神の系譜 幽霊の国
西風隆介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)西風《ならい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)埼玉県|浦和《うらわ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)現場[#「現場」に傍点]
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〈帯〉
本当の知的興奮
各氏が絶賛したあの
『思弁小説でありながら、凄まじく面白い驚異の超伝承ミステリー』
大好評シリーズ
10万部突破!
[#改ページ]
〈カバー〉
百回は笑って、五回ほど涙していただき、そして最後に、あっ! と驚きの大感動が待っている。それが〈幽霊の国〉です。関西喜劇じゃないかって、いえいえ、これは思弁小説です。本邦・初公開の歴史上の謎が実際に解かれたり、大学教授も理解できない神々の理屈を十七歳の女子高生が語ったりもします。ひと口でいって、大人の童話ですね。〈神の系譜〉としては三作目ですが、それぞれが独立した物語ですので、この〈幽霊の国〉だけでも、存分にご堪能いただけるかと。
[#地付き][作者]
現実と非現実の境界線がそこにあった。
依藤警部補は埼玉県警・立入禁止の黄色いテープの前で、いつになく現場を真剣に見つめていた。
文化祭の模擬店で売る苗を採りに来ていた県下の名門M高校の生物部の生徒が発見した白骨。
それは、猟奇殺人かはたまた死体愛好家の仕業か、死体に髑髏がないのであった。
現場は神隠しの森と呼ばれる場所だった。
山のあちこちに、変な石碑がたくさん立っているらしい。
しかも、学校の旧校舎では幽霊が出るという。
それは、女子生徒の幽霊で「私の首はどこ?」あるいは「それは私の首!」といいながら女子の生徒に後ろから掴みかかるという。
そのM高校こそ、依藤の良く知る超優秀な歴史部生徒、麻生まな美が通う高校だった。
Character File A
【麻生まな美】
十七歳。
私立M高校の二年生で、満点娘の異名をもつ才媛《アイドル》。
通称――姫。
大学教授も顔負けの謎解きを披露する〈歴史部〉の黒幕《ドン》。
埼玉県蕨市に家があり、お化けはこわくないが、なめくじは大嫌い。
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書下ろし長篇超伝承ミステリー
神の系譜 幽霊の国
[#地から1字上げ]西風《ならい》隆介
[#地から1字上げ]徳間書店
[#地から1字上げ]TOKUMA NOVELS
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目 次
第一章 「青いドレス」
第二章 「Mの証し」
『幽霊の国・解』――序
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第一章 「青いドレス」
1
現実と非現実の境界線がそこにあった。
――埼玉県警・立入禁止・埼玉県警・立入禁止・埼玉県警・立入禁止・埼玉県警・立入禁止――
そう黒文字で交互《エンドレス》に印刷された黄色いテープが、立木を使って、幹から幹へと張られ、浅い摺鉢《すりばち》状になっている現場[#「現場」に傍点]を取り囲んでいた。
〈この世と、あの世との境目[#「境目」に傍点]か〉
依藤章人《よりふじあきひと》警部補は、いつになくそんなことを思いながら、その黄色いテープの二、三歩手前まで来て立ち止まった。ここは、埼玉県|浦和《うらわ》市の郊外にあるとある雑木林の中である。こんもりとした山でもある。北側の車道から藪《やぶ》に分け入って、道なき道を歩くこと約十五分。途中頂《いただき》らしき場所を越えたので、現場は、おそらく南斜面にある窪地である。立木はそれほど密ではないが、見晴らしは利《き》かない。
「失礼します」
ここまで依藤を案内してきた巡査が、敬礼して立ち去って行く。
窪地の底では、紺色の帽子に紺色の作業《つなぎ》服を着た鑑識課員たちが、刷毛《ハケ》やスコップを手に、地べたに腹ばいになって作業していた。忙《せわ》しなくフラッシュを焚《た》くカメラ担当の課員もいる。ひとりだけ白衣を纏《まと》った男性が、腕組みをしながら棒立ちしていた。さながら遺跡の発掘現場のようでもある。
依藤は、周囲をざーと見渡してみた。
かなり遠方で、制服警官が何名か、草の茂みを突っ突いている。……今更《いまさら》やっても意味はないだろうが、やらないよりはまし[#「まし」に傍点]だろうと依藤は思う。
窪地から少し離れた大木の陰で、部下の植井《うえい》刑事と、別の白衣の男性が立っていた。その傍《かたわ》らには、小豆《あずき》色の上着をはおった若い男がふたり、草《くさ》むらにしゃがみ込んでいる。どうやら、彼らが第一発見者のようだ。
「ない[#「ない」に傍点]な……ない[#「ない」に傍点]じゃないかあ」
馴染《なじ》みある、ちょっと情けない声が囲みの中から聞こえてきた。
第一発見者たちの話は後で聞くことにして、
「何がないんですか? 岩船《いわふね》さん――」
そう呼びかけをしながら、依藤は、黄色いテープをくぐって中[#「中」に傍点]に入った。
「よりさーん。もう来ないかと思ったよ」
甘えたような声で鑑識課の岩船|佑久《たすく》係長はいうと、
「よっこらしょ」
――足と腰がつらそうに立ち上がった。
他の鑑識課員たちもいっせいに|刑事課の係長《よりふじ》に顔を向け、畏《かしこ》まって会釈《えしゃく》をする。
「すんませんね。今日は非番[#「非番」に傍点]だったもので」
そんな屈折した言い訳を、――依藤は吐いた。
埼玉県南警察署においては、刑事課は、いわゆる殺人課である。そして係長は現場の責任者だから、不審死体等があれば非番も真夜中も、正月三が日であっても関係ない。が、今日は、息急《いきせ》き切って駆けつけたところで、大勢に影響はなさそうだからだ。
依藤は、鑑識課員たちの成果を見定めるかのように、ゆっくり歩いて行くと、
「あれ? 頭だけどけちゃったんですか?」
……囁《ささや》くように岩船に尋ねる。
「うーん、そうも見えるよな」
地面に、バスケットボールがすっぽり納まるぐらいの穴が穿《うが》たれてあった。
「が、どうしたことか……こっから上だけが出てこないんだよ」
岩船が、首を掻っ切る仕草をしながらいう。
「え? ない[#「ない」に傍点]ってのはそういうことですか」
――依藤としても、それは予想だにしていなかったことである。
「あとは簡単に出たんだけどさ。被さってた土は、せいぜい十センチだったから……」
岩船がいうように、屍《しかばね》は、あらかた掘り出されてあった。――背骨と肋骨、骨盤、そして手や足の骨が土中から姿を顕《あらわ》している。依藤は骨の専門家ではないが、印象としては、華奢《きゃしゃ》な骨である。
「よっぽど不自然な姿勢で埋められたのか……とも思ってさ」
自らの首を捻《ひね》って実演しながら、岩船はいう。
「でどんどん掘り進めていったんだけど、これだけ掘っても出てこないところを見ると……もうないと思うな」
依藤も、同意して頷《うなず》いた。
「ふつうさ……ちょん切ったとしたら、同じところに埋めるだろうか?」
やはり、首に手をあてがって岩船はいう。
「たぶん……埋めんでしょうね」
「だからさ、ここにないとなると、近くを掘ったからといっても、出てきやしないと思うよ」
――もっともな意見だ。
それに、この雑木林の中を闇雲に穿《ほじく》りかえすというのも現実的な話とは思えない。逆に、最近どこかで頭だけが出たという事件……依藤は記憶を辿ってみたが、それも思いあたる節はなかった。
岩船の話が一段落すると、白衣から腹が出かかっている中年太りの男性が側《そば》にやって来て、説明を始めた。監察医の前嶋《まえじま》で、依藤とは顔見知りだ。
「……見事な白骨ですよねえ。私らより、人類学者の方がふさわしいかも」
愚痴《ぐち》をこぼしながらも、その前嶋がいうには、
「性別は女性。年齢は、十代半ばから……五十歳ぐらいまで、てところですかね」
――かなりの幅がある。
「ただし、子供は産んでないようですね」
骨盤の形状から、そういったことが判るようだ。
駄目元だと思いつつも、依藤は尋ねてみる。
「埋められてから、どのくらいですか?」
「さあ……最低一年は経ってるでしょうね。しかしそれ以上のことは、持ち帰って調べてみないことには、確かなことは分かりませんね」
――予想した答えが返ってきた。
「ですが、縄文人《じょうもんじん》っぽくはないですね」
冗談もつけ加わった。
「……死因の特定も無理ですか?」
再度駄目元で、依藤は聞く。
「ええ、今見えている骨からは、とくに異常は認められません。骨折、あるいは欠落している箇所もないようですね……そうそう、その首から上ですけど、第四|頸椎《けいつい》から下は、そこにあります」
現場を指さして前嶋はいってから、
「つまり、首の骨は七個ですのでね、その半分ぐらいから先がない、て感じです」
――分かり易く説明してくれた。
「すると……その切断面の様子は?」
「ええ、さっき見てみたんですが、第四頸椎それ自体はきれいでした。欠損はありません」
「きれい? そりゃどういうことですか?」
「だからまあ、電動ノコギリや、あるいは斧《おの》などを使って、乱暴に切ったわけではなさそうだ……もっとも、顕微鏡レベルで見てみないと、これも確かなことはいえませんけどね」
「そうすっと……首を切って持ち去った犯人は、その種のことには長《た》けていた。たとえば、お医者さまだとか?」
さも、監察医の前嶋が犯人であるかのように、目線を向けて依藤はいう。
「……飛躍しすぎですね。首の骨を切り離すのは、比較的簡単なんですから」
「それは我々のような素人《しろうと》にとっても、ですか?」
「依藤さんが素人だとは、到底思われないけど」
――ちょっと絡むように前嶋はいってから、
「ご存じないですかね、最近のことなんですが、バラバラ殺人があって、犯人は若い女性。そして家の風呂場《バスルーム》で、包丁一本で死体を解体しました。首もきれーに外してしまいました。そのとき彼女は、何でやり方を知ったのか……」
「あ、それ聞いたことあるわ」
「でしょう。彼女は、死体の解体方法をインターネットで調べたそうです。それも……殺した後でね。だからプロ・アマの区別は意味ないんですよ」
「困った世界だなあ」
――依藤が舌打ちしていると、
「あとひとつ……気になる点があるんですが」
表情を曇らせぎみにして、前嶋はいう。
「ご存じだとは思いますけど、髪の毛というのは、土中に長い年月あっても、なかなか朽ちません。だから映画で、髪ぼうぼうの骸骨《ガイコツ》が出てきて、驚かしたりしますよね。あれはその通りなんです。ですが、このさい頭の毛は関係ありません。問題は……下の毛です」
「あー、はいはい」
前嶋のいわんとするところを、依藤も察知した。
「つまり|下の毛《アンダーヘアー》も、髪の毛と同様、残っているのが普通……ですよね」
「それが……ないんですか?」
次第にひそひそ声になってふたりは話す。
「人によっては、ない人も稀《まれ》にいますよね。だからそれだけでもって、何をどうしたとか、軽々にいうべきではないんですが」
「ふ……ふむ」
依藤は腕組みして考え込んでしまった。
何をどうしたのか……それはさておくとしても、死体に髑髏《しゃれこうべ》がないのは事実である。
――猟奇殺人か。
――はたまた死体|愛好家《マニア》の仕業か。
昨今|大流行《おおはや》りの言葉が依藤の頭に浮かんだ。
しかし、それらは肉をメインに食らう欧米人の趣味嗜好《しこう》である。およそ日本人的ではないし、ましてや埼玉の雑木林には似合わない。それとも、これも|情報グローバル化《インターネット》の悪行《せい》だというのか?
依藤は、あらためて現場を眺めてみた――
白骨は、摺鉢状の窪地のほぼ底の部分に横たわっていた。これは教科書どおりだ。尾根を掘って死体を埋める例などは、まずないからである。それに窪地には、草はそこそこ茂っているが、木と呼べそうなものはない。その草が楕円形に刈り取られ、剥《む》き出しになった地面に、整然と白骨は並んでいた。
――まるで、額にでも入った〈化石〉を見ているようだと依藤は思う。頭に浮かんだ禍々《まがまが》しい言葉とは裏腹に、凄惨さや悲惨さは、まったくといっていいほど感じられない。歳月が、その種の蛮行《ばんこう》は洗い流してしまった……とでもいうのだろうか?
依藤は、その窪地から出て、死体の第一発見者たちの話を聞くことにした。
長時間待ってもらっていたことを依藤が詫《わ》びると、白衣の下には英国風の茶の背広を着ていた白髪まじりの初老の男性は、和《にこ》やかに頷いてから、
「私は……生物の担任の東《あずま》といいますけど、見つけたのはこの子たちなんですよ」
何か……いいたくない肩書をはしょった[#「はしょった」に傍点]ような気も依藤にはしたが、その東先生に促され、草むらにへたり込んでいた男子ふたりが立ち上がった。
子とはいっても、背は先生よりも高く、百七十五センチの依藤と目線は変わらない。ふたりとも、申し合わせたように小豆色のフリースにジーンズ姿で、そして、どっちがいったかは分からないが、
「ほんもんの刑事やあ、待ったかいがある」
……そんな囁き声が依藤に聞こえた。
直前まで、これも本物[#「本物」に傍点]の植井刑事[#「刑事」に傍点]が応対していたのだが、彼が着ている紺色の服《それ》は、確かに新米背広《リクルートスーツ》にも見える……舐《な》められても仕方はない。ちなみに、依藤は普段どおりで、濃鼠色《ダークグレイ》の三つ揃いを颯爽と着こなしている。
「そもそも、文化祭の模擬店で売る苗《なえ》を、ここに採りに来てたんですよ」
「十一月三日が秋の文化祭で、もうすぐですから」
男子ふたりは口々に経緯《いきさつ》を語る。
「なえ……て、草木の苗のこと?」
依藤はできるだけ優しく、猫撫で声でいう。
「はい。でも花が咲くやつは時期的にもう無理だから、羊歯《しだ》だとか、笹の類《たぐ》いです」
「それも葉っぱが小さい苗が、人気あるんですよ」
「ええ? こっから採っていったそんなやつ[#「そんなやつ」に傍点]が、売れるの?」
高山[#「高山」に傍点]植物じゃあるまいし、それに、そんなやつは依藤の分類《イメージ》では草木の範疇《はんちゅう》ですらない……ゴミだ。もちろん葉っぱの大小に拘《かか》わらず。
「飛ぶように売れますよ。なあ」
「去年は三百個作ったけど、午前中で完売しました。ワンポット二百円にするから、格安なんですよ」
東先生も、その通りです、と頷いている。
「へー……」
依藤は少し驚きながらぐるりを見渡した。まさか金になる草《ゴミ》が生えていようとは。
「刑事さん……足元」
いいながら、男子のひとりが指さした。
「おっ、とー」
金目の草《くさ》を踏んでいるのかと、依藤は後退《あとずさ》りした。ガサガサと音がするぐらい、枯れ葉や枯れ枝が地面に積もっている。そして足元といわず、そこかしこに淡い緑色をした草が、
「それ、クジャクシダという名前なんですよ」
「人気の羊歯です。その、でっきるだけ小さい苗を選ぶんです」
そういわれて見てみると、葉っぱが、さも孔雀が羽根を広げたような形をしている。
「ほう……」
小さい苗の方がいい、それも何となく分かった。葉が密集していない方が、孔雀の羽根の形がはっきりし、見た目に美しいのである。
「特別に稀《めずら》しい種類ではないんですよ」
――東先生が説明をかってでた。
「日本全国、ちょっとした山に行けば自生しています。ですが、園芸品種ではありませんのでね、だから、文化祭で飛ぶように売れるわけです」
「業者が買いに来てるもんな」
「おひとり様三ポットまで、て限定してるのに」
「――そうすると」
脱線を止めて、依藤はいう。
「こういう草を引っこ抜いていたら、あの骨が出てきたってこと?」
「引っこ抜く……ちがうよな」
「うん、根が切れると死ぬから、大事にスコップで掘っていたら、出てきたんです」
それは、表現の差というものだ。
「浅いですよ。地面から、せいぜい十センチぐらいのところ」
それも、鑑識の岩船さんがいっていた通りである。
依藤はふたりの話を聞いていて、二、三、尋ねたいことを思いたった。まず、
「その、大事に掘っていたら出てきた骨ね、見て、何だと思ったの?」
「見て……たぶん人の骨だと思いましたよ」
「どうして?」
「どうしてといわれても困るけど……最初に出てきたのは尺骨《しゃっこつ》です。腕の、この部分の骨ですね」
自らの腕の、小指に繋《つな》がる側を摩《さす》りながらいう。
「けど、一本だと自信なかったから、ちょっと横も掘ってみたんですよ。するともう一本が……あれ、とうこつ、ていったっけ?」
「そう、橈骨《とうこつ》。腕の親指側の骨です。その橈骨よりも尺骨の方が長いんですよ。だから間違いないだろうと思って……なあ」
「それで先生を呼んだんですよ。携帯《ケータイ》で」
「へー、きみたち詳しいねえ」
それに、携帯電話で先生を呼びつけるとは要領もいい。依藤が驚き感心していると、
「ぼくたち、――生物部ですから」
ふたり声を揃えて、自慢げにいう。
「その……顧問なんです」
東先生が、慎ましげに頭を下げた。
「いやーお見逸《みそ》れいたしました。生物部というところは、そういったことを勉強されるんですね……草売るだけじゃなくって」
――厭味《いやみ》半分で依藤は褒《ほ》める。
「いえいえ、この子たちは勉強したわけじゃないんですよ。ほら、よく置かれてますでしょう、等身大の骸骨の人体模型が。それが部室にもありましてね、それを使ってですねえ……」
いいながら、東先生は笑い出してしまった。
「それ使って、何すんですか?」
いきがかり上、依藤が聞いてみると、
「我が伝統ある生物部の、伝統的なイベントです」
――男子のひとりが胸を張っていう。
「その骸骨の、手と足の骨を全部ばらして、それを元の姿に戻すんですよ。春合宿のときに、新入部員は皆やらされます」
「真夜中に、旧校舎の廊下でやるんです。わたされるのは、小さな懐中電灯一本だけ」
なんだ……肝試し[#「肝試し」に傍点]ではないか。
「けっこうビビるよな。正しく完成させるまでは、絶対[#「絶対」に傍点]に許さないから」
彼らもそのイベントの体験者であり、今は、絶対に許さない側のようだ。
「……褒められた話じゃありませんよね。ですが、これをやると、子供たちは覿面《てきめん》に覚えるようです。恐怖の代償とでもいいましょうかねえ」
東先生は、学者先生の顔になって弁護する。
「ま、いろいろありますわな」
依藤は適当に受け流してから、
「ところでですね、今我々が立っているこの山ですけど、なんか名前あるんですか?」
――一同に尋ねる。
「とくに……呼び名はないようですね。というのも、今でこそ単独の山のように見えますが、以前は辺り一帯が似たような景色だったようです。そこを切り崩して、宅地に変えたんです。もう何十年も前の話ですね。で、ここだけが残ってしまったんです」
そんな、ありがちな説明を東先生がしていると、
「いや、名前ありますよ」
――男子のひとりがいった。
「どういった?」
「神隠しの山、て呼ばれてます」
「いや、神隠しの森、ちがうかった」
……大差はない。
「刑事さん。それは学校にはつきものの七怪談の類いですから、ご参考になさらないように」
「いやそういうけどね先生、山のあちこちに、変な石碑いっぱい立ってるんですよ」
「どういった石碑?」
依藤が尋ねる。
「それは生物部《ぼくら》の専門外やから。あいつらやったら詳しいけど」
「あいつら……て?」
「部室が隣の、歴史部[#「歴史部」に傍点]」
――憎たらしそうにいった。
依藤が、うん? 訝《いぶか》しげに眉根を吊り上げた。
「そ、それはですねえ」
――とり繕《つくろ》うように東先生はいう。
「学校の創立時からある古い文化部は、生物部と歴史部、このふたつしかもう残ってないんですよ。だからライバル視してるだけのことで、刑事さんがお気になさるようなことじゃありません。ご安心を」
いや、そういったことではないのだ。依藤が表情を変えたのは、歴史部[#「歴史部」に傍点]……そのありそうでなさそうな単純《シンプル》な名称を、どこかで聞いた記憶があるからだ。どこだったっけ……依藤が思いを巡らしていると、
「ところで刑事さん」
――男子の方から問いかけてきた。
「さっき、たぶん警察の鑑識の人だと思うけど、ない……ない、て頻《しき》りにいってましたよね」
するともうひとりの男子が、
「首を、こんなこともやってませんでしたか」
と、手で掻っ切る仕草をする。
遠目に見えていたし、聞こえていたようだ。
が、そこは百戦錬磨の刑事《さつじん》課の刑事《デカ》、依藤は表情ひとつ変えずに、ふたりの顔を見据え続ける。
が、ふたりはその視線を躱《かわ》すと、
「なあ、あの話あるもんな」
「うん、あの話した方がええかなあ」
「さあ、刑事さんあんな話興味あるかなあ」
ふたりで囀《さえず》り合って、逆に鎌《かま》をかけてきた。
困ったお子たちである。
「はい、知っていることがあれば、教えて下さい」
下手《したて》に出て依藤はいった。
「実は、幽霊が出るんですよ」
「それも、首なしの幽霊が出るんです」
ずばりいわれて、さすがの依藤も動揺は隠せない。
「ど、どこに?」
「学校の、たぶん旧校舎のどこかです、なあ」
「うん」
「その幽霊を――見たの[#「見たの」に傍点]?」
依藤は、ちょっときつい口調になった。
「ぼくは見てませんけど、出る出るという、もっぱらの噂《うわさ》なんですよ」
「ぼくも見てません。でも噂は知ってます」
「うわさ[#「うわさ」に傍点]あ……」
依藤は、不審感をいっぱいに漲《みなぎ》らせて復唱してから、顔を先生の方に向ける。
「いえ、私は初聞きですから――」
東先生は身を引きぎみにして、素っ気なくいう。
――生徒たちの怪談話に関しては既に警告済み[#「警告済み」に傍点]なので、あとはご自由に、そんな態度である。
依藤はひと呼吸置いてから、
「その、噂だけどね、もうすこし詳しく聞かせてくれる?」
――猫撫で声に戻っていった。
「えーとですね、その幽霊は、私の首はどこ[#「私の首はどこ」に傍点]? 私の首はどこ[#「私の首はどこ」に傍点]……ていいながら出るそうです」
「ぼくが聞いた話では、それは私の首[#「それは私の首」に傍点]! それは私の首だ[#「それは私の首だ」に傍点]……といいながら、女子の生徒に、後ろから掴《つか》みかかるそうです」
ふたりとも、手振り身振りをまじえていう。
「そうそう、ぼくら男子には出ないんですよ。だから見てないんですが」
……妙な理屈であるが。
「その幽霊も、女子生徒なんですよ。なんでも、何年か前まではうちの学校に通っていたらしく、そして何かの事故に遭って、首から上だけがなくなってしまった……そうです。けど、首から上がなくなるなんて、そんな事故めったにありませんよね」
逆に聞いてきた。
「さあ、ぼく[#「ぼく」に傍点]には分からないけど……で」
依藤は穏やかに素《す》っ惚《とぼ》けて、先を促す。
「顔に劇薬がかかって、顔が溶けてしまった。そんな話もあるよな」
「うん、窓から顔を出していたら、ガラスが落っこちてきて首が切れた、みたいな話もあります。いくつか類似話《バリエーション》があるみたいです」
それは怪談や噂話にはつきものである。が、幽霊が女子[#「女子」に傍点]の生徒[#「生徒」に傍点]だというのは、あの白骨死体の性別[#「性別」に傍点]や年齢[#「年齢」に傍点]とも、とりあえずのところ、嵌《は》まる。
「……先生。つかぬことをお伺いしますけれど、そういった類似の事故が、かつて実際に学校であったとか?」
「と、とんでもありません――」
東先生は声を裏返して否定する。そして、私は無関係、とばかりに横を向いてしまった。
依藤は、怒らせちゃったね、と目で語ってから、
「その幽霊話だけど、いつ頃から囁かれてたの?」
――ふたりに尋ねる。
「うーん、わりと最近やね」
「今年に入ってからかなあ……」
「先生がいってた七怪談みたいな話は、別にあるんですよ。ふるーくからある定番が」
「有名なのは、職員室のトイレに出る幽霊ですね。ノイローゼになって自殺した、女の先生の幽霊が出るそうです」
東先生が首を捩《ねじ》曲げ、ギロ、と睨《にら》んだが
「あ、そうや、今年の春合宿のときには、この首なしの幽霊はあったよな」
「あった。それでお[#「お」に傍点]ーいにビビらせたんやから」
――臆することなく男子ふたりは語る。
「けど、去年の、ぼくらの春合宿のときはなかったよな?」
「……なかった。だから、そのへんですよね」
そのへんがどのへんかは、依藤にも大体分かった。
「すると……半年前には噂は確実にあった。そして最大さかのぼっても一年半、といったところだね」
「ですけど、この首なしの幽霊の場合は、しつこいんですよ」
「しつこい……とは?」
「ひと月に一遍ぐらいは、わーて盛り上がるんです。どこの学級《クラス》の女子が見たーといって。で見たその本人はというと……学校を休んでいたりするんですよ。するとますます、幽霊を見たから休んでるんだーて話になって、また盛り上がるんですよ」
その教室《クラス》の様子が、依藤にも想像できた。
「そしてなかなか消えないんですね。幽霊が学校のどこかに出るって話は、他にもちょこちょこあるんですが、大体がすぐに消えるんですよ。でも、この幽霊だけは……」
「あまりにもしつこいから、この首なしの幽霊は、本物とちがうか……て噂になってます。なあ」
「うん。それとですね刑事さん、ぼくたち高校生が、中学生もそうかもしんないけど、学校に出る幽霊の話を、皆が皆信じてるなんて、そんなダサ[#「ダサ」に傍点]いこと思わないで下さいね。トイレの花子さんなんて、あんなの落語《ギャグ》なんだから、それも大人が作った、それも性《たち》の悪い、出来の悪い、ワンパターンの」
「う……うん」
依藤は同意するように頷いた。
もちろん、依藤も幽霊などてん[#「てん」に傍点]で信じてはいない。が、幽霊が出るという噂[#「噂」に傍点]……その種の噂話には往々にして真実が含まれていることが多い。つまり捜査に役立つのだ。だから折れて曲がって猫撫で声で、高校生《ガキ》の相手をしているのである。
「あと……もうひとつあるんですが」
男子のひとりが、申し訳なさそうにいった。
「なんなりと」
――依藤は促す。
「この首なしの幽霊には類似話《バリエーション》がある、ていいましたよね。それは月一ぐらいで盛り上がるたびに、話がちょっとずつ変わるわけですけど、ですが、結末《おち》はいつも同じなんですよ……なあ」
「そう……」
といったきり、ふたりは語らない。
「どういったオチなの?」
依藤は尋ね直す。
「それが……あまりいい結末《おち》じゃないんですよ」
「この期《ご》に及んでは、ね」
――どの期に及ぶというのだ?
「まあ、そういわずに」
依藤はさらに優しい声で促した。
「じゃいいますけど、今作った話だろう、とか怒らないで下さいね。嘘だと思うんだったら、誰か全然別の生徒つかまえて、尋ね直して下さい」
そんな前置きをしてから、いう。
「その首なしの幽霊ですけれども、その首のない死体が、この神隠しの山のどこかに埋められている、というのが結末《おち》なんですよ」
な……なんと……。
返す言葉がなく依藤は絶句した。
驚いた、というわけではない。話があまりにも出来すぎているので、頭の中でガチ――と歯車が噛み合い、動かなくなってしまったのだ。
「やっぱ真実《マジ》の幽霊やったんかな」
「そうとしか考えられないよね」
ふたりの囁く声が聞こえる。
……んな馬鹿な。
依藤は思いつつも、だからといって、合理的な説明が浮かんでくるわけでもない。機能停止を起こしている脳にとっては、なおさらだ。
……考えんのは帰ってからにしょ。
そう思うと、依藤はいくぶん気が楽になった。
「ところでですね、皆さん方の学校って、近くにあるんですか?」
そう依藤が尋ねると、一同そろって拍子抜けしたような顔をしながらも、
「……はい。この林の中を真っすぐに下って行くと、そこが私共の学校です。十分もかかりますでしょうか。それに、この山には生徒たちの出入りは自由なんです。ですから、ここは学校の裏山[#「裏山」に傍点]といった感じで、神隠しの山などでは決して[#「決して」に傍点]ありませんのでね」
東先生が種々の誤解を正すように説明してくれた。
――が、そんな立地になっていようとは、依藤は露と知らなかった。
依藤は所番地を頼りに来た。すると、山を背にした車道に警察車両が何台か停まっていて、そこにいた見張り役の巡査に案内されて現場《ここ》まで上がったのだ。おそらく学校とは反対側から来たのであろう。
依藤は、頭の中で地図を開き、近くにある学校といえば……それを考えていると、背筋がゾクゾクと薄ら寒くなってきた。幽霊ではない。
「あのう、皆さま[#「さま」に傍点]方の学校って、もしかして、あの私立のM高校ですか?」
「はい――」
当然といった顔で三人は首肯《うなず》く。
ま……まずい……
私立M高校といえば県下でも有数の進学校のひとつであり名門中の名門だ。それだけじゃない、学校の理事長《オーナー》は地元選出の国会議員なのだ。さらに、その一族は一帯の大地主である。この山も多分そうなのだろう。いかに草とはいえ勝手に売ってよいのかと、どこかで厭味をいおうと狙っていた依藤だが、その必要はなくなった。いや、いわなくてよかった。
……失態《ヘマ》をやらかすと首が飛ぶ[#「首が飛ぶ」に傍点]。
依藤は振り向くと、二メーターほど後ろで寡黙《かもく》に突っ立っていた植井刑事に、
「先にいえ――」
と小声で怒鳴った。
関係者の氏名、住所、職業などは植井が聴取しているはずだからと、再々尋ねるまでもないと、即本題に入った本人《よりふじ》が悪いのだが。
怒鳴ってから依藤は、あたりをぐるーと見渡してみた。警察の関係者以外には、不審者の影はない。さらに秋晴れの空を見上げ、そして耳を欹《そばだ》ててみたが……ヘリコプターの音はしない。
依藤は三人に向き直り、
「ちょっとした手違いがあったようで」
と、軽く詫びてから、
「えー些細なことなんですが、今日ここであった出来事を、お三人の他で、どなたかご存じの方はおられますでしょうか?」
――丁寧な口調になって尋ねる。
「いえ、この子たちは、私の携帯に直接かけてきましたから、学校の者はまだ誰も。それに今日は土曜日ですから、授業はやっておりませんので」
「あ、それは何よりですね。骨が出たからといって、即事件と決まったわけじゃありませんから。ひょっとしたら、古いお墓の可能性だってありますし」
「――そんなとこは掘らないよ」
「――いくら骨には免疫があっても」
「あるいは、縄文人[#「縄文人」に傍点]の骨じゃあるまいかと、さっき監察医の先生はいってました。ともかく、詳しい調べがついて警察が発表するまでは、その必要があれば[#「あれば」に傍点]、の話ですが、今日のことはひとつご内密に[#「内密に」に傍点]」
――生物部員たちの苦情は無視し、大嘘もまじえながら依藤は頭を下げた。
「あ、それはもちろんですとも。私共も秋の文化祭を間近に控えておりまして、それも創立五十周年の記念祭ですから、よからぬことで騒がれたくありません。そのことは、この子たちも重々承知しているはずですから――」
その子たちも、東先生に促されて、不満げな表情だがペコリと頭を下げた。
失礼なことを申したやもしれませんが、なにぶん警察の捜査ですから……などと依藤が東先生にくどくど[#「くどくど」に傍点]詫びていると、
「よりさーん」
――岩船係長の呼ぶ声があった。
これ幸いに、後のことは植井刑事に任せ、依藤が行ってみると、鑑識課の常備品であるジッパーつきの透明ポリ袋に入った何かを、手に持ってゆらゆら[#「ゆらゆら」に傍点]させている。
「さっきまで骨以外なーんもなかったんだけどさ、遺留品が一個出たよ」
――岩船は嬉しそうにいった。
「何ですかそれ?」
依藤の見るかぎりでは、十円玉ほどの土の塊《かたまり》だ。
「驚くなかれ、……ゆびわ[#「ゆびわ」に傍点]」
「おおう、それは戦利品だ」
――依藤もことさら大袈裟にいう。
「だろう。これで身元が判明したも同然さ」
「さあ、それはどうだか」
「ここでは土落とせないんで、署《いえ》に持って帰ってからね」
「質草《しちぐさ》にせんで下さいよ」
そんな冗談めいたやりとりをしながらも、依藤は、さっきの事情聴取の中で話題になった〈歴史部〉に関係することを考えていた。
学校名に気づいたと同時に、そのことを思い出したからだ。
今年の七月頃の事件であったが、竜の刺青《いれずみ》をした男が駅のホームから突き落とされて殺され、その犯人としてM高の歴史部[#「歴史部」に傍点]の女子生徒の名前があがったのだ。が、それはまったくの濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》であった。その女子とは依藤は面識はない。問題は、その女子の兄貴[#「兄貴」に傍点]なのだ。ふた廻りほど歳《とし》の離れた兄貴で、東京で大学の先生をしている。その彼の専門は脳科学の『認知神経』何とやらで、依藤には到底理解できないが、その専門に関係して……かどうかも不明だが、その先生《かれ》は怪奇現象全般に精通し、超能力だの宗教だの呪いだの、そういったことにや[#「や」に傍点]っためたらとお[#「お」に傍点]詳しい。幽霊などもきっと十八番《おはこ》にちがいない。
まさか、今日の白骨死体や首なしの幽霊に絡んでいるとは思ってはいないが、その彼には、他人《ひと》にはいえない隠し事が山ほどあると依藤は睨んでいる。
ついひと月前も、日光の山奥の地図にすらもない荒れ寺で、およそ考えられない鉢合わせをした。しかも、まるで正体不明のお供を伴っていた。
あの物々しい連中はいったい何だ?
その後、再三再四電話で誘い出しをかけているのだが、学会だの、仲間内での飲み会だの、時には居留守《いるす》まで使って依藤を避けている。
が、しかし、今日のこの事件に関係して、かどうかは分からないが、近々ご[#「ご」に傍点]尊顔を拝することになるだろう、依藤はそんな予感[#「予感」に傍点]がして……北叟笑《ほくそえ》んだ。
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2
――その同じ日の同じ頃であった。
大学講師の火鳥竜介《かとりりゅうすけ》もまた、とある境界線を越え、非現実の世界へと足を踏み入れようとしていた。
その扉の前で順番を待っていたら、銀灰色のジャンパーを着た若い男が、空港の身体検査《ボディーチェック》よろしく両手を挙げてくれと身振りで指図をする。
いわれた通りに竜介がすると、上着《ジャケット》の左襟《えり》の部分に極小《ピン》マイクがつけられ、その電線《コード》が上着の内側を這《は》わされて、そして尻ポケットのあたりに、スラックスのベルトを使って、四角い小箱が挟み込まれた。それは電波を飛ばすための装置である。
「座るときには、気をつけて下さいね」
その、マイク担当らしき|AD《アシスタント》は、早口で囁いた。
東京の大[#「大」に傍点]民放テレビ局の館内には、似たようなジャンパー姿の若い男女がそこかしこに屯《たむろ》し、あるいは忙《せわ》しなく徘徊《はいかい》しているから、誰が何の役割なのかは直《じか》に接せられて初めて竜介には分かる。出演者の控室から、このB−2《ツー》というスタジオの扉前まで、
「ようやく秋らしくなって来ましたよね」
などと、時節の話をしながら竜介ひとりだけに付き添って親切に誘導してくれたADも、その後どこに行ったことやら……それに薄情な話だが、その彼に再度出会ったとしても、人の顔を覚えるのは苦手[#「苦手」に傍点]な竜介なので、その他大勢さんと変わりはない。
著名な理工系の芸能人《タレント》教授に続いて、竜介の名前やら略歴などを紹介する声が、スタジオの中から聞こえてきた。
その入口の防音扉を、手で押し開いている係らしき女性のADが、
「どうぞ――」
と満面の笑みで促《うなが》す。
竜介は、右手で台本を握りしめ、いつになく緊張した面持ちで、その扉をくぐって中[#「中」に傍点]に入った。
その先は、左右にごちゃごちゃと機材が積まれ、滑りそうなほどにツルツルの床で、だが足元は見えないぐらいに暗いし、それに太い電線《ケーブル》があちこちで蜷局《とぐろ》を巻いている。それは踏んではマズいだろうと思い、俯《うつ》向きながら竜介が歩を進めていると、
「――皆さん。かとりりゅうすけ先生で[#「で」に傍点]ーす」
再度、そう紹介する声が響き、うわ[#「うわ」に傍点]ーと大歓声と大拍手が湧《わ》き起こった。
そのB−2スタジオの中には階段状の観客席が設《しつら》えてあり、五十人……いや、それ以上は座っているだろうか。その観客席の前で、頭にインターコムをつけたADが(フロア・ディレクターと呼ぶのかもしれないが)、丸めた台本を手にして、ぐるぐると大仰に廻していたからだ。つまり〈大騒ぎしろ〉と指図しているわけで、竜介の人気や知名度とは(そんなものは元来ないが)無関係である。それに客たちも、運よく抽選に当たったような人たちではない。専門《それなり》の派遣会社《くちいれや》があり、番組の希望に沿って集められたものなのだ。もちろんバイト代が支払われるから、指図[#「指図」に傍点]に従うのは当然[#「当然」に傍点]だ。
それに、実際の収録はまだ始まっていない。それが証拠に、フロアの奥三分の一ほどの煌々[#「煌々」に傍点]と明るい[#「明るい」に傍点]、つまり、そこがテレビ画面に映る虚世界《セット》だが、そこに雛壇《ひなだん》のように作られてある豪華絢爛《きらびやか》な司会者席には、まだ誰ひとりとして座っていない。
今は、いわゆる呼び込み[#「呼び込み」に傍点]の状態で、出演者をスタジオという非現実世界へ招き入れる、ひとつの儀式[#「儀式」に傍点]であり、とくにテレビ慣れしていない素人《しろうと》を発奮させ、狂気へと誘《いざな》う……すると視聴率が跳《は》ね上がる、そんな効果も期待しての空騒ぎである。
そういった仕掛けや段取りは、竜介もある程度は知っている。テレビ出演は初めてではないからだ。が、以前に何度か出たのは、深夜枠で放送された雑談形式の|小規模な《こじんまりとした》番組で、それでも二、三十人のスタッフはいたが、今回のような夜の|七八九時《ゴールデンタイム》のそれは経験がない。しかも二時間枠の特[#「特」に傍点]別番[#「番」に傍点]組というのだから、なおさらだ。ともかくも人、人、人だらけ[#「人だらけ」に傍点]であり、観客以外にも、いったい何人がこの巨大な檻《おり》の中にいるのだろうか……。
そんな熱気と狂気に包まれながらも、自身では泰然自若《たいぜんじじゃく》なつもりの竜介が、その司会者席《ひなだん》の斜め下にあった、丸テーブルが何個か置かれた青空喫茶《オープンカフェ》のような作りの場所に行こうとすると、その手前で、闇の横合いからネズミのように走り出てきたADに両手を広げて制止された。そして、
「火鳥先生はこちらでーす」
――別の方に誘導される。
その青空喫茶《オープンカフェ》のような洒落た待機場所には、竜介の直前に呼び込まれた芸能人《タレント》教授などが座っていたから、自分もそこ[#「そこ」に傍点]だろうと思ったのだが?
そして……誘導されて連れて行かれた場所は、観客席の後ろ側の|機材に囲まれた《ふきだまりのような》暗闇で、折り畳みのスチール椅子がぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]に数脚置かれてあった。
くっそ[#「くっそ」に傍点]ー……腹は立ったが、仕方がない。
講師の竜介とその教授たちとでは、実社会《このよ》でも、この虚世界《あのよ》でも、天と地ほどに|扱い《ランク》は違うのだ。
そのスチール椅子の傍らに、足付きの灰皿が置かれてあった。つまり煙草《タバコ》は吸ってもよいのである。竜介はさっそく一本ふかしながら、その椅子に腰を落ち着けてみた……が、とりあえずのところ、やることが何もない[#「何もない」に傍点]。これから先は、自分の出番が来るまでは延々[#「延々」に傍点]と待ち[#「待ち」に傍点]なのだ。それに薄暗いから、台本すら満足に読めないではないか。
その表紙の大きな文字だけが辛《かろ》うじて見えた。
――霊能力バトル! 嘘か真実か? (仮題)
とあり、放送日は十一月七日予定、とのことだ。
その台本は、小一時間前に、竜介が冷めた出前の弁当を食べていたら、今辻《いまつじ》ディレクター……要するに番組の総監督だが、同種の肩書が何人かいるようで、その今辻《かれ》が控室に来て、手渡してくれながら簡単な説明をしてくれた。その際にざっと目は通したのだが、竜介の出番は半ばすぎであった。
もっとも、その台本の、竜介の会話部分は空欄[#「空欄」に傍点]になっていて、いわば進行表にすぎないから、覚える台詞《セリフ》があるわけでもなく、だからこの場で読めなくても支障はない。その点……気は楽ではあったが。
すると、若い女性のADが、新幹線よろしく台車《ワゴン》を押しながらやって来て、
「お飲み物は、何がいいですか?」
――注文を聞く。
この暗闇も、いちおう場末の喫茶《カフェ》ではあるようだ。
「じゃあ、温かい日本茶ある?」
――無理を承知で竜介はいってみる。
「冷たいのならありますよ」
その彼女は、笑顔であっさりと切り返す。
それはペットボトルのことであり、竜介の注文とは根本的に違うのだが、やむをえずそれをもらった。
「あっ、ぼくは熱いコーヒー、ブラックで」
竜介の次に並んでいた若い出演者が、同じ手順で呼び込まれて、やはり、場末《ここ》に誘導されて来たらしく、着いたばかりで、立ったままでいった。
その若い彼は、扉前の廊下で少し話したところによると、プロの手品師《マジシャン》らしく、そしてこの特番では、スプーンを曲げる霊能力者とやらと対決《バトル》するようだ。もう何十年同じことをやっているのかと……ほとほと竜介は呆《あき》れる。
そして二、三分|間《あいだ》を置いてから、別の一団《グループ》がスタジオに呼び込まれ始めた。つまり竜介らと対決《バトル》することになる、いわゆる霊能力者[#「霊能力者」に傍点]たちである。
――竜介への出演依頼は二週間ほど前にあり、その際、出演予定の霊能力者の名前等《リスト》は、聞くと教えてくれた。というのも、竜介が室長を務める『情報科』の研究室では、その種の人間は、即座に判定[#「判定」に傍点]できるのだ。過去十五年間、一度でもその種のテレビ番組に出演していれば、ビデオ録画が保存[#「保存」に傍点]されているからである。以前は竜介ひとりで、そういったことを趣味《まめ》にやっていたのだが、今では少数ながらも専属のスタッフがいて、その録画|目録《データ》をデジタル化してくれたこともあり、瞬時に検索が可能となった。で、その判定結果はというと……出演予定の霊能力者の全員が黒[#「黒」に傍点]であった。それはもっともな話で、竜介が白[#「白」に傍点]だと判定できるのは、過去十五年間で、世界中でせいぜい数人[#「数人」に傍点]だからである。
まあ……黒にも各種《いろいろ》あり、どんな偽演技《パフォーマンス》を得手《えて》としているのか、その目録《データ》と、さらに細かく知りたければ録画を見直せば判るというわけだ。
そもそも、竜介がなぜこんな資料集めを始めたかというと、黒を暴露して叩きのめす[#「叩きのめす」に傍点]、そういった社会正義からではなく、白[#「白」に傍点]……つまり本物[#「本物」に傍点]の能力者[#「能力者」に傍点]を見つけ出し、その人物を実験台[#「台」に傍点]に据《す》えようと考えていたからである。それは、彼が専攻する『認知神経心理学』の学術用語でいうところの〈標本〉だ。
そして……今年の夏、その究極[#「究極」に傍点]の白[#「白」に傍点]ともいうべき存在[#「存在」に傍点]と、その男子《かれ》を〈標本〉にできるかどうかは別として、ふとした縁[#「縁」に傍点]で知り合う[#「知り合う」に傍点]ことができた。
だから、テレビ録画のような無意味で繁雑《はんざつ》な作業は、もうやめようと竜介は思っている。しかも、そのビデオが膨大で、研究室には入り切らず、大学の地下倉庫に置いている。最低でも週に一本は増えていくからで、そして過去十五年間で、驚くなかれ、その種の番組はざっと一千回[#「一千回」に傍点]は放映されたのだ。それほどまでに電波《テレビ》で垂れ流している国は、この日本と、あとは英国《イギリス》ぐらいだろうかと、竜介は思う。
――が、その出演予定者の中に、気になる男がひとり含まれていた。――得川宗純《とくがわそうじゅん》である。禅寺《ぜんでら》の僧侶でありながら希代[#「希代」に傍点]の霊能力者[#「能力者」に傍点]といった触れ込みで、ここ数年で頭角を現し、今やその種のテレビ番組の帝王[#「帝王」に傍点]になった感すらもある人気者だ。その彼は、竜介の見立てでは、灰白色《グレイゾーン》ですらなく、完璧な黒ではあるのだが、嘘のつき方が巧妙な悪人《タイプ》なのだ。
「じゃ、その得川[#「得川」に傍点]と一[#「一」に傍点]対一[#「一」に傍点]で対決させてくれます」
「あっ、それはこちらとしても、願ってもないことなんですよ」
「ほんとですね。自由[#「自由」に傍点]にやっていいんですねえ」
今辻ディレクターとの、そういった電話での遣《や》り取りで、竜介は出演を了承したわけなのである。
もっとも、これも正義感からなどではなく、希代の霊能力者とやらのいかさま[#「いかさま」に傍点]を暴《あば》くのは、単純に、痛快[#「痛快」に傍点]だろうと竜介は思ったからだ。が、そうそう青写真どおりに事が運ぶかどうかは、実際に対決《バトル》してみないと……わからない[#「わからない」に傍点]。
その呼び込みで、やはり大歓声と大拍手に鼓舞されながら自称・霊能力者たちが次々とスタジオに入って来た……が、その得川宗純の名前だけは紹介されない。彼は、この特番の主人公《メインゲスト》といってもよいので、どうやら、別の登場の仕方をするようだ。
それに、その霊能力者たちには、また別の待機所が用意されてあるらしく、あの青空喫茶《オープンカフェ》にも、そして場末《ここ》にも誘導されて来ない。呉越同舟《ごえつどうしゅう》はさすがに避けているようで、画面の外で喧嘩をされても、視聴率は上がらないからだと竜介は思う。
そして……さらに|待つこと《またせること》約五分。
ようやっと司会者席につく面々が現れ始めた。その一番手は、元民放のアナウンサーだった女史だが、どうしたことか、妊婦服《マタニティー》のようなくびれのない赤の丈長服《ロングドレス》を着ている。体型を隠したいのか、くびれのない服《ドレス》が好きなのか……そんなことはさておき、その女史が、竜介が台本に目を通したところによると、唯一、司会者と呼べそうな司会者だ。
次は……いわゆるアイドルである。その娘《こ》は画面《テレビ》で見るよりも、実物の方が数段[#「数段」に傍点]可愛い。暗闇を歩いていても、顔と瞳がキラキラと輝いているし、それだけじゃなく、痩身の体全体からオーラが迸《ほとばし》っているようにも竜介には見える。その彼女と比較して、妹のことが頭に浮かんだが、さすがに現役一線級《バリバリ》のアイドルには勝てない[#「勝てない」に傍点]かなと竜介は思う。
続いて……中年だがヤンキー感覚が売りのお笑い芸人[#「お笑い芸人」に傍点]がスカジャンにジーンズという普段着姿で入場して来た。が、実際は頗《すこぶ》るIQが高いらしく、老若男女を問わず茶の間の人気者である。その彼が、この番組のいわゆるチーママだ(男ではあるが)。
そうこうしていたら、スタジオの入口付近が騒然となってきた。いよいよ大御所《オーママ》の登場であるらしい。その彼もまた……お笑い芸人である……姿を現した。そしてひょこひょこと歩く。このときばかりはスタジオじゅうから真摯[#「真摯」に傍点]な大拍手が湧き起こる。竜介のときなどとは、その音質[#「音質」に傍点]が明らかに違うのだ。それに、その彼の足元をADが懐中電灯で照らしながら誘導している。至れり尽くせりだ。
――以上が、司会者たちの顔触れであった。
どこかがおかしい[#「おかしい」に傍点]……と竜介は思うのだが、この虚[#「虚」に傍点]世界にあっては、それが真理[#「真理」に傍点]であるようだ。
その彼らが、床から二メーターほどは高く作られている雛壇席につくと、その周りに大勢のスタッフが集《たか》る。ストローつきの|飲み物《グラス》を運んでいる者や、極小《ピン》マイクの最終|点検《チェック》をしている者。あるいは、大御所にぺこぺこ頭を下げている中年男性《たぶんディレクター》もいる。それに司会机《テーブル》の上には化粧《メイク》箱が置かれ、アイドルは最後の点検《チェック》に余念がない。手鏡を覗《のぞ》き込んで目をパチクリさせている。どうやら自身の睫毛《まつげ》の様子を気にしているようだ。その彼女の長い髪を背後から別人がいじっている……見てるだけで竜介は|楽しい《わらえる》。
そのスタッフたちが司会者席から去ると、それまでの喧噪《けんそう》が嘘のようにスタジオじゅうが静まり返った。皆さんご静粛《せいしゅく》にー、その種の声はかからない。すると……梵鐘《ぼんしょう》を連想させるような荘厳な現代音楽が大[#「大」に傍点]音響で流れ始めた。いよいよ収録が始まるようだ。さあ本番ですよー、その種の声も聞かれない。全員が段取りを心得ているようだ。それにどこかで|秒数表示をしている《だれかがカウントをしている》はずだが、観客席がじゃまになって、竜介がいる場末《ここ》からは見えない。近くの床に二十五インチ程度のモニターが置かれてあるのだが、それも同様で、虚世界の裏[#「裏」に傍点]が映るわけではない。
「五……四……三……」
カウントするその声[#「声」に傍点]だけが聞こえた。
ただし二と一は無言で、指で示しているらしい。
「――霊能力[#「霊能力」に傍点]。そして、知られざる霊[#「霊」に傍点]の世界[#「世界」に傍点]。闇にうごめいている悪霊《あくりょう》たち……かと思うと、人に憑《つ》いてその人を守ってくれるという守護霊の世界もあります。私たちは、そのいったんしか垣間見ることができません。今宵《こよい》その神秘のベールを……」
元アナウンサーの女史が|前を見据え《カメラめせんで》、臨場感たっぷりに前口上を述べ始めた。もっとも、その女史も台詞を覚えているわけではなさそうで、どこかにカンペ[#「カンペ」に傍点]が出ているのだろう(すなわちカン[#「カン」に傍点]ニングペ[#「ペ」に傍点]ーパーの略。虚世界の用語だったが、最近は竜介の大学の学生までもが使う)。
「……では、さっそくですが」
「わっ、いきなり行っちゃうの?」
チーママが、道端で話しているような普段着言葉で合いの手を入れる。
「ど、どうせあれだろ……あれ」
大御所が、やる気なさそうに拗《す》ねた態度でいった。それは彼の毎度《いつも》の演技《パターン》だ。
「いえ、この番組のためだけに特別に選《え》りすぐった、テレビで紹介されるのは初めての写真なんですよ」
さすが元アナウンサー、女史は流麗に早口で喋《しゃべ》る。
「見てみたーい。でも、こわーい」
胸の前で腕を交差《クロス》させながら、アイドルが可愛げにいった。
その彼らは名前等は紹介されない。放映の際には画面の下にテロップが出るからだろう。
ざざーん[#「ざざーん」に傍点]と衝撃的、かつ物悲しげな現代音楽が流される。と同時に照明が三分の一ほどに落とされた。確か……巨大なモニターがあったのだが、それも直接には場末《ここ》からは見えない。が、大御所もいったように、どうせあれ[#「あれ」に傍点]であるから、竜介も興味はない。もっとも、その巨大モニターに映される写真をおどろおどろ[#「おどろおどろ」に傍点]しく解説する自称・霊能力者の女性が既に|位置について《スタンバイして》いた。それに、司会者席の左横にある一段低い雛壇には、例の大学教授と、それにもうひとり高名な写真家が座っている。つまり、その陣容で対決《バトル》するようだ。
竜介の想像していた以上に段取りはいい。この調子だと、出番は意外と早く廻ってきそうだ。
――竜介は目を閉じた。できれば耳も蓋《ふた》して、それまでは、寝たふりを決め込むことにした。
どのくらい経ったのか不明だが、横に座っていた彼が立ち上がった。つまりスプーン曲げ[#「スプーン曲げ」に傍点]対決が始まるようだ。竜介は、ますます寝ることに決めた。
もちろん、竜介もスプーンは曲げられる[#「曲げられる」に傍点]。それだけじゃなく、お札を宙に浮かすことだってできる[#「できる」に傍点]。その種の手品には、ひととおりの知識と心得があるのだ。ただし、もう十年以上も前に卒業した[#「卒業した」に傍点]。以来、君子|危《あや》うきに近寄らず、を決め込んでいる。少々の知識があっても、結局はトリックを使う側に軍配が挙がるからだ。それは玄人《プロ》の手品師《マジシャン》とて同様である。ネタ――最近はとくに電脳《ハイテク》ネタ――は全世界で日々新しく開発され、そのすべてを知り得るのは何人《なんびと》たりとも不可能だからだ。そして、その誰もが知らないネタを超能力・霊能力だと詐称[#「詐称」に傍点]するか、まっとうな手品[#「手品」に傍点]として演じるかは、その開発者の人生観や価値観に委《ゆだ》ねられる。もっとも、詐称した方が、実入りがいいのはいうまでもないが。
竜介が、椅子で本当に|居眠り《うつらうつら》しかけていると、
「火鳥先生[#「火鳥先生」に傍点]。そろそろスタンバイを」
――耳元でADが囁いた。
竜介はペットボトルのお茶で嗽《うがい》をし、それを呑《の》み下してから、台本を椅子《そのへん》に捨てて、立ち上がった。
「頑張ってくださいね」
いつの間にか戻っていた彼[#「彼」に傍点]の応援《エール》に送られながら、
「では、こちらでーす」
――と、誘導されて行く。
目も眩《くら》むほどに煌々《こうこう》とまばゆい[#「まばゆい」に傍点]虚世界の……ほぼ中央に……椅子だけがふたつ[#「ふたつ」に傍点]置かれてあった。
「さっきの竹やぶ、おねえちゃんが出てくるの?」
「な[#「な」に傍点]ーに聞いてたの? 幽霊が出る出るといってたのは、家[#「家」に傍点]でしょう」
――司会者席の方では、|お笑いの男ふたり《オーママとチーママ》が戯《ざ》れ合っている。
竜介の記憶では(捨てた台本によると)出番の直前はどこかの幽霊屋敷の話で、その映像は事前に収録されてあり、それを観《み》終わっての漫談《コメント》なのだろう。
竜介が、指示された方[#「方」に傍点]の椅子に腰を下ろすと、左斜め前にその司会者席、そして右斜め前に観客席があった……ともに五メーターほどの距離だ……客の大半は、その漫談に歩調を合わせて笑っているが、何人かは白け顔で、竜介《こちら》の方を見ている。
椅子は、背凭《せもた》れがついた木の洋椅子だが、ところどころ上塗《ニス》が剥《は》がれた貧相な代物である。それは二脚とも同じで、この虚世界《セット》の中に身を置くと、飾りの小道具類が意外と|粗末な《ちゃっちい》ことがよく判る。あの豪華|絢爛《けんらん》に感じた司会者席ですら同様だ。これが画面ではあ[#「あ」に傍点]ー見えるのだから……不思議ですらある。
「さあ、それでは皆さんが、お待ちかねの」
女史がそう紹介しかけると、
「あのくそ坊主[#「くそ坊主」に傍点]?」
大御所が悪たれをついた。
――観客たちがど[#「ど」に傍点]っと笑う。
「あっ、知らないよ知らないよう。幽霊[#「幽霊」に傍点]にとりつかれ[#「とりつかれ」に傍点]たって。あのご住職はさ、霊と仲良しだってもっぱらの評判なんですよう」
「きゃ! こわーい……」
そのアイドルの悲鳴がきっかけ[#「きっかけ」に傍点]であったらしく、司会者席の右後ろの暗闇から人工霧がぶわ[#「ぶわ」に傍点]ーと吹き出し始めた。なるほど、そういう登場の仕方をするわけか……と同時に、読経らしき濁《にご》り声が地を這《は》うように流れてきた。竜介は耳を欹《そばだ》ててみたが……何|のお経だか《をいってるのか》皆自分からない。ということは、読経に似せた擬音[#「擬音」に傍点]であるなと竜介は思う。本物を使うと苦情《クレーム》がくるからだ。日本《ここ》はいちおう、仏教の世界だ。
「さあ、ご登場ねがいましょう。禅の僧侶でもありながら希代[#「希代」に傍点]の霊能力者[#「霊能力者」に傍点]。その奇跡の数々はテレビの前の皆さんもご存じの通り。彼の眼力はすべて[#「すべて」に傍点]を見通す、あの得川宗純先生のご登場です――」
あらためて女史が紹介すると、観客席からは割れんばかりの拍手喝采《かっさい》が起こり、虹色《カクテル》光線で照らし出された人工霧[#「人工霧」に傍点]の中を、僧服を着流しふうに羽織ったその得川宗純が、のっしのっしと大股[#「大股」に傍点]に歩いて姿を現した。――背は百七十二、三センチの竜介と大差ないだろうが、倍ほどの横幅がある。
宗純は、虚世界《ステージ》の中央まで来て立ち尽くすと、合掌《がっしょう》の姿勢《ポーズ》をとりながら観客たちを睨《ね》めつけていく。
その眼光に怯《ひる》んだわけではなさそうだが、
――しーんと静まり返った。
彼の僧服の袖からは筋骨隆々の二の腕がのぞいている。明らかに……体育会系だ。だからといって非[#「非」に傍点]霊能力者であると即[#「即」に傍点]判定できるわけではないが。
宗純は、椅子に寡黙に座っていた竜介を一瞥《いちべつ》してから、司会者席に振り向き、
「こやつ[#「こやつ」に傍点]を霊視すればいいのか? 今日は」
――顎《あご》でしゃくって横柄にいう。
「あ、はい。もうなーんなりと視《み》てやってください。こ、こわいから、こっちの方は睨まないでえ」
チーママが|大袈裟に《わざとらしく》芝居していうと、その横では、目を潤《うる》ませぎみのアイドルが、可愛らしく両手を合わせてお祈り[#「お祈り」に傍点]をしていた。
――誰のために? 何の祈りを?
宗純が、竜介の前一・五メーターほどに正対するよう置かれてある椅子に、どっかと腰を下ろすと、
「さあ、準備が整いましたようですね。それでは、得川宗純先生、――霊視[#「霊視」に傍点]をお願いいたします」
厳《おごそ》かに女史はいった。
――竜介の氏素性《うじすじょう》は紹介されない。それは、宗純《かれ》には何も知らされていない、といった設定[#「設定」に傍点]だからだ。そんな説明が、放映の際には画面下《テロップ》に出るはずだ。
宗純は、そのいかつい[#「いかつい」に傍点]巨体を椅子から乗り出させ、眉毛を逆立《さかだ》てて、眼光鋭く竜介を睨みつけてくる。
「むんむむむむむむ」
――鼾《いびき》のような唸《うな》り声を発しながら。
竜介は、霊視なるものの理屈[#「理屈」に傍点](認知神経心理学的な仕組み)は熟知[#「熟知」に傍点]しているが、単純に、その彼の眼光[#「眼光」に傍点]には勝てない[#「勝てない」に傍点]と思う。だから、睨めっこは避け、彼が着ている群青《ぐんじょう》色の僧服の胸に、金糸で刺繍されてあった〈三《み》つ葉葵《ばあおい》〉紋あたりに目を置いた。
彼の名前の得川[#「得川」に傍点]は、すなわち徳川である。家康が、松平《まつだいら》から徳川に改名する以前の本家筋の名前にあたる……ま、そういったことは歴史部《いもうとたち》の方が詳しいが。もちろんのこと、それを無断借用し芸名[#「芸名」に傍点]としたもので、三つ葉葵紋も同様のはずだ。これには苦情《クレーム》はこないらしく、今の日本は、徳川の世ではないからだろう。それに下の名前の宗純[#「宗純」に傍点]は、僧侶の一体《いっきゅう》宗純からの盗《パク》りだ。実在の一体さんは後小松《ごこまつ》天皇の隠し子だから、上下そろってご[#「ご」に傍点]大層な芸名である。
けど、名前の派手さ加減では竜介《こちら》も負けてはいない。しかも、れっきとした戸籍名だ。二十歳《はたち》すぎまでは麻生《あそう》竜介であったが、親の離婚に伴って母方の姓を採ったら火鳥竜介《このよう》になった。今の名前にして以来、人生は劇的[#「劇的」に傍点]に変わったかもしれないな……そんな無関係なことを竜介がつらつら考えていると、
「見えてきたぞう[#「見えてきたぞう」に傍点]」
――宗純が、腹から絞り出したような声でいった。
「さあ、いったい何が霊視されたのでしょうか? 得川先生……話してください」
もったいつけて女史が促す。
「――おぬし。大勢の人の前で講釈をたれておろう。そういった仕事をしとるな」
宗純は、見透かしたような態度でいった。
確かに[#「確かに」に傍点]……週に一度『認知心理学・序』の講義が竜介にはある。が、大勢[#「大勢」に傍点]というのは外《はず》れで、半数はサボるからせいぜい二、三十人の学生だ。
――竜介が無[#「無」に傍点]反応で黙っていると、
宗純は、くっふふ……意味深な笑いをしてから、
「おぬし、多くの女たちを誑《たぶらか》してきたな。おまえの肩に、不浄《ふじょう》霊が山ほど憑《つ》いとるわ!」
――吐き捨てるようにいった。
それは竜介としても聞き捨てにならないが、
「きゃー……」
糸を引くような女性の悲鳴が観客席からあがった。
……その声の主には何[#「何」に傍点]か見えた[#「見えた」に傍点]のだろうか?
一抹《いちまつ》の不安にかられもしたが、竜介は、なおも無表情を通す。
「それに、おぬし、年端《としは》もいかぬ若い娘と付き合っておろう。なんといかがわしい[#「いかがわしい」に傍点]ことか――」
心底いかがわしそうに、顰《しか》め面《つら》して宗純はいう。
――ええ?
竜介は、それ[#「それ」に傍点]には心当たりはない[#「ない」に傍点]が。
「なんだ……この場所は、道が狭くて人がごちゃごちゃ歩いておる町だなあ」
目を細めながら、宗純はいう。
「あーん、緑色をした門が見えてきたぞう。そこがおまえの家か……その若い娘を……制服を着ておるな、その娘《こ》を、そこに連れ込んでおるのか!」
――なるほど[#「なるほど」に傍点]。
宗純《かれ》のいいたいことが、ようやく竜介には解《わか》った。確かに、住んでいる自宅《マンション》があるのは下北沢《しもきたざわ》だから、そういった場所である。緑の門もそれなりに当たっている。それに制服を着た若い娘も、よーく知っている[#「知っている」に傍点]。が、根本的には大[#「大」に傍点]外れだ!
――竜介は、思わず顔が綻《ほころ》んだ。
「むんむむむむ、別の絵が見えてきたぞう……どこだ、この繁華街は……大きな時計盤が見えるなあ。その近くにあるビルの中だ……クラブのようだな。高級そうな店じゃないか。そこでまた、女でも漁《あさ》っておるのか!」
猛々《たけだけ》しく宗純はいった。
ふむ……竜介には裏[#「裏」に傍点]の絵が見えてきた。
例の出演交渉の電話があったのは二週間前である。そして宗純《かれ》のことは、それなりに調べさせてもらった。すると、浦和市の寺山田《てらやまだ》という辺鄙《へんぴ》な場所で、林鳥禅院《りんちょうぜんいん》なる寺を構え、そこの住職をしていた。
――同様に、宗純《かれ》も竜介《じぶん》のことを調査したのだろう。どんな手を使ったかは知らないが。
それに、霊視の類《るい》は、人の隠し事[#「隠し事」に傍点]ほどよく見える[#「見える」に傍点]ものである。が、宗純《かれ》のように核心[#「核心」に傍点]部分だけを器用[#「器用」に傍点]に外しては見えない[#「見えない」に傍点]ものなのだ。二週間では、調査が不十分だったようである。もっとも、そういった裏の絵は、専門家《りゅうすけ》が直に対決して初めて暴露される。竜介は、宗純が大[#「大」に傍点]黒であることを、再度[#「再度」に傍点]確信した。
「むんむむむむ、そのクラブの四角い看板が見えてきたぞう……あずさ[#「あずさ」に傍点]、そんな名前だろう。おぬしそこに入り浸っておるなあ。豪気な身分よのう」
見透かされているとも知らず、なおも宗純はいう。
――それも外れだ。
そのクラブは確かに高級店だ。だから、中までは覗けなかったのだろう。豪気などとは……ほど遠い[#「ほど遠い」に傍点]。
竜介が、笑いを必死に押し殺していると、
「――貴様あ、さっきから何をニタニタしてやがるんだ!」
ついに、宗純が怒り出していう。
そのへんの勘だけは鋭いようだ。
「――拈華微笑《ねんげみしょう》」
故事にならって、そんな第一声を竜介は発した。
「な、なにを[#「なにを」に傍点]――」
宗純が、目ん玉をひん剥いていう。
意味が分からず聞き返したのか、それとも激怒[#「激怒」に傍点]しているのか、後者[#「後者」に傍点]だと竜介も思ったのだが、
「摩訶迦葉《まかかしょう》」
もう一度、皮肉を込めていってみた。
「禅僧《おれ》を愚弄《ぐろう》する気か、喝――っ!」
――虚世界《スタジオ》じゅうに轟《とどろ》き渡る怒号が、唾《つばき》とともに飛んできた。
それもそのはず、拈華微笑と摩訶迦葉を知らなければ、禅宗の僧侶としてはもぐり[#「もぐり」に傍点]である。
「確か……その喝には四種類あったと記憶してますが、今のはどの『喝』を使われたんですか?」
竜介は、さらに白々しく聞いてみた。
「貴様のいってるのは臨済《りんざい》の話だろうが! うちは曹洞宗[#「曹洞宗」に傍点]なんだよ!」
ほう……これも知っているようだ。
竜介は、敵の土俵《どひょう》で対決《バトル》するのはやめ、
「さっき、僕の肩に不浄霊がたくさん[#「たくさん」に傍点]憑いてるといわれたけど、何体ぐらい憑いてたんですか?」
――不安げな表情を装《よそお》って、尋ねる。
「五つ六つは憑いておったな。どれもが恨み骨髄の顔じゃ。おぬしの行《ゆ》く末が案じられるわ」
宗純は得意満面にいう。
「そうでしたか……けど、得川先生にお願いをすれば、そういった不浄霊などは、たちどころに除霊[#「除霊」に傍点]をしていただけるわけですよね」
下手《したて》に出て竜介はいった。
「もちろん[#「もちろん」に傍点]だとも――」
厚い胸板を突き出し、宗純は大|威張《いば》りでいう。
「それは頼もしいかぎり[#「かぎり」に傍点]。ところで、その除霊ですが、得川先生ほどのご[#「ご」に傍点]高名だと、霊一体につき何十万、いや、何百万円でやっていただけるのかな?」
「なんだとー、喝[#「喝」に傍点]――っ!」
――再度、宗純の口から怒号が発せられた。
ただし、それは都合の悪い話になったから胡魔化《ごまか》すための『喝』である。除霊一体につき幾ら、掛けること幾ら……たくさん憑いていると脅嚇《おどか》した方が儲かるのだ。偽霊能力者《かれら》の常套《じょうとう》のやり口である。
「――聞いてりゃ無駄話ばかりしおってえ。ここで俺がやったのは霊視[#「霊視」に傍点]だ! 当たってるんだったら当たってると、さっさと認めたらどうなんだ!」
余程の自信があると見え、宗純は猛々しく吼《ほ》える。
すると、司会者席から、
「さあ、その点はいかがですか? 火鳥先生――」
女史が冷静な口調で問いかけてくる。
だが、竜介は、いかなる質問にも応じない[#「応じない」に傍点]――と腹を括《くく》った。
――部分的には当たっていたけれど[#「けれど」に傍点]。
などと口を滑《すべ》らせたが最後、その時点で負けだからだ。外れの箇所は竜介の私的部分《プライバシー》だから喋れない。なおかつ、その外れと当たりをもって、宗純の虚偽[#「虚偽」に傍点]を正すには、真正[#「真正」に傍点]の霊視の方を解説[#「解説」に傍点]しなければならない……この場では不可能だ……竜介のその[#「その」に傍点]難解なる認知神経心理学理論を、誰が理解できよう?
「昨晩、とっても不思議な夢を見ましてねえ」
――竜介が、あらぬことを口走り始めた。
「その夢の中に、なんと、得川先生が出てこられたんですよ。けど、僕の目の前で、胸のあたりを手で押さえながらバッタリと床に、その得川先生が倒れてしまったんですねえ」
「お、おぬし! 何を血迷ったことを――」
「いや、ご安心を、ひとりの男性が走り寄って来て、手を翳《かざ》すと、得川先生はみるみる元気になって起き上がられましたからー」
他人に割り込まれぬよう、竜介は捲《まく》し立てる。
「そして僕は、今日ここに来て驚いたんですが、その夢に出てきた男性と、瓜[#「瓜」に傍点]ふたつの人が、この会場に今おられるんですよ。それは、観客席の最前列に座っている、帽子をかぶっている君だ[#「君だ」に傍点]――」
その若い男を指さして、竜介は叫ぶ。
――場内が騒然となってきた。
「君だ[#「君だ」に傍点]ー、夢に出てきたのは、君に間違いない[#「君に間違いない」に傍点]!」
鬼気《きき》迫る表情で竜介はいってから、
「君と得川先生は、そして僕も含めて、何かの縁《えにし》で繋がってるんだよ。さあ、こちらに出てきなさい。その摩訶不思議な因縁《いんねん》を、この場で解き明かそうじゃないか。さあ、こちらに出てきたまえ[#「出てきたまえ」に傍点]――」
大袈裟に、手招きの演技をしていう。
頭にインターコムをつけたADが、頻《しき》りに誰かと喋っている。どうすればいいのか、総監督《ディレクター》や、さらに最高責任者《プロデューサー》の指示を仰いでいるのだ。
「――こんな偶然はありえない! 夢に出てきた三人が、この場にいるんだからさー。さあ、こちらに出てきたまえ。希代の霊能力者の得川先生が、その謎を解いてくださるからー」
――その竜介の迫真の演技が通じたのか、上からの指示[#「指示」に傍点]が出たようで、インターコムのADが、その帽子をかぶった若い男性の前まで行き、席から立つようにと促した。
「さあ、何も怖がることはないよ。ここに来てさえくれれば、いいんだから」
竜介は、優しい声に転じていった。
――場内が水を打ったように静かになってきた。
別のADに誘導されて、おどおどしながら、その若い男性がやって来る。
竜介は、椅子から立ち上がって出迎えると、その彼の肩に優しく手を添えながら、
「君は、何も話す必要はないからね。ただ黙って、この椅子に座っていればいいからさ」
と、さっきまで竜介が座っていた椅子に彼を座らせ、そして宗純に顔を向けていう。
「それでは、得川先生、さきほど僕にしたのと同じように、この彼を霊視してあげて下さい」
――宗純の顔色が激変した。
事ここに至って、竜介の本意をやっと理解したようだ。
宗純は、振り返って司会者席に顔を向けると、
「おい、※※※! こんな出鱈目《でたらめ》な進行を許していいのか?」
――大御所の名前を、呼び捨てでいった。
だが、彼は腕組みして黙っているだけである。
「あっ……面白そうですけどね……ねえ」
その大御所の黙《だんま》りは〈このままいけ〉の合図だろうかと、チーママは場の雰囲気を窺《うかが》う。
大御所が、こくり、と小さく頷《うなず》いた。
「さ、予想だにしていなかった展開になりました」
そのこくり[#「こくり」に傍点]を横目に見て、女史はいう。
「何かの縁《えにし》で繋がっていたかもしれないという摩訶不思議な夢の謎を解き明かす。それでは、得川宗純先生、あらためて……霊視をお願いいたします」
さすがは元アナウンサー、竜介の言葉を巧みに使い、台本がなくても進行させる[#「進行させる」に傍点]。
宗純は、そんな司会者たちを暫《しば》し睨みつけていたが、その彼の眼力はもはや失せたようだ。アイドルの乙女ですら、興味津々の顔で司会机《テーブル》から身を乗り出している。
――宗純《かれ》は、何か勘違いをしていたのだと竜介は思う。ここは闘技場《コロッセウム》であり、雛壇の面々はローマの皇帝よろしく格闘《バトル》を見て楽しむ側なのだ。その楽しみは意外性[#「意外性」に傍点]にこそあり、格闘者個々がどうなろうが、ローマの皇帝の知ったことではない。
宗純は、竜介の方に向き直ると、悪鬼の形相《ぎょうそう》になって睨みつけてくる。が、もはや微塵《みじん》も怖さは感じられない。
さあ、どうする……宗純さん?
「――貴様あ[#「貴様あ」に傍点]」
毒々しくそれだけをいうと、宗純は、僧服の胸にあった極小《ピン》マイクを引きちぎり、投げ捨て、そして立ち上がってから、
「こんなこと、付き合ってられるか――」
大声で捨て台詞を発し、来た道を、なおも虚勢を張りながら大股に歩いて戻って行く。
うわ[#「うわ」に傍点]――と歓声と拍手が起こった。ADが、腕をぐるぐると廻していたからだ。
竜介が、場末の待機所に戻ると、
「いや……先生にあそこまで芝居ができるとは」
心からの拍手をしながら、手品師の彼[#「彼」に傍点]が出迎えてくれた。
それもそのはず、竜介は大学にふたつ行っているが、そのひとつ目は(三学年の中途で辞めたが)、その手の学部で、かつては演劇青年だったのである。役者志向というより製作《うらかた》に進みたかったのだが、どっちにせよ、|ズブの素人ではない《やろうとおもえばできるのだ》。
それに、ここは虚[#「虚」に傍点]世界だ。どうせ狂ってるんだから、派手に狂った方の勝ち[#「勝ち」に傍点]だろうと竜介は思っていた。
「けど、あんなうまい方法があったとはねえ。あれは、咄嗟《とっさ》に思いつかれたんですか?」
「いや、実は考えてあったの……」
つまり、竜介の青写真[#「青写真」に傍点]どおりに事が運んだわけだ。
宗純の過去のテレビ出演を見直してみると、著名人しか霊視してないのである。それは判って当然だ。まったくの無名人なら見えまい[#「見えまい」に傍点]と踏んだのだ。
けど、自分のことをあそこまで知っていたのは、別の意味で不気味[#「不気味」に傍点]だと竜介は思う。
それに、指さした無名人も、椅子についた時点で、観客席の最前列の判りやすい人物(帽子の男)を、決めてあったのだ。もっとも、竜介としては、その青写真はいわば最後の切り札で、実際に実行するかどうかは、あの場で腹を括った[#「腹を括った」に傍点]。
「すると……PかDとは、事前に打ち合わせしてあったんですか?」
「いや、仄《ほの》めかす、ぐらいのことはいったけどね」
竜介の控室に台本を持って来たDの今辻に、
――ほんとに、自由にやっていいんですね。
と再度念押ししたぐらいである。
それもあってか、番組の進行を度[#「度」に傍点]外視した竜介の大|博奕《バクチ》に乗ってくれたのだろう。
「じゃ、あの帽子の男も、いわゆるサクラじゃないんですね」
「うん、もちろん……」
が、その彼には、さすがに悪いことをしたと竜介は思う。確かにバイト代が出ている客ではあるが、あそこまで無茶をされると割に合わない……Dの今辻さんにでもいって、謝っておいてもらおうと竜介は思った。
収録はまだ続いていたが、竜介はB−2スタジオから出ることにした。防音扉の係のADが、支障ないことを確認しつつ、こそっと開けてくれた。
さて、控室はどこだったか……ともかく、そこに一度戻らないと。手提げ鞄などを置いている。
人物記憶《ひとのかお》とは違い、空間記憶には比較的自信はある竜介なので、独りでエレベーターに乗って階《フロア》を変え、大凡《おおよそ》の目星をつけて歩いていると、
「……今日の収録を使いやがったら、この局には二度と出てやらないぞ――」
廊下にまで漏れる罵声《ばせい》が、竜介に聞こえてきた。
その控室の扉を見てみると、案の定、
得川宗純様――の張り紙があった。
「あのイカレ野郎も二度と使うんじゃないぞ――」
その、あのイカレ野郎とは、もちろん竜介のことだろうが、奇しくも、その当人も、この手の番組にはもう二度と[#「二度と」に傍点]出るつもりはない[#「ない」に傍点]。
「まあまあ、得川先生、お怒りはごもっともですが、今日のところはひとつ……」
うん?
その、宗純を宥《なだ》めている声は、あの今辻ではないかと竜介は思った。
得川と一対一で対決させてくれるなら――の竜介の条件を、それは願ってもないことだとふたつ返事で承諾したDである。その彼が、今は宗純の宥め役をやっている。どんな事情になっているのか知らないが、そういったテレビ世界の裏[#「裏」に傍点]には興味はない。竜介は、足早にその控室の前から立ち去った。
それに、たとえ宗純《かれ》が今回《こ》の特番で大恥を晒《さら》そうとも、いずれ[#「いずれ」に傍点]はどこか[#「どこか」に傍点]で復活するはずだ。その種のテレビ番組があるかぎり……そして、彼が裏で荒稼ぎしているだろう布施《ふせ》の料金も、テレビに出る度毎《たびごと》に高額になっていく。偽の霊能力者は民放テレビ局が生《う》み、育て、権威を付与し、その餌食《えじき》になるのは、何も知らない純[#「純」に傍点]な一般人[#「一般人」に傍点]と決まっている。
その点では、テレビ局の方が罪[#「罪」に傍点]は重い[#「重い」に傍点]だろうな。そう竜介は思った。
[#改ページ]
3
首なしの白骨死体は、土が着いたままで遺体袋に納められた。そして担架で運び下ろされて(山林なので台車付寝台《ストレッチャー》は使えない。だが、骨だから枯れ木のように軽い)、監察医の前嶋とともに大学病院に向かった。植井刑事はその付き添いである。
現場では、底の土|渫《さら》いという作業がまだ残っていたが(死体の下から遺留品が出ることは間々《まま》ある)、それは部下たちに任せ、鑑識課の岩船係長と依藤警部補はひと足先に南署に戻った。
そして、戻ってから一時間もしない内に、資料を携えた岩船が、三階にある刑事課に姿を現した。依藤の部下たちは全員出払っている。
岩船は、隣の椅子を引きずってきて座ると、
「まず、これから見てよ」
分厚い写真の束を依藤のデスクの上に置いた。
撮影済みのフィルムは岩船が持ち帰っていたのだが、無論、町のDPEに出したわけではない。鑑識課には専用の現像室《ラボ》があり、僅《わず》かな時間で仕上げられるのだ。DPEで、同時プリント三十分、と看板が出ていたりもするが、似たような機械が置かれてあると思えばいい。もちろん、写真は総天然色《カラープリント》だ。
「よりさんは最初を見てないだろう。だから順番に捲《めく》っていってよ」
いわれるがままに、依藤は一番上の写真を手に取って見てみた。
――木と草だけが写っている。
「あっ、掘る前の写真なんですね」
「もちろんもちろん、それを撮っとかないと。作業をいったん始めちゃうと、もう再現できないんだからさ」
「いやー、こら助かりますよう」
いうと依藤は、その一枚一枚に目を通しながら、それらをデスクの上に順番に並べていく。
まずは、現場の俯瞰《ふかん》写真が、何枚か。
次は、生物部員たちが掘り出した二本の骨の横に、白いスチール製の巻き尺が伸ばして置かれ、それに周辺の草を入れ込んだ写真である。それが何枚か。
続いて、その二本の骨だけをアップで撮ったような写真が、何枚か。
その次は、俯瞰写真が何枚か。続いて、巻き尺と骨の写真が何枚か。次は、またしても骨のアップの写真が……どういう順番なのだろう?
それに写真の縮尺や遠近感がまちまちで、比較がきわめてしづらい[#「しづらい」に傍点]。
「岩船さん。これズームレンズで撮ってるの?」
「そうだよ。ちょっと見づらいかもしんないけど、我慢してね。カメラ担当の課員がさ、現場《くさむら》を踏み荒らしちゃったらマズいだろう。だから立つ位置を何ヵ所かに決めて、撮らしてるのよ。で、そこでいちいちレンズ交換させるというのも、酷だからさ」
「あ、それでですか……」
「けど、室内のときは、標準レンズ一本だけを使え。て、俺はいつも口酸《くちす》っぱくしていってるよ。最近の若い課員はすぐズームを使いたがるからね。大きく撮りたきゃ、一歩前に出ればいいんだからさ。それをサボッちゃ駄目だよなあ。一本のレンズで撮った写真の方が、後々《あとあと》分かり易いのは百も知ってるくせにさ。どこで労を惜しむかの問題よ」
そんな、鑑識課員ならではカメラ談義を、依藤は小耳に聞き流しながら、
「これ、順番変えちゃってもいいですよね」
「もちろんもちろん……」
依藤は好きなように写真を並べ換えつつも、まだ三分の一も見ていない内に、デスクの上が一杯になってしまった。
「ま、とりあえずこれぐらいで」
そして、骨と巻き尺と草が写っている写真の一枚を、依藤は指さしながら、
「この腕の骨……尺骨ととうこつ[#「とうこつ」に傍点]ですが……すると胴体は、このどちら側に埋まってたんですか?」
仕入れたばかりの知識が生半可《なまはんか》ゆえに、岩船に尋ねる。
「えー、この巻き尺とは、反対側だね」
「とすると……この辺りですよねえ」
依藤は、他の何枚かの写真とも見比べながら、
「この、骨が埋まっていた場所の真上[#「真上」に傍点]の草ですけど、その周囲と比べて、何か違いありました?」
尋ねられた岩船も、一緒になって写真を覗き込みながら、
「うーん、写真《それ》で見ても、とくに代わり映えはしないよね。境目があるわけでもないし」
「……ですよね」
「あ、曼珠沙華《まんじゅしゃげ》みたいなのを想像してた? 残念だけど、それはなかったな」
墓地に咲く花として、有名である。彼岸花《ひがんばな》ともいう。
「いや、そんな露骨なんじゃ、なくて……」
「草の資料がいるんだったら、作れるよ。刈った草は取ってあるから。名前も調べられるし、微量分析にだってかけられる」
「いや、それは先々の話で……」
「いいたいことは分かるんだけどさ。もし、最近埋めたもんだったとしたら、確かに、そこだけ植生《しょくせい》が変わるだろうからね」
岩船はベテランの鑑識課員であり、その種の知識はもちろんある。
「けどね……もし俺が犯人だったとしたら、穴を掘るときに、草は大事にどけておいて、死体を埋めてから、その草を上に戻すな」
「普通そこまでやりますかあ……」
「これをすると、草の種類に変化はないよな。けど、土中の成分が変わるんで、富[#「富」に傍点]栄養化が進むから、草の生育が良くなったり、あるいは花の色が変わったりする場合もあるよね……もっとも、今は花は咲いてないんだけど」
依藤は、見ていた写真から顔を上げると、
「じゃ、その富[#「富」に傍点]栄養化とやらで、草の育ちっぷりに変化見られました?」
さっきと同種の質問を繰り返してする。
「いや、横から透かして見たんだけどさ……高さに差は見られなかったね。それにこの辺りの草は、草|茫々《ぼうぼう》って感じじゃなくて、地面が透けて見えるぐらいに、疎《まば》らだろう。それが現場の周辺一帯、似たような植生なんだよ。俺の見たかぎりでは、差はなかったねえ」
その種の質問に対する、これが岩船の結論だ。
「じゃ、その富栄養化の栄養[#「栄養」に傍点]ですけどもね、土の中で、どのくらい保《も》つんですか?」
「それは様々だよ。粘土質で囲まれていたら、何年も保つこともあるだろうけど、水捌《みずは》けが良いところだったら、さーと流れていっちゃうから。蛋白質《たんぱくしつ》が分解されるとアミノ酸になるけど、それは固形肥料じゃなくて、液体肥料だと思えばいいよ」
「はあー」
言葉使いの妙に、依藤は感心してから、
「その死体《たんぱくしつ》の白骨化《ぶんかい》ですけど、岩船さんの見立てじゃ、最低どのぐらい経ってると思われました?」
「それも難しいんだな。土中細菌の質や温度条件によっても、かなり違うからね。極端なこというと、シベリアに埋めたって駄目だろう。マンモスの肉[#「肉」に傍点]が出てくるように。――土を採ってきてシャーレで培養実験してみると、面白いよう。色とりどりの菌が出てくるからね。その菌の種類の多い少ないによっても、分解速度が変わってくるんだ。一般的にいって、種類が多い方が早い」
「え? 菌の量ではなくて、種類の多い少ないが関係するんですか?」
「菌の量[#「量」に傍点]といったって、餌《えさ》さえあればすぐに増えるんだからさ。それぞれの菌種には得手不得手というのがあるんで、種類が多い方が、総合力として力を発揮できるわけさ。助け合いの精神なわけね。菌相が豊かっていうんだけど、その代表的なのは、畑の土なんかがそうね。だからそういうところに夏埋めると、もの凄いスピードで白骨化する。数週間といった単位《レベル》でね。そして山は、畑に比べると遅い。けど、町中《まちなか》の地面などよりははるかに早い。ときどき映画なんかで、都会の家の縁の下を掘ってるシーンがあるけど、あんなところに埋めたって、なかなか白骨化しないよ」
「岩船さん。それは白骨化が目的じゃないんで」
「あ、それもそうだ……」
岩船は椅子の背凭れをギシギシ軋《きし》ませてから、
「で、四の五の説明した割にはあれだけど、最低ひと夏は越えているはず……でもこれだと、栄養が土中にあるから、草の生育に変化が見られてもよさそうだよね。だから、ふた夏は越えているんじゃないか……てぐらいが、俺の見立てられる限界[#「限界」に傍点]。夏は、虫も助けてくれることだし。それに冬は、計算には入らないからね。で、それ以上どれだけ経っているかは、監察医の前嶋さんの方で調べていただかないと……」
「けど、白骨死体の年数って、そう細かくは出ませんよね」
「出ない出ない。何年から何年までって、けっこう幅広《アバウト》な話になること多いよね。それとさ、骨の真上にあった草ね、年数の参考になる草はないかなーて見たんだけど、残念ながら、ほとんどが一年草だった。冬で枯れちゃって、春にまた種からやり直しって種類《タイプ》ね。多年草の根でも、骨に絡まっていてくれると、ある程度は年数が出せるんだけどさ」
「けど、それは穴を掘って埋めるときに、岩船さんみたいな悪さ[#「悪さ」に傍点]、やってなければの話でしょう」
「もっとももっとも……」
「ところで、羊歯っていうのは、あれは多年草なんですか?」
「まあ、あまりそういう表現はしないけど、多年草だね。けど草というよりも、木に近い感じで、ものすごく長生きするからね」
「その羊歯は、骨の上にはなかったんですか?」
「残念だけど、これもなかったね」
――ええ?
依藤が、声に出さずに訝《いぶか》っていると、
「よりさんの一番知りたかった話が、羊歯だろう」
からかうように岩船はいう。
「おっ、よくご存じで……」
「知らないと思ったら大間違い。だって鑑識課員《おれたち》と植井くんは、一緒に現場に上がったんだよ。彼が、高校生たちからざーと話を聞いて、羊歯を採ってたのは俺も知ってるわけ」
「で、高校生《かれら》はいったいどこ掘ったんですか?」
せっついて依藤は尋ねる。
「彼らはね、骨の横を掘ってるんだよ。写真見てみると分かるよ。骨と平行に|巻き尺《スケール》が置かれてるだろう。その下あたりだから」
依藤は、写真を何枚か覗き見てから、
「……あっ、これですかあ」
間の抜けたような声でいった。
「彼らの掘り方はというとね、狙った羊歯《えもの》があると、その周りに、スコップを垂直に突き刺して、地面に円《まる》い切り口を入れるのね。そしてちょっと離れたところから、大きめのスコップを斜めに差し込んで、根の底を切りながら、梃子《てこ》の要領でぐいっと持ち上げてるわけ。その大きめのスコップを差し込んだときに、骨に当たってるのね」
「あ、それで横が抉《えぐ》れてるんですね……」
写真で見ると、長細い掘り穴の下部のあたりが、まるで音符のように横にはみ出していた。
「ポットの寸法に合わせて、彼らは掘り出してるわけさ。そのままズッポリと入れられるようにね。なかなか要領のいいお子たちだよ」
……爺《じじい》が孫を褒めるように、岩船はいう。
「そのポットって何ですか。彼らもいってたけど」
「あー、ビニール製の鉢よ。ふにゃふにゃのやつね。園芸コーナーに行くと束で売ってるよ。一個何円って代物……」
「それを二百円で売るのか、ぼろ儲けじゃないか」
依藤は|独り言《ぶつくさ》をいってから、
「そのお子たち[#「お子たち」に傍点]は、羊歯の小さい株を探してた――というんですが、この現場付近は、その小さい株が多い場所なんですか?」
――最も知りたいことを尋ねる。
「いや、その話も聞いてたんでさ、羊歯の大小も見てみたのよ。大きな株はね、だいたいが木の根っこの付近にあったね。それは写真にも撮られてると思うよ」
「すると、小さな羊歯が多いわけですね」
確認するように、依藤はいう。
「ま、特別に多いというほどでもなかったけど、たしかにこの窪地一帯は、中とか大の株は殆《ほとん》どなくて、小さい株が、一メーターぐらいの間隔で点在している、ぐらいだったかな」
「それは……なんか説明つくんですか?」
「まあ、説明つけられないこともないけど、たとえば、ここはゆったりとした窪地だろう。だからやや湿気が多くて、多湿を好む羊歯には、そこそこ良い環境なわけさ。けど、羊歯の林になるほどではない。それにはもっと湿気がないと、沢だとか、苔《こけ》で地面が覆われているような場所ね。で、湿気があるもんだから、とりあえず羊歯は着床する。ところが、ある夏かんかん照りが続いたりすると、持ちこたえられなくなって、枯れてしまう。生き延びるには、もうちょっと湿気た、木の根元の抉れたような、じめっとした場所ね。そこの羊歯はどんどん大きくなる。で、胞子《ほうし》を窪地に飛ばして、子供が育ち、そしてまた枯れる。そういったのを繰り返してる場所じゃないかと、俺は思うけどもね」
なかなか、説得力のある説明である。
「そうですか。……とすると、ホントのこといってたんだなあ」
「ええ? 高校生《かれら》が嘘ついてたと思ってたの?」
「いやー小さいの小さいのと連呼してたから、何か裏があるのかなーと思ったりもしたんですが」
「あいかわらず、疑り深いねえ」
「それが仕事ですから[#「それが仕事ですから」に傍点]」
濁声《だみごえ》で依藤はいってから、
「――けどね岩船さん。あんな森の中を掘っていて、偶然に死体にぶち当たりますかあ? 何かよっぽどのお[#「お」に傍点]導きでもないと、それが森のそこらじゅうに生えている羊歯だというんだから、それで納得できますかあ?」
「納得できないことを、我々の頭《おつむ》じゃ説明できないことを、普通、偶然というのね」
駄々を捏《こ》ねる依藤《こども》を諭すように、岩船はいう。
「いやね、彼らの話を聞いていて、彼らは骨を探してたんじゃないか……とそう閃《ひらめ》いたりもしたんですけどね」
依藤は、本音を少しばかり吐いた。
「うん? どうしてそんなこと閃いたの?」
――岩船が聞いてくる。
が、依藤は語れない。
たとえ身内の岩船さんといえども、首なしの幽霊が学校に出たという話、その死体が神隠しの山に埋まっているという噂話、あれは今この場でするわけにはいかない……からである。
「岩船さん、今年の夏だけど、筆跡を見てもらったことがあったでしょう。お寺の話がごちゃごちゃ書いてあったようなノート――」
「ああー、覚えてるよ。あんな凄い字を見たのは初めてだったからね。旧漢字を達筆に書いているくせに、よくよく見ると少女文字なんだから。いったいどんな女の子が書いたんだろうと思ってさ」
――岩船が話にのってきた。
「その子も、M高の生徒だったわけですよ。歴史部というところにいるね。そして今日は……生物部[#「生物部」に傍点]ね。あれも変な事件だったでしょう、M高の女子生徒が人を呪《のろ》ったりして。だから今回も、似たような呪術《オカルト》が絡んでるんじゃないかと……閃き[#「閃き」に傍点]ましてねえ」
「その歴史部とは、白骨は関係ないと思うよ」
つれなく岩船はいってから、
「あのノートにはさ、すっごい面白いことが書いてあったんだよ……生き仏《ぼとけ》の地蔵さんが、外に出歩かないようにと、背中に釘を打って鎖で繋いだというんだからさ。そんなお寺が埼玉にあったとは、露《つゆ》ぞ知らなかったよ。俺は行ってみたくなったねえ」
「岩船さんに、そんなご趣味が?」
「この歳になると、信心深くなるものよ」
――少ししんみりといってから、
「よりさんさ、そのM高の女の子、よりにもよって殺人[#「殺人」に傍点]罪でお縄にするところだったんだろう? よりさん危機一髪だったって署内のもっぱらの噂だったよ。間違いなく[#「間違いなく」に傍点]首飛んでたからさあ」
「た……たしかに……」
声を掠《かす》れさせて依藤は項垂《うなだ》れてしまった。
そんな過去の失態をぶりかえすためにふった[#「ふった」に傍点]話ではなかったのだが、|話は十分に逸れた《もくてきはたっした》。
「ところで……その白骨死体の、向きはどうなってました?」
依藤は、別のことを尋ねる。
「それはね、骨があらかた掘り出せた時点で、方位磁石を置いて、一緒に写真を撮ってるやつがあるよ。探すまでもないんで教えるけど、ほぼ真北に頭を向けていたね。いわゆる、お釈迦《しゃか》様が涅槃《ねはん》に入るときの北枕《きたまくら》さ」
頭がないのに……そういいたくも依藤は思ったが、それは|死者への冒涜《あまりにもふきんしん》なので堪《こら》えて、
「じゃ、犯人に弔《とむら》いの気持ちぐらいは、少しはあったわけですね」
「さあ、これもまったくの偶然かもしれないよ」
……じゃ、何がお釈迦様の北枕だ[#「何がお釈迦様の北枕だ」に傍点]。
岩船は、何かにつけて飄々《ひょうひょう》としているのである。声を荒らげて部下を叱り飛ばしている様なども、依藤は一度も見たことがない。
「けど、俺が疑問に思った点がひとつあるんだ」
その岩船が、やや真剣な口ぶりになっていった。
「――何ですか?」
「ちょっと浅すぎるんだよ」
「ああー、そういってましたねえ」
現場で岩船さんも、そして生物部員たちも。
「あれだけ浅いとさ、動物に穿《ほじく》りかえされてしまうだろう」
「あの森に、そんな動物いますか?」
「まず狸《たぬき》がいるだろう。そして烏《からす》もいる。昨今お騒がせのアライグマだっているかもしんないよ。奴らは死肉が大好きときてるからね……でも、動物が穿った跡はなかったんだけどさ」
「ひょっとして、あそこは深くは掘れないような場所だったとか?」
「そうも思ってさ、底の土がどんな様子だか確かめといて、と課員には頼んでおいたけどね」
そういったところは……さすが、岩船さんだ。
依藤が、写真の続きを、手に持ってちらちら捲り見ていると、
「それはよりさんも知ってるだろう、掘ってるところだから。――最後の分厚いやつを見てよ」
岩船に促され、写真の束の底に依藤が手をやると、いう通りの分厚い[#「分厚い」に傍点]写真が何枚かあった。
「――あっ、指輪の写真ですね」
「そうだよ。さっき撮ったんだけどさ、フィルム一本使うのもったいないから、それだけはポラ[#「ポラ」に傍点]」
「はー、こんな指輪だったんですか……」
金色《ゴールド》のリングに、赤い石と透明な石とが交互に並び、ぐるりを一周しているような指輪である。
「そうなのよ。一個の宝石を鷲掴《わしづか》みにしてる種類《タイプ》だったら、爪のところに、何か引っ掛かってたかもしんないんだけど、その指輪じゃ無理だよね」
――被害者が抵抗した際、指輪の爪に、犯人が着ていた服の繊維や、運がよければ犯人の毛髪などが、引っ掛かっていることは間々あるのだ。それは依藤も知っていることである。
「それに指紋も出なかった、これは期待はしてなかったけどね」
――指輪は表面積が少ないので、端《はな》から期待薄である。いずれにせよ、その種の微細な鑑識を必要としたので、土を落とさずに持ち帰っていたのだ。
「それ、なかなかいい指輪だよ。いい石を使ってるし、最低片手はすると思うな」
岩船がいった。
片手とは……五万……いや、五十万だろうか? 依藤は、この種の値段にはとんと疎《うと》い。婚約のときに小さなダイヤを妻に贈ったきり、その妻を伴って宝石店を冷やかしたことなどは一度もない。
「いわゆる、ファッションリングですよね」
依藤は、その手の知っている名称をいった。
「デザイン的には、新しくないよ。おそらくティファニーの模倣だね。これは赤石《ルビー》とダイヤだけど、その赤石のところが青石《サファイア》であったり、縁石《エメラルド》であったり、本家ではいろんな種類作ってるよね。リングの太さにも大小あって、つまり石の大小になるんだけど、五十から二百ぐらいの値段の幅かな。で、ティファニーだったら製造印が入ってるが、その指輪には会社《メーカー》の刻印はなかった。それに、その手の模倣品を作ってるとこは五万とあるので、そっから捜すのは無理だと思うね」
――岩船は、あれこれとよく知っている。鑑識課に長くいると雑知識が自然と身につくようだ。
「けど、この指輪、最後に出てきたんでしょう。どこにあったんですか?」
「普通の場所だよ。右手の中指の、第三関接に嵌《は》まってた。というのもね、高校生《かれら》が掘り出したのは左腕だったろう、だからそこから攻めていったわけさ。それで……首から先が出ないもんだから、ないないないないって俺が文句いって、課員がかかりっきりになって、それで右手が後廻しになっててさ、だから深い意味はないよ」
「……岩船さん。そのないないないないって、何回ぐらいいいました?」
「うーん百回はいったかな」
「どうりで」
……聞こえていたわけである。
渋い面《つら》して依藤が頭を摩《さす》っていると、
「そんなことよりもさ、写真の裏ひっくり返してごらんよ。面白いこと綴《つづ》ってあるから」
どこ吹く風とばかりに、岩船はいう。
「どれどれ……」
依藤は重たそうな手つきで写真を裏返しにした。すると、写真の一枚の裏にサインペンの字で、
9/12 R
――と書かれてあった。
「製造印はなかったんだけどさ、リングの内側に個人的《プライベート》な刻印があったのよ。写真じゃ見づらいから、そこに綴っておいたのね」
それを見て、依藤の表情が俄然明るくなっていう。
「これはめっけもんですねえ」
「だろう。現場で俺がいった通りじゃないか」
――身元が判明したも同然さ、そう岩船がいい、さあどうだか、と依藤は生返事《なまへんじ》したのであったが。
「この数字は……あの日ですかね?」
依藤は、お伺いをたてるように岩船に聞く。
「何か別の日かもしんないけど、その日だと思った方が、前に進めるよね」
「9と12……これほどっちかですよね」
「そう、どっちか。統一してくれりゃいいのにさ」
「そしてRか……らりるれろ[#「らりるれろ」に傍点]だよなあ」
「それも、どっちかだよね」
そんな秘密めいた幼児言葉をふたりして囁き合ってから、
「よし。――いっちょやってみますか」
決断したように依藤はいうと、係長席《デスク》から立ち上がった。そして三階の大部屋全体をざーと見渡していく。午後四時過ぎという中途半端な時間帯でもあり、男子課員は数名しか席についていない。もちろん依藤の部下たちはいない。
依藤がいる刑事課は、大部屋の一番奥である。中央に捜査課、そして出入口(エレベーター)の近くに、防犯課がある。つまり入口の側から見て、罪の軽い順に並んでいると思えばいい。
その出入口には防火扉以外の扉《ドア》はなく、エレベーターから降りると(横に階段もあるが)通路が真っすぐ奥に延びていて、右側に小会議室や取調室などの個室が並び、通路の左側が大部屋である。
防犯課と捜査課の課員はともに十五名ほどはいるが、刑事課は、依藤係長以下わずか五名という少数だ(課長もいるにはいるが、捜査課の課長が兼任している)。それは、この埼玉県南警察署の管内では、殺人事件などはめったに起こらないからだ。が、いざ起こったならば、刑事課はもちろんのこと捜査課も、ときには防犯課の刑事たちも駆り出されて捜査にあたる。その現場の指揮を執るのが、刑事課の係長の依藤警部補なのである……つまり、この大部屋全体の実質上のボスが彼であるともいえ、捜査に関係して、他所《よそ》の課員を使うことは何ら問題はない。
「……よし、あの娘《こ》に頼も」
依藤は、防犯課の末席(通路に近い席)で事務仕事《デスクワーク》をしている制服の婦人警官に目[#「目」に傍点]をつけていった。
彼女は、依藤と岩船の両係長が近づいて来るのに気づくと、わたし? と自らの顔を指さして邪気《あどけ》ない表情をする。防犯課・坂下裕子《さかしたゆうこ》の名札を胸につけた、まだ二十代半ばの若い婦警である。
「その白い箱ん中から……資料をちょっと」
もったいつけて依藤はいう。
白い箱とは、要するにコンピューターのCRT端末(ごくありふれた十七インチのブラウン管タイプのディスプレイ)で、各課にあるが、防犯課のそれは彼女の隣のデスクに置かれている。
「少しドキッとしたけど、そんなことでしたら」
愛想よく坂下はいうと、座ったままで自分の椅子を横滑りさせ、そこのデスクの椅子は斜め後ろに下げて、どうぞ、と依藤に勧める。――岩船は仕方なく、遠方の椅子を引きずってきて座った。
依藤は、婦警たちの間では受けがいいのだ。優しい係長さんとして通っている。今日も署に出て来て顔を合わせる度毎《たびごと》に、あら、お休みじゃなかったんですか……と同情の眼差《まなざ》しで挨拶をうけた。彼女もそのひとりである。
「何がおいりようですか?」
電源を入れてコンピューターを立ち上げながら、その坂下が聞いてくる。
「えー要するに、行方不明者のリストなんだけど、きちんというと……家出人捜索願を受理していて、未解決の案件。つまり、いまだ所在確認がとれてないってことね」
「はい……」
坂下は、キーボードとマウスを交互に操りながら必要な画面を選んでいく。
「条件を絞らないとね」
岩船がいった。
「そうですよね。それじゃあ……女性[#「女性」に傍点]」
おもむろに依藤はいう。
「そんな悠長なこといってたら、明日までかかっちゃうよ。家出人捜索願は年間九万件ほども出てて、未解決が一割を超えているんだからさ。それが毎年積み上がっていってるんだよ」
――実際、すごい数である。
「じゃ、どういった絞り方をすれば?」
「姓名と住所は……分からないんですね」
確認するように坂下は聞く。
「そうなんだ。けど、名前のらりるれろ[#「らりるれろ」に傍点]っていうのは可能?」
「よりさん、そんなの無理だよ」
笑い呆れながら岩船はいう。
依藤は、この種の作業は自分でやったことがない。いつも若い課員(植井刑事など)に一任なのだ。
「……姓名住所が不明の場合は、たとえば、地域ですとか、年齢ですとか、そういった条件をおっしゃっていただけると、ある程度は絞れるんですけど」
坂下が助け舟を出していった。
「そういうことか……じゃ、とりあえず埼玉[#「埼玉」に傍点]、埼玉県だけでいいよ。そして年齢は……その年齢っていうのは、失踪した当時の年齢でいいの?」
「はい」
「じゃ年齢は……」
依藤は暫《しばら》く考えてから、
「十五歳以上――二十五歳未満」
自信に満ちた声でいった。
「あれ、それどっから捻り出したの?」
岩船は訝っていう。
監察医の見立てよりも、幅が随分と狭まっているからだ。が、依藤としては、生物部員たちが教えてくれた幽霊話[#「話」に傍点]を根拠にしての捻出《ねんしゅつ》なのである。
「過去、何年まで溯《さかのぼ》りますか?」
「えーそれも思い切っていこう。――五年」
それは岩船も同意である。
過去五年で該当者が出なければ、さらに溯っていけばよいのだから。
「…すると……行方不明者は年間約一万人で、五年間で五万人だろう。うち埼玉は……アバウトだけど五十分の一として、約千人ね。そして女性は約四割だから、四百人か。で、その年齢幅だと三割ぐらいだろうから、百人ちょっとって感じかなあ」
岩船はぶつくさと、暗算を声に出していう。
「もう少し多いみたいですよ……」
ディスプレイの表示を見詰めながら、坂下はいう。
「……二百件を超えているようですね」
そして検索が終了したらしく、細かな文字がいっせいに画面に現れた。
依藤も、それを覗き込みながら、
「今出てきたのは、目次[#「目次」に傍点]みたいなもの?」
「そうです。詳しい内容をお知りになりたければ、ひとつひとつをクリックすると、少し時間はかかるかもしれませんけど、調書などが直《じか》に見られるはずです」
「その目次には……姓名と住所と年齢はあるよな。誕生日はないのかな?」
「……ないですね。受理の年月日しか出てませんね。生年月目を見るには、個々を開いてみないと」
「よりさん、ここでらりるれろ[#「らりるれろ」に傍点]さ」
流れるような口調で岩船はいう。
「そうだそうだ……苗字、もしくは名前で、ら行だけをそっから選び出してくれる」
いわれた坂下は、えー、と小首を傾《かし》げながら暫くマウスを弄《いじく》くってから、
「あいうえお順には並び替わりませんよ」
……優しく諭すようにいった。
「駄目だといってるよ、岩船さん」
「ちがうよ。こっから先は目で探すの。たかだか二百件ちょっとでしょ」
「あ、なるほど。けっこう原始的《アナログ》なんだなあ」
「そういったことは想定されてないのよ。普通イニシャルで検索することなんて、ないだろう」
依藤はチラッと考えてから、
「たしかにね。じゃあ、俺たちふたりがじーと見てるから、それを捲ってってくれる」
――|依藤の標準《アナログ》語でいう。坂下も気を利かして、
「はい、わたしがページ送りをしていきますから、必要な箇所があったら、おっしゃって下さいね。それをクリックしますので……」
そうやって、三人で暫く画面を見詰めていると、
「ら行の苗字って、そもそもあるの?」
岩船がいい出した。
「下の名前も……ないですよね」
依藤もいう。
「そういわれてみると、ら……の名前は思いつかないし、り……リエ、リカ、リカコ。る……ルミ、ルミコ、ルイ、なんてのは変だし。れ……レイコ、レナ。ろ……ろ……もなさそうだし、芸能人みたいな名前しか、浮かんでこないですよね」
手ではマウスを操りながら坂下も一緒になって戯《ざ》れていると、目次の三分の一をすぎたあたりで、
「あっ、一個みつけた――」
依藤がいう。
「――金城玲子《きんじょうれいこ》。その中身を見せてくれる」
「はい」
凜々《りり》しい返事とともに坂下がマウスを操ると、画面の中央に砂時計が現れた。
「あ、こういうのは見たことあるな」
依藤は、ちょっと嬉しそうにいう。
ほどなくして、画面が切り替わった。
「手書きの調書ですね」
坂下はいう。
「えー、生年月日はと……」
依藤が探していると、
「ビンゴだよ」
先んじて岩船がいった。
「……一九七※年、九月十二日か」
依藤は、持ってきていたポラ写真の裏の綴り書きと見比べてから、
「おっ、当たってるな」
遅ればせながらにいう。
「よりさん。――職業欄[#「職業欄」に傍点]見てよ」
いつになく強い口調で、岩船が促す。
「どれどれ……」
その金城玲子の職業欄の記載を見て、依藤は我が目を疑った。
「私立M高校の三年生だって。これは驚きだねえ」
――岩船はいう。
けれど、依藤の驚きは岩船の比ではない。あの生物部員たちの幽霊話が、そのまま現実[#「現実」に傍点]となっているからだ。
「えーと、家出人捜索願の受理の年月日は、四年前の、九月二十四日か……」
わざと平静さを装って依藤はいう。
「……てことは、誕生日をすぎているから、当時すでに十八になってたんだな」
十八歳とそれ未満とでは、警察の対処の仕方がやや違ってくるのだ。
「さらに変だよ、よりさん。現住所が所沢《ところざわ》市なのにさ、南署《うち》の扱いになってる」
「あ、ほんとだ……」
所沢市には所沢警察署がある。家出人捜索願の受理は、その所沢署だが、捜査は埼玉県南警察署がやっているのである。
「……てことは、どういうこと岩船さん?」
依藤は答えを知っているが、いちおう聞いてみる。
「うーん考えられるのは、失踪した現場が、南署《うち》の|縄張り《テリトリー》ってことかな」
「つまり、学校[#「学校」に傍点]……その近辺[#「近辺」に傍点]、てことですか」
「その可能性大だよね。調書《こ》の中身を読んでみると分かるだろうけど」
「……へったっ糞な字だなあ、だーれかさんの爪の垢《あか》でも煎じてやろうか」
筆跡には煩《うるさ》い岩船らしく、小言をいう。
「……担当は、少年課の林田《はやしだ》さんですよね。今いるか聞いてみましょうか?」
気を利かせて坂下はいう。
「あ、直に聞いた方が早いな……」
依藤も気づいていうと、画面《ディスプレイ》から顔を遠ざけた。
岩船も、どこを見るともなく目をしょぼつかせている。
横の壁にかかっている丸い大時計の針が、ちょうど五時を指していた。窓の外も、まだ日暮れてはいない。依藤が、藪《やぶ》をかきわけて森の発掘現場に上がったのは、正午すぎであったのだ。そのことを思うと、俄《にわか》には信じられない進展ぶりである……
「よりさん、非番の日に出て来た甲斐があったよね、これこそお[#「お」に傍点]導きというものよ」
普段の呑気《のんき》そうな顔に戻って、岩船はいう。
……けれど、物事がとんとん拍子に運ぶときには得てして落とし穴がある。お導き、ならぬ刑事《デカ》専属の指導霊《スピリチュアルガイド》のようなものが、依藤の耳元でそう注意を促していた。
「……林田さん、今いらっしゃいますよ。こちらに呼ばれますか?」
受話器を手に持ったまま、坂下が聞いてくる。
「あ、行く行く[#「行く行く」に傍点]――」
電話の相手にも聞こえるぐらいの声で、依藤はいった。
その彼を刑事課《ここ》に呼びつけてもよいのだが、すると岩船さんがまだ居残りそうなので……そろそろ袂《たもと》を分かちたい、というのが依藤の本音である。
それを察してか否か、
「じゃ、俺は――」
岩船が椅子から腰を浮かした。
が、その場で棒立ちすると、上着の内懐《うちぶところ》に手を入れてごそごそやっている。そして何やら掴み出すと、ひょいと依藤の鼻先に差し出した。
「あっ、持って来てたんですか」
「こんなこともあろうかと、思ってさ」
それは|透明ポリ袋《ジップロック》に入った――指輪であった。
「もう、よりさんが持ってた方がいいだろう。実物《これ》を見せれば、一目瞭然《いちもくりょうぜん》だから」
神妙な顔つきで、岩船はいう。
もちろん、その指輪は、少年課の担当に見せるというより、むしろ親族(遺族)に見てもらうのだが、今日中に行ってこい――そう岩船は暗に催促しているようでもある。
「じゃ、預かります」
依藤は受け取ると、手の平にのせて暫し見詰めた。
赤石《ルビー》とダイヤの|並び具合《コントラスト》が実に美しく、いかにも高そうな指輪である。実物《これ》を見たら、五万とは思わなかったよな……依藤は自らの審美眼《しんびがん》(鑑定眼)に少し自信を取り戻すと、上着の内ポケットに仕舞って、ボタンをかけた。
「それじゃあね……」
今度こそ岩船は立ち去っていった。
その、少し鄙《ひな》びた後ろ姿を見送っていると、
「依藤かかりちょお[#「かかりちょお」に傍点]、残ってるのどうします?」
坂下が、恋する乙女のような甘え声で囁きかけてきた。
「あっ、目次まだ、半分以上残ってたんだよね」
「――うん」
奇麗《きれい》なうなじを見せて、坂下は首肯《うなず》く。
依藤は――少し見惚《みと》れてから、
「さっきので、決まりだと思うんだけど」
「それなら、わたしが残りの中から探しておきますよ。そしてもしあったら、プリントアウトしてお持ちしますので」
なんて気の利く娘だろうか。
依藤の……人を見る目[#「目」に傍点]には、狂いはなかったようである。
「助かるよ。らりるれろ[#「らりるれろ」に傍点]、ね」
[#改ページ]
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私立M高校の旧校舎にある旧・歴史教室では、歴史部の部員たちが、間近に迫った『秋の文化祭』の展示物づくりに大童《おおわらわ》であった。
といっても、歴史部の部員[#「部員」に傍点]は僅かに二年生が三名[#「三名」に傍点]しかいない。
春にも、連続祭日《ゴールデンウィーク》の直前の土曜日に、学内だけの恒例の文化祭があったのだが、その際に新入部員の獲得に失敗[#「失敗」に傍点]したからだ。そしてもし今回の文化祭で失敗《しくじ》り、さらに来年の春、そしてさらに来秋でも駄目となると、五十年の歴史を誇り、伝統と栄光ある我が[#「我が」に傍点]歴史部も……ついに、ついに廃部[#「廃部」に傍点]である。
それは諸先輩方に顔向けできないばかりか、自らの歴史生活《プライド》にかけても許されまじと、麻生《あそう》まな美の手に握られている筆[#「筆」に傍点]には――念[#「念」に傍点]が籠《こ》もっている。
まな美は、そんな歴史部にとっての最終秘密兵器《さいごのきりふだ》とでもいうべき、埼玉県は越谷《こしがや》市の長閑《のどか》な片田舎にひっそりと実在[#「実在」に傍点]する小さな寺・野島《のじま》山淨山寺《じょうさんじ》の縁起《えんぎ》を、巻物ふうに、和紙に書きしたためていた。
その淨山寺は、貞觀《じょうがん》二年(八六〇年)の建立《こんりゅう》という関東圏では屈指の古刹《こさつ》で、あの徳川家康公直伝[#「直伝」に傍点]の三つ葉葵[#「三つ葉葵」に傍点]紋を寺紋[#「寺紋」に傍点]とし、のみならず本尊・地蔵菩薩《じぞうぼさつ》が納められてある厨子《ずし》の木の扉には菊[#「菊」に傍点]の御紋[#「御紋」に傍点]の彫刻があり、その他諸々の不可思議な伝承に彩られた寺でもある。にも拘わらず[#「にも拘わらず」に傍点]、日本史の業界[#「業界」に傍点]においてはまったくの無名[#「無名」に傍点]なのだ。だからこそ、起死回生を狙う歴史部の主題《テーマ》に相応《ふさわ》しい。
――まな美は、書道の腕前は漢字[#「漢字」に傍点]・五段[#「五段」に傍点]である。
それは母方の親類に書道の大家(日展無審査)がいて、幼少の砌《みぎり》から習わされたからだ。が、仮名[#「仮名」に傍点]の方はまったくで(仮名はふつう大人が習う)、それもあって、ときおり少女文字が顔を覗かせる。そこは、十七歳の女子であろうか。
まな美は、展示の解説文のすべてを筆書きしているわけではない。寺の縁起の他には、黒衣《こくい》の宰相《さいしょう》・天海僧正《てんかいそうじょう》が絡む山王一実神道《さんのういちじつしんとう》の下りや、逆に、精読されると|立場がない《クレームがくる》天皇家に関係する話など、要所要所を毛筆とし、それらしく雰囲気を醸し出そうとしているのだ。大半の説明文は機械《ワープロ》で作成し、既に印字《プリント》済みである。
そのように、念[#「念」に傍点]を籠めて黙々と和文を綴っているまな美とは対照的に、いや、その彼も彼なりに、
「ぬっひっひっひー……」
と御満悦の奇声や、
「あ……こけてもたあ[#「こけてもたあ」に傍点]」
情けない神戸《こうべ》弁を発しながら、立体模型《ジオラマ》づくりに余念がないのは、歴史部の部長・土門巌《どもんいわお》である。
その立体模型は、出し物の最後《とり》を飾るに相応しい|大きさ《ビッグサイズ》、かつ超本格的《スーパーリアル》な代物で、昔のふたり掛けの学校机を三個並べて展示台とし、濃い藍染《あいぞ》めの地にところどころ白絣《しろがすり》の竜が舞っている時代布を被せ、上に、寺や建物などを象徴する小物類が、その位置関係を|暴露し証明《あからさまに》するために置かれている。
たとえば――
淨山寺の本尊は地蔵菩薩だが、その淨山寺(旧名、慈福寺《じふくじ》)と組をなす、岩槻《いわつき》の慈恩寺《じおんじ》、そして川口《かわぐち》の慈林寺《じりんじ》は、本尊はそれぞれ観音《かんのん》菩薩と薬師如来《やくしにょらい》で、それらの寺の象徴としては、本物[#「本物」に傍点]の仏像[#「仏像」に傍点]が配されている。これらは、土門くんが、知り合いの仏像専門店である日光の『恙堂《つつがどう》』に発注したものだ。
――高さは二十〜三十センチぐらいまで。金箔《きんぱく》がほどよく剥げていて、古そうに見えるもの。
すると、寸法《サイズ》と古色《こしょく》度を統一させて、三体の仏像が即送られてきた。
――お金はいらないから、壊すな[#「壊すな」に傍点]よ。
との『|恙堂』の主人《さっちゃんのちちおや》からの添え文もあった。つまり、借り物なのだ。が、三体とも江戸時代の仏像らしいので、そう値段の張るものではない。
そして展示台の上左隅には、厚紙と緑の粉末(鉄道模型のジオラマ用の、木や草の代わり)を使って三つの山が作られ、その前に、日光|東照宮《とうしょうぐう》の象徴として、国宝『陽明門《ようめいもん》』のプラモデルが鎮座している。それは、放課後に土門くんがせっせと作ったものだ。
……けれど、皇居[#「皇居」に傍点]はどう表したものか?
骨董屋の伝《つて》を頼れば、入手不可能な品はない[#「ない」に傍点]ともいえる土門くんではあるが、いいものが浮かばない。考えた末、銀色の太い組み紐[#「組み紐」に傍点]を用いて、皇居の外郭を形どり、その中に御所《ごしょ》の建物だけを、長細い木片二個[#「二個」に傍点]を用いて、上品に表した。その御所の位置が重要[#「重要」に傍点]だからである。
そして何といっても――白眉《はくび》は、淨山寺のお地蔵さまだ。
この地蔵は、江戸時代の初期に七十年間ほど、背中に釘を打たれ、鎖で繋がれていたことがあったのだ。それは、寺の厨子の中から|無断で《ちょいちょい》抜け出しては、あたりの民家を訪れていたのを、当時の住僧[#「住僧」に傍点]に咎《とが》められての結果である。現代人には信じがたい話だが、当時、実際に使われたという釘[#「釘」に傍点]と鎖[#「鎖」に傍点]を、淨山寺のご住職から、歴史部は見せてもらったこともある。
釘は、いわゆる五寸釘だが、現在の丸釘ではなく、角張って鋭い和[#「和」に傍点]釘である。鎖も、土門くんが思わず涎《よだれ》を流すほどの、見事な赤錆《あかさび》で覆われた江戸時代の古い鎖であった。
……が、|借りた《かりてなくても》仏像に同じことはできない。当時の住僧と同様の仏罰が下ってしまう(寺の縁起によると、現報《げんぽう》のがれ難く業病《ごうびょう》にかかって遷化《せんげ》)。そこで土門くんは、地蔵の足元を、古色塗装が施された茶褐色の鎖でぐるぐる巻きにした……許してくれるやろかあ? と一抹の不安を感じつつ。
すると、まな美が、
――遊化《ゆげ》するお地蔵さんはどうするの?
といい出した。遊化とは、人々に教えを説くために、あたりを自在に歩き廻ることをいう。
――鎖に繋がれてるんやから、それはでけへんで。
至極当然のことを土門くんはいったのだが、
――そんなことはないわ。どんなに繋がれていたって、あのお地蔵さまのことだから、絶対に抜け出して、遊化していたはずよ。
と、まな美は聞かない。
そこで土門くんの打った手は……またもや骨董屋《しりあい》に電話をかけ捲《まく》り、姫の希望に叶《かな》いそうな品を物色した。そして手に入れたのは、高さ十五センチ程度の、ガラスでできた透明な地蔵であった。古い玩具《おもちゃ》を専門に扱っている店の倉庫に眠っていたものだ。
――木のお地蔵さまから抜け出してきた、幽体[#「幽体」に傍点]、て感じがするわよね、素敵《ぴったし》。
まな美は褒めてくれたが、その程度では、凝《こ》り性《しょう》の土門くんは満足しない。古い和人形から、ほどよく鄙《ひな》びたちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]の服を剥がしてきて、それをガラス地蔵の腕に通して着せた。
――どうや姫、この見すばらしい感じ、こそが[#「こそが」に傍点]。
その土門くんの意見が通り、遊化する地蔵[#「遊化する地蔵」に傍点]は完成を見た。それは、鎖巻き地蔵の前あたりにちょこんと置かれている。
そして、今、土門くんは、その鎖巻き地蔵が納まることになる厨子[#「厨子」に傍点]を作っていた。が、本来の厨子は箱[#「箱」に傍点]であるので、実物どおりに作ると、せっかくの地蔵が隠れて見えなくなってしまう。そこで、竹製の古い鳥籠《とりかご》を利用し、天と背とは板にして、底はなく、仏像にすっぽりと被せられるようなものを作っていた。つまり、表現《イメージ》としては、牢屋《ろうや》である。
――けど、|露骨には《ろうやらしく》作らないでね。
注文つきではあるが、まな美も同意している。
こけてもたあ[#「こけてもたあ」に傍点]……は、それが仮組の段階だったので倒れてしまったのだ。が、その牢屋の厨子もほぼ完成を見たようである。
すると、土門くんがパンパンと柏手《かしわで》を打って、何やら祈り始めた。
「――土門くん? 何やってるの?」
集中していたまな美も、筆を走らせる手を止めて、聞かざるをえない。
「やー、この牢屋の厨子にやな、あの菊の御紋つけなあかんねやろ、それは無理とちがうやろか……と思てたら、あの菊の御紋いうんは、十六花弁やんか。そのこと思ってたら、別の数字のことが頭にわーと湧《わ》いてきて、つい、お祈りしとうなったんや」
「……どういう連想してるの?」
「ほら、昼に、中間|試験《てすと》の面談があったやろう」
――短時間だが、生徒ひとりひとりが担任と会って成績を教えてもらう。小言を食らう場合もある。
「そんときに、担任の吉井《よしい》にいわれたんや。一年の一学期から、順位がずーと変わってへん生徒が、約[#「約」に傍点]、二名[#「二名」に傍点]いるんやて」
――内一名は、いわずもがなの麻生まな美[#「麻生まな美」に傍点]である。筆記試験《ペーパーテスト》では満点を一度も外したことがなく、つまり一位は彼女が確保《キープ》しており、それは学校中に知れ渡っている。だから、隠し立てする必要はなく、
「じゃあ、そのもうひとりって、土門くんなの?」
「実は……そうやねん」
哀れっぽくいってから、
「今回こそ[#「こそ」に傍点]は、抜け出そうと頑張ったつもりやったんやけど、あかんかったんやあ。それに吉井のやつ、そのこと笑いながら[#「笑いながら」に傍点]いいよるんやでえ」
怒った顔で土門くんはいう。
「けど――成績いいんでしょう?」
少し心配になってきて、まな美はいった。
無理強《むりじ》いしているわけじゃないが、学校が休みの日には、日光などに遠出だし、平日も毎日のように部室に遅くまで土門くんはいる。が、彼の具体的な順位は、今まで一度もまな美は聞いたことがない。
「ええ悪いの問題ちがうんや。抜けられへん、いうんがやばい[#「やばい」に傍点]んや。絶対にいうたらあかんで、姫[#「姫」に傍点]」
土門くんは念押ししてから、
「あんなあ、自分の順位は一年の一学期からずーと、じゅうさんばんなんや……」
「なんだ。じゃ、問題ないじゃない」
――心配して損した。そんな顔でまな美はいう。
「問題なかろーてか。大ありやんかあ。ずーと十三番なんやで、そんな縁起の悪い……」
「うそー? 十三ってすごく縁起のいい数字なのよ。土門くん、何か勘違いしてるんじゃない?」
まな美は完全に筆を置くと、獲物を狙う鷹《たか》のような目になって、土門くんがいる立体模型の方ににじり[#「にじり」に傍点]寄って行く。
「えー、勘違いしてへんと思うけどー。それは一般常識とちがうんか?」
「やっぱりねえ。土門くんともあろう人が、そんなことに騙《だま》されてたのね。――歴史部の恥だわ」
「は……恥いうたなあ。そやったら、あれは何やというねん? あの有名なお人が十字架にかかりはったんは、十三日やいう話やんか?」
――まな美は、少し考えてから、
「土門くん。それ、漫画とごっちゃにしてない?」
「あれえ……?」
いわれてみると、土門くんとしても、思い当たらない漫画がないわけでもない。劇画調のあれ[#「あれ」に傍点]だ。
「土門くんのいうナザレ村のイエスさんが、ゴルゴタの丘で磔《はりつけ》になったのは、たしかに金曜日ではあるけど、十三日ではないのよ」
――ナザレのイエスとはもちろんキリスト[#「キリスト」に傍点]のことだが、竜介《あにき》が、救世主の意味を有するその呼称を使おうとはしないので、妹にも伝染《うつ》ったようだ。
「そやったら、なんで十三日の金曜日は縁起が悪いって話になるんや? あっち[#「あっち」に傍点]の映画には、そんなん一杯あるやんか。その金曜日は置いとくとしてもや、十三そのもんが、悪い数字とちがうんか? あっち[#「あっち」に傍点]の旅館《ほてる》に行ったら、十三号室あらへんかったし、十三階がない建物《びる》かて、普通やそうやで。それに文化祭になったら、たろっと[#「たろっと」に傍点]占いの店が出るやろ。一度だけ見てもらったことがあるんやけど、そのときに、手に大きな鎌《かま》をもってる、金色の骸骨《ガイコツ》の絵《かーど》が出て、うわ[#「うわ」に傍点]――いうて驚いてたら、大丈夫大丈夫、天地が逆さまやからーて、慰めてはくれたけど、その横にはDEATH[#「DEATH」に傍点]と書かれてあったし、その骸骨かーど[#「かーど」に傍点]の数字もやな、十三なんやでえ[#「十三なんやでえ」に傍点]。それに絞首台のことを、十三階段ともいうし……」
まな美は、その土門くんの話を楽しそーに聞いてから、
「それらはね、全部ひっくるめて、あっち[#「あっち」に傍点]の世界の陰謀[#「陰謀」に傍点]なんだから」
「い……いんぼう?」
それこそ、姫の兄貴がいいそうなことだと、土門くんは思う。
「こっち[#「こっち」に傍点]の世界では、十三は最高の数字なのよ。嘘だと思うんだったら、御神籤《おみくじ》を引きにいって、十三番の紙をもらって、見てみればいいわ。まず絶対[#「絶対」に傍点]に大吉[#「大吉」に傍点]だから――」
まな美は、信念を籠めて力強くいう。
「――もし十三番が[#「十三番が」に傍点]、吉とか、末吉とか、あるいは凶の紙だったりしたら、わたしが捻じ込みに行ってあげてもいいわ[#「捻じ込みに行ってあげてもいいわ」に傍点]」
「そ、そこまでいうんやったら、信じるけど」
――その迫力に気圧《けお》されて、土門くんはいう。
「そもそも十三[#「十三」に傍点]という数は、東洋世界では最上位[#「最上位」に傍点]の数字なのよ。まず、十三|経《きょう》といえば、宋《そう》の時代に確定した、論語《ろんご》や孟子《もうし》などの十三種の経書《けいしょ》のことだし、そして仏教の宗派も、十三[#「十三」に傍点]に大別するのよ。中国と日本とでは少し違うけど、たとえば、日本の方では、華厳《けごん》、法相《ほっそう》、律《りつ》宗、天台《てんだい》、真言《しんごん》、浄土《じょうど》宗と浄土真《じょうどしん》宗、臨済《りんざい》、曹洞《そうとう》、黄檗《おうばく》、日蓮《にちれん》、そして融通念仏《ゆうずうねんぶつ》と時《じ》宗ね。そして、十三|門派《もんぱ》といえば、その中の禅宗だけを、さらに十三[#「十三」に傍点]に分けるのね。そして仏《ほとけ》さんの方も、十三|仏《ぶつ》というのがあって、これは、初七日《しょなのか》から三十三|回忌《かいき》までの、十三回ある追善供養《ついぜんくよう》のときに、それぞれを担当してくれる仏さまなのね」
「うん?……ちょっと口をはさむようやけど、その何回忌とかいうやつは、それほど縁起のええ話とは、いわれへんのとはちがうやろか?」
おずおずと土門くんはいう。
「なーにいってるの。亡くなった人を慕って、皆が集まってきて、その人の話をしながら、お酒を飲んでわいわい騒ぐんだから、どこが縁起が悪いの?」
「い……いわれてみれば[#「いわれてみれば」に傍点]」
「その追善供養の中でも、やはり十三[#「十三」に傍点]回忌が、一番に大切だと思われているのね。そのときに担当する仏さまはというと……やはり、あの大日《だいにち》如来なのよ。仏教|曼陀羅《まんだら》の真ん中に君臨している主仏《ボス》ね。分かりやすくいうと、奈良の大仏さん。それから、十三|詣《まい》りというのもあって、これは子供が十三[#「十三」に傍点]歳になったときのお祝いで、元服《げんぷく》みたいなものね。四月十三[#「十三」に傍点]日の日に、虚空蔵《こくうぞう》菩薩を祀《まつ》っているお寺に、詣《もう》でるの。そして出店で、十三[#「十三」に傍点]種類のお菓子を買ってもらい、家に持ち帰って、皆におすそ分けするのよ。そのほかにも十三[#「十三」に傍点]日祝いというのがあって、これは正月始めのことなのよ――」
数字を一個いっただけで、出てくるわ出てくるわと、土門くんは半ば呆れてから、
「姫のおっしゃりたいことは、よーく分かりました。十三は最高の数字や。自分は今後とも、この霊験あらたか[#「霊験あらたか」に傍点]な順位を死守すべく、全身全霊を傾けよう」
――態度をころり[#「ころり」に傍点]と変えていう。
「実はね、こういった東洋《こっち》側のことは知ってたんだけど、どうしてあっち[#「あっち」に傍点]の世界では、そんなにも十三を嫌うのか、わたしも不思議に思って、おにいさんに聞いてみたことがあったの」
やっぱりや……土門くんは思う。
「するとね、嫌う明確な根拠というのは、どうもないらしいのよ。聖書にも、その種のことは一切出てないんだって。けれど、中世に吹き荒れた魔女狩りでは、その魔女の集会は、決まって、十三人だと考えられていたらしく、これは首謀者ひとり、プラス十二人ってことね……土門くん、この考え方でこられちゃうと、日本は悪魔国《アウト》なのよ。だって薬師如来というのは、あの十二|神将《じんしょう》を従えてるでしょう」
「あ……そうやな」
土門くんは思い出してから、さらに閃いて、
「あ、そうやそうや[#「そうやそうや」に傍点]、薬師如来いうんは、インドから見て東に住んどって、そもそも日本[#「日本」に傍点]を象徴[#「象徴」に傍点]してる仏さんやんか」
「だから、即[#「即」に傍点]悪魔国でしょう。でね、キリスト教も初期のころは、十三はとっても縁起のいい数だったんだって。なんでも、アガペー[#「アガペー」に傍点]と呼ばれる、十三人で集まって、会食《かいしょく》したり、瞑想《めいそう》したりするという聖なる儀式があったらしいわ。でもそれは、四世紀ごろに協会から禁止例が出されちゃうのね。で、そのあたりから、十三は悪い数字といった方向に、どんどん転がっていったらしいのよ」
「あれ? ちょっと待ってよ。自分うろ覚えやねんけど、なにぶん幼稚園のころの記憶やからなあ……ひょっとして、あのイエスさんにも、お弟子さんが十二人いてはらなかった?」
――土門くんは、やむにやまれぬ理由で、神戸でその種の幼稚園に通っていた。
「そう、いわゆる十二|使徒《しと》と呼ばれている人たちね。イエスさん亡き後、彼らが教えを広めたらしいわ」
「そやったら、それは薬師如来ぷらす[#「ぷらす」に傍点]十二神将のぱたーん[#「ぱたーん」に傍点]と、同《おん》なじやんか?」
「同じなのね[#「同じなのね」に傍点]」
――まな美は、標準語で念押ししてから、
「で、おにいさんがいうには、この十二使徒[#「十二使徒」に傍点]という物語は、それ自体が出鱈目なんだって」
「そ……そんな冒涜《ぼうとく》を……」
「というのもね、一プラス十二という取り合わせは、洋の東西を問わず、そもそも聖なるもの[#「もの」に傍点]で、それに合うようにと、聖書の物語を紡いだだけ[#「だけ」に傍点]。当時のイエスさんには、もっと沢山《たくさん》のおつきの人がおられて、その中から適当に選んだだけ[#「だけ」に傍点]……だそうよ。それにユダヤの方に、十二部族というのがあったらしいから、そのあたりからも来てるのね」
「なるほど……いわれてみれば、そのとおりかもしれへんな」
「そうやって、自分たちで物語を紡いでおきながら、その後、否定に転じちゃうんだけど、その理由《わけ》は、当時の世界のほぼすべてが、一プラス十二を、聖なるものと見做《みな》していたから、それに反旗を翻《ひるがえ》して、一宗教としての独自性、差別化を図《はか》っただけのこと、ですって。その当時は、まだ弱小[#「弱小」に傍点]だったからね。けど、それには自分ちの[#「ちの」に傍点]十二使徒を否定しなきゃならないでしょう。知ってると思うけど、中にユダ[#「ユダ」に傍点]という裏切り者がいたから、それを|引き算《マイナス》して、十一が正しく、総勢《トータル》十二というのが聖なる数……て決めちゃったのね。ところが、ユダは、イエスさんが亡くなった直後に死んじゃうのよ。そして代わりの人が即たってるのね。だから十二使徒は十二使徒のままで、十一[#「十一」に傍点]使徒になったわけでも……ないのね[#「ないのね」に傍点]」
「それはやなあ、十一てん[#「てん」に傍点]五使徒、いう感じやぞ」
――土門くんの感性は正しい、とまな美も思う。
「ともかくも、そうやって一[#「一」に傍点]宗教の勝手な都合で定められた、一プラス十二は悪い取り合わせ、そして十三は最悪[#「最悪」に傍点]の数字[#「数字」に傍点]……があっち[#「あっち」に傍点]の世界に広まって、米国《アメリカ》の洗脳《さんもん》映画を通じて、入って来たわけよ。おにいさんがいうには、そんなことで騒いでる日本人って、自分ちの文化が愚弄《ぐろう》されて、否定されているのに気がつかない、間抜け者だって」
――奇麗な表現ではないが、重みある[#「重みある」に傍点]言葉だ。
土門くんもそう思う。が、さすが姫の兄貴である。裏[#「裏」に傍点]事情を知ってること知ってること……物事よく知ってるつもりの歴史部員が束[#「束」に傍点]になっても、まず勝てないという希有[#「希有」に傍点]な相手なのだ。
「でさ、さっきの菊の御紋のことだけど」
と、まな美は、土門くん愛用の道具箱(蒔絵《まきえ》の入った古い硯《すずり》箱)を覗き込む。
そこには、大小様々な菊の御紋が取り揃えられてある。雛人形や五月人形などにはよく付いているので、その種の部品《パーツ》には不自由しない。その中から一個を、まな美は選び出すと、
「どお? この辺りに置いてみるというのは?」
「あ……ほんまやなあ。そこに置いたら、格子戸《こうしど》の引手《ひきて》みたいに見えて、目立たへんもんな」
かくして、鎖地蔵が納まることになる牢屋[#「牢屋」に傍点]の厨子[#「厨子」に傍点](菊の御紋つき)は、完成を見た。それを祝うかのように、学校の五時の|鐘の音《チャイム》が鳴り響き始めた。
ふたりがいる旧・歴史教室は、今は授業には使われていない。往時を忍ばせる古い木の机や椅子は、部屋の隅に積まれて片されてある。文化祭にのみ用いられる木の衝立《パネル》も、迷路を作れるほどの枚数が、やはり置かれたままになっている。
そして教室であるから出入口は前と後ろにあり、赤茶色にくすんだ木の洋扉が、観音開《かんのんびら》きで廊下側に開く。そのどちらを入口にするかは、それなりに作戦[#「作戦」に傍点]があって、人が流れる方向の、より奥の方を展示場への入口と定めた。それは教室の廊下側の壁に、客寄せのための宣伝文《キャッチコピー》を貼るからで、|曰く《たとえば》――
大発見! 家康のお墓。
日光の東照宮は偽物《ダミー》か?
歴史部が『歴史』と『日本地理』を書き換えた!
日本の『守り本尊《ガミ》』発見!
――等々が用意されている(勘亭《かんてい》流の書体で)。
さらに、その入口の扉付近には、絢爛豪華な装飾品が極秘裏に準備されてあり、当日の朝、素早くつける手筈《てはず》だ。まず、観音開きの扉には、直径二十センチ・厚さ三センチの金箔漆の三つ葉葵[#「三つ葉葵」に傍点]紋が二枚。もちろん土門くんが入手した。そして扉の左と右には、これまた三つ葉葵[#「三つ葉葵」に傍点]紋入りの提灯《ちょうちん》が二個。さらに入口の上には、白布に大きく三つ葉葵[#「三つ葉葵」に傍点]紋が染め抜かれた段幕《だんまく》が、天井から吊り下がる予定だ。その提灯と段幕は、淨山寺のお祭りの日に使われるもので、ご住職から借りてきたのである。――歴史部の辞書に不可能[#「不可能」に傍点]という三文字は、おそらくない[#「ない」に傍点]。
ところで、歴史部の部員は三名である。もう一名の天目《あまのめ》マサトはというと、旧・歴史教室とは内扉で繋がっている旧・歴史準備室の方で、独りで作業をしていた。
その歴史準備室が、歴史部の本来の部室だ。隣の教室の半分ほどの広さがあって、中央には、十人は座れるほど大きな木の円卓《テーブル》が置かれ、壁は作りつけの木の書棚や、個人用のロッカーなどで埋まっている。窓からは大運動場《グラウンド》が見え、ほぼ南向きの窓だ。その窓の並びに小さな扉《ドア》があって、外のベランダに出ることができる。出たからといって、とくに使い道があるわけではないが、そのベランダは旧校舎の正面玄関の真上にあたり、つまり、歴史部の部室は校舎の一等地[#「一等地」に傍点]に位置しているのだ。
……が、この歴史準備室の隣は生物[#「生物」に傍点]準備室であり、壁を挟んで対称形をなしている。そして生物準備室の方からも、やはりベランダに出られる。それゆえ、万が一、歴史部が廃部[#「廃部」に傍点]になると、学校の伝統と栄光の象徴でもあるそのベランダが、生物部《てき》の手に落ちるという惨《みじ》めな結果にもなるのだが……。
マサトは、その大きな円卓を使って、写真の最終的な処理を行っていた。どこにどのような写真を使うかは、すでに決定済みであるが、実際に解説文と併せて配置《レイアウト》するとなると、写真の寸法《サイズ》などに微調整が必要だからだ――が、その作業の手は、ほとんど進んではいない。
マサトは去年の九月、この私立M高校に途中転入してきた。|M高《ここ》は高名な進学校であるから、それは極めて稀な例《ケース》で、もちろんそれなりの理由《コネ》があったればこそだが……そして、まな美に声をかけられて、この歴史部へと誘われた。そして何げなく撮影を担当して以来、カメラ班という役割を担《にな》っている。けど……人と話すことが元来得手ではないマサトにとっては、寡黙《かもく》に写真の撮影に精を出している方が、気楽でいいとすら、自身、思っている。
けれども、彼は、とある鬱蒼《うっそう》とした森に守られてひっそりと佇《たたず》んである古色蒼然の大邸宅に帰ったならば、人[#「人」に傍点]ではなく――アマノメの神[#「神」に傍点]なのだ。
生まれたときから、そのように育てられてきた。多数の人たちから傅《かしず》かれて暮らすというその運命《はぐるま》は、自身には変えられそうもない。そして口から発した言葉は、アマノメという神の御託宣《おことば》にほかならず、なぜそういった力が宿っているのかも、自身には分かろうはずもない。
だから、外で不用意に喋ろうものなら、|暴露して《ボロがでて》しまう場合だってあるのだ。それは断じて[#「断じて」に傍点]避けなければならない。|麻生と土門《ふたり》はかけがえのない友人であり、学校《ここ》での生活は、マサトが人として気儘《きまま》に時をすごせる、いわば憩い[#「憩い」に傍点]の場[#「場」に傍点]でもあるからだ。
ところが――今、
その場が掻き乱されようとしていた。
異変は昼すぎごろから感じていた。学校の中では
滅多に使わぬその神[#「神」に傍点]の力[#「力」に傍点]を解き放ち、それが何であるかをマサトは探ろうとしていた。
隣の教室への内扉は閉じておらず、ふたりの笑い声や内緒話の声も聞こえてくる。マサトも加わりたいところだが、準備室《ここ》に独りで籠もっているのは、そのせいである。
夕刻の五時を知らせる|鐘の音《チャイム》が、ついさっき鳴った。それは南窓から見える大運動場《グラウンド》の向こうにある新校舎から流れてきた音だ。
いや、そちら側ではないのだ。準備室《ここ》からは見ることのできない、廊下を越えてさらにその先にある裏山[#「裏山」に傍点]の方で確かに何かが起こっている。マサトにはそれが感じられる。――何だろうか――
だが裏山は距離がありすぎる。それに誰[#「誰」に傍点]がその場にいるのかすら分からない。そこには多数の人間がいて、今なお蠢《うごめ》いていることだけは間違いない。
マサトは、たった今、絵[#「絵」に傍点]が見えてきていた。
――骨[#「骨」に傍点]だ。二本の細長い骨である。地面に埋まっていたもののようで、土や、そして草も見える。
――ふたりの男子が見えた。小豆色の服を着ている。顔は見知っていて、隣の生物部員たちだ。その彼らが、その骨を見つけたのだろうか?
そして、さらに暫くすると、
――青いドレスで着飾った女性の絵が見えてきた。とっても奇麗な人である。顔には穏やかな微笑《ほほえ》みを浮かべ、その目がこちらの方を見ている。だがマサトには覚えのない女性であった。
――うん?
その絵の持ち主[#「持ち主」に傍点]が、マサトには分かった。
マサトは一度のぞき見たことがある相手《ひと》は、その後には絵に接しただけで、それが誰[#「誰」に傍点]の絵[#「絵」に傍点]であるかは分かるのだ。
それに、その人[#「人」に傍点]は今隣室にいるようである。だから明瞭《めいりょう》な絵が見えてきたのだ。
――とともに、悲しみの心[#「心」に傍点]が伝わってきた。
その骨が、その青いドレスの女性ではないかと、そう思い悲しんでいるのだろうか?…………
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依藤《よりふじ》警部補が階段を下りていくと、エレベーター扉の前で少年課の林田《はやしだ》刑事が待っていた。
「あっ」
虚を突かれたような顔をしてから、直立不動の姿勢をとると(敬礼するほどではないが)頭《こうべ》を垂れて依藤に挨拶《あいさつ》をする――林田は、三十代前半の巡査部長で、中肉中背、そこそこ真面目《まじめ》な男というのが依藤の印象だ。
「只今《ただいま》、当該者《とうがいしゃ》の捜査資料を探しているところであります」
形式ばった警察口調で、林田はいう。
その資料の探し出しはたぶん別の課員にでも任せ、自身は出迎えに来たようだが、慌てたとみえて、上着の下のネクタイが|半分裏返って《ひょこいがんで》いる。
「まあ、そう畏《かしこ》まらなくって……」
と気さくに依藤はいったが、
それは依藤本人が電話先に聞こえるように、行く行く――とがなったのが原因だ。刑事《さつじん》課の係長《ボス》にそうがなられると、どこの課員だって恐縮し何事か[#「何事か」に傍点]と慌てふためくのに決まっている。
林田は通路を先んじて歩くと、右側にある個室の状況を窺いながら、
「空いてません。……ここも空いてませんね」
小声でいう。
ふたつある小会議室は、ともに使用中の札が下がっていた。――今いる二階も、刑事課がある三階と基本的な作りは同じである。エレベーター先の左側には、交通課二係が入っていて、轢き逃げなどの車に関係する重犯罪を扱っている。この課は通路から素通しで、三階の大部屋の雰囲気と大差ない。
そこにいる、柴田《しばた》係長が依藤に気づいて手を振ってきた。よく酒を飲みかわす朋友《ポンユー》である。
――が、二階の奥半分は、天井まで届く壁のような衝立《ついたて》で仕切られてあって、その先は見通せない。部外者が、ふと二階《ここ》に立ち寄ったとしても、その衝立《かべ》の向こうが何であるかは分からない。かつ、不審者が意図的に近づこうとしても、手前の交通課二係の猛者《もさ》たちが気づく――といった作りである。
通路を進み歩いて衝立の前まで来ると、そこに自閉機構《ドアクローザー》のついた一枚扉があるのだが、
〈少年課に御用の方はベルを押して下さい〉
小さな札が貼られてあるので、奥に何があるかがようやっと分かる。もちろん警察関係者《よりふじたち》は必要ないが、保護者の入室や、出前などの際には、ベルを押すという決まりである。
林田が、その一枚扉を引き開けて、依藤を先に通した。
その扉をくぐると、――先はまだ廊下である。少年課の出入口の扉《ドア》は、廊下の中程だ。そして廊下の行き止まりに、金属製の扉が見える。それは外への階段に通じる非常扉で、各階にも同じ場所に同じようにあるが、この二階にある非常扉だけは、違った使われ方をする。少年の重犯罪者は、署の表玄関やエレベーターなどを通さず、その扉から出入りをさせるという決まりなのだ。
――これらの物々しい作り[#「作り」に傍点]や決め[#「決め」に傍点]ごとはすべて、少年法という別種の法律が絡むからで、少年の犯罪者のプライバシーはかように保護されている。
林田が、その少年課への扉《ドア》を開けて、どうぞ、と頭を下げたが、
「俺はこっちでいいよ」
と、依藤は、廊下の右側にずらーと並んでいる取調室の方を指さした(ここには会議室等はない。以前はひとつあったのだが、潰《つぶ》して取調室に作り替えたのだ)。
「はっ、では……こちらをお使い下さい」
空きを確認してから、その取調室の扉を開けると、
「即刻[#「即刻」に傍点]、捜査資料をお持ちいたします」
林田はそういい残して、少年課の扉の奥に消えていった。
依藤が遠慮した理由は、単純である。彼ひとりであれ[#「あれ」に傍点]なのだから、依藤が中に入ろうものなら、課員全員に恐縮[#「恐縮」に傍点]を強いる。そして少年課の早川《はやかわ》課長が泣き出しそうな顔して、何があったの、よりさーん、とすり寄って来るのは目に見えているからだ(この時間帯なら、どこの課の課長もほぼ間違いなく席にいる。課長は管理職であり、現場に出向くことはまずない……悪くいえば電話番だ)。
依藤は取調室に入ると、四角い尋問机《テーブル》の、奥の側のスチール椅子に腰を下ろした。刑事によっても様々だろうが、窓を背にしているその席は、依藤が他者を尋問をするときにつく定位置[#「定位置」に傍点]である。そして机を挟んで被疑者と対面し、その後ろ側には、さらに刑事がひとりかふたり立っている、それが通常の風景だ。
この少年課の取調室も、三階にあるそれと作りは変わらない。が、室内の様子は随分と違う。三階は薄汚れた灰色《グレイ》といった感じで、飾りっ気などはないが、ここは壁や天井そして床が濃淡の緑色系《グリーン》で統一されてあって、窓にも春を思わせるような浅緑色のカーテンがかかっている。はて? 三階の取調室に|カーテン《そんなもの》があっただろうか……依藤は思い浮かばない。日に焼けてしまって外したままになっているところが大半だろう。
そして、ここのテーブルには花瓶が置かれ、名前は分からないが小綺麗に花々が生《い》けてある。さらに、壁には大きな絵がかかっているのだ。
――マリアが乳飲み子のイエスを抱いた絵だ。
今どきの|子供たち《がきども》に、こんな宗教画《まじない》が効くのかと依藤は思うのだが……少年課の何室かある取調室には、それぞれに別の絵がかかっていて、課員たちは、その絵で個々を呼び慣わしていることを知っている。さしずめ、ここはマリア室[#「マリア室」に傍点]といったところか。
岩船さんならきっと、背中に釘を打たれた地蔵の絵を飾れというだろうな。地蔵も悪さをすれば鎖に繋がれる、いい教訓さ……と依藤は思う(彼はノートの中身は読んでいないので無茶苦茶な解釈だ)。
依藤は、尋問机《テーブル》に置かれているラッパ形《がた》した花瓶に何げなく手を触れてみて、あれ、と思った。
透明な空色《ブルー》の花瓶なのだが、軟《やわ》らかいのである。
依藤はもう一度、素材を確かめるように花瓶を掴んでみた……ぐにゃぐにゃとしている。
な、何だこれは?
依藤は笑い出してしまった。
そんな花瓶って、ありか……
……コツ、コツ。
依藤は笑いを押し殺すと、はい[#「はい」に傍点]、と濁声《だみごえ》を作って返事をした。
扉を開けて入って来たのは、少年課の女性の課員であった。私服姿で名札はつけていない。
「ご苦労様です……」
深々と会釈《えしゃく》していうと、把手《とって》つきの紙コップに入ったコーヒー、砂糖、ミルク、プラスチックのスプーンなどを尋問机に置いてくれた。
「……失礼いたします」
そして部屋から出て行った。
紙コップの数は、二個である。
助かった……それ以上なら、少年課の係長か課長がおまけ[#「おまけ」に傍点]でついてくるからだ。
さらに何分かして、資料を抱え持った林田刑事が、厳粛《げんしゅく》なノックの音に続いて、部屋に入って来た。
資料の探し出しに手間取った、というより、読み返してみて、自身の捜査に落ち度がなかったかどうか、それを確かめていたのだろう。いずれにせよ、前にも増して顔が青ざめている。
その林田が席につくやいなや、
「この花瓶、すごいねえ」
と、依藤が切り出した。
「あ、それですか……」
林田もその花瓶に目をやるが、焦点《しょうてん》は定まってはいない。
「これはあれ? 少年課の三種《さんしゅ》の神器《じんぎ》のひとつ?」
依藤は、ならでは[#「ならでは」に傍点]の問いかけをする。
「ま……そんなもんです。以前は、プラスチックのを使ってたんですが、怪我《けが》しそうになりまして」
「誰が? 子供が?」
――知っていて依藤はいう。
「いえ、課員が」
「あ、ばーん[#「ばーん」に傍点]ってやられたの?」
手振りをまじえて依藤はいう。
「ええ。おとなしく、話してたのに、いきなりキレたらしくって……中学生なんですよ、それも女子。親を呼ぼうね、といったぐらいで……」
「きみたちも大変だねえ。で、これに換えたの」
「はい。これなら何やられたって、水をかぶるぐらいで、すみますから」
「はー、世も末だなあ……これじゃ、課員を増員したって追っつかないよね」
「はい……」
林田は、弱々しく返事をする。
彼は最初から少年課の課員である。
「以前はさ、少年課から捜査課、そして刑事課へと、そういった出世コースがあったんだけど、逆だよね。捜査課の中堅《ベテラン》が、少年課に廻されるんだからさ」
ここ南署では、少年課の課員は今や二十名を超えていて、交通課に次ぐ大所帯となっている。
「何年か前ですけど……少年課《わたしたち》の横に、というよりか、同じ部屋の中に、依藤係長がおられる刑事課をもってこようって話、出ましたよね」
林田が、ようやく自ら話題をふって喋り始めた。
「あー、出た出た――」
大袈裟に迎合《げいごう》して、依藤はいう。
「どうせ刑事課《おれたち》は少人数だから、どこにだって行けるだろうって、上の連中が考えそうなことよ。けど、所詮《しょせん》ふとした思いつきだったらしく、いつの間にか、立ち消えになってしまったよね」
あんな閉鎖空間《クローズ》のところに入れやがったら、俺は窒息死してやる――そう啖呵《たんか》を切ったのが、依藤の当時の真実の応対ぶりである。
「ですが、もし、刑事課の皆さんが見えるところにおられたら、子供たちに、あそこにいるのは人殺しを専門に扱ってる刑事さんだよ。これ以上悪さをすると、あそこだよ、て諭《さと》せるじゃありませんか」
切々と訴えるように、林田はいう。
「ま、それで効き目がありゃいいけどさ。少年院《ねんしょう》に入ってもすぐに出てこれるって、どうせ高括《たかくく》ってんじゃないの」
「いや、それはもう手遅れの子たちで……少年課《わたしたち》が何をやっても、駄目です」
自ら頷《うなず》いて、呟《つぶや》くように林田はいってから、
「――効き目があると僕がいってるのは、その手前の子供たち。それも、歳《とし》の若い子ですね」
依藤の顔を見据えていう。
「ふーん、それだったら、一理はあるかな。俺たちの小さい頃だと、嘘つくと閻魔《えんま》さんに舌抜かれるよ、悪いことすると針地獄だよ、火炎地獄だよ、て懇々《こんこん》といわれたもんだけどさ、最近の親、そんなこといわないもんな。だから心的な抑止というのは、確かに必要だよね」
――依藤は御《おん》歳とって四十三である。この種の地獄話を聞かされたほぼ最後の年代かもしれない。
「ですから、刑事課を丸ごとは無理だとしましても、せめてひとり[#「ひとり」に傍点]ぐらいは……て」
林田が、依藤の目をチラと覗《のぞ》き見ていう。
「あっ、それで最近、早川|課長《さん》がよく三階に来て、うろうろしてるのか?」
「ここだけの話ですが、なんでも、野村《のむら》さんを引き抜こうって、根廻ししてるみたいですよ」
極秘情報を漏洩《ろうえい》するかのように、林田はいう。
「そんな無茶なあ……」
依藤よりも一、二歳年上の野村警部補は、まさに地獄の門番のようないかつい[#「いかつい」に傍点]風貌《ふうぼう》をした、南署きっての恐怖顔《こわおもて》の刑事《デカ》である。
「……野村《のむ》さんは刑事課《うち》の屋台骨なのに、それ抜かれたらどうすんだよ。絶対に止めてやるう[#「絶対に止めてやるう」に傍点]」
その極秘情報は、依藤にも寝耳に水だったようで、目ん玉をひんむいていってから、
「いやーいい情報をありがと。きみが教えてくれたってことは、もちろん秘密にするからね。それに、漏らしてくれたって恩も、一生覚えているからね。それじゃ、金城玲子《きんじょうれいこ》さんの件を、聞かせてもらいましょうか」
と、依藤は唐突《とうとつ》に本題に入った。
「は、はい……」
戸惑いぎみに林田は頷いたが、顔色はもう普段どおりである。
依藤の雑談が功を奏したわけだが……何でもいいから話のとっかかりを見つけ(花瓶)、相手の愚痴《ぐち》を聞いてやって同情をしめし(地獄話)、そして場をやたらと盛り上げて、最後には、いったことは秘密にするから、恩は一生覚えているなどと御為倒《おためごか》しをいう……つまり、これは依藤が他者を尋問するときの常套の話法なのである。取調室の定位置[#「定位置」に傍点]に座ったため、いつもの癖が出たようだ。
「まずは、失踪の経緯《いきさつ》をざーと説明してくれるかな。大雑把《おおざっぱ》でいいよ。細かなことは後で聞くから。それに所番地《ところばんち》なども要《い》らない。三階《うえ》の|白い箱《コンピューター》で見て知ってるから」
「はい」
林田は、確かな口調で返事をすると、テーブルに広げた資料に目をやりながら、説明を始めた。
「……金城玲子さんの家出人捜索願の受理は、平成※年九月二十四日の午前で、父親の金城|由純《よしずみ》さんが所沢署に提出しています。失踪は、その前日の九月二十三日、午後です。自宅は……駅から歩いて七分ぐらいのところにある、一軒家です。最寄りの駅は、武蔵野《むさしの》線の東所沢、つまり、私立M高校の最寄り駅までは、その武蔵野線一本で通えるわけです。電車に要する時間は三十分ぐらいでしょうか……そして彼女は、失踪の当日は、部活に行くといって、午前九時ごろに家を出ています」
「うん? 部活[#「部活」に傍点]に行ったの?」
――依藤が疑問符を挟んだ。
「九月二十三日は祭日でして、学校はお休みなんですよ」
分かった、と依藤は手で合図をする。
「えー彼女は、テニス部に所属していました。ですが、もう三年生ですから、日々部活に出ていたのは、夏休みの前ぐらいまでなんです。けれど、この日はどうしたことか、ちょっと汗を流したいので[#「ちょっと汗を流したいので」に傍点]……と親御さんにいいまして、学校に行っております。ところがですね、この日の昼までは普通の天気だったんですが、午後一時半ごろに、突然、雷雨がありまして、雷と、そして激しい雨が降ったようです」
「……それを雷雨というんだけど」
小声で依藤は呟くが、目を閉じていて、腕組みをしながら林田の話に聞き入っている。
「すると、テニスのコートは戸外ですから、練習ができません。そして部員たちは室内に入り、筋トレだとか、体育館を使ってのランニングなどに、メニューが変わります。しかし彼女は、金城玲子さんは、わたしはもうそういったことはやらない[#「わたしはもうそういったことはやらない」に傍点]……と、他の部員にいって、ひとりシャワー室に向かいます」
「……え? そんないいもんがあるの」
「はい、あります。えー僕はよく知らないんですけど、依藤係長でしたら、ご存じありませんか。あの私立M高校って、かつては女子校だったらしく」
「あ、そうだそうだ。もう随分前の話だろう」
「正しくは……」
林田は、資料に目を落としながら、
「……今年で十五年になると思います。つまり、男女共学に変わってからですね。その関係で、女子の設備がすごく整ってるんですよ」
「すると、男子のシャワー室は、あるの?」
「もちろんあります。男子のそれは、新[#「新」に傍点]校舎の側にあるんです。場所を、まったく分けちゃってるんですよ。ですから、女子のシャワー室は、旧[#「旧」に傍点]校舎の方にあるんです」
「はっはーん」
依藤はひとしきり感心してから、
「俺、M高には一度だけ行ったことがあるんだけど、野暮《やぼ》用でね」
――あわや首が飛びそうになった、事件《やぼよう》であるが。
「そんときに、あそこ豪勢な門があるだろう、宮殿みたいな。その門をくぐると、目の前に白い建物が立ってたんだけど、あれは、どっちなの?」
「それは新校舎の方なんですよ」
「じゃ、旧校舎って、どの辺にあるの?」
「いやーかなり遠いですよ、あそこはすっごく敷地広いですから」
林田は少し苦笑いをしていってから、
「その、新校舎の先に、広々としたグラウンドがあるんですが、それを挟んで、ほぼ反対側に立ってるんですよ。新校舎の側からだと、もう小さな建物に見えてしまいます。そして背後に、こんもりとした緑の山がありまして、その山の裾野《すその》に立っているように見えますね。で、実際、旧校舎の方に行きますと、その校舎の裏側が、すぐ、山なんですよ」
「ほう……」
依藤にも、その情景が浮かんできた。
……生物部員たちが、首なしの幽霊が出ると宣《のたま》わっていたのは、すなわち、その校舎の方である。
「じゃあさ、その旧校舎は女子校時代の建物で、それを潰さずに、そのまま使ってるってことなのね」
「そうです。……けど、もう授業には使ってなくて、部活のための部室、専用にしちゃってました」
「あ、なるほどねえ、うまく活用してるよな。すると、かなり古い校舎だよね」
たしか……今年で五十周年だと、生物部顧問の東先生はいっていた。
「はい。ですが、女子校の建物だから、それなりにお洒落ですよ。モダン、とでもいいましょうか。何ていう形式だかは知らないんですが……たとえばですね、米国《アメリカ》のテレビアニメで、バットマン、ご覧になったことありませんか?」
「うーん、ない[#「ない」に傍点]」
少し不機嫌そうに、依藤は否定する。
「そのアニメの絵の、建物から小物類にいたるまでが、同じ形式なんですけどね」
「そんなの、見てるの?」
「ええ、衛星放送でアニメの専門チャンネルがあって、新旧やってますから……時間の許す限り。もちろん、最新の日本の漫画だって読みますよ」
「あっ、話を合わせるためにか……」
「そうです、仕事なんですよ」
少年課には少年課なりの|やり方《ハウツー》があるのである。
「あ、もっと分かり易いのひとつ思い出しました。同じく米国の映画で、ゴーストバスターズ……てありましたよね」
メロディーを口ずさみながらいう。
「それなら知ってるけど」
「その一作目の方で、わんさか悪霊がとり憑《つ》いてしまう建物《ビル》というのが、出てきたと思いますけど、その建物と同じ形式なんですよ」
な、なんてたとえを出してくるんだろうかと、依藤は思う。これこそ完璧な偶然[#「完璧な偶然」に傍点]だろうが……そうでないと、頭が変になってしまう。
「じゃ、その旧校舎にも、お化けが出そう?」
「そういわれれば……出そうですね。夜に廊下を歩くと、大人でも怖いですから。その廊下の窓の向こうが、山なんですよ。明かりが何にもありませんからね。その暗闇から、物《もの》の怪《け》が襲ってきそうな、そんな気はしますよね」
依藤は、毒を食らわば……の自虐《じぎゃく》的な気持ちで問うてみたのだが、意外や意外、参考になる話が返ってきた。あの、生物部員たちが自慢していた、骸骨模型を使った肝試《きもだめ》しも、その怖い廊下でやってやがる[#「やがる」に傍点]のである……なんちゅうやつらだ。
依藤はさらに、幽霊に関係しそうな話を聞くことにした。
「その、旧校舎だけど、夜は何時まで使えるの?」
「えーそれはですね……」
林田は、資料を探し出してから、
「まず、五時に下校のチャイムが鳴ります。が、これはそろそろ帰れといった合図で、新・旧校舎を先生方が見廻って、戸締まりをするのは、六時です。ですが、事前に届け出さえすれば、部室は夜十時まで使えるんです。各部活の代表者に、鍵が渡されまして、それを使って、旧校舎の通用口の扉から出入りします。そして夜十時に、再度見廻りがあって、そこで完全に閉じます。その通用口の扉には、鍵がふたつありまして、先生の鍵で閉めちゃうと、もう生徒の持っている鍵では開きません」
「なるほど……」
依藤は、鍵に感心していったわけではない。
その十時までの間に、つまり、幽霊話が湧いて出てくる土壌があるのである。
「で、その夜の旧校舎の、明かりのつき具合ってのは、どんな感じだった?」
「えーと……」
思い出しながら、林田はいう。
「一階はちらほらとついていて……二階は真っ暗で、そして三階は煌々《こうこう》とついてましたね。この校舎は、三階建てです」
「なぜ、そんなことに?」
「どの階に何の部活が入ってるかに、よるんですよ。一階は、体育系サークルの女子限定、と、音楽系のサークル。そして二階以上が、文化系なんですが、三階はコンピューターだとかアニメ研だとか、最近のおたく系のものがずらーと入ってました」
「はっはーん」
その、夜は真っ暗だという旧校舎の二階には、どことどこの部活が入っているのか、もう依藤には分かった。
「するとさ、林田《きみ》はその旧校舎に、夜いたことがあるんだ」
「はい、朝までいたこともありますよ。校舎の中だけじゃなく、その周辺も探索《うろうろ》しながらですけどもね。それに、僕だけではなく、瀬戸《せと》さんが一緒でした」
「あ、お辞めになっちゃった……」
「そうです。あの瀬戸[#「瀬戸」に傍点]さんです」
……定年を待たずして去年退職した、少年課の生え抜きの刑事である。そのときの可哀相な経緯《いきさつ》を依藤は思い出したが、それは胸に仕舞ってと、
「で、林田《きみ》と瀬戸さんとは、どのくらいの期間、捜査をやったの?」
聞くべきことを――聞く。
「かっきり、ひと月はやりました。ほとんど毎日のように、ふたりしてM高校に通いましたから」
胸を張りぎみにして、林田はいう。
「それだったら、逆に煙たがられなかった? 学校から」
「いや、幸いなことに、現場が旧校舎でしたから、そこは外からは一切見えませんので……でも、背広はまずいと思って、ふたりともカーディガンを着込んで、さも、先生のように振る舞ってました。もちろん、学校の許可済みですよ。そして一週間ぐらい通っていたら、生徒たちが、ぽつぽつ話をしてくれるようになってきて」
「あっ、学校で捜査をするとは、そういうことなのか?」
「そういうことなんです。職員室に呼びつけたって、子供たちは何ひとつ喋りませんから。だから刑事《ぼく》たちが、彼らと友達になるしか手はないんですよ」
「さすがだな……餅《もち》は餅屋だというけど、俺、今日で少年課を見直したよ」
それは依藤の本心であるが――
「ありがとうございます」
林田が少し剽軽《ひょうきん》に、頭を下げていった。
――少年課《かれら》がどの程度の捜査をやっていたのか、依藤としては、それを確認したかったのである。
捜査に、手抜きはなかったようだが……
「じゃあさ、金城玲子さんの足取りに、話を戻してくれるかな」
そう依藤が促すと、
「はい……彼女が、シャワー室に行った……そのあたりからですよね」
なぜか林田は、躊躇《ためら》いがちに、
「ところがですね、金城玲子さんの足取りは、そこで消滅《おしまい》なんですよ」
「ええ? そこで――終わり[#「終わり」に傍点]?」
「は、はい」
林田は、頭《こうべ》を垂れながら返事をする。
「そんな馬鹿な[#「馬鹿な」に傍点]――」
その林田の頭に、依藤が罵声《ばせい》を浴びせかけた。
……先の判断は、撤回[#「撤回」に傍点]である。
「そういわれましてもですね、シャワー室よりも先の目撃例が、ひとつも、出てこなかったんですよ」
顔を上げてから、林田はいった。
「うーん」
依藤は腕組みをして、暫《しば》し唸《うな》ってから、
「年甲斐もなくキレてしまって、怒鳴ったりして、ごめんなさいね」
……そうあやまられると、よけいにこわい。
「三階《うえ》でさ、林田《きみ》の調書を拾い読みしたときに、その結論部分が、家族関係、もしくは異性関係による家出[#「家出」に傍点]――となってたのよ」
はい、と林田は頷く。
自身で書いた調書だから当然覚えている。
「だから、それらしく家出をしたんだろうな、と俺は思いつつ、二階《ここ》に来たのね。なのにさ、いざ話を聞いてみると、彼女はシャワー室で消えた――だろう。それだったら、普通考えるのは、事故か事件じゃないのか?」
――訥々《とつとつ》と依藤はいう。
「はい、ここまでの話ですと、依藤係長のおっしゃることは、もっともであります。ですが[#「ですが」に傍点]、先の話を聞いていただけると、私どもの結論が、もちろん、瀬戸さんの結論も同じ[#「同じ」に傍点]なんですが……そのことが、理解いただけるかと思います」
「ふーん」
依藤は、またもや唸ってから、
「たとえ、俺が理解できたとしても、警察《われわれ》の中ではそれで通ったとしても――だ[#「だ」に傍点]、世間一般が納得できるような話じゃないと、この件は駄目だよ」
釘を刺すように林田にいう。
――学校の裏山に、そこの女子生徒と思《おぼ》しき白骨死体が埋まっていて、のみならず、それが首なし[#「首なし」に傍点]だったという特異な状況からして、世間が大騒ぎをするのは火を見るよりも明らかだからである。
「……駄目といいますと?」
「いや、その件は最後に話すからさ。林田《きみ》の話を、先に聞かせてくれるかな」
優しく、依藤はいったが、
「は、はい……」
林田の顔がみるみる青ざめていく。
「……では、シャワー室の情況は、後で説明いたしますので。まず、家出だと判断するに至った根拠[#「根拠」に傍点]、それを先に話させて下さい」
気丈を装って、林田はいう。
「うん、かまわないよ。好きな順番で」
依藤は、さらに優しい口調でいった。
「はい。まず……お金に関係することなんですが、金城玲子さんは、近所の郵便局に個人名義の口座を持っていまして、それは親御さん同意のもとで、高校生になってから取得したものですが、その失踪日の前日に、そこから、貯金を全額おろしてるんですよ。その金額は……五十三万八千円と、少しです」
資料を見ながら、林田はいう。
「ふーん、それはかなりの高額だね」
「はい。で、親からもらっていた、彼女のひと月分のお小遣いは、高校一年生のときが七千円、高二が一万円、高三になって一万五千円です。そして正月のお年玉が、おおよそ五万円だったろうと、親御さんはいっています。でそれを元に計算しますと、三年間無駄遣いを一切しなくて、ようやく貯まるぐらいの金額なんですよ。で、これはおかしいと、口座への入金状況を調べてみました」
「その、彼女の貯金通帳とかは、なかったの?」
「はい、自宅から消えていました。で、その入金状況ですが、彼女が失踪した当年の、一月半ばごろから、二万円を超えて、五万円弱までの金額が、ほぼ月に一回ぐらいの割合で、不定期に入金されていたんですよ」
「うわー、やばい額だなあ」
「そう、僕と瀬戸さんも思いまして、池袋署、渋谷署、新宿署……などに、彼女の顔写真を送って捜査依頼をしたんですが、結果としては、何もあがってきませんでした」
「ま、それは無理もない。だってその当時彼女は、まだ十八歳未満だろう。かりに店が使っていたとしても、絶対に喋らないから」
「そうですよね。それに、個人で営《や》ることだって、可能ですから」
「けれど、この種の話は邪推《じゃすい》だよ。――あくまでも、邪推[#「邪推」に傍点]だからな」
念を押して、依藤はいう。
「もちろんです。……それに、まっとうなバイトを、親御さんに内緒にして、やっていたことも考えられますから」
「考えられたけど、そっちも、出なかったの?」
「はい。……分かりませんでした」
「彼女の友達だとか、部活の子からの話でも、それは出なかったわけか」
「はい。それに部活の方はですね、親御さんがおっしゃるには、前にもいいましたように、夏休み以前は、平日はほとんど毎日、土日の休みも、どちらか一方は出ていたようです。で、テニス部の子たちに聞いても、彼女はほとんど出ていたといいます。この、ほとんど……つまり、少しは休んでるわけですが、照らし合わせが利かないんですよ。学校を休んでるんでしたら、すぐに分かるんですが、部活にはタイムカードというものがありませんので」
「ま、たしかにね」
――うまい説明だが、それ自体には意味はない。
「それと、お金に関係して、もうひとつあるんですよ。彼女は……えーと」
林田は資料に目を通しながら、
「失踪からほぼ十日前の、九月十二日が誕生日だったんですが、その直前の日曜日の日に、父親と連れ立って、銀座に出かけています。つまり誕生日のプレゼントを、買ってもらいにですね。そこで、金城玲子さんは、わたしは十八で[#「わたしは十八で」に傍点]、大人になりますから[#「大人になりますから」に傍点]、これを記念するものを何か[#「これを記念するものを何か」に傍点]……といって、非常に高価なものを父親にねだります」
なるほど……それがこれ[#「これ」に傍点]なわけか。依藤は、それが仕舞われている上着の左胸を、手の平で押さえた。
「それは、指輪[#「指輪」に傍点]だったんですが、なんと七十五万円もした、しろものなんです」
その指輪の感触を、依藤は確かめてから、
「そんな高価のプレゼントを、父親は毎年、買ってやってたの?」
念のために、聞いてみる。
「いえいえ、その年が、初めてのことだったそうで、父親も最初は、そんな冗談を……と思ったらしいんですが、百貨店やお店を散策《うろうろ》していて、その種の売り場に来る度毎《たびごと》に、同じことをいわれたらしくって、ついには父親も折れて、奮発して買ったそうです。で、家の人には内緒だよ……だったらしいです」
「そのお父さん、どんな仕事なさってるの?」
「はい、父親の金城由純さんは、当時、※※銀行※※支店の支店長をなさっていました」
「じゃ、金額的には、別に問題はなかったわけか」
「はい。それに元来、家もお金持ちですし」
「するとさ、そういった指輪だったら、何か記念するようなもの、彫ってもらったりするのかな?」
自らは決して核心をいい出さないのが――依藤である。
「はい、イニシャルのRと、誕生日の月日を、入れてもらっています」
「それ、その場で入れてくれたの?」
「いいえ、それは日数がかかりまして、それに宅配便というのも無理ですから、店の従業員が、父親の勤め先に……九月二十日の午後に出向いて、直《じか》に手渡しております」
資料にチラッと目を落として、林田はいった。
「とすると……」
依藤は、頭ん中で日にちを整理《イメージ》してみた……その二十日の夜、もしくは二十一日に、彼女に指輪が渡り、二十二日に預金を全額おろして、そして翌二十三日に失踪である。
「……絵に描いたような、日程表だね」
苦笑いしながら、依藤はいう。
「ですので、指輪が金城玲子さんの手元に届いたのを契機《きっかけ》として、彼女は行動に出た、と思われるんです。父親に高価な指輪をねだったのも、いざというときのための、換金が目的であったと、考えられましたし……」
いや、残念なことに、指輪は金に換えられることなく、|神隠しの森《もののけのすみか》に埋まっていた。
「……もちろん、その随分と以前から、彼女は念入りに下準備をしていたものとも、思われましたし、そのことは金銭的な面だけではなく、他の関係においても、いえるわけですよ」
「それがつまり、異性関係、家庭関係といったところだろう。どうぞ――」
と依藤は促《うなが》す。
「はい。まずは異性関係なんですが、金城玲子さんは、M高校の中には、彼氏はいませんでした。そのことは――断言できます」
「てことは、外にいたんだな」
「はい。学内のごく親しい友人に、年上の彼氏がいることを、それとなく仄《ほの》めかしていましたし、それと部活の帰りに、駅前の公衆電話から、頻繁に長電話していたのを、テニス部のほぼ全員が、見て知っています」
「……携帯《ケータイ》、彼女は持ってなかったの?」
「それがあれば記録が残ってたんですが、女子高生には、まだちらほら[#「ちらほら」に傍点]としか普及してないんですよ」
「あ……そんな頃か」
四年前といえば、確かにそうである。
「ですから、彼女はテレホンカードを、それこそ束のようにして、学生鞄に忍ばせていたようです」
「じゃ、自宅《いえ》の電話の方はどうだったの?」
「はい。記録が残っている限り見てみたのですが、あやしい電話番号は、|拾い出し《ピックアップ》できませんでした。というのも、ここの親御さんは、とくに父親ですが、そういったことには非常に厳しい人で、男から電話が入ろうものなら、それが部活の子であろうとも、絶対に取り次がないような人種《タイプ》なんですよ」
「そのくせ……指輪は買ってやるのか」
「はい、その娘さんのことは、目に入れても痛くないほど、溺愛《できあい》されていましたから」
「なるほど、その父親と娘さんの関係が、何となく分かってきたよ」
「……いえ、お言葉を返すようですが、そう単純なものでもないんです。そのことは、後《のち》ほど家庭関係の方で、ご説明いたしますから」
「はい、はい」
依藤は二度返事をした。
何だか、彼《てき》の術中に嵌《は》まりかけているようで、尻《ケツ》のあたりがムズムズしてきたからだ。林田は、けっこう話が巧《うま》い。学校の情景描写だって臨場感《めにみえるようで》があったし、依藤が住まいする三階には、ちょっと見当たらない人種《タイプ》だ。少年課《はやしだ》……あなどるべからず。
「その、自宅《いえ》の電話の件ですが、それを使って彼氏にかけると、記録が残ってしまうということを彼女は知っていて、だから使わなかったのだろう。それも、随分と前から用心して使わなかったのだろう、と僕たちは考えました」
「ふーん……家出をして、その彼氏の家にでも転がり込む予定になっていたら、それはいえるかもしれないな」
依藤は、話を合わせながらも、頭では別のことを考えている。
「じゃあさ、その金城玲子さん宛の手紙類は、何か手掛かりはなかったの?」
これは通常の捜査手順《マニュアル》だが、それを尋ねると、
「はあ……」
林田は、含み笑いのような嘆息《ためいき》をついてから、
「親御さん同意のもとに、彼女の部屋を隅から隅まで調べさせてもらったんですが、葉書封書の類《たぐ》いはもちろんのこと、年賀葉書もそうですが、住所と電話が書いてあったと思える手帳、学生手帳、学校の住所録……これにも印ぐらいは何かついてたと思うんですが、それから名刺、アルバムの写真、そういった他者との付き合いを窺《うかが》わせるような物品は、洗い浚《ざら》い部屋からは消えていました」
「うーわー」
依藤も、その話には少し驚いて、
「金城玲子さんって、それほどまでに計画性のある子だったの?」
「その、計画性について問われますと、答えづらいんですが……僕としては、計画性があるといった主張なわけですから。彼女は、私立M高校で常に三十番以内の成績であったことは、事実です」
「あ、それは頭いいわ。だって赤門《あかもん》に入《はい》れちゃうレベルだから」
「そうでしょう」
おずおずとだが、自らの主張が正しいかのように、林田はいう。
「あ、そうだそうだ」
依藤は、たった今聞いたかのように、
「その、駅前の公衆でかけてた長電話だけど、時間的には何時ごろの話なの?」
「それはですね、テニス部の場合、日が暮れると練習ができませんので、部活の延長は出さずに、だいたい夜六時には、帰っていたと思って下さい」
「だったら、夜六時[#「夜六時」に傍点]だろう。平日のそんな時間帯にひょいひょい電話をかけて、相手が捕まって、そして長電話できるとなると、対象がけっこう絞られてくるんじゃないの?」
「はあー」
林田は、うわ目で宙《ちゅう》を見つめてから、
「再々お言葉を返すようなんですが、金城玲子さんよりも年上の彼氏となりますと、携帯電話を持っていた可能性が大なんですよ」
「あっ、――くっそー、なんて中途半端な時代だ」
いかにも悔しそうに依藤はいうと、尋問机《テーブル》にがっくりと顔を伏せてしまった。
このままズルズルと彼の話法にのせられまいと、逆転を狙った問いかけだったのだが、脆《もろ》くも崩れ去った。それに時代[#「時代」に傍点]というほどの大袈裟なものでもない。あーあ、犯人が刑事に落とされていくときの気分って、こんなもんかな……とも依藤は思う。
依藤が冷めたコーヒーを啜《すす》り飲みしていると、林田が資料を漁《あさ》って、大きめの茶封筒の中から一枚の写真を取り出し、それを依藤の方に差し出した。
「これが、その金城玲子さんです」
「うわー、奇麗な女《こ》だねえ」
くっきりと目鼻立ちの整った色白の女性が、すまし顔をして写真におさまっていた。
「それは失踪の直前の、誕生日の前後に撮られた写真です。幸いなことに、彼女の交友関係が写っていない家のアルバムは、残ってましたので、そちらからもらってきました」
「テニスやってた割には、色が白いよね」
「そういわれれば、……ですが、その年の夏は、もうやってませんでしたから」
「けど、これだけ奇麗な女の子だと、学校の男子生徒がほっとかないだろう?」
「そのあたりは、瀬戸さんが男子から聞いてくれたんですが、声をかけづらい態度《タイプ》の女子だったらしく、金城さんの噂話をするといったようなことも、男子の間では、ほとんどなかったようです。陰・陽どちらの性格かと問われると、陰だったようですね」
「ふーん、その、瀬戸さんが男子から聞いてくれた、てことは、林田《きみ》は、男子からは聞かないの?」
本筋からは外れるが、素朴な疑問を、依藤は尋ねてみる。
「はい、僕は、おもに女子から聞くんですよ」
「それって、なんか取り決めがあるの?」
「あ、それはですね……」
林田がめずらしく笑顔になって、
「僕ぐらいの若造ですと、男子からはなめ[#「なめ」に傍点]られちゃうんですよ。で、女子はというと、脂《あぶら》ぎった親父《おやじ》が大嫌いときてるでしょう」
「あ、分かる分かる」
「ですので、僕ぐらいの歳なら何とか、女子から話を聞けます。で、男子はといいますと、これは瀬戸さんには悪いですが、あーいったお爺《じい》さん風体《タイプ》の人だと、ふんふんと親身《しんみ》になって話を聞いてくれそうに感じるらしくって、よく喋ってくれるんです」
「……なるほどねえ」
少年課の捜査手法《マニュアル》は、依藤の想像していた以上に奥が深い。
「実は、もう一枚別の[#「別の」に傍点]写真があるんですが、そちらも見て下さい――」
本筋に戻して林田がいうと、茶封筒の中から、その別の写真とやらを取り出して、依藤に手渡す。
「あ、こちらは全身の写真だね」
さっきのは胸から上の写真で、プロが撮ったかのように仕上がりがいい。が、こちらは素人《しろうと》写真っぽくて、しかも色がやや褪《あ》せぎみである。
「それ、ご覧になって、何か気づかれませんか?」
神妙な顔をして、林田が聞いてくる。
「うん?」
何かといわれても……どこかの繁華街のタイル張りの壁を背にして、大きな花束を抱え持った彼女が、青いロングドレスを着て立っている写真である。夜に閃光《フラッシュ》を焚《た》いて撮ったようだ。先の写真との違いといえば……髪形が、少し違うぐらいであろうか。
「その後《あと》の方の写真はですね、ざっと、二十年ほど前の写真なんです」
「ええ?」
林田は……何をいっているんだ?
「それは、金城玲子さんの母親[#「母親」に傍点]の写真なんですよ」
「ええ[#「ええ」に傍点]ー」
うっそだろう……依藤は、目を皿のようにして、二枚の写真を見比べてみる。
「後の写真は、写りが小さいですから、そう厳密な比較はできませんけど、ぱっと見たときの印象では、まず区別はつかないと思います」
依藤が、現[#「現」に傍点]にそうであった。
いや、現在[#「現在」に傍点]もなお
「母親のことを知っていた人に聞きますと、玲子さんは、まさに生き写しだと皆さんおっしゃいます」
――依藤は、写真から顔を上げ、
「それって、現在形[#「現在形」に傍点]じゃないよね?」
くせのある聞き方をする。
「はい、玲子さんの母親は、彼女が中学一年生のときに、交通事故でお亡くなりになっています」
「じゃ、その後……再婚したのか」
その継母《ままはは》との仲が剣呑《けんのん》である、どうせそんな話なんだろう、といった意味合《ニュアンス》いで依藤はいったのだが、
「いいえ、父親は再婚はしてないんですよ」
林田はいう。
「あれ? 俺どこで勘違いしてたの?」
「それはですね……僕が、親御さん[#「親御さん」に傍点]という曖昧《あいまい》な表現を使ってきたからです。すいません」
いうと林田は、深々と頭を下げる。
「あ、それかあ、そんな言葉使われたら、両親《りょうおや》が揃ってるもんと、普通思っちゃうじゃんか」
「そう……思っていただけるようにと、あえて使ってきたわけですよ」
顔をあげ、開き直ったかのように林田はいう。
「単に、ニュアンスを暈《ぼか》したかったんではなく、その言葉を使った本意[#「本意」に傍点]がありまして……この金城さんの自宅というのは、玲子さんの父親・由純さんの、ご両親の家なんですよ。当時はそのご両親が健在で、しかも現役でして、夫は上場企業の重役、そして妻が、家を仕切っていました。その妻が、玲子さんの親代わりをされていたわけで、日々の食事の世話や、学校の面談なども、この女性なんですよ……ですが、その女性《ひと》に、刑事《ぼくたち》としては引っ掛かりを感じまして、そのことは後々きちんと説明いたしますが、つまり玲子さんから見てお祖母《ばあ》さんが、継母の位置についていると、そう思っていただいて結構なんですよ。ですから、親御さん……と僕がいってたときには、父親単独ではなく、その祖母《そぼ》も含めての意味合いだったと、思っていただければ」
「それなら、分かった分かった」
依藤も怒りが治まって、
「じゃ、俺が感じてた話の中身自体には、齟齬《そご》はなかったわけだな……けど、林田《おまえ》ほんとに話術うまいよなあ。そんな単純な言葉で瞞《だま》されていようとは、俺《おら》ゆめゆめ思わなかったよ。あーあ」
依藤は降参のため息をついた。
「ですが、だましだまし話を進めていきませんと、彼女の家庭関係は説明しきれないんですよ」
「そんなに複雑なのか?」
「はい、今はまだ序楽章《プロローグ》ぐらいの状態です。では、ひと幕目を開けてみますけれど……」
いいながら林田は、資料の中から一枚を選び出すと、それを尋問机《テーブル》の依藤の前に置きながら、
「まず、この箇所を見て下さい。ご両親の婚姻届けの年月日と、そして玲子さんの出生の年月日です」
依藤も、その箇所を覗き見て、
「……あ、いわゆる出来ちゃった婚なのね」
その両・年月日の隔たりは、約半年である。
「そしてこれが、生き写しだという玲子さんの、その母親の名前です」
いうと林田は、その資料の上段を指さした。
「どれえ、……金城|玲李《れいり》さん?」
「そうです、それが母親です。混乱されるだろうと思って、この名前も今まで伏せていました」
「細やかな配慮、ありがとう[#「ありがとう」に傍点]」
厭味《いやみ》半分で依藤はいったが、実際そうである。
金城玲李と金城玲子とでは、木[#「木」に傍点]があるかどうかの差だ。ぼーと見てたら、あぶない。
「けど、親の名前からひと文字もらうっていうのは、そうめずらしことではないよな」
「はい……ですが、これは鑑識の岩船さんがおっしゃってたことなんですけど、男子の場合には、確かによくあるケースですが、女子の場合は、意外と少ないそうです。どうせ他所《よそ》に嫁ぐのだからと、流行《はやり》の名前をつけることが、多いようです」
「ッ……岩船さん物知りだなあ」
依藤は舌打ちしてから、その岩船の爺《じい》さん顔を思い浮かべながらいった。
「で、娘の玲子さんの名前の由来ですが……それは聞くまでもなかったんですけど、何げなく尋ねてみましたところ、これは父親の発案ではなく、母親の玲李さんの、たっての希望だったらしいんですよ。子供が生まれたなら、わたしの名前からひと文字つけて下さいね……身重《みおも》のときから、そうおっしゃってたそうです」
「それ――重要《ポイント》?」
「そうです、かなりの傍証《ポイント》だと思われます。だって、父親の由純さんからだって、ひと文字とってもいいわけですから」
「なるほど……ッ」
林田が、先々どんな話をふろうとしているのか、もう依藤には読めた。証拠あるんだろうな――と凄《すご》みたくも思ったが、彼の論述と話術には、もはや勝てそうな気がしない。
「で、次はですね、母親の玲李さんの方の家庭関係なんですが、まず、彼女の旧姓が……正確にどう発音するかは定かではありませんが、そのまま読んで、温玲李《おんれいり》さんなんですよ」
「あ……大陸《あちら》の人か」
林田が手にしている資料の中に、中華人民共和国[#「中華人民共和国」に傍点]の文字があり、それが依藤にも見えた。
「そうです。その温玲李さんは中国人だったんですが、玲李さんのお祖父《じい》さんにあたる方が、日本人なんですよ。戦前に、満州鉄道に関係して中国に渡られ、現地の女性《ひと》と結婚され、そのまま向こうに住まわれたということです。そして、お孫さんである彼女に、日本でもそこそこ通用しそうな名前を授け、そして幼いころから日本語を学ばせて、成人《おとな》になったら絶対に日本に行くんだよ、と懇々といわれ……実際、彼女は二十一歳のときに、就学ビザで日本に来たわけですよ」
「ふーん」
依藤は、その林田の名口調に聞き入ってから、多分に脚色もあるのだろうが、それも許して、
「するとさ、その温玲李さんは、日本に行ったならば、絶対[#「絶対」に傍点]に日本人の男と結婚しようと、考えていたわけだな」
結論部分をいう。
「そうだと思われます。向こうの家族も、それを覚悟の上で日本に行かせたんだと思います」
「読めてきた……読めてきたぞう。なんなら俺が、その話の先を推理してやろうか?」
茶目っ気をだして、依藤はいう。
「あ、いいですよ」
「そういった場合にはだ、ただ|柔順に《おとなしく》学校に通っていても目的は達せないよな。学生男子には生活力はないし、それに将来の見通しもない。だから相応《ふさわ》しい男を探すべく、彼女は夜のバイトに出る。当然、生活費の足しにもなるからね。が、その彼女の奇麗さからいって、※※|界隈《かいわい》にあるいかがわしい無国籍バーで働く必要もない。それに紳士《まとも》な男はそんな店には寄りつかない。さらに日本語も達者だとすると、その当時で考えられる繁華街《スポット》といえば……」
依藤は考えるふりをしてから、
「ずばり、六本木[#「六本木」に傍点]」
「……おしいですね。赤坂だったんですよ」
「そっかー、みっつにひとつぐらいだろうと思ったんだけど、その写真[#「写真」に傍点]じゃ無理だよな。壁しか写ってないんだから」
花束を抱えて立っている、温玲李[#「温玲李」に傍点]の写真である。
「……ですが、これは実際、彼女が当時働いていたクラブの、前の路上で撮影してるんですよ」
「てことはだ、そのクラブにも、林田《きみ》は行ってみたんだな?」
「はい。行きました」
凜々しい刑事の顔になって林田はいう。
「――えらい。娘さんの失踪なのに、その母親の過去にまで溯って捜査してるんだから、立派です[#「立派です」に傍点]。この件、もめたとしても、俺が最大かばってやるよ」
依藤も、刑事課の係長の顔になっていう。
「ありがとうございます。……ですが、ここから先の話は、さらにいっそう驚かれると思いますよ」
そう林田はいうが、一連の最終的な結末があの首なしの白骨死体であることを思うと、それは微々たるものであろうと、依藤は思う。
「……が、行ってみましたところ、そのクラブは潰れていたんですよ。当時で、約五年ほど前にですね。なんですが、跡《あと》に入っていた店の従業員が、かつてのクラブの店長が今どこにいるのかを知ってまして、あっさりつかまりました」
「あ、赤坂っていうのは、店のはやり廃《すた》りが比較的ゆるやかなんだな」
「幸いでした。で、そのクラブの店長は、当時は雇われだったんですが、そのときには小さなショットバーを、やはり赤坂で、自ら営《や》られていました」
うん? 幸いでした[#「幸いでした」に傍点]……その言葉はいかにも意味ありげだなと、依藤は思う。
「そして、この店長に話を聞こうと……温玲李さんの名前を出すよりはと、写真の方が分かりやすいだろうと思って、この同じ写真を見せたんですよ。そうしますと、店長の顔が真っ青[#「真っ青」に傍点]になりまして」
「……どうして?」
「何でも、その年の冬[#「冬」に傍点]に……ぼくたちが捜査をしていたのは十月ですから、その約十ヵ月ほど前ですね。そのある日の夕方に、店長がひとりで仕込みをやっていたら、玲李さん本人が、その店に訪ねて来たというんですよ」
「んな馬鹿な。だって彼女は交通事故でしょう」
と、依藤はいってから、
「――娘さんの方が来たのか[#「娘さんの方が来たのか」に傍点]?」
事《こと》の様態に気づいていう。
「絶対[#「絶対」に傍点]そうとしか、考えられませんよね、ねえ依藤係長?」
そう念を押されたって、そうだといいきれる自信は、依藤にはない。
「けど[#「けど」に傍点]、その店長、そんな度外れた勘違いする?」
「ですから、僕は最初に、二枚の写真をお見せしたじゃありませんか」
「あーあー……勘違いする[#「する」に傍点]」
依藤としても、それは納得せざるをえないが。
「その、玲李さんがクラブで働いていたのは、一年に満たなかったそうなんですよ。彼女が二十一歳のときの、一年弱ですね。そのときの玲李さんしか、店長は知らないんですよ。かたや娘の玲子さんは、当時は十七歳で、もう外見は大人ですから……それに、店に現れた女性[#「女性」に傍点]も、その写真のような青い服を着てたらしいんですよ。その青いドレスというのは、クラブでの玲李さんの定番服だったようで、だからよけい見分けがつかなかったんだと、思うんですけどもね」
「で、その店長が真っ青になったとは?」
冗談いってるつもりは、依藤には毛頭ないが。
「それはですね……」
林田は少し苦笑いをしてから、
「間違いなく、娘の玲子さんが訪ねて行ったと思うんですが、その彼女を見た店長は、やーレリちゃんすっごく久しぶりだねえ……店では、レリさんと呼ばれていたそうです。が、そう声をかけた次の瞬間、あることを思い出したらしいんですよ。というのも、その店長の奥さんになっている人が、かつて玲李さんがクラブにいた当時に、一緒に働いていた女性で、その奥さんが新聞で見つけて、この金城玲李さんとという女性《ひと》、あのレリちゃんじゃないの、交通事故で亡くなってるわよ、こんな稀《めずら》しい名前はそうそうないし、それに年齢も合うじゃない……と、店長《だんな》に話したことがあったらしく、そのことを思い出したそうなんですよ。と同時に、目の前にいる彼女が、年齢的に合わない、といったことにも気づいたらしく……で、目の前が真っ暗[#「真っ暗」に傍点]になったようで」
さらに笑顔を見せて林田はいう。
「そっか……彼は幽霊だと思ったんだな」
依藤にとっては、むしろ笑い事などではないが。それに、幽霊、この言葉だけはいうまいと心に念じておったのに……林田にいわされてしまった。
「その店長いわく、ブラックアウトしたとおっしゃっていましたが、そして気がついたら、その彼女はもう、店からは消えていたそうです」
「すると、赤坂だったということが幸いして[#「幸いして」に傍点]、彼女も、その店を探し出すことができたってことだな、いいたいのは[#「いいたいのは」に傍点]?」
「そうです。娘の玲子さんも、僕たちと同じ道筋《ルート》を辿《たど》ったんだと、しかも、同じことを聞きたくてと、そう考えるしかないでしょう。それに母親が、ある程度は夫婦の馴れ初《そ》めを、彼女に話していたとも思われますし」
「じゃ、父親は、話してはなさそうだったの?」
「ええ、あの雰囲気ですとまず[#「まず」に傍点]……それにこの写真だって、父親が密かに隠し持っていたものを、頼み込んで、複写《コピー》させてもらった写真ですから」
カラープリントから直接カラープリントに複写できる機械が、鑑識課にはある。
「――でだ、さらに幸いなことに、といっていいかどうかは分からんが、店長ブラックアウトしてたから、その店に現れた彼女には、何も喋ってないんだな?」
「はい。何も話されていません」
「すると、再度、その店に彼女が――娘さんが訪ねて来る可能性があったよね」
「はい、僕たちもそう思いまして、店からの帰りぎわに瀬戸さんが……是非《ぜひ》ご一報を、といったようなことを」
「うん? 今、話はしょら[#「はしょら」に傍点]なかった?」
バレたか――そんな子供じみた表情を林田はしてから、
「これは本筋とは関係ないんですが、僕たちは、その店長の勘違いを正してないんですよ。だから一報をお願いするときも、瀬戸さんが、その死亡記事は同姓同名の可能性がありますよ……などと、ごまかしたんですけどね」
「なんでまた?」
「それは、幽霊が出たんですーと店長が青ざめてらっしゃったので、それはたぶんですねーと僕が説明しかけたら、喋るな……と瀬戸さんが、目で合図されたのが、そもそもの始まりなんですよ」
「なんでまた?」
「いや、それは瀬戸さんには瀬戸さんなりの閃きがあったからで、僕には後で教えてくれましたけど。そのまま、幽霊だと店長が怯《おび》えていてくれた方が、話を聞き出しやすい、そんな骨子《こっし》でしたかねー」
「少年課《おまえら》……えげつない捜査するなあ」
さすがに、依藤も呆《あき》れはてた顔で。
「……すいません。僕たちよく子供っぽいことを閃くんですよ。日常つき合ってるのが、子供でしょう、だから頭の中まで感化されちゃってるんですね。そんなことは、さておきまして、結果、その瀬戸さんの閃きが功を奏してか、その当時のことを店長は必死に思い出してくれました」
依藤は、なおも呆《あき》れているが。
「それによりますとですね、店長が覚えていたのは、名前と顔、そして職業などを一致して思い出せたのは、やはり金城さん……金城由純さんぐらいしか、いませんでしたね」
「それは、金城さんが、彼女とは最も親しかった、つまり本命[#「本命」に傍点]だったということ?」
「いや、それがそうでもないんですよ。その玲李さんがおられたクラブの客層は、大半が背広《スーツ》姿の|勤め人《サラリーマン》だったそうで、だから今となっては、区別つかないというんですね。それに店長の今の店はショットバーですから、そのクラブの客との接点もほとんどありませんし。なのに、なぜ金城さんを覚えていたかというと、それは幾つか理由があるんですが、まず金城さんのお顔立ちが……いくぶん個性的なお人であられまして」
分かった、と依藤は仏頂面《ぶっちょうづら》で合図をする。
「さらに、そのクラブの売上の預け先が、金城さんがお勤めになっていた銀行だったんですよ。当時、由純さんは、その赤坂支店におられて……クラブの直接の担当者ではなかったんですけどもね。そして玲李さんが、店をお辞《や》めになるときに、わたし金城さんと一緒になるのよーと嬉しそうにおっしゃっていたのを、覚えてられたから……なんですよ」
「だったら、そのラストシーンは、すごく幸せそうじゃない」
「……はい、玲李さんにとっては|幸せ《ハッピー》だったと思いますよ。けれども、店長がひとつとっても重要なこことを思い出してくれました。それは同じ理由で、玲李さんを何度か諭《さと》したことがあったそうです」
「……諭したあ?」
「はい。店長こんなふうにおっしゃっていました。あなたほどの奇麗な女性《ひと》なら、そこまでして客と寝なくたって、いくらでも稼げるのに……て」
「うわー、ふたまたみまたの程度《レベル》でも、なかったわけね」
「そうだった……みたいですね」
こんなに若くて奇麗な女《こ》が……と、その温玲李の写真に依藤は目をやった。花束を抱えた彼女は笑みをたたえ、邪気《あどけ》ない顔をしているではないか。店を辞めるときの撮影《ワンカット》かもしれない。林田の話は嘘ではないかとすら思えてくる。その話と彼女の表情とが、写真《それ》を見ていても合わさらないからだ――
「あ――」
依藤は顔をあげ、大口を開けたままで暫《しば》し押し黙ってから、
「そうか、先に子供を作りたかったんだな」
――むごい真実に気づいた。
「僕も、そうではなかったかと思うんですよ。結婚を迫れますからね。就学ビザの期限内に、すみやかに目的を達するには、それが一番の近道だと考えたんではないでしょうか」
「それに……今」
依藤が、少し虚《うつ》ろな表情で、
「俺の頭ん中で、その母親と娘さんとが、完全に重なっちゃった。姿かたちだけじゃないよ」
「あ、それは僕も以前に感じました。なにか、いったん物事を決められると、貫徹される性格なのかもしれませんね。おふたりとも……ですね」
「ふうん」
依藤は腕組みして、鼻から大きく嘆息《ためいき》を漏らしてから、
「するとだ、望みがかなって妊娠に気づいた彼女は、つき合っていた男たちに手当たり次第、結婚を迫ったってこと? その中で金城さんが了承《オッケー》したということ?」
――それは林田に尋ねているわけではないが。
「もうそのあたりになってきますと、想像の域をでませんですよね。それに金城さんとしても、これほど奇麗な女性《ひと》ですから、嫌々だったってことは決してなかったと思われますよう」
「けど、子供が可哀相じゃないか」
「なんですよね」
――林田は、伏し目になって何かを考えてから、
「その娘の玲子さんが、どう思われてたかっていいますと、金城さん家《ち》ではひと言も出ませんでしたが、親戚で話を聞くと、あの娘さんは由純さんとはまず血は繋《つな》がってないと思います……皆さん口裏を合わせたかのようにおっしゃったから、刑事《ぼくたち》の方が驚いちゃったぐらいですよ。あれ、あっさり警察《われわれ》に喋っちゃうぐらいだから、それぞれの家庭で日々話題にしてるんですよ。それは思っていても口に出していっちゃ駄目なのに――子供が聞いているんだから。あ、今の話は絶対にいっちゃ駄目よ、そんな都合のいい命令、子供に守れるわけがない。そして従姉妹《いとこ》関係ってのがありますからね、自動的に、玲子さんの耳にだって届いちゃうわけですよ」
子供の目線にたって、林田はいう。
「けどさ、娘さんの本当の父親が、その金城さんであった可能性もあるだろう?」
「うーん……」
林田は、その童顔のままで暫し押し黙ってから、
「ですが、あの、ひと文字とってねという玲子さんの名前の由来のことを思いますと」
「あ、そうか、あそこそんなに深いポイントだったんだな……」
「だからもう僕の空想ですけど、母親の玲李さんとしては、父親が誰なのかは分からなかった可能性の方が大だと思いますよ。ですから――自分の子[#「自分の子」に傍点]なんですよ。表現は出鱈目《でたらめ》ですが、そしてすごく失礼な話なんですが、クローンですね」
生き写しなのだから、そういったことにもなる。
「もちろん、本当の父親が誰なのかを玲李さんが知っていた可能性もありますよ。そして玲子さんが大人になったら、そのことを話そうと思っていたのかもしれません。ですが……交通事故ですからね」
その機会《チャンス》は、おそらくなかったのであろう。
「じゃ、そういったことをさ、金城さん家《ち》としては、白黒を決着《はっきり》させようといった、そんな試みは過去になかったの?」
「ええ、なかったようです。というよりか、この種の話は禁忌《タブー》だったみたいですね。父親が娘さんのことを溺愛されていましたから、それで押し通していたようです。ちなみに、血液型は両親ともにA型で、そして玲子さんもA型でしたから、その点では問題はなかったんですけどもね」
あ! 依藤はあることに気づいた――
「玲子さんは、たしか独りっ子だよね」
「はい」
「じゃ、その母親の玲李さんの方は、両親だとか兄弟だとかは、日本にいるの?」
「えーそれはですね、現在は知りませんが、その玲李さんのお葬式のときの話によりますと、彼女の親族はひとりも、お見えにならなかったそうです。それは彼女が、国から夜逃げしたような状況だったので、他の親族への締めつけが相当厳しかったようですね。これもあくまでも邪推ですけど」
――|案の定《まずい》、白骨死体のDNA鑑定に手間取るではないか。父親はあてにならんし母親は死亡、ならば、誰かが大陸《あそこ》まで血液《サンプル》もらいに行く? それとも宅配便? それが可能であっても時間がかかりすぎる。これは岩船さんに知恵を借りるしかない。
「家庭関係が、まだ少し残っているんですが」
――考え事が終わったと見えてか、林田はいう。
「まだあったのか……」
依藤としてはもう十分であり、心も相応に痛んだのだが、聞かないわけにはいかない。
「……どうぞ」
「はい、親御さん、つまりお祖母《ばあ》さんの方の話ですが、もう簡単にいたしますね」
そんな依藤の表情を察してか、林田はいう。
「さて、一番最初に金城さんのお家を訪ねたときのことですが、もちろん、僕と瀬戸さんは何も知らない白紙の状態ですよ。で、参りますと、父親の由純さんは半泣きの状態であられまして、あの子にもしものことがあったなら、僕は生きていけない……そんなご様子だったんです。で、そのお祖母さんはといいますと、その由純さんに輪をかけて、取り乱したご様子だったんですね」
そこまで喋って、林田は依藤の顔を見やる。
「なるほど、演技過多《オーバーアクション》だったんだな……」
「もちろん、そのときには気づきませんでしたよ。お孫さんのことを物凄く心配されてるんだーと真面《まじ》にうけとりました。けれど、そういった複雑な家庭環境であることが刑事《ぼくたち》にも徐々に分かってきまして、そして何日かに一度ぐらいは、捜査の進捗《しんちょく》状況をご説明しに、家にお伺いするじゃありませんか。すると初日のような取り乱し方は、もう皆さんなさいませんよね。そうしますと……素《す》が見えてくるんですね」
おっしゃる通り、と依藤も顔でいってから、
「雰囲気はもう十分に伝わったけど、何か決定的なことでも、そのお祖母さんはいわれたの?」
「はい。ですが、これはあくまでも話の流れの中でおっしゃったことで……こちらも、その種のことを聞きたくて話題ふってますからね」
――すなわち、誘導尋問であるが。
「そのお祖母さんはふと[#「ふと」に傍点]、これで息子も再婚してくれたら……といったようなことを」
「あ、そうか、かつての妻と同じ顔をした娘さんがおられたんだものな……」
「それに、皆さんまだお若くてですね、そのお祖母さんは六十代前半だったし、それに息子の由純さんは当時四十二歳でしたから、金城家としても、まだやり直しが利《き》きそうだったんですよ……」
依藤もその彼とはほぼ同《おな》い歳で妻と子もいるが、やり直しが利く……それは実感としてある[#「ある」に傍点]。
「で、ひと月近くも経ってきますと、そのお祖母さんに、安堵《あんど》の表情、とでもいったようなものが」
「安堵?」
「いや、捜査が進展してませんでしたから、それをご説明したときに、そういった表情をふと[#「ふと」に傍点]。けど、このお祖母さんは決して悪い女性《ひと》じゃないんですよ。言葉使いも、物腰も、穏やかーな感じの方でしたし。だから娘さんにも、優しく接しておられたんだとは思います。が、お心の内を察しますに……玲子さんは家の跡取りだったですからね、それが血の繋がりがなさそうで、そのうえ国まで曖昧《あやしい》となると……しかも親戚一同、そういった目で見てるわけですから。かたや、玲子さんの方も間違いなく、同種のことを感じられていたはずで、そしてそのおふたりが、家で生活をなさっていたわけですから」
「あ、男たちは家にはいないのか」
「実際、そうなんですよ。朝はおふたりとも、それぞれ別の車が迎えに来まして、帰宅は何時になるか分からないし、そして休みの日はゴルフだというのが、父親とお祖父《じい》さまの、お仕事でしたから」
「じゃ、彼女の唯一の味方であった父親も、夕食を一緒にすることすら、儘《まま》ならなかったんだなあ」
「その……父親ですけどもね、これも見方を変えますと、彼女にとっては重荷[#「重荷」に傍点]だったはずですよ」
「重荷……とは?」
「だって、亡き妻の面影《おもかげ》を子供《じぶん》に重ねられたって、玲子さんは別の人格なんですからね。で、再々いいますが血の繋がりはなさそうなので、だから父親のそういった溺愛が、どの種の愛情なのか、彼女には判断つきかねたと思いますよ」
「あ……そうなっちゃうか」
依藤は、よからぬ空想が頭を擡《もた》げようともしたが、即座に打ち消した。
「母親の玲李さんがおられたときは、それでも何とかやっていけたんだと思います。けど、その要《かなめ》の石ともいうべき人が消えてしまうと、玲子さんの身の置き所が、心の置き所ですけれども、それがあの家にはなかった……僕には熟《つくづく》そう感じられました」
「――以上?」
「はい、家庭関係が以上ですから、家出の根拠としてご説明すべきものは、以上であります」
「うん」
依藤は頷いてから、
「――分かりました。俺も、同じ結論に達したから。異性関係のところが希薄だけど、それは二次的な話だしね。お金の持ち出し方と、それにこのお家[#「お家」に傍点]のことを考えると、家出以外には想像つかないよね」
……金城玲子は家出[#「家出」に傍点]をした、もしくは家出しかけたのは事実であろう。が、それのどこをどう間違って白骨死体《あそこまで》になったのか、今の依藤にはそれも想像がつかない。
「それに、金城玲子さんは十八歳の誕生日を過ぎてられましたからねえ」
――林田がいった。
「確かに、児童福祉法上でいう保護[#「保護」に傍点]の義務[#「義務」に傍点]はないよな。あちらは十八歳未満だからね。けど、少年法上では二十歳未満だろう」
「そんな|本音と建前《ダブルスタンダード》、わざとらしく持ち出さないで下さいよう」
林田がめずらしくムッとした顔で、
「少年課《ぼくたち》はいっつもそこで泣かされてるんですから、少年法上の保護[#「保護」に傍点]の場合はですね、将来罪を犯し又は刑罰法令に触れる行為をする虞《おそ》れのある少年――てそんな条文になってると思いますよ」
――真気《むき》になって捲《まく》し立てる。
もちろんそれは依藤も知ってはいるが、世間様《マスコミ》がどう|判断なさる《いちゃもんつけてくる》かは、また話が別である。
「それに、たとえば二十歳未満は禁酒――これを徹底させたら店が随分と潰れますよ。まずもって大学の新入生歓迎コンパが開けないんですから。同じく馬券の購入禁止を徹底したら、中央競馬会の売上が確実に減りますからね」
ともに……真実である。
「十八歳を過ぎたら大人、それが日本国民の本音《スタンダード》です。これに法律を統一していただけないのであれば、僕らがいる少年課を、児童課に変えさせて下さい」
それは依藤|如《ごと》きに、どうこうできる話ではないが。
「それに彼女の件とは無関係ですが、この十八歳を超えて二十歳未満のところに、一番悪質な子たちがいるんですよう。これを外してさえいただければ」
林田はそこまで喋ると、壁にかかっているマリアがイエスを抱いている絵の方を指さして、
「少年課は、こういった本来の姿に、戻れると思うんですよ」
――なかなか含蓄《がんちく》のあることをいう。
依藤は、そんな林田の理想《ゆめ》と愚痴《げんじつ》をひととおり聞いてやってから、
「でさ、この金城玲子さんの家出人捜索願の件は、上[#「上」に傍点]が、打ち切りをいい出したの?」
「はい、僕がご説明してきたような一連の話を、申し上げたところ、上が……つまり係長と課長が印章《ハンコ》押されまして。もちろん、所定の手配の手続きはいたしましたが、なにぶん優先順位がそう高くはありませんでしたから、それにご存じだとは思いますが、何万人という家出人の数ですから、後は……」
そういった場合、警察の本音からいわせてもらえれば……運がよければである。
「けど、それじゃ親御さんが納得しなかっただろう、もちろん、父親の方だけど?」
「はい、ですが……面と向かって、捜査は打ち切りました、なんていえないでしょう。ですから、やんわりとご説明したんですが、そうしますと、瀬戸さんの携帯電話の方に督促《とくそく》がかかってくるようになりまして、それも毎日のように……瀬戸さんがずーと謝っておられました」
そこまで喋ってから、林田は何かを思い出したようで、
「えー捜査打ち切ったのは十月の末ですよね。でーだから……つまり[#「つまり」に傍点]、その年の年末まではそういった状態だったんですよ。ところが年を明けましたら、その父親からの督促電話がピタリと止まりまして、逆に、瀬戸さんの方が心配されまして、どうしようかーと僕にも聞かれたんですが……」
「で、どうしたの?」
依藤が尋ねても、林田は|半開きの《がーといった》口のままで応えようとはしない。それは藪蛇《やぶへび》だから、何もしなかったに決まっている。
が、父親からの電話が突如止まった――それはそれで、依藤としては少し気になるところではある。
「じゃ、あともうひとつ話が残ってたよな」
――彼女が失踪した、シャワー室の経緯《いきさつ》である。
「その前に、ブレイク」
と依藤が立ち上がった。
「あ、飲み物を新しく用意いたしますよ。少年課《へや》の中に冷蔵庫がありますので、好きなのおっしゃって下さい。ひととおり揃ってますから」
――至れり尽くせりだ。もちろん署の職員のためではなく、子供たちのためにであるが。
依藤は、鳩尾《みぞおち》あたりを手で押さえてから、
「じゃあね、ミルクある?」
試しに聞いてみる。
「ありますよ、どちらにします?」
「え、どちらとは?」
「温かいのと冷たいの、両方できますけど」
「じゃ……ホット」
※
少年課の廊下にも|手洗い《トイレ》はある。だが、そこは主に少年少女用なので、依藤は一枚扉をくぐって通路《そと》に出ると、エレベーターの裏あたりにある手洗いで用を足してから――取調室《へや》に戻った。
尋問机《テーブル》の上にはマグカップに入った温牛乳《ホットミルク》が置かれてあった。電子レンジで|温めた《チンした》ものらしい。
こんなの飲むの何年ぶりだろう……依藤は思いながら、そのカップの縁に口をつけた。
「さっそくですけど、まずこれを見て下さい」
林田がいうと、一枚の見取り図を差し出した。
「あ……シャワー室ねえ」
一本の廊下を挟んで、その左右にずらーと四角い区画が並んでいる。
「たくさんあるんだな……」
羨《うらや》ましそうに、依藤はいう。
「えー片列《かたれつ》に、十二並んでますから、全部で二十四ですね」
「これ……一個一個は、どの程度の個室なの?」
「それはですね、米国《アメリカ》の映画によく出てくるような形式《タイプ》なんですが、全扉《クローズ》ではなく、真ん中だけがある、半扉《はんとびら》とでもいいましょうか」
「あーあれか、隠すとこだけ隠すという扉《ドア》ね」
「そうですそうです。だから足元が隙《す》けてますので、しぶきが外に出ちゃうからと、廊下には簀子《すのこ》が敷かれてましたね」
――簀子《それ》は和風であるが、おおよその雰囲気は依藤にも分かった。
「そしてですね、こちらが、そのシャワー室がある旧校舎の一階の図面です」
――依藤に手渡された。
が、線があちこちに引かれ、細かな数字がいっぱい書き込まれてある。
「これは……俺には立体化《イメージ》できないな」
「設計士さんの図面ですから、素人《ぼくら》には分かりづらいですよね。だから口で説明しますけれど……まず正面玄関[#「正面玄関」に傍点]、建物のほぼ真ん中にありますよね。それがグラウンドの方を向いています」
「あー、このちょっと出っ張ったやつね」
「そうです。で、その正面玄関から入りますと、廊下が三方向に延びてますでしょう。左と右、そして奥……その左と右の廊下、これに沿ってある教室が、すべて、女子限定の部室になってるんですよ」
「ほう……けど、奥の廊下を行っても、たくさん部屋があるよね?」
「そちらは、音楽系の部室にしてるんですよ。声楽《コーラス》部、吹奏楽団《ブラスバンド》、ギター部、マンドリン部……ひととおり揃ってましたですね。それに邦楽部もあるんですよ、主に琴ですが、女子校の名残《なごり》ですね。続きに茶道部と花道部もあって、畳の部屋がある関係です。もちろん、|流行り音楽《ニューミュージック》系も入ってます。いずれにしましても、正面玄関を入って真っすぐ行くぶんには、支障ないんですよ。が、左と右は女子限定ですので、その廊下のとっかかりの床上《ゆかうえ》に、これより先/男子禁制――の看板が立ってます。この決め[#「決め」に傍点]は厳しくてですね、たしか退学だったと思います」
「ほう……」
その罰則の厳しさに、依藤は少し驚いてから、
「けど、そんな看板ぐらいで、守られるの?」
「えーこの決めで退学になった男子は、過去ひとりもいなかったそうです。実は、その看板の以前に、別種の決めごと[#「決めごと」に傍点]がありまして……この左右の廊下というのは、簡単に見通せるわけですよ。けれど、男子は真っ正面に顔を向けて、そそくさと通り抜ける。それが、ここの男子生徒のマナーなんですね」
マナー……行儀作法という意味だろうか?
「そんな言葉が、今どきの学校に生きてるの?」
「えー、かつては女子校だったでしょう。ですから様々な掟が[#「掟が」に傍点]、男子には課せられてるわけですよ。それを守らないと、ここでは生活できないんですね」
「あ、そうか……嚊天下《かかあでんか》の学校なんだなあ」
「まさにその通りなんですよ。清く正しきM高生活を全《まっと》うするための男子マナー集なる小冊誌《パンフレット》が、ある種の地下出版物として出ておりまして、それを読ませてもらうと、もう……」
男子《おとこ》にとっては、居心地の悪そうな学校だ。
「……で、ですね、その右の方の廊下をずーと行っていただきますと、左に直角に折れますよね、その先のゆきどまりにある区画が、女子のシャワー室です」
「あ、これねえ……」
それは、建物全体の隅っこにあるという感じだ。
「あれ、ちょっと待てよ……その手前にさ、小さな階段があるじゃない。男子が二階《うえ》から、下りて来れるんじゃないの?」
「いえ、それは今は塞《ふさ》いじゃってるんですよ。二階から三階へは生きてるんですけどもね」
「なんだ、消防法じゃひっかかりそうな話だな」
南署《うち》は……関係ない。
「その、シャワー室の斜め前に、小さな区画がありますでしょう。そこは、保健室なんですよ。ですからま……そこが最後の砦《とりで》、とでもいったようなものでしょうか」
「じゃ、そこには常に、誰かおられるのね?」
「そうです。シャワー室が使用可能な時間帯は、女子の保健の先生が、必ず、ひとりはおられます。それに、その保健室の扉《ドア》も常に開けておられまして、シャワー室の中までは覗けませんが、廊下を通る人は見えるようになってます。それと、シャワー室で大きな物音や、悲鳴があった場合など、聞こえるようにされてるわけですね」
「ほうー、けっこう良く考えてるよな……」
「そう思われるでしょう。ところが[#「ところが」に傍点]……意外と盲点があるんですよ」
「どういった?」
「体育会系の女子の何人かから、話を聞いてみたんですが、部室から着替えなどを持ってシャワー室に出向き、そしてシャワーを浴びて、部室の中に戻る。その間に誰ひとりとして出会わない……そういったことは、間々あるそうなんですね」
「えー、だって、こんなにたくさん部室が並んでるのに?」
「そこに女子《ひと》がいて騒々しいのはですね、部活の開始時と、終了時だけなんですよ」
「あ、体育会系だから皆一斉に外に出ちゃうのか」
「そうなんです。だから、その間《あいだ》の時間帯というのは、ここは無人地帯《がらんどう》なんですね。それに保健室の先生だって、そう四六時中、廊下を見てるわけでもありませんから」
「なるほど[#「なるほど」に傍点]……」
依藤は、林田が自らを弁護する話を先にふったんだと、分かった。有無をいわさぬ例を先出ししとくというのが、彼の話術の得意技《パターン》だからだ。あの二枚の写真のように。
「少し話は変わりますけど、右の廊下ではなく、左の廊下でしたら、文化系の女子限定という部活が、数は少ないですが入ってるんですよ」
「あ、そっち側だったら女子《ひと》はまだいるわけか」
「だから、そういった部活を右にももって来れば、幾らかは安全性が高まるんでしょうけど、いかんせん、文化系だからシャワーは使わない、だから遠い場所、そんな基準でしたのでね」
「これも余談だけど、その、文化系の女子限定って、どんな部活があるの?」
「えー僕の記憶ですと……占いだとか、星占いだとかをやっていた部活が、たしかそうでしたね。正確なサークル名は覚えていませんが」
「まあ、それは男はやりそうにないな」
「――では、金城玲子さんの足取りですが、時間がはっきりしてるところから溯りまして」
「いや、その前にちょっと」
林田を制して、依藤としては先に聞いておきたい用件がある。
「この旧校舎って、すぐ裏が山なんだろう」
「はい」
「その裏山との間の柵《フェンス》は、どの程度のものが設置されてあるの?」
「うーん……」
うわ目になって、林田は思い出してから、
「僕の覚えているかぎりでは、そういった柵《さく》や塀《へい》の類《たぐ》いは、ありませんでしたね」
「そ、そんな物騒な。――だったら、その裏山から不審者が侵入してきて、それこそ女子のシャワー室にだって行けちゃうよ?」
「ええ……」
次は下を向いて、林田は暫し沈思[#「沈思」に傍点]してから、
「――こう考えるのはいかがでしょうか。その裏山それ自体が柵《フェンス》であると」
「ええ? 山があ?」
「だってですね、依藤係長もM高に行かれてご存じだと思いますが、立派な門を挟んで、左右に塀が連なってましたでしょう……あの塀[#「塀」に傍点]、そんなに高い塀ではなかったと思いますよ。それに忍返《しのびがえ》しのような無粋《ぶすい》な刺《トゲ》も、ついていた記憶ありませんし。ですから、もし、学校に侵入したいのであれば、あの裏山から来るよりは、その塀を乗り越えた方が、てっとり早《ばや》いと思いますよ」
それが、彼の沈思の結論である。
「あ……」
いわれてみればその通りでもある……だが[#「だが」に傍点]、
「けどね、人間、塀を越えようとするときの心理と、いかに大変だろうとも、山を歩いて来るときのそれとでは、塀の方がきつい[#「きつい」に傍点]と思うよ」
依藤も引かない。
「うーん、どっちがきついといわれても……」
林田は返答に窮《きゅう》したようで、
「その裏山のことを、皆さんどう思ってるのか聞いてみたことはあるんですよ。女子がいうにはですね、もう絶対に近づかないそうです。理由は――虫がいるから。それに男子も似たようなものでして、これは瀬戸さんが、冗談めかして聞かれたんですけど、彼女を誘って裏山に散歩《ピクニック》にでも行くの……すると、時代錯誤《それいつのはなし》、といわれたそうです。それに男子は虫には耐えられても、山は蜘蛛《くも》の巣だらけだそうで、彼らも蜘蛛は大嫌いだといってました」
――類似の、直接関係あるかどうかは不明の話を彼は捲し立てた。
けど、そういわれれば、依藤が山に上がった際は蜘蛛の巣は顔にはかからなかった。あ……先に上がった関係者《ひと》たちが、払ってくれていたからである。いずれにせよ、山から侵入したかどうかは|二の次だ《どっちでもいい》。問題は、その山に人ひとりを運べたかどうかなのだが、しかも人知れずに……それとも山に呼び出したか? いや、それは林田の話からいって無理であろう。女子がそんな場所にのこのこ出向くわけがない。
「うーん」
依藤も推理に窮してしまった。
……シャワー室の経緯《いきさつ》に何か手掛かりでもあればよいのだが、林田の|頭脳の明晰度《これまでのはなしぶり》からいって、それは期待薄である。彼はひと月かけてその先が解けなかったのだ。それを依藤がこの場で看破《かんぱ》する自信は、はっきりいってない[#「ない」に傍点]。だから彼が知らない白骨死体《うらやま》を先に攻めたのであるが。
「じゃ、その足取りを、説明してくれるかな」
ともかくも、聞いてみるしかない。
「はい。……まず、正確な時間ですけれども、雷が落ちたのは、皆さんの話からいって、午後の一時半ちょうど、これはほぼ[#「ほぼ」に傍点]間違いないです。といいますのも、そのときの雷は一回しか落ちなかったらしく、つまり迅雷《じんらい》というそうですが、地響きを立てて落ちるような激しい雷で」
「――ドッカーン、て一回だけ落ちるやつね」
依藤は露払《つゆはら》いの気分で、気張っていう。
「そんな雷ですから、外にいた皆さんは、いっせいに建物の中に走り込んたわけですよ」
「じゃ、旧校舎にも逃げ込んだのね?」
「ええ、少数は、そちらにも逃げています」
「……少数[#「少数」に傍点]なの?」
「はい、数は少ないんですよ。といいますのも、テニス部以外で、戸外でやっている女子の体育会系といえば、|M高《ここ》では陸上部しかないんです……あ、水泳部はありますよ、これは雨関係ありませんので」
――依藤は、暫《しばら》く考えてから、
「そういわれれば、元来少ないんだな」
「そうなんです。それに、男子の野球部も女子のソフトボール部も、ここにはありませんし。サッカー部はあったんですが、それは男子だけですから。ですので、雨が降って困る最たるものが、テニス部なんですね。雨があがっても、もうできませんから。そして迅雷[#「迅雷」に傍点]の直後に、激しい雨が降ってくるんですが、それはせいぜい十分ぐらいだったようです。ちなみに、テニスコートは、新校舎の隣にある、体育館群の裏手にありますので、玲子さんも含めて部員たちは、そのあたりに逃げていたわけですね」
「体育館……ぐん[#「ぐん」に傍点]とは?」
「あ、すいません、先生方がそんないい方されてたもので、主な建物つまり体育館ですが、それが大小五つほどありまして、近くに合宿所の設備が、男女それぞれ別にあります。プールも二つ、男女別にあるんです。そして体育系男子の部室およびシャワー室、などがある一帯を、そう呼んでいたんですよ」
「……凄いなあ[#「凄いなあ」に傍点]」
「実は、これは裏話ですけど、あそこは先々大学を作ろうと考えてるんですよ。敷地いっぱい余ってますから」
「あ、それなら解《わか》る」
「そして、金城玲子さんですが、その雨が小降りになってきたあたりで、じゃあね……と、部員たちに挨拶をされて、頭に大きなタオルをかけられまして、その体育館のひとつから、外に出られたそうです。で、グラウンドの中央部には、陸上用の公式規格《フルサイズ》の楕円形《トラック》があるんですが、その外周に沿って、反時計廻りをして歩いて行ったと思って下さい。そうしますと、右手にサッカーの芝生《グラウンド》が見えて、そこを通りすぎて行きますと、やはり右側に、武道館《ぶどうかん》と呼ばれている建物があり、そのすぐ先が――旧校舎です。その武道館も、女子校時代の建物なんですよ」
「ほう……」
学校《そ》の情景《イメージ》は、より鮮明になってきた。もっとも、依藤の最初の空想《イメージ》とは随分とちがってきたが。
「じゃあ、その武道館というのも、あの裏山を背にしてるわけね」
「はい。……ですが、名前ほどには大きくはなくって、床に畳が敷かれてある、小さめの体育館ですね。これも旧校舎と、あの例の[#「例の」に傍点]同じ様式の建物で、だいたい十メーターぐらい離れて立ってたでしょうか」
依藤の頭ん中で、あの映画主題歌《おちゃらけたフレーズ》が再度鳴った。同時に|林田の《いまわしい》解説も思い出したが、それは無視して、
「すると、その武道館の建物は、女子のシャワー室の裏といった、そんな位置関係になるよね?」
「まあ、裏ですけれども……ですが、ご心配なさっているようなことはまず[#「まず」に傍点]ありませんよ。女子のシャワー室の外壁は、極めて完全性《ガード》の高い作りでして、窓はもちろんありませんし、換気扇の穴も、どこにあるのかすら分かりませんでしたから」
それはまあ、依藤ならずとも、ある程度は予測できることではあるが、
「その武道館には、どんな部活が入ってるの?」
一応、聞いてみることにする。
「たしか、柔道部、剣道部、薙刀《なぎなた》部、そして合気道《あいきどう》か、もしくは少林寺《しょうりんじ》か、そういった護身術系のものが、ひとつ入ってましたですね」
……薙刀とはまた物騒だが、まさか真剣《ほんみ》を使ってるわけでもないだろうし。
「けど、誤解のないようにいっておきますが、これらはすべて、女子の部活ですからね」
「男子は、別のところか」
「いいえ、畳がある体育館はこの武道館だけなんですが、|M高《ここ》には、男子の格闘系の部活はひとつもなかったんですよ」
「ひとつもないの?」
「ええ、四年前《とうじ》はひとつもありませんでした。そのだいたいの理由は女子から聞いてるんですが、お知りになりたいですか?」
「…………」
依藤にも、だいたいの想像はついた。
「そして、金城玲子さんは旧校舎に行き、テニス部の部室に――入ったはずです。さっきの、一階の図面を見て下さい。右の廊下ですが、そのテニス部の部室に、斜線《かげ》が入ってますから」
依藤は、それを見つけ出してから、
「けっこう、シャワー室に近いんだな」
「そうです。部員の数が多いから、いい場所を確保してるんですね。それともう一枚の、シャワー室の方も見て下さい……そこの右列の個室に、ふたつ印がついているはずですから」
「……あっ、これねえ」
手前から三、四個目の区画に、小さく×印がある。
「そこに、女子がふたり入ってたんですよ」
依藤は顔を上げ
「そうか、陸上部[#「陸上部」に傍点]がふたり入ってたんだな」
誰もが閃く推論だが、――嬉しそうにいう。
「その通りです。旧校舎に逃げ込んだ陸上部員の内ふたりが、帰り仕度をしてたんですね」
「気持ちは分かるよな。大平原《グラウンド》でそんな雷くらうと怖いからねえ」
「でも雨はですね、その後小降りになって、二時半にはすっかりと上がっていたようですので、部室で様子を見ていた女子もいたわけですよ」
「ちょっと待って、すると陸上部の男子[#「男子」に傍点]とか、あるいは、サッカー場も比較的近いようだから、そのへんは、旧校舎に逃げ込んだりはしてないの?」
「いえ、男子はひとりも来てませんでした。これは瀬戸さんが聞いてくれたんですが、体育系の男子にとっては、この旧校舎と武道館の建物というのは、頭の中にない[#「ない」に傍点]のと同然らしいんですよ。来る機会がめったにありませんから……」
「あーそんなものなのか」
依藤は、何か|見落とし《ヒント》はないかと聞きまくっているのだが、|選択肢はどんどん狭まって《よていされるけつろんへとますますみちびかれて》ゆく。
「……彼らが行くとすれば、文化祭のときぐらいでしょうかね。|M高《あそこ》は毎年十一月三日に催《や》るのが恒例ですので、もう間もなくですけれども」
東先生もそんなことをいってた。けど、野次馬《テレビきょく》の騒ぎ具合によっては|中止だ《できない》ぞう、とも依藤は思う。
「――話を戻しますが、その陸上部の女子ふたりは、隣同士に陣取って、お喋りをしながらシャワーを浴びていたそうです」
「え、隣同士で喋れるの? 間の壁って、どんな感じ?」
「壁というよりも、衝立《パネル》に近いですね。それに高さもたいしたことがなくて、石鹸《せっけん》貸してーといえば、上から手が出てくるぐらいですね」
……|林田の説明《あいかわらず》は分かり易い。
「それとさ、女子の皆さんは、どこでどのように服を脱がれているの? 知ってる範囲でいいけどさ」
「実は、ちゃんと聞いてあるんですよ。シャワー室に入ってしまえば、どこで脱ごうが決まりはないそうですが、簡便《ポピュラー》な方法はといいますと、脱衣|籠《かご》を廊下の方に出しまして、自分は半扉《はんとびら》の中に入って、その扉にあいた上の隙間《すきま》から、脱いだ服を一枚一枚、ぽとぽと籠に落としていく……これだそうです」
「はー、そんなことよく教えてくれたなあ」
――林田の捜査能力《じごくみみ》には驚くばかりである。
「その、脱衣籠はですね、そのまま廊下に置いたままでもいいし、あるいは、シャワーの蛇口の上に、壁に沿って通しの棚があるんですが、その棚の上に載せるか、どちらでもいいそうです」
「だったら、廊下が塞がれちゃって、歩きにくいじゃない?」
「たしかにそうなんですが、その棚が、やや高いんですよ。だから背の低い女子にとっては、やむをえないんですね」
「あ、蛇口の関係で、低くできないのか」
「そういうことです」
なるほど……依藤にはもう結末が見えた。さっきの見取り図には、×印は二個[#「二個」に傍点]しかないのだ。その脱衣籠も、廊下のあちこちに置きっ放しにされていた、そんなところであろう。
「……じゃ、先を」
依藤が促した。
「はい。で、そのふたりがシャワーに入っていたら、その前の廊下を、金城玲子さんが、横切られたわけです」
「そのときさ、ふたりは声をかけなかったの?」
「ええ、先に入っていたのは二年生なんですよ。ですから、最上級生の金城さんには、声はかけていません。それに、部活も違いますし」
「――それは間違いなく[#「間違いなく」に傍点]、金城玲子さん?」
依藤は、最後の確認を試みる。
「はい、間違いないと思われます。一年生はちょっと不確かでしたが、二年生になると、男子女子ともに、金城玲子さんの顔と、お名前は、まず知っていましたから。それに扉の関係ではっきりと、つまり首から上の、お顔のところだけが、すーと横切っていくように見えていたはずですから」
――依藤が、顔を顰《しか》めた。
絶対に関係はないと思うが、その映像には耐えられない。
林田が、不安そうな顔で、そんな依藤の方を見ている。
「するとさ……」
依藤は、柔和な顔を作ってから、
「それが、姿が確認された最後で、どこのシャワーを使ったかも分からないし、それに、先に入っていたふたりは先に出るから、そのシャワー室からいつ彼女が出たか……どうかも、分からないんだな」
自身の推論を、林田に確認する。
「はい。その通りです。さらに、補足いたしますと、先にシャワー室から出たふたりですが、いったん部室に戻ってます……テニス部の部室の、ひとつとんで玄関寄りが、陸上部の部室です。そのとき中には、他にふたりいたんですが、彼女たち全員が、その後の金城さんは見ていません」
「その部室の扉とかは、どうなってるの?」
「……開いてたり、開いてなかったり、区々《まちまち》なんですよ。当日のその時間帯も、どちらだったか覚えてないといってました。それに、部室にいた彼女たちは、その廊下側ではなく、反対側にある、窓の外が気になっていたはずです。雨の様子を知りたくて」
「あ、そうか」
……|林田の推論は正しい《もっともである》。
「そしてもちろんですが、保健の先生も、その当日、金城さんの姿はいっさい見てないとのことでした。さらに、先に入って出たふたりの部員のことも、覚えていませんでした」
要するに、常日頃、何も見てないのであろう。
――依藤は、別角度から尋ねてみることにした。
「その女子のシャワー室には、見廻りはあるの?」
「はい、それは時間が決まっていまして……」
林田は、手元の資料に目を落としながら、
「シャワー室を開けるのは昼の十二時でして、その後、お昼休みが終わった後の、一時半、そして部活が始まる直前の、三時、そしてシャワー室を閉める、六時……ですね。ただし、休みの日は、この一時半というのがありません」
「じゃ、当日も三時[#「三時」に傍点]の見廻りはやったわけだな。それは、誰[#「誰」に傍点]がやるの?」
答えは予測できるが、依藤は、聞く[#「聞く」に傍点]――
「はい。それは保健の先生の役目です。それに、これは学校の決め[#「決め」に傍点]でもありますので、当日もまず間違いなく、見廻って確認されたものと思われます」
「つまり、異常[#「異常」に傍点]はなかったということね」
「はい。その当日は、女子のシャワー室のすべての見廻りにおいて、異常はなかったとのことです」
――仮に[#「仮に」に傍点]、その保健の先生が嘘をついていたとしても、林田《かれ》ほどの刑事《デカ》が、それを見抜けなかったとはむしろ考えられない。依藤は、さらに別の視点で聞いてみることにした。
「その、シャワー室にいたふたり[#「ふたり」に傍点]ね、それはどういった経緯《けいい》で、刑事《きみ》にその話をしたの?」
「あ、それはですね……僕たちも最初は、金城さんの足取りが、体育館までしか判らなかったんですよ。ですが、その先、旧校舎に立ち寄ったことは間違いない[#「間違いない」に傍点]ので、その時間帯に誰か、彼女の姿を見たり、話したりしませんでしたか……そういった尋ね文を、旧校舎の右の廊下に貼ったんですよ。そうしますと、それを見たふたり[#「ふたり」に傍点]が、名乗り出てくれたんですね。その彼女たちの話から、ご説明してきたような一連の様子が、たとえば、迅雷で旧校舎に逃げ込んだのは、陸上部員の女子四名だけ[#「だけ」に傍点]であったとか、そういったことが判ったわけですよ」
「なるほど……」
その、ふたりが名乗り出た経緯にも、どうといって不自然さは感じられない。が、
「その、金城さんが旧校舎に行ったのは間違いない、というのは、何か、根拠があったの?」
「――ありました。彼女のテニスラケットが、部室のロッカーの中に置かれてあったからです。それは、直前の部活で使われたものであり、なおかつ、当日の朝、自宅《いえ》から持って出たものであることも、確認がとれています……二本組で、手提げのついた袋《カバー》に納まったまま、中に、丁寧に立て掛けられてありました。ちなみに、その彼女の個人用のロッカーには、鍵がかかっておりました」
|鍵が?《だれがかけた》……
「じゃ、その彼女のロッカーには、何か、他に入ってなかったの?」
「はい、透明なビニール傘が一本だけ、置かれてありました。それに、直近に掃除をされたと見えまして、中は塵芥《ごみ》ひとつないきれいな状態でした」
――それなら、|家出の準備《かぎはじぶんでかけた》とも考えられるが、
「けどさ、そこに傘[#「傘」に傍点]が置かれてあったということは、雨が降っている間は、彼女は旧校舎からは外に出ていない。そうも考えられるよね」
糸口らしきものを見つけた、とも依藤は思う。
「ですけれども……傘はですね、生徒たちの大半が、複数本をロッカーに置き傘してたんですよ。そのことからして、おそらく、彼女も別の傘をと」
「――それは自宅《いえ》の方と照合して、確認はとれなかったの?」
「はい、金城さんのお家にも、傘は沢山ありまして。それに当日の朝、家からは持ち出していない、それもまず間違いはないのですが……ですが[#「ですが」に傍点]、そのロッカーに置き傘されてあった別[#「別」に傍点]の、ビニール傘よりは上等な、といっても、折り畳みかジャンプ傘程度のものでしょうが、その傘を持って、彼女は外に出られた……それが僕の想像[#「想像」に傍点]なんですけどもね」
その林田の想像《せつめい》にも、一理はある。
「それにですね、金城さんはシャワー室の後、他の部室に寄った可能性もあると思いまして、旧校舎と武道館の部活に、聞き取りの調査はしたんですよ。すると、迅雷のことは皆さん覚えてられたんですが、当日その後の金城さんを見た、もしくは他の異常に気づいた、その種の話は、聞かれませんでした」
「ふむ……」
糸口らしきものすら、消えていく。依藤としては万策尽き果てた感なきにしもあらずだが、
「じゃあ、金城さんが、その後《あと》どういった道筋をたどったのか、それは想像[#「想像」に傍点]でかまわないから、聞かせてくれるかな」
藁《わら》にも縋《すが》りたい気持ちで、依藤は尋ねる。
「……はい。その傘の件ですが、もし雨が上がってから外に出ていたとすると、あの彼女のお顔立ちからいって、誰かが覚えていたと思うんですよ。グラウンドにだって、陸上部員が散っているはずですから。だから雨の中を、彼女は、傘を差して外に出た。そして道筋は、やはり反時計廻りでして、つまり体育館群の方には戻らないんです。旧校舎を出てしばらく行くと、桜並木の小径《こみち》になっていて、途中には建物はなく、その小径はほぼ[#「ほぼ」に傍点]塀に沿ってあると思って下さい。そして行くと――正門についてしまうんです。新校舎の中も、くぐらないんですね。休日は、あの豪華な門の横にある通用門が、開けっ放しになっています。人の出入りは、新校舎の玄関脇にある事務|方《かた》の窓からチェックをしています。顔を上げれば、門が見えるようにと、窓に接して事務机が置かれていました。これは実際に、よく注意して見ているようです。……が、それは入って来る人についての話なんですね。出て行こうとする生徒に関しては、後ろ姿だけですし、ましてや傘を差していれば、誰だかは分からないでしょう。あの日も、そうやって金城さんは、誰の記憶にも残らずに、歩いて正門から出ていかれた。僕はそう想像いたしました」
「なるほど……」
実際、そのようにして彼女は学校から出て行った、依藤にもそうも思えてきた。
が、だからといって、何かが解決して事態が好転したわけではない。勝手な話だが、事件は学校の内部《なか》で起こってくれていた方が、解ける可能性《チャンス》はまだしもあるというものだ。それが外部《そと》であったとすると、手掛かりは皆無《ゼロ》に等しい。
「その先を、さらにいいますと」
――林田は続きを語る。
「まず、通常の通学路を行ったとしますと、駅までは十分ぐらいなんですよ。沿道は閑静《かんせい》な住宅街で、駅近くになってくると、そこそこ商店もあります。彼女の顔写真と、失踪当日の服装の想像図《イラスト》などを携えまして、その沿道の家々や、店、そして駅に関しましても、ひととおり話は聞いております」
――目撃例の有無は問うまでもない。が、依藤としては気になることがふたつ[#「ふたつ」に傍点]ある。後で尋ねよう。
「そして、もうひとつの可能性としましては、学校の近くまで車が迎えに来ていて、彼女は、その車にお乗りになった。僕は、こちらだと想像[#「想像」に傍点]したんですが。といいますのも、事前の段取りの状況からみまして、家出の日は、当日《あのひ》であったと、そう決めておられたかと思えたからなんですよ」
「けど――それが彼氏の車だったとして、どうやって時間を示し合わせるの? あの迅雷というやつは、偶然の産物だろう。それに、彼女の性格からいっても、学校にあるだろう公衆電話を使うとは、到底思えないよ」
「それは簡単でして、事前に、何日か前にでも彼氏から、携帯電話を借りておけば」
「え? だったら、彼氏の方の携帯が無くなっちゃうじゃん」
「それは……彼氏が、また友人からでも借りれば」
「……ぁ」
携帯《でんわ》に関しては、今日の依藤は熟《つくづく》相性が悪い。
「そして……金城玲子さんはですね、おそらく東京に行ったんだろうと、僕は思ってました。あれだけ奇麗な方ですと、地方だと却って目立ちますから。そして、今でも若い女《こ》がやってますが、顔黒《がんぐろ》や山姥《やまんば》のような度ぎつい化粧《メイク》をしてしまえば、知り合いとふと顔を合わせたって、判らないでしょうからね。そうやって……彼女は彼女なりに、幸せにすごされているものと、僕は思ってたんですけどもね……」
林田も……もう事の結末は想像がついているのだ。
けれども、刑事課の係長としては、まだ尋ねたいことはある。
「その、当日の彼女の服装だけど、どんな感じ[#「どんな感じ」に傍点]?」
声を少しきつめにして、依藤はいう。
「あ、はい……えー下は、ジーンズに」
林田は、その涙目でもって資料を追っている。
「ええー? あそこ制服なんじゃないのー?」
ことさら剽軽に、依藤はいう。
「あ、そっから説明しましょうか……」
林田は、少しは気を持ち直したようで、
「実はですね、休みの日は、私服の着用を学校が半ば強制してるんですよ。その理由《わけ》はですね、休日に部活に出てきた生徒は、終わってから遊びに行っちゃうのは目に見えてますでしょう。だったら、目立つ制服姿でちゃらちゃらされるよりは、私服で勝手きままにどうぞ……そんな発想ですよ」
「賢いねえ[#「賢いねえ」に傍点]」
依藤は、朗《ほが》らかな声で相槌《あいづち》を打つ。
そういえば、昼に会った生物部員たちも制服姿《わかるふく》ではなく|フリース《わからないふく》を着ていた。|それが理由か《おれがわからないのもむりはない》……
「これは余談ですけど、制服はゆくゆくは廃止したいそうです。先に、大学の雰囲気作りをやってるんですね。その方が認可がおりやすいそうで。それと、旧校舎の部室の割り振りなども、生徒会の自治に、ある程度は任せてましたね」
「ふうん」
……自由な校風のようだ。規則規則《ガチガチ》の学校かとも思っていたが、依藤の先入観はすこし改まった。
「当日の、金城さんの服装ですが――」
冷静な口調に戻って、林田はいう。
「下は紺のジーンズ。上は長袖の白のブラウスです。が、これは男でいう白いシャツと、変わりはありません。それに、当時|流行《はや》っていた丈が長めのカーディガンで、色は空色《ブルー》です。手には紺色の麻布袋《トートバッグ》ですね。その空色のカーディガンは、目立つかなーとも思ったんですが、袖を通されずに、腰に巻かれておられると、普通かなあ……て感じもしますね」
「じゃ、それは割と地味な格好と、考えた方がいいのかな?」
「ええ、同年代の女子に比べると、やや地味だと思いますね。日常《いつも》こういった比較的質素な服を、好んで着ておられたようです。お家の衣装棚《クローゼツト》を覗かせてもらったこともあるんですが、大半が青色系で、それに淡茶《ベージュ》と白、そういった取り合わせでしたね」
青いドレスの母親、娘の好みも青か……どこまで似た親子《ふたり》なんだろうかと、依藤は思ってから、
「それと、もうひとつ聞きたいんだけどさ。沿道の家に写真やイラストを持っていった、そういっただろう。電柱や駅には、その種の貼り紙[#「貼り紙」に傍点]はしなかったの?」
「実は、それには深い事情がありまして」
よくぞ聞いてくれた、林田はそんな表情で、
「捜査を始めて二、三日目の話ですが、沿道で貼り紙をしますよ、と学校に声をかけましたところ、校長先生から、それだけは許して下さい[#「それだけは許して下さい」に傍点]……と頭を下げられまして」
「そんなあ[#「そんなあ」に傍点]、ま気持ちは分かるけどさ」
憮然《ぶぜん》とした渋《しぶ》っ面《つら》で、依藤はいう。
「ところが、その次の瞬間に瀬戸さん[#「瀬戸さん」に傍点]何を閃《ひらめ》いたのか……これが駄目なら、生徒さんと一緒に生活させて下さい。といったんですよ。すると校長先生が暫く考えられてから……分かりました、学内では自由に生活なさって下さい。そういわれたんですね」
「あ、……唖然[#「唖然」に傍点]だなあ」
「いわれてしまった手前、貼り紙はできなくなりまして、代わりに、僕たちが学校に入れたんですよ」
「へー、いってみるもんだなあ……学校への潜入は俺はてっきり、少年課の捜査手法《マニュアル》だと思ってたんだけど、考えれば、度を越えすぎてたよね」
「これは特例[#「特例」に傍点]です。そして校長先生のお墨付きがあったので、僕も合宿所に寝泊まりができましたし、だから、校舎の夜の風景とかも知ってるんですよ」
「……ほんとに生活してたんだ」
「ですけどもね、確かに瀬戸さんが閃いて、それが通ったときには凄い[#「凄い」に傍点]と思いましたが、今にして思うと、あのとき貼り紙を出していたら、何か違ったことが分かったんじゃないか……そんな気も、しますよね。それが僕の、唯一の心残りですね」
またもや、林田はしんみりとしてしまった。
「けど、写真を持って捜査《うろうろ》はしたんだろう」
依藤は、少し慰めの言葉をかける。
「写真《それ》を持ち歩いて聞くだけでは、やはり限界がありますからね。――それと、念のために申しておきますが、当日およびその前後、学校とその周辺におきましては、不審者の目撃例とかは、とくに挙がってきませんでした」
「うん、それは捜査のイロハだからね、林田《きみ》ほどの刑事が、そんなことを怠っているはずがないんだ。それは大前提で話を聞いてきましたからね」
林田は……小さく頷いた。
だから、なおさら手掛かりが|皆無な《ない》のである。それに四年という歳月が追い討ちをかける。今の依藤の正直な気持ちをいうと、降参《おてあげ》である。
にもかかわらず世間様《マスコミ》は秒読みで――
〈あ、今の話は絶対にいっちゃ駄目よ。そんな都合のいい命令、子供に守れるわけがない〉
林田の流麗《リアル》な言葉が思い起こされる。
――かなりの確率で明日の朝刊に出てしまうだろう。見出しも目に浮かぶようだ。
あ、そうだ、|まだこの手《さいごのきりふだ》があったと依藤は思う。
「えー何か、いっとくべき話とか、いい残したような話とか、そういったのはある?」
「実は……ひとつあるんですよ」
哀しい目をしながらも、林田は語る。
「これは、学校の中で彼女が親しくしていた友達のひとり、もちろん女の子ですが、その子が教えてくれた話によりますと、金城玲子さんはM[#「M」に傍点]の一員ではなかったか、というんですよ」
「えむ……て?」
「おそらく、学校の頭文字からきてまして――M、もしくは敬称で呼ばれて――Mさん。これは何かといいますと、学校の創成期の頃からあった特殊な会[#「会」に傍点]だそうで……学校の中で揉《も》め事があった場合にのみ、自ら調停役を買って出てくる、そんな会らしいんですよ」
「いわゆる、番長[#「番長」に傍点]、といった感じ」
「雰囲気的には、近いだろうなと僕も思いました。が、番長でしたら、誰がその番長なのかは学校中が知ってますよね。ところが、Mは、誰がMさんなのかは、まず判らないらしいんですよ」
「それじゃあ、番長としては務まらないだろう?」
――俺は何の話をしてるのか、と依藤は思いつついった。
「その判らない理由はですね、余程の揉め事でもない限り、生徒《みなさん》の前には出てこないからだそうです。で、そういった揉め事は、年に一度あるかどうかだから、誰がMさんかは判らないというんですね。ですが、本校の中にはMがいる[#「いる」に傍点]、そのような会が存在する、そのことは生徒のほぼ全員が知ってるらしく、それで押さえ[#「押さえ」に傍点]になってるようなんですよ。ですから、この学校では悪質なイジメの類いは、まず起こらないだろうといってました」
「ほうー、皆さんMがこわい[#「こわい」に傍点]んだな」
「そうですね、僕もこわいんだと思います。それに、どこにMの目[#「Mの目」に傍点]が光ってるか、判らないですからね。ひょっとしたら、部活の上級生がMさん[#「Mさん」に傍点]の可能性だってあるわけで、それを思うと、迂闊《うかつ》なことはできませんでしょう」
「ふーん、なかなかいい手かもしれないな。めったなことでは顔は晒《さら》さない、それが逆にいいんだね」
――警察《うち》でも使えないかな、と依藤は思ってから、
「でさ、そのMの会には、何人ぐらいいるの?」
「それもはっきりとはしないですが、おそらく五人ではなかろうかと、その友達の女子は、いってましたですね」
「じゃあ、他の四名のMをつかまえると、金城さんのまた違った話が聞けるわけだな――」
これは一縷の望みかも[#「これは一縷の望みかも」に傍点]、と依藤は感じながら、
「――で、つかまえたの?」
「いえ、残念なんですが、この話を僕が知ったのは、打ち切りの直前なんですよ。それに時間に余裕があっても、Mたちを見つけ出すのは至難《しなん》の業《わざ》でしょうね。なんせ、この学校の最高極秘[#「最高極秘」に傍点]でして、それに、胸に記章《バッジ》をつけて威張《えば》って歩く、そういった人種《タイプ》の組織とは、対極にあるような会[#「会」に傍点]ですから……」
うん? Mはつかまらなかったが、林田はあれこれと知っているようだ。最後の頼みの綱[#「最後の頼みの綱」に傍点]でもあるし、依藤は、彼の話に本気[#「本気」に傍点]で付き合うことに決めた[#「決めた」に傍点]。
「……ま、見つけ出す方法が、なかったわけでもないんですが、その話は後でするとしまして。このMに関係して、さらにとっても[#「とっても」に傍点]不思議な話がひとつあるんですよ」
林田は、ひどく強調していってから、
「じゃ、ちょっと想像して下さいね。たとえば、僕がそのMだったとしましょう。揉め事の調停のために、皆さんの前に顔を出し、僕がMです、と名乗ったとしましょう。それで通用するでしょうか?」
依藤はチラッと考えてから、
「そんなの通用しない。だって君がMだとは、誰も知らないんだから」
「ですよね。だから、自分がMであることを証明するための、何かが必要なんですよ。それを生徒たちの間では、Mの証《あか》し、と呼ぶらしいんですね」
「それ、どんなものなの?」
「ところがですね、この話を僕に教えてくれた女子は、その実物はもちろん見たことはないし、どんなものか知らないし、想像すらつかない……というんですよ。で、それはその女子に限ったことではなく、Mの会員《メンバー》を除いては、生徒の全員が同様に知らないはずだ……というんですね」
「ええ?」
依藤は、暫し頭を巡らしてから、
「――だったら、誰も知らないMの証しでは、Mを証明するための品としては、これまた、意味をなさないじゃないか」
――理路整然[#「理路整然」に傍点]と語る。
「僕もそう思いました。ところがですね、女子の説明によりますと、そのMの証しを見せて、私がMです、と名乗ったならば、この学校の生徒さんなら、全員が即座にその人をMだと認める……そのような|証し《アイテム》だというんですね」
「ええー?」
依藤は、――迷宮[#「迷宮」に傍点]に入り込んでしまった。
それを見かねてか、林田がいう。
「何か悪い冗談を、僕がいってると思わないで下さいね。このMと、Mの証しは、僕の感触からいって、あの学校にまず間違いなく実在します[#「実在します」に傍点]。Mは、生徒にとっては、確かにこわい[#「こわい」に傍点]存在ではあるんでしょうが、暴力的なものじゃなく、むしろ精神的な……譬《たと》えていいますと、学校の守り神[#「守り神」に傍点]のようなものかもしれません。それに、Mの証しですが、これがもし生徒に想像がつくような品であれば、逆に、それは証しとしては通用しなくなる、とも思えるんですよ」
「あ……偽物《ニセモノ》が作れちゃうよな」
「そうなんです。だから、何だかは分かりませんが、仕組みそのものは、とってもよくできてるんですよ。おそらく、見た瞬間に生徒にだけ解けるような、ある種のパズルのようなもの……それがMの証し[#「Mの証し」に傍点]、なんでしょうね。誰の発案なのか、もちろん知る術《すべ》はありませんけど、そういったMの会と、そしてMの証しが、ずーと受け継がれて学校に存在する。そのこと自体に、僕は心が惹《ひ》かれましたですね」
――それは、依藤も同感だ。
「そのMの会は、もちろん最上級生でやっていまして、それを一学年下に引き継ぐときに、独特の式典があるらしいんですよ。それを、Mの交代式《こうたいしき》――と呼ぶそうです。で、その交代式の様子が、生徒たちの間では半ば伝説[#「伝説」に傍点]となって囁《ささや》かれています……大袈裟かもしれませんが、その式の現場は、Mたち以外には見た人がいませんので、生徒《みなさん》にとっても、実際伝説なんですね。そしてこの伝説には、幾つかの興味深い話が含まれています。たとえば、Mの会員《メンバー》は、もちろん選挙では決めませんので、現役のMが、二年生の中から相応しい人材を抽出《ピツクアツプ》するわけですが、ある日突然[#「ある日突然」に傍点]、何時にどこどこの教室に来い――と呼び出しをかけるわけですよ。最上級生の呼び出しですから、絶対ですよね。そして行きますと、もう即座に、そのMの交代式が始まるらしいんですね」
「いきなり? 事前承諾も何もなしに?」
「そうなんです。けど、これは考えようによっては、実に見事なやり方なんですよ。たとえばですね、依藤係長のところにMさんがやって来て、身分を証し、きみ[#「きみ」に傍点]が次のMに決まったよ、交代式は明日ね……といわれたとしましょう。どんな感じがします?」
「そりゃ嬉しいなあ」
実際、嬉しそうに依藤はいう。
「で、交代式があり、Mの証しをもらって、現実にMになったとしましょう。どんなお気持ちですか?」
「うん、やっぱり、嬉しいかな」
「つまり嬉しくて、浮かれっ放しのはずなんですよ。これだとM[#「M」に傍点]は務まりません。記章《バッジ》をつけて威張ってる輩《やから》と大差ありませんからね。もし、このやり方でMになってしまうと、些細《ささい》な揉め事で、そのMの証し[#「Mの証し」に傍点]を見せびらかしたくなるでしょう。じゃ、本式[#「本式」に傍点]は、呼び出しをくった二年生が何事かと教室に行ってみると、上級生から突如[#「突如」に傍点]、Mの証しを提示され、その二年生にとっても、初めて目にするもののはず、そのMの証しを、手渡されながら、ごくごく簡素な式があって、次の瞬間、もう自分[#「自分」に傍点]がM[#「M」に傍点]なんですよ」
「おう……」
依藤は感嘆の声を漏らしてから、
「それはすごい緊張感だわ」
「でしょう。――あ、それがあのMの証し[#「Mの証し」に傍点]、そしてあなたがMさん[#「Mさん」に傍点]、と判った直後に、その秘密性が、そのままそっくりと自分にきて、責任を負わされてしまいますからね。このやり方ですと、邪念が湧《わ》いてくる余地がないんですよ。だから実によく考えられた方法なんですね」
「ふうん」
依藤はひとしきり感心してから、
「つかぬことを聞くけど、林田の大学の専攻って、何なの?」
「あ、僕は心理学なんですよ。といっても、児童心理の方ですけど」
「どうりで……」
依藤は大[#「大」に傍点]納得した。
交代式の直前に呼び出しがかかる、その一文[#「一文」に傍点]だけでそこまでの分析は、依藤には到底不可能だからだ。
「その、Mの交代式の模様ですけど、全員を一同に会してやる、あるいはひとりずつやる、ふたつの説があるんですが、そのへんは不確かなんですね。そして交代式の日時と場所ですが、文化祭の日の夜に、どこかの教室でやる、それが、どうやら定説のようです。そして、その式で語られる決め[#「決め」に傍点]の言葉というのがあって、ある程度は伝わっているんですよ。上級生が、Mの証しを次代の生徒に手渡しながら、こういうそうです。――M[#「M」に傍点]は、本校を護《まも》るに相応しい人に、代々受け継がれていきます。このMの証しをあなたに委《ゆだ》ねます。この先、一年[#「一年」に傍点]、本校のことをよろしくお願いいたします。そういって上級生が、次代のMに頭を下げるそうなんですね」
……なんだか、とってもいい学校のようにも、依藤には思えてきた。
――うん? あることを依藤は閃いた。
「さっき林田《きみ》がいってた、Mをつかまえる方法ってのは、ひょっとして、そのMの交代式かあ?」
――林田が、白化《しらば》くれた顔をしている。
「あれえ……悪者《きみ》のことだから、その教室とやらにも、行ってみたんじゃないの[#「行ってみたんじゃないの」に傍点]?」
依藤は、尋問机から身を乗り出し、般若《はんにゃ》の形相になって、大鎌をかけていう。
「図星です」
――悪魔《はやしだ》が認めた。
「このー、大[#「大」に傍点]バチ当たりやろう!」
声を荒らげて本気で依藤はいう。
「……はい。神聖な式であることは重々分かっていたんですが、彼女たちを一網打尽にできる機会《チャンス》は、これぐらいしかないと思って……」
「なんて野郎だ」
依藤は、吐き捨てるようにいってから、
「俺はさっきまですっごく感動してたんだぞ。林田《おまえ》いってることと、やってることが別じゃないか」
「そういわれましても……僕もいちおう、刑事ですから」
「ふむ」
――依藤は、一瞬にして現実の世界に引き戻されてしまった。
林田も、同様である。
「すごい……林田《きみ》はすごい刑事だ」
その言葉も、また、依藤の本心である。
「で、何か手掛かりぐらいは掴めたの?」
「はい……というより、結果からいきますと、いいえ[#「いいえ」に傍点]ですね。捜査の打ち切りが出たのは十月末でしたから、十一月三日の文化祭には、挨拶も兼ねて行ったんですよ。先生方への挨拶はもちろんですが、生徒たちに、さよならをいいたくって」
「……友達になってたんだな」
「ええ、ひと月も通ってましたから、突然行かなくなると心配するでしょう。ですから、もう捜査は終わりました、何もなかったんですよ、そんなことをいいながらですね」
……林田が優しい人柄であることは、依藤も理解している。
「あそこの文化祭は、一度行かれるといいですよ。すごく盛大でしたから……桜並木があるといいましたよね、その小径《こみち》に沿って、出店がずらーと並ぶんですよ。これは外部の業者じゃなくて、体育系|部活《サークル》のお店です。それが、男子・女子別に出ますから。文化祭の中心《メイン》会場は、旧校舎になります。そして、Mの交代式をやる教室も、どう考えたって、やはりそこ[#「そこ」に傍点]ですよね。そして夕方の五時を過ぎますと、人が新校舎の講堂の側に移っちゃうんですよ。そのあたりの時間から、流行《はやり》の音楽演奏《プログラム》が始まるからなんですが、講堂で昼間に奏《や》っているのは、西洋古典《クラシック》や琴ですからね。そして客や生徒さんたちの大半が、いっせいにその講堂の方に流れて行きましたので、その後だと踏み[#「踏み」に傍点]ましてね、僕と瀬戸さんとで手分けして、七時頃まで歩き廻ったんですが、結局、それらしい現場は見つけることはできませんでした。あの伝説からいっても、式自体は極めて短い時間のようですし……最初から、計画倒れの感もあったんですが、それに、僕と瀬戸さんとでは入れない場所もありましたし」
「あ――女子限定か」
「そこもそうなんですが、隣の武道館もあやしいと睨《にら》んではいたんですけど、そこは男子禁制ではないんですが、あの例の男子マナー集ですら、通用しない場所でしたので……」
「あれか、いわゆる礼節[#「礼節」に傍点]、てやつだな」
「それの、極《ごく》厳しいものを想像していただければ、畳の上に、迂闊に足でも載せようものなら……」
その足を、薙刀《なぎなた》で払われるような空想《イメージ》が、依藤の頭の中に湧いた。
……林田の回想《せつめい》は、そのまま尻切れ蜻蛉《とんぼ》で終わってしまった。
依藤は、彼のMに関係する話の中から、気になる一文を思い出していた。
――Mは、揉め事の調停役である。
事件《トラブル》に巻き込まれる可能性は、相応に考えられるだろう。
けれど、学内の揉め事ごときで|首なしの死体《あのようなところ》にまで行き着くだろうか?
いずれにせよ、他のMたちからの話は是が非[#「是が非」に傍点]とも聞きたいところ――
が、四年前《とうじ》の生徒たちですら日本各地の各大学に散ってしまっている。その中から、学内最高極秘[#「最高極秘」に傍点]のM[#「M」に傍点]を捜し出すとなると――
一縷《いちる》の望みの、最後の頼りの綱ではありそうだが、依藤としても、|適切な方法《これといったアイデア》は浮かんではこない。
「あのう」
林田が、悲しげな声で呼びかけてきた。
「……聞こう聞こうと思ってはいたんですけど、話が終わるまではと、我慢してきたんですが、刑事課の、依藤係長が来られたということで、どうなっているかは想像がつくんですが、僕にも、お聞かせ願えればと……」
署内《みうち》の林田刑事に隠していても仕方がない。早晩マスコミに出てしまうし、三階の刑事課には、内容を教えろといった問い合わせの電話が、そろそろ鳴り始めている頃だろう。
依藤は言葉を選びながらも、今日の午前にM高校の裏山から女性の白骨死体が発見されたこと。だが、首から先がないというのは伏せて。その女性は、おそらく未婚。そして、その死体の指に、件《くだん》のRのイニシャルと誕生日の刻印がある指輪が嵌《は》まっていたこと。けれど、まだDNA鑑定等が終わっていないので、まったくの別人[#「別人」に傍点]の可能性もあること――などを説明した。
林田が、泣き崩れていった。
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アマノメの神が住まいとしている鬱蒼とした森は、埼玉県の東部を流れる古利根川《ことねがわ》の近隣にある。
古利根川は、今でこそ些細な河川だが、その名前からも分かるように曾《かつ》ては江戸湾に注ぎ、十七世紀の半ば、江戸幕府のつけ替え工事によって千葉県の銚子《ちょうし》沖へと流れを変えられた現在の利根川の、古代《いにしえ》の名残である。
そういえば、数々の伝承に彩られたあの淨山寺は、元[#「元」に傍点]荒川沿いにある。そして元荒川は、寺から十キロほど先でその古利根川と合流しているのだ。
そういったいわく因縁《いんねん》のある寺と神とが、互いにそうは離れていない古代からある川縁《べり》に居を構えているのも、偶然ではなさそうである。
歴史部のまな美と土門くんが、頭からきれいさっぱり忘れてしまっている淨山寺の伝承がひとつあり、それは、江戸時代の半ば頃だが、淨山寺の本尊は、遊化《ゆげ》をして茶畑を歩いていたときに片方の目を傷つけてしまい、以来、片目地蔵尊と呼ばれて地元では親しまれているということだ。
アマノメの神は、『日本書紀』におけるその正式な名称は、天目一箇命《あまのまひとつのみこと》である。それは字義のとおりで、ひとつ目の神という意味なのだ。
それらは、竜介が誰か[#「誰か」に傍点]にいみじくも語ったように、世界中に共通してある神話や伝承における神(もしくは魔物)の典型的な様態のひとつでもある。
インドでは額《ひたい》に目が加わった三つ目の神が数多くいて、これも竜介にいわせると、同種の存在の別の表現であるとか――。
マサトは、ごめん、用事を思い出した、と歴史部のふたりに断ってひと足先に帰宅の途につき、学校の正門近くで待機していた桑名某《くわななにがし》の運転する車に乗った(ふたりと一緒に帰るときは電車で、その際には陰[#「陰」に傍点]の男たちが遠巻きにしつつ、つき従ってはいるようだが)。
そして、森に佇んでいる屋敷に帰り着くと、桑名竜蔵《くわなりゅうぞう》は、日がそろそろ陰《かげ》り始めているというのに、離《はな》れの斜め裏あたりにある、木々の間にぽっかりと空いたテニスコート半面ほどの空間《うらにわ》で、趣味の花壇の手入れに勤《いそ》しんでいた。
竜蔵いわく、それは植木仕事ではなく、英国《イギリス》風の|草花いじり《ガーデニング》だそうだ。
今日は焦げ茶色の作務衣《さむえ》に褞袍《どてら》を羽織り、歳も七十はすぎていて――爺《じい》と呼ばれるに相応しい風体《ふうてい》だが、一面|お洒落《ハイカラ》な老人でもある。
「そろそろ、冬の花への入れ替えをしませぬと」
数日前、竜蔵《じい》がそういっていたのをマサトは思い出した。
「秋の花もそれなりによろしいのですが、なにぶん、花の期間が短《みじ》こうございましてなあ」
……そんなこともいっていた。
だから、萎《しお》れかけている夏の草花から、いきなり冬のそれへの入れ替えなのだ。
地面を見やると、ポットに入った花の苗が、橙色《オレンジ》に黄色、鮮やかな青、白、桜色、赤紫、そして黒に近い紫……と色とりどりの種類のちがう花が、そのどれもが花弁は小さいが、絨毯《じゅうたん》を敷きつめたようにたくさん[#「たくさん」に傍点]置かれてあった。冬に咲く花に、これほどの種類があろうとは[#「これほどの種類があろうとは」に傍点]……マサトも驚いたぐらいだが、その中で彼に名前が分かるものといえば……シクラメンぐらいであろうか。それも花弁が小さな品種で、白、赤、淡いピンク、濃いピンク、それだけでも花色は四つある。
それらを竜蔵は、真っ平らに植えるわけではなく、煉瓦《れんが》や石や岩や、どこで拾ってきたのか朽ちかけた木の椅子などを使って、巧みに段差を作り、そこに配置していくのである。
苗はポットの状態で試し置きをし、二、三歩離れたところから眺め、
「ふーん、これでは、色がちと濃すぎまするよなあ……」
などと別の苗に置き直し、そういったことを何度となく繰り返して決めていくのである。
もちろん、その配所場所には夏の草が、まだ一部は花を残しているのもあるのだが、竜蔵は容赦《ようしゃ》なく引っこ抜いていく。
「夏は、花の種類が少のうて、それに色も人工的でありまするから味気なくって」
夏じゅう、竜蔵はそうぼやいていた。
花が美しいのは、寒風吹き荒《すさ》ぶ中でも健気《けなげ》に咲いている冬と、そして何といっても春だそうである。
「……どうやら、英国《イギリス》の夏は、日本の厳しい夏とは根本的に違っておるようですな。だから春の草花が、あのように秋まで持ち堪えおるのですよ。ガーデニングには羨ましい限りです。もし可能ならば、大きな冷房装置を使って、冷たい風をどんどん庭に送り込み、いえいえ、囲いを作ったりするのは無粋《ぶすい》というもの。そんなものはなく温度を下げて、夏の間じゅう春の草花を育てることができましたなら」
それが……竜蔵《じい》の夢であるそうだ。
そんな竜蔵の庭いじりに手を貸しながら、マサトは、今日、学校であった出来事を細大漏らさず語っていく。――アマノメの神として見えましたものは、この竜蔵《じい》にしか喋ってはなりませぬ。常日頃から、固くそう申し渡されてもいる。
そのマサトの話を最後まで聞き終えると、
「――政臣《まさおみ》。――政嗣《まさつぐ》。――どちらかおらぬか?」
竜蔵は、森のあらぬ方向に向けて声を飛ばした。
「――はい。政嗣が控えておりますが」
その声とともに、少し離れた大木の陰から、敏捷《びんしょう》そうな体つきをした好青年が姿を現した。
――桑名政嗣は、アマノメの警護などの雑事一切を掌《つかさど》っている(すなわち陰の)分家筋の桑名家の頭領《とうりょう》・桑名政臣の長男である。
マサトがさっき車で帰宅したときも、その政嗣が助手席に乗っていた(もっとも、車はその一台だけではなさそうだが)。アマノメの神の日常の警護は、専《もっぱ》ら彼が仕切っているようだ。
そして歩み寄って来た政嗣に、竜蔵があれこれと指示を出した。
――竜蔵は、桑名家の本家筋の次男で、常にアマノメの側《そば》に仕えていて神の言葉を取り次ぐ、いわゆる審神者《さにわ》である。だからマサトの言葉をどう判断し対処するかは、竜蔵の胸ひとつといえる。
屋敷は、渡り廊下で繋がった母屋《おもや》と離れからなる平屋建だ。明治期に作られた威風堂々の数寄屋《すきや》作りだが、それなりに手入れが大変そうである。
そして日々の掃除や食事を作ったりと、警護以外にも多数の人間が屋敷内に出入りはしているのだが、マサトの前に(頻繁に訪ねて来る歴史部のふたりの前にも当然)姿を見せることはまずない[#「まずない」に傍点]。
この何部屋あるか分からぬような屋敷内で寝泊まりをしているのは、僅《わず》かに四人である。
その四人で、今日も夕食の席を囲んだ。
お櫃《ひつ》からご飯をよそったりと甲斐甲斐しく給仕をしているのは、西園寺希美佳《さいおんじきみか》である。
彼女は二十一歳で現役の女子大生だが、桑名本家の先走りの感もあって、夏に当屋敷に来さされてしまったマサトの(未来の)妻である。そして来てしまった以上は帰すわけにもいかず、ここから東京にある某お嬢さま大学に通っている。――西園寺家は、アマノメの神を奉じている氏子《うじこ》の一家ではあるが、桑名家とは特別に近しい間柄のようだ。
その希美佳の大学のことや、マサトの歴史部の話などを肴《さかな》に、もっぱら喋るのは竜蔵である。
そしてもうひとり、三週間ほど前に本家から桑名竜生《りゅうせい》なる男が来て、この屋敷の住人に加わった。
その折には、アマノメの御[#「御」に傍点]神さまのお披露目《ひろめ》の宴が当屋敷であったのだ。
それは氏子の主だった者たちを招き、馳走《ちそう》が振る舞われ、宴|酣《たけなわ》で簾《すだれ》ごしにマサトが姿を現して、余興程度に神の力を披露した。その程度のことにすぎなかったが、本家の者たちも全員が来、そして竜生[#「竜生」に傍点]だけが居残ったのである。
――年齢は三十三歳で、独身だ。
ちなみに、竜蔵も妻を娶《めと》っていないが、アマノメの神に仕える審神者《さにわ》は生涯独身という、そんな掟[#「掟」に傍点]があるからだ。
つまり竜生は本家筋の次男で(引退間近の)竜蔵の後釜《あとがま》なのである。実は、竜助《りゅうすけ》という本来の後継者がいたのだが、十年ほど前に病死し、そのこともあって一代飛んでいる。だから早急《さっきゅう》に、その竜生を審神者のお役が務まるよう仕込まねばならぬのだが……。
竜蔵には竜蔵なりの考えもあるらしく、今のところ、桑名家の次男にのみ口伝《くでん》されるという〈アマノメの秘密の儀〉の数々などももちろん[#「もちろん」に傍点]のこと、何ひとつ教えてはいないようだ。
希美佳が、食後のお茶を煎《い》れてくれて、それなりに四人が寛《くつろ》いでいると、
「――失礼します」
応接間と食堂《ダイニング》を兼ねているその大広間の戸口に、桑名政嗣が現れた。
彼が、こういった場に入って来るのはめったにないことで、だから緊急の用件である。――そこそこに分厚い資料を携えていて、それを竜蔵に手渡した。
竜蔵は、食堂の木机《テーブル》についたまま、ざーとそれに目を通していく。
その資料は、裏庭で二時間ほど前、竜蔵が調べるようにと政嗣に指示を出した、その回答[#「回答」に傍点]であった。一部色がついているところを見ると、|高級FAX《カラーファクシミリ》か、コンピューターをへて入手したものであろう。
だから肌理《きめ》はそう細かくはないが、そのカラー刷りの一枚を、竜蔵がマサトに示すと、
――そうだと、マサトは即座に黙答《うなず》いた。
それは夕刻、歴史部の部室にいたときに彼が見た、青いドレスを着た女性の顔写真であった。
「……どうしたものでしょうかのう」
竜蔵の、そんな困惑ぎみの呟き声が漏れていた。
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7
あーあ、林田を泣かしてしまった。
やむをえぬこととはいえ、自戒《じかい》の念にもかられながら、依藤係長が重い足取りで三階の刑事課に戻ると、席に生駒《いこま》巡査部長がひとり座っていた。
そして依藤の顔を見るなり、
「あれえ? どうしてえ?」
――と聞いてくる[#「聞いてくる」に傍点]。
種族は違えぞ、生駒《かれ》も岩船さんと同じ人種《タイプ》である。
どうしてえ、自分の周りにはこういった輩が多いのかと依藤は思うのだが、今の依藤にとっては、それでも救いであり、慰みである。
「どうしてえ[#「どうしてえ」に傍点]、はないだろう。俺が非番の日に来てるんだから、それなりの理由はあるのよ」
「……係長。なんかすごくお疲れの様子ですよ」
そういわれると余計に疲れてきた依藤は、ドシャと崩れ落ちるようにして他人[#「他人」に傍点]の椅子に座った。
三階の大部屋全体がしーんと静まり返っている。
「生駒? 何か、聞いてない?」
「うーんこれといっては」
「そうか……」
それはいいことだ、と依藤は独り合点《うなず》いてから、
「じゃ、外から、何か問い合わせの電話かかってこなかった?」
「それもーとくに。あ、ひとつあったな……植井からありましたよ」
それは病院からの最重要[#「最重要」に傍点]電話である。
「何ていってた? 植井――」
「えー簡単な話だったんですが、間違ったらマズそうだったから、メモッてるんで……」
生駒は、夕刊紙の耳のあたりを探している。
怒らない、怒らない、今の依藤は誰彼なく優しい。
「……みっけた。血液型は、A型」
生駒は唯《ただ》それだけをいう。
――依藤は暫《しばら》く待ってから、
「それだけ?」
「ええ、これだけでしたよ」
依藤は、横の壁に懸《か》かっている丸い大時計に目をやりながら、
「あー、時間的にいってそんなものか……」
丸二日は喋っていたような気もするが、まだ宵《よい》の口の七時半であった。死体が運ばれて四、五時間といったところだから、判ることは限られている。
……金城玲子《かのじょ》も血液型はA型だ。すると第一関門は合致《クリアー》か。ならば、次の段階に進むには岩船さんに……そんなことを依藤が考えていると、
「かかりちょお」
鼻にかかった声で生駒が呼びかけてきて、
「さっきの女の子、あれ誰なんですかあ?」
――妙[#「妙」に傍点]なことをいい出した。
「あん? さっきの女の子って、それ何の話?」
「まーた惚《とぼ》けちゃってえ。なんか奇麗《きれい》な女性《ひと》だったから、どうして三階《ここ》までその娘《こ》を連れて来ないのか、あれえ、どうしてえ、にはその気持ち[#「気持ち」に傍点]が籠《こ》もってたんですよ」
「惚けてないって[#「惚けてないって」に傍点]……それにもうちょっと分かりやすい話にしろよ?」
「さっき、といっても一時間以上前だけど、階段を上がって行ってたら、二階の廊下のところで」
――依藤は思い出してから、
「おう、確かに、二階の|手洗い《トイレ》には行ったけど?」
「じゃ、そんときですよ。その係長の後ろを、つかず離れずって感じで、その奇麗な女性《ひと》が……」
「ちょっと待てよ。俺が何で手洗いに、女性同伴で行くんだよ?」
「それは自分に聞かれたって。それにあの奥には、仮眠室[#「仮眠室」に傍点]もあるし……」
「たとえ何室[#「何室」に傍点]があろうとも、そんなところには行ってないの[#「行ってないの」に傍点]。それ、どんな女性よ?」
怒らないつもりの依藤も、少し苛立《いらだ》ってきた。
「やー、階段をトントンと上がってたときだから、きちんとは見てないんですよ。上をふたりがツツッと横切っただけで、係長の後ろにいたその若い女《こ》は、見た瞬間に奇麗……て感じの女性《ひと》で、青い服を着てましたね。ちょっと長めのワンピースかなあ」
「――うん?」
青い服を着た、奇麗な、若い女?
悪い冗談かとも依藤は思ったが、二階の取調室での会話を三階《ここ》にいた生駒が知る由《よし》もない
「それ、いったい何時頃の話なの? 正確には[#「正確には」に傍点]?」
「えー自分は当直[#「当直」に傍点]で来たんだから、六時ちょっと前の話ですね」
――依藤は再度、壁に懸かっている大時計を見つめた。同じ時計が大部屋には後《あと》ふたつあり、コンマ一秒の狂いもなく時を刻んでいる。電波時計だからだ。そんな御時世に、言葉にするのも憚《はばか》られるものが、現れてもらっては困る[#「困る」に傍点]。しかも自分の背後に[#「背後に」に傍点]。依藤は真剣に時間に関しての記憶を思い起こした。
えー、少年課に行ったのは五時だよなあ、それに話の分量《ボリューム》からいって、|手洗いに《ブレイクといって》席を立ったのは、半《なか》ばを過ぎてたよなあ、てことは[#「てことは」に傍点]、
「――俺が|手洗い《トイレ》に行ったのはさ、六時、半[#「半」に傍点]頃だわ。だからそれは別人で、生駒の見間違えよ」
「あ、六時半だったんですか……じゃ、遅刻[#「遅刻」に傍点]しちゃったんですね、自分が」
依藤は、ゴホゴホ、と咳《せ》き込んでから、
「……生駒《おまえ》、そんな感覚でよく刑事つとまるな」
いつか林田と入れ迭《か》えてやる。依藤は心に密かに誓ってから、
「それはもう絶対に見間違い[#「見間違い」に傍点]。この話題は打ち切り……でさ、生駒、愛用《おまえ》の携帯に、岩船さんの携帯の番号、入ってる?」
妙な話で中断される前の段取りに戻して、依藤はいう。
「もちろん入ってますよう。じゃ、かけますねえ」
そういったところは、生駒も|使える《かわいい》。依藤の携帯《メモリー》には二十件ほどしか入っていないからだ。
「……あ、繋がりましたよう」
その生駒愛用の、緑の迷彩塗装で色どられた携帯電話が、依藤に手渡された。
「あ、すいませんねえ、岩船さん、ちょっとご相談したいことが……」
依藤は小声でぼそぼそ話してから、
「……あ、そんな方法がありましたか。いやー助かりました……はい、今から行って来ますので。でっきるだけ早い方がいいですからね。じゃあ」
電話を切って、それを生駒に返しながら、
「羨まし。あの爺《じ》っさん飲んでやがったー」
心にもない悪口を、依藤はいう。
「今から、先様《さきさま》に行かれるんですか」
電話での遣《や》りとりを横で聞いていて、事件の概要を断片的に知った生駒が、刑事の顔になっていう。
「――行くよ。もちろん、生駒《おまえ》も一緒だけど」
「自分はかまいませんけど、いいんですか、電話番がいなくっても?」
「よいのよいの。暫くは、刑事課《ここ》には誰もいない方がいいの[#「いいの」に傍点]――」
いうと依藤は、事務机《デスク》の引き出しを漁《あさ》って、白い厚紙と太いマジックペンを探し出すと、キュキュと音を出しながら、何やら書いていく。
いかなる問い合わせにも[#「いかなる問い合わせにも」に傍点]
知らぬ存ぜぬで通せ[#「知らぬ存ぜぬで通せ」に傍点]――依藤[#「依藤」に傍点]
それを横で見ていた生駒刑事の顔つきが、さらに凜々《りり》しさを増した。
「この紙を持ってさ、大部屋を一周してくれる。で戻って来て、目立つように立てとけばいいからさ」
「了解――」
三階の大部屋にはまだちらほら[#「ちらほら」に傍点]人がいる。生駒と同様に当直で出てきた者や、帰りそびれている課員たちである。事件[#「事件」に傍点]のことは知らないのかもしれないが、それはそれでよいのだ。この種の衝撃的《ショッキング》な事件は身内から漏れることが意外と多い。第一報を知らせてきた者にマスコミが謝礼金《うらがね》を出すからだ。この大部屋には、そういった不逞《ふてい》の輩はいないと依藤は信じてはいるが。
――生駒が戻って来た。
依藤は、少年課《はやしだ》から借り受けた関連資料を、黒い|鍵付き鞄《アタッシュケース》に仕舞うと、
「さあ、行くぞ。詳しい話は車の中で」
――蹌踉《よろ》めきながら立ち上がった。
「お供いたします」
甲斐甲斐しく生駒はいってから、
「けど……お伺いするお家[#「お家」に傍点]に、連絡は入れなくてもいいんですか?」
「それも、よいの。先様[#「先様」に傍点]にあれこれと考えられてしまうと、こちらの対応がしづらくなるから」
四年近くも連絡を断っていた警察から、それも同じく南署から電話がいくと――そうなる。速やかに目的だけを達し、事件の概要についてもできるだけ喋らずに、家から出たい。それが依藤の青写真なのだ。まだ彼女[#「彼女」に傍点]だと確定したわけではない。お悔やみを述べに行くつもりはないのだ。
「けど……それはよいとしましても、先様は、お家におられるんでしょうか?」
「絶対にいる[#「絶対にいる」に傍点]――」
できれば由純氏《ちちおや》には不在であって欲しいが、そう希望どおりに適《い》くかどうかは分からない。が、
「――今日はさ、なんか物事がとんとん拍子に運ぶ日なんだ。昼すぎ頃からずーと、そんな調子。だから絶対にいるし、うまくいく[#「うまくいく」に傍点]」
本当にそんな気がしてきて、依藤はいった。
「ふーん、人間たまに、そんな日もありますよね」
生駒は知ったふうなことをいう。
「けど……」
「けど[#「けど」に傍点]、何だ?」
「……いいたくはないのですが、あまりにも係長の顔色が、お悪いので[#「お悪いので」に傍点]」
「天秤《てんびん》にでもなってるというのか?」
「め、滅相もありません。ただ、そのとばっちりが、自分の方にくるのはこわい[#「こわい」に傍点]んで……」
もう絶対に入れ迭《か》えてやる。依藤は魔界[#「魔界」に傍点]の王[#「王」に傍点]に誓った。
※
所沢市内の閑静な住宅街の一角に、金城氏の自宅はあった。乗って来た濃色《ダーク》の警察車両《くるま》は、少し離れた道路脇に寄せて停め、その家の前にふたりが立ったときには、夜の八時半を廻っていた。
「門灯《もんとう》が、点《つ》いてますね」
――生駒がいった。
庇《ひさし》がついた和風建築の木の門である。その並びの生け垣から邸内《なか》の様子が、透けて覗けた。松などが植わった日本の庭があり、奥に和風の二階屋が佇んでいる。一階には明かりが灯《とも》っているが、二階は雨戸が閉じてあるのか真っ暗だ。ともあれ、家に人がいることは間違いない。
門の庇の下から、防犯カメラが睨んでいた。
「手帳出して、俺も出すから」
ふたりして、その防犯カメラの筒先《レンズ》に警察手帳を翳《かざ》しながら、依藤がインターホンのボタンを押した。
暫くすると、
「はい、どちら様ですか」
――やや嗄《しわが》れた女性の声である。
「夜分、誠におそれ入ります。埼玉県警[#「埼玉県警」に傍点]の者ですが、ご相談いたしたいことが、ございまして」
――明瞭に言葉を選びながら、囁くように依藤はいった。
正しくは、埼玉県南警察署であるが、略し方によってはそうなるから、嘘をついているわけではない。
「は……はい。今すぐに開けますので」
すると木の門のどこかから、カチャ、金属音が聞こえて、
「鍵は開きましたので、お入りになって、玄関のところまでお越しになって下さい」
「はい、お伺いいたします――」
そう依藤がいって、木の扉に生駒が手をかけると、すーと音もなく奥に開いた。
「へー、こんな木の門にも、そういったの内蔵《つけら》れるんですね」
「文明《ハイテク》の世の中よ」
――ふたりは門をくぐって邸内に入った。
庭に外灯はなく、玄関へと続く石畳だけが、脇からの間接照明で仄《ほの》かに照らし出されている。
ふたりが歩き始めると背後で、カチャ、施錠される音がした。
「なんか、幻想的ですよね」
――生駒がいう。
何て不吉[#「不吉」に傍点]なこというんだと依藤は思う。が、頭ん中が過敏症[#「過敏症」に傍点]になっているのが自分でも分かる。
――玄関の格子扉《くもりガラス》の向こうで人影が動き、ふたりが着くのとほぼ同時に、その扉が開けられた。
「さ……どうぞ」
手編みらしい狐色のカーディガンを羽織った初老の婦人が、会釈《えしゃく》をしながら中へと促した。
「失礼いたします」
ふたりは一礼してから、その格子扉の敷居《しきい》を相次いで跨《また》いだ。
――威風堂々の和風の玄関である。が、家自体はそれほど古くはないようで、せいぜい築十年といったところか。
そんな検分もそぞろに、依藤は、早速《さっそく》本題に入る。
「失礼ですが、金城|房子《ふさこ》さんでいらっしゃいますよね?」
「はい、さようですが」
「実は、お孫さんの、金城玲子さんのお部屋の方を、拝見させていただければと思いまして」
「あ……はい」
戸惑いの表情を見せながらも、房子は頷くと、
「あいにく、息子《ちちおや》の由純はいないのですが、どうぞ、お上がりになって下さい」
そういってから、上等《ビロード》のスリッパをふた組、玄関の上がり口のところに揃えて置いてくれた。
――林田の評どおりで、物腰の柔らかな、優しそうな女性《ひと》だと依藤には感じられた。
生駒が、半長靴《ブーツ》のジッパーを下ろしながら、
『あれえー』
といった訝《いぶか》しげな目を、依藤の方に向けてくる。
――いいたいことは分かった。|もう天秤でも何《あくまにたましいをうって》でもいいから、このまま最後まで[#「このまま最後まで」に傍点]と依藤は思う。
その金城房子に案内されるがまま、ふたりは家の奥へと進んで行った。和の幅広の廊下で、磨き上げられた床の木目が美しい。祖父《おっと》が上場企業の重役で父親《むすこ》が銀行の支店長ともなると、相応の家なのだろうが、ここには住みたくないと依藤は思う。人が生活をしている……感じがしないのだ。大邸宅全体が、それこそ伽藍道《がらんどう》のような静寂で包まれている。
そして二階への階段を、その一段目に房子が足をかけると、パ、パ、パ、パー……階段付近と階上の明かりが、シャンデリアの飾り電球や蛍光灯などが、いっせいに点《とも》った。
「うわ……」
生駒が、驚きとも怯《おび》えともとれるような声を漏らす。
階段から先は洋風の作りになっていて、その二階の廊下を奥まで進むと、赤い……おそらくは赤樫《あかがし》で作られた洋扉の手前で、房子は立ち止まった。
「こちらが、その玲子の部屋でございまして、当時のままにしております」
いってから照明のスイッチを入れ、扉を開けると、どうぞ、とふたりを先に通す。
そこは十畳か、それ以上の広い洋間であったが、
「ほう……」
依藤は、説明しようのない安堵《あんど》の声を漏らした。
……部屋《そこ》は四年もの間|主《あるじ》が不在だったというのに、逆に、なぜか人の温《ぬく》もりが感じられたからだ。
「ご自由に見ていただいて、かまいませんですよ」
扉を閉めてから、房子はいった。
依藤は、室内をざーと見渡してから、
「あちらに置かれてある白い化粧台《ドレッサー》……あれは、玲子さんがお使いになっていたものですか?」
「あ……はい」
房子は少し戸惑《とまど》った様子で、
「たしかに、そうなんですが、あれは元はといえば、玲子の母親の化粧台でして」
「あ、お亡くなりになられた……」
「はい、さようです」
……そういわれて見れば、高校生の部屋にはそぐわない|豪華な猫足《ヨーロッパふう》の化粧台である。
「たしか……母親の玲李さんが亡くなられたのは、玲子さんが中学校一年生の頃だったですよね。そうしますと、その後《あと》、こちらの部屋に?」
「はい、母親が亡くなりました後、すぐに」
ならば……問題はない。万が一、母親のサンプルが混ざったとしても、それも支障はないはずだ、と依藤は頭で確認してから、
「そういたしますと、誠に不躾《ぶしつけ》なお願いなんですが、あの化粧台の中を拝見させていただくわけには、まいりませんでしょうか?」
「かまいませんですよ」
――即[#「即」に傍点]承諾して、房子はいう。
「じゃ、生駒、お願いね」
「はい。……すいません」
生駒は房子に一礼してから、両手に手袋を嵌《は》めると、その化粧台に忍び足[#「忍び足」に傍点]ですり寄って行く。
……家人が見てる前で泥棒《ここそこ》やってどうすんだ、と依藤は思う。
そして生駒が、化粧台の引き出しの中を|探し《ごそごそ》始めると、そんな様子は見たくもない……とでもいったふうに房子は顔を背《そむ》け、渋い蜜柑《オレンジ》色をした針子布《ベッドカバー》が被《かぶ》さっている籐家具《ラタン》の幅広《セミダプル》のベッドの縁に、腰を下ろしてしまった。
その気持ちは……分からないでもない。金城家とは血の繋がりがない玲李《はは》と玲子《むすめ》が使っていた化粧台に、金城房子にしてみれば、何の愛着や執着があろうか。いや、むしろ忌《い》まわしい品ですらあるのかもしれない。確かに、優しい女性《ひと》ではあるようだが、心の傷もまた深いのだろうと依藤は思った。
その房子が、所在なげに見つめている先に、橙《だいだい》に近い茶色をしたライティングビューロが置かれてあった。いかにも若い娘が好みそうな色合いのそれは、金城玲子本人が使っていたものだろう。その文机《ふづくえ》の上に、キャビネの寸法《サイズ》ほどに引き伸ばされた写真が、純銀(もしくは錫合金《ピューター》)の枠に飾られて、立てられてあった。その写真もまた、
――青いロングドレスを着た彼女[#「彼女」に傍点]なのである。
無論、玲李《ははおや》なのか玲子《むすめ》なのか、依藤には定かではない。それに、この部屋にあった写真類は(林田の話によると)洗い浚い消えていたはずだ……すると、これは家の方に残っていた写真なのか?
依藤は、話を聞いてみることにした。
「あの机の上に置かれているお[#「お」に傍点]写真ですけれども、あれはどちら様の?」
そう問いかけると、
房子はピクッと肩を震わせてから、
「……はい。あれは玲子さん[#「玲子さん」に傍点]の写真なんですよ」
掠《かす》れぎみの声でいった。
突然声をかけて驚かせてしまったと、依藤は反省して、
「ほう……あれが」
そういって、ひと呼吸置いてから、
「玲子さんは、いつもあの写真のような、少し派手めの服をお召しになってたんですか?」
――聞きたかったことを尋ねる。林田の説明とは食い違うからだ。
「いえ、あの服はですね、玲子さんの母親[#「母親」に傍点]が、亡くなります直前にですね……」
房子は、語尾を濁して言い淀《よど》んでしまった。
が、何となく依藤にも分かった。
玲李《ははおや》が亡くなる直前に自分で買ったか、もしくは青い服が似合う彼女にと夫が贈ったか……それを娘の玲子が、家出の際には母の服は持ち出せないので、一度袖を通しておきたいと思ったのか。あるいは、父親が強いて、そんな写真を撮らせたのか……様々な空想や妄想が頭を駆け巡ったが、
「じゃ、玲子さんにとりましては、思い出の服[#「思い出の服」に傍点]、であったわけですね」
――当たり障りのない表現で、依藤は纏《まと》めた。
けれど、依藤は何を思ったのか、吸いつけられるように文机に歩み寄って行き、
「このお写真、手にとって拝見させていただいても、よろしいですか?」
顔だけを向けて、房子に問う。
「はい、かまいませんですよ」
微笑んで――彼女はいう。
依藤は、それを両手で大事そうに抱え持ちながら、あの、部屋に入った瞬間感じた温もりは[#「温もりは」に傍点]、この写真のせいではないか、とも思っていた。そこにいる[#「いる」に傍点]金城玲子は、依藤が抱《いだ》いていた印象《イメージ》とは異なり、寛《くつろ》いだ、柔和《やわらか》な笑顔をしているからだ。あの、クラブの前で撮られたという花束を抱えた温玲李のそれとも、似ていなくもない。それに、玄人《プロ》が撮影したかと思えるほどの、見事な写真でもある。
「……つかぬことをお伺いしますが、このお写真は、どなたが撮影されたものでしょうか?」
そう依藤が尋ねると、房子は胸に手をあてがって、表情を和《なご》ませながら、
「それは、わたしが撮ったものなんですよ」
「えっ、おば……」
おばあさん、と依藤はいいかけてから、
「失礼しました。金城房子さんがお撮りになったんですか、いやー、実に見事なお腕前ですねえ」
――本心で褒める。
「それぐらいしか、趣味がないものですから」
気恥ずかしそうに、房子はいった。
「いえいえ、これは立派な[#「立派な」に傍点]ご趣味ですよ」
依藤は、さらに褒め千切りながらも、
――けど、こんな表情を撮らせるぐらいだから、ふたりは憎しみ合っていた、わけでもないのか? それとも、母の形見の服を着たので、娘《まご》の表情が華やいだのだろうか?
「その写真はですね、玲子さんの十八歳の誕生日の日に、家の庭で撮ったものなんですよ」
――気を利かせてか、房子が説明してくれる。
確かに、背景に木や草が写っている。
が、依藤の関心は、むしろ母から娘へと伝えられた、その青い服[#「青い服」に傍点]にあった。七分袖の丈長のワンピースだが、遠目には派手に感じられたそれも、よく見ると古典的《レトロ》で、地味ですらある。自身では巧く説明できないが、もし林田ふうにいうなら……アルプスの少女ハイジが着ていた粗末な服を、お洒落に作り直したような衣装だ。それに、牧場の干し草[#「干し草」に傍点]としか見えないような飾りを胸[#「胸」に傍点]につけているから、なおさらそんな感じがする。その奇妙な風合いの服に依藤が見惚《みと》れていると、
「――係長。見つかりましたですよ」
生駒が、少し興奮ぎみに声をかけてきた。
振り返って見ると、手袋を嵌めた彼の右手に、大きめのヘアーブラシが握られていた。
依藤は、近くまで行ってそれを確認[#「確認」に傍点]する。
「ほう……ちゃんと残ってたねえ」
「幸運《ラッキー》でしたねえ」
ふたりして囁き合ってから、依藤が、ベッドの縁にいる房子に向き直って、
「お尋ねいたしますけれども、このヘアーブラシは、玲子さん本人がお使いになっていたものですか?」
――念のために聞いてみる。
が、房子はそれを一瞥《いちべつ》しただけで、顔を逸らしてから目を瞑《つむ》ると、
「正直なことを申しまして、それが玲子のものであるかどうかは、わたしには覚えがないのですよ」
――項垂《うなだ》れぎみにいった。
「あ……はい」
いわれてみれば、そうかもしれない。房子が親代わりを務めていたのは、玲子の中学生以降なのだ。この種の化粧道具は、自身で買い求め、そしてこの部屋の中で使っていたのだろうから、彼女が知らないのも無理はない……と依藤は思う。
「それは、けっこうでございますよ。ところでですね、さらに不躾なお願いなんですが、このヘアーブラシを、警察《われわれ》にお貸し願えないでしょうか」
依藤は、最後の承諾をとりつけるべく、上半身を折り曲げて、懇願の表情を顔に作っていう。
「かまいませんですよ。それでお役に立ちますならば……」
いってから、房子は頭を下げた。
かくして、目的を達した刑事ふたりは、婦人への挨拶もそこそこに金城家から辞去した。父親の由純氏に帰宅されると、話が面倒になるからだ。
そして、道路脇に停《と》めてあった車に飛び乗るやいなや――
「し、し、信じられない[#「信じられない」に傍点]。どうなってんですか係長[#「係長」に傍点]。何ひとつ尋ねられませんでしたよ?」
――家の中と道端では押さえていた不条理感《きもち》を、生駒は一気に爆発させていう。
「それに、お祖母《ばあ》さんひとり[#「ひとり」に傍点]しか家にはおられなかったし、目的の物はすんなり見つかるし……し、信じられない[#「信じられない」に傍点]?」
「だからいっただろう。今日は、そういう日なんだって……」
「信じられない。絶対に悪いものが憑《つ》いてる」
「……もう、憑いていても、何でもいいの……」
生駒の露骨な言葉を耳にしながらも、依藤は突然の睡魔[#「魔」に傍点]に襲われていた。
……思えば、目まぐるしく超多忙な一日であった。家で転寝《ごろね》をしていたら呼び出されて、行ってみると学校の裏山に、首なしの白骨死体があって、その指に嵌まっていた指輪[#「指輪」に傍点]から……
あ、そうだ。上着《ジャケット》の内懐《ポケット》に仕舞ったままだ。依藤は手で確かめてみた。幸いにもまだ左胸《そこ》にあった。
……その指輪から持ち主が判って、少年課の林田が、温玲李と金城玲子の悲しい物語を教えてくれた。そして……今、膝のアタッシュケースには、封筒に入って金城玲子のヘアーブラシが……彼女の毛髪[#「毛髪」に傍点]があるのである……なんて一日だろうか…
依藤は、生駒が運転する車の助手席で、その睡魔[#「魔」に傍点]に抗《あらが》えずに眠り込んでしまった。
……指輪、
――指輪、
――指輪[#「指輪」に傍点]を、
依藤の耳の奥で木霊《こだま》するように、その切ない囁き声が聞こえてきた。
うん? 指輪を、どうするの?……誰に[#「誰に」に傍点]?
――見ると、青いドレスで着飾った|写真の女性《きれいなひと》が、目の前に立っていた。
うーん、どちらだろうか、依藤は迷う。
その彼女が、ふふ、無邪気に微笑んだかと思うと、手[#「手」に傍点]を依藤の胸に伸ばしてくる……あ、そこに指輪があるからだ。その手の温もり[#「温もり」に傍点]を依藤は感じた。
いいよ、指輪は持ってっても。けど、きみはどっち? あの玲李さん? それとも玲子さん?
その問いは彼女には聞こえなかったのか、応えてはくれない。
あ、そうか、Rの指輪[#「Rの指輪」に傍点]はふたりの指輪なんだな。もう、どっちでもいいや、そう依藤は思う。
彼女が――少し後ずさりをする。
青いドレスの、その丈長《ロング》の裾《すそ》が、揺らめいて光り輝いていた。それは空の色でもなく、あの海の色でもなく、なんて素敵な青だろうと依藤は思う。
そんな青いドレスの彼女が手招きをした。
そしてどこかの草原へと彼を誘《いざな》ってゆく。
辺りいちめん[#「いちめん」に傍点]が金色[#「金色」に傍点]の……あ、知ってる。ここは秋の芒薄《すすき》の野原だ。その背丈ほどもある金色の草原へ……すべるように彼女は分け入《い》ってゆく。
あ、そうか、それで胸[#「胸」に傍点]にそんな飾り[#「飾り」に傍点]をつけてるんだね、そう依藤は思う。
草原を左右《ふたつ》に分からながらも、彼女は、あの色白《きれい》な顔――いつも[#「いつも」に傍点]依藤に向けている。
どうしてそんな歩き方するの? この金色の草原《くさむら》に住んでるの? どこに行こうとしてるの?
あ……きみは死んでるの……気づいて依藤は悲しくなった。
その金色の草原で彼女はたちどまり、それは知らされてないと微笑みを返す。あの……寛《くつろ》いだ笑顔を。
依藤も……気づかなかったような素振りをして、そんな彼女の笑顔を見つめる。
その彼女の髪が、その芒薄《すすき》の穂とともに風に靡《なび》いた。青いドレスと、その金色の髪……
係長、着きましたよ。かかりちょお[#「かかりちょお」に傍点]」
……ここ……どこ?」
「車の中ですよ。南署の前」
「あ、そうか……だったら、この鞄の中に入ってる大切なもの[#「大切なもの」に傍点]、鑑識の金庫に仕舞ってくれる。朝一で岩船さんが手配してくれるから……」
「係長は、どうされるんですか?」
「……仮眠室に行ってでもして、寝るわ」
「帰られないんですか?」
「明日の朝刊を、全紙待つの」
「あ、どこか一紙ぐらいには載ってそうですよね」
「だからさ、俺あしたの朝ぼうーとしてると思うので、野村《のむ》さんと相談して、捜査課《となり》と、防犯課《となり》から、そして少年課《にかい》からも借りていいからさ、頭数だけは整えといてね。じゃ、俺は寝る……」
「かかりちょお、ここで寝ちゃダメですよ」
……今すぐに眠れば、さっきの夢の続き[#「夢の続き」に傍点]が見られる、そんな誘惑に依藤はかられた。
※
――後日、鑑識課の岩船係長が、FAXの記録紙を持って、刑事課の依藤係長の席を訪《たず》ねた。
「正式な判定書面はさ、後から来るけど、先に結果だけを知らせてきたよ。学校の裏山から出た白骨のDNAと、毛髪のそれとはぴったし[#「ぴったし」に傍点]一致した。つまり、同一人物だね――」
依藤としては、別人[#「別人」に傍点]の可能性もあると考えていたのだが、その希望《ゆめ》は……消えた。
依藤はそのFAXの記録紙を持って、大部屋中央の窓際にある、捜査課の課長席に出向く。刑事課の課長も兼任する五十歳を少しすぎた伴《ばん》課長は、沈痛な面持ちで暫く考えてから、
「――そうしますと、先様[#「先様」に傍点]に事情を説明しに参らねばなりませんね。少年課の早川|課長《さん》にも行ってもらいましょう。依藤係長《よりさん》も、同席してくれるよね」
依藤としても、今後の捜査の指揮を執るのだから、挨拶をしておく必要はあった。
※
そんな最中《さなか》、十一月二日の夜、同じく埼玉県南警察署管内の、浦和市|寺山田《てらやまだ》で、別の殺人事件が起こった。
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第二章 「Mの証し」
8
――十一月三日、文化の日である。
埼玉県浦和市の郊外に、輝くように燦然《さんぜん》と城を構えている私立M高校では、歴史部が待ちに待った[#「待ちに待った」に傍点]、恒例『秋の文化祭』が催されていた。――開催を危ぶんでいた人[#「人」に傍点]もいたようだが、ものともせず[#「ものともせず」に傍点]。
それに、創立『五十周年祭』を兼ねていたので、例年になく盛況なようである。
――その祭りも後半にさしかかった頃。
正門へと続くなだらかな坂道を、目をしょぼ[#「しょぼ」に傍点]つかせぎみの男がひとり、急ぎ足でやって来ていた。
男は、|M高校《ここ》の文化祭には是非《ぜひ》来てみたく、今日の十一月三日は自らが組んだ日程表《ローテーション》で、非番、と決めてあったのだが、昨晩十一時すぎに急遽《きゅうきょ》とび込んできた仕事でもって、その処理に朝方までかかってしまい、やむをえずこんな時間になったのだ。
|M高《そこ》の正門は、かつては女子校であった名残《なごり》か、どこか|宝塚歌劇風の《メルヘンチックな》作りであり、それを見て、男はさらに心を踊らせながら、その豪華《ゴージャズ》な門をくぐるとすぐ前に、薄紅《くれない》色をした天幕《テント》が行く手を阻《はば》むように陣取っていて、『受付』の机が置かれてあった。
そこは招待客・卒業生・在校生親族・一般に分かれていたので、男は、一般[#「一般」に傍点]の受付へ――
「一般の方ですね」
――念を押されてから、
「それでは、何かご身分を証明されるものを?」
といわれたのだが、あの手帳[#「手帳」に傍点]は出せないし……男が逡巡《しゅんじゅん》していると、
「運転免許証でけっこうですよ」
あ……それがあったと、男は上着の内懐《ポケット》から取り出して、受付の女性に手渡す。
彼女は、その免許証の写真で顔を確認してから、
「コピーを取りますけど、よろしいですか?」
「あ、どうぞ」
男は快諾《かいだく》しながら、ちゃんとやってるんだなあ、いいこといいこと[#「いいこといいこと」に傍点]……職業柄にそう思う。
彼女は、免許証を男に返すと、白の上質紙に印刷された小冊誌《パンフレット》を差し出しながら、
「えー真後ろにある校舎の方では、何もやっておりませんので。出店に沿って歩かれると、その先にある旧校舎が、文化部のメイン会場です」
――男を初心者[#「初心者」に傍点]と見てか、親切に説明してくれる。
「ですが、五時ごろをすぎますと、皆さんこっち側に移ってしまいまして、新校舎の奥にある体育館群[#「群」に傍点]の方で、演劇、映画が二本、そしてアニメや、生徒さんが作成したコンピューター映像などもやっていいます。そこは、夜の八時ごろまで大丈夫です」
ほう……豪華な陣容《ラインナップ》だと、男は思う。
「そして、ここから見えますけど、新校舎の右隣にある大[#「大」に傍点]講堂の方で、音楽系をやっています……なんですが、もう古典音楽《クラシック》やお琴の|出し物《プログラム》などは、そろそろ終わりでして」
――男を老人[#「老人」に傍点]と見てか、いかにも残念そうにいう。
内心すこしムッとしながらも、ふんふん[#「ふんふん」に傍点]と彼女の説明に聞き入ってから、その小冊誌《パンフレット》をもらうと、男は出店の方に歩き始めた――
彼は、まだ五十代の前半である。が、痩身《そうしん》で背も百六十センチそこそこだから、見た目には、確かに鄙《ひな》びた感じはする。それに今日はお忍び[#「お忍び」に傍点]の気分で来ているので、仮に、名前をI氏[#「I氏」に傍点]としておこう。
――そして受付から見えるところに、もう最初の出店があり、串に刺さったアメリカンホットドッグが売られていた。そこには、薙刀《なぎなた》部女子の木の看板が出ていて、門番には相応《ふさわ》しいとI氏は思う。
続いて、向かい側に『本家・手焼き煎餅《せんべい》』の幟《のぼり》を立てた店があり、見てみると、網の上で、炭火を使って、丸い煎餅を実際[#「実際」に傍点]に焼いていた。手つきも実に堂に入っているが、どう見たって普通の生徒さんだ。そのようなお家の子なんだろうな……I氏は思う。そこにはテニス部男子の看板が出ていた。
その少し先で、子供たちがしゃがみ込んで、集《たか》っているが……なんと、金魚|掬《すく》いをやっていた。その辺りから込み合ってきて、子供連れの客も大勢いる。散歩がてらに近所の人たちが来ているようだ。その金魚掬いの店には水泳部男子の看板が出ていた。
続いて、女子がねじり鉢巻きで粋《いなせ》にきめた、タコ焼きの店があった。ソースの匂いに誘われ、それに小腹《こばら》が減っていたこともあり、I氏は我慢できずに買ってしまった。卓球部女子の看板が出ていた。
その熱々のタコ焼きを頬張りながら、何か飲み物は……辺りを見ると、懐かしやホッピー[#「ホッピー」に傍点]の垂れ幕が下がっているではないか。実に客の心理をよんでいると感激しつつ前まで行くと、それは単に古い広告で、酒類《アルコール》はなく、冷えた小型《ペット》ボトルや缶|飲料《ジュース》を売っていた。横でポップコーンも炒っている。そこにはトランポリン部男子の看板があり、五輪種目《オリンピック》にも採用されたことだし、などとI氏は考えていて、
〈あっ、みんな洒落[#「洒落」に傍点]になってるんだ!〉
――ようやく気づいた。
そういった出店が、色とりどりの天幕《テント》や幟《のぼり》を立てて、葉が散り始めている桜並木を元気づけるように、先にもずらー……り並んでいる。けっこうな人出で、もうお寺の縁日《えんにち》と変わらない。I氏は楽しくて仕方がなく、左手にタコ焼き、右手に煎茶の小型《ペット》ボトルを抱え、次から次へと、その洒落を見極めて行く。
どれどれ……
バレーボール部男子、自家製《あげたて》ポテト・スティック。ポテトは馬鈴薯《ばれいしょ》ともいう。……バレーしょ!
サッカー部男子、馬の蹄鉄《ていてつ》を使った輪投げ。馬といえば、けっとばし[#「けっとばし」に傍点]であろうか?
柔道部女子、大和撫子《やまとなでしこ》いそべ焼き。鉄板で、海苔《のり》を巻いた白い餅《もち》を焼いていた。……あっ、黒帯だ!
剣道部女子、別嬪《べっぴん》ソース焼きそば。……字が違っていると思うが、それでよいのだろう。そば[#「そば」に傍点]といえば麺[#「麺」に傍点]だ。それに金属ヘラのことをコテ[#「コテ」に傍点]ともいった。
水泳部女子、本場香港の味ぞうすい。……そのままである。
陸上部男子、無添加黒豚とん汁。……うん? これは何だか解らない。I氏は男子店員に聞いてみた。
「……それはですね、陸上部《うち》にはいろんな種目があるでしょう。だから、ごった煮なんですよ」
そう囁《ささや》くように彼がいうと、後ろで大鍋を覗《のぞ》いていた女子が振り向き、ちがうちがう[#「ちがうちがう」に傍点]と手を振って、
「陸上部《うち》の男子って弱いんですよ。だから火がつかない無点火[#「無点火」に傍点]のドン尻[#「ドン尻」に傍点]って意味があるんです。黒豚は、日には焼けてるくせに、体が締まってないから」
――しゃきしゃきと襤褸糞《ぼろくそ》にいう。
その女子は、おそらく陸上部の最上級生で、豚《とん》汁の味の点検[#「点検」に傍点]に来ていたのだろう。さすがは、噂《うわさ》に聞こえし嚊天下《かかあでんか》学校だと、I氏は思う。
その他にも……弓道部女子、愛の射的場。吸盤の矢で数字の的を狙う。景品は裸天使《キューピッド》の縫いぐるみ。
卓球部男子、これまたタコ焼きか、いや、変化球焼き[#「変化球焼き」に傍点]と銘打たれている。中身は、チョコレートとのことで、店員も洋菓子屋ふうの白高帽子だ。
体操部女子、つきたて小餅の各種和え物、大根おろし・ひきわり納豆・つぶし餡《あん》かけ。I氏は暫《しばら》く考えてから……あっ、餅が細かくてネチッとしてるから、あのコマネチ[#「コマネチ」に傍点]だ!
洒落の秘密が解けて大喜びしつつ目を転じると、広い|売り場《ブース》にも拘《かか》わらず、無人の店があった。
――売り切れ御免/生物部[#「生物部」に傍点]、の看板が出ていた。
ここで草の苗を売っていたのだ。噂どおり完売[#「完売」に傍点]しているのである。別の看板もあり、生物部の本[#「本」に傍点]会場は旧校舎二階[#「二階」に傍点]、上がってすぐ右[#「右」に傍点]――案内が出ていた。
それを見てI氏は、そうだそうだ、|洒落で《こんなことで》道草は食ってられない、と旧校舎に急ぎ足で向かった。
その正面玄関に着いて、なるほど、こら典型的なアールデコ様式[#「アールデコ様式」に傍点]だな……物知りのI氏は思う。
|林田が依藤に説明したの《バットマンやゴーストバスターズ》が、つまりそれである。|曲線主体の《くねくねとした》アールヌーボーを嫌って、一九二〇年頃に起こった様式だ。だから直線主体ではあるが、今の日本の建物《ビル》のような没個性的な無機質感はない。
玄関の叩《たた》きはたぶん大理石だと、I氏は思う。が、段を上がると木の床で、例の女子限定[#「女子限定」に傍点]の廊下が左と右にあった。ところが、花鳥風月の屏風[#「屏風」に傍点]でその入口が閉じられ、前に『花道部』製作の純和風の見事な生け花が飾ってあり、さらに、白木の看板が、
――『茶道部』こちら↑お抹茶《まっちゃ》かお煎茶、そして京の和菓子を用意してございます。
一階の奥の間へと誘う、雅《みやび》な風情《ふぜい》を漂わせていたが、I氏はぐっと堪《こら》えて、中央階段に歩を進める。
そこを二階へと上がると真っ正面の壁に、木製の古い大[#「大」に傍点]看板がふたつ[#「ふたつ」に傍点]並んで、でーんと懸《か》かっていた。
――生物部↑
――歴史部↓
これほどっちに行くか迷うよなあ……
I氏はまず、生物部の側に顔を向けてみた。すると、開いている扉の上部から廊下の天井にかけて、椰子《ヤシ》の葉っぱが蔽《おお》い茂っていて、そこに原色の鸚鵡《オウム》やら、黄緑色の爬虫類《トカゲ》やら、金色の手長猿までもがぶら下がっている。……|南国の情緒《トロピカルなムード》たっぷりだ。
片や歴史部はというと、あの豪華|絢爛《けんらん》な道具類は、すべて手筈《てはず》どおりに設置済みだ。それを見てI氏は、お寺が出張[#「出張」に傍点]してきたのか、と我が目を疑いながらも、
……大人は|↓《こっち》 子供は|↑《あっち》と勝敗をつけた。
そしてI氏は、躊躇《ためら》うことなく歴史部の扉へと歩んで行く。今日を非番[#「非番」に傍点]にまでしたのは、その歴史部の話を聞きたいがためなのだ。あの|忘れ物《あそうまなみ》のノートに接して以来、気になって仕方がなかったのだ。あの妙な話はどこまでが実話[#「実話」に傍点]なのだろうか……と。けれど、そのノートに書かれてあった話は、お寺の縁起《えんぎ》にしかすぎないのである。そこから先、歴史部がいかに深い謎を解いたか、I氏は|知る由もないが《なみだをながすことになるが》。
観音扉《かんのんとびら》の左右には、背の高い黒鉄の古い灯明台《とうみょうだい》を利用して、三つ葉葵紋の提灯《ちょうちん》が下がっていた。その明かりがゆらゆら[#「ゆらゆら」に傍点]揺れている。ロウソクが中に? と思って見てみると、電線《コード》が出ていた。あ、そんな電球があったと、I氏は思う。
お寺の段幕《だんまく》の下をくぐるようにして、その開いたままの扉から中に入ると、左側は壁で、右を衝立《ついたて》で仕切り、幅二間ほどの広い展示通路が作られていた。その中ほどで、聴衆から頭ひとつ抜きん出た長身の男子が、異様に長い腕をさらに伸ばして、海に漂うワカメのようにくねらせながら、熱弁を奮《ふる》っていた。客は七、八人はいるようで、なかなか盛況のようだ。途中からではあるが、その説明を聞こうと、I氏は聴衆の後ろにくっついた。
「……ところがですね、この淨山寺《じょうさんじ》は、三つ葉葵のお寺なんですね。皆の者ひかえおろう[#「皆の者ひかえおろう」に傍点]、この印籠が目に入らぬか[#「この印籠が目に入らぬか」に傍点]! の三つ葉葵です。その徳川家の御紋が、手洗いの石にも、本堂の扉にも、そして屋根の瓦《かわら》にも、なーんとお賽銭箱《さいせんばこ》にも……」
その男子の説明に呼応して、展示に貼られている写真が、赤くピラピラ輝いている。|光の指し棒《レーザーポインター》を使っているようだ。聴衆の隙間《すきま》から覗き見てみると、小柄な女子がそれを操っていた。
あ……あの娘《こ》が、あのノートの書き主だ。
確信をもってI氏はそう思う。以前|依藤《よりさん》から、アイドル顔の娘だと聞かされていたからだが、依藤《かれ》も|実際は《しゃしんしか》見ていないのだ。が、噂よりも数段可愛いとI氏は思う。それに背の高い彼氏も、なかなかの伊達男《ハンサムボーイ》だ。今風の顔立ちとは、いえそうにないが。
「……皆さんの家にも、先祖代々うけ継がれた家紋[#「家紋」に傍点]、ていうのがありますよね。それと同《おん》なじで、お寺にも寺紋[#「寺紋」に傍点]という紋[#「紋」に傍点]があります。つまり淨山寺は、その寺紋が、三つ葉葵なんですね……」
ふんふん、と説明を聞きながらも、関西人だなとI氏は見抜く。本人《かれ》は標準語で喋っているつもりかもしれないが、根本的に抑揚《アクセント》が異なるし、単語も一部ちがう。この場全体に漂う、どこか甘ったるーい雰囲気は、彼《そ》の|言葉遣い《かんさいなまりべん》のせいだとI氏は思う。
「……寺紋は別にありながら、三つ葉葵を拝領している寺というのは、あちこちにあって、特に稀《めずら》しいことはありません。ところが、淨山寺は、三つ葉葵ひとつしか紋を持ってないんですね。普通そういったことは、考えられません[#「考えられません」に傍点]」
――強調して彼はいってから、
「この淨山寺は、貞觀《じょうがん》二年、つまり西暦八六〇年に天台宗の高僧・円仁《えんにん》・慈覺大師《じかくだいし》の創建になるお寺で、徳川家が作った寺とはちがうし、それに、徳川家に由縁《ゆかり》のあった誰かの菩提《ぼだい》を弔《とむら》っている、つまり菩提寺と呼ばれる寺ですが、その菩提寺ともちがうわけですから……」
その通りだと、I氏も思う。
|I氏《かれ》は、埼玉県で生まれ育った生粋《きっすい》の埼玉県人だ。それに神社仏閣にも興味があり、そこそこ知っているつもりである。その地元人《じもってぃー》ですら、地名をいわれても分からないような片田舎《のじまむら》に、徳川家の菩提寺があるなんて話は、ついぞ聞いたことがない。
「……では、なぜ三つ葉葵がついちゃったのか、それは天正《てんしょう》十九年のこと、このお寺に、徳川家康さんみずから[#「みずから」に傍点]が立ち寄ったのが、そもそもの始まりなんです。そのときの証拠の品がありますので、どうぞごらんになって下さい」
――と、長い腕で壁側の展示物をさし示した。そこを赤い光りも照らしている。
「これが、そのときに家康さんが自分で書いた、朱印状《しゅいんじょう》です、戦国大名が使っていた花押《かおう》はありません。ですが、花押は、文章は別の人が代筆して、さいん[#「さいん」に傍点]だけ自分がする、そんな場合によく使われてて、ここにあるような書状の方が、当時としては重要書類なんですね。そしてもちろんですけど、家康さんの直筆[#「直筆」に傍点]であり、押されている朱印ともども本物[#「本物」に傍点]であることが、鑑定済み[#「鑑定済み」に傍点]です。そして今は、越谷市の文化財に指定されています」
……市の文化財とは、なんと|小さな《ちゃっちい》話だとI氏は思いながらも、その書状の複写《コピー》に目をやった。
「『新編武蔵風土記稿』などによりますと、鷹狩りで近所に遊びに来ていた家康さんが、このお寺にふらりと立ち寄った。すると住職がお祈りをしてくれて、その感謝の証《あか》しにと、家康さんが、懐《ふところ》から紙を取り出して、その場でさらさらと筆を走らせて、お礼としてお寺に三石《ごく》をあげる……と記したのが、この朱印状の中身なんですよ。その実物は、あの天下人《てんかびと》が使ったとは思えないほどの、粗末な和紙に書かれていて、俗に、鼻紙《はながみ》朱印状ともいわれています」
……それもまた|些細な《ちゃっちい》話だが、逆に、実話に近いんだろうなとI氏は思う。
「さあて、その程度のことで、住職がちょっとお祈りしたぐらいで、三つ葉葵がつくんでしょうか? それだったら、家康の領地の寺は、すべて三つ葉葵になってしまいます」
……いわれてみれば、そのとおりだ。
「家康がお寺を訪ねたのは天正十九年ですが、彼が江戸城に初めて入ったのは、その前年の天正十八年、一五九〇年です。つまり、関ヶ原のさらに十年前の話なんですね。そんなややこしい時期に、鷹狩りみたいなのんびりしたこと、できたんでしょうか? その当時のお江戸[#「お江戸」に傍点]がどうであったかは、展示にも出てますけど、江戸城は、雨漏りはするわ柱や畳は腐ってるわ、石垣すらも組まれてない城で、それに町といえるものは、当時の江戸には存在しません」
その関係文の箇所を、赤い光りが示していた。
――其頃は、江戸は遠山居城にて、いかにも麁想《そそう》、町屋なども茅《かや》ぶきの家百ばかりも有りかなしかの体《てい》。
――城はかたち計《ばかり》にて、城のようにもこれなく、あさましき。『見聞集』
それを斜め読みしながら、この種の文献を押さえていてこそ、歴史の研究だとI氏は思う。
「つまり、自分ちがそんな状況ですから、家康さんは、城は雨漏りを直したぐらいで放っといて、もっぱら土木作業に精を出していたようです。当時の江戸はほとんどが沼地だったんで、町を作るにしても、まず大地[#「大地」に傍点]が必要ですからね。なので、そんな時期に埼玉の田舎に出かけること自体、みょーな話なんです。では、再度、さっきの朱印状の日付[#「日付」に傍点]を見てください。十一月の、卯《う》の日となっているはずです」
――見ると、確かにそう直筆で書かれてある。
「家康さんはですね、極めて、験《げん》かつぎをする人なんです。有名な話では、その江戸城に彼が入ったのは八月一日、つまり八朔《はっさく》という大吉日《だいきちじつ》でして、しかも天正十八年というのは、寅《とら》の年、そして八月一日も、寅の日なんですね。なぜ寅に拘《こだわ》ったかというと、彼が寅年の生まれだからです。そして寅の方角から、江戸城に入ったといわれています。もっとも、これは家康さんに限った話ではなく、当時の人たちは、そういうのが、物事を決める基準だったんですね」
……そのはずそのはず、とI氏も同意して頷《うなず》く。
「さて、家康さんがお寺を訪ねたときに、住職が彼のためにしたお祈りですが、寺の縁起によりますと、武運長久・玉体安穏《ぎょくたいあんのん》の大祈願を修した――とあります。大祈願[#「大祈願」に傍点]ですので、単なるお祈りではなかったんですね。時間も、相当にかかったと想像されます。それにお寺は、今でも片田舎にありますが、当時は山鬱密《やまうつみつ》な場所にあったと、記されています。だから家康さんは、このお寺に泊めてもらったのではとも考えられますよね。この朱印状の日付にある卯の日、その前日はというと、実は、寅の日[#「寅の日」に傍点]なんですよ」
子、丑、寅、卯……そのとおりだとI氏も思う。
「ですので、寅の日を狙《ねら》って家康さんはお寺に入り、そして大祈願を修してもらい、その翌日、おそらく翌朝に書いたのが、この朱印状ではなかろうかと歴史部は推理しています。さらに、『新編武蔵風土記稿』の伝承では、お寺に三石をあげる……の朱印状の中身の前に、もうひとつ話が加わってまして、家康さんがいい出したのは、お寺に三百石あげる[#「三百石あげる」に傍点]、だったらしいんです。それを住職が断ったがために、三石になったという経緯《いきさつ》なんですね。けど、この石高《こくだか》はさすがに法外で、江戸時代の初期、お江戸にあった二、三の有名どころの寺に彼が与えていたのと、ほぼ同額でしたから。――ところが、この三百石の話は、それほど嘘[#「嘘」に傍点]でもないんですね。朱印状で約束した三石は、いわゆる手付け[#「手付け」に傍点]であったと歴史部は考えています。それが証拠に、直後、このお寺に強引に三つ葉葵紋をつけてしまい、お寺の名前すらも、家康さんみずから[#「みずから」に傍点]が決めた、淨山寺[#「淨山寺」に傍点]に変えてしまいますから。つまり実質上、自分の寺にしてしまったわけですね。さあ、こんな小さなお寺のどこに[#「どこに」に傍点]、そこまで家康さんを虜《とりこ》にした理由《わけ》があったのでしょうか。その秘密が、おいおい解かれていきます」
うわあ……話のもっていきようが巧《うま》い、とI氏は身ぶるいをさせて感心する。
それもそのはず、土門くんは朝からずーと同じことをやっているからだ。もう手慣れたものである。
それに、解説の手順も、事前に練りに練ったものであり、それも歴史部《じぶんたち》のような専門家が対象ではなく、誰もが興味をもって話を聞いてくれる、そんな分かりやすさを第一にと心がけているからだ。
まな美も、朝方には何度か説明役をやったのだが、背が低いので見下ろされてしまい、うまくいかない。だから今の役割分担《スタイル》に落ち着いた。
そしてI氏は、ここに来てよかったと熟《つくづく》思う。殺伐《さつばつ》とした日々の仕事を完全に忘れさせてくれる、いわば憩いの場[#「憩いの場」に傍点]であったからだ。
「さて、次なる登場人物は、あの黒衣の宰相でおなじみの……天海僧正です。淨山寺を建てた慈覺大師と同じく、やはり天台宗の高僧です。その彼が家康さんと親しくなったのは慶長《けいちょう》十三年……一六〇八年ですが、信長に焼かれて荒廃した比叡山《ひえいざん》復興のために重用されたのが契機《きっかけ》です。いずれにしても関ヶ原の後で、家康が天下を取った後の話なんですね」
――と、土門くんが後ずさりをしながら、次なる展示へと聴衆を誘導し始めたそのとき[#「そのとき」に傍点]である。
シャカシャカと忙《せわ》しない音がして、啻《ただ》ならぬ気配に一同が顔を向けると入口の観音扉になんと[#「なんと」に傍点]、
――巫女《みこ》さんが立っていた。
純白の単衣《ひとえ》に赤の袴《はかま》、そして白紙《しろがみ》で作った細かな垂《しで》を千羽鶴《すだれ》のように沢山たらした……何と呼ぶものかI氏には分からないが、それを手に持ち振るってシャカシャカいわせている。
その巫女さんがそのままず[#「ず」に傍点]ーいと通路に進み入って来る。その後ろには茄子紫色の学らん[#「学らん」に傍点]姿の男子が二名つき従っている。思わず客たちは左右に避《よ》ける。そして土門くんの前まで来てそのシャカシャカを止《や》めると、
「あまのめさまはおらりょうか?」
嫋《たお》やかに問いかける。
「せ……先輩」
土門くんは目線を合わせるため、その長身を折り曲げながら、
「天目はですね、今日は休んでるんですよ。なーんか風邪ひいたゆうて、朝に電話がありましてえ」
神戸弁にもどって言い訳をする。
「なんと、今日のような大切な日に――」
眉根《まゆね》を寄せながらも雅《みやび》にそういってから、何かの逆鱗《げきりん》にでも触れたのか、その巫女さんは突如として激しくシャカシャカと振り廻し、
「――神や仏の謎を解いて[#「神や仏の謎を解いて」に傍点]、何がおもしろかろう[#「何がおもしろかろう」に傍点]。このばちあたりどもが[#「このばちあたりどもが」に傍点]ー」
と、そこらじゅうを乱舞し始めた。
「ひやあ……」
許してえ、と土門くんは窓際まで後退する。
さすがのまな美も壁を背に縮《ちぢ》こまっている。
「神を愚弄しおってからに[#「神を愚弄しおってからに」に傍点]ー」
白垂《しろしで》を展示物に打ち振るいながら巫女さんは通路を数回行ったり来たりすると、|帰る《あきた》! といわんばかりに手を止め、すたすたと観音扉へ歩いて行く。
学らん[#「学らん」に傍点]の男子二名も踵《きびす》を返し、巫女さんに従って扉の方に、だが、どうしたことか、お客さんまでもがその後ろについてぞろぞろ[#「ぞろぞろ」に傍点]と――
その茄子紫の学らん服の背中には白紙[#「紙」に傍点]が貼られてあり、何やら書かれてあった。
――占《うらな》い部
ただ今から『半額!』
「せ……せ、宣伝やったんか[#「宣伝やったんか」に傍点]、くっっそう[#「くっっそう」に傍点]」
「あそこまでして客攫《ひとさら》ってく、信じらんなーい」
――気づいたときには時すでに遅く[#「時すでに遅く」に傍点]、土門くんとまな美が悶絶[#「悶絶」に傍点]しかかっていると、
「まだここにいますよう」
と、I氏が自らの顔を指でさして、可愛げにいう。
さらにもうひとり、中年の男性が横に立っていた。
半額[#「半額」に傍点]に釣られなかった客は、そのふたりであった。
そして歴史部のふたりも、あれは悪夢[#「悪夢」に傍点]であったに違いないと自らにいいきかせ、説明を再開する。
その先暫くは、日光|東照宮《とうしょうぐう》と淨山寺との拘《かか》わりの、これもまた俄《にわか》には信じがたい話なのであるが、それは『竜の封印』と『真なる豹』を読まれて、すでに秘密をお知りのはずの専門家《みなさまがた》には退屈なので、割愛とさせていただき――
展示通路をジグザグと行くと衝立の途切れがあって、そこから出ると広い空間《スペース》が設《しつら》えてあり、そこに、土門くんの知恵と知己《ちき》と努力と洒落……つまり総力の産物である、例の立体模型《ジオラマ》が置かれてあるのだ。
I氏が……目を白黒させていると、もうひとりの男性が閃光《フラッシュ》で機関銃のように写真を撮りまくり、
「じゃ、僕はお先に――」
と、そのカメラ小僧ならぬ中年男性は展示場から出て行く。
――歴史部のふたりが残念そうに見送った。
その彼は、客が減ってからは頻繁に撮影をしていて、使用のカメラはニコンの最重量級《エフサン》であり、しかもストロボは外つけだ。|肩かけ鞄《ショルダーバッグ》には交換レンズ類がわんさか[#「わんさか」に傍点]入っていたし、煩わしい[#「煩わしい」に傍点]な……I氏が思いかけていた矢先だったのだ。かくして、客は自分ひとりであり、歴史部《おたのしみ》を独占したも同然だ。
……けど、この仏さまたち[#「たち」に傍点]は、いったいどこから持って来たのだろう? I氏は聞いてみたくも思ったが、もし変な答えが返ってくると、自分にも仏罰《ばち》が当たりそうだと我慢して、
「あっ、その牢屋《ろうや》みたいなのに入ってるのが、あのお地蔵さまなんだね」
――旧知に会えたようにいった。
「それはそうなんですけど」
まな美が、少し申し訳なさそうにいう。
「こちらは江戸時代の地蔵|菩薩《ぼさつ》で、淨山寺のご本尊は平安の貞觀彫り様式ですから、姿かたちが、まったく違うんです」
「ほう……貞觀彫り[#「貞觀彫り」に傍点]ねえ」
そういわれても、I氏にはピンとこない。
それに、お地蔵さまは牢屋の中で、鎖でぐるぐる巻きにされている。これじゃ巫女さんが怒るのも無理はないとI氏は思う。
「この、真ん中を貫いてるらいん[#「らいん」に傍点]。これが、歴史部の世紀[#「世紀」に傍点]の大発見[#「大発見」に傍点]なんですよう」
土門くんが、腰に手をあてがい力説していった。
立体模型のほぼ中央に縦に赤のテープが貼られていて、その真上に淨山寺の鎖巻き地蔵や……その他|諸々《もろもろ》が載せられている。
「それは、さっきの説明でいってたよね。けど実際には、どのくらいの精度[#「精度」に傍点]で並んでるの?」
I氏は、意地悪な気持ちからではなく、尋ねる。
「くっくっくく……何とからいん[#「らいん」に傍点]いうやつは、実はええ加減が多いんですね。けど……くっくっくく」
ニタニタ笑いの土門くんが、その立体模型の台の下から、透明バインダーで挟んだ地図を何枚か取り出して、それを一枚ずつ手渡しながら、
「これは一万分の一ですが、経度が印刷されてあるんで判りやすいんですよ。まず、淨山寺ですね」
――東京地図出版のミリオン市街道路地図帖からの高級複写《カラーコピー》であった。最新の航空写真に基づき、建物の大きさや形がほぼ[#「ほぼ」に傍点]正しく模写されてあり、ほぼ[#「ほぼ」に傍点]信頼できる地図として、歴史部御用達《ごようたし》だ。
「ほう……百三十九度四十五分線の、ちょっと東か。後ろが元荒川《もとあらかわ》なんだね。けど、小さなお堂だね」
――その川向こうにある埼玉県立大学・短大部の体育館の五分の一程度の大きさしかない。
「そして次は、慈林寺《じりんじ》の場所ですね」
土門くんが二枚目の地図を手渡した。
「……あ、川口というよりも、|鳩ヶ谷《はとがや》なんだね」
「ええ、宿場町として栄えた、あの鳩ヶ谷です」
地図を一緒に覗き込みながら、まな美が説明する。
「その慈林寺|宝厳院《ほうげんいん》の、薬師堂《やくしどう》という建物が、現在の本堂なんです」
「おっ、この小さなのがそれ[#「それ」に傍点]……」
「実際はもっと小っちゃいんですよ。卍《まんじ》をうたなあかんので、その字が入る最低の大きさなんですね」
ふたりの頭上から、土門くんがいう。
「……そうすると」
I氏は二枚の地図を見比べながら、
「淨山寺のお堂の東の端が、慈林寺の薬師堂の西の端に接している、そんな位置関係なんだね。いやーすごい精度だなあ」
――想像していた以上[#「以上」に傍点]なので、驚いていう。
「いえいえ」
まな美が、手を振って否定してから、
「その薬師堂は昭和の建物なんです。その薬師堂のすぐ裏手から、つまり西側ですけど、そこから平安時代の遺構が出てるんですよ。ですから、その遺構の方が、昔あった慈林寺なんですね」
「あっ、じゃあピッタシ[#「ピッタシ」に傍点]――」
I氏は、さらに驚いていった。
「まあそれはそうなんやけど、淨山寺と慈林寺とは、せいぜい十キロしか離れてませんからね。それとですね、このGPS内蔵の腕時計で――」
土門くんは、歴史部の部費で最近購入した、最新《カシオ》の人工衛星電波時計《サテライトナビ》を嬉しそうに示しながら、
「緯度と経度は調べ直してるんですよ。そうすると、そのみりおん[#「みりおん」に傍点]の地図は正しかったですね」
……地図が正しい[#「地図が正しい」に傍点]…
「そこまでやってるの」
その執念深さ[#「執念深さ」に傍点]に、I氏は驚いた。
「ところがですね、慈林寺さんから縁起を聞いてみると、慈林寺だけがひと世代[#「ひと世代」に傍点]古いらしいんですよ」
まな美が、補足説明をする。
「聖武《しょうむ》天皇の勅願《ちょくがん》をうけて、あの行基《ぎょうき》僧侶の開創《かいそう》ってことになってましたから。その縁起どおりだとすると、百年以上は古くなります……けど[#「けど」に傍点]、古いお寺の場合、行基さんの名前を出しちゃうことが実に多いので、この縁起は信用できません」
まな美は、きっぱりといってから、
「そして、確かなところでは、慈林寺の本尊の薬師|如来《にょらい》を作ったのは慈覺大師[#「慈覺大師」に傍点]、そして寺領を与えたのは清和天皇[#「清和天皇」に傍点]、こちらの縁起は間違いないです。だから、古い祠《ほこら》程度のものが、先にあったんだと思います。そこに、慈覺大師がきちんとしたお寺を建てた。この慈林寺の場所って、小高い丘になっていて、いかにも神や仏に相応《ふさわ》しい、いい立地なんですよ」
「ほう……」
I氏は、そのまな美の話に想像《イメージ》を膨《ふく》らませながら、
「すると、その、いい立地の場所から見て、真北に淨山寺。そして日光山の方向に、あの慈恩寺《じおんじ》を建てて、日光に住むという観音さまを置いた……ということは、日光山の霊力を、その慈林寺に導きたかったわけね、慈覺大師は?」
――歴史部《かれら》の説明を思い出しながらいった。
「ええ、その通りだと思います。けど、こういったお寺の置き方って、慈覺大師としては、特別|稀《めずら》しくはないんですよ。たとえば、川越《かわごえ》に喜多院《きたいん》がありますでしょう」
「はいはい、あの立派なお寺[#「立派なお寺」に傍点]――」
I氏も、何度か詣《もう》でたことがあり、東武と西武の各種川越駅がある市中央から一キロも離れていない。
「その喜多院も、ご存じだとは思いますけど、やはり慈覺大師の創建で、天長《てんちょう》七年……のことです」
「八三〇年ですね」
土門くんが即座に補足した。年代は彼の十八番《おはこ》なので、まな美は意識して、その機会《チャンス》を与えている。
「だから、慈覺大師が比較的若い頃に建ててますので、位置決めも、とっても単純《シンプル》なんですね」
といってから、まな美はI氏の顔色を窺《うかが》う。
「うん? どういった位置決めなの?」
――知らないらしいので、まな美は説明する。
「日光三山といいますと、中禅寺湖《ちゅうぜんじこ》のすぐ北にあるのが男体山《なんたいさん》で、その北側に太郎山《たろうさん》、そして太郎山の東に女峰山《にょほうさん》がありますよね。その男体山と太郎山は、山頂がきれーに南北に並んでいるんですよ。その南北の線を、真っすぐ南に下ろしてきますと、つまり、川越の喜多院に当たるんです」
「あっ、そんな配置になっていたの……」
I氏としては、まったくの初聞きである。
「……ありゃ、そんなんいつの間に調べたん?」
歴史部の土門くんも同様のようだ。
まな美は、邪気《あどけ》なく微笑《ほほえ》んでから――
その喜多院と日光山の関係は一般[#「一般」に傍点]にも知られている話なのかどうか、不敵にも、まな美はそれをI氏[#「I氏」に傍点]を使って確かめたのだ。彼女は今、慈覺大師が絡んだ寺の配置を、全国規模で調べている最中で、その中から、言葉どおりに最も単純《シンプル》な例を、ひとつ提示したのである。
――おそるべし、十七歳女子はいう。
「ですから、慈覺大師がお寺を建てられて、日光山の霊力を導かれましたので、鳩ヶ谷も、川越も、その後大いに栄えましたでしょう」
そう神々《うやうや》しくいわれても、それだけの理由ではあるまいと、俗世に生きている土門くんは思う。
「けれど……」
I氏も、何かに気づいたようで、
「たしかに、慈恩寺さんの方も、ものすごく大きなお寺で、岩槻は、あのお寺で栄えたようなものだよね。しかし、淨山寺の近辺って、栄えたの?」
「あ……いわれてみれば。天正十九年の家康さんが訪ねたときは、山鬱密[#「山鬱密」に傍点]で、今もなお片田舎[#「片田舎」に傍点]やでえ。そやったら、あそこは慈覺大師の失敗作か?」
土門くんも迎合《げいごう》して、嬉しそうにいう。
「そんなことはないわ」
まな美は、頭の中で反駁《はんばく》を整理してから、
「――まず[#「まず」に傍点]、地蔵というのは、古代インドにおいては、天の神に対しての地の神[#「地の神」に傍点]なわけね。そして仏教以前のバラモン教の時代に、日蔵《にちぞう》、月蔵《げつぞう》、天蔵《てんぞう》、そして地蔵[#「地蔵」に傍点]という名前になったの。それに、薬師如来は日光《にっこう》・月光《げっこう》菩薩を従えてるでしょう」
「はいはい」
「そやそや」
――男ふたりは素直に頷く。
「そして薬師如来は、西方浄土《さいほうじょうど》の阿弥陀如来《あみだにょらい》と肩を並べる、東方の瑠璃光《るりこう》世界の教主《ボス》でしょう。つまり天蔵なわけね。そして日光・月光菩薩を従えてるから、日・月・天は……すなわち、慈林寺にあるわけ。すると地蔵さまは、後ろに控えざるをえなくなって、北の方角に置かれるのね。それが淨山寺[#「淨山寺」に傍点]なの。そして地蔵菩薩と閻魔《えんま》さまの同体説を持ち出すまでもなく、地蔵は、天の神に対しての地の神だから、すなわち冥界[#「冥界」に傍点]の君主なわけね。ですので、淨山寺の周辺は栄える必要はなく、元来あそこは霊地[#「霊地」に傍点]として慈覺大師が定めたものなんです」
「……なるほど」
I氏はそれなりに納得した。
が、この娘はいったいどこまで知っているのかと、|不気味さも《そらおそろしさを》感じてきた。
「ほんじゃ、次いきましょうか」
その相棒の、背高村《せいたかむら》の天狗[#「天狗」に傍点]のような土門くんが、もう一枚の地図を差し出す。
「あ……これは芝《しば》の増上寺《ぞうじょうじ》だね」
I氏は、暫くそれに見入ってから、
「そうか、あの三解脱門《さんげだつもん》は、東を向いてたんだね」
――地図で見て、初めてそのことを知った。
その木造の朱塗《しゅぬ》りの大門が、往時の増上寺を偲《しの》ばせるほぼ[#「ほぼ」に傍点]唯一の名残である。立体模型《ジオラマ》でも、その門の写真を切り抜いて使っている。もちろんI氏も訪れたことはあるが、知名度の割には正直いって、感銘をうけなかったお寺だ――
「そしてこれが、あの巨大な本堂[#「本堂」に傍点]だよね」
――鉄筋コンクリート造りの四角い建物で、地図にもその通りに模写されてあるようだ。
「すると……淨山寺や慈林寺に比べて、僅《わず》かだけど東にずれてるよね。本堂の中心で見てみると……約五十メーターぐらいかな?」
それでも凄い精度だが、歴史部《かれら》の自信満々ぶりからいって、さらに裏[#「裏」に傍点]があるんだろうなとI氏は思う。
「その増上寺の本堂は、建物は最近のものです。そして場所も、江戸時代と変わっていません」
――寺の歴史などの詳細は、専門家《スペシャリスト》であるまな美が一手に引き受ける。
「ところが、増上寺には本堂[#「本堂」に傍点]、および本尊[#「本尊」に傍点]といっていいものがふたつあるんです。ひとつは、家康公と関係を結ぶ以前から、増上寺にあった本尊[#「本尊」に傍点]――」
「あ、それは当然だよね」
「そしてもうひとつは、家康公の持念仏《じねんぶつ》であった、俗称、黒本尊《くろほんぞん》と呼ばれている阿弥陀如来――」
「そうだそうだ、それを祀《まつ》ってたお堂が、たしか本堂の横あたりにあったよね。小さな木造[#「木造」に傍点]のが」
「ええ、あのお堂は、今は安国殿《あんこくでん》と呼ばれています。家康公の戒名《かいみょう》が安国院[#「安国院」に傍点]なので、そこから取ってるんですね。でも増上寺さんとしては、その名前ではなく……曾《かつ》ては、黒本尊を安置していたお堂のことを護国殿《ごこくでん》と呼んでいたので、そちらにしたいのですが、その護国[#「護国」に傍点]、この言葉が使いづらいらしくって」
「あ……たしかに、それは微妙[#「微妙」に傍点]だよねえ」
「よそのお寺だったら全然大丈夫なんですが、増上寺さんの立場って、微妙でしょうから」
まな美も、追従していってから、
「そして、その江戸時代の古い護国殿ですが、今の安国殿の場所ではなく、増上寺の本堂の裏手に建っていたんです。つまり西側ですね。それに、その護国殿は、明治以降も暫くはお堂が残っていましたから、その位置も、正確に判るんです」
「ということは、それもまた、淨山寺とピッタシ[#「ピッタシ」に傍点]ということ?」
――まな美が、大きく首肯《うなず》いてから、
「それぞれのお堂の中心点が、一致します。護国殿は、資料によると、内陣《ないじん》が畳《たたみ》六十六帖敷きでしたから、比較的、小さなお堂だったようですけど」
すると、土門くんがこれでもか[#「これでもか」に傍点]といわんばかりに、腕に嵌《は》めている人工衛星電波時計を誇示する。
「す……すごいなあ」
二の句が継げないほど、I氏は心底[#「心底」に傍点]驚いてしまった。
「補足をしておきますけど」
まな美が、可愛らしい娘声でいう。
「そもそも家康公が、三河《みかわ》以来の徳川家《じぶんち》の宗派であった浄土宗[#「浄土宗」に傍点]の増上寺を、菩提寺として定め、その移築にあたって、最初期に建てたお堂が、その護国殿[#「護国殿」に傍点]だったんですよ。当時は、それが増上寺の本堂[#「本堂」に傍点]だったんですね。その移築は……慶長《けいちょう》三年のことです」
「一五九八年」
「そして、慶長六年になって、その増上寺さんに、あの黒本尊[#「黒本尊」に傍点]が入ったわけです。その由緒伝来は展示にも出ていますけれど、かの恵心僧都《えしんそうず》・源信《げんしん》の作で、一時期は源義経《みなもとのよしつね》がもっていたという面白い逸話《いつわ》もあるんですが、家康公の手元に来てからは、合戦の際には、常にもち歩いていた仏さまなんですね」
「あ……そうか、慶長六年というと、あの関ヶ原が終わったんだね」
「ええ、だから、然《しか》るべきお寺に納めたわけです。そうすると、従来あった増上寺の本尊がはじき出されちゃって、東《まえ》に、別に本堂を建てたわけです」
「なるほど……そんな経緯《いきさつ》だったのか」
その、歴史調査の詳細さに感銘を受けながらも、I氏は、これまで歴史部《かれら》がしてきた説明が、すべて実話[#「実話」に傍点]であったと確信するに至った。偶然では、そのような点[#「点」に傍点]にも等しい場所の一致など、まず絶対[#「絶対」に傍点]に起こりえないからだ。……が、その後の行く末にI氏は一抹《いちまつ》の不安を感じ、
「じゃあさ、その護国殿は明治[#「明治」に傍点]までは残ってたんだろう。そのお堂はどうなっちゃったの?」
――聞いてみる。
「えーと、どっちが先だったかは忘れちゃったけど、その護国殿も、そして本堂の方も、明治の時代にそれぞれ放火されて燃えちゃいました」
至極あっさりとまな美はいう。
「やっぱりねえ……」
国中で廃仏毀釈《はいぶつきしゃく》の嵐が吹き荒れたわけだが、増上寺の立場からいって、その程度《レベル》をはるかに超えていたんだろうな、そうI氏が思った通りであった。
「……再々放火されたことだし、それで、燃えないコンクリの建物《ほんどう》にしちゃったわけね」
「あ、それはまた別の話です。最終的に焼失したのは戦争ですから。けど、続きの話でもあって……」
まな美は、少し躊躇《ためら》いながらも、
「あの増上寺さんがある一帯はですね、都民の避難地として公園[#「公園」に傍点]指定を受けちゃってるんですよ。だから、木造建築が立てられないんです。それどころか、あれ以上はもう何も[#「何も」に傍点]立てられないはずです」
――真の神社仏閣|愛好家《マニア》としては、知っていて当然のことを語る。
「え? そんな足枷《あしかせ》がかかっちゃってたの、それも法律で[#「法律で」に傍点]……」
「そうなんです。それに、徳川家のもうひとつの菩提寺である上野の寛永寺《かんえいじ》さんも、状況はほぼ同じですよ。だから、この増上寺と寛永寺は、たぶんお寺だとは見做《みな》されてないんですね。公園[#「公園」に傍点]なんです」
「そういう感覚[#「感覚」に傍点]って、現在[#「現在」に傍点]もなお?」
「うーん……どうかしらね」
まな美としても、いいたいことは山々あれど、曖昧《あいまい》にお茶を濁した。
だって……靖国神社《やすくにさん》にこれ見よがしに参拝する総理大臣のいる国である。それも、信教の自由だと嘯《うそぶ》きながら。土門くんならいざ知らず、会ったばかりの人に、日本の現在[#「現在」に傍点]の宗教感覚[#「感覚」に傍点]については迂闊《うかつ》には喋れない。それが、まな美の正直な気持ちだ。
「まあまあ、そんなことはさておき」
重たい雰囲気に土門くんが助け舟を出し、
「立体模型《ジオラマ》の方では角度が浅くて、ちょっと載らなかったんですけど、その上野の寛永寺さんも、実はこんなふうに建ってたんですねえ」
――近くの衝立の配置図《イラスト》を指さしながらいった。
「どれどれ……あっ、慈恩寺と慈林寺の斜め線の、その延長上だったの?」
「つまり、日光山の大[#「大」に傍点]霊力をそのまんま、ふたつのお寺を介して寛永寺に注いでたわけですね。それに寛永寺って、お江戸の鬼門《きもん》守護をやってたですからね、そのぐらいの大[#「大」に傍点]馬力が後ろ盾にあらへんと」
――土門くんらしい表現だ。
「じゃ、この斜め線も……正確なの?」
「ええ、これも信じられないぐらいに。そやけど、南北の線は北極星がありますからね、忠実《まめ》にさえやってけば、正確なのが引けるはずなんです。けど、斜め線はどう出したのか。特に平安時代に慈覺大師がどうやってたのか? 歴史部もくえっしょん[#「くえっしょん」に傍点]」
「あ……北極星[#「北極星」に傍点]があったんだな」
斜め線は別として、単純な謎がI氏には解けた。
それゆえ、淨山寺と慈林寺、そして芝の増上寺は点[#「点」に傍点]にも等しい線上に建てることができたのだ。
「それにですね、この、平安初期の三つのお寺から、江戸時代の初期、家康さんと天海僧正が極秘裏に線を引っ張ってきて、別のお寺を建てた。……一見、庶民とは縁遠い、霊験《れいげん》あらたかなことやってますよね。俗な言葉でいうと、おかると[#「おかると」に傍点]の世界」
「まあ……そのとおりだね」
「そやけど、これは見方を変えると単純[#「単純」に傍点]なんですよ。そもそも何《なん》もない場所に、山を頼りに線を引いてきて、慈覺大師がお寺を建てた。そして埼玉が開《ひら》けた。次はお江戸の段階ですが、江戸には基準にできるようなもんが何《なん》もなかったんで、その北側で、先に開けていた埼玉で目立つ建物といえば……お寺ぐらいしかなかったんで、そこから線を引っ張ってきて建てた[#「建てた」に傍点]。要するに、単純な都市計画[#「都市計画」に傍点]なわけですよ」
――土門くんが説明すると、夢も霊験《ロマン》もないが、
「なるほど、いわれてみればそうだよね」
I氏は、感得するところがあったらしく、
「もう、ダサイタマ[#「ダサイタマ」に傍点]だなんていわせないぞう。埼玉を基準にして、江戸の町ができたんだからさ。廊下の宣伝に『日本地理を書き換えた!』てあったけど、あれもその通りだよね」
彼は、その慈覺大師が定めた三角形に、埼玉人としての自信[#「自信」に傍点]と誇り[#「誇り」に傍点]を見出したようである。
――が、廊下の|客寄せ広告《キャッチコピー》は春・秋毎度の文化祭で、狼が来た狼が来たと、似た文面を再々出していたから、学内では信用されていない。
その衝立の配置図《イラスト》にしばし見入っていたI氏が、少し不満そうにいう。
「けどさ……淨山寺から増上寺への南北を貫いてる中心線《ライン》ね、それは江戸城のずいぶんと西側を通ってるよね。天守閣なんか全然はずれちゃってるし」
「あ、それはですね……」
まな美が説明しかけると、
「自分の家は岩槻《いわつき》にあるんですよ。で近いもんやから、こないだ行って、その岩槻城の天守閣跡を、このGPS腕時計で調べて来たんですよ。そうすると、なんと慈恩寺の本堂[#「本堂」に傍点]と、これもまたぴったし[#「ぴったし」に傍点]同《おん》なじやったんですね。岩槻城の天守閣は、お寺の三キロほど真[#「真」に傍点]南にあったんですが」
土門くんが、嬉しそうに捲《まく》したてる。
「ええ? それがどう関係するの?」
――話が飛躍したので、I氏はついていけない。
「そのお城、だ[#「だ」に傍点]ーれ[#「れ」に傍点]ーが建てたか[#「か」に傍点]ーというと」
土門くんは突如、童話《メロディー》に乗せていってから、
「その岩槻城も、あの太田道灌《おおたどうかん》が建ててるんですよ。それも江戸城とほぼ同《おん》なじ時期に」
「ありゃ……そういうことだったの」
これは完全に一本とられたとI氏は思う。それにしても、歴史部《かれら》の何と縦横無尽《じゅうおうむじん》なことか。
「その太田道灌が、慈恩寺を使《つこ》うてたぐらいやから、あとのふたつの寺を知らんかった……いうんは逆に考えにくいんですよ。それに、彼は城作りの超名人《えきすぱーと》で、すんごい江戸城を作りすぎたから、いうんが理由で、仕《つか》えていた扇谷上杉《おうぎがやつうえすぎ》に、風呂からあがったところをバッサリ斬《や》られちゃった、人ですからね」
「その話は有名だよね。当方滅亡[#「当方滅亡」に傍点]……て叫んだんだろう。自分が仕えていた殿様に暗殺されちゃうんだから、そんな惨《みじ》めな話もないよね」
その程度だったら、I氏も歴史部についていける。
「……わたしが思うにはですけど」
暫くは沈黙《おとなしく》していた、まな美がいう。
「家康公はもちろん知っていたし、太田道灌も知っていたはず[#「はず」に傍点]……けど、この中央線の上には、お城は建てなかった。もっとも太田道灌の江戸城って全然判ってないんですよ。ですが、彼も、線の真上だけはよけた[#「よけた」に傍点]はずなんです。太田道灌の時代で、かすかに判っているのは、現在の吹上御苑《ふきあげぎょえん》の南側のあたりを局沢《つぼねざわ》と呼んでいて、そこに十幾つかのお寺を配してあったんですね。だから、そのお寺の何《いず》れかでうけて[#「うけて」に傍点]いたと思います。そして家康公も同じです」
「そうだ……増上寺でうけて[#「うけて」に傍点]たんだものね」
「ですから、この南北を貫いている細線《ライン》は、お城のような生々《なまなま》しいものを建てては、いけない線なんですよ。端的にいっちゃうと、亡くなった人専用の、霊の通り路《みち》なんです――」
「あ、そんこともいってたよね。そもそも淨山寺の場所は、慈覺大師が定めた霊地[#「霊地」に傍点]であると」
もっとも、I氏は、そのまな美の話を信じたわけではないが。
「――部長さん。あのスペシャルな地図出す?」
まな美が、妖しい目つきになって問いかける。
「そうやそうや、用意してあったのに誰にも見せてへんもんな。出そう出そう、最後やし――」
いうと土門くんは、立体模型の台にしている古机のあたりを|探し《ごそごそ》始めた。
I氏は、この上さらに何[#「何」に傍点]の地図[#「地図」に傍点]が出てくるのかと興味津々《きょうみしんしん》だ。
「実は、わたしも、最近までは勘違いをしてたんです。皇居の中にある御所[#「御所」に傍点]を、その、霊[#「霊」に傍点]線が通っていると。実際には、吹上御所で約五十メーター、平成の新しい御所で約二十メーター、きわどいところでよけて[#「よけて」に傍点]いたんです……偶然かもしれませんけど。似たような考えの研究者が何人かおられるんですが、皆さん同じように、勘違いされていたんです。それは、増上寺の現在[#「現在」に傍点]の本堂から真北に線を引いちゃうからで、そうすると御所を通ってしまい、徳川家と天皇家の霊線《ライン》が重なってしまうんですね。実際は、もっと厳密《シビア》な世界だったんです」
そんな前説《まえせつ》をまな美がしていると、
「――出てきましたよう。どっちを先にします?」
スペシャルな地図は二枚[#「二枚」に傍点]あるようだ。
「じゃ、その巻いている方で」
「おっ、いきなり真打ち[#「真打ち」に傍点]を出しますか」
意味深なことを土門くんは宣《のたま》いながら、その巻いている地図を広げてから、手渡した。
「うん? お寺の俯瞰図《ふかんず》だね。芝の増上寺か」
……なんだ、前口上のわりには同じ話の蒸し返しではないかと思いつつ、I氏はそれを見る。
その俯瞰図は『大日本東京芝三緑山増上寺境内全圖』と銘打たれてある。
「ふーん、昔はたくさんのお堂が建ってたんだねえ。これが曾《かつ》ての本堂か、そして、後ろにある小さめのお堂が……あれ? いってた護国殿ではなくて、単に黒本尊[#「黒本尊」に傍点]って書かれてあるよ?」
「その俯瞰図《イラスト》は、明治になってから描かれていますので。だから逆に、正確ではあるんですよ」
まな美が注釈をする。
「そうか、もはや護国は使えないのか。なんて卑屈《シビア》な世界なんだ」
そんな冗談にも似た感想を漏らしながら、その俯瞰図に描かれた細部に見入っていて、
「あ――」
歴史部がいわんとしている真相[#「真相」に傍点]に気づき、I氏は絶句[#「絶句」に傍点]してしまった。
――増上寺は菩提所である。歴代の徳川将軍の墓[#「墓」に傍点]があるのだ。二代|秀忠《ひでただ》を初めとして、六代|家宣《いえのぶ》、七代|家継《いえつぐ》、九代|家重《いえしげ》、十二代|家慶《いえよし》、そして十四代|家茂《いえもち》の霊廟《はか》が、その黒本尊(護国殿)を貫いている南北の線の上に、つまり、まな美がいうところの霊[#「霊」に傍点]線の上に、きれーに並んでいたのである。
この子たちは、いったい何を見つけたんだ、I氏は鳥肌がたってきた。
「白黒《ものくろ》の写真しか残ってへんのですけどねえ」
――土門くんがいう。
「それを見るかぎりでは、日光東照宮と同《おん》なじで、豪華絢爛の建物がわんさかあったそうです。けど、それらも戦争で燃えちゃったんですね。跡形もなく。そやけど、お墓は石ですから燃え残ったんですが、その後、場所はちょっとずらしたようです」
「……ほう」
I氏は、深いため息とともに頷いた。
「それともう一枚の地図はですね、これは、番外編とでも思うてください」
そういいながら土門くんが差し出したのは、歴史部御用達の地図・ミリオンの|一万分の一《カラーコピー》であった。
まな美が一緒になって覗き込みながら、
「ここに、傳通院《でんずういん》というお寺がありますでしょう」
――指でさし示していう。
「うん、聞いたことはあるけど……」
場所は文京《ぶんきょう》区の小石川《こいしかわ》で、あの後楽園《こうらくえん》の東京ドームが斜め下に見えるところから、皇居の北側だ。
……が、その名前をI氏は耳にした程度で、何の寺だったかは定かではない。
「これも家康公がみずから建てたお寺で、江戸にあった寺としては、増上寺や寛永寺に次ぐ規模なんです。もっとも、今は十分の一ぐらいでしょうけど」
「ほう……曾《かつ》てはそんなに大きな寺だったのか」
I氏は頑張って思い出そうとするが、出てこない[#「出てこない」に傍点]。
「それに、この傳通院は、芝の増上寺とは、江戸城を挟んでちょうど[#「ちょうど」に傍点]対称形の位置に建ってるんです」
……えっ、対称形[#「対称形」に傍点]?
「あっ、それにその傳通院の境内をさ、あの百三十九度四十五分線が――」
I氏は気づき、大慌てで、立体模型の大地に置いてあった淨山寺[#「淨山寺」に傍点]や増上寺[#「増上寺」に傍点]の地図と見比べて、
「――やっぱり」
そのことを確認してから、
「――だけど[#「だけど」に傍点]、いってた霊線の真上には、学校の校舎[#「校舎」に傍点]が建ってるじゃないか!」
驚いて、少し怒っていう。
「そうなんです。その学校に接して西《ひだり》側が、現在の傳通院ですが、逆に東《みぎ》側に行くと、善光寺《ぜんこうじ》というお寺がありますよね。そのあたりが、曾ての傳通院の東門だったそうです。だから、淨山寺へと導かれている霊[#「霊」に傍点]線が、曾ての傳通院の境内の、ほぼ真ん中を貫いていたことは間違いないんです。……けど、この傳通院さんは、本尊も含めて、古い資料を洗い浚い[#「洗い浚い」に傍点]戦争で焼かれてしまっているので、家康公が建てた当時の伽藍《がらん》配置が皆目[#「皆目」に傍点]判らないんですよ」
いかにも悔しそうに、まな美はいう。
「そうやからまあ、やむをえず[#「やむをえず」に傍点]番外編ということで。歴史部《うちら》の説を確認するには、その校舎《がっこう》をどけてから地面を掘ってみーへんと……」
「けどさ、その傳通院[#「院」に傍点]というのはさ、ひょっとして、誰かの戒名[#「戒名」に傍点]?」
――院がつくと戒名(僧侶が与える死後の名前)の場合が多い。それは年の功でI氏は知っている。
「そうなんです。ここは徳川家康のお母さん、於大《おだい》の方《かた》を祀るために建てられた菩提寺なんです」
「……あ」
I氏はようやく理解した。と同時に、またもや息を呑《の》んでしまった。
「そして、さっきの対称形[#「対称形」に傍点]の話ですけど……皇居の中に、紅葉山《もみじやま》と呼ばれている場所があるんですが、ご存じですか?」
……次にいってもいい? そんな素振りで、まな美が気遣いながら聞いてくる。
「いや、分からない」
I氏は正直に答えた。
歴史部《かれら》のざっと三倍は歳《とし》を食っているI氏だが、知ったかぶりをしても無意味[#「無意味」に傍点]であると自覚した。
「えーこのへんですね。このへんこのへん――」
土門くんが、近くの衝立に貼られていた江戸城内(すなわち皇居)の図面を指さしながら、
「吹上の御苑《にわ》の東寄りに、太田道灌から名前をとった道灌|濠《ぼり》いうんがあって、その東側一帯を、西《にし》の丸《まる》いうてたんです。将軍さんが隠居すると、そこにあった御殿《いえ》に住んではったんですね。その西の丸の北西の角で、お濠に面してるところが、紅葉山です」
――丁寧に説明をする。
「明治になると、そこにあった建物類はすべて取り払われたんですが、曾ては、その紅葉山に、東照宮や歴代将軍のお廟《びょう》が建っていたんです。神社と同じ感覚で、分社をもってきていたわけですね。つまり、江戸城内の霊地は、その紅葉山だったんです」
「すると……その紅葉山から見て、増上寺と傳通院が対称形に建ってたの?」
「位置的にいって、そうなるんです。それに、そもそも傳通院を建てたときには、家康公は、増上寺の住職と相談をして、その場所を決定したという謂《いわ》れなんですね。慶長《けいちょう》七年……のことですが」
「一六〇二年」
「だから、あの天海僧正はまだ家康公とは知り合っていません。なので、やり方が直線的《シンプル》なんですね。ごく単純に、紅葉山を起点にして、ふたつのお寺を南北に配し、そして等距離に置いています。えー数字が書いてあったんだけど……」
まな美は、その地図の白耳のあたりを見ながら、
「増上寺の旧護国殿と、傳通院の本堂は、直線で約六・一キロ離れていて、その中央点を真東にずらしていくと……紅葉山にあった東照宮にぴたり[#「ぴたり」に傍点]と当たります。ただし、傳通院の現在の本堂は、慈覺大師の霊線からは西に約七十メーター、於大の方のお墓も、やはり、西に百メーターほどずれています」
「じゃあ、この学校が建ったので、横にずらしちゃったの?」
「いえ、それは違うんです。傳通院の境内の様子が描かれた一番古い絵図として、文化[#「文化」に傍点]の時代のものが残ってるんです」
「一八〇〇年代の、始めへんですね」
「それを見ると、本堂もお墓も、現在の位置とは変わってないようなんです。だから動かしたとしたら、それ以前です。あるいは、最初から今の位置で、ずらしてあったのかもしれません。……というのも、仏教には根本的な欠陥[#「欠陥」に傍点]がありますでしょう。この傳通院は浄土宗ですから。その浄土[#「浄土」に傍点]、つまり極楽浄土には女性[#「女性」に傍点]は行けないことになってましたから」
口を尖《とが》らせぎみにして、まな美はいう。
「あ、そうかそうか……ごめんごめん」
|何かを代表して《かこのつぐないとして》、I氏は謝っていう。
「けど、たとえ、お墓がずらして置かれてあったとしても、慈覺大師の霊線へと導く、何か別の工夫がされてあったと思います。そうでないと、境内地の真ん中をその霊線が通るように、しかも南北対称[#「対称」に傍点]で。そこまで位置決めをした意味[#「意味」に傍点]がないでしょう?」
「うん……それももっともだ。それとさ、その母親の於大の方って、たしか家康を生んだ後、どっち側につくかという戦国の複雑な話で、夫の松平|某《なにがし》から離縁されて、別の大名家に嫁いでなかった?」
うろ覚えだが、I氏は聞いてみる。
「そうですそうです、久松俊勝《ひさまつとしかつ》いうんに嫁いでます。その久松家は、吹けば飛ぶような尾張《おわり》の小大名でしたが、運よく、家康さんとそういう縁があったもんで、なんと、その後は松平[#「松平」に傍点]を名のってました。そして江戸時代は桑名《くわな》の藩主ですね。名古屋の西隣」
――戦国|大好き《マニア》の土門くんが、流麗に説明する。
「でも、他家《よそ》に嫁いでからも、息子《いえやす》のことはずーと気にかけていて、竹千代《いえやす》が織田《おだ》家に人質《ひとじち》にとられていたときも、お菓子や服や、あれこれと差し入れをしていたそうですよ。で、その御恩に報いようと、関ヶ原で勝って天下をとった後に、家康さんが沢山の従者をつけて、母親に京都見物をさせていて、そのときに亡くなったそうです」
「うわ……なんて親孝行な息子さんだろうか」
庶民感覚で、I氏はしみじみという。
「でしょう。だから、そんな家康公が、母親のお墓を蔑《ないがし》ろにするはずがないんです。だから、きちんとやっていたと思うわ」
「うん、そのはずだよね」
I氏も同意していってから、
「でさ、この種の話は……あの霊[#「霊」に傍点]線は誰も知らないだろうけど、増上寺と傳通院が南北対称に建っていた、といったような話は、一般に知られてるの?」
「知られてへんのです」
土門くんが即答していってから、
「歴史部《うちら》も、丹念に地図を見ていて気づいたんです。そして傳通院に直接話を聞きに行ったんですけど、そしたら傳通院がびっくり[#「びっくり」に傍点]してましたから……それも考えればしゃーないことで、ざっと四百年も前の話やねんから、誰も覚えてへんのですね」
――お得意の決め句[#「決め句」に傍点]で締めくくった。
話が一段落し、三人で立体模型《ジオラマ》を囲みながら、
――この褞袍《どてら》を羽織ったガラス製の地蔵は?
――本尊は鎖に繋《つな》がれていても幽体[#「幽体」に傍点]となって遊化《ゆげ》する地蔵。
――さすがは慈覺大師が定めた霊地[#「霊地」に傍点]。
などと談笑していて、I氏は気づいていう。
「その本尊が入ってる牢屋[#「牢屋」に傍点]にさ、何か把手《とって》みたいなのがついてるけど、ひょっとして……菊の御紋[#「菊の御紋」に傍点]?」
「いやー、よくぞ気づいてくれました」
土門くんが満面の笑みでいってから、
「うまく擬態《かもふらーじゅ》しすぎたんで、誰も気づいてくれんかったんですよ。気づいてくれたお客さんにだけ、説明しよう思てたんやけど」
「ええ? どういうことなの?」
まな美が、本尊の厨子《ずし》の扉に菊の御紋が入っていること、それは淨山寺の七不思議のひとつに数えられていたこと、などを説明してから、
「その菊の御紋の理由《わけ》は、わたしたちが一番最初に淨山寺を訪ねたときに、ここにいる歴史部の部長さんが、瞬間、その場でひらめいた謎解きが合ってたんです。――なんと[#「なんと」に傍点]」
それは、開闢《かいびゃく》以来の珍事であるかのようにいう。
「たまにはそういうこともあらへんと、えっへん[#「えっへん」に傍点]」
土門くんは、控えめに威張ってから、
「それが確かめられたんは、芝の増上寺[#「増上寺」に傍点]から話を聞いてたときで、あそこも同《おん》なじで、三つ葉葵のお寺でありながら、一部、菊の御紋をもってはったんです。厨子の扉とはちがうんですけどね。これはですね、皇女|和宮《かずのみや》さまと関係があったんです」
「和宮さま……といったら、あの幕末の?」
「そうです。あの公武《こうぶ》合体政策で、十四代将軍|家茂《いえもち》に無理やり嫁がされた、孝明《こうめい》天皇の妹さんです」
「それも、とっても可哀相な話なんですよ。家茂と和宮さまとは同い歳で、嫁いだのは、今のわたしたちとほぼ同い歳で、そして家茂が二十歳《はたち》そこそこで死んじゃうもんだから、和宮さまは剃髪《ていはつ》して、その歳で尼さんになっちゃうんですよ」
同じ女性の立場として、まな美は語る。
「嫁いだんは文久《ぶんきゅう》二年――一八六二年。家茂が亡くなったんはその四年後」
土門くんは機械的に注釈してから、
「ところが、奇《く》しくも淨山寺は、その文久二年に火事になって、文久四年に新しいお堂が建ったんです。そのときに、厨子も新しく作ったらしいんですが、そのとき扉[#「扉」に傍点]に、菊の御紋がついたようなんですね」
「じゃあ、そのときは公武合体をしていたから[#「していたから」に傍点]、というのが理由?」
「……単純に[#「単純に」に傍点]。そやけど、そんな事実はなかった[#「なかった」に傍点]ーいうて、明治政府は否定しまくったんですけどね。ですが歴史上、短い間やったですけど、公武合体はしてたんです。そやから、淨山寺や増上寺以外にも、徳川の主だったお寺には菊の御紋がついたそうです。が、明治になって、その歴史《しょうこ》を消そうと、ついてた菊の御紋を政府がはずし[#「はずし」に傍点]まくったそうです」
「じゃ……なぜ残っちゃったの、淨山寺には?」
「それはですね、まず増上寺の場合は」
――微妙な問題になると、まな美が説明する。
「その和宮さまの菩提が、やはり増上寺の方で弔《とむら》われているからで、その関係で、その後も一部[#「一部」に傍点]ですが、菊の御紋が許されたわけです。そして淨山寺の方ですが、これは……やはり謎でして」
「あれ? それは謎なの[#「謎なの」に傍点]」
I氏は、少しがっかりしていう。
「……考えられなくはないんですけど、たとえば、この淨山寺は、三つ葉葵のお寺の中では、規模的にいって極小[#「極小」に傍点]の部類ですから、明治政府が気づかなかったのかもしれません。これも単純ですけど」
「けどさ、その淨山寺へと導かれる霊線を、きわどいところで、天皇家は避《よ》けてたわけだろう?」
「それは――増上寺の境内を見ただけで解《わか》ったはずです。その手の専門家は京[#「京」に傍点]の都[#「都」に傍点]にだっていますので。それに真北には――傳通院が建っていたわけで。だから、霊線そのものを見つけるのは簡単だったと思います。けど、さらにその北に真実《ひみつ》があったことまでは、見抜けなかったのかもしれません。増上寺と傳通院は浄土宗ですが、慈林寺は真言《しんごん》宗、淨山寺は曹洞《そうとう》宗、宗派がばらばら[#「ばらばら」に傍点]になってましたから」
「あっ、それは盲点[#「盲点」に傍点]だったかもしれないねえ」
――武蔵野人《いなかびと》のI氏としては、京都人《みやこびと》をだまくらかした気分で、嬉しそうにいう。
「それに淨山寺は、菊の御紋がついたままでも問題はないんです。ここは元来、徳川家のお寺ではなく、円仁・慈覺大師……すなわち天台宗の比叡山で、天皇家は、その宗派であり檀家[#「檀家」に傍点]ともいえますから」
「それに慈覺大師という諡号《しごう》を授《さず》けたんは天皇さんで、それも最澄《さいちょう》と空海《くうかい》を差し置いて、一番[#「一番」に傍点]やったですからねえ。どれほど信頼が厚かったことか」
以前に、まな美から教えてもらった話を|丸写しで《そのまんま》土門くんはいう。
「それと……徳川家は清和[#「清和」に傍点]源氏であったこと、ご存じですか?」
まな美が、意味ありげな微笑を浮かべていった。
「あっ、その話も聞いたことはあるけど……」
「その徳川の家系図はでっちあげで、バッタもんやいうんがもっぱらのうわさ[#「うわさ」に傍点]ですけどね」
その土門くんの解説が歴史界の主流ではあるが、
「徳川家は……家康公は清和《せいわ》源氏の流れを汲む。他人の評価はさておき、本人はそう思っていた。これが、すべてを解き明かす鍵[#「鍵」に傍点]になるんですよ」
両手を合わせて、聖母のようにまな美はいう。
――この上、さらに何の謎を解くというのか? I氏は興味よりも、半分こわく[#「こわく」に傍点]なってきた。
「家康公は、武家の頂点にたって鎌倉幕府を開いた源|頼朝《よりとも》のことを、すごく尊敬してましたでしょう。同じ血筋[#「同じ血筋」に傍点]でしたから」
「それに将軍さんになるには、つまり征夷大将軍《せいいたいしょうぐん》の肩書をもらうには、源氏でないとあかん[#「あかん」に傍点]かったですからね。京の都に、源氏の名前をくれーいうて叫んだこともあったんですよ。――断られたんですね。それで梵舜《ぼんしゅん》に、偽《にせ》の家系図を作らせたわけです」
……ぼんしゅん?
それも聞いたことはある名前だが、I氏が、話についていけないような顔をしていると、
「梵舜というのは、家康公の神道系の相談役《ブレーン》です。梵舜の実家は吉田《よしだ》……つまり、吉田神道流の宗家《そうけ》で、当時の神道界を束ねていた大ボスなんです。だから、そういったことも出来たんです。それに、家康公の遺体は、日光東照宮の前に一年ほど、静岡の久能山《くのうざん》で祀られてますでしょう。それは天海が日光でやった山王一実《さんのういちじつ》神道ではなく、吉田神道に従っていて、それを取り仕切ったのが梵舜[#「梵舜」に傍点]なんです」
――まな美が懇切丁寧に説明する。
I氏も、神道の話は別として、わかった。
「ちなみに、足利《あしかが》将軍は八幡太郎義家《はちまんたろうよしいえ》の子孫なんで、正真正銘の源氏です。あの織田|信長《のぶなが》は、なんと平家[#「平家」に傍点]やったんですよ。そやけど朝廷の懐柔策《かいじゅうさく》で、征夷大将軍もろてくれーいうたんですが、――いらん[#「いらん」に傍点]! と断った人です。もちろん豊臣秀吉《とよとみひでよし》は足軽《あしがる》の子なんでもらえません[#「もらえません」に傍点]。けど、秀吉は、藤原《ふじわら》以外では例がない関白[#「関白」に傍点]になってますからね。要するに、天下とったんやったら、あってもなくても|大差ない《どっちでもええ》肩書なんです。けど、そういうのに拘《こだわ》る人やったんですね」
――土門くんの饒舌《じょうぜつ》な関西弁が冴える。
「征夷大将軍もそうでしたけど、家康公の一番の愛読書はというと『吾妻鏡《あずまかがみ》』。これは有名ですよね」
「たしか……それは鎌倉幕府の歴史書だったよね」
I氏は何とか思い出した。というより、話の流れから半分推理した。
「その『吾妻鏡』を、家康さんが大事にしてはるいう噂がぱあ[#「ぱあ」に傍点]ーと広まって、写本が大名家のお宝になったぐらいですからね。それで豪華な装丁の『吾妻鏡』が今でもけっこう残ってるんですね。単純にいうと、家康さんは、鎌倉まにあ[#「まにあ」に傍点]だったわけですよ」
土門くんは、骨董屋の価値観で説明する。
その単純化[#「単純化」に傍点]は正しい……まな美も同意してから、
「ですので、家康公は、源頼朝や鎌倉幕府を模範として、できうるならば同じことをやろう、そう思っていたはずなんです」
――いよいよ本題に入る。
「同じことといっても、もちろん、宗教的な側面ですよ。たとえば、頼朝が鎌倉に入って最初に建てたお寺はというと……やはり、菩提寺なんです。それも、彼が寝起きをしていた大蔵《おおくら》御所の、真南に建てます。文治《ぶんじ》元年のことです」
「一一八五年ですね。あの一一九二《いいくに》作ろう鎌倉幕府ができる、前なんですよ」
「あ……芝の増上寺と、まったく同じなんだね」
「そうなんです。頼朝の菩提寺の名前は、阿弥陀山勝長寿院《あみださんしょうちょうじゅいん》。つまり増上寺と同じく、ここも阿弥陀|仏《ぶつ》なんです。そして大御堂《おおみどう》と呼ばれたぐらいの壮大なお寺だったらしいんですが、現在はまったく残っていません。大蔵御所の方も残ってませんけど」
「……義経の祟《たた》りやな」
土門くんが小声でいった。
「思い出した……大蔵御所の跡地は、たしか小学校になってたよね」
I氏も、鎌倉は何度か散策したことがある。
「その、勝長寿院ですが、頼朝が菩提寺として定め、みずからが建てました」
確認するように、まな美は同じことをいってから、
「そして、頼朝は死んだわけですが、その菩提寺に入るかというと、……入らないんですね」
「あ、そうだそうだ、その学校の裏あたりに、急な石段を登った丘の上に、頼朝のお墓があったよね」
「ええ。そのお墓の位置はといいますと、大蔵御所を挟んで、勝長寿院の真北[#「真北」に傍点]にあるんですよ」
「なるほど[#「なるほど」に傍点]――」
大きな声を出して、I氏は合点した。
――真北[#「真北」に傍点]。それが鍵であるからだ。日光東照宮は江戸の真北にはない[#「ない」に傍点]。あの淨山寺こそが真北[#「真北」に傍点]にあるのだ。それは歴史部《かれら》の説明で重々理解している。
「それに、今は小さな五輪塔《おはか》だけがぽつん[#「ぽつん」に傍点]と立ってますけど、あの周囲一帯は、曾てはお寺だったんです。これも頼朝の創建で、その丘の上に観音堂を建てたのは……文治五年のことです」
「一一八九年ですね」
「そして多くの伽藍が配され、頼朝を祀ってからは法華堂《ほっけどう》と呼ばれていました。ここも大きなお寺だったらしいんですが、最終的には、明治の神仏分離令《しんぶつぶんりれい》で壊されてしまい、今の状態ですね」
「ほう……」
I氏は、その寂《さび》れたお墓の情景を思い出した。
「それと、北極星が真北から全天を支配するように、天子も真北に鎮座していて、南を向いて世界を支配する。これは天子南面《てんしなんめん》という道教《どうきょう》の考え方で、日光東照宮が専売特許のように語られますけれど、実は、これも頼朝が先にやっていたんです」
「それにですね、あの日光の寺や神社をきれーに整備してたんも、実は鎌倉幕府やったんです。天海は、それをかすめ盗ったようなもんなんですね」
「あ……そうだったのか」
いわれてみると、日光のどこかに、鎌倉幕府に由来する五重塔《ごじゅうのとう》が建っていたのをI氏は思い出した。
「そして……淨山寺なんです」
あらたまって、まな美はいう。
「いや、その前に」
――土門くんが割り込んでいう。
「今日説明していて気づいたんですが、たとえば、姓は豊臣・名は秀吉いうた場合の姓は[#「姓は」に傍点]と、清和源氏の清和[#「清和」に傍点]を、だいたいの人が勘違いしてはったんです。そやから念のためにいうときますが、清和源氏の清和は、清和天皇の血筋であるという清和[#「清和」に傍点]ですからね」
「――そうそう。もちろんそうだよね」
力強く同意するI氏だが、ちょっと怪しかった。
「その、清和天皇ですけれども、当時の天皇さんは、高僧から、仏教上の様々な教えを授かったんですね。いわゆる灌頂《かんじょう》の儀式ですが、それを清和天皇に授けたのが、円仁なんです」
「あ……同じ時代の人だったのか」
「もっとも、円仁の方が随分とお爺《じい》さんなんですよ。そして円仁が亡くなると、即座に慈覺大師の諡号を与えるといい出したのも、その清和天皇なんです」
「そういう間柄だったのか……」
歴史部にとっては周知のことであるが、I氏にしてみれば、まさに目から鱗《うろこ》の話だ。
「ですので、清和[#「清和」に傍点]源氏を名乗った以上は、この清和天皇の宗教観や僧侶への信頼が、そのままそっくりおりてくる[#「おりてくる」に傍点]と思って間違いないんです。それは、源頼朝しかりで、そして徳川家康も同じ[#「同じ」に傍点]なんです」
「なるほど! それで淨山寺[#「淨山寺」に傍点]なわけか。慈覺大師[#「慈覺大師」に傍点]が建てた」
――結論部分を早々に納得してI氏はいう。
「それに淨山寺の本尊は、これも間違いなく慈覺大師の御作《おんさく》で、もちろん鑑定済みなんですが。それだけではなくって、由緒伝来がはっきりとしていて、作者と年代が判っている、ほぼ日本最古の地蔵菩薩なんですよ」
「――え! そんなに凄い仏さんだったの」
目を真ん丸にしてI氏が驚いていると、
「ほぼ[#「ほぼ」に傍点]……ですからね」
――念押しするように土門くんがいった。
淨山寺より古い地蔵菩薩は、確かに、専門書などにも出てこないのだ。が、淨山寺も同様に載ってはいないので、他にも埋もれている可能性はある。
「いずれにしても、清和源氏である家康公から見て、あそこ以上[#「以上」に傍点]のお寺は存在しないんです。慈覺大師の創建で、本尊の地蔵菩薩が現存[#「現存」に傍点]し、江戸の真北[#「真北」に傍点]にあった。条件は完全《パーフェクト》に整っていたわけですから。ちなみに、慈林寺と慈恩寺の方は、慈覺大師の本尊はありません。古いお寺で、創建時のままに本尊を残していること自体、非常に稀《まれ》なんです」
「そやから、あの三百石あげる[#「三百石あげる」に傍点]いう話も、逆に安すぎたぐらいなんですね。それに、家康さんの気持ちになって考えてみると、彼が淨山寺を訪ねたんは天正《てんしょう》十九年やったですが、天文《てんぶん》十一年生まれの家康さんが、このとき何歳になっていたかというと……数《かぞ》え年でちょうど[#「ちょうど」に傍点]五十歳なんですね」
人生五十年といわれていた戦国の世である。そんな格言を持ち出すまでもなく、
「そうか! 淨山寺は、家康が決めたところの自分[#「自分」に傍点]のお墓[#「お墓」に傍点]だったんだな――」
I氏も、歴史部のいわんとする結論に達した。
「そのとおり。これに関しては、我が歴史部は絶大[#「絶大」に傍点]なる自信[#「自信」に傍点]があります」
――普段は慎重な土門くんも、断言した。
「お墓ではなくて、お墓の候補地[#「候補地」に傍点]だったんです」
まな美が、そんな男たちの興奮を少し冷ますようにいってから、
「それに、頼朝の場合とは、後先が逆になってしまったんです。家康公は、自分のお墓の候補地を先に閃いた[#「閃いた」に傍点]ものだから、その位置に合わせて、菩提寺の増上寺を移築したわけですね。そして旧名・慈福寺から、自分の宗派である浄土宗の、浄土の山の寺という、現在の淨山寺[#「淨山寺」に傍点]に名前を変えてしまいます。ここまでは、とっても分かりやすい話でしょう」
――I氏は、大きく首肯《うなず》いた。
「けど、彼が天下を手中に治め、さらに天海僧正が出てきたことによって、家康という、いわば素人[#「素人」に傍点]の、最初の閃きどおりには事が運ばなくなるんですよ。何もかもが、もっと大仰《おおぎょう》になってしまうんです」
「なるほど……それにさ、天海が定めた日光東照宮の方も、元はといえば、慈覺大師が建てた三仏堂《さんぶつどう》だろう。淨山寺とは甲乙《こうおつ》つけがたいよね」
「なんのなんの、真北[#「真北」に傍点]にあるんやから、淨山寺の方が絶対[#「絶対」に傍点]に強い[#「強い」に傍点]ですよう」
――土門くんは『|竜の封印』頃《なつやすみごろ》からの自説を固持《こじ》していう。
「甲乙つけがたいとか、どっちが強い[#「強い」に傍点]とか、そういった問題ではないんです」
諭《さと》すようにまな美はいってから、
「たとえば、死後の魂がおもむく霊山としては、日本では白山《はくさん》が有名ですよね。そして、中国では東岳《とうがく》。冥界の帝王である泰山府君《たいざんふくん》がいる山ですね。それらの霊地と、日光山とは性格が異なるんです。日光山は観音菩薩が住んでいる聖地[#「聖地」に傍点]で、死者がおもむくような霊地ではないからです」
――厳《おごそ》かに説明する。
「うん、いわれてみればそうだよね」
「そうやそうや、日光山いうたら、あの百万馬力の霊力をぶわ[#「ぶわ」に傍点]ーと出す方やもんな」
――土門くんの説明は幼稚だが、的《まと》を射ている。
「それに、家康公は死後、東照大権現《とうしょうだいごんげん》という神名が与えられますでしょう。つまり人[#「人」に傍点]ではなく、いうところの、神上《かみあ》がりした状態なわけです。だから部長さんがいうように、霊力をうわーと出す側にまわって、日光に鎮座しているわけね。けど、他の徳川将軍たちは、いかに豪華絢爛《きらびやか》な霊廟《れいびょう》が建ってはいても、通常の戒名[#「戒名」に傍点]しかもらってないんです。つまり、死んでからも人[#「人」に傍点]なわけで、あの霊線に導かれて、霊地の淨山寺へとおもむくんです」
「うわ……」
なんと見事な説明だろうかと、I氏は思う。
「逆に、家康みずからが自分の墓だと決めた淨山寺は、自分は神になってしまったので、入れなくなったんです。神と人とは、住む世界が違うからです。けど、彼の子孫たちは淨山寺《そこ》に行きます……なので、わたしが思うにはですけど、あの淨山寺は、家康さんが人[#「人」に傍点]であったころの、こころ[#「こころ」に傍点]のお墓なんです」
「……心のお墓か」
そのまな美の言葉はI氏の琴線《きんせん》に触れたらしく、彼は涙が出るほどに感動した。
五時を知らせる鐘の音が――鳴り響き始めた。
廊下を行きかう人たちの足音が、急に慌ただしくなってきた。
「もう、終わりなの?」
――名残惜しそうにI氏はいう。
「いえ、まだ大丈夫ですよ。大講堂の方で、そろそろ面白い音楽プログラムが始まるから、皆そっちの方に走ってるだけですから」
「えー一番手はですね、一年の女子だけのぐるーぷ[#「ぐるーぷ」に傍点]で、『イブニング狼』いうやつですね。けど、これはちょっと企画倒れやと思うぞう」
ひょっとしてそれは……I氏の好きな洒落の世界であろうか。
「まともなグループが出てくるのは、六時ごろからですね。中でも『ウイスキーママ』がお薦めですよ。ギターとピアノの非電気楽器《アコースティック》だけのバンドで、ボーカルの声がとっても奇麗《きれい》ですから」
「そこはピアノ弾きも格好ええですよう。ほんきーとんく[#「ほんきーとんく」に傍点]いうの弾きますからねえ」
ピアノは火鳥竜介《おにいさん》の方が断然うまい……まな美はそう思いながら、
「そして最後《とり》を飾るのが、わたしの大好きなグループで、『月面音楽隊』。ダンス音楽《ミュージック》のバンドです」
「……げつめん音楽隊[#「げつめん音楽隊」に傍点]……」
その名称に面喰《めんくら》ってI氏は復唱する。
「ここは半端なく上手《うま》いですよ。自主製作のCDも出してて、もう芸人《ぷろ》になるつもりですからね。ただし、そのぐるーぷ[#「ぐるーぷ」に傍点]名で通るかどうかは別として」
「ええー、『月面音楽隊』って、とっても素敵な名前じゃない。いろんな空想《イメージ》がひろがって……」
まな美は、ごく普通の十七歳の女子に戻ったかのようで、かぐや姫を思わせるような表情でいう。
「そうかあ、いめーじひろがるかあ、なんかチーズ食っていそうやでえ」
土門くんは、英国《イギリス》の|粘土人形の映画《ウォレスとグルミット》を連想したようだ。
I氏はというと、白うさぎが耳をたてて聞いてそうだな……と思った。
「あ、そうやそうや、除幕式[#「除幕式」に傍点]を忘れてた――」
いうと土門くんは、立体模型の斜め後ろに一枚だけポツンと置かれてある衝立へと二、三歩歩き、被さっていた白い布切れを、じゃじゃーん――といって取り外した。
その衝立に貼られていたのは、埼玉県の地図の大写しで、その上に三角形[#「三角形」に傍点]が金線で描かれてあった。
「えー、我が伝統ある歴史部はですね」
その衝立の横に立って、土門くんが口上を述べる。
「平安時代に慈覺大師が埼玉においた三つのお寺で形作られる三角形のことを、特別に命名[#「命名」に傍点]しました。名付けて『武蔵野平安大三角《むさしのへいあんだいさんかく》』――」
[#挿絵(img/03_210.png)入る]
いってから、自分で拍手をする。
I氏もお付き合いで拍手をしながら、語呂《ごろ》はいいけど、何か別のものを想像するぞ、と思う。
「――命名しとかんとね。誰かに勝手に名付けられたら腹立つでしょう。歴史部《うちら》が発見者やいうのに」
「だけど、この三角形は、偶然《たまたま》わたしたちのような一般人が見つけちゃっただけの話で、太田道灌も、家康公も、そして天海僧正も知ってたんですよ。彼らがどう呼んでいたかは分かりませんが。それに、当時は最高極秘《トップシークレット》であったことも間違いないでしょうけど、逆に、知る人ぞ知る[#「知る人ぞ知る」に傍点]、そんな有名な三角形ではなかったかとも思えるんです」
「あ、いわれてみればそうかもしれないね」
「だから、どこかには出てきそうなんですけどね。何かの伝承の中で、暗号みたいな形で……」
「その可能性はあるよね」
「ヒントとして考えられるのは、たとえば、弁才天《べんざいてん》なんかが……」
「あの……弁財天《べんざいてん》?」
「太田道灌が江戸城を築くにあたって、その場所決めをした伝承が『関八州古戦録』に出てくるんですよ。彼が江の島の弁才天に参籠《さんろう》し、舟に乗って帰路についた際、品川沖でコノシロという魚が舟に飛び込んできたので、吉兆だと大いに喜び……といった話なんですね」
「ほう、江の島から舟を出したわけか」
「だから、お江戸は弁才天の町だともいわれるんです。が、その江の島[#「江の島」に傍点]、こちらが面白いんですよ」
「へー、どんなふうに……」
と、まな美の新たなる話に、I氏が身を乗り出しかけたその瞬間である。
窓の外に稲光[#「稲光」に傍点]が走ったかと思うと、直後、
ドッ――カーン!
――大地を揺るがして雷鳴が轟《とどろ》き渡った。
木枠の窓のガラスがびりびり[#「びりびり」に傍点]と鳴り、歴史教室の古木の床がぐらつく[#「ぐらつく」に傍点]。
「ひゃあ……」
悲鳴をあげた土門くんが立体模型の台の端《はじ》にぶつかると、遊化《ゆげ》する地蔵がこてん[#「こてん」に傍点]と倒れた。
まな美は腰砕けになって教室の床にしゃがみ込み、両手で握りこぶしを作って背中を丸めている。
「す……すごかったね……迅雷《じんらい》というんだよねえ」
この世のものとは思えぬ天変地異に、I氏は左胸を手で押さえながらいった。
ほどなくして、大粒の激しい雨が、庇《ひさし》のない教室の窓ガラスを叩き始めた。
――すべて[#「すべて」に傍点]が、これから起こるであろう奇っ怪な事件の予兆であった。
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9
――翌、十一月四日のことである。
週に一度だけの『認知心理学・序』の講義を終えて、文学部本館の四階の片隅にある『情報科分室』の資料室の方に戻り――そこが、火鳥竜介《かとりりゅうすけ》の私室でもあるが――まだ昼飯《ランチ》に出かけるには早すぎるので、本でも読んで時間を潰《つぶ》そうかと、竜介がうだうだ[#「うだうだ」に傍点]していたときのこと。
――ゴン[#「ゴン」に傍点]。――ゴン[#「ゴン」に傍点]。
廊下側の扉《ドア》を、重々しく叩く音があった。
「はい、どなたですかー?」
と、竜介は軽やかに声を飛ばしてみたが、そのノックの主は、名乗りもしなければ、その扉を開けて入って来ようともしない。
「どちら様[#「どちら様」に傍点]ですかー……」
再度、竜介がそう呼びかけると、
――ゴン[#「ゴン」に傍点]。――ゴン[#「ゴン」に傍点]。
扉を叩く重々しい音だけが、返ってくる。
仕方なく竜介は、スチール書棚の列と壁との間の僅《わず》かな隙間を通って出迎えに行き、その扉を開けた。するとそこには――
一瞬、誰だか判らなかったが、次の瞬間には我が目を疑い[#「我が目を疑い」に傍点]、なんと、その男とは絶対に会いたくないと竜介は思い、電話での再三再四の誘いを居留守《いるす》まで使って断り続けていた、その彼が、
――埼玉県南警察署の刑事課の係長・依藤《よりふじ》警部補が立っていた。
「け……警部さん」
今年の夏に知り合って以来、竜介はずーと警部[#「警部」に傍点]で通しているが、そもそも警部補[#「補」に傍点]という階級があることを知らない。
「むっふふふ……」
百年の恋敵《こいがたき》にようやく月の裏ででも出会えたような顔で、依藤は北叟笑む[#「北叟笑む」に傍点]。
が、竜介が見た瞬間、誰だか判らなかったように、頬が削《そ》げていて、不精髭《ぶしょうひげ》ぎみだし、それに濃鼠色《ダークグレイ》の三つ揃いを着てはいるのだが、どこかヨレッとしている。記憶にあった颯爽《さっそう》とした依藤《かれ》の伊達《だて》男ぶりは、今日は見る影もない。|余程の激務なのか《なにがあったのかはしらないが》……だからいっそう不気味[#「不気味」に傍点]ではある。
「まあ……どうぞ中へ」
そんな依藤を、やむなく、竜介は招き入れる。
ここは、学生すらもめったにやって来ない、いわばT大学一の辺境地だが、刑事《さつじん》課の警部さんと廊下で立ち話するわけにはいかない。
そして、その扉を閉めても、依藤は扉前《そのば》に立ち尽くしているだけで、奥に進もうとはしない。通路は狭いが、迷路になっているわけじゃなし。
なにか……竜介が逃げはしまいかと、見張って、つき纏《まと》っている感じがする。そして竜介が歩き始めると、案の定、その背後[#「背後」に傍点]につき従って来た。
あっ……右手にある研究室《おおべや》への〈内扉〉が開いたままだ。今さら閉めるのもわざとらしい[#「わざとらしい」に傍点]ので、竜介は無視して通り過ぎた。そこは通常開けていて、隣室には助手と、ふたりの院生がいる。そこが開いていても声は殆《ほとん》ど通らないので、それは大丈夫だが。
そして依藤は、その内扉から何げなく隣室を覗き、瞬間、立ち止まった。知った顔のとびっきり[#「とびっきり」に傍点]の美人と目[#「目」に傍点]が合った[#「合った」に傍点]からだ。一度だけ、その彼女も含めて三人で、神楽坂《かぐらざか》の高級寿司店に行ったことがあるのだ。それも、南署《おれ》の奢《おご》りで。
依藤が会釈すると、その西園寺静香《さいおんじしずか》も会釈を返した。その彼女が『情報科分室』の助手[#「助手」に傍点]だが、二十八歳で独身、情報工学の博士号を持っている才媛《さいえん》だ。彼女の仕事机《デスク》は、隣の資料室との境の壁際にあり、そこに座っていれば、角度的に内扉の向こうは見えないのだが、偶然《たまたま》、研究室の中央にある大机にいたので、依藤と目[#「目」に傍点]が合った[#「合った」に傍点]のだ。
その来賓《らいひん》たち[#「たち」に傍点]を見送ってから、普段《いつも》どおりに、お茶を用意しなければ……静香は思った。
「おっ」
依藤が、短い驚きの声をあげた。
部屋の奥(つまり窓の手前)に、薄汚れた白壁を背にして、鳩血色《ルビーレッド》の豪華《ゴージャス》な総革張りのソファが置かれてあるからだ。背凭《せもた》れが、孔雀が羽《はね》を広げたような優美な半円《アーチ》を描いている。初めてここに来た人は皆、異口同音に驚く……その点では、依藤《かれ》の精神《こころ》はまだ正常[#「正常」に傍点]だなと竜介は判断した。
「バブル期の遺産ですよ。大学に寄付されたものですが、捨てたというのが正しいでしょうね」
そんな|無駄な《どうでもいい》話をしながら、竜介は、ぺったんこの座布団が載《の》ってる貧相な回転椅子《デスクチェアー》の方に座った。
「うん? ここしかないのか……」
依藤は不満そうにいってから、その豪華なソファに腰を下ろした。……目線が下になり、尋問[#「尋問」に傍点]向きとはいえないからだ。が、隙間なく置かれているアンティーク調の木の応接テーブルを挟んで、すぐ前に竜介の仕事机《デスク》と回転椅子。その奥は二メーターほどで行き止まり。左側は書棚の壁。そして右は四階の窓だから、袋小路に追い込んだ格好にはなる。
「さて、先生からお伺いしたい話は、山ほど[#「山ほど」に傍点]――あるんだけど、今日ここに来た二番[#「二番」に傍点]の話を、まず一番[#「一番」に傍点]にしましょう」
な、なんだその言い廻しは……
「先生は、もちろんのこと、幽霊話とかにもお詳しいですよね」
……竜介は反応しないが、
「そこで、ひとつお教え願いたいんですが、あるところに、首なしの幽霊[#「首なしの幽霊」に傍点]……が出るといった噂があるんです。これは、どう判断なさいますか?」
その種の話ならと、竜介は応じることにした。
「えー、その首なしの幽霊というのは、顔がない、顔が見えない幽霊のことですか?」
「まあ……似たようなもんでしょうかね」
「だったら、それはもうごく[#「ごく」に傍点]普通の幽霊ですね」
「え? こんなのが普通[#「普通」に傍点]の幽霊なんですか?」
「出てくる幽霊の何割[#「何割」に傍点]かは、顔はない、顔は見えない[#「見えない」に傍点]幽霊なんです。これは全世界共通ですね。日本でも有名な怪談があるでしょう。場所は赤坂見附《あかさかみつけ》ですが、弁慶橋《べんけいばし》の袂《たもと》に女が立っていて、身投げかと思った男が背後から抱き止める。すると振り向いたその女の顔は……のっぺらぼう。男は驚いて逃げ、夜泣き蕎麦《そば》の行灯《あんどん》があって、その店に跳び込み、さっきの幽霊《のっぺら》の話をすると、それはこんな顔でしたかーとその蕎麦屋の店主もまた、のっぺらぼう……」
「いや、せっかくのお話ですが、それはちょっと違うような感じがします。この……首から上だけが」
依藤は、みずからの首に手をあてがって、
「完全に消失している。といった幽霊なんですが」
「うーん」
竜介は少し唸《うな》ってから、
「それは、いわゆる表現の差[#「表現の差」に傍点]に含まれちゃいますね。幽霊が見えたって、写真やビデオで撮れるわけじゃなし[#「なし」に傍点]……言葉で説明するしかないでしょう。すると、口がなかったり、鼻がかけていたり、頭が全部、もしくは半分消えていたりと、人は様々なことをいうわけです。顔に面衣《ベール》がかかっていたという例も多いですね。実際、その種の伝承は山ほど[#「山ほど」に傍点]あって、律義に分類している研究者もいます。が、それは無駄な努力というもの。この種のものは、顔なしの幽霊として、ひとっ括《くく》りにするのが――正解です[#「正解です」に傍点]」
「あっ、そのひとっ括りというのは、先生のご専門の方での、話ですね?」
「ええ、認知神経心理学的にいって、ひと括りにできる表象《ひょうしょう》なんです」
さらりと竜介はいうが、その単語一個[#「一個」に傍点]が、なんて難しいんだろうかと依藤は思いながら、
「そのご専門の方ですけど、自分らにも分[#「分」に傍点]っかるように説明していただくとなると……二、三分で可能でしょうか?」
「それは無理です。丸二日はかかりますね」
「じゃ、それはまた別の機会にでも……」
竜介が大袈裟にいってるのは自明だが、依藤もそうは時間に余裕があるわけではないのだ。殺人事件をふたつ[#「ふたつ」に傍点]抱えている。
「……だからもう理屈は抜きで、結論だけズバズバでけっこうです。で、その首なしの幽霊は、男子には出てこなくて、女子にだけ出てくる……て話にもなってるんですよ。そのあたりはどうですか?」
生物部員たちがいっていたことだが、依藤は、その種の些細《ささい》なこともしっかと覚えている。
「その話も、ほぼ正解ですね」
「あ……これは正しい[#「正しい」に傍点]んですか?」
「たとえば、よくテレビに出てくる霊能力者って、つまり幽霊が見える見えると騒いでる人たちですが、ほとんどが女性じゃありませんか?」
「ほう……そうなんですか」
依藤は、その種のテレビ番組はあまり見ない。
「俗に、霊能おばさん[#「おばさん」に傍点]と呼ばれるぐらいで。だから、男の霊能力者などが出てきたら、真っ先にペテン師だと疑った方がいいですね」
「あっ、なるほど――」
依藤は、別の話の方で納得してから、
「それとですね、この首なしの幽霊は、私の首はどこ? 私の首はどこ? あるいは、私の首を返して、私の首を返してーといいながら」
「ちょっと待って下さい」
熱演してる依藤を制して、竜介はいう。
「するとですね、その幽霊を見た人は、見た瞬間にキャーこわーい……て話になるわけですね」
「ええ、そうだと思います」
「それでしたら、もちろん警部さんが見たわけじゃないので、伝聞[#「伝聞」に傍点]ですから、断定[#「断定」に傍点]はできませんが、その幽霊話は、作り話だというのが結論[#「結論」に傍点]ですね」
「あ、こうなってくると作り話[#「作り話」に傍点]ですか?」
「それは、ふたつの点でいえます。ひとつ、幽霊はめったなことでは声は発しません。喋る幽霊は皆無というわけでもないんですが、喋るのと、幽霊を見るのとでは回路が……まあ、次元とでもいいましょうか、それが別[#「別」に傍点]ですから。それにその幽霊は、出る度毎《たびごと》に、似たようなことを口走るわけでしょう?」
「ええ、そうみたいです」
「それも、それぞれ別の人に。となってくると、まず間違いなく|作り話《フィクション》ですね。それともうひとつ、さっきの赤坂見附の怪談ですが、川に身投げしそうな女を男が助けますよね。このとき、その男は、その女を幽霊だなどとは認識《おも》ってないんですよ」
「あ……いわれてみればそうですね」
「で、顔を見たらのっぺら[#「のっぺら」に傍点]なのでキャー以下の部分は脚色[#「脚色」に傍点]なんです。その助けた女のことを、近くの蕎麦屋の店主とでも話していて、えっ、そんな女の人、店《ここ》からは見えませんでしたよ。あれ、いわれてみれば、その女の顔が思い出せない。それはあなた、のっぺらぼうの幽霊ですよ……というのが実[#「実」に傍点]の話ですね。だから見た瞬間に、キャーこわーいの類《るい》の幽霊話は、これもまず作り物だと思ってください」
「はっはーん。そうしますと、逆に、見てるときには幽霊だとは判らないようなものが、本物の幽霊[#「本物の幽霊」に傍点]、ということなんですね」
「……正解です[#「正解です」に傍点]」
竜介は、小さく拍手しながらいった。
片や、依藤も、その首なし幽霊[#「幽霊」に傍点]は作り話だろうと踏んでいて、そのことを専門家《りゅうすけ》に明瞭に裏付けてもらったのだから、これほど力強い話はない。その偽[#「偽」に傍点]の幽霊話(でありながら極めて実際的)の火元を辿《たど》っていけば、すなわち犯人に行き着く可能性があるからだ。金城玲子殺人事件は、依藤の不安《おてあげ》が的中し、その後何の進展も見ていないのである。どんな些細なことであっても全力でとり憑《つ》くしかない。
いやーさすがに先生だなあ……と感心しながらも、それはそれ、と依藤は割り切り、
「さて、それでは、今日ここに来た一番[#「一番」に傍点]の話をしましょう」
――仕切り直していう。
お出《い》でなすったか……あの日光の荒れ寺で一緒に来ていた連中は誰か。その話だけ[#「だけ」に傍点]はできないぞーと竜介が身構えていると、
「えー、十一月の二日、つまり一昨日《いっさくじつ》ですね。その夜の、八時から十時まで、この時間帯は、火鳥先生はどこ[#「どこ」に傍点]で何[#「何」に傍点]をなさってましたか?」
「ええ?」
――意外すぎる質問に竜介は面喰《めんくら》った。
が、それはもしや、いわゆる不在証明《アリバイ》のことか?
「えーと、一昨日《おとつい》の夜ですよね……」
まずい、運悪く竜介は、その夜は人様にはいえない場所にいた。それに、胡魔化《ごまか》しをいっても依藤《かれ》には通用しそうにない。先生[#「先生」に傍点]、自分に嘘をついてもすぐバレますよと以前に釘[#「釘」に傍点]を刺され[#「刺され」に傍点]たことがあるのだ。どうしようかと竜介が逡巡《しゅんじゅん》していると、
「今日! 昨日《きのう》! 一昨日《おとつい》! の話ですよ? 先生ほどの頭脳の人が、そんなの覚えてないはず[#「はず」に傍点]がないですよね?」
仕方がない。竜介は、仕事机《デスク》の引き出しを開けて中を漁《あさ》ると、四角い小箱を探し出し、それを依藤の方にポイ、と投げ――
「今時めずらしいですけど、マッチです。その夜はそこにいました」
――捕獲《キャッチ》した依藤は、その小箱《マッチ》をチラッと見て、
「あっ、あずさ[#「あずさ」に傍点]という店ですか」
少し驚いたようにいってから、
「てことは、銀座にあるという高級クラブですね」
うん? そのマッチには店名[#「店名」に傍点]と電話番号[#「電話番号」に傍点]しか出てないはずだが……
「そこに何時までいました?」
「夜の七時から十二時までいました」
「ほう、豪気《ごうき》なご身分ですね」
……あれ? それも同じような言い廻しをどこかで聞いたぞ。竜介は|不審感満々ながらも《なにがどうなっているのかさっぱりだが》、
「そうそう、その店から話を聞くときには、火鳥では多分分からないですから。本名を知ってるのはママだけなので。つまりママの名前が、あずささんですね。そのママがつかまらない場合は、竜介で聞いて下さい。それで分かりますから」
「へー、下のお名前だけでいいんですか。店では、それほどの有名人なんですね」
……皮肉でいってるのか? それとも、知ってていってるのか?
竜介には判断つきかねるが、どっちにせよ、その店では経営者《オーナー》のママに次ぐ古株だ。もう二十年近くもそこにいる。最初は、単純に|小間使い《ボーイさん》の|臨時雇い《バイト》で入ったのだが、店にはグランドピアノが置かれてあり、暇なとき竜介がぽろぽろ弾いていると、あら、上手じゃなーい、とそのママがいいだし、ピアノ弾きに栄転したのだ。もっとも、最初から今ほど弾けたわけではなく、昼間、客が来ない間に、その店で練習をさせてもらった。そういった恩もあり、それに、今住んでいる下北沢の防音マンションの家賃のこともあって、竜介は|続けている《やめられない》のである。
週に一、二度の副業《バイト》だが、十一月二日は祝日の前日でもあり、そういった日は客が多いので、竜介も行ったのだ。
「ちなみに、今日は行きませんよ」
「まあ、そこまでおっしゃるんなら、とりあえずこの話は置いとくとして……」
依藤は、信用する、などとはいわずに、
「……先生、一週間ほど前ですが、テレビ番組の収録に出演されましたよね?」
「ええ、出ましたけど……」
なぜ知ってるんだ? どんな話なんだ?
……依藤《かれ》は核心部分をいわないから、どう反応していいか分からない。竜介としては、焦《じ》れる。
「そのテレビ番組に、先生が出演されることになったいきさつ[#「いきさつ」に傍点]。まず、それを教えてくれませんか?」
「経緯《けいい》を……ですか?」
竜介は、確認してから、
「えー、その二週間ほど前にですね、テレビ局から電話があって。もっとも、ひと月は前に、別の人が出ると決まってたんですよ。守屋汎《もりやひろし》、て聞いたことありません。テレビによく出てくる教授ですけど」
「あ……なんとなく」
「その守屋汎は、この同じ大学の教授なんですよ。専攻はアジア文化史なんですが、最近は、霊だ超能力だと、そういった番組によく駆り出されてます。で、その彼から、急に都合が悪くなったからと、代わりに僕に出てくれと、直《じか》に打診があったんですよ。内線電話[#「内線電話」に傍点]で――」
竜介の仕事机《デスク》にある電話機《それ》を指さしていってから、
「すると、直後にテレビ局から電話があり、そして決まったわけです。それが……経緯《いきさつ》ですけど?」
「ほう、そうすると、先様《さきさま》を、叩くことになる話は、どのあたりで出てきました?」
何だって? |判じ物《パズル》のような質問だと竜介は思う。
「その先様というのは、得川宗純のことでしょ」
――焦れた竜介が、少し乱暴な口調でいった。
「ええ、そうです」
依藤は伏し目がちにいってから、
「その、得川さんを、番組の中で叩くことになったのは、どのあたりで決まりました?」
――再度、真顔で同じことを聞いてくる。
「それはですね、今にして思えばですが[#「今にして思えばですが」に傍点]――」
そんな力強い前置きをしてから、竜介はいう。
「そのテレビ局から電話があったときに、出演者のリストをざーと読み上げてくれたんですよ。その中に気になる男がいたから、つまり得川宗純ですね、その彼と対決されてくれるなら、と僕がいうと、もちろん僕の気持ちは、叩かせてくれるなら[#「叩かせてくれるなら」に傍点]、ですが、すると、それは願ってもないことだと先方が受けたわけです。つまり、僕が先廻りしちゃったんですね。だから先方の気持ちも、最初から、叩いてくれ[#「叩いてくれ」に傍点]、であったかと思います。その守屋という教授は、僕のことはよく知ってましてね、何ができるのかも知ってるんですよ。だから急に都合が悪くなったというのは口実で、そんなことは自分はやりたくないから、もちろん守屋教授にはできませんが、咬ませ犬[#「咬ませ犬」に傍点]としてなら別に相応《ふさわ》しいのがいるよ[#「いるよ」に傍点]――と局の誰かに、強力に推挙《プッシュ》したんじゃないかと、そんな気もします。だって、得川宗純みたいな大物に、僕みたいな無名人をぶつけること自体、おかしいでしょう。それも特番で……そういった裏事情はですね、たぶん、ディレクターの今辻[#「今辻」に傍点]というのが知ってるはずです。その今辻さんに聞くのが、早いでしょうね」
「ほう……ほう、ほう。その手のことを聞くなら、ディレクターの今辻さん[#「今辻さん」に傍点]……ですね」
名前を確認するようにいった依藤だが、もう既《すで》に会ってるんじゃないかと、竜介には思えてきた。
「えー、その結果、叩かれてしまった得川さんですが、収録が終わった後で、先生のことをものすごく[#「ものすごく」に傍点]怒っておられたことは、ご存じですか?」
「ええ、まあ……なんとなくはね」
それは控室の前を通ったから、明瞭[#「明瞭」に傍点]に竜介は知っているが。
「で、その後、得川さんから先生のところには、何か、電話とかはありませんでした?」
「いえいえ、まさか……その後あった電話といえば、翌日にその今辻さんから、出演料《ギャラ》の振り込み先の確認の電話ぐらいで、他の関係者からも、いっさい何の連絡もありません」
「そうですか……いや、直接先生のところに怒鳴り込んで来る、といった話じゃなく、さっき教えてくれたような裏話をですね、聞きたいと、それも本人からではなく、付き人[#「付き人」に傍点]を名乗るような人から連絡があった。そういったこともなかったですか?」
「ええ、ありませんでした――」
確かに、そういった考え方もありだなと竜介は思う。が、依然として元になっている話が不明[#「不明」に傍点]だ。
「それじゃ、そのテレビ番組の中身[#「中身」に傍点]の話[#「話」に傍点]をしますが、先生は、その収録中に、鬼気《きき》迫る大立ち廻りを演じられてますけど、あれは先生の独断[#「独断」に傍点]ですか?」
「はい……そうですけど」
ということは、放映日は七日《まだ》だから、依藤《かれ》はテレビ局から見せてもらったんだ。その中身を。
「へー、あれは先生が勝手[#「勝手」に傍点]にやった芝居だったんだ。じゃあ、その芝居の最初に、夢の話をされてましたよね。――得川さんが胸を手で押さえて、バッタリと床に倒れるというあれ[#「あれ」に傍点]ですが、あれはいったい、どこから持ってきた話なんですか?」
――依藤は詰問《きつもん》する。
「いや、そんなのは、もちろん出鱈目《フィクション》ですよ。僕が勝手に作った物語[#「物語」に傍点]。もちろん、そんな夢も見ていません。そういった劇的な話にすると、皆がのってくるだろうと、そう考えただけ[#「だけ」に傍点]のことです――」
竜介も力説していった。
――が、
「ちょっと待って下さいよ。警部さん、話がおかしい[#「おかしい」に傍点]。何となく、何となく見えてはきましたけど」
「何が見えてきたんです?」
「いや、よくないことが起こっていそうな、嫌な予感がします。アリバイを聞かれたときから変だなとは思ってたんですが。それに……先様[#「先様」に傍点]。そんな丁寧語は大学の中ではついぞ聞いたことがない。その他|諸々《もろもろ》から推理できる結論は、限られますよね?」
「どんな結論ですか?」
「いや、それも存じあげませんが。それに万が一[#「万が一」に傍点]、僕が語ったデタラメな夢の話が、現実になっていたとしても、それは、誰かが真似たのかもしれませんし、僕とは直接の関係はないでしょう?」
「うーん、理屈の上ではそうもいえますわな。けどね、先生は現に大喧嘩[#「大喧嘩」に傍点]をなさってるんですよ。観客がわんさか[#「わんさか」に傍点]見ている前で。それも先生の方から仕掛けて、その先様に罠《わな》をかけるようにして。しかも、その一部始終をテレビ局のカメラによって撮られ、録画[#「録画」に傍点]が残ってるんですよ。それだけでもう先生は、立派に最重要容疑者[#「最重要容疑者」に傍点]なんだから!」
い……いわれてみれば、その通りでもあるが。
「けど偶然[#「偶然」に傍点]、たまたま[#「たまたま」に傍点]先生とは知り合いだったから、いきり立ってる刑事《さつじん》課の刑事さんたちをですね、まあまあまあと宥《なだ》め、自分ひとりで非公式に、こうやって先生のところにこそ[#「こそ」に傍点]っと来てるわけでしょう」
あのゴン[#「ゴン」に傍点]、ゴン[#「ゴン」に傍点]が、こそっとなのか?
「ですから、知っていることがあれば包み隠さずに、この場で今話しておかれた方が、先生にとっても、得策だと思いますよう」
あれやこれやと、恩着せがましく依藤はいう。
「けど、僕が知ってることって限られますからね。それに本当に……実話[#「実話」に傍点]になってるんですか?」
「なっております[#「なっております」に傍点]」
依藤は重々しくいってから、
「その、後ろに置かれてるテレビ、映りますか?」
「映りますけど……」
ソファとは反対側の壁にある金属製のラックに、録画機《ビデオ》その他の電子機材にごちゃごちゃと囲まれて、二十五インチほどのそれがある。
「だったら、つけてみて下さい。昼番組《ワイドショー》のどこかでは実況《やってる》でしょうから……」
|竜介は半信半疑《ワイドショーはマズイとおもい》ながらも、仕事机《デスク》にあった発信機《リモコン》で電源《スイッチ》を入れチャンネルを弄《いじ》っていると……確かに、手にマイクを持った女性のレポーターが、どこかの寺の門の前で神妙な顔つきで話していた。
……に驚きの色は隠せず、芸能人やテレビ関係者などの弔問客が次々と訪れています。得川宗純さんことご本名又吉晃彦《またよしあきひこ》さんのご遺体は、昨日から、ここ埼玉県は浦和市の長閑《のどか》な田園風景に静けさに包まれてある寺山田《てらやまだ》の林鳥禅院《りんちょうぜんいん》に安置されております。
「そこ、南署《うち》の所轄《しょかつ》なんですよ」
依藤が口を挟んでいう。
「埼玉の南東部の、そういった長閑[#「長閑」に傍点]な場所[#「場所」に傍点]は、だいたいが南署の管轄になると思ってください。大きな市には、それなりの警察署がありますからね」
……なお警察の発表によりますと、お亡くなりになられたのは、十一月二日の夜の九時前後、死因等の詳しい発表はまだありませんが、警察では殺人事件と断定し、物盗《ものと》りもしくは怨恨《えんこん》による犯行の両面から大捜査網が敷かれておるようです。が、今のところ犯人に直接結びつくような有力な情報は、まだ得られてはいないようです。現場の※※さーん、とスタジオから誰かが呼びかけた。
「んなわけでして、その大捜査網の網《あみ》にひっかかってんのは、今んところ……ひとりだけ[#「ひとりだけ」に傍点]」
「かもしれませんが、さっきの不在証明《アリバイ》、あれを店の方に確かめていただけると、それで疑いは完全に晴れますから――」
当然のことで、竜介は自信を持っていったが、
「はたして、そういい切れますかね?」
依藤も、何やら別種の自信があるかのようにいう。
昼番組《ワイドショー》ではそれ以上のことは語りそうにないので、テレビを消してから、竜介はいう。
「だって、僕がその現場にいないことが証明されたら、それで無関係でしょう?」
「いえいえ、先生がどこにいらっしゃろうとも、共犯者がいた可能性も考えられますから」
「そんなことをいいだしたら、切りがないじゃありませんか」
「どうしてどうして、切りは立派にありますよう。先生、致命的な証拠を残しちゃってますからね」
「ええ? どういった?」
「それは[#「それは」に傍点]、あの番組の収録ビデオです。あれ、ものすごい[#「ものすごい」に傍点]証拠なんですよ。先生は気づいてらっしゃらないようだから、説明してさしあげましょう」
――依藤はそういうが、単なる親切心からだとは、竜介にはとうてい思えない。
「得川さんは、あの収録の中で、いわゆる霊視[#「霊視」に傍点]をやってましたよね。そして、自分は先生から、銀座のクラブの話をさっき聞きました。その話は、得川さんの霊視と、寸分|違《たが》わず同じじゃありませんか。なんと、あずさという店の名前まで。つまり、彼の霊視は当たっていたわけでしょう?」
竜介は、とりあえずのところ頷く。
「そして、彼のもうひとつの霊視は、これは明らかに先生の妹さんのことだろうけど、これも当たってましたよね?」
「それはまあ、表面的にはね」
「いえ! 当たってたんです[#「当たってたんです」に傍点]――」
依藤は、バーンと応接|木机《テーブル》を叩いていってから、
「先生は外れだと思うかもしれないけど、第三者から見れば、それこそ、表現の差[#「表現の差」に傍点]でしかありません。つまり、彼の霊視は悉《ごとごと》く当たってたんです。それと比較して、片や、先生の夢の話や、あの鬼気迫る大立ち廻りには、何か真実が含まれてますか?」
「いえ[#「いえ」に傍点]、それはすべて芝居だから、もちろん真実は含まれてません」
「でしょう……ということは、あの収録は、真実を語っている彼を、いかさまな芝居でもって罠にかけ、そして怒らせた。そういった構図ですよね」
「まあ、見方によっては、そうも見えますけど」
「いえ。見[#「。見」に傍点]方によってじゃなく、その構図ひとつしかないんですよ。個々の裏をとったとしても、その通りなんだから。……けど自分は先生から、この種の話をちょこちょこ教えてもらってます。だから何となく分かるんですが、あの得川さんの霊視というのは、あれは完璧[#「完璧」に傍点]ないかさま[#「いかさま」に傍点]なんでしょう?」
「それは、――もちろん」
「だからこそ、先生は嘘の芝居までして彼を叩いたわけだ。けど、その嘘の芝居の正当性を万人に認めさせるには、その元凶である、彼の霊視のいかさま[#「いかさま」に傍点]度を立証できないと駄目でしょう。ちなみに、その立証はできますか?」
「それはもちろん、やろうと思えばでき――」
といいかけて、竜介は言葉に詰まった。
「できますか[#「できますか」に傍点]?」
依藤が、念押しして再度聞いてくる。
――竜介は、目を瞑《つむ》って考えてみた。
それは予想だにしていなかったことで、以前とは状況が天と地ほどに違っている。
「……先生ほどの方です。あの種の霊能力者の白黒を立証するには、どんな方法ならば可能か。つまり実験ですが、その実験のプランも、おそらく頭ん中では完璧[#「完璧」に傍点]に組まれているはずだ。ただし、その実験台[#「台」に傍点]に据えるには、相手が生きてないと……」
「ふむ、今となっては難しいですね」
それは、竜介としても認めざるをえない。
「……でしょう。そして立証できないんだったら、先生の側には何ひとつとして理[#「理」に傍点]はありませんよ。あの収録ビデオが残ってるだけなんだから。すると、先の構図がそのまま生きてきます。つまり、先生は希代[#「希代」に傍点]のペテン師[#「ペテン師」に傍点]。片や、あちらは真実の霊能力者で、そのペテン師の毒牙[#「毒牙」に傍点]にかけられた可哀相[#「可哀相」に傍点]な人[#「人」に傍点]――」
竜介は、返す言葉がない。
「それにいっときますけど、この殺人事件に先生が絡《から》んでる、なんてことは、自分は爪の垢《あか》ほども思ってませんよ……ですが、もし何かのはずみで、先生が裁判にでもかけられるような羽目になったとき、あの収録ビデオを証拠品として提出されちゃうと、先生の勝ち目は、これもまた、爪の垢ほどもないだろうなと自分は思います」
その表現はさておき――
「まあ、そうならないためにも、警部さんには是非[#「是非」に傍点]、真犯人を挙げていただかないと。それも速やかに[#「速やかに」に傍点]」
――それが竜介の本心だ。
ぐずぐずされていると、野次馬《ワイドショー》が大学《ここ》までやって来る。それは裁判を云々《うんぬん》する以前の問題だ。
「いやー、頑張ってはいるんですけどね。それに、まだ時間は浅いんですが、今の雰囲気でいいますと、お先真っっっ暗ですね」
わざとらしく依藤はいってから、
「けど、返す返すいいますが、先生はホントに幸運でしたねえ」
「えっ……何が?」
「いや、それはもちろんのこと、この得川宗純さん殺人事件が、南署の管轄だったということですよ。その捜査の責任者は、今更《いまさら》いうまでもないんですが、自分です[#「自分です」に傍点](と、自身を指さし)。ですから、先生がいかに最重要容疑者の筆頭[#「筆頭」に傍点]格であろうとも、自分の目の黒いうちは、とりあえずのところ安全《セーフ》、なわけですよ。ほら、こんな幸運《ラッキー》な話はないでしょう」
といってから、腕組みをして、北叟笑《ほくそえ》む。
――読めてきた。読めてきたぞう。竜介には依藤の魂胆《こんたん》が見えてきた。それに託《かこ》つけて、竜介の首に鈴をつけるつもりなのだ。居留守など使われぬよう。
「むっふふふ……」
北叟笑み続けている依藤と、窮鼠《きゅうそ》が猫を噛むような手はないか、もしくは、脱兎《だっと》の如くに椅子から走り出し、逃走は可能かどうかを考えている竜介が、押し黙ったままで対峙《たいじ》していると、
コン、コン……
内扉を品よくノックする音があり、竜介が返事をすると、
「……失礼いたします」
そういってから、お盆にお茶をのせた西園寺静香が、美しく微笑《ほほえ》みながら資料室に入って来た。
「遅くなってしまって、すいません。かかってきた電話が長引いてしまいまして……」
静香は、軽く会釈しながらそういったが、それは方便の嘘というもの。自身の手が塞がっていたなら、他にふたりいる院生に頼めばよいのだから。
研究室では、内扉の手前まで行くと、資料室での話し声が聞こえてくる。竜介と依藤のそれが、余りにも深刻そうな話しぶりだったので、静香は、お茶を持って行く|頃合い《タイミング》をなかなか見計れず、それを何度か繰り返していて今[#「今」に傍点]になったのだ。
その静香が運んで来たプラスチックのお盆には、マグカップが三個[#「三個」に傍点]のっているのが、竜介には見えた。彼女も……この会話《バトル》に加わるつもりか?
思えば、以前神楽坂の寿司屋で、依藤から、その情報の出元はどこだーと竜介が責められていたとき、それは催眠術、と助け舟を出してくれたのは、ほかならぬ西園寺静香であった。普段は慎《つつ》ましやかな性格なのだが、そこは博士号をもつ才媛で、機転は人一倍に利《き》くのだ。今回も救い[#「救い」に傍点]の女神さま[#「女神さま」に傍点]か……そんなことを竜介が考えていると、
「警部さんは、コーヒーでおよろしいですよね」
いいながら静香は、そのマグカップの一個を応接テーブルの依藤の前に置き、次の一個(中身はいわずもがなの煎茶)を竜介の仕事机《デスク》の方に置き、そして最後の一個を手にしながら、
「もうおひと方《かた》の分《ぶん》も、コーヒーですけど、こちらでよろしいですか」
と、それを応接テーブルの上に、先に置いた依藤のカップの隣あたりに置こうとする。
「え、もうひとりって?」
竜介が尋ねる。
「何のことですか?」
――依藤も顔を向けていう。
静香は、そのカップを持ったまま宙で止めると、
「警部さんがお連れになられた方ですよね、続いて入って来られましたから。それにあの装いは、ピンクハウスでしょう。コサージュをつけておられて」
――依藤に、問いかけていう。
「ピンク……何ですって? コサジ?」
「……ピンクハウスというのはブランド名で、米国《アメリカ》の西部劇の映画の中で女性が着ているような、独特な風合いの服ですね。コサージュというのは胸飾りです。ふわふわーとした干し草みたいな……」
女性のファッションも一通りは知っている竜介が、とりあえずのところ、説明する。
「その素敵な青いロングドレスが、とってもよくお似合いですよね。若くてお奇麗な方で……」
静香は、その女性[#「女性」に傍点]は今は中座していて化粧室かどこかですよね、そんな雰囲気《ニュアンス》でいう。
「あ……青いドレス[#「青いドレス」に傍点]……」
心の底から絞り出したような声でいうと、依藤の顔はみるみる青ざめていく。
ふむ、これは彼女の機転[#「機転」に傍点]の類《たぐ》いではなさそうだな。竜介は、その種の専門家[#「専門家」に傍点]としてそう思う。
「……そ、その女性が……じ、自分の……後ろにですか?」
這々《ほうほう》の体《てい》の依藤が、蚊の鳴くような声で尋ねる。
「ええ、警部さんのすぐ後ろを……ですけど」
静香は不思議そうな顔で答える。
依藤が、発条《ゼンマイ》仕掛けのようにガバ――と振り返ってキョロキョロと見る。そこは鳩血色《ルビーレッド》のソファの孔雀の羽の背凭れで、そして薄汚れた白壁だ。
残念、そんなところには存在しない[#「存在しない」に傍点]……と竜介は思う。
その依藤の様子で気づいたのか、
「あ……」
静香は口を手で押さえて、
「……すいません。わたし昨日徹夜をしてしまって、朝からぼーとしていたんです。何か夢でも見たんですね」
口を押さえたままでそういってから、その三個目のカップを持って、逃げるようにして隣の研究室に戻って行った。
「い……今のは何だったんですか? 先生?」
一オクターブは高い声になって、依藤は聞く。
「いやー奇しくも[#「奇しくも」に傍点]、三十分ほど前に警部さんに説明したものですよね」
「ほ……本物ですか?」
「はい。あれが[#「あれが」に傍点]、本物の幽霊です。典型的でしょう。彼女は見たときには、幽霊《それ》だとは、認識《おも》ってないんですから」
「そ、そんなものが出てるのに、先生は怖くはないんですか?」
完全に声を裏返して、依藤はいう。
「いや、幽霊が出たぐらいで驚いていたら、この情報科という研究室は成り立ちませんから……」
実際、アマノメの神がどれほど恐ろしい異形《いぎょう》の存在を見るか、教えてあげたいぐらいだと竜介は思う。
「……それに、そういった青いドレスの女性というのは、僕にはまったく心当たりがないんです。つまり、僕には関係のない幽霊なんですね。何か、警部さんは、その女性のことをご存じなんですか?」
――見え見えだが、竜介は聞いてみる。
「と、とんでありません」
依藤は目を瞑《つむ》って、否定する。
そして両の手で握り拳《こぶし》を作り、その拳を膝の上に置いてソファに座ったまま、石仏《せきぶつ》のように固まってしまった。
竜介なら、その彼の呪縛《じゅばく》が解けるような合理的な説明を幾らでもしてあげられるのだが、頭に閃くことは、専門家《エキスパート》も、少年課の刑事らと大差はなく、それに竜介にも多分に子供っぽいところがあって、
……このまま怯えていてくれた方が[#「このまま怯えていてくれた方が」に傍点]……
その閃きを竜介は採用することにした。
暫くはそのまま沈黙していた依藤だが、ガガガと石の鎧《よろい》を着たままでソファから立ち上がり、
「自分は、帰らせてもらいます……」
とはいったものの、依藤は通路の方に目をやりながら、その場で立ち尽くしている。
……そうか、そこで幽霊が見えたのだから、再び出はしまいかと足が竦《すく》んでいるのだ。
さすがに、竜介も可哀相だなと思い始め、
「えーとですね、見えた幽霊というのは、情報がそれなりに認識をされてますから、コンピューターでいうところのバグなどとは違って、人に悪さをするということは、殆どありません。その点では、安全ですから」
――何かの予報官のように、安全宣言[#「安全宣言」に傍点]を出[#「出」に傍点]す。
「そ……そうですか、ありがとうございます」
頭を下げぎみにして依藤は囁《ささや》くと、意を決したのか、勢いをつけてからドドドドドド……猪突盲[#「盲」に傍点]進で走って行く。そして、バターン! 廊下の扉を閉める音が資料室に響き渡った。
可哀相だけど、そして内心ざまーみろでもあるが、依藤はもう二度とこの研究室には来れまい[#「来れまい」に傍点]、と竜介は安堵してそう思う。それに今回もまた、結果的には、西園寺静香は救いの女神さまだったわけだ。
……が、青いドレスの幽霊のことはさておき、どうして彼女にそれが〈見えた〉のか、そちらの方が竜介には気になっていた。
その種の話は、彼女には、今まで何度となく説明してきたのだ。その際に一度たりとも、その種のものが見える、あるいは過去に見た経験がある……などとは竜介は聞いた記憶がない。
それに彼女は、たしか視力は両目ともにいいはずだ。普段はコンタクトレンズをしていて、今日は忘れた、それも片方だけ……ならばまだ解るが。
それに研究室から見ると、内扉の資料室側は書棚の陰になっていて、かなり暗い。が、着ている服の意匠《デザイン》を指摘できるほどに明瞭に見えるなんてことは、何か余程の条件が整わないと、難しい。
ふむ……?
………?
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10
同じ日の、お昼休みのことであった。
歴史部の三人が、白くて清潔そうな広々とした食堂で、仲良く同じテーブルにつき、マサトは休んではいたが、昨日の文化祭の話に花を咲かせながら、昼飯《ランチ》の後のお茶を飲んでいたとき、
「……テステス。えー、緊急放送、緊急放送です。歴史部の部員の皆さんは、至急、旧校舎の旧・歴史準備室、つまり歴史部室に集まってください。もう一度いいます。歴史部員は、全員、大至急、歴史部室に集合のこと。緊急放送は以上」
――校内放送が流された。
「ありゃー、誰や呼んでるんは? うちら全員[#「全員」に傍点]ここにおんのにー」
土門くんはそうお道化《どけ》ていったが、それは完全に冗談である。
緊急放送というのは、生徒間の連絡ではまずなく、主に先生からの呼び出しだからだ。それも大至急[#「大至急」に傍点]といってる以上、褒《ほ》めてもらえるような話が、待ち受けていそうにはない。
とるものもとりあえず三人は――
何か悪いことしたかなあ、歴史部全員《そろって》ということは、昨日の文化祭の展示物《だしもの》かなあ、冷|静に《よくよく》考てみると苦情《クレーム》がきそうな箇所は……山ほどありそうだし、などと、小心者の土門くんが主に心配しながら、
――大運動場《グラウンド》の真ん中を突っ切り、旧校舎の二階にある旧・歴史準備室まで急ぎ足で出向くと、その扉の前の廊下で、歴史部の顧問の岩住《いわすみ》先生と、もうひとり、校長先生が立って待っていた。
――三人の顔に緊張が走る。
「いやー……ごめんなさいね」
その、白髪混じりの初老の校長先生がいう。
「緊急放送だなんていってたから、驚いちゃったでしょう。でも歴史部員《きみたち》がどうのという話では、ないですからね。今、この歴史準備室の中に、お客様がふたり見えられてるんですよ。そのおふたりから、幾つかの質問を受けると思うので、それに答えてくれるだけで、いいですからね」
優しい声ではいったが、その校長先生の顔は青ざめぎみで、尋常な話でないことが三人にも解る。
マサトは、神の力を解き放つことにした。
「じゃ、中に――」
岩住先生が扉を開け、みずから先導して、三人を歴史部室に招き入れた。
すると、部屋の中央に置かれてある大きな円卓で、茶色の背広を着た、どこか鄙《ひな》びた感じのする小柄な男性が、ひとりだけ椅子に座っていて、
「やあ、きみたち、昨日《さくじつ》はどうも」
――手を振りながらいった。
「ありゃりゃ……」
「あら、昨日《きのう》の、最後の……」
その好々爺《こうこうや》としたI氏の笑顔を目《ま》の当《あ》たりにして、土門くんとまな美の緊張は、一瞬にして解けた。
「昨日はいいませんでしたけど、わたしの名前は、岩船《いわふね》というんですよ」
――立ち上がって、和《にこ》やかに自己紹介をする。
「あれえ、顧問の岩住先生でしょ。岩船さん。そして、巌《いわお》ちゃーん」
自分を指さして、土門くんはいう。
「なんだか、ごつごつしてるわね」
まな美までもが小声でいう。
「あ、それにやな……天[#「天」に傍点]目やろ、麻生さんやろ」
土門くんは指さしながら、
「そして、校長先生の東《あずま》先生でしょう」
こちらは指ささずに、
「すなわち、あ[#「あ」に傍点]とい[#「い」に傍点]の世界やんかあ」
それは発見であるかのように、嬉しそうにいう。
「うん? 土門くんは、ドレミファのド[#「ド」に傍点]じゃない」
「そ、そんなあ、極端に仲間外れにせんかったってええやんか」
「コ、コホン――」
岩住先生が咳払《せきばら》いをし、ふたりの暴走を止める[#「止める」に傍点]。
「やーいいこといいこと、元気が何よりですよう」
岩船が、旧知の友たちを庇《かば》うようにいった。
「うん、お客様はふたりじゃなかったんですか?」
まな美が……気づいていった。
「あ、もうひとりいるんだけどさ、今は隣の部屋を覗いてるのよ。おーい、林田《はやしだ》くーん、皆さんおそろいだぞう――」
山の中で叫んでいるかのように、岩船は呼ぶ。
隣の部屋とは、つまり歴史部の展示会場であった旧・歴史教室だが、授業には使われないので、撤収は後日でよく、ほぼ[#「ほぼ」に傍点]文化祭のまま[#「まま」に傍点]である。もちろん、鍵はかけてあったから、顧問の岩住先生が開けたのだろう。その林田なる人物は、その歴史部の展示会場を趣味[#「趣味」に傍点]で覗き見ているのだろうか?
そんなことを考えていると、土門くんは、そしてまな美も、又候《またぞろ》、不安の虫が這《は》い出してきた。
「――はーい。今行きまーす」
高音《アルト》ぎみながら穏和《マイルド》な声で返事があり、暫くすると内扉から、青緑色《モスグリーン》の化繊のジャンパーを羽織って胸にネクタイをした、どこか若作りの男性が満面の笑顔《スマイル》でもって部屋に入って来た。
その彼を見て、|これなら勝てそう《とっちゃんぼうやだなあ》……とでも思ったのか、土門くんは意識して、その頭《ず》抜けた長身をさらに背伸ばせる。
やさしそうなおにいさんね。まな美の第一印象はそれである。
が……マサトだけは……。
「ご挨拶が遅れてしまって、すいません。立ち話もなんですから、この大円卓《テーブル》についてください。皆さんが普段座ってるところで、けっこうですよ――」
その若輩《じゃくはい》の彼[#「彼」に傍点]が、場を仕切っていう。
――促された三人は、土門くんを真ん中にして、右側にマサト、そして左側にまな美が、いつもどおりの場所に着座した。その土門くんが座った椅子だけが、ひと廻り大きな肘かけ椅子だが、曾《かつ》て、この準備室を私室としていた歴史の先生が使っていたもので、それが土門《ガリバー》くん専用の椅子となっている。
「じゃ、僕たちはここにしましょうか」
と、その彼は、まな美のひとつ飛んで隣の椅子に、さらにその左隣に、岩船が座った。
「えー、あらためて自己紹介をしますが、僕の名前は、林田で、埼玉県南警察署の捜査員なんですよ」
――刑事とはいわない。
「その南署に、少年課という部署がありましてね、僕はそこの者なんです」
――岩船は、隣でふんふんと頷いているだけで、自分の役職などは|申告しない《いいださない》。
「ま、単純にいうと警察なんですけど、皆さんが悪さをしたとか、何かの事件に関係してる、といったことでは、断じて[#「断じて」に傍点]ありませんからね」
さっき校長先生が廊下で三人にいったのと、同種のことを力強く[#「力強く」に傍点]林田はいってから、
「なので、安心していただいて、けっこうです」
――優しい声になっていった。
警察、といった単語が出た瞬間、まな美と土門くんは顔を見合わせたが、安心、その言葉を聞いて、とりあえずのところは……安心した[#「安心した」に傍点]。
「それでは、先生方には――」
林田は、扉近くに立っていたふたりの先生に、目配せをしていう。
「あ……私たちは、これでお暇《いとま》しますので。あとは皆さん方で、自由に歓談をなさって下さい」
いうと、校長先生は扉から出て行く。
後に続いた岩住先生が、その扉前で立ち止まって、
「そうそう、もし時間が長引くようなことがあっても、授業のことは気にしなくていいですからね。どうせ次は社会の選択授業で、三人とも日本史をとってるんだから……ね」
確かに支障はない。歴史部員の方が、その日本史の先生よりも造詣[#「造詣」に傍点]は深い[#「深い」に傍点]からだ。ちなみに、岩住は化学の担当で、一年ほど前から歴史部の顧問をしている。専門外[#「外」に傍点]だから、|専門家とは衝突しないのだ《まなみからはイジめられることはない》。
「それに、すぐにお茶をお持ちしますのでね」
そういい残すと、岩住先生も部屋から出ていった。
林田が、廊下の足音に聞き耳を立てるような仕草をしてから、
「……いやね、先生方に一緒におられると、内緒話ひとつできないでしょう。だからさ、出てってくれるようにと、最初から頼んでおいたのね」
――自分は生徒《みなさん》たちの味方ですよ、といわんばかりの口調でいった。
職員室などではなく、歴史部員が寛《くつろ》げる歴史部室で事情《はなし》を聴こうといい出したのも、もちろん林田である。そして三人を自由に席につかせて、穏便《マイルド》に接する。微《び》に入り細《さい》に入りと、彼には作戦《マニュアル》があるのだ。
そしていうまでもなく、少年課の林田刑事[#「刑事」に傍点]がわざわざ出向いて来ているのだから、この学校の中で事件が起こっている可能性があるのだ。
が、その事情聴取になぜ[#「なぜ」に傍点]鑑識課の岩船係長が同席しているのか? それも役職を申告せずに[#「申告せずに」に傍点]。
その経緯《わけ》は、今から溯《さかのぼ》ること三時間ほど前――
※
埼玉県南警察署の三階の大部屋で、刑事課の依藤係長が席についていると、林田刑事が小走りにやって来た。
その顔を見るなり、
「おっ、――林田。小耳に挟んだんだけどさ、おまえ少年課では曲者《コロンボ》だといわれてるんだって? あのニコニコ顔に騙《だま》されちゃ駄目だぞうって。それにおまえ、大学の部活《サークル》、弁論部だったそうだな。どうりで話うまいわけだ。このー、大嘘つきやろう!」
――依藤はがなり立て[#「がなり立て」に傍点]る。
「僕、いつ嘘つきましたあ?」
「弁論部だなんて、そんな刑事がいること自体、大嘘つきなんだよ!」
「そ、そんなことはどっちでもいいです。さっき見たんですが、南署《うち》の玄関の外に、テレビ局らしいのが徘徊《うろうろ》してましたけど」
心配そうな顔で、林田はいう。
「いや、違う違う。あれは僧侶殺しの方――」
冷静な声になって依藤は否定する。
――金城玲子殺人事件《くびなしのはっこつしたい》の方は、極めて幸いなことに、報道各社《マスコミ》にはまだ漏れていないのだ。テレビはもちろんのこと新聞や週刊誌などにも一行たりとも載ってはいない。不審死体等は、身元が確認されたその時点で(DNA鑑定の結果は出ている)、発表しろと上[#「上」に傍点]からいってくるのが通常だが、この件ではその指示もなく、刑事課《よりふじ》は黙《だんま》りを決め込んでいる。
「けどさ、おまえ朝のこんな時間に、どうして署内《ここ》にいるの? 金城さんの方の捜査員《リスト》に、俺がおまえの名前を加えといたんだから、生駒《いこま》と一緒に、どっか行ってるはずだろう?」
――林田は、あの少年課の尋問室《マリアしつ》での長時間におよぶ話し合いの後、傍《はた》から見ても可哀相なぐらいに、激しく落ち込んでしまい、それを気遣って依藤が、剽軽者《ひょうきんもの》の生駒をあてがったのだ。そして開口一番《かおをみるなり》の大嘘つき呼ばわりも、そんな林田を元気づけようとしての親心[#「親心」に傍点]である。
「いや、僕は朝の六時に呼び出しを喰《くら》いまして、電話は少年課の課長《はやかわ》からでしたが、命令の出どころは署長らしいんですよ」
あ……それは勝てない、と依藤は思いながら、
「で、何があったの?」
「それがまだ、よくは分からないんですが、さっきまで電話で、数は少ないんですけども関係者から事情を聴いてたんですよ。けど、話を聞けば聞くほど、先の金城玲子さんの事案《ケース》と酷似《こくじ》しているような気がしてきまして、それで刑事課《ここ》に来たんですよ」
「あーん、何だってえ、また失踪者が出たとでもいうの?」
「実はそうなんです。それもまたしても、私立M高校の、三年生の女子なんですよ」
……四年前の金城玲子も、同じM高校の、同じく三年生であったが。
「順を追って説明しますと、昨日の夜の十二時少し前に、もうほとんど今日ですが、またもや、所沢署に家出人捜索願が出たんです。その女子の家が、つまり所沢なんですね。そして所番地から察するに、金城さんのお家にも、歩いて行けそうな場所なんですよ。そして同様に、資産家《おかねもち》でして、父親はアパレル関係の大企業の社長さんなんですね」
「けどさ……あのM高校には、そういった深窓《しんそう》の令嬢がいっぱい通ってるんだから、その程度の類似じゃ、関連する事件とはいえないだろう」
「いえいえ、昨日の夕方ですが、五時を少しすぎたあたりで、ドッカーン……て一発だけ、雷が落ちたのを覚えてます?」
「ああ、そういわれてみればあったなあ……」
「その迅雷の、少し前までは、その女子がどこで何をやっていたかは、確認されているんですよ。ところが、その迅雷の後となると、今のところさっぱり[#「さっぱり」に傍点]なんですね」
「ちょっと待てよ。どんなに大きな雷が落ちようとも、それで人が消えるわけじゃないだろう」
「いえ、僕がいいたいのは……金城玲子さんのときもそうでしたが、あーいった雷の場合、皆さん右往左往して逃げまくるわけでしょう。それに昨日《きのう》は、文化祭の当日ですから、出店が並んでいる桜並木の小径《こみち》には、大勢の人がいたはずで、その人たちがどれほど慌てふためいたかは、想像できますよね。その騒ぎの際にでも、あるいは騒ぎに乗じて[#「乗じて」に傍点]、何かの不測の事態があったんではなかろうかと」
「ふむ……それは考えられるな」
相変わらず鋭い[#「鋭い」に傍点]、と依藤は感心しながら、
「じゃあ、その女子は、その雷が落ちた時間帯には、建物の外にいた可能性があるの?」
「ええ、前にも説明しましたが、五時を境目にして、新校舎の大講堂の側へと、人がざーと流れて行くんですよ。それはお客さんだけじゃなく、生徒たちもなんですね。迅雷があったのは、その移動の、おそらく大混雑《ピーク》のところなんですよ」
「すると、その件は、逆に、人が多すぎて分からないってことか」
「今のところ、そうもいえます。ちなみに、昨日の文化祭の来賓総数は、四千人を超えてまして、そして生徒さんが七百五十人、さらに先生方を入れると、ざっと五千人の世界なんですよ」
――依藤は、黙したままで応じない[#「応じない」に傍点]。
「それでですね、|M高《あそこ》の文化祭は、けっこう夜遅くまでやってまして、昨日は、大講堂での最後《とり》のバンド演奏が、アンコールで延び延びになったらしく、終わったのは九時十分だったそうです」
――まな美がいっていた、『月面音楽隊』のことだが。
「だから、それが終了した後、ようやく事態が見えてきたわけですよ。そして、その女子だけが、戻るはずの部室に戻って来ません。他の部員たちは先に帰り、顧問の先生ひとりが、部室で待っていました。その女子は、もちろん携帯《ケータイ》を持ってますから、呼び続けていたらしいんですが、ずーと、不通[#「不通」に傍点]の状態です。そして十時ごろから、自宅《いえ》の方と連絡を取り始め、そして十一時に、その女子の個人ロッカーを、先生が開けています」
「鍵はかかってたの?」
「ええ、かかってました。そして学校の親鍵《マスターキー》で開けてみますと、女子の荷物は、大半が置かれたままだったんですが、なくなっていたものもありまして、それが確実に分かるのは、定期の入った財布、携帯、そして小型鏡《コンパクト》などの化粧道具の一部、それと、小さな布製の手提《てさ》げ鞄《かばん》……というよりも袋に近いですが、若い娘たちが大好きなレスポールという製品《ブランド》の、プラスチックの鱗《うろこ》がいっぱいついている、ハート模様のそれ[#「それ」に傍点]です。その手提げを持って出たようです」
「それは……どう考えればいいんだ。その女子は、学校から外に出たの? だけど文化祭だから、学校の中でも、出店でお金は使うよな……」
「そのとおりでして、どちらもあり[#「あり」に傍点]なんです……が、正門の外に、塀に沿って広々とした道がありましたでしょう。そこが文化祭の当日は、駐車場と化してまして、車やバイクに乗った若い男が、多数たむろしてるんです。これはナンパではなく、女子を迎えに来ている、彼氏なんですね」
「そんなの、学校の中[#「中」に傍点]で遊べば?」
「いや、文化祭のような特別な日に、抜け出して外[#「外」に傍点]で逢い引きをするという状況設定《シチュエーション》が、彼らには面白いわけですよ。少し後ろめたいから、魅惑的《スリリング》なんですね。会おうと思えば、何時《いつ》だって会えるわけですから。……その誘い出しが始まるのが、これも、ちょうど五時なんです。というのも、五時をすぎると、帰りたい生徒は帰っていいという学校の決め[#「決め」に傍点]なので、外に出るのも自由なわけです。なので、晩飯などを彼氏と……といった話になるんですね」
「なるほど[#「なるほど」に傍点]」
依藤は、林田の|あれやこれやの話《じょしこうせいのせいたいぶんせき》に感心してから、
「じゃあ、外に出た可能性があるわけだな?」
「ええ、それは十分にあると思います。学校側がいうには、そういった女子は十人ぐらいでしょうか、なんていうのは大嘘でして、……これは|M高《あそこ》だけじゃなく、最近の高校生の女子は、大半が学校の外で、彼氏を作りますので、どうしてもそうなっちゃうんですね。もっとも、その失踪した女子の交友関係は、今のところ不明です。それに、お家の方と、それと所沢署から話を聞いた感触では、家出の兆候も、これといってはないみたいです」
「ふうん……」
依藤は、腕組みをして暫《しば》し唸ってから、
「でさ、その捜索願を受理した所沢署の方は、今はどんな捜査やってるの?」
尋ねると、林田は顔を寄せてきて、
「……所沢署はですね、営利誘拐の可能性もあると見て、その布陣をしいてるらしいんですよ」
「あらららららら……」
依藤は頭を抱えながら、それは方向性が少し違うんじゃないかあ、などと考えていて、根本的なことに気づいた。
「……待てよう。所沢署は、金城さんの事件の詳細については、知らないわけだ」
「そのようです。だから類似点などにも、所沢署《あちらさん》は気づいてないんです。でその話は……しない方がいいんだろうと思って、僕は喋らなかったんですが」
「正解だ[#「正解だ」に傍点]――」
間髪《かんぱつ》を入れずに依藤はいい、
「話が縺《もつ》れて、合同捜査とかになったら、収拾つかないからな」
それより何より、依藤《じぶん》の命令が通らなくなる。
「ですけど……変な構図ですが、南署《こちら》が、半歩ぐらいは先んじているような、感じはしますよね」
「それは有り難くない半歩だぞう。まずはん[#「ん」に傍点]千人の事情聴取だろう。それに話も見えたぞう。所沢署は布陣《それ》で手一杯だから、学校にはとりあえず行ってくれーと南署《うち》の署長に泣き、そのM高に詳しいのは林田だからと白羽《しらは》の矢が刺さり、その矢を自分の手には負えないと見て三階《ここ》に持って来たんだろう……けど、ごらんあそばせ」
依藤が、両手を広げて示した三階の大部屋には、防犯課と捜査課の課長が、それぞれ窓際の席に、あとは婦人警官がちらほら[#「ちらほら」に傍点]といるだけだ。
「殺人事件をふたつ抱えてると、こうなるのね」
「えー、依藤係長がおられますが」
おずおずと林田はいう。
「んーな無茶な。いきなり刑事課[#「刑事課」に傍点]が行けるわけないだろう。それも学校に[#「学校に」に傍点]。俺は俺で行くところが決まってて、すぐに出てしまうんだから。それに先方に予約まで入れてることだし……」
それは嘘で、竜介の講義の時間を分かっていて、その直後を狙って私室を襲う予定なのだから。
「……だったら、林田《きみ》んところの課長か係長を連れて行くという手は?」
「いや、あのふたりは、金城玲子さんの件で腹を括《くく》ってまして、今更《いまさら》どの面《つら》を下げて|M高《がっこう》に行けるんだと、梃子《てこ》でも動きそうにありません。そんなことはさておき、まだ重要な話がひとつあるんですよ。その失踪した女子ですけど、文化祭では、かなり目立つ格好をしていまして……」
「どういった?」
「その女子はですね、……巫女《みこ》さんをやってたんですよ。あの神社にいる巫女ですね」
依藤が――固まってしまった。
またしても林田の話術にまんまと嵌《は》められたのは依藤としても重々分かるのだが、その衝撃的《ショッキング》な話のもっていきようは、もっともで[#「もっともで」に傍点]、
「くっそー、そもそも巫女さんが、文化祭にいること自体、俺には信じられないけど、それが消えたというのは、いったいどういうことだ――」
誰に怒れるわけでもなく、憮然《ぶぜん》とした表情で依藤はいう。
「それを今から速攻で調べに行かなきゃならないんですが、もう本当に[#「本当に」に傍点]、僕には手に余りますので、ですから、誰かを[#「誰かを」に傍点]――」
林田としても、必死に食らいついてきていう。
依藤は、ある人物を閃《ひらめ》いてから、
「そうだそうだ、あの辞められた瀬戸さんみたいな、ふんふん[#「ふんふん」に傍点]て話を聞いてくれそうな、爺《じ》っさん風体《タイプ》がいいんだろう。ぴったしなのがいるぞう」
「え? どなたですか?」
その問いには答えず、依藤はいう。
「その親っさんさ、朝ここにやって来て、やー感動した感動した感動したって百連発でいうわけさ。どうしたの、て聞くと、なんと昨日、そのM高の文化祭に話を聞きに、お忍びで行ってたんだって」
「え? それは何時ごろの話なんです?」
「たぶん……夕方じゃないかなあ」
依藤も、閃きとは別に、偶然にしてはよくできているなと思い始めた。
「じゃ、何か見てる可能もありますよね。その、話を聞きに行ったとは、どこにですか?」
「その親っさんは、お寺とかが趣味だそうで、歴史部に行ったそうだよ」
「ええ? 今から、主に、その歴史部に話を聴きに行こうと思ってるんですけど……」
「え? その歴史部が事件に絡んでるの?」
「いや、それも全然分からないんですが、その女子が、多数の人の前で目撃された最後が、その歴史部の展示会場なんですよ。それも、その会場で、その巫女さんとして、ひと暴《あば》れしたらしく」
「何ー? 巫女さんが[#「巫女さんが」に傍点]、ひと暴れ[#「ひと暴れ」に傍点]――」
「いや、僕も人から聞いた話をそのまま復唱《コピー》してるだけで、何のことやらさっぱりなんですけど」
――怒るべきか、笑っていいのか、泣くのか、依藤としても、どう感情表現をしていいのか分からない。
「ですが、それはいったい、どなたなんですか?」
「それは林田《きみ》も、よーくご存じのお偉い方だ。その人はだな……岩船|佑久《たすく》さん。あの鑑識課にいる係長のね。助けてくれそうな名前だろう」
「そ、そんな無茶なあ」
「どこが無茶なもんか。刑事《さつじん》課が行くぐらいなら、鑑識課《よろずや》の方がよっぽどマシだ。それに歴史部とはすでに友達になってんだから、これほど話を聴きやすい、対人関係《シチュエーション》はないだろう。それに林田、歴史部と話をするなんて、百年は早いぞ」
「な……なんのことですか?」
「|M高《あそこ》の歴史部員がどれほど優秀で、高難度の話をするか、俺も薄々は知ってたけど……」
今年の夏に依藤がM高校を訪れたとき、歴史部には満点娘《まんてんむすめ》の異名をもつ女子がいて、パーリ語や梵語《ぼんご》辞典でお経の原典を読み、そして顧問の歴史の先生をいびり出した[#「いびり出した」に傍点]という逸話《いつわ》を聞いている。しかもその女子の兄貴が竜介《あいつ》なのだから、推して知るべし。
「……岩船さんいわく、自分は中学生ぐらいで、歴史部員というのは、大学教授並だそうだ」
「えー、たかが高校生ですよう?」
「甘い甘い。今から行って体験[#「体験」に傍点]してくるといいよ」
依藤は、何か恐ろしいものにでも出会える[#「出会える」に傍点]ような口ぶりでいってから、
「――いずにせよ、岩船さんに決定[#「決定」に傍点]な。俺が説得をするし、全責任をもつ。それと、こっからは真面《マジ》な話だが、あの学校は、呪《のろ》いの事件があったり、幽霊が出たり、そして今度は巫女さんの失踪だろう。並[#「並」に傍点]の刑事が何人かかったところで埒《らち》は明きそうにない。だから全然ちがった角度から物事を観《み》れる、そういった人が行ってこそ、何かの謎[#「謎」に傍点]が解ける[#「解ける」に傍点]というもの。それに相応しい人材は、岩船さんをおいて他にはない。これが南署の、最後[#「最後」に傍点]の切り札[#「切り札」に傍点]だ――。それに話を総合すると、偶然に次ぐ偶然で、岩船さんが現場に居合わせた可能性があるし……いや、俺には、その現場[#「現場」に傍点]に岩船さんがいた[#「いた」に傍点]と思えてきた。もうそれこそ、神[#「神」に傍点]の思し召しだ[#「思し召しだ」に傍点]――」
※
――といった、瓢箪《ひょうたん》から駒《こま》のような依藤の閃きと、それに神の思《おぼ》し召《め》し、らしきのがあったのも事実で、岩船が事情聴取に同席しているのである。
「では、さっそくなんですけども、ちょっと見ていただきたいものがありまして」
いうと林田は、足元の床に置かれてあった紙袋から、白い風呂敷に包まれた何かを取り出して、それを円卓《テーブル》の上に置き、その包みを解《ほど》くと、
「えー、何かの衣装[#「衣装」に傍点]のようなんですが、僕たちにはよく分からないんで、歴史部の皆さん方なら、お詳しいんではないかと思いまして……」
それを、まな美の方に滑らせながら林田はいう。
「うん?」
まな美は、その脱ぎっ放しのままで畳まれていないそれを一瞥《いちべつ》すると、
「緋袴《ひばかま》と、白い千早《ちはや》ですよね。だから要するに、巫女さんが着る衣装ですけど……」
そして仕方なさそうに、その布質を確かめるべく指先で端っこを触ってから、
「これは、大勢さん用でもないみたいですね」
――結論が出たようにいった。
「おおぜいさんよう……といいますと?」
「その他大勢の、大勢さんです。巫女さんの中の一番下のことで、売り場におられるような人ですね。けど、その大勢さん用とも違うみたいで……たぶん、雑貨屋《ハンズ》などで売ってる、仮装行列《パーティーグッズ》の類《たぐ》いだと思います。本物の衣装は、装束《しょうぞく》店の井筒《いづつ》さんとかドンボスコ社に行けば買えるんですが、そういった店には、一般の人は入れませんから」
――まな美は、そこに入れるようにいう。
「じゃ、そうしますと、この衣装は、本物の巫女さんが使うということは、ありえないわけですね」
「ええ、そうなりますね。それに衣装だけではなく、髪も後ろに束ねて、大麻《おおぬさ》で留めなければなりませんし……大麻というのは、おが屑の長いようなものに見えますね。それに花簪《はなかんざし》もつけますし。あとは、草履《ぞうり》の鼻緒が赤だとか、あれこれと決めがあるんですよ。さらに、それが神社によっては微妙に違ってきたりもしますから」
「あ、そういうものなんですか」
林田は愛想よく頷きながら、噂に違《たが》わずよく知ってるなと感心しながらも、それは|関心事ではなく《にのつぎさんのつぎで》、
「そして、もうひとつあるんですが、こちらも見てください」
やはり紙袋から、それを林田が取り出すと、
「あ! がう――」
見えた瞬間に、土門くんが咬《か》みつくようにいった。
それを、先の衣装の上に林田は置きながら、
「えーそもそも、これは何と呼んでいいのかすら、僕には分からないんですが?」
――主に、まな美に聞いてくる。
「それは、鈴《すず》です。神楽《かぐら》鈴ともいいますけど、単純に鈴と呼ぶのが普通ですね……ですが、見るからに手作りのようですから、どこかの神社が使っている、正式な鈴ではないと思います」
まな美も、それがいつどこで使われた道具かは当然気づいたが、問いかけには真摯《しんし》に答える。
「……鈴といいますと、あのリンリンと鳴る鈴なわけですか?」
「ええ、その鈴です。つまり、先のあたりに鈴がついているのが、普通なんです。でも神社によって形は様々で、鈴がついてないのも、あるのかも知れません。神社に参拝すると、払い清めのために、巫女さんが振ってくれますよね。あれは、鈴振りといいます。その印象《イメージ》が、わたしたちには強いですから、そういった道具だと思われがちですが、もともとは神楽を舞《ま》って、神霊を慰めるためのものなんです。その鈴の音色で、神さまと交流するわけですね」
まな美は、丁寧《おごそか》にそう説明してから、
「けれど[#「けれど」に傍点]」
――態度を一変させていう。
「ここにあるのは、ただシャカシャカと振って、暴《あば》れまくるためのものでしょう。それで鈴をつけたら煩《うるさ》くて仕方ないから、つけてないんだと思います。それに、このたっくさんついてる垂《しで》の部分も、これは紙ですけど、これで鈴振りをすると切れてしまうでしょう。だから普通は布……絹が多いです」
「そうやそうや、隣にもたっくさん落っとって、後で拾い集めて、祟《たた》りがあらへんことを確認の上(まな美に)、燃やしてやりました[#「燃やしてやりました」に傍点]――」
憎たらしそうに、土門くんもいった。
が実際は、土門くんは|ライターは携帯していない《たばこはすわない》ので、丸めてゴミ箱に投げ捨てたぐらいだが。
「あららら……そうでしたか……」
林田も、ニコニコと笑いながら手で頭を掻《か》いた。
が、曲者刑事《コロンボはやしだ》は、そんな名称や神事に興味があったわけではなく、衣装や道具を見せると歴史部員《かれら》がどう反応するか、その様子を観《み》ていたのである。
「……もうお気づきのことかと思いますが、昨日の文化祭で、この巫女さんの衣装を着ていた、三年生の女子……皆さんは、その彼女とはお親しいんですか?」
林田は、何事《なーん》も起こってはいないような素振りで、そのニコニコ顔のままで尋ねる。
「えー、太田《おおた》さん……やったよなあ」
土門くんは、まな美に確認していう。
「うん、たしか、太田さん……」
まな美も、名前ぐらいは知っているようだ。
「そうしますと、皆さんは、太田さんとはお話をしたことすら、あまりなさそうですよね」
「いえ、少しなら……話したことはありますよ。太田さんは、占《うらな》い部で、手相見をやってましたから。わたしも一度だけ見てもらったことがあって、一年生のときに、だから去年ですね、その春の文化祭のときに行きました。土門くんも一緒よね」
「行った行った。それに天目も知っとうやろ――」
右隣の席で、寡黙《かもく》に座っているだけのマサトを気遣ってか、顔を向け、
「――今年の春の文化祭に、一緒に行ったもんな」
ということは、土門くんだけ毎年行っているが。
「秋の文化祭は、本業《こっち》がありますからね。それに春の文化祭は学内だけやし、暇《ひま》やし、それに見料《けんりょう》もとられへんですし……」
言い訳がましくいってから、
「そうやから、太田さんと話をしたいうんは、そのときぐらいですかねえ……うちら全員」
代表して、土門くんが結論をいう。
「じゃ、そのときに見てもらって、いかがでした。太田さんの手相見って、よく当たるんですか?」
話の流れで林田は尋ねた。
すると、土門くんがキョロキョロと左右のふたりを見るだけで、そして、誰も答えようとはしない。
「あ……ま、そうですよね。当たっていようがいまいが、そんな個人的《プライベート》なことは話せませんものね」
その、|無駄だと思った《じつはそこにヒントがあった》質問をみずから引っ込め、林田は本題に入る。
「えー昨日のことですが、その巫女さんの格好をした太田さんが、歴史部の展示会場にやって来ましたよね。そのときの経緯を、最初から順に説明していただけませんでしょうか? ご面倒ですけど……」
円卓《テーブル》から身を乗り出させぎみにして、いった。
「頭からですか」
――やはり、代表して土門くんが答える。
「えー気づいたら、扉のとこに立ってて、シャカシャカやってて、そのままずーいと中に入って来て、ほいで自分の前まで来て、あまのめさまはおらりょうか……といったんですね。京言葉で、雅《みやび》に」
「え? あまのめ、さま[#「さま」に傍点]?」
「あ、ここにおんのが、その天目さまね」
土門くんは、左手で右隣《マサト》を指さしながら、
「そやけど、天目に聞いても何も分からへんですよ。その本人は、昨日は学校来てへんのですから……」
「それは、お伺いしています。それに、皆さん方のお名前も、存じておりますから」
「……そやから、自分が思たんはですね、この天目いうんはですね、どないなってるんか、女子にす[#「す」に傍点]っごくもてるんですよう、どうしたことかー」
土門くんは、指さし続けながらいう。
「それに一年の女子には、天目の追っかけがいるみたいで、こないだも廊下で、きゃ[#「きゃ」に傍点]ーてやられてたぐらいですからね、そやから、その類いやろうなと自分は思たんですよ。それで天目がおらへんもんやから、巫女の太田先輩は機嫌が悪うなって、きゅーに暴れ出して、怒ってはるんやろなー思うてたら、さらに裏[#「裏」に傍点]があってえ、――くっっっそう[#「くっっっそう」に傍点]」
宙を掻《か》き毟《むし》りながら、土門くんはいう。
「あ、そのあたりは……」
林田も、その土門くんの熱演に笑いながら、
「ここにいる岩船からも、聞いてますので……で、そのときにですね、太田さんが客を攫《さら》っていったわけですけど、その太田さんについていったお客さんのことは、何か、覚えておられませんでしょうか? どんな些細なことでも、いいんですけど?」
その意外[#「意外」に傍点]な質問[#「質問」に傍点]に、土門くんとまな美は顔を見合わせてから、
「ふむふむふむ……生徒が混ざってへんかったのは確かですけど、あの巫女さんが来はったんは、説明を始めてから、せいぜい五分ぐらいやったですからねえ。最後まで付き合うてくれたお客さんやったら、まだちょっとは覚えとおんやけどなあ……」
腕組みをして、土門くんはいう。
「それに、朝からずーと同じことやってましたでしょう。だからあのときに限ってといわれても……」
満点娘《まなみ》であっても、それは難しいようである。
もちろん岩船も、一連の事情が分かってきて以降、思い出そうと努力はしているのだが、客については大雑把《おおざっぱ》な人数以外は浮かんではこない。
が……マサトには……。
「あ、そうやそうや、あいどる[#「あいどる」に傍点]研のふたりやったら、なんか覚えとうかもしれませんよ」
土門くんがいった。
「アイドル研の……ふたりですね」
「そんな名前いうても、分からへんやろう思いますけど、巫女さんの後ろについてきた、茄子《なすび》色の学らんを着とったんが、あいどる研の部員ですね。あれはたぶん、一年生かな」
――岩船も、その話に頷いている。
ところを見ると、その学らんふたりの事情聴取は既に終えているのだ。
土門くんは、そんなことに気づくはずもなく、
「|M高《ここ》のあいどる研いうんは、いわゆる追っかけとは違《ちご》うて、学内の私的[#「私的」に傍点]応援団なんですよ。真っ当な応援団との違いは、自分らが気にいらへんと、いっさい応援せーへんことです。そやから体育系の試合とかあって、来てくれなくても、文句ゆえへんのですね。それはあいどる[#「あいどる」に傍点]とは認められてへんのやから、そやからま……ねーみんぐ[#「ねーみんぐ」に傍点]の勝利」
――お得意の関西喜劇《ウィット》で説明する。
同様に、まな美も気づいていないようで、
「それにアイドル研は、文化祭ではやることがないから、もっぱら宣伝を引き受けてるんですよ。それで事前に、何時に来て何をやればいいですか、て御用聞きに来るんですね。歴史部[#「歴史部」に傍点]にも来た[#「来た」に傍点]んですよ」
――控えめだが、自分はアイドルとして認められているようにいう。
「いろんな部活があって、楽しそうですよね」
それは林田の本心だが、とりあえず適当に纏《まと》めた。
扉を軽打《ノック》する音があり、岩住先生がお茶を運んで来て、きみたち冗談ばかりいってないだろうな、と釘を刺して部屋から出て行った。
――その|学らん《アイドルけん》ふたり。
そしてもちろんのこと、真っ先に事情を聴いた占い部の他の部員たち三名。
からの話を総合すると、学らんの背中にあった宣伝『ただ今から「半額!」』に釣られた客は五、六、七人。ただし、学らんふたりは前を見据えて廊下を歩いていたようで、占い部の展示会場の入口まで来て、
「自分たちは、ここで失礼します」
といって背中の紙を剥《は》がしたさいにチラッと見た程度らしく、岩船同様、大雑把な人数以外は何も覚えていない。
その後、学らんふたりは体育館群に走って行き、演劇部の時代劇『旗本退屈男』のにぎやかし[#「にぎやかし」に傍点]をやってから、四時四十五分にはアイドル研の他の部員たちと合流し、大講堂の最前列《かぶりつき》に|陣取っ《スタンバイし》て『イブニング狼』の出を待っていたという。
だが、まな美もいっていたように、アイドル研は事前に御用聞きに伺い、そして分|刻《きざ》みの行動予定《アイドルおっかけ》表を作っていたから、幸いなことに、時間だけは判っているのだ。――巫女さんからの依頼は、午後の四時|〇分《ジャスト》であった。
学ランふたりは、ほぼ時間どおりに行ったとのことで、そして歴史部の展示会場に赴《おもむ》き……戻って来たのは、四時五分ぐらいであったろうと想像される。
占い部の会場は、旧校舎二階の生物部《あっち》側の廊下で、旧・生物教室のひとつ飛んで隣にある旧・物理準備室を使って会場《それ》としていた。物理部は遠《とお》の昔に廃部だから空き[#「空き」に傍点]であり、それに準備室の方だから出入口はひとつしかない。
そこの扉は(教室の観音扉《かんのんとびら》とは異なり)木の一枚扉で、内側に開け放たれてあったが、入口には暗幕がかけられ、くぐって中に入ると、占い部の会場はほぼ暗闇であった。窓もすべて暗幕で潰していて、紫外線灯《ブラックライト》が、それに反応して光る様々な小道具類《オブジェ》を、怪しげに照らし出していたのみである。
会場《なか》には、縦一列に四つの個室《ブース》が、それぞれ雰囲気を凝《こ》らして作られてあり、入口の側から、竜飾りの風水《ふうすい》占い、星座をちりばめた西洋占星術、ハートと天秤《てんびん》のタロット占い、そして一番奥が鳥居《とりい》を模《かたど》った巫女さんの手相見であった。
受付などはなく、客は、その個室の前にそれぞれ置かれていた長椅子(曾《かつ》て教室で使っていた椅子を横一列に何個か並べたもの)に座って順番を待つ。昼ごろは、その待ち客が廊下にまで溢《あふ》れ出していたようだが、四時ともなってくると閑散《かんさん》で、入口脇の風水占いの個室には入客がなく、空きを示すため、扉代わりの暗幕《カーテン》を半分ほどたくし上げていた。
すると、巫女さんに先導されて客がぞろぞろ入って来るのが、風水占いの一年生の女子には見えたという。もちろん、その客たちの風体《ふうてい》などはいっさい分からない。が、そのときの客のひとりが、その彼女の個室に流れたというのだ。それは二十代の男性で、顔は何とか覚えているが……いや、その客のことはこの際どうでもいいのだ。問題は、巫女さんの個室に行った客である。
五、六、七人から引くところの一だから、四、五、六人だが、さらに別の占いの長椅子[#「長椅子」に傍点]に流れた客もいたかもしれず、確かな人数は分からない。が――
占い部員たちの話によると、客ひとりにかける時間は、短くても十分、場合によっては二十分ぐらい話し込むこともあったという。
――察するに、このときの客たちが、巫女さんについた最後の客の可能性が高いのだ。
それと、時間は四時半ごろと不確かなのだが、タロット占いの二年生の女子が、隣の手相見室から、うわあ[#「うわあ」に傍点]……といった、やや大きめの女性の声が漏《も》れてきたことを覚えていて、それは、巫女さんの驚きの声ではなかったかという。
その数分後、そのタロット占いの彼女はトイレ休憩のために個室から出て……戻ったのだが、その際、手相見の長椅子には客がふたり座っていたことを覚えていた。性別は、おそらく男性、それ以上のことは分からない。が、そのふたりの男性客も、歴史部から攫っていった客の可能性大[#「大」に傍点]である。
そして、五時の鐘の音が鳴り、そろそろ店仕舞いかと、部員たちが個室から出てくると、巫女さんの個室には『休憩中』の札が下がっていて、中を覗《のぞ》いて見ると、例の鈴や、そして虫メガネなどの道具類が机に上に置かれたままになっていたという。
そうこうしていたら、迅雷《ドッカーン》があったわけである。直後に激しい雨が降り出し、
「太田先輩、外に買い物にでも出て、戻れなくなってるのかしら……」
といった話になり、部員のひとりが携帯で呼んでみたが、呼び出し音はするが、着信はしてくれない。
「あの巫女さんの格好で、携帯もってるの?」
「さあ……」
といった話にもなり(学内では携帯電話の携帯は禁止[#「禁止」に傍点]だが、文化祭当日はそのへんはあやふや[#「あやふや」に傍点]だ)、そして部員たちは、会場の入口に閉店の看板を出し、一階にある部室に行って、普段服に着替え、
「太田先輩も、どうせ大講堂に行くはずよね」
といった安易な話に帰着し、彼女を待たずに、傘を差して、旧校舎から出たとのことであった。
林田刑事は、隣室に聞こえたという、巫女さんの驚きの声[#「驚きの声」に傍点]のことが気にはなっていた。というより、それぐらいしかヒントらしき異常《ヒント》はない。が、その時点で何かの事件《トラブル》が起こっていたなら、さらに声や物音などがあって然《しか》るべき……とも思えるし。
そして、巫女さんが部室に行ったのは他の三名よりもひと足先……とは考えられるところだが、そのあたりの目撃例も今のところ不明だ。
その巫女さんの姿は、一見目立ちそうだが、林田は四年前に来た文化祭のことを思い出してみるに、旧校舎の各会場も、そして出店の売り子たちも、皆相応に奇抜で……江戸の町娘やオランダの花売り娘、アラジンの臍《へそ》出し娘、各種ぬいぐるみ、それにアニメのコスプレも当然いたし、さらには演劇部が芝居の衣装のままで|学校中を《せんでんのため》のし歩いていたから、さながらヴェニスの仮装舞踏会でもあった。巫女さん程度なら、逆に地味[#「地味」に傍点]かもしれない。
それに、占い部の会場から中央階段までは距離は僅かで、その階段を降りると、すぐに女子限定の廊下に入ってしまう。そこは文化祭では使われておらず、占い部の部室は、その一番隅っこ(女子のシャワー室とは反対側)にあるが、他は体育系の部室《それ》で、そこの部員たちは出店の方にいただろうから、またしても無人地帯《がらんどう》なのだ。
そして、巫女さんは、その占い部の部室で着替えをしたはずだが……その際、何か急《せ》いていたのかもしれず、脱いだ巫女の衣装は、さっき歴史部員に見せたとおりで、畳《たた》まれず、ジッパーが開いたままの大型袋《スポーツバッグ》から、はみ出した状態で置かれてあった。
なお、その太田さんは、担任と顧問の先生や、そして占い部員たちの評によると、真面目《まじめ》で几帳面《きちょうめん》でしっかりした女性であり(あの巫女さんの大暴れば、その評からは信じ難いが)、|級友たち《クラスメイト》からの信頼も厚く、成績も常に三十位以内《トップクラス》とのことだ。
そして林田が着目したのは、その彼女のロッカーに、朝家から持って出た薄手のロングコートが残っていたことだ。時期的にいって、それを羽織るかどうかは微妙だが、もし学外に出るつもりだったら、羽織らないまでも、腕に抱えて行くぐらいは十八歳の女子ならしただろう。だから、逆に、彼氏と外で逢い引きをするといった、そんな本格的な外出ではなかった……とも考えられるのであるが。
それに、太田さんに彼氏がいるという話は、今のところ誰からも聞こえてはこない。
なお、彼女のロッカーには、安物のジャンプ傘が二本置かれてあった。これも……何ともいえない。
それと、彼女にかけた電話であるが、迅雷直後の呼び出しでは、彼女の携帯の呼出音は鳴って[#「鳴って」に傍点]いる。だが、九時すぎ以降のそれでは不通[#「不通」に傍点]であったのだ。そして現在もなお[#「なお」に傍点]であるが。つまり、彼女の携帯は、その後に電源が切られたか、もしくは圏外に行ったままなのだ。これらも、事件の側面をそれなりに物語っていそうには……思える。
そして、やはり客[#「客」に傍点]であるが、とりあえずのところ彼女の最後の目撃者でありそうだし、それに、彼女が驚きの声をあげた相手《きゃく》と、何かで意気投合をし、どこかでお茶でも……といった可能性なども考えられなくはないのだ。
が、いずれにせよ、その客たちのことは歴史部員は覚えていそうにないので、林田刑事は、
「ところでですね、手相を見ておられた太田さんは、自分は……とある神社の、有名な巫女の生まれ変わりである、そんなことを宣伝文句にしてたらしいんですが、そういった話はご存じですか?」
――歴史部《かれら》の専門知識に縋《すが》ることにした。
「おおみわ神社[#「おおみわ神社」に傍点]、といった神社のようですが?」
メモ書きを見ながら、林田は補足する。
「生まれ変わり[#「生まれ変わり」に傍点]ー?」
土門くんは、日光にいる誰かでも思い出したのか、胡散臭《うさんくさ》そうにいってから、
「あのさいこさいこやな」
「そう、さいこさいこね」
――暗号めいたことを、ふたりは囁き合う。
「その……神社のですね、巫女さんの生まれ変わりだという話なんですけど、何か、思い当たるようなこと、ございますか?」
林田は、なおも丁寧には聞いてくるが、まな美は、そんなこと本人[#「本人」に傍点]に尋ねれば……と訝《いぶか》りながら、
「太田さんって、下のお名前は何ておっしゃるんですか?」
――とりあえず、お付き合いをする。
「はい、太田さんのお名前は、多香子《たかこ》さんです。多くの、香る、子供の子ですね」
そう林田が答えると、まな美は、やおら頬杖をついてから、
「ひょっとすると……あれかしら」
遠の昔に気づいてはいるのだが、教えずに[#「教えずに」に傍点]――
「けど、去年の春に、太田さんに手相を見てもらったときには、巫女さんの格好じゃなくて、たしか服は普通で、座っておられた椅子が、千手観音《せんじゅかんのん》になってましたよ。手相見ですから」
――どうでもいい話をして、相手《はやしだ》の出方を窺《うかが》う。
「そうやそうや、今年の春の文化祭のときは、もう巫女さんやったですからね。な[#「な」に傍点]……天目[#「天目」に傍点]。そやから、そのへんで生まれ変わりはったんでしょうね」
土門くんの冗談も、それなりに辛辣《しんらつ》。
「いやあ、そうでしたかあ」
十八番《おはこ》のニコニコ顔で林田は受け流すと、
「その、さきほど、何かお気づきになったようなことが、おありだったようですけど?」
――なおも執拗《しつよう》に、まな美に聞いてくる。
林田は、それが事件と関係するかどうかは別として、依藤係長の飛ばした檄[#「檄」に傍点]からいっても、この種の|超常的な《オカルトじみた》話は要|注意《チェック》だと、考えているのだ。
「大神《おおみわ》神社の有名なそれ[#「それ」に傍点]というのは、大田田根子《おおたたねこ》のことです。太田さんと名前が似てますでしょう」
――まな美は、さわり[#「さわり」に傍点]だけを教える。
「あ、ほんとですねえ。ひと文字ちがいですものね。そのおおたたねこ[#「おおたたねこ」に傍点]という巫女さんは、その神社では、どのような仕事をなさってたんですか? 今もご健在なんですか?」
「いえ、今はいません。大神神社の大田田根子というのは、崇神《すじん》天皇の時代の人ですから」
受け答えしながらもまな美は、林田に抱いた第一印象を引っ込めて、不審感を募《つの》らせていた。
「す……すじん天皇といいますと?」
林田は、岩船の方に顔を向けて囁く。
「うん?」
岩船は――別種[#「別種」に傍点]のことに心を奪われていたらしく、何のことか分からないといった表情をする。
「崇神天皇やったら、ざっと二四〇年代ですかね」
毎度《いつも》のように、土門くんが注釈した。
「え? 二四〇年代とは……」
「もちろん、――西暦ですよう」
山彦《やまびこ》に呼びかけるように、土門くんはいう。
「……あ」
|林田は、ようやっと《そのやまびこがかえってきたあたりで》理解したらしく、
「そ、そんなに古い話だったんですか。いやあ……おおたたねこ[#「おおたたねこ」に傍点]というから、せいぜい明治[#「明治」に傍点]ぐらいの人かと思っちゃってえ……」
頭を、手で掻き掻きしながらいった。それは演技半分、照れ隠し半分だ。
まな美は、円卓《テーブル》に置かれたままの巫女の衣装を見つめながら、そもそも、それが目の前にあること自体おかしい[#「おかしい」に傍点]けど、その持ち主のことを、それも趣味的な側面を根掘り葉掘り聞くとは、どういった魂胆《こんたん》なのかしら?……測りかねていた。
「そのさ、崇神天皇が二四〇年代だなんて、そんなはっきりとした年代が出るの?」
岩船が、話に加わってきていった。
「あっ、それはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と出るんですよ。箸墓《はしはか》の関係がありますからね」
と土門くんはいったものの、それをちゃんと説明してたら長《なご》うなるぞ……と案じていると、
「大田田根子は、大物主大神《おおものぬしのおおかみ》の直系の子孫で、つまり、神の子なんです。それにいっときますけど、オオタタネコは男[#「男」に傍点]ですからね」
――ひと睨《にら》みしてから、まな美が説明を始めた。
「崇神天皇の世《よ》、疫病《えきびょう》が猛威をふるい、人民《たみ》が尽きてしまうほどに次々と死んでいき、愁《うれ》い嘆《なげ》いた崇神天皇が神床《かみどこ》に坐《ま》しし夜……お告げを得ようと特別に忌《い》み清めた寝床ですね、すると、夢に大物主大神が顕《あら》われて、こは我が御心ぞ[#「こは我が御心ぞ」に傍点]。故《ゆえ》、意富多多泥古《おほたたねこ》をもちて我が御前《みまえ》を祭らしめたまはば、神の気《け》起こらず、國《くに》安からかに平《たい》らぎなむ[#「なむ」に傍点]。といったんです。そして四方に早馬の使いを出し、河内《かわち》の陶邑《すえのむら》にいた彼を見つけだして、神主《かんぬし》とし、御諸《みもろ》山に意富美和《おほみわ》の大神の前を拜《いつ》き祭りたまうと、疫病は悉《ことごと》く息《や》み、國家《あめのした》安らかに平らぎき[#「ぎき」に傍点]。といった話なんです」
「……ほう、いやあ……」
古語と現代文を巧みに混ぜながらのまな美の流麗な説明に、林田は驚きぎみに感心してから、
「それに……男だったんですか。いかにも勘違いしそうな名前ですよね。その……神主さんですけども、何か不思議な力でも、持ってたんですか?」
なおも、しつこく聞いてくる。
カチ――
まな美の頭の中で、別種のスイッチが入った。
「――ねえねえ土門くん、さっきの話、変だと思わなかった?」
「おっ、実は変やと思うたんや。我が御心ぞ[#「我が御心ぞ」に傍点]、いう文句、どっかで聞いたことあるぞう。それにやな、その物語は、あの倭《やまと》ととひそそ……いわれへん。の話とちがうんか? 崇神天皇やし、祟《たた》り神の大物主やし、それで疫病が流行《はや》ったんやろう、物語設定《しちゅえーしょん》まったく同《おん》なじやんか?」
「その倭迹迹日百襲姫《やまとととひももそひめ》が出てくるのは『日本書紀』の方なのよ。さっきのは『古事記』なのね」
「そやったら、倭ととひもも……姫と、そのおおた某《なにがし》いうんは同一人物なんか?」
「ううん、ま[#「ま」に傍点]ったくの別人なの。倭迹迹日百襲姫は天孫《てんそん》系の孝霊《こうれい》天皇の娘さんだけど、片や、国津《くにつ》系の大物主の子孫でしょう。そして書紀の方には、こう記されてるわ。同じく疫病が猛威をふるい、崇神天皇みずからが神浅茅原《かみあさぢはら》に幸《いでま》し、八十万《やそよろず》の神を会《つど》えて卜問《うらと》うの。すると神明《かみ》が倭迹迹日百襲姫に憑依《ひょうい》して、我は、名を大物主神《おおものぬしのかみ》と為《い》う、若《も》し能《よ》く我を敬い祭らば、必ず当《まさ》に自平《たひら》ぎなむ。ところが、いわれたとおりに祭祀《いわいまつ》っても験《しるし》がないのよ。それで崇神天皇は神床《かみどこ》に坐《ま》し……後は同じで、そして大田田根子を重用して拜《いつ》き祭らせると、疫病は息《や》み、なのねえ」
「ありゃりゃあ[#「ありゃりゃあ」に傍点]」
土門くんは、まな美が自分にだけ話してくるので、客人に向けて大袈裟に驚いていってから、
「そやったら、倭ととと……姫は失敗[#「失敗」に傍点]しとったことになるやんか。それで、箸墓《はしはか》で死んでしまうん?」
哀れっぽく、土門くんはいう。
「ちがうわ、その間にひとつ別の話が入ってるのよ。疫病が息《や》んで三年ぐらい後だけど、武埴安彦《たけはにやすびこ》とその妻の吾田媛《あたひめ》というのが謀反《むほん》をたくらみ、そのことを倭迹迹日百襲姫が予知[#「予知」に傍点]して、四道将軍を留《とど》め置くようにと崇神天皇に進言[#「進言」に傍点]するのね。すると予言どおりに攻めてきて、返り討ちにしちゃうのよ。その直後に、あの大物主との哀しい神婚話が語られて、そして箸墓で終わりなのね。だから、倭迹迹日百襲姫という人[#「人」に傍点]は、すごく優秀な巫女さんだったわけ。もし彼女がいなかったら、崇神天皇は死んでいました、といった話なんだから。片や、大田田根子は男だから、巫覡《ふげき》の、覡《げき》の方なのね」
「ふむふむ……するとやな、男女ふたりの呪《ま》じない師がおって、呪じない合戦やってた、そんな話なんか?」
「近いけど、真相[#「真相」に傍点]はとっても深淵[#「深淵」に傍点]だわよう」
まな美は、土門くんと、その右隣で寡黙に座っているマサトに向かって、意味深《いみしん》にいってから、
「その大田田根子の母親は、活玉依媛《いくたまよりひめ》、というんだけど、名前の玉というのは霊魂のたま[#「たま」に傍点]のことなのね。つまり霊《たま》が依《よ》る媛《ひめ》なんだから……も説明するまでもないでしょう。その活《いく》というのは美しいという意味で、接頭語ね。ところで、天孫降臨《てんそんこうりん》で高天原《たかまがはら》から降りてくるのは天照大御神《あまてらすおおみかみ》の孫にあたる天津彦火瓊瓊杵尊《あまつひこほのににぎのみこと》。その母親は、天万栲幡千幡姫《あまよろずたくはたちはたひめ》……というのが一般的なんだけど、日本書紀にはたくさんの外伝が含まれていて、一書《あるふみ》にいわく。瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》の母親は万幡姫《よろずはたひめ》の児《みこ》の、玉依姫《たまよりひめ》、というのもあるのね」
「ありゃ、――同《おん》なじやんかあ」
「そして、初代|現人神《あらひとがみ》天皇の神武《じんむ》。その母親は……複雑なんで説明しないけど、神武天皇の大姨《おおおば》にもあたる女性で、その名前は……またもや玉依姫[#「玉依姫」に傍点]なの。記紀神話に出てくる同種の名前は、この三人[#「三人」に傍点]だけで、それぞれが要《かなめ》の系譜に出てくるのね。そして、崇神天皇に話を戻すと、彼の大姨《おおおば》といえば……倭迹迹日百襲姫なんだから、ずばり暗示[#「暗示」に傍点]してるでしょう」
「ふむ、崇神は、御肇国天皇《はつくにしらすすめらみこと》と呼ばれるぐらいで、実質上の倭國《わこく》の最初の天皇さんやねんから、神武天皇とは同一人物《いこーる》とも、考えられるから……ね」
土門くんは、まな美が無視している客人に、愛想していう。
「そして、古事記の神武天皇の章を見てみると、あの有名な東征《とうせい》伝説から始まるの……日向《ひゆうが》の高千穂宮《たかちほのみや》にいた神武天皇が、何地《いずこ》に坐《ま》さば、平らけく天《あめ》の下《した》の政《まつりごと》を聞こしめさむ。なほ東に行かむ[#「なほ東に行かむ」に傍点]……といって最初に立ち寄った場所は、なんと豐《とよ》國の宇沙《うさ》。つまり、宇佐八幡《うさはちまん》の神宮がある宇佐[#「宇佐」に傍点]なのね。さっきの瓊瓊杵尊の母親の天万栲幡千幡姫、あるいは、一書に出てきた万幡姫も、幡《はた》が沢山という意味でしょう。そして宇佐八幡の八幡《はちまん》……八は、八十万《やそよろず》、八百万《やおよろず》で使うように沢山の意味だから、こちらも、幡《はた》が沢山なのね。またもや、暗示[#「暗示」に傍点]してるでしょう。その宇佐八幡関係の玉依姫[#「玉依姫」に傍点]といえば、何を意味するのか」
「あ! あれやあ――」
土門くんが大きな声でいった。
――それは、ひと月ほど前、歴史部《さんにん》が竜介の研究室を襲ったさいに全貌《うら》を教えてもらった話である。
「マサトくんも、分かるわよね」
彼は、心ここにあらずといった顔だが、首肯《うなず》いた。
「その天万栲幡千幡姫、もしくは、万幡姫の児《みこ》の玉依姫の夫は、天之忍穂耳尊《あまのおしほみみのみこと》といって、あの天安河《あまのやすかわ》をはさんでの誓約《うけい》のさいに、天照大御神から生まれた五人の男神《おとこがみ》の長男にあたるのね。その天之忍穂耳尊が降臨《こうりん》する予定だったんだけど、瓊瓊杵尊が生まれたので大役を譲ったという話なの。片や、その誓約のさいに須佐之男《すさのお》の側から生まれたのは、三女神で、彼女らが降り立ったのが宇佐[#「宇佐」に傍点]の地でしょう。そして宇佐八幡に祭られているヒメ神[#「ヒメ神」に傍点]がそうね。だから、天皇家と宇佐八幡というのは、一心同体、もしくは表裏一体の関係なわけよ。その宇佐八幡に祭られている神はというと、奇異の瑞相《ずいそう》を帯び、体はひとつで頭は八つ、人間を見れば襲いかかって、五人行けば三人を死なせ、十人行けば五人を死なす、ほどの典型的な祟り神[#「祟り神」に傍点]なわけね。そもそもヒメ神は須佐之男の分身《くろーん》なんだから、そうなるわよね。そういった宗教観と、そして一族を引き連れて、神武天皇は東征をしてきて、奈良の畝傍《うねび》のあたりに白檮原宮《かしはらのみや》というのを構えたの」
「そうすっとやな、崇神[#「崇神」に傍点]天皇が東征[#「東征」に傍点]しとったとすると、一緒について行ったはずの、倭《やまと》もそそ……姫も、生まれたんはあっち[#「あっち」に傍点]やったけど、お墓がこっち[#「こっち」に傍点]にある以上は、亡くなりはったときにはこっち[#「こっち」に傍点]にいた。そのへんが、あの種の話の結末やなあ」
指示代名詞だらけで、土門くんは嬉しそうにいう。
「その畝傍というのは今の橿原《かしはら》市で、奈良盆地の南の側、平城京は盆地の北の側で、古代の大和《やまと》は南側にあったのね。そして天皇家が居を構えていると、こっちはこっちで、別種の祟り神[#「祟り神」に傍点]がいたというわけ。それが大物主大神《おおものぬしのおおかみ》ね。それを皇族の巫女さんが鎮《しず》めようとはしたんだけど、うまくいかず、近場から民間[#「民間」に傍点]の巫覡[#「巫覡」に傍点]を調達したのね。それが大田田根子[#「大田田根子」に傍点]。その母親は活玉依媛《いくたまよりひめ》で、さらにその父親は陶津耳《すえつのみみ》といって、その陶《すえ》というのは陶器《とうき》の陶《とう》という字なのよ。その母と子がいた河内《かわち》の陶邑《すえのむら》の陶《すえ》も、やはり同じ字なのね。土門くんだったら分かるでしょう」
――まな美は、普段の倍ぐらいの早口で喋る。
「あ、そやったら、そこは須恵器《すえき》の産地なんやな。そんなこと自分でのうても分かるぞう……ね[#「ね」に傍点]」
場を丸く治めたい土門くんは、客人に亀のように顔を突き出させていう。
「陶邑が須恵器の一大産地だったことは考古学的にも確かめられていて、活玉依媛と大田田根子はそこ[#「そこ」に傍点]の巫覡《ふげき》なのね。そして、倭迹迹日百襲姫《やまとととひももそひめ》といえば」
まな美は、溜めを作ってから
「鏡[#「鏡」に傍点]でしょう――」
堂々といい切った(すなわち卑弥呼《ひみこ》であるが)。
「そ……その種の話はあ」
|姫の兄貴《かとりりゅうすけ》に口止めされていたので、土門くんは驚いて、まな美の顔をまじまじと見るが、
「――片や、大田田根子はというと、陶邑《すえのむら》、陶邑、陶邑の出なのよう。しかも巫覡の家系。この話のときにはマサトくんも一緒だったから、分かるでしょう。陶邑《すえのむら》、陶邑、陶邑……」
おかまいなしに、まな美は連呼していう。
「あや? 須恵器といえば、それはひょっとして、いや、ひょっとせんでも……水鏡[#「水鏡」に傍点]の方やんか」
土門くんも、口に出していった。
それは喋ったところで、姫がいう深淵[#「深淵」に傍点]なる真相[#「真相」に傍点]を理解できる人がどこにいる[#「どこにいる」に傍点]? と気づいたからだ。
「それに、宇佐八幡《うさはちまん》のヤハタの神の祭祀《さいし》者であった辛島《からしま》氏は、香春岳《かわらだけ》という銅の産地にいた鍛冶《かじ》の翁《おきな》、つまり鏡の制作者で、その辛島氏だけが宇佐八幡の巫女《ねぎ》の職を代々継ぐと定められてあったでしょう。ほら、陶邑の活玉依媛《いくたまよりひめ》と同じ構図じゃない。……神の依代《よりしろ》は異なるけど」
その最後の語句だけは、まな美は囁き声でいい、
「――だから、大田田根子と倭迹迹日百襲姫《やまとととひももそひめ》は、明らかに別[#「別」に傍点]系なのよ。神々を駈籠《かりこめ》る告祀《コーサ》の甕《かめ》と、多鈕細文鏡《たちゅうさいもんきょう》や八咫鏡《やたのかがみ》ぐらいに、違ってたわけねえ」
……同じといったり、違ってるといったり、
「思うに、他の国津《くにつ》系の神々を祭祀していた巫覡たちも、そっち[#「そっち」に傍点]系の可能性が大[#「大」に傍点]だわよね。それと倭迹迹日百襲姫と大物主《おおものぬし》の神婚話は、その大物主が蛇に変化《へんげ》したことからいっても、大和《やまと》にいた祟り神ではなく、須佐之男だと考えるのが正解でしょうね。それと古事記には、活玉依媛《いくたまよりひめ》も神と結婚していたことが書かれてあって、夜毎に訪ねてくる氏素姓《うじすじょう》のわからない壯夫《おとこ》との間で、活玉依媛が身ごもり、恠《あや》しんだ両親が、糸巻きの麻糸《あさいと》を針に通し、その針を壯夫《おとこ》の着物の裾《すそ》に刺すように命じるのね。そして翌朝に見てみると、麻糸は戸の鉤穴《かぎあな》を通って外に出ていて、辿って行くと、美和《みわ》山に至り、神の社《やしろ》に留《とど》まりき。そして家に残っていた糸巻きが三つ、つまり、三輪《みわ》だったから、それが三輪《みわ》山の名前の由来ね。以来、大神《おおみわ》神社の祭祀は、大田田根子の血筋が代々仕切るようになったというおはなし[#「おはなし」に傍点]。……どう、古代史が随分と分かりやすくなってきたでしょう」
まな美は、長話を語り終えたらしく、客人ふたりの方に顔を向けた。
「ほう……なるほど、なるほど」
林田は、内心まったくの珍紛漢紛《チンプンカンプン》ながらも、大きく頷いていってから、
「――実はですね、昨日の夕方、その太田多香子さんが、隣の歴史部《みなさん》の展示会場に姿を見せられた後、何かの事故か事件にでも巻き込まれたらしく、その後の行方が、今もってまったく[#「まったく」に傍点]不明なんですよ」
――真顔になって、ようやく事の次第を語り、
「この話を先にしちゃいますと、皆さんも、お話がしづらいだろうと思いまして、今まで伏せておったわけですが、どうも、すいませんでした」
いってから、丁寧に頭を下げる。
まな美が苛《いら》ついているのが林田には分かったからだが、と同時に、主導権を自分の側に取り戻すための|暴露と頭下げ《これもひとつのマニュアル》であったようだ。
それは覿面《てきめん》で、まな美と土門くんは顔を強《こわ》ばらせ、
「んなこと、うちら関係ないよなあ」
「あるもんですかあ」
……震え声で、不安そうに囁き合っている。
そして林田が、夕方の五時以降に彼女を目撃しなかったかを問うたが、ふたりは、雨が止んだ六時ごろに歴史部の展示会場に鍵をし、大講堂に向かったこと。すると、二千人収容の一階席は立ち見が出るほどに混んでいて、ふたりは何時《いつ》しか逸《はぐ》れてしまったこと。やがてまな美が、背高の土門くんを見つけ出し、『月面音楽隊』を最後まで観《み》てから旧校舎に戻り、顧問の先生に挨拶をし、九時半ごろに多数の生徒たちとともに正門から出て駅に向かったが、その間、巫女さんの姿は見た記憶はないこと。そして普段服の彼女に関しても、大講堂の客席は暗かったので、たとえ会っていたとしても……などの話を、いつになく|非流麗に《たどたどしく》ふたりは語った。
「――そうですかあ」
林田は、いかにも残念そうにいってから、
「えー、実はもう一点だけ、皆さんに是非《ぜひ》見ていただきたいものがあるんですよ」
――床にあった紙袋から茶封筒を掴《つか》み出すと、その中から、白いレースのハンカチに包まれた、四角くくて厚みのない何か[#「何か」に傍点]を取り出した。
「これは、太田さんのロッカーに、彼女のスポーツバッグが置かれてあり、その内ポケットに、大事そうに……このようにハンカチで包まれたまま、仕舞われてあったものなんですよ。これこそ……といっては何ですけども、歴史部《みなさん》のご意見がお伺いできるかと思いまして」
林田は、小さな手帳ほどの寸法《サイズ》のそれをハンカチに包まれたまま、円卓《テーブル》の自分の前に置くと、
「手袋は、使った方がいいですよね?」
「…………」
「岩船さん[#「岩船さん」に傍点]、手袋は?」
「あっ」
……岩船は、またもや、何かに心を奪われていたらしく、慌てて上着のポケットを探すと、白手袋を片方だけ取り出して、それをハンカチの包みの上に重ねるように置いた。
林田は、それごとをまな美の方に滑《すべ》らせながら、
「触る場合には、その手袋をして下さいね」
――念を押していった。
まな美は、それを土門くんの前までずらす。
「ふえー、こういうこわいんは、いっつも自分のとこ来るなあ」
土門くんは、日光の幸《さっ》ちゃんに唆《そそのか》され、墓から掘り出された呪《のろ》いの甕《かめ》をそれ[#「それ」に傍点]とは知らずに触らされたことを思い出した。
「いえ、こわいものなどでは、決してありませんので、それはご安心を――」
林田が安心宣言を出したが、土門くんはなおも及び腰で、まずその手袋を手にすると、
「え……この手袋、無理やと思いますけど」
彼の手は|巨大すぎて……《おすかーぴーたーそんクラスで》入りそうにない。
それも事実だが、土門くんは何とか難癖《なんくせ》をつけて逃げるつもりである。
「あ、それは破っちゃってもかまわないよ。それにハンカチは触ってもいいからさ」
――岩船がいった。
逃げ道を塞《ふさ》がれた土門くんは、やむなく、右手の親指を除く四本に指人形のようにそれを嵌《は》め、おっかなびっくりでハンカチの包みを解《ほど》いていく。
すると、中から出てきたのは――
「うわあ、奇麗《きれい》な品物《しなもん》やなあ」
それを目《ま》の当たりにして、土門くんは驚きと称賛の声を漏らした。その左隣ではまな美が、
――あ!
声にこそ出しはしなかったが、大口を開け、次の瞬間その口を手で押さえて、驚きを殺していた。
マサトの表情に……変化はない。
「ですよね。いったい、何かと思いましてね。そういったものは、歴史部《みなさん》がお詳しいのではと?」
土門くんの称賛の声を受けて、林田がいった。
「やー、詳しくも詳しくないも、これは誰が見たって、三つ葉葵紋ですからね」
独特の風合いをした青色地の布の中央に、金箔のごとき金糸で紋が大きく刺繍《ししゅう》されてあった。
「確かに、そうなんですけど、いったい何に使うものかと思いましてね?」
もちろん林田は、太田多香子の自宅《いえ》に電話を入れて家人から確認をとったのだが、その種のものには心当たりはないとの返事であった。
「そやけど、その三つ葉葵は置いとくとして、こんなん見た記憶がないなあ」
……土門くんがそういうのだから、よほどに稀《めずら》しい代物《しろもの》にはちがいない。
それを、指人形の先で摘《つま》み上げながら、
「ええ布|使《つこ》てますねえ。それに新物《あらもん》とはちがうな。そやけど、江戸いう感じはしませんね。明治以降でしょうねえ。うーん……小袱紗《こふくさ》? にしては分厚すぎるし、それに正方形とちがいますからね。あっ、口がありますよ。なんか入れるんかなあ」
顔の前で、角度を変えつつ、眺め透かししながら土門くんはいう。
「ふーん……そやけど、この口んとこに紐《ひも》でもついとったら巾着《きんちゃく》いうてもええんですが、紐はおろか、紐とおしの穴すらあらへんからな……それに巾着にしては硬すぎるし、何か芯が入ってますね。これでもし細長かったら、櫛入《くしい》れで、こんなんはあります。そやけど、これは正方形に近い長方形ですからね。煙草やったら……ぎりぎり入りそうな寸法《さいず》やけど、硬いから入れづらいやろうし。それに煙草入れやったら蓋《ふた》がついてるはずですからね。あっ、裏にベルトとおしみたいなのがついてるな……」
さらに少し眺めてから、それを円卓の上のハンカチに戻すと、
「いずれにしても、用途は不明」
――ぎぶあっぷ[#「ぎぶあっぷ」に傍点]したようにいった。
土門くんをして不明[#「不明」に傍点]なのだから、誰にも分かろうはずのない代物[#「代物」に傍点]だ。
「あっ、そうだそうだ」
岩船が、何かを思い出したようにいう。
「こちらの学校のさ、|持ち主《オーナー》、理事長さんといった方がいいのかな、そのへんはちょっと分からないけど、その方は、たしか、あの有名な松平《まつだいら》さんの一族じゃなかった?」
「あ、そうですそうです。それは公然[#「公然」に傍点]の秘密[#「秘密」に傍点]いうやつで、生徒の全員が知ってます。そもそも歴史部《うちら》があの淨山寺《じょうさんじ》を調べたんも、文化祭で三つ葉葵のお寺なんかをやったら、みんな大喜びするぞーいうて始めたんですね」
「あっ、そうだったの」
そのふたりの会話を聞いていて、林田は頭の中で積年の謎が――音[#「音」に傍点]を立てて解けた。
「皆さん、少しだけ、僕の昔話に付き合ってくれませんか」
――あらたまった口調で、林田が語り始めた。
「今から四、五年前のことなんですけど、ちょっとした捜査の関係で、僕はこちらの学校に、ひと月ほどお世話になってたことがあるんですよ」
「お、お世話って?」
――土門くんが聞く。
「といってもですね、生徒になってたわけじゃなく、もちろん先生でもありませんし。けど、合宿所に泊めていただいたりもしましたしね。そのときに、たくさんの生徒さんたちと親しくなって、いろんな話を聞かせてもらったんですよ。その中でひとつ、今でもよく覚えている、とっても心を奪われた素敵な話がありましてねえ、それは、こちらの学校の」
パタン――
その林田の語りを断ち切る、大円卓《テーブル》を叩いた音とその余韻が旧・歴史準備室に木霊《こだま》した。
頬杖《ほおづえ》していたマサトの右手が、――下に落ちたのだ。その手で、土門くんの前にある品物《それ》を指さし、
「――Mの証し[#「Mの証し」に傍点]」
ただそれだけを、明瞭に彼はいった。
「な、なんてこというの、マサトくーん」
悲痛な声で、まな美は咎《とが》めていう。
「え? Mの証し……あの幻の? あの伝説の?」
土門くんは顔をあちこちに動かしながら、
「そ、そういわれてみれば、松平のま[#「ま」に傍点]やろ、三つ葉葵のみ[#「み」に傍点]やろ、それに学校のいにしゃる[#「いにしゃる」に傍点]もそうやし、あの印籠《いんろう》の水戸光圀《みとみつくに》さんも、みがふたしやし」
……それは直接の関係はないが、
「全部まみむめも[#「まみむめも」に傍点]の世界やんか! これを見せられて、Mやと名乗られたら……やっぱりMさんやなあ。うわ[#「うわ」に傍点]ー、これこそが、あの伝説[#「伝説」に傍点]のMの証しや[#「Mの証しや」に傍点]ー!」
遅ればせながらの雄叫《おたけ》びが、部屋中に轟いた。
「いやーこういったものが、あの噂に聞いていた、Mの証しだったとはねえ……」
林田は、白々しくいってから、
「としますと、そのMの証しを持っておられたわけだから、彼女もまた、Mさんだったわけですね」
「えっ? 彼女もまた[#「また」に傍点]、とはどういうことなんですか?」
まな美が、きつい口調になって問う。
「あ……いや、その噂に聞いていたMさんたちと同様に、といった意味ですけれど」
何とか林田は胡魔化したが、さすがの弁論部も口が滑ったようであった。
「ところで、そのMさんですが、三年生から二年生へと、どこかでバトンタッチしなければなりませんよね。それは、もう終わってるんですか?」
――林田は、気遣って交代式[#「交代式」に傍点]という言葉は使わない。
が、その種の問いに歴史部員が答えようはずもなく、いや、誰も答えないだろう。それは|M高《ここ》に集《つど》いし生徒たちにとっては秘[#「秘」に傍点]して守る[#「守る」に傍点]べき話であり、部外者にそうおいそれと漏らしたりはしないからだ。
「えー……そうしますと」
林田は、頭の中で少々策を練ってから、
「さらに、ところでですが、麻生さんは、学校中の誰もが知っているぐらいの優秀な成績でいらっしゃるようですよね。その、麻生まな美さんにずばり[#「ずばり」に傍点]お尋ねいたしますが、麻生さんは、現在[#「現在」に傍点]のM[#「M」に傍点]でいらっしゃいますか?」
――刑事口調になって問う。
林田は林田なりに必死なのだ。そのMに関係することが、自身にとっての心の痛手でもある、あの金城玲子殺人事件を解き明かす現在考えうる唯一の手掛かりで、そして今回の件に関しても同様[#「同様」に傍点]だと思えるからだ。Mは、揉め事の調停人、なのだから。
「わ……わたしがM? まっさっかー、あんな大役つとまるわけがないでしょう」
まな美は断固として否定してから、
「それに……わたしか[#「か」に傍点]弱いしー」
手で制服の襟元を掴《つか》み、|みずからいう《アイドルのごとくにいう》。
「ほう、そうするとMさんというのは、やはり、強い人がなられるわけですか?」
「さあ、よくは知りませんけど。たぶん体育系の女子がなるんじゃないですか」
「ですが……太田さんは、占い部ですよね?」
その後林田は、手を替え品を替えあれやこれやと聞きまくるが、まな美は、貝のように口を閉ざしたままで答えようとはしない。たまに土門くんが与太《よた》を口走る程度で、もちろんマサトは……黙《だんま》りだし。
どうしたものか、大先輩の岩船さんに助言でも求めようか……と見やると、当《とう》の岩船は、面《おもて》を伏せていて蒼白《そうはく》の顔色だ。今日はどこか体調でも悪いのだろうか、林田は心配もしたが、|かくして《ほどなくして》、歴史部員からの事情聴取はお開きとなった。
[#改ページ]
11
「……火鳥先生。まだこんな時間なんですけど、今日は先に帰らせていただければと思いまして」
午後の二時すぎであったが、西園寺静香が、資料室の竜介の仕事机《デスク》にやって来ていった。
「何か、急な用事でも?」
「特別に、急というわけでもないんですが、お祖母《ばあ》さんの様子が、少し気になりまして」
「あ……何か、ご病気でもなさってるの?」
「うーんまあ、病気といえば病気なんですけども、リュウマチがちですから。そして布団《ベッド》の中に籠もったっきりで、外に出てこようとはしないんですね。だから今から行って、散歩でもさせようかと思っちゃって」
静香としてはめずらしく、悪戯《いたずら》娘のようにいう。
「今日は天気もいいし、外を徘徊《うろ》つくにはちょうどいい季節かもしれないね。じゃ、成城《せいじょう》の方に?」
――静香は、世田谷区の成城に大豪邸を構えている家の娘さんである。
「いえ、お祖母さんは、今は鎌倉の家にいるんですよ。あちらの方が暖かいですから」
その鎌倉の家とは別荘か? いや、そちらも大[#「大」に傍点]別荘だろうなと竜介は思う。
「じゃ、ちょっと時間かかるよね」
「ええ、大学《ここ》からだと行きはそうなんですけど、帰りは小田急《おだきゅう》を使いますから、意外と近いんですよ」
「あ、そうだそうだ、そういう手があったなあ」
――竜介も、例の防音|自宅《マンション》がある下北沢は同じく小田急電鉄の沿線で、やはり鎌倉へは、JR品川駅から横須賀《よこすか》線を使わずに、小田急で行く。鎌倉はそろそろ紅葉の季節、その美しい情景を思い浮かべながら、
「じゃ、早く出た方がいいよね。研究室《こっち》はなーんもないから大丈夫。お祖母さん孝行を、優先《ぜひ》……」
「ありがとうございます」
いつもの美しい笑顔でいってから会釈をすると、静香は隣の研究室《おおべや》に戻って行った。
竜介としては、昼飯《ランチ》どきは他のふたりの院生も一緒だったので個人的《プライベート》な話は静香とはできず、だから夜に飲みでも誘って、あの〈幽霊が見えた話〉を聞こうかと思っていたのだが、結果的には、先手を打たれて逃げられた格好だ。
が、静香《かのじょ》は、その種の策略をめぐらすような女性《タイプ》ではないので、それに話を聞くのは何時《いつ》でもよく、実際[#「実際」に傍点]、お祖母さんのことで気になる何かがあったのだろう、そう竜介には思えた。
そして、これより先は竜介のまったく知らない話だが、西園寺静香の祖母の西園寺|靖子《やすこ》は、アマノメの神の実子である。M高校の歴史部にいる天目マサトからいくと、曾祖父の娘であり、つまり、マサトの大姨《おおおば》にあたる。
アマノメの神は、男子が継ぐといった定め[#「定め」に傍点]があるようで、女子が生まれた場合はいったん桑名家に籍が入れられ、しかる後に昵懇《じっこん》の氏子へと嫁ぐ。そして西園寺家は、鎌倉時代から続くアマノメの神の有力な氏子の家柄《ひとつ》でもあるのだ。
そのあたりの話は、『幽霊の国・解』にて語られることになる。
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12
M高校から戻った林田が南署の三階に着くと、大部屋は朝と同様に閑散で、その奥隅にある刑事課の係長席に、依藤警部補がぽつねん[#「ぽつねん」に傍点]と座っていた。
――が、
依藤は、T大学の火鳥竜介の私室を訪ね……戻っていたのである。
それゆえ――
遠目に見ても分かるぐらいに青みがかった顔をし、どこを見ているのかすら不明の虚《うつ》ろいだ表情だ。
また何かあったのか? 不安を抱きながらも林田は急ぎ足で係長席まで来ると、
「只今[#「只今」に傍点]、戻ってまいりました」
――警察口調で凜々《りり》しくいった。
依藤は、ん、と力なく頷く。
「係長。大変[#「大変」に傍点]なことが分かりましたよ」
そう強調して林田がいっても、
「ああ……」
依藤は興味なさそうにいう。
……こころ[#「こころ」に傍点]ここにあらず、といった為体《ていたらく》である。
だが、林田はおかまいなしに喋る。
「大変ですよ。昨日失踪した太田多香子さんですが、彼女もまた、M[#「M」に傍点]だったんですよ! あのM[#「M」に傍点]ですよ。依藤係長[#「依藤係長」に傍点]!」
「ええ? えむ? えむって……あのMかあ」
他人の脳からでも絞り出してくるかのようで、
「な、なんだって! ちょっと待てえ――」
依藤は突如として生き返ったかのようで、電話に遮二無二《しゃにむに》にかぶりつくと鬼のごとくの見幕で署内の誰かと交渉を始めた。
そして受話器をガチャン! 乱暴に投げ戻すと、
「――よし。今、交通課一係を全員[#「全員」に傍点]押さえたからな。緊急事態だから四の五のいわせない[#「四の五のいわせない」に傍点]。それでさ、あの私立M学校の裏山を、これから行って徹底[#「徹底」に傍点]捜査な。それにおまえ[#「おまえ」に傍点]……何かいってただろう[#「何かいってただろう」に傍点]」
――悪鬼《あっき》の形相になって必死に思い出し、
「そうだそうだ。蜘蛛の巣[#「蜘蛛の巣」に傍点]、蜘蛛の巣[#「蜘蛛の巣」に傍点]。それが消えている場所があったら、そこは人が入った証拠だから、そういった地面を重点的に調べること。そして全部調べ終えて異常がなくっても、山は二十四時間監視な。車道側と学校側にそれぞれ人を配置してな。そういったことを林田[#「林田」に傍点]、おまえが指揮をとるように。そして今から十五分後に出発[#「出発」に傍点]――っ!」
――|天井の《あらぬ》方向を指さしていった。
あの首なしの白骨死体はM高校の裏山にあったのだから、本件も同様[#「同様」に傍点]に、とは十二分に考えられるところだ。こころ[#「こころ」に傍点]は彼岸《かのち》を彷徨《さまよ》っているようだが、頭は冴えているらしい。
「はっ、――了解しました。自分でよろしければ、指揮をとらせていただきます」
その突然の豹変ぶりに驚きながらも、林田は命令を復唱する。
依藤は、ふう……と力が抜けていき、
「でさ、その彼女がなぜMだと判ったの? そのへんを説明しろよ。学内で揉め事があったのか?」
ほぼ[#「ほぼ」に傍点]、普段の彼に戻っていった。
「いえ、そのあたりはまだ全然分からないんですが、その彼女のロッカーの中に、例の、Mの証しが置かれてあったんですよ」
「あっ……あれかあ」
依藤は、その件では迷宮[#「迷宮」に傍点]に入ってしまったことを思い出した。
「そのMの証しの実物[#「実物」に傍点]は、裏[#「裏」に傍点]の裏[#「裏」に傍点]、つまり表[#「表」に傍点]だったんですよ。誰もが閃くものですけど、そんな馬鹿なと、候補から真っ先に消してしまうような代物《しろもの》です。だから逆に、賢い[#「賢い」に傍点]ともいえます。たとえばですね、これが目に入らぬか――と何かを提示する場合、何を想像なさいます?」
林田は、依藤係長のことが少々気がかりで、軽い与太をまじえて問う。
「うん? 水戸黄門の印籠《いんろう》のことか?」
……幸いにも、正常な反応が返ってきて、
「ええ、そのとおりで、そのものずばり[#「ずばり」に傍点]なんですね。もっとも、印籠ではなく、女子が持てそうな何かです。それが何の道具かは今のところ不明ですが、要するに、三つ葉葵なんですよ。今回は、係長が岩船さんを推《お》していただき、本当に大正解[#「大正解」に傍点]でした」
――軽く頭を下げながら、林田はいい、
「その岩船さんが気づいてくれたんですよ。M高校の経営者か理事長だかが、松平さん[#「松平さん」に傍点]であることを」
「あ……聞いたことあるな、そんな話」
「つまり三つ葉葵は、学校の持ち主の紋[#「紋」に傍点]なんですよ。そして三つ葉葵も松平も何もかもが、まみむめも[#「まみむめも」に傍点]、なんですね。だからM[#「M」に傍点]なわけで。あの学校の生徒さんだったら、狂[#「狂」に傍点]喜乱[#「乱」に傍点]舞して解けるパズルですね」
――まさに、土門くんであるが。
「ですから、そのMの証しを見せるということは、理事長代理[#「代理」に傍点]だといってるのと同じで、凄い権威です。校長先生を超えちゃってますからね。だからめった[#「めった」に傍点]なことでは使えないはずで、もし、そのMの証しが生徒に提示されたら、退学宣告に等しいでしょうね」
「ふむ、そんなもの[#「そんなもの」に傍点]を……見方によっては、そんな物騒[#「物騒」に傍点]なものを生徒に持たしてるわけか」
それこそが、揉め事の種[#「種」に傍点]ではないかと、依藤は思う。
「まあ、そうもいえますね。けど自分が思うにはですね、Mが作られた当初は、理事長と直の秘密警察のようなもの、学内の情報屋《スパイ》……じゃなかったかとも考えられます。もちろん、うが[#「うが」に傍点]った話ですが。それが形骸《けいがい》化して、学校の守り神となって今も存続してるんでしょう。そのMの証しは、実際上は使えそうにありませんので、とくに害[#「害」に傍点]はないだろうと、学校側としては放置[#「放置」に傍点]してるのかもしれません。いずれにしましても、生徒の発案ではなく、学校側が作って与えたもののはずです。それに以前にもいいましたが、とってもよくできた構図で、そしてMの証しは、いわば完全無欠なパズルでした。細部まで悉《ことごと》く辻褄《つじつま》が合っていて、それでいて僕が瞬時[#「瞬時」に傍点]に解けたぐらいの裏[#「裏」に傍点]の裏[#「裏」に傍点]で……あらためて驚かされました。そのMの証しには、裏側にベルト通しみたいなのがあったんですが、思うに、それは指に……おそらく中指に通すものでしょうね。すると、手の平《ひら》に載って、落ちないでしょう」
林田は、自身でMの証しのパズルを解いたことがよほど嬉しかったのか、その分析までもひけらかしていった。
「で、その実物は?」
依藤も、見てみたくなったのだが……
「それは、岩船さんがお持ちです」
「あ、そうかそうか、調べなきゃならんもんな」
……それはまたの機会にでもと思い、
「それはそうとして、岩船さんを送り出したのは、やはり大正解だったか。俺は最近バカつきなんだよなあ。閃いたことはズバズバ当たるんだからさ」
と、怪しげに目を光らせて、いかにも嬉しそうにいった。
そんな依藤の様子を目の当たりにしながら、林田は、ここ数日捜査で行動をともにしていた生駒刑事が事ある毎にいっていた談を思い出し、
〈依藤係長には何かが憑《つ》いてる、天秤になってる〉
その目は落ち窪んでいて頬はげっそりと痩せ、顔は青みがかった土気色《つちけいろ》だし、虚ろな目だったかと思うと、爛々《らんらん》と怪しく光らせたり……を見るにつけ、あながち、否定できないなと感じ始めていた。
「でさ、歴史部の話はどうだった? 何か役に立つことでも聞けた?」
「いやあ……」
林田は苦笑いしながら、
「それも、係長の予言《いわれた》とおりでした。それとは別に、歴史部員は、今回の失踪には直接の関係はなさそうですね。それは観《み》ていて、分かりましたので」
――歴史部員《かれら》に、いきなり巫女《みこ》さんの衣装や、そしてシャカシャカいわせる道具《すず》を見せたのは、その種のことを観察していたのだ。
「その歴史部員というのは、僅《わず》かに三名で、内ひとりは文化祭の当日は休んでまして、それに、その男子は無口だったから、置いときまして。後は、背の高い男子と、そして可愛い女子です。が、その女子が凄い[#「凄い」に傍点]んですよ。話も、弁論部の僕なんかよりも、はるかに上手な娘《こ》なんですが、本気で喋られちゃうと、珍紛漢紛《さっぱり》なんですねえ……」
依藤は、さもありなん、といった顔で頷く。
「……ですが、ひとつ分かったことは、失踪中の太田多香子さんと、ほとんどそっくりな名前の人物が、古代の日本に実在していたらしく……タマヨリ姫[#「タマヨリ姫」に傍点]、というのが再三話に出てきまして、タマとは霊魂の霊のことで、つまり、霊が依《よ》る姫だそうです。あるいは、祟り神[#「祟り神」に傍点]……神が祟《たた》るというのも変ですから、要するに悪霊[#「悪霊」に傍点]でしょうかね。その悪霊と、先のタマヨリ姫が、こともあろうに結婚[#「結婚」に傍点]したそうです。その種のことを専門にしていた人物とのことで」
……林田の理解力では、その程度が限界か。
「そして太田さんは、その古代の人物の生まれ変わりだと自称していまして、そして占い部でしょう。ですから、係長が危惧《きぐ》されてらっしゃるような件が、絡んでいる可能性は、ありえそうですね」
「ま……またかあ」
萎《しお》れていくように依藤はいった。
タマヨリ姫は……霊が依る姫だと聞こえた瞬間、依藤の目の輝きが失せた。思えば、自分の名前にも同じく依[#「依」に傍点]が入っているのだ。ふ……不吉な……。
林田は、巫女の太田多香子が、歴史部の展示会場から客を攫っていったことを手短に説明し、
「……その客たちが、少々ひっかかりますよね。岩船さんも現場におられたわけで、最初は全然だったんですけど、歴史部の事情聴取が終わった直後に、突然、思い出してくれまして……ひとり[#「ひとり」に傍点]だけなんですが、その客の中に女性が混じっていたようです。米空軍《MA―1》のジャンパー姿で、髪は短く、化粧っ気もなく、三十歳ぐらいの女性だったとのことです。顔を見れば……何とか判るかもとおっしゃってました。何のはずみ[#「はずみ」に傍点]で、そこまで細かく思い出されたのかは分かりませんが、それに岩船さん、今日は体調がおよろしくなかったようで、それも少し心配ですけど、とりあえず、そういったところです」
「ふうん……けど、それをん[#「ん」に傍点]千人の中からどうやって捜し出す」
他人事《ひとごと》のように依藤がそう呟いていると、係長机《デスク》の電話が鳴った。それは交通課一係からで、準備が整ったことを知らせてきたのだ。
「……じゃ、林田、よろしく、お願いね」
椅子に座っているだけなのに、息を途切れさせぎみに依藤はいう。
「あっ、最後にひとつだけ――」
林田は、そんな依藤を真顔で見据えながら、
「仮にですよ、現在のMから代々|溯《さかのぼ》っていけば、金城玲子さんの当時のMも、判る可能性がありますよね」
「まあ、それはそうだろうけど……とりあえずのところ、まず……その太田さんを見つけ出さないと、それも無事に、でないと先には進めないよ」
頬杖をつき、虚ろな目をしながら依藤はいう。
「ええ、もちろんそうなんですが。その太田さんとは別に、今日会った中で、Mではなかろうかと思える女子が、ひとりいるんですよ。刑事《ぼく》の感触では、まず間違いなく、あの娘《こ》が現在[#「現在」に傍点]のM[#「M」に傍点]だと思うんですけどもねえ……」
そういい残すと、林田は敬礼をし、小走りに去って行った。
※
――放課後、私立M高校の旧校舎にある旧・歴史準備室(歴史部室)では、三人が、おそらく学校の創立時からある焦げ茶色をした木の大円卓のいつもの席につき、肩を寄せぎみにして、口数少なく暇をつぶしていた。
すると、まな美が意を決したように、
「ねえねえ、土門くん、マサトくん、これからわたしが話すこと、絶対[#「絶対」に傍点]に内緒にしてくれるって、約束[#「約束」に傍点]してくれる――」
いつになく真剣な表情でいった。
「おっ、それはもちろんやでえ。姫が内緒いうたら、たとえ閻魔《えんま》さまに舌を抜かれようとも、自分は喋らへんぞう」
――土門くんらしい確約の仕方だ。
その右隣では、マサトも、大きく頷いている。
「じゃ、ちょっと待ってて……」
いうと、まな美は自身の学生鞄の中を探して、やはりハンカチに包まれたそれ[#「それ」に傍点]を大事そうに取り出し、それを右の手の平に載せて、ふたりが見えるところで、その包みを解《ほど》いていった。
「あ――!」
驚いた土門くんは大口を開けてから、
「姫さま[#「さま」に傍点]が、な、なんと、あのMさま[#「Mさま」に傍点]であられましたかー」
長い両腕を前に伸ばして頭《こうべ》を垂《た》れ、卑弥呼にでも傅《かしず》いているようにいう。
その横では、マサトもお付き合いで平伏《ひれふ》している。
そして土門くんは顔を上げ、
「そやけど……よくよく考えたら、よくよく考えんでも、姫がMにならへんかったら、この学校で誰がMになるいうんや」
土門くんのいうとおりで、まな美は、一年のときからM高にその女子《ひと》ありと謳《うた》われ、学内《あたり》に睨みを利かせていた……その点では生粋《きっすい》の、いわば完全無欠[#「完全無欠」に傍点]のMでもある。
「それにやな、それを姫が持っとういうことは、あの幻の、あの伝説のMの交代式[#「交代式」に傍点]いうやつは、やっぱり文化祭の夜で、つまり昨日あったんですか姫?」
まな美は……答えない。
「あっ、思い出したぞう。ふたりして大講堂で仲良うしとったはずやのに、姫いつの間にかおらへんようなったやんか! あのへんが怪しいなあ……そのへんですか姫?」
土門くんは鎌をかけていう。
「二年生のわたしがこれを持っている以上、交代式があったのは事実よね」
その鎌を、まな美はさらりと躱《かわ》すと、
「で、その幻[#「幻」に傍点]の、その伝説[#「伝説」に傍点]の交代式なんだけど、その秘密[#「秘密」に傍点]を教えるわねえ」
――餌をちらつかせて自分のペースに引き込む。
「先輩の呼び出しを受けて、そして部屋に行ってみると、その先輩がひとりだけ立っておられたのね。そしていきなり、交代式が始まったの。それも伝説どおりで、すっごく短い式なのね。そしてこれ[#「これ」に傍点]が手渡されたの――」
と、まな美は、手の平にある濃い紅色をした布地に金糸で三つ葉葵紋が入ったそれを、土門くんの前あたりに、そしてマサトにも見えるようにと差し出していった。
まな美のそれは、事情聴取で提示されたMの証しと比べ、地の布の様子だけが異なるようだ。
「あ、そうやそうや、天目も知っとうやろ、あのMの交代式の伝説では、全員を……五人とかいう噂やけど、その全員が一緒に式をやる、いう話もあったんやけど、あれは間違いやったんやなあ」
「そう……みたいなのね」
当事者《たいけんしゃ》のくせに、まな美は自信なげにいってから、
「けど、こんなのハイ[#「ハイ」に傍点]そうですかって受けられないでしょう。だからお話しをしようと思ったら、その先輩が内扉の方を指さされて、隣の部屋にどうぞ、て促されるのね」
「ふうん、内扉から隣の部屋に行けるような場所で、やってはったんやなあ」
――詮索《せんさく》好きな土門くんはいう。
が、そういった作りの部屋は、M高校には新・旧校舎以外にも沢山あるのだ。近い将来にはM大学になっているのだから。
「そして行ってみると、その隣の部屋にも、先輩がひとりだけおられたのね。その先輩も、Mさんのはずだけど……そして、その先輩から注意事項を受けるのよ。まず、そのMの証しを、服のボタンのかかるポケットに仕舞って下さい、ていわれるのね」
「ふわっは、は、はー……そらもっともやな、そのままぼ[#「ぼ」に傍点]ーとしてて、手に持って廊下にさまよい出たら、何やと思われるもんなー」
……よほどに可笑《おか》しかったのか、笑い転げながら土門くんはいう。
マサトも微笑んでいる。
「……で、それはいいとして、次にいわれたのは、わたしたちはもうMではありません。あなたがMですから、あなた自身で決めて下さいね。何を決めるの……と聞こうと思ったら、その先輩いわく、しばらくしてから、わたしたちの方から声をかけます。それまでは、わたしたちと顔を合わせても、絶対に話しかけたりはしないで下さいね。と念を押されるのね。で、注意事項は以上[#「以上」に傍点]なの」
「……うん? ありゃ? ありゃりゃあ?」
土門くんは、まな美、マサト、そして前方《じぶん》の三方向にいってから、
「それなんか、重要なことが、丸ごと抜け落ちとうような気がするぞう。そんなん注意事項にも何にもなってへんやんか?」
「……でしょう。だから、わたしなりに考えたことを話すけど、わたしは、このMの証しは返そうと思ってるのね」
「そ、そんな勿体《もったい》なーい。そのようなええお品、めったにございませんよ姫。……そやけど、そもそも、それは返せるようなもんなんか?」
「わたしは、返せると思うわ。過去に、実際にそうした人もいたと思うし、だって、こんな大役をふたつ返事で引き受ける人の方が、どうかしてると思うわ。だから、先輩がいった、しばらくしてから声をかけます。このときが、返せる機会《チャンス》だと思うのね」
「あ、そのときが、やるやらへんの意志決定をする、最後の決定[#「決定」に傍点]で、今は、いわゆるお試し期間中[#「お試し期間中」に傍点]……いうやつかな」
「だと思うのね。だから、今これを持っている人たちは、それが何人かは知らないけど、みんな悩んでる最中だと思うわ」
「ふうん……なるほそう」
土門くんは腕組みをし、当事者《まなみ》の立場になって真剣に考えているふりをしてから、
「そやけど、それを返すかどうかは、もう一度よ[#「よ」に傍点]ー考えはった方がええよう。うちらみたいな庶民[#「庶民」に傍点]には、それは望んでも来《こ》ーへんもんやねんからー……なあ、天目」
マサトも、うん、と頷いている。
「それにMになるいうことは、あの幻の、あの伝説[#「伝説」に傍点]の中に生きられるいうことやでえ。我が伝統と栄光ある歴史部員としては、そーんなちゃんす[#「ちゃんす」に傍点]みすみす捨てたら、あかん」
……何かにつけて大袈裟だが、伝説の中に生きる、それは魅惑的だとまな美も思う。が、現実は、
「あのMの会というのは、会として動くはずなのよね。けど、わたしは、わたし以外で誰がMなのか今判らないのよ」
「あ……そうか、式は姫ひとりやったんやもんな。そやったら、そういうことは最後の意志決定が出そろってから、教えてくれるんやろうな」
「の、はずで、仮にあの注意事項を破って先輩のMさんに尋ねたところで、教えてくれないはずなのよ。だって、最終の意志決定が出てないんだから」
「の、はずやなあ。今教えたら、Mを返上するかもしれへん人が本物《ほんもん》のMを知ってるいう、あってはならん構図になるもんな。あっ、そうか、それで全員そろっては交代式をやらへんのや。賢い[#「賢い」に傍点]なあ……」
Mの返上[#「返上」に傍点]は、児童心理専攻の林田[#「林田」に傍点]をもってしても、そこまでの分析[#「分析」に傍点]は及ばなかったところで、現実は、やはりそれなりに奥深い[#「奥深い」に傍点]もののようである。
「……あっ、ひょっとすると、最初のころは全員そろって交代式をやってたんかもな。けど、返上する人が出て、ひとりずつに変わった……それで伝説がふたつあるんや。そう考えると辻褄が合う。歴史部《うちら》はMの歴史まで解くぞう」
嬉しがっている土門くんを尻目に、まな美は本題に入る。
「でね、こんな話をしたのは、今はMの会[#「会」に傍点]としては動けないということを知ってもらいたかったから」
「そうやな、姫のMさまはひとりで孤立してはって、しかもお試し期間中や……」
「だから、ふたりに相談しようと思って」
「さ、さすがは姫さま、お目が高い。うちらがおったら百人力やぞう、天目もおるから二百人力や……な[#「な」に傍点]」
土門くんはこれまで、その骨董の知識を活かしてそれなりに役立ってはきたが、天目マサトの神髄[#「神髄」に傍点]はふたりは知る由もない。
「歴史部の辞書には不可能の文字はないぞう。何なりと、何なりとどうぞ姫」
「じゃ、話すけど、今日、警察のふたりと会ったでしょう。岩船さんは置いといて、あのハヤシダ[#「ハヤシダ」に傍点]――あいつが許せないのよう」
――膨《ふく》れっ面して、まな美はいう。
「あー、分かる分かるう、姫が怒ってはったんは自分らにも十分伝わったでえ。あーいった人種《タイプ》、姫は一等[#「一等」に傍点]嫌いやもんな。物腰やわらかそーにしてて、そのくせ、物事すとれーと[#「すとれーと」に傍点]にいわへんいう奴。あーいうんが一番始末に悪い詐欺師《くせもん》や」
――土門くんも、それなりに見抜いていたようだ。
「それもそうなんだけど、その林田が、あの大切[#「大切」に傍点]なMの証しを持ってるのよう」
「うん……持ってるなあ。そんなことはMの歴史始まって以来やろな。全然関係ない垢《あか》の他人が持ってるんやからなあ」
「しかも、それがMの証しだということを、林田《あいつ》は知ってるのねえ。それが大問題なのよう」
「確かに……それを知らへんかったら、単なる奇麗な三つ葉葵やねんけど、知ってると話は違《ちご》てくるぞ。そやけど、そもそも誰が教えたんや?」
と、土門くんは、右隣にいるマサトの顔を見やる。
「ううん、マサトくんを責めたって始まらないわ。あの林田[#「林田」に傍点]、あの後、Mに関してしつこく聞いてきたでしょう。要するに――知ってた[#「知ってた」に傍点]わけよ。どこから仕入れたのかは知らないけど。だから暴露《ばれ》るのは時間の問題だったから」
そういって庇《かば》ってくれたまな美に、マサトは邪気《あどけ》ない笑顔で応じた。
「――あかん[#「あかん」に傍点]。目茶苦茶あかんぞー姫」
真顔になって、土門くんがいい出した。
「あの詐欺師《はやしだ》が、あちこちにMの証しを持ち出して、今日みたいにMのことを聞きまくってごらんなされよ[#「らんなされよ」に傍点]。あいつのこっちゃから、そのMの証しの秘密を自慢げに吹聴《ふいちょう》しまくるのに決まっとんやからー」
その土門くんの推理は……一部当たっていた。
「Mの証しいうんは、謎が解けたときの衝撃度《いんぱくと》がものごっついから、それで皆が平伏《ひれふ》すわけやろう。その謎解きが知れ渡ってしもうたら、も単なる笑い草やで。これが目に入らぬかーまみむめもーいわれて。その謎解きが生命線やねんから、そこを暴露《ばら》されたら、Mの証しの魔力[#「魔力」に傍点]は消えてしまうぞう」
「そう、土門くんのいう通りなの。そしてもしMの証しが知れ渡っちゃうと、Mそのものが危ない」
「うん、いえるいえる。Mの証しがあってこそのMやもんな。すると……Mという魔法[#「魔法」に傍点]が、この学校から消えてしまうやないか……」
悲しげに、土門くんはいい、
「こーいった御伽噺《おとぎばなし》が実在[#「実在」に傍点]しとんのは、世界広しといえども、埼玉の|M高《ここ》ぐらいねんやろうから、それこそ世界遺産に登録して保護してもらうべきやー」
その大袈裟で高尚な冗談《じょーく》に自ら納得し、土門くんは腕組みをして、むん、むん、と頷いた。
「だから、こうやって土門くんと、マサトくんに相談をしてるのね」
あらたまった口調で、まな美はいう。
「……むん。姫のお話は重々分かりましたよ。そうやけど、その具体的な相談としては、うちらに何をご所望《しょもう》で?」
「それはもちろん、あのMの証しを取り返す方法を考えて欲しいのよ」
「そっ……そんな無謀なあ」
土門くんは、椅子の背凭《せもた》れにのけ反っていう。
「歴史部の辞書には不可能はないって、さっき土門くんいったじゃない」
「そ、それとこれとは……相手がいかに気に食わんいうたかて、あっちは警察ですよう。形は違《ちご》てはるけど、あそこも菊の御紋やでえ」
……さも、三つ葉葵紋は勝てないようにいう。
「だから余計に置いとけないのよ。Mの証しは神聖なものでしょう。それを警察のような、血腥《ちなまぐさ》い、男臭い、邪《じゃ》の権化《ごんげ》みたいなところには」
さ、さすがは姫……邪の権化[#「邪の権化」に傍点]とはまた手厳しい表現だと土門くんは感動[#「感動」に傍点]しながらも、
「ふうん、姫のお気持ちも、分からへんこともないこともあらへんけどもなあ」
……まどろっこしくいう。
「だったら、警察《あそこ》から取り戻す、何かいい手を考えてよう。あのMの証しを使って、警察《けいさつ》の皆で寄って集《たか》って、わしがMだ、ひかえおろう、てMごっこをやってるに違いなんだからー」
そのまな美の推理は、いや、予言は……当たるかもしれないが。
「そのMの証しは、学校ができたときからあって、人から人へと、代々大切に手渡されてきたものなのよ。この学校が平和でありますようにって……それはMだけじゃなく、学校中の皆の願いが籠もってるのよ。けど、そんなことは警察《よそ》の人たちには分かろうはずもないでしょう。だから、警察《あそこ》でなくても置いとけないの。あのMの証しは、この学校のこころ[#「こころ」に傍点]なんだから」
涙ぐみながらも、まな美は毅然《きぜん》とした態度でいった。
「学校のこころかあ……」
土門くんも感銘を受けたようで、
「やー、姫の話はいつ聞いても、胸にじーんとくるなあ。自分は今日の姫のお言葉は生涯忘れへんで」
……最大限持ち上げておいてから、
「そうやけど、その生涯忘れへん話と、Mの証しを警察から取り返すという話の間には、これほどの、これほどの距離感[#「距離感」に傍点]がー」
と、二メーターに垂《なんな》んとする腕を左右に伸ばし、その距離感とやらを体現[#「体現」に傍点]して土門くんはいう。
「んもう。ねえねえマサトくん、何かいいアイデアない?」
そんな土門くんに見切りをつけ、まな美はいった。
マサトも、問われるまでもなく、先ほどから、そのまな美の難題を考えてはいたのだ。人の頭脳と、そしてアマノメの神の力を使って。
簡便な方法がないわけではなかった。
竜蔵《じい》に頼めばよいのである。どこかに|連絡をし《てをまわし》、そのMの証しは忽《たちま》ちにして取り戻してくれることだろう。
だが、そういった手段には訴えたくはなかった。マサトも、この学校のこころの一部なのだから。
※
――南署の閑散《がらーん》とした三階の大部屋に、鑑識課の岩船係長が姿を現した。
相変わらず、刑事課には依藤係長しかいない。
が、岩船は、その依藤にも負けず劣らずに顔色が悪そうで、猫背になり、足を引きずり引きずりするように歩いて来る。精根《せいこん》尽き果てたといった感じだ。そして依藤の隣まで来て、
「あー驚いた、驚いた驚いた驚いた驚いた驚いた驚いた驚いた驚いた驚いた……」
まるでお経か呪文のように唱えながら、ヘチャと崩れ落ちるように椅子に座った。
「何に驚かれたんですか。朝は、感動した感動した感動した感動しただったですけど」
そういう依藤の声にも力強さは微塵《かけら》もなく、あたかも、通夜《つや》の座談《ふたり》のようでもある。
「やー驚いた驚いた驚いた驚いた驚いた……」
嘆息《ためいき》まじりに、なおも岩船は暫《しばら》く呟いてから、
「……けどさ、とりあえず、よりさんに報告しとかなきゃならないことだけはいっとこうと思ってさ、ここまで這《は》って来たよ」
それは説明されなくても、依藤にも雰囲気は重々分かるが。
「どこか、お体の調子でも悪いんですか?」
「お体の調子? うーん、それはたぶん大丈夫だと思うけど、ついさっきまで仮眠室で横になってたのは……事実ね」
「あ、てっきり、例のMの証しでもお調べになってるんだと思ってたんですけど」
「いや、署に戻ってからは何もしてない。そんなの放《ほ》ったらかし」
……二の次三の次といわんばかりに岩船はいい、
「えーまず、驚いた驚いたの、ごくごく些細なことから報告するね。よりさんさ、あの最初の、学校の裏山から白骨死体が出たとき、現場で発見者から話を聞いたよね。そのときにさ、白衣を上品そうに羽織っておられた、初老の先生がおられただろう」
「ええ、たしか東《あずま》先生ですよね。生物部の顧問の」
「あ……やっぱりか」
「え、何がやっぱりなんです?」
「自分もそう思ってたんだけどさ、植井が事情聴取してたときに小耳に挟んだから……で今日行ってみると、その東先生が出てこられて、自分《わたくし》が校長先生だとおっしゃるんだよ。自分は発覚《ばれ》なかったんだけどね、あの日は作業服《つなぎ》に帽子だったし、それに喋ってないからさ。で、もはや時すでに遅し[#「時すでに遅し」に傍点]と思うけど、失礼[#「失礼」に傍点]はなかったよね、よりさん?」
「んなこと今時分に……」
もう十分に時すでに遅しだ。
「その東先生は、確かに生物部の顧問もなさってて、それに一年生の生物の授業も持っておられるそうだ。何でも、できるだけ生徒さんと直《じか》に接する、それがその校長先生の方針とのこと。とっても、いい先生のようだよ。まあ、そんな些細な話は置いといて」
……そういわれれば、その彼と裏山で会ったとき、肩書の一部を|伏せられた《はしょられた》ことを依藤は思い出した。それが、まさか校長先生だったとは。
「じゃ……次ね[#「次ね」に傍点]」
岩船は、過去に沈溺《ちんでき》しかかって(すなわち現在から逃避したがって)いるらしい依藤を促していい、
「驚いた驚いたの二番目は、今日の朝にもいったと思うけど、歴史部のことね。昨日の文化祭では、ほんと[#「ほんと」に傍点]に感動したんだわ。あの種の話であれほど感動したことはなかった。どんな話かというとね、人が死ぬと霊[#「霊」に傍点]になって、その霊だけが通るという細い霊[#「霊」に傍点]線に導かれて、とある高僧が霊[#「霊」に傍点]地だと定めたお寺にまで行くのさ」
依藤は、うっ……と顔を顰《しか》め、鳩尾《みぞおち》あたりに手をあてがった。その種の話は骨身《はーと》に染み入るようだ。
「そんな話を聞いただけじゃ、まるで御伽噺だろう。けど、歴史部《かれら》は、驚くべきほどの綿密な歴史調査でもって、それが実話であったことを、ものの見事に説明仕切ってくれるわけさ。だから感動したんだけどね」
「じ……実話なんですか」
岩船のいっている実話[#「実話」に傍点]と、依藤のそれ[#「それ」に傍点]とでは意味合いが若干異なるようだが。
「ところがさ、歴史部が昨日してくれた話は、あれはお客様用だったんだな」
「お客様用とは?」
「自分らにも分かるように、説明してくれたの」
……自身の顔を指さして岩船はいってから、
「今日はさ、例の、よりさんもよくご存じの娘さんが、林田の話のもっていきように怒っちゃったらしく、どこか別のところにでも歯車《ギア》を入れて喋り始めたんだな。すると、すっ……ごい話で」
「それ、林田がさっぱりだといってた話《やつ》ですよね。さすがに岩船さん、お分かりになったんですか」
「……まさかまさか。林田は単語にすらついていけなかったろうと思うけど、それでも自分は、その娘さんが使ってた言葉の八割ぐらいは分かったんだよ。けど、その話の筋[#「筋」に傍点]となると、まっ……たくといっていいほど、理解できなかったんだ」
「それ、怒って、口から出まかせでも喋られたんじゃないんですか?」
「ちがうちがう。後《あと》の部員はその話を理解してたんだからさ。歴史部員というのは三名ね。その部長をやってる背の高い彼氏が、自分らに気を遣って注釈してくれたりもしたんだけど、途中から、それも諦《あきら》めちゃった。つまり自分らにはまったく理解不能な話が、歴史部の日常会話[#「日常会話」に傍点]なわけさ。信じられないと思うけど、これも実話ね」
「いや、その話だったら信じられますよ」
依藤としては……信じたくない話が別途[#「別途」に傍点]ある。
「でさ、今日聞いた、その歴史部《かれら》の日常会話の方だけど、理解できないなりにも、何について喋ってるかぐらいは仄《ぼん》やりとは分かったのね。それは、神や祟り神のような畏怖《いふ》の存在と、古代の人たちはいかにして折り合いをつけていったのか、たぶん、そんな話なんだな」
……林田のそれと比べると格段の差だが。
「でなぜこんな話をするかというと、この後[#「後」に傍点]にする驚きの話と、いや、それは驚きというより怖い話で、それと関係ありそうだと思うからなんだけど……」
岩船は、消え入るような声でお断りをいい、
「でさ、その折り合いをつけるのに、鏡だとか、あるいはみずかがみ[#「みずかがみ」に傍点]……だとかもいってたけど、それは何のことだかは不明ね、そういったのを使うらしい。けど、そのふたつは同じ[#「同じ」に傍点]であり、のくせに決定的に違って[#「違って」に傍点]もいるらしく……そんな話をさ、『古事記』と『日本書紀』を例に引きながら、おそらく邪馬台国《やまたいこく》論争も加えて、そして古語を混ぜながらわ[#「わ」に傍点]ーと喋り捲るわけよ」
といってから岩船は突如、ふっ、と後ろを振り向いた。そこは人気《ひとけ》のない三階の大部屋だ。そして依藤に向き直ると、何事もなかったかのように、
「……で、自分が思ったのは、そういった複雑な古代史の話をしてるんだけど、その彼女の視点[#「視点」に傍点]が、どうも違うらしいんだな。通常の歴史家の視点《それ》だとは思えないんだよ。だから、彼女の言葉を百パーセント分かる日本史の大学教授が聞いたとしても、おそらく、同様に理解できなかったもしれない。これは負け惜しみじゃなく」
「なるほど……」
依藤は、その視点の正体だけは分かった。それは彼女の兄貴……いや、おあにいさま[#「おあにいさま」に傍点]の視点だ。
「そういった、驚くべき話を語れる娘さんね。そして背の高い彼氏も同じくらい優秀ね。学校の成績は確か……十三番だといってたから。そして昨日と今日、内容は異なるけど、まずいかなる専門書にも絶対に出てこないような話を聞かせてくれた。実に驚いた驚いたの世界だった。けど、いかに驚かされたとはいえ、そのふたりは人間《にんげん》なわけさ」
「に……人間とは?」
依藤は聞き返す。
「……よりさんさ、これから自分が話す話は、俺が感じたことを有《あ》りの儘《まま》に話すけど、……与太だとか、御伽噺だとか、あるいは気が触れただなんて、そんなこと思わないでね」
真剣な表情ながらも、岩船は、何かに怯《おび》えているかのようにいう。
「もちろんですよ。岩船さんがそんなお人じゃないことは、重々存じてますよ」
……罪のない冗談こそは頻繁《ひんぱん》にいうが。
「じゃ、話すけど……歴史部には三人いるよね。その彼女と彼氏以外に、もうひとり[#「ひとり」に傍点]。そのもうひとりは、天目マサトくんという。天の目と書いて天目《アマノメ》ね。ちょっと信じられないくらい稀《めずら》しい名前さ」
「それは、無口な子なんで、林田は無視したといってた子ですよね」
「ま……そりゃそうだろうな。林田は自分の話術に一生懸命だったから、何にも気づいてないだろう。けど、俺はほとんど喋ってなくて、傍観者《オブザーバー》として観《み》てただけだから……」
「その、天目くんをですか?」
「いや、最初は漫然とだったんだけど、おかしい[#「おかしい」に傍点]ということに気づいてからは、その彼だけを注意して観てたのね……」
いってから岩船は、またもや後ろを振り返った。誰かの目[#「目」に傍点]を気にしているかのように。
「……よりさんは刑事だろう?」
「も、もちろんですが」
「林田も刑事なわけさ。……自分はよりさんとは長いつき合いだから、刑事《よりさん》がどんな尋問の仕方をするかは、大体は見当がつく。知りたいことがあっても、そんなこと曖気《おくび》にも出さずに、周りからじわじわ聴いていくだろう。そして先に外堀を埋めといてから、どうだー、て本丸を突くわけ」
「まあ、そんなところですかね」
「林田も、まったく同じことやるんだ。もちろん、よりさんと比べりゃひよこ[#「ひよこ」に傍点]同然だろうけどね。その林田が外堀の話を始めると、俺だったら分かるわけさ。あ、聴きたいことは別にあるんだな、てね。でそういったときさ、その天目|少年《くん》の顔が、ひゅ……て変化するんだな。うまく説明できないんだけど、ともかく顔の表情が変わるんだよ。そして林田が、いよいよ核心部分を、どうだー、て聴くだろう。すると彼女と彼氏は、うわーと驚いて狼狽《うろた》えるわけさ。それは当然だな。ところが、そういうときには、その天目|少年《くん》だけは、しらーと白けてるんだよ。今さら何いってんだ、この間抜け[#「間抜け」に傍点]……みたいな顔して……」
「それって、岩船さんの考えすぎ、てのは失礼《あれ》ですから、単に鈍感《どんかん》な子じゃないんですか?」
「いや、ちがうちがう。それはよりさんも見たら即《そく》分かるから。線が細くて、いかにも繊細そうな子さ。それに成績もいいんだよ。二十番ぐらいだったかな。ところで、あのMの証しの件は、よりさんは聞いた?」
「ええ、林田から。かなり細々とした分析までも。けど、謎解きを聞いちゃうと、なんだか馬鹿らしいぐらいの、所詮、なぞなぞの幼稚度《レベル》でしたよね」
自身……それが解けずに迷宮[#「迷宮」に傍点]に入ったくせに。
「ま、分かってみるとそんなものさ。けど、はたして彼[#「彼」に傍点]の場合はどうだろうか……でさ、そのMの証しだけど、事情聴取のときに、それがMの証しであると真っ先にいい出したのは、外《ほか》ならぬ、その天目|少年《くん》なんだよ」
「あっ、じゃあ彼が、そのなぞなぞ[#「なぞなぞ」に傍点]を解いたわけですね」
「と……思う?……よりさん?」
「うん? 何のことですか?」
「俺はさ、後で林田に確認をとったんだけど、林田は、俺が松平さんの件を話した直後に、大円卓《テーブル》に置かれてあったそれ[#「それ」に傍点]が、Mの証し[#「Mの証し」に傍点]だということが解けたそうなんだ」
「ええ、ん[#「ん」に傍点]なこと林田もいってましたね。瞬時に解けたって。それもこれも、みーんな岩船さんのお陰だって」
その、余りにも根《こん》を詰めた岩船の話ぶりに少々水を差すべく、依藤は鈍刀《なまくら》な口調でいった。
「そんなこたぁどっちだっていい」
水入りは拒絶され、岩船は真剣そのものでいう。
「林田が瞬時に解けたのは、頭のどこかにそのことが強烈に引っかかってたからだろうね。で謎が解けた林田は、例によって外堀から始めるわけさ。皆さん僕の昔話につき合ってくれます。今から四、五年前のことですが……といった遥《はる》か彼方《かなた》の外堀からね。それはまあ止《や》むをえないんだ。林田としてはMのことを聴きたかったわけだけど、そのMをなぜ知ってるのか、そのあたりから説明しないと、歴史部だって不審がるだろうからね。でその外堀の話をしていて、まだMのえ[#「え」に傍点]の字も出てないような段階で、その天目|少年《くん》が、バーンと大円卓《テーブル》を叩いたんだ。林田の話が中断して、一同が注目するよね。するとその彼が指さし、Mの証し、と断言したわけさ」
「……じゃ、そのときに解けたんじゃないんですか。そのテーブルを叩いたときにでも?」
「いや、ちがうんだ。俺はその少年だけをじーと観てたんだからさ。その観てた俺[#「観てた俺」に傍点]がいうんだよ。彼は頬杖をついていて、その手を、そのまま落として叩いた。そのときの顔はさ、何かを閃いたような顔じゃなかった。明らかに、怒った[#「怒った」に傍点]顔をしてたんだよ」
「怒ったって……何に怒ったんでしょうか?」
「それはもう、彼は林田に怒ったんだ。以外には考えられないよ」
「ええ? 林田に[#「林田に」に傍点]……ですかあ」
依藤は控えめに驚きながらも、岩船のいわんとしていることは大筋で理解した。が……んなこと俄《にわか》には信じられる話ではない。岩船《かれ》の鋭い観察眼には一目《いちもく》も二目《にもく》も置いているとは雖《いえど》も……だ。
「それに、天目|少年《くん》は怒っただけじゃないよ。林田が謎を解いているにも拘《かか》わらず、それを伏せて話を進めていることを、後のふたりに教えようと、彼は先廻りして、それがMの証しであることを暴露《ばら》したんだ。俺には、そうとしか考えられない」
「そ、そんな複雑[#「複雑」に傍点]な構図[#「構図」に傍点]……」
と依藤はいったものの、岩船の見立て[#「見立て」に傍点]が正しければ、そういった考え方もあり[#「あり」に傍点]のようには思える。けれど、その元となる見立てが|信じられない《うけいれられない》以上、
「えー何ですってえ、林田が気づいたということを、その少年が気づいてたかもしれない……ですかあ」
まるで心霊戦争[#「心霊戦争」に傍点]だと感じながら、
「けど、それらのことに岩船さんはお気づきになったんでしょう。てことは、岩船さんとその少年は同じ[#「同じ」に傍点]で、つまり、その彼も岩船さんと同程度の鋭い観察眼を持っていた。そんな話じゃないんですかあ」
……わざと綯《な》い交《ま》ぜにして、依藤はいった。
「観察眼[#「観察眼」に傍点]、いや、その種のものじゃないと思うな」
岩船は、なおも真剣に受け答えをする。
「その天目|少年《くん》は、先生もチラッといってたけど、学校では殆《ほとん》ど口を利かないそうだ。そして今思うと、結局、今日の事情聴取でも彼がいったのは、その、Mの証し、ひと言だけだったからね。俺には、なんか分かるような気がする……実は、喋れないのかもしれないって。彼が口を開くと今日みたいに周りを混沌[#「混沌」に傍点]とさせてしまうから……少なくとも、俺は大いに[#「大いに」に傍点]混沌としたからね。だからおそらく、彼の日常[#「日常」に傍点]は、彼の生きている日常そのもの[#「そのもの」に傍点]が、よりさんがいったような複雑[#「複雑」に傍点]な構図[#「構図」に傍点]になってんのかもしれない」
――そもそも、鑑識課の岩船係長が事情聴取に同行したのは、依藤の強引な推挙があったればこそである。並の刑事とは違って、別種の観点から物事を見られる人だから、といった理由で。その依藤の閃きは、|今回も摩訶不思議にも《またしてもあくまのおみちびきか》当たっていたわけだ。
その結果、図らずも、アマノメの神の片鱗《へんりん》を垣間見てしまった岩船は――いう。
「その天目|少年《くん》の異常《こと》には、歴史部の後のふたりは気づいてないようだ。とくに背の高い彼氏は、その彼の頭でもパチーンと叩きそうな、そんなごくごく普通の友達として接してた。けど、その歴史部は[#「歴史部は」に傍点]といえば……神や祟り神といかにして折り合いをつけるか、その種の究極論が日常会話なわけだよ。それはどう足掻《あが》いたって説明不能だけど、それこそが、いわゆる偶然[#「偶然」に傍点]の暗合[#「暗合」に傍点]だと俺には思えるね」
「ふむ……暗合ですかあ」
無論、依藤にも徹頭徹尾理解不能だが、その岩船の話には異様[#「異様」に傍点]な説得力[#「説得力」に傍点]を感じた。
「それにさ、よりさんも嘆いてたじゃないか。|M高校《あそこ》には、女子生徒が人を呪ったり、裏山に首なしの白骨が埋まってて、それに絡む幽霊が出たり、そして今回は巫女さんの失踪と、そんな奇妙な事件ばかりが起こるって……思うにさ、学校にその天目|少年《くん》がいることが原因じゃないのかな」
「原因……」
「というより、元凶[#「元凶」に傍点]ね。彼が、それらの事件を呼んでるんじゃないのかな」
「呼んでる……ですかあ」
依藤は、暫く忘れていたM高の旧校舎にまつわるあの忌まわしい林田の説明が脳裏をかすめ――
「だったら、その彼が、悪霊[#「悪霊」に傍点]の親玉[#「親玉」に傍点]だとでもいうんですかあ?」
――少し切れ[#「切れ」に傍点]ぎみにいった。
「いや、それはね、よりさん、神と祟り神には差異はないんだよ。天使が空から落っこちてくれば堕天使《だてんし》だけど、それすなわち悪魔だろう。この種のものは表裏一体なんだ。それを神と崇《あが》めるか、それとも悪霊と見做《みな》すかは、人さま[#「さま」に傍点]の判断による」
「じゃ、俺の判断では悪霊[#「悪霊」に傍点]ですね。だったら、その彼をふん[#「ふん」に傍点]縛りさえすれば、抱えてる難事件はすべて解決しそうですか? いかがです岩船さん――」
かなり切れているが、半ば本気[#「本気」に傍点]で依藤はいう。
「いや、よ、よりさん」
そんな依藤を制し、そして窘《たしな》めて岩船はいう。
「そういった考えだけは、金輪際[#「金輪際」に傍点]、捨てた方がいい。学校からの帰り際にさ、どんな素性の子なのか聞いてみたのよ。けど守秘《ガード》が固くって、唯一分かったのは、一年生の二学期に、中途から入ったってこと。そんなこと普通考えられないじゃないか、あの難しい受験校に。よほどの縁故《こね》があったんだろうけどさ。だから手出しをすれば首が飛ぶ、といった次元《レベル》ですらなく、この世から抹消[#「抹消」に傍点]されちゃうと俺は思うな」
「そっ……そんな大袈裟な」
「いや、それはよりさんが会ってないからさ。その彼と直《じか》に会ってみれば分かるよ」
いってから岩船は、ふっ、と身を竦《すく》めた。後ろを振り返りたいのを我慢しているかのように。
「……まだ、話してないことがひとつあるんだ。けど、よりさんは信じてくれそうにないよね」
諦めたように、弱々しい声で岩船はいう。
「いえ、俺は岩船さんの話は、それなりにちゃんと拝聴してますよ」
……信じられない、というより、信じたくはない[#「信じたくはない」に傍点]、それが依藤の正直な気持ちだ。
「自分は、お寺とかを訪ねたりするだろう。あれはさ、信心深いわけじゃなく、そこに祭られている仏や神を、眺めに行ってたわけさ。お寺にも神さまがいるんだよ。その神もかつては悪霊で、お釈迦《しゃか》さまの教えに感化されて、善神に転じたという神ね。だから決まって、物凄くこわい[#「こわい」に傍点]忿怒《ふんぬ》の形相をしていて、だいたいが額の真ん中にも、もう一個目があるんだ。そんなお像を眺めながら、ふんふん、て訳知り顔して合点《うなず》いてたのよ。そういった神が、過去に実際に存在してたんじゃないか、とぼんやり思いながらね。つまり憧れてたわけさ。けど、自分はそういった疑似体験[#「疑似体験」に傍点]だけでもう十分[#「十分」に傍点]だわ。その実物[#「実物」に傍点]なんかとは、金輪際[#「金輪際」に傍点]、会いたいとは、思わない[#「思わない」に傍点]」
そんな決意のほどを岩船は語ってから、
「そのMの証しの件があった以降もさ、俺はじーとその天目|少年《くん》のことを観《み》てたんだ。するとさ、その子が俺の方に目を向けたんだな。それまでは、主に林田の方を見てたんだけどさ……それも、凝視《にらむ》ってほどじゃなく、少し斜交《はすか》いみたいにしてね。そして俺と目が合ったわけさ。その瞬間、俺は心臓が止まるかと思った。真面《まじ》で死ぬかと思ったよ」
その心臓のあたりを手で摩《さす》りながらいう。
「その子は……そんなにこわい[#「こわい」に傍点]目をしてたんですか。その、かつては悪霊だった神みたいに?」
「いや、今思い出しても全然そんな目じゃなかった。むしろ弱々しくて、優しそーな目さ。それに睨まれたからって、その子は触《さわ》れば折れそうなほどに脆弱《ひよわ》な感じの子だから、怖かろうはずもない。いや、そういったことじゃないんだ……」
と岩船はいったが、続きを語ろうとはしない。
「じゃ、どういったことなんですか?」
その重たい口を抉《こ》じ開けるべく、依藤は促す。
「うーん、これもうまく説明できないんだけど、そのときにさ、自分の頭ん中で、何か風みたいなものがしゅるしゅるーと舞って、その風が頭の外へす[#「す」に傍点]ーと抜け出して行くような……そんな感じがしたんだ」
岩船は……震え声でいった。
「何ですってえ、だったら、それは魂を吸い取られてる話じゃないですか!」
自身そんな体験があろうはずもないが、依藤は断言していう。
「まあ、そうなのかもしんないけど……何にしても怖くてさ、怖くて怖くて、その後はもうずーと俯《うつ》向いてて、ただただ震えてたのね」
……ッ、依藤は舌打ちしてから、
「それはいったい何だというんですか? 化け物《もん》ですかあ? 人の心を喰う悪霊ですかあ? さっきの岩船さんのお言葉に逆らうようだけど、刑事《おれ》としては、そいつとは是《ぜ》が非《ひ》でも対峙[#「対峙」に傍点]しなきゃ――」
自暴自棄ぎみに、空《から》元気で、空《から》威張りでいう。
「――いや! それだけはよしてくれる。よりさんが突っ突くと、こっちまでとばっちり[#「とばっちり」に傍点]が来るじゃないかー、その子の秘密を暴露《ばら》してんのは俺なんだからさー、その俺は今んところは生きてんだし、そっとしといてくれるう」
それが、岩船の本心であろうか。
「じゃ、自分にどうしろというんです? 話すだけ話しといて……」
「いや[#「いや」に傍点]、放っとけばいいのさ。自分らとは住んでいる世界が、そもそもちがう[#「ちがう」に傍点]んだから。見て見ぬふりをするのが、人さま[#「さま」に傍点]の賢いやり方。自分もよりさん以外には喋る気はないんだし」
「……ッ、どこに住んでるかはしりませんけど、相手は学校に通ってる子供《がき》じゃありませんか。岩船さんが神経質になっとられる気持ちも、分からなくはないですけど……」
そういう依藤とて、負けず劣らずにその種のことには過敏状態なのだが。
「その彼が住んでるのは、この世[#「この世」に傍点]じゃないことだけは確かさ。俺たちは、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、それで感じられるだけの世界に生きてる。それがこの世[#「この世」に傍点]だ。でも彼はちがう、あの世[#「あの世」に傍点]の住人さ。幽霊の国にでも生きてるのさ」
「ゆ……幽霊の国……」
その言葉は依藤の琴線に触れた、ならぬ、心臓《ハート》を直撃したらしく、鳩尾を激しく摩《さす》りながら、
「うっ、くっ、くっ、くっ、うっ」
――顔を伏せて嗚咽《おえつ》を漏らし始めた。
「よりさん、そんなに自分の話おかしい」
勘違いして岩船はいう。
「いえ……そうじゃなくって……」
依藤は、蚊の鳴くような声で、
「じゃどうしたの? 笑ってるの?……泣いてるの?」
「い、いわふねさん……最近、自分のまわりにも、ゆ……幽霊がでるんですよう……」
[#改ページ]
13
――トン。
添水《そうず》のほどよい高音が、森の屋敷の中庭に響いていた。竹に罅《ひび》が入っていて雑音ぎみだったのを、最近、竜蔵が真竹《まだけ》で作り直したものだ。だからまだ青竹の色を残している。
「……して、どうなさりますか?」
その中庭に面した縁側に座し、重々しい声で受け答えをしているのは桑名|政臣《まさおみ》である。――陰《かげ》の頭領で、竜蔵や竜生のように名前に竜[#「竜」に傍点]がつく本家以外の桑名家を束ねている。
「うーん、どうしたものかのう……」
片や竜蔵は、座敷に置かれた電気|炬燵《こたつ》の中に足を投じている。ここは、母屋《おもや》にある北向きの八畳間《こべや》で、それに夕暮れともなると少し薄ら寒い。
「……あの裏山の白骨とはちごうて、これは生身《なまみ》の事件であるからな……」
「ですが、氏子の頼み事でもないものに、アマノメの御[#「御」に傍点]神さまが、乗り出されるのも如何《いかが》かと」
――トン。
中庭には、枝振りのいい松の木や、銘がついていそうな立派な岩や、そして蓮《はす》が浮かぶ池もあって、鯉と金魚が泳いでいる。
「じゃがなあ、このまま捨て置くわけにもいくまいて。それにこの件では、アマノメさまにも火の粉が飛んできそうな、そんな雲行《くもゆ》きでもあるし」
――もちろんのことマサトは、今日学校であった南署の事情聴取の話や、その際に見えた[#「見えた」に傍点]ものはすべて竜蔵に語っている。
「ならば、また、お引っ越しなりをと……」
「いや、それはさせとうないわ。あの子も今の学校が気に入っておる。それに、次の引っ越しとなると、本家に戻って来い、そのような話になるのは目に見えておろう。竜生ひとりならまだどうとでもなるが、竜作《りゅうさく》はやっかいじゃ」
その竜生の父親で、桑名本家の次代の長《おさ》である。今はまだ竜蔵の兄の竜嗣《りゅうじ》が健在ではあるが、八十歳を超えている。
――トン。
中庭を挟んで見えているのが、離《はな》れの平屋建だ。三週間ほど前にあったお披露目[#「お披露目」に傍点]の宴[#「宴」に傍点]では、その離れの書院座敷が使われた。間仕切りの襖《ふすま》をすべて取っ払うと畳六十帖敷きほどの大広間になる。
「ですが、アマノメの御[#「御」に傍点]神さまが完全にお目覚めになられた今となっては、本家の誰であられようとも、惧《おそ》るるに足らぬかと――」
薄ら笑いを浮かべながら政臣がいった。
が、竜蔵は黙したままで、それには何の反応も示さない。
アマノメの神はすべてを見通せる……わけではないからだ。何が見え、何が見えないかは竜蔵しか知らぬこと。つまりそういったことが、桑名の次男にのみ口伝《くでん》される〈アマノメの秘密の儀〉の核心でもあるのだ。たとえ腹心の政臣と雖《いえど》、迂闊に喋るわけにはいかない。
「ふーん、あの方にでも、ご相談してみましょうかのう」
話題を変え、口元を少し綻《ほころ》ばせながら竜蔵がいった。
「また、あの方ですか」
政臣にも、それがどの方[#「どの方」に傍点]かは分かったようだが。
――トン。
ちょろちょろと、水の流れの音もする。
[#改ページ]
14
翌、十一月五日になると、占い部の三年生の女子生徒、太田多香子、失踪の噂はまたたく間にM高校じゅうに広まった。
迅雷《ドッカーン》があると直後に学校からは人が消える、それは裏山の神隠しの森[#「神隠しの森」に傍点]のせい……そんな非合理な話や、早くも、旧校舎には巫女さんの幽霊が出る、といった不謹慎な噂《デマ》までもが囁かれる始末である。
加えて、つい最近、|学校の裏山《かみかくしのやま》から首なしの白骨死体が発見され……たにも拘わらず、それは、さるやんごとなき[#「やんごとなき」に傍点]お方の骨だったので発表が伏せられている、いやいや、それは生物部が骸骨《ガイコツ》ごっこ[#「ごっこ」に傍点]に使っていた初代の人体模型、なんのなんの、実は縄文人の骨だった……そんな虚実入り乱れた噂が、ごちゃ混ぜになって駆け巡っていた。
というのも、昨日の事情聴取では、警察《はやしだ》が生徒たちに口止めを要求しなかったからで、さらに、南署の交通課一係による裏山の徹底捜索の物々しさが、学校の側からも見えたからだ。――失踪と裏山とを関連づけて考えるな、という方に無理がある。
その捜索結果は、依藤の閃きは|今回ばかりは《さいわいにも》外れたらしく、裏山からは異常は発見されなかった。その後は婦人警官が数名(夜は男と交替)、裏山の学校側を常時巡回していて、裏山への生徒たちの出入りも禁止となった。
けれど、功罪の功[#「功」に傍点]の側面もあり、学内に噂が浸透したことで、太田多香子の足取りの空白域を埋める貴重な目撃者が現れた。それは薙刀《なぎなた》部の女子部員たちで、その出店(アメリカンホットドッグ)付近にいた太田多香子を、ちょうど夕刻・五時を知らせる鐘の音が鳴っていた頃に見たという。その際、彼女と直接話をした女子生徒もいて、それも同じく薙刀部の三年生だが、その女子がいうには――
林田は、生駒とともに、文化祭のん[#「ん」に傍点]千人の来賓客|名簿《リスト》からの不審者の洗い出し[#「洗い出し」に傍点]、及び、|巫女さん《おおたたかこ》が歴史部から攫《さら》った客の捜し出し[#「捜し出し」に傍点]を最優先でやっていて学校には出向けず、電話での事情聴取だったが。
――太田多香子と立ち話をしたのは、せいぜい一分かそこらで、その話の中身も、今日は最高の人出だとか、ともに三年生で最後の文化祭だから残りを|楽しもう《エンジョイしよう》とか、そんな挨拶程度であったという。そのときの彼女は巫女さん姿ではなく、普段服で、手にはハート柄の小袋《レスポール》を持っていたことも覚えていた。つまり占い部の部室で着替えた後で、例のコートは携えていないが、それなりの外出ではあったようだ。そして、その後太田多香子は、その出店の前を行く大勢の人の流れの中に消え、たぶん大講堂の方に向かったのでは……程度のことしか分からないという。それは無理もなく、ちょうどそういった時間帯だからだ。けれど、薙刀部の出店から二十メーターも行けば『受付』の天幕《テント》、つまり学校の正門であり、その後、彼女が外に出た可能性も依然として残っている。もっとも、その女子の話では、これから彼女が外に行くとか、あるいは、連れが近くにいたような雰囲気もなく、まったくの独りで薙刀部の出店に立ち寄ったとのこと。
林田は、その話を聞きながら、太田多香子はなぜ、そんな旧校舎から最も遠い出店にまで、買い物をするわけでもなく、雑談程度に出向いたのか? 他の占い部員たちに断りもなく独りで大講堂に行くというのも変だし? そのあたりが釈然としなかった。が、ひょっとして、その薙刀部の三年生の女子も、Mではないだろうかとも閃いた。M同士で急な相談事でもあって彼女が出向いて来た……なら筋は通るからだ。もっとも、電話では話してくれそうにはないので、それは直に会ったときにでも突こう[#「突こう」に傍点]、そう思って林田は受話器を置いた。
そして翌、十一月六日の朝、その太田多香子失踪事件は劇的な展開を見せることになる。
「た、大変でーす! 依藤係長――」
少年課の林田刑事が通路から大声を飛ばし、刑事課に駆け込んで来た。
その当人はというと、――もう何があっても驚かんぞ! そんな決意を漲漲《みなみな》ぎらせた忿怒《ふんぬ》の形相で出迎える(善神に転じる以前の悪霊のそれ[#「それ」に傍点])。
「さ……さきほどですね、太田多香子さんの自宅《いえ》に、犯人から連絡が入りまして」
息を切らせて、林田はいう。
「な、何だとー、営利誘拐だったのか!」
――依藤の読みに反して、所沢署の敷いた布陣、つまり閃きが当たっていたようだが。
「いや、え、営利といえるかどうかは……」
なおも荒い息で、林田はいう。
「犯人から接触があったら営利《それ》以外に何があるんだ。それにだ、そんな重要なことを、なぜ[#「なぜ」に傍点]俺じゃなくて、少年課の林田《おまえ》にいってくるんだよ。所沢署は――」
自身の読みが外れていた怒りを、依藤は林田にぶつけていう。
「いえ……もちろん、署長から署長を経由して、そして僕にですよ……」
林田は、息を整えてから、
「その、犯人の要求がですね、もう奇妙|奇天烈《キテレツ》でして、金銭ではないんですよ」
「じゃ、何だというんだ?」
「その、太田多香子さんを解放する代わりにですね、別の人間をよこせといってるんですよ」
「あーん、人と人とを交換しろってかあ、ここをどこの国だと思ってるんだ! 無法者《ゲリラ》がのさばってる無法地帯かあ――」
「いえ、僕もさっきまで所沢署と電話で話してて、同じことをいいました」
「――でだ、その犯人は、いったい誰と交換しろといってるんだ?」
「それがですね、またしても、私立M高校[#「私立M高校」に傍点]の生徒[#「生徒」に傍点]なんですよ」
その話を聞いた瞬間、依藤は、とある男子生徒の名前が魔[#「魔」に傍点]が魔[#「魔」に傍点]がしく脳裏に浮かんできた。
「歴史部には三人いるといいましたが、その中で無口で喋らなかった、文化祭の当日には休んでいた二年生の男子生徒で、天目マサトくん、その彼を差し出せというのが、犯人側の出した要求なんですよ」
案の定[#「案の定」に傍点]……と依藤は思いつつも、
「何だってえ、代わりに高校生をよこせだと! ん[#「ん」に傍点]なことできるわけがないだろうが!」
――声を荒らげて吐き捨てるようにいった。
が、岩船氏が真剣に語ったとおりで、やはりその彼が事件の元凶[#「元凶」に傍点]であったことを依藤は思い知る。
「もちろん、自分もまったく同じことをいいましたよ。ですが所沢署は必死で……というより、先方の親御さんが必死であられまして、その気持ちは分かりますでしょう。せめて自宅《いえ》の電話口に、犯人から連絡があった際、その生徒さんが出られるようにと、太田さんの家まで、その彼を連れて来てくれないか、というのが依頼の筋[#「筋」に傍点]なんですよ。だから少年課に話が来まして、そしてM高のことだから僕[#「僕」に傍点]なんですね。けど、僕にそんなこといわれたってえ……」
情けない声で林田はいうと、両手を挙げた。
「くっっっそう……」
火炎地獄の火山が大噴火を起こす前触れのように、依藤は、その青ざめた土気色の顔に青筋を何本も立て、地獄の主《ぬし》が武者顫《ぶる》いをするが如くに唸《うな》る。
しかも、その天目マサトには手出し無用、この世から抹消[#「抹消」に傍点]される。その岩船の言葉が異様[#「異様」に傍点]な真実味[#「真実味」に傍点]を帯びて依藤に迫ってくる。
「もっ、もう俺の手には、追えな――い!」
その悲鳴に似た大絶叫が、三階の大部屋じゅうに轟き渡った。
おりしも、朝の|打ち合わせ《ミーティング》を終えた直後だったので、刑事課・捜査課・防犯課のそれぞれには大半の課員たちがいる。
「ふーむ、係長がお手上げだったら、本庁にでも応応に来てもらうしか」
同じく刑事課の野村警部補(南署きっての怖面《こわもて》の刑事《デカ》)が、嘆息《ためいき》まじりに呟いた。
「なにをー、どこの警察だって同じだー」
依藤は、その元祖〈地獄の門番〉の彼に悪態をついてから、
「生駒! こっち来おーい!」
その野村の隣にいた彼を大声で呼びつける。
「は……はーい」
返事はしたものの、生駒はおっかなびっくりで、
「――生駒。日光の荒れ寺で会った、火鳥先生の顔を覚えてるだろう。おまえが助けずに、林道に置き去りにした先生だ」
「ええ……も、もちろんですけど」
「その先生をだな、今から大学まで行って、おまえが攫《さら》ってこい」
「え?……さ、攫ってくるんですか?」
「そうだ! 言葉どおりの意味だ。作戦をいうからな、おまえは今からT大学まで行って、文学部本館の中で待機《スタンバ》ってろ、そこで俺が電話を入れて先生を捕まえる、そうしながら携帯でおまえに連絡を入れるから、おまえはすかさず先生の部屋に突入する、そこでだ――」
依藤は、少し考えてから、
「おまえは、そこで土下座をする。――南署《うち》の係長が泣いてます、先生にお越しいただかないと死ぬと呻《うめ》いてます、何でもかまわないから適当にいえ。あとはひたすら丁重に、粗相《そそう》のないように、超VIP待遇で南署《ここ》までお連れしろ。署の一番いい車に乗って行け。――いいな、分かったか!」
「はっ、了解しました。けど……ご自分で行けばいいのに(依藤はそこ[#「そこ」に傍点]には行けない理由があるのだ)、それに……やっぱり攫ってくるだなあ」
生駒は無駄口を囁いてから、
「で……今からすぐに?」
「もちろんだ。警笛《サイレン》を鳴らしてすっ飛ばして行け。ただし大学内《キャンパス》に入ったら消すように。それに植井、おまえも一緒に行け。おまえは車に待機で、召使《ドアマン》に徹するように」
「はっ……」
刑事課の末席にいた植井刑事も驚いたように立ち上がると、ふたりして、そそくさと通路の方に。
「……けど、その先生とやらに来てもらって、何か、事がうまく運ぶの?」
「そうなんだ野村《のむ》さん。この難局を乗り切るには、その先生に縋《すが》るしかない。最後の頼みの綱《つな》だ。その彼が、いわゆる黒幕《キーマン》なんだよ」
――依藤は、ここ数日は決まって悪夢に魘《うな》されて目が覚めてしまい、そしてまんじり[#「まんじり」に傍点]ともできずに雀と烏の声を聞いていた暁方《あけがた》、ふと、あることに気づいたのだ。
例の、日光の荒れ寺で火鳥先生と鉢合わせをした際、その寺へと続く石段の手前に三台の車が停まっていて、色は……紺、ベージュ、紺。その真ん中で、あたかも警護されていたような国産高級《ベージュの》車には、その助手席からは、依藤も辟易《たじ》ろぐほどの堂々とした態度の初老の男が降り立ち、依藤に|頭を下げ《ガンをとばし》、さらにその後部座席には、和服の老人と、そして学生服姿の少年が座っていたのだ。その異様な光景は、今でも依藤の脳裏にしっかと記憶されている。
和服の老人は秘密組織の頭目かと、そのときは気になったものだが、今思うと、少年の方こそが問題[#「問題」に傍点]であったのだ。その彼が着ていた学生服は、M高のそれ[#「それ」に傍点]であったようにも依藤には思えてきた。しかも、見るからに繊細そうな、そして触《さわ》れば折れてしまいそうなほどに脆弱《ひよわ》な……といった岩船の人物評とも、思い返せば思い返すほどに重なってくるのだ。
それに、その天目マサトと同じ歴史部に妹がいるのだから、火鳥先生《おあにいさま》との接点も十二分にある。
それゆえ、今回の最後の頼みの綱は、今までになく太い[#「太い」に傍点]、そう依藤は確信している。
「あのう、僕は所沢署に何ていえば?」
……忘れ置かれていた感の、林田がいった。
「そんなのは、それこそ児童福祉法で、十八未満は国[#「国」に傍点]が保護[#「保護」に傍点]してんだから、そういった修羅場《しゅらば》には連れ出せないといえ。けど、その少年の代わりに、偽者《ダミー》を電話口に出すようなことだけは、絶対[#「絶対」に傍点]にご法度[#「ご法度」に傍点]だと、所沢署には釘を刺しとけよ。発覚《ばれ》たら即アウトだからな――」
岩船氏の見立てどおりだすれば、その天目マサトの偽者《ダミー》などは立てようもない。それに犯人側の要求からしても、その少年の特異[#「特異」に傍点]性に気づいている可能性が大なのだ……もっとも、それらを依藤が語ったところで、誰に信じてもらえる話でもないが。
「――だからでっきるだけ胡魔化して、電話の逆探にかけろと、んなことは所沢署《あちらさん》も重々承知だろうけど、それでも無理難題をいってくるようだったら、俺[#「俺」に傍点]に直接交渉しろと、所沢署にいっとけ――」
「はっ、了解しました」
その依藤の言葉で肩の荷を降ろしたのか、林田は少年課へと戻って行った。
※
――約、一時間半後。
火鳥竜介が、さしたる抵抗もなく生駒刑事に攫われてきたらしく署の四階にある会議室に案内されて、姿を現した。
連絡を受けていた依藤が扉口まで出迎え、
「すいません。まことに不躾《ぶしつけ》なお願いで」
――深々と頭を下げていった。
竜介は、その会議室の中を一瞥《いちべつ》してから、
「えー、警部さんとだけだったら、ご相談にのってもいいですよ」
そう依藤の耳元で囁《ささや》く。
依藤は、そんな竜介の目を暫《しば》し見据えてから――了解したようにひと頷《うなず》きすると、
「はいはーい、それでは皆さん、ここからの撤収をお願いしまーす」
席についていた十数人の刑事たちに(課長や他の係長もいたようだが)外に出るようにと促した。
会議室に全員集合といったり、撤収といったり、依藤係長の勝手気儘《きまま》な指令ぶりに、皆さん口にこそ出していわないが不満たらたらの表情で、部屋からぞろぞろと出て行く。
「それと、ここは煙草吸えるんですか?」
――竜介が尋ねた。
「あ、そんなのは無視しましょう。――植井、灰皿をお持ちしろー」
出口付近にいた彼に命じてから、
「ところで、お飲み物は、先生は何がよろしいですか?」
「えー僕はですね、実は日本茶党なんですよ。それも美味《おい》しいお茶が好みです」
「あ、そうでしたか。――生駒、署長室まで行って、葉っぱの一番上等なやつを盗《パク》ッてこーい」
「玉露じゃなくて、煎茶の方ですよ」
――口を挟んで竜介はいう。
「聞こえたな生駒。そして防犯課の坂下さんにお願いして、とびっきり美味しいお茶を煎れてもらって、お持ちするように」
迎えの車の中での超VIP待遇に味を占めたのか、竜介はいいたい放題である。
その広い会議室の、秋のやわらかな陽が差し込んでいる窓際の席に、ふたりは左右に並んで座った。
「さて、僕にご用というのは、例の先様[#「先様」に傍点]の件でしょうか?」
竜介が、先に口を開いていった。
「先様?……あっ、あれねあれね、あのことは、とりあえず忘れてください」
依藤は事件を複数抱えているので、先様も複数いる。
「とりあえず[#「とりあえず」に傍点]、忘れるんですか?」
――不服そうに竜介はいう。
「いえ、もう完全に忘れていただいてけっこうです。先生のお名前は容疑者|名簿《リスト》からは消去しました。お疑いは、もう完璧[#「完璧」に傍点]に晴れております――」
とはいったものの、依藤は、竜介の不在証明《アリバイ》すらも裏をとっていない。時間がなかったこともあったが、それよりも精神的な余裕がなかったのだ。
「――それに、あの収録ビデオですが、あれはマスターテープそのものを、証拠物件として警察《われわれ》が押さえてますから、外部に出ることは一切ありえません。もちろん、得川さんと先生がお出んなってる箇所は、放映もされませんからね」
「あっ、そうでしたか……」
竜介はいかにも残念そうに、が、内心では胸を撫で下ろしていった。
……あれは自身にとっても二十歳前後《わかかりしころ》の演劇青年の夢が叶《かな》った、しかも七八九時《ゴールデンタイム》での芝居であったのだが、幸か不幸か、かくして警察《おくら》入りとなった。
「今日、ご無理をいってお越しいただいたのはですね、また、まったく[#「まったく」に傍点]の別の難事件が起こってまして、それには、先生の魔力《おちから》にお縋《すが》りするのが、最良の方法だろうと考えましてね」
依藤は、本題に入っていう。
「とりあえずは、その事件のあらまし[#「あらまし」に傍点]をでっきるだけ詳細[#「詳細」に傍点]に説明しますから、まずは、ひととおり聞いてやってください」
あらましを詳細に……とは矛盾ぎみだが、何事も暈《ぼか》して喋るくせがある依藤にしては珍しく、実際、その太田多香子失踪事件の詳細を現在分かっているかぎり洗い浚《ざら》い話し始めた。ただし、あの岩船氏の見立てだけは伏せて――
話の途中で、扉がノックされ、防犯課の坂下裕子がお茶を運んで来た。
その彼女は爽やかな笑顔で、ご苦労さまです、と竜介に愛想をふりまいたりもしたが、依藤係長《かかりちょおー》の方は見ようともしない。
ここ十日ほどでの(竜介の私室を訪ね……戻ってからは尚更《なおさら》)依藤のあまりにもの代わり映《ば》えぶりに、かつては厚かった婦警たちからの信頼や、乙女の恋心なども……失われつつあるようだ。
そんなことは露ぞ考えてもいない竜介は、あっ、美味しい美味しい、と無邪気に茶を啜った。
――依藤の長い説明が一段落し、
「やはり、巫女さんが歴史部から攫っていった客、それが犯人《あやしい》ですね」
真っ先にそう竜介はいった。
「あっ、先生もそこだと思われますか。実は南署《うち》の少年課にいる林田刑事も、そこが不審《あやしい》のではと随分いってましてね」
「まずはですね、ただ今より半額……その広告に釣られて客たちは巫女さんについていった、と考えるのが、そもそも間違いでしょうね」
「と……いいますと?」
「釣られた客もいたんだとは思いますが、その巫女さんは、歴史部の展示会場にやって来て、言葉を発してますよね」
「ええええ……」
依藤は、手元のメモを見ながら、
「えー彼女が最初にいったのは、あまのめさまはおらりょうか、――あ!」
――会議室の白机《テーブル》を平手で叩いた。
「でしょう。そこで、天目マサトくんの名前[#「名前」に傍点]が出てますから」
「そうだそうだ。それに、巫女さんの突然の出現と、そして闖入《ちんにゅう》だから、会場にいた全員が固唾《かたず》を呑《の》んで見守ってたわけで、静まり返ってたはずで、彼女の声は客たちにも聞こえたわけだ……」
「それに対して、歴史部の土門《ぶちょう》くんは、天目くんは今日はお休みだと、告げたわけでしょう」
「あ――」
依藤は再度|白机《テーブル》を叩き、
「ここ[#「ここ」に傍点]にはいない、て分かったんだ!」
「それに、その彼女は、あまのめさま……と様づけにしてますからね。どうしたって、耳目《じもく》をひいてしまいますよね」
「なるほど[#「なるほど」に傍点]――」
依藤は、拳《こぶし》で四回|白机《テーブル》を叩いていった。
「いやー先生、目から鱗《うろこ》ですわ」
事件の経緯を一遍説明しただけでの、虚をついたような竜介の的確な指摘に、依藤はあらためて感心していってから、
「それで、何かあるかもと、何かの話が聞けるかもと、巫女さんについてったわけですね……ということは、その天目マサトくんが文化祭の当日は学校を休んでいた。そのことが、この事件の発端[#「発端」に傍点]なわけですねえ」
「ええ、そうなりますね」
竜介はあっさりと――肯定していう。
「てことはですよ、さらにいうと、その巫女さんについてった客は……ていうのも面倒だから、このさい犯人[#「犯人」に傍点]と断定してしまいましょう。その犯人は、そもそも天目マサトくんを拉致《らち》すべく、歴史部の展示会場に来ていた、と考えられますよね」
「ま、そうなりますかね」
――これもあっさりと、竜介は肯定してから、
「けど、その天目くんの拉致は、機会《チャンス》があれば……程度だったのかもしれません。ともかく一度、その彼と直《じか》に会ってみたかった。つまり、実物を見てみたかった。それが、|M高校《あそこ》の文化祭に足を運ばせた、いわゆる動機[#「動機」に傍点]ではなかったでしょうかね」
「はー、見てみたかったわけですか」
実物[#「実物」に傍点]を……その竜介のいい廻しに、それなりの意味深さを依藤は感じながら、
「それに、文化祭ぐらいしか、一般人は学校の中には入れませんからねえ」
あの日光での物々しさからいっても、通学路や自宅《いえ》でも万全の警護なんだろうと依藤は思いつつ、
「けれども、その当人[#「当人」に傍点]は、なんと当日[#「当日」に傍点]は学校を休んでたわけですねえ」
――分かりきったことを再度いった。
その天目マサトは、その種の危険までも予知[#「予知」に傍点]できるのか? そんな考えが依藤の頭に去来したからだ。
が……実際は、警護に支障ありと見た竜蔵と政臣が、次善の策として休ませたまでのことであったようだが。
「ええ、天目くんは学校には不在だったわけで」
――竜介も同じことをいい、
「だから幸いにも、難は逃れられたわけですが、その迸《とばっち》りともいうべきもので、関係のない生徒さんに災いが及んだことには、その彼もおそらく、心を痛めてるんではないでしょうかね」
……その竜介の言葉は、
〈自分は彼の代弁者で、そのために今日は来た〉
といってるようにも依藤には聞こえた。
「けど、天目くんが不在だったから代わりに巫女さんを攫い、後で交換しようと思った。それはあまりにも短絡的すぎますよね。それに彼女だって、そうおいそれとは、その日会ったばかりの人に拉致されたりもしないでしょう……で、僕が気づいたことですが、この拉致事件を誘発した直接の原因ではなかろうかとも思える事象《ポイント》が、別にあるんですよ」
いうと竜介は、持って来ていた茶色革の書類鞄の中を漁《あさ》り、一冊の専門書を取り出して、
「これは脳系の本だったら、どこにだって載ってるような話ですけどもね……」
そんな言い訳めいたことをいいながら頁を開くと、依藤に見えるように白机《テーブル》の上に置いた。
「ええ? な、何ですかいったい……運動の小人《こびと》・感覚の小人……」
脳の断面の模式図《イラスト》に、そう表題《タイトル》が記されてある。
「これは古い本だから、そんな言葉つかってますが、大脳機能地図と呼ぶのが一般的ですね。こういったのが僕の専門なんで、少しお付き合いください」
竜介は、お断りをいってから、
「これは今から五十年ほど前、カナダのペンフィールドという学者さんがやった実験の成果でしてね、人間の頭蓋骨《ずがいこつ》をパカッと開けまして、脳を剥《む》き出しにして、弱い電流がながれる針金の先でもって、チクリチクリと脳に電気刺激を与えていく。そうやって作ったのが、本に出ている模式図《イラスト》なんですよ」
「あーん?」
その猟奇映画さながらの残酷《ざんこく》映像は、依藤の頭にも即座に浮かんだが、
「そ、それは生きてる人間でやった話ですか?」
――大いなる疑問点について聞く。
「もちろんですよ。死んだ人間だと、反応は見られないでしょう」
と、ことさら狂気《マッド》な目線を向けて竜介はいう。
「そっ、そんな無茶苦茶な――!」
依藤は、自身の脳を保護《ガード》するかのように、両手で押さえた。
「確かに無茶な実験で、現在においてはできませんからね。ま、古き良き時代の話[#「話」に傍点]だったとでも思ってください」
それは竜介のような脳系の学者にとっての話[#「話」に傍点]だが。
「それに一見残酷なようですけど、脳それ自体は痛みは感じませんからね。脳を包んでいる髄膜《ずいまく》の一番外側にある硬膜《こうまく》、そこだけ痛みを感じるので、局所麻酔を使います。そして針で刺激を与えると、たとえば、目蓋《まぶた》がピクリと動いた……あっ、ここが目蓋を管轄《かんかつ》してたんだな、てことを丹念にやっていって、この大脳機能地図を作ったわけですよ」
本の、その模式図《イラスト》を指さしながら竜介はいった。
「はっ……はあー」
依藤は人心地《ひとごこち》ついて、あらためて、その図に見入る。
「しばらく、その大脳機能地図を眺めていてください。面白いことに気づくと思いますよ」
そう竜介は促《うなが》してから、
「……余談ですけど、そのペンフィールドの実験は、そもそもは癲癇《てんかん》の患者を治療する、というのが名目だったわけです。癲癇の発作も、大脳表皮における不正電流の突発的な流れが原因の大半ですからね。針で電気刺激を与える実験も、それなりに理[#「理」に傍点]はあったわけです。そして実際の治療法は、その不正電流が流れる脳の部位を、外科手術でごそっと取り除いていました。けど、ここ最近、画期的な治療法が開発されて、大脳の表皮に、すーと僅かな切れ目を入れただけで、電流は流れないから、発作も起こらない。これで簡単に治っちゃう場合もあるんですね」
「はあ……まるで機械みたいな話ですね」
依藤は目では模式図《イラスト》とその近辺の解説文を追いながら、耳では竜介の話にお付き合いをしていった。
「ま、そういった方法論もあり[#「あり」に傍点]といった話です。で僕の本来の専攻は『認知神経心理学』で、神経[#「神経」に傍点]といった単語が入ってるでしょう。だから実物[#「実物」に傍点]も扱うわけです。もっとも、医者じゃないから、生きている人間の脳には、直接手出しはできませんが」
……生きている猫[#「猫」に傍点]ならば残酷実験も可能であるが。
「とまあ、そういった僕の専門[#「専門」に傍点]から派生するところの話です。――いかがです、その模式図《イラスト》を見ていると、何か妙[#「妙」に傍点]なことに気づきませんか?」
……竜介が教えようとしていることは、専門とはいっても、その初歩の初歩のようであるが。
「その……小人というのは、人間を部品にばらして脳の上に置いちゃうから、そういってるわけですね。けど、その小人がやったらと変形してますよね」
「そうなんです。人間の部品の大きな部品《それ》が、脳を大きく占領している、わけではないんですね」
「とくに、手[#「手」に傍点]が巨大になってますよね」
「そういうことなんです。人間の脳は、手[#「手」に傍点]を管轄するために、多大な領域を割いているわけですよ」
「――あ!」
依藤が手をパーンと叩いて、
「あの巫女さんは、手相見[#「手相見」に傍点]をやってたわけで――」
竜介のいわんとしていることに、ようやく気づいていった。
「そうなんです。十把《じっぱ》ひと絡《から》げにして〈占い〉の範疇《はんちゅう》に入れられてしまいますが、手相には、それなりの根拠[#「根拠」に傍点]があるんですよ」
「じゃ、この手の平には……」
自身の両の手の平をまじまじと見つめながら、
「……脳の皺《しわ》が出てるわけか」
驚いたように依藤はいう。
「まあ、皺は出ませんけど、――手は、その人の脳の様子を、つまり、その脳の個性を如実に反映している。そのことは間違いなくいえますね。模式図《イラスト》の小人の手は、だいたい脳の半分ぐらいを覆《おお》っちゃってるでしょう。だから手相というのは、数ある占いの中でも、別格[#「別格」に傍点]に当たるわけですよ。……ちなみに、その模式図《イラスト》の小人で、次いで大きく描かれているのは、顔ですよね。顔の相を見るというのも古くからあって、中国の占い百科『神相全編《しんそうぜんぺん》』などで紹介されている『達磨《だるま》の観相法《かんそうほう》』が有名ですが、それは手相ほどではないにしろ、やはり根拠はあるわけです。けど、小人の足の裏はいかがですか?……微々たるものでしょう。だから、あの足裏占いというのは、いかさま[#「いかさま」に傍点]なわけですね」
「なっ、なるほど[#「なるほど」に傍点]ー」
その、竜介の説明の刃《やいば》の切れ味に、依藤は感動していった。
「手相に話を戻しますが、手相見いわく、左手には未来のことが表れ、右手には過去と現在が……が一般的ですけど、これは脳学者《ぼくたち》にいわせれば、間違いなんですね。左手は右脳と、そして右手は左脳と繋《つな》がっています。人間の部品は、大半が同じく、逆側の脳で管轄しています。そして左右の脳は脳梁《のうりょう》でこそ繋がっていますが、働きがかなり違うんですよ。いわゆる右脳・左脳の機能分割の話ですね。左脳では言葉や論理的な思考を、右脳では主に映像処理を、そして閃《ひらめ》きや直感なども右脳ですね。左右それぞれに扱っていて、その脳の働き具合が、右左それぞれの手の平[#「手の平」に傍点]に表れるわけですよ」
「ほう……」
依藤は、その竜介の説明に聞き入りながらも、頭ん中では、林田の事情聴取の報告書にあった事柄を思い起こしていた。
……太田多香子は、今年の春の文化祭で、天目マサトの手相を見ているのである。そのことは、竜介にはまだ話してはいないが。
「もっとも、古代《いにしえ》の人が、左右脳の機能分割の仕組なんて知る由もありませんので、右手と左手がそれぞれ別のことを表している、と気づいただけでも、鋭い[#「鋭い」に傍点]といえますよね」
「うーん……なるほど」
依藤はひと頷きしてから、
「ところで、例の天目マサトくんですが、実は、その太田多香子さんに一度、手相を見てもらったことがあるらしいんですよ」
――探るような目をして、依藤はいう。
「ええ、そのはずだと思ってました。だからこそ、その彼女は、あまのめさま[#「さま」に傍点]、と呼んだんではないだろうかと……」
依藤は、え? と驚きの声を漏らした。
竜介が、依藤の手の内を察知したような、そしてすべてを認めるようなことをいうからだ。
「……それに、警部さんの話の中で、その太田さんの驚きの声らしきものが隣室に聞こえた、といった下りがありましたでしょう。これが、そのもう片方のヒントではないだろうかとも、思えますよね」
「あっ、そうかそうか……」
依藤は、暫し考えてから、
「ということはですよ、その天目マサトくんの手相というのは、そんじょそこらにはないような、特別に際立ったものだったんでしょうか?」
「ええ、そうだと思われますね」
竜介はあっさりと認め、
「けど、僕は彼[#「彼」に傍点]の手相は実際には見ていませんので、そうではなかろうかと、十二分に想像されるといったことですね」
さらに念押しするように、補足していう。
「はー……」
そんな、何もかも認めるような竜介の態度に、依藤は少し唖然ぎみに、
「……で、片や、太田多香子さんが犯人の手相を見ていて驚いたということは、その犯人の手相もまた、天目マサトくんと同じように際立っていた……といったことなんでしょうか?」
「ええ、その可能性が大だと思います。手相のどこかしらに、彼女が驚くほどの、類似点があったんだと思われます」
断言するように、竜介はいった。
が、――手相が似ている[#「手相が似ている」に傍点]?
それすなわち、悪霊[#「悪霊」に傍点]が他の悪霊[#「悪霊」に傍点]を呼んでいることではないか! 岩船氏の話が、さらにいっそうの真実味を帯びて、依藤の頭ん中に渦巻き始めた。
「なるほどー、なるほどー」
依藤は、自身の頭を振って|お払いをするが《あくりょうたちをふりおとすが》如くにいってから、
「するとですね、太田多香子さんの方が、むしろ犯人に興味をもってしまった。そして犯人ももちろん、彼女には興味をもっていた。互いに、そういった気持ちだったから、誘い誘われ、実際はどうだったか分かりませんが、それが拉致事件にまで発展した。いやー先生、も見事な推理ですよ。も自分もそのとおりだと思いますね」
――刑事《にんげん》として、納得していった。
「それと、その彼女が、大田田根子《おおたたねこ》の生まれ変わりを自称していたという話。そのことは占い部の個室《ブース》で、犯人にも語ったはずでしょうし。それも相応に犯人の興味をひいたと思いますよ。古代史を少しでも齧《かじ》っていれば、この大田田根子という名前は記憶に残りますからね、あまりにも現代的な名前なので。その大田田根子は、日本最古の神社の、最古の覡《げき》なわけで……つまり神の託宣《ことば》を伝える役割の人ですが。だから犯人としても、それなりの縁《えにし》を感じたことは、十分想像されますね」
……が、依藤は、天目マサトのことを神ではなく悪霊だと信じ込んでいることもあって、その竜介の言葉の真意は伝わらず……えにし[#「えにし」に傍点]? どこかで聞いた単語だなあ、程度である。
「それと、僕が思うにはですね、その彼女を拉致した犯人ですが、単独《ひとり》で文化祭に来ていたわけじゃなく、複数だったのではないでしょうかね」
――唐突に、竜介が別種の話を始めた。
「と、いいますと? つまりその根拠ですが?」
「さっきの、太田多香子さんが驚きの声をあげた、その直後、隣の……確かタロット占いですか、その女子が個室《ブース》から出た際、手相見の長椅子には、男性の客がふたりいたことを確認してますよね」
――依藤は首肯《うなず》く。
「そして、その岩船さんとやらが思い出された女性、|短い髪《ショートヘア》で化粧っ気がなく、米空軍《MA―1》のジャンパー姿だった客ね。その女性は、他の占いの個室《ブース》には流れていないことは、確認されたんでしょう?」
「ええ、占い部の他の三人は、夕方には、そういった女性が来た記憶はない、といってましたから」
「すると、その女性が、太田多香子さんの驚き声のときの相手で、外の長椅子にいた男性ふたりも、その女性の仲間、そんな感じ[#「感じ」に傍点]がするんですけどもね」
「……はあ」
それは、刃《やいば》の切れ味の火鳥先生らしからぬ、えらく根拠レスな推理だと依藤は感じながら、
「まあ、考えられなくはないですけどもね」
「それと警部さんもご存じの、僕が参加したテレビ番組ですが、何人もの自称・霊能力者が出演していましたでしょう。その霊能力者たちは、殆どが個人営業でして、徒党を組むといったことはまずなく、それに限られた客《パイ》を奪い合ってますから、同業者でありながらも、逆に、仲はよろしくないんですね。そういった個人営業の霊能力者が、たとえば、高名な別の霊能力者の霊能力[#「力」に傍点]、もしくは、看板や名声などが欲しくって拉致事件を起こす……といったような構図も、ちょっと考えにくいんですよ」
「ふーん」
まあ、いっていることは依藤にも理解できるが、
「そうしますと、今回の事件は、どういった犯人像を、先生は想像なさいますか?」
――あたかも、FBIの容疑者性格分析官よろしく、竜介の意見を聞いてみる。
「個人営業ではないとして。それに、先の驚きの手相[#「驚きの手相」に傍点]の件もありますし。すると考えられるのは、やはり、その種の狂信者集団《カルト》、となってきますよね」
「ふーん」
まあ、それはFBIの分析官じゃなくても、誰しもが考えつく帰着点のひとつ[#「ひとつ」に傍点]ではあるだろう。
……が、竜介の話しっぷりは、分析だとか推理だとか、その種の枠を超えているなと依藤は感じ始めた。要するに、竜介《かれ》の後ろ盾に、あの|天目マサト《ばけもん》が控えているわけだから、そもそも理屈を超えた話であり、ここは四の五の考えず、火鳥先生のお説に盲信的に乗っかるのが最良であろうと、依藤は腹を決めた。悪霊《どく》を食らわば地獄《さら》までも……の心境だ。
「実は、自分もですね、そうじゃなかろうかと薄々思ってましてねえ」
俄《にわか》に賛同に転じて、依藤はいい、
「それに、先生が来られる三十分ほど前に、犯人から二回目の電話が入りまして、そんときも逆探はしてたんですが、これは南署《うち》じゃなくって、所沢署の方ですけどもね、もうちっと[#「ちっと」に傍点]というところで、切られちゃったらしくー」
――下手くそ[#「下手くそ」に傍点]ー、といわんばかりに、
「ですが、犯人が電話をかけてきた大雑把《おおざっぱ》な場所は、だいたい分かったんですわ」
依藤が、埼玉県の南東部の詳細地図を開いて、その場所を竜介に示した。
「それは川口市から浦和市にかけての、武蔵野線の沿線あたりなんですけどもねえ。何か、先生が思い当たるようなもん、この辺《へん》にございますか?」
身を乗り出してきて、依藤は聞く。
竜介は、その地図を暫《しばら》く眺めてから、
「ええ、ひとつありますね」
――自信に満ち満ちた、声優のような声でいい、
「川口市の側ですが、この東北自動車道の川口ジャンクションの付近に、とある新興宗教団体の、修行道場があったはずです」
地図の、そのあたりを指さした。
「それは、何ていう名前の?」
――急《せ》いて依藤は聞く。
「それは、真浦会《まうらかい》、といいますけれども」
「ま、真裏[#「真裏」に傍点]あ。いっかにも悪そうな名前ですね」
いかにも胡散臭《うさんくさ》そうに、依藤は濁声《だみごえ》でいう。
「いえ、浦和の浦[#「浦」に傍点]です。けど浦和市とは関係はなく、真浦といわれて、宗教的な側面で真っ先に思い浮かぶのは、佐渡島《さどがしま》にある真浦[#「真浦」に傍点]ですね」
「それは、どういった話の?」
「あの日蓮《にちれん》宗の日蓮に関係します。ご存じかと思いますが、かなり過激な宗教家で、何度となく島流しにあって、その最後の流刑地《るけいち》が佐渡島です。そして放免になって本土に渡る際、その真浦[#「真浦」に傍点]から船を出したんですね。そのときに地元の人と別れを惜しみ、船と岸の両方から、南無妙法蓮華経を唱え合い、そのお題目の声が、今でも真浦の岸辺に立つと波間から聞こえてくる、そんな伝説になっています……でですね、ひと世代前の新興宗教といえば、この日蓮宗からの分派が多いんですよ、※※学会のように」
「なっ、なるほど……」
「なんですが[#「なんですが」に傍点]、もちろん※※学会とは無関係[#「無関係」に傍点]ですよ。それに、この真浦会は古くはないんです。せいぜい十年ぐらいのようで、日蓮関係かどうかも、|不確か《ペンディング》です。実際のところ、よく分からない宗教団体なんですよ。人目につくような活動も、殆どやってないようで……けど、意外と大きな組織らしく、本部は東京にあって、芸能界や、テレビ局関係などに深く入り込んでいるようです。ときおり、あの芸能人の誰其《だれそれ》は真浦会ではなかろうか、といった噂が流れることはあります。だから金と人脈は、豊富でしょうね」
「ふーん」
依藤は、顎《あご》の不精髭《ぶしょうひげ》のあたりを手で摩りながら、
「その、魔[#「魔」に傍点]浦会とやらは、以前にも、何か悪さをしたことがあるんですか?」
「いえ、僕の記憶では、表立って事件を起こしたようなことは一切ありません……」
記憶[#「記憶」に傍点]ではなく、それなりの記録[#「記録」に傍点]をインターネットなどを使って竜介は既《すで》に調査済みなのであるが。
「……けど、この真浦会はですね、会に入って修行を積めば、誰にでも霊能力が身につく[#「霊能力が身につく」に傍点]、というのがひとつの売り[#「売り」に傍点]らしいんですよ。だから、その点からいっても、ひっかかるんですけどもねえ」
「ふむ――」
依藤も、その宣伝文句には大いにひっかかったらしく、両手で頬杖をつき、目を上下左右にギョロつかせてから、
「――先生は、そこが犯人《あやしい》と思いますか?」
最後の確認をとるように、聞いてくる。
「ええ、僕はここが犯人《あやしい》と思います」
竜介は、地図を指さしながら、断言した。
「――了解しました。さっそく手配しましょう」
両手でバーンと白机《テーブル》を叩き、依藤はいった。
「じゃ……すぐに突入ですよね」
竜介は、肩の荷を降ろしたようにいう。
「え? まさかまさか、今の日本は法治国家ですよ先生。島流しの時代とは違うんですから」
「あ、そう無茶はできないか……ですが、ひとつ、でっきるだけ速やかに」
懇願の表情で(土門くんのように)揉み手をしながら竜介はいう。
「それはもちろんもちろん、即行で部下《スパイ》を派遣し、出入りの人間を四六時中見張っていれば、追っつけひっかかってくるはずですから。その上で――突入です[#「突入です」に傍点]!」
力強く依藤はいった。
その真浦会の修行道場の正確な場所の打ち合わせなどを二、三やってから、ふたりは席を立って会議室から廊下に出た。依藤が車で送らせるといったが、竜介は、この緊急時に刑事を私用に使うのは心苦しく、電車で帰ると辞退をし、四階のエレベーター扉の前で、
「今日は、本当にありがとうございました」
――依藤が、深々と頭を下げた。
その後で、
「そうそう、僕の方から、ひとつだけお願いがあるんですよ」
――竜介は切り出す。
「ええ、何なりとどうぞ先生」
「あの、例の天目マサトくんのことですが、彼のことに関しては、他言無用[#「他言無用」に傍点]をお願いしたいんですよ」
「え[#「え」に傍点]ー、え[#「え」に傍点]ー」
太い声で、依藤は頷きながらいってから、
「――それはお約束します。自分は口が堅いことで有名ですから。たとえ、地獄の閻魔さんに舌を抜かれようとも」
それこそ、摩訶不思議《まかふしぎ》な縁《えにし》というべきか、誰かと同じようなことをいった。
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15
――二十年は時を溯《さかのぼ》ったかにも思える昔ながらの古びた喫茶店。
その奥の壁際にあることさら[#「ことさら」に傍点]薄暗い席に、まな美と土門くんが、そこは四人掛けの木机《テーブル》だというのに、仲睦《なかむつ》まじく横並びして座っていた。
が、格別に何かを語り合うふうでもなく、ときおり見つめ合っては声なき声で囁きをかわし、そわそわと少し落ち着かない様子だ。ふたりは制服を着ていて、授業を終えた放課後らしく、その木机《テーブル》には、まだ水のコップしか運ばれて来ていない。
その喫茶店のガラス扉ごしに、中の様子を窺《うかが》っている男がいた。
――奥の席についているのが歴史部のふたり[#「ふたり」に傍点]であることをしっかと確認すると、ほっと胸を撫で下ろしたような顔をし、扉を開けて店内に入って来る。そして手を振りながら、
「やー、お待たせお待たせ」
――和《にこ》やかな顔で岩船はいった。
岩船は、ふたりの前に座りながら、
「いやあ……歴史部《きみたち》のような超強力な助っ人が来てくれて、ほんと助かるよう。南署《うち》はそれこそ猫の手も借りたいような状況なんでねえ」
「にやぁー」
と猫の手(いや、どう見たって熊の手)の格好をして土門くんが鳴いた。
その岩船の後ろに幽霊のようについてきた店にひとりしかいない男の店員が注文を聞く。
「にやぁー、みるく[#「みるく」に傍点]」
なおも猫になりきって土門くんはいい、
「ていうんはなしで、みるくてぃー」
……関西人《にんげん》に戻って正式に注文《オーダー》をする。
まな美と岩船は通常珈琲《ブレンドコーヒー》を頼んだ。
そして暫くは、歴史部の次の|謎解き《ターゲット》は鎌倉にしようかと、ちょうど今時分は紅葉《こうよう》が奇麗《きれい》なので、などと当たり障りのない話をしてから、
「……昨日ふたりで話をしていて、気づいたことがあったんですよ。ね、土門くん」
まな美が切り出していった。
すると土門くんも、
「そうなんですそうなんです。今、失踪しはっている太田さんは……あのMさんやったわけですけど」
極秘情報を漏らすかのように、ひそひそ声で、
「そのMいうやつはですね、学校の中でも、実際にMさんから話を聞けるようなことは絶対[#「絶対」に傍点]にあらへんので(大嘘だが)すべてが伝説になっとんですね」
「ほう……伝説なのかあ」
それについては、少年課の林田から小耳に挟んだのを岩船は思い出した。
「その伝説でいくとですね、Mいうんは、どうやら五人いるらしいんですよ」
「あ……五人だったのかあ」
それも、林田から聞いた記憶が岩船にはある。
「そして、五人というと、真っ先に頭に浮かぶのが、江戸の五色不動《ごしきふどう》なんですね。目黒《めぐろ》にある滝泉寺《りゅうせんじ》……つまり目黒不動尊が、そのひとつとしてよく知られてますけど」
この手の話は十八番《おはこ》の、――まな美がいう。
「あっ、目黒のお不動さんなら、一度行ったことがあるよ。あそこはなかなかいいお寺だったね。あんな東京の空気の悪いところに、すぐ側《そば》には大きな道路があって車がわんさか走ってるしさ。なのに突然緑があって、境内《けいだい》もけっこう広かったしさ。それに、近くには五百羅漢寺《ごひゃくらかんじ》もあって、沢山の羅漢さんがいて、そっちもなかなかよかったよなあ」
――嬉々として、岩船はいう。
「その目黒不動尊の滝泉寺も、あの慈覺大師の創建なんですよ。円仁がまだ十五歳だったころの話ですけど、師匠の広智阿闍梨《こうちあじゃり》に伴われて、故郷の下野《しもつけ》国から比叡山《ひえいざん》に向かう途中で、その目黒あたりで一泊したんです。すると、彼の夢枕に、青黒い顔をした、右手には降魔《ごうま》の剣《つるぎ》、左手には縛《ばく》の縄《なわ》を持った、忿怒《ふんぬ》の形相の神さまが現れて、――我、この地に迹《あと》を垂《た》れ、魔を伏し、国を鎮《しず》めんと思うなり。来《きた》って我を渇仰《かつごう》せん者には、諸々《もろもろ》の願いを成就させん!」
――啖呵《たんか》を切るように、まな美はいい、
「と告げたんですね。そして目が覚めてから円仁は、その神さまの姿を思い起こしながら、お像を彫ったわけです。けど、それが何の神さまだかは、そのときは分からなかったらしいんです。その後、円仁は唐《とう》に渡って、長安《ちょうあん》にあった青竜寺《しょうりゅうじ》で修行をしていましたけど、その青竜寺に不動明王《ふどうみょうおう》が祀《まつ》られていて、それを見て、あっ……て気づいたんですね」
その話に併せて、あっ……といった顔を土門くんはする。
「そして日本に戻ってから、その目黒の場所に、きちんとしたお堂を建てたんです。天安《てんあん》二年に……」
「八五八年ですね」
「……ですから、あの淨山寺《じょうさんじ》よりも僅かに古いぐらいですね。そして清和天皇からは、泰叡山《たいえいざん》という山号《さんごう》を賜りました。これには、比叡山の叡[#「叡」に傍点]の字が入っていて、他には、上野の寛永寺《かんえいじ》が東叡山《とうえいざん》、それぐらいしかなく、だからとっても寺格の高いお寺だったんですよ。けれど[#「けれど」に傍点]……場所が場所でしょう」
「いかにも麁想《そそう》、町屋なども茅ぶきの家百ばかりも有りかなしかの体《てい》。のお江戸ですからねえ」
「――そうだ! そうだあ」
岩船も、大いに賛同していう。
「ですから、どんどん廃《すた》れていってしまって、それを再興したのは、三代将軍の徳川|家光《いえみつ》なんですよ。そのときの経緯《いきさつ》も面白くって、家光が、その目黒のあたりに鷹狩りに来てたらしいんです」
「それができたぐらいの、当時は山鬱密《やまうつみつ》ですねえ」
なおも土門くんは嬉しそうにいう。
「そうしていると、その家光の鷹が飛んでいったまま行方知れずになってしまって。そして家光が、その不動尊の前に額《ぬか》ずいて祈ると、忽《たちま》ちにして鷹が飛び帰ってきて、お堂の前にあった松の木に留まった。そんな話なんですね」
「あ……そういえばさ、あの淨山寺も、家康が鷹狩りに行ってて、立ち寄ったお寺だろう」
「そうなんです。だから、話を合わせていることも、十分考えられますよね。そういった霊験《れいけん》あらたかさに感動した家光は、その滝泉寺の再興にとりかかるわけです。寛永《かんえい》七年のこと……」
「一六三〇年ですね」
「……このときには、天海僧正《てんかいそうじょう》が、家光の最高顧問《ブレーン》としてついていたわけで、こんな由緒正しきお寺は放っとけないってことに気づいたのも、おそらく天海僧正ですよね。そしてもちろんのこと、家光も、清和源氏ですから。そして五十以上ものお堂がある大伽藍《だいがらん》を作っちゃうんです。江戸時代は、目黒御殿と呼ばれていたぐらいの……で、そのときに併せて、最初の話の、江戸の五色不動[#「五色不動」に傍点]を定めたわけです」
まな美が、――本来の筋[#「筋」に傍点]に戻していった。
「あっ、そのときだったのか、あの目白《めじろ》という地名もさ、そのひとつだよね確か?」
岩船は、知ってる数少ないことをまな美にいわれまいと、先廻りしていう。
「ええ、目白にある新長谷寺《しんはせでら》に、目白不動尊は祀られています。その五色《ごしき》不動以外にも、日野《ひの》市の高幡《たかはた》不動や、世田谷《せたがや》の等々力《とどろき》不動、深川《ふかがわ》にある深川不動など、不動尊を祀っていたお寺は幾つかあったですけど、その中から、街道沿いにあって、江戸の守護に相応《ふさわ》しそうなお寺を選んで、定めたわけですね。目赤《めあか》不動尊は、駒込《こまごめ》にある南谷寺《なんこくじ》。目黄《めき》不動尊は、江戸川区にある最勝寺《さいしょうじ》。そして目青《めあお》不動尊は、三軒茶屋《さんげんぢゃや》にある教学院《きょうがくいん》に、それぞれ祀られています」
「そうかそうか、五色《ごしょく》の、色なわけだねえ」
――まな美のいわんとしていることを察知したように、岩船はいった。
「けど、目白だ目黒だといっても、不動尊のお像の目の色が違ってるわけじゃないんですよ。五色《ごしき》というのは仏教用語で、そしてそれぞれの色に、意味があるんですね」
「ちょっと待ってて……」
いうと岩船は、携《たずさ》えていた|鍵付き鞄《アタッシュケース》を開いて茶封筒を取り出した。その中には、今日の昼すぎに突然まな美から電話をもらった際、ある重要なことに気がついたから、それを持って来てくださいね……と念を押されていた品物[#「品物」に傍点]が入っている。それを茶封筒から出すと、皆で見えるようにと、木机《テーブル》の真ん中あたりに岩船は置いた。それは例によって鑑識課の常備品であるジッパーつきの透明ポリ袋に入れられてある。
まな美と土門くんが、一瞬《チラッと》、目線を合わせた。
そのとき、ちょうど店員が注文の飲み物を運んで来て、それぞれの前に置いた。
「わっ、自分だけみるくてぃー」
いまさらのようにお道化《どけ》て土門くんはいい、
「そやけど、これ砂糖|入《はい》ってんのん?」
――戻りかけている店員に聞く。
「いいえ」
その店員《かれ》は顔だけを向けて愛想なくいった。
「……最初から入ってるような店《とこ》もあらへんこともないこともあらへんようやねんけどもなあ」
まったりと小声で文句をいいながら、砂糖|壺《つぼ》から、土門くんはなぜか左手で食匙《スプーン》を使って砂糖を掬《すく》った。土門くんは|左利き《サウスポー》ではない。その彼の右手はというと、最前《さいぜん》から、なぜか学生服の上着のポケットの中に突っ込まれている。
「このMの証しは、青色だよね」
――全員が入れるものをカップに入れて飲み物の準備が整ってから、岩船がいった。
「ええ、その青というのは、|阿※[#「門<(人/(人+人))」、第3水準1-93-48]如来《あしゅくにょらい》格であることを意味します。仏相《ぶつそう》は瞋怒《しんど》……忿怒《ふんぬ》と似たようなものですね。そして仏座《ぶつざ》は象《ぞう》、あの普賢菩薩《ふげんぼさつ》が乗っている象です。そして願いを叶えてもらうときの護摩《ごま》の意味合いは、調伏《ちょうぶく》です。怨敵《おんてき》調伏のそれですね。その他にも、その護摩壇《ごまだん》の炉の形はどうだとか、そのときにくべる護摩の木は何だとか、細々とした決め[#「決め」に傍点]が定められてあるんですが、いずれにしても、青が一番|厳《きび》しい色なんですね。たとえば、暗黒破壊神の摩訶迦羅《まかきゃら》、つまり大黒天《だいこくてん》ですが、あるいは閻魔天《えんまてん》なども、この阿※[#「門<(人/(人+人))」、第3水準1-93-48]如来格[#「格」に傍点]の青なんです」
「あ、そうかそうか、不動明王も何とか天も、要するに神さまだから、裏には仏さまが……いわゆる本地仏《ほんじぶつ》が控えてるわけだねえ」
「ええ、その考え方とほとんど同じです。ただし、これは『金剛頂経《こんごうちょうきょう》』に説かれている、五智如来《ごちにょらい》の話なので……大日《だいにち》如来がそなえている五つの知恵の、法界体性智《ほうかいたいしょうち》・大円鏡智《だいえんきょうち》・平等性智《びょうどうしょうち》・妙観察智《みょうかんざつち》・成所作智《じょうしょさち》を、大日・|阿※[#「門<(人/(人+人))」、第3水準1-93-48]《あしゅく》・宝生《ほうしょう》・阿弥陀《あみだ》・不空成就《ふくうじょうじゅ》の各如来にあてはめたのが、五智如来ですよね。その五人の如来で『金剛界曼陀羅《こんごうかいまんだら》』を仕切ってますから、天部《てんぶ》や明王だけじゃなく、菩薩や観音|仏級《クラス》までもを、その五つで色分けしちゃうわけですね」
「ふんふん……」
と頷いてはみたものの、五智如来は岩船の記憶にも微《かす》かにあるが、何とか智に関しては珍紛漢紛《さっぱり》だ。
「たとえば、阿弥陀如来の色は赤なんですね。その仏座は、もっともきらびやか[#「きらびやか」に傍点]な孔雀《くじゃく》」
……日光は輪王寺《りんのうじ》の常行堂《じょうぎょうどう》に置かれてあった本尊の阿弥陀如来が、孔雀座であった。
「その仏相は……清涼[#「清涼」に傍点]。そして護摩壇にくべる木も、花木《はなき》と決められてあるんですよ。ちなみに青は、苦木《にがき》で、黒は刺木《とげき》です。その赤の意味合いは、愛情[#「愛情」に傍点]、敬愛[#「敬愛」に傍点]、可憐さ[#「可憐さ」に傍点]、といったところなんですね」
「ふむふむ……」
今度は、土門くんが胡散臭《うさんくさ》そうに頷いた。
……何をかいわんや、まな美が持っているMの証しが、その赤[#「赤」に傍点]だからである。
「するとさ、Mの証しの色でもって、そのMさんの役割がそれぞれ違う、といったことが考えられるのかな?」
「ええ、そのことに気がつきましたから……ですから岩船さんに、是非《ぜひ》お話ししとこうと思って」
――邪気《あどけ》ない顔をして、まな美はいう。
すると土門くんが、ポケットに突っ込んでいたはずの右手を木机《テーブル》の上に置いた。その彼の手には、何やら白いものが握られている。
――それが合図《きっかけ》であったか、
「実はですね、こちらにおられる部長さんは、上野広小路《うえのひろこうじ》に店を構えている、とある有名な骨董屋さんの、御曹司《おんぞうし》さんなんですよう」
まな美が、大袈裟に紹介していった。
「あっ……そうだったのかあ」
些細な謎解さではあったが、岩船は嬉しそうに、
「文化祭でさ、立体模型《ジオラマ》に使われてた仏さんたちも、その関係だったんだねえ」
「そうですそうです、あれぐらいやったら、横笛をぴーひゃら吹いたら集まって来ますから……お友達値段にしときますよう」
そんな軽口をたたきながら、土門くんが手に持っていたのは特大寸法《えるえるさいず》の薄手の手袋で、慣れた手つきでもって両の手に嵌《は》める。
あっ、さすがは骨董屋の御曹司……と岩船は感心して思う。
そして土門くんは、その手袋を嵌めた右手で、透明ポリ袋の隅っこを躊躇《ちゅうちょ》なく掴《つか》むと、その場で少し浮かせぎみにしながら、
「店に行ったときに、専門書《あんちょこ》を調べ捲《まく》ったんですけど、これはあのときにもいうたように、やっぱり櫛入《くしい》れが原型のようですね。櫛でも、普通にある長細いんとはちごうて、寸づまりのやつがあるでしょう。黄楊《つげ》、もしくは鼈甲《べっこう》なんかで」
「あっ、そういったのもあったねえ。それにさ、きみたちの学校は、元々は女子校だったんだからさ、やはり女性用の持ち物なんだな」
土門くんは、ええええ、と首肯《うなず》きながらも、少し顔を引きつらせぎみに、
「それと……この布の材質ですけど、ちょっと触ってみてもええですかあ?」
と、お伺いをたてる。
「うん、かまわないよ」
岩船はあっさり承諾した。
……手袋もしてることだし、それに扱いに関しても玄人《プロ》だし……と岩船が思うのも無理はない[#「無理はない」に傍点]。
土門くんは、ポリ袋からMの証しを取り出し、三つ葉葵紋が入った表地の方を岩船に見せながら、
「この布ですけどね、すっごい上等そうな布ですが、意外や意外、これは綿なんですよ」
「あっ、そうなのか……」
実際、岩船は少し驚いていった。
「これは簡単にいうと、更紗《さらさ》の一種なんですね」
「あれ……聞いたことはあるけど」
岩船の知っている更紗《それ》とは、少し印象がちがう。
「今は亜細亜《あじあ》ん人気《ぶーむ》なんで、そのへんの国から大量に買いつけられてきて、格安で売られてますよね、それらとは別物《べつもん》なんですよ。このMの証しに使われとう布そのもんは、古渡《こわたり》更紗の可能性があります。暹羅染《しゃむろぞめ》とか、印華布《いんかふ》とかも呼ばれていて、江戸時代の南蛮《なんぱん》・紅毛《こうもう》貿易での、印度《いんど》や暹羅《しゃむ》からの輸入品です。当時は何に使《つこ》てたかというと、茶入れの包みとか……仕覆《しふく》いうんですが、あるいは掛け軸の表装《ひょうそう》だとか、壺《つぼ》の下に敷く小袱紗《こふくさ》だとか、そういった超高級な用途に使とったんですね」
――土門くんが熱心に説明しているというのに、その横では、まな美が悠然と珈琲を啜っていた。
いや、カップを持つ手が震えぎみで、それになぜか左手を使っている。まな美も|左利き《サウスポー》ではない。
「つまり、超高級な布なんですよ。旧家やったら、そういったのは大切にしてはりますから、それを比較的最近に……いうても、うちらの学校ができたんは五十年前やから、その頃に、この形に作り直されたんやろうと思いますね」
「ほうほう、布そのものは、そんなに古かったんだねえ」
「ええ、意外とそうなんですよ。見てのとおりで、状態がすこぶるええでしょう、そやから、そんな古いもんやろうとは自分も思わんかったんですけど、いや、思われへんのですが、今見るかぎりでは、そのようやなあ」
土門くんが、少し口を滑らせた。
その種のことは、まな美が持っているMの証しを丹念に調べて判ったのだから。
「それと……この裏地ですけどもねえ」
といいながら、土門くんはそのMの証しを裏返しにして自分の手の平の上に載せた。そして岩船に斜めから見えるようにしながら、
「よう見てくれはったら分かるけど、表地とは若干艶がちがうでしょう」
「どれどれ……」
岩船が顔を寄せてくる。
「ちょっとここ暗いから、あれやねんけど」
と文句をいいつつ、土門くんは手の角度を小刻みに変える。わざと岩船に見づらくしているかのような手の動きでもあるが……
「あっ!」
……そのMの証しがするりと土門くんの手の平から滑り落ちた。そして木机《テーブル》の角に当たって、さらに下の方へと……
「んもう! こんな大切なものを」
……とまな美が叱責《しっせき》しながらも、小廻りが利《き》くのは自分だといわんばかりに、土門くんの膝にかぶりつくようにして身を潜り込ませ……それを手にしながら身を起こすと、パタパタと少し埃《ほこり》を払ってから、奈良の大仏のように待機していた土門くんの手の平に、それを裏返しの状態で戻した。
「やー、上手《じょうず》の手からも何とやら……」
土門くんは、へこへこと頭を下げて謝る。
「次からは、ちゃんと気をつけてね」
岩船は小言はいったものの、それほど怒っているふうでもない。
「え……この裏地はですねえ」
続きの話に戻して、土門くんはいう。
「淡い縞模様が入ってますけど、こちらの布は、経《たて》糸が絹で、緯《よこ》糸が綿いう取り合わせやから、少し風合いがちがうんですよ」
「ふーん、そういわれて見れば、ちょっとなめらかな感じがするよね。布質もやわらかそうだし」
「ええ、これは甲比丹《かぴたん》と呼ばれてるもんです。これも江戸時代の輸入品で、更紗ほどは高級品でなかったようですけど、つまり、裏表とも、庶民とは縁はあらへんような布なんですよね」
土門くんは、意味のない纏《まと》め方をした。
「さっきの、五色不動の方に話を戻しますけど」
と、まな美が喋りかけたそのとき、
――くるみ割り人形の音楽《メロディー》が突如流れてきた。
「ごめんごめん、自分の……」
岩船は背広の内懐から携帯電話を取り出し、そして出てみると、
「あっ、よりさーん」
刑事課の依藤係長からの電話であった。
「……うん? 今すぐ?……分かった分かった。すぐ近くにいるからさ、二、三分で帰れるよ」
それだけいって切ると、
「聞こえたとおりでさ、大至急の呼び出しを喰《くら》っちゃって……」
すると土門くんが、そそくさと手に持っていたそれ[#「それ」に傍点]をポリ袋に仕舞い、岩船に手渡す。
「あ、ありがとありがと……」
その依藤からの呼び出しは事実『大至急』であったらしく、岩船は|大慌てで《ばたばたと》身支度を整える。
「五色不動は、江戸守護のために家光が定めたけど、Mの五人も、同じ意味合いのものなんですよ」
その僅かの時間を惜しんで、まな美が語る。
「不動明王とは何たるかを説いた『大毘盧遮那成仏神変加持経《だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう》』によると、慧刀《えとう》と羂索《けんさく》を持ち、頂髪《ちょうはつ》は左肩に垂《た》る、一目《いちもく》にして諦観《ていかん》し、威怒《いど》にして身に猛火あり。そして……充満せる童子《どうじ》の形なり……と。つまり不動明王っていうのは、子供なんですよ」
「へー、子供だったのか」
それにはそれで驚きの声をあげながらも、岩船は立ち上がり、
「やーほんといい話をありがと。随分参考になったよ。今度また、ゆっくりとね」
そういい残すと、伝票をかっさらって店員の前まで行き、
「南署の依藤[#「依藤」に傍点]につけといてね」
――手を振りながら、足早に店から出ていった。
三階の刑事課に息を切らせぎみに岩船が辿り着くと、係長席を取り囲んで、その依藤係長、そして生駒刑事と少年課の林田刑事が、立って待っていた。
「さっそくですが、岩船さん、この写真を見てくれませんか」
――有無をいわさぬ口調で、依藤はいう。
その係長机《デスク》の上には所狭しと数十枚の写真が並べられてあった。
「うん? 人の写真だね……てことは、こん中から自分が知ってる人間がいないかどうか、それを探せってことね」
「そうそう。それにご存じとは思いますが、自分らは一切[#「一切」に傍点]口出しできないから、岩船さんの記憶だけを頼りに、ひとつ真剣[#「真剣」に傍点]に探してちょうだいねえ」
「うわあ……責任重大だなあ……」
そんな泣き言めいたことをいいながらも、岩船は食い入るようにして一枚一枚の写真に、そのとおり真剣に目を落としていく。
「うううううううーん」
と真剣そのものの唸《うな》り声を発しながら。
そして暫く見入ってから岩船は一枚の写真を摘《つ》まみ上げ、
「これさ、もっと顔が大きく写ってんのないの?」
――催促していう。
依藤は、その写真をチラッと確認してから、
「ありますよ」
と、手に持っていた写真の束から一枚を抜き出して岩船に手渡す。
その写真を一瞥《いちべつ》するなり、
「――うん。間違いないね、この女性だ」
自信に満ちた声で岩船はいい、
「先の写真に一緒に写ってる男ふたり、それも何となく覚えがあるんだけど、いずれにせよ、この女性は間違いないね。この女が、文化祭当日には、あの歴史部の展示会場にいた」
――再度、断言した。
「間違いないですね、――岩船さん」
念押しして、依藤は聞く。
「――間違いなし。俺の警察人生を賭けてもいいよ。といえるほど立派なもんじゃないけどさ」
その最後は、余裕を見せるほどの剽軽《ひょうきん》口調で岩船はいった。
「やりましたね岩船さん、大手柄ですよ」
ほっとひと安堵《あんど》した感で依藤はいう。
……傍《かたわ》らでは、徹夜顔をした生駒が小さく拍手していた。
それらの写真は、昨日、竜介との話し合いの後、その生駒と林田が現場に直行し、件《くだん》の修行道場に出入りする人間を少し離れた場所から、望遠レンズを使って隠密裏《おんみつり》に撮影し捲ったものなのだ。問題の女性の人相風体は、岩船の話からもある程度は分かっていたので、似た女性が現れるまで、夜を徹し、そして今日も粘っていると……つい一時間ほど前、写真に撮れたというわけなのだ。それを岩船が、多数の人物写真の中から(無関係の写真も擬餌鉤《ダミー》で混ざっていたが)迷うことなく再抽出《ピックアップ》したのだから、これほど確かな話はない。
「――さ、これからがひと[#「ひと」に傍点]仕事だ。直談判[#「直談判」に傍点]に行かなきゃ。岩船さんもついてってくれますよね」
「あっ……仕方ないかあ」
顔写真を確認した責任上《てまえ》、岩船としても逃げるわけにはいかない。
一同は、同じ棟の五階にある署長室へと、靴音を響かせながら急ぎ足で向かった。
その扉《ドア》を依藤が乱暴に連打《ノック》し、そして返事と同時に扉を開けて署長室に飛び込むやいなや、これまでの経緯を、まさに口角沫《こうかくあわ》を飛ばして捲し立て、
「……でありますから、ここにいる岩船氏も顔写真を確認したことでもあり、それに犯人からの連絡もその後途絶えたままでありますから、ここはひとつ、突入の大英断を!――」
そんな通常の手続きをまるで度外視した依藤の半ば喧嘩ごしの話に、優雅に葉巻煙草をくゆらせながら聞き入っていた、依藤とはほぼ同年代の署長である田之上《たのうえ》警視(上級公務員)は、
「――分かりました」
落ち着きはらった声でそういうと、
「この件は、依藤くんに全権を委《ゆだ》ねましょう。思う存分やってください。この南署の命運をきみにあずけますから」
――拍子抜けするほどあっさりと承諾していった。
その事の成り行きに、廊下から聞き耳をたてていた生駒と林田が、うわー……信じられないといった驚きの声をあげる。
「はっ! かしこまりました」
依藤は、めったにしない敬礼を畏《かしこ》まってしながらも、地の底から沸々《ふつふつ》と湧いてくるような高揚感に、武者|顫《ぶる》いを隠せずにいた。
そんな依藤を横目に見ながら、岩船は、五月節句の荒ぶる神・鍾馗《しょうき》さまの姿が頭に浮かんだ。いや、その依藤《かれ》の鬼気《おにけ》びた形相《かお》を見るにつけ、ついさっき歴史部が語っていた不動明王……中でも一番に厳しいという怨敵調伏《おんてきちょうぶく》の青色お不動さんの姿が、重なって見えた。
依藤が三階に戻ると、大部屋のとっかかりにある防犯課で、その末席の事務机《デスク》に座っていた坂下婦警に呼び止められ、
「さきほど、依藤係長あてに電話がありました。昨日の火鳥先生からでしたけれど」
乙女の顔になって少し上機嫌に、
「ご伝言は、窓のない部屋、とのことでした。それだけ伝えてもらえれば分かるとのことで」
だが、相変わらず依藤とは目を合わせずにいう。
「――ふむ」
依藤は、その時分秒《じふんびょう》を見計らったかのような竜介からの電話に怪訝《けげん》さ満々ながらも、その伝言それ自体は、自身の沸々と煮え滾《たぎ》っている青色の脳細胞にしっか[#「しっか」に傍点]と刻み込んだ。
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16
一方、歴史部のふたりは――
その昔ながらの古びた喫茶店から出て、タクシーを拾い一目散《いちもくさん》に現場[#「現場」に傍点]から逃げ、ふた駅ほどすっ飛ばしてから降り、その駅前の商店街にあった小洒落た茶店《カフェ》に飛び込んで席につくやいなや、
「やったわね土門くん!」
「やっ、やりましたね! ひめー」
――歓喜に打ち震えていた。
や、やはり、歴史部の辞書には不可能の三文字はなかったようだ。
「……あんなに巧《うま》くいくとは思わなかったわよね」
「ほんまやー、それこそ絵に描いた棚《たな》から牡丹餅《ぼたもち》のように美味《うま》くいったぞう」
ふたりは、注文して運ばれて来たミックスジュースと冷たいみるくてぃ[#「みるくてぃ」に傍点]ー(砂糖入り)で乾杯をし、勝利の美酒《ジュース》に酔いしれながら、
「それにしても、ぴったしのところに落っことしたわよね土門くん」
「上手《じょうず》の手からは、上手に落ちるというもんやー、それに姫が用意しとった話も、ぴったし、のってきましたよねえ」
「そうなのよ。五不動さんぐらいの話だったら、何とかついてこられるんじゃないかと思って……」
悲しいかな、岩船の知識|水準《レベル》は、まな美に見透かされていたのである。
「……でもあの後も、五に関係する話はたっくさん用意してあったのよ」
「それは分かる分かるう」
……数字一個《じゅうさんと》いっただけで、出てくるわ出てくるわの姫なのだから。
「そやけど、そのことをいい出すまでもなく、電話で呼び戻されとんやから、天は我々に味方せりー、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ……おう、まさに仏の座、いう感じやぞう」
ふたりの事前の青写真では、その五に関する話でまな美が煙《けむ》に巻いている隙《すき》に、土門くんがさりげなくそれ[#「それ」に傍点]を返す……であったのだが。
そんな乱痴気《らんちき》にも、ふたりは疲れてきて、
「けど……表地《おもてじ》の方は、幾らかは違ってたわよね」
少し心配そうに、まな美がいった。
「それはしゃーないしゃーない、表地《こっち》は記憶に頼っとんやから、それに真贋《ふたつ》を見比べんでもせーへんかぎり、わっからへんわからへんー」
土門くんは、蝿《はえ》でも追っ払うように手を振り、ご気楽にいう。
その種の不安もあって、あのような喫茶店の薄暗い席を、待ち合わせの場所に選んだのであったが。
「けど、それにしても、あの古い布地は信じられないくらいに高かったわよねえ」
「それもしゃーないな、姫には時間がなかったから説明せーへんかったけど、更紗は布の端切《はぎ》れだけを買うたん違《ちご》うて、帳面《のーと》一冊丸ごとの値段なんや」
「……ノートって、何?」
「あーいった更紗《さらさ》の名品は、手鑑《てかがみ》帳いうて、あれぐらいの寸法《さいず》に切られて、沢山の種類が帳面《のーと》に貼られてあんねん。それは江戸時代の輸入台帳とか、業者の見本帳として使《つこ》てたやつや。それが今では一級の骨董価値品《これくたーずあいてむ》で、その中で見つかったもんやから、その頁《ぺーじ》だけを|売って《わけて》……いうわけにもいかへんやろう。それに更紗いうんは、もっと派手な柄が普通やねん。けどあれに使《つこ》とったやつは、模様が入ってるかどうか、よう見ーひんと分っからへんぐらい地味やろう。そういう柄は稀《めずら》しいから、その手鑑帳の目玉で、そやから余計あかんかったんや」
「ふーん、世の中には色んな蒐集品《コレクション》があるのねえ」
まな美は、不満げに感心してから、
「じゃあ、その手鑑帳の本体は、土門くん家《ち》に?」
「そう、店の二階の床の間に大事に置いてありまっせえ。それにやな、あの偽物《にせもの》の方も、いずれは戻って来るやろう?」
と、土門くんは、同意を求めるようにまな美の顔を覗《のぞ》き込んでいう。
「……そうね、太田さんが無事戻ってくれば、あれも返却されるはずだから。それにマサトくんもいってたし、太田さんは絶対[#「絶対」に傍点]に無事に戻ってくるって」
「そうやそうや、天目にいわれると、根拠はのうても何かそんな気がしてきて安心するもんな。そやから自分らはこーいったことに没頭できるんや」
妙な言い訳を、土門くんはいい、
「……それでやな、あれが戻って来たとすると、布切れに戻して、手鑑帳に貼って返すと、九割の値段で買い戻してもらえる約束になっとうねんで」
「わっ! ほんとう」
――小躍《こおど》りして、まな美はいった。
仏像が買えるぐらい潤沢《じゅんたく》に資金は持っている歴史部ではあったが、今回の出費は堪《こた》えたらしく、それもそのはず、その布代は七桁に近かったからだ。
「あっ、甲比丹《かぴたん》の方はあかんで。あれはそこそこ大きな布で手に入って、切ってしもうたやろう。あれも名品中の名品で、これぐらいはしたんやでえ」
と土門くんは、その巨大な片手を広げ、
「甲比丹は文化《ぶんか》・文政《ぶんせい》のへんで輸入は途絶えてしもとうから、それ以前の品やねん。そやけど更紗ほどには種類は多なかったから、まったく同《おん》なじやつが見つかったんや。裏は同なじ布を使《つこ》てるいうことが分かったし……何といっても、こっちには姫さまがお持ちの実物[#「実物」に傍点]があったからなあ」
……にんまりとしながらいう。
それゆえ、裏面に注意を引いている際にすり替えよう、そんな青写真が完成したわけだ。
「そやけど、さすがは松平さん、表裏ともに骨董屋泣かせの、まさに庶民とは縁遠いもんやった――」
それがつまり、土門くんが岩船に語った意味がなかった感想《コメント》の裏の真相である。
「――そやから偽物《にせもん》やいうたかて、表裏ともに究極の贋作《がんさく》やぞう。それに姫が徹夜して縫うてくれた三つ葉葵も、同《おん》なじ金糸を見つけてきたんやからー」
「あの手刺繍はわたし単独《ひとり》じゃ無理で、ママに手伝ってもらったのよ。こんなの何に使うのって聞かれたんだけど、裁縫の宿題だって胡魔化して……」
十七歳の女子らしく小悪魔顔でいってから、
「それに[#「それに」に傍点]、もし彼らが、あれでMの証しごっこ[#「ごっこ」に傍点]をしようものなら、たちどころに天罰[#「天罰」に傍点]が下るよう細工[#「細工」に傍点]してあるのよう」
――大悪魔顔になって、まな美はいう。
「へ、へ、へ、へー、それはそれで楽しみやなあ」
その相棒の魔物《デーモン》のように、土門くんもいった。
「……けどう、岩船さんには、さすがに悪いことをしたわよね」
少ししんみりとなって、まな美はいう。
「それはしゃーないで、歴史部《うちら》が、いくら天下無敵の向こう傷とはいえど(演劇部の『旗本退屈男』の決め台詞《ぜりふ》)、あれを警察の建物《たてもん》から取り返すんは不可能で、人からでないと……そやからま、さっき会うたんは、岩船さんとは別人やとでも思えば」
「えっ?」
「そやから、岩船さんの姿はしてはったけど、岩船さんのぬいぐるみ[#「ぬいぐるみ」に傍点]を着とった林田[#「林田」に傍点]やと思えば」
「……そうね、大事の前には小事は捨てなきゃ」
まな美も割り切ったものである。
「あ! そうや。作戦は大勝利に終わったんやから、参謀長さま[#「さま」に傍点]に連絡を入れとかんと……」
いうと土門くんは、学生鞄の隙間《すきま》から外に垂れ出している和|紐《ひも》につけられた自慢の根付《ねつけ》を引っ張る。
「土門くん、それ[#「それ」に傍点]何とかならないのー」
――まな美が、顔を背《そむ》けながらいった。
その根付は、髑髏《しゃれこうべ》の上に小人の骸骨《ガイコツ》がのっかっていて、こんちはーといったふうに愛想をふりまいている象牙《ぞうげ》の彫り物だ。そこはまな美とは美[#「美」に傍点]意識の差で、それをいとおしそうに指で撫でながら土門くんは携帯電話をかける。
「……あっ、天目くんのお宅でしょうかあ、自分はあの……ええええ、そうですそうです。そちらさんも、お変わりないですかあ」
……でれーとした顔になっていう。
いったい誰と話してるのよ! といわんばかりの怖い顔でまな美が睨《にら》む。
「……いやいやー、それは何より何よりー」
「マサトくんは?」
まな美が電話先にも聞こえるぐらいの声でいった。
「……あっ、そうですかあ、それは残念ですねえ。そやったら、万事うまくいったとお伝えください。てへへへー、いやいや……また御飯を御馳走になりに行きますねえ、そんときはよろしくー」
といって土門くんは電話を切ると、
「やー、いつ聞いても可憐《かれん》な声してはるなあ」
……顔のまわりに妖精を探しながらいう。
その電話に出たのは、いわずもがなの西園寺|希美佳《きみか》である。
「あの女性《ひと》、いつまでマサトくん家《ち》にいるつもりかしら。最初は夏休みだけっていってたのにー」
膨れっ面して、まな美はいう。
「あ、そうやそうや、西園寺さんといえば……」
まな美が、き[#「き」に傍点]――っとさらにいっそう怖い顔で睨んだので、
「あっ、天目はやね、学校から帰ってすぐに竜蔵|爺《じい》と一緒に外にお出かけしはったそうやで」
マサトの話に戻して、土門くんはいった。
……彼は、火鳥竜介《ひめのおにいさん》の研究室を訪ねた際に知った助手の西園寺静香と、その西園寺希美佳の名前や雰囲気が似ていて、以来気になっていて、その話をしようと思ったのであったが。
「そう……マサトくんは家にいないんだ」
残念そうにまな美はいってから、
「けど、今回の最大の功労者は、何といってもマサトくんよね」
――機嫌を直して、誇らしげにいう。
「そうそう、あいつはここぞというときにええ[#「ええ」に傍点]こというよな。最初、手品でやろう、と天目がいい出したときは何のこっちゃと思ったんやけど、じっくり話を聞いてみると、――これこのとおり、ものの見事なあいであ[#「あいであ」に傍点]やったもんな」
つまり青写真を着想したのは、なんと、マサトであったのだ。
「それに岩船さんだったら、あのMの証しを外に持ち出してくれる、そうマサトくんがいってたのも、正解だったわよね」
「それぐらいやったら自分にかて推理できるで、あの林田《ぺーぺー》くんにはそれは無理やろうから」
……いや、どうしてどうして、それだけの理由でないことは説明するまでもないが。
「でもマサトくん、わたしたちふたりが会いに行くのであって、自分は行かないことを岩船さんに念押しするようにって、それは今思っても奇妙な助言《アドバイス》だったわよね。マサトくんも一緒に来れば、警察の奢《おご》りで珈琲が飲めたのに……不味《まず》かったけど」
「うーんそこがまあ、天目の奥ゆかしいところよ。勝利を我が手に掴む瞬間の感動を、自分らに譲ってくれたわけやなあ」
……ものは考えようであるが。
いずれにせよ、そのMの証し奪回作戦の成功の裏には、マサトの人としての閃きと、それに加えてアマノメの神の力があったわけである。
そのマサトは今この瞬間も、本筋である太田多香子の誘拐事件を、いかにして無事[#「無事」に傍点]解決へと導くか、そのことに神の力を最大《フル》に使って心血を注いでいることは、ふたりは知る由もない。学校から帰宅するなりの竜蔵との外出は……それであったようだ。アマノメの神は、自宅《いえ》にいながらにして森羅万象《すべて》を見通せる、ほどには万能ではない。
「そうやそうや、自分らの今日のこの快挙は、伝説の一頁にさっそく加えんとなあ……」
土門くんが嬉しそうな顔をして、そういい出した。
「伝説って……Mの伝説のこと?」
「もちろんそうやで、他所《よそ》の伝説には加えられへんやろう……卑弥呼には無理やし、孫悟空《そんごくう》もあかんし、桃太郎もだめ、水戸黄門の伝説ぐらいやったら若干話を加えられるかもしれへんけど……」
「けど、話を作ったとしても、それをどうやって伝説化するの?」
「そんなん簡単やんか、いんたーねっと[#「いんたーねっと」に傍点]のどこかの掲示板に書き込んだら、それを|M高《がっこう》の誰かが見てくれてやな、あっという間に広げてくれるでえ」
「あ……噂って、今はそうやって流すのね」
まな美は、初耳のごとくに驚いていう。
「姫さまは相変わらず、そういったことには化石《おくれて》ますねえ。今時の噂は、何でもかんでもこれで流れるんやでえ。中学生もそうやろうし、小学生も、へたすれば幼稚園も」
戯談《からか》うように土門くんがいうと、
「わたし、そういったことやってる暇ないから」
――まな美はきっぱりという。
事実そのとおりで、まな美の欲するような情報は、インターネットなどではまず出てこないからだ。その種の|専門書にすら書かれてない《だいがくのきょうじゅだってしらない》のだから。
ある側面では、そこは知識の貯蔵庫(阿頼耶識《あらやしき》)ではあるだろうが、|人間の知恵そのもの《まなみがとこうとしているなぞのこたえ》がそこに書き込まれているわけではない。
「……姫、こんなんはどうや、埼玉の警察いうんは話が小っちゃすぎて面白うないから、やっぱり相手は本庁の刑事《でか》、それも名を馳せている捜査一課の警部で、名前は……さっき岩船さんが電話でいうてはった、よりさん[#「よりさん」に傍点]いうんはどうやろ?」
「うーん、どこか人が良さそうだわよ。もっと悪い名前の方がいいんじゃない、感じがでて」
まな美も、土門くんの伝説化話にのってきていう。
「それもそうやな……あっ、権田黒《ごんだぐろ》いう名前にしょ。その権田黒は、菊の御紋をかさにきて威張《えば》り腐ってるいけすかない[#「いけすかない」に傍点]やつな。そして自分らふたりが尋問を受けるんや。それも鉄格子が嵌《は》まっとう警察の取り調べ室で。ほいでもって、自分はかれーらいす[#「かれーらいす」に傍点]の出前を頼み……姫は何がええ?」
「うーんじゃあ、わたしは笊蕎麦《ざるそば》」
「うーんぜんぜん季節感あわへんけど、まあええか。するとやな、その権田黒がMの証しをつきつけてきて、これは何だーと厳しく攻め立ててくるわけや。けど、その権田黒が見ている目の前で、自分らはまんまと裏をかいて偽物《にせもん》とすり替える……そのへんの|段取り《すとーりー》は同《おん》なじでええな。あっ、そのときの名文句思いついたぞう。まるで赤子《あかご》の手をひねるように」
土門くんはその巨大な手で、喫茶机《テーブル》を捻《ひね》りながら。
「けど、その|筋立て《ストーリー》だったらマサトくんが出てこないわよ」
「あ、そやったら、最初《はな》から三人で尋問を受けてることにしょ。警察の菊の御紋に負けじと抵抗を試みる、三つ葉葵三銃士いうことで、ぴったしやろう」
「……わたしたちの名前はどうするの?」
「そんなんMの中のM三人でかまへんやんか。うちらふたりもMに混ぜてえなあ……」
駄々を捏《こ》ねるように土門くんはいい、
「……ほいでもって、何となく仄《ほの》めかせばええわけや。かぐや姫と、金太郎と桃太郎いうふうに」
「そんなのすぐに露見《ばれ》ちゃうわよ」
「ば、ばれるかあ?」
……どのあたりで? と土門くんは姫の顔を見、
「そうやけど、これで姫さまの願いも叶《かの》うて、うちら三人そろうて伝説の中に生きて入りましたねえ」
ことのほか嬉しそうに、土門くんはいう。
そんな願《がん》かけをした覚えは、まな美にはないが。
「そして自分らの|M高《がっこう》がある限り、未来|永劫《えいごう》に語り継がれていくわけや。……警察からMの証しを取り返した伝説[#「伝説」に傍点]として」
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17
――太田多香子救出へ向けての強行突入は、明朝午前四時と決まった。
それに関する緊急|打ち合わせ《ミーティング》は、署長から全権を委《ゆだ》ねられた刑事課の依藤係長と、各課の係長のみで行われた(全員現場の責任者だから話が早い)。
突入は空が明るみ始めてから、そんな意見も出たが、敵は新興宗教の修行道場だから、信者が朝早く起き出すことも考えられ、その前に決行と相成った。寝込みを襲おう(つまり真夜中に)と依藤は主張もしたが、すると今度は南署の態勢が整わないのだ。夜勤の課員以外は昼間勤務していたわけで、それをそのまま居残らして真夜中に……には無理がある。だから一度家に帰し、仮眠をするなりして再集結と決まった。その他にも、整えるべき特殊車両があった。闇の中での決行だから照明用の車両が最低でも二台、それも塀越しに高い位置から照らすことができないと。それに信者の抵抗に備え、高圧放水車の手配も。もちろん護送車両も一台では足らず、それらは南署にすべて揃っているわけではないから、他署《よそ》から借りてこなければならないのだ。
が、この件に関しては、人的な支援は他の警察署からは一切期待できないことは、端から依藤には分かっていた。その真浦会《まうらかい》の修行道場に太田多香子が拉致監禁されている――といったことは、ごく限られた情報に基づいた、いわば推理[#「推理」に傍点]であり、そこに強行突入などといった無謀な大|博打《ばくち》に、どこの警察署が賛助《あいのり》してくれるというのだ。もし逆の立場であったら、依藤は高みの見物と決め込んだはずで、それゆえ、南署単独で、その総力を結集して事に当たるしかない――。
斥候《せっこう》ともいうべき生駒と林田の写真撮影から、その真浦会の修行道場に出入りしていた人間は二十五名が確認できている。つまり最低でも、その人数は修行道場の建物の中にいるわけだ。
片や、南署で動員できる男性課員は四十七名が限度であったから、何とか対処できそうなぎりぎりの陣容なのだ。もちろんのこと少年課も含めてで、だから文字通り、署を挙げての大捕物《おおとりもの》となる。
その生駒と林田は、刑事課の野村警部補を含む南署より選《すぐ》りの屈強な課員五名を加えて、現場に取って帰り、今も監視の任務にあたっている。ふたりは二日連続の徹夜となるが、主犯格の顔を確認して見知ってる以上、適任者は彼ら以外にはない。そしてもし、太田多香子が外に運び出されたり、もしくはその身に危険を及ぼすような状況が垣間見えたなら、その七名だけで命懸けで突っ込め[#「命懸けで突っ込め」に傍点]――との特命[#「特命」に傍点]が依藤からは出ている。
そして交通一係は、その七名が任についたのとほぼ同時に、修行道場に通じる道路各所に非常線を張り、そこから出て来た車があれば、通常の交通検問に託《かこ》つけて、トランクの中などを改める手筈《てはず》になっている。ただし、突入を勘ぐられてはまずいから、異常がない限り、その車や人間は非拘束だ。なお、その任についている内の男性課員たちも、時間になれば突入隊に合流である。
さらに太田多香子の顔写真、および岩船が確認した女と、一緒に写っていた男ふたりの写真は、大量|複写《コピー》され、作戦に参加する課員たち全員に配られた。しっかと脳裏に焼き付けておけというわけだ。もちろん、写真は交通一係にも渡されていて、似た人間が検問に引っかかった場合は、何らかの理由をつけて拘束《あしどめ》――指令が出されている。
そして突入する際の注意事項としては、その主犯格の三人以外は事件には関与してしない、すなわち単なる修行中の信者である可能性もあり、抵抗しない限りにおいては、手荒な扱いは厳禁――を南署の全員に徹底するよう申し合わされた。
とこのように、考えられるすべての手筈を整え、そして暁《あかつき》の午前四時を迎えようとしていた。
日の出には、まだ二時間以上はある。
依藤は、全権を委ねられた責任者としての立場と、南署の命運をきみにあずける――と署長にいわれて以降、断続的に襲ってくる武者顫《むしゃぶる》いもあって、仮眠どころではなく、車両や人員配備などの事前の準備が万端《ばんたん》整ったことを確認の後、午前一時ごろには生駒ら七名の突撃隊に合流して、時を待っていた。
その依藤が現場に着いた以前も、そして以降も、真浦会の修行道場には、とくに際立った動きはない。
昨晩十時すぎ、建物の窓から漏れていた明かりも、そして二ヵ所ある出入口の門灯もいっせいに消され、以降は人の出入りは見られなかったとのことだ。
そこの敷地は三百坪ほどで、高さ二メーター弱のブロック塀で囲われている。そして簡易舗装の車道に面し、横滑り式の鉄扉の正門がある。が、そこは車の出し入れの際に使うらしく、車道から直角に延びている未舗装の脇道沿いにある通用門から、信者たちは専《もっぱ》ら出入りしていた。その脇道は行き止まりで、奥は孟宗竹《もうそうちく》の林だ。つまり建物の背後も、続きの竹林で、そこに逃げ込まれた場合のことも考え、何名かの課員は配所される手筈になっている。
その脇道を挟んで右隣は、無人の資材置き場だが、登記簿を見た限りでは、真浦会とは無関係のようだ。
修行道場の敷地の左隣、そして車道を挟んで手前側も、ともに田畑《でんぱた》である。この周辺一帯は、田畑と木々と民家が七・二・一ぐらいの割である典型的な長閑《のどか》な田舎だ。外灯も、その車道沿いに申しわけ程度に点《つ》いているのみで、あたり一帯はすっぽりと夜の帳《とばり》に包まれている。
作戦遂行には好都合な環境だが、逆に、相手側からは見晴らしが利いてしまい、依藤らが今いるのは、二百メーターほど離れた雑木林の中である。
そこは、小さな社《やしろ》のために残された小さな鎮守《ちんじゅ》の林だが、祀られている神が何か、なんてことは警察《かれら》の興味の埒外《らちがい》だ。が、その鎮守の林が、南署総動員の四十七名の集合場所である。課員たちはさらに数百メーターは遠方で車から降り、小人数に分かれて集まって来て、すでに全員が揃い待機《スタンバイ》している。
無駄口を叩くものは疎《おろ》か、咳払いの声ひとつすらも聞かれない。もちろん、煙草をふかしているような不届き者はいない。――依藤の爛々《らんらん》とした目が、それこそ暁《あかつき》の闇に異様に光っているからだ。
その簡易舗装の道路を間隔をやや置きぎみにして、ほぼ無音で、ゆっくりと走ってくる大型車両の列が、遠目に見えた。――時間きっかりである。
その数台の特殊車両が所定の位置につくと同時に、門を打ち破って突入なのだ。
四十七課員は鎮守の林から出ると、ふた手に分かれ、敵陣へと歩き始めた。正門組と、通用門組である。各々の指揮を執るのは、捜査課の古田《ふるた》係長と、そして依藤だ。その通用門からの方が、敵の本陣(修行道場の建物)に近いからである。
その修行道場の建物は、そこそこに大きな鉄筋の二階屋で、一見、ごくありきたりの企業の保養施設のような外観だ。そう古くはなく、築十年くらいだろうというのが生駒の見立てである。
だが、その建物の内部の見取り図等は入手できていない。時間もなかったし、それに警察が下手に動くと勘ぐられる恐れもあり、だから突入は、ぶっつけ本番となる。その点では……かの赤穂浪士《あこうろうし》よりも分《ぶ》は悪そうである。
依藤の率いる組が、畦道《あぜみち》を通って車道に達すると、その前を照明車両の一台がしずしずと横切って行った。屋根の上に載っている探照灯《サーチライト》を、さらに高く伸ばせる方式《タイプ》の車両だ。その運転手が、依藤たちに向けて窓越しに敬礼をする。
依藤は、その異様な眼光で返礼の代わりとし、車道を渡って脇道に入った。そして通用門の前につくと、課員が五名分かれて、その道をさらに奥へと歩いて行く。彼らは竹林組で、大型の懐中電灯を手に手に携えているが、まだ点けてはいない。
通用門は、ペンキ塗りの金属製の一枚扉で、把手《とって》はついていたが、外側からは鍵穴が見当たらない。おそらく閂《かんぬき》などで閉じるような原始的な仕組《タイプ》で、この種の扉《ドア》は意外とやっかいなのだ。
鉄梃《かなてこ》を手に持った課員が、さあやるぞーと身構えていると、
「――待て[#「待て」に傍点]」
それを、地の底からのような低い囁き声で制した依藤が、その扉《ドア》の丸い把手《とって》に、手をかけた。そして廻してみると……なんと、閂などはかかっておらず、すーとその扉は奥に開いた。
『うわあ――』
驚いた生駒が、声は出さずに口だけその格好をする。
が、依藤としては、万が一と思って試してみたら、当たっただけのこと。それにここは普通の民家ではない。寺の門だって、夜中でも開いてる寺があるんじゃないか、そんな理屈を、依藤は後から考えた。
そして課員たちは我先にと、足音を立てずに敷地の中になだれ込んで行く。本作戦は忍びに相応しい運動靴履《スニーカーば》きとの達しが出ているのだ。
依藤も扉をくぐり、塀の内をざっと見渡してみた。そこは庭というよりもさら地に近いようで、灌木《かんぼく》が塀に沿って少しある程度だ。外灯は点《とも》っておらず、ところどころ資材らしきものが積まれているのが、夜目に見えた。それに建物のどの窓からも、明かりは漏れてきていない。そして正門の方を見やると、そちらも施錠されてなかったらしく、鉄扉がゆっくりと滑り始めていた。その種の扉は音が激しいので、要所に潤滑油を撒《ま》くのに時間を食ったようだ。
だが、照明車両からの探照灯《サーチライト》はまだ照らされはしない。それは課員たちが建物の中に突入してからだ。今照らすと、敵を起こしてしまい余計な混乱を招くだけだからだ。
その通用門の先にあった建物の裏口の扉は、普通の家の勝手口のそれと大差なく、そこは、さすがに施錠されてあり、そのドアノブを極小の懐中電灯で照らし見ていた防犯課の課員が、手で、OK――の合図を出した。そして懐から小さな道具類を取り出すと、その懐中電灯は口に咥《くわ》え、耳かきのような道具を鍵穴に突っ込んでカシャカシャやり始めた。いわゆる、ピッキングである。泥棒に可能で、警察官に不可能のはずもない。
そして通用門組の課員たちが固唾《かたず》を呑《の》んで見守っていると、――カシャ。ものの一分足らずで鍵は開いた。だが、まだ突入ではない。正門組と同時だからである。
その裏口と、表玄関とを両方見渡せる位置に、背の高い課員(刑事課の植井)がひとり立っていて、その彼に向けて、通用門組のほぼ全員が、頭の上で大きく丸の字を作って示した。原始的だが、携帯電話よりも素早く、声を出さずに済む。
するとその植井が、分かった、分かった、といっているふうに大きく上半身を屈伸させているのが、夜目に見えた。
……が、その植井からの次なる合図が、待てど暮らせど……ない。
正門組は、門の段階から既に出遅れていたわけで、それに鍵の種類によってもピッキングに要する時間は長短かなりの差があるのだ。裏口のそれは、最も簡単な鍵だったようだ。
それに、この種の待ち時間ほど長く感じられるものはない。そして焦《じ》れた生駒が、自分が、行って、見てきましょうか……即席手話《パントマイム》を依藤にする。そうこうしていると植井が、その二本の長い腕を激しくばたつかせ始めた。
それすなわち、|GO《とつにゅう》! の合図である。
裏口の真ん前にいた防犯課《ピッキング》の課員《めいじん》が、その扉を開けて、真っ先に中に躍り入った。他の課員たちも我先にと後に続く。これより先は、物音や声を出すのは一向にかまわない。いや、出さずに忍んで行くと、泥棒に間違えられて不意打ちなどを喰《くら》い、却《かえ》って危険である。
ほぼ同時に、探照灯《サーチライト》が点灯し、車道から塀を越えて煌々《こうこう》とした明かりが降り注いできた。それは主に庭を照らすためで、建物内の明かりは、スイッチを見つけ次第つけろ――の指令が出ている。
そしてここまで来れば、依藤は泰然自若……悠然としたものである。指揮官が慌てふためいたところで|意味はないからだ《けっしてプラスにはならない》。
その狭い裏口から数珠繋《じゅずつな》ぎで館内になだれ込んで行く課員たちの、最後尾にいた生駒に、
「――生駒。お前が行ってしまうと、ここは誰が見張るんだよ」
依藤が呼び止めていった。
生駒は立ち止まり、
「あー、植井植井」
――依藤の背後を指さしていう。
振り向くと、その合図係だった植井がゆったりと歩いて来ていた。
依藤の傍らには、|同じく泰然自若《がんそじごくのもんばん》の野村も腕組みして立っている。期せずして、刑事課の四人が揃った。だが刑事課は元来は五人であり、ひとり胃潰瘍《いかいよう》を患《わずら》って長期病欠しているのだ。その彼は、今日は出て来るといい張ったのだが、依藤が休めと命じた。そういえば……かの赤穂浪士にも、似たようなのがひとりいたような。
「植井。おまえがこの裏口を死守するようにな」
そういい残すと、依藤は、野村と生駒を従えて扉をくぐった。
入ってすぐはコンクリートの床の、だだっ広い厨房であった。信者たちの食事を作るところだろう。
……警察だ!……警察だ!……警察だ!
……南署だ!……起きろ起きろう!
……抵抗するな!
奥から課員たちの声が響いてきた。寝ていた信者たちと早くも遭遇《そうぐう》し始めたようだ。
通用門組は主に一階を、正門組は二階をと、そんな段取りが予め申し合わされてあった。それは表玄関を入ってすぐのところに、おそらく二階への階段があるだろうと、そう単純に推理しただけだ。
その厨房から段を上がると、先は広々とした木の廊下になっていた。三人は、ポケットからビニール製の靴カバーを取り出し、それを嵌めた。課員全員がそうしているはずだが、現場の証拠保全だ何だかんだと、けっこう煩《うるさ》いのである(岩船さんが)。
……南署だ! おとなしくしろ……
……服を着ろ、服を……
……おいそこ! 何持ってんだ?
そんな課員たちの怒声や甲高い声が木霊《こだま》のように聞こえてくる中を、依藤ら三人は、ひと部屋ごとに、見落としがないかをじっくり見定めて行く。
その廊下は、左手は壁で、右手に沿って扉があり、厨房のすぐ隣は物置部屋であった。多数の棚が並び、缶詰やジュース類や、そして米俵《こめだわら》などが置かれている。主に食料倉庫として使っているようだ。
その隣は……脱衣場に続いて、奥に浴室があった。十人ぐらいは一緒に入れそうな大きさだ。
その次は扉はなく、奥に細長い洗面所で、その左右に流し台と、壁に鏡が嵌まっている。つまり多人数が同時に洗顔や歯磨きができる場所だ。
その隣は|手洗い《トイレ》であった。男女別にあり、それぞれの表示が出ていた。生駒と野村がそれぞれの中に入って確認してから、出て来て、
「なかなか、いい設備ですよね」
――生駒はいう。
実際そのとおりで、それに見て来たところは、どこも小綺麗に片付いていた。それらは、依藤の想像《イメージ》していた新興宗教の館内とは、少し違っていた。
その隣は……そこも倉庫であった。やはり棚が並んでいて、大小様々な缶やら瓶やらが置かれている。中身は今ひとつ分からないが、食料ではなく、どうやら薬品類のようだ。
そして、その先で廊下は左に直角に折れていた。
その先を見通すと、やはり右手に沿って部屋があるようだ。
「――うん?」
依藤は何かに気づいたらしく、怪訝《けげん》そうな顔で、今歩いて来た廊下の方を振り返り、
「このトイレ側はさ、要するに竹林《たけばやし》だろう」
「えー、そうなりますね」
生駒が、同意していった。
「するとトイレや浴室の面が、建物の一番裏なわけだ。そしてその隅っこに厨房がある……てことは、多人数の食べ物を、この長い廊下をずーと運び、さらに直角に折れて先に持って行くわけか……それはまあいいとしても、トイレがこんな隅にあるっていうのは、ちょっと不便じゃないか……」
といいながら依藤は、来た廊下を戻る。
野村と生駒も、その後につき従って行く。
「それにさ、こっち側の壁の向こうはどうなってんだ? その先の廊下も同じで、左側は壁だったろう。何か部屋があるんだろうけど、そんなぐるーと廻って行かなきゃ、そこには入れないのか?」
……いわれてみれば、妙な作りであることに後のふたりも気づいた。
「うん? 壁のあんなとこにさ、何か縦の筋が入ってるぞう」
依藤はいいながら、近づいて行く。
「……あっ、ほんとですねえ」
生駒も、間近に見て確認していった。
その筋は、廊下のほぼ真ん中あたりの壁にある。
「んなところに隠し扉作りやがってぇ」
野村が巻き舌で悪態をついてから、その縦の筋を挟んで左右を、両手で押した。
だが、その隠し扉とやらは開かない。
「うーん」
野村は少し唸り声を発し、さらに力を込めて押す。
すると、右手側が、奥にゆっくりと動き始めた。
「なんか油圧みたいなの、かましてる扉《ドア》だな」
……つまり、ある程度は力をかけないと動かない、そんな仕組らしく、そして五センチほど奥に動くと、すーと急に軽くなり、
「くっそー、うまく作ってやがんなあ」
そして扉は開いた。
が、その向こうは、明かりは点《とも》っていない。
「あーあ」
――野村が嘆くようにいった。
そのあーあは、案の定といった意味だが、それは我先にと急《せ》いている課員たちには見つけようもなく、だからこそ、依藤たちが後に控えているのだ。
生駒が先に入り、壁のスイッチを見つけて捻ると、仄《ほの》かな明かりが点った。今いた廊下の半分くらいの明るさだ。がなぜか、その明かり全体が揺らいでいる感じがする。目の錯覚かと思いつつ依藤も入ってみると、壁の上部に点々とある松明《たいまつ》の形をした照明器具には、そういった特殊《ムード》電球が嵌まっていた。
そしてそこは、またもや木の廊下であった。左と右に行けるが、左は五メーターほどで行き止まりの状態だ。そこに扉はあるが、その前には、待合室に置かれるような背凭《せもた》れのない小椅子が、コの字形に並べられている。――生駒が、その扉の前まで行ってガタガタやったが、鍵がかかっていて開かない。
そうこうしていたら、その隠し扉がひとりでに閉まった。すると、最前まで聞こえていた課員たちの木霊す声が、ぴたりと途絶えてしまった。
「うわ……すごい密封度ですねえ」
閉じ込めれた気分で、怖《お》じけづいて生駒はいう。
「こっち側には、取っ手があるじゃんか」
そういいながら野村が、それに手をかけ、
「あっ、引き金《トリガー》みたいなのがついてるぞ」
それを、カチャ、と握り締めながら引く……すると扉は手前に簡単に動いた。
「なるほど、これで油圧が解除できるんだ」
野村は感心したようにいい、その引き金をカチャカチャと弄《いじ》る。
「野村《のむ》さん。そのまま開けといてくださいね」
いうと生駒が、小椅子を二個持って来て、扉の前にかまして置いた。
「これで開いたままでしょう」
生駒も、恐怖心が絡むと機転が利くようだ。
その鍵がかかった扉は刑事課の三人では|不可能な《ピッキングできない》ので、廊下の右側へと進む。左右の壁は、白漆喰《しろしっくい》で塗り固められた清楚なそれで、扉らしきものはない。そして行くと、廊下は左に直角に折れていた。
「……要するにさ、これは外の廊下の、壁を隔ててちょうど内っ側《かわ》なんだな」
「ええ、そうなりますけど、どうしてこんな作りにしてんでしょうかね?」
三人が廊下の角を曲がると、その答えらしきものが見えてきた。
その廊下もかなりの長さの素通しだが、右側の壁には、手前と奥に、例の取っ手がついた扉がある。
いや、むしろ左側が問題なのだ。その廊下の真ん中あたりの壁に、何かが見えるのだが……
その手前の扉の取っ手を、カチャ、と掴んで開けた生駒が、
「おーい! どなたかいませんかー」
と声を飛ばしたが、返事はない。近くには課員はいないようだ。そして近くには、椅子もない。生駒は諦めて手を離した。
……その左側の壁に見えていたのは、壁を単純に切り取ったような作りの、扉のない出入口であった。
が、中を覗き見てみると真っ暗だ。
下への階段があり、そしてその先にかなり広々とした空間がありそうなことだけは察せられる。
「な……なんだここは[#「なんだここは」に傍点]?」
依藤が、三人を代表するかのように怪訝さを声に表していった。
その啻《ただ》ならぬ雰囲気に生駒は、その開口部は先んじてはくぐろうとはしない。すると、野村が自分の出番とばかりに肩を怒《いか》らせながら入って行く。
その背中に小判鮫《こばんざめ》のようにして生駒が続き、
「……スイッチ、スイッチー」
と喚《わめ》きながら、近くの壁をばたばたと撫で捲《まく》る。
依藤も中に入った。階段は僅かに二段であった。
すると、足元だけがぼ[#「ぼ」に傍点]ーと明るくなってきた。
「あれえ、スイッチ入れたんは誰え……」
幽霊の仕業のように、生駒はいう。
依藤は振り返って見てみた。すると、出入口のこちら側の上部に、小箱がついていた。おそらくそれが人探知機《センサー》なのだろうと思いつつ、さらに見上げていくと、そのまま壁はずーと上へと続いているらしい。つまりそこは、吹き抜けになっているようだ。
そして天井はというと、闇の色合いが、壁とは少し違っていた。天井の方が明るい感じがする。おそらく、ガラスの天窓にでもなっているのだろう。
……が、その足元の照明は、ごくごく緩慢にしか明るくなっていかない。それも何処《どこ》から照らしているのかすらもよく分からない。が、三人が立っている床の構造は何となく見えてきた。
それは、巨大な囲炉裏《いろり》の形をしていた。その縁《ふち》に立っていたわけだ。建物用語でいうと、つまり縁側《えんがわ》のようなもので、四方を吹き抜けの壁に囲まれて、その縁側が出ているのだ。
「……真ん中に、何かありますよね」
生駒のいうとおりで、その幅広の縁側は、壁から三メーターほど行った先で途切れ、そして中央部は、いわゆる中庭のようになっているらしいのだが、その真ん中に、確かに何かが突っ立っている。
……次第次第に、その中庭の部分にも明かりが届き始めた。
「あーん? 指かあ?」
いった野村と同じく依藤にもそのように見えた。
ただし、その黒々とした一本指は、三メーター近くあるのではと思えるほどの巨大な代物《しろもの》で、中庭の下一面に敷かれている白っぽい玉砂利《たまじゃり》から、それだけが突き出すように置かれてあるのだ。
「いや、指とはちがいますよ。あれですよあれー」
鼻にかかる声で生駒がいい、
「あっ、俺さまのよりデカいじゃないか」
野村も気づいて与太《よた》を飛ばし、
「なっ、なんてものを拝んでやがるんだ――」
顰《しか》め面《つら》して、依藤はいった。
それは漆黒《しっこく》の石造りで、まるで海豚《いるか》のように滑らかに表面が仕上げられた、――男根《だんこん》であった。
そして生駒が、ここまで明るくなれば怖くないとばかりに、縁側から飛び降り、ジャリジャリとことさら音を立てて歩きながら、
「温泉地に行くとこれの小っちゃいのありますよね、大人の秘宝館というところに」
……軽口を叩く。
「道祖神《どうそじん》とか、いうんでしたっけね」
野村としては珍しく蘊蓄《うんちく》的なことをいい、そして彼も、生駒に続いて玉砂利に降りて行く。
――その胴の部分には藁《わら》の注連縄《しめなわ》が張られ、白い紙垂《かみしで》が下がっている。
「なんか……水で濡れてますよう」
生駒は、そのすべすべした表面が気に入ったのか、馴れ馴れしく手の平で撫《な》ぜ摩《さす》りながらいう。
「ほんとだ。この紙だって濡れちゃってるじゃん」
いうと野村が、その紙垂の滴《しずく》を飛ばすかのように指でパチンパチンと弾いた。
「うん? 濡れてるって……」
依藤は天井の方を見やった。が、自動的に水が落ちてくる、そういった仕掛けは見当たらないが。
「マッ、真羅《まら》さまに何を!――」
突如として、その囲炉裏|端《ばた》のどこかから怒声が響いてき、別にあった右側の出入口から白装束《しろしょうぞく》の男が独りで走り出て来た。手には白木の水汲み柄杓《ひしゃく》を持ち、振り翳《かざ》して凶器としながら。そして縁側を蹴って玉砂利に飛び降りるや、ふたりの内では弱そうに見えたのか生駒めがけて突進して来る。
が、生駒はひょい――と剽軽に体《たい》を躱《かわ》す。何を隠そう学生時代はボクシング部に所属である。
そして目標を失い蹈鞴《たたら》を踏んでいるその白装束の男を、野村が襟刳《えりぐ》りを掴んでドテーンと玉砂利の上にひっくり返してしまった。いわずもがな、こちらは南署きっての武道の達人だ。
そして生駒が男の上に馬乗りになり、
「――公務執行妨害。現行犯逮捕」
と軽《かろ》やかに決め台詞《ぜりふ》を吐きながら、その拙《つたな》い凶器を男の手から取り上げ、その腕をねじ伏せる。
「おい、あんま無茶すんなよ」
依藤が、そんなふたりを誡《いまし》めていった。
そういう依藤は|学生時代は格闘系とは縁はなく《けいさつかんになってからはじゅうどうをかじったが》、ボウリングの選手で国体に出たぐらいだ。
と――そのとき、縁側の下の四方八方から突如として白い煙が吹き出してきた。無臭のところからドライアイスのそれのようだが、もくもく[#「もくもく」に傍点]と湧いてきて瞬《またた》く間に玉砂利を覆い隠していく――
「ま、真羅さまがお怒りじゃあ」
生駒の下敷きで苦しそうな声で、男はいう。
「ッ、なにがマラさまだ!」
依藤は、舌打ちして不快げにいいながらも、いったい何がどうなっているのか分からない。
生駒と野村も唖然|呆然《ぼうぜん》で、その場から動けない。
――ドライアイスは縁側を越えて依藤の膝あたりにまで湧き上がり、そして噴出は止まったらしく、その白煙《しろけむり》にも若干の落ち着きが見えてきた。
そしてあたかも、たなびく雲海から屹立《きつりつ》しているかのような、注連縄が張られた巨大な漆黒の男根[#「男根」に傍点]。その傍らで、胸から上だけの仁王像と化した野村、そして生駒の晒《さら》し首がキョロキョロとする。
もはやこの世の情景とは、依藤には思えない。
「く……息が、苦しい……」
その声で我に返ったらしい生駒は、その男の馬乗りを解いて、雲海の中から立ち上がらせた。
――コンコン。
上の方から、何かを叩く音が聞こえてきた。
そちらを見やると、壁の二階の部分に、さっきまでは気づかなかったが小さなガラス窓があり、その向こうも明かりが点いていて、その窓から課員の顔がチラッと覗いた。
「あっ、犯人はあいつだ!」
生駒が指さしていう。
「何かのスイッチを間違って押したんだ!」
……のようであった。
白装束の柄杓《ひしゃく》男は生駒に任せ、依藤と野村でそのぐるりをざ――っと見て廻ったが、分かってみれば単純な構造で、その正方形の吹き抜けの外側をほぼ一周して廊下があり、扉のない出入口は三ヵ所、そしてあちこちに通じる隠し扉が六ヵ所、廊下の行き止まりにある鍵がかかった扉が二ヵ所、それ以外には警察《よりふじ》が興味を示すものはなかった。
そのドライアイスが吹き出した囲炉裏が、この修行道場のすなわち道場[#「道場」に傍点]で、そこで様々な行事《イベント》が催され、そして二階のコンコンのガラス窓の向こうが、その楽屋裏……テレビ局にある調整室のようなものだろうと依藤は思った。
「けど、まだ連絡ありませんよね」
野村が、少し心配そうにいった。
――連絡とは、ここに監禁されているはずの太田多香子もしくは主犯格の三人が見つかり次第、依藤に(各課の係長にもだが)あるはずの連絡だ。
「うん、いったん出てみようか」
ふたりが、裏口に近い隠し扉に向かっていると、その内側の廊下を慌てふためいたように駆けて来る課員たち数名と出食わした。内ひとりは、裏口の鍵を開けた防犯課《ピッキング》の課員《めいじん》だ。ここのことは生駒から聞いたとのことで、その生駒は、柄杓男を外に連れ出しに行ったはずだ。
「入ってすぐ横のところ、扉があったと思うけど、開けてくれた?」
依藤が、その防犯課の課員に尋ねていう。
「はい。さきほど……ですが、中は祭りの道具のようなものが入ってる、単なる物置でした」
「だったら、それと似たような扉が、この廊下をぐるっと一周した行き止まりにもあるから、同じく開けてちょうだいね」
「はっ――」
「それとさ、この中にも行けるんだけど、今は雲[#「雲」に傍点]がたなびいてて危険だから、入るんじゃないよ」
「ごつい段差があって、それが雲[#「雲」に傍点]で隠れちゃってるの。それに変[#「変」に傍点]なもん[#「もん」に傍点]立ってるけど、悪さすんなよ」
自分のことは棚に上げ、野村が補足していった。
「はっ……」
きょとんとした顔をしながらも敬礼をし、その課員たちは廊下を駆けて行く。
依藤と野村は、厨房を通って裏口から外に出た。
庭は、二台の照明車両で夜の野球場のように照らされていて、正門玄関の横手で、建物の中から出された信者たちがひと纏《まと》めにされ、オレンジ色の毛布に包まって地べたにしゃがみ込んでいた。その目立つ色の毛布は、護送車で南署から運んで来たものだ。
信者たちは課員五、六人で見張っているが、そこから少し離れて、正門組の指揮官であった捜査課の古田係長が、腕組みしながら独りで立っていた。
やって来た依藤と、無言で頷きあってから、
「ちょっと、時間食ってるよねえ」
その古田も、少し不安げにいった。
――突入から三十分が経とうとしている。
「それにさ、隠し部屋があったんだって?」
「隠し部屋[#「隠し部屋」に傍点](依藤は苦笑しながら)程度のもんじゃないよ。この建物の三分の一ぐらいの空間《スペース》は占めてるんじゃないか」
「あーん(古田はあんぐりと口を開け)じゃ、外《ほか》にも、そういったのがあるのかもしれないね」
「自分も、まだありそうな気はする。けど今頃は、生駒が触れ歩いてくれてるはずだから、そっちの方にも目が向き始めてると思うよ」
その生駒は、南署きっての|語り部《スピーカー》として夙《つと》に知られている。いい意味でも、悪い意味でも。
「でさ、かなり多くいたみたいだけど、今んところ何人いたの?」
信者たちの方を顎でしゃくって、依藤はいう。
「おーい、今何人になってる?」
古田が、見張りの課員に呼びかけて聞く。
「……はい。さきほど生駒さんがひとりお連れでしたから、男性が二十七名になって、そして女性が、二十二名です」
若い課員が答えていった。
「うわあ、けっこういたんだな。南署《うち》の動員数を上《うわ》まわってるじゃないか」
「まあ、結果的にはね。でもこの人数を知ってたら、よりさん突入させてた?」
「……確かに(依藤は項垂《うなだ》れぎみに)んな無謀な指揮官はいないよな。警察《われわれ》は数が勝負なんだから」
「けどね、信者さんは皆さん柔順《おとな》しかったんだよ。男は一階にいて、大部屋のふたつで雑魚寝《ざこね》ね。そして女性は二階で、三人か四人ずつ小部屋にいた。それを順ぐりに出してったら……こうなったのね」
目線をそちらに向けて、古田はいう。
「で、話聞いた?」
「いや、まだなんだけど、そろそろ聞く?」
「うん、そろそろ聞かなきゃ。まだあるかもしんない隠し部屋を教えてくれるかも。それに、そろそろ目も覚めた[#「目も覚めた」に傍点]ことだろうし……」
と、依藤と古田の両係長(正副指揮官)は、信者たちの前に歩を進めて行く。
一同は右に男、左に女、ほぼ四列になって座っていて、窓の向こうで人影(背広姿の課員たち)が動いている建物の方を見やり、無言で、火のない火事場見物をしているかのようでもあったが、
「えー、皆さん」
――依藤が声を発すると、いっせいに振り返った。
「お寒いところを申し訳ないですが、もうしばらくご辛抱《しんぼう》ください」
依藤は、軽く頭を下げていい、
「そして少々お尋ねしますが、まず、こちらの建物の責任者の方はどなたでしょうか?」
そう問うと、一同は互いに顔を見合わせるだけで、しばらく待っても返事はない。
「えー、ここは修行道場だとお伺いしていますので、たとえば、ご指導をなさっている側の立場の人?」
言葉を換えて、依藤は尋ね直す。
すると、中程《なかほど》にいた毛布を頭からすっぽりと被《かぶ》り眼鏡《めがね》だけを出している男がおずおずと手を挙げ、
「あのう……」
「じゃ、あなたがご指導をなさっている」
「いえー僕じゃありませんよう」
とその男は、挙げた手を|小刻みに《ぶるぶると》振って否定し、
「そのう、お導師《どうし》さまはですね、二日に一遍ぐらいしかお見えにならないんですよう」
「あ、じゃあその方は、昨晩は……ていうか、今はいらっしゃらないわけですか」
そのとおり、そのとおりだと一同は首肯《うなず》く。
「その方は、どういった名前の人なんですか?」
さりげなく、依藤は尋ねる。
そのお導師さま[#「お導師さま」に傍点]とやらが、太田多香子誘拐の実行犯であろうと思ったからだ。
が、またもや一同は顔を見合わせ、そして同じく毛布|被《かぶ》りの眼鏡男が答えていう。
「そのう、お導師さまはですね、誰と決まってるわけじゃなくって、その都度《つど》、会の方からいろんな人が来られるんですよう。何度も来られた人もいれば、一回だけの人もおられるし……」
うん? 話がちがってきたなと依藤は感じ、
「そうしますと、皆さん方の中で、つまり皆さんは修行中の信者さんだと思われますが、その中で代表の方……世話役をなさってるような人は、どなたかおられませんですか?」
すると、その眼鏡毛布男が再度おずおずと、
「えーそうなってくるとう、やっぱ僕だと思います。ここん中では、僕が一番古いでしょうから」
「あっ、そうでしたかあ」
依藤としては、話を聞くべき相手がようやく見つかったので、笑顔を作って頷いてから、
「で、何年ぐらいここにいらっしゃるんですか?」
その眼鏡男に、気さくに問いかける。
「いえ、何年なんてことはないんですよ。ここには長くても一年が限度なんで。そして次の意識界《ステージ》に進むんです。けどう、進めればだけど……」
消え入るような声で、男はいう。
「あ……なるほどね」
依藤にも、その彼の立場が分かってきた。
何かの試験《テスト》にでも受からないと、次のステージとやらには進めないのだろう。てことは、古株すなわち落ちこぼれかけてもいるわけだ。それに火鳥先生いわく、この真浦会の売り[#「売り」に傍点]は、修行すれば霊能力が身につく(――信じてないが[#「信じてないが」に傍点])であったことを依藤は思い出した。が、それは誰にでも、というわけでもないようだ……んなことはさておき、
「皆、写真を渡したろう」
依藤は、見張りの課員たちに呼びかけ、
「あれを全部、今俺たちにちょうだい」
そして、集まった写真を両係長《ふたり》で手早く仕分けし、
「この女の子、見覚えありませんかねえ」
と、太田多香子の写真を、その眼鏡毛布《おちこぼれかけ》男に手渡しながら依藤は尋ねる。
古田が、同じ写真を他の信者たちに適当に配る。
「うーん自信はないけど、見覚えないですねえ」
その男はいった。
――嘘や、隠し事をしているふうでもない。
「じゃ、こちらはいかがですか?」
別の一枚を依藤が手渡すと、
「あっ、これは真柴《ましば》さまですね」
その主犯格の女の写真を見るなり、男は即答する。
「ほう、ましば[#「ましば」に傍点]さまとおっしゃるんですか。ちなみに、どんな字を書くんですか?」
「えー真実の真に、柴《しば》は……紫《むらさき》という字に似た」
「あ、その真柴さまですか。なかなか奇麗なお名前ですよね。その方も、お導師さまのおひとりか何かなんですか?」
依藤は、ことさら丁寧に尋ねる。
「いえ、お導師さま程度《クラス》じゃありません。もっともっと幹部《うえ》の人です。真《ま》の字が入ってますから」
「……といいますと?」
「あのう、ご存じだとは思いますけど、ここの教祖さまは、真浦さまなんですね」
「ええええ、何となく存じてますが」
「そのう、真浦さまの真[#「真」に傍点]の字が、大幹部になられるとつくわけですよ」
「あっ、さようでしたか……」
てことは、その名前は本名[#「本名」に傍点]じゃないんだ。漢字など聞いて損した、この一分一秒を争ってるときに。
「で、そのマシバさまは、今はどちらにおられるんですか? お姿が見えないようですけれど?」
心とは裏腹に、なおも丁寧に依藤は聞く。
すると男は、信者の女性陣の方を見やりながら、
「うーんここにいらっしゃらないんだったら、おられないんでしょうね」
――当たり前のことをいう[#「当たり前のことをいう」に傍点]。
「あっ、真柴さんだったら」
斜め後ろにいた、二十代と思《おぼ》しき別の男がいう。
「昨日の昼すぎぐらいに、外に出かけましたよ、確か……」
偵察隊の生駒と林田が写真に撮ったのは、つまりそのときであろう。
「じゃ、その後お戻りになってない、てことなんでしょうか?」
「うーんそうなんだろうな……てぐらいしか、いいようがないですね。その真柴さんが、いったい何をやってんのかは、俺らには全然分かんないんですよ。だって真面《まとも》に口を利いてくれたことも、ないんで」
その若い彼は、不満でも鬱積《うっせき》しているのか、ぞんざいな口調で喋る。
が、依藤としては、むしろその方が|話が早く《ありがたく》、
「じゃ、もう一枚写真があるんだけど、ちょっと見てくれないかな」
その若い彼に提示しながら、
「このふたりの男は、分かる?」
「あー、あの付き人のふたりか。いちおう顔は知ってるけど名前は、――誰か知ってる?」
その彼が、|信者たち《なかまうち》に問いかけていう。
……が、答えはない。
「て感じでね、誰も知らないんですよ。その腰巾着《こしぎんちゃく》ふたりも、俺は喋ったことないし。それに真柴さんだって、導師の誰かが……忘れちゃったけど、へこへこしながら連れて来て、少しの間《あいだ》ここを使うから、きみら粗相《そそう》のないように、ていわれただけ[#「だけ」に傍点]」
――と強調していう。
「それって、いつ頃の話なの?」
「うーん、はっきりとは覚えてないけど、ひと月ぐらい前かなあ……それに何度もいいますけど、その三人は、ここに毎日いるわけでもないし。それに、あそこに車あるでしょう」
と、その彼が、表玄関の左奥を指さし、
「一台、二台、マイクロバスをいれて三台。これで全部そろってるんですよ。その一番手前の紺色のワゴン、あれを、その三人が専用車にしてたんですね。けど残ってるとこを見ると、昨日は車じゃなくって、タクシーか電車で行ったんでしょうね。そんなところですけど、参考になります刑事さん?」
「はいはい、随分と参考になりましたよ」
その随分[#「随分」に傍点]は……社交辞令だが。
すると古田が、依藤の耳に顔を寄せてきて、
「どうする、よりさん、真浦会の本部に、その真柴とやらのこと、照会いれてみる?」
――ごくごく小声で囁く。
「いや、それは駄目だわ」
依藤は、顔は信者の方に向けながらも、手を口の前に当てがい、声が出る方向を制御しつつ囁く。
「こっちには、具体的な証拠は何ひとつないんだからさ、今本部の方に騒がれて、弁護士にでも出張《でば》って来られてごらんよ」
「あっ、ほんとだ……単なる、南署のご乱行にされちゃうな」
「あっ……」
女性陣の誰かから、ほのかに声が挙がった。
「はい? 何かお気づきのことでもありました?」
条件反射的にその方に顔を向けて、依藤は問う。
「この女の子の写真、これを見てて気づいたんですけど」
――声の主は二十代、いや、十代後半《ハイティーン》かとも思えるほどの若い女性だ。
「あれは何日前だったかしら……」
指を折って思い出しながらも、
「はっきりとはしないんだけど、一週間よりはこっちですね。その日の夕方、もう暗くなっていた頃に、この写真の女の子と、玄関を入ったあたりですれちがいましたよ」
「え? すれちがった。この女の子がすたすた歩いてたんですか?」
「いえいえ、さっきの真柴さんの付き人の、男の人ふたりに、両脇から抱えられてです。そのとき、その子はぐったりとしてたんだけど、顔ははっきりと見ました。わたし、見た人の顔を覚えるのだけは、自信あるから」
その若い彼女は、少し誇らしげにいう。
依藤は、その話は大収穫[#「大収穫」に傍点]だとは思いつつも、
「あなた、そんな状況を目撃して、変だなとは思わなかったんですか?」
――尋問口調になっていう。
「えー、そんなこといわれても……」
「あ! はーい」
さっきの若い男が手を挙げていう。
「ここにはですね、そういった人はいっぱい運ばれて来るんですよ」
「あーん? いっぱい[#「いっぱい」に傍点]――とはどういうこと?」
「あのですね、霊障《れいしょう》をうけちゃってる人は、ほとんどがぐったりとしてて、意識もないんですよ。そういうのを俺らも手伝わされて、車で運んで来るんですね。もちろん俺らには除霊《じょれい》なんかできないから、それは導師がやるんだけど、だからそういうのって珍しくないんですよ。だから彼女を責めないでくださいよ――」
食ってかからんばかりの剣幕で、男はいう。
「あ……分かりました。ごめんなさい」
依藤は下唇を噛みしめ、自らを納得させてから、その若い女性に謝った。
ここは世間の常識は通用しない、まったくの異世界であることを依藤はあらためて思い知った。
そんな依藤の脇腹を、肘《ひじ》で古田が突《つ》っ突《つ》き、
「やっぱり、ここにいたんだ」
――本筋に戻し、信者たちにも聞こえるぐらいの声でいった。
依藤も、うん、と確信の頷きをしてから、
「じゃ、――皆さん全員にお尋ねしますが、ここ一週間ぐらいで、そういった若い女の子が、正確には十八歳なんですが、そんな子が、ここに運ばれて来た。もしくは、ここから外に運び出されて行った[#「外に運び出されて行った」に傍点]。そんな様子をご覧になった人は、他《ほか》におられませんか? 顔など覚えてなくてもけっこうです。遠目にそれらしきのを見た、でもかまいません。どなたかおられませんか?」
――声高に、問いかけていう。
一同はざわめき、近くに座っている者同士でぼそぼそと囁き合い始めたが、手を挙げてまでして何かを語ろうとする者は出てこない。
「すると、建物のどこかに今もいるんだよりさん[#「よりさん」に傍点]」
それは希望的観測と知りつつも、古田はいう。
「いる、絶対にいる[#「絶対にいる」に傍点]――」
依藤はパンパーンと手を叩いて、そのざわめきを静めると、
「――はい。もう皆さんも事件[#「事件」に傍点]の概要はお分かりになったと思いますが、その写真の女の子は、太田多香子さんとおっしゃる高校三年生の女子。そのいたいけ[#「いたいけ」に傍点]なる子を、マシバらの悪党一味[#「悪党一味」に傍点]が、こともあろうに学校から拉致《らち》し、ここに連れて来たわけですね。だから警察《われわれ》がこうやって、その子を助け出しに来てるわけですよ。それに、これまでの皆さんのお話し振りからいっても、皆さんはこの事件とは無関係のようですから、何らお咎《とが》めはありません。その点でもご安心していただいて、皆さんの協力を是が非ともお願いしたいわけですね」
――刑事話術を駆使し、熱弁を奮《ふる》っていると、
「あのう……」
またもや眼鏡毛布の古株男が手を挙げ、
「……土浦《つちうら》さんも許してもらえるんでしょうか?」
「はっ? 土浦さんとは?」
古株男は、列の右端の方を指さしながら、
「土浦さんは逮捕されると泣いておられるし。けど彼は、今晩がたまたま真羅《まら》さまのお守役《もりやく》の当番で、お水をさしあげていただけで、それに警察の人とは知らなくって」
「あっ、その方ね」
毛布を被っていたので分からなかったが、つまり白装束の柄杓《ひしゃく》男のことだ。
「いえ、逮捕なんて絶対にしませんよ。あれは生駒《あいつ》の口癖なんで、きれーさっぱりと忘れてください。それにお体の方は、大丈夫ですか?」
半ば真面《まじ》に心配して、依藤は聞く。
「……痛ーい」
その彼は背中を摩《さす》っている。
「ここにちょうど(依藤は真後ろを指さし)その投げた張本人がいますから、後でよーく謝らせますので、ひとつお大事に」
と、至極《しごく》手短に纏《まと》めてから、
「――さて、そのマラさまが祀《まつ》られていた、皆さんの神聖なる祭壇。そこは部外者には分からないような隠し扉で守られてましたよね。そういった部屋は、この建物に、外《ほか》にありませんでしょうか? それを皆さんに、お教え願いたいんですが」
――ようやく、聞きたかったことを尋ねる。
が、一同そろって、えーといった顔をする。
「……も隠すもんはないよなあ」
そんな囁き声も聞こえてくる。
「あれ以外に、ない[#「ない」に傍点]?」
さっきの威勢のよかった|若い男《あんちゃん》に、依藤は聞く。
「いや、マジで刑事さん。あれ以外にはない[#「ない」に傍点]」
すると一同、首振り人形のようにいっせいに頷く。
「うーん」
依藤は、憤怒《ふんぬ》ほどではないが顰め面して唸り声を発し、自身の青色の脳細胞にしっかと刻んであった火鳥先生からの伝言を思い出しながら、
「あのさ、この建物には、地下室はないの?」
――再び、|若い男《あんちゃん》に聞く。
「いや、そういったのもないよ。空調設備も、温水の装置も、ガスは都市ガスとプロパン両方使えるんだけど、それに自家発電も一部できるんだけど、そういった装置類は全部、建物の裏っ側《かわ》にあるのね。だから地下室なんか必要ないでしょう」
「――ふむ」
依藤は、腕組みをして目を瞑《つむ》り、しばらく考えてから、
「えーさっきの彼女、写真の太田多香子さんを見たというあなたね[#「あなたね」に傍点]、そのときさ、そのふたりの男は、太田さんをどこに運ぼうとしていました?」
「……だって、わたしが出会ったのは玄関なんですよ。だからその先、どこにでも運べるし」
といってから、その彼女は少し考え、
「けど、あの時間帯だったら夕食の準備をしているから、みんな廊下を歩き廻ってたはずで、それなのに、誰も見てないんだったとしたら、左の廊下の方向かしら……」
「そのへんには、何があるの?」
「その廊下を隅まで行くと、幹部室があります。あのあたりは、まず歩かないから」
「その幹部室って、何部屋あるの?」
「一階と二階に、五部屋ずつあります。全部が左の壁に沿ってて……つまり西向きの部屋ですね」
「じゃ、その三人はどこを使ってた?」
「一階の一番奥と、えー手前からふたつ目、それが付き人の男の人ふたりです」
「マシバはどこ使ってた?」
「うーん、真柴さんは……」
思い出せないのか、彼女がいい淀《よど》んでいると、
「一階の奥からふたつ目――」
男の誰かから、声が飛んだ。
それに呼応し、男性信者の何人かが首肯《うなず》いている。
……本筋とは関係ないが、どこか異様な淫靡《いんび》さを依藤は感じた。
「もうそこしかないな、よりさん」
「うん、そこしかない[#「そこしかない」に傍点]――」
というより、もしそこに隠し扉などがなければ、依藤に託されている南署の命運は、尽き果てる[#「尽き果てる」に傍点]ことにもなるが。
「では、皆さんは、今しばらく、ここで静かに座っていてくださいね。それが皆さん方にできる、警察《われわれ》への最大の協力ですから――」
そんな脅《おど》しともとれる念押しを依藤はいってから、建物の表玄関へと歩き始めた。古田が後に続く。
野村はというと、その柄杓男に、すまん、とひと声かけてから、大股な足取りで両係長《ふたり》の後を追う。
そして三人がだだっ広い玄関のタイル敷きに入ったところで、出て来ようとする生駒と鉢合わせた。その生駒は、外に用事があったわけではないらしく、何か話したそうな素振りで、だが鬼の形相と化した依藤は敬遠し、野村の側《そば》にやって来て、
「やーさっきね、お婆さんの姿を見かけちゃって、長くて白い髪の……」
またぞろ妙[#「妙」に傍点]なことを口走る。
声は依藤にも聞こえるが、もちろん無視[#「無視」に傍点]する。
木の床に上がると、正面に畳三枚ぐらいの衝立《ついたて》がでーんと置かれ、絵柄は、日本の古代神話の〈天《あま》の岩戸《いわやと》〉の一幕であった。
「……そのお婆さんが、すーと部屋に入って行くのが見えたから、後を追っかけたんだけど、どっこ探してもいなくって……」
その岩戸は、逞《たくま》しい男神《おとこがみ》が力ずくでこじ開けようとしていた。隙間から日の光りが輝き漏れて、前で神々たちが踊っている。そんな衝立の絵に、依藤は勇気|凜々《りんりん》となったが、あの雲海の黒男根《まら》さまと何が関係あるんだ! と怒りながら前を通りすぎる。
「……二日続きで徹夜だったから、ついに脳にきたかなあ」
生駒はぼやいている。
「おーい! 全員、一階の左の廊下だ――」
古田が、主に二階への階段に向けて大声を飛ばす。
階段は、事前の推理どおりで、玄関を入ってすぐのところにあった。
すると、いよいよ総大将《おおいしくらのすけ》の出陣――とばかりに、課員たちがバタバタと駆け寄って来て、依藤たちの後に続く。そしてぞろぞろと行列を作りながら左の廊下を進んで行くと、右に直角に折れていて、その廊下の左手側に沿って扉が並んでいた。
「……三、四、五と、ここが幹部室だな」
数をかぞえ、確認して古田はいう。
その廊下は行き止まりになっていて、窓や出口はなく、そして右手側はすべて壁である。
「この壁の向こうは、――何になってる?」
依藤が、後方に問いかけて聞く。
「えーこの向こうはですね、男性の信者たちが寝ていた、大部屋のひとつだと思われます」
――課員のひとりから答えが返ってきた。
その彼が持っている帳面《ノート》には、建物内の見取り図が大雑把《おおざっぱ》ではあるが作成されてあった。課員たちも無駄に時間を浪費していたわけではない。図面に起こせば、隠し空間などの有無が見えてくるからだ。
「じゃ、やっぱりこっちだな」
――別の些細な可能性は先に潰《つぶ》しておく、それが依藤流であるようだ。
「ここはさ! 幹部室と呼ばれている場所ね。犯人たちが寝泊まりしてたところ。だからこの五部屋を、徹底的に再度調べ直すように――」
副将の古田が、命令を出していった。
依藤たちは、さらに廊下を先へと進んで行く。
その五部屋とも扉《ドア》は開け放たれてあり、室内には明かりが灯《とも》っていた。
そして奥からふたつ目の扉の前まで来て、
「ここか、マシバが使ってた部屋は――」
その扉口付近を依藤がざっと見渡していたとき、
「……野村《のむ》さん、そのお婆さんが入って行ったのは、この奥の方の部屋なんですよ」
生駒の、そんな囁き声が聞こえた。
――うん?
見た本人は幽霊《それ》だとは気づかないのが本物[#「本物」に傍点]の幽霊[#「幽霊」に傍点]である。そんな火鳥先生のお説を依藤は思い出した。それに見える幽霊は、認識がどうたらこうたらで、人には安全だともいっていた|……………《みゃくらくはないが》幽霊ってのは、何か伝えたいことがあって出てくるのかな、そんな考えがふと[#「ふと」に傍点]依藤の頭をよぎった。
「古田《ふる》さん、こっちお願いね。俺は奥を見るわ」
依藤は、――その幽霊[#「幽霊」に傍点]に賭けることにした。
古田は、扉口に体を半分突っ込んでいた依藤の、そんな心変わりに戸惑いつつも、数名の課員たちとともに部屋に入って行く。
廊下に残ったのは、依藤ら刑事課の三人以外には、野村を師と仰いでいる猛者《もさ》の三人であった。動員数は四十七人だが、信者の見張り役、竹林組、照明係および外の車道にも野次馬を追っ払うために何人か出ているので、建物内にいるのは約三十人なのだ。それを部屋数の五で割ると……ぴったしであろうか。
その六人で、一番奥の幹部室に入った。
そこは八畳間ほどの和室で、民宿よりは豪勢だが、一流旅館ほどではない程度で、さっき依藤が覗《のぞ》き見た隣室とも、中の作りは同じのようだ。
部屋の真ん中に、木目の天板が載った電気|炬燵《こたつ》が置かれてあった。この辺りは朝晩冷えるから、そろそろ必要だろう。
野村が、その炬燵布団の裾を持って、スカート捲《めく》りでもするようにくるりんと引っくり返し、
「あ、電気入ってるじゃん、誰だ温まってたのは」
そんな与太を濁声《だみごえ》で飛ばし、その炬燵《スカート》の中を覗いてから、そして元に戻した。
扉口を入ってすぐ左側に内扉があり、依藤が中に入ってみると、そこには洗面・浴槽・便座がある、出張旅館《ビジネスホテル》のようなユニットのそれが嵌まっていた。
――監禁は、ここで十分可能である。
が、その当人の姿は今のところ影も形もない。
がしかし、このユニットを徹底的に鑑識課が調べれば、彼女がいた痕跡(毛髪など)は見つけ出せる可能性はあるだろう。それは|最悪の《みつからない》場合の保険、そんなことを考えながら、依藤は部屋の方に戻る。
野村が、うーん、と唸り声を発しながら、両手で壁を押していた。
生駒は、本棚を弄《いじ》りながら、
「こういうのって、本を倒すとういーん[#「ういーん」に傍点]て動いたりもするんだけどな……」
部屋には押し入れがあり、布団類は外に出して、課員ふたりが上下に入って懐中電灯で照らしながら、壁や床をコンコン叩いている。
扉口の向こう正面にやや大きめの窓があり、淡茶《ベージュ》色の厚手のカーテンが両端《りょうはじ》に寄せられてあった。信者の話からして、西向きの窓であろう。
依藤はその窓を開けたみた。すぐ先に灌木《かんぼく》がちらほらと植わり、背後は外囲いのブロック塀だ。その向こうは田圃《たんぼ》のはずである。
依藤は、窓枠を越えて外に降り立ってみた。外からだと、また違ったものが見えてくる可能性がある。そして周囲を少し歩いてみた。すると、今いたのは建物の西北の角部屋であった。そして分かったことは唯一《ひとつ》……生駒が弄《いじ》っていた本棚は、建物の外壁に沿って置かれてあり、つまり動かない[#「動かない」に傍点]ということ。
依藤は、窓から部屋に戻った。
生駒も本棚は諦めたらしく、今は部屋の隅っこの畳を拳《こぶし》でドンドンと叩いている。もし空洞でもあれば違った響きがするはずだからだ。
で、あと室内にあるものといえば……そのちょうど西北の角に、二十八インチの立派なテレビが置かれてあり、それぐらいだ。が、その台は台車《ローラー》のない据え置きの家具調で、載っているテレビの重量からいっても動きそうにはない。
その赤外線|発信機《リモコン》が畳の上に転がされてあった。依藤はそれを拾い上げて適当にスイッチを押してみた。するとプッツンと音がし、テレビに火が入った。画面は放送が始まっていない砂嵐[#「砂嵐」に傍点]である。
「……くっっっそう」
依藤は、眉間《みけん》に青筋を立てて怒り唸りながら、その赤外線|発信機《リモコン》を部屋の四方八方《あちこち》に向けて、スイッチをでたらめ[#「でたらめ」に傍点]に乱打し始めた。
それに反応し、テレビが|点いたり消えたり《プッツンプッツンプッツン》する。
――とそのとき、
「皆、静かにしろ!」
依藤が突如命じた。
すると、ういーん……モーター音のような低い唸り音が微《かす》かに響いていて、そして、その音は止《や》んだ。
――下から聞こえた?
――下からだよな?
――畳の下か?
課員たちは口々にいう。
「炬燵《こたつ》だ! 炬燵をどけてみろ!」
――依藤が気づいていった。
課員ふたりでその電気炬燵を抱え持って横にずらす。すると、そこには畳半帖分の四角い穴がぽっかりと開いていた。
その穴に、猛者《もさ》のひとりが勇んで顔を突っ込もうとする。その首根っこを素早く掴んで野村が止め、
「犯人がいたら危ない」
――小声で囁く。
「生駒、呼んでこい」
依藤も小声で指図する。
今慌ててドジを踏めば、これまでの苦労が水泡《すいほう》に帰す。ここが胸突き八丁――正念場だ。
穴の中には明かりが点《つ》いていた。
金属製の梯子《はしご》が垂直に立っているのが分かる。
その穴からは、物音ひとつ聞こえてはこない。
まず古田係長が部屋に姿を現した。そして忍び足で依藤の側《そば》まで来、その部屋の真ん中にぽっかりと出現している穴に、顔じゅうを使って驚きを示す。続いて課員たちがぞろぞろと入って来るが全員無言で、足音を立てぬよう細心の注意だ。そのように生駒が指示を出しているからで、それを隣室から順にやっているのだ。廊下から大声で呼びかけるわけにはいかない。
その生駒が部屋に戻って来たのを見計らって、野村が、自分が、覗く……と簡易手話で意思表示をし、梯子とは逆側の縁に来て、畳に両膝《りょうひざ》をつけた。
梯子の側はコンクリートの壁であることが上からでも分かり、他の三方の様子を見るには、その逆側の位置が最良《ベスト》だからだ。
野村は、ひとつ深呼吸をしてから、がばっ――と穴の中に顔を突っ込んだ。そして十秒ほどしてから顔を上げ、
「大丈夫だ」
――声に出していう。
「下は三畳ほどで、人はいない。で扉が一個あって、ぐるぐると廻す取っ手がついてる。銀行の金庫みたいな扉だ。その重たそうなやつを開けてみんことには、先は分からん」
「……シェルターかな」
その呟《つぶや》き声は、生駒であろうか。
十年かそこいら前、地下にそんなのを作るのが流行《はや》っていたのを依藤も思い出した。
防犯課《ピッキング》の課員《めいじん》が――腕で|×《バツ》印を出している。その銀行の金庫のような扉に鍵がかかっていたら、自分では駄目だという表示だ。
「とりあえず、三人降りよう」
野村はいうと、金属梯子を伝わって下に降りて行く。その愛《まな》弟子ともいうべき、猛者のふたりが続く。そして今度は、縁からは古田が顔を突っ込む。
「すぐに降りられるよう、並んどけ――」
依藤が、他の課員たちに指令を出した。
「……鍵はないようだね」
古田が、下の様子を伝えていう。
「油を吹いてこそっとやる? それとも素早く開けて突っ込む? どちらがいいかって聞いてるよ」
「油ででっきるだけ音は消し、そして開けるときは素早くやって突っ込もう」
別の課員が持っていた潤滑油《クレ556》のスプレー缶が、古田を介して下の課員に手渡された。
シュー、シュー、シュー……と微かな音が聞こえてくる。その廻す取っ手の根元に吹いているのだ。
「五、四、三……」
古田が|秒読み《カウント》を始めた。
そして油を吹いたわりにはギギギギギ……大きな軋《きし》み音がする。続いてクチャ……ゴムが剥《は》がれるときのような扉を開ける音がして、ドドッ……三人が中に走り込んだのが分かった。と同時に、列を作って待機《スタンバイ》していた課員たちが(消防士のように)次々と穴の中に飛び降りて行く。
「……鍵がかかってる[#「鍵がかかってる」に傍点]ー」
下から、野村の悪声《だみごえ》が響いてきた。
――防犯課《ピッキング》の課員《めいじん》を先に行かせる。その彼に開けられる鍵であることを祈るのみだ。
依藤は(そして古田も)最大限耳を欹《そばだ》てて聞き耳を立てているが、怒号や悲鳴は、今のところ聞こえてはこない。
「――もういい」
穴に入って行こうとしている最後の方の課員たちを、依藤が止めた。
今、上に残っているのは十名弱だ。つまり下は二十名強である。地下がそれほど広いとも思えない。それに敵はいたとしても……三人だ。
生駒が、依藤の側《そば》に来て、同じように聞き耳を立て始めた。彼は課員たちを呼びに行って最後に戻ったから列のどん尻となり、上に居残ってしまったのだ。深い理由《わけ》はない。
――その生駒に、呼んでこい、と依藤が命じたその頃であったろうか(細かな時間に意味はないが)。裏の竹林のさらに北側に、正門前の車道とほぼ平行に別の道が通っていて、そこに数時間前から停車していた三台の車が(南署はその道は無警戒《ノーチェック》であったが)動き出し、現場から走り去って行った。それは紺の車を先頭に、ベージュ、そして紺。
下から、うわあ……課員たちのどよめく声が聞こえてきた。
やや間があってから、
「無事でーす! 太田さんが見つかりましたー」
誰かの叫び声が響いてきた。
「うわ[#「うわ」に傍点]――」
そのときになって初めて、地下とそして上にいる課員たちから、勝鬨《かちどき》の雄叫《おたけ》びがいっせいに挙がった。
「やっ……やったね、よりさん」
顔じゅうを皺《しわ》くちゃにして古田が、依藤に抱きついてくる。
傍《かたわ》らで生駒が、二日続きの徹夜でついに凧《たこ》の糸も切れたらしく、畳に上にへたりこみ、神々しいものでも見るようなとろーん[#「とろーん」に傍点]とした表情で、依藤の方を見やっている。
窓の外では、闇の空が微《ほの》かに色づき始めていた。
[#改ページ]
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「かっ、か、か、か、かー」
――依藤警部補の高笑いする声が、三階の大部屋じゅうに響き渡っていた。
その刑事課の係長席の上には、昨日の夕刊と今日の朝刊が堆《うずたか》く積まれていて、
『太田多香子さん無事救出!』
を報じた新聞各紙の隅々にまで目を通しながらの至極ご満悦の体《てい》なのだ。
事件は報道各社《マスコミ》の自粛《じしゅく》協定により一切伏せられてあったのが、昨日早朝の埼玉県南警察署のそれこそ[#「それこそ」に傍点]浮世離《うきよばな》れした救出劇でその自粛が解かれたことも手伝って、全紙が拳《こぞ》っての一面トップの扱いなのである。地元では『号外!』までもが主要駅で配られた。一部、犯人一味を逮捕できなかったことや、強行突入は法的に問題なかったかなどを意地悪く論《あげつら》っていた反権力の某全国紙もあったが、そんなのは依藤としては聞く耳もたん[#「聞く耳もたん」に傍点]――ゴミ箱行きで、大半が、南署の大英断と、その動員数が信者数を下廻っていた不利な状況下にも拘《かか》わらず突入をし、それでいて負傷者等を一名も出さなかった(柄杓《ひしゃく》男は口止めされている)手際のよさなどが高らかに謳《うた》われていた。地元紙の武蔵野日日新報社《むさしのにちにちしんぽうしゃ》などは、その指揮を執った依藤警部補の顔写真入りで、二階級特進! 警視総監賞か! の活字までもが躍っている。
「かっ、か、か、か、かー」
これで高笑いせずにおらりょうか……
……が、大部屋の課員たちは、朝からずーとそんな調子の依藤とは目線は合わそうとはせず、遠巻きにして様子を窺《うかが》っているのみだ。
げっそりと痩せた頬に落ち窪んだ目、土気色《つちけいろ》の顔にはやや赤みがさして紫に、それに加え、一種異様な威厳までもが漂い始めたことでもあり、
〈依藤係長には何かが憑《つ》いてる……〉
それはもはや噂の域を超え、南署全員の了解事項と化していて、その発見者《いいだしっぺ》の生駒同様にとばっちり[#「とばっちり」に傍点]を恐れているからだ。
そもそも、あの真浦会の修行道場があやしい、と依藤がいい出したこと自体、課員たちにしてみれば根拠のないあやしげ[#「あやしげ」に傍点]な話で、そして強行突入を直談判《じかだんぱん》に行くと、あの事なかれ主義の官僚署長が、悪魔にでも魅入られたかのようなふたつ返事[#「ふたつ返事」に傍点]だったし、現場では、依藤が通用門の扉に手を触れると……裏側の閂《かんぬき》が外《はず》れ、その魔力でもって廊下の隠し扉を見破り(それは半面事実だが)、そして極めつけは、いったん入りかけていた幹部室を直前で思い止《と》どまり、その奥の部屋へと赴いて、またもや魔力でもって隠し地下室への扉をこじ開けた。それら一部始終を奇しく[#「奇しく」に傍点]も目撃していた語り部[#「語り部」に傍点]の生駒[#「生駒」に傍点]が、かように尾鰭背鰭《おひれせびれ》をつけて喋り捲った……結果である。
そんな依藤の元に、鑑識課の岩船係長が風呂敷包みを抱え持って、少年課の林田もつき従ってやって来た。
「やーごきげんそうだねえ、よりさん」
毎度《いつも》の飄々《ひょうひょう》とした口調で岩船はいうと、その持っていた風呂敷包みを係長席《デスク》の依藤の目の前に、新聞が広げてあるのに、その上にドサ――と置き、
「これ太田多香子さんの私物なんだけどさ、そろそろ返さなきゃいけないから、その前によりさんにも見せとこうと思ってさ……」
そして岩船が包みを解《ほど》くと、紅白の衣装がきちんと畳まれて出てきた。
「あー、これは巫女さんの衣装だね」
「そうそう、この白い方が上っぱりで、千早《ちはや》というのね。ちはやふる神代も聞かず竜田川、からくれなゐに水くくるとは……て百人一首にあるだろう。そのちはやと同じような意味だと思うんだけど、要するに、神にかかる枕詞《まくらことば》ね。赤い方は緋袴《ひばかま》といって、これはまあ普通の袴に近いだろうね」
そんな蘊蓄《うんちく》を語りながら、岩船はその紅白の衣装を依藤の近くへ押しやり、
「これけっこう上等な衣装なんだって、めったなことでは触《さわ》れないよう」
――と、まな美の解説(雑貨屋《ハンズ》で売ってる仮装行列《パーティーグッズ》)とはまるで逆のことをいう。
だが依藤としては、そんな女子高生が着ていて脱いだような服を触るような趣味はなく、いかにも嫌そうな顔で、椅子の背凭れに身をのけ反らせる。
が、岩船は、まあどうぞどうぞ[#「どうぞどうぞ」に傍点]といわんばかりに、さらに依藤の方に押してゆく。
それは……この種の神聖なものに触れれば、魔性[#「魔性」に傍点]も少しは|浄化される《はらいきよめられる》だろうという岩船の親心なのであったが、依藤は、椅子ごと滑らせて後ろに逃げる。
そんな遣《や》り取《と》りを刑事課の自分の席から見ていた生駒は……やっぱり[#「やっぱり」に傍点]、と思う。聖書や十字架を恐れている悪魔憑きのようにも見えるからだ。
結局、依藤はその衣装には触ろうとはせず(岩船の親心は、さらなる話題を生駒に提供したのみで)、その風呂敷に一緒に包まれてあった透明ポリ袋の方に気づき、それを掠《かす》め取って、
「これだよね、例の、Mの証しとやらは……」
ポリ袋ごしに興味深そうに暫《しばら》く眺めてから、
「林田に聞いてたとおりで、けっこう上等そうなもんだよな。これさ、出してもかまわない?」
――岩船に許しを請う。
「ま、別にかまわないけど……落としたり汚したりはしないでね。大切なもんだからさ」
依藤は、勿論勿論《うんうん》と頷きながらジッパーを開けてポリ袋から取り出すと、それ[#「それ」に傍点]を手の平に載せる。
[#ここから2字下げ]
「あれでMの証しこっこをしようものなら、たちどころに天罰が下るよう細工してあるのよう」
「へ、へ、へ、へー、それはそれで楽しみやなあ」
[#ここで字下げ終わり]
そして金糸の三つ葉葵紋に見惚《みと》れながら、
「ふーん、さすがに威厳あるよな。本物はひと味もふた味もちがうよなあ」
……誰の手になる刺繍かとも知らず、感慨深げに依藤はいう。
が、林田は何か気になることでもあるのか、さっきから小首を傾《かし》げながら見ている。
依藤は、それを手の平の上で裏返しにし、
「あ、これかあ、林田がいってた、指に通すというやつは……」
それを左手に持ち替えてから、そこに右手の中指を通して、
「どうじゃ、――控えおろう! わしがMじゃ! このMの証しが目に入らぬかー」
と刑事課の課員たちに向け、|案の定……《まなみのよそうどおり》Mごっこを始めた。
野村、生駒、植井らの三人も仕方なくお付き合いをし、ははー、と頭《こうべ》を垂れる。
さらに依藤は、
「――どうじゃ、――どうじゃ」
と、隣の捜査課の課員たちにまでそれ[#「それ」に傍点]を見せびらかし、しばらく悦にいってから、そして中指を引っこ抜いた。
「あれ? 糸が引っかかってるぞう」
といいながら、その中指に絡まっている糸を(それは特殊な結び目になっていたようで、引っ張れば引っ張るほど指に食い込んでしまって外れず)短気を起こした依藤がつ[#「つ」に傍点]――と引っ張った。
「ぎゃあ!」
――岩船が悲鳴をあげる。
「な……なに?」
「よ、よりさん! 何てことすんの――」
血相を変えた顔で、その表面《おもてめん》を指さして岩船はいう。
「うーん?」
依藤が見てみると、な、なんと三つ葉葵が|………《天罰が下り》二てん五つ葉葵になっていた。
「お、俺は知らないぞ……こ、この後ろに出てきた糸を……引っ張っただけじゃないかあ」
依藤も狼狽《うろた》えて、情けない声で弁明する。
「なっ、何いってんだ! よりさんが引っ張るからじゃないか――」
その鄙《ひな》びた体から声を振り絞って、岩船は怒る。
「ちょ、ちょっと待ってください」
そんなふたりに、林田が割って入っていう。
「どこか変ですよ。そんな後ろから出てきたような糸を引っ張って、前の刺繍が解《ほど》けるなんて、どう考えたって普通の作りじゃありませんよ」
「な、そうだよな、林田……」
弁論部[#「弁論部」に傍点]が味方についてくれそうなので、お縋《すが》りして依藤はいう。
「それに、さっきから変だと思って見てたんですが、若干色[#「色」に傍点]がちがう[#「ちがう」に傍点]ような……あの歴史部の部室で見たときには、もう少し鮮やかな青だったような気もするんですけど?」
「それは光線の違いだ。あそこは南向きの窓で明るかったろう」
そんな関係ないことをと、岩船は膨《ふく》れっ面《つら》でいう。
が、この刑事課の係長席も、二メーターほど真後ろに南向きの窓があり、秋晴れの午前中のそれなりの日の光が差し込んではきている。
「ちょっと、僕に貸していただけます」
と、林田が、依藤からそれを譲り受ける。
まな美が仕掛けた罠《わな》の糸は、今なお依藤の中指に食い込んだままで、
「それ以上引っ張んなよ!」
――岩船は真顔でいう。
林田はそれを手に取ると、左右の角を押して口の部分を少し開かせ、その中を覗き込みながら、
「あれえ……何か白っぽいもんが入ってますよ」
いうと、指を突っ込んで、それを外へと引きずり出す。
それは四角い布切れで、口の内側あたりで本体に縫いつけられてあるらしく、舌のようにべろーんと外に出てきた。
「あ……何か書いてありますよう」
それは毛筆で認《したた》められてあって、
このMの證しは
――僞物です。
それもご丁寧に旧漢字である。
「このMの……なに物ですって?」
悲しいかな、若造《はやしだ》には、その旧漢字が二ヵ所とも読めない。
「あっ……」
もちろん岩船は読めたが、その達筆なる筆跡[#「筆跡」に傍点]の方に気づいて声を発した。
「あーん? これが偽物《ニセモン》とはどういうこと?」
依藤は、これまでの状況から察して読めたらしく、ふたりに問いかけて聞く。
岩船が……顔を伏せてしまっている。
「うーん? これはどうなってんのいったい? 岩船[#「岩船」に傍点]さん!」
原因は岩船《そこ》にあると見るや、立場は一瞬にして逆転、尋問口調になって依藤は問う。
「うー………………」
岩船は頭垂《うなだ》れたままで、泣いてるのか、笑ってるのか、不明の唸り声を発するのみだ。
「あ!」
林田は閃《ひらめ》いたようで、
「岩船さん、本物の方のMの証し、色の鮮やかな方ですね、それを外に持ち出しませんでした?」
その当事者は……うんともすんともいわないが、
「係長。これね、どこかの時点で偽物とすり替わってるんですよ。そういった絶対[#「絶対」に傍点]に考えられないような荒業[#「荒業」に傍点]をやってのけられるのは、僕が思うに、あの歴史部員たちを措《お》いては外《ほか》にいません」
――自信たっぷりに推理を披露していう。
「なんだと! 偽物とすり替えられられら[#「られられら」に傍点]――たってかあ?」
依藤は、あまりのことに呂律《ろれつ》が廻らない。
「だ……だって、あのふたり上手《うま》いんだもん……」
そのときの記憶《シーン》が、岩船は鮮やかに甦《よみがえ》っていた。
Mの証しは、背高村《せいたかむら》の天狗《てんぐ》の手から落ちて喫茶机《テーブル》の陰に消え、それをアイドル顔した小悪魔が、いや大悪魔が拾い上げたのだ。ただし偽物を。それに、その天狗の家は骨董屋だと宣《のたま》わっていた。贋作などお手のものではないか。
「ぼ、ぼくはもう、子供たちなんて信じない[#「信じない」に傍点]」
恨めしそうに……情けない声で岩船はいう。
「んな信じるも信じないも、そんな警察の最重要証拠物件をだな、そんな鑑識課の係長《ボス》が見てる目の前で、そんなよりにもよって高校生に、そんな偽物とすり替えられたなんて、そっ、そんな間抜けな話がどこにある[#「どこにある」に傍点]……」
その度を越えた非現実・非警察さ加減に、依藤は声が掠れてしまって怒鳴れない。
と、そのとき、生駒が自分の席から身を乗り出してきて、鋏《はさみ》を依藤に手渡そうとする。
偽物と確定[#「確定」に傍点]したことでもあり、とりあえずは、その指に絡まってる糸は切れば……との部下心[#「部下心」に傍点]である。
その水入りが功を奏してか、
「――で、どうする気、岩船さん?」
依藤は冷静な声になって、詰問《きつもん》する。
「そ……そんな」
岩船は不貞腐《ふてくさ》れぎみに、
「どうするもどうもしないも、このまま黙って返すしかないだろう。向こうで適当に始末するよ。本物は歴史部《やつら》が持ってんだからさ。それに、俺はこんなことで警察人生を棒に振りたくなーい! それに今[#「今」に傍点]のよりさんがあるのは、自分があの犯人の顔写真を確認したからじゃないか。それに免じてさあ……」
何やら持ち出してきて、懇願していう。
「ふむ、免じるも免じないも、それしか手はない。いいか皆の衆、――わかったな!」
刑事課と、そして事の次第が見えていた隣の捜査課の課員たちに向かって、依藤はいう。
「――これは、南署全体の沽券《こけん》に関わってんだぞ。高校生に出し抜かれたなんて、んなことがもし公《おおやけ》になってみろ、それこそいい笑い草だ!」
「あっ、まずいですよ、依藤係長。ひとつとってもまずいことがありますよ」
林田が……心底まずそうにいい出した。
「|M高《あそこ》には、生徒たちが語り伝えている『伝説』というものがありますでしょう?」
「あのMの伝説か……」
「そうです。それは口止めできませんよう」
「ま……まさか、そこに俺さまの名前なんかは出てこんだろうな?」
それこそ……背高村の天狗の匙《さじ》加減ひとつで、つまり南署の命運は、今や土門くんの巨大な手の平に握られている……といっても過言ではない。
※
太田多香子が警察に語ったところの、犯人一味に拉致された際の経緯《いきさつ》はというと、
彼女は、文化祭当日は午後四時五十分ごろ、占い部の個室《ブース》から独りで部室へと行き、普段服に着替え、そして薙刀《なぎなた》部の出店へと赴《おもむ》いて、そこの三年生の女子部員(太田多香子の最後の目撃者)と雑談[#「雑談」に傍点]をした。それはその通りで、だが、どんな理由で会いに行って何を話したのかは、その薙刀部の女子部員と同様で曖昧《あいまい》にしか語らなかった……それは、林田の推理がおそらく当たっていて、Mに絡んでの急な用向きなりがあったのだろう。が、この拉致事件は、結局はMとは無関係だったことでもあって、警察もそのあたりは必要以上に聴くことはできなかった。
そして太田多香子は、午後五時の鐘の音が鳴ったころ薙刀部の出店を後にしたわけだが、事態が急展開を見せたのは、その直後である。
彼女が旧校舎(占い部の会場)に戻るべく人の流れに逆らって歩き始めると、ついさっき手相を見た女性客とすれ違ったのだ。その女性は、男ふたりと一緒で、その男ふたりの手相も彼女は見たのだが、このとき三人連れであったことが確認できたという。実は、手相を見た際にも三人連れではなかろうかと彼女は感じていて、それが確認[#「確認」に傍点]できたというわけなのだ。というのも、その三人の手相には共通して、極めて稀《めずら》しい相が左手[#「左手」に傍点]に出ており、彼女がいうには、それは神通力[#「神通力」に傍点]を有するような人にのみ表れる相らしく(依藤以外の警察関係者は、その話はふんふんと聞き流したが)、それが三人も続き、とはいっても男ふたりは|B級《そこそこ》だったようで、その女性客の手相が際立っていたから、隣室に聞こえるぐらいの驚きの声を発したという。
だが、太田多香子は、天目マサトの手相のことや、それとの類似性については一切語らなかった。それは彼女が伏せたに相違なく、火鳥先生がしてくれた話がより真相に近いであろうことは、依藤には(彼にのみ)重々分かった。
で、そんな三人連れとすれ違った太田多香子は、踵《きびす》を返し、その彼らの後を追尾《つけ》て行ったそうだ。それも深い意味はなく、ちょっと興味があったからそうしただけとのこと――。
すると、彼らは講堂には行かず、その手前で、正門から外へ出ていった。五時を過ぎていたので生徒が出るのも自由であったから、彼女も出た。
彼らは、学校の塀に沿ってある車道の、正門から五十メーターほど先に紺色のワゴン車を止めていて、それに乗り込んだ。その付近は、車や二輪《バイク》で女子生徒を誘い出しに来ている彼氏たちが多数|屯《たむろ》していた場所でもある。
太田多香子は、正門を出たすぐ脇の辺りから、その様子を窺っていたそうだ。そして三人は車に乗ったのだから、それ以上は何ができるわけもなく、学内に戻ろうかと思ったそのとき、
――迅雷《ドッカーン》があったのだ。
太田多香子は、学校の塀に背中をつけ、震えて縮《ちぢ》こまってしまったという。
すると、三人が乗り込んだワゴン車がつーと走って来て目の前で止まり、後部座席の窓がするすると下がると、その女性客が顔を出しぎみにして、
「あら、さっきの手相見の彼女じゃない」
そう親しげに、声をかけてきたというのだ。
太田多香子としては、巫女の衣装からは着替えて普段着姿だったので、よく分かったわね……と少し嬉しくも思い、
「もう帰られちゃうんですか、これからが面白いんですよ」
などと、その女性に愛想よく応じたという。
そうこうしていたら、バラバラバラ……大粒の雨が落ちてきたのだ。
「あらあら、大変、雨宿りしてください」
その女性が、後部座席の扉《ドア》を開けていった。
男ふたりは前の座席で、後ろは、その女性ひとりだけである。それに車が止まっていたのは、正門の『受付』の天幕《テント》が見えるような位置でもあり、一抹《いちまつ》の不安は頭を過《よぎ》ったそうだが、まあ大丈夫だろうと思い、太田多香子は勧められるがままに、その車に乗り込んだ。
そして扉《ドア》は閉じられ、下がっていた窓も上げられたが、車が動き出す気配はまったくない。というより、エンジンは切られていたらしく、それにワイパーも動いていなかった。そして、外の様子がまるで見えないほどの激しい雨となったそうだ。
そんな車中で、
「どこで手相は習われたの? すごくよく当たってるわよ」
「実は親戚に、有名な本物《プロ》の手相見がいて」
などと、寛《くつろ》いだ会話を交わしていたという。
――が、外の様子が見えないほどの激しい雨、すなわち、外からも車の中は見えないということだ。しかも、暗雲で空が覆われていた夕方どきで、車中に明かりが点いていたわけでもなし。それに、そんな豪雨が降っている最中《さなか》、車道に止まっている車の中のことなど誰が気にかけるはずもなく。
そして二、三分かそこら話をしていたら、助手席に座っていた男が、
「ちょっと、後ろの荷物を取らしてくださいね」
いうと、その豪雨の中をいったん外に出、そして後部座席に乗り移って来た。
太田多香子は、その男と女性に両側から|挟み撃ち《サンドイッチ》にされた状態だ。そして男は、実際に座席から荷台の方に身を乗り出させ、置かれてあった旅行鞄《ボストンバッグ》の中をごそごそ漁り始めた。
何を探してるのかしら……太田多香子がそちらの方を気にしてチラチラ見ていると、
「ごめんなさいね、狭くて、少しの間ですから」
そんなことを女性はいったそうだ。
……と、そのとき、太田多香子の携帯電話の着信音が鳴ったという。それは時間的にいって、占い部の会場に戻って来ない彼女を心配した、部員たちからの呼び出しであったろう。
携帯電話は膝に置いてあった手提げの小袋《レスポール》の中で、それを取り出そうと彼女が顔を下に向けた瞬間[#「瞬間」に傍点]口と鼻を、そして両目も塞《ふさ》がれたという。もちろんそれなりの抵抗は試みたが、その彼女の手も、誰かに押さえ込まれたそうだ。おそらく、麻酔剤《クロロホルム》などが使われたようで、薄れていく意識の中で、車が動き出したのが分かったとのことだ。
――気がつくと、コンクリートの壁で囲まれた三畳ほどの窓のない部屋にいて、簡易ベッドに寝かされてあった。
が、その後の扱いは比較的丁寧だったらしく、きちんとした内容の食事が日に三度あり、|手洗い《トイレ》にも不自由はなかったようだ。
その三畳の部屋から鍵を開けて出してもらうと、やや広い空間で、隅っこに手洗いと、そして人ひとりが立ってやっと入れるぐらいの簡易シャワー室があり、それも勧められたが、さすがにシャワーは使わなかったそうだ(当然だが、上の幹部室にあったユニット浴槽《バス》は使っておらず、依藤がかけた保険は|無効であ《あぶなか》った)。
だが、鍵が開けられる際には常に三人がいて、逃げ出せそうな機会《チャンス》はなく、また、その三人以外には、姿を見せた者はいないとのことであった。
その監禁の初日のことであったが(腕時計も携帯電話も、時間が分かりそうなものは彼女の手元からは消えていたので、詳しい日時は不明だが)、その主犯格と思《おぼ》しき女性がひとりだけで部屋に入って来て、彼女に尋ねごとを幾つかしたそうだ。
太田多香子は、その中身を話すのを躊躇《ためら》ってはいたが、
――それは天目マサトのことではないか?
核心をずばり依藤が問うと、渋々そうだと肯定《うなず》いた。だが、彼女としては、その天目マサトとは学年も違えば、部活の後輩でもなく、ましてや彼氏でもないので、何も知らない[#「何も知らない」に傍点]に等しく、実際答えようがなかったという。
それに、その女性《はんにん》からの質問も意外とあっさりとしたもので、ものの数分で諦めたらしく、その後は同種のことは一度も尋ねられなかったそうだ。
そして救出の前日であるが、三人そろって現れ、夕食を運んで来た。そのメニューからいって、そうだと思うと彼女はいうのだ。
信者たちに確認を取ってみたところ、夕食は午後六時と決まっていて、その日の厨房係がいうには、腰巾着《つきびと》の男ふたりがやって来て適当に皿によそい、勝手に運んで行ったとのことだ。
つまり、その時間帯には、三人は修行道場の建物内にいたわけだ。昼すぎに外出はしたが……帰っていたのである。片や、斥候《せっこう》の生駒と林田は、撮った写真を持っていったん南署に戻っていたから、その間に、三人は道場に帰ったのだろう。
その生駒と林田に五人の猛者《もさ》をつけ、特攻隊として再度送り出したのは五時前なので、六時だったら現場にいて見張っていたはずだ――なのに[#「なのに」に傍点]、そこをすり抜けたとなると、表門と通用門(車道と脇道)以外の見えないところ、たとえば、裏の竹林もしくは西塀(田圃《たんぼ》)から出たとしか考えられない。
くっっっそー……依藤はそのことが分かり地団駄《じだんだ》を踏んで悔しがったが、冷静に考えてみると、それはある種やむをえない。そんな時間帯での強行突入は南署としては不可能[#「不可能」に傍点]だったし、それに、その三人にはやたらと勘[#「勘」に傍点]が働きそうなことだけは、依藤にも想像できたからだ。
それら一連の太田多香子からの話を総合すると、この拉致監禁事件は、双方の誤解と、そして偶然の産物であったことが依藤には分かった。
そもそも、あの迅雷が落ちていなければ、彼女はそのまま学内に戻ったはずで、犯人と接触する機会《チャンス》すらなかったろう。よしんば、ワゴン車が急発進して来て、戻りかけている彼女に声をかけたとしても、その車に乗り込む理由がない。お茶でもどうです、と犯人が誘ったところで、彼女にはその後の予定が決まっていたから、断ったはずだろう。
つまり、林田が主張していた迅雷原因説は|……《ズバリ》当たっていたわけだ。
しかし、彼女が薙刀部の出店から出た直後、三人とすれ違った。これは偶然ではなく、むしろ犯人側の作為《トリック》を感じた。三人が、太田多香子を尾行していたことも十分考えられ、わざとらしく横切った可能性があるからだ。彼女についてこさせようと。
そして、その後を追尾《つけ》てしまった彼女も、単に三人に興味があったからではなく、その先にひょっとしたら天目マサトがいるのでは……と思ったことは想像に難くないだろう。
やはり、双方が誤解していて、そのあたりは火鳥先生が謎解きをしてくれた通りであったようだ。
いずれにせよ、この事件の原因となっているのは、いや、元凶[#「元凶」に傍点]は、岩船氏の見立てどおりである[#「ある」に傍点]。
ふむ……。
それと、太田多香子は、不思議な体験談をひとつ語ってくれた。
それは事情聴取に同席していた伴《ばん》課長からの、監禁中に生命の危機は感じましたか……の問いかけに応じて彼女が語った話で、その生命の危機は、犯人一味からはとくに感じられなかったらしく、それとは別に(彼女にしてみれば、それも同次元の話だったようで)、眠ると決まって、ある人が夢に顕《あらわ》れてきたというのだ。最初は影法師《シルエット》だけの存在だったが、やがて姿がはっきりと見えてくるようになり、それは、白い髪をした上品そうなお婆さんだったという。その老婦人の顔には、彼女は見覚えがなかったそうだが、
……大丈夫よ、必ず助けに来てくれますからね。
夢の中で、そう優しく囁き続けてくれたので、だから心強かったというのである。
あの、生駒が見たという老婆の幽霊らしきものも、それに賭けて依藤は調べる部屋を変更したわけだが、同じ存在であったかと気づいた。いわゆる守護霊[#「守護霊」に傍点]と呼ばれているものか……とも思った。
が、そんなことを無抵抗で受け入れている自分が可笑《おか》しくって、依藤は口元が綻《ほころ》んでしまった。
それに幽霊も満更《まんざら》捨てたものじゃないような気も依藤にはしてきた……ただし、自分にまとわり憑いているらしき青いドレスのそれは別だ……!
※
太田多香子は、救出後にひととおりの精密検査を受けたが異常はなかったこともあって、その翌日には、気丈にも学校に復帰した。
折しも、依藤たちがMの証しごっこ[#「ごっこ」に傍点]に興じて天罰[#「天罰」に傍点]を喰《くら》っていたころには、彼女は教室で授業を受けていたのである。
もちろん、生徒や先生たちからは歓喜の渦で迎えられたが、その興奮もお昼休みをすぎると鎮まり、また、普段どおりの平和で長閑《のどか》な私立M高校に戻っていた。裏山との境を巡回していた婦人警官も、数日前から姿は見せないし、その裏山への生徒たちの出入り禁止も解除となった。
その同じ日の、午後の一時限目と二時限目の間の休み時間のことであったが、二年生の生徒が廊下を歩いていると、その太田多香子に呼び止められて、一通の封筒を手渡された。
――ひとりで読むように。
そう表書きがされていた。
中に入っていたのは薄緑色をした便箋で、微《ほの》かにいい香りがし、
――本日、午後四時三十分、※※※教室にひとりで来られたし。
そうとだけ万年筆《あおインク》で認《したた》められてあった。
それは種々の理由で伸び伸びになっていた、遅ればせながらの『Mの交代式』への招待状[#「招待状」に傍点]だ。
まな美と土門くんが掠め取った本物のMの証しは、まな美が顔を見知っている先輩のMさんのひとりに託してあったので、その彼女から太田多香子に返却されたようだ。
そして、呼び出しを食った二年生が時間どおりに行ってみると、その教室には、太田多香子がひとりだけで立って待っていた。
「もう……分かりますよね」
その鮮やかな青[#「青」に傍点]をしたMの証しを提示し、彼女は微笑んでいう。
便箋から香ったのと同じ香りを彼女に感じながら、その二年生はコクリと黙肯《うなず》いた。
まな美が語ったように大日如来(仏教そのもの)がもつ五つの知恵を五智《ごち》如来にあてはめ、その青[#「青」に傍点]の|阿※[#「門<(人/(人+人))」、第3水準1-93-48]《あしゅく》如来が表すのは大円鏡智《だいえんきょうち》――円い鏡にすべてが映るように、清浄なる知。そんな意味である。
そして間《ま》をおかずに交代式が始まった。
太田多香子は、そのMの証しを次代のMに手渡しながら、
「Mは――女子と決まったわけではありません。本校を護るに相応《ふさわ》しい人に、代々受け継がれていきます。このMの証しを、あなたに委ねます。この先、一年[#「一年」に傍点]、本校のことを宜しくお願いいたします」
そういって、その彼に頭を下げた。
――青のMの証しが、天目マサトの手の平に載った。
[#改ページ]
『幽霊の国・解』――序
O
――我に返ってみると、南署が抱えているふたつの殺人事件は、何の進展も見ていないのであった。
「はい、刑事課でーす」
生駒刑事が出て、頭をぺこぺこと下げながら暫く話していたかと思うと、その電話口を塞ぎ、
「――係長。金城|房子《ふさこ》さんからなんですが、お怒りのご様子でして、何でも、金城|由純《よしずみ》さんをですね、今しがた警察[#「警察」に傍点]が、家から無理やり連れてったといってるんですよ、何かご存じですか?」
「あーん? 聞いてないぞそんな話――」
仏頂面をして依藤はいってから、
「……はい。お世話になっております、依藤に代わりましたが……ええええ、見知らぬ刑事が三人来た。おそれいりますが、その者たちは、どこの警察だと名乗っておりました?……所沢署[#「所沢署」に傍点]?……いえいえ、あそこはあそこでして、南署《うち》の下ってわけじゃないんですよ。……はい[#「はい」に傍点]、お怒りはごもっともでございます。至急、確認をとりまして、折り返しご連絡をさしあげます。……はい、失礼いたします」
丁寧に応対して電話を切ると、
「――聞こえたろう。問い合わせくれる!」
が、指示を受けた生駒は不承不承の表情で、
「所沢署かあ……」
電話をかけ、そして平身低頭ぎみに用件を話していると、やがて受話器を耳から遠ざけ、
「……ガッチャーンって切られちゃった」
情けない声でいう。
「何がどうなってんだ?」
「やー、ここ数日、ずーとこんな調子なんですよ。南署《おまえら》に話すことは一切ないそうです。とくに、依藤係長のおられる刑事課には……」
「ああん? なんでだ?」
「それはもう単純な話で……あの拉致事件は、そもそもどこ[#「どこ」に傍点]の管轄だったのか? それを、何の断りもなく解決し、警視総監賞だ……だなんて紙面を飾ったものだから、お冠《かんむり》なんですよ」
指で角《つの》を生《は》やして、生駒はいう。
「なんちゅう心の狭いやつらだ! それに仮にだ、事前に相談したからといって、あの強行突入に賛助してくれたか?」
「いいえ」
あっさりと生駒はいい、
「けど、結果が結果ですからね。それに所沢署《あちらさん》は、しゃかりきになって営利誘拐の布陣を敷いてたわけで、これ、逆の立場になって考えてみられると」
「ふむ、俺だったら……」
依藤は、その逆の立場とやらを想像してから、
「……怒髪《どはつ》天を衝《つ》くな」
「そういうことなんです[#「そういうことなんです」に傍点]」
「けどさ、いくら怒ってるからといって、南署《うち》が抱えてる殺人事件の、よりにもよって被害者の父親を連行《パク》るか? そんな面当《つらあ》てのために」
「いや、面当てか仕返しなのかは、よくは分かりませんけど、連れてった部署は、所沢署の刑事課[#「刑事課」に傍点]なんですよ。話は、穏やかじゃありませんよう」
そうこうしていたら、依藤の係長机《デスク》の上の電話が鳴った。鳴り具合から内線電話である。それに出た依藤が……は[#「は」に傍点]っ、と畏《かしこ》まった声を発しているので、偉いさんからだと分かる。
「……はあ? 何のことでありましょうか? いえ、自分はまったく聞いておりませんが……はい[#「はい」に傍点]、お怒りはごもっともであります」
口ではそういいつつも、椅子に踏ん反り返ったままで受け答えをし、
「……お任せください。そんな所沢署ごときに、出し抜かれたりはしませんから。……もちろんです。もちろんですとも[#「もちろんですとも」に傍点]」
そう力強くいってから、依藤は受話器を置いた。
「もしや……署長から?」
「そうだ! 所沢署《あっち》の署長から自慢電話《ホットライン》が入った。だから南署《うち》の署長こそお冠だ。金城さんを任意同行で連行《パク》ッたそうだ。その容疑はだな――」
依藤は、大部屋じゅうを睨み渡しながら、すっくと立ち上がり、
「――皆の者[#「皆の者」に傍点]、よーく聞け! たった今ぁ所沢署が、金城玲子さんの父親の金城由純氏[#「由純氏」に傍点]の身柄を、殺人の容疑で拘束した。その彼が関わったとされる事件は、あの禅寺の住職、得川宗純さん[#「得川宗純さん」に傍点]殺しだ!」
な? なんと! 南署《うち》が抱えているふたつの殺人事件を一緒くたにして解決する気か……それこそ、究極[#「究極」に傍点]の仕返しだなと生駒は思う。
「――そんな話は、俺さまはひと[#「ひと」に傍点]っ言も聞いてないぞ!」
課員たちに向かって、依藤は吠《ほ》え、
「しかしだぁ! これは明らかに、やつらの勇み足だ! 僧侶殺しは、金城氏などではありえない[#「ありえない」に傍点]! その筋でもって徹底的[#「徹底的」に傍点]に洗い直せ! 絶対にくつがえせるはずだ! いいか、やつらに目にもの見せてやれえ! 勝[#「勝」に傍点]――っ!」
大部屋じゅうに轟き渡る檄[#「檄」に傍点]を飛ばしてから、依藤は着座した。
「……して、係長、その根拠は?」
おずおず生駒が尋ねると、
「んなもんあるわけがない」
依藤は、にべもなくいい、
「ふたりにどんな接点があるのか、こちとら何も分からんのだから。けど、唯《ただ》いえることはだな、僧侶殺しがあったのは十一月の二日だろう。その前日も、当日も、そして翌日も、そのへんは連日のように金城さんの自宅《いえ》を訪ねてて、話を聴くために彼と会ってるのさ。――生駒《おまえ》も一緒だったじゃないか。何か変化あったか?」
「あっ……いわれてみれば、金城さんは、ずーと泣きっぱなしでしたよね」
「よしんばだ、金城玲子さん殺しに僧侶が関係してたとして、その仇でも討ったのなら、ちったあ晴れ晴れとした表情をしてたはずだ。だから誤認[#「誤認」に傍点]なの。俺さまの刑事魂《デカだましい》が、そう囁いてるんだ――」
「なるほそう」
その大悪魔《デカだましい》とやらは、どこに憑いているのか……生駒は、きょろきょろと依藤の肩のあたりを見るのであった。
※
そのころ、T大学の『情報科分室』では、竜介宛てに小包が届いていて、
「ケーキかしら……」
そんなことをいいつつ、五月女《さおとめ》という院生の女子が、竜介の私室へと運んで来た。
――質素な藁半紙で包まれたほぼ[#「ほぼ」に傍点]立方体の小包で、差出人の名前には、竜介は思い当たる節がない。とはいっても、多数の学生と授業などで接し、すべての名前を覚えているわけでもなく。
それに冷蔵《クール》宅配便ではないから、ケーキのような生ものでもなさそうだ。
箱を振ってみると――カタカタ音がした。重さは大したことないが、硬いものが入っているようだ。
竜介は興味半分、おっかなびっくり半分で、顔を遠ざけながら包装紙を破き、蓋《ふた》を開けてみた。
中から、何かが飛び出てくるような気配はない。
そして、覗き込んでみると――なんと、箱の中には髑髏[#「髑髏」に傍点]が入っていた。
悪い冗談か、と思いつつ、それを箱から掴《つか》み出して仕事机《デスク》の上に置いた。
――竜介は驚かない。
そんなもの見慣れているし、触り慣れているからだ。飾ってこそないが、この部屋にも何個かある。ここは脳を扱う研究室である。それに色艶からいっても、作りものだと分かったからだ。
が、しかし、その髑髏の額の中央に穴が穿《うが》たれてあった。――細長い縦目の穴である。つまり、三つ目になっていたのだ。
その髑髏以外には、箱には何も入っていなかった。
ふむ……何だろうか?
悪戯《わるふざ》けにしては、意味深であった。
[#地から1字上げ]『幽霊の国・解』へ……
[#ここから3字下げ]
この作品はフィクションであり、実在の個人・企業・団体とは関係ありません。
[#ここで字下げ終わり]
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〈参考文献〉
『野島地蔵尊・淨山寺略縁起』
(本尊のご開帳は二月二十四日と八月二十四日)
『大本山増上寺秘宝展』
『大日本東京芝三縁山増上寺境内全圖』
(黒本尊のご開帳は一月十五日、五月十五日、九月十五日)
『傳通院略誌』
※
『鬼趣談義』澤田瑞穂/平河出版社
『大物主神伝承論』阿部眞司/翰林書房
『関東三十六不動霊場ガイドブック』関東三十六不動霊場会
『徳川三代と幕府成立』煎本増夫/新人物往来社
『江戸城』村井益男/中公新書
『将軍の城「江戸城」のすべて』別冊歴史読本/新人物往来社
『木綿古裂』別冊太陽/平凡社
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底本
徳間書店 TOKUMA NOVELS
神の系譜 幽霊の国
著者 西風隆介《ならいりゅうすけ》
2002年5月31日 初刷
発行者――松下武義
発行所――徳間書店
[#地付き]2008年5月1日作成 hj
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底本のまま
・「…すると
・|半分裏返って《ひょこいがんで》
・ 係長、着きましたよ。かかりちょお[#「かかりちょお」に傍点]」
・ ……ここ……どこ?」
・「――いずにせよ
・畳に上にへたりこみ
置き換え文字
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
涜《※》 ※[#「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29]「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29
鹸《※》 ※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]「鹵+僉」、第3水準1-94-74
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
千早《※》 ※[#「ころもへん+畢」、第4水準2-88-32]「ころもへん+畢」、第4水準2-88-32
栲《※》 ※[#「木+孝」の「子」に代えて「丁」、第4水準2-14-59]「木+孝」の「子」に代えて「丁」、第4水準2-14-59
阿※ ※[#「門<(人/(人+人))」、第3水準1-93-48]「門<(人/(人+人))」、第3水準1-93-48
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8