神の系譜U 真なる豹
西風隆介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)西風《ならい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|飾り棚《キャビネット》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おやっさん[#「おやっさん」に傍点]
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〈帯〉
いま売れてます!!
超能力。
お告げ。
生まれ変わり。
新たなる謎に解決はあるのか!?
気能法研究家の秋山眞人が薦める第二弾!
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〈カバー〉
◎歴史には、2つの法則がある。事件の一部が歴史化し、歴史となった事件が次の事件を呼ぶ。前作『竜の封印』は内容の面白さからみても歴史的事件だった。
そして竜の次に現れた豹も、やはり一冊の事件になりそうだ!!
[#地から1字上げ]気能法研究家 秋山眞人
[#地から1字上げ]Makoto Akiyama
◆前作『竜の封印』はマニアックな考察と現代伝奇小説が融合≠ニ筒井康隆氏の絶賛を受け、歴吏の闇と対峙する気迫に圧倒され≠ニ高橋克彦氏からも応援のエールを受けた。
本書は、その〈神の系譜〉シリーズ、待望の新作である。
◆依藤《よりふじ》警部補は十一年前の死体なき殺人事件を追っていた。
埼玉県大宮市郊外の五階建てのマンションで起こった事件である。
五〇三号室の住人は当時二十三歳になる女性で大手モデル事務所に所属していた。
毛足の長いベージュ色の絨毯が、おびただしい量の血で赤黒く染まっていたのだ。
残された血液から被害者を断定したが、死体がないのである。
その容疑者と目された男が台湾から戻って来たが…。
◆生まれ変わりの謎に挑む超伝承ミステリー第二弾!
Character File @
【天目マサト】あまのめまさと
十七歳。
私立M高校二年生だが、神代記に登場する神・天目一箇命《あまのまひとつのみこと》の末裔で、ひとつ目竜の化身。
埼玉県春日部市にある鎮守の森の屋敷に竜蔵老人と暮らしている。
父親は十三年前に海に没し、母親は不明。
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書下ろし長篇超伝承ミステリー
神の系譜U 真なる豹
[#地から1字上げ]西風《ならい》隆介
[#地から1字上げ]徳間書店
[#地から1字上げ]TOKUMA NOVELS
[#地から1字上げ]本文図版・タグクリエイト
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我は日本の鎮守八幡大菩薩也。百王守護の誓願有レトモ有験聖人新羅ヨリ来テ、以ッテ三界摂領の大聖明王トシテ、諸神ヲ摂領シテ、水瓶ニ加利古牟《カリコム》。既に新羅国の王船|粧《ヨソオヒ》シテ出立、我身モ只今|加利古亀良連南土《カリコメラレナント》ス。ソノ時国王諸卿肝ヲ失ヒ色ヲ変エル。(中略)神|告《ツ》ゲテ言フ。今明日ノ内、一万人ノ僧ヲ請取《コヒトリ》テ、法衣ヲ着テ南畔ノ海辺ニ行キテ、西方ニ向キテ霊山ニ常在久釈迦大師ニ祈念シ、南無仁王護国般若波羅密経ヲ唱《トナ》ヘル可《べ》シ。此《コノ》法力ハ乗テ我《ワレ》水瓶ヲ破り、諸神ヲ出シ此難ヲ防ガム。
[#地付き]『八幡宮宇佐宮御託宣集』
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「……そりゃあ覚えてますよおやっさん[#「おやっさん」に傍点]。あんな後味の悪い事件、そうそうありませんからね。真犯人《ほんぼし》は証拠不十分とやらでみすみす[#「みすみす」に傍点]逃がしちゃうし、別の男には死なれてしまうし、あげくマスコミには叩かれるわ……も[#「も」に傍点]消化不良とおりこして、も[#「も」に傍点]何ていったらいいのか」
依藤《よりふじ》警部補は、当時のことを思い出し、への字に口をとがらせて憮然とした表情でいった。
※
十一年前の、九月初旬の出来事である。
大宮市の郊外にあった五階建のマンション『フロオラ大宮』五〇三号室に異変[#「異変」に傍点]がある――警察にそう通報が入ったのは正午前のことであった。
埼玉県南警察署の刑事たちが現場に駆けつけてみると、所轄交番の巡査以外にも、アロハシャツ、Tシャツ、Gジャン……そういった遊び着姿の男たちが数人、マンションの廊下に屯《たむろ》していた。野次馬というわけではない。第一発見者なのだ。
依藤(当時巡査部長)は、その男たちを見た瞬間いや[#「いや」に傍点]な予感がした。彼らは、いわゆる業界人[#「業界人」に傍点]なのである。人の不幸は飯《めし》の種《たね》――明らかに、そう顔に書いてあるように依藤には思えたからだ。
五〇三号室の住人は、当時二十三歳になる女性で、大手のモデル事務所に所属していた。とはいっても、女性服飾《ファッション》誌の片隅に小さく写真が出る程度の、駆け出しのモデルであった。
その日、彼女は約束の時間になっても写真《スチール》撮影の現場《スタジオ》に現れなかった。電話をかけても応答がない。
――寝坊してるんだろう。
若いモデルには儘《まま》あることらしく、モデル事務所の社員《マネージャー》、雑誌の仲介人《コーディネーター》、カメラマン助手などが連れだって、マンションまで様子を見に来たのだ。迎えに来たといった方が正しいようだが。
そのとき、扉《ドア》の鍵はかかっていなかったという。
そして男たちはずかずかと室内に入り、異変に気づいて通報してきたのだ。
依藤が、その五〇三号室に足を踏み入れて、まず驚いたのが、室内の豪華さであった。
居間《リビング》は十五畳程度はあっただろうか。バルコニーに面した窓には、襞《ドレープ》が美しく波打っている深紅のカーテンが引かれ、純白の壁で、それを背にして統一感のあるヨーロッパ調の家具類が鎮座していた。当時はまだ珍しかった二十八インチの大型受像機《テレビジョン》も隅に置かれてあった。
巡査のひとりが、
「――あそこです」
と、居間のほぼ中央にある薄紅色をした応接ソファを指さした。
座面の低い革張りの椅子が、何個か組合わさってく[#「く」に傍点]の字型に並んでいる。床は板張《フローリング》りだが、そのソファの下にだけ、四畳半程度の、毛足の長いベージュ色の絨毯《じゅうたん》が敷かれてあった。いわゆるセンターラグである。
ソファの背後に廻り込んで見ると、その絨毯が、おびただしい量の血で赤黒く染まっていたのだ。
まだ濡れているようにも依藤には見えた。そしてソファの背中側にも血飛沫《ちしぶき》が付着していた。
――が、異変はそれだけなのであった。
ソファは整然とく[#「く」に傍点]の字に並んでいるし、家具や小物類もどこといって……|飾り棚《キャビネット》の中の洋皿や人形もそのままだし、小箪笥《チェスト》の上に置かれた骨董品《アンティーク》ふうの照明《スタンド》も、その茸《きのこ》型をしたガラスの傘は無傷である。
寝室の方も同様で、ダブルのベッドには皺《しわ》ひとつなくベッドカバーがかけられてあった。化粧台《ドレッサー》に置かれていたハンドバッグの中身も、これといった異常はない。そして、トイレも浴室も台所も、まるでモデルルームのように小綺麗に片付いていた。
ところが、そのマンション中《じゅう》を隈《くま》なく捜しても、部屋の主《ぬし》がいないのである。
大怪我を負ったまま外に出たのだろうか?
いや、そんなはずはない。絨毯が吸っていた血の量からして、それがひとりの人間から流れ出たものだとすると、十分、失血死[#「死」に傍点]に相当すると、その後の調べによって判明したからだ。さらに厳正をきするため、ソファに付着した血痕を含め、絨毯の数カ所から血のサンプルを採って、血液型その他を調べた結果、同一人の血であると断定されたのだ。
つまり、――死体がないのである。
そして血液型や、また、その女性が常用していた薬の成分が血痕から検出されたことなどから、五〇三号室に住んでいた当時二十三歳の独身女性が被害者であると、特定されるに至ったのだ。
もっとも、そういった一連の鑑定結果を警察が発表する以前に、
『美人モデル殺さる!?』
――失踪か?――他殺か!
絨毯に多量の血痕が――
と、早くも翌朝のスポーツ紙の三面にでかでか[#「でかでか」に傍点]と掲載されてしまった。
依藤のいや[#「いや」に傍点]な予感が的中したのだ。
第一発見者の男たちには、ご内密[#「ご内密」に傍点]に――と刑事たち数人が、威嚇《いかく》しながら頭を下げたのであったが、何の歯止めにもならなかったようである。それに、駆け出しのモデルとはいえ、芸能人には違いなく、さらに民放《テレビ》各局まで加わって、埼玉県南警察署始まって以来の大騒動となったのだ。
そして犯人捜しも、悉《ごとごと》くマスコミに先を越されたのである。
容疑者はふたり浮かんだ。
ひとりは、その美人モデルの彼氏[#「彼氏」に傍点]と目された男性で、二十七歳のスポーツ・インストラクター。彼女が通っていたフィットネス・ジムの従業員である。何でも、別れ話が拗《こじ》れていたとのことで、その別れ話を持ち出していたのは美人モデルの方だったというのが、某週刊誌の調べである。
そしてもうひとりは、彼女の愛人《パトロン》だ。あのように豪勢なマンションに、駆け出しのモデルごときが住めるはずもなく、そのマンションの賃貸契約の名義から、愛人の氏素性はあっさり露呈した。
警察は、その愛人の方が真犯人《ほんぼし》と睨んでいた。
事件当夜――被害者は前日の夜七時までは生きていて、部屋にいたことが、友人がかけた電話等で確認されている――その『フロオラ大宮』の駐車場に、愛人《パトロン》所有の高級外車が停まっていたのを、マンションの複数の住人が記憶していた。そして朝には、その車は消えていたのである。
さらに、愛人の男性そのものが、夜の八時頃にマンションの昇降機《エレベーター》で目撃されていた。一緒に乗ったピザの宅配人が覚えていたのだが、昼の野次馬番組《ワイドショー》で、その男性の映像が流され、それを見て名乗り出てきたのである。
当時|民放《テレビ》各局は、何の躊躇《ためらい》も顔に薄消《モザイク》も施すことなく、彼氏と愛人、ふたりに美人モデルの人となり[#「人となり」に傍点]を尋ねるといったお題目で、連日のように映像を流していたのだ。殺人事件の容疑者とさえ謳《うた》わなければ、顔を映すのは自由と考えていたようである。
そして半年近くが過ぎ、警察はようやく事情聴取に踏み切った。まずはスポーツ・インストラクターの彼氏から……これは形式的なもので、念のため程度の意味合いでしかなかった。それには依藤も立ち会ったのだが、彼氏は憔悴《しょうすい》しきってはいたものの、殺人を犯した者のようには感じられなかった。
その数日後、やおら真犯人《ほんぼし》の愛人《パトロン》への事情聴取に着手した。任意のそれであったので拒否もできたのだが、男は埼玉県南警察署に出向いてきた。
だが、頑として口を割らず、取り調べはいっこうに捗《はかど》らない。
ところが、その男の二度目の事情聴取の直後であったろうか、もうひとりの彼氏[#「彼氏」に傍点]の方が、自動車事故で死亡したのである。それも、首都高をドリフト族のごとくに暴走し、中央分離帯に激突するといった、半ば自殺めいた事故であった。そして彼の自宅からは、遺書らしき走り書きも出てきたのだ。すわ、彼が犯人であったのか……マスコミ各社は色めきたったが、その走り書きの中身はというと、テレビ局や週刊誌への恨み辛《つら》み、そして殺されて死体がない恋人への、切なる思いが綴られていただけであった。
それを境に、事件に関するマスコミ報道は、警察の不手際だけを遠吠えのように論《あげつら》いつつ、潮が干くように萎《しぼ》んでいってしまったのだ。
かたや愛人《パトロン》の方も、結局、証拠不十分で起訴するまでには至らなかった。
かくして、事件は迷宮入りと化し、しかも十一年|経《た》った今でも、その女性の死体の在処《ありか》は依然、不明のままなのである。
※
「――おやっさん[#「おやっさん」に傍点]はないだろう。もうお前の上司じゃないんだから」
照れ笑いを浮かべながら、室原《むろはら》はいった。
五十を少し過ぎたあたりの男だが、英国風の肘当てのついた格子縞《チェック》の上着をはおっていて、なかなか恰幅がいい。それに袖口からは金《ゴールド》の腕時計《ロレックス》を覗かせている。羽振りもよさそうである。
「けど、――室原先輩。お辞めんなって以来だから、七年ぶりぐらいですよねえ。そんな昔話をしに、わっざわざ署にお見えんなったんですかあ」
くせ[#「くせ」に傍点]のある喋り方で、依藤警部補はいう。
彼は、埼玉県南警察署の刑事課の係長だが、四十を過ぎてもすらり[#「すらり」に傍点]とした体型を保っていて、喋らなければ善い男である。
「昔話ならいいんだけどねえ」
謎めいた呟《つぶや》きを吐きながら、室原は、上着のポケットから煙草を取り出した。
「おっとー、お吸いんなるんでしたら、このボタンを押さないと――」
依藤が壁にあるスイッチを入れた。
そこは衝立《ついたて》で囲まれただけの小さな空間で、質素な応接セットにふたりは座っている。
「三階のフロアは全面禁煙になりましてね、ここだけはOKなんですが。――ほら、あそこが面白いんですよ」
依藤の指さす方を見てみると、煙草の煙が、竜巻のようになって天井の穴に吸い込まれていった。
「ほう――」
しばし感心してから、室原は切り出す。
「実は二、三日前にね、その高曽根《たかそね》から会社に電話があったんだ」
「誰ですかそれは?」
「何いってるんだ。大宮の死体なき殺人事件[#「死体なき殺人事件」に傍点]の、元容疑者じゃないか」
「あ、そうだそうだ、ひと文字まちがったらやばい名前でしたもんね。ですが、今時分になっておやっさんに、何の用事ですか?」
「それがよく分からん電話なんだ。なんでも、高曽根は日本を離れてたらしくって、あれだけマスコミに騒がれたもんだから、もう外を歩けないってことでね」
「それは南署《うちら》だって同じでしょう。ボロクソに叩かれたじゃありませんか。おやっさん責任者だったから特に[#「特に」に傍点]――」
「えーらい迷惑だったよなあ」
――初動捜査に落ち度があった。
それなりに頑張ったつもりであったが。
――無実の人間を自殺に追い込んだ。
それはマスコミ《おまえたち》が悪いんだが。
――証拠もないのに自白を強要した。
一部、事実であるが。
――不当逮捕である。
実際は逮捕にも至っていない。あることないことを週刊誌や夕刊紙《タブロイド》に書かれ、室原の個人的な脱法行為も密告《ちく》られて(それは警察署内部で揉み消にされたが)閑職に追いやられ、その後に退職したのである。が、どう巧く事を運んだのか、室原は、その後地元の警備会社の重役に納まっている。
「……起訴できなかったのは、上の連中と検察の失敗《ちょんぼ》なのにさ。それに、依藤くんが、あれほどいい証拠[#「いい証拠」に傍点]を見つけてくれたというのにねえ」
「そんなこと今さら褒めていただいても、それこそ後の祭りですよ」
「けど、あれはリアルだったのになあ」
そのときの状況を思い起こすように、室原はいう。
「殺人の凶器となった果物ナイフは、洗われていて、指紋もきれーに拭き取られて、流《シンク》しの横のプラスチックのかごに、コップと一緒に置かれてあった」
「ですが、分解して刃を引っこ抜いたら、柄の穴に、被害者の血がもぐり込んでましたからね。あーいうぼろっちいナイフは、凶器としては相応《ふさわ》しくない。教則本に載るような話でしたよね」
「けれど、鞘《さや》の方に、しっかりと高曽根の指紋が残っていた。それが居間《リビング》の隅っこに転がっていたんだから、これほどイメージしやすい証拠もない[#「ない」に傍点]と思うんだけどねえ」
「鞘か――」
女性の名前を呼ぶように依藤はいってから、
「それも果物ナイフの鞘[#「鞘」に傍点]ですからね。あんなどうでもいいもの、俺だって忘れちゃいそうだもんな。ところが、そら証拠にならん、ていうわけでしょう」
「そう、愛人《あいじん》のマンションには始終出入りしてたわけだから、果物ナイフの鞘に高曽根の指紋が付いていても不思議はない……そういわれりゃ、そうでもある」
「けど、鞘からは、やつの指紋と被害者の指紋、それ以外には出なかったわけですからねえ。それに車のトランクにあった、被害者の毛髪だってえ」
拗ねたように依藤はいう。
「それも駄目だったんだよな。血痕だったら起訴できたんだけどさ。愛人を車に乗せているわけだから、荷物や服と一緒に、毛髪が紛れ込むことだってあるだろう……たしかにその通りさ」
「しかし、高曽根には夜の十二時以降のアリバイがなかったわけですからねえ」
「そのへんも有耶無耶《うやむや》にされたよな。疑わしきは罰せずなんだが、結局、殺人の事案には死体[#「死体」に傍点]という物的証拠がないと、駄目[#「駄目」に傍点]ってことさ」
「ふむ」
依藤は、悔しそうに腕組みをしてから、
「ところで、何度もいいますけど、そんな昔話をしに、お見えんなったわけじゃないでしょう」
「まあね、その電話[#「電話」に傍点]のことなんだが、高曽根は台湾に雲隠れしてたらしく、そしてごく最近、日本に戻って来たというんだ。依藤おぼえてるかなあ……高曽根には、もちろんのこと奥さん[#「奥さん」に傍点]がいただろう」
「ええ、一、二度顔見ましたけど、なかなか奇麗な奥さんでしたよね。そのくせ愛人[#「愛人」に傍点]なんか作りやがって――」
憎々しげに依藤はいう。
「ま、今の女子中高生相手の、援交《えんこー》よりはましさ」
「たしかに[#「たしかに」に傍点]」
依藤は濁声《だみごえ》で呟いた。
「……それに、小さな子供もいたろう」
「いや、そりゃ覚えてませんけど」
「その子も、今は中学二年生になっているはずだ」
「――で、それが?」
「つまりさ、電話口で高曽根はそういった話を俺にふってくるわけさ。それも、何だか分からないんだが、やけに切羽詰まったような雰囲気で」
「あっ、あれ離婚[#「離婚」に傍点]しましたよね――」
依藤は思い出していった。
「そう、事情聴取をやっても埒《らち》が明かなくて、起訴はできん、と検察がいい出したあたりで、離婚した。まあ、起訴/不起訴には関係ないと思うけどね」
「そりゃ当然だわな、あれだけテレビで顔売ってんだから、家庭は目っ茶苦茶ですもんね。あ、そうだそうだ、あいつぁ青年実業家とかで、手広く事業をやってましたよね。その会社は、どないなっちゃったんでしょかねえ?」
「あーあれはね、実質のオーナーは奥さんの方だったんだ。奥さんが資産家の娘で、高曽根は半ば婿養子のようなもの。で、不動産を扱ってたが、それが奥さんの親の代からの事業。外車の並行輸入は高曽根が始めたそうだ。それと中国茶の輸入もやっていたが、それは高曽根の実家の方の仕事だ。元来、彼は台湾の人らしく、だからあっちに親戚がいて、身を寄せていたというわけさ。で、奥さんの方の会社はもちろん潰しちゃったよ。けど、まだバブルの最中だったから、損を出さずに、きれーに手仕舞いできたそうだ。逆に、続けていたら間違いなくはじ[#「はじ」に傍点]けていたから、不幸中の幸いともいえるね」
「あ、あ……おやっさん」
ちょっと、からかうような口調で、
「やけに詳しいですねえ。ひょっとして、その奥さんのことご存じなんですか?」
「ま、ご存じというほどじゃないが、どこに[#「どこに」に傍点]住んでるかぐらいは知ってるぞ[#「ぞ」に傍点]」
と、かつての部下を睨み返してから、
「――離婚してすぐ後に、日光に売りに出ていた一軒家を買って、そこに移り住んだんだ。俺が警察を辞めてからは連絡はとってないんだけど、そのまま日光に住んでいるはずだ」
「日光――ていったら、日光東照宮の日光[#「日光」に傍点]ですよね。なんて風流な。そこに親戚でもいるんですか?」
「さあ、そこまでは知らないが」
「――なるほど。高曽根はつまり、そういったことを知りたかったわけですねえ」
「たぶん、そうだと思う。けど、どこに住んでるかなんてことは、俺は口が裂けても[#「口が裂けても」に傍点]いわないけどね」
「しかし、その奥さんと子供、FBIに匿《かくま》われてるわけでもないですよねえ」
――証人保護プログラムのことをいっているのだが、直接関係はない話である。
「離婚して旧姓に戻しただけさ。日光に引っ越したのも、隠れ住む、ためじゃないからね」
「だったら、その気んなれば調べられますよねえ」
「ごもっとも、だから依藤くんの尊顔を、わざわざ拝みにきたわけじゃないか」
「はあ」
と、一見気のない返事を依藤はしてから、
「――おやっさんの用向きは、だいたい理解しましたわ。南署《うち》の刑事ひとり廻しましょう。尾行させますわ」
即決でいう。
「お、そこまでやってくれるか……」
「いや、なーんか嫌[#「嫌」に傍点]な感じがします。俺の勘ってよく当たるんですよ。ひと騒動おきそうな胸騒ぎがする。おやっさん直《じか》に高曽根と話してるから、余計そう感じられたんじゃないですか」
「まあ、そういうことなんだが……」
「子供の姿を遠くから眺めたい、程度のことだったらいいんですが、その元奥さんと、お金やら何やらが絡んでるのかもしれません。それとは別に[#「それとは別に」に傍点]、行方不明の死体の在処《ありか》を、教えてくれないとも限りませんよう――」
語尾を震わせて、地獄の刑事のような声で依藤はいった。
「それはないだろう。十年以上も完黙してきたんだから、今さら現場《げんじょう》に出向くとは思えないけどね」
「さあ、どうでしょうか。歳月は[#「歳月は」に傍点]、人の心情を変えるといいますからねえ」
古典文学のようなことを依藤はいう。
「花のひとつも、手向《たむ》けるかもしれません……」
[#改ページ]
1
「火鳥《かとり》先生――」
頭《こうべ》を垂れながら男が声をかけてきたので、それが迎えの車だとわかった。
竜介《りゅうすけ》は、ぼんやりと高級外車《ベンツ》の類いを想像していたのだが、ちがっていた。大学の門の前に待っていたのは紺色の国産車で、男もノーネクタイにカーディガンという、これから犬の散歩にでも行くような軽装である。だが、対応ぶりは丁寧で、
「――アマノメの御《おん》都合とはいえ、急なお願いごとで、まことに申し訳ございません」
と、後部座席のドアを恭《うやうや》しく開けてくれた。
車は四ドアのセダンである。かなり大きな車である。それは、日本の高級車であるらしいことに、座ってから竜介は気づいた。室内が、タクシーなどとは全然ちがっていた。
「――すいません。シートベルトをお締めになって下さい」
男はいってから、車を発進させた。
飛ばすのかと思いきや、馬鹿丁寧なほどの安全運転である。それにしても、なんと静寂な車であることか。まったくといっていいほど音がしない。
男は、桑名政嗣《くわなまさつぐ》だと名乗った。歳は二十七とのことなので、竜介よりもひと廻りほど若い。
名前に竜[#「竜」に傍点]はつかないのかと尋ねると、
「分家ですから」
そっけない返事がかえってきた。
けど、分家[#「分家」に傍点]といわれても――
桑名家は千年以上も、いや、竜介の推理が正しいければ天平年間にまで溯ることのできる旧家だから、ざっと一千三百年は続いていることになる。
――どのあたりの分家なのだろうか?
口数の少ない政嗣から、根掘り葉掘り竜介が聞き出したところによると、どうやら明治になってすぐの神仏分離令が関係しているようである。
それは神と仏を完全に分け、神道《しんとう》に重きを置くという政府の方針だから、神[#「神」に傍点]は庇護されると思われがちだが、一概にそうではない。
「――明治政府のいった神道とは、要するに一神教のことで、古《いにしえ》の八百万《やおよろず》の神信仰とは別物だからね」
補足するように火鳥はいってから、
「国が一神教に傾くと、必ず[#「必ず」に傍点]といっていいほど戦争を起こすんだ。――世の常だね」
蛇足を付け加えた。
その神仏分離令の結果、仏像や経典が焼かれるという過激な廃仏毀釈《はいぶつきしゃく》の嵐が国中で吹き荒れ、それだけではなく、その一神教の枠外にいるような神々も、やはり同様の憂き目に遇ったらしいのである。
かつては、神が住むと噂されるような場所には、祟りを恐れて、人は決して立ち入らなかったものである。だが、明治になると様相は一変した。アマノメの住まいする屋敷に泥棒が入るようになったそうである。それも一度ならず、二度三度と、
「へー、神のお屋敷に泥棒とはね。いったい何[#「何」に傍点]を盗もうと思ったんだろう……」
これは捨て置けない問題だと、その当時、桑名の三男坊であった男を中心として、警護などの雑事一切を掌《つかさど》るようになったのだという。政嗣は、その男から数えて五代目とのことである。
車は首都高速から東北自動車道に入った。道は空いていて円滑《スムーズ》に流れる。土曜日の夕方だから、行楽客とは逆の方向に走っているのだ。竜介は、途中うつらうつらとしたようで、日光市街に入ったときには、すでに日が暮れていた。
右手に、美しくライトアップされた白亜の駅舎が見えた。JRの日光駅である。フランク・ロイド・ライトの設計になるといわれる明治時代のモダンでレトロな木造建築だ。
続いて、山小屋を大きくしたような三角屋根の建物が見えた。東武鉄道の日光駅である。ほとんどの観光客がこちらを使うため、JRの美しい駅の存在はあまり知られていない。
車は真っすぐな国道を走る。
沿道には、土産物を売る店が点々とあるはずだが、旅館を除いて、明かりはすっかり消えてしまっている。日光は神前町だから店仕舞は極端に早いのだ。
国道はゆるやかな上り坂になっていて、行き止まりにある信号で止まった――T字路で、正面は鬱蒼とした森である。その奥に日光東照宮がある。
竜介が窓のガラスを下ろすと、轟々と水の流れる音が聞こえてきた。車は日光橋《にっこうばし》の上に止まっているのである。下を流れているのは大谷川《だいやがわ》で、その川が日光市街と日光|山内《さんない》を分かつ境界だ。日光山内とは、すなわち聖域《せいいき》のことである。
左側を見ると、細長い簡易建物《プレハブ》のようなものが川の上に架かっていた。
「あ、朱色の橋があったはずだよなあ」
かつての橋――神橋《しんきょう》は改装中なのである。
突然、救急車のサイレンが響き渡った。
救急車は、神橋を覆う簡易建物《プレハブ》の陰から姿を現すと、T字路をこちらの方に曲がり、乗っている車の横をすり抜けて、竜介たちが来た道を逆の方向に走り去っていった。――聖域だから、サイレンを遠慮していたのだろうか。交差点だからと鳴らしたのだろうか。
長い信号がようやく青に変わり、車は左折をして、その救急車が来た方向に進んで行く。
右手は東照宮の暗闇の森である。
少し走ったところで、左に煙々と明かりが灯った大きな建物があった。前は広々とした駐車場で、どうしたことか、そこに人が溢れている。かなりの人数だ。|警察の車《パトカー》も停まっている……何だろうかと考える間もなく、そこを通り過ぎてしまった。
車はしばらく走ってから脇道へと入り込み、長々と続く石垣の先にあった、とある旅館の前で停まった。玄関の庇が、禅寺の屋根のように張り出していて(唐破風《からはふ》という形式だが)異様に豪華である。
「――すいません。小生《わたくし》はここまでです」
車のドアを開けてくれながら政嗣はいう。
「部屋はお取りしておきましたので、先にチェックインをすませて下さい。アマノメは、二階の『山吹《やまぶき》の間《ま》』におりますので――」
いわれたままにその部屋を訪ねると、青白い顔をした天目《あまのめ》マサトが出迎えてくれた。淨山寺《じょうざんじ》のご開帳の日に会って以来だから、ほぼひと月ぶりである。
部屋は広々とした和室で、マサトはひとりでそこにいるようだ。
竜介の顔を見ていくらか安堵したらしく、それでいて、怯《おび》えたような複雑な表情をする。
「……救急車?」
確かめるように、マサトが声[#「声」に傍点]に出していった。
「うん。さっき来る途中ですれ違ったよ」
竜介は気軽に応じた。その程度のことなら、見[#「見」に傍点]られても、別にどうということではない。
竜介の持論でいくと、マサトには他人の記憶が見える[#「他人の記憶が見える」に傍点]そうである。それがアマノメの神の――神たる所以《ゆえん》なのであるが。
「で、どうしたの?」
竜介は尋ねる。
「……抜けられない」
竜介の方を見やりながらも、虚《うつ》ろな目でマサトはいう。
「抜けられないって? 何から?」
「人を殺したという、感覚から……」
[#改ページ]
2
――その同じ日の朝。
駅の改札で、麻生《あそう》まな美が人を待っていた。
彼女は私立M高校の二年生である。普段は制服だが、今日は、ほどよく藍《あい》が褪《あ》せたジーンズの上下を着ていて、布製の旅行鞄を持ち、肩までに垂らした髪をさらさらと揺らしながら、ホームの方を見たり、階段の下の方を見やったり……。
ここ東武鉄道の浅草駅は、土曜日ということもあって、家族連れや団体客などでかなりの混雑ぶりだ。
旅行案内所や切符売り場は一階だが、改札とホームは階段を上がって二階にある。
三番線には、九時三十分発の『特急けごん九号』がすでに入っていた。彼女が立っている改札の外からでも、その最後尾が見える。白の車体《ボディ》に赤のラインが入った半流線型の車両である。JR新幹線の一種かと外国人旅行者に勘違いされたり、眠たそうな顔、正月の鏡餅、太鼓腹……デザイン面では酷評されもするが、揺れも騒音も殆どない約一時間四十分の快適な旅で、日光駅まで運んでくれる。
発車の時刻まで三分を切ったあたりで、人波から頭ひとつ抜け出した男子が、階段を上がって来るのが見えた。
「……だってボクは関西人、ひとりっきりの関西人、うううー」
あやしげな替え歌を口遊《くちずさ》みながら、悠長な足取りでやって来る。
「あと二分しかないわよ、土門《どもん》くん」
切符を手渡しながらせかしても、
「楽勝楽勝……」
土門巌《いわお》は余裕|綽々《しゃくしゃく》である。
彼も、同じく私立M高校の二年生である。
「もう、席は一番前なんだから」
改札を抜けると、まな美は先頭車両の方に小走りに駆けていく。その後を、大股なストライドで土門くんは追う。六両編成の『特急けごん』は全車指定席で、一号車は禁煙車両なのだ。
まな美を窓際の席にして、腰を下ろしたところで発車の音楽《チャイム》が鳴った。女性尊重《レディファースト》というわけではない。土門くんは、長い足を通路側にはみ出させたいのである。音楽《チャイム》は五秒ほどで鳴り止むと、列車はすぐに動き始めた。
「ふう」
まな美は怒ったような溜息《ためいき》をついてから、
「土門くん――荷物は?」
詰問する。
彼はまったくの手ぶらである。
「へへへへ……姫、おそろいですよね」
はぐらかしながら、嬉しそうな顔で土門くんはいう。彼もジーンズにGジャンといった出で立ちなのだ。
「一緒にしないでよ。土門くんのそれは復刻盤でしょう。わたしのは本物《オリジナル》なんだから」
その上着《ジャケット》の前身頃を手でたくし寄せながら、まな美は誇らしげにいう。
「うそつけ……」
と軽口を叩きながらも、土門くんは姫のその上着を繁々と眺める。
「ふーん、サイドに絞りが入ってるんか。それにボタンやのうてジッパーやな。胸のポケットは片っぽだけか……」
そして裾のあたりを、ちりちり、と指で揉んで布《デニム》の感触を確かめてから、
「……ほんまや。これラングラーMJZのセカンドの本物《ほんもん》やんか。七、八万はするぞう」
彼はこの手のことには詳しい。
「――おにいさんに貰ったの。クローゼットの隅から出てきたんだって」
「おにいさん?」
まな美には、母親の違う兄貴がいる。
「……おにいさん身長百七十センチは超えてはるやろ。それにしてはサイズ小さいやんか」
まな美は、百五十センチ台の半ばである。
「これ、おにいさんが大学生のときに着てた服なんだって。当時はもっと痩せていたし、それにピタッとしたのを着るのが流行《はや》っていたらしいわ。おにいさんが買ったときにすでに古着で、二千円ぐらいっていってたわよ」
「にせんえん[#「にせんえん」に傍点]――」
大袈裟に驚いてから、
「ええ時代に生きてはったんやねえ」
しみじみと土門くんはいう。
まな美の兄貴は、ふたりよりも二十歳以上も年上なのである。
「――それで、土門くん荷物は?」
まな美は再度詰問する。
「自分きのう店番してたやろ……」
哀れな声を作って、土門くんはいう。
彼の父親は上野|広小路《ひろこうじ》で骨董店を営んでいて、跡取りである彼は学校を終えてから、ときどき手伝いにいったりするのだ。家は埼玉県の岩槻《いわつき》市にある。
「そのまま店に泊まったんやけどな……」
上野広小路と浅草は銀座線でわずか四駅である。だから浅草駅で待ち合わせをしたのだ。
「……朝起きてから、かばん[#「かばん」に傍点]あらへんのに気がついたんや。まさか学生鞄で日光に来られへんやろ。店に風呂敷ならあったんやけどな……」
「向こうで一泊するのよ。土門くん、着替えないつもり?」
身を引きながら、まな美はいう。
「それぐらいは持ってきたぞう。――ここに入っとうねん」
土門くんが上着のサイドポケットを叩いた。
そういわれて見ると、何やら膨らんでいる。けど、あやしい……まな美はそれ以上追求するのをやめた。ポケットの中身など見たくはない。
「あやっ」
土門くんが腰のあたりをむずむずと動かした。
「どうかしたの?」
「けーたいが震えている――」
そして、ジーンズの尻ポケットから携帯電話を引きずり出すと、着信のボタンを押した。
「おう、天目《あまのめ》か……どないしたん?」
小声で喋る。
同じ高校の二年生、天目マサトからの電話であった。
「なんやて! 乗り遅れる――」
ちょっと声を荒らげて喋る。
マサトは途中駅から来ることになっていて、春日部駅を九時四十三分の快速に乗れば、ふたりが乗っている『特急けごん九号』と数分違いで日光駅に着ける、そんな予定だったのであるが。
「なに? 一時間先まで電車ないってか? なんちゅうやっちゃ――」
そういい残して、土門くんは電話を切った。
「適当にうろうろしといてやて。そやけど、あいつが来ーへんと話にならへんやんか……ねえ。写真撮るために日光に行くのに」
マサトは、歴史部のカメラ担当なのである。彼が神代《かみよ》の時代から生きていた神・天目一箇命《あまのまひとつのみこと》の末裔《まつえい》であり、かつ竜の化身であることなどはふたりはいっさい知らない。
「仕方ないわね」
と、まな美はいったが、何だか母親のような口調である。
「駅で一時間も待たれへんからうろうろ[#「うろうろ」に傍点]するしかないな。修学旅行の敵討ちでもすっか――」
「まーたその話?」
「いわしてえな。なんで自分が中学の修学旅行いかれへんかったのか、こんな哀れな話はないぞう」
つまり土門くんは、中学校生活の最大の行事《イベント》である修学旅行に行っていないのだ。
「そもそも神戸で通ってた中学では、秋に行く予定になってたんや――東京と日光へな。そやけど自分、夏休みにこっち引っ越してきたやろ。そしたら岩槻の中学では、修学旅行は春に終わってたんや」
悲劇は、いや、喜劇はそれだけではない。
「そやけどな、もし岩槻の中学で修学旅行いってたら、行き先は三都物語やったんやで。そんなもん遠足でイヤいうほど行ってるやんか。それに神戸の異入館通りも含まれとうねん。わざわざ修学旅行で行って、なんで自分の家見なあかんねん――」
土門くんの伯父さん(本家)は異入館通り(神戸市|北野町界隈《きたのちょうかいわい》)で骨董店を構えている。土門くんの父親も、以前はその店を手伝っていたのだ。だから土門くんも、その近くに住んでいたのである。
「まあ、何て可哀相な話なんでしょう」
ナレーションのようにまな美がおちをつけると、
「そやからな、敵討ちすんねん」
土門くんは嬉しそーにいう。彼は、日光へ行くのは今日が初めてなのである。
北千住駅で途中乗車の客をのせると、列車はすぐに鉄橋に差しかかった。
「土門くん、これが荒川よ」
窓の外を見やりながら、まな美がいった。
「おう、たいした川ちゃうな。そやけど、この上《かみ》へいくと元《もと》・荒川やもんな」
――元荒川[#「元荒川」に傍点]。それは、お寺の謎を解き明かす鍵[#「鍵」に傍点]になった川である。
「合流はもう少し下流の方なんだけどね」
正しくは、元荒川は先に古利根川《ことねがわ》と合わさり、そして荒川放水路に注いでいる。
「そやけど、淨山寺のご開帳に行って、驚いたよなあ」
今からひと月ちょっと前の八月二十四日、まな美の兄貴や竜蔵《りゅうぞう》おじさんたちも一緒に、皆でそろって行ったのである。
「うん」
まな美も大きく頷《うなず》いてから、
「あそこのお地蔵さまは、ちょっと表現のしようがないわよね。背はそんなに高くないんだけど、まさに後光が射してるって感じ……」
「自分が驚いたんは、あそこの住職はんや」
「すごく優しいご住職だったじゃなーい。徳川将軍と同じように、須弥壇《しゅみだん》の上にあげてくれたし」
「それがやな、あそこの住職と慈學大師《じかくだいし》のお地蔵さん、見れば見るほどよう似てるんや。どしっとした体つきといい、ふっくらとした顔といい……家で飼うてる犬や猫は主人に顔が似るいうけど、あそこは逆やぞう」
「なんてこというの土門くん――」
まな美は恐い顔で叱りつけてから、
「絶対にバチがあたるわよ。あそこのお地蔵さんは凄いんだからー」
「何がやんねん?」
「地蔵菩薩で国宝になってるのは一体だけで、それは斑鳩《いかるが》の法隆寺《ほうりゅうじ》にあるのね」
「だいたいそういうの法隆寺が持ってるもんな」
「その法隆寺にある国宝地蔵菩薩は、元はといえば奈良の三輪山《みわやま》にある大神神社《おおみわじんじゃ》にあったものなのね」
その神宮寺である大御輪寺《だいごりんじ》に置かれてあったものだが、話を誇張するためにまな美はそれは喋らない。
「そして大神神社というのは、起源は遥か昔で日本最古の神社なのね。そこから、明治元年の神仏分離令で外されて、日本最古[#「最古」に傍点]のお寺である法隆寺に移されたのが、国宝[#「国宝」に傍点]地蔵菩薩なのねえ」
まな美の迫力に押されて、
「へえ」
としか土門くんはいえない。
「でも、地蔵菩薩の信仰が日本に入ってきたのは比較的新しくって、せいぜい奈良時代の末なのよ。だから古い地蔵菩薩というのは、ないのね」
「そやったら、その法隆寺にある最古最古[#「最古最古」に傍点]の国宝が、それほど古くはあらへんけど、一番古いんやろ」
「現存している地蔵菩薩の中では、ほぼそうだろうと思われてるわ。でも作られた詳しい年代は判らないみたいで、その様式から……肉付けが太くてたくましいのね。そして衣《ころも》の襞《ひだ》の彫りが鋭いの。だから貞觀《じょうがん》年代の作といわれてるわ」
「な、なんやてー」
土門くんは真面《まじ》に驚いて、
「貞觀いうたら八五九年から八七七年やけど、淨山寺のお地蔵さんは、あれは貞觀三年の作やんかあ」
「だから、あそこのお地蔵さまが、日本最古の可能性があるのよ」
「ゆ[#「ゆ」に傍点]、許してくれー」
「最古最古[#「最古最古」に傍点]の法隆寺と大神神社《おおみわじんじゃ》にダブルで勝てるなんて、もう鬼の首とったようなもんだわー」
ふたりそれぞれに身悶《みもだ》えた。
まな美は、焦げ茶の旅行鞄からきのこの山を取り出すと、座席のテーブルの上に置いた。列車はすでに埼玉県内に入っている。
「そうそう土門くん、話変わるけど、慈林寺《じりんじ》の場所わかったわよ」
「じりんじ……てなんやったっけ?」
きのこの山のご相伴にあずかりながら、土門くんはいう。
「忘れたの? そもそも慈覺大師は、一本の木から三体の仏像を彫ったのよ」
「あっ、すもももももももものうちやなあ」
――李《すもも》の木から彫ったという伝承なのだ。
「その三体の仏像を安置するために、三つのお寺を建てたでしょう。そのひとつが慈林寺ね。でも一〇四じゃわからなくって、埼玉の地図を見てたら川口市に、慈林小学校とか、安行慈林《あんぎょうじりん》とかいう地名があるの。だから地名だけを残して、お寺は廃《つぶ》れちゃったのかしらーと思ったんだけど」
「ありえる。なんせ平安初期の話やもんな」
「でも結局はね、慈林寺はその安行慈林にあったの。宝厳院《ほうげんいん》・慈林薬師って名前になってたのよ。地図では宝厳院と書かれていただけ」
「どうやって調べたん?」
「そのあたりのお寺に電話して聞いてみたの。金剛寺《こんごうじ》さんだったかしら、親切に教えてくれたわ」
「なんちゅうやっちゃ」
「それでね、まだ行ってはいないんだけど、すっごいことがわかったわよ――」
まな美は、上着のポケットからペンと小さなメモ帳を取り出すと、
「――三つのお寺をね、関東平野の地図の上に置いてみたの。するとこんなふうに並んでいたの」
その配置図を記した。
その図を覗き込みながら、土門くんはいう。
「別に意味がありそうな形には見えへんぞう……正三角形でもないし、二等辺三角形でもないし」
「三角形に意味はないわ。ところがね、一番下にある慈林寺と、左肩にある慈恩寺《じおんじ》を結んだ線《ライン》、これをさらに真っすぐ上に延ばしていったとすると……どこに行き着くと思う?」
「真北やのうて、ちょっと西にずれるわけやな。すると日光のへんやろか」
「当たり[#「当たり」に傍点]。その線は、日光三山の真ん中を貫いてるのね――」
念を押すようにまな美はいってから、
「じゃ、慈覺大師は李の木から三つの仏様を彫ったんだけど、慈恩寺には何を置いたでしょうか?」
「なんやったっけ……」
「慈恩寺には、観音[#「観音」に傍点]さまを置いたのね」
「あっ、日光いうたら、それは観音さんが住んでた山やんか――」
思い出して土門くんはいった。
観音菩薩が住んでいる本宅[#「本宅」に傍点]は、南インドにある伝説上の山の補陀落《ふだらく》であるが、それに見立てて、日光の山のひとつを二荒《ふたら》と呼ぶようになり、その二荒を音読みして日光になったのだ。二荒は男体山《なんたいさん》の旧名であり、二荒山《ふたらさん》神社として今も名を残している。
「つまりね、慈覺大師は、慈林寺を基点として考えていたらしいのよ。慈林寺から見て、観音さまが住むといわれていた日光山の方向に、慈恩寺を建てて、そこに観音菩薩を置いた――」
「わっかりやすい話やなあ」
「それに慈林寺には、慈覺大師は薬師如来を置いたでしょう。薬師さんを置くということは、つまりその寺が拠点、といってることでもあるのね」
「……なんでそうなんの?」
「密教系の古くて大きなお寺は、だいたい本尊は薬師如来なのよ。まず比叡山の延暦寺がそうでしょう。真言宗の方も、三大霊場というのがあって、空海さんが修行した高野山の金剛峯寺《こんごうぶじ》、住んでいた京都の教王護国寺《きょうおうごこくじ》、生まれたところの香川の善通寺《ぜんつうじ》、三つとも本尊は薬師如来なの」
「薬師……いうたら薬《くすり》やさんやろ。なんでそんなもんを本尊にすんのん?」
――素朴な疑問である。
「薬師さんはね、本名は薬師瑠璃光《やくしるりこう》如来といって、東方にある瑠璃光世界の教主《ボス》ってことになってるの。西には西方浄土《さいほうじょうど》というのがあって、教主《ボス》は阿弥陀《あみだ》さんだけど、そこは死後の世界の極楽なのね。かたや東の瑠璃光世界は、生きている間の極楽なの。だから無病息災のためには薬[#「薬」に傍点]が必要。で、東と西というのは、インドを中心にして考えた話だから、つまり日本は、薬師如来の国ってことになるのよ」
「なんでインドを中心にせなあかんの?」
「だってお釈迦《しゃか》さまはインドの人じゃない」
「あっ」
「それにほら、薬師如来って、必ず日光・月光菩薩を従えてるでしょう」
「あっ、東の空から出てくるからかあ」
――素朴な疑問は、うんざりするほどの単純な答えに帰着(土門くんにとっては墜落)した。
「じゃ、地図の話に戻すけど、この慈恩寺と慈林寺の線《ライン》を、逆に、下の方向にまっすぐ延ばしていったとしたら、何に当たったと思う――土門くん?」
まな美は小悪魔のような顔になって囁《ささや》く。
「ふむ、何に当たるときたからには、何か特定のもんに当たるわけやな……この方角やと、東京のちょっと東側にいくなあ、そして古いもんやろ……てことは、浅草寺《あさくさでら》ちゃうのん」
土門くんは知ってていう。
「おしい。この線はね、上野の寛永寺《かんえいじ》にぴたりと当たるの――」
「なんやてえ?――それは天海《てんかい》が作ったやつやんか!」
大きな声でいった。
[#挿絵(img/02_029.png)入る]
「電車の中よ土門くん」
「姫が驚かすからや」
ぼそ、と早口でまくし立ててから、
「そうすっとやな、そのらいん[#「らいん」に傍点]を天海も知ってたいうことか?」
「知っていたから、それに当たるようにと建てているのよ。偶然なんてことは、あり得ないわ」
――寛永寺は、江戸城の鬼門守護の役目を担って寛永二年(一六二五年)に建てられた寺である。
「それに李《すもも》の木って、慈覺大師が日光山に行ったときに、そこになっていた李の実を食べて、その種を日光山から投げたら、八年後、埼玉で大木に育っていたという伝承でしょう。その李の木で作ったんだから、日光山の霊力を導くのに、これほど相応《ふさわ》しい仏像はないわよね」
「えー、それはあくまでも伝承[#「伝承」に傍点]やぞう。その、慈林寺と慈恩寺のらいんはええとして、淨山寺とは、どういう関係になってんの?」
土門くんが、メモ帳を指さしながら尋ねると、
「大きな声出さないって、約束してくれる?」
まな美はいう。
「まーたあやしい話なんやろ――」
「だから[#「だから」に傍点]、大きな声出さないでね」
まな美は釘を刺すようにいってから、
「淨山寺はね、慈林寺の真北の方向にあるの。一分の狂いもないわよ」
「――どういうことやねん[#「どういうことやねん」に傍点]?」
土門くんは、野太い声でいう。
「正直なところはわからないの……いったように地蔵信仰は新しくて、我々《しょみん》が拝むようになったのは平安後期なのね。だから貞觀[#「貞觀」に傍点]という年代に、あれほど立派なお地蔵さまを彫って、それをお寺の本尊として置くなんてことは、あまり例がないのよ。で、わたしが思うにはだけど、淨山寺のお地蔵さまは、薬師如来の守り神だったんじゃないかしら。だから慈林寺から見て、真北に置かれたのね」
「ちょっと待てえ、そやったら、その慈林寺と淨山寺のらいん[#「らいん」に傍点]が、皇居の吹上御所《ふきあげごしょ》を貫いてることなるやんか――」
「そうよ」
まな美は、さらりといってのけてから、
「わたし淨山寺が吹上御所の真北になったのは偶然だと思ってたんだけど――あれ間違い[#「間違い」に傍点]ね。慈林寺の場所が判ってから、そのことに気がついたの。このての話には、やはり偶然なんてことはないのよ。お寺がひとつだけポツンとあるのと違って、こうやって南北にきちんと線が引かれてあるんだったら、それを使いたくなるのが、人情というものでしょう」
「うーん、人情[#「人情」に傍点]にうったえられてもなあ……」
「それにね、このラインの延長線上には、もうひとつ面白いものが建っているの」
「なんやねん?」
「増上寺《ぞうじょうじ》が、――ふつう芝《しば》の増上寺っていうけど、それが吹上御所の真[#「真」に傍点]南にあるのよ。つまり慈覺大師が引いたライン上ね」
「おう、名前はよく聞くぞう……」
「東京タワーの隣にあるわよ。修学旅行に来ていたら、土門くんだって観《み》れたのに」
「それが[#「それが」に傍点]――」
怒ったような声で先を促《うなが》す。
「この増上寺はね、別の場所にあったのを、徳川家と宗派が同じだったので、菩提寺になってくれるよう家康が頼んで、今の場所――城の南側に移築したのね。それが慶長三年の話」
「一五九八年やな」
即座に、土門くんは西暦に変換する。年号は彼の得意分野である。
「じゃ、家康が、淨山寺を訪れたのは」
「それは天正《てんしょう》十九年――一五九一年やんか。つまり淨山寺の方が先やねんから、淨山寺・慈林寺らいんに合わせて、増上寺を動かしたいうことか」
「そうも考えられる。あるいは、当時の江戸城って全然わかってないんだけど、その古い江戸城の中心線が、そこだった、とも考えられないかしら?」
「古い江戸城いうたら、太田道灌《おおたどうかん》の江戸城いうことやな。そやったら、太田道灌が慈覺大師のらいん[#「らいん」に傍点]を使っていたかもしれん……いうわけか」
「彼もなかなかの呪《ま》じない師だった、て噂だわよ。日光山の分身のようなお寺が北側にあるんだったら、使いたくなるのが、人情よねえ」
まな美は楽しげにいってから、
「どちらにしても、偶然なんてことはありえないわ。そして、やがて徳川家は江戸から出ていき、代わりに天皇家が入ってくる。そして御所を建てるにあたって、千年以上も昔に慈覺大師が引いてくれていた線上に、建てたわけよ。これは元来、徳川のものじゃないんだから、使っても問題はないでしょう」
「まあ、そういわれればねえ……」
「それに慈覺大師は、天皇家にとっては、最も信頼できる僧侶なんだから」
「なんのこっちゃ?」
「円仁《えんにん》は、死んで二年後に天皇家から慈覺大師[#「慈覺大師」に傍点]という諡号《しごう》を贈られるわけだけど、彼が一番最初に諡号を貰った人なの」
――円仁は八六四年に没している。
「最澄《さいちょう》と空海《くうかい》を差し置いてか?」
「それも、天皇さんの方からあげる[#「あげる」に傍点]といい出したのよ。けど、比叡山の方が困惑しちゃって、それなら開祖の最澄さんにもあげて……て頼み込んで、ふたり同時に貰ってるの。でも最澄さんは、伝教大師《でんぎょうだいし》なのね。字を見ただけでわかるでしょう」
――最澄は八二二年に没している。
「ほんまや、愛情は感じられへん名前やな。で空海は?」
「それは真言宗の方が頼みに頼み込んで、その五十年ぐらい後に貰ってるの」
――空海は八三五年に没し、九二一年に諡号を贈られている。
「へー、そんな偉い人やったんかあ」
「弘法大師《こうぼうだいし》の超人伝は、ほとんどが真言宗の創作なのね。そのてん慈覺大師は派手じゃないんだけど、やってることは凄い[#「凄い」に傍点]の――慈覺大師が、平安初期に埼玉に建てた三つのお寺が、その後の江戸の町を、そして東京を決定したんだから」
「ほう……日本史だけやのうて、うちら[#「うちら」に傍点]日本地理も書き換えたぞう」
複数形でいってから、
「そやったらな姫、あのややっこしい地獄神の話もちださんでも、菊の御紋の説明できるやんか。淨山寺のお地蔵さんは、そもそも守り神として置かれとったんやから、その真南に天皇さんが御所《いえ》を建てはって、自分の守り神になってくれるよう、お地蔵さんの厨子《いえ》の扉に菊の御紋を打った。これで話じゅうぶん通じるぞう」
「そうかしら……」
「いや、こっちの方がええ。なんちゅうたってわかりやすいのが一番や――」
高校生の文化祭としては、そうであろうか。
「あ、それとね土門くん。芝の増上寺の宗派は浄土宗なのよ。三河以来の徳川家が、浄土宗だから」
「あっ、それで淨[#「淨」に傍点]山寺なんか――」
「もとは慈福寺《じふくじ》だったのを、淨山寺に改名させたのは、家康だからね」
「まさに隠れ[#「隠れ」に傍点]菩提寺やな。南に増上寺を移しといて、北を淨山寺に変えてるんか。一部の隙もありませんね姫……ようこれだけ辻褄《つじつま》あうこっちゃ」
淨山寺の寺紋は三つ葉葵であるが、史実としては、徳川家の菩提を弔《とむら》ったという記録はない。
「それとね土門くん」
「まだあるんか」
「……やめた」
まな美はいう。
「えー、気になるやんか、姫……」
まな美は、箱に一粒だけ残っていたきのこ[#「きのこ」に傍点]の山を口に入れてから、
「土門くん、浅草寺《せんそうじ》の由来は知ってる……知らないわよね」
「おう、自慢やないが」
「あそこはね、推古《すいこ》天皇の時代に漁師が川で一寸八分の観音の像を網にかけて、それを祀ったのが始まりとされているのね」
「――推古天皇[#「推古天皇」に傍点]」
土門くんは大袈裟にずっこけながら、
「聖徳太子の時代やないか、もうあほらしくて年代いわへんぞう……それに寸法《さいず》もめっちゃめちゃやで。尺皿いうんが三十センチちょっとの大皿やねんから、一寸八分いうたら五、六センチになってしまうで、それ指人形の間違いちゃうのん」
――土門家は古陶磁の商いなので、尺や寸には馴染んでいる。
「実際そうよね。見た人は誰もいないんだから、土門くんの意見は正しい――」
まな美は妙に納得してから、
「あそこは最初から絶対秘仏で、ご開帳されないのね。一説にはない[#「ない」に傍点]とすらいわれているわ。けど、それだとお寺としては話にならないので、お前立《まえだち》本尊というのが置かれてあるのね。その観音さまを彫ったのは、慈覺大師なのよ。観音ってたくさん種類があるけど、楊柳観音《ようりゅうかんのん》だといわれてるわ」
「あ、そやったら、この電車は慈覺大師の浅草から、慈覺大師が作った日光東照宮まで行くねんなあ」
――もちろん、日光東照宮は天海僧正が築いたものだが、歴史部[#「歴史部」に傍点]ではそういうことになっている。
「それとね、この列車もう少しで栃木県に入るけど、すると、古い地名でいって都賀郡《つがのごおり》というところを走るの。そこで生まれた有名人がひとりいるんだけど、知ってる? 知らないわよね」
「いや、そこまでいわれると、知ってるような気がするぞう」
「もちろん円仁、慈覺大師ね……」
ふたりを乗せた『慈覚大師列車』は、定刻通り、十一時過ぎに東武日光駅に着いた。そこは、構内に立木が植わっているような広々とした駅である。
まな美たちがプラットホームに降り立つと、その脇を五、六人の女の子たちの一団が、きゃー、と黄色い声をあげて走り抜けていった。
中学生だろうか。小学生かもしれないが。色とりどりの服を着ていて、皆それなりに美装《めか》し込んでいるようだ。そして改札付近で仲間と遭遇したのか、勝鬨《かちどき》のような歓声があがった。
かなり広い駅の待合も、若い女の子だけの集団でごった返していて、甲高い悲鳴や、何だか不明だがリズムを刻んでいるような手拍子やらが、あっちこっちから沸き起こっている。
改札で立ち止まったときに後ろを振り返ると、似たような集団が、さらに何組か来る。
小声で土門くんがいう。
「……日光いうたら、こんな騒々しいとこなんか。原宿の竹下通りと変わらへんやんか」
「いつもこんなじゃないわ、……たぶん」
まな美も、当惑ぎみである。
改札を抜けると、吹き抜けの天井には、
〈ようこそ、世界遺産の街、聖地日光へ〉
の大段幕が下がっていた。
その下を、土門くんを盾[#「盾」に傍点]にして出口の方に向かうと、女の子たちは外の歩道にまで溢《あふ》れ出している。
「姫……迷子なったらあかんで」
と土門くんが、その人垣を突っ切ろうとしたときである。
「――坊《ぼん》、――坊ちがうの!」
よく通る声が呼びかけてきた。すると、その方向だけ女の子がさーと散って、濃い茶の和服を颯爽と着こなした中年の男性が姿を現した。
「うわ、――圓龍庵《えんりゅうあん》のおじさん」
名前からいって、土門家と同業のようである。
「えらいとこで会うなー、蔵出《くらだ》しにでも来てはるのおじさん?」
「何いうてんの坊。うちの店ここ[#「ここ」に傍点]やんか」
「ええー、おじさんの店は芦屋《あしや》ちがうのん?」
――神戸市の東隣にある芦屋市のことである。
「あれは親父《おやじ》の店やんか。この商売は老人老人《よぼよぼ》なってもできるやろ。なっかなか引退しよらへんから、自分は自分でこっちで店もっとうねん」
いいながら、袖の袂《たもと》をごそごそやって名刺を取り出すと、それを土門くんに手渡した。
「――うちの店すぐそこやで。国道からちょい入ったところや」
東武日光の駅前は、まるく開けて広場のようになっていて、中央部にバス停と、水が流れ落ちる大岩があり、その広場が国道と接していて、ほぼ真っすぐな国道を二十分ほど歩くと、東照宮なのである。
その名刺を、土門くんは眺め透かしながら、
「へー、ぜんぜん知らんかった……」
「いうてなかったかもしれへんな。あっちでしか会うてないもんな」
「……これ、どない読むの?」
「それは恙《つつが》、『恙堂《つつがどう》』や」
――店の屋号である。
「つつが虫ぐらいしか思い浮かばへんぞう」
土門くんは失礼なことを宣うが、
「みーんなにいわれるわ」
関西人は怯《ひる》まない。
「――羊羹《ようかん》売ってると思われたこともあるで。名前ちょっと懲りすぎたかなー思てるうちに、かれこれ十年たってしもうたわ」
「恙って、――唐門《からもん》の上にいる恙ですか?」
まな美が、土門くんの背後から顔を出して尋ねた。
隠れていたわけではないのだが、『恙堂』の主人《あるじ》はかなり驚いた様子で、
「あっ、よう知ってはりますねえ」
そして繁々とまな美の顔を凝視《みつめ》てから、
「でかしたな坊。――えっらい可愛らしい彼女つくって」
「ちがいます[#「ちがいます」に傍点]――」
声を裏返しながら、まな美は否定する。
土門くんは、てへへへ、と惚《とぼ》けているだけである。
「あんたらも、コンサート観《み》にきたんやろ?」
『恙堂』の主人はいう。
「なんのこと……おじさん?」
「いや、何とかジュニアいうんが今日来るんやで。そやからこんな騒ぎになってるねん。メンバーのひとりが日光《ここ》の出やいうんで、うちらの商店街で呼んだんやけどな。世界遺産になったことやし、若い子たちにも日光に来てもろおうかと思てやな……そやけど、同《おん》なじ若い子でも質が違うようやね」
最後は小さな声でいった。
まな美が部活で来たこどを説明すると、
「へー、歴史部か。坊えらい仕事熱心やなあ」
坊は骨董屋の跡取りなので、ま、そういうことにもなる。
「――残念、知ってたら案内してやったのになあ、自分これから用事あるねん」
駅の方を指さす。
「あ、そやそや、幸子《さちこ》知ってるやろ?」
土門くんにいう。
「幸ちゃん……やね。小学何年生やろか」
「何いうてんの、いつまで小学生でおるかいな。中学二年生やで、もう立派な女[#「女」に傍点]や――」
『恙堂』の主人は、またも袖の袂に手を突っ込むと、人垣を避けるように広場の中ほどへと歩いていく。ふたりもその後に続く。袂から携帯電話を取り出して、自宅にかけているようだ。
「おう、幸子呼んで……」
「あっ、そんなべつに、気ー使《つこ》うてくれんでもええですよー」
土門くんが慌てたようにいう。
「かまへんかまへん、どうせ休みやねんから」
そして娘が出たらしく、小声でぼそぼそと何やら交渉してから、ふたりの方に顔を向けて、
「――どっちか携帯もってへんか?」
土門くんが、しょーことなさそうに尻のポケットからそれを引きずり出して、液晶画面《ディスプレイ》に自分の電話番号を表示して差し出した。
『恙堂』の主人は、その番号を告げて電話を切ると、
「――女の子やからな、いわれてすぐには出て来れへんて。準備でき次第そこに電話かかってくるわ。どこにおってくれても大丈夫やで、幸子そのへんのガイドより詳しいから」
早口でまくしたて、
「ほんじゃあな」
と、駅の方にすたすたと歩いていった。
「ま、まずい……」
土門くんは仏壇から転げ落ちたような顔で、
「えらいもん押し付けられてしもたあ……」
ともあれ、まな美は荷物も下ろしたかったし、先にチェックインすることにした。予約したのは老舗の旅館だが、改装したてで真新しいとの評判で、ガイドブックを見てそこに決めたのだ。場所は、東照宮のちょっと先だから、歩けないわけではないのだが、ふたりはタクシーを使った。まな美の兄貴に知られると、高校生はバスか徒歩――と一喝されそうな話である。
フロントで記帳を済ませ、部屋に入ったところで土門くんの携帯電話が震えた。
「……早いなあ」
嫌そうに土門くんは出る。
「おっ、天目か――」
マサトからの電話であった。
「えー、何やてー、忘れもんしたから、さらに一本遅れるってか……どいつもこいつも[#「どいつもこいつも」に傍点]」
と、土門くんは電話を切った。
「姫、なんか厄日[#「厄日」に傍点]ですよう……」
まな美は小さなリュックに取り替え、ふたりは旅館を出て、国道沿いに点々とある店のひとつに入った。時間はまだ早いのだが、先に昼食をとることにしたのである。
日光といえばそれ[#「それ」に傍点]という名物料理で、まな美は、湯波《ゆば》入り蕎麦《そば》を、土門くんは、湯波入りカレーライスを注文した。
「どうして[#「どうして」に傍点]……日光にまで来て、どうしてカレーライスなの土門くん?」
「カレーが食いたい気分なんや。厄除けや――」
自棄《やけ》ぎみに土門くんはいう。
そして運ばれてきた、カレーの上にのっているそれを見て、
「なんやこれ……卵焼きちゃうのん?」
「土門くんの知ってる湯葉《ゆば》って、京都の平べったい湯葉でしょう。日光のはぐるぐる巻いてるの。でも作り方は同じで味も一緒よ。これは大豆が原料だから、お肉を食べられなかった僧侶のための、精進料理なのね」
「あ、それで京都と日光が産地なんやなあ」
まな美は、温かい湯波入り蕎麦をすすりながら、別の話を始めた。
「土門くん、宇佐八幡宮《うさはちまんぐう》の神託事件知ってる?」
「もちろん、初代黒衣の宰相・道鏡《どうきょう》が絡む話やろ。女帝の称徳《しょうとく》天皇をたらしこんで、もうちょっとで天皇になりかけたとこを、和気清麻呂《わけのきよまろ》に阻まれんねん。そやけど、あれは変な話やでえ」
「そうよね、どうして天皇さんも誰も彼も、宇佐八幡宮のいいなりになっちゃうのか……」
「それにやな、最初の神託では道鏡を天皇にすべし、いうて出たんやろ。そして二回目に確認にいったら、あかんいうて出たんやろう。そうころころ神さんが言い分変えたらあかん[#「あかん」に傍点]と思うぞう」
「あれは両方とも誰かの作文だから、神さまは関係ないと思うわ。でも、宇佐八幡宮については、なぜ皇位継承に口出しできるのか、謎よねえ……そこに祀られているヒメガミという神さまを、卑弥呼《ひみこ》だといってる人もいるんだけど」
「宇佐いうたら大分県やろ。その話はもうあかんぞう。卑弥呼の墓は九州にはあらへんからな」
「だからこの説も駄目でしょう。皆いろんなこといってるんだけど、よくは判らない神社なのよ。でね、話はその道鏡[#「道鏡」に傍点]なんだけど、彼は後ろ盾としていた称徳天皇が亡くなった後、どうなったか知ってる?」
「あんな大罪犯しとんやから、当然[#「当然」に傍点]」
と土門くんは、カレーのスプーンで首をかっ切る仕草をする。
「ところがね、単なる左遷なのよ。その左遷先が、三|戒壇《かいだん》のひとつの下野薬師寺《しもつけやくしじ》なのね」
「あれ、その名前聞いたことあるなあ」
「日光を開山した勝道上人《しょうどうしょうにん》が僧侶の資格を授かったお寺が、下野薬師寺よ」
「あ、そやったそやった」
いってから土門くんは、
「待てよ。勝道上人が日光に四本竜寺《しほんりゅうじ》を立てたんは天平神護《てんぴょうじんご》二年――七六六年や。宇佐八幡宮の神託事件は神護景雲《じんごけいうん》三年――七六九年で、称徳天皇が死んだんはその翌年や。同じ時代の話やったんかあ」
頭の中の年譜を繰って即座に答えを出す。
「そうなのよ。左遷された道鏡は、下野薬師寺の別当職について、そして宝亀《ほうき》三年に死んでるのね」
「七七二年やな」
「それに下野薬師寺と日光って、すぐ近くなのよ。だから、ひょっとしたら道鏡も日光に関係してるんじゃないかと思って」
「それ、文化祭でやる気かあ? すでに黒衣の宰相の天海僧正がおんのに、ふたり目の黒衣の宰相を出したら、収拾つかへんようになるぞう。過ぎたるは何とかとかとか[#「とかとかとか」に傍点]いうやんか、姫――」
土門くんに窘《たしな》められてしまった。
食事を終えて店から出たふたりは、
「どうしようかしら」
「何時に来るかもわからへん天目《あまのめ》と、さらに疫病神《さっちゃん》と待ち合わせやからなあ」
国道を、ともかく日光橋《にっこうばし》の方に歩いていると、
「あら、コンサートはここね――」
右側の開けた駐車場の先に中規模の会館風の建物が立っていて、その周りには、すでに女の子たちが二、三十人は屯《たむろ》している。
「ほんまや、こんなとこでやんねんなあ」
国道を挟んで左側は、日光東照宮の森である。
「うるさい[#「うるさい」に傍点]、ちゅうて怒られたって知らんぞう」
ふたりはさらに先へと歩き、改修工事中の神橋《しんきょう》のところまでやってきた。
「残念だったわね土門くん。アーチ状の奇麗な橋なんだけど、たぶん工事始まったの、つい最近よ」
朱塗りの橋はまったく見ることができない。
「工事はしゃーないけど、趣味悪いなあ。この川にかかってるぷれはぶ[#「ぷれはぶ」に傍点]は何や! 風景と全然おうてへんやんか。日本人こういうとこあほ[#「あほ」に傍点]やねんなあ」
土門くんはこういうところには手厳しい。
「向こっかわに、面白いものがあるわよ」
ふたりは、車の切れ目を待って東照宮の森の側に渡った。
「これ、太郎杉よ。このへんでは一番太い木ね」
「なになに……」
土門くんは、その杉の根元に立っている案内板を読みながら、
「昭和三十年代、道路拡張計画のため、伐る伐らぬの裁判で注目を集めた……日本人あほやなあ」
「あほあほいってないで、後ろにある『深沙王堂《じんじゃおうどう》』が面白いんだから」
朱塗りの小さなお堂である。
「どれどれ……深沙大王《じんじゃだいおう》は、勝道上人一行が大谷川《だいやがわ》を渡れないでいる時に、二匹の蛇を放って一行を助けた」
「その蛇が、新橋《しんきょう》になったのね」
「……なお、深沙大王は毘沙門天《びしゃもんてん》の化身である」
「毘沙門天の夜の姿との説もあるわ」
「……それと、インドに向かう三蔵法師|玄奘《げんじょう》を危機から救ったこともある」
「砂漠の中で、水のありかに導いてくれてるのね。けっこういい神さまでしょう」
「そやけど、毘沙門天いうたら、慈覺大師の三仏を東照宮の三神に繋《つな》ぐために、天海が、護法天堂《ごほうてんどう》に置いた神さんのひとつやろ。北を護ってて……すなわち家康さまやんか」
「そう、だから家康さんは夜になると、この深沙王堂に来て、睨みをきかしているのね」
「それにしてはお堂が小さすぎるで。それに人も、だーれも来ーへんし」
実際、輪王寺《りんのうじ》の護法天堂の役割すら殆ど知られていないので、深沙王堂をまな美のように考えるのは、希有な例である。
「でね、この深沙大王の姿はというと、手首や足首に蛇を巻きつけているのよ。だから、その蛇を飛ばすのね。そして首には髑髏《どくろ》の瓔珞《ネックレス》をしているの」
「姫そういうの好きやなあ」
「さらにね、深沙大王のお腹には、子供の顔が浮かびあがっているのよ」
「うわー、気持ち悪い」
顔を顰《しか》めて土門くんはいってから、
「うわっ」
とさらに驚いた。
「どうしたの?」
「けーたいが震えている」
土門くんはそれを尻ポケットから取り出すと、まな美の目の前でぶらぶらさせながら、
「さ、どっちやと思う?」
「早く出た方がいいわよ」
「しゃーないなあ……」
出てみると、それは幸子からの電話であった。
そして輪王寺の黒門《くろもん》前で待ち合わせ、五分後、ということに決まった。彼女は、自転車で来るから早いとのことである。
ふたりは、人でごった返している輪王寺の境内を抜ける途中、三仏堂の裏手にある護法天堂に立ち寄った。
「えー? これがそうなんか?」
「そうなの、隣に馬鹿でかい大護摩堂《だいごまどう》が建っちゃったから、見るかげもないでしょう」
「秘密の建物いう感じ、全然せえへんなあ」
「ほんの一、二年前までは、ここでお札やおみくじを売っていて、いい感じだったのよ。扉も開いていたし、その奥には繋ぎの三神が置かれてあったのね。それを隣に移して七福神にしちゃったのよ」
「その話は聞いたぞう。しゃーないしゃーない、ざっと四百年も前の話やねんから、誰も覚えてへんのや」
「その言葉も聞いたわよ」
黒門は、表参道に面している輪王寺の表門だが、明治の初期に輪王寺本坊が消失したさい唯一焼け残った天海僧正ゆかりの大門で、柱から瓦まですべて黒に塗られてある。まな美も知っていたし、それに黒門付近は人も少なく、待ち合わせには適した場所なのだ。とはいっても、今日は土曜日であるから人はちらほらいる。
「土門くん、その子と会うのは何年ぶりなの?」
「できれば忘れたい……」
ちぐはぐな会話を交わしていると、その黒門の柱に凭《もた》れていた女の子が、ふたりの方を見て手を振ってきた。
「えー? あの子……」
服はジーンズに薄桃色の風防付長袖《パーカー》でどうということはないが、首から上が凄いのだ。髪は金茶に染めていて縮れさせているし、顔はいわゆる山姥化粧《やまんばメイク》である。
「ひやー」
土門くんが悲鳴に似た声をもらす。
その女の子が、ふたりの方に歩み寄って来た。
まな美が軽く会釈《えしゃく》して言葉をかけようとすると、ふたりの少し手前まで来て彼女は立ち止まり、ふっと辺りを見渡してから、
「えー? ふたりなのー?」
不審極まりないといった表情でいう。
「え? どういうこと?」
「そういう子なんや」
土門くんが身を屈めて、まな美の耳元で囁いた。
「あのね、もうひとりマサトくんというのがいるんだけど、遅れて来るのよ」
弁解するようにまな美がいうと、
「そのマサトくんて、ちょっと変わった男の子でしょう。でも大丈夫、遅れても絶対[#「絶対」に傍点]に来るから」
幸子は確約するようにいう。
「どうしてマサトくんのこと知ってるの?」
「――お告げよ」
澄んだ声で幸子はいった。
「お告げって?」
「そういう子なんですよ」
土門くんが、再度まな美の耳元で囁いた。
まな美は簡単に自己紹介をしてから、一行は表参道を東照宮の方に歩き始めた。表参道は、両側を杉に囲まれた広々とした未舗装の直線道で、三百メーターほどの長さがある。
すると幸子が、
「おねえさん。おねえさんには秘密の男の人がいるでしょう」
またも奇妙なことをいう。
「……幸ちゃん。お告げはもう許してくれる」
まな美が懇願するようにいうと、
幸子の表情はぱっとはなやいで、
「うん、もうお告げはいわないわ」
「ふう……」
土門くんが溜息をもらした。
「じゃ、おねえさんは誰の生まれ変わりなの?」
幸子は別の質問をぶつけてくる。
「誰といわれても……」
「幸ちゃんこそ誰の生まれ変わりなんや?」
お告げ中止令が出て安心したのか、土門くんは口を開けていう。
「わたしはね、倭迹迹日百襲姫《やまとととひももそひめ》の生まれ変わりよ」
「でたー、舌噛むやつやあ」
「箸墓《はしはか》の住人ねえ」
その話題には、ふたりとも楽しげに応じる。
「いわお兄ちゃん知ってるの?」
「うちらは歴史部やぞう。倭《やまと》ととと……いわれんけど、それは孝霊《こうれい》天皇の娘さんやろ」
「でも、倭迹迹日百襲姫の生まれ変わりだとすると、最後は可哀相な死に方しちゃうわよ」
「大丈夫よ。わたしの彼はおおなむち[#「おおなむち」に傍点]だから」
「おおなむち……て、大己貴命《おおむなちのみこと》のことかしら」
まな美は少し考えてから、
「幸ちゃん、日光の男体山《なんたいさん》の神さまを旦那様にしたのね」
「わ、おねえさんよく知ってるわねえ」
「この方はそういうお方なんや。そやけど、自分だけなーんもわからへんぞう」
まな美が説明する。
「倭迹迹日百襲姫は、大物主命《おおものぬしのみこと》と結婚するんだけど、大物主は三輪山《みわやま》の神さまなのね。あの最古最古の大神神社《おおみわじんじゃ》がある山よ。けど、夫の大物主は夜しか現れないので、朝のお姿を拝みたいと姫が頼むと、ならばあなたの櫛《くし》箱に入っていよう、でも私の姿を見て驚かないでくれ、と夫はいうのね。そして朝、その櫛箱を開けてみると、そこには小さな蛇が入っていて、赤い舌をぺろぺろ出していたの」
「ぜったいに驚いちゃうわよね」
「驚くわよね」
「で、驚いてどうなったん?」
「すると夫は、私に恥ずかしい思いをさせた、といい残して三輪山に飛び去ってしまうのよ。そこから先は、女性《レディ》のわたしたちには話せないわよね」
「うん」
幸子も力強く頷いた。
土門くんも話の最後だけは知っている。倭迹迹日百襲姫は箸で陰部《ほぞ》を突いて自害するのである。それが箸墓の由来でもあるのだが、
「……なるほど。結末があかんから、地元の男体山の神さんに彼氏を代えたいうわけやな、賢いなあ」
「それにね土門くん、大国主、大物主、大己貴は同じにされてしまうので、代えてもかまわないのよ」
「ますます賢いなあ。そやけど、その倭……姫の生まれ変わりやとすると、幸ちゃんの魂は、一七四〇年間ぐらいはどこで何しとったんや?」
土門くんらしい質問であるが、
「あ、――あれが石鳥居《いしどりい》ね」
幸子にはぐらかされてしまった。
石鳥居は、遠近法を利用した十段の石段(上にいくほど横幅が狭くなり、段が低くなる)を上がったところにある。
「この石の鳥居は元和《げんな》四年、筑前の大名|黒田長政《くろだながまさ》の奉納ね。東照|大権現《だいごんげん》って額がかかってるけど、あれを下に降ろしてくると畳一枚の大きさがあるのよ」
「さすがにでかいなあ……」
背の高い土門くんも遥か頭上を見上げながら、
「……元和四年は一六一八年。東照宮に家康さんを祀った翌年やね」
「それと、わたしは知らないんだけど、昭和の頃まではここに注連縄《しめなわ》がかかってたんだって」
「わたしも写真でなら見たことがあるわ。注連縄があった方が、断然奇麗だわよね」
「でも重くてだめなんだって」
「だ、だいじょうぶかー、注連縄ごときで崩れるようなら……」
「土門くん、日本一長いといわれていた巨大な注連縄だったのよ。重さだって半端じゃないんだから」
その石鳥居の左手には、杉の木立に囲まれて五重の塔が建っている。その一番下の庇《ひさし》を幸子は指さしながら、
「あの屋根の裏側だけデザインがちがうでしょう」
「あ、ほんまや……こういうの聞いたことあるなあ、どっか一カ所は変えといた方がええねんやろう」
さすがは土門くんである、できそこない、と無下にはいわない。
「――魔除《まよ》けね。それに完成したものは、後は壊れるだけだから、完成してないと壊れないでしょう。東照宮の中にはこういところいっぱいあるの。だから、いちいちいわないわね」
「幸ちゃん案内《ガイド》うまいなあ」
「ときどきバイトしてるのよ。店に来たお客さんを、手があいていたら案内することがあるの」
「なんちゅう多角経営や。そやけど……その顔でか」
最後は、土門くんは小さな声でいう。
五重の塔の石鳥居を挟んで反対側に社務所があり、そこで拝観券を買おうとすると、
「わたしは、人によっては顔パスなんだけど……」
幸子は、さらに石段の上にある仁王門《におうもん》の前あたりを見やっている。その門から先が有料で、そこに券のもぎり[#「もぎり」に傍点]人がいるわけであるが。
「やっぱり、買った方がいいわね」
まな美はいって、三人分を買い求める。
「そやけど、その顔でも……顔パスなんか」
その土門くんの言葉は幸子に聞こえたらしく、
「でも東京の若い女《こ》って、みんなこんな化粧《メイク》じゃないの?」
ちょっと不思議そうに聞いてくる。
「それは大いなる勘違いやで。渋谷で顔黒《がんぐろ》してる女たちは、みーんな田舎から電車に乗って来とうねん。ほんとの東京の姫さまは、こういう感じなんね」
と土門くんは、まな美の方を指ししめす。
まな美は、口紅すらもつけていない、まったくの素顔《すっぴん》である。
「へー、そうなんだ。じゃ次に会うときには落としてくるね」
幸子は、性格は素直な子のようである。
「つ、次があんのんか……」
土門くんは心配性で小心者なのだ。
三人は石段を上がると、日本最古の八脚門である仁王門の前で立ち止まった。
「仁王さんは右側があ[#「あ」に傍点]で、左側がうん[#「うん」に傍点]ね。でもこの仁王さんは、明治の頃は大猷院《たいゆういん》に……家光さんのお墓ね、その仁王門の方に移ってたんだって」
「へー、なんでや?」
幸子が黙っているので、まな美が答える。
「阿《あ》は弼那羅延金剛《ひつならえんこんごう》、吽《うん》は輔密迹金剛《ほみつしゃくこんごう》なんだけど、金剛というのは仏教の神さまなのよ。明治の神仏分離令で東照宮は神社にしちゃったから、それで外しちゃったのね」
「そやったら、家光さんのお墓の方は、お寺いうことなんの?」
「そうみたいね、輪王寺の管轄だから。でも中の作りは東照宮《ここ》と殆ど変わらないのよ。わたしはどちらかというと、家光の大猷院の方が好きなんだけど」
「あ、おねえさんもそう。実はわたしもそうなの。あそこの夜叉門《やしゃもん》には四色《よんしょく》の夜叉がいるでしょう。あれがすごーく可愛いの」
「えー、わたしもあれ大好きなのー」
ふたりできゃーきゃーいっている。
「自分には何のことやら……」
「けどね」
蚊帳《かや》の外の土門くんを助けるように幸子はいう。
「一日で駆け足で両方見ちゃう人は、どっちがどっちか、結局わからなくなるんだもん。こういうのはじっくり見ないと駄目なのね」
その結局わからなくなる人たちが、三人を次々と追い抜いていく。もぎり[#「もぎり」に傍点]の前に立っているため邪魔になっているようだ。
三人は仁王門をくぐった。
振り返って幸子はいう。
「狛犬《こまいぬ》がいるでしょう。仁王さんを移してたときは、これが前に出てたのね」
「うわー、金ぴかの狛犬やなあ」
「これとほとんど同じ狛犬が、陽明門《ようめいもん》の裏にもいるのね。たてがみと尻尾の色が、こっちは緑だけど、陽明門は青なのね」
「へー、女の子に解説してもらうと面白いぞう」
土門くんとしても、まったくの本音である。
仁王門をくぐった先は、さまざまな建物に囲まれた四角い広場で、正倉院《しょうそういん》の校倉造《あぜくらづく》りを模した上神庫《かみじんこ》、中神庫《なかじんこ》、下神庫《しもじんこ》の倉庫が正面に見える。仁王門の左には、家光自らが植えたと伝えられている高野槙《こうやまき》が聳《そび》えており、その太い根元の後ろに、
「おっ、あんなとこに白い馬がおるんやんか」
土門くんは少し驚いていう。
「よかったわね見れて。神馬《しんめ》は昼しかいないのよ」
その神に使える馬を繋いでいるのが神厩舎《しんきゅうしゃ》と呼ばれる東照宮の境内では唯一の素木《しらき》造りで、小じんまりとした建物全体が茶の古色にくすんでいる。その表側の少し見上げた部分には、かの有名な、
「これは物語になっていて、左から順に見ていくのよ。二枚目が……」
「そやったら、これは子猿のときの話やねんな」
「そうなの。子供のときには悪いことを、見たり、聞いたり、言ったりしちゃいけない、という話なのね。……六枚目も面白いのよ」
「どれどれ……。なんか、ぽけーとしてるな」
「あのお猿さんはね、恋に悩んでる姿だといわれてるわ」
「なるほど。……そやったら、最後のお猿さんは、あれはお腹に子供がおるんか」
「そうよ、そしてまた一番最初に戻るのね」
「へー」
土門くんはひとしきり感心してから、その猿の彫刻の七枚目の下にぽっかりと開けられた穴を指さし、
「これ、なんちゅ趣味悪いことすんねん――」
怒っていった。
そこだけ舞良戸《まいらど》が外されていて背後を白板で囲み、店で売る神社|商品《グッズ》の|飾り棚《ショーケース》にされているのである。
「ほんとそうよねえ」
「わたしもそう思う」
神戸、埼玉、日光、三人の意見は一致した。
広場の奥まで来ると人の密度が急に増してきて、角《かど》にある手水舎《てみずや》もかなりの人|集《だか》りである。そこから、石段ふたつ先にある陽明門を望むことができ、団体客の写真撮影用の場所があるからだ。
その手水舎の手前に立っている案内板を、
「えーと……唐破風《からはふ》の屋形柱は花崗岩で腐らぬ工夫がされている……へー、柱だけ石でできてるんか」
土門くんは読んでから、足元を気にして、
「自分、石ころの上に立ってるんやけど、ここ入ってもええのん?」
「大丈夫よ。真ん中だけが石畳で、わきは全部これだから。これ栗石《くりいし》っていうのよ。砥川《とがわ》ってとこで採れる特別の石ね。雨が降ってもすぐに乾いて、湿気がこもらなくていいんだって」
「へー、そういうことか。ここ木造建築やから工夫してるんやな。特注品やったんか……」
土門くんが足元を繁々と眺めていると、
「この栗石はね、年に一度、市民が総出で大掃除するのよ。わたしも参加したことがあるの。だから石を持って帰ろうとする人には、ばちが当たるね」
幸子に、先に釘を刺されてしまった。
三人は手水舎の列に並んだ。
「……屋根の庇の下に竜がいるでしょう。あれは翼がついているから飛竜《ひりゅう》なのね。東照宮には竜はたっくさんいるんだけど、飛竜の中ではここの彫刻が一番なのよ。でもゆっくりは見れないんだけどね」
三人は手と口を清めてから、混雑を避けてその栗石の上を歩き始めると、幸子が呼び止めるように、
「――これ、唐胴《からどう》鳥居ね。日本で最初に作られた青銅の鳥居なのよ。でも色がこんなだから、気がつかない人けっこういるのね」
「おう、こんな大きいのに、自分も見落とすとこやったぞう」
唐胴鳥居は、陽明門を望む真正面に立っている。
その先の左側には、屋根が二層になった正方形の建物があり、これはまな美が説明する。
「……輪蔵《りんぞう》ね。中に回転式の書庫があって、そこに天海僧正の『一切教《いっさいきょう》』などが収められているんだけど、内部は公開されてないのね。一切教というのは、要するに仏教の経典の一切合財《いっさいがっさい》ということね」
彼女の説明もまた、わかりやすい。が、この輪蔵は大半の人が見向きもしない建物である。
三人は、二十二段の石段を上がった。
上がりきったところにある石柵の裏側を幸子は指さして、
「そこに石の獅子《しし》がいるでしょう。柵を飛び越して着地したように見えるから、『飛び越えの獅子』というのよ」
「なんや、逆立ちしてるやんか」
「獅子は柵の支えにもなってるのね。昔は『恐悦《きょうえつ》飛び越えの獅子』ともいったのよ。家光さんがこれを見て、よく出来てるとほめたら、獅子が頭を下げながら、恐悦至極にございます、ていったんだって」
「おう、そういう感じはするなあ」
土門くんは大喜びである。
その二十二段の石段から、次の陽明門真下の十二段の石段までの短い参道は、さらに一段と人で混み合っている。
「……左にあるのが鼓楼《ころう》で、右にあるのが鐘楼《しょうろう》ね。それぞれ太鼓と釣鐘《つりがね》をおさめてるのよ。同じに見えるけど、やはり少しちがうのね。すその流れるような造りは、袴腰《はかまごし》というのよ」
黒漆に金の筋と金の鋲が打たれたその袴腰の上に、豪華な神輿《みこし》を乗せたような建物である。
その参道の両脇には、
「……回転灯籠と釣灯籠。そして右に蓮灯籠があるけど、これは全部オランダからの贈り物ね。右には、家光さんにお世継ぎが生まれたときに朝鮮から贈られた、朝鮮鐘もあるわよ。でも、とりあえず……」
いうと幸子は、ポケットから折り畳み式の双眼鏡を取り出した。
「あの石段を上っちゃうと、逆に見えないのよ。だから下から見るのが通なのね」
「うわー、なんてがきく娘やろ[#「なんてがきく娘やろ」に傍点]」
土門くんは真面《まじ》に感動してから、その双眼鏡を受け取って、国宝『陽明門』を覗き始めた。
「日暮門《ひぐらしもん》ともいわれるぐらいだから、一日じゅう見てても飽きないわよ」
そして暫くは、土門くんに好き勝手に眺めさせておいてから、幸子はいう。
「真ん中に、白くて大きな竜がいるでしょう?」
「……おうおうおう」
「それは『目貫《めぬき》の竜《りゅう》』と呼ばれてるのね」
「ふーん、目がくりぬかれてるんか?」
「ちがうわよ。ここでいう目貫は、刀の柄《つか》のとこについてる金具のことよ」
「あ、あっちか……一番目立ついう意味やなあ」
骨董屋ならではの会話である。
「その目貫の竜の列に、前を向いている竜がいるでしょう。その竜には足があって、ひづめがついてるから、竜馬《りゅうば》っていうのよ。その列から上も、ぜんぶ竜ね。端っこの屋根を支えてる竜には翼があるから、それは飛竜ね」
「……すごい数やなあ[#「すごい数やなあ」に傍点]」
「幸ちゃん。でも二列ある内の下の列は、竜ではなくて、息《いき》とか息《そく》とかいわれてるんじゃないの?」
「うん、そういってる東照宮の学者さんがいるから、最近の案内本《ガイドブック》はそうなってるんだけど、でもね、それ読み方すらも分からないし、中国にだって、そんな名前の霊獣はいないのね。その息という言葉は、宝暦《ほうれき》の頃の書物に、ひとこと書かれてただけなのね。……いわお兄ちゃん、上と下の竜のちがい、見て教えてくれる」
「どれどれ……下が、竜とはちがうんやろ。えーと、まず鼻が上を向いて、穴が開いてるな。それと赤い舌を出してるやんか。それから……つんつんした髭がないぞう。それと目の上もちがうで、これ眉毛でええんか、その形がちがうし、それに首のところの鬣《たてがみ》も、上のは長毛《さらさら》やけど、下のは巻毛《くるくる》やで……」
「それぐらいの差だわよね。そして上の竜は、口をほとんど閉じてるでしょう。だから下の竜は、大きく口を開けて、はあはあと荒い息をしてるところなのよ。だから息[#「息」に傍点]なのね」
「あっ、そういわれればその通りやなあ」
「それに、下の竜にはひげがないというのも間違いで、巻き毛のひげが、あごの下についてるはずよ」
「あ、ほんまや……そやったら、下の竜は毛の様子が違うだけなんか」
「そう、だから下も竜なのね。雄《おす》と雌《めす》の差があるのかもしれないけど……」
「すごいな幸ちゃん。東照宮の学者さんにひと泡ふかせたやんか」
「……でもね、これはお父さんの説なの」
幸子は手の内を明かした。
「あ、あの親父《おやじ》さんやったら学者と喧嘩するな。なんせ玄人《ぷろ》やからなあ」
他にも、唐獅子《からじし》、鳳凰《ほうおう》、麒麟《きりん》、獏《ばく》などの霊獣、それに人物や花など、彫刻の総数は五百以上もあるといわれている豪華|絢爛《けんらん》の陽明門を、もう暫く眺めてから、三人は石段を上がって陽明門をくぐり抜けた。土門くんは振り返って、
「おっ、幸ちゃんのいうとおりや。青の金ぴか狛犬がおるぞう」
「みんな極彩色[#「極彩色」に傍点]だというんだけど、実はね、東照宮の建物って七色しか使ってないのよ。白、黒、金、朱色、群青《ぐんじょう》色、緑青《ろくしょう》色、そして黄土《おうど》色ね。ときどき塗り替えてるのよ」
その陽明門をくぐると真正面に見えるのが、国宝『唐門《からもん》』である。
「ここにいるのよ」
幸子は嬉しそうにいう。
「何がおるんや?」
「土門くん、屋根の上――」
まな美が指さした。
「おっ、なんかえーらい迫力のもんが、こっち睨んどうぞう」
「あれが恙《つつが》ね。横から見た方がわかりやすいわよ」
そこは四角い広場になっていて、幸子の勧めるままに、三人は左側へと廻り込んで行く。
「へー、形は獅子に似てるけど、すごい筋肉質やなあ。さいぼーぐ[#「さいぼーぐ」に傍点]獅子いう感じやぞう」
「雨に濡れると黒く光って、もっと強そうなのよ。で、これは南を睨んでるんだけど、屋根の北にも同じのがもう一匹いるのね。そして、わたしの家にはこの恙の子供がいるの――」
「な、なんのこっちゃあ?」
「小さくて、まったく同じ形をした恙が家にいるのよ。元はおじいさんのとこにいたんだけど、それをお父さんが貰って、日光に店を開いたの」
「あ、それで屋号を『恙堂』にしてはるんか」
――羊羹屋ではなく、それなりの謂《いわ》れがあったのである。
「それにね土門くん、この唐門は小さいけれど、奥はもう家康さんの拝殿なのね。だから東照宮で一番格式がある門で、国賓しか通れないのね」
まな美はちょっと声を顰《ひそ》めていう。
さすがにこの辺りまで来ると、人は大勢いるのだが、陽明門下ほどの喧噪はない。
「ほう、それで白と黒しか使うてなくて、上品に作ってるわけやなあ」
「白一色だけど、屋根の庇の下には、たっくさんの人が彫られてあるのよ」
幸子が説明する。
「そして左右の柱にいるのが、有名な『昇《のぼり》竜』と『降《くだり》竜』ね。でも、これは黒の顔料じゃなくって、紫檀や黒檀の寄せ木細工をはめ込んでいるのね。それと屋根の上にも有名な竜がいて、『鰭《ひれ》切りの竜』というの。竜は西と東を向いているから、恙と対になっていて、恙が昼の守り、竜が夜の守りよ」
「ほう……そうやけど、なんで鰭切れいうの?」
「鰭が切られちゃってるからよ。竜が飛んで逃げないように」
「な、なんと……」
その説明を聞いて土門くんは驚き、まな美の顔を見る。まな美はもちろん知っていたのだが。
「……あのね幸ちゃん。埼玉県にある小さなお寺に、日本最古[#「最古」に傍点]のお地蔵さまがいるのね」
まな美は、そう勝手に決め込んで喋る。
「そのお地蔵さまがお寺から逃げ出さないようにと、お地蔵さまの背中に釘を打って、鎖で繋ぎとめちゃった人がいるのよ」
「うーん」
幸子はみるみる般若の顔になって、
「ばち[#「ばち」に傍点]が当たるわよその人。絶対[#「絶対」に傍点]に――」
「もう当たってはる。とうの昔に業病《ごうびょう》にかかりはって、遷化《せんげ》しはった」
拝殿に入る前に、広場の一隅にある『神輿舎《しんよしゃ》』に三人は立ち寄った。その建物の中には三基の神輿《みこし》が納められてある。
「これ写真いるわよねえ」
まな美が、リュックから小型《コンパクト》カメラを取り出した。
「おっ、それ新品《おにゅう》やんか」
「マサトくんのお薦めなの。プロの人がサブカメラとして使うカメラなんだって。でもね、それは高かったので、その廉価版。性能は全く同じなのよ」
といいながら、まな美はシャッターを押し始めた。
「けど、ひとつ難点があって、ズームはついてないから、自分が動かないと駄目なの……」
その言葉どおりに、まな美はあちらこちらに動き廻って構図《アングル》を決めている。
「へー、ええカメラいうんは使いづらいんやなあ」
「……このお神輿は、春と秋にある千人武者行列のときに使われるお神輿で、真ん中が家康さん、右が豊臣秀吉、左が源頼朝よ」
幸子が説明してくれた。
「あ、これは新しい方のばーじょん[#「ばーじょん」に傍点]なんか」
「うん? どういうこと」
「幸ちゃんには、わからへんかもしれへんぞう」
土門くんもつい最近理解したのであるが。
「これはやな、昔は神さんが違《ちご》とったんや。真ん中の家康さんだけは一緒やねんけど……どっちが摩多羅神《またらじん》やったかなあ……姫[#「姫」に傍点]」
案の定の土門くんである。
「……頼朝が摩多羅神。秀吉が山王《さんのう》の神ね……」
「と、いうことやったんや」
「摩多羅神なら知ってるわよ。輪王寺の常行堂《じょうぎょうどう》の中にいるから。でも、それがどうして源頼朝になってるの?」
「それは明治政府が勝手にやったことやねんけど」
「それが答えなの?」
「答えになってへんやろなあ……姫[#「姫」に傍点]」
まな美はカメラ撮影を終えて、本格的に応じる。
「実はよくはわからない話なんだけど、源頼朝が、そもそも摩多羅神を信仰していて、ここの常行堂にもよく拝みに来てたのね。だから、置き換えられちゃったのよ」
「慈覺大師が作った[#「作った」に傍点]神さんをか……」
「けど、鎌倉にほかの有名な鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》という神社があって、それが鎌倉幕府の守護神で、源家は代々、八幡さまを氏神《うじがみ》さまにしていたのね。それでいて、なぜ頼朝が摩多羅神を信仰していたのか、謎なの[#「謎なの」に傍点]」
「ふーん」
土門くんは少しだけ唸ってから、
「……姫、確認するけど、円仁が諡号を貰ったんは死んで二年後やろ?」
「そうよ土門くん」
「それは八六六年やな。ほんじゃあ、諡号をあげた天皇さんは清和[#「清和」に傍点]天皇になるで。在位は八五八年から八七六年やねんから。それに、源といえば清和源氏《せいわけんじ》やで。つまり源氏の先祖の清和天皇が、一番に崇拝しとった僧侶が作った神さんやねんから、信仰するのは当然ちゃうのん?」
「うわー土門くん、えらーい」
まな美は手を叩きながら、大喜びでいう。
「あっさりこーんと解いてやったぞう。そやけど、これほんまに謎やったんか?」
「ほんま[#「ほんま」に傍点]に謎よ。どの本見たって書いてないもの」
「やったー、またひとつ歴史の頁を刻んだぞう」
遅ればせながら、土門くんも大喜びする。
そんな様子を見ていた幸子が、
「へー、ふたりって仲がいいのね」
「おう、大の仲良しやでえ」
「うそよ[#「うそよ」に傍点]ー」
そうこうしていたら、土門くんの尻ポケットにある携帯電話が震えた。
出ると、今度こそ天目マサトからの電話で、今、旅館に着いたとのことであった。そして幸子の提案で、西参道《にしさんどう》の突き当たりにある二荒山《ふたらさん》神社の大鳥居《おおとりい》の前……と待ち合わせ場所を設定した。三人にしてみれば、再度東照宮を見て歩くのは辛《つら》いからだ。拝殿から先と『眠り猫』などは明日に廻すことにして、三人は東照宮を後にした。
二荒山神社は(小山ひとつ挟んで)東照宮の西隣にあり、その大鳥居の真向かいに輪王寺《りんのうじ》の通称『二《ふた》つ堂《どう》』橋廊下で繋がれた常行堂《じょうぎょうどう》と法華堂《ほっけどう》が建っていて、その先に家光廟大猷院《いえみつびょうたいゆういん》がある。
東照宮の表玄関である仁王門の脇から、その二荒山神社へと抜ける上神道《かみしんどう》と呼ばれる一本道があり、そこを歩きながらも、すでに姫[#「姫」に傍点]ふたりは、
「夜叉《やしゃ》に会える――」
と盛り上がっている。
その上神道は三百メーターほどの直線道で、右側は東照宮の石垣、左は杉木立で途中には何もない。
かつて家康の亡骸を久能山《くのうざん》からここ日光東照宮に遷座したとき用いられた山王権現《さんのうごんげん》と摩多羅神の神輿は、上神道の南に平行して走っている下神道沿いにある東照宮博物館の中に置かれてある――博物館に入るということは、すなわち、信仰からは外されたということである。
二荒山神社に着くと、すでにマサトは来ていて、石の大鳥居の下に立っていた。この辺りは土曜日といえども人は少ない。
「やっぱり、わたしの思ってたとおりの人よ」
遠目に見て幸子はいった。
どうしたことか、マサトの出で立ちもジーンズにGジャンで、まな美と土門くんとお揃いである。もっとも、カメラ機材が入った重たそうな肩掛鞄《ショルダーバッグ》を、その大鳥居の根元に置いている。マサトも三人に気づき、透きとおった笑顔で頷いた。
まな美がそれぞれのことを簡単に紹介する。
その間中、マサトは不思議そうに幸子の方を見ている[#「見ている」に傍点]。
「じゃ、大猷院に行く前に――」
まな美が音頭をとっていう。
「目の前にある常行堂に寄りましょう。ここにいる摩多羅神[#「摩多羅神」に傍点]と会わないと」
常行堂は方形をしたかなり大きな堂宇《どうう》で、屋根瓦を除いては総朱塗りの、純和風の様式である。
そのなだらかな屋根の角の辺りを、まな美は指さしながら、
「土門くん、見える――」
「何がや?」
「おねえさんさすがによく知ってるわね。あそこには鬼がいて、屋根を支えてるのよ」
「おっ、あんなとこに裸の鬼がおるんやんか」
マサトが鞄からカメラを取り出して撮影を始めた。
「どういうことやのん?」
「それは、中にいる摩多羅神と会ってからね……」
マサトの写真撮影が終わるのを待って、四人は向拝《こうはい》の階段を上がり、お堂の中に入った。
がらーんとした殺風景な空間に、その中央にだけ豪華な仏の台座が置かれてある。
「な、なんともはや……ここもお寺なんやろ?」
「これはね、この仏さまの周りを、阿弥陀経を唱えながら歩くという修行があるのよ……常行三昧《じょうぎょうざんまい》の遶堂《にょうどう》というんだけど、それはわたしたちとは関係のない話」
「えー、無視してええんか姫……」
「真ん中に孔雀にのってる仏さまがいるでしょう」
「きらびやかやなあ[#「きらびやかやなあ」に傍点]」
「これは孔雀座というんだけど、のってるのは阿弥陀如来ね。これが常行堂《ここ》のご本尊。両脇にある小さな仏さまは、観音菩薩と勢至菩薩《せいしぼさつ》ね。けど、これは顕教《けんぎょう》なのよ。わたしたちが調べようとしているのは密教《みっきょう》の方ね」
「あ、そやそや、秘密の仏教の方やったな」
「だから……」
そんな話をしていると、お堂のどこかで、パッとフラッシュが光った。
「おわっ」
土門くんが振り返ると、マサトはすぐ後ろにいる。それは彼の仕業ではない。堂内は撮影禁止だからと、向拝の受付のところでカメラは鞄に仕舞ったからだ。
見ると、白の作務衣《さむえ》を着た僧侶らしき男性が写真撮影を行っていた。お寺の案内書《パンフレット》にでも使うためのものなのだろうか。
「ちょうど良かったわ。ちょっと待っててね」
そういい残すとまな美は、そそくさとその僧侶に方に歩み寄っていく。そしてまな美は頭を下げると、何やらしばらく話し込んでから……戻って来た。
「なに聞いてたん?」
「摩多羅神の真言《しんごん》を教えてもらおうと思って」
「しんごん……て?」
「密教でお祈りのときに使う秘密の言葉。そう難しいもんじゃないわ。でも、ちょっと確認させてくれ、といわれちゃった」
「そんな秘密の呪文そうそう教えてくれへんやろ」
「ううん、仏さまや神さまの真言は殆ど公開されてるわよ。でも、摩多羅神は天台宗だけ[#「だけ」に傍点]の神さまだから、本には載ってないのね。だから教えてもらおうと思ったの。ここで少し待ってて下さいだって」
一同は中央の仏の台座から離れ、お堂の一番奥へと進んで行った。
「おっ、室内に鳥居が立ってるやんか……」
それも人の背丈よりも高い朱塗りの鳥居である。
「摩多羅神は、いちおう神さまだから、こういうことになるのね」
「それにや、あれはお厨子《ずし》ちがうんやろ?」
「そう、神のお社《やしろ》なのね」
「これは黒漆で、このお社は国宝級だってお父さんいってたわよ」
「ほんまや、暗いからよう見えへんけど、よう見ればすごい造作しとうなあ」
子供の背丈ぐらいの小さな社であるが、手前に柵が置かれてあって近寄ることはできない。
「おっ、柱のとこに竜がおるやんか」
屋根を支える二本の柱に、二体の竜が絡みついているのだ。
「それに土門くん、扉の前に小さな円盤みたいなのが吊り下がってるでしょう。あれは鰐口《わにぐち》だからね」
「そうや、淨山寺のとこには日本一の大きな鰐口《どらやき》があったんやもんな」
「東照宮は今は鈴[#「鈴」に傍点]だけど、かつては鰐口だったのよ。だから鳥居もお社も鰐口も、どちらでもいい話なのね。問題は、中にいる摩多羅神……」
「そやけど、この扉の中は見られへんねやろ?」
「摩多羅神は絶対[#「絶対」に傍点]秘仏だから、絶対[#「絶対」に傍点]にご開帳はされないわ。けど、ここにおりますって教えてくれているだけでも、親切で稀《まれ》な例なのよ」
といってから、まな美は辺りの様子を窺《うかが》う。撮影をしていた僧侶は出ていったらしく、お堂の中には彼ら以外には誰ひとりとしていない。元来、ここは観光客はほとんど立ち入らない場所なのだ。
「チャンスよマサトくん。写真――」
まな美はいう。
「ここあかんやんかー?」
「でも、ここの写真がないと文化祭どうすることもできないわよ」
マサトが、鞄からカメラを取り出そうとする。
「ちょっと待て、こんな暗いんやから閃光《ふらっしゅ》たかなあかんねやろ。受付のとこの人が気がつくやんか」
マサトは少し考えてから、レンズ交換を始めた。
「うわ……やる気やぞう」
「わたしが見張っといてあげるわね」
幸子はお姉さんのような口調でいうと、入口が見える場所へと少し移動する。
マサトは、F一・二という極めて明るいレンズに換えてから、撮影を始めた。
「いや……シャッター音いうたら響くもんやなあ」
小心者の土門くんは、気が気ではない。
「この常行堂はね、かつては東照宮の仁王門の先にある三神庫《さんじんこ》のあたりにあったのよ」
まな美はおかまいなしに喋る。
「で、東照宮の造営でこちらへ移築したんだけど、そのかつてあった常行堂に、源頼朝は参拝していたわけね」
「あ、これ頼朝が拝んでたそのもんなんか?」
「そうよ。慈學大師が作って日光に置いた当時そのままの摩多羅神よ。そして摩多羅神は神さまだから、例によって本地仏《ほんじぶつ》というのがあるでしょう」
「神さんは……仏さんの仮の姿やいう話やろ」
「摩多羅神は、摩多羅三尊[#「三尊」に傍点]形式なのね。真ん中に摩多羅神の親がいて、前に子供二体がいるの」
「あっ、後ろの仏さんはそれか」
「そういうことね。で、頼朝は摩多羅神を拝みに来ていたの。後ろの阿弥陀如来じゃなくって……つまり、こちらが常行堂の主《あるじ》なわけよ」
「なっるっほっどねえ……」
マサトも写真撮影をしながら、頷いた。
「これでもう、外の屋根を支えてる鬼はわかったでしょう」
「摩多羅神は地獄神やもんな、それも最強[#「最強」に傍点]の。鬼を手下として使うぐらいは朝飯前やな」
「それに、土門くんが閃《ひらめ》いてくれたお陰で、頼朝と摩多羅神の関係はわかったわ。けど、摩多羅神という神そのものがもっている魅力……人を惹きつける魅力ね。そういったのが別にあるんだと思うの」
「そやそや、慈學大師がかけた魔法[#「魔法」に傍点]いうやつやな」
「それが、真言《しんごん》で解けるんじゃないかと思うの」
「なるほど、神創成の謎に迫ろういうわけやなあ」
土門くんとしては真面《まとも》な文章を吐いてから、
「なんと大それたやっちゃ……」
おちは忘れない。
ヒュ、と掠れたような口笛を幸子が飛ばしてきた。
「あ、あまのめ――」
土門くんが手仕舞を指示する。
お堂の入口の方を見やると、入って来たのは先程の白い作務衣の僧侶であった。まな美が、そそくさと歩み寄って行く。そしてお辞儀をしながら、封筒のようなものを受け取った。その僧侶はすぐに出て行った。
「片仮名ですけど……ていわれたけど、十分だわ」
まな美は嬉しそうにいった。
四人はお堂から出ると、向拝の受付で、脱いだ靴を履き直した。陽が少し翳《かげ》ってきていて、薄ら寒い。
日光はすでに秋なのである。
「――夜叉に会えるわよ」
と、幸子が先陣をきって家光廟大猷院の方に歩きかけたときである。
真向かいにある二荒山神社の石鳥居の脇に、不法駐車ぎみに停まっていた薄青緑色《ミントグリーン》の大型車両《キャラバン》が、キュキュ、とタイヤ音を軋《きし》ませて急発進した。窓のガラスを真っ暗のフィルムで覆っていて、いわくありそうな車である。
その不謹慎な音につられてマサトは顔を向けた。
すると、車が走り去った直後、神社の石鳥居の根元に、黄色くて巨大なケダモノが蹲《うずくま》っているのがマサトには見えた[#「見えた」に傍点]。
四つ足のケダモノである。爛々とした眼でマサトの方を睨みつけている。
そのケダモノが、むっくと起き上がった。
――何だろうか?
それは非現実の存在《まぼろし》であることをマサトは十分に知っている。だから恐怖は感じない。だが、
そのケダモノが、いきなり空《ちゅう》に舞った。
これ見よがしに大牙を輝かせ、マサトめがけて飛びかかってくる。
マサトは反射的に顔を手で被った。
ケダモノはその手を突き抜け、さらにマサトの体をすり抜けていく。
――いや、それだけではなかった。
ケダモノは人間の邪悪を伴っていたのだ。
その瞬間、血の臭いとともに、おびただしい量の絵がマサトの心[#「心」に傍点]を襲った。
――嫉妬、ナイフ、飛び散る血、恐怖、逃避。
――血の海、女性の屍体、死人の目、隠蔽《いんぺい》。
――露見、不安、不安、不安。
――マサトは地面に崩れ落ちていった。
「どうしたのマサトくん!――どうしたの?」
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――二荒山神社の石鳥居脇から、不謹慎にも、タイヤ音を軋ませて走り去った薄青緑色《ミントグリーン》の大型車両《キャラバン》には、運転手の他に少年[#「少年」に傍点]が七人乗っていた。
「さあ、今宵のコンサートの成功を祈って、神社にお参りに行くぞ――」
バックバンドとの|音合わせ《リハーサル》が一段落したあたりで、マネージャーの吉野《よしの》がそういい出したのは、午後の三時頃のことであった。
「ステージの前に東照宮に立ち寄るなんて、ちょーお洒落じゃーん」
メンバーの年長のひとりが軽口を叩いた。
「ばか。少年隊ジュニア[#「少年隊ジュニア」に傍点]のきみたちが、そんな人目につくところに行ってみろ、大騒ぎになるじゃないか」
冗談めかして吉野《マネージャー》はいう。
「あ、そっか……」
「グラサンして帽子かぶって行けばいいじゃんか」
「しよってんじゃねえよ」
「へー、原宿で女の子に声かけられて、舞いあがってたの誰だったっけえ」
「うっせえよ」
「ぼくはクリスチャンだから、神社はちょっと」
「いつからだよ」
「天使のネックレス、貰ったんだー」
「そいでそいでー」
「――はい[#「はい」に傍点]、はい[#「はい」に傍点]、はい[#「はい」に傍点]」
小雀たちの囀《さえず》りを鎮めるように、吉野は手を叩きながらいってから、
「ところで、卓也《たくや》、どこに行けばいいんだ? 神社は沢山あるようだけど」
「よっ、地元《じも》ってぃー」
小馬鹿にしたような野次が飛んだ。
「それに卓也[#「卓也」に傍点]、車を横付けできないと駄目だぞ」
けれど、名前を呼ばれているらしき小柄な少年は、俯《うつむ》いたままである。
「――先生。卓《た》っくんが、まーた保健室に閉じこもってまーす」
その冗談に、やんやの歓声がわき上がったところで、少年はようやく顔を上げた。
たった今、夢から覚めたような表情をする。
「――卓也[#「卓也」に傍点]。おまえ最近どうかしてるぞう」
少し心配そうに吉野はいってから、
「あのね卓也くん、車で、神社にお参りに行きたいんだけど、どこが相応しいかな?」
幼稚園児にものを尋ねるような口調でいう。
「だったら……二荒山神社。そこが一番大きいし」
「道は分かるのか卓也?」
「うん、車だと一分」
コンサート会場から、二荒山神社の石鳥居までは一キロもない。
「じゃ、そこに決定な。各自グラサンするなり帽子かぶるなりして、五分後に出発《しゅっぱーつ》――」
卓也――新城《しんじょう》卓也は、『少年隊ジュニア』の中では最年少の十三歳で、伸長も百六十センチそこそこ、まだ無邪気《あどけな》さの残る少年である。
卓也は、去年、中学生以上十八歳未満が条件であった新人発掘のオーディションに応募した。それは、関東ブロックの決勝で落っこちたのだが、半年ほどしてから連絡が入り、幸運にも『少年隊ジュニア』の一員《メンバー》に加えられたのだ。
が、特に美少年というわけでも、唄が上手というわけでもない。
「純粋無垢で牧歌的な男の子……それがまあ、我々の目に留まった理由ですよ」
勧誘《スカウト》の際に、家に訪ねて来た芸能事務所《プロダクション》の男性いわく[#「いわく」に傍点]であるが……平たくいえば、田舎者[#「田舎者」に傍点]といったことであろうか。グループにひとりぐらいは、そういった個性《キャラクター》も必要らしいのだ。
しかし卓也自身、それほど芸能界に強く憧れていたわけでもない。オーディションなんかに応募したのも、もし受かれば、日光という街から脱出できる、それが動機[#「動機」に傍点]であったからだ。
正直いって、卓也は日光という街が嫌い[#「嫌い」に傍点]である。だから今宵のコンサートも、故郷に錦を飾る、なんて感慨は毛頭ない。それに、卓也の家は十年ほど前に越して来たので、生粋《きっすい》の『地元《じも》ってぃー』ではないのだ。
日光は何百年も続く由緒正しき神前町……古参の住民には妙な気位《プライド》がある。潰れかけているような駄菓子屋の主人ですらそうであり、観光客には媚《こ》び諂《へつら》っても、越して来た新参者には辛く当たるのだ。どこか、京都という町に似ている。
もう街ぐるみでいじめ[#「いじめ」に傍点]にあっているような状況で、そんな居心地の悪さを、子供である卓也も十分に感じていた。だから脱出を試み、望みがかなって、今は調布市で寮生活を送っている。
――動機はどうであれ、
その『少年隊ジュニア』は、業界でも最大手の芸能事務所に所属し、結成されてまだ半年にも満たないというのに、地方のコンサートやテレビ・ラジオなど、そこそこに仕事をこなしている。
つまり、将来のスター候補生たちであり、卓也もそのひとりなのだから、運のいい話ではある。
「なんか新しい神社ちがうの」
「ちょーだだっ広いなあー」
「真っ赤赤……」
「サッカーできるよね」
「眠り猫は、どこにー」
小雀たちがてんでばらばらに感想を述べる中、
「――卓也、どの建物で拝むんだ?」
吉野が聞いてきた。
「あれ[#「あれ」に傍点]――」
石鳥居に続いて、朱塗りの神門をくぐり、真正面に見える建物を卓也は指さした。
「あ、あれかー、大きすぎて……」
「うっそー、体育館やと思った」
そんな建物が、二荒山神社の拝殿《はいでん》なのだが、日光にある殿堂建築の中では珍しく、装飾性の殆どない、力強さを感じさせる(まさに体育会系の)総朱塗りの木造建築である。
広々とした中央石段を登り、その先で靴を脱げば座敷に上がることができ、奥にある豪華絢爛《きらびやか》な本殿《ほんでん》の方も拝めるのだが、一行は、その拝殿の反り屋根の庇の下で立ち止まった。
「別に、中に入らなくてもいいんだろう?」
おりしも座敷には、遠足か修学旅行生らしき同年代の団体客がいて、説明を聞いている。騒がれてはことである。
「たぶん……」
吉野の質問に、卓也は自信なさそうに頷いた。
そこには、ちょうど三つ葉葵の賽銭箱も置かれてある。だが、神社につきものの鈴はない。
「よし、ここで拝もう」
そう決めると、吉野は賽銭箱に小銭を投げ入れてから、
「やり方は知っているんだけど、ここはひとつ静かに。――皆[#「皆」に傍点]、手を合わせて一礼[#「一礼」に傍点]するように」
一行は、いわれたとおりに暫し黙祷《もくとう》をした。
あれこれと気を遣うのが吉野《マネージャー》の仕事なのだ。
二礼二拍手一礼を極端に簡素化した作法ではあったが、さすがに、そのときばかりは小雀たちの囀りも止んだ。
一行が移動に使っている薄青緑色の大型車両は、キャラバン二七〇〇キャンピング――つまりキャンピング車《カー》だが、キャンプの設備は全て外され、座席だけの八人乗り仕様となっている。マネージャーの吉野が運転をし、『少年隊ジュニア』の構成《メンバー》は七人だから、定員一杯である。
行きは、道案内をしたので卓也は助手席に乗ったが、そこは元来|年長《リーダー》の席で、帰りは、彼は後部座席《たこべや》の方である。かなり窮屈だ。
皆が席について、真向かいの常行堂《じょうぎょうどう》の方に卓也が顔を向けると、知り合いの女の子が……幸ちゃんが出て来るのが見えた。
卓也は手を振ろうとしたが、向こうからは見えないことに気づいた。運転席を除いて、窓には真っ黒のフィルムが張られているからである。
けど、その幸ちゃんには、どうやら連れ[#「連れ」に傍点]がいるらしく……異様に背の高い男子と、アイドルのような笑顔をふりまいている女子と、そして、線の細そうな男子の三人である。お揃いのジーンズにGジャン姿なので、そうだと分かる。それに……何だかとっても楽しそうである。
吉野がエンジンを始動させ、少し乱暴ぎみに車を発進させた。
すると、その線の細そうな男子が顔をこちらに向け、卓也と目が合った。黒のフィルム越しなのに、確かに目が合った。
――なんて怖い目をしてるんだろう。
射貫かれるような鋭い目である、卓也にはそう感じられた。
車が石鳥居を離れるや否や、卓也は、頭に蝉でも飛び込んだかのように、じーん、と頭蓋全体に響く耳鳴りに襲われた。
そして、自身の活力《エネルギー》が外に抜け出していくかのように……貧血の目眩《めまい》のように視野が曇天していく。
「どっしたの卓っくん、――卓っくん」
隣座席の年長《メンバー》に肩を揺すられ、卓也は気を失う一歩手前で、我を取り戻した。
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「あーあー、こちら生駒《いこま》ですー」
埼玉県南警察署の刑事・生駒巡査部長からの電話であった。
「おう、その後どうなった?」
署のデスクで受けているのは刑事課の係長《ボス》・依藤《よりふじ》警部補である。
「――高曽根はですねえ、あの王《ワン》法律事務所から出てきまして、その足で大宮の駅前にある書店に入りました……今もその中ですー」
「同胞を頼ったわけだな。それに、あそこは法律事務所の看板は掲げてるけど、何でも屋だからなあ」
「――それとですねえ、さっき店の中を覗いてみたんですが、高曽根は旅行本のコーナーで立ち読みしてましたよー」
「やっぱりなあ、だとすると、住所の調べがついたと見た方がいいな」
「あーあー、そんな顔してましたねえ」
「お前その、あ[#「あ」に傍点]ーあ[#「あ」に傍点]ーてのは何だ。普通にしゃべろよ普通に、携帯電話だろうが」
「あーあー……なんか昔が懐かしくってー」
「交番勤務に戻りたいのか」
「いいえー。それとですねえ、高曽根が日光に行くようだったら問題ありますよう」
「どんな?」
「自分は車じゃないですかあ、あの達磨さん列車に乗られたら、追いつけませんよう」
「何だそりゃ?」
「いやそう呼ばれてるんですよう。達磨さんの顔をしたような特急列車なんでえ」
「知るか。――生駒、お前は日光に車で行ったことはあるのか?」
「ええ……妻《かみ》さんと子供を連れて何度か」
「じゃ、道は知ってるよな」
「知ってますけど……自分ひとりで行けというんですかあー」
「仕方ないだろう。どっかで交替させてやるからさ。でそういうことなんだったら、そこはもういいから、先廻りして日光に行ってろよ。駅で張ってれば捕まるはずだから」
「あ……日光駅ってふたつあるんですよう。たぶん東武を使うと思いますが……万が一、JRってこともありますよう」
「駅は離れてあるのか?」
「全然離れてます……ふたつ一遍には見張れませんよ……体はひとつですからー」
「ふむ、じゃ奥さんの家で張ってろ。絶対に現れるはずだから。それに日光に行ったら、目立たないように行動するんだぞ。所轄外だからな」
「了解《テンフォー》」
「お前くび[#「くび」に傍点]だあ――」
十四《テンフォー》は、アメリカの警察官が使う略語である。
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5
窓の外は、すっかり日が暮れてしまっていた。
日光の山並みが、遠くの方にかすかに見える。
「食った食ったあー、ごちそうやったなあー」
土門くんは、その窓に面した板の間のところにある籐《とう》の椅子に、長い手足をだらーんと伸ばしきって、座っている。
まな美はというと、
「マサトくん、御飯も食べなかったけど、大丈夫かしら……」
藺草《いぐさ》の香りがする広々した座敷の真ん中あたりで、黒漆の座卓に頬杖をつきながら、ふかふかの座布団に座っている。
「だいじょぶだいじょぶ。天目《あまのめ》ときどきあーなるやんか、本人も大丈夫やいうて、いうてたし……」
あの後、マサトはひとりで旅館に戻ってしまい、部屋に籠《こ》もったままなのである。
土門くんが、何度か携帯電話をかけて様子を窺い、ふたりも探索を早目に切り上げて、五時頃には旅館に帰って、マサトがいる『山吹《やまぶき》の間《ま》』を訪ねてみたのだが、何だか独りでいたいような感じで……もう一度、夕食の前にも誘いに行ったのだが、食欲がないというし……仕方なく、ふたりだけで食事を済ませてから、予約してあったもうひとつの部屋の『槐《えんじゅ》の間《ま》』にいるのである。
「土門くん。温度が下がってきたから、窓のカーテンしめて、そこの障子もしめて、こっち来た方がいいわよ」
「……そういわれてもなあ」
土門くんは畳が苦手なのである。それに、まな美にちょっと遠慮しているところもある。
「だいじょぶよ土門くん。襲ったりはしないから」
「……誰がやねん?」
「それに、じきに幸《さっ》ちゃんが来るんでしょう」
「そんなん自分のお告げで鑑定したらええのに」
「だって、いわお兄ちゃんでないと分からない、ていってたじゃない」
その、分からない何かを持って、部屋に来るそうなのだ。
「おじさんの専門は仏像やからなあ」
「――え? 仏像を売ってるの?」
まな美が驚いた声をあげた。
「姫にとっては、しょっく[#「しょっく」に傍点]な話かもなあ」
土門くんは立ち上がって、壁にあるスイッチを入れた。すると、低い唸り音とともにカーテンがするすると閉じていく。
「障子はまだええやろ、ここ閉めるとあれ[#「あれ」に傍点]やぞう」
怪しげなことをいいながら、土門くんはひょいと頭を下げて部屋に入って来た。身長が百八十センチを超えると、鴨居に引っ掛かる。
「……そやけど、仏像こそ骨董品《あんてぃーく》やからな、商売して悪いことないぞう」
土門くんは座布団を二枚重ねると、|照明が灯《ライトアップ》された床の間を背にして、どっかと座った。その床の間には純和風の見事な生け花が飾られてある。それにふたりの前の黒漆の座卓《テーブル》には、金粉や銀粉で天の川のようなものが描かれている。
「けれど[#「けれど」に傍点]、おじさんの本家の芦屋の方のお店に行くとな、奥の秘密の部屋に、石仏《せきぶつ》がいっぱい置かれてあんねん。それも、首[#「首」に傍点]から上だけのやつが」
手で掻っ切る仕草をしながら土門くんはいう。
「――首から上?」
「日本のんちゃうで。どこのやーいうて聞いたら、ガンダーラやー、カンボジアのやーいいよるねん。そのへんの神殿壊して誰かが盗ってきとおねん。それはあかんと思うぞう。夜叉門《やしゃもん》から四色《あいどる》の夜叉ぱくってきて売ってんのと一緒《いっしょ》やもんな」
土門くんにしては、見事な譬《たと》えである。
「ふーん、そんな石仏には興味ないけど、日本の仏像って、どのくらいの値段なの?」
「ぴんきりー」
土門くんはテレビCMの真似をする。
「そやけど、思ってるほど高くはなかったで。歴史部の部費ぐらいあったら、けっこうええの買えるんとちゃうかな」
「じゃ、買って帰ろうかしら――」
真剣な眸差《まなざし》でまな美はいう。
「どこに置きますの、そんなもの」
「だって……可哀相じゃない」
「誰がやねん?」
「仏像が」
そうこうしていたら、ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。
「ほら、来たわよ――」
土門くんが動こうとしないので、まな美が立ち上がって出迎えに行く。
襖《ふすま》を開けると控《ひか》えの間《ま》があって、洗面所や浴室などに続いている。その先の玄関には、一枚板の式台《しきだい》と、玉石《たまいし》を敷き詰めたような靴脱ぎ場があり、そこに置かれてある旅館のスリッパを引っかけ、まな美は、すり硝子の入った格子戸の鍵を開けた。
「キャ」
小さな悲鳴に続いて、
「どうして[#「どうして」に傍点]ー」
まな美の大きな声が響いてきた。
「ど、どないしたの――」
土門くんも立ち上がって玄関の方に行く。
「お、おにいさん……」
控えの間のところで鉢合わせになった。
「君たち高校生[#「高校生」に傍点]だろう」
怖い顔で竜介《りゅうすけ》はいう。
「こ、これにはわけ[#「わけ」に傍点]が……」
しどろもどろで土門くんは弁明する。
「……部活で来てるんですよ、もうひとり天目くんがおるんですが、気分悪うなって、ひっくりかえってしもおて」
「それは知ってる。今[#「今」に傍点]会って来たから。――君たち高校生だろう」
再度、竜介は怒っていう。
「こんな高級な旅館、ぼくはもうじき四十になるが、生まれて初めて来たぞ――」
「おにいさーん」
宥《なだ》めるように、まな美はいう。
「歴史部には部費がいっぱいあるのよ。先輩からの寄付とか、匿名者からの大口の振り込みとか」
「そうなんです、仏像が買えるぐらいあるんです」
土門くんは蛇足をいう。
「――信じられない。ぼくが学生だった頃はユースホステルに泊まって、そこは大部屋で、ベッドは寝台列車のような」
途中まで喋って、馬鹿らしくなったのか、竜介は部屋の方に入って行く。
「ど、どうぞどうぞ」
土門くんは、さっきまで自分が座っていた床の間の前の席を、竜介に勧める。
「二枚も要らない――」
座布団を一枚はずしてから、竜介は座った。
「いま、お茶|煎《い》れますからね」
いうと、土門くんは慣れた手つきで、煎茶の葉をさらさらと急須に落とし入れていく。そして魔法瓶《ポット》のお湯を、湯呑み茶碗の方に注いだ。
「ふむ」
竜介は腕組みをしながらその様子を眺めている。
土門くんは、その茶碗のお湯を急須に注ぐと、三十秒ほど茫《ぼー》としてから、やおら急須を手に取って、二、三回軽く揺すり、湯呑み茶碗の方に注ぎ分けていった。そして茶托にのっけて、
「粗茶でございますが」
誰[#「誰」に傍点]かの口調を真似しながら、まず竜介に差し出して、そしてまな美と自分の前に置いた。
「ほう――」
竜介はひとしきり感心してから、
「文化の継承というのは意外[#「意外」に傍点]な形でなされるというけど、本当なんだね」
ひねくれた褒め方をする。
土門くんは、店でお客様にお茶を出すから、こういったことは板についているのだ。
「ところでおにいさん、――なぜ来たの?」
まな美が不思議そうに尋ねる。
「いや……」
それについては、当人も釈然としない様子で、
「竜蔵さんから電話をもらってね、ちょっと、様子を見に行って欲しいって頼まれたんだ。なんでも、竜蔵さん風邪気味らしいんだよ」
「あれ……おにいさまって、お医者さまでしたっけ?」
「いや、医者じゃないよ。心理[#「心理」に傍点]学者だからね」
「すると、心のお医者さまってことですかねえ」
土門くんは、ともかく医者[#「医者」に傍点]にしたいようである。
「……で、マサトくんの様子はどうだったの?」
竜介の顔を覗き込むように、まな美は尋ねる。
「うーん、まあ、大丈夫だとは思うんだけどね」
それについては、竜介は話したくない様子で、
「ところでさ、ここ『槐の間』だろう。槐とは、また凄い部屋に当たったもんだねえ」
ころりと話題を変えてきた。
「そやそや、木に鬼と書いてえんじゅ[#「えんじゅ」に傍点]ですもんね。ちょうど昼に輪王寺で、鬼の話してたとこなんですよ……なあ」
まな美にふる。
「それはそうだけど、でも、どこが凄いの?」
その問いかけには応えずに、
「じゃ、ふたりに質問です――」
竜介は自己流《マイペース》で話を進める。
「槐というのは、もちろん木の一種で、花が咲くんだが、では、槐の花の色は何色だろうか?」
「え……赤ですよね」
まな美の顔を窺いながら、土門くんが答えた。
「ま、百人に聞けば、九十五人そういうだろうね。槐の花の色は、実は、白に近い黄色なんだ。葉も紅葉はしない」
「あっ、赤はえんじ[#「えんじ」に傍点]だもの。こっちはえんじゅ[#「えんじゅ」に傍点]でしょう――」
まな美が、ちょっと怒っていった。
「そのとおり、皆ごっちゃにしてしまうんだね。さて、岩手県にある金田一《きんたいち》温泉という所に、とある旅館があって、そこに『槐の間』というのがあるんだが、これがいわくつきの部屋なのさ」
「いわくつき[#「いわくつき」に傍点]ですかあ――」
「うん、ぼくが知っているぐらいだから、それなりの部屋だよね」
「やっぱりや、――そこ、呪われてるんでしょう」
当たり籤《くじ》をひいたように、嬉しそーに土門くんはいう。
「――近い。夜になると、出るんだな」
竜介もちょっと嬉しそうにいってから、
「まあ、座敷童子《ざしきわらし》が出るってことらしいので、子供のお化けってことだけどね」
「座敷わらし……いうたら、よう聞きますよね」
「名前は全国区だけど、出会った人はそうそういないと思うよ。それに元来、これは岩手の北上盆地を中心にして、東北地方の伝承だからね。夜中に、家の奥座敷に現れて、畳の縁《ヘリ》や床柱《とこばしら》を伝って、すたすたと歩くそうだ」
「そ……それだけなんですか?」
拍子抜けしたように土門くんはいう。
「特に悪さはしないらしい。せいぜい寝ている人の枕を動かす程度ね――これ、ヨーロッパにもほとんど同じやつがいるんだよ。国によって名称は違うんだが、ゴブリンとか、ブラウニーとか、コボルトというのがそれね」
それぞれ、仏、英、独であるが。
「あ、それも知ってる……そういわれれば、あいつらさいず[#「さいず」に傍点]小さいもんなあ」
土門ゲームで知って[#「知って」に傍点]いるのである。
「かれらは、だいたい小さな子供がいる家に現れて、褒美をくれたり、叱ったりして、子供の面倒を見てくれたりもする。それに夜中に、家の片付けをやってくれたりもするというから、けっこうマメなやつらなんだ」
「――土門くんみたい」
まな美はいう。
「えー、自分さいず[#「さいず」に傍点]大きいぞう」
「けれど、ヨーロッパの方はちょっと騒々しくてね、片付けをする関係で、鍋や食器をバンバン鳴らしたり、家具をガタガタ動かしたりするから、五月蝿《うるさ》がられる場合もある。そんなときはどうするかというと、家の床に、植物の小さな種や、どうでもいいような穀物をいっぱい撒いておくそうだ」
――亜麻の種子を撒くというのが通説であるが。
「それでおとなしくなるの?」
「……すべって転ぶんやろか」
「いやいや、かれらは清潔《きれい》好きだから、それを夜中じゅうかかって片付けるんだね。そういった床への種撒き[#「種撒き」に傍点]を毎晩繰り返していると、嫌気がさしてきて、その家からは出てってくれるそうだ」
「えー、そんな苛《いじ》めんでもええやんか」
「もちろん、日本の座敷童子は苛められたりはしない。これが現れると、その家は栄えると考えられているからね。子供のお化けには、質《たち》の善いものが多いんだよ。種撒き[#「種撒き」に傍点]をして追い払うなんてのは、どうかしてるよね」
「――おにいさん。それって誘導尋問[#「誘導尋問」に傍点]でしょう」
「あっ」
土門くんも気づいたようで、
「それ、節分の豆撒き[#「豆撒き」に傍点]と関係あるんですか?」
「ま、そういうことなんだが。けど、これはぼくの説だから信じないようにね」
前置《おことわり》きをしてから竜介はいう。
「節分の豆撒きの原型は〈追儺《ついな》〉だといわれています。追儺は、紀元前の中国で〈方相氏《ほうそうし》〉というのがやっていた儀式ね――黄金の四つ目の仮面をかぶり、鉾《ほこ》と楯をもって〈鬼〉を追い払っていたんだ。鬼というのは中国では死者の霊のことだから、一般人《われわれ》に見えるものではない。それが日本に入ってきて、宮中で、大晦日《おおみそか》にまったく同じことをやった。だいたい八世紀ぐらいから。ところが〈方相氏〉の装束が奇抜なものだから、イコール〈鬼〉と誤解されるようになって、桃の弓と葦の矢で、その鬼を射て、追い払うという形式に変わる。この追儺の儀式は宮中では廃《すた》れるんだが、神社や寺に取り入れられて、鬼やらい、つまり節分[#「節分」に傍点]として今に至るわけさ」
「豆は?」
怒ったようにまな美が尋ねる。
「――鬼は外、福は内。そういって豆[#「豆」に傍点]を撒くのは、室町時代に京都でやっていたことが文献に残っている。ところが、なぜ豆撒きに変化したのかは、どの本を見ても、大豆は生命力の象徴、ぐらいのボヤーとしたことしか書かれていない。かつては、桃の弓と葦の矢で鬼を射ていたんだから、変だろう?」
「変は、変だけど……だからといって、ヨーロッパの〈種撒き〉が日本に入ってきて〈豆撒き〉って話も、変[#「変」に傍点]だわよ」
まな美は納得しない。
「――ごもっとも。まだ続きがあるんだ。欧米の祭りで、ハロウィンというのを知ってるだろう?」
「かぼちゃ[#「かぼちゃ」に傍点]のお化け祭りですねえ」
土門くんはいう。
「そのハロウィンは、知ってのとおり子供のお祭りで、子供たちがお化けの格好をして家々を練り歩くと、親たちがお菓子を与えてくれる。日本でも節分の夜に、鬼迎えといって、膳を用意し、寝所をしつらえて鬼を泊めるといった風習もある……」
兵庫県の香住町《どこか》だが、それは霞覚《うろおぼ》えだから竜介は喋らない。
「あるいは、狂言『節分』によると、撒かれた豆を食べに蓬莱《ほうらい》の島から鬼がやってきて、宝物[#「宝物」に傍点]を落としていくといった話もある。鬼が悪者だなんて、誰[#「誰」に傍点]が決めたんだろう?――鬼を額面どおりに死者の霊だと考えると、たとえば先祖の霊だとすると、その家の守護霊になってくれる有り難い存在ではないか。ただし、権力の中枢にいる人達にとってはそうではない。『北野天神縁起《きたのてんじんえんぎ》』絵巻を見ると、ものすごい形相をした鬼が宮中を襲っている。これは菅原道真《すがわらみちざね》の〈鬼〉だよね。だから、鬼は外[#「鬼は外」に傍点]というのは権力者の感覚であって、福は内[#「福は内」に傍点]にこそ庶民の願いが込められているんだ。――いずれにしても、そういった鬼が節分に現れる。節分は季節の分かれ目だから年に四回あるんだが、二月の節分というのは、要するに旧暦の大晦日のことだ。だから宮中では、大晦日に追儺の儀式をやった」
竜介はひと息ついてから、
「さて、ではハロウィンというのは、いったい何の日なのだろうか?」
ふたりに尋ねる。
「ひょっとして、それ向こうの節分ですか?」
土門くんが答えた。
「そう。ハロウィンは十月三十一日だけど、これは古代ケルト暦の節分にあたるんだ。つまり大晦日[#「大晦日」に傍点]。ケルト暦というのはケルト人の暦《こよみ》ね」
「ケルト……いうたら布の名前にありますよねえ」
「それはキルト[#「キルト」に傍点]でしょう」
――土門くんはボケたわけではない。
「古代のヨーロッパは、地中海にローマとギリシャがあって、ドイツ北部にはゲルマン人がいて、その間の広大な地域はすべてケルト人の領土なんだ。イギリスやアイスランドも含めてね。さっきのゴブリン、ブラウニー、コボルトというのは、すなわち、このケルト文化におけるお化けなわけさ」
「あ、それで名前は違うけど一緒なんですねえ」
「だが、ケルトは、ローマ人がガリア[#「ガリア」に傍点]と呼んでいた民族のことで、ローマ帝国やキリスト教にとっての、いわゆる〈順《まつろ》わぬ民《たみ》〉の代表選手でもある。朝廷にとっての蝦夷《えみし》と同じね。世界史で、『ガリア戦記』というの習わなかったかな?」
「たしか……カエサルが書いたんでしょう」
シーザーのことである。
「……クレオパトラの時代だよね。だからケルトは、紀元前あたりで、ほぼローマに征服されていたんだ。が、文化的には、後にローマの国教となったキリスト教によって、根絶やしにされる。キリスト教徒たちは異教徒の神はいっさい[#「いっさい」に傍点]認めないから、異教徒のお化けなどは、もってのほか。性質が善かろうが悪かろうが、全部一緒くたにして〈悪魔〉にされてしまう。だから種を撒いて追い払うという話は、おそらく、その後に付け加わったわけさ」
「……苛《いじ》めてたんは、そういうことやったんやなあ」
土門くんはひとり納得する。
「じゃ、ハロウィンというのは何[#「何」に傍点]だろうか……つまりケルト文化の、最後の名残のようなものなんだね。ケルトでは、生者《われわれ》が住む世界と死者が住む他界とは、時空を異にはしているが、互いに浸透し合っていると考える。その仕切りがもっとも暈《ぼや》ける日が、年の継ぎ目の大晦日で、その夜に、他界の者たちは彷徨《さまよ》い出やすくなるんだ。だから子供たちは、その夜に限っては、かつてのようにゴブリンと遊ぶことができる」
「あれ……その仕切りがぼやけるいう感じ、日本の節分と同じですよね」
「同じはずさ。ケルト人はインド・ヨーロッパ語族に属し、宗教観は古代インドとほとんど同じなんだ。多神教だし、輪廻転生《りんねてんしょう》を信じていたし、最高権威者はドルイドという僧だが、これはインドのバラモンに相当するものだ。ドルイド僧の修行は非常に厳しくて、けど、その過程で超能力[#「超能力」に傍点]が得られたという」
「うわ、――超能力やんか」
土門くんの目が輝いた。
「その修行には、ヨーガの瞑想が取り入れられていたのでは――とも考えられているが、詳しいことは分かっていない。宗教的であれ何であれ、教えを伝える目的での文字の使用を、ドルイド僧が禁止しちゃったんだ。あらゆる知識は、人間の思考と切り離してはならない。それを受け継ぐ価値がある者にのみ口伝。そう考えていたんだね」
「空海と最澄が喧嘩したのも、そういうことよね」
どこから捻り出してきた話か、まな美はいう。
「……そうそう、ハロウィンの言い伝えで面白いのがひとつあるよ。皆が寝静まったハロウィンの日の夜、若い娘が、鏡の前で林檎《りんご》の皮をむくと、その鏡には、未来の夫の姿が映るそうだ」
「へー、それ男がやってもあかんねんやろか」
「試してみれば――」
まな美は冷たくいう。
「あ、――夕食が冷めてしまう」
竜介が立ち上がった。
「えー、わたし種撒きと豆撒きの話納得していないわよ」
「お、おにいさん。戻ってきはりますよね」
狼狽《うろた》えたように土門くんはいう。
「うん? どうして……」
「おにいさんの部屋は、どちらなんですか?」
「三階の『山茶花《さざんか》の間《ま》』だけど」
「九」
土門くんは小さな声でいってから、
「いやあ……天目《あまのめ》はあんな感じやから、部屋割りをどうしたものかと」
そして、まな美と竜介の顔を交互に見る。
「ふむ、何かいやな予感がする」
「それとも、わたし[#「わたし」に傍点]がおにいさんの部屋に泊まりに行ってもいい?」
※
夕食は、食事専用の小部屋に用意されてあった。
それはそれは豪勢な料理が並んでいたが、ひとりでとる食事ほど味気無いものはない。
竜介は早々に食べ終えると、『山茶花の間』に行って旅館の浴衣《ゆかた》に着替え、それだけでは寒いので、褞袍《どてら》を羽織り、お子たちの前では遠慮していた煙草を一本ふかしてから、再度マサトの様子窺いに行ったのだが、『山吹の間』の格子戸の向こうはすでに明かりが消えている様子で、――呼び鈴を押すのを遠慮した。まな美たちがいる『槐の間』に戻った[#「戻った」に傍点]ときには九時を廻っていた。
「おいでやすう」
土門くんが出迎えてくれた。
「――ひとりね、客が来てるんですよ」
見ると、蛇頭《メドゥサ》のような髪をした女の子が、ちょこんと座卓の前に座っていた。顔の化粧《メイク》は落としたようである。
「幸ちゃんだよね。マサトくんから聞いたよ」
竜介が座りながら会釈をすると、幸子もこくりと頷いた。
「これが……兄貴ね」
説明済みであるらしく、まな美も簡単に紹介をする。
「いつ来るかいつ来るか思てたら、ついさっき来たんですよ。なんかね、コンサートに行ってたら、客が騒いで将棋倒しになったそうです」
土門くんが竜介に説明する。
「えっ、そのコンサートって、川を渡ってすぐのところ?」
――三人が同時に首肯《うなず》いた。
「それで物々しかったんだな。来る途中に救急車とすれ違ったよ」
「えー、おにいさんが来はった時ですか。も随分前やんか。いったい何[#「何」に傍点]してたんやあ?」
「だってえ」
幸子は少しもじもじしてから、
「これを取りに家に戻ってたの――」
彼女は、まあるい風呂敷[#「風呂敷」に傍点]包みを脇に置いている。
髪はメドゥサだが、そこは骨董屋の娘である。
「こんなの持ってコンサートに行けないわ。ねえ、おねえさん」
「うん」
まな美も同意する。
「なんかよう知らんけど、今からご開帳してくれるそうですよ。さあ、出した出した――」
土門くんが仕切っていう。
幸子が、その風呂敷包みを座卓《テーブル》の上に置いて解《ほど》くと、さらに新聞紙に包《くる》まれた、まあるい何かが出てきた。丸は丸でも、少し平べったい丸である。その新聞紙をキャベツの葉でも剥《む》くように一枚一枚ひろげていると、ぱらぱら、と土屑がこぼれ落ちた。
「うわ、なんで洗《あろ》てへんねや――」
「洗っちゃダメなんでしょう?」
「仏像は洗たらあかんけど、こういうの[#「こういうの」に傍点]は洗わなあかんの」
諭すようにいってから、
「――物によってはね、埃《ほこり》をはろたらあかん。いうのもあるんですよ」
「埃?」
まな美が尋ねた。
「蔵の中に何十年、何百年と置かれたままやと、細かーい埃が積もることあんねん。それが値打ちやねん。そのまま店先に並べとくと、おっ、うぶ[#「うぶ」に傍点]やなーいうてお客さまは大喜び」
「うぶ?」
「初《うぶ》な娘の、うぶ。旧家の蔵出しとかで、初めてお客さんの目に触れたような品物を、そう呼ぶんね」
「じゃ、その埃は?」
「それは買いはったお客さんの自由[#「自由」に傍点]」
――明快なる答えである。
そうこうしていたら、幸子が新聞紙を剥《は》ぎ終え、土色をした陶器が姿を現した。
土門くんは一瞥《いちべつ》しただけで、
「なんやそれ――」
怪訝《けげん》そうにいう。
「水甕《みずがめ》じゃないの?」
まな美がいうと、
「水甕……にしては小さすぎるで。あんまり水入らへんやんか」
一番膨らんでいるところで約三十センチ、高さは十五センチぐらいの広口の〈甕〉である。
「こういうのって、花生けに使ったりしない?」
「あー、剣山《けんざん》を底に置いてねえ。使えんことはないやろけど、口のとこに段差ついてるやろう。てことは、がんらい蓋《ふた》するもんやねん」
「……蓋かあ」
まな美は少し考えてから、
「お抹茶を飲む席で、蓋をするような甕、というか壺のようなもの、使わなかったかしら?」
「――水指《みずさし》のことやねえ。あれは柄杓《ひしゃく》で水を汲み出すから、たしかに広口やねんけど、逆に、寸法《さいず》もうちょっと小さいねん」
「けど、枯れていて、いい感じだわよ」
「それは汚れてるからや」
――けんもほろろにいう。
「どことなく、金魚鉢に似ているよね」
竜介が口を挟んだ。
「あ、ええ線いーはりますねえ。それ採用」
あっさり土門くんは同意する。
「――なんていい加減な[#「なんていい加減な」に傍点]」
男どもに対抗するようにまな美はいう。
「幸ちゃんがわざわざ持って来たのに。土門くんでないと分からないって、ねえ」
「うん」
幸子は妹のように頷く。
「そんなこといわれたって……こんな中途半端なもん鑑定《こめんと》のしようがないぞう」
といいつつも、土門くんは甕の口のところに指をかけて傾け、中を覗き込んだり、表面の地肌を眺め透かししてから、
「……やっぱりなあ」
と、土門くんはいう。
「何がやはり[#「やはり」に傍点]なの?」
「これ釉《うわぐすり》かかってへんねん。かといって、備前《びぜん》みたいに高温で長時間焼く、焼《や》き締《し》めいうほど上等なもんでもない。そやから、水を入れたら漏るかもしれへんな」
「だったら、金魚鉢にも使えないじゃない」
「じゃぶじゃぶは漏らへんで。じわーと染み出てくる程度やから、その水が蒸発して温度奪われるねん。すると、中の水が冷とうなるやんか」
「ほう」
竜介が感心して声をあげた。
「素焼きに近い甕は、そういった使い方もするんですが、水甕としては小さすぎるから、金魚鉢いうんは意外と当たりですね。金魚かて夏は涼しい方がええやろ。――あるいは、手水鉢《ちょうずばち》の可能性もあるな」
「ちょうず、て?」
「その昔、厠《かわや》の前に置かれとって、手洗いの水を入れとくやつや」
「それって、トイレ専用[#「専用」に傍点]なの?」
「そういうわけでは……」
まな美の非難めいた視線を躱《かわ》しながら、土門くんはその甕をくるりとひっくり返した。
「……べた底やなあ」
といいながら、土屑を指先で落としていく。土は乾いているらしく、さらさらと剥がれ落ちる。
「おっ、なんか窯印《かまいん》ありますよう。どなたか、紙と鉛筆を……」
まな美が、いつも使っている小さなメモ帳の紙を一枚ちぎって、
「鉛筆はないわ。ボールペンで我慢して」
土門くんに手渡した。
「……かま[#「かま」に傍点]へんですよう」
駄洒落めいたことをいいつつ、紙を甕底にあてがって、その印刻を写しとった。
それは、四角い印章《はんこ》といった感じで、二センチぐらいの枠の中に、文字らしきものがごちゃごちゃとある。その図を土門くんはしばし眺めてから、
「――わからへん」
といった。
「ふーん、土門くんにだって判らないのがあるの?」
ちゃかしてまな美がいうと、
「窯元《かまもと》なんぼある思てんのや。日本だけでも何千いうてあるんやでえ。それに自分とこは骨董屋やろ、最近のやつはわからへんねん」
――開き直ったようにいう。
「これ、古いものじゃないの?」
「全然ちがう。昭和のもんや。へたすれば平成です。骨董品《あんてぃーく》ではありません。ちなみに値段は……買い取り二百円、売り値は千五百円ってとこやね」
ぼろくそにいってから、
「そやけど、これ土ついてるんやから、どっからか掘り出してきたんやろう。――小判はどないしたんや。小判は――」
なかば本気の顔で幸子にいう。
「中には何も入ってなかったのよ」
「うそつけえ、それにやな、いったいどこ[#「どこ」に傍点]でこんなもん見つけてきたんや?」
土門くんが詰問すると、
「――お告げよ」
幸子はいった。
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「お告げ――て?」
それまでは傍観者ぎみであった竜介が、身を乗り出してきて尋ねた。
「お、おにいさん……そのへん、あんまり追求せん方がええですよう」
げんなりした声で土門くんは囁く。
その忠告は無視して、
「お告げ[#「お告げ」に傍点]で、これを掘り出してきたの?」
まな美が尋ねると、
「うん。御堂山《みどうやま》林道を少し行ったところにお墓があって、そこから――」
事もなげに幸子はいう。
「え! お墓から掘り出してきたんか! なんちゅやっちゃ! なんちゅ気味悪いことすんねーん」
土門くんは半泣きのような声で喚《わめ》き散らす。
まな美と竜介も、その甕《かめ》が鎮座している座卓《テーブル》から少しのけ反った。
「お墓の下からじゃないわよ。そのお墓は目印なの。その後ろの――地面から」
「おんなじこっちゃー、なんでそんなもん触らなあかんねーん」
土門くんは、手をそこらじゅうに擦りつける。
「でも、骨壺《こつつぼ》のようには見えないけどねえ」
そこは年の功と、竜介が見解を述べた。
「おにいさん、それ本真《ほんま》ですやろねえ?」
「いや……自信ない」
――あっさり引っ込めてしまった。
「これ、どんなふうに埋まっていたの?」
まな美がやさしく尋ねる。
「うーんとね、木の蓋がしてあって、縄で縛ってあったのよ」
「縄?――骨壺って、縄で縛るものなの?」
「知らへん」
土門くんは素っ気ない。
「ちょっと待って」
竜介が何かに気づいたようで、
「――それ、順を追って説明してくれないかな。そもそも、どういったお告げ[#「お告げ」に傍点]なのか?」
竜介もやさしく問いかける。
「これは、――夢のお告げね」
少し間をおいてから幸子は答えた。
「その夢というのは、どんな夢?」
「うーんと、――埋める夢よ」
やはり、間をおいてから幸子はいう。
「なるほどね。じゃ、その夢で見たのと同じ場所に行って、地面を掘り返してみたら」
竜介は〈甕〉を指さしながら、
「これ[#「これ」に傍点]が出てきたってこと?」
「うん」
幸子は力強く頷いた。
「ふーん、それはそれで凄い[#「凄い」に傍点]話だねえ」
――それこそ、竜介の専門分野である。
記憶、そして忘却、それらが複雑に絡んでいる可能性がある。
「その――林道[#「林道」に傍点]というのは、君がよく知っている道なの?」
「知ってはいるけど、滅多に行かない。だって御堂山林道には何もないんだもの。でも慈眼堂《じげんどう》に行こうと思えば」
幸子はきらりと目を輝かせて、
「――裏から入れないこともない。あと稚児墓《ちごがはか》があるけど、それはだいぶ先だから」
「慈眼堂って、たしか天海僧正のお墓だよね」
「うん」
「じゃ、その稚児墓というのは?」
――まな美もそれは知らない。土門くんも勿論。
「山に修行に入った親を追いかけて、子供が山に行くんだけど、途中で迷子になって死んでしまうのね。その子供のお墓よ。これはガイドさんだって知らない。でも埋まってたのは、その随分手前よ」
「……手前か裏かは知らんけど」
嘆くように土門くんはいう。
「その道そこらじゅうお墓ちがうんか。適当に掘ったら、こんなんひとつやふたつは出てくるぞう」
「ちがうわ。そのお墓には目印があるんだから」
「目印って?」
竜介が尋ねる。
「えーとね、お墓の石の表面に、ちょっと変わった模様が彫られてるの。これ貸してね――」
幸子はいうと、座卓《テーブル》に出しっ放しになっていたまな美のメモ帳とボールペンを手元に引き寄せ、何やら描き始めた。
「……こんな感じよ」
それを見て土門くんが、
「なんやウニみたいやな。それともヒトデかあ」
――そんな感じの絵である。
「ふむ」
竜介は興味を覚えたらしく、
「その他《ほか》に模様なかった? 奇妙な字とか」
「うーん、よく分かんない」
「じゃ、そのお墓は……現代ふうの四角い形だった、それとも自然石。あるいは、薄っぺらい板[#「板」に傍点]のような形してなかったかな。先が山形に尖《とが》っていて、二段の切れ込みが入っているような」
ちょっと早口で竜介は尋ねる。
「……覚えてない」
幸子は、顔を伏せたままでいう。
「おにいさん。形で何かわかるの?」
幸子を庇《かば》うように、まな美がいった。
「いや、薄っぺらい形のものを板碑《いたび》というんだけど、これは圧倒的に関東地方に多くてね、墓碑の類いではあるんだが、絵やら文字やらが、あれこれと刻まれてる例《ケース》が多いんだ。それなりに、宗教観が反映されているわけさ」
「……ウニやヒトデにですかあ?」
「ま、実物を見てみないと何ともいえないが、日光は聖域《せいいき》だからね、何が置かれてあってもおかしくはない。万が一……てことなきにしもあらず」
「何が万が一[#「万が一」に傍点]なの?」
「いや、それは自信がないんで、ご勘弁を」
――自信がないわけではなく、お子たちに話していい内容かどうか判断がつかないのだ。マサトが見た|異形のもの《ケダモノ》と関係があるのかもしれない、そんな考えが竜介の頭をよぎったからである。
「さてと、問題はこれだな――」
座卓の新聞紙の上で、ひっくり返されたままになっていた〈甕〉を、竜介は果敢にも手に取った。
「ちょっと気になってる箇所があるんだ」
と、その甕を新聞紙の上でゆっくり廻していく。
「……ここだここだ。何か刻まれてるんだよねえ。これ、借りるね」
竜介はいうと、幸子の前に置かれてあったまな美のボールペンから、キャップだけを外して、その先っぽで土を落とし始めた。
「それ、おにいさんにあげる。代わりに新しいの買ってね。――絶対よ[#「絶対よ」に傍点]」
「ふむふむ」
竜介は鼻歌まじりで土を落としながら、
「ルーン文字かと思ったんだが、ちがうなあ」
独り言のようにいう。
「……ルーン文字って?」
「古代のゲルマン人が使っていたアルファベットさ。元来刻むのに適した文字で、ヨーロッパでは呪《ま》じないごとに今でもよく使う。でも、これはちがう」
竜介は、あらかた土を落とし終えると、土門くんがしたのと同じように、それをメモ帳の紙に写しとった。そして、皆に見えるようにと、その紙を座卓の上に置きながら、
「これは――アラム語[#「アラム語」に傍点]ですね」
竜介はいった。
「アラム語って?」
まな美が尋ねても、
「ま、それがどこの言葉なのかはさておき……これ、逆から読むんだよねえ」
と、竜介はその文字に見入っている。
逆から読むとは、つまり横書きの文字列を右から左に読むという意味であるが。
「そ、そんなん読めるんですか? おにいさん」
「うん、一部読めるんだ。けど最初のやつは分からないなあ。二番目は『ミ』だね――」
「あ、その『川』みたいな字がですか?」
「そう。そして次は『ウ』だね――」
「あれ? それ片仮名の『ウ』と同《おん》なじやないですか」
「だから読めるのさ。次は『ル』だな――」
「あっ、それも片仮名の『ル』や」
「うーん、次は分からないなあ。けど、最後の文字は『ス』だね」
「あや、そういわれれば『ス』を逆立ちさせたような格好や――」
土門くんの興奮をよそに、
「何とか〈ミ〉〈ウ〉〈ル〉何とか〈ス〉だなあ」
竜介が考え込んでいると、
「――それどこ[#「どこ」に傍点]の言葉?」
「なんで片仮名に似てるんですう?」
ふたりが噛みつくように聞いてきた。
幸子はというと、何事が起こっているのか理解不能といった様子で、きょとんとした顔で成り行きを見守っている。
「じゃ、種明かしをしましょうか」
竜介はいうと、まな美のメモ帳にひと文字書いて、それを差し示しながら、
「これは片仮名の『エ』だよね。じゃ、これを九十度回転させると……」
「あれ、ローマ字の『H』に見えないこともない」
土門くんがいった。
竜介は、次に片仮名の『ケ』を書いてから、
「これを四十五度ほど回転させると、どうなる?」
「あら、それはローマ字の『K』に見えますね」
「じゃ、片仮名の『ル』の、上をくっつけてしまうと……」
「それは小文字の『r』ですね」
「じゃ、小文字の『i』の上の点を延ばすと?」
「片仮名の『イ』や……」
「――土門くん[#「土門くん」に傍点]」
まな美が声をかけた。
「おにいさんの催眠術[#「催眠術」に傍点]にかかってるわよ」
「ほんまや――」
土門くんは驚いたように顔を上げ、
「これ[#「これ」に傍点]、全然種明かしになってませんよー」
メモ帳を指さしながら、ちょっと怒っていった。
「これはね――」
竜介は少し笑いながら、
「ぼくが、ちょうど幸ちゃんぐらいの年の頃に気づいたことなんだ。以来気にはなっていたんだが、最近になってようやく謎が解けたのさ。こういったことになる原因は、そのアラム語[#「アラム語」に傍点]にあるようなんだ」
「だから[#「だから」に傍点]、そのアラム語って何なの?」
痺《しび》れを切らしたようにまな美は尋ねる。
「――アラム語というのはね、紀元前七世紀ぐらいから、古代ペルシアを含めて中東の広い範囲で使われていた公用語で、ユダヤ人も使っていたから、旧約聖書もこのアラム語とその方言のようなヘブル語で書かれていて、つまり、ナザレのイエスも使ったと考えられている言葉さ」
竜介は流麗に説明する。
「ナザレのイエスって……イエス・キリストのことですよね?」
確かめるように土門くんはいう。
「そう。ナザレ村から出てきたイエスさんということね。キリストというのは救世主という意味で、名前ではないんだ。ちなみに、イエスというのはギリシャ・ローマ語読みで、アラム語やヘブル語では、イェシューというのが正しいようです。……で、このアラム語は、やがてはアラビヤ語にとって代わられるんだが、西の方のローマ字に影響を与え、かたや東の方に伝わってきて、日本の片仮名に名残をとどめているわけさ」
「え――?」
土門くんが大口を開けて抗議する。
「教科書見たって何見たって、片仮名は中国[#「中国」に傍点]の漢字から――というのが定説だわ」
まな美も反論する。
「そうです。吉備真備《きびのまきび》が作ったいうんは、ちょっとあれ[#「あれ」に傍点]やけど、中東は関係ないと思いますよう」
「――ならば、片仮名は吉備真備が作ったということにして、話を組み立ててみようか」
「いや、あれ[#「あれ」に傍点]いうんは、眉唾とか不確かとかいう意味ですよ」
念を押すように土門くんはいう。
「もちろん分かってるさ。けど、吉備真備には片仮名を作るチャンスが大いにあった。それを説明してあげるよ。彼は遣唐使で長安に行ってたろう。あれ何年ぐらい行ってたっけ?」
――土門くんに問いかける。
「あれえーらい長いんですよ。養老《ようろう》元年に行って、日本に戻って来たんは天平《てんぴょう》六年ですから、西暦でいうと七一七年から七三四年までで、十七年間ですね。もう一度、天平勝宝《てんぴょうしょうほう》の四年――七五二年に行ってますが、それは翌年に戻ってます」
――ここぞとばかりに説明する。
「すごーい」
幸子が驚いたようにいった。
「歴史部やぞう[#「歴史部やぞう」に傍点]」
土門くんは誇《ほこ》らしげにいう。
「じゃ、その当時の長安というのは、どんなところだったのだろうか……?」
「えー、中国の首都ですよね。あの時代は……玄宗《げんそう》皇帝がいてはって、そやから、楊貴妃《ようきひ》さんもおられましたよねえ」
憧憬のまなざしで、嬉しそーに土門くんはいう。
「楊貴妃がいたのは、後《あと》の方だろう?」
「ええ、楊貴妃が原因の安禄山《あんろくざん》の乱は七五五年ですから、吉備真備が行った二回目は、ちょうど玄宗皇帝が骨抜きなってた時期です」
「なるほどね……楊貴妃はさておき。当時の長安というのはね、世界でも有数の国際都市だったんだ」
本筋に戻して竜介はいう。
「――長安の都には、道教や仏教のお寺以外にも、景教《けいきょう》、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]教《けんきょう》、|摩尼※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]教《まにけんきょう》などの寺院が建っていたぐらいなんだから」
「けいきょう、けんきょう、まにけんきょう?」
土門くんは鶯《うぐいす》のように復唱する。
「それは中国における名称で、一般的には、ネストリウス派キリスト教、ゾロアスター教、マニ教、となる。景教というのは、コンスタンチノープルの総大司教だったネストリウス[#「ネストリウス」に傍点]が、五世紀初頭に唱えた考え方をペルシア教会が採用し、東の方に広がっていったキリスト教の一宗派ね。もっとも、バチカンから見れば異端[#「異端」に傍点]。ゾロアスター教はササン朝ペルシアの国教で、拝火教《はいかきょう》ともいい、火を崇める宗教。マニ教は、そのゾロアスター教と初期のキリスト教、さらに仏教を混合したような宗教で、開祖はマニ[#「マニ」に傍点]――バビロンの出で三世紀頃の人ね。バビロンというのは、かつてバベルの塔があった古代都市で、現在はイラク。つまり、すべて中東が起源の宗教なわけさ」
「あ、シルクロードがあったんや……」
忘れ物に気づいたように土門くんはいう。
「そう、シルクロードというのは物品だけじゃなく、人間や文化も行き交う。そして当時の長安には、中東の人たちが大勢住んでいたんだ。だから必要に応じて、各宗教の寺院が建っていたわけね。唐の歴史書である『旧唐書《くとうじょ》』によると、開元《かいげん》年間以来、人々は胡曲を尚《たっと》び、貴人の食事はことごとく胡食を供し、士女は競って胡服を着る――とある」
「開元いうんは中国の年号ですね。玄宗が皇帝についた翌年の七一三年からです」
土門くんは、あっさり注釈する。
「ふむ」
いったい何者[#「何者」に傍点]だという目を竜介はしてから、
「胡瓜《きゅうり》、胡桃《くるみ》、胡麻《ごま》、胡椒《こしょう》……すべて胡という字がつくけど、これはペルシアあたりが原産という意味で、長安の都は〈胡〉の大流行《ブーム》になっていたんだ。繁華街に行くと、胡姫《こき》がお酌をしてくれる飲み屋があり、胡旋女《こせんじょ》の妖艶なる踊りが見られたそうだ……何となく想像《そうぞう》できるよね。そんな異国情緒あふれる長安に、吉備真備は十七年間も住んでいたわけさ」
「……けっこうええ時代なんやなあ」
眼を輝かせて土門くんはいう。
「そして、この中東の人たちが使っていた共通言語がアラム語なんだ。だから、当時の長安で楽しくやっていくには、中国語とアラム語が必要ってことになるよね。――ぼくが気づいた片仮名とローマ字の類似は、ごく僅かだけど、片仮名とアラム文字の類似は、なんと片仮名の四割ほどがアラム文字と似ているんだよ」
「ええ[#「ええ」に傍点]ー、四割もですかあ?」
「これは偶然[#「偶然」に傍点]では起こり得ないよね」
反論の目を摘むように竜介はいってから、
「――見てのとおり、アラム文字は表音文字だ。当時こういったものが日本にはない。万葉仮名《まんようがな》として漢字を使っていたが、同音異字はたくさんあるし、音訓《おんくん》どちらで読むのか迷うし、『万葉集』がそうだけど、この原文《オリジナル》を我々が読むのは大変だ。当時の人たちも同じだったと思うよ。もっと簡便なものはないだろうか……そこでアラム文字を参考にし、もちろん中国の漢字を基本《ベース》にして、両者の公約数的なものを作れば片仮名のできあがりさ。ほら、吉備真備に作るチャンスはあったろう」
竜介はいってから、三人の顔を見渡した。
「……な、すーごい話になるやろう」
土門くんは幸子に話しかけている。
「そやけどな、こんなこと答案用紙に書いてもぺけ[#「ぺけ」に傍点]やからな」
まな美の方を窺いながらいう。まな美は、そういった点においては前科者である。かつて歴史の教諭と揉めたこともある。
「いや、吉備真備と確定[#「確定」に傍点]された話ではないよ」
竜介は念を押すようにいってから、
「あの年代に唐にいた日本人なら、誰にでも片仮名を作るチャンスはあったはずだから。あるいは、アラム語を話す景教徒もしくはユダヤ人が、奈良時代に直《じか》に日本に来ていた。そんなことをいってる研究者もいる。これも確証のある話ではないけどね」
「おにいさん。アラム語と片仮名はいいとして」
――まな美はいう。
「ほんとはよくはないんだけど、豆撒きと種撒きみたいに。けど、そのアラム語というのは古い言葉なんでしょう?」
「うん、中東においては七世紀を境にして急激に廃れ、今では殆ど使われていない。イスラムが台頭したからだけど、その聖典であるコーランがアラビヤ語で書かれていて、コーランは当時他言語への翻訳が禁止だったから……それが原因ね」
「けど、土門くんの話だと、その甕は最近のものなんでしょう?」
「そやで、これは絶対に新物《あらもん》や――」
自信満々に土門くんはいう。
「ふーん、じゃ、新しい甕に誰かが古い文字を刻んだのね」
まな美は答えを出していってから、
「そのアラム文字って、死んでしまった言葉なの」
竜介に尋ねる。
「いや、旧約聖書を原典で読みたい人にとっては必須だから、そう珍しい言葉じゃない」
「じゃ、梵語《サンスクリット》とかパーリ語のレベルなのね」
まな美がひとり納得していると、話についていけない幸子が、
「……ミウル、ス」
紙切れに記された文字を見ながら、声に出していった。
「あ! わかった――」
どこから捻り出してきたのか、竜介はいう。
「これ、〈デ〉〈ミ〉〈ウ〉〈ル〉〈ゴ〉〈ス〉と刻まれてるんだ――」
「……デミウルゴス?」
「怪獣の名前みたいやなあ」
「いや、これは神さま[#「神さま」に傍点]の名前さ。しかし、どういう意味なんだろうか……」
竜介は、頭を抱えてしまった。
「神さまやてえ?」
土門くんがまな美にふると、
「知らないわよ。そんな神さまなんて」
つれない返事である。
「……いや、信仰の対象の神というわけじゃないからね。これは哲学上の神なんだ。けど、どうしてこんなところに……」
竜介は、ますます考え込んでいる。
「哲学上の神さまって?」
まな美が尋ねる。
「……プラトンの『宇宙生成論』に出てくる、天地創造の神さ」
そっけなく竜介はいう。
「それ、アダムとイブを作ったひと[#「ひと」に傍点]ですかあ?」
とぼけた声で土門くんも聞いてくる。
「うーん」
竜介はしばし唸ってから、仕方なく説明する。
「――それ[#「それ」に傍点]は旧約聖書の神ね。つまり、ユダヤの神[#「ユダヤの神」に傍点]。ユダヤの神とデミウルゴスは、ともに天地創造の神なんだけど微妙に違うんだ。いや、微妙というのは外野からの意見で、当事者たちは、おそらく根本的に違う[#「根本的に違う」に傍点]というだろうな。いずれにしても、相当にややっこしい話なんだ」
まな美が、聞かせてーといった顔をする。
が、竜介は腕時計に目をやっていう。
「もうこんな時間じゃないか」
――十一時になろうとしていた。
門限は十二時だといって捏《ご》ねる幸子に、今日はお開き、と竜介が幕を引き、その幸子は、彼女が乗ってきた自転車に土門くん[#「土門くん」に傍点]がふたり乗りをして送っていく。いや、土門くんがタクシーで送る。いやいや、まな美も一緒にふたりしてタクシーで送る。幸子が乗ってきた自転車は旅館に預けておく――そんな話で決着をみ、正体はいまだ不明のままの甕を新聞紙と風呂敷で包み直してから、三人が立ち上がろうとしかけたとき、竜介は、さりげなく尋ねてみた。
「幸ちゃんには、お姉さんか妹かいるの?」
すると幸子は、一瞬怪訝そうな表情をしてから、
「ひとりっ子よ」
と答えた。
傍《かたわ》らで土門くんも、そうです、と首肯《うなず》いている。
――違っていた。
マサトが見[#「見」に傍点]て、それを竜介に語ったこととは違っていたのである。神社の前でマサトが初めて幸子に会ったとき、彼女は双子[#「双子」に傍点]のように見えた――というのだ。だから竜介は暈《ぼか》して、姉か妹かと問うてみたのだが、ひとりっ子とは予想外の答えであった。ならばマサトが見たものは何であろうか?
そんな幸子が〈お告げ〉によって掘り出してきたという〈甕〉――。
蓋をして縄で縛られ土中に埋められてあった甕。
それに関しては、竜介は思い当たらないことがないわけでもなかった。しかし、刻まれてあった文字との関係が分からないのである。埋められてあった〈墓〉にも、それなりの意味があるに違いない。
けれど、マサトが見た|異形のもの《ケダモノ》に関しては、それが最重要課題だというにも拘《かか》わらず、まったくの不明なのだ。『世の不可思議――彼にかかれば解けぬものなし』と自著の著者紹介の欄で活字にもされている竜介にしてみれば、歯痒い話である。
不明[#「不明」に傍点]なるものは、その翌朝にさらにもうひとつ加わった――。
結局その夜は、男ふたりが『山茶花の間』、まな美が『槐の間』にひとりで泊まり(それ以外の組み合わせはほぼ[#「ほぼ」に傍点]不可能だが)、朝の七時過ぎにまな美からの電話で起こされ、土門くんはさっさと先に出ていき、竜介は髭を剃るので、少し遅れて食事をとる小部屋に出向くと、三人が揃って席についていた。
マサトも、食事をとれるぐらいには、例の悪夢[#「悪夢」に傍点]からは解放された様子であった。
そして竜介が席につくなり、
「おにいさん。新聞見て――」
まな美が真剣な表情でいった。
「うん? 何があったんだ」
地元の『下野《しもつけ》新聞』の、その最後の頁が広げられてあった。
「これ――」
まな美が指さしたところを見ると、そこには見慣れない活字が躍っていた。
――恙の怒りか!?
「あー、読めないぞう」
竜介は寝惚けたような声でいった。
「それはつつが[#「つつが」に傍点]と読むの。本文に出てるでしょう」
「どれどれ……」
[#ここから1字下げ]
昨晩七時頃、日光市総合会館で催されていた人気グループ『少年隊ジュニア』のコンサート終了まぎわ、最前列の観客のあたりで将棋倒しの事故があり、十三歳と十四歳の女子中学生二人が日光市民病院に運ばれた。
[#ここで字下げ終わり]
「……幸ちゃんが行ってたやつだね」
[#ここから1字下げ]
ともに全治一週間程度のけがで大事には至っていない。だが事故の原因については奇妙な噂がとりだたされている。観客の一部の証言であるが――虎を見た。ライオンを見た。だから逃げようとして事故になったというのである。
[#ここで字下げ終わり]
「ええー?」
[#ここから1字下げ]
日光市総合会館は日光東照宮からも近く、東照宮本殿の真南に位置する。その本殿の正門にあたる国宝・唐門の屋根に上には恙(つつが)と呼ばれる霊獣が鎖でつながれ、恙はライオンに似た架空の動物で「虎や豹や人を食べる」といういい伝えが中国にある。また日光山内において恙は「夜の守り」としても知られている。識者のひとりは次のようにコメントを寄せている。「二体ある恙のうち一体は南を向いて、ちょうど日光市総合会館の方に睨みをきかす。コンサートで騒いで、夜のしじまを侵したからではないですか」
[#ここで字下げ終わり]
「……ね、すっごい話でしょう」
「その識者[#「識者」に傍点]いうんは誰やろかあ」
面白半分に書かれた記事には違いないのだが、竜介にとっては、いや、マサトにとってはなおのこと、冗談で済まされるような話ではない。
竜介が紙面から顔を上げると、そんな考えを察してか、マサトが小さく頷いた。
「……そうか。恙無しやの恙はこれなんだねえ」
竜介は少し話題を変えていう。
「日出《い》ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや――ていったもんね。これで隋《ずい》の煬帝《ようだい》が激怒しちゃったんだからさ」
――小野妹子《おののいもこ》の遣隋使《けんずいし》のときの話であるが。
「つつが虫とは、ちがいますよねえ」
「恙がいると人[#「人」に傍点]が食べられちゃう。虎もだけど。だから恙がいないと安全[#「安全」に傍点]、そんな意味なんだって」
「――食べよう[#「食べよう」に傍点]」
とつねんとマサトがいった。
「そうだそうだ、冷めてしまうよ」
竜介も同意していった。
座卓《テーブル》には、朝食とは思えないほどの豪華な料理が並んでいた。箸をつけて暫くしてから、
「あ、その識者[#「識者」に傍点]、ひとり思い当たる人がおるぞう」
話を蒸し返して土門くんがいった。
「誰?」
まな美が尋ねると、
「幸ちゃんの親父さんや」
ちょっと憎々しげに土門くんはいう。
「そうだ。あそこ『恙堂』だものね」
「あの親父やったらいいそうやろう。それに幸ちゃん、家には恙の子供がおるいうてたやんか」
「なにそれ[#「なにそれ」に傍点]?」
竜介が、ふたりに割って入るように尋ねた。
「あ、おにいさんにはいわなかったっけえ」
「これが――兄貴、と紹介されただけさ」
自分が先に、知ってる[#「知ってる」に傍点]といったのが原因であるが。
「幸ちゃんのお家は骨董品屋さんで――」
まな美が、竜介にあれこれ説明していると、
「あ、証拠品ありますよう」
土門くんが上着《ジージャン》のポケットをごそごそやって、何やら皺くちゃの紙切れを取り出すと、それを伸ばしながらお皿の横に置いた。
「かわいそう」
見てまな美はいった。
――『恙堂』の名刺[#「名刺」に傍点]であった。
「そのお店は、どのあたり?」
「うーんと、昨日送っていったときは真っ暗でよく分からなかったから。でも、国道から入ってすぐのところよ。駅の近くって感じだったわよねえ」
「そんな感じ……」
幸子は、今日は午後から予定があるらしく、まな美たちの案内《ガイド》はやらないという。ならば、会って話を聞くなら午前中である。
「ちょっと店をひやかしてみるよ」
竜介は適当なことをいって、その名刺を借り受けた。幸子の父親――『恙堂』の主人《あるじ》とやらも、気になる存在である。
「誰か、カメラ余ってないかなあ」
竜介は、さらにずーずーしい頼み事をいって、
「買ったばかりよ。落とさないでね」
まな美の一張羅《いっちょうら》を拝借した。
マサトが健在ならば、まあ、それは必要がない。
食事を終えると、三人は歴史部の活動をすべく八時半に旅館を出て行った。
竜介がのんびりと九時過ぎに出かけようとすると、旅館の門のところに、はかったように桑名政嗣《くわなまさつぐ》が立っていた。昨晩ここまで竜介を送り届けてくれた青年である。
「――おはようございます」
恭《うやうや》しく頭を下げ、
「行かれるところがあれば、お供いたします」
甲斐甲斐しく政嗣はいう。
旅館の練塀《ねりべい》のきわに昨日同様、紺色の車が停まっていた。だが、『恙堂』は駅の近くだから、それほどの距離ではない。
「――歩いて行くからいいですよ」
「それですと、叱られますので」
少し情けない表情で政嗣はいった。
「いや、ほんとにいいですから」
竜介は頑《かたく》なに辞退すると、政嗣の視線を振り切るように歩き始めた。
そうだ、アマノメの神には始終|護衛《ガード》が付き添っているはずだ……車中で政嗣が語ってくれた話から察すると、そういうことになる。もっとも、まな美たちは知らずに、大の大人たち何人かを従えながら東照宮をそぞろ歩いている様を想像すると、滑稽ではあるが、むしろ居心地の悪さの方を竜介は感じた。
世襲、権威、殿様、宗教、そして神[#「神」に傍点]……それらは竜介が最も毛嫌いする価値観であるのに、今自分もその世界の真っ只中にいるのである。竜介は、最大の謎がひとつあることに思い当たった――アマノメの相談役《カウンセラー》に、なぜ自分が呼ばれたのか? 政嗣もそうだが、桑名の者たちは本家やら分家やらと大勢いるではないか?
国道に出ると、沿道の土産物屋はすでに開いていて、そのひとつの店で竜介は日光の地図を買った。
途中、何度か振り返ってみたのだが、政嗣の車が後をつけて来る様子はない……ま、そこまではしないようである。
秋晴れの澄みきった空の下を、ぞろぞろやって来る参詣客とは逆の方向に、国道の坂道を竜介はとろとろと下って行った。
――『恙堂』はすぐに分かった。
辻に差しかかるたびに覗き見ていると、白地に黒の大きな看板が道に張り出し、国道の方に面《おもて》を向けていたからだ。
だが、いざ看板の下まで行ってみると、その風格ある佇《たたず》まいに竜介は少したじろいだ。店というより、古い屋敷なのだ。門は藁葺きの屋根がほどよく苔むし、軒下には金色の達筆な字で『恙堂』――木彫りの額[#「額」に傍点]がかかっている。
その瀟灑《しょうしゃ》な門から奥に石畳が続いていて、右側は松などが植わっている純和風の庭。左側が古い屋敷で、壁面に沿って出窓のようなショーウィンドウが設《しつら》えてある。そのとっかかりに『恙』。そう木片に銘が記された、青みががった金属製の獅子が置かれている。これが恙の子供だろうか。金箔が剥げかけてはいるが見事な造作の『千手観音《せんじゅかんのん》』。そして極彩色も鮮やかな『吉祥天《きっしょうてん》』。それらを観ながら石畳を歩いて行くと、その奥に店の玄関があった。すでに暖簾《のれん》がかかっていた。
まな美が真っ暗でよく分からなかったというのも理解できた。たとえ門の外灯がついていても、その奥はおそらく真っ暗闇で、店という感じはしない。昼間見ても、金属の看板がなければ、寺の裏門かと思ってしまったろう。それに、大学講師である竜介ごときにひやかせる[#「ひやかせる」に傍点]ような店では、なさそうである。
暖簾をくぐると、お香の匂いが漂っていて、中はちょっとした博物館であった。
入ってすぐの棚にこそ、チベット密教系の父母仏《ふもぶつ》や、仏教というよりヒンドゥーの神々の鋳物なども置かれているが、おそらく、それらは欧米人の観光客用で(土門くんがいうところの新物《あらもの》で)、あとは日本の古い仏像が整然と陳列されてある。
奥の窓際のところに古めかしい丸テーブルが置かれてあり、婦人がひとり座っていた。上品な顔立ちで、なかなかの美人である。幸ちゃんの母親だろうか、とも思い、竜介は声をかけようとしたが、その婦人の前に茶托にのった湯呑が置かれてあるのが目に入った――客人のようである。
そうこうしていたら、奥の暖簾をくぐって、和服姿の恰幅のいい中年男性が姿を現した。まな美たちから聞いていた通りの風体《ふうてい》で、彼こそが『恙堂』の主人《あるじ》である。
「あ、いらっしゃい」
竜介の顔を見て、ちょっと驚いたように挨拶をする。
「えー、ぼくは客じゃないんです」
ひやかすのは諦めて竜介はいった。
「じゃ、どういったご用件で?」
「……昨日《きのう》、土門くんと会われましたよね」
「ええ、土門さんちの坊《ぼん》ですよね」
坊と聞いて、竜介は少し苦笑しながら、
「その坊と会われたときに、女の子が一緒にいましたよね」
「ああ、あの可愛らしい女の子[#「可愛らしい女の子」に傍点]――」
感情を込めて『恙堂』の主人はいう。
「その女の子の、ぼくは兄貴なんですよ」
「そうですかあ」
といいながらも、全然信じてないといった顔である。
「それでですね、ぼくたちが泊まっていた旅館に、こちらの幸子さんがお見えになって」
「――はいはい。お伺いしました」
ようやく理解したといった表情で、柔らかな物腰になって主人はいう。
「すいませんでしたねえ、ご迷惑おかけして。それにタクシーで送ってもらったそうで、そんな気を使っていただかなくてもよかったのに」
「いや、もう夜の十一時でしたから」
「全然だいじょうぶですよ。このへん治安だけはいいですから」
「まあ、聖域ですもんね。それに夜に迂闊《うかつ》なことをすると、恙の怒りが怖いですから――」
竜介が、自分でも驚くぐらい巧みに話題をふった。
「あー、新聞読まれましたか」
身悶えんばかりに主人が話にのってきた。
「幸子もコンサート行ってましたでしょう。話聞いて驚いて、朝新聞読んで二度びっくりですよ。恙の祟《たた》りだってえ?」
――記事は祟りではなく怒り[#「怒り」に傍点]だが、大差ない。
「誰や[#「誰や」に傍点]あんな馬鹿なこといったのは、ねえ」
と、主人がテーブルの方の婦人にも話をふった。
婦人は苦笑しながら頷いた。彼女も『下野新聞』を読むような地元の人であるらしい。
「いや、ぼくたちはてっきり、あの新聞にコメントを寄せたのは、ご主人ではなかろうかと……もちろん冗談ですよ」
「ハハハー、それは坊[#「坊」に傍点]がいったんでしょう」
主人は笑い飛ばしてから、
「ですがね、唐門の上にいる恙は、あれ実は、恙とは違うんですよ」
「はあ?」
「うちにも一匹いるんで、お見せしましょうか」
いうと、『恙堂』の主人は出窓の方に歩いていって、障子を一枚だけ開けた。外から見えていた恙の像が、こちらからも見えるようになった。
「これは、唐門の上にいる恙とまったく[#「まったく」に傍点]同じ形のもんです。寸法《さいず》は向こうと比べるとふた廻りほど小ぶりですが、同じく、椎名兵庫《しいなひょうご》の作といわれています。こら店の看板なんで売り物じゃありませんよ」
商売人としての理《ことわり》をいってから、
「これ、何に見えますかあ?」
竜介に聞いてきた。
――四肢を踏ん張り、姿勢を低くしているが、肩から先を少しだけ上に反らして、顔は前方を睨みつけている。今にも獲物に飛びかからんとす、そんなふうに見えなくもないが、口を開けているので、威嚇して吠えているようにも見える。
「……筋骨隆々って感じですけど、獅子の類いですよね」
結局、ありふれた答えを竜介はいった。
「まさしく。これは唐獅子《からじし》なんですよ」
『恙堂』の主人もいう。
「どういうことなんですか?」
「唐門の上のやつが、なぜ恙になったかというと、『日光山志』という地元のミニコミ誌みたいなもんに、俗に恙と呼ばれていると、俗説を紹介したのがきっかけなんです。その『日光山志』というのは天保《てんぽう》のもんですから、もうほとんど幕末の話ですね」
「じゃ、それ以前は唐獅子だと……」
「そのはずです。というのも、東照宮を造ったときの明細が残ってまして、『東照宮御造営帳』というんですが、それによると〈鉱《こう》の獅《しし》〉一体二百両――椎名兵庫に支払ったと記されてるんですよ。もちろん椎名兵庫は、その鉱の獅二体と、鉱の竜、つまり鰭《ひれ》切りの竜二体も作ってますけどね」
「その、こう[#「こう」に傍点]というのは?」
「鉱物の鉱ですけど、まあ鋳物といった意味ですか。椎名兵庫は幕府お抱えの鋳物師ですからね。……そやけど」
ちょっと弱気に関西弁でいってから、
「こんな話が出てきたんは、つい最近なんですよ。私がここに店を構えた頃は、誰疑うこともなく恙だったんですよ。それを今さら唐獅子だといわれてもねえ。屋号どうしてくれるんだ。だから当店《うち》としては恙を擁護する。何があっても、あれは恙。――これも恙ね」
店の看板《マスコット》を指さしながらいった。
「あ、それとですねえ」
さらに『恙堂』の主人はいう。
「新聞には、恙は〈夜の守り〉と書かれてましたでしょう。あれも違ってるんですよ」
「ええ?」
「東照宮に行ってご覧になると分かりますが、案内板には、恙は〈昼の守り〉と書かれてるはずです。ところが本によっては、恙は夜の守りと書かれてる場合もあるんです。このへんの話もぐちゃぐちゃ[#「ぐちゃぐちゃ」に傍点]なんですよ。そもそも、きちんとした言い伝えに基づいてる話ではないんですね」
「すると……恙という霊獣は、こんなこといっては何ですが、そもそもは、いないんですか?」
「いや、おることはおります」
主人は声高にいってから、
「……見たことはありませんが。中国の『唐韻《とういん》』に、姿は獅子に似ていて、虎や豹や人を食べるとありますからね」
「『唐韻』というのは韻書《いんしょ》のひとつですよね。辞書のはしりのような」
「……よくご存じですねえ」
竜介を見直したように主人はいった。
「あ、申し遅れましたけど」
いうと竜介は、小わきに抱えていた小型鞄《セカンドバッグ》から、自分の名刺を取り出して、手渡した。
『恙堂』の主人はその名刺を見るなり、
「え? 大学の先生ですか――」
ひどく驚いたようにいってから、
「いやー、完全に御見逸《おみそ》れ致しちゃったなあ。私はてっきりね、すっごい垢抜けされた雰囲気だから、これ褒めていうんですけど、ホストクラブか何かにお勤めじゃないかと……」
いってから、竜介ともども笑った。
さすがは骨董屋の主人で、その見識眼には抗《あらが》えないものがある。火鳥《かとり》は、似たような夜のバイトをしているのだ。
笑い終わってから、名刺を見ながら主人はいう。
「認知神経心理学[#「認知神経心理学」に傍点]、うわー」
「いや、その最後の情報科[#「情報科」に傍点]というのが、ぼくの仕事ですから。恙にしてもそうですが、ちょっと毛色の変わった情報を、あれこれと集めているんですよ」
――それは研究のごく一部であるが。
「はー、それに名前がまた、火鳥竜介《かとりりゅうすけ》さんですか」
「朱雀《すざく》と、竜ですからね。霊獣が二匹もいるぐちゃぐちゃ[#「ぐちゃぐちゃ」に傍点]の名前ですよ」
先手を打ったつもりで竜介はいったのに、
「いやーもう一度いわせてくださいね。これ肩書なかったら、源氏名として使えますよ」
きつい冗談が返ってきた。
「ごもっとも……その、恙もしくは唐獅子ですが、似たような感じの霊獣って、日光には他《ほか》にいるんでしょうか?」
「そりゃたくさんいますよ。要するに、狛犬《こまいぬ》がそうですから」
「あ、狛犬か……」
竜介は、それはすっかりと忘れていた。
「ご存じだとは思いますが、狛犬のこま[#「こま」に傍点]というのは高麗のこま[#「こま」に傍点]ですからね。朝鮮半島を経由してきたものは狛犬。もちろん、犬とはいってもライオンのことなんで、中国経由の唐獅子と、なんら変わるもんじゃありません」
「二体が対になっていれば狛犬。単品だと唐獅子。その程度のことでしたよね」
「それに、中国の古い話では、角《つの》がないのが獅子、角ひとつが天鹿《てんろく》、角ふたつが辟邪《へきじゃ》、といった分け方もしますけどね」
「まあ、角はさておき……」
マサトが見た|異形のもの《ケダモノ》には、角はなかったようである。それに色[#「色」に傍点]が――。
「その、狛犬や唐獅子の類いで、実際の動物に近いような色に塗られているものって、ありますか?」
「実際の色ねえ……金箔が押されてる狛犬ならおりますよ。陽明門や仁王門の下にね。けど、鬣《たてがみ》のところが青か緑で、胴体は真っ金金ですからねえ、自然って感じはしませんね。でも霊獣でなければ、いますよ」
「たとえば、どのような……」
「えー、変わりもんでは、豹《ひょう》がおりますね」
「豹?」
「陽明門の裏側の屋根の下にもいますけど、これは案内人《ガイド》さんに指さしてもらわんと、分からんでしょうね。小さーい木彫ですから。あと何匹かいるようですが、豹は、昔は虎の雄[#「雄」に傍点]だと考えられてたんで、その関係ですよ。虎はそこらじゅうにおりますでしょう」
「たしか、家康の干支《えと》が寅《とら》ですもんね」
「ええ、家光は竜です」
「そうか、竜虎相搏《りゅうこあいう》つともいいますよね……」
アマノメの神はすなわち竜であるが。
「けど、虎と竜は元来仲が悪い、てことじゃないですもんね」
「仲が悪かったら、東照宮つぶれますよ。ふたりのお墓なんですから。ちなみに、二代将軍|秀忠《ひでただ》の干支は兎で、これもちょこちょこいるんですよ。お墓は日光《ここ》にはありませんけどもね」
「……芝の増上寺ですよね」
竜介は、受け答えはしているものの、考えはいっこうに纏《まと》まらない。
――恙の件は、とりあえず打ち止めにして、
「ところでですね、幸子さんが昨日お見えになったときに、御堂山林道のお話をされてまして」
竜介はもうひとつの課題にとりかかった。
「あー、何もないとこですけどねえ」
「その、何もないはずのところで……」
しかし、彼女が掘り出したという甕の件は、父親には話していない可能性大なので、それは避けて、
「ちょっと毛色の変わったお墓が、あるらしくって、そんな話を幸子さんがですね……万が一[#「万が一」に傍点]だとは思うんですが、それは景教徒《けいきょうと》の墓ではないかとも、思えるような」
――まな美たちには伏せた話をした。
「景教といいますと、大秦《だいしん》景教のことですか、中国の――」
景教寺院のことを大秦寺といったので、そうともいう。
「ええ、だからほんと[#「ほんと」に傍点]に万が一なんですけどね。その詳しい場所を、幸子さんにお尋ねしようかと思いまして」
「へー、そんなもんが山内《さんない》から見つかったら、えらい騒ぎになりますよう。あってはならんもんですからねえ。けど、もし万が一の場合、うちの娘の名前出していただけますかあ――発見者[#「発見者」に傍点]として」
さすが商売人だと内心思いつつも、
「もちろん。お約束しますよ」
垢抜けた笑顔を作って、竜介はいった。
店として使っている屋敷の他に、敷地の奥にもう一軒あり、幸子はそちらにいて、まだいるだろうからご自由に訪ねてくれとのことであった。
丸テーブルのところにいた婦人にも軽く会釈をしてから、竜介が店を出ようとすると、
「また寄って下さいね。こんど時間がおありでしたら、奥の部屋[#「奥の部屋」に傍点]にもご案内いたしますから」
揉み手をしながら、満面の笑みで『恙堂』の主人はいった。
庭の奥まったところに建っていたのは、比較的新しい和風の家で、竜介が呼び鈴を鳴らして暫くすると、二階の窓が開いて幸子が顔を出した。
「おねえさんのおにいさーん」
それだけいってすぐに引っ込み、ドドドドド……と階段を駆け下りてくる音がして、玄関の扉が開いた。
「来るとわかってたから、待ってたのよ」
顔を合わせるなり、幸子は奇妙なことをいう。
「それも……お告げなの?」
とりあえず、竜介は聞いてみた。
「うん。よく当たるのよ、わたしのお告げって」
「ま、お告げの話はいずれ伺うとして……昨日、お墓の話をしてたろう。甕を掘り出したというお墓ね。そのお墓の詳しい場所を教えて欲しいんだ。地図を持ってきてるんで」
日光の地図を、竜介が鞄から取り出そうとすると、
「うーん、ちょっと待っててね」
そういい残して、幸子は家の奥に入って行ってしまった。今度は階段を駆け上がる音がする。
――ちょっと待ってて。
にしては、幸子はなかなか戻って来ない。他人の家の中をそう繁々と眺めているわけにもいかないので、庭に出て、竜介が煙草を吹かしていると、ようやく幸子が玄関に戻って来た。
「ごめんなさーい。ちょっとお腹の調子が……」
嘘っぽいが、中学生とはいえ女性《レディ》である。咎《とが》めるわけにはいかない。
竜介が、地図を広げて渡そうとすると、
「――だめなの。目印がないから、地図じゃわからないわよ」
「じゃ、ぼくみたいな素人が行くには、ちょっと無理っぽいか」
「行けなくはないわよ。林道の入口は西参道《にしさんどう》でしょう。そこから歩いて、だいたい二十分くらい行くと、左側に細い道があって、そこを登って行くの」
「それは、林道から逸れる脇道ってこと?」
「うん」
「じゃ、そういった脇道って、その手前にも何カ所かあるの?」
「うーん、あった」
「それじゃ難しいねえ」
「でも、せいぜい三本くらいよ」
「三本か、全部登ってみるという手もあるな」
「――歩いて二十分というのと、左に入る、それがポイントね」
「じゃ、そのポイントは何とか分かったとして、そこから先は?」
「登り坂は大したことなくて、せいぜい百メーターぐらいよ。すると平らなところがあって……猫の額みたいな……猫の額という言葉、あってる?」
自信なさそうに幸子は聞いてきた。
「あってるあってる。ぼくも最初にこの言葉を聞いたとき、何だろうかと思った。じゃ、その猫の額のような狭い場所に、お墓があるんだね」
「うん。でも、その道はまだ先に続いてるのよ」
竜介は、なんとなく情景が浮かんできた。
「すると、そのお墓が立ってる猫の額のような地面を掘ってみると、甕が出てきたわけか?」
「そうよ」
朗らかに幸子はいう。
土門くんの不安は、ある意味では当たっていた。
「しかし、幾ら狭い場所とはいえ、そうは出鱈目《でたらめ》には掘れないだろう?」
「ちがうのよ。別に石が何個か積んであって、だからその下を掘ったんだって」
「――その下を掘ったの」
幸子はいい直した。
「ふーん、じゃ、甕を掘り出して、その場で蓋を開けてみたの?」
「うん、ふるとポチャポチャ音がしたから、開けると水が入ってたのね。濁った水が少しだけね。小判なんか絶対[#「絶対」に傍点]に入ってなかったわ」
強調して幸子はいう。
「水か……でも、土門くんの話だと、あの甕は若干は水を通すそうだから、雨が降ると溜まるよね。降らないと出て行くだろうし……あっ、そうそう、甕を掘り出したのは、そもそもいつの話なの?」
「――それはひと月前。夏休みの最後の日よ」
幸子は明瞭に答える。
「じゃあさ、その甕を掘るに至った、お告げの方の話を聞かせてくれないかな。なんでも、夢のお告げといってたよね?」
「うん、これは夢のお告げなのね」
「ちょっと待って、幸っちゃんのお告げには、幾つかの種類があるってこと?」
「うん……」
幸子は俯《うつむ》きかげんで答えてから、
「けど、この夢のお告げは特別[#「特別」に傍点]なの。何回も何回も同じ夢を見て、見るたびにはっきりしてきたのよ。そのお墓がある場所に、人が何かを埋めてるのね」
「その人って……どんな人?」
「うーんと」
幸子は目を泳がせてから、
「大人の男の人よ。背が高い人。それを[#「それを」に傍点]、小さいときの自分が見てる、という夢よ」
見るたびにはっきりしてきた――にしては、中身のない返答を幸子はする。
「なるほどね」
竜介は、深く追求するのはよして、
「するとだね、埋めている様子を夢で見たとしても、そのお墓がどこにあるのか、それはどうやって探し出したの?」
「――お告げ[#「お告げ」に傍点]よ」
疳高《かんだか》い声で幸子はいう。
竜介はちょっと腹が立ってきた。が、
「それは、どんなお告げなの?」
顔には出さずに尋ねる。
「お告げのやり方ってこと?」
「ま、それでもいいけど」
「それは他人《ひと》には教えちゃいけないの。絶対に秘密なんだから」
乙女の秘密[#「秘密」に傍点]、そんな表情で幸子はいう。
「……そのあたりは教えていただけないか」
竜介が諦めかけていうと、
「お告げのやり方はダメだけど、そのお告げで、だいたいの場所がわかって、それらしい道を何本か行ってみたら、お墓があったのよ」
「なるほどね……じゃ、お告げというのは、それほど完璧《パーフェクト》なものでもないんだねえ」
「お告げを馬鹿にすると、――たたる[#「たたる」に傍点]わよ」
こわい顔をして幸子はいう。
「ど、どうもありがとう」
聞くべきことは聞いたはずなので、竜介は早々に退散した。
地図で確認してみると、御堂山林道は西参道の中ほどが入口である。竜介も日光には何度か来ているのだが、その西参道そのものを歩いたという記憶がない。西参道は表参道の西側にあり(当然だが)、国道から二荒山神社《ふたらさんじんじゃ》に通じているほぼ直線の道である。そこは車が通れるらしく、神社の脇に駐車場《パーキング》の標識がついている。その目の前が常行堂《じょうぎょうどう》と法華堂《ほっけどう》で、さらに家光廟大猷院《いえみつびょうたいゆういん》の入口でもあるから、そのあたりに参詣したい人にとっては、車があるなら非常に便利な道である。逆に、竜介のように車がない人には縁がない。
竜介が『恙堂』の門から出たときには、十一時を少しまわっていた。昼食を先にするかどうするかは微妙な時間だが、ともかく近くまで行ってみることにした。地図を見た感じでは、林道の入口までざっと三十分である。来た道を戻ることになる。国道の坂道を竜介はとろとろと歩きながら、紺色の車[#「紺色の車」に傍点]がどこかにいないかなあ……と注意して見ていたのだが、そんな都合のいい話はない。
西参道は両側を木々に囲まれ、広々とした荘厳な道であったが、途中、観光客が立ち入れるような場所は特にない。竜介は結局、昼食をとらずに御堂山林道に入った。その林道も、車高が低い車でなければ十分に走れそうな道である。だが、少し歩けば曲がり、また少し歩けば曲がりと、まさに蛇のようにくねくねとした道で、どの方向に歩いているのか分からない。
――左。――二十分。
それだけに注意しながら歩いていると、ほぼそれだと思えるような脇道が見つかった。ただし、鬱蒼とした茂みの奥に、消えていってしまいそうな小径である。余程の物好きでもないかぎり、観光客などは絶対に足を踏み入れない道で、しかも、その急坂たるや、登山道といった方が相応しい。
竜介は、いつものように非会社員靴《ウォーキングシューズ》を履いている。スラックスにもジーンズにも合わせられる――茶色のそれ[#「それ」に傍点]というのが竜介の定番だからだが、その靴をもってしても足元は覚束《おぼつか》ない。
竜介は、木の枝などで、支え支えしながら、
「……どこが百メーターだ」
ぶつくさいいながら、ようやっとのことで、猫の額[#「猫の額」に傍点]らしき、崖っぷちのような場所に辿りついた。
――ところが、
墓石が立ってない。
「しまった……道をまちがえたか」
休憩[#「休憩」に傍点]とばかりに、竜介はしゃがみ込んでしまった。
そこは、斜面から迫《せ》り出した畳三枚程度の台地で、地面は苔《こけ》や羊歯《しだ》などに覆われている。だが、その隅っこに、ぼこ、と穴が開いているのだ。
それに、拳《こぶし》大の石が二十個ほど、あたりに散乱している――が、板碑にしろ何にしろ、墓碑として使えそうな大きな石は見当たらない。
竜介は、立ち上がってその穴のところまで行ってみた。
地面に穿《うが》たれた穴は、旅館で見せてもらった甕がぴったり収まりそうである。それも、かなり真剣に掘ったと見えて、七、八十センチの深さはある。
その薄暗い穴の底に……半分土に埋もれてはいるが、縄[#「縄」に傍点]が打ち捨てられてあるのに気づいた。
竜介は地面に這いつくばり、その縄を拾い上げて、手に取って見てみた。
それは、例の甕を十文字《じゅうもんじ》に縛ってあったような結び方をしている。だが、古代の縄といった風格はなく、どこにでもありそうな荒縄だ。
じゃ、蓋は――。
穴の底には蓋はない。あたりを見渡してみたが、落ちてもいない。遠くに投げ捨てたのかもしれない。ともかく、場所はここで間違いないようなのだ。
――まさか、墓石を砕いちゃったのか?
そう思って、散乱している石をじっくりと観察して廻ったが、どの石も丸みをおびていて、つまり自然の石である。
竜介は暫く考えてから、小径《こみち》を少し下《くだ》ってみた。
そしてちょっと遠目に眺めてみると、
「あっ」
崖の出っ張りが不自然な形をしているのに竜介は気づいた。先端部分が崩れているようなのだ。しかし、その不自然に欠けた部分も、下草に均等に覆われていて、昨日今日の崖崩れといった様子ではない。
竜介は、さらに下ってみた。
斜面は杉の大木が疎《まば》らに立っていて、下草はほとんどが笹と羊歯である。その間を注意深く見ていってみると、崖の台地から六、七メーター下ったあたりで、灰色をした明らかに人工の石らしきものが、一本の杉の根元にひっかかっていた。
「うわー」
えらい場所にある。
径《みち》ですら行くのが大変なのに、地面がどうなってるのかも分からない急斜面の途中なのだ。
竜介はさらに一、二歩下って、角度を変えて見てみた。その石の面に、何やら紋様らしきものが見えないこともない。だが、あたりが薄暗いのと、下草に邪魔をされてよくは分からない。
竜介は、カメラがあったことを思い出し、まな美の一張羅を取り出して、覗いて見たのだが、
「あ……」
それはズームなどはない広角《こうかく》だけの単焦点カメラである。広角というのは、すなわち景色などの広い範囲を写し込むためのレンズで、覗いても小さく見えるだけなのだ。
やはり、近くまで行くしかない。
竜介は意を決して、急斜面の下草のなかに足を踏み入れた……手を突きながら。
何とか近くまで行ってみると、竜介の想像どおり、それは板碑の形式の卒塔婆《ストゥーバ》であった。七十センチほどの小さなものだが、山形の尖端といい、二段の切れ込みといい、板碑の特徴を備えていた。
それに、幸子が描いてくれた例の紋様も、ほぼ真ん中あたりに刻まれてある。その上下には、何か文字らしきものがあるのだが、風化していて読み取れない。水をかければ、少しははっきりするはずだが、そんな都合のいいものは身近にはない。
竜介は、邪魔な下草を足で踏んづけて、石の面を晒《さら》してから、カメラを覗いてシャッターを押した。フラッシュが自動的に焚かれた……なるほど、そういうものであるらしい。
「下手な鉄砲《てっぽ》も数撃ちゃ当たるですよう」
借り受けたときに横で土門くんがいってた助言《たわごと》を思い出して、今にもずり落ちそうな不安定な足場のなかを、角度を変えながら、竜介は何枚も撮影していた。
カラン、カラン――
という音に、竜介が崖の方を見上げると、何個かの石が自分をめがけて落ちてきた。それを避けようとして足を滑らした。
その後のことは、竜介は覚えていない。
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子供の頃の竜介はというと、背も高くはなくて、どこか脆弱《ひよわ》な感じのする少年であった。もっとも、頭脳だけは優秀で、職員室で『満点娘』と渾名されている妹のまな美ほどではないが、小学校の通信簿は体育を除いては全部《オール》五である。
竜介に人並みの体躯《たいく》が備わってきたのは、高校生ぐらいからである。だが、風体《ふうてい》は相変わらずぱっとせず、女の子にもてたという話はない。
父親の麻生竜一郎《あそうりゅういちろう》は五十歳近くで、当時女子大生であった紀子《のりこ》(まな美の母親)の心《ハート》を射止めている。竜介も、あのように『恙堂』の主人から評されるほどになってきたのは、せいぜい三十代の半ばを過ぎたあたりからで……早熟はしない、晩熟というのは可哀相だが、そういった血筋のようである。
かつてはひとりっ子であった竜介には、子供の頃、兄のように慕っていた三歳上の従兄弟《いとこ》がいる。ただし父方の従兄弟なので、竜介が父親と縁を切ってしまった今では、音信不通であるが――。
その従兄弟は、小学校一、二年のときに教室では一言も発せず、心配した親が医者に診せると、授業が馬鹿らしくて喋る気にならなかった……というほどの猛者で、IQは百六十を超えている。
家が近所だったこともあって、竜介は泊まりにいっては、その従兄弟と布団を並べ、夜遅くまで、およそ子供らしくない話に興じていた。従兄弟が得意としたのは宇宙人の話で、それもどこから仕入れたのか、人体実験の様子をリアルに語る。かたや竜介は、無類の怖がり[#「怖がり」に傍点]であったにも拘わらず、もっぱら死後の話と幽霊の話である。
その従兄弟は遺伝子研究の方に進み、竜介よりもひと足先に、いや、ふた足先に大学教授になっている。竜介は、お化け好きが昂《こう》じて――この様《ざま》である。何が幸いするか、禍《わざわい》するかわからない。
竜介は、その従兄弟と子供時代にこんな約束をした。
もし、死後の世界というものがあるのなら、
「どちらかが先に死んだら、寝ているところに現れて、足の裏を擽《くすぐ》ろう――」
竜介は、その従兄弟の寝室を訪ねようとしていた。
急な坂道を登っていくと、崖っぷちに家が建っていて、その家の壁をすーと通り抜けると、薄暗い畳の部屋に出た。しかし、どうしたことか布団がふたつ敷いてある。
手前の布団を見てみると、そこに寝ているのは、どうも子供の頃の自分のようである。
「ここはどこだ」
疑問には思ったものの、従兄弟との約束を果たさねばと、竜介はもうひとつの布団の裾を捲《まく》った。
ところが、――足が見当たらないのだ。
似たような体験をした気がして、部屋の隅っこを見てみると、畳に穴が開いていた。そこに何があるかは知っている。縄が入っているはずである。
その部屋から立ち去ろうとすると、布団に寝ていた子供の頃の自分が、がば、と起き上がった。
顔を見ると、天目マサトに変わっていた。
心配そうな顔をしている。
そのマサトが、竜介の方に手を差し伸べてきた。
竜介は、どうしたものかと少し躊躇《ちゅうちょ》したのだが、そのマサトの手を握ることにした。
※
目を覚ますと、ベッドに横になっていた。
「……おにいさん」
呼びかけてくる声の方向を見やると、涙目をしたまな美の顔があった。そして竜介の右手は、彼女がしっかりと握っていた。
その隣には土門くんが立っていて、心配そうな顔で覗き込んでいる。
マサトは……マサトはいないようである。
「ここはどこだ」
竜介は声に出していった。
「もう大丈夫です。気がつかれましたからね」
反対側から男の声がした。見ると、白衣を着た男性が立っている。お医者さまのようである。
「ここは日光市民病院よ」
囁くようにまな美が教えてくれた。
「えー、型通りの質問ですけど、お名前は?」
その医者《ドクター》が聞いてきた。
「……かとりりゅうすけ」
「どこまで覚えとられます?」
「斜面から……落っこちたところまで」
石が落ちてきたことも覚えているのだが、竜介はいわなかった。
「それで頭を打ったのが原因ですからね。その前後の記憶が、少し混乱するかもしれませんが……先生は、認知神経心理学者ですってねえ。だったら、度をすぎて具合が悪ければ、分かりますよね」
――冷たい話である。
「検査の結果は、脳の方も体の方も、特に異常はありませんでしたから。ベッドでしばらくお休みになって、調子がよろしければ、今日退院していただいても結構ですよ」
それだけいって、医者は足早に去っていった。
竜介は、そういつまでもまな美の手を握っているわけにはいかないので、頭を摩《さす》るふりをして、そのもやい[#「もやい」に傍点]を解いた。
「そうだ……借りたカメラは?」
「カメラは……おにいさんが手で握り締めていたから、あるけど[#「あるけど」に傍点]、でも傷だらけなのー」
泣きそうな顔でまな美はいう。
「……ごめん、ごめん」
竜介が謝っていると、
土門くんが宥《なだ》めるように、
「しゃーない、しゃーない。カメラがおにいさんの身代わりになってくれはったんやと……思えば」
筋は通らないが、殊勝なことをいう。
「えーん」
泣き出したような声でまな美は笑う。
「ほんとに御免ね……それと、ぼくの鞄は?」
すると、まな美がその泣き笑い顔のままで、
「……それはないの[#「それはないの」に傍点]」
諭すように竜介にいう。
「えー、それはないと困る[#「それはないと困る」に傍点]……」
今度は、竜介が泣くようにいった。
あの小型鞄《セカンドバッグ》には、竜介の財布やら定期やら身分証明書やら、それに銀行などの各種カード、さらに家の鍵まで入っているのである――服のポケットには何も入れない、というのが竜介の主義《スタイル》なのだ。
少し場が落ち着いてから、竜介はいう。
「じゃ、きみたちにどうやって連絡がいったの? ぼくの身元が分からないじゃないか……」
「おにいさん、土門くんから貰った『恙堂』の名刺[#「名刺」に傍点]、シャツの胸ポケットに入れてたでしょう」
「あ、そうだ……」
朝食の場には、その鞄を持って行かなかったからそうしたのだが、何が幸いするかわからない。
「で、『恙堂』に連絡が入ったのね。それにおにいさん、自分の名刺を渡していたでしょう。だから、まず大学に電話を入れたみたいよ」
「ま、まずい……」
何が禍するかわからない。
「なんでも、助手の女性の人に伝えたそうよ」
地獄に仏とはこのことか……彼女(西園寺静香《さいおんじしずか》)なら、まあ、うまくやってくれるだろう。
「そうこうしていたら、『恙堂』のご主人が、幸ちゃんが土門くんの携帯電話の番号を控えてることを思い出して、幸ちゃんを捕まえて、幸ちゃんも携帯を持ってるから」
「それで自分のびーひゃら鳴ったわけです」
実際はぶるぶる震えたわけであるが。
「……なるほどね」
情報がどう流れるのか、竜介にとってはいい勉強になった。
「でもね」
まな美が、目を大きく見開いていう。
「わたしたちがお昼ご飯を食べていたら、マサトくんが突然大きな声で、おにいさんが――ていったのよ」
「それ……何時ごろの話?」
「えー、十二時半ごろでしたかねえ」
土門くんが答えた。
「それって、虫の知らせよね」
「ほんま、つつが[#「つつが」に傍点]虫の知らせですよねえ」
つつがだけは小さな声でいう。
「まあ、そうかもね」
竜介は曖昧《あいまい》に返事をする。
「けど、ちょっと癪《しゃく》だわ」
口を尖らせてまな美はいう。
「わたしとおにいさんとは血の繋がりがあるのに、どうしてマサトくんには虫の知らせがあって、わたしのところには、出てきてくれないの?」
幽霊のようにいう。
「だから……この種の話は不思議なわけさ」
――嘘である。
竜介にとっては、不思議でも何でもない。情報は、おそらくまな美にも届いていたはずで、それを意識にわかるよう具現化する仕組《メカニズム》を彼女は有していないのだ。マサトにはそれがある。それゆえに彼は神[#「神」に傍点]なのであるが。
「ところで、そのマサトくんは……」
「マサトくんはね、病院の前までは一緒に来たんだけど、病院のにおい[#「におい」に傍点]が嫌だといって、中には入らないのよ」
ちょっと不満そうにまな美がいうと、
「――隣に小さな茶店《さてん》があって、そこでお茶飲んでますよ。そやけど、やけに真剣な顔で、くれぐれもおにいさんをーいうてましたから、あいつなりには心配してるみたいですよ」
土門くんが援護《フォロー》するようにいった。
「においか……」
それは、マサトなりの表現であろうが、病院の中には入りたくない……竜介にはわかるような気がした。見なくてもいいものを見るからだ。
――パタン。
病室のドアが開いて、軽装登山のような格好をした男がつかつかと入ってきた。
「あっ、そうそう、こちらの方は、おにいさんを助けて下さった人で」
まな美が紹介しようとすると、
「いやあ、助けたわけではない[#「ない」に傍点]」
言下に男は否定する。五十は過ぎていると思えるが、がっしりとした体つきである。
「――やむをえず、ここまで運んだだけだ」
わざとそうしているのか、乱暴な喋り方である。
「そうですか。すいませんでしたねえ……あんな誰も通らないような場所で失神《のび》ていたぼくを」
「はんっ」
鼻で嗤《わら》ってから男はいう。
「そんな探りを入れるようなことを、いうもんじゃない」
――竜介は、完全に見透かされている。
「あそこは誰も通らん道だ。あなたも、歩いていて誰も会わなかったろう」
「……はい」
竜介は、しおらしく返事をした。
「わたしは、向かいの斜面におったんだ。そしたら、たまたま見えたんだ。あなたが降りて来るところがな」
「え? ぼくが歩いてですかあ」
「いやあ、男に抱えられてだ。あなたを道の脇に置き去りにして、そのまま行ってしもうたから。その直後にも、もうひとり別の男が林道を通ったのだが、そやつもあなたを見捨てて行きおった。だからやむをえず[#「やむをえず」に傍点]――降りていったんだ」
真実、仕方なしに、といった顔で男はいう。
「その男……もうひとりの別の男というのは?」
「遠目だったから、よくは分からん。どこといって特徴のない、普通の男たちとしかいえんな。ふたりとも逃げるように、西参道の方に走って行ったわ」
竜介は、少し考えてからいう。
「しかし、ぼくはけっこう重いですよ。それを抱えて、あの坂道を……ですか」
竜介の体重は六十キロ程度だから太っているわけではないが、まな美の一・五倍はある。
「肩を抱えて、引きずるようにな。――降りて行ったとき、あなたは意識があったんだ。大丈夫、大丈夫と、手を振ったぐらいだったからな」
――竜介は、全然覚えていない。
「しかし、どう見たって大丈夫ではない。立ち上がれん様子だったし、目の焦点も定まっておらんかったからな。その先に、車を停めておったんで、取ってきて、あなたを乗せたんだ。もうそのときには、あなたはいって[#「いって」に傍点]おったけどな」
「……そうでしたか。誠に[#「誠に」に傍点]すいませんでした」
竜介は、枕から頭を浮かしてお辞儀をした。
打切棒《ぶっきらぼう》な人だが、話に嘘はなさそうである。
「ひとつ訊《き》くが――」
その打切棒な男が、さらに語気を強めていう。
「お主《ぬし》は竜か――」
「はい?」
「ドラゴンの竜だ。あなたは竜か[#「竜か」に傍点]と訊いておるんだ――」
「ええ、竜介という名前ですが」
「名前[#「名前」に傍点]などどうでもいいわ」
「いや、名前以外にはちょっと……」
心当たりが竜介にないわけじゃないが、まな美たちの手前、それは話すわけにはいかない。
「――しらを切るのは勝手[#「勝手」に傍点]だが」
竜介を睨みつけながら男はいう。
「迂闊な場所に足を踏み入れるから、お主はこういう様《ざま》になった。あのあたりでは竜は嫌われておるんだ。くれぐれも用心することだな――」
それだけいうと男は廻れ右をして、靴音を響かせながら部屋から出ていった。
「なーにあのひと[#「ひと」に傍点]ー」
呆気《あっけ》に取られていたまな美が、ようやく声を出していった。
「そんな竜かと聞かれてもやな、はいわたしは竜ですと、だれ[#「だれ」に傍点]が答えるんやー」
土門くんも悪態をつく。
「なんて名前の人?」
当然聞いているものと思い竜介が尋ねると、土門くんだけじゃなく、まな美も知らないといった顔をする。
「ま、まずい――」
竜介は開いたままになっているドアを指さした。
土門くんが長脚を利して走っていく。
そして二、三分して戻って来て、はーはーと荒い息をしながら土門くんはいう。
「仙人みたいに……どっか消えました」
壁にかかっている丸時計を見ると、二時半になろうとしていた。病室はふたり部屋であったが、隣のベッドは空である。
「そうだ……」
竜介が気づいたようにいう。
「きみたちは帰りの列車、どうなってるの?」
「今日は日曜日でしょう……だから、指定席を買ってるわ」
まな美は、何だかいいたくなさそうにいう。
「何時?」
竜介が聞くと、
「……東武日光三時五分」
仕方なく、まな美は答える。
「だったら、もう余裕ないじゃないか。ぼくは大丈夫だから、行ってくれてかまわないよ。ほら、このとおり――」
竜介は、ベッドから両手を差し出して、指をぱらぱらと動かした。
竜介もそのときに気づいたのだが、指は十本とも、まったく異常はないようだ。突き指などは病院にとって怪我のうちには入らないだろうが、竜介にとっては致命傷である。夜の副業《バイト》に支障が出る。
「ほんとうに、大丈夫だから。それにマサトくんも待ってるだろうし」
竜介は急《せ》かすようにいってから、
「それと……」
いい難《にく》そうにいう。
「お金貸してくれないかなあ」
まな美は立ち去りぎわに、
「電話するのよ。――絶対よ」
子供にいい聞かせるようにいって、土門くんともども病室から出ていった。
すると、ものの一分もしないうちに、看護婦さんが後ろ手に何かを持って部屋に入ってきた。
「――滅多にこういうことはしないんですけど、お電話です」
不機嫌そうな顔でいってから、電話の子機を竜介に手渡してくれた。
「すいません」
謝りながら受話器を耳にあてがうと、それは桑名政嗣からの電話であった。
――ご無事で何よりでございました。
型通りの見舞いの言葉をいってから、
――もうしばらく、そちらでお休みになっていて下さい。本日中に、お迎えにあがりますので。
竜介は、横で待っていた看護婦さんに、早々に子機を返した。
頭を打ったせいではないだろうが、竜介は、政嗣《かれ》の存在をすっかり忘れていた。ならば、まな美にお金を借りることもなかった……そう思ってから、いや、借りて正解だったと思い直した。無一文なのに、どうやって家に帰ったのか、辻褄が合わなくなるではないか……変な話である。
竜介が、ベッドの上でうつらうつらしていると、夕方の五時頃になって、病室に政嗣が姿を現した。
「お顔色も、随分とよろしいようですね」
笑顔でそういうと、持っていた紙の手提袋から、なんと――竜介の小型鞄《セカンドバッグ》を取り出して、さもそれが当然の振る舞いであるかのように無言で竜介の枕元に置いた。
「うわー、きみが探し出してくれたの」
ちょっと感動して竜介がいうと、
「いえ、小生《わたくし》ではございません」
苦笑しながら政嗣は否定する。
「じゃ、誰が?」
「誰といわれましても……その、アマノメの氏子《うじこ》は、どちらにもおられますから」
あやふやな言い廻しである。
「じゃ、その氏子さんの誰かが探してくれたの?」
「はい、そのようなものでございます」
「そう暈《ぼか》さなくてもいいじゃないか。ぼくときみとの間柄だろう」
竜介も、結構いい加減なことを平気でいう。
「はあ」
政嗣は少し困った表情をしながらも、
「アマノメの氏子というのはですね、数はそう多くはいらっしゃらないんですが、どのお方も要職についておられまして、ですから」
「――わかった」
遮るように竜介はいった。
最後まで聞かなくても想像はつく。要するに、命令ひとつで人を動かせるということなのだ。それもアマノメのアの字も知らない一般人が動くのである。自分の鞄一個のために、無関係な人何人の手を煩《わずら》わせたのかと思うと、竜介は、背筋のあたりが薄ら寒くなってきた。
すこし間を置いてから竜介は尋ねる。
「すると、ぼくを助けてここまで運んでくれた男の人がいるんだけど、その人も関係者[#「関係者」に傍点]?」
――そういう尋ね方しかできない。
「いえ、まったく存じ上げない人なんです」
――それは意外な答えである。
「もっとも、身元を調べるのは可能です」
「どうやって?」
「病院の駐車場に車を停めておられましたから、番号を控えておくようにと、命じておきました」
「……誰に?」
「いえ、小生《わたくし》にも助手がおりますから」
はにかみながら政嗣はいう。
竜介は、まだ頭も痛いことだし、考えるのが嫌になってきた。神の秘密組織のことなどに興味はない。お好きなように……そう自分にいい聞かせた。
「それとですね」
姿勢を正すようにして、政嗣はいう。
「つい先ほど、竜蔵さまから連絡がございまして」
出た……その老人こそが、この秘密組織の頭《かしら》である。竜介の知り得ている範囲の知識では、そういうことになる。
「この度は誠にご迷惑をおかけしてと、くれぐれもお大事にと、申しておりました」
ふむ……その程度では騙《だま》されんぞう。竜介《じぶん》を日光《ここ》に来させた、そもそもの元凶なんだから。
「その竜蔵さまからですね、先生に、特別のご伝言がございまして」
聞きたくない[#「ない」に傍点]……この上何をしろというんだ。
「先ほどの、先生を病院まで運ばれた男の人に関しまして、その男は、乳飲み子を抱えた母親である、とのご伝言でございました」
「なに……」
その話は、鎮守の森の屋敷を一度だけ竜介が訪ねたときに、したことがある。
「小生《わたくし》には何のことやらさっぱりなんですが、先生にお伝えすれば、それでわかるとのことで」
――わかった。
その意味するところは、あの男は、マサトからは見えない[#「見えない」に傍点]相手だということなのだ。
たしか……マサトは病院の隣にいたはずだから、じゃ、男が出て来るところでも見ていて、だが、見えなかったということか。それに、時間的にいって、マサトはもう埼玉の屋敷に戻っているはずだ。そのことを竜蔵に話して……竜介は、考えまいと思っていたのに、組織《かれら》の情報の流れが見えてきた。アマノメの話はいったんすべて竜蔵が受けるのである。けど、アマノメの神と雖《いえど》も、すべてを見通せるわけではない。そのことは……そうか、知られてはまずいんだ。たとえ身内の政嗣ではあっても……なるほどね。だから竜介にだけ解る暗号[#「暗号」に傍点]を使ったのである。
「――了承しました」
一分ほど考えてから竜介はいった。
けれども、伝言は理解したが、自分にどうしろというんだ?
「――帰る」
竜介はベッドから起き上がった。
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8
日光橋の袂《たもと》に、森に直《じか》に入って行くような目立たない石段がある。そこを登ると二荒山神社の別宮《べつぐう》である本宮《もとみや》神社、さらに日光発祥の地である四本竜寺《しほんりゅうじ》に通じている。その一帯は、東照宮の喧噪とは程遠く、日曜日であっても観光客は疎《まば》らにしかいない。
そんな杉木立に囲まれた静寂なる小径《こみち》を、少年と少女が漫《そぞ》ろ歩きしながら話していた。
「わたし昨日《きのう》、卓磨《たくま》くんにお花を持っていったのよ。でもあんなことになっちゃったから、渡せなくなって、――ごめんねえ」
「それはいいけど、怪我しなかった?」
「わたしは後ろの方にいたから、大丈夫よ」
幸子と、『少年隊ジュニア』の新城卓也[#「卓也」に傍点]である。卓磨[#「卓磨」に傍点]が本名なのだ。今は学校は違うが学年は同じで、それに『恙堂』も新城家も日光にあっては新参者であるから、ふたりの共通項は多い。
「でも……あれはぼくのせいかもしれない」
俯きながら、卓磨は弱々しい声でいう。
「何が?」
「……昨日の騒ぎ」
「どうしてえ?」
幸子は、相変わらず威勢がいい。
「だって……その前の日だって……隣の鬼怒川温泉で、猿軍団と共演するというテレビの収録があったんだけど」
「そんなことやってるの――」
「う、うん」
少し気恥ずかしそうに卓磨は頷いてから、
「けど、それはテレビには映らないと思う。その猿軍団が暴れだして、収録にならなかったから」
「それも卓磨くんのせいだというの?」
「だって……ぼくの顔を見て逃げまくるんだよ。猿たち[#「猿たち」に傍点]が」
グループの年長《メンバー》から、卓っくんの陰気《しけた》な顔のせいさ――と揶揄《からか》われたのも事実であるが。
「それは卓磨くんの思い過ごしよ。夏休みのときに、お告げ[#「お告げ」に傍点]で見て[#「見て」に傍点]あげたでしょう。卓磨くんには、変なものは何もついてなかったわよ」
――八月の末、事務所から僅か五日間の夏休みを貰い、卓磨が帰省していたときの話である。
「でも……あの甕を掘り出してから、よけい変になったんだ。まわりで変なことばかり起こるのさ。昨日もそうだし。一昨日《おとつい》もそうだし。それに……一週間ほど前には、夜にラジオ局から出てきたら、道を歩いてた全然知らない女の人が、ぼくの顔を見て、キャーていきなり大声出すんだよ」
「卓磨くんのファンの人じゃないの?」
「ちがうよ。丸《まる》の内《うち》にある……それは日比谷《ひびや》にある放送局なんだ。だから歩いてる人は、近くのオフィスに勤めてる女の人……」
「OLねえ[#「OLねえ」に傍点]」
声高に幸子はいう。
「それに……頭の中がずーと重たいし。頭の中に何かがいるみたいに……」
「何がいるというのよ。脳[#「脳」に傍点]の中に巣くう虫[#「虫」に傍点]なんて、聞いたこともないわ」
幸子は知ったかぶりをしていう。
「それと……」
聞きたかったことを、卓磨は尋ねてみる。
「……昨日の三時過ぎ頃、幸ちん[#「幸ちん」に傍点]が常行堂から出てくるのを見かけたんだけど」
「なんだ、声かけてくれればよかったのに」
「車に乗ってたから、……そのとき、連れがいただろう?」
「うん、あれはお父さんのお友達の、骨董屋さんの坊[#「坊」に傍点]ね。高校生よ」
「……どれが?」
「背のたっかーい男の子。それに素敵なお姉さんもいたでしょう。そのお姉さん、神さまや仏さまのことすっごく詳しいの。うちのお父さんより詳しいぐらいよ。歴史部というところにいて、日光を調べに来たんだって。だからわたしが案内してたのね」
「……もうひとりは?」
「あ、たしか……アマノメさんという人よ。遅れて来たから、ほとんど話してないんだけど……なんか、無口でおとなしそーな感じの人ね。それに体が弱いみたいで、途中でぶっ倒れちゃった」
「その人……すっごく怖い目をしてなかった?」
「ううん、優しい目だったわよ」
「そ……そう」
卓磨としても、それ以上はどう尋ねていいか分からない。
「そうそう、その骨董屋さんの坊ね、いわお兄ちゃんていうんだけど、そこの骨董屋さんは、お皿や壺が専門なのよ。だからあの甕を、そのいわお兄ちゃんに見てもらったのよ」
「何かわかった?」
「まずね、あの甕は古いものじゃないんだって。せいぜい昭和の時代だって。だから大昔の因縁《いんねん》が祟《たた》っている、そんな話じゃないみたい。それにね、その素敵なお姉さんの、お兄さんという人が旅館に来てたのよ。その人は大学の先生で、ちょー小難しい話をするんだけど、その先生が、あの甕にあった文字を解読してくれたの」
「あ、あのひっかきキズのようなやつ?」
「そう。あれはどこかの古代の文字で、デミ……なんとかいって、神さまの名前らしいの」
「どんな神さま?」
「そこまではわからないのよ。けど[#「けど」に傍点]……お昼前に卓磨くんから詳しい場所を聞いたでしょう……その大学の先生が、今日そこに調べに行ってくれてるわ」
大の大人を操れてしてやったりといった顔で、幸子は得意げにいう。
彼女には、土門くんの携帯の番号を尋ねる電話が父親からあったが、その大学の先生が事故にあったことは知らされてはいない。
「そう……」
卓磨はなおも意気消沈の様子で、とぼとぼと歩いている。
「そんなに心配だったら、そこの紫雲石《しうんせき》の上にのってみたら――」
ふたりは四本竜寺に来ていた。いや、その跡地といった方が相応しく、寺の囲いもなければ管理人もいない寂れた狭い場所である。素木《しらき》造りの小さな観音堂と総朱塗りの三重の塔が建っているだけである。
「――そんなことしたら、罰があたるよ」
「罰なんか絶対[#「絶対」に傍点]に当たらないわ。勝道上人が拝むと、そこから紫雲が立ちのぼって、青龍《せいりゅう》と玄武《げんぶ》と白虎《びゃっこ》と朱雀の、四神の雲がわきあがったんだけど、そこは風水でいうところの気[#「気」に傍点]の吹き出し口よ。だから罰なんか当たりっこないでしょう」
知識は片寄っているが、幸子もそれなりに知っているようである。
「だから、その上に立つと浄化[#「浄化」に傍点]してくれるわよ」
幸子に促され、地面から丸く突き出てている、その苔むした紫雲石に、卓磨はそうっと片足を、さらにもう片方の足を乗せてみた。そして背筋をしゃんと伸ばして立ってから、目を閉じてみた。
足裏から頭の天辺へと何かがすーと抜けていく、そんな感覚を期待したのだが、
「……なにも感じないよ」
暫くしてから卓磨はいった。
「やっぱ駄目かもしれないわね。昔は凄かったはずなんだけど、誰かが気の流れを変えちゃったのよ」
もっともらしいことを幸子はいう。
卓磨は紫雲石から飛び降りた。
「でもね、明日は新月の日だから、もう一度、卓磨くんのためにお告げをやってあげるわね。新月の日には、特別なものが見えるのよ」
お姉さんのような口調で、楽しげに幸子はいった。
[#改ページ]
9
竜介は、日光から戻った翌日の月曜日は、大学を休んだ。身体(脳)の方はまったく大丈夫なのだが、心[#「心」に傍点]に問題があるようで……だから、ずる休みに近い。もっとも、竜介の受け持つ『認知心理学・序』の講義がある日でもないから、休んでも影響はない。
大学の先生(講師・助教授・教授)というのは、得てしてそういうもので、その代わりといっては何だが、土日祭日、春夏冬休みなども関係なく、夜中でも研究室にいる場合もあるし、だからといって残業手当がつくわけでもない。要するに、本人が出たいときに出ればいいのだ。型に嵌《は》められることを極端に毛嫌いする竜介には、天職とはいえないまでも、適職には違いない。
竜介は、朝から一歩も外に出ずに、冷蔵庫にあっただけの粗末な総菜類で飢えを凌《しの》いで、ベッドでごろごろしながら本を読んでいた。
すると三時半頃に、まな美から電話があった。
〈電話するのよ。――絶対よ〉
と彼女からいわれてはいたのだが、よくよく考えると……よくよく考えなくても、それは無理な話である。麻生家には、生死(および警察沙汰)に拘わる用件以外では、竜介の方からは電話をできるはずがないのだ。それを察して、まな美の方からかけてきたのである。
「――大学休んだんだって? 優しい喋り方をする、前にも一度電話で話したと思うけど、その女性の人から聞いたわよ。――おにいさん、朝から満足なもの何も食べてないんでしょう。わたしがこれから行って、食事作ってあげるから。でも、わたし下北沢《しもきたざわ》には行ったことがないの。どこで待ち合わせすればいーい」
有無をいわさぬ調子で、まな美がまくし立ててきた。
「そ、それはまずいだろう。帰りが遅くなってしまうじゃないか」
「だって部活でいつも遅いんだから。それにわたし信用されてるし……うん、何?……あっ、そうなの。北口のピーコック前。それで分かるのね。おにいさん聞こえた[#「聞こえた」に傍点]――だから、そこで待ち合わせね」
といって電話は切れた。
「そ、そんな無茶な[#「無茶な」に傍点]――」
切れている電話に我鳴《がな》っても、仕方がない。
竜介は、とりあえずシャワーでも浴びながら髭でも剃るか――と行動を起こしかけた瞬間、埼京線《さいきょうせん》なるものの存在に気づいた。竜介は滅多に乗らないので、最近できた[#「できた」に傍点]という認識しかないが、その実力は侮れない。埼玉方面から新宿駅まであっという間なのだ。竜介がいる下北沢は新宿から目と鼻の先である。おそらく、まな美の高校からだと一時間足らずで着いてしまうことになる――そんな悠長なことはやっていられない[#「やっていられない」に傍点]。
竜介は、部屋の片付けなど限られた時間内でできる範囲だけのことをやって、寝間着から外出着に着替え(ジーンズとダンガリーのシャツを選んだ)大慌てで外に出た。
竜介の自宅から下北沢の駅の北口までは、普通に歩いて七分ぐらいである。すると、竜介の予想通り四時三十分に、制服姿(紺のブレザーにスカート)のまな美が駅の階段に現れた。恐るべし――埼京線である。最強[#「最強」に傍点]線といった異名もあるぐらいだ。
まな美は顔を合わせるなり、
「――下北沢で何かお祭りでもあるの?」
不思議そうな顔で聞いてきた。
「いや、平日だから人は少ないよ」
「これで[#「これで」に傍点]? じゃ、休みの日はどうなるの?」
「うーん、住んでいる人は休日には出歩かないだろうね。歩けない[#「歩けない」に傍点]から――」
下北沢とは、そういう街である。
「道が狭いというのも、ひとつの原因なんだけど。でも、ぼくが住み始めた頃は、もう少しは鄙《ひな》びてはいたんだよ。こんな状況になってきたのは、ここ五年ぐらいの話さ」
ふたりは北口の正面にあるピーコック[#「ピーコック」に傍点]の中に入った。いわゆるスーパーマーケットだが、都内でも有数の高級食材店でもある。
竜介は、まな美に付き添って買物用手押車《ショッピングカート》を押しながら、――続きの話をする。
「東京のかつての繁華街といえば、浅草だったろう。その次は上野。そして、銀座というふうに移り変わっていった……これ、何か法則が見えてこない?」
「そういわれてみれば……西の方に移動していってるわよね」
野菜コーナーでまな美は、赤ピーマンと黄ピーマン、スウィートバジル、パセリ、シメジ、そしてトトマの四個入りパックなどを籠《かご》に入れた。
「おにいさんちには、オリーブ油《オイル》ある?」
「たしかあったな……」
「たしかじゃ困るわよ」
「……買った方が無難だと思う。油は地下だから、後だね」
「じゃ、スパゲッティはある?」
「それも買った方が無難だな。同じく地下」
「じゃあとは、ベーコンぐらいかしら」
「それは奥――」
竜介はカートを押して歩きながら、
「その銀座の次はどこかというと……六本木だろう。さらに西にずれて渋谷・原宿・新宿になるんだ」
「あ、ニンニクみっけ――」
途中の芋類のコーナーに、それはある。
「渋谷・原宿・新宿というのは山手線だけど、さらに、その線《ライン》から外に出てしまって西にずれ、この下北沢になるわけさ」
「ほんとね、その法則ぴったしだわ」
「ところが[#「ところが」に傍点]……」
まな美が、黒豚ベーコンを百グラムだけ注文して包んでもらう。
「……もうこれ以上は、西に街がないんだよ」
「じゃ、ここでおしまい? 下北沢は未来永劫お祭り騒ぎなの?」
「まあ、そんなおいしい話はないだろうね……」
竜介がカートを捨て、籠を手に持って、ふたりは地下への階段を降りていく。
「乗って来たと思うけど、小田急電鉄は限界がきてるんだ」
「あ、いわれた――小田急の新宿駅で間違って普通列車に乗ると、死ぬって」
「正解[#「正解」に傍点]。ひとつ手前の東北沢駅で次々と列車に抜かれ、最長で八分間[#「八分間」に傍点]停車してるからね。田舎の単線列車じゃあるまいし……だから複々線化の工事を何十年も前からやってるんだけど、この下北沢だけを除いては、完成している」
「――どうしてえ?」
「この街には手がつけられないんだ。駅の周辺の猫の額のような場所に、それこそ百万軒のお店が建っていて……道は、人が歩くのもやっとなのに、工事車両が入れるわけがない」
スパゲッティの棚から、まな美はブイトーニの二番目に太い一・六ミリを選んで籠に入れた。なかなかやるな――と竜介は感心しながら、
「……地元の商店街は、だから地下鉄にしろ[#「だから地下鉄にしろ」に傍点]と唸《うな》っている。けど、隣の駅は高架で、それも見えているほど近い駅なのに、ここだけ地下鉄にするとジェットコースターになってしまう」
まな美は笑いながら、ホールトマトの缶詰を籠に入れた。あれえ――生のトマトもあるじゃないかと竜介は思いながら、
「かたや小田急の方は、高架にしたいと唸っている。けれど、下北沢の駅は京王井《けいおうい》の頭《かしら》線と交差《クロス》していて、その京王線はすでに高架なわけだから、その上に高架を作ると、摩天楼になってしまう」
まな美は油の棚から、ボスコのエキストラバージンオイルを選んだ――誰に教わったのか? 完全にプロである。
「……どっちのプランも現実味に乏しい。そして役所は怠けている。その状態が延々と続いてるもんだから、複々線化は完成しない。だから小田急で普通列車に乗ると死ぬ[#「死ぬ」に傍点]といわれるんだ」
「じゃ、その原因になってるのは下北沢[#「下北沢」に傍点]なのね」
「よくぞ気づいた。ここは魔界の街なのさ――」
ピーコックから出ると、竜介は、先導するようにさっさと先に歩いて行く。まな美と肩を並べて歩くのは気恥ずかしいというのもあるのだが、夕方時でもあり、狭い道はさらにいっそう込み合っているから、実際上並んでは歩けないのだ。
道の両側には、女子供が喜びそうな小物類を扱う小店舗が次々とあるのだが、まな美としても、立ち止まるわけにはいかない。
「――どの道を通っても行けるんだけど、まあ、いつも使う道で」
と、竜介は横浜銀行の角を左に曲がった。
「わー、いい匂いね……」
お茶屋さんの店先で焙《ほう》じ茶を炒っていた。その機械を操作していた若い男性が、竜介の顔をみて軽くお辞儀をした。それに釣られるかのように、竜介はその店に入っていく。『大山《おおやま》』という看板がかかった、小さくて古びたお茶屋さんである。
「いらっしゃいませ」
これ以上はないという丁寧な口調で、店の主人が迎えてくれる。
「えーいつもの……」
といいながら、竜介はカウンターに置かれてあるお茶のサンプルケースから、ひとつを指さした。
「はい、ありがとうございます。百グラムでよろしいですよね。今お詰めいたしますので」
店の主人は、これ以上はないという笑顔でいう。
「おにいさん……気を使ってくれなくてもいいのに」
まな美が小声で囁く。
「うん? ぼくがいつも使ってるお茶だけど」
「百グラム千円もするわよ」
「いや、これは白折《しらおれ》茶で、軸《じく》とかいっぱい入ってるから、お客様用という雰囲気じゃない。それに白折は煎茶の見てくれの悪いのを集めたお茶だから、値段以上に美味しいんだ」
「でも……千円よ」
なおもまな美は囁く。
「まあ、ぼくの趣味の世界だから。ボーナスが出たときには下のも頼むんだけどね」
竜介が指さしたガラスケースの中には、百グラム一万円の煎茶が鎮座している。
「おにいさん、そんなの飲んでたら口が腐るわよ」
まな美は懐古的《レトロ》な表現でいう。
「よろしければ、お召しあがりになってください」
焙し茶を炒っていた若い男が店の中に入ってきて、ちょっと慌てながらお茶を煎れて、ふたりの前に置いてくれた。小さな茶托にのった小さな湯呑である。竜介はそれを、立ったまま西部劇のように一気飲みする。まな美も仕方なく、ふた口ほどで飲み干した。
店の外に出てからまな美はいう。
「――すっっごい感じのいいお店よね」
竜介は、すぐに右に折れて路地裏のような道に入りながら、
「うん、あそこは日本一だと思う。それに、さっきのご主人は八段を持ってるんだ。これは利き茶の段なんだけど、八段以上というのは日本に数人しかいないの……そのひとりね」
「えー、下北沢に、そんなお店があるの」
まな美はちょっと驚いていう。
「だから魔界なんだ。他にも名店はたくさんあるんだけど、それは地元の人でないとわからない」
「おにいさん地元地元っていうけど、何年ぐらい住んでるの?」
「うーん、麻生さん[#「麻生さん」に傍点]の家を出て以来だから、ざっと二十年ってとこかな。もっとも下北沢の中で、一度引っ越しをしたんだけどね」
路地裏からやや広い通りに出ると、竜介は左に曲がった。
「おにいさん、もう道全然わからないわよ」
「それは無理もないさ。下北沢は日本一の迷路[#「日本一の迷路」に傍点]だというのが、ひとつの観光資源《うり》だからね。ぼくも住んで十年ぐらいで、ようやく全体像が把握できた」
――大袈裟だが、半分ぐらいは真実である。
竜介は、またも右に折れる。
その角には人体模型やら骸骨やらが陳列《ディスプレー》された店がある。竜介は、それを指さしながら、
「この店が目印だからね……」
そして坂道を少し下ると、また別の道に出た。竜介はそこを左に曲がる。
「ここ『一番街』という商店街なんだけど、がらっと雰囲気変わったろう」
まな美も頷きながら、
「昔のままの商店街よね。活気が感じられないわ」
駅近くの混雑ぶりに比べると、人も疎《まば》らになってきた。ところが、しばらく行くと、
「わっ、なあにこの奇麗なお店――」
いわゆるヨーロッパの木目調の居酒屋《パブ》である。
「ここだけ国籍が違うんだ。内外装はフランスの骨董品《アンティーク》で、店の従業員も勿論フランス人……」
「こんな映画に出てくるようなお店が、どうして古ぼけた商店街に……」
と、まな美が振り返ると竜介がいない。
竜介は、近くの路地をすーと入っていく。その後をまな美が追いかけると、そこはもう住宅街で、ふたりの他には誰も歩いていない。そしてしばらく行くと、薄緑色をした金属製の門《アーチ》を竜介はくぐった。その先に、申しわけ程度の木立に囲まれて、三階建の古びた鉄筋《マンション》がある……なんだか、厚ぼったい感じがする外観である。竜介は、その玄関のガラス扉を鍵を開けて入ると、内側から閉め直した。
うわさに聞く、共同アパートというものかしら、まな美は思う。
「……いやね、ここに住んでるの、ぼく以外は全員女性なんだ。それも二十歳《はたち》前後のね。歩いて三十秒で繁華街で、それも日本一の迷路《まかい》だから、誰が入って来るかわからないんで、用心のためにね」
まな美の不審を察してか、竜介は説明しながら、階段を上がって行く。
「……築二十五年ぐらいだと思う。だから自動鍵《オートロック》もなければ、昇降機《エレベーター》もない」
竜介は、その最上階(三階)の廊下を一番奥まで進んで行く。一階《ワンフロア》につき三室のようだから、こじんまりとした共同住宅《マンション》だ。
入口は、薄緑色をした金属製の扉《ドア》である。外の門《アーチ》と同じ色に塗られている。竜介が鍵を開けて入り、その扉をまな美が閉めようとして、ちょっと驚いた。金庫のように分厚くて重い扉なのだ。
玄関の先に短い廊下があり、その奥の部屋に入って、まな美は真面《まじ》に驚いた――。
六畳あるかどうかの小さな部屋だが、壁一面に本が積まれてある。驚いたのはそれではない。その本の壁に突っ込むようにして、黒々としたグランドピアノ[#「グランドピアノ」に傍点]が置かれているのである。
――まな美は五秒ほど完黙してから、
「おにいさん、――ここは誰と[#「誰と」に傍点]住んでるの?」
咎めるような顔で訊いてきた。
「誰といわれても、ぼく独り[#「独り」に傍点]しか住んでない」
いいながら竜介は、そのグランドピアノの側面の下から丸い椅子を――バーのカウンターで使うような椅子を引き出した。
「これ、高さが調節できるんで……」
まな美に合わせて、座面を少しだけ高くして、
「ま、どうぞ」
竜介は勧める。
まな美は、それに腰かけながら、
「じゃ、このグランドピアノ[#「グランドピアノ」に傍点]は、誰が弾くの?」
どんな答えを期待しているのか……目をきらきらと輝かせてまな美はいう。
竜介は、その期待に応えるべく、ピアノの正面に廻り込むと、天蓋の蝶番《ちょうつがい》から前だけを上に持ちあげながら、その隙間に本を何冊か挟み入れた。
「部屋が狭いからね、この程度開けるのが一番いい音がするんだ」
――実際は、グランドピアノの天蓋は全部開くのだが、その蓋の上に、本やら何やらが載っているので、そこしか開かないのだ。
竜介はピアノの椅子を引き出して座り、鍵盤の蓋を開けた。そして、鍵盤に両手を降ろすと、竜介は何やら弾いた。
まな美の耳には、音楽《メロディ》というより、海のさざ波をイメージするような音が聞こえてきた。
「――唖然[#「唖然」に傍点]」
まな美は声に出していってから、
「おにいさん、今なにをやったの?」
「今のはね……虚仮威《こけおど》しってやつ」
自嘲《じちょう》ぎみに竜介はいってから、
「二オクターブを、ひとつのパッケージにして、それを順次上にずらしていってるんだ」
「と[#「と」に傍点]、いわれても分からないわ」
――もっともである。
「指を見てれば分かるから……左手と……右手、同じ音だろう。これは分散和音《アルペジオ》なんだけど、今出してるのはDの六《シックス》という音ね。それを全体的に一オクターブ上にずらす、さらに同様にずらす、さらにずらす。これを速く弾けばいいんだ……」
さっきと同じ音が流れてきた。
「おにいさんの指どうなってるの? まるで……」
まるで百足《むかで》が波打ってるようにもまな美には見えたのだが……それはいえない。
「これはね、鍵盤を撫せるぐらいに弾くというのがコツなんだ。あとペダルを、踏みっぱなしだったら音が濁るので……小刻みに外している。それに音は、左手と右手が同じでなくてもいい……あるいは、パッケージごとに音を変えていってもいい……」
さまざまな波の音が流れてきた。
「さらに、分散和音《アルペジオ》を特殊なものに変えてみると」
一転、不安な感じがする音が聞こえてきた。
「これは、ディミニッシュという短三度の音階《スケール》なんだ。お化けが出てくるときの効果音などでよく使う。で、こういう弾き方をハープ奏法ともいう。竪琴の音に似てるからね。でも、慣れれば誰にでも簡単にできる。じゃ、次ね……」
竜介は、クラシックの楽句《フレーズ》を十秒ほど弾いた。
上手[#「上手」に傍点]、といった顔をまな美はしてから、
「それってテレビのドラマなんかでよく聞く。外は嵐で、これから事件が起ころうとしているときに」
「そう。今のはショパンの『幻想ポロネーズ』という曲の一部ね。で、今のフレーズをよーく覚えておいていただいて……」
竜介は、肩の力をすっと抜いてから、四《フォー》ビートのジャズのスローバラードを弾き始めた……ところが、テンポは緩慢《スロー》だが、竜介の右手は鍵盤上を右へ左へと猛烈なスピードで走り廻る。低音部でリズムを刻んでいる左手も、ときにはそれに加わる。その竜介の手を見ていると、まな美は目が廻ってきた。
その華麗なる超絶技巧の曲を一分ほど弾いてから、途中でピタリと止め、竜介は尋ねる。
「――わかった?」
その質問は完全に無視され、
「おにいさん[#「おにいさん」に傍点]。プロのピアノ弾きになれるわよ」
心底感動したような顔で、まな美はいう。
そういってくれるのは竜介としても嬉しいのだが、
「いや、この程度じゃプロは無理なんだ。今のは他人《ひと》の曲を模倣《コピー》して弾いただけだから……」
竜介は、週に一度か二度、銀座にある、いわゆる高級クラブにピアノを弾きに行っている。その副業《バイト》を始めた二十年ほど前は、一晩一万円であったのだが、じわじわと上がって二万五千円にまでになった。が、それ以上は上がらない。竜介は、その程度には稼げる、業界用語でいうところのカクテルラウンジピアノ弾きなのだ。日本では、これはプロの範疇《はんちゅう》には入らない。
「じゃ、さっきの質問に戻して。もう一度最後のところだけを弾くね……」
竜介が僅か五秒ほど弾いたので、まな美はちょっと不満そうに、
「……わかったけど、同じのが使われてるのね」
「そう、ショパンのフレーズがジャスの曲にも使われてるんだ。使った人は誰かというと、オスカー・ピーターソンというピアノ弾き――」
まな美は、知らないようである。
「華麗なるピアノで一世を風靡《ふうび》した、ジャズ界の大御所のひとりね。でも、彼はクラシックから入ってるので、それもコンクールに出るぐらいの熟度《レベル》だったから、当然ショパンのポロネーズぐらいは弾いてたわけさ……知ってて使ってるわけだね。だから、そこには何らかのメッセージが込められている」
「どういった?」
「この私の曲も、ショパンの曲のように、誰か弾いてよね……といったふうな」
「ほんとかしら――」
竜介の話は、いかにも嘘っぽい。
「で、ぼくが今弾いたのは、その彼が七〇年代に吹き込んだレコード――ソロ・アルバムからの模倣《コピー》なんだ。手の大きさが違うので、左手の和音は簡略化せざるをえないが、右手はまったく同じ音を出している……つもり。さて、一般的にジャズというと、即興演奏だというイメージがあるよね?」
「うん……」
まな美は自信なげに頷く。
「けど、こういったソロ・アルバムの曲は、家で猛練習をして、推敲に推敲を重ねた曲を、スタジオに持っていって録音しているわけさ。だから、その場で即興演奏、つまり思いつきで弾いてるわけじゃないよね」
「へー、そういうものなんだ……」
「だから、ぼくがさっき弾いた曲は、その当時のオスカー・ピーターソンのベスト。つまり完成作品なわけさ。じゃ、ショパン……彼が貴族の邸宅なんかに呼ばれて演奏会を開いたとき、彼は何を弾いたと思う?」
「えー、ショパンの曲じゃないの?」
「ショパンがショパンの曲を弾いても、客は喜ばない。ほぼ同時期《リアルタイム》にショパンの楽譜は出ているから、みなさん練習していて弾けるんだ。それをショパンが弾いたからといって、何が面白かろう――」
「それじゃ、ショパンは何を弾けばいいの[#「何を弾けばいいの」に傍点]?」
まな美は、浮いた足でじだんだ[#「じだんだ」に傍点]を踏みながらいう。
「ショパンは貴族のサロンでは、即興演奏をやっていたんだ。どんな演奏だったのかは録音は残ってませんが……自分の曲や、ベートーペンの曲とかを適当にアレンジしてその場で弾いたり、あるいは、自分の曲をしおらしーく弾いてるのに、いつの間にかそれが他人の曲に変わっていたりすると、客は拍手喝采して大喜びするわけさ。だからやってたことは、現代のジャズのピアノ弾きと変わらないんだ」
「えー、そんな馬鹿なことしてたの……幻滅」
「じゃ、ショパンの楽譜[#「楽譜」に傍点]というのは、あれは何だろうか?」
「……それは完成作品よね」
「そう。楽譜は、彼が推敲に推敲を重ねて作り出したベスト」
「じゃ、同じものなのね」
「そう。オスカー・ピーターソンのソロ・アルバムと、ショパンの楽譜というのは、同じ次元のものなんだ。みなさんショパンは大好きで弾かれるでしょう」
と、竜介はショパンの『夜想曲《ノクターン》・作品九−二』の有名なフレーズをつま弾きながら、
「だったら……オスカー・ピーターソンだって……みなさん同じように弾いてあげてもいいよね……」
(うん)
まな美は頷きかけて、気づいたようで、
「――あんな[#「あんな」に傍点]難しいの誰[#「誰」に傍点]が弾けるというのよー」
笑いながら怒っていってから、
「危ない危ない、おにいさんの誘導尋問に、もうちょっとでひっかかるところだったわ。ピアノ弾きながら催眠術[#「催眠術」に傍点]かけるなんてー」
いってる自分の話が可笑《おか》しくて、まな美はいっそう顔を綻《ほころ》ばせる。
「いや、リストの……リスト知ってるよね?」
崩れた笑顔のままで、まな美は小さく頷く。
「リストの『超絶技巧練習曲』とか『メフィスト・ワルツ』とかを弾こうと思ってる人だったら、オスカー・ピーターソンも弾けると思うんだけどなあ」
まな美は、凜《りん》とした顔に戻していう。
「――それはどんな次元《レベル》なのか、わたしには想像がつきません」
彼女も、少しはピアノは弾くのだ。叔母(竜一郎の妹)がピアノの先生だからである。竜介も、それで幼い頃から習っていたのである。
「ショパンコンクールというのがあるぐらいなんだから、オスカー・ピーターソンコンクールだって、あってもいいよね」
――同じパターンだから、もうひっかからない。
「おにいさん、そのコンクールに出るつもり?」
「そういう問題じゃなくって。オスカー・ピーターソンの楽曲も、ショパンの楽譜と同じように扱われるようになって、近い将来、そのようなコンクールが催されるに違いない……というのが、ぼくの予言[#「予言」に傍点]なんだ」
「ふーん、その予言は当たるといいわね」
まな美も、未来を見ているような目でいった。
まな美は大慌てで食事の支度を始めた。
「何のために来てたのか、すっかり忘れてたわ」
――部屋のグランドピアノを見た瞬間に、魔界に入ったのである。
「あら、おにいさんち結構いろんなものあるのね」
台所《キッチン》の棚を次々と開けながら、まな美はいう。
竜介にもそれなりの女性遍歴があるから、鍋釜の類いも、それなりに溜まっていくのだ。
畳一枚ほどの空間《スペース》しかない台所なので、竜介はピアノがある居間《リビング》で傍観していて、まな美に任せっきりである。
包丁をトントンいわせながら、
「――おにいさん、何か弾いてよー」
まな美が呼びかけてくる。
竜介としても、稼ぐためには日々の練習は欠かせない……得意曲《レパートリー》をざーと浚《さら》っていく……ほとんどがスローテンポのバラードか、映画の主題歌の類いである。バラードというのは西洋の歌謡曲のことだが、先ほどのオスカー・ピーターソンのバラードの模倣《コピー》などは、あのようには竜介は銀座のクラブでは弾かない。速度《テンポ》を半分か、それ以下に落とす。そうしないとまな美同様、客が驚いてしまうからである。驚かれると酒を飲む手が止まるから、それは、カクテルラウンジピアノ弾きとしては失格なのだ。
ならば、あの竜介の模倣《コピー》は何のためか……お披露目をする舞台《ぶたい》は元来ないんだし、|小遣い稼ぎ《バイト》にも満足に使えないんだし、それに、竜介程度の熟度をもってしても、オスカー・ピーターソンを弾くというのは至難の業で、しかもクラシックとは違い楽譜が完備されているわけではないから、竜介はレコードから音を起こし、それだけにでも膨大な時間を要しているのである……まったくもって自己満足の産物にすぎない。だが、誰もが弾けないような究極の曲を弾きこなす、それはピアノを弾くものにとっての、ひとつの夢であるのだ。
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10
「こんなに美味しいの、誰に教わったんだ――」
まな美が作ったのは、汁気がたっぷりとあるトマトベースのスパゲッティで、中には、ピーコックで仕入れた食材が色とりどりに入っている。
「……最近ママの得意料理になったんだけど、たぶんテレビからだと思う」
ふたりはグランドピアノの縁に並んで座って食事をしている。その天蓋が食卓《テーブル》でもあるからだ。
まな美がレシピを教えてくれるという。
「まず、たっぷりのオリーブ油《オイル》で、大量のニンニクの微塵切りを弱火でじっくりと炒めるのね。焦がしちゃ駄目なのよ。それに他の材料をすべて入れる」
「……えらく簡単なレシピだね」
「それにスパゲッティの煮汁を少し足して、中火でぐつぐつ煮るの。と同時にスパゲッティを茹で始め、茹で上がったなら具と混ぜて、塩と胡椒で味を調え、パセリの微塵切りを散らせば完成――」
「なるほど……煮るのか、スープ状になってるのは缶詰の方のトマトなんだね」
「そう、生《なま》の方は形が半分残るの。それとスパゲッティを茹でるときに、お塩をたっくさん入れるから、おにいさんちのお塩、全部使いきっちゃった……」
「ふむ……それは許そう」
そんな楽しい食事《ひととき》を終えて、まな美が後片付けを始めようとしたとき、部屋の電話が鳴った。
竜介が出てひと言ふた言喋ってから、
「――どうしたことか[#「どうしたことか」に傍点]」
と、その受話器をまな美に渡す。
「うん? 誰?……あっ、土門くん。どこから電話してるの?……渋谷[#「渋谷」に傍点]? 何してるの?……来るって?……どうしてえ[#「どうしてえ」に傍点]?」
といってる間に電話は切れた。
「雑音がざーざーひどくって……何かが見つかったから、それを持ってここに来る[#「来る」に傍点]っていってるのよ。駅についたら電話し直すって」
「ぼくが迎えに行くのか……」
「土門くん下北沢は知ってるみたいだから、電話で誘導してやれば十分よ。けど、信じられないわ」
「それはぼく[#「ぼく」に傍点]の台詞さ……彼はどうして、ここ[#「ここ」に傍点]の電話番号を知ってるんだ?」
「わたしは教えてないわよ――」
まな美は、ちょっと真気《むき》になっていう。
「おにいさんの電話番号なんて絶対[#「絶対」に傍点]に秘密だもん。わたし、お守り袋の中に入れて隠してるぐらいなんだから」
親類縁者はもちろん、付き合っていることは親も知らない秘密の兄妹なのである。
「それじゃ、彼はどこから仕入れたんだ……?」
土門家の骨董店がある上野広小路は銀座線の駅だが、東の終点が浅草、西の終点が渋谷なのである。だから土門くんは渋谷[#「渋谷」に傍点]に来ていたのだが、渋谷から下北沢というのは、これもまた目の鼻の先で、京王井の頭線で約五分……瞬く間に土門くんは、駅に着いて電話で誘導され、建物《マンション》の近くまでやって来た。
「鍵がかかってるから、降りていかねば……」
「放っといても大丈夫よ。下まで来ると電話かかってくるから」
冷たいことをまな美がいっていると、ピンポーンと部屋の呼び鈴が鳴った。
「あれ?」
まな美が出迎えて、玄関にある防音扉[#「防音扉」に傍点]を開けると、私服(Gジャンにジーンズ)を着た土門くんが、頭をひょいと下げながら入ってきた。
「外の入口、鍵かかってなかった?」
「……奇麗なおねえさんがいてはったから、火鳥先生ちにーいうたら、開けてくれはったでえ」
でれーとした顔で土門くんはいう。
この建物《マンション》の住人は、竜介を除いては全員音大生の女子なのである。
まな美はつんけんとした態度で、さっさと奥に歩いていく。続いて土門くんは部屋に入ると、
「うわ――」
といったきり、口をぽかーんと開けたまま部屋中を眺め廻す……与太《ぎゃぐ》でも模索している様子だが。
竜介は腕組みをしてピアノの横に腰掛けている。その隣の椅子に、まな美が座った。
土門くんは口を閉じてから竜介にペコリとお辞儀をして、
「自分どこに座ればいいんですう?」
バーカウンター用の椅子は二脚しかない。
「そこ――」
竜介は顎でしゃくって、ピアノの長椅子を示した。
土門くんは、その重たい雰囲気を察しながら椅子に座ると、
「うわ、これ誰が弾くんや――」
今さらのようにお道化《どけ》ていう。
「わたしが弾くのに決まってるでしょう」
まな美は強引な嘘をいってから、
「――土門くん、ここの電話番号をどうして知ってるの?」
こわい顔で訊いてくる。
「なんや、そんなんで怒ってたんか」
呆《あき》れたように土門くんはいうと、尻ポケットから携帯電話を取り出して、
「これ、さっき部室で貸してやったやろ」
「おにいさんちにかけるときに借りたわよ」
「これ、覚えてんねんで……」
と、まな美の目の前で、その携帯電話をぶらぶらとさせた。
「……なるほどねえ」
竜介は吹き出してしまった。
「えー、どんな仕掛け[#「仕掛け」に傍点]になってるのよ――?」
まな美は持っていないから知らないのである。
「神社仏閣もええけれど、文明の利器とも接せへんと、化石になってしまうぞう」
場が和《なご》んだと見て、土門くんは追い討ちをかけてくる。
「ここに何しに来たのよ――」
「えーもん持ってきたんやー」
土門くんは、薄っぺらい紙袋をグランドピアノの天蓋の上に置いた。それを、まな美が奪い取ろうとすると、う゛ぁーん[#「う゛ぁーん」に傍点]と大きな手で押さえ付け、
「あかんぞう[#「あかんぞう」に傍点]……そんなもん最初に出すかー、最初に出すとえーことひとつもないんやから、姫かて忘れもん届けるいうてたやんか、あれ出したんかー?」
超絶[#「超絶」に傍点]早口で土門くんはまくし立てる。
その紙袋は、まな美が両手で引っ張ってもびく[#「びく」に傍点]とも動かない。
「……まだよ。これから出そうと思ってたの」
拗ねたようにまな美はいう。
「きみたち[#「きみたち」に傍点]……」
竜介が声を掠《かす》れさせながら、
「ぼくは三つのことを提案したい。ひとつ、ピアノに衝撃を与えるのだけは許してくれ。これが狂うと調律するの大事《おおごと》なんだから」
――天蓋の上のものを総《すべ》て退《ど》けねばならんのだ。そこには本が堆《うずたか》く積まれてある。
「ひとつ、きみのその巨大な手は何だ。オスカー・ピーターソン級《クラス》だな。今からでも遅くない、シューベルトの例もある、ピアノを習うように」
「やったあ」
土門くんは嬉しそうにいうと、目の前にある鍵盤の蓋を開ける。
「……そして最後、もうどっちでもいいから、出すものがあれば出して欲しい。ぼくは病みあがりなんだ、きみたちの元気にはついていけない……」
「……おにいさん、おにいさん」
可憐な妹に戻ってまな美はいう。
「忘れ物って、カメラの中身のフィルムのことよ」
「あ、それは本当に忘れてた……」
竜介は実物を見て知っているから、なくても問題はなく、すっかり忘れていた。
「今朝学校の近くのDPEに出したから、もう写真ができてるのー」
まな美は鞄からその写真の束を取り出して、ピアノの天蓋《テーブル》の上に並べていきながら、
「でもね、わたし電車の中で先に見たんだけど、この写真は変だわよ。話と全然合ってないし……」
「どんな感じどんな感じ……」
土門くんも、立ち上がって覗き込んできた。彼は見るのは初めてである。
「まずね、絶対変なのは、お墓が立って[#「立って」に傍点]ないじゃない。これどう見たって、お墓ひっくり返ってるわよ。それもすっーごい斜面に」
「だーから落ちたの……」
力なく竜介はいう。
「だったら、幸ちゃんはどこ掘ってるの? こんな斜面を掘ってるの?」
「いや、甕を掘り出してるのは、このもっと上なんだ。十メーターぐらい上だと思うけど、そこに、猫の額ぐらいの平らな場所があって、その地面に穴が開いていた。そこの写真は撮っていない。それと、その穴のところに縄もあったんだ。あれ取ってくればよかったんだけど……もう二度と行きたくない」
竜介にしては弱気である。
「じゃ、お墓を誰かが下に落としちゃったの?」
「いや、人為的なものではないと思う。崖崩れがあったみたいなんだ。それに関しては写真があると思うよ。上の方に向けて撮ってるやつね……つまり、石が写ってないやつだけど」
「……たぶんこれかしら……でも、よくわからないわよ、草ばっかしで」
「それが正解。草で覆われていて状況が不明だということは、最近の崖崩れではないってことだよね。あの甕は、幸ちゃんの話によると、ちょうどひと月前に掘り出したそうなんだ。だから、その後に崖崩れがあったと考えるのは……ちょっと苦しい」
「じゃ、崖崩れはそれ以前[#「以前」に傍点]だったということ?」
「たぶんね。その写真に写ってるの、だいたいが笹なんだ。笹は竹の親戚だから、芽が出て増えるのは年に一回じゃないかと思う……だから、崖崩れも古いはずさ」
「えー……じゃ、この倒れてる墓石って、道からは見えるの?」
「いや、見えないと思った方がいいだろう」
「だったら、幸ちゃんは何を目印にして、甕を掘り出したの?」
「それはもっとも[#「もっとも」に傍点]な疑問だね。その墓石は……やはり板碑《いたび》だったんだけど、その話は後でするとして、この板碑以外にも目印があったらしいんだ。それは地面に石を積んだようなもので、高さは……あそこにあった石の量から考えて、これぐらいかなあ」
竜介は、西瓜ぐらいの高さを手で示しながら、
「その、石積みの真下を掘ったら、あの甕が出てきたという話なんだ」
「えー、それが目印になるの? 山の中で?」
「ならないよねえ……」
竜介も笑いながら同意してから、
「けどね、彼ら[#「彼ら」に傍点]だって一発必中、行ったらそこにあった、という雰囲気でもなさそうなんだ。あのあたりを徘徊《うろうろ》しまくって、ようやく見つけた、というのが真相じゃなかろうかと、ぼくは思うんだけどね」
「そやけど、見つけた[#「見つけた」に傍点]、いうんは凄いですよねえ」
「凄い[#「凄い」に傍点]。まさに執念の賜物さ。あれは夢[#「夢」に傍点]のお告げだといってたろう。だから毎晩毎晩同じ夢を見て、よほど気になったんだと思う。それに夢は、その甕を埋めるところの場面《シーン》なわけさ……ということは、その現場に当人がいて、その様子を見ていた可能性大だよね。たぶん、幼い子供の頃の体験なんだろう。そのときの何かが、もちろん記憶の類いなんだろうが、それが表[#「表」に傍点]に出てきたがってるわけさ」
「じゃあ、その甕を掘り出して、さらに、その蓋を開けちゃったんでしょう……するとどうなるの?」
「どうなったのかは、その当人を捕まえて聞くしかない……けど、謎の甕だということで鑑定に出されたところを見ると、事態はいっこうに好転せず、むしろ悪化してると考えるのが筋かな」
マサトが見た|異形の存在《ケダモノ》からいってもそうである。だが、それが甕とどう関わっているのかは、竜介もまだ核心には迫り切れずにいる。
「おにいさん、幸ちゃんからは、そのあたりのことは聞かなかったの?」
「いやいや、夢のお告げという話は、彼女自身のことではないんだ。旅館で話を聞いていたときから、変だなーと感じてたの。で、家を訪ねて話していて、確信を持ちました。あれは別人の話なのさ」
竜介は、土門くんの方に顔を向けて、
「――幸ちゃんは、いつ頃から、あーやってお告げお告げっていうようになったの?」
「自分の知ってる範囲では会ったときからやねんけど、……あの子ねえ」
土門くんがちょっと真面目な顔になって、
「小さい頃に、お母さん代わってはるんですよ。小学校の一、二年いうてかな……で今のお母さんとは、あんまうまくいってへんのですよ。幸ちゃんの実のお母さんの方は、生きてはるんかどうかは知らへんけど、幸ちゃんのお告げには、そのお母さんの形見の品が関係するらしくって」
「どんなもの?」
「それは教えてくれへんですよ。へんに尋ねようもんなら、祟るぞう、ていわれますから」
――竜介も同じことをいわれた。
「じゃ、そのへんの年頃からやってるんだなあ。するとけっこう年季[#「年季」に傍点]入ってるよね」
「……おにいさーん」
まな美が窘《たしな》めるようにいう。
「中学生の幸ちゃんに、その表現はないでしょう」
「いや、かれこれ六年間もお告げ生活をやってることになるだろう。それなりに上達するもんなんだよ。たとえば、ぼくが『恙堂』を訪ねて、幸ちゃんと会ったときのこと。彼女の第一声はというと……来ることが分かっていたから[#「来ることが分かっていたから」に傍点]、待ってたのよ[#「待ってたのよ」に傍点]……こんなこといわれるとドキッとするだろう?」
「……するわよね」
「するぞう……気色悪《きしょくわる》いぞう」
後のは、竜介が声色《こわいろ》を使ったことへの感想《コメント》だが。
「ところが、この文章には何の意味もない[#「何の意味もない」に傍点]。よーく考えてごらんよ。いや、よく考えるほどのものでもないが……」
「来ることが分かっていたから、来ることが分かっていたから、来ることが分かっていたから……」
ふたりともぶつぶつと呪文のように唱えてから、まな美がいう。
「来ることが分かっていた――かどうかは、会いに行った人には確かめようがないじゃない。勝手にいってることだもの」
「それにや」
土門くんもいう。
「待ってたわ……いわれたって、たまたま家におっただけかもしれへんやんか。家訪ねて来た人全員に、待ってたわ、いうて通用するもんな。それに家に不在のときには、待ってへんねやから、それは態度で示してるもんな……なーんて便利な言葉や」
「すなわち、全文を通して意味はないんだ」
「すると幸ちゃんは、そんな挨拶文をおにいさん[#「おにいさん」に傍点]に使っちゃったのね。……相手が悪すぎたわよねえ」
「肩もってどうするんだ」
「そやけど[#「そやけど」に傍点]」
土門くんが神妙な顔つきになって、
「自分らが会うた瞬間は、もっと凄いこといわれましたよう……なあ」
「そうだ。あのお告げは当たってたわよ」
まな美も、真顔でいう。
「何ていわれたの?」
「……いわれたことだけをいっても分からないと思うから、先に状況説明をしとくけど、わたしたちは三人の予定だったでしょう。でもマサトくんだけ遅れちゃって、その状態のときに、幸ちゃんに会ったのね。幸ちゃんは、マサトくんのことなんて絶対[#「絶対」に傍点]に知らないわけよ」
「『恙堂』の親父さんだって知らへんですよ。ひと言もいうてないんやから……」
「それなのに、幸ちゃんはわたしたちと会うなり、不思議そうな顔をして、ふたりなのー? ていってくるのよ」
「そんなん知るわけあらへんやんか……」
「で、きみたちは何て応えたの?」
「もうひとり、マサトくんという友達が遅れて来るといったわよ。すると幸ちゃんは、大丈夫、遅れるけど絶対に来るからって念を押してくれるの」
「そうやねん、天目はその時点で二列車遅れてますからね、日光で二列車の遅刻いうたら、もう来うへんのとちゃうかと自分は思てたぐらいですから」
「そのうえ、わたしの顔を見て、おねえさんには秘密の男の人がいるでしょう……ていうのよ。もうびっくりしちゃって」
「ふむ……」
竜介は腕を組み直して、足も組み直してから、
「その最後の、秘密の男性云々というのは、説明はいらないだろう……」
「えー、わたし、おにいさんのこと思ったのよ」
「ありがとう[#「ありがとう」に傍点]」
竜介は囁くようにいってから、
「けどね、十七歳の女子の心[#「心」に傍点]の中に、秘密の男性が皆目存在しない……なんてことはあり得ないじゃないか。これは百発百中当たるお告げなのさ。きみたちは、会ってひと言めで、相手のペースに嵌まっちゃってるんだよ。彼女は、ふたりなのー? て否定形の疑問文を提示してるだけなんだよ。三人だと思ってたのに違ってたわ……といってるわけではないんだよ。この質問形式だと、ふたり、以外はすべて答えになる。背中に守護霊が一体はりついてる、という顛末《おち》でもありなんだ。その無数に考えられる答えの中から、きみたちが勝手に回答を見つけだして、驚いてるだけなのさ」
「ええー」
まな美は納得できない様子で、
「じゃあ、もしマサトくんが遅れずに、三人が揃っていたとしたら、彼女は何ていうの?」
「同じこというと思うよ、三人なのー? て」
「でも、それだと顛末《おち》の部分がないわよ。歴史部って三人しかいないんだから」
「あるよ……たとえば、その夜ぼくが旅館に飛び入り参加をしたろう。それこそ誰も予想できなかった事態だから、そのときに……ほらやっぱり、お告げのとおりひとり増えた……とでもいえばいいのさ」
まな美はしばし沈黙してから、
「ねえ、土門くん」
土門くんの方に体を向けていう。
「おにいさんと幸ちゃんと、どっち取るっていわれたら、どっち取る?」
「…………」
「わたしなんだか、幸ちゃんの方を取りたくなってきたわ」
「どうしてだー」
背後から、低い声で竜介がいう。
「だっておにいさんの話、全然夢がないんだもん」
「――いや、こういったまがいもの[#「まがいもの」に傍点]を全部取っ払った後に残るものがあるはずだ。つまり本物ね。それが夢さ」
「……じゃ、幸ちゃんにも、その本物があるの?」
「ぼくの感触では……ある[#「ある」に傍点]と見た。けど、どういう形式のものかは今のところは分からない。それに幸ちゃんというのは、けっこう面倒見のいい子じゃないのかな?」
「――そうよ。すっごく親切に案内してくれたわ、ねえ土門くん」
「そうやねん。お告げさえいわんかったら、ええ子なんですよう」
「すると彼女は、同年代の子供たちの間で……霊能者というのは大袈裟だけど、心相談人《カウンセラー》や心治療師《セラピスト》のような役割を担ってる子じゃないのかな……だから、よろず相談事が彼女のところに舞い込む。それには、本物のお告げでもって応じているのかもしれない。で、今回の夢のお告げも、あれをお告げ[#「お告げ」に傍点]といわれちゃうから混乱するんだが、あれは心的外傷《トラウマ》に類するものだからね。その相談事が、幸ちゃんのところに持ち込まれた。で彼女は、その本物のお告げでもって、その夢に出てくる場所を特定するのに、力を貸した――」
「なるほど……それで見つけとんやったら、けっこう凄いお告げですよねえ」
「だから本物がある[#「本物がある」に傍点]……ていってるわけだけどね」
竜介は、まな美に念を押すようにいってから、
「けれど[#「けれど」に傍点]、幸ちゃんが力を発揮できたのは、そこまで。……そこから先は、彼女は持て余しちゃって、そしてきみが現れたので」
竜介は土門くんを指さしながら、
「これ幸いにと、彼女は甕を鑑定に出したわけさ。そしてぼくが現場を見に行って落ちた……というのが全体の大まかな物語《ストーリー》ね」
「へー、いやー」
と土門くんはいってから、
「けっこう分かりやすい話になってきましたよねえ。おにいさん名探偵ですよう」
「実はピアノもプロ級なのよ」
まな美がちょっと嬉しそうに補足する。
「いやいや、ピアノも名探偵も関係なく、ここまでの話は、いっちゃ何だけれど、お子供の世界なんだ。が、ここから先は冗談は通用しない――」
実際、竜介は運が悪ければあの世行きであったのだ。落石も、自然の落石などであるはずがないことは、竜介自身よーく分かっている。もっとも、余計な心配をかけるだけなので、妹と骨董屋の坊《ぼん》には話すつもりはないのだが。
「さて、ここから先こそが専門的《プロフェッショナル》な話ね。まずは、その写真に写っている板碑《いたび》の件だが……」
竜介は、壁一面の本棚とピアノの天蓋に積まれている本の山から、探しものを始めた。
土門くんは、写真の一枚を手に取って見ながら、
「ふーん……幸ちゃんけっこう正確な絵を描いてくれてたんやな……ヒトデよりも手の数は多そうやし、かといってウニいうほどでもないもんなあ」
旅館のときと似たような感想をいう。
そういった模様が、長さ約七十センチ、幅三十センチぐらいの石の板に、そのほぼ中央に刻まれてあるのだ。
「……なんか字ーらしきもんもあるんやけど、それは見えへんなあ……こういうのって水[#「水」に傍点]かけたらもうちょっとは見えんねんけどなあ……」
考えつくことは高校生も大学講師も大差ない。
竜介は、意外と早く見つけだして、
「ちょっと古い本なんだが、『墓紋の秘密』てやつね。まず……」
その本の頁を捲りながら、
「これなんだけど……旅館でさわりを話したと思うが、中国にあった景教の、その信者さんのお墓というのは、こういう感じの模様が描かれているんだ」
「あっ、ここにもウニヒトデ[#「ウニヒトデ」に傍点]がおるやんか」
四角い台の上に、それ[#「それ」に傍点]、その上に十字架といった取り合わせであるが。
「土門くん勝手に名前つけないでよー」
「……そのウニヒトデ[#「ウニヒトデ」に傍点]というの、とりあえず採用」
竜介はいう。
「これが何かということは諸説あって、定説がないんだ。下の四角い台座と、上の十字架は問題ないだろう。けど、真ん中のウニヒトデだけが|〈?〉《クエッション》なんだ。そして、その|〈?〉《クエッション》の紋様だけがほら――」
と、竜介は写真を指さす。
「そや。日光の山の中にあった墓石にも、同《おん》なじ模様が入ってるんや」
「――さあて、これをどう考えるかだが[#「だが」に傍点]――」
竜介が、腕組みをしながら捕物帳控のように見得を切っていると、
「……お墓の年代は分からなかったの?」
まな美が素っ気なく聞いてくる。
「残念、文字はほとんど読めなかった」
「……ひっくり返して、裏とか見なかったの?」
「無茶なこといわないように」
「じゃ、板碑というのは、どの程度の年代なの?」
「えーとね、一二〇〇年|丁度《ジャスト》ぐらいから作られ始め、一六〇〇年になると、ほぼ消えてしまうと思っていい。それと、板碑そのものは珍しいものではないからね。何万という数あるし、埼玉県が多いようだ」
さらに、まな美は聞いてくる。
「……景教とはいっても、キリスト教のひとつなんでしょう?」
「もちろん。バチカンから見れば異端だが、キリスト教のひとつであることには間違いがない――いわんとしていることは分かる。このぼくが撮った写真と、似たような|〈?〉《クエッション》の板碑も、何枚か見つかっているんだ。その中には、年代が分かっているのもある。一二〇〇年代のもあるんだ。で、それらの板碑をもってして、キリスト教は鎌倉時代にはすでに日本に伝来していた……と語っている研究者もいる。さあて、どんなもんだろうかねえ?」
竜介はふたりに問いかける。
「……どう思う、土門くん?」
「ふーんフランンシスコ・ザビエルが鹿児島着いたんは天文《てんぶん》十八年――一五四九年やからね。キリスト教伝来いう日本の歴史を、大幅に変えてしまうことになるぞう。それはちょっと許されへんなあ」
――自分たちのことは棚にあげていう。
「それにや、墓石に十字架が彫ってあるんやったら話は別やけど、ウニヒトデだけではあかんやろう」
「そうよねえ、中国の景教徒のお墓の模様《もよう》から、どうして十字架を消して、ウニヒトデを残さないといけないの? 十字架の方を使えばいいじゃない。鎌倉時代に切支丹《キリシタン》の禁止令が出てるわけでもないんだから……というわけで[#「というわけで」に傍点]、ふたりの意見は一致をみたわ」
「さすがは歴史部……」
竜介は拍手をしながら、
「ぼくもまったく同意見。でね、この|〈?〉《クエッション》を、その研究者たちは何だと見ているかというと、棗椰子《ナツメヤシ》だという主張なんだ」
「それは……楽園《ハワイ》なんかにある椰子の木の親戚ですかあ?」
――土門くんのいってるのはココヤシであるが。
「似たようなものだと思う。中東からアフリカにかけて、砂漠のオアシスなどにも自生している椰子さ。かんかん照りの場所だから、木陰を作ってくれるので、あのへんの宗教にとっては、聖なる木のひとつでもあるんだ」
土門くんは、中国の景教徒の墓の図を見ながら、
「そやけど……これが椰子の葉っぱやとすると、このお墓を作った人はせんす[#「せんす」に傍点]悪いぞう」
「……どうして?」
「十字架の下敷きにしたってしゃーないやんか。十字架の上に置いて、木陰を作ってやる、それが椰子の葉っぱの正しい使い方いうもんやでえ……」
「さて、ならば、真っ当な板碑の写真を見てみることにしましょう……」
竜介は、やたらと重い本を本棚から出してきた。
――『日本仏教史辞典』である。
その板碑の項を引きながら、
「これが、板碑の写真を大量に載せてくれているから、ゆっくりとご覧ください……」
竜介は、その分厚い辞書を天蓋《テーブル》の上に広げて置いてから、台所《キッチン》の方に入っていった。お茶を煎れるようである。
まな美と土門くんは、頭を寄せて覗き込みながら、頁を捲っていく。
「うわ……すっごい奇麗やぞう」
「おにいさんの写真のと全然違うじゃなーい」
「これは芸術作品やなあ、ええ値で売れるぞう」
「これ墓石よ……買う人いる?」
「外国に出すんや、部屋の飾りに十分使えるで」
「わっ、この阿弥陀三尊の光背《こうはい》の奇麗なこと……」
「重美《じゅうび》に指定されてるやんか、墓石が」
「あっ、種字《しゅじ》の板碑もあるんだ……」
「彫りが深いなあ……これ、キリクいうんやろう」
「そう、阿弥陀如来ね。土門くん悉曇《しったん》覚えたの」
「キリクだけ分かんねん。横に点点ついてるから」
「それ涅槃点《ねはんてん》っていうんだけど、点点ついてるのはたくさんあるわよ。勢至菩薩もそうだし、大日如来《だいにちにょらい》も、お釈迦さまも……」
竜介が、日本茶をお盆にのせて運んで来た。ただし大爆笑[#「大爆笑」に傍点]しながら、
「……なにがキリクだ。なにが重美に指定されてるだ。どこに点点がついてるって……きみたちの会話は、もう誰にも理解できないぞう」
竜介は、それぞれの前にやや大きめの湯呑を置いて、笑いが納まってからいう。
「……さて、今きみたちが見ていた板碑の、ほとんどのものに、ある共通の紋様がひとつ彫られているんだけど、気がついたかな?」
「どれ……」
ふたりは写真を見直しながら、
「あっ、蓮華座《れんげざ》だ――」
「蓮の葉っぱですよねえ」
「そう。その蓮華座が、ほぼ例外なく置かれてるはずだ。仏像の模様の下にも、種字の下にも、南無阿弥陀仏のような経文の下にも……」
「ほんとだあ……」
「それに、知ってるとは思うけど、蓮華座というのは仏教世界では最高位の台座だからね。天部《てんぶ》が座れないぐらいの」
「……てんぶって?」
土門くんは、小声でまな美に尋ねる。
「大黒天[#「天」に傍点]とか、梵《ぼん》天[#「天」に傍点]とか、帝釈《たいしゃく》天[#「天」に傍点]とか……古来のインドの神さまだったような存在」
まな美は、独特の節回しをつけていう。
「思い出した……荼吉尼《だきに》天[#「天」に傍点]とかもそうやなあ」
「じゃあ次、その蓮華座だけに注目して見てごらんよ、何かに気づくはずだから……」
「あ!」
即、土門くんが気づいていう。
「これがウニヒトデの正体やんか――」
「えー、そう?」
まな美には、そうは見えないようであるが。
「……輪郭線だけを比べてみたら分かるぞう」
土門くんが助言する。
「それに、その本にあるような重美や重文の板碑が、山の中にぼこぼこ立ってるんだったら、ぼくだって盗みに行っちゃうよ。大半の板碑はもっと出来が悪いんだ。彫りも深くはないし、風化もするし」
――重美というのは重要美術品の略だが、戦前の評価基準である。
「ほんとだあ……」
まな美も納得したようで、
「蓮華座だけ見てると、板碑の真ん中に蓮華がきてるというのも、けっこうあるのねえ」
「そういうこと……ぼくが撮った写真の板碑もその形式なんだ。蓮華の上の文字は、おそらく何かの経文のはずで、下は人名その他ね。それが全体的に風化してしまうと、真ん中だけが目立ってしまって、かくしてウニヒトデ板碑の誕生……」
「ふーん」
まな美が竜介の説明に頷いていると、
土門くんは素早く先廻りをして、
「そやったら、この中国の景教徒のお墓の|〈?〉《ウニヒトデ》も、とーぜん蓮の葉っぱやぞう」
嬉しそーにいう。
「うん、ぼくもそうだと思う」
竜介も同意していってから、
「――その景教徒の墓は、一番下は四角い台座だろう。これはまあ、宣字座ってところさ。その上に蓮華座を置き……いったように蓮華座は最高位の台座なんだから、その上に、景教徒《かれら》にとっては最も神聖な、聖なる十字架を置く」
そこまで喋ると、竜介はふたりの顔をざーと見渡してから、
「ここまでの話で、なんか変なところとか、不自然さとか、違和感とか感じられる?」
ふたりに尋ねる。
「いえ……ふつうの話ですけど、なあ」
「うん、違和感なんて全然感じられないわよ」
「ぼくたちにしてみれば、そうだよね。ところが、キリスト教の研究者――つまり現役《バリバリ》のキリスト教徒にとっては、違うんだ」
「どこがかしら?」
「どんなふうにですかあ?」
「ふつう蓮華座に座っているものといえば――立ってる場合もあるが――如来《にょらい》とか菩薩《ぼさつ》だよね。けれど、キリスト教にとってみれば、如来・菩薩というのは魔族に類するものなんだ。キリスト教は一神教だから、他の宗教の神や仏は、すべからく悪魔になるんだよ。しかも如来・菩薩というのは主仏級《ボスクラス》だから、悪魔族の長であるサタンに相当する。つまり蓮華座というのは、サタン専用の座布団なわけさ。そんな魔が魔がしいものに、聖なる十字架がのってるはずがないよね……」
「はっはーん」
竜介の説明(誘導尋問)に、土門くんはいたく感得した(見事に嵌まった)様子で、
「それで何とか椰子みたいなもんを、無理やり持ってきてこじつけるわけですねえ、説明上……」
「その棗椰子以外にも、たとえば、メノラーだとかいってる人もいる……七枝の燭台で、契約の箱の前に置かれてあった神具のひとつね。モーセの十戒の石板を納めていたのが契約の箱。けど、メノラーはユダヤ教の象徴《シンボル》なので、無理がある。形も全然似てないしね」
「そんなもん置いたら、十字架燃えてしまうぞう」
土門くんが嬉しそうに与太《ぎゃぐ》を放っていると、
「おにいさん……」
まな美はちょっと不安そうで、
「今でもキリスト教の人たちって、そんな感覚なの。バチカンのローマ法王と、チベット密教のダライラマは、握手したりするじゃない……」
「ま、握手はするけれども、キリスト教の教義が変更になって、多神教に変わりました……なんて話は聞こえてこないだろう。一神教である以上は、他の神々はいっさい認められないんだ。認めちゃうと、自分ちが崩壊するからね」
「……じゃあ、景教徒の人たちは、自分たちのお墓に、蓮華座を使うことには抵抗はなかったの?」
「いい質問だね。この|〈?〉《ウニヒトデ》を蓮華座だと断定して話を進めるが……景教徒にとっては、使うのは抵抗なかったと思うよ。というのも、景教というのは、キリスト教――つまりバチカンのキリスト教とは感覚が随分違うんだ。端的な例を示すと、ヨーロッパ大陸には、他の神さまはひとつも生き残ってないだろう」
「……そうなの?」
まな美は、不安そうにいう。
「実際、生き残ってないんだ。バチカンが全部殺しちゃったから……ね。ヨーロッパも、かつては日本と同じように八百万《やおよろず》の神々が跋扈《ばっこ》していて、面白い世界だったんだ……種撒きで退治されちゃったけど、ゴブリンやブラウニーなんかもいてね」
まな美は、えー、といった顔をする。
「でも、景教には、そういった過激さはない。もちろん布教はするんだが、その土地土地の風習や、他の宗教とも、穏やかに溶け込むといったやり方をする。だから中国にも受け入れられたんだけどね。それに吉備真備が長安にいた頃、景教の寺院が建ってはいたけれど、その信徒である中東の人たちは、もはや帰る国がなくて、半ば亡命状態なんだ」
「……あ、イスラムが台頭してきてるのよね」
「ちなみに、ササン朝ペルシアは七世紀半ばに滅ぼされてますからね」
「そやそや、もう玄宗皇帝のときに中国の西の端っこのタラス川で、イスラム帝国軍と戦ってるんや。そんときは楊貴妃さんがいてはって、玄宗はでれーとしてたから、戦《いくさ》には負けとおんやけどな……ちなみにタラス河畔の戦いは七五一年でーす」
「でも中国が頑張ってくれたから、イスラムは東には来れなかったんだよ。それにイスラムがあったから、バチカンのキリスト教は、東には布教できなかったんだ。つまり二重防波堤《ダブルブロック》で、日本は安全地帯で惚々《のうのう》としてたわけさ。ところが、バスコ・ダ・ガマが、喜望峰を廻ってくる航海路を発見しちゃったもんだから、その船に乗ってやって来たのは誰?」
「そや。フランシスコ[#「フランシスコ」に傍点]・ザビエル[#「ザビエル」に傍点]――」
大発見したかのように、土門くんはいう。
「その彼の弟子に相当する、イエズス会の宣教師たちを厚くもてなしてしまった、日本の戦国時代の有名な武将といえば誰?」
「えー……織田信長でいいんですか」
一転、自信なさそうにいう。
「あってるよ。その信長がキリスト教を養護していた年数なんて、高がしれてるんだが、その結末たるや、天草《あまくさ》のあの大騒動だろう。信長がもう少し長生きでもしていてごらんよ、日本から神や仏は一掃されていたか、もしくは大宗教戦争に発展していたはずさ。その信長を始末してくれた、奇特な武将といえば誰?」
「明智光秀ですよね」
「つまり明智光秀というのは、日本の八百万の神々にとってはもちろん、仏教界にとっても大恩人なわけさ。その明智光秀だと思われている、有名な僧侶といえば誰?」
「ひょ、ひょっとして……天海僧正ですよね」
土門くんが、急に神妙な顔つきになってきた。
「それが事実かどうかは別として、明智光秀イコール天海僧正だという説には、この種の連想が絡むんだ。つまり、その天海が作った日光東照宮というのは、単に家康の墓で江戸を護るものじゃなく、日本の宗教史上における要《かなめ》のモニュメントでもあるんだ。敵だったら……この聖域で悪さをするよね」
それに思えば、あの甕が埋まっていた場所は、慈眼堂(天海僧正の墓)のすぐ近くなのである。
「敵というのは、おにいさん……」
「いや、仮に敵がいたとしたら、の話さ」
竜介は、穏やかに語りながらも、奇妙な結論(およそ非科学的、非論理的)に自らを導いて内心ムッとしていた――アマノメの神や、ましてや八百万の神々などを擁護する立場には毛頭ないのだが、そのような敵《やから》がもしいたならば、竜介としては見逃すわけにはいかない。
――おれに石を投げたのは誰[#「誰」に傍点]だ。
嘗《な》めやがってえ。
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「なーんか自分が持ってきた資料、なーんや出すん嫌《いや》んなってきたなあ……」
気の抜けたような声で土門くんはいうと、蓋が開いたままになっていたグランドピアノの鍵盤に触れて、奇妙な音を響かせた。
「どうしたのよ、最初の勢いは」
「やーおにいさんの話聞いてたら、話の方向があっちやんか……」
「あっち、てどこなの?」
「あっちいうたらあっちやん……」
関西人の指示代名詞の|いい加減《アバウト》さには定評がある。
まな美は、そんな土門くんを放っておいて、竜介の方に向き直って尋ねる。
「するとおにいさん、この写真に撮った日光のお墓は、どういうことになるの?」
「いや、この板碑は、ぼくたちが冷静に考えていけば蓮華座の紋様にすぎず、それで決着さ。だが、これを中国の景教徒の墓の紋様の一部だと見做《みな》したい人にとっては、そうも見えるんだな。つまり、この墓はキリスト教系の聖遺物《モニュメント》であり、そのように使って、あの甕を埋めたということなんだ」
「それって、そんなふうに結論づけちゃっていいの?」
「なぜ、そんな結論が導かれるかというと、あの甕に文字が刻まれていたからさ」
「あ、たしかデミウルゴス[#「デミウルゴス」に傍点]とかいう、神さまの名前だったわよね」
「そう。つまりそのデミウルゴスが……あっち系[#「あっち系」に傍点]のものだからさ」
「やっぱりやー」
土門くんが、情けない声で合いの手を入れる。
「その、デミウルゴスって何なの?」
「いやーこれは難しい[#「これは難しい」に傍点]……」
竜介は、ピアノの天蓋に肩肘をつきながら、
「……たとえばね、キリスト教系の呪術師がいたとして、呪じないごとをやろうとした場合――甕の中に邪鬼などの封じ込めをしようとする場合、その甕の封印として、つまりその邪鬼の鎮めとして、どんなものを使えばいいだろうか?」
「えー……」
「日本やったら、摩多羅神《またらじん》使えばええですよねえ」
――それはつい二日前、土門くんが日光で覚えた話である。
「簡単だよな。けど、彼らにはそんな便利なものがない。その種のものは全部悪魔族だから、敵であり、キリスト教系の呪術師は使えないんだ。ならば甕の表面に聖なる十字架でも刻むか? そんな不敬なことはできないだろう。そこで、デミウルゴスという神をもってきているんだ。……いっとくけど、これはぼくの推測だからね。この神を呪術に使うなんてことが、何かの文献に出ているわけではない」
「でも、おにいさんの話だと、キリスト教って一神教なんでしょう。他《ほか》に神さまいるの?」
「ああ、何人かいる……何人[#「何人」に傍点]というのは可笑しいが」
竜介は自ら笑いながら、
「たとえば、コンスタンティノープルに六世紀に建てられた聖ソフィア大聖堂というのがあるけど、このソフィアというのは、知恵の女神[#「女神」に傍点]の名前だからね。東方教会はこの神を使ったが、西方教会《バチカン》は使わない。だから、他の神も使うことは使うんだ……で、このソフィアという神は、自分の知恵に奢《おご》ったものだから、天上界を追われて地上界、すなわち物質世界に転落してくる。そこでデミウルゴス[#「デミウルゴス」に傍点]を生んだ、という話もある。そのデミウルゴスが天地や人間を創造したんだが……けど、ソフィアは天上界に戻りたいがために、そのデミウルゴスと戦い、最終的にはナザレのイエスによって救済された……といったような話もある」
土門くんが、ついていけないとばかりにピアノの高音をぴーんと響かせた。
「……でもおにいさん、そんな話が聖書に書かれてあるの?」
「もちろんバチカンの聖書にはない。異端の聖書の方の話さ。三世紀頃までは、考え方の異なるキリスト教の宗派がたくさんあったから、その宗派ごとに聖書があったんだ。およそ八十種類ぐらいはあったといわれている。が、現在バチカンが使っているマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四種類の『福音書《ふくいんしょ》』を除いては、他は禁書として、一冊残らず燃やされてしまった」
竜介はニヤリと笑ってから、
「……はずだったのだが、一九四五年にエジプトの田舎町の洞窟から、それらの一部が出てきたんだ。これも甕に入ってね」
「あー、そんな話聞いたことあるなあ……」
「それはたぶん、『クムラン文書』の方だと思うよ。死海の辺《ほとり》の洞窟から出たので『死海文書』ともいうけど、ほぼ同時期の発見で、大騒ぎになったからね。クムラン文書は、旧約聖書の古い写本さ。エジプトの洞窟から出たのは、新約聖書の方の異端で、町の名前をとって『ナグ・ハマディ文書』と呼ばれる。が、こちらはバチカンにとっては全然[#「全然」に傍点]面白くない話なので、ぼくのような趣味人《ものずき》しか読まない」
「なま……」
「土門くんいいたい[#「いいたい」に傍点]ことわかるわよ」
「えー、いわしてくれえ……すとれす溜まるう」
彼はピアノ椅子の上で身を捩《よ》じっている。
「その、なまはげ[#「なまはげ」に傍点]文書の中に、デミウルゴスという神が頻繁に登場するんだ。ナグ・ハマディには幾つかの異端の聖書が含まれていたんだが、その最高傑作は、何といっても『トマスの福音書』。その書き出しはというと……これは隠された言葉である。これを生けるイエスが語った。そしてイエスと双子の兄弟であるユダ・トマスが書き記した……」
「イエスさんには、双子の兄弟がいたの?」
まな美はちょっと驚いたように、真顔で尋ねる。
「事実かどうかは確かめようがないだろう。それこそ、書いた者の勝ちさ――」
嘯《うそぶ》くように竜介はいってから、
「で、このデミウルゴスだけど、福音書の種類によって書かれ方は若干違うんだが、大ざっぱに説明すると、まずデミウルゴスという神は、天地や人間などの造物主であるということ……ところが、これらは物質世界なので、汚れている、穢《けが》れている、と考えるわけさ。この対極にあるのは、神が住まいする天上界。すなわち、穢れなき精神的世界ってことになる。で、これを突き詰めて行っちゃうと、肉体は悪であり、霊魂は善である、といった考え方にまで至る……こういった論法を『二元論』というんだが、キリスト教の異端と呼ばれている大半の宗派が、この『二元論』の立場をとっていると思えばいい」
「すると、その天上界の神さまって誰になるの?」
「うーんと、異端の間においては特に固有名詞はないんだ。たとえば……全《まった》き精神的な王国の主である真なる神[#「真なる神」に傍点]……といった長ったらしい表現はある」
「まったきーて何ですか? 松茸?」
「いや、漢字で書けばすぐ分かるんだが、完璧なとか、完全なとかいう意味ね。あっち系の聖典を日本語に訳した場合によく使うんだ」
「まったきーて何かええ響きですよね。まどろっこしー感じがして……まったきー」
「さて、この真なる神[#「真なる神」に傍点]というのは、結局はナザレのイエスと同等《イコール》なわけさ。だから、名前がなくても不自由はしないんだね。要するに異端[#「異端」に傍点]とはいっても、キリスト教である以上は、イエスは神である[#「イエスは神である」に傍点]、それが大前提だからね」
――イエスの神性すらも認めない『エビオン派』という例外的な異端もあるのだが、竜介は面倒臭いから喋らない。
「そうすると」
真面目に思考を巡らしている、まな美がいう。
「イエスさんと、デミウルゴスが敵対するって構図になるのね。でも二元論でいくと、デミウルゴスは悪なんだから、やっぱり悪魔族じゃないの?」
「いや、彼が天地や人間を創造しているから、悪魔というわけにはいかない……けど、その方向性は正しくてね、時代がずーと下がってきて、十世紀頃の『ボゴミール派』と呼ばれる異端になると、このデミウルゴスの代わりに、サタナエルという存在を置く。あとの物語は一緒ね。そしてサタナエルすなわちサタンだから、おっしゃる通りのことにはなる。でも、そこまで露骨になっちゃうと、宗教としての深み[#「深み」に傍点]がないよね。そう思わないか。宗教というものには深みが必要なんだよ。……嘘でもいいから[#「嘘でもいいから」に傍点]」
魔物のように竜介は囁く。
「深みか……いいこと聞いたわ」
まな美は何やら感得したようである。
「で、先にソフィアの話をしたろう」
「知恵の女神さまよね」
「そう、彼女は知恵の女神だから、どちらの世界にも存在できるわけさ。純粋《ピュアー》な精神世界にも、知恵で豊かになる物質世界にも。そして物質世界に転落したソフィアを、イエスが救済するという話だったろう。これは、知恵が邪悪《よこしま》なことに使われないように、そういった意味にも説けるよね」
「おうー、さっきは全然わからへんかったけど、今やったら全然わかるぞう」
「わかるように説明してあげてるの[#「の」に傍点]」
指でさしながら竜介はいう。
「でもねおにいさん、そのソフィアの話とかは、まったく真面《まとも》じゃない。それがどうして異端になってしまうの?」
「いや、ソフィア単独ならまだ許されるんだ。だから東方教会がかつては使ったろう。けど、二元論そのものが相容れない考え方なので、それで異端になってしまうんだ」
「じゃあ、今のキリスト教って、何元論[#「何元論」に傍点]なの?」
まな美もいってから、変な質問をしたと自覚したのだが、時すでに遅く、
「なんげんろんいうたら、家の数かあ……」
「ふむ」
竜介は怒ったわけではないが、ちょっと真剣な顔になって、
「西方教会《バチカン》、つまりローマ・カトリックの教義は、何とか論といえるようなもので説明できるほど、単純ではないんだ。数多《あまた》ある宗教の中でも、その教義の複雑怪奇さにおいては、最上位《ナンバーワン》だからね……も誰にも説明できないよ」
「おにいさんにも駄目なの?」
ちょっと甘えたように、まな美はいう。
「いや、アウグスチヌス[#「アウグスチヌス」に傍点]自らが……キリスト教の秘儀は啓示と信仰のもとでも理性による十分な把握は難しい……といってるぐらいなんだから、ぼくが説明しても、理性ある[#「理性ある」に傍点]きみたちが把握するのは難しいよね」
竜介ならではの捻くれ事をいってから、
「そのアウグスチヌスというのは、西暦四〇〇年頃の西方キリスト教会の、最大の教父《ボス》ね。彼のその言葉を訳するならば……矛盾点などには目を瞑《つむ》り、盲目的に神を信じなさい……てことになる」
さらに皮肉をいう。
「えー、そんなのありー」
「大ありさ。その当時ですら、神さんふたりプラス聖霊《せいれい》だったのに、今の西方教会《バチカン》は、神さん三人プラス聖霊なんだから。も誰にも説明できないし、も誰にも理解できないさ」
「……も何度も尋ねるけど、あそこは一神教[#「一神教」に傍点]なんでしょう?」
「そう、一神教だけど神は複数いるんだ。ソフィアとかデミ――とは違った、また別の神がね。ナザレのイエスは神[#「神」に傍点]、これは当然だが、そのイエスという人は、生前はユダヤ教の宣教師《ラビ》だったんだ。だから彼が信仰していた神は、ユダヤの神[#「ユダヤの神」に傍点]――つまり旧約聖書の神ね。ヤハウェの神ともいうけど、これがアダムとイブを造った天地創造・全知全能の神ね。そのヤハウェは、イエスが信仰していた神だから、外すわけにはいかないだろう。これでふたりね。そしてイエスを、そのヤハウェの子と位置づけたわけさ。もっとも、神の子とはいっても、神と同等《イコール》なんだけどね。けれど、イエスは直接ヤハウェから生まれたわけじゃないよね。ご存じのように、マリアさんが姙《みごも》ったわけだから……ならば、彼女の寝所にでも、そのヤハウェは忍んで行ったのだろうか?」
「うーん」
とまな美は、丸椅子《ストゥール》を回転させて土門くんの方を見やる。
「……自分は、清き正しき青少年です」
「どこがよ」
「いや、これにはヤハウェの神の性格[#「性格」に傍点]が関係するんだ。……話はちょい変わるけど、ギリシャ神話にはゼウス[#「ゼウス」に傍点]という神がいるだろう。オリンポスの山にあったとされる、黄金の宮殿に君臨していた主神ね」
ギリシャ神話は竜介の得意話《おはこ》で、ふたりは知らないが、決まって何らかの落語《おち》が用意されてある。
「そのゼウスの実の息子にヘラクレスという神[#「神」に傍点]がいた。九つの頭がある水蛇ヒュドラを退治したり、三つの頭がある地獄の番犬ケルベロスを捕まえたりと、八面六臂《はちめんろっぴ》の活躍をする怪力無双の英雄ね……そのヘラクレスの母親は人間[#「人間」に傍点]なんだ。アルクメネというんだけど、彼女にはアンフィトリュオンという婚約者がいた。その彼が戦場に赴いていて留守中に、ゼウスがその婚約者の姿に化けてアルクメネの家を訪れ、彼女を誑《たぶらか》して生まれたのがヘラクレス」
「……そんな無茶なことしたの[#「そんな無茶なことしたの」に傍点]ー」
そのときゼウスは、夜の楽しみを長引かせるために三日間太陽を空に昇らせなかったという話もあるのだが、竜介はそれは喋らない。
「ゼウスはそういう神なんだ。あっちこっちでそうやって子供作るもんだから、女神ヘラが怒るんだよ。ヘラというのはゼウスの正妻ね。で、怒ったヘラがゼウスを唆《そそのか》して雷を落とさせ、それに当たって燃えてしまったのが、バッカスの母親[#「母親」に傍点]……バッカスもゼウスの実の息子なんだ。母親は人間」
「めちゃくちゃな世界やなあー」
「……神々ってそんなものさ。けどヤハウェの神は、ゼウスのように人間味を帯びた性格《キャラ》じゃないんだ。これはユダヤ人の創作した神だが、ユダヤ人というのは、こっぴどく虐《しいた》げられていた民《たみ》なので、比例して、こっぴどく恐い神になったんだ。ちょっとでも気に食わないことがあると、ドンガラガラーン……とバベルの塔を壊してしまうようなね。だから、そのように恐いヤハウェの神が、マリアさんの寝所に忍んでくる……なんて図は、信者たちには想像できない。そこで、父のヤハウェ、子のイエス、そして母のマリアを繋ぐために、聖霊という仲介役を案出したわけさ」
「その聖霊はいいとして……おにいさん、今生きている神さまと、そんな神話になった神さまを、比較しちゃっていいの?」
ちょっと心配そうな顔でまな美はいう。
「全然平気さ。――神に上下分け隔てがあるわけじゃなし。ギリシャ神話の神々も、かつては信仰の対象であったんだから。それがなぜ、神々たちは死に、あのような御伽噺《おとぎばなし》になってしまったのかは、今さらいうまでもないよね」
「あ、自分思い出したぞう」
土門くんが何やらいい出した。
「……父と子と聖霊の御名《みな》において……いうお祈りの言葉いいますもんね」
「土門くん、意外なこと知ってるのね」
「自分そういう幼稚園行ってたんや」
「土門くんのお家はクリスチャンなの?」
「まさか[#「まさか」に傍点]ー」
遠吠えするようにいってから、
「ちがうねん、市立の幼稚園行く予定やったんやけど、くじ引きで母親《おかん》がスカ引きよったんや。四人中三人入れるのに、なんでスカ引くかなあ……」
「それでやむをえず」
「しゃーないやんか。神戸やからそういう幼稚園はいっぱいあんねん。それに日曜……なんとかも行ったで。一回だけ」
「日曜学校のことかしら、教会のことよね」
「思い出したぞう。行ったら判子《すたんぷ》押してくれんねん。みんな自慢しよるから、それが欲しいて一回だけ行ったんや」
「どんなスタンプ?」
「可愛らしーい、天使の判子《すたんぷ》や」
「さあ、気分を一新して」
まな美が仕切っていう。
「ふたりプラス聖霊までは分かったわ。もうひとりは誰?」
「マリアさんだよ。ナザレのイエスの母親の」
「えー、マリアさんも神さまなの?」
「西方教会《バチカン》では『教会の母』という表現をとっているが、実質上は神だと思っていただいて問題なし。十六世紀の宗教改革でプロテスタントと袂を分けたとき、その原因のひとつがこれ[#「これ」に傍点]だからね。だからプロテスタントの方は、彼女は神ではない。それと景教の祖であるネストリウスが、コンスタンティノープルの総主教の任を解かれて追放されたのも、彼女を教会の母とは呼べない、と彼がいったのが原因さ。たしか……四三一年のエフェソス公会議で断罪されたんだ。そして十九世紀半ば、ときのローマ法王が、彼女もまた汚れない懐胎《かいたい》で生まれた、と宣言しちゃったので、もう完全に神さま」
「それって、どういうこと?」
「イエスは……」
竜介はひそひそ声でまな美に説明する。
「マリアさんから処女懐胎で生まれた、聖霊が姙らして、といった話になってるよね。それを[#「それを」に傍点]、そのままマリアさんの誕生にも当て嵌めたということさ」
「そんなあ……」
「そやったら[#「そやったら」に傍点]、マリアさんのお母さんはどうなるんですかあ?」
土門くんが大きな声で問うてきた。
「皆そう思うよね。この考えでいくと、先祖にどんどん溯《さかのぼ》っちゃう。けど幸いなことに、聖書にはそのあたりの系譜はまったく書かれていないから、無理。これで三人プラス聖霊ね」
「それをどう説明しているの、キリスト教は?」
「それは、かの有名な〈三位一体《さんみいったい》〉という教義でね。三つの位格《ペルソナ》ひとつの実体……という説明の仕方だが、これにはマリアさんは含まれていないよ。父と子と聖霊が三つの位格《ペルソナ》だからね。で、このあたりを頑張って解説したのが、先のアウグスチヌスなんだ。彼は二十年近くもかけて『三位一体論』という労作を書き上げている。けど、その彼が、理性による把握は難しいといってるわけだから……ほら、振り出しに戻ったろう」
竜介の得意とする展開《パターン》である。
「ようするに、屁理屈[#「屁理屈」に傍点]やいうことですね」
引導を渡すように、土門くんがいった。
「まさにその通りさ。それに、そもそもイエス自身が……神おひとりのほかに、善いものはいない……と聖書の中で明言してるんだよ。神というのは、彼が信じていたヤハウェの神ね。だから彼は、自分が神になろうなんてことは金輪際思ってないわけさ。そのイエスの心を無視して、後世の信者たちは彼を神にした。聖霊も作って、マリアさんも加えてね」
「じゃ、いっそのこと多神教にしちゃえばいいのに、そんな屁理屈で繕わなくてもすむし」
「……残念。一神教の頑《かたく》なな性格はヤハウェの神に由来しているんだ。それをイエスが信じていたんだから、多神教には移れないだろう。つまり、キリスト教という宗教は、内に自己矛盾を二重三重に抱えてしまっているわけさ。そういう場合、えてして、外に向けられるんだな……」
「それで他の神さまを殺すなんて、勝手な話だわ」
憮然とした表情でまな美はいう。
「そう、身勝手な話だよねえ」
「……おふたりさん」
土門くんが割って入っていう。
「その神さんを殺したいうんは大昔[#「大昔」に傍点]の話でしょう。そんな神妙な顔で話さんでもええやんか」
まな美は、き、と土門くんの顔を睨みつけると、ピアノの天蓋に置き放しになっていた紙袋を、さっ、と奪い取った。
「あーあーあー」
まな美は、その紙袋から中身を取り出しながら、
「なにを持ってきたのよ……あら、洋書じゃない。バックスタンプス・オブ・エイジア……て?」
「それね、あれや」
観念したように土門くんはいう。
「陶磁器の製造|会社《めーかー》の印章の一覧表《かたろぐ》。ほら、甕の底に窯印が打たれてあったやろう。そういうのバックスタンプいうねん……天使の判子《すたんぷ》とは違うぞう」
土門くんの冗談《ジョーク》に冴えがない。
「骨董屋《みせ》にはそういう専門書《あんちょこ》いっぱいあんねん。それで今日行ってずーと見てたんやけど、日本のんには出てけーへんねん。中国のにも出てけーへんねん。おかしいなー思て、それで万が一思て、アジアのを探してみたら出てきたんや」
「どこ……?」
「拓本の紙切れが挟まってるとこや。……あの窯印、漢字やと思てたんやけど、違うねん。あれハングル文字やったんや。あんな小っちゃい枠にごちゃごちゃ刻まれてたら、区別つかへんぞう」
「あ、これね……」
土門くんが旅館で甕の底から写し取った拓本と、その専門書をまな美は見比べながら、
「……そっくりじゃない」
「当たり前や。それちょっとでも違うてたら、別の会社《めーかー》か贋作《にせもん》いうことになるんやでえ。特に洋物《ようもん》は、点が一個違うたぐらいで年代がころっと変わる場合があるから、骨董屋の生命線やねんで」
「この、横にある年代は?」
「それ『1960〜』て書かれてるやろう。それは一九六〇年以降はこの印章を使ってますよ、いう意味や。同じ会社でも年代によって印《しるし》を変える場合があんねん。そやから、自分の見立ては合うてたんやで。やっぱりあの甕は新物《あらもん》やねん」
「ふーん、韓国の甕だったのねえ」
「えらい[#「えらい」に傍点]――」
腕組みをしながらピアノに凭れていた竜介が、大きな声でいった。
「なんか怒ってはるんやろか」
「ううん、感動してるみたいよ」
「――よくぞ見つけた。これであの甕の正体がわかったよ」
「韓国でつじつま合うんやろかあ」
「あっちの話だったのにねえ」
「ふたりで四の五のいってないで、ぼくにも見せてくれるように……」
竜介は、まな美がしたのと同じように、その専門書と拓本の紙切れを見比べながら、
「……そうじゃないかと薄っすらとは思ってたんだが、これで止《とど》めを刺してくれたよ。いやーほんとよく見つけたね。きみ、意外なとこで役に立つねえ」
「へへへー、骨董屋ひとりおったら百人力ですよう。こういう細かーいとこで勝負すんのが、うちらの芸やから」
土門くんは揉み手をしながらいう。
「でもおにいさん、甕が韓国製ということで話は合うの?」
「うん、それで合ってるんだ……」
竜介はその専門書を天蓋《テーブル》の上に置きながら、
「あの甕はね、韓国の神道に関係するものなんだ。いや、朝鮮といった方が、いやいや、日韓併合以前の李朝《りちょう》といった方がいいかもしれないな。今もやり方が残ってるかどうかは不明《クエッション》で、なにぶん日本の占領時代に、その種のものは根こそぎ壊しちゃってるからね……」
「あっちの宗教と一緒やんか」
土門くんは控え目に悪態をついてから、いう。
「日韓併合は一九一〇年――」
「でも、甕に何かを封じ込めるやり方って、日本にもありそうだし、あちこちにあるんじゃないの」
「確かにある……千夜一夜物語《アラビアンナイト》に登場する、魔法のランプの精がそうだからね」
「えー、あー」
土門くんは心の中で絵本の頁を捲りながら、
「あれはランプを擦《こす》ったら煙りのように出てくるんやから……てことは、そのランプに封じ込められてたいうことか、わかりやした」
「その、ランプの精のようなものを、アラブ民話では総称して〈ジン〉と呼ぶ。もちろん、ジンは魔物や悪霊の類いで、たいてい壺や甕に入っているんだ。が、これは考えると変な話でね、じゃ誰がどうやって封じ込めたんだ? あるいはソロモン王の伝説でも、そのジンを彼は手なずけていて、壺に入れて持ち運んでいたそうだ。で時々出して命じて用事をさせるんだが……魔法の指輪[#「魔法の指輪」に傍点]とやらを用いてね。じやその指輪はどういうものなんだ?」
「おにいさん、わたしたちに文句いっても始まらないわよ」
「そやそや、孫悟空かて、かつて壺ん中に閉じ込められたことがあるぞう」
孫悟空は、土門くんの大好きな話であるが、
「それは……瓢箪《ひょうたん》じゃなかったかしら?」
「同《おん》なじようなもんや」
彼は出鱈目《あばうと》にしか覚えていない。
「たぶん瓢箪だった思うけど、大差ないさ。それに孫悟空の話は、たしか自分の名前をいったら、中に吸い込まれちゃったろう……これはこれで意味深な話だからねえ。で、そういった封じ込めの手法の、ごく洗練されたものが、朝鮮もしくは李朝の神道にあるんだ。こんな字を書くんだけれど……」
竜介は、天蓋《テーブル》の上に置いてあったメモ帳の塊《ブロック》にその文字を記しながら、
「……これでね、〈告祀《コーサ》〉と読むんだ。だからあれは〈告祀の甕〉てことになる」
「えー……」
まな美にとっては〈告〉も〈祀〉もよく見慣れた文字なのだが、その熟語は記憶にはない。
「……たぶん知らないと思うよ。呪術の類いの書物にはまず出てこないし、それに、朝鮮や李朝の神道の本ともなるとね……」
「そんなんよう知ってはりますねえ」
「いや、一度『呪詛』の本を書いてるだろう、そのときに学術文献の類いを漁ったから……でも本には書かなかったんだ。現実的《リアル》なものは外したからね」
その、竜介が外した呪法[#「外した呪法」に傍点]のひとつで、まな美は一度危ない目にあっているのだ。そのことは彼女は知らないのであるが。
「その告祀の甕って、どんなやり方するの?」
「呪じないの儀式としては、敵対する邪鬼や病魔などの神霊を、神将竿と呼ばれるもので甕の中に追い込み、封をして土中に埋めたり川に流したりする……それだけのことだから、これといった特徴はない。が、下敷《ベース》になってるものがあって、そちらが特筆すべきものなんだ。その当時、朝鮮半島の神の祭壇には、そもそも水甕を供えていたわけさ。何のためかというと、その水甕に神が宿る……つまり、神の依代《よりしろ》としてね」
「じゃ、それをそっくり裏返してるのね」
「そのとおり。そして祭壇に水甕を供える、これが大正解[#「大正解」に傍点]なわけさ――つまり、認知神経心理学的[#「認知神経心理学的」に傍点]にいって理屈に合ってるってことね」
「うーわー」
土門くんは、魔物が出てきたようにいう。
「おにいさん、わたしひとつ思い出したことがあるわ。神さまを駈籠《かりこめ》るって話なんだけど」
「かりこめる?」
「そう、駈籠る[#「駈籠る」に傍点]……この言葉が強烈だから覚えてるんだけど、宇佐八幡宮《うさはちまんぐう》の伝承にあるのよ。京都の石清水《いわしみず》じゃなくって、本家の方の宇佐ね」
「大分県の宇佐神宮のことだね。八幡さんの総本宮だから、たしかに本家だ」
――竜介のいった宇佐神宮が、現在の呼称である。
「その宇佐八幡宮の、『八幡宮宇佐宮|御託宣集《ごたくせんしゅう》』というのに出てくるんだけど、新羅《しらぎ》が関係する話なのね。でも、その御託宣集は鎌倉時代の編纂だから、それに話自体も怪しい話なんだけど……」
自信なさそうにまな美がいうと、
「えらいものを知ってるねえ」
「ついに新羅までさかのぼったかあ」
男ふたりそれぞれに呆れてから、
「ちなみに新羅国は九三五年に滅び、高麗《こうらい》国をへて、一三九二年から李朝となった」
土門くんは律義に注釈する。
「でね、新羅の王さまが、日本を欲しいと思っていたんだって……だから冒頭から変な話だわよね。そして自分に男の子が生まれたなら、聖人として崇めて霊力をもたせ、日本の守護明神を駈籠《かりこめ》たいと願っていたらしいの。その願いが叶って男の子が生まれ、その子は七歳のときに修行の道に入って、二十歳《はたち》ぐらいで心身無垢になったからと、日本にやって来るの。そして博多に着いて、日本の神々を次々と駈籠ていっちゃうのよ。それに呼応して、新羅の軍勢が、船に乗って日本にやって来ようとするの」
「待て待てえー」
土門くんが遮っていう。
「新羅はかつて一度も日本に攻めてきたことあらへんぞう。逆やったらあるけどー」
「そんなの知ってるわよ。だから最初に変な話だと断ってるでしょう、二回も[#「二回も」に傍点]――」
念を押すようにまな美はいってから、
「すると日本側も、また七歳の男の子というのが現れて、その子が空に昇って託宣[#「託宣」に傍点]するのね。だから御託宣集の中に出てくるんだけど……それに、空に昇って託宣する、なんてことはわたしは一切[#「一切」に傍点]知らないからね」
さらに念を押してから、
「で、その男の子が託宣するには……我は日本の鎮守八幡大菩薩|也《なり》……そして経緯《いきさつ》を話して、日本の神々が駈籠られているから、自分も今まさに駈籠られなんとしているから……そうだ、やはり水甕[#「水甕」に傍点]に駈籠られているのよ。その水甕を打ち破るために、力を貸して欲しいって男の子が頼むのね」
「そんなん、金槌《とんかち》で壊せばええやんか」
土門くんは手振りも交えていう。
「そんなの知らないわよ。たぶん、その水甕がどこにあるのかすらも分からないんだわ、きっと――」
「あっ、それ日光と同《おん》なじぱたーん[#「ぱたーん」に傍点]やないか」
気づいて土門くんはいうと、急に萎《しお》れてしまった。
「いや、水甕を金槌で壊しても駄目なんだ。蓋を開けても同様さ。告祀の甕それ自体は儀式にすぎないからね。奥義は別途あって、それに基づいて封印を解かなければ意味がないんだ」
さすがは竜介で、重みのある注釈を施す。
「そのとおり」
神のごとき啓示《たすけ》を得て、まな美は話を続ける。
「でね、その男の子がいうには、今日明日のうちに一万人の僧侶を請取《こいとり》て、西の方の霊山にいる釈迦大師に祈念し、『南無仁王護国般若波羅蜜経』を唱えるべし……というのね。これは怨霊退散に用いられていたお経らしいわ。そして僧侶たちは、その託宣どおりに勤行《ごんぎょう》をやったんだけど、なかなか破れなくて、それを三度やって、ようやく水甕を打ち破って、駈籠られていた神々を助け出した、という話なの」
「なるほどね……」
竜介は腕組みをしながら少し考えてから、
「ま、鎮守八幡大菩薩[#「菩薩」に傍点]というように、神仏習合の時代に編纂されている話だから、結末はそうならざるをえないよね。でも、それは告祀の甕とまったく[#「まったく」に傍点]同じものです」
「まったきー」
土門くんが力なく相槌をうつ。
「しかし、ほんとよく知ってるよねえ、きみたちふたりには驚かされてしまうよ」
「自分もですかあ」
「もちろん、きみはその世界のもう玄人《プロ》じゃないか。けれどもね、この種の伝承には、必ず真実が含まれているので、それ以上は深入りしないようにね。ぼくのようになってしまうから[#「から」に傍点]」
釘を刺すように竜介はいってから、お子たちに話せる話と、話せない話を頭の中で整理しつつ、
「……実は『古事記』にもね、そうではないかと思えるのがひとつあるんだ。孝霊《こうれい》天皇の項に出てくるんだけど、その子供の大吉備津日子命《おおきびつひこのみこと》と若健《わかたけ》吉備津日子命が、吉備《きび》の国を平定するときの話に……針間《はりま》の氷河《ひかわ》の前《さき》に忌瓮《いわひべ》を居《す》えて、針間を道の口として吉備の国を言向《ことむ》け和《やは》したまひき……という一文があるんだ。針間は兵庫県だから、吉備の国すなわち岡山県との国境のあたりに、その〈忌瓮〉を置いたという話ね」
竜介は、メモ帳に綴ってふたりに示しながら、
「忌瓮は、斎瓮《いわいべ》と書く場合もあって、要するに水甕のことだが、先の『古事記』の一般的な解釈はというと……清浄なる甕を置いて神を祀って先々の無事を祈る……てことになる。まあ、正邪どちらにも考えられるんだが、ぼくは邪の〈告祀の甕〉の方ではないかと思うんだ。これから蛮国を平定に行くわけだから、蛮神を先に駈籠ておくというのは、手だよね。それと忌瓮の前にある……針間の氷河……この言葉にひっかかるんだよ。兵庫県に氷河に相当する川がないわけでもないんだが、〈氷河〉といわれると、ぴーんとくるものがひとつあるよね?」
竜介は、まな美に問いかける。
「ひかわ……ひょっとして、氷川神社《ひかわじんじゃ》の氷川?」
「そう、ぼくは真っ先にそれを連想するね。その氷川神社のことは知ってるよね?」
「もちろんだわ」
まな美の顔がぱっと明るくなって、
「埼玉の大宮にあるんだから家の近くだし、それに祀られてる神さまが凄いもの。まず須佐之男命《すさのおのみこと》でしょう。それに大己貴《おおなむち》と奇稲田姫《くしいなだひめ》なんだから、も話題につきないわよ」
喜色満面の表情でいう。
「氷川神社の、名前の由来も知ってるよね?」
「とーぜん、高天原《たかまがはら》を追われた須佐之男が降りてきた場所が、出雲《いずも》の肥《ひ》の河《かわ》だから、それにちなんでるのよね」
「じゃ、その……」
竜介がいいかけると、土門くんが惚けた声で、
「おおなむち[#「おおなむち」に傍点]いうやつ、聞いたことあるぞう」
「日光で話したじゃない。幸ちゃんの旦那さまよ」
「あーあの話か、もうええわ」
「人の話の腰を折っておいて、もうええわはないでしょう」
「……きみたち、も何の話なんだあ?」
完全に呆れ顔で竜介はいう。
「それはおにいさんには話さなかったけど」
「あんなん話さんでええですよ。要するにですね、幸ちゃんは倭《やまと》ととひももそそそ……いわれへん、の生まれ変わりやと、自分のこというとんですよ」
「あー、箸墓《はしはか》の住人ねえ」
兄妹そろって同じことをいう。
「じゃ、その話は退《ど》けておいて……」
その、退けた話に秘密が隠されてあったのだが、竜介は気づかなかった。
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九時前に竜介にかかってきた電話で、まな美と土門くんは、これから先は大人の時間[#「大人の時間」に傍点]――と、急《せ》き立てられるように部屋から追い払われ、建物《マンション》の出入口の鍵も内側からかけられてしまった。
ふたりは、駅への迷路をとぼとぼと歩きながら、
「……あら、意外と人どおり少ないのね」
「こっち側はあれやねん。南口側がそれやから」
「いってることはだいたい分かるけど」
「そやけどな、南口側は四月とか五月とかには来たらあかんでえ」
「どうして?」
「大学生の歓迎コンパやと思うけど、夜すごい騒ぎになんねん。いなごの異常発生みたいやぞう」
「土門くんどうして下北沢詳しいの?」
「簡単な話。ここ骨董屋いっぱいあんねん。用事でときどき来なあかんねん。一番街にもあんねんで」
「なーんだそれで知ってるのね。彼女と来てるんだと思ってたのに」
「そんなもんおりません。自分姫一筋ですよう」
「嘘ばっかし……」
実際、彼がよくもてることをまな美は知っている。背も高いし、それに何といっても与太《ぎゃぐ》のせんすが。
「あら、まだ喫茶店開いてるわよ」
「けっこう時間遅いですよ姫」
「だって埼京線があるから、あっという間よ。土門くんこそ岩槻まで大変でしょう」
「いいや、自分鞄も制服も全部店に置いてあるから、これで家に帰ったら、あすは因幡《いなば》の素兎《しろうさぎ》やでえ」
骨董屋の坊《ぼん》だけあって、与太《ぎゃぐ》のせんすが違う。
そんなわけで、ふたりは路地裏にあった小さな茶店に入り、まな美は店特製の無農薬有機栽培ミックスジュースを、土門くんは小腹が減ったとサンドイッチを注文して、ふたりは感想戦[#「感想戦」に傍点]に突入した。
「そやけど、須佐之男《すさのお》の話してる思たら、ぱーとデミウルゴスに戻すんやもんな。おにいさんの話の先は見えへんなあ」
「けど、いわれてみればそうよね。天照大御神《あまてらすおおみかみ》と須佐之男の関係って、ソフィアとデミウルゴスの関係と一緒だものね。須佐之男も国津神《くにつがみ》を生んでるんだから、いちおう造物主ってことになるし」
「その後、須佐之男は冥界[#「冥界」に傍点]に降りていってるんやから、サタナエルと同《おん》なじぱたーんで、明快な話」
「だから須佐之男は、わたしたちの分類でいくと地獄神ってことになるのよね。だから天照《あまてらす》とVSだし、それにそもそも須佐之男が高天原《たかまがはら》で大暴れをしたから、天《あま》の岩戸《いわやと》の事件が起こってるんだし」
「そやけど姫が、天照と須佐之男は姉と弟で、あっちは母と子やとくれーむ[#「くれーむ」に傍点]つけたら、今度はぶわーとギリシャ神話に飛ばされましたもんね」
「あそこの神話も、神々の戦いに勝利した三兄弟で、誰がどこを治めるのか決めたのよね。ゼウスがオリンポスの山にある天界、ポセイドンが海……でもうひとりは誰といってたっけ?」
「ハデスいうてたな、それが冥界の神さんやろ」
「それを籤《くじ》で決めたとかおにいさんいってたけど、あれほんとかしら……でも日本の神話は、伊邪那岐命《いざなぎのみこと》が左目を洗うと天照大御神が生まれ、右目を洗うと月読命《つくよみのみこと》、そして鼻を洗うと須佐之男命が生まれて、天照が高天原、月読が夜の国、そして須佐之男が海原《うなばら》と分けたはずなのに、でも月読って、月のことだけで殆ど何もしないのね」
「しゃーないもんなあ、誰どかんぞが冥界の面倒をみーひんと、これも明快な話」
「そしてギリシャ神話の話をしてるかと思いきや、それを宇佐八幡宮にずらすんだから」
「そやけどよかったですね姫、積年の謎が解けて」
「あんな解き方ってありかしら……たしかに、宇佐八幡宮に祀られてる一番古い神のヒメガミは、宗像《むなかた》三女神の総称であるというのが通説で、天安河《あまのやすかわ》をはさんでの誓約《うけい》のときに、須佐之男の十拳劒《とっかのつるぎ》を、天照が貰い受けて……三段《みきだ》に打ち折りて、瓊音《ねなと》ももゆらに天《あま》の眞名井《まない》に振り滌《すす》ぎて、さ噛《が》むに噛《か》みて吹き棄《う》つる気吹《いぶき》のさ霧《ぎり》に成《な》れる神の御名《みな》は……」
「そんな『古事記』朗読せんでもええやんか」
「ここすごく奇麗な文章なのよ……で生まれたのが多紀理毘売命《たきりびめのみこと》と市寸島比売命《いちきしまひめのみこと》、そして多岐都比売命《たぎつひめのみこと》の三女神ね」
「それ、要するに剣《つるぎ》を噛んでるいう話やろう、すごい歯やなあ……そやけど、噛んでる天照から生まれたんやと、普通思うもんな」
「でも違うのよね。おにいさんの部屋《とこ》で『古事記』読ましてもらったでしょう、すると後の会話文で、その三女神は……物實汝《ものざねいまし》が物によりて成《な》れり、故《ゆえ》、すなわち汝《いまし》が子ぞ……て天照がいうんだものね」
「噛んだんは自分やけど、汝《なんじ》の剣から生まれてるから汝の子や。筋はいちおう通ってますよ」
「でも」
まな美は、夜の茶店の天井を仰ぎ見ながら、
「その文章のおにいさんの解釈ときたら」
「その三女神は須佐之男のくろーん[#「くろーん」に傍点]……そのひと言で決着。なんて明快な話やろ」
「腹が立つわよね、あんな簡単な話にされちゃうと」
「そやけど、それで全部つじつまが合うんやろ」
「それが合うのよね……」
まな美はがくっと頭垂《うなだ》れて、ミックスジュースをストローでひと口啜ってから、
「弓削道鏡《ゆげのどうきょう》事件でも、皇位の継承問題になぜ宇佐八幡宮が口出しできたのか、その神託に、道鏡も称徳天皇もなぜ柔順に従ったのか……それは宇佐八幡宮に祀られているヒメガミが、須佐之男の子供であり、それも奇稲田姫《くしいなだひめ》と結ばれて国津神を生む以前の、須佐之男の最初の子供で、しかも須佐之男の分身《クローン》であると考えると、納得しちゃうわよね」
「そやけど、そやったら須佐之男を直接祀ってる神社の方が上ちゃんのん?」
「そんな神社当時あったかしら……」
まな美は少し考えてから、
「出雲大社には祀られてるけど、大国主命が主祭神で、須佐之男はおまけ[#「おまけ」に傍点]だからね。それと京都の祇園さんがそうだけど……八坂神社《やさかじんじゃ》のことよ。でも、これは祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》というインドにあったお寺が元で……お釈迦さまが説法をしていたという有名なお寺ね。そこの守護明神の牛頭天王《ごずてんのう》に、後から須佐之男をくっつけているから、やはり駄目よね。それに八坂神社はそれほど古くはないし」
「……祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
土門くんが、心を込めて平家物語の冒頭の部分を諳《そらん》じた。
「その続きは?」
「えーと、……姫いじわるやなあ」
土門くんは、サンドイッチを頬ばった。
「やっぱり、須佐之男を祀ってる古くて大きな神社はないわね」
「そやけど……ヒメガミを祀ってる神社で……他に大きいとこないの?」
「もちろん、宗像大社《むなかたたいしゃ》があるわよ。けど、ここは三女神の内の二女神の社《やしろ》が、玄界灘の上に、ぽつぽつと島としてあるから、そう簡単には神託は貰いに行けないでしょう」
「……姫もいうなあ」
「それに三女神は、まず宇佐に降臨して、その後に宗像に移ったというのが『日本書紀』の伝承なのよ。だから本家は宇佐で、やはり宇佐八幡宮が天皇さんにとっては第一位《ナンバーワン》。そして、貞觀《じょうがん》元年に京都に勧請してきて、天皇さんは、その岩清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》の方に日参するのね。二百回以上も行幸《みゆき》してるんだから」
「ふむ、千百年間ぐらいで二百回やから、割り算したら日参いうんは無理やでえ」
「でも伊勢神宮の方には、明治以前は、天皇さんは一度も行ってないんだから、それと比べると日参[#「日参」に傍点]でしょう」
「えー、一回も行ってへんの?」
「そう、一度も行ってないわよ。この理由は簡単よ。伊勢神宮には天照大御神を祀ってるんでしょう。でも天皇さんには、皇祖霊として天照が降りているんだもの。だから、自分が自分に会いに行っても仕方がないし、それに神託を貰ったとしても、自分が自分の神託に従うというのも変でしょう」
「なるほど、簡単にいうと、伊勢神宮は空っぽやいうことやなあ」
「天皇さんにとってはね。そして、その天皇さんが、徳川の世が終わって、東京にやって来て、一番最初に行幸したのはどこか知ってる?」
土門くんは三秒ほど考えてから、
「わかった。それ須佐之男を祀ってる氷川神社やろ」
「当たり……やっぱり全部辻褄合うわよね」
「麗《うるわ》しき姉弟《きょうだい》愛いうとこやなあ。そやけど、その氷川神社は古うないんか?」
「ううん、これは全然古くないの。数はけっこうあるみたいだけど、関東にしかないのね。ちなみに宇佐八幡宮を総本宮とする八幡さまは、三万とか四万とかあって、日本で一番多い神社なのよ」
「さすがやな……地獄神ほど御利益が多いという方程式もあるもんな。そやけど、うちら[#「うちら」に傍点]の地獄神VS太陽神いう考え方も、けっこうええ線いきますよね。これで全部説明できるもんな」
「でも、それはおにいさんがいってた『二元論』なのよね」
「あ、するとうちらも異端[#「異端」に傍点]やぞう」
それが喜ばしいことであるかのように、土門くんはいう。
「けどね、おにいさんギリシャ神話の話してるときに、アポロンについて、ちらっと喋ったでしょう」
「ゼウスとは別に、太陽神がおるんやね」
「だから、それを天照と比較するんだろうと思っていたのに、それはなしで、尻切れとんぼだったわよね。それと、おにいさん全然話してないことが一個あるのよ」
「なんかあったかなあ?」
「祭壇の水甕は、認知神経心理学的にいって理屈にあってる、て話」
「あーあー、けどあれ喋られてもうちら[#「うちら」に傍点]には理解でけへんぞう」
「そうかしら……おにいさん面倒臭いもんだから、今日は半分ぐらいしか喋ってないわよ、きっと」
「あれでかあ、自分もうお腹いっぱい」
土門くんはサンドイッチを食べたからである。
「姫が、おにいさん凄い凄いいうてたけど、自分今日で十分理解しました。あの人の頭ん中にはやな、全世界の神さんや魔物や呪いや宗教史が全部入ってんねんで。それも歯車が噛みおうてるから、どの話からでも、ぴっと別のとこに飛んで行けんねん」
「でも、たぶんその知識を、すべて脳の話でも説明しきれるんだと思うわよ」
「うわー、まさに何元論[#「何元論」に傍点]の世界やないか。そやけど、姫が新羅の話してたときに思たけど、幸ちゃんが拾ってきた甕は気色悪いなあ……凄い怨念こもっていそうやでえ。あんなんと喧嘩できるのん、姫のおにいさんぐらいや」
「それとねえ」
まな美が、小悪魔の顔に変身していう。
「今日おにいさんの秘密ひとつ見つけちゃったわ」
「どんな秘密?」
「あそこピアノ置いてあったでしょう。あれわたしが弾くんじゃなくって、おにいさんが弾くのね」
「そんなこと念を押してもらわずとも」
「それで、わたし今日夕食を作りに行ってたでしょう。四十分ほどかな、わたしが台所に入っている間、ずーと弾いててくれたのね。すごく上手なんだけど、なんだかね、わたしホテルのロビーにいるみたいな気分になってきたの……」
「ほてるのろびい?」
「あれね、おにいさん、ひょっとしたらバイトしてるんじゃないかと思うわ」
秘密はどこから漏れるかわからない。
「姫もなかなか探偵しますねえ。じゃ、ご参考までに、おにいさんが住んではったあの部屋な、家賃ものごっつう高いでえ。金庫みたいな作りやったし、それに場所が場所やからな……ばいとせーへんと持たへん思うぞう」
「大学まじめに行ってるのかしら」
「落第したって知らんぞう」
「それにね、台所《キッチン》の棚を開けると……」
ふたりは内緒話に夢中になっていて、男がひとり茶店の扉《ドア》をくぐり、すぐそばまで来ているのに気がつかなかった。
「きみたち[#「きみたち」に傍点]――」
「うっ、ひゃー」
「おにいさんどうしてここにー?」
「大人の時間だといったろう。飲んだね、食べたね、じゃ奢ってあげるから、とっとと家に帰るように」
悪戯《いたずら》がばれたときの子供のように、ふたりはそそくさと席を立ち、伝票を残したまま(お礼の言葉もなく)出口へと急いだ。
店のガラス扉の向こうに、紺色のツーピースを着たすらりとした女性が立っていた。扉を開けると、その女性の方から軽く頭を下げてきたので、ふたりも同様にして挨拶を交わした。そして入れ違いに、その女性は店の中へと入っていく。
ふたりは暫く小走りに駆けてから、
「――見た?」
「見たぞう」
「誰かしら?」
「すんごい奇麗なおねえさんやったなあ……」
土門くんは、東京の夜空に星を探しながらいう。
「えー、おにいさんの彼女かしら」
まな美がちょっと不服そうにいうと、
「そらおにいさんにかて彼女ぐらいはいてはるやろうに。自分にも姫がおわしますように」
「ええ[#「ええ」に傍点]ー……」
そしてふたりは駅まで来ると、まな美は小田急線に、土門くんは京王井の頭線と、それぞれに別れて帰宅の途についた。
一方、店の方では、
「困ったものさ、あのふたりには……」
「でも今の都会の高校生だと、門限は十二時ぐらいが普通ですよ」
優しい喋り方をするこの女性は、竜介が室長を務めている大学の研究室の助手・西園寺静香である。
「いや、ふたりとも凄い知識なんだ。悉曇《しったん》は読めるわ、真言《しんごん》は解るわ、それに背の高い男の子の方は、壺は鑑定できるし、和暦を瞬時に西暦に変換するし、なんと中国暦まで知ってるからねえ」
「学校で習ってるわけじゃありませんよね」
「歴史部という懐古的《レトロ》な名前の部《クラブ》にいるんだが、何をやってるかと思いきや、その知識でもって神社仏閣の秘密を次々と解き廻っているんだ」
「お寺や神社の秘密をですか」
「それが半端じゃないからね。かつて僧侶や神官が極秘裡にやっていたことを、ものの見事に暴いて、それを文化祭で発表するというんだから……も笑ってしまうよ。やってることは博士論文|級《クラス》だからね、迂闊なことを喋ると、すぐに突っ込まれて、だから胡麻化すのが大変なんだ」
まな美の想像が当たっていた。
「じゃ、さっそくですけれど」
静香はいうと、書類鞄から紙の束を取り出した。
「さすがに素早いねえ」
「検索自体は簡単ですから。先生のおいいつけどおり、イヌ・ネコ科の動物と、霊獣や神獣、そして獣《けもの》、ケダモノ、野獣、猛獣といった単語類……それでよろしかったんですよね」
「それが[#「それが」に傍点]大変だったろう」
今日の朝、大学を休むことを告げたさいに、竜介は彼女に頼み事をしていたのだ。
「霊獣と神獣は研究室にありましたし、イヌ科も大学の図書館にあったんですが、意外と、ネコ科がなくて……ペットの猫の本ならあったんですが。野生ネコの事典はサイトで見つけて、中西《なかにし》くんに買いに行ってもらいました」
「最近中西は太りぎみだから、いい運動さ」
中西とは院生の男子だが、もうひとり五月女《さおとめ》という院生の女子もいて、それに助手の西園寺と講師の火鳥を加え、『情報科』は総勢で四人という小さな研究室である。
「検索は、過去二か月でよろしかったんですよね」
「うん、それぐらい見てみれば、様子がわかるはずだから」
「ひっかかってきたのは、けっこうあるんですよ」
静香は、コンピュータから|打ち出《プリントアウト》された紙の束をテーブルに置いて示しながら、
「そして不思議なことにですね、ひと月前あたりから、その種の書き込みが増えてくるんです」
「やっぱりね……」
竜介の研究室では、独自に『超常現象同好会《オカルトクラブ》』というインターネットの会議室《フォーラム》を主催していて、誰彼なく自由に書き込みができる。過去の書き込みはすべて保存されていて、静香が持ってきた資料は、そこからの検索なのである。
「九月だけで約七十件ありました。ですが、八月は僅か五件ですから、急激に増えたことになります」
「すると、夏休みの最後の日、誰かが甕を掘り出したのが、分岐点ってことだな……」
「どういうことなんですか」
竜介は事の経緯《いきさつ》を、ざーと静香に説明していった。
西園寺静香は、世田谷区成城に家があり、最寄り駅の成城学園前までは、小田急電鉄を使って下北沢から約七分と近い。竜介も、彼女の自宅の前までは、一度だけタクシーで送って行ったことがあるのだが、どこの令嬢かと驚いたほどの、大豪邸の住人でもある。両親と住んでいるらしく、歳は竜介よりもちょうどひと廻り若くて、まだ独身である。
だが、彼女の日常の生活ぶりは質素で、竜介が見てそれと分かるような高級《ブランド》品は、一度も身につけて大学に現れたことはない。乗っている車もごくありふれた四ドアの国産車《セダン》で、今日はその車で来ているからと、帰宅の途中に寄ってくれたのだ。車だから、|お酒《カクテル》を一杯というわけにはいかず、それに夜の下北沢は開いている茶店は限られるので、だから、まな美たちと|鉢合わせ《バッティング》したのだ。
静香は、まな美が竜介の異母妹であることを知っている。だが竜介は、彼女が桑名老人の遠縁にあたる娘で、そして天目マサトとは血の繋がりがあることを……知らない。
「そうしますと」
事のあらましを聞き終えた静香が、竜介に問う。
「その告祀の甕の下敷《ベース》になっている、祭壇の水甕、これは先生に一度お話をお伺いした、ギリシャのアポロン神殿と同じものなのでしょうか」
「そう、同じものさ。朝鮮半島の方も、巫女がその水甕に仕えるんだ」
「じゃ、アポロン神殿のピュチアの巫女と同じなんですね」
「驚くほど一緒さ。神道では、この種のものを神の依代《よりしろ》だと……常に宿っているわけではなく、神霊が降りたときに依りつく場所ね……そう表現しちゃうから分かり辛《づら》いが、実際には、水甕は神託を得るための道具[#「道具」に傍点]、それ以外の何物でもない」
「すると、やはり幻視が見えるわけですね」
「そう、見える[#「見える」に傍点]……もっとも、甕に水を張らないと駄目だけれど。神託や託宣というと、神の言葉[#「言葉」に傍点]だと思ってしまうが、元にしているのは映像だからね。でも、巫女に見えたその映像は言葉でしか他人には伝えられないので……これも勘違いの種だよね」
「どの国も、神託といえるようなものは、この形式なのでしょうか?」
「うーん、公になってるものは違うね。殆ど違うといっていいね。原始宗教《シャーマニズム》で分類されるところの、いわゆる〈脱魂《だっこん》型〉か〈憑依《ひょうい》型〉のどちらかさ」
「すると、アポロンの神託や朝鮮半島のそれは、例外的なのですか」
「いや、そういうことじゃなくって、公[#「公」に傍点]にはなっていない……てことね。神託の実践方なんてことは、その宗教にとっては秘儀中の秘儀だから、そうおいそれと公表[#「公表」に傍点]されるはずがない……その、隠されている大半が、逆にアポロンに類するものではないかと、ぼくは睨んでますけどね。それとアポロンの神託の奥義も、実は公表されているわけではないんだよ」
「……といいますと、あのお話は先生の推理ということですか」
「いや、推理といえるほどの大それたものじゃない。魔術系の書物を見ると、水晶占いの項に、水晶玉や、あるいは、大釜に水を張って凝視していると幻影[#「幻影」に傍点]が見えてくる、とちゃんと記されてあるからね。ところが、学者さんが書いた宗教学の本には……ミルチア・エリアーデの『世界宗教史』紹介したよね?」
「はい、今読んでいるところなのですが、分量《ページ》が多いですし、それに知らない言葉だらけですから」
静香は、今年の春から竜介の研究室に加わり、それ以前は情報工学が専攻であったから、まったくの畑違いなのだ。なおかつ本業の認知神経心理学の方も習得《マスター》しなければならず……『世界宗教史』を読破しろというのは無理な注文である。
「まあ、最初の内はそんなものですよ。その『世界宗教史』の中で、アポロン神託所については事細かに述べられている。伝承によると、巫女のピュチアは、神殿の地下にあった洞窟に降りていき、その底には大地の裂け目があって、そこに鼎《かなえ》が置かれてある……鼎というのは、要するに大釜のことね。で、その大地の裂け目から、超自然的な力をもつ蒸気が立ち昇ったとされる」
「じゃ、その蒸気を吸ってピュチアは神懸かり状態になったと……」
「それが世界標準の百科事典の説明ね。けど、エリアーデ氏は、もっと真面《まとも》な解説をしてくれている。デルフォイのアポロン神殿の地下を発掘したことがあって、大地の裂け目はおろか、洞窟すらも発見されなかったそうだ」
「じゃ、単なる伝承だったということですか?」
「いや、脚色[#「脚色」に傍点]だったということね。誰のどの時点の脚色かは知らないが。けれど、鼎とピュチアは実在[#「実在」に傍点]した。そのことは、アポロン神託所が現役であった頃に生きていたギリシャの哲学者・プラトンなどが書き残しているからね。それにピュチアの図像なども残っていて……静寂で、穏やかで、そして集中した姿に描かれている。これらのことから、エリアーデ氏の解説はというと……ピュチアにはヒステリー性の恍惚状態[#「恍惚状態」に傍点]も、密儀タイプの憑依[#「憑依」に傍点]も認められない。忘我《トランス》をもたらす自然現象――大地の裂け目からのガスもない。それでいてなぜ神託が可能だったのか、ピュチアによる自己暗示か、予言者による遠方からの暗示《テレパシー》か、いずれにせよ事実は何もわかっておらず、依然として謎である……とね」
「すると、その鼎《かなえ》が神託を得るための、つまり幻視を見るための道具だったということに、彼は気づかなかったのですね」
「さあ、どうだろうか……」
竜介はあやふやな受け答えをしてから、
「ミルチア・エリアーデといえば、二十世紀でも最高の知性のひとりとして数えられる人物だ。その彼が、こんな単純なことに気づかなかったのか? 彼は魔術系の書物などは一切読まないのだろうか? そのアポロン神託所について述べた直後の章で、彼が語るには……幻視はアポロンからの贈り物。これによって、あらゆる悪魔的要素は祓《はら》い清められた。しかし重要なことは、託宣的な技法の習得が完成したということである……そんな文章で締めくくっている」
「依然として謎だといっておきながら、技法の習得が完成したといっているわけですか?」
「変だよね。それに、これほど断定的[#「断定的」に傍点]にいってるのだから、エリアーデ氏は、鼎の使い道を知っていたと考えるのが妥当じゃないかな」
「じゃ、なぜ書かなかったのでしょうか?」
「何らかの歯止めがかかってしまったんだろうね、彼の心の中で。……ぼくが想像するにだけど、そこを解き明かしちゃうと、アポロンという神を殺すことになるよね。すでにアポロンは死んでいるのだが、自らの手で止めを刺したくはなかったのかもしれない。それと、あらゆる悪魔的要素は祓い清められた。この一文は、彼からキリスト教に対する反論さ。本を読めばわかると思うが、彼は中立的《ニュートラル》な人だからね。それゆえ、同じ過ちを犯したくはなかったとも考えられる」
「歯止めですか……」
先生にはそういった歯止めはあるのですか、静香はそう尋ねたかったのだが、答えは知っている。竜介には、そのようなものなど一切ない[#「一切ない」に傍点]。
「けど、エリアーデが謎だと書いた以上は……謎なんだ。彼の権威に刃向かえる宗教学者などはいないからね。それと問題はもうひとつあって、原始宗教《シャーマニズム》や神託の分類法である脱魂型・憑依型というやつ、この提唱者も、誰あろうエリアーデなんだ。だから皆さん右に倣えで、これ以外のことは考えようとはしない。けど、実際には〈幻視型〉と呼べるものが別にあることを……知ってるよね[#「知ってるよね」に傍点]。それが、『世界宗教史』と『魔術書』とを繋ぐことのできる、ほぼ唯一の真理さ」
何の根拠があってか、竜介は断定的にいう。
「さあ、ここまでの話を踏まえて、西園寺さんにひとつ質問。青森県の恐山《おそれざん》に、霊を降ろして口寄せをするイタコと呼ばれる巫女がいるよね。その奥義は、どういうものなのだろうか?」
「……従来の分類法ですと、憑依型と考えられますよね。でも先生のお話から察すると、それは違っているのですよね」
「そのとおり。これは十年くらい前かな、ちょっとした記事になったんだ。イタコのなり手がないもんだから、従来の条件を外すというわけさ。それでイタコを新規募集したんだが、その従来の条件というのは、つまり、目が悪いということ」
「……そうでしたか。するとイタコも、やはり幻視型なんですね」
静香は、この種の話にはもう驚かなくなってしまった。竜介の論理は明快そのものであるからだ。
「随分脱線しちゃったね。朝鮮半島に話を戻そう」
いうと竜介は、注文して運ばれてきたままになっていた、店特製の無農薬有機栽培ミックスジュースのストローをひと口啜った。
「……先生。朝鮮半島の祭壇の水甕は、アポロン神殿のやり方が伝わったということですか?」
「うーん、それはそれで長い話になるんだが、もし伝わったとしたならば、伝えたのはフェニキア人ってことになるだろうね」
「……フェニキアですか[#「フェニキアですか」に傍点]」
|柔順なる《さすがの》静香も、それは信じ難いといった顔で、
「フェニキアといえば、地中海貿易の覇者ですよね。アフリカの側にあったカルタゴが有名ですけど」
「うん、そのカルタゴにも、実はアポロン神殿があったんだよ。最近発掘に成功している。それに、アポロンがデルフォイに祀られるようになったのは紀元前八世紀頃で、ギリシャの神々の中では新参者に属するんだ。アポロン神殿というのは、エーゲ海を挟んで対岸のトルコ側に点々とあってね、どうやら、そちら側がアポロンの出自《しゅつじ》のようなんだ。で、そのトルコ半島の根っこの付近に、フェニキアの本国があったわけさ」
「……だとしましても、そこから朝鮮半島に伝わって来たのですか?」
「もっともな疑問だが、そのフェニキアが持っていた船というのは驚くほど高性能でね、紀元前六〇〇年頃に、エジプト王の命を受けて紅海から出た船が、アフリカ大陸の外周をぐるーと廻って、ジブラルタル海峡から地中海に入り、三年かけてエジプトに戻って来たという逸話もあるぐらい……これは紀元前五世紀頃に書かれたヘロドトスの『歴史《ヒストリアイ》』の中に出てくるから、けっこう信憑性《しんぴょうせい》が高い」
「それは……バスコ・ダ・ガマが発見したインド航路を、逆に辿ったということですよね。その、約二千年も前にですか?」
「ま、インド航路の発見というのはヨーロッパ白人種から見た歴史なので、何かにつけて大袈裟なのさ。それにヘロドトスの歴史書が誇張しすぎだったとしても、紅海もしくはペルシア湾……つまり、サウジアラビアの半島側から船を出せれば、インドなんてあっという間だからね。そして、そのフェニキアの南隣には何の国があったかというと、……紀元前十世紀頃には?」
「あのあたりの歴史には明るくないんですが」
静香は少し考えてから、
「ひょっとして、ユダヤのかつての王国があったのでしょうか」
「そう、栄華を欲しいままにしていたソロモン王がいたんだね。『旧約聖書』によると、彼はタルシシ船[#「タルシシ船」に傍点]なるものを用いて、金、銀、財宝、そして孔雀などを運んで富を築いたという……さて、孔雀、これはどこの国の動物だろうか?」
「孔雀はインドにはいますよね。でも、インドだけなのですか?」
「インドとマレー半島にしかいない……もっとも、アフリカのコンゴの密林にコンゴ孔雀がいることが二十世紀になって発見されたが、これは捕まえられないと思うから無視ね……そして、ソロモンといえばその相方としてシバの女王が有名だよね。何者かというと、サウジアラビア半島の南端の、アラビア海に面したところにあった、シバ国の女王だったと考えられている。さらに、そのタルシシ船を操っていたのはフェニキア人[#「フェニキア人」に傍点]……フェニキアの本国は小さな国で、当時はソロモン国の領土内にあって、大の仲良しだったんだ。話が見えてきたろう」
「そうしますと、インドはあっという間[#「あっという間」に傍点]ですよね」
竜介の言い廻しにお付き合いをして、静香はいう。
「だからインドにもマレー半島にも、ソロモン王の伝説が残っているのさ。よく知られてるのはマレー半島のもので……鹿が川岸にやって来ると、対岸の木に熟した果物がなっていた。そこで鹿は叫ぶ。鰐たちよ出てきて一列に並べ。自分はソロモン王の命令を受けてお前たちの数を調べに来たのだ……」
「えっ、それは出雲地方の伝承の、因幡《いなば》の素兎《しろうさぎ》の話と同じじゃありませんか」
「知らなかった?」
「ええ、初めて聞きましたけれども」
「うーんと、日本人とユダヤ人は同祖であると論じられている本が百冊は出てると思うけど、それらに決まって引用される定番話ね。稻羽《いなば》の素兎の原典は『古事記』にあって、和邇《わに》という漢字を当てられているが、出雲地方では、鮫《さめ》のことを方言でワニと呼んだと注釈されている……これは苦しい説明だよね。鮫は暖かい海だから、日本海側には滅多に出没しないのでね」
「そうしますと、フェニキアの船は日本にも来ていたということですか?」
「船については確証はないんだが、日本とユダヤに共通項が極めて多々あることは事実で、その種の本を一、二冊読めばわかるよ。もっとも、大的外《おおまとはず》れなことをいってる例もある。その代表的なのは、日本の神社には拝むための像や偶像《シンボル》がない、ユダヤ教も偶像《ぐうぞう》崇拝は絶対に禁止である、だから同祖であるという考え方ね……これは日本の神道を知らなすぎる。ユダヤの教会《テンプル》は神に祈る場所かもしれないが、日本の神社はそうではないからね」
「えっ、神に祈る場所ではないんですか?」
「それはね、明治以前は神社と寺が習合していたので、お寺は祈る……拝む場所だろう。だから混同じちゃって、そのまま現在も続いてるわけさ」
「そうしますと、神社は何をするための場所だったのですか?」
その静香の質問に、竜介は少し苦笑しながら、
「古代《いにしえ》の神社の役割は、すなわちアポロン神託所と一緒さ。だから、御神籤《おみくじ》……それが神託の名残ね」
「あ、そうだったのですよねえ」
静香はちょっと顔を赤らめながら、
「……そうしますと、日本にも、アポロン神殿のやり方は入って来たのでしょうか?」
「入って来たようだね。証拠は幾つかある……が、アポロンのやり方は日本には定着しなかったんだ。その理由《わけ》は簡単で、日本には別|系統《ルート》で入って来た、より洗練された神託の技法があったので、そちらに負けてしまったんだね」
「より洗練された技法がですか……」
静香は、アマノメの神のことが頭を過《よぎ》った。それに関しては以前ひととおりの説明は聞いているのだが、できれば触れたくない話題である。
「……そうしますと、先生が以前お話しして下さった、デルフォイにいた竜のピュトンですが、あれをアポロンが退治したというのも、要するに、神託の技法上の物語で、つまり原始的なやり方から、より完成されたものに変更になった、そう考えるべきなのでしょうか」
静香は別の話にふった。
「さすがに鋭いね西園寺さん、そのとおり。神々の戦いというのは、多分に、この種のものを包含するわけさ。腕力の争いじゃなく、信者の数の多さも関係ない。神として優秀なる存在《もの》が勝ち残るわけだね。ただし、一神教の無差別爆弾は除いてだけど」
竜介は皮肉をいってから、
「そして、そのソロモン……ソロモン王の伝説の方に目を向けると、彼はジンという魔物を手なずけていて、壺に入れて持ち運んでいたそうだ。アラジンの魔法のランプの精は、あの辺りの物語なんだ」
「あ、つまり告祀《コーサ》の甕なんですね」
「そう、だからあちらさんも正邪両方を持っていたわけさ。それがそのままそっくりと朝鮮半島に伝わってきた。そう考えると辻褄が合う。ちなみに、あの辺りの古代語であるヘブル語で、罠に落とし入れるといった意味で、コーシュといった単語がある」
「そ、そんな……」
静香は息を呑んだ。本日一番の驚きである。
「すなわち、朝鮮半島の祭壇の水甕はアポロン神殿の鼎《かなえ》が伝来してきたものである。……その可能性に気づいてるのは、世界中でぼくひとり[#「ひとり」に傍点]だろうと思っていた。ところがもうひとり、いや、もうひと組織《グループ》かもしれないが、同等の知識を持っている輩《やから》がいる。なんてことだ[#「なんてことだ」に傍点]……」
竜介の自惚《うぬぼ》れは、脆《もろ》くも崩れ去ったようである。
「……あちらにもコーサの甕があるくせに、わざわざ韓国製の甕を使ってきてるんだよ」
「そうしますと、その日光で告祀の甕の呪術を行ったのは、韓国の人ということですか?」
「いや、それは違うだろう。朝鮮半島には独自の神がいるから、その中から、冥界の神なりを使えばいいんだ。デミウルゴス[#「デミウルゴス」に傍点]なんて七面倒臭い神を、わざわざ刻む必要はない。それもアラム語[#「アラム語」に傍点]で……」
「あ、言語がそうでしたものね」
「だから呪者は、あちらの人か、あちらの宗教体系に属する人だ……」
言葉使いが土門くんに似てきた。
「でね、今日妹がひとつ教えてくれたんだが、かつて新羅《しらぎ》の王が、日本の神々を駈籠《かりこめ》ようと、告祀の甕を仕掛けてきたことがあったらしい。もちろんこれは伝承で、というより寓話[#「寓話」に傍点]だが、その話を聞いていて思ったよ。その下敷《ベース》であるところの聖なる祭壇の水甕は、日本が占領時代に、こちらの神道を無理強いして壊しちゃってるものだろう。先様《さきさま》にしてみれば、恨み骨髄だよねえ」
――寓話[#「寓話」に傍点]だと表現するぐらいだから、その宇佐八幡宮に纏《まつ》わる伝承は、竜介はすでに解いているのであるが。
「それだから、わざと使ってくるのですか?」
「……呪術というものは、そういった世界なのかもしれないね」
竜介は煙草に火をつけた。彼は、ニコチン〇・一ミリグラムという一番軽い煙草を二日かけて一箱吸うぐらいの軽喫煙者《ベビースモーカー》である。
静香が、紅茶のおかわりを店に注文してから、竜介に問いかける。
「その、あちらの宗教ということですが、やはりキリスト教系ということですよね?」
「それもまた難しい話なんだ。そもそもキリスト教では、その種の呪術はやってないことになってるからね……けど、これは嘘で、やってるんだけどね」
「どういうことですか?」
「ぼくたちが知ることのできる微かな手懸かりは、映画などになってる、いわゆる祈祷士《エクソシスト》さ」
「悪魔払いですよね」
「けど、映画にあるような、十字架を翳《かざ》して聖書を読んだところで、何の効き目もないことは子供にだってわかるよね。けど、祈祷士《エクソシスト》は実在する。彼らは教会の要職にはつかずに、少し距離を置いていて、依頼があるときだけ出張って行くようだ。――悪魔払いをするということと、神を殺すということは、同義だからね」
「あ、そうなりますよね」
「彼らは、それを約二千年間もやり続けてきているので、自動的に知識が集積されるんだ。だからこの種のことに関しては、間違いなく西方教会《バチカン》が世界一の知識を有しているはずさ。が、外部にはまず漏れてこない……やってないことになってるからね」
竜介の得意とする話法である。
「ところがさ、真っ当なキリスト教徒たちにとっては、今度は、あの甕に彫られてあったデミウルゴス[#「デミウルゴス」に傍点]という言葉が使えないはずなんだ」
「……使えない?」
「この言葉は、ヤハウェの神に対する蔑称《べっしょう》になるからさ。『ナグ・ハマディ』で発見された福音書を崇めていた異端を、総称してグノーシスといっちゃうんだが、このグノーシス派は『二元論』の考え方をとるから、天地創造の神は、すなわち穢れている存在となる。が、正統教会やユダヤ教の方では、それがヤハウェの神だろう。だから、お前たちの信じている神は所詮《しょせん》デミウルゴスではないか……といったふうにグノーシスは使った」
「そのような使い方をしたのですか」
「似非《えせ》神め。真なる神だと思い違いをしている間抜けめ。……そんな意味になる」
これには、竜介の気持ちがこもっている。
「そうしますと、あの甕はキリスト教のグノーシス派の人が……」
「いや、これは二世紀、三世紀の話なので、もう生きてはいない。そのグノーシスの流れをくむのが十世紀頃のボゴミール派で、デミウルゴスの意味合いがより悪魔的になるんだが、この異端はビザンティン帝国とその北のバルカン半島だったから、十五世紀にオスマン・トルコによって駆逐されてしまった。そのボゴミールの流れをくむのがフランスのカタリ派、アルビ派ともいうけれど……こちらはピレネーの山中にあるモンセギュール[#「モンセギュール」に傍点]という切り立った岩山に、最後の一派が砦を築いて立て籠もったが、十三世紀の半ばに十字軍によって殲滅《せんめつ》された」
「え、十字軍によってですか?」
「そうだよ。十字軍はイスラムとの戦いだけじゃなく、異端の撲滅にも差し向けられていたんだ。これは悪名高き『アルビジョア十字軍』……カタリ派の教会がひとつでも建っていると、その町を焼き払い、女子供も含めて住民を皆殺しにした。何万人とね。もちろん、カタリ派以外の人もいたわけだが。そのときに、十字軍の長《おさ》が吐いた有名な言葉がある。全員を殺せ、神が見分けをつけられるであろう……」
「それは実話なのですか?」
「どの書物にもそう記されてある。ちなみに、その十字軍の長というのは軍人じゃなくて、シトー会修道院の院長ね。これは現在のトラピスト修道会の前身で、白衣の修道士、と呼ばれている一団さ」
竜介にかかると、史実ですら皮肉になる。
「ともあれ、どの|位置取り《ポジショニング》だったらデミウルゴスなんて言葉を使えるのか?……グノーシスが蘇ったのかとも一瞬思ったんだが、一九四五年に『ナグ・ハマディ』が発掘されて、異端の聖書が世に出たから、それが契機《きっかけ》となってね。けど、懐古趣味の程度《レベル》の新興宗派が、あれほど微に入り細に入りの呪術の知識を持っているとは、思えないのでね」
「そうしますと、キリスト教の本流のどこかだと」
「の[#「の」に傍点]、はずなんだけどね……」
竜介にも、不明なることは多々あるのである。
「……で、そもそもぼくが日光に出向いた理由は、アマノメ少年に会いに行っていたんだ。以前に話したと思うけど、神の子ね。その彼が、告祀の甕のとばっちりを受けたらしくって、誰のものか分からない、邪悪なる記憶を拾ってしまったわけさ」
「記憶を拾った?」
「うん、そうとしか表現の仕様がないんだが……そのアマノメ少年は、ぼくが想像してた以上に、秀《ひい》でた神[#「神」に傍点]でね、それはそれはよく見えるんだ。ひと睨みしただけで、その一、二秒後には、他人の脳の暗部[#「暗部」に傍点]を曝《さら》け出せるぐらいにね。けど、そのときには、彼は意識して他人に焦点を合わせたわけじゃないんだ。なのに、情報の方から、彼に向かって飛びかかってきたわけさ」
「飛びかかる……ですか?」
「言葉どおりの意味なんだが、まず四つ足のケダモノが見えて、それが彼に飛びかかってきたんだ。けど、これがまた正体不明[#「正体不明」に傍点]ときているからねえ」
「それは、わたしが検索してきたものですよね」
「動物に何か片寄りあった?」
「はい、しいていうならば、トラとライオンが多かったのですが」
「だろうな。それは知名度に比例してるだけだから、参考にはならないよね。アマノメの神が見て正体不明だったんだから、他《た》の諸々《もろもろ》に分かるわけがない」
「……ですが、七十件もあるところから察すると、見える人というのは、かなりいるわけですね」
「それはいるよ。たとえば、左目の視力がコンマ一以下で、右目は正常、それでいて面倒なもんだから眼鏡やコンタクトレンズをしていない……そういった人って結構いるだろう。だから、わたし霊感強いんだ[#「わたし霊感強いんだ」に傍点]……といってる人の大半がこれね。もしくは、嘘つきのどちらかさ」
「あ、そうでしたか……」
笑みをもらしながら静香は頷いた。
いつもながらに、竜介の論旨は明快である。
「けど、その七十件の中で、ケダモノが自分に飛びかかってきたというのあった?」
「わたしの記憶では、それはなかったようですが」
といいつつも、静香はテーブルの上に置かれてあった検索資料《プリントアウト》を再度見直していく。
「……だとすると、それもぼくの想像してた通りだな。ケダモノに襲われるのは、アマノメ級《クラス》の能力者に限られるだろうね」
「え、どういうことですか?」
資料から顔をあげて、静香は尋ねる。
「そのケダモノは、記憶の扉に前にいる門番[#「門番」に傍点]なわけさ。神社にいる狛犬《こまいぬ》みたいなものね、その扉を開けて中のお宝を盗もうとすると、がばーと飛びかかってくるわけ」
「……火鳥先生。比喩が巧みすぎて、わたしには理解できませんけれど」
静香は、ちょっと諭すような口調でいう。
「ごもっとも[#「ごもっとも」に傍点]、順序立てて説明しよう。まず、これには二重三重の封印……つまり暗示[#「暗示」に傍点]がかけられていたわけさ。ひとつ目の封印は、その人の意識にかけられてあって、ある特定の記憶を思い出すな[#「思い出すな」に傍点]……といった暗示ね。そしてふたつ目の封印は、その人の末那識《まなしき》にかけられてあって、同様に、その特定の記憶を思い出すな[#「思い出すな」に傍点]……といった暗示ね」
「末那識に対して、思い出すな、ですか?」
「ほら、脳通信というのは末那識の領域だろう。脳と脳とがやってる情報交換なんだから。その脳通信の際にも、そのある特定の記憶を提示するな[#「提示するな」に傍点]……といった意味になる」
――静香は少し考えてから、
「そうしますと、その末那識の方の封印だけが解けたということですか?」
「現状はそういうことだね。おそらく甕を掘り出したときか、もしくは甕の蓋を開けたときにでも、その封印は解けたんだと思う[#「思う」に傍点]。けど、意識の側の封印はまだ生きているから、当人は、その記憶とは接触《アクセス》できずにいるはずだ。だから思い出せない……ほら、この状況は以前に説明した何かとそっくりだろう」
「それは、失せ物のときの状況と同じですよね」
「それに、その記憶は、当人の脳の中では沸々[#「沸々」に傍点]としていたわけで……関連する記憶である、甕を埋めたときの様子が、夜毎に夢に出てきたことからも、それは解るよね。つまり、能力者にしてみれば、簡単に情報が盗《と》れる条件が、整っていたことになる。ところが、ここにもう一枚《ワンカード》、巧妙な仕掛けが施されていたわけさ」
「それが、記憶の扉を守っていたケダモノですね」
「うん、そのケダモノの暗示は、本体の記憶に覆いかぶせるように、あるいは、単に並列に置かれてあっただけかもしれないが……いずれにしても、本体の記憶と強固に結んであった。だから、自称霊感の強い人には、その門番だけが見える」
「どうして、門番だけなんですか?」
「その封印されてある本体の記憶は、エピソード記憶だからさ。これは、霊感[#「霊感」に傍点]の強い人……ぐらいでは見えない。もしエピソード記憶の方も可能だったら、彼らに時折ぼんやりと見える人物の映像が、何の意味合いでもって現れているのか理解できるはずだが、それを幽霊[#「幽霊」に傍点]だと騒いでるぐらいだから、すなわち駄目ということだよね。だから、ケダモノがぼんやりと見える程度で、そのケダモノも暴れない。だが、アマノメ少年の場合はちがう[#「ちがう」に傍点]……」
「すると、動く映像が見えるわけですか」
「ま、そういうことにもなるね。彼の場合、情報を映像化できる速度《スピード》が極端に早いので、実際《リアル》にケダモノが飛びかかって来るようにも見える。もっとも、彼はその種のものは幻[#「幻」に傍点]であることを十分に見知っているから、その映像《ケダモノ》は、虚仮威《こけおど》しにしか過ぎないんだけどね。――邪《やば》いのは、封印されてある本体の記憶の方なのさ。そのエピソード記憶を|神の脳《アマノメ》が解読しようとすると、連動してケダモノが暴れる、そんな仕掛けになっていたんだろう」
「……どうして、そのように複雑な仕掛けを?」
「さあ、そのあたりも何ともいえないなあ。それこそ、超絶技巧[#「超絶技巧」に傍点]の呪術を、誰かが面白がって試してるような感じさ」
「先生には……」
静香は、少し躊躇《ためらい》がちに尋ねる。
「その、告祀《コーサ》の甕と同じようなやり方は、可能なのですか?」
「うーん、理屈は解っているからね、やってやれないことはないと思うが……」
不敵な笑いを竜介は浮かべてから、
「が[#「が」に傍点]、ぼくだったら水甕は使わないね。それと、その封印してある本体の記憶、あれは本来は[#「本来は」に傍点]、封印してはいけない類いの記憶なので……だから、ぼくはやらない」
「どういうことですか?」
「アマノメ少年に、そのケダモノが飛びかかって来たとき、彼に何が見えたかというと……誰かが人を殺している現場の生々しい映像なわけさ。ナイフで相手を刺し、その死体を、車のトランクに詰めて運び、どこかに捨てる……殺された人は若い女性のようだ。その一連の記憶が彼を襲ってきた。そして、さらに奇妙なことに、その殺人の実行者がさも自分であるかのように感じられて、その死体の隠し場所がいつ曝《ばれ》るか、いつ曝るか……そういった不安に苛《さいな》まれて、抜けられなくなってしまったんだ」
「その錯覚は、解消されたんですか?」
少し不安げに静香は尋ねる。
「うん、半日ぐらいで、何とか抜けられたようだ。その相談役《カウンセラー》としてぼくが呼ばれたわけだけど、ぼくとしても、どうしてあげることも出来ない。それは彼の脳に入力《インプツト》された感覚だから、彼の意識でもって、それに対して否定を出し、その錯誤にうち勝っていくしか手はないからね」
「そうしますと、その封印された記憶を持っている人が、人を殺したということですか」
「いや、それは考えられないよ。だって、告祀の甕をぼくたちに見せたのは、幸ちゃんで、中学二年生だろう。その彼女に、相談事として持ち込んでいるんだから、大人だとは思えない。それに、甕を埋めたという夜毎の夢は、その当人の幼い頃の記憶なんだから……どう考えたって、その子供が人殺しであるはずがない。車だって運転できないしね」
「すると、どういうことになるのですか?」
「ここから先は、また別種の話にふり変わるんだ。ぼくは井原西鶴の『本朝《ほんちょう》二十不孝』の中にある物語を、真っ先に思い浮かべたよ。俗に『油赤子』と呼ばれているんだけどね」
「……あぶらあかご[#「あぶらあかご」に傍点]ですか?」
静香が美しい笑顔で驚き呆れていると、店の人がやってきて、閉店の時間だとふたりに告げた。
「井原西鶴の『本朝二十不孝』というのは、子供が親に不孝[#「不孝」に傍点]をするという情況があれこれと納められている短編集なんだけど、そのひとつの話で……」
[#挿絵(img/02_213.png)入る]
茶店から追い出された後、静香が、一杯だけなら大丈夫ですから、と竜介を誘ったので、彼女の車で下北沢の南口側にある、恋人同士が使うような地下に降りていく洒落たショットバーに場所替えをして、話を再開したのである。
「……舞台は鎌倉なんだけどね、鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の下宮《げぐう》の若宮《わかみや》八幡というところの案内人をやっていた男がいて、……右に見えまするは静御前《しずかごぜん》の、てなことをいって小銭を稼いでいたそうなんだ」
ふたりはカウンター席にはつかずに、店の隅っこにある薄暗いテーブルで話し込んでいる。
「静御前というのは、源義経の恋人ですよね」
「うん、鎌倉にも少しの聞いたんだよ。義経が西国に逃げるときに、別れた直後に捕まって、義経との間に生まれた子供は由比ヶ浜《ゆいがはま》に沈められた。そして、かの北条政子《ほうじょうまさこ》に命じられて、その鶴岡八幡宮の回廊で歌舞をしたそうだ。彼女は白拍子《しらびょうし》の踊り手だったからね。……そんなことはさておき、その口八丁の案内人の男が、とある旅館のひとり娘のところに婿養子で入った。その男はどうしたことか、小銭ならぬ大銭の蓄えがあって、それで仲を取り持った人がいて縁組がなされたわけだが、やがて男の子が生まれ、その子が三歳になったとき……」
注文したグレンモランジの炭酸《ソーダ》割りと、カルバドスはポム・プリゾニエールであるジャックローズが運ばれてきた。以前竜介がカルバドスをギリシャの島のカルパトスと勘違いをした、霞《かすみ》がかかったようなオレンジ色をしたカクテルである。
竜介は、淡い琥珀色をした炭酸《ソーダ》割りの方をひと口飲んでから、続きを語る。
「……その男の子が三歳になった頃、夜中に起き出してきて、枕元に置かれてある行灯《あんどん》の油をぺろぺろと嘗めるようになったんだ。親が注意して見ていると、毎晩のようにその油を嘗めるんだ。昼間その子が泣いていても、油[#「油」に傍点]……といっただけで機嫌を直すというほどの油好きの男の子になる。けど、その子は頭はすこぶる賢くて、まるで大人のような喋り方をする。で、親は喜んじゃって、その子の晴れの五歳の誕生日に、近所の人を集めて祝宴をもよおした。すると、その祝いの席で、その子が突然|畏《かしこ》まり、恐ろしいことを喋り始めるんだ」
そこまで語ると、竜介は再度喉を潤した。
静香にも話の筋はもう見えているのだが、おとなしく耳を傾けている。
「そして、その子がいうには……私の親は[#「私の親は」に傍点]、かつて油売りをしていた男を闇討ちにして斬り殺し、その男が身につけていた金子を奪って裕福になられました。それは何年前の出来事で、日時はいついつ、おりしも激しい雨風と雷が……と、そのときの様子を事細かに喋った。それを聞いて、男親の元|若宮《わかみや》の案内人は驚いてしまい、妻を殺して、自分も自害して果てる。その男の子は、その後ゆくえ知れず」
――静香は、短い溜息をついてから、
「それは井原西鶴の空想話なんですか? とってもリアルですけれども……」
「原典はあるにはあるんだが、少し違った話になる。でも、西園寺さんのいう通りで、これはこれで凄く実際的《リアル》な話さ。西鶴は、別のきちんとした事例を知っていたんじゃないかとも思えるね。そうでないと、三歳[#「三歳」に傍点]で油を嘗め始めたとか、その子が大人びた[#「大人びた」に傍点]言葉を喋るとか、それは空想では書けないと思うから」
「……先生。事例[#「事例」に傍点]といいますと?」
「いや、この西鶴の話は、事例からいくと例外に属するんだ。ちなみに、彼が原典にした話の方はごく単純《シンプル》で、近江《おうみ》地方の伝承なんだが……油売りが、辻の地蔵に灯明として供えてある油を盗んで殺され、もし油を嘗める赤子がいたなら、それはその油売りの生まれ変わりに違いない……といった話ね。これが本家の『油赤子』さ」
「え? 生まれ変わりなんですか?」
「そう、これは〈生まれ変わり〉の話なんだ」
「ですが……西鶴のお話では、子供が事件の様子を語ったときには、その犯人の父親はまだ生きてますよね」
「確かにそうだけど、現象としては同じものなんだ。ぼくが再三説明している記憶の転化のひとつさ。この西鶴の例外話は退《ど》けておいて、典型例を考えると解りやすい。たとえば、ぼくの親しい人が亡くなったとして、ぼくはそれが悲しくて、日々その人のことばかりを考えていたとしよう。すると、ぼくの脳の中では、その人に関する記憶が沸々[#「沸々」に傍点]としてることになるよね。そういった状況のときに、ぼくの脳と、誰かしらの子供の脳が繋がったとすると……」
「その記憶が、流れ込んでしまいますよね」
「そう、ところが、相手が子供の脳[#「子供の脳」に傍点]だというのが問題なんだ。幼い子供になればなるほど、人の関係図の把握があやふやだよね。ぼくが心を痛めている死者は、子供から見れば、ぼくという他人の、そのまた他人の話なんだが、そんな構図は把握できない。だから子供の脳も同様で、その脳に入ってきた死者に関する記憶を、自分のことだと錯誤してしまうと、かくして、死者の生まれ変わりということになる」
「……そういうことだったのですか」
「これが典型例ね。じゃ、別の設定で、たとえば、誰かが人を殺したとして、けど、その殺した相手のことには興味はなくて、その行為にのみ、それが暴露しはしまいかと、日々沸々[#「沸々」に傍点]としていたとしよう。そんな誰かの脳と、子供の脳が……」
「なるほど、西鶴の例になるわけですね」
「そういうこと。つまり当人の立場《スタンス》の違いで、伝達される記憶が違ってくるわけさ。けど、西鶴の話で、私の親は[#「私の親は」に傍点]……といったふうに子供は語り初めていたが、これは、自分は[#「自分は」に傍点]……もしくは、主客がなく、事件のあらましが語られていくというのが、事例としては正しいだろうね。それにほら、以前に、母親と子供の脳の話をしたろう」
「はい、母親の脳は、子供が幼い頃にはその脳を保護《ガード》していると……あっ、そのような記憶が紛れ込んでこないように、それを防いでいるのですね」
「我々の日常社会においては、その種の記憶が一番沸々[#「沸々」に傍点]としているからね。それに、人が死ぬというのは珍しいことじゃない。そして死者ひとりにつき多人数が嘆き悲しむ。それが悲惨な死に方であったりすると、いっそう沸々[#「沸々」に傍点]とする。そんな状況になっている脳って、そこらじゅうにあるわけさ。子供の脳にとっては、外界は魑魅魍魎《ちみもうりょう》の世界となる」
「だから母親の脳としては、繋ぎっぱなしを余儀なくされるわけですね」
「けど、その保護《ガード》が甘いと、子供の脳に侵入してくる場合があって、そして井原西鶴が書いたように、だいたい三歳ぐらいから、死者のことを語り始めるようになる。どのような死に方をして、そして生前はどんな家に住み、仕事は何で、好きな食べ物はこれこれで……こういった、生まれ変わりの事例というやつはたくさんあってね、アメリカのイアン・スティーヴンソンという人が、生涯事業《ライフワーク》ともいうべき執念深さでもって研究している。で、その彼の結論はというと……テレパシーで他人から情報が伝達されてきたとは考えられない。なぜなら、そのような複雑な情報がテレパシーで齎《もたら》されるはずがないからだ。ゆえ、生まれ変わりとしか考えられない」
「……前提が間違っているのですね」
「そう、ご苦労さまって感じだよね。その彼が前提にしているのは、いわゆる『超心理学』という怪しげな学問。ぼくたちが専攻しているのは『認知神経心理学』ね……諸々《もろもろ》には区別つかないと思うけど、全《まった》き別物ねえ」
病みあがりの竜介は、グラス半分程度の炭酸割《アルコール》りで早くも酔いが廻ってきているようである。
「そうしますと、その井原西鶴が書いていた、大人びた言葉というのは、すなわち言語も伝わるということですか?」
「――言語記憶も伝わるよ。ただし長文は無理で、単語状のものか、あるいは言い廻しなども伝わるようだね。けど、意味記憶[#「意味記憶」に傍点]は、脳通信では元来伝わらないからね。だから子供がそういった大人びた言葉をいったとしても、意味は分からずに使っているはずさ……が、親としては大びっくりだろう。だから、あの井原西鶴の物語は異様[#「異様」に傍点]に正しいんだ」
――静香は、少し考えてから、
「幾つか疑問があるのですが、まず、そういった死者に関する情報って、わたしたち大人の脳にも入ってきますよね。錯誤はないとしても、脳にとって何か負担のようなものは生じないのですか?」
「うーん、一般的には負担はないね。ぼくたち大人は、その種のことを現実に見知っていて、脳に記憶として保存されているだろう。だから、その範疇《はんちゅう》で整理がつくので、それで決着《おしまい》。それに脳は、同種の情報であった場合には、破棄するからね。いちいち記録していたら容量|不足《オーバー》になってしまう。けど、子供の脳というのは、保存されている記憶そのものが全体的に非常に淡い。そこに、死者の情報などが紛れ込んでくると、整理がつかずに、破棄もできずに、その情報だけが際立ってしまう。だから、子供の意識に上ってきて、口から出てしまうわけさ」
「なるほど……」
静香はひとしきり感心してから、
「それと言語記憶ですが、こちらは、脳通信のさいにはどういった扱いになるのですか?」
「こちらは主情報《メイン》じゃないんだ。映像情報と比べると、含まれる情報量が極端に少ないだろう。そして、これも幻視と同じ仕組《メカニズム》で、もし片方の耳が悪いと、同様に幻聴として意識に上ってくる場合[#「場合」に傍点]もある。だが、あまり役には立たない。だから、耳が悪いからといって神にされてしまう例は、ないんだね。神託であれ何であれ、すべて映像記憶が基盤《ベース》なのさ」
――静香は頷いた。
竜介の説明は、ひとつひとつが納得させられるものばかりである。
「さて、この『油赤子』の解釈を、日光の話に戻してみるとどうなるか……?」
「西鶴の例《ケース》は、親の記憶が子供に転化したのでしたが、日光もそうだとは限りませんよね」
「もちろん、どこの誰から伝わってきたのかは不明[#「不明」に傍点]。ただし、これは脳から脳……末那識《まなしき》の出来事だから、比較的近くにいる誰かだとは思うんだけどね」
「あ、脳通信はPHSだという話ですね」
静香は思い出して、微笑みながらいう。
「阿頼耶識《あらやしき》だと距離は稼げるんだが、それは今回は関係ないと思うから……」
竜介は独り納得してから、
「そして、子供が殺人の様子を喋り始めた。同様に、親は大びっくりして、教会の神父にでも助けを求めたんだろう。で、祈祷士《エクソシスト》なる者を紹介されて処理してもらったわけさ。ところが、先にチラッといったように、これは本来[#「本来」に傍点]は封印してはいけない類いの記憶だったんだ」
「……といいますと?」
「放っておいたら消えるからさ。イアン・スティーヴンソンの事例によると、遅くとも七歳ぐらいできれいさっぱり消えている。つまり、自我の確立とともに、そんなものは自分の記憶、自分の体験であるはずがない――と意識で否定が出せるから、打ち消すことができるんだ。それを、封印[#「封印」に傍点]しちゃったもんだから……封印するということは、他の記憶との繋がりを断って、孤立化させるということね。つまり、人を殺したという錯誤の記憶を、そのまま氷浸けにして固めちゃってるんだ。その氷が、部分的に溶け出しているから、こんな馬鹿げた事態になっているわけさ」
「……ですが、親御さんの身になってみますと」
「たしかに、気色のいい話じゃないから、親の気持ちは分からなくもない。が、祈祷士の立場は別だ。その邪鬼がいずれ消えることぐらいは、奴らも知ってる[#「知ってる」に傍点]はずだからね。知っててやるというのは、性《たち》が悪い。それも、あんな複雑な仕掛けまで施しやがって……」
竜介は暫しムッとしてから、優しい声でいう。
「でね、その封印された記憶の本来の持ち主、つまり殺人犯の脳を……その心の中を覗いてみると、また別のものが見えてくるよ」
「殺人犯の心の中[#「心の中」に傍点]ですか……」
「仮に、はずみで人を殺《あや》めてしまったような場合なら、犯人は、その殺めた相手のことを、くよくよと考えるはずだろう……だったら、子供の脳には、死者の方の記憶が伝わると思うんだ。つまり、典型的《スタンダード》な生まれ変わりになるよね。ところが、そうはならなかったところを見ると……その犯人は、死者に対しては、手向けの気持ちなどはなく、己の行為にだけ、それが暴露されはしまいかと、気に病んでいたのではなかろうかと、推理できるよね。あるいは、その犯人と殺された人の関係は、非常に希薄で他人同然、だから、その殺した人に関する記憶は元来有していなかった、とも考えられるよね」
「そうかもしれませんね……先生、名探偵になれますよ」
「ついさっき、誰かに同じようなこといわれたよ。けど、これはぼくの探偵の成果じゃなくって、アマノメ少年が見た絵を、ただ翻訳[#「翻訳」に傍点]しただけのこと」
――元来それは、アマノメの神に仕える審神者《さにわ》である桑名老人の範疇[#「範疇」に傍点]であったのだが。
「――先生。今気がついたのですが、アマノメの神[#「神」に傍点]は、その誰のものか分からない記憶を拾って、なぜ自分のことだと錯誤したのでしょうか? もう大人の脳ですよね」
「あーそれね、それはぼくも疑問に思ったんだ。彼は他人の記憶を解読することに関しては、も世界一といってもいいぐらいの神《プロ》だからね、たしかに奇妙な話なんだ。で、ぼくが思うにはだけど、彼は脳視《スキャン》をやる場合には、相手を目で確認しながらやっているようなんだ。だから如何《いか》なる情報が脳に入ってこようとも、それは他人からの情報であることを意識[#「意識」に傍点]も知っているので、錯誤はまず起こさない。だが、今回はそれが出来ていない。相手を見ていないからね。それと、その記憶が封印されたのは、その子供の幼い頃だから、その幼い頃の脳における状況のままで固定されてしまっている。つまり、人の関係図が確立されていない頃の脳ね。だからその記憶には、人称代名詞に相当する記号[#「記号」に傍点]が付加されていなかったか、もしくは、幼児的な記号で、自分の[#「自分の」に傍点]……といった感じのね。それがアマノメ少年の脳では、うまく置き換わらなかったのかもしれない。あるいは、ここにもさらにもう一枚《ワンカード》、祈祷士による巧妙な仕掛けが施されてあった可能性、なきにしもあらず」
「どのような仕掛けなのでしょうか?」
「うーん、それは……」
と、竜介は腕組みをしたまま黙りこくってしまった。この種の事柄に関して、分からない[#「分からない」に傍点]とはいいたくないのである。
竜介が窮しているので、静香が話題を変えた。
「……先生に頼まれましたケダモノに関する書き込みですが、あれを、さらに二次検索にかけてみました」
「どういった?」
「霊獣の類いや、イヌ・ネコ科など以外の単語で、他に同一なものはないかといったような……」
「何かひっかかってきた?」
「ええ、これは今日と昨日に集中していたのですが、日光という地名と、そして『少年隊ジュニア』というグループ名」
「あ、それはコンサート会場に恙《つつが》が出たからさ」
嫌なことでも思い出したらしく、情けない表情になって竜介はいう。
「その、恙も含まれていたんですが、これは何なんですか? 霊獣や神獣の書物には出ていませんでしたけれど」
「それはケダモノの日光における物産名《あだな》ね。特別な意味はないと思うよ」
「そうですか……ところが、この『少年隊ジュニア』という言葉の方は、それ以前にも三回ほど出てくるんです」
「おっ、それは凄い話だ[#「それは凄い話だ」に傍点]――」
竜介は、生き返ったようにいった。
「彼らは芸能人ですよね。ですので、テレビ局とかラジオ放送局、コンサート会場とか、その種の事柄を検索してみました……これは直に読んだのですが、そうしますと七十件のうち約四割ほどが、その種の場所での目撃情報なんです」
「だったら、その中にいるんだ[#「その中にいるんだ」に傍点]――」
「と、思いまして」
静香は、|紙の束《プリントアウト》から一枚を引き出して、
「その『少年隊ジュニア』のメンバーのプロフィールを入手しておきました」
それを竜介に手渡した。
「すごい[#「すごい」に傍点]、さすが西園寺さん」
「これは簡単だったんですよ。大手の芸能プロダクションに属してましたので、きちんとしたファンクラブができていましたから」
「いやいや、五月女《さおとめ》に頼んでたらどうなっていたことか……」
夢見る乙女さんの異名を持つ院生の女子だが、そんな軽口を叩きながらも、竜介は、その顔写真入りの履歴書《プロフィール》にざーと目を通していく。『少年隊ジュニア』の構成《メンバー》は七人である。そして、その最後のひとりを見て、興奮ぎみに竜介はいった。
「見つけた[#「見つけた」に傍点]。――彼が『油赤子』だ」
新城卓也《しんじょうたくや》。
十三歳。
出身地――日光市。
[#改ページ]
13
――月曜日。
それは新月の夜である。
幸子は、家人が寝静まった頃を見計らってベッドからこっそり起き出した。
そこは二階の隅にある彼女の独り部屋だから、それほど気を遣うこともないのだが、お告げには、彼女なりのそれなりの奥義があるようだ。
幸子は、明かりも点けずに、北に面した窓をそーと開け放った。日光の冷たい空気が部屋に流れ込んできた。その清浄なる夜の霊気で体中を潤すかのように、彼女は深呼吸を繰り返した。
暫くそうやってから、幸子はその窓を閉めた。
ベッドの脇には彼女の勉強机が置かれてある。小学生の頃から使っている、背の伸びに応じて高さが変えられる、ごくありきたりの木目調の机である。
その引き出しの一番奥から、平べったい桐の箱を幸子は取り出した。
太い蝋燭《ろうそく》と、蝋燭受けにしている小皿も取り出した。蝋燭は半分ほどにちびている。受け皿は幕末のころの伊万里《いまり》である。みじん唐草《からくさ》だが印判手《いんばんて》なのでそれほど高価なものではない。それらは、お告げの儀式のさいには、いつも使っている道具類のようだ。
幸子は、まずその蝋燭に火を灯し、受け皿をかませて、机の真ん中やや左手前あたりに置いた。
その明かりを頼りに、脇にある本棚から分厚そうな本を何冊か引き抜くと、その蝋燭の斜め後ろ、つまり机の真ん中あたりに積み重ねた。――壁を作ったようである。
そして幸子は、桐箱の蓋を厳粛《げんしゅく》に開けて、中のものを取り出した。
それは、南天《なんてん》の絵柄の入った更紗《さらさ》の布に包《くる》まれてある。その布をはずし、本の壁に角度を確かめながら注意深く立てかけた。
もちろん、桐箱の中に入っていたのは、土門くんいうところの、彼女の母親の形見[#「形見」に傍点]の品[#「品」に傍点]である。
幸子は椅子にきちんと座り直し、軽く組んだ手を机の縁に置いた。そして以上で、お告げの準備は整ったようなのだ。
幸子は、暫くはそのままの姿勢で、その形見の品を見詰めている。五分……十分、ただじーと見続けているだけである。
やがて、幸子は囁き始めた。
「倭《やまと》……聞こえる?……」
生まれ変わりの前世だと彼女がいうところの、倭迹迹日百襲姫《やまとととひももそひめ》のことであろうか。
「今日はご機嫌はいかがかしら……」
「……それでね、卓磨くんのことを、教えて欲しいんだけど……」
「どうかしたの? 倭……」
「何か悪いことでもあるの? その顔[#「その顔」に傍点]……」
「えー、前はそんなじゃなかったのに……」
「……やっぱり、あの甕を掘り出したのが、よくなかったのね……」
「あら……なんなの?」
黄色い動物のようなものが、幸子に見えた。
「恙かしら……」
その黄色い動物は蹲《うずくま》っている。幸子は、撫ぜようとでも思ったのか、その頭らしき部分に右手を近づけてみた。
「キャー!」
その頭がいきなり牙を剥き、幸子の手に噛みついた――かのように彼女には見えた。
幸子はそれを追い払おうとして手を振り動かし、その拍子に、立て掛けてあった形見の品を弾いてしまった。
運悪くそれは床に落ち、砕けて数片からなる瓦礫《がれき》と化してしまった。
「いやー、お母さんの[#「お母さんの」に傍点]、お母さんの[#「お母さんの」に傍点]――」
幸子の悲鳴に似た泣き声が、夜の静寂《しじま》を破って家中に木霊《こだま》した。
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埼玉県を流れる古利根川《ことねがわ》の近隣に、田畑や民家に囲まれて、そこだけ鬱蒼とした雑木林の森[#「森」に傍点]がある。脇を田舎道が通ってはいるが、中の様子は窺い知ることはできない。だが、下草などは適度に刈られているような森だから、入ろうと思えば、周囲のどこからでも入っては行けそうである。すると二十メーターばかり行った奥に土色をした練塀があって、囲いが巡らされてある。虫採りにでも来た近所の子供が果敢にも、その塀を乗り越えたこともあったようだが、天罰が下ったかのように瞬く間につまみ出されてしまった。そこから先は神域[#「神域」に傍点]、――神の住まいする鎮守の森[#「鎮守の森」に傍点]なのである。
その森の中ほどに、渡り廊下で繋がれた二棟《ふたむね》からなる平屋がひっそりと佇んでいる。明治期の建物らしいからそれほど古くはないが、江戸時代に培われた数寄屋《すきや》の粋《すい》が踏襲されてあって、瀟洒でありながらも豪奢……古色蒼然とはしているが威風堂々で、まさに、神が寝起きする屋敷にこそ相応しい。
二棟ある内の離れ[#「離れ」に傍点]は、幾つかの畳の間が繋がったような造りで、釣欄間や釣鴨居で柱の間隔を大きく飛ばした開放感あふれる書院座敷となっている。今日も、そこは雨戸や間仕切りなどはすべて外され、森からの秋風で潤されている。
その座敷から、利発な女子の声と、そして神戸弁が漏れ響き渡っていた。
「――そんなん最初に持ってきたらあかんのんちゃうのん」
「だってえ、摩多羅神《またらじん》がすべてを解き明かす鍵になるのよ」
「そやけど文化祭やねんから、埼玉にある淨山寺の写真が最初やと思うぞう、なあ天目《あまのめ》――」
彼らは、そこを歴史部の第二部室[#「第二部室」に傍点]にしているのである。
放課後直ちに電車に飛び乗り、駅からタクシーを使うと、四時前にはこの鎮守の森の屋敷に着ける。まな美だけが帰りは少し遠くなるのだが、土門くんの岩槻までは東武鉄道で約二十分、それにマサトは自宅だから、便利といえば便利なのだ。
「やっぱりやな、この三つ葉葵をでんでんでん、と入口んとこに出すんが一番いんぱくと[#「いんぱくと」に傍点]があるでえ」
「うーん、じゃ菊の御紋のお厨子の写真は?」
「それは奥ゆかしいとこに、こっそり置いた方がええと思うぞう……ねえ、天目」
主にマサトが撮った数百枚(千枚に近い)写真を、奥の間から次《つぎ》の間《ま》にかけての畳の上に、歌留多《カルタ》のように並べ、そこを渡り歩きながら囀《さえず》り合っているのである。第二部室ならではの芸当だ。
そうこうしていたら、庭に面した広縁の廊下に、若紫の上下に同色のカーディガンを羽織った西園寺|希美佳《きみか》が姿を現した。彼女は二十一歳で大学生である。マサトの親代わりである竜蔵《ジイ》の遠縁の娘、との触れ込みで、行儀見習いとのことなのだが……その希美佳が、お茶と果物を運んで来たのだ。が、座敷いっぱいに広げられている歌留多[#「歌留多」に傍点]を見て、珍しく顔を綻《ほころ》ばせながら、それでいても粛々《しゅくしゅく》とした作法で、紫檀の方座卓の上に、煎茶と、そして大粒の葡萄《マスカット》が盛られたガラス器などを並べていく。
土門くんは例によって畏まり、居住まいを正して床の間を背にするいつもの席につく。マサトはというと、……素っ気ない顔である。
並べ終えてお盆を引きながら、希美佳がいう。
「お夕食は、どういたしましょうか……」
まな美はそう遅くはならない内に帰るつもりなのだが、
「いやあ、六時四十五分ぐらいやったら嬉しいですよう」
臆面もなく、それも細かく時間を指定して土門くんはいう。
「……うけたまわりました」
そういい残すと、希美佳は戻って行った。
「も信じられないわ土門くん」
まな美が咎めようとすると、
「天目、いつも一緒に御飯食べてんねやろ? 今日はうちらと一緒に食べてくれるんやろかあ」
土門くんの関心は全然別のところにいっている。
「あーあ」
まな美は呆れた嘆息をついてから、葡萄を一粒むしって口に入れた。それはよく冷えていて、蕩《とろ》けるほどに美味な王様葡萄《マスカット》である。ここで出される果物はいつも一味違うのだ。まな美としても、だから、どんな夕食が出てくるのか少し興味はある。
三人して葡萄をあらかた啄《ついば》むと、まな美は学生鞄の中から白い封筒を取り出して、
「……これ、覚えてるう?」
ちょっと嬉しそうにいう。
「日光で僧侶に貰ったもの」
マサトが即答した。
「さすがマサトくんだわ。大切なことはきちんと覚えておいてくれるもの」
「そんな白い封筒どこにでもあるぞう」
土門くんの言い分が、正しいようであるが。
まな美は、その封筒から一枚だけの便箋を取り出すと、それを座卓《テーブル》の上に広げた。が、まな美の字で何やら書き込みが一杯なされている。
「うわー、どれが僧侶が書いてくれた字や?」
「真ん中にある片仮名――」
「どれどれ……オン[#「オン」に傍点]、コロコロ[#「コロコロ」に傍点]、シャモンダ[#「シャモンダ」に傍点]、ソワカ[#「ソワカ」に傍点]……」
土門くんは読みながら、すでに吹き出している。
マサトも、目で読みながら笑っている。
「みんな今度こそ絶対に祟られるわよ。これは最強の地獄神、摩多羅神の真言《じゅもん》なんだから」
「そやけど、ころころ[#「ころころ」に傍点]はないぞう……」
「笑ってられるのは、今の内[#「今の内」に傍点]」
「……そやけど、姫、こんなんが解けるんか?」
「解けたわよ。ちょっと時間はかかったけど」
「かかったいうたかて、土曜日に貰《もろ》て今日は火曜日やで。そんな短時間で解かれたら、慈覺大師《じかくだいし》も唖然《あぜん》やぞう」
「きっと喜んでくれているわ。だって解けるように出来ているんだから」
瞳をキラリと輝かせてまな美はいう。
「ま、姫がそこまでいうんやったら、神創成の秘話を拝聴いたしましょうか……なあ、天目」
マサトも同意して頷いた。
「まずね、この真言《しんごん》のうち頭のオンと最後のソワカ、これは簡単で、オンは日本語の敬語の御《おん》と同じだと思えばいいわ。そしてソワカは、願い事を叶えてね、といった意味で、だいたいの神さま仏さまには、これが頭と最後につくの。たとえば大黒天《だいこくてん》は、インド名はマハーカーラで、それに漢字を当てて摩訶迦羅《まかきゃら》というでしょう。だから、オン/マカキャラヤ/ソワカ……といえば大黒天の真言になるのね」
「なんや、名前をさんどいっち[#「さんどいっち」に傍点]しとうだけやんか」
小馬鹿にしたように土門くんはいう。
「ほとんどがそういった形式なのね。ところが、摩多羅神はちがう[#「ちがう」に傍点]のよ。そして、この摩多羅神の真言と同じ形式を持つものは、神さま仏さまの中で、後ひとつ[#「ひとつ」に傍点]しかないのね……」
まな美は、書き込みの中からそれを示して、
「オン/コロコロ/センダリ/マトウギ/ソワカ」
一字一句を噛みしめるように誦《じゅ》してから、
「これが、どの仏さまの真言かというと、なんと、かの薬師如来[#「薬師如来」に傍点]の真言なのね……」
さらに秘密めかしていう。
「なんや、ぞわぞわーとしてきたぞ、なあ天目」
「……マサトくんには話してなかったけど、薬師如来というのは、日本を象徴する仏さまで、密教系の古くて大きなお寺は、どこも、この薬師如来を本尊にしているのね」
「そやけど、それは顕教の部分やから、密教には裏に秘密の何《なん》かがあるいうことやあ」
土門くんが知ったかぶりして補足する。
「じゃ、裏に何があるの土門くん?」
「姫、そんな意地悪してたら評判落とすぞう」
「裏にはね、――裏神《うらがみ》さまがいるの」
まな美も負けずに、いい返す。
「な、なんやそれ?」
「わたしが勝手に名づけたの。だから、今日は裏神さまの話ね」
「裏神[#「裏神」に傍点]さんかあ、うらめしそうな名前やけど、自分それけっこう気にいったで。まったきー」
土門くんの思考回路《せんす》に嵌《は》まったようである。
「でね、密教の本尊って大日如来でしょう。お寺の本尊は薬師如来。それに日光の常行堂《じょうぎょうどう》の本尊は阿弥陀如来だったけど、こんなのはぜーんぶ飾りなの。密教の僧侶は全員、裏神さま[#「裏神さま」に傍点]を拝むわけね」
「えらい極端なこというなあ」
「でも実際にそうなんだから。でね、この裏神さまの使い方が、宗派によって若干違うのよ。ちなみに真言宗の裏神さまは、荼吉尼天《だきにてん》ね」
「天皇さんの即位のときに使いはったやつやな」
ちょっと声を潜《ひそ》めて、土門くんはいう。
「じゃ、なぜそれが使えるかというと……古い曼荼羅《まんだら》に描かれている荼吉尼天の絵を見てみると、真ん中にボスのような荼吉尼がいて、その両脇に子供のような荼吉尼がいて、その三人でもって、人間の手や足を齧《かじ》ってるのね」
「……ま、毎度のことやけど、そんなんでも、そのお方さまは女神さま[#「女神さま」に傍点]なんやろう」
土門くんは、ともかくも援護《フォロー》する。
「その、荼吉尼の女神さまの伝承によると、彼女に心臓を食べられると、この場合は心[#「心」に傍点]だけど……食べられた人は、半年後に死ぬといった神さまなのよ。いっぽう薬師如来は、薬という字がついてるように、拝むと病気を治してくれる、つまり寿命を延ばしてくれる仏さまなのね。そして薬師さんも、日光・月光菩薩を従えていて、薬師三尊形式でしょう」
「あっ、きれーな裏返しになるやんか。そやから裏神さんとして使えるわけか」
「けど、イメージの裏返しだけじゃ駄目なのね。別にしっかりとした根拠が要《い》るの。それは、真言を解いて初めてわかるんだけど……」
「なるほど、さっきのころころ[#「ころころ」に傍点]いうやつやなあ」
「でも、真言は後で纏《まと》めて解くわね。先に裏神さまの歴史を説明しとかないと」
「れ、歴史とは?」
「わたしたち歴史部じゃない」
「そんな意味ちゃうぞう……な天目」
「ひとつ解くのも全部解くのも同じなのよ、ねマサトくん」
マサトとしては、いちいち頷くしかない。
「そやったら、裏神を全部解いたんか?」
「そうよ。芋づる式に解けるんだから……」
「姫、せめて葡萄つる式ぐらいはいいましょうよ」
骸骨になっている葡萄の枝をつまみ上げながら、土門くんはいった。
「密教の裏神さまって複数いるんだけど、その原因を作ったのは、空海と最澄なのね。彼らが仲違いをしたのが、そもそもの始まりなの……」
まな美は、本当に歴史を語り始めた。
「最澄も遣唐使で唐に渡ったんだけど、僅か一年足らずで日本に戻ってるの。だから密教のことは殆ど学んでないのね。で、最澄の方が空海よりも年上なんだけど、頭を下げて、空海さんが唐から持ち帰っていた密教の経典を、次々と借りまくっていたの」
「そやったら、最初は仲良かったんやな」
「その後決別したのよ。原因は、その借りた経典を最澄がなかなか返さないからなの……もう少し待ってくれの詫び状が、今でもたくさん残ってるのよ」
「おるおる[#「おるおる」に傍点]そういうやつ。戻ってこーへん漫画いっぱいあるぞう」
土門くんは、やたら共感していう。
「日本に一冊しかないような、貴重な、経典[#「経典」に傍点]なのよ。それも空海さんが命がけで日本に持ち帰ったような。最後には返してはいるみたいなんだけど、何年後かといった話になるのね。でとうとう空海さんがキレちゃって、もう貸さない[#「もう貸さない」に傍点]……とふたりは決別しちゃうわけ。その最後の決別のときに、貸す貸さないで揉めたのが、『理趣釈経《りしゅしゃくきょう》』という本なのね」
まな美は、便箋の余白にその文字を綴りながら、
「……これは日本の僧侶だったら全員が知ってるぐらいの有名な話ね。そして、この『理趣釈経』は、『理趣経』という経典の解釈本[#「解釈本」に傍点]なの。これは何かというと、先生が使う、教科書の指導要綱みたいなものね」
「いわゆる、あんちょこやなあ」
「そう。教科書の『理趣経』の方は、真言宗が日々使っている中心《メイン》の経典で、中身を簡単にいっちゃうと、世の中に存在するものはすべて清し[#「すべて清し」に傍点]……といったお経なのね。この『理趣経』は市販されているから誰でも読めるんだけど、指導要綱《あんちょこ》の『理趣釈経』の方は、空海と最澄の決別以降、秘典とされていて駄目なの。でも、何が書かれているのか、だいたい想像がつくわ」
「……姫、自分にも想像つきましたよう」
マサトも同様に頷いた。
「やった、わたしの説明がうまいからだわ」
まな美は自画自賛して嬉しそうにいう。
「ふーん要するにやな、人の手足を齧ってた荼吉尼の女神、あれも清し[#「清し」に傍点]いうわけやろ」
「そうなの。『理趣経』では、関係しそうな話は僅かに一行で、荼吉尼天の名前は出てこないんだけど、『理趣釈経』の方には、細かく解説されているんだと思うわ。でね、この決別のときに、空海さんがいった有名な文章が残ってるのよ……秘蔵の奥旨は、文を得ることを貴しとせず。ただ心をもって心に伝うるに在り。文はこれ瓦礫なり[#「瓦礫なり」に傍点]ー」
まな美は、最後を歌舞伎のように力をこめていう。
「それを最澄さんに向かっていうたんか?」
「誰にいうのよ」
「うーん、おるおるそういうやつ、な天目」
とりあえず、土門くんは同意する。
「ところで、最澄さんが比叡山に埋《うず》めて、封じてしまったものがあったでしょう?」
「あ、その話前に聞いたぞう。たしか……それこそが荼吉尼天[#「荼吉尼天」に傍点]ちゃうのん」
「つまり最澄さんは、それを使わないことに決めたのね。このあたりの経緯《いきさつ》は、天台宗の百科事典である『渓嵐拾葉集《けいらんしゅうようしゅう》』に出ているわ……荼吉尼天の法は東寺《とうじ》と三井寺《みいでら》で委細に相伝し、山門《さんもん》にはない。山門というのは比叡山のことね。その理由は、最澄が荼吉尼天の法を御相承《ごそうじょう》なされたけれども、自ら相輪塔《そうりんとう》の下に埋められたからである……」
「わかった、空海と喧嘩[#「喧嘩」に傍点]したからやなあ」
「それに、御相承されたというのは、もちろん空海さんから教えて貰ったはずよ。荼吉尼天の法は東寺に委細に相伝……とあるけど、この東寺[#「東寺」に傍点]というのは、空海さんがいたお寺だから」
「そやったら、その荼吉尼天が使える根拠が出とう経典で喧嘩したから、最澄は埋めたんやな……なんちゅう心の狭いやっちゃ」
「でも、密教をやる以上は、裏神さまが絶対[#「絶対」に傍点]に必要なの。それがないと、顕教と何ら変わるところがないでしょう。そして最澄さんは、大黒天[#「大黒天」に傍点]……すなわち摩訶迦羅《まかきゃら》を担ぐことに決めたのね」
「あ、その話も姫いうてたなあ。慈覺大師の摩多羅神と、いわれ[#「いわれ」に傍点]が一緒なんやろ」
「それは慈覺大師が、わざと合わせてるのよ。その話は置いておいて……大黒天って、暗黒破壊神なんだから最強[#「最強」に傍点]の地獄神でしょう。髑髏《どくろ》の瓔珞《ネックレス》もしているし。それに、魔物であった荼吉尼が仏法に入ったのも、大日如来が、その強い大黒天に化身して懲らしめ、会心させたから……といった物語なのね。だから最澄さんとしては、おそらく、空海さんが可愛がっていた荼吉尼に勝てると思って、大黒天を担いだわけね」
「いちおう理屈に合《お》うてるやんか」
「そうかしら……?」
まな美は素っ惚けた表情でいう。
「ふむ、それにやな、何かの仏さんの裏として使えなあかんねやろ。まずはいめーじ[#「いめーじ」に傍点]的に裏返えらんとな……」
「大日如来は太陽神だから」
マサトがいった。
「そやそや、大黒天は暗黒破壊神[#「暗黒破壊神」に傍点]やねんから、密教の本尊[#「本尊」に傍点]のきれーな裏返しになるやんか。これで問題ないはずやぞう。どや」
「最澄さんも、きっとそう考えたんだと思うわ。けど、それで密教[#「密教」に傍点]といえるかしら……」
なおも惚けた表情でまな美はいってから、
「そんなこと、誰にだって分かるじゃない」
「あ、自分らにも分かるいうことは、あかん[#「あかん」に傍点]いうことか、……しょんぼりやな天目」
マサトも項垂《うなだ》れた表情をする。
「人を魅了するためには、深み[#「深み」に傍点]というものが必要なのよ」
高説を教授するかのように、まな美はいう。
「それ、おにいさんからぱく[#「ぱく」に傍点]った言葉やなあ」
「そうよ、大いにヒントになったわ。だから最澄さんが裏神に担いだ大黒天は、すぐに見透かされちゃって、誰もついて来なかったのよ。比叡山から僧侶がどんどん逃げ出していた理由は、これ[#「これ」に傍点]……」
「なるほど、全体像が見えてきたぞう。それで慈覺大師が、新たに神さんを作ったいうわけか」
「そう。そして推敲に推敲を重ねて創作した究極の裏神さまが、摩多羅神になるのね。もう作るしか手がないのよ。荼吉尼天は封じられちゃってるし、それに、最澄さんが担いだ大黒天、これも棄《す》てられないでしょう。開祖の最澄さんに刃向かうことになるから」
「あ、それでいわれ[#「いわれ」に傍点]の話を合わせてるんやな。大黒天も忘れんとってやーいう感じで」
「最澄さんの落ち度にならないように、工夫してあるのね。慈覺大師って、きっと優しい人なのよ」
「なんかそんな感じしてきたぞう……な、天目」
マサトも頷いた。
「……ともあれ、まずは比叡山に入門してきた僧侶の心[#「心」に傍点]を掴《つか》まないとね。それに、僧侶だったらすぐにピーンとくるんだけど、梵字《ぼんじ》の母音のことを摩多《また》というのよ。摩多[#「摩多」に傍点]の意味は母親ね」
「ふーん、摩多が……」
土門くんは何か冗談をいいかけて止めた。
「そして摩多羅神の多羅[#「多羅」に傍点]は、たぶんインドの女神のターラーからとったんだと思うわ。ターラーは救済者といった意味で、生死の苦海を渡ろうとしている人々を救ってくれる、女神さまなのね。ターラーは日本に伝来してきて多羅菩薩《たらぼさつ》になったんだけど、これは殆ど信仰されていない」
「あれえ、慈覺大師の乗ってた船が海で嵐になって、死にそうになってたときに摩多羅神が現れた……いういわれ[#「いわれ」に傍点]なんやろ、その通りの話やんか」
「うまく作ってあるでしょう。だから、摩多多羅神を縮めて摩多羅神……窮地を救ってくれる母親のような神さま、そんな意味なのね」
「そやったら地獄神はどこへ行った? 日光のお寺では屋根の支えに鬼[#「鬼」に傍点]を使《つこ》てたやんか。天目も写真撮ったことやし……なあ」
ふられたマサトは、少し考えてからいう。
「……表と、裏があるのかな」
「マサトくんのいう通り。摩多羅神は裏神さまなんだけど、それに表と裏の顔があるのよ。当時比叡山に入門してくる人って、殆どが十代の子供なのね。その小僧さんへの説明が、さっきわたしがしたような話……と思うわ。だから小僧さんにだって拝めるような神さまだったのよ。でも、天海僧正《てんかいそうじょう》のような玄人《プロ》のお眼鏡にも適わないと……そのあたりを解くヒントが真言にあるのね」
「おっ、いよいよ解きますか姫」
「その前に歴史の続きをひとつ。これは短い話だから」
お断りをしてから、まな美はいう。
「天台宗って、その後ふたつに割れちゃったでしょう。山門派と寺門派に……」
「円仁と円珍やな。そやけど、これはふたりが直接喧嘩したわけちゃうやろ?」
「そう、ふたりが亡くなってから不肖《ふしょう》の弟子たちがね。そしてこの両派は実際に戦《いくさ》をしたほど仲が悪かったの。ところが、天台宗の裏神さまは円仁[#「円仁」に傍点]の摩多羅神でしょう。だから円珍の三井寺は、これは使わないのよ」
「なんや、最澄のときと同《おん》なじぱたーん[#「ぱたーん」に傍点]やないか。進歩せえへん連中やなあ」
「土門くんの意見は正しい……で、また新たに、新羅明神《しんらみょうじん》という裏神さまを作っちゃったの。この神さまの故事《いわれ》も、円珍が唐からの帰りの船で嵐にあい、そのときに、わしゃ新羅明神[#「新羅明神」に傍点]じゃ……と現れたことになってるわ」
その新羅明神の顔になって、まな美は嬉しそうにいう。
「……ふむ。その話こそ大嘘やな。円珍が死んでからでっちあげたはずやぞう」
「でも結局は、この新羅明神は失敗しちゃうのね。知恵者が作ったわけじゃないから、深み[#「深み」に傍点]がなくって。だから寺門派の三井寺は、大元に戻して、荼吉尼を使うのよ。『渓嵐拾葉集』に書いてあったように」
まな美は、自称『裏神さまの歴史』をひと通り語り終えると、座卓《テーブル》に置かれてある便箋の折り皺を再度伸ばしてから、
「まず、薬師如来の真言のオン/コロコロ/センダリ/マトウギ/ソワカ……このコロコロというのは、取り除きたまえ、という意味ね。病魔を取り除きたまえだから、これは問題ないでしょう」
「……摩多羅神のころころは?」
「摩多羅神は、肝を食べられた人は往生できるといった神さまだったでしょう。だから、往生を妨げるものを取り除きたまえ……で同じ意味ね。問題はこの後なのよ。薬師如来の真言にあるセンダリとマトウギ、これはいちおう、インドの豊穣神の女神であると説明されているわ。でも実際は、最下層の種族の女性を表す言葉なのね」
「どういうことやのん?」
「インドにはカースト制度があるじゃない。それの紀元前の不可触賤民《ふかしょくせんみん》の名前なの……これ、賤民のさらに下の、触《さわ》ることすら駄目という意味の人々《カスート》よ。それがどうしたことか、真言に含まれてるのね」
「ちょっと待てえ」
普段はご気楽土門くんも、真顔になって、
「――薬師如来いうたら、日本[#「日本」に傍点]を象徴[#「象徴」に傍点]する仏さんなんやろ。その呪文に、なんでそんなもんが入ってんのん?」
「これ、諸説あって確かなことは分からないんだけど……そのセンダリとマトウギを真言に含んでいる仏教の神さまが、もうひとりだけいて、何かというと、四天王のひとりの持国天《じこくてん》なのね。四天王というのは、東西南北、守護する方位が決まってるでしょう。その持国天はどの方位だか分かる?」
「ひょっとして、それは薬師如来と同じ東[#「東」に傍点]か――」
「そう。だからインドから見て東というのは、そういう感じ[#「感じ」に傍点]の方角らしいわ。それに薬師如来って、インドではお像はひとつもなくて、そもそも信仰されていないの……いつどこで生まれたのかも、まったく分かってない仏さまなのよ」
「なんでそんなんを、日本はありがたがって使《つこ》てるんや?」
「薬師さんの本名は薬師瑠璃光[#「瑠璃光」に傍点]如来で、東方浄瑠璃[#「浄瑠璃」に傍点]世界の教主《ボス》ってことになってるでしょう。このきらびやか[#「きらびやか」に傍点]な肩書に騙《だま》されたんだと思うわ。日本に仏教伝来と同時に入ってきた仏さまだから、たぶん中身を知らずに使っちゃってるのよ。法隆寺はもちろんだけど、国分寺なども、本尊は薬師如来……」
「うーわー」
土門くんは大仰に呆れてから、
「知らぬが仏とは、こういうこというんやな」
|文字通り《どんびしゃ》の冗談をいう。
「さらに、センダリとマトウギというのは女性名で、センダラとマトウガが男性名なのね。わざわざ女性名を使ってるんだけど、これは仏教の根本的な欠陥である、女性蔑視が関係しているの。昔はお寺さんって女人禁制でしょう。それに極楽には女性はいないことになってるのよ。地獄絵の中にはいっぱい[#「いっぱい」に傍点]いるというのに――」
ちょっと口を尖らせてまな美はいってから、
「ともかく、不可触賤民のそれも女性ということは、最も卑しき存在を意味していて、で、その薬師如来の真言のトータル的な意味合いはというと、病魔を取り除くのに、そういった卑しき魔女たちよ、力を貸したまえ[#「力を貸したまえ」に傍点]……だと解説されているわ。そして、このセンダリは、インドの発音ではチャンダーリーというんだけど、仏教の古い形をそのまま今に伝えているチベットでは、ダーキニ女神のことを称して、チャンダーリーと呼ぶ場合があるのね」
「ええ? どういうことやのん?」
「どうして?」
マサトも、声に出して疑問を呈する。
「その、チャンダーリーたちが信仰していた神さまが、おもにダーキニ女神だったからよ」
「な、なんやてえ。そやったら、薬師如来の真言の中にすでに暗示されとったことになるやんか?」
「そうなの。だから、日本が薬師如来を本尊にした以上は、裏神さまは荼吉尼天[#「荼吉尼天」に傍点]……真言を理解できる僧侶にとっては、それは必然の構図なのね」
「か、か、か、かー」
土門くんは笑っているのか嘆いているのか不明の声を発してから、
「姫、なんや自分ら、聞いてはいけないような話を聞いているような気がしますけど[#「聞いてはいけないような話を聞いているような気がしますけど」に傍点]?」
マサトも、ゆっくりと頷いた。
「その感覚は正しい……空海さんもいってたように、真言の解釈は口伝で、書物に出てる範囲って知れてるのね。だから、今の話はわたしの推理。けど絶対[#「絶対」に傍点]に当たってると思うわ」
――何を根拠にしているのか、兄貴同様、まな美はえらい自信である。
「かつて天皇さんの即位灌頂《そくいかんじょう》の際に、荼吉尼を使っていたけれど、その理由は……天照さんが天《あま》の岩戸《いわやと》に隠れたときに辰狐《しんこ》の姿になっていたという、ひとつの伝承があるのね。辰狐というのは、狐の霊獣。かたや稲荷神社《いなりじんじゃ》に祀られてる狐は、荼吉尼天と習合しちゃって、後の世の荼吉尼の図像は、必ずといっていいほど狐に跨《また》がってる姿なのね。だから、荼吉尼天イコール狐イコール天照大御神の連想から、即位の儀式に使われた……といった解説もあるんだけど、それは後世のこじつけ[#「こじつけ」に傍点]であることが、これではっきりしたでしょう。荼吉尼天は、狐とは関係がなく、使われるべくして使われてるのね」
「ふーん?」
土門くんは、その話には承服しかねるらしく、
「たしか天皇さんの即位の儀式のときは、表の仏さんとしては大日如来を使わんかったか? 薬師如来とはちがうやん?」
「あ、それはね……まずお釈迦さまって、大日如来が仏法を解くためにこの世に現れた姿だと考えるでしょう。そのお釈迦さまは亡くなって天上界にいるんだけど、現世のことを心配して、薬師如来に姿を変えて現れている……と密教では考えるのね。だから大日・釈迦・薬師は一緒になっちゃうのよ」
「そ、そ、それも毎度のことやけど、なんて都合のええ話や[#「なんて都合のええ話や」に傍点]――」
マサトも、同調するように頷いた。
「じゃ、いよいよ摩多羅神ね。オン/コロコロ/シャモンダ/ソワカ……これも同じ文章構成だから、シャモンダよ力を貸したまえ、と命じているのね。ならば、そのシャモンダ[#「シャモンダ」に傍点]とは何者なのか……」
「ひょっとして、それも賤民《せんみん》?」
「ううん、これは違うわ。調べてみると、インド名でチャームンダーという女神さまがいて、それに該当するらしいの。何者かというと、ヤーマの奥さまになるのね」
「ヤーマ? それもどこかで聞いたような気がするぞう」
「閻魔《えんま》天のインド名が、ヤーマ。その妻がチャームンダーなんだけど、これはインドでは最高に凶暴な女神さまらしくって、阿修羅《あしゅら》の兄弟が暴れたときに、その首を刎《は》ねたのが彼女だという伝承なのね。そして彼女が住んでいたところは、人間の死体置き場で、髑髏の瓔珞《ネックレス》で身を飾っているの」
「……姫、犬[#「犬」に傍点]も呆れて倒[#「倒」に傍点]れてるぞう」
わんぱたーんという古典的な与太《ぎゃぐ》であるが。
「でも実際にそうなんだから……でね、このチャームンダーが日本に伝来してきて、真言ではシャモンダ、漢字が当てられて遮文荼天《しゃもんだてん》になるんだけど」
まな美は、便箋にその文字を綴りながら、
「……ところが、このときに図像を別の女神と取り違えてしまうのよ」
「あれ、その漢字の雰囲気、荼吉尼天と似てるやんか?」
「そうなの、曼荼罹などに描かれている遮文荼天の絵では、真ん中に猪豚《いのぶた》のようなものが座っていて、両脇に女性を侍《はべ》らせている三尊形式なのね。そして、その絵の神さまの正しい名前は……インド名はややっこしいからいわないけど、日本語に訳すと、金剛牝豚《こんごうめすぶた》ってことになるらしいわ」
――インド名はヴァジュラヴァーラーヒーであるが、ビシュヌ神が豚(ヴァーラーハ)に化身した際、それに合わせて化身した妻の名称である。
「な、なんやそれ?」
「神話の由来も面倒だから話さないけど、要するに荼吉尼の一種なのね。ダーキニというのは総称で、信仰している種族によって、微妙に違ったダーキニ女神が複数いたらしいのよ。そのひとつなの」
「ほんじゃ、その何とかめす豚と、阿修羅の首をはねたとかいう恐っそろしい女神と、慈覺大師はどっちを思て使《つこ》たんや?」
「両方を考慮に入れて、真言を作ったんだと思うわ。慈覺大師は中国に渡っているから、原典と直に接していたはずで、図像が間違ってることにも気づいただろうし、それに、チャームンダーが何者かも知っていたはずよ。つまり慈覺大師は、その食い違いを逆手にとった……というのがわたしの推理なの」
「逆手にとったら、何かええことあるんか?」
「この真言って、誰かに対して力を貸したまえ[#「力を貸したまえ」に傍点]、と命じてる形式でしょう。その、誰か[#「誰か」に傍点]が複数考えられると、命じている自分[#「自分」に傍点]……つまり摩多羅神も複数考えられるじゃない。たとえば、シャモンダをチャームンダーだとすると、命じている自分は、その夫の閻魔天[#「閻魔天」に傍点]ってことになるでしょう」
「そやったら、そのめす豚の場合は?」
「金剛牝豚を下等なダーキニだと考えると、命じてる自分は上位のダーキニ、つまり荼吉尼天[#「荼吉尼天」に傍点]ってことよね。あるいは、金剛牝豚をダーキニと同じものだと考えると、命じているのは大黒天[#「大黒天」に傍点]ってことになるわ。荼吉尼を会心させたのは大黒天なので、荼吉尼は大黒天の眷属《けんぞく》だと考えるのが一般的だから」
「あーそやったら、姫が前に話してた話とぴったし合《お》うてきたやんか。そのへんの暗黒街の神さんを、天台宗だけが全部一緒くたにしてしまうんやろ。それは摩多羅神の真言[#「真言」に傍点]が原因になってたんやな」
「けど……摩多羅神と大黒天《まかきゃら》は名前が似ているから一緒とか、大黒天も荼吉尼天も人間の肝を食べるから一緒だとか……いちいち尤《もっと》もらしい解説はされているのよ」
「それも、同様にこじつけ[#「こじつけ」に傍点]なんやなあ」
「このこじつけは世間に流布《るふ》されていて、研鑽を積んだ僧侶にだけ、さらに深い理解ができるようになってるのね。それが僧侶を魅了した深み[#「深み」に傍点]……そしてその摩多羅神を信仰する以上は、地獄神たちを一緒《イコール》にせざるをえないわよね。でも、これだと含まれない神さまがひとりいるでしょう」
「えー、摩多羅神はすなわち大黒天であり荼吉尼天であり閻魔大王……まだおったやろか?」
「泰山府君《たいざんふくん》……東岳大帝《とうがくたいてい》」
マサトが呟くように答えた。
「そう、それは道教の神さまだから、真言の解釈には含ませることができないのね。だから故事《いわれ》に、唐から泰山府君[#「泰山府君」に傍点]を持って帰ろうとしていたら、船で嵐にあって摩多羅神が現れた……と名前を出してるのよ。名前を出してしまったものだから、慈覺大師は遺言で、泰山府君を単独で祀るようにと命じ、それが赤山禅院《せきざんぜんいん》の、表名《おもてめい》……赤山明神《せきざんみょうじん》なのね」
「うわー、どんどん辻褄が合うていくぞう」
「解ける秘密って、まだいっぱいあるのよ」
そう得意げにまな美がいうと、さわさわ、と森の梢をざわめかせた一陣の風が、三人のいる奥座敷のあたりを撫ぜていった。
「……姫、誰かが話を聞きに来とうぞう」
土門くんは怪談《じょうだん》めかしていう。
「慈覺大師と、淨山寺の地蔵さまが来てるよ」
床の間のあたりに目を向けて、マサトはいった。
「真言と故事によって、地獄神の類いは統合できたけど、じゃ、表の仏さまに対してはどうかしら?」
「えーと、薬師如来と同じ真言の形式をとってるいうことは、当然、薬師如来をいめーじ[#「いめーじ」に傍点]させてるわけやろ。それに摩多羅神も同じく三尊形式やったし」
「だから、薬師の裏神さまになるし、と同時に釈迦と大日もカバーできるわよね。さらに、摩多羅神には別に本地《ほんじ》とする仏さまがあったじゃない?」
「そやそや、日光のお寺で見た、孔雀にのってた金きら金の仏さんやな」
「……阿弥陀如来[#「如来」に傍点]ね。で、如来というのは仏教の最高位だけど、密教の修行などに使う特殊な如来を除いては、如来というのは、大日・釈迦・薬師・阿弥陀……この四人しかいないのよ」
「なるほど、そやったら、表裏[#「表裏」に傍点]完全制覇やったんやな。ぱーふぇくと[#「ぱーふぇくと」に傍点]な裏神さんやんか」
土門くんも嬉しそうにいう。
「それに、赤山禅院に祀られている泰山府君の本地は、地蔵菩薩でしょう。だから、これもカバーできるのよ……淨山寺の慈覚大師御作のお地蔵さまは表の顔、裏は摩多羅神……その通りだったでしょう。これは双子の兄弟なのよ。けど、真言宗の裏神さまである荼吉尼天には、こんな使われ方はできないわよね」
まな美は、ちょっと意味深な表情をしてから、
「あの、日本に伝来してきた遮文荼天《しゃもんだてん》の図像を取り違えた話ね、あれは誰が間違えたのか……」
「うん? 誰が間違えてんのん?」
土門くんは神戸弁で鸚鵡《おうむ》返しをする。
「……空海」
マサトが答えた。
「マサトくんするどーい」
まな美は歓喜の声でいってから、
「その通りなのよ。空海さんは唐に渡って、青龍寺《せいりゅうじ》の恵果阿闍梨《けいかあじゃり》から密教のすべてを伝授されるんだけど、帰国の際に、その恵果阿闍梨から託されたものの中に、『胎蔵界曼荼羅《たいぞうかいまんだら》』と『金剛界曼荼羅《こんごうかいまんだら》』という二枚の大きな曼荼羅があったのね。そのうちの胎蔵界というのは、真ん中に大日如来が鎮座していて、周りを様々な仏さまや神さまが取り巻いている、密教|家族《ファミリー》が住んでる宮殿のような絵だと思えばいいわ。その宮殿の塀の外の外金剛部院《がいこんごうぶいん》という場所に、あの猪豚の顔をした遮文荼天《しゃもんだてん》が描かれているの……そしてもちろん、その曼荼羅とともに個々の図像の解釈も空海さんは持ち帰ったはずなんだけど、それが間違っていたのね」
「そやけど、それは空海さんが間違ったといえるんか? その中国のあじゃり[#「あじゃり」に傍点]が間違ってたかもしれへんぞう……」
「その、間違った曼荼羅を日本に持ち込んで流布してしまったのは、空海さんなのよ。しかも、それは真言宗にとっては三種の神器[#「三種の神器」に傍点]に等しいもの……それだけじゃなく、日本最古の密教の曼荼羅なので、これを基本として密教の世界観が説かれていくわけね。だから、誰がどの時点で間違っていようとも、空海さんおよび真言宗の過ち[#「過ち」に傍点]なのね。それに、この『胎蔵界曼荼羅』には、四百以上の仏さまや神さまが描かれているんだけど、図像を別の神さまと取り違えたなんて凡ミスをおかしているのは、この遮文荼天ただ一カ所だけなのよ……」
「うーわー」
土門くんも歓喜の雄叫びをあげてから、
「すっごい話になってきたぞう。そうすっとやな、その真言宗のみす[#「みす」に傍点]を、慈覺大師はわざと[#「わざと」に傍点]に突いたいうわけか――」
「それ以外には、ちょっと考えられないでしょう。慈覺大師も、やるときにはやる人なのよ。……彼も十代で比叡山に入門したんだけど、最澄さんはそのときにはもう五十の手前。でも、慈覺大師は最澄さんのことを慕っていたらしく、最澄さんも、お人柄は悪くなくって、頭が固いだけだったのね」
「……姫[#「姫」に傍点]、姫[#「姫」に傍点]、姫[#「姫」に傍点]」
音階を上がっていくように、土門くんは窘《たしな》める。
「そんな最澄おじいさまが、真言宗の僧侶たちから馬鹿《こけ》にされてるということは、慈覺大師も十分知っていたのよ。だから、これは真言宗への仕返し[#「仕返し」に傍点]だとわたしは思うわ。天台宗の方がより詳しく知ってますよ……と暗に誇示しているのね。そういったことも、摩多羅神の真言の解釈とともに、弟子に口伝《くでん》したんだと思うわ」
「いやー、姫に慈覺大師がのりうつってるぞう」
土門くんは、手を擦り合わせながらいう。
「さらにもうひとつ解けたのよ……これはちょっと自信ないんだけど、摩多羅神の真言のコロコロには、ひょっとしたらクルクッラーも含まれてるんじゃないかと思うの」
「うーん、ころころとくるくるかあ、似てるといえば似てるけども……そやけど何者《もん》や?」
「ほら、摩多羅神の多羅[#「多羅」に傍点]はターラー女神からきてるといったでしょう。そのターラーには、実はたくさん種類があるのよ。そのひとつがクルクッラーで、インドでは赤ターラーと呼ばれているのね。絵やお像のときに赤を基本の色にするからだけど、このクルクッラー女神は本地が阿弥陀如来だから、五部法《ごぶほう》という密教の約束事に縛られて、そうなるのね」
「ちょっと待てよ、摩多羅神も基本の色は赤やねんやろ。それに赤山禅院《せきざんぜんいん》にいる赤山明神《せきざんみょうじん》は真っ赤赤やんか。それにや、淨山寺のお地蔵さん、あれ赤[#「赤」に傍点]地蔵と呼ばれとったんちゃうかったかあー」
「だから、赤[#「赤」に傍点]ターラーのクルクッラーじゃないかと思ったのよ。で、この女神さまも日本に伝来していて、空海さんが持ち帰った曼荼羅にも描かれているんだけど、ちょっと面白い場所にいるのね。もう一枚の『金剛界曼荼羅』の中……こちらは、悟りを得るための道筋を表している曼荼羅で、九つの段階《ステージ》に分かれていて、そのひとつの『理趣会《りしゅえ》』という場所にいるの……」
まな美は、便箋の隅っこにその文字を綴った。
「あ、それは見たことある漢字や。この世のものはすべて清し[#「清し」に傍点]いうやつやないか……な、天目」
マサトも大きく頷いた。
「だから、わたしの推理が正しければ、摩多羅神の経典上および曼荼羅上の根拠を、慈覺大師は、そのあたりに置いているということよね」
「それは空海と最澄が喧嘩した、まさにその場所[#「その場所」に傍点]やろ。やるなー慈覺大師も」
「これで、摩多羅神に裏神さまとしての全てが整ったことになるでしょう。イメージ的にも、真言からいっても、経典の裏付けも……」
マサトがパチパチと拍手をした。
「それが慈覺大師がかけてた、あの天海僧正も魅入られてしもうた、魔法[#「魔法」に傍点]の正体やなあ。いやー凄い話やったぞう」
土門くんは珍しく褒めておいてから、
「……姫、お地蔵さんものりうつってるぞう」
訳の分からない冗談をいう。
鎮守の森に差す日が、少し翳《かげ》ってきていた。
「そろそろ晩御飯やあ」
土門くんが嬉々としていると、彼の学生ズボンの尻ポケットが震え、
「最近携帯に出るとろく[#「ろく」に傍点]なことあらへんからなあ」
愚痴《ぐち》りながら、着信のボタンを押した。
「あっ、『恙堂《つつがどう》』のおじさん……うわ[#「うわ」に傍点]、いきなり怒らんでもええやんか」
土門くんは携帯電話を耳から遠ざけた。
そして、
「……そんなこといわれたって、幸ちゃんが内緒にしとうことを、なんでおじさんに教えれるの……」
弁解めいたことを二、三分喋ってから、土門くんは電話を切った。
「なんの話だったの?」
まな美が心配そうに尋ねる。
「いやな、幸ちゃんが昨日の夜中に手に怪我したんやて。その怪我は大したことはないらしいんやけど、泣きまくってて部屋から出てけーへんねやて。それで心配した親父《おやじ》さんが、今日の昼頃に病院に連れていったんやそうや。そしたら、その間に泥棒に入られて……」
「あっ」
マサトが何かに気づいたような声を漏らした。
「……お母さんが店番してはって、その間に家の方に入られとうねん。家の玄関には鍵かけてなかったらしいから、しゃーない思うけどもなあ。それで何盗られたんか最初は分からんかったんやけど、調べてるうちに、あの甕[#「甕」に傍点]がなくなってることに幸ちゃんが気づいたんやて。そんなん親父さん初耳やから、幸ちゃんにあれこれ話聞いてて、ほんでもって、自分にとばっちりが来たいうわけやー」
「あの、呪われた甕を誰かが盗ったの?」
「そうやねん、不気味な話やろう。あの甕がいかに気色の悪い代物《しろもん》か、親父さんにも教えたろか思たんやけど、火に油そそぐから止めたんや」
土門くんにしては賢明なる選択であった。
「だけど、どうなってるのかしら?」
「ふむ、かくなる上は、名探偵[#「名探偵」に傍点]を担ぎ出すしかないぞう……姫、おにいさんの研究室の電話番号は?」
「えー、今度こそ絶対に怒られるわよ」
といいながらもまな美は、淨山寺のお祭りの目に入手して以来学生鞄に忍ばせている、地蔵の浮彫《レリーフ》が神々しい御守袋を取り出した。
そして、その小さな紙切れに記されてある秘密の電話番号をふたりして覗き込んでいると、
「いないと思うよ……」
傍らでマサトが呟いた。
※
その頃竜介は、同じく鎮守の森の屋敷の母屋《おもや》の方に来ていて、英国調の応接ソファで寛《くつろ》ぎながら、竜蔵老人と話し込んでいた。
「……油赤子の件は承《うけたまわ》りました。可能でありまするとも。しかし、火鳥さまならではの遣《や》り方でございまするなあ」
目を細めて、竜蔵はいった。
「ぼくとしても、後には引けないですからね。石を投げてきたのはどこのどいつ[#「どこのどいつ」に傍点]なのか、絶対に突き止めてやる」
竜介は、怒らせると執念深い性格のようである。
「その、油赤子の少年でありましょうか?」
「いや、それはないと思いますね。甕を他人に託すぐらいだから、その少年は事実を知りたかったわけで……だから、それが暴かれては困る何者かが、ぼくを妨害したってことですよ」
「然様《さよう》でありまするなあ。たしか、アマノメの神にも石[#「石」に傍点]は見えたようですが、投じた者までは……」
「それはぼくが見てないんだから、無理もないでしょうねえ」
「ですが、先代のアマノメならば、そのあたりも見えたかと」
――マサトの亡くなった父親のことであるが、竜蔵は、そのさらに先代から仕えているアマノメの神の審神者《さにわ》である。
「まあ、阿頼耶識《あらやしき》を使えれば可能でしょうけど、でも、これはインターネットと似たようなもので、慣れないうちは時間がかかるでしょうからね。だから、そのひとつの事柄だけを気にかけていると、あるときふっと答えが見えてくる……そういった可能性はありますよね。もっとも、理論上の話ですが」
「そういわれてみれば、先代のアマノメにも、似たようなことはありましたなあ。いやー火鳥さまのお話は、実に勉強になりまするよ」
そんな竜蔵老人の煽《おだ》てには乗るまいと、竜介は気を引き締めてから、
「けど、ぼくを担いで山の坂道を降ろしてくれた男の人、その人のことに関しては、彼[#「彼」に傍点]は何かいってませんでしたか?」
「はい、会えば分かると申しておりました。それと、火鳥さまが道に倒れておられるときに、通りかかった男も同様でございまする……ですが、その男たちふたりは、石を投じた人物とは別だろうというのが、アマノメの御[#「御」に傍点]見立てでございました」
「なるほどね。けど、あの日ぼくは歩いていて、山の中はもちろんですが、林道の方ですら、誰ひとりとして出会わなかったんですよ。なのに、どこからそんなに人が湧いて出てきたのか、それも謎だよなあ……」
竜介は、その男ふたりに関しては、今なお全く思い出せずにいる。
「まあ、そのような謎は、早晩解かれまするでしょう。それとですな、火鳥さま」
竜蔵は少し改まった口調で、
「例のアマノメが見えなかった相手ですが、居場所が判りましたでござりまするよ。日光山内の外れにある荒れ寺の住僧をしておりました。ですが、山号《さんごう》や寺号《じごう》が掲げられておらず、地図にも見当たりませんでしたので、詳細は分かりませぬが、唐風の伽藍《がらん》の様子からして、禅宗の寺ではなかろうかと、申しておりました」
「禅寺ねえ……」
竜介は、思い当たることもあるようだが、
「ま、禅のまっとうな修行を積んだ高僧だと、自身の脳をかなり操れるから、接続《アクセス》を拒否することは可能かもしれませんね」
ごくあっさりした見解を述べた。
竜介も、初めてマサトと対面したときには、その接続《アクセス》拒否を試みたこともあったのだが、徒労に終わっている。理屈は解っていたとしても、それが実際に出来るかどうかは、また話が別のようである。
「ささ、食事の用意が整ったようですな。まいりましょうか」
いうと、竜蔵がソファから立ち上がった。
そこは食堂《ダイニング》と応接間を兼ねた、だだっ広い板の間である。壁はほぼ白に近い土壁で、最近塗り直されたもののようだが、それと対比をなす濃茶に変色した太柱や床板は、つるつるに磨かれてある。
表庭が見渡せる大窓の手前に、絨毯が敷かれ、そこに英国調(座面が緑と白の縦筋柄《ストライプ》の布張り)の応接セットが置かれてあるのだ。その大窓には障子は嵌まっておらず、やや洋風めいた造りとなっている。その後に改装されたものであるようだ。
その大窓とは反対側の、奥の壁の手前に、食事用の木机《テーブル》セットが置かれている。
先ほどからそこに、ひとりの女性が、どこからか料理を運んで来てはせっせと並べていて、その準備が整ったようなのだ。
そもそも今夕、竜介が屋敷を訪れているのは(もちろん車での送迎つきだが)、先日の労をねぎらっての晩餐へのご招待……なのである。
竜介はその席についた。
木机《テーブル》の上には所狭しと小[#「小」に傍点]皿や中[#「中」に傍点]皿が並んでいる。
「お口に合いまするでしょうか……」
「いえいえ、ぼくは意外と、こういった枯れた料理……失礼しました。和食の方が好きなんですよ。でこういうふうに、たっくさんの種類が一堂にあるというのが、夢なんですね」
――夢が叶ったようである。
「然様でござりまするか」
竜蔵は和《にこ》やかに微笑んだ。
その料理を並べていた女性が、冷えたビールとグラスを運んで来た。
「前に、ご紹介しましたかのう……」
「えー、たしか縁側でお茶をいただいたときに」
竜介がこの屋敷に無理やり押しかけてきた、夏の話である。
「そうでございましたな。この娘《こ》は希美佳と申しまして、わたしの遠縁の娘なんですよ」
希美佳は、両手で持った瓶《ビール》を粛々とした作法でグラスに注ぎながら、竜介にお辞儀をする。
その横顔を見て……誰かに似ている。
そうだ、前会ったときもそう思ったことを竜介は思い出した。が、誰と似ているのかは思い浮かばない。それも、前と同じである。竜介は人の顔を覚えるのは元来得意ではない。
「失礼ですが、火鳥さまは、まだ独り身でございまするよなあ」
「ええ、どうしたことか……」
誕生日が来れば四十である。
「誰か、いい女性《ひと》がおれば、よろしいんですがな」
その誰かを紹介でもしてくれそうな口ぶりで、竜蔵はいう。
ビールが注がれた小ぶりのグラスは青《ブルー》の薩摩切《さつまき》り子《こ》である。もっとも、高級そうなグラスとしか竜介には分からないが、そのグラスでおそるおそる乾杯をしていると、希美佳と入れ違いに、マサトが部屋にやって来た。
そして『恙堂』であった事故や事件について語ってくれる。
「へー」
竜介はひとしきり驚いてから、
「あれ? 『恙堂』から電話があったということは、ふたり[#「ふたり」に傍点]が隣に来てるってこと?」
マサトは、さも当然のことのように頷く。
「……とすると、食事は?」
「これから」
マサトはいう。
「なんちゅ奴らだ」
呆れたように竜介はいってから、
「あまり甘やかさないようにお願いしますね。妹もそうだけど、骨董屋の坊《ぼん》も」
「承知いたしております」
その後、希美佳さんと一緒に食事……という土門くんの夢[#「夢」に傍点]が叶ったかどうかは、神のみぞ知る。
[#改ページ]
15
――その頃、
埼玉県南警察署の三階にある刑事課のデスクのあたりでは、係長の依藤《よりふじ》警部補が、出署してきた部下の生駒《いこま》巡査部長を捕まえて小言をいっていた。
「おまえ、もうちったあ真面《まとも》な『報告書』を出せよ。読んでも情況が全然わからんじゃないか」
「自分、日光のすがすがしい空気を三日間[#「三日間」に傍点]も吸ってましたでしょう。身も心もすっかりと……」
厭味半分で生駒刑事は言い訳をする。
「だから[#「だから」に傍点]、休みをくれてやったろう」
「休み? 今日は当直の勤務日程《ローテーション》だから今出てきたんですよ」
「昼まで休めたじゃないか――」
嘯《うそぶ》いて依藤はいってから、
「まず、おまえの『報告書』の自転車窃盗で逮捕可[#「自転車窃盗で逮捕可」に傍点]、この一文、前後の繋がりはどうなってるんだ?」
「いやー口で説明した方が早いと思いましてね。要点だけを書いておいたんですよ」
「それはメモ[#「メモ」に傍点]というんだぞ。――なにか生駒、俺に清書[#「清書」に傍点]させる気か」
依藤は、刑事課の係長《ボス》らしく凄《すご》んでいう。
「そ、そんなつもりは……」
言葉では辟易《たじろ》ぎながらも、生駒刑事は相変わらず瓢々とした態度で、
「その前後の経緯《いきさつ》を説明しますとね、まず高曽根《たかそね》は、奥さんの家の付近をうろうろしてたんですよ。そしたらいきなり、近所の家の門のところに停めてあった自転車をパクッて、走り出したんですよ」
「それが……十一時二十分の話だな。けど、彼はどうして、突然そんなことをしたんだ?」
「それはですね、これは後から気づいたんですが、そのちょっと前に、路地から車が出てったんですよ。たぶん、それを追いかけたんだと思いますね」
「それを書け、それを[#「それを」に傍点]――」
依藤は念を押すように咎めてから、で[#「で」に傍点]、と続きを促す。
「それでですね、ちょっと走るとすぐ国道に出てしまうんですが、そんな道を自転車で追っかけるというのは、無理っぽい話ですよねえ」
「日光の道路事情なんて俺の知ったことか」
早口で悪態をついてから、で[#「で」に傍点]、と先を促す。
「ところがですね、その国道は一本道で、突き当たりの日光橋《にっこうばし》にある信号に引っかかると、やったらと長いんですよ。下には有名な川が流れてまして、信号の隣には有名な赤い橋があるんですが、今は工事中。正面はもう東照宮の森ですね」
知らないといった依藤に、生駒は日光の観光|案内《ガイド》をしてから、
「どうやら、そこで追いついたみたいなんですよ」
「みたい[#「みたい」に傍点]……とはどういうことなんだ?」
「いや、自分は車じゃないですか。自転車の真後ろは尾《つ》けられないんで、とろとろと走らせて、遠目にしか見てないんですよ」
生駒は手で庇を作って、弁明してから、
「そして信号を過ぎて五百メーターほど国道を走ると、右に折れて、西参道《にしさんどう》という道に入ったんです。けど、そのあたりで、完全に車を見失ったようなんですね。もうペダルを漕ぐ力もなさそうで、自転車がふらついてましたから。諦めたのかな……てしばらく様子を窺ってますと、自転車から降りて、脇道に入って行ったんですよ」
「それが、――御堂山《みどうやま》林道というわけだな」
「ええ、で僕が推理しますにはですね、車に乗って来た人は、西参道の突き当たりに駐車場がありますから、そこに車を停めて、歩いて引き返して来たんだと思うんですよ。高曽根には、それが見えたんではなかろうかと」
「ふむ、その推理はよし[#「よし」に傍点]としてだ、おまえにはその人物は見えなかったのか?」
「……係長、無理いわないで下さいよ。日曜日の日光の参道ですから、人はけっこう歩いてるんですよ。そんな不特定他者[#「不特定他者」に傍点]の行動までは分かりませんよ」
「難しい言葉いいやがって。それで――」
「自分はそのまま参道に車停めまして、その林道に入って行ったんです。ところがですね、そこは誰ひとりとして歩いてない道なんですよ。くねーくねーと曲がってはいるんですが、見通しはけっこう利きましてね、振り向かれたらアウト、といった感じの道なんです。でとりあえず戻って、車の中で待機してたわけですよ」
「まあ、それは仕方がないな」
「けどですね、三十分ほど経っても高曽根は戻って来ないんですよ。それで、係長がおっしゃってた言葉を思い出しましてね、死者に花を手向ける……といった話です。だから、もしやと思って、再度林道の中に入って行ったんですよ」
「ふむ、その行動も認めよう」
依藤は、生駒の『報告書』に目を落としながら、
「が、そのへんがまたも箇条書[#「箇条書」に傍点]じゃないか。しかも、保護責任者|遺棄《いき》の罪に問える?……この、尻のクエッション印《マーク》はなんなんだ?」
「いやーそれはですねえ、罪には問えるんでしょうが、同様に僕も問われてしまいそうな……」
しどろもどろで生駒はいう。
「委細をきちん[#「きちん」に傍点]と説明するように――」
依藤は、鬼の顔になって詰問する。
「えーとですね、僕は林道へ入りましたが、行けども行けども、何の建物も何の目印もない道なんですよ。人の気配も全くしませんし。だから三十分ぐらい歩いて諦めまして、戻ってたんですよ。そしたら、山から高曽根が降りて来るのに出食わしたんです。自分、大慌てで隠れて見ていたら、別の男の人を抱《かか》えて降りて来たんですよ」
「――別の男?」
「全然知らない人です。高曽根は、その男を道端に置きざりにしたまま、参道の方にぱーと走って行くんですよ。で自分は、どうしましたかーてその男の人に声をかけたんですが、大丈夫、大丈夫……と手を振るもんですから、それに怪我をしてる雰囲気でもなさそうなので、とりあえず、高曽根の後を追うことにしたんです」
「なんて馬鹿なこと仕出かすんだ[#「なんて馬鹿なこと仕出かすんだ」に傍点]」
声を荒らげて依藤は叱り飛ばしてから、
「――その男の人に万が一のことがあってみろ、おまえ、完全[#「完全」に傍点]に犯罪人だぞ」
脅すようにいう。
「いえいえ、自分は車に辿りついてからですね、無線はまずいんで、携帯で一一九に一報を入れときました……身分と名前をごまかして。所轄外で勝手に捜査してますので、そのへんも考慮しましてね」
その一報で救急車が到着する以前に、竜介は寺の住僧によって運ばれたのであるが。
「危なっかしい橋を渡りやがって」
憮然とした表情で依藤はいってから、
「――でだ。その高曽根が降りてきたとかいう道[#「道」に傍点]、覚えてるのか?」
刑事の顔になって問う。
「ええ、地図に書けといわれれば困るんですが、大丈夫です。自分こう見えたって、迷路とかけっこう得意なんですよ」
「どう見えるかは知ったことじゃない」
依藤は、腕組みをして考えながら、
「……しかし、高曽根に日光の土地勘があったとも思えないけどなあ。けど、不動産を扱っていたから万が一つてこともあるし……そのあたりは、おやっさんに確かめてみるしかないな」
独り言のように呟いた。
「おやっさんといいますと?」
「かつての係長。そもそもこの事件の捜査責任者だった人さ。――生駒は知らないもんな」
「噂なら知ってますよ。お辞めんなったときに、ひと悶着あったとかいう話を」
「うーん、あの人は袖の下貰うタイプだったからな。そんなことは昔[#「昔」に傍点]の話。――俺は違うぞ」
と、依藤は部下の生駒をひと睨みしてから、
「話の続きは[#「話の続きは」に傍点]――」
怒凄《ドス》の利いた声で先を促す。
「えーとですね、そして高曽根は、再度自転車に乗って、来た道を戻るんですよ。途中、国道沿いにある店に入りましてね、おそらく昼飯を食ったんだと思うんですが、そこで自転車を捨てました。そして国道をとぼとぼと歩いて行って、そしてまた店に入るんですよ。なんだか、当てもないらしくって、うろうろしてるんですね……そして店を出て、もうほとんど東武日光駅の近くなんですが、国道を歩いてる彼に、四駆の車がするするっと近づいて来ましてね、その車の中の男と何やら話してるかと思うと、その車に乗って、走り去ってしまったんですよ」
「それが、二時半頃の話だな」
「はい、そして追跡しますと、まーた逆戻りでして、日光橋を渡って西参道も過ぎて、そして細い道に入って、どんどん山ん中に入って行って、そしてお寺についたわけですね」
「――名無しの寺だな」
「ええ、看板[#「看板」に傍点]すらもかかってない荒れ放題のお寺です。近くを歩いていた地元の人……とはいっても、近所には民家はなくて、けっこう離れた場所の人らしいんですが、山菜採りか茸《きのこ》採りかに来とられて、その人の話によると、厳《いか》つい顔をした住職がひとりいるだけ。何のお寺なのかは不明だそうです」
「ふむ、それが高曽根とどう繋がってるんだ?」
「謎ですよねえ」
無責任な相槌をうってから、生駒は尋ねる。
「その後どうなったんですか?」
「――高曽根は、その寺からは一歩も外に出てないそうだ」
「ちえっ、植井《うえい》楽してるなあ」
生駒は昨日、その植井刑事と交替したのだ。
「相手《ホシ》が動かんというのも困りもんだぞ。そうそう同じ場所に車を停めてられないし、それに飯《めし》も買いに行けないじゃないか」
「いや、植井はそういうところ抜かりないですから。三日分ぐらいの食料、車に積んでましたからね」
「あー、なんていい部下ども[#「部下ども」に傍点]を持っているんだ」
嘆息まじりに依藤係長はいってから、
「じゃあな生駒、報告書を清書[#「清書」に傍点]するときに、――あくまでも、おまえが自主的[#「自主的」に傍点]に書き直すんだが」
悪魔の囁きのごとくに教唆する。
「――その、保護責任者遺棄の下りは消すように。見知らぬ男の存在も消すように。それで辻褄が合うように話を組み立て直せ。わかったか――」
「え、それで許していただけるんですか?」
「許すも許さないも、その件に関しては、自分はいっさい与《あず》かり知らない……」
横を向いたまま、素っ惚けた表情で依藤はいう。
「な、なんだ……日光の見ざる言わざる聞かざるを決め込んじゃうわけですねえ」
「ご不満か?」
「いいえ」
即答して生駒はいう。
「それに、高曽根をしょっぴくんだったら、自転車窃盗だけで十分だからな」
「まあ、そうですけれども……けど、ちょっと可哀相な感じもしますよね」
「可哀相なのは[#「可哀相なのは」に傍点]、殺害されて、人知れずにどこかに捨てられている被害者の方さ。十一年も経ってるんだぞ。誰かが見つけてやらないと――」
それは、依藤警部補の真摯《しんし》なる気持ちであった。
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16
――木曜日のことである。
学校の昼休み、卓也に、ボイスレッスンの時間と場所の変更が、マネージャーからの電話(携帯)で告げられた。明後日の予定であったのだが、今日の午後五時に変更になったのだ。
メンバーの全員が揃って行う歌唱レッスンとは別に、個人個人でやる発声の基礎練習のようなものが、すなわちボイスレッスンであるが、その種の訓練は、放課後や土曜日曜などに組み込まれる。タレント活動の方は、学業(義務教育)よりも優先される場合が多々あるので、せめてもの計らいであろうか。
卓也は、授業を終えた後、調布の寮に戻って私服に着替えてから、指定された赤坂のスタジオ[#「赤坂のスタジオ」に傍点]に向かった。この種のことにはマネージャーは付き添わない。もちろん車の送り迎えなどもないから、単独で電車を乗り継いで行くことになる。
その赤坂のスタジオには、卓也は何度か来たことはあるのだが、ボイスレッスンで出向くのは初めてであった。――受付で記帳をして、認証バッジを貰ってから館内に入った。ほぼ無名の卓也なので、顔パスというわけにはいかない。
館内はしーんと静まり返っていた。
おそらく、有名なミュージシャンの誰かが、どこかの部屋でレコーディングの最中であろうが、音はいっさい漏れてはこない。絨毯敷きの廊下にも、誰ひとりとして歩いてはいない。
マネージャーに指示されたのはG−3という部屋である。――館内の案内図によると、地階に小さめの部屋が幾つか並んでいて、その一室であった。
G−3の扉の上には〈使用中〉の赤ランプが灯っていた。
卓也は、来る途中も何度かそうしたように腕時計で時間を確認した。――五時の五分前である。時間厳守[#「時間厳守」に傍点]は、マネージャーから日々|懇々《こんこん》と説かれていることであるが、これならば大丈夫のはずだ。
卓也は廊下に面した重い扉を開けた。右手に録音ブースがあるが、そこの照明は灯っていない。先にもうひとつ扉があって、その扉のガラス窓の向こうは明かりが点いていた。覗き見ると、天蓋が半開きになったグランドピアノが一台置かれているだけの殺風景な小部屋である。その内扉に手をかけると、かすかにピアノの音が聞こえてきた。先生[#「先生」に傍点]はすでに来ていて、何やら弾いているようである。
卓也は内扉を開けて室内に入った。
挨拶[#「挨拶」に傍点]――それも日々いわれていることであるが、ピアノの音色が余りにもきらびやか[#「きらびやか」に傍点]なので、邪魔をしてはまずいかと、声は出さずに、卓也は扉をくぐったところで立ち止まった。
それにしても、先生[#「先生」に傍点]はいったい何を弾いているのだろうか? 卓也の聞き馴れない種類《ジャンル》の音楽である。ゆったりとした四《フォー》ビートでありながら、鍵盤の上に玉《たま》でも転がしているかのような流麗なフレーズが、次から次へと繰り出されていく……卓也も、ジャズのCDは何枚かは持っているのだが、それらとも少し違っているようだ。
華麗な曲の割には素っ気ない終わり方をすると、
「――おはよう」
先生の方から声をかけてきた。
夕方であっても、おはよう、それが業界の挨拶だ。
「あ、おはようございます」
慌てて挨拶を返してから、卓也はピアノの側面へと歩み寄って行った。
「……あれ?」
ピアノ椅子に座っていたのは、いつものボイスレッスンの先生――中村《なかむら》先生とは違っていた。
「中村さんね、流行風邪《インフルエンザ》にかかって寝込んでしまったんだ。ぼくはピンチヒッターね。だから時間と場所を変更してもらったんだ。――よろしく」
芥子色《からしいろ》のジャケットを小粋に着こなしている男が、爽やかな笑顔でいった。
「あ、よろしくお願いします」
卓也は頭を下げてから、
「さっき弾かれてたのは、何の曲ですか?」
興味深そうに尋ねる。
「今のはね、アート・テイタムの模倣《コピー》さ」
「それは……ジャズの人なんですか?」
「うーん、モダンジャズと呼ばれる形式《スタイル》が確立するのは五〇年代なんだけれども……一九五〇年代[#「五〇年代」に傍点]ね。テイタムが活躍してたのは主に四〇年代なんだ。だから使ってる音階《スケール》や和音が微妙に違う。ま、簡単にいっちゃうと、濁ってる音が少ないってことになるだろうかね。だから泥臭くはなくって、懐古的《レトロ》だけれども、華麗な感じがしただろう」
「うん」
卓也は素直に頷いた。
「テイタムは、後《のち》に出てくる超絶技巧系のジャズのピアノ弾きの、元祖のような人なんだ。そして彼の影響を最も受けたのは、オスカー・ピーターソンというピアノ弾きだけれども……」
「あ、知ってる。僕そのCD持ってますよ」
卓也の数少ないジャズのコレクションの一枚がそうである。
「珍しいね。きみたちの年代じゃ」
男はいうと、その特徴的な速弾《はやび》きのフレーズを三十秒ほど奏でた。
「うわあ」
卓也が驚いているのを尻目に、
「さ、レッスンを始めようか――」
男は、発生練習の伴奏を弾き始めた。
それに合わせて卓也は声を出していく。
――小一時間、そういった型通りのことをやってから、
「いやー、最近の男の子は高い声が出ると聞いていたけど、きみはC《ツェー》まで出るんだね。二オクターブ上のCね……驚きだよ」
その鍵盤をポローンと弾《はじ》きながら、実際、驚いたように男はいった。
「けどね、高い声が出るからといって、あまり気張って出さない方がいいと思うよ。声が破《わ》れてしまうと台なしだからね。演歌やロック歌手のような声量は、きみたちには要求されていないんだ。ソフトで心地よい声が出せる……それが、きみたちのような歌手には最良《ベスト》なんだ。どのみち、優秀なマイクが音を拾ってくれるからね」
もっともらしい講釈をたれてから、
「じゃあ、今日は、きみの苦手とする低音部を重点的にやろうか。――後ろにスチール椅子があるから、それを出して座ってくれないかな」
男は促した。
いわれたとおりに、卓也は折り畳みの椅子を開いて、そこに腰を下ろした。
「……背もたれに背中をあずけるぐらいで、ゆったりと座ってくれてかまわないよ」
男はいうと、ピアノの譜面立ての横に置かれてあったメトロノームを……鳴らし始めた。それも、ゆったりとしたテンポを刻ませながら。
そして、低い音をポローンと響かせて、
「……ため息程度でいいから、リズムに合わせて声を出していってくれないかな……」
男はなおも、その同じ低い音をポローン、ポローンと響かせていく。
「……自分の声をね、耳を澄ましてよーく聞いてごらん。目を閉じた方がいいと思うな……」
そしてポローン、ポローンと、
メトロノームの刻みと微妙にずらしながら、男は鍵盤を弾《はじ》いていく。
「もう、声は出さなくていいよ。心の中でリズムに合わせるだけで……」
そしてポローン、ポローン……。
男は、徐々にピアノの音をメトロノームの刻みに合わせていった。
「さあ、もうすっかりリラックスできたよねえ」
目を閉じたまま、椅子にだらーんと座っている卓也の様子を見届けてから、竜介[#「竜介」に傍点]は、メトロノームの振り子を止めた。
ゆったりとしたリズムに適度な揺らぎ[#「揺らぎ」に傍点]を与えるというのは催眠術の手法のひとつなのである。心理学者でありながらピアノもそこそこに操れる――竜介ならでは[#「ならでは」に傍点]の芸当であろうか。
先日、埼玉の屋敷に夕食に呼ばれた際、油赤子[#「油赤子」に傍点]の誘い出しを竜蔵老人に打診してみると、ふたつ返事で引き受けてくれたのだ。神《アマノメ》の秘密組織の力がどこまで及ぶのか、試してみたいという助平心《こうきしん》も竜介にはあったのだが、そして僅か数日で、ボイスレッスンの先生というお膳立てを設《しつら》えてくれたのである。おそるべしというべきか、何というべきか……。
しかし、今回はマサトの力は借りられない。卓也の脳には今なおケダモノ[#「ケダモノ」に傍点]が巣籠っているはずだからだ。謎解きは、竜介の催眠術の腕[#「腕」に傍点]にかかっている。
「さてと」
竜介はピアノ椅子から立ち上がった。
「きみには、ぼくの声だけが聞こえるよ……」
卓也を、さらに深い催眠へと誘導してから、
「じゃ、ひと月と少し前、夏休みの最後の日に溯ってみようか。きみは、あの甕[#「甕」に傍点]を掘り出した日のことを思い出す……」
そして卓也が、途切れ途切れに語ったそのときの状況はというと、
リュックに小さなスコップを入れていたので、それを使って、時間をかけて掘ったとのことである。見つけたのは夕方近くで、やはりひとりで捜しに来ていたようだ。掘り出した直後に、甕の蓋は、力まかせに森に投げたとのことである。なんでも、腹が立ったらしいのだ。甕の中を覗くと、濁った水以外には何も入ってはいなかったからだ。
その甕を発見したとき、心的な変化は、卓也自身には特に感じられなかったようである。
「さ、さっちゃんに……」
卓也が何かいいたそうに口を動かした。
「うん? 幸ちゃんがどうかしたの?」
「……甕を送った」
「送ったとは?」
卓也が呟くには、
電車の時間が迫っていて、その日は幸ちゃんに会う余裕がなく、甕をリュックに詰めたまま寮に持って帰ってから、ミカン箱に詰め直して、彼女宛に宅配便で送った[#「送った」に傍点]とのこと。
「……なるほどねえ」
旅館でお披露目された、土だらけで新聞紙に包《くる》まれてあった甕は、そういった経緯《いきさつ》のようである。
「ところで、その甕が幸ちゃんの部屋から盗まれたらしいんだけど、きみは、それについては何か知らないかな?」
万が一と思って問うてみたのだが、卓也は押し黙ったままで反応を示さない。
「……知らないことは、喋らなくてもいいからね。きみが知っていることだけを、教えてくれればいいからね」
竜介は、諭すように優しく語りかけた。
――催眠中に答えを強要すると、人は記憶の中から適当に見繕って嘘[#「嘘」に傍点]を語る場合があるのだ。催眠術士のさじ加減[#「さじ加減」に傍点]ひとつでそうなる。
「じゃ、さらに過去に溯って、きみの幼い頃のことを教えてくれるかな……」
竜介は、本格的な退行《たいこう》催眠にとりかかった。
けれど、ひと月前の出来事を思い出させる、のとは違って、幼少の頃のそれを想起させるのは、格段に難しい。三歳の誕生日を思い出してごらん……と誘導したところで十中八、九うまくいかないだろう。頭の中に暦が備わっていて、それと連動して記憶が整理されているわけではないからだ。
何か、記憶として銘記されているような事件《トピックス》がないと、
「……きみは、ウニかヒトデに似たような模様の入ったお墓を、知ってるよね。そのお墓が立っていた山の中の、猫の額[#「猫の額」に傍点]のような場所で、誰かが何かを埋めていたところを、きみは見ていたはずだよね。その日のことを、思い出してくれるかな……」
その事件《トピックス》ならば想起できるはずで、それを起点にしようと竜介は考えたのである。
予想通り、卓也はぽつりぽつりと呟き始めた。
「……手をにぎってた」
「誰かがきみの手を握っていたのか? 誰が?」
「おかあさんが……」
「お母さんも一緒だったのか。じゃ、その場所には誰か他にいなかった?」
「……男の人がいた」
「きみの知ってる人?」
――それには、卓也は応えてはくれない。
「その男の人は、どんな服を着ていたの?」
竜介は質問を変えてみた。
すると、卓也は顔を動かして、辺りを見渡すような仕草をしてから、
「……白い服、……黒い服」
「うん? 男の人はひとりじゃないのか。男の人は何人いたの?」
「三人……」
「じゃ、その白い服を着ていた男の人のことを思い出してくれるかな。どんな人だった?」
――またしても卓也は応えない。
「そのとき、その男の人は、何か言葉をいわなかったかな? 呪文[#「呪文」に傍点]のような?」
――依然として、卓也は黙りこくったままである。
「ふむ」
何らかの暗示《ガード》がかかっているのかもしれない。
時間[#「時間」に傍点]を少しずらしてみることにした。
「その、少し前のことだけれども、きみは、甕の中を覗き込んでいたことはないかな? その男の人に命じられて……」
そんな問いかけをすると、卓也は顔を顰《しか》め、体を小刻みに震わせ始めた。
「――ぼくが[#「ぼくが」に傍点]、きみの額に触れると[#「きみの額に触れると」に傍点]、不安はすっかり消えてなくなるからね」
竜介は力強くいってから、そのとおりに卓也の額に指を添えた。
すると、嘘のように卓也の震えは治まった。
「ほら、もう大丈夫だろう」
優しい言葉をかけながら、竜介は思った。
――殺人の記憶を卓也に語らせることは、おそらく可能だろう。が、知りたいのは祈祷士《エクソシスト》のことなのだ。どういった暗示をかけているのか、それを聞き出したいのである。
「――ライオン[#「ライオン」に傍点]」
竜介は、唐突に単語だけを発してみた。
記憶の門番をしているケダモノ、それが、暗示を解くパスワードかもしれないと思ったからだが。
「トラ[#「トラ」に傍点]……」
といってから、竜介は後が続かない。
霊獣なら分かるが、猛獣は専門外である。
「えーと、ジャガー[#「ジャガー」に傍点]」
アンデスのチャビン文化やメキシコのオルメク文化には〈ジャガー信仰〉がある。だから、それは竜介は知っている。
だが、何《いず》れにも、卓也は何の反応も示さない。
あと知っている猛獣といえば、
「ヒョウ[#「ヒョウ」に傍点]――」
ところが、竜介がその名称を発すると、卓也の顔がピクと動いた。
「――きみはヒョウ[#「ヒョウ」に傍点]について、何か知ってる? その甕を埋めていた男たちは、ヒョウのことを何か話さなかったかな?」
問いかけには卓也は応じない。顔を引きつらせ、体を激しく震わせ始めた。
「ぼくが、きみの額に触れると……」
だが、不安解消の呪《ま》じないは、今度は効かない。
それどころか、何かに憑《とりつ》かれたかのように、卓也は椅子から立ち上がろうとする。――豹《ケダモノ》が、牙を剥いて襲いかかろうとする絵が、神ではない(普通人の)竜介の脳裏にも浮かんだ。
「ま、まずい……」
竜介も少し狼狽《うろた》えぎみに、
「今から三つ数えると、きみは現在に戻ってくる。一《ワン》、二《ツー》、三《スリー》――」
気が抜けたように、卓也の身悶えは治まった。
だが、これ以上は危険である。
「――五つ数えると、きみは目を覚ます。けれど、今日この部屋であったことは何ひとつ覚えていない。ぼくのことも覚えていない。きみは目を覚ますと、まっすぐに家に帰り、そして日常の生活に戻る」
お定まりの文言《もんごん》をいってから、竜介は数をかぞえて、催眠術を解いた。
卓也は目覚めると、椅子からすっくと立ち上がり、竜介の方を見ようともせずに部屋から出ていった。
竜介は、ほっと一安心して、ピアノ椅子に腰を下ろした。
……豹ねえ?
それがすなわち、マサトが見たケダモノの正体[#「正体」に傍点]といったことになる。謎は解けた。が、また新たなる謎が残った。虎は中国で、獅子《ライオン》はエジプトで、そしてジャガーも信仰されているが、〈豹信仰〉というのはあっただろうか? それに、そもそも豹は、どの辺りに棲息しているのか? 日本の山にいないことだけは確かだが……。
竜介は、とりあえず、ピアノを弾き始めた。
完璧に調律されているスタインウェイ[#「スタインウェイ」に傍点]のグランドピアノなど、そう滅多に触れるものではない。
※
――その日の夜、九時過ぎのことである。
日光市にある新城[#「新城」に傍点]の家の呼び鈴が鳴らされた。
母の和子が玄関の扉を開けると、そこに、青白い顔をした卓磨(卓也)が立っていた。
「どうしたの、こんな夜遅くに突然――?」
息子が帰って来るなんてことは、和子は聞いていない。
「……だれもいない?」
卓磨は、家の中を窺いながらいう。
「わたしだけよ。誰もいないわよ」
そう和子がいうと、卓磨はようやく玄関の扉をくぐって中に入った。
「いったい何があったの?」
卓磨はスニーカーの紐を丁寧に解《ほど》きながら、
「あのね、おかあさん。ぼく……人を殺したみたいなんだけど……」
それでいて他人事《ひとごと》のように、不思議そうな表情で卓磨はいった。
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17
東北自動車道から日光宇都宮道路に入った辺りで、西の空が急に怪しくなってきた。
「東京は晴れていましたのに――」
桑名|政嗣《まさつぐ》が竜介にいった。
今日は、政嗣は竜介と共に後部座席に座っている。車の運転は二十代の若い男で、やはり桑名|某《なにがし》だと名乗ったのだが、竜介は忘れてしまった。政嗣が前にいっていた部下[#「部下」に傍点]のひとりのようである。
昨日(金曜日)の夜、油赤子の情況を報告がてら、埼玉の屋敷を竜介が訪れていたとき、
「寺[#「寺」に傍点]に行かなければ――」
マサトが、そう突然いい出したのだ。
理由は分からない。
だが、確信に満ち満ちた力強い口調で、
「明日の午後三時までに行かなければ[#「行かなければ」に傍点]――」
その、有無をいわさぬ(神の如き)マサトの態度に、竜介は少し驚かされた。
「然様でござりまするか。ならば、アマノメ様のおおせの通りに――」
竜蔵老人もあっさり承諾したのだった。
日光市街に入ると霧のような雨がフロントガラスを濡らし始めた。山並みも白霞ですっかり覆われている。国道の一本道を、速度を落としぎみに走らせながら、運転手の桑名某がバックミラーをちらちらと見ていた。
――ベージュ色の車が、真後ろについていた。
「あれがそう?」
竜介も気づいて、政嗣に確認する。
「はい。アマノメ様と、竜蔵様が……」
竜介が乗っている紺色の車と、色は違うが、同型の車種のようである。竜介は自宅まで迎えに来ても、らったので別行動で、どこかで合流したようだ。
車は日光橋を渡り――聖域に入った。
目的地は、東照宮から西に数キロ行った、寂光《じゃっこう》の滝の近くで、辛うじて車の入れる道が通じてはいるが、もうかなりの山奥だと政嗣はいう。
「けど……何者だろうかねえ」
「はい、弓の月と書きまして弓月《ゆづき》――弓月|治衛《じえい》、それが車の名義人でしたので、おそらく住僧の名前かと。年齢は五十八歳。そして登録されてあった住所に行ってみますと、例の荒れ寺[#「荒れ寺」に傍点]がございました」
その男が乗っていた四駆のナンバーから調べたようだが、どこにどう手を廻したのかは、竜介は聞かなかった。
「ぼくも地図で確認してみたんだけど、御堂山林道からは、山ひとつ越えた裏側って感じで、意外と近いよね」
「そのようです。ですが、今もって寺号や宗派につきましては……」
その得体の知れない寺に行くべし、それが神《アマノメ》の御[#「御」に傍点]見立てなのであるが……しかし、その弓月という住僧はマサトには見えぬ相手なので、行ってどうなるものなのか、ますます先の分からない話である。
車は国道から右に逸《そ》れ、軽舗装《でこぼこ》の山道に入った。
急な上り坂が続き、いっそう霧が出てきた。日光市街の標高は五百メーターほどで、目的地は、地図によると八百メーターを超えていたから、短時間でかなりの高さを登ることになる。林間には建物は殆ど見当たらない。もちろん人は歩いていないし、下って来る対向車もない。
さすがの静寂なる国産高級車もエンジン音を響かせながら、十分ほど走って、そして崖の斜面にへばりつくようにして停車した。
政嗣に続いて、竜介も車外に降り立った。
霧雨は傘を翳《さ》すほどではなかったが、薄ら寒いを通り越して、身震いするほどに寒い[#「寒い」に傍点]。東京ではつい先日まで冷房を効かせていたのだから、嘘のような気候である。
「――こちらです」
「うん?」
よく見てみると、すぐ先に石段があった。
草茫々だから、崖の斜面と見分けがつかなかったのだ。その石段の先に寺があるようだが、鬱蒼とした木々と、そして霧に隠され、崖下からは様子は窺えない。
ベージュの車が到着し、竜介たちが乗って来た紺色の車の後ろに停車した。かと思うと、さらにもう一台、紺色の車が続いてやって来た。
ふむ、車二台で護衛《サンドイッチ》してたのか……。
神《アマノメ》が移動するのは大事[#「大事」に傍点]だということを、今さらのように知って竜介は呆れ驚いた。
ベージュの車からは竜蔵だけが降りて来た。
そして、竜介に深々と頭を下げてから、
「これより先は、政嗣とふたりでお願いいたします。ですが、ご安心ください。雲行《くもゆ》きが怪しくなりそうなら、さらに何名か向かわせますので」
「すると、マサトくんは?」
「はい、こちらから見て[#「見て」に傍点]おりまする。それに、便利なもの[#「便利なもの」に傍点]もございまするから」
そう竜蔵はいって、政嗣に目配せをする。
「――おまかせください」
政嗣が力強く応えた。
政嗣は、身長こそ竜介と大差ないが、指と頭しか動かさないなまくら[#「なまくら」に傍点]学者とは違って、引き締まった体躯をしている。神の護衛という立場柄、それなりに武道の心得があるようだ。それに、今日はビシッと濃紺の三つ揃いを着こなしている。
ベージュの車の後部座席から、学生服姿のマサトが、竜介に手を振っているのが見えた。
――自分の役柄はいったい何なんだ[#「何なんだ」に傍点]?
竜介は大いに疑問を感じた。だが、行きがかり上、行くしかない。
竜介は、政嗣を従えて、草茫々の石段を上り始めた。五十段そこそこだが、傾斜が急で、それに苔が水を吸っているから極めて歩きづらい。半ば辺りで、寺の楼門が見えてきた。
「ほう……稀《めず》らしい門だねえ」
足元を気遣いながらも、見上げて竜介はいった。
「まるで竜宮城のようですね」
唐様の素木《しらき》造りだが、下部に漆喰《しっくい》塗りのアーチ状をした通路がある。
「その通りで、竜宮門と呼ばれている門さ。中国の明《みん》の時代の様式だから、それほどは古くない。せいぜい溯って、室町の末ぐらいだね」
「この門で、宗派は特定できますでしょうか?」
「どうだろうか……竜宮門で有名なのは長崎にある崇福寺《そうふくじ》だけど、あそこは黄檗《おうばく》宗だったな」
――その種のことは、妹《まなみ》の方が詳しそうである。
「黄檗といいますと、やはり禅宗ですよね」
ふたりは石段を登りきり、その楼門の前で立ち止まった。
「いや、天台宗にも使ってる寺があった。それに東照宮の、家光の墓の入口も、たしか竜宮門だ。皇嘉《こうか》門ともいうけど……だから、寺格が高いことだけは確かだろうねえ」
けれども、その門の唐破風《からはふ》の屋根は、竜巻に襲われたかのように瓦が欠落している。地面を見やると、草の陰にその残骸が転がっていた。
――扉は開いていた。いや、門扉そのものがない[#「ない」に傍点]ようである。それに、やはり寺号や山号の額も見当たらない。その褐色に黄ばんだ――かつては白漆喰であったはずの通路《アーチ》を、猫背になって、首を竦《すく》めながら竜介はくぐり抜けた。
境内……どこまでが境内なのか分からないが、平らな台地の部分は、竜介が想像していた以上に広い。
正面に唐様の建物があり、その左奥に、やや小さめの和様の建物がある。共に素木造りで、丹《に》や朱《しゅ》は塗られていない。本堂と僧坊《そうぼう》のようである。
門のすぐ右手に鐘撞堂《かねつきどう》があるが、梵鐘《ぼんしょう》は吊るされていない。おそらく第二次世界大戦で供出してしまい、そのままになっているのだろう。
鐘撞堂の奥には八角堂のような(六角かもしれないが)建物もある。だが、半ば崩れてしまっている。
その八角堂と本堂との真ん中あたりに、鳥居が立っているのが見えた。それもかなり大きな鳥居である。寺の境内に鳥居があるのは別に珍しいことではない。だが、朱塗りの鳥居ではないのだ。かといって、石鳥居でもないようである。
それらの建物のすぐ背後に山が迫っているらしく、木々を隠すように白霞が漂っている。そして境内の地面は草茫々だ。まるで御伽噺の荒れ寺に迷い込んだような感じである。
「――行きましょう」
立ち止まっている竜介を政嗣が促した。
ともあれ、ふたりは本堂に向かった。
その向拝《こうはい》の前まで来て、竜宮門に比べると随分と小綺麗なことに気づいた。本堂には人の手が入っているようである。だが、蔀戸《しとみど》はしっかり閉じられてあり、中の様子は窺えない。
「……これじゃ本尊は分からないなあ」
教えてくれるような額や板切れの類いも、かかってはいない。古めかしい千社札《せんじゃふだ》が何枚か剥げ残っているだけである。
「あちらに人がいるようですね」
左奥の、僧坊らしき建物を政嗣は指さした。
「その前に、ちょっと鳥居の方に行ってみようよ」
竜介は、逆らうように右に歩き出した。
「あっ……」
その鳥居を近くに見て、竜介は驚いた。
「黒ですか? 剥げてはいますが、黒く塗られてあったようですね」
笠木《かさぎ》の両端が上に反っている、いわゆる明神《みょうじん》鳥居で、形としては最もありふれたものだが、
「黒い鳥居か、……記憶にないなあ」
それこそ妹に聞くしかない。
「それに、お社《やしろ》も見当たりませんね」
政嗣のいう通りで、その黒い明神鳥居だけがぽつねんと立っているのだ。山の中にある社に導くような、道もない。
竜介は暫く考えてから、
「万が一と思って聞くけど、方位磁石とか持ってないよね」
「はい、持ち合わせておりません」
土門くんなら、愛用の腕時計《プロトレック》に組み込まれてあるのだが。
「うーんと、仮に鬼門を向いているとしたなら、まだ話は分かるよな……」
「この鳥居[#「鳥居」に傍点]がですか?」
「それにほら、鳥居をたどっていくと、その本堂のほぼ真ん中を貫いてるじゃないか」
政嗣は振り返って見てから、
「……そうなりますね」
確認していった。
「だから、本堂が、お社を兼ねているのかもしれないよね」
「そうしますと、このお堂の中には、仏ではなく神が祀られていると……」
「かつては神仏習合だから、どっちでもいいんだが、仮に、鳥居が鬼門を向いていたとすると、鬼門守護に相応しい恐面《こわおもて》の神だろうね。もちろん本地仏《ほんじぶつ》も置かれているはずだけど」
「はあ……難しいお話ですね」
「いや、理屈を知ってると簡単さ。たとえば東照宮は、家康と家光、ふたりのお墓だよね。家康は江戸を守護しているが、じゃ家光はというと……夜叉門《やしゃもん》というのがあって、その夜叉門は鬼門を向いているんだ。その鬼門のライン上に、家光|廟《びょう》の拝殿と本殿が置かれているわけさ。つまり家光が、鬼を一手に引き受けていたんだね」
「そんな造りになっていたんですか……」
政嗣は感心しながらも、腕時計に目をやって、
「おそれいりますが、時間が迫っております」
竜介を促した。
本堂の裏手にある和様の僧坊も、瓦がところどころ虫喰いのように欠けてはいるが、建物自体は朽ちてはいない。本堂に面して玄関口があった。
その引き戸が、客を待ち受けているかのように開いていた。
中を覗き見ると、何も置かれていないがらーん[#「がらーん」に傍点]とした玄関である。だが、土間《どま》は掃き清められてあるらしく、戸外の様子とは随分ちがう。小縁《こえん》の前には巨大な沓脱石《くつぬぎいし》が横たわっているが……靴はない。その小縁も上《あ》がり框《がまち》の板もつるつるに磨かれてあって、そして座敷へと続いている。その奥は暗くて分からない。いや、真正面に衝立《ついたて》が置かれ、奥を隠しているせいでもある。衝立の障子は、さすがに黄ばんでいる。
が、その障子の面をよく見てみると……うっすらと三つ葉葵[#「三つ葉葵」に傍点]の紋が入っているではないか。いや、うっすら……というのは間違いで、どうやら金箔で描かれているらしい。障子の紙が黄ばんでいるから、同系色になるのである。
それにしても、なんてことだろうか……。
歴史部なら小躍りしそうな情況である。
政嗣は、その三つ葉葵に気づいたのか気づかないのか分からないが、臆することもなく、
「ごめんくださーい」
中に声を飛ばした。
だが、暫くたっても応答はない。
政嗣がハンカチを竜介に差し出した。服についた霧雨の滴を拭《ぬぐ》えということである。竜介は、肩と袖口を拭いてハンカチを返してから、靴についた泥をその辺の草に擦りつけた。
「ごめんください。――失礼いたします」
政嗣は再度声をかけてから、玄関の土間に足を踏み入れた。竜介も後に続いた。
座敷の奥に、蝋燭の明かりが揺らいでいるのが見えた。人はいるようである。
「どなたかいらっしゃいませんか――」
その政嗣の呼びかけに木霊《こだま》するかのように、闇から白い何かが、ひゅ――とふたり目がけて飛んで来た。政嗣が竜介を庇って手で叩き落とすと、それは閉じた扇子であった。
「ぶ、無礼な――」
政嗣はいった。
「――無礼はどちらだ[#「無礼はどちらだ」に傍点]」
聞き覚えのある重々しい濁声《だみごえ》が、奥の闇から響いてきた。
「お前たちは呼んでおらぬわい」
声の主は続けていう。
「たしかに呼ばれてはおりませんが、用事があってまいりました」
政嗣は毅然と受け答えをする。
「ふん、どんな用事というのだ――」
衣擦《きぬず》れの音とともに、真っ青な法衣を身に纏った住僧が、姿を現した。竜介を病院まで運んでくれたその人だが、見違えるほどに威厳がある。
「その節は……」
竜介が頭を下げようとすると、
「またお前か、――竜の手下どもに用はないわい」
吐き捨てるように住僧はいう。
「そちらにはありませんとも、こちらには」
政嗣は引き下がらない。
だが用事[#「用事」に傍点]とはいっても、ここに行けというのがアマノメの託宣《おことば》なのだから、政嗣はどう説明するつもりか……竜介がやきもきしていると、住僧は、ふっと天を振り仰ぐような仕草をして、
「ははーん、竜の小伜《こせがれ》が下に来ておるようだな。小賢しいまねを――」
いうと、衝立の前にどっかと胡座《あぐらずわ》りした。
「好きにするがよかろう」
そして、法界定印《ほうかいじょういん》の組み手を半跡朕坐《はんかふざ》の足に載せ、半眼の目になって、なんと坐禅を始めてしまった。
政嗣が、お伺いをたてるような目で、竜介の方を見る。仕方なく竜介は、
「す、すいませんが、せめて、こちらのお寺のお名前なりとも……」
おそるおそる尋ねると、
「ここはつつが寺[#「つつが寺」に傍点]じゃ」
一転、夢現《ゆめうつつ》の穏やかな声で住僧はいった。
「ええ?……」
※
寺の石段を数十メーター先に見下ろせる林の中の小径に、車が二台停まっていた。一台はたった今到着したようである。
濃色《ダーク》なスーツに身を包んだ男たち三人が、車外に出て、木立の陰から様子を窺っている。
「――どうなってるんだ?」
「はい、十分ほど前に、車が続けざまに三台やって来まして、そして男ふたりが、石段を上って寺の方に行きました」
ひょろりと背の高い男がいった。
「植井くん、ドジだなあ」
やや小柄な男がいった。
「そんなあ、夜中に車の窓ガラスを、コンコン、とやられた身にもなってくださいよ。お化けが出たかと、心臓止まるかと思ったのに」
「それで刑事だと名乗っちゃったの?」
「まさか、自分は先輩ほど口は軽くありませんよ」
「な、なまいきな」
「――んなことはどっちでもいい」
部下たちの戯言《たわごと》を制してから、
「でだ、三時に寺に来いというのが、その男からの伝言なんだな」
「はい、お前は警察だろう、ていきなりいわれて、そしてボスに三時に来させろ、といいたいことだけをいって消えました。厳《いか》つい顔をした男でしたので、例の荒れ寺の住職かと……」
「俺を呼びつけるとは、いい根性してるよな」
「植井くん、夢でも見たんじゃないの?」
「違いますよ」
「ふむ、三時[#「三時」に傍点]というのも間違いなさそうだな。別の客も来てることだし」
依藤《よりふじ》警部補は思案げにいってから、
「とりあえず、行ってみるしかないな。じゃ、植井はここで待機な。あの車の連中に妙な動きがあったら、即連絡するように――」
そういい残して、生駒刑事を従えて小径を下り始めた。寺の石段は見えてはいるが、林の中は突っ切れない。その小径は、少し手前からの脇道なので、いったん軽舗装の道に出るしかない。
そして坂道を上っていくと、最後尾の紺色の車が見えてきた。大宮ナンバーである。スーツ姿の男が四人乗っている。次のベージュ色の車も、やはり大宮ナンバーだ。前に男ふたり、後部座席には和服姿の老人と、そして学生服の少年が……そのちょっと異様な光景に、依藤は立ち止まり、車中の様子を窺おうとした。
すると、助手席の扉《ドア》が開いて、堂々とした体躯の初老の男が、ゆったりとした動作で車から降り立った。そして押し黙ったまま、依藤に頭を下げた。
その初老の男は桑名|政臣《まさおみ》――政嗣の父親で、竜蔵いうところの〈陰《かげ》〉の頭領である。
――ふむ。
依藤警部補も押し黙ったままで、対峙して動かない。刑事という本能がそうさせるようだ。が、そんな彼の背中を、部下の生駒刑事が引っ張った。
「くそう」
依藤は捨て台詞のように呻《うめ》くと、踵《きびす》を返してすたすたと石段の方に歩き出した。
「す、すいませんでした……」
生駒は、その初老の男に、というより車[#「車」に傍点]のボディに小声で謝ってから、依藤の後を追った。
ふたりは草茫々の石段を上りながら、
「くそう、俺にガンを飛ばしやがって」
「……頭下げてましたけど」
「態度自体がガン飛ばしてたじゃないか」
「そ、そんな感じもしましたね。けど何者でしょうか。どっかの組の親分さんかな……それは和服の老人だから、若頭《わかがしら》ってとこですかねえ」
「いや、自分は同業[#「同業」に傍点]だと感じた」
「同業といいますと、内閣調査室とか、皇宮警察とかですかあ?」
「知るか[#「知るか」に傍点]――」
不機嫌そのもので依藤はいうと、足を滑らしそうな石段を駆け足で上っていく。
「うわあ……竜宮城ですねえ」
おかまいなしに依藤は突っ切る。
「……舌切り雀の世界やなあ」
「きつね出てきませんかねえ」
部下の感想など聞く耳もたず、そんな形相で依藤は本堂へ、そして僧坊へと歩を進めた。
「ごめん」
依藤は躊躇《ためら》うことなく、戸が開いている玄関に足を踏み入れた。
土間の叩きには都会人[#「都会人」に傍点]がふたり立っていた。
そのひとりの顔を見て、
「あっ!」
竜介の方も同様で、我が目を疑った。
ふたりは、ふた月ほど前に埼玉であった〈竜の呪い殺人事件〉で――警察署内ではそんな名称はついていないが、ともかく、その事件を解決に導いた迷[#「迷」に傍点]コンビであるのだ。神楽坂《かぐらざか》の高級寿司店で鮨《すし》を摘まんだ仲でもある。だから互いに知っている。
「――火鳥《かとり》先生、どうしてこんなところに」
「いや、警部さんこそ」
竜介は相変わらず、警部補と警部の区別はつかない。ふたりが再会を驚き合っていると、
「あっ」
生駒刑事は生駒刑事で、別の何かを思い出したらしく、係長《ボス》の袖口を引っ張って、耳元で内緒話を始めた。依藤は聞き入りながら眉を顰《ひそ》め、そして普段の顔に戻してから、
「……先生。彼はうちの署の生駒というんですけど、顔合わせるのは初めてでしたよね」
確かめるように聞く。
「ええ、ぼくは警部さんとしか会ってませんので」
「……ですよねえ」
安堵したように和《にこ》やかに依藤はいってから、
「生駒はもういいから、車に戻ってろ」
「了解《テンフォー》」
小声でいうと、生駒刑事は顔を伏せぎみにそそくさと出ていった。
「……おぬし……火鳥ともうす名前か」
その浮世離れした濁声《だみごえ》のする方向を見やって、
「うわ、そ、そんなところに」
依藤は驚いていった。
座敷の衝立の前で坐禅している住僧を、彼は置物か何かと思ったようだ。目にも鮮やかな真っ青な法衣を纏っているのだが、瞑想中の高僧は通常人の脳には物と認知される、竜介流の解釈でいけばそういうことになる。
「はい、火の鳥と書いて火鳥といいますが、それが何か?」
住僧がせっかく口を開いてくれたのだからと、竜介は語りかけてみる。
「……運命よのう」
そんな呟きが返ってきた。
「な、なにが運命なんですか?」
「……しばし待て……もうひとり来る」
住僧は全然別のことをいう。
「誰が来るんですか?」
依藤が尋ねたが、住僧は応えない。
「それに何の用ですか? 刑事を呼びつけるぐらいだから、理由《わけ》があるんでしょうね――」
恫喝《どうかつ》ぎみに依藤は問い質したが、住僧は眉ひとつ動かさない。実際、瞑想に耽っている様子である。
「くそう、厄日だなあ」
刑事課の係長《ボス》が敵《かな》わぬ相手が、それも立て続けに現れるのは、そう滅多にあることではない。
「ところで先生、お連れの方はどちらさんで?」
依藤は矛先を変えた。
「政嗣と申します」
――名前だけを名乗った。
「下に来てる三台の車の、関係の方ですか?」
「さようです」
政嗣は最低限の受け答えをする。
「先生も、その関係者ってことですか?」
「さようです」
竜介も同様の返事をする。
「あのね、先生……」
「わかってます。嘘ついても分かるというんでしょう。だから何もいいませんよ」
寿司屋で奢って貰った帰り際、依藤警部からそう[#「そう」に傍点]いわれたことがあった。竜介は、それが余程こたえているらしい。
「……先生、また近々お酒をお誘いしますからね」
子羊に狙いを定めた狼のごとくに、空優しい声で依藤はいった。
※
この先何が起こるのだろうか。
依藤警部への言い訳はやっかいだが、刑事と神の兵士の政嗣、護衛《ガード》がふたりもいるのは竜介としては心強い。興味津々で待つこと五分。
コツコツコツ――。
忙《せわ》しない靴音とともに、妙齢の女性が玄関口に現れた。赤錆色の秋のコートを羽織っている。傘を畳むのももどかしそうで、そして土間に入ってくると、立っている男たちには目もくれず、衝立の前で坐禅する住僧につかつかと歩み寄って行く。
その婦人の横顔を見て、どこかで会ったような感じも竜介にはしたが、いつどこで会ったのかは思い出せない。
「――返してください」
その婦人が住僧に詰め寄りながらいった。
「あの甕を、返してください」
小縁に片膝をついて座敷に身を乗り出し、裏返った声で再度いった。
「甕って……あの告祀《コーサ》の甕がこの寺にあるとでも」
「例の甕のことですか」
「なに亀[#「亀」に傍点]ですって? 先生?」
そんな男たちの雑談は無視するかのように、
「――返していただけるというから、来たんです。さあ、あの甕を返してください」
なおも真剣な口調で彼女はいう。
「……告祀の甕か……おぬし、くだらぬことを知っておるのう」
住僧が呟いた。
「それは何のことですか先生?」
依藤は焦《じ》れたように竜介の方を見る。
「うーん、簡単にいうと、邪気を封じ込めてあった甕ですよ。もう蓋は開けちゃってますけどね」
「じゃき? 蓋を開けた?」
依藤にはますます分からない。
と、そのときである。
「か、返して欲しけりゃ」
座敷の奥から別の声が聞こえてきた。
そして、髭面のしょぼくれた中年男が、両腕で何やら抱え持って現れた。
「こ、これを返して欲しけりゃ、卓磨《たくま》に会わせろ」
男は目をぎょろつかせ、真剣で切羽詰まった様子である。胸にしっかと抱えているのは、どうやら告祀の甕のようだ。
「あ、あなた――」
その男の出現に婦人は心底驚いたようで、後ずさりをする。
「おまえ、高曽根《たかそね》だな」
逮捕する、といわんばかりの刑事口調でいった。彼がここにいるのは依藤は承知のことである。
「そ、その名前は捨てたさ」
「捨てようが捨てまいが、おまえは高曽根[#「高曽根」に傍点]だ。何の用で日本に戻って来た。わっかるよう説明してみろよ――」
凄みを利かせた濁声で依藤はいう。
「あ……警察の方ですか」
振り返って男たちの顔を見て、少し不安そうな表情で彼女はいった。
「自分が[#「自分が」に傍点]、埼玉県南署の刑事です」
他のふたりは違う、といわんばかりに、事実違うのだが。
「随分前ですけど、一、二度お会いしましたよね。自分、室原《むろはら》の部下ですから。いや、室原はもう警察辞めちゃったんだけど、ともかくご安心ください」
婦人に会釈しながらいった。
「……揃ったようじゃな」
そう住僧はいうと、坐禅を解いておもむろに立ち上がった。柔和な顔から厳つい顔に戻った。
「さあ、いったい何の集まりですか?」
住僧が目覚めたと見てか、依藤は噛みつくように尋ねる。
「それは、おまえたちが決めることだ。わたしは世俗のことには興味がない。おまえ[#「おまえ」に傍点]――」
竜介の顔を睨みながら、
「その小賢しい知識を皆にひけらかすもよかろう。それと、そこの刑事[#「刑事」に傍点]。当山において官憲を行使したならば仏罰[#「仏罰」に傍点]が当たると心得よ。あとは好きにするがよい――」
従来の打切棒《ぶっきらぼう》な口調で住僧はいうと、くるりと方向転換をして、座敷の奥に入って行こうとする。
「ま、待ってくださいよ――」
官憲の嘆願も空しく、住僧はしゃりしゃりと衣擦れの音を奏でながら闇の奥に消えてしまった。
全員、暫し唖然と見送ってから、
「――和子《かずこ》、卓磨に会わせろ」
男がいい争いを再開した。
「なにをいまさら、十年も前に離婚したじゃありませんか」
「卓磨は今、どこにいるんだ」
「教える義理はありませんわ。あの子の父親じゃないんですから」
「その通りだ高曽根。おまえは法律上は赤の他人さ。未練がましくつきまとうんじゃない」
依藤が婦人に味方していった。
「未練――なんかじゃない。童乱《タンキー》のお告げがあったんだ。子供に危機が迫っていると」
――またしてもお告げ[#「お告げ」に傍点]である。
「な、何のことだそれは?」
「……台湾にでもおられたんですか」
竜介が遠慮がちに口を挟んだ。
「そうです。わたしは台北県山峽《たいほくけんサンシア》の生まれで、高《こう》と申すものです」
男は誇らしげにいう。山峽は山間《やまあい》にある古い町で、中国茶の産地でもある。
その自己紹介を、依藤は無視するかのように、
「教えてくださいよ、先生」
「すいませんね、小賢しくて」
いじけたように竜介はいってから、
「――童乱《タンキー》というのは、台湾にいる霊能力者のようなものです。宗教的には道教がベースですけど」
簡単に説明する。
「そのお告げとやらは、当たるんですか?」
「そりゃ人によりますね。日本の霊能力者だって、沖縄のユタだって、嘘つきは五万といますが、本物もいるんです。ごく少数ですが。これは童乱《タンキー》であろうが何であろうが、全世界同じです」
「なるほど……」
依藤は分かったように頷いてから、
「じゃ、そのお告げでは、子供にどんな危機が迫ってるというんだ?」
「それが分からないから来たのです。なのに、家には……和子の家にはいない。どこにいるんだ?」
「教えられません」
――堂々巡りである。
「そうでしたか、卓也くんのご両親は離婚されていたんですね」
竜介は何げなく呟いた。
「ど、どうしてその名前を――」
婦人が、き、と竜介を睨みつけた。
「うん? どういうこと先生?」
訝《いぶか》しげな顔で依藤も聞いてくる。
しまった……卓也[#「卓也」に傍点]は芸名なのである。
「いやあ、うろ覚えでしてねえ……その、高曽根さんが」
「いいえ、高[#「高」に傍点]です」
「じゃ、高さんが、今抱えてらっしゃる甕ですけど、ぼくは以前に見てるんですよ。幸ちゃんという日光に住む中学生が持ってましてね。で、その子の話によると、その甕を掘り出したのは卓也[#「卓也」に傍点]くん。ぼくが名前を聞き違えちゃったのかもしれませんね」
何とか胡麻化したが、依藤警部に通じたかどうかは分からない。
「ですが……その甕は最近盗まれたと、聞いておりますが」
政嗣がいった。
「じゃ、高曽根[#「高曽根」に傍点]、おまえが盗んだのか?」
――依藤は頑[#「頑」に傍点]として高曽根であるが。
「いいえ、わたしは知りませんよ。ご住職にわけを話すと、どこからかこの甕を持って来てくれたんです。これがあると、和子が必ず[#「必ず」に傍点]来るといって」
「じゃ、さっきの坊主が盗んだってこと」
「……そうなるんでしょうか」
「ま、それ以外には考えられませんよねえ」
刑事と兵士と心理学者は、顔を見合わせていった。
謎はひとつ解けた――。
が、その告祀の甕の所在を住僧はどうやって知ったのか? それこそが謎である。|禅の瞑想《メディテーション》で情報を得ていたのだろうか……竜介が思いを巡らしていると、
「あん畜生《ちくしょう》……仏罰がどうとか威張りくさりやがって、おい[#「おい」に傍点]、てめえ単なる泥棒[#「泥棒」に傍点]じゃねえか――」
座敷の奥に向かって依藤が吼えた。
「あのご住職はいい人です。わたしの話を全部聞いてくれましたから」
「おっとー、その話とやらを俺にも聞かせろよ」
一転、絡みつく蛇に変身して依藤はいう。
「そ、それは……」
顔を逸らしてしまった高曽根を尻目に、
「あのね先生、十一年前に大宮であった事件なんですが、二十三歳の美人モデルが殺害されまして、けど、死体がなかったんですよ。そんな話を覚えてませんかねえ」
是《これ》見よがしに、依藤はいう。
「ああ、ありましたねえ」
竜介も思い出した。テレビで見た記憶がある。
「その事件のですね、犯人と噂された元容疑者が、な、なんと、この寺に今いらっしゃってるんですよ」
ねちりくちりと依藤はいう。
「えっ? 犯人は……たしか自殺したんじゃなかったでしたっけ」
「ああん? 先生までがそんなことおっしゃるんですか? 世も末だなあ……」
「違うんですか?」
「ち、違いますよ」
依藤は拗ねたように顔を振ってから、
「それは週刊誌か何かに騙されてるんです[#「です」に傍点]。南署《けいさつ》も行き詰まってたから、世間の噂に任せて、否定しなかったという面もあるんですが[#「が」に傍点]。騒がれてた容疑者はふたりいましてね、自動車事故で亡くなったのは体育会系《スポーツマンタイプ》の好青年《ハンサムボーイ》でしたが、それとは別に、青年実業家とかいう胡散臭《うさんくさ》いのがいたでしょう?」
「あ、思い出した……その美人モデルの愛人《パトロン》とかいう」
「そいつそいつ[#「そいつそいつ」に傍点]。そいつが今ここにおるんですわ」
竜介は、チラリと座敷の方に目をやったが、彼に当時の面影はない。
「……なるほどねえ」
別の意味で、竜介は納得した。
だとすると、卓也はまさに〈油赤子〉といったことになるが。
「――ちがう。わたしはやっていない。だから起訴はされなかったじゃないか」
「不起訴だったからといって、容疑は晴れたと高括《たかくく》ってるようだったら、大間違いだぞ――」
凛々《りり》しい刑事の顔に戻って、依藤はいう。
「事件当夜[#「事件当夜」に傍点]、おまえの車がマンションの駐車場にあったのは、確かな話さ。大宮じゃ当時はまだ珍しいベンツ様[#「様」に傍点]だったからな。いったい何をしてたというんだ――」
「そんなこと、とうの昔に説明したじゃないか。わたしは取引先の接待があって、酒を飲むんで、あそこに車を置いてタクシーで行ったんです」
「ああ、その裏は取れてるよ。タクシーの領収書も、店の従業員の証言もあったしな。けどな、そっから先が変じゃないか。おまえは十二時に店を出たんだろう。そして愛人のマンションに舞い戻ったはずだ。そして車は、朝には駐車場から消えていたんだから、いつ誰が動かしたというんだ?」
「それも説明したように、起こすのはまずいと思って……部屋の明かりが消えていたから、それで、車の中で酔いを覚まして、何時だったか忘れたけど、運転して家に帰ったんですよ」
「要するに、その夜は、美人モデルさんとは会ってないといいたいんだろう。しかしな、マンションの家賃や何やらで月五十万[#「五十万」に傍点]も出してた女じゃないか。そんな気を遣《つか》う男がどこにいる――」
「ここにいますよ……もう昔の話ですが」
高曽根は伏し目がちに呟いてから、
「それに、翌日は朝から仕事があると彼女いってたから……だから気を遣ったんですよ」
「ああ、それもその通りだった。そういった言い訳で、のらりくらりと逃げられちゃったんだよな。けどね先生……」
竜介の方に向き直っていう。
「どこに何時にいようが、いわゆる不在証明《アリバイ》ですけど、あの事件では何の証明にもならんのですわ」
「どうしてですか?」
「死体が見つかってませんでしょう。だから犯行時刻が特定できなかったんですよ。だから高曽根氏[#「氏」に傍点]の主張した不在証明《アリバイ》も、無意味[#「無意味」に傍点]ね」
「それは警察にとっても同じことじゃないですか。わたしがいつ殺したと、証明できるんですか」
――もっともである。
「えっ、その殺された女性の死体は、いまだに見つかってないんですか?」
「見つかってませんよ。浮かばれない話でしょう。けど、誰[#「誰」に傍点]かさんはその死体の在処《ありか》を知っている、自分はそう睨んでますけどねえ」
他人事のように依藤が嘯くと、
「そ、そんなこと知るものか-─」
高曽根は真気《むき》になっていった。
トルルルル――
携帯電話の着信音が土間に鳴り響いた。
政嗣が、ばつの悪そうな顔をしながら外に出て行った。竜蔵老人がいっていた〈便利なもの〉とはこれであったようだ。
「昔の事件のことは、もういいですから……」
上擦ったような震え声で婦人はいうと、
「その男[#「男」に傍点]が持っている甕を返すよう、刑事さん、命じてください」
媚びるような目で、依藤を見る。
「そ……それは別問題ですよ。そもそも誰の持ち物なのか、ねえ先生?」
「さあ、山から掘り出したのは……卓磨[#「卓磨」に傍点]くんだから、彼が持ち主ってことになるんでしょうか」
「ですから、母親のわたしに返していただくのが、筋です」
「いや、卓磨はわたしの息子でもある。息子の無事を確認するまでは、これは渡せない」
「か、返して――」
婦人が、いきなり元夫に掴みかかった。
「まあまあまあ」
依藤が体でそれを制する。
「いやいやいや」
竜介は言葉で説明する。
「その甕にはもう何の効力もありません。今さら埋め戻したとしても、無意味ですよ。だから誰が持っていたとしても」
「いえ、このことが世間に知れでもしたら……」
「世間に知れる? 何のことだ和子?」
……そうか。
卓也は芸能人《タレント》の卵なのである。いや、すでにもう芸能人だ。たしかに、過去が暴かれるといった危険《リスク》はある。殺人の容疑者を親に持つ〈油赤子〉なんてスキャンダルは、格好の餌食《えじき》だろう。その全体像を説明できる識者[#「識者」に傍点]が、いるかどうかは別にして。
そう思った瞬間、竜介は思い出した。
「奥さん。いや、失礼。今は独身《ミス》ですよね。お名前を存じあげないんだけど……」
新城だろうかとも思ったが、それも芸名かもしれないので念のため、
「新城です」
婦人は名乗った。
「じゃ、新城さん、あなたとは一度お会いしてますよね。話をしたわけじゃないですが、『恙堂』で」
新城和子は、顔を伏せたままで答えない。
「――間違いない。幸ちゃんのお母さんかと勘違いしかけたので、それに奇麗な方でしたから覚えてますよ。テーブルに座って、お茶を飲んでられた」
「それはいつのことですか先生?」
「えー、先週の日曜日。お昼前の話ですね。ちなみに『恙堂』というのは日光の駅の近くにある骨董屋で、その告祀《コーサ》の甕が盗まれた、幸ちゃんのお家です。あーなるほどね、幸ちゃんと卓磨くんが友達であるように、新城さんと『恙堂』のご主人もお友達なんですね。なんかそんな感じでしたから」
「ほう、日曜日ですか」
意味ありげに依藤はいうと、横目でじろっと高曽根を睨んだ。
――政嗣が戻って来た。竜介に内緒話をする。
依藤が兎のように耳を欹《そばだ》てているのは明らかなので、要点だけを囁いた。
「えっ」
竜介はかなり驚いたが、努《つと》めて平静を装っていう。
「えーと、ぼくもうひとつ思い出しましたよ。高《こう》さん、ぼくは高さんともお会いしてますよね」
思い出したというのは、もちろん嘘であるが、
「その、同じ日の昼過ぎのことですが、この裏あたりにある林道沿いの山の中で、その甕が埋めてあった場所を、ぼくは調べていたんです。が、そのときに足を滑らして、頭を打ってぶっ倒れちゃいました。その前後の記憶が曖昧なんですが、その山の中から、そんなぼくを助け降ろしてくれた人がいるんです。それが、高さん……あなたですよね。そうではなかろうかと、今ぼんやり思い出しましたよ」
「た、たしかにそうなんですが……」
「その節は、ありがとうございました」
竜介は頭を下げた。
「――どういうことなんだ高曽根? どうしてそんな場所に行ったんだ?」
その経緯は生駒刑事の報告で知ってはいるのだが、依藤は声高に追求する。
「そ、それは……」
いいたくなさそうに、
「……林道を歩いてましたら、山の中でピカピカ光ってるのが見えたから、それで脇道に入っていったんです。すると、あなたが倒れていらっしゃった」
「ああー、なるほどね、それはカメラのフラッシュですよ。ぼくは撮影していたので」
それも、土門くんの助言もあってフィルムを一本使いきるほど閃光《フラッシュ》を焚いたのだ。
――何が幸いするかわからない。
「ちょっと待ってください。――高曽根、それは俺の質問の答えにはなってないぞ」
「わ、分かりましたよ。別に罪にはならないと思うから話しますが、あの時わたしは、ここにいる和子[#「和子」に傍点]を追っかけていたんですよ。卓磨の居場所が分かるかもしれないと思って……ですが、林道の中で見失ってしまって」
「ふむ……」
依藤には情況が見えてきた。生駒刑事もいっていたように、そこは人を尾行するには不向きな道なのだ。だから見失ったのであるが。
「するとですね……新城さん、あなたもそんな辺鄙な場所に、どうしてまた行かれたんですか?」
「…………」
和子は顔を背けたままで答えない。
「それに、警部さん」
竜介はいう。
「実はですね、ぼくが山の斜面で写真を撮っていましたら、上から石が落ちて来たんですよ。それを避《よ》け損なって、足を滑らせちゃったんですね」
「なんて危ない場所で」
「いえいえ、それは自然の落石じゃなくって、明らかに人が投げたものなんです。ぼくを目がけて。その石を投げた誰[#「誰」に傍点]かさんは、今この寺にいらっしゃってるんではないかと、そんな気がしてきましたよ[#「よ」に傍点]」
語尾を強めて竜介はいった。が、怒りはもう納まっている。理由《わけ》を知りたいだけである。
「ま、まさか……」
刑事、元夫、神の兵士、そして心理学者――各々の立場は違うのだが、そんな男どもの視線が、か弱そうな女性ひとりに注がれた。
「わたしが石を投げました――」
新城和子はきっぱりといった。
そして、謝罪の素振りすら見せずにいう。
「もしやと思ってあの場所に行ってみると……お清めの甕[#「お清めの甕」に傍点]はなくなっているし……暫くすると、あなたが上がっていらしたのです。そのまま……そのままおとなしく下りればいいものを、カメラのフラッシュを光らせ、それも何枚も何枚も、いや[#「いや」に傍点]というほどひつこいぐらいに……だから[#「だから」に傍点]、追い払うつもりで石を投げたのです」
――何が禍《わざわい》するかわからない。カメラの閃光《フラッシュ》で助けられもした竜介であったが、彼女は、それが癇にさわったのだ。
「どうしてそんなことを? こちらは大学の先生ですよ。その筋では著名な」
どの筋かは一般人には分からないが。
「――存じてます。『恙堂』で名刺を出されましたから」
「知ってて、投げたんですかあ?」
「大学の先生であろうが誰であろうが、過去を――卓磨の過去を暴露《あば》こうとするなんて、そんなこと許されませんわ」
「いや、ぼくはそんなつもりは……」
「卓磨の過去を暴露く? それは何のことだ和子?」
元夫が割って入った。
「それはあなたが――いいえ、あなたには関係のない話です」
いや、元夫にも関係はありそうだが。
「ちょっと待ってください、自分には全然[#「全然」に傍点]わからない。その何とか甕というのは、過去を暴露ける代物《しろもん》なんですか? ねえ先生?」
「それは……」
それについては、竜介は説明できない。〈油赤子〉の経緯《いきさつ》はマサトが見た情報に基づいている。情報源を話せない以上、理屈《メカニズム》も話せない。
「……分かりません」
嘘をついて追求されるよりはましである。
「ふむ、じゃあ先生は、そもそも何を調べようと思って、そんな山ん中まで行ったんです?」
依藤の矛先が竜介に向いた。分からないことだらけで、苛立っているようだ。
「その……告祀の甕の、封じ込めの儀式がどんなものであるのか、それを調べようと思いましてね」
それは事実であるが。
「やっぱり――」
和子が吐き捨てるように呟いた。
「何がやっぱり[#「何がやっぱり」に傍点]?」
依藤は敏感に反応する。
「いずれ、竜が暴露《あば》きにくるから注意しろと、そう教えられてあった通りですわ」
「な[#「な」に傍点]、何のことだあ[#「何のことだあ」に傍点]――」
ついに爆発したように依藤はいう。
「竜が暴露きにくる? それは何のことですか?」
竜介が尋ね直した。
「――あなた、『恙堂』で名前をおっしゃったでしょう」
「ええ、名乗りましたけど」
「――竜の名前だったじゃありませんか」
「たしかに、竜介ですが、それが何か?」
「お清めの甕の秘密を暴露きに竜がくると、トマス様がそうおっしゃったのです――」
「と……とます?」
聞いたことのある名前である。
依藤も、そして竜介にとっても。
「それは――トマス・アクィナスですか?」
「下の名前までは存じあげておりません。おつきの人たちは皆、トマス様とお呼びしていました」
「思い出した[#「思い出した」に傍点]――」
依藤は大声でいう。
「あの竜の呪いの事件で、セミナーを開いたグルの名前じゃありませんか、そうでしたよね先生」
竜介は首肯《うなず》きながら、
「そのトマスとやらは、今どこにいるんですか?」
「――存じあげません。たとえ知っていたとしても、あなたたちに教えるものですか」
毅然とした態度で和子はいう。
「たしか白人だったよな。鼻が大きくて、鷲鼻の」
依藤はいう。
「いいえ、トマス様は歴《れっき》とした日本の方です」
「ええ?」
――告祀《コーサ》の甕が実際に埋められたのは十年も前である。かたや〈竜の呪い殺人事件〉は二カ月前だ。首謀者の名前は同じであっても、人は違っているのかもしれない。なんにせよ、相当に根の深い話だと竜介には思えた。
「あっちは竜を殺せ[#「竜を殺せ」に傍点]でしたよね。こっちは竜が暴露く[#「竜が暴露く」に傍点]ですか――先生、いったい何と拘わってるんですか? それとも、きみ[#「きみ」に傍点]が拘わってるの?」
依藤は、政嗣を睨んでいった。
神の兵士は微動だにせず無言で受け流す。
いや、無言でいることは、肯定したことにもなってしまうが。
「せ、せっかくトマス様が、悪霊を祓い清めてくださったというのに……」
つい今し方まで気丈な素振りで突っ張っていた和子が、はらはらと涙を流さんばかりにいう。
「ああー、パンテラ様、どうか卓磨をお守りくださいまし……」
「な、何ですかそれは?」
そんな和子の様子を見て、語気を弱めて依藤はいった。
「パンテラ[#「パンテラ」に傍点]?――それが記憶の門番、いや、甕の封印を守護していた神なのか?」
逆に、竜介が声を荒らげて問い質す。
「……なんて罰当たりな……パンテラ様を呼び捨てにするなんて」
パンテラ様――
ティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラ[#「パンテラ」に傍点]。
――謎は解けた。
「そうか、あれは〈真なる豹〉だったのか」
それは〈竜〉を殺す存在なのだ。
得体の知れない目眩《めまい》に竜介は襲われた。顔が青ざめていくのが自身にも分かった。
「……何のことです先生?……どうしたんですか先生?」
――何がどうなってるんだ和子?
――あなたも呪われるがいいわ!
――卓磨はどこにいるんだ?
――その甕を返して!
なおも押し問答は続いていたが、竜介はひと言も発せず、政嗣を促して外に出た。
「ま、待ってくださいよ先生、――火鳥先生」
依藤警部補の嘆願も無視した。
――世俗のことには興味がない。
もはや、つつが寺[#「つつが寺」に傍点]の住僧と心境は同じであった。あの住僧はすべてお見通しであったのかもしれない、そう竜介には思えてきた。いや、この寺に行けと命じた、アマノメの神も然《しか》りである。
帰りは政嗣が車の運転をして、後部座席には竜蔵老人が移ってきた。そして彼が語った、マサトが覗き見た大宮の死体なき殺人事件の真相は、それはそれで驚愕の物語[#「物語」に傍点]であった――事実にも拘わらず、どこか遠い世界の御伽噺のようにも竜介には感じられた。〈真なる豹〉を知った今となっては、もはや次元が違うのだ。
竜介は、竜蔵に語った。
「……あの告祀の甕は、つまり、地雷のようなものですね」
「地雷でございまするか」
「それも、封じなくてもいいような邪気を封じ込めて、竜が触れると、爆発する仕組みになっていたんです。それにケダモノを――真なる豹[#「真なる豹」に傍点]を、纏わせていたんです」
車に揺られながら、アマノメの神は勝てないかもしれない、そんなことを竜介は考え始めていた。
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18
「そのお寺は、ほんとうに恙寺《つつがじ》だったんですか」
西園寺静香が、美しい瞳をいっそう輝かせながら聞いてきた。
「いやあ、それは公案《こうあん》さ」
竜介もことさら明るい表情でいう。
――あの後、夕食を一緒にと竜蔵老人に誘われたのだが、辞退し、車で送られて下北沢の自宅《マンション》に辿り着いたのは夜の八時過ぎであった。だが、話し相手が欲しくて、ご近所(電車で七分)の彼女を呼び出したのである。
「……つまり禅問答のことね。東照宮の謂《いわ》れによると、竜は夜の守り、恙は昼の守りだろう。で、ぼくたちは竜だったから、その好敵手《ライバル》であるところのご住職は、恙ってことになるわけさ。けど、実際に恙寺であったとしても、いちおう辻褄は合ってる。寺の入口は竜宮門だったし、それに三つ葉葵の金箔紋が衝立に入っていたからね。その、夜の守りの竜って、これは明らかに家光のことなんだ。家光は竜年《たつどし》の生まれだし、そして鬼門に向いた夜叉門でもって、鬼を一手に引き受けている……つまり夜の守りね。だから昼の守りに相当する〈恙〉が、日光のどこかにあったとしても、おかしくはない」
「そのお話は、歴史部のおふたりが聞けば、大喜びしそうですよね」
「まさかまさか、あそこは絶対に教えられないお寺さ。西園寺さんも駄目だよ。口を滑らしちゃ……」
竜介が饒舌《じょうぜつ》に言葉を飛ばしていると、ふたりの木机《テーブル》に前菜《オードブル》と赤ワインのボトルを運んできた店員《スタッフ》が、仏蘭西《フランス》語で何やら語りかけた。竜介は駄目だが静香は少し喋れるようだ。店に入った瞬間、ボンソワール……と挨拶され、彼女がそれに応じたのがきっかけである。店主も従業員も皆仏蘭西人だが、日本語はもちろん話せ、だが、客も半分は白人なのである。店は大きくない。一階は二十人も入れば満席だ。今日は週末ということもあって、店の入口脇のごく狭い空間《スペース》でアコーディオンとギターによる生演奏をやっていた。もちろん白人奏者である。一階は満席で、ふたりは二階に席をとった。その演奏は聞こえてくるが一階ほどの騒々しさはない。店の調度品も一切合財が仏蘭西直輸入の骨董品《アンティーク》だ。一九三〇年代とのことだからアール・デコの時代だが、仏蘭西はアール・ヌーボー発祥の地なので、米国や英国のアール・デコほど角張った印象はない。懐古的《レトロ》で、白黒《モノクロ》映画に出てくるような時間遡行《タイムスリップ》した居酒屋《ビストロ》である。竜介の自宅から歩いて一分の『一番街商店街』にそんな店があるのだ。ここも日光の恙寺同様、魔界なのかもしれない。
「うわあ、すごいボリュームですね」
運ばれてきた大皿に盛られた料理を見て、静香はいった。
「だから前菜《オードブル》だけでいいといったろう。ここはナイフとフォークがいっぱい並んでいて、どれを使おうかと迷う店じゃないんだ」
仏蘭西の家庭料理の店なのである。
ふたりは赤ワインで乾杯をしてから、
「……そうそう、さっきの日光の謂れね、あれも道教から来ているんだ。たとえば、道教には童乱《タンキー》と呼ばれる巫覡《ふげん》がいるんだが、その童乱が神懸かったときには兜仔《トオア》と呼ばれる腹巻をつける。その腹巻には、月をあしらった竜[#「竜」に傍点]と、そして太陽をあしらった虎[#「虎」に傍点]が、刺繍されているのが決まりね」
「あ、道教では、昼の守りは虎になるんですね」
「というより、こちらが東洋世界の王道で、東照宮の謂れが例外なんだ。なぜ例外になったのか……それは家康が寅年《とらどし》の生まれだからさ」
「えっ?」
「家康が守護してるのは江戸の町で、日光や東照宮を守ってるわけじゃない。だから家康を象徴する虎も、日光の守りとしては使えない……単純な話さ。その代役として、東照宮の最上位の門である唐門《からもん》には、竜の対として唐獅子《からじし》が置かれたんだ。けど、虎が使えないから唐獅子だなんて、そんな置き換えは出鱈目《でたらめ》すぎるよねえ。それに唐獅子というのは、すなわちライオンだろう。ライオンは西洋の王権の象徴なんだ。それが竜と対であるなんてことは、どう考えたっておかしい。だから、謂れ[#「謂れ」に傍点]はあやふやになるし、置いた唐獅子も、いつしか恙に変わってしまったわけさ」
「中国数千年の歴史に逆らった、しっぺ返しのようなものですね」
「うまいこというね。だから、あれを恙だといい出した人は、誰だかは知らないが、感性は正しいよね。ぼくも〈恙説〉を擁護したい――」
理屈はどうであれ、結論は『恙堂』の主人と同じである。
「さあて、何から話そうか……今日その恙寺に行って、謎は洗《あら》い浚《ざら》い解けたんだけどさ」
いうと竜介は、前菜の中からサラミソーセージに狙いを定めて、フォークを突き立てた。
「じゃあ、まずは〈油赤子〉の話から。西園寺さん知ってるかな、十年ほど前の事件なんだけど……」
大宮であった〈死体なき、美人モデル殺害事件〉の概要を竜介は語った。静香は知らない様子であった。当時、彼女はまだ高校生で、それも至極真面目な高校生であり、昼の野次馬番組《ワイドショー》に現《うつつ》を抜かすような環境にはない。
「……そうしますと、その殺人犯の記憶が、あのグループの、卓也くんの脳に伝わったわけですか」
「そういうことなんだが、記憶の主《ぬし》はひとりではなかったんだ。ふたりの記憶が伝わっていたんだよ」
「ふたり?」
「まずひとりは卓也くんの父親……その後離婚して、台湾に雲隠れしてたらしいんだが、警部さんの話からいっても、その父親は断然[#「断然」に傍点]あやしい。事件当夜の彼の行動はというと、愛人のマンションに車を置いたまま、いったん外に出たわけさ。そして夜の十二時過ぎに戻ってきた。で、彼がいうには、マンションの部屋には入らなかったそうだ……が、これは嘘[#「嘘」に傍点]。そこから先はアマノメ少年の見立てによるけど、彼は、やはり部屋には入っていた。すると、愛人の美人モデルさんが、居間《リビング》の絨毯の上で血を流して死んでいたわけさ……さあ、あなたならどうする?」
「ど、どうするといわれましても」
そんな特異な状況設定《シチュエーション》の質問に、生《き》真面目な静香が応えられるわけがない。
「その男は、警察には通報しなかったんだ。その理由も……何となく分かるよね。まずい[#「い」に傍点]の一番に自分が殺したと疑われる。たとえ、その疑いが晴れたとしても、世間の信用は失う。たしか、手広く事業をやっていた会社の社長だったからね。バブル真っ盛りで、当時もて囃《はや》されていた、青年実業家と呼ばれた連中のはしくれさ」
それは野次馬番組《ワイドショー》からの知識であるが。
「なおかつ、家庭崩壊も免れないよね。いいことはひとつもない……もちろん身から出た錆だけど。だから、自分の人生が終わってしまうよりは、と、男は賭けに出たわけさ」
「それで……死体を隠してしまったんですか」
「うん、でも実際はもう少し複雑なようなんだけどね。そして男は、死体を毛布か何かで包んで、真夜中に自分の車まで運び、トランクに入れて、そして捨てに行った」
「……どこにですか?」
「いや、さすがのアマノメ少年も、その詳しい場所までは見えなかったらしい。古井戸の中に投げ捨てた……ぐらいしかね。その男は、どこか都合のいい場所を知っていたのかもしれない」
「じゃ、その女性の死体は、今でもそこに……」
「発見されてないので、そういうことになるよね。でも十年以上も経っているから、その井戸が埋め戻されて、上にマンションでも建っていたなら、もう穿《ほじく》り返しようがないよね。男がその場所を明かさない限り、無理だろうな」
「はい……」
静香は短い嘆息をついてから、
「そうしますと、その女性を殺した人は?」
「つまり、男が外に出ていた間に来客があって、それが犯人なんだが……なんと、卓也くんのお母さんなんだ」
「えっ?」
「それは……ぼくも聞いて驚いたさ。その経緯《いきさつ》はというと、そもそも奥さんは、夫が浮気していることを知ってたみたいなんだ。たぶん興信所か何かを使って、愛人の住むマンションを突き止めていたんだろう……これはぼくの推理だが。で、その事件当夜、彼女は夫の首根っこを押さえようと、そのマンションに行ったんだ。案の定、駐車場には夫の車が停まっていた。ところが[#「ところが」に傍点]……」
「夫はいなかったんですねえ」
「そういうこと。でマンションの扉《ドア》をガンガンガンと叩いて中に入ったはいいが、夫の姿は見えない。どこに隠れてるの――知らないわよ、と押し問答になった」
そのあたりは竜介の作り話であるが。
「で、ナイフを持ち出したのは、小さな果物ナイフのようなものらしいが、それは愛人の方のようだ。出てってえ――と威嚇のためにね。ところが、気丈な奥さんで怯《ひる》まないんだ。そして取っ組み合いの喧嘩になって、逆にそのナイフで相手を刺してしまった。はっ、と我に返った奥さんは、マンションから逃げ出したわけさ」
――見たかのように竜介はいう。
「逃げるのは仕方がないとしても、せめて一一九番に通報するぐらいは……そうすれば女性は助かっていたかもしれないのに」
「まあね、そうする人もいるだろうが、彼女はしなかった。でも通報していたら、録音されて声が残ってしまうので、いずれは露呈《バレ》てたでしょうね」
そんな行為に静香としては納得できるものではないが、頷くと、ワイングラスに口をつけた。
「そして、嫌疑はあっさり夫にかけられた。が、結局は証拠不十分で不起訴となった。それは夫の思惑通りだったが、テレビ局が騒いで、そっちの方面では外れた。あなたが愛人だったんでしょう、お話聞かせてくださーい――と顔に薄消《モザイク》も入れない映像を、連日のように流されていたからね」
――竜介も、そんな低俗番組をけっこう見ていたのだ。
「そうしますと、事件の状況がテレビで報道されたのですから、死体がないことを……それを隠したのは誰なのか、奥さんは気づいてますよね」
「うん、それは間違いないだろうね。そんなことをするのは、いや、それができる[#「できる」に傍点]のは夫以外に考えられないからね。それに夫の方も、愛人を殺したのは、もしや妻ではなかろうか……そんな考えが頭を過《よぎ》ったのではなかろうかと、ぼくは想像するけどね。だとすると、それも、夫が死体を隠すに至った動機のひとつになる。妻が犯人として逮捕されても、想像される未来に大差ないからね」
「そうしますと……お互いに[#「お互いに」に傍点]」
「そう、お互いに疑心暗鬼の悶々とした日々を送っていたはずさ。そして離婚した。そして暫くして、子供が殺人の様子を語り始めた。だから〈油赤子〉は、やはり生まれるべくして、生まれてるよね」
――親の因果は子に報いる、その究極の姿であろうか。
「先生、その事件の真相は、警部さんには?」
「まさか[#「まさか」に傍点]……ひと言も喋ってないよ。それに、ぼくも後から知った話なのでね。けど、アマノメ少年の親代わりである桑名竜蔵さんが、あちこちに顔の利《き》く人らしくって……だから、どうするかはその竜蔵さんに一任したんだ」
――無責任な話であるが。
「けど、神の託宣《おことば》だけでは、警察も動けないと思うよ。事件の有力な証拠となる、死体の在処《ありか》が分からないままだからねえ」
「じゃ、事件は迷宮入りのままということですか。その、井戸の中の女性は、可哀相ですよね」
「うーん、恙寺のご住職にでもお願いして、法要をしていただく。それぐらいかな……」
「やっていただけるでしょうか?」
真面《まじ》に頼みに行きそうな表情で、静香はいう。
「まあ、とっつきの悪い僧侶だけど、悪人ではないみたいだから。それにぼくとしても、お伺いしたい話はあれこれとあるし……」
認知神経心理学者の竜介としては、つまり〈標本〉にしたいのであるが。
「それと……その卓也くんは、その後どうなったのですか?」
「あ、それはね……あの告祀《コーサ》の甕の封印は、きれいさっぱり解けたようだ」
竜介の施した催眠術が原因だが、その経緯《いきさつ》は静香には話すつもりはない。
「そういったことも、アマノメ少年には見えたようだ。おそらく、それは母親の記憶を通してだろうと思うが……」
マサトは、崖下の車の中にいたのである。それでありながら、寺にいる各人を脳視《スキャン》していたのだから、相手を見なければ駄目であった二カ月前に比べると、格段に進歩したものだと、竜介は驚きを感じていた。
「じゃ、解けたとしますと、卓也くんは自分が殺人を犯したと、そう錯誤するのでは?」
「いや、それは大丈夫なんだ。今はもう自我が確立されているから、そんな記憶は自分のものであるはずがない――と意識で否定が出せる。だから時間が経てば、錯誤は解消されるはずさ。悪夢のようものとしては、残るだろうけれど」
「そうしますと、あのケダモノも……」
「うん、あれはいわば、脳内で沸々とわだかまっている記憶が、表に出ようとする力《パワー》をエネルギー源としていた怪獣[#「怪獣」に傍点]だから、そのわだかまりが解消されると、力は失われるよね。だからもう暴れないと思う。彼に関しては[#「彼に関しては」に傍点]……」
前菜の大皿からチコリのドレッシング和えを小皿に取りながら、竜介はいう。
「あのデミウルゴスの話も……解けたさ」
「それは、告祀の甕に刻まれてあった神の名前ですよね」
「祈祷士《エクソシスト》の素性が判ったんでね。夏に、警部さんに鮨を奢ってもらったろう。そのときに名前が出たよ。トマス[#「トマス」に傍点]という人物さ」
「えっ、あの呪いの事件と、同じ人だったんですか?」
「いや、人は違ってたんだ。けど、教義信条《バックボーン》は同じだと思う。そこのボス級《クラス》の人間は、全員トマスというのかもしれない。だから、トマス教団ということにでもしておこうか」
「たしか……トマス・アキ……」
「トマス・アクィナスさ。十三世紀に生きていた超[#「超」に傍点]有名な神学者ね。バチカンでは、『三位一体論』を説いたアウグスチヌスと並び称せられるぐらいの大聖人さ。かたや、魔女たちにいわせると、史上最悪《ワーストワン》の極悪人だけどね」
「魔女ですか……」
竜介の話が、まさに箒《ほうき》に跨《また》がって飛ぶのは、いつもの展開《パターン》である。
「中世ヨーロッパでは、魔女狩りの嵐が吹き荒れていたろう。あれで、最低十万人は殺したといわれている。もう一桁上をいう研究者もいるが。ところで、魔女狩りというと……ニンニクを火にくべたらパーンと破裂したから、それは魔女の証しであるとか。よく知られている魔女の拷問具を使って、悪魔に通じていると白状させられ、さらに拷問によって、仲間らしき者を密告させて次々と殺していく……といったような、無軌道な面ばかりが紹介されるよね。まともな宗教学者は、かすかに残存していたかつて[#「かつて」に傍点]の神々の宗教儀礼の一掃であった……ともいう。この説はそれなりに正しいだろう。けど、魔女狩りの本質は、単純に、やはり能力者狩りであったとぼくは思う。末端の教会が暴走してくれたお陰で、結果的に、それが擬装《カモフラージュ》されてしまっているのさ。で、そういった〈魔女狩り〉の基礎[#「基礎」に傍点]理論として用いられていた書物があり、『対異教徒大全[#「対異教徒大全」に傍点]』というんだが、それを書いたのが、トマス・アクィナスなんだ」
「そういうことだったのですか……」
意外と早く、結論に導かれはしたが。
「これ向こう名で、『スンマ・コントラ・ゲンティレス』……なんか呪われそうな表題《タイトル》だろ」
ちょっと与太を竜介はいってから、
「さて、そのトマス・アクィナスには、アルベルトス・マグヌスという師匠がいた。これも大変に有名な神学者だが、魔術や占星術の権威《オーソリティ》でもあり、その種の膨大な知識を集大成して、その研究に生涯を捧げた人さ」
「え……キリスト教ですよね。魔術[#「魔術」に傍点]を研究しても許されるんですか?」
「――許されます[#「許されます」に傍点]。それが証拠に、彼は二十世紀になってバチカンから聖者の列に加えられた。だから大聖[#「大聖」に傍点]アルベルトスと称される。これは弘法大師の大師[#「大師」に傍点]と同じで、カソリックでは最高の栄誉を受けた証しね。それに魔術[#「魔術」に傍点]は、それ以前のローマ法で、白魔術と黒魔術に区別されていたんだ。白は大目に見られていて、彼はいちおう白魔術の方の研究をやっていたことになっている」
「それは、どういった区別なんですか?」
「治療系は白、今でいうところの気功のようなものかな。それと予言[#「予言」に傍点]の類い、これも白[#「白」に傍点]だったんだ。他はすべて黒。呪いとかは当然こっち側だね。要するに現代のテレビゲームと同じさ」
「じゃ、アポロン神殿の神託のようなものは、白だったわけですね」
「ローマ法ではね。ただしアポロンであろうが何であろうが、神託には必ず神[#「神」に傍点]が絡むから、バチカン法で黒――真っ黒[#「真っ黒」に傍点]ね。さて、そのアルベルトス・マグヌスだが、石や植物のもつ魔術的な特性を丹念に調べたような研究もあって、たとえば、アメシストは集中力を高めるとか、シソ科のある植物は透視[#「透視」に傍点]能力を高めるとか、そんなことまで記している……ちょっと驚きだろう」
同意を求めるようにいってから、
「もっとも、公になっているのはごく一部だけどね。で、そんな魔術研究家に弟子入りしてきたのが、トマス・アクィナス。そして十年間ぐらい師匠直伝《マンツーマン》で魔術を教わる。このときの両名《ふたり》には面白い逸話が幾つもあってね、たとえば、アルベルトスが魔術を駆使して、話のできる真鍮製のロボットとやらを作り、召使いとして家の用事をさせていたそうだ。が、そのお喋りが煩《うるさ》いと、アクィナスが叩き壊しちゃったとかね[#「とかね」に傍点]。あるいは、窓の外を毎日のように馬車が通るので、その音が煩いと、アクィナスは馬の形をし護符《タリズマン》を作り、それに呪いの文言《もんごん》を刻んで、真夜中にその護符を道に埋めるんだ。すると、そこを通りかかった馬は脅えちゃって、御者を振り落としてしまった、とかね[#「とかね」に傍点]」
静香も、顔を綻ばせながら、
「……キリスト教の神父さまですよね。いいんですか、そんなことをしても」
「これね、陰陽道の話を知ってる人ならすぐに気づくんだが、安倍晴明《あべのせいめい》の物語と瓜ふたつなんだ。真鍮のロボットは陰陽道では紙の式神《しきがみ》だし、地面に護符《ごふ》を埋めるのもよくある話ね……どっちがどっちに伝わったのかは知らないが、いずれにしても、トマス・アクィナスは、そういった魔術的生活を送った後、百八十度宗旨変えをして、あの『対異教徒大全《スンマ・コントラ・ゲンティレス》』を世に出すんだ。白魔術/黒魔術を問わず、この種のものはすべて、悪魔《サタン》に通じることによってのみ可能――それが、その本の主旨ね」
「ということは、知っていて、否定に転じたわけですか」
「そういうこと、だから性《たち》が悪いんだ。実際、このスンマ・コントラ以降は、バチカンも全否定[#「全否定」に傍点]に変わる。時期的には十三世紀の後半で、モンセギュールに立て籠もった最大の異端であったカタリ派は、同じく十三世紀の半ば[#「半ば」に傍点]には片付いている。もちろん、ヨーロッパの神々も、すでにすべて殺し終えている。だから、バチカンにとっての敵[#「敵」に傍点]というのは、イスラムを除けば、これより先は、標的《ターゲット》は個人[#「個人」に傍点]に絞られるんだ……つまり、魔女であり、すなわち能力者が敵であり、そして能力そのものの否定へと転じていくわけさ。大聖アルベルトスは、その種の資料を集められるだけ集めた。そして弟子のトマス・アクィナスは否定した。ここが、――分岐点なんだ」
「知っていて、否定しているんですね」
めずらしく、静香は同じことをいった。
「そのトマス・アクィナスには、素敵な渾名《あだな》があってね……バチカンの聖人にはだいたい愛称《あだな》がつくんだが、アクィナスは、天使的|博士《ドクター》といわれている」
「え、イメージに合いませんけど……」
「それは西園寺さんの、いや、日本人全員[#「全員」に傍点]のイメージが間違ってるの。天使、あるいはエンジェルというと、丸々と太った裸の子供が、手に弓矢を持っている、そんなイメージだよね」
――静香は頷いた。
「けど、これはギリシャ神話のクピドなんだ。美の女神アフロディテの息子さ。手当たり次第に矢を撃つ、いたずら小僧として有名、アポロンも撃たれちゃうんだけどね。クピドは英語読みではキューピッド……つまり恋愛の神で、恋の矢を持っているんだ。けど、天使は神ではないよね。天使とは、サタンの軍勢を蹴散らすための駒[#「駒」に傍点]さ。矢は、魔物を射落とすための武器。矢を持つという連想から、ごっちゃにされているんだ」
「……すると、天使的|博士《ドクター》というのは本来の意味なんですね」
「そういうこと。天使は、実際は武闘派なんだ。エンジェル[#「エンジェル」に傍点]、といった可愛らしい響きに騙されてはいけない。天使|小物《グッズ》を身につけて、神社にお参りに行く人は五万といるだろうが……それは狂気の沙汰[#「狂気の沙汰」に傍点]だよね」
ことさら大袈裟に竜介はいうと、ついさっき静香が注《つ》いでくれた赤ワインを一気に飲み干してから、
「さて、このアルベルトスとトマス・アクィナスの両名だが、信条《バックボーン》としているところが各々違う。哲学的な信条が違うんだが、アルベルトスは自他ともに認めるプラトン哲学の後継者。かたやトマス・アクィナスはアリストテレス派で、その哲学をキリスト教の教義の中で説明しきって、スコラ派哲学と呼ばれるものを完成させた人でもある。ともに紀元前四世紀に活躍したギリシャの哲学者だが、プラトンが師匠でアリストテレスが弟子ね。――プラトンは芸術肌の人だが、アリストテレスは理性と自然科学を重んじる、悪くいえば杓子定規の人。本の虫[#「本の虫」に傍点]、と師匠《プラトン》から揶揄されたほどで、ひと言の冗談もいわないような堅物《かたぶつ》ね。そしてプラトンの『イデア論』に対して、百八十度違う『エイドス』を持ち出し批判したことでも知られている。つまり、そんな両哲学者の関係を、そのままそっくりと下《お》ろしてきたのが、ふたりの神学者ってわけさ」
静香が、何かを思い出したかのように、
「あの、デミウルゴスは、たしか……」
「そう、プラトンの造語[#「プラトンの造語」に傍点]なんだ。彼の『宇宙生成論《ティマイォス》』の中に出てくる天地創造の神で、無秩序と不調和に流動している混沌《カオス》に秩序を与える。それがデミウルゴスね。だからグノーシスとかは関係がなくって、そういった大元[#「大元」に傍点]にまで溯って、使っていたんだろうね。つまり、トマス教団は、スコラ派哲学を信条にしており、プラトンのことは嫌いで、そして異様に詳しい呪術の知識を持ち、しかし能力は全否定するキリスト教系の組織ということになる。随分と分かってきたよね。けど、実態は全然分からない……」
竜介は、ソーセージをフォークで串刺しにして、いう。
「あの、ケダモノの正体も判ったよ」
「何だったのですか?」
「あれは、豹さ。真なる豹と呼ばれるもの」
「真なる豹……ですか?」
「恙寺で卓也くんの母親が、パンテラ様[#「パンテラ様」に傍点]――と口走ったので解った」
「パンテラ?」
「ラテン語さ。英語ではパンサー、つまり豹のことね。ただし、パンテラ[#「パンテラ」に傍点]といわれると、思い浮かぶものがひとつある。――ティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラ……」
一節一節、竜介は区切っていう。
「それは、人の名前ですか?」
「そう、紀元前あたりに生きていた、ローマ兵士の名前さ。地中海に面するシドンの生まれ……フエニキアの本国だ。もっとも、その頃にはフェニキアは滅んでしまっているので、今のレバノンの首都であるベイルートの少し南。あのややっこしい辺りの生まれってことね」
「……紀元前あたり[#「あたり」に傍点]といいますと」
「もちろん、ナザレのイエスが関係します。ナザレ村はちなみに、さらに南のガリラヤ湖の近く。そのガリラヤ湖の背後にはゴラン高原という、またまたややっこしい紛争地帯があるけどね。ところで、イエスの母親はマリアさんだけど、じゃ、そのマリアさんの夫は誰だか知ってる?」
「夫[#「夫」に傍点]……ですよね」
静香は思い浮かばない。
「大工のヨゼフというのが夫さ」
「あ、いわれてみれば」
「いわれてみれば知ってるよね。ほとんど話題に上らないけど。でも、ヨゼフという人はいちおう、ダビデ王の何代目かの子孫ということになっている。ダビデ王の血筋から救世主《メシア》が生まれる、それがユダヤの預言だったからね……そして聖書には、マリアさんの夫はヨゼフだと出てくるが、イエスの父親がヨゼフであるとは、記されていない」
「……聖霊ですよね」
「つまり、処女懐胎だけれど、それについて語られているのは、福音書の内の、年代的に後に書かれたルカ伝とマタイ伝なんだ。最初期に書かれているマルコの福音書では、イエスはマリアの息子[#「マリアの息子」に傍点]……としか記されていない。で、ユダヤ人の場合、父親の名前をもって誰其《だれそれ》の子というのが決まりなんだ。だから、母親の名前を冠している以上は、イエスは私生児だというのが、現実的な話となるよね。けど、私生児であったとしても、父親は何処《いずこ》かに存在するはずさ」
「それが……つまり、そのパンテラということですか?」
竜介は小さく頷いてから、
「これは噂話の次元《レベル》じゃなくって、たとえば、ユダヤ教の『ミシュナ』にも、イェシュー・ベン・パンテラ……パンテラの息子イエス、とちゃんと記されてあるんだ。『ミシュナ』というのは、ユダヤ教の宣教師《ラビ》の口伝を集めたもので、モーセの『律法《トーラー》』に次いで重要なものね。なおかつ、イエスが生きていたほぼ同時期に編纂されている。……イエスという人は、生きていた間は、ほぼ無名に近い人なんだ。当時数多くいた、各地を放浪しながら教えを説く、ユダヤ教の宣教師のひとりにすぎない。ところが、十字架に磔《はりつけ》になって、いきなり時の人になった。皆が興味をもつよね。いったい誰の子なんだ――パンテラの子さ。もうそのあたりで出てきた話なんだ。さらに、そのアブデス・パンテラの墓が、その後発見されてもいるんだ」
「お墓があったのですか……」
「ドイツのどこかで見つかっている。ローマ兵士なので、あちこちに行くからね。たしか、射手部隊に四十年間ほどいて、六十歳ぐらいで亡くなったと、その墓石には刻まれてある。当時……今でもそうだと思うが、パンテラというのは非常に珍しい名前らしくって、それに、そのパンテラが所属していた部隊が、いつどこにいたかというローマ側の資料も残っている。年代的にも符合する。だから、イエスの父親と考えても、矛盾はないようだ。大工のヨゼフがダビデ王の子孫よりも、はるかに信憑性の高い話さ。もっとも、バチカンは完全[#「完全」に傍点]に黙殺[#「黙殺」に傍点]しているけれど……」
竜介は、赤ワインで喉を潤してから、
「あの、デミウルゴスという言葉は、二元論の立場をとるグノーシス派が、唯一神であるヤハウェの神を揶揄するために使ったよね。それとは逆に、この豹《パンテラ》の話は、ヤハウェの神を奉じているユダヤ教徒たちが、キリスト教を攻撃するために専《もっぱ》ら使っていたんだ。イエスの父親がローマ兵士だとすると、ダビデ王の家系から救世主《メシア》が生まれる……といったユダヤの預言に反してしまい、キリスト教の新約聖書との繋がりを断つ[#「断つ」に傍点]ことができるからね。が、それはバチカンにとっては忌むべき問題で、キリスト教は、ユダヤの旧約聖書の上に成立しているから、その関係を断たれちゃうと存在できない……はずだよね。だから豹[#「豹」に傍点]も、間違っても、キリスト教では信仰の対象になるはずがないよね。ところが[#「ところが」に傍点]、イングランド中部のリンカーンシャーの片田舎に、シトー会の修道院があった。十二世紀頃の話なんだが」
「シトー会といいますと……」
「そう、異端のカタリ派を殲滅したとき、全員を殺せ[#「全員を殺せ」に傍点]、神が見分けをつけられるであろう[#「神が見分けをつけられるであろう」に傍点]――あの有名な暴言を吐いた、アルビジョア十字軍の隊長が、シトー会ね。時代もほぼ同じ頃さ。そのシトー会の修道院に由来する書物に、中世の『動物寓意集』というのがある。実在の動物や空想上の動物についての、キリスト教的な考えがあれこれと述べられている。豹[#「豹」に傍点]も出てくるし、竜[#「竜」に傍点]も出てくる。こんなふうに記されてある。――〈真なる豹〉救世主イエス・キリストは、天から降りてきて〈竜の悪魔〉の支配からわれらを救い給う……とね」
静香は沈黙した。
竜介も、もうそれ以上は話すことがない。
謎は洗い浚い解けた――。
はずだが、竜介の頭の中は、それこそ恙寺の境内のように霧がかかっていた。
どこまでが現実で、どこからが御伽噺なのだろう。その線引きはどの辺りで、そして竜介という存在はどこにいるのか。
気がつくと、連れの女性と鼻の高い白人男性が、竜介には理解できない言語で話していた。
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19
座椅子に凭れ、寛《くつろ》いでいる様子の竜蔵が、
「……屍体《しかばね》は、車でそう遠くない場所に埋《う》もれておるわ。北の方角じゃ……」
独り言のように呟く。
そこは、屋敷の母屋にある八畳の和室で、その母屋と離れに囲まれた中庭に面している。夜なので見えはしないが、枝振りのいい松や、形の整った岩や、小さな池もある純和風の庭である。
「……川沿いの道を暫く走り、右に折れる……その角には、派手な電飾の奇抜な建物が立っておる。そこからはすぐ近くじゃ……当時、古い屋敷を壊して地面を均《なら》しておった場所がある。その庭の隅にあった古井戸の中じゃ」
――マサトにはすべて見えていたのである。それを誰にどう喋るかは、竜蔵の裁量|如何《いかん》による。それこそが審神者[#「審神者」に傍点]の役目であるからだ。
「お望みとあらば、お探しもできますが」
抑揚のない野太い声で、政臣が囁くようにいった。
彼は、そこが定位置といわんばかりに、縁側に藁座《わらざ》も敷かずに正座している。
「奇抜な建物とは、パチンコ店のことでしょうか」
その政臣の斜め後ろで、庭に突っ立てっいる政嗣が遠慮がちにいった。
「いや、探すまでもない。いずれ露見する――それがアマノメの御[#「御」に傍点]神の見立てである」
そう竜蔵が決まり文句をいうと、ふたりは黙したままで頭《こうべ》を垂れた。
「けどじゃ……」
竜蔵は呟き声に戻って、
「ことの真相が明るみに出おったとき、その子供が可哀想だとアマノメが申しておった。何とかならぬものかのう」
新城卓磨のことである。
「……考えてみます」
政臣が応えた。
「それとじゃ、あの者[#「あの者」に傍点]はどうであった、政嗣」
和《にこ》やかな声になって竜蔵はいう。
「……と、申されますと?」
「火鳥先生のことだわい。どう思うた?」
「……はい。小生《わたくし》にはない知識を、豊富にお持ちの方だと、そう感じ入りましたが」
「信用できそうか?」
「はい。少なくとも、敵ではないと……」
「敵ではない。それは判っておるわ」
顔を綻ばせながら竜蔵はいってから、
「ならな政臣、お主はどう思うな」
問われた政臣は、目を瞑《つむ》ってたっぷり時間をかけてから、
「……お答えできる立場にございません」
「も、もっともよのう」
苦笑しながら、竜蔵は頷いた。
「……ですが[#「ですが」に傍点]」
政臣は奥歯にものが挟まったように、
「掟に背くことに、なりかねません」
目を閉じたままでいう。
「掟か……そのようなものは、竜助《りゅうすけ》が死によったときに消えたわ」
――竜助とは、竜蔵の兄である本家の長・竜嗣《りゅうじ》の次男であった者である。アマノメの側《そば》に仕える審神者《さにわ》のお役は、桑名本家の次男が代々継ぐと、そう定められてあるのだ。
「……竜生《りゅうせい》さまが、おられますが」
その次の代の次男が竜生である。
「ふっふふふ……」
竜蔵は鼻と口両方で嘲笑《せせらわら》ってから、
「……あの者にアマノメさまのお側《そば》役が務まろうとは、政臣[#「政臣」に傍点]、お主も思うてはおらんじゃろう」
――政臣は黙して答えない。
「兄様《あにじゃ》は分かってくれよるじゃろうが、難しいのは竜作《りゅうさく》よのう……」
次の代の桑名本家の家長である。
「まだ竜磨《りゅうま》の方が、わしは好きじゃ」
そのさらに次の代の家長候補だが、かなり撥ねっ返りの性格である。
「なにか、いい手はないものかのう」
……考えてみます。
そんな言葉は、さすがに政臣からは漏れてはこない。
「いっそのこと」
政嗣は何かを思いついて、それがそのまま口に出てしまったかのように呟いた。
「いっそのこと、なんじゃ?」
「――いえ」
政嗣は、その口を自らの手で喋《つぐ》んで沈黙する。
「いっそのこと……たしかに、そういった策もあるにはあるんじゃが、それは、あの娘《こ》の心持ちも考えてやらんとなあ」
政嗣が思いついた事柄を、竜蔵は勝手に想像していう。
「――お話は変わりますが」
政臣が口を開いた。
「ご本家から、近々、当屋敷に人が参るようです」
「いよいよ来るか……竜作と、竜生じゃな……」
政臣は、くっ、と何やら声を漏らしながら頷いてから、
「アマノメの御[#「御」に傍点]神さまのお披露目の宴も、それに合わせて……との、お達しでございました」
「それはやむをえまいて。マサトも、もうすっかり目覚めよったからな。立派[#「立派」に傍点]にアマノメの神じゃからな……」
神には、神としての役割があるのだ。信じている氏子たちのためにその能力を発揮する、それであってこそ神なのだ。警察の迷宮事件は神《アマノメ》の範疇ではない。
「しかし、気になることがひとつ」
「――わかっておる」
政臣の言葉を遮るように竜蔵はいってから、
「先代のアマノメの経緯《いきさつ》は、忘れてはおらぬわ」
語気を荒らげていう。
先代のアマノメとは、すなわちマサトの実の父親であるが、今から十三年前、正体不明の敵の手にかかって熊野灘に海の藻屑と消えている。そのときの経緯には、不審な点があれこれとあるのだ。
「――誰が忘れようか[#「誰が忘れようか」に傍点]」
さらに、自身にいい聞かせるように竜蔵はいってから、
「――政臣[#「政臣」に傍点]。――政嗣[#「政嗣」に傍点]。おまえ達は味方よのう」
「もちろんでございますとも」
「小生《わたくし》もです。この命に代えましても――」
アマノメの下僕《しもべ》ふたりは、声高に忠誠を誓った。
そんなふたりの態度を見届けてから、竜蔵は物静かに、それでいて力強くいう。
「もう大丈夫じゃ。アマノメの神がお目覚めになった今となっては、如何《いか》なる敵であろうとも恐るるに足らんわい。さあー来るがよい。化けの皮を剥がしてくれようそ……」
それは神の下僕たちを鼓舞する言葉であり、竜蔵の内心は、それほどまでには強気[#「強気」に傍点]でないことは、いうまでもない。
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20
――謎は洗い浚い解けた。
それは、やはり竜介の思い違いだったようである。特に歴史部[#「歴史部」に傍点]にとっては違っていた。
週が明けて、月曜日のこと。
扉《ドア》を連続的《リズミカル》に軽打《ノツク》する音で竜介が出迎えると、
「やっと捕まったわおにいさーん」
「こんちはーす」
学校の制服姿のまな美と土門くんが、雪崩《なだれ》込むようにして部屋に入って来た。――そこはT大学文学部・本館四階にある『情報科』の資料室で、竜介の個室も兼ねている。が、スチール書棚の列に七割方を占有され、人間のための空間《スペース》は僅かしかない。
「こっちよー」
とまな美が先導し、その書棚を迂回して奥に入って行こうとする。
いや、ふたりだけではなかった。
続いて、やはり学生服姿《ツメエリ》の天目マサトが、こくりと会釈をしながら竜介の脇をすり抜けていく。
三時過ぎに、今から行くわね――と電話があったのだが、彼も来るとは思いもしなかった。
竜介は、扉《ドア》から顔を出して辺りを見渡してみた。廊下に不審者は……〈陰〉の護衛たちの姿はない。
それどころか、誰ひとりとして歩いていない。ここは大学でも一番の辺境地なのだ。
――まいてきた[#「まいてきた」に傍点]。
そんな囁き声が竜介に聞こえた、ような気がして振り返ったが、マサトはすでに書棚の列の向こう側にいる。
まさか? テレパシー[#「テレパシー」に傍点]――。
そんな言葉は竜介の辞書にはない。
「うわー、みろ[#「みろ」に傍点]のびーなす[#「びーなす」に傍点]みたいやなあ」
真珠貝がパカッと蓋を開けたような格好《デザイン》の真っ赤なソファを見て、土門くんはいった。彼はここに来るのは初めてである。
「それって、ビーナスの誕生じゃないの?」
「どっちでもええやんか」
相変わらずのふたりと、そして無口なマサトは、壁際にぎっちぎちに置かれているその[#「その」に傍点]豪華な革張りのソファに、まな美を真ん中に挟んで腰を下ろした。
――かなり異様な光景である。
白衣の竜介は、貧相な回転椅子《デスクチェアー》に油が切れたような音を立てて座りながら、
えーと、マサトは二カ月ほど前にここに一度来ているんだが、そのことはふたりは知らないよな、と頭の中を整理しつつ、
「……で、いったい何の話なんだ?」
早くも疲れぎみにいう。
「えー、すっごい話を持ってきてあげたのに」
「そうなんですよ。是非[#「是非」に傍点]ともおにいさんにー」
御注進《ごちゅうしん》……といった顔で土門くんもいう。
「きみたちの凄い話[#「凄い話」に傍点]というのは、本当に凄い[#「凄い」に傍点]からねえ」
厭味半分でいう。
「実はね、幸ちゃんのことなんだけど……」
彼女が怪我をしたことや『恙堂』に泥棒が入って甕が盗まれたことなどを、土門くんが合いの手を入れながら、まな美がその経緯《いきさつ》を語った。
それは竜介にとっては、もはや過去の話であるが、初耳のような顔でしおらしく聞いてから、
「……で、それが?」
「それに後日談があるのよ」
「ほとぼりが冷めてから、幸ちゃんの携帯にこそーと電話かけてみたんですよ。おやっさん怒ってはったから、おやっさんは無視[#「無視」に傍点]してね」
「話したのはわたしなんだけど……幸ちゃんが怪我をしたときの様子が、それで分かったの。幸ちゃんね、夜中に自分の部屋に籠もってお告げ[#「お告げ」に傍点]をやっていたんだって」
「そのお告げの秘密[#「秘密」に傍点]が解けたんですよ、なあ」
「そうなのよ」
漫才コンビのように、いや、マサトも和《にこ》やかに頷いているので、トリオと化して嬉々としていう。
「ふむ、その謎解きを拝聴[#「拝聴」に傍点]いたしましょうか」
竜介も少しは真剣に聞く気になった。
お告げは歴史部《ふたり》の専門外だが、マサトが絡んでいるなら話は別だ。
「まずね、幸ちゃんがお告げをやっていると、恙[#「恙」に傍点]が出てきたらしいの。ところが、その恙が幸ちゃんの手に噛みつこうとしたんだって」
ま、まずい……その種の話はお子たち[#「お子たち」に傍点]には御法度である。マサトも含めて。
「これは幸ちゃんが話してくれたそのまま[#「そのまま」に傍点]ね。幸ちゃんは、それを恙だと思ったんだけど、どうも違ってたらしいのよ。それで驚いた幸ちゃんは、持っていた何か[#「何か」に傍点]を落としちゃって、それが床に落ちて壊れて、その壊れた何かで、手を怪我しちゃったらしいのね」
「それがつまりですね、前のお母さんの形見やいうとった、お告げの道具[#「道具」に傍点]いうことですよ」
話が別の方向に逸れたので、竜介は、ほっと胸を撫で下ろしてから、
「なるほどね……幸ちゃんのお告げはそういうことだったのか」
独り納得して呟いた。
「そういうことって?」
まな美が尋ねる。
「いや、お告げにもいろいろ種類があるからね。たとえば、振り子[#「振り子」に傍点]……ダウジングの一種だが、これは脳に入っている情報をYES/NOの形で取り出しているんだ。質問に対して、振り子が右回転すればYES、左回転ならばNO。あるいは横に振れればYES、回転すればNOといったふうに」
「あや? どういうことですか?」
「つまり条件づけをして、訓練した結果そうなるわけさ。だから、振り子がどう振れるかは人それぞれで決まりはない。……脳は、意識が知らないことをあれこれと知ってるだろう。その脳情報を取り出す手段はさまざまにあって、そして取り出された情報が、すなわちお告げ[#「お告げ」に傍点]ってことだ。振り子はその最も単純《シンプル》なものね。けど幸ちゃんの場合は、より複雑なものってことさ」
「……なるほどー?」
土門くんは訝しげに頷いた。
「幸ちゃんが怪我をしたときの様子、これが謎を解くヒントの、その一ね――」
まな美が話を戻していう。
「そしてヒントのその二は、幸ちゃんの生まれ変わりの話にあったのよ」
「幸ちゃんは倭迹迹《やまととと》ひももも……いわれんへん。の生まれ変わりやと、自分のことをいうてましたでしょう」
「その話は聞いたけれど……それが?」
「倭迹迹日百襲姫《やまとととひももそひめ》が誰だかは、おにいさん知ってるわよね?」
「孝霊《こうれい》天皇の娘だろう。活躍したのは、その何代か後の崇神《すじん》天皇の時代だけど、三輪山《みわやま》の大物主《おおものぬし》に仕える巫女で、皇位|簒奪《さんだつ》の謀反を予言したり、大物主に祈って疫病を終わらせたりと、その当代きっての、いわゆる超能力者[#「超能力者」に傍点]だよね」
マサトの方をちょっと気遣いながら、竜介は小声でいう。
「その、倭迹迹日百襲姫が誰なのか、おにいさん知ってる?」
まな美は再度同じ質問をする。
「ふむ、誰[#「誰」に傍点]といわれてもー」
少し憮然とした表情で竜介が腕組みしていると、土門くんがまな美の耳元で、
[#ここから1字下げ]
「ひょ、ひょっとしたら」
「そうね、あのこと[#「あのこと」に傍点]知らないのかもしれないわ」
「そやったら、あのことも[#「あのことも」に傍点]知らへんぞう」
「おにいさんから一本とったかも」
「やったね」
[#ここで字下げ終わり]
マサトもいう。
「――きみたち[#「きみたち」に傍点]、人の目の前で聞こえるような内緒話をしないように。何[#「何」に傍点]が一本とったんだ?」
「じゃあ尋ねるけど、倭迹迹日百襲姫のお墓は箸墓《はしはか》よね、その年代はどのくらい?」
「たしか……西暦三〇〇年頃だと、ぼくは記憶しているが」
少し自信なさそうに竜介がいうと、
「や、やっぱりやあ」
土門くんが嬉しそうに囁いた。
「じゃあおにいさん、年輪《ねんりん》年代法って知ってる?」
「ふむ、きみたちは詰め将棋[#「詰め将棋」に傍点]でくるきだな……いちおう知ってるぞ。遺跡から出土した木材の年輪から、その年代が判るというやつだろう」
「その年輪年代法が、最近日本でも確立されて、一年単位で正確に分かるようになったの。それも、紀元前十世紀頃まで溯れるのよ」
「その方法でですね、今、弥生時代の集落に使われとった木材を、片っ端から調べ直してる最中なんですよ」
「そうしたら、近畿地方の弥生時代の年代が、従来考えられていたより、百年以上も後ろに下がってしまったのよ……つまり古くなっちゃったのね」
「弥生時代の次にくるんは、古墳時代ですよね。そやから、それに合わせて古墳時代の始まりも、後ろに下がってしもたんですよ」
「どのくらい古くなったの?」
「ざっと五十年ぐらいは下がりました。それに古墳時代の最初のお墓いうたら、箸墓[#「箸墓」に傍点]ですよね。あれが日本最古の前方後円墳ですから。そやから箸墓の年代は、西暦二五〇年頃ってことに、つい最近変わったんですよ」
「従来あやふやだったのが、そう確定[#「確定」に傍点]したのね」
念を押すようにまな美はいってから、
「その、少し前に亡くなっている、超有名な女性がひとりいるでしょう」
「超有名な『魏志倭人伝《ぎしわじんでん》』に出てきますよう」
ふたりして、大学講師《りゅうすけ》をからかうようにいう。
「ふむ、そこまでいわれなくても分かる[#「分かる」に傍点]。ぼくだって邪馬台国《やまたいこく》論争は一通り読んだことがあるんだ。けど、学生時代の話なので、最近どうなってるかまでは知らない[#「知らない」に傍点]。ぼくは考古学者じゃないのでね」
負け惜しみを竜介はいってから、
「つまり、倭迹迹日百襲姫は卑弥呼《ひみこ》ってことだろう。それは従来からあった説のひとつだけど、箸墓の年代が|二五〇年頃《そういうこと》になると、確かに最有力候補ではあるな」
「卑弥呼は二四七年、もしくは八年に死んでることが、『魏志倭人伝』で明らかですからね」
「それに箸墓って、全国で十一番目、奈良県でも三番目に大きな前方後円墳でしょう。倭迹迹日百襲姫という、たかが巫女のお墓にしては、ちょっと大きすぎるわよね。それにすぐ隣には、崇神天皇の陵墓もあることだし」
「『魏志倭人伝』では、卑弥呼には弟がいて、佐《たす》けて国を治めてるってことになってますが、崇神天皇は実際は弟ちがうんですけど、似たようなもんですからね」
「そして卑弥呼は亡くなり、大いに冢《つか》をつくった。径《けい》は百餘歩で徇葬《じゅんそう》者の奴婢は百餘人……この『魏志倭人伝』のくだりが、つまり箸墓のことよね。卑弥呼が死んで国が乱れたので、つぎには台与《とよ》……十三歳の女の子をたてて王としたでしょう。それがつまり、豊鍬入姫《とよすさいりひめ》ってことよね。崇神天皇の娘で初代斎宮《いつきのみや》だから。それに箸墓は、発掘調査はされてないんだけど、表面から土器の破片が見つかっていて、それはなんと、吉備《きび》系の土器なのよ」
「おにいさんいうてはったでしょう。吉備の国を平定しに出向いた吉備津日子《きびつひこ》の兄弟の話を……その実お姉さまが、すなわち倭迹迹日百襲姫《ひみこ》なんですよ。麗《うるわ》しき姉弟《きょうだい》愛いうことですよねえ」
「ほらね、ぜーんぶ辻褄あうでしょう」
――ふたりの説明を、竜介はおとなしく聞いてから、
「ご丁寧にありがとう。ところで、その倭迹迹日百襲姫=卑弥呼説って、歴史の業界ではどの程度認知されてるの?」
「我[#「我」に傍点]が伝統[#「伝統」に傍点]ある歴史部[#「歴史部」に傍点]では、全面的に認めましたよ。部室は一時期その話題で騒然。教科書はまだですけどね」
まな美とマサトも、大きく首肯《うなず》いた。
「ふむ……」
「だからねおにいさん、邪馬台国=九州説を唱えてる人たちは、今、大慌てなのよ。ついに、卑弥呼は天照大御神だという説を持ち出してきて、対抗してるわよ。その根拠はというと、西暦二四七年と八年に、九州地方にだけ、二回連続して皆既日食が起こっていたらしく、それが天照大御神が天《あま》の岩戸《いわやと》に隠れたという神話になり、天照が隠れたとは、すなわち卑弥呼の死を表してる……て説ね」
「それはチラリと聞いたことがある」
「自分は瞬間、その説に嵌まりかけました。『魏志倭人伝』と年代がぴったし一致するいうんが感動的[#「感動的」に傍点]やったですからねえ」
年譜好きの土門くんとしては当然であろうが。
「そやけど、よくよく考えてみると……よくよく考えなくても、卑弥呼は二四七年もしくは[#「もしくは」に傍点]八年に死んでるわけで、二回死んでるんとちゃいますからね。それに天照さんかて、天の岩戸に二回隠れてるわけちゃいますからね。一見ぴったし合《お》うてるようやねんけど、実は合うてへんのですよ」
「過ぎたるは及ばざるが如し」
マサトがいった。
「……相変わらず、きみたちは騙されないねえ」
苦笑しながら竜介はいってから、
「さて、邪馬台国論争はいいとして、話を元に戻してくれないかな」
歴史部《かれら》を促した。
「つまり、幸ちゃんがいってた生まれ変わりの話は、卑弥呼だというのが、ふたつ目のヒントね」
「それにもう一個のひんと[#「ひんと」に傍点]を足すと、お告げの秘密が自動的に解けますよねえ」
「いや、ひとつ目のヒントで分かってたんだけど、それが?」
「その答えを、おにいさんの口から聞きたいの」
甘えるような口調でまな美はいう。
「じゃ、答えは鏡」
竜介は素っ気なくいう。
「さすがおにいさま[#「さま」に傍点]ですよね、卑弥呼いうたら鏡[#「鏡」に傍点]がつきもんですもんねえ」
わざとらしく煽《おだ》てて土門くんもいう。
「それで了承《オッケイ》だろう。あと、何かあるのか?」
「えー、おにいさん、そんな意地悪してたら評判落とすわよ」
「どこが意地悪なんだ?」
「だって……わたしたちは鏡までは突き止めたんだから、そこから先は、鏡をどうやったらお告げに使えるのか、それはおにいさんが教えてくれないと」
「な、なんて勝手な理屈だ――」
竜介も、ことさら憮然とした表情でいってから、
「教えてあげてもいいが、条件がある。――口外無用[#「口外無用」に傍点]。文化祭はもちろんだけど、他人にはいっさい漏らしてはならない。守れますか?」
妙な条件を出してきた。
「もちろん守れるわよ」
「自分もですう」
「ぼくも」
マサトまでもがいう。
「ふむ……」
教えるとはいったが、アマノメの神の仕組《メカニズム》とバッティングせぬようにと竜介は肝に銘じてから、
「さて、まな美が前ここに来たときに、水晶玉の話をしてやったろう」
「たしか……水晶玉をじーと見続けていると、幻《まぼろし》が見えてくるんでしょう」
「そう。そして、それすなわち、脳の情報を映像として取り出しているわけさ。だからこれもお告げの一種ね。鏡は、その水晶玉と同じような使い方ができるんだ」
「……そうかしら? わたしときどき鏡覗くけど、そんな変なもの見えたことないわよ」
「自分もしょっちゅう[#「しょっちゅう」に傍点]覗きますけど、右に同《おん》なじですよう」
「そうそう見えたら困るだろう。鏡を使って幻視《まぼろし》を見るためには、それなりの奥義《テクニック》が要《い》る。鏡の種類によっても、うまくいったりいかなかったりする。鏡は水晶玉よりも難しいんだ。それにやり方を間違うと、脳に悪影響が出る場合もある――」
「そやったら、どんな鏡がええんですか?」
「一般的な、顔を映すような鏡……これは不向き[#「不向き」に傍点]なんだ。覗いても、顔は映らないような鏡がいい」
「……ぼろっちい鏡いうことですか?」
「いや、きれーに磨かれた鏡でないと駄目さ。だから相応《ふさわ》しいのは、凹面鏡ってことになる。車のバックミラーなどに使われているのは凸面鏡だけど、その反対の鏡ね」
「だったら、顔は大きく映るんじゃないの?」
「その曲面は微妙なんだよ。顔を大きく映す凹面鏡というのは、ごく僅かな凹みであーなるんだが、その凹みがもう少し深いと、大きく映り過ぎて、何が何だか分からなくなるだろう。あるいは、鏡との距離を遠ざけても同様になる。そういった状況で鏡を長々と見続けていると、幻視《まぼろし》が見えてくる場合[#「場合」に傍点]があるんだ。――通常は、見えた絵に対して、それが何であるのか、記憶の図書館《ライブラリー》と照らし合わせをするといった作業を、脳は黙々とやっている。それを認知作業[#「認知作業」に傍点]というんだが、そういった凹面鏡を見ても、この認知作業は行えないだろう。それでいて、意識からは、何かを見よ[#「何かを見よ」に傍点]……といった指令が出続けているわけさ。だから脳としては、やむをえず、記憶の図書館から映像を見繕ってきて、脳の視覚野《スクリーン》に投影してしまう場合[#「場合」に傍点]があるんだ。それが意識に感じられて、すなわち幻視《まぼろし》が見えるわけさ」
「なーるほど……」
土門くんにも、それなりに理解できたようである。
「じゃ、幸ちゃんも、そんな変な鏡を使っていたというの?」
「いや、たぶん顔を映す普通の手鏡だと思う。けど、これは宜《よろ》しくないんだ。使って使えないこともないんだが、宜しくない[#「宜しくない」に傍点]――」
「どうして?」
「たとえば、幼い子供が、人形や縫いぐるみなどを相手に、楽しげに話しかけている……そんな様子を見たことないか? あれは、その子が演技しているわけじゃなくって、その子の脳には、実際に、そう感じられている場合もあるんだ。人形や縫いぐるみの表情が変化し、ときには、自身に喋りかけてくるようにもね」
「えー、ほんまですかあ?」
「ぼくたちだって、幼い頃はやっていたかも知れないんだよ。けど、そういったことは大人になると忘れてしまうんだね。ところが[#「ところが」に傍点]、顔が映るような鏡を使って幻視《まぼろし》を見ようとすると、似たようなことが起こる場合があるんだ。鏡に映っている自分の顔の表情が変わり、話しかけてくるようなね」
「うわー、気色悪い」
土門くんが顔を背けた。
「けど、わたしそんなこと起こったことないわよ」
まな美も少し不安そうにいう。
「あたりまえだ[#「あたりまえだ」に傍点]。――条件が整わないと起こらない。暗闇で、蝋燭の明かりだけで顔を照らし、長々と鏡を見続けていると、そうなる場合がある。いっとくけど、これはやってはいけない方法[#「やってはいけない方法」に傍点]なんだぞ」
竜介は、釘を刺すようにいってから、
「これは、人格分裂を引き起こす作業を、わざとにやってることになるんだ。だから、やってはいけない方法なんだ」
再度念押しをする。
「じゃ、幸ちゃんはその方法を?」
「おそらくはね……」
マサトが見た、双子という絵からいっても、そうであろうか。
竜介がマサトの方を見やると、彼が小さく黙肯《うなず》いていた。もっとも、その後には鏡であることにマサトも気づいていたのであろうが。
「……人格分裂とは、精神分裂病とは違うよ。要するに多重人格のことで、それを自身で制御できる場合には、霊媒士《れいばいし》……昨今の流行《はやり》の言葉でいくとチャネラーだが、つまり職業として成立する。制御できない場合は、多重人格症[#「症」に傍点]という病気の一種になる。意識で制御できるかできないかは紙一重なんだ。だから危険《リスク》が伴うわけさ。いったように、鏡をこの種のことに使うのは難しいんだ」
「ちょっと待って下さいよ。自分たった今[#「たった今」に傍点]気がついたんやけど、卑弥呼いうたら鏡好きで有名ですよね。ひょっとして、卑弥呼さんも、その鏡を使《つこ》てお告げをやってたいうわけですか?」
「当然のことじゃないか。きみたちがその話を持って来たんだろう」
「ええー? ほんまかいなあ[#「ほんまかいなあ」に傍点]?」
土門くんは、まな美とマサトの顔を見やる。
「おにいさん、そんなこと初耳[#「初耳」に傍点]だわよ?」
まな美も、信じられないといった顔でいう。
「まあ、きみたちが知らないのも無理はない。いかなる書物にも、そういったことは言及されてないからね。ちなみに、卑弥呼というのは日《ひ》の巫女か、もしくは姫《ひめ》巫女に、中国側で適当な漢字が当てられたものだと考えられている。が、いずれにしても巫女[#「巫女」に傍点]であるからには、神と交流するのが仕事だろう。すなわち神託[#「神託」に傍点]を得ていたわけさ。じゃ、どういった方法で? 巷《ちまた》の専門書によると、シャーマニズムで分類されるところの脱魂《だっこん》型か、もしくは憑依《ひょうい》型のどちらかであったろうと解説されている。――馬鹿《ばか》」
いきなり竜介はいう。
「何が馬鹿なの?」
「うちらのことちゃいますよね」
土門くんは確認する。
「これはホントに馬鹿な話なんだ。無知を通り越して、愚か者の世界さ。……脱魂型というのは、毒キノコなどを食べて、踊り狂ってバタリと倒れ、前後不覚に陥って暫くしてから目覚め、その間《かん》に見ていた悪夢[#「悪夢」に傍点]を語るといったようなやり方をいう。そして憑依型というのは、字の如くで、何かの霊が憑依[#「憑依」に傍点]したかのように言葉を口走る。ならば卑弥呼も、そういった騒々しくて下品な神託[#「下品な神託」に傍点]をやっていたというのか? そんな馬鹿な……だろう」
「それって、下品なの?」
「……言葉の綾[#「綾」に傍点]。いずれにしても、当時の日本の宗教観は、シャーマニズムすなわち原始宗教などよりも、はるかに進歩していたんだ。いや、進歩というと、また語弊がありそうだから、洗練[#「洗練」に傍点]ということにしておこう……ともかく、すぐ隣に、数千年の歴史を有している中国があって、そこから流れてきていたんだからね」
「へー、どんなふうに流れてきたんですかあ?」
「中国の葛洪《かっこう》という人が、その著書の『抱朴子《ほうぼくし》』の中でこんなふう[#「こんなふう」に傍点]にいっている……昔、入山の道士たちは皆、九寸以上の明鏡を携帯していたから、老獪《ろうかい》なる魑魅魍魎《ちみもうりょう》たちも近づかない。鏡の中を覗けば、その正体を暴けるからである……葛洪は、西暦三〇〇年前後の人で、それ以前の道教の方術《ほうじゅつ》を集大成したのが『抱朴子』ね」
「晋《しん》の時代の話ですねえ。ちなみに、九寸いうんは二十七センチちょっとです」
土門くんは注釈してから、
「そやったら、鏡使ういうんは、中国の道教からきてるんですね」
分かりきったことをいう。
「現代の道教寺院でも、祭壇には鏡[#「鏡」に傍点]が置かれているはずだよ。幻視を見るために今でも使ってるかどうかは別として[#「別として」に傍点]。それに『魏志倭人伝』によると、卑弥呼は鬼道に事《つか》え……だったろう。鬼道というのは、すなわち道教のことじゃないか。鬼《おに》……すなわち死者の霊を扱うのは道教の専売特許のようなもので、紀元前の前漢時代から巫覡術士《ふげきじゅつし》として知られている。男の場合が覡《げき》、女の場合が巫《ふ》ね……巫女《みこ》というのはここからきていて、元来死者の霊と交流する女性のことをいう。覡と巫は、ずばり見鬼者[#「見鬼者」に傍点]といった表現もする。もっとも、現代の日本の神社は、そういうことはきれいさっぱり忘れてしまっているが」
「でも、巫女というのは、神に仕える女性じゃないの?」
「――神も鬼も大差ない。それこそ鬼は外、福は内と同じさ。『抱朴子』には、神に通じようと欲すれば、金《かね》に映して形を分けろ……とも書かれている。金というのは金属製の鏡という意味ね。だからもう、神託の実践法[#「実践法」に傍点]があっさり説かれているといってもいい。……けど、先の九寸以上の鏡[#「九寸以上の鏡」に傍点]というのは、これは理想論が述べられてるんだ。山に籠もろうとしている道教の道士ごときに、そんな大きな鏡は入手できっこないからね」
「大きな鏡の方が、都合がいいの?」
「もちろんさ。視野をできるだけ覆《おお》えた方が、幻視《まぼろし》は生じやすくなる。だから鏡は、大きければ大きいほどいい」
「しかも凹面鏡がいいんでしょう。だったら、ひとつ思い当たるのがあるんだけど……」
躊躇《ためら》いがちにまな美はいう。
「太陽の光を集めて焦点を結ばせ、そこで何かを燃やして、祭事に使うような大きな鏡[#「大きな鏡」に傍点]……太陽神の象徴として……」
「ふむ、それは陽燧《ようすい》と呼ばれる鏡だね。燧《すい》とは火打ち石のことで、つまり太陽の火打ち石ってことだが。中国の古代の陽燧は、どれも十センチ未満の小さなものなんだ。大きな鏡では、今のところ陽燧は発見されていないようだ。もっとも、大きな鏡にも凹面鏡はあるんだよ。が、太陽に当てても焦点は結べない。一般的にレンズというのは、寸法《サイズ》が大きくなれば、曲面を仕上げるのが極端に難しくなる。だから単純にいって、当時の技術では作れないんだね」
「じゃ、あの鏡[#「あの鏡」に傍点]は……」
マサトの方に顔を向けながら、まな美が何やらいい澱んでいると、
「そやったらですね」
土門くんが割り込んでいう。
「卑弥呼は、魏の国から鏡を百面も貰《もろ》てますけど、あれは日本側から事前に申し出があって、そのりくえすと[#「りくえすと」に傍点]に応えたもんやといわれてますよね、すると卑弥呼は、ええ鏡[#「ええ鏡」に傍点]を探しとったいうわけですか?」
「ま、考えられる話だよね。どんな鏡が幻視《まぼろし》を見やすいのか、それは脳理論から導かれる話で、卑弥呼は知る由もない。大量に仕入れて、試していた可能性はある。それと知ってると思うけど、豪族の墓から何十枚の単位で出土する三角縁神獣鏡《さんかくえんしんじゅうきょう》は、これは日本製で、魏から貰った鏡ではないからね」
「それは知ってます。卑弥呼の鏡これくしょん[#「これくしょん」に傍点]は、ぜーんぶ箸墓[#「箸墓」に傍点]に埋まってるはずですよね。歴史部としては」
「それと、もちろん卑弥呼以前にも、何百枚と中国から鏡は伝来している。最も古いのは紀元前二世紀頃の多鈕細文鏡《たちゅうさいもんきょう》で、十面ほど出土しているが、その内の何面かは、幸いなことに凹面鏡[#「凹面鏡」に傍点]なんだ。が、十五センチぐらいの径で大きくはない。ちなみに三角縁神獣鏡は二十センチを超えるが、逆に、ほとんどが凸面鏡だ……この凹凸は、意図して作ってるわけじゃないんだ。どうしてそうなるのかは、鏡の裏[#「裏」に傍点]が関係するらしい」
「え? 裏ですかあ……」
「中国の古代の鏡って、単なる円い鏡だろう。つまり、持つところがないので、裏に紐《ひも》を通す出っ張りがついているんだ。それを鈕《ちゅう》と呼ぶんだが、この鈕が、縁《ふち》よりも出っ張ってる場合には凸面鏡になり、逆に、鈕が縁よりも低い場合には凹面鏡になる例《ケース》が多いようだ……銅鏡は研磨を必要とするよね。その研磨の過程で鏡面が歪んでしまうわけさ」
「磨くときに、ひっくり返すんだ」
マサトがいった。
「お、天目するどい。裏にでっぱりがあったら、座りが悪いもんなあ」
その様子を空想《いめーじ》しながら、土門くんもいう。
「そういうことね。それに紐を通す鈕《ちゅう》には、ある程度の高さは必要だろう。けど、縁を高くする意味はないよね。だから中国の鏡は、凸面鏡になってしまう傾向が強いんだ。ところが、多鈕細文鏡の裏面にはかまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]のような分厚い縁がついている……卑弥呼も、そういった珍しい鏡を使って幻視《まぼろし》を見ていたのでは、と想像されるよね」
「うわー、理論から導かれる、歴史のろまん[#「ろまん」に傍点]ですよねえ」
土門くんが嬉しそうに感想を述べていると、
「おにいさん――」
ちょっと怒ったようにまな美はいう。
「ひとつ尋ねたいことがあるんだけど」
「何を聞きたいかは分かるよ」
即応して竜介はいう。
「天皇家の三種《さんしゅ》の神器《じんぎ》のひとつである、八咫鏡《やたのかがみ》、あれは何かといった質問だろ?」
「その通りだけど――」
「うわ、いきなりやばい[#「やばい」に傍点]話ですねえ」
声を潜めて土門くんはいう。
「いきなり[#「いきなり」に傍点]じゃないわよ。随分前から、おにいさん伏線張ってるもの。だって口外無用[#「口外無用」に傍点]なんていってるところから、もうすでに怪しいじゃない」
「な、なるほそ……」
「ねえ、マサトくん――」
マサトもコクリと頷いた。
「じゃ、答えは歴史部《みなさん》のご想像にお任せするさ」
竜介は嘯いていう。
「えー」
まな美は口を尖らせてから、
「――八咫鏡というのは、天孫降臨《てんそんこうりん》の際に、天照大御神が日子番能邇邇藝命《ひこほのににぎのみこと》に手渡したものでしょう。この鏡は我が御魂《みたま》として、吾が前を拜《いつ》くが如拜《ごといつ》き奉《まつ》れ……といって。だから、天照大御神の、神の依代《よりしろ》じゃないの?」
「じゃあ尋ねるけど、神の依代[#「神の依代」に傍点]とはいったい何なんだ?」
「そんなこと、考えたこともないわ」
拗ねたようにまな美はいった。
――コツ、コツ。
隣の研究室へと通じる内扉[#「内扉」に傍点]がノックされた。そこは通常《いつも》は開け放たれているが、歴史部が来るということで閉めてあったのだ。隣には人がいて、大学の研究をやっている。
竜介が応えると、その内扉を開けて、白衣を着た西園寺静香がお茶を持って現れた。
「あ、気を使ってくれなくてもよかったのに」
「楽しそうなお声が聞こえて……」
静香はソファに座っているマサトを見て、暫し立ち尽くしてから、
「……すいません、てっきりおふたりだと思っていたので」
そういうと、コーヒーの入ったマグカップを二個、そして竜介には日本茶を、応接机《テーブル》の上に置いた。
土門くんは頭を下げながら、
「ありゃ」
小声で囁く。
「あとひとつ、すぐに持ってまいりますわね」
静香は、実際すぐにコーヒーをもうひとり分運んで来て、そして戻って行った。
「へー、そういうことだったの」
竜介の顔色を窺いながら、まな美はいう。
「そういうこと[#「そういうこと」に傍点]……ではないんだよ。彼女は研究室の助手《スタッフ》だからね。あの日は、ぼくが大学を休んだので、急ぎの資料を届けてくれたんだ」
実際そうなので、竜介に後ろめたいところがあるわけではないが。
「……似たよーな感じがするきれーな美女《ひと》、どっかで見たような感じも[#「感じも」に傍点]するんやけどなあ」
小首ならぬ大首を土門くんが傾《かし》げていると、
「じゃ、話を元に戻すわね」
無視してまな美はいう。
「――八咫鏡も、幻を見るために使っていた道具[#「道具」に傍点]だというの?」
「実際に、卑弥呼が神託に使っていた鏡かと問われると、それは何ともいえないが、あの時代において、鏡とはそういうものさ。じゃ、別角度から尋ねるが、天皇家は天照《あまてらす》、すなわち太陽神を信仰しているのだろうか?」
「たぶん……信仰してないけど」
「太陽神ちごうて、地獄神を信仰してますよね」
土門くんが代わりに答えた。
「じゃもうひとつ尋ねるが、卑弥呼は太陽神を信仰していたのだろうか?」
「……鬼道に仕えてましたよね」
やはり土門くんが答える。
「卑弥呼を日《ひ》の巫女だとすると、その当時すでに、本音[#「本音」に傍点]と建前[#「建前」に傍点]の構図が出来上がっていたことにもなるよね。じゃ、話を倭迹迹日百襲姫の方に転じてみると、彼女は三輪山《みわやま》の神である大物主に仕えていたが、その大物主というのはどんな神さまだったのか?」
「どんなといわれても……」
「当時、疫病が起こって人民《たみ》が次々と亡くなった。すると、崇神天皇の夢枕に大物主大神が顯《あら》われて、こは我が御心ぞ……といったわけさ。だから大物主大神も、間違っても太陽神じゃないよね。逆に典型的な、いわゆる祟《たた》り神《がみ》さ。ところが、大物主は大国主と一緒《ごっちゃ》にされてしまって、これが間違いのもと。最近出雲大社の境内から、一メーターを超える柱を三本も束ねていたという遺構が、発見されたろう。かつての出雲大社の本殿は高さ四十八メーターだったという記録が残っていて、古くは、さらに倍はあったという伝承もある。建物を天に届くようにと高くするのは、すなわち太陽神信仰なわけさ」
「そやったら、聖書に出てくるばべる[#「ばべる」に傍点]の塔と同《おん》なじやなあ」
「どこが?」
まな美が尋ねる。
「あれも天に届くようにと、どんどん高くしていったんやろ。そやけど、神の怒りに触れて、どんがらがらがらーん……と壊されるねん。するとやな、周りの人たちの言葉が変わって、通じへんようになってしもたんや。そのばか[#「ばか」に傍点]高い出雲大社も壊れたときに、周りの言葉が変わって、神戸弁やろ、出雲弁やろ、京都弁やろ」
「土門くん、その冗談全然[#「全然」に傍点]面白くないわよ」
「そんな冷たい。せっかく知恵を絞ったいうのに」
「まあ、日ユ同祖論の人たちにはうけ[#「うけ」に傍点]そうな話さ。ところで、高天原《たかまがはら》を追われた須佐之男《すさのお》は、出雲の肥《ひ》の河《かわ》に降りるけど、そのあたりの話は知ってるよね?」
「もちろん、八俣大蛇《やまたのおろち》を退治して奇稲田姫《くしいなだひめ》を救い、その奇稲田姫と結婚するんでしょう」
「より詳しく説明すると……須佐之男が肥の河に降りたったところ、河に箸[#「箸」に傍点]が流れてくるわけさ。つまり人がいるんだな。そして河上に行ってみると、老夫婦がいて嘆き悲しんでいた。その老夫婦の子供が奇稲田姫《くしいなだひめ》だろう。けど、この奇稲田姫は、『古事記』では櫛という漢字を使っていて、櫛名田比賣《くしなだひめ》だよね。なぜ、そんな漢字が当てられているかというと、須佐之男が、彼女を櫛の姿に変えて髪に刺し、八俣大蛇との闘いに赴くからさ。ほら、箸[#「箸」に傍点]と櫛[#「櫛」に傍点]……この特徴あるふたつの言葉で解けるじゃないか」
「箸いうたら、ひょっとしたら箸墓の箸[#「箸」に傍点]ですか。そやけど櫛は知らへんぞう……」
「話したじゃない。倭迹迹日百襲姫が大物主と結婚したとき、朝になって、蛇の姿になって隠れていた場所が、たしかに櫛[#「櫛」に傍点]箱の中だったけど」
「そやったっけ……」
土門くんも日光の参道で聞いたはずであるが。
「つまり、その奇妙な神婚話は、須佐之男と奇稲田姫の物語の焼き直しなんだ。箸がきっかけで始まっているから、箸墓で終わらせているわけさ。だから大物主大神は、すなわち須佐之男ってことだよね」
「でも、倭迹迹日百襲姫って、その箸を使って自害して果てるのよ。そんな形で話を終わらせてしまっていいの?」
「話が終わる[#「終わる」に傍点]、それが鍵[#「鍵」に傍点]なんだよ。倭迹迹日百襲姫の箸墓伝承は『日本書紀』の『崇神紀』にあるよね。かたや、天照大御神に仕える巫女――御杖代《みつえしろ》、もしくは斎宮《いつきのみや》ともいうが、その初代として豊鍬入姫《とよすきいりひめ》を任命したのも、やはり『崇神紀』だよね」
「……遷宮《せんぐう》伝説でしょう。宮中から八咫鏡を持ち出して、それをお祀りするのに相応しい場所を求めて各地を転々と巡行し、その後を継いだ倭姫《やまとひめ》が、最後に落ち着いた場所が伊勢神宮ってことだけど」
「つまりね、古い話の須佐之男=大物主を終わらせ[#「終わらせ」に傍点]て、新たに、天照を奉《たてまつ》る太陽神信仰に移行しようとしているわけさ。……『古事記』と『日本書紀』は、初代|現人神《あらひとがみ》の神武《じんむ》天皇に関しては頁を割いているが、二代から九代にかけては家系図だけで、そして十代の崇神天皇から物語を紡ぎ直しているよね。だから、崇神は大和朝廷の最初の天皇だとも考えられている。つまり『崇神紀』には、国家統一に向けて、国としての宗教の体裁《ていさい》を整える、そういったお題目が課せられていたわけさ。天皇家個人[#「個人」に傍点]の信仰は、とりあえず箸墓に葬《ほうむ》り去って……」
「それって、表向き[#「表向き」に傍点]の話ですよね」
土門くんは控え目に、確認するようにいう。
「うーん当時としては、天皇家もそうしようと真剣[#「真剣」に傍点]に考えたのでは……と思えなくもない。でも結局は、きみたちも知っての通りで、陰陽道華やかなりし頃は泰山府君《たいざんふくん》祭をやり、その後は荼吉尼天に祈って、明治になってからは氷川神社に行幸《おまいり》した。相手は違えぞ信仰の形態は同じだよね。……けど、ひとつの家柄が、ざっと二千年間も信仰を変えていないというのは、それはそれで立派な話だと思うよ」
妙な褒め方を竜介はしてから、
「ま、国の都合で人の信仰を弄《いじ》っても、うまくいった例《ため》しはない。かつてローマ帝国が、まったく同じことをやったんだ。各国を征服するに至って、各国にはそれぞれの神がいるだろう。そんなのいちいち相手にできないので、ソル[#「ソル」に傍点]・インヴィクトス[#「インヴィクトス」に傍点]という宗教を創って統合を図ったことがある。これは日本語に訳すと、不可侵の太陽崇拝[#「不可侵の太陽崇拝」に傍点]……てことになるが、五十年と持たなかった」
「へー、同《おん》なじ雰囲気ですねえ」
「それも驚くことに、二七〇年頃の話で、なんと年代まで同じなんだよ。で、各国の神はいうと、ローマはユピテル、ギリシャはゼウス、ペルシアはミトラ、エジプトはラー、ユダヤはヤハウェの神ね。性格は各々違うんだが、太陽神の範疇ではあるんだ。そして日本の場合も、三輪山の大物主という例外を除いて、国津神《くにつがみ》の大半は、出雲大社に代表されるように、やはり太陽神なんだ。だから天照を奉《た》てると、同様に統合が図れそうだろう。それと豊鍬入姫と倭姫が、八咫鏡を携えて各地を転々とした遷宮伝説も、その各地[#「各地」に傍点]というのは、古くからの太陽祭祀場があった場所なんだ。それらを統合しながら巡行していって、その最終地が伊勢なわけさ」
「うわー、ますます同なじですねえ」
「クリスマス――」
マサトが唐突にいった。
「お、よく知ってるねえ」
竜介は驚いていってから、
そうか……サンタクロースの絵でも見えたんだな、と納得した。
「なんのこっちゃ天目?」
土門くんが、まな美の頭上を通り越して、マサトに問いかける。
「それはだね」
竜介が答える。
「――太陽崇拝においては、一番重要な日というのは冬至の日になるんだ。その日を境に、太陽が死んで、新たに生まれ変わるからね。で、ローマ帝国が|不可侵の太陽崇拝《ソル・インヴィクトス》を強要したもんだから、領土内にある既存の宗教も、その宗教にとっての一番重要な日を、その冬至の日に合わせざるを得なくなるんだ。キリスト教にとって最も重要な日とは、イエスの誕生を祝う降誕祭《こうたんさい》――つまりクリスマスだろう。けど、当時はユリウス暦だったので、グレゴリウス暦に変わって少しずれて、今の十二月二十五日になったわけさ。だから、当人の誕生日とは何の関係もない日に祝うのは、そのローマ帝国の国家神道《ソル・インヴィクトス》が原因なのね」
「へー、天目[#「天目」に傍点]、えーらいこと知ってるなあ」
土門くんが感心していると、
「――でもおにいさん。その八咫鏡が祀られてる伊勢神宮からは、鏡だというのに[#「鏡だというのに」に傍点]、神託らしきものは全然出てこないわよ」
話を本筋に戻してまな美はいう。
「……たしかにね。八咫鏡は、その容器《いれもの》の寸法《サイズ》ぐらいしか判ってないが、内径四十九センチってことだから、それよりも小さいよね。が、大鏡であることには間違いない。一説には陽燧《ようすい》だとも噂されているが、それは説明したように難しい。だから、卑弥呼の鏡コレクションの中から一番立派な鏡をあてがったのでは、とも想像されるよね」
「それって、答えになってないわよ」
まな美は冷たくいい放つ。
「……ごもっとも。その鏡は伊勢神宮には伝わったが、鏡を用いる神託の奥義[#「奥義」に傍点]の方は伝わらなかったか。もしくは、奥義も伝わったが、八咫鏡から得られる神託を――つまり天照大御神の託宣《おことば》を、天皇家が受け入れようとはしなかったか。あるいは、天照というのは天皇の皇祖霊なので、現人神《あらひとがみ》の天皇に何かの異変があった場合にのみ、八咫鏡にその兆候が現れ、だから通常の神託には使えない、そう考えたか、どれかだろうね。でね、鏡を用いてやる神託は、どうやら宇佐神宮[#「宇佐神宮」に傍点]に伝わったらしいんだ」
「わっ、また凄いもん[#「凄いもん」に傍点]が出てきたぞう」
土門くんは流し目で、まな美に目配せをする。
「いや、伝わったというより、宇佐の方が本家の可能性もある。天孫が降臨したのは宮崎県の高千穂《たかちほ》で、宇佐は隣の大分県だからね。その宇佐神宮に伝わる祭事に、ひとつ面白いものがあるんだ。宇佐から西に五十キロほど行ったあたりに、香春岳《かわらだけ》という、標高五百メーターほどの山がある。そこは銅の産地なんだが、そこで採れた銅で神鏡[#「神鏡」に傍点]を作って、その鏡を豊前国《ふぜんのくに》を転々とさせながら、宇佐神宮まで運んで来るんだ。なんと十五日間もかけて……」
「それって、さっきいうてた八咫鏡を転々[#「転々」に傍点]とさせた話と、似てますよねえ」
「どっちが古いかと問われると困るんだが、同種のものであることは間違いないよね。さて、その宇佐に祀られている神はどんな[#「どんな」に傍点]神かというと……鍛冶の翁だが、奇異の瑞相を帯び、体はひとつで頭は八つ、人間を見れば襲いかかって、五人行けば三人を死なせ、十人行けば五人を死なす……と、まっこと恐ろしい神なわけさ」
「おにいさん、それは宇佐八幡の八幡[#「八幡」に傍点]の方の、ヤハタの神の伝承じゃないの?」
「ふむ、あそこは非常にややっこしい神社だから、話を簡略化しようと思ったんだけど、許してはくれないか……」
自嘲ぎみに竜介はいってから、
「確かにその通りで、元来宇佐に祀られていたのはヒメ神[#「メ神」に傍点]だが、そこに、香春岳にいたヤハタの神がやって来て、二神が合わさってしまったというのが真相のようだ。だから、鍛冶の翁というのはヤハタ神系の話で、体はひとつで頭は八つ……これは明らかに八俣大蛇《やまたのおろち》だから、須佐之男、すなわちヒメ神系の話だよね。ヤハタの神も祟り神だったので、習合できたわけさ。そのヤハタの神の御神体[#「御神体」に傍点]が、さっきいったように鏡[#「鏡」に傍点]なんだ。ぼくがいいたいのはここさ。祟り神でありながら、御神体は鏡である――」
「伊勢神宮とは、ちがいますよね」
「円い鏡を、日の神の象徴だとするのは至極納得しやすい話だから、学者も誰も彼も、頭からそう信じ込んでしまっているが、祟り神[#「祟り神」に傍点]と鏡[#「鏡」に傍点]――これが本来の|取り合わせ《カップリング》なわけさ。道教がそうなんだからね。だから宇佐神宮のそれ[#「それ」に傍点]は本来の姿だといえる」
「けど……神社といえば、御神体はだいたいが鏡だわよ。きまって置かれてるじゃない。ねえ、マサトくん」
「あっ、あの銀紙[#「銀紙」に傍点]で作ったような張りぼて[#「張りぼて」に傍点]のことか。あれ何やろかと思とったんやけど……」
土門くんも、どこかの神社で見たのを思い出したようであるが。
「あれはね、明治になってから政府の庇護を受けた伊勢神道《いせしんとう》が強要した結果あーなったのさ。従来、鏡を御神体にしていた神社は少数派なんだよ。……さて、宇佐八幡には神が複数いたが、各々別の氏族が祀っていた。ヤハタの神を担いでたのは辛嶋《からしま》という氏族で、その辛嶋氏は、いったように香春岳《かわらだけ》の辺りから宇佐の地にやって来た。そして鍛治の翁で、つまり鏡の製作者でもある。そしてさらに、宇佐八幡の禰宜《ねぎ》の職は、この辛嶋氏が代々継ぐようにと定められてあったんだ」
「禰宜? 禰宜って宮司《ぐうじ》さんの下でしょう。助手みたいな人じゃないの」
「それは現代の話ね。奈良・平安時代では、禰宜というのは巫女[#「巫女」に傍点]のことなんだ。ま、男性の場合もあったが、宇佐八幡は女性の禰宜、つまり巫女[#「巫女」に傍点]と決まっていた。そして、これも宇佐八幡だけの特例なんだが、その禰宜の方が、宮司よりも位階《くらい》が上なんだ。だから当時の宇佐八幡というのは、巫女を中心に据えていた神社なわけさ。そして、その巫女の家は鏡を作っていた。けれど、日の神を崇めていたわけではない。じゃ、何をやっていたのだろうか……」
竜介は両手を広げ、神のごとき仕草《ポーズ》でいう。
「……鏡の神託ねえ」
半信半疑の顔で、まな美は呟いた。
「ほら、ぼくの家《うち》に来たときに、神々を駈籠《かりこめ》るという『八幡宮宇佐宮御託宣集』の話を、まな美が教えてくれたじゃないか。あの伝承も、そういった観点で解けるよ」
「そういった観点……て?」
「神託の形式[#「形式」に傍点]という観点さ。あれは新羅の国が攻めてきて、でも結局は、日本側が勝ったという話だったよね……そのとき、水甕に神々が駈籠られた経緯《いきさつ》は八幡大菩薩の神託[#「神託」に傍点]として語られていたけど、なんだか奇妙な託宣[#「奇妙な託宣」に傍点]だったよね」
「……童子《こども》が、空に昇って託宣したんだけど」
「それはどういう意味だろうか?」
「えー」
まな美が口を窄《すぼ》めていると、
「……鏡?」
マサトがいった。
「空に昇るいうことは、お日さんに近づくいうことやから、つまり鏡や[#「鏡や」に傍点]いうことですか」
土門くんもいう。
竜介は頷きながら、
「ぼくはその話を聞いた瞬間、真っ先に鏡を連想したね」
「だって、それはおにいさんが知ってる[#「知ってる」に傍点]からだわ」
「……ま、そうかもしれないが。宇佐八幡にしてみれば、神託に鏡を用いる、なんてことは秘中の秘[#「秘中の秘」に傍点]なので、これは精一杯の暗喩だと考えられる。それが、新羅の告祀《コーサ》の甕に勝った……ということは、朝鮮半島の祭壇の水甕に勝ったことにもなる。ほら、単なる神託の形式の話にふり変わったじゃないか」
「えっ、どういうこと?」
まな美だけではなく土門くんも、ぽかーんとした顔をしている。
「あれ……」
アポロン神殿の巫女《ピュチア》のことは、歴史部には話していないことを、竜介は気づいた。
「……たとえばね、対馬《つしま》では、社殿がない神社というのがあって、村はずれの丘の上などに、ただ水甕だけを置いて、それを神の依代[#「神の依代」に傍点]とした例が多々あるんだ。対馬は朝鮮半島のすぐそばだから、そうなるよね。そして水甕というからには、当然、中に水を入れて使うわけだが、その甕に水を張っているときの状態を、水鏡《みずかがみ》ともいう――」
「えっ!」
土門くんが大きな声を発した。
「それも、鏡と同じに使ったというの?」
まな美も驚いていう。
「それ以外に使い道はないさ。だから、あの『御託宣集』の逸話は、鏡が水甕に勝った、そう単純に解けそうだよね。それも力ずくで勝ったわけじゃなく、鏡の方が水甕よりも優れていた、そんな意味でもあるんだ。これは試してみればすぐに解るんだが」
竜介は、実際に試したことがあったようだが、
「……鏡にしても何にしてもそうだけど、道具を使って幻視《まぼろし》を見ようとする場合、かなり長い時間見続けないと、幻視は見えてこないんだ。水鏡の場合は下を覗き込むだろう、その姿勢を長々と保つのはかなり苦しい。その点、鏡は楽で、好きなとこに置けるから、それこそ寝転がっても可能なのさ。だから相応しい鏡……つまり大きな凹面鏡が入手できるならば、甕の水鏡よりも、断然使いやすい」
「じゃあ、朝鮮半島は水甕のままで、どうして鏡に移行しなかったの?」
「ふむ、それは難しい質問だな……」
竜介は腕組みをしながら、
「鏡で幻視《まぼろし》が見える、それを神託に使っていた、なんてことは誰も[#「誰も」に傍点]知らない話だろう。きみたちも初耳[#「初耳」に傍点]のはずだ。現代においてもそうなんだから、当時、鏡の奥義[#「鏡の奥義」に傍点]を知っていたのはごく少数の人に限られる。その限られた人が、いたか、いなかったか、その差ということになるよね……これ、説明しだすときり[#「きり」に傍点]がないんだけど、歴史部のきみたちには特別に教えてあげよう」
もったいつけて竜介はいってから、
「ヤハタの神を祀っていた辛嶋《からしま》氏というのは、韓国の韓という字を当てて韓嶋《からしま》という場合もある。つまり朝鮮半島からの渡来人なんだ」
「えー、だったら鏡を使う奥義は、朝鮮半島にだってあった[#「あった」に傍点]ことになるわよ」
「話はそう単純ではない。辛嶋氏というのは、大きくいって秦《はた》氏の一族なんだ。応神天皇の時代に弓月《ゆづき》の民として、大量の人間が渡来したが、それが秦氏で、日本の文化や宗教に多大なる影響を与えた。知ってると思うが、太秦《うずまさ》の広隆寺《こうりゅうじ》は、その秦氏が創ったものだよね。で、弓月の民はどこから来たかというと、朝鮮半島の百済《くだら》なんだ。百済は、高句麗やら新羅に攻められて大変な状況だったので、難民が発生して、それが弓月の民なわけさ。その難民を率いて日本にやってきた弓月の王は、自分は秦《しん》の始皇帝《しこうてい》の十五世孫だと称した……これはちょっと眉唾もんだが、いずれにしても、秦《はた》氏は百済に住んではいたが、元来は中国人なんだ」
「そやったら、百済は六六〇年に滅んでしもたんやから、その鏡の奥義は朝鮮半島では消えてしもたいうことですか」
「ぼくもそう単純に考えている。それと、中国で、鏡が特別な呪具として扱われ始めたのは、紀元前二〇〇年代のことなんだ。鏡の裏側が、それまでの幾何学的な文様から、竜や玄武《げんぶ》などの四神《ししん》が描かれたような鏡に変化するので、そのことが分かる」
「あ、それちょうど、秦の始皇帝の時代ですよねえ。紀元前二二六年に天下を統一してますから」
「その秦の始皇帝といえば、五岳のひとつである、死者の霊魂が集まる泰山《たいざん》に籠もって」
「――知ってるわよ。封禅《ほうぜん》の儀式でしょう」
「――地獄神に祈ってたやつやあ」
ふたりは口々にいう。
「東岳大帝《とうがくたいてい》」
遅ればせながらマサトもいう。
「その封禅[#「封禅」に傍点]は、天下を統一した帝王にのみ許される儀式だが、まず泰山の麓で礼を尽くしてから、帝王は従者[#「従者」に傍点]をひとりだけ連れて山に籠もったという。けど、そこから先は、関連資料を処分されてしまっているので不明……日本の泰山府君祭も同様に不明だ。が、ぼくが思うに、その従者は道教系の道士で、すなわち見鬼者[#「見鬼者」に傍点]で、鏡を携えていたのではと想像される。つまり、そういった宗教観と鏡の奥義を、秦氏もしくは辛嶋氏が、百済経由で日本に持ち込んだわけさ」
「はー、秦の始皇帝にまで行きつくんか……これも歴史のろまんやなあ」
土門くんが惚《ほう》けた顔で感想を述べていると、
「あ、宇佐八幡のヤハタの神のハタというのも、秦[#「秦」に傍点]氏のハタ?」
まな美が気づいていった。
「ほら、ぜーんぶ繋がったろう」
得意の文言で竜介は締めくくった。
まな美は、暫く考えてからいう。
「仮によ、おにいさんのいうとおり、宇佐八幡が神託に鏡を使っていたとして、そのやり方は今でも残っているの?」
「うーん、神託として出てくるのは、十世紀頃が最後となる。これはね、仏教が……密教が、神仏習合で神社を乗っ取ってしまったのが原因だ。密教では、そういった鏡や水鏡などの道具類を用いなくても、瞑想という技法でもって、情報が得られるからさ。つまり用済みになっちゃったんだね。けど、神託の奥義としては、宇佐と伊勢ぐらいには、鏡の本来の使い方が伝わってると思うよ。もちろん、外部には絶対[#「絶対」に傍点]に漏れてはこないが」
「ふーん」
まな美が腕組みをして、何かを決意したかのように大きく頷いた。
「――駄目[#「駄目」に傍点]だよ。宮司に聞きに行ったりしちゃあ」
竜介は釘を刺す。
「そういうおにいさんこそ、聞きに行かなかったの?」
「まさか[#「まさか」に傍点]。それに尋ねても、教えてくれるはずがないじゃないか」
「じゃ、今日の話は、すべておにいさんの推理ってことよね」
「推理で結構[#「結構」に傍点]。もう詰め将棋のようなものだから、それ以外の答えはないんだ。だから、推理イコール真実ね」
「えー」
まな美が駄々を捏《こ》ねるように体を揺すっていると、
「なんか、自分も確かめに行きたいゆうわく[#「ゆうわく」に傍点]にかられるぞう」
土門くんまでもがいい出した。
「あのね」
竜介は、子供たちに諭して聞かせるように、
「そのへんの小さなお寺とは違って、つっ突くとまずい相手なんだ。それは説明しなくたって解るだろう。こちらが神託の奥義《ひみつ》を知っている、てことを相手に知られること自体、まずい話になる。これはまだ全然[#「全然」に傍点]解禁になっていない話で、今なおその世界で生きている人たちがいるんだ。下手に詮索しようものなら、どんなとばっちりを食らうか、わかったものではない――」
そういう竜介とて、かつてアマノメの神を調べに、三重県桑名郡にある国幣大社《こくへいたいしゃ》・多度神社《たどじんじゃ》に赴き、ひとつ目竜の伝承を根掘り葉掘り尋ねたことがあったのだ。そのとばっちり[#「とばっちり」に傍点]で、今の込み入った状況[#「込み入った状況」に傍点]に置かれていることを、竜介自身、気づいていない。
仕事机《デスク》の上の電話が鳴った。
「……あ、先日はどうも……いやあ、ちょっと気分が悪くなって、先に帰らせていただきました。貧血だと思いますよ。朝から調子悪かったんで……それはそれは、せっかくのお誘いですが、今回は辞退させていただきますよ……いや、もうお鮨も嫌いになりました……まあまあ、そうおっしゃらずに」
――依藤警部補からの電話であった。
竜介は這々《ほうほう》の体《てい》で受話器を置くと、
「ささ、これから先は大人の時間だ」
八つ当たりぎみに歴史部を促す。
「えー、まだ六時にもなってないわよ」
「きみたちはいつも夕食をどこで[#「どこで」に傍点]食べてるんだ?」
[#ここから1字下げ]
「それはおにいさんには内緒よね」
「美味しかったもんなあ」
「今から来る」
[#ここで字下げ終わり]
三人は囁き合いながら、真っ赤な真珠貝のソファから立ち上がった。
「何度もいうけれど、今日ここで聞いた話は外には漏らさないこと。きみたちは廊下に出ると、もう何も覚えてないからね……」
催眠術をかけるように竜介はいった。
※
……が、そんなもの歴史部に効くはずもなく、
「姫、一本とったつもりやったけど、十本ほど返されたぞう」
「でもあの雰囲気だと、隠してることまだいっぱい[#「いっぱい」に傍点]ありそうだわよ。ね、マサトくん」
「神社仏閣たずねるよりも、おにいさんの頭ん中をのぞいた方が早いな」
廊下に出るなり感想戦を始めている。
「あ、そやそや」
土門くんが立ち止まって、隣の研究室の様子を窺った。
その大部屋には既に明かりが灯っていて、それが廊下側に漏れていた。まだ人がいるようである。
土門くんは忍び足で、その扉の前まで行くと、
「さっきの女の人、この名札の人とちがうんか?」
扉の横にかかっている白いプラスチックのそれを指さして、囁いた。
『助手・西園寺静香』と記されてある。
「……やっぱりや。自分どっかで似たような感じの人見たと思とったんやけど、天目の家におる西園寺さんと、名前も一緒やし、雰囲気そっくりやんか」
「あ、そういわれて見れば……」
まな美も、マサトの方を不思議そうな顔で見やる。
「天目[#「天目」に傍点]、知り合いか?」
「ううん」
マサトは伏し目がちに、首を横に振った。
――彼は嘘をつくのは苦手である。
何かの歯車がカチリと音を立てて、動き始めたようである。
※
その数日後のことであるが――。
日光の『恙堂』に、幸子宛で宅配便が送られてきた。
あの新月の夜以来、魂を抜かれたかのように萎《しお》れきったままの幸子に、その包みを手渡しながら、
「おっ、土門さんちの坊[#「坊」に傍点]からだよ」
父親は努《つと》めて朗らかにいう。
「何かしら……」
開けてみると、クッション材で厳重に梱包された、平たい何かが入っていた。
歴史部一同より
こないだのお礼
そう簡素にペン書きされた熨斗《のし》がついている。
幸子がその梱包を解いてみると、柄《え》のついた和鏡が出てきた。
「ほう、なかなか良い品じゃないか。これは江戸期の鏡だぞ」
いち早く鑑定して父親はいう。
「それに、背は南天の文様だ。さすがは坊《ぼん》……洒落てるねえ」
「それって、しゃれてるの?」
「南天は難[#「難」に傍点]を転[#「転」に傍点]じるといってね、厄除けになるんだよ。幸子は最近ろくなことないから、坊が気を利かしてくれたのさ」
――そうではなかった。
あの壊れてしまった母の形見の鏡、それを包んであった更紗の布が南天の絵柄だったのだ。同じ模様であることに幸子は気づいた。
偶然かしら……?
いや、そんなはずはない。その鏡選びにはマサトも一役買っているからだ。そして、その軍資金は、まな美が管理する歴史部の部費から出ている。鏡そのものの品定めは、もちろん玄人《プロ》の土門くんによる。つまり、熨斗どおりのお礼の品なのだ。
幸子は、その柄鏡を手にとって、鏡面を覗き見てみた。
「あれ……顔が映らないわよ」
「どれどれ……あっ、これは凹面鏡だ。もうちょっと顔を近づけないと」
「あ、ほんとだ……」
さらに、竜介の知恵も加わっていたようである。
それから一週間を経ずして、日光市近隣の迷える少年少女たちの間では、以前にも増して威勢のいい幸子の声が響いていた。
「お告げよ――」
[#改ページ]
〈参考文献〉
『秦氏の研究』大和岩雄/大和書房
『異端事典』C・S・クリフトン/三交社
※
『東照宮再発見』高橋晴俊/日光東照宮
『日光パーフェクトガイド』日光観光協会/下野新聞社
『和鏡の文化史』青木豊/刀水書房
『鏡の力 鏡の思い』中村潤子/大巧社
『中国の呪法』澤田瑞穂/平河出版社
『最澄と空海』佐伯有清/吉川弘文館
『密教仏像図典・インドと日本のほとけたち』頼富本宏、下泉全暁/人文書院
『日本仏教史辞典』今泉淑夫/吉川弘文館
『密教辞典・全』佐和隆研/法蔵館
『仏教を彩る女神図典』西上青曜/朱鷺童旦房
『仏像図典』佐和隆研/吉川弘文館
『吉備真備・天平の光と影』高見茂/山陽新聞社
『卑弥呼の謎・年輪の証言』倉橋秀夫/講談社
『卑弥呼の墓』戸矢学/AA出版
『卑弥呼の正体』遠山美都男/洋泉社
『邪馬台国への道』安木美典/梓書院
『大物主神伝承論』阿部眞司/翰林書房
『八幡大神の神託』清輔道生/彩流社
『真言陀羅尼』坂内龍雄/平河出版社
『世界宗教史T、U、V』ミルチア・エリアーデ/筑摩書房
『魔女と魔術の事典』ローズマリー・エレン・グイリー/原童旦房
『ナグ・ハマディ写本』エレーヌ・ペイゲルス/白水社
『グノーシスの神話』大貫隆/岩波書店
『異端カタリ派と転成』原田武/人文書房
『ケルト神話の世界』ヤン・ブレキリアン/中央公論社
『真実のイエス』イアン・ウィルソン/紀伊国屋書店
『日本・ユダヤ封印の古代史』ラビ・M・トケイヤー/徳間書店
『日本・ユダヤ封印の古代史2仏教・景教編』久保有政、ケン・ジョセフ/徳間書店
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底本
徳間書店 TOKUMA NOVELS
神の系譜U 真なる豹
著者 西風隆介《ならいりゅうすけ》
2000年12月31日 初刷
発行者――徳間康快
発行所――徳間書店
[#地付き]2008年5月1日作成 hj
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底本のまま
・慈學大師 慈覺大師 慈覚大師
置き換え文字
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
※教 ※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]「示+夭」、第3水準1-89-21
顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3
箪《※》 ※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
相輪※ ※[#「木へん+棠」、第3水準1-86-14]「木へん+棠」、第3水準1-86-14