神の系譜 幽霊の国・解
西風隆介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)西風《ならい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)土門|翼《たすく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)父[#「父」に傍点]
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〈帯〉
チベット密教の幻身、
骨董屋に現れた幽霊、
裏山に眠る白骨死体…
〈幽霊の国〉の最大の謎が解かれる!?
大好評シリーズ
10万部突破!
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〈カバー〉
思い出した
チュウは、心と体を切り離して、体を悪魔に布施する行のことだ。つまり、鳥葬《チャトル》だ。
けど、あれだけは嫌だ――
あんなふうにして、切り刻まれたくない。
――ねえ、火葬があったでしょう。偉い僧侶は、そうされるそうよね。それが駄目だったら、罪人《つみびと》のように、土の下に埋めてくれてもいいわ。だから、あれだけは嫌!
わたしは、精一杯に叫んだのだけれど、尼僧《かのじょ》には聞こえるはずもなかった。
今のわたしは――幻身《ギュル》。[#地付き]〈本文〉より
その日、上野の骨董屋『青雅堂』に店主の土門|翼《たすく》が帰ったのは、馬喰町の交換会のあと同業者と一杯やって夜九時を回っていた。
あしたが日曜日だということもあり、息子の土門くんと一緒になってガスストーブで炙った剣先するめを肴に缶ビールを何杯かあけ、そこに寝泊まりと相成った。
翌朝の五時ごろ。父親は目覚めると金縛りの状態で、しばらくして視野が戻り目だけ動かすと、横で寝ている息子の枕元に得体の知れない白い姿の何者かが立っていたのだ。
土門くんは自分では見ていないのだが、その話を聞き、「りゅうが、いますか?」と骨董屋を突然訪れたふたりのチベット人僧侶を思い出した。
僧侶は「あなたには、よき霊がついていますね」といったのだ…。
Character File B
【土門 巌】どもんいわお
十七歳。
私立M高校の二年生で、歴史部の部長くん。
埼玉県岩槻市に家があり、上野広小路に店をかまえる骨董屋の坊《ぼん》だが、魂は神戸においたままのべたべたの関西人。
学校の成績はずーっと十三番。
身長は一八〇センチ以上で、諸説あり。
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書下ろし長篇超伝承ミステリー
神の系譜 幽霊の国・解
[#地から1字上げ]西風《ならい》隆介
[#地から1字上げ]徳間書店
[#地から1字上げ]TOKUMA NOVELS
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目 次
第一章 『幻身』
第二章 「不滅の心滴《ティグレ》」
第三章 「解脱」
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公相《きんすけ》の死
その頃、西園寺《さいおんじ》の太政大臣《おほきおとど》公相なやましく給ふとて、山々寺々修法、読経《どきゃう》、祭り、祓《はら》へなど、かしがましく響きののしりつれど、それもかひなくて、十月十二日|失《う》せ給ひぬ。入道殿《にふだうどの》をはじめ、思《おぼ》し嘆く人々数しらず。(中略)御わざの夜、御棺《ごくわん》に入れ給へる御かしらを、人の盗み取りけるぞ珍らかなる。御顔の下《しも》短かにて、中半《なかば》ほどに御目のおはしましければ、外法《げほふ》とかやまつるに、かかる生首《なまかうべ》のいることにて、なにがしの聖《ひじり》とかや、東山のほとりなるける人、取りてけるとて、後《のち》に沙汰《さた》がましく聞えき。
[#地付き]『増鏡《ますかがみ》・増補本系・北野の雪』
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第一章 『幻身』
――青い花弁《はなびら》を手の平にのせてみた。
青の草原に来ていた。おおるり草《そう》の青い花が一面に咲き乱れ、やわらかな風にそよいでいる。
金色の毛並みをしたナキウサギが、巣穴から顔を出した。背伸びして辺りをうかがうと、ピチピチ、と鋭く鳴いた。手をさしのべても知らんぷりで、巣穴から出てきて、すぐわきを走り抜け、近くの石の小山に飛びのった。すると何匹も走り出てきて、石の小山のまわりを、せわしく駆けめぐっている。
青の草原は緑の草原へと続き、なだらかな山へとつながっている。雪の白い毛布をかぶったさらに高い山々が背後に聳《そび》え立っている。
空も、雲ひとつなく真っ青だ。
どこかから――読経する声が聞こえてきた。
ふり返ると、平らな大岩の上に、若い女性が裸で横たわっていた。
もう――死んでいる。
崩《くず》れ落ちてきそうな岩肌がすぐ目の前に迫っていて、大小の岩が転がっている谷底だ。花も、そして木も草もない。
ここは……ヤルルンの谷のどこかかしら。以前にも来たことがあるわ。
鉈《なた》をもった解体人が三人いた。長袖の丈長服の腰に白布《エプロン》をつけ、目深《まぶか》に帽子をかぶっている。
ひとりが、焚《た》き火の中にツァンパを投げ入れた。
黒い煙が朦朦《もうもう》と立ちのぼっていく。
空を飛んでいた禿鷲《はげわし》が、岩肌で翼を休めていた禿鷲も、我先にと谷底に舞い降りてくる。
大岩の上の屍体《したい》は、解体人の手慣れた鉈《なた》さばきで、みるまに切り刻まれていった。
やがて解体人のひとりが、別の岩のところで、大きな音を立てはじめた。骨を石で砕いているのだ。ツァンパと混ぜて団子にするのだ。あとかたもなく禿鷲に食べさせるために。
違う――
あれはわたしの体じゃない。
霊魂を失ったぬけがらは土塊《つちくれ》と同じ。何の価値もないから、布施する慈悲の行為だから一度見ておくがいいと、老僧《グル》たちに連れられて来て見たものだ。わたしが、もっともっと幼かったころに。
その老僧《グル》は……
あの高僧《ゲシェ》は……
そうだ、彼らは死んだんだ。
もう何年も、何年も前に。
ミンドルリンの大僧院《ゴンパ》が爆破されたときに、たてこもった僧たちと一緒に。
ツォンドゥーツォクパの村からダチ谷を二時間ほど歩き、切り立った山に囲まれた窪地《くぼち》から出ると、その先の丘陵地に日なたぼっこをしているようにミンドルリンがあった。白い鳥が、羽根を広げたように建っていた美しい大僧院。けど、それはもうない。壊し損ねたいくつかの|お堂《ラカン》を、よそ者が何かの倉庫に使っている。――僧が立ち入ると、殺される。
わたしは、そのツォンドゥーツォクパの生まれ。名前はソナム・ザンモ。でも両親からつけてもらったその名前は、もう誰も使わない。
わたしの名前は――ミンギュル・ペルドン。
四歳のとき、五歳だったかもしれないけど、ミンドルリンの管長さんが、何人かの高僧とともに家にやって来た。そんな偉い人たちが、ふつうの家に来ることなんてない。父と母は顔もあげられずにいた。そしてわたしに、何か尋ねられたので、適当に受け答えをした気がする。すると管長さんたちが驚き、次には泣きべその顔になって、あなたが、探し求めていたミンギュル・ペルドンだといわれた。何のことだかわたしには分からない。当時のこともよく覚えていない。
ミンドルリンへのお輿入《こしい》れは、それはそれは盛大だったらしく、近くの村の人たちも総出で、何百人もの僧たちが道に並び、わたしに跪《ひざまず》いてくれた。頭を地面にこすりつけている僧たちもいた。そのときのことだったら少し覚えている。
沿道から呼び声があった。
あなたはミンドルリンの宝です。
――ミンギュル・ペルドンさま。
でも、わたしは女だから、そこでは暮らせない。
さらに山道を少し登ったところの山腹に、石作りの白い家が建っていて、それがわたしが住むことになった小さなお城。そこからだとミンドルリンの全景が、砂|曼陀羅《まんだら》のように大小の建物が立っている山が、一望に見渡せた。
わたしの家庭教師だといって、やさしそうな僧侶と引き合わされた。六十歳か、七十歳ぐらいのお爺《じい》さんで、その老僧《グル》が最初に話してくれたことは、今でも覚えている。
箱庭のミンドルリンを手でしめしながら、
――あの美しい大僧院《ゴンパ》はですね、あなたの偉大なるお父さまが、今から三百年ほど前に建てられたものなんですよ。
――わたしの、父[#「父」に傍点]?
それはツォンドゥーツォクパにいる父じゃないらしいことは、幼いわたしにも分かった。
その小さなお城には、四人の尼僧たちが一緒に寝泊まりをしてくれた。
彼女たちは、百五十キロもの道程《みちのり》がある(もうラサに近い)シュプセ・アニの尼僧院から来たという。近くにも尼僧院はあるはずなのに、何かわたしには分からない理由《わけ》があったのだろう。
――わたしも、あなたと同じ尼僧《よう》になるの?
何日かしてひとりに聞いてみた。
――たぶん、ちがうと思いますよ。
そんな答えが返ってきた。
じゃ、わたしは何になるのかしら?
お城での生活は、家にいたときと比べてもどうということはなかった。朝食はバター茶にツァンパだし、夕食にもご馳走がでるわけじゃない。家よりもかえって質素だったぐらいだ。
ただ朝の決まった時間になると、家庭教師の老僧《グル》が訪ねて来て、いろんな話をしてくれた。最初のころは、もっぱら童話を聞かせてくれた。
わたしのお気に入りは、獅子と兎のそれだった。同じ話は、家の母も聞かせてくれたけれど、老僧のそれは面白さが断然ちがった。
……昔、昔、ある山の洞窟《どうくつ》に、大きな獅子が棲《す》んでいましたとさ。
その獅子に食べられそうになった兎が、
「獅子さん、獅子さん。わたしみたいなちっぽけな兎を食べても、お腹《なか》のたしにはならないわよ。もっと美味《おい》しくて、大きな獲物がいる場所を知ってるから、そこに案内するから、わたしを食べないでね」
そして兎が案内したのは、底なしの井戸で、
「この中をのぞきこむと、大きな獲物が見えるわよ。けど、ひょっとしたら、あなたより強いかも」
と兎は挑発する。
獅子は、井戸の縁に立ってチラッと見てから、
「は、は、は、はー、そんな手にひっかかっておったのは、一千年前の獅子じゃ」
そういってパクリと兎さんを……もちろん、兎がまんまと裏をかくというのが元の話だけれど、それをたくみに変えて老僧は語ってくれた。
また、あるとき兎が連れていったのは、鏡のように輝いていた湖の岸辺で、そこに自分の姿をうつしてみた獅子が、
「どうやって、これを食えというんじゃ?」
……老僧は指さしていう。
あれ? と思った兎がのぞき見てみると、自分の姿が映るはずのところに、観音《かんのん》さまの姿があった。そして獅子の方を見てみると、そこにも別の仏さまが映っていた。その湖は、あのマナサロワール湖だという。
――知っておるかな?
――名前ぐらいは。
今ならもう少し知っている。そこはインダス河などの四つの川の源流となる、聖なる湖で、創造神が作った神自身の心の鏡だということだ。だから、そんな姿が映ったのだろうか。
――そのマナサロワール湖の北側に立っておる山が、カンティセ、カンリンポチェ。またの名前を、カイラース山。知っておるかな?
――それも、名前ぐらいは。
――そのカイラース山は、南の斜面にこんな文字が入っておってな(老僧は、わたしの手の平に卍《まんじ》の模様を描いてくれ)、お釈迦《しゃか》さまが住んでおられる山なんじゃ。
――ふーん。
――そして大昔に、このカイラース山に、一匹のお猿さんが住んでおってな。そこに羅刹女《らせつにょ》という……
――らせつにょ?
――これは難しいな。まあ、神さまと人間の間ぐらいの女の人だと思えばいい。その女の人が、結婚しようって、お猿さんにせまるんだ。
――女の人から、せまっちゃうの?
――そう、ちょっと変わった女なんじゃな。すると観音さまが現れて、この雪の国にもそろそろ子供が必要じゃ、いうてお猿さんに結婚をすすめるんだ。そして六人の子供が生まれた。それが、わたしたちの先祖なんじゃよ。
そんなふうにして、老僧の話はどんどん脱線していったけれど、一日じゅう聞いていても飽きることはなかった。
お城での生活を半年ほどしていると、さあ、旅に出ましょうかな、そう老僧がいって、何人かの僧たちとともに、あちこちの僧院に出向いて行くことが多くなった。
一日で行けるところはかぎられていて、行くだけで何日もかかり、そしてたくさんの僧院を何週間もかけて訪ねめぐったこともあった。皆は歩きだったけど、わたしだけ驢馬《ろば》の背にのせてもらって。
けど、訪ねるのは地方の僧院ばかりだったから、
――町《ラサ》には行かないの?
わたしがそう尋ねると、
――あそこには、今は行けません。
老僧は悲しそうな顔でいった。
今思うと、もうそのころから、いえ、わたしが生まれたあたりから、この雪の国はおかしくなっていたのだった。ラサにはよそ者の軍隊が来ていたからだ。
どこの僧院に行っても、わたしたちは歓待をうけた。村の人たちが総出のところもあって、あのミンドルリンへのお輿入れを、何度も、何度もくり返しているようなものだった。
ダナンの谷は、ミンドルリンがあるダチ谷から二十キロほど西にある谷で、その谷にそって行くと、大小の僧院が次から次へとたくさんあった。背中を崖にもたれかからせているような僧院や、丘の上にキノコのように突っ立っているそれなどが。
ミンドルリンを建てたわたしの父[#「父」に傍点]とやらは、このダナンの谷の生まれだそうだ。その父のゆかりの僧院もいくつかあった。
――その父だけど、今はどこにいるの?
――はい。お父さまは、お釈迦さまのおそばにおいでです。そしてお釈迦さまがこの世におでましになられるときに、ご一緒に。
それは、遥《はる》か遥か、気の遠くなるほどの先の話であることは、わたしにも分かった。
ヤルルンの谷は反対側で、ダチ谷から東に四十キロほどのところにあった。この谷にも僧院が点々とあったけれど、ここは、あの|聖なる山《カイラース》で生まれた子供たちが、その子孫たちが引っ越してきて住んだ場所だそうだ。だから、最初の王さまたちのお墓がある。
谷底の河に沿って(ときには河の中を進んで)ずいぶいと行った奥地にチェンゲという村があった。
そこは大きな村で、背後の切り立った岩山に、城壁で囲いをめぐらした古いお城の趾《あと》が残っていた。
その城壁の内がわにも僧院がいくつかあって、中でもゾン・ゴンパからの眺めは最高だった。
チェンゲの村が眼下に見え、河を挟んで、その向こうには広々とした平坦地が開けている。そこにお団子を平らにして置いたような山が、ぼこ、ぼこ、ぼこ、と何個もあるのだ。それらが、王さまたちのお墓だそうである。そしてそのお団子の山のひとつひとつにも、僧院が立っているのだった。
わたしが見惚《みと》れていると、老僧が教えてくれた。
――このチェンゲの村はですね、ダライ・ラマさまが、お生まれになった場所なんですよ。
――というと、今の?
――いいえ。第五代のダライ・ラマさまです。乱れておったこの国を統一して、ポタラ宮をお作りになられた方ですよね。
偉大なる初代の法王だ。それぐらいなら、幼いわたしだって知っていた。
――その第五代のダライ・ラマさまの、お師匠にあたられる方が、あなたのお父さまだったんですよ。
――ええー?
そのときばかりは、驚いて大声を出したことを覚えている。
何のことだか分からなかったけど、とってもすごいことのように思えたのは、その通りだった。
そのチェンゲの村に行く途中で、わたしたちはレチェン洞窟《プク》にも立ち寄った。それは昔、レチェンという偉い僧侶《ラマ》が、瞑想《めいそう》をするために、自然の岩をこつこつと掘って作った大きな穴で、その前でしばらく立ち止まっていると、洞窟の中から修行していたらしき僧たちがぞろぞろと出てきた。見るにしのびないぐらいの服装だったけど、その修行僧たちが、わたしたちの前まで来て、次々と頭を地面につけていくのだった。
誰も、何も、声などはかけていないのに、それはそれで不思議な体験であった。
そんな僧院・旧跡めぐりや、老僧からの個人授業をうけながら何年か経った、ある日のことであった。
――大変なことが起こりました。
老僧がわたしの城《いえ》に来て、沈痛な表情でいった。
――ノルブリンカに、大砲の雨が。
二日前にも数発あったらしいのだけれど、ついにといった感じであった。その後も、大砲の雨は丸二日ふり注いだのだった。
ノルブリンカは、ダライ・ラマ法王が住まわれていた宮殿だ。けれど、法王さまは大丈夫。三日前に、ひそかに逃げ出されていたからだ。そのことは、わたしたちは知っていた。法王さまのおそばには、ミンドルリン一の、高僧がおつきしていたからだ。
――ここミンドルリンは、特別な僧院《ゴンパ》でございます。国の一大事にこそ、その真価が問われます。
それが当時の、老僧の口ぐせだった。
けれど、その大砲の雨で、法王さまをお守りしようと宮殿を囲んでいた人たちが、大勢なくなり、その後は通りを歩いていただけで、反乱分子だとかいわれて投獄されたそうだ。
そして数週間後には、ラサからは二百キロは離れたこのミンドルリンにも、兵士を多数ともなって、よそ者がやって来た。
名目は、その反乱分子を匿《かくま》っていないかどうか、僧院の内部調査ということであったけど、それは嘘《うそ》で、仏像や建物から、金・銀や宝石などの値打ちのありそうなものを、ひっぱがしはじめた。
――ここも危のうございます。お逃げくださいませ。
そう老僧にいわれて、その日の夜に、十人ほどの僧たちとともに、わたしはミンドルリンから出た。
とりあえずの逃げる場所を打ち合わせて、
――わたしも、後から参りますから。
そう言葉をかわしたのが、やさしい老僧とのお別れだった。
わたしにも、予感はしたのだったけれど、だからといって――だからといって。
その日の夜のうちに、谷を下って、わたしたちはツォンドゥーツォクパに入った。わたしの生まれた村である。赤ん坊だった弟がやんちゃな年頃に育っていたけれど、わたしの顔を見ると逃げるようにして、家の隅っこに隠れてしまった。
ともあれ、父と母には元気な顔を見せてから、次の夜には、西のダナンの谷に入った。そこには小さな僧院が、山に隠れるようにしてたくさんあったから、とりあえず、そのひとつに落ち着いた。
目の敵にされるのは大僧院だけだろう、そう考えていたからだ。
けど、それは甘かった。数ヵ月もすると、そこにもよそ者がやって来た。そして僧院と見るや、大小を問わず、次々と壊されていった。
わたしたちは民家に身を寄せた。つきそいの僧たちは僧服を脱いだ。僧服を見られると、それだけで反乱分子にされたからだ。
そしてとりあえず――とりあえずのところは、それで落ち着いた。
法王さまをはじめとして、名だたる高僧の多くが、インドに逃げたそうであった。逃げられなかった高僧たちは、投獄されたか、処刑されたそうであった。
わたしたちもインドへ、とそんな意見も出たのだけれど、わたしは高僧じゃないし、ましてや、僧ですらもない。それに、逃げるのは嫌だった。
わたしは――ミンドルリンの宝。
わたしが祖国《ここ》にいれば、またいつの日か、皆戻って来てくれる、そんなぼんやりとした希望《おもい》が、わたしにはあった。
わたしたちが落ち着いた場所は、ダナンの奥地の小さな村であった。わたしの父[#「父」に傍点]の名前を出すと(わたしじゃなく、おつきの僧が)心よく、倉庫として使っていた建物を貸してくれた。その後、手狭《てぜま》だろうからと、日干しレンガでもって、またたくまに家も建ててくれた。そして僧たちも、村の人たちと一緒になって、畑仕事をやりはじめた。
そして……十年がすぎた。
わたしは、もう立派な女[#「女」に傍点]になっていた。
不穏な噂《うわさ》は、この奥地の村にも聞こえていた。
よそ者の兵士が、ふつうの家にまで、ずかずかと入って来るというのであった。何でも、四旧を打破するとかで、お香は焚いてはいけない。民族衣装は着てはいけない。伝統の飾りつけはしてはいけない。その他たくさん。――もちろん、仏壇などを見つけられようものなら、そこの家の人は殺されても、何ひとつ文句はいえないとのことだった。
そんな――ひどい。
だから、それなりに注意はしていたのだけれど。
その日は、村のお祭りの日だった。一年で一番の盛大なお祭り、お正月の日であった。よそ者とて、やはり正月は祝うはず。そんな心の油断があった。
けど、考えてみると、彼らとは暦《こよみ》がちがうのだ。
そこを謀《はか》ったように、狙われた。
山陰《やまかげ》にひそんでいた兵士たちが、大挙して、村になだれこんで来たのだった。手に手に銃を持っていて、もうどうすることもできない。
そのとき、わたしは家の中にいて、晴れの料理を尼僧が作るのを手伝っていた。
わたしにつきそってくれていた僧たちは、五人に減っていた。それぞれの故郷に帰った人たちがいたからだ。
年老いた尼僧がひとりと、男が四人残ったけど、家には、その尼僧以外にはいなかった。外の飾りつけや、日頃お世話になっている、村の手伝いをするために。
けど、たとえ家の中に何人いたところで、どうなるわけでもなかった。――無駄に、死ぬことなんてない。
外で、わーと喚声《かんせい》がしたかと思うと、何発かの銃声が聞こえた。そして犬の吠《ほ》える声がした。
村でも犬は飼われていたから、その犬だろうかと思ったけど、ちがっていた。その兵士たちが、犬を何匹も連れて来ていたのだ。
そして一、二分もすると、ふたりの兵士が家の中に入って来た。――犬も一緒に。
その犬はすこぶる鼻が利《き》くらしく、たちどころにお香の隠し場所を見つけられた。それはまあ仕方がない。それほど、真剣に隠していたわけでもなかったからだ。
けど、次には、板でふさがれた壁の一部に向かって、けたたましく吠えはじめた。
兵士が、銃についた剣先で、その板を乱暴にはがしていく。
そこには――僧服が隠してあったのだった。
お香の匂いが、しみついている。それを犬の鼻が嗅ぎつけたのだろう。
ふたりの兵士は、分からない言葉で罵声《ばせい》を浴びせ、ひとりが僧服の一着をわしづかみにすると、何か叫びながら、それを戸口から外に向けてバタバタと振った。すると、さらに何人もの兵士たちが、家の中に入って来た。
わたしと尼僧は、抱き合って震えていたけれど、もう、もうどうすることもできない。
そしてわたしは――わたしは、ついさっき死んだのだった。
そのことを思い出すと、わたしは、自分の屍体《したい》のそばに立っていた。
家の二階の、木の大机《テーブル》の上に、わたしの体は寝かされてあった。
晴れの衣装を、着せてくれていて、|トルコ石《ユ》と赤い珊瑚《チユル》の首飾りや、腕輪や、耳飾りや、髪飾りも、そして最も大切にされている目玉石《スイ》を、何個も、何個も胸に置いてくれていて、ありったけの装飾品《アクセサリー》で飾ってくれていた。それらは、村の人たちが隠し持っていたのを、貸してもらったのだろう。
わたしの枕元で、老人が、お経をあげてくれていた。たぶん……|死者の書《パルドゥトゥドル》だ。その老人は野良仕事の服を着ているけれど、わたしにつきそってくれていた僧侶のひとりだ。
さっき聞こえた、読経する声は、その彼の声だったのだろうか。
そうだ、よそ者の兵士は――
そのことを思うと、わたしは魔法のように壁をすり抜けて、二階の窓の外に浮かんでいた。
家の前には、村の人たちが集まって、泣きながら、手をあわせてくれていた。
兵士《やつ》らは、わたしを生《い》け贄《にえ》にして満足したのか、早々に立ち去ったようであった。
あっ、一緒にいた尼僧は――
そのことを考えると、わたしは再び部屋の中に戻っていた。
尼僧《かのじょ》は、横たわっているわたしの左手を、握りしめてくれていた。
よかった、あなたは無事だったのね。
――チュウですよ。チュウ。
泣きながら尼僧は呟《つぶや》いている。
チュウって……何だったかしら?
彼女から、教えてもらったはずだけど。
思い出した――
断《チュウ》は、心と体を切り離して、体を悪魔に布施する行《ぎょう》のことだ。つまり、鳥葬《チャトル》だ。
けど、あれだけは嫌だ――
あんなふうにして、切り刻まれたくない。
――ねえ、火葬があったでしょう。偉い僧侶は、そうされるそうよね。それが駄目だったら、罪人《つみびと》のように、土の下に埋めてくれてもいいわ。だから、あれだけは嫌!
わたしは、精一杯に叫んだのだけれど、尼僧《かのじょ》には聞こえるはずもなかった。
今のわたしは――幻身《ギュル》。
以前に、教わったことがある。
尼僧とは逆の側を見やると、ぼろぼろに引き裂かれた僧服を、ひとりだけが着ていた。兵士が、そのようにして捨てていったものを、葬儀のために着てくれているのだろう。
その男《ひと》は――ロンチェン・ユンテン・グンポ。
若くして(とはいっても、もう四十歳に近いはずだけど)ゲシェの試験に受かり、将来のミンドルリンの管長だと噂されていた人だ。つきそいの僧たちのまとめ役だ。
その彼は、体のあちこちから血を流していて、その血が床に流れていた。わたしよりも、痛々しいぐらいだった。
けど、その彼にだったらとわたしは思い、
――ねえ、聞こえる? わたしは、チャトルは、嫌!
彼の耳元まで来て、声を張り上げた。
けど、目を閉じていて、聞こえないようすだ。
わたしはもう一度同じことを叫びながら、彼の胸を思いっきり叩いてやった。
すると、彼がうっすらと目を開けた。
血が混じったような涙を流していた目だったけど、確かに、わたしの方を見た。
――見えるのね!
――だったら、聞こえるでしょう!
けど、そんな目を彼は閉じなおすと、前よりも強く、強く目を閉じて、なんだか、わたしを無視してる感じだ。
わたしは、無性に腹が立ってきた。
なにがミンドルリンの宝よ。
守って、くれなかったくせに。
どんな呪《ま》じないか知らないけど、わたしを見つけ出したりせず、ツォンドゥーツォクパの村で、そっとしておいてくれたなら、わたしはまだ生きていたはずよ。
わたしは、まだ二十歳《はたち》にもなってないのよ。どうして、こんな惨《みじ》めな死に方しなきゃならないの。
――聞こえてるはずでしょ!
――ねえ、何かいいなさいよ!
わたしは、その部屋から出た。
老人のパルドゥトゥドルのお経の声が、耳障《みみざわ》りだったからだ。――僧侶《あなた》たちの、思いどおりにはいかないわよ。禿鷲なんかに、そうやすやすと食べられてたまるものですか。
そしてわたしは、山へ飛んだ。
――獅子を探しに。
あのやさしかった老僧がよく語ってくれた、獅子と兎の童話《はなし》を思い出したからだ。
獅子にだったら、まだ食べられてもいいわ。
そう思ったからだ。
けど……獅子だなんて……どこに行けば会えるのかしら……わたしは、どこかの山の中を彷徨《さまよ》った。何日も、何日も彷徨った気がする。
そして、ふと、切り立った崖の突端を見やると、白くて大きな獣《けだもの》が、わたしの方を見ているのに気づいた。
それは――雪豹《ゆきひょう》だった。
老僧につれられて旅をしていたときに、遠くの方から一度だけその姿を見たことがある。
雪の精霊の、雪豹さんですよ。今ではもう、めったに見られません。
そんなことを老僧が語っていた。
あの雪豹さんだったら、食べられてやってもいいわ。
わたしは、ちょっと得意になって思った。
ふふ、思わず笑みも漏れてきた。
この幻身《ギュル》こそが、わたしの霊魂《ティグレ》だ。
それを雪豹に食べてもらえるなんて、僧侶《かれ》らの裏をかいた気分だった。
パルドゥトゥドルなんて、知ったことじゃないわ。
またどこかの誰かにサンサーラさせて、同じように見い出して、おだてて使うつもりなんでしょう。そうそう同じ手は食うもんですか。わたしの霊魂《ティグレ》の行き先は、わたし自身が――決めるの。
そんな、わたしの気持ちを察したのか、その雪豹は、崖のでっぱった岩づたいに優雅に跳躍をくりかえして、貴婦人のような足どりで、谷底に降りてきた。そして、少し先で立ち止まると、わたしの方をじーと見ている。その雪豹さんには、わたしの姿が見えるようだった。
わたしは――幻身《ギュル》だというのに。
そのときになって、初めてそのことに気づいた。
雪の精霊だから、見えるのだろうか?
けど、そんなことはもうどっちでもいい。
――わたしは兎よ。
それも、とびっきりに美味しい兎。
姑息《こそく》な手段で騙《だま》したりはしないわよ、正々堂々と食べてちょうだい。
わたしは両手をひろげて、そういった。
すると、その雪豹は、ゆったりとした足取りで、わたしのそばまで来た。
さあ、どうぞ、めしあがれ。
けど、その雪豹は……その雪豹さんの目に、どこか人の知性《かがやき》を感じた。
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――現代の日本である。
そして今は十一月の中旬だから、木枯らしと呼ぶかどうかは微妙だが、マイナス十何度かの寒気団が関東平野にまで南下してきて、風速二十メーターを超える冷たい風が吹き荒れていた――土曜日の午後のことである。
上野一丁目にある古陶磁器の専門店『青雅堂《せいがどう》』では、入口のガラス扉の前だけを除いて鎧戸《シャッター》をおろし、奥の上《あ》がり座敷《ざしき》のところで、レイカーズの真っ黄色のスタジャンを(袖は通さずに)ひっかぶった青年が独り、寝転がりながら店番をしていた。開店休業といった状態である。
青雅堂は、古びた二階家の一階を店舗としている。間口《まぐち》二|間《けん》半・奥行《おくゆき》五間ほどだが、都心にあるこの種の店としては広い。床は、学校の古い教室を思わせるような板張りで、大きな水屋箪笥《みずやだんす》、やや小ぶりの帳場《ちょうば》箪笥、木の台車がついた車《くるま》箪笥、飾り金具で縁取《ふちど》られた仙台箪笥や舟《ふな》箪笥、そして階段になっている階段箪笥など、大小様々な古い箪笥が陳列用《ディスプレイ》の台として置かれ、それで通路が作られている。
店の奥にある上がり座敷は、四畳半で、床からは五十センチほど高い――高さや広さに決まりはないが、骨董《こっとう》屋にはよくある作りである。年代物の木の長火鉢が置かれ、すでに炭火が入っていて、真っ黒でやや大ぶりの南部鉄瓶《なんぶてつびん》がのせられ、ほどよい温度で湯が沸いている。それを使って、上客にお茶をふるまったりもするのだ。
店番の青年は、そのやたらと長い躯体《からだ》を座敷からはみ出しぎみに横たえ、暇つぶしにと、煤《すす》けた表紙の書物をぱらぱら捲《めく》っていた。
――チリリーン。
ガラス扉に吊り下げられてある鈴が鳴り、それとともに、しゅるるるる、と風が吹き込んできたので青年は体を起こした。
「いらっしゃい……ませ」
入ってきた客を見て、挨拶《あいさつ》に詰まった。
ひと目でそれと分かる異国の僧侶であった。山吹《やまぶき》色の、やわらかそうな長布を蓑虫《みのむし》のように纏《まと》っている。おそらくそれは外套《がいとう》で、海老茶《えびちゃ》色の、長袴《ながばかま》かロングスカートのような胴衣を下に着ている。その単純な二色のコントラストは、青年のスタジャンも色あせて見えるほどに……派手である。顔は日本人と大差ない。だが肌の色は(日焼けなのかもしれないが)褐色だ。頭をつるつるに剃髪《ていはつ》していて、それに右腕を、肩から先を露出させている。
(うわあ、ひっかけんといてやあ)
上がり座敷の縁《ふち》に座って居住《いず》まいを正しながら、青年は祈るように思った。
店内の通路は狭い。古箪笥や飾り棚には、江戸期の皿や小鉢が五客・十客の単位でびっしり積まれてある。僧侶が纏っている外套は異様に長いらしく、その布の余りを腕にだらーんと抱え持っている。和服の振り袖のような状態だ。それに、胴衣の裾も床すれすれである。床にも印判手《いんばんて》の皿などがところどころ積まれているのだ。それはまあ、幕末から明治初期にかけての安価な品物だからいいとしても。
しかし、その異国の僧侶はざーと店内を見渡すと、皿を品定めするふうはなく、顔を青年の方に向けながら店の奥へと歩いて来る。いや、歩くというより滑るようにやって来る。床にふわり[#「ふわり」に傍点]と浮いているかとも思えるほどで……靴音がしない。ジグザグした狭い通路を、レールでも敷かれているかのように滑《なめ》らかに進んで来る。皿はもちろんのこと、箪笥の角にだって着衣を擦れさせるような雰囲気はない。
(へーさすがに僧侶やなあ)
小柄で痩せた人である。柔和《やわらか》な微笑を浮かべている。かなりのお年寄りだ。そして上がり座敷の近くまでやって来て……○×△♪♪♪……老僧は何やら言葉を発したが、青年は、まったく理解できない。
「えーどないしたもんやろう……あいきゃんなっとすぴーく」
関西弁と英語(らしきもの)で青年が言い訳していると、またしても、
――チリリーン。鈴が鳴った。
見ると、異国の僧侶がさらにもうひとり、少し慌てたふうに店に入って来た。やはり剃髪していて、纏っている衣装は同じだが、後《あと》から来た僧侶は外套も海老茶色である。つまり一色なのだ。その一色の僧侶が、リンポ※……と老僧に声をかけながら、店内の通路に進み入った。
――ガチャガチャ。
案の定、皿にぶつかる音がした。老僧が振り返って、咎《とが》めるように何かいった。一色の僧侶は、申し訳なさそうに頭を下げた。彼はまだ修行が足らないようだ。歳《とし》も若そうである。
ふたりの僧侶は並んで暫《しばら》く話し込むと、その若い方の僧侶が、片言の日本語で、
「こちらに、りゅうが、いますか?」
――たどたどしく問いかけてきた。
「竜? 竜の絵柄でしたら、けっこういますよ[#「いますよ」に傍点]」
いうと青年は、すぐ近くの帳場箪笥に平積みにされてあった皿の中から、五寸皿を一枚、無造作に掴《つか》みとった。
「――竜ですよね。これは宝暦《ほうれき》ごろの古伊万里《こいまり》の染付《そめつけ》です」
普段の客にするように説明したが、それは不親切すぎると気づき、
「今から二百四、五十年前のものです。日本の有田《ありた》というところで焼かれた皿で、白地に呉須《ごす》の青色だけを使《つこ》てる……それを染付いうんですが、この染付の方が、変に色が入ってるやつよりも人気あるんですよ。毎日使てても飽きがきませんからね」
――親切に説明しなおした。
それは、雲間《くもま》を飛んでいる竜が玉《たま》をつかんでいる、典型的な絵柄の皿である。
だが老僧は、あーそれはちがう、そういいたげに首を横に振った。
「そやったら、もっとええのありますよう」
青年は体をひねると、その長い腕を、座敷の奥の飾り棚に伸ばし、そこに立てて置かれてある七寸皿を一枚、大事そうに手にとった。そのあたりには高価な品が陳列されているようだ。
「花唐草《はなからくさ》に、竜です。花唐草いうんは地の模様ですけど、ふらわー……唐草ですね。唐草そのもんは、古代ギリシャにまでさかのぼる古い模様です」
同じく、古伊万里の染付であるが。
「花唐草に唐獅子《からじし》……つまり、らいおんですね。それはときどきあるんですが、花唐草に竜いうとりあわせは、稀《めずら》しいんですよ。それに時代もかなりあります……古い、おーるど、いうことですが。ざっと三百年ほど昔の皿です」
青年は熱心に説明する。が、老僧は首をかしげたままである。
若い僧侶が、だめですね、みたいなことを呟くと、老僧が、もっとちゃんと通訳しなさい、と彼を叱りつけた……ように青年には思えた。
若い僧侶は困り顔になって、
「まあそうおっしゃいますけどね、リンポへ」
「無理いわんで下さいよ、ランポラ」
そんなことをいっているように思えた。
「りんぽへ……らんぽら」
「土門《どもん》くん、わざといってる?」
「いいや、うろ覚えなだけや」
土門|巌《いわお》は、情けない声でいう。
「それをいうなら、リンポチェ――」
肩すれすれまでに伸ばした髪をひと揺すりして、麻生《あそう》まな美はいった。
ふたりは、埼玉県にある私立M高校の二年生で、歴史部の部員である。
「何者《なにもん》やそれ? 有名人なんか?」
「ちがうわよ。リンポチェは人の名前じゃないの。日本だと、ご住職、和尚《おしょう》さま……とかいうでしょう。あれと同じで、お偉い僧侶、ぐらいの意味ね。それに右肩を出してたんでしょう?」
「おう、あの寒いのに片腕すっぽんぽんやった」
|なんて表現《セクハラぎみ》……まな美は眉根を寄せながらも、
「だったら、間違いなくチベットの僧侶だわね。服装からいっても」
「へー、あれがチベットか……いや、前からな、ときどき店の前を歩いてたん見かけてたんや。そやから、近くにそういうのがあるんやな」
「そういうのって?」
「チベットの僧院」
高原に立っている僧院のように土門くんはいう。
「うーううー、歌が聞こえてきそうやなあ」
さらに脱線する。
「それは尼僧《シスター》がいる僧院でしょう」
まな美は、軽く受け流してから、
「その僧侶がいっていた竜[#「竜」に傍点]だけど、ひょっとして、ナーガ……ていってなかった?」
「なにが長いんや?」
「長いんじゃなくって、ナーガ[#「ナーガ」に傍点]。インドでは、竜のことはナーガというのね。だからチベットの竜も、もしかして……ナーガじゃないかと」
「あや? 自分でいいだしとって、自信なさそうですね姫」
「うーん、どちらかしら……」
大きな木の円卓《テーブル》に、まな美は頬杖をついた。
その円卓の真ん中に置かれている黄ばんだ地球儀を、土門くんはくるくる廻しながら、
「どっちもこっちも、西洋の火い吹く竜《どらごん》は雰囲気ちょっとちがうけど、このへんの竜は似たり寄ったりちがうんか?」
「それがちがうのよ。わたしたちの知ってる竜って、あれは中国の竜なのね」
「チベットかて中国やで」
といってから、土門くんは即座に、
「――今のは失言。チベットは元来、独立国であり、中国の軍隊が一九五〇年に勝手に攻めてきて、ずーと占領しているにすぎない。五九年にはチベット動乱で、宮殿に大砲をぶっぱなして、ダライ・ラマさんはインドに亡命。その後も、六五年から十年ほど続いた『文化大革命』とやらで、荒らしに荒らしまくって、そして現在に至る。我が伝統ある歴史部としては、そのへんははっきりしとかんとな」
歴史部はM高ができた当初からあり、その四十九代目の部長が、土門くんである……何かにつけて、彼は縁起のいい(?)数字に当たる。
「仏教の経典って、三蔵法師《さんぞうほうし》の話のように、天竺《てんじく》から中国にもってこられるでしょう。そして中国語に訳したときに、ナーガを、竜と置いちゃったのね。ただし、その竜は、中国に古代からいた竜なの」
「そやったら、べつもんなんか?」
「そう。インドのナーガって、蛇のコブラなのよ」
「え? あの笛をぴーひゃらと吹いたら、籠《かご》から出てくるやつ?」
手首を曲げて鎌首《かまくび》をつくり、土門くんはいう。
「そのものずばり――」
その手《へび》を、まな美は指さしながら、
「だから、竜みたいに手とか足とかはないし、姿も完全にコブラだと思えばいいわ」
「えー、そやけど、竜が出てくる話って、仏教にはけっこうあるやんか。それらもつまり、コブラやいうこと?」
「原典《オリジナル》はね。だから八大竜王《はちだいりゅうおう》の話も……お釈迦さまが法華経《ほけきょう》を説いていたときに、人々にまじって、そのありがたーい話を竜王たちが聴いていた……て逸話だけど、これは現地語《サンスクリット》ではナーガ・ラージャ。コブラの王さまという意味なのね」
「うわーそんなんが聴きに来てたんか。インド人もびっくり」
「……でね、チベットの仏教は、インドにおける最後期の密教《みっきょう》を、そのままそっくり移植したというのが、最大の売りなの」
「う……売りですかあ」
姫にはあるまじき言葉|遣《づか》いに、土門くんはちょっと面喰《めんくら》っていう。
「だから猫も杓子《しゃくし》も、みーんなありがたがっちゃって、チベットに何回行っただとか、ダライ・ラマとさも仲良しみたいに、一緒に写ってる写真をひけらかして、自慢したりするのね。とくに新興宗教の教祖さまなどは。でもはっきりいって、わたしチベット密教は嫌いなの[#「嫌いなの」に傍点]――」
腕組みをして、毅然《きぜん》とした表情でまな美はいう。
「ありゃりゃ……それは予想外のご発言で」
「チベットには、お釈迦さまの教えが忠実に伝わっている、なんて誰がいいだしたのかしら。誇大妄想、誇大宣伝もいいところだわ。チベット密教には、女性としては許せない部分があるの――」
女性という単語に、土門くんは身をのけぞらしてから、
「まあまあまあ。……とするとやな、店に来たチベットの僧侶がいうてた竜も、コブラやいうことか? そんな絵柄の皿はうちの店にはあらへんぞう」
と大袈裟にお道化《どけ》ていう。
「けど……自信はないの。チベットには、竜は、中国から入ってきた竜がいて、ナーガとは別だったような気もするし」
「なんや、ふりだしに戻ってしもうたやんか」
「それにナーガも、コブラの姿じゃなくって、チベットにいた土着の神さまと合体しちゃって、上半身が人間の女性、そして腰から下が蛇、そんな姿だったような気もするし……」
「あ、そやったら」
と土門くんは、部室の壁一面を塞《ふさ》いでいる、ガラス戸の嵌《は》まった古びた木製の本棚の方を見やった。
そこには、各種事典や、先輩たちが寄贈していった書物が――大半は旬《しゅん》をすぎてしまった歴史関連の読み物だが、ノストラダムスの大予言の初版本とか、四次元方程式(地球上のとある場所で原爆を爆発させると地球の軌道を変えられる)の本など、好事家《マニア》なら涎《よだれ》がでそうな稀覯《きこう》本も何冊か――ぎっしり詰まっている。
「チベットの本、一冊ぐらいはあるんちゃうか」
土門くんが椅子から腰を浮かした。
「駄目ッ! 見るんだったら、わたしがいないところで見てくれる――」
まな美のきつい口調に、触らぬ姫に祟《たた》りなし、と土門くんはそのまま椅子に座り直した。
「ところで土門くん。その季節はずれの〈幽霊〉とやらは、どこに出たの?」
そもそも、放課後、部室で顔を合わせるなり、
〈えらいこっちゃ姫、幽霊が出たんや!〉
で始まった話だったのだ。
「いやあ、出るもんが出るんは、これからやねんけどな……」
姫の機嫌の悪さは、ちょっとはマシになったやろか、と顔色を窺《うかが》いながら、
「その日の夜のことやねん」
土門くんが話を再開しようとすると、ギギギー、蝶番《ちょうつがい》のきしむ音がして、廊下側の扉《ドア》が開いた。菱形の小窓に曇りガラスが嵌まっている木の扉である。
「あ、マサトくーん」
晴れやかな声を出してまな美は顔を向けたが、すぐに間違いだと気づき、ぷい、と口を噤《つぐ》んでしまった。
部屋に入って来たのは、一年生の女子・水野弥生《みずのやよい》であった。彼女は、秋の文化祭が終わってから一週間ほど後に入部してきた、遅ればせながらの新入部員である。
まな美は二年A組だが、マサトと同じく二年C組の土門くんが、小声でいう。
「……天目《あまのめ》な、用事があるいうて今日も帰ってしもたんや。あいつ最近、つきあい悪うなったよなあ」
とはいっても、ここ十日ほどの話であるが。
マサトには、アマノメの神としての用向きがあるからだが、もちろん、土門くんとまな美はそんなことは知る由《よし》もない。
水野弥生は、軽く会釈《えしゃく》をしながら円卓《テーブル》まで来ると、何の躊躇《ためら》いもなく、土門くんの右隣の椅子に座った。そこはマサトのふだん座る席だから、まな美としては面白くないが、土門くんは両手に花で、
「あんな、うちの店に幽霊が出たんや。知っとう思うけど、うちの家は骨董屋やねーん」
――嬉々として話し始めた。
その日、店主の土門|翼《たすく》は、馬喰町《ばくろちょう》で催されていた小規模の交換会に出席し、そのあと同業者と一杯飲んで、夜九時ごろに『青雅堂』に戻って来た。
店は上野だが、家は埼玉県の岩槻《いわつき》市にある。上野|広小路《ひろこうじ》駅から銀座線で浅草駅まで出、そして東武鉄道を使えば約一時間半で家にたどり着ける。だから、まだ十分に帰れる時間帯だったのだが、
「ふー、酔いがまわってきたなあ」
父親の翼は腰が重たそうで、
「あした日曜日やもんな。もうどっちでもええわ」
息子の巌《いわお》ともども、店に泊まることとなった。
店の二階には、床の間つきの八畳と、そして六畳の、行け行けの和室がある。おもに倉庫として使っていて、桐箱や段ボール箱が山積みにされている。だが、八畳間の方に、ふたり分の布団を敷くぐらいの空間《スペース》はある。
店主の父親は、何かしらの理由を作っては週の半分ぐらい、息子も月に二、三度は、そこに寝泊まりをする。だから慣れたもので、父親は酔いが足らないと、ガスストーブで炙《あぶ》った剣先《けんさき》するめを肴《さかな》に、缶ビールを何本か開け、未成年の息子もそのお相伴《しょうばん》にあずかって、夜の十一時には、ふたりともすっかりいい気分になって寝入ってしまった。
その翌朝――五時ごろのことであった。
もちろん、旭《ひ》はまだまったく昇っておらず、外は夜の帳《とばり》に包まれている。
その八畳間には、天井から下がっている四角い傘の蛍光灯に、数ワットの常夜灯の明かりが点《つ》いていたのみだ。だから、真っ暗闇というわけではなかったのだが。
父親は、目が覚めると即、いわゆる〈金縛り〉の状態だったという。重たい何かが胸にのしかかってきているような感じで、上体を起こせないのはもちろん、手の指すら、ぴくりとも動かすことができない。そして、目が覚めているはずなのに……何も見えない[#「何も見えない」に傍点]。
父親は〈金縛り〉は初めてのことではない。最近はとんとないが、ふしだらな生活をおくっていた二十歳《はたち》前後に何度か体験がある。そのときのことを思い出すに、不安であっても、ただただ我慢するしかなく、そうこうしていれば、体の縛りは徐々に解かれていくはずであった。
しばらくすると、視野が戻ってきた。そして目だけは動かせるようになった――そこまでは、若かりしころの体験と同じである。
ところが、横で寝ている息子の枕元を見やると、ぼうと白い姿をした、得体の知れぬ何者かが立っていたというのだ。
その白い何者かは、息子の寝顔を覗《のぞ》き込んでいるようにも見えた。
「――こ、このやろう!」
声を出せたかどうかは、実際、定かではないが、息子のことを案じた父親は、あらん限りの力をふりしぼって金縛りを解き、気丈にも、その白い何者かを手でぶん殴りにいったという。
「おわっ」
息子が目を覚ました。父親の重い胸板が顔にのしかかってきたからだ。
「……ど、どないしたん……」
父親は、両の拳《こぶし》で畳を叩き、泳ぐように暴れている。
「なに寝惚《ねぼ》けとんやあ」
息子は体を父親からずらすと、布団から上半身を起こし、そのまま長い腕を伸ばして蛍光灯の紐《スイッチ》を二回ひっぱった。
「ど、泥棒がそこに――」
つまり、その白い何者かを、父親は泥棒だと思ったのだ。
間延びして、蛍光灯の明かりがともった。
「どこにおるんや、そんなもーん」
息子は室内を見渡したが、ふたり以外には、誰もいない。
この八畳間に人が隠れられるような場所はない。押し入れの襖《ふすま》や、そして六畳間との境の襖も、閉じられたままである。不審者が、階段を駆け降りていくような足音もしない。父親のはーはーという荒い息以外は、家全体がしーんと静まり返っていた。
父親は、へなへなと布団の上に座り込み、しばし思案してからいった。
「そやったら、あれは……幽霊やったんか」
土門くんが話している間じゅう、水野弥生はくすくすくすくす笑っていた。
確かに、大の男ふたりが寝床で重なっている様を想像すると滑稽《こっけい》ではあるのだが、全編を通しては、父親が息子のことを庇《かば》おうとしたという、いわゆる美談[#「美談」に傍点]である。
いったい何が可笑《おか》しいの……まな美は問いただしたくも思ったが、彼女に御局《おつぼね》さんだと思われるのも癪《しゃく》なので、
「それ、けっきょく泥棒だったんじゃないの?」
土門くんにぶつけていう。
「どこから入るんや。二階の雨戸はぜーんぶ閉まってたし、一階の鎧戸《しゃったー》もちゃんと下ろしてた。それにうちの店は、防犯には命かけてんねんで。せこむ[#「せこむ」に傍点]にかて入ってるぐらいやねんから」
「だったら、一酸化炭素中毒かもしれないわよ。ガスストーブを使ってたんでしょう」
「そやったら、自分らが幽霊なってるぞう」
土門くんは手をぶらぶらさせながら、
「寝る前にちゃんと消しました。元栓も自分が閉じました」
「……酔っぱらってたくせに」
捨て台詞《ぜりふ》のようにまな美はいった。
水野弥生は、くすくす笑いをやめると、
「夢枕に立つ幽霊……ですよね」
長い黒髪を手ですーと撫でおろしながらいった。
彼女の髪は、まな美よりも二十センチほど長い。身長も五センチほど高い。肌の色も水野弥生の方がやや白そうだ。好みにもよるだろうが、彼女の方が美人だという人もいるだろう。まな美はアイドル系だとすると、水野弥生は女優……といった雰囲気で、二十歳《はたち》だといっても通るぐらい大人びて見える。
まな美の最近の苛々《いらいら》は、この新入部員《みずのやよい》が原因であるようだ。
「――そや。まさに夢枕に立つ幽霊やねん」
そんなことにはまったく無頓着な土門くんは、水野弥生の話に迎合していう。
「こういう幽霊が出たあとにはやな、きまってどこかから電話がかかってきて、誰それが亡くなりはったーいうんが普通やろう」
「そうかしら」
まな美は、横を向いて冷たくいう。
「いや、夢枕に立つ幽霊いうんは、そういうもんやねん。自分が死んでいくんを親しい人にだけは伝えようと、幽霊になって枕元に出てくるんや。親父《おやじ》もそういうのけっこう信じててやな、ふたりして起きてずーと待ってたんや」
「……電話を?」
水野弥生が問いかけた。
そんなの決まってるじゃなーい、まな美は思う。
「店の電話だけちゃうで。自分の携帯と親父の携帯も持ってきて、三台ならべてずーと待ってたんや。そやけど、どこからも、なーんもかかってけーへんねん」
さも悔しそうに土門くんはいってから、
「そのあいだ親父と話《はなし》してたんやけど、親戚で誰か病気してる人おったか……思い浮かばへんねん。みんな元気やねん。それで八時ごろになってやな、家に電話かけて母親《おふくろ》に聞いてみたんや。何か変わったことないか……何もない、いいよるねん。それで親父が仲間内に電話かけまくったんやけど、だいたいどこもまだ寝てて、うるさーい、いわれてけんもほろろや。そして現在に至る……いうわけやねん」
水野弥生は、またも、くすくすくすくす笑っている。
「だったら[#「だったら」に傍点]」
怒ったようにまな美はいい、
「どこかのネオンサインが、部屋の壁にでも反射したんじゃないの? 店があるのは上野でしょう」
なおも否定的な見解を述べる。
「それさっきいうたやんか、二階の窓はぜんぶ雨戸が閉まってたんや。開けることはめったにあらへんねん。それに開けたとしても、建物《びる》の壁しか見えへん。それにねおんさいん[#「ねおんさいん」に傍点]もないねん。うちの店があるんは」
土門くんはちょっと考えてから、
「……いわゆる問屋街で、繁華街とはちがうねん」
まな美は、『青雅堂』にはまだ行ったことがない。あれほど土門くんから骨董の話をあれこれと聞かされているというのに、なぜか機会《チャンス》がなかったのだ。もちろん興味は大いにあるのだが。
「どんなお店かしら……行ってみたいわ」
水野弥生がいった。
「おう、いつでもええでえ。安うしときますよう」
商人《あきんど》になって、揉《も》み手をしながら土門くんはいう。
――馬鹿[#「馬鹿」に傍点]。まな美は思いながら、
「その幽霊は、けっきょく、土門くんは見てないんでしょう?」
「そうやねん。自分は見てへんねん」
「だから、そんなご気楽な話になるのよね」
心にもなく、まな美は厭味《いやみ》をいってしまった。
「いや、ご気楽な話、いうわけでもないんやで。先に僧侶の話をしたやろう。あれが関係するねん」
その話を知らない水野弥生に概略を説明してから、土門くんはいう。
「そのチベットの僧侶がやな、店から立ち去りぎわに、老僧が何かしゃべって、それを若い方が訳して、こんなこと自分にいいよったんや――」
『あなたには、よき霊がついてますね』
「何のこっちゃー思て、すっかり忘れとったんやけど、親父があちこち電話しとうときに、そのことを思い出したんや」
――妙な話である。
まな美は、少し考えてからいう。
「じゃあ、それについてのお父さんの見解[#「見解」に傍点]は?」
「いや、親父にはいうてへんで。今さらそんなこと話されへんやんか。そのときは、別の方向性[#「方向性」に傍点]で盛りあがってるいうのに」
――何事につけ、盛りさがるのを関西人は一番に嫌うのだ。
「そうすると、土門くんについていた霊が、出てきたってこと? それが土門くんの見解[#「見解」に傍点]?」
「見解見解いわれても困るんやけど……なんせ、いわれてその日の夜やからなあ」
正しくは、翌日の朝であるが。
「ふーん」
まな美は腕組みをして、しばし考えているような素振りをしてから、
「でもよき霊なんでしょ、だったらいいじゃない」
――投げやりにいう。
「ええも悪いも、どんな幽霊さまかは存じあげませんが、自分についてるいうんは気色《きしょく》ええもんちゃうぞう」
「守護霊《しゅごれい》……というものかしら」
水野弥生がしおらしく言葉をはさんだ。
「まあ、そう表現されると、ちょっとはあれやねんけどな」
あれって何よ、まな美は絡《から》みたくも思ったが、
「その、守護霊というのはどんなものなの?」
できるだけ刺々《とげとげ》しくならないようにと、水野弥生に尋ねた。
「守護霊というのはですね……その人の亡くなったお祖父さんやお祖母さんがついていることが多くって、その人を守ってくれているそうです。見える人には」
彼女は、自分の肩に手を添えながら、
「この肩のあたりに見えるそうですよ」
――つまんない。
それは、まな美が想像していた以上に凡庸《ぼんよう》な答えであった。
「あ、そやそや、もうひとつあんねん」
思い出したように土門くんがいう。
「そのチベットの僧侶が店に来たときにやな、自分は本を読んどったんやけど、それはどんな本かというと……あの小泉八雲《こいずみやくも》の小説やねん」
「ラフカディオ・ハーン……ですよね」
確認するように水野弥生はいう。
「それ、ひょっとして、『怪談《かいだん》』?」
まな美は金輪際《こんりんざい》いかがわしそうにいった。
「あたりや」
土門くんはお道化《どけ》ていう。
「それは作った話でしょう」
「そういわれるやろ思て、持ってきやした」
いうと土門くんは、学生鞄の中から古びた単行本を取り出して、円卓《テーブル》の上に置いた。
薄緑色をしたザラ半紙のような表紙《カバー》に、『怪談』その下に著者名が、簡素《シンプル》に印刷されてあった。
それを見て、まな美は少し目を輝かせながら、
「土門くんのお店って、こういう古い本も扱ってるの?」
「いや、これは親父が蔵出《くらだ》しに行ったときに貰《もろ》てきとうねん。うちが欲しいんは皿やねんけど、ついでに貰てんかーいわれたら、いやとはいわれへんやろう。もちろん、なんぼかは払《はろ》てんねんで」
「けど……意外と掘り出し物だったりして」
まな美は、その古い本に手を伸ばしかけた。
「そんなん、親父がすぐに調べてる。これいちおう戦前の本やねんけど、初版本なんかとは全然ちごうてて、値打ちはないそうや」
まな美は、手を引っ込めた。
そういわれて見ると、黴《かび》臭そうな単なる古本だ。それに中身は以前読んだことがある。
「そやけどな、これ貰てきたんは先週の木曜日のことやねん。そやから、ひょっとしたらこの本[#「この本」に傍点]に幽霊がついてきたんかも……」
「『怪談』の古本に幽霊がとりつくなんて、できすぎだわよ土門くん」
「いや、できすぎであろうがなかろうが、この無垢《むく》な少年に(自分を指さしながら)ついてるいうよりは、まだ信憑《しんぴょう》性があるいうもんや」
妙な理屈をいってから、
「そやけど、天目《あまのめ》がおったら、こういうのわっかるんかもしれへんけどな」
その土門くんの言葉に、水野弥生が驚いたような顔をして、
「天目さん……て、そういうのが見える人なんですか?」
「いや、見えはせーへんやろうけど、あいつときどきみょーに勘《かん》鋭いことあんねん……なあ」
まな美も、小さく頷首《うなず》いた。
マサトは極力隠してはいるのだが、その言動の端端《はしばし》に神の能力が露呈してしまうのは、ある程度はやむをえないようだ。
「天目さん……て、どこか神秘的な人ですよね」
水野弥生がいった。
「しんぴてきい[#「しんぴてきい」に傍点]?」
まな美も同様の感じはしているのだが、新入部員《みずのやよい》にいわれると腹が立つ。しかも、マサトくんに興味がありそうな口ぶりだ。
「ともかくもやな[#「ともかくもやな」に傍点]」
気まずい雰囲気を察してか、甲高い声で土門くんはいい、
「こういうわっけのわからへん話は、あの人に聞いてみるんが一番やでえ」
と、学生鞄から、自慢の髑髏《どくろ》の根付《ねつけ》をひっぱって携帯電話を取り出し、手の平にのせて差し出した。
まな美は、素知らぬ顔をしながらも、その携帯電話をさ――とかっさらうと、椅子から立ち上がって部屋の隅へと歩いていく。水野弥生には、電話の内容を聞かれたくないからだ。
「あの人……て?」
その水野弥生が、土門くんの顔を覗き込みながら聞いてくる。
「それはやな」
いうと怒られるやろな……予知した土門くんは、
「あの人に聞いて」
まな美の後ろ姿を、そうっと指さした。
まな美は、相変わらず携帯電話は持っていない。家(ママ)から急用があったりすると、土門くんのそれにかかってくる。それでだいたい捉《つか》まるからだ。そして兄貴(火鳥竜介《かとりりゅうすけ》)の電話番号も、今や、土門くんのそれに記憶されている。
まな美は、まず大学の研究室にかけてみたが、外出していて今日は戻らないとのことで、携帯電話の方にかけてみると……捉まった。
そして小声で二、三分話してから、円卓《テーブル》に戻ってきたまな美に、
「……で、どないでした?」
おずおず土門くんは尋ねる。
「なんだか、取り込み中らしくって」
まな美は、いっそう機嫌が悪そうで、
「だから詳しくは聞けなかったんだけど、なんでも、そのチベットの僧侶はまがいもの[#「まがいもの」に傍点]だから、相手にするなだって」
「え? なんでです?」
「チベットではね、そもそも幽霊は出ないそうよ」
「そ……そんなあ……」
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「――火鳥先生。こちらでーす」
川口市の郊外にある真浦会《まうらかい》の修行道場の正門前で、手を振っていたのは生駒《いこま》刑事であった。
――埼玉県警・立入禁止・埼玉県警・立入禁止・埼玉県警・立入禁止・埼玉県警・立入禁止――
そう黒文字で交互《エンドレス》に印刷された黄色いテープが、横に長い鉄扉に|大×印《バッテン》をするように、ブロック塀を使って張られてあった。門の脇には、制服姿の巡査も立っている。
「えー、依藤《よりふじ》はですね、またしても難題[#「難題」に傍点]がもちあがりまして、それでもって、代わりに僕がご案内をと仰《おお》せつかったんですよ。ですから何なりと、何なりとご用命を……」
甲斐甲斐しく生駒はいった。
例によって……超VIP待遇の従僕指令が出ているようだ。
巡査が鉄扉を滑らせて開け、その|大×印《バッテン》の交差《クロス》した下をくぐって、ふたりは敷地内に入った。
「うわ……けっこう奇麗《きれい》な庭だったんですね。自分も昼間にここに来るのは初めてなんですよ」
生駒は、昼間は塀越しに見ただけである。
斑《まだら》模様の石畳が、正門の右はしから正面玄関へと続いていた。その右側は、短く刈り込まれた芝生で、左側は、学校の運動場のごとくに小石ひとつなく均《なら》された地面だ。
塀に沿ってある灌木《かんぼく》の根元や、その塀のきわにも、雑草らしきものは皆無である。
「ふーん、噂によると、この真浦会の修行は、まずは草|毟《むし》りから……なんだって」
「お寺の小僧さんとかも、そうだといいますよね」
「もちろんそうなんだけど、ここは新興宗教だから、それは喩《たと》え話だと思ってたんだけど、実際に、実話だったようだね」
苦笑ぎみに、竜介はいった。
「けど庭は……とくに見るものはありませんので」
生駒はそそくさと、その白っぽい建物の、庇《ひさし》が張り出している正面玄関へと、竜介を先導して行く。
入口はガラス扉で、入ると汚《しみ》ひとつない真っ白なタイル敷きだ。
左壁に、大きな作りつけの木製棚があった。要するに、靴箱だろうが、その棚は無靴《がらんどう》である。
「……信者さんは、ひとり一足の決まりらしくって、その信者たちを外に放《ほ》っぽり出したから、こうなっちゃったんですねえ」
靴は、南署《けいさつ》が放つぽり出したわけじゃないですよ、そんな雰囲気《ニュアンス》で生駒はいう。
「そしてこの先は、原則|素足《はだし》だったようです。けど、南署《うち》のスリッパが用意してありますので……」
上がり口のところに、埼玉県警と所属名《ロゴ》が入ったそれが何組か置かれてあった。
そして木の床も、滑りそうなほどに磨《みが》き込まれてあり、壁は手垢《てあか》ひとつない白壁だ。
竜介は、何かのモデルルームにでも来ているようだと錯覚したが、その何か[#「何か」に傍点]は……思い浮かばない。
「これ、天《あま》の岩戸《いわやと》の話ですよね」
玄関の真正面に置かれた大和絵《やまとえ》風の衝立《ついたて》を指さしながら生駒はいい、そして右側へと誘導して行く。
見たい[#「見たい」に傍点]……と竜介が頼んであったのは神を祀っている場所で、監禁されていた地下室《シェルター》の方ではない。
そして廊下を少し行くと、
「これ、分かります?」
生駒が、壁の方を漠然と示していった。
「うん?」
竜介は、しばらくその付近を眺めていて、
「あっ……この縦の線か」
「そうなんです、これが噂の隠し扉なんですね。新聞にも、ちょこっと紹介されてましたでしょう。で刑事課《うち》の依藤は、ここではないんですが、同じ作りの横を通っただけで、おっ! この壁が怪しい、て突然いい出したんですよ。すごい眼力[#「眼力」に傍点]でしょう」
語《かた》り部《べ》の生駒は、話を日増しに超人化《エスカレート》させていっているようだ。
生駒はその隠し扉に体をあずけながら、
「これ、凭《もた》れたぐらいでは動かないんですね」
そして力強く押して開け、
「おっ、と、と、とー……」
扉が軽くなったところで、お道化てみせた。
この大きな建物の中に、今は竜介と生駒のふたりきりである。少しはお巫山戯《ふざけ》でもやらないと、気が変になりそうだ。
「あれ? 電気つけてないのに明るいですね……」
隠し扉の先にあった回廊は、天井と壁との境目にところどころ小さな穴が開いていた。そこから、仄《ほの》かに日の光が差し入っていて、それが微妙な陰影をおりなしている。
壁は、隠し扉の外の洋風のそれとは違い、和風の白漆喰《しろしっくい》だ。だから土蔵の中にいる感じもする。床も外とは異なり、古材のような焦げ茶色の木が使われていた――簡素《シンプル》だが、凝《こ》った作りである。たぶん名のある建築家の手になるものなんだろうな、と竜介は思う。
「うわあー、ここは夜とはまったく雰囲気ちがいますねえ」
生駒が、真面《まじ》で驚いたようにいった。
その白漆喰の壁をナイフで切り取ったかのような縦長の開口部から、段差を下りると、午後の三時すぎだというのに、そこは燦々《さんさん》と日の光が差し入っている巨大な吹き抜けの空間で、白壁で光が反射し、戸外よりもかえって明るく感じるぐらいだ。
「ほう……これかあ……」
その中央部に、巨大な漆黒の男根像《モニュメント》が聳《そび》え立っていた。
それもさることながら、敷きつめられた白い玉砂利《たまじゃり》と、その縁《ふち》を囲っている緑の芝生。焦げ茶色の木の縁側《えんがわ》が四方からせり出し、それらを垂直の白壁で取り囲んで、天窓には青空が覗いている。その全体の色構成と、造形美のど[#「ど」に傍点]迫力さに、竜介は感心してしまった。
「へー、芝生もあったんだなあ」
そう呟きながら、生駒が中庭に降り立った。
竜介も後に続く。
それは一メーター幅ほどの天然芝で、縁側の下にもぐり込むようなところまで植わっていた。白壁が太陽光を乱反射し、届くのだろう。
「……で自分らが、これに悪戯《いたずら》をしていたら、それは依藤いわくで、自分は悪戯したつもりはないんですよ。すると、白装束《しろしょうぞく》をまとった男が、マラさまに何をするんだ! て飛び出して来たんですね」
「マラさま?」
「ええ、信者たちは皆、そう呼んでました。だけど、こんなのを様づけ[#「様づけ」に傍点]するとはねえ」
その黒男根をうっとりとした目で見上げていきながら、生駒は苦笑していう。
「……なるほどね」
竜介は、何かの謎《なぞ》でも解けたのか、したり顔をして頷《うなず》いた。
と、そのときであった。突如として『テイク・ファイブ』の音楽《メロディ》が鳴りはじめた。それは竜介の携帯電話の着|信音《メロ》で、壁で囲まれたこの空間に――心臓に悪いほど――よく反響した。
出てみると、妹のまな美からで、こちらの都合などおかまいなしに話しかけてくる。
〈今どこにいるの? 何してるの?〉
そんなの十七歳の乙女《レディ》に説明できるわけがない。
竜介が適当にお茶を濁していると、
〈実はね、土門くんの店に――〉
一方的に捲《まく》したててくる。それも、何とかかわっているのか、またぞろ奇妙な話である。竜介は、そのまな美の話を中途でさえぎり、
「……だからさ、そんなの相手にすることないって、そもそも、チベットには幽霊は出ないんだから」
結論だけをいって、そそくさと電話を切った。
「へー、出ないんですか?」
竜介の声は聞こえていた生駒が、興味ありげな顔で聞いてくる。
「ま、国によって、いろいろあるのさ。それはあっちの話……でね、このマラさまというのは、やはり神さまだね」
こっちの話に戻して、竜介はいった。
「ふーん、こんなのがですか? いやね、いわゆる男女乱交《フリーセックス》教の象徴《シンボル》では……ていうのが、南署《うち》の課員たちのもっぱらの意見だったんですよ。というのも、ここにいた信者たちはみんな歳が若くって、女性は二十代、なかには十八歳なんてのもいましたが。そして男も、一番上で三十六歳でしたから……」
「いや、それはまた別の話だろうね。たとえば、タントラ[#「タントラ」に傍点]……そんな言葉、聞いたことないかな?」
「あっ、どこかの悪人《インチキ》教祖が、タントラタントラーて、お前らどうせ分からんだろう、みたいに連呼してたの、テレビで見たことありますね」
さすが、語《かた》り部《べ》・生駒の話には、臨場感がある。
「そのタントラという言葉を使った場合は、原則的に、その中には性[#「性」に傍点]の奥義[#「奥義」に傍点]が含まれてるんだ。というより、そのものズバリだと思ってもいい。インドが源流のタントラは、日本にも入って来て、よく三文《さんもん》小説のネタにされる真言立川《しんごんたちかわ》流というのが、それね。あるいは、さっきの電話で話題になったけど、ダライ・ラマで誰もが知っているチベット密教も、その教義の中核に、このタントラを置いている」
「……えー」
生駒は少し間を置いてから、驚きの顔をする。
「現在は知らないけど、二十世紀において、あそこがタントラを実践していたのは事実ね。たとえば、弟子がその導師に、マハームドラーと称する妙齢の女性を、性的パートナーとして捧《ささ》げる」
「え? 捧げる[#「捧げる」に傍点]んですか?」
「そう、高僧に教えを乞うためには、そういった女性を、差し出さなきゃならないのね。しかも、そのマハームドラーは、十六歳の処女と限定されていたりもする――」
「え? それ実話なんですか?」
「もちろん、専門書を見ると堂々と書かれている。もっとも、今はやってません、と注意書きがされている……てことは、過去にやっていたわけで、そして現在も、裏では密《ひそ》かにやっているかも……美しい高原に人知れずチベットの僧院が。そんな絵葉書のような先入観《イメージ》に騙されないようにね。……で、そのタントラをお像で表現する場合には、男女和合の像というのが一般的なんだ。日本でよく用いるのは、二匹の象が抱き合っている双身歓喜天《そうじんかんぎてん》……この場合の象っていうのは、動物園にいる鼻の長いやつね。それと比べると、ここにある男根像は、いわば片手落ちだろう。だから、その性奥義《タントラ》を、真浦会《こちらさん》が教義に取り入れてるかどうかは、これからは判断できない……それに、これには注連縄《しめなわ》が張ってあるだろう。インド由来の仏像や、バチカンの聖なる十字架には、そういったことはしないよね」
竜介は、初心者向けの与太《よた》をいい、
「てことは、これは明らかに日本[#「日本」に傍点]の神[#「神」に傍点]さまなわけさ。で……天津麻羅《あまつまら》、というのが正式な名前ね。玄関のところにさ、〈天の岩戸〉を描いた衝立が置かれてあったろう。あの場面に、その天津麻羅が登場しているんだ。まわりで騒いでいる男神《おとこがみ》のひとりがそれで、鍛人《かぬち》……金属を鍛える人、いわゆる鍛冶屋《かじや》の祖神だと紹介されてるね」
「あっ、それであんなのを飾ってたんですか」
「けど、確か、あの一幕《ワンシーン》にのみチラッと出てくるような脇役的《マイナー》な神なので、あれぐらいしか表現のしようがないだろうね」
「じゃあですね、その神さまのお像にすればいいのに、――こんなドぎついんじゃなくって?」
「うん、それはとってもいい質問だな」
その生駒の初々《ういうい》しさに、竜介は微笑《ほほえ》ましく応じる。
やたらと老成している歴史部員《いもうとたち》を相手にするのとは、えらいちがい[#「えらいちがい」に傍点]だと思いつつ。
「たとえばさ、神社に行くと、神のお像などは置かれているだろうか?」
「あれ? そういわれてみれば……」
「ま、皆無というわけじゃないんだけど、天神《てんじん》さんの菅原道真《すがわらみちざね》のような、人が神上がりしたような場合を除いては、ふつう置かれてないはずさ。これは、日本の八百万《やおよろず》の神々は、木や、岩や、それこそ水の流れの中や、そこかしこに宿るといった発想なので、一般的に、人の形には表さないのね」
「そうだとしましても、そのアマツマラという神さまを、マラの像で表しちゃったりするのは、それはもう駄[#「駄」に傍点]洒落の世界じゃありませんか?」
「あ……それは実は、逆さまなんだ」
含み笑いをしながら、竜介はいう。
「男のペニスのことを隠語でマラというけど、これはどこからきてるかというとね、幾つかの説があるんだが、そのひとつに、鍛冶屋が使っている槌《つち》は、古来から、男根をあらわすものとして、比喩されるのね。その鍛冶屋とは……すなわち天津麻羅《あまつまら》だろう。だから洒落ではなく、マラの語源なのね」
「あっ、元ネタだったんですか」
「そういうこと。だから、この男根像を使うのは、正解なわけさ。……けどね、ここは『真浦会』というだろう。その真浦[#「真浦」に傍点]、これも何か神さまの名前っぽいんだけど、『古事記』や『日本書紀』を調べたかぎりでは、今のところ、出てこないんだなあ」
少し窮しているように、竜介はいった。
日本には、それこそ八百万《はっぴゃくまん》の神々がいて、それも名前を複数もっているのが常で、マイナーな神ともなると、そうおいそれと分かるものではない。
が、竜介が最初に閃《ひらめ》いた、日蓮《にちれん》和尚に関係しての地名の真浦……それは、どうやら違っていたようだ。いずれにせよ、名称の由来すらも定かではない、今なお、謎多き宗教団体である。
「今のうちに、よーく見ておいて下さいね。もう間もなく、ここは返さなきゃならない。そんな雲行きなので……」
「返すって、真浦会の本部[#「本部」に傍点]に?」
「そうなんです。監禁場所となった地下室《シェルター》の方は、そのまま警察が押さえられますが、その他は、とくにこういった宗教的な設備は関係ないだろう、だから返せ[#「返せ」に傍点]……と責められてるんですよ」
「えらく弱気な話だね、警察としては」
「まさにその通りなんです。そもそも、太田多香子《おおたたかこ》さんを誘拐した犯人一味は、真浦会の幹部――だったはずですよね」
不満が鬱積《うっせき》しているのか、生駒は堰《せき》を切ったように話し始めた。
「そして太田さんを無事救出した直後、その幹部の本名や、居場所を教えろ! と本部の方に、南署《われわれ》は噛《か》みついたわけですよ。それは当然でしょう。すると、彼女を助け出した当日は、本部には、だんまりを決め込まれちゃって。そして翌日になってから、その犯人一味は、真浦会の信者、ましてや幹部などではなく、当方とはいっさい無関係。だから氏素姓《うじすじょう》に関しても、会には記録がありません。などと、いけしゃーしゃーといってきたんですよ。それもファクシミリで。信じられます……」
「そんな話になっていたのか、僕は全然知らなかったけど」
「そのはずですよ。後日談に関しては、マスコミがいっさい扱ってくれませんでしたから……というより、あの誘拐事件が報じられたのは、新聞では、救出された日の夕刊と、翌日の朝刊。そしてテレビでは、当日の昼と夜のニュース番組……それが最初で、最後なんですね。これは依藤が、おかしい、といい出して、後から調べて分かったんですけど。それに真浦会の名前すらも、実は、新聞・テレビには出てないんですよ。某宗教団体の建物から無事救出され、その背後関係を調査中……といった表現なんです。それは南署《われわれ》が、組織ぐるみの犯行ではなさそうだ、と最初にチラッと漏らしちゃったのが、まずかったのかもしれませんけどね。ともかく、その後はマスコミからは完全に無視されちゃって、今や、そんな事件あった? て感じなんですね」
「それは、ありがちな話だね。個人営業の導師《グル》だったりすると、些細《ささい》なことでも、よってたかってボロクソに叩くくせに、相手が大きいと、触らぬ宗教団体[#「団体」に傍点]に祟りなし……が日本のマスコミだからね」
「あっ、最近もそんなのありましたよね。誰が見たってキ印なのは一目瞭然の教祖を、しつこく叩いてましたよねえ」
生駒は、同意するようにいってから、
「それに、これは先生からの情報だそうですが、あの真浦会は、テレビ局に相当に強いコネがあるんでしょう。そのあたりも関係してるんでしょうか?」
「……だろうね。それにテレビ局と新聞社って、結局は同じ系列だから、片方を止められれば、両方が止まっちゃうんだろうな。……けど、それだと依藤警部さんは、怒っちゃったんじゃないの?」
「もちろんもちろん、真浦会の本部に攻めて行け! 強制捜査だ! て怒鳴りちらしたんですが、これはさすがに無理。真浦会の本部は東京にあるから、埼玉県の南署《われわれ》は攻めては行けない。だから警視庁、いわゆる本庁にお願いするしかありません。ところが、その本庁がおよび腰でして……自分も、電話で何度か話したんですけど、無事に救出できたんだから、これ以上ことを荒立てなくても……そんな雰囲気で。そうこうしていたら日にちが経ってしまって、今さらやっても意味はないだろうって、強制捜査の話は、なしくずし的に消えました。それに実際、犯人たちの記録も、とうの昔に消されちゃってるはずですけどね」
「じゃ、逃げた犯人一味は、ほったらかし?」
「いえいえ、全国に指名手配をかけてますよ。自分が顔写真をばっちり撮ってますから……けど、本名が分からないので……主犯格の女は三十歳前後と思われ、通称・真柴《ましば》、それはいわゆるホーリーネーム。あとの男ふたりは、こちらは写真がいまひとつでして、そして年齢・氏名ともに不詳……これじゃインパクトはないでしょう」
頭を抱えて、項垂《うなだ》れぎみにいい、
「実は、指名手配の顔写真って、ものすごい数があるんですよ。それに等級《ランク》づけもされてて、殺人事件のような凶悪犯や、公安《こうあん》がからむ事件でもないから、最優先の指名手配でもないんですね。それに警官も人の子で、マスコミが騒がないような事件には、興味をもってくれないんですよ。だから、犯人の逮捕は……運がよければ」
もはや諦《あきら》めたように、生駒はいう。
「……なるほどね。じゃ、依藤警部さんは、今もその関係で奔走してるわけだね」
「いえ、今日来れなかったのはですね、また別の難事件にかかわってるんですよ。もう次から次へと、南署は何かに呪《のろ》われてるんじゃないか……と思えるぐらいで」
その呪われている張本人[#「張本人」に傍点]は――誰[#「誰」に傍点]!? そんなことを思いながら生駒はいった。
その依藤警部補は、そのころ、南署の三階にある小会議室で、数名の刑事たちとともに緊急|打ち合わせ《ミーティング》に臨んでいた。
「……でありますから、一見、別個の事件だと思われていたものが、実は、関係していたわけですね」
ホワイトボードの前に立って、その関係図式を描きながら、説明役をやっているのは少年課の林田《はやしだ》刑事である。学生のころは弁論部で鳴らした彼だから、説明は巧《うま》い。
「けどさ、得川宗純《とくがわそうじゅん》さんが殺された十一月二日に、金城由純《きんじょうよしずみ》さんは、お寺にまで行って彼と会ってたわけだろう。そのあたりのことを、なぜ南署《われわれ》に話さなかったの?」
捜査課の古田《ふるた》係長が尋ねた。
「それはですね、単に、由純さんは知らなかったようです。得川さん殺しが新聞に載ったのは、一度きりで、それも、扱いは大きくありませんでしたし、その後は、昼番組《ワイドショー》が騒いでいただけで、それも数日間で消え、今はどこもやっていません。それらは、まったく見ていないとのことでした」
「うん、俺の感触からいっても、その通りだ。実際、彼は知らなかったようだ」
――依藤が、念押ししていった。
つい一時間ほど前まで、依藤と林田で、その金城さんの自宅を訪ね、彼から事情を聴いていたのだ。その報告もあっての、緊急|打ち合わせ《ミーティング》なのである。
「でさ、何時にお寺を訪ねたのか、そのあたりも、はっきりとは覚えてないんだろう?」
「ええ、夕食の後であったことぐらいしか、確かではありません。そしてふと思い立って、車に飛び乗った。浦和の林鳥禅院《りんちょうぜんいん》までは、道路の込み具合にもよるんですが、一時間から、一時間半ぐらいでしょうか。そして、これもはっきりとはしないんですが、お寺には三十分ほどおられたそうです」
「そうすると、時間的にいっても微妙だよね。得川さんの死亡推定時刻は、九時半前後だからさ」
「いや、古田《ふる》さん、昨日もいったように、由純さんは殺《や》ってない! その筋《すじ》でいくからね――」
強い口調で依藤がいうと、古田も含めて、一同は頷いた。
「で、由純さん、何しに寺に行ったの?」
刑事課の野村《のむら》警部補が、ぶっきらぼうに尋ねる。
「えーそれはですね、ふたりはどういった知り合いだったのか、そのあたりから説明した方が分かりやすいと思われますので、順を追いまして……」
自分のペースで、林田は説明する。
「ふたりが知り合ったのは、今から三年前の、二月か三月、のことだそうです。ちなみに、その前年の九月に、娘の金城|玲子《れいこ》さんが失踪されています。で知り合ったきっかけは、金城さんの自宅のポストに入っていた、チラシです。新聞の折り込み広告だったかもしれない、とのことですが、実物は残っていません。その文面は、失《う》せものや探し人、あなたの悩みごとを霊視でずばり解決、霊能無比の希代の霊能力者……といった、ありきたりのものだったようです。でその広告を見て、お寺に行ってみたそうなんですね」
「ちょっと待って……そのころだとさ、得川さんは、まだテレビには出演してないね。そういったことで稼いでたんだな」
資料を見ながら、古田が口を挟んでいった。
彼は、得川宗純殺しの責任者である。
「あ、そうなりますか」
――林田は、金城玲子殺しの方の担当だ。
南署は殺人事件をふたつ同時に抱え、課員たちをふたつに分けたから、統括している刑事課の依藤係長を除いては、互いの捜査状況をよくは知らないのである。その溝を埋めるべくの、話し合いだ。
「そしてお寺で、その霊視[#「霊視」に傍点]、なるものを試されました。もっとも、由純さんは端《はな》から信じてなくて、どうせペテンだろうと、高《たか》をくくって行かれたそうです。だから、誘導尋問などにもひっかかるまいと、みずからは何も話さなかった、ともおっしゃってました。ところが、娘さんが失踪中であることとか、彼女の服の好みだとか、どんな食べ物が好きだとか、ことごとく当てられたというんですね。それで得川さんのことを信頼し、その後は、足しげく通うようになった、とのことなんですよ」
「その霊視は……本物なのか」
意外なことを、野村が呟いた。
「いや、得川さんの霊視は、欠席裁判で悪いんだけど、真っ赤[#「真っ赤」に傍点]なニセモノ。どんな仕掛けなのかは分かんないんだけど、ともかく完璧[#「完璧」に傍点]なイカサマ。その筋《すじ》で、話すすめてね――」
依藤が、釘を刺すようにいった。
「そして、さらに不思議な話がありまして」
林田は説明を再開する。
「去年の、十月のことだったそうですが、その霊視で、玲子さんの居場所が分かったというんですよ。それは江戸川《えどがわ》区|葛西《かさい》の、とあるアパートで、最寄りの駅や、町並みなどを、得川さんが霊視されたそうです。でそれを頼りに、由純さんが現場に行ってみますと、その霊視された通りのアパートがあって、すべての部屋をノックし、住んでいる人を確認されたそうです。が、玲子さんは、おられませんでした。ところが、由純さんは、彼女の写真をもって行かれていて、それを住人に見せたそうなんですね。そうしますと、あっ、その娘さんだったら、つい二、三週間前まで、ここの何号室に住んでたよ……と何人かが、いわれたそうなんですね」
「んなの合わないじゃん、年数が」
間髪《かんはつ》をいれず、野村が不満げにいった。
「確か……あの裏山の白骨死体は、最低でも二年は経ってるんじゃなかったの?」
古田が、確認するように尋ねる。
「うん、そのとおり[#「そのとおり」に傍点]。だから年数は合わない[#「合わない」に傍点]のよ。それに林田、もう一個あったろう」
「――はい。由純さんがお寺を訪ねるようになってから約一年後、三月ごろの話だそうです。ですから、今から約二年半前となります。やはり同じように、玲子さんの居場所が、霊視されたそうです。場所は世田谷《せたがや》区の三軒茶屋《さんげんぢゃや》。そして行ってみますと、その直前に、アパートからは引っ越しをされていました。つまり状況は、去年の十月の霊視と、まったく同じなんです……」
「それは本人の可能性あるけど、去年のは絶対[#「絶対」に傍点]におかしい。そもそも二回同じことがある、ていうのが変な話じゃないか」
野村は巻き舌で、くだを巻くようにいう。
「いったいどうなってるの? よりさん?」
――当惑ぎみの顔で、古田が聞いてくる。
「その、二年半前のは置いとくとして、一年前の霊視には、何か仕掛けがあったんだろう。たとえばさ、玲子さんと似たような感じの女を見つけてきて、アパートに何ヵ月間か住まわせる。そして引っ越しをさせ、その直後に霊視する。それで、そんなふうにならない?」
「げっ[#「げっ」に傍点]、悪党だなあ[#「悪党だなあ」に傍点]」
蛙をつぶしたような顔と声で、野村はいう。
「いや、これはあくまでも推測ね。実際はどうだか分からない。それに二回あったというのは、確かに変な話で……で俺が思うには、その霊視でもって、娘さんは亡くなっている、といっちゃうと、それで終わっちゃうだろう。元気に生きていて、今はこんなことやってますよ、といい続けることによって、金がとれるわけさ。けど、その種の話だけじゃ、長長とはひっぱれないよね。だから一年に一遍ぐらい、居場所を霊視するといった、大ネタをかます……ていうのが、彼のやり口じゃなかったのかな」
「うーん我々よってたかって、死者に鞭《むち》打ってるけど、推理は見事よねえ」
皮肉っぽく、古田はいってから、
「でそういった大ネタをかますとさ、あれは見料《けんりょう》というのかな、その値段がガバ、とはねあがったりするの?」
「そういうこと。で由純さんも、娘さんの居場所が霊視されたときには、それは感激したらしくって、その気持ちは分かるよな、娘さんが生きて生活している痕跡……らしきものに、直《じか》に接することができたんだからさ。で金額的なことは、得川さんの方からはいっさいいい出さなかったそうだ。だから、いわゆる気持ち[#「気持ち」に傍点]を包むわけだけど、これもはっきりと教えてはくれなかったが、その居場所の霊視は、だいたいこのぐらい……じゃなかったのかな」
依藤は、二本、もしくは三本の指を立てた。
「それって……二十万、三十万じゃないよね」
やるせない表情で、古田はいう。
「警察が家出人捜索願を打ち切っちゃえば、そういったところに駆け込むのは、ある種やむをえないけど、それでそんなに荒稼ぎをされちゃうと、警察《われわれ》としては、立つ瀬がないよねえ……霊視が嘘か真《まこと》か、どっちであっても」
「それだけ払ってくれるんだったら、俺がしっかと調べてやったのに――」
と声高に野村はいったが、それはできない相談だ。
警察官が探偵の副業《バイト》をすると(米国《アメリカ》では問題ないようだが)日本では法に触れる。
「うん?」
古田が何事かに気づいたようで、
「白骨死体のDNA鑑定が出たのは、十月の末だろう。そして由純さんも、そのことを知った。が、その直前までは、娘さんは生きている、そう信じ込んでいたわけだよね。得川さんの霊視によって」
依藤は――首肯《うなず》く。
「すると根本的に、話は食い違ってるわけだから、十一月の二日に由純さんが寺に行くと、喧嘩にならなかったの?」
「そのとおりで、実際、口論になったそうだ。だが得川さんは、相変わらずで、いや――生きてるはずだ生きてるはずだ、俺の霊視の見立てに間違いなどはない! といつもの猛々《たけだけ》しい調子で、怒鳴り……ちらされたそうです」
死者に鞭打ちすぎて反省したのか、依藤は丁寧語でいう。
「じゃあさ、よりさんの大前提に逆らうようだけど、由純さんにも、いちおう動機はあるよね」
「うん、確かにある。けどさ、口論の延長上で、つまり衝動的な殺人ってことになるけど、それで、あんなややっこしい殺し方する?」
「あ……それもそうだよねえ」
古田は、資料に目を落としながら、
「えー検出されたのは、塩酸ケタミン……通称ビタミンK、そしてヘロイン、こちらが致死量を超えていたようだけど、さらには過度のアルコール」
「要するに、毒殺だよね」
――死因に関しては、外部《マスコミ》には伏せているが。
「その、ビタミンKって、どんな薬なんですか? 聞いたことがないんですけど」
林田が、興味深そうな顔で尋ねる。
「うん、日本では珍《レア》なドラッグのようだ」
古田が説明する。
「何でも、魂が体からすーと抜け出していくような、いわゆる『臨死体験《りんしたいけん》』が味わえるドラッグとして、その筋では知られている。けど、これは元来は麻酔剤で、病院でも実際に使っていて、国によっては、薬局で簡単に買えるらしい。だからインターネットを使えば、日本でも人手は難しくないだろうね。でまず、このビタミンKを……これは水によく溶けるそうで、だから何かの飲み物にでも混ぜて、飲ませたんだろう。すると十五分ほどで効果があらわれるそうだ。つまり『臨死体験』ね。半無意識のような状態になるのかな。そしてアルコールとともにヘロインを大量に飲ませた。それが監察医の見立てね」
「へー、ドラッグを二種類も使ったんですか。由純さんは堅気《かたぎ》の銀行マンだから、やはり、ちょっと似つかわしくありませんよね」
「そういうこと。だから麻薬《やく》を使い慣れてる、社会の底辺層にいるような人間、もしくは……医者、そのあたりが考えられる犯人像だよな」
一同、うんうんと頷いた。
「よりさん、話は変わるけど、そもそも由純さんが所沢署に連行《パク》られたのは、どんな経緯《いきさつ》だったの?」
「あ、それは野暮用で今いないけど、生駒が調べてくれた。あいつの親友《だち》が所沢署にいてさ、昨日の夜、飲みに誘ってもらって、ばっちり聞き出してくれた。さすがは生駒――」
適材適所である。
「で要するに、匿名《とくめい》者からのタレこみ電話なわけさ。あの日の夜、林鳥禅院の門の前に銀色《シルバー》のベンツが横づけされていたはず、そのナンバーはこれこれで、その車に乗っていた人物こそが、僧侶殺しの犯人ではないか……といった電話ね」
「確かに、寺の前にCタイプのベンツは停《と》まってたよ。それは南署《こちら》の調べでも分かっている。もっとも、ナンバーも時間も、はっきりしないんだけど……」
「それはもう由純さんの車ね、間違いなし。本人が乗って行ってるんだから。寺には駐車場もあるけど、そこには得川さんのベンツが置かれてるよね。それも最上級のAMG《アーマーゲー》仕様の。で由純さんいわく、もうめちゃくちゃな気分だったから、そのAMGにぶつけそうな気がして、道に停めたそうです」
「……わかるわかる」
古田が、頷きながらいった。
「それともうひとつあって、応接……本堂というのかな、そこのテーブルに、飲みさしのコップが置かれたままで、そっから指紋が出てるだろう。それをコンピューターで照合したよね?」
「そらやったけど……該当者なし[#「なし」に傍点]だったよ。それはよりさんも知っての通りで」
「いや、そういったことやるとさ、その証拠指紋の方も、コンピューターに記憶[#「記憶」に傍点]されるの?」
「うーん……されちゃうね」
「それそれ!」
指さしながら、依藤は声高にいう。
「それを所沢署がひきずり出して、由純さんの指紋と、照合しやがったの!」
「……えっ?」
「おそらくですねえ」
林田が冷静な声でいう。
「金城玲子さんの家出人捜索願を出されたときに、由純さんが、拇印《ぼいん》を押されたんだと思うんですよ。覚えてはおられなかったんですけれど」
「あ……それかあ。それも拇印だから、丁寧に指紋とってるよなあ」
「そして、ご存じのように、その家出人捜索願は、所沢署に出されていますから」
「だから腹が立つほど簡単に、照合できたはず!」
「くっっそー」
野村も、憎々しげにいった。
「で、そのコップも間違いなく、由純さんが使ったもの。ビールを出されて、コップに半分ほど飲んだそうだ。残りかすと、一致してるよな?」
古田が、資料に目を落としながら、首肯《うなず》いた。
「だから、所沢署が任意同行で彼を連行《パク》ったのも、それなりの理[#「理」に傍点]はあったわけさ。半分は南署《うち》への面当《つらあ》てだけど。で冷静になって考えてみると、おかげであれこれと分かったわけだから、災い転じて福[#「福」に傍点]……さらに冷静に考えてみると、そのきっかけを与えてくれたタレこみの電話、その電話をかけてきた匿名者こそが、あやしい、てことになる」
「……というと?」
「まずもって、なぜ所沢署にタレこんだの? 事件現場は浦和市だよ。えらく離れてるじゃん」
「けど、由純さんの車って、所沢ナンバーだよね、そのあたりってことも……」
「そんな短絡的なことだろうか? 所沢ナンバーは所沢市だけじゃなく、かなりの広域だよ。川口市だってそうだし。それに、事件をどこの署が扱ってるのかは、聞けばすぐに教えてくれるのに……なのに、なぜか所沢署?」
「ふーん」
古田は、腕組みをして少し考えてから、
「ひょっとしてさ、その匿名者は、ベンツに乗って来ていたのが誰[#「誰」に傍点]なのかを、はっきり知っていたのかもしれないね」
「その可能性は極めて大[#「大」に傍点]。そして自宅が所沢にあることを知っていた。さらには、その娘さんが失踪事件に巻き込まれていることも……知っていた、とすると、通常、その失踪事件はどこの署の扱い?」
「それはまあ、普通に考えたら、所沢署だろうね」
「実際は南署《うち》が扱ってんだけど、部外者は、そこまでは分からない」
M高校の裏山から出た白骨死体に関しては、依然として、マスコミにはいっさい報じられていないのだ。そんな事実は、さもなかったかのように――。
「だから、僧侶殺しと、娘さんの失踪事件とは関連してるよ、てことを仄《ほの》めかしたいがために、それに即座に気づいてくれそうな所沢署にタレこんだ、とも思えるんだけど、どう?」
それはちょっと飛躍しすぎか……と感じながらも古田は頷いた。
「なるほど、罠《わな》だ。いわゆる、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》」
野村が訥々《とつとつ》という。
「うん、俺もそうじゃないかと思う。由純さんに濡れ衣を着せたかった。それを裏返して見ると、その電話の主は、彼に濡れ衣をおっかぶせられるぐらい、事情に精通していた……」
「じゃそいつが真犯人《ホンボシ》だあ」
野村は、短絡的にいう。
「俺もそう閃いたんだけど、そっから先が進まないのよ。なんせ匿名者からの電話だろう」
「その電話の中身、一度ちゃんと聞いてみたいよね。所沢署《あちらさん》はテープに録《と》ってるのかな?」
「それは生駒に頼んでおいた。テープに残ってたら、いずれ盗《パク》ってきてくれるよ」
――適材適所である。
「でさ、得川さんと由純さん、ふたりのことをよく知っている、共通の知り合いのような人間はいないか……それすなわち、匿名者の可能性大だろう。そう思って、由純さんにも聞いてみたんだけど、あの寺に行くと、応対に出てくるのは得川さん独りだけで、他の客にもいっさい会ってないというんだ。得川さんには、付き人とかはいなかったの?」
「いるんだが、それはテレビの仕事があるときだけ。いちおう芸能事務所に籍を置いてたから、そこのマネージャーね。けど、その彼は寺の方には無関係《ノータッチ》で、それに小僧さんとかも、寺にはいない。というより、お寺としては機能してなさそうで、檀家《だんか》もなければ、法事《ほうじ》をやっていた様子もない。そもそも墓地をもってないからね。家政婦《おてつだい》さんも週に二、三度は来てたけど、掃除だけで、客の相手はしない。もう絵に描いたような個人営業さ。で、そのマネージャーの話によると、客から、得川さんの携帯電話にかかってくると、彼みずからが日程《スケジュール》手帳を開いて、いついつの何時に来い。そしてその部分を斜線で埋める、それでおしまいね。客の名前すら記さないんだ」
「顧客名簿は、けっきょく見つからないの?」
「マネージャーの話によると、そんなのは、たぶん作ってないだろうって。それは彼の性格にもよるんだろうけど、税金対策の面もあったみたい。それに何の宣伝もしなくても、依頼の電話は、ひっきりなしにあったようだからね」
「テレビのせいだ[#「テレビのせいだ」に傍点]」
野村が、濁声《だみごえ》で悪態をつく。
「それに、さっき由純さんの話としても出たけど、客どうしが顔を合わさないよう、それだけは気をつかっていたようだ。だから客に時間を指定するときも、四時、五時といったふうに、きりのいい時間で、ひとり一時間以内と決めてあったようだ。で得川さんの方から、客に電話をするようなことは、まずない。これは電話の発信履歴《きろく》からいってもそうね」
「今気づいた疑問点がひとつあるんだが」
依藤は早口でいい、
「あの事件当夜、由純さんは、連絡は入れずに寺に行ったそうだ。で、客には出会わなかったといってる。あの日の夜は、予約は入ってなかったの?」
「入ってない。手帳を見たけど、真っ白だった」
「それは変じゃない。そんな売れっ子なのに?」
「それには、実は、面白い話があるのよ」
古田は……薄ら笑いを浮かべながらいう。
「あの日の夜は、テレビ出演の予定になってたのよ。それが直前になってキャンセルされ、だから日程が埋まらなかったのね。ところが、その前にも、テレビ出演を四つ五つ、立て続けに、同じようにキャンセルをくらってるのよ。業界用語でいうところの、ドタキャン」
それは土壇場《どたんば》キャンセルの略であることぐらいは依藤も知っているが、
「どうしてまた?」
「そのドタキャンが始まったのは、あの火鳥先生もお出になっていた例の特番『霊能力バトル! 嘘か真実か?』……の収録があった直後からなんだ。だから、それが原因ね」
「放映は、まだまだ先だったろう?」
「いや、噂は、収録があったその日のうちに、ぱーと業界じゅうをかけめぐったみたい」
「けど、得川さんはあの収録の中で、確かに大恥をさらしてはいたが……すると他の番組も、そんな彼はもう要《い》らない、てことになるの?」
少し擁護したい気分にかられて、依藤はいう。
「いやね、よりさん、恥をさらしたことが問題じゃないんだ。その内実を教えてくれたマネージャーがいうには、赤信号がともった! とテレビ業界全体がそう見做《みな》した……とのこと。つまりね、あそこまで有名になっていた得川さんを、七八九時《ゴールデンタイム》の番組で叩くとは、それはよくよくの事情があるに違いない。揉《も》め事には巻き込まれたくない! とそんな心理が働いて、皆いっせいに手を引くのね。超能力者や教祖がらみでは、同じような過《あやま》ちを何度となくやってきてるから、彼らもそれなりに学習はしてるのさ。だから危険信号を察知したら、すみやかに逃げるの。マネージャーいわく、それがキワモノの宿命だそうだ。きわどいもの[#「もの」に傍点]……てことね」
「ふむ」
……もの[#「もの」に傍点]の哀れを依藤は感じながら、
「それで、あの今辻《いまつじ》ディレクターの方は、その後、何か話してくれた?」
野村に尋ねる。
「いやー、脅《おど》しに脅してるんだけど、いつ行ってものらりくらりしやがってえ」
――南署きっての恐顔《こわもて》の彼は、おもにそういった役割だ。
「番組の中で叩けって話は、今辻クラスじゃなく、もっと上からの指示みたい。天の声です、なーんてふざけたこといいやがった!」
「天の声ねえ……」
「あ、そうだそうだ、今辻とは別のやつから、テレビ局で小耳にはさんだ話がある」
野村が、声をひそめぎみにしていう。
普段は胴間声《どうまごえ》の彼だが、真面《まじ》なことを喋ろうとすると、そうなる。
「得川さんは、何年前かはっきりしないけど、一時期、あの真浦会に所属していたような話を」
「なんだってえ?」
「ええ?」
「まさか……」
「ほんとですかそれ……」
一同が口々にいう。
「こ、これは未確認情報よ……だって、あそこは現在の信者名簿すら出さないんだから、過去は分かりようがないじゃんか」
一同からの反響の大きさに驚いて、野村はたじろぎぎみにいった。
「天の声とやらは、真浦会かもしれないな」
依藤は、独り言のように呟いてから、
「が、いずれにしても、その話が本当だとすると、さらに一個加わって、立て続けにあった三つの事件が、どこかで繋《つな》がってたってことにもなる。というより、事件は立て続けに起こってるんだから、それなりの因果関係があるのかもしれない」
その依藤の言葉をうけて、林田が、ホワイトボードの関係図式に〈真浦会〉に関することを書き込みはじめた。
「ますます、混沌《こんとん》としてきたよねえ」
その図式を見やりながら、古田はあきれていう。
「いや! 整理する――」
依藤はみずからにいい聞かせるように、
「まず、学校の裏山から白骨死体が出た。DNA鑑定の結果、その学校の失踪中の女子生徒だと分かった。それで物事が動き始めたんだ。そして、その女子生徒の父親が寺に行くと、直後に僧侶が殺される。僧侶は、その女子生徒を霊視して稼いでいた」
「そこまでは、がっちり噛み合うね」
「うん……噛み合う。何か足らないような気もするが、因果関係らしきものは見える」
「その足らないものが、すなわち犯人だろう。たとえばさ、玲子さん殺しと、得川さん殺しが、同一犯だったとすると……」
「どうなる?」
「得川さんが、ふとしたはずみで、その玲子さん殺しの犯人を知ってしまった。それで、殺《や》られた」
「ふむ、もし同一犯だったとすると、南署《うち》としては万々歳《ばんばんざい》だよ。玲子さん殺しの方は、捜査はまったくといっていいほど進展してないんだから。それに、その、ふとしたはずみとは?」
依藤は、嫌味っぽくいう。
古田は困り顔になって、
「得川さんの霊視って、元来イカサマなんだよな。けど、真浦会の方はどうなの?」
「あそこには、本物がいるという、噂はある」
「じゃ、その本物を、得川さんは裏で雇ってた。でそいつが霊視した」
とってつけたような話であるが。
「じゃ、霊視して、その犯人をゆすってたの?」
「いや、そんな危ない橋は渡らなくてもいいよね。あれだけ稼げる人なんだから」
「ひとつ、気づいたことがあるんですが」
林田が割り込んできていう。
「その得川さんの霊視がイカサマという話ですが、それは、あの火鳥先生のお説ですよね」
「そうだよ。この種のことに関しては、あの先生のおっしゃることが、正しい」
あれやこれやあって、依藤は、竜介には頭が上がらない。
「それはその通りだと僕も思うんですが、ただし、それは、極秘の情報ですよね」
「というと?」
「世間一般は、そうではなくって、得川さんの霊視は本物である、それが大方《おおかた》の見方じゃないんでしょうか?」
「あ……ほんとだ。よりさんの前提は正しいだろうけど、世間の見方とはズレがあるよ」
迎合して、古田もいう。
「じゃあ、その世間の見方とやらでいくと、どんな筋になるんだ?」
「たとえばですね、犯人は、その犯行[#「犯行」に傍点]の様子[#「様子」に傍点]を霊視されるかもしれないと惧《おれ》れ、得川さんを殺した」
廻りくどい表現で、林田はいう。
「それだったら、世の霊能力者を全員始末しないと。本物が何人いるか知らないけど」
依藤は与太ぎみにいってから、林田がいわんとしてることに気づいた。
「あ! 俺たち重要なことをひとつ忘れてた。あの裏山の白骨死体は、まっとうな死体ではない」
首なしの――白骨死体なのである。
一同そのことを思い出し、小会議室全体がしーんと静まり返った。
「三文小説で読んだことがある」
野村がぼそぼそという。
「髑髏《どくろ》本尊とかいって、男女のセックスがからんで、その和合水《わごうすい》とやらを、髑髏にぬったくって、それを拝むと、願いがかなう」
――意外なことを知っている。
「そんなこと、現実にやってんの?」
「俺はその三文小説でしか知らない」
野村は、突き放していう。
「けどねよりさん、仮にそういった狂信的《カルト》な儀式を犯人がやっていたとすると、その儀式の秘密を守るためにだったら、もう何だってするよ」
「ふむ、仮に、そうだったとして、けど、あの白骨死体は最低でも二年は経ってるんだよ。だったら、その二年前の時点で、霊視されるのを惧《おそ》れ、得川さんを始末しとかなきゃ……言葉は悪いが」
「うーん確かに、時間は経ちすぎだよね」
「首から上がないのは、単に、死体の身元調査をされにくくするため」
「いや、よりさん、それは絶対におかしい。だって玲子さんが失踪した時点で……四年前には、もうDNA鑑定をやってるよ。それにさ、あの、イニシャルと誕生日が刻印されてあった指輪、あとの証拠はきれいさっぱり消しているくせに、それだけを指に嵌めてたっていうのも、どこか腑《ふ》に落ちないよ。犯人がそんな忘れ物をするだろうか?」
「それは……俺も感じた」
その指輪のおかげで身元調査がとんとん拍子に進んだのだから、自身の先の言葉と……矛盾する[#「矛盾する」に傍点]。
「あの指輪は、警察《われわれ》に挑戦状を叩きつけてるような、調べられるものなら調べてみろ、身元なんて判《わか》ったってかまわないよ……て、そんな犯人の示威《しい》行為のような感じすらする。それに死体が埋まっていた山は、地元では『神隠しの山』と呼ばれてるんだろう。ますます、狂信的《カルト》な儀式のにおいがしてこない?」
「においはおいといて、次行こう」
その種の妄想をめぐらしても埒《らち》は明きそうになく、依藤はホワイトボードを指さしていう。
「十一月二日の夜に僧侶が殺された。翌三日の夕刻、学校から女子生徒が誘拐される。犯人は――真浦会。そして僧侶も、かつては真浦会にいた、かもしれない」
「うーん、そのあたりは、今ひとつ噛み合わないよね。共通項は真浦会ぐらいだし」
「あっ……」
林田が気づいていう。
「得川さんの林鳥禅院は、浦和市|寺山田《てらやまだ》で、最寄り駅すらもない辺鄙《へんぴ》な場所にありますが、私立M高校も、ご存じのように浦和市でして、その学校の真北に林鳥禅院がある、そんな位置関係なんですよ。約四キロの距離です」
「へー、意外と近いんだね、車だとすぐだよな」
「ちなみに、真浦会の修行道場は川口市ですが、これも近くてですね、学校から見て、南東方向に約三キロの距離です」
「ふーん、点、点、点って感じだよなあ」
古田は、指でちゅうに三角形を描きながらいう。
「その学校と修行道場が近いってのは、犯人一味が仮の宿にしてたんだから、その通りだけど。学校と林鳥禅院には、何か意味があるの?」
「えーこちらは、真北にあるということが、宗教的にいって重要らしいんですよ。たとえばですね、人が亡くなると、霊[#「霊」に傍点]になって、霊[#「霊」に傍点]線と呼べるようなものに導かれて、真北の方向にある霊[#「霊」に傍点]地へとおもむく、そういった発想らしいんですね」
うん? 似たような話を聞いたぞ……
「それに学校の裏山も、敷地《キャンパス》の北側にありますから、白骨が埋まっていた場所を、一度、地図にきちんとおこし、そして校舎との位置関係などを調べてみますと、さっきの儀式の件ですが、その痕跡なりが、万が一、見つかるかもしれません」
「おっ、それはきみ、鋭い話だね」
「いえ、これは岩船《いわふね》さんからの受け売りなんですよ。話しておいてくれと、いわれていまして」
……案の定、と依藤は思いながら、
「それはさらに、|M高《あそこ》の歴史部からの受け売りね。そんなことはさておき、今ふっと思ったんだが」
依藤は真剣な表情になっていう。
「玲子さん殺しの犯人を、仮に、真浦会だとすると、この三つの事件は繋がるかな……」
「ふーん……繋がるかもしれないね」
関係図式《ホワイトボード》を見やりながら、古田もいう。
「学校と修行道場って、確か三キロなんだろう。だったら、歩けるぐらいの距離なんだから、真浦会には土地勘があるよね。それに太田多香子さんの誘拐事件だって、南署《われわれ》が助け出したからいいようなものの、あのまま放置されていれば、四年前の、金城玲子さんの二の舞いだったのかもしれない……てことはさ、狂信的《カルト》な儀式は、真浦会のそれってことにもなるよね」
「うん、この筋だとそうなる」
「じゃ、それをさらに進めると」
依藤の同意らしきものを得て、古田はいう。
「そして事件当夜、由純さんが寺に来て、娘さんが首なしの白骨死体で発見されたことを語る。それはもしや、真浦会にいたころ小耳にはさんだ秘密の儀式がからんでるのでは、と得川さんは気づく……けど、その直後に殺されてるんだから、この場合は、時間が短かすぎるよね」
「うん……確かに。それに、あの夜にかけた電話って、一本だけ?」
「そう、六時すぎに、マネージャーにかけたのが最後ね。その中身は、どうなってんだー、仕事とってこーい、そんなお叱《しか》りの電話だったそうだ」
「そのドタキャンの連続だけど、マネージャーは、その理由《わけ》を得川さんに話してたの?」
「いや、そろそろ話さなきゃーと思っていた矢先、事件があったとマネージャーはいっていた」
「じゃ、知らなかったわけか……けど、自分に逆風が吹いてることぐらいは、気づいていただろうな」
「まあ、よほど鈍感《どんかん》な方《かた》でもないかぎり。それにさ、野村《のむ》さんがいってた〈天の声〉というやつを、これも真浦会だとすると、少し前から、何か別の理由で両者は揉めていた、てことも考えられるよね」
「あ! 一個訂正だ――」
依藤は何事かに気づき、一同に向かっていう。
「得川さんの死因に関係して、犯人像は、社会の底辺層にいる人間、もしくは医者、なんてことをいったけど、さらに加えて、新興宗教団体も麻薬《やく》はお手のものだ――」
「あっ、ほんとだねえ」
古田も頷きながらいう。
「それにですね、さっき説明していただいたビタミンK、確か『臨死体験』が味わえるとか」
「そうだそうだ、それこそ新興宗教が我先にととびつきそうなドラッグだよね」
「それに、さらに加えて」
依藤はいう。
「いわゆる業界人も、麻薬《やく》はお手のものだ――」
「まさにまさに、それに真浦会は、テレビ業界とつるんでるんだろう。両者を兼ね備えてるじゃないか。よりさん、辻褄《つじつま》があってきたよねえ」
してやったりの顔で、古田は嬉《うれ》しそうにいう。
予断は禁物、と思いながらも、
「ともかく、真浦会に関しては、仕切り直しだな」
依藤はいった。
――太田多香子を無事に救出し、犯人一味を全国指名手配にし、真浦会の事件は半ば片付いたと思っていたので、そうなる。
「で、真浦会は生駒なんだけど……はいないから、植井《うえい》! おまえ生駒と一緒に、真浦会の本部に行って来たんだろう。報告書が上がってこないけど、どうなってんだ?」
依藤が、小会議室の末席で傍観者を決め込んでいた植井刑事に、叱り声を飛ばした。
「はっ、……それはですね」
たった今目が覚めたように、植井はいう。
「はい、行って来ました。その場所は、品川《しながわ》区で、山手《やまのて》線でいうと、五反田《ごたんだ》駅で、その外側です」
説明は、いかにもたどたどしい。
「そして、真浦会の本部というのは、想像していたようなビルじゃなくって、どちらかというと、家です。それも外から見ると、大臣が住んでいそうな、そんな家でした」
依藤は頭を抱えながら、
「てことは、守衛でもいたの?」
「はい。門の横に、小さな小屋がありまして、守衛がふたりいました。その守衛は、民間業者への委託です。そして生駒さんと、その門の強行突破を試みたんですが」
「そんなことしろって、俺いったか?」
「に、似たようなことを、係長は確か……」
植井は、しどろもどろにいう。
「それは言葉の綾《あや》だ。いちいち真《ま》に受けるな」
「あ……はい。けど、もう完全にとおせんぼされちゃって、先には進めませんでした。だからご安心を。そして守衛から、広報を通せとか、そういったことでもいわれれば、じゃ、その広報の人を紹介して、と食いつけたんですが、もうただ単に手を広げて、とおせんぼ」
その格好《ジェスチャー》をしながら植井はいい、
「そうこうしていたら、中から人が出て来ました。揉めてたから出て来たのか、偶然なのか分かりませんが、三十歳代の女の人が、門から外へ」
「それ、話きけたの?」
「えー、話すことは、話せたんですが……その女の人は、自分はマズミだと名乗りました」
「おっ、それは幹部のひとりじゃないか。まの字[#「字」に傍点]がついてるから」
古田が興奮ぎみにいった。
「で、どんな話きけたの?」
催促して依藤はいう。
「えー、それがですね……何ていったらいいのか、こう……するり、するりと、巧みにかわされちゃって、会話がはずまないんですよ」
「それを、のらりくらりっていうんだよ!」
野村が罵声を飛ばす。
「いや、普通の、国会で官僚が答弁してるような、のらりくらりじゃないんですよ。なんて説明したら、分かっていただけるか……そのマズミなる女の人は、高びーなところは全然なくって、丁寧に応対はしてくれたんですよ。ところが、あの生駒さんの喋りをもってしても、会話がまったく噛み合わないんですね。こう、力をすーと抜けさせられてしまう、そんな感じで」
「暖簾《のれん》に腕押し、て雰囲気か?」
「うーん近いですけど、なんか、僕と生駒さんのことを完全に見透かしてて、先廻りをして止《とど》めを打たれた。そんな感じが、後からしてきました」
「何? 先廻りして……」
依藤には、嫌な予感がしてきた。
「だから、五分ほどは話してたんですが、中身のある話はいっさい聞けずじまいで……」
「それはもう仕方がない。テープ録《と》ってるんだろう。後で聞かせて」
そういって、依藤が植井との会話を打ち切ろうとすると、
「あっ……そのテープなんですけどね」
どうしたことか、震え声になって植井はいう。
「もう駄目だから帰ろうかと思った、そのときなんですよ、そのマズミが、僕の胸をつんつん、と指で突っ突きまして、わたしの声を返して下さい……といったんですね」
「あーん? 何だってえ?」
「――ドジ! 録音機《テレコ》のスイッチを押すとこ、見られてたんだな」
小会議室におとずれた暫《しば》しの沈黙を破って、野村がいった。
「いや、そういったドジは踏まないようにと、真浦会の門が見えたあたりで、録音ボタンは押しといたんですよ」
哀れな声ながらも、植井は反駁《はんばく》していう。
「じゃ、小っちゃなマイク、見えるとこにつけてたんだろう」
「いえいえ、そんなのなくても、十分に録音できる高性能なやつです。それに小型録音機《マイクロレコーダー》だから、自分の胸が膨《ふく》らんでたわけじゃないし、それにコートも着てましたから、どうして分かったのか……」
「で、そのテープはどうしたの?」
依藤が冷静な声で問う。
「は……はい。もう有無をいわさないといった雰囲気だったので、ていうか、気が動転しちゃってたのかもしれませんが、素直に差し出しました」
「素直[#「素直」に傍点]にー?」
野村が言葉尻をあげつらっていう。
「いや、もう本当にその通りでして、その後《あと》、生駒さんとふたりして、落ち込んじゃって……あんな優しい喋り方をした女の人に、どうして、あそこまで蛇に睨まれた蛙みたいになっちゃったのか……刑事としての自信をなくしました」
「んなもんどこにあったんだ、もともと[#「もともと」に傍点]」
「じゃ、次には是非[#「是非」に傍点]、真浦会には野村さんに行ってもらいましょう」
窮鼠《きゅうそ》が猫を噛むようにいい、
「僕はもう、あそこには行きたくありませーん」
小声で、植井は泣くようにいった。
その遣《や》り取《と》りを聞いていて、程度の差こそあれ、状況は同じではないかと依藤は思った。歴史部の事情聴取で、岩船さんが、悪霊・天目マサトと相対したときと同じである。とともに、忌《い》まわしい言葉も思い出した。
――幽霊の国。
けど、例のものは最近出てこないよなあ、と少し安堵《あんど》の胸を撫で下ろした。
「ふつう僕たちが参詣《さんけい》するような神社って、ほとんどが、いわば出先機関のようなものなんだ」
生駒の求めに応じて、竜介は説明を続けていた。
「じゃ、本部のようなものが、どこか別の場所にあるんですか?」
「ない場合もあるんだけど、古くて由緒正しい神社は、だいたいが奥宮《おくのみや》と呼ばれるのをもってて、そこが本部ね。その神が一番最初に降りたったような場所が、つまり奥宮……が、それは険しい山の頂上だったり、離れ小島だったりする事例《ケース》が多いので、参詣に不便だからと、出先機関を設けるのね。誰かがうまく比喩《ひゆ》していたけど、神さまの住民票[#「住民票」に傍点]は移すが、本籍地[#「本籍地」に傍点]は奥宮のまま」
「あ、なるほどなるほど……」
「で、その奥宮に行ってみると、たとえば山だったとすると、麓《ふもと》に鳥居が立っているぐらいで、何のことだか分からない。そして山に入って行くと、そのどこかに、大きな岩があって、それに注連縄《しめなわ》が張られていたりする。それすなわち、奥宮の本体ね。難しくは、磐座《いわくら》という」
「神さまって、岩に降りるんですか?」
「そう、古くて由緒正しい神は、岩に降臨している例が多いようだね」
「へー」
と生駒は間延《まの》びして頷いてから、
「あっ、これもいちおう、岩じゃありませんか!」
すぐ隣に聳《そび》え立っている石作りの黒男根を指さして、今さら気づいたようにいった。
「そう、僕のいいたかったのは、実はそういうことね」
「じゃ、ここは真浦会の奥宮なんですか?」
「断定はできないけど、そんな感じがする。というのもさ、このマラさまこと天津麻羅《あまつまら》は、『古事記』に出てくるような神さまだろう。だからある程度は、神道《しんとう》の約束事にのっとってるはず。で神社の奥宮に行っても、ふつう磐座《いわくら》は見せてくれないのね。一般人は入れない禁足地《きんそくち》にされて。その雰囲気と似てるだろう。こんな設備にしちゃってるんだから」
「ここは、隠し扉で守ってますもんね」
「でさ、とある神道系の新興宗教で、その奥宮を、教祖さまが生まれた家[#「家」に傍点]にしている例があるんだ」
そう竜介がいうと、暫くしてから生駒が、
「あ! なるほど、先生のいわんとしてることは分かりました。ここは今は宗教法人真浦会の土地なんですが、さっそく登記簿の過去を調べてみます」
「何か分かったら、僕にも教えてね」
「もちろんでーす」
ふたつ返事をする生駒であったが、それは依藤《ボス》の許可を得てからだ。
「あ、さらに……さっきの住民票と本籍地の話は、あれは前振りだったんですね。先生、けっこう芸がこまかいんですねえ」
「なんか、俺そういう性格みたい」
みずからを分析して、竜介はいう。
ふたりは、けっこう馬が合いそうだ。
「その、真浦会の教祖のことだけど、僕の方の調べでは、まったくといっていいほど、分からないのね。写真一枚すら公開されてないのよ。警察の方ではどう?」
「いや、似たり寄ったりですよ。宗教法人ですから登録はされてるんですが、それを見てみますと、教祖は男になってるんですね。ところが、信者たちの話によると、教祖の真浦《まうら》さまって、女性なんですよ。もうそこからして、違っちゃってて」
「え? 真浦会で、教祖も真浦さま?」
「そうです。同じなんです。そういうのって、稀《めずら》しいんでしょうか?」
「うーん……たぶんね」
それなりの意味があるんだろうと竜介は思うが。
「でですね、ここの修行道場にいた信者たちは、一番の下っ端《ぱ》でして、だから教祖さまなんかは、遠目にチラッとしか見てないんですよ。で信者たちの話によると、彼らが想像していた以上に若い女性らしくって、三十歳ぐらいに見えたといってました。そのときには、天女《てんにょ》の羽衣《はごろも》のような服をお召しになっていたそうです。木の枝にひっかかってたやつですよね。で男性の信者がいうには、とっても美人。けど女性の信者がいうには、すごい厚塗りで、お雛様《ひなさま》のような白化粧……こんな話、なんの参考にもなりませんよね」
自嘲《じちょう》ぎみに生駒はいってから、
「えーひとつ面白い話があって、幹部になると、真浦さまの真[#「真」に傍点]の字をつけてもらえるらしく、先の誘拐事件の犯人は、真柴だから、つまり幹部だったんですね。で、その幹部[#「幹部」に傍点]ですが、ここにいた信者が知ってる範囲ですから、限られるんですが、十人ぐらいの名前は挙がってきまして、ところが、その全員が女性[#「女性」に傍点]なんですよ。真のつく男の幹部には、会ったことがないっていうんです」
「ほう、幹部は全員女性なのか……」
「そして教祖さまも、女性ですからね……」
うん? 真[#「真」に傍点]浦、真[#「真」に傍点]柴、マズミ、これもあのMの証し[#「Mの証し」に傍点]の続きかあ、と生駒は思い出し笑いをする。
片や竜介も、
「……なるほどねえ」
と意味ありげに苦笑している。
「なんか、わけありそうですね?」
「そう、大いにわけあり。幹部が女性だというのは、それで正しいんだ」
「え、そんなのが正しいんですか?」
「だから、教祖[#「教祖」に傍点]といっちゃうから、分かりづらいんだけど、いわゆる巫女《みこ》だと思えばいい。いや、それも勘違いされそうだな。神社の売店にいるような巫女じゃなく、日本古代の巫女ね。神に仕《つか》え、その神の託宣《おことば》を下々《しもじも》に伝える女性ね。ここは、天津麻羅という神に仕えているわけさ。さらに、その語義は、紀元前の中国の巫覡《ふげき》からきていて、その巫《ふ》が、巫女の巫《み》で、女性をあらわし、覡《げき》が……漢字はさておき、男性をあらわす。で、その巫覡は、中国では見鬼者[#「見鬼者」に傍点]とも呼ばれていて、鬼を見る者という意味ね」
「え? 中国では鬼とつきあってたのに、日本では神さまの相手をするんですか?」
「いや、神も鬼も同じものなんだ……」
何度同じような話をしたかと竜介は思いつつ、
「ほら、天神さまの菅原道真は、今でこそ学問の神だけど、かつては宮中に祟りまくった、鬼なわけね。だから表裏一体で同じものなの。そして鬼というのは、本来の意味は、死者の霊のことをいったのね」
「あ、菅原道真は、かつては生きていた人で、それが死んで霊になって……鬼なんだから、その通りですよね」
「そしてほら、この真浦会って、信者になって修行を積めば霊能力[#「霊能力」に傍点]が得られる、というのが謳《うた》い文句だろう」
「そうですそうです。けど、現実にはかなりきびしいらしくって、何段階かのステージとやらがあって、試験《テスト》みたいなのに受からないと、次には行けないんですよ。それも期限を切られてて、ちなみに、ここは第一ステージで、期限は一年。その間《あいだ》に目が出ないと……どんな目かは知りませんが、いわゆる留年はさせてくれなくって、外にほっぽり出されるんですね。そして在家《ざいけ》信者になるといってました」
「へー……」
所詮《しょせん》そんなのは客寄せの謳い文句だろうと見縊《みくび》っていたのだが、真面《まじ》でやっていそうなので、竜介は驚いてから、
「……でさ、霊能力といっても、あっ、ここには霊がいそうだ、鳥肌が立ってきた、感じる感じるーぐらいじゃ、霊能力者とはいえない。霊の姿が見えてこその、霊能力者なわけさ」
「それは、さっき先生がおっしゃってた、鬼を見る者と、同じことになるんですね」
「そう。だから霊能力者、すなわち巫覡《ふげき》だよね。ところが、女性が巫《ふ》になるのは比較的たやすいんだけど、男性が覡《げき》になるのは、極めて難しいのね。古代史にあたっても、巫はたっくさんいるが、覡の数は少ない」
「そういわれてみれば、テレビに出てくるような霊能力者って、ほとんどが女性ですよね」
生駒は、依藤とは違って、その種のテレビ番組は見るようだ。
「うん、それと同じね。だから真浦会の方も、幹部が女性だらけなのは、それなりに正しいってことになるよね」
「はっはー」
生駒はひとしきり感心してから、
「けど、それって、なんか、それなりの理由《わけ》があるんですよね?」
「もちろんもちろん。それも、認知神経心理学的に考えれば、単純な話さ」
――何かを思い立ったように生駒は頷いてから、
「いやね、最近依藤が、その種のことに詳しくなってきて、やたらと自分らに吹く[#「吹く」に傍点]んですよ。ネタ元は絶対[#「絶対」に傍点]先生に間違いないんだけど。その単純な話というのは、依藤に教えちゃいました?」
「えーどうだったかな……」
竜介は思い出しながら、
「確か、首なしの幽霊のことを聞かれて、結論部分は話したけど、中身の理屈まではいってないね」
……説明には丸二日かかると嘯《うそぶ》いたのである。
「でしたら、自分に是非、その中身を教えてくださいよう。依藤に対抗するためにも……」
「どこか、動機が不純[#「不純」に傍点]だね」
大教授のような顔をして竜介はいう。
「いえ、それ以外にも、ちょっとしたわけが……」
生駒は、依藤に憑《つ》いているらしき悪霊[#「悪霊」に傍点]に対抗[#「対抗」に傍点]できないかと、そんなことを考えているのだ。
「……ま、説明するのは吝《やぶさ》かではない」
そういえば、研究室に出た青いドレスの幽霊を竜介は説明せず、依藤を怯《おび》えさせたままである。生駒《かれ》に説明しておけば廻り廻って、警部さんの呪縛《じゅばく》も解けるかもしれない。そんな罪滅《つみほろ》ぼしをと竜介は思ったからだ。――角度は微妙に違うが、ふたりの心は一致した。
そして立ち話も何だからと、縁側《えんがわ》まで行って、ふたりは腰を下ろした。
「ここ……このへんが関係するのね」
竜介が、自身の右の頭の、耳の上のあたりに手をあてがっていう。
「正しくは、側頭葉《そくとうよう》から後頭葉《こうとうよう》にかけての、その内側の部分なんだけど、仮に、そこをX領域と呼ぶことにしよう」
「X領域ですか……」
極秘情報《トップシークレット》にでも接するかのように、生駒はひそひそ声でいう。
「で、そのX領域が、病気や怪我《けが》などでうまく機能しなくなると、特異な障害が出るんだ。どうなるかというと、人の顔を見ても、それが誰だか分からなくなるのね。鏡で自分の顔を見ても、それが自分だとは分からないの――」
「それって、人の顔が見えなくなるんですか?」
「いや、顔はちゃんと見えているんだ。見えているのが人の顔だということも分かる……が、それが誰の顔なのか、つまり区別がつかなくなっちゃうんだ。専門的には、それを相貌失認《そうぼうしつにん》という。見えているものが何であるのかを認識する、その力を失っちゃうから、失認[#「失認」に傍点]……ね。これは視覚失認の一種で、他にも、脳が機能しなくなった部位によって、様々な失認がおこる。色彩が分からなくなる……色彩失認。空間が把握《はあく》できなくなる……空間失認。その中には、地理だけが分からなくなるといった失認もあって、極端な方向|音痴《おんち》のようになる」
「ふーん、脳の違った部分で、ちょっとずつ違ったことを処理してるわけですね」
「そういうこと……けれど、相貌失認だけは、他の視覚失認とは、少し雰囲気が違うんだ。その脳のX領域がダメになると、さらに不思議なことがおこる。たとえば、生駒さんが昆虫学者で、とくに蛾《が》の専門家だったとしよう」
「あの、蛾ですかあ」
生駒は嫌そうにいう。
「そうそう。そして網戸《あみど》に止まっている蛾をチラッと見ただけで、何とか蛾だ! と即座に名前がいえるぐらいの、蛾の分類の大家ね。そんな生駒さんが、病気でX領域をダメにしてしまったとしよう。すると途端に、その得意の分類ができなくなっちゃうんだ。標本をじっくり見ても……蛾、としか分からなくて、ともすれば、蝶との区別すらつかなくなってしまうのね」
「うーん、けど、それが一般人ですよね」
「そう、一般人に……戻ってしまうの。またある人は、怪獣《かいじゅう》の玩具《おもちゃ》マニアで、背中の刺《とげ》の作りが違うから、これは珍《レア》もの! なんてことが即座に分かったのに、やはりX領域がダメになると、怪獣の玩具はおろか、恐竜との区別すらあやしくなってくるのね。それが一般人だろう」
「あれえ……人の顔と、蛾と、怪獣がどう関係するんですか?」
「いや、直接の関係はない。たとえば、窓、白壁、男根、玉砂利、縁側」
竜介は、そこらを指さしながら、
「こういったのは、見た目に、すごい差があるだろう。形に大きな差異がある場合は、脳も労せずして区別できるのさ。ところが、人の顔というのは、ほんのわずかな差異でもって、それぞれの人を区別しなきゃならない。これは脳が勝手にやってくれているから、ありがたみを感じないんだけど、たとえば、僕たちが黒人を見ると、その顔を見分けるのは容易じゃないよね」
「あ、そうですそうです、それは黒人に限ったことじゃなく、犯人が外国人の場合は、似顔絵を作るの大変なんですよう」
生駒は職業柄のことをいう。
「逆に、黒人や白人から我々を見ても、黄色人種《イエローモンキー》の顔って、どうして皆平べったくて没個性的なんだ、そんな悪口いってる話、聞いたことない?」
「おたがいさまですよね」
「あるいは、ゴリラ……我々はゴリラの顔は区別つかないよね。ところが、ゴリラはゴリラどうしで、顔をちゃんと見分けてるんだ。脳の同じような場所を使ってね。それが、X領域さ」
「あ、何となく分かってきましたよ。そういった、こまかーな差を見分けるために、X領域があるんですね」
「そういうこと……が、必要に迫られた場合にのみX領域に処理を任せる、そんな前提がつく。だからゴリラの研究をしている学者さんは、やがてはゴリラの顔を見分けられるようになる。そんなX領域を、それぞれの人がどのように使うかによって、幽霊のあらわれ方が違ってくるのさ」
「おっ、そんなふうに話が行くわけですか。先生、独特の話法ですね。先が読めませんよう」
生駒は、苦情めいたことをいう。
「でね、さっきの蛾の分類だとか、怪獣だとか、あるいは車や鉄道や飛行機の分類だとか、そういったマニアックなことは、男と女、どちらがやる?」
「そりゃもう、圧倒的に男ですよね」
「だろう。男はX領域を、そんなことに使っちゃうのさ。じゃ、女性はというと……本来の役割ともいうべき、人の顔の分別にもっぱら使うのね」
「あ――!」
生駒は大口を開けていい、
「僕、今、閃《ひらめ》きましたよ。真相にズバーと」
「じゃ、その閃きと真相とやらを、僕にも教えてくれる?」
意地悪ぎみに竜介がいうと、
「いやーなんだか、目的地に近道しちゃったみたいで、その道順まではちょっと……」
生駒は比喩でかわす。
「これはさ、実験をやれば答えがすぐに出るんだ。ふつう顔写真を用いてやるんだけど、すると男は、成績がすごく悪いのね。女性は、顔写真をよーく覚えている。実は僕も、人の顔を覚えるのはとっても苦手なんだ」
――竜介は、その種の理屈を知っているから、それに託《かこ》つけて、いっそう人の顔を覚えようとはしない。
「ありゃ、自分は人の顔を覚えるの、ぜんぜん苦になりませんよ」
「それは……刑事さんといった、職業柄じゃないかな」
「いや、刑事にも苦手な人はいっぱいいます。依藤も……ダメっぽいですよ。けど、自分は刑事になる前から、子供のころから、人の顔はへっちゃらでしたけど?」
生駒は、少し心配そうにいう。
「いや、男女はそうだと決まったわけではない。多人数の実験で、そういった傾向[#「傾向」に傍点]が出るだけの話だから。それにX領域に、男女で構造の差があるわけでもないし。得手不得手《えてふえて》は、その人の性格も関係するようだ。人間のことに興味を覚えるような性格の人は、人の顔も、やはり強くなるだろうね」
あ……自分はそれだ、他人《ひと》の噂話が三度の飯《めし》よりも好きな生駒は、自覚してそう思う。
「一般的にいって、女性が人の顔に強くなるのは、長時間、鏡を見るからだろうと考えられている。そして化粧ひとつで、誰だか分かんないぐらい、劇的に顔が変化するよね」
「ほんとだ! 土台《ベース》は同じなのに」
「そういったことを、いわば自分の顔を実験台にして、日々やってるもんだから、X領域がどんどん鍛《きた》えられていくのね。顔に関して」
「あっ、それこそ、必要に迫られて」
「さらに、先の顔写真の実験を、男の顔、女の顔に分けてやってみたとしよう。すると女性は、どちらの顔をよく覚えているだろうか?」
「ありゃ、ふつうに考えたら、異性の顔の方をよく覚えていそうだけど、先生の話からいくと、女性は女性の顔に強くなりそうですよね」
「うん、実験結果もそうなる。日々の鍛練に使っている土台《ベース》が、女性の顔だからね。じゃ、男はどっちが強いだろうか?」
「ふーん、男は鏡は見ないから……最近の若いやつは知らないけど。これはストレートに、女性の顔に強い」
「そう、ただし若干ね。もともと成績は悪いんだから、強くても知れている。これは、男が女性のピンナップ写真などを、飽きもせずに見るからだろうね。とするとさ、男女あわせてどっちの顔に強いかというと……女性だよね」
「そうなりますね」
「そして男女ともに、男の顔には弱い。でそういったことが、これも、幽霊のあらわれ方に関係してくるんだ」
――生駒は、大きく頷いてから、
「それは、分かりましたよ」
今回は自信ありそうにいう。
「幽霊話って、だいたいが女の幽霊じゃありませんか。男の幽霊が出たなんて、あまり聞きませんよね。それに出てきても面白くないし」
「まさにその通り。正確に統計をとったわけじゃないが、感触でいって七・三、もしくは八・ニぐらいで、出てくる幽霊って……女だね。そして、どこぞの霊界研究家いわく、女は未練たらしく霊となってこの世を彷徨《さまよ》っておるのじゃあ」
「それこそ、差別発言ですよね。どこかの団体が怒らなきゃ……」
「だから女の幽霊が多く出るというのは、マクロ的にいうと、単に、脳のくせ[#「くせ」に傍点]を反映しているにすぎないんだ」
「ふうん、脳のくせ[#「くせ」に傍点]か……なるほど、それがキーワードなんですねえ」
生駒は、最前よりは、真相に随分と近づいた感じがしていった。
辺りが、薄ら寒くなってきた。
天窓からあれほど差し込んでいた日の光が、急速に翳《かげ》ってきていた。秋の日は釣瓶落《つるべお》としというが、まさにその通りである。
「では、幽霊の話をしよう」
仕切りなおして、竜介はいう。
「人が死ぬと、体から、霊魂がすーと抜け出していく。そんな心象《イメージ》を僕たちはもってるよね」
「うーん確かにもってはいますけど、この科学万能の現代においては、それはあくまでも、御伽噺《おとぎばなし》ですよね」
「はたして、そういい切れるだろうか」
竜介は、含みのあるようなことをいい、
「じゃ、もし、死後に、そのように抜け出していく霊魂があったとしたら、それはどんなものを想像する?」
「えー、ふわふわーとしたもので、見えるわけではないし、そしてふわふわーとそのへんに浮かんでいる、そんなもんでしょうかね」
「じゃあ、そのふわふわーとした霊魂と、そして幽霊って、同じものなの?」
「あれ」
意外な質問に、生駒は面喰った顔をし、
「……そういわれてみると、自分の感じとしては、ちょっと別のもんですね」
「じゃ、別のものだとして話を進めよう。すると霊魂というのは、体はないけど、その人の、人となりを有しているようなものだよね。それはひと言でいえば、その人の個性――生きていたころの記憶だとか、思考パターンだとか、そういったものだ。そしてそう遠くはない未来、たぶんこんなことができるようになる。ある人の脳に入っていた、その記憶や思考パターンなどのすべてを、高性能なコンピューターの中に移し替えちゃう」
「それはもうスタトレを見てると……スター・トレックですが、そんな話は頻繁にありますよね」
「じゃ、そのコンピューターに移し替えられたものは何だろうか……それすなわち、霊魂じゃないか。そのコンピューターは、その人の個性を有し、生前のその人と同じような受け答えができる」
「ふーん、そういわれてみれば、そうですけれど」
生駒は、承諾しかねるようにいう。
「これね、その霊魂の立場になって考えちゃうと話はややこしい。コンピューターの中に入って、生きていると実感できるのか? あるいは、肉体があったころとの連続性[#「連続性」に傍点]は感じられるのか? などは、とりあえずおいといて。第三者から見て、どう見えるのか?」
「あっ、それでしたら、霊魂といっても問題ないでしょうかね」
「とすると、霊魂とは、すなわち情報の塊《かたまり》だよね。だから将来はコンピューターの中に入れる……かもしれない。そして生きていたころは、脳という有機のコンピューターに宿っていた……これは実際の話ね。だから、いわゆる霊と呼ばれるものは、単なる情報にすぎないんだ」
「……情報ですか」
その単純すぎる言葉に、生駒は戸惑《とまど》いの表情をする。
「より分かりやすくいうと、人は死んでも、その霊は、情報としてなら、存在できる」
「あ、それだったら、なんとなく納得できます。死後の世界がどうの、といってるわけじゃありませんからね」
「その種の話は、いわゆる霊界研究家の妄想ね。で情報である以上は、あちこちにもぐり込めるわけさ。宿るといってもいい。そして一見、不可思議な現象を呈《てい》する。が、そんなことは断じておこらない、とすべてに目を瞑《つむ》ろうとする人もいる。それは否定で食っている否定論者ね」
「それは、――あいつと、あいつだ」
その種のテレビ討論番組から、生駒は探し出していう。
「さて、霊とは情報である。その情報が、ふとしたはずみで他人の脳に入り込んできたとしよう。そして、それが映像となって見えたならば、それすなわち……幽霊なわけさ」
「はいはい」
生駒は、間が抜けたような返事をしてから、
「死者の霊が見えたと考えると、おどろおどろしいですけど、情報が見えたと考えると、そうでもないですよね」
「うん、考え方ひとつさ。けど、その情報がふとしたはずみで他人の脳に云々《うんぬん》とか、それが映像になって云々とかは、その説明には丸一晩かかる。だから申し訳ないが、割愛ね――」
|興味のある方《おわすれになったどくしゃ》は、『竜の封印』|読まれ《さいどくされ》たし。
「――その情報が、映像となって見えるという現象は、条件が整えば、一般人にも間間《まま》おこるんだ。ところが、その際、それが男だったとしよう。そしてX領域のことを考慮にいれて考えると、どんな幽霊があらわれるだろうか?」
「……人の顔は苦手なんですよね。だったら、顔がぼやけちゃうんでしょうか?」
竜介は首肯《うなず》いてから、
「つまり、そういった幽霊のことを、のっぺらぼうと呼ぶ」
「あら? それは怪談……ていうより、落語咄《らくごばなし》じゃなかったんですか」
「元ネタは実話なんだ。全世界に出る、もっともありふれた幽霊ね。で、そういったのっぺらぼうしか見えないような人ね、その人は、いわゆる霊能力者になれるだろうか?」
「いや……ちょっと無理っぽいですよね。顔がはっきり見えないと、それはあなたのお祖母さんの霊が憑いてる、なんてこといえないですもんね」
「だから霊能力者は、だいたいが女性になってしまうんだ。男はまず先に、マニアックなことをやめ、X領域を鍛え直してからでないと」
「まさに……」
生駒は同意して頷いてから、
「けど、なんか拍子抜けするほど簡単な話になりましたよね」
「物事シンプルなんだ」
――竜介の持論である。
「でね、日本で行われた、とある透視実験の話だが、その課題《ターゲット》は写真で、そこには人や背景がごちゃごちゃと写っていた。それを外からは見えない箱などに入れて、透視させる。そして結果は……背景はいい当てられたんだけど、人の部分だけがすっぽり抜け落ちちゃったのね。そのへんに何かありそうなことは分かるんだけど、それが何だかは分からないといった程度にね。その実験中に、その被験者の脳がどのように活性化されているのかを、血流量を調べる装置を使ってモニターしていたんだ。するとその脳は、X領域のところには、ほとんど血が通ってなかったのね」
「ありゃ、そんな極端な……」
「そうなりがちなんだ。その実験の被験者は、もちろん男。そして世間では、その彼は超能力者として知られている」
「あっ、超能力者と霊能力者の差って、そのへんなんですか?」
「そのへんそのへん……」
竜介は、その種のことは万事熟知しているかのように、したり顔でいう。
「いやー、自分は今日一日でずいぶんと賢くなりましたよう。あれがこうなってて、これはそうだから、それがこれと関係してて、あーなるんですねえ」
頭の中で反芻《はんすう》しながら、生駒はいう。
「けれど[#「けれど」に傍点]、今日の話は、幽霊講座のほんの触りだからね、奥はもっともっと深いんだよ」
「ま、何事においても、そうですよね」
生駒は分かったようなことをいい、
「で今日のお話しは、先生のような脳の学者さんにとっては、いわば常識なんですか?」
「いやいや、まったくの非常識[#「非常識」に傍点]さ。こんなこといってるのは、僕ぐらいしかいない。というのは、脳系の学者は、相貌失認《そうぼうしつにん》などは全員が知っているが、幽霊の方の話を、ほぼ全員が知らないのよ。だから噛み合わせができないのね……それだけのこと。それを研究しているのが、僕がいる『情報科』ね」
「なんだ、情報[#「情報」に傍点]ってことは、もともと霊[#「霊」に傍点]の研究所だったんですね」
「……とも、いえる」
突如、『ロッキー』のテーマ曲が流れた。
「すいません、僕のです……」
そして内懐《ポケット》から、迷彩塗装が施された携帯電話を取り出し、生駒が出てみると、
「……あっ、係長……いや、まだ火鳥先生とご一緒で、真浦会の修行道場の中です。……ええ? 林鳥禅院の本堂に人がいる? あっ、こっからの方が近いですね……分かりました。すっとんで行って、ふんじばってきまーす」
依藤が、古田と野村をともなって林鳥禅院に到着すると、その唐門《からもん》の前で、生駒がぽつねんと立っていた。もうとっぷりと日は暮れてしまっている。
「――取り逃がしたの?」
「いえいえ、僕が着いたときには駐車場の方にいて、いわゆる撤収の最中でして、それになんと、弁護士が同伴だったんですよ」
「――弁護士?」
「それと、寺山田派出所の西川《にしかわ》巡査は、異常がないか、中を見て廻ってます」
その巡査から、南署に連絡がいったのだ。本堂に人がいると、それも大勢[#「大勢」に傍点]いると――その巡査が乗って来た自転車が道端に停めてあった。
事件直後の一週間ほどは、テレビ局が騒いだこともあって、林鳥禅院の門の前には四六時中、見張りの警官が立っていたのだが、その後は、地元の派出所の巡査が、ついでに見廻っていた程度である。もちろん『埼玉県警・立入禁止』の黄色いテープが門に張られてあるが、境内《けいだい》を立木で囲っているだけの寺なので、その気になればどこからでも入れる。それに周囲は……虫の声ぐらいしか聞こえてはこない、長閑《のどか》な田舎である。
「も敵[#「敵」に傍点]は準備万端でして、確信犯なんですよ。その弁護士は書面まで用意してやがって、これを見ろ、て突き出すんですね」
生駒は口を尖《とが》らせていってから、
「これが、その書面――」
手に握っていたそれを差し出す。
「あーん?」
依藤はその書面を広げながら、
「……暗くて読めないじゃないか」
寺の門には、頭でっかちの唐破風《からはふ》の屋根がのっているが、門灯はついていないのだ。
「それは委任状とやらで、要するにですね、貴殿に僧侶殺しの捜査を依頼する、ついては林鳥禅院の中に立ち入ることを許可する、そんな内容です」
「そんなこと誰が許可したんだ?――誰が捜査するって?」
「委任状の署名は、又吉嘉吉《またよしかきつ》さんになってました」
「あ……お父さんだ」
古田がいった。
得川宗純は芸名で、本名は又吉|晃彦《あきひこ》である。
「それにここの敷地は、確かそのお父さんの名義だよな。だったら、住居侵入罪には問えないよね」
「そんなの誰の名義であろうと、証拠保全のために、南署《われわれ》が立入禁止にしてるんだろう!」
「それに関しては、さらに二枚目の紙――」
生駒が促す。
「えー、何だって……事件現場の、証拠保全に、鑑《かんが》みて……」
目が慣れてきたのか、依藤はかろうじて読める。
「それも要するにですね、弁護士がいうには、我々は中のものにはいっさい手を触れていない。証拠を隠匿《いんとく》したり、捏造《ねつぞう》したりもしていない。それはその弁護士[#「弁護士」に傍点]が保証[#「保証」に傍点]し、そしてやつらが本堂の中に入って、出て行くまでの一部始終を、テレビカメラで撮影してあり、その録画テープを警察に提出するのは――吝《やぶさ》かではない。そんなことをいってました」
「そんなの、いっさい手を触れないったって、どうやって本堂の中に入ったんだ。まずもって扉に指紋がつくじゃないか!」
「やつらはですね、手にはビニール手袋、足にはビニールカバーを嵌めてました」
まるで警察と同じである。
「そ、そんなあ……古田《ふる》さん、こんな話通らないよな?」
「通らないよ。……と思うけど、そんな話は聞いたことがない」
古田も口を尖らせて、拗《す》ねたようにいう。
「でだ[#「でだ」に傍点]、どこのテレビ局が来てたの?」
「それは分かりませんよ。弁護士の相手をしてる間に、車に乗り込まれちゃいました。それに来てたのは、下請けの、いわゆる製作プロダクションですね。もちろん、車のナンバーは控えてありますよ」
「今辻の野郎かな、裏で手ーひいてんのは」
野村が憎々しげにいった。
「あの、今辻か?」
「あの野郎さ、俺が行くたんびに、南署《うち》が押さえちゃった収録ビデオ、返してくれませんかねえ、得川さんが映ってるとこ一分だけでいいですから、なんてこといいやがるのね」
「あ、そういえば、あれは結果的には、得川さんがテレビに出た最後のやつなんだ。……欲しがるのも無理はないよな」
「すると何か、収録ビデオを押収したから、その腹いせか? 仕返しかあ?」
埼玉県南警察署は、よくよくそういった巡り合わせにあるようだが。
「いや、これは俺の感触ですよ、あくまでも」
野村は断定を避けていう。
「……生駒、中でいったい何を撮影してたの?」
「えー来てたのはですね、弁護士をいれて八人だったんですよ。だから、そんなご大層な撮影ではないですね。でその中に、四十歳ぐらいの女性がひとりまじってたんです。思うに、その女性は、いわゆる霊能力者でしょうね」
「霊能力者?」
「いや、女でしたから、まず間違いないでしょう」
生駒は、仕入れてきたばかりの知識でいう。
「それに弁護士いわく、事件から二週間も経ったというのに、捜査はいっこうに捗《はかど》っていない。ご遺族の心は深く深く傷ついている。だから犯人逮捕に役に立とうと、我々は出張ってきたのである。そんなことをほざいて[#「ほざいて」に傍点]ましたので、おそらく、事件現場で霊視をやってたんでしょう。そのへんにもぐり込んでいる情報[#「情報」に傍点]を見るために……」
「もういっそのこと、その弁護士と霊能力者とやらに、事件を解決してもらおうじゃないか」
古田が冗談めかして、弱音めいたことを吐く。
「んな馬鹿な! だったら警察いらないじゃないか。我々は何でメシ食っていくんだ。霊だ霊能力だ霊視だと、この国はそんなもので動いてるのかあ?」
「意外と……動いてるみたいですよう」
生駒が小声でいった。
「ともかくもだ、これから速攻で行って、その弁護士と撮影スタッフの責任者を」
と依藤はいってから、
「……縄《パク》ってこれるのかあ?」
自信なさそうに、おもに古田に尋ねる。
「うーんいったように、住居侵入罪には問えないよね。あとは公務執行妨害ぐらいなんだけど、警察《われわれ》の公務を妨害したかどうかは……微妙だよな」
「けどさ、ここで撮影したビデオ、その放映は禁止できるだろう?」
「それは間違いなくできる。捜査の必要上、南署《われわれ》が秘密にしていることが映っている、そう主張すればいいわけだからさ。放映禁止の仮処分命令は、簡単におりるはず……けど、そのビデオテープそのものを押収できるかどうかは、こちらは難しいかもね。あの特番のように、殺人の被害者が誰かと争っているわけでも、ないからね。それに霊視なんてのは、たとえ何をいっていようが、問題外で、証拠物件にできるわけでもないし……」
「あれえ? すると変ですよね。そんな端《はな》から放映できそうにもないものを、やつらは撮影してたわけですか?」
「確かに。弁護士が一緒だったら、そんなことすぐに気づきそうなものなのにね」
「――いや、何か裏がありそうだ」
依藤が冷静な声でいうと、
「無駄骨を折るような連中じゃない」
野村が濁声《だみごえ》でつけたした。
[#改ページ]
森の屋敷の中庭から、添水《そうず》の音は消えていた。
先週の土曜日に関東平野を襲った強風が、竜蔵《りゅうぞう》のお手製のそれをいとも簡単に吹き壊してしまったからだ。
――リンリンリンリンリン。
代わりといってはなんだが、様々な秋の虫の声が聞こえてくる。
その中庭に面した母屋《おもや》の八畳間《こべや》は、縁側の戸がわずかに開いていた。
「……いかがでございますか?」
つい今し方、その戸から政臣《まさおみ》が入って来て、そして竜蔵に一枚の写真を手渡したのだ。
竜蔵は、普段はかけない老眼鏡《めがね》を茶箪笥の抽斗《ひきだし》から取り出して、電気|炬燵《ごたつ》に足を突っ込み、その写真を両手で持って見つめながら、うーん、とただ唸《うな》っているだけである。
「……自分が見ますところ、大炊御門《おおいみかど》恭子《きょうこ》さまの面影《おもかげ》が、どことなく」
写真を手渡すなり政臣はそういったのだが、再度同じことをいう。彼は炬燵には入らずに、炬燵布団の裾《すそ》で正座している。
「まさかとは思うがのう……」
その名前を竜蔵が耳にするのは、何十年ぶりであろうか。
大炊御門恭子は、先代のアマノメの神の、ひとり目の妻である。
大炊御門は、アマノメの神を奉《たてまつ》っている氏子《うじこ》の有力な一家《いっけ》で、そこの娘を是非にといった話があり、アマノメは当時まだ二十歳《はたち》そこそこであったから、お世継ぎをもうけるには早すぎるのではとも思われたが、恭子がアマノメよりも二つ三つ年上で、待てぬ[#「待てぬ」に傍点]という理由もあって婚姻と相成《あいな》った。
恭子は、父親の仕事の都合で欧羅巴《ヨーロッパ》での生活が長く、英語とフランス語に堪能で、当時としては(今でもそうだろうが)最先端をいく女性であった。もちろん、相応の美人でもある。
旧態然としたアマノメの神事に、そのような新しい風を、いや、新しい血[#「血」に傍点]をいれるのも、未来を生き抜いていく術《すべ》かもしれないと、竜蔵・竜嗣《りゅうじ》の一代前の桑名《くわな》の家長たちが、そう考えたからでもあった。
が、それはやはり一時《いっとき》の思いつきにすぎなかったようだ。
当時、アマノメが住まいとしていたのは、三重県桑名郡の、桑名の本家からほど近いところの山間《やまあい》にひっそりとある、石垣が高々と積まれた上に建っている、元はといえば桑名松平の出城《でじろ》であったものを明治以降に改装したという屋敷で、そういった場所での生活に、欧羅巴《ヨーロッパ》仕込みの恭子が馴染《なじ》めるはずもなかった。
だが一年を経《た》たずして、恭子の妊娠が明らかになった。ところが、傅《かしず》いている桑名の者たちは、喜ぶというより、どちらかというと、うかぬ表情である。
その理由を恭子がアマノメに尋ねると、
――女の子だから。
そう、あっさりとした返事であった。
アマノメの神には、その種のことも見えるようだ。
――女の子だと、どうなるのですか?
たとえ男子の場合であっても、恭子《ははおや》からは離され、神の子として、桑名の者たちの手によって育てられる。面会はおろか、その成長の様子を陰から見守ることすらも許されない。そして恭子も屋敷からは出され、相応の金品を附与されて、別の場所でまた一からの生活を始める。そのことは承知[#「承知」に傍点]の上での婚姻であったのだ。
我が子が、一千年以上も続いている、神の系譜の一員として加えられ、何不自由のない生活が約束されてもいるのだから、代償はやむをえないと。
だが女子の場合はどうなるのか、聞かされてはいなかった。
――アマノメの神は男しか継げない。女は桑名の養子になり、その後、どこかの氏子に嫁いで、その何代か先の娘が、またアマノメの子を生む。
しつこく問われたアマノメが、その種のからくりを喋ってしまい、それを聞いた恭子が激怒した。
――子供を何だと思ってるんですか!
まるでブリーダーじゃない。
そこまでいったかどうかは定かではないが、恭子の気持ちとしては正にその通りであったろう。
そして恭子は、桑名の城の屋敷から、身重の体のままで出奔《しゅっぽん》したのだ。
直《ただ》ちに、東京に本家がある大炊御門《おおいみかど》に問い合わせがいったが、家には帰っていないし、連絡もないという。大炊御門が嘘をついても始まらない。アマノメの神に忽《たちま》ちにして見破られるからだ。
だが、桑名の側も、真剣には探そうとはしなかった。大炊御門との縁が切れてしまうのは芳《かんば》しくないし、それに恭子を追い詰めるより、大炊御門が、裏で彼女の面倒を見てくれるなら、そちらの方がよいではないか。それに、そのままアマノメの妻を続け、第二子で男子が生まれたとしても、あの気性ならばすんなりとはいくまい……体《てい》よく厄介払《やっかいばら》いができた、そんな考えがあったのも事実であろう。
その後、恭子は娘とともにロンドンで暮らしている、そんな噂を風の便りに聞いたような記憶が竜蔵にはある。だが、それもいつの話だったか覚えてはいない。
「……歳も、このぐらいでありましょうし。もっとも、年齢も本名も、詳しいことは分かっておりませんのですが」
政臣がいうように、この写真の女性が恭子の娘であったなら、すなわちマサトの姉ということになる。竜蔵は、竜介《せんせい》から聞いた話を思い出していた。
あの私立M高校の女子高生の誘拐事件には、手相見が一役《ひとやく》かっていたということを。姉と弟なら、やはり、手相もそれなりに似ていたことだろう。
「自分には、何ともはや分かりかねますが、仮にそうだったとして、この娘には、アマノメの御[#「御」に傍点]神さまの力がどの程度?」
「いや、それは危惧《きぐ》するに及ばぬわ。たとえ男でも、そうおいそれとアマノメの神は下《お》りぬ――」
そのあたりが〈アマノメの秘密の儀〉の最奥義ではあるが、竜蔵とて一抹《いちまつ》の不安がないわけでもない。現に、竜介は部外者にも拘《かか》わらずそのことを熟知しておるようだし、それに恭子の娘も、潜在的な力においてはマサトにひけをとらぬはず。
「それに、使っておりまする名前[#「名前」に傍点]が……」
政臣は、沈痛な面持《おもも》ちでいう。
「名前は分からぬのでは?」
「……内部《なか》でだけ通《つう》じる、通《とお》り名を使っておりまして、この写真の女性は、真柴《ましば》というそうです。そして教団の名前が真浦会《まうらかい》。教祖の名前も真浦《まうら》ですし、祀っている神の名前すらも、麻羅《まら》です。アマノメさまへの、面《つら》当てのような気がしてなりません」
「ふーん……」
確かに、天目《あまのめ》は、その下の名前にマがつく。マサトの父親は、天目マユミで、代々そうする慣わしだ。これはアマノメの神の正式な名称が、アマノマ[#「マ」に傍点]ヒトツノミコトで、それを漢字で書くと、天目一箇命。その漢字を苗字《みょうじ》にあててアマノメ[#「メ」に傍点]とし、読みのマを下の名前の頭につける……だから、一種の語呂《ごろ》合わせのようなものだが。
それに、下の名前で呼ばれるのは幼いときだけで(神になればアマノメさま[#「アマノメさま」に傍点]であり)、名前それ自体にも意味はないが。
「……して、大炊御門《おおいみかど》の誰かには、確かめてみたのか?」
「いえ、それは、自分からはできません」
政臣は重厚な声できっぱりという。
「ふむ、それもそうじゃのう……」
氏子たちのことは、桑名の本家が管轄《かんかつ》していて、竜蔵が(ましてや陰《かげ》の政臣が)直接動けるわけではない。氏子たちからの寄進も本家が一手に集め、その中から、竜蔵や陰たちに必要経費が渡されるのだ。もっとも、それは莫大な金額であるが。
「けどじゃ、このことを本家に話すと、また大事《おおごと》になりよるぞう」
「……然様《さよう》でございますな」
危なっかしい埼玉《とうきょう》からは出て、桑名へ戻って来い。そんな話になるのは目に見えている。だが、本家が必ずしも安全ではないと踏んでいるから、竜蔵はこうして他所《よそ》に居座っているわけだ。
「すると、この真柴とやらは、どこかに逃げておるのか?」
「いちおう、表向きはそうなっておりますが、自分が思いますに、この教団の内部《なか》で匿《かくま》われているかと。それに、真柴を恭子さまの娘だとしますと、真柴が、教団の一幹部にすぎないといった話自体が、おかしゅうございます」
「ふん、それもいえるのう。……して、その教祖とやらは、どういった人物なのじゃ?」
「女性、歳は三十歳ぐらい、それ以外のことは、まったく分かっておりません。ですので、傀儡《かいらい》か、もしくは、真柴本人といった可能性も、あながち[#「あながち」に傍点]……いかがいたしましょう、手の者を何名かつけてみましょうか?」
「いや、その必要はないわ。いずれ警察が調べてくれおるじゃろうから。もらった方が早い」
「……確かに」
生駒が撮影した写真もそうだが、警察の捜査内容は、ここ森の屋敷には筒抜けのようである。
「それと、このようなことを、自分が申すのは何でございますが、アマノメの御[#「御」に傍点]神さまに、一度、見ていただくというのは?」
「いや、それはさせとうないわ――」
竜蔵は厳《きび》しい口調でいい、
「この真柴が恭子さんの娘だったとして、そして万が一、相手を目覚めさせてしまうようなことがあったら、それこそ取り返しがつかぬ」
「はっ、然様《さよう》でございますな」
――政臣は、深々と頭《こうべ》を垂れていった。
竜蔵は、その真柴(恭子の娘)と同じ境遇にいた女性のことに、ふと、思いが翔《と》んだ。
西園寺《さいおんじ》靖子《やすこ》である。
その彼女とは、子供のころには、ふたりしてよく遊んだものだ……
西園寺靖子は、戸籍上は竜蔵と同《おな》い歳《どし》の妹だが、実際は天目マユミの先代《ちちおや》の姉である。マサトからいくと大姨《おおおば》にあたる。そしてこの屋敷に逗留《とうりゅう》している西園寺|希美佳《きみか》の祖母でもある。
……城の屋敷にふたりで忍び入って、桑名の大人たちから怒られたこともあった。ままごともやったかな。けど、お転婆《てんば》な子じゃなく、どこか夢見がちな少女であった。
竜蔵と靖子は、誕生日が二ヵ月と違わないから、物心がつくと、おかしいといったことに気づく。そしてひとつ屋根の下で育っていきながら、やがては互いの歯車の中に身をゆだねていき、七十年以上の年月《としつき》が経《た》った。
最近、会っておらぬな、どうしておられるかのう。
――リンリン、リンリンリンリンリン。
虫の声が、秋の夜風に揺れていた。
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麻生まな美の家は、埼玉県の蕨[#「蕨」に傍点]市にある。
もっとも、南に向かって十五分も歩けば荒川《あらかわ》で、その対岸は東京都だ。それに、最寄《もよ》り駅の戸田公園《とだこうえん》から埼京線《さいきょうせん》を使うと新宿《しんじゅく》まで二十分(山手《やまのて》線に乗り換えて原宿《はらじゅく》まではプラス四分)だから、胸を張って埼玉県人だといえるかどうかは微妙である。
けど、その地名はお気に召しているようで、それは漢字が難しく、まずほとんどの人が書けない、それどころか読めないことに、まな美はひそかな喜びを感じている。
――これでワラビと読み、つまり若葉を食用にする羊歯《しだ》の一種の蕨《わらび》である。それに、わらび、といった情緒ある語感も気に入っている。
どこかの団体がやった意識調査《アンケート》だが、日本語の中で、その語意と語感を照らし合わせて、日本人がもっとも美しく感じられる言葉は何か?……わらび、も上位に入っていただろうが、その一位に輝いたのは、なぎさ、であった。波打ちぎわの意である渚だが、そのことを知ったまな美は、将来結婚して女の子が生まれたなら、渚、なぎさ、ナギサ、そのどれかを名づけようと心に決めた。
そして仮に、まったくの仮の話だけど、土門くんと結婚したなら、土門渚……売れない歌手みたーい。じゃ、マサトくんとなら、天目ナギサ……うーん、これも語呂がいまひとつだわね。そうこう考えていると、麻生なぎさ……けっきょく、それが一番いいことに気がついた。だったら、婿養子かな、それとも夫婦別姓にしようかしら……十七歳なので、そういったこともそろそろ考える年頃だ。
家は集合住宅《マンション》で、七階建の最上階にある。
いわゆるペントハウスだが、上からの足音が聞こえてこないことを除けば、下の階と作りに差はない。が、百平米ほどの4LDKに、両親と独り娘の三人家族だから、そこそこに広い。南の窓に面して細長いベランダがあり、風当たりがきついのは難点だが、鉢植えがいくつかと、庭用のテーブルや椅子なども置かれてあって、小綺麗《こぎれい》に飾られている。
まな美の部屋は、そのベランダには面しておらず、玄関から入って廊下の一番奥である。七畳ほどの洋間だが、東向きの窓と作りつけの衣装棚《クローゼット》の扉を除いては、壁面は天井に届くほどの本棚で埋まっていて、そこには蔵書がぎっしり詰まっている。
――借金してでも本を読め。
父親が何かの拍子《はずみ》にいったその言葉を、まな美は真《ま》にうけ、麻生家の家訓だと思い込んでいる。
ベッドまわりや勉強机のあたりには乙女チックな彩《いろど》りも多少あるが、全体的には、壁の本棚にグランドピアノを突っ込ませ、その蔵書がピアノの天蓋にあふれ出している、竜介の下北沢《しもきたざわ》の自宅《マンション》と雰囲気は似ている。
まな美は、意外にも(東向きの窓の関係もあってか)早寝早起きを心がけているらしく、勉強も朝早く起き出してすることの方が多い。
その日も、夜の十二時ともなると、とうにまな美はベッドにもぐり込んでいて、夢と戯《たわむ》れていた。
父親の麻生|竜一郎《りゅういちろう》は大手の製薬会社に勤務だが、すでに六十歳をすぎていて、本来は定年のところを、役員待遇[#「待遇」に傍点]とやらで、かろうじて雇ってもらっている。もともとは研究職だった竜一郎は、研究所の副[#「副」に傍点]所長にまでは出世したのだが、会社の重役になるには、もう一階級《ワンランク》足らなかったようだ。そして現在の肩書は、新薬開発のマーケティング部の顧問である。
が、それは菓子会社の市場調査《マーケティング》部などとは明らかに違う。新薬の開発には何年もかかり(十年以上もざら)、その間《かん》、臨床実験や承認や薬価《やっか》など、幾多の障害《ハードル》を越えなければならない。つまり顔色を窺《うかが》う相手は、菓子のように一般消費者ではなく、医療現場(医者)や役所(役人)なのだ。それらにいかに円滑《スムーズ》に事を運んでもらえるか、それがマーケティング部の腕の見せどころであり、その仕事はひと言でいって――接待[#「接待」に傍点]である。
竜一郎は研究職だったから、一見、畑違いにも見えるが、実はそうでもなく、社内では前々から、いわゆる宴会部長[#「宴会部長」に傍点]として名を馳《ま》せていた人なのだ。以前は余興[#「余興」に傍点]だったが、それを本業[#「本業」に傍点]に転じたわけだ。
ともかくも、誰もが驚くほどに、竜一郎は歌が上手《うま》いのである。その歌声は実にソフトで、耳触りがよく、一種の媚薬《びやく》のような美声の持ち主でもある。音域も同年代の人と比べると格段に広く、懐《なつ》メロから最新のポップスまでを苦もなく歌いこなせる。嫌われる『マイ・ウェイ』を熱唱するような自己陶酔型ではないから、接待の場にはうってつけなのだ。
まさに、芸は身を助くとはよくいったもので、首の皮一枚でぶらさがっている役員待遇は、竜一郎の喉《のど》にかかっている。
……が、そんなことは家族は露ぞ知らない。
「どうしてこう毎日毎日帰りが遅いの? 顧問なんでしょう」
研究室に勤めていたころと比べると、確かにそうで、妻の紀子《のりこ》は不平ばかりいっている。
紀子は初婚だが、竜一郎にとっては再婚の妻で、ふたりは親子ほどに歳が離れている。もとはといえば息子(火鳥竜介)の交際相手《ガールフレンド》だった女性だから、実際そうなる。
紀子は、竜介が行ったひとつ目の大学の、同じ学部の学生であった。そんな若い彼女のハートを射止められたのも、竜一郎のその媚薬のような歌声が、おそらく一役《ひとやく》も二役《ふたやく》もかっていたのだろう。
その日も、帰りの遅い夫を待ち侘《わ》びながら、紀子は、居間《リビング》に置かれてある洋風の電気炬燵(夏は応接テーブルになる)に腰から下を埋めて、テレビはついているが、真剣に見るわけでもなく、うつらうつらと居眠りをしかけていた。
そして夜の十二時ごろであったろうか。
居間《リビング》のガラス扉《ドア》の向こうを、ふ、と人影がよぎったような気が紀子にはした。
あら、パパ帰って来たのかしら……そんなことを思いながら、半分夢うつつの紀子は炬燵から出て、立ち上がり、その扉を開けて廊下へと出てみた。
すぐ脇《わき》が玄関である。が、その玄関のタイルには竜一郎の茶色の革靴は見当たらない。
あれえ……と訝《いぶか》りながら、紀子は家の奥へと行ってみた。長い廊下があるわけではない。直角に折れているのだ。そして廊下の角から奥を見てみると、その先をつーと歩いて行く女性の後ろ姿があった。
え? 実家の母が来てるの……瞬間、紀子はそう思った。その後ろ姿はお婆さんに見えたからだ。
が、次の瞬間、そのお婆さんは、廊下の行き止まりの扉に行き当たると、そのまま、その扉にすーと吸い込まれるように消えていった。
それを見た紀子は、床にへたりこんだ。完全に腰が抜けてしまった。
と、そのときであった。玄関の方から、カチャカチャと鍵を弄《いじ》る音がした。
――竜一郎が帰って来たのである。
そして玄関の扉が開いた。
「……た、大変よパパ……まな美の部屋に、今、誰かが……」
廊下の角で腰を抜かしたまま、這々《ほうほう》の体《てい》で紀子はいう。
「なっ、何があった――」
その啻《ただ》ならぬ妻の様子に、竜一郎は靴を脱ぐのももどかしく床に上がると、血相をかえて廊下を駆け出して行く。
「まな美――」
大声で叫びながら、その部屋の扉を開けた。
中は真っ暗である。まな美は眠るときには常夜灯はつけない。お化《ば》けなど怖くないからだ。
竜一郎は部屋に飛び込むやいなや、壁のスイッチをひねった。天井のシャンデリアふうの明かりが点いた。
――女子高生《むすめ》の部屋だから、そうそう見てはいないが、普段ととくに変わった様子はない。
竜一郎はドタドタと駆けて行って、カーテンの裏を覗いた。もとより人の隠れられる隙間《すきま》はないが、そして窓も錠《じょう》がされてあった。ここは七階だから、窓から人が出入りできるわけもなし。
そうこうしていたら、紀子が四つん這《ば》いになって部屋に入って来た。
「パパ……誰かいない?」
泣きそうな声で紀子はいう。
竜一郎は衣装棚《クローゼット》の扉を開けてみた。
娘の衣装棚《そんなところ》を覗くのは生まれて初めてだが、そこもとくに異常はない。
「……まな美、……まな美」
紀子がベッドの縁《ふち》まで這って行って、いまだ熟睡している娘の肩を揺すり始めた。
竜一郎も側《そば》まで来て、娘の寝顔を覗き込んだ。
「……ん、……なに?」
まな美がうっすらと目を開けた。
「いや、ママがね」
竜一郎がわけを話そうとすると、
「……やだあ、パパお酒くさーい」
そういってまな美は、布団を頭からひっかぶってしまった。
紀子がその布団をひきずり下ろしながら、
「まな美、ちゃんと話を聞いてよ、あなたのことを心配してなんだから」
「……心配? それより、なんで起こしたのよう、すごくいいところだったのに」
まな美は顔をくしゃくしゃにして、不貞腐《ふてくさ》れぎみにいう。
「な、何がいいところ?」
「もうちょっとだったのよ……王子さまがね、眠ってるわたしのそばまで来てね」
「それ、しんでれら[#「しんでれら」に傍点]やったっけ? 三匹の子豚か? ぽかほんたす[#「ぽかほんたす」に傍点]かなあ?」
土門くんはわざとに外していう。
「その夢はね、ほんとのこというと、よくは覚えてないのよ。けど、その前までは実話ね。だからママが、そういう幽霊を見たのね。――おにいさん、どう思う?」
……どう思うといわれたって。
竜介は、ふたりを見下ろせる回転椅子《デスクチェアー》にふん反り返って、黙っている。
「それに、幽霊は土門くんちにも出たでしょう」
「たてつづけですからね」
「ふーん、何か関係すんの?」
竜介はうざったそうにいう。
「それが関係ありそうなんですよ。自分の店に古い本があって、幽霊はそれについてきたんやないか、いうんが自分の見解[#「見解」に傍点]で」
「そんな馬鹿な、てわたしがいったのね」
「そやったら、確かめてみるかーいうたら」
「売り言葉に買い言葉で、じゃあ確かめてやるわよ、てその本を、わたしが家に持って帰ったのね」
何を考えてるんだと竜介は呆《あき》れながらも、
「じゃあ、持って帰った、その日の夜に幽霊が出たの?」
少し興味を覚えていう。
「ううん、その日は出なかったの。わたし頑張って、けっこう夜遅くまで起きてて、その本をずーと見張ってたんだけど……幽霊が出たのは、その次の日なのよ。だからちょっと間抜けだわよね」
「いや、見張ってたからといって、そうそう出るわけでもないし」
「実はですね、その古い本いうんが、いかにも、いわく因縁がありそうなんですよ……なあ」
土門くんが、まな美に促していう。
まな美が、持って来ていた学生鞄を膝の上に置き直した。――ふたりは学校の制服姿である。つまり放課後に電話を入れ、竜介の研究室に直行して来たのだ。そして埼玉県浦和市のM高から、東京のほぼ真ん中にあるここT大学まで、一時間足らずで着いてしまう。元凶[#「元凶」に傍点]は埼京線にあると竜介は思う。
まな美は学生鞄の中から、その古ぼけた本を取り出すと、鳩血色《ルビーレッド》のソファから腰を浮かしぎみにして、竜介に手渡した。
「えっ、小泉八雲か――」
その古本の表紙を見るなり、それは意外だったという顔を竜介はする。
「ね、おにいさん、そんな話ってあり? 小泉八雲の『怪談』に幽霊がついてくるなんて」
「いやー……」
竜介は驚き顔のままで、その実、ふたりには何をどこまで話していいか頭の中を整理しつつ、
「……いやね、小泉八雲という人は、もともと幽霊が見える人だったんだ」
「ええ?」
「ど、どないなってるんやあ?」
まな美は目を真ん丸にし、土門くんは、その長い腕をくねらせて|暴れる《ジタバタする》。
「小泉八雲は、ギリシャの生まれね」
落ち着きはらった声で、竜介はいう。
「きりのいい数字だから覚えてるけど、一八五〇年の生まれで、父親はイギリス人、母親がギリシャ人。その後アメリカに渡って、新聞記者などをやって、そして一八九〇年に日本に来ている」
――一介の小説家にすぎないのに竜介は詳しいが、それなりの理由《わけ》がありそうである。
「そして日本に来て、彼のいった感想《コメント》がふるっている。日本の幽霊はやさしい……そんなことをいってるのね」
「それって、実体験にもとづいた話だというの?」
「日本の幽霊は、やさしいんですか?」
ふたりそれぞれに、別のことを尋ねる。
「あーん」
竜介は頭を抱えてから、
「じゃ、やさしいって話から、それはもう、当時の各国の状況を考えれば簡単に分かるさ。まず、ギリシャ……あそこはずーとオスマン・トルコに占領されてたろう。つまりイスラムだけど」
「あ、独立戦争をやったんですよね、確か一八二一年から始めて、十年ぐらいかかってますよね」
土門くんは、西洋史の年譜もひととおり頭に入っているようだ。
「けど、最初のころは全然歯が立たなくって、報復されて、ギリシャは大|虐殺《ぎゃくさつ》をうけてるのね。だから八雲が生まれたころだと、そういった記憶[#「記憶」に傍点]が、まだ生々しいわけさ。……当然、やさしくない[#「ない」に傍点]幽霊が出そうだろう。それにギリシャだけじゃなく、当時のヨーロッパは、そこらじゅうで戦争ね。そして八雲は、アメリカに渡った」
「あっ、南北戦争やってる」
早速、土門くんは気づいていう。
「――一八六一年から六五年。両軍あわせて四百万人の兵士で、戦死者は六十万人を超えた。その話を授業で聞いたときはびっくりしましたからね。天下分け目の関ヶ原いうたかて、両軍で、たったの十七万人やから」
土門くんらしい……比較である。
「そんな大戦争の後に行ってるわけだから、アメリカに出る幽霊も、おして知るべし。そして八雲が来たころの日本はというと? 一八九〇年ね」
「えー、日露《にちろ》戦争はまだやし、すると明治維新にからんでの鳥羽《とば》・伏見《ふしみ》の戦いから函館の五稜郭《ごりょうかく》、つまり戊辰《ぼしん》戦争ぐらいかなあ……」
「それで靖国《やすくに》神社を建てたのよ、官軍の英霊《えいれい》を弔《とむら》うために、その殉職者は三千五百八十八|柱《ばしら》ね」
まな美は、この種のことには詳しい。
「そうやけど、戦争やいうたかて、桁《けた》がちがいすぎるぞう」
土門くんは声をひそめていう。
「……だろう。だから当時の日本は、まだ江戸時代の、いわゆる太平《たいへい》の世《よ》の延長上にあったわけさ。世界中でも稀《まれ》にみる平和な国ね。だから出る幽霊も」
「きっと、平和ぼけ[#「ぼけ」に傍点]した幽霊が出るんでしょう」
まな美は言葉を奪ってから、
「その雰囲気はだいたい分かったけど、小泉八雲には、そういった幽霊が見えたというの? 実際に[#「実際に」に傍点]」
――自分の質問に戻していう。
「うん、見えたはず……アメリカで新聞記者をやっていたときも、もっぱら幽霊の話を取材してたのね。それに、幼いころの思い出をつづったエッセイにも、真っ暗な部屋でひとりで寝かされていて、お化けが出たという、そんな話を残している。だから子供のころから、見えたんだと思う」
「じゃ、いわゆる、霊能力者やったんですか?」
「まあ……そうなんだけど、八雲がいた諸外国の、宗教観[#「観」に傍点]といったものが関係するから」
竜介が暈《ぼか》していうと、
「それって、キリスト教のことでしょう」
まな美は率直《ストレート》にいい、
「キリスト教って、霊能力者はタブーなの?」
「もちろん、即[#「即」に傍点]悪魔つきさ。……たとえば、紀元前のギリシャに目を向けてみると、あそこは多神教で、ギリシャ神話で知ってるように、たくさんの神々がいたろう。それとは別に、霊の類《たぐ》いも、いろんな種類がいたの。だから日本とほとんど同じね。その霊のひとつで、ダイモン、あるいは、ダエモーン、と呼ばれる霊がいた。……ダエモーン、ダエモーン、ダエモーン」
竜介は節《ふし》をつけて、連呼していう。それも父親譲りのソフトでうっとりとさせるような美声で。
「あ、それはひょっとして……それとは別に、同《おん》なじような体験を最近したぞう、さすがは兄妹《きょうだい》」
と土門くんは愚にもつかないことをいってから、
「それが、あの、デーモンになるんですか?」
「そう、それがデーモンの語源なんだ。悪霊という意味だよね。ところが、本来のダエモーンは、人につく性格のいい霊で、日本語に訳するならば、精霊、指導霊、俗な言葉でいえば守護霊、そういったものだったんだ」
「ありゃ、誰や、ねじ曲げてしもうたんは」
土門くんは分かりきったことをいう。
「へー、そうだったのか……」
まな美は、目を輝かせながら、
「デビルとかサタンだとかに比べて、デーモンっていうのは、どこか親しみやすくって、やさしそうな感じがするわよね。それは語源が、そうだったからなのね?」
「うん、そういうことだね。たとえ、誰かが意味をねじ曲げようとも、言葉が本来もっている心は、いわゆる言霊《ことだま》だけど……それが分かる国や、分かる人には、それなりに伝わるものなのさ」
「いやあ、それはええ話ですよねえ」
土門くんも感じ入ったようにいった。
「危ない危ない」
気づいたように、まな美はいう。
「いつもだいたい同じような話術《パターン》で、はぐらかされてしまうんだから。わたしたちが聞きたかったのは、そんな話じゃないでしょう」
竜介は、バレたか……といった顔をしている。
「おにいさんと話をするときには、も質問事項を箇条書きにしといて、ひとつひとつ潰《つぶ》していかないと、まず質問その一――」
小悪魔《ダエモーン》の顔になって、まな美はいう。
「その、八雲には幽霊が見えた、て話だけど、それはおにいさん流に、きちんとした説明ができるの? それにおにいさんの話だと、それは宗教的な理由で、本人は隠してたわけでしょう?」
……理路整然と、痛いところを突いてきた。
「うん、ごもっとも」
竜介はシャッポを脱ぐように頷いてから、
「まず、八雲が生涯をかけて幽霊の話を採取していたのは、興味というより、自分に見えるものはいったい何だ? 自分は悪魔つきか? キリストに背《そむ》いているのだろうか? そんな切迫感の裏返しで、いわば、お仲間を探していたんだと僕は思う。で、彼に幽霊が見える理由だが、それはもちろん、認知神経心理学的に、きちんと説明ができる……が、それは大変に難しい話で、ここの大学院生クラスにならないと理解できない。だからこの僕の話は、盲目的に信じていただくしかない――」
説明が難しいのは実際にそうだが、話そのものは単純のようだ。小泉八雲は、オーディンを初めとして世界中にいるひとつ目の神と同じで、片方の目が悪いのである。それも左目が……これは、竜介はふたりに話すわけにはいかない。
「――盲目的に信じろだなんて、性《たち》の悪い宗教団体みたいね」
まな美は嫌味をいってから、
「じゃ、質問その二――八雲は幽霊が見える人だったとして、その話と、この八雲の古本に幽霊がついてきたかもしれない、て話には、何か関係があるの?」
「うん、それは直接の関係はないだろうけど、どこか、暗合《あんごう》めいた感じはするよね。何か、それなりの理由《わけ》あっての、偶然の一致のような……」
「あんごういうても、あの諜報員《すぱい》が使う暗号《あんごう》とは、ちがいますよね」
土門くんは確かめていう。
「うーん、じゃ、質問その三――古本に幽霊がつくなんてことは、実際にあるの? 本だけじゃなく、ダイヤの指輪とかでもいいけど」
まな美は、女性《レディ》として、気がかりなことをあわせて聞く。
「それは結果的にいうと、ある。……が、間違いがないようにいっとくけど、本とかダイヤの指輪とかに、実際に霊がとりつくわけではない」
「あれれ……」
「僕が書いた『呪詛《じゅそ》』の本の中に、こんな話のってなかったかな……人を呪《のろ》おうとするときには、その相手の持ち物[#「持ち物」に傍点]を入手してきて呪う。それは古典的な怪奇映画『ローズマリーの赤ちゃん』の中のシーンで一般にも知られるようになったが、これは理屈上正しい、といったような」
「あの本難しいのよね……それは確か、その持ち物があると、呪う相手の脳と接続がしやすくなる、そんな話だったかしら」
その竜介の難解なる著作『呪詛における脳神経学的考察』は今は絶版になっている。
「そう。呪うためには、その相手の脳に繋《つな》がらないと、呪えないからね。その際の手がかりや、目次のようなものとして使えるわけさ。それと同じことで、たとえば……五百カラットのダイヤモンドがあって、ふたりの人間がそれを奪い合い、そのダイヤで相手の頭を殴って、その人を殺しちゃったとしよう」
「な、なんちゅう極端な例でしょう」
「分かりやすくしてあげてるの。……本が売れなかった過去の反省をふまえて」
竜介は土門くんを指さしていい、
「その後、五百カラットのダイヤは第三者の手に渡った。そして、その第三者の脳と、ダイヤを凶器に使った犯人の脳とが、ふとしたはずみで繋がったとしよう。すると、幽霊が出てきそうだろう……さらにダイヤが第四者[#「第四者」に傍点]の手に渡っても、ふとしたはずみで、やはり同じ幽霊が出そうだろう。すると見かけ上は、そのダイヤに、特定の幽霊がついている、てことになる」
「おにいさん、そのふとしたはずみというのは?」
そらもっともな質問やと、土門くんも思う。
「それは、インターネットのようなものを想像していただいて……そして我々の脳は、意識の知らないところで、他人の脳と情報交換《おしゃべり》をやってるわけさ。とくに眠っているときにね。それを目覚めているときに、意識的にできる人もいる。それすなわち超能力者で、とくに超能力探偵[#「探偵」に傍点]と呼ばれるような人は、これも、被害者の持ち物[#「持ち物」に傍点]を手がかりにして」
「あ、それテレビで見たことある。FBIに協力して数々の難事件を……いう超能力おばさんが出てきて、被害者の持ち物があったら、なんか貸してくれませんかーみたいな話」
「それ、実話ね。そして、その持ち物をじーと見つめていると……実際には時間がかかるんだが……すると、ふ、とその持ち物の記憶をもっている他人の脳と繋がった。それは犯人の可能性があるよね。そして、その犯人の脳から関連する情報が取り出せると、犯行の様子が見えてくる……場合があるわけさ。つまり持ち物を手がかりにして、検索してるの、脳たちのインターネットをね」
「はー、なんとなく、いめーじはできますよね」
まな美も首肯《うなず》いている。
「いや、なんとなくでけっこうです。この仮説は、生きている間に、自分では証明できそうにない」
もっとも、左目が悪いと他人の記憶が見える、そちらの仮説だったら、今日明日にでも実験で証明する自信が、竜介にはあるが。
「それって、おにいさんの仮説なの?」
「もちろんだよ、こんな絵空事《えそらごと》を考えてる学者はいない。もう完全にここ[#「ここ」に傍点]だけの話だから、そのつもりで聞くように」
竜介は、心構えを述べてから、
「じゃ、僕からの質問ね、この八雲の古本だけど、もちろん土門くんのお父さんは知ってるよね?」
「ええ、親父《おやじ》がもろてきた本ですから」
「じゃ、まな美のママは、知ってるの?」
「ううん、見せてないわよ。あ……だとすると、おにいさんの説からはズレちゃうわよね。ママは知らないんだから、検索には使えないし」
「うーん、そうなっちゃうよね……じゃ、やはり夢の方が関係してたのかな」
「夢って?」
「直前にまな美が見ていたという、その白雪姫の夢さ」
「……眠れる森の美女[#「美女」に傍点]やったりして」
土門くんが、お世辞半分でいう。
「その夜は、まな美は何時に寝たの?」
「いつもどおりで、十一時前には、もうベッドの中に入ってたわよ」
「そして幽霊が出たのが、十二時ごろだろう。だったら、それは一回目の夢見タイムに合致するよな」
「うん? 何のことおにいさん」
「人間の睡眠は九十分サイクルで、それを一晩に何度かくり返していて、その各々の後半に夢が見られるわけさ」
竜介はさくさくと説明をし、
「その夢はどんな内容だった? 脚色[#「脚色」に傍点]はせず[#「せず」に傍点]に、覚えてる範囲でいいからさ」
念を押してまな美に尋ねる。
「えーとね、わたしは横になってたのね。森の中じゃなくて、どこかの部屋の中ね。そして体が動かせないのよ。すると、遠くの方から、男の人がやって来ようとするの。そしてわたしは、頑張ってねーと思いながら、ハラハラドキドキしてたの……たぶんそんな夢よ」
土門くんが、ソファの上でずっこけている。
「うーん、すると微妙だよなあ」
「何が微妙なの?」
「だって、まな美のパパが、部屋に入って来たわけだろう、ドタドタと[#「ドタドタと」に傍点]……それが夢になって出たのかもしれないし」
「ええー、そんなのやだー」
まな美は、足を浮かして地団駄《じだんだ》を踏む。
「え? そんなんが夢に出るんですか?」
土門くんが真顔で聞いていた。
「――出るよ。夢見のときは、脳は八割方は起きていて、外界の様子もそれなりに把握《はあく》しているのね。それに誰かが、まな美! て大声で叫んだんだから、あ、自分のことが呼ばれてる、誰かがやって来そうだ、て脳は分かるのね。そういった状況を夢に投影しちゃうわけさ。それを夢の物語にどう紡《つむ》ぐかは、その人の脳の勝手ね」
「……えー」
まな美は、なおも項垂《うなだ》れている。
「それとは別[#「別」に傍点]に、また違ったことも考えられる。それは、まな美の脳と、ママの脳とが、接続《アクセス》していたのでは、そんなことも考えられなくはない」
「今度は……ママの脳?」
まな美は上目づかいになって、恨《うら》めしそうにいう。
「実の娘と母親なんだから、脳の相性はすこぶるよくて、繋がりやすいのね。それにほら、眠っているときに他人どうしで同じ夢を見る、なんてことはよくある話じゃないか。それにママは、居眠りしかけてたんだろう。寝入りばなにも、時間は短いけど、夢を見ることは多いからね。――まな美の家は、廊下は暗いの?」
「うん、玄関のところだけ明かりが点いてるけど、あとは暗い」
「じゃ、条件的には問題ないから、ママは半分眠っていて、廊下で夢のつづきを見た……それは、まな美のところに誰かがやって来ようとしているまな美の夢と、リンクしていた」
「えー、だったら、ママが見た幽霊は、わたしが見ていた夢が母体ってこと……?」
「あれえ、死んだ人はぜんぜん関係してへんのに、幽霊が出るんですか?」
「幽霊は、死者とかぎったわけじゃないよ。生きている人間の幽霊だって出るし、実在すらしていない人の幽霊だって出る。幽霊の母体[#「母体」に傍点]となっているのは、人間の記憶だから、いろんなのが出るのね」
「それにですね、姫の」
といいかけて、土門くんは口をつぐんだ。
「うん、何?」
「わたしのことを姫、姫と呼ぶのは、土門くんだけなの」
「……姫か。それはぴったしじゃないか。まさに言霊。で、その姫の?」
竜介はあっさり納得してから、話の先を促す。
「いやあ、その姫の、ママが、同《おん》なじ夢を見てたんやとすると、そのママの方に、誰かがやって来ようとする、そんな幽霊にならへんのですか?」
「うーん、そうなる場合もあるだろうけど、人間の脳は、その種の置換《ちかん》はたくみに行えるのね……じゃ、別の、面白い幽霊の話をひとつ教えてあげよう。ネガ・ポジの幽霊とでも呼ぶべきものなんだが。これはフィルムのネガとポジね、絵が反転しているやつ。とある夫婦の話だが、その妻は比較的自由に、俗にいう『幽体離脱《ゆうたいりだつ》』をおこせる女性だった」
「それは……体から魂がすーと抜け出していくようなやつ……ですよね?」
土門くんが自信なさそうにいう。
「そのように、感じられる現象のことね。実際に抜け出してるわけではない。自身の映像記憶の中を、意識の目で覗いているようなものさ」
「わたしはそんな体験はないけど、おにいさんはあるの?」
「……学生のころに一度だけあったね。ふ、と気がつくと、ベッドで寝ている自分の頭を、斜め上から見下ろしていたんだ。あっ、これはマズい、自分は死んでしまったのかーと思わず目をつむった。そして目を開けてみると……状況は変わってないのね。ヤバい、と再度目をつむった。そういったことをくり返しているうちに、ふ、と元に戻って、目が覚めた。そのとき冷静だったら、視点の移動ができたはずで、外にだって飛んで行けたはずだろうにと、今にして残念に思う。若気《わかげ》の至りね」
自嘲ぎみに竜介はいう。
「空へも、飛んで行けるの?」
まな美が、目を輝かせぎみにして尋ねる。
「うん、脳は賢いから、実際には見たことのないような映像であっても、計算して、それなりに映し出してくれる。たとえば、話は逸《そ》れるけど、ナスカの地上絵ってあるだろう。巨大すぎて、飛行機から見ないと何の絵だか分からない。ところが、その地上の絵を、それは道のようなものにしか見えないが、その上を人に歩いてもらって、その後に催眠術をかけて、空に飛翔させる。すると、その全体の絵が見えてくるはずさ」
「ふーん」
まな美は……天井を見上げる。
「そうなるはず[#「はず」に傍点]なんだけど、これは現代においては実験は難しい。ほとんどの人が、空から見たナスカの地上絵を見知ってて、脳に記憶されてるからね。けど、飛行機もテレビもなかった古代の人は、そういったことをやって、自己暗示なりをかけて絵を見ていたのかも……だから、シャーマンの技能検定などに使えそうだよね」
「うーん宇宙人は関係あらへんのかなあ」
土門くんは、関係あって欲しいようにいう。
「で、幽体離脱だが、最近分かってきたことだけど、脳が酸欠状態になると、この現象をおこしやすくなるようだ。そして僕自身の体験を思い出してみるに、枕に顔を埋めて、眠ってたのね。だから、その理屈通りだったわけ」
「そうすると、心臓が止まって、人が死にゆくときには、脳は酸素が足らなくなるんだろうから、そういった幽体離脱が体験できるわけね?」
まな美が、粛《しゅく》とした表情でいった。
「うん、体験できると思うね。だから、脳が有している不思議な仕組みであることには違いない。今から二、三十年前の話だが、この幽体離脱の熟練者《エキスパート》として名を馳せた、ロバート・モンローという人がいて、当時の実験記録を見直してみると、モンローはきまって、うつ伏せ寝でやっていて、痙攣《けいれん》性の呼吸をし、ときおり呼吸停止を起こしていた――なんてことが書かれてあった」
「うわ! そりゃほんとうに……ほんとにやってたんやなあ」
まな美も、驚いた顔をしている。
「そう、仮死《ニアデス》の状態をみずから作り出してたわけね。もうほんと[#「ほんと」に傍点]に危ない話さ。教えるんじゃなかったと後悔してるけど、絶対[#「絶対」に傍点]に真似しちゃ駄目だよ――」
竜介は怖い顔で釘を刺していい、
「廻り道をしたけど、ようやくネガ・ポジの幽霊ね。そういった幽体離脱をよくおこすという女性がいて、夜中に、その夫がベッドから抜け出して、|手洗い《トイレ》に行った。その途中で何げなく見ると、隣の部屋に妻がいた。夫は眠たいこともあって、声もかけずにそそくさとベッドに戻った。そして眠り直そうとして横を見やると、その妻がベッドで寝ていたのね」
「ありゃ」
土門くんが、わざとらしく驚いた声を出す。
「夫は、妻が幽体離脱によくなるということを、聞いて知っていたので、妻を揺り起こして、どうなっていたのか話を聞いてみた。すると妻がいうには、隣の部屋を徘徊《はいかい》していたところで、あなたが廊下を通ったのも知ってるわよ……なんてことをいう」
「それはちょーど、裏と表ですよね」
「そう、妻が見ている記憶空間における位置どりを、夫の脳は見事に置換して、現実空間の同じ場所に、妻の幽霊映像を出していたわけさ。脳はそういった器用なことができるのね……けど、このネガ・ポジの幽霊は、報告されている例はごく僅《わず》かしかない。というのも、片や幽体離脱ができること、片や幽霊が見られる状況にあること、そして両者の脳が繋がりやすい間柄であること、これらの条件をクリアしなきゃならないからね」
ふたりは、ふん、ふん、と分かったように頷いている。
「ところが、ところが……」
竜介はもったいつけていう。
「さっき、まな美がいみじくもいった、死にゆこうとしている人は、皆が幽体離脱を体験できるのではないか……このことを前提に考えると、また別の側面が見えてくる。ただし、この際の幽体離脱は、当人からの聞き取り調査はできないからね」
「……あ」
まな美が気づいていう。
「すると、その幽体離脱をしている人が、誰かに会いに行ったりすると、条件が整えば、相手の人には幽霊となって見えるのね。それが、あの夢枕に立つ幽霊じゃないの?」
「そう、ネガ・ポジの幽霊は、それの仕組《メカニズム》みを示唆《しさ》している可能性が大だよね。それに、熟練者《エキスパート》のモンローさんいわく、幽体離脱中にどこかの場所に行こうとする場合、あの人に会いたい、そう考えると、その人の家に簡単に飛んで行ける、親しい人ほど行きやすい、そんな極意を述べている」
「じゃあねおにいさん、俗にいわれていた通りで、死にゆく人が、親しい人のところにお別れにやって来る、それが夢枕の幽霊になって見え、その本人も、幽体離脱の夢の中で、実際に会いに行っている……そう感じてるのよね」
「うん、そのとおり」
「いやあ、それもええ話ですよねえ」
土門くんが、しみじみという。
「裏の裏で、実は真実だった、そんな感じだよね。だから夢枕に立つ幽霊を、蔑《ないがし》ろにしてはいけない。それだけじゃなく、幽霊を怖いものだ、悍《おぞ》ましいものだ、悪霊である、と考えること自体が間違ってるんだ。こんな考えを吹き込んでいるのは誰だ!」
「やはり、陰謀ですかねえ」
「いや、霊が祟《たた》る祟ると煽《あお》っているインチキ霊能力者と、それで視聴率を稼いでいるテレビ局が悪いのさ」
「ねえねえおにいさん」
まな美が割り込んできていう。
「さっきの話は感動的だったけど、わたしの話に戻していただいて、そのネガ・ポジの幽霊は、確かにママの場合《ケース》と雰囲気は似てるけど、けれども[#「けれども」に傍点]、わたしの夢に出てきたのはドキドキするような男の人で、ママが見たのはお婆さんの幽霊だったのよ」
「ありゃ、そうするとやな……姫が見ていた夢が、実は、毒林檎《どくりんご》をもったお婆さんやったりして」
「なわけないでしょう。――おにいさん、こんな単純な間違いを、その優秀だという脳がおかすの?」
「も、もっともなんだけど」
竜介は笑いながら、
「まな美が見ていたのは夢だろう。幽体離脱じゃないから、元の情報が正確に投影されていたかどうかは判断不能《クエッション》なんだ……それにひょっとすると、まな美とママ以外にも、もうひとり関係していたのかもしれないし」
「え? 幽霊ひとつに、そんなに複数の人が関係してくるの?」
「特別に稀《めずら》しくはないよ。ひとつの幽霊を三人が同時に目撃した例もあるから。その場合、ある人は幽霊の正面の姿を見て、あとのふたりは幽霊の横の姿が見えた、なんて話もある。つまり情報《もとネタ》はひとつだけど、それぞれの脳がたくみに置換してるわけね」
「その、もうひとり絡んでるいうのは、姫の、パパやということですか?」
「いや、それはないと思う。パパは酔っ払ってたはずだから、そういった脳は、脳の情報交換《おしゃべり》には参加できないので」
「……よかった」
まな美は小声でいってから、
「けど、わたしの脳とママの脳とがくっついてたって話は、それはもう確定事項なの?」
――不服そうにいう。
「そう考えた方が、まとまりがいいんだ。そもそも、土門家に出た幽霊と、麻生家に出たそれとは関連がある、といった前提で話を進めてるだろう。関連がない、というのであれば、僕はそれでいいけど」
「そんな冷たーい」
「……ならば、基本的なことを尋ねよう。土門くんの父親と、まな美のママは知り合い?」
「ううん、会ってないわよ……ねえ」
「じゃ、土門くんと、まな美のママは?」
「えーそれやったら、去年の文化祭のときに、ちらっとお顔を」
「じゃ、いちおう会ってるわけだなあ……」
「会ってる会ってないが、関係するの?」
「それはもちろん……脳どうしの情報交換は、幽霊の伝播《でんぱ》も同じことだが、面識のある人間の間で、おこりゃすい。面識がない場合には、持ち物が要《い》る」
「あ、そやったそやった……」
「だからいかなる呪詛の大家といえども、アメリカの大統領はそうそう呪えないってことね」
竜介は、早口で与太をいってから、
「すると、幽霊は、土門くんからまな美のママへと伝播した、とも考えられるよな……けど、これでいくと、まな美だけが浮いちゃうよなあ」
――ぶつくさと考え事を声に出していう。
「わたし、浮いちゃってもかまわないわよ」
「いや、そうはいかない。麻生家に出た幽霊は、まな美に関係がありそうなんだから」
「えー? 幽霊を見たママに関係があるんじゃないの?」
「じゃあ尋ねるけど、いわゆる霊能力者は、たくさんの幽霊を見るよね。じゃ、見えた幽霊たちは、その霊能力者に何か関係があるの?」
「うーん」
まな美は唸っている。
「一般的にいって、幽霊があらわれた場合は、その幽霊が見ている人間[#「人間」に傍点]や、見ているもの[#「もの」に傍点]に、関係がある。幽霊を見ている人の脳が、そのように関連づけて、映像を出すってことね。だから、幽霊がもし自分を見ていたら、自分に関係する幽霊さ。お岩さんの幽霊は、伊右衛門《いえもん》を見ているはず。……もっとも、その幽霊の母体となる記憶情報を誰がもっているか、それは個々のケースで様々だろうけどね」
「へー、幽霊いうんは、もともとは人の記憶やったんですね」
今さらのように、土門くんはいう。
「ところで、土門くんちに出た幽霊は、どんな幽霊だったの?」
「それはもう、姿かたちもはっきりせーへんし、年齢性別ともに不詳の幽霊で……そやけど、親父《おやじ》がいうには、どうやら自分の方を見ていたらしく」
土門くんは、認めたくなさそうにいう。
「けどわたしの方は、幽霊はわたしの部屋に向かってただけのことで、わたしじゃなくって、八雲の古本に興味があったのかも……」
まな美も往生際《おうじょうぎわ》が悪くいう。
「じゃ、土門くんは、この古本を枕元にでも置いて寝たの?」
「いいえ、本は一階にほっぽり出したままでした。ほうれみろ、同じ穴の狢《むじな》やんか」
――コンコン。
内扉をノックする軽やかな音に続いて、白衣の西園寺|静香《しずか》が部屋に入って来た。手に持っているお盆には、お茶と、お菓子までもが載《の》っている。ふたりが来たときには、隣の研究室は無人であったから、その後戻って来て、気を遣《つか》ってくれたのだ。が、もしそのときにいたなら、お茶はいらない、と竜介は声を飛ばしていただろう。
ふたりが研究室に来たのは初めてではないから、互いに顔は見知っているはずだが、きちんとは紹介していないことに竜介は気づいた。
「えーこっちが僕の妹で、麻生まな美、通称……姫。隣が、歴史部の部長の土門くん。そしてこちらが、ここの助手をやってくれている、西園寺静香さん。助手とはいっても、大学院生の上[#「上」に傍点]だからね」
「……よろしく」
静香は微笑《ほほえ》んで会釈《えしゃく》をしながら、香ばしい香りがする煎《い》れたてのコーヒーが入った白いマグカップをふたりの前に置いていく。
「えー西園寺さんというたら、鎌倉時代に京の都にいてはった、あの有名な公家《くげ》の西園寺さんと、関係あるんですか?」
土門くんがおずおずと尋ねる。
「ええ、そんな話も聞いたことはありますけど、もうずいぶん[#「ずいぶん」に傍点]と昔の話ですから」
静香は、ずいぶんの部分を強調していうと、竜介に煎茶の入ったマグカップを手渡し、そして隣室に戻って行った。
「やっぱりなあ、かぎりなく、雅《みやび》やもんなあ」
蕩《とろ》けそうな顔で土門くんがいうと、
「わたしはどうせ、名前だけの姫よ」
まな美が拗ねていった。
が、竜介はというと、目から鱗《うろこ》が落ちたような顔をしている。
――鎌倉時代にいた有名な公家の西園寺というのは、もちろん竜介も知っているが、それを彼女と関連づけて考えたことはなかったからだ。
「そうだわ、土門くんのお店に出た幽霊は、その直前に、チベットの僧侶が訪ねて来て、あなたにはよき霊がついてますね、て土門くんにいったそうなのよ。何か関係があるのかしら? けど、おにいさんは、チベットには幽霊なんか出ない、とその話を閉じちゃったでしょう。あれは何のことだったの? 質問一と二ね」
「うーん、よき霊ねえ……いったい何をいいたかったんだろうな」
少し惚《とぼ》けた表情をして、竜介はいう。
「その僧侶はですね、日本語は片言しか喋られへんかったんですよ。そやから訳し方の問題もあって、精霊とか、そういうもんちゃうかなあ」
土門くんは、いいように勝手に解釈していう。
「挨拶程度のお愛想をいったんだと思うけど、しいて考えるなら……イダムぐらいかな。これは日本語に訳すと、守り神、あるいは守護尊といった感じで、人にはそれぞれ違ったイダムがついている、そうチベットでは考えるからね」
「それやったら、いわゆる守護霊ですよね。あのダエモーンや」
「いや、それらとは違ってね、チベット密教の神々なんだ……とはいっても、日本の密教のような天部《てんぶ》の神たちではなく」
竜介は歯切れが悪い。
それもそのはずで、そのイダムは、立っている神が腰に妃《ひ》を抱きつかせている姿で描かれ、まな美には到底説明できない激情的《エロチック》なしろものだからだ。
「……ともかく、チベット密教独特のものね。それに、日本でいうところの守護霊とは、明らかに違う。それは先祖の霊がついて守っていると、そう考えちゃうよね。けど、こんなこといわれ出したのは、ごく最近なんだよ。とある霊能力者がテレビでばんばん吹いたから、それが定説[#「定説」に傍点]みたいになったのね。ともかく、チベットでは、そういった先祖の霊などは、人にはつかない。というより、これは極論だけど、先祖の霊とか、死者の霊とか、そのものがチベットには存在しない」
「……ありゃ?」
土門くんは、飲んでいたコーヒーを口から離して、蛍光灯のように驚く。
「日本のお盆のように、先祖の霊を迎えるといった風習はないし、先祖崇拝といった言葉すらもない。お墓もないし……死体は鳥に食べさせちゃうからね。それにチベットにも、霊をおろすタイプの霊媒師《シャーマン》はいるんだけど、恐山《おそれざん》のイタコのように、死者の霊をおろしたりはしない。また家族も、先祖の霊と話したいと願ったり、あの世で元気にやってるようですか……などと尋ねることは、決してない」
「それは、輪廻転生《りんねてんせい》が関係してるのよね」
まな美が、自信ありげにいった。
「そう、チベットは輪廻の思想が徹底してるから、人が死ぬと四十九日後には、必ず、何かに転生してるのね。だから、そのへんを彷徨《さまよ》ってる霊というのは考えられないし、それに、転生先で生きてるんだから、イタコに呼び出されるのは迷惑だろう。守護霊となって人についたりもしないし、幽霊になって出てくるようなことも、めったにない。――これが質問二の答えね」
「うん? そうすると、皆がそう考えることによって、幽霊は出なくなるの?」
「いやー、人がどう考えようが、自然の摂理《せつり》まではねじ曲げられないよな」
竜介は苦笑をしながら、
「出るものは、やはり出るのさ。だから見えた幽霊映像を、どう考えるかってことになる。そしてもっぱら、悪霊にされちゃうようだね。チベットにも悪霊はいるからね。もっとも、人が死んでから転生するまでの四十九日間に限っては、死者の幽霊がたまには出るようだ……そう考えるってことね。さらに四十九日をすぎても、ごく稀には出るようだ。そんなときには僧侶が呼ばれて、転生を促すよう、祈祷《きとう》してもらうのね」
「ふーん、難波《なにわ》の鯔《ぼら》は伊勢《いせ》の名吉《みょうきち》やなあ」
土門くんが、何やら諺《ことわざ》をいった。
「それって、所変われば品変わると、同じでしょう?」
「難波の葦《あし》は伊勢の浜荻《はまおぎ》いう、別のばりーえーしょんもあるぞう」
土門くんは、嬉しそうにいった。
「けどね……」
竜介は、何やら思案顔の様子だ。
「けど、なあに? おにいさん」
「その、土門くんの店に来たチベットの僧侶だけど、どの程度だったか分かるかな、変な質問だけど、高僧っぽかった? それとも、普通っぽかった?」
「ふたり来たんですけど、その片っぽは老人で、すんごい高僧っぽかったですよ。リンポ……」
「――リンポチェ。そう呼ばれてたみたいよ、おにいさん」
「いや、リンポチェといってもぴんきりだからね。転生ラマだったら、おしめをして飴玉《あめだま》をしゃぶっている子供《がき》でも、リンポチェだからね」
竜介は嫌味っぽくいってから、
「けど、老人のリンポチェか……その老僧が訪ねて来た直後に、幽霊が出たんだろう?」
「そうです、夕方に来はって、出たんはその次の日の朝」
「……ふむ。じゃ、前言撤回かなあ」
「何を撤回するの?」
「土門くんちに出た幽霊は、そのチベットの僧侶は関係してない……といったのを撤回」
「ありゃあ?」
「ところで、まな美は、チベットの『死者の書』や、修行に関係する本は読んだことある?」
「一度ちらっと読んだけど、――捨てた」
怖い顔をして、まな美はいう。
「まあ、気持ちは分かるけれど」
土門くんだけが、何のこっちゃーといった顔をしている。
「チベット密教の修行を、仮に、十段階だとすると、その上から三番目のあたりに……煩悩《ぼんのう》を捨て去って、ブッダの悟《さと》りの境地に達する一歩手前のあたりね、そこに、いわば幽霊を作り出すとでもいった奥義が含まれているんだ」
「え? 幽霊を作っちゃうの?」
「そんなもん作ってどないするんです?」
「チベットにあった、とある僧院での出来事――」
ふたりの疑問符を尻目《しりめ》に、竜介は強引に話を進める。
「大勢の修行僧がいて、それを高僧が監督指導していた。その修行僧の中のひとりだが、忽《こつ》然と姿が見えなくなったり、どこからともなく現れたりで、修行をサボッているように、高僧には思えた。一度叱りとばしてやらなきゃーと考えていた矢先、重要な法要の席に、その彼の姿がない。これはもう寺から追放だ! と思っていると、その修行僧の読経する声が聞こえてきた。そちらを見ると、本堂の隅っこで、その彼が熱心にお経を読んでいた。そして再度、法要の席の方を見ると、そこにも、その彼がちゃんと座っているではないか。その一部始終を目撃した高僧は、彼が『究竟次第《くっきょうしだい》』の『自加持次第《じかじしだい》』を習得し、幻身《げんしん》を獲得して変化身《へんげしん》を出現させていたことを理解して、お咎《とが》めはなかったという……さて、これはいちおう実話として伝わっている話だが、これはいったい何だろうか?」
「ふーん、なんか、忍者の分身の術みたいな話ですよね、どろろーんって感じで」
「……くっきょうしだい? じかじしだい? げんしん?」
まな美は、分からない単語に不満をいう。
「ゲルク派の修行は、大きくふたつに分かれていて、その後半部が『究竟次第』。そして『自加持次第』は、いったように、悟りの一歩手前の段階ね。ちなみに、ゲルク派とは、あのダライ・ラマがいるところ。そして宗派を問わず、チベット密教の修行は、インドの最後期の密教である『無上瑜伽《むじょうゆが》タントラ』が基本《ベース》になっている。これは瑜伽という言葉からも分かるように、要するに、ヨーガの一種さ。だから呼吸法が含まれる。――呼吸法、これがヒントね。そして幻身の特徴は、幻《まぼろし》、水月《すいげつ》、影、蜃気楼《しんきろう》、夢、谺《こだま》、乾闥婆《けんだっば》、魔術、虹、稲光《いなびかり》、水の泡《あわ》、鏡の像、などの譬《たと》えによって象徴されるが、幻身は、一般人には直接見ることはできない……ともある。さらに、チベット密教の最重要課題は何かというと、死の直後に、その人の身におこるであろう……正しくは、その人の意識に感じられるであろう出来事を、生きていながらにして事前に体験することにある。そのあたりに、輪廻の悪循環《くさり》を断ち切れるチャンスがあるのでは……とそう考えてるわけだね。すると、幻の身と書いて幻身とは、いったい何だろうか?」
――竜介はヒント満載でいう。
「それはもうおにいさん、臨死体験をしてるんだったら、単純に、幽体離脱のことじゃないの?」
「それにですね、呼吸法というたら、眠ってるときに呼吸停止をおこしてたという、あの……モンローさんと一緒や」
土門くんは、マリリン・モンローの駄洒落を思い止どまったらしく、それが顔に出ている。
「そう、ほとんど同じものね。そのヨーガの呼吸法とは、止観《しかん》と呼ばれるもので、止めるという漢字があてられていて、呼吸を著《いちじる》しく制限するやり方だ。同じく、脳の酸欠状態を作り出してるわけね。モンローは、それをうつ伏せ寝でやったが、チベット密教の場合は、みずからの意志でやる、それぐらいの差しかない。そして幻身となった当人には、自分の本体《からだ》が見えるから、水月……水に映った月のようであり、夢のようであり、影のようであり、蜃気楼のようであり、様々に譬えられるが、その幻身の姿は一般人には見えない……もその通りで、だが、修行を積んだ高僧だったら、先の話のように、見える場合だってあるわけさ。そして見えた幻身のことを、変化身《へんげしん》とも呼ぶ。それらはすなわち、ネガ・ポジの幽霊だよね」
「うわあ、途中の話はすんごいややこしかったんやけど、結果、同《おん》なじもんなんですねえ」
「この種の仕組《メカニズム》みに、そうそう数があるわけじゃなし」
「物事シンプルなんでしょう、おにいさん」
まな美が、竜介の持論を奪《パク》っていうと、
「うーん? そういい切れるだろうか……」
竜介は身を乗り出してきて、鬼気びた顔になっていい、
「この幻身をもてるところまでいく僧侶は、実際には、チベットにも数はそうはいないはず。だから逆に、幻身になって嵐から船を救っただとか、幻身になって砂に牛の絵を描き、そこから牛乳を搾《しぼ》っていたとか、そういったホラ話が、まことしやかに専門書に載ってしまう。そして変化身[#「変化身」に傍点]に至っては、チベット密教の宗派によって、明らかな見解の相違がある。ある宗派は、それは具体的・物質的な実体をともなわない観念的な存在であるといい。またある宗派はそれに反して、具体的・物質的な実体をもつとまでいい切っている」
「ええー、だったら、幽霊が物質化されちゃうってこと?」
「そーんな阿呆《あほ》な……」
「はたして、そういい切れるだろうか?」
竜介は、いっそう悪魔びた顔でいい、
「これに関しては、ルースの幽霊という、よく知られた事例がある。そのルースは、いわゆる霊能力者で、だけど、子供のころに、実の父親から性的|虐待《ぎゃくたい》をうけたこともあって、その父親の幽霊が頻繁にあらわれるのね。それも、きわめて現実的《リアル》な存在で、喋りもすれば、触ることもできる、というより襲ってくるから、ルースは逃げまくるのね。で、これは七〇年代後半の話だから、脳波計が使えて、そのときの脳の様子がモニターされていた。幽霊の手で目を塞《ふさ》がれた、と彼女がいえば、その通りの反応が脳波計には出ているし、触られたときも同様ね。だから虚言《きょげん》ではなく、実際に彼女の脳はそのように反応していたわけさ。だから、ルースにあらわれた父親の幽霊は、彼女にとっては、物質化していた……ともいえる」
「そのとき、その父親は、幽体離脱をしてたの?」
「いやー残念ながら、そこまでは観察していない。当時、ルースの父親は離れた場所で生きてたんだけど、その研究者には、ネガ・ポジの幽霊などという発想はなかったから……今でも誰もないと思うが。だからルースの事例は、彼女が独自に作り出した幽霊だと、一般には考えられている。実際、どっちか分からない」
「じゃあ、あらわれた幽霊が、物質化していると感じるか、感じないかは、その幽霊を見ている人の、脳がどう反応しているか、その人の脳の勝手……によるのかしら?」
まな美は、考え考えしながらいう。
「うん、ふつうの幽霊の場合はそうだと思う。が、ネガ・ポジの幽霊で、幻身を出している側が、チベットの高僧のように熟練者であったなら、その幻身の側からも、相手方の脳に能動的に、つまり意識的に働きかけができそうな……そんな感じはする。たとえば、幻身の手で人の頬をなぜれば、相手方もなぜられたように感じる。幻身で人の体をすーとすり抜ければ、相手方も非物質がすり抜けたように感じる、など様々にね」
「はー、ふー」
土門くんが素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を出し、
「いや、おにいさんの今日の話は自分はぜーんぶ理解してますよ。そやけど、ふと我に返ってみると、なんて超越した話やろうかと……点点点《てんてんてん》……」
土門くんは『……』を声に出していう。
「まあ、確かにね。相手に幽霊を見せる――とこの一文だけを取り出しても、そんな馬鹿なって話にはなる。テレビの映像を考えたら分かるけど、あるいは写真でもいいが、それをコンピューターに取り込もうとすると、すごい容量を食ってしまう。そんな情報量のものが人間の脳から脳へと……|○《まる》、|+《じゅうじ》、|☆《ほし》、|□《しかく》、|〜[#同相、1-2-78]《なみ》のESPカードですら、テレパシーで伝えるのに四苦八苦なのにー、と超能力を研究している超心理学者だったら、頭ごなしに否定してしまうだろう。ところが、どうしてどうして……さっきの消えたり出たりする修行僧と、高僧の話を例にとると、ふたりとも、その寺の映像とか、人物の映像とかは、ともにしっかと脳に記憶されているわけさ。だからあと必要なのは、誰が、どこに……つまり、人物を指定できるような信号と、空間における位置を指定できるような信号、そのわずかな情報が伝われば、席についている幽霊が、高僧には見えるわけさ。映像情報そのものを伝える必要はない。もともと脳にもってるんだから。あとは、その基本情報に、どの程度の情報だったら加味《プラス》して伝えられるのか……てそんな話を今してたわけだよね」
「はー、そういった別の角度から説明してもらえると、ずいぶんと……点点点」
「じゃ、どの程度の情報だったら加味《プラス》できるの?」
まな美が話の本筋を促す。
「面白いのだったら、喜怒哀楽が伝わるね」
「えっ、そんなのが伝わるの?」
「何が伝わる伝わらないかは、旧ソビエトの古典的な超能力実験でだいたい確かめられてるんだ。逆に、伝わらない代表選手は、意味記憶《いみきおく》ね。つまり論理《ロジック》のようなものは、脳から脳には伝わらない。だから、ありがたーいお経なども、残念ながら伝わらない。で、その喜怒哀楽ね、たとえば、幻身を出している側が、怒りの感情を強く籠《こ》めたとしたら、相手方には、いわば忿怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》となった、変化身《へんげしん》が見えるかもしれない」
「あ! それだったら、あの不動明王《ふどうみょうおう》と同じじゃない。お不動さんも、もとはといえば大日如来《だいにちにょらい》で、それが衆生《しゅじょう》の教化《きょうけ》のために忿怒身に姿を変えて、つまり変化身なんだから――」
まな美は目を輝かせ、興奮していう。
「ある種、裏づけてるだろうね。如来というのは、サンスクリット語ではタターガタで、真理に到達した者……悟った者という意味だよね。釈迦牟尼《しゃかむに》の以前にも、同様に悟った人がいたはずだ、の発想のもとに作られている。そして悟ってるんだから、その前段階の幻身・変化身などは、出せてあたりまえ。だから、柔和な仏《ほとけ》の顔であらわれたり、忿怒の顔であらわれたりと、その種の話も、あながち絵空事ではない」
「表情は、そのように忿怒になれるとして、姿や形も、変えられるの?」
「うーん、変えられるだろうね」
「ほんとに……?」
「そのことは、チベット密教の修行の前半部である、『生起次第《しょうきしだい》』を読んでみれば分かるさ。どんなものかというと、仏や神が描《えが》かれている曼陀羅《まんだら》の絵を、その細部に至るまで、ただひたすらに見つめる修行なのね。それを毎日、長時間やっていると、実物の曼陀羅を見なくっても、頭の中で映像化《イメージ》できるようになってくる……それを観想《かんそう》っていうんだが、その観想をしながら、神や仏の姿を、みずからに重ね合わせていくわけさ。これを我生起《がしょうき》という。その我生起を、すべての仏や神について丹念にやっていく。もちろん、曼陀羅における、それら個々の役割をきちんと把握しながらね。だから、たとえば普賢菩薩《ふげんぼさつ》のことをチラッと思っただけで、姿や形も、心構えも、すっかりと普賢菩薩になりきれる」
「だったら、それが、変化身となってあらわれてくるのね――」
まな美は、ことのほか嬉しそうにいう。
「うーん、それは、同種の修行を積んでいる僧侶にのみ、普賢菩薩の姿となってあらわれる……可能性はある。一般人の脳には、その種の記憶は入ってないからね、たとえ信号が伝わってきても、映像化は難しい。が、まな美なら、少しはそれらしいのが見えるかもしれない」
「それで十分よ、おにいさん」
「さらに、幽霊が見られる条件が整ってないと無理だよ。脳が半分眠ってるようなときね」
「あー、えーと……」
そういった変化身などは、土門くんには興味のない話らしく、考えごとを口に出していう。
「そうするとやな、チベットの僧侶が幽体離脱をして、自分に会いに来てはったんやろ……てことは、自分の脳と、その僧侶の脳は繋がってたんかなあ、一度店で会《お》うてるんやから、繋がりそうやけどなあ、そうやけど、その幽霊を、親父《おやじ》が見とおんやから、親父と、自分の脳とがくっついとったことになるんかな、――やだあ」
結論が出て、まな美の口真似をしていう。
「いちおう、そういった筋も考えられる、てぐらいの話ね」
「けどねおにいさん、何度もいうけど、ママが見たのは、お婆さんの幽霊だったのよ……チベットの僧侶が、お婆さんの変化身であらわれたの?」
竜介は笑いながら、
「もっともだ……点点点点」
土門くんのそれを真似ていってから、
「幽霊の原因を特定するなんて、それはそれは難しい話なんだから、僕は霊能力者でもないし……だからいえるのは、ふたりに関係がありそうな幽霊、それぐらいだろうかね」
「じゃ、最初と変わってないじゃなーい」
まな美が、不貞腐《ふてくさ》れていると、
「あっ、ええ方法があるぞう」
土門くんが上半身を屈《かが》めて、姫の顔を覗き込んできていう。
「なーに?」
「幽霊が、八雲の古本についてきたんかどうかを確かめるんやったら、その古本をまた別の人に渡せばええねん。えー次は……順番からいうたら天目かな。けど、本はここにあることやし、いっそのこと、おにいさんに抱いて寝てもらう……」
最後は聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの声で土門くんはいう。
「ふむ――」
そりゃアマノメに見せれば一発で分かるだろう。けど竜介としては、複雑な話にはしたくはない。
「――聞こえたぞう。本を抱いて寝るような趣味は僕にはない。お寺にでも持って行って、懇《ねんご》ろに供養《くよう》してもらうように」
いってから竜介は、仕事机《デスク》の上に置いてあった八雲の古本を、両手で持って、おごそかにふたりに返した。
……が、そういわれてみれば、竜介のまわりでも、最近、幽霊は出たのである。それはこの部屋で、西園寺静香が見たものであったが、あの青いドレスの幽霊は、その情報源《もとネタ》は明らかに依藤警部さんで、自分とはいっさい無関係のはずだ……が。
「もう自分はどっちでもかまへんでえ、これ以上は出ーへんでいてくれはったら、それでええ」
「土門くんには、謎を解こうっていう気概《きがい》がないの?」
「謎のままでもかまへん謎もあってもええやんか」
土門くんの、その長ったらしいひと口言葉が大勢《たいせい》を決し、幽霊談義は尻すぼみに終わった。
「全然話変わるけど、真実の浦和の浦と書いて、真浦、そういった名前の神さまっている?」
せっかく来たのだからこれは聞いとかなきゃ、と竜介はまな美に尋ねる。
「……真浦? 国津《くにつ》、じゃなくって、天津《あまつ》って感じよね」
まな美は暫く考えてから、
「確かいたわよ。――天津真浦というのが」
「それって、どこに出てくるの?」
「わたしの記憶が正しければ、これは『旧事本紀《くじほんぎ》』の中ね」
「く、『旧事本紀』か……」
竜介が回転椅子《デスクチェアー》の肘掛けからズルッと片手を滑らせた。
「おにいさんそういうけど、江戸時代までは、『古事記』と『日本書紀』、そして『旧事本紀』が、日本の三大史書だったのよ。それを誰かが……捨てたのね」
「そやけど、物部《もののべ》氏に偏向してるから、いう理由もあったんやろ」
「だったら、『古事記』と『日本書紀』は全然偏向してないっていうの?」
「うーん……」
土門くんは返す言葉がない。
「でさ、それはいったいどういった神さまなの?」
「えーと、天津真浦は、正しくは、倭鍛師等祖《やまとのかなちらのそ》・天津真浦だったと思うわ」
「うん? そのカナチというのは、いわゆる金属神の、鍛冶屋《かじや》の鍛人《かぬち》と同じ?」
「そう、同じよ」
「じゃあ、『古事記』に出てくる鍛人《かぬち》・天津麻羅《あまつまら》との関係は、何かあるの?」
――天津麻羅は、すなわち黒男根のマラさまであるが。
「うーんと確か、その天津麻羅の子供か、子孫が、天津真浦、そんな関係だったと思うわ。けど、そうすると、天津真浦は神さまじゃなくって、人の名前だったかもしれないけど」
「なーるほど」
……謎は解けた。マラさまを奉《たてまつ》っている氏子たちの会が真浦会であり、その直系の子孫である教祖が真浦さま。これほど単純な話もない。
が、けれども、天津麻羅は『日本書紀』との比較においては、なんと|――――――《みなさんよくごぞんじのかみ》! 竜介が、さらにやっかいな関係式を頭に思い巡らしていると、
「ところでおにいさん、さっきから気になってたんだけど、そのおにいさんの仕事机《デスク》の上にある、金色でピカピカしてるのは、金閣寺?」
「まあ……そうなんだけど」
口はばったく、竜介はいう。
それは、ふたりが訪ねて来る一時間ほど前に、竜介宛に小包で届いたもので、藁半紙《わらばんし》のような包装紙を破って、小箱から出し、仕事机《デスク》の上に置いたままになっていた金閣寺だ。それ以外には、箱には何も入っていなかった。その差出人を見ると、竜介の思いあたる名前ではなかった……いや、つい数日前にも、大きさは随分と大きいが、似たような小包が届き、中には髑髏《どくろ》の実物大の模型が入っていたのだ。しかも、それは額《ひたい》にも目がある三つ目である。その伝票は残してあったので、見比べてみると……やはり、差出人は同じ名前であった。が、そこに書かれてある電話番号は、その際にかけたのだが、どこにも繋がらない偽《にせ》の電話番号なのだ。ふむ、いったい何だろうか……と考えを巡らしていると、ふたりがやって来たのである。
「学生の誰だかが、京都に行って来たらしく、そのお土産ね」
竜介は、真っ赤な嘘で胡麻化《ごまか》した。
「その金閣寺だけど、建物の前にある池は、鏡湖池《きょうこち》というわよね。つまり鏡の池だけど、例の鏡や水鏡の話と、何か関係があるのかしら……」
竜介がジロッとまな美を睨《にら》みつける。
「あ……金閣寺というたら」
土門くんが、何やらいいたそうな顔で呟いた。
竜介の研究室を後にしたふたりは、帰りの電車の中で、いつものように感想戦[#「感想戦」に傍点]に突入した。
「そやけど、自分は今日一日で、幽霊に対する概念が根底から刷新されたぞう」
土門くんは難しい言葉でいう。
「確かにおにいさんの話はすごかったけど、それは毎度のことだし。それにけっきょく、出た幽霊については何も分からなかったじゃない」
まな美は、なおも謎解きに拘《こだわ》っていう。
「あんな、自分はふと思たんやけど、自分とこに出た幽霊と同《おん》なじやつが、姫のとこにも出たんやとすると、自分の脳と姫の脳はくっついてるんかな?」
「ま、まさか――」
まな美が黄色い声を張り上げたので、乗客がいっせいにふたりの方を見た。
「まあまあまあ」
土門くんは宥《なだ》めながら、
「そうやけど、その脳と脳とがくっつくいう話は、これだけは釈然とはせーへんかったぞう。やっぱり、これはおにいさんの仮説やね、仮説仮説」
「そうかしら、おにいさんの肩をもつわけじゃないけど、わたしは、ママの脳とは繋がっているような気が」
「え? 繋がってはるの?」
「そういわれてみれば……思い当たる節《ふし》はあるの。最近はそうでもないんだけど、ママだけには、隠しごとが通用しないのね。だから繋がってたんじゃないかと……」
「母親と、実の娘やからなあ」
土門くんは分かったようなことをいい、
「そんなことはさておき、自分はさっき、すっごいことをひらめいたぞう」
「うん? なあに?」
「あそこからの帰り際にひらめいたんや。そやけど、自分も成長したもんやなあ」
土門くんはしみじみといい、
「ぐーと堪《こら》えて、あの場では何《なん》もいわへんかったやろう」
「だから何なのよ?」
「ほれ、おにいさんの机の上に金閣寺が置いてあったやんか。――あれや――」
土門くんは、車内の虚空を指さしていう。
「そんなこといわれたって、分からないじゃない」
「まあまあまあ、ところで姫、金閣寺というたら何を思う? 金閣寺、金閣寺、金閣寺、金閣寺」
土門くんは真似て連呼していう。
「うーんそれは正しくは、北山鹿苑寺《ほくざんろくおんじ》の舎利殿《しゃりでん》よ。宗派は臨済《りんざい》宗。けど正規の禅寺《ぜんでら》になったのは、足利義満《あしかがよしみつ》が亡くなってからね、彼の遺言で。義満の戒名《かいみょう》が鹿苑院だったから、そこから名前をとったのね。そして義満が生きていたころは、いわゆる北山殿《きたやまどの》と呼ばれる、北山《きたやま》山荘があって……山荘とはいっても豪華なものだけど、そこから日本全国に睨みをきかせていたのね。それどころか、皇位の簒奪《さんだつ》を着々と実行に移していて、もうチェックメイト寸前までいっていたのが、この場所。後小松《ごこまつ》天皇に山荘まで来させていたぐらいなんだから。その北山山荘を義満が建てたのは……応永《おうえい》四年」
「ふーん」
土門くんは嘯《うそぶ》いていて注釈をしない。
「あれえ、こんな答えじゃ駄目なの?」
「うちら歴史部は、そういった教科書的な答えは、たいがいは関係あらへんでしょう」
「えー……」
「ちなみに、応永四年は一三九七年。それを過去にさかのぼっていくと、どないなるやろうか?」
「過去に……」
まな美は暫く考えてから、
「あっ! 土門くんするどーい」
――手を一回だけ小さく叩いていった。
「ほうれな」
「けど、いったい何がどうなってるの?」
「いやー自分にもよう分からへんけど、小泉八雲のとこで似たような話あったやんか、直接関係あるかどうか分からへんけど、何か理由《わけ》があっての、偶然の一致いうやつが……」
「暗合?」
「その暗合や、暗合」
土門くんは声をひそめていってから、
「そもそも、あそこに山荘がでけたんは、嘉禄《かろく》年間のこと……」
「それは短かくて、一二二五年|〜《から》二七年までよね」
逆に、まな美が注釈をする。
「その北山の場所に山荘を建てはったんは、誰あろう、西園寺|公経《きんつね》……それを百七十年|後《ご》ぐらい後《あと》に、足利義満が譲りうけたんやろう」
「そうよね」
「しかも、その山荘にお寺を建てて、それを西園寺と呼んでたことが、西園寺家の名前の由来やで。そやから金閣寺の元が、ようするに西園寺やんか。同《おん》なじ寺とはちがうんやろうけど……それに、その西園寺公経の父親は藤原姓や。藤原いうてもいっぱいおるから、まぎらわしいんで、西園寺に名前を変えたんやろうな。たぶん」
「……たぶんね」
まな美も、うなずく。
「そやけど、父親の藤原は、藤原の中でも北家《ほっけ》の流れをくんでいて、藤原の五|摂家《せっけ》に次ぐ……久我《こが》家、三条《さんじょう》家、徳大寺《とくだいじ》家、菊亭《きくてい》家、花山院《かざんいん》家、大炊御門《おおいみかど》家、そして西園寺家。つまり七|清華家《せいがけ》のひとつや……それに、西園寺公経の奥さんは、源頼朝《みなもとのよりとも》の姪《めい》やろう」
「そうよそうよ、それだから、承久《じょうきゅう》の乱のときには、鎌倉方に情報を流したわけよね」
「それが後鳥羽上皇《ごとばじょうこう》にばれてしもて、西園寺公経と実氏《さねうじ》の親子は捕まり、あわやーいうところで、鎌倉側が勝ってしもうたから、後鳥羽上皇は隠岐島《おきのしま》に島流し。かたや西園寺家は大功労者として、鎌倉と京をとりもつ関東申次《かんとうもうしつぎ》を世襲し、太政大臣《だじょうだいじん》になって、摂関家をしのいで公家の頂点に立ったわけや」
土門くんはそこまで喋ってから、はあ、とひと息ついてから、
「それだけとちがうでえ、源氏《げんじ》の将軍は三代で途絶えてしもたから、次を京都から迎えたやろう。その四代将軍の頼経《よりつね》は、西園寺|公経《きんつね》の孫や。……そんな些細なことはさておき、公経の息子・実氏《さねうじ》の娘さんが、後嵯峨《ごさが》天皇に嫁いでて、そしてできた子供が、後深草《ごふかくさ》天皇と、亀山《かめやま》天皇や。このふたりの天皇は、すなわち、持明院統《じみょういんとう》と大覚寺統《だいかくじとう》であり、しばらくは、ふたりの血筋から交代交替《こうたいこうたい》に天皇をやっとったんやけど……それを裏からさせとったんは西園寺家やけど、それがけっきょく、北朝と南朝に分かれる原因になってしもたんや。西園寺家としては、どっちに転んでもかまへんかったんやろうけどな。その後も次々と天皇に嫁がせ、北朝最初の光厳《こうごん》天皇と、次の光明《こうみょう》天皇も、母親は、西園寺|実氏《さねうじ》の曾孫《ひいまご》にあたる西園寺|公衡《きんひら》の娘さんの広義門院《こうぎもんいん》や。その北朝が、現在に至ってるわけやからな。それはそれは……」
「土門くん、そんな細かなところまで、よく知ってるわね」
まな美が、驚き感心していると、
「いやあ、西園寺さんに関してはやな、前々から気になってたから調べてたんや」
土門くんは手の内を明かす。
それゆえ、金閣寺を見た瞬間、一連のことをひらめいたわけであるが。
「土門くんの話を聞いて、ほんとにすごい家柄だということが、よくよく分かったわ。けど、その子孫が、おにいさんの研究室にいるのよ。そして金閣寺が、おにいさんの机の上にあったのよ。いったい何のことしら……?」
「いや、それも自分はひらめいたぞう」
「なあに?」
「結論、あれは|愛の証し《らぶれたー》とちがうか」
「だ、誰から誰へのよう……」
[#改ページ]
林鳥禅院の本堂は小さなものだが、禅寺らしいそれなりの外観を誇っていた。
反《そ》っくり返った一層の屋根で、軒《のき》を見上げると、垂木《たるき》が二段になっていて放射状に並んでいる。それは扇《おうぎ》垂木と呼ぶそうだ。壁の漆喰《しっくい》は最近塗り直されたものであるらしく純白で、焦茶《こげちゃ》をした柱や梁《はり》をくっきりと浮かび上がらせている。窓は、これも禅寺にはよくある花頭窓《かとうまど》だ……火灯、火頭、華頭、花灯、瓦灯、など様々に記されるが、漢字の『炎』のような形をした窓である。それが本堂の扉の左右の壁に嵌《は》まっている。
扉の前には七、八段の木の階段があり、くねーと曲がった昇《のぼ》り高欄《こうらん》が両側につけられている。要するに手摺《てす》りだが、橋にかかっている欄干《らんかん》に似ていて、支《ささ》えの親柱《おやばしら》の頭には、桃の形をした擬宝珠《ぎぼうしゅ》が載っている。そして本堂の縁《えん》に沿っても、やはり高欄で囲っていて、その高欄は毒々しいほどの真っ赤な色に塗られてあった。
――ビデオテープは、そのあたりの映像から始まっていた。
扉前の階段のところで、数名のジャンパー姿の男たちが、本堂――侵入に向けての準備をあれこれとやっている。
「くそー、顔にモザイクをかけてやがるじゃないか!」
その画面を見て、依藤が憎々しげにいった。
「ちぇっ、小細工《これ》をやるために、あの弁護士は時間稼ぎをやってたんですねえ」
生駒も、悔しがっていう。
林鳥禅院に侵入された当日の夜は、戸野村《とのむら》というその弁護士も、車のナンバーから割り出した『BBオフィス』という製作プロダクションの撮影スタッフらも、どこに雲隠れしたのかまったく捕まらず、翌日、その戸野村弁護士とは連絡はついたが、今は札幌にいるから明日まで待ってくれといわれ、そして今日の午後、生駒と野村が、東京の飯田橋《いいだばし》にあった弁護士事務所にまで出張って、このテープを奪って来たのである。もっとも、戸野村は意外におとなしく差し出して、その際「未編集のテープです」とかいっていたのだが、顔のモザイクなどは、彼らのいう編集には含まれないようだ。
そして、南署三階の小会議室で、テレビモニターの前に面々が齧《かじ》りつくようにして、そのテープの中身を見聞(検分)しているのである。
「あ、ビニール手袋と、靴カバーをちゃんとやってやがるよなあ」
――岩船がいった。
このビデオ鑑賞会には、鑑識課の係長も列席である。
画面は、ジャンパー姿の男ひとりだけが、先導するようにして歩き出した。その後からカメラが追って行く。
男は階段を上がると、正面の扉には目もくれずに、縁に沿って本堂の外側を進んで行く。その観音開きの正面扉は、裏から閂《かんぬき》で閉じられているからだ。そして本堂の裏手に廻り込んで行くと……いわゆる勝手口が見えてきた。それは色こそ焦茶色だが、アルミ製の扉で、使い勝手がいいように改装されているのだ。すると男が、ジャンパーのポケットから鍵を取り出して、そのアルミ扉の鍵穴に差し込んだ。鍵は、この林鳥禅院の名義人である又吉嘉吉《またよしかきつ》から預かったものだろう。
「なんだ、こいつらリハーサル済みなのか」
――依藤が訝《いぶか》しげにいった。
確かにそう思えるぐらいに物事が淡々と進んで行く。それに男は(後ろに控えているスタッフらも)ひと言も発しないのだ。
男が扉を引いて開けると、そこはもう本堂の板の間である。小さな靴箱が脇に置いてあるので、本来はここで靴を脱ぐのだろう。が、男は靴カバーをしていることもあってか、そのまま進み入って行く。
本堂の中はかなり薄暗い。
表《おもて》の扉が閉まっているし、それに窓(花頭窓)には、中を見通せない白色のガラスが嵌まっているからだ。なお岩船の蘊蓄《うんちく》によると、そこは、かつては白い障子《しょうじ》ではなかったか……とのことだ。
するとカメラの向きが変わり、別の男を映し出した。その男は(顔はやはりモザイクだが)手に長い棒を持っていて、それに照明器具が何個かくっついている。
「ふむ、寺のスイッチとかは、いじりませんよ、てことだな」
――依藤が察していった。
「そういわれてみれば、撤収のときに、長いコードを片付けてましたね。電気も、寺のは使ってなかったんでしょうね」
――生駒が思い出していった。
林鳥禅院の本堂には電気・ガス・水道が引かれている。それどころか、冷暖房装置《エアコン》すらも入っている。
その自前《じまえ》の照明《ライト》が灯って、本堂の中が照らし出された。太い梁《はり》が剥《む》き出しで見えていて、天井はさすがに高い。が、そのことを除くと、ふつうの家とそれほどの差はないようだ。ここは拝観を目的とした寺ではないからだろう。
その勝手口から入ってすぐ右側に扉があり、壁で仕切られた部屋がひとつだけある。そこは細長い八畳ほどの板の間で、ベッドも置かれているが、林鳥禅院から車で二、三分の場所にある自宅の方に、得川宗純はだいたいは帰っていたようだ。その家は、父親の又吉嘉吉が隠居して住んでいる家でもある。母親は亡くなっている。さらに、東京の品川区にもマンションを一室、最近購入してはいるが、使っていた形跡はなかった。なお、得川宗純は五年ほど前に離婚していて、子供はいない……そういったことを考えると、家庭関係は寂しかったんだな、と依藤は少し同情して思う。
勝手口から入って左側には、中国ふうの朱色の衝立《ついたて》がずらーと並んでいて、その向こう側の細長い空間に、簡素な炊事場がある。
衝立には、仏像のポスターや、曼陀羅の絵や、さらにはヨーガの人体チャクラの絵図《イラスト》なども貼られてあって、画面はそれらを丹念に映してから、右の方へと向きを変えていく……すると、表扉の裏側だ。さらに右にパンしていき、衝立の反対側の壁にある洋風の|飾り棚《キャビネット》のセットを映し出した。大・中・大と三つ並んでいて、グラス類や高級そうな食器、洋酒の瓶《ボトル》や、何かのトロフィーなども飾られ、もうふつうの応接間の雰囲気と変わらない。
画面は、さらに右にパンしていく……仏像の安置場所が映し出された。壁を背にして、幅と奥行きが約一メーター、高さは七十センチほどの須弥壇《しゅみだん》が置かれている。派手な彫刻はなく黒塗りだ。そして外の高欄と同じく、S字に曲がった手摺りがついていて、やはり頭の部分には桃(擬宝珠《ぎぼうしゅ》)があり、その桃だけが金色だ。
その壇に安置されているのは、高さ五十センチぐらいの、古色にくすんだ木彫の座像だ。ふっくらとした女性の姿をしていて、手がたくさん出ていて、その手に様々な道具を持っている。
「……これは弁財天《べんざいてん》というのね。ここのは手は八本もあるけど、二本のもあるのよ。同じ弁財天でも、江ノ島にある裸弁天《はだかべんてん》などとは、ぜんぜん雰囲気ちがうよね」
岩船が、少し嬉しそうに注釈する。
すると画面は、後戻りをして、さっき通りすぎた、飾り棚と須弥壇の間あたりを映し出した。そこには、食堂で使うような背の高い木のテーブルが置かれているのだ。そして椅子が……四脚ある。
その木のテーブルを真ん中に捉《とら》えながら、画面がすーと引いていった。つまりレンズを広角の方へと切り替えていっているのだろうが……そして、仏像が置かれている須弥壇《しゅみだん》や、|飾り棚《キャビネット》なども一緒に映るぐらいにまでズームアウトすると、そこで動きが止まり、静止画面のようになった。
暫くすると、
『……先生、どうぞ』
そう促す、男の囁《ささや》き声が聞こえた。
すると画面の右手側から、ひとりの女性が、しずしずとフレームインして現れた。淡い空色《ブルー》のパンタロンスーツを着ていて、中肉中背、上品な有閑マダムといった雰囲気の女性で、歳のころなら四十歳、いや、もう少しいっているようにも見えるが。
「そうそう、彼女が霊能力者ですね」
――生駒が自信満々の声でいう。
「いや、ちょっと待って。さっきさ、何とか先生って、名前を呼ばなかった?」
「うん、自分にも何か聞こえたよ」
――捜査課の係長・古田もいう。
「巻き戻して、ボリューム上げてくれる――」
「はい」
少年課の林田刑事が返事をする。ビデオとテレビの発信機《リモコン》を操っているのは彼である。
そして再度、その場面を画面に出してみると、
『マフジ先生、どうぞ』
――男は確かにそういっていた。
「えっ! マフジだって?」
「そういってますよね」
「そう聞こえますね」
「マ[#「マ」に傍点]フジだよな、どうなってんのよりさん?」
「ッ、またかよ」
野村が舌打ちして、悪態をついていった。
「うん? まふじ[#「まふじ」に傍点]だよね。……珍しい名前だけど、きれいなお[#「お」に傍点]名前じゃない。それがどうかしたの?」
ひとりだけ蚊帳《かや》の外の岩船が、怪訝《けげん》そうな顔をして面々を見渡す。
「あっ、岩船さんには、お話ししてなかったよね」
「そんなつめたーい」
――恨めしそうな目で依藤を見る。
「いや、鑑識さんには、直接関係のない話だから」
そして依藤が――わけを話した。
「へー、そうだったのか、まの字が頭につくのね、いやー……」
といってから、岩船は急に表情を曇らせた。
「うん? 何かお気づきのことでも?」
「……いやいや。今さらよりさんも、もうこんな話は思い出したくないだろう。あの松平さんのMの証しもさ、ま[#「ま」に傍点]ではないかと、ふと思ったのよ、まみむめもー」
と剽軽《ひょうきん》に胡麻化したが、岩船が表情を曇らせたのはそんな理由ではない。あの、歴史部の事情聴取で、自分の心臓が止まりそうになった(依藤いわく、魂が吸い取られそうになった)天目マサトも、ま[#「ま」に傍点]でないかと、ふと思ったからだ。
――岩船の閃きは、これまでもそうであったが、随所で輝きを見せる。
「ともかくもだ、このマフジなる女性が真浦会であったら、どんな筋になるのかは後で考えよう。先に進めて……」
そう促されて、林田が一時停止ボタンを解除した。
……マフジは、立ち止まり立ち止まりしながら、本堂の中を見て歩き始めた。
ときおり小首を傾げ、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて何かを睨みつけていたかと思うと、次には、すかし目で見るような仕草もする。そして、ふんふん、と頷いたり、頭で大きく弧を描いたりと、そんなマフジの表情をカメラがクローズアップで捉えていく。
南署の面々も、吸い込まれるようにして、その彼女の一挙手一投足を見つめている。
するとやがて、マフジは、木のテーブルの前までやって来て立ち止まり、
『ここですね。このあたりで、霊的な波動をとっても強く感じます』
「何いってやがんだ!」
――間髪を入れず、野村がテレビ画面に向かって吼《ほ》える。
「まだ得川さんのテープが貼ってあんだよ! そこには!」
画面では見えにくいが、そのテーブルの壁側の床で得川宗純は倒れていて、その人の形をしたテープがまだ床に残っているはずなのだ。
「どうしましょう? 先に進めていいですか?」
その野村の罵声で、思わず一時停止ボタンを押した林田が、お伺いをたてる。
依藤が、行け行け、と手で合図をする。
……次には、男の囁き声が入っていた。
『どういったものが、感じられますか?』
だがマフジは、
『少し待って下さい』
そういうと、立ったままで、右の手の平に顎《あご》を載せ、その右手の肘を左腕で支えて、いわゆる頬杖をつき……黙りこくってしまった。
そして一分。
――二分。
――三分。
そんなマフジの表情を、カメラがゆっくりと角度を変えながら映し出していく。彼女の目は、どこを見ているのか分からないような虚《うつ》ろな目である。そして口元がかすかに震えている。
さらに一分。
――二分。
「固まっちゃってるよう」
堪《こら》え性《しょう》のない生駒が口に出していった。
「そうそう、早廻ししても音が聞こえるやつってあるだろう、これはできないの?」
続いて、岩船が文句をいう。
剽軽者の人種《タイプ》は、えてして堪え性がないようだ。
「あ、これは時短《じたん》ビデオじゃないんですよ」
林田が申し訳なさそうにいう。
「自分、大変なこと思い出した」
――生駒がいう。
「弁護士からもらったときに見たら、これは百六十分テープなんですよ。えらい長いなーと思ったんですが、未編集[#「未編集」に傍点]だといってたのは、こういうことだったんですね」
「そんなのつき合ってられるか――」
さすがの依藤もいい出した。
――テープは、まだ十分ほどしか経っていない。それに、画面のマフジは頬杖をしたまま、依然として固まっている。
「えー時短ビデオだったら、仮眠室の方にあるよ。あっち系のビデオを大量に見なきゃいけないときに、ときどき防犯課が使ってるからさ」
古田が、薄ら笑いを浮かべていった。
「このビデオもあっち系だ。――鞍替え」
そのころ、刑事課の植井刑事はというと、東京都は世田谷《せたがや》区の三軒茶屋《さんげんぢゃや》にある、とあるちっぽけな不動産屋を訪ねて、そこの親父《おやじ》から話を聞いていた。もちろん依藤の命令をうけてだが、まったく危険のない捜査なので、相棒《パートナー》はいない。
金城玲子が住んでいると得川宗純が霊視したのは二ヵ所であった。江戸川区の葛西《かさい》と、世田谷区のここである。そのおおよその場所や、アパートの名称、そして部屋番号などは金城由純が覚えていたので、それを調べてこい――が依藤の指令であった。
植井は、大学は東京にある大学を出ている。だから学生の町・三軒茶屋には馴染みがあり、まずはこっちを先に片付けて、できれば午前中に……とそんな青写真をひいていたのだが、それは甘かった。
件《くだん》のアパートはすぐに分かった。
三軒茶屋の駅から茶沢《ちゃざわ》通りを北に六、七分歩くと、ど[#「ど」に傍点]でかいゴリラが壁面についた、そう大きくはない建物《ビル》が見えてくる。得川宗純は、その特徴ある建物を霊視[#「霊視」に傍点]したという。植井も、学生のころに見たような記憶がある。そこからさらに四、五分歩いて、脇道に入り、家や共同住宅がごちゃごちゃと建て込んでいる一角に、そのアパートはあった。町名は太子堂《たいしどう》である。すぐ近くに共同浴場《せんとう》があって、その煙突を得川宗純が霊視し、それが場所の決め手になったという。その際、聖徳太子の姿も見えたそうだ。町名の由来は、茶沢《ちゃざわ》通りを聖徳太子が歩いたことにあるらしく、その真偽のほどは植井は知らないが、至れり尽くせりの霊視だなと思った。
アパートは、古ぼけた規格品《プレハブ》の二階建だが、風呂は各部屋についているようだ。そこの住人に聞いて、アパートの所有者《オーナー》も簡単に分かった。同じ町内に家があり、植井は訪ねてみたが、
「いやー、その当時、誰が住んでいたかは覚えてないですよ。今の住人も、顔はよく知りませんから」
――当時の賃貸契約書すらも、すでに破棄《はき》されてあった。
植井が最低限欲しかったのは、その賃貸契約書なのである。誰が借りていたのか、とりあえず判るからだ。それをアパートの所有者が持っていないとなると、あと頼りとするのは、
「どこかひとつと、専属契約してるわけじゃないのね。だから考えられるのは」
と不動産屋を五つほど教えてもらった。
それを近所から順に潰していっていると……午前中はおろか、秋の釣瓶落《つるべお》としの日が暮れようとしている今、ようやくそれらしき賃貸契約書と、植井はご対面ができた。
――入居の日付は、三年前の八月一日になっていた。その次の入居者は、翌年の三月一日付けの契約書が別にあったから、ほぼそれに間違いない。
賃借人の名前は、鈴木良子《すずきよしこ》。
そして本籍地は、東京都千代田《ちよだ》区|一番町《いちばんちょう》二丁目三番地。
ふーん……いちおう電話番号も記されてあるが、かけるまでもないだろうと植井は思いながら、
「えーと、契約を結ぶときに、身分の確認とかはされないんですか?」
――精一杯の嫌味をいう。
「はい、それはもちろん、免許証かなんかを見せてもらって、コピーをとらせてもらうんですけど……そこに、そういったのが一緒に挟《はさ》まってないところを見ますとね、うーん残念ですけど、それは残ってないようですねえ」
不動産屋の親父《おやじ》は、見え見えではぐらかし、
「じゃ、今コピーをおとりしますね」
――手っ取り早く片付けようする。
「いえ、できれば、この実物を貸していただきたいんですけど」
誰かの指紋がとれる可能性があるからだ。それぐらいは、若輩の植井刑事だって閃く。
「あ、全然かまいませんよ。もう返していただかなくても、全然けっこうですから」
親父は作り笑顔で調子よくいう。
「それと、ちょっと見ていただきたいものがあって――」
植井は、背負っていた背負鞄《リュック》を下におろした。
およそ刑事らしくないが、その中には、東京都の詳細地図、方位磁石、小型《コンパクト》カメラ、折り畳み傘、タオル、などが入っている。植井は準備は万端にする性格だ。そして今日も、自慢の小型録音機《マイクロレコーダー》は背広の胸にあって、行く先々で事前に録音ボタンを押している。人の話はぼーと聞いているふりをしつつ、帰ってからじっくり聞き直して、人の粗《あら》や虚《きょ》を突く。それが植井が目標としている刑事像のようだ。
その背中鞄《リュック》から、地図に挟んであった写真を取り出して、親父に手渡した。
「この女性なんですけど、見覚えありませんか?」
「……はあー、はあ、はあ、はあ」
親父は何度も頷いて、
「いや、この女《こ》だったら、覚えてますよ」
「あっ、覚えてますか」
植井は――少し驚いた。
「この写真の雰囲気とは、かなり違ってましたけどね、こんな黒髪じゃなくて、色が何色か入っているような茶髪《チャパツ》で……ですけど、この彼女の目が、独特でしょう。ふつうの日本美人の目というより、もっと東洋的《オリエンタル》な感じがして……悪くいえば、きつい目ですよね。で僕はてっきり、モデルさんかなーと思いましてね」
「モデルさん」
「ええええ、この辺りには、芸能人や、似た業種の人がたっくさん住んでるんですよ。だからそうだと思って、そこそこの物件を紹介しかけたんですね、けど、いえいえ、風呂とトイレがついている最低のアパートでいいですよ……て確かそんな話になった、記憶がありますねえ」
「それは、いつごろのことですか?」
「いやー、それは無理ですね。何年か前の話ってぐらいで。それに、この契約書と、写真の女《こ》が一緒かどうかは、全然分かりませんよ」
うーん、それも仕方ないかと植井は思いながら、
「……たとえば、こういった奇麗な女性が、ひそかに隠れ住もうと思ったら、この辺りは、いい場所なんでしょうか?」
「ああー、はいはい」
親父は、何かを察したように、
「そりゃもう、ぴったしの場所ですね。おそらく日本一でしょうね」
「日本一?」
「これはもう、掛け値なく、そういえますね。ともかく昼も夜も、人はわんさかといて、住んでるのか遊びに来てるのか分かりませんからね。とくに、劇団の関係者が多く住んでまして……お芝居をやってるような人たちは、売れない間ほど[#「ど」に傍点]貧乏でしてね、だから風呂なしのぼろ[#「ぼろ」に傍点]アパートから、すごい美人が出てくる、なんてのはザラにあるんですよ。それに元からいる住人も、そういうのには慣れっこになっちゃって、干渉しないんですね。だから干渉されたくない人にとっては、天国でしょうね。えーだからといって、つんつんした冷たい町ではないんですよ。いわゆる下町ですからね。とくに、こっから下北《しもきた》方向が、そういうのには向いてますね」
「下北、といいますと?」
「あ、正しくは、下北沢《しもきたざわ》です。この前の道は茶沢通りといいますけど、その茶沢の沢は、下北沢の沢なんですよ。それに……」
親父は眼鏡《めがね》をずらして、賃貸契約書を見ながら、
「このアパートは、太子堂の三丁目ですよね。だったら、下北沢の駅までは約一キロですね」
「あっ、そんなに近かったんですか」
植井は、下北沢も学生のころはコンパでよく飲みに行ったが、三軒茶屋とは私鉄の線が違うので、そういう位置関係になっているとは知らなかった。
「ですから、この鈴木さんも、遊びに行くんだったら、下北に行ってたでしょうね。三茶《さんちゃ》もそこそこの繁華街《スポット》ですが、今の下北人気には勝てませんから」
……ご存じ、竜介の自宅《マンション》があるのも、その下北沢である。世間は意外と狭い。
「ほかに、この写真の女性に関して、何か覚えているようなことはありませんか?」
「ほかにですか……」
「たとえばですね、ひとりではなく、連れと一緒に来ていたとか?」
「さあ、どうでしたかねえ……」
親父は腕組みをして、暫く首を傾げてから、
「あっ、ひとつだけ、その連れの話じゃなくって、思い出しました。彼女は、指輪をしてましたね」
「指輪ですか?」
「ええ、今きちんと思い出しました。その女《こ》は歳に似合わず、いい指輪をしてたんですよ。それでいて、すごい美人でしょう。だからモデルさんだと思って、つまり売れない役者さんの方ではない[#「ない」に傍点]と思って、だから、いい物件を紹介しかけたんですね」
植井は頷いてから、
「それは、どんな指輪でした?」
「えー確か、赤石《ルビー》とダイヤが交互に並んでいるような指輪でしたかね……それに、こんなこといっちゃ何ですが、自分らは、そういったところで、けっこうお客さんを値踏みするんですよ。だから本物かどうかは、見ればすぐに分かります」
親父は自信ありげにいった。
――白骨死体の指に嵌まっていた指輪は、ポリ袋ごしにだが、植井もじっくりと見た。
どうやら、不動産屋の親父の話は間違いなさそうだ。そして太子堂のアパートには、金城玲子本人が住んでいた可能性が大である。つまりその時点では、彼女は生きていたのだ。これは大威張りで係長に報告できるな……胸の録音機《テレコ》をさすりながら、植井はそう思った。
「……あ、なんか喋ってますよう」
生駒が眠たそうな声でいった。
林田が、巻き戻しのボタンを押す。
ビデオの目盛《カウンター》りは、すでに自分を超えていた。いかに時間短縮ビデオとはいえ、音が聞こえるのは、ここに置かれている機械《ビデオ》では四倍速が限度だったから、律義な林田を除いては、皆、仮眠室の畳に寝そべっている。岩船に至っては、枕を出してきて顎をのっけている。依藤も、体を起こしながら、
「じゃ、聞こうか――」
そんな面々を促していった。
画面では通常スピードでの再生が始まった。そして、長い長い沈黙のあとのマフジの第一声は、
『……生きてますね』
であった。
「うん? 何が生きてるの?」
――古田が呟く。
『おかしいですね、どうなってるんでしょうか』
「それは、こっちが聞きたい」
――野村が濁声《だみごえ》でいう。
『生きているとしか、思えないんですけど』
「ええ? こいつおかしいんじゃないか」
――依藤も怒り出した。
『横たわっている死体と、見えてくる姿とが、うまく重なり合わないんですよね……』
といったきり、マフジは、またもや黙りこくってしまった。
「えー、ひょっとしたら」
遠慮がちに林田がいう。
「あの検出された、ビタミンKというのは、幽体離脱をおこせるとかいうドラッグでしたよね。だからこう、ふたつに分かれちゃってるような、そういったのを霊視して見ているのかも?」
「いや、そんな、この女がいってることを、都合のいいように解釈してやる必要はないぞ」
「はい、もっともです」
林田は項垂《うなだ》れぎみにいった。
……が、今回のマフジの黙《だんま》りは短くて、すぐに喋り始めた。
『このテーブルで、誰かとお茶を飲んでおられたようですね。得川さんは、あの椅子に座られて』
と、マフジは壁側の椅子を指さし、
『何か……濃いい色のお茶ですね。紫がかった茶色のような色をした』
そしてマフジは、|飾り棚《キャビネット》の方に顔を向け、
『あそこに、小さな湯呑みがたくさん並んでますよね。その一番手前の、白い湯呑み……そんな感じのを使っていたようです』
「止めて」
――依藤がいう。
「あそこ、ちょっと変わったお茶があったろう?」
「あったあった」
古田は、資料に目を落としながら、
「得川さんは、|普※[#「さんずい+耳」、第3水準1-86-68]茶《プーアール》が、ご趣味だったようだね」
「あの、黴臭《かびくさ》いやつ?」
「そう、それも何十年ものというやつ、五十年ものまであったね、そういった高級品が、何種類か置かれてあった」
「いや、逆に、年数が経てば、色は浅くなっていくと思うよ。それに黴臭さも消えていくのね」
岩船が蘊蓄をかましていう。
「ええ、もちろん、日常飲むような、数年ものの普※[#「さんずい+耳」、第3水準1-86-68]茶もありましたよ」
「岩船さんさ、あの中国の湯呑みの収集品《コレクション》、調べてくれた?」
静止画面を指さして、依藤はいう。
「うん、全部見たよ。薄っぺらーい高級品があってこわかったんだけどさ。で得川さんの指紋か、もしくはお手伝いさんの指紋、それ以外には出てない。けど[#「けど」に傍点]……そういわれて見直してみると、その白い湯呑みは、数が三個しかないよね。それと同じやつは、炊事場の流しにも、水切り籠《かご》にも入ってなかった。それにさ……隙間《すきま》が空いてるじゃないか」
その種の物品は指紋採取の後、写真を頼りに、元どおりの場所に戻されてある。
「ふむ、あそこに二個置くと、納まりはよさそうだよな」
「うん、下手《へた》に洗ったりせず、持って帰って、粉々にしてから捨てるね。自分だったら絶対に」
「……ところで、急須《きゅうす》の方は?」
「それは下の段に、これまた、収集品《コレクション》があるのね。でも、その日に使ったはずのやつは、やはり、外にはどこにもなかったねえ」
「じゃ、なくなってる急須がないか、お手伝いさんに確認してもらおう」
「……その女性[#「女性」に傍点]のお手伝いさんに、区別がつけばいいですけどね。興味のない人にとっては、見分けるのは意外と難しいかも」
生駒は、竜介から仕入れた〈X領域〉を思い出しながらいう。
「そうそう」
――古田がいう。
「ビタミンKってね、水には溶けやすいんだけど、アルコールには溶けづらいのね。味はそれほどしないらしいけど……とはいってもね。だから黴臭い普※[#「さんずい+耳」、第3水準1-86-68]茶に混ぜたというのは、あながち……だよね」
面々が首肯《うなず》きあっていると、
「けど[#「けど」に傍点]、さっきも誰かいってたが、この女のいってることに、よってたかって話を合わせてやる必要が、どこにあんの?」
野村が、凄みを利《き》かせた声でいった。
「もっともです」
暫くしてから、その当人がいう。
「マフジがいってんのは、ここで茶を飲んだ。要するにそれだけだ。茶を飲むには、湯呑みが要《い》る。で横を見たら、たくさん並んでるんだから、その一番手前のを指さした――て考えてみると、どうってことはない。霊視というのは、えてしてそんなものかもしれない。先入観を捨てて、冷静に見よう。では林田くん、先に進めて」
……マフジは、得川宗純が、左手の親指と人差し指だけを使って湯呑みを持っとか、それを日本酒のように、くいっとあおるようにして飲むとか、そんな細々としたことを暫く語ってから、ふ、と何かに気づいたように、右の方向へと歩き出した。
『――ここです。ここに』
マフジは床を指さしながら、
『何ていったらいいんでしょう、こう、カチャンと開いて、ローマ字のAのような形になる梯子《はしご》……』
「そんなのあるの?」
「あるよ、アルミの脚立《きゃたつ》が、朱色の衝立《ついたて》の向こうにあった」
依藤と岩船が小声で問答する。
『……それを、ここに立てまして』
マフジは、天井の方を見上げていきながら、
『太い梁《はり》が通ってますよね。そこに、蛍光灯の傘がついてますけど……そのあたりにあった何かを、手を伸ばしてとったようですね』
「そんなとこ、調べてくれた?」
「うーん、蜘蛛男《スパイダーマン》じゃあるまいし」
岩船は与太《ジョーク》で返してから、
「ちょっと止めてね。そのアルミの脚立だけど、ここは、その剥《む》き出しになっている天井の梁に、蛍光灯や電球などがついてるのね。で高くて届かないもんだから、必需品なのよ。だから出しやすいところに、置いてあるのね。その脚立の指紋も、いちおうとってあるよ……けど、用心深い犯人のようだから、もし触っていたとしても、手袋ごしだろうね」
「ふーん、じゃ、先に進めて」
……マフジは、
『何をとったのかしら』
思案げに暫くは見上げていたが、それは霊視できなかったのか、諦《あきら》めたような顔をして、次は、左に少し戻って須弥壇の正面に来て立つと、
『さっきから、気になっていたんですけれど、この手がたくさん出ている仏《ほとけ》さまは、場所がちがっているようで――』
と、その右横の床あたりを指さしながら、
『こちらに、置かれてあったようなんですね』
「あん、何いってんだ?」
野村の濁声《だみごえ》がしたので、林田が一時停止ボタンを押す。
「何のことだ……」
依藤も、眉根を寄せて訝《いぶか》しげにいってから、
「岩船さん、こういうのって、外《はず》せるの?」
「それは、簡単に外せるよ。単にのっけてるだけだから」
「岩船さんは、動かしてみた?」
「これは弄《いじ》ってないよう。それに、下の須弥壇は指紋とってるけど、仏像の方はやってない。あの指紋採取用の粉をふいたら、木地《きじ》に入り込んじゃって、仏像が銀光りしちゃうからね。これは水洗いできないしー」
「ふむ、じゃ、先に進めて」
……マフジは、木のテーブルの方に戻ると、その壁側へと歩いて行き、床に貼られてある人形《ひとがた》のテープの前で立ち止まって、両手を合わせ、
『苦しかったんでしょうね。さぞかし、無念だったことでしょうね……』
そんなことを呟きながら、暫し祈りを捧げてから、そしてカメラの方に顔を向けると、
『得川さんは、ここで息を引き取られました。もちろん、病気や自殺などではありません。彼を殺した、極悪非道の犯人がいるのです。その得川さんを殺した犯人は――』
その犯人は?
一同が思わず画面に身を乗り出させると、――そこでテープは終わっていた。
「な、なんだと!」
「嘗《な》めやがってー!」
「し、信じられなーい!」
仮眠室に、畳を叩く音と、怒号が乱れ飛ぶ。
岩船はテレビに枕を投げつけようとしているし、林田も怒りながら、続きが入ってないかと、早廻しのボタンを乱打する。
「……あーあ」
地獄の底からのような依藤の生欠伸《なまあくび》に続いて、古田が疲れきった声でいう。
「もう完全に、自分らは手玉にとられてるよね。これ作ってるのは玄人《プロ》なんだからさ。よりさんもいってたように、リハーサル済みで、きっと台本か何かあるんだよ」
「ああ、俺もそんな気がする。だってこのマフジは、殺人の具体的な様子は、何ひとつとして語ってないじゃないか。――何かいってたな? 女だから霊能力者[#「女だから霊能力者」に傍点]だって!? どこが霊視だ!」
依藤は、生駒に噛みついていう。
「そっ、そんなこといわれたって」
生駒は横を向いて、嘯《うそぶ》いている。
「けどねよりさん、あの仏像の場所がちがうって話、あれは気になるよう」
「ふむ、岩船さんがそうおっしゃるのなら、これから行って確かめるしかないな」
「けどねよりさん、飯《めし》は食ってからにしようね。いまさら急《せ》いたところでさ……」
もう夜の、十分にそういった時間になっていた。
依藤らが、二台の車に分乗して林鳥禅院に着くと、南署の課員が二名、出迎えてくれた。侵入されて以降、防犯課に頼んで、二十四時間の警備についてもらっているのだ。この人手が足らないときに、何てお騒がせな話だろうかと、依藤は思う。
本堂の勝手口の鍵を、その防犯課の課員から借りうけ、手袋と足袋を嵌めて、一同は中に入った。
本堂の中は、文字通りの、真っ暗闇である。
「スイッチスイッチ……」
そういうのは生駒の役目だ。
……本堂に明かりが灯った。
照明には凝っていたらしく、蛍光灯と通常の電球以外にも、タングステンのスポットライトが要所を照らしている。それらのスイッチを生駒が全部押したと見え、煌々《こうこう》とした明るさだ。
――いち早く須弥壇の前に行った岩船が、腕組みをして少し考えてから、
「これは、自分ひとりでやるね。この手の一本でもポキッとやっちゃうと、南署が破産するからさ」
そう軽口を叩きながら、仏像の台座の部分に両の手の平《ひら》をあてがった。
台座は、いわゆる蓮華座《れんげざ》であるが、着座の弁財天の底部を包むぐらいに、その蓮《はす》の華《はな》(花)が大仰《おおぎょう》に広がっている。つまり岩船は、そこを持とうとしているのだ。
「うん、軽い軽い。これだったら大丈夫だ」
そして本格的に持ち上げておいてから、
「えー、どこに置こうかねえ……」
と岩船は辺りをうろうろ見渡す。
「あのマフジがいってた、この床の上でいいんじゃないですか」
生駒が指示を出す。
「……そうだね、テーブルの上はそっとしときたいしね」
岩船は、抱え持った仏像をそのまま右横にずらしていき、腰を落としてしゃがみながら、床の上に丁寧に置いた。
そして一同、須弥壇の方を見やる――
「あっ、やっぱりねえ」
――岩船が代表していった。
他の面々は、仏像がどけられた瞬間に気づいていたのだが、発見の栄誉を岩船《かれ》に譲った格好だ。
須弥壇の天板のほぼ中央に、指一本が入るぐらいの穴が開いていて、その穴を中心にして、天板に四角い切れ目が――つまり四角い板が、嵌まっていた。それらを、仏像の広がった蓮華座が隠していたわけである。
そして面々が、須弥壇を取り囲むようにして見守る中、岩船が、人差し指を慎重に穴に差し入れて、四角い板を持ち上げた。
その下に隠されてあったのは――
それは全員が半ば想像していたものであったが、やはりそれなりに驚いて、
「ありゃー」
「んなとこに隠しやがって」
「弁財[#「財」に傍点]天の下ですから、まさにですよね」
――耐火金庫の扉がそこにあった。
「運よく、表に防犯課が来てるけど、これピッキングで開けられるかな?」
「いや、よりさん、把手《とって》が横向いちゃってるじゃないか。たぶん、開いたままだよ……」
そして岩船が、これも慎重に(手袋はしているとはいえ、ついているかもしれない指紋を潰さないように)、把手の先端を指一本でひっかけて、そうっと持ち上げる。
「……開いてる開いてる」
岩船は、ことのほか嬉しそうである。
そして金庫|蓋《ぶた》の底に左手を差し入れて、ぐれーんしょ、と声に出していいながら、須弥壇の板にひっかかって止まるところまで、その扉を開けた。
すると生駒が、すかさず小型電灯《ペンライト》を岩船に差し出す。――こういったところには目端《めはし》が利く生駒だが、のみならず、全員が宝物探しの気分だ。
岩船がその小型電灯《ペンライト》で中を照らしながら、
「ふーん、奥はけっこう深い金庫だよ。底の方に、紙切れ[#「紙切れ」に傍点]は入ってるけどね……」
そして手を突っ込んで、取り出し始めた。
「……まず、これは何かの権利書のようだね」
一瞥《いちべつ》してから、依藤に手渡す。
「あー、これは品川のマンションのやつだ」
「……次は、えー数字だけが一杯書いてあるけど」
同様に、依藤に手渡す。
「うーん何だろうな。電話番号……ぽくはないな。お金の覚書《おぼえがき》かなあ」
「……これは何かな、株券関係だねえ、配当がどうとか記されてある。それと、熨斗《のし》袋がけっこうあるね、中身は抜かれてるようだけど」
そういった紙類は次々と出てくるが、紙幣[#「紙幣」に傍点](宝物)が出てきそうな雰囲気はない。
――生駒は、最初の段階で(紙切れは入ってるけどね、の岩船の言葉で)すでに見切ったらしく、数歩離れた場所に移動して、天井の方を見やっている。そして須弥壇との位置関係を、目で線を引いて、何度か確かめ直してから、
「たっ、たいへんだー!」
――ことさら甲高い声でいった。
何事かと、一同が振り向く。
「――係長。これは真面《まじ》で大変ですよ。マフジが指さしてたのは、あの蛍光灯ですよね」
そちらを、一同が見上げる。
「あそこにですね、もしカメラのレンズを据えたなら、その金庫をばっちり狙えますよ」
一同も顔を何度か動かして、そのことを目線で確かめる。
「最近の盗撮《とうさつ》レンズは、やったらと小さいんだ」
憎しみを込めた声で、野村がいった。
「けど、レンズは小さくても、本体がかさばるだろう?」
「いや、そうでもないよよりさん」
――古田がいう。
「ここを盗み撮りするつもりだったら、テープ録画じゃ時間が限られるから、電波にして飛ばすはずさ。そうすると、その録画の部分が要《い》らなくなるのね。つまり駆動部はいっさい必要なく、さらに電池なども要らない……電気はきてるからね。だから本体は、小さくなっちゃうのよ。市販のビデオカメラなんて想像しちゃ駄目よ。要するに、電子部品だけでいいんだからさ。それを平らに並べ直して……蛍光灯の傘にのっけると影が出ちゃうから、梁《はり》の上にのせて、黒いカバーなどで覆っちゃえば、下からはまず気づかれないだろうね」
「その電波って、どのくらい飛ぶの?」
「それは幾らだって飛ばせるけど、他所《よそ》ん家《ち》のテレビに映っちゃうとマズいから、逆に、弱い方がいいよね。この近所に、車で来ればいいんだ。電波は、普通のテレビ受像機でも受けられて、放送のない空きチャンネルを使ったりもできるのね。それを録画すればいいわけさ」
「ふむ……」
いとも簡単そうに古田は説明するが、ずぶの素人《しろうと》にはちょっと難しいだろうなと、依藤は思う。
「ひょっとして、得川さんは左利きなんですか?」
――林田が尋ねる。
「うん、確かそうだった思う」
古田が答えた。
「でしたら、あの蛍光灯の位置からですと、その得川さんの手に隠されることなく、ダイヤルの目盛りが見えますよね」
一同、みずからの左手で、ダイヤルを廻すときの手の格好をしながら、
「なるほどね」
「まさにまさに」
――納得して口々にいう。
「岩船さん、その紙屑《かみくず》はもうほっといて、この上をちょっと見てくれる?」
「じゃ、アルミの脚立を――」
生駒が、手廻しよく衝立の方に歩いていると、
「そっ、それはやめてー」
岩船が呼び止めていった。
「犯人が使ったんだとすると、踏み台のところに、靴下の繊維などが万が一、ついてる可能性があるだろう。それをちゃんと調べてからでないと。それに、もう上を見るまでもなく、きっと埃《ほこり》が部分的に消えてるはずで、生駒くんのお説が正しい――」
「そ、そんなー」
「いや、あのマフジがいってたのは、仏像が動いたこと、脚立が立っていたこと、それにお茶を飲むときの手の格好を、細々と説明してたじゃないか。左手で持つといってたと思うよ。つまり三点セットで、教えてくれてたわけさ。もうどんなぼんくら[#「ぼんくら」に傍点]にだって分かるようにってね。だからその通り[#「その通り」に傍点]なの」
「くっっそー」
依藤は、腹立たしさを岩船《だれ》にぶつけられるわけでもなく、恨《うら》めしそうにいってから、
「……でさ、得川さんの稼ぎって、どの程度?」
古田に尋ねる。
「えーテレビの出演料《ギャラ》や、講演代は、芸能事務所が間に入ってるから、これは|明らか《オープン》になっていて、税法処理がきちんとされていた。で品川区《ベイエリア》に買ったマンションは、分割払《ローン》で、そちらの経費で落としていたわけね。けど、この寺の方は、前にもいったように、事務所は管轄外《ノータッチ》だからさ……で、客から、事務所の方に問い合わせがあって、もし料金を聞かれたような場合には、最低でも三十万はお包みしないと失礼にあたりますよ。そういうようにと、得川さんから、マネージャーは指示をうけていたようだ。だから、それが霊視一回につきの、彼の相場ね」
「とすると、一日に客がひとりだったとしても、かけること三十か。……で、テレビには、どのくらい前から出てるの?」
「有名になったのは、ここ二年だと思えばいい」
「うわー、二年でも、すごい貯《た》まってるよな」
「ざっと二おくえーん……」
生駒が暗算していう。
「だから裏金のことは、気にはなってたんだけど、自分らは税務署じゃないからさ。ちなみに表金《おもてがね》の、事務所からの振り込みの方は、その預金通帳などは、自宅に置いてあって、不審な点はとくになかった」
「じゃ、貸金庫とかは?」
「今のところ、見つかってない」
「けどさ、こんな金庫だったら、それこそマルサに踏み込まれたら、一発で見破られちゃうよ」
「いや、国税局の査察が入るんだったら、もうちょっと太らせてからさ」
「な……なるほど」
「いずれにしても、物|盗《と》り、金銭目的の殺しの線が、俄然《がぜん》浮上してきたよね、よりさん」
「うーん――」
依藤は今ひとつ釈然とはしない様子で、腕組みをして唸っている。――暫しの熟考に入ったようだ。
「たびたび申し訳ないんですが、またビタミンKの話で……仮に、強い毒薬を使って、一発で殺してしまったとすると、もし万が一、金庫が開かなかった場合、それで計画は頓挫《とんざ》しちゃいますよね。だから二種類のドラッグを、使い分けたのではと?」
「うん、それは鋭い」
――古田が答えていう。
「盗み撮りで、ダイヤルの番号は分かったにせよ、一抹《いちまつ》の不安は、やはり残っただろうからね」
「けどですね、こんなところに盗撮用のカメラを据えつけられるぐらいの犯人なんだから、得川さんがいないときに来て、金庫を開けて、勝手に盗《と》って行けばよかったのに……て考え方はどうです?」
「生駒くん、それは間抜けよ」
「あれ?」
「だってさ、この金庫は、ダイヤルと鍵と、両方が揃わないと開かないんだからさ。その鍵は、ふつう誰が持ってるの?」
「あっ、へへへ……」
生駒は笑ってごまかす。金庫の扉など、真剣には見ていなかったのだ。
「それでいて[#「それでいて」に傍点]」
野村が、重々しい声でいう。
「他人に濡れ衣を着せるようなタレ込みの電話をかけたんだとすると、この犯人は、もう金輪際[#「金輪際」に傍点]、徹底的[#「徹底的」に傍点]に、悪知恵がはたらく悪党ね」
――最大限、強調していった。
「うん、そして麻薬《やく》にも詳しく、盗撮とかにも詳しくて、なおかつ得川さんのことをよーく知っていて、一緒にお茶を飲んだり、酒盛りできるぐらいの親しい間柄、それが犯人像……だよね、よりさん?」
「ふむ」
依藤は熟考から覚めたらしく、口を開いていう。
「――大きな疑問点がある。まずひとつ、殺人の動機は、怨恨《えんこん》なり何なり、複雑な事情が裏にあったのだが、それを単純な……単純とはいえないが、物盗りの仕業《しわざ》だと思わせるための芝居。マフジのビデオがそうで、いわゆるやらせ[#「やらせ」に傍点]ね。そして次には、あのビデオが芝居でなかった場合、マフジは、そんなことをなぜ警察《われわれ》に教えたの? ぼんくら[#「ぼんくら」に傍点]にだって分かるぐらいの懇切丁寧さで。――社会正義の為か? それに、マフジを真浦会の一員だとすると、真浦会にとって何かプラスになるの? いや、それどころか、今度こそ真浦会の本部に強制捜査をかけて、南署《われわれ》は、草の根を分けてでもマフジを捜し出し、絶対にお縄にするよ。こんなこと知ってんのは、犯人以外にはありえないんだから。霊視だなんて、端《はな》から無視だしさ。それでもマフジは、かまわないの?」
「それ、かまわないんですよ」
「あーん、何だ生駒?」
ふつう考えられない生駒からの予期せぬ反駁《はんばく》に、依藤は戸惑っていう。
「いや、これはですね、自分と野村《のむ》さんとで、あのテープをもらいに、今日、弁護士に会って来ましたでしょう。そのときの感触なんですが。やつらが法律すれすれで、この本堂に撮影しに入った、そのことすらも、警察《われわれ》に騒いで欲しいんですよ。どうぞどうぞ問題にして下さいって、そんな態度が見え見えだったんですね」
「俺も、右に同じく」
――野村までもがいう。
「ええ? 騒いで欲しい[#「騒いで欲しい」に傍点]とは?」
「これは自分の考えですが、警察《われわれ》が騒げば騒ぐほど、やつらが持っている親《マスター》テープの、商品価値が上がるからじゃないでしょうかね」
「ええー、だって、その収録テープは、そもそも放映できない代物《しろもん》じゃないか!」
「あ……よりさん」
古田が気づいていう。
「放映禁止の仮[#「仮」に傍点]処分命令はとれるけど、それはあくまでも仮[#「仮」に傍点]であって、未来|永劫《えいごう》――だなんてのは無理だよ」
「何だって? じゃ、それほどの時点で放映が可能になる?」
「犯人が逮捕されるまでは、これは絶対にお茶の間のテレビには出せない。けど、逮捕して立件しちゃえば……おそらく解除されるだろうね」
「裁判中は?」
「そこで問題になってくるのは、犯人の人権と、そして司法の判断を歪《ゆが》めるかどうかって点だろうけど、そのへんに、あの収録テープは抵触する?」
「……うーん」
依藤は思い出しながら、唸っている。
「あの中では、誰かが何かを盗《と》った、そんなことはひと言もいってないのよ。この隠し金庫のことも、盗撮に関しても、マフジは話してないんだ。ましてや、殺人の様子などはいっさい語ってない。要するに、犯罪については何も喋ってないんだ。仏像の位置がちがう。脚立が立ってた。そんな間接的な話、しかも霊視を、裁判所が相手にする? だから司法の判断は歪みようがない。それに犯人については語ってないんだから、人権も関係ない。あのテープの続きだって、しかしてその犯人は……それは警察《みなさん》に任せる、といってるのかもしれない」
「そうそう、だから弁護士が最初からついてたんですよ。どの時点で放映が可能になるか、何を喋ったらまずいか、ぜーんぶ計算ずくなんですよ」
「じゃ、何か、南署《われわれ》が犯人を逮捕すれば、自動的に放映されてしまうってことか?」
「うん、それが結論だよね。そして、マフジという霊能力者の誕生さ。それも半端じゃないよ。あの希代《きたい》の霊能力者・得川宗純さんの屍《しかばね》を拾って、彼の無念さを晴らすべく、その殺人事件の謎を解いた、偉大なる霊能力者としてね――」
「それにですね、あのビデオで、顔にモザイクがなかったのは、彼女だけですからね。だから、どうぞ自分を縄《パク》って下さいといってるようなもんです。その手にまんまとのって、間違ってたら、さらに敵に塩を百万トンぐらい贈っちゃいますよう」
「……うううー」
依藤が、青筋を立てて怒り始めた。
「よりさん、これは裏に、よっぽどの知恵者《ちえしゃ》がついてるんだよ」
「……その知恵者と、さっきの、根限《こんかぎ》り悪知恵のはたらく悪党とは、同じ知恵でも、ちがうような感じがしてきたな」
野村が、声の調子を落としていった。真面《まじ》なことを喋ろうとしている証拠である。
「うん、自分もそんな感じするね。こっちの知恵者は、何か社会全体を動かそうと思ってるぐらいのやつで、あっちのそれは、所詮小悪党だよね。だからマフジは、とりあえずのところ、放っておいた方がいいと思うな。……よりさん、自分らが騒ぐと、やつらの思う壷《つぼ》よ」
「なんだかもう、孫悟空《そんごくう》の気分だね、お釈迦さまの手の平の上」
岩船が、止《とど》めを刺していった。
「……生駒。あのビデオテープを、先生のところに持って行って、真贋《しんがん》を確かめてもらってくれる」
青筋を立てていても埒《らち》は明かず、依藤は、最善の手を思いついていった。
「それはグッドアイデアですね」
――生駒もいう。
「霊視が嘘か真《まこと》か、それによって、話が百八十度ちがっちゃいますもんね。嘘だったら、マフジもしくは真浦会が犯人。真実《ほんと》だったら、犯人は別……短絡ですけど。それにあの先生だったら、一発で見破ってくれるはずでしょうからね」
……さあ、それはどうだろうか?
依藤も生駒も、少々かいかぶりがすぎるようで、竜介は万能の神ではない。
「…十三、十四、十五……熨斗《のし》袋は、全部で二十ほどあるな。名前を書いてんのも一部あるようだけど、まさか犯人じゃないだろうし。これで、何日分ぐらいなのかな……得川さんが、中を出さずに突っ込んでおいたやつを、犯人が抜いてったんだろうな。これだけでも、ざっと六百万だよね。うわあ……」
そんな独り言をいいながら、岩船が金庫の底を漁《あさ》っていて、
「あれ? ありゃりゃあ……何か変なものが、隅っこから一個出てきたぞう。出てきたぞ。出てきたといってるだろ!――よりさん、てば[#「てば」に傍点]」
宝物が入っていない金庫などには一同興味はなく、|飾り棚《キャビネット》の前で中国湯呑みを観《み》ていた依藤に、声を飛ばした。
一同が寄って行くと、すでに|透明ポリ袋《ジップロック》に入れられてあるそれを、岩船は依藤に手渡しながら、
「何だと思う?」
「こっ、これは、マラさまじゃないの!」
――依藤は驚いていった。
一同も目を真ん丸にして、驚きの表情は隠せない。
「だから大声で呼んだのよ。あの真浦会の修行道場に立っていた石の像と、雰囲気は似てるよね。とはいっても、こんなのに形の差はないんだろうけど」
「マラさまとはいっても、これはアマツマラという、日本の古来の、歴《れっき》とした神さまだそうですよ。なんでも、天《あま》の岩戸《いわやと》の場面に出てくるような」
受け売りで生駒はいう。
「そんなことより、この中に、何か入ってるじゃないか?」
それは、小指ほどの大きさの黒いマラさまであるが、わずかに透けて見え、その三分の一ほどに、液体らしきものが入っている。
「そうなのよ。それに、その先っぽの部分……何ていうのかな?」
「――亀頭」
野村が重厚な声で答える。
「そうそう、その部分が、どうやらキャップになっているらしいのね。外してはないんだけどさ」
そのポリ袋に入った小さな黒い男根《マラさま》を明かりに透かしながら依藤が傾けると、中のドロッとした怪しげな液体が、流れ動いていくのが分かる。
「……何だろうか?」
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第二章 「不滅の心滴《ティグレ》」
――夜、マサトが自分の部屋で独《ひと》りでいたときに、奇妙な感覚におそわれた。
そこは、母屋《おもや》のほぼ隅っこにある八畳ほどの板《いた》の間《ま》で、扉の向こうは、その母屋と離《はな》れとを繋《つな》いでいる渡り廊下だ。中庭には面していない。北向きと西向きの窓があって……ここは、使用人《おてつだいさん》の部屋でございまするよ。引っ越してきた当初に竜蔵《じい》からはそういわれたのだが、なぜか気にいって、自分の部屋として使っている。
マサトは、その北向きの窓から少しずらして置かれた勉強机に座って、大判の本をぺらぺら捲《めく》っていた。それは写真が主体の『鎌倉』の旅行案内本《ガイドブック》である。次の週末、歴史部は鎌倉へ行く、そうと決まっていたので、その下準備のためでもあった。
マサトは鎌倉にはまだ一度も行ったことがない。関西人の土門くんも、毎度《いつも》のように、自分は中学校の修学旅行に行かれへんかったから行ってへん、といっていた。新入部員の水野弥生も来るそうである。そして竜蔵からは、それは楽しみでございまするなあ……と意外にも、あっさり許しが出たので、マサトとしても喜ばしい気分であった。
十一月三日の文化祭の後は、放課後には、マサトは歴史部の部室にはほとんど顔を出せていない。
氏子《うじこ》たちからの頼み事が、ここにきて俄然増えてきたのがその理由である。マサトのお披露目《ひろめ》の宴があったのは十月の初旬だから、ひと月遅れの多忙さだ。それはおそらく、先代の天目マユミが事故で急死し、そして十三年もの間アマノメの神が不在だったことによる反動だろう。本当に、アマノメの神はお戻りになったのか? 新しいアマノメさまには、どれほどの力がおありなのか? 半信半疑の氏子たちに、そのことが知れ渡るのに約一ヵ月かかり、そして先代と変わらぬと見るや、溜まりに溜まった十三年分の頼み事を、いっきに持ち出してきたからである。ですから、ここ暫《しばら》くはご辛抱を、そう竜蔵からも申し渡されている。
だが、客人と相対するのは、マサトとしてはとくにどうということではない。見えた絵をその通りに竜蔵に語ればいいだけだからだ。すると竜蔵が適当に斟酌《しんしゃく》をし、その客人に伝える。ときには、このように些細な頼み事でアマノメの御[#「御」に傍点]神さまを煩《わずら》わすではなーい! とマサトもびっくりするぐらいの大声で、客人を叱《しか》りとばす。それは審神者《さにわ》である竜蔵の、面目躍如といったところか。
ともあれ、鎌倉|詣《もう》での許しが出たのは、アマノメの神にも休暇は必要、そんな竜蔵のはからいであったのかもしれない。
マサトは、その旅行案内本《ガイドブック》に見開きで載っている鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の大銀杏《おおいちょう》の写真に見惚《みと》れていた。時期的にいっても、この黄金《こがね》色に染まった葉がちょうど見られるはずだからだ。自分にも、こんなに上手《うま》く写真が撮れるだろうか……そんなことを思いながら。
と、そのときであった。
写真の大銀杏の葉が、さわ、と風にそよいだかのように思えて、次の瞬間には別の絵が見えてきた。
――何だろう?
その絵の方にマサトは意識を集中した。
それはどこかの、家の中のようであった。
誰かが、階段を降りようとしている。
外国の映画にでも出てきそうな、ゆったりとした螺旋《らせん》を描いている、豪華な階段だ。
吹き抜けの天井から長々と吊り下がった巨大なシャンデリアのガラスが、黄金色にきらきらと輝いている。
――これだ! これが大銀杏の葉と重なったんだ。そうマサトは思う。
そして誰かが、その階段を降りようとしていた。
だがどうしたことか、その人の絵が見えてこない。
――おかしい?
いくら意識を集中させても、その人の姿が見えてこないのだ。
――あ!
マサトは気づいた。その人の目で、絵を見ていることに。
絵が不自然に揺れ動くのは、その誰かが、階段を一段ずつ降りていっているせいだ。
その誰かの息づかいまでもが、マサトには感じられる。
今までにこういった感覚は、一度も味わったことがない。好奇の気持ちも少し手伝ってか、マサトはその感覚に心をゆだねていく。
……階段の優美な手摺《てす》りごしに、下の広間《フロア》が見えていた。乳白色をした床は大理石のように艶やかで、十字の星のような模様が、ところどころに薄紅色で入っている。細長い葉っぱがふわーと広がった観葉植物の大鉢がある。橙《オレンジ》色の傘がついた足付電灯《フロアースタンド》がふたつ立っていて、真っ赤な革張りの応接セットが置かれている。下の広間《フロア》には、人もちらほらといるようだ。
その誰かが、階段の中ほどで立ち止まった。
そしてシャンデリアの方に再び目線を投じ、そのきらきらと黄金色に輝くガラス細工の塊《かたまり》を、目を凝《こ》らしてじーと見つめている。
――しまった!
勘《かん》づかれた?
マサトが、その誰かの目を借りて見ていることを、その人に気づかれたかもしれない。
と思うと同時に、ふふーん、とせせら笑っているような感情が、マサトに伝わってきた。
――間違いない。勘づかれた。そのことがマサトにもはっきりと分かった。
その誰かは、再び階段を降り始めた。
ゆっくりと……一歩ずつ。
すると、マサトがはっきり分かったということを、その誰かにも悟《さと》られた。そうマサトには感じられた。
その人は階段を降りていく。
一歩ずつ……ゆっくりと。
するとまたしても、マサトがそう感じたことを、その誰かに見透か[#「見透か」に傍点]された。
下への螺旋階段は、なおも続いている。
その誰かに見透かされたとマサトが感じたことが、またもや、その誰かに見抜か[#「見抜か」に傍点]れた。そのようにマサトには感じられる。
その階段は、闇の奥底へと続いているかのようで、マサトに感じられたことを、際限なく、その誰かに見破ら[#「見破ら」に傍点]れていく――
「マサトさま、お風呂のご用意ができておりますけれど」
扉をノックする音に続いて、西園寺希美佳の声が聞こえ、――マサトは我に返った。
「……真浦さま」
「真浦さま」
広間《フロア》や廊下にいた女たちが跪《ひざまず》いて、次々と声をかけてくる。
だが彼女は、そんな者たちなどは眼中にないかのように、シルクの高級夜着《ナイトガウン》の裾《すそ》をたなびかせながら、足早に、そして威厳に満ちた態度で歩いていく。
ここは山手《やまのて》線の五反田《ごたんだ》駅からほど近いところにある(真浦会が本部として使っている)真新しい三階建の洋館だ。都心の一等地であるにも拘《かか》わらず、大木と塀で囲われていて、外部からは窓の明かりすらも見えない。
その一室の扉を開けて入ると、そこのソファで寛《くつろ》いでいた婦人に、
「今度こそ、会えそうよ」
――確信に満ちた声で真浦はいった。
「会えるって、誰に?」
「もちろん、アマノメの子[#「子」に傍点]に――」
真浦は、刺々《とげとげ》しい口調でいう。
「でも、今、あなたが外に出るのは、危ないんじゃないの?」
心配そうな顔でそういった婦人は、五十歳を少しすぎてはいるが、凜《りん》とした気品がただよう、若かりしころはさぞかし(今もそこそこに)美人であったろうと思える女性である。
「何いってるのよ。このわたしが、誰だか分かるはずがないでしょう。そのために、わざわざ髪を切ったのだから――」
そういう彼女ではあるが、今は小刻みにウエーブのかかった長い髪を、肩より下になびかせている。それはどうやら、よくできた|付け毛《ヘアーピース》のようだ。
「それに、素っぴんのように見せるメイクっていうのも、それなりに大変だったのよ。面皰《ニキビ》あととか、わざとに作ったりしてね。そして米軍のジャンパーを着て、ジーンズを穿《は》いて、そんな格好をわたしが人前でしたことある?」
その彼女の変身ぶりは、話し相手の婦人から見ても、他人かと見紛《みまご》うほどであったのは、実際その通りであった。
――桑名《くわな》の政臣《まさおみ》の想像が当たっていて、真柴、すなわち、真浦であったようだ。そして五十すぎの凜とした婦人は、いうまでもなく、大炊御門《おおいみかど》恭子《きょうこ》その人である。そして真浦は、その娘……といったことに、とりあえずのところしておこう。
「だけど、会ってどうするの? 以前にも、何度も聞いたけど……」
遠慮がちに、恭子はいう。
「それは、会ってから決めるの。――何度もいったでしょう」
真浦はきつい口調でいい、
「どんな子なのか、まず見てからね。ひねりつぶすかどうかは、それから考えるわ――」
真浦は、恭子がはらはらするようなことを平気でいってのける。
「それにママの恨みを晴らす、絶好のチャンスじゃない」
……天目マユミや桑名を恨んでいる、そのようなことを恭子がいった覚えはないのだが。
「絶対に許さないわ。女をなんだと思ってるのよ」
……そのブリーダーの件に関しては、少し喋ったことは、喋った。
だが恭子としては、彼女がこれほどまでに性格のきつい女性に育とうとは、思ってもみなかったことである。
出奔《しゅっぽん》して一、二年は、みじめな生活も少々したが、桑名が自分のことを探していないことが分かると、大炊御門の実家から相応の援助が受けられるようになり、ロンドンに渡ってからも何不自由のない生活を、娘にはさせてきたはずだからだ。そして十五年ほど前に、日本の教育を受けさせようと、東京に戻って来た。今にして思うと、それが間違いであったかと恭子は後悔する。
やはり今なお、大炊御門の実家や親戚には、大っぴらには訪ねて行ける身分ではないからだ。そんな雰囲気を、娘が敏感に感じとったのかもしれない。
恭子としては(もうこれ以上は)彼女が大それたことをしでかさぬよう、ただただ祈るのみである。
「――あそこで会えるわ」
真浦は、確信に満ちた声でいった。
[#改ページ]
「残念、これは分からないな」
……あっさりという。
「そ、そんなー、先生だったら分かるはずだからと、白黒を聞いてこーい、ていうのが、依藤の至上命令なんですよう」
……狼狽《うろた》えていう。
「僕にだって、分からないものは分からないさ」
……嘯《うそぶ》いていう。
「あらー、どうしよう……」
生駒は頭を抱えてしまった。
例のビデオテープは、マフジの長い長い沈黙の部分を割愛《カット》し、二十分ほどに編集し直したものを生駒が携え、わざわざT大学の『情報科分室』まで来て、その映像を見てもらったのだが……やはり、竜介は万能の神ではないのであった。
「まだしも、人と相対しての末那識《まなしき》系の霊視だったら、ビデオ映像でも、ある程度は判定できるんだけど、これはそうじゃなくって、阿頼耶識《あらやしき》系の霊視だろう。つまりインターネットみたいなものね。それに今さら話題にするのも何だけど、あの得川さんの場合も、テレビ番組での霊視から判断し、九割・黒だと踏んでいて、そして直《じか》に自分を霊視してもらって、十割・黒だと確信できたから、あのようなことをやったわけね。……なので、このマフジなる女性を、一度ここに連れて来ていただいて、僕を霊視してくれたら、一発[#「一発」に傍点]で答えを出してあげる」
最後だけ、自信に満ちた声で竜介はいう。
「いや、それができるんだったら、苦労はしませんよ。そのマフジを連れ出すには、あの真浦会の本部に、一度突入しなきゃなりません。それも管轄《かんかつ》がちがうから、大事《おおごと》になるんですね。その突入する、しないを決めるのに、このビデオの白黒の判定が必要なんですよ……後先《あとさき》が逆なんですよ」
「だったら、身動きとれないよねえ」
他人事《ひとごと》のように竜介はいってから、
「話は変わるけど、仏像が載っていた須弥壇《しゅみだん》の下あたり、もうほとんど色は消えてるけど、うっすらと三《み》つ葉葵《ばあおい》が入ってなかった?」
「あ、それはですね、南署《うち》の鑑識の岩船という、この手のことにはちょっと煩《うるさ》い人間が見つけまして、なんと、先生の妹さんが行っておられる私立M高校の真北に、林鳥禅院が建ってるそうなんですよ。でこのお寺には、お墓や檀家《だんか》がないらしいんですね。そしてM高校は松平さんだから、その個人的な……何ていうんでしたっけ?」
「……祈祷寺《きとうでら》ね。うん、それはありうるかもね。かなりの仏像だったし、それに弁才天というのは、そういったのによく用いられたからね。……だから[#「だから」に傍点]、得川さんなのか。芸名も、あながち出鱈目《でたらめ》じゃなかったんだね」
故人を偲《しの》ぶかのように、竜介はいった。
それにしても、何がどこで繋がっているか分からない。それこそ、不思議な縁《えにし》だと竜介は思う。
「えー話を戻しますが、せめて感触程度ぐらい、何か分かりませんでしょうかあ?」
懇願する顔で生駒はいう。
「感触ねえ……」
竜介も困り顔で、そして少し考えてから、
「マフジが最初にいってる部分、生きてる生きてる、という話ね。あれは主語がないから、何のことだか分からないので置いといて、その他の部分は、霊視という枠からは、逸脱はしていないようだね」
「じゃ、本物と考えても、いいわけですか?」
「いや、黒とは断定できない、というだけの話さ。で、これがもし本物の霊視だとすると、かなり優秀な能力者ってことにもなる。もっとも、生駒さんもいっていたように、事前に霊視していて、あそこで再現しただけなのかもしれない。あるいは、マフジは単なる役者で、別に優秀な能力者が、裏に控えているのかもしれない。いろいろ考えられるよね」
「そうしますと、真浦会には、そういう本物がひとりぐらいはいそう……ですか?」
「うん、僕の感触[#「感触」に傍点]としては、そんな感じ[#「感じ」に傍点]はあるね」
竜介は、極力ぼかしていう。
「うん、なるほどなるほど」
それでも生駒は納得したらしく、
「そうすると、やっぱり突入はまずいですよね。霊視が明らかに黒の場合にのみ……の話でしたから」
「ところでですね、先生が調べてみたらーておっしゃっていた、あの真浦会の修行道場の以前の持ち主、これ分かったんですけど、なんと病院でした」
「……病院。それは意外だったなあ」
「それもですね、二十数年前に潰《つぶ》れてまして、ていうか、そこの先生が亡くなられたんで、閉めちゃったわけですね。その跡地を、十年ほど前に真浦会が買ってるんです。でもちろん、その先生のご子息がおられるんですが、調べた範囲では、真浦会との接点は、これといっては見つかりませんでした」
「その病院は、何の病院?」
「あっ、先生が想像されてることは分かりましたよ。で病院とはいっても、田舎の小さな診療所でして、案の定、産院も兼ねてました。だから教祖の真浦さんは、そこでオギャーと生まれたのかもしれません。ですが、資料はいっさい残ってませんでしたので、それ以上のことは……」
「ごめんごめん、僕の推理が、空振《からぶ》っちゃったようだね」
「なんのなんの、南署は、太田多香子さん無事救出という、あの逆転さよなら満塁ホームランを打って以来、もうずーと三振の山ですからね」
生駒は、情けない顔でいい、
「で、あと二件、お尋ねしたいことがありまして」
――持って来ていた|鍵付き鞄《アタッシュケース》の中から、ポリ袋に入った小さな黒いものを取り出すと、それを竜介に手渡した。
「あらー」
見た瞬間、爽やかではない笑顔で、竜介は驚く。
「……ですよねえ。ほんと、自分らもびっくりしちゃったんですけどね」
生駒は、それがあった場所や、得川宗純がかつては真浦会にいたという未確認情報があること、などを説明してから、
「これ、中に液体が入ってましてね、それは抜いちゃったんですが、分析に出しまして、その結果がこちらの紙なんですよ」
――竜介に手渡す。
その紙には、片仮名の薬品名や、化学式などがごちゃごちゃと書かれてある。
「いや、僕はお化《ば》けだったら分かるけど、化学《ばけがく》の方は全然だめだよ」
手を振って、竜介はいう。
「もちろん、きちんと説明いたしますから。それで、そのマラさまは、先っぽがキャップになってましてね、袋ごしで面倒なんですけど、それを外していただけますか――」
いわれたままにそのキャップを外し、そして本体の側の先端の部分を目にするや、竜介は、直前までのくだけた様子とは打って変わって、真顔に転じた。
「――何に見えますか?」
「これは、目薬の容器じゃないの?」
「ええ、その通りなんですよ。で入っていた液体がドロッとしてましてね、それは、このマラさまの容器が市販品じゃないから、キャップが甘かったようで、つまり蒸発ぎみだったんですね。それに時間も経っていたらしく」
「中身の効能は?」
――急《せ》いて竜介は尋ねる。
「はい、漢方や何やかや、いろいろと入ってたんですが、眼科医《せんもんか》がいうには、これを目に差しますと、目の瞳孔《どうこう》が開《ひら》く、主にそういった薬効があるようなんですね?」
「――目の瞳孔が開く[#「目の瞳孔が開く」に傍点]」
竜介はきつい口調で復唱してから、
「まずい」
そうひと言だけ発っすると、仕事机《デスク》に置かれている電話に手を伸ばして、ボタンをひとつ押してから、受話器を取った。
「……僕だけど、中西《なかにし》くん呼んで」
隣の研究室に男女一名ずついる院生の、男子の方である。
「……あっ、用事を頼まれてくれる。例のビデオライブラリーからさ、検索して欲しいんだけど、今からいうよ……中国人。女性。名前は覚えてない。そして人体透視、もしくは望診《ぼうしん》。けど、その種のテレビ番組じゃなくって、確か、夜のニュースだったと思うな。もちろん民放ね。で……かなり古い。十年ぐらい前かな、それぐらいで分かるはずだから。そして本体のビデオが欲しいのね。だから申し訳ないんだけど、地下まで行って取って来てくれる……それも、大急ぎでね。よろしくー」
と軽やかにいって、竜介は受話器を置いた。
「何か、まずい話なんでしょうか?」
電話直前の竜介の態度から察して、生駒は心配顔でいう。
「いや、それは僕的[#「僕的」に傍点]にいっての話だからさ。世間一般に見て、どうのこうのという話ではない」
その※※的という流行《はやり》の言葉を聞いて少し安堵《あんど》したのか、
「やーさっき、かっこよかったですよねえ。さすがは研究室、といった感じで。あのように指示をしただけで、すぐに出てくるんですね」
――軽口になって、生駒は感心していう。
「いや、検索は簡単なんだけど、ビデオがかさ張ってかさ張って、だから地下倉庫なわけね」
「そういわれてみれば、この種のテレビ番組が、最近またぞろ増えてきましたよねえ。実はですね、このマフジのビデオも……」
得川宗純の屍《しかばね》を拾って、その後釜《あとがま》に……の話を生駒は始める。
そうこうしていたら五分ほどで、息を切らせぎみにして院生の中西が、件《くだん》のビデオを届けてくれた。
「さて、見てみましょうか――」
そのライブラリービデオは、竜介の記憶どおり、夜六時の『FNNスーパータイム』というニュース番組の中で放映された代物《しろもの》で、
『中国からものすごいお医者さんがやって来た』
のナレーションとともに、成田空港に到着する飛行機の映像から始まっていた。
その中国人女性の名前は、鄭翔玲《ていしょうれい》、当時二十七歳、北京中医学院の主任医師とのことである。
『……彼女がもつ医師としての能力は、現代医学の枠を超えている。ケ小平《とうしょうへい》さんなどの高官のかかりつけの医師でもあり、四歳のときから、父母の体も、内臓や骨が見えてこわかったという。十五歳で医科大学に入り、五年間で西洋医学を習得。また彼女は天性の能力に加えて、早くから気功《きこう》を鍛練している。人体透視の能力は、彼女の祖父にもあったが、父母《ちちはは》にはなかった。隔世遺伝ではないかという』
そんなナレーションに続いて、鄭翔玲は、日本医科大学・第一病院へと赴《おもむ》き、実験の席につく。
『鄭先生は今日初めてここの病院に来て、患者さんに会いました。患者さんの病状や病名はまったく知りません。さっそく望診《ぼうしん》してもらおうと思います』
診察室に出向いていた女性のアナウンサーが説明をする。
パジャマ姿の女性患者が、車椅子に、けだるそうに座っていた。そして、その病院の医者たち多数の好奇な目線が注がれている中(一部は廊下にまであふれ出している)、鄭翔玲は、患者の体を、目を凝らしながら見ていく。まずは表側を見て、続いて車椅子の背凭《せもた》れごしに、背中側を見て、そしてものの一、二分で答えを出した。
『悪い場所に腫瘍《しゅよう》があります。脊髄《せきずい》の腫瘍です。場所は三、四、五番です』
――そう通訳がいった。
『その通りで、巨細胞腫《きょさいぼうしゅ》という骨《こつ》の腫瘍では良性の部類に入りますが、場所を見事に当てられたのには、びっくりしました』
――主治医はいう。
続いて、その女性患者のMRI断層撮影の映像が紹介され、患部が、その通りであったことを裏づけて見せる。
『鄭《てい》先生の目は不思議』
――ナレーションはいう。
『これは平常時の目。そしてこれは、人の体を見るときの目。瞳孔がこんなに開《ひら》いている』
「うわあ……」
その比較映像を見て、生駒が驚きの声を漏らした。
『瞳孔が大きくなるときはとても疲れる。気功鍛練で疲れをとり、瞳孔を正常に戻すという』
水玉模様の白い服を着た鄭翔玲が、どこかの公園の緑の木々の間を、そぞろ歩きしていた。
そのビデオを竜介は止めてから、
「いかが?」
「――驚きました」
生駒は目を大きく見開いていい、
「この鄭さんという女の人、目がX線みたいになってるんですか?」
「いや、そうはなってない。もしそんな目を持ってるんだったら、それこそラスベガスに行って、トランプを裏から透視してぼろ儲《もう》けすればいい。でも彼女には……それはできない」
「あっ、できないんですかあ」
いかにも残念そうに、生駒はいう。
「そういった純粋透視のような超能力は、基本的には、存在しないと考えた方がいい。……ところで、生駒さんは、カメラには詳しかったっけ?」
「ええ、そこそこには。あの真柴の全国指名手配の写真だって、自分の作品[#「作品」に傍点]ですからね」
……たまたま撮影したにすぎないが。
「じゃ、そのカメラと同じことだからさ。目の瞳孔というのは、カメラでは何にあたる?」
「それは……絞《しぼ》りですかね。F値で表して、2、4、6、8、11、16……といったふうに、数字が大きくなると、絞りが小さくなります」
「じゃ、その絞りが一番開いている、F2で、シャッター速度《スピード》を変えずに、明るい太陽の下で撮影しようとすると……?」
「それはもう、光りが入りすぎちゃって、フィルムが真っ白けになっちゃいますね」
「……同じことが、人間にだっておこるわけさ。フィルムに相当するのは、脳の後頭部にある、視覚野《しかくや》と呼ばれる部分ね」
そのあたりに竜介は手の平を置きながら、
「もっとも、静止画じゃなくて、脳には動画が映るから、映画のスクリーンのようなものだと思えばいい。そして明るいところで強制的に瞳孔を開《ひら》かせちゃうと、そのスクリーンが白ボケをおこす。その白くボケたところに、その人の、脳の側からの情報が映り込んでくる……場合があるんだ。つまり眠っているときに見る、夢と同じようなものが見えてくる。それが現実の映像と二重映しになって、さも人体の内部が透けて見えているかのように、その人には感じられる。――ただし、この鄭さんの場合は、西洋医学を習得したといってたろう。当然、人体解剖もやったはずだし、すると人体の各部の映像が、記憶となって彼女の脳には保存されている。だから、脳のスクリーンに出せるわけさ。たとえ瞳孔が開いたとしても、普通人には無理。……幽霊の顔が見えない、のっぺらぼーと似たような話ね」
「あー、あー」
生駒は、嬉しそうに頷《うなず》いた。
「そして残す問題は、その病気の情報、元ネタはどこにあるかって話だが、これも霊視と同じでね、つまり患者さんの脳」
「……脳からですかあ」
その辺りになってくると、生駒はついていけない顔をする。
「我々の脳は、体の異常を事細かく把握しているのね……が、意識の方には、痛い、ぐらいにしか分からない。でこういった人体の情報は、脳から脳へと、大変伝わりやすいんだ」
「あ、伝わりやすいんですか?」
「そう。だから、他人の病気をいい当てるといった能力者は、最もありふれていて、世界中にごまんといる。もっとも、このビデオの鄭さんのように、あそこまで見事に映像化して見られるのは、逆に、数えるほどしかいないはずさ」
「それは……その瞳孔が開くことが、関係するわけですね?」
「その通り。なんだけど、情報科《ここ》のビデオ図書館《ライブラリー》と、この種の専門書を洗い浚《ざら》い調べたとしても、たぶん、彼女以外には、見つからないと思うな」
「じゃ、例外中の例外ですが?」
「いや、そうでもないと思うんだが、こういった点に着目している研究者が過去にはいないから、記録が残ってないのね」
そこまでいってから、喋りすぎないようにと竜介は注意しつつ――
「この種の、神のごとき能力を得ようと欲しても、僕たち、自分の脳を直接には弄《いじ》れないだろう。だから弄れる場所って、おのずと、限られてくるのさ」
「それが、目[#「目」に傍点]だということですか?」
「まあ、そういうことだね。でその方法論に、また幾つかの種類があって、これは、そのひとつの例なわけね」
――もちろんのこと、ひとつ目の神々もその一例であり、だが鄭翔玲の場合《ケース》とは違って、いわばスクリーンを黒くするやり方だ。そしてこちらの方が、効率はいいだろうと竜介は考えている。スクリーンを白くするよりも、黒くした方が、脳からの映像がより見えやすいはずだからである。
「ところで、このマラさまの目薬は、得川さんの金庫にはあったけど、真浦会のもの、て考えるわけだよね?」
「ええ、南署《じぶんら》もそう考えてます。得川さんが、かつて仕入れて、そのまま何年か放置してあったから、ドロッとなっちゃった。そう考えるのが自然ですからね。そして真浦会の信者の何人かに、この実物を見せたんですよ。すると全員、知らなそーな顔をするんですね。もっとも、その信者たちは一番下っ端ですから、何ともいえませんが……」
「うーん、もう少し上の段階《ステージ》で使うのかもしれないな。どっちにせよ、このような薬を真浦会《あそこ》が持っていようとは……僕は想像[#「想像」に傍点]だにしてなかったよ」
「そうですよね、自分も、この目薬の本当の効果を知ると、まずい! と先生がおっしゃった気持ちは分かりますね。こんなのを使われたら、そこらじゅうが霊能力者だらけになってしまう……」
まあ、そこまでにはならないと竜介は思うが。
……いちいち目薬を注《さ》すというのも、不便な話だし、それに瞳孔が開いたからといって、即アマノメのごとき神の力があらわれるわけでもない。その後にも、相応の訓練が必要だからだ。だが、能力を発現させるきっかけぐらいには、十分に使えるだろうなと竜介は思った。
そうこうしていたら、竜介の仕事机《デスク》の上の電話が鳴った。出てみると、アジア文化史の守屋汎《もりやひろし》教授からの内線電話で、今から情報科分室《そちら》に行くと強引なことをいう。
「そんな急に来るといわれたって、ここには客人がみえてるんですけど、……え? そちらも客人?」
そんな応対をしながら竜介が横目で見ると、あと一件、といったふうに生駒が指を立てている。
「じゃ、二十分後に。……駄目? じゃ十五分後」
そういい切って、竜介は受話器を置いた。
「すいませんねえ、お忙しいところを……ひょっとして、その守屋さんというのは、あのテレビによく出てこられる、守屋教授ですか?」
竜介が首肯《うなず》くと、
「いやー、そんな有名な教授が是非にというんだから、火鳥先生も売れっ子さんですよね」
生駒は妙な褒め方をする。
「あのね、ここ最近ね、情報科《ここ》はよろず相談所と化していてね、分からないことがあったら、皆ここに持って来やがるんだ!」
――歴史部しかり。――埼玉県南警察署しかり。
「まあまあ、先生そうおっしゃらずに。あと一件だけですから……」
生駒は剽軽《ひょうきん》にそういってから、そして神妙な顔に転じると、M高の裏山から出た白骨死体、つまり金城玲子殺人事件についての概要を説明し始めた。その件は、南署としては、竜介には教えていなかったからである。
「……それでですね、見つかっていない首から上についての話なんですが、そういった髑髏《どくろ》を使う、怪しげな儀式がありますよね?」
「いわゆる髑髏本尊? 真言立川《しんごんたちかわ》流の……」
「えー、そういったものと、真浦会、これは繋がりますでしょうか? つまり真浦会が、その種のことをやっていそうかどうか、て話なんですが?」
「あーん」
竜介はひと声|唸《うな》ってから、
「だってさ、さっきの目薬。これは考えられる究極の奥義だろう。片や、髑髏本尊といえば、髑髏の表面に漆《うるし》を塗って滑らかに仕上げておいてから、美女と連夜交わって、男の精液である白H《びゃくたい》と、女のそれである赤H《しゃくたい》とが混じりあった和合水《わごうすい》を、その上に塗り重ね、それも百二十回、そして霊符《れいふ》を貼り、その和合水でもって曼陀羅《まんだら》を描く。さらに金箔や銀箔を貼り重ね、そういったことを百二十回やって、目の穴に玉《ぎょく》などを入れて美しく飾り、それを夜は人肌であたためながら、反魂香《はんごんこう》のお香を切らすことなく、八年間|祀《まつ》り奉《たてまつ》ると」
竜介はそこまでいっきに喋り、
「……とそこまで面倒なことをやっても、何のご利益《りやく》もないだろうと思える、いわゆる外法《げほう》の究極のものだよ。同じ究極でも、目薬とは、真反対の代物《しろもの》じゃないか。だから同一の教団がやるとは、ちょっと考えられないけどね」
生駒は、へー、と驚いてから、
「そういうのって、実際にやってたんですか?」
「うん、いちおうはね。盛んだったのは鎌倉時代から室町にかけてで、江戸時代になると禁止令が出される。それにさ、その際に用いる髑髏も、何でもいいというわけじゃなくて、どのような髑髏を使うべきか、いわば等級《ランキング》のようなものがあったのね」
「髑髏にですか……」
「一番が智者、これは高僧のことね。次は行者、修行を積んで験力《げんりき》を身につけた人ね。以下は、国王、将軍、大臣、長者、父、母、そして千頂《せんちょう》と法界髑《ほっかいどく》なんだが、これは千個ほど髑髏を集めないと駄目なので、話にならず。さて、この中におさまる?」
「いや……おさまらないですよね」
生駒は、おずおずという。
「当時は、主に土葬だったから、髑髏なんて簡単に手に入ったのね。戦国時代なら、草むらに転がっていたし。その中から、いいものを選びましょう、て話なわけさ。そして十三世紀の終わりごろだと思うけど、なんと、天皇の陵墓《りょうぼ》から髑髏が盗まれたりもしている」
「ええー?」
「確か、天武《てんむ》天皇のそれだったと記憶しているが。あるいは、極端に大きいとか、おでこが出っ張っているとか、そんな形の変わった髑髏も、もてはやされたのね。よく知られるところでは、円仁《えんにん》・円珍《えんちん》の円珍がそうで、彼の頭蓋骨は、頂上が隆起している霊骸《れいがい》と呼ばれる特異な形をしていて、彼が唐に渡ったときには、あなたの頭が狙われてますよ、と注意を受けたぐらい」
「え? 生きてる間に盗《と》っちゃうんですか?」
「そう、中国も、日本よりひと足先に、髑髏崇拝が流行《はや》っていて、生首をかっ斬る事件が横行していたらしい。日本は、そこまでは野蛮じゃなかったようだが。また面白い話もあって、そういった異相の頭蓋骨の持ち主を見つけると、お金を払い、死んだら俺のもの、そんな契約をするといった逸話もある」
「け、契約するんですか……」
「そんな異相の髑髏《しゃれこうべ》であり、なおかつ等級《ランキング》も高い理想のそれが、なんと葬儀の夜に盗まれたという実話もある。鎌倉時代に京都にいた太政大臣《だじょうだいじん》だけど、西《さい》――」
といったきり、そこまで軽快に喋りとばしてきた竜介が、突如として口をつぐんだ。
――西園寺|公相《きんすけ》の髑髏が、何者かによって盗まれた。それはそこそこに知られた話ではあるが、たとえば『増鏡』にはこう記されてある。
『……御わざの夜、御棺《ごくわん》に入れ給へる御かしらを、人の盗み取りけるぞ珍らかなる。御顔の下《しも》短かにて、中半《なかば》ほどに御目のおはしましければ、外法《げほふ》とかやまつるに、かかる生首《なまかうべ》のいることにて……』
この『御顔の下短か』で『中半ほどに御目』が問題だ。ふつうの解釈では、顔の下短かとは、顔の上が長い、すなわち額《ひたい》が大きいということで、だから顔の中央に目がきてしまう。もしくは、両目が顔の真ん中に寄っている……ぐらいであろう。
が、これを読み違えたならば、顔の真ん中に目がある、すなわちひとつ目であり、もしくは、その広い額の真ん中にもうひとつの目がある、それすなわち三つ目であるが……そんなうがった解釈も、意図的にであったらできなくはない。
それに、いかにも意味深な三つ目の髑髏が、竜介宛に送られても来ている。
なおかつ、その西園寺|公相《きんすけ》の血をひいている子孫が、この情報科分室の助手をしている西園寺静香なのである。
いったい、何がどうなっているのだ――?
さしもの竜介も、頭の中が混乱していた。
「……先生。……先生」
生駒が、赤子をあやすときのように両手を振っていた。
「ごめんごめん、ちょっと考えごとしちゃって」
「いえ、もうお伺いしたかったことは、すべて完了しましたので、それに、そろそろ次のお客さんが見えられる時間ですから……」
生駒はソファから腰を上げると、|鍵付き鞄《アタッシュケース》を手に持って、愛嬌《あいきょう》のある笑顔をふりまきながら頭を下げつつ、竜介の部屋から出て行った。
「ふむ……」
竜介の混乱は治まらない。
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そのころ、静香は、鎌倉の扇《おうぎ》ガ谷《やつ》にある西園寺家の別荘の方を訪ねていた。今日一日は、大学の研究室はお休みにして、彼女の祖母にあたる西園寺|靖子《やすこ》のご機嫌うかがいを兼ねてである。
扇ガ谷は、歴史部の文化祭の折にも話に出たが、当方滅亡! そう叫びながら斬り殺された太田道灌《おおたどうかん》が仕《つか》えていた殿様の扇谷上杉《おうぎがやつうえすぎ》――が名称の由来である。つまりこの辺りを領地としていたわけだ。そして太田道灌も近隣に家があって、その屋敷跡には、英勝寺《えいしょうじ》という鎌倉で唯一の尼寺が建っている。創建は寛永《かんえい》年間(家光《いえみつ》の時代)で、総門の屋根には三つ葉葵紋が鎮座し、すなわち徳川家ゆかりの寺でもある。また、北条政子《ほうじょうまさこ》や源氏《げんじ》の三代将軍・実朝《さねとも》の菩提《ぼだい》などを弔《とむら》っている寿福寺《じゅふくじ》も、同じく扇ガ谷の同じ丁目にある。
そういった尼寺や菩提寺からも想像されるように、鎌倉駅から北方へ歩いて十数分といった場所柄にも拘わらず、家よりも木々の方が圧倒的に多いしんみりとした一帯の、その英勝寺や寿福寺にもほど近い坂の途中に、西園寺家の洋館の別荘がある。見晴らしは格段よくはないが、窓から見えるものといったら、緑の木々以外には寺の屋根ぐらいであろうか。
静香は、そんな二階の窓から、秋の紅葉《こうよう》にはまだ間《ま》がある景色を、物思いに耽《ふけ》りながら眺めていた。
「……静《しず》ちゃん」
呼ばれたような気がして静香は振り返って見たが、ベッドに入って顔だけをこちらに向けている靖子はまだ眠っている様子だ。
惰眠《だみん》を貪《むさぼ》る……といえば語弊《ごへい》があるが、昼間でもベッドの中でうつらうつらしている、それが老女《かのじょ》の日課のようだ。いや、趣味ともいうべきか。
それは昨日今日に始まったわけではなく、静香が物心ついたころから、靖子はそんな女性だったのだ。祖母の家に会いに行っても、起きていたためしはなく、そうこうしていたら目を覚まして顔を出し、
「あなたが来てたのは知ってたわよ。それに静ちゃん、今日お家《うち》でお母さんに叱《しか》られたでしょう。大事なコップを割っちゃったとかいわれて」
まるで扉《ドア》の隙間からでも見ていたかのようにいう。
けど、それは驚くほどに当たっている場合もあれば、半分ほど当たってるかな……て感じのときもあるし、何ひとつ辻褄《つじつま》の合っていない頓珍漢《とんちんかん》な話も、たぶんこれが一番多いだろうと静香は思う。
何でも、靖子がいうには、眠っているときにだったら世界中のどこにだって旅することができるそうなのだ。それは子供心に、すごく羨《うらや》ましく感じられたものだったが、やがては、彼女の夢物語にすぎないと思うようになり、ところが、今の研究室に配属されて、竜介の独創的な話を耳にするに至って、靖子は実際にあちこちを訪ね歩いているのかもしれない……静香は、そう思えるようにもなってきた。
祖母は竜蔵さんの妹である。けど本当のところは、桑名家や西園寺家の長老《おとこ》たちが真剣に奉《たてまつ》っているアマノメの神の実子であることは、静香も(二、三年前に教えられて)知っている。そのアマノメの神に、どれほどの能力《ちから》があるのかは定かには知らないが、その実子であるなら何かしらの能力がそなわっているだろうと、静香にも想像できる。
「……あら」
靖子がゆっくりと目を開けた。
「見てらしたの? 恥ずかしいじゃありませんか」
頬をゆるませて乙女のようにいい、
「そうそう、今しがたまで、静ちゃんのいい人のところに寄っていたのよ」
またいつもの話が始まったと思いながら、静香はお付き合いをしていう。
「そんな人、いないですよ」
「そうかしら。……わたしは、あの人はいい人だと思うわよ。あなたもそろそろお嫁にいかないと、そうそういつまでも奇麗じゃいられないんですから」
それは、静香としても痛いところである。
三十路《みそじ》に近くもなってくると、肌の手入れひとつとってみても、以前と同じというわけにはいかない。
「けれど、それとこれとは別よ。靖子さん」
――西園寺家の中においては、おばあさんおじいさんといった単語は存在しないようだ。
「そうそう、あなたのいい人はね」
靖子はおかまいなしに話す。
「皆が集まってきて、トランプをやってたわよ」
何のことだろうかと静香は思いつつも、
「靖子さん。ときどき、わたしの研究室に遊びに来てませんか?」
――以前から気になっていたことを聞いてみる。
「そのトランプだけど」
靖子は|老女のお惚け《マイペース》で話す。
「たくさん手に持っていて、そして机の上にも何枚かあって、けど、その机にあった一枚が……あれ何ていったかしらね、悪いトランプのことを?」
「ジョーカーのことかしら」
「そうそう、そのジョーカーのことね。でもその彼は、それを持っていることに気づいてないのよね。だから教えてあげようと思って、わたしは耳元で囁《ささや》いたんだけど、彼には聞こえなかったようだわ。だからあなたが教えてあげるのよ、静ちゃん」
「……ええ、はい」
静香としては何のことやらさっぱり分からないが、頷いてから、
「靖子さん。枕元に置かれてるのは、あの歴史部の皆さんの写真じゃないんですか?」
小さなアルバムが枕の横にあって、頁《ページ》が開いたままになっていた。
「ええええ、マサトさんにね、写真の先生がおられるのよ。その方が……」
靖子は少し体を起こすと、
「文化祭のときに行かれて、お写真をたくさん撮って来られたらしく、マサトさんは、その日は学校に行かれなかったから代わりにね。それを分けていただいたのよ」
そのアルバムを手にとって頁をくりながら愛《いと》おしそうに見つめてから、靖子はいう。
「あの子も、これでひと安心だわね。とってもいいお友達のようだから」
……彼女にとっては、マサトも孫のようなものであるらしい。
「あのね、靖子さん、聞いていただけます……」
静香は、物思いの原因を祖母に話す。
それは静香が置かれている奇妙な立場のことで、そもそも今の研究室に配属になったことすら、桑名が裏から手を廻していたにちがいなく、そしてそこの先生(竜介)がどんな研究をしているのか、それを教えてくれ、との依頼だったのだけれど、その後、その先生と桑名とは仲良しになってしまい、自分の立場がないのである。その経緯《いきさつ》は彼女も知っているはずだが、あらためて静香は愚痴《ぐち》をこぼす。
「男たちって、勝手よね」
その話をひととおり聞き終えてから、靖子はいう。
「それはもう放っておくしかないわね。静ちゃんから話すと、あなたが悪者になっちゃうでしょう。だから放っときなさい。なるようになるものよ」
――ガサガサガサ、トントン、トン。
窓の近くで、何かがすばしっこく走って跳《は》ねる音がした。それは鎌倉にはそこかしこにいる栗鼠《りす》である。住民からはあまり歓迎されていない。
「静ちゃん、紅葉《もみじ》がとっても奇麗だわよ」
そういうと、靖子は目をつむった。
え? まさか……と思いながら静香が窓の外に目をやると、濃淡の朱色にところどころ黄色が混ざった絶景の色曼陀羅の世界が、そこに広がっていた。
[#改ページ]
10
「さっそくだけどさ、この写真を見てよ」
――竜介に手渡されたそれは、写真にしては、やや肌理《きめ》が粗い。
守屋教授は、勝手知ったるとばかりに、折り畳みの椅子を部屋の隅っこから持って来て、竜介の隣にその椅子で座っている。
「こちらのお嬢さん方が、インターネットの中から見つけ出してくれたのね」
そのお嬢さん方三名は、鳩血色《ルビーレッド》の孔雀のソファに座っている。毎度のことだが、そのソファを目にするなり、うわーと驚いてから。
「街角の風景を撮影して、それをのせているような、個人のホームページからなんです」
ソファの窓側に座っている焦茶《こげちゃ》色の鞣革《なめしがわ》のジャケットを着た女性がいった。
竜介がもらった名刺によると……西澤美沙子《にしざわみさこ》、二十代の後半ぐらいであろうか。
「何枚かあってね、同じ人が写ってるんだが」
――守屋が手渡してくれる。
それらの写真には、山吹《やまぶき》色と海老茶《えびちゃ》色の単純な二色コントラストが目にも鮮やかな、どう見たって、チベットの老僧が写っていた。
竜介は、さっきの混乱がまだ尾をひいているのだが、さらなる混乱をきたし始めていた。
その写真の一枚に、老僧が木枠の|飾り窓《ショーウィンドウ》を覗き見ているのがあった。しかも、その飾り窓には日本の古伊万里《ふるいさら》がたくさん並んでいるではないか。
「この写真、どこで撮ったものなんですか?」
竜介がソファの三人に向かって尋ねると、
「これはね、おそらく湯島《ゆしま》の近辺だと思う。チベット友好協会があのへんにあって、そこに投宿しているようだから」
――守屋が答えた。
「湯島……」
湯島天神《ゆしまてんじん》があるところだ。千代田線に湯島駅はあるが、竜介は山手線の御徒町《おかちまち》から歩いたことがある。そして十分とかからない。確か、その間に銀座線の上野《うえの》広小路《ひろこうじ》があったはずだ。――土門くんの店がある場所である。
「いかにも高僧《リンポチェ》だけど、いったい誰?」
「それがさっき分かったから、大慌てで、ここに来たのさ」
守屋は、情報科分室の古ぼけたリノリウムの床を指さしていう。
「で、誰なの?」
――守屋は、竜介よりも三歳ほど年上で、アジア文化史の教授、|竜介は《かたや》分室の講師で、出世の王道《コース》からいくと高速道路と登山道ほどにちがうが、竜介はため口《ぐち》でいう。
「聞いて驚くなよ。名前をロンチェン・ユンテン・グンポといって、ニンマ派|南流《なんりゅう》の、ナンバー2《ツー》」
「ええー?」
竜介は、演技ではなく驚いてから、
「……それって、インド側?」
「いや、チベット側なの」
「ま、まさか……」
最初の妹からの電話では、まがいもの[#「まがいもの」に傍点]だと断じた僧侶である。竜介は、とうてい信じられないといった顔で、
「……じゃ、亡命したの?」
「いや、それもちがうんだ。さっき確認がとれたところによると、中国側の許可が正式におりてるのよ。二十日間と期限は切られてるんだけどね」
「すいません」
ソファの真ん中に座っていた女性が声をかけてきていう。
「……テープに録《と》らせていただいても、よろしいですか?」
ざっくりとした臙脂《えんじ》の毛織物《カーディガン》を羽織っているその女性は、名刺によると……伊藤《いとう》チヒロ。三人の中では年上らしく、三十歳を少しすぎたあたりか。
「もちろんかまわないけど、使う使わないは後で決めようね。それに写真もてきとう[#「てきとう」に傍点]に撮ってくれる。我々はさ、喋ってるときの方が様《さま》になるから」
守屋は手慣れた雰囲気でいう。
彼が連れて来たお嬢さん方三人は、硬派で知られている某女性月刊誌の記者たちである。右端に座っていたジーンズの上下を着た若い女性が、携えていた大きな鞄から、大きな一眼レフカメラを取り出した。その彼女は名刺によると……藤木博子《ふじきひろこ》。
伊藤が、ソファ前の応接テーブルの真ん中あたりに、小型の録音機《テープレコーダー》を置いてからいう。
「先ほどのお話しに出た、ニンマ派ですけど、その高僧が日本に来ているということは、それほど驚くような話なんですか?」
「そりゃ驚くさ――」
守屋が応《こた》えていう。
「チベット密教には、大きく分けて四つの宗派があるんだけど、皆さんもよくご存じのダライ・ラマさん。あれは最大派閥のゲルク派なのね。そして悪くいっちゃうと、政治屋さんの組織《グループ》なんだ。その対極にあるような宗派が、ニンマ派で、表にはまず出てこないのね。でそういった裏の話に関しては、こいつの方が詳しいのよ」
――竜介を大袈裟に指さしていう。
「すると守屋先生は、主に、表の話が専門なんですね?」
「そうそう、俺は真っ当な学者だもん」
腕を組み直して、守屋は嘯《うそぶ》いていう。
「ですが、裏をご存じだなんて、どこか素敵ですよね」
……西澤美沙子がいった。
その彼女の名刺にだけ『編集部』の肩書が入っているから、出版社の社員だろうかと竜介は思う。
「そう、こいつそういったところで女にもてるんだな。けど、今日はちょっと口が重たいみたいなんで、俺がうまく聞き出してやっからさ」
本人を前にして、守屋は勝手なことをいう。
そういった|押し出しが強い《サービスせいしんがおうせいな》ところが、テレビによく呼ばれる理由だろうなと竜介は思う。芸能人《タレント》教授の成否は、その知識《あたま》ではなく、人柄がものをいう。
「それにこいつの話ほど、非常識で、かつ面白いものはないからさ。テープに録《と》る価値は十二分にあるぞう」
守屋は、さらに勝手なことをいってから、
「まずは俺が、ざーと表の話をするな。……チベットには、もともとポン教と呼ばれる土着の宗教があった。万物にはすべて霊が宿ると考えていて、今のチベットとはちがい、祖霊崇拝もしていた。そして極めて呪《ま》じない色《しょく》の強い宗教であったようだ。だから日本の神道《しんとう》、プラス中国の道教《どうきょう》って感じかな」
そんなもんだと……竜介も頷く。
「そこに、インドから仏教が伝来してくる。その時期には諸説あるが、はっきりと分かってるのは、七世紀の前半、ソンツェンという王さまがチベットを統一して、吐蕃《とばん》王国を築いたときね。ソンツェン王のお妃《きさき》が、唐《とう》の太宗《たいそう》の娘だったから、その関係だな。太宗は仏教好きで、かの三蔵法師《さんぞうほうし》・玄奘《げんじょう》が、天竺《てんじく》に経典を取りに行ってた時代さ。そして、いずこの国も同じで、土着の宗教との戦いになる。仏教の旗色《はたいろ》は悪い。それを救ったのが、八世紀後半のティソン王、国営初の仏教寺院を建てるべく、インドから、シャーンタラクシタという高僧を招聘《しょうへい》する。ここが日本とはちがうところね。ひと声かければ、最高の僧侶が直接に来てくれる。ところが、そのシャーンタラクシタをもってしても、抵抗にあってうまくいかない。するとそのシャーンがいうには、インドには密教の大行者・パドマサンバヴァがいます。その彼を呼びましょう。彼だったら何とかしてくれるでしょう」
――芝居がかって、守屋はいい、
「この大行者のパドマサンバヴァ。彼が、チベット密教の元祖ね。そして、そのパドマサンバヴァがチベットに来る道すがら、土着の魔神たちが次々と襲いかかってくる。ヤルルン渓谷の山神ヤルラシャムポ、地母神のテンマ、そしてニェチェンタンラ山脈の大神ニェチェンタンラららやら[#「ららやら」に傍点]が」
守屋は、舌を噛みつつ、
「だがしかし、パドマサンバヴァの呪術《じゅじゅつ》が上廻り、ことごとく調伏《ちょうぶく》されて、仏教を守護する護法神《ごほうしん》へと変えられていくのね。このへんの話は伝説と化していて、お釈迦さまのそれと大差ない。そしてここでいちおう、ポン教には勝利したんだが、九世紀の半ばになって、王さまの気まぐれで、仏教は廃止になるのさ。だから僧侶たちも一般人に戻される。いわゆる還俗《げんぞく》だね。だから地下にもぐって細々と命脈を保つしかない。この廃仏《はいぶつ》の期間が長くってね、それが解けるのは十一世紀ぐらいになってから。すると、地下にいた僧侶たちがはい出してきて、作った教団が、ニンマ派さ」
「……はい、はい」
女性ふたりは大きく頷いてから、
「そうしますと、その……パドマ」
「パドマサンバヴァね」
「はい、つまり、パドマサンバヴァの教えを忠実に伝えているのが、そのニンマ派なわけですね」
……伊藤チヒロがいった。
その名前は執筆名《ペンネーム》っぽいから、執筆者《ライターさん》だろうかと竜介は思う。
「そうなるよね。そしてこの十一世紀に、インドから最後期の密教である『秘密集会《ひみつしゅうえ》タントラ』などが導入される」
――竜介が歴史部に語った『無上瑜伽《むじょうゆが》タントラ』の基本経典のひとつであるが。
「それらを基本《ベース》にして、新しい宗派ができたりもする。もっとも、パドマサンバヴァも、タントラ密教の大行者《エキスパート》で、なおかつ、魔神たちを調伏《ちょうぶく》できるような強力な呪術をもっていた。それをそっくり受け継いだのが、ニンマ派ってことになる」
守屋はそこまで喋ってから、ニタ、と笑って、
「けどさ、魔神を調伏だなんて、そんなの御伽噺《おとぎばなし》だろう。ところが、この火鳥の話を聞くと、意外にも、それが実話だということが分かる」
「……実話なんですか」
西澤が、目を輝かせぎみにしていう。
「それに、タントラ密教がどうのこうのいったって、俺は言葉を知ってるだけなのね。確かに、専門書を読めば書いてもあるけど、何のことだか分からない。けど、そういったことを独特の理屈でもって説明できるのが、こいつなわけね」
「ええー!?」
竜介は椅子の背凭れにのけ反《ぞ》って、守屋を睨《にら》む。
――タントラとはすなわち性奥義[#「性奥義」に傍点]である。それにさらに秘密集会[#「秘密集会」に傍点]と冠されたものを、どうやって説明するんだ? しかもお嬢さま方に!
「まあ、タントラはさておいてさ、ニンマ派には、テルマと呼ばれる独特のものがあって、そのあたりからは、おまえの専門だろう……」
守屋に促《うなが》され、竜介は、やむなく重たい口を開いていう。
「テルマとは――埋蔵《まいぞう》経典という意味です。隠されてあった経典《それ》を、地中などから掘り出したとされるもので、これには、さっきのパドマサンバヴァが関係します。彼が有していた特別な奥義を、これは数あるらしいんですが、そのひとつひとつを、一子相伝《いっしそうでん》のかたちで弟子に教え、一方で、その教えを記した経典を、岩の中や、沼や、仏像の中や、あちこちに隠した……といった話なんですね」
西澤が、えー、と不思議そうな顔をしてから、
「一度、弟子に教えたんでしたら、隠す必要があるんですか?」
「いや、その弟子も、やがては死にますよね。そして孫弟子に伝え損ねたら、教えは消えてしまうので。さらに、その弟子は、生まれ変わるでしょう。チベットですから。つまり転生《てんしょう》ですね。もしくは転生《てんせい》。その転生した弟子が、あるときにふっと気づいて、そうそう、あの谷のどこかに教えが埋まってなかったっけ……と探しに行って、見つける。そして再度、学び直す。転生すると、教えとかは忘れちゃうのでね。それにそのテルマは、前世なりで、その教えを一度体得している人が見てはじめて、中身が理解できる、そんな作りにもなっているようなので……とまあ、そういったのが表向きの理由。そのようにして埋蔵経典《テルマ》が出てきたといえば、それは、パドマサンバヴァの直《じか》の教えだといえるので。なおかつ、それを見つけ出した当人は、パドマサンバヴァの直弟子の転生者に他ならないともいえるので……などが裏の理由。だから要するに、テルマは後の世の作で、いわゆる偽経《ぎきょう》なんです。けれど[#「けれど」に傍点]、その中身は、大変に濃いいです」
「それは、具体的には、どういったものなんですか?」
西澤が尋ねる。
竜介への質問は……彼女がするようだ。
「それはま、皆さんが想像なさるようなものですよ。いわゆる神通力《じんつうりき》の類《たぐ》いですね。読心術や千里眼、空中浮揚、そういったものが大半のようです。ニンマ派の場合、一般的な経典はカーマといって、それは書籍化されるなり、口伝《くでん》なりで代々伝わってるから、それ以外の教えですね。そして、このテルマとして見出された代表的なものが、パルドゥトゥドルです。よく知られている『死者の書』ですね……」
「それは、あのエジプトの『死者の書』と、似たようなものなんですか?」
「あっ、映画によく出てくるから、そっちを思っちゃいますよね……ですが、全然別種のものです。エジプトでは、死後の肉体を後生大事《ごしょうだいじ》にしてミイラを作るでしょう。チベットとは真[#「真」に傍点]反対ですから。それに、エジプトの『死者の書』では、映画のようには、死人は蘇《よみがえ》りません――」
竜介は、自信たっぷりにいう。
「じゃ、チベットでは蘇るんですか?」
「いえ、その点は同じだけど、チベットでは転生をしますから」
「本当に、転生を、つまり一度死んでも、人は生まれ変わるんですか?」
西澤が、真剣な表情で聞いてくる。
「うーん」
竜介は腕組みをして、ひと声唸ってから、
「皆さんは、どちらだと思われてるんですか? 生まれ変わる、生まれ変わらない。どちらの考え方が、今の日本では主流を占めてるでしょうか。僕には、ちょっと測り兼ねるんだけど?」
――一同に尋ねる。
「わたし、生まれ変わり派」
カメラ担当の女性が手をあげて威勢よくいった。
えー彼女は誰だったっけ……と竜介は、仕事机《デスク》の上に、座り順の通りに置いた名刺に目をやって、確認をする。人の顔を覚えるのは大の苦手としている竜介なので、自動的に名前も覚えられないのだ。
「けど……」
西澤が伊藤にいう。
「やはり、生まれ変わらないわよね」
伊藤は、態度を決めかねている様子だが、とりあえずといった表情で頷く。
「ですから、死んでも魂は永遠だと信じたいですけど、それはやはり、夢や希望にすぎなくって、大半の日本人が、生まれ変わらない、そう思ってるはずだと、わたしは思いますけど」
西澤は、竜介の顔色を窺《うかが》いながらいった。
「ふーんなるほど。じゃ、僕の結論をいいますが、転生はできます[#「できます」に傍点]」
――天邪久《あまのじゃく》ぎみに、竜介はいう。
「えっ、するんですかあ?」
「ほうれな、面白い話になってきたろう」
守屋が、茶化していった。
院生の女子の五月女《さおとめ》が、お茶を運んで来た。
「あれえ?」
守屋が、声に出して不満をいう。
「今日はお休みなの」
意地悪く竜介が教えると、
「ちぇっ、なんだ」
守屋は横を向いて、いかにも残念そうに拗《す》ねる。
彼のアジア文化史の研究室は同じ建物(文学部本館)の二階にあり、昇降機《エレベーター》もないのに、この四階の辺境地まで守屋は頻繁にお茶を飲みに上がって来るのだが、その目的は明瞭、大学一の性格のいい美人と評判の高い西園寺静香《マドンナ》の顔を拝むためにである。
……が、その彼女とは、あの三つ目の髑髏は関係ありやいなや? それに、彼女に幽霊が見えたというのも、なおさら変な話だと感じられてきた(それについては今なお話す機会がないが)。お茶を啜《すす》りながら、そんなことをつらつら思いつつ、竜介が何げなく窓の外に目をやると、|薄雲がかかった《しろぼけした》秋の空に、蜃気楼《しんきろう》のごとくに紅葉《こうよう》の景色が浮かんできた。
うん? 竜介が目を瞬《しばたた》かせると……水彩の絵の具が滲《にじ》んでいくように……その景色は消えた。
「先生。転生するんでしょう。その話を聞かせて下さい」
――西澤が、急《せ》かしていった。
「ええええ、しますよう……ただし[#「ただし」に傍点]、ただしただしただしと、但《ただ》し書きが百個ぐらいつきますからね。それと、皆さんがお考えになってるような生まれ変わりとは、かなりちがってますから、それは予《あらかじ》め、お断りしときますね」
「わたしは、実は、生まれ変わり派なんですよ」
伊藤が、裏切り者の顔をして少し嬉しそうにいう。
「何年か前に、『前世を記憶する子どもたち』という本を読んで以来……」
「あっ、その本だったらありますよう」
竜介は回転椅子《デスクチェアー》から立ち上がると、
「確かこのあたりに……」
近くのスチール書棚の上段を探し始めた。
「うわー、その種の本がたくさん並んでますねえ」
伊藤が驚いていう。
竜介は、書棚の一列を占領している同種の書物の中から、件《くだん》の『前世を記憶する子どもたち』を取り出し、そして椅子に座り直してから、
「えー結論を先にいいますと、著者のイアン・スティーブンソンが集めた事例の大半は、二次情報の転化であって、一次情報の転生ではありません……何のこといってるのか分からないと思いますが、とりあえずお付き合い下さいね。でいちいち反駁《はんばく》していたらキリがないので、急所をつきましょう。この本の中に、『生まれ変わり型事例の典型例の特徴』という章があり、それが山ほど紹介されてあって、その最後に『若干の変異』として、目立たなく書かれている小さな項目があります。そこを読みますね。前世の人格が死亡するより前[#「前」に傍点]にその生涯を記憶する子供が生まれている事例がいくつかある。この種の事例では、額面通り解釈すれば、本人の肉体が完成し、おそらくはある人格に支配されるようになった後、別の人格にとって代わられたかに見える……これって、変な話でしょう?」
「あっ、同じことが転生ラマでもあったな」
守屋が、口を挟んでいう。
「高僧の生まれ変わりらしき転生霊童を見つけ出したはいいが、どうしても日付が合わない場合があるのね。そんな場合、その子には、護法神が先に入っていて、肉体を守り、それに出てってもらってから、入り直した、そんな説明で胡麻化《ごまか》してるね。実は、歴代のダライ・ラマにもこれが何回かあったんだ。いいかげんな話よ」
竜介も、頷いてから、
「じゃ、スティーブンソンはどう説明してるかというと、――こうしたやっかいな事例を片付ける最も手っ取り早い方法は、日付に記録違いがあったと考えることである」
「ぶわっ、は、は、は、は」
守屋が吹き出して笑う。
「――一部の事例については、正確な日付がはっきりしないことから、この考え方が当てはまる」
「当てはめちゃうのかー」
守屋はさらに茶々をいれる。
「――しかしながら、この種の事例のうち少なくとも十例では、正確な日付が分かっているので、この謎は依然として残る。てなことをスティーブンソンはいってるわけですね。けど彼は、この謎を解くことは永久にできない。前提が間違ってるから」
いうと竜介は、その本をパタンと閉じ、
「では、分かりやすい事例を紹介しましょう」
――再度立ち上がると、書棚から『前世を忘れない子供たち』といった新書本を一冊引き抜いた。
「えーこれはね、英国《イギリス》における生まれ変わりの事例を紹介した本で、変に研究者が書いてないから、逆に、正直で分かりやすいんですね」
……厭味《いやみ》をいいつつ、
「たとえば、『自分の葬式を覚えている女の子』の話ですが、これは一九七〇年代ですね。母親が子供を生んで、マンディと名付けた。けど可哀相なことに、生まれつきの心臓欠陥で、医者からはまず育たないといわれた。それでも半年間は何とか生きたんだけど、けっきょく亡くなってしまった。そのときの気苦労が元で一家はむちゃくちゃになり、母親は夫と離婚した。その後再婚して、次の夫との間に子供が生まれ、その二番目の女の子に、マンディと名付けた……もう、このあたりからおかしいんですね。で、そのマンディが育って二年をすぎたころ、一家が車に乗って、とある墓地の横を通りすぎると、そのマンディが突如、『見てママ、あそこよ! わたしを土の中に入れたところよ!』といい出した。さらに、お棺の中で身につけていたものを覚えているといい、十字架や、バラや、名前を刻んだ銀のブレスレットなどを説明したそうです。さあて、これはどう考えればよいのでしょうか?」
「……ひとり目のマンディからは、何年も経ってるんですよね?」
西澤が尋ねる。
「えー、六年ほど経ってますね」
「そうすると、六年間も魂はどこにいってたんだという話になるから、生まれ変わりだとは、ちょっと考えられませんよね」
「けど、誰か別の子供に宿っていて、その子が死んで、来たのかもしれないわよ」
「そんなあ……」
「これはですね」
竜介はふたりを仲裁するように、
「そのマンディのお葬式のときの情報を、つまり記憶ですが、それを誰が持っていたのか? そのことを考えるとすぐに答えが出ます」
「持っていたのは……母親ですよね」
西澤が、おずおずとだが答える。
「そうです。だから母親の脳から、マンディの脳へと伝わった。それ以外には答えはありません」
竜介は――力強く断言していい、
「先の、イアン・スティーブンソンが集めた事例の場合、その約七割が、事故や事件などで悲惨な死に方をした人が、生まれ変わりを起こしてるんですよ。これは、残された遺族の立場になって考えてみると、その無念さや悲しみは、自然死のそれと比べて、計り知れなく強いと思われます。仮に、悲しみ度数、とでもいいましょうか、その度数が高ければ高いほど、こういった現象が起こりゃすくなるんです。マンディの例も同じですよね。母親は、家庭が崩壊《ほうかい》するほど、嘆き悲しんだわけでしょうから。いえ、そのことが何年たっても忘れられず、嘆き悲しみ続け[#「続け」に傍点]ていたわけでしょう。生まれた子供に、再びマンディと名付けたぐらいなんだから。そのように、その種の記憶が沸々《ふつふつ》としている脳が、子供の脳と繋がってしまうと、ざーとその情報が流れていってしまうわけです。マンディの場合は、実の母親と娘ですが、他人の子供の脳と繋がっても、同様のことが起こります。そして子供の脳が、その情報を自分のことだと錯誤《さくご》しちゃえば、かくして、前世を記憶している子供たちの、誕生です」
「はー……」
西澤は、大きく頷いてから、
「先生、分かりましたよ。だから、二次情報なんですね」
「そう。そして残念ながら、ここにずらーりと並んでいる同種の本の、事例の大半が、この二次情報なんですよ」
「そうしますと、例外的には、本物の生まれ変わりがあるわけですね」
伊藤が、嬉々としていう。
「まあ、そうなりますけど、それは本から事例を引くよりは、チベット密教の奥義を理解していただいた方が、そのことを自動的に理解できるはずです。あそこが目指している究極が、すなわち、本物の転生だからです」
――カシャ。
フラッシュが焚《た》かれ写真が撮られた。竜介がいい顔をしたようである。
「な、なー、すごい話になってきたろう。けど今はまだプロローグの段階だからな」
守屋は、場を盛り上げるようにいってから、
「ちょっと質問な、そのマンディの話は英国《イギリス》だろう。あの国は、輪廻転生しちゃうの?」
「あ、それはね、英国は離れ島で、キリスト教化がすごく遅れたから、ケルト文化が色濃く残ってるんですよ。ケルトは我々と一緒で、転生はするし、幽霊もお化けも妖怪も全部オッケイね。心霊科学協会ができたのは英国だし、十九世紀末から二十世紀初頭にかけては霊媒師がわんさかいたでしょう。だから英国も、幽霊の国なんですよ」
「ところで、一般的にいって、仏教が最終的な目標としているところは、いったい何でしょうか?」
竜介が一同に尋ねると、
「それは、お釈迦さまの悟《さと》りの境地ですよね」
――西澤はいう。
「解脱《げだつ》じゃないんですか?」
――伊藤はいう。
「そら同じもんだろう」
守屋がいう。
「それって、分かってていってるよね?」
「もちろんだよ。俺は英国《イギリス》のケルトはよくは知らないが、アジア文化史[#「アジア文化史」に傍点]だからな」
守屋は妙な言い訳をいってから、
「煩悩や執着心をいっさいがっさい捨て去り、すべては無であり、空《くう》であることを認識すること、それが悟り。そして悟ると、自動的に輪廻の悪循環《くさり》からは抜け出せる、それすなわち解脱。だから表裏一体のしろものさ」
「の、はずだったんだけれど、守屋さんもご存じのように、チベット密教は、その表裏一体性が崩《くず》れていくのね。悟った上で、解脱しない。すなわち輪廻転生をする。そして転生する以上は、よりよき転生をやってやろうじゃないか。それは、六道《ろくどう》のうちの人間界に再び転生することにほかならない……そういった発想に変わっていくわけね。その傾向が一番強いのが、ゲルク派」
「そのとおりよ。かれらは頂点に君臨してたから、死んでも生まれ変わって、再度君臨したいわけよ。ゲルク派にも『死者の書』があって、クスムナムシャというんだけど、これはニンマ派のそれを真似て作ったものね。けど中身は、輪廻の構造論に主眼が置かれてあって、輪廻転生はもはや免《まぬが》れえない絶対の法則、そんな書き方になってる。――見え見えで、すけべえ根性まるだしなわけさ」
ずけずけと歯に衣《きぬ》着せずにいう守屋だが、竜介も首肯《うなず》いてから、
「片や、ニンマ派の『|死者の書《パルドゥトゥドル》』の方は、悟り、すなわち解脱で、そしてやむをえない場合は、よりよき転生を、つまり人間界へ、すると来世で解脱できるチャンスもあるだろう、そんな作りです」
「あのう……」
西澤が手を小刻みに振りながらいう。
「今、ふと思ったんですけど、その悟りですが、無だということを悟って、そして輪廻をしないんだとすると、その魂はどこに行くのかしら……とそのことを思うと、悟った魂というのは、つまり消滅してしまうわけですか?」
「あっ、そのとおりです。日本の密教では、第九識の阿摩羅識《あまらしき》と呼ぶところに、その悟りの境地を置いていますが、そこはしーんと静まりかえっていて、何もない場所です。神や仏なども出てきません。悟った魂は、いわゆる宇宙意識のようなものに溶け込んでいく、そんな奇麗な表現もありますが、実際は無[#「無」に傍点]ですね。それに、転生をしちゃうと、前世の業《ごう》をどうしても持って行ってしまうでしょう。次代の人にその業を負《お》わせるというのは、変な話じゃありませんか。だから、人は死んだなら、魂もきれーさっぱりと消滅してしまいましょう。お釈迦さんはそう奨《すす》めてるんだと、僕は思ってますけどもね」
清らかなる竜介の説法に、女性陣がほうーと感心していると、
「うん、立つ鳥|跡《あと》を濁《にご》さずって感じだな。けどチベット密教は、後をぐちゃぐちゃに濁すわけだ――」
守屋が、話を汚くしていう。
「さて、それでは、具体的な転生への方法論ですね。チラっと話に出ましたが、『死者の書』は宗派によっても、またニンマ派だけでも何種類もあるんです。だから、どれと特定したことじゃなく、分かりやすい部分を適当にとってきて説明しますね」
「それとさ、この『死者の書』というのは、元来は枕経《まくらきょう》だからね」
「……といいますと?」
「人が死んだら、その枕元で読むお経のことさ。けどさ、そんなところで、煩悩を捨てろ執着を捨てろといわれたって、時すでに遅しだろう。だから生きてる間に、勉強しとくわけね」
竜介は首肯《うなず》いてから、
「で、これの勉強法としては、みずから死を体験する、それに越したことはありませんよね」
「そっ! そんなあ?」
女性陣から非難と驚きの声があがる。
「つまり、臨死《りんし》とはどのようなものであるかを、実際に体験してみるんですよ」
そして竜介は、歴史部にも話したヨーガの呼吸法を使った臨死体験(幽体離脱)の修行法を、ひとしきり説明する。また、強引に仮死状態を作る『転移《ポア》の瞑想法』と呼ばれる修行法も、併せて説明する。
――聞き終えると、
「へー、そんなことまでやってるんですか」
女性陣の驚きは、ある種の呆《あき》れへと変わった。
竜介は本棚の方を指さしながら、
「ここにも臨死体験の本がけっこう並んでますけど、そんなの些細《ささい》なものですよね。チベットの修行僧は、それを連日のように実際に体験するわけで、だから、おのずと膨大《ぼうだい》な知識がたまり、それを元にして、あれこれと理屈を考えていったわけですよ。じゃ、その理屈をざーと説明していきましょう。まず風《ルン》……これは風《かぜ》という漢字を当てますが、中国の気功でいうところの気《き》のようなもので、我々の意識を運ぶ、乗り物といった感じです。その風《ルン》と意識が、体の中に何万とある細い管《くだ》の中を循環し、生命活動を維持していると考えます。その管のことを、脈管《みゃっかん》」
「ほら、よくあるだろう。人がヨーガで座禅してて、体の中にいっぱい線が入ってて、花丸がぼこぼこと打ってあって、いわゆるチャクラ図というやつ」
「はい、はい」
……知ってる知ってる、と女性陣は頷く。
「要するに原典がインドだからさ、そのへんのところは同じなのね」
守屋が、要領よく注釈をする。
「……で、通常の生きている状態では、その風《ルン》と、粗《あら》い意識とが活動していると考えます。そして、人に死が近づいてくると、粗い意識は徐々に崩壊していき、風《ルン》が、それまでは真空であった中央脈管へと集まっていきます。その中央脈管というのは、言葉の通りで、体の中央を貫いている管《くだ》ですね。そして、この粗い意識[#「粗い意識」に傍点]というのも、言い得て妙で、この研究室でも脳波計をよく使うんですが、今このようにして喋ってる状態では、脳は活発に活動していて、|β波《ベータは》と呼ばれる、小さくて速い波が出ています。それも脳のほぼ全体域から、ぶわーとたくさん無秩序に出てるんですね。それを脳波計で観《み》てみると、まさに、粗い意識って感じがします」
「そうしますと、その粗い意識が崩壊していくというのは、いわゆる|α波《アルファは》が出るんですか?」
「あっ、それは鋭い着目点ですね。その種のことは、いずれ詳しく――」
竜介は、西澤にいってから、
「先の中央脈管の真ん中に、まあ、心臓のあたりだとでも思って下さい。そこに、上半分が白で下半分が赤の、小さな玉があるそうです。その玉のことを、不滅の心滴《ティグレ》と呼びます」
「――不滅のティグレ。なかなか格好《かっこ》いい名前だろう。これが、いわゆる輪廻をする主体さ」
「ま、守屋さんのおっしゃる通りだけど、実際にここにそんなものがある」
竜介は胸に手を置きながら、
「……てわけでもなく、そう考えるってことですね。そして、この不滅の心滴《ティグレ》の中には、微細な意識が、封入されていると考えます。その不滅の心滴は、通常は眠りについていて、体をめぐっていた風《ルン》がそこに集まってくると、眠りから目覚めます。そして風《ルン》が、そこにすべて集まっちゃうと、粗い意識の方は、乗り物がなくなるから活動ができなくなって、完全に崩壊する。それを人の死だと……考えます。つまり、この時点で心臓が停止した、そう考えればいいでしょう。けれど、心停止、すなわち脳死ではありませんからね」
「じゃ、そこで、さっき説明していただいた、幽体離脱のような状態に入るわけですね。脳が酸欠になりますから」
「そういうことですね。でここが、仏教でいうところの、四十九日の入口です。そして七日|毎《ごと》に七回、裁きの王が出てきて、おまえは地獄行きだーと裁かれたりします……が、これはあくまでも物語で、その四十九日のことを、中有《ちゅうう》といいますが、この中有は、日数はとくに決まってなくて、修行を積んだ高僧ならば、中有に入った瞬間、転生なり解脱なりができる、なんてことも書かれています。それに四十九日もの間、我々の脳はとうてい保《も》ちこたえられませんからね」
「じゃ、どの程度だったら、心臓が止まってからも脳は生きていられるんですか?」
「うーん……適当《アバウト》で申し訳ないですが、数十分[#「数十分」に傍点]は生きてます。まあ、お墓に埋められてから生き返ったような例もあるし。それに、さっき説明した『転移《ポア》の瞑想法』をやってる人は、心停止後も、脳は普通人よりも長く生きられるだろうと想像されます。つまり酸欠の訓練を、日頃しているわけで、脳もある程度は順応するでしょうからね。けど、そう何目もというわけにはいかない……だろうと思われますので、その限られた時間内に、転生するならよりよき転生を、その決着をつけなきゃなりません」
「ひとつ質問でーす」
――伊藤がいう。
「訓練をしていない、わたしたち、普通人の場合には、転生はできるんですか?」
「あーそれはですね、僕が思うに、できないだろうと想像されます。つまり悟ろうが悟るまいが、普通人の場合は、死ねば、魂は消滅だろうと思います。まずもって、普通人にとっては臨死は初体験ですから、パニくってしまうでしょう。そうはならずに平常心でいられるようにと、チベットの密教僧は日夜訓練してるわけで、それに、脳が生きてられる時間も延ばしているわけで、もう様々な点において、条件がちがいすぎます。……輪廻転生《サンサーラ》の思想があるじゃないか、世界中に、とそう思われるかもしれませんが、その元となっているのは、先の、前世を記憶している子供たちなわけです。この現象はけっして稀《まれ》ではなく、だから思想が生まれました。けど、これは説明したように二次情報の転化にすぎません。そして、いざ本物の転生をするとなると、それはそれは難しい話になってくるわけですねえ」
「……全体像が、見えてきましたよ」
西澤が、少し嬉しそうにいう。
「わたしたち一般人は、悟っても悟らなくても、生まれ変われず。けど、チベットの密教僧は、同様にどちらに転ぼうが、転生ができるような訓練をする、そういったことですね」
「そのとおりです。魂の転生もしくは消滅と、悟りとは、別個のものなんです。これ常識的に考えればそうなんですよ。悟るというのは、心のもちようであって、かたや魂の転生は、魂を情報の塊《かたまり》だと考えると、その情報をいかにして移動させるかといった、具体的かつ物理的な話で、もともと次元がちがうんですよ」
「本末転倒なわけさ――」
守屋が、短く悪態をついた。
「さて、不滅の心滴《ティグレ》ですが、その小さな玉がパカっと割れ、その中から微細な意識が、風《ルン》に乗って外に出て、様々な情景を見る……ベッドで横たわっている自分の屍体《したい》が見え、そのまわりで嘆き悲しんでいる親族たちの姿も見え、その声も聞こえてきます。耳に入ってきて、神経もまだ生きているから、脳に届きますのでね」
「その、悲しんでいる親族の姿が見えるというのは、どうやって見てるんですか?」
「それは、声が聞こえれば、近くに誰がいるのか脳は判断できるでしょう。あるいは、匂いからでも可能です。仮に、花の匂いがすれば、脳に保存されている匂いの図書館《ライブラリー》から、同じ花を見つけ出してきて、その映像が出せます。もしくは、目がうっすらとでも開《あ》いていれば……」
「あっ、脳は分かりますよね」
「……それらの情報を元にして、脳は、精緻《せいち》な映像空間を構築するんですね。けど、これは脳が脳なりに辻褄合わせをして作ってますから、現実百パーセントというわけにはいきません。臨死体験の本などを読むと、微妙に食い違ってることが、分かるはずです」
「先ほどの、目がうっすら開いているといった話ですけど、亡くなった人の目が開いていれば、ふつう閉じてあげる。そういったことをしますよね。けど、これは逆に、開けてあげた方がいいんですか?」
「いや、目が開いてると映像が入ってきて、それを処理しようと、脳には相応の負担がかかりますよね。だから残された僅《わず》かな時間を、そういったことに忙殺されるのは、可哀相な気も」
「けどさ、そいつに何か恨みでもあって、復讐《ふくしゅう》を果たしたいんだったら、絶好の機会《チャンス》でもあるよな」
……E・A・ポーの小説がごとくに、守屋は恐ろしいことをいう。
「えー、医者は、一般的に心臓が止まれば、ご臨終ですといいますよね。そして親族が、その人の名前を呼び、叫び、わーと号泣しちゃいますけど、これも、臨死の映像として見えてしまいますので、死にゆく人にとっては、つらいものがありますよね。だからといって、親族がにこやかな笑顔をしているというのも変ですし……なので、心臓は止まっても、脳は暫くは生きているといったことを踏まえて、それなりの儀式があってしかるべきですよね。キリスト教文化圏では、牧師が臨終に立ち会ってくれて、枕経なりを読んでくれます。チベットも同じく。けど、日本は、こういったことはあまりしませんよね。それは日本の仏教僧が、怠《なま》けてるからですが。だから親族としては、そうは嘆き悲しまずに、ありがとう……の言葉でもかけてあげて、楽しかったころの思い出話を皆で語る、ぐらいがよいのではと、僕は思いますけどもね」
この種のいい話をするのは、竜介は上手である。その前世は、彼が最も毛嫌いしているキリスト教の牧師だったのかもしれない。
「あー、話を元に戻しますね。そうやって、外に出た微細な意識は、自分がまったく新しい体を身にまとっていることに気づきます。その体のことを幻身《げんしん》、あるいは、ギュルといいます。その幻身《ギュル》は素晴らしくてですね、壁はすり抜けられるし、空は飛べるし、思ったところに瞬時に移動できるし、もうありとあらゆる超能力を獲得したかのように感じられます。そして、死の光明《こうみょう》と呼ばれるものを体験し、それを譬《たと》えの光明から、勝義《しょうぎ》の光明へと移行させていく、といった話になりますが、これは空性《くうしょう》観を認識する、つまり悟りの段階《ステージ》ですね。このあたりで、悟れる機会《チャンス》があると考えてるわけです……が、これは再再《さいさい》いうように、どっちに転んでも関係ありませんから、省略しましょう」
「けどさ、転生したいと考えること自体が、執着心を捨て切れてないんだから、要するに、悟ってないのよ」
そのとおりだと竜介も思いながら、
「さて、いよいよ転生ですね。これまで説明してきた話は、いわゆる四十九日つまり中有《ちゅうう》の、入口付近の出来事なんですよ。じゃ、その中有からの脱出、つまり出口[#「出口」に傍点]は、いったい何でしょうか? 生まれ変わる場合の――」
「出口ですかあ……」
「何かしらね……」
女性陣は、たがいの顔を見合わせている。
「ほら、あれだあれ、皆が大好きなもので、かなりHなやつ」
――守屋が大ヒントを出す。
「じゃ、SEXですか?」
伊藤があっけらかんという。
「ええ、つまり、それが出口ですね」
少し辟易《たじろ》ぎぎみに、竜介はいってから、
「そしてこのあたりになってくると、もうゲルク派版『死者の書』の独壇場[#「独壇場」に傍点]なんですが、その説明によると、父と母になる予定の人の……転生して、誰かの子供になるわけですからね、その来世の父と母がSEXをしているときの映像が、まず見えてくるそうです。そして、その父母のどの部分から、どのようにして侵入するか、そういったことが解説されています」
「……侵入ですかあ?」
「そうです。僕にいわせれば、これは明らかなる不法[#「不法」に傍点]侵入ですね。その父母たちに気づかれることなく、どうやって自分の魂をもぐりこませるか。雰囲気としては、こそ泥や詐欺師《さぎし》を想像して下さい」
竜介は、襤褸糞《ぼろくそ》にいい、
「で、ここにずらりと並んでいる臨死体験の本の中で、心停止や瀕死《ひんし》の状態で幽体離脱を体験した人が、他人がSEXをしてる映像を見た……なんて話は、僕の記憶では一例《ひとつ》もなかったはずです」
「そうしますと、その『死者の書』で説明されている話は、いわば、御伽噺《おとぎばなし》みたいなものですか?」
「いえいえ、ところが御伽噺《そう》じゃないんです。話の最初のころに、いみじくも、守屋大先生がおっしゃってましたでしょう。何とかタントラ――というやつを」
「それって、SEXの奥義ですよね」
伊藤が朗《ほが》らかにいう。
「ええ、それをご存じだったら話は早いですね。つまり、中有《ちゅうう》の入口は、転移《ポア》の瞑想法に類《るい》するもの。そして出口は、無上瑜伽《むじょうゆが》でも秘密集会《ひみつしゅうえ》でも何でもいいですけど、要するに性奥義《タントラ》。このふたつを徹底的に修行することによって、転生を可能たらしめようとする。それがチベット密教の、最終奥義なわけですよ」
伊藤と西澤が、ふたりして頷き合ってから、
「雰囲気が、分かってきたわよね」
「分かってきたけど……やっぱりわたしたちには、生まれ変わりは無理っぽいわよね」
「そりゃ無理さあ。転移《ポア》の瞑想法なんて、チベット僧の何人かは死んでそうな、一番危なっかしい修行法なんだから。――選《よ》りにも選って」
いうと守屋は、竜介をひと睨みする。
「えーですけど、最終奥義の真[#「真」に傍点]の秘密[#「秘密」に傍点]は、その瞑想法じゃなく、実は、タントラの側にあるんですよ」
「……と、いいますと?」
「それにチベット僧って、女性と実際にSEXをするんですか?」
「ええ、実際にやってみないと、その秘密を体得[#「体得」に傍点]できませんからね。一九五〇年以前は、日常的にやってたはずです」
「それは……どんな秘密なんですか?」
西澤が真顔で聞いてくる。
「それはですね、SEXをやっている最中の男女の脳に関係します。男女ともに、かなり特殊な状態になるんですよ」
「おっ、そんな話俺初聞きだぞう」
守屋が苦情《クレーム》ぎみにいう。
――ふたりはよく一緒に飲みに行き(稼ぎが全然ちがうので竜介は十割|奢《おご》ってもらうが)、あれこれと話をしており、その酒の席で聞いたことがないと、守屋は不満を漏らしているのだ。
「これはさ、SEXの研究者が、そういうのが多少はいるだろう、それが最近たまたま見つけた話なんだ。で脳系の学者は、たぶん追試はしてないだろうと思う……けど、間違いはない話ね」
「それは、どういうふうに特殊なんですか?」
――西澤が急《せ》かして聞いてくる。
「それはですね、愛し合っている男女。そうでない男女。それぞれの、SEXの最中の脳波をとれば、一目瞭然で答えが出ます――」
「ええー?」
「どういうこと?」
女性陣は一様に驚き、
「それは、いわゆる絶頂[#「絶頂」に傍点]に達していてもですか? 両方の男女とも?」
――伊藤が尋ねる。
「そうです。しかも、その絶頂のときに脳波に明らかな差が出るんですよ」
よどみのない声で、竜介はいった。
「あらー……」
「ほんとかしら……」
「愛が脳波にあらわれるなんて……」
女性陣は、顔を見合わせて雀《すずめ》のように囁き合っている。
守屋が、竜介に問いかけてきた。
「そうだそうだ。タントラの実践は、気心の知れた相手とやるべし、そんなことが書かれてあった覚えもあるな、つまりそういうことか?」
「そういうこと。けど、愛し合ってる男女《ふたり》とまでは、書かれてないよね」
「そらそんな表現はできんだろう。タントラは文学じゃないんだから」
「それにさ、あの真言立川流の場合も、パートナーは、愛し愛されている女性、これはどこかに書いてあった気がするな。だから髑髏本尊は出鱈目なんだけど、ここだけは当たってたのね」
「するとさ、愛し合ってる方の脳波に、特徴が出るんだろう?」
「もちろんもちろん」
「けどさ、男は射精するだけなんだから、愛してる愛してないで、脳波に差は出ないだろう?」
「いや、意外や意外、男《おとこ》・女《おんな》ともに差がでるのね」
「へー……?」
守屋も女性陣同様で、天井を見やり椅子の背を軋《きし》ませながら驚いていると、
「――火鳥先生。その脳波をとる実験なんですけど、やっていただけますか?」
西澤が、顔を向けていい出した。
「ええ、脳波とるぐらいだったら、簡単ですけど」
ふたつ返事ぎみに竜介はいってから、
「いや! ここでは絶対[#「絶対」に傍点]に駄目[#「駄目」に傍点]ですよ」
――事の重大《ヤバ》さに気づいていう。
「はい、それはもちろんです。場所はわたしたちの方で設定いたしますので。けど、その脳波計というのが、どの程度のものなのか?」
「それは……研究室《となり》にあるんだけど」
その脳波計は大きすぎるし、元来持ち出し禁止だ。それに頭に十数本もの電線《コード》をつけて、何をいたすというのも無理がある……
「あっ、電波で飛ばす小さな脳波計がありましたね。それは複数チャンネルが使えるから、男女ふたりを同時にモニターできて、ちょうどいいですね」
……けど、それは最近使ってないし、どこに仕舞われてるかな、と竜介は心配しながらいう。
「じゃ、さっそくですけど……」
西澤は革の手帳を開きながら、
「これはグラビアよね」
「面白いから六頁はとれるわよ」
「じゃ、締め切りはこのあたりよねえ」
などと伊藤と相談してから、
「先生。今週の土曜日というのは、いかがでしょうか?」
「ええ、僕はかまいませんけど……ところで、ひとつ質問。愛し合ってる男女《ふたり》はいいとして、愛し合ってない男女《ふたり》は、どうされるんですか?」
素朴な疑問を竜介が聞いてみると、
「先生、そんなことは任せて下さいよ」
伊藤が手を振って、蜘蛛女《くもおんな》のごとくにいった。
「……転生の秘密を解き明かす、そこまで話を進められるかどうかは別にしまして、愛し合ってる男女と、そうでない男女とでは、SEXの際の脳の反応がちがう。その話だけで、巻頭を飾れますので」
西澤が、記事の趣旨を嬉しそうに説明していう。
「じゃ、俺は用無しかあ、洋梨《ラフランセ》だなあ」
与太をまじえて、拗ねぎみに守屋はいう。
「そんなことありませんよ守屋先生。それに、そのチベットの高僧には、正式にインタビューを申し込んでみますので、その際には是非、先生に対談のお相手を」
「いやー、それはさっきの友好協会との電話の雰囲気からいっても、無理っぽいぞう」
「――あ! そのチベットの高僧《リンポチェ》は、そもそも何しに日本に来てんの? 僕はその話は聞いてないぞう?」
竜介が駄々を捏《こ》ねぎみにいう。
「それはさあ」
守屋がいかにも意味ありげな顔で、
「この手の話を、おまえからひと通り聞いてからと思ってさ。案の定、おいしいところを聞かせてくれたよ。俺がそっちに誘導もしたんだけどな」
――手の内を明かしつつ、
「でさ、その高僧《かれ》は、日本に、いわゆる転生ラマを、この場合は僧侶《ラマ》とはいえそうにないけど、ともかく転生者を探しに来てるのよ」
「あー――」
竜介は分かったような顔をし、
「あれは最初どこでしたっけ、確かスペインに出て、そして欧羅巴《ヨーロッパ》にちょこちょこ出て、台湾《たいわん》にも出て、最近、米国《アメリカ》にも出たという噂《うわさ》あるよねえ」
――出た出たと、幽霊のようにいう。
「そんなに、あちこちの国から出て[#「出て」に傍点]るんですか?」
西澤が、言葉を合わせて聞く。
「そう、そういった転生霊童が出ると、わーとその国が盛り上がるでしょう。つまり布教活動に使えるわけさ。チベット密教はそういうところすごく上手なのね。転生ラマだって何千人といるしさ。いよいよ次の布教目標《ターゲット》は日本……て感じね」
「いやいや火鳥、そうじゃないんだ。そういった並[#「並」に傍点]の話じゃないから、おまえんとこに来たの。それにニンマ派の僧侶が、転生者を探しに来てんだよ。変だと思わない?」
「あ……いわれてみれば」
「おまえ自分でいってたろう。ニンマ派の『死者の書』の目標は解脱[#「解脱」に傍点]で、だから転生ラマも、あそこはほとんど出さないのよ。でニンマ派というところは、伝統的に在家《ざいけ》の僧侶が多くてね、それは廃仏のときに地下にもぐった名残《なごり》でさ、でその在家僧侶の家から、よその宗派が、転生霊童だといって子供を攫《さら》っていく、もっぱらそういう構図だったのね」
守屋は女性陣に説明してから、
「でさ、ニンマ派南流の総本山、ミンドルリンという寺、知ってるだろう?」
「あー、インド側に建て直したんじゃないの。チベットのそれは、瓦礫《がれき》でしょう」
もちろん知ってて、竜介は厭味でいう。
「今、中国が頑張って建て直してるよ。過去の歴史を消そうとね。昔の面影《おもかげ》は全然ないようだけど、とりあえず形はあるみたい」
「そんなにひどく……壊されたんですか?」
「うん、チベットの僧院の九十数パーセントを、完璧に破壊した。で大きい寺から順に建て直していってるんだけど、数が膨大だから、おっつかないのよ。だからダナンの谷なんかは、まだ谷ごと封鎖してて、外国人《かんこうきゃく》は入《はい》れない。ヤルルンの谷の方は王墓《おうぼ》がある関係で、いちはやく整備したようだけどね。で我々も、中国の学者とは交流があるので、この話は出るのさ。で中国の一般の人たちは、大反省してるのよ。ごめんなさーいって心の中では皆思ってんのよ。もともと中国は、チベット寺[#「寺」に傍点]の檀家《だんか》であって、それで何百年もうまくやってきたのに、その関係を一方的に破棄《はき》したわけだからさ。中国共産主義という別の宗教が芽生えたためにね。……けど、トップの連中は、公式見解ではいまだに反省してないよ。それはいずこの国も同じでさ」
守屋は、アジア文化史の教授らしき私的見解を述べてから、
「でさ、そのミンドルリンが建てられたときの話なんだけど、火鳥はどの程度知ってる?」
「うーん、あの寺は比較的新しくって、一六〇〇年代で、そして建てたのは、かの有名なテルダク・リンパ……それぐらいだよ」
「それそれ、そのテルダク・リンパにまつわる伝承に、関係するらしいんだけどさ」
「伝承……何だっけえ」
竜介は腕組みして、考え事をはじめた。
その合間に守屋が説明する。
「皆も、ポタラ宮は知ってるだろう。丘と合体してるように建ってるど[#「ど」に傍点]でかい宮殿な。それを作ったのはダライ・ラマ五世だけど、話にも出た埋蔵経典《テルマ》を、けっこう掘り出した人でもあるんだ。つまりゲルク派だけど、ニンマ派よりだったわけね。その五世の師匠にあたるのが、ミンドルリンを建てた、テルダク・リンパ。そして、このダライ・ラマとニンマ派の関係は、その後もずーと続くんだ。チベットには法王とは別に、国家神託官――ネーチュン・クテンパというのがいる。仏教なのに変だと思うかもしんないが、これは神の託宣《ことば》をとりつぐ人間ね。でダライ・ラマが判断に困ったようなときには、その彼にお伺いをたてるの。のみならず、ダライ・ラマが亡くなって次の転生者を決めるのも、その彼のお告《つ》げによる。でその国家神託官は、代々ニンマ派の僧侶がやってるわけさ。あのチベット動乱のとき、ダライ・ラマは巧みにインドに逃げたろう。そのときも、このネーチュン・クテンパが付き添ってたわけ」
「その……テルダク・リンパの伝承というのは、彼の娘のこと?」
思い当たるふしがあったらしく、竜介はいう。
「それそれ、俺には名前すらもよく分かんないんだけど?」
「えー確か、ミンギュル・ペルドンという名前さ」
「それって、どんな伝承なんだ?」
「いや、僕も詳しくないよ」
竜介は、お断りをいってから、
「――テルダク・リンパは、それ以前のニンマ派のカーマやテルマなどのすべての聖典類を集大成して、その中から、最終密儀なるものを、娘のミンギュル・ペルドンに相伝した。そういった伝承なのね」
「その、最終密儀[#「最終密儀」に傍点]とやらは?」
「それはもう、今日本に来ている、そのニンマ派ナンバー|2《ツー》の高僧《リンポチェ》さんに聞いていただくしかないよ。けど、その伝承によると、娘のミンギュル・ペルドンは、そもそも千里眼の|持ち主《エキスパート》、だったって話だけどもね」
「思ったとおり[#「思ったとおり」に傍点]。やっぱりそっち系の話か」
「そう、そっち系の話……というより、こっち系の話ね」
「千里眼、ていいますと?」
伊藤が惚《とぼ》けた表情で聞いてきたので、
「映像が見えるタイプの超能力者ですね」
通り一遍の説明をし、
「すると[#「すると」に傍点]、そのミンギュル・ペルドンが転生してて、それを日本に探しに来てるってわけ?」
――土門くんの店にその高僧《リンポチェ》が現れたのだから、竜介としては胸騒ぎがする。
「うん……そういったことみたいよ」
守屋は、詳しくは話を聞けていないらしく、あやふやにいう。
「その転生者は、代々女性なの?」
「いや、そのへんも全然わかんない。俺が話したチベット友好協会の人だって、詳しくは知らないのよ。それに先代がいつ亡くなったのかも、チベット動乱の後、ぐらいしか分からない。けど、その転生者を探そう探そうと長い年月ずーと待っていて、ようやく許可が下りた。それは間違いないみたいね」
「じゃ、転生霊童[#「童」に傍点]ではなく、大人になっちゃってるじゃない……」
「年数的にはそうなるよな」
竜介は、嫌な予感をますます高めつつ、
「けど、わざわざ日本に来てるぐらいなんだから、それなりのお告げがあったんでしょ?」
「うん、お告げに関してはチラッと聞いた」
「お告げといいますと?」
伊藤が、再度割り込んできていう。
「転生ラマにはお告げがつきものなのよ、聖なる湖に文字が浮かんだり、誰に生まれ変わると遺言を残したり、夢のお告げがあったりと、色々あるんだけど、都合のいいように解釈してるだけ……」
守屋は面倒臭そうに捲《まく》し立ててから、
「その、テルダク・リンパの娘の場合のお告げはさ、まずひとつ、日本に転生する、これはいうまでもないよな。そしてもうひとつあって、こちらが奇妙なんだけどさ、竜に生まれ変わる、て話なのよ」
「なっ、何だって……」
アマノメの神が籍をおいている桑名《くわな》郡・多度《たど》神社の伝承では、彼(天目マサト)はひとつ目竜の化身なのである。
「りゅ……竜だってえ」
竜介の混乱は、絶頂を迎えようとしていた。
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11
――土曜日。
歴史部の謎解きの旅は、小田急《おだきゅう》電鉄の新宿駅・改札《かいさつ》前に朝九時の待ち合わせである。まず|片瀬江ノ島《かたせえのしま》まで行き、江ノ島電鉄を使って鎌倉へと入る、そういった予定なのだ。それに一日ではとうてい見て廻れないから、行けるところまで行こう、とそんな話にもなっている。
それに九時集合とはいっても、まな美は埼京線《さいきょうせん》一本で約二十分と楽勝だが、土門くんは岩槻《いわつき》だから、朝の七時四十分に家を出ないと間に合わない。上野広小路の店の方からだったら、新宿には約二十分で行ける。けど、枕元に……が出て以来、小心者《こわがり》の大男は店での寝泊まりは避けているのである。
「あー、ねむちゃいねむちゃい」
そんな関西幼児弁を吐《は》きながら、ど派手な黄色のスタジャンを羽織《はお》った土門くんが現れて、歴史部の全員が揃ったところで改札をくぐった。
乗る列車は、九時十分発の特急ロマンスカー『えのしま77号』の赤銅色《シャンパンゴールド》の車体だ。終点の片瀬江ノ島駅まで一時間ちょっとで運んでくれる。
「わっ、七七号とは縁起のええ数字やんか」
嬉しそーに土門くんはいい、そして指定席の切符を見て、
「ありゃー三号車の、またしても十三番席かあ」
まな美が、わざとに選んで渡しているのである。
そして椅子をひっくり返して四人がけにし、その番号とは関係なく、土門くんは通路側に座らされる。長い足が邪魔だからだ。――隣の窓際の席にマサト、その前にまな美、そして隣の通路側の席に新入部員の水野弥生《みずのやよい》が座った。
「トランプ……します?」
その弥生が手廻しよく、古い世界地図が印刷されてあるカーキ色の背負鞄《リュック》から取り出していう。
「おっ、さすがは歴史部やなあ」
その古地図柄の背負鞄《リュック》を指さして土門くんはいう。
まな美も、それは百貨店で見たことがあり、ブランド名は覚えてないが、超[#「超」に傍点]高級品であることぐらいは知っている(まな美にとっては)。
それに弥生は、使い勝手のよさそうなベージュのウインドブレーカーに同系色の濃いめのスラックス、そしてシミひとつない純白のレザーのスニーカーで足元を固め、まるでファッション誌から抜け出してきたような出《い》で立《た》ちだ。
片やまな美はというと、色|褪《あ》せた藍染め作業服《ジーンズ》の上下に、栗の皮《かわ》と実《み》のような二色|柄《がら》の毛織物《セーター》を中に着ている。それは母《ママ》が数日前に編み上げたもので、せっかくだから着ていってよ……と強要されたから仕方なく袖を通したのだが、あたかも『先祖の霊毛《れいもう》』で編まれたような色合いだ。
「土門くん、その後幽霊は出た?」
トランプはやんわりと無視して、まな美はいう。
「そういう姫かて、その後出はりましたあ?」
うん? 幽霊……
「そうそう、あの小泉八雲の古い本は、ずーと枕元に置いているんですけど、何も出てきませんよ」
弥生が、少し不服そうにいう。
次なる実験台は彼女になっていたようだ。
……けど、自分がちょっと顔を出していない間に、歴史部ではさまざまなことが起こっているんだなとあらためてマサトは思う。
ひょろろろろろ〜
発車のベルが鳴って、列車はしずしずと動き始めた。
そんな歴史部の一行《いっこう》から少し離れた通路側の席に、新聞を手に持ち、目立たない茶色のジャケットを着てはいるが、いかにも敏捷《びんしょう》そうな体つきをした好青年が座っている。――桑名|政嗣《まさつぐ》である。アマノメの移動の際には、側《そば》に必ずといっていいほど陰《かげ》がつき従う。だがまな美や土門くんたちに露見《バレ》ないようにするにはそれなりにひと苦労だ。それにアマノメの護衛は政嗣《かれ》ひとりなどでは……もちろんない。
「じゃ、本は関係ないのかもしれないわね」
まな美はいう。
「そやったら、チベットのお爺《じい》さんの方かな。あの二色|柄《がら》した服の、リンポ……」
土門くんとしては、もうどうでもええのやけれど、とりあえず話を合わせていう。
……が、チベットのお爺さん? 二色柄の?
マサトとしては思い当たるふしがあった。何日か前だけれど、そういった人物が、眠っていたときに見た夢の中に……出てきた覚えがある。
「リンポチェでしょう。土門くん同じこと何度いわせるのー」
「それそれー、そのリンポチェさんとな、こないだ店の近くですれちごうたで。遠くからすぐ分かったんやけど、同《おん》なじ道を前から歩いて来はって、同《おん》なじよーな服を着てはった人が何人も一緒やったから、知らんぷりしよー思《おも》てすれちがったんやけど」
とそこまで喋って土門くんは止《や》め、皆の頭ごしに窓の外を見やる。
「ええ?――その続きは?」
まな美ならずとも、噛みつきたいところである。
「いやあ、えらいゆっくり走ってるから、この電車こわれてへんかなー思て」
「壊《こわ》れてなんかないわよ! 小田急っていつもそうじゃない。土門くんもよく使うくせに」
……下北沢へはよく行くと、聞いたことがある。
「そうやかて、自分が乗るんは急行やんか。これは特急やろう?」
「特急も急行も関係ないの。線路が暫《しばらく》は曲がりくねってるんだから、スピードを出すとそれこそ壊れるでしょう。――で[#「で」に傍点]、続きは[#「続きは」に傍点]?」
まな美が、怖い顔をして促す。
「えーそいでもって、自分は知らんぷりをしながら、そのリンポチェさんも真っすぐ前を見て歩きながら、そしてふたり[#「ふたり」に傍点]はすれちがった……はずやねんけど、そのリンポチェさんが頭を下げはったんや。ぺこっと。けど実際は、そんなことはしてはらへんねんで。そう自分には感じられたんや。そいで頭を下げはったときに、立ち止まりもしはったんや。けど実際はどう考えたって、絶対[#「絶対」に傍点]に立ち止まってへんねんで。皆と一緒につーと歩いて行きはった。自分にだけそう感じられるねん。もう説明のしようがない[#「ない」に傍点]……」
語尾を震わせて、土門くんはいう。
「ふーん、夢でも見たんじゃないの、といいたいところだけど」
あれこれと竜介《あにき》から教えてもらった感触からいっても、ありそうな話だとまな美も思いつつ、
「その老僧《リンポチェ》さんには、わたしも一度会ってみたいわよね」
本心からの感想を述べた。
……会えるかもしれないよ。今日。
マサトはそんなことを思った。
列車は、下北沢をすぎた辺りから本来の特急らしく驀進《ばくしん》し、またたく間《ま》に(土門くんが冗談を連発しまな美が十回ほど怒ってる間《あいだ》に)終点の片瀬江ノ島駅についた。
プラットホームに降り立つと、
「なんか変な臭いがするぞう……あっ、これが潮《しお》の香りというもんか」
山猿のごとくに土門くんはいい、多数の降客とともに改札をくぐって、そして外に出て振り返ってから、
「うわっ、趣味が悪い……」
いつものように感想を述べる。
その片瀬江ノ島の駅舎は赤や緑の原色のペンキでべたーと塗られた竜宮城《りゅうぐうじょう》の形をしているのだ。
そこから先は土曜日ということもあってか、ぞろぞろと人の波ができていた。歴史部の一行もその人波に乗って、境川《さかいがわ》にかかっている橋を渡り、そして江ノ島が真正面に見える一本道に入った。江ノ島はこんもりとした山のようにも見える周囲三キロほどの小島である。木々は色づき初めてはいるが、紅葉《こうよう》の絶頂《ピーク》までにはまだ間《ま》があるようだ。
「そやけど、遠くまで来たいう感じするなあ。朝出るときは雨が降りそうな天気やったのに、ここに来たら見渡すかぎり秋の青空やんかー、かもめが飛びまわってるし、白い帆のヨットもいっぱい浮かんでるしー」
海の男を気取って山猿《どもん》くんはいうが、
「ヨットはその通りだけど、かもめが黒い[#「黒い」に傍点]わよ土門くん?」
「やー自分もいった手前、白いかもめはどっかおらへんかーと探しとんやけど、おらへんぞう」
そのへんの空をわんさか飛び廻っている黒いそれは、どうしたことか鳶《とんび》と烏《からす》である。
「ふ、不吉なあ……」
朝から早々、そんな縁起でもないことを土門くんは口走る。
一本道の参道は東京ディズニーランドのごとくに整備されてあって、そのとっかかりの左右に、竜をかたどった大きな白い石の灯籠《とうろう》が置かれている。
「これ狛犬《こまいぬ》さんの代わりやな。片っぽは口に金色の玉をくわえとって、もう片っぽは口をとじとうし、つまり狛犬さん、あーうん」
土門くんが嬉しそうに解説していう。
「江ノ島は、竜が棲《す》む島だそうですよ」
下調べをしてきたらしく、弥生はいう。
さあて、どんな竜がいるのかしらね……まな美の考えているそれは、弥生が想像している竜とは少し違っているようだ。
それに、三人のときはまな美が先導して歩けばそれでよかったのだけれど、四人だとそうもいかないから、土門くんを先頭に立てている。すると必然的にリズム感が悪い。長足《ながあし》を利《り》してすたすた歩くかと思うと、突如立ち止まって、妙に感動したりもするからだ。江ノ島の手前の弁天橋を渡っていると、右手側に間近に迫ってきている波立った海を指さし、
「おっ、ぱしふぃっくおーしゃんやんかあ」
……そんな感じである。
さらに左手側の江ノ島大橋を見て、
「これどんどん車が入って行きようけど、先は行き止まりやろ?」
当たり前のことを、不思議そうな顔をしていう。
江ノ島に渡ると目の前に、緑青《ろくしょう》が吹き出した青銅の大鳥居が立っている。その先に続く坂になった参道は道幅《みちはば》がせまく、早くも下《くだ》ってくる人と、これからの参詣客とで、さらにいっそうの混雑ぶりだ。生《い》け簀《す》に舟の形をした竹籠《たけかご》に盛って栄螺《さざえ》や蛤《はまぐり》などを売る海産物店を始めとして、土産物屋《みやげものや》がずらーりと軒を並べている。
「あら、ドリームキャッチャーが売られてますよ」
店先のそれを見つけて、弥生が少し嬉しそうにいった。その横にはドラえもんのぬいぐるみも置かれている。
参道を少し登ると、絵が達者なことで知られる芸能人の小洒落た店があった。というより美術館[#「美術館」に傍点]らしく、しっかと入場料を取る。さらに少し行くと、
「おっ、射的場があるやんか。スマートボールもあるぞう」
遊びたそうに土門くんは立ち止まるが、まな美がその背中を突っ突く。
場所柄、貝細工を扱っている店も多く、ぶっくらと膨《ふく》らんだ針千本《はりせんぼん》の剥製《はくせい》なども置かれている。
そういった賑《にぎ》やかで雑然とした店並みを抜けると、赤い大鳥居が立っていて、その先の石段の上には、白くて大きな竜宮門がぽっかりと口を開けている。
――エスカレーターを四つ昇《のぼ》りますと頂上に。
そんな案内が拡声器《スピーカー》を使って連呼されていた。
「おっ、そんな便利なもんがあるんか?」
「乗ってもいいけど、ほとんど意味がないわよ。どちらにしても、奥津宮《おくつのみや》まではかなり歩かないと行けないんだから」
それに、もちろんエスカレーターは無料などではなく、健脚の高校生らが使うべきものではない。
歴史部の一行《よにん》は、その竜宮門をくぐる。
さらに石段を登った先に、そこそこの大きさの本殿(拝殿)を中心にして、幾つかの社殿があった。
「ここが辺津宮《へつのみや》ね。そして江島《えのしま》神社の本社《ほんじゃ》ということになってるわ。建てたのは三代将軍の源|実朝《さねとも》で、建永《けんえい》……元年のことね」
「一二〇六年やな」
土門くんはいつものように注釈してから、
「ちなみに祀《まつ》られとおんは、多岐都《たぎつ》比賣命《ひめのみこと》さんや。これ、頑張って覚えたんやでえ」
……恩着せがましくいう。
一行は、お賽銭《さいせん》を投じて鈴を鳴らし『二礼二拍手一礼』の型通りの参拝をすませてから、左側に建っている八角形をした(いわゆる八角堂の)奉安殿《ほうあんでん》へと歩を進める。ただしまな美が、
「うーん中に入るのは、今ひとつ気が進まないわ」
と顔を顰《しか》めながら。
その奉安殿は赤と白の小じんまりとした建物だが、屋根の裏の扇垂木《おうぎだるき》も赤と白で、軒支《のきささ》えの雲の形をした|斗※[#「木+共」、第3水準1-85-65]《ときょう》にだけ緑や青の極彩色《ごくさいしき》が入り、それなりにきらびやかだ。そして中には……
「これかあ、うわさの弁天さまは」
見るなり、土門くんがテヘヘーといった顔をする。
……琵琶《びわ》を手に持って、青い髪でピンク色の肌をした、なまめかしい姿の裸弁才天が安置されている。
「となり[#「となり」に傍点]。この隣の方が、実朝が寄進したといわれている弁才天ね」
口を尖《とが》らせて、まな美はいう。
隣にもう一体別の弁才天が置かれてあり、そちらは古木《こげちゃ》の色をした、手が八本のそれである。
「そうやけど、同《おん》なじ弁才天やのに、何でこんなにちがうんやあ? 自分真面目に聞いてるでえ」
土門くんが真面目な顔になっていう。
「手が二本の方は、空海さんが、中国から曼陀羅を持って帰ったでしょう。それに描かれてあった図像が基《もと》で、だから、いわゆる密教系のものなのね。そして手が八本の方は、『金光明最勝王経《こんこうみょうさいしょうおうきょう》』という経典に書かれてあったことを再現《ベースに》しているの。これは何かというと、日本全国に国分寺《こくぶんじ》を建てたでしょう。あのときに使ったお経なのよ。つまり、護国[#「護国」に傍点]といった精神の経典だから、四天王《してんのう》などもそうだけど、神さまが戦う姿に書かれているのね。だから、こんな形をしているの」
まな美も、真摯《しんし》に答える。
「あーそういわれてみれば、そんな感じはするな」
「けど、これは鎌倉時代の作だから、ずいぶんと温和《マイルド》になってるのよ。古いのはこんな穏やかな顔はしてないし、それに手に持っていたのも、斧《おの》や刀や、そんなのばっかしだったのよ。昔のは、宝珠《ほうじゅ》なんかも持ってなかったし。あの桃みたいなのがそうね」
「……麻生先輩。ものすごく詳しいんですね」
新入部員の弥生は呆《あき》れたように驚いてから、そして尋ねる。
「あの、手に持っている小さな車輪みたいなのは、何なんですか?」
「あれは経典では、鉄の輪《わ》って単純に書かれてるけど、輪宝《りんぼう》というのが一般的みたいね。そしてこれも武器で、まわりに刃がついていて、投げるそうよ」
「そやったら、忍者がしゅしゅ――と投げる、手裏剣《しゅりけん》やなあ」
土門くんは手でしゅしゅっといわせる。
「そんな投げ方はしないと思うわよ。これはインド[#「インド」に傍点]の手裏剣だから」
まな美は憎まれ口をいってから、
「それに密教の方では、この輪宝《りんぼう》を、煩悩《ぼんのう》をうち破る象徴とも考えるので、お寺の寺紋や、飾りなどにもよく使われてるわよ」
……こうなってくるとまな美の独壇場だが、どうしてどうして、まだまだほんの序の口であるようだ。
マサトはというと、他の客がいないときを見計らい、閃光《フラッシュ》を焚《た》かずに殿の中をあれこれ撮っている。殿内撮影禁止の注意書きが出ているが、朱に交われば何とやらで、マサトももう手慣れたものだ。
その奉安殿の中には、他にも、竜をかたどった大きな賽銭箱や、そして蜷局《とぐろ》を巻いた石の蛇なども置かれている。
「江島神社の謎を解く要素《アイテム》は、ここにだいたい揃ってるわよ。秘密の箱といった感じね」
――まな美がいった。
奉安殿から少し進むと、白木の(銅葺《どうぶき》の屋根も銅の輝きのままで真新しい)小ぶりの社殿がある。
――八坂《やさか》神社だと、木の案内板が立っていた。
「これ、京都にある祇園《ぎおん》さんのことやろ?」
「そうよ。誰が祀られてるか知ってるわよね?」
「えー……」
土門くんは、その案内板を横目《カンペ》に見《し》ながら、
「そうやそうや、須佐之男《すさのお》須佐之男」
思い出したかのようにいう。
「この小さな社殿《おやしろ》が、さっきの秘密の箱を開ける鍵かしらね。けど、蛇《へび》の足《あし》ぎみなのよね」
――まな美は意味深なことを囁く。
一行は石段をさらに登って、江ノ島のほぼ頂上付近に着いた。そこには次なる宮があるが、手前の石灯籠が立ち並んでいる隙間《すきま》に、歌舞伎役者の誰其《だれそれ》が植樹をした、しだれ梅や、しだれ椿や、役者たちの手形の石碑なども置かれてあって、その関係《かかわり》を説明する案内板が立っている。
「土門くん、これとっても参考になるわよ」
まな美が指さしていう。
「えーなになに……謡曲《ようきょく》『江島』は、弁才天|影向の《があらわれた》縁起《えんぎ》を説いた曲である」
分からない漢字は適当に、いわゆる超訳《ちょうやく》をして土門くんは読む。
「欽明《きんめい》天皇の時代、相模国《さがみのくに》の海の上に島ができて、福徳円満《ふくとくえんまん》の願いをかなえる弁才天が現れたというので勅使《ちょくし》が|下向する《やってきた》。折から現れた老漁夫《じいさんのりょうし》が、勅使の尋ねに応じて詳しく島の成立を語り、その功徳《くどく》を講致《くどくどせつめい》した後、自分はこの島の鎮守である弁才天の夫神《おっとがみ》の五頭竜王《ごずりゅうおう》すなわち竜口明神《りゅうこうみょうじん》であるといって消え失せる。やがて弁才天が十五童子《じゅうごどうじ》を伴って出現、勅使に如意宝珠《にょいほうじゅ》を捧げると、五頭竜王も現れ出《い》で、国土の守護を誓いつつ|上天した《てんにのぼった》のであった」
「如意宝珠というのは、さっき手に持っていた宝珠《もも》と同じね。願いを意のままにかなえてくれるから、如意って言葉がつくの……あとの話は、この島を歩き廻っているとそのうちに分かってくるから」
まな美が、補足していう。
そして一行は、それほど大きくはないが、鮮やかな朱塗りの社殿へと向かう。
「わー、これさっきの辺津宮《へつのみや》とはちごうて、真っ赤赤やねんけど、独特の雰囲気があって奇麗やな」
真っ赤赤嫌いの土門くんが、珍しく褒める。
「この社殿《おやしろ》はね、元禄《げんろく》時代の建物を、最近、忠実に再現して立て直してるのよ。だからこんな感じね」
「へー……これは元禄の建物《たてもん》か。屋根も奇麗やし、全体的に雅《みやび》ーいう感じするもんな。ちなみに元禄は、一六八八年から一七〇四年」
そのきらびやかさは社殿の中も同様で、極彩色の天女の彫刻などが壁面を飾っている。
マサトが、それらを閃光《フラッシュ》を光らせて撮影したので、まわりにいた参拝客から顰蹙《ひんしゅく》を買う。撮影禁止の札は、そこには出てはいなかったようだが。
「あっ! 祭壇のど真ん中に、鏡が置かれてあるんやんか――」
気づいた土門くんが、興奮ぎみの声でいった。
――その鏡は、ときおり神社に置かれてあるような銀紙の張りぼて製のそれではなく、きちんと姿が映る丸くて大きな鏡である。
「やっぱりね、思った通りだわ」
まな美の今日の目的は、主にそこにあったようだ。その種のことには首を突っ込むなと、竜介《あにき》からは釘を刺されているというのに――。
「えーここは、中津宮《なかつのみや》いうんですね」
|予習してきた《つけやきばの》知識でもって、土門くんが一同に説明する。
「さっきの辺津宮《へつのみや》を下《しも》の宮、そしてこっちを上《うえ》の宮というそうや。それに、こっちは仁寿《にんじゅ》三年、つまり八五三年というけっこう古い時期に建っとおんで、この中津宮が、ほんとは江島神社の本店[#「本店」に傍点]のようや。祀られてんのは、市寸島《いちきしま》比賣命《ひめのみこと》さん。またの名を、狹依《さより》毘賣命《びめのみこと》さんともいう。そして建てはった人は、な、なんと、あの円仁《えんにん》・慈覺大師《じかくだいし》やんかあ」
――大袈裟に驚いていい、
「そうやけど姫、これはほんまの話かあ?」
「うーんここに、その時期に慈覺大師がお堂を建てた。それは間違いないみたいね。けど、そのとき何を祀ったかは、諸説あるの。市寸島《いちきしま》比賣命《ひめのみこと》の像を、彼みずからが彫って祀った。それがその後、弁才天だと考えられるようになった。もしくは、弁才天と習合《しゅうごう》しちゃった。そんなことを書いている文献も複数あるのね。そしてもうひとつは、最後に行くけれど、岩屋があって、そこは修行の場で、そこに慈覺大師が籠もっていて、神さまがふたり現れた。さっきの謡曲に出てきた、五頭竜《ごずりゅう》と弁才天ね。その像を彫って祀った。わたしはこちらだと思うわ」
「その弁才天は、下のお宮にあった……」
弥生がもじもじしながら尋ねる。
「あれはね、室町の作。慈覺大師が彫ったとされるのは、この種の本には必ずといっていいほど出てくる、土門くんの大好きな超Hな弁才天で、けど誰も実物は見たことがないという、|男の夢《まぼろし》のそれね」
「そういわれると見てみたいよな。……天目」
土門くんは他人を巻き込んでいう。
「どうぞご自由に。さて、ここから先はけっこう歩くわよ」
……のまな美の言葉どおり、主に下り坂だが、それに整備された道ではあるが、木や草や土の斜面や、そして塀などに囲まれた細い参道が長々と続く(参道には普通の家もところどころある)。
中津宮があった場所は江ノ島のほぼ中央の高台で、見晴らしがよく、それこそ太平洋《パシフィックーオーシャン》が見える。島の東半分は開発されていてヨットハーバーなどがあり、西半分が山だ。一行はその西の端へと向けて進んでいる。
そして暫く行くと、異国の神殿のようにも見える円形状をした大きな建物が左側にあった。
「これね、江ノ島|大師《だいし》というお寺なの」
「こっ、これがかあ……」
その証拠[#「証拠」に傍点]だといわんばかりに、門の先には、原色の仁王《におう》像が剥き出しで左右に立っている。
「この建物、向こう側は何もないでしょう。だから海から見えて、夜に光化粧《ライティング》でもしてると、すっごく目立つんだと思うわよ……わたしの想像だけど」
「まさに、ぎりしゃ[#「ぎりしゃ」に傍点]神話の世界やなあ」
「それにお大師さまだから、つまり真言《しんごん》宗なのね。空海さんも、江ノ島には来たことになってるのよ」
「うーんあのお人は、日本全国津々浦々に行ってはるようやからなあ」
そしてまな美が、見てる時間がないこと、さらに寺の中身に……と苦言を呈したこともあって、そのギリシャ神殿だけを拝《おが》み見て、一行は素通りする。
そして『山ふたつ』と呼ばれる江ノ島のくびれの部分にあたる眺望場所《ビューポイント》をすぎ、するとその辺りから沿道にまたぞろ店が増えてきた。ただし土産物屋ではなく、食べ物屋である。
「うわーよう考えとんなあ。このへんで皆絶対にお腹空《なかす》くもんな」
その土門くんの解説が正しい。一同そう思う。
さらに暫く歩くと、ようやく次なる宮が見えてきた。石の大灯籠を左右に従え、源|頼朝《よりとも》が寄進したと伝えられる石の大鳥居が立っている。その手前で、何やら案内が出ていて、
「えー、亀の甲羅《こうら》の姿をしたまっこと珍しい石が、このへんで掘り出された。それは今は大銀杏《おおいちょう》の根元に置かれてある」
土門くんが超訳して読んでから、
「大銀杏いうたら、鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》にあるやつか?」
「ちがうわよ土門くん。そこに見えてるじゃない」
まな美が指さした鳥居の少し先に、その大銀杏の木があった。
「ほんまや。真っ黄黄やもんな」
……目立つこと目立つこと。
「銀杏《いちょう》って、紅葉《もみじ》などに比べると、少し早いんですね?」
「そうみたいよ。鎌倉の観光局に電話をかけて聞いてみたんだけど、鶴岡八幡宮の大銀杏も、この週末が一番なんですって」
まな美はお姉さんのように、弥生にいう。
そうか……あの写真どおりの金色の大銀杏が見られるんだ。マサトも嬉しく思った。けど、と同時に、忘れかけていたやっかいごとが頭を擡《もた》げてもくる。
その大銀杏は低い木々で囲われていて、前に赤い鳥居が立っていた。まな美と弥生がくぐり、マサトは少し離れたところから写真を撮り、そして土門くんが文句をいう。
「こんな低い鳥居、自分はくぐるなということか」
「あっ!」
まな美が振り返っていう。
「そうだそうだ、土門くんこの先大変だわよ」
「な、なにが大変なんや?」
「それは行ってからのお楽しみ[#「お楽しみ」に傍点]……」
まな美ひとり喜んで、笑い転げている。
その大銀杏の根元で石の台座に載せられてあったのは、ひと抱えほどもある丸みをおびた石であるが、
「うわー、ほんとに甲羅の模様が出てますよね」
「不思議よね。どうなってるのかしら……」
弥生とまな美が感嘆していると、
「えいやー、ちゃうて空手ちょっぷしたら、ぽこっと割れそうやぞう」
――土門くんは、ふたりから睨《にら》まれる。
マサトもやって来て、その自然の不思議さの妙にしばし感心してから、一行は大鳥居の真正面にある拝殿の方へと向かう。
「えー、ここは奥津宮《おくつのみや》ですね。祀られとおんは、多紀理《たきり》毘賣命《びめのみこと》さん。でけたんは意外と新しくて、天保《てんぽう》十三年――一八四二年に本殿が建ったそうや。その本殿いうんは、あの奥に見えとうやつか?」
土門くんは途中まで説明して、まな美に聞く。
「そう、ここはかなり離れちゃってるのね。だから、今いる屋根の下のここが、いわゆる拝殿」
「そやけど、ここは素通しやねんから、自分は門やと思とったんやけど? とはいっても、ここに賽銭箱と鈴はあるし、先にも行かれへんのやが[#「が」に傍点]ー」
「この拝殿は、明治になってからの建て替えなのね。だから神仏習合の時代は門だったんじゃないかと、わたしも思うわ。ちょっと離れすぎよね」
十段ほどの石段の先に、古色にくすんだ素木《しらき》造りの本殿がある。石段の両側には大木も植わっている。
その本殿の方に見惚《みと》れていると、
「土門くん、――あそこ」
まな美が、拝殿の天井を指さしていう。
「おわっ、奇麗な緑色をした亀さんが、自分の方を睨んでるでえ。大きな亀やなあ」
「さっき亀石というのがあったでしょう。あれに悪さをした人は、この亀が飛びかかってくるのね」
「ゆ……許してくれえ」
それは江戸時代の絵師・酒井抱一《さかいほういつ》の筆になる『八方睨みの亀』で、どこから見てもその人を睨んでいるように見える。原画は宝物庫《ほうもつこ》に保管され、これは最近の模写であるとの説明書きがあった。だから色鮮やかなのである。
「あそこにも、鏡が置かれてますよね」
弥生が、扉が開いている本殿を指さしていった。
三人ももちろん気づいていて、
「あれも、さっきと同じね」
その扉の奥で、大きな丸鏡が、日の光を反射してことさら輝いていたからだ。
奥津宮から先は道がふたてに分かれていて、案内の矢印が出ていた。
右に行くと『江ノ島|岩屋《いわや》』で、左は『恋人の丘』にある『竜恋《りゅうれん》の鐘《かね》』とある。そして土門くんは迷わず、左の方にすたすた歩いて行く。
「そっちは関係ないわよー」
……姫の声なんか聞こえないふりをして。
そこはわずかばかりの散歩道で、ちょっとした丘の上に、その『竜恋の鐘』とやらが置かれている。
「ありゃー、なんか公衆電話みたいやぞう」
左右が仕切られて前後が素通しの、四本|脚《あし》の金属製の骨組に、鐘が吊り下げられてある。
「だからいったでしょう」
……けれど、その外囲いの金網に、南京錠がところ狭しとぶら下がっていて、その錠には恋人どうしの名前が書かれている。
「見た目よりは、ご利益《りやく》ありそうですよ姫」
そんな軽口を叩きながら、いちゃついていた男女《カップル》が出ると、土門くんはいち早くその中に入り、
「誰か、一緒に鐘を鳴らす人?」
自分の手を挙げて……催促していう。
「それでしたら、皆で鳴らしましょうよ」
そのままだと土門くんの立場がないと思ったのか、弥生が助け船をだしていい、率先して中に入る。
「うーん仕方ないわね」
まな美に続いて、マサトも入ると、ぎゅうぎゅう詰めだ。
「えー、これしか浮かばへんな」
土門くんが口上《こうじょう》を述べる。
「我が伝統と栄光ある、歴史部の未来を祈って」
そして皆で鐘を打ち鳴らした。
一行は『江ノ島岩屋』へと急ぐ。
奥津宮から先は急な下《くだ》りの階段が続き、すれ違うのもやっとなほどの狭さの場所もあり、行く人と帰る人とで大混雑である。
「……天目さん、そこ危ないですよう」
弥生のそんな囁き声が、まな美の耳に届いた。
振り返ろうかとも思ったけど、般若《はんにゃ》の顔をしそうなので、まな美は振り向くのをやめた。マサトは頻繁にカメラを覗いていたから、足元が疎《おろそ》かになるのはまな美にだって分かる。そして弥生は、一番後ろを歩いているようだった。
「ありゃー、海が見えてきたぞう」
どこに向かっているのか全然理解していない土門くんがいう。
薄茶色をした岩だけの海岸が見えてきた。大勢の人がそこに降りたっている。ところどころ潮溜《しおだ》まりができていて、小魚でも捕ろうとしているのか、覗き込んでいる子供たちもいる。けど、打ち寄せてくる波はかなりきつく、ときおりザパーンと波しぶきが立つ。その安全地帯で、茣蓙《ござ》を敷いて寝転がっている家族連れもちらほらと。
「……岩屋[#「岩屋」に傍点]か。なーるほど」
ようやく理解したらしき土門くんはいう。
そういった景色を右手に見ながら少し歩くと、岩肌に薄暗く空いている『江ノ島岩屋』の入口があり、わずかだが、順番待ちの列に並んだ。
「あっ、洞窟《どうくつ》になってるんかあ」
さらに理解を深めた土門くんはいう。
「さっきの奥津宮は、この岩屋にあったそうよ。そしてあそこは、お旅所《たびしょ》と呼ばれていた場所で、夏の間の避暑地だったらしいわ」
合間をぬって、まな美が説明をする。
「へー、神さんにも避暑が必要なんか?」
「四月の初巳《はつみ》の日に神霊を移して、十月に戻したとあったけど、だから梅雨と、台風よけだったのじゃないかしら。ここは台風が来ると大変でしょう。なので、完全にあそこに移しちゃったわけね」
「あっ、でけたんが新しかったんは、そういうわけか」
一行は、回転式のバーをくぐって(出入りの人数を確認するため)岩屋洞窟へと入った。
が、入口付近は通路として整備されたトンネルで、説明の額が点々とかけられ、照明《ライト》がそこを照らしている。――洞窟の見取り図と、中には多数の石仏が置かれてあることや、江ノ島の縁起の絵巻や(島に五頭竜《ごずりゅう》が棲《す》みついて災害をなし、それを弁才天が鎮《しず》めたとある)、また隼《はやぶさ》が生息していて見られれば運がいいとか(鳶《とんび》の絵もある)、そして江ノ島を描いた浮世絵の複写なども紹介されている。
「土門くん、この古い写真は必見だわよ」
さっさと先に行こうとする彼を、まな美が呼び止めていう。
「……どれどれ?」
それは、何枚かあるセピア色をした写真の一枚で、江ノ島入口の不老門と題されている。
「へー、これが古いやつか。まさに竜宮城にあった竜宮門って感じするぞう」
その門は殺風景な海岸|縁《べり》の平地にぽつねんと立っていて、斜め後ろに襤褸家《ぼろや》が一軒、枯れたような細い木がまわりに数本、だから却《かえ》ってかもしれないが、門の造形美の素晴らしさが際立って感じられる。
「屋根にのっかってるくねくねーとしたやつは、これはたぶん竜やろな」
それが棟《むね》の左右に二匹いる。
「ええ写真やなあ。けど、これひょっとしたら外国人が撮りはったんかもな……」
そんな雰囲気すら感じられる写真である。
そのトンネルを抜けると、自然の大洞窟に出る。通路に沿って地底湖ふうの細長い水たまりがあるが、たぶん水は流れていない。その水の中にところどころ照明《ライト》が突っ込まれている。
「あっ、小《ち》っちゃな魚いたぞう。目高《めだか》みたいな」
土門くんが嬉しそうにいう。
他の三人もけっこう真剣に探したのだが……見つけられない。
「土門くん、ほんとにいた?」
「絶対におった――」
一行は『第一岩屋』と矢印の出ている方向に進む。そして暫く行くと、通路脇に石仏が立ち並んでいた。ただし透明アクリル板でしっかと保護をされて。
「……ありゃ、……いちゃ」
そのあたりから土門くんが奇声を発し始めた。
そして洞窟は(一般的にいって)先に行けば行くほど、どんどん狭くなっている。
「あいちゃ。これはあかんぞう。自分は後《あと》から用心ぶこーうに行くから、皆先に行って」
――頭上注意の看板が吊り下がっていた。
通路はふた股《また》に分かれていて、まず左側へと進む。すると、行き止まりに柵《さく》があって、日蓮の寝姿石と題された岩が地面に寝転がっていた。そして奥に空《あ》いた穴から、ご――と間断なく音が聞こえてくる。
「これ富士山から吹いてる風だってよ」
「うそー」
近くにいた別の客たちがそんなことを話している。
そして分岐点まで戻って右側へと進む。
そちらの通路はさらにいっそう狭く、長く、行き止まりに着くころには、まな美でもしゃがまないと頭がつっかえる。マサトもカメラの筒先《レンズ》を岩にぶつける。そして行き止まりにあったのは、鬼の顔をした狛犬の石像と、石の灯明台《とうみょうだい》や石のお社《やしろ》が何個かで、そのどれもが小さくて薄汚く(念は籠もっていそうだが)説明書きすらもない。
三輪車をこぐような姿勢で遅れてやって来て、それらを見た土門くんは、
「ごー、ごー……」
さっきの富士山からの風を真似て、唸り泣く。
そして地底湖がある大洞窟まで戻ると、土門くんはほっとひと安心した顔で、
「あー、けんのんけんのん」
現代人には意味が通じないことをいう。
「さっきのが第一岩屋ね。てことは第二[#「第二」に傍点]もあるんだけど、でもこちらの方は低くなかったと思うわよ」
まな美は、罠《わな》ではなくちゃんと教える。
第二岩屋は、外の歩道橋にいったん出てから入り直す。が、そちらの岩屋は格別どうといったものは中にはなく(それでは申し訳ないと思ってか)一番奥に演出が施されてある。金網ごしの薄暗いところに大きな竜が置かれてあって、暫く見ていると、稲光がして雷鳴が轟《とどろ》き、その竜が唸り声を発するのだ。
「ごー、ごー、ごー……」
土門くんが対抗して吼《ほ》える。
一行は江ノ島から脱出することにした。
帰りは、奥津宮の近くに分岐点がある『下道』との矢印が出ていた道を使った。そこは何もない道だが、竜宮門への近道だ。もっとも、その分岐点に来るまでに、焼き烏賊《いか》や、焼き蛤《はまぐり》や、焼き唐黍《もろこし》を店先で焼いている店店が並び、醤油の香ばしい匂いに、お腹すいたあ……と土門くんならずとも悲鳴を漏らしたのだが、そのはず、時間はもう十二時半になっていた。
「どこも満員だわよ。それにこんな日のこんな時間に空《す》いてる店なんて、信用できる?」
そのまな美の意見が通り、とりあえず下《お》りて、駅の近辺でいい店を探すことに決まった。
青銅の大鳥居をくぐって江ノ島に別れを告げ、弁天橋にさしかかると、土門くんが車道の方を指さし、
「やっぱりやあ。ほうらな」
――勝ち誇って、馬鹿にしていう。
「こんなんあかんのん決まっとうやんか。次から次へと海に落としていかん限り」
車が延々と数珠繋《じゅずつな》ぎになっていて、その最後尾は見えず、そして車たちは動かない。
一行が入ったのは、江ノ電の駅の近くにあった洒落た洋食店《レストラン》である。下界に下りてきても、けっきょく混んでいることには変わりはなかったのだが。
土門くんは毎度のごとくにカレーライス(ちょっと奮発してカツカレー)を、三人は銘々好きなものを注文して、土門くんがコップの冷たい水をいっきに飲み干してからいう。
「江ノ島の謎解きは、もう自分に全部任せてやあ」
「……じゃ、お任せするわね」
まな美も、コップの水を半分ほど飲んでからいう。
「えーそもそもやな、あの岩屋の洞窟で慈覺大師が修行をしてはったら、ふたりの神さんが現れた。それが弁才天と五頭竜《ごずりゅう》。その五頭竜は、洞窟にあった絵巻によると、災《わざわ》いをなす祟《たた》り神で、島を荒らしまくっとった。その首に鈴をつけたんが、弁才天やな。リンリンリン、リンリンリンリンリンリンリン! 首が五つもあるから、けっこう煩《うるさ》い」
マサトが――笑った。
もちろん、まな美と弥生も笑っている。
「そうやけど、この竜は、ほんまに頭が五つもあんのん?」
全部任せてといったくせに、土門くんは姫に聞く。
「いちおうそうみたいよ。慈覺大師が彫ったとされる、五頭竜のご神体が残ってるのね。けど、それは六十年に一度のご開帳で、最近あったらしく、次のを歴史部が見るのは大変なんだけど……」
「わー、じっさんとばっさんになっとうぞう」
一同の顔を見渡し、土門くんは悶《もだ》えながらいう。
「そのご神体を見た人の話によると、やはり、頭は五つだったのね。けど、尻尾の方は蜷局《とぐろ》を巻いていたらしいから、竜というよりは、どちらかというと、蛇《へび》に近い神体《タイプ》じゃないかしら」
「あっ、そやったらインドの方やな。長《な》ーがいとかいうやつで」
「ナーガね。そのインドの竜のナーガも、頭がたくさん、多頭《たとう》で表される例《ケース》が多かったらしく……けどインドは仏教が滅んじゃってるので、それが見られるのはカンボジアね。つまり、アンコールワットの遺跡。あそこは竜の神殿《みやこ》なのよ。それにカンボジアの人たちの先祖は……竜だそうよ。そのアンコールワットの竜は、頭が七つというのが多いみたいね」
「ななずりゅういうんか? 語呂《ごろ》が悪いぞう」
「それとも、しちずりゅうかしら、こちらもいいにくいですよね」
弥生も、話に加われるところで参加していう。
が、マサトとしては……竜の話をされるのは、あまり気持ちのいいものではない。
「どっちにしても、多頭の竜ってことね。けれど[#「けれど」に傍点]、慈覺大師がわざわざ五頭竜を選んでいるんだから、それなりの意味があるにちがいないわよね」
まな美は、何やら仄《ほの》めかしてから、
「じゃ、その続きは土門くん?」
――先を促す。
「えー、その五頭竜と弁才天は、男と女であって、恋人の丘に竜恋《りゅうれん》の鐘があったように、悲しい恋物語や、痴話喧嘩《ちわげんか》や、いろいろあったんやろな。けど弁才天《おんな》の方が強うて、五頭竜《おとこ》の首に鈴をつけとった。どこか、自分と姫の関係に似てへんか?」
「――似てないわよ!」
「リンリンリンリンリン」
極小の声で土門くんは囁いてから、
「えーそれとは別に、島には三人の女神さまがいてはった。そやけど、これほどっちが先にいたかと問われると困るなあ。そのへんがたぶん、姫がいうてはった、諸説ある、いうことになるんやろな?」
「そういうこと。仏教側と神道側とで、意見が割れるのね。神道側がいうには、もちろん三女神が先。けど、これはどちらでもいい話で、元々あんな島なんだから、まず竜は、間違いなく棲んでたでしょう。それにあんな感じの岩屋の洞窟があると、女神さま信仰も必然的に生まれるのね」
「え? 洞窟があったら女神さま?」
「そのへんは説明しない――」
まな美はこわい顔でいい、
「それを、その後、お偉い人たちがやって来て、何の神さまだと固有名詞をつけるわけね。それに島の女神だとなると、ほぼ自動的に、宗像《むなかた》三女神が来てしまうのよ。あの『安芸《あき》の宮島《みやじま》』で誰もが知っている、厳島《いつくしま》神社も、祀られているのは宗像三女神ね。その本籍地は、九州の福岡にある宗像大社《むなかたたいしゃ》で、辺津《へつ》の宮《みや》は陸地にあるけど、中津《なかつ》と沖津《おきつ》の宮は、玄界灘《げんかいなだ》の島にあるのね」
「あら、江ノ島と同じ呼び方なんですね」
「そやねんそやねん、みんな同《おん》なじ同《おん》なじ……」
土門くんは長い腕で、皆の水コップの上をぶんぶんと振り廻していい、そしてみずからの謎解きの続きを開陳する。
「その宗像三女神が、一番最初に降りてきた場所が、大分県の宇佐《うさ》で、そこにあんのは、宇佐八幡宮《うさはちまんぐう》で、それが鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の、いわゆる本店や。そやからこれも同《おん》なじもんで、その鶴岡八幡宮を作って拝んどったんは、いうまでもなく源《みなもと》家で、そやから同《おん》なじ発想にもとづいて、江ノ島も整備した。さて、ところが、その三女神さまの父親は誰かというたら、これは肉分身《クローン》の父親やねんけど、すなわち、須佐之男命《すさのおのみこと》さまや。そやから、八坂《やさか》神社が置かれとった。なおかつ、源家は清和源氏《せいわげんじ》やねんから、慈覺大師のことは神にも等しい。その慈覺大師が作りはった弁才天を……えーあの噂のやつかな……そのへんはよう分からへんけど、ともかく弁才天をせっせっと拝んどった。そんなわけで、どんな神社を作ろうが、あそこは江ノ島弁才天と呼ばれる」
土門くんが語り終えたかに思えたとき、ご褒美《ほうび》といわんばかりに、カツカレーが運ばれて来た。
「土門くん、そのへんは最近すらすらだわよね」
まな美が感心して少し褒めたが、土門くんの関心事はもはや別のところで、冷めてしもうたら美味《おい》しないし、先にひとりで食べるんも品がないし……ともじもじしていると、三人が注文した品も次々と運ばれて来た。
――麻生先輩のが一番美味しそうですよね。うーん実はそうでもないの、マサトくんのが正解だったみたい。カツはやらへんぞう。
そんな和気藹藹《わきあいあい》とした雰囲気で一同は食事を終え、サービスでついてくる珈琲《コーヒー》を待つ。
「さ、それでは、江ノ島の謎解きを始めましょう」
――まな美は一同にいう。
「ありゃ、ありゃあ、自分がいうたんは何やったんや?」
「あれは教科書、てところかしらね。わたしたち歴史部は、だいたい教科書は関係ないでしょう」
土門くんにどこかでいわれた言葉をそのままそっくりまな美は返していい、
「まずね、慈覺大師なんだけれど、ふたつの神さまをふっと閃いた、そんな伝承になってたわよね。けど、そんなことは絶対にありえないのよ。あのお人に限っては……」
「そうやそうや、慈覺大師いう人は、すっっごい理詰めの人やったんや。それは姫が摩多羅神《またらじん》の秘密を解いたときによーぉ分かったでえ。もう徹底的に考えられて作ってはったもんな」
「それが、深み[#「深み」に傍点]というものよね。だから後々の世まで、信仰が持ちこたえられるのね。江ノ島もしかり。この島で慈覺大師がやったことといえば、次の二点。島にいた竜を、つまり荒《あら》ぶれる神さまを、五頭竜だと特定したこと。そして弁才天という女神さまを持ち込んで、その両者をカップリングさせたこと」
一同は……頷く。
「じゃ、まずは五頭竜の方ね。五頭竜、もしくは五頭竜王だといえば、僧侶だったらぴーんと閃くものが別にあるのよ。それは百人中百人が閃くもので、もし閃かなければ、仏教の僧侶だとはいえない」
「な、何やろか? そういわれたかて、自分らは坊《ぼん》さんとちゃうからなあ……なあ天目。水野さんも」
食後の珈琲が運ばれて来た。大型のカップで、しかもお代わり自由とのこと。銘々好きなだけ砂糖とミルクを入れてから、
「けど、土門くん自分でいってたじゃない。八坂神社の社殿《おやしろ》を見て、祇園《ぎおん》さんだーて」
「おっ、祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の鐘の声、諸行無常《しょぎょうむじょう》の――」
土門くんはカップを口から離すと、突如『平家物語』の冒頭の部分を諳《そらん》じ始め、
「響きあり。沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の色、盛者必衰《せいじゃひっすい》の理《ことわり》をあらわす。かっこええなあ。とくに最後の、盛者必衰の理をあらわす。かっこええなあ」
……みずから酔いしれる。
「祇園精舎って、インドに実際にあったお寺だそうですよね。お釈迦さまがおられた。そしてお釈迦さまが亡くなると、その枕元にあった沙羅双樹の花が、色が変わったそうですよね」
あら、弥生《かのじょ》は意外なことを知ってるわねとまな美は思う。土門くんはまず間違いなく、語呂[#「語呂」に傍点]がいいから覚えてるだけなのだ。
「その祇園精舎だけど、つまり世界で最初の仏教の寺院ね。そのお寺の守り神が、牛頭天王《ごずてんのう》という神さまだったの」
「あっ、それなんか聞いたことあるぞう」
「当たり前でしょう。この神さまが、京都の祇園さんの主祭神《しゅさいじん》なんだから。そして牛頭天王も、ものすごい祟り神で、平気で人を殺しちゃうような神さまだったのね。そして日本に入って来て、須佐之男と一緒にされちゃうのよ。須佐之男は神さまだから、その本地仏《ほんじぶつ》と説かれたりもするね。もちろん、仏教の側の考え方だけど」
「そちらも、頭が五つなんですか?」
「ううん、字は全然ちがうわ。牛《うし》の頭《あたま》の天《てん》の王《おう》だから。でも、世界で最初のお寺の、最初の本尊のようなものだから、僧侶だったら一番最初に習うものなのね」
「うん? そのインドの祇園さんは、大日如来《だいにちにょらい》とか、何とか菩薩《ぼさつ》とかを本尊にせえへんかったの?」
「そういったものは、当時はまだないの。お釈迦さまが亡くなった後で、仏教の世界観が作られていくんだから」
「あっ、あらへんのやったらしゃーないな……するとやな、五頭《ごず》竜と慈覺大師が置いた時点で、それは牛頭《ごず》天王、すなわち須佐之男を暗示してたわけか」
「そう、すごく分かりやすい話でしょう。なのに、江ノ島にあった八坂神社は、江戸時代に誰かが置いたのね。たぶん、親切心からだとは思うけど」
「それで、蛇の足だとかおっしゃってたんですね。先輩はあ……」
「蛇足《だそく》か。姫も狐狸《たぶらか》すのうまいなあ。自分はてっきり、蛇に足がついたら、竜やと思とったぞう」
場所が場所だから、土門くんならずともそう思う。
「それに、江ノ島って、島全体が竜宮城の雰囲気だったでしょう?」
「おう、こわい亀さんも睨んではったことやし」
「けれど、島に竜が棲んでいれば、そこはすなわち竜宮城かしら?……これは、牛頭天王の方の物語《イメージ》が強く反映されてるのね。彼は、自分の妻を求めて竜宮城へ行く、そういった伝承だから」
「あっ、ぴったしやんかー」
マサトも、うんうんと頷く。
「さて、五頭竜はそういったことね。そして、弁才天の方はというと」
「――姫姫姫」
土門くんは咎《とが》めるように連呼して呼んで、
「そないなってくると、相方《あいかた》の方も想像はつくぞう。もうあれ以外にはあらしません。なあ、天目」
「……何かしら」
弥生だけが、小首を傾げている。
「弁才天は、もちろんインドの神さまで、あちらでの名前は、サラスヴァティー……水に富むといった意味で、天上にある聖なる河・サラスヴァティーの女神さまね。けど、単なる河の神さまじゃなくって、インドの天地創造の神は、ブラフマーっていうんだけど、日本名では梵天《ぼんてん》ね。その梵天《ブラフマー》のお妃《きさき》さまが、つまり弁才天《サラスヴァティー》なの」
「やっ……やっぱりやあ」
土門くんは、その長い身を蛇のように捩《よじ》っていう。
「だから女神中の女神、大《だい》女神さまなのね。そしてインドの神話によると、弁才天《サラスヴァティー》は、その梵天《ブラフマー》の光りの中から生まれて、絶世の美女で、あまりにも奇麗なものだから、彼女がどこに行ってもその姿が見られるようにと、梵天には、顔が四つもできちゃうのね……四方に。けど、そんなのは彼女としてはうざったいもんだから、天上界に逃げちゃうのよ。すると、梵天はその天上界を見るために、顔をもう一個作っちゃうのね」
「え? それはもしや、五頭《ごあたま》ということか!」
「そう、梵天は五つ頭なのね。よく辻褄合ってるでしょう。さすがは慈覺大師ぃー」
まな美も、身を捩《よじ》りながらいってから、
「そして、百年後か何万年後かは忘れちゃったけど、彼女ももう諦《あきら》めてしまって、梵天の奥さんになってあげるのね。そして生まれた子供が、人類の祖先になる……そういった神話ね」
「うわー案の定や案の定。そして姫のいいたい結論も見えてきたぞう。自分がいうてもええか?」
まな美は――頷く。
「日本の神話では、天照《あまてらす》さんと須佐之男命《すさのおのみこと》が……こっちは姉と弟やねんけど、高天原《たかまがはら》にある天《あま》の安河《やすかわ》をはさんで、誓約《うけい》というのをやりはった。これは何てゆえばええか……白黒の決着をつける決闘のようでもあり、そして結婚のようでもあり、そんときに生まれはったんが、三つの宮《みや》にいてはる宗像《むなかた》の三女神さんや。そやから江ノ島は、過去のことは水に流して、ふぁみりーで仲良《なかよ》う住んではんねん」
まな美はパチパチと拍手をし、
「わたしのいいたかったのも、それー」
……嬉しそうにいった。
「それだから、お宮の祭壇にあんな大きな鏡が置かれてあったんですね。天照《あまてらす》さんの代わりに」
そう弥生がいうと、土門くんとまな美とマサトは互いの顔を見合わせ、
「いやなあ、あんなあ、あれは何ていうたらええかなあ」
歴史部を代表し、土門くんがしどろもどろにいう。
「うーんどちらかというと、逆のものなのよね」
まな美も、説明しづらそうにいう。
「祟り神の鏡」
マサトが、少し茶目っ気を出していった。
「おっ、天目ええこという。あれは日の神の象徴のように見えるけど、実のところは、そういうことや。ていうより、いわゆる意識操作で、宇宙人がどうしたとかいうXふぁいるみたいな話で、勘違いして思わされてるわけやな。日本国民全員[#「。日本国民全員」に傍点]が」
土門くんは大袈裟にいい、
「そのことを知っとおんは、うちら歴史部と……あとひとり。これは超超超超極秘《とっぷしーくれっと》の話なんやでえ」
「さっき、大分の宇佐八幡宮という神社が話に出たでしょう。そこが祟り神の鏡の、いわば総本山なのね。江ノ島はそこと直結だから、その鏡になるの」
「ふーん」
弥生としては何のことやらさっぱり分からないが、へんに妥協して頷いたりはせずに口を閉じて唸っている。意外と、芯は強い女子のようである。
「それにね土門くん。あの鏡である、鏡でない話、あっちこっちですごく辻褄合うわよー。大神《おおみわ》神社もそうだったけど」
――歴史部の事情聴取でまな美がプッツンしたときに語られたが。
「その他にも、白山《はくさん》は死者がおもむく霊山でしょう。そこに白山神社《はくさんじんじゃ》というのがあるのね。いかにもそっち系だわよね。そしてなんと、その白山神社には、八咫鏡《やたのかがみ》の模造品《レプリカ》が置かれてあるらしいのよ。見に行ってみる?」
「――姫さま姫さま! その種のことは詮索《せんさく》したらあかん、いうてたやんか」
土門くんが珍しくこわい顔をして窘《たしな》めていった。
一行は、店を出て江ノ島電鉄に乗った。
その小さな車両もかなりの混みようで、もちろん座れず、優雅に外の景色を眺めている余裕はない。そして長谷《はせ》駅で降りた。ここは鎌倉観光の定番で、見るべきものがふたつある。
「うわー、すごい人やなあ」
長谷通《はせどお》りの左右の歩道に、その車道にまではみ出して人の列ができて――いや、できていない。
「これ右か左を、行きか帰りの道に統一したらええのにー」
一行は、帰りの人がぶつかってくるのを、土門くんを盾《たて》にして進む。
そして暫く行ってから左に折れ、老舗《しにせ》の飲食店や旅館が並んでいる参道の突き当たりに、威風堂々の寺の山門《さんもん》が見えてきた。
「屋根の緑青《ろくしょう》が奇麗ですよね……」
「それに山の上にお寺が建っとおやんか。けっこう大きいぞう。茶色で、ええ感じの色目しとうなあ」
けど、それは遠目に見ての話で、近くに行ったら土門くんは絶対に貶《けな》す、まな美は予知してそう思う。
それに、その奇麗な山門はくぐらしてはくれない。
マサトがカメラのフィルムに収めた。
横の拝観口から入ると、すぐ前に放生池《ほうじょういけ》があり、鯉が泳いでいて、境内《けいだい》はよく整備された庭園になっている。渾渾《こんこん》と水が湧き出している井戸もある。それらを眺めながら参拝客の列に加わって坂道と階段を登って行く。
歩きながら土門くんが、拝観受付所でもらった|紙切れ《パンフレット》に目をやり、ざーと流し読む。
「えー長谷寺《はせでら》の伝説。養老《ようろう》五年、七二一年……えらい古いなあ。何とか上人《しょうにん》が、一本の楠《くす》の霊木《れいぼく》から、ふたつの十一面観音《じゅういちめんかんのん》を作った。そのひとつを大和《やまと》の長谷寺《はせでら》に、もうひとつを、人々を救って下さいと祈りながら海に流した。それが相模国《そのへん》に流れついて、海で光明を放っていた。それをこの地に移してきて、ご本尊とした。姫、これはほんまの話かあ?」
「嘘」
「そ、そんなあっさりと」
「本家の長谷寺は、それぐらいの年代だけど、こちらは、あの鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡《あずまかがみ》』にすら、いっさい出てこないのね。これほどのお寺だというのに。けど、ここの梵鐘《ぼんしょう》には、文永《ぶんえい》元年、新長谷寺《しんはせでら》の銘が入ってるわ」
「一二六四年やな」
「だから、そのころには建っていたようよね。けど、創建は誰で、本尊のいわれとかも、実際のところは不明なのね。でも行ってみると分かるけど、不明ということ自体が……謎よ」
「な、何のことやろうか?」
登りは大したことはなく、山腹にある境内はそこそこの広さで、重層の屋根をした大きな観音堂が、阿弥陀《あみだ》堂と大黒堂を左右に従えて建っている。
「うん? ありゃ?」
その観音堂の太い茶色の丸柱を、土門くんは拳《こぶし》でごんごん叩いてから、
「こんくりーでできてるやんか! 壁も全部そうや。だ、だまされたあ。趣味が悪いー」
怒って、いつもの決め台詞《ぜりふ》をいう。
が、けれども、参拝客で混雑しているその観音堂の中に入るやいなや、
「なっ! なんちゅうもんがあ――」
土門くんは素っ頓狂な声をあげる。
マサトも驚いた表情で、そちらを見やっている。
――身の丈九メーターを超える十一面|観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》が、金色《こんじき》に燦然《さんぜん》と輝きながら奥に立っているのだ。
その巨大さは、人をかきわけて近くまで寄って行くと、さらにいっそう際立って感じられる。
水野さんは……と思って見てみると、弥生は、その仏像の方ではなく周囲をきょろきょろと気にしている様子だ。関東圏に家がある子なら、この長谷寺は学校の遠足で来ているはずなので、一度見ていれば驚かないわよね、まな美はそう思った。
「こ……これかあ、うわさに聞こえし鎌倉の大仏さんというやつは」
土門くんは精一杯の冗談をいい、
「これは木でできてるんやろう?」
「そうなんだけど、一本の木からというのは無理で、寄木造《よせぎづく》りのようね」
「そやけど、この金ぴか具合が絶妙やから、はいてく[#「はいてく」に傍点]のかたまりで、手がういーんて動きそうな気もするぞう」
「金箔《きんぱく》を施したのは足利尊氏《あしかがたかうじ》だそうよ。それに後ろの光背《こうはい》、明らかに造りがちがうでしょう?」
「そうやな、後ろの方が新しいもんな」
「その光背は、足利|義満《よしみつ》が作ったんですって」
「さすがは足利将軍。金ぴか大好きやもんな、金閣寺のように。……そいでもって、これが日本一の大きさなんか?」
まわりの人たちが口々にそういっている。
「うーん実は、本家の長谷寺の方が一メーターほど大きいのね」
まな美は……小声で囁く。
「それぐらいは許したってえな。そやけど、こんな度はずれた仏像をいつ誰が作ってここに置いたんか、それが分からへんいうんか?」
「だから謎なの。鎌倉の七不思議のひとつね」
それは、まな美が勝手に選んでいる七不思議ではあるが。
マサトは、少し後方に下がって閃光《フラッシュ》は焚《た》かずに写真を撮っていた。弥生が、そのマサトの重たそうなカメラ鞄を、撮影の邪魔にならないよう甲斐甲斐しく持ってあげている。
まな美は、土門くんがあれこれ話しかけてくるので、仕方なく[#「仕方なく」に傍点]相手をしてあげている。
そして一行は、阿弥陀堂(源|頼朝《よりとも》ゆかりの阿弥陀如来が置かれている)や、経蔵《きょうぞう》(一切経《いっさいきょう》が納められた輪蔵《りんぞう》があり、それを廻すとお経を読んだことになる)や、下り道の途中にある地蔵堂(同じ形をした小さな地蔵が何百何千と並んでいる)や、さらに下の隅っこにある弁天窟《べんてんくつ》にも立ち寄ろうとしたのだが、そこには参拝客の列ができていて、
「なんやて? 弁天窟[#「窟」に傍点]……いうたら、洞窟のこととちがうんかあ」
土門くんが捏《ご》ねたので、その列には並ばず、一行は長谷寺を後にした。
次の目的物[#「物」に傍点]は、長谷通りをさらに行った先にあるが、想像に反して、その巨大物[#「物」に傍点]は道からはまったく見えない。なおかつ拝観口をくぐっても、しばらくは見えないのだ。
「わっ、――突然あるやんか!」
それが鎌倉大仏なのである。
マサトがパシャパシャと写真を撮り始めた。
澄みきった秋の青空を背に、衣《ころも》の襞《ひだ》にそって白っぽい緑青が粉をふいた鎌倉大仏は、何ともいえないコントラストだ。かつては大仏殿の屋根に下にあったが、その後に露座《ろざ》の大仏となり、それから約五百年もの風雪に耐えてきたのである。
「……美男《びなん》におわす。そう与謝野《よさの》晶子《あきこ》が詠《よ》んだんですよね」
「水野さんは、こんなんがたいぷ[#「たいぷ」に傍点]なん?」
その土門くんの冗談は通じなかったらしく、弥生はぷいと顔を背《そむ》けてしまった。
そして、大仏の横に廻り込んで行くと、
「ちょっと猫背ぎみちゃうかあ……」
確かに、そうも見えなくはないとまな美も思う。
「おっ、背中に窓があって、ぱかっと開いてるやんか。鉄腕あとむの胸みたいにー」
土門くんは古典《レトロ》な漫画をもちだしてきていう。
「ああしとかないと、中の空気がなくなっちゃうでしょう」
「なんのこっちゃ?」
「今わたしたちが並んでいる列は、あの大仏の中に入るためなのよ」
「そ、そんな列とは知らへんかった」
そして拝観料の二十円を支払い、石の台座の部分から、人がすれ違うのもやっとの狭い通路を、もぐり込むようにして大仏の胎内《なか》に入ってはみたが、
「うーんやっぱり、美男は外から見るもんやでえ」
……の土門くんの感想がすべてを物語っている。
大仏にさよならをして長谷通りに戻ると、目の前に鎌倉駅行きのバスが停まっていた。
「ちょうどよかったわ。これに乗りましょう」
土門くんが腕時計に目をやって、
「もう三時すぎてるやんか。鶴岡八幡宮の大銀杏で最後にしょうな」
「何いってるの、日が暮れるまでは歩くわよ」
――秋の日は釣瓶落《つるべお》とし。そのことをまな美たちはやがて思い知ることになるが。
バスは道が混んでいてとろとろと走って、鎌倉駅の駅前に着いた。
一行は、土産物屋や飲食店が立ち並ぶ小町通《こまちどお》りは行かず、若宮大路《わかみやおおじ》に出た。
すると左手に――道の中央に――鮮やかな朱色の大鳥居が立っている。
「はっはーん。真ん中を参道にして、両側に車を走らせとおんやなあ」
感心して土門くんはいう。
そして、肉付きのいい狛犬さん右左《あーうん》をすぎて大鳥居をくぐり、すぐ脇にあった石碑を読む。
「葛段《くずだん》? ちごうて段葛《だんかずら》やあ……一《いち》ニ置石《おきいし》ト稱《しょう》ス。壽永元年《せんひゃくはちじゅうにねん》三月|頼朝其ノ夫人政子ノ平産祈祷ノ爲《よりともが ほうじょうまさこの あんざんをきがんして》――|鶴岡社頭ヨリ由比海濱大鳥居邊ニ亙リテ之ヲ築ク《つるがおかはちまんぐうの あたまからゆいがはまのおおとりいまで このみちをつくった》――|其ノ土石ハ北条時政ヲ始メ源家ノ諸将ノ是ガ運搬ニ從ヘル時ノモノナリ《そのつちやいしは ほうじょうときまさをはじめ みなもとけのごけにんたちがそうでで うんぱんにかりだされたときのものであるけど》|明治ノ初年ニ至リ二ノ鳥居以南其ノ形ヲ失ヘリ《めいじのさいしょのころになって にのとりいからみなみは そのかたちをうしなった》。大正《たいしょう》七年建立。鎌倉町青年會《かまくらちょうせいねんかい》」
「そんなところまで読まなくてもいいわよ」
「そうするとやな、これが二の鳥居いうわけか?」
――後ろを指さしていう。
「そう。そして段葛《だんかずら》はこんなふうに一段高くなってるけど、両側の車道は……というよりか、周囲はほとんどが、かつては湿地帯だったらしいわよ」
「なるほど、それで石を積まなあかんかったんやなあ。北条さんたちも大変なことで」
一行は、その段葛《だんかずら》の参道を進んで行く。
「ここ桜並木やろう。葉っぱはちらほらとやけど」
「|M高校《がっこう》のもそうですよね。葉は色づいても、すぐに落ちちゃうんですよね」
……桜の紅葉が話題にならないのは、そのせいである。
そういった少し寂しげな参道を四、五分歩くと、若宮大路が横大路とまじわるスクランブル交差点に出る。――段葛《だんかずら》の石碑にもあった鶴岡社頭《つるがおかしゃとう》だ。
「とーりゃんせとーりゃんせ、ここはどーこの細道じゃ、天神《てんじん》ーさまの細道じゃ」
土門くんは(まな美も心の中で)口ずさみながら交差点を渡る。
青信号になるとその童歌《メロディー》が流れたからだ。
――三《さん》の鳥居が立っていて、石畳の先に太鼓橋《たいこばし》がかかっていた。それは柵がしてあって通れはしないが、右が源氏池《げんじいけ》、左が平家池《へいけいけ》と呼ばれ、その平家池には島が四つ[#「四つ」に傍点]……などといったことを、まな美が土門くんに説明していると、
「天目さん、ここからでも大銀杏が見えますよ」
弥生が、前方を指さしていった。
まだかなり先だが、その黄金色《こがねいろ》をした塊《かたまり》はことのほか目立つ。それは、舞殿《まいでん》の銅葺きの屋根の向こう側にあり、背後の高台(約六十段の石段の上)に立つ本宮《ほんぐう》の楼門《ろうもん》を半分ほど隠していて、さらに、その楼門の屋根を超えてそびえ立っている。
そこから先の表参道は幅が広く、中央だけが石畳で左右が砂利だ。その砂利の上に間隔をあけて点点と出店が立っている。ぶどう飴《あめ》、りんご飴、いちご飴、定番のタコ焼きと焼きそば、そして銀杏《ぎんなん》を炒《い》って売っている店などもある。
「ありゃー、えらいことになってるぞう」
――先を見て、土門くんがいい出した。'
表参道も行き帰りの人は多数いるが、数段の石段を上がった先にある舞殿《まいでん》を中心にした広々とした境内が、人、人、人でごった返しているのが分かる。
「あの舞殿の屋根は、いつもは鳩《はと》だらけなんだけど、その鳩も今日はいないわよね」
あまりの人集《ひとだか》りとその喧噪《けんそう》に、さしもの鳩たちも逃げ出してしまったようだ。
が、マサトとしては、これでは焦点が絞れない。
ここは陰《かげ》たちに託《たく》するしかないようだ。
それに別の組織《グループ》も……おそらく七人いるだろうとマサトには感じられるが……追《つ》いて来ていることでもあるし。
歴史部の四人は、その数段の石段を上がってはみたけれど、
「芋《いも》の子を洗ういう感じゃなあ、海とはちゃうが」
頭ひとつ高い土門くんからは、そのように見えるようだ。
「あっ、テレビ局も来とうやんか。それも一個ちがうで、あそこやろ、それとあっちやろう」
けど、まな美には人垣《ひとがき》以外には何も見えない。
「……姫。肩車でもしてやろか」
実際そうやっている親子連れもいる。
「マサトくん。大銀杏の写真を撮るのが、今日の一番の目的《テーマ》だったんでしょう。でもどこで撮る……」
まな美が気遣っていい、そして舞殿の横あたりまで行ってみると、
「うわー、三脚軍団が陣どっとうぞう」
舞殿を背にしてずらーりと、それも脚の長い三脚で、踏み台を使っている人も少なからずいる。
「そういわれてみれば、手前にも三脚軍団がいたわよね。舞殿を一緒に撮ろうとしてる人たちが……」
撮影にいい場所《ポイント》はそうそう空《あ》いてはいないようだ。
……けど、マサトとしてはカメラどころではなく、けれども、気遣ってくれるまな美たちにあわせて、表情を変える。
四人は大銀杏の根元まで行ってみた。
すると近くを、他の客たちが、
「あの公暁《くぎょう》って、ここに隠れてたんでしょう?」
「ここに公暁が!」
「実朝《さねとも》の首をばっさりと」
「公暁が――」
と口々にいって指さしながら、通りすぎて行く。
それらは、歴史部がいまさら話題にすることでもなく、そうこうしていたらまな美が、
「あっ、大銀杏がもう一本あるのね。鎌倉で二番目といわれている木が、そっち行ってみる? そちらは空《す》いてるはずだから、十分もかからないわよ」
そして一行は、石段の上にある本宮《ほんぐう》には(そこはいつでも行けるが大銀杏は今日しかない)参拝せずに、境内から脱出する。
表参道の途中から左右に抜けられる道があり、そこから東鳥居をくぐって外に出た。途中、銅葺きの屋根をした社務所《しゃむしょ》ふうの幼稚園や、その脇に『さざれ石』や、左手奥には社殿が黒漆《くろうるし》の白旗神社《しらはたじんじゃ》などもあるが、まな美が簡素に説明して立ち寄らずに。
――ともあれ、
大銀杏の境内では何事もなかったのだ。マサトもこれといった異変は感じられなかった。
東鳥居から先には、矢印の案内板がそこかしこに立ち、そぞろ歩きをしている人もかなりいる。その矢印に導かれて二、三分歩くと、石のタイル敷きになった歩道に出る。
「このあたりから東が、大蔵御所《おおくらごしょ》だったらしいわ」
「普通の家だけで、もう何もあらへんねんな」
「大蔵御所の年数ってわずかだったし、あの四代将軍からは、別の場所に移っちゃうのね」
「おっ、四代さまやなあ」
つまり……西園寺|公経《きんつね》の孫であるが。
「そやけど、こんなとこに住みとうない気持ちも分かるでえ。公暁《くぎょう》が、公暁が」
土門くんが馬鹿なことを連呼していると、
「あら、懐《なつ》かしい赤いポストがありますよ」
弥生が、古めかしい煙草《たばこ》屋の軒先に立っている丸いそれを指さしていう。
マサトが、写真に撮った。
その風情《ふぜい》ある煙草屋を十字路の角にして、南北に通っている道があり、そこも同じくタイル敷きで、よく整備された参道[#「参道」に傍点]であるが、
「寄り道になるけど、せっかくだから……」
まな美に先導されるがままに、その道を北に行く。
右手に見えているのはクリスチャンの小学校で、歴史部の文化祭でも話題に出た。つまり、この道を南へと行くと、源家《みなもとけ》の菩提寺《ぼだいじ》――大御堂《おおみどう》と称された阿弥陀山勝長寿院《あみださんしょうちょうじゅいん》が曾《かつ》てはあったのだ。
その道の行き止まりに、白い旗がたくさん立っているのが見えてきた。
「あそこも、白旗神社《しらはたじんじゃ》ね」
そして近くまで行くと、
――勝運の神様、御祭神、源|頼朝命《よりとものみこと》。
そういった木の看板が立っていた。
「ふーんそやけど、頼朝が直《じか》に戦《たた》こうたんは石橋山《いしばしやま》の合戦ぐらいで、それはこてんぱん[#「こてんぱん」に傍点]に負けとうぞう。追手《おって》がかかって、頼朝は木の洞《あな》に隠れたんやから。平家に勝ったんは義経《よしつね》やし、それに後がなあ……」
土門くんならずともそう思う。
その白旗神社は、守《も》り人《びと》などはおらず、古い民家もしくは土蔵のような感じがする貧相な社殿である。そこの石鳥居はくぐらず、
「この上やなあ――」
すぐ先の、狭くて急な石段を見上げて、いつになく神妙な顔で土門くんはいった。
石の鳥居が途中にある五十段ほどの石段だ。
登りきった先は、裏山の七合目といった場所で、猫の額《ひたい》よりは少々広いが、南面を除いては木々に覆われている。秋という季節柄か、いっそう陰鬱《いんうつ》とした感じもする。
「へー、これが頼朝さんのお墓かあ……」
石の柵に囲まれた畳三枚ほどの墓地に、五重塔《ごじゅうのとう》をそのまま小さくしたような形の、苔《こけ》むした石の塔が立っている。それは土門くんよりもわずかに高いぐらいであろうか。石灯籠も置かれてはいるが、奥のそれは頭部が欠けてしまっている。菊の小花が、申し訳程度に生けられてあった。
それでも、今日は参拝客が多いせいか、清涼水が入った小型のペットボトルが並び、小銭がたくさん置かれている。
「わたしの記憶では、この右側は今は空き地になってるけど、確か頼朝茶屋とかいう、土産物《みやげもの》やさんがあったのね。でもその店は潰《つぶ》れていて、トタン屋根が傾いたボロいのが、残ってたのね。それが取り除かれてるから、そのころよりはまだましよ」
「……姫。えらいこと覚えてはりますなあ」
土門くんは呆れ顔で、笑いながらいう。
マサトも微笑んでいる。
四人は、その石の五重塔に向かって手を合わせてから、その周囲をぐるーと見て廻り、さあそろそろ降りようかとしたとき、
「……チロ、チロ」
といいながら土門くんが、お墓の柵の内側に立っている楠《くすのき》(もしくは椨《たぶのき》)の大木の高いところに向けて、その長い手を差し出している。
「なんなのぉ?」
三人もそちらを見上げてみたが、よく分からない。
すると土門くんが、もう片方の手で黄色上着《スタジャン》のポケットから何やらとり出して、
「ほれ、みんな手ー出してえ」
……と各人にピーナッツを配る。
「な、なんのことよ?」
そうこうしていたら、その差し出している土門くん手の指先を目がけて、木の表面を、何かの塊《かたまり》がすすすーと滑るように動いてきた。
「やったあ、とってくれたでえ」
「あ! 栗鼠《りす》がいたのねえ」
「木の幹と同じような色だから、気がつきませんでしたよね」
――茶色というよりか、鼠色《ねずみいろ》をした栗鼠《りす》である。それも頭から尻尾の先までがけっこう長い。
マサトが閃光《フラッシュ》を光らせて写真を撮ったが、何ら動じることなく、その場に止《とど》まって、頭を下に向けた逆立ちの状態で優雅にピーナッツを齧《かじ》っている。
「土門くん、質問。どうしてポケットの中から即座にピーナッツが出てくるの?」
当然の疑問を、まな美は聞いてみる。
「鎌倉にはやな、人なつっこーい栗鼠がおるいうて本に書いてあったから、用意してあったんやー」
そういったところは準備万端な土門くんである。
「もうひとつ質問ね。どうしてチロ、て呼んでたの?」
「いやあ、もう顔を見た瞬間、自分はチロやと思うたぞう……なあチロ、チロ」
三人は、栗鼠《りす》の遠縁にあたる土門《やまざる》くんは置き去りぎみにして、とっとと下山する。
今度は、小学校の北側に沿っている道を進む。
すると三、四分で砂利道に出て、
――荏柄天神社《えがらてんじんしゃ》。
の四角い石柱が立っていた。とともに、
「なっ、なんやこの木は、ばってんして空を塞《ふさ》いどうぞう」
そういった、二本の松の大木が道の両脇から斜めに伸びてきていて、実際にバツ印を作っているのだ。
「ここは天神さまでしょう。だから、下をくぐって下さいね。てそんな意味合いだと、わたしは思ってるんだけど」
「とーりゃんせ、とーりゃんせ……行きはよいよい帰りはこわい」
土門くんは童歌《わらべうた》を適当に口ずさんでから、
「……そんな雰囲気もするなあ」
その松の木をくぐると、すぐ前に赤い鳥居があった。そして、そこまで来ると、
「天目さん、大銀杏が見えてきましたよう」
弥生が、ことのほか朗《ほが》らかな声でいう。
前方の石段の上に荏柄天神社《えがらてんじんしゃ》の瀟洒《しょうしゃ》な神門《しんもん》があって、その右側に黄金色《こがねいろ》をしたそれが――。
歴史部の四人が、その三十段ほどの石段に足をかけると、門から、参拝を終えた客がぞろぞろと十人ほど出てきて、逆に石段を下《くだ》って来る。と同時に、浅葱色《あさぎいろ》の袴《はかま》をはいた神職《しんしょく》の男性が門のところに出てきて、その門を閉じ始めた。
「ま、まってえなあー」
土門くんが大声で叫ぶ。
神職の男性がジロ――と土門くんの方を睨《にら》んだ。そして暫くは睨みあいが続く。
そうこうしていたら(先の十人ほどの客が石段を下《お》りきったあたりでか)その神職の男性が手招きをしてくれた。
「わっ、呼んではるでえ」
四人は大急ぎで石段をかけあがる。
そして、その神職の男性《かれ》に次々《ぺこぺこ》と頭を下げながら、門をくぐった。
「拝観は四時半までなんですよ。けど、遠くからいらっしゃったようだから、特別に五分――」
そういうと彼は、門の戸口を九割がた閉めてから、社務所《しゃむしょ》の方へと歩いて行く。
その姿が完全に消えてから、
「土門せんぱーい[#「土門せんぱーい」に傍点]。関西弁が役に立ちましたねえ」
――破顔一笑、そして大爆笑、といった顔で弥生はいう。
「変やなあ、自分は江戸っ子のつもりやねんけど」
「……!」
あれは関西弁で叫んでたのね、弥生の言葉でまな美も気づいた。
土門くんとは始終話しているから、何が何弁なのか、麻痺《まひ》してしまっている自分に驚く。水野さんが歴史部に入りたてのころ、くすくすくすくす笑っていたのは、そのせいだったのね……と今時分になってまな美は謎が解けた。
「そんなことより、こっちの方があっちよりもだんぜんええぞう。枝がぐちゃぐちゃーとなってて、わいるど感[#「わいるど感」に傍点]いうんがあって」
土門くんはべたべたの関西弁でいう。
境内からだと、その大銀杏の巨木は手水舎《てみずや》の向こう側に見える。
「ほんとですね。木の枝が、屋根にかぶさってくるような感じで」
その手水舎の屋根と、今くぐってきた神門《しんもん》の屋根とに、枝の先が鷲爪《わしづめ》となって……というより、竜の手が攫《つか》みかかってくるような豪放さがある。
「それに、日のあたりぐあいが奇麗ですよね」
――西からの夕日であった。
それゆえか、山吹色《やまぶきいろ》に浅黄色《あさぎいろ》に、そして赤みがかった橙色《だいだいいろ》にと、えもいわれぬ色彩を織《お》りなしている。それらの葉が微風《かぜ》にそよいで、きらきらと……きらきらと輝く。太い幹《みき》はくすみのない茶色で、陰《かげ》になっている黒っぽい屋根との濃淡が美しい。
マサトは、この瞬間を逃すまいと、撮影を始めた。
三人は、手水舎で手と口をすすいでから、まだ扉が開けられてある本殿へと向かう。それは五段ほどの石段の上にあって、
「ここはお雛《ひな》さま感覚、て感じの神社やな。それにきれーな桜の模様も入っとうことやし」
その扉を見て土門くんがいった。
弥生は……笑っている。
ところを見ると、知っているようだとまな美は思いながら、
「土門くん、これは桜じゃなくって、梅ね。天神さんはどこもだいたいが、この梅の紋なのよ」
「そんなんどっちでもええやんか。受験の神さまやねんから、桜はつきもんやでえ」
「じゃ、土門くんは潔《いさぎよ》く散ってね」
「菅原道真《すがわらみちざね》さんは、梅が大好きだったらしいですよ。この左右にある木は、たぶん紅梅《こうばい》と白梅《はくばい》ですよね。どちらがどちらかは今は分からないですけど」
「そうするとやな、菅原さんは梅干しが好きやったんか? それとも、梅酒の中に入っとう、あの何ともゆえへん美味しい梅が好きやったん?」
そんな土門くんは無視して、女性ふたりは参拝をする。
そして、五分、とはいわれてあったが――
ここは日本三天神のひとつね。知っとうで、京都の北野天満宮《きたのてんまんぐう》やろう、するともうひとつは湯島天神《ゆしまてんじん》かな。本家を忘れてるわよ土門くん。あっ、太宰府《だざいふ》太宰府。それにこの荏柄天神が、大蔵御所の鬼門《きもん》を守護していたのね。菅原さんは鬼やったんやからぴったしや。この神社の方が先にあったから、それにあわせて大蔵御所の場所を決めたらしいわ。鬼門っていうのは、おそろしい霊がやってくる通り道なんですか? そのあたりは姫どうなってるんや?
――そんなことを話しながら、十分以上は境内にいただろうか。
四人は、社務所の方に大声でお礼をいってから門をくぐり、そして石段を下りた。
「この先、真っすぐに見通せるでしょう。ここは荏柄天神社の参道なのね」
「どうりで、じゃりじゃりと音がするはずや」
――細かな砂利が敷かれてあって、お屋敷ふうの家が両側に並び、車がすれ違えるぐらいのそこそこの広さの参道だ。
そして赤い鳥居をくぐって、その先の松の大木をくぐりながら、
「そうやけど、まさに、とーりゃんせとーりゃんせやでえ、空がきゅーに暗《くろ》うなってきたやんか」
土門くんが、心細そうな声を出していう。
それもそのはず、この十一月の末あたりが、一年のうちで日没の時間はもっとも早まるのだ。
「どうしようかしら、この少し行った先に訪ねたいお寺があるのね」
……少しとはいっても、十分近くはかかる。
「それは杉本寺《すぎもとでら》といって、鎌倉では一番に古いお寺で、あの慈覺大師とも縁があって」
まな美は駄々を捏《こ》ねぎみにいい、そちらへの近道に入るでもなく、駅に戻るでもなく、四人は参道を真っすぐに進んで行く。じゃりじゃりと……じゃりじゃりと音をたてながら。
すると、土門くんが突如立ち止まって、道沿いにあった練塀《ねりべい》の高い屋根瓦へと、手を差しのべる。
「……チロ、チロ」
「嘘でしょう?」
「ほら、そこに来とうやんか」
「同じ栗鼠だってどうして分かるの?」
「自分についてきたんやでえ、めんこいやっちゃ、チロ、チロ……」
とそんなふうにして、土門くんにつられて歩みを止めていたときのことだ。
参道に、六、七人の女性だけの集団《グループ》が現れた。横道からでも出て来たのか――十メーターほど前方で、行く手を塞《ふさ》ぐように突っ立っている。全員それなりに着飾っていて、銘々が、色の違った淡い単色の衣装をまとっている。
土門くんとまな美は、ピーナッツが、栗鼠《チロ》が、と異変にはまだ気づいていない。
弥生が、手に提《さ》げていた古地図柄の背負鞄《リュック》を、背中にきちっと背負い直した。
マサトは――
神の触手《しょくしゅ》を矢継《やつ》ぎ早《ばや》にのばしてみたが、その何《いず》れもが、霞《かすみ》がかかったような茫《ぼう》とした絵しか見えてこない。真ん中の後ろ側にいる髪の長い女性が、とくにそうだ。その彼女からは、――何も見えない。
「あや? なんか、先に女性《ひと》が立ってはるよう。それもけっこう大勢」
土門くんが気づいていった。
「チロチロって、変なこといってるからでしょう」
けど、冗談っぽい雰囲気じゃないことはまな美にだって分かる。――その女たち全員が、こわい顔をしてこちらを睨んでいるからだ。
と、そのときであった。
「――いた!」
「逃げたぞー」
そんな叫び声が、背後の距離のありそうなところから聞こえ――たかと思うと、砂利を蹴散《けち》らして、背広やジャンパー姿の男たちが、歴史部員たちの横を次々と駆け抜けて行く。五、六、七、八人。土門くんとまな美には正確な人数はちょっと分からない。
「い……生駒さーん」
そんな呼び声も聞こえる。
その男たちは、女たちの脇《わき》も走りすぎて、その先を横道へと消えた。
「な……なにがどうなってるんやあ」
土門くんは惚《ほう》けた声でいい、
「ここをどこだと思ってるの。天神さまの参道よ」
まな美は虚勢《きょせい》を張っていう。
そのとき、マサトには別の絵が見えていた。
両者が対峙《たいじ》しているちょうど真ん中あたり、海老茶《えびちゃ》色と山吹色の長布《ながぬの》で身をくるんだ異国の僧侶が、忽然《こつぜん》と現れて、立っているのだ。――マサトの夢にも現れた老人であることはすぐに分かった。その老僧は、こちらに背中を見せている。
「行きましょうよ」
弥生が……囁いて促した。
マサトは、根が生えたように動こうとはしない。
その老僧の姿に、変化[#「変化」に傍点]があったからだ。
みるまに体が大きくなっていき、倍ほどの巨人に。とともに、いかつい[#「いかつい」に傍点]姿へと変わった。
――鬼だろうか?
明らかに、怒《いか》っているように感じられる。
夢に現れたときも、確かそうだったのをマサトは思い出した。けど、そのときは怒ってなどはいなかった。何かに変化《へんげ》し、おどけた仕草で舞い[#「舞い」に傍点]を見せてくれたのだった。器用[#「器用」に傍点]なことができる老人《ひと》だと、驚いて感心したのをマサトは覚えている。
次の瞬間、老僧はまた別のものに変化《へんげ》した。
――竜であった。
青い姿をした竜である。
ふわりと宙に浮かびあがった。
そして女たちの頭上へと飛び、ぶつかりそうなほどのすれすれのところを、胴を捩《よじ》らせて、くねくねと……くねくねと舞う。
泣いているのか?
竜は涙を流して泣いている。そうマサトには感じられた。
――見えているのだろうか?
女たちの目線から察しても、竜の姿は見えてはいないようだった。
けど、奥にいる髪の長い女性に関しては分からない。目を閉じてしまっているらしいからだ。
――ジャリジャリ。
誰かが走り寄って来る音がした。
マサトは、老僧のつむぎだす絵に夢中になっていて、敵が迫っていることに気づかなかった。
振り返ると、すぐ背後に男がいた。
両手を前に突き出してマサトに飛びかかろうとしたその瞬間、傍《かたわ》らにいた弥生が、男の袖口を掴《つか》んだ。そして体《たい》を沈め、男を高々と宙に浮かして、
――ドテーン!
塀ぎわに投げ飛ばしてしまった。
すると、女たちは、誰かが指示でも出したのか、いっせいに踵《きびす》を返して遠ざかって行く。
「ささ、わたしたちも行きましょう」
弥生は、何事もなかったかのように、皆を促していう。
老僧は……もとの姿に戻っていた。
そしてマサトの方を見やって、お別れを告げているような悲しい顔をする。
いや、またどこかで……そんなふうにもマサトには感じられた。
「い……いま、水野さま[#「さま」に傍点]が、誰かを投げ飛ばしはりましたよね。た……確か?」
反対方向へと歩き出しながら、土門くんは夢でも見ていたような顔で、おずおずと尋ねる。
「わたし、実をいいますと、武道館とかけもちなんですよ」
「ぶ、武道館いうたら、あの武道館?」
「旧校舎の隣にあります。ですから、歴史部さんの方には、あまり顔を出せないんですけど、ごめんなさいね」
弥生はしおらしくいう。
「どうりで、強いわけやあ」
土門くんは感心して、それで納得[#「納得」に傍点]してしまったようだ。
が、まな美はというと、
「変なことをいうようだけど……」
まな美なりに茫《ぼう》とした顔で、
「さっき、道の上に、チベットの老僧《リンポチェ》が立ってなかった?」
マサトが……思ったとおりだった。
まな美も、会えたようだった。
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第三章 「解脱」
12
――実験をやっていた。
実験、とはいっても、やはりそれなりの淫靡《いんび》さは否《いな》めない。
二十八インチのテレビからは、生《なま》の映像がそのまま映し出されていて、その前の床にへたりこんで、かぶりつきで見入りながら、
「おう、さすがだわね」
「すごーい……」
伊藤《いとう》チヒロと藤木博子《ふじきひろこ》が、はしゃいでいる。
……AV男優の技巧《テクニック》に見惚《みと》れて、感嘆しているのだ。
ここは、都内某所にある豪勢なマンションの一室である。実験はかなりの多人数となるから、いわゆるラブホテルは(通常のホテルであっても)使えず、出版社のお偉いさんが所有していて遊ばせているそれを借りたようだ。
その生《なま》の映像は、ビデオカメラを寝室の大型《ダブル》ベッドの横に据え置いての撮影で、そこから長い電線《コード》を居間兼食堂《リビング・ダイニング》にまで引っ張ってきて録画機《ビデオデッキ》に繋《つな》ぎ、録画はこちらでやっている。もっとも、寝室の光量はやっと見える程度に落としてあり、二十八インチのそれも消音[#「消音」に傍点]にはしてある。
それらとは別に、十七インチのCRTディスプレイが、マックのコンピューターとともに、食堂机《テーブル》の上に置かれ、脳波計から送られてくるデータを時々《じじ》刻々《こっこく》と映し出している。
その脳波計は小型簡便《コンパクト》な設計で、電極のついたバンドを鉢巻きのようにして頭に嵌《は》め、煙草《たばこ》の箱ぐらいの電子装置《トランスミッター》を、マジックテープでそのバンドに留めて使う。そこから電波で飛ばしているわけだ。
竜介は、この実験を指導・監督する立場ではあったが、とりあえず何もすることがないので、革張りの応接セットのふかふかの長椅子《ソファ》に腰をおろして、煙草をふかしている。
食堂机《テーブル》にあるコンピューターや脳波計の作動状況などは、白衣を着た女性が、確認《チェック》をしてくれているからだ。
この実験の準備のために、あの脳波計[#「脳波計」に傍点]はどこに置いたっけえ、と竜介が、研究室の方の資材置き場を漁《あさ》っていて、西園寺静香に見咎《みとが》められ――
「あら、それはイーバですよね」
イーバはその脳波計の名称だが、なーに簡単な実験を頼まれてねと竜介が胡麻化《ごまか》そうとすると、
「ですが、それは研究室にある今のマックじゃ駆動しませんよ」
何年か前に新品と入れ替えて、古いそれは地下倉庫に眠っている。
「その古いマックを持って行かれるのは、いいですけど、二千年問題などはクリアされてます?」
たぶん、そんなのは放《ほ》ったらかしのはずだ。
「先生。フリーズしたら動かせます?」
そっ、それは竜介には無理っぽい。
しかも、彼女は情報工学の博士号を持つ|その種《コンピューター》の専門家だ。そんな助手を、女性だからという理由で除外するわけにもいかず、仕方なく竜介が、実験の趣旨を説明すると、
「あらー、そんなことになるんですか。でしたら、わたくしも是非《ぜひ》ご一緒に」
――かくして、T大学一の才色兼備《マドンナ》の西園寺静香も、この実験に立ち会っている。
けれど、守屋教授は、テレビ局との打ち合わせがあるとかで来ておらず、巡りあわせの悪い男だなと竜介は思う。
約束の土曜日の午後三時には、機材とともにこのマンションに入ったのだが、その|設置と試運転《セッティング》や、段取りの打ち合わせなどをあれこれやっていると、実験の開始のころには日が暮れていた。
それに、脳波のデータを録《と》るのは、ふた組である。
――愛し合っている男女。
――愛し合っていない男女。
どちらが先でもかまわないのだが、竜介は、愛し合っていない方を先にすることにした。
そちらは、いわゆる対照実験《たいしょうじっけん》である。データ的には有意《ゆうい》なものは得られないはずの方だが、時間を待ってもらっている間に、その男女《ふたり》に恋が芽生え、盛り上がられては困るからだ。
その、愛し合っていない男女は、どうやって探したのか? 竜介は詳しいことは聞かなかったが、三十歳ぐらいの男性は、つまりAV男優で、二十代前半と思《おぼ》しき女性の方は……らしかった。
片や、愛し合っている方の男女は、二十代前半の若い男女《カップル》だが、一般人とのことである。インターネットで呼びかけたら、たくさん[#「たくさん」に傍点]の応募があったらしく、その中から選んだそうだ。映像が録画されるわけだが、外部にさえ出なければ、それで了承《オッケイ》とのこと……とはいえ、AV男優の技巧《テクニック》に舌鼓《したづつみ》をうっているような実験の舞台裏は、見せるわけにいかず、その男女には、別室で待ってもらっている。
西澤美沙子《にしざわみさこ》が、
「少し、お話しをお伺いしてもよろしいですか?」
と、竜介が寛《くつろ》いでいる応接|長椅子《ソファ》にやって来て、その端に腰をおろしながらいう。
手には、何冊か本を持っている。
「まず、不滅のティグレのことなんですけど……」
彼女は、その種の難しい本を読んだようだ。
「それは胸にある丸い粒《つぶ》のようなもので、上半分は白色、下半分は赤色。この白と赤というのは、その人の父親と、そして母親に由来するものである。そう考えていいんですよね?」
竜介は……首肯《うなず》く。
「もっとも、本の表現としては、白は父親の精液、これはまあいいとしましても、赤は母親の赤い精液[#「赤い精液」に傍点]、などと書かれていて、遺伝子のことを彷彿《ほうふつ》としちゃいますけど、そうではない[#「ない」に傍点]わけですよね?」
竜介は再度|首肯《うなず》き、
「ええ、DNAのことじゃなく、それらとは、また別種[#「別種」に傍点]のものですね」
――強調していった。
「その不滅のティグレが、輪廻《りんね》をする主体とのことで……けど、このあたりになってきますと、具体的な説明がないんですよね」
西澤はそう不満げにいいながら、本の一冊をひもとき、
「たとえば、問答集がありまして、チベットの高僧が答えているので、そこを斜め読みしますね……悪いことをしたり、よいことをしたりすると、影響がどこに残っているかというと、その不滅のティグレに残っています。死ぬときに来世に行くのはそれです。その意識が来世に行くのです。けど、それが輪廻する主体かというと、違います。輪廻する主体は、あくまでも『私』です。微細な意識でさえも……これは、不滅のティグレの中に入っていたものですよね……それさえも、我々が享受する対象として現れたものにすぎず、それを享受する主体、つまりそれが『私』なのです。そしてこの先も、その『私』についての説明が延々と続くのですけど、たとえば、五蘊《ごうん》というのがあって、それは『色《しき》』身体および物質、『受《じゅ》』感受作用、『想《そう》』表象《ひょうしょう》作用、『行《ぎょう》』は先の『受』と『想』以外の心の作用、そして『識《しき》』は認識作用または意識そのもの……この五蘊を受け取った主体が『私』であり、けど、五蘊そのものは『私』ではない。なぜなら、肉体が死んで五蘊がバラバラになっても、『私』はバラバラになるわけではないからです」
西澤は、その種の説明をさらに延々と読んでから、
「……このように見ていくと『私』とは、五蘊の中で、これだ、と特定することができないものであり、五蘊自体の中に『私』を見つけることもできません。けど、『私』は五蘊を離れては存在しません。なぜなら五蘊は、『私』という主体が過去に行った業《ごう》の結果として享受することを運命づけられた『客体』だからです。従ってツォンカパは……ここが、ようやくその答えらしいんですけど……輪廻の主体を、五蘊《ごうん》のいずれかに依《よ》って名づけた『私』のみ、と説明しており、具体的には意識だなどとは一切述べてないのです。だいぶ難しくなってしまいました。皆さんもずっと考えていてください。ときが至れば、やがて分かる日が来るはずです。――なーんてことが書かれてあるんですけど!」
笑顔で、怒った素振りをしていう。
「そっ、それはですねえ」
竜介は苦笑ぎみに、
「そのツォンカパというのは、ゲルク派の開祖で、十四世紀の人ですね。それ以来、ずーと考えてはきたんだが、ときは至らず、やがて分かる日も来ず、今なおチベットの僧侶たちにもよくは分からない。それが彼らの本音[#「本音」に傍点]のはずです。だから、どんな本にだって明言されてません」
「えっ? 分からないんですか?」
「そうそう、難しい言葉を使って煙《けむ》に巻いてるだけ。不滅の心滴《ティグレ》なるものを想定したはいいものの、それが何だかは説明しきれないんです、彼らにだって。もっとも、いってること自体はほぼ正しいですよ。とくに五蘊《ごうん》の話とかはね」
「ええ、何となくは分かりますけど、そのあたりは哲学的なお話ですよね」
「いや、哲学というよりかは……」
竜介は、不敵な笑みを浮かべて、
「その『五蘊《ごうん》』の箇所をですね、『脳』という言葉に置き換えてみて下さい。それでも、意味が通じるはずですから」
「『脳』ですかあ……」
置き換えて、西澤は目で読んでみる。
「たとえば、『私』は五蘊[#「五蘊」に傍点]を離れては存在しません。『私』は脳[#「脳」に傍点]を離れては存在しません……でしょう。あの臨死体験の最中《さなか》であっても、それは脳がかろうじて生きているので、体験できるわけですからね」
「ええ、ほとんど置き換わりますね……ですが、最後のツォンカパさんの結論の部分は、ちょっと?」
「それはですね、『私』という単語、これを使わないと、輪廻《りんね》する意味がないでしょう。『私』じゃなければ、何が生まれ変わるってんだ!?」
竜介は、江戸っ子のごとくに見得《みえ》をきっていい、
「けれど、それは彼もいっているように、意識ではないわけですね。自身の脳からは切り放《はな》たれて、他所《よそ》に行っちゃうわけだから、意識活動はできません。それに、ツォンカパ自身、こんなことも語ってます。前世においてAという人物であった人の眼の意識と、今世においてBという人物に生まれ変わった人の持つ眼の意識との間には、何のつながりも見いだせない……と」
「それはつまり、その人の意識としては、連続性は感じられないといったことですか?」
「そういうことですね。じゃ、その転生する主体とはいったい何なのか?……単純にいってしまうと、つまり情報[#「情報」に傍点]です」
それは、他の人にも竜介が語ったことではあるが。
「情報ですか……」
西澤も、やはり承服しがたい表情をする。
「情報は、その情報みずからを認識できない。だから『私』かどうか、なんてことは、分かろうはずもない。単なる、情報にすぎないんですよ。それに、不滅の心滴《ティグレ》の中に入っている微細な意識……それには、非常に[#「非常に」に傍点]微細な意識とか、極めて[#「極めて」に傍点]だとか、そういった断り書きが、冠されているはずです」
「ええ……はい」
「我々の脳には、膨大な情報が詰まってますが、それをごっそりと……というのは無理なわけです。情報量[#「量」に傍点]といった観点でいくと、転生の際に持って行けそうなのは、そのうちのごくわずか[#「わずか」に傍点]である。そんな雰囲気《ニュアンス》ですよね」
「あっ……なるほどねえ」
西澤は、暫《しば》し感心してから、
「そうすると、その転生[#「転生」に傍点]する情報[#「情報」に傍点]というのは、どういったものなんですか?」
――誰もが尋ねたいと思うことを、聞く。
「それはさっき、チベットの高僧が、問答集の中で煙《けむ》に巻いてたでしょう。分からないって」
「そっ……そんなあ」
「実際、何を持って行こうが勝手[#「勝手」に傍点]なんですよ。けど、そういうと語弊《ごへい》があり、絶対に持って行けないのもあります。それは、教え[#「教え」に傍点]の類《たぐ》いですね。パドマサンバヴァの埋蔵経典《テルマ》の話のときに出たでしょう。つまり、論理思考的なものは持っては行けません。それとは別に、この種のことを突き詰めて考えちゃうと、仏教の教義からは、明らかに離反しちゃうんですよ。だからチベット密教としては、その先は思考停止[#「思考停止」に傍点]の状態なんです」
「……と、いいますと?」
「その『死者の書』の中に、八十|自性《じしょう》の分別《ふんべつ》の心、というのが説明されてませんでしたか?」
「ええ、心のあり方を、こと細かく分類してましたよね……」
西澤は、本からその頁《ページ》を探し出して、
「えー、愛する者に会いたいと願う心の働き。何かに対して疑惑をもつ心の働き。他人の宝を奪おうとする心の働き。ものを集めたがる心の働き……」
適当に読んでから、
「それらを、瞑想法などを使って、事前に習得しておくわけですよね。何が何であるかを……」
「それはつまり、それらの心を消す[#「消す」に傍点]ためにですよね。すべてを消し去った先に、仏教の目標とする『空《くう》』があるわけですから。そして『空』の状態になってから転生をする。それが、ゲルク派の考え方です。ところが『空』すなわち『無』だから、それで転生をして、何か意味があるでしょうか?」
「あ、……そういわれてみれば」
「何かしらは持って行かなければ、意味はないですからね。彼らがいうところの『私』の意味がない。だから矛盾[#「矛盾」に傍点]しちゃうわけですね。……魂とは、その人となりを決める何かだとすると、それはたとえば、ものを集めたがる心の働き、それが強い、とかね、そういったことではないでしょうか?」
「あー、そういわれてしまうと、ちょっと味気ないですよね」
西澤はソファに座ったまま、両手で頬杖をついていう。
「つまり趣味嗜好のようなもの、何により興味をもつかといった性癖《くせ》……けど、その種のものは、仏教では、けっきょくは煩悩《ぼんのう》にすぎないんです。それに、八十までには細分化しなくっても、単純に喜怒哀楽[#「喜怒哀楽」に傍点]、そういった心が、持って行けるはずです。その人が中有《ちゅうう》にいるときの、それこそ、心のあり様《よう》ひとつでしょうね……が、いずれにしても、持ってこられたBさんとしては、いらぬお世話で、Aさんの業《ごう》を背負わされたことにはなります。ますます、釈迦の教えからは遠のいて行きますよね」
「何の話をなさってるの? ふたりして」
伊藤が、応接セットにやって来ていった。
……生《なま》映像の鑑賞にも飽きたようだ。
「いえね、転生の話をお伺いしてたんだけど、聞けば聞くほど、幻滅って感じだわよ。やはりわたしは、解脱[#「解脱」に傍点]、きれーに消滅しちゃう方がいいわ」
「そーお?」
伊藤は、西澤が応接机《テーブル》に置いた本の一冊を、手に取って頁をめくりながら、
「わたしは、転生ができそうな気がしてきたわよ。とくに、中有から脱出するときの話が、すごくリアルだったし」
……彼女も、読んだようである。
「たとえば、中有の人には、将来の父と母がSEXをしている現場が見えてくる。そこまでは先生からお伺いしましたよね。するとその先、なんと、その人に性欲が起こってきて、その父と母に割り込んで、自分もSEXをしたくなる。なんてことが書かれてあったじゃありませんか。このあたりが、タントラの奥義と関係してくるんでしょう。火鳥先生?」
「ええ、そうなりますね」
「やっぱりだわぁ」
伊藤は、したり顔でいい、
「だってこんな話、普通の臨死体験では、絶対にありえませんよね。だからここが、チベットの僧侶たちが、人為的に訓練してるところなんですよね」
「けど、その先……どこから入るって話で、諸説なかった?」
「あったあった。えー中有の人は、父親の口、もしくは毘盧遮那《びるしゃな》の門から入る……これは頭のてっぺんよね。そして父親の秘密処《ひみつしょ》をへて、これは性器のそばにあるチャクラで、そこを出て母親の性器に入って、子宮の中に入る。あるいは、母親の性器に直接入る。その三種類のパターンがあるって書かれてますよね。そのあたりはどうなんですか?」
伊藤は、臆することなく聞いてくる。
「えー、どのパターンでも、最終的には子宮に入る、となってますが、それは間違いです。さっきも説明してたんですが、転生をする魂というのは、要するに情報[#「情報」に傍点]ですから、その情報を保持できるような構造になってないと……駄目だからです。運よく、その父母のSEXの際に、卵子が受精したとしても、そんなのに情報はもぐりこめないでしょう。ましてや、子宮の中には止《とど》まれません」
「じゃ、どこから入ればいいんですか?」
「うーん、父親の毘盧遮那の門……あたりが正解でしょうかね。そこから先の話は、チベット密教が勝手に作った物語[#「物語」に傍点]です。そのあたりのことが、今やっている実験の結果が出ると、分かってくると思いますよ」
――西園寺静香が、竜介の方に手を振っている。
愛し合っていない男女のそれが終わったようだ。
生駒が、植井とともに埼玉県南警察署に戻ると、署の電波時計の針が九時をさそうとしていた。
時間も時間だから、三階の大部屋には当直の課員たちが少数《ちらほら》いるだけだろう……と思いきや、明かりが煌々《こうこう》とついていて(通常は節電で三分の一ぐらいに落とす)、その大部屋の一番奥にある刑事課には、係長《ボス》がひとりで席に座っていた。
「おっ、首尾はどうだった?」
かなり疲れている様子の両刑事《ふたり》に、いつになく上機嫌に依藤が声をかける。
「……結果、ねずみ一匹でした」
生駒は萎《しお》れぎみにいう。
「うん? ねずみ一匹とは?」
「やー、順を追って説明しますね。自分らは片瀬江ノ島駅で張ってまして、予定通りに現れてくれました。そして尾行も、比較的簡単だったんですよ。ひとり頭抜《ずぬ》けて背が高いですからね、それに真っ黄黄《きっき》のスタジャンを着てましたし……」
いわずもがな、土門くんのことだが。
「そして江ノ島をぐるーと一周してから、江ノ電に乗り、そして途中下車して、鎌倉大仏などを、そしてバスに乗り……そんなことはさておきまして」
南署《けいさつ》も、それなりに大変だったようだが。
「そして鎌倉へと入り、問題の、鶴岡八幡宮の境内に行きました。――ここですよね、真浦会の連中が現れるとするならば?」
「そうそう、火鳥先生からいただいた極秘[#「極秘」に傍点]の情報によると、そういうことだったけど?」
――つまり、竜介から情報の提供があったわけなのだ。もちろん、竜蔵からそう伝えてくれるようにと頼まれて、竜介は依藤に|漏ら《リーク》したのであったが。
「ところがですね、ここがものすごい人出だったんですよ。芋の子を洗う状態……海じゃなくても」
生駒は、土門くんと脳会話《リンク》でもしているのか、同じ与太《よた》をいってから、
「なんでも、この週末が大銀杏《おおいちょう》の絶頂《ピーク》で、それに、鎌倉は今ちょっとした人気《ブーム》でしょう。だからそこが、今日は日本一の観光名所と化していたようで……で自分らもですね、このときばかりは、彼らの近くに寄らざるをえず。そうしますと、例の護衛が、人数までは分かりませんでしたが」
生駒は声を潜《ひそ》めぎみにしていう。
「おう、いたかいたか」
依藤も小声で相槌《あいづち》をうち、
「けど、その件は話してないだろうな? 捜査課には――」
「ええ、いっさい話してません。けど、古田さんは、さすがに気づかれたようでしたが……それに護衛の方も、自分らに気づいたようでした。が、いずれにしましても、互いに見て見ぬふりをしました。けど、けっきょくですね、この鶴岡八幡宮の境内では、真浦会および真柴は、現れなかったんですよ。これも後で考えると、無理のない話でして、かなりの至近距離で、その何人いるか分からない護衛と、自分ら七人とで、二重に保護《ガード》したわけですからね。こんなの、ちょっかい出せませんでしょう」
「確かに、国家元首並の要人警護だもんな」
……苦笑して、依藤もいう。
そんなことは露ぞ知らない土門くんとまな美は、その後も鎌倉をそぞろ歩きして、チロ、チロなどと巫山戯《ふざけ》たことをやっていたのだが。
「けど、今にして思うにですが、やはりその境内で、真浦会は、歴史部員たちを見つけたんではなかろうかと……なんたって、この四人組はすごく目立ちましたからね」
「うん? 四人というと?」
「あ、ひとり増えてまして、女の子なんですが、その子もまた、すごく奇麗な女《こ》なんですよう」
生駒は羨望《せんぼう》のまなざしでいい、
「そしてご存じの、可愛い子もいるでしょう。それプラス背高《のっぽ》ですからね。その四人組が動くと、芋の子たちに妙な乱れが起きるんですよ。それに真柴は、その背高《のっぽ》の彼とは、文化祭で会ってるはずですからね。だから、大群衆とはいえ、逆に見つけ出しやすかったのではと」
「てことは、その後《ご》に現れたってわけか?」
「ええ、そうなんです。境内は十分かそこいらで出ちゃいまして、その後《ご》、日が急に暮れてきた夕方になって、鎌倉の裏通りで、道を塞《ふさ》ぐようにしてばらばら[#「ばらばら」に傍点]、と現れました。それは女性だけで、六、七人でした。で自分らは、このときはけっこう離れてましたから、望遠鏡を使って、真剣に見たんですけどもね……」
生駒は、新大陸発見《コロンブス》の手の格好をしていう。
「そのために、おまえを行かせたんだからな」
「ええええ、真柴の顔を直《じか》に見てんのは自分ですからね」
岩船と林田も見てはいるが、それぞれ鑑識課と少年課なので、捕り物には参加させられない。
「けど、その時点では、真柴は見当たらなかったんですよ。ですが、あのビデオに映っていたマフジ、こいつがその中にいましたので、間違いなく真浦会です。そして……数秒後のことですが、その六、七人の軍団の、おそらく後ろっかわにいた女がひとり、後方にぱーと走り始めたんですね。でその女が、ショートヘアーで、米空軍《MA―1》のジャンパーを着てたもんですから」
「おっ、真柴じゃないのか?」
「ええ、自分もそうだと思いまして、いたー、と叫んで、走り出したわけですね。そして皆も一緒に」
生駒は……暫《しば》し呆然《ぼうぜん》としてから、
「ところがですね、見失っちゃったんですよう」
「何だと? 大[#「大」に傍点]の刑事が七人[#「七人」に傍点]も追っかけてか?」
「うーんそんなところなんですけどもねえ……」
小首を傾げながら生駒がしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]していると、それまでは沈黙を保っていた植井が、
「実は、その女の姿は、僕は見てないんですよ」
――自分は無実・無関係だとばかりにいう。
「うん? どういうことだ?」
「僕だけじゃなくってですね、古田係長以下、全員誰も見てないんですよ。生駒さんが叫んで走ったものだから、ついてっただけなんですね。その逃げて行く途中の姿も、誰も見てないんですよ。生駒さん以外は誰も見てないんです」
ここぞとばかりに、植井はいう。
「あーん見てない見てないって、皆からそうやってずーと責められてたから、先に帰って来たんです」
生駒は泣き言めいたことをいってから、
「けど、僕はちゃんと見たんですよ。この目でしっかと――」
疲れた目を大きく見開いて、
「けど、その話はとりあえずおいときまして、そして現場に戻ったら、地面に男がひとりのび[#「のび」に傍点]てたんですね。で通行人が何人か、心配そうに覗《のぞ》き込んでましたので、どいて下さーいと警察手帳をチラつかせて、その男の顔をまじまじと見てみますと」
「おっ、それがねずみ一匹か――」
察知して依藤はいう。
「ええ、そうだったんですよ。髪形も変えてまして、髭面《ひげづら》なんですけど、間違いなく、真柴の腰巾着《こしぎんちゃく》だった男の片割れです。でそいつはすぐに気がついたんですが、やはり病院には入れないとまずいので、それで自分ら以外は、今、鎌倉の病院に付き添ってます。そして異常がないようだったら、現地警察には何もいわず、南署《こっち》にひっぱって来るといってました。古田係長が」
「おっ、それがいいそれがいい」
依藤もしたり顔でいってから、
「けど、そいつは、なぜ地面に転がってたの?」
――至極素朴な疑問を聞く。
「やー、それは見てないから、自分らにも分からないんですよ。……で考えられるのは、その護衛の誰かが投げ飛ばした、ぐらいでしょうかね」
「ふむ、それぐらいしかないよな」
「えーそんなわけでして、風が吹いて桶《おけ》やが儲《もう》かったような話で申し訳ありませんが、本日の成果は、そのねずみ一匹ということで」
生駒が、頭を下げぎみにいった。
「いやー、何より何より」
意外にも、依藤は褒めの言葉を発し、
「そいつを締め上げればさ、あとは芋づるだから」
……まあ、そう考えるのが常套《じょうとう》であろうか。
「えーところで、係長の方の成果は?」
依藤のあまりの上機嫌さに、生駒は聞いてみる。
「へっ、へ、へ、へー、――いたぞ!」
依藤は北叟笑《ほくそえ》んで、親指を立てていう。
「あっ、いたんですか!」
生駒は目を輝かせていい、植井も、おーと感嘆の声を漏らす。
「いたいた。まだ家にいたのさ。けど、タッチの差だったことは、事実ね。荷造りを終えてやがって、旅券も何もかも揃ってたからさ。金額がけっこうかさばったろう、幾らぐらいかまだ分かんないけどさ。その持ち出しの手筈《てはず》に、時間を食ってたみたいだ。が、絶対に露見《バレ》まいと、高《たか》を括《くく》ってのうのうとしてやがったのが、やっこさんの敗因よ。今日、南署《われわれ》が家に踏み込んだときには、まさかーて顔だったからな。ともあれ、林田くんの執念の勝利よ」
「そいつは、今あそこに?」
生駒が、通路の向こう側を指さしていった。
――取調室が何部屋かある。
「おう、野村《のむ》さんと捜査課の滝澤《たきざわ》とで、ふたりして睨《にら》んでる最中よ。はっ、は、は、はー……」
依藤は、荒い息を吐いて笑う。
「うわぁー、それはこわい[#「こわい」に傍点]」
生駒も、顔じゅうを皺皺《しわしわ》にして笑う。
――野村警部補はご存じ、地獄の門番、南署きっての恐怖顔《きょうふがお》の刑事《デカ》だが、その滝澤も甲乙つけがたい鬼族の猛者《もさ》である。
「ちったあ地獄でも……できれば、針地獄と火炎地獄を一緒くたに、味わってもらわねえとなあ」
依藤は、閻魔大王《えんまだいおう》のごとくにいった。
その経緯《いきさつ》は――こうである。
林田は、金城玲子殺人事件を追っていたのだ。それも我武者羅《がむしゃら》に追っていた。M高校の学内での捜査と引き換えに、沿道での尋ね人の写真を出せなかったことが、今なお心残りで、あのときそれを出していれば、最悪の事態は避けられていたかもしれない、そんな思いが彼を苦しめてもいたからだ。
林田は暇さえあれば、当時の捜査資料を見直していた。どこかに見落としやヒントがないだろうかと。そして気になる点をひとつ見つけたのだ。
それは、母親の温玲李《おんれいり》が勤めていた、赤坂のクラブの店長[#「店長」に傍点]である。
金城玲子は、失踪の十ヵ月ほど前に、母親のことを知りたくて(実の父親が誰だか分からないかと)、その店長を一度訪ねているのであった。
失踪後にも、彼女が再度訪ねている可能性が考えられた。林田は、その店に行ってみたのだ。店長が営《や》っていたショットバーは、幸いなことに(赤坂という場所柄か)四年前と同じ店構えで|存命だった《のこっていた》。
そして林田の顔も覚えていて、
「おやおや、いつぞやの刑事さん」
とにこやかに応対してくれた。
林田はまず、そのおりの〈誤解〉を解こうと、つまり温玲李《レリさん》と娘の金城玲子が生き写しで、彼に〈幽霊〉だと勘違いをさせたままだったので、その説明を始めると、
「あっ、そのことだったら理解しましたよ」
――店長は妙なことをいう。
「いやね、別の刑事さんが、その後ここに来られて、その人から、詳しい話を聞きました」
ええ? 別の刑事とは?
「僕は、そうだと思ったんですけどもね。同じような、お尋ねの内容だったから」
それ、いつごろの話ですか?
「さー、いつだったかなあ」
自分たちが来たのは、四年前の十月ですよ。
「うーんすると、その年明けぐらいだったかな」
名前は? その男の名刺とかは?
「いえいえ、刑事さんだと思っちゃったものだから、何ひとつ聞いてませんよ」
そして店長が覚えていたのは、三十歳から五十歳ぐらいの男、程度の|不確か《アバウト》な話であった。
――が、その男は年明けに店に現れた。
それに関しては、林田は思い当たるふしがあった。金城玲子の家出人捜査を南署が打ち切ったのは十月の末である。すると捜査の責任者だった瀬戸《せと》の携帯電話の方に、父親の金城由純から連日のごとくに電話が入ったのだ。が、その督促《とくそく》の電話は年末までで、年が明けるとピタリと止《や》んだのであった。
そのへんの経緯《いきさつ》を、林田は、金城由純に会って直《じか》に聞いてみた。
――彼が思い出してくれた。
そして書斎を家捜《やさが》しして、男の名刺も見つけ出してくれたのだ。
林田は、その名刺を目の当たりにした瞬間――
それを署に持ち帰って依藤に見せた瞬間――
「こいつだ! こいつが僧侶殺しの真犯人《ホンボシ》に違いない!」
――刑事課《さつじんか》の係長《ボス》もそう断言するぐらいの諸条件が、男の名刺にはそなわっていた。
その彼こそが、署内の緊急|打ち合わせ《ミーティング》の際に、何かひとつ足らないように感じた、金城由純と得川宗純とを繋ぐ黒幕《かぎ》であり、なおかつ、得川宗純の異様に当たっていた霊視の正体《からくり》でもあった。
しかし、林田は手放しでは喜べなかった。
その瓢箪《ひょうたん》から駒《こま》のような話で解決を見そうなのは、得川宗純殺しであって、名刺の男は、金城玲子殺しの方の犯人では、おそらくないからだ。
林田の心は晴れなかった。
――愛し合っている男女。
そちらのデータ録《ど》りが終了したころには、食堂《ダイニング》の壁にある洒落た丸時計の針は九時を廻っていた。
ふた組の男女には、謝辞を述べて(封筒に入った謝礼を西澤が手渡して)お引き取りを願ってから、
「さあ、どんな脳波が出ているのか楽しみよね」
元気な声で伊藤がいった。
竜介は、彼女たちの相手をしてずーと喋らされていたこともあってか、
「……僕に、脳波計をひとつ貸してくれませんか、西園寺さん」
疲れぎみの声でいい、そして静香から手渡された電極つきのバンドを、みずからの頭に嵌《は》める。
「えーまず、標準的《スタンダード》なやつを見せますので、|CRT《モニター》の画面を見ていて下さい。僕の脳波が出ますから」
女性陣三人は食堂机《テーブル》の方に移動する。
ひとりだけ白衣を着ていて研究者|然《ぜん》としている静香が、マウスをあやつりながら、三人にも見えやすいようにと十七インチのCRTの角度を少し変えた。
――画面には即座に(ほぼリアルタイムで)竜介の脳波が表示され始めた。
その脳波計イーバの表示方法は、縦軸に、脳波の細分化された周波数(Hz《ヘルツ》)ごとに尖《とが》った頂点《ピーク》が数多く現れ、それが秒単位で次々と送られていく。つまり横軸が時間だ。そして全体の表示は、あたかも針地獄のように見える。その頂点《ピーク》の強弱(高低)に応じて、色もそれなりに変化する。
「ほんと、粗い意識[#「粗い意識」に傍点]って感じがしますよね。全体が刺刺《とげとげ》だらけで」
伊藤は、見えたままにいう。
「それが、人が起きて活動しているときのごく普通の脳の状態ですね。じゃ、見てて下さい……」
そういうと竜介は、応接のソファに座った状態で、目を閉じてゆったりとした呼吸に変える。
そして十秒もすると、
「あら、急に落っこちちゃいましたよね」
……声を潜《ひそ》めぎみにして、伊藤はいう。
さらに三十秒ほどが経過し、
「うわー、画面が真っ青になってしまって、まるで海の凪《なぎ》みたい」
「でも、そこは|β波《ベータは》のところで、上の方に山脈《ピーク》が現れてますよね。そこが、いわゆる|α波《アルファは》なんでしょう?」
西澤の問いかけに、静香が首肯《うなず》いた。
「そうそう……それが、α波|優位《ゆうい》の状態ですね」
いいながら、竜介はソファから立ち上がって、食堂の方にやって来る。
「わっ、もとの刺刺に戻っちゃいましたよ」
藤木が楽しそうにいった。
「喋って、歩くと、人間すぐにそうなっちゃうんですね」
「ですが、さきほどみたいに簡単に、α波の状態になれるんですか?」
西澤が不思議そうな顔をして尋ねる。
「ええ、誰でも……誰でもそうなるはずです。僕はとくに訓練したわけじゃありませんから。一時期、二十年ほど前だったかな、このα波というのが話題《ブーム》になって、その種の怪しげな装置《グッズ》が売られたりもしましたが、つまりどう[#「どう」に傍点]ってことはないわけですね。脳がα波優位になったからといって、誰かさんが期待をするような不思議なことは、何ひとつ起こりません」
「皆、何を期待してたの? そのころだと、あのスプーン曲げの時期かしらね」
伊藤が、小馬鹿にしていった。
「さて、そういったことを踏まえて、実験のデータを見てみましょうか」
そう竜介が促すと、静香が竜介の方をちらっと見て、美しく微笑《ほほえ》んだ。
どうやら、竜介の思惑《おもわく》どおりのデータが採《と》れているようであった。
「じゃ、愛し合っている男女、こちらを先に見ましょう。その最後を出して下さい。いわゆる、絶頂の少し前あたりから。……それとどなたか、ビデオの方も映してくれませんか、そのあたりを」
竜介が適当《アバウト》にいうと、
「じゃ、八時五十分ちょうどのところから、お願いしますね。一時停止をしていただいて、わたしが声をかけますから、そうしたら再生して下さい」
録画機《ビデオデッキ》や発信機《リモコン》などが置かれているテレビの方に向かっていた藤木に、静香が指示を出していう。
――ビデオテープには時間表示《タイムコード》が録画されてあり、それをコンピューターの時間と合わせてあるのだ。
テープが所定の位置に巻き戻って、
「おっけいですよ」
藤木が声を飛ばしてきたので、静香が合図を送った。
脳波と、そして映像の同時再生が始まった。
「これ、どっちがどっちだったっけぇ?」
竜介が眠たそうな声で尋ねると、
「右側が男性で、左側が女性です」
――静香が凜々《りり》しく答えた。
画面に、ふたりの脳波を同時に出せるのだ。簡易脳波計の類《たぐ》いとしては、イーバは優《すぐ》れものである。
「うーんどちらも針山だけど、左側の方が、つまり女性の方が、やや落ち着いて見えますよね」
伊藤が評論家を気取っていった。
それはそのはずだろうと竜介は思う……男性の方が体を激しく動かしていて、頑張っているからだ。
そうこうしていたら、テレビの前にいた藤木が、
「あっ、いった[#「いった」に傍点]みたいよう」
と剽軽《ひょうきん》に声を飛ばしてきた。
その時分秒《タイム》を、静香が帳面《ノート》に書き留めている。
そして、脳波を見ている伊藤はいう。
「ふたりとも、ちょっと鎮《しず》まってきましたよね」
「これは……α波が出ているんでしょうか?」
西澤が尋ねるが、
「さあ、どうでしょうかね」
竜介は意味ありげにはぐらかし、そうやって、二分ほど|CRT《ディスプレイ》の画面を覗き込んではいたが、
「これだと、少し分かりづらいですよね。ですので、音を出してみますね」
いうと静香が、SoundOUTのウィンドウを開いて、Theta―Sをクリックし、そして時間を戻して再度脳波の再生を始めた。
すると今度は、
――ポゥン、ポゥン、ポゥン、ポゥン。
電子音が連続的に鳴り始めた。
「今、何を鳴らしてるんですか?」
「これはですね、脳波が|θ波《シータは》優位になったときに、鳴るようにセットしたんですよ」
「……θ波ですか」
それは初耳といった表情で西澤はいう。
「θ波は、α波よりも、さらにゆったりとした大きな波で、七ヘルツ前後の特徴のある波ですね」
竜介が説明をする。
「だとしても、これほどっちが鳴ってるの?」
伊藤が不満そうにいう。
「確かにそうですよね。両方が鳴っているはずなんですけれど、これじゃ分かりづらいので、片方ずつを再生し直してみますね」
「うん、それでかまわないけど、時間的には、どのあたりから鳴り始めた?」
「さきほど、藤木さんがテレビを見ながら指示をされた時分秒《タイム》よりは、数秒ほど、前からですね」
静香がそういうと、
「わたし、自信ないわよ。いった[#「いった」に傍点]かどうかなんて、わたしには分かるはずがないんだから」
――テレビの前にいる藤木が大声でいう。
それはもっともだと、一同は苦笑して頷く。
先に、男性の脳波の方を再生した。
音の鳴り始めと、終わりの分秒《タイム》を、静香が帳面《ノート》に書き留めながらいう。
「約、三十五秒の間、鳴っていましたね」
「三十五秒? それはけっこう長いわよね。そんな長い間、男って射精してるものなの?」
伊藤は声高にいったが、竜介は知らんぷりを決め込む。
続いて、女性の脳波を再生した。
そして同様に静香が分秒《タイム》を確認《チェック》しながら、
「えー男性よりは、三、四秒遅れで鳴り始めていますね。けど、鳴っていた時間はほとんど同じです。だから全体的に、数秒ずれているって感じですね」
「へー……」
伊藤は大仰に感嘆の声をもらし、
「すると、男女ともに、そのθ波が出ていたわけですね。それもほぼ同時に……?」
西澤も心底不思議そうな顔をしていう。
「じゃ、参考までに、愛し合っていない方の男女を見てみましょうか」
そして同じ手筈で、ビデオを巻き戻して、絶頂《さいご》のところの脳波を見てはみたが、
「ふーんこれは、音を鳴らしていただくまでもなく、雰囲気がちがいますよね。α波すらも、あまり出てないみたいだし」
伊藤のいう通りであった。
ことが終わった直後、暫くは寛《くつろ》いで下さいね、と竜介はそう指示を出しておいたのだが、やはり寛げはしなかったようだ。
「女性の方はね、絶頂《アクメ》に達していたかどうかまではちょっと分からないけど、AV男優の方は射精はしてるわけだから、やっぱり、明らかにちがってますよね」
竜介は、大きく首肯《うなず》いてから、
「じゃあですね、別の実験データがありますので、そちらを見ていただきましょうか。――西園寺さん、あれをお願いね」
「別の実験、といいますと?」
「それは見てのお楽しみ[#「それは見てのお楽しみ」に傍点]」
竜介は、勿体《もったい》ぶっていう。
静香がマウスをあやつって画面に出したのは、同じく、ふたりを同時に観察《モニター》した脳波である。
それが画面に表示されるやいなや、
「うわっ」
伊藤が驚きの声をあげ、そして暫く見入ってから、
「このボコ、ボコ、ボコと山が連続して出てくるのは、すべてθ波なんでしょう?」
「ええ、そうです。すごく特徴あるでしょう」
「これは、いったい誰の脳波なんですか?」
西澤も驚いて聞いてくる。
「これはですね、とある気功師《きこうし》の脳波なんですよ」
「あっ、あの中国の……」
「これは日本人なんですけどね。その治療中の脳波を録《と》らせてもらったんですよ」
「そうしますと、この左側は、患者さんですか?」
「そうです。左側《そちら》はちょっと分かりづらいんですが、やはりθ波が出ています。もっとも、最初のころはα波優位で、やがて、θ波優位に変わっていってます。でθ波というのは、一般的には、微睡《まどろ》んでいるときに出る脳波なんです。うとうと……としかけたときですね。けど、この気功師の彼は、ご存じだとは思いますが、手をひらひらとさせながら、患者さんの周りを歩き廻っているわけです。だから微睡《まどろ》んでいるはずはなく、なのに、こういった脳波になるわけですね」
「えっ? これで歩き廻ってるんですか? けど、β波のところが、ほとんど凪《なぎ》の状態じゃありませんか?」
伊藤が、不満げにいう。
「僕の脳波を見てもらったのは、そのことを分かっていただくため。ふつう人が動くとあ[#「あ」に傍点]ーなるんです。けど、この彼の場合はあ[#「あ」に傍点]ーはならないんです。もっとも、自称気功師はごまんといますが、こんな脳波になる人はごく一部[#「ごく一部」に傍点]だから、お間違いのないように」
竜介は誤解がないようにいってから、
「あと、θ波が出せることで知られているのは、禅《ぜん》の高僧ですね。それも、ごく限られた高僧のようで、だいたいの僧侶がα波どまりのようです……といったふうに、θ波を意識的[#「意識的」に傍点]に出せるのは、訓練を積んだ、ごくごく限られた人なんですね。僕たちも微睡《まどろ》めば出ますが、それは勘定には入りませんから」
「それなのに、愛し合っている男女がSEXをすると、あのようにθ波が出るわけですね」
西澤は、確認するようにいう。
「そうです、それも比較的簡単にね」
「けど、あれは微睡《まどろ》んでるわけじゃないですよね。男は射精の最中なわけだし、それに女性だって」
伊藤も、彼女なりに確認していう。
「そのはずですよね。気功師のそれと似てますよね。それに、愛し合っていない場合には、出ないわけですから。つまり、愛し合っている男女にだけθ波が出る[#「出る」に傍点]! しかも、ごくありきたりに出る[#「出る」に傍点]! それは通常はまず出ないものが[#「が」に傍点]! そこに、特別[#「特別」に傍点]な秘密[#「秘密」に傍点]がありそうですよね……」
「……特別な秘密ねえ」
西澤が思案を巡らせていると、
「今画面に出ている気功師ですけど、これは話に聞いたことがありますよ。有名な大学病院の先生が、研究成果を発表して話題になりましたよね。気功師と患者の脳が、同調するんでしたよね、確か」
それは知ってるとばかりに、伊藤はいう。
「まあ、そうなんですが、じゃ、その脳[#「脳」に傍点]の同調[#「同調」に傍点]とは、いったいどういうことなんでしょうか?」
「うーん、そういわれちゃうと」
……受け売りの悲しさで、その先には進めない。
「ふたつの脳が同調する、それすなわち、脳から脳へと情報が流れている。それ以外にはちょっと考えられません。そしてその際に、特徴的に現れる脳波が、つまりθ波だということです」
「そうしますと、男女のSEXの際にも、愛し合っている場合だと、脳から脳へと情報が流れる……てことなんですか?」
西澤が驚きの表情で問う。
「ええ、そのはずだと思われます」
「それ、どっちからどっちへですか?」
伊藤が急《せ》いて尋ねる。
「僕は、男性から女性へだと考えています。……さて、ここまでの話は、とくに気功に関してなどは、心ある学者|間《かん》ではほぼ合意が得られています。否定を飯《めし》のタネにしている自称科学者を除いてはですね。けど、ここから先の話は、これは僕の完全な仮説なので、半分物語だと思って聞いて下さい」
その仮説[#「仮説」に傍点]への自信[#「自信」に傍点]とは裏腹に、竜介はお断りをいってから、
「まず母親と子供、子供は、母親の胎内にいるときから、その脳と脳とは密接に繋がっているだろうと考えられます。そして子供の脳は、母親の脳から直《じか》に伝わってくるところの情報、その情報刺激があって、脳の発育が促される。そんな仕組《メカニズム》みを僕は想像しています。ところが、この仮説だと父親が不在ですよね。いてもいなくてもいいじゃありませんか?」
……静香は、その仮説は以前、竜介から説明を受けたことがあった。だからというわけではないが、口は挟《はさ》まずに、竜介と彼女らの質疑応答をただ寡黙《かもく》に聞き入っている。
「けど、父親からは精子が、つまり遺伝子が来てるわけだから、それでいいじゃないですか?」
うざったい父親《おっと》などはどうでもいい、といわんばかりに伊藤はいう。
「――確かに。昨今は遺伝子が万能で、子供の性質は、すべて遺伝子のみ[#「のみ」に傍点]によって決定される。そんな考え方が大勢《たいせい》をしめてますよね。米国《アメリカ》の某大女優が、精子|銀行《バンク》のそれで子供を生んだ、そんな噂が出るように。けど、これは間違いだと僕は思っています。遺伝子も情報[#「情報」に傍点]にすぎません……化学的《ばけがくてき》なね。それとは別種の情報が、つまり脳から脳へと直接伝えられるような情報も、子供の性質を決定する上での重要な因子《ファクター》になっているのではと、僕はそう考えているわけですね。……でその役割を、母親の脳が担《にな》っているとすると、母親の脳情報だけが子供に行ってしまい、脳的にいえば、つまり複製《クローン》を作っていることになる。この偏《かたよ》りは、生物学的に見て、というよりも常識的に考えて、ちょっとおかしいですよね。なので、さきほどのθ波が……」
「え? そうすると、男は射精をするのと同時に、その脳の情報も、女性の側へと放出している。そんな話なんですか?」
不快げな顔をして、伊藤はいう。
「ええ、そういった仮説《イメージ》ですね。それに男というのは、こういう表現をするのも何だけど、やり逃げ[#「やり逃げ」に傍点]って感じでしょう。子供の面倒は見ないし、家にだっていないし。だから脳情報を子孫に伝える機会《チャンス》は、そうそうないわけで……というのが理由ね」
「あっ、そうしますと」
西澤が手を振って、割り込んできて、
「チベット密教でいう転生は、そこにもぐりこむ[#「もぐりこむ」に傍点]、といったことなんですか?」
竜介のいわんとしている結論に、気づいていう。
「ええ、まさにその通りですね。あのタントラの修行というのは、愛し合っている男女でやるわけで、そのときの状況を、つまりそのときの脳の状態を、会得[#「会得」に傍点]することにあるんですよ。……知っていれば、自身《おのれ》の脳情報を、もぐりこませやすいでしょう」
竜介は、悪魔びた顔になっていう。
「うーん、そうなってくると」
「いい感じはしないわよね」
西澤と伊藤は、顔を見合わせてから、
「わたしたちの神聖[#「神聖」に傍点]なるSEXに割り込もうとするわけだから、それこそ、完全にこそ泥[#「こそ泥」に傍点]じゃないの。先生もおっしゃってたけど」
膨《ふく》れっ面《つら》をして、伊藤はいう。
「結果、そうならざるをえないわけですね。彼らは、転生は避けられないといった発想に立ってますから、すると機会《チャンス》は、もうそこしかないんですよ。けど、そういったことに気づいているチベット密教。それはそれで賢い人たちだと、僕は思いますけどもね」
竜介は、いわゆる褒め殺しをしてから、
「で、通常はですね……チベットのように他人に割り込まれない場合ですが……女性の脳からもθ波が出ていたように、それはつまり、男の脳情報を受け入れようとしている、そんな状態だと想像されます。それが、愛し合っている、といったことでしょうか。けど、そのときに運よく、卵子が受精するとは限りませんよね。それに受精したからといって、その情報を保持できるわけでもありません。だから、男に由来するところの脳情報は、いったん女性の脳にたくわえられる。しかる後《のち》、母親から子供の脳へと伝えられる。僕は、そういった仮説《イメージ》を考えています」
ひとしきり感心してから伊藤が、
「さっき、複製《クローン》という言葉が出たときにふと思ったんですけど、こんな噂話、先生お聞きになったことありません?」
井戸端会議ふうに、話しかけてくる。
「子供が、とくに女の子ですけど、その母親とそっくりで、つまり生き写しみたいになっちゃった場合。その両親の愛情が薄かったからそうなったのよ……て、まわりの人が噂したりしませんか? そういった話ですけど」
「ええ、僕もそういうの、聞いた記憶ありますね。理屈からいっても、そうなりそうですよね。けど、それこそ、遺伝子を超えた何かがある……証拠だと考えられませんか?」
竜介が機材の後片付けなどをやっていると、西澤が側《そば》に来て、
「先生。このあと飲みに行きませんか?」
……小声で誘った。
しかもその誘い方は、ふたりだけ[#「だけ」に傍点]で飲みに行きませんか、そういった雰囲気《ニュアンス》だ。
竜介も、その西澤《かのじょ》は決して嫌いなタイプではなく、どちらかというと好みの女性で(伊藤チヒロなどに比べれば遥《はる》かに)、心が揺らいだのであったが、
「先生。おりいってご相談したいことが」
と、近くにいた静香が割り込んできていったので、
「あー、いやー」
竜介は少々困った顔をしてから、
「そんなわけで、今日は申し訳ないんですが、助手と打ち合わせを」
といって、西澤の誘いを断った。
けれど、静香としても格別用事があったわけではなく、祖母の靖子からいわれた言葉を思い出したからだった。
ジョーカーというのは……もしかして。
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13
刑事課の席に依藤がひとりでいると、
「……よりさんさ、ふたつばかし変な話があるんだけど、聞いてくれる」
岩船が、やって来ていった。
「まず、ひとつめ[#「ひとつめ」に傍点]。真浦会が祀《まつ》っているマラさまは、天津麻羅《あまつまら》という日本古来の神さまだといってたろう、生駒くんが」
岩船は、誰かの椅子を依藤の側《そば》まで引きずってきて座り、何やらあれこれと入っているらしい手提《てさ》げの紙袋を事務机《デスク》の上に寝かして置いた。
「ええええ、けど、それは火鳥先生からの丸投げですよ。あいつ最近、先生と会う機会が多いもんだから、やたらと知恵がついてきて」
研究室《そこ》には行けない事情もあって、代わりに行かせてそうなったのだ。依藤は少し後悔もしている。
「もちろんそれは分かるけど……で気になったもんだからさ、自分なりにちょっと調べてみたのよ」
岩船は、その紙袋の中から分厚い本を取り出すと、付箋《ふせん》が挟《はさ》まっている頁《ページ》を開いてから、
「えー、これによるとだね、天津麻羅は『古事記』の天《あま》の岩戸《いわやと》の場面に出てきて、八百萬《やおよろず》の神、天《あま》の安《やす》の河原《かわら》に神|集《つど》ひ集《つど》ひて、え……そして、天《あま》の安《やす》の河《かわ》の河上《かわかみ》の天《あま》の堅石《かたしは》を取り、天《あま》の金山《かなやま》の鐵《まがね》を取りて、鍛人《かぬち》天津麻羅を求《ま》ぎて、伊斯許理度賣命《いしこりどめのみこと》に科《おお》せて鏡を作らしめ……云々《うんぬん》ね」
――誰かさんのように暗誦《あんしょう》というわけにはいかず、その本を読んでいい、
「で要するにさ、鏡を作ってたわけね。古代の鏡を作るには、石で型《かた》をとってから、そこに金属を流し込む。だから伊斯許理度賣《いしこりどめ》という石の神さまも必要で、そして天津麻羅は金属の神さま、そういう話ね。じゃ、この鏡は何かというと……その次の文章に、八尺《やさか》の|勾※[#「王+總のつくり」、第4水準2-80-88]《まがたま》というのがあって、これは、かの有名な三種《さんしゅ》の神器《じんぎ》のひとつね。そしてちょっと後の文章に、中枝《なかつえ》に八尺鏡《やたかがみ》を取《と》り繋《か》け……と出てくるから、案の定、八咫鏡《やたのかがみ》を作ってたわけさ。だから天津麻羅は、この場面のみで、一回ぽっきりしか出てこないんだけど、けっこう重要な神さまだったわけね」
依藤は、ふんふん、と頷く。
「でもうひとつ、『日本書紀』というのがあるだろう。そして書紀の方が、より詳しく書かれているわけさ。何倍という分厚さだからね。じゃ、その同じ箇所はどうなっているかというと、八十万神《やそよろずのかみたち》、天安河辺《あまのやすのかわら》に会《つど》ひて、そして随分と先に、石凝姥《いしこりどめ》を以《もっ》て治工《たくみ》とし……これはさっきの伊斯許理度賣《いしこりどめ》と同じね。ところが、その直後の文章が……天香山《あまのかぐやま》の金《かね》を採《と》りて、日矛《ひほこ》を作らしむ。……それで終わりなのね。ここは明らかに文脈がおかしいんだ。石の神さまに、いきなり金属を採らせてるわけだからね。そして解説では、ここには本来、『古事記』の天津麻羅のような金属系の神さまが入るべきところを、省略されてるんじゃないか、というわけね」
「うん?……省略?」
依藤としては興味津々とはいいがたい話だが、岩船さんの手前、適当に合いの手をいれる。
「それは体《てい》のいい言葉でさ、詳しく書かれている方の『日本書紀』が、省略っていうのは変だろう。だから実際は、抹消[#「抹消」に傍点]されちゃったんだろうね。そのへん、どんな理由かは説明されてないけど……そしてさらに、一三〇頁を参照しろと書かれてある。じゃ、そっちを見てみようじゃないか」
岩船は、いかにも嬉しそうにいい、
「えーこのへんはさ、出雲《いずも》の大物主《おおものぬし》の神に国譲りをさせて、いよいよ天孫《てんそん》が降臨《こうりん》してくるって話だけど、それと前後して、たくさんの神々が地上に降りてくるわけね。そのひとりに、作金者《かなだくみ》という役割の神さまがいる。これは金属を作る者、つまり金属神《きんぞくがみ》ね。その神さまの名前が、これなんだよ――」
と、岩船は、その本の箇所を依藤に指し示す。
「うん? どれどれ……」
依藤は、示されたその漢字に目をやってから、
「……な! なんだってえ?」
蛍光灯のように驚く。
――天目一箇神《あまのまひとつのかみ》を作金者《かなだくみ》とす。
そう書かれてあったからだ。
「ね[#「ね」に傍点]よりさん。これどう見たって、あの天目マサトくんじゃない?」
「た……単なる偶然じゃないんですか、岩船さん」
弱々しい声で依藤はいう。
「こんな偶然が起こるわけないじゃないか! これこそ必然の産物さ」
岩船は叱《しか》っていってから、
「で神さま事典で、天目というのを引いてみたのよ。すると、天日《あまのひ》が頭についてんのは何個かあったんだけど、天目は、これ一個しかないのね」
「じゃ、何ですか? あの黒|男根《マラ》と、その天《あま》の何とやらは、同じ神さまだということ?」
「うーん、そのあたりは明言されてないんだけど、この天目一箇神の脚注には、『古事記』でこの役をやっていたのは天津麻羅……てそう書かれてるのね。けど金属神は、『古事記』と『日本書紀』に各々ひとりずつしか出てこないのよ。だから、自分は同じだと思うんだけど」
「ふむ……ふーん」
依藤は難しい顔をして、腕組みをして唸《うな》る。
「だから真浦会は、マラさまマラさまといって、黒|男根《マラ》さまを奉《たてまつ》ってはいるけど、あんなのは所詮《しょせん》石の塊《かたまり》だろう。けど、天目マサトくんの方は、いわゆる生《い》き神《がみ》さまだからさ、そっちの方を欲しがる気持ちも、何となく分かるよね。そのへんが、今回の事件の裏じゃないのかと、自分は思うわけさ」
……岩船は(南署の最後の切り札と、依藤が称しただけのことはあって)何かにつけて、核心に迫るようだが。
「それに、この天目一箇《あまのまひとつ》というのは、けっこうすごい神さまなんだよ。その父親は、天津日子根命《あまつひこねのみこと》で、これは何神《なにもの》かというと、天照大御神《あまてらすおおみかみ》と須佐之男命《すさのおのみこと》が誓約《うけい》というのをやって、そのときに天照《あまてらす》から五人の男神《おとこがみ》が生まれるんだけど、そのひとりなのね。だから天目一箇は、天照の直系の孫なわけさ。ちなみに、降臨してくる天孫《てんそん》の瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》も、天照の孫だから、ふたりは従兄弟《いとこ》関係だったのよ」
……といわれても、依藤にはぴんとこないが。
「ともあれ、自分らが住んでる世界とは次元のちがう、根の深い深い深い深い話ってことね。こんなのはもう、放《ほ》っとくにかぎるよよりさん」
……それは、以前にも聞いた。
「さて、もうひとつあるんだけど、こっちこそが自分の本業ね」
仕切り直して岩船はいうと、手提げの紙袋の中から、透明バインダーに入られた紙切れを取り出す。
「これ、よりさんも見ただろう?」
「ええええ、見ましたよう。植井が見つけてきた、アパートの賃貸契約書ですよね」
「これが三軒茶屋《さんげんぢゃや》の方だろう。そしてこれが、葛西《かさい》の方なんだけど……よりさんは、ふたついっぺんに見てないんだなあ?」
「そうそう、三軒茶屋はすぐに見つけてきたけど、葛西にあいつ何日[#「何日」に傍点]かかってたっけ――」
そのアパートが消滅していたとのことで、植井は手間取ったのだ。
「じゃ、二枚を並べるから、じっくりと見てよ」
岩船にそう促されて、依藤は目を皿のようにして見てみたが、
「……あれ? この賃借人・乙のところ、名前や住所はちがってるけど、同じ人の字じゃないの?」
「よりさんにも、そう見えるだろう」
「見える見える。それに、しっかりとした字ですよね……」
「でさ、気になったもんだから、金城玲子さんが書いたものがないかと、お家の方に問い合わせてみたのよ。けど、小学生のころのものしか残ってなくて、それはちょっと駄目だから……で、学校の方に聞いてみたのね。するとさ、あの東《あずま》先生が」
「あーあーあーあ」
依藤は……お辞儀して項垂《うなだ》れる。
「四年前の金城玲子さん失踪のおりには、その東先生もすごく心配されたらしく、金城さんのお家の方にも、何度か訪ねられてたのね。でー、何か写真があるんだって? 玲子さんの? 青いドレスを着たような?」
「……さあ」
そのあたりは依藤は喋りたくないので、惚《とぼ》ける。
「その写真が、すごくいい笑顔で写っていたようで、それを見て、そのときは少し安堵したのでしたが、そんなこともおっしゃってたけどね。……その東先生が、玲子さんが直前に書かれた作文を、国語の先生から預かって、持っておられたのよ。大事《だいじ》にね。それを複写《コピー》させてもらったの。……それがこれ」
依藤に手渡された。
「えー『わたしの夢』……」
そう題された作文であった。
「よりさん! 中身は読まなくていいから、字を見てくれる!」
……岩船に怒られた。
そして依藤は、その作文と、二枚の賃貸契約書を見比べながら、
「あれえ、同じ筆跡じゃないんですか? 細かなところは分かりませんけど、この芯の通ったしっかりとした字、雰囲気が一緒ですけど……」
「そうなのよ。これは自分が自信をもっていえるけど、これらは同一人物による字さ」
岩船氏の筆跡鑑定には定評がある。
――が、
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。だったらおかしいじゃないですか。三軒茶屋の方はいいとしても、この葛西の方は、去年の夏の日付なんだから、あの白骨死体の年数と合わないじゃないですか!?」
――監察医の見立てによると、その白骨は最低でも二年は経っているとのことだ。
「だからおかしいと思って、よりさんとこに持って来たのね」
「だったら、どっかが間違ってんでしょう?」
「そりゃそうさ。どこかが間違ってないと、こんな変なことには、ならない[#「ならない」に傍点]」
岩船は腕組みをして、大きく頷いていう。
「それは、岩船さんの方で調べていただかないと」
「自分はちゃんとやってるよ。その間違いの原因を捜し出すのが、よりさんの仕事じゃないか」
「えー、それは鑑識さんのお仕事では?」
「何いってんだ! それは刑事の仕事だよ」
「それこそ岩船さんの」
「や! よりさんのだってば[#「ば」に傍点]」
「そ、それはですねえ」
……苦笑してから、
「生きていると考えるのは如何《いかが》でしょうか」
小声で囁いていった。
「ええ? 誰が生きてるですってえ!?」
「まあまあまあ、警部さん」
いきり立つ依藤を、竜介は宥《なだ》め賺《すか》していう。
ふたりは、下北沢の竜介の自宅《マンション》近くにあるTROCADEROという居酒屋《ビストロ》の二階にいた。そこは内外装がフランス直輸入の骨董品《アンティーク》で、従業員もフランス人という並外《なみはず》れて洒落た店である。
依藤から電話で、得川宗純殺しの犯人を縄《パク》ったことや、ねずみ一匹の成果などを知らせてきたので、じゃ、飲みにでも行きませんかー、と竜介が誘ったのであった。
「まず、その天津麻羅《あまつまら》と天目一箇命《あまのまひとつのみこと》ですが、これはちがう神なんですよ」
「ち、ちがうんですかあ?」
人によって、どうしてこう食い違うんだと依藤は思う。
「天津麻羅って、呼び捨てですよね。神とか命《みこと》とかがついてなくって。だからそこからしてもう変[#「変」に傍点]なんですよ。この天津麻羅は、物部氏《もののべし》系の金属神《きんぞくしん》ではなかったかと、考えられています」
「…………」
「仏教を導入する・しないで争って、蘇我馬子《そがのうまこ》らに滅ぼされたのが、物部氏です」
「あー、聖徳太子《あのあたり》ですねえ」
依藤も、ぼんやりと思い出した。
「片や、天目一箇命も同じく金属神ですが、忌部氏《いんべし》系のそれなんですよ。だから厳密にいうと、同一[#「同一」に傍点]ではないんですね。……僕も、似たようなことは思ったんですが、警部さんに説明しなかったのは、真浦会がどの程度の知識でもって、あのマラさまを立てているのか、判断つきかねたので」
「あっ……なるほど。岩船さん程度《レベル》だと、同じ神なんですね」
「端的にいっちゃうと、そういうことです」
してみると、真浦会はどうやら岩船さん程度《レベル》だったようだが。
「それに、このあたりの神に関しては、よく知られた論争があるんですよ。もっとも、その業界[#「業界」に傍点]においてですが。『柳田国男《やなぎたくにお》・谷川健一《たにがわけんいち》』論争というのがそれです」
「あっ、あの柳田国男さん」
依藤も、さすがにその名前ぐらいは知っているが。
「ただし、柳田さんが亡くなられた後なので、欠席論争ですけどね。その論点は、柳田さんの『ひとつ目小僧』で、話題となっている主なる神は、さっきの天目一箇命です。そして、ひとつ目こそが神になる。そういった話ですね。ところが谷川さんは、いやいや、そんなものは単なる鍛冶屋《かじや》の神にすぎない。と大反論を展開したわけですよ。おびただしい具体例を提示してね。そして現在においては、この種の専門書は、つまりその業界では、ほぼ百パーセント谷川さんの主張が通っていて、猫も杓子《しゃくし》も、金属の神といったことで納得しています」
「あっ! てことは、その谷川さんの説が間違ってるわけですね」
「ええ、彼の個々の話は全部正しいんですけど、それが却《かえ》って、真相を覆い隠すような構図になってしまったんですね。谷川さんの視点には、重要なふたつの事柄が、すっぽりと欠けちゃってるんです。ひとつ、神とは何であるか? そしてもうひとつ、その金属神が作った鏡は、何に使っていたのか?」
依藤は、その竜介の『|?《といかけ》』を自分なりに考えてはみるが、分かろうはずもなく。
「もっとも、柳田さんも、これらに肉薄していたわけじゃないんですが、感覚的には、直感としては、柳田さんの説が圧倒的に正しかったんですね……で、これは簡単な話でして、人が神になるには、あるいは神のごとき力を得るためには、大きく分けてふたつあって、道具を用いるか、用いないかなんです。その道具を用いる方の代表が、鏡であり、用いない方の代表が、天目一箇命なんですよ」
「ええ? てことはですね、そのふたつが合体しちゃってるわけですか? その金属神というやつは」
「そういうことです。結果、ほぼ同じような神の力が得られるので、どこかの時点で、話が一緒くたになってしまったんですね」
「先生、生駒からちょっと聞きましたけど、あの真浦会の目薬は、それは道具を使う方ですか?」
「いえ、あれは使わない方に分類されます。つまりみずからの目を……壊《こわ》す方ですね」
「先生、ちょっと変なこと聞きますけど」
依藤が、あらたまった口調で、
「先生は最近、もう何でもかんでも話してくれますよね。いったい、どういった心境の変化で?」
「あー、それですか、だって警部さんは、もうすべてご存じでしょう?」
「まあ、存じてるといえば、存じてますが」
「さっき岩船さんという人が、話に出ましたよね」
「ええええ」
「その岩船さんに、天目マサトくんの正体は見抜かれちゃってるわけだから、当然、警部さんの耳にも入ったはずですよね」
「ええ……まあ」
依藤は訝《いぶか》しげに頷いてから、
「いや? ちょっと待って下さいよ。そのことをどうしてご存じなんですか?」
「いやーご存じもご存じでないも、その、岩船さんに見抜かれたということは、天目マサトくんは当然見抜いているわけで」
「――あっ! 気づいたということを、あちらさんも気づいてたわけですか?」
「そういうこと……」
「あーあーあー」
依藤は項垂《うなだ》れぎみに(まだ見ぬアマノメの神に)頭《こうべ》をたれる。気づいたことを相手が気づく……まるで心霊戦争《オカルトウォーズ》を地《じ》でいく話だなと思いつつ。
「だから僕としては、隠し立てすることはもうなく、警部さんに追求をされてたじたじ[#「たじたじ」に傍点]することもない。はっ、は、は、はー」
わざとらしく竜介は笑う。
「……謎が解けた。これ自分にとっては、けっこう大きな謎だったんですよ」
いってから、依藤は、船旅鞄《テーブル》にあったグラスの生《なま》ビールを美味《うま》そうにあおった。
――ふたりがいる店の二階は四畳半ほどの空間《スペース》で貸し切りの状態だが、まさに異国の屋根裏といった場所で、昔|船旅《ふなたび》に使われたらしき木の大きな鞄が床に置かれ、それが飲食台《テーブル》で、蝋燭《ろうそく》が灯《とも》っていて、それが明かりだ。
「ですが、その天目マサトくん。彼はそんなにすごい神さま[#「神さま」に傍点]なんですか?」
「ええ、すごいでしょうね。神代《かみよ》の時代から存続しているという、その歴史の古さもさることながら。彼ぐらいになっちゃうと、もう日常の感覚がちがってるはずですから。僕たちこうやって喋ってますけど、その何割かは嘘をいってるわけで、互いに腹の探り合いをしながらね」
「まあ、そうですね」
「けど、彼にはそういったのは全然通じないんですよ。他人《ひと》が隠そうと思えば思うほど、それがい[#「い」に傍点]の一番に見えてしまう。そういった理屈《メカニズム》なので」
「な……なるほそ」
やはり、神などではなく、魔物の類《るい》だなと依藤は思いつつも、
「けど、そんなすごい神さまだったら、信者がわんさか集まってくるわけですよね」
……おべんちゃらをいう。
「いえいえ、それは逆なんですよ。優れた神であればあるほど、信者の数は少なくていいんです。その少数の信者たちとともに、栄えていけばいいわけですから。その信者も、他人に教えたりはしません。だって、おいしい話ほど、普通よそには漏らさないでしょう」
「あっ、逆《さか》さまなんだ。巷《ちまた》の宗教とはちがって」
「そうです。信者をつぎつぎと勧誘していき、世界|制覇《せいは》を目指すような宗教であればあるほど、それは嘘で、出鱈目《でたらめ》で、ペテンで、そこには神などは存在しないんです」
竜介は極論を、ごく平然とした顔でいう。
気のいいフランス人青年の店員がご用聞きに二階に上がって来たので、竜介は、手頃な値段の赤ワインの一本《ボトル》と、チーズの盛り合わせを注文《オーダー》した。
「僧侶殺しの犯人と、先生のおかげで、ねずみ一匹は縄《パク》ったんですが、ふたりとも黙《だんま》りでしてねえ。とくにねずみの方は、太田多香子さん誘拐の罪をひとりでおっかぶるつもりなのか、完黙を通していて、いまだに本名すらも分からんのですよ」
依藤が、竜介は何も尋ねてはいないのに、勝手にべらべらと喋り出す。
「僧侶殺しの方ですが、その犯人が口を割らなくても、おおよその手口は分かってましてね。そいつは、いわゆる興信所……某探偵社に勤めていたわけで、そこに客から依頼があると、それが家出人などの捜査だった場合、そしてその客に金がありそうだと見るや、その客の資料をごっそりと、僧侶に横流ししてたわけですよ」
「あ!――なるほど」
「だから霊視は当たって当然なんですよ。そして僧侶は、その資料から話を小出しにして、儲けてたわけですね。そしてこれも自分の推理ですが、頃合いを見計らって、その客の郵便受けにチラシを投函してたはず。もちろん、霊能無比の僧侶のチラシを。それで引っかけてるわけだけど、客の方からは、その探偵社の男と、僧侶との接点が何ら見えないから、その霊視を全面的に信じてしまう。だから単純なんだけど、よくできたペテンだったわけですよ――」
依藤は、憎々しげにいってから、
「ところが、僧侶がテレビで売れちゃったんですね。なので、そういった裏稼業からは足を洗いたく思い、もちろんこれも自分の想像ですが。そしてふたりの蜜月《みつげつ》は壊《こわ》れ、お定まりの金銭|争奪戦《トラブル》となって、犯行に至った。ていうのが大ざっぱな|筋立て《ストーリー》ですわ」
「すると、その金城さん以外にも、たくさん引っかかってたわけですか?」
「のはずですね。けど、ペテンにあってるといった感覚はないでしょうね。よく当たると評判を呼んで僧侶はテレビに出るようになったんですが、後押しをした人たちは、十中八九、そのペテンに騙《だま》された人たちでしょう。そして探偵社の男の方ですが、そいつの成績は極めて悪いんです。もう首にならないギリギリぐらいに。だから分からない分からないと客にはいって、その資料をせっせっと僧侶んとこに持ち込んでいたわけです」
竜介が、|あくどいな《なるほどね》……と呆《あき》れ感心していると、
「さて、ちょっと前の、生きてる[#「生きてる」に傍点]って先生の囁きは、どういうことなんです? 聞かせて下さいよ」
――どすの利《き》いた声で、依藤は急《せ》かしていう。
彼がせっせと竜介に話をしたのは、交換条件《バーター》だったようだ。
「えーつまり、その金城玲子さんは生きてるってことですよ」
「そんな無茶な。だって白骨死体があるんですよ」
「だからそれは、関係がない死体なんでしょう」
「そんなことありえませんよ。だってDNA鑑定が出てるんだから」
「でしたら、そこが間違ってたわけでしょう。岩船さんがいみじくも、間違いを捜せとおっしゃってたのは、そのあたりじゃないんですかあ」
竜介は、お惚《とぼ》けをかましていう。
「な、何いってんですか。DNA鑑定の精度はすごいんですよ。先生もご存じでしょう」
「いや、鑑定の精度の問題じゃなくって、そのあたりのどこかに原因があるんでしょう」
「ちょっと待って下さい――」
依藤は、竜介をひと睨みしてから、
「そのネタ元も、あの天目マサトくんですか?」
「ええ、もちろん。金城玲子さんは生きていると、彼がそう断言してるんですよ」
「な……なんてことだ」
依藤は憮然《ぶぜん》とした表情で体を前後に揺すりながらも、どこかしら楽しげである。
彼女に生きていて欲しい、とは依藤が夢にまで見たことであって、真実生きているならばそれにこしたことはないからだ。
――が、
刑事としては承服しかねるものがある!
「先生。その間違いの箇所は、かの天目マサトさま[#「さま」に傍点]は、見抜いてらっしゃるわけですか?」
「ええ、彼にはだいたい分かったようです。その粗筋《あらすじ》は、僕も教えてもらいましたから」
「くっっっそう。それを先生からぬけぬけ[#「ぬけぬけ」に傍点]と教わるわけには、――刑事としては」
わなわなわなと震えていい、
「ちょっと、考えさせて下さい」
そのころ、古利根川《ことねがわ》沿いにある森の屋敷では、
「マサトくん大丈夫? さっきから嚔《くしゃみ》ばっかりして」
と、まな美が気遣っていた。
「えーなー天目は。女の子がいっぱい噂しとおんやでえ。自分にはチロしかおらへんわ。なあチロ」
と土門くんは、その栗鼠《りす》の写真を手に持ってぱたぱたさせながら、足先だけを電気|炬燵《ごたつ》に入れて座敷に寝転がっている。
それら鎌倉探訪のときの写真が仕上がったこともあって、遊びに来ない、とマサトが誘って、ふたりがのこのこやって来ているのだ。弥生は、武道館の方の稽古があるとかで来ていない。
夕食は(各人《ふたり》の家ではまず食べられない、小鉢がたくさん並んだ純和風の食事)すでに終え、デザートの巨大な苺《いちご》と煎茶が、炬燵の天板《テーブル》にのっている。
ここは離《はな》れの書院座敷の、中庭に面した一室だ。
夏のころは裏庭に面した方を、もっぱら歴史部は使っていたが、そちらは日が当たらないので、寒くなってくると、こちらに引っ越すようだ。そちらとこちらに、それぞれ三部屋ずつあり、間仕切りをすべて取っ払うと畳六十帖敷きほどの大広間となるが、今は襖《ふすま》が嵌《は》まっていて、その東端にあたる床の間がついた部屋に三人はいる。
そうこうしていたら、
「ねえねえマサトくん、土門くん、わたしまたすごいことを発見しちゃったわよ」
まな美が、嬉しそうにいい出した。
「姫のすごいことやいうんは、ほんまにすごいことやからなあ」
土門くんは口重たくいう。
食後のためか、血が頭に巡っていないようだ。
「発見したことはふたつあるのね。それが、いいことと、悪いことなんだけど、どっちの話から先に聞きたい?」
「悪い話? そんなん発見すんの? 今までにあらへんで? 珍しい発見ちゃう? そっちを先にしよう」
土門くんは途切れ途切れにいう。
「じゃ、ふたりとも覚悟[#「覚悟」に傍点]してよう」
そんな脅しめいたことをまな美はいうと、学生鞄の中から地図帳を取り出して、炬燵の天板《テーブル》の上に置く。
土門くんも、よっこらしょ、と身を起こしながらそれを見て、
「あ、いつものみりおん[#「みりおん」に傍点]やなあ」
――歴史部|御用達《ごようたし》の一万分の一『ミリオン市街道路地図帖』の東京版だ。
「それの五十五頁ね」
まな美がそこを開いて、指さしながら、
「ここに、首相官邸があるでしょう」
それは、その頁の下側にある。
「うん、あるでえ」
と土門くんはいいながらも、尋常ではない不吉な胸騒ぎが、すでに全身を駆け巡っている。
「そして、その百メーターほど西隣りに、新官邸・建設中っていうのがあるでしょう」
「あー、これ最近テレビでやってたやんか、除幕式かなんかを、歴代の総理大臣が並びはって、建物《たてもん》の中に竹林があるとか、そんな造りのやつを」
「だから、もう完成はしてるのよね。そして、この極細鉛筆《シャープペンシル》で、その新しい官邸の真ん中に点を打ってくれる」
まな美に手渡されたそれで、土門くんはいわれた通りにする。
「そして定規《じょうぎ》があるから、その点を、北に延ばしてってくれる。――真北よ。――真北ね」
「姫、それ自分がやるん?」
駄々を捏《こ》ねぎみに、土門くんはいう。
「誰がやっても、答えはいっしょよ」
「しゃーあらへんなあ、自分はいっつもこんなんばっかしやあ」
土門くんは愚痴愚痴いいながら、定規をあてる。
「えー、そして北へ行くと……あっ、古い首相官邸の真北には、最高裁判所があったんやな。だいたい八百めーたーほど真北に」
一万分の一の地図は、定規の一センチが百メーターとなり、換算は即座にできる。
「これはよう考えられとうやんか。北から睨みを利かしとうわけやな。誰かさんが暴走せえへんように。ただし……過去形や。その最高裁判所の北側は国立劇場やんか。けっこう、お洒落な建て方してはったんやな。その右側には、皇居のお濠《ほり》が見えるやんか。桜田濠があって、そして半蔵門があり、その上が千鳥ヶ淵公園や」
土門くんは寄り道ばかりをして、新・首相官邸の真北にはなかなか上がって行こうとはしない。
が、やがては、
「うぎゃ!」
蛙を踏んだような声を土門くんはあげると、その定規を、ポイ、とそのへんに投げ捨て、
「見た天目?」
マサトも、驚いた表情で頷く。
「こんなん定規あらへんかってもすぐ分かるやんか。そやけど姫、えーらいもん見つけはるなあ」
非難めいた声で土門くんはいい、
「なるほど、そういうわけやったんか。あの総理大臣が、皆から猛反対されても、国交断絶するぞーいうぐらいに外国から文句いわれても、そんなん聞く耳もたーんいうて、せっせと靖国神社《やすくにじんじゃ》に行きはるんは、これが理由やったんやな」
「そう」
まな美は至極あっさりといい、感想《コメント》はとくに語りたくないようだ。
――ご想像通りで(驚くなかれ)その新・首相官邸は、靖国神社の本殿[#「本殿」に傍点]を貫く南北線にピタリと合わせて建てられているのである。
「自分ら十七歳高校生の未来は、どうなるんやろうかなあ」
土門くんは、哀れな声で心配そうにいった。
「――姫、次行こう次。ええ話の方にさくさく行って。露払い、厄払《やくばら》い、厄落とししょー」
「じゃ、次はいい話ね。さっきマサトくんにいって、日本地図を取って来てもらったのは、そのためー」
まな美は、準備万端だったのだ。
「土門くん、まず埼玉県を開いてくれる。あの、淨山寺《じょうさんじ》があるでしょう」
「ふむふむ、家康さんの心のお墓やなあ」
「そうなんだけど、そしてあそこは、歴代の徳川将軍の霊がおもむく霊地よね。……けど、死者が行く霊地というのは、山とかが普通だと思わない?」
「そやそや、あの淨山寺が立っとおんは、すぐ裏が元荒川で、山鬱密《やまうつみつ》いうわりには平地やもんな。川があふれたら濡れそうな場所やぞう」
「なので、ひょっとしたらと思って、そこから、さらに真北の方向へ行ってみたの……」
「おっ、真北に行ったらええんやなあ」
土門くんは今度は嬉しそうに、率先して、地図に定規を(投げ捨てた定規をみずから取って来て)あてがう。
「えー要するに、百三十九度四十五分線やな。ほんまはちょいずれてるんやけど、こんな地図やったら変わらへんもんな」
歴史部が見つけた『霊線』は、その経度線よりも実際は七十メーターほど東にずれている。
「そして埼玉県には、目ぼしいもんは何もあらへんでえ」
「土門くん、どんどん北に行ってね」
「埼玉県の次は、栃木県や。そして山ん中に入ってしまうけど……とくに何もあらへんぞう。そうこうしてたら、福島県や。頁が変わる。そして福島県も山ん中やでえ……会津《あいづ》盆地の西の端あたりを通るんやな。そしてまた山ん中や……姫、いよいよ山形県が見えてきましたよう」
「そこよ。そこを注意して見てね」
「そやけど、さすがは山形県……山だらけやぞう」
「あっ」
先にマサトが見つけて、声を漏らした。
「どこやあ?」
「土門くん、通り過ぎちゃったわよ」
「ええ……」
土門くんは後戻りをしていて、
「あ! 定規の真下にあるやんか。つまり百三十九度四十五分線の上に、な、なんと――」
▲地蔵岳《じぞうだけ》。1539。
「ねえ、すごい山があったでしょう。そこは飯豊《いいで》山地といって、あたり一帯が、修行の山だったらしいのね」
「すると、この地蔵岳が最終の霊地かあ?」
――淨山寺の本尊は、いうまでもなく、地蔵菩薩。そして地蔵は、天蔵《てんぞう》に対しての地蔵で、元来|冥界《めいかい》の君主であることは、まな美が文化祭で語った。
「ここには、慈覺大師も訪れてると思うのよ。それどころか、この地蔵岳の名付け親が慈覺大師じゃないかと、わたしは密かに期待してるのね。行くと、そのことが確かめられるかもしれないわよ」
「そうやけど姫、ここはすごい場所やでえ。最寄りの駅? いやあ、最寄りの村[#「村」に傍点]はどこ? それによう見たら磐梯朝日《ばんだいあさひ》国立公園の中やんか。二千めーたー級の山々が連なってる一角やぞう」
「なんとか行けないかしら……」
「ここに行くんやったら、山岳部に入るか、部費でへりこぷたーを買うか、ぱらしゅーとで降りるか、姫、天目、どれがええ?」
……歴史部の夢と冒険《ロマン》は、果てしなく広がるのであった。
「――分かりましたよ先生」
依藤が、自信に満ちた声でいった。
もっとも、彼が沈思黙考《ちんしもっこう》している間に、フランス人の店員が注文した品を運んできて、竜介はその赤ワインをグラスに一杯飲み干し、独特の臭みがある山羊《やぎ》のチーズを齧《かじ》り、そして煙草を二本ふかした。
「けど、今にして思えば、あの日は自分はどうかしてたんだな。生駒が、信じられない信じられないと連呼してたわけよ。あいつの勘[#「勘」に傍点]が断然正しかった。ていうより、俺が狂ってた!」
依藤は大反省を語ってから、
「えーとですね、DNA鑑定をするさいのサンプル、これが間違っていた。それ以外には考えられない。この件では血液が使えなくって、髪の毛でやったんですね。それはヘアーブラシについてたんだけど、そのブラシは玲子さんの持ち物ですか? と確認をとったとき、それから目を逸《そ》らした人物[#「人物」に傍点]がいたんだ。普通そういった態度をとるのは心に疚《やま》しいところがある場合。んなことは百も承知してんだけど」
そこまで喋ってから竜介の顔を見て、
「先生。自分がいってることが間違ってたら、間違ってるとひと声[#「ひと声」に傍点]かけて下さいよ。これ以上恥をかかさないように」
竜介は、手を振って答える。
「えーつまり、前提が、百八十度ちがっていたんですよ。金城さん家《ち》には、お祖母《ばあ》さんがおられて、その女性が、玲子さんの母親代わりです。けど、孫の玲子さんとは、まず血は繋がってません。そしてこのふたりは、憎しみ合っていた。そう考えてたわけですよ。それは少年課の林田という刑事が説明をしてくれて、自分が鵜呑みにしちゃったんですね。ところが、そこが間違っていた。えー何ていったらいいんでしょうかね、利害の一致を見た、とでもいいましょうか」
「利害の一致?」
「玲子さんは、家から出たかったんですよ。誰とも血は繋がってませんから。そしてお祖母さんとしても、出てってもらいたかったんですよ。息子の再婚を促せるから。けど、憎しみ合っていたわけではなく、ふたりは仲良し。それも大[#「大」に傍点]の仲良しだったんじゃなかろうかと、自分には思えてきましたね」
依藤は……しみじみといい、
「血は繋がってなかったけど、心は通じてたんですよ。玲子さんの部屋に、彼女の写真が飾られてましてね、それがすごくいい笑顔で写ってたんですよ。その写真を撮ったのは、そのお祖母さんなんですね。それを見たとき、変だなと自分も思ったんですが、まさか、ふたりの関係が真裏側にあろうとは、それは夢夢思いませんでした。でそうだとすると、全部辻褄が合うんですよ。まず玲子さんの家出そのものが、お祖母さんと相談ずくだったと思います。それも完璧に家出に見えるようにと、策を練ったんでしょう。父親に高価な指輪をねだったり、失踪の直前に預金をおろしたり、部屋から写真や手紙類をきれいに消したり。だから実際に完璧な家出で、南署《うち》の少年課も、捜査を打ち切ったわけですね」
「けど、それじゃ納得しなかったのが約一名いた」
「そうです!」
依藤は間髪を入れずに同意し、
「いっちゃ何だけど、その彼が事件の元凶[#「元凶」に傍点]ですね。そして諦《あきら》められずに探しまくって、ペテン師たちに引っかかっちゃった。そして先生はご存じないと思いますが、その玲子さんが隠れ住んでいたアパートを、見つけられちゃったんですね」
「それは、どうやってですか?」
「おそらく、警察《われわれ》もこれが使えればと思う、盗聴器《とうちょうき》を使ったんでしょうね」
「あ、交友関係などの、電話か何かにですね」
「いや、この場合は、金城さん家《ち》に仕掛ければそれで分かったと思います。お祖母さんとは常に連絡をとっていたはずだから。でですね、こっから先は推理なんですが、そのアパートの近辺で、写真片手に聞きまくるとか、男がわざとに姿を見せるとかして、彼女にプレッシャーをかけたのではと」
「それは、いったん逃がすということですか?」
「そういうことです。父親に捕まえさせちゃうと、儲け話はそれで終わってしまうから。そして逃げたのを確認してから、そのアパートを霊視すればいいんですよ。この推理は当たってると思いますが[#「が」に傍点]」
「ふーん」
その蛭《ひる》のようなあくどさに、竜介は嘆息《ためいき》をつくしかない。
「そしてこれをやられ[#「やられ」に傍点]て、その一年ちょっと後に、また同じことをやられ[#「やられ」に傍点]たんですね。も彼女としては、これはたまったものじゃない。なので、完璧な家出から、完璧な死亡へと、彼女は方向転換をすることにした。――そうですよね先生?」
依藤がいきなり聞いてきたので、
「た、たぶん」
竜介は身を引きぎみにしていう。
「けど、そのあたりから先はちょっと自分には、よく分からない」
といって、依藤は竜介の方を見る。
「何か……嘘っぽいですよそれ」
「いや、ほんとに分からないんですよ先生」
依藤は、泣き声を作っていう。
「じゃ、参考までにお伺いしますが、その白骨ですけど、殺人とかはいっさい関係がないと仮定して、そのように勝手に地面に埋めたりすると、どんな罪に問われます?」
念のため、竜介は聞いてみる。
「さあ、どうだったっけなあ」
依藤は白々しく惚けてから、
「まず死体遺棄・死体|損壊《そんかい》、これは確実ですね。その他|諸々《もろもろ》――」
「やはり、それは重罪っぽいから、ちょっとお話しできませんよね」
「うーんだいたいは分かるんだけど」
――依藤はいう。
「あんな骨を入手できるのは、医者以外には考えられません。それも解剖実習をやっている大学病院の関係者などが一番に怪しい。そして……根拠はないんだけど何となく、何となく、あそこの生物部[#「生物部」に傍点]が怪しい!」
それは依藤が、白骨が発見された際に一番最初に不審感を抱いた相手であるが。
さすがだなあ……と竜介は思いつつも、沈黙を通していると、
「えー、あそこの元・生物部員で、現在は医者、そのあたりが協力者ですね?」
依藤が鎌《かま》をかけてきていう。
「…………」
「先生、相変わらず嘘はつけませんねえ。すぐ顔に出るんだから、へ、へ、へ、へー」
北叟笑《ほくそえ》んで依藤はいう。
「えーとね、これは妹から聞いた話ですが、歴史部の隣が生物部で、仲がすごく悪いらしいんですね」
「それは知ってますけど」
「いや、その生物部に入るということは、すなわち医者になると決めている子たちで、あの学校では、それは知られた話だそうです」
「あっ、なるほど」
……骸骨《がいこつ》模型を使った肝試《きもだめ》しにも、それなりの理由《わけ》があったようだ。
「それと、ご参考までに、僕は子供のころに蝶蝶の採集とかによく行ってましてね、すると蝶の種類によって、採れる場所が決まってるんですよ。とある大木の隣の花だとか、すごく細かなポイントでして、で、それを知っているのは蝶マニアだけ」
「あ!」
依藤はそのヒントで十分に分かったようで、
「もう絶対に掘ってもらえるポイントに、埋めたわけですね。あの草《ゴミ》にも、それなりの意味があったんだ。やはり偶然なんてことは、そうそうないのよ」
……岩船さん! 依藤は心の中で叫ぶ。
「警部さん。その協力者は、草の根を分けてでも捜し出すんですか?」
「うーんどうしようかなあ……気分次第」
およそ刑事らしからぬことを依藤はいい、
「けど、頭蓋骨がなかった理由《なぞ》も、それだったんですね」
「粘土をくっつけて、顔を作れちゃうんですよね」
「先生、それはひと昔前の話です。今はコンピューターで、まずね、イメージマッチングとかをやるんですよ。顔写真と、頭蓋骨のそれを、画面で重ねちゃうんですね。すると目や鼻の位置などから、だいたいのことが分かって、それが一次判定のようなものです。そしてコンピューターでも、粘土づけができたような気がしますね、最近は、確か」
依藤は自分ではやってないので、適当《アバウト》な話ではあるが。
「どっちにしても、それを警察《われわれ》にやられちゃうと一発で発覚《ばれ》るので、頭蓋骨を外しーの、そして指輪を嵌《は》めーの、それにまんまと自分は引っかかり、けど、その指輪こそは絶対におかしいと思ったんですよ。けど引っかかり……挙句《あげく》の果てに、間違ったサンプルをつかまされた。あの古狐《ばばあ》に!」
「そのお祖母さんですけど、そちらは、どんな罪に問われます?」
「ふむ……あれえ」
依藤が、薄暗い異国の天井裏に星[#「星」に傍点]を探しながら笑っているところを見ると……こちらは無罪っぽいが。
「けどですね、それらとは別に、さっき考えてたときに、気づいたことがあるんですよ。これは先生はご存じかな?」
依藤が真面《まじ》な顔をして聞いてくる。
「何でしょうか?」
「いやね、学校の裏山から出たのは、首なしの白骨死体でしょう。そんな衝撃的《ショッキング》な事件にも拘《かか》わらず、テレビ・新聞はおろか、マスコミにはいっさい[#「いっさい」に傍点]報道されなかったんですよ。それは、あちらさん[#「あちらさん」に傍点]が止めたんですか?」
「はー、その件は僕も知りませんが、けど、たぶんそうなんでしょうね。あの白骨が、いわゆる事件ではないってことは、かなり早い段階で分かったらしいので、学校の周りで騒がれるのはかなわないと、止めたんでしょうね」
「その神さまは、んなこともできるんですか?」
依藤は、巻き舌ぎみにいう。
「いや、彼にはできませんよ。氏子に、強力なのがいるんでしょう。そのあたりは、僕も全然知りませんが」
「それと、あの件に関しては、署長《うえ》の方からは何ひとついってこないんですよ。発表しろとか、捜査の進展ぶりはどうだとか。そのあたりにも手が廻ってるんでしょうか?」
「……だとすると、たぶんそうなんでしょうね」
「それともう一個。あの太田多香子さん誘拐事件のときに、強行突入を直談判《じかだんぱん》に俺は行ったんですが、すると南署《うち》の署長《しょちょう》が、ふたつ返事で受けたんですよ。そのへんはどうです?」
「あっ、それは間違いなく、どこかから指令がきていたと思います」
「あーあ、ちぇっ!」
依藤は子供のように拗《す》ねると、みずからの手を前に出して見やりながら、
「お釈迦さまの手の平の上」
――岩船の言葉を思い出していった。
「あっ、それらとはまた別に、今ふと気づいたことがあります。金城玲子さんは、つまり生きてるわけですよね?」
「ええ、いった通りに」
「あの白骨は金城さんじゃないけど、金城さんは別に事件にでも巻き込まれて、どこかで亡くなっている。そんな話では、ない[#「ない」に傍点]ですよね?」
「ええ、生きてると、天目マサトくんは断言してたようですが」
「うーん? だったら、自分のまわりに出た幽霊は、あれは何だったんですか?」
「あっ、あれですかあ……」
「先生! 笑い事じゃないですよ」
依藤が、今宵一番に真剣な顔をしていう。
「すいませんでした、きちんと説明しなくって」
竜介は、とりあえず頭を下げてから、
「えー、そもそも幽霊はですね、死んだ人に限ったわけじゃなく、何でも出るんですよ」
「な……何でも出る?」
「たとえば、これはとある[#「とある」に傍点]小説家の話ですが、一冊の小説に没頭していて、一年ぐらいずーとそれを書いていたとしましょう。すると、眠って見る夢の中に、その小説の登場人物たちが、出てくるようになるらしいんですね」
「へー、小説の中の人物がですか。それは実在していない人でしょう?」
「ええ、その小説家が勝手に作った架空の人物です。それも何人かまとめて夢に出てきて、顔も姿もはっきりしていて、その人物《キャラ》にふさわしい喋り方をして、ふさわしい行動をとるらしいんですね。そして目が覚めてから、あっ、あいつらが夢に出ていた……と驚くそうです。つまり夢を見ていたときには、何の違和感も感じてないんですね。もう普通の人のように、夢の中で接していたわけです。さて、こうなっちゃうと、その登場人物たちは、幽霊としても出てこられるわけですよ」
「ほうー、それ何となく分かりますよ。それは出てこれそうな気が、自分にもします」
「でしょう。すると、出てきた幽霊は小説の登場人物ですから、元来架空のしろもので、生きてるとか死んでいるとか、そういった次元は超えてますよね。だから幽霊というのは、生き死にや、実在・非実在を問わず、もう何でも出るんです。その架空の幽霊を作るといった実験も、それはそれで別にありまして、何人かで集まり、ひとりの人間を作っていくんですよ。その人の趣味とか、好きな食べ物とか、癖とかを決めていくんですね。それを何ヵ月もかけて話し合い、そして降霊実験などをやると、その幽霊が出てきちゃうんですよ。つまりやってることは、先の小説家とまったく同じです。人物を作ってるんですね。個々の脳が、それを人だと見做《みな》すまでに。認知するまでに。誤解するまでにね」
「あっ、脳が間違って、誤解してるわけですね」
「そうです。実在の人と、区別がつかなくなってるんです。そう誤解するようにと、大量の人物情報を脳に与えているからです。……ところで、魅入《みい》られる、といった言葉がありますよね。悪魔に魅入られる。美しい笑顔に魅入られる。あるいは、女の幽霊に魅入られる。そんなふうに使いますよね」
「……ええええ」
「けど、魅入られるというのは、だいたいの場合は、みずからが魅入ってしまって、結果、魅入られちゃってるわけですよ」
「……はいはい」
「あの青いドレスの幽霊は、すなわち金城玲子さんですよね。その彼女の幽霊に魅入られた……のではなく、つまり警部さんが彼女のことを魅入っちゃった。そのような観点で、思い当たるふしが何かありませんか?」
「――あるある!」
依藤は、堰《せき》を切ったように声高にいい、
「今にして思えば、それは大[#「大」に傍点]ーいにあります。裏山から白骨が出た日ですが、その日一日はずーと彼女のことを魅入って[#「魅入って」に傍点]ました。とくに少年課の林田刑事からは、彼女の話を延々聞きましたから。もう丸二日は喋ってたんじゃないかと、思えるぐらいに」
「そこで、人物《キャラ》を作っちゃったわけですね。だからやってることは小説家と同じです。警部さんは本人とは会ってないんだから、架空の人物に等しいですよね。そして、写真もご覧になったんでしょう?」
「ええ、……見ました」
「それで姿形が決定された。そうなっちゃうと、以下同じで、幽霊となって出てこられますよね?」
「ええ、十分[#「十分」に傍点]に出てこれそうです」
「で、いかがですか? 最近は?」
「いや、あれ以降は出てないんですよ。けどですね、たった今、先生のお話しを聞いて考え方が百八十度変わりました。できれば出て欲しいですよね。このまま消えてしまうのは、どこかもったいない気がする。要するに、自分の脳が作った、女性ですよね?」
「ま……そうなりますが」
「だから、絶対にもったいない。この幽霊は、どうすれば出てくるんですか?」
依藤は真剣に聞いてくる。
「いや、それは難しいですよ。あの僕の研究室に来られたころは、その青いドレスの彼女の情報が、警部さんの頭の中で、たぶん沸騰したような状態だったと想像されますので」
「なってたなってた。ちょうど大[#「大」に傍点]沸騰のあたりですよ」
「その大沸騰がですね、今なお続いているようなら、幽霊は出られますけれど?」
「うーん……今は冷めちゃってるでしょうね」
依藤は残念そうにいう。
「警部さんの夢には、出てきませんでした?」
「それは、何度か出てきました。けど、目が覚めたときの気分が今ひとつだったもんで。夢の中ではへっちゃらなんですが、目が覚めてから、悪い夢を見たと思っちゃうわけですね。こんなことを思うと、もう夢にも、出てきてくれませんかね?」
「さあ……」
「そうだそうだ」
依藤は、話すべき何かを思いついたらしく、
「うちの生駒がですね、幽霊をときどき見るようなんですよ」
「いや、僕にはそんな話はひとことも」
「そのはずですよ。あいつは見たものを幽霊だとは思ってませんから。だから始末に悪いんですが[#「が」に傍点]」
そんな前口上を述べてから、依藤は先日の鎌倉での一件を竜介に説明する。
逃げる真柴の姿を生駒だけが見て、追っかけると、煙のごとくにかき消えたという経緯《いきさつ》を。
「へー……」
それは奇妙な幽霊話だなと、竜介は思う。
「それと、真浦会の修行道場でも、あいつはお婆さんの幽霊を見てるんですよ。そのお婆さんが入って行った部屋、そこを捜したところ、地下への隠し扉が見つかったんですね」
「ふむ……」
その話も竜介にとっては初聞きであるが、
「ちょっとお尋ねしますけど、生駒さんって、目が悪いとか、そういった様子はありませんか?」
「あっ……いわれてみれば、あいつあー見えても、昔ボクシングをやってましてね、そのときに、目を傷《いた》めたと、そんな話はチラッと聞いた記憶がありますね。……なるほど[#「なるほど」に傍点]、それが先生がおっしゃっていた、目を壊す、て話と関係するわけですね。すると生駒は、神のはしくれだったわけか」
冗談めかして依藤はいって、それで納得したようであった。
が、竜介としては、その程度の冗談でお茶を濁せる道理《わけ》もなく、けれど……生駒《かれ》の脳に誰かがわたり[#「わたり」に傍点]をつけていて、体《てい》よく使われて、幽霊映像を意図的に見せられて[#「見せられて」に傍点]いるのかな……ぐらいのことしか分からない。
それに竜介の脳も、そこそこに酔いが廻ってきていた。
男ふたりで、赤ワインを注《つ》ぎ注《つ》がれして飲んでいると、ボトルの一本などあっという間である。
先生もう一本頼みましょうよ、経費で落とせるから、ねずみ一匹逮捕分の、なんてことを依藤が囁き、じゃ、|一番高いやつ《フランスのボルドー》を、などと竜介が甘えていると、
「あっ、そうだそうだ、また一個思いついた」
――依藤も酔いが廻ってきているようで、そのせいか、脈絡がなくあれこれと思いつく。
「あの裏山の白骨事件ですけど、あれは自分らとしては、どうすればいいんですかね?」
「どうするといいますと?」
「だって、捜査をいっくらやっても、殺人事件としては解決できないわけで」
「ええ、それは確かですね」
「だからといって、金城玲子さんを捜し出して捕まえて、その協力者を捕まえて、なんて解決策は、今ひとつ気が進まない。だってそれをやっちゃうと、まさしく元《もと》の木阿弥《もくあみ》でしょう。この解決策で喜ぶ人は、世の中にたった[#「たった」に傍点]ひとりいるだけ」
「あっ、――いるいる」
竜介も気づいていった。
「その彼は大喜びするだろうけど、後の全員[#「全員」に傍点]から、自分らは恨《うら》まれるわけでしょう。先生、んなことやりたいですか?」
「いや、僕はやりたくないです。放《ほ》っときますよ」
「正直なところ、自分もそのつもり[#「つもり」に傍点]なんですよ。ですがね、日々捜査はやらなきゃいけないわけで。その両者の兼ね合いが、兼ね合いがとれそうにないから、どうしたもんでしょう、て尋ねてるわけですよ」
「うーん、それは難しいなあ……」
「まだ捜査を始めてひと月なんですね。仮に、署長《うえ》が真相《うら》を知ってて、いずれ打ち切りをいってくるにせよ、最低でも半年は継続《このまま》でしょうからね。警察にも面子《メンツ》や立場ってものがあるので」
「でしたら、ちんたらやるしかないですよね」
竜介は唆《そそのか》して囁く。
「そのちん[#「ちん」に傍点]たらをやりたいんだけど、どうやったらうまくちん[#「ちん」に傍点]たらできるのか、ある種の技術論を模索してるんですよ」
男ふたりが酔っ払うと、えてしてこういった会話になる。
「あっ、考え方をころっと変えればいいんだなあ」
依藤は何やら思いついたらしく、悪党顔になっていう。
「分かりません分かりません、捜査は全然進んでません、と署長《うえ》に報告したところで、絶対に文句はいってこないわけだ。はっはーん。考えようによっちゃ、こんな気楽な話はないですよね」
竜介も頷いてから、
「だから半年間、ゆっくりと骨休めでも」
「先生、それは与太《ジョーク》ですか?」
「いいえ……」
竜介が手を振って笑っていると、依藤は再び、みずからの手を見やりながら、
「お釈迦さまの手の平の上。気づいたら自分はそんなとこにいたんだけど……けど、孫悟空は孫悟空なりに、楽しくやってたんでしょうからねえ」
[#改ページ]
14
「こんな格好でごめんなさいね。連絡をくだされば、起きてお出迎えをしましたのに」
「いえいえ、用事があって近くに参ったものですから、そのついでにと」
鎌倉の西園寺家の別荘に竜蔵が来ていて、靖子の寝室を訪ねていた。
ベッドの側《そば》にある洋椅子に、竜蔵は腰かけている。
「けど、直《じか》にお顔を見るのは、何年ぶりかしら」
靖子は……彼女ならではのことをいう。
「さようでございましたかなあ」
三年、いや五年ぶりぐらいであろうかと、竜蔵も確かなことは覚えていない。
「希美佳さんは、元気にしておりますか?」
――靖子の孫であるが。
「ええええ、いたって、元気に。それに屋敷での生活にも慣れてきましたようで、もうごくごく普通の大学生として、学校に通っておりまするよ」
「マサトさんは、いかがですか?」
靖子にとっては、彼も、孫のような感覚らしいが。
「はい。つい先日、鎌倉にも来ておったのですよ。学校の歴史部の皆さんと一緒に」
「それは見えたので、知ってますわよ」
そういって、靖子は邪気《あどけ》なく微笑む。
「今でも、あちらこちらに、旅をなさって?」
「それがわたしの、ただひとつの楽しみですから」
「羨ましいですなあ。自分も、靖子さんとご一緒に、旅ができましたなら」
「あら、ご一緒したことなかったかしら……」
彼女の夢の中でなら、あるのかもしれないと竜蔵は思う。
「そうそう、静香さんがね」
靖子の話はよく飛ぶ。それは竜蔵は慣れてはいるが。
やはり孫のひとりの静香が、ここに訪ねて来て、愚痴をこぼしていったことを靖子は語る。
「……はい。それは自分にも非がありまして、何かまるくおさまる手はないものかと、思案はしておるのですが」
「竜蔵さんは、悪くないでしょう。あんなことを静香さんに強《し》いたのは、本家の誰かなんだから」
「確かに、さようでありまするが、自分とその先生が親しくなってしまったことで、静香さんの立場をいっそう複雑にしてしまって……ですのでね」
「そうそう、その先生の彼に、悪さをしてる人がいるようですよ。何かの贈り物を届けたりして。それはきっと、竜蔵さんとの仲を裂《さ》こうと思って、そんなことをやってるんでしょうけどね。ですから、お気をつけて下さいね」
「ええ……はい」
竜蔵も、正直いってそれは何のことなのか分からないが、それに靖子《かのじょ》のする話は、驚くほどに当たっていることもあれば頓珍漢な話も多く、そのことは静香と同じく竜蔵も承知していて、だから話半分でつい聞いてしまう。
「わたしね、つい最近、思い出したことがひとつあるんですよ」
いうと靖子は、掛布団の隙間から片手を出して、ベッドの縁《ふち》に所在なげに置いた。
「さて、何でありましょうか?」
「もうずいぶんと……ずいぶんと昔のことですけど、いつものように、旅をしてましてね」
「はい、はい」
「どこかの、山に行ったんですよ。とっても高い山で、雪が積もっていて、とがった峰があって、切りたった崖があって、そんなところに」
「それは、空を飛ばれてですか? それとも、歩かれて?」
「そのときはね、何かしら……こう崖から崖へと、優雅にぴょんぴょんぴょんって跳んでいけるような、そんな動物になって」
靖子は童心にかえったかのように、目を輝かせて楽しげにいい、
「それに、その近くの高い山に、不思議な模様がついてましたよ。ちょうど、お寺の印のような」
「ほうー、そうしますと、それは日本の国のようでは、ありませんよね」
「ええ、どこか……どこかの遠くの国ですね。そうしていたら、娘さんと出会ったんですよ」
「娘さんと?」
「遠くからわたしの方をね、じーと見ていたから、お話しをしようと思って、近くに行ってみたんです。けど、その娘さんは泣いていて」
泣いていて……
「それに、そのときはもう、その娘さんは死んでいたのかもしれませんね」
「……死んでおったのですか?」
「ええ、そのはずです。そう彼女が話してましたし、そんなふうにも見えましたから」
どうやら、悲しい話のようだなと竜蔵は思いながら、ベッドから出されていた靖子の手を、両手ではさむようにしてやさしく握った。
「それに、その娘さんは、とっても可哀相な殺され方をしたらしくって、女性のわたしの口からはいえないような」
竜蔵は、目を閉じて頷く。
「……それにね、その娘さんは、きっとわたしたちと同じだったのよ」
「わたしたちと同じ?」
「わたしとか、マサトさんとか、マユミさんとか、だから出会えたのね」
「はい……なるほど」
それだったら、竜蔵も何となく理解できる。
「それでね、お話しを聞いていて、というより、いろんな絵を見せてもらってですけれどね。それに彼女は、もうやけになっていて、すごく怒ってもいたし、もちろん泣いていて、もうどうしていいか分からない、そんな感じだったのね。だからすごく可哀相で……」
そこまで話すと、靖子は竜蔵の手を握りしめてきて、
「すごく可哀相だったから、わたしが、彼女の手を握ってね、一緒にいらっしゃい、ていったの」
「一緒にですか?」
「ええ、一緒に――」
靖子はきっぱりとした口調でそういい、
「わたしが住んでいるところはいい国よって、だから一緒にいらっしゃいって誘ったの。そしてあなたは、竜に生まれ変わるのよって、彼女に教えてあげたのね」
「竜にですか」
「そう、竜に――」
[#改ページ]
〈参考文献および資料〉
『旅行人ノート@チベット』旅行人
『ゲルク派版・チベット死者の書』ヤンチェン・ガロ撰述、ラマ・ロサン・ガンワン講義、平岡宏一訳/学研
『チベットのシャーマン探検』永橋和雄/河出書房新社
『バター茶をどうぞ・蓮華の国のチベットから』渡辺一枝・クンサン―ハモ/文英堂
『チベット入門』ペマ・ギャルポ/日中出版
『チベット仏教探検誌』ジュゼッペ・トゥッチ、杉浦満訳/平河出版社
『チベット・マンダラの国』松本栄一、奥山直司/小学館
『活仏たちのチベット』田中公明/春秋社
『チベットの「死の修行」』ツルティム・ケサン、正木晃/角川書店
『チベット密教の本』学研
『仏教を彩る女神図典』西上青曜/朱鷺書房
『龍の起源』荒川紘/紀伊國屋書店
『真言立川流』藤巻一保/学研
『青銅の神の足跡』谷川健一/集英社
『神々の系図』川口謙二/東京美術選書
『鎌倉史跡事典』奥富敬之/新人物往来社
『まっぷるマガジン鎌倉』昭文社
『前世を記憶する子どもたち』イアン・スティーヴンソン、笠原敏雄訳/日本教文社
『前世を忘れない子供たち』ピーター&メアリー・ハリソン、田中智訳/徳間書店
『中国美女の気功師』FNNスーパータイム/一九九一年七月四日
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底本
徳間書店 TOKUMA NOVELS
神の系譜 幽霊の国・解
著者 西風隆介《ならいりゅうすけ》
2002年6月30日  初刷
発行者――松下武義
発行所――徳間書店
[#地付き]2008年5月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
・ずいぶいと行った
・惧《おれ》れ
・ぐれーんしょ
・「…十三、
置き換え文字
箪《※》 ※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
普※茶《※》 ※[#「さんずい+耳」、第3水準1-86-68]「さんずい+耳」、第3水準1-86-68
斗※ ※[#「木+共」、第3水準1-85-65]「木+共」、第3水準1-85-65
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
勾※ ※[#「王+總のつくり」、第4水準2-80-88]「王+總のつくり」、第4水準2-80-88
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
|〜《※》 ※[#同相、1-2-78]#同相、1-2-78