神の系譜T 竜の封印
西風隆介
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)西風《ならい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|女の子の友達《ガールフレンド》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)奥[#「奥」に傍点]
-------------------------------------------------------
〈帯〉
この世の全ての謎≠ノ挑む究極のミステリー巨編。
全ての謎は現在《いま》明かされる…!
筒井康隆、高橋克彦、南山宏の三氏が絶対のオススメ!
本書が魅力的な3つの理由
@いままで誰も見たことがなかった全く新しいミステリー!
大ベストセラーになったノンフィクション『神々の指紋』で試みられたフィールドワークがある。
A内容は日本版Xファイル
おもしろさ抜群の内容は、この世の全ての謎に挑もうという姿勢からくる。だが、それをエンターテイメントとして昇華したスタイルはまさに日本版Xファイル。
B推薦は筒井康隆氏、高橋克彦氏、南山宏氏。
滅多なことじゃ推薦しないあの筒井康隆氏、本当の面白さを知る高橋克彦氏、あの『Xファイル』の翻訳者で大のSF好きの南山宏氏が納得ずくの大推薦。
[#改ページ]
〈カバー〉
特異な作品
◎『神の系譜T竜の封印』は、超心理学と伝承に関するマニアックな考察と現代伝奇小説が融合した特異な作品である。この種の話を愛する人にとっては貴重な情報小説であり、知的好奇心を刺激する思弁小説でもある。[#地付き]筒井康隆
飛翔の予感
◎歴史の闇と対峙する気迫に圧倒されながら読み進めた。こんな熱気に触れたのはひさしぶりだ。作中の歴史探偵たちの挑戦はまだまだ続きそうである。物語設定そのものの大からくりもありそうで、当分目が離せない。[#地付き]高橋克彦
破天荒な力業
◎大胆な認知科学仮説を軸として伝奇、推理、SF、ホラー、スリラー、バズラーと、破天荒な新人作家の力業に脱帽。それでいて、神話の太古から科学の現代に至るまで歴史の裏面で凄絶な暗闘を続けてきた謎の系譜を描く一大サーガのほんの先触れ的序章、というのだから恐れ入る。続刊が今から待ち遠しい。[#地付き]南山 宏
◆広い奥座敷の一隅に一段高くなったひな壇のようなものがしつらえてあった。
壇の半分ほどは簾によって隠されていた。その陰に天目マサトが座っていた。
客人からは、マサトの顔や服装は見えないようで、人物のシルエットが辛うじてわかる程度。
「用向きは、何であろうか――」竜蔵の重々しい声が座敷に響きわたった。
客人は「母の形見の品なのです。エメラルドの指輪がございまして……」。
マサトは、手で龍蔵に合図を送った。客人がくどくどいう必要はない。
「指輪は家にありますよ。植木鉢の下です。小さな手が、そこに隠すのが見えたから、子供のイタズラでしょう」
◆筒井、高橋、南山三氏のオススメ、カルトで濃い一大伝承ミステリー。
西風隆介  ならいりゅうすけ
昭和30年、神戸生まれ。鳥取大学卒。
場末のバーのピアノ弾き、丸の内の商社マン、骨董屋の店員……等々を経て物書きに。
ノンフィクションは数多くあるが、小説は本書がデビュー作。
最高の内容と面白さは、筒井康隆、高橋克彦、南山宏の三氏の保証つき。
大変な作家が現れた!
[#改ページ]
書下ろし長篇超伝承ミステリー
神の系譜T 竜の封印
[#地から1字上げ]西風《ならい》隆介
[#地から1字上げ]徳間書店
[#地から1字上げ]TOKUMA NOVELS
[#地から1字上げ]本文図版・タグクリエイト
[#改ページ]
野島淨山寺に安置してある本尊の地藏大菩薩は、人皇第五十六代清和天皇の貞觀三年、天台の高僧慈覺大師、一刀三禮の御作なり。――櫻町天皇の元文六年の頃であつた。地藏大菩薩は普通の僧侶の姿となつて、毎日朝早く諸の定に入るの大誓願で、錫杖を打ち振り乍ら家々の前に立つて、長夜の眠りを覺まさせ布施愛語をもつて民衆を教化されたのである。或る時逆縁にふれて茶園で慈眼を傷つけた血が涙にまじつて流れ出たので、門前の池の水で眼を洗つた。それからというものは、この池に棲んでいた魚も虫も、みな片目になつたという。その後誰言うとなく、この地藏菩薩を片目地藏と名づけ、今でもその仮名を呼んでいる。――後光明天皇の承応二年住僧四代目の州室和尚の頃であつた。地藏尊靈体の背中に釘を打ち鉄の鎖でつないだので遊化をされなくなつた。けれども現報のがれ難く住僧は業病にかゝつて遷化されたということである。其の後中御門天皇の享保十一年十二月九日十代目の住僧日巖和尚はお開帳の折、背中の釘や鎖を見るに忍びず拔きとられた。よつてこの事を記して曰く「當寺地藏尊靈驗不可思議にして、俄に遠近の男女參詣者夥しく、それは如何なるわけかというに、地藏尊背梁骨に鉄鎖あり、日巖叟、田口元右衛門、酒屋佐五兵衛等信心肝に銘じ、かの鉄鎖を拔きて濟度ならしむ。それ以來遠近いよ/\歸崇して、諸願成就するものなり……」と大縁起に明瞭である。
[#地付き](『野島地藏尊淨山寺略縁起』抜粋)
貞觀三年/八六一年、元文六年/一七四一年、承応二年/一六五三年、享保十一年/一七二六年
[#改ページ]
「さわらぬ神に何とやら――か。けど、口どめされると喋りたくなるのが人間というもんだよな」
「女優のスキャンダルか何かかい?」
「おれいちおう政治部の記者だぞ。代議士の坂小路《さかのこうじ》知ってるだろう。社にな、タレこみの電話があったんだ。おれがその電話を受けたんだけどな」
「清潔《クリーン》なイメージが売りの政治家じゃないか、いずれは総理という呼び声もあるし」
「――それがだ、埼玉の片田舎に不正蓄財の屋敷があるからといって、ご親切に住所まで教えてくれるんだよ。そこまでいわれると調べるしかないよなあ。すると確かにその家屋敷は、代議士の母方の兄弟の名義になっていた」
「そんな遠縁でもわかるのか?」
「世はコンピューター時代だよ。たとえば社のホストコンピューターに橋本×太郎とインプットするとだな、祖父母まで溯《さかのぼ》って親類縁者の一覧表が出てくる。もちろん妻の関係も含めてだ。だから苗字が違っていてもすぐにわかる」
「じゃぼくの親戚とかもわかるんだな」
「ばかいえ、政治家だけ――」
都内某所にある静かなだけが取り柄のようなうらぶれたバーのカウンターで、男の愚痴《ぐち》話に同僚とおぼしき男が応じていた。
「――で、どんな屋敷なのかと見に行ってみましたよ。まわりは田圃だらけなんだけど、その所番地のあたりだけ鬱蒼《うっそう》と木が茂っていて、どこに何があるのか見当もつかない。いわゆる森だ。ぐるりを歩いてみると、その森の中へと入っていくような脇道がある。その奥[#「奥」に傍点]にあったねえ、――門が。時代劇に出てくるような木の門だ。瓦屋根はついているし土塀がつながってるし、ただし表札はない。その門の横に勝手口のようなくぐり戸がある。そのくぐり戸がさ、不用心にも開いているんだ。……ま、開いているといっても鍵がかかっていない、押すと開いたというのが正解だけどな。で、ちょいといたずら心を起こしたおれはさ、そこから中に入ってみたわけよ。まわりは人っ子ひとりいないんだから、まあ大丈夫だろうと思ってね。……そうだなあ、十歩かそこいらは歩いたかな、どこに家があるのだろうかと思いながらね。するといきなりだ、後ろからガバーとつかまれて、そのまま男ふたりにズルズルーと門の外まで引きずり出されて、そのとき、その男がなんていったと思う」
「さあ……」
「二度と邸内には立ち入らぬように[#「二度と邸内には立ち入らぬように」に傍点]――だと。そんなぬるい話がどこにある。こっちは正真正銘の不法侵入なんだから、警察呼ぶぞ――とか、泥棒――というのが普通だろう。それが、二度と邸内には、だ。何だこいつら。それにこの男たち、いわゆる警備員じゃないんだ。制服も着ていないしまったくの普通の格好。そのへんで野良仕事でもやっていそうなごく普通のお兄さんたちなんだ。奇妙な話だろう」
「ほう……」
「――その森ん中には何かあるんだ。が、その何かがあるっていうことすら他人には知られたくない。だから事を荒立てたくないし、警備の者だって目立たない格好をしているんだ――と、ここまでのおれの推理には絶対の自信がある。けど、いったい何の秘密を匿《かくま》ってるんだろ。こうなると、本格的に調べるっきゃないよな。まず、近所の家にあたって聞いてみたさ――」
男は、バーボンの水割りで喉を潤《うるお》してから、
「――森ん中住んでんのは老人とガキ。他にも人の出入りはあるようだが、住んでいるのはどうもこのふたりだけ。それもせいぜい一年ぐらい前から。近所つき合いはまったくなく名前も不明。だが、ガキは高校生で、制服を着ていたので私立のM高だと判明。運よく、M高の事務には知り合いがいたので、住所から逆に調べてもらったよ。――ガキの名前は天目《あまのめ》マサト。珍しい名前だろう。天の目と書いてアマノメだからな。そして事務員がいうには、――父母の欄に記載がない。さらに、住民票や戸籍謄本が添付されてなきゃならんのに、そのガキのファイルだけこの種の書類もいっさいなし。――おれが一瞬思ったのは、このマサトというガキは、代議士の妾の子か何かじゃないだろうか。というのも、M高は代議士の親族が経営してっからな……」
「ふーん、けど、タレこみの電話の内容からはずいぶんと脱線してきたね」
「……まあな、うちじゃダメでも夕刊紙《タブロイド》あたりなら買ってくれそうなネタだ。しかし、あの警備の仕方からいって、たかが妾の子ひとりにそこまでするだろうか?……それともうひとつ、そのガキのファイルの備考欄に代理親の名前があった。それが桑名竜蔵、大正の末の生まれとあるから、森の屋敷に住んでいるもうひとりの老人というのが、おそらくこの竜蔵さんだ。その名前の下には別の住所も記されてある。三重県桑名郡――」
「桑名郡の桑名さんか、いかにもって感じだけど」
「いや、一概にデタラメともいいきれん。番地も出ているし電話番号の記載もある。実家かもしれん。そこまでの経緯《いきさつ》を社のデスクに報告しておいて、もちろん不法侵入の件は伏せてだが、おれは新幹線で名古屋に行った」
「――名古屋?」
「ああ、桑名は三重県だけど名古屋のすぐ隣、近鉄に乗ると二十分もかからない。河口堰知ってるだろう。かの悪名高き河口堰がある長良川を越えると、そこが桑名市だ。その北に桑名郡がある。住所がわかっていたので直接訪ねてもいいんだが、その前に、役場によって家族関係を調べてみた。そこの資料によるとだな」
「――他人の戸籍とかを勝手に見れるのか?」
「いや、謄本や抄本をいただくわけじゃない。こっちは中身が知りたいだけだから……社[#「社」に傍点]の名刺があるだろ。黄門様の印籠《いんろう》じゃないが、あら警察手帳のつぎぐらいに威力がある。それもおれのは本社の名刺だからな、わっざわざ東京から取材ですか、ご苦労さまですねと応接に通されて茶ーぐらい出るのがふつうだ……んなことはどっちでもいい」
男は、グラスに三分の一ほど残っていたバーボンをいっきに飲み干して、おかわりを頼んでから、
「――問題は桑名の家だ。思ったとおり、あの住所は竜蔵の実家だった。帰省先とかいう意味じゃなくて文字通りの実家。書類上でも竜蔵はその桑名郡の家に住んでいることになっている。埼玉の例の屋敷には移していない。これは前もってわかっていたことだがな。ちなみに、天目マサトの住民票も埼玉にはない。竜蔵さんは次男だ。兄貴の名前は竜嗣《りゅうじ》。八十を過ぎているが健在で、この竜嗣というのが桑名家の長。そして竜嗣の息子が竜作《りゅうさく》と竜助《りゅうすけ》。さらに竜作の息子が竜磨《りゅうま》と竜生《りゅうせい》――すごいだろう、全員が竜だぜ。それも竜一や竜二みたいな数合わせの名前とは違って、それぞれが意味がある。家長の竜嗣は竜を嗣《つ》ぐ、竜蔵は竜の蔵《くら》……まあ家だな、竜を動物だと考えると檻《おり》だ。そして竜を作って……助けて……磨《みが》いて……生む。桑名の家はまるで竜のブリーダーじゃねえか」
「よくそんなに人の名前を覚えているね……感心するよ」
「感心するなよ、ここは笑う[#「笑う」に傍点]ところだ[#「だ」に傍点]。……これは職業上の慣れさ、おれたち字を確認しながらメモをとるだろ、すると人の名前は二度と忘れない。おまえ日本に政治家が何人いると思うね、す[#「す」に傍点]っげえ数だ。いちいちメモみてたら日が暮れちまう。さらに、都議会議員だあ区議会議員だあ……こいつらがどんな仕事やってんのかおれは知らない。けど、知らなくても名前を聞いて即座に顔と役職が浮かばなきゃ政治部の記者なんてやってられないんだよ……んなことも、どっちでもいい」
おかわりで運ばれてきたバーボンを、男はひと口含んでから、
「――名前もそうだが、桑名の家にはまだ幾つか奇妙な点がある。細かく説明するとだな、家長の竜嗣には妻がいる。つまり婆さんもまだ健在だ。が、このさい婆さんや女たちについては省く。問題は男どもだ。竜蔵には結婚歴はない。竜嗣の長男が竜作で、六十の少し手前。次男が竜助だが、ただし十年前に病気で亡くなっている。そして竜作には、やはり男の子供がふたりいる。長男が竜磨で三十四歳、次男が竜生で三十三歳。竜磨は結婚しているが、竜生は独身だ。ちなみに、四十代なかばで病死した竜助だが、彼も結婚していないんだ。わかるかなあ、共通項が……」
「なにが」
「つまりだ、桑名家は代々男ふたり。そして長男は結婚しているが、次男は結婚していないんだ。判で押したようにな――」
「でも、親と子と孫だからわずか三代だろ、偶然じゃないのか」
「おれもそう思った。気にはなったんで竜嗣の親の代のことも聞いてみたよ。だが、さすがにこれは無理。戸籍は生きている人間を扱うところで、死んだ先祖の家系図まで管理しているわけじゃない。いわゆる鬼籍は神社やお寺さんの管轄だ。だが役場にも古い資料は残っている。すぐには無理だが時間をいただければわかる範囲で、とのことで、後日ファックスが届いたよ。竜嗣のさらに二代前まで溯ることができた。それによると、竜嗣の親の代は男の兄弟は四人、その親の代は五人、もちろん全員が竜の名前だ。――聞きたいか?」
「いや、よしておくよ」
「ありがてえ、さすがのおれも覚えていない。旧漢字のややっこしいのはファックスの紙切れ見たぐらいじゃ覚えきれねえ」
「でも、共通項の法則とやらは、崩れたんじゃないのか」
「――数に関してはな。明治のことだから子供の数が多いのは当然だ。代々長男が家督を継いでいるが、これも何の不思議もない。だが、竜嗣の前二代とも、やはり次男だけが結婚をしていないんだ。その法則だけが五代も続いていることになる。ただし、これはわかった範囲内だけ、つまり明治からこっち側だけでの五世代だ。――これは偶然か?」
「…………」
「さて、いよいよ住所に出ている桑名の家を訪ねてみることにしたよ。ここも立派な屋敷だ。だが埼玉ほどじゃあない。ここは外からでも見えたからな。いかにも旧家って感じの威風堂々の日本建築で、表札もかかっているし、呼び鈴もついている。ベルを押すと出てきたのは、歳《とし》からいっておそらく竜磨か竜生だろう。おれは単刀直入に聞いてみたよ。こちらに住んでおられる竜蔵さんに会ってお尋ねしたいことがある、てね。すると竜の若旦那がおっしゃるには、竜蔵の大叔父は家出したまま音信不通、行方不明でございます、だと」
「…………」
「七十を過ぎた老爺《じじい》が家出とは笑わせてくれるじゃありませんか。まあ、桑名家の対応ぶりは十二分に予想できていたので、早々に退散してご近所にあたってみたさ。竜蔵のことを聞くとあっさりと教えてくれたよ。――十年ちょっと前までは、竜蔵はその桑名の家に住んでいたらしい。つまり家は出ているんだが、ただしその後も、竜蔵の顔はちょくちょく見かけるという。――この桑名家は、江戸時代をはるかに通り越すぐらいの古い家柄らしくて、地元のちょー名士だそうだ。だから竜嗣や竜蔵はもちろんのこと、桑名家の一族たちの顔や名前は、地元の皆さんよーくご存じなんだ」
男は国産煙草《マイルドセブン》に火をつけて、さらにバーボンをひと口あおってから、
「……竜の若旦那にとっては、おれの訪問はまったくの予想外だったんだろうなあ。だから一分でバレるような嘘をついてしまった。これは裏を返すと、意外なほど無防備だったともいえる。つまりおれがいいたいのは、あの異様な警戒ぶりの埼玉の屋敷は、竜蔵や桑名家ではなくて、もうひとりのガキ、天目マサトの方の秘密を匿うためのものなんだ。それなら納得できる」
「……妾の子供かい」
「まさか、……ありゃ竜の子供だ」
「それこそまさかだ」
「いや、竜[#「竜」に傍点]の子とした方がよっぽど辻褄《つじつま》が合う」
「くだらない、そんな御伽噺《おとぎばなし》だれが信じるか」
「くだらない? ――話はまだ終わっていないんだよ。これからが真[#「真」に傍点]打ちなんだから、まあ最後まで聞いてみなって」
男は、醤油皿みたいな小さな灰皿に無造作にタバコをもみ消してから、
「……桑名さんのお仕事について聞いてみたよ。不動産関係つまり地主さんだそうだ。それも大[#「大」に傍点]がつく。そこらじゅうが桑名の土地だらけだって。これはまあ旧家にありがちな話だな。竜嗣は楽隠居、竜作が主にそれをやっている。若旦那ふたりはそれだけじゃヒマをもてあますらしく、ひとりは町の郵便局、ひとりは役所にお勤めだ。一瞬ドキリとしたが、おれが訪ねた役場じゃなくて、市役所の方だそうだ」
「――まともな人たちじゃないか」
「それは考えよう、おれには世をあざむく仮の姿にも見えるけどな……ま、そりゃいいとして。竜蔵の仕事ぶりだけがちょいと異質なんだ。竜蔵が桑名にいたのは十年以上前だが、その住んでいた当時から、とある別の場所に詰めていたそうだ。その桑名の家から見えはしないんだが、歩いて十五分かそこいらの高台にお屋敷があるんだと。ほ[#「ほ」に傍点]ーら出たぞ、また屋敷が――」
「幽霊じゃあるまいし」
「このせちがらい世の中で屋敷の連発だ。おら屋敷評論家になれるや。――道を教わると、絶対に迷わないからという言葉どおり、近くまで行くと見えたよ。石垣が高々[#「高々」に傍点]と積み上げられていて、忍者でもないかぎりちょっと登れそうにない。つまり今度の屋敷は、いわゆる城[#「城」に傍点]だ。坂の途中には頑丈な鉄の扉もあって、先には入れない。今回はおとなしく退散だな。その坂のふもとの家に聞いてみたよ……」
男は、バーボンとともに氷の塊を口にふくむと、ガリンと音をたてて噛んでから、
「……桑名の人たちはここでも有名人、やはり竜蔵はその高台の屋敷に詰めていたそうだ。当時はけっこう人の出入りもあったようで、といっても車だが、でけえ高級車《ベンツ》がぶわーとエンジンをふかせながら坂を上がっていくのを、よく見かけたという。そこはかなり急な坂道なんだ。だが竜蔵は家が近いこともあってか、ほとんど歩きだったらしい。だから誰だかわかる、ていうんだな。他の桑名の人たちの出入りもあるようだが、これは過去形じゃなく現在もだ。桑名家が屋敷の管理を任されている、そんな感じらしい。で、屋敷の持ち主だが、ふもとの人がいうには、おそらく×田さん、自分たちはずーっとそう思ってきたという。あのあたりでその名前といえば、あの一族だよな。――車やさんだ」
「…………」
「いずれにしても庶民が持てるような代物じゃあない。なんたって城だからな実際[#「実際」に傍点]に……。城の一部のような白壁が、下からでも見えるんだよ。天守閣みたいなのはないが、古い城か何かが残っていて、それをそのまま流用した、そういった造り――ていうのが屋敷評論家のおれさまの見立てだ。だが城としては見張り小屋程度のサイズだろう。それでも普通の家と比べりゃ、マンションとゴキブリの家ぐらいの差はあるけどな」
「…………」
「おまえやけに無口だな、ちったあ笑えよ……まあいいか、話の続きだが」
男は、さらにバーボンをぐいっと呷《あお》ってから、
「……当時、竜蔵さん以外でその高台の屋敷に住んでいた人を知らないか、て尋ねると、四十ぐらいの紳士がひとりいたというんだ。その男は、桑名の者ではないという。明らかに、顔が違うんだそうだ。おれは若旦那ひとりしか見ていないから何ともいえんが、桑名の男たちの顔はみな四角か五角形だかで、家長の竜嗣に近所のガキどもがつけた渾名《あだな》は――子泣き老爺《ジジイ》――こらよくわかる。ガキの渾名ほど的確なもんはないからな。だが、その四十男は、背はそれほど高くなくて、細身で、細面《ほそおもて》の顔、いわゆる醤油顔だという。たしかに、子泣き老爺は醤油顔とはいえねえや。そしてその四十男は、遠目に見ると紳士だという。これもたしかに、子泣き老爺はどう見たって紳士じゃあねえ。だが、その紳士は、近くで見ると異様[#「異様」に傍点]に目が鋭くて、目を合わせるのが怖いぐらいだったというんだ――」
「…………」
「名前はわからない。その男がいつからその屋敷に住んでいたのかも、はっきりしないという。だが、屋敷から滅多に出なかったその男が、ある時を境にかなり頻繁に出歩くようになったという。といっても週に一度あるかどうか、それも、決まってお昼どきで、竜蔵とふたりで仲良くお散歩だ。そういったのが二、三年続いて、そしてパタリと途絶えて、消えてしまったという。それが十年ちょっと前の話。その後、竜蔵は何度か見かけたが、男の方は一度も見ていないという」
「…………」
「さあて、ふたりはどこに行ってたんだろうね。意外なほどありきたりの場所だったんだけどな、ヒントはお昼どき――」
「…………」
「何とかいえよ、こんな面白い話そう滅多にあるもんじゃねえぞ。……どっちへ歩いていったか聞くとな、桑名の家とは反対側、さらに奥まった方へと続く道を教えてくれたよ。そんな場所に何かあるのかって聞くと、二十分ほど歩くと蕎麦屋が一軒あるっていうんだ。この城の屋敷だってかなりの奥地だ、さらに奥に行くんだと。最近の蕎麦屋はいかに辺鄙《へんぴ》な場所に店を構えるか、それが流行《はやり》らしいや」
「…………」
「ここは名古屋に近いから、キシメンだと思うだろ。あの平べったい饂飩《うどん》な、だが蕎麦もけっこう食べるそうだ。教えてくれた人もその店には何度か行ったらしいが、値段がちょい高いのと、それにすぐ売り切れてしまうのがネックで、遠慮しているそうだ」
「…………」
「もちろん、おれは行ってみたよ。夕方の四時頃だ。案の定、店は閉まっていた。だが、裏の家の方にまわって何とか店主と話すことができたよ。以前は名古屋市内にあった店とかで、ここに移ってきて十六年だそうだ。竜蔵のことを尋ねたが、知らないという。桑名という名前も知らないという。地元の人じゃないから無理もないな」
「…………」
「けど、年数をちょい数えてみると、竜蔵たちが通っていたのは、蕎麦屋がそこに店を構えてから二、三年、といった計算になる。つまり、店がオープンしたての頃の客に限定してという話で、わかっているかぎりの人相をあれこれと説明したよ。子泣き老爺は今の八十すぎの竜嗣の渾名だが、弟の竜蔵はその当時六十ちょっとだ、まあ大差ないだろう。ちょい若い子泣き老爺ってところだな、それと、醤油顔だが眼光の鋭い紳士。このふたり連れ――」
「…………」
「やはり覚えていたね。顔で、ということじゃなく、普通の客とは雰囲気その他、あれこれと違っていたようだ。それに蕎麦屋の店主がいうには、眼光なんか全然鋭くないという。普通か、どちらかというと弱々しい目の男だったと記憶しているともいう。ま、人の感じ方はさまざまだ。おらゴリラの顔を見ると怖いと思うが、ゴリラはゴリラの顔を見ても、そうは思わないはずだもんな。そう思って、この蕎麦屋の店主の顔を見ると、かなりの怖面《こわおもて》だ。頑固そうな職人顔ってところかな」
「…………」
「店主が覚えていた理由がもうひとつあった。ふたりはネギが大嫌いだったんだと。薬味のネギだ。嫌いなら、食べずに残しておけばいいだろ。だがこのふたりは、ネギをテーブルに持ってくるなといったらしい。そこで店主は怒ったか? ――いやいや、逆に気にいったと。薬味のネギは本来邪道だと店主も思っているから、だそうだ」
「…………」
「ああ、この店は出前なんか一切しないそうだ。こら当然だな。出前ができるような場所じゃない。だから殿様も、蕎麦を食いたきゃ城から下りてくるしかないな」
「…………」
「それともうひとつ、店主ははっきりと覚えていたよ。城の殿様の名前だ。珍しい名前なんで覚えているという。――アマノメといったそうだ」
「…………」
「それも様づけだ。おつきの老人が、こら間違いなく竜蔵のことだが、――アマノメ様、と呼んでいたそうだ」
「…………」
「つまり、埼玉の屋敷にいるガキの、これが親父《おやじ》だ。それ以外の答えはない。誰が考えてもそうなるだろう。……だが、この話にはちょい嘘がある。おれが蕎麦屋の店主に人相をあれこれ説明したとき、実は、店主はわからんといったんだ。で、万が一と思って、アマノメという名前を出してみた。すると覚えていたんだな。あーあのネギ嫌いの客だ、ていうふうに。つまり、話の順番が逆なわけだ。まあちょいと脚色したまでのこと――」
「…………」
「竜蔵は、かつて桑名の城でアマノメの親父に仕え、そして今は、埼玉の屋敷でアマノメの息子とともに暮らしている。天目マサトは今、十七だ。蕎麦屋の年数が十六年。マサトはすでに生まれていたはずだが、城の屋敷にそのガキもいたのかどうかは、おれの調べた範囲ではわからない」
「…………」
「ちなみに、桑名郡の方にも天目マサトの住民票はない。それと、城の屋敷に親父がいたことがわかった直後、役場に電話をいれて、その当時アマノメという苗字の男がその城の住所にいたかどうか聞いてみたが、該当する者はいなかった。マサトの出生届や戸籍その他、天の目と書いてアマノメと呼ぶ名前に関する資料は、その役場には過去まったくないそうだ……ま、別のどこかの場所に戸籍があるんだろうな。住んでいても住民票が移されていないと、追跡のしようがない。……それにしても、アマノメの親父はどこに消えたんだろう?……いったい何者なんだろうかこのふたりは……」
「――話はそれで全部なのか」
「うん?……まだ知っていることは幾つかあるな。たとえば、竜嗣と竜蔵の老爺《じじい》には女の兄妹がいて、現時点で生きているかどうかわからんが、かなりの歳だからな、……その嫁ぎ先の相手は、西園寺《さいおんじ》という。いかにも由緒正しそうな名前だろ」
「――ほかには?」
「あとは、そうだなあ……若旦那のひとり、結婚している方の竜磨には子供が生まれている。男の子だ。もちろん竜の名前で、たしか竜翔《りゅうしょう》といったな。つまり今度は、竜を翔《と》ばすってわけだ。そして賭けてもいいが、もうひとり男の子を作るね。そんときは、おれが名づけ親になってやってもいいや、名前のからくりはわかっているつもりだから。……そうそう、何でみなさん竜の名前なのかって地元の人に聞くとな、そりゃもう桑名さんのお家は竜神様の血筋だからって笑っていたよ。……なにが竜神様だ、だったらおれは雷神様の血筋だ。浅草の生まれだからね」
「ほう、初耳だ」
「嘘にきまってんだろ……んなこと」
「――ほかには?」
「ほかか……、この話には後日談があるんだ。いや、後日じゃなく、当日の続きがある。蕎麦屋を出てからおれは役場に電話をしただろ、その後だ。夕方の五時半ぐらいかな、もう調べるところは調べたし、とりあえず駅まで戻ろうと、……もよりの駅は近鉄養老線の多度《たど》駅っていうんだが、タクシーは拾えそうにないんで、てくてく歩いていたときだ。携帯が鳴ったんで出てみると、社からだ。政治部のデスクの声がする。それも、何が理由だかわからないが、えらい剣幕だ。――即行で戻ってこーい! その日は名古屋に泊まって栄《さかえ》あたりで一杯やろうと思っていたんだが、仕方がない。だが、その後も十分おきぐらいに携帯が鳴る。今どこだ――はい、近鉄に乗ってます。今どこだ――はい、名古屋に着きました。今どこだ――新幹線に乗ります。何時発だ――、何時に東京に着くんだ――、何号車だ――、て具合にさ」
そこまで喋るとガソリン切れをおこしたように男はグラスに残っていたバーボンを飲み干した。すると即座におかわりが運ばれてきて、さんきゅー、と誰にともなく男はいってから、
「……東京に着いて驚いたね。デスクみずから新幹線のプラットホームにお出迎えだ。おれも偉くなったもんだ。そのまま八重洲口から外に連れ出されると、社の車がお待ちかねよ。旗をパタパタさせてるあれな。その車ん中に押し込められて、この件は打ち切りだ[#「この件は打ち切りだ」に傍点]……といわれた。あの埼玉の屋敷は先祖伝来のもので、汚職や賄賂《わいろ》とは何の関係もないとさ。ま、いわれてみれば、てやつよ。代議士の母方の姓を見たとき、おれもそうじゃないかと一瞬は思ったんだ。なんせ松平という苗字だからな。でも社のコンピューターには、この松平が何様かまではさすがに出ていない……」
「――それで全部?」
「ああ、これで全部だ。もうねえや……」
「もうひとつ、大事なことを忘れていないか?」
「なんだよ、大事なことって……」
「おまえ、いわれなかったか。――口外無用だと」
「ああ、車ん中でデスクにいわれた……」
「意味がわかってないんじゃないのか。口外無用というのは、誰にもいうな[#「誰にもいうな」に傍点]ということだ」
「……なんで知ってんだよ、んなこと?」
「口外無用[#「口外無用」に傍点]といえば、口外無用[#「口外無用」に傍点]なんだ――」
「……おとなしく聞いてると思ったら、何をいいだすんだ……」
「おまえ、馘《くび》になるだけじゃすまないよ――」
「え? それも同じセリフを車ん中で聞いたな……」
「悪いことはいわないから、忘れろ[#「忘れろ」に傍点]。飲んですべてを忘れてしまえ」
「……なんだよ、いったい」
「おまえには一切[#「一切」に傍点]関係のない世界なんだから、夢でも見たと思えばいい。これがぼくからの最後[#「最後」に傍点]の忠告だ。いいな、忘れろ――」
[#改ページ]
竜は、東洋においては概《おおむ》ね神獣である。釈迦降誕のおりには難陀《なんだ》と跋難陀《ばなんだ》という兄弟の竜が、清らかな冷たい水と温かい水を虚空より汲みだして濯《そそ》いだそうである。その効果あってのことかどうかは知らないが、釈迦は生まれてすぐに七歩あるき、
「アッゴー、アハム、アスミ、ロッカーサ……」
すなわち、かの有名な「天上天下唯我独尊《てんじょうてんげゆいがどくそん》」といったという。勿論、これは後世の作り話だ。けれどそのサンスクリット語の意味するところは、神[#「神」に傍点]をも超越した……といったことらしいので、おそれいってしまう話である。
また釈迦が『法華経』を説いたときに、その聴衆に八匹の竜が加わっていたことから、難陀と跋難陀に、さらに六竜を加えた八大竜王は釈迦の眷属ともみなされる。
が、釈迦の生まれ故郷であるインドの神話における竜、すなわちナーガにおいては様相がすこし違ってくる。ナーガは地底界《パターラ》に住み竜王の統治下でそれなりの暮らしぶりだったのだが、ガルダという巨鳥に食われてしまうのだ。そして一族は食いつくされそうになったというから、竜《ナーガ》とは意外と脆弱《かよわ》い存在のようである。その竜の窮地を救ったのがジームータバーハナという伝説上の英雄で、その話は七世紀の戯曲『ナーガーナンダ』に紹介されている。
その巨鳥ガルダは八部衆の神のひとつとして仏教に取り入れられて迦楼羅《かるら》、あるいは金翅鳥《こんじちょう》とも呼ばれるが……胸と腕のあたりだけが人間で、鳥の顔と尖《とが》った嘴《くちばし》をもち、鷲のような猛々しい翼か、あるいは金色に輝く美麗な翼をひろげている姿で描かれる……要するに天狗の原型である。
迦楼羅は、もっぱら暴風雨を鎮めるときに祈られる神で、金翅鳥法と呼ばれる密教の修法がそれである。かたや竜はというと、弘法大師空海が北天竺の大雪山《ヒマラヤ》から善如《ぜんにょ》竜王を呼びよせて雨を降らせたという逸話があるように、請雨の神としてつとに知られている――この二神はそういった間柄なのだ。
けれども、西洋における竜《ドラゴン》は性質をがらりと別にする。宝物などの物欲の守護者であり、神にあだなす敵としてキリスト教では魔王《まおう》と同一視されたりもするからだ。また、きまって王女や若い娘などを誑《たぶらか》したり攫《さら》ったりする悪者で、騎士と戦って結局は退治されてしまう悪と暗黒の象徴でもある――十三世紀のドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』は、その竜退治のさいに浴びた返り血で不死身になったという伝説上の英雄・ジークフリートの物語である。しかし彼は、竜の血がかかっていなかった唯一の弱点である背中を突かれて死ぬるのであるが。
ところで、わたしたちに馴染みのある竜といえば、手に何[#「何」に傍点]か掴《つか》んでいる。もしくは、それを掴もうと目を爛々と輝かせて挑みかかっているというのがお定まりの姿である……そう、タマである。竜の左手が掴むというのが正しいようであるが、それにしても、そこまで竜を真剣にさせるタマとはいったい何なのであろうか――。
釈迦の遺骨のことを仏舎利《ぶっしゃり》というが、その仏舎利が変じてなったものに宝珠《ほうじゅ》と呼ばれるタマがある。元来釈迦の骨なのだから極めつきの御利益が期待できそうだが、その宝珠がつまり竜が掴んでいるタマだというのである。そして竜は、宝珠を手に入れると無敵[#「無敵」に傍点]になるともいう。天敵である巨鳥ガルダさえもものともしないそうなのだ。
さて、この日本においても竜[#「竜」に傍点]の物語が進行しつつある。もちろん遥かなる昔から連綿と続いてきている話の、現代におけるひとコマにすぎないのだが。
今は、七月の末のある日である。
その数日前にも、竜に関係してちょっとした出来事が起こっていたようだ。十七歳の娘が、なんと人を呪った[#「呪った」に傍点]のである。
人を呪うにはふさわしい時間帯がある、とその娘は教わっていたようだ。
丑三つ時……
そんな単純なものでもない。呪う相手が眠っている時がよいのだ。けれど、眠っている時ならいつでも可というわけでもない。睡眠中のある特定の時間だけがふさわしいのだ。それは、逢魔《おうま》が時である、と娘は教わった。人が魔に通じている時だから呪いがかけられるのだというのだ。が、
逢魔が時――
それを見定めるのが難しい。暗闇である。都会育ちの娘にとって、山間《やまあい》における夜の暗さがどれほどのものか、その時になって初めて理解できた。
娘は、布団に入って横になっている。その部屋の中では窓のカーテンだけが光りを放っていた。鱗粉を散らしたような仄《ほの》かな明かりである、星の光りがカーテンを照らしているのだろうか、月が出ているのかもしれない、ともかく、夜の空からの微《かす》かな明かりだけが頼りなのだ。
すぐ隣で寝入っている別の娘の顔が、かろうじて判別できる。娘は、その寝顔を凝視し続けていた。逢魔が時は眠っている人の目に現れると教わったからだ。
しかも、逢魔が時は一晩のうちに何度も訪れる。そのすべての時が呪いにふさわしく、そのすべての時を見逃さず呪うのがよいと教わっていた。
部屋は四人で使っている。皆、同じ学校に通う女の子たちである。三人が川の字になり、その頭の上にもう一人が横向きに布団を敷いていた。娘は、川の字の真ん中に陣取っている。呪いを実践するにはそこが一番だと考えたからだ。
左を向いて一人、右を向いて一人、もう一人は布団から出て這っていかなければならないが、他人をまたがずに近づくことができる。できうれば、三人ともに呪いをかけたいと娘は考えていた。
彼女は、べつに恨みがあったわけではないのだ。ほんの軽い気持ちだったのである。
「……人殺しの呪いじゃないし、病気にする呪いでもない。わたしの立場《ランク》が上がるだけだってそう教わったから、試してみただけなんです。あんなことになるなんて……」
後日、涙ながらに警察に語った彼女の言葉に、嘘はなかったようである。
娘は、闇のなかで目を凝らしていた。どれほどの時間そうしていたのだろうか。他の娘たちが眠りについてから一時間、あるいはそれ以上か――。
逢魔が時の兆候《サイン》が現れた。それは教えられていたとおりのものであった。
娘は、その寝入っている女性の方ににじり寄っていった。そして耳元に口を近づけると、小さな声で呪文を発した。
――竜を殺せ。
それが教えられていた呪いの文言である。娘は、なおも囁いた。
――竜を殺せ。
娘は一晩中、囁き続けた。
――竜を殺せ。竜を殺せ。竜を殺せ……
今は、七月の末のある日である。過去から連綿と続いてきているこの竜の物語は、もちろん未来へも続くようで……たとえば、秋のある日の様子をのぞいてみるとまた違った竜の姿が見えてくる。埼玉の例の屋敷に来客があったようである。……
庭に面してあるだだっ広い奥座敷で、上等そうなスーツに身を包んだ初老の紳士が、畳のうえに直に正座していた。ひどくかしこまった様子である。
その部屋の一隅には一段高くなったひな壇のようなものが設《しつら》えられてあり、茶の和服を着た老人がひとり鎮座していた。――桑名竜蔵である。
壇の半分ほどは簾《すだれ》によって隠されている。その簾の陰に天目マサトが座っていた。彼はまったくの普段着だが、客人からは、マサトの顔や服装は見えないようで、人物のシルエットが辛うじてわかる程度である。
「用向きは、何であろうか――」
竜蔵の重々しい声が座敷に響きわたった。その声に、マサトの方が身を竦《すく》めてしまっていた。普段の竜蔵が発する和《にこ》やかな声とは、あまりにも違っていたからだ。
「アマノメの御《おん》神さまにお目通りがかないましょうとは、わたくし、この上なき幸せでございます」
客人は、額を座敷にこすりつけんばかりに頭《こうべ》を垂れていった。
「――はよう、用向きを申されよ」
煩わしそうに竜蔵はうながした。客人の土下座などまるで眼中にないといった様子である。
「……お言葉に甘えまして」
顔をあげると、客人は語り始めた。
「母の形見の品なのでございますが、エメラルドの指輪がございまして……」
マサトは、簾ごしに、客人の顔のあたりを凝視していた。マサトには絵はすでに見えていた。大まかな筋もわかっていた。だが、別の絵でも浮かんできやしないかと、意識を集中させていた。
「……いえ、母はその母よりもらったものなので、代々伝わる宝と申すようなものでございますが、古めかしい金の台座に四角い石の指輪でございまして、家の者がいうには、ひと月ほど前まではいつもの場所にあったのをたしかに見たと……」
マサトは、手で竜蔵に合図を送った。客人がくどくどと語るいいわけめいた説明など、どうでもよい。必要な絵はすべて見えたという確信がマサトにはあったので、それを竜蔵に伝えたかったのだ。
竜蔵の方から顔を近づけてきた。マサトは小声でいう。
「指輪は家にありますよ。植木鉢の下です。白っぽい艶やかな鉢で、渦巻きのような模様が青色の線で入っています。小さな手が、そこに隠すのが見えたから、子供のイタズラでしょうね」
竜蔵は小さく頷《うなず》いた。
「……なにとぞ、なにとぞ、アマノメの御神さまのお力で、母の形見の指輪を」
客人の言葉を遮り、竜蔵は声を荒げていった。
「アマノメの神は、お怒りじゃ[#「お怒りじゃ」に傍点]――」
え、自分は怒ってなんかいないよ、マサトはうろたえた。
「――アマノメの神を、試される[#「試される」に傍点]おつもりか!」
さらに竜蔵はたたみかけるように言葉を発する。
「いえ、そのような大それたことを、滅相もございません……」
客人は、またもや額を座敷にこすりつけてしまった。
「アマノメの神はすべて[#「すべて」に傍点]お見通しである。――だが、よかろう、一度きりじゃ。そのような瑣末な用向きにアマノメの神が答えるのは一度[#「一度」に傍点]きりである。こころして聞かれるがよい――」
「ははー」
客人はその姿勢のままで聴く。
「天目の神が申されるには、――指輪は家にある。部屋に置かれている鉢植えの下じゃ。唐草の瀬戸鉢があろう、そこを見てみるがよかろう」
「ははー」
客人がなおも土下座を続けていると、
「――何をしておる、はようせんか」
竜蔵が声の調子《トーン》を落としていった。
「……と、申されますと?」
客人は、おずおずと顔をあげた。
「ほれ、携帯電話というものが、あろうに……持っておるのではないか? 電話して確かめるとよいではないか」
「この場で……でございますか?」
「アマノメの神は、顛末《てんまつ》を知りたいとご所望である」
ちょっと面食らったという様子ではあったが、客人はその場で電話をかけて家の者に用事をいいつけた。そのままで電話を切らずにいると、ものの三十秒ほどで客人の顔色がパッとはなやいだ。
「――見つかりましたそうでございます。お言葉のとおり鉢の下から出てまいりました。何とお礼を申してよいものやら」
客人は、深々と頭を垂れた。
「なによりである」
竜蔵は腕組みをしながら、いった。
「……子供が隠した話は?」
竜蔵にだけ聞こえるようにマサトは小声でいう。竜蔵はかすかに首を横に振った。それはいわずともよいのです、竜蔵はそういいたげである。……
桑名竜蔵もいうように、このような瑣末な用向きにアマノメの神が駆り出されることは普通ない。これはわけあってのことのようである。
しかし実際のところは、その神の能力はまだ露《あらわ》れていないのだ。すなわち竜は宝珠を掴んでいない。マサトにはまだ何の力もない。本編の物語は――ここから始まる。
マサトは、普段とはちがう朝を迎えていた。マサトが通う私立高校が夏休みに入ってから一週間ほどが経った、七月の末のある日のことである。
竜蔵が家にいないのだ。
「――物忌《ものい》みとあいなりました。名古屋の親戚の家にでも爺《じい》は籠もろうかと存じます。ですから四、五日留守にいたしまするので……」
昨日の夕方、竜蔵がそう突然いい出した。そして最終の新幹線に乗るといって、夜の八時すぎには家を出てしまったのだ。
物忌み――。
マサトはその言葉の意味を、とくに竜蔵に尋ねたことはない。竜蔵はちょくちょく使うからだ。物忌みでございまして爺は先に休ませていただきます、といったふうに。
――体調が宜しくないとか、ちょっとした不都合があるとか、そんな軽い意味だろうとマサトは思っている。
だが、今回は様子がちがう。
竜蔵が名古屋の親戚を訪ねるのは珍しいことではない。だが、長くてもせいぜい一泊であった。竜蔵が四、五日も続けて家を空けるというのは、マサトの記憶にあるかぎりでは初めてのことなのだ。
よほど特別な〈物忌み〉なのだろう。けれど、それがどんな意味なのか尋ねても、おそらく竜蔵は答えてくれない。
「お気遣いいただかなくともよろしゅうございますのに……なあに、爺の気紛れでございますから」
などと、適当にはぐらかされてしまうのが落ちである。
この種のことにはマサトはすっかり慣れっこになってしまっている。――日常の変更は、ふってわいたように突然いいわたされ、そして間髪を入れずに実行に移される。マサトが抵抗したとしても結果は同じだ。ジイの言葉どおりにしかことは運ばないし、そのわけをきいても無意味である。マサトが納得できるような説明がジイからあった例しはない。その最たるものが、――引っ越しだ。
マサトが学校から帰宅した直後とか、あるいは学校が休みの日などに、決まって竜蔵が切り出す。
「――マサト様。突然ではございまするが、別の家に移り住むこととあいなりました」
そしてその日の内か、あるいは翌日の午前中にはもう移動である。だから、クラスでの別れの挨拶などマサトは一度もしたことがない。
そのような夜逃げ同然ともいえる引っ越しを、マサトは過去に何度となく味わっている。自分が何歳のときには、どの地方のどんな家に住んでいたのか、その記憶をたどるのも億劫《おっくう》なぐらい頻繁に――。
そのわけをきいても、やはり無意味である。
「――マサト様、そのようなお気遣いはご無用でございますよ。いついかなる地にも爺がご一緒いたすではありませぬか……なあに、万事うまくいきまするよ」
たしかに、引っ越しそのものはジイのいうとおりで、――万事うまくいく。マサトは勉強の道具類をバッグに詰めるだけ、面倒なことなど何ひとつとしてない。
つぎの家に到着すると、すべてのものが整っている。家具や調度品はその家にふさわしいものが備わっているし、新しい服に新しい布団、身のまわりの小物類にいたるまで、すべて準備万端用意されているからだ。着いた瞬間から、何不自由なく日常の生活を送ることができる。
だが、学校だけは別である。転校生として、また一からやり直さなければならない。
中学生の頃からだろうか。学校ではまったくといっていいほど、マサトは口をきかなくなってしまっていた。
理由は幾つかある。そもそもマサトは、その年頃にふさわしい言葉をほとんど喋れないのである。
日々生活を共にしているのは七十をすぎた老人ひとりだけ――竜蔵があやつる、古風で仰々しい日本語に、マサトはすっかり馴染んでしまっている。そのうえ小刻みに各地を転々としているので、それが方言であれ、何であれ、いわゆる子供の言葉をマスターする機会を逸してしまっているのだ。
そしてもうひとつの理由は、これが直接の原因のようだが、クラスの誰も、マサトに話しかけてこないからである。小学生のころにはなかったことだ。が、中学生あたりからは、どの学校に転校しても申し合わせたように無視《しかと》のいじめに遭うのだ。
けど、これはマサトにとってはかえって好都合であったといえる。話しかけられないのだから、喋る必要はない。竜蔵ゆずりの妙な日本語がつい出てしまって墓穴を掘るより、いっそのこと何も喋らない方が事態のさらなる悪化は、おそらく避けることができる。マサトは、十代の前半にて学校における処世術をひとつ身につけたようである。
無口なマサト――。
これに勝るものはない。クラスで親しくしてもらう必要などもない。いずれ早晩、また、引っ越しなのであるから。
マサトが現在通っている私立M高は、もし新学期が始まる九月まで彼がいたとすると、転校してから丸一年になる。ひとつ所にいる月日としては、マサトにとっては長い方だ。
このM高に通い始めてから、マサトにある変化がおきた。学校で友人ができたのだ。それも、|女の子の友達《ガールフレンド》である。
マサトの方から声をかけたわけでは、勿論ない。
高校生になってさらにいっそう無口なマサト――の術[#「術」に傍点]には磨きがかかってしまっている。だが、そんなマサトを拾ってくれた奇特な娘もいるのだ――。
ともかく、友人ができたことは、マサトにとっては一大変革であったといえる。
竜蔵にそのことを話すと、
「――マサト様、それはよろしゅうございましたね」
手放しの喜びようであった。
そして何カ月か後に、その娘がこの家を訪ねたがっていることを話すと、
「いつでもようございますよ、ぜひお招きなさいませ。この爺めが、精一杯のおもてなしをしてさしあげますから」
諸手を挙げての大歓迎であった。
「はて……そのお嬢さまのお名前を、爺は存じておりましたでしょうか」
その奇特な娘は、――麻生まな美といい、マサトが転校したときに同じクラスにいた生徒である。
ところが、マサトがその彼女の名前を告げると、瞬間、竜蔵の顔色が変わった。マサトはそれを見逃さなかった。ジイは明らかにその名前を知っている様子なのだ。
そして今年の四月に、その彼女が家を訪ねてきた。竜蔵は、言葉どおりに、精一杯のもてなしをしてくれたようである。裏庭のあたりを連れ歩き、趣味にしている草花の講釈をたれたのである。
「うわあ、きれいなお花畑」
それはちと女々《めめ》しすぎる、とでも思ったのか、
「――麻生さま。ガーデニングといってくださりませぬか」
ジイはときたま、法外に洒落《しゃれ》たことをいう。
「ガーデニングは英国が発祥の地でございましてな、日本でいう庭いじりとは、少うしばかり考え方がちごうております」
「イギリス……? けど、これ埼玉でもよく見かける花ですよね。パンジーを小さくしたようなの」
「いや、イギリスの花かどうかは存じませぬが、苗はその辺の花屋で買うております。……それは、冬のなごりでございますよ。ビオラともうす名前ですが、パンジーを交配させて花を小さくしたそうです。秋に植えまして、冬の寒空の下でもけなげ[#「けなげ」に傍点]に咲き続けてくれました。今が最後の見どころですかな、梅雨に入ると乱れてしまいますから」
「……乱れる?」
「花は咲かせるのでございまするが、草丈が伸びすぎてしまい、美しさにちと欠けるのですよ」
「美しさに欠けてくると、どうされるのかしら?」
「――ひっこ抜いて、捨てまする」
「思ったとおりだわ。じゃ、おじさま、このラッパみたいなお花はどうなるの?」
「それはペチュニアの苗ですな。こちらは夏の花でして、気温の上昇とともに枝をずんずんと伸ばしてまいります」
「――わかったわおじさま」
まな美はいたずらっぽくいう。
「ガーデニングの秘密がわかった。四季折々の花をいかにうまく咲かせるか、それも、花のない時期がないようにと前もって計画しつつ――そういったことなんでしょう」
「まさに、おっしゃるとおりでございまするよ。いやあ、まな美さまは実に勘がいい」
「それに、――色の配色とかも当然考えてらっしゃるんでしょう」
「はい、図星でございます」
「――色だけじゃないわね。花の形や、大きさのバランスも見なくちゃいけないし、それに葉っぱの方も同じだわ、形や大きさがちがうから」
「はい、今は若葉でございますから淡いみどりですが、夏になるといっそう変化が出てまいります」
「花を空間にどう配置させようか、それぞれの草がどの程度に育つのかって未来を予測するんだ……」
「はい、それが楽しいのでございまするよ」
「知識もいるしセンスも必要、もう総合芸術だわね。おじさまは、花の絵かきさんだわ」
「いやあ、そのようなお褒めの言葉、爺は生まれてこのかた、ついぞ耳にしたことがありませぬ、いやあ……」
と、ふたりは何だかすっかり打ち解けてしまっている。マサトは横でふんふんと聞いているだけで、いったい誰の客なのかわからない。
けれども、彼女の名前を告げたときの竜蔵の様子は、気にかかる。よりにもよってその娘とは……と、ジイはたしかにそんな顔をしたのだ。だが、彼女と接しているときの竜蔵は、いつにも増して和《にこ》やかなジイであった。あれはマサトの思い過ごしだったのだろうか。もしそうなら、なによりなのだが――とマサトは思う。
彼女は、その後も何度か家に訪ねて来ている。が、お茶を一杯飲んで帰るといった程度のもので、長居をしたことはない。実は、何を隠そう今日の午後からも彼女が来ることになっているのだ。
竜蔵が不在だからその隙を狙って、といったような魂胆ではまったくない。これは夏休みに入る前、だから一週間以上も前にかわした約束で、勿論のことジイにも告げてある。物忌みだからと突然家から出て行ってしまったのは竜蔵の方なのだ。
それに、彼女だけじゃなく、もうひとり男子の友人も訪ねてくる。三人で部活の打ち合わせをやろうという約束だからだ。
そのこととは別に、マサトは今、きわめつきのやっかいな問題をひとつ抱えている。
竜蔵が、代わりの者[#「代わりの者」に傍点]をおいていったのだ。
「四、五日留守にいたしまするので……代わりの者といっては何ですが、マサト様の身のまわりのお世話をさせていただく者を、お連れもうしました」
その言葉を待っていたかのように、襖を開けて、その代わりの者[#「代わりの者」に傍点]が部屋に入ってきた。
「西園寺希美佳《さいおんじきみか》ともうします」
座敷に手をついて深々とお辞儀をする。
「――桑名さまに比べ、何事にもいたりませんかと存じますが、何なりとおいいつけください」
その女性は、竜蔵の遠縁にあたる家の娘さんだそうで、歳は二十一、大学生だが夏休みで暇だったのでお手伝いに来てもらったと、ジイはごくごく簡素な説明をする。
そして三人で揃って夕食をいただくと、その直後にジイは家を出てしまったのだ。
どうしろというのだろう?
マサトとしては、身の処しようがないではないか。二十歳《はたち》そこそこの女性に対してどう振る舞ってよいものか、皆目見当がつかない。代わりの者――といわれても、七十過ぎの老人《ジイ》とは、あまりにも違いすぎる。
だからマサトは朝[#「朝」に傍点]から大変なのだ。夏休みだというのに、かつてないほどの早起きをし、顔を洗って歯を磨いて、寝癖の髪をドライヤーで直し、パジャマから着替えて自分の部屋に籠もっている。
そうこうしていると、八時すぎに部屋の扉をノックする音があった。
「希美佳です――」
鈴の音のような声である。
「――マサト様、お目覚めでございますか。朝御飯の支度ができております。いつでもおこしになってください」
マサトは、いつになく間延びした返事をかえしてしまっていた。
「は……い」
[#改ページ]
まな美も朝から大変であった。少し寝坊をしてしまった彼女は洗面所に直行して洗顔兼用の朝シャンを済ませると、頭にバスタオルをぐるぐる……と巻き付けたままで食堂《ダイニング》にいき、冷蔵庫の中をあさって昨日の夕食の残り物をちょっとつまんで、それとふた口ほどオレンジジュースを飲んでから、洗面所に戻って髪を乾かしていた。ほぼストレートの彼女の髪は、肩に届くか届かないかぐらいの長さだから、それほどの手間はかからない――あとは、首から上を乳液なりで潤せば完成[#「完成」に傍点]である。口紅も何も、彼女は化粧《メイク》のたぐいは一切しないからだ。
それでも、今日は天目くんの家を訪ねる約束の日なので、朝から浮かれぎみの彼女は、精一杯のおしゃれをと気張っているつもり。
マサトくんの顔を見るのはほぼ一週間ぶりだし、それに桑名の小父様ならではの面白い話が聞けるかもしれない……それはそれで楽しみなのだ。が、まな美の関心事はまた別のところにもあった。彼女は、マサトが住んでいる古色蒼然《こしょくそうぜん》とした屋敷と、それをとりまいている環境がいたく[#「いたく」に傍点]お気に入りなのだ。
――鎮守の森。
まな美はひそかにそう呼んでいる。
もっとも、今年の春に彼女が初めてマサトの家を訪ねたさいに、
「……まるで鎮守の森なのよ。その森の中に大きな木の門があって、その門をくぐってさらに歩かないと家は見えてこないの。ふるーい日本の家で、母屋と離れがあるんだけど、渡り廊下でつながってるのね。天目くんは離れに住んでいて、わたしが行ったら、そこの雨戸をぜーんぶ開けてくれたの。そしたら見渡すかぎりすべてが庭、――そこが鎮守の森なのよ、塀なんかぜんぜん見えないんだから。すごく奇麗にお花を咲かせている場所もあって、そこから家の方を見ると、雨戸を開けてくれた部屋は素通しになっていて、能舞台のようにも見えるのよ」
と、帰ってくるなり、興奮さめやらぬといった感じで喋ってはいるが、鎮守の森も何もかも含めて、麻生家の家人――といっても父《パパ》と母《ママ》だけだが――の反応は冷ややかであった。
いかに、駅から歩くと三十分はかかる、とはいえ、埼玉県の春日部市にそんな法外なお屋敷があろうとは、想像しろといっても無理がある。
いや、マンションのローンにすら汲々としている世の大人たちにとっては、むしろ腹が立つ、が正直な反応だろう。
まな美は、屋敷の大きさや贅沢さに惹かれているわけではないのだ。年代を経てきた家が持つ独特の雰囲気、それも匠《たくみ》が心血を注いだ造作物にのみ感じられる、いわゆる古物に宿る霊のようなものに魅了されているのである。
去年のことだが、夏休みが明けた直後に、まな美のクラスに転入してきたのが天目マサトだった。いわば一年の二学期からの新入生、――それもたったひとりの。
私立M高は、地元選出の代議士が実質のオーナーとして知られ、関東地区でも有数の進学校のひとつに数えられる名門だ。そこに編入してくるのだから、成績はもちろんのこと、何かよほどの事情があると考えるのが普通である。
「大臣の息子?」
「宮様のご親戚かしら……」
これはまだいい方で、
「寄付金を一億積んだそうよ」
「議員に賄賂を払ったんだ」
クラス中がこの種の陰口でもりあがった。あげく、理事長の妾の子だという根も葉もない噂までが流される。わざとマサトに聞こえるように囁かれたりもする。が、マサトは押し黙ったままである。
そんなおり、孤立するマサトに助け舟を出したのがまな美であったのだ。
ひそひそ話で戯《ざ》れあっているクラスメイトたちを尻目に、
「――天目くん、部活まだ決めてないんでしょう。だったら歴史部に入らない。あそこだとキリストやお釈迦様の悪口だって正々堂々いえるわよ」
と、まな美が毅然とした態度でいい放ったのだ。その瞬間、教室中からざわめきが消えた。
恫喝《どうかつ》ともとれる彼女のこの発言があって以降、マサトへの陰口はなりをひそめた。少なくともまな美の耳には聞こえてこない。彼女を敵に廻せるほどの強者《つわもの》など、M高にはいそうにもない――。
その当時(今でもそうだが)まな美はクラス中の、いや学校中の羨望の的であった。一学期を終えた時点での成績、学年トップが麻生まな美だったからである。それも、期末のペーパーテストに関しては全教科満点という快挙で――。
「家には、その家なりの事情というのがあるものなのよね。他人にとやかく詮索される筋合いのものじゃないわよね」
と、まな美はマサトにいったことがある。十七の娘にしてそういわしめるぐらいだから、その家なりの事情というのが、やはり麻生家にもある。
まな美には、親子ほど年が離れた兄貴がいるのだ。が、その兄貴とまな美の母親とは、大学時代のクラスメイトなのである……?
難しい話ではない。要するに、父親が息子のガールフレンドを奪ったのだ。
「――だからわたしが生まれたの、横恋慕もしてみるものでしょう。でも、横恋慕[#「横恋慕」に傍点]って漢字で書くとすごい雰囲気よ……なんだか猫みたい……」
いっぽう、恋人を寝取られた側の兄貴はというと、色恋沙汰に関しては潔く身を引いたらしい。ただし父の書斎を入念にひっかき廻したあげく、父名義の預金口座をすっかり空にして家を出ていった。それっきり音沙汰はない。そして兄貴の母親はどうしたか……もちろん相応の慰謝料をふんだくって離婚をした。だが、夫が女子大生と浮気する以前から、この夫婦関係は崩壊していたのだ。
首から上を完成させたまな美は、クローゼットの中をあさっていた。
「――見つけた!」
麻の袖無し《ノースリーブ》のワンピースをつかみ出した。それはオフホワイトの地に裾のところだけ斜めに百合の花がプリントされている。
まな美は、鏡の前であてがってみた。――派手ではない。昨今の十七の娘にはむしろ地味すぎるぐらいのデザインだ。
天目くんの家にはこれがぴったし!
まな美は、そのワンピースを胸にあてがったまま居間に駆けていった。
「おかあさん、この服貸して……」
母親の紀子は、娘が抱えてきたそのワンピースを見て、一瞬、言葉に詰まった。
「――まな美、そんなものどこから出してきたの」
それは紀子が結婚前に、ねだって夫に買ってもらった服であったからだ。
「もちママのクローゼットから」
まな美は以前から目をつけていたのだ。いつか着てやろうと。
「――ね、いいでしょうこのワンピース。天目くんの家に行くとき、これ着ていっても」
もはや自分のものであるといわんばかりに、まな美は、胸の前でその服を揺らしている。
「いいけど……」
いいながらも紀子はちょっと嫉妬を覚えた。娘はその麻のワンピースを着ることができるのだ。体型的にも、そして年齢的にも、はたして自分はどうだろうか。
「でも、それ古いわよ。私の大学時代の服だから二十年も前のよ」
紀子は厭味をいったつもりだが、
「そこが素敵[#「素敵」に傍点]なのよ」
と、娘には通じない。
「――十年ものは単なるボロだけど、二十年ものなら立派にアンティーク。SMAPのメンバーだって、みんな古いジーンズはいているんだから」
まな美は、その場で着ているTシャツを脱ぎ始めた。ここは七階建てのマンションの最上階だから他人に覗かれる心配はない。それに窓にはレースのカーテンもかかっている。
「――よその人がはいたジーンズをはくなんて、私は嫌いです」
イヤなものはイヤだと紀子ははっきりという。その性格がそのまま娘のまな美に憑依《ひょうい》したようだ。
まな美はジャージのスラックスを脱ぎ捨てると、頭からすぽんとワンピースをかぶった。
「おかあさん、後ろとめてとめて――」
「もう出かけるの? まだ九時すぎよ」
ファスナーを上げてもらいながら、ウン、とまな美は頷いた。
「あなたも落ち着かない子ねえ、昨日の夕方、長野から帰ってきたばかりじゃないの」
まな美は、信州の禅寺に三泊四日で、学校の夏期講習に参加していたのだ。
「遊びに行ったわけじゃないわ」
そうはいったものの、後ろめたさが少しはあった。まな美は、講習を受けるために行ったわけでもないからだ。――麻生さんには必要ないと思うけど、と担任からはいわれたのに、邪魔はしません、授業にも出ません、自習していますから、と拝み倒すようにして参加したからである。まな美の目的は、禅寺なのだ。女子がそうそう行けるところではないし、それにお寺に三泊もできる、このチャンス逃してなるものか、というのが真相なのである。
「――まな美、今から出るとお昼前には向こうのお家に着いてしまうでしょう。お昼御飯はどうするの? 桑名のおじさまにご迷惑じゃないの?」
「だいじょうぶ、近くのファミレスで食べようって約束だから」
今度は、まな美は完全に嘘をついた。マサトとの約束は午後の二時なのだ。
まな美には、午前中に済ませておきたい用事がひとつあった。そのことは、口が裂けても母には[#「母には」に傍点]いえない――。
「そうそう、桑名さんに会ったらお礼をいっておいて下さいね。いただいたお花、すごやかに育ってますって」
「……どの花?」
「ほら、五月頃に鉢植えをいただいたでしょう。赤い小さな花がたくさん咲いていた――ロベリア、たしかそんな名前の」
「あ、あのきれいなお花ね……」
といったかと思うと、まな美は突然笑い出した。
「絶対に想像できないわ。ママと桑名のおじさまが池袋の百貨店の中で出会うなんて」
「――中じゃなくて屋上です。私は母の日のプレゼントでカーネーションを買いに、桑名さんは庭木を見にいらしてたの、笑っちゃ失礼だわよ。桑名さんだって百貨店ぐらい行くでしょうに」
そうはいったものの、紀子も口元がほころびかけている。
「ねえねえ、そのとき桑名のおじさま、どんな格好だった?」
「いつものお着物を、お召しになっていらっしゃいました[#「お召しになっていらっしゃいました」に傍点]」
紀子は、笑いをかみ殺していった。
「いつものやつってあれでしょう、――花咲爺さん!」
桑名竜蔵を形《あらわ》すのにこれほど端的な言葉はない。普段の和《にこ》やかなときのジイは、まさに絵本の『花咲爺さん』から抜け出てきたような好々爺なのだ。ちなみに竜蔵が日常着用しているのは作務衣《さむえ》で、下がズボンになっているような和服である。寒いときにはそれに袖無羽織《ちゃんちゃんこ》などを重ね着するから、もうどこから見たって。
「――まな美、いいかげんになさい」
「だって、おじさま自分でおっしゃったのよ。お庭の水撒きをしながら、爺《じい》は花咲かじじいでございますから、て」
「庭いじりがご趣味だなんて、結構なことじゃありませんか」
「ママ、ガーデニングっていうのよ。爺はガーデニングに凝っておられるそうだわ」
「どこがちがうの?」
「ガーデニングは草花を育てることですって」
「じゃ庭いじりは?」
「意味は同じだけど……日本の庭いじりは、木がメインですって。日本では植木屋さんっていうでしょう、あれは木を植える仕事なのよ」
なるほど、いわれてみればその通りである。
「だから、おじさまからいただいた鉢植えは、たぶん草よ――」
間違いなく、ロベリアは草である。
しかし紀子は、それが草なのか木なのかそれまで一度も考えたことなどはなかった。きれいなお花、ただそう思っていただけなのだ。
「……でも、最近あの花見ないわよね。どこに置いてるの?」
まな美がきいても母からの返事がない。紀子はあらぬ方向を見て素知らぬ顔である。
ママ、隠しごとしているわね。
まな美は鉢植えを探し始めた。まな美はこういった他愛もない推理ゲームにすぐ夢中になる。
あるとすればベランダだわ。
――的中。
まな美はものの一分とかからず件《くだん》の鉢植えを見つけた。
「ママ、枯れちゃってるじゃない!」
ロベリアは数個の花を残してすっかり萎《しお》れていた。まな美は、その鉢植えに手を伸ばしかけて、やめた。無数にある細い枝がからみあい、黒く変色して、腐っているようにも見えたからだ。
「ママ、溶けちゃってたわよ――」
居間に戻ってから、まな美はいった。
「ベランダに置いたままにしていて、雨に当てたのがいけなかったみたい。梅雨どきの雨は苦手ですっておうかがいしてたんだけど……」
「でも、桑名のおじさまには、すごやかに育ってますって伝えるのね」
「じゃ、まな美いえる? 枯れたから別のくださいって――」
[#改ページ]
都心から埼玉へと通じている私鉄のN駅で、午後の一時すぎに人身事故があった。下りの回送列車が男を撥《は》ねたのだ。場所はプラットホームの先端付近、男は線路脇の駐車場に転落したという。このN駅は半高架の駅である。――その報を受けて、駅前にある交番から警官がふたり駆けつけていた。ひとりはプラットホームに、もうひとりの吉村というベテランの巡査部長はその駐車場へと向かっていた。吉村は、このN駅ではないが、以前にも何度か飛び込み自殺などの現場に立ち会ったことがあり、人が列車に轢《ひ》かれたさいの惨《むご》さは見知っていた。だから新米の若い巡査には目撃者探しの方を命じたのだ。
吉村が巨体を揺すりながら走って行くと、金網ごしに、線路の土手のきわに駅員がふたり立っているのが見えた。ふたりは地面の方を見やっている。そこはかなり広い月極の駐車場だが、車はまばらにしか駐まっていない。
駅員のひとりが気づいて吉村に手を振った。靴音が駐車場のアスファルトに響いたのだ。
「……それで、……男の人の容体は」
吉村は荒い息のまま、走り込みながら尋ねた。
「意識はないんですが、――呼吸《いき》はしています」
男は、地面から突き出た車止めに、背中をもたせかけるように半身の姿勢で横たわっていた。
「……そう、……すぐに救急車が来るから、……動かさないでね」
もちろん、といったふうに駅員はうなずいた。さっき呼吸を確かめるために顔を近づけたが身体には触れていない。この状況では、救急隊員が到着するまで見守るぐらいしか手立てはなく、そのことは駅員たちにも重々わかっている。
吉村は、腰を落としてあらためて男を見た。二十代半ばぐらいの若い男性である。頭の後ろあたりから出血しているらしく、車止めに沿って血溜まりができていた。車止めの角にも血と毛髪が混ざったような付着物があった。――これは硬いな[#「これは硬いな」に傍点]、そのコンクリートでできた車止めを見て吉村は思った。駐車場の地面よりもさらに数倍は硬そうである。そこにダイレクトに頭をぶつけたのだろう。だが、その他にはどこといって傷らしいものは見当たらない。それに服装もシャツの裾が乱れている程度で、シャツにも、ズボンの方にも破れたようなところはない。
「わたし知ってますよ、この男の人……」
吉村の息が落ち着いてきたのを見てか、駅員のひとりがいった。
「名前を?」
見上げながら、吉村はきいた。
「いや名前までは知りませんが、ここ一、二カ月ほど前からうちの駅を使ってます」
駅員は、意外と客の顔を覚えているそうである。
「……この人ちょっと特徴《クセ》ありますから、……目立ちますからね」
駅員は申しわけなさそうにいった。
「たしかにね、見るからにあれ[#「あれ」に傍点]だからな――」
駅員をフォローするように、吉村はいった。その男は極端な短髪で、胸元を金《ゴールド》の太い鎖で飾っている。それにシャツは女物かと思えるほど肌が透けて見えるような薄手の長袖を、素肌に、しかもピチピチに着ているのだ。もう一目瞭然でその筋の人だとわかる。
吉村は、地面に簡単にチョークで印をつけてから、立ち上がった。
「――吉村さん。回送列車が撥ねたのでは、ないそうです」
もうひとりの駅員がいった。
「どういうこと?」
チョークの粉をはらいながら、吉村はきいた。
「運転手がいうには、かすめた、といってました」
「――かすめた?」
「肩口をかすめた程度で、当たった衝撃は感じなかったそうです」
「ふーん……」
吉村は、そのふたりの駅員の顔を交互にまじまじと見て、胸の名札を確認しながら、
「野田さんと、渡辺さんだよね。……ところでさ、その回送の運転手は?」
この種の事故は、運転手が現場にいて警官に状況を説明する、それが通例である。
「いや、駅の方でちょっと手当を……」
「え、運転手が怪我してるの?」
「ブレーキをかけるときに慌てたらしくて、……ブレーキといってもペダルじゃないですよ」
「それぐらい俺でも知ってるよ、手で動かすやつだろう、こうやって」
と、吉村は真似をした。
「そのときに手首をこねちゃったらしいんです」
「プロの運転手でも、そんなことあるの」
「ま、あるんでしょうね。……すごく痛がってましてね、今は氷で冷やしているはずですよ」
「じゃ話を聞くには、また駅まで戻るのか……」
吉村はひとり言のようにいった。
「自分はある程度は様子を聞いてますけど、よかったら教えましょうか」
駅員の渡辺がいう。
「そりゃ助かるわ……」
吉村は、名前までは熟知していないが、駅員たちとは顔見知りなのである。駅構内でおこる喧嘩や痴漢、たまにあるスリや置き引き、そして終電間際になると恒例の泥酔者……と始終お世話をしているからだ。
救急車のサイレンが聞こえてきた。
「じゃ、こちらの方《かた》を乗せてからね……」
ほどなくして救急車が到着した。隊員たちはてきぱきと仕事をこなす。担架が運ばれてきて男の横に置かれた。男の目にペンライトを当てて様子を見ていた隊員が「脳外《のうげ》」というような言葉を車の中にいる隊員に告げている。無線で連絡をとっているようだ。「どう」と吉村がきくと「難しいね」という返事がかえってきた。そして隊員がふたりで、男をそおっと担架に載せた。
「この窮屈なシャツはだめだね、脱がすのを手伝ってください」と隊員のひとりが吉村にいう。
シャツのボタンを丁寧にはずし終えてから、ひとりが頭を庇《かば》い、もうひとりが胴体を支えながら、男の身体をやや横に向けた。そして吉村が、シャツの片袖を男の腕からはずした。そのときである、露《あらわ》になった男の背中に刺青があるのを吉村は見た。朱と青で色染《いろど》られた巨大な竜が雲間に舞っている。生きているように見事な竜の刺青だ。――なるほどな、だからこんな透けたシャツを着ているんだ。
「――ここ、駅だけ高くなっているでしょう」
駅員の渡辺が説明を始めていた。
「手前の勾配がかなり急でしてね、それに若干カーブもかかっているから駅構内の見通しが悪いんですよ。だからきわまで上がって来ないと、運転手には線路の上は見えないです」
吉村は、今頃になって汗が吹き出してきていた。
「……見えないか、……だけど、プラットホームは線路よりも高いから、見えるんじゃないの?」
「ホームの先端の方はね。でも運転手がいうには、人が落ちるところは見ていないそうです。で、ある程度列車が上がってきたときに、突然、線路の上にむくっと男の人が現れた――」
「ふーん、そんなふうに見えるの?」
額の汗をぬぐいながら、吉村はきいた。
「うーん、どうでしょうかね……」
渡辺も自信はなさそうである。
「ちょっと離れた方がわかりやすくないか――」
吉村は、線路の土手からずるずると後退していく。渡辺も一緒である。
「――この辺で説明してよ」
ふたりは駐車場の出口付近まで下がった。
「はい、……で、その男の人は」
「いや、ちょっと待って、――プラットホームがあるじゃない」
「ええ、ここまで下がると見えますね」
「男が倒れていた場所はあそこだろう」
吉村は土手のきわを指さしてから、
「それをまっすぐに上にあげていくとさ、プラットホームの、まさに先端じゃない」
「ええ、その通りですね」
「まっすぐに落ちたの?」
「だから、最初にもいいましたように、回送は撥ねてないんですよ。だから列車の進行方向には、飛んでないんです」
「じゃ、勝手に落ちたの?」
吉村は、渡辺の顔をのぞき込みながらいう。
「いや、勝手に落ちたわけじゃないでしょうけど、運転手がいうには、線路の上にむくっと現れたその男は、回送列車を見て左に逃げたそうです。つまりこっち側、土手の側に逃げたわけです」
「――逃げたの?」
「はい、逃げました。運転手はそういってます」
「逃げた……とすると、自殺じゃないよね」
「はあ、そうなりますかね」
「で、逃げそこなったのか……」
「隙間はあるんですよ。土手の上に塀がありますよね、あれは七十センチぐらいの高さのブロック塀ですが、あの塀の内側に張りついていれば、列車とは接触しません」
「だけど、それは知っていれば[#「知っていれば」に傍点]の話でしょう」
「ああ……そうですね、わたしたち駅員は知ってますけど、お客さんはね……」
「それも咄嗟《とっさ》のことだからな」
「……はい」
「なるほどね。状況はだいたいわかったよ。ちなみに、ここで線路の高さはどのくらいなの?」
「……そうですね、三メーター弱といったところでしょうか」
「三メーター弱か、飛び降りられないほどの高さじゃないよな……ま、上から見てみないと何ともいえないが」
「――吉村さん、あそこで、お仲間が手を振ってますけど」
渡辺がプラットホームのやや駅舎よりを指さしていった。吉村も気づいてはいたが、無視していたのだ。すると、そのプラットホームの上にいる警官が、手でメガホンを作って、
「――目撃者が、――見つかりました!」
と、吉村の方に声を飛ばしてきた。
「ばっかもん、まる聞こえじゃないか」
吉村は後ろを振り返った。さいわい見物人《ヤジウマ》などはひとりとしていない。この辺りは、駅の出入口があるいわゆる駅前とは真反対の場所で、昼間でもほとんど人通りがないのだ。
「……携帯ばかすか[#「ばかすか」に傍点]使うくせに、なんで無線使わないんだよ、あいつは」
といいながらも、吉村は手を振って合図を返した。そして駅員の渡辺にいう。
「ここ、登っちゃってもいいかな」
「――土手をですか? 大丈夫ですか吉村さん」
吉村は巨体である。背は高くないが横幅がかなりあるのだ。
「こう見えたって、俺いちおう鍛えてるからね」
吉村は柔道の黒帯で、今でも週に一度は稽古に通っている。だから身軽だと自分では思っている。
「土手を登るのはかまいませんけど、……吉村さん、あと[#「あと」に傍点]はどうしておきましょうか」
バケツとモップなどを抱えた駅員の野田が、ちょうど駅の方から戻って来ていた。
「そっかあ……どうしよう」
土手の方に歩きながら吉村は少し考えてから、
「――洗わないでくれるかな、まだ状況がよくわからないから。それと申し訳ないんだけど、この周辺に人が立ち入らないように、見張っていてくれないかなあ」
「いいですよ、自分が残りますから」
「――助かるわ、上で話を聞いたらすぐ[#「すぐ」に傍点]に決めるから」
そういい残すと、吉村は土手の五メートルほど手前から勢いをつけて走り出した。土手の表面は浅い凹みがあるコンクリート・ブロックで覆われている。そのせいもあってか、足を滑らさずに駆け登って、何とか塀のふちに手をかけることができた。
「よっこら……しょ」
と吉村は、巨体を持ち上げて塀の向こう側にドサ、と着地した。そこはもう線路の上である。砂利《バラスト》がその塀のきわまで迫っている。
「ここか……」
吉村は塀のきわに立って、駐車場の方を見下ろしてみた。
「うーん、微妙な高さだな」
下で想像していたよりは幾分高く感じられた。それに、眼下はすべて灰色《グレー》の人工物で固められてしまっていて、昔のようにペンペン草が生えていたような土の地面などは、どこにもない。
「吉村さーん」
プラットホームの方から呼ぶ声があった。
「――すぐにお伺いしますから」
吉村は和《にこ》やかに返事をかえした。もっとも、若い警官に向けていったわけではない。
吉村は駅の方を見やった。三十メートルほど先に回送列車の最後尾がある。プラットホームの所定の停車位置をやや過ぎたあたりで、停まったままになっているのだ。
「隙間か……」
あるといえばあるし、ないといえばない、列車をここまで戻して来ないと確かなことはわからない。
吉村は反対側を向いてみた。線路は、その場所の十メートルほど先から急な下り坂になっている。そこに列車が迫ってくる様を吉村は想像してみた。
「……やはり、怖いな」
次に吉村は線路の中央に立ってみた。その場所で、列車の運転台の高さを想像しながら、立ったり、しゃがんだりを何度か繰り返した。
「うーん……運転手のいう通りかもしれんな、ホームから落ちて、ここでいったんペシャンと倒れてしまえば、運転台からは見えない可能性が高いな、で、男はむくっと立ち上がった――」
吉村は、そのときの状況を再現してみた。立ち上がって塀の方に走った。
駅員がいうには約七十センチの高さのブロック塀である。その塀の縁が、吉村の太股の上のあたりに当たった。吉村は、その塀に片足をかけてみた。かなりきつい。吉村はどちらかというと短足だが、男も背はそれほど高くはなかった。
吉村は片足をかけた姿勢のまま、再度、駐車場を見下ろしてみた。
「これは迷うね……」
ここで一瞬、男は躊躇《ちゅうちょ》したのだろう。そこへ列車が入ってきた。そして肩をかすめたかどうかは別として、男はバランスを崩して落下したのだ――吉村はそう推理した。
「よっこら……しょ」
吉村巡査部長はプラットホームに這い上がった。
そこには佐久間という新米の巡査と、やはり吉村とは顔見知りで、藤木という名札を胸につけた駅員が立っていた。その若い警官が吉村に何かいおうとした。が、それを制して、
「いや……お待たせしちゃって、すいません」
吉村は、ベンチに座っている子連れの若い母親に頭を下げた。淡いベージュの上下を着たその女性は、いかにも暑いといわんばかりにハンカチで顔を扇《あお》いでいる。
「早速ですが、奥さん、お話を聞かせていただけませんか」
そう吉村がいうと、その女性は露骨にイヤな顔をした。
「ちがうんです、彼女は目撃者じゃありません」
佐久間はいう。
「え……」
吉村はくるりと顔を半周させてみた。近くには、他に誰もいない……。
「和則《かずのり》、このおじさん[#「おじさん」に傍点]に、さっきのお話をもう一度してあげて――」
若い母親が息子にいった。
「……つまり、子供さんだけが見てて、彼女[#「彼女」に傍点]、見ていないんですよ」
と佐久間が補足をした。
「あ、……そうですか」
吉村としてはまったくの想像外であった。目撃者が子供とは、それもかなり幼いのだ。
子供は、母親の膝のあたりに纏《まと》わりついている。その子が吉村の方を見た。ドキッとするほどの無垢《むく》な目をしている。その子が、唐突に言葉を発した。
「おねえちゃんが押した――」
和則は、先の母親の問いかけに応じたのだ。
「はあ?」
吉村は、その言葉の意味が飲み込めない。
「……子供のいうことだから」
若い母親は白けたようにいう。
「おい」
吉村は佐久間の顔を見た。
「はい、さっきから何をきいても、おねえちゃんが押した、それだけしかいわないんです」
駅員の藤木も、そのとおり、と腕組みをしたまま首肯《うなず》いている。
実際そんな幼い子供に事故の様子を尋ねてもよいものかと吉村は逡巡《ためら》っていたのだが、もはやそんな場合ではない。
「和則くん、もう一度きくよ、プラットホームのあのあたり――」
吉村はプラットホームの先端付近を指さした。
「――に、男の人が立っていたはずなんだけどな」
幼い少年はうなずいた。
「すると、その男の人を[#「その男の人を」に傍点]、おねえちゃんが押した[#「おねえちゃんが押した」に傍点]のか」
少年はうなずいてから、またも目を輝かせていう。
「――おねえちゃんが押した」
「じゃ、押された男の人は、線路に落ちたの?」
少年はうなずいた。
「そこへ、電車が走ってきたのか」
しばらく間《ま》をおいてから、少年はうなずいた。
「――わかりました」
吉村は了解した。もし子供のいうことが本当なら、これは大事《おおごと》である――。
吉村は、若い警官の耳元で囁くようにいう。
「……じゃあな佐久間、本部に連絡をとって指示をあおげ、お前にも状況はだいたいわかるだろう。それを伝えて、応援をよこしてくれるようにというんだ。ちなみに、下の男はかなりヤバい……」
「はい」
佐久間はうなずいてから、無線に手をかけた。
「ばか、あっちでやれ、あっちで」
吉村は、手で若い警官を追い払う仕草をした。
佐久間はキョトンとしてる。
「……聞こえないところで、やるの」
と吉村は、またも小声で囁いた。
「すいませんね、気がきかないやつで……」
吉村は、母親の方に向き直ってから、いった。
まずったなあ……俺がこっちに来とくべきだったか、吉村は後悔した。事故が起こってから二十分、いやかれこれ三十分近くは経っている。吉村はプラットホームを見渡してみた。この下りのホームにはほとんど人影がない。――いるわけ[#「わけ」に傍点]がないよな、と思いつつも、吉村は尋ねてみた。
「和則くん、そのおねえちゃんだけど、男の人を押した後、どこに行ったのかなあ……」
幼い少年は答えてくれない。
「じゃあね和則くん、このホームをずっと先までいくとさ、あのすみっこに、階段が見えるだろう」
駅の改札へと続く階段である。
「そのおねえちゃんは、あの階段の方に歩いて行ったのかなあ……」
少年は、うんともすんともいわない。
「うーん……他に行くところはないんだけどねえ」
「あ」
駅員の藤木が声を発した。
「何か?」
「いや、ついさっきまで、ここに別の列車が停まっていましたから」
藤木は隣の線路を顔でさし示していう。相変わらず、腕組みをしたままである。
「それ、いつ頃の話なの?」
「吉村さんが、突然と線路に出現された一分前、てところでしょうかね。――ほら、見てくださいよ」
今度は、線路の坂下の方をさし示した。別の列車がゆっくりと上がって来ようとしていた。
「――あれは快速です。ここ乗り換え駅でしょう。こちらの待避線には普通列車が停まっていて、あの快速に抜かれる予定だったんですよ。ですが、もう片方の線路を回送が塞いじゃって、しばらく動きそうにないんです。……ちょっと運転手がね」
「わけは知ってる、下で聞いたから」
吉村は手首をぶらぶらとさせた。
「そうですか、……で、快速が入って来れないもんだから、その普通列車を先に行かせたんです」
「それが、俺が上がってくる直前?」
「ええ、そうですね」
「じゃ、その列車に乗った可能性もある?」
「いやあ、ぼくにきかれたって……」
藤木は大きく首を横に振った。
「その普通列車、今どのあたり?」
「そうですね、次の駅に着いて、もう出てしまってますね。だから、その次の駅との間ぐらいですかね」
吉村は何やら考え事をしている。
「――吉村さん、まさか[#「まさか」に傍点]止めようなんて思ってませんよね」
「うーん……」
吉村は曖昧《あいまい》に唸った。
「すでにダイヤ無茶苦茶なんだから、許してくださいよ――」
鉄道の代表者のような口ぶりである。
「――それに手配のしようがないじゃありませんか、列車を止めて若い女性を全員逮捕しますか」
駅員のいうことに分[#「分」に傍点]があるようである。
「あんた、警官やるう?」
吉村は皮肉を込めていってみた。
「いやあ、ぼくはこっちで満足してますから」
藤木は腕組みをしたまま、指だけチョキチョキと動かした。
列車がのそのそと線路を這うようにホームに入ってきて、ガタガターンと身震いをしてから停まった。
「イレギュラーなことやってますからね、大変なんですよ……」
藤木はいう。ポイント切り替えのことなどをいっているのだろうと吉村にも想像できた。
「――あれ」
その停車した列車を見て、吉村はあることに気づいた。
「こんな場所に停まるの、だったら前の列車の中にも目撃者がいるんじゃないの?」
吉村はちょっと早口になって尋ねた。
「――残念です。普通列車は短いので、この快速列車よりも前に停まるんですよ。二車輛分、短いんですよ」
吉村は、その普通列車の最後尾を想像してみた。やはり、かなり前方である。
「……それに、出発の直前に車掌がアナウンスしてますから。隣の線路で事故がありました、目撃された方がおられましたら、てね」
「それは藤木さんが頼んでくれたの」
「いえいえ、佐久間さんが」
「ヘえ……」
吉村は若い警官を少しだけ見直した。その当人は、と思って見ると、ホームの先端の人気《ひとけ》のないところで、いまだに無線と格闘中である。吉村の経験からいって、手間取っているわけは概ね想像できた。
下りのホームに「……快速列車はこの先は各駅に停車します」といった案内が流されて、発車のベルが鳴った。
「――吉村さん、何かしら理由をつけて、まだ列車を止めようと思ってませんか」
藤木がいう。
「それはもう諦《あきら》めました。若い女性というだけじゃ、警察としても動きようがない[#「ない」に傍点]……」
といってから、吉村は子供の方に向き直った。
「和則くん、そのおねちゃんだけど、どんな服を着ていたか覚えてる……」
子供は、母親の膝に顔を埋めてしまっている。
「――お巡りさん、和則にそんなこときかれても」
若い母親は咎《とが》めるようにいった。
「だめですかねえ」
吉村は懇願するようにいう。
「じゃ、お巡りさん、私の服装いえます?」
そう母親に逆襲されて、吉村は答えに窮した。
「今私が着ているのはパンタロンスーツといいます。上下に分かれているから、ツーピースですね」
してやったりとばかりに母親はいう。
「そこまで詳しくなくても……たとえば、服の色とか……」
吉村は食い下がった。
「色ですか……」
母親は、それぐらいならという顔をする。
「和則くん、そのおねちゃんが着ていた服ね、どんな色だったか覚えてる?」
吉村はあらためて尋ねてみた。
少年は、母親の膝のうえに頭を置いたまま、顔だけを吉村の方に向けた。
「――和則、なに色かわかる?」
母親がうながした。すると、
「しろいろ……」
蚊の鳴くような声で少年はいった。
「しろいろ[#「しろいろ」に傍点]!」
吉村は嬉しさのあまり大声で復唱してしまった。
「……吉村さん、今、夏ですよ」
横で、藤木が冷静にいう。
「あ、そっか……夏だもんな」
といいつつも吉村は駅の構内に目をやった。この下りのホームには人影がない。先の快速列車を降りた客は駅の出口へと続く階段に消えている。吉村は上りのホームを端から端までざーと見渡してみた。おねえちゃん、つまり若い女性で、白い服……。
「うん?」
吉村は、またあることに気づいた。
「和則くん、そのおねえちゃんの着ていた白色の服ね、上から下までぜーんぶ同じ、白色だった……?」
少年は、目を一、二度キョロキョロッとさせてから、こくり、とうなずいた。
「ほんとう、上から下まで白だった。いや……それは貴重な情報だわ」
吉村は心底嬉しそうにいった。
「……そういわれてみれば、シャツだけ白という女性はちらほらいるけど、全部白というのは珍しいかもしれませんね」
藤木も感心したようにいう。
「だろう」
吉村は得意そうである。
佐久間巡査が、彼らのところへ戻って来た。
「……で、どのくらいかかるって」
吉村は小声できいた。
「できるだけ急ぐそうですが、まあ三十分は見ておいてくれるようにといってました。最初……どこから誰が来てくれるのか、なっかなか決まらなくて」
佐久間も小声でいう。
「……やはりね」
吉村の想像が当たっていた。
佐久間が、吉村の耳元で内緒話を始めた。
「えーと、まず男の人の身元がわかりました。持っていた名刺やら免許証やらで、――池袋に事務所がある組の、構成員でした」
「ますますやっかいだな……」
「はい、ですから県警がやるのか、池袋署がやるのか、もうそこから揉《も》めてしまいました」
「……で、どっちが来るって」
「とりあえず、埼玉県警から来るそうです」
「南署だろ」
「はい、……それと、現場の保全と目撃者の確保に万全を期してください、といってました」
「それはもちろんだ、他には……」
「後は、現場にいてくれたのが吉村さんだから安心だと、そんなこともいってました」
「ばっかやろ、南署の連中《やつら》だな……おだてには乗らんと俺がいってたと、今度いっとけ」
と、吉村は囁いた。
「――ねえねえ、お巡りさんたち[#「たち」に傍点]」
びっくりするほどの声で、母親がいい出した。
「秘密の話するのは勝手だけど、このうえ、さらに三十分も待つんですか、わたしたち[#「わたしたち」に傍点]――」
密談の最初の部分は聞こえていたのだ。
「すいません、我々シタッパなもんで、刑事が来るまで、今しばらくお待ちください」
と、なんと佐久間がいって頭を下げた。
「それに、待っていただくのはここじゃありませんので、駅のすぐ前に私どもの交番がありますから」
と、吉村が言葉をつないだ。
「そこはギンギンに冷房も効いてますし、それに、もしお腹がお空さでしたら、何なりと注文してくださって結構です。商店街の中にある一番|美味《おい》しい店から出前させますから。もちろん奢りです――」
吉村は自信たっぷりにいう。
「……ほんと? 何でもいいの?」
若い母親はギャルの笑顔になっていう。
「鰻丼でも焼き肉でもステーキでもご自由にどうぞ、飲みたい物も、それにデザートも、この佐久間にいいつけていただければ、彼がすべて手配しますから」
と吉村は、さも召使を紹介するようにいう。
「……じゃ、交番の方には自分がお連れすればよいわけですね」
その召使はいった。
「そう、よろしくね佐久間。それと、代金はすべて南署のツケ――にしとくようにな」
吉村は眉を動かしながら、精一杯悪ぶっていった。
「渡辺さーん、聞こえるー」
吉村は、プラットホームの上から呼びかけた。
「はーい、聞こえますよー」
下の駐車場から返事があった。
「ごめんねー、忘れてたー」
「……思い出してくれましたかー」
「それでさー、やっぱり洗わないでー」
「はーい」
「それとさー、悪いけど、あと三十分見張っていてくれるかなー」
下からの返事は、さすがにない。
吉村は、一杯奢るからと渡辺さんには後で謝っておいてくれるように、駅員の藤木に頼んだ。そしてプラットホームの先端付近を封鎖したい旨を告げると、藤木が駅舎の方に道具を取りに行ってくれた。彼がいうには、一番長い列車の最後尾のドア位置からさらに二メートルほど後方に車掌のドアが来るので、そこから先なら封鎖しても支障はない、とのことだ。
吉村はその場所を確かめに、ホームの先端の方に歩いていった。
「……これが尻《ケツ》の扉の位置だろう、そして、さらに二メーター後ろと、……ま、このくらい囲っておけば格好はつくわな」
吉村は、男が立っていたと思《おぼ》しき場所をざっと眺めてみた。無論、ホームの上に足跡などは見えない。特に目立つようなものも落ちてはいなかった。
「ここで取っ組み合いの喧嘩でもしてくれていたら、何かしら残っているんだろうけどね……」
子供のいうように単に押されて線路に落ちただけなら、――期待薄である。しかし、それは吉村の判断すべき事柄ではない。事件の現場を最大限可能なかぎり保全する、そこまでが交番勤めの警官の役割なのだ。
ホーム先端のやや手前にも一組のベンチが置かれている。背もたれを接して二脚がくっついた格好だ。目撃者の子供とその母親が座っていた同形のベンチよりも、さらに十メートルほど先端よりにある。
立ち入り禁止にするラインが、ちょうどそのベンチに引っ掛かる。
「ロープが斜めになるけど、このベンチも含めてということで、許してもらおうか……」
と思ったそのときである、そのベンチの座る面に、何かがあるのに吉村は気づいた。
「……忘れ物だ」
一冊のノートが置かれているのだ。標準的なサイズの、いわゆる大学ノートである。
「気がつかなかったな……」
吉村が、それまで気づかなかったのも無理はない。雨と直射日光に始終晒されている駅のベンチと、似たような色合いだったからだ。そのノートは表紙だけじゃなく、中の頁も枯れたような茶色をしている。
「……見たことあるな、環境にどうとかというコーナーで」
それは再生紙から作られたノートなのだ。吉村は、そのノートに触ろうとして、思い止どまった。
「……場所が場所だからね、とりあえず、鑑識さんに敬意を払ってと」
吉村は、右手だけに手袋を嵌《は》めた。その手で、そうつとノートを持ち上げてみた。裏を返してみたが、表にも裏にも、名前などは書かれていない。
「でも、どこかの学校の[#「学校の」に傍点]ノートのようだな……」
影のようにうっすらとではあるが、校章らしきものが表紙に印刷されている。吉村は、そのノートを元あった位置に正確に戻した。
「じゃ、中を拝見……」
吉村は、そうつと表紙をめくった。
「……何だこりゃ」
瞬間、読めないのである。いや、読もうと思えば読めるのだが、やったらと漢字が多い。それに、旧漢字もそこかしこにある。
「……本尊《ほんぞん》の地藏大《じぞうだい》、えーと次は何だ、菩薩《ぼさつ》か、人《ひと》、皇《こう》、第《だい》……」
つまり、そういった字面《じづら》のものが縦書きの和文でびっしりと書かれているのだ。しかも、かなり達筆な字である。吉村は二、三ページめくってみたが、似たような内容が延々と綴られているだけである。
「……ま、おねえちゃんとは、関係はなさそうだよな」
吉村はそのノートを閉じた。
「が、万が一、目撃者の忘れ物ということもありえるし……」
そのノートがあったベンチから事件現場と目される場所まで、もう目と鼻の先である。しかもノートは、事故があった線路に向いている側のベンチに、置かれてあるのだ。
「調べてもらって、損はないか……」
吉村は、そのノートを鑑識と刑事たちに託すことに決めた。
駅員の藤木が、柵とロープなどを持って戻って来た。吉村が礼をいおうとすると、先に藤木がいった。
「吉村さん、ぼくにも奢ってくださいよね、どうせ南署のツケ……なんでしょ」
吉村は笑い出した。
「……よく聞いてるね」
「あ、それとですね、回送の運転手だけど、ちょっと来れそうにはありません。顔が真っ青――」
「……そんなにひどいの」
「病院に行きたーい、て唸ってました」
「かまわないですよ、行ってくれて、どうせ南署の刑事が事情聴取しますから……」
「それともうひとつ、駅の改札ですが、昼の十二時からずっと同じ駅員がひとりでやってます。本来は一時半に交替なんですが――ぼくが、その交替です。ですが、ばたばたしてるもんだから、彼昼飯を食わずに今でも改札やってるんです」
「……その彼も、奢るの?」
「いや、そういうことじゃなくて、その彼にですね、例の白い服の女性、尋ねてみたんですよ、――改札を通って外に出たかどうか」
「――わーお、藤木さんよく気がつくね」
「まあね、……それでですね、事故が起こりましたよね、その直後から、構内の様子が気になって、中の方をずっと見てたらしいです。つまり、駅から出ていこうとする客に、わりと注意が向いていた」
「……ほうほう、で、見たの、その白い服の女性」
「残念ながら、見ていないそうです。上から下まで白で、しかも挙動不審って感じの若い女性は、彼の記憶にはないといってました」
「……けど、それはそれでひとつの情報だからな」
「やっぱり、乗ったかもしれませんね、……うん」
藤木は腕組みをしながら、うなずいた。
「……止めさせてくれる」
吉村は冗談めかしていった。
「下りの列車とは限りませんよ、階段を渡れば、すぐ上りのホームに行けますから……」
もっともである。
「あ、そうそう、この回送列車だけど、いつまで停まってるの?」
吉村は尋ねた。
「あと三十分ぐらいは、このままですかね」
「じゃ、鑑識が来るのと、ぎりぎりだな……」
「……つまり、回送が動いてしまった場合は、この先、列車を洗わないように[#「洗わないように」に傍点]ということですね」
「……そのとおり、鋭いな藤木さん」
「で、どのあたりを」
「先頭だけでいいんだろうけど、……面倒臭いから、全部といっといてください」
「わかりました。車輛部に伝えておきます」
「ところで、この回送列車、誰が運転するの?」
「運転手は春日部の方から来るようです。下りは詰まってますので、上りの方が確実なんですよ」
「そっか、運転手がいなくなるとけっこう大変なんだな。――藤木さんは運転しないの」
「いやあ、ぼくはこっち専門ですから」
藤木は、指をチョキチョキと動かした。
[#改ページ]
テレビモニターの画面に、建物の屋上の様子が映し出されていた――。
薄曇りの空を背景《バック》に白衣を着た青年がポツンと立っている。その青年は、腕に白い子猫を抱えている。
「いい子だね、いい子だね……なぜなぜ」
口に出していいながら、青年はその子猫の頭をなぜつけている。子猫は、青年の腕の中で丸まりうつらうつらと夢見心地のようである。
子猫は、四本の手足をスポンと通した状態で服を着せられており、服からは褐色の太いヒモが出ていて、そのヒモの先端は、青年の片方の手首に巻きつけられてある。
画面が切り替わった。今度は室内の映像だ――。
椅子に腰かけている女性の膝に、毛の長い白猫《チンチラ》がうずくまっている。その女性が手に持っているメロンの切れ端をペロペロ……ペロペロ嘗《な》め続けながら、悦にいった表情でおとなしく抱かれている。
その白猫の頭からは、すでに導線が何本か出ていた。白衣の女性が最後の一本をつけるべく、立って作業中である。白猫の頭の毛を五ミリ径ほど刈り込み地肌が露出されている、そこに電極を貼りつけようとしていた。
「……イライザ、……イライザ」
猫を膝に載せている女性が、片手で抱き押さえながら優しく呼びかけている。その女性が飼い主で、イライザとは、メロンが大好物だというその白猫の名前である。屋上で青年に抱かれている子猫は、このイライザの子供である。
動物実験では、頭蓋に穴を開けて脳に直接電極の針を刺すといった方法もあるのだが、ペットの猫にそんな乱暴なことはできない。だから電極は接触方式、つまり人間に使う脳波計が流用されている。人の場合には十数個の電極を用いるのだが、小さな猫の頭には載りきらない。前頭/側頭/後頭の左右に一個ずつ、計六個で測定している。つまりその分だけ猫の頭にハゲができるのだが……まあ、それは仕方がないということで、飼い主は承諾した。
電極を貼り終えて画面から消えていた白衣の女性が、再び画面に現れた。すらりとした美人である。この実験では脳波計の担当をしており、装置の微調整のために少し離れた場所にいたのだ。その彼女が、指でOKのサインを出した。
画面が切り替わり、再び、屋上の映像――。
白衣の青年は子猫を抱えままである。しばらくすると、青年がズボンの尻ポケットに片手を突っ込んだ。そこには携帯電話が入っていて、彼はその振動を止めたのだ。ベルの音は、子猫に聞こえると興奮する惧《おそ》れもあったので消されている。研究室の方の準備が整ったという合図を、その携帯を使って伝えているのだ。
この時、子猫には特に動揺は見られない。青年の胸のやや下あたりで、おとなしく抱かれている。
映像が、早送りにされた――。
しばらくはその姿勢のままで青年は動かない。実行のタイミングは、その白衣の青年にすべて任されていたからだ。いつ始めてもかまわないのだ。だから、研究室の方では、いつ実行に移されるのか誰にもわからない。
それに屋上のいかなる物音も研究室には届かない。もちろん、互いに見ることもできない。それぞれの場所に設置されている二台のビデオカメラが、個別に映像を記録し続けているだけである。
――早送りが解かれ、映像は通常再生に戻った。
白衣の青年は、子猫を胸に抱えたまま、ゆっくりと屋上の縁にある手摺《てすり》の方に歩いている。
「よしよし、いい子だ、いい子だ……」
その瞬間まで何をするのか、子猫に悟られてはいけない。だからそうっと彼は進んで行く。
そこは四階建の校舎の屋上である。事前に、子猫と同程度の重さの縫いぐるみを使って試してはいるのだが、失敗しないコツは、屋上の手摺からできるだけ遠くまで手を伸ばして、単純に落とすこと。
「いい子だね、いい子だね……」
青年は、子猫を両手で抱いたまま手摺から身を乗り出した。そして真っすぐに腕を伸ばした。子猫が顔をあげてミャーとひと鳴きしたようである。間《ま》をおかずに、青年は手から子猫を滑り落とした。
ヒモの長さは約三メートル、バンジー用の。ゴムヒモが使われている。その後、子猫は何度かバウンドを繰り返したはずだが、建物の陰になってその様子は映っていない。
画面の隅には自分の一秒までの時刻表示があり、その時「一三時〇九分二七秒××」と刻まれていた。
画面が研究室の方に切り替わった――。
頭から何本もの線を出している白猫はペロペロとメロンを嘗め続けている。
映像が早送りにされ、一三時〇九分二〇秒付近から通常再生に戻された。
白猫はなおもメロンを嘗め続けている。秒が刻まれていき二一、二二、二三……二六、二七秒を過ぎた。だが、白猫に変化は見られない。自分の子供が宙を舞っているというのに、母猫のイライザはただメロンを嘗め続けているだけである。
――そこまで見て、火鳥竜介《かとりりゅうすけ》はビデオを止めた。もう一台のビデオも止めた。二台のビデオでテープを再生しながら、テレビモニターの入力を切り替えて交互に見ていたのだ。
〈ヘルプ・ミー実験〉
火鳥は、勝手にそう名づけているが――互いに隔絶されている母と子、その子供の危機的状況が母親の脳に伝達されるかどうか、それを脳波レベルで確かめようというのが実験の目的であった。
だから、見るべき映像は本来もうひとつある。母猫の脳波である。脳波計で得られたデータはコンピューターのハードデイスクに保存されている。二台のビデオカメラの内蔵時計をコンピューターのそれとピタリ合わせてあるので、脳波の変化を、実際の映像に照らしながら検証することが可能である。だが、そのデータは今更見るまでもない。母猫の脳波には、何の変化も現れていなかったからだ。つまり、先の実験は全くの失敗だったわけなのである。
やっぱり、人間でやるべきだよな――。
ビデオからテープを取り出しAV機器の電源をオフにしながら、火鳥はそう思った。元来このヘルプ・ミー実験は、人間の母と子でやるべく立てたプランだったのだ。実際、人の方が簡単なのである。もし人間なら、軽く目をつむって瞑想してくださいと促しただけで、その人の脳波は数分のうちに落ち着きをみせるだろう。それで準備《スタンバイ》はOKなのだ。後は同じ理屈で、別室に隔離している子供を突如として驚かせばよい――そのほぼ同時刻に、母親の脳波には異常が現れるはずだと火鳥は確信している。けれども、この実験プランは彼の上司である老教授に一蹴されてしまった。
「子供が心臓マヒでも起こしたら、火鳥くん、あなたどう責任を執るのですか――」
子供にバンジーをやらせるわけではない。せいぜいゴリラの着ぐるみか何かで威《おど》かす程度なのだ。が、それでも百万回やれば一度ぐらいはそういった事故も起こりえるだろう。大学の研究室としてはその程度の危険《リスク》でも許されない、らしい。だから、火鳥は猫を使ってやったのだ。もちろん教授の許可などは得ていない。かるーい予備実験のつもりだったのだ。ところがどうしたことか、結果は惨憺《さんたん》たるものなのである。
いったい、どこ間違ったんだろ……。
火鳥は、実験が収録されているそのビデオテープをケースに仕舞った。実験そのものは七月の最初の日曜日に行われている。だから、すでに何度か見直しているのだが、映像からは特にどうというミスは、彼は見つけられずにいる。
コツ、コツ――。
軽くノックする音があった。廊下側のドアではなく室内扉の方である。そこは始終開け放たれており出入りは自由だ。誰だろうか、と思いつつも火鳥は返事をした。すると――、
「先生、コーヒーお飲みになります」
風鈴のように涼しげな声とともに、若い女性がカップをふたつ手に持って、書棚の陰から現れた。先の実験映像にも登場したすらりとした美人である。
「いたのか……西園寺さん」
大学は夏休みなので、助手の彼女が来る来ないは本人の自由である。来ていないものだと、火鳥は勝手に思っていたのだ。
「朝からいたんですよ」
決して厭味《いやみ》っぽくなく彼女はいってから、壁ぎわにある長椅子に腰を下ろした。
「……なんだ、それなら顔を出してくれればよかったのに」
心にもないことを火鳥はいう。午前中、彼の部屋には来客があったのだ。
「……先生、とっても楽しそうなお声でしたから、遠慮しちゃいました」
さらりと彼女はいう。
火鳥の来客は、若い女の子であったのだ。
「いや、そういった関係じゃ、ないから――」
取り繕うように火鳥はいってから、いただきますと軽く会釈をしてテーブルに置かれたカップのひとつを回転椅子《デスクチェアー》から腰を浮かせて取った。
――じゃ、どういった関係なの、と冗談にでも西園寺|静香《しずか》はきいてくるようなタイプの女性ではない。
「先生、これ水晶だま……水晶|球《きゅう》、ですか?」
テーブルに置かれているそれを見て、彼女が尋ねた。直径十五センチくらいの透明な玉である。
「いや、それはガラス、安物――」
そういったことを彼女は尋ねたわけではないのだが。――その水晶《ガラス》玉は、火鳥が資料棚から持ち出してきて、そのまま仕舞っていなかったのだ。
「こちらの研究室、変わったものが色々ありますよね。――先生、これで未来が見えるのですか?」
静香は真剣なまなざしで火鳥にきいてくる。彼女は、今年の春からこの研究室に加わったのだ。
「未来はちょっと難しいかな……でも、見えることは、見えるんだ」
火鳥は、その説明をしようと思い立った。
「顔を近づけて、しばらくじーと、その玉を見つめてごらん……」
火鳥はうながした。彼女は、いわれるままに、その水晶玉へと顔を寄せていく。
実は、午前中の客にも火鳥は同じようなことをやったのだ。だから、説明のやり口はもう手慣れたものである――。
『T大学文学部/心理学科/認知神経心理学研究室/情報科分室』
それは、文学部本館の四階の一番奥まったところにある。この長ったらしい名称が正式名だが、部屋の入口に掲げられているプレートには、ただ『情報科分室』とだけ記されてある。その下には、赤字で『室長』続いて黒字で『火鳥竜介』と刻印された白いプラスチックの名札も懸かっている。すなわち、火鳥がこのセクションのボスなのだ。
もっとも大学内における彼の身分は、下から数えて二番目、つまり助手の上――講師である。室長とは、部屋の戸締まりや火の元の管理責任者にわずかな何か[#「わずかな何か」に傍点]がプラスされた程度のもの……けれど、火鳥にとっては天国だ。この分室では、何気兼ねなく自由に振る舞うことができる。事実、今火鳥の部屋は、誰が見たって魔女の館である――。
直属の上司である教授や助教授がいる研究室(認知神経心理学研究室)は二階にあり、階が違っていることもあって、火鳥が出向かないかぎり顔を合わせることはない。教授はかなりのご老体で四階まで階段を上がって来るのはきつい、それに助教授は火鳥とはまったく反りが合わない――彼らの方から訪ねて来ることは、まずないからだ。
この情報科分室は今年の春に新設されたばかりで、一般学生向けのゼミは開講されていない。いわば、準備期間中である。講師の火鳥以下、助手が一人、修士課程の院生が二人、総勢でわずか四人という学内でも最小単位のセクションだ。
大小二部屋が割り当てられたが、火鳥が使っているのは小部屋の方、ただし、資料室と兼用なのでスチール製の書棚に七割方を占拠されている。壁を隔てて隣に大部屋があり室内扉でつながっている。そこがいわゆる研究室だが、コンピューターや測定機器なども幾つか置かれてあって、理科系の実験室といった雰囲気すらある。分室の他のメンバーはこちらを使っている。
北向きの窓に面して作りつけのデスクが五人分ずらずらっと並んでいるので、お好きにどうぞと火鳥が促すと、一番資料室よりの席に助手の西園寺さん、ひとつ飛んで中央の席に院生の女子(イライザの飼い主)、さらにひとつ飛んで、つまり資料室から一番遠い隅っこに院生の男子(子猫にバンジーをさせた青年)と決まった。まあ妥当なところだろう。
さらに、中央の大机にも六人分の引き出しが用意されており、都合最大で八人まではゼミの学生を引き受けることが可能だ。
が、これは文字通り〈机上の計算〉だ。準備期間中といえば聞こえはいいが、来春からゼミを始められる保証はどこにもない。三年後……あるいは五年後かもしれない……いや、最悪はやがてこの分室そのものが閉鎖されてしまうことだって、十分ありうる。もしそうなれば自動的に火鳥もお払い箱だ。そして、この大学での彼のポジションはもうない。火鳥自身も、そのことは重々承知の上で引き受けたのである。内示は、去年の暮れにあった――。
文学部の学部長の高村から(そう名告《なの》る男から)火鳥に内線電話がかかってきて「あなたと[#「あなたと」に傍点]、ご相談したいことがあります[#「ご相談したいことがあります」に傍点]。学部長室まですぐに来ていただけませんか[#「学部長室まですぐに来ていただけませんか」に傍点]」というのだ。
学部長の高村……誰だろう?
火鳥はよくは知らないのである。火鳥は講師だから教授会には出ないのだ。それに心理学科はいわゆる鬼子で、文学部に属してはいるが文学をやっているわけでない。とりわけ火鳥のいる認知神経心理学研究室は異質で、大学によっては医学部に所属している例もあるぐらいだ。だから、ますます文学畑の教授たちとは縁がない。
学部長がおれに相談、いったい何の相談だ? それはともかく、火鳥は内線電話で大学の事務を呼び出した。学部長室がどこにあるのか、きくためにである――。
文学部二号棟は、文学部本館よりもやや小ぶりだが比較的新しい建物で、道を挟んで本館の斜向《はすむ》かいにある。火鳥は、本館にはないエレベーターに乗って、その三階へと向かった。
『文学部/学部長室』その下には赤字で『学部長』続いて黒字で『高村真澄』――。
火鳥はドアをノックした。
「どうぞ[#「どうぞ」に傍点]――」
電話口から聞こえたのと同じ声である。いたずら電話では、なかったようだ。
火鳥は自分の名を告げてからドアを開け、学部長室に入った。真っ正面にデスクがあり、ほぼ白髪の男性が、何やら書類に目を通している。そして「座ってください」と火鳥をうながした。デスクの前には応接セットが置かれている。
その初老の男性の顔を見て、火鳥はやっと思い出した。火鳥の研究室に訪ねて来たことがあるのだ。二年ほど前だろうか、たしか学部長の選挙で挨拶がてらに。そのさい、老教授に頼まれて火鳥も『高村』に票を投じたような……気もする[#「気もする」に傍点]。もっとも火鳥は講師なので〇・五票だが。
高村学部長はゆったりとした口調で話し始めた。
「君が火鳥くんか。いや……写真よりも、随分といい男じゃないか」
写真?
「……それに、火鳥竜介とは、またすごい名前だね。なんというか、その、俳優さんみたいで……」
火鳥竜介は本名である。芸名ではない。
「火の鳥と書いて火鳥か、字のごとく火の神様だよね。火の鳥を朱雀《すざく》だとすると、古《いにしえ》の平安京では、南の方位を守護している……」
そのとおり、風水や陰陽道の〈四神相応《しじんそうおう》〉ではそう考える。だが、火の鳥は火だから熱いので、単純にいって南である。
「竜はどちらだったかな……東だよねえ、うん」
火鳥もうなずいた。ただし正確には東は〈青龍《せいりゅう》〉なのだ。真ん中には〈黄龍《こうりゅう》)という別の竜もいる。ちなみに西が〈白虎《びゃっこ》〉で、北が〈玄武《げんぶ》〉という亀と蛇の合体動物《キメラ》だ。けど、いったい何の相談だ……写真が気になる。何の写真だろう?
「……それに竜は、水の神様だよね。お大師様が祈ると、平安京の空に竜が現れて雨を降らせたという。たしか五龍祭という雨乞いの祭りもあったよね」
お、よくご存じ。弘法大師空海が宮中の神泉苑《しんせんえん》で経文を唱えると、竜が北天竺の大雪山《ヒマラヤ》から飛んできて三日三晩雨を降らせたことになっている。そのヒマラヤ竜は、何を思ったか神泉苑に棲みついてしまい、以来|旱魃《かんばつ》になるとお呼びがかかる、それが五龍祭だ。が、それが何だというのだ?
「――君の名前は、火の鳥に竜だから、火の神様と水の神様とが一緒にいる。すると、火は水に消されてしまうから、相性が良いとはいえないよね……」
何をいうかと思いきや、そんなこと〈陰陽五行の相剋〉や〈四神〉を用いて説明されるまでもない。神獣を二匹も飼っているようなマニアックな名前、ふつう親が命名するだろうか。これは、両親が離婚したときに母方の旧姓を選択したため、そうなってしまったのだ。
「……人の名前というのは不思議なものだ。それなりに意味がある。水が火を消す、と考えるとよろしくない。だが、火が水を熱くすると考えるとプラスにも作用する」
ふむ、それは〈陰陽五行の相生《そうじょう》〉だな。だが正しくは、火が土を生み、土が金を生み、金が水を生み、水が木を生み、木が火を生む……と五行の〈木火土金水〉が循環する。火は直接には水を生まない。それに西洋人の竜のイメージは概ね火を吐くドラゴンだ。西洋風に考えるなら相性が悪いわけでもない。
「――こういった話、僕も好きなんだよ。古の伝承や古来の理《ことわり》には、科学万能の現代にも通ずる、いや、今の世を変えうる可能性すらある、何かしらの真理が含まれていそうだからね。――君の本、読ませてもらったよ」
え? おれの本?
「どこに置いたか……ああ、これだ」
高村教授は、書類の下から一冊のペーパーバックをつまみ出した。そして表紙を眺めながら、
「『呪詛《じゅそ》における脳神経学的考察』か、……うーん」
と、学部長は唸った。
それが本の表題《タイトル》である。もちろん著者は火鳥竜介だ。二カ月ほど前に書店に並んだのだが、ほとんど売れないらしく、その後出版社からの連絡はない。だから火鳥はすっかり忘れていた。
原因はこれか……呪いがテーマだもんな、やはりマズかったか。
それは、火鳥にとっては三冊目の著作である。一冊目は『視覚情報処理』に関しての専門書。二冊目は『夢見と記憶』についてのやや軽めの専門書。ともに共著である。が、この三冊目は火鳥の独著《オリジナル》で、それも一般読者が対象だが、テーマがテーマなだけに、大学の講師という立場もあって、『呪いと脳内情報』や『脳神経学者が語る呪いの真相』や『脳科学でここまで解けた/呪いの真実!』などの出版社の提示を断り、可能なかぎり堅《かた》い表題にしてもらったのだ。
「うーん……タイトルが、今ひとつだなあ」
それでも、学部長はお気に召さなかったらしい。
だが、火鳥が著したその『呪詛』の本は、一般書とはいってもかなりハードな内容で、概略は、脳を精緻なコンピューターに譬《たと》えると、呪いとはいわばコンピューターウイルスに相当し、視覚や聴覚などの感覚器官を通じて侵入すると、脳に様々なバグを生じせしめ、結果、そのバグに応じて、心的および肉体的に様々な不都合となって現れる――といった論旨《ストーリー》なのだ。もっとも論理《ロジック》だけでは読み物とはならないので、あれこれと事例が紹介されているが、それらはできるかぎり古いもの、安倍晴明《あべのせいめい》や役小角《えんのおづぬ》のような半ば御伽噺化した伝承、もしくは古今東西の神話の類、それも現有宗教とは絡まないようなものから引用するといった用心深さだったのである。が、それらがすべて裏目に出てしまったのか、本はさっぱり売れていない。
「――僕が思うに、『呪いの科学』あるいは『呪いを科学する』といったような、単純なタイトルの方が、よかったんじゃないかね」
高村学部長はいう。
ほう、いいタイトルだなと火鳥も思った。さすが文学畑の教授だけあってセンスが違う。だが、仮にそのタイトルを思いついていたとしても、使う勇気は、火鳥にはない。
学部長は、その『呪詛』の本をひっくり返すと、裏表紙の折り返しのところに目をやって、読み始めた。
「――火鳥竜介。オカルトの闇に挑む新進気鋭の脳科学者。最先端の脳理論をあやつり世の不可思議を解き明かす。心霊、予知、超能力、そして呪い、彼にかかると科学で解けないものはない――」
その著者紹介は、編集者が勝手に書いた[#「編集者が勝手に書いた」に傍点]のだ。
「――なかなか、勇ましいじゃないか」
学部長がいうのも無理はない。火鳥自身も、見て愕然としたのだから。前二冊の専門書のそれは大学の専攻と出身と生年月日程度であった。そのつもりで任せていたのに、まるで似非《エセ》科学者かタレント教授のような扱いだ。(火鳥は講師だが)
―─そうか、写真はそこの写真だ。徹夜続きで原稿を仕上げて出版社に届けたとき撮ったのだ。だから、顔が死んでいる。謎は解けた……が、もうどうということではない。
「――君の専攻は、たしか、認知神経心理学、だったよね……」
おおせのとおり、火鳥は深々と頭を下げてうなずいた。認知神経心理学とは、簡単にいうと、脳のプログラミングを解析する学問である。素人目には、いや同業者から見ても、呪いや予知や超能力を研究するような、学問ではない。
「……だが、僕のような門外漢には、君のところの研究室が、いったい何を研究しているのか、さっぱりわからない」
ごもっとも、である。やってる当人たちだって似たようなものだからである――老教授は比較的古典的な『読み書き』モデル、助教授は『数値計算』モデル、火鳥は『視覚情報処理』モデルを専攻として'いるが、互いに他の者が何をやっているのか、もうほとんど理解できない。
「――だが、君の本は非常におもしろかった」
え?
「こういったアプローチの仕方も、ありだと、僕は思うんだよ」
どうも、聞き違えではないようだ。何やら雲ゆきが変わってきた。
学部長は、その火鳥の『呪詛』の本を閉じてデスクに置くと、再び書類を手にとって目を通しながら、あらたまった口調で話し始めた。
「――相談というのは、君のいる研究室のことなんだが、君も知っているとは思うが、川添《かわぞえ》さんがそろそろ退官なされる」
老教授のことである。再来年の春で定年だから、あと一年と数カ月だ。
「名誉教授として残っていただいてもよいのだが、どうも、お身体の方がね……」
老教授といっても七十を過ぎているわけではない。糖尿なのである。川添教授が辞めると、助教授が教授になり、そして講師の火鳥が助教授に繰り上がる、それが通例だ――が、通例ではないからこそ相談なのだと、火鳥は察知した。
「……それともう一つの問題は、助教授の吉川《よしかわ》くんのことなんだが」
はずれ――それは吉川と書いて、キッカワと読む。
毛利の「三本の矢は折れずとも」の格言でおなじみの三本の矢の一本が吉川家で、助教授の吉川はその末裔《まつえい》だ。広島だか山口だかの実家に帰ると今でも殿様をやっているらしく、かつての家来たちが駅まで出迎えるという噂である。――ばかげている[#「ばかげている」に傍点]!
「彼は助教授になって、まだ日が浅い」
そう、去年なったばかりである。
「川添さんがお辞めになったからといって、吉川くんを教授に、というわけにはいかない」
――ざまーみろ[#「ざまーみろ」に傍点]! だが、そうなると火鳥の助教授への昇格もない。
「君は、S教育大の桝波《ますなみ》さんを知っているかね」
ハアと火鳥は曖昧にうなずいた。会って話したことはないが、名前ぐらいは知っている。この分野では一線級《バリバリ》の研究者だからだ。
「桝波さんに、君の研究室に来ていただこうと思っているんだ。――内諾が得られたのだよ」
なるほど、そういうことか。
「で、吉川くんと、君のことだが」
……イヤな予感がする。
「君と吉川くんとは、同《おな》い歳なんだね」
学部長は、書類を確認しながらいった。ともに、三十九歳である。
「君が、吉川くんに比べて劣っているとか、そういったことではないんだ。わかっているとは思うが、君には四年というハンデがあるからね――」
そうなのだ、火鳥は四浪なのである。かつて火鳥は別の大学に通っていたのだが、ある私的な理由でそこを三学年の途中で辞め、一浪の後に今いる大学に受かったのだ。そのさい学部が異なっていたこともあって教養課程からやり直した。だから、四浪と同じ扱いなのである。
「――それに桝波さんは、まだ大層お若い。今年四十五だから、この先かなり長く教授を務めていただくことになるだろう。とすると……」
説明を聴くまでもない。火鳥が助教授になれるのは、約二十年後である。火鳥は、二十年後の自分を想像してみた。――六十歳だ。もう生きているかどうかすら自信がない。それに火鳥はまだ独身なのだ。講師だから結婚できないというわけではない。助教授になったら結婚しようと決めている相手がいるわけでもない。だが、もしこのままずーと講師なら、ずーと独身でいるような、そんな気がした。
「……まあ吉川くんは、助教授のままで我慢してもらうとしてもだ、君の場合は講師だからね。講師と助教授というのは、梯子の一段の差にすぎないが、実際にはずいぶんと違う」
そのとおり、投票権だって半人前だし給料も安い。それに講師という名称自体がよろしくない。予備校の講師か何かだと、すぐ勘違いされる。
「――そこで、相談なんだが、君の将来について、ひとつ提案があるんだ」
おいでなすった。イヤな予感がいよいよ現実味を帯びてきた。上が閊《つ》っかえていて昇格できない場合、昇格を条件に他所《よそ》の大学に飛ばされると相場が決まっている。その大学は、ここよりランクが一つ二つ下で、飛ばされると二度と再び戻っては来れない。いわゆる都落ちだ、あーあ……。
「――新しい研究室を考えているんだが」
どこの大学の……。
「たとえば、君のところの研究をベースにして、人工知能への応用を考えるとか」
人工知能なら認知科学系だな。だが、おれがやっている認知神経心理学は、〈心理〉という単語が含まれているように、これはあくまでも生きた人間が対象なんだが……。
「あるいは、これはそもそも、君の持論だそうだが、外部の様々な情報とのすり合わせをやる、といったような……」
誰に聞いたんだろう。火鳥は親しい同僚と酒を飲むとよくその話をする。それが廻り廻って学部長の耳に届いたのかもしれない。火鳥が呪いの本なんかを書いたのも、他情報とのすり合わせ、まさにそれが狙いであった。
「……外部の情報といっても、多岐にわたるだろう。伝承や古来の理も当然含まれる。それらと人工知能とは一見つながりはない。だが、その間に君の専攻とする認知神経心理学のアルゴリズムを嵌めこんでみると、不思議とうまく噛み合うような気もするのだよ」
ふむ、いわんとしてることは何となくわかる。だが、人工知能はおれの専門じゃないしなあ……。
「それに、君が真に研究したいと考えている課題が何かということも、うすうす知っている」
え、ホントに知っているのだろうか? 呪いの本など問題にならないほどヤバいことなんだが。
「それらをすべて含めてだ。――新しい研究室をだね、火鳥くん、君が中心になって本学で[#「本学で」に傍点]やってみる気はないかね」
「なんですって――」
火鳥は大声を発した。
それまでは、アアとかエエとかハアとか相槌《あいづち》程度しか口にしていなかったのだが、予想だにしなかった展開に、火鳥はすっかり舞い上がってしまった。その後《あと》の火鳥は、熱弁を奮って、作りたい研究室の未来像を滔々《とうとう》と語り、「次の学部長選も[#「も」に傍点]高村教授に入れますから」といい加減なおべんちゃらをいって、「ご期待に沿うよう粉骨砕身で頑張りますから」と二つ返事で引き受けてしまったのだ。
けれども、現実はそう甘くはない。火鳥の身分はしばらくは講師のまま、研究室もしばらくは分室扱いなのだ。だが、ひとつだけ火鳥が良い方で驚いたことがあった。――助手の人選だ。
「新しい研究室を起こすにあたっては、優秀な人材《スタッフ》をひとりつけるから――」
その、高村学部長の言葉には、全く嘘がなかったのだ。ちょっと信じられないような女性がスタッフに加わった。それが、西園寺静香である。二十八歳で情報工学の博士号をもち、理学部の方から転属してきたのだ。人工知能をお題目のひとつに掲げたので、そのための人選であることは明らかだ。
だが、それだけではない。彼女は学部に入学のときから評判の美人で、火鳥もキャンパスで見かけるたびにボーと眺めていた口なのだ。その後大学院に進んだことは知っていたが、まさか自分の研究室に、それも直属の部下として配属されようとは。
「――あんな座敷牢に、なんで女神さまが必要なんだよ」
と、周囲がやっかむのも無理はない。
実際、会って話してみると、才媛にありがちなツンケンしたところなど微塵もなく、穏やかで優しい性格の女性なのだ。
ところで、座敷牢――。
仲間内では、情報科分室はそう渾名されている。
情報科[#「情報科」に傍点]などといった芒洋《ぼうよう》とした名前のセクションが、いったい何をやろうとしているのか周囲も興味津々で、つまり衆人環視の状況でもあるからだ。とはいっても、始終、誰かに見張られているわけじゃない。
日常的には――呑気なもの。
――座敷牢では、その女神さまが水晶玉に見入っていた。
応接テーブルを挟んで、回転椅子《デスクチェアー》に座って腕組みしながら背もたれに寄りかかっている男が、いわゆる牢名主である。
この部屋は、廊下側のドアから入るとすぐ書棚にぶち当たる。迂回《うかい》して右に行くと隣室に通じている室内扉があり、左側にはスチール書棚が五列ほど並んでいる。だから火鳥が使えるのは、北の窓に面した僅かなスペースだけだ。が、その中にあって、今、彼女が座っている長椅子は際立って異様である。
それは鳩血色《ルビーレッド》のゴージャスな革張りで、真珠貝がパカッと蓋を開けたように、背もたれが優美なアーチを描いている――何でも、この応接セットは、以前大学に寄付されたものだそうで、派手すぎるという理由で引き取り手がなく、空き部屋だったここに[#「ここに」に傍点]放置されたままになっていたのだ。……運がいいかどうかは別として、火鳥が座っても様にならない。
壁を背にしてその長椅子を置くと、テーブルは何とか収まったが、さらに二脚あった同種のひとり掛けの椅子はもう余裕がなく、大学の備品庫に眠っているはずである。そのテーブルのすぐ横に、窓に面して、火鳥のデスクが置かれているのだ。
「なんだか、目がおかしくなりそう……」
西園寺静香はいって、水晶玉から顔を逸《そ》らした。
「……そう、それが正解だ」
火鳥は訳のわからないことをいう。彼は、別のことも少し考えている。
「どこが、正解なんですか?」
静香は真顔で尋ねた。
「――目がおかしい。つまり、それがカラクリなんだな」
と、意味不明の結論めいた独り言をいってから、火鳥は本題に入った。
「水晶玉に関していうと、球体のガラスは、光学的にいって像を結ばないんだ。だから、それを見ていても、何も見えないんだよ」
その火鳥の説明に、静香は首を傾《かし》げた。
「……でも、何か映ってますよ、火鳥先生」
少し離れたところからその水晶玉を眺めながら、静香はいった。
「ああ、表面にはね……芯の部分には、何も映っていないはずだ。ガラス表面への映り込みを防ぐために、黒い布を下に敷いて、黒い衝立《ついたて》か何かで囲って、薄暗いところで見るのが[#「見るのが」に傍点]、この水晶玉の正しい使い方だ――」
じゃ、最初に正しい使い方を教えてよ、と怒ったりするような西園寺静香ではない。
「……見えもしないのに、見るのですか?」
彼女は、なおも真剣にきいてくる。
「見えないのに見ようとすると、誤作動を起こすんだよ。――もちろん、脳がね」
「誤作動って……幻覚か、何かですか?」
「そう、正しくいえば幻視だな。まぼろしが見えてくる――」
「私は、何も見えてこなかったけど……」
思い出すようにしながら彼女はいった。
「あの程度の短い時間じゃ無理だろうね、人にもよるだろうが、それに、さっきいったように条件も整える必要がある。――西園寺さん、ガンツフェルト知ってるかなあ」
火鳥は尋ねたが、静香は知らない様子である。
「我々の神経心理の方ではまず使わないけど、いわゆる感覚遮蔽実験の一種でね、半分に切ったピンポン玉を目に載せて、そのピンポン玉に、ランダムに明滅する光を当てるんだ」
「――バーチャルスコープに似たような装置が、たしか出ていますよね」
静香は、思い出したようにいった。
「……なんだ、知ってるじゃないか」
「それがガンツフェルトという名前だとは、知らなかったので……」
ごめんなさい、といった表情を彼女はした。
火鳥は、咎めたつもりはない。
「――いや、ガンツフェルトというのは古典的な一般名でね。僕はその……バーチャルなんとかに似た装置の方の名前を、知らないから」
とりあえず火鳥は訂正をした。西園寺静香と話すと、けっこう気を使うのだ。
火鳥は、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとポンポンポン――といってくれるようなタイプの女性の方が、どちらかというと好みである。
「……でね、ガンツフェルトも水晶玉も原理は似たようなものなんだ。まず、一般的な説明をしよう。目から入ってきた情報は、脳の視覚野《スクリーン》に投影されるよね」
火鳥は、自分の後頭部のあたりに手をやった。
「――と同時に、認知の工程にも廻される。見えているものが何かということを判断するためにね。もっとも、この認知作業は脳が自動的《システマチック》にやってくれる。たとえば、水晶玉を見ると、映像記憶の貯蔵庫《ライブラリ》から検索をし、同等《イコール》のものを探し出して、もし同等のものがない場合は近似のものを見つけて、そして意識に教えてくれる。――いや、正確には、必要があらば即わかるように、意識が取り出し易いようにと、関連する記憶を整えてくれるんだ、脳がね……」
静香はうなずいた。だが、この程度のことは火鳥に説明されるまでもなく、彼女もすでに理解しているはずである。
「……いちいち脳が、こら水晶玉だ、水晶玉だと喚《わめ》き出したら煩《うるさ》くて仕方がない。脳は奥ゆかしく、控え目に、そういった認知の作業を黙々とやってくれている。けれど、水晶玉などを見ると、目からはまともな情報[#「まともな情報」に傍点]が入力されなくなる。見ようと思って見ているのに見えない。そういった状態を長々と続けていると、どうなる?」
「――認知の作業ができません」
静香は即答した。
「そのとおり、映像に関しては認知作業が行えない。それだけじゃない、この回路に誤作動が生じる場合があるんだ。たとえば、この回路を信号が逆流する[#「信号が逆流する」に傍点]といった様をイメージしてごらん……さて、どうなるか?」
静香はしばらく考えてから、
「記憶にあるライブラリ映像が、逆流して出てくるのでしょうか……」
と、答えた。
「そのとおり。仮想モデルではなく、現実にそういった現象が起こる場合[#「場合」に傍点]があるんだ。……じゃ、その記憶庫から出てきた映像は、どうなる?」
「――それが、見えるのですよね」
静香は答えた。
「そう、その記憶映像が脳の視覚野《スクリーン》に投影される。だから意識にとっては、見える[#「見える」に傍点]、という理屈になる。この状況のときに脳波計などでモニターしていると、脳の視覚野に……ふわっ、……ふわっ、と活性化が見られるんだ」
火鳥は、手でクラゲが泳ぐような仕草をした。
「後頭部の右脳よりに……ふわっ、……ふわっ、と間欠泉のように現れるんだよ」
再度、火鳥は手のクラゲを泳がせた。
「――じゃ、もしも、これが間欠泉じゃなく、連続して活性化が観察されたとしたら、その人の意識にとっては何が見えると思う?」
火鳥は尋ねた。
「――動く映像が見えるのでしょうか」
しばらく考えてから、静香は答えた。
「そうね、動く絵が見える場合もあるだろうな。だが、連続して活性化が起こる場合は、それはもう夢[#「夢」に傍点]が見えていると考えた方がいいだろう。意識レベルが低下してくると往々にしてそうなる。――ご存じのとおり、夢もまた、同じ視覚野《スクリーン》に投影されるから、見える[#「見える」に傍点]、といったふうに我々の意識には感じられる。もっとも、意識の状態は、異なるけどね――」
静香は、何かをイメージしながら、うなずいた。
「――ガンツフェルトの場合は目を蔽《おお》ってしまうから眠気を誘いやすい。この種の実験では、被験者に眠られてしまうと失敗なんだ。意識が冴え冴えとした状態でないと、せっかく見えてきたのに、それが何かということを彼[#「彼」に傍点]自身が客観的に判断できないからね。それに、その絵を記憶しておくことすら儘《まま》ならない。――その点では、古典的《レトロ》だけど、水晶玉の方が優れてるといえるだろうな。両目ともしっかり開けているから、睡魔に襲われることはまずない」
「……先生、素朴な疑問ですけど、そこまでして、いったい何を見ようとするんですか」
静香がきいてきた。
「いい質問だね。――単純にいうと、記憶だ。映像記憶だ。それを見たいがために、あれこれと策を弄しているわけだ。……が、西園寺さんは、こんな答えを期待しているわけじゃないよね」
そうです、と静香は美しい笑顔でうなずいた。
「じゃ、具体的に説明しようか――」
火鳥は、テーブルに置かれている水晶玉を、自分の方に引き寄せた。
「――たとえば、君がこの部屋にやって来る数分前といった設定にしよう。僕は、条件を整えて、この水晶玉に見入っている。僕の願いは未来を知ることだ。だが、水晶玉を見ても、とりあえずは何も見えない。目からの入力がないから映像に関しての認知作業は行えない。――ところがだ、ダメなのは映像に関してだけで、他の感覚器官は生きている。たとえば、聴覚――僕の耳は、隣室におけるごく微小な音をキャッチしている。ただし、その音は僕の意識には上ってこない。水晶玉を見るといった行為に熱中しているからね。少々の物音がしても僕の意識にはわからないんだ。だが、脳は音に関しての認知作業も、やはり自動的にやってくれている。その音は、誰かの足音だったとしよう。すると、記憶の貯蔵庫《ライブラリ》から同等《イコール》のものを検索して、脳はその人物を特定することができる。つまり、隣室にいるのは西園寺静香である、といったふうに。さらに、僕の嗅覚も生きている。隣室から微かにコーヒーの匂いが漂ってきていることを、脳は知っている。だが、やはり僕の意識にはわからない。――以上の情報をまとめて、再度、認知の工程にかける。このさい参照となるのは全体的な記憶だ。つまり、エピソード記憶と照合することになる。すると、過去に同種の状況があったことを、脳は探し出した。そのエピソード記憶には顛末も記録されている。そして、未来を知りたいという僕の意識の欲求を叶《かな》えるべく、その顛末に相当する部分の映像記憶を、脳は活性化させる。それが……ふわっ、と視覚野に投影される。僕の意識はそれを見る。君がコーヒーカップをふたつ持って、この部屋にやって来るという、映像をだ」
「――つまり、未来を予知したことに、なるんですね」
静香は、少し驚いたようにいった。
「結果だけを見れば、そうだね。だが、中身は単純なパターン認識の一種にすぎない。脳が通常やっている認知作業の枠から逸脱しているわけでは、決してない。それに、エピソード記憶だって、その顛末部分がひとつだとは限らないだろう。君がひとり分のコーヒーを煎れて、ひとりで隣室で飲むといったパターンも、ありえるわけだから」
「……先生がいらっしゃるときには、私はいつも先生の分もご一緒に作りますよ」
静香は、ちょっと不満げにいった。彼女が煎れてくれるそれはインスタントではない。隣の研究室にはガス台があり、そこでしゅんしゅんに湯を沸かして、ペーパードリップを使ってオーソドックスに作っているのだ。
「いやあ……いつも美味しいコーヒーを、感謝してますよ」
火鳥は礼をいった。が、実のところ彼は日本茶党なのだ。コーヒーの味の良し悪しなどまったく興味がない。自宅では四六時中煎茶を飲んでいる。
「――筋道が一本で、起承転結がはっきりしている場合には、予知として当たる場合[#「場合」に傍点]もある。もし僕が煙草を吸っていて、その煙草の吸いさしを灰皿の縁に置いたままにして、そして、水晶玉に見入って熱中していたとしよう……何が見えるだろうか」
「――火事の絵が、見えそうですよね」
静香は答えた。
「そう、僕の意識は、吸いさしの煙草のことなんかすっかり忘れていたとしても、脳の方はちゃんと知っているわけだ。こと現状認識に関しては、脳は極めて優秀だからね。それに、外界からの情報を得るための感覚器も、目、耳、鼻、皮膚、舌、つまり俗にいう五感――だけじゃないからね」
「……俗にいう第六感ですか」
「その表現は……正しくない」
火鳥は、笑顔を作りながらいった。
「感覚器という表現も、実は、正しくない。――目や耳などの感覚器を通じて脳に情報が送られ、それが意識に感覚されるという意味でそう呼ばれるわけだが、ところが、脳に取り込まれる情報のかなりの部分が、当人の意識には感じられないんだ。最近の研究でそれがわかってきている。意識に感覚されない場合もあるのだから、感覚器という名称はおかしいよね。だから、専門的には、目や耳なども含めてすべて受容器と呼ぶ――さらに、この受容器だけど、実にさまざまな、不可解なものが人間の身体に備わっていることも次第にわかってきている。たとえば、人の指先に光を当てると、その人の脳には反応が出るんだ。脳波計でそれをモニターすることもできる。だが、当人の意識にはわからない――」
「それは、皮膚の感覚ではないのですか。光は、熱を持ちますよね」
「いや、その点は抜かりがない。熱を伝えないファイバーケーブルを使っての実験だから」
「……指先で絵や文字を見ることのできる人、そんな超能力を持った人がテレビに登場したりしますけど、あれは本当なんですね――」
静香は、眼を輝かせていった。
「――関連は、否定できるものではない。けれども、目隠しをしてそういったパフォーマンスをやる人は、ほぼ百パーセント、いかさま[#「いかさま」に傍点]。目隠しは、イコール、手品です――」
断定的に火鳥はいう。
「火鳥先生、そちらの方もお詳しいですものね」
実際、この種の知識も火鳥は豊富である。いったい何やさんかと思えるほどトリックには精通している。
「じゃ、後学のために幾つか教えてあげよう。まず、目の窪みに五百円玉をあてがう。アメリカだとハーフダラーのケネディーコインだね。それをガムテープを使って顔に留める。その上にアイマスクをする。もしくは、帯状の黒い布で顔をきつく縛る。さて、このトリックのタネやいかに……」
静香は、わからないといった顔をした。
「――コインがくせもん[#「くせもん」に傍点]なんだ。もしコインを使わずに、目を閉じた状態で、その上から直にガムテープを貼ったとしたら……これはキツいよね。瞼が糊づけされちゃって、開けられないでしょう」
静香はうなずいた。
「――さらに、コインのお陰で隙間もできるんだ。アイマスクをした直後に、やつらは決まって手で目を押さえるはずだ。このときにコインを浮かせている。下方向に隙間を作ればいい。それに、布で顔を縛る場合は、きつく縛れば縛るほどコインが浮く。鼻の側が浮くんだな、これは、西洋人のペテン師がよくやる手口だ。やつらは鼻が高いからね――」
といいながら火鳥は、鼻をひと撫でした。火鳥は東洋人なので鼻は高くない。日本人としては、まあ普通の部類である。
「では次――。まずコインで蓋をする。ガムテープを貼る。アイマスクをする。さらに黒い布でぐるぐる巻きにする。さらにその上から、顔全体を隠すぐらいの黒い紙袋をすっぽりと被せる。さあて、このトリックやいかに……」
火鳥の早口に、静香のイメージが追いつかない。
「黒い紙袋がネタです――」
間をおかずに、火鳥は答えをいった。
「――これは考える必要がありません。何重に目隠しをしても、いかに厳重な目隠しをしようが、それらは誤誘導《ミスディレクション》でしかない。最終的には黒い紙袋を被せてしまうから、中が見えなくなる。つまり、中で目隠しを解かれていたとしても、外からではわからないといった理屈――」
騙《だま》された、といった顔をしながらも静香はうなずいた。
「……そうそう、袋で思い出したけど、胃袋の表面にも光を感じられる受容器があるんだ――」
突然と、火鳥は話を戻した。
「それから、磁力線の変調を感知するような受容器も人には備わっているらしい。場所は不明だが、おそらく脳のどこかにある――鳩にあるのは知ってるよね、彼らは地球の磁場を頼りに飛んでいる。人間にも、まだかなりの数の未知の受容器が備わっているだろう。そこから得られた情報は、目や耳などから得たものと同様に、やはり認知の工程にかけられているはずだ。過去の記録もやはり記憶として蓄積されている。――たとえば、まったく仮の話だが、磁力線の僅かな変調があれば、その何日か後に地震が起こるといったようなパターンも、脳は組み立てて知っているかもしれない。つまり、我々の意識など及びもつかないほどに、脳は奥深い知見を有している可能性が、大なわけだ。――それだから、人は水晶玉を覗き見るんだよ」
「……え」
静香は、最後の部分だけが理解できない。
「あれは、脳が有している情報と直に接するための、ひとつの方法なんだ。他にも幾つか方法はあるが、映像として取り出すのが最も効率がいい。君も知ってのとおり、映像は情報量が多いからね。それに、見えてくる幻視も、映像記憶の単なる再生ではない。他の受容器から得られた情報も加味し、再構成して映像化される可能性があるからだ。意識では絶対に知り得ないようなことが見える、可能性があるんだ。だから、古代の人は水晶玉を見たんだよ――」
静香はうなずいてから、
「それが、私が最初に尋ねた、素朴な疑問の答えなんですよね――」
「そう、でも、これは序章《プロローグ》だからね……」
ふたりの会話の最初の頃のように、火鳥は、またも謎めいたことをいう。
壁にかかっている丸時計を見ると、午後の二時になろうとしていた。
そろそろ着く頃だな――。
火鳥は、午前中の来客のことを考えているのだ。
彼の部屋に来ていたのは若い女性である。その娘《こ》と火鳥が出会ったのは、今年の三月のことだ。
分室への引っ越し荷物をあらかた整理し終え、大部屋の方の、今は西園寺静香が使っているデスクのあたりで、火鳥がひとりで煙草を吹かしていた時のことである。
開け放たれていた廊下側のドアロから、その娘がひょこんと顔を出した。
この大学の生徒にしては、少し若すぎる感じがする――四月からの新入生が下見にでも来たのだろうかと、火鳥は思った。が、それにしても、四階のこんな奥まったところまで探索しに来るのは不自然である。
それより何より、火鳥はその娘を見た瞬間、説明のしようがない感情に囚《とら》われた。単純にいってしまうと、いわゆる一目惚れである。火鳥は、女子高生|好き《マニア》というわけでは決してない。
その娘は、遠目に火鳥を確認すると、コクと会釈をして部屋に入って来た。
そして、火鳥の顔を真っすぐに見据えながら、つかつかつか……と彼の方に歩みよって来る。火鳥は、とりあえず、吸っていた煙草をもみ消した。
何か御用――。
そういおうとしたのだが、声が出ない。
「――火鳥竜介さん、ですよね」
その娘の方が先にいった。
火鳥は、ハイとうなずいた。
「よかった、写真よりも素敵な人で……」
写真?
「……わたし、麻生まな美といいます」
麻生[#「麻生」に傍点]――。
火鳥竜介にとって、それは、忘れようにも忘れられない名前である。
「――麻生竜一郎の娘です」
と、彼女はいう。
竜介の頭のなかで、何かがバーンと音を立てて弾け飛んだ。
「やっと会えた、――おにいさん」
まな美はいった。
竜介にとっては、つまり、妹である。
父親が同一なのだから、そうなる。そのことは即理解できた。けど、母親は誰なのだろうか……それを思った途端に謎が解けた。なぜ彼女に一目惚れをしたのか、その理由《わけ》がわかった――。
面影があるのである。火鳥のかつての恋人に似ているのだ。当然だ。その実の娘であるからだ。
「――僕は、君のお母さんとは、実際なんにもなかったんだから」
しばらくしてから、意を決して火鳥がいった言葉がこれである。が、
「そんなこと、夢にも思ったことない……」
と、まな美は笑い転げてしまった。
「……わたしが生まれる前の話でしょう。もう時効が成立してるわ、おにいさん」
そう妹にいわれて、火鳥は幾らか平常心を取り戻した。
ここ[#「ここ」に傍点]に自分がいることがどうしてわかったのか尋ねると、まな美は、持っていた学生鞄から一冊の本を取り出した。
『呪詛における脳神経学的考察』――である。
一般書とはいえ、こんな小難しいタイトルの本を女子高生が読むとは、火鳥にとっては驚きだ。その著者紹介を見てわかったと、彼女はいう。
「――親切な親戚の人っているものよ。まな美、あなたもそろそろ大人だから、知っておくことがあるの……て」
火の鳥と書いて火鳥、兄が母方の旧姓を名のっていることを、彼女は教えてもらっていたのだ。
「けど、写真を見たときは、ちょっとがっかりした。まるで死人みたいな顔なんだもん――」
誰が見ても、その写真はそう見えるようだ。
「――ドアから覗いたときは別の人だと思った。でも、近くまで行くと、おにいさんに間違いないって思えてきたの、不思議よね。……誰かに似ていたからだわ」
誰に似ているのか、まな美はいわなかった。
「――おにいさん、これからも会ってくれる」
まな美はいう。
断る理由など、火鳥には何ひとつとしてない。
[#改ページ]
マサトは柱に凭《もた》れながら、広縁《ひろえん》に足を投げ出して座っていた。そろそろ約束の時間だが、まな美も、もうひとりの土門巌《どもんいわお》という男子の友人も、まだ訪ねて来ていない。
マサトがいるのは、能舞台みたいとまな美が称した離れの奥座敷である。長々とした和室が庭に張り出した造りだから、そう見えなくもない。その座敷は畳の間《ま》が幾つか繋《つな》がったものだが、障子や襖などの間仕切りが取り払われていて、その北の面と西の面を、幅一間ぐらいの板張りの縁側――すなわち広縁――が囲っている。広縁の外周に沿って、屋根の軒《のき》を支える柱が等間隔に何本か立っているし、座敷の内にも敷居の要所要所に柱があるから、能を舞ったりするには少し無理がある。が、ぐるりの雨戸を開け放つと解放感はかなりのものだ。
板組みの雨戸は一枚一枚が相当な重さだが、手入れが行き届いているせいか溝を軽やかに滑って、隅にある分厚い戸袋のなかに見事に納まる。今も、そのようにして雨戸をすべて仕舞い、ひんやりとした広縁の床にマサトは座っているのだ。
そこはほぼ北に面しているから、昼の今時分は陽が差し込まないのである。それに、木々の梢をすり抜けてくる風も心地よく、マサトは微睡《まどろ》みかけていた――。
そのころ、土門巌は古利根川《ことねがわ》に架かる橋を渡っていた。この川を境に、越谷市からマサトの家がある春日部市に入るのだが、つまり土門くんは、駅から歩いていたのである。
彼も二度ほど来たことがあるので場所は知っている。バスの窓からでも、その古利根川を渡りきった土手のあたりで、右斜め前方に、屋敷を隠しているこんもりとした森が見えるのだ。だから橋まで辿り着けば迷うことはない――と思って歩き始めたのだが、読みが甘かった。
駅の周辺を除くと、沿道には高い建物がほとんどない。それに、やや長髪にしている彼は帽子を被ってきていないのだ。
「……誰や、歩こうなんていうたんは」
自分である。
「けどバス代をけちったんと、ちゃうからね……」
実際、土門くんが駅の改札を抜けると、駅前発のバスは出た直後だったのだ。次のバスまで約二十分もある。昼間なので本数の少ないバスの運行は、ある程度は列車の時刻と合わせてあるのだが、列車の方のダイヤが乱れていたのだ。
それに、バス代をけちったとしても、ついさっき橋の袂にあった自動販売機で缶ジュースを買ったから、チャラである。その冷たいスポーツドリンクを一気飲みしているときに、次のバスに追い抜かれてしまった。
「歩くと三十分いうんは、ほんまなんやな……」
土門巌は中学三年の途中まで神戸市で育ち、そして今住んでいる埼玉県の岩槻《いわつき》市に越してきた。だから関西弁で思考する。
「バス停まで行かんでもええ、斜めに行くのが近道や――」
彼は、橋を渡り終えるとバス道から逸れ、車一台がやっと通れるほどの小道へと歩を進めた。
土門くんを追い抜いていったバスに、麻生まな美が乗っていた。
古利根川の橋から五百メートルほど先にバス停があり、そこで降りて速足で歩くと三分ほどで森[#「森」に傍点]に着く――彼女がいうところの鎮守の森である。そこは、常緑の松や檜もあれば小楢《こなら》や鶏爪椛《いろはもみじ》のような落葉樹も混在していて、いわゆる雑木林なのだが、目立たない程度に刈り込みなどの手入れがなされているらしく、ごくごく自然な風合を保っている。
まな美は、その森の中にひっそりと隠れるようにしてある古びた木の門の前で立ち止まっていた。
「これ、腕木門《うできもん》っていうんだわ――」
門柱の上部から前後に張り出している腕木が[#「腕木が」に傍点]屋根を支えている構造だから、そう呼ぶ。
「これは、沓石《くついし》――」
門柱の土台になっている石のことである。
「太い角柱《かくばしら》だわよね、一尺はあるかしら……」
一尺は約三十センチだが、その太い門柱がデンと左右に立っていて、その間に、見上げるほどの高さの両開きの板扉が隙間なく嵌まっている。
「……このきれいな筋は、鋲《びょう》のせいね」
板扉の表面には山丸鋲が打たれてある。そこで雨水が垂れて枯れた筋模様を残すのだ。
試しにと、まな美はその板扉を押してみた。が、やはりピクリとも動かない。
「……冠木《かぶき》も太いわよね」
その板扉の上にあって、左右の門柱の上部を貫いて支えている、横木のことである。
「あら、冠木からも腕木が出てるんだ……」
屋根の大きさや造作《デザイン》によっては、腕木は、左右の門柱からだけじゃなく、冠木からも張り出している場合がある。ここの門は冠木の真ん中から一本出ていて、都合三本の腕木で瓦屋根を支えている。
「そうそう、腕木の下にあるのが肘木《ひじき》よね――」
腕木の真下にあって腕木の支えとなっている角材のことである。肘木は腕木よりも短い。
「化粧|垂木《たるき》がきれいだわ……」
軒裏のところに櫛《くし》の歯みたいに並んでいる細い角材のことだが、化粧[#「化粧」に傍点]というぐらいだから、なくても支障はない。が、あるとそれなりに美しい。
「――でも、腕木門っていうのは格式ばった門じゃないから、これは裏門だとマサトくんがいってたのも道理だわ」
じゃ、表門はどんな門なのか……それを確かめる余裕はない。すでにマサトとの約束の時間を過ぎてしまっているからだ。
それにしても、まな美はや[#「や」に傍点]ったらと詳しいのだが、何かの専門書を今見ているわけではない。マサトの家を訪ねる今日に備えて、しっかりと予習してきているのである。
「あら、あんなところに――」
軒裏の薄暗い空間に、この古びた木戸門にはまるで似つかわしくない異質なものが据え付けられてあることに、まな美は気づいた。
「カメラだわ――」
防犯用のカメラが、そのレンズの筒先を彼女の方に向けていたのだ。
「けど、誰が見ているのかしら……」
まな美が知るかぎり、中の屋敷に住んでいるのはマサトと、それに、桑名竜蔵だけである。今もふたりの内のどちらかが見ているのだろうか、まな美は、そのカメラに向かって舌でも出してやろうかと一瞬は思ったが、
「今日のわたしは違うの――」
さも[#「さも」に傍点]どこかの令嬢のように、たおやかに腰を折ってお辞儀をした。――今日のまな美は特別なのだ。母から掠めてきた二十年ものという麻のワンピースを着ているからである。
その裏門に呼び鈴などはついていない。脇にある小さな板戸は明るいうちは始終開いているらしく、そこをくぐって、木々の間を抜けながらしばらく歩くと、屋敷の渡り廊下の横あたりに出る。左に廻り込んでいけば離れである。マサトは、いつもその離れの方にいるから直接訪ねて行けばよい。
その途中で、まな美はまたひとつ惹かれるものを見つけた。森の茂みの奥にひと抱えほどある苔むした岩が露頭していて、それに注連縄《しめなわ》が張られていたのだ。
「ここにも、神様が依《よ》るんだ――」
岩そのものが神というわけじゃない。ときおり、ここに神が降りてくる。つまり、その岩は神の依代《よりしろ》なのだと彼女は思ったのだ。この種のことに興味を覚える人――が、そう考えるのはごく自然である。だが、実際のところは違っていたようだ。
この森には、屋敷を囲うように同種のものがまだ多く点在しているからだ。
「――わたしは、誰でもかまいません。この国の霊のひとりです」
まな美は口ずさんでいた。
「――我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。どこにでも、またいつでもいます。お気をつけなさい。お気をつけなさい……」
それは、芥川龍之介の小説のなかの一節《ワンシーン》である。戦国時代に布教にきた異国の神父が日本の神と出会う。その日本の神は『この国の霊のひとり』だといい、そして神父に『お気をつけなさい。お気をつけなさい……』と忠告をする。まな美は、このシーンがことのほかお気に入りなのだ。
「八百万も神様がいるなんて、想像しただけでもわくわくしちゃう……」
そのころ、土門くんはほぼ[#「ほぼ」に傍点]道に迷っていた。森[#「森」に傍点]は民家の陰からときおり見えるのだが、それが近づいてくる様子がいっこうにない。行けども行けども平行線を辿っているようなのだ。
「……誰や、近道を行こうなんていうたんわ」
自分である。
「斜めの道はどこにあんのん……」
俗にアンノン語とも称されている神戸弁などに特徴的なもののひとつである。
「田圃のなかを歩くのはなあ……」
土の畦道なら斜めに行けそうな道が、それまでにもあったことはあったのだが、気が進まない。その辺りには、彼の大の苦手なものがいそうだからだ。
――蛙である。
生きているならまだしも、もし死んだ蛙が地面にくちゃーと潰れていたりすると、それを見ると、もう絶対に彼は嘔《は》いてしまうからだ。
ちなみに、彼はスイカも嫌いである。幼い頃に、蛙とスイカに関係して、ちょっと他人にはいえないおぞましい体験が土門くんにはある。
「……あかんあかん、せっかくの靴が汚れるやんか」
言い訳めいてはいるが、下ろしたての白のバッシュを履いてきているのも事実である。
それにベージュのチノパンをあわせ、枯れた煉瓦色のポロシャツの襟を立てて着ている。ややクラシカルな装いだが、土門くんも今日は精一杯のお洒落をしてきているのだ。
理由は単純、――麻生まな美に会うからである。同じ歴史部の部員なので放課後には頻繁に顔を合わせるのだが、私服で会うチャンスはそう滅多にない。だから、彼女が好みそうなさわやか系[#「さわやか系」に傍点]で決めているつもり。
もっとも、熱烈に恋をしているとか、そういったレベルの話でもない。麻生まな美のことを気にかけていない男子生徒はM高にはおそらくひとりもいないし、土門くんもその例に漏れず、なのである。
「もう充分に遅れているんやし、今さら焦ってもしゃーないな、真っすぐに行こ――」
彼はやはり、このまま舗装されている道を歩くことに決めた――。
森のなかの屋敷は、静寂そのもの――。
いや、これは嘘である。
夏の今時分は相当に蝉の声が煩い。朝も、何を思ってか雨戸にへばりついてジリジリジリ……とひと鳴きしてから、バチバチと羽音を立てて飛び去っていく、これでマサトが目を覚まされることも珍しくはない。だが、不思議なもので、いったん鳴き始められてしまうと、それがどんなに騒々しい音量であっても気にはならなくなってしまうものだ。広縁で、柱に凭れながら仮寝《うたたね》をしている今のマサトにも、おそらく蝉の声は届いていない。
マサトが目を開けると、白い服の女性が、西面の庇の下を歩いていた。北西の角を曲がり、何本か立っている軒支えの柱をよけながら、こちらに来る。
「……ごめんね、遅れてしまって」
マサトが座っている広縁のふち外のところまで来てから、彼女はいった。
マサトは、どこか夢を見ているような奇妙な感覚に襲われた。
何に遅れたの……おかあさん?
その白い服を着た女性がまな美だとわかっている[#「まな美だとわかっている」に傍点]のに、その幻想を消すことができない。マサトには、実際のところは母親に関する記憶はない。
「――途中の駅で事故があったの、目撃していた人はいませんか、て車掌が何度もアナウンスしてたわ」
まな美はいった。
マサトは、その奇妙な幻想を頭から追い払うように立ち上がって、何か冷たいものを取ってくるからと奥の方へと入っていった。――メインの炊事場は母屋の方だが、この離れにも小さな台所があって、そこの冷蔵庫に飲み物と果物程度は常に用意されてある。
烏龍茶の入ったガラスボトルとグラスなどを抱えてマサトが戻ってくると、まな美はその広縁のふちに腰掛けて地面の方を見やっていた。
「――沓脱ぎ石でしょう。次が二番石……そうそう、たしか床の間と関係しているんだ、だから左側にずれてる。三番石、あれが飛石――」
庭からの出入りの便をよくするために縁側のきわに置かれている平らで大きな石が、沓脱ぎ石だが、その先にも点々と、ある約束に従って小さめの石が置かれている。彼女はその種のことに見惚れていたのだ。
「――マサトくん、ここよりも凄い屋敷に住んだことある」
グラスに注がれた鳥龍茶をひと口、ふた口飲んでから、まな美がいった。
この屋敷は凄いわよね、という意味で彼女はいったのだが、マサトはそれを質問だと受け取った。だから自身の思い出の中からひとつ、印象に残っている凄いもの[#「凄いもの」に傍点]について語り始めた――。
こんもりとした山があって、その山裾に沿うように道が通じていて、その奥に、崖を切り開いたようなところに洋館風の家が建っている。門をくぐってから家までは五分、子供だから、遠く感じたのかもしれないが……夜に、ひとりでその道を歩くのは怖い。道の途中には外灯がひとつしかないし、それも暗い電球しか点《つ》いていない。真っ暗な山の中から、いつお化けが降りてきても不思議じゃない。
和室の離れがあって、そこの窓から、夜だと街道を走る車のライトが下の方に見えるけど、音は微かに聞こえるか、聞こえないぐらい。
その離れと洋館風の母屋とは渡り廊下で繋がっていて、その廊下の途中にお風呂があるんだ。風呂は外に面しているから、そこが凄いんだよ。
明かりにつられて蛾が集まってくる。お風呂場の電灯のところに、わっさわっさ、と掌ほどある蛾が何匹も羽ばたいていたことがある――マサトは、両手で羽ばたきしながら説明してみせた。学校では、今なお無口なマサト[#「無口なマサト」に傍点]で通している彼だが、まな美といるときだけは雄弁になれるのだ。
わっさわっさ……の下りに、まな美が顔を顰めた。彼女もいちおうは都会っ娘なので、虫の類いは苦手なのである。
マサトは、さらに別の虫の話をする――。
道の脇に木立に囲まれたような草むらがあって、春先にそこに座っていると、顔の尖ったキリギリスが服の上をピョンピョン跳ねる。それが、すっごく小さいやつで、淡い緑色をしている。地面の方を見ると、草の上に無数にそういった小さな虫がいる。ウマオイは別のバッタを背負っているし、カマキリは一人前《いっちょまえ》に鎌を振りかざして獲物を狙ってる。それらがすべて極小で、淡い緑色をしているんだ。自分がガリバーになった気分。
――そんな話をしながら、マサトはまな美の顔色を窺《うかが》った。
今度は、彼女は顰めっ面はしていない。
「不完全変態」
まな美は思ったが、口には出さなかった。その種の虫は卵から生まれたときから親とほぼ同じ形をしているのだ――知識としては知っているが、そういった光景に彼女は出食わしたことはない。
その山のなかの家には、小学校の低学年のときに、正月からその年の秋頃までいたとマサトはいった。
「――何回ぐらい引っ越しをしたの?」
何気なくまな美が尋ねると、マサトはしばらく考えてから、十五回ぐらいかな……という。
これには[#「これには」に傍点]、まな美が驚いてしまった。頻繁に家を変えていることは聞いて知っていたのだが、十五というのは想像を超えている――まな美は少し不安になった。転校してきたマサトと出会ってから、ほぼ一年が経つからだ。
「マサトくん、この先もし引っ越しをして学校が変わるようなことがあっても、連絡ぐらいは頂戴よね」
冗談めかして、まな美はいった。
マサトは頷いた。が、正直なところ自信はないのだ。その種のことは竜蔵《ジイ》の判断|如何《いかん》にかかっていて、マサトの自由にはならないからだ。これまでの例でいくと、手紙も、そして電話もダメである。
そうこうしていると、土門巌が裏庭に姿を現した。彼は非常に背が高く百八十センチを超えている。が、へろへろになっていて、長髪のすそが汗でからまり、せっかくの男前《オシャレ》が台なしである。
「――誰や、三十分で歩けるいうたんわ」
それは道に迷わなければの話である。
「め[#「め」に傍点]っちゃくちゃ田舎やな、きつねが出るんやんか」
その与太《ギャグ》には実感が籠もっている。
土門くんは、広縁に辿りつくなり、自ら烏龍茶をグラスに注いで一気に飲み干した。
「あっ、見た見た――」
まな美がいい出した。
「――橋の手前で缶ジュースを飲んでいたの、あれ土門くんでしょう」
それには答えずに、
「どないしましたの、姫、そのかっこうは……」
と、彼女が着ている白のワンピースを眺め廻しながら、土門くんはいう。
姫とは――つまりまな美のことだが、彼女のことをそう呼ぶのは、おそらく土門巌だけである。くんづけは変だし、呼び捨てにはできないし、麻生さん、というのも親しみに欠ける……あれこれ錯誤をした末に辿りついたのが、姫[#「姫」に傍点]である。
「……まるでカレンダーみたいやな、姫」
そういわれて、喜ばない女の子はいない。まな美は広縁のふちに腰掛けたまま、身体を揺らした。
が、土門くんがいうところのカレンダーは、ものが少し違っていた。母の和箪笥の横にかかっている呉服屋のカレンダー、すなわち、着物姿を彼はイメージしたのだ。そのワンピースには、裾のところに、斜めに白百合の花がプリントされている。さながら和服の裾模様のようにも見えなくはない。
「……ジイがおらへんようやけど」
グラスに二杯目の烏龍茶を注いでから、土門くんがいった。竜蔵は大概そのへんにいて、お日柄がよろしうございますな、みたいなことをいいつつ寄って来るからだ。
「ほんとね、小父さま今日はガーデニングなさらないのかしら……」
まな美も、東の森の方を見ながらいった。竜蔵のお花畑がその辺りにあって、そこだけ花が咲き誇っている。
「――物忌みだから親戚の家に籠もる[#「物忌みだから親戚の家に籠もる」に傍点]、て[#「て」に傍点]」
一字一句確かめるようにマサトがいった。
なんやそれ、と思いながらも、
「月末やから何かとねえ……」
と、土門くんはいう。
「それは、物入り[#「物入り」に傍点]でしょう……」
おつきあい、といった感じでまな美はいう。
「ほれ、あれやがな、めばちこ[#「めばちこ」に傍点]――」
と、さらに土門くんはボケる。
「……メバチコって何?」
まな美が聞き返した。
「あれ、めばちこわからへんですか?」
「――ものもらい」
マサトがいった。マサトは関西に住んでいたこともあるので、その方言は知っている。
「へーそうなんだ、メバチコってものもらいのことなの、でも、両方とも変な言葉よね。――土門くん、知らずにボケてるでしょう」
当然――といった顔を彼はする。意味なんか知らなくとも、とりあえずはボケるというのが関西人なのだ。
「物を忌むと書いて、物忌み。――そうよね」
同意を求められたマサトだが、こちらも、よくは知らないといった顔をする。
「まあ、喪中みたいなもんやね」
土門くんは適当に纏《まと》めようとする。
「喪中とは違うわ――」
まな美は、曖昧なことは嫌いである。
「――喪中っていう日は暦《こよみ》にはないでしょう。でも、物忌みはあるの――」
謎めかして、まな美はいった。
「それって、仏滅のたぐいですか? 大安やろ、それに大吉に小吉に末吉に凶、あとは何やったっけ」
「現代の[#「の」に傍点]じゃなくて、平安時代の暦にあったの」
土門くんのボケは無視して、まな美はいう。
「――当時は陰陽師《おんみょうじ》が暦を作っていたから、陰陽《いんよう》五行説や干支《えと》とかを基にして、その日その日の吉凶を占っていたの。運が悪そうな日や、何かに祟《たた》られそうな日を物忌みとして、その日は家に籠もって写経でもしながら、静かにしているの――」
「へー、祟りがあるから外出禁止か。そやけど、家の中におったらたたられへんのん[#「たたられへんのん」に傍点]?」
舌を噛みながら、土門くんは尋ねた。
「もちろん厄除《やくよ》けの護符《おふだ》を家中にはるのよ。物忌み、て護符に書けばいいんだって。……それに、物忌みという言葉自体が、鬼神の名前だという話もあるわ、お釈迦さんが生まれた国――迦毘羅衛国《かびらえこく》ね、その森に住んでいた鬼神だから、悪霊が寄ってこないそうよ」
「へー、お札《ふだ》ねえ……」
といいながら、土門くんは周囲を見渡した。彼がイメージしたような札[#「札」に傍点]は、この奥座敷にはない。
「……そやけど、天目、お前んとこはいまだに平安時代のカレンダー使ってんのか?」
「いえ、ふつう[#「ふつう」に傍点]――」
マサトは、声に出して否定した。自分の部屋にかかっているのは、たぶん仏滅や大安すらも記されていない普通のカレンダーである。もっとも、竜蔵《ジイ》がどんなものを使っているかまでは、知らないが。
「土門くん[#「土門くん」に傍点]――」
睨みつけながら、まな美はいう。
「物忌みは暦以外にもあるの。たとえば……悪い夢を見たとするでしょう、すると祟りだ[#「祟りだ」に傍点]ということになって、その日は屋敷に籠もってしまうの、これも物忌みなのよ――」
そういえば、朝起きるなり物忌みだと竜蔵《ジイ》がいい出して、部屋に閉じ籠もってしまったこともあった、とマサトは思う。
「――御神体が壊れたり、倒れたりしても物忌みだし、どこのお寺だったか忘れたけど、その塔に烏《カラス》が巣くったから、物忌み。寝殿の屋根に何かの鳥が集まったりしてもそう[#「そう」に傍点]。凶事の前兆だと思えるようなことが起こると、ぜーんぶ物忌みなの。藤原の誰だかは一年のうちの三分の一ぐらいは、そういって家に籠もっていたそうよ」
「それ、ずる休みとちゃうのん。えーなー、自分も物忌みやいうて学校休ませてもらおう」
「……お肉食べれないわよ、精進《しょうじん》料理だから」
それは困る、といった顔を土門くんはする。
竜蔵《ジイ》も肉類は食べないよな、とマサトは思った。
「……けど、さすが小父さまだわよね。物忌みだなんて、こんな洒落た言葉、そうそういえるものじゃないわ」
どこがお洒落やねん[#「どこがお洒落やねん」に傍点]――といいそうになったが、土門くんは堪《こら》えた。
マサトは、さっき土門巌の言葉を否定はしたのだが、その自信がゆらいでいた。まな美の説明が、何だか竜蔵《ジイ》の日頃の行動パターンをいちいち解説してくれているようにも思え、だとすると、すなわち平安時代に生きていることになる……ではないか。
土門くんが、
「いつまで庭におるんや――」
と、バッシュを脱ぎ捨てて広縁の床にひょいと上がった。彼ほどの背丈だと、沓脱ぎ石は用がない。どこからでも上がれてしまうのだ。
奥座敷が十五畳でしょう。次の間《ま》が……十二畳、そして三の間が……これも十二畳。まな美は、ぬかりなく畳の枚数をかぞえている。……三十九畳間ってことね、……広いはずだわ。
庭から見ると左手奥に床の間があり、床の間がある部屋が奥座敷だが、それに次の間と三の間が連なっていて間仕切りが外されているのだ。
床の間の前にずっしりと重たそうな紫檀《したん》の方座卓が置かれてあった。
まな美は、その座卓のそばまで来ても座らずに、天井の方を見やっている。
「……姫、どないしましたの」
すでに座っている土門くんがいった。
「欄間《らんま》がね……」
と、まな美はいう。
「天井のやつですか、――なんや櫛の歯みたいやな。この屋敷やったら、木彫りのもっとごっつーいのが嵌まっていそうやけど」
床の間を背にして座っている土門くんは、正面に見える、つまり奥座敷と次の間とを仕切る鴨居《かもい》の上にあるそれを見ていった。
「あれ筬欄間《おさらんま》っていうのよ……」
機織《はたお》りに使う櫛の形をした道具のことを筬《おさ》といい、形が似ているからそう呼ぶ。
「……シンプルだけど、これが一番格式が高いんだって。古い家って和室が繋がってるでしょう、襖を次々に開けて奥に入って行くんだけど、そのときにこの筬欄間があれば、その奥が一番の部屋。そこには、その家の主人《あるじ》がでーんと座っているから要注意[#「要注意」に傍点]、てことね」
「へー、今度行ったら注意しよ」
と、土門くんはいってから、
「どこでやねん」
と、自分で纏めてしまった。
「筬欄間はそれでいいんだけど、問題はこっち……」
柿渋で染めたような色合いの襖――を見てまな美がいった。
「土門くん、ここを開けると何だと思う?」
襖は、庭から見て向こう正面に嵌まっている。
「――押し入れちゃうのん」
当然や、といわんばかりに土門くんはいう。
「これ全部押し入れ?」
三|間《ま》ともに、その地味な風合いの襖が嵌まっているのだ。つまり何枚もの襖がズラズラ……と一直線に並んでいるのである。
「それに襖の上にも……欄間があるじゃない」
やはり三間ともに、その閉じられた襖の鴨居の上には、各々意匠の異なるそれが嵌まっている。
「――欄間があったらなんやの?」
土門くんは聞き返した。
「押し入れには……欄間はないの」
不思議そうに、まな美はいった。その襖の上にある欄間からは光は漏れてこない。その向こうは暗闇の何かなのだ。
マサトが、お茶のお代わりが入ったガラスボトルを持って、広縁を歩いて、ぐるーと遠廻りしながら戻って来た。
「さ、始めよか――」
土門くんがいった。
「文化祭の出しもんを決めんとな――」
今日集まったのはそのためである。
三年生は、受験を控えているので半ば引退、秋の文化祭は、彼ら二年生が中心になってやるのだ。
「……じゃ、まずは部長さんのアイデアから聞かせていただこうかしら」
まな美はいう。
歴史部の部長は土門巌なのである。
「なーんか自信満々やな……姫、すぺしゃるのネタを仕入れてきたんとちゃうのん」
姫は、ふふーんといった顔をしている。
「……しゃあないな」
といいながら、土門くんは鞄から本を取り出すと、座卓《テーブル》の上にそれを置いた。
「――なにこれ?」
「江戸の闇の魔界めぐりや」
土門くんが、その本の表題《タイトル》を読んだ。
「――だから?」
まな美の反応は冷たい。
「そやから、この中から選ぼう思てやな……」
と、苦しそうに土門くんはいう。
「去年もやったでしょう――お化け屋敷[#「お化け屋敷」に傍点]」
まな美が語尾をあげていった。
「評判は上々やったやろ……」
土門くんは小声になっていく。
「どこがなの[#「どこがなの」に傍点]、だから部員が三人にまで減っちゃったんじゃなーい」
二年生の歴史部員は、今ここにいる三名しかいないのだ。
「わたしたちの代で潰したくはないわ、由緒正しい歴史部なんだから――」
歴史部は、M高が設立された当初からある。授業の科目と同じ名称の部はだいたいが古いのだ。文化部のなかでは生物部もしかり。
「……斬られし我が体、いずれの処にあーる。ここに来たれい! 首を継いで、いまひと戦いせーん」
背筋をしゃんと伸ばした土門くんが、突然がなり[#「がなり」に傍点]出した。
「……うわあ覚えてるんだ」
小さな拍手をしながら、まな美がいった。
「一日中いうてたんやで。アホでも覚えるわ」
去年の文化祭では、平将門《たいらのまさかど》の曝《さら》し首の張りぼてをパクパクさせながら、来る客、来る客にその台詞《セリフ》を吐き続けていたのが土門くんなのである。
「ねえねえ、知ってる? あの生首、誰をモデルにしたのか……」
ふたりの顔を交互に見ながら、まな美がいった。そのざんばら[#「ざんばら」に傍点]髪の、将門の生首を作ったのが彼女である。
「――あれね、うちのパパなの」
少し間をおいてから皆で笑った。その張りぼての顔がどんなだったか、思い出していたのだ。
麻生家の事情は、たとえば、まな美の父親が六十代半ばで、もうかなりのオジンであるといったことなどは、あとのふたりも重々知っている。
「……そやけど、なにするにしても写真の担当は決まりやな」
と、マサトの方を見ながら土門くんがいった。
将門の首塚は大手町のビル街にありこれは[#「これは」に傍点]有名だが、首なし死体の方は茨城県岩井市に胴塚が、また、七騎いたといわれる影武者の墓が千葉大学医学部の裏手にあり、写真班として、当時もうひとりいた一年生の男子部員とともに、それらの写真を撮りに行ったのがマサトなのである。
まな美もいう。
「そうそう、マサトくん写真の天才やもんね[#「やもんね」に傍点]――」
いってから、彼女はプイと横を向いてしまった。土門巌と喋っているとつい[#「つい」に傍点]関西弁が感染《うつ》るのだ。
マサトはというと、彼女から最大級の賛辞を貰ったにしては浮かない顔で、
「写真の極意を教えてもらっていたから……」
と、申し訳なさそうにいう。
去年の秋のことだが、部活で写真班になったことを竜蔵に告げると、その日の夜にひとりの中年男性が屋敷を訪れ、カメラ一式を貸してくれて、まったくの素人でも失敗しない写真の極意――なるものを幾つか授けてくれたのだ。
「――その極意をマスターすると、あんな写真が撮れるんか。今度それ自分にも教えてな」
真面目な顔をして土門くんがいうので、マサトは仕方なく頷いた。けれど、それだけじゃあのような写真にはならない……とマサトは思う。
撮影済みのフィルムはその中年の男性に託したのだ。最初からその約束だったからである。すると後日、ほどよいサイズに引き伸ばされた写真がマサトの元に届けられたきた。それが、マサト自身もビックリするほどの出来栄えだったのである。
現像は街のDPEに出してはいけません。フィルムは私に預けること――これこそが最大の極意《からくり》ではなかったかと、今にしてマサトは思う。
「……姫、すぺしゃるのネタ、そろそろ出したらどないです」
といってから、土門くんは窮屈そうに座っていた胡座《あぐら》を崩しにかかった。
「わたしはちゃんと資料を写してきたんだから――」
まな美は、持ってきていた茶色の手提げ[#「手提げ」に傍点]を自分の膝に引き寄せた。
それは、麻紐で編まれた袋状のものに、やはり麻紐を編んで作った細長い持ち手がついたもので、見ようによっては買い物|籠《かご》ともいう。
「午前中にね……兄貴のところに寄っていたの……」
その籠の中をごそごそやりながら、まな美はいった。
「なーんや、ネタ元は呪いの先生か。それやったらお化け屋敷と変わらへんやん……」
土門くんは、その長い足をそろりそろりと座卓の下にもぐり込ませていった。――彼も、まな美に薦められて『呪詛における脳神経学的考察』は読んでいるのだ。
「……呪いを教えているわけじゃないわよ……おにいさんの本業は……脳の何かだけど……」
さすがのまな美も、火鳥の本業の認知神経心理学までは説明できないようである。
「おっかしい[#「おっかしい」に傍点]――」
その手提げ籠の中をしばらく探してから、まな美は口を尖らせていった。
「せっかく写してきたのに、そのノートがなーい[#「なーい」に傍点]。おにいさんの部屋に忘れたのかな……」
火鳥がコピーを取ろうかといったのに、いや写すからと、わざわざ書いたそのノートなのである。
「姫が忘れもんするとは珍しいな。そんなこと、めったんひょったんないのにな」
土門くんのいう通りである。まな美にかぎって忘れ物などは滅多にない。
「……まあいいわ、だいたい覚えているから」
まな美には、一度書くと記憶してしまうという特技が、あるにはある。だから書く[#「書く」に傍点]わけでもあるが。
「それに、いっとくけどお化け屋敷なんかじゃないわよ、呪いとも全然ちがう話なんだから」
釘を刺すようにまな美はいってから、
「――土門くん、お行儀悪いわよ」
と、つけ加えた。
「知っとうやろ、自分畳の上に座るのごっつう苦手やねん……」
後ろ手をついて座っていた土門くんだが、その手まで外してしまい、とうとうゴロンと座敷に横になってしまった。
「信じらんない。畳に座れないなんて日本《にっぽん》男児としては恥よ。――ね、マサトくん」
マサトは、座布団の上に正座をして座っている。もちろん、まな美もきちんと正座をしているのだ。
「恥でも何でもかまへんわ……」
といいながら土門くんは、座布団を折って枕を作ってしまった。
「さ、体勢も整ったことやし……」
と、土門くんは促す。
「話の途中で居眠りなんかしたら、――蹴るわよ」
まな美はいった。たぶん本気である。
蹴って蹴って……と土門くんはいいそうになったが我慢した。
「……お寺の話なの」
まな美は始めた。
「じょうさん寺《じ》っていうんだけど、じょうは浄土真宗の浄……の旧字の淨、それに山と書いて、淨山寺[#「淨山寺」に傍点]」
「浄の旧字ってどんなんや」
「頭のところが違うの……」
まな美は、空《ちゅう》に書いて示しながら、
「古くからある名称は、旧字の場合は、その旧字のままの方がきれいだから」
と、彼女ならではの感想を述べた。
「お寺のある場所は南埼玉郡の野島、でも、たぶん古い地名だから、今は違ってると思うわ」
「なんや……埼玉の寺か」
小馬鹿にしたように土門くんはいう。
「埼玉県にだって立派なお寺はあるの[#「あるの」に傍点]。――この淨山寺は、京都のお寺にだって全然ひけを取らないんだから。建ったのは清和天皇の貞観《じょうがん》二年なのよ」
「――西暦八六〇年か、それはめっちゃ古いな」
その程度は諳《そら》んじられないと、歴史部の部長は務まらない。
「――でしょう。この淨山寺は平安時代の、それも初期のお寺なんだから」
またしても平安時代[#「平安時代」に傍点]……マサトは、いやーな気分である。
「そやったら、国宝ちゃうのん」
「……建物は遺《のこ》ってないわよ。今あるお寺は幕末のころに再建されたものですって――でもね[#「でもね」に傍点]、その当時のものがひとつだけ遺っているの。お寺にとっては最も大切なもの、お寺の魂が、その当時のものがそのまま今の淨山寺にも安置されているの」
「なんや魂って?」
「――御本尊に決まってるじゃない。それもね、そんじょそこらの仏像とは格が違うわよ。そもそもこの淨山寺は慈覺大師《じかくだいし》が創建したんだけど、その御本尊も同時代で、しかも慈覺大師の作なの。――すごいでしょう、慈覺大師御[#「御」に傍点]みずからの作なのよ」
「……まあ姫がそこまで力説するんやからすごいことやろうとは思うけど、その、じかくだいし、ていったい何者や」
「え、知らない……慈悲深いの慈に覚える、旧字はちょっとややこしいけど、それで慈覺――」
「漢字いわれてもあかんわ、誰やそれ」
「……そっか、諡号《しごう》は歴史の教科書には出てこないもんね。弘法大師って空海のことでしょう。あれは死んだ後に天皇さんがくれた名前なの、それを諡号というんだけど、有名どころは大概もらっていて、慈覺大師って円仁《えんにん》の諡号なのよ」
「あーあの円仁[#「あーあの円仁」に傍点]・円珍の円仁[#「円珍の円仁」に傍点]か、そやったら最初から円仁――ていえばええやん」
「普通いわないのよ、円仁って呼ぶのは教科書の中だけ。世間の通り名は、慈覺大師なの」
「……納得」
してはいないが、こんなことで姫と揉めても始まらないので、土門くんはいった。
「そやけど、円仁いうたら最澄《さいちょう》の一番弟子やろ、姫がいうように、かなりのビッグネームやな」
「一番弟子[#「一番弟子」に傍点]、――それはちがうと思うわ」
まな美は不満そうにいう。
「天台宗の開祖は確かに最澄だけど、業績といえるのは比叡山にお寺を建てたぐらいよ。でね、お寺を建ててから十年ほど後に、京に都が遷《うつ》ってくるんだけど、すると、この比叡山が平安京の鬼門に当たってしまったの……まったくの偶然ね。でも、鬼門なんだから、比叡山にはしっかりと魔の侵入を防いでもらわないといけないでしょう。ところが、最澄さんはこの種の呪《ま》じないには疎《うと》いのよ。当時の呪術界の超花形《スーパースター》は弘法大師空海――鎮護国家の修法をあやつって薬子《くすこ》一味を捕らえたり、ヒマラヤから善如《ぜんにょ》龍王を呼びよせて雨を降らせたり、イナゴを蹴散らしたりともう大活躍――ふたりは遣唐使として同じ船で唐に渡ったんだけど、最澄は国費留学、かたや空海はほとんど密航者のレベル、なのに、その空海にすっかり出し抜かれちゃって、密教の分野では完全に遅れをとるの。それを、慈覺大師が三十年ほど後に、やはり唐に渡って、空海が修行したのと同じ青龍寺《しょうりゅうじ》に籠もって、空海以上の密教系の仏典を携えて帰国して、そして天台密教を完成させて、ようやく真言《しんごん》密教と対等になれたのよ。だから真言密教は弘法大師、天台密教は慈覺大師、このふたりが日本の二代宗教を確立させた双壁なの」
と、まな美は立て板に水のごとくに喋りきった。
「ほう……さすが姫やな」
マサトも頷いた。
「この程度で感心しないでよ、常識なんだから」
「それは姫にとってはの話や……」
「――それでね、弘法大師って日本全国に伝承があるじゃない。手にしていた錫杖《しゃくじょう》で地面を突くと水や温泉が湧き出たって話。それと同じで、慈覺大師にも、ゆかりの地やゆかりのお寺がけっこうあるの」
「へー、自分はひとつも知らへんけどな……」
「弘法大師はお遍路さんだから四国がメインだけど、慈覺大師は関東から東北にかけてが多いの」
「そやけど、弘法大師伝説いうやつにはバッタもん[#「バッタもん」に傍点]が多いからな。――いや、その慈覺大師の場合もそうや、いうんとは違うで」
「土門くん、――ばったもん、て何?」
マサトも、その言葉は知らない。
「――葉っぱの上におるバッタやん。バッタ見つけると、ぴょんぴょんと跳んで消えるやんか、じーと見られると正体がバレよるねん……そやからま、まがいもんいう意味やな」
なんだかよくわからない説明だが、その連想のおかしさにまな美は笑った。もちろん、マサトも笑っている。
「……だいじょうぶ、この淨山寺はバッタもんとは違うわ」
まな美は、いいながら吹き出してしまった。
「やだ[#「やだ」に傍点]ー、この言葉あたまから抜けなーい[#「抜けなーい」に傍点]」
頭を振りながら、まな美はいう。
「姫えーもん見つけたなあ。――姫もこれで立派に関西人や」
「淨山寺の御本尊は地蔵菩薩なんだけど、それを慈覺大師が作ったときの経緯が、ある程度はわかっているの」
まな美は、烏龍茶を飲んで気分の刷新をはかってから説明を再開していた。
「――伝承はこう、慈覺大師が日光を訪れたときに、食べた李《すもも》の種を日光山から空に投げたんだって。そして何年後かに埼玉に来てみると、その李が大木に育っていたの。それが慈恩寺《じおんじ》の建っている場所よ」
「慈恩寺……聞いたような名前やな」
「――だって、岩槻にあるんだもの。土門くんが住んでいるところじゃない」
「いやー自分近所あんまり知らんねん、――市内にあるか?」
彼は、岩槻市に越してきて約二年である。
「もちろん市内だけど、駅はひとつかふたつ隣ね。でも、この慈恩寺は大きいわよ。表慈恩寺、裏慈恩寺って町名になっているぐらいだから」
「すると、その慈恩寺も、慈覺大師が建てたんか」
「もちろん。――ほうら、土門くんの家のすぐ近くにも、ゆかりのお寺があったでしょう。でね、その李の木から慈覺大師が三体の仏像を彫ったの、そのひとつが」
「まってまって……すももの木って、仏像を彫れるほどの大木になるんか」
「うーん、それは伝承だから何ともいえないけど、元来桃[#「桃」に傍点]は神聖な木だから、そういったところからきてるのかもしれない。――物忌みの鬼神ね、あれも桃の林、桃林《とうりん》に住んでいたのよ。中国の仙人って桃を食べてるじゃない。そんな絵よくあるでしょう。桃は神聖な果物で、これは道教からきてるの」
「すもももももももものうち、いうもんな」
「――その木から[#「その木から」に傍点]、慈覺大師は三体彫ったの。ひとつは観音様、これはその慈恩寺に、ひとつが地蔵菩薩、これを慈福寺《じふくじ》に、もうひとつは……たしか薬師《やくし》さんで、慈林寺《じりんじ》だったかな。その慈林寺はどこにあるのか知らないんだけど……つまり、三体仏様を彫って、それを安置するお寺も三つ建てたの」
「うん? 慈[#「慈」に傍点]がつく寺は三つ出てきたけど、淨山寺はどこにいったんや」
「――そこなのよ、話はここからが面白いんだから」
「いや、すでにケッコウおもしろいんやけど、その前にひとつ質問ええか、――慈覺大師はニッコウにも行ってるんか」
「うん、行ってちゃーんとお寺を建ててるわ。日光東照宮あるでしょう、あれはね、慈覺大師が建てたようなもんなんだから……」
「うそつけ――いかに姫のお言葉とはいえ、それは聞き捨てなりませんぞ。東照宮は千六百十何年やんか、八百年ほど違《ちご》てますけど――八百年やで、うそ八百のはっぴゃく年やで」
「そうなんだけどね[#「そうなんだけどね」に傍点]、けど、この話始めちゃうとすっごく長くなるから、また今度……」
「ほんじゃ、その今度を楽しみにさせてもらうわ。そやけど、顧問の先生が辞めたんもわ[#「わ」に傍点]っかるよな気がするな……」
歴史部の顧問は今年の春に代わり、今はまったく畑違いの化学の教諭がやっている。前任は日本史で、大学を出たての若い女性教諭だったのだが、まな美がイジメたせいだともっぱらの噂である。
「――お寺と御本尊が作られたのは平安の初期、そして時代はずーと後になって、天正《てんしょう》十九年のこと」
「てんしょうは二つあるけど、天承は短いから天正の方やな……すると一五九一年か。じきに天下分け目の関ヶ原や」
「そう、関ヶ原の前だから、徳川家康はまだ江戸の一[#「一」に傍点]大名よ――その家康がね、その年にこのお寺に訪ねてくるの」
「うーん姫、そこまでいくとなあ……」
「バッタもんだといいたいんでしょう。ちゃーんと証拠が残っているんだから。淨山寺はね、三つ葉葵のお寺なの――」
「なんやて[#「なんやて」に傍点]……黄門様の印籠の三つ葉葵ですか。姫、そろそろ自分も[#「も」に傍点]話についていかれへんようになってきましたんやけど」
マサトはかなり前の段階から、そうである。
「――順を追って話すわね、家康がこの地を訪れたのは鷹狩りをするため。埼玉の野島って、当時はそういう場所だったらしいわ。そして、地蔵尊の霊験あらたかなのを聞いてお寺に立ち寄ったの。住職が、武運長久玉体|安穏《あんのん》の大祈願を修した、て縁起《えんぎ》書にはあったけど、要するに、ふたりはウマが合ってお友達になったということね。で、家康は三百|石《こく》あげる、といったらしいんだけど、住職はいらないって固辞するの。すると、家康が鼻紙を取り出して、献香《けんこう》料として高三石を賜《たま》う、と、すらすらすら……とその紙に書いて住職に渡すの。それが今も残っていて、鼻紙朱印《はながみしゅいん》状というんだって」
「へー家康の直筆か、それはお値打ちもんやな」
「それだけじゃないの、その後の歴代将軍の朱印状も、お寺にはぜーんぶ残っているそうなの」
「うん? 朱印状いうたら、将軍だけが発行できる江戸時代では最高権威の公文書やろ。――その住職と家康とが友達になった、いうのはええとして、その後も代々その関係を保たなあかんのか。わざわざ朱印状まで出して――」
「うん、わたしもそこは引っかかる、ちょっと仰々しすぎるわよね。……でね、家康が訪ねたときには、このお寺は慈福寺という名前だったの。慈覺大師が建てたうちのひとつね、つまり天台宗のお寺。なんだけど[#「なんだけど」に傍点]、そのときにお寺にいたのは臨時の住職で、曹洞《そうとう》宗から派遣されていたの」
「それ……禅寺やんか」
「そうなのよ、その曹洞宗の住職が家康をもてなしたの。で、その後家康の命によって、お寺の名前を淨山寺に改め、宗派の方もその曹洞宗に変えちゃうの。だから淨山寺は曹洞宗のお寺なのよ、今もね」
「なんでそんなことになるんや」
「さあ……」
まな美が、めずらしく首をかしげた。
「まてよまてよ――」
土門くんは何やら閃《ひらめ》いた様子である。
「――信長が比叡山を焼き討ちにしたんは一五七一年やんか、その二十年後の話やろ。そのお寺から、天台宗の住職は逃げてたんちゃうのん、自分とこもいつ燃やされるかわからへんし――」
「御本尊を置いたままにして、逃げる?」
「……それもそうやな」
土門くんはあっさり引き下がった。
「単に忘れられたお寺だったのかもしれない、つまり、比叡山から見てね」
「――荒れ寺にゃ、禅の坊主が、よく似合う」
と、土門くんが一句詠んだ。
「荒れ寺だったら、家康をおもてなしできないと思うけど……」
「そやけど、なんで禅寺の坊主がおったんやろ」
「たぶん分家だからかしら……」
「え? なにがなにの分家ですか」
「曹洞宗って、天台宗から見れば分家筋にあたるの。開祖は道元でしょう、彼は比叡山で得度《とくど》をして、その後中国に渡って禅を学ぶんだけど、もうひとつの禅宗の臨済宗も、開祖の栄西はやはり比叡山で修行しているの。浄土宗の法然もそうだし、浄土真宗の親鸞《しんらん》も、日蓮もみーんな比叡山の出なの」
「分家いうても、そうそうたるメンツやな」
「本家の輝きがしだいしだいに褪《あ》せてきたから、優秀な人たちは自分で旗揚げしちゃったの」
「姫の説明はストレートでようわかるわ。……そやけど、三つ葉葵の話はどこへいったんや」
「それが最大の謎なの、――家康が遊びにいったら住職がよくしてくれた、所詮その程度の話でしょう。それぐらいで三つ葉葵は普通もらえないわ。それに、この淨山寺は、寺紋[#「寺紋」に傍点]そのものが三つ葉葵なの。寺紋というのは家紋と一緒で、それぞれのお寺が固有の寺紋をもっているの。寺紋は別にあって、そして将軍家から三つ葉葵をもらうという例はある。だけど、寺紋そのものが三つ葉葵の場合は、将軍家ゆかりの誰かを弔《とむら》っているとか、つまり菩提寺《ぼだいじ》ね。あるいは徳川の創建による寺だとか、それ以外にはちょっと考えられないのよ……」
「そやったら、徳川の誰かを祀っているのとちゃうのん」
「お寺の縁起書にはなかったわ。それに徳川関係の菩提寺で、淨山寺[#「淨山寺」に傍点]なんてお寺は聞いたこともない」
「……そやけど謎は謎としてやな、三つ葉葵[#「三つ葉葵」に傍点]は、それはそれでおもしろい話やんか」
意味ありげに土門くんがいい出した。
「天目も知っとうやろ、M高にまつわるあの噂[#「噂」に傍点]――」
そういわれれば、マサトも学校で誰かが話していたのを聞いたような気がする。
「……あれほんとかしら」
まな美もその噂は知っている。
「文化祭で三つ葉葵なんかやったら、みんな大喜びするぞ――決まりや決まりや、これぜ[#「ぜ」に傍点]ったいにうける。このお寺やろー」
土門くんが、俄然、張りきり出した。手をついてガバッと起き上がると、
「――天目地図もってきてんか、埼玉の細《こま》かいのがあったら嬉しいんやけどなあ」
「わたしが話したのは古い地名よ」
まな美は心配そうにいう。
「そんなもん一〇四ですぐわかるやんか――」
土門くんはお尻を浮かすと、ズボンの尻ポケットから携帯電話を引きずり出した。まな美は今時の女子高生にしては珍しく、それは持っていない。
「……埼玉県のどこかなんですが、淨山寺[#「淨山寺」に傍点]、という名前のお寺なんですよ、……ありますか、はい、その字で間違いありません、……〇四八九、七六の××××ですね、ちなみに住所は……はい、越谷市[#「越谷市」に傍点]の野島[#「野島」に傍点]ですか、どうもお手数おかけしました」
土門くんは電話を切ってから、越谷にあるやんか、とまな美にいった。
「――電話で喋るときだけどうして標準語なの、土門くん」
マサトが、日本地図と埼玉県詳細地図の二冊をもって戻って来た。
「さんきゅさんきゅー、埼玉の地図があったらいっぱつや――」
「さっき、土門くんの電話でね、淨山寺は越谷市にあるって判ったの」
まな美はマサトに説明をした。
「越谷市の野島やろ……」
土門くんは、巻末の町名索引で調べている。
「あったぞ……八十四ページのBの五や」
土門くんがその頁をめくって、座卓《テーブル》の上に地図を置くと、三人は頭を寄せて覗き込んだ。
「……なんやもう岩槻市やんか」
野島は、越谷市の北の外れである。
「淨山寺あったわ――」
まな美が指さした。
「市の境目やんか、この淨山寺のせいで境界線が膨《ふく》らんどうで――」
まさにそういった場所に寺院をあらわす卍が打たれてあった。
「まわりになん[#「なん」に傍点]もないやん。田舎やでーここ」
淨山寺がある区画のすぐ脇を、元荒川が流れている。
「もよりの駅はどこかしら……」
[#改ページ]
男が舞良戸《まいらど》の一枚を軋《きし》ませながら横にずらすと、日光と入れ違いに、抹香臭く澱《よど》んでいた空気が戸外へと流れ出ていった。
そこは、高々と石垣が積まれた上にある、いわゆる城[#「城」に傍点]の屋敷の一隅である。――名古屋にもほど近い三重県桑名郡の山間《やまあい》にあり、元はといえば桑名松平の出城であったが、一部を残して明治以降に改装され、今はさる実業家の所有となっている。実質的な使用者は桑名一族のようである。
何かの祭祀はすでに終わったらしく、後宴が始まろうとしていた。
板張りの大広間に老若の男どもが大円を描くように座っていて、お神酒《みき》を注いで廻っていた若い男が席につくと、その隣りで、神棚を背にして座っている老人――桑名竜蔵が盃《さかずき》を手にしながら唱えた。
「アマノメの御[#「御」に傍点]神に――」
よく響く独特のダミ声である。
「……アマノメの御[#「御」に傍点]神に」
他の者たちも倣《なら》って、口々にいう。
銘々の前には朱のかせた根来《ねごろ》漆の膳が置かれてあって、皆がいっせいに箸を伸ばした。そこに所狭しと並んでいる豆皿には、ひと嘗めすれば失せるほどの少量ずつの食物が盛られてある。――神前に供えてあった御饌《みけ》のお下がりを分けたのである。
「アマノメの神が不在《おら》んようなって、まる十三年じゃ、長いのう……」
広間の中央にある大黒柱に凭れかかり、羽織の肩からやっと顔だけを出しているような小柄な老人、桑名竜嗣がいった。
「ほんに、長いものいみ[#「ものいみ」に傍点]でございますなあ」
その右隣りに座っていて、似たような顔だがまだ萎《しぼ》んではいない、桑名竜作がいった。
「――あの子には、いつになったらアマノメの御霊《みたま》が宿るのでございましょうかねえ」
誰かへの当てつけのように、竜作はいう。
「わしもそう長くは保《も》たんぞ」
竜嗣は八十をすぎているのだ。
「何をおっしゃいますか、ご当主さま、昨年お会いしました時よりも、いっそう堅固《けんご》そうではございませんか」
別の老人がいった。顔立ちからいって、桑名家の血筋の者ではなさそうである。
「――わしはかまわん。跡は、この竜作めが継いでくれよる。じゃが竜蔵さんよ、おぬしの方はどうするね」
竜嗣は真っすぐ前を見据えていう。その目線の先に、向かい合うような位置に弟の竜蔵が座っているのだ。
「ぼくが継ぎますよ――」
その竜蔵の左横に座っている竜生がいった。桑名家の若旦那のひとり、弟の方である。
「――馬鹿もんが。お前に継げるぐらいなら心配はいらんわい」
竜作が息子を叱った。
「竜生を責めるのは酷じゃ。竜生は定めに従うておる」
孫を庇うように竜嗣はいってから、
「あやつさえ生きておったならのう……」
と、嘆息《ためいき》まじりにいう。その言葉を咀嚼《そしゃく》するように竜蔵はゆっくりと自分の右隣を見やった――膳が用意され、藁座《わらざ》も敷かれてあるのだが人は座っていない。そこは、十年ほど前に四十代なかばで病死した竜助の席なのだ。アマノメに仕えるのは代々次男、だが、竜蔵の次が欠けてしまっているのだ。
「……御神にお仕えするということは、子供のお守りとはわけが違いますからなあ」
竜作はいう。
「審神者《さにわ》のお役ひとつとりましても、一年や二年で習得できるものではありませんし」
神の声の代弁者を審神者という。――竜蔵《ジイ》が卓越した審神者であることは、ご存じのとおり。
「それに、本家には分からぬ秘密の儀が、数多くあり申すようですし」
揶揄《やゆ》するように竜作がいうと、
「もとより[#「もとより」に傍点]、それは知り申す必要のないことじゃ」
竜蔵が突っぱねた。
「――さよう、わしらは知らぬでよい。アマノメの儀は桑名の次男にだけ口伝《くでん》する、それが掟[#「掟」に傍点]じゃ」
竜嗣もいう。
「はい、それは重々存じております。しかし息子の竜生には、まだ何ひとつ口伝がなされておりません。もし、万が一、今のままで竜蔵様に何かございますと、そのことを考えますと――」
「ふん、わしはそう簡単には死なぬわい」
竜蔵はいってから、カッカッカッ……高笑いをする。
「竜蔵さんはまだまだ達者じゃ。あいかわらず、庭いじりに精を出してるそうじゃないか」
「兄じゃ、ガーデニングといって下されぬか」
甘えたような声で竜蔵はいう。
「モダンよのう、おぬしは」
竜嗣もいってから、カッカッカッ……同じように高笑いをする。そんな老翁《じじい》ふたりの戯《ざ》れ合いを苦々しそうに見届けてから、
「せめて、竜生をおそばに置いていただいて、何くれと命じていただければ、竜生なりにはお役に立てるものと存じますが――」
竜作はなおも食い下がる。
「それこそ、子供のお守りにはこの老人《じい》ひとりで充分じゃ。竜生に今来てもろうても、何ひとつ教えることができ申さん」
「そうよのう……何はさておき、マサトの封印[#「封印」に傍点]が解かれることが先決じゃ」
そう竜嗣がいうと、和《なご》みかけていた座が一瞬にして凍りついた。
それを融《と》かすように、
「竜の封印でござるか――」
朗らかな声で竜蔵はいう。
「口伝のなかでも秘伝中の秘伝じゃな。この老人《じい》しか知り申さん。いや、いずれはマサトも知ることになろうが、まだ先のことじゃ。あの子がアマノメ様になり、さらに、お世継ぎが生まれたときに必要となろう。しかし御一同も、封印を解く方法ぐらいは知っておるであろう、のう竜作さん?」
「――いえ、そのような大それたことは存じあげておりません」
竜作は声高に否定する。
「嘘を申すな。解き方ぐらいは子供でも分かるわい。――ならば竜磨、おぬしはどうじゃ?」
桑名家の若旦那のもうひとり、兄の方は、竜嗣の左隣の席で寡黙に豆皿をつついていた。その竜磨が顔をあげ、
「アマノメの死体を、マサトに見せれば竜の封印は解けるはずです」
あっさりと答えた。
「たわけが――」
大黒柱を挟んで、叱責の声が飛んだ。
「ほうれ、竜磨でも知っておるのだから、親父《おやじ》さまが知らぬはずもなかろう」
「……じゃが、その死骸《むくろ》がありはせんのだから、解かれようがあるまい」
大黒柱の前に座している竜嗣が、場を鎮《おさ》めるようにいった。
すると何を思ったのか竜磨が立ち上がり、身体をほぐすように手足をくねらせてから、座り直して、
「どうして封印なんかが必要なんですかね」
誰に問うとなくいった。
「たわけ[#「たわけ」に傍点]――」
再度、父親の掠れた罵声《ばせい》が飛んだが、息子はまるで意に介さない。
「この世に、御[#「御」に傍点]神はひとりと決まっておるのじゃ」
問いには、家長である竜嗣が答えた。
「もし、アマノメの神がふたりになると、どちらにつくかで必ず諍《いさか》いが起こる。われらが永々とやってこれたのは、この封印があったればこそじゃ。先祖の知恵ぞ。そうじゃな竜蔵さん……」
竜蔵も頷いた。
「なるほど……けど、今回はそれが裏目にでちゃったわけですね」
竜磨の軽口は止まるところを知らない。
「――裏目[#「裏目」に傍点]とはちと口がすぎるぞ」
声が嗄《か》れてしまったのか言葉が出ない竜作の代わりに、竜嗣が窘《たしな》めていった。
竜蔵が、何かを思い出すように語り始めた。
「兄じゃも知っておろうが……一時期、アマノメが武蔵の国に住まいしておったことがあったろう。桜町《さくらまち》天皇のころだが」
「……松平の誰[#「誰」に傍点]かに招かれたのであろうな」
「おそらく。……松平もたんとおるから、どの松平かは分からぬが、あの辺りは鷹狩りの場で、下|屋敷《やしき》があったからな」
ちょうど今も、マサトと竜蔵はそのひとつに仮住まいしているのである。
「当時のアマノメが、これが変わり者で……自分は大名に囲われるのは御免じゃ、下々のために生きたい、などと申してな。桑名の目を盗んでは、屋敷から抜け出して、百姓たちの相談事にのってやっていたそうじゃ。そしてある日、出ていったきり戻ってこん。神が家出じゃ」
「たっはっはっは――」
竜磨だけが笑った。
「笑いごとじゃ済まされぬのは、残された者たちよ。案の定、お世継ぎの封印が解けぬ……」
「それは、どうなったんですか?」
「……十年、いや、それ以上かかったともいい伝えられておるが、あるとき、何の前触れもなく封印は解けたそうじゃ。だからマサトのことも心配するには及ばん。いずれは解ける。必要なときが来たればアマノメは宿る[#「宿る」に傍点]……それが神というものぞ」
「へーそんな話もあったんですね。ところで、その桜町とかいう天皇は、いつごろの天皇ですか?」
「徳川の時代じゃ」
竜嗣が、孫に顔を向けていった。
「――大学まで行きおって、何を学んだのじゃ」
「だって、おれは獣医学科じゃないですか。日本史なんて高校を卒業と同時に、きれいさっぱり頭から消えますよ」
竜磨は、家の反対を押し切って地方大学のそんな学科に籍をおいたのだが、結局は舞い戻って、コネで市役所に勤めている。
「……けどなあ竜蔵さん」
向き直って竜嗣はいう。
「今の世はそう悠長なこともいっておられんぞ。子[#「子」に傍点]たちの間からも不平の声が聞こえてきよる。三千年の恩を忘れおってからに……」
それはちょっと大仰にすぎるが、一千年を超えてつき合いがある氏子《うじこ》は、いるようである。
「しかし封印が解けぬからといって、マサトに世継ぎとは、あの子はまだ高校生ですそ……」
「それは……考えに考えたうえのことじゃて」
つまり西園寺希美佳が埼玉の屋敷に来ているのは、本家の差し金なのだ。
「……誰の考えでございましょうかなあ。マサトを飛ばして、次なるアマノメを祀るおつもりであったなら、それこそ掟に背きますぞ。それに、これだけは申しておきまするが、アマノメの血筋だからといいって、アマノメが宿るとお考えでしたなら、それもまた浅薄《せんぱく》にすぎまする」
そう竜蔵にいわれると、
「うーむ……」
竜嗣としては項垂《うなだ》れるしかない。
アマノメの神には血筋以外にも何かの秘密があるようだ。その詳細を知るのは竜蔵だけなのである。
「――恐縮でございますが」
別の老人が言葉を挟んだ。
「希美佳は、この日のために手塩にかけて育ててまいった娘でございます。かつてアマノメ様の御子を、わたくしめが妻に頂戴いたしましたときより、この日がくるのを心待ちにしておりました。もちろん、希美佳もでございます。あの子の心には一点の曇りもございません。ですから、なにとぞ、なにとぞ心好くお迎えいただけますよう――」
幾分顔を紅潮させながらも、老人は深々と頭を下げた。名は西園寺|公貴《きみたか》――竜嗣と竜蔵の妹の夫だが、これは戸籍上での話。希美佳は孫娘である。
「――いやいや、西園寺さんの娘さんには一点[#「一点」に傍点]の落ち度もなか。素晴らしき姫君じゃ。あれならばマサトも、いや、アマノメ様も大層[#「大層」に傍点]お喜びのはずじゃ」
取り繕うように竜嗣はいってから、
「そうそう、もうひとりの娘さんにも礼を申しておかねば……あの子も別嬪《べっぴん》さんよのう」
と、話を逸らした。
「静香のことでございますな」
西園寺老人は顔をあげ、笑顔に戻っていう。
「あの子は、マサト様とはひと廻りほど歳が離れておりましたので、お役には立てぬと思っておりましたが、ひょんなことで」
「そうよのう、同じ大学に行っておったとは、まさに奇遇よのう……」
「何のことですか?」
竜磨が横柄に割って入った。
「あーむ、こやつにはいってなかったかのう」
竜嗣が右隣りを見やると、竜作が首を横に振っている。
「……一年ぐらい前じゃったかのう」
仕方なく、竜嗣は話し始めた。
「お社《やしろ》の宮司から連絡があってな、何でも、あそこに大学の先生が訪ねてきおって、アマノメの伝承のことを根掘り葉掘り聞きおったそうじゃ。そう珍しいことじゃないわい、あそこも由緒正しき国幣大社《こくへいたいしゃ》じゃからの。じゃが、これがまったくの畑違いの先生でな――」
そこまで喋ると、竜嗣は黙りこくった。
「どう畑違いなんですか?」
「ふむ、ともかく畑違いなんじゃ」
「……何ですかそれは」
「はい、認知神経心理学と申しまして、脳の仕組みを解き明かすような学問だと、きいております」
西園寺老人が助け舟を出した。
「そうじゃ、だから畑違いであろう。そのくせ、神の伝承に興味があるとかいいおって……その、何たらとかいう脳の理屈でもって、すべてが解けるとか、わけの分からぬことを抜かしおったそうじゃ」
「へー、アマノメの神を脳科学で解く気なのか。おもろい先生ですねえ」
「――なにが面白かろう。痛くもない腹をさぐられては敵わんわい」
「えっ、ひょっとするとその先生と静香さんとが、同じ大学ですか」
「偶《たま》さかそうだったのじゃ。だから、そやつがどういった人物か、ちと調べてもろうたというわけじゃ」
実際にはちと[#「ちと」に傍点]といえるほどの生易しい話ではないが。それに、過去形でもない。
「――呆《あき》れたなあ、彼女にスパイの真似事までやらせたんですか」
静香とは又従兄妹《またいとこ》の間柄になり、竜磨も顔見知りなのだ。
「そういったことは、ふつう悪の秘密結社がやるもんでしょう。うちは神[#「神」に傍点]を崇めてるんですよ」
厭味たらたらで竜磨はいう。
「あーむ、だからお前には話したくなかったんじゃ」
早口で竜嗣はいって、纏めとしてしまった。
「そうだ、似たような話がひと月ほど前にもありまして……すいません」
竜生がいうと、隣の竜蔵にペコリと頭を下げた。
「あーそうじゃった、あのことは竜蔵さんにはいっておらんかったわい……いや、おぬしに余計な心配をさせとうなかっただけのことじゃから、これは悪気はないぞ」
竜嗣もいう。
「どんな心配事でござりまするか……」
「あのう、ぼくがお昼休みに、家に戻っていたときのことなんですが」
竜生は、車で数分のところにある郵便局に勤めており、昼食は家でとるのだ。
「突然、東京の新聞社の者だという男が訪ねてきまして、ここに住んでいるはずの竜蔵さんに会いたい、というものですから……すっごく高圧的な感じの人で、どう説明していいか分からなくて……で、家出をしていると、いってしまいました。すいません」
「ばーか――」
兄の声が飛んできた。
「そんなもん温泉に行ってるとか適当なこといっとけば、それで済むじゃん」
「――いや[#「いや」に傍点]、それほど単純な話では、ございませんので」
竜磨を制するように、竜作が口を開いた。
「後日、その新聞記者から詳細を聞き出しましたところ、あちこち[#「あちこち」に傍点]を嗅ぎ廻っておりまして……この城の屋敷も知っておりましたし、それに町役場まで行って、桑名の戸籍や家系図まで調べておりました」
「マサトや、アマノメも調べおったのか?」
「そのようです。ですが、御神の系譜は、役場のようなところでは……」
「そりゃそうですよね、アマノメは人[#「人」に傍点]じゃないもんなあ」
竜磨の軽口は無視され、
「そもそもは電話[#「電話」に傍点]が……誰からかは不明なんですが、いわゆるタレこみの電話が新聞社にあったそうです。それが、竜蔵様が今住まわれている埼玉のお屋敷を調べさせるような内容でして、で、桑名まで辿りつかれてしまったというわけです」
「――本家は調べられてもかまわんが、埼玉はまずいぞ」
竜嗣がいった。
「さようでございますとも。それに、そもそも埼玉のお屋敷に関しての、嘘の[#「嘘の」に傍点]タレこみの電話でございましたから」
「――不気味じゃのう」
竜蔵もいった。
「電話はイヤじゃ――相手の顔が見えぬ。アマノメがやられもうしたときも電話じゃ、電話[#「電話」に傍点]が――」
いってから、竜嗣はゴホゴホと咳き込み始めた。興奮したので軽い喘息《ぜんそく》の発作が出たようだ。両脇から、息子と孫が老人の背中をさすった。
――経緯はこうである。
四国の徳島に住む氏子から電話が入った。その家の老翁が病気で今日明日の命だという。生きている間に今一度アマノメに会って、礼を申したい、それが老翁の最後の頼みであるというのだ。アマノメが氏子の家に出向くことは普通ない。が、その氏子からの寄進は多大であり、頼みを無視するわけにもいかない。その電話は夜の六時ごろにあったのだ。行くにしても、岡山まで出て四国に渡ると、どう急いでも到着は明日の昼になってしまう。それに万が一のことを考え、元来、アマノメは飛行機に乗せない。さて、どうしたものかと思案していると、名古屋港から出ている夜間のフェリーを使うと翌朝には徳島港に着ける、それが最も早いと時刻表を見ていた者がいい出した。なるほど、ならば車ごと積めるし、老翁の生死の狭間に出迎えという儀礼を先方に強いることもなく、そのまま病院に直行できる。それで行こうと決まったのである。事件は、その船の上でおきたのだ、十三年前の今日。
「……いまいましいわい。わしらの目の前で、やられてしもうた」
咳が鎮まってきた竜嗣が、その老躯《ろうく》から絞り出すようにいう。
「わしと、竜蔵と……竜助、おそばに三人もついておきながら」
竜作と息子たちは桑名に残った。当時、竜磨と竜生はともに大学生で家から離れていたが、夏休みで帰省中であったのだ。
「それに、――政臣《まさおみ》、おぬしもいたであろう」
竜嗣が、言葉を天井に投げるようにいうと、
「はい――」
野太い声が大広間の隅の方から響いてきた。一枚だけ開けられてある舞良戸の脇で、差し入ってくる日光を避けるように初老の男が座っていた。明治の初期に分家となった筋の現在の長で、
「――自分をいれて四人、おつき申しておりました」
警護などの雑事一切は、この桑名政臣が仕切っているのだ。分家には竜[#「竜」に傍点]はつかないようである。
「それだけの者がいながら……みすみすやられてしもうたわい」
深夜、アマノメが風に当たりたいと船の甲板《デッキ》に出たところを、海に落とされたのだ。那智勝浦《なちかつうら》の沖合あたりであったろうか、つまり熊野灘である。潮がきつく古来より航海の難所だ。こんな海に夜落ちればひとたまりもない。助けようがないし、だから死体も上がっていない。
「……けど、アマノメともあろうお方が、どうして見えなかったんでしょうかねえ」
竜磨はいう。
「敵がすぐそばにいたんだから、分かりそうなものなのになあ……」
実際、その敵は間近なところにいた。甲板に置かれてある椅子に座っていた。が、まさかその者が、あのような蛮行に及ぶとは誰が想像できよう。そこには女が、乳飲み子をあやしながら座っていただけだからである。竜蔵もそれは記憶に止めている。そしてアマノメが、甲板の手摺りに凭れかかった。竜蔵たちも、どこを見るとなく海の夜風に当たっていた。気づいたときはもう手遅れであった。何かが脇をすり抜けたかと思うと、女[#「女」に傍点]がアマノメの腰のあたりに取り憑《つ》いていた。アマノメの華奢な身体は軽々と浮かされ、女の足が甲板を蹴って、そのまま暗闇の海へと落ちていったのだ。
「……しかし敵[#「敵」に傍点]といっても、自分も海に落ちて死んじゃうんだから、無茶苦茶な敵ですよね……」
乳飲み子が、まるで忘れ物のように椅子の上に置かれてあった。それは生後数カ月の男児であったが、家出人や誘拐などの届け出はなく、犯人の手掛かりとはならなかった。海の捜索はしかるべき氏子に依頼され、迅速にそして秘密裡に行われたが、その母親の死体も上がっていない。徳島の氏子はというと、老翁は病床に伏してはいるが命に別状はない。そんな電話は入れていないというのだ。一切合財が、まるで雲を掴むような話である。
「――たしかに、無茶苦茶な敵ではありまするが、甘う見てはいけませぬ」
竜蔵が口を開いた。
いみじくも竜磨がいったように、アマノメの神とて全てを見通せるわけではないのだ。見えぬ相手がいるのである。そのことは、アマノメに仕える審神者でしか知りえないはずのことなのだが。
「――得体の知れぬ敵でござりまする。用心に用心を重ねるに、こしたことはありますまい」
竜蔵が、マサトを連れて本家から出たのは、外の方がまだ安全だと踏んだからである。その得体の知れぬ敵は、身内にいないという保証はない。
「あの子にはすまぬが、また、引っ越しを考えねばなりますまいかな……」
竜蔵はいった。
[#改ページ]
「もよりの駅はどこかしら……」
淨山寺から、地図を東の方に見ていくと東武鉄道の伊勢崎線がある。
「あ!」
三人がほぼ同時に声をあげた。
「同じ駅やんか――」
さっき、土門巌と麻生まな美が降り立った、その駅[#「駅」に傍点]であった。日々マサトが使っている駅[#「駅」に傍点]でもある。
「なーんや、右と左や……」
駅から西に行けば淨山寺、東に行けばマサトの家である。それも、森の屋敷と淨山寺とを線で結ぶと、そのほぼ真ん中あたりが鉄道と交差し、そこに駅がある、ちょうどそんな位置関係なのだ。
「ちかーい」
まな美が歓喜の声をあげた。
「アホこけ……」
土門くんはいう。
「……そんなもんどこが近いねん。駅からここまで三十分以上かかるんやで、そしたら駅から淨山寺までかて三十分以上かかるやんか、三十分以上と三十分以上足したら一時間以上[#「以上」に傍点]やで、ここから歩いて一時間以上のどこが近いねん」
「……土門くんは歩くといいわ」
まな美は地図でバスの路線を調べている。
「淨山寺のそばにバス停があるんだけど……あら、越谷駅まで戻っちゃうんだ」
「ほうれ見ろ……」
勝ち誇ったように土門くんはいう。
「バスに乗って駅まで行って、電車で越谷まで行って、そしてバスに乗るのか……行けそうにないわね」
まな美は、腕時計を見ながらいう。
「――姫、今から行くつもりやったんか。無茶いわんといてえなあ」
「だって、すぐそばにあるのに……」
残念そうに、まな美はいう。
「すぐそばちゃうて、遥かかなたや[#「遥かかなたや」に傍点]――」
止めを刺すように土門くんはいった。
「――マサトくん、自転車ある?」
まな美は目を輝かせていう。
「姫、ゆるしてえなあ」
「一台はあるけど」
マサトがいった。竜蔵《ジイ》がときどき庭で乗っているそれがあるはずだ。もっとも、ひとり乗りのマウンテンバイクだが。
「一台やと三人乗られへんでー」
その種のことは写真のときと同じで、いえば[#「ば」に傍点]揃うはずだが、即座に、というのは無理だろうとマサトは思う。
「――それに姫、その格好で自転車に乗る気か」
とはいったものの、その白いワンピース姿の彼女を後ろにふたり乗り[#「ふたり乗り」に傍点]している図を頭に浮かべて、それもえーな、と土門くんは思った。
「そうだわね……」
まな美も、ようやく諦めた。
「あ、忘れてた――」
まな美がいい出した。
「淨山寺の伝承、もうひとつあったんだ」
「三つ葉葵以外にもあるんか?」
「うん、それとは関係のない話が、別にもうひとつあるの――」
「そこのお寺、伝承の宝庫やな……ほんじゃ、聞かせてもらおうか」
いうと、土門くんはまたもやゴローンと横になってしまった。
「自分、五分が限界やねん、昔バスケやっとったやろ、そのとき腰痛めとうねん」
もちろん言い訳だが、中学のときはバスケの選手として鳴らしたのは本当である。
「一度病院で診てもらった方がいいと思うわ」
冷たーくいってから、
「土門くんの好きそうな話――」
まな美は始めた。
「慈覺大師が作った地蔵菩薩にまつわる伝承なんだけど、このお地蔵さんね、夜な夜な、出歩くくせがあったの……」
「自分そんな話好きやいうたかあ」
「……でね、そのお地蔵さんが家々の前に立って、ありがたーいお話しをしてくれるの。といってもね、毎日朝早く諸の定《じょう》に入るの大誓願で、長夜の眠りを覚まさせ布施愛語をもって民衆を教化された、とあったから、ほんとは早朝のできごと」
「夜な夜な来られたら煩《うるさ》いもんな。そやけど、朝起きたら仏像[#「仏像」に傍点]が家の前に立ってるいうのも、あんまり気持ちのえーもんちゃうぞう[#「ぞう」に傍点]……」
「木の仏像が立ってるわけじゃないわ。僧侶に姿を変えているの。それに気持ち悪いなんていってたら、土門くん救ってもらえないわよ。お釈迦様なきあと弥勒《みろく》菩薩がこの世に現れるまで、人々の救済はこのお地蔵さまが一手に引き受けているんだから」
「――他《ほか》にもいっぱいおるやんか、名前はよう知らんけど」
「地蔵の慈悲は大地のごときもの、諸仏の慈悲はそれより生じる樹木のようなもの――といってね、お地蔵さんは最も慈悲深い仏様なの。賽《さい》の河原《かわら》ではね、子供を法衣の下にかくまって、鬼の金棒から防いでくれたりもするのよ。この先五十六億七千万年は、このお地蔵さまにおすがりするの」
「えー話やなあ……そやけど、五十六億なんぼとかいうそのべらぼうな数字はなんやねん」
「そのときに[#「そのときに」に傍点]、この世に弥勒菩薩が現れるの。ほら、国宝で有名な半跏思惟《はんかしい》像ってあるじゃない」
「おう、その程度なら知ってるわ。太秦《うずまさ》にある広隆寺やろ、ロダンの考える人みたいなやつやな」
そう説明されると、マサトにもその仏像の姿は何となく浮かんできた。
「――あれ[#「あれ」に傍点]弥勒さんなんだけどね、彼はまだ修行中の身なの。だから、あーいった格好をしているの。そして五十六億七千万年後に悟りを得て、真の仏様の弥勒菩薩になって、最終的に世の人々を救うの」
「救う人間おらへんぞう、地球もないぞう……」
「でしょう。現実的じゃないから、この世には地蔵菩薩が遣《つか》わされているのよ。二仏中間《にぶつちゅうげん》の導師ともいってね、お釈迦様と弥勒菩薩との間は、このお地蔵さまが導いて守ってくれるの」
「へー偉いやつやったんやなあ……そのへんにゴロゴロころがっとるから並《なみ》やと思とったんやけど、姫のおかげで、目が覚めたわ[#「目が覚めたわ」に傍点]――」
土門くんが真顔になっていう。
「なんのこと……」
まな美が尋ねると、
「――若気《わかげ》のいたり」
彼にしては珍しく単語だけを発した。
「ひょっとして土門くん、お地蔵さんに何か悪さでもしたんでしょう」
「……許してくれるやろか」
こわごわ土門くんはいう。
「何したの?」
「そんなもんいえるかあ……」
姫[#「姫」に傍点]には、語れないようなことをしたようである。
「――わたし知ーらない」
まな美は、唄うようにいった。
「ここから先の話は、聞かない方がいいかもしれないわよ、土門くん――」
怪談話をするかのように、まな美はいう。
「――お地蔵さまは元来生き仏なの、生きてるって思われているから、木や石の地蔵さんの方が、あちらは、たまたま固くなっている姿だともいえるわね。この淨山寺のお地蔵さん、そうやって頻繁に出歩くもんだから、住職が不安にかられたらしいの……出て行ったきり戻って来なかったらどうしよう、てね。お寺にとっては大切な御本尊だから、そのまま家出されちゃうと困るでしょう。そしてなんと、その住職が、お地蔵さんの背中に釘を打ちつけて、鉄の鎖で繋《つな》ぎ止めちゃうの、――ひ[#「ひ」に傍点]っどいことするでしょう」
マサトも、背中のあたりが重たくなってきた。
「ば[#「ば」に傍点]ーち当たりな住職やなあ」
そういう土門くんとて、安穏とはしていられない。
「その住職どうなったと思う?」
まな美はいう。
「――現報《げんぽう》のがれ難《がた》く住僧は業病《ごうびょう》にかかって遷化《せんげ》された、て書かれてあったわ」
意味はさておき、最下級の悲惨な死に方をしたらしいことは、充分に伝わった。
「この住職は、曹洞宗に変わってから四代目の住職なの。だから江戸時代の初期の話ね。で、それから何十年後かに十代目の住職が、その姿を見るに忍びないと、お地蔵さまから釘と鎖を抜いてくれたの。その釘と鎖は捨てずに取ってあって、今でも見られるそうよ」
「――出歩かれるのが心配だったら、一日中見張っておけばいいのに」
マサトがいった。
「それはできないの、というのもね、この種の秘仏はふつう小部屋のようなお厨子《ずし》の中に安置されているから、外からでは見えないのよ。――見えないから、住職は不安だったのね。一年に何度かご開帳《かいちょう》の日というのがあるんだけど、十代目の住職も、そのときに釘と鎖を抜きとったの」
「……その小部屋とやらに、鍵かけといたぐらいじゃ、あかんねやろな」
土門くんが、やっと声を出していった。
「あかんみたいよ」
まな美が相槌をうつと、その関西弁はことのほかきれいに響いた。
「……でね、お地蔵さんが鎖から解き放たれて、また以前のように遊化《ゆげ》をされるようになってから、さらにもうひとつ伝承があるの。――遊化って、遊ぶに化《ば》けると書くんだけど、人々に教えを説くために、そうやって、あたりを自在に歩き廻ることをいうみたい、――きれいな言葉よね」
「まだ続きがあるんか……」
弱々しい声で土門巌がいった。
「これからよ、土門くんの好きそうな話は――」
「姫の話こわいからもうえーわー」
情けなーい声で土門くんはいう。
「ぜーんぜん怖くなんかないじゃない、ね、マサトくん」
マサトも、うん、と大きく頷いた。
「げんぽう逃れがたく[#「げんぽう逃れがたく」に傍点]ってあれなんや……頭から抜けへんぞう……」
何かに呪われているみたいに土門くんはいう。
「あれは言霊《ことだま》の一種ね」
冗談のつもりでまな美はいった。
「ひー」
土門くんは、業病にかかったような呻《うめ》き声をあげる。
「――うそうそ、呪《ま》じないの言葉じゃないわ。現報というのは、現世《げんせ》での行いがそのまま現世にはね返ってくるという意味、善悪ともに使うの、仏教用語よ」
「なーんや、あたりまえの話やんか」
土門くんはあっさりと生き返った。
「教えるんじゃなかったかしら……」
「いえ、自分じゅーぶんに改心しましたから」
寝転がったままで、手を合わせている。
「じゃ、お地蔵さんの話に戻るね。これは桜町天皇のころの伝承なんだけど」
「一七三、四〇年やな」
「やはり、お地蔵さんが遊化をなさっていたときのこと――お茶の畑を歩いていて、ふとしたはずみで眼を傷つけたそうなの。枝か何かで、片方の眼を突いたのね。血が流れ出たので、門前の池の水でその眼を洗ったの。それからというものは、この池に棲んでいた魚も虫も、みんな片目になったらしい……その後、誰いうともなく、このお地蔵さまは片目地蔵と呼ばれているの」
「ひゃ[#「ひゃ」に傍点]ーそんな伝承まであったんか。そのお地蔵さんごっつうおもろいなー」
土門巌の嬉々とした声とは裏腹に、マサトは唯々狼狽《ただただろうばい》していた。まな美の話が、まさかそういった方向に進むとは――。
「やっぱりね、大喜びすると思っていたとおりだわ、ひとつ目小僧とかのっぺらぼうとか、縁日《えんにち》のお化け、土門くんだーい好きなんだもの」
マサトは、顔を伏せてしまっていた。――知られていないはずだが、
「自分いったんもめんが好きやねん、空飛べるからえーやんかー」
土門巌は、いつもの調子である。
「ぬりかべの方がいいと思うわ、土門くんにはぴったしよ」
まな美にも、とくに変わった様子はない。その話が出たのは単なる偶然[#「偶然」に傍点]――とも思ったが、マサトは顔をあげることができない。
「そやけど、そのお地蔵さんが眼に怪我をした瞬間、その現場を誰か見てたんやろか」
「……どうかしらね、でも、この野島の地では、その後お茶の木は植えないことになっているらしいわ、お地蔵さまの御眼を傷つけたから、という理由でね。それと、お地蔵さまが眼を洗った池というのも、ちゃんとあるみたいよ」
「お、そこにはひとつ目の魚が今でもおるんかそんなことはないわな。そやけど、よーでけた寺やなあ、そのお寺さんだけで映画一本つくれるぞう。平安初期に慈覺大師が建てて、家康と縁があって、三つ葉葵もってて、それに姫の話やと、家康が祀られてる東照宮はその慈覺大師とも関係があるんやろ、うまい具合には説明でけへんけど、なんやこう三つ巴《どもえ》やんか。それに、お地蔵さんはちょくちょく出歩かれるそうやし、背中には釘の跡までついとーんや、そのうえにひとつ目の伝承まであるんか、すっごいなあ……もう一大すぺくたくるやなあ」
土門くんは与太なしのまともな感想を述べた。
「そやけど姫のおにいさん、ざすが大学の先生やな、すごい資料もってはるわ……」
「わたしのためにね、わざわざ[#「わざわざ」に傍点]選んでくれたの――」
嬉しそうにまな美はいった。
「――マサトくん、どうかしたの? 気分でも悪いの?」
顔を伏せたままでいるマサトに気づいて、まな美がいった。
「いえ、大丈夫――」
マサトは、座卓《テーブル》の上で腕組みしていた手を、振り動かして応じた。
「――だれやねん?」
土門くんがいった。
見ると、極彩色《ごくさいしき》の紋様が掠れたような着物を身に纏《まと》った女性が、床の間とは反対側の広縁を、庭のみどりを背に粛々《しゅくしゅく》と歩いていた。こちらに来る様子である。
「だれ?」
まな美も尋ねた。もちろん、マサトにである。
「――西園寺さん」
マサトはいう。
希美佳が煎茶と菓子をお盆に載せて運んで来たのである。
「――粗茶でございますが」
身震いするほどの涼しい声で彼女はいうと、それらを、紫檀の座卓の上にひとつひとつ置いていく。
「どちらさんで……」
そういう土門くんは、いつの間にか正座をして畏《かしこ》まっている。
「――ジイの、代わりの者[#「者」に傍点]」
マサトがいった。
「なんちゅこというねん」
マサトを睨みつけてから、
「――こいつ[#「こいつ」に傍点]ときどき時代語つかいよりますから、気にせんといてくださいね」
まるで保護者のような口ぶりで土門くんがいうと、希美佳は手を休めずに、かすかに首を横に振った。
「それ……紅型《びんがた》の古いのとちゃいますのん」
土門くんが、彼女が纏っている着物の袖のあたりを見ていった。――帯留めも簡素で、まるで縁日に着ていく単衣《ゆかた》のように希美佳はその独特の風合いの着物を着こなしている。
その問いかけに、わずかに微笑《ほほえ》みながら頷くと、
「どうぞごゆるりと」
お盆を下げて戻っていく。
「びんがたって何……」
そんな、西園寺希美佳の後ろ姿をなかば呆然《ぼうぜん》と見送りながら、まな美がいった。
「沖縄の着物や――」
土門くんの母親は家で着付けの教室を開いている。だから、彼は門前の小僧である。
「――それも王族が着るやつや。身分によって使える柄がちがうねん、竜が描かれとったやろ、よう見たら指が五本や、そやから最高ランクやで」
「けど、今沖縄に王族なんかいないでしょう」
周知のことだが、尋ねた手前まな美はきいてみた。
「そやからあれは古いやつやねん。色使いは派手やねんけど、褪せてえー感じになっとったやろ。自分も同じようなやつ家で一度だけ見たことがあんねん。すっごいきれいやから、これ切ってアロハシャツにしてえな、いうたらえっらい怒られたわ。――博物館から借りてきたやつや、いうてな」
服だけの問題じゃないわ、中身がちがう[#「ちがう」に傍点]……まな美はそんなことを考えていた。彼女自身うまく説明はできないのだが、西園寺希美佳は、まな美が今までに出会ったことのないような種類《タイプ》の女性のようなのだ。
マサトも、希美佳が着物姿で現れたので少し驚いていた。昼御飯のときまでは彼女は洋装だったからである。
「……すっごいきれいな人やったなあ、いったい歳いくつなんやあ」
土門くんが尋ねたので、二十一歳で大学生だとマサトが答えると、
「ひゃ[#「ひゃ」に傍点]ーそんな歳やったんか――」
いいながら、バッタリと後ろに倒れた。
まな美は聞いても驚かなかった。歳は自分とそうは離れていない、と、まな美が睨んだとおりだったからである。男子と女子とでは、やはり視《み》るところが違う。
「え[#「え」に傍点]ーな[#「な」に傍点]ーひとつ屋根の下で女子大生とふたりっきりでおるんか、え[#「え」に傍点]ーな[#「な」に傍点]ー」
畳の上でジタバタしながら土門くんはいう。とはいっても、マサトは離れだし、その女子大生は母屋のどこかの部屋で寝泊まりしているのだ。
まな美は、そのジタバタ[#「ジタバタ」に傍点]の先にある床の間のあたりを見て思った。あれも、彼女の仕業ね[#「仕業ね」に傍点]――古陶磁の大徳利《おおとくり》の口からぎくしゃくと伸び出ている枝葉は、明らかに心得のある者の手になるそれであった。変だなと、まな美も気づいていたのだ。そこには竜蔵が庭から千切《ちぎ》ってきたような草花が、無造作に差してあった記憶が彼女にはあったからだ。それはそれで野趣にあふれていて、彼女は好きであった。
「――自分も泊めてくれー」
土門くんが唸り出した。マサトはというと、平然とお茶を啜《すす》っている。
まな美は、何だか無性に腹が立ってきていた。
「そんなこと、――許されないわ」
まな美はふたりにいった。
まな美が六時すぎに家に帰ると、
「よかった……もう先に行っちゃおうかと思ってたんだから」
待ち侘びていたように母の紀子がいった。
「パパがご馳走してくれるそうよ。――池袋で七時に待ち合わせなの」
紀子は嬉しそうである。
「何かの記念日?」
「さあどうかしら。――でも、そのワンピースだけ[#「だけ」に傍点]は着替えてちょうだいね、見たらパパ気絶しちゃうから」
そっか、と思いながらまな美が背中のファスナーに手をかけつつ部屋に行こうとすると、
「……まな美、あなたと同じ学年に石田|聡子《さとこ》さんっていらっしゃるでしょう。どんな女の子?」
紀子がきいてきた。
「B組の石田さんでしょう。どんな、ていわれても困るけど……とっても美人《きれい》だわよ彼女。石田さんがどうかしたの?」
「いえね、事故に遇われたらしくって……大事には至らなかったらしいんだけど」
「えーいつのことよ? だって、昨日までは夏期講習で一緒だったんだから。それに、わたし石田さんとは同じ部屋だったのよ――」
まな美が強引に参加した、三泊四日の禅寺|詣《もう》でのことである。総勢で四十人程度であったが、生徒は一部屋に四人が寝泊まりしていたのだ。
「たしか、昨日の今時分って話だったわね」
貸切《チャーター》のバスで昼過ぎに学校に戻ってきて、そして解散になったから、その後の出来事である。
「どんな事故?」
「それが……詳しいことまでは、教えていただけなかったから」
これは嘘である。母としては、娘に話せるような内容ではないのだ。
「ただね、夏休みだからといって浮かれずに、高校生らしく本分を全うしましょう、といったお話」
「なにそれ……まるでわたしが浮かれてるみたいじゃない」
実際、ちょっとは浮かれているようだが。
「あなたも十七歳だし、もういっぱしの女でしょう。だから、軽々しい行動をとってはダメよってこと」
つまり、――お宅のお嬢さんに限っては心配ないとは思いますが、年頃の娘をもつ親としては、他人《ひと》ごとじゃありませんわよね――といった常套句とともに、石田聡子に関する醜聞がパーと親たちの間に流れたということなのである。
「ふーん、石田さんって、軽々しい行動をとるような人には見えないけど」
見透かしたようにいってから、
「――ママ、そのパパのお誘い、わたしも行かなきゃいけないの」
子供の声にもどって、まな美はいう。――今日の夜は、お寺に関係してあれこれと調べものをしたいのだ。
「もちろんじゃない。たった三人だけの家族なんだから――」
母の紀子にそういわれると、後ろめたく感じるところもあって、
「じゃ、食事だけよ。この前みたいにもう一軒って、善良な女子高生をバーに誘ったりしないでね」
条件つきながら、まな美は一緒することにした。
[#改ページ]
そのころ池袋警察署の取調室で――。
日焼けした肌にレモンイエローのアロハをひっかぶった、いかにも遊び人ふうの若い男が、テーブルを挟んで中年の刑事と向かい合っていた。
「仕事は何してるんだ」
刑事は穏やかに問いかける。
「……フリーターだよ」
面倒臭そうに男は応える。
「二十八にもなってフリーターとは、うらやましいかぎりだな。海の家でバイトでもしているのか」
「ちがわ……おれはサーファーなんだ」
「ほう、波乗《サーフィン》やってるのか、それでそんなに焦げてるんだな、なーるほど」
どうでもいいことに大袈裟に感心してから、刑事は訊《たず》ねる。
「ところでさ、昨日の今時分だけど、つまり、夜の七時ごろね、君はどこで何をしてたの」
「知るかよ――んなこと」
乱暴な口調で男はいったが、刑事でなくても見抜けるぐらい、男は動揺している。
「昨日の今日だから、忘れたってことはないよな。まあ、しゃべる気になったら教えてくれよ」
刑事はあっさり引き下がると、持ってきていた大きめの茶封筒の中から、何やら取り出した。
「――これ、分かるよね」
「ケータイじゃねえか……んなもん小学生でも知ってらあ」
パールピンクの携帯電話だが、じゃらじゃらと付属物がいっぱい垂れ下がっている。
「この携帯電話の持ち主はね、十七歳の女子高生で、石田聡子[#「石田聡子」に傍点]――」
名前が告げられても、男は素知らぬ顔である。
「もっとも、本名はいわずに仮名を使っていた可能性があるけどね。たとえば、……ミホ[#「ミホ」に傍点]とか、……アリサ[#「アリサ」に傍点]だとか」
今度は、男の肩がビクッと震えた。まるでウソ発見器を身に纏っているごとくに、分かりやすい男である。
「こんなものを持たせる親の気が知れないね、どうせロク[#「ロク」に傍点]なことに使わないんだから」
いいながら刑事は、その女子高生の携帯電話に指を這わせている。
「けど、ものは使いようだ。最近の携帯は便利にできてるからなあ……とくに、このボタンは重宝するよね」
言葉に釣られるように男が刑事の指先を見た。
「――リダイヤルだ。知ってるよな」
いわれてから、あっ、といった顔をして男は顔を背けた。
「同じ相手に再度電話するときのボタンだけど、いわゆる過去帳[#「過去帳」に傍点]としても使えるよな……じゃ、試しに、このリダイヤルボタンを押してみようじゃありませんか」
嬉しそうに刑事はいう。
「おやおや……〇九〇一……と表示されたよ。てことは、これも携帯の番号だよな。てことは、彼女は最後にここに電話をかけた、てことだよね」
男の横顔がみるみる青ざめていく。
「じゃ、試しに、この番号にかけてみようじゃありませんか……」
数秒後、取調室の小部屋に場違い[#「場違い」に傍点]なメロディーが鳴り響いた。
「なんだあ――」
それは短いフレーズの繰り返しで、無性に神経を苛立たせる。刑事もどこかで聞いたような記憶はあるのだが、いったい何の音なのか理解できない。
「……ちぇ」
男は舌打ちすると、床に置いてあったショルダーバッグから自身の携帯電話を取り出して、その着信音を止めた。
「なんだよ今の音は?」
「……知るかよ」
ふて腐れたように男はいう。
「着メロ[#「着メロ」に傍点]は何かときいてるんだ」
刑事はきき直した。
「ああ、あれは新宿駅の発車のときの曲《ベル》だけど」
「あーん――」
刑事はしばし絶句してから、
「バカかてめえは――」
怒りだした。
「そんな音を駅で鳴らしたら客が混乱するじゃないか――」
駅でなくても、刑事は混乱したのだ。
「くっだらんことに時間を割きやがって、人をおちょくるのがそんなに楽しいか、――非常識な音鳴らすのが格好いいと思ってんだったら、君が代[#「君が代」に傍点]鳴らしてみろよ、右翼の街宣車の前で鳴らせるもんなら鳴らしてみろよ――」
ひとしきり悪態をついてから、
「で、この女《こ》の携帯をリダイヤルすると何でおまえのが鳴ったんだ」
刑事は訊ねる。
「……知るかよ」
再度、男はふて腐れていう。
「いつ話したかも局には記録が残ってんだぞ、昨日の五時、十分以上も長話してんだ、それでも覚えてないのか――」
男は答えない。
「ちなみに、この一個前のリダイヤルは伝言ダイヤルの番号だ。おまえらの行動パターンは手にとるように分かるよな。そこにメッセージを入れたろう。連絡ちょうだーい……て甘ったれた声で、おまえの携帯の番号を入れたんだろう」
そのメッセージは残っていない。聞いてから女子高生は消去したらしく、だから、刑事の当て推量である。
「――六時に、池袋のハンズの前で待ち合わせをしたよな。相手は女子高生のふたり連れだ。ミホ、アリサ、て名前だったよな」
もうひとりの女子高生の証言なので、これは確かな話である。
「――そして近くのホテルに行ったろう。アポロンって名前の、どこぞの神殿みたいなラブホテルだ。あそこのフロントには防犯カメラがあってな、人の出入りは二十四時間ビデオに記録されているんだ。おまえのニヤけた顔も、その黄色いアロハシャツもばっちり映ってるぞ」
一部ウソである。録画はモノクロなのだ。
「それに、おまえたちフロントで揉めたろう。あそこは三人[#「三人」に傍点]では使わせてくれなかったからな。それでおまえ、アリサって娘の方を選んだろう。いかにラブホテルといえどもな、フロントの前でそういったことを露骨にやると目[#「目」に傍点]つけられんだよ。だからフロントのおばちゃんも、おまえの顔ちゃーんと覚えてる。何なら呼んでやろうか――」
黙りこくっている男を尻目に、なおも刑事は説明を続ける。
「おまえが選ばなかった方のミホちゃんね、近くのゲーセンで時間つぶしてたそうだ。けど、二時間たっても連絡がないもんだから、相棒の携帯に電話を入れてみた。この携帯にだ。これが鳴ったとき、どうしたことかホテルの部屋には刑事[#「刑事」に傍点]がいてね、刑事がその電話を受けて、機転を利かして、ミホちゃんを捕まえちゃったんだ。で、彼女から経緯を教えてもらったってわけさ。もちろん、ミホちゃんもおまえのこと覚えてるよ……呼んでやろうか」
それは無理な話だが。
「――おまえ、非常階段を下りて裏口から外に出たろう。走って逃げていく後ろ姿、ホテルの従業員に見られてんだぞ。あそこのドアな、開けると、フロントで分かる仕掛けになってるんだ。フロントを通らずに出たがる不心得者がたま[#「たま」に傍点]ーにいるらしくてね、おまえみたいなな」
そこまで刑事がいうと、
「……おれは何もやってない」
男は観念したのか、弱々しく口を開いた。
「何もやってないだとお――」
刑事は声を荒げていう。
「十八歳未満と援助交際すると、それだけでも三年以下の懲役なんだぞ」
昨今、やっと国の法律としても定められた児童買春禁止法のことである。
「……それもやってねえよ」
「それも[#「も」に傍点]、とはどういうことだ。別のことを何かやったのか」
「……だから、何もやってねえよ」
「何もやってないやつが、どうしてホテルの裏口からこそこそ逃げるんだよ、えー」
「……いっても信じてくれそうにないから……だから逃げたんじゃねえか」
拗《す》ねたように男はいう。
「他人《ひと》が信じるかどうかは話してみんことには分からないぞ。今からでも遅くないから、なあ、俺に解るように説明してみろよ……」
優しい口調になって刑事がいうと、
「――おれの話信じてくれるよな。刑事さん、信じてくれるよな」
男が身を乗り出してきて、拝むようにいった。
「ああ、信じてやってもいいよ。本当のことさえ話してくれればな」
仏様のような顔で刑事はいう。
「あのふたり……会ったときから嫌[#「嫌」に傍点]な感じがしてたんだ。わたしたち仲良しだから一緒に、とかいいやがるし」
男は語り始めた。
「……ホテルの部屋に入ったら、お先に風呂にどうぞ、てあの女がいうんだ。こーいうの絶対やばいよな。金だけ盗《と》られてトンズラこかれるのに決まってらあ。だからおれ、財布だけそーとタオルに隠して風呂にもって入った……」
「用心のいいことだなあ」
「女子高生だからって信じられっかよ。……案の定[#「案の定」に傍点]、おれのカバンの中ごそごそやりやがって」
「見たのか?」
「……見てないけど、気配で分かるよそれぐらいは。シャワーの栓をいっぱいに捻《ひね》ってさ、風呂のドアを少しだけ開けて様子を窺ってたんだ。そしたら、チャリチャリって音が聞こえてくるじゃねえか……あら絶対にカバンの金具の音だ。嘘だと思うんだったら、このカバン調べてみてくれよ、あの女の指紋がいっぱい付いてるはずだから」
「まあ、場合によってはな、で――」
「で、しばらくすると諦めたらしくって、服を脱ぐ音が聞こえてきたから、おっ、こりゃうまく行きそうかな……と思ってさ」
ぷっ、と刑事は吹き出してからいう。
「単純だなあ――」
「単純だよ。男ってそんなもんだよ。けど女は何考えてるか分かったもんじゃねえよ……とくにあの女、ケロッとした顔で風呂に入ってきてさ、背中流してあげる、ていうもんだからさ、おれ椅子に座って、あいつに背中向けたんだ。そしたらいきなり、ガ[#「ガ」に傍点]ーて爪を立てやがって――」
「どうして?」
「知るかよ、んなことこっちが聞きてえよ」
石田聡子の右手の爪に、他人の皮膚と血が付着していたのは事実である。が、刑事としては、男の話を鵜呑《うの》みにするわけにはいかない。
「――いきなりってことはないだろう。おまえ、何か悪さでもしたんじゃないのか」
「どんな悪さするんだよ。相手はもう素っ裸で風呂に入ってきてるのに……それに、おれは嫌がる女を犯《や》るほどのワルじゃねえよ」
たしかに、争ったような痕跡はとくにないのだ。
石田聡子の服はまったくの無傷できちんと畳まれてあったし、彼女の身体にもそれらしき傷はない。
「……だからおれ、何するんだ、て振り向きざまに手で払ったんだ。そしたらあの女、ステーンと転びやがって」
「やがって[#「やがって」に傍点]だと――」
目を吊り上げて刑事はいう。
「……すいません」
男はしおらしく謝ってから、
「彼女が転んでしまいまして、そのときに頭を打ったらしくって、そのまま気を失っちゃって……揺すっても全然起きないし、それに、鼻からも血が出てくるから、だからおれ……」
青くなって、大慌てでホテルから逃げ出したということなのである。
「刑事さん、あの女《こ》死んでませんよね……」
もちろん、血も単なる鼻血で命に別状はなかったのだが、刑事は否定も肯定もしない。
「あれは正当防衛ですよ……ていうか、事故ですよ、警察の方でそれを証明してくださいよ」
石田聡子は、その後病院で意識を回復したのだが、ホテルに入ってからの記憶は曖昧だ。脳震盪《のうしんとう》の後遺症なのか、それとも喋りたくないのか、いずれにせよ彼女からは詳しいことは聴けていない。
「――おまえ、いきなり爪を立てられたっていうのは、やっぱり変だぞ。カバンを探られたことで、厭味のひとつでも彼女にいったか」
「一言[#「一言」に傍点]もいってませんよ。これからいいことしようと思ってるのに、なんで相手の気分を悪くさせるんですか……」
「じゃ、おまえ頭でも殴られたか?」
「いや、殴られてなんかいないけど……」
「お金を盗るつもりだったら、頭を殴って気絶させるのが普通だろう?」
「……んなこといわれたって、殴られてないもんは、殴られてないし」
「ふーん」
刑事は腕組みをしながら、鼻で唸った。
「やっぱり信じてくれないじゃねえか。じゃ、この傷はいったい誰がつけたんだよ――」
いうと男は、アロハを乱暴に脱ぎ捨ててからクルリと向きを変えて、刑事に背中を見せた。
「うわあ……痛そうだなあ」
爪を立てるとはかくあるべき、といったほどの赤黒く変色した筋が五本、男の右の肩甲骨のあたりから斜めに刻まれてあった。それにヨード系の消毒薬を下手くそに塗ったくっているものだから、余計に痛々しい。
「……なんでこんな目に遭うんだよ。おれが何したっていうんだ」
半泣きのような声で男はいう。
「あれ……おまえ背中に刺青してるのか」
塗薬のせいで分かりづらいが、男の背中の真ん中あたりに、何かがかなりの大きさで描かれている。
「これはヘンナだよ」
「何が変だ?」
「いや、ヘンナ[#「ヘンナ」に傍点]っていう呪いの儀式のときに使う液体。インドかどっかのもんで、それで描くと二、三週間は消えないんだ」
「麻薬《ヤク》の類いか――」
「ちがうよ。よくは知らねえけど、食っても大丈夫なぐらいに無害です[#「無害です」に傍点]」
ヘンナは天然ハーブから抽出した泥状の液で、それを皮膚にのせると濃い茶色に染色されるのだ。呪いだけでなく、祝いの儀式にも使ったりする。
「へーそんなものがあるのか、けど、塗絵《ペイント》にしてはよく描けてるなあ」
男の背中をしげしげと見ながら刑事はいう。
「ダチにうまいやつがいて、ボードに絵を描いてるプロなんだけど、そいつに半日がかりで描いてもらったんだよ」
「――竜だよな」
玉を鷲掴《わしづか》みにしながら飛翔している一匹竜の絵柄である。
「しかし無残だなあ、おまえの竜は八つ裂きじゃないか――」
[#改ページ]
「――水晶占いといえば魔女やジプシーがつきものだけど、実際にはあーいった水晶玉を使っていたわけじゃないんだ。あれは、あくまでも映画の中の話だから」
下北沢のはずれにある薄暗いショットバー……のカウンターじゃなく、さらに暗い隅っこのテーブルで、火鳥が西園寺静香に昼間の話の続きをしていた。店内に彼ら以外には客はいない。時間もまだ宵の口だし、それに、ここが静かなことを知っていて火鳥は選んだのだ。話に邪魔にならない程度の音量で有線のジャズが流されている。
「――水晶もガラス玉も、大きなものは値段が高い、今も昔もこれは変わらない。イングランドの魔女は、釣りの浮きに使うような小さなガラス玉を用いたらしい。別に何でもかまわないんだ、似たような効果が得られるものであればね。磨かれた石や金属でもいいし、古代エジプトでは、インクとか血とかも用いられたそうだ。古い例では、夜に、静まりかえっている池の水面をのぞき込む……これが、水晶占いの原型のようだ」
別にこんな話[#「別にこんな話」に傍点]をしたいがために彼女を夕食に誘い、さらには、穴蔵のごときこの店へと連れ込んだわけではない。火鳥が研究したいと予《かね》てより切に考えている事柄、それを今宵、助手[#「助手」に傍点]の彼女に説明しようと思い立ったのだ。
が、相当に込み入った話だし、それに科学の一般常識なるものを二、三段は踏み外すことになるから、火鳥としては、外堀のあたりからそろりそろりと話を進めていってる状況なのである。
「――何を隠そう、かの有名なノストラダムス大[#「大」に傍点]先生も、実は、この水晶占いの信奉者なんだ」
精一杯おもしろおかしく火鳥がいうと、
「あれは信じてませんよ、わたしも」
と、美しい笑顔で静香は応じた。導入部は、やはりこういった話にかぎる。
「彼も、水晶玉を使ったわけじゃないんだ。古代ギリシャの時代にアポロン神殿でやっていた方法だそうだが、――何のことはない、洗面器に水を張って、薄ぐらーい室内で、それに見入っていたそうだ」
「でも、先生のお説ですと、大予言のような何百年も先の未来は見えそうにもありませんよね」
「うん、見えない[#「見えない」に傍点]――」
断定的に火鳥は相槌をうつ。
「見えるわけがない[#「わけがない」に傍点]。けど、ノストラダムスを弁護するわけじゃないが、期近な未来ならば見えた場合もあった……かもしれないだろう。研究室で説明したような理屈でね」
「因果関係がはっきりとしている事象で、その原因に相当する出来事がすでに生じているような場合ですよね。もし萌芽を知ることができれば、パターン認識で、未来どんな花が咲くかが分かります……」
静香の方が火鳥よりも説明が巧みである。
「仮に[#「仮に」に傍点]ノストラダムスに期近の未来が見えて、その予言が当たったとしよう。すると、遠い未来の予言も当たるのではないか……と、彼が考えたとしても無理はない。脳の認知のメカニズムなど彼はいっさい知らないわけだからね。つまり、拡大解釈をしてしまうんだ。この種の話には、この錯覚[#「錯覚」に傍点]ともいうべき拡大解釈がつきもんなんだ。それも当人だけならまだしも、周りの人間もよってたかって同じように拡大解釈をする。どうなる?」
「そうなると、予言だけが独り歩きをしてしまいますよね」
「――危ない話だろう。ハルマゲドンだと騒いでいる愚かな連中は、だいたい[#「だいたい」に傍点]が似たような構図さ」
虫酸《むしず》が走るほど、火鳥はその種のものが嫌いである。お殿様も嫌いだが、過去の伝統に胡座《あぐら》をかいている類いの権威は、お茶もお花も、彼は一切合財嫌いである。
「宗教も……似たような構図なんですか?」
静香が尋ねた。
「宗教の大元である教祖様にかぎっていえば、同じだ。宗教の教祖は、人間だよね?」
さも当然といったふうに、火鳥は同意を求める。
「そうなのですか」
静香は、曖昧に返事をする。
「教祖は人間だ。神[#「神」に傍点]ではなーい」
芝居の台詞のように、火鳥はいう。
「だから、人間である以上は自然界の法則に縛られる。寿命が尽きたら死ぬ。それに、先のノストラダムスと同じで、見えるものもあれば、見えないものもある――」
「でも、神には、その種の限界はないですよね」
「――ないみたいだね。どこかの誰かが、神とはそういったものだと仮想したからだろう。話がつまり逆なんだな。最初に神ありき、と考えるからおかしくなる。宗教は、最初に教祖ありきなんだ。神とか教義とか、物語の部分は後から作られる。そして大半の宗教が、教祖の死後に、彼を神の一員《ファミリー》として加えたり、あるいは、神そのものとして祀《まつ》ったりもする……まあ、神が先か教祖が先かなんて話はどちらでもいいことだ。僕がいいたいのは、たとえ死後には神になったとしても、いや、稀には生きている間に神にされてしまう場合もあるようだが、いずれにせよ、彼らは人間だということだ。だから、おのずと限界がある」
「……限界があるのに、なぜ、神様にされてしまうのでしょうか」
堂々巡りだと思いながらも静香が尋ねると、
「限界がないかのように、錯覚するからさ。これが、つまり拡大解釈[#「拡大解釈」に傍点]――」
やはり、一度聞いた答えが戻ってきた。だが、そうあっさりと神や宗教を説明されても、静香としては承服しかねるものがある。――信仰は、彼女が何を信じているにせよ、各人にとって微妙な問題なのだ。
「宗教に善《よ》し悪《あ》しがあるかどうかは別として、仮に、あるひとつの宗教を潰そうと思った場合、どうすれば一番手っ取り早いだろうかねえ……」
無神論者の火鳥は、なおも話を続ける。
「教義をあれこれ批判したところで埒《らち》は明かない。どの宗教の教えも所詮過去の寄せ集めだから大差はない。急所は、ズバリいって教祖さまにある。彼を神だと位置づけることによって、どうしても矛盾が生じてしまう。そこを衝《つ》けば、宗教はあっけなく崩壊する」
「……火鳥先生、潰したいと思っておられる宗教団体がおありなんですか」
静香は、控えめに尋ねた。
「いや、そういったものが具体的にあるわけじゃない。結果的にはそうなる……といったことさ。僕が興味をそそられるのは、教祖、もしくは神が有しているところの神秘性なんだ。これが宗教の要だからね。だが、いかに神秘的なみわざ[#「みわざ」に傍点]であったとしても、所詮人間の能力を超えたものじゃないのだから、そのなぞは、解ける[#「解ける」に傍点]、そう思わないかい」
「……ええ、先生のおっしゃるとおりのものでしたら、解けるでしょうね」
控えめに、静香は同意した。
「なぞが解けると神秘性は剥《は》ぎ取られてしまうから、神は、神でいられなくなる。――実のところをいうとね、宗教にも何[#「何」に傍点]の興味もないんだ。だが避けては通れない。というのも、古今東西の教祖や神さまの大半が、いわゆる超能力者だからだ」
そう火鳥がいうと、
「超能力ですか……」
静香からは、今ひとつ気乗りのしない返事がかえってきた。
「いや、この超能力[#「超能力」に傍点]という言葉は僕も嫌いだ。その時々の科学水準でもって説明しきれない、それだけの意味にすぎないからね。いずれ科学の発達とともに存在するものは証明されるし、ないものは消去される。人間が本来有している能力[#「能力」に傍点]、通常は隠れていて見えないその能力が、ごく稀に[#「ごく稀に」に傍点]、人によっては表に現れでる場合がある。僕がいいたいのは、そういった能力[#「能力」に傍点]のことだ――」
やや、先を急ぎすぎたようである。火鳥は話題を変えることにした。
「――ノストラダムスに戻るけど、彼のアプローチの仕方は、あれはあれで正しいと僕は思うんだ」
叶わぬときの、何とやらである。
「薄ぐらーい部屋で、洗面器に張った水をのぞき込む……彼は、幻視を見ようとしていたわけだ。これすなわち、自身の脳の情報と直にアクセスしようとすることであり、なおかつ、脳は通常では知りえないような奥深い知見を有している、可能性があったよね。もっとも、神というわけじゃないが。だが、物知りという点においては我々の意識よりも数段上だ、だから、理に適《かな》ったやり方でしょう?」
「はい、研究室でお伺いしましたあのお話は、とっても勉強になりました」
静香は素直に賛同する。
「ところがだ、ノストラダムスも見ようとした、この映像情報というやつは、我々の意識にとっては非常に扱いづらい代物なんだよ。――西園寺さん、あなたの脳に入っている映像記憶ね、自由に扱うことができますか」
変な質問である。
「自由に扱う……とは、どういう意味でしょうか?」
尋ね返されるのも無理はない。
「ほらほら、僕たち自由に言葉を喋れるじゃない。もちろん、読んだり書いたりもできるし、この言語記憶なんかと同じように、自由に扱えますか、という意味で……」
静香はしばらく考えてから、
「――読む、に相当することはできますよね」
答えた。
「それはできて当然だ。文字を見て何が書かれているか解る、同様に、何かの映像を見てそれが何だか判る、これはともに認知の工程だから、自由にできないと普段の生活に支障が出る――」
そのように、支障が出ている人間を研究対象にするのが、火鳥の本業『認知神経心理学』のスタンダードでもある。
「じゃ、書く[#「書く」に傍点]に相当することはできるかというと、何かのイメージを浮かべようとして、目をとじて頑張ったとしても、薄ぼんやりと思い出すのがやっとだろう。だから喋《しゃべ》るなんて、もってのほかだよね」
映像記憶で喋る……ちょっと想像のつかない話である。
「けれど、薄ぼんやりとしか思い出せないから、脳には、薄ぼんやりとしか記憶されていないかというと、そうでもないよね」
「……はい、脳に電気刺激を与えたりしますと、精緻《せいち》な記憶映像が再生されて見えたりしますから」
静香は、一九五〇年代にカナダで行われたペンフィールドの実験のことをいっているのである。
「そう、頭蓋骨をパカッと開けてね、側頭葉をチクりとやったわけだ。でもあのあたりは連合野《れんごうや》だから、映像以外にもあれこれと起こる。たとえば、一度聞いただけのラジオ放送が、よどみなくその人に聞こえてきたり、特定の曲のワンフレーズが繰り返して再生されたり、あるいは、戦争のときの体験映像とともに、鼻をつく薬莢の臭いが感じられたりもしたそうだ。――その人の過去のある時点を鋭角的に切り取ったような記憶、つまりエピソード記憶だが、これがそのまま再生されたりもする」
「……人間の脳って、不思議ですよね」
静香は素直な感想を述べた。
「もちろん映像記憶に関しても同じで、チクリとやると、かつて見たことのある映像が鮮明に再生されて見えたりもする。つまり、録画の方はきちんとされているわけさ。人間の脳は、再生の機能がダメなんだね」
静香も頷いた。
「……が、ダメなものに人間は挑もうとする。水晶玉はそのひとつの方法論だ。他にもやり方は幾つかあるが……あるいは、道具《グッズ》なんか使わなくても、見えちゃうような人も稀にだがいる」
そこまで喋ると、ひと呼吸おいてから、演技たっぷりに火鳥はいい出した。
「――霊が見える[#「霊が見える」に傍点]。ほらそこにも[#「ほらそこにも」に傍点]、あそこにもいるじゃないか[#「あそこにもいるじゃないか」に傍点]、あなたには見えないの[#「あなたには見えないの」に傍点]――」
何事かと、静香はあたりを窺った。店内はかなり暗いのだ。客はいないし、それに店主もカウンターの陰に隠れてしまっている。
「……といったような人がさ、テレビのオカルト番組によく出てきたりするだろう」
火鳥が地声に戻ったので、静香は、安堵《あんど》したように頷いた。
「俗にいうところの、霊能おばさんだよね――」
静香も、その種のテレビ番組は何度か見たことがある。
「彼女たちも、別に嘘いつわりを口走っているわけじゃないんだ。実際に見えているんだから」
「……霊がですか?」
「まさか」
間髪を入れずに火鳥はいう。
「あれは情報[#「情報」に傍点]が……それがどこから齎《もたら》されているかといった話は別にして、その情報が、彼女の脳のなかで認知のフィルターを通され、再構成されて見えているわけさ。見えているものは、あくまでも彼女自身の映像記憶から紡ぎ出された絵。それに、霊に相当する何らかの実体が、見えているその場所に存在するわけでもない。水晶玉をのぞいていて人が見えたとしよう、じゃ、その水晶玉のなかに小人が住んでいるのか……そんなはずはないよね、理屈は同じなんだよ」
静香も、ほぼ予想できた答えである。
「もっとも、本当は見えないのに、見えるといってるやつもいる。能力者のふりをする不逞《ふてい》の輩《やから》も少なからずいる。いや、大勢いるねえ……」
「それは、見分けられませんよね」
「――そうでもないよ。僕には見分けられる」
何を根拠にしているのか、火鳥は自信満々だ。
「この、見えるか見えないか、ていうのね、オカルトの世界では、ここには神や宗教も当然含まれるんだが、その種の世界では最重要命題[#「最重要命題」に傍点]なんだ。すべては、この、見えるか見えないか、に集約されるといっても過言ではない」
火鳥が大風呂敷を広げた。
「……まずもって、座敷童子《ざしきわらし》でも妖怪でも、あるいは悪魔《デビル》でも守護霊でもマリアさまでも何でもいいけど、普通人には見えないのに、ある特定の人だけには見える……といったようなことに関してね、宗教によって対応の仕方が異なるんだよ。で、結論から先にいうと、是か非か、になる」
「……認めるか、認めないか、ということなのですか?」
「見えたものを認める、認めない、じゃなくて、見える[#「見える」に傍点]といった現象そのものを、あるいは、そういった能力[#「能力」に傍点]を認めるか、認めないか、といった話になる」
「それが、宗教によって差があるのですか?」
「――明確[#「明確」に傍点]にあるんだ。まずは是の方から話をしようか。世界各地に古くからある土着性の宗教、つまりシャーマニズムに類するようなものは、すべて是だ。日本の神道も是だし、中国もそう、それに仏教も是だね。シャーマンなどは薬の類まで使って、わざわざ見よう[#「見よう」に傍点]とするぐらいだからね。まあ、そこまで積極的ではないにしても、それなりの努力を他の宗教もやる。たとえば、役小角《えんのおづぬ》が源流だといわれている修験者は、五辛《ごしん》を断つ。神道の方でも古《いにしえ》の儀式をやるときには関係者がやはり五辛を断つ。あるいは、摩多羅神《またらじん》を拝してやる玄旨灌頂《げんしかんじょう》を受けるときも十七日間、五辛を断つ。これは台密《たいみつ》だけど、真言の方でも秘儀の伝承のさいには、だいたい五辛を断つようだ」
べらべらべら……と火鳥が喋った。
「――先生、聞き馴れない言葉がいっぱい出てきたのですが」
「うーん、ひとつひとつを説明してあげたいところなんだけど、それをやると明日《あした》になってしまう。ポイントだけを理解していただければいいから……」
「じゃ、ごしんを断つ[#「ごしんを断つ」に傍点]ということですよね。どういう意味なんですか」
「これはね、五つの辛いと書いて五辛[#「五辛」に傍点]。食べ物の種類のことで、ネギ、ニラ、そしてニンニク――」
しばらく間をおいてから、静香が尋ねる。
「あとのふたつは何なんですか」
「ま、強いていうなら……ラッキョとエシャロットぐらいかな」
居酒屋で出てきそうな食べ物である。
「――五辛といってもね、厳密に五種類というわけじゃないんだ。きりのいい数字を冠しているだけだから。要するに、同種の野菜類は食べない[#「食べない」に傍点]……といったことだ」
「……食べないと、何か特別なことが起きるのですか?」
「いや、食べると[#「と」に傍点]、よろしくないんだ。だから断つわけだね。……つまりね、これらの食物には、脳の視覚野《スクリーン》に映像が映り込むといった現象を――要するに幻視だけど、これを阻害してしまう働きがあるんだよ。だから食べると、ふとしたはずみで見えるような幽霊などが、ふとしたはずみでも、見えなくなってしまうんだ」
「……そんなことになるのですか」
静香は半信半疑である。
「詳しい薬理作用までは不明なんだけど、経験則上、明らかにそういえる。食べるだけじゃなくて、匂いもいけないな。そばに置くだけでも、脳に影響が出てしまう――。さっきのややっこしい話ね、あれは全部日本の例なんだが、五辛断ちをしている当人たちは、おそらく本来の意味合いは知らないだろう。というのも、これは道教に由来しているからだ」
「……道教といいますと?」
「中国の古代宗教です。日本には、俗に八百万《やおよろず》の神がいるというけれど、これと同じで、中国にも各地に数多くの神さまがいる……いや、いた[#「いた」に傍点]といった方が正しいかもしれないね。それらの神が西暦三世紀ごろに寄り集まって、道教[#「道教」に傍点]と呼ばれるひとつの宗教になる。インドから仏教が伝来してきたので対抗上、やむをえずって感じでね。つまり寄り合い所帯なもんだから、教義はデタラメなんだ。が、部分部分はすこぶる優秀でね、何たって、それを溯ること数千年の知恵と知識が詰め込まれているからね。――世界は陰と陽とで成り立っている、陰陽五行の理《ことわり》、この思想も道教だ。当たるも八卦《はっけ》、当たらぬも八卦、八卦は易の基本だけど、竹をじゃらじゃらやってる易者さんは道教そのものだ。もちろん風水も道教だし、人の身体には気が循環している、この気という概念もそうだ。あるいは、禊《みそぎ》、祓《はら》え……など、日本の神道儀式の大半が道教の部分品で賄われている。日本の暦もそうだ。干支はもちろんだけど、たとえば、正月に飲む屠蘇《とそ》、これは道教の道士が飲む不老長寿の仙薬だ。七草粥は道教の北斗七星信仰からきている、だから七夕もそうだね。三月三日は桃の節句、桃は道教では邪気を払ってくれる神聖な果物なんだ。五月五日は端午の節句、このとき勇ましい武者を祀るけど、あれは鍾馗《しょうき》といって道教の神のひとりだ。九月九日は重陽《ちょうよう》の節句、九というのは陰陽道では良い数字でね、それが重なるから大吉なんだ。この日には菊の花びらを浮かべたお酒を飲む、菊は道教では延命長寿の象徴だ。そうそう、テルテル坊主も道教でね、中国では掃晴娘《サオヂンニャン》と呼ぶそうだ……きりがないね」
火鳥は、自分で打ち切った。
「……つまり、そういった道教の優秀なる部分品のひとつに、五辛を断つ、があるんだよ。古来の道教がいかなるものであったか詳細は判らないけれど、その名残《なごり》を、今なお明確に留めているものがひとつある。――西園寺さん、キョンシー映画は見たことあるかな?」
「キョンシーといいますと、あの……あれですか」
説明はできないが、知ってはいる様子である。
「そう、あれあれ――」
両手を前に突き出しながら、火鳥はいう。
「あのキョンシーが出てくる話ね、あれが道教なんだ。無論、道教の凡てというわけじゃないが、道教が抱えている重要なテーマのひとつであることには間違いがない。映画では、キョンシーはゾンビのような扱いをされていたけど、実際には、あれは死霊でね、まあ幽霊のようなものだけど、それを、道教の道士が、なだめすかしながら、たくみに懐柔《かいじゅう》していくといった物語《ストーリー》……映画によっては、道士が死霊と派手にチャンバラするといった話も多いね。さて、この道教の道士なんだけれど、当然[#「当然」に傍点]のことだが、彼らは五辛を断つんだよ。現代でもなお、これは道士たるものの、日常における必須の作法のようだ」
「あっ――」
静香が声を発した。
「解っただろう。見えないと話にならないわけだ、霊とチャンバラするためにはね――」
火鳥が長々とした話のおち[#「おち」に傍点]は、こんなところにあったのだ。意外なほどシンプルな結末だが、静香はひどく納得したらしく、
「……驚くようなお話しですよね」
感想を述べた。
「見えるか見えないか……これはごく些細なことでどちらかに振れる。ネギ、ニラ、ニンニクなどを食べると見えない方に振れる、そういったことに中国人が気づいたんだ。何千年[#「何千年」に傍点]か前にね。そして霊が見えないと仕事にならない道士にとっては、もし五辛を食べてしまうと、完全に見えない方に振れてしまうので、それは禁忌《タブー》、といった話になるんだよ」
念を押すように、火鳥は説明をした。
「それとこの道教はね、邪馬台国《やまたいこく》の時代にはすでに日本に入っていて、『魏志倭人伝』のなかにも書かれている。鬼の道と書いて、鬼道、というのがそれだ」
「鬼……」
静香が、ちょっと不思議そうな顔をした。
「角をはやして金棒をもってる鬼[#「鬼」に傍点]、あれは後になって日本人が勝手に作ったイメージなんだ。その当時、中国で鬼というのは、死者の霊のことをいう。だから鬼道[#「鬼道」に傍点]というのは、あのキョンシー映画そのもの、霊にいかに対処するかといった方法論……のはずだ。『魏志倭人伝』には、鬼道に事《つか》え、能《よ》く衆を惑わす、としか書かれていないから、実際、中身まではわからない。でも、言葉だけでも推理できるだろう。そしてこの鬼道とともに、鬼道の重要な秘儀のひとつとして、先の五辛断ちも伝わったはずだ。それが大変重要な秘儀だということだから、後々、日本の神道や密教などにも流用されていくんだ。本来の意味合いを、知ってか知らずかは別としてね」
「――火鳥先生」
静香が改まった口調でいう。
「先生が目指そうとされている研究スタイル、わたしにも分かりかけてきました」
その言葉に、火鳥は大袈裟に頷いてから、
「――個々の伝承は、それだけではあやふやなものにすぎないんだ。それを、あるひとつの論理《ロジック》にそって紡ぎ直すわけさ。その論理が正しければ、伝承もそれなりの輝きをもって、真実を語りかけてくれるだろう。するとより真理に近づくことができる。その先に、未来を開く扉があるはずだと、僕は信じているね」
火鳥はゆっくりと語った。手の内を明かすと、これは彼が一度書いたことのある文章なのだ。つまり『呪詛――』の、後書きである。
[#改ページ]
10
そのころ、埼玉県南警察署の三階にある刑事課のデスクのあたりで、文句たらたら伝票の整理をしている中年の刑事がいた。刑事課の係長、依藤《よりふじ》警部補である。
「……請求書が三枚、トータル八千六百五十二円。母親と子供で、昼飯に何食ったらこんな金額になるんだ……」
ほとんど独り言なのだが、
「明細に出てるとおりですよ」
隣にいる生駒《いこま》という刑事が説明をする。
「――握り寿司に鰻の蒲焼でしょう、それにオードブルというのは、生ハムがのったメロン。何とかパフェというのは子供用です。事故は一時すぎだったんですが、その親子はまだお昼御飯を食べてなかったらしくって、僕たちが交番に着いたら、ちょうど宴会が始まったところでした。豪勢でしたよ……」
「それに、生大《なまだい》というのもあるじゃないか。こらひょっとすると、生[#「生」に傍点]ビールの大[#「大」に傍点]ジョッキーのことか」
「それ以外には、ちょっとね……」
「真っ昼間から派出所で生ビールとは、やってくれるよなあ、吉村さん」
「係長にもよろしく……いってましたよ」
交番勤務の吉村巡査部長は、この両名の刑事の先輩にあたるのだ。ふたりとも新米警官の頃には大いに扱《しご》かれた経験がある。
「けど、さすが吉村さんですよね。現場はばっちり囲われてましたし、列車まで押さえてくれてました。僕たち行ってもなーんもやることありません。駅員を手足のように使ってましてね、やっぱ吉村さんの人徳ですかねえ」
そんな部下の回想録は無視して、
「おい、生大のところが二[#「二」に傍点]になってるじゃないか」
依藤警部補がいい出した。
「――さすが係長、気づかれましたか。当然ですけど、僕たちは一滴も飲んでませんよ。それはですね、話の途中でヤンママがおかわり[#「おかわり」に傍点]されましてね、よほど喉が渇いてたんでしょうねえ、いやー豪快、豪快、彼女の飲みっぷりに僕はすっかり圧倒されちゃいましたよ」
「かー、こんなものどうやって落とせというんだ」
中間管理職の苦悩をよそに、生駒刑事はせっせと与太話を続ける。
「彼女、歳はまだ二十一だというんですよ。子供は三歳半ですから、十八のときに生んだ計算になりますよね。ヤンママにしておくのはもったいないぐらいの、ギャルていうか、妖艶ていうか」
「……月末だぞ今は、もうどうにもならんじゃないか、経費はすでに使い切ってるんだから」
「それに彼女、すっごい服着てましてね、胸の谷間が見える見える。あの仏頂面の野村さんまでが、チラチラ覗いてたぐらいですからねえ」
「……7月か、これを9[#「9」に傍点]月に書き換えるぐらいしか手はないな、三枚ともそれでいくか」
「あ、そうそう、もう一枚まわってきますよ。炎天下で一時間ほど、駅員のひとりが現場の見張りをやってくれていたんですよ、その駅員を奢る[#「奢る」に傍点]といってましたから……吉村さんが」
依藤警部補は、反応をしない。
「それと、そこにある似顔絵ですけど、交番にいた佐久間という若い巡査が描いてくれたんですよ。すっごい上手でしょう。その佐久間というのね、美大出てるんですって、変わり者ですよ……」
「――あのな」
小細工を終えたらしく、依藤警部補が顔をあげた。
「似顔絵というのはな、顔が描かれていて似顔絵[#「似顔絵」に傍点]というんだぞ――」
依藤がそのスケッチブックを手にした。そしてパラパラめくりながら、
「――たしかに奇麗。夢にも出てこないような清楚な娘だね。この後ろ姿なんか最高[#「最高」に傍点]――」
「顔は、どうしても思い出してくれないんですよ」
「――それに、何枚も素描《スケッチ》があるじゃないか」
「はい、聞くたびごとに変わりましてね」
「袖ありと袖なし、それに、長い髪と短い髪……要するに、白のワンピースらしき[#「らしき」に傍点]服を着ていた若い女、分かってるのはそれだけだろう」
「はい……いや、その肩から下げているバッグ、網で編んだような袋らしいんですが、それは[#「それは」に傍点]間違いないですよ。色はこげ茶です――」
どうだ、といわんばかりに生駒がいうと、
「あーやだやだ、オヤジにはなりたくないねえ」
冷やかすように依藤はいう。
「おまえまだ三十前だろう、若い女[#「女」に傍点]のファッションぐらい、ちょっとは勉強しとけよ。こういったずた[#「ずた」に傍点]袋、今時の娘はみんな持ってるじゃないか、珍しくも何ともないぞ」
「じゃ、いっそのこと、駅に立て看でも出しましょうか?」
「――ダメ。それこそ南署の恥を晒すようなもんだ。あれは最後の悪あがき[#「悪あがき」に傍点]――」
そういった、ほとんど噛み合わない雑談をしているところに外線の電話が鳴った。
「僕が出まーす」
と、生駒刑事が受話器を取った。夜の九時すぎでもあり、刑事課の部署には彼らふたりしか居残っていない。
生駒刑事が受話器を置くと、
「病院からだよな――」
聞き耳を立てていた依藤警部補が、催促するようにいった。
「はい、先ほど、男[#「男」に傍点]が亡くなったそうです。福島の方から駆けつけてきた母親の承諾でもって……あれ何といいましたっけ……延命装置ですか、それを外したそうです」
「そうか……やはり意識は戻らなかったか。ま、病院に運ばれたときから脳死に近かったからな」
「で、害者はですね、母親ともこの二、三年は会ってなかったらしくって、事件と関係ありそうな話は聴けなかったと、野村さんいってました。それと、ふたりともこっち寄らずに帰るそうですよ」
野村警部補と、植井《うえい》という新米の刑事が病院に詰めていたのである。
「――帰るもんか。植井をとっつかまえて、くだ巻くのに決まってるさ」
野村は、四十代前半の依藤よりも一歳か二歳年上だが、役職にはついていない。典型的な、いわゆる刑事《デカ》である。
「さあて、どうしたものか……」
やや後退しかかっている額を掌でさすりながら依藤警部補はいう。
「目撃証言もさることながら、鑑識からの報告でも目ぼしいものは殆どないし、せいぜい、落ちたときの様子が分かったぐらい……」
「どんな状況だったんですか?」
「だいたいは吉村さんのご想像通りよ、やはり、回送列車には当たってなくてね、列車は無傷、繊維の付着もなし。男は飛び降りたんだが、飛び降り損ねたというわけだ。土手の途中にズルッといった、靴底の跡が付いてたそうだ」
「そうそう、あそこの土手はですね、凹みのあるブロックで出来てるんですよ、それに足が引っ掛かっちゃったんでしょうね」
「その様だね、それで身体が倒れてしまって、頭から落ちたんだ。で、よりにもよって硬い車止めに当たってしまった。だから、もし表面が滑らかな土手だったら、そのままズルズルと滑って、足の骨ぐらいで済んでたかもしれない……ま、運が悪いといえば、運が悪い話よ」
「そうしますと、それって、事故ですか、……事件ですか」
「事件に決まってるだろうが、――ライオンの檻《おり》に人を入れた、その人が逃げるときに足を滑らして頭を打って死んだ、じゃ、その人を檻に入れた人間はお咎めなしか、そんなわけないだろう」
「……はい」
しぶしぶ生駒刑事は返答をする。
「――しかし、なーんかこうスッキリしないよな。もやもやーとした感じ、わかる生駒?」
「右に同じです。僕もそれがいいたかったんですよ、なーんかやる気しない話ですよね。やっぱ、事故ということにしちゃいましょうよ」
「馬鹿、そういったことじゃなくて、ひとつひとつの話が、どこかしら変じゃないか。目撃者にしたってそうだ、どうしてそんなガキひとりしか見てないんだ。白昼、駅の構内だぞ」
「それがですね、あのプラットホームの先端は、いわゆる死角になってしまうんですよ」
「どうして?」
「あの反対側のプラットホーム……上りの方ですけど、かなり奥の方にずれてましてね、それに、普通列車が停まってましたから、その陰になって見えないんですよ」
「じゃあな、その当のプラットホームには、乗り換えようとする客が大勢[#「大勢」に傍点]いたんじゃないのか?」
「それもですね、その乗り換えの客は、ほとんどが冷房の効いている普通列車のなかで座って待つんですよ。それに昼間でしょう、乗降口にせっかちに並ばなくても座れるわけです。だから乗り換えの列車が来るまでは、ホームには出てこないんですよ」
「かー、よくよくついてない話だな」
「――そうだ、ひょっとすると犯人は、あそこが死角だということを知っていて犯行に及んだんでしょうか?」
「計画的ってことか……それはない。現に子供に見られてるじゃないか。あれは突発的なものだ、それだけは間違いなし」
「……それもそうですね」
「それにほれ、あの組はなんていった?」
「害者ですか、真弓《まゆみ》組という組ですけど」
「なんてヤワな名前だ――」
「ですよね。池袋署の話によりますと、構成員はせいぜい十人だそうです。吹けば飛ぶような組ですよね」
「――よその組と抗争中でドンパチやってる、なんて話も当然なしだろう」
「はい、池袋署がいうには、殺人はもちろんのこと、傷害事件も起こしたことがなくて、猫[#「猫」に傍点]のようにおとなしい組だそうです。僕、直接電話入れてみたんですよ、そしたら組長本人が出ましてね、その組長さんに電話口で泣かれてしまいました。あの子がどうしてそんな目に……て」
「その組長、別の方面で有名人なんだろう」
「はい、池袋署がいうには、これ[#「これ」に傍点]だといってました」
生駒刑事が親指を立てた。
「で、亡くなった男が、これ[#「これ」に傍点]なんだろう」
依藤警部補が小指を立てた。
「はい、最愛の恋人だそうです……池袋署がいうにはですよ」
「かー、泣きたいよ俺は――」
顔は笑っている。その依藤警部補が、バーン、とデスクを叩いて、
「その最愛の恋人の背中になんで[#「なんで」に傍点]竜の刺青が入ってるんだ――」
わけもなく喚いた。
「はあ、すっごい見事な刺青だったそうですよ。まるで竜が生きているみたいな……吉村さんがいうにはね」
「どっかが狂ってるとしか思えないな。その狂ってる事件が俺に廻ってくる、よりにもよって――」
殺人事件は、自動的に刑事課の係長、依藤警部補の担当になるのである。
「――ということはだ、若い女性が犯人というのも、やっぱり変な話じゃないか」
「そうですよね、恋愛に関係して女に恨みをかうということは、ないですからね」
「――じゃ別の恨みだろう」
「そうなんでしょうが、男の交遊関係が、これがまた分かりそうにないんですよ。まず手帳を持ってませんでしたでしょう。それに住んでるところが組事務所だから、調べようがありませんよ」
「おまえ行って話聞いてこいよ、その真弓の組長さんとは、親しそうだからな」
「どこがですか[#「どこがですか」に傍点]――」
「かー、どうしてそうチグハグなんだ。ひとつぐらいまともな話はないのか」
「僕のせいじゃありませんよ」
「それにそのヤンママ、何も見てないの?」
「はい、彼女は背中向けてたんですよ。子供はベンチに反対座りしてました。子供って、そういうことよくやるでしょう。で、佐久間と駅員がやってきて、彼女の肩をもしもし……と叩いて、やっと事故があったことを知った、て話なんですから。彼女、両耳にイヤホン嵌《は》めてたんですよ」
「|3×3=9《さざんがきゅう》とかいうの聞いてたんだろう」
「はあ?」
「植井がそんなこといってたぞ」
「あー、それはシャ乱Q[#「シャ乱Q」に傍点]のことですよ」
そう生駒刑事がいうと、あたりに気まずーい空気が漂った。
「――係長、ところで、あの忘れ物のノートはどうなりました?」
「はい、あれは分かりました」
依藤警部補がやけに丁寧な口調でいう。
「鑑識の岩船さんが見てくれましてね、岩船さんは字を見るのプロだろう、やはり、若い女性の字だそうです――」
「えー、あんな難しい漢字だらけのノートがですか」
「……何でもね、平仮名のところに少女文字の癖が出てるらしいんだ。だから間違いなし、て太鼓判を押してたね」
「そうしますと、犯人の忘れ物という可能性、出てきましたよね」
「――ダメ。その考え方は、とりあえず捨てるように」
突然|真剣《マジ》な顔になって、依藤警部補はいう。
「どうしてですか?」
「――ノートの表紙に校章が入ってたろう、あれも分かったんだが、ちょっとヤバい学校なんだ」
「どこですか?」
「――私立のM高」
「あの有名な進学校ですか」
「オーナー知ってるだろう」
「はい、国会議員ですよね」
「だから[#「だから」に傍点]、下手に動くと首が飛んじゃうの」
「いやーそりゃそうですよね、簡単[#「簡単」に傍点]に飛んじゃいそうですよね」
「単なる、忘れ物の可能性もあるだろう、あるいは目撃者の可能性もある、犯人の持ち物だと決まったわけじゃないんだから――それに生駒、おまえちょい口の軽いところがあるからな、絶対[#「絶対」に傍点]に漏らすなよ。よその部署にもいうんじゃないぞ」
威厳を取り戻したかのように、依藤警部補はいった。
[#改ページ]
11
「わたしはジャックローズをお願いします」
静香はいう。
「カルバドスは、何かご希望ございますか」
「あれば、ボムプリゾニエールで……」
「ございますよ……では」
店主はカウンターに下がっていった。
しばらくして、火鳥の注文したグレンモランジの炭酸《ソーダ》割りと、その、ジャックローズというカクテルが運ばれてきた。
「うわあ、奇麗な色だね……」
霞《かすみ》がかかったようなオレンジ色をしている。
「……何が入ってるの?」
「林檎酒のブランデーと、フレッシュのライムです。それにシロップが少し」
味見してもいいですよ、そんな顔をしながら静香はいう。
「詳しいなあ……それにさっきいってたカルパトスって、ギリシャの島のひとつだろ、エーゲ海のクレタ島の隣にある」
「いえ……フランスの北のノルマンディーにある町ですけども」
「あれ、全然ちがってた……」
カルバドスとカルパトスの差である。そのカルバドスが、林檎酒から蒸留して作られるブランデーの特産地で、そのまま酒の名称となり、ボムプリゾニエールはそのひとつの銘柄だ。
グラスに浮かんでいる氷を人差し指でつついていた火鳥が、何かを思い出した。
「あっ、僕は是か非かといった話をしようとしていたんだよね――」
そのオレンジ色のカクテルを口元まで運んでいた静香も、その姿勢のままで頷いた。
「――もう片っぽの方は単純だからね。五辛のひとつにニンニクがあっただろ[#「だろ」に傍点]、これが重要な鍵になるんだ。で、ニンニクといえばつきもののキャラがひとりいるだろ[#「だろ」に傍点]、トランシルヴァニア、といった国に」
アルコールのせいか火鳥の喋り方が、若干、巻き舌になってきた。
「――ドラキュラ伯爵ですよね」
静香は何だか嬉しそうに答える。キョンシーのときのように、そういった下世話《げせわ》とは裏腹な想像もつかないおち[#「おち」に傍点]を、期待してのことである。
「――ドラキュラは十九世紀の小説の主人公だけど、ニンニクの方は非常に古くてね、プリニウスの『博物誌』の中に……これ[#「これ」に傍点]、世界で最初の百科事典ね、紀元一世紀ぐらいのもんだけど、そこのニンニクの項目に、魔よけの効果がある、とすでに書かれているぐらいなんだ」
「ニンニクは実際[#「実際」に傍点]に魔よけなんですね」
「そう、ヨーロッパではね。それも、最強の魔よけのひとつとして用いられている。ニンニクを噛むと魔法から逃れられる、あるいは、魔女から呪われそうになったときには、ニンニク! と叫ぶだけでも効果があるそうだ。――具体的な例としては、船乗りが航海に出るときに、ニンニクを小さな袋に入れて首からぶら下げたりもする。海は、夜になると悪霊やら怪物やらが、いっぱい出るところらしくてね、そのニンニクのお守りを身につけていると、そういった魔物類を寄せつけないというんだな。あるいは、子供が寝るときに、その枕の下にニンニクを置いたりもする。これはポーランドの伝承だけども、『植物界の美学論』という、ちょっと変わった本の中に書かれている。……そうすることによって、悪霊から子供が守られるというんだな」
「わかった――」
静香が、少し大きな声を出した。
「ニンニクがあると見えないんですね」
今度は、押し殺したような声でいう。
「――そのとおり、見えなければそれでいいんだよ。魔が魔がしいものが見えなければ、その魔が魔がしいものは、そこに存在しないことだからね、それでその人は安泰なんだ」
「……見えなければいいのですね」
普段の声に戻って、静香はいう。
「幽霊でも死霊でも亡霊でも悪霊でも魔物でも、こいつら見[#「見」に傍点]えたら怖いんだよ。見[#「見」に傍点]えなきゃ怖くも何ともないんだ。単純だろ[#「だろ」に傍点]」
静香は、笑いながら項垂《うなだ》れてしまった。今回のおちも、彼女はそこそこお気に召したようである。
「――論理《ロジック》が正しいと、こうやって世界中の伝承がきれーに並ぶんだ。でも、一個一個見たって解らないよ。プリニウスの『博物誌』には、ニンニクを戸外に吊るしておくと真っ黒になる、これは悪を内部に引き込んだということだから、ニンニクが悪をその人から吸い取ってくれたことになる……て書かれているんだ。何のことやら」
そこまで喋ると、火鳥はセーラムの箱から一本つまみ出して、それに火をつけた。
「さあて、ここまでは単純なんだけどね、こっから先説明しようとすると、ヨーロッパの方の神話や宗教史をあらかた喋っちゃうことになるんだ」
――尋常な分量ではない。それに、今宵、彼が話そうと思っている研究課題ともさほどの繋《つな》がりはないのだ。
「先生、かいつまんで説明してください」
静香が、少し甘えたような声で促した。
「かいつまんでかあ……それなら、まずはヤハウェの神だろ、こらユダヤの神さんね。ま、これはおいといて、――ギリシャ神話の女神ヘカテ、こら魔女[#「魔女」に傍点]の大ボスだ、夜をつかさどり亡霊たちを支配する冥府の神でもある。彼女への供えものがニンニクなんだ。あるいは、女神キルケ、こら太陽神ヘリオスの娘だけど、これも魔女[#「魔女」に傍点]だ。オデュッセウス……ユリシーズといった方がまだ分かりやすいかな、その彼が、ヘルメスからもらったモーリユという薬草でもって、彼女の魔法を封じてしまうんだ。ホメロスの叙事詩ではモーリユ[#「モーリユ」に傍点]となってるんだけど、何のことだかよく分からない。だが、当時のヨーロッパの人たちは、これもニンニクだと考えていたようだ。このモーリユを与えて使い方を伝授したヘルメスの方だけど、彼はエジプトのトト神とも同一視されていてね、そのトトは眼科医の守護神でもあるんだ……いろいろと繋がるだろ……さらに、このヘルメスはアポロンの大のお友達でね、竪琴をひいている美[#「美」に傍点]男子、あれがアポロンだが、その竪琴はヘルメスから貰ったものなんだ。で、このふたりが呪《ま》じないごとに詳しいんだよ。――幻視[#「幻視」に傍点]はアポロンからの贈り物、といった話もあるぐらいで、だから各地に、アポロン神託所というのがあったんだ。有名なのはデルフォイ[#「デルフォイ」に傍点]だけども、ギリシャのパルナソスという山ん中にあって、そこが当時の一大聖地だ」
ギリシャ神話の周辺事情をよどみなく語る火鳥に、静香は少し驚かされた。
「……ノストラダムスも、たしかアポロンの神殿と関係がありましたよね」
「ああ、あれはエーゲ海を挟んで対岸のトルコにあったディデュマ[#「ディデュマ」に傍点]のアポロン神託所の方なんだ。やってることはどこも同じで、――ピュチアという特別に選ばれた巫女《みこ》が、神殿の地下ふかーくまで降りていって、地の底、大地の裂け目に置かれてあったといわれる大釜の中をのぞき見るんだ。もちろん、その大釜は水で満たされている。すると、そこにアポロンからの御神託があらわれる……てな寸法だが、もうな[#「な」に傍点]ーんの不思議もないだろ」
頷いてから、静香は尋ねる。
「それは、いつ頃のお話なんでしょうか」
「そうね、だいたい紀元前四、五、六、七、八世紀ってところかな……」
アバウトな答えである。
「……もちろんギリシャのデルフォイが本宅[#「本宅」に傍点]で、そこにアポロンは住んでいた。もっとも、たまに留守にすることもある。留守番がいてね、ディオニュソスというんだが、これはギリシャ神話の主神でもあるゼウスの実の息子だ。別名をバッカスという、ご存じ……酒の神だね。こいつ酒飲んでるだけだから、つまりバッカスが留守番してるときには、神託はできなくなってしまうんだ。――このデルフォイはね、はるか以前から聖地で、世界の中心だとギリシャ人が思っていた場所なんだ。その昔は、ここはピュトンという竜が治めていたんだが、アポロンが退治して、この聖地デルフォイと、そして、神託の秘儀を我がものにしたという話……けど、竜っていうのは、西洋じゃきまって[#「きまって」に傍点]悪者にされちゃうんだよね、中国では神獣だというのにねえ」
いちおう、火鳥も竜のはしくれなのである。
「――西園寺さん、話[#「話」に傍点]、半分信じてないだろ」
目が据わったような顔を向けて、火鳥はいう。
「いいえ……」
静香は首を横に振った。が、全部信じろというのは無茶である。
「――僕は漫然と話をしているようだけど、実はこれ、ひとつひとつ解けるんだ。解けて、また繋がり直すんだ。神話には、それなりの意味がちゃーんとあってね、もちろんギリシャ神話だけじゃなく、どこの[#「どこの」に傍点]神話にもだけどね。じゃ、ひとつタネ明かしをしてあげよう。たとえば、バッカス……人間お酒を飲むとね、まあ少量じゃ影響は出ないんだが、酩酊《めいてい》するほどにお酒を飲むと、レム睡眠が極端に減ってしまうんだ」
「えっ」
異質な単語に静香が反応をした。
「――突然脳の話で恐縮なんだが、レム睡眠が減る、すなわち、夢を見られなくなるということだ。眠っている時ですら見られないんだから、目覚めている時にはなおさらだろう。目を覚ましている時に見る夢とは、すなわち幻視だ、だから、幻視も生じないといった理屈になる。もっと単純にいうと、酔っ払うと幽霊は見えないんだ――」
「でも、お酒を飲み過ぎると幻覚が生じるといったような話を、聞いたことがありますけど」
「うーん、それは逆さまなんだ。アルコール依存症の人が、アルコールを断つと、禁断症状として幻覚が現れるんだ。飲んでいるうちは平気なんだよ、切れるとやばいんだ。これはね、アルコールの過飲によってレム睡眠を抑制しちゃうもんだから、その反動となって、アルコールが途絶えたときに、堰を切ったように夢が溢れ出てきてしまうんだ。それが幻覚となる。まあ、ここまで極端じゃなくても、要するに、お酒を飲むと幻視は見られない[#「見られない」に傍点]……じゃ、これでさっきの話を解いてみようか、つまり、これは禁忌《タブー》を表現しているんだ。――巫女《ピュチア》が、もしバッカスの誘惑に負けてお酒を飲んでしまうと、アポロンは現れませんよ」
「うわ……」
静香が驚きの声を漏らした。おちなど通り越して、それは彼女にとっては発見である。
「――バッカスには、またバッカスなりの祭事が幾つかあるんだが、アンテステリア祭が最古のものとして知られている。祭りの一日目、前年に仕込まれたブドウ酒の封を切り、それをバッカスの祭壇に捧げて、皆で新酒の味見をする……ま、ボジョレーの解禁みたいなもの。二日目はコエスといってね、日本語に訳すと酒壺祭……早飲み大会とか、大酒飲み大会とかをやって、皆へべれけになるほどブドウ酒を飲む。そして三日目、この日だけは凶[#「凶」に傍点]の日なんだ。酒を飲まずにお祈りをする。この日には、死者の霊が地上に戻ってくると信じられていたからさ」
静香が、さらに目を大きく見開いた。
「……もう、説明はいらないだろう」
静香は頷いてから、尋ねる。
「先生、そのような説[#「説」に傍点]は、どういった種類の書物を見れば書かれているのですか?」
「いや、僕は本で読んだことはないなあ、けど、脳系の学者だったらこれぐらいは気づくよ。もっとも、死者の霊、あるいはアポロン神殿、これらが何たるものであるかを知っていれば……の話だけどね」
「火鳥先生、またご本をお書きになればいいのに、ギリシャ神話を科学する、といったような……」
どこかで聞いたような表題《タイトル》である。
「いや、本はもう懲りた。大[#「大」に傍点]教授になるまでは書かない」
ならば、一生書けそうにはない。
「――アポロンに話を戻すけど、ギリシャ神話の中のひとつの物語として我々は知っているが、当時の人たちにとっては、紛《まご》うことなく、これはひとつの宗教なんだ、アポロン[#「アポロン」に傍点]という神を信仰するね。そしてこのアポロン教には、重要な教え[#「教え」に傍点]がひとつあってね、デルフォイに今でも伝わっているんだけど、それが、――汝《なんじ》、自身を知れ!」
その教え[#「教え」に傍点]の深意に、静香が気づいた。
「――アポロンの神託って、まさにそういうことですよね。幻視は、自身の脳と直にアクセスすることなのですから」
「そう、アポロン教は、すでに[#「すでに」に傍点]知っていたわけです。大釜の水を凝視していると何かの映像が見えてくる、これはけつして魔が魔がしいものではない、それは自身を知ることであり、ひいては神の知識……とほぼ同等のものが得られることでもある、といったふうにね。西暦紀元前[#「前」に傍点]のこの時点で、オカルト色をもう完全に払拭できていたんだ。これに比べると、霊能おばさんなどは先祖返りもいいところだ――いや、日本の新興宗教の大半が、このアポロン教以前[#「以前」に傍点]のしろもんだな」
静香も頷いた。その種の知識には明るくないのだが、火鳥がいうのなら多分そうなのだろう、と。
「――信仰心というのは僕にはないけれど、この、アポロン教だったら入ってやってもいいな。竪琴を持ってるようにね、こら音楽の神でもあるんだ。もちろん、バッカスだって信仰の対象だった。退治されちゃった竜のピュトンだってそうだ……たぶんね。こら古い種族の神なんだ。ピュトンは大地の女神ガイアの子だが、世界の始めにカオス、次いでガイアが生まれたというぐらいに古くて、ゼウスは、彼女の孫にあたる。だが、ガイアの末子のクロノスの、そのまた末子がゼウスだから、分家筋もいいところで、辛うじて繋がってるといった程度。で、ゼウスが神々の戦いに勝利して天下をとるわけだが、これって、日本の記紀神話と同じだろ」
「……はい」
静香は、あやふやに返事をした。日本の国造りの神話がどんなものかはうっすらと知ってはいるのだが、記紀神話という言葉にピンとこないのだ。これは単純に、『古事記[#「記」に傍点]』と『日本書紀[#「紀」に傍点]』のことである。
「――元来日本にいた大国主《おおくにぬし》などの国津神《くにつかみ》に、天照《あまてらす》などの天孫降臨《てんそんこうりん》系の天津神《あまつかみ》がとって代わるんだ。新旧神の交替だ。国津が天津に国譲りをしたってことになってるが、実際はそんな生易しいものじゃないよね、戦いに敗れて天孫系の軍門に下ったということ……ヨーロッパでも、これと似たようなことをやっていたんだ。あのあたりにも日本や中国と同じように、その昔には八百万《やおよろず》の神がいたんだよ。その神々が、さっきのピュトンとアポロンのように、小競り合いしてるうちはまだよかったんだ。が、あるときドカーンと中性子爆弾みたいなものを落とされて、アポロンもバッカスも何もかも、ヨーロッパの八百万の神々たちは、ことごとく[#「ことごとく」に傍点]絶滅しちゃったんだ」
「…………」
あまりの話の突飛さに、静香はついていけない。
火鳥が、声の調子《トーン》を落として語り始めた。
「――神さん[#「神さん」に傍点]というのはね、自分を信じてくれる人がいなくなると、死ぬんだよ。信仰の対象から外れてしまった神は、もう生きてはいけないんだ。日本の場合は、国津の神々は負けはしたけれども、まだちゃーんと生きている。大国主命は出雲大社に祀られている。縁結びの神さまとして今でも信仰の対象なんだ。新婚旅行は出雲大社、そういった夫婦《カップル》って、ちょっと前まではけっこう多かったんだよ」
火鳥の親たちの時代の話である。
「――でも、ヨーロッパの場合はちがう。アポロンという神を信じている人はいない。まあ、絶無とはいえないだろうが、当時を彷彿《ほうふつ》とさせるようなアポロン信仰などは残っていない。大国主命と年代的には大差ないんだよ。あっちは石だから神殿は遺るんだけど、アポロンの魂の方は消えてしまったんだ。信ずる者がいないからね。せいぜい旅行者が、神殿の石の隙間にコインを突っ込むぐらい……ちょっと、憐れな話だろう」
「ええ、いわれてみればそうですね。でも、そんなこと一度も考えたことありませんでした」
「うん、普通考えない。そんな他所《よそ》んちの神さんのことなんて、日本人のだ[#「だ」に傍点]ーれが考えるか……だがね、僕たちギリシャ神話のこととなると、けっこうよく知ってるんだ。アキレス腱のアキレウスのこととか、海の神ポセイドンとか、ちなみに彼はゼウスの弟ね、あるいはヘラクレスとか、名前聞いただけでもすぐイメージできちゃうだろ。自分ちの記紀神話よりもよほど身近だ。これはディズニーがアニメで演《や》ってくれたりもするからだね。……じゃあね、かりに日本の神話をあーいったおちゃらけたレベルのアニメでもって、全世界の映画館で上映されたとしたら、どうなる[#「どうなる」に傍点]」
「それは大変な騒ぎになりますよね」
「――僕は右翼じゃないが、んなもん国辱もんだろ。それなのにギリシャの人たちは怒らないんだ。痩せても涸《か》れても、かつては自分たちの先祖が祀ってた神なんだぞ」
「……ほんとですね」
「ギリシャの神々を、煮て食うなり焼いて食うなりどうぞご勝手に――つまり、これが信仰から外されてしまったということだ。僕たちギリシャ神話というと、雲に浮かんでいる神殿、そこに美の女神アフロディテがいて花を摘んでいる、そんな幻想的で奇麗なイメージが湧いてくるじゃないか……ちがう[#「ちがう」に傍点]、こら錯覚なんだ。信仰の対象であった神々はかつて実際にいたんだよ。血みどろの戦いをやっていたんだ。それが御伽噺《おとぎばなし》にされてしまっている。あたかも、そんな神々は実在しなかったかのように、絵空事《フィクション》にすり替えられてしまっているんだ……錯覚[#「錯覚」に傍点]、これはいい換えれば洗脳[#「洗脳」に傍点]だ。中性子爆弾をドカーンとやった側が、そう錯覚するように仕向けているわけさ」
「…………」
またしても、静香はついていけない。
「――中性子爆弾というのはね、建物は壊さずに、生きている物だけを殺《や》るという、そういった爆弾なもんで、譬《たと》えとして使ってるんだけどね」
「その……爆弾は、誰が落としたんですか」
恐る恐る、静香が尋ねた。
「……まあ、直接誰[#「誰」に傍点]というわけじゃないが、歴史上の分岐点は、ローマの皇帝コンスタンチヌス一世にあるね。四世紀初頭だけども、ミラノ勅令でもって、初めてキリスト教を公認したんだ。それまでは酷く迫害されていたんだが、公認[#「公認」に傍点]ということは、つまりローマ帝国の国教[#「国教」に傍点]になったも同然で、まさに水を得た魚……いや、威を借るキツネだね。ローマ帝国という強大なパトロンを後ろ盾に、ヨーロッパ全土にパーと拡がっちゃったんだ」
「……それが、他の神々たちを、消していくわけですか」
静香は、言葉を選びながら尋ねる。
「そうだよ、ことごとく死滅[#「死滅」に傍点]させちゃうわけだね。それまでの神々の小競り合いとは、今回は質[#「質」に傍点]がちがうんだ。だから爆弾《ボム》なんだよ。――つかぬことをお伺いするけど、西園寺さん、まさかクリスチャンじゃないよね?」
今更きいたところで手遅れだろうが、
「……いいえ」
幸いなことに、静香は首を横に振った。
「ユダヤ教も含めて、キリスト教系には全然[#「全然」に傍点]関係なし?」
「はい、まったく……」
「うん、それなら話進められるな。……たとえば、道教[#「道教」に傍点]、台湾とか香港に行くと今でも見られるけれど、その道教寺院のお廟《びょう》の中には、キリストもマホメットも、マリアさんですら神のひとりとして祀られている。道教は多神教だから、これで許されるんだよ。各人がどの神を信仰しようが、まったく|問題なし《ノープロブレム》。日本も八百万《やおよろず》の神というぐらいだから、当然、多神教だよね。仏教は……曼陀羅《まんだら》の絵というの見たことあるかなあ」
静香は、小さく頷いた。
「――宗派によって様々なんだけど、曼陀羅にはたっくさんの仏《ほとけ》や菩薩《ぼさつ》が描かれてるだろ。それなりの順位があり役割分担もあって、つまり、仏教も多神教なんだ。しかし[#「しかし」に傍点]、キリスト教は一神教なんだ。神はひとりしかいないんだよ」
「……天使とかが、たくさんいそうですけど」
「いやいや、あら召使、従僕、家来、使い魔[#「魔」に傍点]……何でもいいんだけど、ともかく、神はひとりしかいないんだ。その神が全[#「全」に傍点]知全[#「全」に傍点]能で、すべて[#「すべて」に傍点]の決定権があり、もちろんこの世を造りたもうた全[#「全」に傍点]宇宙の創造者でもあらせられる[#「あらせられる」に傍点]わけだ――」
慣れない言葉なので、火鳥は呂律《ろれつ》が廻らない。
「そういった教え[#「教え」に傍点]、ということね。だから、他所の神々はいっさい[#「いっさい」に傍点]認められないんだ。多神教という考え方そのものが駄目だし、もちろん、個々の神さまも認められない。しかも過去[#「過去」に傍点]、現在[#「現在」に傍点]、未来[#「未来」に傍点]において、それは認められないんだ。かつてアポロンという神がいた[#「いた」に傍点]……もうそれだけで、自分ちの教義に反してしまうわけだからね」
「それほどまでに、厳しいんですか?」
「厳しい厳しい、超絶技巧一神教といわれるぐらいなんだから……いや、この技巧[#「技巧」に傍点]という言葉は余分だな」
リストの練習曲《エチュード》に超絶技巧というのがあるのだ。火鳥の個人的な趣味の領域である。
「認めないといっても、過去の痕跡までは、そう簡単には消せないですよね」
静香がいった。
「うん、だから巧妙なやり方をする。いわゆるすり替え[#「すり替え」に傍点]、というやつね。かつての神々をぜーんぶ魔物の側にしてしまうの、――あなたがたの信じていた神は、実は悪魔の化身であり、神の名を騙《かた》って、あなたがたをたぶらかしていたのですよ……てな感じで。それに、僕たち悪魔、デビル、サタン、あるいはメフィストとか適当にいうけれど、彼らはこれをきちんと分類していてね、順位をつけて役割分担を定め――つまり、いうならば、魔物の曼陀羅[#「魔物の曼陀羅」に傍点]を完成させているのですよ。その曼陀羅の中に、かつての神々を嵌め込んでいくわけさ。で、この魔物の頂点においでなさるのが、サタン、ていうやつ」
「……デビルは?」
静香も、ちょっと酔いが廻ってきているようである。
「いや、僕はこの魔物の曼陀羅には詳しくないんだ。ヨハン・ヴァイアというドイツ人の医者が、『悪魔的幻想』という本の中に明細を記してる。それによると、この世には七百四十万という悪魔と悪霊がいて……これ正確な数じゃないよ、一の位まで続くんだがよくは知らない……で、それは六千六百六十六で構成される一千百十一の師団でもって組織されているそうだ。ん[#「ん」に傍点]なもん覚えられないだろ。この、凄まじい[#「凄まじい」に傍点]曼陀羅の中に嵌め込んでしまうわけさ。トップクラスの神は、だいたいがサタンにされてしまうね。だから、ゼウスは間違いなくサタンだ」
「今でも、――サタンだと考えているのですか?」
「いや、もう曼陀羅からは外されたと思うね。御伽噺までいっちゃったから彼らとしては安心だ。あそこまでいくと、神はもう復活できないからね」
「……どういう意味なんですか?」
「じゃ、分かりやすく、日本の御伽噺でいきましょうか。たとえば、かぐや姫[#「かぐや姫」に傍点]……これって月と女神の話だろ。その昔は、ひとつの信仰であった可能性じゅうぶん考えられるよね。けど、このかぐや姫を担《かつ》ぎ出して宗教を起こそうなんてことは、今さら無理でしょ。そーんな子供だまし、て、信者がついてこない。あーんな剽軽《ひょうきん》者のヘラクレス、誰が神にするだろうか。幻想《ファンタジー》の側にいってしまうと、もう復活はできないのですよ。神というのは、あくまでも現実[#「現実」に傍点]の側の存在だからです」
おことばである、まるで神父のような。
「――すり替えの最終形が、つまり、御伽噺《ファンタジー》ということです。だから逆にいえば、魔物の曼陀羅にいるうちはまだ復活できる余地はあるんだ。実際に復活した例はたっくさんある。だが、それはもう神[#「神」に傍点]じゃないんだ。悪魔[#「悪魔」に傍点]を担いでいるという話になる。キリスト教文化圏の中で、かつての神々を信仰しようものなら、それは、すべからく[#「すべからく」に傍点]悪魔崇拝になるんだ」
「……すごい構図ですね」
「雁字搦《がんじがら》めだろう。生きてるうちは悪魔にされるし、死ぬと剽軽者にされる」
クス、と静香が笑った。
「……だが、その悪魔との契約書にサインをすると、願い事は叶うんだ……すると、その人はそわそわし始める。やがて悪魔が訪ねてきて、お約束だから、とその人を地獄に連れてってしまう――こんな映画腐るほどあるだろ。これって、向こうの神さんの裏返しなんだ。新約聖書・旧約聖書の約[#「約」に傍点]というのはね、契約の約[#「約」に傍点]なんだ。神と契約することによって神の民となり、神の庇護が得られ、死んでからは天国だよ、てな話。だが悪魔と契約すると、死んでからは地獄なわけさ。――人間、死んだ先のことまでいわれちゃうとねえ」
「……わたしだって、地獄になんかは行きたくありませんよ」
真面目な顔をして静香はいう。
「誰[#「誰」に傍点]でもそう。けど、アポロンの神を信じちゃうと、つまり地獄行きなわけさ。――現代の最新の、世界で最も信頼されている最も有名な英語の百科事典で、ピュチアの項に何て書かれているかというと、アポロン神殿の巫女、神殿の奥にある椅子に座り、地下から噴出するガスを吸って入神状態に陥り、うわごとのような託宣を発する……」
「――先生のお話と違いますね」
「やったらと魔が魔がしいだろ。これでどうやって汝自身を知れるんだ。アポロン教の精神など微塵もない。これは単なる無知のなせるわざだろうか……それも、現在にしてこの程度《レベル》なんだから、当時は推して知るべし……薄ぐらーい地下の洞窟で、大釜を前にして女が立っている、さあこれは何か……」
「え、……中世の魔女ですか?」
「そう、巫女[#「巫女」に傍点]のピュチアが、カエルやイモリをぐつぐつ煮ている魔女に置き換えられてしまうんだ。そして魔女が信じている相手は、もちろん悪魔[#「悪魔」に傍点]だよね。だからアポロンも悪魔なんだ――」
静香が、嘆息をもらした。
「そうやって二重、三重に雁字搦めにして、かつての神々を殺していくんだ。――聖杯の騎士ローエングリンに敗れた魔女は叫ぶ[#「魔女は叫ぶ」に傍点]! 汝らの神によって貶《おとし》められたゲルマンの神々の復讐をみよ[#「神々の復讐をみよ」に傍点]!」
しばらくしてから、静香は尋ねる。
「……その神々の復讐は、叶えられたんですか」
「うーん、そういった噂[#「噂」に傍点]は聞かないなあ、ま、せいぜい召喚魔法で呼び出されて憂さ晴らしをするのがやっと……こらテレビゲームの話ね。それとローエングリンは伝説上の英雄、別名、白鳥の騎士ともいうんだが、そんな可愛いらしいもんじゃないよね」
十二世紀ごろにドイツで流行《はや》った、騎士物語の架空の主人公である。
「――このゲルマンの神というのはね、ノルウェーやフィンランドなどのスカンジナビア半島と、そしてアイスランドなどに伝わっていた北欧神話の神々のことなんだ。けど、北欧神話といわれてもピンとこないでしょ」
「……はい」
「まだ、御伽噺にはなっていないからね、幸いな[#「幸いな」に傍点]ことにね。この北欧神話の主神はオーディンという神で、ウォーダンともいうんだが、これ、水曜日ウェンズデイの語源ね。どこをどう訛《なま》ったのか、そういうことになったらしい。――かつて水曜日は、メルクリウスの日と呼ばれていたんだが、このメルクリウスという神とオーディンとが同じ[#「同じ」に傍点]と見なされたために、オーディンがとって代わったんだ」
「それは……過去に溯って調べてみたりすると、同じ神さまだったということですか」
「いや、そうじゃないんだ。それぞれ別の神話体系に属する別の神なんだが、性質《イメージ》が似ていると、等式《イコール》で勝手に結んじゃうんだよ。こういうのって日本はもっと凄いよ、中国の神、インドの神、仏教の仏、そして日本土着の神々、これらをぜ[#「ぜ」に傍点]ーんぶ結んじゃうもんだから、とんでもない話になる。えっ、キツネが、実はあのお方さまだったのか……みたいなね」
それは静香には解らない話である。
火鳥は、話を戻す。
「オーディンと同一視されたメルクリウスだけど、これローマ名なんだ。ギリシャ名ではヘルメスという……ほら、さっき出てきたろ、アポロンの大のお友達という神さま」
「……はい」
「つまり魔術系の神さまだということだね。魔術というのは、現代の言葉でいい換えると、最先端科学[#「最先端科学」に傍点]、ともいえるけどね。だから、このオーディンという神も非常に面白いんだ。たとえば、彼は二羽の鴉《からす》を飼ってるんだけど、フギンとムニンという名前のね、その鴉たちは毎日、世界中を飛び廻っては戻ってきて、オーディンの両肩にとまり、その目に見聞きしたことを彼の両耳に囁くんだよ。そのフギンとムニンね、フギンは思考[#「思考」に傍点]、ムニンは記憶[#「記憶」に傍点]……といった意味らしいんだ。すっごく含蓄のある話だろう」
「ええ、わたしたち記憶をベースに思考しますし、あるいは、左右脳の機能差を説明しているとも考えられますよね――」
静香も、少し興奮ぎみにいった。
「うん、フギンの思考を言語[#「言語」に傍点]、ムニンの記憶を映像記憶[#「映像記憶」に傍点]と考えれば、左右脳の話としても解けるね。だが、こういった含蓄のある神さまでも、やつらの罠《わな》に嵌められて悪魔にされてしまうんだ。だからローエングリンに敗れた魔女は叫ぶわけさ。けど、オーディンは、未来永劫、半永久的にサタンだね。魔物の曼陀羅からは絶対[#「絶対」に傍点]に外されないだろうな……」
なかば独り言のように火鳥はいった。
「どうしてなんですか」
静香は尋ねる。
「……オーディンの伝承にはね、神[#「神」に傍点]の製造方法が書かれてしまっているんだ。それも、かなり具体的《リアル》にね。もちろん最先端科学ってやつだが、これがまたしても解ける[#「解ける」に傍点]んだ。鴉のフギン、ムニンのような、あんなあやふやなレベルじゃなくてね。それも僕[#「僕」に傍点]に解けるぐらいだから、脳系の学者だったら解ける可能性があるね。すると、神がどんどん造れてしまうことにもなる。超絶一神教としては、断じて[#「断じて」に傍点]許されない話さ」
「その……どこから神を製造するのでしょうか」
「もちろん人間からだよ」
「えっ?」
「前にいったじゃないか、神は、元はといえば人間だって、オーディンもその例に漏れずなんだ……」
[#改ページ]
12
「……留守電か、どこかで夜遊びしているのね、おにいさん」
まな美である。
竜介の自宅に電話を入れたのだ。
竜介は、下北沢のアパートだかマンションだかで独り住まいをしているらしく、まな美は訪ねたことはないが、電話番号は教えてもらっている。その前に、大学の研究室の方にも電話を入れてみたのだが、誰も出なかった。
彼女は、淨山寺の資料を書き写したノートのことが少し気になっていた。どこに置き忘れたのか、どうしても思い出せないのだ。考えられるのは火鳥の研究室ぐらいである。そのことを、確かめたかったのだが。
まな美だけが先に家に戻って来ていた。父と母はまだどこかで飲んでいるはずである。ふたりだけの秘密の何かの記念日であったらしく、父の大盤ぶるまいで高そうな寿司屋で夕食をとり、さらに二軒目へと誘われたのだが、それは辞退した。
「案の定だわ……十七の娘をバーに誘ったりするかしら」
けっこう砕けた両親なのだ。
それに、まな美は今晩じゅうに調べものをしておきたかった。明日の午後、三人で淨山寺に行く約束[#「約束」に傍点]になっているからだ。
マサトの家からの帰りぎわに、
「――土門くん、明日、何か用事ある?」
「うんにゃ、とくにない」
「マサトくんは?」
「僕も……」
「じゃ、明日、淨山寺に行くの決まりね――」
と、まな美が強引に取り決めてしまったのである。
先に言質《げんち》を取られてしまっているので、土門くんとて抵抗のしようがない。
まな美は、関係しそうな書籍類を勉強机とベッドの上にずらずら……と並べ、片っ端からページをくって思索にふけっている。
「――淨山寺のお地蔵さま。まずもって、閻魔《えんま》さまは地蔵菩薩の化身だものね、これは常識」
それは『地蔵菩薩本願経』などに説かれているが、一般常識というわけではない。
「それを、慈覺大師みずからが作ったのよね、その慈覺大師が信仰していたのは、摩多羅神《またらじん》か、……ふたりの童子を従えてるのね、ひとりが丁令多《ていれいた》、もうひとりが爾子多《にした》、これらを併せて摩多羅三尊と呼ぶ。そして、摩多羅神は阿弥陀如来、丁令多は勢至《せいし》菩薩、爾子多は観音菩薩と位置づけられているか……でも、慈覺大師が彫ったのは、慈恩寺の観音さま、慈林寺の薬師さま、そして地蔵菩薩だから、これは合わないわよね。……なーんだ、観音と勢至って元来兄弟[#「兄弟」に傍点]じゃない、その父親が無諍念王《むじょうねんおう》で、これ阿弥陀さんなんだから、その話を被《かぶ》せただけでしょう」
無諍念王はインドの王で子供が千人おり、その長男が観音、次男が勢至になったとも[#「とも」に傍点]いわれている。
「なになに……わたしたちの五感が発動するときに働く認識作用を六識《ろくしき》といい、それを爾子多が表していて、その六識の背後にあるのが末那識《まなしき》で、それが丁令多、さらにその背後にある微細な意識が、摩多羅神によって表される阿頼耶識《あらやしき》……これは駄目ね、おにいさんの領域だわ」
ユングが説くところの、意識、個人的無意識、集合的無意識にも相当するだろうか。なお、阿頼耶識のアラヤには貯蔵庫といった意味がある。
「けど、摩多羅神は慈覺大師のオリジナルだから、元神がいたはずなんだけど……あっ、これ泰山府君《たいざんふくん》なんだ。だったら陰陽道でも祀るわよね、とっても有名神[#「神」に傍点]じゃない……」
知る人ぞ知るといった程度である。
「素戔鳴尊《すさのおのみこと》と見なしたりもするけど、それは関係なさそうね。……泰山府君は、要するに東岳大帝《とうがくたいてい》だから、どこからどう見たって冥府の神さまだわよね」
中国の八百万《やおよろず》の神のひとりである。
「すると、閻魔さまは冥府の長《おさ》だから、同じと見なしちゃっていいのかしら……」
まな美は、仏教関係の資料から地獄絵図を引きずり出した。
「……いたいた、泰山府君は門の上にいるんだ。暗黒|天女《てんにょ》とふたりで地獄の門番をしているのね。すると、閻魔さまの眷属《けんぞく》ってことになるわよね」
眷属とは、従僕や家来のようなものである。薬師如来につきものの十二神将《じゅうにじんしょう》などがそれである。
「……とすると、閻魔さまと泰山府君とを直接結んじゃうというのは無理があるわよね。でも、日本は日本でまた別のことを考えたりもするし……あとは慈覺大師がいた天台宗よね、天台宗がどう考えていたかが問題だわ」
まな美は天台宗に関する書物を調べ始めた。
「……えーと、火焔摩天供もしくは冥府供、これは泰山府君を閻魔大王とみなした呪祭である……やっぱりね、天台宗では同じにしちゃってるんだ。すると、地蔵菩薩の化身が閻魔天で、その閻魔天は泰山府君で、泰山府君は摩多羅神そのものだから、じゃ、その摩多羅神はというと……人の血肉を食らう摩訶迦羅天《まかきゃらてん》である……これは最澄さんの絡みね。すなわち大黒天《だいこくてん》なり……おなじ神さまだものね。はたまた咤枳尼《ダキニ》でもある……えー、そんなところまで行っちゃうの!」
火鳥の予言[#「予言」に傍点]どおりである。ちなみに咤枳尼はインドの神である。
「じゃ、お地蔵さまが咤枳尼天なわけ、咤枳尼なんて、いっちばん恐い神さまじゃなーい……」
最澄が、その咤枳尼天の秘法を比叡山の|相輪※[#「木へん+棠」、第3水準1-86-14]《そうりんとう》の下に封じてしまった……といわれるぐらいに恐れられている神でもある。
「それに、咤枳尼天といえば、あのお方さまが祈る神でもあるわよね……」
昔[#「昔」に傍点]の話である。
「で、鍵を握るのが、天海《てんかい》僧正……」
徳川家康が、人中《じんちゅう》の仏《ほとけ》だ、とまで深く帰依《きえ》していた天台宗の僧侶である。
「天海僧正は、慈覺大師を神のように仰いでいたし、その天海さんが個人的に信仰していたのは……摩多羅神[#「摩多羅神」に傍点]……やっぱりね、思っていたとおりだわ。これでぜーんぶ繋がるじゃない。あとは日光東照宮ね」
その東照宮を建てたのが天海僧正である。まな美は、日本地図の関東のページを開いた。
「……東照宮って、真北からは少しずれてるのよね、けど、そのラインの途中に淨山寺があったりして、そんな都合のいい話……あったりして……」
関東平野をカバーするような地図には、もちろん淨山寺は載っていない。
「淨山寺は、たしか元荒川沿いで、越谷と岩槻の市の境目にあったわよね……」
それならば位置を確認することができる。
「ここだわ……」
まな美は、地図に鉛筆で印を打った。
「定規、定規と……」
まな美は、三十センチ定規をその地図の上にあてがってみた。その瞬間である。
「――きゃ!」
まな美が叫び声をあげた。
「えーそんなことってあり? 信じらんなーい」
まな美は、しばし天を仰いだ。
「……けど、それだと淨山寺の方が本物[#「本物」に傍点]の東照宮ってことになるわ」
[#改ページ]
13
「……七百四十万というべらぼう[#「べらぼう」に傍点]な数の魔物の明細を発表したヨハン・ヴァイアだけど、別に悪い人じゃないんだ。魔女狩りに反対していた方の人でね」
火鳥は、なおも話の続きをしている。
「だが、その彼の『悪魔的幻想』という本が出ると、ルター派の教会が猛反発して、悪魔の数はそんな少なくない、最低二兆六千億はいる[#「いる」に傍点]、これも一の位まで続くんだが知らない、――といったんだ。当時ヨーロッパでは、そういったことを真剣[#「真剣」に傍点]にやっていた。これ一五七〇年ごろの話ね。さあ、そのころ日本は何をしていたかというと、ちょうど信長が比叡山を火達磨にしていた。女子供ふくめて三千人を焼き殺したという。その信長ね、何者[#「何者」に傍点]だか知ってる?」
「織田信長ですよね、何者といいますと」
「神[#「神」に傍点]だ。――自らそういい出した。家康は死んでから東照宮に祀られて神になるけれど、信長は生きてるうちに自分でやっちゃった。安土城の近くに|※[#「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90]見《そうけん》寺というのを建てて、そこの御神体は自分だから、領内の者みなそれを拝めと、おふれを出したそうだ。けれど一方で、伴天連《バテレン》のよき理解者としても有名だよね。ルイス・フロイス、オルガンティーノ神父、カブラル布教長、東インド管区の巡察使アレシャンドロ・ヴァリニャーノ……名だたる面々と信長は何十回となく会っている」
「たしか、イエズス会の宣教師ですよね」
宣教師のうち司祭の職にある者を伴天連、それが正式な意味である。他の宣教師は伊留満《イルマン》という。
「そう、それに会っただけじゃないよ、領内の一等地を彼らに与えてね、セミナリヨまで作らせているぐらいなんだから」
「……セミナリヨといいますと」
「将来の伝道師を育成するための神学校[#「神学校」に傍点]。聖書はもちろんだけど、賛美歌だ何だかんだをガキのうちから教えるの。大人に無理強いするよりも、子供の脳にインプットする方が簡単だろ……つまり、そこが布教活動の拠点になるわけさ。天正遣欧《てんしょうけんおう》使節って、日本史で習ったことあるでしょう。あれは有馬にあったセミナリヨの方から行ってるんだ。今の中学生ぐらいの子供たちが、喜望峰をぐるーと廻るような船に乗って、時のローマ法王、グレゴリウス十三世に会いにね。――これいちおう、美談として伝わってるよね。けど、実際はどうだろうか。行ったはいいが、帰ってきてから大変さ。信長は死んでいて、秀吉の時代だからね」
「キリシタンの禁止令が出ているのですね」
「そう、親が宗教にかぶれちゃうと、子供が、必ずといっていいほど巻き添えを食らうんだ。これはいずこの世も同じさ……でね、信長の安土城というのは、建ってから二、三年で本能寺の変で、その混乱時に城も燃えてしまう。だから詳しいことは分かってないんだが、戦のための城というよりか、超豪華な宮殿だったらしい。その安土領内で二番目に美しい建物が、セミナリヨだというんだな」
その美しいセミナリヨの絵が浮かんだのか、一瞬静香が目を輝かせた。
「そうやって、信長が擁護するものだから、キリシタンの数はすでに十万人を超えていたという。ザビエルが日本に着いて僅か三十年後のことだよ、すっごい増殖力だろう。信長のやっていたことは、すなわち、ローマの皇帝コンスタンチヌス一世と同じさ。だから、あれ万が一、信長がそのまま生きていてごらんよ、日本の八百万の神々は死滅していたんだよ。ヨーロッパの例からいって、間違いなくね」
「――なによりでしたよね」
真顔になって静香はいった。もし万が一[#「万が一」に傍点]そうなっていたなら、彼女も生まれていないからだ。静香はアマノメの血をひいている。
「うん、なによりじゃ――」
殿様のように相槌《あいづち》をうつ火鳥だが、西園寺静香が何者[#「何者」に傍点]であるのか彼は知らない。
「――話をいっきに前に戻すけれども、ニンニク[#「ニンニク」に傍点]、これをたっくさん食べる国があるよね」
火鳥が尋ねると、しばらくして静香が答えた。
「韓国ですか……」
静香は冗談《ジョーク》をいったわけではない。彼女は最近、韓国の辛い料理に嵌《は》まりかけているのだ。
「ま、あそこもよく使うんだけど、ヨーロッパで」
火鳥は尋ね直した。
「それなら……イタリアですよね」
「そう、イタ飯《めし》だ。何の料理にでもニンニクを使う。主食のパスタは勿論だけど、サラダもガーリック入りだし、トーストにだってガーリックを塗ったくる、もう朝[#「朝」に傍点]、昼[#「昼」に傍点]、晩[#「晩」に傍点]ニンニク料理だ……理屈からいって、あの国からは霊能おばさんは生まれないね。幽霊にとっても受難の地だ。そうおいそれとは出てはこれない。さて、そういった状況下にあるイタリアに、とある大きな宗教団体の総本山があるじゃないか」
「はい、バチカンがありますけど、……え?」
「ほうら、これでぜーんぶ繋《つな》がったろ。あそこが是か非かの非[#「非」に傍点]、つまり、認めない側の総本山でもあるんだ」
「はい、たしかに繋がりはしたのですが……」
狐につままれたような顔で静香はいう。
「なぜ繋がったのか」
いいながら、火鳥は腕時計に目をやった。彼には今宵語るべき別の課題がある。
「――最大限かいつまんだ話でいくと、要するに、同業他者の排斥だ」
「まるで企業みたいですね」
「そう、宗教というのはね、ある一定の大きさを超えると、まさに企業論理で動くんだ。いかに金儲けをするか、いかに政治と癒着するか、いかに市場を独占するか……過去の神々を一掃しちゃうと、後やることといえば、現在[#「現在」に傍点]および未来[#「未来」に傍点]の神々の根絶[#「根絶」に傍点]さ。芽のうちにそれを摘んでおけば安心、てことだ。企業も似たようなことをやるだろ」
「……見えるということは、それだけで神さまになりますものね」
静香は、アマノメのことを想いながらいった。アマノメはすべてを見とおせる神であると、そう彼女は教えられている。
「でも、ちょっとかいつまみ過ぎたね……」
反省ぎみに火鳥はいってから、
「あそこも、やはりイエスという生身の人間を神の子にしたんだ。が、神にするには、それなりの理由というのが必要だよね。いうまでもなく、それは神の奇跡。奇跡を起こせないと神じゃないからね。イエスにもそういった奇跡は幾つかあるんだが、彼を神の子たらしめている根幹の話はひとつ、よく知られているところの、死後の復活、というのがそれだ」
神妙な顔になって火鳥は語る。
「――ヨハネ伝、マタイ伝、ルカ伝、それぞれに書かれてることは微妙に違うんだが、要するに、三日後あたりに墓石が動かされていて、遺体がなく、その墓のそばに純白の衣をまとったイエスが現れ、それをマグダラのマリアなどが見たということです。その後、弟子たちの前にも何度か姿を現し、最後には、天に昇っていったそうです。――僕は、これは実話[#「実話」に傍点]だと思いますよ。新約聖書を編纂した者たちの勝手な創作話ではない」
静香が気づいた。
「――見た、という話なんですね」
「そう、見えたという話なんだ。僕が長々と語ってきている流れからいっても、これはマズいよねえ」
他人事《ひとごと》のように火鳥はいう。
「同じようなことが、起こってしまいますね」
静香がいった。
「そのとおり、下々《しもじも》の間で似たようなことが起こってもらっては困るわけさ。自分ちの神秘性が目減りしちゃう」
「……だから否定するのですか」
「彼らとしては必死さ、これは神の子たる根幹の話だからね、そこを汚《や》られると、宗教として成立しなくなる。――見えるか見えないか、宗教というのは、つまるところこれを巡っての争いであるわけさ。アポロンとピュトンなんてその最たる例だろ。神託の秘儀は、元来竜のピュトンが有していて、それをアポロンが奪ったという話なんだから。一方で、その種の神の秘儀は、あたかも、存在すらしていないかのように全否定しようとしている宗教もある、といったことなんだね」
結論めいたことをいってから、
「――ニンニクが語る宗教史は、これで終わり」
話を締めくくった。
グレンモランジの炭酸《ソーダ》割りと、今度はフレンチ・コネクションというカクテルが運ばれてきた。その、琥珀《こはく》のような色をした怪しげな液体《カクテル》をひと睨みしてから、火鳥はいう。
「夢の中で……あっ、これは夢だ、自分は今夢を見ているんだ、て気づくことがあるでしょう」
「それなら、わたしも何度かあります……」
「そういうのを明晰夢《めいせきむ》と呼ぶんだけど、一時期、これに凝っていたことがあってね……明晰夢を見慣れてくると、その見ている夢を、ある程度操れるようにもなってくるんだ。意識は目覚めてるから、夢空間の中を自分の意志で散策できる……ほら、あの扱いにくい映像記憶が、これで何とかなりそうだろう」
「……喋る、に相当するような話ですね」
かなり前の話題から静香が単語を拾った。
「そうそう、言語記憶でいうところの喋《しゃべ》るに近いね。けど、自由自在ってわけにはいかない。見えている夢映像をパッと一瞬にして別のものに変えてしまう、それほどの無茶はできないからね。意識が目覚めているということは、脳がほぼ全帯域にわたって活動していることを意味する、すると、映像記憶を補完しているところの意味記憶の領域も冴え冴えとしてきて、必然的に、見えている夢が現実の約束事から逸脱しにくくなる。だから、映像を変えたいと思ったなら、ドアを開ける、といったようなことをやると、うまくいく場合もあるね」
「……先生、さきほど明晰夢を見慣れる[#「見慣れる」に傍点]とおっしゃいましたけど、そう度々、先生はそういった夢をごらんになるんですか」
「ああ、これはね、明晰夢を見るための導入法[#「導入法」に傍点]というのがあるんだ。スタンフォード大学に明晰夢を研究している学者がいて、スティーヴン・ラバージという人だけど、彼の論文を参考にさせてもらった。導入法といってもね、要するに二度寝なんだが」
「……二度寝?」
「一度たっぷりと睡眠をとってから目を覚まし、そして再び寝るんだよ」
その説明に、静香が少し笑った。
「だから休みの日でないと、この実験はできなかったね」
……実験?
「それと、その二度寝する直前にちょっとした呪《ま》じないが要《い》る。夢の中で目を覚ます、夢の中で目を覚ます。あるいは、僕は夢を見ている、僕は夢を見ている……そういった呪文を唱えながら眠るんだ」
「それでうまくいくのですか?」
「運[#「運」に傍点]がよければね。僕が凝っていたときで三、四回に一回ぐらいは成功、てところかな。でも、最近では明晰夢を見るための装置《グッズ》なるものも開発されているらしく、そちらの方が確実だろうね。夢を見ているときにはラピッド・アイ・ムーブメントを起こしているわけだから、それをセンサーで感知して、眠っている人に知らせるわけさ」
ラピッド・アイ・ムーブメント、略してREM、すなわちレム睡眠のことである。
「……どうやって知らせるのですか?」
「いや、眠っているからといって受容器は死んでるわけじゃないので、たとえば耳元で、あなたが今見ているのは夢だよ、夢だよ……て囁けばいい。あるいは、瞼《まぶた》の上から極細のスポット光なりを断続的に当てると、夢に出てくるから、それに当人が気づけばいいんだ」
「そんなことになるのですか?」
「そんなことって」
「眠っているときに、瞼の上からスポット光を当てますと……それが夢に出てくる」
状況を想像しながら、静香は尋ねる。
「出るよ」
火鳥はあっさりという。
「目を閉じていても、瞼の上から光を当てると明るく感じるじゃないか、これと同じ。けど、目覚めてしまうと意味がないので、ライトを加減するんだよ」
「……脳のスクリーンはひとつでしたものね」
静香は理解した。
「そう、意外かもしれないけど単純な理屈。で、夢の画面に現れたその光に気づけば、その瞬間にカチッと意識のスイッチが入り、明晰夢に移行できるわけさ……ま、人間の脳を玩具《おもちゃ》にしている感、なきにしもあらずだけど、面白いことは面白いよね」
――脳科学者の本音である。
「さて、僕が明晰夢に戯れていたときのことさ。それは、ガラーンとした部屋に僕がひとりでいるような夢だったんだが……その部屋は、僕が今住んでいるところと似てはいるけれど、ところどころ違っていたりもする。そのガラーンとした部屋の隅っこに、机がひとつだけ置かれているんだ。その机には見覚えがある。僕が子供の頃に使っていたやつで、間違いなくその机なんだ。引き出しの把手が外れてしまって、それをネジ釘で乱暴に止めたんだけど、その通りだったからね。もちろん今は使ってなくて、捨てちゃった机だけれども――」
それは火鳥の推測である。彼は家を出てしまっているから実際のところは知らないのだ。
「――その机の前まで僕は行ってみた。引き出しに何が入っているのか、興味津々でね。そして一番上の引き出しを開けてみたんだ。すると中に入っていたのは、なんと、殺虫剤の手押しポンプ……シュ、シュとやる旧式のやつね」
火鳥が手で真似をした。
「どうしてそんな物が……」
「謎[#「謎」に傍点]だ。僕にもよく分からん。何でそんな物が夢に出てきたんだろうかね。で、二番目の引き出しを開けようとするんだけど、今度は把手に手がかからないんだ。すーとすり抜けちゃうんだよ、まるで幽霊の手みたいに……」
手をぶらぶらさせながら火鳥はいう。
「その下の引き出しも同じで、何度やってもダメなんだ。そうこうしてたときのことさ、突然、奇妙なことが起こった。薄暗い夢空間の中に、やや明るい白いものが現れたんだ。ふわふわ、とした柔らかそうな感じのもので、その白のところどころに花模様のようなものも見える。そういったものが一瞬見えて……消えた。しばらくすると、またその同じものが見えてくるんだ。それも画面の下だけにね」
「幽霊が出たのですか……でも、花模様の幽霊というのも変ですよね」
真面目な顔をして静香はいう。
「僕は机の前に立っているわけさ。で、その机を見下ろしている……なのに、その白地に花模様の絵[#「絵」に傍点]が、画面の底からせり上がってくるように見えるんだ。僕は夢の中で気づいた。あっ、自分は今薄目[#「薄目」に傍点]を開けていたんだ、てことに――画面の下に見えていたのは、僕が被っていた布団の模様だったんだよ」
「そんな[#「そんな」に傍点]――」
驚き呆れたのか、掠《かす》れたような声で静香はいう。
「僕も驚いたさ。意識は目覚めているから、比較的冷静に判断できるんだけど……でも驚いた。それから、瞼に意識を集中させて、目をゆっくりと半分ほど開けてみたんだ。上が薄暗い夢の空間、下が現実の布団の映像、それらが何の脈略もなく接合しているんだ。そのように見えるんだよ。ともに、奥行きのある立体映像どうしがだよ――」
静香は大きく目を見開いたまま、その状況を想像しようとしていた。
「しかも夢映像の方は、動かそうと思えば動かせるんだ。実際、僕は後ずさりをしたからね。驚いた拍子に机からちょっと離れたんだ……でね、瞼のラインが上下の映像の境目になる。そして巻き取り式のスクリーンみたいに、その境目を上下に動かすことができるんだ。つまり、夢は瞼の裏に映っていたという構図にもなる。もっとも、夢映像は脳の視覚野《スクリーン》全体に投影されていたはずで、それが、光量の差で消されてしまっているんだ。脳からの再生映像よりも、目からの現実映像の刺激の方が数段強いからね、だから、夢映像が部分的に消されるんだ」
しばらく考えてから、静香は尋ねる。
「その、驚くべき状況は、最後にはどうなったのですか――」
「もちろん、最後には夢映像が消えてしまった。瞼を何度か開け閉めしたんだが、開けすぎちゃったのか、その瞬間に夢は消えた。自分としては、かなり長々とその状況を保っていたつもりだが、実際には、せいぜい十秒といったところかな。さて、天台宗に性空《しょうくう》という僧侶がいた――」
火鳥がころりと話を変えた。
「十世紀ごろに生きた人物だが、彼の願いは、生身の普賢菩薩《ふげんぼさつ》を拝むこと」
普賢は、インドの無諍念王の八番目の王子とも[#「とも」に傍点]いわれている。だから観音や勢至の弟にあたる。
「――拝むとどんな利益《りやく》があるのか僕は詳しくないんだが、白い象に乗っているというのが普賢菩薩の一般的なお姿だ。けど、生身[#「生身」に傍点]の普賢菩薩を拝むというのは、こら無理な相談だよね」
とりあえず静香は頷いた。よくは分からない話なので、火鳥の説明を待つしかない。
「だが、性空に夢のお告げがあったそうだ。ある地方に住んでいる遊女を拝みなさい、といったね。彼はその家を訪ねてみた。すると宴たけなわで、その遊女が鼓を打ち鳴らしながら唄をうたっていた。けっこうな美人で唄もうまい……」
静香の方を、チラ、と見てから、
「そして性空は、ついうっとりと目を閉じてしまったそうだ……すると瞼の裏に、白い象に乗った普賢菩薩の姿がありありと映ったというんだな。驚いて目を開けると、その遊女はやはり人間の姿のままなんだ。これはどうしたことかと、性空は目を開けたり閉じたりを繰り返してみた。すると、目を閉じているときだけ普賢菩薩の姿が見えるんだ」
「――そのお話、先生の体験談とまったく同じじゃありませんか」
興奮ぎみに静香はいった。
「ま、僕は俗物[#「俗物」に傍点]なので、古ぼけた机と煎餅布団だけれど、性空は、遊女と普賢菩薩なんだね……だから、この性空の逸話も実話[#「実話」に傍点]の可能性が高いよね」
もちろん性空は実在の人物で、姫路の書写山《しょしゃざん》にある円教寺の創建者である。
「……先生のお話って、本当[#「本当」に傍点]に驚かされますよね。わたし、今日なんど驚いたことかしら」
その静香の言葉に、火鳥はパチーンと頭の中で指を鳴らした。
「僕は以前から、研究したいと思っている課題がひとつあってね」
火鳥は切り出した。
「……超能力ですよね」
察知したように静香はいう。
「いや、単なる能力だ。隠されているだけのこと。僕が研究したいのは、実はこれなんだ」
いうと、火鳥は自分の左目を手で覆い隠した。
「つまり、ひとつ目――」
[#改ページ]
14
まな美が、風呂場《バスルーム》で泡だらけになっているときに電話が鳴った。ママたちからで、さらに帰りが遅れるとか、あるいは、外泊するから今晩は戻らないとか、どうせそんなところだろう……と、しばらくは無視していたのだが、なかなか鳴り止まない。
仕方なく、まな美はバスタオルを巻きつけただけの格好で、箪笥《たんす》部屋に置かれている電話に出た。
「――あら、大神《おおがみ》さんだったの」
学校のクラスメイトからの電話であった。
「ああ石田さんの話ね……少しだけ聞いた。でも、実際はどういったことなの?」
「えーそんな話だったの、想像してた以上だわ。わたしクラスが一緒になったことないから親しくないんだけど、石田さんって普通よねえ、おとなしい感じなのに……」
「――わたし? わたしは大丈夫よ。わたしが石田さんの怪我とどう関係するの?」
「江本さんって、C組の江本さんのことよね。禅寺の部屋でわたしたちと一緒だった……」
「電話が通じないって……そうそう、家族そろって旅行に行くといってたわ。たしか今日から」
「行き先までは知らないわ」
「……よくないことが江本さんにも起こる? それがどうして大神さんに分かるの?」
「誰[#「誰」に傍点]が呪われてるって?」
「えー、わたしたち三人[#「三人」に傍点]――」
「だから石田さんが怪我したって――」
「ちょっと待ってよ、大神さんも同じ部屋だったじゃない。どうしてあなただけ呪われないの?」
「大神さんが呪ったの[#「大神さんが呪ったの」に傍点]――」
「夜中に[#「夜中に」に傍点]――」
「それって、どんな呪いなのよ」
「竜を殺せ……そんな呪《ま》じないの文句、聞いたこともないわ。それに竜なんて実在しないんだから、殺しようがないじゃない」
「……謝られてもねえ」
「警察に自首するって……警察に江本さんを捜してもらうの……そこまでしなくても」
「泣かないでよ。そんなに気になるんだったら、いい人紹介しようか、その手のことに詳しい人なら、わたし心当たりが……もしもし[#「もしもし」に傍点]、切っちゃった」
後味の悪い電話だが、ともかく、まな美は受話器を置いた。
その箪笥部屋の隅に古ぼけた勉強机が置かれてある。かつて兄が使っていた机に違いないと、密かにまな美が思っている机でもある。だが物置場と化していて、桐の衣装箱などに囲まれ、一番上の引き出ししか開かないのだ。
まな美は風呂に戻ろうとしたのだが、なぜか気になって、その引き出しを開けてみた――。
[#改ページ]
15
「ひとつ目……つまり、片方の目が悪いということは、その分、外からの映像入力が減少しますよね」
静香が説明を試みている。
「すると、水晶玉を覗いているときなどと同じで、脳からの映像が逆流して映り込んでくる……すなわち、幻視が生じやすくなりますよね。それに、その幻視は普段のままの意識状態で生じますから、見えてきた映像を冷静に、客観的に判断することも可能です。それは先ほどの明晰夢にもいえるのでしょうが、その明晰夢に移行する過程が簡単ではありませんし、それに、意識は目覚めているといっても、覚醒の状態とはどこか違うはずですから……そう考えてくると、脳の映像記憶とアクセスするという課題においては、これは理想形ともいえそうですね。もっとも、目の悪い人には酷なお話ですので、あくまでも学術的な論理として、そう考えられますよね」
静香は説明しきった。
火鳥としては、長々と語ってきた甲斐があったというものである。
「――まさにそのとおり。事実、ひとつ目だと容易に幻視が見えるんだ。勿論これは僕の発見ではない。古来から、ある程度は知られていたんだが、それを科学的な視点でもって考察した最初の人は、十八世紀に生きていたスイス人で、シャルル・ボネという学者さんだ。彼は自然科学を志していて……」
そこまでいいかけて、
「――クシュン!」
火鳥は大きく嚔《くしゃみ》をした。
「誰か噂してるんですよ、先生のことを」
静香が悪戯《いたずら》っぽくいった。
「いや、実際そうなんだ――」
鼻の下あたりを拭いながら、火鳥はいう。
「僕の脳には情報[#「情報」に傍点]は届いているんだが、意識にはなかなか上ってこない。意識は鈍感だからね、気がつかないんだよ。そんなとき、ちょっとした身体の変調でもって、脳はそれを意識に教えようとする。だから、この嚔の通説は、あながち嘘というわけでもないんだ」
「虫の知らせですね」
「そう、嚔も虫の知らせのひとつさ。でもね、虫の知らせというのは、悪い意味で使うのが本当なんだ。よくないことが起こりそうな胸騒ぎがした、あれは虫の知らせだったのか……」
「ごめんなさい、そんなつもりでは」
「いや、謝るようなことじゃないよ。テレパシックな情報が伝わる場合は、圧倒的に、悪いことの方が多いんだから……そのことは、冷戦華やかなりし頃のロシアの超能力実験でも確かめられている。実験の課題として、惨殺死体や事故現場などの悲劇的な写真を用いた場合は、非常によく伝わったというからね。もっとも、これは表向きの発表で、実際には、政治犯などを拷問にかけて苦痛を与え、それが他人にどう伝わるのか……とくに身内には伝わりやすいのだが……そういった悪魔的実験[#「悪魔的実験」に傍点]をやっていたのではないか、と僕は推測してますけどね」
それは、火鳥がひと月ほど前に行った猫の実験にも相通ずる[#「相通ずる」に傍点]ものがあるようである。
「話を戻して、自然科学を志していたシャルル・ボネだが……当時、自然科学をやるということは、すなわち顕微鏡を覗くことなんだ。けど、今と違って電球という便利なものはないからね、照明事情が劣悪な環境で顕微鏡に熱中していた彼は、片方の目を、ほとんど視力をなくすぐらいまでに悪くしてしまう。左目で顕微鏡を覗き、右目で紙を見て描き写す、そういうやり方だから、つまり左目を悪くしてしまうんだ。仕方なく彼は、自然科学から哲学の方へと転じていくんだけどね」
「じゃ、ボネさんは見えた[#「見えた」に傍点]のですね」
「そう、自ら体験したんだ。だから解ったんだよ。彼は徐々に目が悪くなっていったから、それに応じて、幻視の頻度が増してくる。見え方も濃くなってきて、やがては、小鬼《ゴブリン》やら妖精やらが見えてくるようにもなる……これには彼も狼狽《ろうばい》してね、教会の牧師に相談に行ったらしい。けど、牧師のいうことは決まってるよね。あなたは悪魔にとり憑かれている[#「あなたは悪魔にとり憑かれている」に傍点]。これ、現代の大都会にある真新しい教会に行っても、きっと同じこというよ」
「……牧師さんは、脳科学者じゃありませんから」
皮肉小僧の火鳥をちょっと窘《たしな》めるように、静香はいう。
「もっとも、ボネは科学畑の人だから、霊だ悪魔だという話は受け入れなかった。で、見えてくるものをつぶさに観察し続けて、――これは幻[#「幻」に傍点]である。見えているものに実体はない。信仰心も一切関係しない――と結論づけたんだ。その論文を発表したのが、一七六〇年ぐらい。当時としては、これは画期的[#「画期的」に傍点]な考え方だ。二百年は先取りしているからね」
「……現代でも、目が悪いと幻視が生じるといったような説は、勿論わたしも今日初めて知ったのですが、一般にはほとんど知られていないですものね」
そう静香がいうと、火鳥がニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「実はね、現代の専門家でもほとんど知らないんだ。これ、彼の名前を冠して、シャルル・ボネ症状群と呼ぶんだが、この用語をいってもね、同業者の大半がぽかーんとしちゃう。これ極めてマイナーな話なんだ。認知系の専門書には、そもそも幻視に関するページが少ないんだけど、その中に、目に損傷があると幻視が生じる場合がある、と数行書かれていれば御の字さ。それに幻視というやつは、見えている当人にしか分からないものだから、研究の対象としても不向きなんだね。だから、この分野はほとんど手付かずといってもいいぐらい」
「……その、研究には不向きなものを、あえて研究するわけですね」
「そう、あえてね。不向きとはいっても、要[#「要」に傍点]はアイデア次第だからさ。それに、僕らのやってる認知神経心理学の手法は、脳に欠損がある人を研究して、脳のプログラミングを解き明かしていくだろう。健常者はいくら調べたって解らないんだ。脳に誤作動が生じて初めて、正常なる機能とは何であるかが推測できるわけだからね……ほら、これと同じではありませんか」
「――そうですよね。幻視も脳の誤作動の一種ですものね」
納得したように静香はいった。
「さて、ひとつ目だと幻視が見える――これには何の疑問もない。ボネさんが身をもって証明してくれているからね。問題[#「問題」に傍点]は、ここから先なんだ。見えてくる幻視、これはいったい何[#「何」に傍点]だろうかということなのだが……」
「映像記憶、ですよね」
「誰の――」
「もちろん、その人の……でも、それだけでもなさそうですね」
「――そうなんだ。自身の映像記憶が見えていることには間違いがない。たとえ、その人が過去に一度も見たことがないような絵が見えたとしても……夢で知らない景色を見るのは茶飯だろう……それでも、自身の記憶バンクから紡ぎ出された絵なんだ。映像記憶は部分品にバラされて保管されているから、いかようにも合成できるからね。だが、その元ネタになるような情報[#「情報」に傍点]が、どこか別のところから伝わってきている可能性、それがありそうだよね」
「いわゆる……テレパシーですか」
「いや、そういったものとは違うね。考え事が伝わるわけじゃないし、念じる、とかも関係ないからね。およそ超能力研究者たちが夢想しているイメージとは似て非なる[#「似て非なる」に傍点]ものだろうな……それが伝わる。もちろん、他人の脳からね」
「――猫の実験ですね」
静香が思い出していった。
「そう、失敗しちゃったやつね。あれは一連の論理《ロジック》を証明するためには必要で、それの予備実験のつもりだったんだが、あっさりと失敗した。でも、人間ではうまくいってる例もあるんだよ。日本の大学でも幾例か似たような実験をやっていて、そこそこの結果は出しているんだ。が、万人を納得させるほどのデータじゃない。せいぜい子供の手をつねる程度だから、母親の脳もそう激しくは反応しないんだ。だから、子供を死ぬような目に遭わせれば、脳波の異常はより顕著に現れるはず……当然、そう考えられるよね。だが、それは人間を使ってはできない相談だから……」
やろうとしたが、老教授に刎《は》ねられたのである。
「今日さ、あなたと話していたときに僕は閃いたよ、失敗した理由《わけ》をさ。あの猫、メロンを嘗めていたよね、実験の間中ずーと」
「ええ、母猫はメロンを嘗めさせておくと柔順《おとな》しいということでしたので……実際にそうでしたし」
「メロンという果物は、けっこう揮発性の物質を含んでるよね。何だかは知らないけど、それが猫の脳に影響したのかな、とも思ってさ」
「――五辛《ごしん》ですね」
「そう、五辛の話してるときにはた[#「はた」に傍点]と気づいたの、でも気づいただけの話で、確証があるわけじゃない。後もうひとつは子猫の方だけど、毛むくじゃらだったから、太ってたのか何だかよく分からないんだが、子猫にしては、ちょっと大きい子猫だったよね」
「たしか冬に生まれた子だと、五月女《さおとめ》さんはいってましたけれど……」
五月女は情報科分室にいる院生の女子である。
「冬? あいつそんなこといってた。僕が実験プラン話したの六月だろう、そのときに、生まれたて[#「生まれたて」に傍点]の子猫が家にいる、て彼女がいい出したから、じゃ貸してくれる……いいよ、て話だったのに。あいつ夢見る乙女さんだからいい加減なんだよなあ……確認しなかった僕も悪いんだが。それに冬といっても長《なご》うございますからね、去年の生まれだったりすると、もうかなり経ってるよね」
「……生まれてから時間が経つと、だめになるんですか」
「うーん、子猫がすでに親離れをしていたとすると、だめかもしれないな。これは人間にも同じようなことがいえてね、子供が小学校に上がるなりして、母親べったりの状態が崩れると、この種の実験はうまくいかなくなっていくと思うんだ。データがないから、まったくの推測だけどね」
「……子供が親離れをしますと、伝わらなくなるのですか?」
「いや、伝わらなくはないんだが、べったりではない[#「べったりではない」に傍点]……つまり、回線を繋ぎっぱなしの状態ではなくなってくるので、おのずと伝わりにくくなる、といった話なんだ。これは事例からの逆推理でね、女性の能力者が子供を生んだ場合に、能力が消えてしまうといった例があるんだよ。最近の、比較的信用できる話として、日本とロシアにそれぞれ一例ずつある。でともに、その子供が母親から独立すると、ほぼ同時に、能力は元に戻っているんだ。つまり、子育ての時期にだけ、能力が消えていたことになる」
「――消えてはいないんですね」
気づいたように否定してから、静香はいう。
「自分の子供にだけ、その能力を集中させていたとも考えられますから……」
「当たり。僕もそう考えています。それに能力とはいっても、能力者だけの専売特許、というわけでもないよね。あれは、たまたま表に現れ出ているだけの話……だから、世の母親のすべてに同じことがいえそうなんだ」
静香が、キリ、と引き締まった顔になっていう。
「――そのことには、子供の脳の発育が関係するのでしょうか」
「ますます冴えてるね……まさに僕のいわんとするところもそれ[#「それ」に傍点]。どう考えたって、理由はそれしか浮かばないもんね。発育期の子供の脳にとって必要なものといえば何か……いうまでもなく、それは外部からの刺激[#「刺激」に傍点]。それによって神経細胞が触手を伸ばし、他の神経細胞と絡み合うことによって、脳の神経ネットワークが構築されていくわけだから……刺激というのは、イコール情報[#「情報」に傍点]。その情報を処理するのに相応《ふさわ》しいようにと、脳は造られていくわけさ」
「――その刺激は、五種類だけではありませんよね。五感以外にも、人間には未知なる受容器が備わっているはずですから、その受容器への刺激も、脳の発育には当然係わってきますよね。つまり母親の脳から、そういった刺激が伝達されてくることも、必要なんですね」
「いやーさすが西園寺さん。僕の論法をすっかりマスターしちゃったね」
「半日おつき合いをしてますから……べったりと」
精一杯の冗談《ジョーク》で静香がいうと、
「なによりです」
中途半端な返答を火鳥はする。
「じゃあさ、これを子供の脳の立場になって考えてみると、さらに面白いよ」
「子供の脳ですか、……子供の脳は刺激を、つまり情報を欲しているわけですよね」
静香は少し考えてから、
「それは母親の脳からだけと、限定しなくてもよいのでしょうか……」
自信なさそうに答えを出した。
「そう、情報に色[#「色」に傍点]はないからね、誰[#「誰」に傍点]からでもいいんだよ。母親でなくてもいいし、父親からでもいい。父親でなくてもいいし、赤の他人でもいいんだ。要は情報を得たいだけのことなのだから、波長が合いそうな脳とピッ――とくっついちゃう。でもこれは、母親の脳としては許されない。赤の他人からの訳の分からない情報に、自分の子供の脳を晒《さら》すわけにはいかない。だから保護《ガード》という本能が働く。情報を欲する子供の脳の貪欲《どんよく》さ、それと母親の保護《ガード》、このふたつがガチッと噛み合って、始終回線は繋ぎっぱなしの状態になる――」
「イメージとしては、わたしも同意できます」
「そう、これはあくまでもイメージだね。空想の域を出ない。じゃ、もう少し確かな話をしよう。仮に、先のヘルプ・ミー実験で、母猫のポジションにひとつ目の人間を置いたとしたら、どんな結果が得られるだろうかね……」
そういい残すと、火鳥は席を立った。
火鳥はカウンターで煙草を買い求めると、自分が飲むグレンモランジの炭酸《ソーダ》割りだけを持って、戻って来た。琥珀色のカクテルにはほとんど口をつけていない静香に、火鳥としては、気を利かしたつもりである。
「――子供の映像が見えそうですね」
静香がいった。
「うん、その詳しい状況まで見えるかどうかは何ともいえないが、子供の絵が見える公算は大[#「大」に傍点]だよね。もし子供を驚かしたと同時に、母親の脳波に異常が現れたとすると、それは、何らかの情報が伝わったことを意味する。が、その情報は格別複雑なものじゃないよね。子供が助けて[#「助けて」に傍点]ー、あるいは死ぬ[#「死ぬ」に傍点]ー、その程度だからね。これなら、母親の脳は容易に解読できるはずだ。つまり認知できる。認知するということは、脳の中で、それに関係する記憶が僅かなりとも活性化されることを意味する。その活性化された記憶が映像記憶ならば、脳の視覚野《スクリーン》に映り込んでくる可能性がある……普通人はここでストップ」
いうと、火鳥は新しい煙草の封を切った。
「可能性[#「可能性」に傍点]はあっても、実際には映り込んでこないから、つまり幻視は生じないから普通人なんだよね。当たり前のことをいって悪いが。だから、脳波には異常が現れていても、普通人の意識には見えない。が、胸騒ぎがする、その程度なら意識にも感じられるかもしれない。そして後から、その同時刻に子供に異変があったことを知り、突き合わせをしてその胸騒ぎの正体が判る……これはちょっとましな普通人ね。けれど、ひとつ目の場合は違うよね。そもそも幻視は見えるわけだから、可能性[#「可能性」に傍点]は飛躍的に高まる。だから子供の絵が見えたとしても不思議はない。しかも、リアルタイムで」
「同時性というのは、重要なことなんですね」
「――重要だ。それは情報[#「情報」に傍点]を、脳が意識に解るように具現化[#「具現化」に傍点]できるか否かにかかっているんだけどね。胸騒ぎの正体が後から判っても、何の役にも立たないだろう。それこそ後の祭りだ。が、この役には立たない事例というやつが、疑似科学本には腐るほど紹介されているんだな……したり[#「したり」に傍点]顔でそれを吹聴している奴らもいるが、こうなってくると一種の宗教だ。神秘性をただ煽っているだけ……|偶然の一致《シンクロニシティ》というのが概ねそれだけど、こんなもの百万個集めても象牙の塔は揺るがないさ。――一個[#「一個」に傍点]でいいんだよ、万人を納得させるデータを一個[#「一個」に傍点]提示できれば、この種のことは決着する」
さも、決着をつけるのは自分であるかのように火鳥はいう。
「……一個でいいんですか」
静香がちょっと心配そうに尋ねた。
「人間の脳と情報[#「情報」に傍点]が絡む現象は、いわば統一理論のようなもので説明されるべきだと僕は考えているので、だから、その論証は一個でいいんだ。さて、もうワンランク上の話をしようか、……僕たち忘れ物ってよくするよね。どこに置き忘れたのか、どうしても思い出せない……」
「忘れ物をしたとはいっても、忘れ物をしたときの経緯は、記憶として、その人の脳には保存されていますよね」
「そう、忘却[#「忘却」に傍点]とはそういったことだもんな。記憶に羽が生えて飛んでいったわけではない。記憶はちゃんと脳の中にあるんだ……が、どこにいったんだーと意識はあれこれ悩んでいる。そのとき脳[#「脳」に傍点]はというと、ここにあるじゃないかー、この記憶だー、見つけてくれーと唸っている。つまり意識の求めに応じて、該当する記憶を活性化《スタンバイ》させてはいるんだ。けど意識は接続《アクセス》できない。接続するための鍵をなくしてるような状況だからね……そんなときに、もしその人の脳とひとつ目の脳とが繋がったとしたらどうなる?」
唐突な質問に戸惑いながらも、静香は予想される答えをいった。
「その忘れ物の置かれている場所が、ひとつ目の人には見えるのでしょうか……」
「見えるね」
断定を促すように火鳥はいう。
「……そういえば、霊能力者などに失《う》せ物のことを相談しに行ったら、当たったという話はよく耳にしますよね」
「まさにそれ、実は、失せ物を当てるのは一番[#「一番」に傍点]簡単なことなんだ。答えは目の前にいる相談者の脳が持っているケースが大半だからね。しかも、その情報は脳の中でも際立った状態に置かれている。相談者の意識の求めに応じて、活性化されているからね。だから脳が繋がりさえすれば、い[#「い」に傍点]の一番に伝わるわけさ。そして伝わった情報が認知可能なものであれば、そしてひとつ目ならば、それが映像となって見えるんだ」
「……意外と、単純なお話なんですね」
「物事シンプルなんだ」
――火鳥の持論である。
「でも世間の人を驚かすには十二分のものはあるよね。あれだけ探しても見つからなかったのに、いともあっさりと、しかも遠く離れた場におられながら、まさに神さま……と拝みたくなる気持ちもわかる。けど実際は、脳と記憶の物語なんだ」
「距離も関係はしないですよね、それは見かけだけのことですから……」
「その情報[#「情報」に傍点]がどこにあるのか、そしてどんな状況に置かれているのか、それが重要なんだ。遥か遠方の景色を透視するとはいっても、近くにいる誰かの脳から盗《と》ればいい。あるいは、ちょっと面白い実験なんだが、課題《ターゲット》をどんどん小さくしていって、何かの絵柄を極小のマイクロフィルムにしたという例がある。それを超能力者が見事透視に成功したそうだ。凄《すご》い、未知なる超能力はこんなことまで可能。実験をやった学者は鼻高々だろうが、その課題を作ったのは誰[#「誰」に傍点]だろう……情報はその脳にある。その誰かさんは側《そば》で実験を見守っていたはずなんだ。はらはらドキドキしながらね……」
声を潜めつつ火鳥はいう。
「あっ、その状況は、失せ物を見てもらっている相談者と同じなんですね」
「そう。でもね、はらはらドキドキ……これは申し訳ないがあなたへの誘導尋問なんだ。実際には必要がない。今自分は実験に挑んでいる、その心構えぐらいで、いや、実験[#「実験」に傍点]――単語一個だけで脳は反応するからね」
「……そうですね、意識の流れに即応できるようにと、関連する記憶を脳がスタンバイしてくれるのですから」
「そう、だから実験中に学者の脳が活性化《スタンバイ》させてしまう最右翼の情報といえば……マイクロフィルムの絵柄なんだ。だからこれもい[#「い」に傍点]の一番。いわばテスト中に教師のおでこにカンニングペーパーが貼られてあったようなもの。それも教師自らが貼ったんだよ。でも貼った事実には気づいていない。実際、その学者さんの言い分はというとね、自分はテレパシーなんか使っていない、念じていない、それに自分でもイメージできないような複雑な絵柄を、どうやってテレパシーで送るんだ、だから透視したに違いない。ほら、いかに的外れな研究やっているかよく分かるでしょう。いわゆる超能力の実験というやつは押しなべて右に同じでね、――情報[#「情報」に傍点]、――記憶[#「記憶」に傍点]、こういった観点がすっぽりと抜け落ちてしまっているんだ。これじゃ真っ当な科学者から相手にされないのも無理はない」
「先生、わたしたちの研究室の名前――」
「よくぞ気づいた。だから情報科にしたんだよ。古来の伝承を集めるのだけが能じゃない。こういったところに本意があるのさ。単純な言葉にこそ深[#「深」に傍点]――い意味が隠されているんだね、……竜[#「竜」に傍点]」
聞こえないような声で火鳥が呟いた。
「どうかなさったんですか」
「いや、僕の脳がちょっと反応しただけのこと……ところで西園寺さんさ、さっきの課題、あれ結論はどういったことになるんだろう。忘れ物……失せ物でも同じだけど、それにひとつ目が絡むと?」
「それは……ひとつ目の人には他人の記憶が見える、といった結論になりますよね」
「うん、つまり想像以上に大容量の情報が伝わるって話なんだが、西園寺さん、この仮説納得しちゃったの?」
「はい、……とりあえずは」
火鳥の顔を窺《うかが》うような目で静香はいう。
「まさか、こんな話をそうおいそれと信じてはいけないな。――他人[#「他人」に傍点]の記憶が見えるんだよ。普通自分[#「自分」に傍点]の記憶だって見えないんだから、それを、他人の記憶が見えるといった仮説を提唱しているんだよ。こんな話を信じるのは大馬鹿者と決まっている」
「でも、先生はその自説を信じていらっしゃるのですよね」
「そう、僕は大馬鹿者だからね。でも君まで仲間入りする必要はない。ひとりは批判的な人間がいないと、研究はうまく行かないものなんだ。それを、あなたにお願いしようと思ってね――」
研究室のボスらしきことを火鳥はいう。
「じゃ……」
お言葉に甘えて、といった表情で静香はいう。
「わたしにも疑問点はあるのですよ。一番気になったところは、やはり、脳が繋がるといった説明です。具体的にイメージできませんよね。どのように繋がって、そして情報はどのように伝達されるのか……」
「うーん、そこが最大の難関だろうな。要するに受容器の特定と、その仕組《メカニズム》、そして情報が宙を飛んでいるときの形態は何かといった話だよね。まず受容器だけれども、当然、脳のどこかにあるはずだ。それはどこか[#「どこか」に傍点]……ロシアの実験に面白いのがひとつあってね、死亡した直後の人間の脳から、視床の脳細胞を取り出し、それをニューロン単位にばらして、死滅しないように特殊なゼラチンで固める。それをコイル状の装置の中に入れて、それに向かって、人に念じさせるというんだな。するとそのニューロンが反応するらしく、それを装置で検出できるそうだ。それだけじゃなくて、そのニューロンは、その特定の人の念[#「念」に傍点]というもののパターンらしきものを覚えているという。後日そのニューロンと、その特定の人とを対面させると、念じなくても、ニューロンの方が先に反応しちゃうらしいんだ。また会えたねーみたいな感じで……多分にSFじみた話なんだが、これ実話なんだ。元はといえばアメリカの秘密実験だったようで、それがいつしかロシアに渡り、旧ソ連が崩壊した際のどさくさでポロッと表に出てきたんだ。十年ぐらい前の話なんだけどね」
「恐ろしい実験ですね……」
「うーん、恐ろしいといえば恐ろしいが、実験そのものは難しくないよ。生きた脳さえ手に入れば、僕にも出来るからね。それに推測するにさ、彼らも各種の脳細胞を使って試行錯誤したはずなんだ。結果、この種の実験には視床のニューロンが使える、といったことに到達したはずだ。つまり――視床、ご存じのように、ここは映像記憶を束ねるところだろう。映像記憶の部分品は脳のもっと表面のところで保存されているが、それらを集めてきて一枚の絵にできるのが視床だ。でもって、人の念に反応するニューロンもこの辺りにある。念が何かといったことは次の問題だが、つまり、情報の送受信の要《かなめ》になる受容器は、この辺りにありそうだよね。ほら、幾らかは具体的なイメージになってきたろう」
「……はい」
恐る恐るといった感じで静香は返事をする。
「じゃ、次は念ね。情報を媒介している波[#「波」に傍点]は何かといった問題だが、脳通信専用の知られざる波がある、なんてことを宣《のたま》うほどの僕は大馬鹿者ではない。だから既存の何かで、つまり電磁波か、それに類するものだ。磁力線なども含まれるだろうね」
「……磁力線通信の可能性は聞いたことがあります。もっとも、それは脳の話ではなく、通信機器としての話ですが」
「それだったら、脳にとっては好都合だね。すでに地球には磁場があるんだから、それに情報を乗せればかなり遠くまで飛ばせちゃう。けど、そんなことは必要ないかもしれないんだ。脳は、他人の脳を幾つか経由させることによって、遠方の情報でも入手できるのではないかと、僕はそんなイメージを考えてますからね。だから、個々の脳の通信能力は、譬《たと》えれば、PHS程度でも十分ってことにもなる」
「……それは、脳がネットワークを構築しているといったようなお話ですか」
「そう、つまり阿頼耶識《あらやしき》の話なんだが、次元がひとつ繰り上がってしまうから、説明はまたの機会にね」
「……あらやしきといいますと?」
「ごめん、ユング心理学でいうところの集合的無意識です。この種の用語は、僕、使わなくしてしまったので……無意識なんて変な言葉だろう。意識が無い、それはどういうことなんだ。さらにそれが集合するというんだから、ますます奇っ怪だ……意識の裏にあるのは脳[#「脳」に傍点]、唯それだけなんだから。その脳の働きのことを仏教の唯識《ゆいしき》論では末那識《まなしき》という。つまり僕は末那識の話をしてきたわけさ。で、その一段上が阿頼耶識……さて、脳通信だけれども、その情報を運ぶ波を特定するためには、遮蔽実験をやるしかない。波の候補を丹念に潰していくと、いずれは判明するはずだ。が、たまにしか当たらない程度《レベル》の能力だと、遮蔽が原因なのか、能力が原因なのか区別つかないよね。だから、この種の実験を円滑《スムーズ》にやるためには百発百中の能力者が必要ともなる」
「そんな能力者は実在しませんよね……」
「うーん、さすがに百発百中は無理だろうが、近いのならいると思うよ。ただし従来の超能力実験では判別できない。それは方法論が間違っているからで、つまり実験プランの組み方次第ってことになる。ほぼ百発百中《パーフェクト》の能力者は僕の理論上では存在しうるし、古来の伝承も、そのことは示唆[#「示唆」に傍点]しているからね」
「……といいますと、それはひとつ目の伝承ですよね。その伝承は幾つかあるのですか」
「日本には多い。現在訪ねて行って、何らかの痕跡が残っているもの……だいたいが神社になってしまうんだが、その主だったものでも二十や三十はあるだろうな。つまり、ひとつ目は神[#「神」に傍点]になるんだ。あるいは魔物[#「魔物」に傍点]にされちゃった例も多いけれど……で、ひとつ目とはいっても、真ん中に目が一個あるわけじゃないからね。左目か右目、どちらかが悪いんだが、それが伝承に明記されている場合は、やはり悪いのは左目だね」
「左右脳の機能差が関係してくるのですね」
「それが原因だということは十分想像されるよね。それに実際の能力者の例でも、僕が知ってる範囲内では、やはり左目が悪いね」
「その……目がどの程度悪いのが、能力にとっては最良なのでしょうか?」
「左目はほぼ見えない、右目は健常、これがベストだ。なぜそう断言できるのか……それはまあ、西園寺さんへの宿題ということにしておこう」
「宿題ですか……」
「情報といったものを脳がどう捉えているのか、それを具現化する際の脳の仕組《メカニズム》、そういったことを考える上での格好の題材さ」
嘯《うそぶ》くように火鳥はいってから、
「じゃ、魔物[#「魔物」に傍点]の話に行きましょうか……魔物で有名なのは、四国地方の伝承に残っている山爺《やまじじ》だね。その片目の山爺はときどき里に下りてきては、村人が出会う。すると村人の考えていることを次々にいい当てていって、村人は混乱し、ついには考えることが出来なくなってしまう。すると、山爺は村人に襲いかかり、その人の心を食べてしまうというんだな。あるいは、悟るの化け物という直截《ストレート》な呼称《ネーミング》の魔物もいるんだが、これもやはりひとつ目なんだ」
「他人が考えていることが解る……それはあり得ませんよね」
「もちろん、だが脳の反応を読まれた人にとっては、そう錯覚は十分するだろうね。それに読むとはいっても、その時々の活性化《スタンバイ》している他人の記憶が見えるだけなんだが、それを肴《さかな》にすれば、相手を脅えさすことぐらいは簡単にできる」
「……先生、わたし今にして初めて、他人の記憶が見えるとはどういったことなのか、理解できました。これはかなり怖い話ですよね」
「うん、でも山爺はあくまでも伝承だからね、多分に誇張が含まれているはずなので、少し割り引いて考えた方がいいとは思う……で、この種の能力は嫌われるか有難がられるか、ふたつにひとつだからね、だから魔物でない場合は神になるんだ」
「……どうして、ひとつ目の伝承は日本には多いんですか」
「あっ、それは単に僕が不精してるからです。日本に多いのは、戦前に柳田國男さんがひとつ目の伝承を纏《まと》めてくれていたから――」
静香の顔が少しほころんだ。
「海外のも幾つか見つけてはいるんだが、神話や宗教史に出てくるような大物でないと分からないんだ。現地調査というわけにはいかないからね。そうそう、僕が話を途中で止めてしまった北欧神話の主神、水曜日の語源のオーディンというのがいたでしょう」
「はい、フギンとムニンという二羽の鴉を飼っていた神ですよね」
「そう。その北欧神話にはミミルの泉というのが出てくるんだが、このミミルの泉は知恵と知識の貯蔵庫のようなもので、ミミルという巨人が番をしている。で、オーディンが、その泉の水を飲ませてくれと頼むと、巨人のミミルが、ならば片方の目と引き替えだというんだ。仕方なくオーディンは、自分の片目を差し出す。そして泉の水を飲んで叡知を獲得した彼は、最高神となって君臨するんだ。その泉の底には、彼の片目がまだ沈んでいるそうだ」
静香の顔色が変わった。
「だからオーディンもひとつ目の神でね、それを気にしてか、いつも目深《まぶか》に帽子を被っているような姿で描かれることが多い」
「……すごくリアルなお話だったんですね」
ほとんど囁くような声で静香はいった。
「古来の人って鋭いよね、ひとつ目こそが叡知の源であると見抜いていたんだからさ。ミミルの泉は仏教でいうところの阿頼耶識《あらやしき》に相当するんだ。阿頼耶識のアラヤにも貯蔵庫といった意味があってね、もちろん知識の貯蔵庫だが、だから山爺は脳の話だから末那識《まなしき》のことで、このオーディンの伝承は一段階《ワンステージ》上の阿頼耶識の話なんだ……つまりひとつ目だと、両方の情報にアクセスできるとも考えられるよね。もっとも、阿頼耶識の説明はしていないんで、雰囲気だけね」
伝わりました、そんな顔で静香は頷いた。
「……さあて、実はここから先が今日の本題なんだ。長々と語ってきたのは、これからする話を、あなたにも解っていただくため……それは僕の友達[#「友達」に傍点]の、そのまた友達の話なんだけどね」
火鳥は説明をごまかした。
「青年というか、少年というか、まあそれぐらいの年頃の男の子がいるんだが、僕はまだ会ってはいないんだけど、その男の子の名前がすごく変わっていてね、天の目と書いて天目《あまのめ》と呼ぶそうなんだ」
静香が予想だにしなかった言葉が火鳥の口から出てきた。いや、それは彼女が半ば予期していたことかもしれないが……。
「その、天目少年には両親がいないらしく、親代わりの老人と暮らしているという。その老人の名前が、桑名さんとおっしゃるんだ。――桑名、これがまた凄《すご》い名前でね、三重県に桑名という地名があるんだが、今は桑名市もしくは桑名郡なんだけど、そこには桑名|首《おびと》という一族が住んでいたんだ。首というのは八色《やくさ》の姓《かばね》の忌寸《いみき》に相当してね、今でいうところの県知事ぐらいの職名《レベル》。つまり桑名には、桑名首という古代氏族の有力なひとつが住んでいたから、地名イコール人名なんです。で、これがどのくらい古い話かというと、桑名首の記録は天平《てんぴょう》年間にまで溯れるんだ。天平というのは奈良時代の前半ね、ざっと今から一千三百年ぐらい前――」
「……そんなに古い話が関係するとは、思えませんけれど、それに桑名という名前は、それほど珍しくはありませんから」
静香は精一杯の抵抗を試みる。
「そうがどうしてどうして、平安初期に古代氏族の系譜を集大成した『新撰姓氏録《しんせんしょうじろく》』によると、桑名首は、天津日子根命《あまつひこねのみこと》の御子の天久之行比乃命《あまのくしびのみこと》が祖であると記されている。つまり桑名首は神の系譜の氏族なんだ。そして直の祖神が天久之行比乃命だということね。で、桑名郡の山の中には多度《たど》神社というのがあるんだが、僕も一度だけ訪ねたことがあって、そこにこの二神が祀られてある。ところが日本の神さんというのは名前が複数あるのが常でね、天久之行比乃命は、平安初期の『古語拾遺《こごしゅうい》』という歴史書によると、天目一箇命《あまのまひとつのみこと》と同じ御方であると記されてあるんだ。これは天の目が一箇と書く神でね、すなわちひとつ目の神なんだ。そして、この天目一箇命が桑名首の祖神になるんだよ。――桑名、――天目、ふたつ重なった、こら偶然といえるだろうか」
いったい何の話なのだろうか……静香がほとんど知らない話が、火鳥の口から語られていく。
「さらにもうひとつあるんだ。その桑名老人の名前は竜蔵さんとおっしゃるんだが……この竜[#「竜」に傍点]ね、僕にも付いているけど親のお流れで意味はない。だが竜蔵さんの竜[#「竜」に傍点]は違うんだ。多度神社に祀られてある神には別の伝承があってね、――その山には竜が住んでいて、大昔に山崩れがあったとき、熊手の尖《さき》がその竜の目に当たって、ひとつ目竜になったという話なんだ。だから多度神社に祀られてある神は、ひとつ目竜の化身でもあるんだよ」
――竜の伝承があることは静香も知っている。けれど、それがひとつ目竜であったとは、初めて聞く話である――。
「桑名、天目、そして竜、ここまで重なるともう偶然とはいえないよね、どう思う?」
どう思うと問われても……静香としては答えようがない。
「それにさ、そのふたりの住んでいる家は、鎮守の森のようなところに建っているというんだ……涙が出てくるような話だろう。これは誰が推理したってそうなると思うけど、つまりその少年が神[#「神」に傍点]なわけさ。すると、彼は一千年以上も生きているのか……そんなことはありえないよね。当然代替わりをしているはずだ。仮にそうだとすると、これはとんでもない話になるからね」
「まるで、――御伽噺ですよね」
静香は冷めた心でいった。
「いや、そういう意味でのとんでもないじゃないんだよ。代替わりを続けるということが、能力に及ぼす影響についての話なんだ」
御伽噺の意味を忘れて、火鳥はいう。
「ほら、母親と子供の話をしただろう。あれが効いてくるんだよ。鷹の子は鷹になる。それも、どんどん優秀な鷹になっていく」
「……能力というものは、万人に共通で、そして普遍的なものではないんですか」
「それは脳通信レベルでの話ね。その脳通信で得られた情報を、意識に解るように映像化する仕組《メカニズム》は、能力者においてのみ鍛えられていくんだ。そのある程度鍛えられた形質が、子供へと伝播《でんぱ》されていったとすると、そのプラスαが加算されていくだろう」
「あ……」
静香が息を呑んだ。さらに理解したからである。
「……すると、どうなるのですか」
静香は尋ねる。
「うーん、想像の域を出ないんだが、正確な映像が見える、これはまず間違いないよね。後もうひとつ考えられそうなのは、即応性が向上するといったことかな、極端なこというと、他人の脳の活動がパタパタパタとリアルタイムで見えていく……これは行き過ぎだろうが、山爺のところで僕がいった、伝承だから割り引いてといった話ね、その割り引いた分を再度足し戻していただければ」
つまり、山爺は現存するといったことか。
「……火鳥先生、もしその少年が、先生がお考えになっているような存在で、その少年と出会うことができたなら、先生はどうなさいますか」
「もちろん、是が非とも標本になっていただきたいところだね」
「標本ですか……わたし、その言葉だけは使う気にはなれません」
「僕も面と向かってはいわないよ。でも僕たち医者じゃないから治療できるわけじゃないので、患者さんとは呼べないからね。この業界用語には、慣れていただくしかないよね……」
[#改ページ]
16
「――思い出したわ姫[#「姫」に傍点]、このバス一回つこたことあんねん、こっから岩槻[#「岩槻」に傍点]に抜けるバスやんかー、これ一時間に一本しかないねん」
哀れを誘うような声で、土門くんはいう。
「うっそー」
まな美は時刻表をまじまじと確認してから、
「どうして昨日、マサトくんの家で思い出してくれなかったの――」
赤色のリュックを胸に抱えて、バス停にへたり込んでしまった。
「そんなこといわれたって、自分この辺の人間ちゃうもんなあ」
「土門くん岩槻[#「岩槻」に傍点]に住んでるんでしょう、だったらどこの人間なの?」
「魂は神戸に置いたままや……」
ほどなくして、マサトが姿を現した。
「えーらい荷物やな」
マサトは、角張ったショルダーバッグを重たそうに抱え持っている。
「――マサトくん、カメラ持ってきてくれたのね」
「おっ、さすがプロやな」
「でもね、バスが後三十分も来ないの……」
ごめんね、といった顔でまな美はいう。
「三十分か? 正確には――」
土門くんは自慢《カシオ》の腕時計《プロトレック》を大仰に翳《かざ》しながら、
「三十八分こーへんぞう」
自信たっぷりにいう。
「誰のせいよ」
「うーん……お地蔵さんの祟りかなあ」
一時間に一本というバスは、それに相応しい郊外の街道をひた走ると、『野島地蔵尊淨山寺↓』と案内板の立っているバス停に三人を降ろした。
「――似てるなあ」
足を地面に着けるなり土門くんが唸った。
「何と何とが似ているのかしら」
まな美は、お疲れぎみの声で訊く。バスの中でも絶好調の土門くんについつい相手したからだ。
「古利根川の向こうとそっくりやんか。田圃もあるし、畑もあるし、古い家もあるし、新しい家も建ってるし……」
彼は、昨日そこを散々歩いたため印象が残っているのである。
そういった景色の中を五分ほど歩くと、緑の木立に囲まれて朱色の門が見えてきた。
「おっ、あれが淨山寺や――」
マサトがショルダーバッグからカメラを取り出し、撮影を始めた。
まな美は立ち止まると、
「この地靈[#「靈」に傍点]にして山鬱密として淨《きよ》し……といってたけど、雰囲気残ってるわよね」
「やまうつみつ、てなんのことや?」
土門くんも立ち止まって尋ねる。
「鬱蒼の鬱にね、密は秘密の密よ、山は山ね」
「ふーん、それで山うつ密か……漢字イメージすると姫のおっしゃる通りやな。それ誰がいうてたん?」
「家康よ――」
石段を五つ上がると、もう淨山寺の門である。門の両脇には石の地蔵が立っている。小柄な大人ぐらいの石仏である。
「……そんな大きな門とはちゃうよな。天目のとこのは小さいけど、あれよりはちょっと大きいぐらいかな」
「うっそっでしょう……それは土門くん、あなたの背が高すぎるのが原因だわ」
マサトは黙々とカメラ撮影を続けている。
「――これは四脚門《よつあしもん》なのよ。将軍や大名家、そして寺格《じかく》の高いお寺だけに許される、一番格式のある門なんだから」
「四つ足?……姫、柱は六本ありますけど?」
「真ん中の二本は数えないのよ、それは胴体だから。それを芯にして、前後にある四本の柱で踏ん張ってるって形なの」
「へー、そやけど自分この門好きやで、えー感じの色やんか。ときどき真っ赤赤のペンキ塗ってるお寺あるけど、あれは趣味悪いぞう」
「――土門くん、たまにいいこというわね」
「自分、美的せんす[#「せんす」に傍点]には煩《うるさ》いねん。餓鬼の頃から鍛えられとうからな」
まさに、門前の小僧である。
その淨山寺の四脚門をくぐると、昼下がりの境内には人っ子ひとりいない。木漏れ日のなかを蝉の鳴く声が木霊《こだま》しているだけである。
「……天目、ここもそうやで、手洗いの石にも三つ葉葵ついてるから」
「本堂の入口のところ、全部三つ葉葵よ」
「ほんまや、あそこは固まってあるな。香献[#「香献」に傍点]と書かれた上に金の三つ葉葵がデーン」
「それは読み方が逆だわ……献香料として高三石を賜う、て家康が鼻紙に書いたでしょう。お香を焚くところよ」
「なーるほど、その上の、浄・三つ葉葵・財という茶色の箱は、あれはお賽銭箱ですよね。手前のガラス戸にも三つ葉葵が入ってるわ」
「それにマサトくん、屋根の瓦の一番上にも三つ葉葵がついてるから」
「ええ目してますね姫。そやけど、そう一遍にいうたかて撮られへんでえ」
「……このお寺さん、すごく素朴ですよね」
土門くんがいい出した。
「そうね……屋根の傾斜はなだらかだわよね。禅寺の屋根って、反り返ってるのが多いんだけど、ここの本堂は純和風って感じね」
淨山寺は曹洞宗の寺である、つまり禅宗の寺ではあるのだが。
「ふーん、そやけどここにいると、なーんか和《なご》みますよね……」
その淨山寺の境内を百八十センチほどの高台からぐるーと見渡しながら土門くんがいった。
「いいお寺よね。わたしが想像してたとおりだわ」
まな美もいう。
マサトもカメラ撮影の手を休めて、頷いた。
「……姫には、来る前からそれが分かってたんですか?」
「うん……淨山寺がもし嫌なお寺だったらと、少しは心配はしていたんだけど」
「姫にも、嫌[#「嫌」に傍点]なお寺なんかがあるんですか?」
「あるわよ、二度と行きたくないようなお寺が幾つもあるわ」
「へー、姫がそんなことをいわれるとは……」
「どうしたの土門くん、喋り方が変だわよ」
土門くんは少し身を屈めると、
「そうですか、僕の喋り方変ですか?」
まな美の顔を覗き込む。
「僕[#「僕」に傍点]だなんて、気味が悪いわよ土門くん」
「あれえ……」
本堂の入口付近に説明の看板が幾つか立っている。
その一枚を見ながら、
「鰐口《わにぐち》……が、越谷市の文化財に指定されてる、て出てますけど、鰐口って何ですか?」
土門くんが尋ねた。
「神社とかに行くと鈴を鳴らすじゃない、あれと同じよ。形はね……ドラ焼きに似てるんだけど」
「ドラえもんの好物の?」
「うん、お賽銭箱の前に綱があるでしょう、その上の天井に吊るされているはずだから」
「……その鰐口《ドラやき》が、日本一の大きさだと書かれていますけど、厚さが二尺で直径は六尺、重さが二百貫、括弧《かっこ》して七百五十キロ……ええー」
控えめに、土門くんが素っ頓狂な声をあげた。
「この淨山寺には、それぐらいのものはないとね」
まな美が謎めかしていうと、それは、土門くんは意に介さずに、
「そんなもんがぶら下がってるんか……」
天井の方を窺いながら、本堂の中へと恐る恐る進み入っていく。
「うわあ、でかいなあ……」
ふたりも続いて本堂に入った。
「大きいわねえ……」
その鰐口は、まな美の想像を超えていた。
「あそこ――」
マサトが、薄暗いお堂の奥を指さしていった。
「あら、あんなところにお地蔵さまがあるわ……」
幾重もの台座の向こうに、一段と高くなった上に、黒塗の袈裟《けさ》に金色《こんじき》の肌を光らせた小さな地蔵が安置されてある。
「……えらい小さいですよね、あれが夜な夜な出歩かれるお地蔵さん?」
「さあ、どうかしら……」
自信喪失ぎみにまな美もいう。
パッ、お堂のなかに閃光が走った。マサトがフラッシュを焚いて撮影したのである。
「これっ」
本堂の右手奥はガラス戸の控室になっていて、そこから上品そうな婦人が顔を出した。まな美が謝罪しながら学校の部活の話をすると、
「……そうですか、写真は撮られても構いませんよ。ですが、あの見えている仏さまはお前立《まえだち》ですので。慈覺大師のお地蔵さまは、ご開帳の日が限られてまして、次は八月の二十四日になります」
「……お許しが出たぞう」
土門くんがマサトにいった。
「せっかくだから、座敷に上がってご覧になって下さい。今日はあいにくと住職が不在なんですが、私でよろしければ……」
「お願いします」
まな美が勇んで頭を下げた。
「らっきー」
小声で土門くんはいう。
「……ご開帳は年に二回しかないんです。でも、わざわざ訪ねて来られた方に、何もないというのも申し訳のない話ですから、お前立として、このお地蔵さまが置かれてあるのです」
婦人は丁寧に説明をしてくれる。
「……艶々ですね、これは新物《あらもの》ですよね」
「はい?」
「すいません、この仏像は最近のものですよね」
土門くんは尋ね直した。彼の父親が使う符牒がつい口に出たようである。
「いえ、違うんです。この仏さまもかなり古い時代のお作らしいんですが、先代のご住職が塗[#「塗」に傍点]りに出されてしまわれたんです。ちょっと風変わりなご住職であられたようで、古びた物は、あまりお好きな方ではなかったようなんですね……」
はにかみながら婦人はいう。
「――まさか、慈覺大師のお地蔵さまも?」
目を真ん丸にしてまな美は訊ねる。
「いえ、さすがにそこまでは」
「よかった……」
まるで我が子のことのようにまな美はいう。
「ですが、残念なことに、処分されてしまった物も幾つかあるんですよ。入口の右手のところに、戦前までは三つ葉葵のお駕籠《かご》が懸かっていたんですが、それに乗って江戸城に行くと、御三家・御三卿と同じ扱いになりまして、お城の一番奥にまで乗りつけることができたそうです。もちろん江戸時代のお話ですが、そのお駕籠をですね、村芝居の一座の人に差し上げてしまわれたんですね……」
「もったいなー」
久しぶりに聞く、土門くんのまともな関西弁である。
「……実際そうですよね。それと、こちら側からは見えないんですが、お賽銭箱の右にケースがありますよね、あそこには閻魔さまが入っています。その横に頭だけ見えているのは、お賓頭盧《びんずる》さまです。このおふたつも塗りに出されてしまったので新品同様なんですが、本当は古いものなんですよ。あと弁天さまがあったのですが、こちらは処分されてしまったようです」
「……おびんずるさま、て?」
土門くんはまな美に聞いた。
「お釈迦さまの弟子の十六|羅漢《らかん》のひとりよ。かなりやんちゃな人で、神通力で遊んでいたからお釈迦さまが怒って、涅槃《ねはん》から追い出して西国に左遷されちゃうの。誰[#「誰」に傍点]かと性格似てるかも」
「お詳しいですね……」
「彼女趣味ですからね。説明すっごく分かりやすいんですが、角[#「角」に傍点]があるのがちょっと……」
「でも、お賓頭盧さまは清潔《きれい》な方がいいですよね」
まな美は婦人にいう。
「お像を撫でて、身体の悪いところに触ると病気が治るという風習が流行って、禁止されましたものね」
「なんで禁止されたの?」
「伝染病がうつるじゃない」
「あ、ほんまや……」
「けど、弁才天は困りものだわ」
表情を曇らせて、まな美はいった。
「……お金に困ってはったんやろかねー」
柔らかな関西弁で土門くんは露骨なことを囁く。
「いえ、この淨山寺に限っては、そのようなことはございませんので」
聞こえているではないか。
「……こちらをご覧になって下さい」
婦人がお賽銭箱の方を指し示した。
「今はこれなんですが、以前は、この座敷の高さに三畳敷きぐらいの、作りつけのお賽銭箱が置かれてありまして、後ろを金網で囲ってあったんですよ」
「金網ですか? 何のためにですか?」
土門くんが尋ねる。
「……お祭りの日は境内が人で溢れてしまって、近くまで来られないんですよ。ですから、皆さん遠くからお賽銭を投げられましたので、それを受けるための金網だったんですね」
「うわー、えべっさん並やなあ」
彼は、兵庫県の西宮市にある戎《えびす》神社のことをいっているのである。
「それは、いつ頃のお話なんですか?」
まな美が尋ねる。
「……昭和の三十年頃までは盛況だったと聞いています。境内の裏手に元荒川が流れているんですが、そこに架かっている三野宮橋の袂《たもと》から、この淨山寺までと、そしてバス停への沿道はすべて出店で埋まったそうです。そのときに村芝居の小屋だとか、あるいは、サーカスのテントなども境内に立ったりしたそうです」
「サーカスのテント……」
虚ろな声でマサトがいった。
「まあ、どの程度のサーカスなのか、私は実際には見ていませんのでね」
「……こちらが、家康公直筆のご朱印状《しゅいんじょう》です」
ガラスケースに入れられてある。
「内容につきましては、こちらの説明文《パンフレット》に出ておりますので、粗末なものですがどうぞ」
ケースの横に積まれてあった、半透明の紙に印刷されたそれを一枚、まな美が貰った。
「歴代将軍のご朱印状は、どうしたことか二代目の将軍さまだけが抜けているんですよ」
「……こらバッタもんちゃうわ」
土門くんが独り言をいった。
「あら、バッタがいましたか。周りが田圃ですからときどきお堂のなかに飛び込んでくるんですよ」
「土門くん――」
「……江戸時代の方が、お祭りは一段と盛況だったようです。越谷が宿場町になりますから、そこからの街道沿いに出店が立ち並んで、何万人という人出だったそうです」
三人がバスでやってきたその街道である。
「こんな田舎に何万人ですか、いっちゃ何ですが」
土門くんである。
「ええ、今もかなり田舎ですが、その当時は山鬱密[#「山鬱密」に傍点]でしたので、それこそ狐と狸ぐらいしか棲んでいないような場所ですね……これは、出開帳《でがいちょう》をやっていたからなんですよ」
「でがいちょう?」
まな美にも知らない言葉はあるのだ。
「はい、ご開帳を本寺《ほんじ》以外の場所ですることです。湯島天神《ゆしまてんじん》の神楽殿《かぐらでん》でやったのが最初でして、安永七年のことですが」
「――一七七八年やね」
土門くんの即答に、婦人は少し驚きながら、
「その出開帳をですね、昭和三十年頃まで続けてまして、五千回を超える記録が残っているんですよ」
「五千[#「五千」に傍点]――」
土門くんが大きな声を出した。
「はい、五千八百いくつかだと聞いております」
「ちょっと待って下さいね、割り算しますから」
十秒ほど考えてから、
「年に三十三回のペースですね」
まな美も頷いた。
「そうなりますか……もちろん年《とし》によってバラつきはあると思いますが、つまり湯島天神での出開帳が評判を呼びまして、霊験あらたかなるお地蔵さまだということで、そして各地から依頼があり、そういった回数にまでなったんですね」
「あっ、その湯島天神の出開帳は、お地蔵さまの背中に釘を打って、それを抜いた後ですよね」
まな美が気づいていった。
「そうなんです。だから有り難い生き仏さまだということで、よりいっそうの評判を呼んだわけですね。もっとも、慈覺大師御[#「御」に傍点]作のお地蔵さまでありますから、元来霊験あらたかなことは周知のことであったと思われますが……当時は、赤地蔵と呼ばれて親しまれていたそうなんですよ」
「ふわ……つまりお地蔵さま界の超《すーぱー》あいどる、て感じだったんですね」
「はい、まさにそうだったと思われます」
土門くんもたまにはいい与太をいう。
「……出開帳は主に関東だったんですが、淨山寺には、定められたご開帳の日が別にありますので、本来のお寺での、その赤地蔵さまのお姿を是非拝みたいと、各地から大勢の皆さんがお越しになったというわけです」
「……慈覺大師のお地蔵さまは、赤い色をしているのですか」
まな美が尋ねた。
「それはですね……作られた当初は何かの色が塗られてあったようなんですが、それは現在ではすっかり落ちてまして、濃いい茶色にうっすらと金を擦り込んだような色合い、とでもいいましょうか、だから赤には見えないと私は思うんですが……この赤地蔵の由来は、定かではないんですよ」
婦人は真剣に語ってくれる。
「赤子を守ってくれるからかしら、赤は魔よけの色でもあるし……」
これはまな美の独り言である。
「……ところで、こちらには家康のお像とかはないんですか?」
まな美が尋ねた。
「はい、奥に置かれてはあるのですが、これは最近作ったものなんです。今の淨山寺のお堂は文久四年に落慶法要《らっけいほうよう》をしたんですよ。文久二年に火事で燃えてしまいましたから、そのときご本尊と寺の過去帳などは持ち出せたんですが、家康公のご尊像だけは運び出すことが出来なかったんです。人が持って逃げるにはちょっと大きすぎたようなんですね」
「……そうですか、燃えてしまったんですか」
いかにも残念そうにまな美はいう。
「だれが火ーつけたんや」
突然、不埒《ふらち》なことを土門くんが呟いた。
「何のことよ土門くん――」
まな美は泣きそうな顔で怒る。
「そのとき、家康のお像を燃やしちゃって幕府からくれーむつきました?」
土門くんは婦人に尋ねる。
「はい、とくにお咎《とが》めはなかったかと……」
「その話が、それより五十年前やったら住職の首がとんでますよね。殿から拝領した皿割ったぐらいでお手打ちの時代ですから。ましてや将軍さんの超《すーぱー》先祖、神さまのお像ですから……けど文久いうたらもう明治の直前ですからね、幕府それどころやないんですよ」
文久二年は一八六二年、大政奉還はその五年後の六七年十一月九日である。
「ほんとですね、おっしゃる通りかもしれません」
「……なんせ文久二年ですもんねえ」
土門くんは、何か別の話をごまかしたようである。
「……こちらの須弥壇《しゅみだん》は変わっておりましてね、この階段を使って人が上にあがれるんですよ。つまりご上段を許された方だけが、ご本尊と対面できるといった造りなんですね」
須弥座《しゅみざ》は仏像を置く台座で、宣の字に形が似ていることから宣字座とも呼ばれる。それを――壇[#「壇」に傍点]というぐらいだから相当に大きなものなのだ。
「……この須弥壇の奥に、慈覺大師のお地蔵さまを納めたお厨子《ずし》が置かれてあります」
だが絹の天蓋が下がっているせいで、そこはほぼ暗闇である。
「ここ将軍さんが上がったんやね……」
土門くんが目を輝かせて、その階段の奥の方を見やった。
「はい、当時と同じ形に作ってありますので」
「……そうだ、燃えちゃったんですよね」
何よいまさらの土門くんである。
マサトが、いいですか、と婦人に確認をとってからカメラのフラッシュを焚いた。
「あら、お厨子の扉のところ……菊の御紋が入ってるんですか」
まな美が目敏《めざと》く見つけていった。
「ええ、入ってございます……」
「あのお厨子は古いものなんですか?」
まな美は訊ねる。
「いえ、お厨子も燃えましたので、落慶法要以前のものではありませんね……ですが、それに関しましては私では分かりませんので、ご住職がおられるときにでも、お尋ねになってみてください」
婦人はやんわりと説明を回避した。
まな美がしばらく黙りこくっていると、
「……姫、どえらいことになりましたね」
耳元で土門くんが囁いた。
[#改ページ]
17
真夏日の昼下がりだというのに、濃鼠色《ダークグレイ》の三つ揃いでビシッと身なりを整えた四十過ぎの男が、私立M高を訪れていた。
「あ、警察の……ちょうど皆さん教頭室の方におられまして、この廊下を真っすぐに行っていただいて左側ですから」
事務の窓口にチラッと黒い手帳を見せただけで、用件もいっていないのに、女性の事務員はそそくさと道順を教えてくれた。
「……どうなってんだこの学校は?」
男が、教頭室の扉をノックして開けると、そこには教師らしき十人ほどの男女がほぼ直立不動の姿勢で立っていた。
「――わざわざすいません。その後、何か進展でもあったんでしょうか?」
教頭と思《おぼ》しき年かさの男性が、頭を下げていった。事務の方から連絡が入っていたようである。
「あのう、初めてお伺いしたんですが」
「……池袋署の刑事さんですよね?」
「いえ、自分は埼玉県警南署の警部補です。依藤《よりふじ》と申すものですが」
「あら……どこかで話が」
教頭らしき男性は、取り巻きの先生たちと顔を見合わせた。
「……いったい、何のご用件なんですか?」
依藤の近くにいた白衣を着た男の先生が、恐る恐るといった感じで尋ねた。
「いや、皆さんにお出迎えいただくほどの用事じゃないんですが……」
依藤警部補も慇懃《いんぎん》に恐縮してから、尋ねる。
「こちらでは、表紙に校章が入ったノートを使われてますよね、薄茶色の紙のものを?」
「ええ、購買部で売ってる再生紙のノートですね。あれは強制じゃないんで、生徒たちは殆ど使わないんですが……それが何か?」
「そのノートの忘れ物がありましてね、その持ち主を探しているんです、それだけ[#「だけ」に傍点]のことなんですよ」
いいながら依藤警部補は、上着の内ポケットから紙切れを取り出すと、
「こらコピーですが、内容が変わってるんで、見ていただければ分かるんじゃないかと思いましてね」
「そうですか、じゃ拝見させて下さい」
そのコピーを覗き込むなり、
「あ、これは……」
白衣の教師は知っている様子である。
「ここでは何ですから、続きは職員室の方ということで……」
「わたし、岩住《いわすみ》といいまして化学の担任です。ですが、部活の方では歴史部の顧問をしていまして、そのノートは、たぶん歴史部の部員のものですね」
名刺を手渡しながら岩住はいった。
「それは、男子ですか? 女子ですか?」
判っていることではあるが、依藤警部補は尋ねる。
「女子生徒です……まあ、立ち話もなんですから掛けてください」
職員室のほぼ中央にある応接セットに、ふたりは腰を下ろした。
「……あんな内容を女子高生が書くとは驚きですね、お寺の話をクラブ活動でやるんですか?」
「それはその子の趣味ですから、まあ、神仏《しんぶつ》おたくとでもいいましょうかね」
「ほう、おたくにも色々あるんですな、初耳です」
「……ですが、そのノートが何か、事件にでも関係するのでしょうか?」
不安げな表情で岩住は尋ねる。
「いや、先程もいったように忘れ物[#「忘れ物」に傍点]です。それも部屋の中などに置かれてあったんじゃなくて、真っ昼間に、駅のベンチにあった忘れ物ですから……その近くで、ちょっとした事故[#「事故」に傍点]がありましてね、それを目撃されていた可能性もあるので、それで探してるんですよ」
「真っ昼間に、駅のベンチですか――」
少し安堵《あんど》したように岩住はいった。
その様子を見て依藤警部補は切り出す。
「それでですね、その女子生徒の筆跡が判るようなものが何かあれば、助かるんですが」
「――筆跡[#「筆跡」に傍点]ですかあ?」
一転、不審感を露《あらわ》にして岩住はいった。
「いや、名前などが一切書かれてませんでしたので、確認できるものが何かないと、警察というところは動けないんですよ。それに犯人[#「犯人」に傍点]というわけじゃありませんから、指紋[#「指紋」に傍点]がどうのという話でもないですし、そうすっと筆跡ぐらいしかないんですわ」
ざっくばらん、といった雰囲気で依藤はいう。
「うーん、指紋というのは大事《おおごと》ですからねえ、分かりました――」
岩住は席を立つと、職員室のロッカーを漁って、そこから紙の束をもって戻ってきた。それを応接のテーブルの上にドサッと置いて、
「――一番上が、その女子生徒です」
ソファーに座りながら岩住はいった。
「よろしいんですか? 答案用紙[#「答案用紙」に傍点]ですけど」
予想外のものに戸惑いながら、依藤はいった。
「筆跡が確認できるものといえば、これぐらいしかないんです、ただしコピーは出来ませんのでね」
「いや、それは結構です。じゃ、この場で突き合わせをしますので……」
そして暫《しばら》くしてから依藤はいう。
「こら一目瞭然ですな、こんなしっかりした字はそうそうありませんから……それに、百点じゃありませんか」
「ええ、この子はいつもそうなんですよ。だから差し障りがないと思って、お見せしたわけですけども」
「いつも[#「いつも」に傍点]百点なんですか?」
「ええ、それにA組の出席番号が一番ですから便利でいいんですよ、一枚目に模範解答がきますからね。でも一度だけ、日本史で一問ミスッたという事件[#「事件」に傍点]があったんですが、それも結局は見解の相違[#「見解の相違」に傍点]といったことで、満点に戻されましたね」
「それが、事件になるんですか?」
「学校にとっては事件ですね、それが元で、歴史部の顧問をされていた日本史の先生が……大学を出たての女史なんですが、顧問を降りちゃいましたからね、だから化《ば》け学の僕がやってるわけです。門外漢ですから衝突しませんのでね」
「ほう、先生を負かしてしまうような女子生徒なんですか」
「ええ、大学を出たぐらいのレベルじゃ勝ち目はないですね。梵語《ぼんこ》辞典やパーリ語辞典とかでお経の原典を読むような子ですから」
「……よくは分かりませんが、凄そうな話ですな」
「僕もうじき四十になるんですが、刑事さんも同じぐらいの歳でしょう」
「ええ、まあ……」
「この歳になって初めて気づいたんですがね、日本の歴史教育というやつは、ひとつ大きなテーマに関して、全くといっていいほど説明を回避してるんですよ。それが、神や仏の話なんです……」
「いわれてみれば、学んだ記憶がありませんね」
「……いうまでもないですが、戦前の教育が偏向していてその反動ですよね。だから神道は止むをえないでしょうが、そのとばっちりで他の宗教のことも極力[#「極力」に傍点]教えないんですよ。ところが、時の為政者は必ず信仰をもっていて、それが政事《まつりごと》に反映されていたわけです。都を移すにしても戦《いくさ》をするにしても、すべて神仏が絡むんです。しかしそこは教えないわけだから、いわば動機なき歴史観ってところで、薄っぺらな話になりますよね……といったようなことについ最近気づいたんですよ、その神仏おたくの子と話をしてたときにですね」
自嘲《じちょう》ぎみに岩住はいってから、
「……ですので、現代の教育を受けただけの日本史の先生が勝てないのは道理なんですよ。歴史の捉え方の、深み[#「深み」に傍点]が違いますから」
「なるほど、学校で何も教えないから、社会に出てから、陳腐な新興宗教に引っ掛かるのかもしれませんな……それはそれとしまして、その、麻生まな美さんの住所を教えていただけませんでしょうか?」
答案用紙の名前を見ながら、依藤はいった。
「それでしたら、事務の方に学生名簿の予備がありますので、貰ってください。電話しときますから」
「すみませんね。じゃ、自分はこれで失礼しますので、皆さんによろしく」
「――どういった用件だったんですか?」
岩住が教頭室に戻るなり、教頭が尋ねた。
「いやあ、ノートは二年A組の麻生のものでしてね、駅での忘れ物ということですから、大したことはないとは思うんですが……」
「あの満点娘さんですか、彼女なら、まあ心配はないでしょうが」
「――それは甘いですよ教頭先生、B組の石田聡子だって髪も染めてませんし、一度たりとも生活指導は受けてないんですから、それであの始末ですよ」
眼鏡をかけた女教師がいった。
「……石田と麻生を一緒にするのは、どうかと思いますけど」
弁護するように岩住はいう。
「いえ、今時の女子高生は裏で何をやってるのか分かったものじゃない、という点では同じ[#「同じ」に傍点]です」
その女教師の言葉を受け流すように、教頭はいう。
「……話は変わりますけれども、岩住先生にお願いしてあった、その、満点娘さんの進学指導の件はどうなりました?」
「あーあれはですねえ」
岩住は額のあたりを手で摩《さす》りながら、
「つい二、三日前に少し話をしたんですが、担任の秋庭《あきば》先生と同じでして、僕も説得できそうにありませんわ……理Vには行ってくれそうにないですね。そもそも大学のブランドには興味がない子なんですよ。誰其《だれそれ》という学者の研究が面白い、だからその大学に行きたい、そんな考え方なんですね」
「残念ですな、確実にひとマス取れるんですがねえ。しかしよくできた子ですなあ……理Vは駄目としても、将来何になるのか楽しみな生徒ですね」
「まあ、アイドルにだって十分なれるぐらい可愛い子なんですけどね」
「――岩住先生、教師たる者がそんなこと[#「そんなこと」に傍点]おっしゃるから、女子が援交《えんこう》に走るんじゃないですか!」
噛みつくように女教師はいった。
「まあまあまあ、話を元に戻しますけれども、ふたりとも退学というのが筋[#「筋」に傍点]なんでしょうねえ……」
ミホとアリサのことである。
「ですが、もし万が一親御さんに反撃に出られると、逆に本校に傷がつきますからなあ」
「……父兄の間でも、もうかなり噂になってるようですよ。マスコミに漏れるとマズいですよねえ」
別の男性教師がいった。
「そのあたりに関しては、先生の方にお願いをしてあるんですが、少なくとも、警察から漏れるといったことはないはずですから」
先生とは、代議士先生のことであるが。
「いずれにしましても、最終的な処分は校長先生がヨーロッパ視察から戻られてからということになりますな、とりあえずのところは自宅謹慎でしょうか、夏休みだから効果はないんですが」
一方、依藤警部補は、M校の正門前に待たせてあった車に飛び乗るやいなや、植井刑事にいった。
「――生駒[#「生駒」に傍点]呼び出してくれるかな。組事務所へ行くんで池袋署に寄ってるはずだから、ちょっと[#「ちょっと」に傍点]聞きたいことがあるんでねえ」
[#改ページ]
18
「……姫、どえらいことになりましたね」
耳元で土門くんが囁いた。
まな美は呪縛から解けたように、
「土門くん。方位見てくれる」
いつもの詮索《いたずら》好きな姫の顔に戻っていう。
「任せてやー、そのための時計やからな、ぴ」
土門くんが腕時計のボタンを押した。
「真南向いてますね」
慈覺大師の御作を納めた厨子の扉が、真南を向いているという意味である。
「――そう」
予想どおりといった顔でまな美は微笑《ほほえ》んだ。
婦人に礼をいって、お堂の座敷から下りて三人が靴を履いていると、
「……そうそう、来られたときには気づかれなかったかと思うのですが、お寺の門がありますよね。道を挟んで前に田圃がありますので、そこが、かつての眼洗いの池です」
婦人が教えてくれた。
「そうや、もう一個の伝承すっかり忘れてたわ」
土門くんの大好物の方である。
「あの門はですね、かつては寺の中門でして、眼洗いの池は境内の中にあったんですよ。御目を傷つけたという茶畑も境内にあったんですね」
「昔は随分と広かったんですね」
まな美がいうと、
「今の境内地は三千坪と少しなんですが、かつては一万三千坪を超えていたようです」
事もなげに婦人はいう。
まな美が、戦後のGHQによる農地改革法などの話を婦人にふっていると、
「――その、慈覺大師のお地蔵さまはひとつ目なんですか?」
痺《しび》れを切らしたように土門くんが訊いた。
「さあ、それはどうでしょうか……私が申すよりもご開帳の日に来られて、直にご覧になった方が確かかと思われますので。住職お優しいですのでね、ご上段にあげていただけると思いますよ」
「やったー、将軍さんと一緒やんかー」
土門くんは単純である。
「――慈覺大師のお地蔵さまは、あのお前立《まえだち》と似てるのですか?」
まな美は尋ねる。
「いえ……」
婦人は少し苦笑ぎみに、
「まったく似ていないんですよ。顔もお身体も、全体的にもっと膨《ふく》よかな造りなんですね。お顔は少し厳しい表情をなさっておられますが、これは優しさの裏返しです。背丈は、今の子供さんぐらいでしょうか……門の両脇に石のお地蔵さまが立っているんですが、こちら側から見て右のお地蔵さまが、感じが似ているようです」
「あーありましたね。ざらざらで、ふじつぼが一杯ついてたようなお地蔵さんですよね」
「土門くん……海底に沈んでたわけじゃないのよ」
婦人も笑いながら、
「……雨晒《あまざら》しですから仕方ありませんよね。あれは檀家さんから寄進されたものなんです。でも、慈覺大師の御作はまったく朽ちておりませんので。お衣の襞の彫りが鋭いのですが、作られた当時のままに残っております」
そして婦人は三人にいう。
「ご開帳の日が楽しみですよね。慈覺大師のお地蔵さまは一度ご覧になると、二度と忘れられないお姿をなさっておられますから……」
あらためて婦人に礼をいって、三人は本堂を後にした。そして門へと続く石畳をなかば行きかけたあたりで、
「あっ」
声を出してまな美は立ち止まると、持っていたリュックの中から何やら掴《つか》み出して、
「ちょっと待っててね……」
そのリュックを土門くんに託すと、お堂の方へと駆け戻っていく。
鰐口の荘厳な音が境内に響きわたった。
願い事をすませたまな美は再び駆けてふたりの元に戻ってくる。
「……姫、このリュック真っ赤赤ですね」
手渡しながら土門くんがいった。
「悪かったわね、趣味に合わなくて」
まな美は、その赤のリュックを胸に抱き締めた。
「別に悪かないですけどー」
土門くんは空に向かって惚《とぼ》ける。
「これ魔よけなの……」
拗《す》ねたようにまな美はいってから、俯首《うつむ》きかげんで門の方に歩いていく。
マサトが、何かに驚いたように立ち竦《すく》んだ。
「竜……」
虚ろな目をしながら呟いた。
「へー、姫に魔よけが要《い》るとはねえ」
そんなマサトの異変には気づかず、土門くんも門の方に歩いていく。
「ちょっとね……」
まな美も自身のことで手一杯のようである。
淨山寺の門をくぐると真正面が田圃である。その際《きわ》に、小さな案内板らしきものが立っている。
「あら、あの男の人どこかで見たような気がするんだけど……」
右手の方を見て、まな美がいった。
「どこの人ですか?」
土門くんが尋ねたときには、その男の人は民家の陰に消えていた。
「……同じバスに乗っていて、わたしたちの後から、同じバス停で降りた人だった気がする」
まな美が、記憶をたどりながら説明すると、
「気のせい気のせい、そういうの、すとーかー症候群いうそうですよ」
どこで覚えた言葉なのか、土門くんが茶化してしまった。
「失礼しちゃうわ――」
まな美は口を尖《とが》らせていった。
土門くんがお寺の石段を降りようとすると、
「――お地蔵さんを忘れてるわよ」
まな美が呼び止めた。
「そやったそやった、海の底に沈んでたやつね」
マサトが、その石の地蔵の前に立ってカメラ撮影を始めた。
「……ほんとね、ふっくらとした顔してるわよね」
まな美は婦人の説明を思い出しながら、慈覺大師御作のそれをイメージしようとしていた。
「おおー」
何事か、土門くんが唸り声をあげた。
「よう見てみーや、このお地蔵さん片方の目が小さいやんかー」
財宝でも発見したかのように、嬉々として土門くんはいう。
「そう思って見れば、そうも見えるけど」
切れ長の目をしたお地蔵さまである。
「左目が少し短いようね、四分の三……五分の四ぐらいかしら」
まな美は冷静に観ていう。
「やりましたね姫、大すくーぷですよね、この写真を入口のところにデーン」
文化祭の出し物のことである。
「そーお? これで片目地蔵だといって皆んな納得する?」
「あかんか?」
「あかんでしょう……土門くん、気のせい気のせい」
まな美に仕返しをされてしまった。
不貞腐《ふてくさ》れぎみにマサトのカメラ撮影を見守っていた土門くんだが、パーンと手を叩いて、
「わかったぞう、写真の極意が――」
またも嬉しそうにいう。
「こんな明るいところでもフラッシュ焚いとうやんか……両方[#「両方」に傍点]撮っとんねんな」
「ほんとね」
ふたりに背中を見せながら、マサトも黙肯《うなず》いた。
「……それともう一個わかったで。もっのすごい数撮っとうやろ、ここだけでフィルム一本使い切っとうもんな。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる作戦と見た」
「土門くん」
まな美は叱責したが、マサトは黙肯いた。
「……天目もそやいうとうで。そやけど、こっちの極意は真似でけへんなあ」
どうして?
そんな顔でまな美が高台を見上げると、土門くんはちょっと驚いたような顔をして、
「破産するがな……」
姫にいった。
三人は、かつての眼洗いの池に移動した。
「これは見落とすぞう」
ごく小さな案内板が、錆《さび》だらけの鉄杭にボルトで止められてあった。
「……字が掠れちゃってるじゃなーい」
さすがのまな美も読み辛そうである。
「えーと……眼洗いの池と称《しょう》されるようになった。現在田になっていて、昔日《せきじつ》の面影、今はしのぶ縁《よすが》とてない」
最後だけをなぞった。
「へー、ここがそうやったんやな……」
一|段《たん》ほどの緑々《あおあお》とした水田が、開けているだけである。
「蛙」
虚ろな目をしてマサトがいった。
「どこや――?」
土門くんは足元をキョロキョロしながら、
「自分カエルあかんねん、どこにおるんやー、天目[#「天目」に傍点]カエルどこにおるんやー、姫[#「姫」に傍点]カエルみつけてー」
泣きそうな声で喚き散らす。
「目の前が田圃なんだから、蛙ぐらいうじゃうじゃいるわよ」
呆れたようにまな美はいう。
「――西瓜」
マサトがいった。
「西瓜……西瓜の畑はないようだけど」
あたりを見渡しながらまな美はいう。
マサトが、急に顔を顰《しか》めた。
「どうかしたのマサトくん……」
まな美が、そんなマサトを覗き込むように気遣っていると、その横では土門くんが、
「あー、悪いこと思い出してしもた……」
両手を腰に当てて、げんなりとした顔で首垂《うなだ》れている。
「ふたりともどうかしたの……」
その頃、淨山寺へと続くつづら折りの小径を空車のタクシーが一台、彼らを乗せるべく忍び寄ってきていた。
[#改ページ]
19
「目っ茶目茶らっきーやったよな天目。あんなとこに空車のタクシー来るかあ……」
鎮守の森を歩きながら土門くんはいう。
「それに運転手さん、よう道知ってはったねえ」
屋敷の裏門へと続く、森の入口のところまで横づけしてもらったのである。
「――割り勘だからね土門くん。マサトくんもよ」
タクシー代はまな美が立て替えたのだ。
「そやけど、よう考えたら……よう考えんでもバス二回使うのと変わらへんもんな」
彼は電車の定期は持っているので、計算には入らない。
「それにえらい遠廻りしたんやもんな。直線で行ったらすぐやったやんか」
だから近い、とまな美はいったのに――。
「今度からは、淨山寺に行くときはタクシーにしような。あのバスはもう懲りたやろ」
――誰のせいよ。
「そやけど、すっごいお寺さんやったなあ……自分が想像してた以上やったわ」
何を想像していたのだろうか。
「惜しむらくは片目地蔵やなあ、ご開帳の日に行ったら、ご本尊写真撮らしてくれるやろか……」
それは多分無理だと思うけど。
「そやけど、自分きょう一日ですっかり目覚めたからね」
何のことかしら?
「へっへっへっへー、なぞ解きが楽しみや……」
土門くんが独りで喋っているうちに離れの奥座敷に着いた。そこは、今日も戸がすべて開け放たれてあって、森からの微風《そよかぜ》で潤されている。
土門くんが、沓脱《くつぬ》ぎ石の手前で広縁にあがろうとすると、
「あら――」
まな美が晴れやかな声を出して、さらに森の奥の方へと小走りに駆けていく。
「あら[#「あら」に傍点]ー」
腐ったような声で土門くんはいってから、
「花咲か爺さんがお戻りになってはるやんか。ちょっと早すぎるんとちゃうか天目?」
マサトも、知らない、といった顔で応じる。
「しゃーないなあ」
ふたりも竜蔵の庭の方へと歩いていく。
「……さっきまで、淨山寺というお寺にいたんですよ。この近くにあって、八月の二十四日がご本尊のご開帳の日だから、竜蔵おじさまも一緒に行きましょうよね」
まな美は嬉しそうに話している。
「さようでございましたか……」
土色の作務衣《さむえ》を着て水撒きのホースを手にしている竜蔵はいつものごとくに和《にこ》やかだが、内心はそうでもない。この屋敷からは出来るだけ早急《さっきゅう》に出ようと思っているからだ。それもあって、予定を繰りあげて戻って来たのである。
「こんちわー」
土門くんが挨拶をした。
「ようおこしになりましたな」
満面の笑みで竜蔵はいう。
「そうだ、小父様に会ったらママからの言伝《ことづて》があったんだわ」
まな美がいいかけると、土門くんの後ろにいたマサトが、
「――赤い花」
先んずるようにいった。
「そう、その赤い花だけど……」
まな美はちょっと不思議そうな顔をして、
「たしかロベリアという名前ですよね。美しいお花の鉢植をいただきまして、ありがとうございました、て母が」
「――ベランダ」
マサトがいった。
「うん、その鉢植はベランダに置いてあったんだけど……」
「草が溶けたの?」
さらにマサトはいう。
「そうなんだけど……わたし、その話マサトくんにしたっけ?」
まな美が怪訝《けげん》そうに、マサトの顔を凝視《みつ》めていると、
「――ロベリアでございますな」
竜蔵がやけに朗らかな声で、
「ほら、まな美さま、こちらにまだ咲いてございまするよ」
木陰の方を指し示しながらいった。
「……ほんとだ、青のロベリアもあるんですね」
濃い青に白点の入った小花が、か細い茎の先端にふわふわと咲き乱れている。
「はい、こちらの色がおそらく原種ですな。ですから、お贈りしたロベリアよりも幾分強いようです。それに、ここは木の枝が雨を防いでおりましたので、まだ持ちこたえておるのですよ」
「ふーん」
まな美はひとしきり感心してから、再びマサトの方を見やる。
「それとまな美さま――」
竜蔵が、今度は花壇の縁のあたりを指さした。
「……あら、うちと同じだわ」
ちょっと嬉しそうにまな美はいう。
「かように、溶けて[#「溶けて」に傍点]しまうんですよ。ロベリアは暑さと蒸れに弱いですから、こうなる運命なんですな。それと、もうひとつ秘密[#「秘密」に傍点]がございまして――」
竜蔵は手招きをするように、
「――僅かですが、まだ花が咲いてございましょう。干し草になっていても生きてはいるのですよ」
地面に近いところは濡れて腐ったような感じだが、上部は夏の日差しに乾かされて薄茶の干し草状になっている。そこに緑がごく一部残っていて、花弁をつけているのである。
「……まな美さま、この干し草の中を覗いてごらんなされ、面白いものが見つかるやもしれませぬ」
促されるままに、まな美は花壇の縁にしゃがみ込んだ。その後ろから土門くんも、腰をくの字に折って覗き込む。
そんなふたりの様子を見届けてから、立っているマサトに風のように竜蔵は身体を寄せていった。
「……アマノメ様。……見えた絵を言葉にしてはなりませぬ」
耳元で囁いた。
暫くしてから竜蔵が声をかけた。
「いかがですか、まな美さま、見つかりましたですかなあ……蛞蝓《なめくじ》が」
「キャ――!」
森に響き渡るほどの金切り声をあげて、まな美が飛び上がった。斜め後ろにいた土門くんも鎗踉《よろよろ》と立ち上がる。
「まあ、昼間でございますから、どこぞに隠れてるとは思いまするが……そんな干し草になっていても、蛞蝓はまだ食べようとするんですよ。余程にその草が好きと見えましてな」
「――好き嫌いがあるの?」
怒った声でまな美は訊ねる。
「はい、春の草花の中ではロベリアが好物のようでして、一番にこれに集《たか》りますな。蛞蝓は一匹いると、もう一匹必ず近くにいます。連《つる》んで新芽と花芽を食べよるから始末に悪いんですよ。それに雨と暑さが加わって、ロベリアは溶けてしまうんですな」
そうだよね、と同意を求めるように竜蔵はマサトの方を見やった。
「……いただいた鉢植えにも、いたのかしら」
心配そうにまな美はいう。
「はい、もぐり込んでおったかもしれませぬ。ロベリアの鉢植えは卵を産みつけられておる例が多いんですよ、粟粒ほどの小さな透明な卵なんですが」
「あー、触らなくてよかった……」
身悶《みもだ》えしながらまな美はいう。
「夜中にこの辺りにいますとね、音が聞こえてまいりますよ。ごりごりごりごりごり……それが、蛞蝓の食事の音ですな」
そういうと竜蔵は、マサトの背に手をかけながら、
「ささ、屋敷の方に戻りましょうか」
とっとと歩いていく。
取り残された格好になったふたりだが、
「……おどかさんといていなあ」
胸を手で押さえながら土門くんがいった。
「ほんとよね、小父様ときどき悪さするんだから」
まな美がぷりぷりしながらいうと、
「ちがうって、自分は姫の声に驚いたんやから、なめくじぐらいであんな声出すかあー」
「よくいうわね、蛙ごときで騒いだのは誰よ[#「誰よ」に傍点]――」
それほどの大きな声でまな美はいったわけではないのだが、かなり先を歩いていたマサトが振り向いて、ふたりの方を見た。
竜蔵は広縁に上がると、どうぞこちらに、と昨日同様に置かれてある紫檀の方座卓をふたりに示してから、マサトを伴って屋敷の奥の方へと入っていった。
「……今日のマサトくん、ちょっと変よね」
布製のパンプスを沓脱ぎ石の上に揃えて置きながら、まな美はいう。
「ふん、天目|華奢《きゃしゃ》やからな、日射病にでもかかったんちゃうのん」
相変わらず、お気楽な土門くんである。
「おっ!」
「あら?」
席に着こうとして、床の間を見てふたりが同時に声を出した。
「れでぃーふぁーすとでどうぞ姫……」
土門くんはいいながら、昨日同様、その床の間を背にしてどっかと座った。
「……花が変わったんだけど、これも小父様のじゃないわ」
まな美も、昨日と同じ場所に座りながらいった。
土門くんはハタと気づいたように、
「そや[#「そや」に傍点]、これ西園寺さんが生けてはるんやな……てことは、彼女まだ居てはるんやろかあ」
でれーとした顔でいう。
「――知るもんですか。土門くんの話は何!」
「そんな怖い顔せんでもええやんか……ほれ、花を生けてある壺が昨日と変わってるやろ、これは有田の焼きもんで、古伊万里《こいまり》の蛸唐草《たこからくさ》いうねん」
しおらしい声で土門くんはいった。
「それぐらいわたしにだって分かるわ、同じ模様のお皿、よく店先に積まれてるじゃなーい」
白地に藍色の線だけで構成された渦巻きの文様が、蛸の足に似ていることから蛸唐草と呼ばれるのだ。
「いいや、姫、これは別格[#「別格」に傍点]や――」
自信満々に土門くんはいう。
「どこがあ?」
まな美が見た限りでは、太った大きな徳利《とくり》であり、その全体にびっしりと渦巻きの文様が描き込まれてあるだけで、特にどうというものではない。
「近くで見ーへんと分からへんわ……なめくじおらへんから」
土門くんに促され、
「そーお……」
まな美は四つん這いになって、壺ににじり寄った。
「描かれてる線を、よー見てみーや」
背中ごしに土門くんにいわれ、まな美はその艶やかな壺の表面に顔を近づけてみた。
「……あっ、縁取りが入ってるのね」
一ミリほどの細線で描かれた文様であるのに、その細線に、さらに縁取りがなされているのである。
「いぼいぼ[#「いぼいぼ」に傍点]にも縁取りが入ってるはずやで……」
いぼいぼとは、つまり蛸足の吸盤の部分のことであるが。
「ほんとだ……」
「極細の筆を二本束ねといてね、それで全体の模様を先に描いといてから、その隙間を後で塗りつぶしてんねん」
「……そんな手の込んだことしてるの?」
「そやから、これだけの迫力が出せるんやんか。この手のやつは遠くから見てもすぐ分かるで、全体の雰囲気が全然ちゃうからね」
「すっごーい……」
説明を聞いてから改めて見てみると、まるで別物に思えてくるから不思議である。
「……あれはどのぐらい古い作品なの?」
座布団に戻ってから、まな美は尋ねてみた。
「作品[#「作品」に傍点]ちゅうのは変やで、あれは職人さんの技術やからなあ……これ、享保《きょうほう》の蛸唐草いうねん」
享保は一七一六年から三六年までである。
「年代まで特定できるの?」
「いや、そういうてしまうねん。あのへんで一番長かった年号が享保やろ……それにほれ、八代将軍吉宗は享保の頭から元文《げんぶん》、寛保《かんぽう》、そして延享《えんきょう》二年まで在位してて、その間中ずーと改革やってたんやけど、享保の改革いうやろ……時代的にも間違ってるわけやないんやけど、蛸唐草をあーいった描き方してたんは、一七〇〇年から五十年間だけやねん。その最初のころはもっと線が太いねん、で技術をあげていって、この享保の蛸唐になるわけや。天皇でいくと、中御門か桜町のころのもんやね」
「それから先は?」
まな美は興味深そうに尋ねる。
「不思議な話やねんけどな、一七五〇年ごろを境に、やーめた、いうて一筆描きに変わってしまうねん。そっから後はどんどん雑になっていって、渦巻きの形もどんどん崩れていって、全然美しくない」
「それが、どうして不思議な話なの?」
「八代将軍の吉宗が亡くなったんが、ちょうど一七五一年なんや。吉宗って質実な人として知られてるやろ、それが皿の職人さんにも、技を極めろーみたいな感じで行きわたってて、そやから吉宗が死んだ途端に、こんな面倒臭いことやってられるかーいうて職人が反旗|翻《ひるがえ》して、一筆描きに変わったんとちゃうか、と自分は思とうねんけどな」
「……将軍さんの趣味が、こんな[#「こんな」に傍点]壺にまで反映されるの?」
「あ、これは庶民のもんとちゃうねん」
うちらは庶民、といった顔をしながら土門くんはいう。
「これ元来お武家さん用やねん。当時は瀬戸もんそのもんが、店先[#「店先」に傍点]には積まれてへんねんで」
だいぶ前の、まな美の間違いを正した。
「――庶民は何使ってたのよ?」
ちょっと憮然《ぶぜん》とした表情で、まな美はいう。
「もっぱら塗りを使てたんや」
「塗りって……漆塗りのことでしょう。お正月に使う重箱ぐらいしか家《うち》にはないわよ」
「金銀[#「金銀」に傍点]が入ったやつは別[#「別」に傍点]――」
諭すように土門くんはいってから、
「もっとしっく[#「しっく」に傍点]な塗りの茶椀を、禿げちょびれになるまで庶民は使てたんや。有田焼は当時ものごっつう高級品で、これ一個で小判何枚もしたはずやねんで」
佐賀県の有田で、いわゆる瀬戸ものを作り始めたのは十七世紀の初頭である。
「……それで、こんなに手間暇かけれたのね」
まな美にもやっと合点がいった様子で、あらためて壺の方を見やった。
「そやから、そのころの蛸唐には将軍吉宗の魂がこもってんねん……自分が勝手に思てるだけやけどな。ここに置かれてあるのが正[#「正」に傍点]にそれね、これ博物館級の壺やから、よう拝んどいた方がええでえ」
「……さすがに土門くん詳しいわね」
見直した、という顔でまな美はいう。
「餓鬼のころから家中そんなもんしかあらへんねんから、勝手に覚えるぞう」
それが土門家の生業なのである。神戸にある店は伯父さんが継ぎ、暖簾《のれん》わけをした格好で土門くんの父親が東京に店を構えたのだ。
「……土門くんのことだから、まーた悪さでもしたんでしょう」
「おう、やったやったー、徳利を十本並べてボール転がしてボウリングすんねん……」
それは余程に楽しいことだったのか、身を捩《よじ》らせて土門くんはいう。
「そんなことしたら壊れちゃうじゃなーい」
「手加減はするぞう。壊れるか壊れへんか、ぎりぎりのすりる[#「すりる」に傍点]が堪らへんねやんか、すりりんぐ[#「すりりんぐ」に傍点]ー」
阿波踊りのように、両手をひらひらさせている。
「おっかしいんじゃないの土門くん……」
座卓に、頬杖をつきながらまな美はいった。
ほどなくして、希美佳が冷えた麦茶とガラス器に盛られた大ぶりの苺を運んできた。
「――マサト様は、すこしお疲れのご様子ですので、お話は進めてくださいとのことです」
鈴の音のような声でそれだけいうと、広縁の廊下を静々と下がっていった。
土門くんは金仏《かなぶつ》のように固まったままで、うんともすんともいわない。
「……洋服を着た西園寺さんも、奇麗よね」
まな美が話をふると、
「うーん」
土門くんは三秒ほど唸ってから、
「……淨山寺の話にしましょうよ」
迷惑そうな顔でいった。
「仕方ないわね、マサトくんいないんだけど」
まな美が同意すると、
「へっへっへっへー……姫、自分あの淨山寺の秘密解けましたぜ」
俄然、男らしい声になって土門くんはいう。
「ほんと、聞かせて聞かせて……」
まな美も少しだけ嬉しそうにいった。
「――姫、聞いて驚いたらあかんで。あの淨山寺というお寺さんは、江戸城を護っていた魔方陣のひとつやろ」
予想だにしなかった言葉が彼の口から出てきた。
「どうしたの土門くん――」
実際、まな美は驚いていった。
「天海僧正が絡んでるから、そうなるねやんか。江戸城の鬼門を護るために上野に寛永寺《かんえいじ》を建てたんが天海やろ。あれ東叡山《とうえいざん》寛永寺いうぐらいやから東の比叡山の意味で、京都御所を護ってるのと同じやつやんか。その他もろもろの寺や神社を整えたんが天海僧正やろ」
まな美は首肯《うなず》いた。
「そやけど天海は、まず家康と親しくなってから、その家康が死んだ後は、家光《いえみつ》と連《つる》んで江戸城の結界をせっせと作っとうねん。それに寛永寺いうぐらいやから、寛永二年に建てとって、これは家光が将軍の時代やからね」
寛永二年は一六二五年である。
「二代将軍は秀忠《ひでただ》なんやけど、淨山寺にあった朱印状には、この二代目将軍のやつだけが抜けとったやろ。家康の鼻紙朱印状……あれは別格で、三代将軍の家光から、このお寺さんと幕府とは特別な関係になったと考えるべきや。すなわち天海僧正が絡んでいて、この淨山寺が江戸城の魔方陣のひとつである証拠になるやんか。どや……」
「すっごーい」
まな美は、恐れ入谷の鬼子母神とばかりに、口の前で両手を合わせていった。
「自分かて勉強したんやでー、姫が天海の話してたやろ、そやから朝四時までかかって本読んできたんや。昨日いうて今日行くいうからな姫は……」
怒ってますよ、そんな顔で土門くんはいった。
「あ、それで土門くん、お寺で朱印状を見てたときにバッタもん違うなんていっちゃったんでしょう」
「そや、頭にぴーんときたもんやから口からぽろ、あーいうのって止まらへんもんなあ」
「止まるわよ……」
呆れたような顔でまな美がいうと、
「それともうひとつあるでえ」
土門くんが座卓に身を乗り出してきた。
「――淨山寺が燃えた火事な、あれただ[#「ただ」に傍点]の火事ちゃうぞう」
「えっ?」
真剣な顔をしながらも、土門くんは小声でいう。
「あのお寺、文久二年[#「文久二年」に傍点]に燃えとんやで。文久二年といえば何があったか知っとうやろ……」
「坂下門外の変があった年でしょう。それから、生麦事件……」
まな美には、お寺と関係がありそうな話はこれといっては浮かんでこない。
「その、坂下門外やんか……」
「公武合体に反対して、水戸藩の浪士が老中を襲った事件でしょう」
「その、公武合体やんか……徳川幕府の最後の悪あがきやけど……ほれ、それに関係して皇女|和宮《かずのみや》が嫁いでるやんか」
時の天皇である孝明天皇の妹が、和宮である。
「同じ[#「同じ」に傍点]年なのね――」
「そや、和宮が十四代将軍|家茂《いえもち》に嫁いだんが、文久二年の二月やねん。その同じ年に、江戸城の結界《まもり》のひとつである淨山寺が火ー吹いとんねんで。こんな偶然みたいなこと、偶然[#「偶然」に傍点]ではおこらへんぞう」
「それには気がつかなかったわ……」
考え込みながら、まな美はいう。
「どっちが火ーつけたか分からへんけど、どっちかが火ーつけたんやな」
「えー、幕府が自分を守護してくれている魔方陣に火を放つ?」
「お寺で話聞いた瞬間は、自分はそう思たんや……幕府の決意のほどを先方に示すための、犠牲《いけにえ》として差し出したんとちゃうやろか……さすがに日光東照宮は燃やされへんやろ、そやから、淨山寺で許してくれーいう感じで」
「すごい推理ね、土門くん……」
その是非はさておき、推理の筋に感動してまな美はいった。
「あの淨山寺はよっぽどのお寺なんやで、御三家・御三卿と同格やからな、それに家康が淨山寺を訪ねたんは天正十九年やて姫いうてたやろ、家康が江戸城に入ったんはその前年やんか、もちろん秀吉に左遷されとんやけど……当時江戸城はぼろぼろの城で、江戸の町そのもんが山うつ密やぞ」
太田道灌《おおたどうかん》が築いて以降は主人《あるじ》なき城として、百年ほど放置されたままになっていた城なのである。
「……そやけど江戸城を修理しようもんなら、喧嘩売るきかー、いうて秀吉が怒鳴り込んでくるのは目に見えとうけどな。そんなさなかに、さらに山うつ密の淨山寺にわざわざ家康は訪ねて行っとおんやで、よっぽどの何かがあの寺にはあるんや」
まな美も首肯《うなず》いた。それについては、昨晩すでに彼女は解き明かしている。
「……鷹狩りで偶然立ち寄った、これも物語[#「物語」に傍点]やと思うなあ。住職がよくしてくれたから三百石あげる、これも姫がいうてたとおりで、それなりの理由が家康の側にあったはずや。このお寺さんを味方につけておきたい、そう考えた理由がな。そやから淨山寺は家康とはよくよく縁があるお寺で、それを天海が江戸城の魔方陣《まもり》のひとつとして使たんや……結界として使われてる寺とか神社とかは一杯あるみたいやねんけど、この経緯《いきさつ》からいっても、絡んでる面子《メンツ》からいっても、このお寺さんはとっぷくらす[#「とっぷくらす」に傍点]の結界やねんやろな。そやから燃やす意味があるやろと、自分は思たんやけどな」
トップクラスではなく、淨山寺がトップであるとまな美は考えているのだが。
「……土門くんがいってた、お咎めがなかったという話はそういうことだったのね」
「そうやねん、幕府が自分で火ーつけとったら咎めようがないやろ。お寺さんではこんな話でけへんから、ええ加減な説明してもたんやけど、頭ん中ではこーいったこと考えてたんね」
「いきなり、誰が火をつけたかはないでしょう、放火と決まったわけじゃないのに」
思い出して、まな美は口を尖らせていう。
「あれだけ閃《ひらめ》いたら止まらへんぞう。そやけど順当に考えたら、火ーつけたんは敵側やったんやろなあ。けどどっちにしたって、慈覺大師のお地蔵さんだけは燃えずに残ってしもうて、それに、菊の御紋が打たれとおんや……あれ見た瞬間は驚いたなあ」
まな美のみならず、土門くんも驚いていたのである。
「三つ葉葵と菊の御紋と両方持ってるやなんて、とんでもない話やぞう。あれが公武合体の証しやねんやろか……そやけど、公武合体は瞬間の妄想みたいなもんで、尊王派が勝って徳川は江戸から追い出されるわけやからなあ」
「公武合体の証し、それはどうかしら……」
頬杖をつきながら、まな美は首を傾げる。
「いや証しいうても、菊の御紋を打つことによって何かがまるく治まる、その程度の意味な」
「うん、それなら分かるけど……それに菊の御紋は、文久四年の落慶法要のときについたとは限らないわよ、明治維新後かもしれないし」
「ふーん……」
土門くんは暫く考えてから、
「そやけど日光東照宮は……これが徳川の霊的防衛|線《らいん》の要《かなめ》やろう、それが目っ茶苦茶にされたいうやんか。元々はややっこしいふたつの神さんで家康をサンドイッチするみたいに守ってたんやろ、そやけど、そのふたつの神さんを明治になってから、誰かが豊臣秀吉と源頼朝にすり替えとおんや。源頼朝はええとしても、秀吉は露骨やぞう……完全敵やんか。あんな無茶なことようやるわ」
現在の日光東照宮は、そのような状態のままで祀《まつ》られてあるのだ。
「……時の為政者は、それだけこの種のことに真剣だったということよね」
「そやろ、そやったら淨山寺の方は手緩《てぬる》すぎるんとちゃうか? ご本尊に菊の御紋つけたぐらいで許されるの? もう一回火ーつけられたって文句いわれへんような三つ葉葵のお寺やと思うけどなあ」
乱暴な意見だが筋はとおっている。
「うん」
まな美も頷いてから、
「でも、これには神さまの話が関係するの……土門くんが読んだ本の中にも出ていたはずよ。東照宮は天海僧正だけじゃなくって、慈覺大師とも関係があるといったような話が」
「出てた出てた……そやけど聞いたこともないような名前の神さんが絡んでたぞう。ところで、自分がどんな本読んできたんか分かるんか姫?」
「だいたいはね。魔方陣とか結界とか、霊的防衛線とか……土門くんの使用語《ボキャブラリ》じゃないもーん」
まな美が語尾をあげて飾っていった。
「おっそろしい女《やつ》やなあ……知ったかぶりでけへんやんか」
土門くんも語尾をあげていってから、座卓《テーブル》の真ん中に手つかずで置かれたままになっていたガラス器の苺に、長い腕を伸ばした。
「……読んだことは読んだんやけどなあ、家康の祀り方は秘中の秘やいうし、東照宮の神官かて知らへんそうやし、その奥義は誰ひとりとして知ることもなく天海が墓の下に持って入ったいうやんか、何とか何とか何とか……いうやつで」
「それは山王一実神道《さんのういちじつしんとう》のことよね……」
まな美も苺に手を伸ばした。
「そんな感じそんな感じ……それに天海は、かの明智光秀だったかもしれない、とも書いてあったぞう」
足利十一代将軍|義澄《よしずみ》の子という説もあるが、天海の出自《しゅつじ》は謎に包まれていて、その出生年には十二もの説があるのだ。
「それに、最大で百三十歳以上も生きてたことになるんやろ……人間ちゃうぞう」
喋りながら土門くんは、何個目かの苺を頬ばってから、
「これ甘いなあー」
驚いたように感想をいった。
「ほんとね……尖った形をしている苺だから酸っぱいと思ってたのに」
まな美は、ショートケーキなどに用いる女峰《にょほう》の苺を想像していたのだが、違っていたようだ。
「自分もそう思たから遠慮してたんやけど、食べると甘いやんか。まぐれ当たりかなー思てもう一個食べると甘いやんか。次の食べても甘いぞう……」
ふたりしてガラス器に盛られてあった苺を半分ほど平らげてから、まな美はいう。
「山王一実神道は、たしかに天海僧正の独創《オリジナル》なんだけど、それ以前から天台宗にあった神さまの信仰をふたつ足しただけのものなのよ、ひとつは山王《さんのう》の神、もうひとつは摩多羅神《またらじん》……」
「ほれ、全然分からへんやんか、そんな神さん見たことも聞いたこともないぞう」
「……でも、日吉《ひよし》神社とか日枝《ひえ》神社とか、土門くんこの名前なら聞いたことあるでしょう」
「それならあるなあ……」
「日本全国にたっくさんあるんだけど、この名前の神社にはだいたい山王の神[#「山王の神」に傍点]が祀られてるはずよ。その元締めが、比叡山の麓にある日吉大社《ひえたいしゃ》なの。元来山王の神というのは比叡山の神さまなのよ」
「比叡山いうたら天台宗のことやろ、天台宗は仏教やんか、仏教やのに神さん信仰しとんか……みたいな初手的いちゃもんは今更いわへんでえ。昨日本読んどって、そのへんの雰囲気はだいだい分かったんや、昔は神も仏も皆一緒やったんやもんなあ。明治になってから神仏分離令で無理やり分けただけや」
「そう、神仏習合《しんぶつしゅうごう》こそが自然の姿よね――」
まな美も強調していってから、
「比叡山のことを昔は日枝山《ひのえやま》といってたらしくて、だから日枝《ひえ》神社も同じものなのね。有名なのが皇居の近くの永田町にあるんだけど、そこの日枝神社は裏鬼門を護《まも》ってることになってるわ」
この日枝神社で六月十五日に行われる山王祭は神田明神の神田祭とともに天下祭と呼ばれ、江戸二大祭のひとつである。
「裏鬼門いうんは、鬼門とは反対側の方角やろ、これもけっこう重要な防衛線やもんな」
まな美は頷いてから、
「……あそこの日枝神社は、太田道灌が江戸城を築いたときに比叡山から勧請《かんじょう》したものなの。山王の神というのは元来比叡山にいた地主神《じぬしのかみ》で、大山咋命《おおやまくいのみこと》というのが正式な名前ね」
神仏の分霊を別の場所に迎えて祀ることを勧請[#「勧請」に傍点]という。
「それって、大国主命《おおくにぬしのみこと》みたいなもんか?」
土門くんは尋ねたが、それが、彼が知っているほぼ唯一の日本の神さまの名前である。
「大国主は国津神《くにつかみ》の主神《ボス》だわよ。大山咋は一地方の山の神さまにすぎないわ、でも天台宗が関係するから大物扱いされるのね。つまり本地垂迹《ほんじすいじゃく》といった話が絡むからだけど……」
いいながら、まな美は土門くんの顔を窺った。
「お、それも理解したぞう。日本の神さんは仏教の仏さんの仮の姿であるという考え方やろ」
「そう、でも神さま側からいえば失礼な話だわよね。けど天台宗では、その大山咋命の本地《ほんじ》を大日如来《だいにちにょらい》ということにしているの……」
正しくは、本地は釈迦如来《しゃかにょらい》であり釈迦如来すなわち大日如来であると説かれている。
「あ、それなら聞いたことあるなあ」
「見たこともあるはずよ。だって奈良の大仏さんもこれだもの……」
「ええ[#「ええ」に傍点]ー」
濁った声で土門くんはいうと、
「奈良の大仏がなにもん[#「なにもん」に傍点]やなんて、生まれて一度も考えたことなかったぞう……あれだけ遠足[#「遠足」に傍点]で行っときながらー」
神戸にある小中学校だと、遠足といえば奈良か京都であり、奈良ならば大仏を観ると決まっているのである。
「そうね、考えさせないというのも奈良の大仏さんのいいところだから……奈良の東大寺は華厳《けごん》宗なので、ご本尊の大仏は盧舎那仏《るしゃなぶつ》、あるいは毘盧遮那仏《びるしゃなぶつ》と呼ぶのが正しいんだけど、これは密教の大日如来と同じものなの」
華厳宗は奈良時代に栄えた仏教で、南都六宗のひとつである。
「……姫、初歩的な質問であれやねんけど、密教[#「密教」に傍点]というのは何やのん?」
「そうね、秘密の仏教ってとこかしらね。これに対しては顕教《けんぎょう》という言葉があるんだけど……それこそ庶民[#「庶民」に傍点]にも分かるようにと、平易な言葉や形であらわされた仏教のことね。だから大仏さんはまさに顕教でしょう。大きな仏さまが遍《あまね》く世の中を照らす、てことなんだから」
「……分っかりやすいお話しで[#「で」に傍点]」
自分は庶民、みたいな顔をして土門くんはいう。
「だから、密教でいうところの大日如来も字のとおりで、要するに太陽神なのよ。だから密教系の曼陀羅《まんだら》を見ると、真ん中に鎮座しているはずよ」
大日如来は仏法そのものの現れであると、密教では考えている。
「……それやと、お釈迦さんはどこにいくの?」
「大日如来の上に別格[#「別格」に傍点]といった感じでちょこっと置かれてる場合もあるけど、曼陀羅には出てこないこともあるわ。だってお釈迦さまは、大日如来が仏法を説くためにこの世に現れた、化の姿だった……と密教の方では考えてるから、それで了承《オッケイ》なのね」
「えらい便利な話やなあ……」
「けど、大日如来は表向きの仏さまなのよ。だから裏があって、その裏の最高神を天台宗では摩多羅神ということにしているの、これは簡単にいってしまうと地獄の神さまね。山王の神すなわち大日如来は太陽神でしょう、だから表と裏の神さまのそれぞれの最高神でもって、家康を守護する、それが日光東照宮の祀り方なの」
「……なんや、えらい簡単な話やないか」
ちょっと憮然とした表情で土門くんはいう。
「形は単純なんだけど、神さまをただ並べても機能しないわよ。それを働かせるためには呪《ま》じないが必要で、それが秘中の秘なんだから」
「それどんなやつや?」
当然のごとくに土門くんは尋ねる。
「そこまでは知らないわよ……だって家康は死んだ[#「死んだ」に傍点]人なのよ。その家康の霊をあやつって江戸の守護をさせるといった呪じないなんだから、そんなこと知りたくもないわ」
「それもそうやな、姫魔女[#「魔女」に傍点]ちゃうもんなあ」
「うん」
まな美は力強く頷いてから、
「で、摩多羅神という神さま、これがすべてを解き明かす鍵になるのね」
「ほお……裏の神さんか、面白うなってきたやんか」
土門くんは眼を輝かせていう。
まな美が、赤のリュックからメモ帳を取り出すと、
「こういった字を書くのよ」
さらさらと綴りながら、
「……摩多羅神は、あの慈覺大師が作った神さまなのね。作ったとはいっても、元にした神さまがいるらしくって」
まな美はさらにメモ帳に漢字を書く。
「……これで泰山府君《たいざんふくん》もしくは泰山府君《たいさんぶくん》とも読むんだけど、これは道教の神さまなのね。中国に五山の霊峰というのがあって、そのひとつが泰山《たいざん》、あるいは東岳《とうがく》ともいって、この山は死者の霊が集まるところで、その山の神さまだから、すなわち地獄神なのね。泰山府君は東岳大帝《とうがくたいてい》ともいうんだけど……」
泰山そのものが道教の主神である玉皇上帝《ぎょっこうじょうてい》の孫とも見なされ、五岳信仰の中枢をなす神山である。
「とうがくたいてい……何かで聞いたことあるぞう、そんなん孫悟空の話に出てこんかったやろか?」
「どうかしら……でも、冥府の長《おさ》なんだから物語に登場してきても不思議はないわよね。それに孫悟空は、斉天大聖《せいてんたいせい》・孫悟空って名のらなかった? 彼も道教の神さまのひとりなのよ」
「せいてんたいせい……とうがくたいてい、似てるなあ」
ちょっと悲しそうな声で土門くんはいう。
「それに孫悟空の話って、三蔵法師《さんぞうほうし》が、天竺《てんじく》にありがたーい仏典を取りに行こうとすると、それを邪魔しにたくさんの妖怪が出てくるんだけど、あの妖怪というのは、中国のその地その地にいた神さまのことなのよ。つまり古来からいる道教の神さまね。その神々たちが、仏教の浸透によって駆逐されていくといった物語なの」
「へーそんな話やったんか……」
ひとしきり感心してから、土門くんは尋ねる。
「そやったら、道教の神のひとりである孫悟空が、なんで三蔵法師の味方すんのん?」
三蔵法師|玄奘《げんじょう》は七世紀に生きていた実在の人物で、十七年間の旅路で長安から天竺《インド》のナーランダへの往復をはたし、それが伝説と化して『西遊記』となったのだ。
「だって……孫悟空は頭に輪っか嵌められてるじゃない」
「あっ」
大きな口をあけてから、
「同士討ちさせとったんか、そんな意地悪な物語やったんやなあ」
土門くんは感想を述べた。
「……それに東岳大帝は、司馬遷《しばせん》の『史記』にだったら出てると思うわよ。秦の始皇帝が最初だったはずなんだけど、中国の皇帝は帝位につくと封禅《ほうぜん》の儀といって、泰山の麓にこもってお祈りをするという、そんな儀式があるの」
「へー、中国の皇帝は地獄神に祈るのかあ」
「……皇帝はね、自分のことを太陽神だと見なすわけ、だから祈る相手としては、もう地獄神しかいないのよ」
「なるほど……東照宮と似たような話やんか、中国の方も単純なんやねえ」
といってから、土門くんは急に表情を変え、
「――姫、話が見えてきましたよ」
さらに秘そ秘そ声になっていう。
「ひょっとして、日本の天皇さんも同じようなことしてはったの?」
この鎮守の森の屋敷なら、誰[#「誰」に傍点]に聞かれるわけでもないのだが。
「うん」
まな美は首肯《うなず》いた。
「……すると、慈覺大師が作ったいう神さん、摩多羅神に祈るわけ?」
遠慮がちに土門くんは尋ねる。
「残念だけど、摩多羅神には祈らないわ」
「じゃ、別の神さんに祈るの?」
「別というわけでもないんだけど、本地垂迹とかが複雑に関係してくるから、これは順を追って説明しないと無理ね……まず慈覺大師が、この泰山府君という神を日本に持って来ようとしていたらしいの。慈覺大師は唐に渡っていたから、その帰りの船での話ね……大嵐に遭って船が沈没しそうになって、慈覺大師が祈っていると、わしゃ摩多羅神じゃ[#「わしゃ摩多羅神じゃ」に傍点]……と名のる神さまが現れたの」
「……姫の声色《こわいろ》変ですよう、花咲か爺さんじゃあるまいし」
「でね、その摩多羅神が……おまえの肝《きも》を食ろうてやる、食らわれた者は往生《おうじょう》を遂《と》げられるが、そうでない者は往生ができない、だからわしのことを崇拝しろ……といったらしいのね」
「ええ[#「ええ」に傍点]ー人間の肝食べるんか、さすがおっどろおどろしいやつやなあ……」
「でもね、考えようによってはそれほど恐い神さまでもないのよ。人の臨終に立ち会ってくれて、その人の肝を食べてくれれば往生できる、すなわち極楽浄土に行ける、でも食べてくれなければ地獄に落ちる、て話なんだから」
「あ、往生いうたらそういうことなんやな。そやったら、やってることは閻魔《えんま》大王と同じやんか」
「そうなのよ、だから天台宗の方では閻魔天と泰山府君とを同じものだと見なす呪祭《じゅさい》もあって、すなわち、摩多羅神も閻魔さまと同じ神さまになるのね」
「なるほど……けど閻魔さまっていうのは、あれは神さまなんか?」
「そうよ、インドに古来からいた冥府の神さまなの、ヤーマあるいはヤマともいうんだけど、インドの段階ですでに仏教の中に組み込まれちゃって、それが中国に渡ると、中国には冥府の神さまとして泰山府君がいるから、中国の段階では、泰山府君は閻魔天の眷属《けんぞく》で、一の家来として扱われるんだけど、日本に入ってきて全部|一緒《いっしょ》にしちゃったのね」
「なんや伝達ゲームみたいな話やな、ちょっとずつ変わってって最後には一緒こたになるんやなあ」
「……それとね、閻魔天というのは地蔵菩薩の化身でもあるのよ、これは仏教の宗派を問わず一般的《ポピュラー》な解釈ね。この世ではお地蔵さまの姿となって私たちを導いてくれるけど、万が一、地獄に落ちたとしても閻魔天となって救いの手を差し伸べてくれる、といった話なの」
「えー話やなあ……」
どこかで聞いたような台詞《せりふ》を土門くんはいってから、
「するとやな、お地蔵さんは閻魔さまなんやろ、その閻魔さまは、姫がいうたように泰山府君であり摩多羅神なんやろ、そしたら淨山寺のお地蔵さんは、摩多羅神いうことになるんか?」
「そのとおりよ、しかも慈覺大師の御作[#「御作」に傍点]なんだから、慈覺大師の作った神さまである摩多羅神と同一[#「同一」に傍点]になるのね」
「あ、見なすとかいった段階《レベル》を、超えてしまうんやねえ」
「そう、淨山寺のご本尊は摩多羅神そのものなのよ、これがすべての謎を解き明かす鍵になるのね」
「あや? 似たような文句、二十分ほど前にも姫いわんかったか……てことは、結論《ゴール》はまだまだ先ってことか」
「そうね、でも、三分の一ぐらいは来てるとは思うんだけど」
肩を揺らしつつ、まな美は申しわけなさそうにいった。
[#改ページ]
20
その頃、私服の婦人警官に付き添われるようにして埼玉県警南署の玄関をくぐった女子高生がいた。私立M高の二年生、大神|郁代《いくよ》である。
昨晩、まな美と電話で話していたことを実行に移したらしく、家の近くの交番に、いわゆる自首[#「自首」に傍点]をして出たのだ。
婦警が連れていった先は三階にある刑事課の部署だが、応対に出たのは、体育会系の権化ともいうべき野村警部補である。
婦警の話をチラッと聞くなり、
「――あーん、人を呪っただとおー」
物置台《カウンター》ごしに罵声《ばせい》をあびせかける。
「ここは占いの館じゃないんだから、そんなもの少年課で何とかしろよ」
歯牙《しが》にもかけないといった雰囲気である。
「そうおっしゃらずに……話だけでも聞いてあげて下さいよ。私じゃ手に負えなくって、実際に誰かを怪我させたって話なんですから」
罷《ひぐま》と渾名されている野村警部補にたじろぎながらも、若い婦警は食い下がっていう。
「――あのな、人を呪っても罪には問えないんだ、それぐらいは知ってるだろう。罪に問えないものは警察は介入しないんだ。俺、どこか変なこといってるか」
「あのう……依藤さんはいらっしゃらないんでしょうか?」
話が通じないと見てか、婦警はいう。
「――残念、お優しい係長さんは外に出てるんだ、生駒と植井も右に同じ。悪かったな、俺しか残ってなくて」
ますます話が拗《こじ》れていく……。
[#改ページ]
21
「……天目どないしてたあ?」
奥座敷に戻ってきたまな美に、土門くんが尋ねた。
「マサトくん部屋にはいなかったの、たぶん母屋《おもや》の方にいるのね」
まな美は、手洗いを借りるついでにマサトの部屋を覗いてみたのだが――仕方なく、本棚から日本の地図帳を失敬して戻ってきたのである。
「その地図帳、何に使うんや?」
「……秘密[#「秘密」に傍点]……」
乙女の声でまな美はいうと、座卓の下にそれを隠してしまった。
「……慈覺大師が摩多羅神《またらじん》と出会った話ね、あれは最澄さんの故事に倣《なら》ってるの。彼も中国からの帰りの船で嵐に遭ったらしくって、わしゃ摩訶迦羅《まかきゃら》じゃ、という神さまが現れたのね。けど、最澄さんの摩訶迦羅はまったく人気がなくって、天台宗の僧侶はほとんどが慈覺大師の摩多羅神信仰に走るの」
「……姫、昨日からの話聞いてると、なんか最澄さんに恨みでもあるみたいやで」
「別に恨みはないけど、そのころの天台宗って危機的状況だったのよ。わざわざ比叡山に入門してきた僧侶が、よそにどんどん流れていたんだから。それも空海さんの真言宗ならまだ分かるけど、古い宗派の法相《ほっそう》宗にだって奪《と》られてたのよ……どこかに原因があったのね」
法相宗は、奈良の薬師寺、興福寺、京都の清水寺などが継いでいるが、祖は三蔵法師玄奘である。
「その、摩訶迦羅という神さまはね、インド名のマハーカーラに漢字を当てたから分かりにくいんだけど、これは大黒天《だいこくてん》のことなのよ」
すなわち大黒天はインドの神である。
「大黒天……いうたら大黒さまやろ。米俵にのっかってて、背中に袋しょってる爺さんやんか」
大黒は商売繁盛の神でもあるので、土門くんの家にも鯛を抱えたえべっさん[#「えべっさん」に傍点]と共にお像が置かれてあるのだ。
「……それはね、大国主命がだいこく[#「だいこく」に傍点]と読めるからごっちゃにしてしまって、あんなお像になったのよ。本来の大黒天は、暗黒破壊神で、髑髏《どくろ》のネックレスを首から下げている最強の恐面《こわおもて》の神さまなのよ」
なぜか楽しそうにまな美はいう。
「暗黒破壊神[#「暗黒破壊神」に傍点]、どくろのねっくれすー、そんなこと家《うち》に来ていうたら叩かれるぞう」
「……だって大黒天が住んでたところ、人間の死体を捨てる林なのよ。大黒天は変なものを一杯持ってるんだけど、延命長寿の妙薬とか、飲むと透明人間になる薬とか……でもお金じゃ売ってくれないのね、人の血とか肉とかと交換なんだって」
「そんなやつでも神さんいうんか?」
「きわどい存在だから、大きな御利益がありそうだと思って拝むのね」
「それ、ちょっと拝み方間違うたら、その人間食われてしまうんやろ。神さんいうより魔物[#「魔物」に傍点]やぞう」
「そうそう、お兄さん面白いこといってたわ」
火鳥のことである。
「大黒天が描かれてる画《え》なんかを見るとね、その額の真ん中に、もうひとつ目があるのよ」
「お、三つ目族[#「三つ目族」に傍点]なんか――」
土門くんの好きな話である。
「似たような三つ目の神さまってけっこう沢山いるんだけど、こういった神さまは超能力を持っていることを表してる、ていうの」
「――超能力[#「超能力」に傍点]か」
ますます好きそうな話である。
「超能力とはいっても、テレパシーとか透視とかいった方ね……あれは絵が見えることらしくって、その見える絵は、額の眉間のあたりに見えるように感じるらしいの。だから、そこに別の目があるように描くんだって……」
「へー、三つ目てそういうことやったんかあ」
「でね、仏教のまっとうな修行を積むとその超能力が身につくそうなの、けど、超能力を得ることが修行の目的じゃなくて、それを超えたところにある悟《さと》り……どんなものかわたしには分からないけど、それが仏教の最終的な目標なの……これはその通りよね。だから、すでに悟っている仏さまになると、この目の部分が萎《しぼ》んじゃって、疣《いぼ》のような点になるというの。これは、そんな超能力ごときものにはもはや惑わされない、その証しだというのね」
「へー……」
土門くんは唯々《ただただ》感心するばかりである。
「で、そう思って仏像の画を見てみると、如来とか菩薩とかは点なんだけど、何とか明王《みょうおう》とか何とか天《てん》といわれる古来の神であったような存在は、圧倒的に三つ目が多いのよ。きっと今でも、彼らは悟ってないのね……」
眉間の点は白毫《びゃくごう》と呼ばれ、右巻きに渦をなしている白い毛だというのが定説である。
「へー、さすが大学の先生やな、高尚[#「高尚」に傍点]な話しはりますね……」
「悪かったわね、髑髏のネックレスで」
後手は踏まない、とばかりにまな美はいってから、
「お兄さんの話って素材[#「素材」に傍点]は一緒なんだけど、考えてることが全然[#「全然」に傍点]違うのよ。それに、あの人の話聞いてても先はまったく見えないわよ。縦横無尽《あっちこっち》に脱線するし、どうする気かしらーと思ってると、ひゅ、と瞬間的に復帰するの。そして、ほら全部つながっただろう、て驚かすのよ……かなりの変わり者だわよ」
でも紹介したくて堪らない、そんな表情でまな美はいう。
「えーなー、自分にもそんなお姉さんどっかからか出てけーへんかなあ……いや、二十も歳が離れとったらあかんぞ、三つ四つ上いうのがえーなー」
土門くんには、弟がひとりいるだけである。
「――慈覺大師の話にするね」
まな美が本題に復帰させた。
「慈覺大師は、淨山寺を建てる前に日光に行ったという話をしたでしょう。その時点で、日光にはすでにお寺が建ってるの、日光を開山した勝道上人《しょうどうしょうにん》が建てた輪王寺《りんのうじ》というお寺がね。そして慈覺大師は、その輪王寺に自分の神さまである摩多羅神を勧請《かんじょう》しちゃうの、お寺も天台宗に変えちゃうんだけどね」
正しくは、勝道が建てたのは四本龍寺《しほんりゅうじ》で、その後|満願寺《まんがんじ》、江戸時代になって輪王寺と号を変えた。
「自分の神さんを他人の寺に置いたんか、けっこう無茶なことするんやなあ」
「そうね……勝道上人は下野薬師寺《しもつけやくしじ》の出なんだけど、これは奈良の東大寺と同時期のお寺で、もうまったく存在しないお寺ね。つまり奈良時代の古い仏教だから、平安になると廃《すた》れてくるの、だから輪王寺も、空き寺同然だったと思うんだけどね」
天台・真言の密教の隆盛によって、それ以前の仏教(顕教)の寺が改宗を余儀なくされていった歴史があるのだ。
「……そして慈覺大師は、その輪王寺の北側に三仏堂《さんぶつどう》というのを建てるの。これは自分で建てたのよ。そこに、阿弥陀如来《あみだにょらい》・馬頭観音《ばとうかんのん》・千手観音《せんじゅかんのん》という三つの仏さまを安置するんだけど……」
まな美はメモ帳に書きながら説明する。
「これは日光にある三つの山を象徴してるらしくって、阿弥陀さんが女峰山《にょほうさん》、馬頭観音が太郎山《たろうさん》、そして千手観音が男体山《なんたいさん》ね……日光って山で囲まれてる場所でしょう。その昔は観音さまの住む山だと思われていたらしくって、だから観音と、そのお父様である阿弥陀如来が置かれてるのね。そしてこの三体の仏さまは、いざとなったときには、さらに別の神さまに変身するんだけど……」
まな美は、メモ帳に書きかけて止めた。
「これは後で説明するわね」
今話しても、巧《うま》く繋《つな》がりそうにないのだ。
「――そして、時代はずーと下がってきて天海僧正、彼が東照宮を築いたとき、日光のどの場所を選んだかというと、この慈覺大師が建てた三仏堂をどかして、その跡地に東照宮を建てたらしいのよ」
三仏堂は、今は表参道を挟んで輪王寺の東隣りにあり、輪王寺三仏堂と呼ばれる。
「……また無茶なことするんやなあ」
「これは違うのよ」
まな美は力強くいってから、
「――天海僧正は、慈覺大師のことを神[#「神」に傍点]のように仰いでた人なの。勿論、彼も摩多羅神の熱烈なる信者ね。だから慈覺大師が治めてくれていた地[#「地」に傍点]を、わざわざ選んだのよ。七百年以上も前に慈覺大師が置いてくれた三仏によって、完全に鎮《しず》められてあった地なので、そこを譲り受けたといった格好なのね。そして三仏に換えて三神[#「三神」に傍点]を置いたんだけど、そのひとつは慈覺大師の摩多羅神でしょう。もうどう考えたって、慈覺大師あってこその日光東照宮じゃない」
三神とは、山王《さんのう》の神・東照大権現《とうしょうだいこんげん》家康・摩多羅神であるが。
「なーるほど、それはおっしゃる通りやな。昨日の宿題を見事に解きましたねえ」
感心しながらも、腹に一物《いちもつ》あるように土門くんはいう。
「こんなのわたしの発見じゃないわよ。これから先が本当の謎解きなんだから」
「ふむ、三仏に換えて三神を置いた、その言葉ひっかかりましたぞう……それが解く鍵になるんやろ」
身を乗り出してきて土門くんはいう。
「当たり[#「当たり」に傍点]……けど、先に菊の御紋の方を解いちゃうわね」
肩透かしをするようにまな美はいう。
「なんでやあー、せっかく自分がその気になっとんのにー」
「――土門くん、安倍晴明《あべのせいめい》の陰陽道《おんみょうどう》の話とか聞いたことなあい?」
おかまいしにまな美は話を進める。
「知らん」
ぷい、と横を向いて土門くんはいってから、
「……いや、ちょっとぐらいは知ってる。式神《しきがみ》使うやつやろ、紙の人形に、ひゅ、と息を吹きかけたら、そいつが動き廻って用事やってくれるやつやあ」
ちょっと機嫌を直していう。
「それの、実話の方なんだけどね……安倍晴明って天皇家お抱えの陰陽師《おんみょうじ》でしょう。陰陽寮《おんみょうりょう》といった役所みたいな組織もあったことだし、でも、陰陽道としては別に祀ってる神さまがいるわけ……」
まな美は、メモ帳に最初のころに書いた名称を示した。
「……泰山府君《たいざんふくん》がそれね」
「あ、同じやつやんか」
「そう、これが陰陽道の最高神で、安倍晴明がそう位置づけたみたい。単に地獄神としてではなくって、人の生き死にはもちろん、森羅万象《しんらばんしょう》を司る神さまとしてね……陰陽道とはいっても中身はほぼ道教だから、道教の神さまそのまま使っちゃうのよ。そして安倍晴明が権力を握っていたころには、天皇さまにも、その自分ちの神さまに祈らせていたのね、当時あった、泰山府君祭《たいざんふくんさい》というのがそれ――」
朝廷独占の秘祭であったため、詳《つまび》らかにはされていないのだが。
「するとやな……泰山府君は摩多羅神と一緒やろ、淨山寺のお地蔵さんは摩多羅神そのものやろ……てことは、淨山寺のお地蔵さんは天皇さんが祈る神ということか?」
「そうなるでしょう」
「……けどなあ、安倍晴明[#「安倍晴明」に傍点]いうたら西暦九〇〇年代の人間やぞう。そんな大昔の話を、ざっと九百年後の幕末にまで引きずるんか? それはちょっと無理があると思うけどなあ……」
年代には厳格《しびあー》な土門くんなのである。
「うーん」
まな美はちょっと悩むような仕草をしてから、
「仕方ないわね、それならもうひとつの話をするしかないわ。天皇さんが即位をするときどんな儀式をするかというと……先代の天皇がお亡くなりになったからといって、太子が即座に継げるわけじゃないのよ。天皇というのは神さまなんだから、血を継いでいるだけでは駄目で、天皇霊も受け継がないと、天皇と称される同一の神さまにはなれないのね」
土門くんは、神妙な顔になって聴く。
「その、天皇霊を受け継ぐためにあれこれと儀式があるらしくって……太子はどこかに籠もってしまうんだけど、そのことを物忌《ものい》みともいうのね」
「……それ、藤原の誰かがやってたいう、ずる休みちゃうのん?」
遠慮がちに土門くんは尋ねる。
「これは特別[#「特別」に傍点]な物忌みなの……もの[#「もの」に傍点]とは霊魂のことをいって、いむ[#「いむ」に傍点]の語源は斎場《さいじょう》の斎で、斎《い》むなのね。禁欲をして清浄を保つことによって、身体に入ってこようとしている霊魂を鎮め、離れないようにしっかりと付着させるといったことらしいの。だから、これは天皇さんだけに関係する物忌みなのね」
その物忌みの期間を、大喪と書いておおみものおもい[#「おおみものおもい」に傍点]とも称していた。
「……その種の儀式のひとつに、即位灌頂《そくいかんじょう》というのがあるの。これはどんなものかというと、まず太子は大日如来《だいにちにょらい》の手印《しゅいん》である智拳印《ちけんいん》を結ぶの……」
まな美が、左手の人差し指を右手で握りしめて、その印形を示した。
「……天皇の先祖の最高神といえば天照大御神《あまてらすおおみかみ》でしょう。その天照さんが天《あま》の岩戸《いわやと》に隠れてしまうと、世界が闇になるというぐらいだから、もちろん太陽神よね。でも密教の方では、またも本地垂迹《ほんじすいじゃく》で考えてしまうので、天照さんは大日如来の化身ということになるの……だから、太子が大日如来の手印を結ぶということは、自分が天照大御神ですよ、といってる意味なのね」
「なるほど、天皇霊を降ろすいうたらそういうことやもんな……」
「ところがね、そのとき太子は、心のうちでは別のものを唱えているの……」
「ええ[#「ええ」に傍点]ー」
しばし唸るように土門くんは考えてから、
「……ひょっとして、地獄の神さんの呪文みたいなもんを唱えてるわけか?」
「そのとおり、密教の形式でやるので真言《しんごん》を唱えるのね。とはいっても、これはインドの古代語《サンスクリット》……訳されたお経を読んでも御利益があるぐらいだから、オリジナルの原語は効果絶大だと考えて呪文[#「呪文」に傍点]のように使うの……即位灌頂のときに太子が唱える真言は何かというと、荼吉尼《ダキニ》の真言を唱えるわけ。もちろん荼吉尼天は神さま……」
まな美がメモ帳に漢字を書いた。
「あるいは咤枳尼、荼枳尼……どれでも一緒ね、もともとインドの名前がダーキニなので当て字が一杯あるの。尼[#「尼」に傍点]という字がついてるように、これは女神さまなのよ」
「……お茶[#「茶」に傍点]を飲んでるんか、地獄神にしては可愛らしい雰囲気やな」
見て土門くんはいう。
「これお茶じゃないわよ、荼毘《だび》にふすの荼《だ》ね」
元来は同じ字であったのだが。
「……あまりにも恐い神さまなので、最澄さんは、その荼吉尼天の秘法を比叡山の塔の下に埋めて、封じてしまったといわれてるぐらいなの……荼吉尼もインドにいたときはね、人間の心臓や肝臓を食べていたそうよ」
「……そんなやつばっかりやんかあ」
泣きそうな声で土門くんはいう。
「でもね、大日如来が大黒天に姿を変えて……大黒天は暗黒破壊神なんだから強いでしょう、そして荼吉尼を懲らしめたの。仏教に出てくる神さまって、だいたいこういうパターンなのよ、かつては魔物だったんだけど、仏法《ぶっぽう》によって改心するのね」
「はっはーん、孫悟空と同じように頭に輪っかでもはめるんやな」
「でも孫悟空は、たしか最後のシーンで輪っか外れなかったかしら?」
「……いわれてみれば」
「改心したから、輪っかがなくても暴《あば》れないのね。孫悟空は中国だけど、インドにも古来の神々がたっくさんいたのよ。その神々を信じている信者さんもいたわけね。だから物語を創って、その神々たちをうまーい具合に取り込んでいったの。これなら信者さんたちも、無理なく仏教に改宗できるでしょう、かつての神々を信じたままでいいんだから」
「あ、賢いやり方やなあ……」
その賢いやり方を実践したのが仏教の開祖である釈迦なのであるが、彼は紀元前五世紀ごろに生きていた釈迦族の王様の子である。
「でね、この荼吉尼天は、おもに真言宗の方が使っていた裏の神さまなの。だから、そのあたりの僧侶と天皇家とが親密で、即位の儀式に使われるようになったらしいのね」
「……姫、なーんか重要なことが一個抜けてるでえ、それはいつ頃の話なんや?」
「はっきりはしていないんだけど、だいたい後小松《ごこまつ》天皇の頃からだといわれてるわ」
「それ、足利義満《あしかがよしみつ》が将軍してたときやんか、さすが意味深なところでやってるなあ……天皇位を奪われそうになってたときやから、地獄の神さんに祈りとうなる気持ちも、わっかるような気がするぞう」
しおらしいことを土門くんはいってから、
「でや、それいつ頃までやってたん?」
「はっきりと分かっているところでは、皇女和宮のお兄様までね」
「うわあ……」
蕩《とろ》けたような顔をして、
「……明治以降は、どないなったんでしょうかね」
小声で土門くんは尋ねる。
「国家神道《こっかしんとう》になってしまったから、たぶんやっていないと思うわ。でも関係はないでしょう、幕末まではやっていたんだから」
「まあそうやな、そやけどもう一個、重大[#「重大」に傍点]な疑問があるぞう、それが慈覺大師のお地蔵さんとどう関係すんのん?」
「それがね……」
まな美はちょっと不満そうに、
「慈覺大師の摩多羅神と、荼吉尼天とが一緒だという話なんだけど、これはわたしの推理じゃないわよ。天台宗の僧侶が書いた本にそう説明されているの。摩多羅神はすなわち摩訶迦羅《まかきゃら》天にして、またこれ荼吉尼なり……てね」
まな美が引用したのは、光宗《こうじゅう》という天台の学僧が十四世紀に編述した『渓嵐拾葉集《けいらんしゅうようしゅう》』である。
「えー、そやったらそのへんの暗黒街の神さん全部つながってしまうやんか」
整理すると、地蔵菩薩=閻魔天=泰山府君=摩多羅神=摩訶迦羅天(大黒天)=荼吉尼天となる。
「けど、こんな考え方をするのは天台宗だけなのよ。それに、名前と故事が似ているから一緒、肝を食べるという連想から一緒、といちいち尤もらしい解説はされてるんだけど、これも後世のこじつけくさいのよ。この一緒《イコール》になる原因を作ってるのは、摩多羅神なのね。だから何[#「何」に傍点]か裏があるんだと思うわ……」
「慈覺大師が魔法でもかけたんちゃうのん」
土門くんが茶化していった。が、
「うーん、そうかもしんない」
意外にもまな美は同意して、
「――慈覺大師の術[#「術」に傍点]に、みんな嵌まってるのかもしれないわね。あの天海僧正が信者になるぐらいなんだから、究極の魔法だわよきっと」
「ふむ……そうすっとやな、慈覺大師のお地蔵さんに菊の御紋を打った人も、その魔法に嵌まったいうわけかあ?」
「そうなるわね」
「……けど、そんな魔法まで使《つこ》て、神さん勝手に作ってええんか?」
「だって、密教の表の顔の大日如来も、あれは作った[#「作った」に傍点]仏さまなのよ。それで皆が納得して拝んでるんでしょう。摩多羅神も、天台宗だけとはいえ皆が納得して拝んでるんだったら、それで了承《オッケイ》なんじゃない。お兄さんうまいこといってたわよ、神さまというのはね、どんな神さまでも、人が信じてくれてこその神さまなんだって。人が信じてくれなくなったら、その神さまは死ぬんだって……」
「うわー、兄弟そろうて何てうまいこといいよるんや」
はしゃぐように土門くんはいってから、
「――そやけどな、この話は文化祭ではあかんぞ」
急に真剣《マジ》な顔になっていう。
「そうね、魔法じゃとおらないわよね、これはさらに詳しく調べてみるから」
「そういう意味ちごて……岩住はけっこう物分かりのええ先生やけど、こんな内容までは許してくれへんいうことや。天皇さんが地獄神に祈ってて、その地獄神は人間の胆を食ろうてたあ、――あかん」
「あかんかしら……」
少し甘えたようにまな美はいってから、
「けど、もうひとつの方があるからいいわ」
凛《りん》とした声に戻っていう。
「そやそや、三仏に換えて三神を置いたんやろ、あの話ほったらかしやもんな」
「――これは凄いわよ土門くん。あの謎を解いたら、土門くん絶対にひっくりかえるから」
「そうかあー、自分もうあんまり驚かへんぞう、このへん麻痺しかけてるからなあ……」
額のあたりを人差し指でとんとんと突突《つつ》きながら、土門くんはいった。
[#改ページ]
22
「――それで、その女子高生は?」
署に戻ってきて野村警部補と雑談していた依藤が、少し慌てていった。
「篠原《しのはら》が今日は早上がりとかで、自分の車で送るとかいってたから、まだ彼女の車ん中でしょう」
篠原とは、さっき野村警部補に邪険に扱われていた婦警の名前である。
「――連絡つく?」
依藤は植井に訊いた。
「はい、携帯の番号が分かりますから」
「だったら至急[#「至急」に傍点]呼び戻してくれる。勿論、その女子高生こみ[#「こみ」に傍点]で――」
「どうしたんですか係長?」
依藤警部補のただならぬ様子に、野村警部補も真顔になって尋ねる。
依藤は辺りを一瞥《いちべつ》してから、小声で話し始めた。
「さっきM高に行ってきたんだけどさ、昨日のノートの持ち主が分かって、二年生の女の子なんだ。筆跡も確認させてもらったので間違いなしね。それとね野村さん、池袋署の管轄内で、一昨日、M高の女子高生が事件を起こしてるんだ、それもやはり二年生ね。そして篠原が連れてきた女の子、これもM高だろう、何年生だって?」
「――二年いってたなあ」
「ほら、これだけ短期間に集中すると、もう偶然とはいえないよね。それとさ、そのノートの持ち主は神仏おたく[#「神仏おたく」に傍点]だという話なんだ」
「なにそれ?」
「神や仏のマニアってことね、そのさっきの女の子も、呪い[#「呪い」に傍点]がどうとかいう話なんだろう……あの学校、そういうこと流行《はや》ってるんじゃないのかな」
「ふーん、魔女が集会でも開いてるのか……」
[#改ページ]
23
「……荼吉尼を懲らしめたとき、大日如来は大黒天に変身したでしょう。仏さまというのは人を救済するのが本分だから、その姿のままでは闘わないのね。慈覺大師が日光に置いた三仏も、いざとなったら別の神さまに変身するらしくって、三仏堂のすぐ裏にある護法天堂《ごほうてんどう》という小さなお堂に、その化身《けしん》する神さまのお像が置かれてあるの……」
まな美がメモ帳に綴り始めると、
「おっ、さっそく出てきたやんか、あの大黒ちゃん[#「大黒ちゃん」に傍点]がおるぞう」
お友達のように土門くんはいう。
まな美が、三つの神の名前を書き終えると、
「……姫、慈覺大師の置いた三仏は、そもそも日光の山に対応してたんやろ、その山から書いてくれへんかなあ」
「鋭いわね土門くん……」
まな美は、新しいページに山の配置を含めて改めて書き直した。
「……案の定やんか、山がそう並んでるんやったら解けたも同然や。その大黒天は、すなわち摩多羅神やろ?」
まな美は首肯《うなず》いた。
「当然家康は真ん中やねんから、太郎山いう山が家康で、それが……何とか門天《もんてん》になるんやな」
「そう、毘沙門天《びしゃもんてん》ね。仏教伝来とともに日本に入ってきた由緒正しき神さまで……大阪に、四天王寺《してんのうじ》というお寺があるでしょう?」
「おう、行ったことはないんやけど、聖徳太子が建てたいう有名なお寺やな……」
「その四天王のひとりが毘沙門天なのね」
四天王として祀られる場合は多聞天《たもんてん》とも呼ばれるが、同一の神である。
「あ、思い出したぞう……蘇我馬子《そがのうまこ》が物部守屋《もののべのもりや》を討ったお祝いで建てた寺やんか。それに、あれは仏教を受け入れるかどうかで揉めて戦《いくさ》になったんやもんな」
「そのときに……聖徳太子は髪の毛の中に小さな四天王のお像を入れて祈ってたらしいのよ、そして願いが叶ったから四天王寺を建てたのね。もともと四天王は仏法を守護している神さまで、その後、毘沙門天だけが単独で祀られるようになって……いわゆる鎮護《ちんご》国家の神さまになったのね」
「なるほど、それで家康[#「家康」に傍点]やいうわけやなあ」
「それだけじゃないわよ。四天王は守護する方位が決まっていて、毘沙門天は北[#「北」に傍点]を守っているのね」
「おっ、ようでけとるやんか――」
嬉々として土門くんはいう。
「まさに東照宮がそれ[#「それ」に傍点]やんか、家康の霊魂に真北[#「真北」に傍点]からお江戸を護らせとんやから、ぴったし合うそー」
「……残念、日光東照宮は真北にはないの」
水をさすようにまな美はいう。
「ちょっとぐらいええやんか」
「ちょっとぐらいかしら……東照宮の位置を南に下ろしていくとね、横浜市の、それも西を掠めるぐらいよ、もうほとんど逗子ね」
「ええ[#「ええ」に傍点]ー、そやったら江戸城どころか、江戸の町すらも護ってへんやんか?」
「そうなの……本によっては江戸城の北だとか、江戸の真北だとか、酷いのになると江戸城の真北だとか書かれてるんだけど、実際は違うのね」
まな美は、座卓の下から地図帳を出したい誘惑にかられたのだが、ぐっと堪えて、
「くそう、がせねた[#「がせねた」に傍点]信じとったぞ――」
お怒りの土門くんを尻目に、話を進める。
「もう、いうまでもないと思うけど、この護法天堂の三神は、天海僧正が置いたものなのね。慈覺大師の三仏は日光三山に対応しているだけで、その後の山王一実神道《さんのういちじつしんとう》とは何の関係もないでしょう。だからつなぎ[#「つなぎ」に傍点]が必要なわけね――」
「つないだら何かええことあるんか?」
「ええこと[#「ええこと」に傍点]あるのに決まってるじゃなあい」
わざと、まな美は関西弁でいう。
「……日光山は観音さまが住んでたというぐらいの、日本では屈指の霊峰なんだから、その力を借りなくてどうするのよ」
「あ、わかったわかった、慈覺大師が置いた三仏はその山の霊力を受けられるんやな。それを護法天堂の三神でつないで、家康の魂に集めとったんか。山の力を背景《ばっく》にしてお江戸を護ってたんやなあ」
「だから、護法天堂の三神というのはすっごく重要でしょう……なのに、つい最近これに神さまを四つ足して、七福神[#「七福神」に傍点]にされてしまったのよ。輪王寺何[#「何」に傍点]考えてるのかしらあ……」
天海僧正と家康の四方山《よもやま》話から七福神が定まった、そんな謂《いわ》れもあるからである。
「しゃーないしゃーない、ざっと四百年も前の話やねんから、誰も覚えてへんのや」
宥《なだ》めるように土門くんはいってから、まな美に尋ねる。
「もうひとつ神さん残ってるけど、これはどういうつながりなんや?」
「……弁才天《べんざいてん》ね、元々の山が女峰山《にょほうさん》でこれは女性でしょう、だからつなぎの神さまとしても女神さまが相応《ふさわ》しいの。銭洗《ぜにあら》い弁天だから財宝の神なんだけど、かつては怨敵調伏《おんてきちょうぶく》や、呪詛《じゅそ》の神さまとしても有名で、源頼朝とその妻の北条政子が拝んでいたという噂もあるぐらい。だから大黒天、毘沙門天と並んで武神としても使えるわけね……それと、江戸城を築いた太田道灌は、江ノ島弁才天にお参りした帰りの船で、品川沖で、コノシロという魚が船に飛び込んできたので、そこに江戸城を定めたという謂《いわ》れもあるの。だから弁才天は江戸の象徴で、対応する山王の神は比叡山の象徴……同格でしょう。それに山王の神は大日如来、すなわち天照大御神で、天照さんも女神さまだから、女神つながりでもあるわけね」
「――姫、自分ど[#「ど」に傍点]えらいこと思い出しましたよ。あの淨山寺にも、ちょっと前までは弁才天があったいうてたやんか」
「そう、弁才天は処分[#「処分」に傍点]されちゃったのね。あんなごとしちゃ駄目[#「駄目」に傍点]なんだからあ――」
まな美は怒っていう。
「お寺にある神さま仏さまは、博物館みたいにただ並べられてるんじゃなくって、それなりの意味[#「意味」に傍点]があってそこに置かれてるんだから、あんなことするのはルール違反だわ」
「――待った待った姫、それに淨山寺には、家康のお像もあったいうてたやんか」
「けど、こちらは燃えてしまったのねえ」
一転、悲しそうな顔でまな美はいう。
「その家康公のお像のなかに、土門くん、いったい何が隠されてあったと思う? すっごいものが入ってたはずなんだから」
「――ちょっと待てえ、淨山寺のお地蔵さんいうたら、それは摩多羅神[#「摩多羅神」に傍点]やろ」
真剣な表情で土門くんはいう。
「そうよ」
「そやったら全部[#「全部」に傍点]そろたやんか。日光東照宮に天海が置いた三神と、まったく同じ組み合わせのもんが淨山寺にそろてるやんか――」
「それが淨山寺の秘密なんだから」
「――どないなってんねん?」
なかば喧嘩腰の口調で土門くんはいう。
まな美は口の前で両手を合わせると、
「……淨山寺は東照宮なの[#「淨山寺は東照宮なの」に傍点]……」
乙女の声で、呪文を唱えるようにいった。
[#挿絵(img/01_285.png)入る]
「日光にあんのん[#「あんのん」に傍点]が東照宮やんかー」
ありったけの神戸弁で土門くんは反論する。
「それは表向きで、淨山寺が東照宮の本体[#「本体」に傍点]だというのがわたしの推理なの……たとえば、妖怪の身体を斬っても斬っても平気なのはなぜか? ちょっと離れたところにある目立たない別のものに、魂[#「魂」に傍点]を移していたから……よくある物語《ストーリー》でしょう、これと雰囲気一緒ね」
「それはあかん[#「あかん」に傍点]話やんか、結局は見破られて、妖怪は一瞬にして没《ぼつ》いうんが落ちやろ……うん? 淨山寺も火ーつけられたんやから、似てるといえば似てるけどもなあ」
付火《つけび》と決まったわけではないのだが。
「淨山寺は、いうなれば隠れ菩提寺[#「隠れ菩提寺」に傍点]……そう考えるとすべて辻褄《つじつま》が合うのよ。いっちゃ何だけど、あんなに小さなお寺のご住職が、御三家・御三卿と同格だったのよ。それに寺紋[#「寺紋」に傍点]が三つ葉葵でしょう、普通のお寺にはありえない話なんだから……あの須弥壇《しゅみだん》だってそう、かつては奥に家康公のお像が置かれてあったはずで、将軍がお忍びで拝みに来てたんだと思うの、日光よりも随分と近いから好都合でしょう。それに歴代将軍の朱印状もあることだし……」
いいながら、まな美は赤のリュックに手をかけた。
「そやけど、菩提寺いうんは骨[#「骨」に傍点]がないとあかんやろ、その家康のお像の中にでも入ってたいうんか?」
定説では、家康の亡骸はいったん静岡の久能山《くのうざん》に埋葬され、一年後の元和三年(一六一七年)に日光東照宮に遷座されている。
「たぶん……」
返事もそこそこに、まな美はリュックの中から紙切れを取り出して、それを座卓の上に広げた。
「これ淨山寺で貰った案内文《パンフ》なんだけど、朱印状の年代が出てるの。土門くんなら分かるはずだわ」
「どれどれ……」
そういわれると、見ないわけにはいかない。
「家康のはええとして、二代将軍がないのは関係がなかったからやし、そして家光の朱印状は寛永十九年……一六四二年か、えらい後やなあ、将軍になってから二十年も経ってるやんか。それ以降のは、将軍が代わった直後に出されてるようやな」
「すると、その寛永十九年が分岐点《ポイント》よね。この年から淨山寺と徳川家とは特別な関係になったと考えるべきでしょう」
「……思い出した、そのへんの年号で昨目覚えたてのやつが一個あるぞう」
「何の年号?」
「天海僧正が死んだんが寛永二十年の十月なんや。家光がしょっちゅう見舞ってて、薬まで与えて看病してたそうやから、もう自分のおじいちゃん[#「おじいちゃん」に傍点]みたいな感じやな」
「だったら話が合うじゃない。天海僧正のお江戸魔方陣計画の最後の詰めが、つまり淨山寺なのよ」
「その翌年に死んでるんやから、ぎりぎりセーフいう感じやぞう」
「ちがうわ、最後の詰め[#「最後の詰め」に傍点]――」
ものはいいようである。
「だから、この寛永十九年に家康公のお像が運び込まれたんだと思うわ。それなりの謂れがあった弁才天も一緒にね、たぶん、国宝級だったと思うけど」
「うーん……いちおう辻褄は合うけども、残念ながら両方とも残ってへんからなあ」
「土門くん、別の証拠[#「別の証拠」に傍点]があるの――」
いうとまな美は、隠していた地図帳を座卓の陰から徐《おもむろ》に取り出して、それを土門くんに手渡した。
「おう、天目のとこからパクッてきたやつやな」
「ちゃんとメモ書きを残してきたわ……まず、関東平野が出てるページを開いてくれる」
いわれるままに土門くんは従う。
「……そして、淨山寺の場所を見つけてくれる」
「そんなもん出てへんやろ?」
「場所は分かるじゃない、越谷と岩槻の境目なんだから、それにお寺の裏には川が流れているし」
「あ、なるほど……」
そして暫くしてから、
「このへんや」
その地図の場所を、異様に長い指で押さえながら土門くんはいう。
「で、どないすんのん?」
「その場所をじーと見ていれば、淨山寺の秘密[#「秘密」に傍点]が見えてくるから」
「……北極星って真北に鎮座してるでしょう。そして天のすべての星々を支配しているように、家康も、お江戸の真北にいて、南を向いて国を支配するのね。これ天子南面という考え方なんだけど、これも中国の道教から来てるのよ」
「ぎえ[#「ぎえ」に傍点]――」
まな美の説明が終わるか終わらないかで、土門くんが呻き声をあげた。そして地図帳を手に持ったまま、ばったりと後ろに倒れ込んだ。
「ほらね、わたしの予告どおりでしょう」
寝転がったまま暫く地図と格闘していた土門くんだが、がばっと起き上がって、
「――姫、うちら[#「うちら」に傍点]大変なもん発見したぞー、どない見たって、淨山寺は皇居の真北[#「真北」に傍点]にあるやんかー」
複数形でいう。
「そうなの、比叡山が平安京の鬼門に当たったのと同じで、淨山寺もまったくの偶然なんだけどね。そのうえ淨山寺の真裏には元荒川まで流れているし」
「ふん……」
土門くんは上の空で返事をする。まだ地図に見入っているのである。
「元[#「元」に傍点]、荒川[#「荒川」に傍点]なのよ……土門くん荒川は知ってるでしょう?」
「ふん……東京を流れてる川やろ」
「その上流にあるのが元荒川なのよ。そして霊気のようなものは、水の流れに沿って伝わるとも考えられているから、家康の霊気を江戸に運ぶには好都合でしょう。だから、淨山寺のある場所は最高の立地なのよ、真北にあって、しかも川沿いなんだから」
土門くんはなおも地図に熱中している、そして小声でいった。
「このページ折ったら怒られるやろか?」
「ダメ[#「ダメ」に傍点]よそんなことしちゃあ」
「……そやけど、皇居もそれなりに広いから、どのへんの真北になるんか気になるんや」
「昨日調べたところでは、吹上御所《ふきあげごしょ》の建物をほぼ貫いていたわ」
「……そやったら、お地蔵さんが天皇さんを護ってることになるやんか、それが菊の御紋の意味か?」
「これも偶然に、慈覺大師のお地蔵さまが、寝所の真北に鎮座していたのね。それは徳川家の魔方陣の神さまだったんだけど、説明したように、菊の御紋を打てば意味が通じるから、奪い取ることにしたの。建物が三つ葉葵であっても、心臓部にマーキングしてしまえばそれでいいことだから」
「……それはそれで凄い[#「凄い」に傍点]話やなあ、見かけは単純やねんけど、やってることは日光東照宮よりもキツいやんか。家康さんのお像だけ燃やしといて、残ったお地蔵さんを自分のもんにしとんやから……なんてこわい話やろか」
付火[#「付火」に傍点]と決まったわけではないのだが。
「……比較的最近の事だからリアルだわよね。けど、かつての敵を守護していた神さまが、自分の寝起きする場所を真北[#「真北」に傍点]から睨んでいたりすると、それこそこわくて眠れないわよ」
「ふん、その感覚は庶民[#「庶民」に傍点]でも理解できるな。自分のもんにするか火ーつけるか、ふたつにひとつやなやっぱり……」
土門くんは独り納得してから、
「そやけど、お寺が真北にあるいうことで、意味が断然濃うなってきたやんか、家康さんもこのこと知ってはったんやろか?」
「それはどうかしら……もし知っていたなら、二代将軍の朱印状もないとおかしいわ。やはり、気づいたのは天海僧正よね。でも家康は家康で、淨山寺に関してはまた別の知識をもっていたはずなの」
「……どんな知識?」
「京都にある赤山禅院《せきざんぜんいん》というお寺が関係するんだけど、これは京都御所の鬼門を護っているお寺ね」
「うん? 比叡山が鬼門ちゃうのん……」
「あれは平安京全体の鬼門なの。御所を起点にした場合はかなり外れてしまって、その点、赤山禅院は一分の狂いもなくびったし御所の鬼門になるのね。そしてなんと、これは慈覺大師の遺言で建ったお寺なのよ……」
京都市左京区修学院にあり、仁和四年(八八八年)に建立されている。
「また凄そうな話やなあ、それも遺言[#「遺言」に傍点]いうところが、いかにもいう感じや」
まな美は首肯《うなず》いてから、
「まず、このお寺には何が祀られているかというと、表向きには赤山明神《せきざんみょうじん》という神さまなの……でも実際は泰山府君《たいざんふくん》なのね、これは公然の秘密らしいわ」
――本尊は絶対秘仏であり開帳はされない。
「また出てきたやんか、けど、その程度ではもう驚かへんぞう」
「……なぜ慈覺大師の遺言なのか、これはわたしの推理なんだけど、摩多羅神を作ったときに泰山府君の名前を出しちゃったでしょう。だから、さすがに悪いと思って、泰山府君を単独で祀るように命じたんだと思うの。これ遺命[#「遺命」に傍点]ということになってたから、弟子への命令なのね」
「なるほど、その推理の筋[#「筋」に傍点]はとおってるな」
「……いっぽう家康は、京都に二条城を建ててるでしょう」
「おう、関ヶ原で勝った直後に建てた城やろ、将軍さんが京都に行ったときの宿舎やんか」
「その二条城も、この赤山禅院がぴったし鬼門になるような場所を選んで建てられているの。当時、赤山禅院はかなり有名なお寺だったらしくって、『源平盛衰記《げんぺいじょうすいき》』などにも出てくるの……本地は地蔵菩薩なり[#「本地は地蔵菩薩なり」に傍点]、泰山府君とぞ申す[#「泰山府君とぞ申す」に傍点]……てね。神さまだから例によって本地があって、本地は地蔵菩薩なのよ」
『源平盛衰記』は『平家物語』の異本のひとつで、十四世紀頃のものと考えられている。
「話が読めてきたぞう……その程度の知識は家康も持ってたいうわけやなあ」
「そう、そして淨山寺を訪れたらどうなるか?」
「……家康が慈覺大師のお地蔵さんと出会うと、摩多羅神は関係なくて、泰山府君の方を考えるやろな。そして泰山府君といえば、秦の始皇帝が祈った神さんやけど、これは家康さん知っとったやろか?」
「知ってたと思うわ。そのとき淨山寺にいた曹洞宗の住職が、家康のために武運長久玉体安穏[#「武運長久玉体安穏」に傍点]の大祈願を修したんだけど、これ、お地蔵さまに祈る内容としては変よ……」
「ほんまや、お地蔵さんに武運[#「武運」に傍点]を祈るんは筋違いや」
「……でも、泰山府君だと考えると合うわよ。人の生き死にを司る神さまだから玉体安穏だし、皇帝が祈る相手だから武運長久でしょう。いずれ天下を我がものにと思っていた家康にしてみれば、この泰山府君という神さまは……すなわち、慈覺大師のお地蔵さまは、最高の神さまといえるわよね」
「そやけど、よくよく考えたら……よくよく考えなくても、慈覺大師のお地蔵さんに祈ったから、家康は天下[#「天下」に傍点]とったことになるぞ!」
「……順番としてはそうだけど」
「それにや、淨山寺が燃えてもたから、徳川幕府は滅んだことになるやんか――」
「それも、順番としてはね」
「そやったら淨山寺が、裏[#「裏」に傍点]で日本史あやつってることになるやんか――!」
自分の思いつきに自ら興奮しつつ、土門くんはいった。
「……あやつったかどうかは知らないけど、淨山寺のお地蔵さまが守り神[#「守り神」に傍点]であることだけは事実よね。江戸時代の始まりから、ずーと護ってくれているんだから」
「あ、ほんまや、今でも皇居を護ってるんやもんな。そやったら四百年間ずーとや……」
「三つ葉葵と菊の御紋がついてるけど、別に誰かの守り神だと限定されたわけじゃないわ。五千回以上もの出開帳をやったのが、その証拠ね」
「そや[#「そや」に傍点]、あそこのお地蔵さんは超《すーぱー》あいどるやったんやもんな。……そやけど、淨山寺が真北にあるいうことは、お江戸の人たちも知ってたんやろか?」
「真北のことは知らなくても、慈覺大師のお地蔵さまが自分たちを護ってくれているらしいことは、何となくわかるものなんじゃないのかしら……」
庭の方を見やると、鎮守の森に夕闇が忍びよってきていた。
土門くんはいつの間にか座敷に寝転がっていて、
「うちら日本史書き換えたぞう」
すこぶる上機嫌である。けれど、まな美は昨日の夜の電話のことが思い出されて、魔除けの赤のリュックを膝に引き寄せていた。
「……姫、淨山寺で燃えてしもた家康のお像な、あれやっぱり家康さんの骨が入ってたと考えると辻褄合うやんか?」
「どうかしら」
物思いを振り払ってから、まな美はいう。
「要するに、分御霊《わけみたま》ということよね。家康が臨終のさいに着ていた服でもいいだろうし、もちろん分骨《ぶんこつ》でもいいし、霊魂の依代《よりしろ》になるような何かがお像の中に入っていたと考えるのが妥当かしら……万が一、日光東照宮が燃えたとしても……魂が燃えちゃうとアウトでしょう、だからその安全策としての意味合いが、淨山寺にはあったんじゃないかとも思うわ」
「そやったら、淨山寺は副《さぶ》になるやんか、何といっても真北[#「真北」に傍点]は強いぞう……文久二年いう偶然とは思われへんような年に火事になっとうし、お寺が燃えたら幕府は転《こ》けたんやし、菊の御紋はついとうし、それに家康が祈ったら天下をくれたんやから、やっぱり本体いう方がさま[#「さま」に傍点]になるぞう……」
実際、事実[#「事実」に傍点]とは思えないほどよく出来た寺である。
「……そやけど、このお寺さんのことは、うちらが発見するまで誰も気づかんかったんやろか?」
「たぶん、お厨子に菊の御紋をつけた人を除いては、ご住職もどの程度知ってるのか疑問ね……魔方陣とか分御霊とか、あるいは妖怪の魂移《たまうつ》しとかも、秘密裏にやってこそ価値があるでしょう。それに淨山寺は曹洞宗に変わってるから、徳川や天皇家とは直接の繋がりがなくて、人知れず埋もれてしまっていたのね」
「自分いまヒラめえたぞう、徳川の埋蔵金伝説いうんがあるやんか、淨山寺は幕末に建て直したんやから、そのとき床下にでも埋めたんちゃうやろか?」
「何もかも淨山寺というのは無茶だわ」
「おわ――」
土門くんが驚いたように声をあげた。
「――天目[#「天目」に傍点]、いつの間にそんなとこおったんや?」
まな美が振り返って見ると、次の間の襖のきわにマサトが立っていた。その後ろの襖の並びが、少し乱れている。
「あら、そんなところからも出て来れるんだ」
やはり、そこは押し入れではなかったようである。
マサトはすたすたと畳を歩いてくると、
「――すごいね、淨山寺の秘密が解けたんだ」
立ったままでいった。
「襖の陰からでも聞いてたんか?」
その土門くんの問いには答えずに、
「――大丈夫、淨山寺の地蔵さまが護ってくれるよ。僕たちを護ってくれるから――」
晴れ晴れとした顔でマサトはいった。
[#改ページ]
24
大学の食堂でランチを終えた火鳥が、自室に戻って豪華《ゴージャス》な赤のソファーに寝そべっていると、電話が鳴った。
「はい、情報科ですけど……僕ですが」
外からの取り次ぎ電話である。
「もしもし……はい、それは僕の書いた本ですが、それは呪詛《じゅそ》と読むんですけれど……おっしゃる通り呪いのことです……まあ専門といえば専門ですが、僕は呪いの専門家というわけではないので……さあどうでしょうか、この手の本は例がないと思いますけど……話をするのは全然かまいませんよ、何かの取材なんですか?」
電話の相手が名のって火鳥は驚いた。さらに、今からすぐに伺いたいという。
「――それはダメですよ、大学に来るのだけは勘弁して下さい」
ならば迎えの車を回す、と相手はいう。その情景をチラッと火鳥は思い浮かべて、
「それは最悪[#「最悪」に傍点]です。駅を教えていただければ自力で行きますから……分かりました。急ぎの話なんですね、すぐに出ますので」
火鳥は、白衣を脱いで芥子色の麻の夏ジャケットに着替えると、隣室の西園寺静香に、
「用事ができたんで帰ります」
と簡単に挨拶をして、電話があってから二、三分後には研究室を後にしていた。――火鳥も、男子の端くれなので、それなりに血が騒ぐ相手からの依頼であった。
「ご足労願ってすみません……大学の先生にわっざわざ来ていただくなんて」
署の三階のフロアで火鳥を出迎えたのは、刑事課の係長、依藤警部補であった。火鳥よりも少し背が高い依藤は、銀行員には見えないが刑事にも見えない、そんなタイプの男性である。
「いや、こういうところ滅多に来れませんから、見てみたいという気持ちもありまして」
一部、火鳥の本心である。
「こんな小汚いとこでよければ、いくらでも見てって下さい」
調子を合わせて警部補はいうと、『第三会議室』と名札が懸かった小部屋に火鳥を招き入れ、
「どうぞお掛けになって、少し待ってて下さい」
いうと扉を閉めて出ていった。そこは、壁際にホワイトボードが置かれてあり、十人ほどで使うような簡素な会議室である。暫くすると、小わきに資料を抱えて依藤は戻ってきた。
「先生も、コーヒーでよろしいですよね?」
火鳥は頷いた。美味しい日本茶……と所望したいところだが、それは無理な注文である。
「ところで、火鳥竜介さんって、ご本名なんですか、筆名《ペンネーム》なんですか?」
火鳥の左隣の席に座りながら、依藤はいう。
「よく聞かれるんですが、本名です」
二十一歳までは別の名前であったのだが。
「カッコいいお名前ですなあ、それに本の写真とは全然違うじゃありませんか。さっき会ったとき別人かと思いましたよ」
資料の中から『呪詛における脳神経学的考察』を摘まみ出しながら、依藤はいう。
「それもよくいわれます……しかしよく見つけましたね、ほとんど売れないんで、書店にはもう並んでいないはずなんですが」
「いや、これは午前中に出版社まで行って貰ってきたんですわ。インターネットで、どんな本が出てるのか分かりますからね」
とはいっても、部下の植井刑事が検索して見つけ出したのであるが。
「……電話でもちょっとお尋ねしましたけど、呪いとかを科学的に書いとられるのは、やっぱり先生のご本ぐらいしかないですね。これは世界で一冊という超[#「超」に傍点]貴重な本ですわ」
事実そうであったとしても、本の売れ行きが左右されるものではないが。
「……ですから、先生にお話をお伺いするのが一番だと思いましてね。それで早速なんですけど、まずこの小冊誌《パンフレット》をご覧になっていただけませんか」
コピーを束ねてホッチキスで止めたような粗末なものだが、火鳥に手渡された。
「……魔女の呪い、実践講座ですか」
それが小冊誌の表題《タイトル》である。火鳥はぺらぺらと捲りながら、
「えー、いじめから逃れる呪い、臨《りん》・兵《びょう》・闘《とう》……これは単に密教の九字《くじ》を切ってるだけですね。禍《わざわ》いをなす相手を呪うには、写真の上にタマネギの皮を剥《む》いて置くべし、これは五辛《ごしん》だけど出鱈目だな。それから、密封できる容器の中に百足《ムカデ》、蜥蜴《トカゲ》、蛙を入れて放置する……かの有名な蠱毒《こどく》だけど、こんなもの現実に誰がやるというんだ。それと、片想いを成就する呪い、これはゲルマン人が使っていた神聖ルーン文字ですね。……古今東西の寄せ集めですね」
興味なし、といった感じで火鳥はいう。
「その最後のですね、付箋《ふせん》を挟んでいるところを見ていただけませんか」
「どれですかあ……究極の呪い、すべての願い事に効果は絶大。人が寝静まっている真夜中に行うべし、逢魔《おうま》が時は目に現れるので……えっ?」
火鳥の顔色が変わった。
「逢魔が時は目に現れるので、その兆候《サイン》が現れたなら、耳元で呪文を囁くべし。そんな馬鹿な――」
「やはり、変[#「変」に傍点]な話なんですか?」
どっちともとれる問だが、不安げに依藤はいう。
「――ちょっと待って下さいね。頭ん中整理しますから」
火鳥は五秒ほど考えてから、
「僕の知ってる範囲内では、古今東西、こういった呪いの方法論について記された書物はありません。ですが、僕のワープロの中にはほぼ同じような文章が入っています」
「――すると、先生のところからネタが漏れたということですか?」
「それはないと思いますが、でも脳系の学者ならば、理論上、導き出せないこともない、そういった方法なんですよ……究極の呪い[#「究極の呪い」に傍点]、とありますがこれは逆でして、いわば、呪いの初歩ともいえます。誰にでも簡単にできちゃうんで、ヤバいので[#「ヤバいので」に傍点]、だから呪詛の本に載せるのを僕はやめたんです」
「それはつまり、呪い[#「呪い」に傍点]として効果がある[#「ある」に傍点]、と考えていいわけですか?」
「ええ、比較的簡単な仕組《メカニズム》ですから」
「それ[#「それ」に傍点]、分かるように説明していただけませんか?」
せっつくように依藤警部補はいう。
「それは説明しますけど……その前に、この小冊誌《パンフ》どこから出てきたのか、そのあたりを教えてくれませんか。他の項目はオカルト本からの寄せ集めで、実践しようにも出来ないのが大半ですし、それにやっても効果ありません。でも、この最後のだけ異質[#「異質」に傍点]なんですよ。だから逆に、これは理屈[#「理屈」に傍点]を知ってる人間が作ったとも思えるんですが」
「……いや、実際その通りなんですわ。これカルチャースクールのような場所で配られたんですが、そこの教官は、その最後の方法に、聞きに来ていた人を誘導してたらしいんです。これだけ覚えておけば大丈夫、何にでも応用できるから、と」
「その教官とやらは、どこの誰[#「誰」に傍点]なんですか?」
火鳥が、ちょっと声を荒げて訊ねると、
「すいません……」
頭を下げながら、依藤警部補はいう。
「この小冊誌《パンフレット》が手元に来たのは、昨日の夜なんですわ。だから、まだ本格的な捜査には着手してないんですよ」
「けど……考えると変な話ですよね。こんな与太《オカルト》本で警察が動くとは……で僕が呼ばれたということは、すでに、その呪いで事件が起こったということでしょうか?」
「まあ、そういうことなんですわ。最初は眉唾《まゆつば》だったんですが、今は七・三ぐらいでそう考えてます。それと急いでる理由もあるんですわ。経緯を手短に説明しますとね、とある女子高生が、合宿で相部屋になった三人の同級生に、夜中に呪いをかけたんです。その呪った本人が、昨日、交番に助けを求めてきましてね、呪いが発動する前に、それを止めてくれというわけですわ」
「……自分で呪っておきながら、止めて欲しいんですか?」
「ええ、呪った女子高生のひとりが怪我をしましてね、事故とも事件とも、どっちともいえるような話なんですが」
依藤警部補は、池袋署から聴いた石田聡子の状況を、名前を伏せて簡単に説明した。
「……といった経緯なんで、思うに、退学は止むをえんでしょうな。うら若き乙女[#「乙女」に傍点]が素っ裸で脳震盪を起こして、そのうえ退学ですからね、これほど凄い呪いもないでしょう。まさかそんな事態になろうとはと、ブルッちゃったわけです」
「その怪我と呪いとは、因果関係がはっきりしてるんですか?」
「ええ、それはボンクラな頭にでも分かるような話なんです。火鳥先生、先にその呪いのメカニズムとやらを教えていただけないでしょうか? 交換条件《バーター》みたいで申し訳ないんですが」
コン、コン。
火鳥が説明に入ろうとすると、部屋の扉がノックされた。出前のコーヒーが運ばれて来たのである。
依藤は伝票にサインをしながら、顔見知りらしい女性の店員に軽い冗談をいった。その店員が部屋から出て行くと、依藤が火鳥に尋ねた。
「先生は、お酒の方はいかれるんですか?」
火鳥は砂糖も入れずにコーヒーを激しく掻き混ぜ、その渦巻きにミルクを多めにたらしながら、ええ、と頷いた。
「この事件が片付いたら、必ず奢りますのでね」
人懐っこい顔をして依藤はいった。
「じゃ、その呪いの仕組ですが……」
奢り[#「奢り」に傍点]に釣られたわけではないが、火鳥は説明を始めた。
「まず逢魔が時……これは厳密にいうと満月の夜のことで、その時には、魔女の呪文をかける力が最大になる、そんな意味ですから、言葉の使い方としては出鱈目です。問題は次の、その兆候は目に現れるといった下りですね。――警部さん、結婚されてますよね?」
「はあ、まあ……」
警部ではなく警部補なのだが、火鳥には区別はつかないようである。
「夜中に、奥さんの寝顔を見ていたら、目が激しく動いていた、そういったことに気がついたことありませんか?」
「いや、布団に入るとバタンキューですからねえ」
「そうですか……男は大概、恋人の寝顔を見ていてギョッとすることが多いんですけどね……瞼の下で眼球が激しく動くので、ラピッド・アイ・ムーブメント、略してREM睡眠というんです」
「ほう……」
「これは性別を問わず人間すべてに起こるんですが、学術的に発見されたのは一九五〇年代でして、比較的最近の話なんです。かつては魔女の証しと考えられたこともあって、中世ヨーロッパでは、これで殺された人もいます。だからまあ、逢魔が時とこじつけられないこともないんですが……で、このレム睡眠の最中には、その人は必ず夢を見てるんですよ。たとえば、そのレム睡眠中に、その人の鼻先に花の香りを撒いたとしたら、どうなると思います?」
「さあて……」
「その人が見ている夢に、お[#「お」に傍点]花畑が出てきたりする場合もあるんです……影響を受けちゃうんですね。眠っているにも拘《かか》わらず、外部からの情報を、脳はそれなりに処理できる状態にあるんです。このレム睡眠中は、脳は起きているのと殆ど同じでして、勝手に、夢を見るという作業をしているわけです。なぜ脳は夢を見る必要があるのか、これは諸説あるので省きますが、つまり、レム睡眠の証しである目の動き……が見られるときには、脳は起きていて、耳からの情報も、それなりに脳に入るんです。だからやり方次第では、呪えるわけですね」
「……なるほど、思ったより単純な話ですな」
「これ、催眠術と似てるんですよ。通常、僕の脳は僕の意識の支配下にあるわけですが、悪戯をされて、意識からの配線が切られちゃうと、僕の脳が他人の言葉にダイレクトに従ってしまうわけです、それが催眠術ですよね。レム睡眠のときも、意識は無い[#「無い」に傍点]も同然ですので、やはり他人の言葉が脳にダイレクトに入力されてしまう場合もあるんです……これは呪いの初歩だといいましたが、これを一歩先に進めると、いわゆる丑《うし》の刻《こく》参りになります」
「……といいますと?」
「呪いといえば、藁《わら》人形に釘を打つ……が有名ですよね、あれをそう呼ぶんですが、丑の刻とは夜中の二時頃でして、つまり、そういった時間帯にやると効果が期待できるんですよ。夜中は、誰も見ていないから呪いの儀式をやるのに相応しい……といったことではなくて、相手が寝ているときを狙って呪う、というのが正しい理屈なんですよ。レム睡眠のタイミングに合わせたいところですが、そこまでは分からないので、おおよそのところでやるわけですね。一時間も呪っていれば、必ずレム睡眠とぶち当たりますから。もっとも、この丑の刻参りには、呪う人の脳と呪われる人の脳とがダイレクトに繋がる、つまり、いわゆるテレパシーのようなものの介在が必要になりますが……」
「それはまあ、物語としては面白い話ですな」
火鳥の理論では十分に実話なのだが、その説明は控えて、火鳥はいう。
「……仕組《メカニズム》はそういったことですね。でも奥義は、耳元で囁く呪いの文言《もんごん》にあるんですよ。脳にバグを生じせしめるには、それなりのテクニックが必要ですからね」
「それ、後学のために、教えていただけませんでしょうか?」
「――絶対[#「絶対」に傍点]に悪用しないで下さいよ」
不敵にも火鳥は、殺人課の刑事をひと睨みしてから、
「ヤバい呪文の筆頭は、人称代名詞をいじることなんです。たとえば……」
具体的な例を幾つかあげて、火鳥は語った。
「……こういった呪いの文言を脳に入力されてしまうと、人格|乖離《かいり》や、多重人格症などを引き起こす危険性があります。身体の具合を悪くさせるのも、似たようなやり方で可能です」
「……ほう、失礼な話ですが、学者さんってけっこう恐ろしいこと考えられてるんですねえ」
「理論上[#「理論上」に傍点]、導かれるだけで、実際に試したりはしませんよ。僕はマッドじゃありませんから……ところで、その女子高生が囁いた呪文は、どういったものなんですか? こちらも交換条件《バーター》みたいであれなんですが」
「ええ、それはお話ししないことには先に進めませんので……ですが、捜査上の秘密ですから、外部には漏らさんで下さいね」
依藤警部補はやんわりと釘を刺してから、
「竜を殺せというのが、その呪文なんですよ」
「はあ?」
火鳥が聞き直した。
「……竜を殺せ、です」
依藤がゆっくりと念を押すようにいうと、火鳥は苦笑しながら、
「また変な呪文ですねえ……強いていうならば、竜を/見たら/殺せ、が正しくて、後暗示と呼ばれるものになりますね。後々、何かのきっかけがあれば、何かの行動をとれという命令の暗示です。でも竜は架空の産物なので、殺しようがありませんけど」
「……先生、たとえば精巧な竜の絵が床の間にでも掛けてあったとしたら、それを呪われた人が見たなら、どうなりますか?」
「うーん、バリッと破っちゃうかもしれませんね」
「その、バリ[#「バリ」に傍点]ですわ。ホテルの風呂場でひっくり返った女《こ》はそれをやったわけです。男の背中に、竜の刺青のようなものがあったんですよ」
「なるほど……それは考えられる話ですね。しかし、呪われたのはいつで、事件はいつなんですか?」
「それはですな……」
依藤警部補は手帳を見ながら、
「三泊四日の夏期講習の最終日が、三日前の朝でして、ホテルの事件は、その日の夜の七時ですね」
「それだったら、生きてたかもしれませんね」
「どういうことですか?」
「その、竜を殺せという後暗示が、おそらく生きていただろうということです。その種の呪文は時間が経つと消えますから」
「――どれぐらいで消えますか?」
「それは実験してみないと何ともいえませんね。その子は、三夜連続して呪ったんですか?」
「さあ、そこまでは聞いてないんですが……」
「暗示というのは、しつこくやればやるほど長持ちしますからね」
「……実はですな、呪われた女子高生のひとりが、旅行に出たらしくて連絡が取れないんですわ、それを心配してるんですけどね……呪った本人は」
「すでに三日経ってますよね、だったら消えてると思いますけど……いや、これは僕は責任とれないので、まだ消えていないと考えて、消した方がいいですね」
「――消せるんですか? 呪いが?」
「これなら簡単に消えます。理屈は同じで、その女子高生に竜の絵を見せればいいんです。もし暗示が生きていれば、その竜の絵を破るか何かの反応を示すはずですから、それで終わりですね」
「――そんな簡単なことでいいんですか?」
「ええ、この形式の呪文だと、一度行動を起こせば命令は達成されたことになって、それで暗示は消えますから」
「ほう、さすがに明快なご説明ですな……そこまで教えてもらって行動を起こさないというのも、後[#「後」に傍点]味の悪い話だから、どこに旅行にいったのかぐらいは調べてみますかね……」
どうせ植井刑事に任せるのであるが。
「ところで、呪われた女子高生は三人ですよね、もうひとりはどうなったんです?」
火鳥が尋ねると、
「……それが問題なんですわ、ちょっとヤバい事件が起こってましてね……」
喋りたくなさそうに、依藤警部補はいい淀んだ。
「それは、教えてくれないんですか?」
火鳥としては、興味の虫がおさまらない。
「うーん……」
腕組みをして依藤は唸ると、
「どこにも一切何も絶対[#「絶対」に傍点]に漏らさない、と、約束していただけますね――」
刑事らしく凄んでから、
「――電車に機ねられて男[#「男」に傍点]が死んだんです。ところが、その男の背中には、生きているように見事な竜の刺青が入ってまして、透け透けのシャツを着てて、これ見よがしに見せびらかして歩いていたような、いわゆるチンピラだったんです……で、事件現場の近くに忘れ物があって、それが、その女子高生の持ち物だと確認されたわけですわ」
凄んだわりには、依藤はアバウトに説明する。
「しかし、そんな忘れ物程度の証拠で犯人を特定するのは……犯人というのは変ですが、その女子高生がやったとは決められないでしょう」
にわか探偵になって火鳥はいう。
「勿論です。それとは別に、事件の様子を見ていた目撃者がいるんですわ。幼い子供なんでちょっと頼りないんですが、白い服を着ていたおねえちゃんが犯人だと、その子はいうんですよ」
「なるほど……目撃者[#「目撃者」に傍点]がいるのか」
何人かをずらずらっと並べて、いわゆる面通しをする、犯人はあいつだと目撃者が指をさす、そんな映画の一幕《ワンシーン》を火鳥は思い浮かべながら、
「……すると、その女子高生が確かにやっていたと判明した場合、警察としてはどうするんですか?」
「とりあえず、身柄の拘束はしますね。実行犯を捕まえるのが警察の仕事ですから。犯行時に心神喪失であったかどうかは、その後、先生のような専門家の皆さんで判断していただくことになろうかと思います」
「……呪った方の生徒はどうなるんです?」
「それは関係ありませんね。そもそも人を呪っても罪にはなりませんから」
「しかし理不尽な話ですね、呪われた子だけ警察沙汰になるなんて」
「うーん、人ひとり死んでますからねえ、いずれ無罪放免になるにしても、瞬間そうなるのは止むをえんですな。まあ、貧乏|籤《くじ》を引いたと思って諦めていただくしかないですねえ」
「貧乏籤[#「貧乏籤」に傍点]……」
どんぴしゃの言葉に火鳥は少し笑ってから、
「じゃ、その呪いを教えたカルチャースクール、俗にいうセミナーですが、これはどうなりますか?」
「そらますます関係ありませんね。人殺しのハウツウ本を出版したとしてもお[#「お」に傍点]咎めはないでしょう、同じですよ」
「つまり野放しということか……それは僕としては許されないなあ、そのセミナーの住所教えていただけませんか、自力[#「自力」に傍点]で調べますから」
正義感と好奇心、三・七ぐらいで火鳥はいった。
「いや、先生にそこまでお手を煩わさせるわけにはいきませんわ。こら自分も気になってますのでね、警察の方で調べます、お[#「お」に傍点]約束しますから――」
力強く依藤はいった。
「じゃ、何か分かったら教えてください。たぶん、どこかの宗教団体が絡んでると思いますので、何を考えてこんなことやってるのか、是非とも本心を開いてみたいところです……それとこの小冊誌《パンフレット》、貰ってもよろしいでしょうか? さらに詳しく調べてみたいので」
「あ、それ現物[#「現物」に傍点]なんですわ。コピーを取ってお渡ししますから――」
そして火鳥はコピーを貰い、三階のエレベーターのところまで見送られて、そのドアが閉まる直前に、今度必ず奢りますから、と依藤警部補はいった。
警察署からの帰りの電車の中で、火鳥はちょっとした高揚感に浸りながら、『魔女の呪い、実践講座』のコピーに目を通していた。
やはり読めば読むほどに寄せ集めであり、しかも程度《レベル》の低い内容である……その中程のページを見ていて、余白に、何かメモ書きのようなものがあるのに火鳥は気づいた。
細長い楕円形が三つ平行して並び、その横に縦に楕円が一つ置かれている。その各々から傍線が出ていて平仮名が添えられてあるが、いわゆる少女文字であり、かなり読みづらい。
「何だって……いしだ、×、あそう、えもと」
×印を除いて、どうやら人の名前のようである。
「寝ているときに呪ったわけだから、これは布団の配置かな……とすると×印は呪った本人ってことか、警察に説明するときに自分で書いたのかな」
そこまではごく自然な推理である。けれども、
「あそう[#「あそう」に傍点]……」
一抹《いちまつ》の不安が頭をよぎる。
「特別に珍しい名前じゃないからな」
しかし、火鳥の頭の中でジグソーパズルの断片のようなものが、音を立てて噛み合っていく。
「三泊四日の夏期講習か……たしか、まな美もそんなこといってたなあ、禅寺に行っていて前日に戻ってきたと……それに白いワンピースを着ていたけど、夏だからなあ」
ドキッとするほどに大人びた白のノースリーブでまな美が研究室に現れたのは、一昨日《おとつい》の午前中のことである。人に関係する記憶はとんと苦手な火鳥の頭にも、その服装はしっかりと焼き付いている。
「まさか……」
とは思ったのだが、火鳥は乗っていた電車を途中下車して公衆電話を探した。
「……ママ、この霧吹きみたいなの何に使うの?」
まな美は変[#「変」に傍点]なものを持ってきて、居間《リビング》で編み物をしている母の紀子に尋ねていた。
紀子は、茜《あかね》色をした綿のサマーニットと格闘中で、顔を上げて見るなり、
「あら、そんなものどこで見つけてきたの?」
ちょっと顰《しか》めっ面をしていった。
「パパの古い机の、一番上の引き出しから」
箪笥《たんす》部屋の隅に埋もれている竜介の机は、麻生家ではそういうことになっているのだ。
「まな美が知らないのは無理もないわね、そんなの使ってたのは私の子供の頃だから……中に殺虫剤を入れて、シュ、シュ、とやるの、昔はそれで蝿や蚊を殺していたのよ」
「うわ、汚なーい……」
持っている手の持ち方が急に変わって、まな美はそそくさと元あった場所に返しにいく。古い勉強机の引き出しにそれを戻すと、はかったように、そばに置かれてある電話のベルが鳴った。
まな美が受話器をとると、
「麻生まな美さんでおられますでしょうか――」
いきなり男性の声が訊いてきた。学校の友達にしては妙な言い廻しである。
「あっ、お――」
まな美は声をひそめて、
「おにいさん[#「おにいさん」に傍点]なの?……変なとこで電話取っちゃったから、切り替えるからちょっと待っててね」
そして、まな美が自分の部屋に行こうとすると、
「誰からの電話……」
編み物の手を止めずに紀子が尋ねてくる。
「うん、土門くんから」
平然とまな美はいって自室のドアをくぐった。
何かにつけて、土門くんの名前を出しておくと母の紀子は安心するようなので、それはもう、まな美にとっては癖[#「癖」に傍点]のようなものである。
「――危なかったわよおにいさん、電話は普通ママが取るんだから」
ベッドの横に置かれてある電話の子機を掴《つか》むなり、まな美はいった。
竜介が麻生家に電話を入れたのは今日が初めてのことなのだ。――平日の午後だから父親の竜一郎が出ることはまず考えられないが、紀子か妹かどちらが出るかは賭けであった。もっとも、もし電話口に紀子が出たとしても、声を聞き分ける自信は竜介にはなかったのであるが。
「――おにいさん、昨日の夜も一昨日《おとつい》の夜も家にいなかったでしょう、電話したのよー、それに一時間ほど前にも大学に電話を入れたんだから、そしたらすごーく奇麗の声をした、やさしーい感じの若い女の人が出たんだけど、誰なの?」
一方的に、まな美が質問をぶつけてくる。
一昨日の夜いなかったのは、その奇麗で優しい声の女性と夜中まで飲んで話していたからだし、昨日の夜は、大学に知られるとマズい秘密[#「秘密」に傍点]のアルバイトに勤《いそ》しんでいたからだが、そんなことを適当に竜介が答えていると、さらにまな美は聞いてくる。
「ねえねえ、わたしおにいさんの所で淨山寺の縁起《えんぎ》をノートに書き写したでしょう、そのノート、置き忘れてなかったかしら? そのことが気になってたから何度も電話をしたんだけど……」
電話口の向こうにいる竜介が、しばし沈黙をした。またひとつパズルの断片が噛み合ったからである。
竜介は意を決して、警察で聞いた、脳震盪の女子高生の話をそれなりに脚色して語った。
「えー? どこからそんな話仕入れたの?」
竜介は咄嗟《とっさ》に適当な嘘をついた。
「あ、おにいさんの大学にも、うちの高校から行ってるものねえ、そんなところまで噂が流れるんだ」
嘘が通じたようで、まな美は話を続ける。
「実はねおにいさん、わたし禅寺の夏期講習に行ってたでしょう、その事件を起こした女の子とは同じ部屋だったのよ……」
[#改ページ]
25
空が茜色に染まり始めていたその日の夕刻、火鳥は、森の中にひっそりと佇んでいる古びた木の門の前に立っていた。
うろ覚えであったのだが、まな美が研究室に来たときに大凡《おおよそ》のことを語ってくれていたから、駅を出てバスに乗り、古利根川に架かる橋まで来るとその鬱蒼と茂る森が見えてきて、それが決め手となった。つぎのバス停で降りてその森の方角に歩いていくとほぼ迷わずに辿り着くことができた。
火鳥は、その門のぐるりをひと通り探してみたのだが、呼び鈴らしきものが見当たらない。
「ごめんくださーい」
その声も間抜けで、森の中にかき消えていくだけである。仕方なく火鳥は門の右にある勝手口のような戸を押してみた。鍵はかかっていない。
その戸をくぐってもなお鬱蒼とした森で、木立の間を縫うように小径が続いているだけである。火鳥は物怖《ものお》じすることなく奥へと進み入っていく。
ガサガサ。
音がしたかと思うと、両脇から男ふたりにしっかと固められてしまった。――神が住まいする邸内に無断で立ち入ったのだから、それは止むをえぬこと、火鳥もそれなりに予期していた。
が、意外にも、どこかと連絡をとり合っているような短い囁きの後で、あっさりと解き放たれ、
「失礼いたしました。先にお進みください」
いうと、男たちはまた森の中へと消えていった。
「ふう」
安堵《あんど》の溜め息をつきながら火鳥はジャケットの袖を、――べつに乱れているわけではないのだが、皺を伸ばす儀式めいたことをやってから、さらに奥へと進んでいく。
屋敷が見えてきた。
と同時に、木立の陰から薄茶色の和服――作務衣を着た老人が姿を現した。
「火鳥さまでございまするな。お電話をいただければ、お迎えにあがりましたのに」
そばまで行くと老人がいった。
火鳥は、なぜ自分の名前を知っているのか疑問に感じながらも、
「すいません、突然お伺いをして」
型通りの挨拶をした。
「ささ、どうぞこちらに……」
老人は先に立って歩いていく。
思えば、その老人が桑名竜蔵であることを火鳥も知っているのである。それに、ここは神の館なのだから何があっても不思議ではない――。
火鳥が案内されたのは、まな美たちがいつも使う離れの奥座敷であった。
が、広縁の板のうえに円い藁座《わらざ》がふたつ、ほどよい間隔をあけて置かれてあって、そのひとつに竜蔵が腰をかけた。
「……ここが、一番涼しうございましてな」
座敷ではなく、縁側で用件を聞こう、そういった按配《あんばい》のようである。火鳥は招かれざる客なのだから、それは致し方がない。
「まな美から……妹から聞いていたんですが、桑名さんでいらっしゃいますよね」
念のために火鳥は聞いてみた。
「さようです、天目マサトの親代わりでございます。まな美さまには、マサトがたいそう仲良くしていただきまして、昨日も、まな美さまはここにお見えになっておられましたのですよ……はい」
和《にこ》やかに微笑みながら竜蔵は応える。
「その、天目マサトくんという少年のことに関してなんですが」
火鳥は、その竜蔵の顔をきっと睨みながら、
「――単刀直入におうかがいしますけど、アマノメの神には、なにか敵[#「敵」に傍点]がいるんですか?」
「はあ? なんのことでございましょうか……」
それは予期せぬ質問だったらしく、竜蔵は火鳥の顔を窺《うかが》いながらいった。
「うーん、どこからどう説明していいのか迷ってしまうんだけど……、要するに、こちらにおられるのは天目一箇命《あまのまひとつのみこと》の末裔《まつえい》ですよね?」
「さあて、なんのことでございましょうか」
それに関しては、表情ひとつ変えずに竜蔵は応える。
「しらばくれるのは止むをえないでしょうけど、僕[#「僕」に傍点]としても引き下がれない理由がありましてね――」
「そう申されましてもなあ」
竜蔵はなおも穏やかに受け流そうとする。
「あっ、お茶が参りましたですよ」
火鳥が振り向くと、夕暮れどきの頼りなげな光のなかを、ぼうっと白い服の女性が広縁の廊下を歩いてきていた。
よく見ると、ごくごく淡い紫の上下に同色の薄手のカーディガンを羽織った若い女性である。それも、思わず見惚れてしまうほどの美人である。
「――粗茶でございますが」
蚊の鳴くような声で彼女はいうと、茶托にのった湯呑をふたりの間に置いていく。
誰かに似ている……と火鳥は感じたのだが、それが誰なのか思い浮かばない。火鳥は人の顔はいまひとつ苦手なのである。
「ごゆるりと――」
希美佳は来た道をしずしずと戻っていった。
「うわあ、すごい美味しいお茶ですね」
ひと口飲むなり、顔を綻《ほころ》ばして火鳥はいった。
「……さようでございますな。夏休みなので遊びに来ておる親戚の娘《こ》なんですが、煎《い》れるのが上手でしてなあ」
竜蔵もそのお茶で喉を潤しながらいった。
「これは葉っぱもちがうなあ……ぼくが家で使ってるような安物の煎茶とはちがう、といった意味ですけどね」
いうと火鳥は、ごくり、ごくり、と音を立てて飲んで、湯呑の底を見せながら最後のひとしずくまで飲み干してしまった。
「……ほう、火鳥さまは日本茶がお好きでしたか」
秘密でも発見したように、すこし嬉しそうに竜蔵はいってから、
「そうそう、火鳥さまのお名前はたしか竜介さんでしたよな。わたしの甥にも字は違うんですが、おなじく竜助というのがおりまして、そやつがお茶を飲んでおった姿を、今、ふと思い出しましたよ」
竜蔵は死んだ人間のことを語っているのだが、火鳥はそのことには気づかずに、
「その、竜[#「竜」に傍点]の話なんですが、ぼくの竜には意味はありませんが……失礼ですが、桑名竜[#「竜」に傍点]蔵さんですよね、そちらの竜は大いに意味があるはずだ、そうですよね?」
竜蔵は困ったような顔をするだけで、言葉を発しない。
「――天目一箇命はマイナーな神だけど、これを祀っている神社は日本にひとつというわけじゃない。けど、アマノメの神と竜の伝承が重なるのは、ぼくが知ってる範囲では、三重県桑名にある多度《たど》神社だけなんです。桑名というのは、すなわち桑名竜蔵さんの桑名で、地名でもあり人名でもある桑名|首《おびと》ですよね。奈良時代からいらっしゃる古代氏族のひとつだ。そんなことはどっちでもいいんですが、桑名さんが、おそらく神[#「神」に傍点]だと仰いでらっしゃる天目マサトくんの身のまわりで、呪いの文言《もんごん》が発せられているんですよ」
「呪い[#「呪い」に傍点]……でございまするか?」
先代と先々代のアマノメに仕え、アマノメの神の秘儀は知りつくしている竜蔵ではあっても、それは縁のない言葉である。
「ご存じないだろうと思ったからお知らせにあがったわけだけど、――竜を殺せ、というのがその呪いの文言なんです。竜を殺せ[#「竜を殺せ」に傍点]……ですよ。こんな呪文が効く相手といえば、天目マサトくんをおいて他にないでしょう」
「――どういったことなのでしょうか?」
竜蔵には理解できない話のようである。
「その呪いは、まな美の通っている学校の生徒の間で流布《るふ》されたわけです。もちろん天目マサトくんもいますよね、かりにマサトくんが、その呪文が入力《インプット》された脳と接触《コンタクト》をしたなら……桑名さんがアマノメの神をどのようなものと考えておられるのかぼくは知らないので、ぼくの論理で勝手に話を進めますが……もしそうなったなら、マサトくんの脳はそうとう酷いダメージを食らいますよ」
「そう申されましても、あの子は、竜というわけではありませぬが」
「もちろん人間でしょう。けど、桑名さんは、アマノメ少年のことを竜[#「竜」に傍点]だなどとは断じて[#「断じて」に傍点]見なしていない――といえますか? それに、彼が受け継いでいる先祖の記憶としても、自分《おのれ》は竜であると、彼の脳には刻まれているはずなんだ。本人が自覚するしないにかかわらずね」
「……さようでございまするか」
竜蔵としては、曖昧《あいまい》に応えるしかない。
「最初ぼくは、なんて馬鹿げた呪文だろうと笑っていたんです。けど、考えるとそうでもない。こちらには竜が実在[#「実在」に傍点]されますからね、それを標的にしたと考えると辻褄は合うんだ……どんな敵に狙われてるのかぼくは知りませんが、そのいざこざにまな美が、ぼくの妹が巻き込まれちゃったわけですよ」
まな美との電話を終えた火鳥がたどり着いた結論がこれ[#「これ」に傍点]であったのだ。だから強引に、アマノメの館に訪ねて来たのであるが。
「――まな美さまに、何かあったのでございまするか?」
竜蔵は、まったくそのことは知らない。
「なにかあったもなにも――」
火鳥がいきさつを語ろうとしかけたとき、
パッ、パッ、パッ……。
照明が奥の間から順に灯っていった。暗くなったので自動的に点《つ》いたのか、そう火鳥が思っていると、竜蔵もすこし驚いた様子で座敷の奥の方へと顔を向けた。
すると、壁のようにも見える柿渋色の襖がひとつだけ横にずれて、そこから、半ズボンに白シャツ姿の男の子が姿を現した。そして畳のうえをすたすたと歩いてくると、広縁の敷居の手前まで来て立ち止まった。
「きみがマサトくんか――」
妹と同級生だから十七歳のはずだが、火鳥が想像していた以上に幼い。背はそれほど低くはないが、抱き締めると折れてしまいそうなほど華奢で、まだじゅうぶんに少年[#「少年」に傍点]と呼べるような男の子である。
「――麻生さんがどうかしたの?」
その天目少年がいった。
「いや、きみにならそれが分かると思うんだ」
いいながらも、火鳥は少年の目のあたりを窺っていた。外見上は異常はないようだが、目の光にわずかな差が……そのようなことを考えていると、気づいたのかマサトが顔を逸らして、
「そうか、あの淨山寺の資料はあなた[#「あなた」に傍点]だったんだ」
理解したようにいった。
「そう、ぼくがまな美に教えたんだけど」
「……そういう意味じゃなくて」
横を向いたまま、説明しづらそうにマサトはいう。
「あ、すまない」
少年が何をいわんとしているのか火鳥も理解した。
「――あれはぼくの仕業《しわざ》だ。わざとあのような資料を選んだんだ。きみにとっては悪戯ではすまされないことだとは思うが、姑息《こそく》な手を使ったことはあやまるよ、すまない」
火鳥はふたたび謝ってから、
「――その日[#「その日」に傍点]のことなんだ」
踵《きびす》を返すように本題を少年にぶつけてくる。
「白い服を着たまな美が、きみに会いにこの屋敷に来たはずだけど、その日、きみはまな美に関して何か見なかっただろうか? それが知りたいんだ。きみなら何か[#「何か」に傍点]見えたと思うんだが」
その問いかけに応えるかのように、マサトはゆっくりと顔を動かして、火鳥の方を見やった。
「……それがですな火鳥さま」
竜蔵が何かいいかけたのを制するように、
「赤いソファー」
マサトがいった。
「なんのこと?」
「――麻生さんがそこに座ってる、貝のような形をした、大きくて真っ赤なソファー」
はっきりした絵が見えたのか、マサトはいい直した。
「あ、ぼくの研究室の話か……」
けど、少年はその情報をどこから盗《と》ったのか? ぼくの脳からなのか? 火鳥は狼狽《ろうばい》しながらも平静を装っていう。
「……たしかに、まな美は来るとそこに座るんだけど、その妙なソファーしかぼくの部屋にはないんだよ」
「あとふたつ、同じ形をした赤い小さい椅子があるでしょう?」
「ああ、以前にはあった」
部屋には入らないから備品庫行きにしたのである。
「そのふたつの椅子のことが……気になってる」
少年は妙なことをいう。
「――いや、気[#「気」に傍点]になってなんかはいないぞ。それはおそらく、ぼくの脳の記憶の整理の都合上の物語で、ぼくが気にしてるわけじゃないんだから」
火鳥は早口で、むきになっていった。
マサトはなおもいう。
「その小さな椅子は暗い部屋に置かれてる。ドアを閉めると真っ暗になって」
「――たしかに[#「たしかに」に傍点]」
少年の言葉にストップをかけるように、火鳥はいった。
「それは大学の地下にある備品庫だ。自分で椅子をもっていったんだから、それは覚えてる[#「覚えてる」に傍点]よ――」
院生の男子に手伝わせて運んだのだが、そこは湿気《しけ》ていて黴《かび》臭い部屋であり、その革椅子には悪いだろうな、と思ったのを火鳥は覚えている[#「覚えている」に傍点]。
「――そんなことを知りたいわけじゃないんだ。妹のことが知りたいんだ。当日のまな美がどんな行動をとったのか、それを知りたいんだよ。ぼくのことなんかはどうでもいいんだ――」
マサトは、その火鳥の無理難題《リクエスト》に応えようとでもしているのか、ハの字をえがくように頭をゆっくりと揺らしてから、
「……黒い、大きなテーブルの前に座ってる」
別の絵について語り始めた。
「まな美がそこに座ってるのか?」
「ちがう。……大きな黒いピアノ」
マサトはいい直した。
「そ、それは……」
裏返った声で火鳥はいうと、顔を伏せてしまった。
マサトはおかまいなしに続きを語る。
「お酒のビンがたくさん並んでいて、そこでピアノを弾いてる……横に女の人が座った」
火鳥は、記憶を読まれ[#「読まれ」に傍点]まいとでもしているのか、顔を紅潮させて何やら気張っている。
「――アマノメ様」
竜蔵が、諫《いさ》めるように声をかけた。
「――すいませぬが、もう一杯おいしいお茶をいれてくれるようにと、母屋にいる希美佳に伝えてもらえませぬか」
ジイの言葉にマサトは素直に頷くと、何事もなかったかのように広縁の廊下を去っていった。
火鳥はというと、
「ふうー」
と長いため息をついてから、荒い呼吸を始めていた。
竜蔵は、そんな火鳥を気遣うように、
「お許しくだされませ、あの子は、まだ要領がつかめておりませんので」
「いやあ……理屈はわかってるんですよ」
掠れた声で火鳥はいう。
「……わかってはいるんだけど、実際そうもいってられないんですよね」
山爺に睨まれた村人を、身をもって火鳥は体験したようである。
「すごい[#「すごい」に傍点]――」
自身に気合をいれるように火鳥はいってから、
「――よく[#「よく」に傍点]あそこまで見えますねえ。ピアノというのはですね、その、夜のバイトをぼくはしているわけだけど、これは大学に知られるとマズいんですよ。脳は、そういった隠し事を一番に出しちゃうんです。そういう仕組だということは重々知ってるんですけどもね」
しなくてもいいような言い訳を火鳥はする。
「さようですか、火鳥さまはピアノをお弾きになるのですか、いい趣味をおもちですなあ」
「あれは趣味じゃないんですよ……なんていったらいいか……食いぶち[#「食いぶち」に傍点]とでもいいましょうか、いろいろあって大学の途中で家を出ちゃったから、何かで食わなきゃいけなくなって、それで始めたバイトなんです。もうやめてもいいんだけど、そのままズルズルと……」
マサトが最後にいった、火鳥がピアノを弾いているとその横に女が座った、その女性とも関係がありそうな話である。もし、あのままマサトが続けていたなら何[#「何」に傍点]が出てきたことやら。
「――火鳥さま」
あらたまった口調で竜蔵はいう。
「ひとつお尋ねしたいことがあるのですが、乳飲み子を抱いた母親がおったとしまして、アマノメは、その母親を見ることができるでしょうか?」
「……母親の脳は、かなり見づらいでしょうね」
火鳥はあっさりと答える。
「さようですか……ならばもうひとつ、そのようなことは、火鳥さまのようなご専門の先生方なら、皆さんご存じのことなのでしょうか?」
「いや、それはないと思いますね。ぼくの考えてる論理そのものが、まったくマイナーな代物で、そこから導かれる話ですから。けど、ぼくしか知らない、なんて大それたことはいえません。現に、今回の呪いだって……ちょっと驚くようなやり方でしたから。世の中、だれがなにを考えてるのか分かったもんじゃありませんよ」
「……さようでございますなあ」
もうすっかりと暮れてしまった庭の方を見やりながら、抑揚のない声で竜蔵はいった。
[#改ページ]
26
「あら、ここはいつも開いてたのに……」
資料室兼用の火鳥の部屋に入ってきながら、閉じてある内扉を見てまな美はいった。
「夏休みだから隣には人がいないんだ。無駄なクーラーを使うなというご通達さ」
スチール書棚の中ほどまで出迎えながら、火鳥はいった。
「このあいだ電話をしたときに出た、やさしーい喋り方をする助手の女の人も、いないの?」
「ああ、彼女も今日はお休みなんだ」
実際は、わざと休んでもらったのであるが。
「……けど、ここを閉じちゃうと牢屋みたいよ。もし恋人を招き入れることがあったら、この扉は絶対に開けておいた方がいいと思うわよおにいさん」
そんな冗談めかしたことをいいながら火鳥の脇をすり抜けると、まな美は奥の壁際にある真っ赤なソファーまで小走りに駆けていって、バウンドさせながら腰をおろした。
「じゃ、そこでしばしお待ちを、なにか冷たい物をとってくるから――」
そういい残すと、火鳥はその内扉を開けて研究室に入っていった。
冷蔵庫は隣室にあるのだが、それにしては少し時間がかかって、缶入りのお茶を二本もって火鳥は戻ってきた。
「お好きな方を」
応接のテーブルにその二本を置くと、
「わたしはこれ――」
まな美は迷わずに日本茶の缶を選んだ。予想外にも、コーヒー缶が残ってしまった。
「……来るたびに思うんだけど、すごいわよねこのソファー。部屋がもう少し広かったら片割れの椅子も入るのに、残念だわ」
火鳥が座っている貧相な回転椅子《デスクチェアー》を見やりながら、まな美はいった。
「うん、つい二、三日前にも似たようなことをいわれたよ」
火鳥はいいながら、アマノメ少年によまれた記憶、あれはいったい誰の記憶だったのか……と少し疑問に思った。
「ねえねえおにいさん、淨山寺ね、すっごいことがわかったわよ」
その赤のソファーから身をのりだしてきて、まな美はいった。
「あそこ三つ葉葵のお寺でしょう、さらに菊の御紋もついてるんだけど、おにいさん知ってた?」
「えっ、どこに?」
それは火鳥としても初耳である。
「お厨子《ずし》の扉のところ――」
「ふーん、ぼくはご開帳の日にしか行ってないから、それは知らなかったなあ」
「じゃ、慈覺大師のお地蔵さんは見たんだ?」
「ああ、あそこは須弥壇《しゅみだん》がすごいだろう。上にあげてもらって、触れるぐらいの距離で見せてもらったことがあるよ」
「ねえ、そのお地蔵さまはどんなだった?」
「そうだな、信心深くないぼくがいうのもあれだけど、あそこの地蔵仏だけは、ちょっと感じるものがあったね……まあ、ぼくが口でいうよりも、じかに見た方がいいと思うけどな」
誰かと似たようなことを火鳥はいう。
「それとおにいさん、淨山寺のお地蔵さまは、江戸時代は赤地蔵と呼ばれてたそうなんだけど、その謂《いわ》れ知ってる?」
「うーん……赤、青、黄色、白、黒、どの色に近いかといわれると、やはり赤だけどね。――まな美は、慈覺大師の摩多羅神は知ってるの?」
「――知ってる。あそこのお地蔵さまは摩多羅神でしょう」
「まあ、そうなんだけどね、摩多羅神のお像は普通見られないけど、その基本カラーが赤なんだ。なぜかというと……摩多羅神の本地は知ってるかな?」
「――阿弥陀如来でしょう。前の子供ふたりは観音と勢至だけど」
「詳しいねえ……」
火鳥は苦笑しながら、
「その、阿弥陀如来の基本カラーが赤[#「赤」に傍点]なんだよ」
「あ、大日・|阿※[#「門<(人/(人+人))」、第3水準1-93-48]《あしゅく》・不空成就《ふくうじょうじゅ》・宝生《ほうしょう》、そして阿弥陀さんの、金剛界五仏《こんごうかいごぶつ》の五部法《ごぶほう》なのね――」
金剛界曼陀羅に出てくる五智如来のことだが、それそれに色[#「色」に傍点]や、その他細々としたことが五部法によって定められているのである。
「……そのとおり[#「そのとおり」に傍点]」
呆れぎみに火鳥はいう。
「そうだ、慈覺大師の遺言で建った赤山禅院も赤[#「赤」に傍点]だものね――」
気づいたようにまな美はいう。
「ああ、あそこも秘仏だから見られないけど、赤山明神の絵を見るかぎりでは真っ赤赤だからね。それぞれが直接には繋がらなくても、人間の奥深い心理のなかで、赤という記号でもって繋がるのさ……たぶんね」
脳のネットワーク、もしくは阿頼耶識《あらやしき》、そんな表現を火鳥は使いたかったのだが、それは控えた。
「さすがねおにいさん」
まな美はひとしきり感心してから、
「でも、おにいさんも絶対[#「絶対」に傍点]に知らない淨山寺の秘密を解いたんだけど、聞きたい?」
目をパチクリさせながらまな美はいう。
「そら聞きたいけど……」
と、火鳥がいったのが運の尽さで、まな美は土門くんにしたのと同じ謎解きを語り始めた。
「――それは凄い話だね。いやー大発見だ」
火鳥は時間を気にしながら、適当なところでまな美の話を切ると、
「ところでさ、まな美の忘れ物のノート[#「忘れ物のノート」に傍点]ね、ここには見当たらなかったなあ」
残念そうに火鳥はいった。
「そう、じゃどこに忘れたのかしら……」
「あの日は、ここを出てからは、電車に乗って、そして、例の鎮守の森の屋敷に行ったんだろう」
当日の行動を思い出させるように、ゆっくりと火鳥はいった。
「うん、そうだけど……」
「だったら、電車の中にでも忘れたんじゃないのかな。まな美は電車の中で、ノートを見たりはしなかったの?」
「さあ、どうだったかしら……」
「あるいは、途中で、電車の乗り換えとかは、しなかったの?」
「それはね、マサトくんの駅は急行か快速に乗り替えた方が早いんだけど、あの日は普通列車で行ったの。途中の駅で事故[#「駅で事故」に傍点]があって、乗り換えができなくなったから……」
「じゃ、その乗り換えの駅では、まな美は一度降りたのかな?」
「どうだったかしら……覚えてないわね」
「もし、降りたんだとすると、その駅で忘れた可能性もあるね」
「……たしか、その乗り換え駅で事故があったはずで、目撃されていた人がおられましたら、という車内のアナウンスは覚えてるんだけど……」
「じゃ、事故があった、その同時刻に、その駅にまな美はいたことになるけれど、プラットホームで電車を待っていたんだろうか、それとも電車に乗ったままだったのか……いずれにしても、その事故のことは、まな美は知らないの?」
「うん、全然知らないわ……」
まな美は少し考えてから、
「……どうしたのおにいさん? 根掘り葉掘りと、まるでお使いの子供がお釣りをなくして、訊いてるみたいよ」
「いや、忘れ物というのはね、記憶としては当人の脳の中には保存されているんだよ。その記憶に接続《アクセス》するためのパスワードのようなものを見失っている状態なんだ。だから、こうやって根掘り葉掘り話をしていると、ふとしたはずみで、そのパスワードが見つかる場合もあるんだよ」
その説明自体は正しいのであるが――。
「じゃ、最後にもうひとつきくけど、竜[#「竜」に傍点]という言葉に心当たりはないかな?」
そう火鳥がいうと、まな美の顔色がさーと青ざめていった。
「……心当たりはないわけじゃないけど、どうしてそんなこと聞くの、おにいさん?」
切なそうな表情でまな美はいった。
「いや、そう深い意味じゃないんだ。お地蔵さまってやつはさ、竜の伝承と一部重なるところがあるんでね」
まな美のただならぬ様子に、火鳥は適当に繕っていった。
「……なんだ、そういうこと」
少し安堵したようにまな美はいったが、自分が学校の友人から呪われた話は、結局、兄にはいい出さなかった。しかし火鳥は、まだ全然話し足らないといった素振りのまな美を、
「ごめん、今日は夕方からちょっと用事あってね」
急《せ》き立てるように部屋から追い出すと、ご丁寧にも大学の門のところまで見送っていき、彼女の姿が視界から消えるや否や、大慌てで駆け戻って、隣の研究室を覗いてみたのだが、そこはすでにもぬけ[#「もぬけ」に傍点]の殻で、モニター機材の傍らに簡単なメモ書きが添えられてあった。
火鳥様――お約束をした通りに、天目の御言葉は、天目が見えた通りにそのまま吹き込んでおきました。お役に立ちまするでしょうか。まな美様のお疑いが晴れまするよう、祈っております。近く屋敷を出る予定です。もうお会いできぬやもしれませぬが、御健勝のほどを――竜蔵。
他言無用[#「他言無用」に傍点]は勿論のことであるが、アマノメの秘密は、マサトの友達であるまな美には知られたくない、それが竜蔵の出した条件であった。
が、今のアマノメでは、まだ遠く離れた人のことまでは分からない、その人の顔が見えないと無理かもしれないとも竜蔵はいった。そんなわけで、隣室でモニター画面を見てもらいながら、まな美の記憶を探ってもらっていたわけなのである。
用意した二時間テープは、まな美の話が長引いたせいで使いきったらしく、巻戻っていた。
火鳥はビデオの再生ボタンを押した。
モニターに、赤のソファーに座っているまな美の上半身を斜め前方から捉えた映像が映し出された。
これは、書棚に置かれたビデオカメラで撮っていたのだが、そのカメラはとくに隠したわけではない。その種の機材は無造作に部屋にころがっているから、たとえスイッチが入っていたとしても分からないのである。問題は、カメラから隣室に置かれているビデオへの接続で、貧乏な研究室ゆえ無線で飛ばすような装置がなく、火鳥は小一時間悩んだ末に電線《コード》を窓から外に出して隣室へと導いた。こういったことは知恵を捻れば何とかなるものなのだ。
モニターの映像は、しばらくすると、まな美の手前を白い服が横切った。――白衣を着た自分[#「自分」に傍点]である。飲み物をとりに隣室に行ったさいにビデオの録画ボタンを押し、お願いしますね、とふたりに頭を下げて部屋に戻っていたのだ。
「お好きな方を」
これも自分の声である。
「わたしはこれ」
まな美が日本茶の缶を選んだのだ。
その直後に、もう片方の音声チャンネルの針が振れた。マサトの声が何か録音されているようである。
一般的にビデオテープには音声を二チャンネル入れられる。だから片方に火鳥の部屋の音を、もう片方にマサトの声をマイクで入れてもらったのだ。そうすることによって、ほぼリアルタイムで、アマノメが何を見ているのかが分かる――。
火鳥はテープを巻き戻して、片方のチャンネルのボリュームを上げ、そのマサトの声を聞いてみた。
「ナメクジ……ナメクジは嫌いだ」
そう録音されてあった。
いったい何のことであろうか?
日本茶の缶は緑色で、コーヒーの缶は茶色であった。茶という色からでも、まな美の脳はナメクジを連想したのだろうか?
いずれにせよ、最近ナメクジに関係して何か強烈なことが彼女にあった……その程度のことは推測できる。強烈な記憶ほど、些細ことでも惹起《じゃっき》されやすくなるからだ。かといって、その記憶をその時点で、彼女の意識が思い出していたかどうかは不明である。これは、あくまでも彼女の脳における反応だからである……興味は尽きないのだが、こんな分析をいちいちやっている暇はない。
火鳥は、ビデオを早送りして事件に関係する箇所を選び出した。
「忘れ物のノート」
火鳥がその単語を発した直後に、マサトが見た絵はというと、
「駅のベンチに置いた」
であった。
案の定である、彼のような能力者にとって、失せ物を探すことほど容易なことはないのだ。が、直後に別の絵も見えたらしく、
「……そのベンチの後ろに子供が座ってる、すごく幼い男の子……」
すなわちその幼い男の子が、依藤警部補がいっていた目撃者なのだろう。
そして、
「駅で事故」
その言葉に呼応するように、マサトは事件の様子を語り始めた。
「……淡いグレーのシャツを着た男、そのシャツが透けていて、背中に竜の絵が見える。短い髪の男で、すごく怖い顔で睨んでる……」
それが事件の被害者のようだが、かなり近い距離で見ているようだ。
「……その竜の背中を手が押した、バーンと両手で押した、その男は駅のホームから落ちた……」
そのマサトの語りを聞いた途端に、火鳥は腰砕けになってしまった。
何ということだ。
これは実行者の目から見た映像ではないか。
それがまな美の記憶だというのか?
竜を殺せの呪文(暗示)で、竜の絵をひっかくぐらいの行動はとるだろうが、竜の刺青がある人間を殺す――こととは直結しないはず。そう火鳥は推測していたのだ。それを確かめるためにアマノメの力を借りたというのに――
暫くしてから、火鳥は録画の続きを見た。すると、マサトの奇妙な説明が入っていた。
「……その男と一緒に、白い服を着た女性が立っている、若い女の人で、その女の人が男の背中を押した、男はホームから落ちた……」
これはどうしたことだ。
まな美が、自身の行動を客観視しているのか。
そんな記憶が構築できるものなのか?
火鳥は一時間ほど悩んでからひとつの結論に達した。そして、数日前にもらった名刺の相手に電話を入れた――
「……はい、刑事課の依藤ですが……ああ火鳥先生、このあいだはどうもお世話になりました……いえいえ、とんと進展してないんですわ、犯人は割れてるんですけどね、それをどう立証するかってところで揉めてまして……え? 本当の犯人が分かった? 女子高生ではない[#「ない」に傍点]……ほう、先生が推理されたんですか。まあ話ぐらいはお伺いしますけどねえ……さあて、それは聞いてませんなあ……白い服を着てたはずだって? まあ、それは聞けば分かりますけどね……えっ? それが犯人だって?……男をホームから突き落とした?……両手で押した? いやあ先生、それはないと思いますよ、だって目撃証言と合わないじゃないですか……それは嘘? 子供がいってることだからといって嘘と決めつけるのはねえ……えっ? 本人は嘘をついてるつもりじゃないけど、結果的には嘘……あのね、大学の先生じゃなかったら、俺、怒鳴ってますよう。そんな変な話とおりませんよ……いや、実際の話、爪の先ほども疑ってないので、まったく調べてません……自信がある?……絶対の自信がある? まあ先生がそこまでおっしゃるのなら、すこしは調べてみますけどね。しかしハズれたらわり食うのは俺だからなあ……奢るって? ほんとですね、しっかり記憶しましたよ。その代わりといっちゃ何ですが、もし先生の推理が当たっていたら、ドンペリでも何でも、お好きなものをどうぞ……はい、とりあえず調べてみますわ」
[#改ページ]
27
「西園寺さんは、この週末はどうするの?」
部屋にお茶をもってきてくれた静香に、火鳥が尋ねていた。ここ二、三日前からどうしたことか彼女が日本茶を煎《い》れてくれるようになって、それも頗《すこぶ》る上手なので火鳥は御満悦である。
「……お盆ですよね」
赤のソファーに腰をおろしながら、静香はいう。
「いつもこの時期になると思うんですけど、田舎のある人が羨ましいです。わたしは東京だから」
彼女は、世田谷区成城にある両親の家に住んでいるのだ。火鳥がいる下北沢とは同じ小田急線沿線で、そう離れてはいない。
「……先生はどうなさるんですか」
静香が聞いていた。
「うーん、今どうしようかと悩んでたところなんだ。ぼくの田舎は鳥取県でね、もっとも、ぼくは生まれも育ち東京なんだけどさ、母親がそこにいるんだ」
つまり、母方の実家である。竜介の母は離婚した後あれこれとあって結局は実家に戻り、そのまま居着いてしまったのである。
「そこはもうホント[#「ホント」に傍点]に田舎だからね……というよりか秘境だね。鳥取県の島根県側に大山《だいせん》という大きな山があるんだけど」
いってから自分で笑いながら、
「……大きな山と書いて大山[#「大山」に傍点]なんだけどね、家はその裾野にあるんだ。この大山という山は、日本でも有数のブナの原生林が残っている山で……ま、そういうことはつい最近知ったんだが、小学生の頃にその母親の実家に行くとね、親戚の人の車で、その大山の山まで連れてってもらうんだ。道はよく整備されているから、あっという間に山奥まで行けるんだけど……で、ぼくはそこで何をするかというと、夏休みの宿題に精を出すわけさ」
「……そんな山奥でですか?」
「昆虫採集をやるんだよ、自由研究ってやつ。半日歩き廻ったぐらいでイヤというほど採れてね、それを標本にして提出したら賞をもらったことがあるよ、それも区か、都の賞でね、何だかよほど稀らしいのが混ざっていたらしくって……それぐらいに秘境[#「秘境」に傍点]ってことなんだけどね。ところがさ、今思い出したけど、これ朝四時起きして行ったんだよなあ……」
お茶を啜りながら、昔を懐かしむように火鳥はいう。
「……日の出とともに飛ぶ蝶々というのがいてね、それを採りに行こうとするから、そうなるんだけど、それもす[#「す」に傍点]っごい高い木の上を飛ぶんだ……朝日というのは、木の天辺から順に当たっていくだろう、その、日が当たっているところだけを飛ぶという習性がある蝶なんだ。だったら、太陽が昇ってくればそこらじゅうに日が当たるんだから、低いところに降りてくればよさそうなんだが、ちょっとでも温度が上がると木陰で休むという繊細《デリケート》な性格してるんだ。だから早朝のごく限られた時間しか飛ばないんだよ。地元の蝶マニアたちの間で、通称トンネル道と呼ばれているポイントがあってね、ブナの大木が両側から被さってきている山奥の小道なんだけど、車は途中までしか入れないから、あとは真[#「真」に傍点]っ暗闇のなかを、懐中電灯を頼りにそのポイントまで行くわけさ。そして、夜が明けてくるのを待つんだ――」
「もう一大イベントですね」
静香が笑いながらいった。
「たかが蝶を採るのにね」
火鳥は言葉をつないでから、
「……そして、空がほのかに明るくなってくると、その蝶々が飛び始めるんだ。羽を開いてもせいぜい三、四センチという小さな蝶なんだけど、裏が銀色で表が緑色という金属光沢をしているから、見上げていると、葉の隙間からチラチラと飛び廻ってる姿が見えるんだ……でも、トンネルの真上だからね、そのうち首が疲れちゃうんだけどね」
「そんなに高い木の上を飛んでいる蝶を、どうやって採るのですか?」
「勿論なっがーい竿で採るんだ。当時のぼくの背丈よりも長い竹竿を、たしか五本つないで、その先に捕虫網《ネット》をつけるんだ。すると一番下の、手で持つところの竿は相当な太さになってね、それに全体的にもかなりの重量だから、小学生のぼくでは振りまわせなかったな。年上の中学生の従兄弟がいて、そいつがもっぱら採ってくれたんだけど……ブナのトンネルのところどころに天窓みたいに隙間が空いているから、そこに蝶が出てくるのを待ち伏せしていて、サッ――とかっさらうんだ。その蝶はけっこう敏捷で、それに竿の先も撓《しな》るから、一種の職人芸だね。秘儀、ツバメ返しと呼ばれていました」
一九七〇年頃の火鳥の思い出話である。
「その蝶々の名前、なんていったかなあ……なんとかミドリシジミなんだけどね、似たようなのが十種類ほどいて、通称、ゼフ、て呼んでたんだけど」
「ゼフ? ですか」
「学名のゼフィルスの略さ、ゼフィルス属というシジミ蝶の種類なんだ。なぜ、ぼくが学名だけを覚えているかというと、それはギリシャ神話の神さまの名前だから……西風の神のことをゼフィロスというんだ。ギリシャ神話のメインの物語には絡んでこないんだけど、いちおう女神フローラの夫ということになっている。フローラというのは花の女神ね。それとゼフィロスは、ヒュアキントスをめぐって、あの美[#「美」に傍点]男子アポロンと三角関係になったという猛者でもある。ヒュアキントスはヒアシンスの語源なんだけど、どうしたことか美少年[#「少年」に傍点]……ということなので話はややっこしい」
火鳥お得意の脱線話が始まりかけていたところに、電話のベルが鳴った。
「……はい、ぼくですが……あっ、警部さん」
依藤警部補からの電話であった。
「……いや、ドンペリなんか飲む趣味はぼくにはありませんけど……え! そうですか[#「そうですか」に傍点]、犯人が捕まりましたか……やっぱり、ぼくのいった通りじゃありませんか。あっ、それでドンペリなんだ……それは本当にけっこうですから……じゃ、代わりといっては何ですが」
火鳥は受話器の口の部分を押さえて、
「今晩は何か予定あるの西園寺さん?」
早口で聞いてきた。
「いいえ」
彼女は首を横にふる。
「もうひとり、女性を連れていってもかまいませんかね……あ、ほんとですか……じゃ、七《なな》時に神楽坂の駅前ですね、わかりました」
受話器をおろすと、静香が驚いたように聞いてきた。
「わたしがご一緒してもよろしいんですか? 警部さんとかいった言葉が、聞こえましたけれど」
「そう、埼玉県警の警部さんなんだ。最近ひょんなことで知り合いになってね、わけあって奢ってくれるそうだから、西園寺さんも是非[#「是非」に傍点]ご一緒に……」
ことのほか嬉しそうに火鳥はいった。
ちなみに、彼の脱線話のその後はというと、アポロンの三角関係の話から、アポロン神殿の留守番であるバッカスへと移行し、そのバッカスの祭事であるアンテステリア祭(一日目/ボジョレーの解禁、二日目/酒壺祭《コエス》、三日目/死者の霊が地上に戻る)を、日本のお盆の話と繋いだのであった。
「……いいんですか、こんな高そうなお店」
右隣りに座った依藤警部補に、小声で火鳥が尋ねていた。
「いいんです。ここは南署《うち》の幹部《ボス》たちが贔屓《ひいき》にしてる店でして、お墨つき貰ってきてますから。お好きなネタがあったらどんどんいって下さい、何もいわなくても適当には出てきますけどね」
カウンターだけの小さな寿司店だが、白を基調にした内装とやや明るめの照明、白木のカウンター、ネタが美しく並べられたガラスの冷蔵庫《ショーケース》、値段表などは勿論かかってないし、すべてが、高級店といった雰囲気を醸し出している。
「しかし、ほんと[#「ほんと」に傍点]大学の先生なんですかあ」
火鳥の左隣りに座った静香に、身をのりだしながら依藤が聞いてきた。
「ええ、火鳥先生と同じ情報科なんです」
駅で会ったときにもそのように自己紹介したのだが、静香は律義に応える。
「いやあ、うらやましいですなあ、自分がもし学生だったら絶対[#「絶対」に傍点]に先生の研究室に行きますけどねえ……」
ふむ、そうすっと情報科は男だらけになってしまい、むさくるしいではないか、そんなことを火鳥が思っていると、小ぶりのグラスに入った生ビールが運ばれてきた。
「じゃ、まずは乾杯ということで」
警部補が音頭をとった。
「……よかったですね、犯人が捕まって」
ビールを半分ほど美味そうに飲み干してから火鳥がいった。
「先生のおかげですわ。それに、先生もよかったですよね、妹[#「妹」に傍点]さんの疑いが晴れて――」
そのビールグラスを、トン、と白木のテーブルに置きながら依藤はいった。
「……あれえ、いつから知ってたんですかあ」
悪戯がバレた子供みたいに火鳥はいう。
「先生からお電話いただきましたよね、あの翌日の午前中ですわ。家族関係の一覧表が手元に届きましてね、それ見てたら腹違いの……失礼、母親が違うお兄さんがいらっしゃって、火鳥竜介って書かれてるじゃありませんか。こんな格好《かっこ》いい名前そうそうありませんからね、それに職業は大学講師となってるし……私ね、あーこれで俺の警察人生も終わったか、この歳でどこに再就職できるんだと、真剣に思いましたよお――」
と、火鳥の顔を睨みつけながらいう。
その火鳥はというと、葉蘭《ハラン》の葉っぱに置かれたばかりの赤身に早々に箸をのばして、
「これトロですよ、トロ」
嬉しそうにいってから口に入れた。
「――犯人と目されていた人の、選《よ》りにも選ってお兄さまに捜査協力をお願いしたなんて、そんな間抜けな刑事はいませんよねえ」
依藤も、その刺身に箸をのばしながらいう。
「うわー口のなかでトロけるなあ……ね、西園寺さん」
と、至極普通の感想を火鳥はいってから、
「まあ、ぼくも知らなかったんで、お互い様ということで」
「……先生は、いつお知りになったんですか?」
「たしか、警察の建物を出てから一時間ぐらい後でしたかねえ」
火鳥は正直に答える。
「なるほど、そっから我武者羅《がむしゃら》に推理されたわけですなあ……しかし[#「しかし」に傍点]、先生の推理は常軌逸してますからねえ、いったいどんな道筋であーいう結論に達したのか、今晩はひとつ、じっくりとお話を聞かせていただきたいと思いましてね[#「ね」に傍点]――」
警察の奢り[#「奢り」に傍点]というのは、どうやらそれが本題のようである。
「そのまえに、警察《こっち》で調べますからとお約束してあった用件ありましたよね、あれ、ある程度わかりましたのでお教えしときますわ」
「あ、魔女の呪いのセミナーの件ですね、わざわざ調べてくれたんだ」
「ええ、部下[#「部下」に傍点]が調べた結果によりますとね」
依藤警部補も正直にいう。
「……まず、セミナーの案内はダイレクトメールでして、内容はごくごくありふれた文面で、あなたの悩みを解消します、て類いのもんですわ。それがM高の二年生の生徒に名指しで送られてましてね、それも全員というわけじゃなくて、だいたい三割程度に送られていたようです。これは正確に調べてませんので、あくまでも感触ですけどね」
「――そのダイレクトメールは、M高の生徒にだけ送られたんですか?」
「うーんとですな、そのセミナーの現場には二十人ぐらいの男女が聞きに来てたらしいんですが、そのうちM高の生徒は二人だったんですわ。つまり二人だけが、そのメールにつられて行ったというわけですけどね、ともに女子生徒でして、この二人は判るんだけど、あとは判らんのですわ。年齢的には、自分らよりもちょっと上らしかった、といってましたけどね」
「……サクラかなあ」
思わず火鳥がつぶやいた。
「何[#「何」に傍点]がサクラなんですかあ?」
依藤が聞いてきた。
「いや、まったく個人的なことですから。で、そのセミナーはどんな雰囲気だったんですか?」
「――サクラというのは、あの[#「あの」に傍点]サクラのことですよねえ」
依藤は絡むようにいってから、
「小冊誌《パンフレット》をお渡ししましたよね、セミナーはあれにそって行われたわけですが、その締めくくりが問題でしてね、例の、究極の呪いってやつですけど、パンフにはやり方だけが説明されてあって、呪文は書かれてませんでしたでしょう」
「ええ、あれは万能なので、呪いの文言《もんごん》次第でいかようにも使えますから」
「の[#「の」に傍点]、はずですよね。で人それぞれに願い事が違うわけだから、そこで別室に……とはいっても、部屋の隅っこを衝立《ついたて》で囲ったぐらいのもんですが、その別室でセミナーの教師が……何ていいましたっけね……グル[#「グル」に傍点]とかいうんですか? そのグルが、ひとりひとりと面談して、それぞれに秘密の呪文を授けるわけですわ。それが、セミナーの最後を締めくくる、儀式のようなもんだったらしいです」
「導師《グル》ですか」
火鳥は苦笑しながら、
「……グルというのはサンスクリット語ですからね、つまりインドの方の呼び名なんで、ヨーロッパの魔女とは関係ないんですけどね」
「ふーんそういうもんですか、しかし、こっから先はさらに奇妙ですよ。交番に自首してきた女子生徒いましたよね、先生の妹さんにも呪いをかけたそもそもの元凶ですけど、その子は、自分の成績をよくしたい、それが願いだったわけです。で、そのグルが教えてくれた呪文が、例の、竜を殺せだったわけですね……これはあなたにだけ特別に授けるから誰にもいっちゃダメですよ……みたいな感じでグルが教えてくれたそうです」
依藤は、神父がいうフレーズのように独特の節回しをつけて火鳥の耳元で囁いた。
「で、もうひとりの女子生徒は、その子は聞いただけで実行には移さなかったらしいんですが、彼氏が欲しいというのが願いでして……それに対してグルが教えた呪文が、これもまた、竜を殺せだったわけです。願い事が違うのに呪文が同じとは、変ですよね先生――」
「ええ」
と、火鳥はただ頷いた。
「あれえ、相当に変[#「変」に傍点]な話だと自分は思うんですけど、先生ぜんぜん驚かれませんねえ」
「いや、話の流れからいってある程度予想できましたから」
「……そうですか、しかし願いが違うのに、どうして呪文が同じなんですか先生?」
「それは……その、セミナーの導師《グル》を捕まえて聞くしかありませんよ」
火鳥が知っていることを、この場で話すわけにはいかない。
「その、グル[#「グル」に傍点]ですけどね――」
依藤はもう別の意味でいっている。
「こいつらが問題なんですわ。その呪いのセミナーは××市の公民館を借りてやってるんですが」
「え? そんなものに市の建物を貸すんですか」
「――貸しますよ、いっくらでも貸しますよ。パブルんときに建物《はこ》を作り過ぎて、どこも空き部屋だらけで困ってますからね。けど一応、そこの公民館は、貸すときに身分証明書の提示を求めてるんですわ。そんな関係で、そのグルのひとりの運転免許証のコピーが残ってたんですけどね」
「――何者だったんですかそいつ?」
口の手前まで運んでいた白身の刺身を寸止めして火鳥はきいた。
「ところが驚いたことに、その運転免許証が偽造[#「偽造」に傍点]なんですわ……念[#「念」に傍点]がいった話でしょう。たかが公民館を借りるぐらいの形式的なことですが、偽造は偽造です。あんな冗談みたいな魔女の会やるために犯した罪としては、こら全然ワリに合わんですよ。公文書偽造、同行使はけっこう重い罪でしてね、一年以上十年以下の懲役ですから――」
「じゃ、正々堂々と逮捕できるじゃありませんか」
火鳥が勇んでいうと、依藤はちょっと呆れたような顔で、
「……先生も、けっこう頓珍漢《とんちんかん》なこと平気でおっしゃいますねえ。偽造というのは、名前も住所も全部デタラメだったということですよ、そっから先どうやって調べるんですか。署をあげて……ていうなら話は別ですが、個人的なレベルでは、このあたりが限界だと思ってください」
「そうですか、じゃ、そのセミナーはその後催される予定は……これもないのでしょうね」
火鳥は自分で答えを見つけていった。
「ええ、一回ぽっきりのようです。けどダイレクトメールには初回受講料無料、て書かれてあって、タダだからと二人の女子生徒は行ったらしいんですが、初回無料といっときながら、その後の案内はないんですわ、これも変な話ですよね……ですがね、運転免許証は偽造なんだけど、使われていた写真は本物なんですよ。ま、当然のことですが、そのコピーが残ってるんです。こら、どこか[#「どこか」に傍点]の似顔絵よりも余程確かですからね……鼻が大きくて、鷲鼻っていうんですか、ちょっと面長の顔で、それに大きな目をしてましてね、全体的に彫りが深いんですわ、まあ典型的な白人顔ってとこですかね」
「えっ、外国人なんですか導師《グル》は?」
「あ、いいませんでしたっけ……セミナーにはグルが三人ほど来てたんですが、そのひとりが白人でしてね、日本語はベラベラなんですが、そいつが会を仕切ってたらしいです……いちおう名前も判ってるんですよ、その会場では、トマスさんと呼ばれてたそうです。偽造の免許証の方には、徒[#「徒」に傍点]、摩[#「摩」に傍点]、主[#「主」に傍点]、と漢字がふられてましてね」
依藤は宙に字を書きながら、
「もっともらしい当て字でしょう。しかしこれ、あれじゃないんですか……青色をした蒸気機関車がそんな名前ですよね」
刑事さんの意外な冗談に、おとなしく話を聞いていただけの静香が、ふふ、と笑みを漏らした。
が、火鳥だけは何かが気になる様子で、
「トマス、トマス……トマス」
呪文のように三回唱えると、
「……それひょっとして、下の名前にアキ、もしくは、アクとかついてませんでした?」
依藤に尋ねてきた。
「お、ついてましたよ。アキナオだったかな……漢字はまあいいとして、そんなことどうして分かるんですか?」
「うわー、そんな名前よく使ってくるなあ……」
火鳥は眉間に皺をよせながら、
「トマス・アクィナスというのがいるんですが、その名前をもじってるんですよ」
「先生、ご存じの人間なんですか?」
「……知ってはいますけど、十三世紀の人間だから亡霊[#「亡霊」に傍点]ですよ。ドミニコ会というところに属していた司祭で、その筋では知られた神学者です」
ドミニコ会とは、当時キリスト教の神学研究の中心となっていた修道会で各地に学院を有していた。
「……特別に功績のあった司祭はバチカンから聖人として奉られるんですが、トマス・アクィナスもその聖人のひとりです。けど、宗教史を中立的《ニュートラル》な立場で見た場合には、トマスはKKKとかナチに匹敵するような人物で、だから、彼の名前を使うというのは喧嘩を売ってるようなものですね」
「――誰にですか?」
そう問われると答えに窮するのだが、
「まあ、僕[#「僕」に傍点]ということにしておいて下さい」
火鳥はいった。
依藤は、その種の話には興味はないらしく、そうですか、と軽く受け流すと、
「ところで、お飲み物は何になさいますか?」
ふたりに聞いてきた。
「うーん、ビールだとお腹が張ってしまうし、冷酒《れいしゅ》だと酔っ払っちゃうし、ワインかな……」
火鳥が静香の方を窺いながらいうと、彼女も頷いた。
「じゃ、白ワインをお願いしますね、フルーティなやつを――」
依藤警部補が注文《オーダー》をした。意外と、うるさいようである。
ドイツワインらしき緑色のボトルが氷のクーラーに入れて運ばれてきた。それをグラスに注ぎ分けて再度乾杯をしてから、
「じゃ、犯人を見事に当てた、先生の推理の筋[#「筋」に傍点]を教えていただきましょうか――」
依藤はいった。
「うーん、推理といえるほどのものじゃないんですけどね」
乗り気なさそうに火鳥がしていると、
「先生――」
依藤は強い口調でいって、ワイングラスを持っていた火鳥の右の手首をいきなり鷲づかみにすると、
「――逮捕しますよ」
といった。
「ど、どうしてぼくが……」
冗談とは分かっているが、刑事にそういわれて腕を掴まれると、火鳥としても内心穏やかではない。
「――あの日、先生は事件の現場にいらっしゃったでしょう。そうとしか考えられませんね。だから先生が犯人なんですよ」
闇雲に結論づけて依藤はいう。
「そんな……あの日はぼくは研究室にいましたよ。ここにいる彼女と話をしてたんだから、ねえ、西園寺さん覚えてるでしょう、水晶玉の話をしたときだけど」
火鳥が静香に説明をしようとしていると、依藤が割って入って、
「――ダメですよ。身内の証言なんて通用しませんから」
「身内じゃないですよ……ぼくの彼女とはちがうんですから」
これは後には引けないと、警部補の冗談を窘《たしな》めるように火鳥はいった。
「じゃあね先生、事件の現場にいた人しか知らないようなことを喋る人がいたとしたら、そいつは犯人と疑っていいですよね?」
「……ま、そうでしょうね」
火鳥はころりと誘導尋問にひっかかる。
「だったら、やっぱり先生が犯人じゃないですか」
「そんな……ぼくいつそんなこと喋りましたか?」
「ではお尋ねしますけどね、先生が署に来られたときに、目撃者がいるって話はしましたよね。その目撃者ですけど、誰でしたっけ?」
「小さな男の子でしょう。でも、今ひとつ頼りないと、そんな話を刑事さんが」
「そうですかあ……自分、性別[#「性別」に傍点]なんかいいましたっけ? 幼い子供とはいった記憶ありますけどね」
「いや、いったんだと思いますよ、ぼくがそう記憶してるぐらいだから」
意地を張って火鳥はいう。
「……職業柄、自分はでっきるだけ暈《ぼか》していう癖がついてるんですわ、だから賭けてもいいですけど、いってませんね。それだけじゃないですよ、現場に若い母親がいたなんてことは、こっから先もいってませんからねえ」
火鳥の目の前で、親指で人差し指の先をはじきながら依藤はいった。
「でも、幼い子供といえば……若い母親がつきものだから」
「お婆ちゃんじゃ駄目なんですか? お父ちゃんだっていいじゃないですか。それに、その母親が白っぽい服を着てたはずだなんて、いったいどこから出てきた話なんですかそれ?」
「……夏ですからねえ」
火鳥の言い訳がますます苦しくなっていく。
「――先生[#「先生」に傍点]、ひとつ正直なことをおっしゃっていただけませんか」
犯人を落とすときのように、依藤はいう。
「別に、先生のことを咎めたりはしませんから、こら南署《うち》の問題ですのでね、内部で決着させますから、いったい誰が先生に情報を漏らしたのか、教えて下さい。先生には決してご迷惑おかけしませから」
すこし頭を下げながら依藤はいった。
「そういわれても……ぼくは警部さん以外には会ってませんし、それに電話もあれ一度きりですから」
「じゃ、どう説明されるんですか」
依藤はムッとしたように、
「――先生こんなこともおっしゃったんですよ。犯人は、竜の刺青の男の背中を、手で押した。その男はプラットホームから落ちた……とね。俺、駅で事故があったとしかいってませんよ。しかも先生、両手で押したといいましたよね。そんなこと、つい最近やっと鑑識が突き止めた話なんだから、男が着てたシャツに手の痕跡が微かについてましてね、女性が使う化粧品のたぐいですが、それが二カ所に、つまり両手ってことですけど……そんなこと誰かが漏らさんかぎり、知りようがないじゃないですか」
「いや……」
にわか探偵のツケが廻ってきたようである。
「ひとり口の軽いやつがうちの課にいるんだ、そいつに違いないと踏んでんだけど……先生[#「先生」に傍点]、名前をおっしゃってください」
火鳥が、いよいよ答えに窮していると、なりゆきをおとなしく見守っていた静香が、
「火鳥先生、このあいだのことですよね」
突然話し始めた。
「……わたしに休めといった日がありましたよね、あの日、研究室に妹さんが来られてたんでしょう。先生、催眠術をされたんですね」
いわれてみれば、火鳥も心理学を専攻しているので、それは出来ないこともないのだ。
「……そう、催眠術をやったんです」
火鳥は静香の話にのった。
「さいみんじゅつ[#「さいみんじゅつ」に傍点]――?」
依藤は、金輪際うさん臭そうにいう。
「妹に催眠術をかけたなんて、自慢できる話じゃありませんからね」
火鳥はさらに繕っていった。
「妹さんに、イタズラでもしたんですか?」
何か大幅に勘違いしている依藤を、
「まさか――」
口と手で、火鳥は大袈裟に制してから、
「西園寺さん、妹のこと知ってたの?」
静香の方に顔をむけて尋ねた。
「そうかなと思ったぐらいですけど……何度か来られてましたよね、それに内扉《ドア》が開いているから見えますし……中西くんは、先生の彼女は若すぎるって騒いでましたけど、わたしはそれこそ身内[#「身内」に傍点]の方ではないかと思っていました」
中西くんというのは、猫のヘルプ・ミー実験で子猫を屋上から落とした院生の男子である。
「――先生、妹さんのこと秘密になさってたんですか?」
依藤が聞いてきた。
「いや、歳が離れてますから説明に困るし、それに、ぼくの恋人だと勘違いされていた方が、大学に来たときに変[#「変」に傍点]な虫がつかなくていいでしょう」
火鳥の頭のなかでは、変な虫イコール中西くんであるが。
「それは一理ありますな……」
依藤はわかったような顔で、
「……妹さんの写真はチラッと拝見させていただいたんだけど、かなり可愛い女の子ですもんね。お兄さんの心配も分かりますわ」
それ以上に、まな美は火鳥のかつての恋人と面影が似ているという、さらに微妙な問題がからんでくるのであるが。
「……ま、妹のことはいいじゃないですか、西園寺さんもぼかしたままでね。それと警部さん、イタズラが目的で催眠術をかけるんじゃなく[#「なく」に傍点]って、埋もれていた記憶を呼び覚ますためにやるんですよ」
主導権を握るべく火鳥はいった。
「ほう……そらどういうものなのか、お伺いしましょうかねえ」
依藤は、やおら腕組みをしながら小馬鹿にしたようにいう。
「まず、催眠術をかけて最初に聞き出したのは、忘れ物のことです。警部さんがおっしゃってた事件現場の忘れ物って、ノートのことですよね? お寺の話とかが書かれてある……」
「ええ、それはまだ鑑識の金庫[#「金庫」に傍点]に入ってるはずです。あれをお返しできるかどうかは、先生の今日のお話いかんですね」
依藤はなおもプレッシャーをかけてくる。
「うーんとですね、そのノートは、駅のベンチに置き忘れていたはずです……違いますか?」
「そのとおりです」
依藤は首肯《うなず》いた。
「で、そのベンチですけどね、二脚が背中合わせになってるようなベンチで、そのノートが置かれてあった裏のベンチに、その幼い目撃者が座っていたんですよね」
「おわ[#「おわ」に傍点]――」
依藤が大きな声を出した。
すいません、と隣の客にちょっと頭を下げてから、
「――その催眠術とやらは、すごいですねえ」
ふたりの方に向きなおって、声を押さえながらも興奮ぎみに依藤はいった。
「どこがすごいんです?」
火鳥には理由が分からない。
「いや、その子は別のベンチに座っていたものと、警察《われわれ》は思い違いをしていたんです。先生のその説明は、犯人が犯行を認めてから後の事情聴取の過程で出てきた話なんで、だから驚いたんですけどね」
「その事件はどんな経緯《いきさつ》なんですか?」
火鳥が尋ねると、
「それはですな……先生のお話が先ですわ」
依藤の口はそう軽くはない。
「えーとですね、そのノートが置かれてあったベンチに妹は座っていて、そこから事件の様子を見ていたわけです。かなり近い距離のようで、その状況は、刑事さんに電話でお話しした通りですけどね」
「うん? なんか単純すぎやしませんかそれ……」
依藤は少し考えてから、
「……やっぱり先生の話おかしいですよ。そんな目の前で事件の様子を見てたんだったら、妹さん本人が、目撃者として警察に名のり出られればいいじゃないですか?」
「いや、竜の刺青を目にした瞬間に、呪い、すなわち後暗示が発動しちゃったので、その間の記憶が飛んでしまっているんですよ。といっても脳には保存されてるんですけどね……そもそも、竜を殺せという暗示は、意識がほとんど活動していないときに脳に入力《インプット》されたものだから、その命令が実行されそうになった場合も、意識を迂回した経路でもって情報の処理がなされるので、意識はその情報と、つまりその記憶とは接続《アクセス》できなくなるんですよ。妹も、ちょうどそんな状況だったんですね」
「ふーん、だから覚えていない、だが催眠術なら思い出させることはできる……ということですな。しかし、それでもまだ単純すぎますね、何かまだ隠してらっしゃるでしょう先生?」
「うーん……」
火鳥は、それ[#「それ」に傍点]は催眠術ということで辻褄が合うのかどうかを、ほろ酔いの頭脳で考えてから、
「……催眠術で、実はもうひとつ別の絵が出てきたんですよ。それは、手が……両手ですけど、その手が刺青の男の背中を押す、といった映像なんです」
「えっ? それが妹さんの記憶なんだったら、妹さんが犯人じゃないですか――」
「そうなりますよね。だから、ぼくも腰を抜かすほどに驚いたんですけど……」
モニター画面の前で火鳥は五分ほどはへたり込んでいたのであるが。
「でも、記憶が二種類あるなんて変じゃないですか。だから、片方を偽の記憶だと考えて、お話ししたような結論に達したわけですけどね」
「……そりゃ都合の悪い方を偽物にすると、決まってますわね」
「いや、理論を考えたうえでの結論ですよ。つまりですね、竜を殺せという命令を与えられている脳は、他人が竜を殺したとしても、その命令は実行に移されたことにはならないから、呪いは消えないんですよ。しかし目の前で、竜の男が騒動に巻き込まれてるというのは、脳にとっては、その呪いを解く千載一遇のチャンスでもあるわけです。その情報をうまく利用できれば、呪いを消せますからね」
「……火鳥先生」
静香が口をはさんだ。
「その片方の記憶は、呪いに対する解答の映像なんですね」
「うん、そういうことなんだ。けれど、その映像は彼女の脳が独自に作ったものなのか、と問われると、それは微妙な話になってくる。作ったというよりか、盗《パク》ったんではないかとぼくは考えてるんだけどね」
火鳥がもっぱら静香に説明していると、
「――誰から[#「誰から」に傍点]パクッたんですか?」
野太い声で依藤がきいてきた。
「もちろん犯人の脳からなんですが……これは説明できない話なんで、作った[#「作った」に傍点]ということでも構わないですよ」
「……先生、俺が理解できないからといって、お説を曲げる必要は別にないですよ」
ちょっと拗ねたように依藤はいう。
「いや、そうじゃなくって、これはどっちともいえそうな話なんですよ。呪いを消すための解答が脳にきちんと構築されてあった、それだけが確かなことなんです。だから、脳としては目出たし目出たしで、わだかまりはもう何もないんですけどね」
「ふーん……妹さんは目撃者なわけだから、細々としたことを知っていて当然か、ただし、本人は覚えていないということですね……なるほど、それはまあいいとしましょうか」
不承不承ながら依藤は納得してから、
「……も[#「も」に傍点]ひとつあるんですわ、目撃者の子供の話ですが、先生、これもけっこう変なことおっしゃいましたよね、本人は嘘をついているつもりはないが、結果的には嘘……といったような」
「あー、それはさらに難しい話ですね……じゃ、お言葉に甘えて、自説を曲げずに説明しましょうか」
いうと火鳥は、ワインをぐいと一口飲んで喉を潤してから、
「……子供の脳というのはですね、母親の脳と非常に密接にコンタクトをとっていて、始終べったりと見えない回線で繋がっていると思ってください。だから始終、情報が流れているわけですが、これは母と子の間の専用回線のようなもので、他人はここには割って入れないんですね……けれど、この専用回線の維持には、母親のそれなりの努力が必要なんですよ。月並みな表現でいうと、子供への愛情、といったことになりますが……つまりですね、その事件の最中も、この専用回線が切れていたんではなかろうかと思いましてね。母親の側の、よんどころのない事情でね」
火鳥は喋りながら、乳飲み子を抱えた母親はアマノメは見えるのか、とそう竜蔵に問われたことを思い出していた。答えは竜蔵にいったとおりで単純だが、そういったことではない。母と子……いかにも暗合めいた一致に思えたからだ。
火鳥はまったく与《あずか》り知らぬことだが、かのアマノメの封印[#「封印」に傍点]も、おそらく似たような仕組なのである。能力者の母親は、幼子がいる間はその能力を封印するという。アマノメの秘儀においては、子供の方が封印されるのだ。いかにすれば立場を逆転できるのか、その詳細は〈竜蔵のみぞ知る〉である。
「……ところがですね、子供の脳というのはけっこう薄情でして、親に見放されても、すぐに他人の脳と繋がろうとするわけです。で、たまたま近くにいた、つまりベンチの真裏にいた妹の脳と繋がったと仮定しましょう。けど、そのときの妹の脳は、これもまた大変な状況なわけで、呪いの解消をしようと必死の作業をやってる最中なんです。その妹の脳の中で、そのときにもっとも際立っていた情報は何かというと、それは、呪いの解答となる情報のはずですよね。だから脳が繋がると、それが一番に伝わるんですよ。すなわち、おねえちゃんが男の背中を押した……になるわけです」
「ふーん」
腕組みをして依藤は唸った。
「……ですが、単純に、男の子が母親のことをかばって嘘をいった、そう考えるのが自然なのかもしれませんけどね」
補足するように火鳥がいうと、
「いや、俺はですね、その母親と子供の脳が繋がってるという話、それけっこう信じますよ」
意外なことを依藤はいう。
「自分には、妻と子がいるんですけどね、職業柄、家族との約束は始終すっぽかすんですわ。事件が起こると、休日であろうが夜中であろうが関係ないですからね。で、子供が生まれる前は、すっぽかしをやると妻が激怒していたわけです。ところが、子供ができてからは怒らなくなりましてね、その代わりといっちゃ何ですが、子供が突如[#「突如」に傍点]高熱を出したりするんですわ。子供が一、二歳のときだから、子供とは何の約束もしてませんからね。なのに、約束を破ると子供に出るんですよ。俺はてっきり、妻のヒステリーが子供に憑依《のりうつ》って出たんだと、そう思ってたんですけどね」
「……それは十二分に考えられる話ですね。子供が幼いときは、母親は、心身ともに健全であるべきなんです。だから周囲も、子育て中の母親には心的な負担をかけないようにしないと……」
「そうすっと、親の因果は子に報いる、なんて諺ありますけど、あれはその通りですよねえ」
自身を戒《いまし》めるように、依藤はいった。
青身魚の切身を口にいれた火鳥が、
「うわ……すっごく脂がのっていてトロみたいに美味しいですね、これイワシかなあ?」
「いや、サンマでしょう?」
ふたりが相前後して板さんにお伺いを立てていると、
「――アジです。今ごろが旬でして」
みたいなこともあってから、依藤が事件の真相を語り始めた。
「……実際は単純な事件なんですよ。あの、おねえちゃんが押した、という証言を無条件に信じてしまったところが、警察《われわれ》の敗因だったわけですわ。幼い子供のいうことだから頼りはないけど、逆に、全くの嘘だとも思いませんからねえ。……まず、被害者の竜の刺青の男ですが、これは小さな組のチンピラでして、事件があった駅の商店街に、その組がゲーム賭博の店を構えていて、そこを任されていた男なんですよ。そして犯人となった若い母親は、その店の常連客なんですわ。まあ常連といっても、通い始めてせいぜい一カ月程度ですけどね。あれは非合法な店なんですが、かるーい気持ちで店に入ったそうです、パチンコ店みたいな感じでね。最初はけっこう勝たせてくれるんですよ、一日で十万円ぐらい勝ったこともあったといってました。しかし甘い汁を吸わせるのは最初だけでして、あるときを境にドカドカ……と嵌《は》めていって客に借金を作らせる、というのが奴らの手口なわけですわ。この種のゲーム機は裏でいっくらでも操作できるから、客が勝てるという道理がないんです。その犯人となったヤンママも、この罠にまんまと嵌まりましてね」
「店が、客にお金を貸すんですか? ぼくはそういうところ行ったことがないんで知らないんですが」
「わたしも……」
静香も興味津々といった顔でいう。
「――貸しますよ。ただし、お金じゃなくてコインを貸すんですけどね。そのコインをゲーム機に入れると遊べるわけですわ。勿論、貸すときには一筆書かせますけどね。で、客の信用度に応じて、後日もってきて下さいになる場合もあれば、その日に店員が付き添ってサラ金に行く場合もあります。けど、うまくしたもんで、たとえば客が十万負けたとしましょう、すると次来たときには四、五万勝たしてやるんですわ……なかなかの心理学者でしょう。そしてどんどん深みに嵌めていくわけですよ。従業員も賢くてですね、嵌まる客かそうでない客かは、コインの賭け方見てたら分かるというんです……その、嵌まりそうな客だけにターゲットを絞って、誠心誠意[#「誠心誠意」に傍点]を尽くして嵌める[#「嵌める」に傍点]というんだから、こら逃げられませんよね」
どこかの新興宗教と似ている、と火鳥は思う。
「……百万の借金ぐらいあっという間ですわ。犯人のヤンママの場合は、サラ金への借金がすでにかなり嵩《かさ》んでましてね、そっからはもう手当できないんで、あとは御定まりのコースですわ。夫にバラすの身体を売れーのと男に脅《おど》されたそうで、借金の額以上に集《たか》られるというのが、この世界の掟です。その話し合いを、人が来ないプラットホームの先端でやっていたというわけです。……男も間抜けなんですよ、そんなこと茶店でやりゃよかったものを、コーヒー代をけちったばかりに、逆上したヤンママに背中を押されちゃったわけですからね」
「じゃ、その犯人は、すぐ近くのベンチに座っていたまな美が……ぼくの妹が、事件の一部始終を見ていたということは当然知ってますよね?」
「ええ、若い女《こ》が座ってたことぐらいは覚えてました。けど、男を線路に突き落として気が動転しちゃったらしく、よくは覚えていないんですよ。その女《こ》、薬《やく》かアンパンでもやってたんじゃなーい……というのが、犯人の実際の証言ですけどね」
「――やってない、やってない。後暗示が発動していたから、そんな顔に見えたんでしょう」
真気《むき》になって火鳥がいうと、
「わかってますって、あのように優秀な妹さんがそんなことするとは考えられないじゃないですか」
宥《なだ》めるように依藤はいう。
「……じゃあですね、他人に見られていたことを知っていながら、しらを切りとおせると犯人は思っていたわけですか?」
「そのあたりは、犯人の心理の面白いところなんですよ。男を突き落としてから犯人は、ベンチに座っていた自分の子供の手を引いて、歩き出したわけです。けど、十メートルほど離れた隣のベンチまで歩いてきて、そこで、腰が抜けたようにへたり[#「へたり」に傍点]込んでしまったわけですわ。なんせ真っ昼間の駅のホームですからね、妹さんだけじゃなく、そこらじゅうに目撃者がいて、一部始終を見られていたと思うのが普通でしょう。犯人もそう思ったわけで、もう諦めの境地ってやつですよ、だから今生《こんじょう》のお別れにと、好きな音楽でも聞こうかと、それで耳にイヤホンをはめて大[#「大」に傍点]音量にして聞いていたわけです」
そこまで喋ると、依藤はなにやら思い出し笑いをしてから、
「……そうこうしていたら、彼女のところに駅員と交番の巡査がやって来ましてね、もしもし、と彼女の肩を叩いたわけです。そのとき彼女は、あー来たか、手錠[#「手錠」に傍点]だなとそう思ったそうです。ところが巡査は、さっきここで事故があったんですが、何かご覧になっていませんでしたか……とやけに丁寧に対応するわけですよ。どっか雰囲気ちがってますよね、それに、事故[#「事故」に傍点]だといってますから、犯人としてもキョトンです。そしたら、横に座っていた子供が、おねえちゃんが押した、といきなりいい出したわけですよ……犯人もちょっと気になって、隣のベンチの方を見たそうなんですわ。しかしそのときには、妹さんはもうそこには座っていらっしゃらなくて、たぶん停車していた普通列車の方に乗られたんだと思うんですけどね……だから犯人としては、あとはただ成り行きに任せたということなんですよ。自分は見てない聞いていないで通していただけなのに、まわりが勝手に盛りあがってくれた、というのが犯人の弁明なんですわ。馬鹿げた話なんだけど、その犯人親子に豪勢[#「豪勢」に傍点]な昼飯を奢ってしまったという、間抜けな巡査部長がいたのも事実ですから。勿論、減俸処分を食らうでしょうけどねえ」
それにからむ請求書を依藤が改竄《かいざん》していたことは、手柄もあって不問に付されたのであるが。
「……うちの課に、野村という警部補がいるんですわ。それはそれは恐い刑事さんでしてね、ちなみに、自分は優しい依藤さんで通ってるんですよ」
ことさら剽軽《ひょうきん》な顔をしていってから、
「けど、野村刑事は顔も身体つきもホントに恐いですからね、その野村に、先生からお電話があったあと、ヤンママに会いにいってもらったんですよ。で、どうしてその時刻にその駅にいたのか、といったあたりを訊ねたぐらいで、もうタジタジになりましてね、それであっさりと白状したわけですわ。これはもう、本当に先生のおかげですわ――」
依藤はいうと、白木のカウンターに顔をつけんばかりに深々と頭を下げた。
その後、メニューの方はにぎり鮨へと進み、甘エビは冬に日本海で捕れるのが本物だとか、トビウオは外道でもっとも値段が安いとか、鳥取の実家における寿司事情を火鳥が語りながら、各人が好きなネタを好きなだけ食べて、その帰りぎわ、静香が化粧室に立ったときに、依藤はこんなことをいった。
「……先生、自分は職業柄[#「職業柄」に傍点]、人がどの程度ほんとのことを喋ってるのか、だいたい分かるんですわ。たとえば、竜の刺青の男の背中を、両手が押した、そんな記憶が妹さんにあることを知って、先生は腰を抜かすほどに驚かれた……あの話はほんと[#「ほんと」に傍点]ですな。しかし、他の話はどうでしょうかねえ……」
[#改ページ]
28
八月二十四日――
お盆のあいだだけ一瞬間東平野にも透きとおった青空が見られたかに思えたが、いつしか薄ころもで覆われたような空に逆戻りで、それでも晴天には違いないのだが、もちろん三十度をゆうに超えている真夏日の、その昼下がり、白のワンピースできめたまな美はちょっと洒落た麦藁帽子をかぶって、越谷駅を出たところにあるバス停に立っていた。
――その日は、淨山寺の地蔵尊のご開帳の日なのである。まな美はタクシーで行こうと提案したのだが、高校生はバス――と竜介に一喝《いっかつ》されてしまい、バスを待っているのである。
しばらくして、その火鳥竜介が現れた。
「あ、その服は一度見たことがあるね」
殺人事件に巻き込まれたいわく因縁の白い服なのであるが、まな美はそんなことは知らない。
「……レトロで素敵でしょう」
いうと、まな美は帽子を押さえながらクルリと一回転をしてみせた。
「……それ、たぶん丈の長さだね。ミニでもないしロングでもない、つまり今様じゃないから古典的《クラシカル》に感じるのじゃないのかな……」
いっぱしの服飾評論家を気取りながら眩しそうに見つめている竜介だが、その白のワンピースの由来は彼は知らないのである。
大股なストライドで、23という番号《ゼッケン》Tシャツをだらーんと着ている土門巌がやって来た。
「お、おにいさん……と呼んでええんやろか?」
どちらに聞くともなくいう。
「かまわないけど、きみ[#「きみ」に傍点]、背え高いねえ」
低くはない竜介よりも、土門くんはさらに十センチは高いのである。
「そういうおにいさんかて、写真と全然ちがうやありませんか、……えーらい格好ええやんか」
最後は小声でいったが、まな美の頭の上で、なんやら見えない火花がバチバチッと飛んだようである。
竜介は夜のバイトの都合上あか抜けした服をかなりの数持っていて、今日はモスグリーンの麻のジャケットをはおってきているのだ。三人ならぶと土門くんだけ子供っぽく見えるのだが、それでいて頭抜けて背が高いから余計に妙である。
ほどなくして、岩槻駅行きバスが入ってきた。たとえ一時間に一本のバスでも、時刻表さえ知っていれば頼もしくも見えるのである。三人はバスに乗り込むと、最後尾の席に、まな美を真ん中にはさんでサンドイッチのように座った。
「ねえおにいさん、摩多羅三尊のことなんだけど」
座るなり、まな美がいい出した。
「――摩多羅神の本体は八識《はっしき》の心王《しんのう》で、子供の丁令多《ていれいた》は七識、もうひとりの爾子多《にした》は六識だというでしょう、あれって何の話なの? おにいさんに会ったら聞こう聞こうと思ってたのに、このあいだは途中で研究室から追い出されちゃったから、だから今日は先に教えて――」
「うーん、それは唯識論《ゆいしきろん》だね」
竜介は少し考えてから、
「このバス、岩槻まで行くだろう。その岩槻市に、慈覺大師が創建と伝えられている、ちょっと知られたお寺があるんだが」
「――慈恩寺ですよね」
土門くんが即答した。
「お、よく知ってるねえ」
「自分、地元[#「地元」に傍点]ですから――」
嬉しそーにいう。
「だったら土門くん、わざわざ越谷まで出て来なくても、岩槻から反対行のバスに乗った方がよかったんじゃなーい」
別角度から、まな美は厭味をいう。
「そんなあ……のけもん[#「のけもん」に傍点]にせんでもええやんか」
哀れを誘うような声で土門くんはいう。
「慈恩寺がどうかしたのおにいさん?」
「うーんと……」
そのふたりのやり取りに、竜介はちょっと心を奪われてから、
「……岩槻の慈恩寺は、孫悟空と縁があるお寺ということにもなってるんだが、それは知ってるかな?」
「あ、そんな案内板が立ってたような気もする、あれなんだったかしら……」
まな美も一度は訪ねたことがあるのだが、その詳しい由来までは知らない。
ブルルン……。
三人の真下にあるエンジンが身震いをすると、バスが動き始めた。車内は閑散としていて、他にはお年寄りが四人ほど乗っているだけである。
「……慈恩寺というのは、そもそもは中国の長安にあったんだ。それも、時の皇帝の命令で建っていて、大[#「大」に傍点]慈恩寺とも称されていたぐらいで、中国の唐の時代を代表するようなお寺なんだ」
六四八年に建立されているが、今は七層からなる大雁塔《だいがんとう》を遺すのみである。
「その、長安の慈恩寺には、日本人の誰もが知っている超有名な僧侶がいたんだけれど……いうまでもなく、三蔵法師|玄奘《げんじょう》ね」
「……それで岩槻の慈恩寺も、孫悟空と縁があるってことになるの?」
「そう単純な話でもない。岩槻の慈恩寺は、有名な寺の名前を勝手に拝借しただけで、慈覺大師が建てた当時には、本家とはいっさい繋がりはないんだ。が、今はある……それも大[#「大」に傍点]ありでね、今では岩槻の慈恩寺こそが大[#「大」に傍点]慈恩寺である、といってもいいぐらいなんだ。長安の慈恩寺は現在は寺としては機能していないからね……これは、順を追って説明しないとわからない」
「おにいさん」
まな美が不安そうな声で呼びかける。
「わたしの質問までたどりつける? バスはせいぜい二十分よ」
「――大丈夫だよ、短い話だから。まずは三蔵法師玄奘だけど、彼は天竺にありがたーい仏教の経典を取りに行くだろう、あの話も実話でね、実際に数多くの経典をたずさえて長安に戻ってくるんだ。一方、日本から遣唐使で出向いた僧侶のひとり、道昭《どうしょう》というのが、玄奘と、その一番弟子である窺基《きき》に会っていて、直接教えを乞うている。その道昭が日本に戻ってきて作ったのが、法相《ほっそう》宗と呼ばれる宗派なんだ。これは南都六宗のひとつだけど、真言や天台のひと世代前の仏教でね、別名、慈恩宗とも呼ばれている。長安の慈恩寺が本家なんだから当然だね。さらに、またの名を唯識《ゆいしき》宗とも呼ばれるんだ。これはなぜかというと、三蔵法師玄奘が天竺から持ち帰ったありがたーい経典の中核《メイン》となるものが、すなわち唯識論だから――」
「あっ、話が見えたわよおにいさん。その唯識論を天台宗に取り込むために、摩多羅神の意味づけに組み込んだり、慈恩寺という名前のお寺を建てたりしたのね……慈覺大師は」
「そのとおり、じゃ、なぜそんなことをする必要があったのかというと」
「――比叡山から僧侶が逃げて、法相宗にどんどんくら替えしていたからでしょう」
もぎとるように、まな美が答えた。
「相変わらずよく知ってるねえ……じゃ、僧侶がなぜ法相宗に略奪されていたかというと?」
「それは……最澄さんが頼りないからや」
まな美から耳にタコの、土門くんがいった。
「まあそうもいえるけれど、逆に、これは法相宗が優秀だったからなんだ。つまり唯識論が優れていたってことね。唯識論は、いちおう仏教の経典ではあるんだが、神がどうした仏がどうしたといったような、いわゆる宗教[#「宗教」に傍点]が説かれてるわけじゃなくって、純粋に心理学[#「心理学」に傍点]の解析書なんだ。それも驚異的なレベルのね……当時において、すでに二十世紀初頭の西洋心理学と互角か、それ以上なんだ。だから最澄さんに勝ち目はない。密教としても、唯識論は教義に組み入れるしか手はないんだ……といったようなことに慈覺大師は気づき、それを実践したんだよ」
「……そやけど、三蔵法師は西暦六〇〇年代の人間ですよね。二十世紀初頭やと、ざっと一千三百年も違いますよう……それやのに、心理学のれべる[#「れべる」に傍点]が一緒なんですかあ?」
土門くんらしい質問である。
「それは単純にいって、歴史が長いからなんだ。唯識論はもちろんインドが源で、インドでは瑜伽行派《ゆがぎょうは》と呼ばれていて、大乗仏教の二大宗派のひとつなんだが……瑜伽行派とは何かというと、要するにヨーガのことなんだ」
「あの、奇妙なかっこうするやつですか? 小さな箱の中に入ったりするやつ……」
土門くんは何かのテレビ番組で見たようである。
「まあそうだけど、あのように極限状態まで肉体をコントロールするのは、瞑想のための手段のひとつであって、瞑想[#「瞑想」に傍点]こそが本来の目的なんだよ。で、これは非常に古くてね、インダス文明の遺跡からヨーガの修行をかたどった像が発見されているぐらいなんだ」
「それやったら……最大で紀元前二五〇〇年まで溯れますね」
歩く年譜の土門くんはいう。
「だったら、玄奘のころでは約三千年たってることになるだろう。肉体を極限まで痛めつけて瞑想を続けることによって、人間の心理はどう変化していくのか、それをつぶさに観察し、人間の心の奥底を探求していく、その課題ひとつに絞って三千年もやり続けてくれば、当然、それなりの真理に到達できるはずだよね。その方法論を、仏教が取り込んじゃったわけさ。そして、時代はずーと下がってきて第二次世界大戦中の話……たしか南京だったと思うが、三蔵法師玄奘のお墓を日本軍が発見したんだ。もっとも、地元の人は元来知っていたんだろうけどね。そして、そのお墓から骨を分けてもらうということになった……これも当時のことなので、強制的なのか、親睦的な話し合いでそうなったのかぼくは知らないが、ともかく、玄奘の骨が日本にやってきたんだ。とりあえずは日本の仏教界が受けたんだが、さあて、その骨をどこに置いたものか?……そうそう、たしか似たような名前のお寺が埼玉のどこかになかったか、……そんなわけで、『西遊記』で誰もが知っている三蔵法師玄奘の骨は、現在、岩槻の慈恩寺に安置されているんだ」
「うっそー」
「ほんまかいなあ」
まな美と土門くんが同時に喚《わめ》いた。
「――嘘ではありません」
教師のように竜介は窘《たしな》めると、
「これは最近のことなんで確かな話なんだ。玄奘の骨は慈恩寺の本堂じゃなくて、すこし離れたお堂に置かれている。その納骨のさいには中国側から特使も来て、ここは長安の慈恩寺と景色が似ていますね、と、その特使がいったという逸話も残っているぐらい……けど、これはよくよく考えると、まさに嘘からでた真なんだ。慈覺大師からみると玄奘は二百年前の人で、たぶん、慈覺大師にとっても憧れの僧侶だったと思うんだが、その憧れの人がいた寺の名前をつけたら、千数百年もたった後に、その人の骨が、つまり実物がやって来たというわけなんだ。すごい話だろう……これはもう慈覺大師の魔法[#「魔法」に傍点]としかいいようがないよね」
「やるやるとは聞いてたけど、慈覺大師ってそこまですごい人やったんやなあ……」
土門くんはすっかり竜介の話に嵌まってしまって、いう。
「おにいさん」
まな美はちょっと不満そうで、
「……わたしの知りたかったのは、摩多羅神が意味するのは阿頼耶識《あらやしき》だとかいうでしょう、それが何なのかを聞きたかったんだけど?」
「それって、どこかの遊園地の名前ちゃうのん」
土門くんが唐突にボケをかました。
「きみ……なかなか面白いこというじゃないか」
竜介が笑っていると、
「相手することないわよおにいさん――」
噛みつくようにまな美はいってから、
「今のは絶対[#「絶対」に傍点]に知らずにボケてるんだから、雰囲気でわかるの。それに、魂[#「魂」に傍点]を神戸に置いたままの人が、浅草[#「浅草」に傍点]のことなんて知るもんですか――」
考えられる最大級の厭味をいった。
「浅草ぐらい知ってるぞう」
むきになって土門くんもいい返す。
「だったら、浅草に大きなお寺があるけど、あれ、なんていう名前のお寺か知ってる?」
「――浅草寺《あさくさでら》やんか」
自信たっぷりに土門くんはいう。
「ほらね」
まな美はしてやったりである。
「ま、浅草観音《あさくさかんのん》ともいうからねえ」
仲裁するように、竜介はいう。
「……浅草寺《せんそうじ》と呼ぶのは江戸っ子の粋《いき》というか、意地のようなもので、深い意味はないと思うよ。そう呼んだ方が格好がいいというそれだけの理由さ」
「なんや、浅草と書いてせんそう[#「せんそう」に傍点]と読むんか。せんそう寺《じ》いうんは、仙人の草とか書いて、どっか別の寺やと思とったぞう……それやと有田焼の古いやつを古伊万里《こいまり》いうんと変わらへんやんか」
ぶつくさと独り言のように土門くんはいった。
「なにそれ?」
まな美が尋ねると、
「――備前《びぜん》焼の古いやつは古備前《こびぜん》いうやろ、九谷《くたに》焼の古いやつは古九谷《こくたに》いうねん。信楽《しがらき》の古いやつは古信楽や。そやけど、有田焼の古いやつは古有田《こありた》とはいわへんねん。なんでや……語呂が悪いからやねん。伊万里いうんは有田の焼き物の積出港の名前で、それに古いをつけ古伊万里いうことにしたんや。骨董屋のおやじたちも、けっこう粋[#「粋」に傍点]ですよね」
おにいさまの言葉をなぞれて、嬉しそうに土門くんはいう。
「……思い出したけど、このあいだ土門くん、有田焼とか古伊万里とかは瀬戸[#「瀬戸」に傍点]もんだという話をしてたでしょう。でも有田って、佐賀県の有田のことじゃない。だったら瀬戸内海には面してないわよ?」
「――あ、それ自分もむかし勘違いしてたんやけどちがうねん。それは愛知県にある瀬戸市の瀬戸からきてんねん。そこは元来、瀬戸焼の一大産地やったんやけど、作ってたんは、いわゆる瀬戸もんではなくて、そのひと世代前の土もん[#「土もん」に傍点]や」
そこまで喋ると、ぴたりと土門くんは話をやめた。
「それで終わり?」
まな美が不満げにいうと、
「この話けっこう長いで、かまへんか?」
土門くんは時間を気づかっていう。
「じゃ、二分でおさめて――」
姫にそういわれると、土門くんとしては頑張るしかない。
「瀬戸もんは、薄くて硬くて無っ茶苦茶優秀[#「優秀」に傍点]やから、古い焼き物は駆逐されて、火が消えかかるねん。これはあかんと、瀬戸焼の頭領の加藤という人が有田にもぐりこんでスパイするねん。有田焼は従来の焼き物とは全然ちごうてて、推測では作られへんねん。そして加藤がその技術を盗んできて、有田と同じ焼き物を瀬戸で作り始めたんが、一八〇〇年ごろの話、それがぱーと庶民に浸透して瀬戸もん[#「瀬戸もん」に傍点]と呼ばれるようになったんや。なんで有田もん[#「有田もん」に傍点]と呼ばれんかったかというと、有田焼は高級品で庶民とは関係がなかったからや。――どや」
まくしたてた。
「すっごーい、一分三十秒よ土門くん」
「余ったやんか、じゃついでの話もしとくけど、瀬戸もんは有田のおりじなる[#「おりじなる」に傍点]いうわけちゃうで、元は朝鮮半島の技術やねん。秀吉が文禄・慶長の役で攻めていったときに、皿の職人を根こそぎ攫《さら》ってきて、その人たちを有田に住まわせたんや。さらに元をたどれば景徳鎮《けいとくちん》の発明やねんけど、中国は内乱で景徳鎮もポシャッてしもたから、困った東インド会社が、かわりに有田に注文を出すねん。それで日本のお皿が大量にヨーロッパに輸出されて一大ブームになるんやけどな……そやけど、これは本来は朝鮮半島がやっていた仕事のはずやねん。朝鮮の人が怒るのももっともやで。文化までパクると祟られるぞう……」
文禄・慶長の役は、俗にやきもの戦争とも呼ばれているぐらいなのであるが。
「さすがね土門くん」
まな美がいつものように称賛の言葉を贈っていると、竜介は、信じられないといった顔で、
「――きみたち高校生だろう、いつもそんな高度な話してるのか?」
「そうよおにいさん、ちょっとスリリングでしょう」
まな美がいうと、
「すりりんぐ[#「すりりんぐ」に傍点]ー」
土門くんは何かのスイッチが入ったみたいで、両手をひらひらと踊らせた。
バスは、元荒川を右に見ながら北へと進んでいく。
「……釈迦は菩提樹の下で悟りをえたというけれど、歩いていて木の下にきたら突如ひらめいた、わけではないんだよ。それこそ、死にそうになるぐらいのヨーガの瞑想をやっていて、ようやく悟ったんだ。厳しい瞑想を続けていると、通常の意識よりも奥深いところにどんどん降りていくことができる」
竜介が、まな美のリクエストに応えていた。
「……唯識論は八つの段階《ステージ》で構成されているんだが、前の五つは、目とか耳とかの俗にいう五感を意味し、それらを感知しているのは我々の意識だから、五の上は六、すなわち意識のことを六識と呼ぶ、ここまでは問題ないだろう……そして、六識の背後にある七識のことを末那識《まなしき》という。これは単純にいってしまうと、脳の働きのことなんだ。たとえば、僕たちは夜眠っているときに夢を見る。それは脳が勝手にやってることなんだが、僕たちは、その夢を鑑賞することもできる。そのような状態を末那識[#「末那識」に傍点]というわけさ。眠らなくても、座禅やヨーガなどの瞑想をすれば、比較的簡単に末那識は体験することができる。あるいは、夜眠っているときに別々の人がまったく同じ夢を見た、なんて話を聞いたことないかな?」
「……夫婦はときどきそういうことが起こる、いいますよね」
土門くんがいった。
「……そうあって欲しいものだよね。これすなわち、そのふたりの脳が繋がっていたからなんだよ。脳と脳との間で情報のやりとりがあったから同じ夢を見たんだ。けど、朝目が覚めて夢の突き合わせができる相手って限られてるだろう。もし世界中の人の夢の突き合わせをすれば、もっと頻繁に起こっている現象だろうとぼくは思うけどね。これも、脳が勝手にやっている働きなので、末那識の出来事なんだ」
「そうすると……他人の心をよむテレパシーとかあるけど、あれも末那識の話なの?」
まな美が尋ねた。
「うーん」
竜介はしばし唸ってから、
「ま、そう思っていただいていいと思うね。自分の脳の情報と接することは……末那識だよね。他人の脳の情報と接することも、末那識なんだ。個人対個人の脳情報のやりとりは、すなわち末那識だと思っていい。さらにその背後に八識の、――花屋敷があるというのだが」
「――おにいさーん」
肩をぶつけてきながら、まな美は叱責をする。
「そや、はなやしき[#「はなやしき」に傍点]いうんやあ」
土門くんは謎が解けたらしく、嬉しそうである。
バスの案内テープが、次はしらこばと水上公園入口、と告げていた。淨山寺のある野島バス停まではそれをいれて三つである。
「……阿頼耶識《あらやしき》は難しい。ユング心理学でいうところの集合的無意識とほぼ同じなんだが、イメージとしては、たっくさんの脳が網の目状に繋がっている、そんな感じかな。たとえば、超能力探偵とかがいたとしよう……その彼に、行方不明の人の写真なりを見せると、その人が埋められている場所とか、どんな殺され方をしたとか、凶器は何であったかとか、事件の状況を透視してくれて、それがぴたりと当たっていたような場合[#「場合」に傍点]もある……けど、これは変な話だよね。その行方不明の人はすでに死んでいたわけだから、その情報はどこからとってきたのか?」
「あの世からやろか?」
「犯人からかしら……」
「かりに犯人からとしても、その超能力探偵は犯人は知らないんだよ。なのに[#「なのに」に傍点]情報はとれる場合があるんだ。これは、阿頼耶識を利用しているからなんだ。情報[#「情報」に傍点]――それだけに焦点を絞って、網の目状の脳のネットワークをわたりあるくことができる、と、ぼくは考えてるんだけどね。どこかインターネットと似ているよね。けれど、この脳の集合体が巨大コンピューターと化して、何かひとつの作業をやっている……陰謀めいた何かを……そんなはずはないよね。それに、いっくら寄り集まろうとも所詮人間の脳なんだから、どこかの宗教家が夢想してるような絶対[#「絶対」に傍点]知や絶対[#「絶対」に傍点]神がそこから現れ出るはずもない。いや、それどころか、そこは魑魅魍魎《ちみもうりょう》の住む世界なのさ。他人の脳の情報なんて魔物[#「魔物」に傍点]以外の何物でもない。脳内でわだかまっていて処理に困るような情報こそがいの一番に伝わるという、そういう仕組みだからね」
「おにいさん……それって魔境[#「魔境」に傍点]のこと? お釈迦さまが悟りの直前に体験したとかいう」
魔境にも様々あり、禅宗系の経典『楞厳経《りょうごんきょう》』には五十種類もあると説かれている。
「そのとおり、魔境[#「魔境」に傍点]だ。瞑想して末那識や阿頼耶識におりていくと、他人の脳の情報と接しないわけにはいかないからね。つまり魔物が出てくるわけだが、魔物というのはすなわち神のことでもある。仏教では魔物転じて神となるからね。その魔物《かみがみ》たちが現れて瞑想の邪魔をするわけさ。が、釈迦はその魔物《かみがみ》たちの罠を巧みにかいくぐって、さらにその奥にある悟りの境地へと達したわけだけどね……つまり、彼は魔物《かみがみ》たちを懐柔することに成功したんだ。だからお釈迦さまは曼陀羅の中央にいて神々を従えることができるんだよ」
「――なっとく」
力強く土門くんがいった。
「じゃおにいさん、その悟りってなんなの?」
難解な質問をまな美は平然とぶつけてくる。
「うーん、唯識論は八識までなんだが、密教はその上に九識として阿摩羅識《あまらしき》というのを置いている。そして、我ら衆生の本心は第九識の静都にある……と説かれているんだね」
「せいと……?」
「静かな都だ。しーんと静まりかえっていて何もないところさ」
「……それが悟り?」
「そういうこと。八識の背後《うえ》にはもう何もないんだ、といったことを知ることが悟り[#「悟り」に傍点]なんだよ……肩透かしのように感じられるかもしれないが、これが仏教の根幹なんだ。じゃ、その静都にまで達したお釈迦さまとは、彼はいったい何者なのだろうか?」
「仏陀《ブッダ》……悟った人よね」
ブッダはサンスクリット語で悟れる者という意味である。
「――そう、彼は人[#「人」に傍点]なんだ。自分は悟ったけれど神ではない[#「神ではない」に傍点]と断言しているからね。つまり釈迦のように、あーいったレベルにまで達しえても、人間は人間であり、それ以上の存在ではないってことを身をもって説いているともいえる。しかし、人間でありながら有象無象《うぞうむぞう》の神々たちを従えさせることもできるんだ……ほら、神と人間の立場が逆転したじゃないか。悟りとは、それを可能にすることなんだよ。ところがさ、神というのはもう一種類いるよね、いわゆる全知全能の神[#「全知全能の神」に傍点]というやつが……阿頼耶識はそうじゃないという話はしたよね。だったら、その上の九識に登場してきてもよさそうなものだが……残念[#「残念」に傍点]、そこはしーんと静まりかえっていて、この手の神は出てこなかったんだ。それが仏教なんだよ。どこかの宗教とはちがうだろう……」
多分に、火鳥流に歪曲された説明ではあるようだが。
車中の案内が、次は野島バス停だと告げた。
「――そうそう、このあいだおにいさん変なこといってたでしょう。お地蔵さまと竜とは一緒だとかいったような、あれは何のことなの?」
時間がないところでまな美がいい出した。竜介も思い出したが、あれは苦し紛れの話なのである。
「うーんと、お地蔵さんってほら、手になんか持ってるじゃないか」
「――錫杖《しゃくじょう》?」
「いや、もう片方の、手を差し出してる方」
いいながら、竜介は左手を前に差し出した。
「あ、あれは宝珠をのせてるのよねたしか」
「ほうじゅて何や?」
土門くんが尋ねる。
「丸い珠《たま》なんだけど、ちょこっと先が尖ってるの。仏舎利《ぶっしゃり》が変じてできたというから究極の仏具《アイテム》だとは思うけど、なんに使うのかは知らない。それに宝珠をもっている神仏って意外と少なくて、お地蔵さま以外では……如意輪観音《にょいりんかんのん》、虚空蔵菩薩《こくうぞうぼさつ》、吉祥天、それと荼吉尼天ぐらいかしら」
「うわー」
荼吉尼と聞いて土門くんが反応をした。
「……宝珠は必ず夜に光りを放つ、そのゆえに、諸真言供養のときも宝玉もって灯《ともしび》となす……これは十四世紀のオカルト百科、光宗の『渓嵐拾葉集』の説明だけど、ぼくが思うに、宝珠というのは単純に水晶玉のことさ。まな美も、研究室に来たときに見せてやったろう」
「おにいさんの説明だと、あれは超能力をえるための道具《アイテム》よね……」
「それにほら、竜だって手に何か掴んでるじゃないか」
「どらごんぼおる[#「どらごんぼおる」に傍点]――」
土門くんが大きな手をひろげて、空中の何かを鷲づかみにしながらいった。
「だから同じものなのさ」
嘯《うそぶ》くように竜介はいった。
「えー、そんな話はじめて[#「はじめて」に傍点]聞いたわよおにいさーん」
野島のバス停に三人が降り立つと、そこに老人と少年が待っていた。
「わたしの兄です。こちらは桑名竜蔵さん、そして天目マサトくん」
まな美が紹介してくれたので、さも初対面のように竜介は頭を下げた。だが、何を話してよいのやらと立ちつくしていると、お子たち三人はとっとと先に歩いていく。
それと呼応するかのように、すこし離れたところにあった男の影が二つ、三つ……動き始めた。
竜介の目線でそれに気づいたのか、
「ま、よいではございませぬか。陰《かげ》には陰の仕事がございまするので」
囁くように竜蔵はいうと、ゆっくりと歩きだした。
「……ところでご老人、あの屋敷からは出られたのですか?」
肩をならべて歩きながら、竜介は聞いてみた。
「はい、そのような段取りでおったのですが、アマノメ様が反対なさりまして……今までになく、強う反対なさりましてな。ですので、今しばらくはあの屋敷におろうかと思うております」
「そうですか、まな美が喜びますよ。もちろん、何もいってませんけれどね……妹は、あの鎮守の森の屋敷がいたくお気に入りのようだから」
「鎮守の森……」
竜蔵はすこし驚いたようにいって、
「まな美さまは、そのようなことを申されておったのですか。この老人《じい》も、あそこまでになったガーデニングを手放すのは惜しゅうございますからなあ」
和《にこ》やかに笑った。
「日[#「日」に傍点]ーまちがってへんやろな、ぜんぜん人おらへんやんか、だいじょぶかあ……」
以前来たときと景色は同じで、田畑と家屋が混在しているだけの人気《ひとけ》のない田舎道である。
「……さっきから、車が何台かは抜いていったから、みんな車でお参りに来てるのよ」
「えー、あそこの駐車場は何万台[#「何万台」に傍点]もとめられへんぞう」
お経をあげるように土門くんはいってから、
「それに、出店かて全然あらへんやんか。淨山寺のお地蔵さんは日本の護り神ちゃうんか、そのお祭りの日やいうのに、こんなんで大丈夫かあ――」
「……そうね、ちょっと心配よねえ」
「あ、出店でてるわよ」
淨山寺の門構えが見えてきたと同時に、まな美がいった。
「雀の涙やんか……」
門の正面の、かつての『眼洗いの池』である田圃の縁にそって数軒、そして淨山寺の四脚門《よつあしもん》をはさんで、そこから奥の本堂へとつづく石畳の両側に出店が並んでいるようである。
「サーカスのテント」
その境内にある大銀杏のあたりを見てマサトがいった。
「どこやどこや……」
ご気楽に土門くんは応じてから、
「天目もいうようなったやんか」
と落とした。
その、『眼洗いの池』のとっかかりの店の前まで来たとき、
「べっぴんさーん」
という呼び声にまな美が立ち止まってしまった。
「――これ、江戸風鈴いうんやけど、知ってるかなお嬢ちゃん」
五十すぎの親父《おや》っさんだが、江戸風鈴を売ってるわりには妙な訛りがある。
「これはひとつひとつが江戸の職人さんの手作りや、ほら、触ってみい、ふちのところがザラザラしてるやろ」
握ればペリンと壊れそうなほどの薄ガラスの風鈴を無造作にひっくり返して差し出した。
「ほんとだあ……」
別の、いかにも質素な風鈴をもう片方の手で掴みながら、
「こっちのはツルツルや。型に流し込んでつくる大量生産やからね……ほら、ぜんぜん音がちがうやろう。この、ザラザラしたとこに舌[#「舌」に傍点]が擦れるからええ音がするのね」
風鈴の中に吊り下がっている棒のことを舌というのだが、その舌に紙の短冊がぶら下がっていて風を受けるのである。
まな美は、店の木枠に簾《すだれ》のように吊られてある風鈴の音色に、耳をそばだたせながら、
「ひとつひとつ音がちがうみたいだけど……?」
「それはわざ[#「わざ」に傍点]とそうしてる。十人十色ちゅうようにね、風鈴の音も人によって好き嫌いがあるから、好きなのを選んでくれればいいよお嬢ちゃん。一流の風鈴職人ともなるとね、十五の音色を作り分けられるというからねえ」
「これはあ……?」
まな美がひとつの柄を指さした。
「お、それは江戸時代からある風鈴ね。赤は魔よけの赤、椿の花はいさぎよしとして武士に喜ばれたんね。お嬢ちゃんお目が高いねえ」
まな美は、これはあ……とまた別の風鈴を指さしていて、しばらくは動きそうにない。
土門くんがマサトの耳元で何やら囁いた。
いつしか竜介と竜蔵も加わって店をひやかしていると、風がやみ、風鈴の音がぴたりと途絶えたそのしじまをぬうように境内の大銀杏の梢から、
かなかなかなかなかなかな……
蜩《ひぐらし》の声がおりてきた。
秋の気配がしのび寄ってきていた。
[#改ページ]
〈参考文献〉
『野島地蔵尊・淨山寺略縁起』
(ご開帳は八月二十四日と二月二十四日である)
『大江戸魔方陣』加門七海/河出文庫
『うわさの神仏』加門七海/集英社
(本文にある「神仏おたく」という造語は、加門氏の著作より借用)
『江戸の闇・魔界めぐり』岡崎柾男/東京美術
『円仁』佐伯有清/吉川弘文館
『最澄と空海』佐伯有清/吉川弘文館
『一目小僧その他』柳田國男/ちくま文庫
『青銅の神の足跡』谷川健一/集英社
『古神道死者の書』花谷幸比古/太陽出版
『密教辞典・全』佐和隆研/法蔵館
『仏教を彩る女神図典』西上青曜/朱鷺書房
『仏像図典』佐和隆研/吉川弘文館
『数寄屋図解事典』北尾春道/彰国社
『日本古代氏族事典』佐伯有清/雄山閣
『仏尊の事典』関根俊一/学研
『天台密教の本』学研
『世界宗教史T、U、V』ミルチア・エリアーデ/筑摩書房
『魔女と魔術の事典』ローズマリ・エレン・グイリー/原書房
『ジプシーの魔術と占い』チャールズ・G・リーランド/国文社
『ゲルマン、ケルトの神話』トンヌラ、ロート、ギラン/みすず書房
『眠りと夢』J・アラン・ホブソン/東京化学同人
『明晰夢』スティーヴン・ラバージ/春秋社
『認知心理学講座U 記憶と知識』東京大学出版会
『大脳機能と神経心理学』エカン、ランテリ = ローラ/中央洋書出版部
『認知神経心理学』グザヴィエ・スロン/白水社
[#改ページ]
底本
徳間書店 TOKUMA NOVELS
神の系譜T 竜の封印
著者 西風隆介《ならいりゅうすけ》
2000年5月10日  初刷
発行者――徳間康快
発行所――徳間書店
[#地付き]2008年5月1日作成 hj
[#改ページ]
置き換え文字
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
僧《※》侶 ※[#「にんべん+曾」、第3水準1-14-41]「にんべん+曾」、第3水準1-14-41
逆|縁《※》 ※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]「糸+彖」、第3水準1-90-13
相輪※ ※[#「木へん+棠」、第3水準1-86-14]「木へん+棠」、第3水準1-86-14
※見寺 ※[#「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90]「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90
咤《※》枳尼 ※[#「咤−宀」、第3水準1-14-85]「咤−宀」、第3水準1-14-85
阿※ ※[#「門<(人/(人+人))」、第3水準1-93-48]「門<(人/(人+人))」、第3水準1-93-48
顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90