼっていて、つまりお香を焚《た》く場所だ。
四人はせっせと手であおいで、その煙を身体にまとわせた。――こういうのは神社にはなくお寺ならではだと弥生がいって、マサトも、いわれてみればそのとおりだなと今さらながらに思った。
だが、手水舎はというと……。
石畳は十字の形に敷かれてあって(まわりは砂利だが)、お香が焚かれている常香楼《じょうこうろう》はその中央にあり、左の石畳のかなり先に建っているのが見えた。
……四人は、そちらに歩いていった。
屋根は銅葺きだが、水は丸井戸ふうのところから流れ出していて、大釜の木の蓋のようなもので上を閉《と》じてあった。それに厳冬だというのに、雫のかかるところには水草らしき葉を青々と茂らせている。湧き水なのでかえって暖かいせいだろうか、そんなことをマサトが考えていると、肩にかけているカメラ鞄の中から音が聞こえてきた。
――りんりん。りんりん。りんりん。
なつかしい黒電話のような呼び鈴《りん》で、それは彼の携帯電話の着信音である。
弥生が、何事かと緊張した面持ちでマサトのほうに目線を向けた。こちらからかけることはあっても、かかってくることなどはめったにないからだ。
だがマサトは、大丈夫、そういわんばかりに穏やかに微笑《ほほえ》み返すと、手水舎の前からはすこし離れて、カメラ鞄の中から携帯電話をとり出した。
……竜生からの連絡であった。
急な用事ができたので屋敷に帰ってきて欲しいと、そんな内容のようだが、彼の説明はいちいち廻りくどくって、いつも要領をえない。
マサトは、携帯を耳に押しあてたまま、空を見上げた。一面白雲におおわれていて鬱々とした寒空だ。さもあやしげな気体が(きのこ雲が)あたり一帯をすっぽり包み込んでいるようですらある。
竜生が話し終えたらしいので、マサトは返答した。
「いや、帰らないよ。それは急ぎの用事じゃないと思う――」
そして携帯電話を切った。
マサトは、歴史部のみんなといるほうが楽しくて神の責務を放棄したのだろうか? いや、そんなことあるはずがなかろう。彼の頭の中では、不思議なことに、とある台詞が木霊《こだま》していたのだ。
『ばかやろう、おまえだまされてるんだ』
………
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第三章 前夜祭
12
「……姫。あっちにも寺の建物《たてもん》があって、人集《ひとだか》りが断然すごいようやけど、どないなっとんや?」
土門くんが、ぽたぽたと雫《しずく》のしたたっている手のままで指さしながらいった。
手水舎《てみずや》のすぐ左がわから、すべり止めに藁《わら》が敷かれたゆるやかな上り坂がつづいていて、ちょっとした高台の奥に、木々の茂みに囲まれて古びた銅葺きの屋根が見えている。
「あちらはね、大師堂《だいしどう》なのよ」
「ふーん、聖徳太子《しょうとくたいし》を祀《まつ》っとんか」
てんで的《まと》はずれなことを土門くんはいう。
「あのね……」
まな美は、あきれ笑いしながら、
「太子堂じゃなく、大[#「大」に傍点]師堂ってわざわざ濁《にご》っていってるでしょう。わたし江戸っ娘《こ》なんだから、濁るの嫌いなのよ」
「う……うそつけぇ! 埼玉県の蕨《わらび》のくせして」
「ともかく、ふつうお寺で大師堂といえば、真言宗《しんごんしゅう》だったら弘法大師《こうぼうだいし》・空海《くうかい》さんね。でもここは天台宗《てんだいしゅう》だから、慈恵《じえ》大師の良源《りょうげん》さんをいう場合が多くって、厄除《やくよ》けの和尚として有名で、あちこちのお寺で祀られてるわ。――佐野《さの》厄除け大師、て聞いたことない? 栃木県にあるけど。あるいは、あの喜多院《きたいん》も、俗に川越大師と呼ばれていて、本堂は大師堂で、やはり良源さんなのね。十世紀ごろの天台宗の座主《ざす》で、円仁《えんにん》・慈覺《じかく》大師の再来とまでいわれた人だから、まつわる不思議な話がてんこ盛りの僧侶よ」
まな美は、嬉しそうにいった。
「そやったら、自分らはどっちで拝めばええんや? 本堂のほうか? それとも、てんこ盛りか?」
――キ!
まな美はきつく睨んでから、
「格式と伝統を重んじる天台宗の信奉者はあちら、庶民はこちら」
「ほな、行こか……」
土門くんは、素直に、藁の坂道のほうへと歩きはじめた。その藁は板の上に敷かれてあって、どうやら石段を工事中のようである。
「あのう……」
弥生が、ゆったりした口調でたずねる。
「わたしの家に近くに、たぶん有名なお寺だと思うんですけど、西新井大師《にしあらいだいし》というのがあるんですね。あちらは誰を祀っているんですか?」
「弘法大師の空海さんよ。川崎大師とおなじで。それにさっきの佐野厄除け大師を加えて、関東の三大師[#「関東の三大師」に傍点]といったりもするわ。それほど有名なお寺ね」
まな美は真摯《しんし》に答えた。――佐野厄除け大師(天台宗)をはずして、千葉の観福寺《かんぷくじ》(真言宗)を入れる場合もあるようだが。
「こっちのお堂はけっこう古そうやけど、慶応の大火事のときに燃えへんかったんか?」
「ううん、火事の直後に、いの一番に再建させたらしくって、だから古く見えるのよ」
人の背丈ほどのところに縁《えん》がある高床式の堂宇《どうう》だが、屋根はなだらかで低く、平屋って感じの大きな素木造《しらきづく》りである。近くまで行くと、銅葺きのひさしが前面に異様に張り出してきているのがわかる。
それに二ヵ所にある階段には上《のぼ》り下《お》りの人が絶えず、縁の上も混雑をきわめていた。昼食を終えた人たちがこぞって参拝しているからである。
社務所へと通じる右がわの階段のわきに案内板がいくつか立っていて、土門くんが、
「えー……市重宝、深大寺、慈恵《じえ》大師|坐像《ざぞう》。本像は大師堂の本尊である。慈恵大師は、天台宗の僧・良源のおくり名で、元三《がんざん》大師とも呼ばれている。近世には元三大師がこの寺の信仰の中心で」
とそこまで読んでから、
「ええ? なんやかんやゆうても人間[#「人間」に傍点]やろ、それをお寺の本尊にしてええんか?」
「だから先にいったように、良源さんはもう人間を超越してるのね。如来《にょらい》や菩薩《ぼさつ》だって、かつては人間だったけど悟って仏《ほとけ》になった人、て設定だからおなじなのよ。それと元三大師と呼ばれるのは、正月の三日の日に亡くなっているから」
「なるほど……不思議てんこ盛りやと本尊になれるんやなあ」
土門くんは小声でささやく。
「そうそう、その不思議だけど、こんな話が伝わっているわ。京に疫病《えきびょう》が流行《はや》っていたころ、良源さんが大鏡の前で座禅をして、自身の姿を鬼に変えて、それを弟子が絵に写しとり、お札《ふだ》にして家々の戸口に貼るように命じて、疫病を退散させたそうよ」
「か……鏡か」
土門くんが意味深につぶやいた。
「そうね、鏡の話をすると誰かさん[#「誰かさん」に傍点]が怒るわよね」
いうまでもなく兄・竜介のことであるが。
「ともかく、みずから鬼となって疫病神《やくびょうがみ》と闘うことができたほどの豪快な僧侶で、そのお札は今でも、社務所に行くと売ってるはずよ。角《つの》大師と呼ばれる鬼の姿をした護符《ごふ》が――」
縁の上がやや空《す》いてきたので、四人は、正面階段のほうにまわった。見上げると、竜や唐獅子や象鼻などの立体感のある見事な木彫が、くすんだ焦茶色になって向拝の軒下を飾っている。
「……マサトくん。だいじょうぶ?」
さっきからカメラ撮影もせずに、ぼうとした虚《うつ》ろいだ目で、物思いに沈んでいるかのような彼を気遣《きづか》って、まな美がいった。
「……うん」
マサトは、ふと我に返ったような顔をすると、微笑みながらうなずいた。
「朝が早《は》よかったせいで、自分も眠たい眠たい」
はからずも土門くんがフォローしたが、まあ、そういったことでなかろうことはいうまでない。
小ぶりの鰐口《わにぐち》が軒下の右と左に二個かけてあったが単なる飾りのようで鳴らすための布縄はない。四人は、頑丈そうな素木の賽銭箱に小銭を投げ入れると、しばし手をあわせた。
格子戸が開いていて、がらーんとした堂宇の座敷には緋色《ひいろ》の絨毯《じゅうたん》が全面に敷かれ、正面の奥に、黄金色をした蝋燭立《ろうそくた》てや灯籠《とうろう》や(庶民のお堂らしく天蓋《てんがい》も派手ではなく金ぴかの金具類はごく控えめだ)そして菊の生け花などに隠れるようにして、厨子《ずし》らしきものがわずかに見えている。――土門くんが読まなかった案内板のつづきによると、本尊の慈恵大師坐像は秘仏であり、ご開帳が行われるのは五十年ごとで、最近では昭和五十九年(一九八四)に行われた、とのことなので、つぎに見られるのは二〇三四年である。
参拝を終えると、マサトは、ふっきれたかのようにカメラ撮影をはじめた。お堂の中は暗いので(だからといってフラッシュは焚《た》けず)単焦点の明るいレンズに交換して。
そして四人は、右がわに棟つづきにある社務所へと向かった。そこでは、まな美の事前の説明が功を奏してか、鬼の骸骨《がいこつ》が黒く刷られている『元三大師|降魔《こうま》札・深大寺』を全員が購入した。
「そうそう、これも買わなくっては……」
B5サイズの深大寺の案内小冊子《パンフレット》と、そして『住職がつづる「とっておき」深大寺物語』の単行本をまな美は買うと、すかさず土門くんに手渡した。
「ああ? 自分が持てってか?」
「土門くんのショルダーにしか入らないじゃない。その吉田カバンだって、部費で購入したんだから」
歴史部《ノート》パソコンを常時持ち運べるようにとクッションに中綿が入っているそれを選んだのである。
「しゃぁあらへんなあ……」
情けない声で土門くんはいうと、単行本は鞄《バッグ》にしまって、案内小冊子《パンフレット》をぱらぱらとめくりながら、
「うわあ、写真満載や。それに建物やなんやかやと細《こま》かな説明書きがわんさとある。これやともう歩き廻らんでもええぞう」
「なにいってんのよ。――行くわよ!」
まな美が先導して階段を小走りにおりていった。
そして、大師堂のすぐ左わきにある『開山堂《かいざんどう》参詣道』の石柱が立っていた石段の道に入ってから、
「そうそう、思い出したわ。元三大師って、お寺や神社で売られているおみくじ[#「おみくじ」に傍点]の発明者でもあるのよ。彼が最初にやりはじめたのね」
「――姫。そんなん今時分にいわれたって、手遅れやわい!」
その参詣道は、裏山のような場所へと通じているゆるやかな登り階段で、大師堂の意外なほどに質素な裏がわが右に間近《まぢか》に見えている。左は石垣だが、赤錆色《あかさびいろ》をした四角い大きな石が積まれ、角《かど》もとれておらず、参詣道全体が真新しい感じである。
「えー……開山堂へ向こてるんやな、どれどれ」
土門くんは、石段をひょいひょいと大股に歩きながら、手では案内小冊子をめくって、
「……昭和五十八年の開創一二五〇年|大法会《だいほうえ》記念事業として新築された奈良時代の堂宇です。本尊に薬師《やくし》如来、脇侍《わきじ》に弥勒《みろく》菩薩と千手《せんじゅ》観音を安置し、開基《かいき》は、えー……読まれへん。そして天台宗の……これも読まれへん、和尚の尊象を祀っています」
「それはね……」
まな美が横からのぞき込みながら、
「開基は満功上人《まんくうしょうにん》で、天台宗は恵亮《えりょう》和尚ね。この深大寺の開基は、たしか天平《てんぴょう》五年だから」
「――七三三年や」
すかさず土門くんは注釈していい、
「するとやな、まだ空海も最澄も生まれてへんから、満功上人は、古い仏教のほうやな?」
「そう、法相宗《ほっそうしゅう》の僧侶だったの。つまり最初は法相宗のお寺だったのを、恵亮さんが天台宗に変えたのね。だから開山堂にふたりいるの」
「法相宗いうたら、あのややこしー唯識論《ゆいしきろん》のとこやな、自分らにはとうてえ理解不能のー」
「誰かさんの専門よ」
まな美は、いじけたふうに顔をぷいと横に向けていってから、
「法相宗はさておき、天台宗もさておき。その満功上人にまつわる話が面白いのよ。武蔵国の事始めを解いていく上では欠かせないわ。住職の書いた『とっておき』の本のほうに詳しく出てるはずよ」
「あ、すっかり忘れとった。自分らのお題[#「お題」に傍点]は事始めやったな……」
なにを今さら思い出して土門くんはいうと、案内小冊子を鞄《バッグ》にしまって、単行本をとり出した。
「うわ、大きな字で書いてくれてはる。歩きながらでも読みやすい読みやすい……」
そして、しばらく頁をめくっていると、
「げげげ!」
これまた思い出したかのように驚き声を発して、
「――姫。第一章がいきなり、渡来人[#「渡来人」に傍点]やぞ!」
「ええ?……」
それには弥生も驚いて、本をのぞき込んだ。
マサトは、なるほど、とうなずいている。
布多天神社でまな美がした説明を思い出したからだ。ガガイモの実の小舟に乗って流れついたという神・少彦名命の逸話は、いかにも意味深であった。
そうこうしながら石段を歩いて行くと、木立に囲まれて、白壁に素木造りの小さな堂宇が見えてきた。それに左手がわの背後は金網のフェンスで仕切られてあって、その向こうがわも木々の緑で、人がそぞろ歩きしているのがちらちら見える。
「あちらは神代《じんだい》植物公園で、かつては深大寺の境内林だったんだけど、お金を払わないと入れないのよ」
まな美が厭味《いやみ》っぽくいった。
――注、神代植物公園は、みどりの日(4/29)と都民の日(10/1)は無料開放である。
開山堂は、石積みの基壇にのった六畳間ほどの古式ゆかしい(奈良時代を模した)小綺麗《こぎれい》な堂宇で、使われている木の材質が異なるのか、柱と扉は浅い茶色で、上半分は濃い茶色だ。
だが土門くんは、ちらっと見ただけで、
「所詮|新物《あらもん》や」
骨董屋の符牒《ふちょう》で小馬鹿にしたようにつぶやくと、崖っぷちにある太い石の柵にもたれかかって、なおいっそう熱心に本を読みふけりはじめた。
「渡来人とは、どういうことなんですか?」
弥生は、まな美にたずねる。
「うーんたしかね、開基の満功上人の父親が渡来人で、当時は、朝鮮半島から大勢の人が渡ってきていたから、そのひとりだったらしいのね。そして、その彼と母親との馴《な》れ初《そ》め話が、深大寺の開創と深く関係していたようで……」
「恋愛物語なんですね」
「そう、深大寺の縁起《えんぎ》って、実はロマンチックな恋物語なのよ。今日にぴったしでしょう」
「そうそう、クリスマス前夜祭《イヴ》ですものね」
そんな女子ふたりの乙女チックな会話を尻目に、マサトはひとりカメラ撮影に勤《いそ》しんでいる。
開山堂の前面には両開きの扉が三つあり、中央だけが開いていて格子戸がはまっていた。中がのぞけそうだったので、マサトは四、五段の石段をあがると、賽銭箱を迂回《うかい》しながら歩み寄った。そして格子戸に顔を近づけると、うす暗いがお堂の中が見渡せた。と同時に、マサトは、思わず吹き出して笑ってしまった。
「なにひとりで笑ってるの? マサトくん」
「いや、中まで[#「中まで」に傍点]……」
三体の仏像と、そして両脇に上人と和尚の尊像が置かれてあったが、もう見るからに新品(新物)の素木の木彫だったのだ。しかも寄せ木だから変なモザイク模様が目立つ。……お堂の中まで[#「中まで」に傍点]見透かしていたかのような土門くん恐るべし。骨董屋の眼力は、ときには神のそれをも凌《しの》ぐようだ。
四人は、開山堂の裏山から下りてくると、近くにあったコンクリート敷きの下《くだ》りの坂道《スロープ》に入った。前方には、これも鉄筋コンクリート造りらしき白壁の、屋根には宝珠《ほうじゅ》をのせた、小さな堂宇が見えている。
「また新物かあ」
「いうと思ったわ。――ところが!」
まな美は語気を強めていう。
「中に安置されているのは真[#「真」に傍点]反対のものよ。パンフレットの表紙になってたわ」
「な……何があるいうんや?」
土門くんは、いぶかりながらも鞄《バッグ》から案内小冊子をとり出して、
「……仏像の顔写真がでかでか載《の》っとうけど、いったいなんやろか? 金属製みたいやけどう?」
その表紙を、弥生とマサトにも見せた。
「……!」
マサトにはわかった。
それは、第二部室でまな美が説明していた関東最古[#「最古」に傍点]の仏像にちがいない。
そして道なりに行くと、金属製の独特の衝立《ついたて》をともなった全面ガラス張りの堂宇の前に着いた。
その衝立は、中央に大きな円盤状のものを配した格子で、外の景色のガラスへの映り込みを防ぐための工夫なのである。
「うわぁ〜、これがあの白鳳仏かあ[#「白鳳仏かあ」に傍点]……」
二、三メーター先の壁ぎわに高さ一メーターほどの青黒い長方形の厨子におさまって、やや仰ぎ見るぐらいの高さに安置されてあった。もちろん厨子の扉は左右に開けられている。
だが土門くんは、いったきり感極まったのか黙りこくってしまい、マサトはガラス越しにどうやって写真を撮ろうかと思案中で、ガラスの向こうがわに立っていた案内板は、弥生が読みはじめた。
「えーと、重要文化財・金銅釈迦如来《こんどうしゃかにょらい》……」
が、早々に詰まってしまって、
「それはね、倚像《いぞう》って読むの。台座に腰かけているような姿をいうのね」
まな美が、やさしい声でささやいた。こういった場所では、人の声は自然と小さくなるものである。弥生は、最初から読みなおした。
「重要文化財・金銅釈迦如来倚像。白鳳時代、奈良時代前期・約千三百年前。飛鳥・白鳳・天平の三期の中で白鳳の仏像文化は飛鳥期とともに重要視されており、飛鳥仏の神秘的ながらややかたい美しさに対し、白鳳仏は豊満で、清楚《せいそ》な流動美をたたえています。当山奉安の尊像は白鳳期の代表作と称され、殊《こと》に関東に伝わった経緯は不明ながら、天平五年の当山開創のころの本尊仏と推定されています」
「この表紙の写真はいまいちやぞう……」
金縛りが解けたのか、土門くんが喋《しゃべ》りはじめた。そして案内小冊子の中をめくって、
「……全身写真があった。そやけど、実物とぜんぜん雰囲気ちごてるやんか。光あてすぎちゃうやろか。天目ぇ? こういうんはなんちゅうたっけ?」
「……ライティング」
「そや、そのらいてぃんぐが悪い。金《かな》たわしで磨いたみたいにぴっかぴかやけど、実物は青黒やもんな。なになに……」
土門くんは、さらに案内小冊子の説明文のほうに目を落としながら、
「この像は明治四十二年、元三大師堂の壇下から見いだされて……つまり縁の下から出てきたいうわけやな。それ以前には、明治三十一年の『深大寺明細帳』に二尺八寸の釈迦如来銅像を挙げて『坐像に非《あら》ず、立像に非ず』と注記してあるのがこの像を指すと思われ、古《いにしえ》法相宗であった時の本尊と伝えています。天保十二年、一八四一年の当寺『分限帳』にもこれとおぼしい本堂安置の銅仏の記載があります。しかしこれより以前の伝来は不明で、もともとは近くの祇園寺《ぎおんじ》にあった、という伝えもあるとさえいわれ、当寺に関する古い記録や縁起でも触れられていず、この像の伝来や当寺との関係はいまだに謎に包まれています。へー……古い記録はぜんぜん残ってへんのか? 不思議な話やなあ……」
「そうみたいね。これが法相宗のころの本尊だとすると、わたしが想像するに、天台宗と法相宗って仲が悪かったから」
「あっ、最澄《さいちょう》さんよう喧嘩して、こてんぱんに負けてはったな、法相宗に」
「うーんだから、天台宗に変わった時点で、倉庫にしまわれちゃったのかもしれないわ」
「そやけど、年代あわへんぞ。この寺の開基は天平五年、七三三年やろう。けど白鳳仏[#「白鳳仏」に傍点]いうからには、平城京遷都の七一〇年、以前やで?」
こと年代に関しては小姑《こじゅうと》のように厳格《シビア》な土門くんはいう。
「うーん|……………《そんなこといわれても》」
まな美は身体をゆらゆら揺すって身もだえている。
「あっ、自分悪いことひとつ思いついたぞう」
「なあに?」
「豊臣秀吉《とよとみひでよし》や」
「……! 文禄《ぶんろく》の役《えき》・朝鮮出兵?」
「戦利品でぱくってきたんちゃうやろか?」
「ま、まさか……」
ふたりがひそひそ内緒話をしているうちにマサトも工夫して写真撮影を終えたようで、四人は、その謎の白鳳仏が鎮座ましましていた釈迦堂を辞した。
「さあ、深大寺で見るべきところは、あと一ヵ所ね。ここのご本尊[#「ご本尊」に傍点]が置かれている本堂[#「本堂」に傍点]へ行くわよ」
まな美は、一転、元気はつらつな声でいった。
「あの見ーひんかった本堂のほうへか?」
「ちがうわ。別にほんとう[#「ほんとう」に傍点]の本堂があるのよ」
「な、なんやと? ここには本堂[#「本堂」に傍点]と本尊[#「本尊」に傍点]がいったいなんぼあったら気がすむんや!」
………
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13
竜介が、人気《ひとけ》のほとんどない大学の食堂で遅遅《おそおそ》の昼食を終えて出がらしのお茶をすすりながらあらぬ考え事[#「あらぬ考え事」に傍点]にふけっていると、グィーン、グィーン、と食堂机《テーブル》が小刻みにふるえた。――上に置いてあった|GHURKA《グルカ》の小型鞄《セカンドバッグ》に入っている携帯電話の着信だ。思考を中断されるのを極端に嫌う竜介は、ほぼ四六時中マナーモードにしていて、だから運が良くなければつながらない携帯なのだ。
出てみると、竜生からの連絡であった。
「うん?……御神《おんかみ》が帰って来てくれないってかぁ」
電話口で竜生がうだうだ泣き言をいっている。
「いや、ぼくのほうからは電話できないよ……」
竜介は神さまに命令できる立場にはない。
「爺《じい》やは、なんていってんの?」
もちろん桑名竜蔵のことであるが。
「あ、今日は屋敷にはおられないのか……なになに、よほどの大事《だいじ》じゃないかぎり連絡とるなってかぁ。そりゃ竜生ちゃん、きみ見捨てられてるんだよぅ」
竜介は冗談めかしていった。
が、むしろ逆で、少々のことぐらいは自身で考えて行動しろといった親心[#「親心」に傍点]だと竜介には思えた(厳密にいえば竜蔵は竜生の大叔父《おおおじ》であるが)。
「ええ? 急ぐ必要はないっていってるのか、御神自身[#「御神自身」に傍点]が……」
それはどんな場合《ケース》が想定されるだろうかと竜介は頭をめぐらしながら、
「……でもまあ、彼がそういってるんだったら、事実そのとおりなんだろう」
とはいいつつも、悪い結末が頭をよぎりはじめた。
「けれども[#「けれども」に傍点]――」
竜介は、その悪い考えをいったん打ち消してから、
「御神は秀《ひい》でた神さまだから、われわれ人間がばたばた慌てふためく必要はないよ。彼は神の尺度で、よかれと思って行動してるんだろうから。だから肩の力を抜いて、リラックスリラックス……」
そう竜生にいいながらも、みずからにいい聞かせているようでもあった。
「ところで、歴史部は、まさか泊まりの旅行なんかに行ってんじゃないだろうね?……都内か。じゃあ今日じゅうには帰ってくるんだな……たぶん夕食|時《どき》には……いずれにせよ、結果はその後《あと》だね……うん、わかったら連絡ください……はい」
竜介は、電話を切って小型鞄《セカンドバッグ》にしまうと、大きく背伸ばしをしながら頭の中の心配事などをきれいさっぱりと払拭《ふっしょく》した。神の次元を、人間があれこれ思い悩んでも仕方ないことだからである。まあ有体《ありてい》にいうと、なるようになるさ、てことだが。
そして竜介は、ふと自身の服装に目をやった。
……よれよれの普段着である。
今日はクリスマス前夜祭《イヴ》だ。いうまでもないが竜介は敬虔《けいけん》な基督教徒《クリスチャン》ではない。いや、むしろ敵視《アンチ》基督教徒だが、そんな彼にとっても今日は特別な夜なのである。
……なんの服にしようかなあ?
竜介は、前夜祭《イヴ》にふさわしい衣装を考えはじめた。彼の自宅の衣装棚《クローゼット》には洒落た服がかなりの数あって、もっともサンタのような赤系の服はないが。
……上着《ジャケット》は、そうそう、薄茶のビロードがあったはずだ。|FICCE《フィッチェ》のあれがいいかなあ?
光沢ある艶やかな生地に茶でペイズリーの大きな模様が大胆に入っている小西良幸《こにしよしゆき》デザインのそれだが、光《ライト》があたると淡く金色に輝いても見えるのだ。
……よし! それでいこう。あれはもう何年も着ていないからちょうどいい。そして下は、意外と濃いジーンズが似合ったりして。
竜介がそんなことを考えていると、くたびれきった大学講師の顔が、瑞々《みずみず》しい青年のそれへと変貌していった。かのように自身には感じられた。
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「……これがほんとう[#「ほんとう」に傍点]の本堂ってか? なんとまあ見すばらしいことよ」
寺の境内からは出て、T字路を左のほう(昼食をとった蕎麦屋とは反対がわ)に百メーターほど行くと、あれほど賑《にぎ》わっていた門前の店々はどこへやら[#「どこへやら」に傍点]、道ゆく人もわずかで、低い石段を上がって短い石畳の先に、木立に囲まれてひっそりとそれはあった。
「ここには、かつては大師堂を凌《しの》ぐぐらいの大きなお堂が建っていたらしいんだけど、神仏分離令で完全に壊されちゃったのよ。そしてようやく、二十年ほど前に再建したのね、このささやかなのを――」
土門くんが手にしている案内小冊子によると、正面二間半・奥行き三間半とのことなので、八畳|間《ま》ぐらいの堂宇であろうか。
「えー……市重宝・深大寺|深沙大王堂内宮殿《じんじゃだいおうどうないくうでん》!」
土門くんが、わきに立っていた金属製の案内板を読む。ルビがふられてあったので滑舌《かつぜつ》よく堂々と。
「この深沙大王堂は、深大寺の秘仏深沙大王像を祀る。本尊の深沙大王像は、厨子に納められ宮殿と呼ぶ建物に安置されている。宮殿は、宝形《ほうぎょく》造り板葺きで、屋根の四隅に棟を付け、先端は蕨手《わらびて》状に飾る。宮殿に内蔵する本尊の厨子側板に書かれた墨書銘《すみがきめい》によれば、宮殿の制作年代は寛文《かんぶん》年間、一六六一|〜《から》一六七三年と考えられ、市内に現存する最古の貴重な建物《たてもん》である。……調子市教育委員会」
「蕨手状っていうのはね、くるっと廻っている」
まな美は指で示しながら、
「お御輿《みこし》の屋根の、四隅の角っこについているような飾りよ」
「あー、あれかあ」
土門くんも、同様に指をぐるぐる廻していると、弥生がたずねる。
「神仏分離令で壊されたというのは、どういう理由からなんですか? ふつう神社は残して、お寺のほうを壊したんじゃないんですか?」
「たしかにそうなんだけど、ここの場合は、この深沙大王堂を神社にして、鳥居まで立てていたのね。けれど、祀られていた深沙大王は異国の神さまで、そんなの認められないのね。日本の神社としては」
「あ、そうだったんですね……」
弥生が、ゆったりうなずいていると、
「思い出した思い出した思い出したぞう!」
土門くんが、俄然、にぎにぎしくいい出した。
「日光に行ったときに、ここと同《おん》なじ神さんが祀られとったやんか、山の入口んとこに」
――歴史部の三人で(そのころは弥生はまだ入部していない)九月末の土日を使って一泊の調査旅行に訪れたのであったが。
「道をはさんで神橋《しんきょう》の前でしょう。日光を開山した勝道上人《しょうどうしょうにん》が川を渡れずに困っていると、蛇を投げて橋を作ってくれた神さまよね。それが神橋ね」
「あっ! 姫のその話聞いてさらに思い出したぞう。身体じゅうに蛇を巻きつけとって、首に髑髏《どくろ》のねっくれす[#「ねっくれす」に傍点]の神さんちゃうかったっけ?」
「……う、うん」
まな美は、しぶしぶながらうなずいた。
「そやそやさらに、お腹んとこに、ぼーと子供の顔が浮かんどんねん……そ、そんな気色《きしょく》悪い神さん認められるかい! 日本の神社としては!」
土門くんは、身をよじって毒づいていって、しばらく笑ってから、
「そやけど、勝道上人の日光開山は、たしか天平神護《てんぴょうじんご》二年、七六六年やから、ここの開基七三三年と、年代的にはそう大差あらへんなあ。してみると、勝道上人も法相宗の僧《ひと》か?」
「どうだったかしら……」
まな美は、緑の梢《こずえ》に目をやってしばし考えてから、
「衆[#「衆」に傍点]派が書いてあった記憶がないわ。彼は下野《しもつけ》薬師寺の出身だけど、そこもはっきりしないわね。古い南都六宗《なんとろくしゅう》の時代は、宗派の宗[#「宗」に傍点]の字すらちがっていて、学閥みたいなもので、厳密な区別はなかったらしいから。でもその当時、深沙大王の信仰が厚かったことは事実よね。――三蔵法師|玄奘《げんじょう》って何年?」
「六〇二年から六六四年で、天竺《てんじく》へ行って長安にもどってきたんが、六四五年や」
姫の求めに応じて、土門くんはすらすら注釈する。
「その天竺への旅の途中で、玄奘を助けたってことで、深沙大王は知られるようになったのね。ここの開基の満功上人も、唐に渡って仏教を学んだ、と縁起には書かれているので、さすがに玄奘には出会えてないけど、生きていたころの玄奘さんを知っている、ぐらいの僧侶に教えてもらっているのよ」
「なるほど、年代が近《ち》こうて、さぞかし話が現実《りある》やったんやろうなあ」
「だから深沙大王を本尊にすえて、この深大寺を開いたのね。悪鬼だけど、頼りになりそうな神さまでしょう。当時は大半のお寺が本尊は薬師如来だったから、そんなのよりよほど趣味がいいと思うわ」
「ははははははは……」
土門くんが大声で笑っていると、
「それはどういうことなんですか? 薬師如来って趣味が悪いんですか?」
弥生が不思議そうに聞いてきた
「いやー……ごめん水野さん。この説明はえらい難しいから、ひまなときに姫に教えてもろて。半日かかるから」
――興味のあるかたは『真なる豹』14節を参照に。
ところで、マサトはというと、赤茶色をしたモントレイルの軽量登山靴《トレッキングシューズ》(見た目はスニーカー)を脱いで、深沙堂の質素な縁の上にあがっていた。三段の木の階段があって、そこに『土足厳禁』の札が立っていたから、つまり縁にあがってよいのである。扉は上半分が格子になっていて、中がのぞき見えた。焦茶の艶やかな板張りの床に渋い藁色《わらいろ》の絨毯が敷かれ、黒ずんだ大きなりん[#「りん」に傍点](チ〜ンと鳴る)があって、経机《きょうづくえ》や卓《たく》などはすべて朱塗《うるし》で、それらの奥に黒漆の厨子(宮殿)の正面が見えていた。まあよくあるお寺の景色であろうか。ところが、天井絵が描かれていて、ぐるぐると渦を巻いた白雲に、青い宝珠を三爪で鷲づかみにしている筋肉質の赤い腕……つまり赤い竜の絵なのだ。赤竜[#「赤竜」に傍点]とは稀《めず》らしい。しかもその面貌《かお》はどう見たって(角度が浅くガラスの反射があって見づらいのだが)赤い虎[#「虎」に傍点]のそれである。自身が竜の化身[#「竜の化身」に傍点]であるマサトとしては、いちおう写真には撮ったが、けっして好みの絵でない。
マサトが縁から下りて靴を履《は》き、三人の近くに歩み寄っていくと、まな美がいった。
「じゃあつぎは、深大寺の開創にまつわる場所、ロマンチックな縁起物語の舞台にもなっている、神社とお寺に行くわよ」
「それはどこにあるんや?」
「来るときにタクシーで通った道の、まん中あたりかしら。その先でまたタクシーをひろってぇ」
まな美は、舌をぺろりと出して悪戯《いたずら》っぽくいった。
――高校生は徒歩かバス! 兄・竜介から日頃さんざんいわれているからだ。
「ところで姫、蕎麦屋をはしご[#「はしご」に傍点]しょーいうてはったやんか、お忘れか?」
「うーんだけど、みんなお腹すいてる?」
まだ三時前である。
「はーい!」
土門くんはひとり高々と手をあげたが、弥生は首を横にふっているし、マサトも手をあげない。
「一対三ね。じゃあ行くわよ――」
「そ、そんな冷たい! 自分はえねるぎー[#「えねるぎー」に傍点]消費量がみんなとはちがうんやぞう!……」
「……姫があんなことさえいわんかったら、自分は大盛蕎麦にして、天麩羅《てんぷら》までつけとったのにぃー」
タクシーから降りても、土門くんはなおも恨みがましくいっている。
四人が着いた先は、住宅街や倉庫街や商店街や事務所街とは決めつけられない、とらえどころのないどこか殺伐《さつばつ》とした景観の街道ぞいに、そこそこに広い鎮守の森(林[#「林」に傍点]というべきか)をともなってあった古ぼけた神社である。
うす汚れた石の明神鳥居が立っていて、さらに一段黒ずんだ石の額がかかっている。
「うわあ、よう見えへんなあ……」
土門くんはことさら背伸びして目を凝らしながら、
「虎《とら》……狛《こま》……神社、て彫ってあんのか?」
カメラを向けてズームレンズの望遠がわでのぞき見ていたマサトが、こくりとうなずいた。
「これで読みはね、虎狛《こはく》神社っていうの。でもまあ、虎狛《とらこま》神社でも別にいいと思うわ」
「あにゃ? 漢字にはうるさい姫にしては……」
土門くんは、まな美の顔をのぞき込んだ。三十センチぐらい上の高台から。
「というのもね、このあたりはかつては、多摩郡|狛江郷《こまえごう》だったのよ。すぐ東どなりが狛江市で、名前を残してるわ。――狛《こま》の入り江という意味で、多摩川が流れこむ入り江ね。その狛[#「狛」に傍点]からとっているから、古くは、虎狛《とらこま》と読んでいたと思うわ。それをいつしか、虎狛《こはく》と読み替えたんでしょうね。まあ、そう読めないこともないし、それに宝石の琥珀《こはく》を連想するから、ぐーんとイメージはよくなるし……」
けれど、裏を返すと、その虎狛《とらこま》のままだとイメージが悪いといったことにもなるが。
四人は、石鳥居をくぐった。
小さな黒ずんだ狛犬が石壇にのって左右にあり、阿・吽は標準的だ。そして朱が色衰《かせ》た小さな手水舎が右手にあったが、石の水盤《すいばん》はからからに干からびている。その後ろは簡易建物《プレハブ》ふうの平屋だが、社務所のようで、だが雨戸がしっかと閉じられており人がいる気配はない。
弥生が、ふと気づいたかのようにふり返って、
「そうすると、あの狛犬の狛[#「狛」に傍点]という字と、おなじ漢字なんですね」
「そうね」
まな美は、やさしくうなずいていった。
「ふむふむふむ……」
土門くんは腕組みして難しい顔をしながら、
「自分『とっておき』の本を先に読んだから、なんとなくわかっとったんやど、すると狛[#「狛」に傍点]いう字は、渡来人そのもんを指すんか?」
「そうよ。朝鮮半島からのね」
「そやったら、狛江市は狛の入り江やから、直訳すると渡来人[#「渡来人」に傍点]の湾[#「湾」に傍点]――渡来人の港町《みなとまち》やったんか?」
「うん」
「ええー?……」
まな美がいともあっさりと肯定したものだから、土門くんは逆に驚く。
「実際、狛江郷は、渡来人が開拓した町らしいわ。この神社のすこし南に、野川《のがわ》という川が流れていて、深大寺へ行くときにタクシーで渡ったでしょう。さらに南には多摩川もあって、それらを東のほうに、つまり狛江市のほうへ行くと、狛江百塚と呼ばれている東京でも最大級の古墳群が、ふたつの川に沿ってあって、もっとも、わたしは見てないんだけど」
まな美は、耳学問であることを断ってから、
「それらは五、六世紀ごろの豪族の古墳のようで、そこからは高句麗《こうくり》に由来するような出土品が、いくつか出ているらしいのね」
「へー、高句麗の人が……当時は倭国《にほん》に渡ってくるだけでも大変やったやろうに、わざわざこんな関東の未開の地にまでやって来て、住んではったんか」
土門くんは、驚きながらも厭味ったらしくいう。
「ふん!」
「するとやな、この虎狛《とらこま》神社の虎[#「虎」に傍点]もわかったぞう。これは渡来人のとら[#「とら」に傍点]やな」
「――絶対にちがう[#「ちがう」に傍点]!」
まな美の声が人気《ひとけ》のない境内にひびきわたった。
もっとも、すぐ前の道をいく車の往来が激しいので、そう静かな場所ではない。
「あ、間違い間違い、これは加藤清正《かとうきよまさ》のほうや」
「なにそれ?」
「加藤清正といえば、虎退治で有名やんか。朝鮮に出兵したときには、自慢の槍《やり》で虎ばっかし突いとったそうやで。そやから朝鮮半島は、十六世紀末でそんなんやから、さらに一千年前の高句麗の時代は、もうそこらじゅう虎だらけやったんや――」
「それって、あたってるかもしれないわ」
「あ……ありがとう」
土門くんは、意外そうな顔をしながらも、素直に喜んだ。
先の深沙大王堂の天井絵の竜の面貌《かお》は……虎[#「虎」に傍点]のようにも見えた。すると、ここの虎はあの赤い竜なのだろうか? マサトは、ふとそんなことに思いをめぐらしながら、すぐ正面に見えている社殿のカメラ撮影をはじめた。
焦茶にくすみきった六畳|間《ま》ほどの素木造りで、屋根は赤錆《あかさび》のような色だが、頂上部の棟《むね》だけが、汚《よご》れた白……いや、色褪《いろあ》せた金にふちどられた青色だ。望遠にズームしてみると、そこに菊の紋がついているのが見えた。が、その菊紋も(錆びたのか?)おなじ青色に塗られている。色どりからいっても、純和風の社殿とはいいがたい。向拝の軒下にはお寺ふうの神獣の木彫が入っていて、黒ずんだ鈴から、赤白黄の三色の布縄がたれ下がっている。
マサトは、社殿の左がわへと廻り込んでいった。
すると、おなじ大きさぐらいの建物が、ふたこぶ駱駝《らくだ》のように背後に立っているのがわかった。つまり拝殿と本殿なのだ。けれど、その本殿のほうは変わった造りで、隙間《すきま》のある板塀のような壁で全面を覆っている。
他の三人も、マサトの後《あと》を追うようにゆっくりと歩きながら会話する。
「ところで、ここはどなたを祀ってはるんや?」
土門くんは、最前からきょろきょろ見廻して案内板を探していたのだが、けっきょく見あたらない。
「ここのご祭神は、本などによると、大歳御祖神《おおとしみおやのかみ》、そして倉稲魂命《うがのみたまのみこと》ね」
「また聞いたことあらへんぞう」
「まあそれは仕方ないわね。二神《ふたり》とも五穀豊穣《ごこくほうじょう》の神さまで兄と妹なんだけど……そうそう、倉稲魂命は、あのお稲荷さんの本体よ。誰かさんの大好き[#「大好き」に傍点]な」
「げげ……」
土門くんは弓なりになって大袈裟にのけぞる。
「いちおうそう書かれてはいるんだけど、いうのもなんだけれど、これは神社としての体裁《ていさい》をととのえるための、とってつけたような神さまね[#「とってつけたような神さまね」に傍点]」
まな美は栗鼠《りす》のように背中をまるめて、小声でささやいた。
「聞こえとうぞう」
土門くんは、後ろの本殿のほうを指さしながら、
「あっ、あれはあそこにあった、あーいうやつと同《おん》なじちゃうんかあ? たしか、大きいやなぎ」
「ち、ちがう! 覆屋内《おおいやない》――」
土門くんの、時間が経《た》つにつれてあやふやな指示代名詞だらけになり漢字も忘れがちでデタラメ度が増していくのは、いつものことである。
マサトは、近くに歩み寄って板壁の隙間から中が見えていたので、大きな鳥籠《かご》のようなそれだとすでにわかっていた。中には色衰《かせ》た朱塗りの社《やしろ》が置かれてあったが、さほど特徴のない流造《ながれづく》りである。
「そうしますと、ここには大昔は、高句麗の神さまが祀られてあったんですか?」
弥生が聞いた。
「たぶんそうだと思うわ。でも今となっては、なんなのかは判《わか》らないわよね。けれど、大歳御祖神というのは、一般的には年神《としがみ》さまといって、お正月に立てる門松《かどまつ》は、年神さまに来訪をうながすための神の依代《よりしろ》で、鏡餅は、年神さまへのお供え物なのよ」
「へー……」
弥生が、顔を輝かせて感心しきっていると、
「へー……」
かたわらで土門くんもおなじように唸っている。
「それに、この年神さまは、記紀神話によると、二十|神《にん》ほどの子供を産んでいるんだけど、その一神《ひとり》に、韓神《からかみ》っていう神さまがいるのよ」
「からかみというと、それは中国の唐《から》ですか?」
「ううん。この場合は、韓国の韓[#「韓」に傍点]という字を使って、韓神というのね。もうそのものずばりで、朝鮮半島から渡ってきた神さまね。だから、ここのご祭神も、あながち、とってつけた[#「とってつけた」に傍点]というわけでもないのね」
「なるほど……」
「ほう、さすがは姫やな。そろそろ、ほんりょ」
といいかけてから土門くんはいい直す。
「そろそろ、化けの皮がはがれてきたぞう」
「な、なにをいい換えてるのよ! 本領を発揮しはじめたと、いいかけた言葉は最後までちゃんといいなさい!……」
そんなこんなで一同大笑いしながら、その社殿のまわりをぐるーっと一周して、拝殿の向拝の前にもどって来た。
が、誰ひとりとして参拝をおこなうような気配は見せず、そしてまな美がいう。
「じゃあ、ここと深大寺との関係を説明しとかなくっては……土門くん、パンフレット貸してくれる。そこに『縁起絵巻』が出ていたはずだから」
うけとると、頁を開いて手にもってながめながら、その説明文などを参考にして語りはじめた。
「聖武《しょうむ》天皇の時代、武蔵国の多摩郡狛江の里には、裕福な豪族が住んでいた。その妻の名前を、虎《とら》といった。夫妻の間には美しい娘が生まれるが、やがてそこに福満《ふくまん》という青年がふらりとあらわれて、たちまちふたりは激しい恋に落ちてしまう[#「たちまちふたりは激しい恋に落ちてしまう」に傍点]……」
そういった箇所は感情を込めていい、
「つまり、狛江の里に住んでいた裕福な豪族っていうのは、高句麗系の人ね。そして福満青年が、深大寺を開基した満功上人のお父さんね」
「あ、それは『とっておき』の本にも書いてあったなあ、名前に福[#「福」に傍点]がついとう人は、当時は渡来人に非常に多かったって」
「そうみたいね……」
「それに自分、どっか別の案内板で、なんとか福[#「福」に傍点]長者が……なんかしたいう話、読んだ気がするぞう」
「それは布多天神社ね。広福《こうふく》長者で、あのテツクリにまつわる話に出てきたわ」
「あ、そんなとこにおったんか。するとやな、あいつも渡来人なんか?」
そのテツクリの逸話には信憑性がない[#「信憑性がない」に傍点]といったことも同時に思い出した土門くんは、口さがなくいう。
「まあそう考えたほうが、まとまりはいいわよね。布多天神社の参道は、深大寺のほうを向いていることだし……それはさておき、話をもとにもどして」
まな美は、再度、案内小冊子に目を落としながら、
「たちまちふたりは激しい恋に落ちてしまう[#「たちまちふたりは激しい恋に落ちてしまう」に傍点]。ところが、両親が交際に反対して、ふたりの仲を裂こうと、娘さんのほうを、湖の小島に幽閉してしまうのよ。困った福満青年は、そこで三蔵法師の故事を思い出して、深沙大王に祈ったわけね。すると湖に大きな亀があらわれて、小島に渡してくれたの。その奇瑞《きずい》を知った両親は、ふたりの仲を許し、そして生まれた子供の満功さんが、深沙大王を祀って深大寺を創った、というお話ね。……で、わたしの読んだ本によると、ふらりとあらわれた福満青年というのは、新羅《しらぎ》系の渡来人じゃないだろうか、て」
「あっ、なるほど!――」
土門くんは、裏の裏まですべてを見通したがごとくに、大きく合点《がってん》してからいう。
「するとやな、その縁起物語は、はっぴーえんど[#「はっぴーえんど」に傍点]のロミオとジュリエットなんやな」
しーんとした静寂が、あたりを包み込んだ。
「ど……土門くんが、あまりにもいいことをいうもんだから、ちょっと唖然としちゃったじゃない」
まな美はいってから、パチパチと手をたたく。
マサトも小さく拍手している。
「自分がええこというたら悪いんかぁー」
土門くんは、泣き声で毒づいてから、
「えー、聖武天皇の時代やったら七〇〇年代前半や。すると高句麗[#「高句麗」に傍点]は、六六八年にすでに滅《ほろ》んどう。その滅ぼした相手は、いうまでもなく新羅[#「新羅」に傍点]・唐連合軍や。そやから当時は犬猿の仲で、両親がふたりの交際を許してくれるはずあらへん!」
――補足説明をした。というのも、弥生がちょっとわかってないような顔をしていたので。
「そういうことなんだけど、この『縁起絵巻』が作られたのは江戸初期で、だから創作の箇所が多く、そこそこ辻褄《つじつま》があうようには書かれているのね」
「それはしゃーあらへんな。そもそも湖の小島かて、泳ぐか、いかだ作るかしたら渡れるやんか」
「うーんさっきのいい話、とり消すわよ[#「とり消すわよ」に傍点]」
まな美は、野太い声でつぶやいてから、
「じゃ、そろそろつぎに行こうかしら。そこが本日の、最後の目的地ね。その湖の小島よ――」
「あんにゃ?」
「もう湖はなくなってるけど、その小島があった跡に、満功上人が記念して建てたと伝えられている、祇園寺《ぎおんじ》というお寺ね。ここからだと、歩いて十分もかからなかったと思うわ」
まな美に先導されて、一同は歩きはじめた。
そして石鳥居をくぐって街道わきの歩道に出ると、背後から、速度を落としたタクシーがすーっと走り寄ってきた。さも拾ってくれといわんばかりに。
それは実は陰≠ェ運転しているのであったが。
そして弥生としては、その車に一同を乗せたい[#「乗せたい」に傍点]のであるが、かわりに土門くんが、
「おっ、ちょうどタクシーが来とうぞう」
指さしていってくれた。
「ダメ!」
まな美が顔を横にふった。
タクシーは、ふらふら、とちょっと戸惑ったような運転をしながら、そのまま走りすぎて行った。
「……祇園寺へ行くんやろ? そやけど祇園寺? 自分どっかで口に出していうた気がするぞう。どこやったかなあ? あのへんか? あそこらへんやったか? どのへんやったかなあ……」
土門くんは、長脚を利してすたすた歩きながらも、口ではもぞもぞいっている。
「白鳳仏のところよ。パンフレットに出ていたわ。あの白鳳仏は、もともとは近くの祇園寺にあった、という伝えもある、とそんな話だったわよ」
「あっ、そやったっけ……そやけど、その祇園寺も、けっきょく同《おん》なじ満功上人が創りはったんやろ?」
「そうみたいね」
「そやったら、どないあがいたって、白鳳仏の来歴《らいれき》証明としては、うけ皿[#「うけ皿」に傍点]にはならへんぞう――」
こと年代に関しては蛇のように執念深く、かつ信じられないぐらいに的確[#「的確」に傍点]な言葉を使って土門くんはいってから、あたりをきょろきょろ見廻し、
「あー……このへんに蕎麦屋はないんか? 深大寺蕎麦の支店は出てへんのかあ……」
食べ物の恨みを、これまた執念深くつぶやいている。
虎狛神社からすこし離れると、ゆったりした敷地をもつ典型的な郊外の住宅街だ。マサトは、ふとふり返って眺めながら、あの神社の近辺だけ、鎮守の木々が茂っているにもかかわらず、神社ともどもどんより[#「どんより」に傍点]した景観だったのは、その理由がなにかしらわかった気がした。緑に勢いがない冬で、鬱々とした白雲の空だから、よけいにそう感じられたのかもしれないが。
しばらく歩いて、やや広い三鷹《みたか》通りを渡った。
深大寺へ行くときにタクシーで走ったほぼ南北に通っている道だが、虎狛神社へ行くさいには、その十字路を右折したのである。
土門くんは、……ぴ、口ずさんでから、
「だいたい東のほうへ向ことうなあ、するとさっきの通りをはさんで、東《みぎ》と西《ひだり》にあるわけか」
手を天秤《てんびん》の形にしていう。
「あのね、これから行く祇園寺は、山号を虎狛山といって、つまり虎狛神社の別当寺さんだったのよ」
「へー、けっこう離れとうみたいやけど……」
「江戸時代まではね、このあたりはたぶんぜーんぶ田んぼや畑で、だから鎮守の森どうしで見えたんだと思うわ」
まな美も、手を天秤の形にしていう。
「ははははは……なるほどう」
「そのころの景色が、目に浮かんできますよね」
弥生も、顔をほころばせていった。
「いやちょっとまてよ姫、このあたりは、そもそも武蔵野の原生林ちゃうかったんか?」
「うーん、たぶんそれはないでしょうね。すぐ南にある野川だって、始終|氾濫《はんらん》していたはずだから、そういった場所は、逆に田畑《たはた》に転用しやすいので」
「あー、そういうもんか……」
「だから川沿いは、もう古くから開拓されてるのよ。そして川が氾濫しても、水に浸《つ》からないような、ちょっとした高台の立地のいい場所を選んで、お寺や神社を建てて、そこだけが鎮守の森化していくの」
「なるほど、それが鎮守の森・創成の秘話やなあ」
土門くんは、茶化して大袈裟《おおげさ》にいってから、
「すると、縁起物語にあった、湖の小島いうんも、川が氾濫したときの景色なんか」
「そういうことね」
「ふむ、まあそれぐらいは許したろやないか、自分もますます大人物になっていくなあ、ははははっ」
土門くんがひとりで悦にいっていると、前方に学校の建物らしきものが見えてきて、その手前にあった脇道へと、まな美は先導して入って行く。
「おっ、湖の小島が見えてきたぞう」
――雑木林が右がわに広がっている。
「湖の小島いうたら、やっぱりお墓がつきもんや」
――そう広くはないが墓地も見えている。
そして裏口のようなところから(レール式の金属柵が開いていたので)入ると、右がわに古い民家ふうの僧坊《そうぼう》が建っていて、そして本堂の前に着いた。
黄ばんだ白壁に焦茶の素木造りのそこそこに大きく重量感のある堂宇で、まな美の説明によると、江戸時代中期の建物とのことである。
本堂の前にはバスケットコートほどの砂利敷きの地面が広がっていて、右と左に別個の建物があり、ひとつは出来たてほやほやの新品! といった感じの本堂よりは小さな薬師堂で、もうひとつは今にも崩れ落ちそうな! 錆び錆びの傾《かし》いでいるトタン屋根をのっけた古色にくすんだ小さな閻魔堂《えんまどう》である。格子状の窓から中をのぞき見ると、木彫りの閻魔さまの目がこちらを睨んでいた。
マサトが写真を撮り、そしてまな美が簡単な説明をしながら、それらをざーっと見て廻っていると、
「ところで姫、このお寺は、あの京都の祇園さんとなんか関係あるんか?」
土門くんが、ごくごく素朴な問いをふってきた。
「うーん、それは難しい話だわね……」
まな美は、答えに窮したような顔をしながらも、
「土門くんがさっきいってた、白鳳仏のうけ皿[#「うけ皿」に傍点]にするんだったら、関係があったほうが都合はいいのよね。京都の祇園さんのほうがひと世代古いから」
「ええ? 逆に新しゅうならへんか? 奈良よりも京都のほうが新しいで。ちなみに平安京遷都は、鳴くよ鶯《うぐいす》平安京で、七九四年や」
「ちがうのよ。あそこには古くから八坂造《やさかのみやっこ》が住んでいて、お寺や神社を建てていたのね。その八坂氏というのは、誰あろう[#「誰あろう」に傍点]……」
まな美は土門くんの口真似をしていい、
「八坂氏って、高句麗系の渡来人なのよ」
「あらまあ……」
土門くんは女言葉で返す。
「このことは、たしか八坂神社のホームページにすら書いてあって、だからほぼ定説なのね」
「へー、あの祇園さんが高句麗[#「高句麗」に傍点]やったとは……」
土門くんは、あらためて驚き感心してから、
「それに八坂神社いうんは、そういうわけやったんか」
「ううん、それも実はちがうのよ。明治の神仏分離令で、強制的に名前を変えられちゃったの、地名[#「地名」に傍点]に。過去には、八坂神社と呼ばれたことは一度もなかったのね。江戸時代までは、祇園社だったのよ」
「祇園があかんのか?……あ! あかんなあ。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。ゴォ〜ン」
土門くんは口で鐘の音《ね》をひびかせてから、
「これはあかん、完全に仏教や。それで名前がふたつになったんか、わずらわしい! それに明治政府かてあほ[#「あほ」に傍点]やなあ、みずから墓穴掘ったんちゃう。まさか高句麗とは知らずに、この名前つけたんやろ?」
「たぶんね。その八坂氏が建てた最初のころは、お寺の祇園寺だったのよ。あちらの祇園さんの縁起によると、開創はいちおう、斉明《さいめい》天皇の二年……」
「六五六年や」
「それでなんとかならない? うけ皿[#「うけ皿」に傍点]としてぇ」
まな美は、子猫のように身体をゆすって、媚《こ》びていう。
「するとやな、あっちで作って、その後にこっちに運んだいうわけやな。そないな記録残っとんか?」
「残ってるわけないでしょ! そんな古いのが!」
まな美は、虎が噛みつくようにいってから、
「そうそう、その八坂氏だけど、祇園寺の境内に、自分たちの氏神《うじがみ》さまを祀って、天神堂《てんじんどう》というのも建てていたのね。ところが、お寺のほうはすたれてしまって、天神堂が人気になって、やがて祇園社と呼ばれるようになっていったらしいの」
「その天神堂いうんは、いわゆる天神さま?」
「そうよ。菅原道真公とは、なんの関係もない天神さまね」
「ふむふむふむ……」
土門くんは、やや暗くなりつつあった白雲の空を麒麟《きりん》のように見やってから、
「話がこう……ひとまとまりになってきたんはええんやけど」
一転、砂利敷きの足もとに目をやって、
「ずるずると、底なし沼にはまっていくような気がするぞう。天目ぇ、そんな気せえへんか?」
マサトも、軽装登山靴《トレッキングシューズ》の先っぽで砂利敷きに渦を描きながら、うなずいている。
「水野さんもせえへんか?」
弥生は、まな美の顔色をうかがいながら、小さくうなずいた。
「この底なし沼の底[#「底」に傍点]にはやな、がぁーと大口をあけた、姫が待ちかまえとんやぞう」
「いうと思ったわ。土門くんちょっと前ぶりが長すぎて、先が想像できてしまったわよ」
「す、すべったかあ……与太《ぎゃぐ》いうもんはすぴーど感が大事やな。そやけど、自分にはもうえねるぎー[#「えねるぎー」に傍点]が残ってへんねん。蕎麦|喰《く》うてへんからやあ!」
「そうよそうよ土門くん、そのスピード感ね」
一同、笑いながらパチパチと手をたたいた。
まな美は、本堂の正面にある出入口のほうへと先導して歩き出した。そこにも寺の山門のようなものはなく、その先は道をはさんで、かなり広々とした田畑の景色が見えている。
が、門の代わりとばかりに、冠《かんむり》をかぶって手には笏《しゃく》をもった大きな石像が二体、向かいあわせに立っていて、土門くんは指さしながら、
「なるほど、これが本日の締め[#「締め」に傍点]いうわけやなあ」
「そうよ。わたしもそれなりに、作戦は練ってきたのね」
「そこそこねらいどおりやったと思うぞう」
土門くんは、ささやかに褒めてから、
「そやけど、この石像、そないに古うあらへんな。いや正直なこというと、完璧な新物《あらもん》や」
――冗談はいうけど嘘はつけない性格である。
「どことなく、聖徳太子に似ていますよね」
弥生が、おずおずと遠慮がちにいった。
「そうね、あの有名な肖像画の『唐本御影《とうほんみえい》』だって、まったく唐人の衣装だし」
「あのお札《さつ》の肖像画は、聖徳太子ちゃう、いう説がちらほらと」
「そんなのもう手遅れだわ。日本人の脳にしっかと刻み込まれているから。ともあれ、こういうのは文武官《ぶんぶかん》像といって、三韓時代の朝鮮半島にも、お寺の前などにけっこう置かれてあったらしいのね……」
そして、マサトが写真撮影を終え、前の道(祇園寺通り)に出て歩きはじめるやいなや、またしても背後からすーっとタクシーが走り寄ってきて、らっきー、とすかさず土門くんが手をあげ、四人は帰路についた。
そこからだと、布田《ふだ》駅(京王線)のほうが近いのだが、特急や急行に乗ることを考えると便利な調布駅まで行って、タクシーから降りた。
そして各人が切符を買って改札をくぐったあたりで、弥生はいう。
「わたしと天目先輩は、武蔵野《むさしの》線を使ったほうが便利なので、反対方向に行きますね」
「あ、そうかそうか、そやったら本日の調査をふまえての歴史部会議《みーてぃんぐ》は、えー……明日でええか?」
一同、うなずいた。
「そやったら、明日の二時、第二部室で……」
ホームへの通路を歩きながらムスッとした顔で、まな美は土門くんにいう。
「武蔵野線のほうが便利なの?」
「うん、自分もときどき使うんやけど、都心を抜けていくより、外がわをぐるーっと大廻りしていったほうが、意外と早いねん」
「けど、京王線とどこで乗り継げるの?」
「さあどこかなあ? 自分もよう知らへん」
――実際、乗り継ぎはかなり不便である。
「それにマサトくんはわかるとしても、水野さんは、家は西新井大師のそばだから、都心だわよ」
――足立《あだち》区なので、都心とはいいがたいが、ぎりぎり都内ではある。
「まあええやんか姫、そないにねちねち詮索《せんさく》せんかったって、今日はくりすます前夜祭《いぶ》やし」
まな美は、ますますムスッとした顔になった。
ふたりは知る由《よし》もないが(またいうまでもないことだが)、マサトと弥生は陰≠フ運転する車でのご帰宅で、方便のためにつかれた嘘なのである。
ホームに上がると、ちょうど特急列車がすべり込んできて乗車した。が、そこそこに混んでいて座れそうな席はなく、ふたりは吊り革につかまってから、土門くんが、
「ところで姫さまは、今宵のくりすます前夜祭《いぶ》は、どないおすごしなんや?」
ご機嫌うかがいをするように聞いてきた。
「うーん毎年恒例なんだけど、ママが昼間に都心まで出て、ケーキを買ってきているから、ふたりでそれを食べるの」
まな美は、ちょっとしんみりという。
「パパさまは?」
「今日はゴルフに行ってるから、まず帰ってこないと思うわ。クリスマスの夜なんかに、家にいたためしはないわよ」
「まあ姫さまのお家のために、昼も夜もがんばって働いてはるんや」
土門くんは殊勝なことをいってから、
「そやけど、あんなでっかいけーき食べるん、途中で飽きへんか? それに太るぞう」
「それは土門くん勘違いしてるわよ。あの白くて大きなケーキじゃなくって、ママが調べに調べた評判の名店をめぐり歩いて、小さなケーキをたっくさん買ってくるの」
「けど、それを何個も食べるんやろ?」
「うん。ちびりちびりとね……」
「やっぱりけっきょく太るぞう。それに、ちびりちびりってなんや?」
「お茶を飲みながらってこと、プーアル茶がよくあうのよ。口の中がさっぱりして、ケーキをいくつでも食べられるわ。それに今日はご飯抜きだから、バランスとれてるわよ」
「ほ、ほんまかいな……」
「そういう土門くんこそ、今宵はなにしてるの?」
「まあそう特別なことはあらへんけど、これから店に帰って、親父《おやじ》とふたりでそのへんの街にくり出して、くぅいーといっぱい」
――キ! まな美は睨んでから、
「岩槻《いわつき》のお家には、帰らないの?」
「今日はあかんねん。母親《おかん》が家でぱーてぃー開いとうから、着付け教室の生徒はんたちを集めて」
「土門くんも、それに混ぜてもらえばいいのに」
「なっ、なにいうてんねん!」
土門くんは、声を裏返しぎみに狼狽《うろた》えていい、
「そもそも着付け教室にきてはるんやで。くりすます前夜祭《いぶ》には縁がありそうで、なさそうで、そないな人たちばっかしや、想像つくやろう姫え?」
「う……うん」
「いわば救済のための、ぱーてぃーなんや。そやから朝までどんちゃん騒ぎで、男子禁制なんや」
「そうそう、土門くんには弟さんがいたじゃない。そのどんちゃん騒ぎの間は、どこに隠れてるの?」
「あ、ころっと忘れとった」
土門くんは、真実、今思い出したような顔で、
「あいつは不憫《ふびん》な弟で、存在感がとんと[#「とんと」に傍点]うすいんや。この兄貴はキラキラ輝いとういうのに」
「ど……どこが?」
「そやそや、水野さんにも妹さんがいてはるん、姫知ってはった?」
土門くんは話題をそらしていう。
「ううん、聞いたことないわ」
「それもやな、なんと双子の妹が……」
「うそっ!? そんな話どこで聞いたのよ?」
「あいどる研からや」
「あの茄子色《なすびいろ》の学ランたちねえ」
「あいつらがやな、水野さんの合気道の試合を応援にいったときに……」
ちなみに、アイドル研とは、気にいったチームや気にいった選手のみを応援するという、私立M高校非公認の勝手きわまりない私的応援団である。
「……水野さんは関東大会で準優勝やったんやて。その負けた相手は誰あろう? その双子の妹さんやねん。もう顔がそっくりでわからへんから、あいどる研は両方応援しとったそうや」
「それほんとの話?」
「ほんまの話や。自分あいつらが撮ったお宝《たから》写真も、見せてもろたもん。それに合気道の世界でも、最強の美人[#「美人」に傍点]双子姉妹いわれてて、有名やそうやで」
「へー……」
「あいつらの部室へいくと、そんなお宝写真だらけやねんけど、姫の写真もたくさんあったで。まだまだ水野さんに負けてへんでえ」
と、土門くんが柄《がら》にもなくそんなおべんちゃらをいっていると、特急列車はつぎの停車駅に到着して、ドアが開いた。
「あ! ここ明大前《めいだいまえ》やんか、ほなさいなら……」
土門くんは、手をふって慌てふためきながらドアへと駆けていった。
彼は、明大前駅で井の頭線に乗り換え渋谷に出て銀座線に乗り継ぐといった経路で、かたやまな美は、終点の新宿まで乗ってJR埼京《さいきょう》線(もしくは湘南《しょうなん》新宿ライン)を使うのだ。
まな美は、そんな土門くんの後ろ姿を見送りながら、せっかくの前夜祭《イヴ》なんだから、お茶ぐらいだったらつきあってあげたのにー、とも思った。
マサトを乗せた車は、東京外環自動車道(JR武蔵野線に相当する高速道路)を使って、一時間たらずで森の屋敷に着いてしまった。弥生を乗せた別の車とは、草加《そうか》インターを降りて国道四号線へ入ったさいにお別れで、マサトは北へ、弥生は南である。
母屋《おもや》の前に車が到着してマサトが降り立つと、玄関のひさしの下に竜生がひとり出迎えていた。竜蔵は、まだ屋敷には戻って来ていないのだ。
「やー、お帰りなさーい」
「ただいまー」
こういった挨拶は、ふつうの家と変わらない。
そう四六時中御神さまとして奉《たてまつ》られていては、マサトとしても堅っ苦しくて……。
「やー、思ったより早かったですねえ」
「ええ、あのあたりからですと高速に乗れますから、意外と早いんですよ」
マサトのカメラ鞄などをもって車から一緒に降りてきていた桑名|政嗣《まさつぐ》がいった。――御神の警護を担当している現場の責任者で陰%ェ領の長男である。
「あ、そうそう、そのカメラだけど、またいつものようにお願いね」
「はい。かしこまりました」
――氏子《うじこ》が関係している写真館[#「写真館」に傍点](いわゆるDPEではない)に預けられ、丁寧にプリントされて明日の朝には屋敷に戻ってくる。と同時にカメラや機材一式もチリひとつなく手入れされる。なお、その写真館の主人《あるじ》は、マサトの写真の先生でもある。
マサトは、重厚で古びた木の格子扉をくぐって、玄関の土間に入った。
政嗣の役目は、そこまでで、御神の後ろ姿を見送りながら凜々しく一礼すると車へと戻っていった。
土間には、黒光りする巨大な沓脱《くつぬ》ぎ石《いし》が置かれているが、見るからに滑りそうな石で、マサトはそれを避《よ》けて、すみっこで靴の紐を解きはじめた。
「えー……本日はですね、氏子の相談は、三件ございます。ですが竜蔵さまが、何時に戻られるかはっきりしませんので、ひょっとしたら夜遅くなるかもしれませんが、よろしくお願いいたします」
竜生は、深々と頭をさげていい、
「はい」
マサトは屈託なく返事をかえした。
それは御神としての彼の日々の役目だからである。
「えー……それとですねえ」
竜生は、後ろ手に持っていた茶封筒(埼玉県南警察署の屋号入り)をおずおずと前に出しながら、
「御神さまの携帯に電話を入れてしまいまして、誠にご無礼つかまつりました。でこれが……その警察からの依頼でございまして……」
と卑屈になってぺこぺこ頭を下げるものだから、
「大丈夫です」
マサトは笑顔でいって、その茶封筒を受けとった。
「ではご夕食は、いつものとおり、七時に」
「はい……」
マサトの個室は、母屋と離《はな》れとをつなぐ渡り廊下に面してあり、ごく質素な造りの八畳ほどの板の間だ。窓の近くに勉強机が置かれ、マサトは座ると、引き出しの中からスケッチ帳と十二色のサインペンをとり出して、おもむろに絵を描きはじめた。ともかく、頭の中につぎつぎと見えてくる絵を描くしか、他人に説明するには方法がないからである。
が、マサトの一番苦手とするところは、実は絵を描くことで、美術でいい点をもらったためしがない。頭の中を写真に撮ってくれるような装置でも火鳥先生が早く発明してくれないかなあ、などと思いながら。
ところで、茶封筒は、ベッドの上にぽんっと置かれたっきりで開けられていない。
竜生が、生駒から預かった直後に中を見ているので、御神としては、何が入っているかはすでに知っているからである。
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15
そのころ、竜蔵は、鎌倉の扇《おうぎ》ガ谷《やつ》にある西園寺家の別宅を訪れていた。
数日前に、めずらしく西園寺|靖子《やすこ》から竜蔵に電話が入って、なにやら直接会って話したいことでもあるような様子だったので、そう深い意味があるわけではないがクリスマス前夜祭《イヴ》の今日に、ご機嫌うかがいを兼ねて。
靖子は、戸籍上では竜蔵と同《おな》い歳《どし》の妹だが、実際はアマノメの神の系譜[#「神の系譜」に傍点]につながる女性で、御神天目マサトの先々代(祖父)の姉だ。また、西園寺静香や希美佳《きみか》の祖母でもある。
彼女の話は、すでにあらかた終わっていて、マサトのまわりで悪だくみが進行中のようだからご注意を、といったような内容であった。
竜蔵としても、その種の出来事はなかば日常と化してはいるが、はいはい、と神妙にうなずいた。
だが今回の悪だくみは複雑怪奇で、しかもことのほか大仕掛けで、ともすれば国と国との戦いになる、敵の真意《ねらい》はそのあたりにある、とまあ法外に物騒なことまでいう。
けれど、彼女の語る話は、虚実が入り乱れるのは通常《いつも》のことで、驚くほどあたっていることもあれば、御伽噺《おとぎばなし》のように現実味に乏しいことのほうがむしろ多く、竜蔵としても、つい話半分に聞いてしまう。靖子の場合は、御神のように森羅万象《しんらばんしょう》のすべてを見通せる――わけではなく、眠って夢で見ているさいの話だから、おのずとそうなるようであった。
その眠り姫の靖子は、今もベッドでふかふかの羽毛布団にくるまって、うつらうつらと就寝中だ。
竜蔵は、腕時計に目をやった(古い国産《SEIKO》)。
そろそろ帰らねばならない時間帯である。御神の審神者《さにわ》(神の言葉をとりつぐ者)としての夜の勤めが待っているからだ。
「……竜生さんがね」
靖子が突然しゃべり出した。
見ると、ぱちりと目を開けている。
「裏庭に、竜蔵さんのご自慢の花壇があるでしょう。そこに水を撒《ま》いてらっしゃったわ、竜生さんが」
「ええ? 今時分にでございまするか?」
「そうね、空の明るさからいって、夕方ぐらいかしら」
「な、なんともはや、余計なことを[#「を」に傍点]……」
真冬(しかも厳冬)の今ごろは、水を撒くんだっら朝もしくは午前中で、そうしないと土が凍ってしまうからだ。
「でも、竜生さんは竜生なりに頑張ってらっしゃるようだから、お叱りにならないであげてね」
「ははははっ……」
彼女の話が本当だとしたら、竜蔵は笑うしかない。
「お花……きれいなお花、ありがとうございますね」
窓際の小さな木の丸机《テーブル》に置かれているそれに目をやって、靖子はいった。
「いえいえ、どういたしまして……」
もう何度目かの謝礼であったが、それは、備前焼《びぜんやき》の底の浅い丸鉢に桜色をしたシクラメンなど冬の花々が寄せ植えされた、いわば草花の盆栽で、もちろん竜蔵お手製による、ささやかなクリスマス・プレゼントだ。ふつう病人を見舞って鉢植えを贈るのは縁起が悪いとされるが、彼女は病気で寝込んでいるわけではないので。
「……それにいったと思いますが、できるだけ外に出して下さいね。寒さには強うございまするから。逆に、室内の暖かい場所に置きますと、草がすぐに伸びてきて、ぼさぼさになってしまいまするので」
いうと竜蔵は、ふたたび腕時計に目をやった。
「さあ、そろそろお暇《いとま》をいたしませんと」
「そうそう、ひとつ忘れてましたわ」
靖子が、羽毛布団からすっかり顔を出していう。
「はいはい、どのようなお話で」
「静香さんの件ですけど、竜蔵さまは、どうなさるおつもりなのかしら」
「さあて、いかがいたしますればよいかと、思案中で……」
その件は、前回(ひと月ほど前に)ここを訪ねたときにも、彼女から詰問[#「詰問」に傍点]されたのであったが。
「それでわたしは思ったんですけど、マサトさんにお願いをすれば、過去はやり直しができるかと」
「――はて!? いったいどこからそのようなお話を?」
さすがの竜蔵も、驚いていった。
「ふふふ……」
靖子は、邪気《あどけ》なく微笑んでいるだけである。
「うーんたしかに、アマノメの伝承によりますると、できなくもないんでしょうが、けどそれは、いわば奥の手でございまするから……」
「その奥の手といいますのを、使ってもいいんじゃないかしら」
「いやあ、そういった私的[#「私的」に傍点]なことにはいかがかと」
ことさら苦渋の表情を作って、竜蔵はいう。
「これは、もうにっちもさっちも立ちいかなくなって万策尽きたときにのみ使うべしと、アマノメの戒《いまし》めにもございまするし。それに、これを使ってしまいますると、どこかしらで歪《ひず》みが生じるだろうと、あの火鳥先生も申されておりましたから」
「偉い先生のおっしゃられることが、いつも正しいとはかぎらなくってよ」
「はははっ……そう申されましても」
竜蔵は、和《にこ》やかな笑顔で苦笑した。
「それに、その火鳥先生のことですけど、ゆくゆくは静香さんのお婿さまに、と考えてらっしゃるんでしょう。竜蔵さまは――」
「はい、まあ、図星でございまするが」
「それはますます難しいですわよ」
「ええ、たしかに、その通りでありまするよね……麻生家も火鳥家も代々学者の血筋のようで、それはそれで立派なお家《いえ》なんですが、西園寺さまとは、比べようもございませんのでね……」
ここ西園寺家は、かつて南北朝時代に天皇を輩出している家柄である。
「わたしが難しいといったのは、そんなことではなくってよ」
「と申されますと?」
「あのね、静香さんと先生とは、静香さんからのお話などから察しますに、ふたりは親しいお友達って感じですよ。男女の恋愛には、こう……火を噴くようなものがないと」
「はははっ……さようでございまするな」
彼女の口からそのような言葉が聞かれようとは、竜蔵は思わず笑った。
「わたしに、いい考えがあるんですけれど」
「はてさて、どのような?」
「つまり、ふたりに火をつけるような」
「いえいえ、それはそれは……」
あまりにも意外で唐突な申し出に竜蔵は狼狽《うろた》え、
「靖子さま、ひとつお手柔らかに……お願いいたしまするよ」
火をつけていいとも悪いとも、中途半端な返事をかえした。
「あれこれ思案するより、案ずるより産むが易《やす》しって諺《ことわざ》もあるでしょう。恋愛もおなじですよきっと」
「ははははっ……」
竜蔵は、年甲斐《としがい》もなくすこし照れて笑ってから、
「では、そろそろわたしくは」
と、椅子から腰を浮かしかけると、
「そうそう、竜蔵さまは、この話は覚えてらっしゃるかしら」
靖子は、また何かを語りはじめるのだった。今宵にふさわしいような思い出を――。
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16
トゥ・ラヴ・アゲインの華麗なピアノ演奏の音色が店内に流れていた。
銀座七丁目にある高級クラブ『あずさ』は、まだ夜の七時台だというのに、客席は半分ほど埋まっている。それに店内のそこかしこが赤や白や金や銀のさまざまなクリスマスの飾りつけで彩られてあって、今日が特別な夜であることを情緒《ムード》たっぷりに演出している。ふだんはおもに社用の接待に使われるような店だが、今宵は客層も、ぜんぜんちがうのだ。
店の奥には、ほのかなスポットライトに浮かんで赤茶色をした木目調のグランドピアノが置かれ、あわく金色に輝いても見える独特のビロードの上着《ジャケット》をめかしこみ、颯爽とピアノ演奏に興じているのは、リュウちゃん(もしくはリュウさん)と呼ばれている店ではママにつぐ古参の、だが本名・年齢不詳のピアノ弾きで、今宵のような特別な日にはそのリュウちゃんが弾くと決まっていて、もうかれこれ十五年ほどつづけているから、前夜祭《イヴ》にだけ彼の生演奏を聴きにくるという年に一度しか顔を出さないような常連の客などもいて、リュウちゃん| = 《すなわち》クリスマス前夜祭《イヴ》という構図が、ごくささやかな世界ではあるが成立しているのである。
彼が今弾いているトゥ・ラヴ・アゲインは、ショパンの夜想曲《ノクターン》第二番変ホ長調をジャズふうに編曲《アレンジ》したものだが、エディ・デューチンを描いた映画『愛情物語』のテーマ曲で、きらびやかなタッチで一世を風靡《ふうび》したピアノの詩人こと故カーメン・キャバレロの演奏で知られる。
リュウちゃんは、その原曲をほぼ完璧に模倣《コピー》することができる。が、カーメン・キャバレロとおなじに弾いてしまうと、さすがに、きらびやかなど通りこして騒々しいので、それなりに控えめなタッチをこころがけながら――。
そしてリュウちゃんがつぎに弾きはじめたのは、メロディーズ・オブ・ラヴという曲である。やはり今宵イヴには、ラヴがふさわしい。けど自分には最近縁がないなあーと思いながら弾いている。
こちらはジョー・サンプルの代表曲で、ラテン系の独特のリズムをもった美旋律《メロディアス》な主題部にはじまり、つぎには右手オクターブのユニゾンを使った力強くはじけるような旋律《メロディ》へと転じ、それらを何度かくり返してから、ジャズの即興演奏的な変奏部《インプロヴィゼイション》へと突入していく。また、このメロディーズ・オブ・ラブの変奏部は、目にも止まらぬほどの超高速演奏としてもつと[#「つと」に傍点]に知られている。
リュウちゃんは、ふだんはそんな無茶な真似はしないのだが、今宵は特別だとばかりに、その原曲どおりの超高速演奏[#「超高速演奏」に傍点]そのままを奏《かな》ではじめた――
が、秘密を明かすと、これはB♭マイナーの曲で、つまり♭五つだから黒鍵を多用し、リュウちゃん級《クラス》にとっては、逆にとっても弾きやすいのである。
――右手によるその超高速パッセージを遠慮なく忌憚《きたん》なく心置きなくもうこれでもか[#「もうこれでもか」に傍点]ーといわんばかりに長々とくり返して弾きながら、タッチを弱めてしだいしだいに音を小さくさせていき、そして蝋燭の炎が消え入るかのように、ふっ、と鍵盤から両手を離した。
実際、原曲もフェードアウトで終わるのだが、とくに真似たわけではなく、最後はさりげなく終わっちゃう、というのがリュウちゃんのスタイルなのだ。
そして鍵盤の蓋は開けたままにして、ピアノ椅子から立ち上がった。
パチパチとかなりの拍手がおこった。
リュウちゃんは、そんな客席の中へと進み入っていき、声をかけてくれる客や、見知った客がいると、二言三言の会話をしてお愛想をする。これは今日にかぎらず毎度《いつも》のことであったが。
けれど今宵は、逆に、大半が恋人同士できているから所詮《しょせん》お邪魔虫なので、早々に客席を通り抜けようかと思いきや、
「リュウさ〜ん……」
と笑顔で手をふってきた若い女性三人連れのテーブルにとっつかまってしまった。……リュウちゃんみずから進んで。
ところが、まだ冗談《ジョーク》ひとつすら披露しないうちに、バーカウンターにいる主任《チーフ》の梶本《カジ》さんが、手招きをしているのが見えた。
何か一発芸はないかとリュウちゃんは考え、そうそう、腕にはめていた十年ひと昔前のオレンジ色をしたスウォッチを見せびらかしながら、それには竜頭がふたつついていて、その片方を押すと、盤面があやしく光るのである。
「きゃあ〜!……」
案の定、三人そろって大喜びしてくれたので、
「じゃあまた……」
とリュウちゃんは席を立った。
そしてピアノとは反対がわにある英国調のカウンター・バーへと歩いて行った。
「さっき、ふるえてました」
カジさんがテーブルのすみのほうを指さしていう。
「あ……ぼくの携帯だな。ありがとうございます」
そのすみっこはリュウちゃんの休憩中の定席で、果物が盛られている豪華な高坏《たかつき》の脚元あたりに自身の小型鞄《セカンドバッグ》を常時置いているのである。もっとも、財布だけは抜いて身につけているが。
そして着信を見てみると、桑名竜生からであった。
――ふむ。ここで話すわけにはいかない。
竜介は、ちょっと外へ、と梶本《かじもと》に軽く断ってから、帳場《フロント》を抜けて重厚な木の扉をくぐり(黒子《ボーイ》が開けてくれるが)店の外へと出た。
ここは五階建てのビルの最上階である。が、さらに屋上への階段があるので、そこを半分ほど上がってから、竜介は携帯電話をつないだ。
「……あ、火鳥ですけど、結果がでたの?……まだ半分って?……あー、絵ねえ。描くの大変なのか」
竜介はすこし笑ってから、
「あ……なるほど、それをきみ[#「きみ」に傍点]が理解できないといけないわけだな、そりゃますます大変だわ……ところで、結論[#「結論」に傍点]は?……」
竜生の話はいつも前置きが長いのである。
「……あーん、やっぱりねえ……うーん、しかたないよなあ……そりゃもうぼくたちがどうのこうのできる話じゃ、いや、できた[#「た」に傍点]話ではないし……そりゃ二、三日前にって、誰しもが思うことだけど、今さら過去は訂正できないよ……」
といいながらも竜介は、御神の有している究極の技能のことが頭をかすめた。いわゆる竜の時間≠ナある。それを使えば過去はある程度は変えられる。が、死者を生き返らせるのは難しい[#「難しい」に傍点]。
「……じゃ、具体的な手はずだけど、今日はどっちにしろ動けないから、明日の朝、生駒刑事と相談して……うん? 竜生ちゃん」
といってからいい直す。
「竜生さんが同行してくれるって?……なるほど、御神の絵が解読できないよな……ええ? 審神者の第一歩だって?……何事も勉強勉強って?……それはいえる。じゃあご足労だけど、お願いしますよ。じゃ、もろもろは明日の朝ね」
竜介は電話を切った。
「あ〜あ……」
……気が重い。世間はクリスマス一色で浮かれているというのに、なんと可哀想な話だろうか。それに、生駒刑事に電話を入れて結果を伝えなければならない。
「う〜む……」
……これも気が重い。それに今さら急いでもはじまんないし、まあいいか、つぎの休み時間にしよ。
竜介にも、ご多分にもれず、嫌なことはついつい後廻しにしがちな悪い性分がある。
階段を下りていくと、エレベーターの扉がひらいて、艶やかな|黒テン《ロシアンセーブル》のコートに羽根飾りのついた黒のフェルト帽をかぶっている妙齢の女性と鉢合わせになった。クラブ『あずさ』のママが出勤してきたのである。
「あら、リュウちゃん」
と手をふりながら、
「あら、彼女との電話」
竜介が手にもっている携帯電話を見て、
「いや、そんないいもんじゃありませんよ」
「大切な前夜祭《イヴ》を毎年毎年束縛しちゃって、ごめんなさいね」
「いえいえ、こちらこそ、おかげさまで」
別途ご祝儀がプラスされて普段の倍はあるのだ。
そして店の扉をくぐって、クロークの黒子《ボーイ》に甲斐甲斐しく黒テンのコートを脱がしてもらいながら、
「そうそう、例の執筆のほうは、すこしは進んでるかしら」
「いやー、慣れないことなんで、そううまくは」
「文芸の編集長、楽しみにしていたわよ。ピアノを弾ける人には独特のリズム感があるって」
「はははっ、ぼくの場合はどうだか」
黒テンを脱ぐと、手首まですっぽりとつつんでいる黒のロングドレスである。まるでロートレックの絵から抜け出してきたかのようで、
「わたしふと思ったんだけど、リュウちゃんの未来は、ピアノが弾ける文豪よ」
「はははははっ……」
竜介が照れて笑っていると、
「じゃあねえ」
手をふりながら、店の奥へと入っていった。
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第四章 捻れ
17
――
「捻《ねじ》れとう! ひねくれ曲《ま》がっとう! なんもかもが滅っ茶苦茶ひねくれて捻れまくっとうぞう――」
いつものことだが土門くんは五分ほどの遅刻で、柿渋色《かきしぶいろ》の襖《ふすま》を開けて入ってくるなり、とち狂ったように声高にそう叫びながら、重厚な床の間を背にした家具調|炬燵《こたつ》の席にどっかと腰をおろした。
「なにが捻れてるの? 神戸弁の特徴のひとつの、腸捻転《ちょうねんてん》語ってやつ?」
「な、なにいうてんねん!」
土門くんは、つられて返答しながらも、その目はやけに充血している。
「ひょっとして土門くん、二日酔いなんじゃないでしょうね!?」
「ちがわい! 自分みたいな模範的な高校生がお酒なんか飲んだりするかい! 調べもんしとったら、もうつぎからつぎへと出てくるわ出てくるわ、ひねくれまくっとう話ばっかしが! それで朝になってしもて寝てへんのや!」
土門くんはまくし立てていうと、紅柄色《べんがらいろ》の歴史部《ノート》パソコンや黄ばんだ大学ノートなどを吉田カバンの中からとり出して炬燵の天板《テーブル》の上に置いてから、
「この捻れとう話はわきにどけといて、昨日《さくじつ》の実地調査をふまえ、歴史部会議《みーてぃんぐ》に入りたいと思います。えー……どこをつっこんだら面白い話になりそうか、あるいは、もう謎を解いてしもたぞーみたいな話があったら、遠慮のうどしどし[#「どしどし」に傍点]いうてんかあ……」
ほぼいつもの調子になって各人をうながした。
「そうひと晩で解けるような謎は、なかったと思うわよ」
「ふふふふっ、そうでもあらへんぞ姫」
土門くんは、血走った目をぎょろつかせて気味悪くほくそ笑んでから、
「そやったら行った順番でいこか、まずは大國魂神社から、なんかあらへんか、皆の衆……」
先陣を切って弥生が、はーいと手をあげていう。
「鏡のように逆になっていた紙垂《しで》ですけど、やはりよその神社には、そういった例はないようですね」
彼女の前には白い紙垂がはらりと置かれてある。土門くんが来る前に、ノートを千切って、まな美に作り方を教えてもらっていたようだ。
「ですけれど、注連縄《しめなわ》に関しては、逆にしている神社があって、あの出雲大社《いずもたいしゃ》などがそうだそうです」
「あ、いっかにもいう感じゃなあ。あそこは神無月《かんなづき》のときに神在月《かみありづき》で、全国から神さんが集まってくるという逆の神社やから」
土門くんも、それぐらいは知っている。
そしてパソコンで検索しようと、蓋《ふた》を開けて電源を入れた。が、使えるようになるまでには少々時間がかかる。
「さっきね、マサトくんの撮った写真で確かめていたんだけど、大國魂神社のほうも、注連縄も[#「も」に傍点]逆だったわ」
マサトの前には、大量の写真が十山ほどにわけられて積まれてあり、そのひとつの山の一番上にのっていた写真を、彼が土門くんに手渡した。
「……拝殿の軒下に張ってあったやつやな」
「その注連縄の、左はしを見てくれる。包丁で切ったみたいにスパッと整ってるでしょう」
「おうおう……」
「そこから、注連縄を綯《な》いはじめているのね。逆に右はしは、ボサボサッとした感じでしょう」
「……おう。ライオンの尻尾みたいやあ」
土門くんは嬉《うれ》しそうにいう。
「そこが綯いおわりで、そういった形を左本右末というんだけど、やはり、ごく少数派なのね」
「でじたるかめら[#「でじたるかめら」に傍点]で撮った本殿の写真は、こん中に入れとうぞう……」
パソコンが使用可能になったので、土門くんは、マイピクチャの中にあるフォルダを開いた。
「あ……あかん。こっちは注連縄が細すぎてようわからへん。ほな、出雲大社のほうを見てみよか……出雲大社、こんま、注連縄……」
そしていつものように、弥生とマサトが、十一インチの小さな液晶画面を左右からのぞき込む。
「なになに……日本一の大注連縄で、重さ三トン。いや、五トンと書いとうとこもあるな。いやいや、六トンともあるぞ。ともかく、ぎょえー!!……」
土門くんは大袈裟に驚いてから、グーグル検索の上部にあるイメージのボタンをクリックした。写真だけが見られるからである。
「あ……なるほど、左はしはスパッとした切り口や。そして相撲《すもう》とりみたいに太っとって、けど右はしは、巻き貝の先っぽみたいに細うなっとうでえ?」
「うん、いろんな形があるのよ」
「ともかく、ここも逆[#「逆」に傍点]いうわけやな。すると出雲大社も、建物《たてもん》なんかが北向いとんか?」
「ううん、大社造りの巨大な本殿や、前にある拝殿も、ありふれた南向きよ。け、れ、ど……」
まな美は、顔を前後にゆすって、いかにも意味ありげにいってから、
「本殿の中に安置されている大国主大神《おおくにぬしのおおかみ》の御神座《ごしんざ》は、西を向いているわ。だから拝殿でふつうに拝んでも、大神《おおがみ》さまはそっぽを向いていて、願い事はかなえてくれないのね」
「なるほど、そんなふうにひねくれとったわけやな。そやったら、大国主命《おおくにぬしのみこと》がすんなり国譲りしたいうんは嘘で、実は大戦《おおいくさ》になって負けてしもて、その怨霊[#「怨霊」に傍点]を封印するための仕掛けやーとかなんとかいう説を、みんな唱えとんやろう?」
「――そう。猫も杓子《しゃくし》もね」
「自分も、大國魂神社へ行ったときには、真っ先に同《おん》なじこと思いついたんやけど、ぐぐ[#「ぐぐ」に傍点]ーっと堪《こら》えていわへんかったんやでえ」
土門くんは力説して、かつ恩着せがましくいう。
「偉いわ土門くん!」
まな美は、小さく拍手してあげる。
「そやからな、うちら伝統と栄光ある歴史部としては、そないな安直な結論に飛びつかへんよう、ええな! 皆の衆!……」
一同、ははー、と頭《こうべ》をたれた。
「ふむふむ、脱・猫も杓子も作戦と名づけよう」
土門くんは、ひとりで悦にいってから、
「おっ、出雲大社の屋根の写真があったぞう。どれどれ……鰹木《かつおぎ》は三本や。千木《ちぎ》の切断面は垂直や」
「つまり、男神《おとこがみ》ですよね」
弥生が結論をいう。
「大国主命は、どう考えても男やから、これで合《お》うてるなあ。そやけど大國魂神社のほうは、この名前からしても、同《おん》なじ神さんが祀られとんか?」
「厳密にいえばちがうでしょうね。あそこの現在の主祭神は、つまり本殿の中央の扉に祀られていた神さまだけど、大國魂大神となっていたでしょう」
土門くんが読んだ東京都教育委員会の案内板にはそう記されてあった。
「けど、江戸時代の縁起などによると、大己貴命《おおなむちのみこと》が主祭神なのね。この大己貴命は、大国主命の若いころの名前、というのが一般的な解釈だから、おなじにはなってしまうの」
「あれ?……姫、話のすじが変やぞう」
「この種の説明って難しいのよ!」
まな美は、ちょっと噛《か》みついてから、
「けれども、出雲の大神さまと同一《いっしょ》、としてしまうのはやはり無理があって、もともと武蔵《むさし》の地にいた国津神《くにつがみ》系の神さま、そう考えるべきでしょうね」
「ふむ、ともあれ、それは男神なんやろう?」
「いちおうね」
「そやねんけど、あそこの本殿の屋根は女神《おんながみ》や。どないなってんねん! と姫を問いつめたところで、それが七不思議やとするりと逃げられてしまう」
土門くんは、うだうだと揶揄《やゆ》していう。
「そういう土門くんこそ、すこしは謎は解けたの?」
「ふふふふっ、ひんと[#「ひんと」に傍点]らしきもんはつかんだぞう」
「それって、ひょっとして、手前にあった摂社・宮之刀sみやのめ》神社が関係している話なんじゃなあい?」
まな美が、知ったかぶりして仄《ほの》めかしていうと、
「ははははっ……そんなんとーに調べがついとうわい。それ姫がいうとった、いわゆる三十点の謎解きやろ。そんなちゃちい[#「ちゃちい」に傍点]もんやあらしません!」
土門くんは、自信たっぷりに切り返す。
「えっ!? その上にどんなヒントをつかんだっていうの? 正直に教えなさいよう――」
「まあそう慌てるでない。大國魂神社の七不思議を洗《あら》いざらい、社殿の北向きなんかはもちろんのこと、こっきんしょーんと解きあかす、いわば統一理論のような謎解きを、只今現在構築中なわけで、みんな大いに期待して、しばし待たれい!――」
土門くんは、巨大な手をパーに開いて前につき出させ、三文役者のように大見得《おおみえ》を切っていった。
「ほんとかしら……」
まな美は、これっぽっちも、爪の垢《あか》ほども、紙縒《こより》の先ほども信じてないといった顔で、
「そうそう、その北向きの社殿に関してだけど、南北朝時代の古い書物に」
「お、それも知っとうぞう。――『源威集《げんいしゅう》』やな」
姫の言葉を奪いとるように土門くんはいって、
「こん中に入れてきた。原文見したろ……」
と、パソコンのメモ帳(txtファイル)を開く。
「ええ? ひと晩でそんなところまで調べがついてるの?」
「そやからいうたやんか、寝てへん!……つうて。この『源威集』によるとやな、源頼義と義家の親子が、朝敵の安倍《あべ》氏を討とうと、つまり前九年の役の奥州征伐に出陣するさいに、武蔵国に逗留《とうりゅう》し、符中《ふちゅう》六所宮、本《もと》南向ヲ俄《にわか》ニ北向|立改《たちあらた》ム、奥州合戦ノ間《かん》擁護|為《た》メ也《なり》」
土門くんは、最後の重要な箇所だけを原文どおりに読んだ。
まな美は、へー……とすこし驚き感心してから、
「すると、その『源威集』の記述を、土門くんはどう解釈したの?」
「まずもってやな、これが書かれたんは嘉慶《かけい》年間や。一三八七年から八九年。かたや前九年の役は、一〇五一年からはじまる。そんな三百年以上も昔の話を、いったい誰が覚えとったんや!? それにやな、神さんに擁護させたかったら、北向けてもあかんぞう。奥州征伐やねんから、北東に向けへんと!」
土門くんは腕を斜めに伸ばしていい、
「さらにやな、これからいざ出陣やいうときに、神社の建物《たてもん》を建て替えよう、みたいな悠長なことをふつうやるか? そんなこんなで、この『源威集』は信用できしません!」
まな美も、深くうなずいてから、
「わたしも土門くんと同意見なんだけど、この『源威集』っていうのは、源氏から足利へとつながる幕府の、正当性を誇示するために書かれていて、つまり幾多の戦いで、神仏の加護が大いにあった、だから正当なんだ、という主張なのね」
「うん、わかるわかる……」
「そしていえることは、この『源威集』が書かれた時点で、あるいは、記述を信用するなら前九年の役のころには、大國魂神社の社殿は、すでに北を向いていた、ということかしらね」
「そうしますと……」
弥生が、遠慮がちに手をあげていう。
「あの本殿の裏にあった大銀杏《おおいちょう》の木は、それと麻生先輩が連れていってくれた、金比羅《こんぴら》神社があった見晴らしのいい高台は、大國魂神社がかつては南向きであったことを、いかにも示しているようですけど、そういう説は消えてしまうんですか?」
「ううん、消えはしないわよ。大昔は南向きだったんじゃないかしらと、わたしも思うのね」
「自分はこう思うんやけどな。つまりあの神社は、南と北の両方を向いとったんや」
「――ええ[#「ええ」に傍点]?」
まな美は、およそ乙女らしくない濁声《だみごえ》で疑問符を呈す。
「姫が行った伊香保《いかほ》温泉のお寺にあったそうやないか。神さんをぐるぐる廻るめりーごーらんどに乗せて、あんなんちゃうやろか?」
「ど……」
まな美は、心底あきれたといった顔で、
「土門くんの謎解きって、所詮そんなものよ! 期待して損したわ!」
「冗談にきまっとうやんか! 真打ちの謎解きは、しばし待てえ――」
土門くんは、再度、見得を切っていってから、
「さて、大國魂神社に関しては、ほかになんかあらへんかあ?……」
まるで芝居を観《み》ているように面白かったので、ついつい見惚《みと》れてしまっていたマサトであったが、聞きたいことがあったのを思い出して、それは宮之盗_社の漢字が異なっていた件だが、写真の山の中からそれを探していると、
「……そやったら、つぎの布多天神社にいこか。ここに関しては自分いいたいことがあるぞう!」
と、土門くんがさっさと先に進めてしまったので、マサトはいいそびれてしまった。
「あのテツクリの件やけどな、真実が判明したぞう。これを見よ――」
いうと土門くんは、大学ノートにはさんであったふたつ折りにした紙を、すーっと天板の上をすべらせて、まな美に送った。
「なに? 三河織物《みかわおりもの》の歴史……」
「ねっと[#「ねっと」に傍点]で見つけて印刷《ぷりんと》してきてやったわい。そこに綿の伝来について説明されとう」
土門くんは、パソコンの画面にもおなじ頁を表示させながら、
「そもそもはやな、延暦《えんりゃく》十八年、七九九年に、三河の天竺村、今の愛知県西尾市に、小舟にのって崑崙人《こんろんじん》が漂着し、綿の実《み》ひと袋が伝えられたのが最初や。そしてこの綿の実を、紀伊、淡路、讚岐《さぬき》、伊予《いよ》、土佐、太宰府などで種蒔きしてみたんやけど、わずか一年で失敗しとう。崑崙人いうんはインド人やったらしく、暑い地方の綿の実やったから、日本では育たへんかったんや。そして完全に途絶えてしもて、ずーっと後《あと》の十六世紀なかば、琉球から別の品種の綿の実が渡ってきて、ようやく栽培が開始されるわけや。この話のいったいぜんたいどこに調布[#「調布」に傍点]が出てくるいうんや! ええ[#「ええ」に傍点]ー!?――」
土門くんが、あまりにもがなりたてるので、
「だからいったじゃない。あの布多天神社の説明書きは真《ま》にうけちゃいけない……つうて」
彼の関西弁を真似て、まな美は肩すかししていい、
「ふん、この綿百%大好きな清らかな青少年の夢とろまん[#「ろまん」に傍点]を踏みにじりやがってぇい」
土門くんは早口の江戸弁で返す。
「あの万葉集に詠まれていたてつくり[#「てつくり」に傍点]は、麻の一種で、繊維をほぐしたり晒《さら》したりするさいに、大量の水を使うらしいのね。それを古代から、多摩川を利用して盛んに作っていて。木綿も、実際に作ってはいたんだけど、これは江戸時代以降の話で、その多摩川の水が、布の染色のために染まっちゃうぐらい盛んに。このふたつの話がごっちゃにされてしまって、あのような説明書きになったんだと思うわ」
まな美は、冷静に分析していった。
「その麻の一種いうんは、苧麻《ちょま》のことやろう。見慣れへん漢字使うけど。そやけど、この苧麻の伝来は古うて、弥生時代のはじまりである稲作とともに、つまり紀元前八世紀やけど、ぐらいに古いそうで。するとやな、姫がいうとった狛江百塚の五、六世紀ごろの古墳、これをかりに[#「かりに」に傍点]高句麗系渡来人と関係があったとしても、直接は結びつかへんぞう」
対抗して土門くんも、冷静に論理立てていい、
「それにや、中国への綿の伝来が、意外と遅うて、唐の末から北宋《ほくそう》時代やそうや。つまり九〇〇年代。そして朝鮮半島への伝来はさらに遅れて、一三六四年、文《ぶん》なにがしいう人が、国禁を犯して元《げん》から伝えたという公式記録が残っとう。ましてや三韓時代の朝鮮半島には、綿のめ[#「め」に傍点]の字すらもない。するとやな、布多天神社の布[#「布」に傍点]に関しては、綿・苧麻にかかわらず、朝鮮半島からの渡来人が関与していたにちがいないといった世間で流布《るふ》されているような俗説《いめーじ》は……こっきんしょーんと消えてしまうぞう」
土門くんは、長々とした緊張感に耐えられなくなったらしく、最後は茶化してしまった。
だが、他の三人は、たがいに顔を見あわせながらたいそう驚いてから、まな美がいう。
「その布多天神社の布に関しては、土門くんのいうとおりかもしれない。けれど、天神[#「天神」に傍点]のほうはそうはいかないわよ。たとえば、御幸森天神宮《みゆきもりてんじんぐう》を検索してくれる。字は、御《おん》・幸《しあわ》せ・鎮守の森[#「森」に傍点]ね」
「なになに……」
まな美の指示どおりにグーグル検索をすると一万件以上もヒットし、土門くんは、一番最初にあった頁を開いた。『歴史街道・ロマンへの扉』と題されたテレビ放送の案内のようだが、土門くんは黙読するだけで声に出さないので、弥生が読みはじめた。
「えー……御幸森天神宮付近は、昔から朝鮮半島・百済《くだら》からの渡来人たちが多く住んでいたが、今も天神宮から東に延びる御幸通り商店街は、通称・コリアタウンと呼ばれている。在日《ざいにち》韓国、朝鮮人の人たちが暮らし、ハングル文字があふれ……あれ?」
土門くんが、プチ! とその画面をいきなり消してしまい、検索の二番目にあった頁に飛ばした。
「え〜……」
弥生は恨めしそうな泣き声で、だが、くじけずにつぎも読む。
「御幸森天神宮略記。御祭神は、仁徳《にんとく》天皇、少彦名命《すくなひこなのみこと》、忍坂彦命《おさかひこのみこと》。当|宮《みや》の創建年代は詳《つまびら》かではないが、伝《でん》によれば今から千六百年ほど前、当地の南方の地に百済の人々が帰化し、我国に文学、建築、産業等の先進文化を伝えた。仁徳天皇はこれらの人々の状態をご見聞になるため、また、鷹狩りの道すがらたびたび当地の森にご休憩された。その由縁《ゆえん》によりこの地を御幸の森と称するようになった。天皇崩御の後《のち》、この森に社殿を建立し、天皇の御神霊を奉祀した」
「忍坂彦命というのは、後に合祀された地主の神さまだから、とりあえず忘れて。そして仁徳天皇崩御の後に社殿を建てた、となっているけど、これは疑問で、祭神に少彦名命の名前があるから、渡来人の社《やしろ》が先にあったと考えるべきでしょうね」
「布多天神社にも祀られていた神さまですよね。それにここには、菅原道真公の名前がありませんね」
「そうなの。道真公とはまったく無関係で、原始の天神社の姿を保っているといえそうよね」
「わたし、天神という言葉を調べてみたんですね。すると、国津神に対しての天津《あまつ》神を意味する、と出てきたんですけど、これはおかしくありませんか? 少彦名命って、どう考えても、天津神のようには思えませんけれど……」
「たしかにそうなのよね。でも、渡来人にとってみれば、やはり天津神ではあるのよ」
「あ……なるほど、視点を変えればそうなりますよね。すると、天神社というのは、もとはといえば渡来人の神社」
「ううん、全部が全部じゃないわよ。天神社は全国に一万社ほどあるけど、少彦名命が祀られているのは、わたしの感触でいくと、一割あるかどうか……ぐらいかしらね。あの鎌倉の荏柄《えがら》天神社は、純粋に菅原道真公ね。東京の湯島《ゆしま》天神は、道真公と、そして天之手力雄命《あめのたぢからおのみこと》だから、こちらは純粋に天津神ね。そうそう、湯島天神って、道一本となりが上野広小路だから、土門くん家《ち》の骨董店の近くじゃない。ねえ土門くん!……」
「ふむ……」
あれこれ検索しながらパソコンの画面に見入っていた土門くんであったが、姫に反駁《はんばく》できそうな頁はけっきょく探せなかったらしく、顔をあげるなり、
「そやったら、つぎの深大寺にいこかあ!」
――天神の件は無視して先に進める。
「ここに関しては、自分いうとかなあかんことがあんねん。あの白鳳仏《はくほうぶつ》やねんけど」
「またうけ皿[#「うけ皿」に傍点]の話をぶりかえすの?」
「ちがうちがう。前言を撤回するんや。自分ついぽろりと、あれは朝鮮出兵のときの戦利品や、なんていうてしもたんやけど、あれは忘れてくれ」
「あら? なにをこころ変わりしたの土門くん?」
「話せば長いことやねんけど、自分あの手の話は、圓龍庵《えんりゅうあん》の大旦那《おじいちゃん》から聞かされて知ってたもんで」
「それって、日光の恙堂《つつがどう》のご本家よね」
「そや。芦屋《あしや》にある日本一の仏像専門の骨董店やねんけど、あそこがそもそも財を成したんは、明治の神仏分離令、つまり廃仏毀釈《はいぶつきしゃく》でお寺から出た仏像を、二束三文《にそくさんもん》で山ほど仕入れて、それを年月をかけて、ちょびちょび売っていって、ぼろ儲けしたんや」
「な、なんてやつでしょう!」
まな美は、ちょびちょびという言葉のおかしさに内心笑いながらも、顔では怒っていった。
「その仕入れたさいにな、朝鮮由来の戦利品の仏像も、ちらほら混ざっとったそうや。それで経緯《いきさつ》がなんとのうわかって、つまりやな、戦利品の書画や陶磁器のたぐいは、大名たちが自分らで使《つ》こたんやけど、仏像はそうはいかん。そんなん屋敷の中に置いとっただけで、いっかにも祟《たた》られそうやろう……」
「う……うん」
三人そろって、神妙な顔でうなずいた。
「それでもてあましてしもて、けっきょくお寺にあずけてしまうねん。ねんごろに拝んでんかーいうて。そのさいお寺がわも、ほとんど記録に残さんかったんやて。ごく一部、記録に残しとうお寺もあるで。そやけど大半が、なーなーで、あずかった僧侶は、その仏像が何仏《なにもん》かはわかっとんやけど、代が替わると、もうなにがなんやらわからへんようなってしもたんや……て」
まな美は、その特殊な裏事情に感心して聞き入ってから、
「けど、家康公は、朝鮮出兵はしてないでしょう」
「いや、徳川家とはかぎらへんで。あそこは甲州街道が近いから、参勤交代の途中にでも、ひょいと落としていける。それに深大寺は、渡来人に縁があるお寺やったとすると、ねんごろに拝んでもらうのにこれほどふさわしいお寺はあらへん。そやねんけど[#「そやねんけど」に傍点]、自分はこの説は捨てる。忘れてくれ」
「ええー? そこまで辻褄《つじつま》があってるというのに、わざわざ捨てるのぅ?」
まな美は、逆におもしろがって聞く。
「捨てるいうたら捨てるんやあ!」
土門くんは、頑《かたく》なに意地を張っていい、
「なんでもかんでも渡来人や朝鮮半島に話をもっていったらええ、いうもんちゃう! あの白鳳仏は関東人の誇るべき、関東人みずからが作りだした類《たぐ》い稀《まれ》なる仏像で、関東人のこころのよりどころや! そういう結論でええな! 皆の衆!……」
他の三人は、渋々ながら、うなずいてあげた。
「自分みたいな関西人がいうても、説得力あらへん、思てるやろう……」
土門くんは、見透かしたようにいってから、
「ほな、深大寺に関して、ほかになんかあらへんかあ?」
マサトが手をあげた。そして山の中から写真を探しはじめた。またタイミングを逸してはまずいと、とりあえず先に手をあげたのだ。
写真が見つかった。おなじ場面を何枚も撮影していたので、三人それぞれに手渡した。
「ええ? こんなんどこで撮ったんやあ?」
「どこかしらね?……」
「どこの写真なんですか? アマノメ先輩」
弥生は、おずおずと蚊の鳴くような声でたずねた。
「深沙大王堂の、天井絵」
「あっ、あんなとこに絵があったんか……そやけど、この竜の顔ちょっと変やぞう。中日どらごんずと阪神たいがーすを合体させたみたいな」
「すみっこに、銘のような字が見えていますけど」
「うん?……自分のんには写ってへんぞう」
「わたしのにはあるわ。赤神龍、昭和四十三年春」
各々、撮った角度が微妙にちがっているのである。
「要するに赤い竜やな。ほな、ちょっくら調べてみよか……」
「赤い・神の・龍だけど、龍は難しいほうの字ね」
「……あかん。ひっと数わずかに三件。それも関係なさそうや」
「だったら、字を入れ替えて、赤龍神にして」
「……お、今度はたくさん出てきた。そやけど逆にあかんぞう。げーむ関係につかまってしもた」
土門くんは、あいてむ入手、くろのくろす、ひどらの体液、赤龍神ぴり辛らーめん……ぶつくさいいながら検索の頁をつぎつぎとめくっていき、
「あっ、中国語が出てきた。封じる青《せい》龍神をなんとか王に為《な》す、赤龍神をなんとか王に為す、黄《こう》龍神をなんとか王……以下|同《おん》なじで、白《はく》龍神、黒《こく》龍神」
「それって、道教の教則本《テキスト》じゃないかしら?」
土門くんは、その頁を開いた。
「ほんまや。道教文化資料庫となっとう。えーなになに……龍王|的《てき》由來、龍|是《これ》中國神話|的《てき》四靈之|一《ひとつ》、以下は読めそうにあらへん、許してくれえ〜」
「それは五龍王の話だわね。すると、神獣鏡《しんじゅうきょう》などに彫られている四神《ししん》、そのさらに古代には、五龍王を使っていたこともあるらしいのね」
「それはつまり、方位に、てこと?」
「そう。色に対応していたはずだから、白虎《びゃっこ》は白龍、玄武《げんぶ》は黒龍、青龍はそのままで、黄龍は中央、そして朱雀《すざく》は赤だから、つまり赤龍神ってことね」
「朱雀は南やったな……むむむむむ、なーるほど」
土門くんは、なにやらひらめいたらしく、大急ぎでグーグル地図《マップ》の画面に切り替えるや、
「謎はすべて解けた! まるっとすりっとごりっとえぶりしんぐお見通しだい!」
突如TVドラマの台詞《せりふ》を嬉しそーに叫んでから、
「まあ見とけよう……ここが深大寺やろ。あ、深沙大王堂の建物《たてもん》もちゃんと出とう。ここに基準をあわせて、真南へとさがっていく……」
土門くんは、左すみにある拡大縮尺ゲージの縦棒を基準にして『→』ボタンを数回クリックする。
「……高速道路を越えて、すぐ下に細い川が流れとう、野川いうやつやな……ありゃ? ずれてしもた。あの虎狛神社にあたる思たんやけど、百メーター以上もずれとうやんか……」
「そうそううまくいかないわよ〜」
まな美が遠くから憎まれ口を飛ばしている。
「くっ、へこたれへんぞう……今度はやな、この虎狛神社に基準をあわせ、そして真北へとあがってみよう。ちょん、ちょん、ちょん……」
土門くんが『←』ボタンをクリックしていくと、
「……わあ!!」
マサトにしては稀《めず》らしく大きな声を出して驚き、
「土門先輩すごーい!……」
弥生も稀らしくはしゃいで天板を両手で連打する。
「いったい何が起こったのよ? わたしには見えないじゃない!」
「か、か、か、か、か、か、か……」
土門くんは大口をあけて高笑いしているだけなので、弥生が教える。
「あのですね、深大寺の大きな本堂がありましたよね、その中央の卍《まんじ》をうってあるところに、ピタリとあたったんです」
「ええー!? そんな位置関係になってたのー!?」
「……か、か、か、か、か、はあ」
土門くんは、高笑いにも飽きたらしく、いう。
「赤い龍で南の方角をしめし、虎みたいな顔で、虎狛神社と関係が深いことを仄《ほの》めかしとったわけや。まあ一休《いっきゅう》さんのなぞなぞ[#「なぞなぞ」に傍点]れべるやあ、ははははー」
「だけど? 赤竜よね。赤だとすると……土門くん、深大寺のパンフレットもってきた?」
まな美はまな美で、また別種のことをひらめいたようで、土門くんは、おう、とふたつ返事で吉田カバンの中からその案内小冊子をとり出した。
「そこに深沙大王の絵がのってなかったかしら?」
「絵《え》ー……あったあった。うわあ、筋肉もりもりの毒々しい赤い身体してはるでえ、顔も赤や!」
「やっぱり深沙大王も赤だったのね」
「あっ、そや。淨山寺のお地蔵さんは別名・赤地蔵さんやったやんか。赤山明神《せきざんみょうじん》もおったし、それにあの摩多羅神《またらじん》も、たしか赤ちゃうかったっけ?」
「そう、そのあたりは基本の色が赤なのよ。すると密教の五部法《ごぶほう》に則《のっと》って、阿弥陀如来《あみだにょらい》格になるのね。つまり本地垂迹《ほんじすいじゃく》の、神は仏《ほとけ》の化身であるといった考え方の、いわゆる本地仏《ほんじぶつ》も、摩多羅神は阿弥陀如来だったでしょう。すると、あのわたしたちがけっきょく訪ねなかった深大寺の大本堂の本尊[#「本尊」に傍点]……」
まな美は、思い出し笑いをしながら、
「なんになってる?」
「えーそれはやな……金きら金の、姫の推理どおりの、阿弥陀如来さまやあ!」
「やっぱりねえ。すると深沙大王の本地仏も、まちがいなく、その阿弥陀如来ね」
「……さらに説明書きによるとやな、ふつうの阿弥陀如来像とは違《ち》ごとって、天台宗の四種三昧《ししゅざんまい》のひとつである常行三昧《じょうぎょうざんまい》を行う常行堂《じょうぎょうどう》の本尊阿弥陀如来像によく見られるものです……やて。そやけど、この常行堂って、なんか記憶にあらへんかあ?」
自身の記憶のことなのに土門くんは三人を見廻しながら他人事《ひとごと》のように問う。
「それは日光の輪王寺《りんのうじ》の常行堂[#「常行堂」に傍点]でしょう。本尊は孔雀座にのったきらびやかな阿弥陀如来で、すみっこに摩多羅神の黒漆の社《やしろ》が置かれてあった……」
「あっ! 思い出したぞう。撮影禁止やったのに、天目がひそかに写真撮ったとこやあ」
と指さされたマサトも、笑顔でうなずいている。
「そうすると、この深大寺には、摩多羅神はたぶん置かれてなくって。けど密教である以上は裏神《うらがみ》さまが絶対に必要なので、つ、ま、り」
「なるほど、かわりに深沙大王を使《つ》ことった!?」
「その可能性、大[#「大」に傍点]だと思うわ」
「すると裏神さんの歴史に、また新しい一ぺーじが加わったやんか!」
「それもこれも、マサトくんが赤神龍の写真を撮っていてくれたおかげよ」
「そや、天目はここぞ[#「ここぞ」に傍点]というときに大ほーむらんをかっ飛ばしてくれる目立たへん二番ばったーやあ」
土門くんが妙な褒《ほ》め方をしてはしゃいでいると、廊下がわの障子につーっと人影がよぎって、その影が半分ほどに小さくなると、障子の戸が一枚、しずしずと開《ひら》いた。――西園寺希美佳が、三時のお茶とおやつを運んで来てくれたのである。歳は二十一で大学生だが、あわい藤色の上下にさらにあわい同色のカーディガンをはおっていて、質素で上品な、ひと世代前の深窓の令嬢といった装《よそお》いだ。
土門くんはというと、いつのまにやら座布団に正座して、まるで借りてきた猫のように畏《かしこ》まっている。そして目の前に、コーヒーカップが楚々《そそ》として置かれたさい、何かいわねばと思ったのか、
「あのう……あの扇風機の暖房機、竜生さんに、お礼をいっといてください」
彼から一番遠い部屋のすみっこで首をふっている。
「はい、今日はあいにくと用事で出かけておりますが、お伝えしておきます」
………
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18
そのころ、竜生は、生駒刑事がハンドルをにぎる四駆の警察車輛の助手席に座って、御神《おんかみ》マサトが四苦八苦して描いたスケッチ帳を膝の上で開きながら、道案内《ナビゲーター》の役をつとめていた。
「……さっき赤い橋を渡りましたよね。するとこの先で、道がふたまたなっているはずで……そこを右です。やー、まるでパリ・ダカール・ラリーでも走っている気分ですね」
などと軽口をたたきながら。
もっとも、竜生は浮かれているわけではない。
後部座席に約一名・部外者[#「部外者」に傍点]が同乗していて、その彼に話をあわせてのことである。
久保田《くぼた》という名前で、眼鏡をかけていて背が高く南署の若い鑑識課員だが、今日は非番であったところを、昨晩遅くに上司の岩船係長から特命の電話がかかってきて、無理矢理、参加させられているのである。――現場保全の観点からも鑑識の同行は必須だからで、かといって、公式の捜査ではないから就労中の課員を派遣するわけにはいかず(生駒は刑事課なので勝手気ままだが)、非番の彼に白羽の矢がたったのだ。
それに久保田は、まだ新婚ほやほやらしく、今日はディズニーシー|Xmas《クリスマス》! の約束だったところを反故《ほご》にされ、機嫌の悪いこと悪いこと……もっとも、それは朝十時ごろの出立時の話で、
「埋まってるのは拳銃? 強奪された一億円? そのお宝、早く掘り出したいですよね」
などと、その後は、なかば宝探し気分である。
彼には、この非公式の特命捜査が何を目的としているかは知らされていない。――犯罪にからんでの重要な証拠品が埋まっているとのタレ込み情報があって、と生駒がそう冒頭で胡麻化《ごまか》したままである。そしていうまでもないが、そのタレ込みの情報源が神さま[#「神さま」に傍点]だなんてことは、彼は露《つゆ》ほども知らない。
「やー……デコボコと、道が悪くなってきましたよね。それにしても、四駆のパトカーがあったなんて、ぼくははじめて知りました」
と、竜生。
「山地の警察署ではけっこう使ってますよ。南署《うち》ではこれ一台っきりですが、今日は要りそうな予感がしたんでかっさらってきたんです。正解でした」
と、生駒。
「ぼくも乗るのは、今日がはじめてなんですよ」
と、久保田。
「これで覆面[#「覆面」に傍点]だったらね、自分の専用車に使いたいところなんだけど」
と、生駒がいうように、白黒のツートンで屋根には赤色灯のバーもついており、車種は三菱のチャレンジャー・排気量二八〇〇t、同パジェロをやや大人しくしたスタイルだが、都会ではまず走っていない立派な四駆のパトカーである。
竜生は、膝のスケッチ帳に目を落としながら、
「……これで右がわに、岩がごろごろしているような細い川が見えてきたら、これで道はあってます。そうすると、もうごく近いですから」
ここまで来るのに、すでに何度か道に迷っているのである。
ところで、後部座席には他にもう一名、乗ってはいるのだが、ダウンジャケットを毛布がわりにして胸にかけて、うつらうつらと半分眠っている。
昨晩(正確には今朝)は三時すぎにご帰宅で、睡眠不足かつ二日酔いぎみだし、それに窓から見える景色はどこだか皆目わからない山の中で土地勘は皆無だし、現時点においては、まったくの役立たずで単なる木偶《でく》の坊《ぼう》にすぎない――。
「けど、日が暮れるの早いですからねえ」
「あ、そうですよね」
「照明は、小さいのしか積んでませんよ」
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19
三時のおやつは、このクリスマスの今時分にしては信じがたいことに、西瓜《すいか》であった。
だが土門くんは西瓜は大の苦手らしく、
「自分今日お腹すいてへん、水野さんにあげるぅ」
と情けない声でいって、皿ごと遠ざけて押しつけてしまった。
アマノメの氏子たちがこの森の屋敷を訪れるさいには何かしらの手土産を持参するのが常で、だから毎日のように、こういった稀《めず》らしい果物類が冷蔵庫にたまっていき、歴史部の面々はちょうどいいはけ口ではあるのだ。が、見方を変えれば、神さまへのお供え物を食べていることにもなる。
「深大寺に関して、ほかになんかあらへんかあ? 虎狛神社や祇園寺も含めてえ……」
他の三人はまだ西瓜にかぶりついている最中だというのに、土門くんは勝手に話を再開させていう。
「……なんもあらへんようやから、そろそろ本日の本題に入るぞ」
「ええ?……なに本題[#「本題」に傍点]って?」
その神々しいばかりに美味なる西瓜を食べるのを邪魔するな! とばかりにまな美は不満げにいう。
「初《しょ》っぱなにいうたやんか! 捻《ねじ》れに捻れまくってひねくれ曲《ま》がっとう話や!」
土門くんは強い口調でいい放つと、吉田カバンの中をあさって小さな桐箱をとり出し、腕をぐーいと伸ばして天板《テーブル》のまん中あたりに置きながら、
「まずめったにお目にかかられへんような、迷品をおがましたるでえ」
そして桐箱の蓋《ふた》を開け、中から浅黄《うすき》のクッション布にくるまれた縦長の小さなそれをとり出すと、布をほどいて三人に披露した。
「あら、奇麗な湯呑みじゃない……」
一転、まな美は機嫌をなおして目を輝かせていう。
「これってたしか……青磁《せいじ》?」
「そや、高麗《こうらい》青磁や。独特の透明感があるこういう色のことを、翡翠《ひすい》の翡の字をとって翡色《ひいろ》という。表面には細かなひび割れが無数に入っとうけど、焼きあがって釜出しした瞬間に、チリチリチリチリ……とひびが入っていくねん。実際音がすんねんで」
土門くんの、……ぴ、とはちがって。
「そして鶴の模様が描かれとうけど、これは白い粘土を使《つ》こて象眼《ぞうがん》をほどこしとうねん。高麗青磁の約束事がぜんぶ守られとう、なかなかのええ出来や。もっとも、これは現代の作で、そやけどぴーくでは、二十万ぐらいしとったんちゃうやろか」
「わっ……」
手を伸ばして触《さわ》りかけていたまな美が、大慌てでひっ込めた。
「大丈夫や、今では零《ぜろ》円や。いやまいなす[#「まいなす」に傍点]かなあ」
「ええ? どういうことなの?」
「これ親父《おやじ》が蔵出しで買いつけたときに混ざっとったんや。桐箱の蓋《ふた》の裏に、銘が入っとうやろう」
土門くんは、それを三人に見せながら、
「――俊成《しゅんぜい》青磁・谷木人《たにぼくじん》。この名前を見つけた瞬間、親父がたたき割ろうとしてたんを、自分がぺん立てに使うからくれーいうて、絶対におもて出したらあかんぞ! 店の信用にかかわる! と約束して、今こうやってみんなの目の前にあるわけや」
西瓜を食べ終えて皿やスプーンなどはきちんとお盆に片づけてしまった弥生が、興味深げにたずねる。
「それはつまり、贋作《がんさく》ってことなんですか?」
――贋作。それは彼女ならずともつい興味をそそられるようなミステリアスな話題にはちがいない。
だが土門くんは、
「……贋作?……贋作?」
首をねじまげて天井に向けていってから、
「贋作……よりもいっそうあくどい[#「あくどい」に傍点]しろもんや。銘にあった谷いう男は、もとは陶磁器の輸入商やったらしく、それがいつしか陶芸作家に変身して、しかも我こそが高麗青磁の復元についに成功した陶芸家であーる[#「我こそが高麗青磁の復元についに成功した陶芸家であーる」に傍点]! というふれこみで、各地でばんばん個展を開いて、三越百貨店みたいな有名どころを使《つ》こて……この個展いうんは単なる展覧会ちゃうで。作品を売りさばくことな。そして海外にまで進出していってあちこちで個展を開き、あげくにはウィーンの宮殿で、すぐ横にはハプスブルク家の財宝が陳列されとうような場所で、しかも京都市役所や日本大使館の後援までとりつけて、そしてとどのつまりには外務大臣表彰まで授かったという……」
「けっきょくそれが、ぜんぶ騙《だま》しだったの?」
「もちろんや。この谷いう男には土器《かわらけ》一枚作る技術あらへん。韓国の若手陶芸家をだまくらかして高麗青磁を焼かせ、銘だけ自分のを入れとったそうや。そんなことを十年以上もつづけとったのに、だーれも見破れんかったんや。外務省も大使館も市役所も。いうとくけど、これ戦前の話とかちゃうで、つい五、六年前の話なんや。それに、この高麗青磁の復元は、実際にやりはった陶芸家が韓国にいてはって、柳海剛《ゆへがん》という人間国宝みたいな人が。その柳《ゆ》さんのところまで話が伝わって、ようやくばれたん……」
「も信じられないわね!」
――パン!
天板《テーブル》を叩いて、まな美は憮然《ぶぜん》とした表情でいう。
「そんな恥知らずなことをするから、日本人の評判がますます悪くなるのよ」
「そういうこっちゃ……よそさまの文化を、このように蔑《ないがし》ろにしたらあかんよなあ」
「そのとおりよ。よその国の大切な文化を、盗んだり土足で踏みにじるようなまねをする人は、人間のクズだわ!」
「姫よういうた。こういう行為をするやつは、まさしく人間のクズやあぁぁぁぁ!……」
と、土門くんは猛々《たけだけ》しくいい放ってから、一転、やけに冷静な声になっていう。
「皆の衆、この人間のクズいう言葉を、よーお肝《きも》に銘じとくんやでえ。さあ、その上でいよいよ本題に入ろかあ」
「ええ?……うん?」
まな美は、およそ土門くんらしくない巧《たく》みな誘導尋問の罠《わな》に、まんまとはまってしまったらしいことを今の今気がついたが、もう手遅れである。
「自分|昨日《きのう》一日姫に案内されるがままに神社やお寺へ行ったやろ、すると渡来人の話がそこかしこで出てきたんで、へー……思て、目から鱗《うろこ》やったんやで正直な話。そして店《いえ》に帰って調べもんすると、さらにわんさか出てくるわ渡来人の話が、もう武蔵国はすべて渡来人が創ったんやーみたいな説、一色や。そやけど、それらを丹念に読んどったら……どことのう疑問がわいてきた。その一個一個が正しい正しゅうないゆうんはさておき、こういう説ぜんたいを貫く雰囲気《とーん》が、なんともいわれへん奇妙な……」
とそこまでいうと土門くんは、顔をあちこちに向けて言葉を探すような素振りをしてから、
「まあいわば、まいんどこんとろーる[#「まいんどこんとろーる」に傍点]のような」
「大袈裟な!……」
まな美が、遠くから叱責《しっせき》の声を飛ばす。
「いや実際そう感じたぞう。この『武蔵国渡来人創成説』は幾多の書物で語られており知識人たちのあいだではもはや常識なのに未《いま》だに信じようとしない人がいたとは驚きだなあーみたいな何ともゆえへん嫌らしいー話のもっていきよう」
土門くんは極端に長いひと口言葉でいってから、
「と同時にやな、調べもんしとったら、現在の韓国と日本との文化摩擦の話が、まあー出てくるわ出てくるわ、それこそ無尽蔵に。それにこれは一方的に攻撃されとんやから、摩擦とはいわれへんが[#「が」に傍点]――」
語尾をことさら強調していうと、パソコンに目をやって、|Explorer《エクスプローラ》に個別のフォルダを作って整理されてあった一群の中から頁を開きながら、
「ひとつ代表的なやつを教えたろう。それが剣道[#「剣道」に傍点]や。今韓国では剣道がすごい盛んやねんて、体育の教科に用いられとって。これはやな、日本が朝鮮を併合しとった時代に導入されて、それがそのまま定着してしもたんや。ところが、剣道をやっとう子供たちにきいてみたら、百人ちゅう百人が、剣道の起源は韓国にある! と胸をはっていうそうや。これはまあ体育の先生がそう教えとんやから、子供たちには罪はあらへん」
土門くんは、しおらしくいってから、
「それに気持ちもわからんわけではない。併合時代に押しつけられてしもたんやーとは説明しとうないもんな。そやけど、こういうてしもた手前、辻褄をあわさなあかん。かくしてるーつ[#「るーつ」に傍点]探しがはじまった。そして苦心惨憺《くしんさんたん》あみ出した剣道の歴史はというと、中国の紀元前ぐらいの書物に、劍道[#「劍道」に傍点]、いう漢字がちらっと書かれとって、これ幸いにと引用し、その劍道が朝鮮半島へと伝わり、新羅《しらぎ》の花郎《ふあらん》という集団がそれを体系化し、そして日本に伝わった……ちごた、日本に伝えてあげた!」
土門くんは、そう強い口調でいい直してから、
「それとともに、刀剣類も伝えてあげた! それに剣のことをツルギというけど、これは朝鮮語の刺すという意味のチルギが訛《なま》ったもんやと主張しとう。このようにして日本に伝えられた剣道は、日本があれんじ[#「あれんじ」に傍点]をほどこして体育競技《すぽーつ》へと変化させた。そやから剣道の起源は韓国であーる! といったような説やねんけど、これを韓国の国内で方便のためにささやいとうぐらいやったらまあ許したろかーと思わへんこともない。ところがぎっちょんちょん」
「ええ? な、なによその言葉は!……」
「重たい話やから適当に与太《ぎゃぐ》でもはさまんと聞いとう人がつらいやろう。あ……まてよ? このちょんいうんは朝鮮人の蔑称《べっしょう》かなあ、そやったら使《つ》こたらあかんよな。ちょっくら調べてみよか……」
「……ところがどっこい、の亜流で、江戸時代の流行歌に『高い山から谷底見ればギッチョンギッチョン』いうんがあり、大正時代に『らーめちゃんたらギッチョンチョンでパイのパイのパイ』のコミックソングが大流行した。囃子《はやし》言葉の一種で意味は不明。一説にきりぎりすの鳴き声をあらわす。大丈夫やな。ところがところがぎっちょんちょーん!」
土門くんは、仕切り直して再度大声でいってから、
「剣道は世界中で|Kendo《けんどう》とローマ字表記されるのに、彼らだけは|Kendo《コムド》のつづりを使《つ》こて、そして世界各地に進出していってあちこちに道場を開き、韓国のコムドこそが剣道の起源であーる[#「韓国のコムドこそが剣道の起源であーる」に傍点]と声高に吹聴しながら、あげくにはうぃーんの宮殿で……はくすぶるく家の財宝が……」
途中、ちょっと茶化していい、
「しかも、剣道には決まりごとの蹲踞《そんきょ》の姿勢を、これは日本的やからといって切り捨て、道着の袴《はかま》も、これも日本的やからと別のもんに勝手に変え、韓国が起源やねんから日本の伝統《るーる》にしばられる理由《いわれ》はあらへんと嘯《うそぶ》き、さらには別の剣道団体まで立ちあげて、コムドとしてオリンピックに採用してくれとがむしゃらに働きかけをしとんのが今の現状や。ところで、このように、よその国の大切な文化を盗むだけでは飽きたらず、土足で踏みにじるようなまねをする人間のことを、なんちゃうたっけえ? さあ、皆の衆ごいしょに!……」
「……なんでみんないわへんのやあ?」
「だって……土門くんもいわなかったじゃない」
「人間のクズやあぁぁぁ!」
土門くんは、あらためて大声で叫んでいってから、
「そやけど念のため、誤解あらへんように説明しとくけど、日本の剣道は、彼らがいうとう新羅の花郎なんかとは、いっさいなんの関係もあらしません。そもそも朝鮮半島で使《つ》ことった剣は、中国と同《おん》なじで、両刃で、片手でふりまわして使うような剣やねん。もう片手では、だいたい盾をもっとったそうや。かたや日本の刀《かたな》は、知ってのとおり両手もちやろ、しかも片刃や、これは独自に発達をとげた剣やねん。それがそのまま剣道へとつながっていっとうから、どう理由《こじ》つけしたって、あちらの剣術が源流《るーつ》なんかにはなりえへん。そして体育競技《すぽーつ》の剣道に関しては、江戸時代の北斎漫画《ほくさいまんが》の中に、今とほとんど変わらへん防具一式がのっとう。また竹刀《しない》に関しても、一七七〇年代に、木刀《ぼくとう》と竹刀どっちを使うべきかーいうて、どっかの道場主たちが書簡で喧嘩しとったんが残っとう。木刀で稽古すると怪我するやろう。そやから江戸時代のそのあたりで、今と同《おん》なじような剣道を教えとう道場が、あちこちにあったわけや。そして剣道の防具は、侍《さむらい》が使《つ》ことった鎧《よろい》を軽量化したもんや。こういったことはわざわざ教えてもらうまでもなく、うちらは頭の中で連想《いめーじ》していくことができるやんか。そういうんを、その国の文化というんちゃうやろか……」
「そやけど逆に、こんなんは日本人にとっては常識やから、なにあほなことを韓国人はいうとんやーと一笑にふしてしまいがちや。そやけど外国人にとっては、嘘かほんまか判別つかへん。そこを突いてコムドは世界進出しとうわけや。嘘でも声高に叫んだもんの勝ち。それに新羅の花郎《ふあらん》に関しても、戦いの集団やったかどうかは、かなりあやしい。これ漢字では、草花の花[#「花」に傍点]に、一族郎党の郎[#「郎」に傍点]いう字で、花郎。もう見るからになよーとしとるんやけど、十五歳ぐらいの、見目麗しい美青年の集団やったそうや」
土門くんは、自身の顔を指さしていい、
「で花郎は実際なにをやっとったかというと、お祭りのときに、神仏の祭壇の前で、歌ったり踊ったり、そやからまあ剣《つるぎ》の舞《まい》をやってへんかったとはいわれへんこともないこともあらへん。そやねんけど[#「そやねんけど」に傍点]、この花郎が、日本の武士団の起源やと説明されとう。はははははっ……」
その話には、三人もさすがに笑った。
「そやそや、日本の侍[#「侍」に傍点]、これは戦うを意味するサウダと、父親とか男性とかを意味するアビがくっついたサウラビという言葉が語源やそうで、百済《くだら》から武士道の精神とともに伝えてあげた! と主張しとう。もちろん真っ赤な嘘やで。サウダもアビも現代の韓国語で、古代百済語ではあらしません」
「その花郎の舞というのは、現代には伝わってないの?」
「あかん。伝わってへん」
土門くんは、あっさり首を横にふってから、
「これ自分もちょっと気になったんで調べてみたんやけど、高麗《こうらい》王朝時代までは、花郎の舞はつづけられとったそうや。そやけどつぎの李朝《りちょう》が、この種の伝統芸能をことごとく破壊した。姫も知っとうやろう? 李朝が極端な廃仏政策をしいてたん?」
「うん、うっすらと聞いたことはあるけど……」
「もうすさまじいぞう、町中を、僧侶が歩いとん見つかっただけで、即《そく》死刑。そやからお祭りなんかもぜんぶ廃止されて、花郎という名前だけは残すんやけど、自分らのような清らかな青少年には説明でけへんようなものへと姿を変えてしまう……」
土門くんは、わざとらしく顔を伏せていい、
「そやけど、高麗時代は、この高麗青磁の出来映えを見てもわかるように」
天板《テーブル》の中央には、翡色のそれがまだ鎮座している。
「すごい洗練された高度な文化を誇っとったわけで、高麗は仏教国家で、それに神仏習合やったらしく、日本といっしょやな」
「そうそう、世界遺産に登録されている、韓国の海印寺《かいいんじ》、そこにある世界最古の大蔵経《だいぞうきょう》の八万枚の版木を彫らせたのは、その高麗王朝よ」
「まあ、そないなことからもわかるように、高麗の時代は、お世辞やのうて、中国を凌駕《りょうが》できるほどの文明国やったわけや。ところがどっこい……李朝のあいだに文化はつる地[#「はつる地」に傍点]になりさがってしもたんや」
「そ、そんなこといって大丈夫なの?……」
まな美は声をひそめて心配そうにいう。
「大丈夫や。どの歴史書読んでもちゃんと書かれとう。李朝期には人口は増えず文化は停滞した、いうて。そやけど実際には文化は退化[#「退化」に傍点]しとんやで。以前の仏教に関係する伝統や文化をことごとく破棄してしもたから」
「けど、大蔵経の海印寺は残ってるわよ」
「そのお寺、山の中にあるんちゃう?」
「うん、たしかに、すごい山奥にあるらしいけど」
「山ん中までは許したろかーいうて、お目こぼしがあったようや。高麗時代には何万と建ってたお寺が、李朝末期には、山の奥地に二、三十を残すのみ、とか書いてあった」
「ええぇぇぇー……」
まな美は、顔と髪をふり乱して地団駄を踏み、
「それって、秀吉軍が荒らしたんじゃないの!?」
「あ! それな、韓国に旅行にいくと現地の案内人に、石仏の首がごろごろしてるようなところへ連れて行かれて、姫と同《おん》なじような説明を厭味たっぷり[#「厭味たっぷり」に傍点]に聞かされるんやて。そやけど、それも真っ赤な嘘。李朝は一三九二年からで、秀吉軍はそのちょうど二百年後やから、すでに廃仏は完了しとんねん。それにこっちは仏教国やから、石仏の首をたたっ切るようなまねはせーへんぞう。刃こぼれおこすし……」
「うーんいわれてみればそうかもしれないけど、でも別名・焼き物戦争で、多くの陶芸家をさらってきたんでしょう。それでこの高麗青磁も、朝鮮半島では廃《すた》れちゃったんじゃないの?」
「それは姫、試験《てすと》やと三十点しかあげられへんで」
土門くんは(専門柄)嬉しそうにいってから、
「高麗[#「高麗」に傍点]青磁は、高麗[#「高麗」に傍点]王朝とともに滅《ほろ》ぶ。字の通りや。それに、この青磁の色あいを見たらわかる思うけど、仏壇とか神棚とかにあいそうやろう?」
「いわれてみれば……それに今の日本でも、お線香立てとかに、こういう色あいを使ってるわよね」
「そういうこっちゃ。そやけど李朝には仏壇も神棚もあらへんから、お役ご免になんねん。李朝の時代は、まっ白けの白磁《はくじ》いっぺんとうになる。李朝は完璧な儒教国家やろ。この儒教いうんは今ひとつようわからへんねんけど、ともかく質素[#「質素」に傍点]で、華麗なもんは禁止やったそうや。焼き物《もん》の職人たちをさろたんは、たしかに極悪や。そやけど、彼らがそのまんま朝鮮半島にいてはったからといって、伊万里《いまり》に相当するような華麗な焼き物が生み出せたかどうかは、はなはだ疑問。それに、陶芸家[#「陶芸家」に傍点]、みたいなかっこええもんちゃうで。当時の朝鮮半島は日本以上に身分制度がきびしくて、焼き物の職人はほぼ最下層やったらしいから、自由に創作活動できそうにあらへん。それにやな、あの深大寺の白鳳仏も、こういう李朝の廃仏の歴史からいうて、戦利品説はほぼ消えるやろ。あれほど立派な仏像、秀吉軍が探せるような場所に遺《のこ》っとったとは思われへん。ほな、ちょっくらお口なおしに、おもろいもん見したろかあ……」
ほがらかな声で土門くんはいうと、吉田カバンの中に手をつっこんで、写真の束《たば》をとり出した。そして高麗青磁の湯呑みや桐箱をわきに押しやってから、それらの写真を天板《テーブル》の中央に並べはじめた。
「あら……パノラマ写真ねえ」
五枚つづりのセピア色がかった白黒《ものくろ》のそれである。
「さあて、この写真は、どこで撮られたいつごろのもんやと思う?」
「古くて立派なお屋敷街だわね、あの倉敷《くらしき》?……にしては広々としすぎてるし……」
「そやったらまず時代からいこか。一、昭和の戦前。二、大正。三、明治。四……それ以外[#「それ以外」に傍点]」
土門くんは、四のそれ以外を小さな声でいい、
「さあ、ひとりずつ聞くぞう。水野さん何番やあ」
「えーと、わたしは大正時代にします」
「そやったら姫何番やあ」
「意外と古くって、――明治時代」
「天目は何番やあ」
土門くんがたずねると、マサトは写真の一部を指さしながら、
「道に、人が写っていない」
「あ……いわれてみればそうやなあ」
「だから、これは非常に古いカメラ」
「あっ、さすが写真班《かめらまん》。天目鋭い!」
「え? どういうことなの?……」
「大昔の写真機《かめら》はやな、長い時間じーっとしてへんと写らへんねん。そやから道を歩いとう人は写らへんねん。あの新しもん大好きの坂本龍馬《さかもとりょうま》が写真撮ってもらうときに、えらい大変やったあ、みたいな話聞いたことあらへんか?」
「ええ? これそんなに古い時代の写真なの?」
「そやで、あの龍馬の写真とまったく同なじころで、これは慶応一、二年、つまり幕末の一八六五、六年、港区の愛宕山《あたごやま》という小山から、愛宕下と呼ばれていた武家屋敷街を撮っとんねん。英国《いぎりす》のベアドという写真家が、わざわざぱのらま[#「ぱのらま」に傍点]にして撮ってくれてはったんや。これものすごい手間かかった思うぞう」
その土門くんの話に呼応するかのように、マサトは両手をあわせて、大御所の先輩写真家に感謝と敬意をあらわしている。
「すごく洗練された町並みですよね。今の東京なんかよりも、はるかに奇麗ですよ」
「水野さんのいうとおりや。町並み文化に関しては、日本は明らかに退化[#「退化」に傍点]した思うぞう。さあそこで、かりに時間旅行船《たいむましん》に乗って、さらに二百年ほど昔の江戸にさかのぼってみたとしよう。どないな景色が見える思う?」
「二百年前っていうと……一六六五、六年よね」
まな美はすこし考えてから、
「江戸は何度か大火にあっているけど、この景色は変わらないんじゃないかしら」
「自分もそう思う。四代将軍|家綱《いえつな》の時代で、江戸の町は完成されとったはずや。してみると、その二百年間は日本の文化は停滞しとったんやろうか?」
「なにいってるのよ土門くん。江戸時代の太平の世があったからこそ、さまざまな文化が花開いていったんでしょう」
「まさにそういうこっちゃ。こないなふうに町並みが整ってると、つまり衣食住に満ち足りてしまうと、あとはどうやって遊ぼかーいう方向へ人間は精力をついやし、独創的でおもろい文化がつぎつぎと生み出されていったわけや。そのてん家康さんへの感謝の気持ちを忘れたらあかんでえ」
土門くんは、しごくまともなことをいってから、
「実はやな、これと比較して、李朝末期の写真があんねん。それを出そかなあーと思とったんやけど、もうあまりにも悲惨やからやめとくわ」
「ええ? そんなにひどいの?……」
「姫が見たら、嘘やろーと怒鳴って、顔をしかめるような写真や。もう百ぱーせんと断言できる」
「ほんとに! そんなにひどいの?」
「うーんひと言でいうと……地獄の絵や」
「嘘お!……」
「ほらいうたやんか。そやったら口で説明したげるけど、李朝の首都である漢城《かんじょう》、今のソウルやけど、その中心街の南大門あたりの写真が撮られとって、藁葺《わらぶ》き屋根の、地べたにへばりついとうみたいな低い家が、というよりばらっく[#「ばらっく」に傍点]が、わーっと密集して立っとって、その藁葺きも、どろーっとしとって崩れ落ちそうで、道はもちろん凸凹《でこぼこ》やし、その写真を見とうだけでぷーんと悪臭がただよってくる」
「な、なんて失礼なこというのよ!……」
「いや、これはほんと[#「ほんと」に傍点]の話なんやで」
悪びれずに土門くんはいうと、またしても吉田カバンの中から、一冊の分厚い文庫本をとり出して、
「これ朝買うて電車の中で読んできた。イザベラ・バードという英国《いぎりす》の女の人が、一八九四年から七年のあいだに何度も訪れて紀行文を書き残しとう。この『朝鮮紀行』の中に、自分がいうたんと同《おん》なじことが、いや、さらに汚い話がいっぱい書かれとうから、まあひまがあったら読んでんかあ……」
と天板をすべらせてまな美に送ってから、
「これは韓国の人を馬鹿にするとかそういうこととはちごて、要するに李朝[#「李朝」に傍点]が、至上最低最悪の王朝[#「至上最低最悪の王朝」に傍点]やったわけ――」
土門くんは、強い口調でそう断言していってから、
「つまり徳川さんとは月とすっぽんやったんや。高麗時代までは文化の先進国やったのに、よくぞあそこまで落とせたなーとつくづく感心する。それにやな、夜になると漢城の人は、家の戸をかたく閉じて、けっして外出せんかったそうや。理由わかる姫?」
「明かりのたぐいがなかったの?」
「まあそれもそやったろうけど、夜になるとやな、人食い虎が出るから、危のうて歩かれへんねん」
「嘘お!……」
「ほんまやん。それに虎だけちゃうでえ。人食いの豹《ひょう》まで出るんやから」
「はははははっ……」
不謹慎にも全員で笑ってから、
「自分らには想像つかへんようなわいるど[#「わいるど」に傍点]な世界や。ちなみに『朝鮮紀行』が書かれた一八九四年は明治二十七年で、日本は日清戦争をはじめた年や」
土門くんは意味深な注釈をしていってから、
「ほな、話をもとに戻すぞう。先に説明した剣道は、文化摩擦の氷山の一角にすぎへん。そやけど、この摩擦[#「摩擦」に傍点]よりももっとええ言葉あらへんか? 姫」
「そうね、こういった場合は、剽窃《ひょうせつ》かしら」
「あ〜それ、たぶん読めるやろうけど、自分の頭の中では書けそうにあらへん。もっと簡単なやつで」
「だったら、泥棒[#「泥棒」に傍点]」
「うん、それにしょう。韓国の文化泥棒は、もうとどまるところを知らず手あたりしだいで、柔道に関しても同《おん》なじことやっとって、やはり|Yudo《ユド》と微妙にローマ字表記を変え、高麗王朝時代に韓国で体系づけられ、秀吉軍の捕虜となった男から伝えられた。ちごた、伝えてやった! と主張しとったんやけど、これにはさすがに講道館[#「講道館」に傍点]が怒って、畳にねじ伏せた。ここみたいに強い団体は対抗できるんやけど、他《ほか》はたいていが弱小やから、もう韓国のいいたい放題や。合気道も同なじことやられとんやで、水野さん」
「そうなんですか? ぜんぜん知りませんでした」
「そう、もう水野さんといっしょ。どこもかしこもおっとりしとるんや」
土門くんは、おっとりした喋り方でいい、
「合気道は、やはり|Hapkido《ハッキド》と微妙に変え、新羅《しらぎ》の三郎源義光《さぶろうみなもとのよしみつ》をその始祖として、幕府の源氏に伝えてやった! そうやあ……」
「ええ? 源義光って日本人じゃない!?」
「勘違いしとんねん。義光は三井寺の新羅明神《しんらみょうじん》の前で元服したやろう。その新羅《しんら》と新羅《しらぎ》を」
「そ、そんな無茶苦茶な!……」
「外国人を信じ込ませることができたら勝ちやねん。正しい正しゅうないは二のつぎやねん」
「ますます無茶苦茶な!……」
「それに日本の国技の相撲も、韓国のシルムが起源であーると、喧嘩腰で主張してんのがあちらの新聞に堂々と出とった。そしてテコンドー、これがそもそもの諸悪の根源みたいで、あのわっけのわからん格闘技がオリンピックに採用されたもんやから、鼻息が荒うていいたい放題。これは五十年ほど前に空手から派生したもんで、創始者みずからが認めとんのに、テコンドーこそが空手の起源であーる! ……みんなもうそろそろ飽きてきたんちゃう?」
「うん!」
三人そろって、力強くうなずいた。
「ほな、ちょっと別の話しょうか。これは自分びっくり仰天してしもたんやけど、あっちに弓道の団体があって、例によって起源をうだうだ主張した後《あと》、この弓道や剣道や柔道の道[#「道」に傍点]いう字に関して、独特の見解が述べられとんねん。それがあまりにもすごいもんやったから、原文をそのまま読むな――」
――道という言葉は日本文化のほとんど全ての部分で使われている。これは外国の文物を受け入れる彼らの独特のやり方であるが、中国から我が国を経て日本に入っていった全ての文化には「道」という名前がくっ付く。書道、茶道、剣道のような言葉が全てそのようなものである。我々が書芸、茶礼、剣術など、生活の必要によって名付けたものを日本人たちは精神、すなわち道の次元で受け入れたのだ。このような現象を望ましいと見るべきかと言えば、それは必ずしもそうではない。道という言葉の用例は、中国と我が国にはそれなりの使われ方がある。それを日本人たちが変えたのだが、その場合、道という言葉が持つ意味を最大限に生かす方向に使われるのであれば別に問題はないが、日本人たちが使う道という言葉の用例は、我々の慣習から見た時、多くの問題点を抱いているのだ。日本は古代から最近に至るまで、朝鮮から全ての文化を学んでいった。日本という小さな島国には、朝鮮以外に知的欲求を満たすに値する国が周辺になかったのだ。壬辰倭乱《じんしんわらん》(文禄の役)時、彼らが略奪していった数多くの文化財がそれを証明している。彼らは朝鮮の物ならば何でもいそいそと持っていった。このように日本人たちは倭という蔑視を受けながらも、朝鮮を限りなく羨ましがっていた。朝鮮の学者たちが話していた哲学や思想を、彼らがどれほど羨ましく思っていたであろうかは、察するに難くない。だから、朝鮮の学者たちが口にしていた「道」という言葉がどれほど欲しかっただろうか? 欲しければ借りて使わなければならない。しかし、彼らにはそんな能力がない上に、社会的雰囲気がそれを許さない。それで、道という言葉の真の意味を理解する能力がなかった彼らは、その言葉を力の世界である刀に結び付けることで満足してしまう。このような文化風土の下で、剣道になり、柔道になり、さらに「力道」という言葉まで生まれたのである……
「……この最後の『力道』いうんはちょっとようわからへんねんけど、自分らぜんぜん知らへん伝説のぷろれすらーの力道山《りきどうざん》のことかなあ? まあこれはさておき、どう思た? 皆の衆……」
「どう思うもなにも、全文すべてに唖然[#「唖然」に傍点]としちゃって、怒る気力すら起きないわ!」
そういいながらも、まな美は怒っていう。
「自分はこれ読んだ瞬間、あえて禁止用語でいうけど、この気狂《きちが》いはいったい何を書いとんやあ! と正直思た」
まな美も、うなずいている。
「そやけどな、その後《あと》でふと別のことに気がついたんや。さっきの文章を現在の韓国人が読みはったら、たぶん百人ちゅう百人が、お前ええこというたあ[#「お前ええこというたあ」に傍点]――とバンバン机を叩きながら大喜びするんちゃうやろか……と」
「あら、意外とそうなのかもしれないわね」
「そやからな、うちら日本人から見たら、もう狂気の沙汰《さた》としか思われへんような話が、韓国人から見たら、拍手喝采で大賛辞を得られるような物語なわけや。つまりここに、この捻れに捻れ曲がっとうふたつの国の、もう説明でけへんほど捻れまくっとう考え方のちがいが、よーおあらわれとんやないやろか、そう思てみんなに紹介したわけや」
まな美は、その説明には神妙にうなずいてから、
「でも土門くん、今日はいつもとちがうわよう」
すこし心配そうにいう。
「自分徹夜しとうやろう、たぶん頭ん中に鬼[#「鬼」に傍点]でも巣くっとんちゃうやろか。けどもうちょっとしたら、すぐもとに戻るからあ」
土門くんは、ほぼいつもの調子でいってから、
「それにぜんぜん関係ないような話しとうけど、武蔵国の事始めといずれ関係するから、しばし待てえ。ほな、文化泥棒のつづきやが、彼らが主張する朝鮮起源は他《ほか》にも、居合道、忍者、茶道、わびさび、華道、日本の和歌、日本刀、盆栽、扇子《せんす》、団扇《うちわ》は中国が起源らしく、それを折り畳みにした扇子は日本の独創《おりじなる》。折り紙、日本酒、寿司、海苔巻き、わさび、てんぷら、お好み焼き、錦鯉、日本の国花であるソメイヨシノ、御輿をかつぐときのかけ声のワッショイ、カタカナ、ひらがな……」
最後のほうは脱力感いっぱいの声で、
「まだ他にもたくさんあるみたいやねんけど、それと誤解なきように、これらは、あっちとはまったく[#「まったく」に傍点]無関係やから。なんか個別に聞きたいのある? ないな、じゃつぎいこか……」
土門くんは、ひとりでさくさくと話を進める。
「そやったら、韓国人はなんでこうもつぎからつぎへと、恥も外聞ものう文化泥棒をしまくるんやろうか? その原因は、どうやらあちらさんの教科書にあるようや」
「教科書に、それらの起源がぜんぶ韓国だって書いてあるの?」
「いや、個別にどうのこうのちごて、教科書全体を貫いとう、いわば思想[#「思想」に傍点]のようなもんが、たとえばこんなふうに書かれとんねん。百済のなんとか王のとき誰それは日本へ渡り、漢文や論語を伝えてあげ! なんとか王のときには誰それが、漢文と儒学を教えてあげ! 日本に政治思想と忠孝思想を普及させてあげた! つづいてなんとか王のときには仏教を伝えてあげ! そのほか天文や地理や暦法などの科学技術も伝えてあげた! 高句麗も、たくさんの文化を日本に伝えてあげた! 高句麗の僧侶|慧慈《えじ》は聖徳太子の師であり、誰それは紙や墨や硯《すずり》を作る技術を教えてあげた! とまあこないな調子で、あちらの儒教の考え方では、目上・目下いうんがはっきりしとうらしく、つまり目上の韓国から、目下の日本に、伝えてやった! とそう高びーにいい切っとう言い廻しで、全編つむがれとうそうや。教科書が」
「うーん……」
まな美は腕組みをして腹立たしげに身体を揺すってから、
「でもそれって、特別に口汚く書いている教科書を、土門くんが選びに選んできたんじゃないの?」
「いや残念、あちらには国定の教科書、これ一冊[#「一冊」に傍点]しかあらへんそうや。そやから韓国人全員がこれで学んどうねん。するとやな、文化泥棒はもう自動的に生まれてくるわい。この教科書の思想の延長線上にあるんやから。つまり官民一体となって……いや、ちょっとちゃうなあ。そやそや、国策や。この韓国の文化泥棒は、いわば国策[#「国策」に傍点]やねん」
「そこまでいうのはどうかと思うけど……」
「いや実際そうやで。文化泥棒にはいっさいお咎《とが》めあらへんし、それどころか、新聞なんかがこぞって応援すんねんから、これを国策といわずしてなんという? 流行《はやり》か? 冗談か? 悪《わる》のりか? そんな生やさしいもんちゃうでえ。それにやな、この文化泥棒には必ずついてまわる決まり文句があんねん。こんなやつや。――日帝《にってい》による至上最悪の植民地政策で我々の伝統文化はことごとく抹殺《まっさつ》され!……これ二、三日前に韓国人にいわれたら、ははーごめんなさーいと自分頭下げたと思う。でも今やったら、まあなんと哀れな国民やろうかと同情こそすれ謝罪の気持ちは、皆無《ない》――」
「ええ? そんなこといいきっちゃって大丈夫なの?」
「あたり前田のくらっかー!……」
土門くんは、さも鬼に憑依《とりつ》かれたような虚《うつ》ろな目で、またしてもひと世代前の与太《ぎゃぐ》をいってから、
「日韓併合は一九一〇年から四五年までで、たかだか三十六年間や。伝統文化にたずさわっていた人たちはまだ充分生きてはる。それに日帝が、あちらの人間国宝や伝統芸能の人たちを抹殺したなんて記録は、いっさいあらへん! そやから文化を復活させたかったら簡単にできたはずや。そやねんけど……でけへんかった。それはあそこには、復活させるに値するような文化が、そもそも存在せーへんかったからやねん」
「うーん話のすじはわかったけど、すると李朝って、それほどまでにひどかったの?」
「その『朝鮮紀行』に書かれとう。ソウルには芸術作品はまったくない。催しものも劇場もない。旧跡もない。公園もない。図書館も文献もない。もちろん神社仏閣はあらへん。もうないないずくしなんや。そやそや、儒教の孔子廟《こうしびょう》いうんはあったそうや」
「はあ……」
まな美は、あきれたような溜息《ためいき》をついてから、
「なんか可哀想になってきちゃったわ。土門くんが網羅してくれたから再確認できたけれど、日本にはもう掃いて捨てるほどの文化があるじゃない。ひとつぐらいだったらあげてもいいような気も」
「姫なにいうてんねん! そないな仏ごころをおこしとったら、それこそ敵の思うつぼやぞう」
「敵[#「敵」に傍点]対視するのまではどうかと思うけど」
「そやったら、こういった文化泥棒をする人間のクズたちとお手手つないでお友達になりはんのん?」
「土門くんの話って極端だから」
まな美は、肩透かしをして諫《いさ》めていった。
「ふむ、同情することと文化泥棒とは、次元のちがう話や。それにやな、これは個別に対抗したって埒《らち》はあかへんぞう。あっちの、なんせ国策[#「国策」に傍点]やし。それに日本《こちら》がいかに正しい歴史を説明して正論をいうたからいうて、韓国《あちら》は絶対に納得せーへん。背景《ばっく》に、教科書でこんこんと説かれとうあーいった思想があるかぎりは」
「だったら、どうすればいいっていうの?」
「方策はあらへん」
「え? 方策はないのに長々と説明してきたの?」
「方策があらへんかったら説明したらあかんのか」
土門くんは、ひねくれていってから、
「こういうんはやな、本来は日本の政府が、外務省や文部省や文化庁が、面と向かってどなり散らすべき問題や! そやけどあの竹島《たけしま》を見とうかぎりでは、今の日本の政府にはそういった男気はいっさい感じられへん。そやからつまり方策はあらへん」
……男気[#「男気」に傍点]?
土門くんにしてはまた似つかわしくない言葉を使ったわねと、まな美はちょっと驚く。
「さて、文化泥棒の話はこれにてお終《しま》い。そしていよいよ武蔵国の事始めなんやが、先にもちらっというた『武蔵国渡来人創成説』は、なんのことはあらしません、この文化泥棒の話と根はいっしょや」
「ええ? そうかしらあ……」
「考えてみぃ、武蔵国には東京[#「東京」に傍点]が含まれとうやろう。そこを渡来人が創ったとなると、つまり古代の韓国人が創ってあげた! すなわち東京は韓国が起源であーる! と高らかに威張れるやんか。これほど自慢でけて溜飲《りゅういん》の下がる話はそうそうあらへんぞう」
「たしかに、その構図からだけ見ればね……」
「姫はこの渡来人創成説を信じとうやろ? 全部とはいわへんで、ほぼ信じとんちゃう?」
「うん、そうじゃないかしらと、うすうすと……」
「そやけど、それ絶対にひっかかってへんと自信ある? いわゆる文化泥棒みたいな嘘[#「嘘」に傍点]の説[#「説」に傍点]に」
「うーん、そうわたしばかりを責めないでよ。しだいしだいに自信なくなってきたじゃなあい……」
「自分はいうたように目から鱗で知らへんかった。水野さん知ってはった? 天目知っとった? この渡来人創成説」
「わたしは、まったく知りませんでした」
マサトも首を横にふっている。
「ほうら、つまり姫のようなよう勉強してはる知識人だけがひっかかっとうねん」
「そんなことで褒めないでよぉ。それにまだひっかかったと決まったわけじゃないでしょう!?」
「ほな、そやったら一例を見したげよかあ」
いうと土門くんは、大学ノートにはさんであった二つ折りにした紙をすーっとまな美に送った。
「今日の土門くんすごく意地悪ぅ!……」
遥《はる》か遠くから叫んでいるような小声でいう。
「それは『日本人はどこから来たのかという古代ロマンのウソ』と題された個人の研究発表頁《ほーむぺーじ》にあったやつを印刷してきた。まあ姫読んでみぃ……」
……『世田谷区の地名(監修:信州大学教授森安彦、編者:世田谷区立郷土資料館・郷土資料編集委員三田義春)』という一九八四年に世田谷教育委員会が発行した本がある。世田谷区民のために、区のアイデンティティーを探求したマジメな本だがその中で「武蔵」とは、という箇所でこう言っている。●武蔵・相模の地は、高麗・高句麗・百済・新羅など朝鮮半島系の帰化人によって開拓され、武蔵の区域は二分裂し、互に本系を表示する「宗国」「主国」の意を古朝鮮語の訓で称え「ムネサシ」と云い、一は「胸刺」の字をあて、一は「ネ」が略された「牟邪志」の字をあてて表わしたもので、これに対して相模の地域の方は、本系を表わすのに「真」を用いて「真城《マネサシ》」(真倉)といい、これが後に相模の枕言葉になったものである――
「――さらにこんな文章が最後に加えられとう。『世田谷区でさえこう言っているのに、国や歴史学会は相変わらずモラトリアムから抜け出せない』」
「……その文章はひょっとして、土門くんがいってたマインドコントロールってやつ?」
まな美は、意気消沈ぎみに小声でいう。
「あたりやあ。世田谷区という権威をもち出して、それでさらに上位の権威をおちょくる。この文章を読みはった人は、おちょくられとう|未熟な半人前《もらとりあむ》のほうへは行きとうないから、とくに自分は知識人やという自信がある人はなおさら」
土門くんは、まな美のほうを指さし、
「そしついふらふら〜と世田谷区の説をう呑《の》みしてしまうねん。まさに虎の威を二重三重に借る狐や。自分こういう話のもっていきようされるん虫酸《むしず》が走るほど嫌いやねん。いいたいことがあるんやったらみずからの声でゆえ[#「いいたいことがあるんやったらみずからの声でゆえ」に傍点]ー!……」
土門くんは、突如、大声で怒鳴り散らしてから、
「そして問題は中身やが、武蔵の語源は、この古朝鮮語が定説やなんてどこにも出てへんぞう。他にも本居宣長《もとおりのりなが》説やアイヌ語説や原日本語説などいっぱいあって、こんなん一学者の説にすぎへん。しかも世田谷区が、区民のために区のアイデンティティーとやらをマジメに探求した結果がこれか? そんなもん世田谷区民が、いらぬお世話やと怒るわい!」
「うーんこの説は捨てる、捨てていい」
まな美は、完全に敗北を認めていい、
「こんなの捨てても、他にもたくさんあるしい」
「そうやって余裕かましてられんのは今のうちや」
「土門くんどうしてそう自信満々なの?……」
「ガハハハハハハッ、そうやすやすと武蔵国を蛮族[#「蛮族」に傍点]どもには渡さへんぞう! ハハハハ……」
弥生が、まな美のほうににじりよって、ささやく。
「今日の土門先輩はいつもとぜんぜんちがいます。もうなにか憑《つ》いているにちがいありません」
「わたしもそう思うわ。もう絶対に異様[#「異様」に傍点]だもの」
「……ハハハハハッ、渡来人どもの好き勝手にはさせへんぞう! それが日本男児[#「日本男児」に傍点]の心意気いうもんや! ガハハハハハハッ……うん? ありゃ? 自分の頭の中に巣くっとう鬼[#「鬼」に傍点]は、もしかして、あのおかた様やったんか!」
ひとりで納得して土門くんはいうと、凜々《りり》しく姿勢を正し、そしてさも勇猛果敢なふうに胸を張るや、
「自分・土門巌ことヤマトタケルノミコトは、皇紀《こうき》二六六六年本日今日、不埒《ふらち》な蛮族に蹂躙《じゅうりん》されつつあるこの武蔵国を[#「この武蔵国を」に傍点]、その魔の手から再度とりもどすことを、ここに高らかに宣言するなーり!」
――決起宣言を述べた。皇紀まで使って。
「でも日本武尊って、悲運[#「悲運」に傍点]の皇子さまでしたよね」
「そうよ、最後は三重の山中でのたれ死に[#「のたれ死に」に傍点]するの」
「き、聞こえとうぞう! そこのふたりぃ!!」
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20
「やー……間違いなさそうですね。立木を透《す》かしてなんとか川が見えていて、その川の段差が、三段あるのがわかりますよね。人工的なのが……」
御神のスケッチ帳と見比べながら竜生はいう。
「そして、この岩」
すぐ背後に、地面から盛り上がってそれはある。
「そう大きくはないけど、この付近には、この岩ぐらいしかありませんからね。すると角度からいって、あのえぐれたようになっている、崖の下です。あそこに埋まっているはずです」
そのスケッチ帳を横からいっしょになってのぞき込みながら、よくそんな絵解読できますね、などとつぶやいていた鑑識課員の久保田であったが、
「わかりました。じゃ、先に道を作りますので」
いうと、小脇にかかえていた巻物[#「巻物」に傍点]を、地面に転がしはじめた。――五、六十センチ幅の分厚い青いビニール製である。
「色は赤じゃないんだけど、ぼくたち、これをハリウッドと呼んでます……」
そんな軽口をいいながら、ころころと慎重に青いビニール製の道を敷いていき、その上を久保田が、後《あと》につづいて竜生もそーっと歩いて行った。
「つまり、――ここですね」
あたり一面、褐色の落ち葉が積もっている。
「ええ。崖からは、一メーターぐらい離れたあたりです」
久保田は、その崖上のほうを見上げていきながら、
「……なるほど。車がまったく見えませんね」
崖上の道に停めたままの四駆のパトカーのことであるが。
「あ、ほんとですね。道がどこにあるのかすらわかりませんよね」
「秘密の何かを埋めるのに、ちょうどいい場所って感じです……」
久保田は、意味深な感想をいってから、首から下げていた傷だらけの黒いカメラで、あたりの撮影をはじめた。フラッシュの閃光《せんこう》が、うす暗い冬の雑木林に木霊《こだま》した。
「……もう一枚、ハリウッドを敷きたいので」
「あそこに置いてあるやつですね、ぼくがとってきますよ」
「いえ、ぼくもいったん戻ります。掘る道具が要りますから」
そして、ふたりは五メーターほどのビニール製の道をそろりそろりと往復してから、
「えー、もう一枚は、横に敷きましょう……」
久保田は、その上を歩いて、角度を変えてさらに何枚か写真を撮ってから、カメラのストラップを首からはずした。
「ところで、桑名さんはカメラ扱えます? オートフォーカスの一眼ですが」
「やー、なんとか大丈夫だと思いますけど……」
竜生は、いかにも自信なさそうにいう。
久保田から扱い方の簡単な指導《レクチャ》をうけてから、
「ぼくがここ[#「ここ」に傍点]です、といったときに撮って下さい。じゃ、掘りはじめますよ……」
久保田は、アルミ製の小型のシャベルを使って、まずは落ち葉を慎重にどけていった。
ところで、生駒刑事と竜介は、ふたりから十メーター以上は離れた場所につっ立っていて、その様子を見守っている。現場はできるだけ荒らさない、が鉄則だからである。
「うわあ、暗くなってきちゃいましたね」
木々の梢をすかして空を見上げながら生駒がいう。
「まだ四時ちょいなのに、こんな感じかあ」
竜介は昨晩のままの、竜頭を押すとあやしく蛙《かえる》の絵が光るオレンジ色のスウォッチで時間を見た。
「ライトどうしましょうかねえ」
「小さいのが四つしかないんだって」
「ええ、たいした光量じゃないです」
「さっきぼくが持っておりた小型の発電機は、あれはガソリン式?」
竜介も、木偶《でく》の坊《ぼう》を返上して、すこしは手伝ったのだ。
「そうです。そのてんは心配ないんですよ。車からいくらだって給油《パク》れますから。だからまあ、現場を照らすことぐらいはなんとかできると思います。でも懐中電灯は大が一に、ペンライトが二です。これで日が落ちちゃうと、車に戻るのさえ危なっかしくて、自分たちが遭難しちゃいますよ」
もちろん生駒の冗談であるが。
「ここ、まさか熊は出ないよね」
「さあ、そろそろ冬眠してんじゃないですか」
「そうそう、山ん中では、熊よりも猪《いのしし》のほうが危ないって話も」
「そんな話も聞きますねえ。ところで猪は、冬眠するんですか」
「さあ、どっちだったっけえ、あーこんな話してても気がまぎれないなあ、ぼくさっきからすっごい寒いんだけど〜……」
「ええ、それはもう自分もいうまでもなく〜……」
ふたりして、そんな情けない話をしながら時間をつぶしていると、竜介が小脇に抱えていたグルカの小型鞄《セカンドバッグ》が、分厚いダウンジャケットごしに、微妙に振動しているのに気づいた。
――竜介の携帯電話の着信だ。
かじかんだ手で鞄を開けてとり出して見てみると、発信者は『森の屋敷』と表示されている。
「はい火鳥です……あ、竜蔵さん……え? たった今テレビでテロップが流れた……埼玉県日高市で、誘拐されていた少年は、無事保護された。犯人一名逮捕……ええ?」
竜介は、携帯電話を口からすこし離して、
「生駒さん! 日高市では、少年の誘拐事件が、二件おこってるの?」
「いいえ、自分が知ってるのは、この一件[#「件」に傍点]だけです」
生駒は、あたりの地面を漠然と指さしていった。
すると突如として、タタッタ〜♪ タタッタ〜♪ よく耳慣れた映画『ロッキー』のテーマ曲がにぎやかに流れてきた。
――生駒の携帯電話の着メロだ。
「はい……あ、岩船さん……はい? 無事救出された? いやー、それはよかったですね……けど、こちらは今掘ってる最中なんですけど……ええ? テレビ局が見つけた[#「テレビ局が見つけた」に傍点]?……今日の夜放送?……なんですって?……緊急来日? FBI超能力探偵[#「FBI超能力探偵」に傍点]?」
生駒が、竜介にも聞こえるようにと、声を嗄《か》らせぎみに復唱していると、
「生駒さーん!……」
「火鳥せんせーい!……」
ふたりが手をふっている。
「すいません。こちらはこちらで進展[#「進展」に傍点]があったようなので、とりあえず切ります」
竜介は、電話はひと足先に切っていって、ふたりして小走りに駆け出した。
「――ダメ! 走っちゃあ!」
久保田の怒鳴り声が飛んできた。
「ごめんごめん。ちょっともうどうなってんのやら、気が動転しちゃって……」
そして青色のビニール製の道をそろりそろりと生駒につづいて竜介も歩いて行った。
「……出てきました」
指さしながら、久保田が説明していう。
「比較的浅いところに埋まってました。服の、袖《そで》のはしっこだと思いますけど、見えていますよね」
土色にくすんで朽ちかけてはいるが、木の根などではなく、明らかに布[#「布」に傍点]だとわかる。
「そちらがわからは、ちょっと見えにくいと思いますが、手の骨が、一部出ていまして……」
「……骨?」
生駒と竜介は、たがいの顔を見合わせた。
「……そして、ぼくの視《み》たかぎりでは、子供ですね。それも小さな子供です。十歳未満だと思います」
「その骨って……白骨?」
生駒がたずねた。
「ええ、見えているところは、そうですね。それにまわりの土の様子からいっても、完全に白骨だと思います。とくに臭いもありませんし……」
「どれぐらい経ってる?」
「そこまで詳しいことはちょっと……」
「昨日今日ではない?」
「な、なにいってんですか? 昨日今日で白骨にはなりませんよ。生駒先輩は刑事課でしょう」
「うん、自分ちょっと自信なくなってきた」
「いったいどうなってんだ?」
それまで黙りこくっていた竜介が、つぶやいた。
「どうなってんですか先生?」
「どうなってんの生駒さん?」
「いや、自分がおたずねしてるんですが?」
「あーんどこをどう間違ったんだろうか? ふつうこういったミスはおこさないんだけどなあ……」
竜介は、御神マサトの神の能力について考えを巡らしながらいってから、
「それに生駒さん、さっき電話でいってたけど、FBI超能力探偵[#「FBI超能力探偵」に傍点]が、テレビ番組[#「テレビ番組」に傍点]で見つけたって?」
「ええ、そんなこといってました。それも今日の夜放送するって」
「ふむ!? なんだこの奇妙な捻れ[#「捻れ」に傍点]は!?……」
―――
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第五章 羊
21
「き、聞こえとうぞう! そこのふたりい!!」
――巨大な長い指をつきつけていい、
「ムハハハハハハッ! このヤマトタケルノミコト様が降臨[#「降臨」に傍点]したからには、武蔵国は誰にも渡さへん! どっからでもかかってこーい!」
「わたしが投げ飛ばしてもいいんでしょうか?」
「うん、一度こらしめてやって!」
「そ、そんな武力[#「武力」に傍点]にうったえるやなんて」
|土門くん《ヤマトタケルノミコト》は急に弱気な声になっていう。
「これはあくまでも口での戦いや。そやそや、あーいうやつやあーいうやつ、でぃべーと、でぃべーと。自分はヤマトタケルノミコトとして武蔵国を死守するさかい、姫は渡来人の味方をしはったらええ」
「どうしてわたしは渡来人なのよ?」
「ともかくもや、でぃべーとでぃべーと!」
土門くんは独断で決めて嬉しそうにいい、
「立場を明確にしとったほうが、意見を活発に戦わせやすいゆうもんや。ほな、天目と水野さんはどっちにつく? ヤマトタケルノミコトか? それともあっちの渡来人かあ?」
マサトも、いそいそとまな美のほうに寄っていく。
弥生はすでにまな美のかたわらにいる。
「そ、そんなんやったら一対三になってしもて、不公平やんか! ヤマトタケルノミコトすなわち日本《やまと》の国を見捨てるいうんか、あーなんと嘆かわしい事態やろうか、自分らこないな歌は知らへんのか? 倭《やまと》は国のまほろば、たたなづく青垣、山こもれる倭しうるわし……」
土門くんは、昨晩仕入れたらしいそれを、哀れな声で情感たっぷりに吟じてから、
「これはヤマトタケルノミコトが詠みはった歌やねんぞう。うるわしの日本《やまと》の国が……文化は盗まれて土足で踏みにじられ、さらには国土までもが奪われようとしとういうのに、それでも渡来人の味方をするいうんかあ? いったいぜんたい日本《やまと》の魂はどこへいってしもたんやろうかあ……」
土門くんが滔々《とうとう》と切々に訴えかけていると、どうしたことか弥生が、家具調炬燵の長い辺をするすると反対がわに移動してきた。
「わたしが土門日本武尊先輩のほうに味方します。そのまほろば[#「まほろば」に傍点]という言葉の響き、わたしとっても好きなんです」
「水野さんえらい! さすがは大和撫子の鑑《かがみ》や!」
土門くんは、最大級のおべんちゃらをいってから、
「陣容も整《ととの》うたことやし、ほな、口合戦《でぃべーと》を開始する。ゴーン!」
――拳《こぶし》で炬燵の天板《テーブル》を叩いて口でゴングを打ち鳴らしていう。
「ええっ? いきなりはじめるっていうの?」
「こんなもん先手必勝やあ」
土門くんは我がまま勝手なことを嘯《うそぶ》いていうと、黄ばんだ大学ノートからまたしても紙の束をとり出し、すーっと天板を滑らせて敵陣に投げつける。
「な、なによこれは……『太古のロマン、狛江《こまえ》古墳群の発掘』?……」
「狛江市役所の市のほーむぺーじの狛江市の歴史いうとこに出とったやつや」
土門くんは、パソコンの画面にもおなじ頁を表示させて、弥生とともに見ながら、
「これによるとやな、狛江古墳群の最大級の規模の亀塚《かめづか》古墳の発掘調査をやったんは昭和二十六年で、豪華な副葬品が数多く発見され、神人歌舞画像鏡《しんじんかぶがぞうきょう》と呼ばれる中国製の鏡や、高句麗の古墳壁画に似た、人や竜や麒麟《きりん》が彫られた金銅製|毛彫《けぼり》金具などから、発掘調査を指導しとった國學院の大学教授が、亀塚古墳の被葬者を渡来系の氏族とする学説を提唱した。こ[#「こ」に傍点]ーれがそもそもの間違いや!……」
土門くんは声高に否定していい、
「その後、狛江古墳群の調査が進むにつれて、この古墳群の出現時期が五世紀後半で、周辺地域のものよりかなり遅いことや、比較的短い期間に造営されたと思われることなどの特殊性が指摘され、さらに狛[#「狛」に傍点]江という地名から、この狛江古墳群を渡来系の集団の古墳群とする学説が広く支持されてきたんやて。みんなあほやなあ!……」
さらに高らかに吠えてから、
「ほな、ええとこは姫に読ましたげるわ。下から一、二、三……十三[#「十三」に傍点]行目や。縁起よさそうやで姫ぇ」
「うーん」
まな美は悔しそうに唸ってから、
「ところが、昭和六十二、三年に、小田急線狛江北駅一帯の再開発に関係しての発掘調査によって……これまでの学説は|………………《くつがえされた》」
「聞こえへんぞ姫!」
「……覆された。同遺跡からは柄鏡形敷石《えかがみがたしきいし》住居跡をはじめとする、数多くの竪穴式《たてあなしき》住居跡のほか、当初予想だにしなかった、弥生時代末の方形周溝墓《ほうけいしゅうこうぼ》という豪族の墳墓と三基の古墳が検出された。三基の古墳のうち最も規模の大きい一号墳は、これまで市内で確認されていたどの古墳よりも古い、五世紀前半のものであり、方形周溝墓はこれよりさらに古い三世紀末のものであった。これによって狛江古墳群の出現時期は、これまで考えられていたより約半世紀ほど古いことが……削明《けずるめい》し? これなんて読むの土門くん?」
「それは判明[#「判明」に傍点]いう字と間違えとんやろ」
「こんなミスを書いてる文章なんて、そもそも信用できっこないわ。ねえマサトくん」
「な、なにいうとんや! 最後まで読み!」
「えーん」
まな美は恨めしそうに泣いてから、
「さらに古い弥生時代末の豪族の存在も明らかになった。畿内地方においても一般に渡来人移住の痕跡が認められるようになるのは、五世紀末と考えられるため、狛江古墳群出現時期に東国のこの地に渡来人が来たことは考えにくく、まして古墳群を造営した可能性は皆無に等しいわけである。……ん!?」
「皆無に等しいわけであーる! ほうれみろう!」
土門くんは、勝ち誇ったかのように豪語していった。
「――可能性は皆無に等しい、なんてことは学術論文ではふつういわないわよ! なんて書き方なのこの文章は!」
「一番上を見てみい! この狛江市役所の紋どころ[#「紋どころ」に傍点]が目に入らぬか! 市役所発表の公式見解[#「公式見解」に傍点]いうやつや! 姫はそれを認めへんいうわけかあ?」
「政府が発表する公式見解のたぐいに、まともなのがあった例《ためし》ある?」
「うーん……あらへん」
それには土門くんも、お茶らけて同意していい、
「そやけど政府と狛江市役所は別やと思うぞう」
「そんなの一緒よ! これはね、反発[#「反発」に傍点]しているのよ。武蔵国の渡来人の話に関しては、もうい[#「い」に傍点]の一番に狛江の名前が出てきちゃうから、それを嫌ってる人が市役所の中にいて、こんな暴論を吐《は》いているのよ。皆無に等しい! なんて感情をむき出しにした言葉まで使ってぇ、まあなんて大人げないのかしらぁ」
まな美は、高校生がいえる最大級の厭味《いやみ》をいう。
「……ふむ。そこまでいうんやったら、後ろにある何枚かの紙を見てみ! それは狛江市教育委員会[#「教育委員会」に傍点]が発表しとう研究成果や。市役所発表と同《おん》なじことが書かれとう。そやったら姫は、な、なんと教育委員会まで否定して、敵に廻すおつもりかあ!?」
「ええ[#「ええ」に傍点]ー?……」
まな美は濁声《だみごえ》で唸りながら、文化財ノート9『狛江古墳群T』同10『狛江古墳群U』と題された狛江市教育委員会が平成十年に発行した|AdobeReader《アドビリーダー》形式の頁を印刷した紙に目をやった。
「まあ、歴史の先生を闇に葬り去った姫のこっちゃから、教育委員会ごときは……」
「土門くんが煩《うるさ》くて真剣に読めないじゃない!」
まな美が怒っていると、マサトが顔を寄せてきてなにやら囁《ささや》いた。
「そうそう!」
――合点してから、
「誰かさんみたいに、市役所や教育委員会のような権威を笠に着る人を、なんていったかしらね!? しかも二重三重に。わたしそういう人って、もう虫酸が走るほど嫌いなの。いいたいことがあるんだったら自分の声でいいなさーい!」
「くっ……」
土門くんは息も絶え絶えに絶句してから、
「天目ぇ、おまえいらんこと教えたなあ」
「だってマサトくんは味方なんだから、助言してくれて当然でしょ! それに狛江の狛[#「狛」に傍点]は、これはどう説明するつもりなのよ!?」
「出たあ!……」
土門くんは、逆に待ってましたとばかりに嬉しそうにいい、
「こんな漢字ひとつ何の証拠にもならへんわい! ちなみにやな、駒[#「駒」に傍点]込も駒[#「駒」に傍点]沢も、渡来人が創った町いうことになっとうぞう。そやそや、神奈川県の神奈川は、なんと韓国の川で、韓川《からがわ》が訛《なま》ったそうや。千代田区の神田《かんだ》は、もちろん韓国の田んぼやあ! 高句麗と百済のコとク、韓国のカから、か行はほぼ渡来人やあ。それに新羅があるから、シやシロがつく地名も渡来人やあ……あんなあ[#「あんなあ」に傍点]、自分ちっちゃいころなあ[#「自分ちっちゃいころなあ」に傍点]」
土門くんは、突然、幼児言葉になっていう。
「オーストリアとオーストラリアがじぇんじぇん区別つかへんかったんやあ、しゅるとオーストラリアは、オーストリア人が渡来してちゅくった国かあ? 姫どない思うなにゃあ?」
「ちがうと思うわん!」
まな美は犬語で返す。
「そやろう、これほど瓜ふたつに似とってもちゃうんやぞう!」
土門くんは標準関西語に戻していい、
「そもそもやな、あてはめてやろう! という根性[#「根性」に傍点]が先にあんねんで。それも執念深ーい根性が。さらには古代朝鮮語まで持ち出すんやから、もうパズルと一緒や! 無制限にあてはめられるわい!」
「でも狛江の狛[#「狛」に傍点]は、渡来人そのものよ!」
「その狛いう字に関しても、いちおう調べたぞう。そやねんけど、これは難しい……」
土門くんは、ちょっと勢いをなくしていう。
「中国から高句麗を見たときの蔑称[#「蔑称」に傍点]、それと百済から高句麗を見たときの蔑称[#「蔑称」に傍点]、それらに使《つ》ことった漢字が簡略化されてって、狛いう字になったみたいや。そやけどコマという読みのほうは、古代語が複雑にからんどうらしく説明でけへん。ともかくもやな、これは蔑称[#「蔑称」に傍点]やねん。すると、自分らが開拓してった町に、わざわざ蔑称[#「蔑称」に傍点]を使うやろか?」
土門くんは、蔑称というたびに声をひそめていった。
「だったら、百済の人が、渡来人の百済人が名づけたのかもしれないわよ」
「かりにそやったとしても、名づけられたがわの狛江の高句麗人が、納得せーへんぞう。馬鹿にすなーと喧嘩になるやんか?」
「実際、喧嘩したんだと思うわ。小さな戦いがあって、負けちゃったから、そう名づけられたのよ」
「姫そんな見てきたようなことよういいはるなあ」
土門くんは、あきれたようにいってから、
「どっちにせよ、その漢字一個だけでは弱すぎるぞ。物的証拠いうもんがあらへんと。そもそもやな、高句麗人のお墓には、ちゃんとした特徴があるそうや。積石塚《つみいしづか》いうて、石を積んで作った独特の形をしとんねん。……こんなふうに朝鮮半島があるやろう」
土門くんは、突然、指で宙に地図を描きながら、
「その東の海岸の高句麗があったあたりから、小舟に乗って日本海へ出ていったとすると、海流の関係で、北陸から新潟のへんに漂着するんやて。そして河川などを使《つ》こて内陸部へ移動していったら、長野県やけど、そのへんの盆地には、この積石塚の古墳が何百とあるそうや。さらに南下すると山梨県やけど、そこの盆地にもたくさんあるそうや」
「その山梨県の話は、旧|北巨摩《きたこま》郡のことで、古代には巨麻《こま》郡の巨麻《こま》郷と呼ばれていた場所で、しかも巨麻《こま》神社まで建っているのよ。それらをどう説明するつもりなのよ土門くん!?」
「あにゃ」
と肩透かしするように柔《やわ》な返答をしてから、
「どないもこないも、それはその通りの話であろうがなかろうが、自分はいっこうにかまわへんでえ。信濃《しなの》や甲斐《かい》の国は、どうぞご自由に、煮るなり焼くなり……自分・ヤマトタケルノミコトは、武蔵国を死守するいうとうわけで、よその国のことまでは知らんわーい!」
土門くんは高らかに嘯《うそぶ》いて吠え、
「けれどもや[#「けれどもや」に傍点]、狛江百塚のほうには、この積石塚の古墳は一個もあらへんのや! それに信濃や甲斐のほうのそれらの古墳は、五世紀後半から七世紀ごろのもんやそうで、年代的にも狛江百塚とかぶさる。するとなにか、狛江の高句麗人たちは自分らのお墓の作り方、ころっと忘れてしもたんかあ?」
「そ……それはね、狛江のあたりには、きっといい石が少なかったのよ」
まな美は、いかにも苦しまぎれにいい、
「あほゆえ! そんな説がとおるかあ!!……」
土門くんに罵声《ばせい》をあびせかけられる始末。
「うぇ〜ん……」
「がっはははははは!……」
「これまでのディベートでは、土門日本武尊先輩が、圧倒的に押していますよう」
「な、そやろそやろう、水野さんええほうに味方したやろ、このヤマトタケルノミコト様にかかれば、渡来人なんかひとひねりやあ!……」
土門くんは、さらに調子をこいて豪語し、
「それにやな、この狛江=高句麗人説が消えてしもたら、後にはな[#「な」に傍点]ーんも残らへん。あの深大寺の縁起物語も、狛江の里の裕福な豪族とやらは、もちろん高句麗人とはちゃう。福満青年も、福の字ひとつで渡来人やとは決めつけられへん。住職が書きはった『とっておき』の本は、第一章がいきなり渡来人の話やったけど、これは大前提に狛江=高句麗人説があって、それにすっかり洗脳されてしもとうわけや。関東でも屈指の名寺《めいでら》ちゅうの名寺、天台宗の別格[#「別格」に傍点]本山でもある深大寺の住職ともあらせられるおかたが。あーあ、仏滅《ぶつめつ》仏滅」
「そ、そこまで厭味をいわなくっても!……」
「そやったら擁護したげるけど、住職が信じ込みはるのも無理はない。この説はそこらじゅうに蔓延しとうから。たとえばやな、ねっとの百科事典のウィキペディア知っとうやろう。そこの『東京都』の頁を見てみると……」
土門くんは、パソコンの画面にそれを出しながら、
「その『歴史』の項目に、十数行ほどの短い文章があって、その一番最後に、こう書かれとう――」
――かなり古い時代から渡来人が住んでいたようで、亀塚古墳のある狛江郷(狛江市周辺)は高句麗に由来するとされ、他にも渡来人に纏《まつ》わる伝承は多い。武蔵野の開発は渡来人の灌漑《かんがい》技術による所が大きいとされる。
「これが止め[#「止め」に傍点]の文章やで。いわば東京都の歴史の結論部がこれやぞ。狛江市や教育委員会が、あれほどちがう[#「ちがう」に傍点]ーいうて叫んどってにもかかわらず……」
土門くんは、疲れ切ったように苦笑しながら、
「それに『とっておき』の本もあちこちで引用されとう。深大寺の住職ですらこういうんとんのに、歴史部はあいかわらず|未熟な半人前《もらとりあむ》から……みたいに使われるのが落ちや。もう卵が先か鶏が先か、でま[#「でま」に傍点]がでま[#「でま」に傍点]を呼び、もはや無間連鎖地獄[#「無間連鎖地獄」に傍点]やあ!……」
土門くんは、大袈裟に比喩《ひゆ》していってから、
「ところで、多摩川と野川があって、その入り江である狛江を基点として、渡来人が武蔵野を開拓していった。全体的にはそんな物語《いめーじ》やろう。そやけど、この基点はもう消えてしもた。それに布多天神社《ふだてんじんしゃ》の布[#「布」に傍点]に関しても、自分が先にいうたように渡来人と結びつけなあかん必然性はどこにもあらへん。そないなってくると、いったいぜんたい……」
土門くんは、巨大な手でひさしを作ってあたりを見廻しながら、
「渡来人はどこへいってしもたんやあ? 自分には影も形も見えへんねんけど? 水野さん見える?」
「いいえ、わたしにももうまったく見えなくなりました……」
弥生は、ごくごく素直にいった。
まな美はマサトを相手に、
「……そうやって狛江を否定されちゃうと、まるでドミノ倒しみたいに崩れていくなんて、想像だにしなかったわ。ねえマサトくん」
うだうだと愚痴《ぐち》をこぼしている。
「早くも白旗かあ?」
「なにいってんのよ! 狛江や武蔵野に関しては、今はちょっと反論できないけど、これは、今は[#「今は」に傍点]――の話よ。真剣に調べなおさないと、てこと」
負けず嫌いの、まな美はいう。
「それにそこまで調べてるんだったら、埼玉県に正真正銘[#「正真正銘」に傍点]の高句麗の神社があることを、土門くんだって知ってるでしょう? 埼玉県も武蔵野よ!」
「さあどないやったかなあ……」
土門くんが、すっとぼけて顔を横向けていると、
「うん? なにマサトくん……その写真がどうかした?……」
マサトは、とくに根拠があるわけではないがふと[#「ふと」に傍点]ひらめいて、以前にたずね損ねたままになっていた何枚かの写真を、まな美に示したのである。
「……あ! マサトくん偉い! すっごくいいものを思い出させてくれたわ。これで敵《かたき》が討てそうよ。じゃあ第二ラウンドを開始するわ。キーン!」
――拳で炬燵の天板《テーブル》を叩いて口で甲高くゴングを打ち鳴らしていう。
「ええ? だ、第二らうんど?……」
「こんなもの虚[#「虚」に傍点]をついたものの勝ちよ!」
豪快にいい放つとまな美は、マサトから手渡された複数の写真の中から一枚だけを、すーっと天板を滑らせて敵陣に送った。
「……な、なんやらほい? これは自分が声に出して読んだ立て看やないかぁ……」
土門くんは、その写真を手にとって訝《いぶか》しそうにながめながら、まの抜けた声でいった。
神社名 摂社 |宮之盗_社[#「宮之盗_社」は太字]《みやのめじんじゃ》
主祭神名 |天鈿女命[#「天鈿女命」は太字]《あめのうづめのみこと》
由  緒
この神社の創立は大國魂神社と同じ景行天皇の御代(一一一年)であると伝えられ、古くから芸能の神、安産の神として崇敬されている。
例祭日は七月十二日で、文治二年(一一八六年)源頼朝より武蔵国中の神職に天下太平の祈願を行うよう令して以来、毎年この日の夕刻より翌朝にかけて、国中の神職が参加し終夜神楽を奏し祈祷が行われた。この祭りは青袖・杉舞祭りと言われる(今は国中の神職は参加しない)、また、頼朝の妻政子が当社に安産を祈願したという伝えもある。
安産祈願の折に願いを託した絵馬を奉納し、無事願いが叶うと御礼に底のぬけたひしゃくを納める風習が今でも行われている。
[#地付き]北多摩神道青年会
「その神社名には一箇所、見知らない漢字が使われてるでしょう。宮之盗_社の、刀m#「刀vに傍点]だけど、ふり仮名が書かれていなかったら、土門くん読めた?」
「う〜ん……あかへん」
情けない声で正直にいう。
「その字は、実際ものすごく稀《めず》らしい漢字で、書店で売られている一番大きな漢和辞典を引いて、ようやく載ってるような字ね。これは古事記や日本書紀などには使われてなくって、わたし以前に気になって、徹底的に調べたことがあるのよ」
「そ、そんなあ……過去に徹底的に調べはった話を口合戦《でぃべーと》にもち出すやなんて、そんな卑怯《ひきょう》な」
「なにいってるのよ!」
まな美はパーンと宙を叩いて、五月蠅《うるさ》い土門|蠅《ばえ》を叩き落としてから、
「けれど、延喜式神名帳《えんぎしきじんみょうちょう》には、この漢字を使った神社が、少数だけど載っているのね」
「その延喜式神名帳いうんは、そもそもなんや?」
「延喜の時代から二十年ほどかけて神祇官《じんぎかん》が作った、当時の全国のおもだった神社を網羅している格式一覧表よ。だからこれに名前が出ていると、式内社《しきないしゃ》だと威張れて、かつ古くて由緒正しい神社であると鼻高々なわけ」
まな美は、自身の和風顔のぺちゃ鼻に手でピノキオの鼻をくっつけて説明してから、
「その式内社で、この刀m#「刀vに傍点]の字を使っている代表的な神社が、白山《はくさん》にある白山比刀sしらやまひめ》神社なのね」
「あー、あれはこの字を使《つ》ことったんか……」
白山比盗_社は、歴史部でもちょくちょく話題にのぼる神社なのである。
「……死者が住んどう霊山で、あれはもとはいえば中国の泰山府君《たいざんふくん》やろう」
「たぶんね。でも朝鮮半島を経由して伝わったんだと思うわ。それに白山比盗_社の祭神の菊理媛《くくりひめ》は、もしくはキクリヒメは、高句麗の姫[#「高句麗の姫」に傍点]である。この話は、土門くんも耳にしたことがあるはずよね!」
「まあ、聞いたことあらへんこともないこともあらへんような気もせーへんこともないことも……」
土門くんお得意の、あやふや胡麻化しは無視して、
「――さらには!」
まな美は、凜々しく冷静な声でいう。
「式内社には、この刀m#「刀vに傍点]の字を使っている神社が三十ほど載っていて、きわめて特徴的な分布をしているのね。まず一群は、天八百萬比刀sあめやほよろつのひめ》神社、天國津《あめくにつ》比盗_社、手速《てはや》比盗_社、椎葉圓《しいはのまどか》比盗_社、奈豆美《なつみ》比盗_社、能登《のと》比盗_社、菅忍《すがおし》比盗_社、天日陰《あめひかげ》比盗_社、久志伊奈太伎《くしいなだき》比盗_社、神杉伊豆牟《かむすきのいつむの》比盗_社、伊夜《いや》比盗_社、美麻奈《みまな》比盗_社、奥津《おくつ》比盗_社、邊津《へつ》比盗_社……などで、これらの神社は、北陸から能登半島にかけてあるのよ。白山比盗_社も含めて。さて土門くん! 高句麗から舟を出すとどのあたりに漂着したのかしら? 海流の関係で!」
「さあどないやったかな、海流は気まぐれやから、意外と流されてカムチャッカあたりちゃうかあ」
土門くんのおとぼけは無視して、まな美は説明をつづける。
「そしてつぎの一群は、伊豆半島および近くの島に、たしか八つの神社があったはずだわ。そして千葉県にふたつ、土佐にひとつ、そして九州の福岡県にふたつね。その福岡県のひとつは、豊比当ス《とよひめのみこと》神社といって、現在は香春《かはら》神社なんだけど、五十キロほど離れて、あの有名な宇佐《うさ》神宮があるのね。山で採った銅で鏡を作って、それを十五日間かけて宇佐神宮へと運ぶ。そんな祭事があるって、ずいぶん前だけど火鳥竜介《おにいさん》が教えてくれたでしょう」
――詳しくは『真なる豹』20節を参照に。
「その銅を採る山が、香春岳《かはらだけ》で、つまりそこに建っている神社なのね」
「あっ……鏡の元締め!?」
まな美は、こくりとうなずいてから、
「それに宇佐神宮の、歴史を彩ったさまざまな神託を発していたのは巫女[#「巫女」に傍点]だけど、その巫女は代々|辛島《からしま》氏の娘と決まっていて、鏡を作っていたのも辛島氏だし、その辛島氏の出生《でしょう》が香春岳で、つまり豊比当ス神社というのは、その巫女を祀っていた神社なのよ。辛島氏は渡来人で、秦《はた》氏の一族だと考えられているわよね。けれど、そんな話をもち出すまでもなく、この特殊な唐フ字をあてている場合は、渡来人系の巫女を祀っていた神社だとわたしは思うわ」
「なるほどう……」
土門くんは、その姫の説には素直に感心してから、
「そやけど、能登半島や九州はそれでわかるとして、伊豆はどこから渡来するんや? ハワイからか」
――キ!
まな美は睨みつけてから、だが笑顔に転じ、
「実は土門くんのいうとおりで、ここは難しいのよ。その代表的なのは、伊古奈比当ス《いこなひめのみこと》神社なんだけど、伊豆の白浜にあって、伊豆地方の最古の神社なのね。社伝によると、創建は孝安《こうあん》天皇の元年――」
「それは二六九年や」
「ええ?」
まな美は、そんな年代を土門くんがすんなり注釈したので、驚いて聞き返した。
「もちろん、これは皇紀[#「皇紀」に傍点]やぞ」
「こ、皇紀?……そんなのに変換しないでよ。なにがなんだかわからないじゃない」
「そやけどな、この孝安天皇は第六代で、実在すら不確かやねんから、皇紀を使う以外には説明不能。そやからというて、まいなす六六〇年して、紀元前三九二年にするんはあかんぞう。皇紀と西暦は次元がちがう。これはあくまでも皇紀[#「皇紀」に傍点]、二六九年――」
土門くんは、頑固に自説を曲げずにいう。
「わかったわ。なんにせよ、創建はとっても古いってことね。北陸地方の刀m#「刀vに傍点]の神社は、やはり白山比盗_社が一番古くって、それでも創建は崇神《すじん》天皇なのよ。そして九州の豊比当ス神社つまり香春神社も、遡《さかのぼ》っても、やはり崇神天皇までなのね。これは皇紀だと何年になるの?」
「五六四年から六三二年。そやけど崇神天皇は箸《はし》墓の倭迹迹《やまととと》ひももも……卑弥呼《ひみこ》から導けるから、西暦二〇〇年代のなかばや」
「すると、渡来人は、三韓からと考えて間違いないでしょう。でも伊豆は、さらに古いって感じもするのね。もちろんここにも渡来伝説があって、一説には、天竺《てんじく》からといった話もあるぐらいで……」
「もう印度人《いんどじん》もびっくりやー、ぐらいの与太《ぎゃぐ》しか思い浮かばへんぞう」
「……だから伊豆はちょっと保留ね」
まな美は、この件については逃げてから、
「延喜式神名帳には三千弱の神社が記載されてあって、この刀m#「刀vに傍点]の字を使っているのは、わずかに三十。それがこのように特徴的な分布をしているのね。そして府中にある、この宮之盗_社の刀m#「刀vに傍点]!」
「……|……《むむむ》」
土門くんは、狼に追いつめられた子|山羊《やぎ》のようにそっぽを向いて顔を伏せる。だが目では、手にもっている写真をしっかと凝視している。
「さらに面白いことを教えてあげるわ。インターネットに自動翻訳機があるでしょう。中国語が翻訳できる頁を出して、土門くん――」
「ふむ、すると|Infoseek《いんほしーく》まるち翻訳にしょうか」
その頁を表示させて、弥生とともに見ながら、
「準備でけたけど、なにを翻訳すればええんや?」
「この唐フ字を、中国語だと考えて、日本語に翻訳して欲しいの」
「そやったら、えー……と。そやけど、この特殊な唐フ字が出されへんぞう」
「だったら、しらやまひめじんじゃ、と平仮名で検索して、すると漢字がわかるはずだから、そこからもらってくればいいわ」
「姫かしこい……」
そして、まな美の指示どおりに、土門くんは漢字をぱくってきて自動翻訳機にかけてみた。
「なになに……シツジの鳴き声、て出たぞ」
「つまりそれは、メェ〜、なのよ」
まな美が、可愛げに鳴き真似をしていう。
横でマサトも、メェーと口ずさんでいる。
「あ! 口へんに羊で、めぇー……か!」
「いわれてみればで、それは気がつきませんでしたよね」
弥生も、嬉しそうに目を輝かせていった。
「じゃあつぎは、この唐フ漢字をふたつ重ねて単語を作って、グーグル検索にかけてくれる」
「てことは、日唐ノせえいうことやなあ……」
「……わっ! たくさんひっとしたぞう。二百万件超えとう。そやけどぜんぶ中国語やないかあ」
「日本語を探して、何件かはあるはずよ」
土門くんは検索の頁を、次へ次へと送っていく。
「あっ、あったぞう。……女子十二楽坊の演奏会で、日唐ウんの琴さばきに思わず見とれ……?」
「それはね、メンバーに、愛称《ニックネーム》が日刀sメーメー》さんという女性がいるのよ。この日唐ヘ、もちろん羊の鳴き声をあらわすんだけど、そうやって女性の愛称や、あるいは、李日唐竡日唐竕、日唐ナも出てくるので、それが架空名《ペンネーム》なのか本名なのかは判断つかないんだけど、ともかく女性の名前に使ったりするのね。そういった漢字なのよ。この唐ニいう字は!……」
「むむむむむむむ」
土門くんは、今度は顔をあげたままで唸ってから、
「ところで、この唐「う字が渡来人の巫女やという話は、どっかに出とったんか?」
「さあ、知らないわ。これはわたしが考えた話だから」
「ありゃまあ、さすがは姫。漢字の王様やなあ」
土門くんは、わざとらしく褒めていってから、
「そやけど、ヤマトタケルノミコトはそう簡単には陥落せーへんぞう。ふっふふふふはははは……」
いかにも腹に一物《いちもつ》あるかのように無気味に笑うと、
「さくら! あんちゃん鬼退治に行ってくるから」
弥生に向かって突如、みょーな台詞を口走り、
「あんなあ、この宮之盗_社の立て看の写真には、一箇所、徹底的におかしいとこがある!」
自信たっぷりにいうと手にもっていたその写真をすーっと滑らせて敵陣に送り返した。
「ど……どこがなの?」
「自分はだて[#「だて」に傍点]に立て看を読んできたんちゃうぞう。数多《あまた》ある案内板や説明板を、ちぎっては読みちぎっては読みの、この立て看読みの玄人《ぷろ》としていわしてもらうとな!」
土門くんは、ことさら大仰に大上段に構えていう。
「その立て看の尻尾[#「尻尾」に傍点]のとこを見てみ! ほとんどの案内板や説明板は、その書《か》き主《ぬし》が、どっかの教育委員会になっとったはずや。そやのに、それだけは違《ち》ごとう! その北多摩ぁーいうんはなんや[#「なんや」に傍点]!」
「これは……北多摩地区の、神道の、つまり神社に勤めて神職についている人たちの、青年会」
まな美は、書いてあるままに説明していった。
「その青年会とやらは、いったいぜんたいなにを根拠にして、この立て看を出しとんやあ? その立て看だけ、なんで教育委員会ちゃうんや!?」
「そ……………………《そんなこといわれても》」
「自分は、その立て看には、あの文化泥棒につうじる、腹黒ーいもんを感じる」
「な、なんてことをいうのよ!?」
「つまり陰謀《いんぼう》や! 陰謀[#「陰謀」に傍点]――」
――弥生が、
「土門日本武尊先輩っ、すごく意外なところを突きますよねえ、さくら[#「さくら」に傍点]もびっくりしました」
場が重苦しくなったのを察してか、冗談もまじえて明るい声でいった。
「なあ、そやろそやろう。このふーてんのヤマトタケルノミコトの桜吹雪《さくらふぶき》が、てめえらの悪事をひとつ残らず!……」
土門くんは、あれこれと寄せ集めていい、
「それにやなあ姫、さっきから片手で、別の写真をぺたーんと押さえつけて隠しとうみたいやけど、それは自分の気のせーやろか?」
「こ、これはなんでもないわ」
まな美は、顔をふって弁解していう。
「はは〜ん、姫ええ性格しとってやから顔色にすぐあらわれるぞう。どれ! こっち見してみ!」
「し、しかたないわねえ……」
まな美はしぶしぶの体《てい》で、その写真をマサトに渡し、経由して土門くんに手渡された。
「うん? これは、あの神社にかかってあった額か、古うてかすれとって見えづらいけど、宮……乃……賣……神社。ありゃあ? 漢字がちごとうやないか! これは古い本なんかでよう使われとう、比賣《ひめ》の賣[#「賣」に傍点]やろう。どないなっとんねん姫!?」
「それはまあ、以前にはそのような字を使っていた時期もある、んでしょうね、ぐらいしか……」
まな美は、しどろもどろである。
「そやったら、あの神名帳にはどない書かれとったんや!?」
「延喜式には、ここは出ていない……」
「ほな、その他の古文書類には!?」
土門くんは、追及の手をゆるめない。
「うーんわたしが知っているのは、江戸名所図絵ぐらいで、ふつうの姫《ひめ》という字が使われていた……」
「ほれみろう! てんでばらばらやないか。ここの神社の漢字は、過去には確定してへんかったんちゃうか? それをなんでわざわざ、こないな刀m#「刀vに傍点]というややこしい字を立て看に使わなあかんのや!?」
「………」
「つまり、白旗かあ?」
「そ、そう簡単にあきらめるもんですか!」
まな美は上目遣いに、恨めしそーに小声で叫ぶ。
「ほな、別のおもろい話教えたげるわ〜」
といいながらも土門くんは一瞬うつら[#「うつら」に傍点]としてから、
「……こ、骨董屋の裏諺《うらことわざ》に、こないなのがある。ぼろ儲けしたかったら権威筋をだませ、つうて」
「権威筋?……」
「あくどい骨董屋がいたとして、客ひとりひとりをだますんは効率悪いやろ。そやから目利きの頂点《とっぷ》をひとり欺《あざむ》いて、そのお墨つきで贋作百個ぱーっと売りさばくねん。姫は、その欺かれるお立場や」
「ええ[#「ええ」に傍点]ー……」
「この漢字一個で、あそこまで説明できはる人が、世の中に何人おる思う? それすなわち権威筋や。そやけど目利きの頂点《とっぷ》の人間をたぶらかすのは並大抵のことではできしません。それなりの餌《えさ》をまかんとな。その餌がすなわち、この唐ニいう漢字や」
「うぅ[#「うぅ」に傍点]ー……」
まな美としては、まさに窮鼠《きゅうそ》猫を噛みたい心境なのだが、その噛む八重歯も奥歯も……ぐらぐらと。
「……もう参ったわ。今日の土門くんには勝てそうにないから、この唐フ件は、とりあえず保留」
「そやったら白旗は保留いうことか〜……」
「な、なにいってんのよ! 保留といったら保留よ。また明日になったら明日の風が吹くんだから――」
まな美は、がむしゃらに抵抗していってから、
「そうそう! 先にもいった話だけど、埼玉県には正真正銘の高句麗の神社があるのよ! 高句麗の王|若光《じゃっこう》の話として、日本書紀や続日本紀《しょくにほんぎ》にもちゃんと書かれているぐらいの!」
「そんなん行ってみーひんとわからへ〜……」
といいながら土門くんは、そのまま、うつらうつらうつら〜と炬燵の天板につっぷす。徹夜が祟《たた》って、ついに睡魔に憑《とりつ》かれてしまったようだ。
「じゃあ行ってみるしかないわね。最後の決戦[#「決戦」に傍点]場はそこよ! 土門くん! ねえ土門くん!」
「……うーんむにゃむにゃ……自分|明日《あした》だけは勘弁してくれえ……」
「じゃあ明後日《あさって》ね! 聞こえてる土門くん!」
「……むにゃむにゃ……この桜吹雪があ……」
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22
――翌二十六日の午後二時すぎ。
竜介が[#「竜介が」に傍点]『情報科』の資料室で、鳩血色《ルビーレッド》のソファとは反対がわの壁にある金属製のラックに録画機《ビデオ》などとともに置かれている二十五インチのテレビ画面《モニター》を不機嫌そうに見入っている[#「不機嫌そうに見入っている」に傍点]と、生駒刑事が訪ねてきて挨拶《あいさつ》もそこそこにいった。
「――引き継ぎ、朝方《あさがた》に完了しました」
「万事うまくいった?」
「はい、おかげさまで。あの桑野さんのほうで用意していただいた証人・第一発見者は、もう堂々とした受け答えで、それに身元も申し分ないおかたでしたから、北署はこっから先も疑うことなく……」
生駒は、小指をぴーんと立てながら、
「信じちゃいました」
「よかったよかった。夜遅くまでかかって、作戦[#「作戦」に傍点]を練ったかいがあったよね……」
つまり、こういうことなのである。
昨夕発見した白骨死体の現場は、秩父《ちちぶ》地方の奥深い山中で、埼玉県内ではあるのだが、生駒刑事らの埼玉県南警察署の管轄ではなく、同北警察署のそれなのである。南署管内ならいかようにも胡麻化せるが、そうはいかない。情報源(御神)は無論のこと、わざわざあのような山中まで出向いて地面を掘った理由を、いっさい説明できないのだ。――北署に。
あの後《あと》四人は、現場はそのままにして、|青い道《ハリウッド》などの鑑識機材を痕跡残らず撤収し、四駆のパトカーを駆《か》って大急ぎで南署へと戻り、そして刑事課の係長《ボス》・依藤警部補をまじえて善後策を練ったのだ。
――また無理難題もち込みやがって!
最初は仏頂面で激怒していた依藤ではあったが、もとはといえば同僚の岩船係長からの依頼なので、尻ぬぐいをするべき責任の一端はないこともないのである。
なお、鑑識課員の久保田は、――口外無用! と釘を刺されて解放され、このあやしげ[#「あやしげ」に傍点]な密談には参加していない。
『第一発見者として、別証人を立てるぐらいしか手はないと……』と生駒。
『そういうことでしたら、アマノメの氏子に頼めば、なんとかなるかと……』と竜生。
『それでうまくいきゃいいけど』と依藤。
『それに地面を掘って発見してるでしょう。そこを掘った理由がないと』と竜介。
『あんな場所を掘るのは、犬ぐらいしか思いつきませんよう』と生駒。
『すると、その現場の近くに住んでいて、犬を飼っていて散歩に連れていく人、そんな氏子さんおられます?』
『やー、そこまで条件がきびしいと……』
『あのあたりって、犬を連れて狩りをしていい場所なの? つまり鉄砲をぶっ放して?』と竜介。
『あ! できますできます』と生駒。
『だったら、解禁日を確認して』
『えーと、秩父地区の狩猟解禁は、十二月|一日《いっぴ》から二月中旬までです』
『よし! それ使えそうだな。氏子さんで狩猟をされる人、おられます?』
『ええ、何人かおられます。埼玉はわからないけど、東京なら間違いなくいます。それにこの場合だったら、少々遠くても大丈夫ですよね』
『けれど、その氏子の証人ひとりに何もかも負わせちゃうというのは、ちょっと酷《こく》だし、それにこちらとしても不安じゃないですか?』
『ふむ、それは先生のおっしゃる通り。事情聴取でつっ込まれてボロが出ないという保証がない。裏を知ってる人間と、タッグでも組めりゃいいけど』
『その役、自分がやりますよ』
『どうやって? 生駒が、現場にいて事情聴取に立ち会うという必然性がないじゃん』
『その必然性を作ればいいんですよ。まずですね、その証人さんと自分が……いや、この関係はちょっと弱すぎますね。そうそう、その証人と依藤係長[#「依藤係長」に傍点]とが、親しい間柄で、犬が掘って人骨らしきものを見つけて、まっ先に係長に電話をしてきた』
『それでそれでえ?』
『一般人はどこの署の管轄だなんてわかりませんからね。そして係長は、北署へ引き継ごうと思ったんですが、そのとき偶然にも自分が[#「自分が」に傍点]』
『なるほど! 生駒を別件の捜査で、近くに派遣していたわけか』
『そういうことです。それで自分が車をすっ飛ばして現場へと見に行き、そして確認してみたところ、やはり人骨に間違いないと』
『はっはーん、すると北署への通報も、生駒から[#「生駒から」に傍点]』
『はい、自分がやります。その証人さんへの負担は、できるだけ軽くしたほうがいいでしょうからね』
『と同時に、おれのほうからも北署へ、詫《わ》びの電話を一本入れてと』
『所轄《テリトリー》がちがうと、うるさいの?』
『もちろんですよ。道一本越えただけでカンカンですから』
『まあもめたらもめたで、署長にご出馬願ってと。すると具体的には、行動を起こすのは明日の朝だな。それまでに証人の氏子さん、用意できます?』
『はい、今晩じゅうに……いえ、一、二時間もいただければ』
『よし! おっけい。これでいこう。それに生駒、今からあっち行って、近くの旅館とるんだぞ』
『了解しました!……』
とまあ、そういった段取りで事を運んだわけなのである。が、これらの会話は凝縮話《エッセンス》であり、実際はあーでもないこーでもないそーでもないと長時間を要した密談だったのである。
「今テレビに映っているのは、問題の、昨日の番組ですか? FBI超能力探偵がどうとか?」
「そう。以前にもいったと思うけど、ぼくの研究室では、この手のテレビ番組はかかさず録画しているのね……院生[#「院生」に傍点]が。もっとも、冬休みだから、実家に帰ってやってて、さっきようやく届けてくれたの。中西《なかにし》くんなんだけど、実家は箱根の山ん中なんだ」
「か、かわいそうに……」
「そんなわけで、ぼくもまだ半分しか見てないのね。とりあえず巻き戻すから」
「いえ、つづきからでいいですよ」
「ところがさ、これ番組の初っ端《ぱな》を見ないと、何がなんだかわからないんだ。変[#「変」に傍点]な作りをしてて……」
生駒は(勝手知ってるので)スチール書棚の列のひと区画後ろに置かれている折り畳み椅子をみずから運んできて、竜介の回転椅子《デスクチェアー》の横において座った。赤いソファだと座面が低すぎて、テレビが見えにくいからである。
「……さあ、これが最初なんだ」
「生放送! 緊急特番! FBI超能力探偵・緊急来日!」
生駒が、画面にでかでかと表示されている番組のタイトルを読んだ。
「生放送とはいっても、大半が事前の収録で、その録画を見せながら、観客を入れたスタジオで芸能人《タレント》たちがわいわい騒ぐ、その部分だけが生[#「生」に傍点]なんだ」
竜介は、やや憎しみを込めた声でいってから、
「それに緊急[#「緊急」に傍点]特番、緊急[#「緊急」に傍点]来日、言葉がダブってるでしょう。これは直前に書き換えたらしくって、新聞のテレビ欄には、『生放送! 緊急来日! FBI超能力探偵』となっていて、緊急特番って文字はないんだ」
「こういうのって、簡単に変えられるんですか?」
「うん、今はコンピューターで作ってるから、いとも簡単なはず。ぼくが大学で教わったころは、前の大学[#「前の大学」に傍点]だけど、今から二十年ほど前は、こういうのは一枚一枚手作りだったから、すごく時間かかった」
「え? 前の大学といいますと?」
「生駒さんにはいってなかったっけ、いわゆるN芸さ。そこに四年ほどいて心理学に鞍替えしたの」
「なるほど、どことなくそんな感じしますねえ」
「くさい芝居がうまいってか?」
竜介は、みずから拗《す》ねていってから、
「そして、ここここ[#「ここここ」に傍点]!」
黒小箱《リモコン》でテレビの音量を大きくしながら、
「司会者の冒頭の挨拶、もうここからして変則的《イレギュラー》だから、よく聞いてねえ……」
……さあ、いよいよ始まりました皆さまお待ちかねの、生放送! FBI超能力探偵・緊急来日! ところがですね、つい先ほどの夕方のニュース報道などでご存じのかたも多いかと思われますが、埼玉県内で起きていた、身代金目的の幼児誘拐事件!
その子供さんは無事保護され、犯人は逮捕されたそうですよね(アシスタントの女性|芸能人《タレント》)。
卑劣な犯罪には神の鉄槌《てっつい》を! (司会者の中年男性は勇ましく吠えてから)そして何を隠そう、この誘拐事件の解決には、当番組がひと役もふた役も、いいえ! 皆さまが今ご覧になっている、この我々の番組が、まさに解決に至らせたのであります!
その誘拐事件の解決に至った一部始終は、今とりいそぎ|V《ブイ》を……(アシスタントの女性)。
なんせついさっきの出来事ですから、裏でてんやわんやの編集中で、そのVが届きしだい、緊急特番として[#「緊急特番として」に傍点]、その全貌をあますところなく皆さまに!
うわあ、わくわくしちゃいますよねえ!
それこそが、当番組が生[#「生」に傍点]放送である、生[#「生」に傍点]放送ならではの醍醐味《だいごみ》であります。さあ、それでは皆さまお待ちかねの、緊急来日をはたされているFBI超能力探偵、ジョージ・マクモーゲルさんをスタジオにお呼びいたしましょう。ハロー、ジョージ! みなさん盛大なる拍手を!……
「……あれ? このFBI超能力探偵のジョージさん、どことなく影うすくありませんか?」
「そのとおり。この彼で番組作ってんだけど、そこに緊急特番を割り込ませてるのね。そして彼が、さも誘拐事件の解決をした本人[#「本人」に傍点]、であるかのように思わせぶりで番組をつづけていくんだけど、生き別れになった親を捜したり、大昔の迷宮事件の謎に挑《いど》んだりと、そんなどーでもいいような事前収録をつぎつぎと流しやがって、そのたびごとに、V[#「V」に傍点]が届きしだい、V[#「V」に傍点]が……V[#「V」に傍点]が……とひっぱるわけさ!」
竜介は、テレビに向かって怒鳴り散らしていう。
「なるほど、ちょうどそんなところへ、自分が来たわけですね」
「そういうこと。だからどこから緊急特番が始まるかわかんないから、いちいち見なきゃいけないだろう。で半分あたりまでは関係ない! だから早送りにするね。それに、Vが……といってるときの司会者の口ぶりからしても、そのVには、ジョージとはまた別人が登場してくるような、そんな雰囲気《ニュアンス》なんだ。そのあたりも巧みに胡麻化しやがって!」
「ともかく、ひっぱりにひっぱるわけですねえ」
「テレビ番組の常套手段《じょうとうしゅだん》さ。このジョージってのは、そこそこに有名人だから、その名前をでっきるだけ前に押し出してひっぱっていくわけね」
「すると、その緊急特番の別人は、逆に無名人ってことですか?」
「だと思う。別の有名人が番組の後半に登場するんだったら、冒頭でいえばいいことだから」
「あ……そうなりますねえ」
――コン、コン。
上品にノックする音が聞こえてきて、生駒がそちらに顔を向けると、白衣を清楚に身にまとっている美人の助手の先生が、姿をあらわした。――静香がお茶を運んで来たのである。
「いつもいつも、どうもありがとうございます」
生駒は、折り畳み椅子から立ち上がって、精一杯さわやかな笑顔を作って挨拶をする。
「どういたしまして」
静香も笑顔で会釈《えしゃく》しながら、竜介の仕事机《デスク》のほうに二個のマグカップをおろした。
「……あ! 画面が変わってる。緊急特番のVに入ってるようだ」
早送りなのに動きがない全体的に白っぽい画面である。竜介は、苛《いら》ついた手つきで黒小箱《リモコン》のボタンを押して、逆に早戻しをはじめた。
そんな彼の様子を見てか、静香はそっと立ち去っていく。
「……よし。このあたりからだな」
竜介は、ビデオを通常の再生に戻した。
「あれ、スタジオの雰囲気がちがってますね。暗くしてるんですね」
生駒は、疲れた刑事の顔に戻って元気なくいう。
「光量《ライト》を落としてるね。ついさっきあった事件だから、派手には演出できないんだろうな……」
そして司会者の男性は椅子に腰をおろしていて、ごく落ち着いた声で語りはじめた。
……大変お待たせいたしました。緊急特番です[#「緊急特番です」に傍点]。埼玉県内で発生した身代金目的の幼児誘拐事件は、五日前の十二月二十日に起こりました。もちろんのことですが人命を第一に考え、各局ともに報道を控えておりましたが、その誘拐事件の経緯については、当番組のスタッフ一同も憂慮しつつ、かつ逐一《ちくいち》情報を入手しておりました。ですが、いたずらに日数ばかりが経過していき、解決の糸口ひとつさえ見出せません。そんな最中《さなか》、耳よりの情報をスタッフが入手しました。いかなる難事件をもたちどころに見通せる希代《きたい》の超能力者が、この日本にいると。うーん眉唾《まゆつば》でしょうか? ですがスタッフのひとりがいいました。試してみようよ、ダメもとじゃないかと。言葉が悪くて大変失礼いたしましたが、まさに藁《わら》にもすがる気持ち、皆さまにもご理解いただければと。そして出演交渉をいたしましたところ、テレビ番組のようなショーの世界に生きるつもりはない! とのつれないご返事で、しかしながら粘り強く交渉をつづけましたところ、顔や姿をいっさい出さないという条件ならばと、出演を了承していただけました。その希代の超能力者の彼女[#「彼女」に傍点]が、この幼児誘拐事件をものの見事に、人命はもちろん怪我人ひとり出すこともなく無事! 解決に導いたのであります。
――と、そこで|CM《コマーシャル》に切り替わった。
「ふむ、女性かあ……」
「まだ名前すら出しませんよねえ」
「そうそう、これは朝のニュースでもいわなかったけど、子供の名前はおろか、日高市もいわなくなったけど、これは例のプライバシー保護条例?」
「そうなんです。あちらのお家から、いっさい伏せてくれと強い要望があったらしく、まあ、名家ですから騒がれたくはないようで」
「なるほど、お父さん国会議員で大臣だもんな」
「え? それは曾《ひい》おじいさんですよ先生。もうとーの昔にお亡くなりの」
竜介は、こういったことには、けっこう出鱈目《アバウト》なのである。
――CMが終わった。
本編のV[#「V」に傍点]が開始されると、白い半透明の衝立が画面の大半を隠している。早送りのさいに見えていたのはこれである。なおかつ、緊急特番! の物々《ものもの》しいテロップが下にでーんと表示されてあって、その白衝立の向こうには、人ひとりが椅子に座っているような姿がうっすらと見えている。すると、手にマイクをもった女性の影法師《シルエット》があらわれて言った。
どうお呼びすればよろしいでしょうか?
わたしは、キクリヒメです。
「なっ! なんだとう!?……」
[#改ページ]
23
――おなじ日のおなじころ。
東京の港区南青山にある中堅のテレビ番組制作会社の作戦会議室《スタッフルーム》で、おなじく昨晩放映された『緊急特番!』のビデオを肴《さかな》にして、七、八名の男たちがとある密談に花を咲かせていた。
「このキクリヒメ、どう思う?」
「一言でいって、うさんくさい[#「うさんくさい」に傍点]!」
「だよなあ……」
「ちなみにですね、昨晩の『緊急特番!』の視聴率は平均で23、瞬間最高が31・7で、そのキクリヒメが名前をいったあたりが頂上《ピーク》です。T局じゃ、民放連盟大賞も夢じゃないと息巻いてますよ」
「へー、だったら裏を暴《あば》いてひっくり返して、連盟大賞の横どりといきましょうぜぃ」
「こんな超能力者なんて実在しないって! ありえないよ。悪い事いっさい出来なくなるじゃないか」
「それはそれで困っちゃうよねえ……」
「おまえら、もうちっと建設的な意見を吐けよ! うん? なんだ油谷《あぶらだに》くん」
「あのですねえ、そのキクちゃん[#「キクちゃん」に傍点]については依然《いぜん》として正体不明なんですが、あの日高市の誘拐された子供の家、そこのお手伝いさんを、ワイドショーのADがたらしこんでた話、ご存じですよね」
「おう、それは聞いて知ってる」
「その筋からの情報なんですが、あの家が、キクちゃんに礼をしたいと、T局を介して連絡とったらしいんですよ。けどキクちゃんはガードが堅く、家に来られるのも外で会うのも嫌《ノー》で、ですがけっきょく、日高市の家に招く、て話でまとまったらしく」
「それっていつのこと?」
「……明日《あした》」
「おっ! 特攻[#「特攻」に傍点]かけられるじゃん。車を降りたときにすかさず! バッババババババと機関銃で!」
「けど、それ誰に特攻させる? 局アナはもちろん使えないし、お笑い系なんか論外だぞ」
「こういうのは、あの早稲田の教授が……」
「いやー、あの大御所の大先生は、こんな危なっかしい、鉄砲玉が飛ぶような現場では使えないよ」
「あ……ひとつ思い出したことがある。得川宗純《とくがわそうじゅん》さんっておられたでしょう。僧侶で霊能力者の」
「うん、亡くなられたよね。けど生前は、希代の霊能力者とかで?……いちおう人気者だったけど」
「その得川さんが、亡くなる直前に収録した番組があって、けどマスターVは警察に没《ボツ》られたらしく、その収録のスタジオで、得川さんの嘘を暴いて叩きのめした人が、いたとかいないとか、そんな噂を」
「はい! ぼくその現場にスタンバってましたあ」
――若いADが手をあげていった。
「それって、どんな収録だったの?」
「たしか、バトル形式だったですね。スプーン曲げVSマジシャンって感じの。その得川さんとバトルしたのは、んー、どっかの大学の先生で、若い」
「具体的に、どう叩きのめしたの?」
「えっとですね、よくはメモリしてませんけど、なんだか途中で当然クレイジーに人が変わって、まあ超ー超ー超ーくさい芝居とでもいいましょうか」
「おまえの説明わかんないぞ」
「ともかく、そんな芝居じみたことをやって、得川さんをメチャメチャ怒らせて、それでけっきょくバトルには勝った、てそんなストーリーでしたかね」
「ふーん、するとおまえの目から見て、その先生は使えそうか?」
「えー……たぶん。今回は特攻[#「特攻」に傍点]ですよね。だったらエキセントリックだから使えそうな感じも」
「じゃ、その先生はいちおう候補には置いとこう。他《ほか》にいい人いないか? もっとこう、ビビビ! とくるようなの?……」
なお、エキセントリックとは、風変わりで狂気じみている奇人・変人という意味である。
[#改ページ]
24
「……なにか、先生はご存じなんですか? このキクリヒメって?」
そのV画面を見ていた竜介が、それこそ息を呑むほどに驚いた様子だったので、生駒はたずねた。
「知ってるもなにも、これは暗黒世界《ダークサイド》の女神だ!」
以前におなじことをいったときは完全に冗談だったが、今は九割がた本気である。
そして、白衝立の向こうの彼女《キクリヒメ》に一連の資料を手渡している様子を影絵《シルエット》で見せると、画面は編集サイドでの早廻しに変わった。が、竜介は、
「ちょっと待てよ。すると、あれはいったいどういうことだったんだあ?……」
もはや『緊急特番!』のVなどはそっちのけで、あれこれ思いを巡らしながらいうと、仕事机《デスク》の電話機にさっと手をのばして、内線のボタンを押した。
「……あ、西園寺さん、何日か前に見せてもらった、高句麗の姫の書き込みがあったよね、ああいうのは場所は特定できるんだったっけ?……そうそう、そのIDログ[#「IDログ」に傍点]とやらで……うん、じゃ折り返しね」
「えー、いったいどうされたんですかあ?」
竜介があたふたと行動しているので、不思議そうに生駒はいう。
「いやね、ここではオカルト系の談話室《フォーラム》を主宰してて、そこに、保母さんからの奇妙な書き込みがあったんだ。その幼稚園、ひょっとして、あのAくんBくんが通ってたとこじゃないかなーと気づいてさ」
「な、なんですって!……」
「その書き込み、今にして思うとね、すごく愚痴《ぐち》っぽかった。たぶん警察が……しつこく幼稚園につきまとってたんじゃないか?」
「そ、そりゃ考えられなくもありません……」
生駒は、うつむきぎみに苦笑(謝罪)していう。
そしてものの一、二分で、折り返しの内線電話がかかってきた。
「……うん……関東圏[#「関東圏」に傍点]。それ以上詳しくは無理……それで充分ですよ。ありがとう」
竜介は受話器を戻してから、
「思ったとおり。してみると、あのお山[#「お山」に傍点]もちがってきて……高麗山《こまやま》、もしくは、聖天《しょうでん》の山だなあ」
「それは、どこにあるんですか?」
「生駒さん知らないの? たぶん、日高市[#「日高市」に傍点]にあるはずさ」
「ええ?……」
「高麗《こうらい》と書いて、高麗《こま》とか、高麗川《こまがわ》とかいう地名、そのへんになかった?」
「ええええ、たしか日高市の中[#「中」に傍点]にあったような」
「やっぱり! それさえ先にいってくれれば、おれも日高市ぐらいは知ってたんだからー」
「そ、そんなてんで責められても……」
「ともかく、ここは知る人ぞ知る有名な場所なんだ。今や関東でも屈指の」
といってから竜介は、なにやら言葉を探して、
「まあ正確にいうと、在日韓国北朝鮮の皆さんの、いわば聖地[#「聖地」に傍点]なんだ」
「へー、それは知りませんでしたが……」
「その聖天の山に、というか山の麓《ふもと》にだけど、特殊な寺と神社があってね、もうじきお正月でしょう。ふだんは鄙《ひな》びた田舎が、何万人、いや何十万人もの人出でにぎわっちゃうはず」
「なるほど、関東じゅうから皆さんそこへ初詣に。ところで、画面変わっちゃってますけど」
生駒がテレビを指さしていった。
「あ……いつのまにやら。けど、もう見なくたって話の筋わかるだろう」
「ええ、自分もなんとなく……」
今は、白紙に鉛筆で描かれた一枚の絵が画面に映し出されていて、女性のアナウンサーが喋っている。
……キクリヒメさんが描かれた何枚かの絵をもとに、当番組のスタッフが半日以上をかけて探しました結果、この絵とそっくりの家を、埼玉県内のとある場所で見つけ出すことに成功したのであります。
すると、その白紙の絵が霧のように雲散霧消《フェードアウト》していって、実写へと変わった。かなり遠方から望遠で撮っているらしくゆらゆらした映像である。
……皆さま、目を凝らしてご覧ください。この家にまもなく警官隊が突入いたします。
「あ、これは警官隊じゃなく、私服刑事ね」
生駒が訂正していう。
「それに、これは岩船から聞いて知ってるんですが、地元の警察署が、テレビ局の話にのったそうです。それこそ、ダメもと[#「ダメもと」に傍点]で。けど一課しか動いてませんから五、六人でして、ところが、テレビで見てもわかるようにボロ家《や》でしょう。だから蹴《け》やぶれ! て感じでつっ込んだらしく、現場を指揮してたのが、たぶん南署《うち》の依藤みたいな性格だったようで……」
ふたりして苦笑しながら見ていると、画面は生駒のいったとおりに進行していき、そしてスタジオの映像へと切り替わった。すると、椅子に座っていた司会者の男性がやおら立ち上がって、
このように卑劣《ひれつ》な犯罪には、神の鉄――
と吠えている最中《さなか》で、煩《うるさ》いとばかりに、竜介が黒小箱《リモコン》を押して画面をたたき消してから、
「――ふむ。するとだな、キクリヒメの部分の収録は、事件を解決させた放映日の前日、つまり二十四日ってことだよな。それも夕方か、もしくは夜」
「そうなりますね……」
「生駒さんが、ここに、この事件をもってきたのはいつだったっけ?」
「んーおなじく、クリスマス前夜祭《イヴ》の二十四日の、朝[#「朝」に傍点]の十一時です」
「むむむむむ……」
竜介が、腕組みをした片肘で仕事机《デスク》によっかかりながら不機嫌そうに唸っていると、生駒もいう。
「なんだか、気色悪いですねえ。こっちの動きを、まるで見透かされているかのようで……」
「ふむ、むしろ逆手[#「逆手」に傍点]にとられている感すらある。だからひょっとするとそのあたりに、御神《おんかみ》が別のターゲットを透視しちゃった、その根本原因が……」
「その原因ですけど、自分、それらしきもの見つけましたよ」
「え? ほんと?……」
「まあ自信半分ですけど。あの秩父の白骨死体ですが、今朝の現場での監察医による見立てでは、年齢は五、六歳の男の子で、死後、約五年以上。どことなく、雰囲気似てますでしょう?」
「まあね。でもそれだけでは」
「いえ、実はつづきがあるんです。ここへ来る前に南署に寄って、行方不明者リストってのがありますから、それでざーっとあたってみましたところ、秩父の山向こうの群馬県がわなんですが、六年ほど前に、五歳の男の子が行方知れずになっていまして、その子の名前が、やはり優也[#「優也」に傍点]っていうんですよ」
「うん?……」
竜介は、まの抜けた声で聞き返す。
「あ、ごめんなさい。先生にはいってませんでしたよね。あの誘拐されたAくんは、高比良優也って名前なんですよ。もちろん苗字はちがってるんですが、おなじ優也[#「優也」に傍点]なので、そういったあれこれの類似から、えー……お間違えになったんではなかろうかと?」
「いや、それはないなあ。名前なんてあくまでも副《サブ》だからね、映像記憶《イメージ》を使って検索しているので」
とはいったものの、竜介としても百%の自信があるわけではない。
「まあ、それは先生のご専門ですから、おっしゃる通りかもしれません。それに、この群馬県の幼児の件は、まだまったく未確定の話でして、今後のDNA鑑定などを待たなきゃいけませんから」
生駒は、なかば竜介の肩をもつようにいってから、
「それとですね……逮捕された自称・中国国籍の李《り》|※※《なにがし》ですが、偽造パスポートで本名かどうかすらもあやしいです。それに、知らないー知らないーの一点張りだそうで、いわゆる本ボシまでは、こっちは間違いなく日本人だと思われますが、今んところ、その李からは、ちょっと辿《たど》れそうな雰囲気にはないようです。それと、これは極秘[#「極秘」に傍点]ですが、実は昨日の昼前に、犯人から、その日本人のほうから、高比良の家に電話が入ってるんですよ」
「あ……電話があったのか。身代金要求の?」
「そうです。金は用意できたか? じゃ追って再度連絡する、といったごく短いのが。だから逆探できずで、それに変声機《ボイスチェンジャー》まで使ってて……」
お手あげ、そんな顔で生駒はいってから、
「それとこれは、逆に自分からおたずねしたいんですけど、テレビのニュースやテロップで、発表されました? 秩父の白骨死体のほうですが?」
「いや、テレビは見てないんだけど……ないはず[#「ないはず」に傍点]。というのも、まあ生駒さんのご推察どおりで、アマノメが裏から手を廻して、発表は出来るだけ遅らせるといってたから」
「あーやっぱり、そんなことではないかと……」
「これは御神みずからがいい出したらしくって、ふたつの事件がごっちゃにされて、あらぬ邪推をされるだろう、と。それに今にして考えてみると、さもありなん[#「さもありなん」に傍点]だな」
「……といいますと?」
「さっきの生駒さんの見立てが正しければ、六年前に、五歳の、おなじ名前の男の子だっけ?」
「ええ、そうです」
「すると、一度死んでしまった男の子が、生まれ変わったって話にもなるよね?」
「まあ……その構図から、だけ、見ればですが?」
「さらに死にそうになってキクリヒメに助けられた。ところでさ、このキクリヒメっていうのは、俗にこういわれてるのよ。死と再生の女神って」
「うわっ――」
さすがの生駒も顔をしかめて天を仰いだ。古びた大学校舎の、しみが浮いている天井しか見えないが。
「ますます気に食わないよな。話が――できすぎで[#「できすぎで」に傍点]!」
「ほんとですよね。――ふざけやがって[#「ふざけやがって」に傍点]!」
ふたりして腹を立ててわなわなと怒っていると、竜介の仕事机《デスク》の電話が鳴った。鳴りかたからいって外線電話である。
「はい、火鳥ですが……はい? Aテレビ局の、今辻《いまつじ》ディレクターからの紹介? 誰でしたっけ?……あーあー、あの得川さんとの対決《バトル》番組……いやーそれはそれは……はい? それは昨日の特番ですよね。ええ、見ましたよ……」
会話しながら竜介は、電話機本体に手を伸ばしてスピーカーのボタンを押した。その内容からいって、生駒刑事にも聞かせるべきだろうと思ったからだ。
〈……あのキクリヒメは、どう思われました?〉
「うーん一言でいって、うさんくさい[#「うさんくさい」に傍点]!」
〈ですよねえ。わたしどもも絶対に裏があるんじゃないかと考えまして、そのキクリヒメの正体を暴《あば》ける専門家《エキスパート》は、第一人者[#「第一人者」に傍点]の火鳥先生[#「火鳥先生」に傍点]、以外にはおられないとスタッフ一同、ビビビ! と感じ入るところがありまして、ところで急な話なんですが、明日のご予定はいかがなっておりますでしょうか?〉
「いちおう、空いてますが」
〈やーよかった! 実はキクちゃんが、いえキクリヒメが某所に姿を見せるんですよ。そこを火鳥先生にすかさず! バッババババババと切り込んでいただき、嘘を暴いて徹底的に叩きのめしていただければと。では、話を煮詰めまして再度連絡いたしますので、よろしくお願いいたします!……〉
ほぼ一方的にいいたいことだけをいって、電話は切れた。
「……はははははっ、ともあれ、そのキクちゃん[#「キクちゃん」に傍点]と対決できるじゃありませんか」
「ふむ、――女狐め! 化けの皮を剥《は》いでやる!」
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25
――西武秩父《せいぶちちぶ》線の高麗《こま》駅。
駅のプラットホームから見えた景色は、どこにもでもありそうな長閑《のどか》な田舎のそれであった。
改札を抜けると駅前広場で、というよりかはアスファルトを敷きつめただだ[#「だだ」に傍点]っ広い駐車場のようで、だが、いざというときには観光バスが何台も停車できるが今は用なし、そんながらーんとした雰囲気で、らーめんやうどんの旗を出している簡易建物《プレハブ》ふうの細長い店が右がわに一軒ぽつんと建っていて、周囲には民家がそこそこ見えてはいるが、左がわはつんつんした太い幹《みき》だけの桑畑である(葉はない)。
マサトは、ライム色の鳥羽根のようなストライプ模様が入っている一風変わったバッグの中から、艶やかな黒い一眼レフ・カメラをとり出して、さっそく撮影をはじめた。
そんな駅前広場のほぼ中央に、どでかいトーテムポールが二個、対《つい》になって立っていたからである。
高さが七、八メーターはありそうな赤く塗られた丸柱で、目尻をつりあげて歯を剥《む》いた恐ろしげな顔が天辺にあり、胴に大きく白文字が刻まれている。
――天下大将軍。
――地下女将軍。
「これはいったい、なんなんですか?」
しげしげと眺めながら弥生が不思議そうにいった。
「これはね、チャンスンと呼ぶそうで、朝鮮半島に古くから伝わっている風習だっ……て」
「どことなく、神社の鳥居に似ていますよね」
「たしかにそんな説もあるようね。でも↓あいつがうるさいから↓」
すこし離れたところでがーっと背伸び欠伸《あくび》をしている|土門くん《ヤマトタケルノミコト》を、隠れ指さしながらいってから、
「それに実際、これは鳥居の起源ではなく[#「なく」に傍点]って、村の入口などには決まって立てられていたそうで、邪気の進入を防ぐための守り神で、日本でも鬼門《きもん》の方角には怖い神さまを配して祀《まつ》るでしょう、似たような感覚よね。それに写真を見たかぎりでは、実物は、もっと原始的なトーテムポールね」
簡単に説明を終えると、まな美は、自身の赤いリュックの中から例によってホカロンをとり出して、みんなに配りはじめた。
今日は澄みきった青空である。だが底冷えのする厳冬であることには変わりはない。
土門くんは、手でしゃかしゃかふりながら、
「そやけど、うちら以外は誰《だ》〜れもおらへんやんか。まるで神隠しにおうたみたいに……」
おなじ列車から降りた客は何人もいたのだが、実際、蜘蛛《くも》の子を散らすように消えてしまい、それに唯一ある店にも人の気配はない。
「朝から縁起悪いこといってないで、行くわよ! 三十分も遅れてるんだから」
「今日は自分のせえちゃうぞう……」
歴史部の四人が、ここ高麗駅に着いたのは朝の十時すぎである。待ち合わせ場所は(ネットのジョルダン乗換案内を使って決め)武蔵野線の新秋津《しんあきつ》駅改札前だったが、武蔵野線のダイアがすこし乱れて、するとその後の西武線内での小刻みな乗り継ぎがドミノ倒し式に遅れていった結果である。しかも、その新秋津駅から西武池袋線|秋津《あきつ》駅への乗り換えは最悪で、商店街を七、八分も強制的に歩かされ、もう秋津[#「秋津」に傍点]は二度と使わないと歴史部一同は肝《きも》に銘じた。
「えーと……」
まな美は、ネットの地図を印刷《プリント》してきた紙に目を落としながら、そのまま、ゆらゆらと前方へ歩きはじめた。
「姫! ちょっと待てえ!」
土門くんが背後から呼びとめていう。
「姫もここは初めてなんやろ?」
「そ、そうよ……」
「そのとろ〜んとした歩き方、ちょっと信用できそうにあらしません。その地図貸してみ!」
土門くんは、なかば無理やりとりあげると、
「わっ、赤丸でいっぱい囲とうけど、こないにたくさん一日でまわられへんぞう。それに最初は、どこへ行くつもりなんや?」
「駅のすぐ斜め前よ。遺跡の印(∴)が見えてるでしょう。そこよ」
「……高麗石器時代住居跡いうやつやな。そやったら姫は、どっちへ行くつもりやったんや?」
「あっち!……」
まな美は、自信ありそうに左斜め方向を指さし、
「これほど近くなのに、迷うはずないでしょう」
かたわらで弥生も、その地図をのぞき込みながら、うんうんと同意してうなずいている。
「ふふ〜ん」
土門くんは小馬鹿にしたように鼻で笑ってから、
「ほな聞くけどな、後ろの列車は、どっちからどっちへ走って行った思う?」
「それは……あっちからあっちへ」
あやふやに手を動かしながらいった。
「もうそこが違《ち》ごとんや! ほーむから階段おりてとんねるもぐったやろう、それで方向感覚がぱーになっとんねん。うちの母親《おかん》と同《おん》なじぱたーんや!」
「ええ[#「ええ」に傍点]〜……」
まな美が髪をふり乱して悔しがっていると、
「さくら、同罪や」
土門くんは、弥生を指さしていう。
「え? わたしはもう完全にさくら[#「さくら」に傍点]なんですか?」
「純和風でええ響きやんか」
「さくらにはわたしも賛成よ。ふーてんのダメ兄貴を、けなげに支えているって感じで」
「なっ、なにいうとんや! ともかくもやな、この地図は没収! 豚《ひめ》に真珠・猫《ひめ》に小判やあ!……」
たがいに罵《ののし》りあってから、
「ほな、なにはさておき、線路を渡って反対[#「反対」に傍点]がわへ行くぞう!……」
あらためて土門くんの道案内で、四人は歩き出した。
その駅前広場に唯一ある店の裏手から、線路の下をくぐり抜ける道が通っていて、しばらく直進するとT字路で、そこを左に折れた。ところが!
「うわあ、すっごい危ない道や! 歩道あらへんやんか!!――」
そう広くはない道なのに、袖がこすれそうな脇を、車がつぎつぎと猛スピードで走り抜けていく。もちろん対向車もあるのだ。
「――みんな気いつけよう!」
土門くんが怒鳴りながら先導して二百メーターほど行くと、左の脇道に『国指定史跡……入口↑』の案内の柱が立っていて、四人は避難さながら、その脇道へとすべり入った。
「――も! め[#「め」に傍点]っちゃくちゃやなあ!」
「――高速道路だと勘違い[#「勘違い」に傍点]してんじゃないの!」
「――こんな危なっかしい道があるなんて、わたしは信じられません!」
弥生までもが声を大にしていう。もっとも、御神の護衛である彼女は、マサトの身の安全を考えてのことであるが。
「あ〜今日は朝からさんざんやなあ。ともかく遺跡へ行こ……」
土門くんは力なくいって、ゆるやかな坂になっている砂利土《がらがら》道を、四人は歩きはじめた。
ぐるりは冬枯れの雑木林である。だが、すこし登ると見晴らしがよくなって、すぐ近くに、低い木の杭に太縄をはりめぐらした柵に二重に囲われて、まるくぽっかりと開《ひら》けた、やや窪地になっている遺跡があった。
垣根の木々は丸くきれいに刈り込まれていて、柵と柵との間は通路だが、それまでの道とはちがって靴底の感触がやわらかだ……今は枯れているが芝生らしく……隅々まで手入れが行き届いている様子である。それに、丸太で組まれた畳一枚ほどの焦茶《こげちゃ》の木の案内板が立っていて(原始時代っぽく)景観とすばらしく合致している。その前で土門くんが、
「ち……ちぎっては読みちぎっては読みの、自分をもってしても、この立て看はさすがに読まれへんぞう」
丸太の案内板の下には、別に小さな金属製のそれが立っていて、そちらを見ていった。
「それはハングルなんだから、上の日本語を読めばいいことでしょう!」
「そ、そないに怒らんかってもええやんか……」
土門くんは、情けない声で詫びてから、
「えー、国指定史跡・日高町高麗石器時代住居跡。この住居跡は縄文時代中期のもので、昭和四年に発掘調査された。当時としては、このようなたて穴式住居跡の発掘調査例は全国的にみても数少なく、県内では初めてのものであり、その後の考古学研究の先駆けとなったことで知られている。へー、これは埼玉では最初の縄文遺跡やてえ!……」
通路の向こうがわでカメラ撮影をしているマサトと助手のようにつき添っている弥生に声を飛ばし、
「……この住居跡は、時期の異なる二軒が一部重複しているものである。どちらも円形で、直径が約六メートルほどの大きさである。それぞれ、中央よりやや北に寄ったところに石で囲まれた炉跡があり、南側の石囲い炉の中には縄文土器が一個体埋設されていた。周囲には柱をたてたと考えられる小さな穴が十数個めぐっている。二軒の住居跡からは多数の縄文土器をはじめ、耳飾などの土製品、打《だ》製、磨《ま》製石|斧《おの》、石皿、くぼみ石、石|鏃《やじり》、石|錐《きり》などの石製品も検出されている。……昭和五十六年三月春。埼玉県教育委員会と日高市教育委員会」
そして下の案内板に目をやっていう。
「このハングルのほうも、年号だけはわかるぞう。二〇〇五年の二月に作られとう……そやけど、この縄文遺跡は渡来人とは、ましてや現代の韓国とはぜんぜん関係あらへんで?」
「でも来る人がいるから、韓国からの観光客用に立てられてるんでしょうね」
「ひょっとしたら、縄文人に文化を教えてやった! て書かれとんちゃうやろか」
「まさかあ!……」
まな美は、怖い顔をして怒っていった。
そして、ふたりも通路を(てんでばらばらに)ぐるーっと一周して見学してから、
「……ところで姫、つぎはどこへ行くんや?」
まな美は、土門くんに奪われた地図を恨めしそうにのぞき込みながら、
「うーんすこし行ったあたりに、むつみや食品ってあるでしょう。手作りゆば[#「ゆば」に傍点]のお店で、黒豆や青豆で作った黒ゆばや青ゆばが美味ちい[#「ちい」に傍点]らしいんだけど」
失敗した早口言葉のようにいい、
「な、なにゆうとんねん!……」
「そのお店のすぐ横に、江戸時代の古い高札場《こうさつば》があるそうで、さらにすこし行くと、水天の石碑が立ってるらしいんだけど、もういちいち廻ってられないわよね。時間もないし、すると……つぎはここ[#「ここ」に傍点]!」
くねーっと曲がっている細い川を越えて幹線道路らしき太い道ぞいにある卍と、その北にある鳥居の印を指さしながら、
「ここは絶対[#「絶対」に傍点]に見なきゃいけない場所なのよ」
「ふーんそこへ行くにはやな、さっきの道を戻って、そのまま倍ほど進んで、左へ折れてずーっと行けばええ。距離的にはそう遠あらへんみたいやけど」
「またあの道を通るの? やだぁー!」
責任を道案内の土門くんに転嫁してごねる。
「わたしも、あの道は嫌でーす!」
弥生《さくら》も、ふーてんの兄貴にごねる。
「そ、そんなこというてもやな、あとは田んぼの中つっ切るぐらいしか手えあらへんぞう」
三人が地図を囲んですったもんだしていると、ライム色の鳥羽根模様のバッグを後ろ腰のあたりに颯爽とかついだマサトが、来た坂道をさくさく下りはじめた。しかたなく三人も歩き出した。
そして遺跡入口の案内柱が立っていたあたりまで歩くと、はたして神の思し召しか、車道を空車のタクシーがとろとろ走って来るではないか。
「ら、らっきー……」
「……運転手さんに待っといてもらおうか?」
「ううん、つぎは近いから大丈夫よ」
まな美が初乗り運賃を支払って、四人はタクシーから降りた。
幹線道路(県道川越日高線)からすこし入ったところにある長寿寺《ちょうじゅじ》の前である。舗装された坂道を二十メーターほど上ると、寺の門などはなく、すぐ正面に方形の質素な堂宇《どうう》が建っている。
「ここは……いったいなんのお寺なんや?」
「うーんいちおう真言宗《しんごんしゅう》なんだけど、見てのとおりの無人寺で、ここがどうのってことではなく、いわば地図の目印なのよ」
「な、なんともはや……不憫《ふびん》なお寺やなあ」
だがマサトは、律儀に写真に収めている。
そして堂宇の左がわへゆっくり廻り込んでいくと、背後は段々畑のような丘になっていて、墓石の林である。そう規模は大きくないが。
「あの天辺だけ、木がこんもり茂ってるでしょう」
まな美が指さして説明する。
「あれは鎮守の森で、あの丘の上が本来の目的地ね。行って見てみると、みんな驚くこと請けあいよ!」
謎めかして嬉しそうにいってから、四人は、墓地をぐるーっと迂回《うかい》しながら歩いて行く。
いったん舗装された小径に出て坂を上ると、右がわにある民家の横から細い土道が……ここも靴底の感触がやわらかで、雑草が枯れた道なき道のようにも思えるが……そんな急坂が三十メーターほどつづいていて、その先の鎮守の森の入口には鳥居が!? 世にも珍しい鳥居が立っていた。
「わ! びっくり仰天や! この鳥居はなんや?」
丘の麓からも見えていたのだが、土門くんはわざとらしく驚いていう。
「これはちがうわよ! こんな変[#「変」に傍点]な鳥居が立ってるなんて、わたしは今はじめて知ったんだから」
「ちなみに、なんちゅう形式の鳥居なんや?」
「知るもんですか!」
「そやったら自分が名づけてもええな。よし! これをさんだーばーど[#「さんだーばーど」に傍点]鳥居と命名する! これがばたん[#「ばたん」に傍点]と倒れて、森の秘密基地から緑色した二号が飛び出すんやあ!……」
土門くんの命名は、マサトは拍手して喜んでいるが女子ふたりには不評のようで、ともかく、煙突の部品(筒)を接《つ》ぎはぎして作ったかのような鳥居に全面|銀色《シルバー》のペンキが塗られているのである。高さは三メーターぐらいはあってかなり大きく、もちろん注連縄《しめなわ》に紙垂《しで》もたれ下がっている。
四人は、その銀色の鳥居をくぐって先へと進んだ。すると一転、まっ昼間だというのにうす暗い、しーんと静まりかえっている鎮守の森の中である。
「あ……これ椎茸《しいたけ》つくっとんちゃう?」
左がわにずらりと榾木《ほたぎ》が並べられてあった。
「でも残念なことに……ひとつも生《な》ってないわ」
生ってたら穫《と》る、そんなニュアンスでまな美はいう。
右がわには、ごく小さな社《やしろ》が三つてんてんと置かれ、地面にあふれ出た太い木の根が階段のようにもなっている奥に、青煉瓦《あおれんが》の屋根をのせただけの簡素な吹き抜けの建物が……。
「あーいうんも、おおきいやなぎ、いうんか?」
もちろん正しくは覆屋内《おおいやない》であるが。
「さあどうかしらね、覆《おお》い屋根よね」
……その下には素木造《しらきづく》りの小さな社が鎮座していて、四人がそろって前に着くと、まな美が覆い屋根の軒下を指さしていう。
「額[#「額」に傍点]がかかっているわよね。でも、ちょっと暗くて見えづらいんだけど……」
するとマサトが、カメラのフラッシュを焚《た》いてくれた。
「あ! 見えたぞう!」
――九万八千神社。
「な、なんちゅう名前や。あの変な社長が出てくるてれびしょっぴんぐ[#「てれびしょっぴんぐ」に傍点]みたいやあ!」
たしか誰かさんも似たようなことはいったが、戯《ざ》れ言《ごと》は関西人・土門くんのほうに一日《いちじつ》の長《ちょう》があるようだ。
「これでね、くまはっせん神社と呼ぶんだけど、稀《めず》らしい名前の神社、ベスト五《ファイブ》に入ると思うわ」
兄貴は皆目知らなかったが、案の定、妹は――。
「それに単に稀らしいだけじゃなく、名前の由来のほうもとっても興味深くって」
「ちなみに祀られとんは?」
土門くんが、合いの手を入れるように聞く。
「祭神はね、八千矛命《やちほこのみこと》なんだけど、大己貴命《おおなむちのみこと》などとおなじで大国主命《おおくにぬしのみこと》の別名だとされる国津神《くにつかみ》ね」
「そして創られた年代は?」
「まったくの不詳。でも謎を解いていくと必然的にわかるわ」
まな美は、仄《ほの》めかして嬉しそうにいってから、
「この八千矛命は、八千《はっせん》と書くから、その上についている九万《くま》は、高麗《こま》が訛《なま》ったのではないか、てそんな説があるのね。土門くんがもってる地図、みんなに見せてあげてくれる。そのわたしの地図を!」
「これやこれや……」
「この神社の南、さっきの太い道をはさんで南がわに、高麗川がぐるーっと曲がって、まるく囲んでいる地形があるでしょう。巾着《きんちゃく》のような形をしているから、巾着|田《だ》と呼ばれていて、こちらに入植してきた高句麗人たちが開拓したと考えられているわ」
「曼珠沙華《まんじゅしゃげ》の群生で有名なとこやそうや」
しっかと予習してきてるらしい土門くんはいい、
「高句麗人の入植って、いつのころなんですか?」
弥生が、おっとりした口調でたずねる。
「それは『続日本紀』によると霊亀《れいき》二年……つまり七一六年で」
「お、おっと」
土門くんが注釈しようとしたのにかわして、まな美は説明をつづける。
「駿河《するが》、甲斐《かい》、相模《さがみ》、上総《かずさ》、下総《しもうさ》、常陸《ひたち》、下野《しもつけ》の七国の高句麗人・千七百九十九人を武蔵国に遷《うつ》し、はじめて高麗郡をおく、とあるわ」
「それはそのころとしては、すごく多い人数……ですよね?」
「だと思うわ。何百家族だから。それに当時、武蔵国はすでに郡割りはできていたから、もとの入間《いるま》郡に、新たに高麗郡を割り込ませて作ったのね。これらに関しては何か反論ある? ヤマトタケルノミコトくん!」
土門くんは、そっぽを向いてしまって答えない。
「その高句麗人たちが開拓した巾着田を、ちょうど見晴らせる丘の上なのよ……ここ[#「ここ」に傍点]は。そういったこともあって、この九万八千神社は高句麗人が創った神社で、これから訪ねるけど、高麗《こま》神社は元来はここ[#「ここ」に傍点]にあったのだ、とそんな説もあるのね」
「へー、そうなんですか……」
弥生が感心してうなずいていると、
「けれど[#「けれど」に傍点]、これらの説は、わたしは間違いだと思うわ」
「おっ、なんやとう?」
土門くんが、やおら興味を示していう。
「とはいっても、この説も九万八千神社そのものも、きわめて未認知《マイナー》だから、いちいち反論するのも気が引けるんだけど」
まな美は、しおらしく断ってから、
「まずね、この付近は、地名の高麗や、高麗川や高麗神社みたいに、高麗の名前を隠さずに堂々と使ってるわよね。なのにわざわざ、漢字を九万に変えて、読みまでくま[#「くま」に傍点]に訛る必要がどこにあるのかしら?」
「そっ、そのとおりや姫え!……」
土門くんは大賛同してパチパチと手を叩く。
「そして高麗神社のほうだけど、これは今建っている場所のままで、古来から変わってないはず。あそこは正確[#「正確」に傍点]に位置決めして造られてあって、そのことは別の場所にある神社から、ほぼ断定[#「断定」に傍点]できるのね」
「それは、どこの神社なんや?」
「これは……今説明すると長くなるから、そうそう、蛇の生殺《なまごろ》しってことで。――姫[#「姫」に傍点]じゃないわよ!」
まな美は思い出して、土門くんに怒ってから、
「それにね、実はおなじ名前の神社が、静岡県にもう一社《ひとつ》だけあるのよ。今は久佐奈岐《くさなぎ》神社なんだけど、江戸時代までは、九万八千社とも呼ばれていたらしく、でも読みのほうは定かじゃなくって、漢字は一緒ね。それにこちらの由緒ははっきりしていて、あの日本武尊が東征のさいに陣をはった場所で、お供をしていた九万八千諸神を祀っているのね。もちろん、日本武尊も祀られているんだけど」
「そやったら、こっちの八千《やち》ほこさんは?」
「八千矛命は……久佐奈岐神社の祭神にはなかったはず。けれど、日本武尊の東征がきっかけで創られた神社で、八千矛命を祀っている例は、他にもたくさんあるのよ。あの大國魂神社だって、けっきょくそういうことでしょう?」
「あ……なるほど。そやったら、うち負かした相手を祀ってあげとう、いうことやな?」
「うん、そうも考えられるけど、土門くんいうところの蛮族[#「蛮族」に傍点]を倒した後に、本来の国津神を祀った。あるいは、八千矛命の八千の軍勢を、日本武尊の九万でうち破った。そんな意味も込められてるんじゃないかしら……とわたしは思ったりもするわ。ともかく、ここの九万八千神社は、入植してきた高句麗人とは関係はなく、それ以前[#「以前」に傍点]からあった神社だというのが、わたしの結論ね」
「その姫の説は、大いに支持するぞう!」
かたわらで弥生も、うなずいている。
「すると創立年代も、自動的に導けるでしょう」
「そや! 景行天皇の四十一年!」
土門くんは、自信満々にいってから、
「それになんちゅうたって、てれびしょっぴんぐの元祖ここ九万八千神社は、自分ヤマトタケルノミコトが創ったんやあ! がははははははっ!……」
そんな馬鹿げた雄叫《おたけ》びが、深淵なる鎮守の森の静寂《しじま》に木霊した。
ところで、マサトはというと、カメラ撮影にかこつけて三人からは離れた場所をそぞろ歩きしながら、数日前に見えた絵をなぞっていた。もうひとりの優也の事件に関しての、先に解放された少年の絵である。もちろんのことだが、森羅万象《しんらばんしょう》を見通せる御神はすべて知っているのである。その少年は、四人が歩いてきた道ではなく、森の裏がわから立木の間を抜けて、かつがれて運ばれ、そして社殿の覆い屋根の下に放置されたようだ。それに犯人の男ふたりの姿形などもはっきりと見えた。が、そのひとりは、御神はそれ以上は深入りするのを止めている。いわゆる罠《わな》≠フ感触《におい》がしたからであった。
「……そやったら、つぎはどこへ行くんや?」
「それは決まってるじゃない。道の向こうの巾着田を見ないと」
「それはええとして、そろそろお腹の虫が鳴かへんかあ? 蕎麦《そば》食わせろー蕎麦食わせろーいうて」
「なに古いこといってるのよ。それに今日の昼食のお店は決めてあるのよ。阿里山《ありさん》カフェという素敵なレストランがあって、それもすぐ近くにね」
「お、ありさんいうたら、こないな歌あらへんかったか? あーりさんあーりさんあーらーりーよ♪」
………
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26
「……じゃ、こうしましょう先生。マイクはADが長棒《アーム》を伸ばしますから、もちろんピンマイクはつけたままで、だから先生は、手に挑戦状だけを持っていただく」
油谷という三十代なかばの若いD(現場監督《ディレクター》)が、車外で、竜介と段取りを相談していた。
「うん、そのほうがスマートだね。ぼくが手にマイクを持ってると、なんだか取材記者《リポーター》みたいだし」
「それもそうなんですが、先生が、これほど垢抜《あかぬ》けた感じの人とは想像だにしてなかったので。あのう逆に、やや無骨[#「無骨」に傍点]ぎみに演《や》っていただいたほうが信憑性《しんぴょうせい》が増して、偉い先生だ! て見えますから」
「なるほどね。逆に、スマートにやっちゃいけないわけだな」
「そういうことです、視聴者から反感を買っちゃうんですよ。それに先生は、こういった現場にすごく慣れてらっしゃるような雰囲気なので」
「まあね、大学の講義で壇上に立つからね」
――嘘である。銀座の高級クラブで十何年もピアノを弾き、いわばステージ慣れしていて、そういうのは自然とにじみ出てくる[#「にじみ出てくる」に傍点]ものなのである。
「以上おさらいしますと、キクちゃんが車から降りたら、全員でさっと駆け寄ってとり囲み、すかさず先生は、挑戦状をひろげて読んでいただく」
「けど、挑戦状を、彼女が受けとらなかったら?」
「それは……」
油谷Dはすこし考えてから、
「かまいません。キクちゃんの根性なし[#「根性なし」に傍点]ーと笑ってやればいいわけで。つまりそういった映像を流すぞと脅しをかければ、こちらの挑戦を受けざるをえないと思いますので」
「な……なるほど」
そのやり口は、半分やくざだなと竜介は思う。
「ところで、挑戦状の文面はできた?」
「今、奥でがんばって作ってます……」
油谷Dは、すぐ後ろに横並びで停車している大小二台の|ロケバス《ロケーションバス》のほうを指さしながら、
「時間を食ってるのは日付なんですよ。スタジオを押さえる都合ってのがありますから」
「あ、お正月になってしまう」
「それに、その日は都合悪い! と逃げられないように第二候補も必要だし。視聴者は忘れっぽいから、できるだけ速《すみ》やかに放映したいんですよ。ともあれ、キクちゃんを土俵に乗せる。つまり挑戦状を叩きつける! 今日はこの一点のみ[#「のみ」に傍点]に絞って撮影します」
……のわりには、ロケバス二台で総勢二十名ほどのスタッフだから、制作会社《プロダクション》の意気込みがひしひしと伝わってくるというものだ。
そのロケバス大のほうのドアが開いて、五十歳ぐらいの男性が降りてきた。
「――油谷くん、それに火鳥先生。今B班からさ、連絡が入って」
|沢ノ井《さわのい》というP(制作責任者《プロデューサー》)である。
「迎えの車が、たった今T局の建物に入った。車種はベンツの六〇〇ブルマンで、色は栗茶《マルーン》――」
「はい、あのごついリムジンですね」
「――目立つから、してやったりさ」
「それって、けっこう古い車ですよね」
竜介も、もちろん知っている。こういった車は即座にイメージがわかなければ男子たるもの。
「なぜわかったかといいますとね、これは高比良家の祖父が会長をやっている会社の、賓客用の車なんですよ。だから目星をつけていたら、案の定……」
沢ノ井Pは、ふふふ、とほくそ笑んでから、
「それに|T局《あそこ》からだと、高速を使っても一時間以上はかかります。とはいっても、そう余裕もないので、油谷くん、すこし早いんだけど、お昼にしようか」
「そうですね、お弁当くばります……」
PとDはロケバスへと戻っていった。
車外では、何名かがタイル敷きの道に撮影機材を降ろして点検を行っている。近くには観光客用のトイレもあって、だが|季節外れ《オフ・シーズン》なので人気《ひとけ》はほとんどなく、目立つテレビ撮影班《クルー》の待機所としてはもってこいの場所である。前には、低い峰に囲まれるようにして広々とした冬の田畑がひろがっていて、整備された水路が走り、はるか遠くに水車小屋らしき藁葺《わらぶ》きの屋根がぽつんと見えている。
竜介が、そのような長閑な景色にひたっていると、突如、ぎゃあ〜、といった悲鳴の合唱につづいて、
「おにいさーん!」
「何してはんのですかあ! こないなとこでえ?」
――聞き慣れた関西弁などが飛んできた。
竜介は、もしや悪い夢かと思いながらふり返ってみると、タイル敷きの道に、あの四人が立っているではないか!
「ど、どうして君たちがこんな場所にいるんだ?」
「それはこちらがおたずねしたいわ。ねえみんな」
「――ぼくは仕事だ!」
「わたしたちもそうよ。歴史部のフィールドワークで、通常のルーティーンってやつよ」
まな美は、わざとらしく横文字を並べていう。
「なにが通常だ! なにを調べに来たんだ? こんな辺鄙《へんぴ》なところまで!」
「もちろん、高麗についてよ」
「うーんつまり! 高麗神社のことだな。だったらまだずいぶんと先だ。さっさと行きなさい!――」
竜介は、ともかくこの場から追い払った。
「冷たいわねえ」
「そやったら、姫推薦の美味しいレストランへ行こ。あーりさんあーりさんあーらーりーよ♪」
「――ちょっと待て!」
竜介は、やむをえず呼び止めていう。
「なんだその変[#「変」に傍点]な歌は!」
「もうさっきから、この調子っぱずれの歌ばっかし唄ってるのよ土門くんが」
「そういうことじゃなくて、歌詞がちがってる!」
「あら、どこが? どことなく違和感は感じてたんだけど」
竜介は、その妹にあるまじき言葉にあきれながら、
「そ、それは阿里山ではなく、アリラン[#「アリラン」に傍点]だ。阿里山は台湾[#「台湾」に傍点]を代表する聖山で、アリランは韓国人のこころ[#「こころ」に傍点]の歌だ。喧嘩を売っているようなものだ!」
さらにいうと、その阿里山山脈の中に真珠湾攻撃のさいに暗号に使われた旧名・新高山《にいたかやま》がある。
「そうだったのね、謎が解けてすっきりしたわ〜」
「君たちの知識は偏《かたよ》りすぎなんだ! わかったら、とっとこ行くように!……」
竜介は、あらためて追っ払った。
「……あーりらんあーりらんあーらーりーよ♪ なるほど、こっちのほうがしっくりくるな。あーりらんあーりらんあーらーりーよ♪ あーりらん……」
そんな土門くんの壊れた録音再生機《テープレコーダ》のような歌声をたなびかせながら、四人は巾着田から去って行った。
「いやー、どういったお知り合いなんですかあ?」
手に仕出しの弁当を抱えもった油谷Dが、近くで一部始終を見ていたらしく、歩み寄って来ていった。
「親戚の子たちなんだ」
竜介は胡麻化していう。説明はほぼ不可能なので。
「ですが、さっきの女の子ふたり、どこかの芸能プロダクションには入ってるですか?」
「ま、まさか……」
「でしたら、マジで紹介していただけませんか? けっして悪いようには扱いませんから。ひとりはアイドルで、もうひとりは大河ドラマで」
「――ダメ! 家が厳しくてふたりともダメ!」
竜介は、つい親心を出していった。
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阿里山カフェは、巾着田のすぐ裏の県道川越日高線に面してあり、あたかも欧米の農村にでも建ってそうな臙脂色《えんじいろ》をした木造の三階建てである。店内もウッディーな造りで、高麗川のせせらぎが見下ろせるウッドデッキの外席もあったが、さすがに寒そうだったので、室内の陽あたりのいい窓ぎわに四人は席をとった。
そしてメニューを見ながら、
「えー……お豆と季節のやさい[#「やさい」に傍点]カレー? 豆ミート肉味噌風[#「風」に傍点]丼? ベジ[#「ベジ」に傍点]バーガー? 三陸産長えび……ちごた、三陸産長ひじき[#「ひじき」に傍点]とローストナッツのちらしごはん?……姫、お肉系がありそうでなさそうで、けっきょく見あたらへんねんけど?」
「ここは野菜専門《ベジタリアン》のお店で、それも厳選された無農薬で無化学肥料のオーガニック野菜を使っているから、とっても健康的《ヘルシー》なのよ」
「な、なんかだまされたような気がするんは自分だけか? こないな店の造りやから分厚いステーキでもと期待しとったのに、なあ天目!」
だがマサトは、こういった料理もまんざらではない様子で、豆ミート肉味噌風丼にいち早く決め、
「しゃーあらへんなあ、唯一妥協点を見出せるとするならば[#「唯一妥協点を見出せるとするならば」に傍点]」
そんなご大層な前置きをいってから、土門くんはやさいカレー[#「カレー」に傍点](大盛り)、そしてまな美はベジバーガー、弥生は三陸産長ひじき……とそれぞれ別の料理を注文し、デザートとドリンクも頼んだ。
「じゃあ土門くん、説明のつづきをしなきゃいけないから、歴史部《ノート》パソコンを出して」
「え? なんのつづきやあ……」
土門くんは面倒くさそうにいいながらも、いつもの吉田カバンの中から紅柄色《べんがらいろ》のそれをとり出してウッディーな木机《テーブル》の上に置いた。色は保護色《ぴったし》である。
「高麗神社の、位置決めの話よ。だから地図を出してくれる」
「使えるようなるまでしばし待てえ。それになんともはや、かめれおん[#「かめれおん」に傍点]みたいや」
「よかったでしょう、その色に決めて」
「ふん!……」
土門くんは木炭黒《カーボンブラック》を主張したのであったが。
「そやそや、天目が今日|使《つ》ことう奇麗な色のお新品《にゅう》、かめら鞄のようには見えへんねんけど?」
マサトは、そのライム色をしたバッグを膝の上に抱えもって、すこし恥ずかしそうに微笑《ほほえ》んでいる。
「わたし見たような気がするわ。それは自転車に乗る人用のじゃなかったかしら? 背中にかついで」
するとマサトが、鳥羽根模様の蓋を開けて、カメラ機材が詰まっている蜜柑《オレンジ》色のクッションを、すこしだけ上にひき出して見せてくれた。
「あっ、それとれるんか!……」
「その中物《インナー》を外《はず》しちゃうと、ぺっしゃんこになって、いわゆるメッセンジャーバッグになるのよね」
まな美のいったとおり|CRUMPLER《クランプラー》製で、さらに同社製の黒っぽい小袋が横《サイド》につけられている。
「……そ、そやけど、お洒落すぎて天目の趣味とは思われへんぞう。それひょっとして、くりすますぷれぜんと[#「くりすますぷれぜんと」に傍点]ちゃう? それも希美佳さんからの!?」
――ドキッ!
土門くんの慧眼《けいがん》は、ときには(いやたびたび)神をも凌《しの》ぐのだ。
「動くようなったで、地図に高麗神社を出せばええねんな、そしてどないするんや姫?」
「そのすこし南西《ひだりした》に……聖天院《しょうでんいん》というお寺があるでしょう。そちらに高句麗の若光王《じゃっこうおう》のお墓があるのよ。そのお寺を基点にして、真南に下がってくれる。それも太平洋が見えるぐらいまで、ずー……っと」
土門くんは、まな美に指示されたとおりに『→』のボタンを連打しながら、
「そやけど天目はえーなー、自分なんかくりすますぷれぜんとのぷの字もぉ……」
ひとりでぶつくさと拗《す》ねている。
「……よっ、ようやく太平洋に出たぞう」
「それは行きすぎ。すこし戻ると、山[#「山」に傍点]がなあい?」
「……あっ、これやなあ」
「おなじ漢字ですよね。こちらも高麗《こま》と読むんですか?」
横からのぞき込んでいた弥生がいった。
「そう、高麗山《こまやま》ね」
「ほぼ、ぴったし[#「ぴったし」に傍点]山頂にあたるやんか!?」
「そのはずよ。そこの山頂には、かつては高麗権現社《こうらいごんげんしゃ》が建っていて、麓には高麗寺《こうらいじ》があったの。でも幕府が東照宮と合体させたこともあって、明治政府が大半を壊しちゃったのよ。そのとき麓の高麗寺を、高麗《こま》神社に改めたのね。ところがさらに、明治三十年ごろに、こんな高麗[#「高麗」に傍点]なんて名前は嫌だと、高来《たかく》神社という現在の名前に変えてしまったのよ」
「なんだか、むちゃくちゃにされていますよねえ」
弥生が、おっとりした口調でいったが、その無茶苦茶の度合いが減じられるわけでもなく、
「こんな馬鹿なことをやってるものだから、日本政府は歴史の隠滅を!……とヤリ玉にあげられて、一部の人たちにとっては、それこそかっこうの餌食[#「餌食」に傍点]になるのね。土門くんの話じゃないけれど」
「ふむ、まさにそう使われそうやな」
「けど隠滅もなにも、ここは隠しようがなくって、高麗寺祭り[#「高麗寺祭り」に傍点]というのを現在でもやっていて、その麓の神社から、お御輿を山頂まで担ぎあげるの。大磯《おおいそ》を代表するお祭りだそうよ。ここは神奈川県の大磯で、かつての相模国ね。先にいった『続日本紀』にあったように、ここ高麗郡に移住させられる以前に、高句麗人たちが住んでいたのが、大磯の高麗山付近だったと考えられているわ」
「ですが、さっき地図を見ていたら、すごい距離がありましたよ?」
「そうね、六十キロ以上は離れてるみたい……」
「たかだか六十キロやろう。それに七〇〇年代の話やねんから、そんなん北極星を使《つ》こたら簡単《いっぱつ》や」
意外にも、土門くんはあっさりと認め、
「するとこれが、高句麗人がひきはった霊線《れいせん》いうわけやな。これは姫の発見か?」
「ううん。たしか百科事典のウィキペディアにすら書かれていたような説よ」
「ほな、これはこれで了承《おっけい》な」
「ええ? 反論しないの土門ヤマトタケルくん?」
「いや、せーへんで。自分無意味な戦いはせーへん主義やねん。ヤマトのタケルちゃんは平和主義者やねんぞう」
土門くんが、そんな口から出まかせを喋っていると、めいめいの料理がつぎつぎと運ばれてきた。
そしてしばらくは口数も少なに四人は食事にいそしんでから、一番に食べ終えてしまった土門くんが、横に座っている弥生の耳元に顔を寄せてささやく。
「あんな……自分が指さしてこういうたら……こういうんやでえ。そしてつぎは……こないゆうんや」
「ええ? そんなこというんですかあ」
「ええ役[#「ええ役」に傍点]さしたげるから」
「なに内緒話してるのよ!?」
「ははははははは……」
土門くんは笑って胡麻化《ごまか》す。
全員が食事を終えてから、まな美が話しはじめた。
「あの宮之刀sみやのめ》神社の刀m#「刀vに傍点]の件だけど、大國魂神社さんに電話をかけてたずねてみたのね」
「めぇ〜……なんとずーずーしい話や」
土門くんは羊の鳴き真似をして小声でつぶやく。
「お話によるとね、明治の神仏分離令にともなって、神社の名称や祭神を確定しなきゃいけなくなって、つまり書面での提出が必要で、そのさいに、この刀m#「刀vに傍点]の漢字を使ったんですって」
「そやったら、それ以前は?」
「土門くんが図らずもいったように……あやふや[#「あやふや」に傍点]。というのも、宮之盗_社に関しては古文書類がほとんどないらしくって、だから当時の、明治初期の宮司さんの感触で、使われたってことらしいのね」
「そ、そんな感触[#「感触」に傍点]やなんて!?……」
「だけど、何かしらの言い伝えがあったんだと思うわ、わたしは」
「それは好意的に解釈すればやろ! 姫が[#「が」に傍点]」
「けど土門くんがいったように、陰謀[#「陰謀」に傍点]、なんてことはありえないわよ。明治初期[#「明治初期」に傍点]なんだから!」
「そ、それはまあ……」
「それに北多摩青年会とは、無関係だわよ[#「無関係だわよ」に傍点]!」
「まあそれも……ほな、謝るべきとこは謝っとこう、ぺこり」
土門くんは口でいいつつ、おざなりに頭を下げる。
「それに、この唐フ漢字のことも聞いてみたのね。すると、神道の教科書のようなものにはっきり書かれているわけじゃないけど、これが特殊な漢字である、といった認識はある、そうおっしゃっていたわ。だから当時の宮司さんも、知っていて使ったんじゃないかしらと、わたしは思うのね」
「ふむ、そやったら、この宮之盗_社の刀m#「刀vに傍点]は、いったいどの[#「どの」に傍点]渡来人なんや? めぇ〜……」
「うーん土門くんがいったように、狛江は高句麗人ではない[#「ない」に傍点]――の説を前提にして考えた結果、とある結論に達したことは達したんだけど、これを説明するには、またすごく時間がかかるのよ」
そういうと、まな美と土門くんは、しばし睨みあいをつづけてから、
「土門くんの生殺し!」
「姫の生殺しやあ!」
――同時に罵《ののし》りあう。
ふたりがそんな物騒な冗談をいいあっているところへ、食後のデザートとお茶が運ばれてきた。
「土門先輩。麻生先輩。おふたりにはそんな言葉は似つかわしくありませんよ」
――弥生に窘《たしな》められてしまった。
「だったら、わたしの結論だけは教えるわね」
まな美は、反省の情を示していう。
「狛江が高句麗人ではなかったとすると、あのあたりを開拓したのは――忌部氏《いんべし》。そして宮之盗_社の刀m#「刀vに傍点]も、忌部氏の巫女《みこ》――」
「めぇ〜……があの忌部かあ?」
「それも最初期の忌部氏よ。天孫とともに一緒に降臨してきた天太玉命《あめのふとだまのみこと》が忌部氏の祖なんだけど、もうそのあたりの、古い忌部氏ね」
「そやけど、ぴーんとけえへんぞう、めぇ〜」
「この結論に至った途中の話はしないわよ。一ヵ所、別に見てみたい神社があるのよ……関東圏に。そこを訪ねてからでないと、中途半端に説明して、また土門くんに揚げ足をとられたくないし、メェ〜!」
まな美も、羊の鳴き真似をして威嚇《いかく》する。
「な、なるほど、ほなそこへ行ってからやな」
「そうそう、土門くんこそ、大國魂神社の謎解きはどうなってるの? あそこの七不思議を洗《あら》いざらい、統一理論のように解くって豪語していたじゃない? 宮之盗_社だって含まれているわよ」
「ふっははは……只今現在着々と進行中や。そやけど自分のほうも一ヵ所、どーしても行ってみーひんとあかん場所があんねん……関東圏に。中途半端に説明してもやな、以下同文」
「な、なにいってるのよ!」
「そやけどまあ、自分のほうは、さわりだけを教えたげるぞう」
いうと土門くんは、弥生に目配せをしてから、
「さくら、あの夜空に燦然《さんぜん》と輝いとう星は?」
長い腕をあらぬ方向に伸ばして指さしながら。
「……アンドロメダ」
「そやったら、あっちに輝いとんは?」
「……南十字星」
「それね!? さっき仕込んでいたのは!?」
「土門先輩が、そういえいえっていうんですよ!」
マサトも屈託なく笑っている。
「はははははっ、つまりやな、自分の謎解きは、これほどまでにろまん[#「ろまん」に傍点]あふれる一大すぺくたくる[#「すぺくたくる」に傍点]いうわけやあ!……」
「もう絶対に信用しない!」
「ほな、おまけでひんと[#「ひんと」に傍点]を出したろ。自分が思うにはやな、宮之盗_社の刀m#「刀vに傍点]は、伊豆半島に由来しとって、渡来人の種族は、おーすとろねしあん」
「え? それってなに?」
「めぇ〜〜〜以上!」
最後っぺとばかりに羊の遠吠えをしていうと、
「まさかニュージーランド!?」
などとまな美に揶揄《やゆ》されようが、この件に関しては、土門くんは口を閉ざしてしまった。
食後のデザートは焼き菓子のような可愛らしい小さなケーキで、ドリンクは男子ふたりは珈琲《コーヒー》、女子ふたりは草花茶《ハーブティー》を選んでいる。
「そうそう、水野さんには妹がいるんですって? それも双子の?」
まな美が、ふと思い出してたずねた。
「そんなこと、誰から聞いたんですか?」
「ヤマトのタケルちゃん」
――土門くんを指さす。
「いや、自分はやな、あいどる研から聞いたんや」
「もうしかたないですねあそこは。学校の試合とはぜんぜん関係なかったのに、勝手に応援に来て」
「さすがはあいどる研、情報力だけはぴか一[#「ぴか一」に傍点]や」
土門くんは、さも味方をしていう。
「そのアイドル研の話だと、そっくりで区別つかなかったらしいど、そんなに似ているの妹さんと?」
「うーん見た目にはですけど……」
「そやったら、ときどきふたりで入れ替わっとんちゃう?」
「それはありえません。妹は皐月《さつき》っていうんですが、わたしとはまったく性格がちがうんですよ。たとえばですね……」
弥生はゆっくりと考えてから、
「……土門先輩と、麻生先輩を、足したような感じでしょうか」
「それはめちゃくちゃええ性格やんか!」
「素晴らしい性格にちがいないわ!」
ふたりは我先にと争うようにして褒《ほ》め囃《はや》していった。
そんなこんなで、四人は小一時間をかけてゆったりと食事をとってから、阿里山カフェを後にした。
「ほんじゃ、つぎはどこへ行くんや?」
「じゃあね、行くべきところを先に行って、時間が余ったら、よその場所もって感じで」
「そやったら、なにはさておき高麗神社やな。そやけど……けっこう遠そうやでえ」
まな美の地図は土門くんがポケットにねじ込んでいたのでしわくちゃである。
そうこうしていたら、すぐ目の前にある交通量の多い県道を、空車のタクシーがとろとろと、
「ら、らっきー……」
土門くんが手をふってすかさず止め、タクシーは付近の小径を使ってUターンしてから、県道を東のほうへ走り出した。
そして一キロほど行くと、信号のある三叉路《さんさろ》を左に折れて脇道に入った。
「ここは栗坪《くりつぼ》いう場所やあ……」
地図をなぞっていたらしい土門くんが、後部座席に顔を向けていう。
「そうそう、その栗坪だけど、高句麗のくり[#「くり」に傍点]に坪で、高句麗人の土地。もしくは、坪の漢字を変えて、魔法の壺のつぼ[#「つぼ」に傍点]で、高句麗人の土地の要所《かなめ》。そんな意味じゃないかって説もあるわ。……栗坪のほぼ真北に、聖天院が建っている聖天の山があるのよ」
タクシーは長閑な田舎道をしばらく走ると、橋にさしかって速度をゆるめた。
水量のそう多くない半分砂地のくねーっと蛇行している高麗川が下を流れていて、その橋は対向車があると渡れないような細橋である。
さらに田舎道をしばらく走ると、やや広い道路に出て、すこし走ってから左に折れると、広々とした駐車場に入ってタクシーは止まった。全面アスファルト敷きでよく整備されていて、それに年末のこんな日でも、そこそこ車は停《と》まっている。
「わっ、またあんなん立っとうぞう」
土門くんが、駐車場の奥を見やって顔をしかめながらいった。
「……チャンスンよね。でもあんな感じに立てられちゃうと、さすがに紛《まぎ》らわしいわよね」
運賃を支払って車から降りてきた、まな美もいう。
四人は、そちらへと歩き出した。
それは車を使っての参詣客には門のごとくに屹立《きつりつ》して見える四、五メーターほどの白い石で作られた天下大将軍と地下女将軍だが、それぞれの頭飾りが左右に出っぱっていて、その右と左を(イメージして)つなぐと、いかにもといった感じである。
まだ出来て真新しいようで、背後に廻ってみると黒石がはめ込まれて銘が刻まれていた。
「なになに……日韓国交正常化四十周年『韓日友情年』を記念し、この長丞《ちゃんすん》を建立、高麗神社へ奉納。二〇〇五年十月二十三日、在日本大韓民国民団中央本部、団長なにがし」
白い長丞の後ろがわにも何かを作るようで、簡素な柵がしてあって地面が掘られている。
「天目、このあたりから写真を撮っといてんか」
「どうしたの?」
「ほら、後ろにある本物《ほんもん》の鳥居と、ちょうど重なって見えるやんか」
三、四十メーターほど斜め後方に、焦茶色をした素木の大鳥居が平行に立っている。
「あら、ほんとだわね……」
「こういうんこそ、まいんどこんとろーるいうんちゃうか? こっちが鳥居の起源であーる! そう勘違いしてくれーいう意図が見え見えやねんけど」
「………」
まな美としても、返す言葉がない。
「そやそや、神社そのもんが韓国《あっち》起源やねんから、鳥居ぐらいどうってことあらへんな」
「………」
「なんでも西暦六年に、新羅のなんとか王が初代の新羅王を祀ったんが、日本の神社や神宮の起源[#「起源」に傍点]やそうや。そのくせ二〇〇六年は節目の二千年祭やいうのに、なんで日本は記念行事をやらへんのやぁーと厭味たらたら、しかもご丁寧に、そこだけ赤字で書かれてあったでえ。たしか、この長丞を建てはった民団のほーむぺーじに」
――正しくは『在日本大韓民國民団湘南中部支部の韓日古代史への旅』二〇〇五年四月十七日更新に。
「………」
「それにや、神さんそのもんが、これも朝鮮半島の神話・檀君《だんくん》神話に出てくる熊のことをコムいうて、それが訛ってカムになり、さらに訛ってカミになったそうや。あてはめぱずる[#「ぱずる」に傍点]で訛り放題やけど、ともかく日本の神さんは、あっちの熊[#「熊」に傍点]いうことやぞう」
「……わたしを怒らせてもしかたないわよ!」
しばし沈黙していたまな美が、噴火していった。
「つまりそういうこっちゃ」
「なにが!? なにがそういうことなのよ!?」
「あんな、こういうことに興味あらへん人にとってはどうでもええことやろうけど、ねっと[#「ねっと」に傍点]を見とったら、怒っとっての人は、ものすごう怒ってはるで。自分はもう免疫でけたけど」
……それは|嘘っぽい《どうだか》!? まな美は思う。
「そやのにもかかわらず、あちらさんは輪をかけて、この手の論説を書き散らすわけや。それも個人のほーむぺーじとか違《ち》ごて、民団[#「民団」に傍点]やでえ。これは日本の国内にあって、たしか政府に匹敵するような公的[#「公的」に傍点]な組織ちゃうん? これこのままほっといたら戦争になる思うで自分は」
「そこまで馬鹿じゃないでしょう。日本の国民も、あちらさんも」
「さあどないやろか? 今世界中のあちこちで戦争やっとうけど、そのほとんどが宗教戦争やんか。そやったら日本の神さんや神社は、起源を捏造[#「捏造」に傍点]されて侮辱されても[#「侮辱されても」に傍点]、しかも公的[#「公的」に傍点]に、それでもなーなーで笑ってすますんやろうか?」
「侮辱……とまではいかないと思うけど」
「それは感じ方しだいやで姫。自分はこう見えてもやな、いかなる種類の神さんに関しても、信仰心はいっさいあらしません!」
土門くんは、さも自慢げに断言していってから、
「そんな自分がやな、この民団のほーむぺーじなんか見ると、あほー[#「あほー」に傍点]と怒鳴りとうなるんやから、信仰心の厚い人やったら……それこそ姫以上に怒《いか》りまくる思うぞう。それにやな、そこに書かれとうことがかりに[#「かりに」に傍点]百%正しかったとしても、日本の神社に相当するような信仰は、はるかにとーの昔に捨ててしもとう民族に[#「民族に」に傍点]、とやかくいわれる筋合いはあらへん[#「とやかくいわれる筋合いはあらへん」に傍点]! そう思わへんか姫?」
「うん! それはそのとおり[#「それはそのとおり」に傍点]――」
まな美も、強く同意していってから、
「それに土門くんの話を聞いてて気づいたけど、日本の神社に関しても、文化泥棒と同じ感覚でやってるのね。朝鮮半島《あちらがわ》には神社のようなものはないから、日本の神社って穏《おだ》やかだけど、これはこれで歴《れっき》とした宗教だということがわからないんでしょうね。それに、よその国の宗教や神さまを愚弄《ぐろう》するような行為は、戦争をふっかけてるに等しいと、わたしも思うわ」
「おっ、めずらしゅう意見が一致したやんか姫」
「うーん……しぶしぶね」
まな美は、しぶしぶの顔をしていい、
「けど、それとこれとは、土門くんとやってるディベートとは別問題よ」
「はははははっ……姫もちょっとやそっとでは騙《だま》されてくれへんなあ」
「ど、どういう意味なのよ!?」
「自分がいかにまとも[#「まとも」に傍点]で、かつ過激《、・・》なことをいうたからいうても、それはあくまでもヤマトタケルノミコトとしての言動であって、つまり口合戦《でぃべーと》の一環やいうことをお忘れあらへんように」
「なっ、なんて卑怯《ひきょう》な!」
「口合戦《でぃべーと》に卑怯もへちまもあらしません。はははははははっ……」
土門くんが嘯《うそぶ》いて笑っていると、
「さあ、それじゃ神社のほうへ行きましょうよ」
ふたりの深刻そうな(それでいて冗談っぽい)会話を、横でおとなしく聞いていた弥生がいった。
赤茶に金枠で金文字の『高麗神社』の美しい額がかかっている素木の立派な大鳥居(明神鳥居)をくぐると、左がわに瀟洒《しょうしゃ》で清々《すがすが》しい感じがする手水舎《てみずや》があって、四人は手と口をすすいだ。
背後は鬱蒼した木々が茂っている聖天の山である。
手水舎の横には丸太枠の説明板が立っていたが、それまでの歴史部の会話に出てきた事柄しか記されておらず、土門くんは声に出しては読まなかった。
幅五メーターほどの素晴らしく整備された石畳の参道がのびていて、左右には大小の石灯籠《いしどうろう》がてんてんと立ち並び、何本もの木が植わっている。
その一本一本の前に白い杭が立てられてあって、献木・逓信大臣小泉又次郎、同・内務大臣|若槻禮次郎《わかつきれいじろう》、同・衆議院議員鳩山一郎、同・最高裁判所長官石田|和外《かずと》、李《り》王妃|方子《まさこ》女王殿下御手植、李|王垠《おうぎん》殿下御手植、三笠宮崇仁《みかさのみやたかひと》親王殿下御手植……などなど。
それらを見ながら歩いていくと、赤い前垂れをつけた小ぶりの狛犬(阿・吽は標準)につづいて、左がわに説明板が立っていて、謎が解けた。
「出世明神の由来」
立て看読みの玄人《ぷろ》・土門くんが読む。
「当社は遠く奈良時代|元正《げんしょう》天皇の御代高麗郡を統治した高麗王若光《こまのこきしじゃっこう》をお祀りした社で、創建より千三百年を数える古社である。古来、霊験あらたかをもって知られ、高麗郡総鎮守として郡民の崇敬を受けてきた当社は、近代に入り水野錬太郎氏、若槻禮次郎氏、浜口|雄幸《おさち》氏、斎藤|実《まこと》氏、鳩山一郎氏等の著名な政治家が参拝し、その後相次いで総理大臣に就任したことから、出世開運の神として信仰されるようになった。近年では……もうどうでもええな、以下省略。高麗神社社務所」
そして右がわにも小さな立て看が出ていて、
「初詣は、元旦、二日、三日、午前十一時以降混雑します。なるべく十時までにご参拝ください。氏子崇敬者殿。宮司」
――弥生が、厳《おごそ》かな口調で読んだ。
すこし先に十数段の幅広の石段があって(左がわには車椅子用の緩坂道《スロープ》もあり)、その上には神社の向拝《こうはい》……かと見間違うような唐破風《からはふ》がはり出した銅葺き屋根の、威風堂々とした素木造りの門があった。
金金具《きんかなぐ》は控えめだが錆《さび》ひとつなく輝き、焦茶の素木にも千社札などは貼られてなくて、端正で美しい。
白地に紫の朽木摺《くちきすり》(紋ではない一般的な模様)の門帳が下がっていて、ひさしの下に、素木で横長の古い額がかかっていた。右から左への表記で、
――高 麗 神 社。
「あれ!? よう見たら、すごい小さな字で、句[#「句」に傍点]の字が入っとうぞう」
――高句[#「句」は小文字]麗 神 社。
「これは字の割付《バランス》からいって、後から加えたっぽいわよね……なんにせよ、高麗《こうらい》王朝のほうと間違われないようにしたんでしょうね」
「そやったらいっそのこと、高句麗神社にしてしもたらええのに。高麗《こま》いう読みも、けっしてええもんちゃうねんから」
「でもそういうことを言い出すと、それこそ、歴史の隠蔽になるわよ」
「ふーん微妙な問題やなあ……」
そして門をくぐると、ならびの素木の塀の内がわに、色とりどりの千羽鶴の束《たば》がすだれのようにたくさん吊り下がっていた。
開《ひら》けた空間はわずかで、すぐ前に社殿があり、銅葺きのゆるやかな流れ屋根を四本の柱で支えていて、つまり三間社流造《さんげんしゃながれづく》りである。ここも焦茶の素木で、だが比較的新しい建物らしく、やはり端正で美しい。
四人は、いつものように参拝をすませてから、
「自分ちょっと気づいたことあるぞう」
土門くんが、さも意味深に濁《にご》った声でいい出した。
「なあに?」
「ここ、注連縄とか紙垂とかあらへんやんか」
「あら、いわれてみれば……」
「たしか、手水舎のところにはありましたよ」
弥生が思い出していう。
「ほな、それぐらいちゃうか。こういうんはふつうなんか姫?」
「さあ、神社によっては注連縄や紙垂を、そう使わないところもあったような気がしないこともないこともないような……」
まな美は、土門くんふうに胡麻化す。
「そやったら、あの剣道コムドの蹲踞《そんきょ》や袴《はかま》と同《おん》なじで、日本的なこと廃《や》めていっとんちゃう」
「それはないわよ。ここは日本[#「日本」に傍点]の神社なんだから」
「わっからへんぞう。今でこそ純和風の素木の建物《たてもん》やけど、もう何十年かしたら、きんきらきんの極彩色に塗られとったりして」
「だったら、その何十年後かに来てみましょうよ」
「ええー、いややー、姫の婆《ば》っさん顔《がお》なんか見とうあらへんぞう」
「な……なんてこというのよぉぉぉ!……」
まな美は声を嗄《か》らして激怒し、叩きに行く。
そして土門くんは、すたこらさっさと逃げる。
そんなふたりの様子を目では追いながらも最前からずーっと寡黙《かもく》をとおしていた御神《マサト》は、別のことが気がかりで、そちらの情景をのぞき見ていた――。
――竜介は、高比良邸へと通じる坂道を、ちょうど歩きはじめたところであった。
ひそかに追尾しているB班から、まもなくそちらに着くと、ついさっき連絡が入ったからである。
二台のロケバスは近くの脇道に隠れていて、竜介以下、油谷Dと音声係+ADに撮影係《カメラマン》+ADの総勢六名という小人数で向かっている。
生駒刑事が数日前に竜介に説明したジグザグジグの道の最初のジグであるが、三十メーターほどの簡易舗装された上り坂で、右がわは細い木がまばらに立っている崖、左がわには戦国時代の城のような、小窓がぽつぽつと開いた白壁の塀が連なっている。
そして一行が、その坂道《ジグ》の先にある広い駐車場に着くと、乗用車が二台停まっていた。
だが、その奥に、生駒刑事が説明しなかった設備があった。崖の一部にコンクリートの枠がはまっていて、金属製の緑色をした扉が見えている。どうやら、エレベーターの出入口のようである。
油谷Dが、そちらを指さして何やらいった。
竜介も、うなずいている。
そのエレベーターは、おもに老人や荷物運搬用で子供たちは使わないようである。だが賓客[#「賓客」に傍点]には用いるはずで、それに幸いなことに防犯カメラらしきものは見あたらない(もしあったなら、誘拐犯人たちが映っていたはずである)。
そして六名は、駐車場を囲っている白壁の塀ぎわに張りつくようにして身をひそめた。大人が立ったままで隠れるぐらいの高さはあるようだが、皆一様に腰を落としている。
油谷Dが、黒のダウンジャケットのポケットから携帯電話をとり出すと耳にあてがって、ひとうなずきしてから再びポケットにしまった。――車が下に着いた、そんな連絡が入ったようだ。
栗茶《マルーン》色をした巨大な角ばった乗用車で、片がわにドアが三枚ついているのが見える。
やがて――駐車場にゆっくりとその巨体をあらわすと、停車した。
運転席から濃紺の背広姿の初老の男性が降り立ち、後部座席の中央のドアを恭《うやうや》しく開けた。
ほぼ純白の……羽衣のように軽そうでゆったりしている独特の重ね着……中国の服だろうか……小さな菊花の模様が金糸でうっすらとちりばめられている……長い黒髪で、赤い南天のような髪飾りをつけ、まだ若くて二十代前半のように見えた。
そんな女性がドアから降りてきて歩き出すやいなや、油谷Dが、|GO《行け》! の合図を出したらしく、六名が一団となって小走りに駆けていって、彼女をとり囲むようにして行く手を塞《ふさ》いだ。
すると竜介が、彼女の前に半歩進み出るや、手に折りたたんで持っていた白い紙をひろげて、読みはじめた。いわゆる挑戦状であるが――。
御神は、こういったほぼ現在時間《リアルタイム》の映像では、音声はほとんど聞きとれないのである。森羅万象を見通せるとはいっても、けっして万能ではないのだ。
――文面はもちろん見える。
だが、遅ればせながらに最後尾のドアが開けられて、つぎつぎと三人の女性が降りてきた。
御神は、そちらのほうが気になった。
三人とも、ほぼ純白の似たような衣装だが、ベールの頭飾りをつけていて顔をすっぽり隠している。
いけない――。
――御神《マサト》は、悟られてはまずいので、見えていた映像を速《すみ》やかにかき消した。
マサトのかたわらには、弥生だけが立っている。
「ふたりは?……」
「この裏に、高麗家《こまけ》住宅という古い家があるようで、そちらに走って行かれちゃいました。天目先輩は、まだすこし写真を撮るからといっておきました」
「ありがとう。じゃ、ぼくたちも……」
そういってマサトは歩き出したが、ふと思いついたかのように肩にかついでいたライム色のバッグに顔を向けて、何事かを語りかけた。――
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「いい絵が撮れましたよ! 先生も演《や》りますねえ、すこしおどおどされてたところが、最高《グッド!》でした」
高比良邸の坂道を下りながら、上機嫌の油谷Dがいった。
「ふむ……」
竜介としては、意識して演技したつもりはないが、
「けど、スムーズにいきすぎじゃないか?」
「なんのなんの南のなんの」
油谷Dは、大昔の業界|与太《ギャグ》をいってから、
「挑戦状を受けとらしちゃったんだから、もうこっちのものです」
「だけど、あの娘《こ》、なんだか影武者《ダミー》っぽいよ?」
「ええ、後から降りてきた三人ですよね。自分も気づいたんですが、時すでに遅しで。……それに彼女がキクちゃん本人であろうがなかろうが、ともかく、土俵に引きずり出す! それが突破口になりますから」
油谷Dは、みずからの過ちを強引に繕《つくろ》っていう。
「それに、すんなり話にのってくるだろうか?」
「それは様子見ですけど、まあ十中八、九、先方から連絡が入りますよ。そのために、挑戦状の文面を練りに練ったんですから、Pと放送作家で――」
もちろん電話番号などの連絡先が明記されていて、この制作会社や放送予定のA局そしてT大学認知神経心理学情報科・博士[#「博士」に傍点]・火鳥竜介……らの署名入りである。室長や講師は貧弱[#「貧弱」に傍点]なのでやめてもらった。
そんなことよりも何よりも、竜介は、後から降りてきた三人+影武者の四人の女性、女性だけのこの種の組織には思いあたるところがあって、かりにそうだとすると、頗《すこぶ》るやっかいな敵[#「敵」に傍点]である。さらに背後にはあいつ[#「あいつ」に傍点]の影もちらつくし……まずいことに足をつっ込んじゃったな、そんな思いが強く、竜介の言葉のはしばしに否定的なニュアンスが含まれていたのはそのせいである。
私道の坂道を下りきって、ロケバスのほうにとろとろ歩いていると、沢ノ井Pが出迎えてくれた。
「ご苦労さまでした、火鳥先生。――油谷くん、うまくいった?」
「はい、先ほど連絡したとおりです。あの挑戦状は、しっかと受けとらせました。まあ百点とまではいかないでしょうけど、目的は、充分に達しました」
油谷Dは(Pの手前)自信たっぷりにいう。
「うん、だったら大丈夫だな。じゃ、とっとこ東京へ戻って、そろそろ本撮りのほうを煮詰めなきゃいけないから、その打ち合わせを、もちろん火鳥先生も、えー、軽く一杯いただきながら……」
まだ真っ昼間である。たぶん東京に着いても、まだ夕方にすらなってなさそうな時間帯であったが。
そして竜介がロケバス(大)に乗り込むと、若い女性のADが声をかけてきていう。
「火鳥先生、先ほど、先生のバッグが震えていました。携帯の着信かと」
「あ……ありがとう」
各人の(とくに特攻組の)バッグなどの私物は最後尾の座席にまとめて置かれていて、ADの彼女は、その見張り役なのである。
竜介が、いつものグルカの小型鞄《セカンドバッグ》から携帯電話をとり出して見てみると、桑名政嗣からであった。
ふむ、このようなバスの中では――。
竜介がふたたび車外に出ると、まだ油谷Dを含めて何人かが、撮影機材の撤収のために路上にいた。
竜介は、小径《こみち》をすこし奥に歩いてから、
「……はい、火鳥ですが……あら、迎えに来てくれるって?……それはそれは……だったらさ、芝居するから、もう一度おなじことをいってくれる……」
そして竜介は、油谷Dの近くへと、さりげなく歩み寄りながら、
「……火鳥ですが……ええ? 迎えに来てくれるって?……急ぎの用事?……ところで、ここの場所わかります?……やー、さすがは刑事さん[#「刑事さん」に傍点]……数分で着くって……じゃあ、待ってますよ」
「ど、どうされたんですか?」
竜介が電話を切るなり、何事かと心配顔の油谷Dがいう。
「なんか急用らしくって、こことはまったく[#「まったく」に傍点]の別件だけど。ぼく催眠術を扱えるから、ときどき協力してるのよ。今のもさ、そんな話で」
「ですが、これから打ち合わせが……」
「けど事情が事情だからさ、それはまた後日に。それにこういうの、業界用語で何ていうんだっけ?」
「……けつかっちん」
「そう、そのけつかっちん[#「けつかっちん」に傍点]ってことで――」
竜介のくさい芝居も、ときには役に立つようで、それから二、三分もすると見知った紺色のセダンが道に姿をあらわし、竜介は、延長不可《けつかっちん》の謝罪や挨拶もそこそこに、そちらに小走りに駆けていった。
「――いやー、ありがとう。助かったよ」
後部座席にすべり込みながら。
「いえ、どういたしまして。御神さまが、火鳥先生のお迎えにあがるようにと」
「さすが、わかってらっしゃる」
「なんでも、この付近は空気がよどんでいるとも」
「まさに……」
竜介は、車の窓ごしにふり返って見ながら、
「……あの立派な家も、すでに魔[#「魔」に傍点]の手に落ちちゃったってことだよな」
それに、その名家ぶりからいっても、一家《いちいえ》だけではすみそうにない。
そして田舎道を四、五分ひた走ると、竜介の空耳か? 妹と土門くんに似たような声が聞こえてきて、ラジオ番組かとも思ったが、どうもちがうようで、
「これ、どこから聞こえてくるの?」
「あのですね……」
政嗣は苦笑しながら、
「御神さまのカメラバッグに、その横《サイド》についている小袋にですが、マイクが入ってるんですよ。もちろん、御神さまもご了承ずみです。こうでもしませんと、置いてけぼりを、わたしたち陰≠ェ」
「な……なるほど、彼らは勝手気ままだからなあ」
竜介は笑っていいながらも、羨《うらや》ましく思う。
「それに聞いておりますと、先生の妹さんと土門くんの会話は、それはそれは高度で、もう大人顔負けとか、そういった次元《レベル》をはるかに超えていまして、とっても勉強になります」
「あのふたりはね、ほどほど、てことを知らないんだ。なんでもかんでも徹底的に掘り下げるからね。あれほど、ほどほど[#「ほどほど」に傍点]にしとけっていってるのに」
「へっっっぐじゃん!」
「く、くしゅん!」
政嗣の運転する車は速度をゆるめて、道路わきの空き地に入って止まった。
「前に、一台停まっておりますが、あちらの車で、先生をお送りいたします」
「あ、そう……どうしようかな、せっかく来たんだから、ぼくも見学していこうかな。彼らといっしょに」
「そうなさいますか。今、どこにおられる?」
政嗣は、助手席にいる若い陰にたずねた。
「今ちょうど、高麗神社から出られまして、聖天院というお寺のほうに向かわれるようです」
「あ、知ってる知ってる。ぼくは一度行ったことがあるので、近くに着けていただければ」
「かしこまりました――」
竜介は、聖天院の参道わきの駐車場で、車から降ろしてもらった。
百メーター以上はある直線の参道兼車道で、左右は開《ひら》けていて木も何もなく、正面に寺の建物がいくつかと、緑の木々が茂っている低い山が見える。
寺の入口の手前に左右への脇道があった。あたりを散策しているふうの若い男女が、竜介の顔を見ると軽くお辞儀をして、
「こちらの道から、まいられます」
――指さして教えてくれた。
もちろん陰である。名前は竜介は知らない。
竜介も会釈を返してから、その脇道ではなく直進して境内に入った。いや、入口わきにオレンジ色[#「オレンジ色」に傍点]をした案内板が立っていたので、気になってそちらに歩いていった。
木目がそんな色に見える真新しい立て看で、しかも左半分がハングル、右半分が日本語だ。
〈へー……〉
そして『聖天院の由来』と題された日本文のほうにざっと目を通していくと、その最後に、二〇〇〇年には山腹に新本堂を建立し、同時期に在日韓民族無縁の慰霊塔を建立されました、と書かれてある。
〈ますます、へー……〉
竜介が、かつて訪れたのは十年以上も前で、想像していた以上にあれこれと様変わりしているようであった、ここは[#「ここは」に傍点]。
竜介は、あらためて境内に進み入った。
太くて大きな石灯籠が左右にあって、十段ほどのちびた石段の先に、二階建て(二重|楼閣《ろうかく》)の山門がでーんと立っている。えらをはったような瓦屋根をのせて素木がほどよく古びている威風堂々としたそれは、竜介の記憶どおりである。
〈これは二、三百年は経《た》ってるよな……〉
竜介は、そういった年代は適当《アバウト》だ。
山門の通路の天井には大きな赤提灯が吊り下がっていて、江戸文字で『雷門』とある。裏がわを見ると『風雷神門』とあり、誰某《だれそれ》からの奉納品だ。
〈……さあて、どこで待とうか。ここに隠れていてわっと驚かそうか……〉
などと、年甲斐もなく子供じみたことを思っていると、瑠璃紺《るりこん》・御召茶《おめしちゃ》・一斤染《いっこんぞめ》・猩々緋《しょうじょうひ》の色とりどりのダウンジャケットを着た四人が、さっきの脇道を歩いてくるのが竜介にも見えた。
逆に、聖天院《こちら》を先にすませてから高麗神社へと向かう参詣客もちらほら歩いていて、辺鄙な場所のわりには意外とにぎわっているようだ。
だが、歴史部の四人も同様に、オレンジ色の案内板の前で足を止めた。例によって立て看読みの玄人《ぷろ》が……だが声は竜介のいる場所までは届かない。
そして、四人もようやく境内に進み入った。
「あら、あんなところに誰かさん[#「誰かさん」に傍点]がいるわよ」
「ほんまや、さっきの嚔《くしゃみ》の正体は、これやったんやなあ」
「かっこつけちゃって、柱にもたれかかってるわ」
「ほな、うちらはどんなりあくしょん[#「りあくしょん」に傍点]がええ?」
「そうね、歓待してあげたほうが、喜ぶと思うわ」
「そやったら、走って行こかあ……」
相談がまとまると、まな美と土門くんは口々になにかを叫びながら、四人は、大きな山門のほうへと石段を駆け上がっていった。
「……いやー、仕事が早く終わってね、このあたりで待っていると、きみたちに会えるんじゃないかと思ってさ」
竜介は嬉しそうな笑顔でいう。
「さっきの仕事、あれはテレビの撮影だったんでしょう。おにいさんテレビに出るの?」
「さあ、どうだか……」
このまま事態が進行すると出演せざるをえないが、しかも準主役級で、できれば頓挫[#「頓挫」に傍点]してくれないかと竜介は願っている。
「そんなことよりも、この門はすごいじゃないか。とくに左右の、風神と雷神の像が」
――話題を逸《そ》らしていう。
「あら、ここは仁王像じゃなかったのね」
「ほんまや、雷《かみなり》さんが太鼓もってはる。それに色がはげとって、時代が出ててええ感じやぞう……」
素木の金剛柵《こんごうさく》で囲われてあって、上半分の細木の格子ごしに左に風神・右に雷神の雄々しい木彫像が見えていて、マサトも写真を撮りはじめた。
「……そやけど、あんなとこまでよう千社札を貼っとうなあ? 格子のあっちがわやないか!」
風神・雷神像の背後の板壁にまで貼られている。
「わたし何度か目撃したことがあるんだけど、細長い竿で、先がマジックハンドみたいになってる専用の道具を使っていたわ。他人《ひと》が貼れないようなところに貼るのが、どうやら快感らしくって」
「しゃーあらへんやつらやなあ……」
もちろん山門の通路の目に見える場所は、それこそ千社札の雨あられ状態である。
それに、中央の鴨居《かもい》からは、赤茶色の菊紋が入っている白い門帳が下がっていて、
「こういうのれん[#「のれん」に傍点]、お寺の門にもつけるんか?」
難癖っぽく土門くんはいう。
「たしかに一般的じゃないわよね。でもお寺って、神社に比べると自由だから。それに、さっきの高麗神社の、ここが正門[#「正門」に傍点]である。そういったお寺がわの意地[#「意地」に傍点]のようなものがあるんじゃないかしら……」
「さ、さすがは姫、深読みしはるなあ」
横で竜介も、ほうほう、とうなずいている。
その門帳をくぐって先に進んでいた弥生がいう。
「こちらがわに、奇麗な天井絵がありますよ」
山門の裏面もほぼおなじ造りで、だが像の置かれる場所はがらんどうで金剛柵や格子はない。
「あ……鳳凰《ほうおう》の絵やんか。尾羽やまわりの雲は白で奇麗やけど、胴体は茶色で、古い写真みたいにものとーん[#「ものとーん」に傍点]なっとうな」
「色が飛んじゃったのかしらね……でも朱雀《すざく》だから、元来こんな色なのかもしれないわ」
「待てよ、ほな、こっちがわにもあるんちゃうか」
いうと土門くんは、赤提灯《あかちょうちん》が下がっている前面のほうに戻って天井を見上げながら、
「ありゃ? こっちは消えてしもとうなあ……」
まな美も、再度そちらに移動しながら、
「……ほんとね。何が描かれてあったのかしら?」
「うっすら残っとう痕跡《あと》からゆうて、鱗《うろこ》みたいなのが見えとうから、たぶん竜ちゃうやろか?」
「みたいよね……」
「そやけど、左右の天井は(風神・雷神像の上)、雲がきれーに残っとうやんか。そやのにここの竜の絵だけ、雑巾《ぞうきん》でも使《つ》こて、がーっと擦《こす》りとったみたいに消えてしもとうぞう」
――マサトも天井を見やった。
自身、竜の化身[#「竜の化身」に傍点]である御神としても、それは内心けっして愉快な話ではない。
「ここだけ、なぜこうなっちゃったのかしら?」
見上げているまな美も、そのまま首をかしげる。
「ふむ、これはぼくが想像するに、たぶん提灯が原因じゃないか――」
竜介博士[#「博士」に傍点]が推理していう。
「これは明かりを灯すとき、電球? 蝋燭《ろうそく》?」
「うーん……電線《コード》はきてないみたいだわ」
「すると、蝋燭からは、水蒸気が昇っていくだろう。それにこの種の天井絵は、水彩系の岩絵の具で描かれているはずだから、雫がついて、徐々に溶かされてポタポタ落ちちゃったんだろう。左右が残っているのは、途中に横木があって防がれていたせいだ」
「なるほど、さすがは大学の先生やあ!」
土門くんは、お世辞半分で褒めていう。
「はははっ……きみたち歴史部には解けない謎も、このぼく[#「ぼく」に傍点]にかかれば」
竜介は調子にのって大口をたたいてから、
「ところで、ここは高句麗の王さまの菩提寺《ぼだいじ》なんだけど、知ってるよね?」
「もちろんよおにいさん! 日本書紀によると、六六六年に高句麗から日本《やまと》に使節団が派遣されて、副使の二位[#「二位」に傍点]に、玄武《げんぶ》若光という名前があり、そして『続日本紀』の七〇三年に、従《じゅう》五位|下《げ》、高麗若光、王の姓《かばね》を賜《たま》うとあって、同一人物だと考えられ、同『続日本紀』の七一六年に、各地の高句麗人たち千七百九十九人をこの地に遷《うつ》して高麗郡を設置し、その若光王が亡くなったのは、社伝などによると、天平《てんぴょう》二年――七三〇年よ」
「お、おっと」
まな美は(土門くんに注釈もさせず)一気にまくし立てていった。
「ふむ、あいかわらず……」
竜介としても苦笑するしかない。
「じゃ、そろそろ、お寺のほうに行きましょう」
山門のすぐ裏手に、山へと通じている長い石段が見えていて、まな美は先導して歩きはじめた。
「あっ、待て待て――」
竜介が、呼び止めていう。
「ぼくも以前に来たとき迷ったんだけど、その若光王のお墓って……山の上にはないんだ」
そして付近をきょろきょろ見廻してから、
「あれだあれだ! あの木立のあたり、低くて青い瓦屋根が見えてるだろう。あそこ――」
山門の真右(東)の二、三十メーター先を指さしていった。
「あら、あんなところに?……」
「意外だろう。ははははっ」
竜介は自慢げに笑って、一同は、あらためてそちらに歩き出した。
あたりの庭木はみな一様に毬藻《まりも》のように美しく剪定《せんてい》されていて、いかにも高級そうな黒石に『高句麗若光王陵』と刻まれた碑が手前に立っている。
そして奇岩の自然石を積み重ねたような石灯籠が左右にあり、さらにその脇には、
「――ひ、姫! あんなもんが置かれとうぞ!」
「あ!……あら!」
「あらあ!……」
「!……」
それ[#「それ」に傍点]を目にするなり、歴史部の四人は、そろいもそろって氷のように固まってしまい、竜介は驚きながらも不思議そうにいう。
「ど、どうしたのきみたち? たしかに、狛犬[#「犬」に傍点]ではなくて珍しいけど……」
古びた白石で背の低い、いわば狛羊[#「羊」に傍点]が左右に置かれてあったのである。
「……この羊、なにか特別な意味でもあるの?」
「おおあり名古屋ですよおにいさん。めぇ〜」
「ど、どういった意味が?」
「それは……目利きの頂点《とっぷ》におたずねを」
土門くんは、まな美を指さす。
「うーんでもここで説明するのは、時間がかかりすぎちゃって……メェ〜」
まな美も羊の鳴き真似をして頭《こうべ》をたれて謝る。
「ふむ、ぼくが知らないことがあるというのは!」
気に食わない、とばかりに竜介は怒る。
「………」
土門くんは、弥生に窘《たしな》められた物騒な冗談を、聞こえない声でつぶやく。
ともあれ、一同は、奇岩の石灯籠とその狛羊[#「羊」に傍点]を左右に見ながら、低い白塀で囲まれた中に入った。正面には『高麗王|廟《びょう》』の木の額がかかった青い瓦屋根の小屋ふうの建物があって、木の格子扉が開いていて、自然石を積み重ねたような多重塔が立っているのが見えている。前には飲み物などのお供え物がたくさん置かれてあった。
が、一同、とくに手をあわせて拝むわけでもなく、竜介は気になっていたことをたずねる。
「ところで、きみたち歴史部は、いったい何を調べてるんだ?」
「――武蔵国の事始めを解き明かす。それが研究の主題《テーマ》よおにいさん」
まな美が簡単に説明していった。
「ふーんけど、それはきみたちがやるには、ちょっと荷が重すぎるんじゃないか? 複雑多岐で」
「なにいってるのよおにいさん!」
「なにいってはるですか、めぇ〜!」
ふたりそろって、竜介兄貴を睨みつけてから、
「もうけっこういい線までいってるのよ」
「そのとおりです。このヤマトのタケルさまが、渡来人はあらかた消し去って、闇に葬り去ってやったし! それに大國魂神社の謎解きかて」
いうと土門くんは、またしても弥生に目配せをし、
「さくら、あそこに輝いとうお星さまは?」
「……アンドロメダ」
「ほな、こっちがわに見えとおんは?」
「……南十字星」
「このろまん[#「ろまん」に傍点]あふれる統一理論的謎解きが、近日まもなく日の目を見る予定で、これにて教科書がこっきんしょーんと書き換わるんやあ! がははははははっ!……」
そんな土門くんの雄叫びを尻目に、無視して竜介はたずねる。
「さくら[#「さくら」に傍点]って、いつから名前を変えたんだ?」
「二日前あたりからでしょうか……」
弥生は、もはやあきらめた表情でいい、まな美はまな美で自身の顔を指さしながら、
「知ってると思うけど、わたしは姫[#「姫」に傍点]よ。それに土門くんには、わけあって、ふーてんのヤマトタケルノミコトが降臨してるのね」
「はははははっ……」
竜介は、あきれ笑いしながらも、つい本音を吐露《とろ》していう。
「いいなあ、高校生って楽しそうで」
「そやったら、おにいさんも歴史部に入りはりませんか、今ちょうど欠員が……」
「な、なにをいってるんだきみは!」
「それはいい考えだわ。わたしたち歴史部は音楽系に弱いことだし……」
「そやそや、あーりさんあーりさん♪……」
「それはアリランだといったろう。化けて出てくるじゃないか、高句麗の王さまが!……」
などと、竜介も一緒になって、王墓のまん前で他愛もない冗談に花を咲かせていた、そのころ――。
山門をくぐって石段を登っていく、男ふたりに女ひとりの二十代と思《おぼ》しき若者の三人連れがいた。
一見ふつうの冬の服装だが、男ひとりだけ、昔の戦闘機乗りが使うような耳あてのついた革帽子をかぶっていて、レインコートふうの黒の薄手をひっかぶり、だが前がはだけて、古着っぽい茶色の革のジャンパーが見えている。どうやら、特別な模様でも描かれているらしき革ジャンで、それを隠していたようだ。
が、護衛の陰たちもとくには気に留めなかったし、御神も、この時点ではまったく気づいていない。
さらに土門くんがいくつか与太をいって、マサトが付近のカメラ撮影を終えてから、一同も山門のほうへと戻った。
石段の前には立て看が出ていて、此処《ここ》より有料・拝観料は大人三百円(小人半額)とハングルでも書かれてあった。
石段の登り口には赤い前垂れをつけた石の地蔵が右と左に三体ずつ(つまり六地蔵)置かれ、やはりここも毬藻のように刈り込まれた低木を左右に見ながら石段を五十段ほど登っていくと、まっ新《さら》な白壁が連なっている小さな新品の門があって、そこが受付所だ。
「おにいさんのぶんはおごりよ」
などとまな美がいって、五人分の拝観料をまとめて支払い、カラー印刷の拝観券をもらった。
「……なんだか、ぜんぜんちがってるな」
あたりを見廻しながら竜介はいう。
「たしかもうここ[#「ここ」に傍点]に、本堂が立ってたんだけどね、古いのが……ぼくの記憶では」
新品の門をくぐった先は、砂利が敷きつめられた小さな運動場ぐらいの台地で、正面の奥は日本庭園、そして右奥に僧坊らしき建物が見えている。
「そのおにいさんの記憶おうてはりますよ」
土門くんがいう。――拝観券の裏に、境内の案内地図と簡単な説明文があって、それを見ながら、
「えー……平成十二年に裏山山腹に七年の歳月を費やした総|欅《けやき》造りの新本堂が落成し、西方山腹には在日韓民族無縁仏慰霊塔が在日有志の厚志により完成しました。また旧本堂跡地には、中門、そして塀の建立……つまりこれやなあ」
土門くんは後ろを指さして、
「さらには、足利時代の阿弥陀堂《あみだどう》を移設し、庭園の拡張などの整備がなされ、平成年間に山容が一変しました、とのことです」
一同は、とりあえず、左がわの二、三十メーター先にぽつんと見えている小さなお堂のほうへと歩いて行った。
説明にあった阿弥陀堂であるが、銅葺きの屋根がのっている方形の堂宇で、木の扉が開いていて、金金具の須弥壇《しゅみだん》に鎮座している金ぴかの阿弥陀三尊像などが見えている。
「そやけど姫、この建物《たてもん》、室町いうんはちょっと無理があるんちゃうやろか?」
「………」
「それにや、ここにものれん[#「のれん」に傍点]かかっとうやんか!」
やはり菊紋の入った白い門帳が扉の上の鴨居に。
「うーん……」
土門くんのたてつづけの難癖に、まな美はしばし唸ってから、
「柱とか扉とか、どこかに室町時代のものが残っていて、まめに修繕しているから新しく見えるのよ。でも門帳に関しては、ここも江戸時代までは高麗神社と合体していたから、かまわないとは思うけど、でもこのお堂は阿弥陀堂で、完全に仏教の施設だから、ちょっとやりすぎだと思うわ」
「そやそや、高麗神社のほうでは注連縄や紙垂を使《つ》ことらへんで、お寺のほうでは神社の門帳を使うんか、もう日本の文化がずたぼろ[#「ずたぼろ」に傍点]にされとうぞう」
土門くんが、またぞろいい出した。
「え? なんだって……あちらでは、注連縄や紙垂を使ってないのか?」
「うん、実質、使ってないに等しかったわね」
「……ふむ。きみたち考えすぎだ。この種のことは、そう深く追求しないほうがいいって」
竜介は、さも大人らしく、諫《いさ》め促《うなが》していった。
阿弥陀堂の右がわには窓がない蔵のような小さな建物があって、これも染みひとつなくきれーな白壁で、それを迂回するように歩いて行くと、日本庭園の大小の岩々に囲まれた池が見渡せ、その横から登りの石段がつづいていた。
とりあえず三十段ほど、そして角度をすこし右に変えて、さらに七十段ほど。
歴史部の四人は靴音も軽くぱーっと一気に駆け上がって行くが、竜介も負けじとついていくと、残り二十段ほどで……。
「はぁ……はぁ……」
登りきると左がわには、引き窓が並んでいる社務所ふうの平屋があり、だが今は無人っぽい。
「ありゃ!? あの丘の上に、白い人間の像みたいなんが立っとうでえ」
土門くんが、目ざとく見つけていった。
まだ数十メーター前方だが、さらに石段があって、その丘の左がわには鐘楼《しょうろう》が建っていて、右奥に人物の石像らしきものが見えている。
「それはさておき、本堂へ行きましょう」
まな美が先導して、一同は右に折れて歩きはじめた。
そこも砂利が敷きつめられている広々とした縦長の台地で、その長い辺にそって奥に、二十段ほどの幅広の真新しい白い石段を前面にともなって、
――ででででで〜ん! と。
「うわあ、うちらが最近見たこの手の建物《たてもん》の中では、これが断然でかい!」
「す……すごいわねえ」
「これで、総けやき……造りなんですか?」
「さくら、そう書いてあったぞう。新しいこの手の建物《たてもん》はだいたいがこんくりーと造りやのに、これで総欅やいうところが、さらにすごい!……」
近づくと写真に収まりきらないので、マサトも遠目から撮影をはじめた。
「へー!……今時よくこんなもの建てられるよな」
竜介も含めて、一同、ただただ驚くばかりである――
石積みの基壇にのった高床式の本堂だが、建物自体はそう高くはない一層(平屋)の造りで、だが幅が広く、もちろん奥行きもけっこうあり、欅のやや赤みをおびた茶色の太柱や横木や連子窓《れんじまど》に、純白の白壁が対比し、瓦屋根は比較的なだらかで、やはり同色の二軒《ふたのき》(二段になっている)垂木《たるき》が、張り出したひさしの裏に整然と並んでいて、全体的に飾りっ気はそれほどないが、端正で美しい。
――いったい総工費にどれほどかかったのか? 何十億? いや何百億だろうか? 一同まったく想像できないが、その財力がどこから齎《もたら》されているのか(どういった人たちからの浄財によるのか)は、竜介はもちろんのこと四人の高校生ですら薄々気づいてはいたが、言葉に出してはいわなかった。
その本堂前の石段の中ほどで、他国からの観光客と思《おぼ》しき七、八名の団体《グループ》が記念写真を撮っていたので、しばらく待ってから、四人は石段を上った。
「はははっ……ここにものれん[#「のれん」に傍点]あるでえ」
「もう好きにしてって感じよね」
扉は三つあってすべて開けられていて、そのすべてに白い門帳が下がっていた。だがここだけ、菊紋と寺の紋(丸に剣|片喰《かたばみ》)が対になっている。
その中央の扉前に賽銭箱が置かれてあって、一同は小銭を投げ入れてから、手を合わせた。
堂内は、豪華な金色の天蓋《てんがい》が複数つるされ、種々の仏具で埋め尽くされてあって、その正面奥の壁ぎわに金箔の厨子《ずし》が置かれていて扉が開いていた。
土門くんが、そのあたりを指さしながら、
「遠《とお》うてよう見えへんねんけど、いったい何が祀られとおんや?」
「うーんあれはね、光背《こうはい》が赤くて火を噴いているみたいになってるでしょう。ああいうのはだいたいがお不動さまよ、つまり不動明王《ふどうみょうおう》ね」
「そういわれてみれば、書いてあったなあ」
土門くんは手に持っていた拝観券の裏を見ながら、
「えー……なになに、この聖天院は、若光の守護仏聖天尊を本尊にして天平勝宝《てんぴょうしょうほう》三年、七五一年に創建され、最初は法相宗やったけど、一三〇〇年代に真言宗に改宗し、一五〇〇年代に、体内仏弘法大師御作の不動尊を本尊とし、聖天尊を別壇に配祀して、現在に至っています……やて」
――適当に略して読んだ。
「その別壇とやらは……どこにあるのかしら?」
撮影中のマサトを除いて、四人で堂内のあちこちを見廻したが、それらしきものは見あたらない。
「まあ、いわゆる秘仏[#「秘仏」に傍点]ってことよね」
まな美は、ちょっと冷淡にいってから、
「実際、聖天――歓喜天《かんぎてん》ともいうけど、その古い仏像は、どこも実在があやしいのよ。日本最古の聖天が祀られているお寺は、意外にも武蔵国にあって、浅草寺の近くの待乳山聖天《まつちやましょうでん》なんだけど、ここの縁起によると、推古《すいこ》天皇の三年に、この地にまず金龍が舞い降りて、その六年後に、十一面観世音菩薩が大聖歓喜天に化身して出現したそうよ。だからいちおう創建は、推古天皇の九年――」
「うぇ〜、六〇一年やあ」
土門くんは、いやいやながらに注釈する。
「けどもちろん、当時の本尊は絶対に存在しないわ。あるいは、日本最初の歓喜天を謳《うた》っている深草《ふかくさ》聖天というお寺が、京都にあるらしいんだけど、ここも実在はあやしくって、それに創建は嘉祥《かしょう》三年――」
「それは八五〇年や」
「実在が確かで重文にもなっている日本最古の木造の歓喜天は、鎌倉の宝戒寺《ほうかいじ》にあって、でも鎌倉時代の作なのね」
「なるほど、そやったら、ここも古い本尊なんか実在せーへんいうことやなあ」
「わたしはそこまではいってないわよ〜」
まな美は嘯《うそぶ》いていい、土門くんに責任をなすりつける。
「ふむ……ところで、さっきの説明によると、その待乳山聖天は、浅草寺よりも古くならないか?」
「うん、実際そうなっちゃうのね。あの有名な一寸八分の観音像を、漁師が隅田川でひろったのは、推古天皇の三十六年ってことだから――」
「六二八年やあ」
「でも、この待乳山聖天は、浅草寺の子院にされている関係もあって、創建年は推古天皇の九年である、とは声高に叫べないのね、立場上[#「立場上」に傍点]」
「……なるほどね。けど非常に古くから、あの浅草《あさくさ》あたりにも、聖天信仰が入ってたわけだな」
「うん、それは間違いなくいえるわ。それにね土門くん、この浅草寺や待乳山聖天の創建にも、渡来人が深く関係してるって、もっぱらの噂よ」
「ふん!……」
一同は大本堂から離れて、さっき見えていた丘の石像のほうへと向かった。
十数段の石段を上がると、右手の崖っぷちに鐘楼《しょうろう》が建っていて、それは古いもののようである。
「そうそう、みんな覚えてる? 大晦日《おおみそか》の約束」
まな美が嬉しそうにいった。
「覚えとうぞう、夜の十一時半に集合やったな」
弥生とマサトも、うんうんとうなずいている。
「なに? 大晦日の夜[#「夜」に傍点]の約束ぅ?――」
竜介は、いかにも如何《いかが》わしそうにたずねる。
「変なもんじゃないわよ。除夜の鐘を撞《つ》かせてもらいに行くのよ、初詣もかねて、あの淨山寺に。おにいさんも行かない?」
「うーん残念、実家に帰ってる。鳥取県の大山《だいせん》に」
――母方・火鳥の実家である。
「じゃ、初詣はどこへ行くの?」
「大山って、鳥取県では西のほうにあるんだ。だから車ですこし走ると島根県で、つまり初詣は、あの出雲大社[#「出雲大社」に傍点]だ。どうだ! 勝てまい!」
「………」
さらに十段ほどの石段を上がると、大岩や木々を背にしたちょっとした丘のまん中に、唐服をまとって凜々しく前を瞠視《みつ》めているほぼ等身大の白っぽい石像が、ぽつんと立っていた。高級そうな御影石《みかげいし》の台座には『高句麗若光王』と刻まれている。
「……天目先輩。こちらがわから見ると、奇麗な竜の絵柄が見えますよ」
石像の左横にまわって見ていた弥生がいった。
ゆったりした袖のところに竜が彫られてあって、マサトも、そちらがわから写真を撮りはじめた。
背景には、本堂の屋根のなだらかな三角形をした妻《つま》の部分がちょうど見えていて、菊紋などの金色の妻飾りがきらきらと輝き、若光王の凜々しい横顔とあいまって、本日一番の構図、そんなことを思いながらマサトは何枚も写真を撮った。
土門くんはというと、
「……ぴ」
腕時計をいじりながら口ずさんでから、まな美のしわくちゃの地図をポケットからとり出して、
「王さまやから天子南面[#「天子南面」に傍点]、やと思うやろふつう? そやけど違《ち》ごとうぞ姫」
「ええ?……」
「この地図を見たときから変やなとは思とったんやけど、山門の前にあった直線の参道も、お寺の建物《たてもん》も何もかも、全体的に三十度ほど東向いとんねん」
「あら、そうだったのね……」
まな美も、しわくちゃの地図をのぞき込みながら。
「そやから、霊線は引かれとっても、けっきょく、その霊線のほうは向いてへんぞう」
「うん? それって、あの淨山寺のような霊線[#「霊線」に傍点]?」
「そうなの、高句麗の人たちも引いてたのよ……」
まな美は竜介に、一連の話を簡単に説明してから、
「……だからわたしが思うに、最初にきちっと霊線を引いたはいいけれど、いかんせん距離が遠すぎて、年月とともに、忘れ去られてしまったんじゃないかしら」
「けど自分が思うにはやな、最初の志《こころざし》は壮大やったんやけど、いかんせん距離が遠すぎて、途中にはたくさんの郡があったはずで、つまり国|盗《と》り合戦には負けてしもて、この小ぢんまりした地域だけが、高句麗人の土地として後世まで伝えられた。いうあたりが真相ちゃうかあ!?……」
「うん、まあ、その土門くんの話が現実[#「現実」に傍点]だとわたしも思うわ」
「ふーん、なるほどね」
竜介は、ふたりの説に興味深く聞き入ってから、
「まあぼくが思うに、高句麗って、完全に滅んでしまった国だろう、六百何年かに……」
「六六八年です」
土門くんが、訂正ぎみに注釈する。
「その滅びゆく国の人たちが、日本という別の国に逃《のが》れてきて……ところで、この若光王って、元来、高句麗の王族なの?」
「だと思うわ。というのもね、六六六年に使節団として来たときの名前が、玄武[#「玄武」に傍点]若光で、四神の名前が冠されてるでしょう。彼は副使の二位だったんだけど、大使や副使の一位には、こんな神々しい名前はついてないのね。だから元来、王族のはずよ」
「で、亡くなったのはいつだったっけ?」
「七三〇年よ」
「じゃあ来た当時は、すごく若いよね。つまり若い王族を、国が危ないから、逃がしたんだろうな。そして母国は滅び、その彼には王の姓《かばね》が与えられて、二千人ほどの民《たみ》も、そして高麗郡という一国を与えられて」
「まあなんて日本《やまと》の国ってやさしいんやろうか」
土門くんが、ちゃちゃを入れていう。
「つまりぼくがいいたいのは、千三百年以上も昔に、地球上から完全に滅んだはずの国が、細々とはいえ、異国のこの地で、しっかと命脈を保っていたわけだから。あの高麗神社の宮司さんって、たしか若光王の五十何代目かの子孫だろう。こんな話はそうそうないよ。それこそ、歴史の浪漫《ロマン》じゃないか――」
竜介は、さも大学の学者先生にふさわしい、夢あふれるファンタスティックな締めの言葉をいった。
――けれど!?
現実は、歴史の夢や浪漫などはどこへやらで、また別種[#「別種」に傍点]のものへと変貌を遂《と》げていることを、この先すぐに気づかされるはめになる。竜介らが立ち話に興じていたわきを、何組かの人たちが通りすぎて行った。つまり、まだ先に何かの施設があるのだ。
若光王の石像が立っていた丘を左はしまで歩くと、一メーターほど低いところに、瓦ののった低い塀がずーっと先々まで連なっているのが見えた。その塀にそって、ごく細い赤土の道が通じていて、一同はそちらに足を踏み入れた。
左がわの塀の向こうは、さらに数メーター下に、まっ平らにならされた更地が広がっていて、墓地の予定地だろうか? だが今は何もない。右手は昨今削りとったばかりの赤土の崖である。
そしてすこし歩くと、まだかなり前方だが、背後に茂っている木々の高さに匹敵するほどの、何十段もの石を積み重ねている尖《とが》った白い石塔が屹立しているのが見えてきた。
――在日有志の厚志により造られた『在日韓民族無縁仏慰霊塔』である。拝観券の裏やオレンジ色の立て看に説明があった。
〈ふむ……〉
我々日本人が来るべきところではないような気も竜介はしたが、まあ、勉学のために(戦争などとは無縁の高校生たちにとってはとくに)などと、しおらしいことを思いながら、そのまま先へと進んだ。
全貌が見えてきた。
慰霊塔の下には白石で立派な祭壇が築かれてあって、前は運動場のように広々と開け、左奥には、六角堂(もしくは八角堂)らしき屋根の建物もある。
ちょっとした野外ステージのようにも見え、祭壇の上で演奏会などが催されても様になりそうな造りである。――いや、竜介には、また別種[#「別種」に傍点]の絵が頭に浮かんでもきていた。
「おっ、ここにも石像が立っとうぞう」
右がわの崖の一段高いところに、長剣を腰にさした等身よりもひとまわりほど大きい武官の像らしきものが置かれていた。さらに先にも、白石の石像がてんてんと見えている。
その手前に下《くだ》っていく石段があって、一同は、砂利敷きの地面の上に降り立った。
武官の立像のとなりは、頭に王冠らしきものをかぶっている坐像で、つづいて丸い帽子をかぶった老人ふうの坐像があり、さらに先にも坐像が二体置かれてあったが、丸い帽子の石像下の茶色のブロック面に、説明板が埋め込まれていた。
「えー……なになに」
自称・立て看読みの玄人《ぷろ》が読みはじめた。
「王仁《おうじん》博士、わにとも読むな。十八歳で百済王朝五経博士の登録。三十二歳の時、応神天皇に紹請《しょうせい》され(招[#「招」に傍点]請の誤記か)、瓦工、冶金《やきん》工、刀工などの技術者と共に来朝し、帰化した。『論語』十巻、『千字文』一巻を日本にもたらし、学問、技術工芸、歌謡の多岐にわたる渡来文化を日本に伝え、飛鳥・奈良文化の開花に大きく貢献した人物である。つぎは、太宗武烈王《たいそうぶれつおう》、新羅二十九代王……あんにゃあ?」
土門くんは、ならではの懐疑的な疑問符を発しながらも、とりあえず先を読む。
「外向的手腕にたけ、唐との同盟関係を後ろ楯《だて》に三国、新羅・高句麗・百済、統一の土台を築いた。唐との友好関係を維持しつつ、律令制度を基盤とした本格的国家体制を確立し、以降、八代・百二十年間の新羅黄金時代をむかえることとなった。――姫、こんな王さんをここに祀ってええんか? いわば高句麗を滅ぼした張本人やで?」
「さあ……」
「えーつぎは、漢字読まれへんなあ……そやけど、高麗《こうらい》末期の文臣・学者、一三〇〇年代、ますます高句麗とは関係あらへんぞう。つぎは、広間土《こうかいど》大王、これは有名な高句麗の王さまやな。最後は、これも漢字読まれへんけど、朝鮮の女流学者、書画家、一五〇〇年代……李朝の時代の人やな。そやけど、広間土大王を除いては関係あらへんでえ。とくに太宗武烈王はあかん[#「あかん」に傍点]思うけど、喧嘩売ってるようなもんやんか!?」
「……ふむ。この五人は、現代の韓国から見ての、歴史上の偉人たちなんじゃないかな」
竜介が、とりあえず説明づけていった。
「あちらがわに、大きな説明板が立っていますよ」
弥生が、広場の反対がわの面を指さした。
四、五十メーター先であるが、
「ほな、行ってみよか……」
土門くんが、その広場を横切るように歩き出して、竜介とまな美が後につづいた。
マサトは、まだ石像の写真を撮っている最中で、だから弥生も――。
それに祭壇のほうには家族連れらしき一団《グループ》がいて、子供ふたりが祭壇前にある石段で戯《たわむ》れ、そして大人たちが六角堂(もしくは八角堂)の中のベンチに座っている。それは柱が立っているだけのいわゆる東屋《あずまや》で、屋根瓦は比較的ふつうだが、柱や軒下などは、赤と緑を基本色にした(土門くん曰《いわ》くの)きんきらきんの極彩色で模様が描かれてあった。
「――慰霊塔・聖天院開基の歴史」
説明板の前に着くなり、さっそく玄人《ぷろ》が読む。
「続日本記(紀が一般的)に霊亀二年、高句麗人、千七百九十九人を……このへんは知っとう話やから飛ばして、えー……まん中の、段落のところから、この由緒ある聖天の山腹にそびえ立つ慰霊塔は、第二次大戦の不幸な歴史の中で亡くなられた沢山の無縁の同胞達に、昔渡来した高句麗の同胞達と共に永遠の安眠を与え供養したいと願う、在日同胞|篤信《とくしん》者の真心により建立されました。塔は日本との関係、三十六年間を象徴する三十六段階で――」
「なっ、なんだとう!」
竜介が、聞こえないほどの小声で難癖をつけた。
「――高さ十六メーター、石塔としては日本最大、下部に納骨堂が備わっています。その周囲には無縁仏が生前白衣民族であったことを忘れぬよう、壇君《だんくん》をはじめ、広間土大王・太宗武烈王・鄭夢周《よまれへん》・王仁博士・申師任堂《よまれへん》、等祖国の自尊心を高めた偉人達の石像が配されています。慰霊塔左手に建つ八角亭は三・一独立宣言書を初めて朗読した、ソウルパゴタ公園内の八角亭を縮小建築したもので、祖国同胞により、祖国の建材を使用して施工されたものです。二〇〇〇年一月吉日」
――鄭夢周《よまれへん》は、ていぼしゅう、もしくはチョンモンジュ、申師任堂は、シンサイムダンである。
土門くんは読み終わって、竜介が憮然としているので、何事かと顔を見やった。
「おにいさんが怒っているのはわかるけど、まあいいじゃない」
まな美が、諫《いさ》め宥《なだ》めていう。
「いや、よくないぞ。この『三十六年間を象徴する三十六段階』の下りだけど、併合時代のことだよな。すると、これを韓国人もしくは在日の人が読めば、象徴する、の箇所が自動的に、恨み、に置き換わるだろう。ここはお寺の付帯施設だから、そういったものに、恨みや怨念《おんねん》を想起させるような造りを施《ほどこ》すというのは、明らかに釈尊の教えに反する――」
「ふーんたしかに、あの世へ行ってまでも恨まなあかんいうんは、ちょっとしんどそうやなあ」
土門くんなりに、かみ砕いていった。
「おにいさん、ここは仏教の施設じゃないわよ」
「ええ? どうして?」
「だって、三十六[#「三十六」に傍点]段階でしょう。この種の多宝塔は、仏教では奇数[#「奇数」に傍点]と決まっているから」
「あっ、そやったそやった!……」
土門くんは、思い出して小さく拍手する。
「だから仏教以外[#「以外」に傍点]の、なんだかわたしは知らないけど、恨みや怨念を籠《こ》める、朝鮮半島独自の宗教観にもとづいている慰霊塔なんでしょうね」
まな美は早口でまくし立てていい、
「な……納得」
竜介も鉾《ほこ》をおさめた。
納得するもなにも、この付近一帯はもはや韓国[#「韓国」に傍点]であり、どうぞご自由ご勝手に、の心境だ。
祭壇前で遊んでいた子供たちが八角亭[#「亭」に傍点]の中にひっ込んだので、三人は、再度広場を横切ってそちらに歩き出した。それにマサト(と弥生)も、祭壇のほうの写真を撮りはじめていたからだ。
竜介は、遠目にここを見たときにふと頭に浮かんだ絵が、いっそう現実味を帯びてきたことを感じた。
――祭壇の上でマイクをもった男が声高に叫んでいる。その内容は、日本人なら思わず耳を塞ぎたくなるような、いや、大半の日本人が激怒するような扇動話《アジテーション》の類《たぐい》に違いなく、今現在それはなかったとしても、近い将来、必ず、ここはそういった目的で使われるだろう。竜介は確信[#「確信」に傍点]をもってそう思った。
「わっ、ここにもめぇ〜が置かれとうぞう!」
土門くんが、嬉しそうにいう。
祭壇の上には、右と左にかなり離れて、竜が巻きついている大きな石灯籠が置かれ、その前に等身大の武官の石像が立っていて、さらに前に小さな狛羊がちょこんと。その狛羊だけ古い石のようだが。
「そやそや、神の羊たちよ頭《こうべ》をたれたまえ、あ〜めん、とか聞いたことあらへん姫……」
土門くんは、わけあって、神戸でクリスチャンの幼稚園に通わされたことでもあり、ときおり先祖返りのように思い出すのだ。
「……そやからな、その迷える子羊たちを教え導くんで、牧場《ぼくじょう》の牧[#「牧」に傍点]から、牧師いうんやで」
「あ! そうだったのね」
「……土門先輩。意外なことを知っていますよね」
ほぼ合流して近くにいた弥生がいった。
竜介はもちろんそれは知っている。
マサトは、祭壇前の石段に腰をおろして、なにやらカメラの裏蓋を開けていた。
土門くんが近寄って行って、
「そのふいるむ[#「ふいるむ」に傍点]の交換めんどくさいやろう。天目もそろそろ、でじたるかめら[#「でじたるかめら」に傍点]にしたらどないや?」
マサトも作業中の手元を見ながら、うんうん、とうなずいている。
面倒はさておき、今日は三十六枚撮りのフィルムを十本持ってきたのだが、気がつくと、残り一本で、今その最後の一本を装填《セット》している最中なのだ。だがフィルム十本でもバッグはかなり嵩《かさ》ばり、カメラの師匠からも、便利なデジタル一眼への移行を薦められている昨今ではあるのだ。
「おっ、空いたぞう↓」
土門くんが小声でいって小さく指さした。
八角亭に陣どっていた家族連れが、さっきまで三人がいた説明板のほうに移動しはじめたからだ。
一同は、祭壇まわりを(多数の浮彫《レリーフ》が埋め込まれている)ざっと見学してから、その八角亭のひさしの中に入った。
御影石らしい艶やかな四角いテーブルをはさんで石のベンチが四つ置かれているだけであったが、見上げると極彩色の世界である。各人、適当に腰と荷物をおろした。
「ヤマトタケルノミコトくん」
マサトが、めずらしく冗談めかしていう。
「今日は、デジタルカメラは持ってきてるの?」
「おう、持ってきとうでえ」
「だったら、ここを撮って」
――天井のあたりを指さしながら。
「もうフィルムが残り少ない」
「ははははっ、このヤマトのタケルさまに、お任せあれ!」
豪気に土門くんはいうと、緑色の吉田カバンから小さな銀ピカのそれをとり出して、立ち上がった。まな美はまな美で、おなじく吉田カバンから紅柄色の歴史部《ノート》パソコンをひきずり出すと、石のテーブルの上に置いて蓋を開いた。
「きみたち、なんという色合いなんだ……」
竜介は、あきれて笑っている。緑のカバンから赤のパソコンだから、この八角亭といい勝負だ。
「麻生先輩、なにを調べられるんですか?」
「うーんちょっと気になったことがあって……」
だが、使えるようになるまでには数分かかる。
土門くんは、八角亭のぐるりをうろうろ徘徊《うろつ》きながら、このへんがええかな……こっちからにしょっかな、などと、なかなかシャッターを押さない。彼はこういったことをやらせると、えてして慎重派なのだ。というより小心者でエイヤと決断できないのである。それは日本武尊が降臨していても一緒だ。
ようやく、パソコンが使用可能になって、まな美は、グーグル検索に『寺、門帳』と打ち込んだ。
「あら、中国語も出るわね、日本語だけにすると」
――わずかに、二十件ほどに絞り込まれた。
「なんだあ?……」
竜介が、横から画面をのぞき込む。
「わたし、門帳が下がっていたお寺を、なにかで見た記憶があるのよ……」
まな美は、検索の一覧画面をスクロールさせてみたが、意とする頁は、ほぼ一件[#「一件」に傍点]しかないようだ。
――天空仙人の神社仏閣めぐり『那谷寺《なたでら》』である。
「那谷寺ぁ?……ぼくも聞いたことがあるような」
まな美が、その頁を開いた。
黒い上品な画面にたくさんの写真が並べられていて、個人(天空仙人)のホームページの中の一頁だ。
「あ! 似たような山門じゃないか……」
素木の二重楼閣のそれで、やはり通路の中央に白い門帳がかかっている。しかも、ここも菊[#「菊」に傍点]の紋だ。
「金堂華王殿《こんどうかおうでん》……これが本堂かしらね」
朱塗りの二階建てだが、その二階は七|間《けん》あって柱だけの開口部で、そこにも門帳がずらーりと。
「大悲閣《だいひかく》拝殿……名前からして神社っぽいわよね」
岩の崖を背にして建っている古びた素木造りで、見えている二面が開口部でやはり門帳が。
「下に説明書きがあったわ。場所は石川県小松市、那谷寺は、十一面|千手《せんじゅ》観音、白山妙理《はくさんみょうり》大権現、自然の岩山洞窟を本尊とする寺院で、もとより神仏ともに祀ってきた」
「なんだって、白山妙理大権現[#「白山妙理大権現」に傍点]!?……」
「それに石川県だから、北陸よね……お寺の由来によると、ここは白山信仰の寺で、養老元年、七一七年、泰澄《たいちょう》禅師によって開創され……あ! おなじ人じゃない!……」
「おなじ人だ!……」
兄妹《あにいもうと》そろって同時にいった。
「いったいなにが、おなじ人なんですか?」
弥生が、おっとりした口調でたずねる。
「あの白山比盗_社を創った人と、おなじなのよ」
「あらあ!……なんて偶然なんでしょうか」
「ほんとよね、まさに奇遇だわね!……」
「ふむ!……」
歴史部のふたりは、高句麗や羊などの連想から驚いていったが、竜介は、あのキクリヒメの一件からして、偶然などは通り越して不吉[#「不吉」に傍点]だとすら思った。
「それに、この那谷寺は真言宗のお寺だわ。聖天院《ここ》も真言宗よね。なにか……通《つう》じているのかしら?」
謎解きに熱中しているそんな三人をよそに、マサトひとりだけは別のものを視《み》ていた――。
先の家族連れは広場を横切ると石像下の石段へと去って行き、すれちがうようにして、若者の三人連れがここ[#「ここ」に傍点]に入って来たからだ。
革帽子の男は、黒のコートを外套《マント》のようにはおっていて、下に茶色の革のジャンパーを着ている。
隠れている背中の模様が、御神《マサト》には見えた。
それは古い日本の国旗である。四方八方に赤い光芒《こうぼう》をのばしているような。――十六条|旭白旗《きょくじつき》≠ナあるが、マサトは名称までは知らない。
「姫、あんなとこにも立て看あるぞう。必見や!」
八角亭の写真をなんとか撮り終えたらしい土門くんが、誘いに来ていった。
四、五メーター離れた(祭壇とは逆がわ)生け垣の前に、縦に細長いそれが立っている。
「なにが必見なのよ?……」
まな美は、しかたなさそーに立ち上がると、土門くんにつきあってそちらに歩き出した。
マサトは、地べたに置いてあったカメラバッグを持ち上げ、横《サイド》を確認してから、石のテーブルの自身の顔の前あたりに置くと、小声で語りはじめた。
「今、ここに入って来た三人連れ、そのうちの革帽子の男、コートの下の革のジャンパーのポケットに、拳銃を隠しもってる……」
「え!……」
「見ちゃだめ!……」
マサトは、竜介と弥生にいった。
「――在日白衣民族の聖地!」
土門くんが、声も高らかに読みはじめた。
「ここは日本国土の中心地で、今からおよそ千三百年前、若光王一行が、風水学、現韓国風水学上、最高の地と定めた!……」
「ここが日本の中心地ですって? のわりにはど田舎じゃない!」
まな美も、言葉を荒らげて厭味をいう。
「つぎはもっとすごいぞう[#「つぎはもっとすごいぞう」に傍点]!……」
三人の若者は広場を横切って、こちらに向かって来る。革帽子の男が歩きながら、ひっかぶっていた黒のコートを脱いで、もうひとりの男にあずけた。
もちろん御神の言葉で護衛の陰たちが一斉に走り出したことはいうまでもない。だが、この広場には元来いなかったし、まだすこし時間がかかる。
マサトは、さらに小声で語りつづける。
「けど、標的はぼくじゃない。ここにいる誰でもない……誰の絵ももっていない。それに、その拳銃は、たぶん玩具《おもちゃ》で……ボンベのようなものが見える」
「それは、エアーガンってやつだな……けど改造すると、かなりの威力が出ると聞いたことがある」
マサトの話の内容で、やや安堵《あんど》した竜介が、やはり小声で囁いていった。
「つぎはもっとすごいぞう[#「つぎはもっとすごいぞう」に傍点]!……山林を切り開き、ここを居住地と定め、巾着田を造成し、武蔵野一帯に稲作を普及した! 檀紀《だんき》四三三二年十月三日! この檀紀いうんは、もちろん韓国《あっち》の年号やけど、皇紀なんかよりも、はるかにはるかに異次元のしろもんで、その三分の二ほどはなーんもあらへん白紙や。それこそ白衣民族にふさわしい。もう地球上で一番、いや宇宙一、いかさまな年号やあ!」
土門くんは罵詈雑言《ばりぞうごん》あびせてから、さらにいう。
「武蔵野一帯に稲作を普及した! 武蔵野一帯に稲作を普及した! 武蔵野一帯に稲作を普及した!」
「そう何度もいわなくったって、そんなの嘘[#「嘘」に傍点]だって誰でもわかるわよ」
「いや、この立て看でいくとやな、武蔵野一帯は、西暦七〇〇年代から、ようやく弥生時代がはじまるんやぞう。さもありなんやな!……」
土門くんは、その自身の言葉がきっかけで、
「あーりなんあーりなんあーらーりーよ♪ あーりなんあーりなんあーらーりーよ♪ あーりなん」
――またぞろ歌い出した。
三人連れば、八角亭のすぐ後方にまで歩いて来ていて、その土門くんの歌声に反応した。
「き、貴様! 朝鮮人だな!」
「ち――」
ちがうわい! と反撃すべくふり返った土門くんであったが、男の手に握られていた黒光りする大きな拳銃を見て――絶句した。
まな美も――横で凍りついたように棒立ちだ。
御神は、ふっと両の瞼《まぶた》をとじた。
――変化身《へんげしん》を現《だ》す準備である。
「わ、我ら、反朝武闘戦線が……」
いってる男の声が震えている。
「ちょ、朝鮮人の貴様らに、神の鉄槌《てっつい》を!……」
だが男は突如、ぎょ、と目をひんむいて驚き、
「ばっ、ばけもんがあぁぁぁ!……」
自身の左がわに拳銃を向けて、パシュン! パシュン! 狂ったように撃ちはじめた。
「な、なにやってんのよ馬鹿ぁ!」
――連れの女が怒鳴った。
御神の現《だ》している変化身は、その彼にしか見えないのである。
と同時に、今の今までは気配すらもかき消していたかのような弥生が、つつつ……と低い姿勢のままで男に近づくと、拳銃を握っている手をとるや、一瞬にして、地面に叩き伏してしまった。
さらにほぼ同時に、駆け寄って来た陰たちが、他のふたりを背後から羽交《はが》い締《じ》めにして動きを封じた。
だが、その直後、誰もが(御神すらも)予想だにしなかった出来事が起こった。
――バーン!
その拳銃が暴発、いや爆発[#「爆発」に傍点]したのだ。
間近にいた弥生が、顔を伏せて地面にうずくまってしまった。
「――弥生さま! ――弥生さま!」
「み、水野さーん!……」
「さ、さくら、ちがう水野さ〜ん……」
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29
――十二月三十一日・大晦日。
歴史部の四人[#「四人」に傍点]が約束した待ち合わせ場所は、東武鉄道|伊勢崎《いせざき》線のせんげん台駅、その西口を出た先にあるタクシー乗り場である。
せんげん台駅は改札は一ヵ所で二階にあって、そこから左右への階段をおりると西口・東口で、東口の先にもタクシー乗り場はあるが、遠廻りになってしまうのだ。
大晦日の夜ともあって、このような田舎駅でもざわざわと落ち着きがなく、人通りもけっこう多い。もちろん電車は終夜運行で朝まで動いている。
約束の十一時半の数分前に、まな美が着いた。
つづいて土門くんが、めずらしくも定時にあらわれた。ふたりは乗って来る電車が逆方向である。
――プップーッ!
軽くクラクションの鳴る音がしたので、ふたりがそちらを見ると、駅舎前の一般車の道に止まっていた銀鼠色《シルバーグレイ》の国産乗用車《4ドア・セダン》の運転席の窓が開いていて、男性が顔を出して手をふっている。
……竜生さんだ!
ふたりは小躍りしながら、そちらに小走りに駆けて行った。もちろんマサトが同乗していて、竜生が淨山寺まで運んでくれるようだ。
関東の地理や道路には、まだとんと慣れていない竜生ではあったが、森の屋敷は、せんげん台駅の東口方向にあり、だから近所なので、彼もこのあたりの道なら迷うことはない。
ふたりが車に駆け寄った、ちょうどそのとき、駅の階段をおりて来たらしい弥生[#「弥生」に傍点]が出口付近に姿をあらわした。これで、四人そろったようであった。
図体の大きい土門くんは助手席に、そして他の三人は後部座席にと、いつものタクシー同様に座ると、竜生は車を発進させた。
「水野さん、その後|身体《からだ》の調子はどう?」
まな美が、気遣ってたずねた。
「はい。もうすっかりと……よくなりました」
そういっているわりには、弥生の喋り方はどことなくぎこちない。
「さくらが、いや水野さんが……」
竜生がいる手前、土門くんは本名でいう。
「あの八角亭のとこで、なんか急に気分が悪うなりはって動けんようなって、その後《あと》やけど、自分らタクシーで送って行ったよなあ?……そのあたりのこと、どうもよう覚えてへんねんけど……」
「そうよ。西新井の水野さんのお家まで送って行ったわよ……でもいわれてみれば、わたしも……」
「やー、それはおふたりとも、気が動転していたかなにかで、きっと混乱してるんですよ」
運転中の竜生が、話にわり込んできていう。
「もう水野さんも、すっかり元気になられたようですから、安心してください。大丈夫大丈夫、ははははっ……」
せんげん台駅から淨山寺までは車で七、八分であろうか。歩くと三十分以上はかかり、とくに夜は、寺に近づくにつれて民家や明かりが消えていき、人が歩いて行けそうな場所ではない。
車は、元荒川《もとあらかわ》の土手の道に入ると、すぐ左に折れて小さな三野宮《さんのみや》橋を渡った。橋のたもとに三野宮|香取《かとり》神社という小さな鎮守の社《やしろ》があるのだ。
あたりは夜の田畑で、だが、このような田舎道を、おなじ方向へ行くらしき車が前に二台走っているのが見えた。もう淨山寺はすぐ近くであったが。
「あれえ……ちょっと混んでるみたいですよう」
竜生は、手前の小さな三叉路で、右折すべきところを、とりあえず車を止めた。
「ほんまや、数珠つなぎになっとう[#「なっとう」に傍点]でえ」
さも納豆のように粘っこく、土門くんはいう。
「淨山寺《あそこ》……駐車場それほど広くありませんよね」
大國魂神社や高麗神社などとは比べるべくもない。
「これは入れそうにありませんね……」
いうと竜生は、彼にしては決断素早く、そのまま曲がらずにまっすぐ走り出した。
そして、ぐるーっと迂回して、寺の正面のほうの道から近づくと、前方に朱塗りの山門が見えてきたあたりで停車させた。
「えー、ぼくはこの車をなんとかしませんと。だからぼくのことにはおかまいなく、どうぞ、歴史部のみなさんだけで行ってください」
「ありゃあ、それはそれは……」
「どうもすいませーん」
口々にお礼をいって、四人は車から降りた。
山門はそう大きくはない四脚門で、明かりに照らされて、三つ葉葵[#「三つ葉葵」に傍点]の段幕がかかっている。
ここ淨山寺は、かつて徳川家康が自身のお墓に[#「お墓に」に傍点]と定めた寺で、ここを基点にして芝の増上寺や小石川の傳通院《でんづういん》などが建てられ、その後の江戸の地理(つまり東京の地理)が決定づけられた寺なのだ。が、もっとも、これは一歴史部の説にすぎず、今現在はきわめて未認知《マイナー》である。あの九万八千神社のごとくに。
その四脚門をくぐると、石畳の参道の右ななめ先に朱塗りの鐘楼が建っている。
「うわあ、えらい並んどってやでえ……」
すでに何十人もの列ができていて、参道の正面に見えている本堂には三つ葉葵の提灯など内外《うちそと》に明かりが灯されている。
四人も、その列に並んだ。
「そやそや、今宵は、この話をせーへんとな」
「なあに?……」
「えー、あるところに、村上《むらかみ》の旦《だん》さんという大店《おおだな》の主人がいてはって」
土門くんは、またぞろ何かを語りはじめた。
「この村上の旦さんは、無類の悪戯《いたずら》ずきで、それも超超超が十個つくほどの悪巫山戯《わるふざけ》が三度の飯よりも好きやいう人で、あるとき饅頭《まんじゅう》屋の前を通りかかると、黄色い粟餅《あわもち》を作ってんのを見て悪戯を思いつく。その粟餅を、ぐちゃぐちゃに不細工に作ってもろて、懐《ふところ》に忍ばせて行きつけの茶店を訪ねる。そしてしんどそーな顔をしてお酒を飲んどうと、女将《おかみ》さんが心配してやって来て、お気分でも悪いんですか? なんか急ーにお腹がごろごろ鳴ってきて、でしたら手洗いのほうへ、いやーもうあかんあかん出そうや出そうや我慢でけへ〜ん、と旦さんが立ち上がると、座布団の上に、その粟餅がぽろっと転がっとう。まわりのみんなは、ぎゃ〜と大騒ぎや。そやけど旦さんは平然と、自分で出したもんは自分のもんやさかい自分で始末をつけるわーと、その黄色いもんを手でつかんで、ぱくっと食べてしもたんやあ!……」
列に並んでいた近くの人たちから、いっせいに笑い声がおこった。
だがまな美とマサトと弥生は、知らない人! とばかりに顔を背《そむ》けながら土門くんから遠ざかる。
「……以来この主人は、その界隈ではババの旦さんとも呼ばれるようなった」
――ごぉ〜〜ん!
梵鐘《ぼんしょう》の妙《たえ》なる響きがあたりに木霊した。除夜の鐘のひと撞《つ》き目が鳴らされたのだ。
「そして、とある大晦日のこと」
土門くんはなおも語りつづける。
「旦さんが若い妾《めかけ》にやらせとう茶店があって、ところがこの妾さんは、その両親もそろいもそろうて、やれ北枕はあかーん、朝蜘蛛を見たら拝むくせに、夜蜘蛛は親の仇やーと血相を変えて追い廻すほどの極端なえんかつぎ[#「えんかつぎ」に傍点]の性分で、ほな今度は、これをおちょくったろかーと、またまた悪巫山戯を考える」
――ごぉ〜〜ん!
「旦さんは悪友の又兵衛《またべえ》を呼び出すと、明日の元旦にやな、十人ほど手配でけへんか? まあ旦さんのたっての頼みなら。それでやな、袴《はかま》も裃《かみしも》も上から下までまっ白の服を着せてもろて、手には白い提灯やら線香立てやら、そやそや、これを忘れたらあかんでえ、頭には三角形の白い布を」
――ごぉ〜〜ん!
「いわゆる葬礼《そーれん》の行列を作って欲しいんや。な、なんに使いはりますの? これこれこういう場所に茶店があるさかい、その行列をひき連れて訪ねておくれでないか。そ、そんな無茶なあ! かまへんかまへん自分の店や。それにこないゆうんやで、村上の旦さんに、冥途《めいど》から死人《しぶと》が迎えに来たとお伝えを」
――ごぉ〜〜ん!
「そして店のまん前で待たせてもらうんやで。そやそや、ゴマをふってへん白飯《しろめし》だけの三角の|握り飯《おにぎり》を作ってもろたらええ、死人がお腹を空かしとうとかいうてな、ともかく縁起の悪い話をでっきるだけ並べたてるんや、そのへんはあんじょう任せるわあ。そして元旦の当日、旦さんが茶店を訪ねると」
――ごぉ〜〜ん!
「遠巻きにして人垣がでけとう。いったいどなたがお亡くなりを? さっき若い女将《おかみ》さんが泣いてはりましたよ。だったらご両親のどちらかが? そんなことはあらしません、お妾の女将さんがめそめそ泣いてはったんは、元旦早々、店に葬礼《そーれん》の行列が来るとは、なんと縁起が悪いと泣いてはったんやあ」
――ごぉ〜〜ん!
「旦さんはそんな様子を尻目に、となりに建っとう家のほうを訪ねます。ごめん。すると奥から母親が出てきて、これはこれは村上の旦さん、明けましておめでとうさまでございます。ともあれ一番上等な座敷へと通されます。お鏡餅やなんやかやと、まさに正月にふさわしい飾りつけ、そやけど旦さんは、なんかあらへんかーと鵜《う》の目鷹《めたか》の目《め》」
――ごぉ〜〜ん!
「短冊が新しうかけ替わっとんのに気づきます。これほどないしはったん? はいはい、うちの夫《ひと》が還暦なもので、林松右衛門《はやしまつえもん》という名前を織り込んでもらって、さる有名な先生から一句|頂戴《ちょうだい》しました。のどかなる、はやしにかかる、まつえもん、と」
――ごぉ〜〜ん!
「のどが鳴る? ちがいますよ旦さん縁起でもない。そやけど、濁点も切れ目もあらへんからいかようにも読める。のどが鳴る、早《はや》、死にかかるまつえもん。えー、おあとがよろしようで、テケテンリンテケテケリンリンテケリンテケテケテケテテケテケ……」
土門くんは、お囃子《はやし》を口真似していう。
――ごぉ〜〜ん!
「……厳粛な除夜の鐘の音《ね》が響いているというのに、よくもまあそんな縁起の悪い話ばっかしできるわね、もう信じられないわ!」
まな美は二、三歩離れたところから半泣きの声でいう。話に出てきたお妾さんのように。
「な、なに怒《おこ》っとってなんや姫?……」
――ごぉ〜〜ん!
「いやあ、お若そうなのに、いいお話をご存じで」
すぐ後ろに並んでいた、初老の男性がいい出した。
「たしか、けんげしゃ茶屋、そんなお題でしたよね。上方《かみがた》落語の古典で、とくに米朝《べいちょう》師匠が得意とされているお話で、ちょうど今時分に、大晦日から正月三が日にかけて、きまってかかるお題なんですよ」
「ええ〜?……」
まな美もマサトも、そして弥生も、暗がりで目を爛々《らんらん》と光らせて、まったく疑心暗鬼《ぎしんあんき》の表情だ。
――ごぉ〜〜ん!
「といいますのはね、こん[#「こん」に傍点]っかぎり縁起の悪い話を並べたてて語り、厄落《やくお》としをするといった、そんな意味合いがあるんですよ。除夜の鐘は、みなさんもご存じのとおりで、百八《ひゃくやっ》つの煩悩《ぼんのう》をとり除きますが、このけんげしゃ茶屋にも、百八つの縁起の悪い話が入っていると、そんな説もあるぐらいで」
「あらあ……」
三人は、ひとしきり感心してから、それまでとはちがった星瞳《まなざし》で土門くんを見やる。
――ごぉ〜〜ん!
「ほら、そういうこっちゃ!……」
土門くんは、親切に解説してくれた男の人に頭を下げながら、
「そやからな、歴史部で調査に行ったときなんかにも、自分は朝一できまって縁起の悪い話するやろう、あれも厄落とししとんやでえ」
「ほ、ほんとかしら……」
その後も、除夜の鐘はつぎつぎと撞き鳴らされていって、四人の順番が近づいてきた。
鐘楼の近くにはテーブル台が出ていて、手の平《ひら》にのるぐらいの小さな達磨《だるま》がたくさん積まれてあって、冬の作務衣《さむえ》姿の若い男性(未来の住職)が、各人に手渡してくれた。
だがまな美は、その達磨の山を見ながら、
「これは……数はどれぐらいあるんですか?」
「百八つです」
「すると……足らなくなってしまいませんか?」
四人の後ろにも、さらに何十人、いや百人ほどの列ができている。
「はい、遅くに来られた人は、残念ですがなくなってしまいます」
「でしたら、わたしたち四人は歴史部《グループ》だから、達磨はひとつでいいですよ」
「そやそや、返そ返そう……」
だがどうしたことか、弥生が握りしめていて手離さないので、他の三人が達磨を返した。
そしていよいよ、四人の順番が巡ってきた。
梵鐘を前にして一同、手をあわせてから、そして背の高い土門くんが鐘木《しゅもく》のひき綱の一番を上を持ち、それに三人がぶら下がるような格好で、
「ほな、行くぞう……せーの!」
ところが弥生ひとり、うまく息をあわせることができず、そんな彼女に大黒柱の土門くんが躓《つまず》いて、
――ぽにょ〜〜ん!?
除夜の鐘を撞き損じてしまった。
「ふ……不吉な……」
「な、なにいってるのよ! すいません、もう一度撞かせてもらってもいいですか?」
若い住職は笑顔でうなずいている。
「ほな、今度こそ……せーの!……」
[#地付き]つづく『竜の源・新羅』へ
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〈参考文献〉
『古代武蔵の国府・国分寺を掘る』府中市教育委員会・国分寺市教育委員会編/学生社
『住職がつづる「とっておき」深大寺物語』谷玄昭著/四季社
『深大寺』案内小冊子《パンフレット》/宗教法人深大寺
『古代の日本と渡来文化』荒竹清光著/明石書店
『高句麗残照』備仲臣道著/批評社
『神話・宗教・巫俗「日韓比較文化の試み」』崔吉城・日向一雅編/風響社
『朝鮮紀行』イザベラ・バード著・時岡敬子訳/講談社学術文庫
〈参考インターネット資料・その他〉
『玄松子の記憶』
『神奈備にようこそ! 神奈備神名帳・延喜式神名帳神社一覧』
『天空仙人のデジフォト・ギャラリー神社・仏閣めぐり』
『奈良の名刹寺院の紹介・仏教文化財の解説など』
『日本の塔婆』(「がらくた」置場)
『本地垂迹資料便覧』
『古代武蔵学事始め』
『坂東千年王国』
『神のやしろを想う』伊達青衝著
『閼伽出甕・論考集「《菊理媛》について」』
『郷土の歴史を考える・大国魂神社の謎は解けたのか?』十川昌久著
『瀬織津姫・さくらの日記』
『深大寺そば行脚』
『狛江市役所』
『日韓友好のため韓国の新聞を読もう』
『うそ発見の億のウソ道・うそ発見記』新丸礼治著
『神社・神社信仰の起源』帝京大学薬学部・木下武司著
『K《か》の国の鏡《ウリジナル》』
『Doronpa's Page〜不思議の国の韓国〜』
『半月城通信』
『JP Colours... 和色図鑑』
『自称陶芸家の大ウソ! 高麗青磁の復元ねつ造』二〇〇一年一月二十一日TBS報道特集
〈注〉
淨山寺の駐車場は、それまでの二十五台から約百台へと、二〇〇六年春に増設された。
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底本
徳間書店 TOKUMA NOVELS
神の系譜 竜の源 高句麗
著者 西風隆介《ならいりゅうすけ》
2006年11月30日  初刷
発行者――松下武義
発行所――徳間書店
[#地付き]2008年6月1日作成 hj
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置き換え文字
※知王 ※[#「火+召」、第3水準1-87-38]「火+召」、第3水準1-87-38
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56