かのこん 12 〜ちずるメリーゴーラウンド!〜
西野かつみ
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一、恋はワイルドシング
1
いい、おっぱおだなあ――。
と、耕太は、冬独特の、どこまでも澄みきった青空を眺《なが》めながら、しみじみ思った。
お正月の名残も惜しい、一月の上旬。
暦の上では冬まっただ中ながら、やはり地球温暖化の影響なのだろうか、雪も降らず、気候もおだやかで、こうして小さな公園のベンチに腰かけ、温かなお茶の缶を手に、ただひたすらぼーっとしていても、決して寒くはなく、むしろほんのりと暖かいほどで――。
あ。
ふいに耕太は、おのれのあやまちに気づいた。
違う、違うよ。
『いい、おっぱおだなあ――』
じゃないよ。
『いい、お天気だなあ――』
だよう。
おっぱおとお天気じゃ、だいぶ違う。
いや、たしかに、春の陽気なんかは、比較的おっぱおと近いものがあるかもしれない。
包みこむやわらかなぬくもりが、人の心を安らかにさせ、しかし始まりの予感が、心を熱くざわめかす……ふふっ、まったく魔性《ましょう》だなあ! あのおっぱおってやつは!
「ね、ねえ、耕太くん? さっきから、どうしたの?」
「えー? なんですー、ちずるさんー?」
真横からの声に、耕太は晴天を見あげながら応えた。
「なんか、おっぱおがどうこうって、小声でぶつぶつと……」
「ああ……ちょっと聞いてくださいよ、ちずるさん。どうしてちずるさんの、あのやわからな胸のふくらみは、ぼくの心をこうも惑《まど》わせるんでしょうねえ? まったく、敵《かな》わないよ……そうさ、敵うわけないんだ! ポツダムポツダム! って、うあおあわ!?」
耕太は我に返った。
そりゃあもう、あわてた。ふためいた。
手のなかのスチール缶は跳ねあがり、わたわたとお手玉してしまう。わ、わわ、わわわ、とひとしきり暴れさせて、ようやくに押さえこんだ。ああ、まだ飲み口を開けてなくて、よかった……耕太は、ほっと息をつく。
「だ、だいじょうぶ、耕太くん?」
「あ、はい、もちろんだいじょうぶです! と、いうか、あのう、ぼく……いま、なにかとんでもないことを口走ったりしませんでした?」
「え? ……ううん! ちっとも!」
ちずるは満面の笑顔を浮かべ、首を横に振った。
しかしその笑みが若干《じゃっかん》強《こわ》ばっていたのを、耕太は見逃すことができなかった。
あああ、ぼくってやつは!
さっきから、おっぱおとかおっぱおとか、おっぱおとか! おっぱおのことばかり! ヤマザキ冬のおっぱお祭りか! いや、まあ、たしかに、ちずるさんのおっぱおはステキだけど。うん、やわらかくってえー、おっきくってえー、いい匂いがしてえー。
ほら、今日だってさ。
耕太は、ちら、ととなりをうかがった。
ちずるはベンチの端に、ちょこんと腰かけていた。耕太とおなじく、手にはお茶の入ったスチール缶を持っている。
可憐《かれん》であった。
袖丈《そでたけ》が長く、指先のあたりまでを隠す、白のジャケット。首に同色のマフラー。あいかわらずの艶《つや》と長さを誇る黒髪が、背中を流れる。下は赤の短めなスカートで、にょぬん、とあらわになった太ももは、黒のニーソックスによって、しっかりと包みこんであった。ああ、本当、どうしてちずるさんはこうもかわいらしいんだろう!
なによりも、である。
ジッパーを閉めず、開けはなっていたジャケットの隙間から覗《のぞ》く、紫色の、ぴったりとしたセーターときたらどうだ。あまりにぴったりしているものだから、ゆたん、と重たげなふくらみのかたちが、ああ、あんなにもくっきりはっきりとしているじゃあないか!
いい、おっぱおだなあ――。
こんどこそ正しく耕太は賞賛した。
まろん、と丸くって。
めろん、と大きくって。
てぷん、と実りきっていて。
あのふたつの果実に顔を埋めたりなんかしたら、どれほど信心深くなくても、天国というものの存在を信じられるようになる。あの安らぎをみんなが知れば、きっと争いなんて起こりはしないだろうに……わかりあえるはずなのに……哀しいね、人間って……。
「こ、耕太くん……」
「ぽにょ?」
「あ、あまり、そこばっかり、見ないで……」
気がつくと、ちずるはなにやら身体をもじもじとさせていた。
うつむきながら、横目でちらちらとこちらの様子もうかがってくる。
その頬は、ほんのりと赤い。
あっ。
「す、ずびばじぇん!」
いつのまにやら口からあふれでていたよだれで発音を濁《にご》しながら、耕太はちずるの胸部へ熱視線を浴びせまくっていたことを謝罪した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
ベンチの上に正座し、なんどもなんども頭をさげる。
ごちんごちんごちんとおでこがベンチに当たった。
「い、いいのよ、耕太くん! だってこれは耕太くんのものなんだから! このふたつの愛情まろやかぱいんぽいんは! た、ただ……」
服の上から自分の両胸をわしづかみながら、ちずるはそっとまわりへと視線をくれた。
街中にある、小さな公園だ。
遊具だってブランコとすべり台の、たったふたつしかない。
が、そのふたつだけしかない遊具は、しっかりと子どもたちによって占領され、お母さんたちは遊ぶ我が子を見守りながら、井戸端会議に忙しい。すなわち、この公園はご近所さんの憩いの場なのであった。
そしていま、そのご近所さんたちの視線は、耕太たちへと釘づけであった。
「ねーねー、ママー、あれってシュラバ?」
「しっ! 見ちゃいけません!」
ベンチ上で土下座していた耕太は、あう、と固まる。
「ね? ここではちょっと、世間さまの目ってやつが……」
「そ……そう、ですね」
耕太は正座していた足をベンチから降ろして、まともに座った。
はあ、と息を吐く。
今日で冬休みも終わっちゃうっていうのに、なにをやってるんだろう、ぼくは……。
そう。
一月も上旬の本日は、冬休みの最終日であった。
明日はもう学校が始まるのだ。高校二年生最後の、三学期が。
思えば、まさしくあっというま、光陰矢のごとしな日々だった。
あの、クリスマスにおける〈葛《くず》の葉〉との争いから数えても、二週間ほどしか経っていない。
ちずるを賭けた、三珠美乃里との闘い。
愛するものを守るためなら、ほかのすべてを犠牲にしてもいいとさえ思った、あの瞬間。まあ、結果として、学校の校舎をすっかり吹き飛ばしちゃったりしたのだが。どうなったんだろう、学校。本当に明日、始業式できるんだろーか?
とにかく、耕太は無事、ちずるを我が手に取り返した。
もう彼女の身体に、〈八龍〉があらわれることはない。
ちずるは〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉でも〈神〉でもない、ただの妖狐な女の子になったのだ。
そして耕太は、ちずるを一度は失ったことで、彼女の大切さを、その素晴らしさを、愛おしさを、あらためて思い知ることとなった。
だからあれから、毎日デートデート。
冬休みのあいだ中、ずっとデートデート。
笑っちゃうぐらいに幸せな日々が続く――。
はず、だったのだが――。
「あ、あの、ちずるさん!」
「な、なあに、耕太くん!」
びし、と耕太が背筋を伸ばして呼びかけると、ちずるもまた、びし、と背筋を伸ばして応えた。
「て、手を、つないでも、よろしいでしょうか!」
「て、手を……ですか!?」
「そう、手ぇ、です!」
「あ……」
ちずるの瞳が、惑う。
いつもなら自信ありげに輝いてる、つん、と軽く目尻のつりあがった大きな眼が、いまはなんとも弱々しく垂れていた。
そこを耕太は押す。押しまくる。
「だって、デートですし!」
「そ、そうだよね、デートだもんね」
「ぼくたち、恋人ですし!」
「そ、そうだよね、恋人だもんね」
「だ、だから、せめて、手……ぐらいは」
「う……うん、わかった! はい、手、です!」
ちずるは、いきおいよく手を伸ばしてきた。
その顔は、もうすっかり真っ赤だ。
きっとぼくも真っ赤っかなんだろうな……と耕太は思いながら、ちずるの白くて長い指先に向かって、自分の指先を伸ばす。
情けないことに、震えた。
手ぐらい、いままでなんどだってつないだことはあるのに。
手どころか、抱きしめられたことも、抱きしめたことも、おっぱおに顔を埋められたことも、埋めたことも、それ以上のことだって、たくさんたくさんしたのに。
やがて、耕太の指先は、ちずるの指先へと触れた。
いや、触れたというより、震えていたせいで、しゅるん、とかすめてしまった。
「ああんっ」
とたんに、ちずるはなんともつややかな声をあげた。
それどころか、耕太が撫でるようにしてしまった指先を自分の胸元へと引きつけ、抱きしめるようにしながら、びくん、びくん、と震えだす。
「あ、ああ、あ……ああっ!」
ひとしきり震え、がくん、とうなだれた。
その呼吸は荒い。
はあ、はあ、はあ……という呼吸がしばらく続き、最後に、はー……と長く深呼吸して、ちずるは顔をあげた。
涙でうるみきった瞳が、きっ、と耕太を捉《とら》える。
耕太の胸は、どきん、と高鳴った。
が、すぐにちずるの表情は崩れた。
いまにも泣きだしそうに歪み、唇を噛む。
「だ、ダメなんだもん……」
「あ……ち、ちずるさ」
「ダメなんだもんダメなんだもんダメなんだもん、こんなところでえっちなのはダメなんだもん! お外だし、まだお昼だし、明るいし、子どもだって見てるし、奥さまだって見てるし、とにかくダメったらダメなの! 耕太くんのえっち! すけっちわんたっち! やーん、やーん、はずかちー! はずかちぃよー!」
と、彼女を知るものが聞いたらおよそ全員が耳を疑うだろう発言を残して、ちずるはべンチから飛びだした。
やーん、やーん、と悲鳴をあげながら、公園の出入り口を目指して突っ走ってゆく。
「ち、ちずるさーん!」
耕太の叫びもむなしく、ちずるの姿は公園の外へと消えていってしまった。
やーん、やーん……という声だけはまだ届いていたが、それもみるみる遠のき、やがて聞こえなくなった。
「あ……」
ベンチから立ちあがり、伸ばしていた手を、耕太は、へにょっ、と折り曲げた。
どす、とベンチに腰を落とす。
「また……かあ……」
へうへうへうん、とため息をついた。
「まただね、耕太」
「またですね、パパ」
「またママに、逃げられました」
と、背後から三つの声が返ってくる。
「ういえ!?」
予期せぬ声に、耕太は驚き、振りむいた。
どうじに、ベンチの後ろにあった茂みから、三つの影が飛びだす。
ベンチに座る耕太を軽々と跳び越え、前方に降りたったもの、それは――犹守望《えぞもりのぞむ》、七々尾蓮《ななおれん》、七々尾|藍《あい》の三人であった。
「の、望さん、それに、蓮、藍!? な、なんで? なんでこんなところに?」
って、いうか。
「その格好は……なに?」
三人とも、耕太がそう尋ねざるを得ないほどに、奇妙な格好だった。
いや、蓮と藍は、まだまともといえる。
黒の、袖がなく裾《すそ》は膝丈《ひざたけ》までしかない、いわばノースリーブのワンピースといったかたちの着物をまとい、腰には紅い帯を締めている。両の腕にぐるぐると巻きつけてあるのは、金属製の細い鎖だ。
まあ、これはこれで充分に奇妙な格好ではあるのだが、耕太は知っていた。
この姿が、蓮と藍の生家、七々尾家における戦闘用の装束《しょうぞく》であるということを。
ゆえに耕太は見覚えがあり、だからまだまともだと感じた。もっとも以前にこの姿を見たときには、頭にハチマキを締めたり、そこに木の枝を差したりはしていなかったのだが。
問題は、望だった。
望は、ヤシの木であった。
着ぐるみ……といえばいいのだろうか。南国風味あふれる太い幹の、上三分の一ほどに、ぽかりと穴が開き、そこから望の銀色の髪と、眼と、そしてとぼけた顔が覗く。手足は幹のなかに入って、まったく見えない。その顔の上にはわさわさとヤシの葉が茂り、なんとまあ、ヤシの実が、二、三個なっていた。
なんなんだろう、これは。
なにが目的で、こんな格好をしているんだろう、望さんは。
しかし三人は、耕太の問いには答えず、ちずるが去っていった公園の出入り口をひたすら見つめ、互いに話しあうばかりだった。
「むー……ちずるめー」
「どうします、アイジンセンパイ」
「このままでは、家庭が、崩壊の危機です!」
蓮と藍にすがるような眼を向けられ、ヤシの木な望は、わさわさと葉を揺らす。
「よし、追うぞー、ムスメどもー」
「らじゃっ! アイジンセンパイ!」
「すべては家庭の平和のためにっ!」
ヤシの葉を揺らしながらの望の言葉に、蓮と藍は、びしっ、と敬礼を返し、そして三人は駆けだす。蓮と藍はともかく、望の足はヤシの幹にすっぽり入って、とても走りづらいはずなのに、かなりの速さだった。あっというまに公園からでてゆく。
ぽつん、とベンチにひとり残された耕太は、しばし頭をひねる。
あ、とひと声あげ、ぽん、と手を打ち鳴らした。
「あの格好は、変装だったのか……後ろの茂みに隠れて、ぼくとちずるさんの様子をうかがうための……。でも、あれじゃかえって目立つんじゃ? いや、ぼくもちずるさんも、ちっとも気づかなかったもんなあ……それに、望さんたち、『まただね、耕太』っていってた……『また』ってことは、いままでのデートも見てたってわけで……」
ここで耕太は、はっ、と気づく。
周囲の家族連れが、いよいよ耕太に向かって不信感に満ちた眼をぶつけていたことに。
「ねーね、ママー! あれってチジョー? チジョーのもつれー?」
「この子ったら! どこでそんな言葉!」
耕太は、へふー、と息を吐く。
手に持っていたお茶の缶のことを思いだし、かしゅこっ、と口を開けた。くぴくぴと飲み、また、へふー、と息を吐く。もうすっかりお茶は冷たくなっていた。
まあ、こういったあつかいには慣れてるし。
学校にいけば、銀河エロス皇帝呼ばわりされる身なのだ。ひとつ年上の先輩であるちずるを恋人に、クラスメイトである望をアイジンにして、乱れきった日々を送っていると思われているのだ。あながちまちがってもいないのが辛いところではあったりする。
それよりも、だ。
まさしく、『また』なのだ。
美乃里からちずるを取り返して以来、ちずるの様子はすっかりおかしくなってしまった。
妙に、耕太と触れることを恥ずかしがるのだ。
手すらつなげない。|ちちまくら《あまえんぼさん》なんてもってのほかである。それまで、毎日のようにあのおっぱおにまみれた幸福の日々をすごしていたのに、だのに突然断乳されたら、そりゃ、無意識のうちにおっぱおおっぱおなっちゃうよ!
でも。
えへへ、と耕太は笑う。
「あんな風に恥ずかしがってるちずるさんも、悪くはないっていうか……新鮮で」
えへへ、えへ、えへへへへへへ、と耕太はひとしきり笑った。あたりの家族連れがドン引きしているのを感じたが、まあ、いーやー。
でも……なにが原因なんだろう……?
突然ちずるが恥じらいだした理由を、考えてみる。
精神世界内のできごととはいえ、ちずるさんと一線を踏み越えてしまったから?
でも、それならあのちずるさんのこと、むしろ現実世界で、ガンガンガガンと迫ってきそうなものだけど……実際、耕太は覚悟していた。身構えてすらいた。なのに、逆に避けられ、拍子ぬけしたとゆーか、ちょっぴり残念だったとゆーか……あ、違うよ!? べつに迫られたかったわけじゃ……じゃなくって、ただぼくは、あのっ、そのっ。
「あーあ、いっけないんだ」
「うひゃあお!」
耕太はベンチの上を、数センチ跳ねた。
というか、アレなことを考えているときにいきなり声をかけられたりなんかしたら、そりゃ跳ねてしまうに決まっている。手に持っていたお茶も落としそうになってしまった。
「す、すみません! でも違う、違うんです! ただぼくは、あのっ、そのっ」
すぐ前方に立つ声の主に、耕太はぺこぺこと頭をさげた。
あれ? と気づく。
そろそろと、声の主を見あげた。
「きみ、は……」
2
ちずるは、橋の下にいた。
すぐそばを流れる広い川は、暖冬によって雪が溶けてでもいるのだろうか、やや流れが速い。橋の上を車が通るたび、真下にいるちずるにもわずかに振動が伝わってきた。
ちずるは、胸元を押さえながら、はー、はー、と荒く息をつく。
顔は真っ赤だ。
ぎゅう、と胸元をつかんだ手を握りしめ、唇を軽く噛む。
「どうして……どうしてこんなにどきどきしちゃうの? どうしちゃったの、わたしの身体……耕太くんに、ちょっと指先に触れられただけで……」
ちずるが、片手を赤いスカートへと向ける。
スカートの上から、そっと触れた。
くちゅっ。
と、たしかな水音があがる。
「もう、こんな……」
さらに赤味を増した顔でちずるはうつむき、もごもごと唇を噛みしめた。
「栓、壊れちゃったみたい……」
いつのまにかちずるの横へとやってきた、白い毛なみの、ちょっとばかり汚れた子猫が、心配そうに彼女を見あげ、にゃー、と鳴いた。
子猫を見つめて、ちずるは小さく笑う。
「ありがと……慰めてくれるの?」
そう微笑みながら、ちずるが子猫に向かって手を伸ばした、そのときだった。
遠くから、声が届く。
「こーのー……」
え? とちずるが耳をすました瞬間――。
彼女の尻に、衝撃が走る。
「ヘタレー!」
「うきゃ!?」
いきなり尻を蹴っ飛ばされ、ちずるは吹っ飛んだ。
放物線を描きながら飛び、どさ、と川べりの草むらへと落ちる。
あう、あうう、とお尻を押さえながら、ちずるは涙目になって振りむき、くわっ、と怒りの八重歯を剥きだしにした。
「な、なにすんのよ、こんの……!」
怒鳴りかけたちずるの眼が、ぎょっ、と丸くなる。
目の前に立っていたのが、人の大きさほどのヤシの木だったからだ。
ヤシの木が、根っこのほうをわずかに持ちあげ、ぴこぴこと足のつま先を動かす。
その幹に空いていた穴から覗く顔に、ちずるは、あっ、と声をあげた。
「の……望!? なにやってんのよ、そんな格好で、こんなところで」
ヤシの木の着ぐるみ姿の望は、幹から突きだした腕の先で、細い鎖を握りしめていた。
鎖は、頭上にある橋から伸びている。
どうやら望は、その鎖を使って、橋の上からまるでターザンのように落下し、振り子の原理でもって、ちずるの尻に痛撃を与えたらしい。
「ま、ママー!」
「だいじょうぶですかー!」
続けて、蓮と藍も鎖を使って、橋から降りてきた。
こちらはちずるの尻を蹴っ飛ばしたりはせず、普通に降り立つ。
「蓮、藍、あなたたちまで……」
〈葛の葉〉の戦闘用装束姿である双子に、ちずるは呆れたような声をあげた。
起きあがろうとして、痛つつ……とお尻を押さえる。
「ちょっと望、なんだってこんな、いきなり人のお尻を蹴っ飛ばすような真似!」
「この、ヘタレー」
ちずるの問いかけに、望はわさわさとヤシの葉を揺らしながら答えた。
「だからなんなのよ、それは! なんかお尻を蹴ったときにも叫んでたけど!」
「ん? ヘタレは、おくびょーものって意味だよ?」
「わかってるっての、そんなことは! わたしが訊《き》きたいのは、なんでわたしのことをヘタレ呼ばわりするのかってこと!」
「パパがかわいそうです!」
「ずっとずっと、おあずけなんて!」
望の代わりに答えたのは、蓮と藍だった。
ヤシの木な望の影に隠れつつの双子の言葉に、ちずるの表情が、はっ、と驚いたものへと変わる。
すぐに、鋭く細めた、ちょっと怖い目つきで、目の前の三人を見つめた。
「あなたたち……ずっと見てたのね? なるほど、その格好は変装ってわけだ……。そうやって隠れて、今日の耕太くんとわたしのデート、物陰から覗いていたと。こら! 望はともかく、蓮、藍! あなたたちまで、なにを……」
「ううん、違うよ?」
ちずるの剣幕に震えあがる蓮と藍とは違って、望は平然としたものだった。
ふるふると、首を横に振る。
頭上のヤシの葉が、しゃわしゃわと擦れ、鳴った。
「なに? なにが違うってのよ」
「今日だけじゃない」
「は?」
「耕太とちずるの様子は、ずっと覗き見してた」
「はああー!?」
ちずるの身体が、わなわなと震えだす。
顔は、みるみると紅く染まっていった。
「ず、ずっとって、つまり……」
「うん。デートのときとか、耕太の部屋でふたりっきりのときとか、ぜんぶ。ふっふっふっ、そう、すべては我々の監視下にあったのだー」
「いやー!」
ちずるの悲鳴は、ちょうど頭上を走り抜けたトラックにかき消された。
望が、「へふー」と嘆息し、肩をすくめる。
「ったく、耕太はあれほど求めているのにー」
「パパ、デートのとき、ママのおっぱい、ガン見してました!」
「あれ、ぜったいに〈あまえんぼさん〉をして欲しかったんです!」
「それはちずるだってわかってるはずなのにー」
「ママははぐらかしてばかりで!」
「いくらじらしプレイだからって、限度があると思います!」
望、蓮、藍からの叱責を、ちずるは耳を手で押さえて遮り、きゃー、きゃー、と悲鳴をあげて、首を横に振りまくる。
がくん、と膝をつき、ううう、と声を震わせた。
「く、〈葛の葉〉との戦い以降、妙にずーっとだれも邪魔しにこなくて、耕太くんとふたりっきりになれるなー、と思っていたら……し、親しき仲にも礼儀ありなんだからね! アイジンと娘だって礼儀あり! 個人情報保護法案違反!」
涙目で抗議するちずるに、しかし望は胸を張った。
「アイジンとして、これは当然の行為」
「なにが!? なにが当然!?」
「だって耕太とちずるがうまくいってないと、耕太の元気、なくなるから。ゆえに耕太のアイジンであるわたしとしては、おふたりの様子を確認せざるを得ないのです」
「そ、そーです、ママ!」
「これは夫婦の危機を、家庭の崩壊を心配するあまりの、ムスメとして当然の行為です!」
蓮と藍も望に続いて、声を大きくする。
「べ、べつにうまくいってないなんてこと、ないけど? 耕太くんとわたしはあいかわらずの、おしどりがうらやむほどのラブラブよ? 家庭だって円満、円満! はーい、子どもは野球チームがつくれるぐらい欲しいでーす!」
ちずるは、おほほほ、と笑った。
「じー」
望、蓮、藍の視線が、ちずるに集まる。
「な、なによ」
じーっと三人に見つめられ、ちずるは視線を逸らした。やがて、脂汗がだらだらと流れだす。とうとう、がっくりと地面に手をついた。
「ま、まいりました……」
にゃー、と子猫が、ひと声あげた。
★
「だ、だってだって、なぜだかすっごく恥ずかしいんだもん!」
橋の下で、ちずるは膝を抱えこんだ体育座りをして、えぐえぐと泣きだした。
「わたしだってよくわかんないわよう。耕太くんのそばにいるだけでも、こう、どきどきしちゃうし、触れられたりなんかした日には、あーた、もういろんな意味で大変なことになっちゃうし、あーん!」
がしがしと、ちずるは頭をかく。
なお、ちずるの告白が続くあいだ、望は自分がまとっているヤシの木の着ぐるみの、その幹になった実を落とし、手刀で割って、まわりにふるまっていた。望と蓮、藍は、ちずるを囲んだ車座になって座り、くぴくぴとココナッツジュースを飲んでいる。地面に置いたヤシの実には子猫が頭を突っこんでいて、懸命に中身を舐《な》めていた。
「わたしだって、耕太くんと触れあいたい……あんなことやこんなこと、いっぱいいっぱい、いーっぱい、したい……だけど……とても恥ずかしくて……できない……」
「んー……。ねえ、ここにいる痴女るは、本当に痴女る?」
「わかってる。こんなの、ちっともわたしらしくないってことは……。いつものわたしなら、とっくに耕太くんを押し倒して、『ねーねー、耕太くん。スキーしよ! え? ゲレンデがないって? ゲレンデならここにあるじゃない。はーい、ちずるスキー場! パウダースノーなふたこぶ山を、あーん、シュプールシュプール〜!』とやっているはずで……って、いま望、あなた、さりげなく痴女るっていわなかった? わたしのこと、ちずるじゃなくって痴女るっていわなかった!?」
「まあ、それはさておき」
「いや、さておけない。いまのはさておけない」
「ねえ、恥ずかしいの、どうして? だって耕太とえっち、したんでしょ?」
なおも望を問いつめようとしていたちずるの表情が、とたんにゆるみだす。
「ま、まあ、わたしの精神世界内でのできごとではあったけどね」
はあ……とちずるは口から、熱い吐息を洩らした。
「でも、よかったなあ……ふふふ、最初にこの身を貫いた痛みですら、心地よくって……ああ、わたし、とうとう身も心も耕太くんのものになったんだあって、そう思えて……だけど、不思議なんだけど、耕太くんがわたしのなかで熱く震えたときには、逆に、耕太くんが身も心もわたしのものになったんだって、そう思えるのよね。ふふ……それにしても、なんていうの、充足感ってやつ? それがハンパなくて! 満ち足りまくりで! あの感覚は、いままでの純愛行為にはなかったなあ……んー、でも、〈あまえんぼさん〉は近いかな? ふふ、ふふふ、ふふ……」
すっかり上気した両の頬に手を当て、ちずるはうっとりしだす。
そんなちずるを無視して、望はヤシの実を傾け、中身を一気に飲み干した。蓮と藍は、ちずるの説明に、もうすっかり顔が真っ赤だ。猫は、にゃー、と鳴いた。
「それが原因なのかも」
ココナッツジュースを一気飲みした望が、口元をぐしぐしとこすりながら、いった。
「え?」
「だから、そのニセえっちのせいかも」
「に、ニセえっちはやめてよ。いや、でも、たしかにそうかも……精神世界内でのできごととはいえ、耕太くんとしちゃったから……だから、妙に意識しちゃうのかも」
「ていっ」
望が、びしっ、とちずるのおでこを指先で突く。
「あだっ! な、なにをするのよ!」
「これは、耕太の哀しみと思え……」
「こ、耕太くんの?」
「ちずる、耕太にはジューソクカン、与えてる?」
「え?」
「そのあぶらみで、満ち足りまくり、させてるのかと訊いてる」
「だ、だって、できるわけないじゃない! 手すらつなげないのに、そんな、〈あまえんぼさん〉なんかしたら、わたし、死ぬって! 恥ずかしさのあまり、恥死しちゃう!」
「おろかものがー!」
望は、こんどは、ずびしっ、とちずるの頭に手刀を落とした。
「ひぶっ! だ、だがら、なにずんのよう〜」
「ちずる、忘れたの……?」
「なにがあ?」
「耕太は、一日十回は気を解放しないと、ダメダメな身体だってことを……」
ちずるは、「あ」と声をあげる。
「ちょ、ちょっと待って、の、望、あなた、耕太くんにしてあげてなかったのっ!? てっきりわたし、あなたがお世話してあげてるとばかり思って、だから……」
「約束、あったから」
「約束?」
「そう、約束……。〈葛の葉〉との戦いが終わったら、わたしとちずるは、ふたり一緒に耕太とするって、一緒にオトナにしてもらうって、約束した。あのとき、〈葛の葉〉と戦う前、ホテルから耕太を連れだすときに」
「あ……う、うん。たしかにした。約束、した。でも、だから?」
「ガマンできる自信、ない」
きっぱりと望はいい切った。
「わたしひとりだけで耕太の気をぬきぬきすることになったら、わたし、きっとガマンできない。最後までいく。終着駅までノンストップして、わたしひとりだけで、オトナになっちゃう。だからわたし、耕太をぬきぬきできない。ちずるとの約束、破っちゃうから。わたしオオカミ。オオカミは、約束、破らない」
「の、望……あなたってオオカミは……」
ちずるの眼は、感動にうるみだした。
が、鼻をすすったところで、あれ? と首を傾《かし》げだす。
「ん? んんん? じゃあ、耕太くんはいったい、どう処理しているの? わたしはしてない、望もしてない、なのにいまのところ、とくに異常は見受けられない。街中でデートしていても、まわりの女が耕太くんを求めて追いかけてきたりなんかしないもの。と、いうことは……ま、まさか!? ひとり!? 自分ひとりで!? 衝撃のソロデビュー!? ダメよ耕太くん、わたしというおっぱいがありながら!」
「てりゃっ」
望が落としたヤシの実が、ごず、とちずるの脳天を直撃した。
「じんばぶえっ!」
頭を抱え、お、おおお……とちずるは悶絶《もんぜつ》する。
「耕太のソロデビュー、だれのせいだと思ってる。恋人であるちずるが、ちっともそのあぶらみに触らせてあげないから、だから方向性の違いで解散なのにー!」
「か、解散はじでないもん!」
すっかり鼻声で、痛む頭を押さえながら、それでもちずるは反論した。
「うう……」
ちずるは屈みこんだまま、うつむく。
「ど、どうしたらいいんだろう……どうしたら、また耕太くんと触れあえるんだろう……どうしたら、また耕太くんに、思う存分、わたしのおっぱいに顔を埋めたり、揉《も》んだくれたり、ちゅーちゅーとれいんとかしたりさせてあげられるんだろう! どうしたら……あの、アーリーデイズを取りもどせるの……?」
うなだれたちずるから、ぽた、ぽた、といくつもの水滴が地面へと落ちていった。
黒い染みが、つぎつぎと作りあげられてゆく。
「「ま、ママ……」」
蓮と藍は、ぎゅっ、と眉間《みけん》のあたりに皺《しわ》を寄せながら、ちずるを見つめた。もう泣きだしそうだった。ちずると望がやりとりしているあいだ、ずっと蓮は子猫の脇《わき》の下に手を入れて抱え持ち、藍はその子猫のおなかをふにふにと触りまくっていたが、それらの動きも、すっかり止まっている。抱えあげられたままの子猫が、ちずるを見て、にゃー、と鳴いた。
「だいじょうぶ……ちずるは、ひとりじゃない」
ぽん、とちずるの肩に手を置いたのは、ヤシの木わさわさな、望だった。
「の、のじょみゅ?」
と見あげたちずるに向かって、望は、きらっ、と白い歯を覗かせる。
「ここにアイジンが……いる」
「む、ムスメだっています!」
「それもふたりも!」
わたしのことも忘れるなと、蓮が持つ子猫も、にゃー! とひと声あげた。
「望……蓮、藍……それに、タマ……」
「え? タマ?」
「この子、タマって名前なんですか?」
蓮と藍が、わたわたと白い子猫を見つめだす。
望は、目元を拭うちずるに向かって、しみじみと語りだした。
「覆水、盆に返らずという……いちどこぼれた水は、元に返ることはない……ならば! あらたな水を注げばいいんだよ!」
「あ、あらたな水、って……?」
「アクア・ウィタエ……」
「は?」
「ラテン語で、『命の水』って意味」
「は、はあ」
「別名、ツン・デレ!」
望の眼が、しゃきーん! と光った。
ように、ちずるたちが感じてしまうほど、望の発言にはある種のオーラがあった。
「つん……でれ?」
「うん。ツンデレがダメなら、ヤンデレもあるし。クーデレとか」
望は、ヤシの幹のなかから、なにやら一冊のメモ帳をとりだし、ぺらぺらとめくりだす。使いこまれて表紙がよれよれなそのメモ帳は、そう、かの伝説の、耕太ノートであった。
3
「きみ、は……」
ひとり公園のベンチに残された耕太は、突然あらわれた相手を見あげ、ころん、と首を傾げる。
「どちらさま、ですか?」
目の前に立っていたのは、まったくもって耕太の見知らぬ少女であった。
年のころは、耕太とおなじぐらいだろうか。
背丈も耕太と近い。女性としては標準、もしくは、やや低め、といったところか。
身体つきはかなりほっそりとしており、こちらは望に近い。
胸の大きさも……望とかなり近い、ようだ。
いや、べつに眼で測定したわけではなく、だぼっとしたデニム地のブルゾンの下が、身体にぴったりした薄手の黒い服だったため、すっかり丸わかりなのだ。
ズボンは茶褐色の、ブルゾンとおなじく、だぼっとしたもの。靴はスニーカー。
めずらしいのは、髪の色だ。
少女の髪は、薄い水色だった。
ほとんど銀髪に近い色あいの髪を、彼女は頭の左右で細く束ね、すらりと下に落としていた。俗にいう、ツインテールという髪型だった。
「さあて、だれでしょうー?」
耕太の問いを、少女は微笑み、はぐらかす。
あれ?
そのにっこりと、まるで糸のように細めた眼に、耕太はどこか既視感を覚えた。
どこか……どこかで見たような……?
「ねえ、となり、いい?」
少女は、耕太のすぐ横、ベンチの空いたスペースを指していた。ちずるがいなくなったため、ちょうどひとりぶん空いていた場所だ。
「あ、は、はい!」
耕太は横にずれ、さらにスペースを広げる。
そうしてできた空間に、少女はまったく物怖《ものお》じせずに腰をおろした。
がささっ、と音を鳴らす。
少女は小脇に、小さな紙袋を抱えていた。その紙袋に手を差し入れ、彼女がとりだしたもの、それはできたてほかほかと思わしきたいやきであった。
「たべふ?」
少女は自分の口にたいやきをくわえ、耕太にもひとつ、勧めてくる。
耕太は素直にたいやきを受けとった。やはりできたてで、温かかった。
ぱく、とかじり、そして尋ねる。
「あのう……どこかで……」
「お会いしたことはないよ? でもね……小山田耕太。きみのことはよーく知ってる。うん、だいたいのことは知ってるんだ。きみの恋人のことも。さっき耕太が泣かした、源ちずるのことだって」
「ぼくとちずるさんの……こと?」
「うん、そうだね、たとえば……」
口のなかにあったたいやきの皮とあんこを、少女はむぐむぐ、ごくん、と呑みこみ、ぴん、と人差し指を立てて、語り始めた。
「小山田耕太、十七歳。薫風高校二年生。成績は中の上。授業態度は優秀。ただし一学年上の恋人、源ちずるとの堂々かつ過剰なスキンシップはひと目をはばかることなく、生活態度には大きな問題があるといわざるを得ない。なお、生徒間においては、エロス大王なる異称にて呼ばれており……」
「えええええ!?」
「どう? 驚いた?」
得意げに眼を細める少女に対して、耕太はうなずく。なんどもうなずく。
「ど、どうして……」
「ちずるのことだって知ってるよ。源ちずる、公称四百歳、されど実際は数千年の時を生き、〈神〉を探し続ける永遠の探索者……。自身のなかにも〈神〉を眠らせる、ね」
耕太はベンチから飛び退いた。
さーっと血の気が引いていた。
「きみは……!」
「ふふっ……やる? やっちゃう? わたしのこと、ぶった斬っちゃう? その右手から生みだす〈神〉の力で、すべてを消し去る天叢雲剣《あめのむらくものつるぎ》で、ねえ、耕太! あの三珠美乃里や、三珠|四岐《しき》のように、このわたしのことも、消し去っちゃうの!?」
少女はベンチに座ったまま、なんとも不敵な笑みを耕太にぶつけてきた。にゅいっ、と細めた眼からたしかに覗く黒目が、耕太を捉えて離さない。
美乃里――。
そして、三珠四岐――。
耕太の脳裏に、彼らとくり広げた、ちずるを巡っての闘いがまざまざと浮かびあがる。
そう、倒した。
自分は彼らを打ち倒した。ちずるを守るために、なにより自分自身のために。
そのことを耕太は後悔していない。倒さなければ、ちずるも自分も守れなかったからだ。だが、それでも胸に傷は残った。じくじくと、いまだ血を流し続ける傷が。
はっ、と耕太は我に返る。
あいかわらず、少女の細めた眼のなかの瞳は耕太を捉え続けていた。
心の奥底まで見透かされているような感覚にとらわれながら、耕太は首を横にゆっくりと振る。
「きみを消し去ったりなんかしないよ……剣だって、いまのぼくには使えないもの」
「ああ、三種の神器のレプリカ、もう多々良谷家に返したんだっけ?」
思わず耕太は、苦笑してしまった。
「きみは、なんだって知ってるんだね」
「まあ、資料にあることはね。だけどほら、『知る』のと『わかる』のとは違うじゃない? 『知る』だけなら資料だけでもこと足りるけど、『わかる』ためには直に触れてみなきゃ。ね?」
「資料? つまりきみは、どこかの組織の……」
「ねえ、どうして三種の神器のレプリカ、返しちゃったの?」
耕太の問いを遮って、少女は尋ねてきた。
「え?」
「あれがあるかぎり、耕太、きみは〈神〉になれたでしょう? それも、この国の神話史上、最強の破壊神にさ……男の子って、そーゆーのにロマン、感じたりするもんじゃないの? 逆にいえば、あれがないかぎり、きみはちょっと気の容量が大きいだけの、ただの人。ねえ、どうして? べつに多々良谷家から返却を求められたわけでもないのに」
「……あれがあったって、神さまになれるわけじゃないよ。あれはただ、ぼくの気を、神さまの力に変換するだけのものだから」
「おなじことだろ、小山田耕太」
少女の声音が、低く、厳しいものとなる。
表情も、さきほどまでの笑みではなく、睨《にら》み、というべきものへと変わった。
「〈神〉の力が使えるのなら、それはもう、〈神〉であるのと同一だろ。言葉遊びは嫌いじゃないけど、質問にはきちんと答えて欲しいな。なぜ? なぜ耕太は〈神〉にならなかったの? あのとき、三珠美乃里との闘いのとき、耕太は〈神〉になるはずだった。すべての条件は整っていたんだ。なのになぜ? なぜ人のままでいる?」
「ぼくは、ぼくだからだよ」
耕太は、あくまでも静かに、落ちついた声で答えた。
「ぼくはただの人間、小山田耕太であって、神さまじゃ……素戔鳴尊《すさのおのみこと》じゃ、ないもの。ただ、それだけのことだよ」
ふ、ふふふ、ふふ。
少女は笑いだす。
そっか、そっか、とひとり、うなずきだした。
「ねえ、ぼくの質問にも、答えてくれる?」
「うん? なあに、なにが訊きたいの? やはりエロス大王としては、エロティックなごと? スリーサイズ? 下着の色? お風呂に入るときどこから洗うか? いつ初潮がきたか? 生理の周期? 使ってる生理用品の種類?」
「ちちち、ちがうよう!」
耕太はぶんぶんぶぶん、と両手を上下に振りながら必死な思いで否定した。
だいいち、いまはエロス大王じゃなくて、銀河エロス大帝だい! と、心のなかだけで反論する。
「きみは……ズバリ、〈葛の葉〉の人だね!?」
ずびし! と指さした。
しかし少女は、「ふーん」とひと声あげたあと、紙袋に手を差し入れ、とりだしたあらたなたいやきの頭にかじりつき、むぐむぐと口を動かすばかりだった。あ、あれ?
「どうしてそう思うの?」
「ど、どうしてって……」
耕太は答えに窮した。
ズバリ、なんとなくだったからだ。いわゆる勘であった。
えーと、うーんと、と迷っているうちに、少女が、ぴく、と身体を震わす。
「あーあ、邪魔ものがきちゃった」
笑ってベンチから立ちあがり、ぽい、と口のなかに残りのたいやきを放りこんだ。耕太が持っていたお茶の缶を奪いとり、ぐびぐびと飲んで、ごくん、と流しこむ。
「じゃ、耕太、まったねー」
止める間もなく、少女は公園の出入り口へ、軽やかに駆けだしていった。
水色のツインテールが、ひらり、ひらりと舞い踊る。
入れ替わるかたちで入ってきたのは、ひとりのボクサーだった。
ボクサーとしかいいようがない。
だって、フードつきのトレーニングウェアを着て、シュッ、シュッ、とシャドーボクシングをしながら公園内へと入ってきたのだから。
そのボクサーが、耕太を見るなり、おー、と手をひらひらさせ、挨拶をしてくる。
やや? ボクサーに知りあいは……?
耕太の疑問はすぐに解決した。
ボクサーがフードをおろして、汗にまみれた顔をあらわにしたからだ。
「よーう、耕太。なーにやってんだ、こんなとこで?」
「あ……たゆらくん!」
おう、とたゆらが、汗に濡れ光る髪をかきあげながら、微笑む。
冬の日射しにきらめく、なんとも健康的な笑顔であった。公園の有閑マダムたちが、あら……とにわかにざわめく。
「おまえ、ちずるとデートじゃなかったのかよ? 毎日毎日、よくも飽きもせずに」
「えーと、飽きもせずはいらないと思うよ、たゆらくん」
「実際そうじゃねーか。冬休みだからって、毎日毎日デートたあ……それで晩飯もちずるが作りにいってんだろ? そのあといちゃいちゃするんだろ? プライベートとかあんのか、おまえ? ま、気持ちはわからんでもねーぜ。〈葛の葉〉と、ちずるを賭けての一大決戦のあとだ……愛情も激しく燃えあがろうってもんだ! だけどよ、こう毎日毎日燃え続けてちゃよ、すぐに燃え尽きちまわね? 白い灰になっちまわね? あっというまに倦怠《けんたい》期じゃね? ただでさえ変則プレイにまみれてるこったし」
「うん、すっごく余計なお世話だと思うよ、たゆらくん」
「そういや、ちずるはどうした? トイレか? いやいや、おまえらのこった、トイレだって一緒だろ。一緒にいくんじゃなくて、一緒の個室だろ。もちろん通常の使用方法だけじゃすまねーだろ。ホンットおまえらは社会の害悪だな! TOTOにあやまれ!」
「いいかげんにしないと怒るよ、たゆらくん」
「やーん、こわーい。スサノオさま、こわーい。わたし、消されちゃうー」
はー……と耕太はため息をつく。
「ってゆーか、たゆらくんはなにをやってるの? ボクシング漫画でも読んだの?」
「おれは漫画を読んだらすぐその気になるような単純なやつに見えるのか。おまえもさりげなく辛辣《しんらつ》だなオイ。えーとな、これはな、ほれ……あの〈葛の葉〉との大激闘のときよ、おれ、なんつーか、アレだ、うにょごにょなにょ……だったろ?」
「ああ、ちっとも役に立たなかったんだっけ?」
「この、ちょっと強くなったからって、てめえ、調子にのりやがって!」
たゆらが、耕太の頭に腕を回す。ぐいぐいと締めあげてきた。
「いた、いたい、いたいよ、たゆらくん! あとちょっと汗くさいよ!」
「あーあ、まったくおまえのいうとおりだよ、おれは大して役に立たなかったよ! だからこうして特訓してんじゃねーか! おまえらがデートだなんだと呆けてるあいだにな、おれは一日十時間、睡眠と食事、風呂、炊事洗濯、掃除以外は、みな特訓に注ぎこんできた! どうよこの熱い生きざま。そのうち本になるんじゃね? ベストセラーじゃね?」
「へー……」
それでも、やっぱり家事全般はちずるにやらされてるんだなあ、と思うと、耕太はなんだかたゆらが気の毒に感じられてしかたがなかった。
「ほれ、見ろよ、この手首のパワーリスト。鉄板を入れられるようになっててなー、この重さによって腕に負荷がかかる仕組みなんだよ。いいだろ? あと、足! 足にも! こっちはパワーアンクル! 通販で買った! いつか決めるぜブーメラン・フック!」
耕太を締めつけていた腕を外し、たゆらはその場でシャドーボクシングを始める。
そんなたゆらを、耕太はあったか〜い眼で見つめていたが、ふいに、自分が食べかけのたいやきを持っていることを思いだした。
お茶の缶は、間接キスごと少女に奪われたままだ。
「またね、か……」
耕太は、たいやきの残りを口のなかへと入れる。
「ジェット・アッパー! ……ん? いま、おまえ、なんかいったか?」
「んーん、なんでもないよ、たゆらくん」
★
薫風高校へと続く通学路の途中に、商店街の通りがある。
かつて耕太と望が出会った、あのスペアリブを売っていたお肉屋さんのある商店街だ。
その通りを、あのツインテールの少女が、ひとり歩く。
彼女の腕のなかにはたいやきの入った紙袋が、手にはお茶の空き缶があった。
ひょい、と空き缶を軽く放り投げてはつかみとったり、たいやきをパクついたり、くすくすとなにやら思いだし笑いをしたり、じつに楽しげな様子だった。こころなしか、少女が歩を進めるたびに踊る水色のツインテールも、嬉しげに映る。
その少女に、ひとりの男がそっと身を寄せた。
一見、くたびれたコートに身を包み、寒がる、普通の中年のサラリーマンだった。
が――。
「未弥《みや》さま」
と、彼は少女に向かって、まわりには聞こえないほどの小声でささやきだした。
「もう、決めたことだろ」
少女もまた、小声でささやき返す。
ふたりとも、会話する際に、まったく表情や口元のかたちを変えることはなかった。
「ですが」
「おなじことをなんどもいわなくちゃならないのは、やっぱりわたしが無能だからかな? じゃあ質問するよ。わたしがいちど決めたことは?」
「かならず、やりとおします」
「よくわかってるじゃないか。ハイ、これで話は終わり」
「姫さま」
と、こんどはべつのひとり、こちらは子ども連れのお母さんが、やはりまわりには聞こえぬ音量の声で語りかけた。
もしも耕太が彼女を見れば、あ、と驚いたに違いない。
彼女は、さきほど耕太とちずるがいた公園で、子どもを遊ばせていたお母さんだったのだから。子どもの顔にも、さっきまでの無邪気さはみじんもなかった。
「こんどはおまえか……っていうか、姫はやめろよな」
少女の笑顔が、わずかに険しさを帯びる。
「申し訳ありません。ですが、なにも姫さま……未弥さまが、御みずからおこなわずとも」
「わからないの? 本当に?」
声のほうは、あきらかに厳しくなった。
「だからだろう? 相手があの〈神〉だからこそ、わたしみずからやらなくちゃならないんだろう? ほかのだれにできる? あの〈神〉を相手にすることが、ほかのだれにできるんだよ? だれにも任せられるわけなんかない。なにより……」
ふっ、と笑う。
このとき少女に浮かんだ表情は、なんとも冷たく醒めきったものだった。
「兄の始末は、妹であるわたしがつけなくちゃね」
と、いい終えた瞬間、それまでの醒めきった表情が嘘だったのかのように、少女の顔は、ぱああ……と生気をとり戻す。
びたっ、と立ち止まった。
「これ、おまえ食え!」
サラリーマン姿の男に向かって、少女はたいやきの入っていた紙袋を放る。
少女に生気をとり戻させ、そしていま駆けださせたもの、それは耕太と望の出会いの場所である、あのスペアリブを売っているお肉屋さんだった。
「おじさーん! スペアリブ、スペアリブちょーだい! たくさん! 食べられるだけ!」
告げるが早いか、少女は腰のポケットに手を突っこみ、財布をとりだす。あわただしく、その大きながまぐちの口を開け、折りたたんだ紙幣を抜きとった。
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二、ライオンは寝ている
1
「おっはよー! 小山田フライング・エッチマンくん!」
新学期早々、それも朝っぱらから、いきなりの挨拶であった。
鞄から筆記用具類を机へと移していた耕太は、びきき、と固まる。
耕太が尋ね返す前に、ほんのりとそばかすが浮かぶ天真爛漫《てんしんらんまん》な顔で満面の笑みを作りあげるクラスメイト、佐々森ユウキへ、まわりがつっこみを入れた。
「な、なんなの、佐々森さん、その、フライング・なんとかって」
最初に口火を切ったのは、耕太のとなりの席に座る学級委員長、朝比奈あかねだ。
そのハーフリムの眼鏡の奥に光る眼と眉は、すっかり呆れかえった様子で、くにゃん、と曲がっている。
「そうだよ、ユッキー!」
つぎに声を飛ばしたのは、ユウキのとなりに鞄をさげて立っていた、ユウキの親友、まっすぐな黒髪が清楚《せいそ》な雰囲気をかもしだす、高菜キリコだった。
「小山田くんは、フライング・なんとかじゃなくって、銀河エロス大帝のはずでしょう?」
キリコの発言に、耕太は脱力し、べちゃんと机に突っ伏す。
つっこむところはそこなんだ……。
「そこなんだよ、きーちゃん!」
あ、そこでいいんだ……。
「だって小山田くん、とうとう銀河エロス大帝にまで昇りつめちゃったじゃない! もう上がないよ! 小山田くんとちずるさん、そして犹守《えぞもり》さんが作りあげたエロス・トライアングルは、一説によると保健室の雪野先生や、ちずるさんのお母さんまでがくわわって、いまではエロス・ペンタグラムと化しているという! まさにエロス五芒星《ごぼうせい》! そりゃ銀河だって支配するよね! でもね、そこでわたし、ぴーんとひらめいたんだ! 五芒星とは、すなわちオカルト! そう、ここにあらたな小山田くんの称号のヒントがあるって!」
「だから、フライング・エッチマン?」
「うん! 元ネタはさまよえるオランダ人、フライング・ダッチマンだよ!」
はー、とキリコが、深く深くため息をつく。
「ユッキー……あなた、それ、わたしと一緒に観たオペラから思いついたんでしょ」
「当たり! あれ、ぜんっぜん意味わかんなかったけど、迫力すごかったよねー!」
「ワーグナー、きっと草葉の陰で泣いてると思うよ、ユッキー……」
ん? とユウキは、くりんくりんとした眼で、ただ首を傾げるばかりだった。
「あら、佐々森さん、高菜さん、オペラ観にいったの?」
と、あかねがふたりに尋ねる。
うん! とユウキは元気よく答えた。
「冬休みにね! パパがタダ券くれたから!」
「タダ券じゃなくて、そんなにビデオカメラが好きなら、なにかの参考になるかもしれないから、これ観にいったらどうだ? って、わざわざ買ってくれたんでしょ」
こつん、とキリコが肘でユウキを突っついた。
ユウキは、でヘへー、と頭をかく。
「いいなあ……わたしなんか、今年の冬はほとんどどこにもいかなかったわ。考えてみれば、来年の冬なんか、すぐ受験でしょう? 遊んでる余裕なんかないだろうし、いまのうちにいろいろ楽しんでおけばよかったなあ」
あかねが、ぐい、と椅子の背もたれで背筋を伸ばしながら、いった。
「え? たゆたゆとはどっかいかなかったの?」
ユウキが尋ねたとたん、がたたん、とあかねは椅子から落ちかける。
「ど、どーしてわたしが、源とどっかいかなくちゃならないのっ!」
真っ赤になって、くいくいくいと眼鏡の位置を直しながら、あかねは唾を飛ばす。
「ぬおお、しまったー!」
そう叫んだのは、たゆらだった。
いままで耕太の称号騒動をまったく人ごとのようにケタケタと笑って聞いているばかりだったのに、いまは椅子から立ちあがって、頭を抱え、わなわなと震えている。
「そ、そうだ……そうだった……冬っていったら、スキーにスケートと、ウインタースポーツの季節……夏と違って厚着なぶん、ビジュアル的には残念無念ではあるが、しかし、それだけに水着などとは違って、抵抗感は薄くなる……なにより、朝比奈はこう見えてスキー、スケートは得意! すなわち、誘ってオッケーを貰える可能性は、きわめて高いといえよう! なのに、なのにおれは……このおれというマヌケなクソ野郎は! 貴重なチヤンスを、千載一遇の好機を、あたら特訓なんぞに費やしてしまって! 死ねばいいのに! おれ、もう死んじゃえばいいのにい!」
魂の咆哮《ほうこう》を終え、たゆらは、がくん、と立ったまま、うなだれた。
耕太はうるみゆく視界のなか、立派だよ、たゆらくん。ぼくはたゆらくんのこと、とっても立派だと思うよ……! と、心のなかでエールを送った。送らざるを得なかった。
「ま、それはともかくとしてさ」
じつにあっさりと、ユウキが話題をつぎへと向ける。
「ねえねえ、小山田フライング・エッチマンくん」
「あ、あの、佐々森さん、普通に小山田だけでいいですから」
「小山田さまよえるエロス人くんさー、あれ、どうしたの?」
耕太の言葉を完全に無視して、ユウキは教室、前方のドアを指さす。指さした方向を見なくても、だれのことをいっているのかはわかった。
ちずるだ。
わずかに開いたドアのすきまから、朝からずっと、ちずるは耕太をじーっと見つめ続けていたのだ。ちずるだけではなく、望と蓮、藍もそばにはいるらしく、ときおり顔を覗かせては、なにごとかちずるに対して熱心なアドバイスを送っていた。
「ほら、ちずる、練習したでしょ。ツンデレだよ、ツンデレ」
「うん、わかってる、ツンデレでしょ? ツンデレ、ツンデレ、ツンドラ、サンドラ……」
「だんだん遠ざかってます、ママ!」
「昨日、徹夜でやったとおりにやればいいんです!」
「き、昨日、昨日のとおり、練習のとおり……すー、はー、すー、はー」
ちずるは手を胸に当てて深呼吸し、そして、くわっ、と眼を見開く。
「な、なによ、カンチガイしないでよね! べつにあなたのそばにいたいわけじゃないんだから! これは、あまりにもキュートでプリチーでチャーミングなあなたが、ほかの薄汚いメス豚どもの毒牙にかかったらそいつらのこと粗びきハンバーグにしてしまいそうだから……じゃなくって、そう! キュートでプリチーでチャーミングな女の子たちが、あなたの毒牙にかかるのを防ぐため、そばで監視してるだけなの! 本当はすっごくイヤなんだからね! そ、そうだ、あなたが突然、女の子に襲いかかったりしたらイケナイから、こうして、ぎゅっと押さえつけてもおかなくちゃ。カンチガイしないでよね、抱きついてるんじゃなくて、あくまでも押さえつけてるだけなんだから! え? なに? そ……そうね、あなたが女の子にいやらしいことをいわないように、その口も、ふ、ふさいでおかなくちゃダメよね……て、手は押さえつけるために、いま使えないから……し、しかたないわ。か、カンチガイしな……んんっ」
ちゅー、のかたちに唇を尖らせて固まったちずるに、蓮と藍が盛大な拍手を浴びせた。
「完璧《かんぺき》です、ママ!」
「いつでも使い魔を召還できます!」
うんうん、と望もうなずく。
「そう……『カンチガイしないでよね!』、ツンデレの基本にして奥義」
しかし、ちずるは崩れ落ちた。
「やっぱりダメ! だって練習と本番は違うし、わたし耕太くんを指先や舌先や胸先やイケナイところでツンツンはできても、態度でツンツンはできない!」
「あ、あくまで演じるだけです、ママ!」
「ほら、いつもたゆらにしているように!」
「そんなヒドイこと、できるわけがないじゃない! 耕太くんにハーゲンダッツ買いにいかせたり、ドラクエのレベルあげさせたり、なんとなくむしゃくしゃしたからっておでこにマジックペンで『米』と書けというの!?」
ちずるは、よよよ……と泣きだす。
「へー」
魂の咆哮のあと、すっかり死んだようになっていたたゆらが、こんどは腐ったような眼になって、がさがさと乾ききった声を発した。
「自覚はあったわけだ……おれにヒドイことしてるってよ……へへ、へへへ」
「だ、だいじょうぶだよ、たゆらくん! これもひとつの愛のかたちだよ、つ、ツンデレってやつだよ、きっと!」
「おーまえにだけは慰められたくねーなー……ケケ、キヒャヒャ、クヒャ……」
だんだん笑い声に狂気が混じってきたたゆらを、耕太は必死で励ます。
そのとき、ドアの向こうから、望の「ヘタレ」という声と舌打ちが届いた。
「だったらどうするの、ちずる。素の自分じゃ、もう近づくこともできないんでしょ」
「そ、そうなの……いちど意識しちゃったら、どんどんどんどん恥ずかしさが増してきて……このままじゃ、いつか耕太くんとおなじ空気すら吸えなくなるかも……! どうしよう、そうなったら、酸素ボンベ持参!?」
「「ママー!」」
あわてふためくちずるに、蓮と藍がすがりつく。
あーん! という泣き声が、すっかり教室のなかにも響き渡った。
「不思議よね……」
キリコが、自分の頬にぺたりと手を当て、いった。
「いつもなら、小山田くんと腕を組みながら、おはよー、おはよー、ってまるで自分の教室かのように入ってきて、いまごろは望さんとふたり、小山田くんを中心にした肉欲の宴をくり広げているはずなのに……。源センパイ、どうしたのかしら……」
ねー、とユウキと顔を見あわせ、ふたりで同意のうなずきを交わす。
「いいことです!」
そこに、あかねが眼鏡をきらりと光らせながら、入ってきた。
「学年がひとつ上であるはずのちずるさんがわたしたち二年生の教室に平気で入りびたって、公衆の面前だというのにぐねぐねぐねぐね絡みあって、あげく、一緒に授業を受けたりするほうが、本来、おかしかったんです! これこそが真の姿! 秩序ある学窓の風景! ああ、すべてが校則の下にあるこの空間は、なんて美しく、清らかなの……」
あかねは自分の身体を抱きしめ、うっとりとした表情を浮かべる。
「うーん、まあ、考えてみれば、ねえ、きーちゃん?」
「たしかに、これが正しくは……あるのよね」
と、ユウキが、ぽん、と手のひらを拳で打つなり、自分の鞄を探りだした。
某猫タヌキ型ロボットがひみつ道具をだすときの効果音を発しながら、なにか角張った、レンズつきの物体をとりだす。
「家庭用動画記録装置〜」
「なあにユッキー、また新しいビデオカメラ買ったの? これでもう何台目?」
「新型はやっぱり違うんですよ、きーちゃんさん……さーて、ここをこうして、ぽちっとな? よーし、では小山田さん、小山田さん! ひとこと、ひとことお願いします! いったい源さんとなにがあったんですか!?」
ビデオカメラのレンズが、耕太へと向いた。
「や、ややや? や?」
まるで芸能リポーターだ。
ようやく普通に名前を呼んでもらえたのはうれしいが、これでは喜びも半分だった。
「その反応……これは、第三子オメデタとみて、よろしいのでしょーか!」
ユウキの言葉に、教室が一瞬、静まり返る。
おおおおおー! と爆発的な声があがった。
「……ふえ?」
「小山田くんっ!!」
あたりのどよめきを押しのけるほどの金切り声をあげたのは、あかねだ。
「あなた、いつのまに、さささ、三人も!!」
「ご、誤解です、ぼくたち、そんな、まだー!」
「セーフセックスしなくちゃダメじゃない、セーフセックスゥ! こういうことは男の子が責任持つべきなのに! 無責任ー! 無責任ー!」
あかねはちっとも耕太の声に聞く耳を持ってはくれなかった。
酔ったように顔を赤くしながら、ひたすら腕を振りまくる。あかねの『セーフセックス』という単語に、狂気の淵に落ちかけていたたゆらが、ほんのりと生気づいた。
「ちょ、ちょっとユッキー、小山田くんに二人も子どもいたって、本当なの?」
「うん? だってほら、第一子、二子は、れんれんとあいあいでしょ?」
刻《とき》が凍りつく。
「……は?」
「だから、長女、次女は、あの……」
「蓮ちゃんと藍ちゃんだっていうの!?」
いきおいよくあかねが飛びこんできた。
身を引いて、こくこくとうなずくユウキに、あかねのみならず、たゆらを除いたクラスメイト全員が、はー、と深く深くため息をつく。
「え? な、なに、どーしたの?」
きょろきょろするユウキの頭を、キリコがこつん、とこづいた。
なんだよ、人騒がせな……という声が聞こえるなか、耕太は、まったくだよ……と小さく息を吐く。朝から、疲れる……。
そこに、ほがらかな声がやってきた。
「は〜い、みなさ〜ん。朝のホームルームのお時間ですよ〜」
と、さきほどの騒動ですっかり拡散した空気を、やたらのんびりした口調で落ちつけたのは、クラスの担任、砂原幾《さはらいく》だった。
その砂原先生は、教室のドアの位置で立ち止まっている。
ドアの陰であれやこれややっていたちずる、望、蓮、藍を、のんびりとした声でたしなめだした。
いっぽう教室では、ある疑問であらたにざわめきだしていた。
あれ? まだホームルームの時間には、ちょっと早いぞ?
なんでこんなに早く……? とざわめくなか、ちずるたちは砂原の言葉を無視して「だからムリだってえ……」「ヘタレ」「ママ!」「ファイトです!」とやりあっていた。
そのちずるたちのやりとりに、異変が生じる。
異変の発生源は、耕太とちずるの第一子、二子である、蓮と藍だった。
「「う!?」」
突然、蓮と藍が、うめく。
「なぜ、おまえがここに!?」
「なんだ、なにを企んでる!?」
うん? と耕太はドアのほうをうかがった。
どうやらちずるも疑問に思ったようで、「なに、どうしたの? 蓮、藍?」と尋ねている。返ってきたのは、うううう、という蓮と藍の緊迫感に満ちたうなり声だった。
「ごめんなさいね〜」
砂原先生が、だれかに謝りながら、教室のなかへと入ってくる。
だれか?
だれに?
耕太だけではなく、クラスの生徒一同が感じたであろう疑問は、すぐに答えがでた。
砂原先生に続いて、ひとりの女子生徒が入ってきたからだ。
「おお……」
クラスメイトたちが、驚きともつかぬ声をあげる。
しかし耕太は、彼ら彼女らが感じたものとはまったく違った意味で、驚きの声をあげた。
「あ……」
あの少女だったからだ。
昨日、ちずるとのデートのとき、公園であった、謎のたいやき少女。
彼女は、あのときとおなじく銀髪にも似た水色の髪をツインテールにまとめ、眼を糸のように細く、笑みのかたちに曲げていた。格好だけは、薫風高校の制服姿だった。
少女が、耕太に気づく。
にぃっ、と眼をさらに細くさせ、微笑んだ。
耕太の喉は、ぐびりと鳴ってしまう。
そんな耕太の反応をよそに、教室のボルテージはあがるいっぽうだった。
「はい、センセー! その子、もしかして転校生ですかー!」
自分の席に戻ってビデオカメラを構えていたユウキが、いきおいよく手をあげる。
「は〜い、そうですよ〜」
どっ、と教室のざわめきが増す。
「え〜、彼女の、お名前は〜」
砂原先生が、黒板にチョークで名前を大きく書き記していった。
書きあがった名前に、耕太は、ドアの向こうのちずるは、蓮は、藍は、ようやく正気をとり戻したたゆらは、驚きを見せる。望ひとりだけは、ん? と首を傾げていた。
「みたま……みや?」
だれかが、黒板の名を読みあげた。
そう、三珠だった。
黒板に書かれた名前は、『三珠未弥』。
わずか二週間ほど前、ちずるを巡って耕太たちと熾烈《しれつ》な激闘をくり広げた退魔の組織、〈葛の葉〉。
その頭領格であり、実質〈葛の葉〉を率いていた男の名が、三珠四岐。
そして、すべての黒幕ともいえる存在だった少女の名は、三珠美乃里。
『三珠』とは、耕太たちにとって、あまりにも因縁の深い姓といえた。
「そっ。三珠未弥。よ〜ろしっくね〜」
三珠の姓を持つ少女、三珠未弥は、にこにこと微笑みながら、顔の高さにあげた手をぐーぱーぐーぱーして、みなに挨拶する。
ただそれだけなのに、うおおおおお、とクラスの生徒たちはおたけびをあげた。
さきほどの耕太第三子オメデタ事件に優るとも劣らぬいきおいに、耕太はびっくりしてしまう。
「な、なに? なんなの?」
きょろきょろとあたりを見回すうちにも、「みーや! みーや!」との合唱が始まった。
砂原先生が「え〜、三珠未弥さんは〜、お仕事の都合で、今日、転校してきました〜。みなさ〜ん。仲良くしなくちゃ、めっ、ですからね〜」と紹介すると、はーい! とまるでぴかぴかの小学一年生のような返事が戻ってくるありさまだ。
「これは……?」
「〈魅了〉の術、だな」
完全に正気に戻ったと思わしきたゆらが、ぐいと耕太に身を寄せて、ささやいてくる。
「〈魅了〉……の術?」
「ああ。どうやら天然ものらしいけどな」
「天然ものって?」
「生まれつき、意識しないで〈魅了〉の術を使ってるってこと。いるだろ、妙に人に好かれまくるやつって……そのすごいバージョン。いってみれば、〈魅了〉体質って感じ?」
「へ、へー……」
「感心してるなよ。おまえだってそうだろーが」
「ぼ、ぼくが!?」
「天然ものはこれだからな。まあ、それでもあのガキほどじゃねえ。さすがは三珠の姓を持つ女、おもしろい芸を見せてくれるぜ」
三珠未弥を見つめながら、へっ、とたゆらは笑った。
その横顔に、耕太は頼もしさを感じる。
「ねえ……小山田くんに、源? なんだかみんな、おかしいと思わない?」
「うわっ!?」
「うおっ!?」
と、突然の横からの声に、耕太とたゆらは、そろって飛びあがった。
話しかけたあかねが、きゃっ、と声をあげるほどのぶざまな驚きようだった。
「な、なによう! びっくりさせないでよう!」
あかねが軽く握った拳を振りあげ、怒りだす。
「ご、ごめんなさーい!」
「わ、わりー、わりー!」
耕太はすばやくあかねに背を向けた。
おなじく背を向けたたゆらに対して、ささやく。
「ど、どうして朝比奈さんには効いてないの? 〈魅了〉の術」
「いや、わかんねーけど。もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「おれたちと長くつきあってるうちに、術とかに対して、耐性がついちまったんじゃ……」
「だいじょうぶなの、それって」
「悪いことじゃねーとは思うが」
「ねえ、なに? なにをナイショ話してるの?」
振りむくと、すぐそばで、あかねが、むー、と眉間に皺《しわ》を寄せていた。
「な、なんでもナイヨ!?」
「そ、そうダヨ、男同士の話ダヨ!?」
耕太とたゆらは、仲良く両の手のひらを広げ、ぶんぶんと振る。
じーっとあかねに見つめられ、やはり仲良く顔の向きを反らす。
耕太が反らした先には、三珠未弥の姿があった。
未弥は、歓声をあげ続けるクラスメイトたちに向かって、ひらひらと手のひらを振っていた。そのたび、男子は拳を突きあげ、女子は歓喜に泣き濡れる。まったく、おそるべき能力であった。
その未弥の視線が、耕太へと向く。
にこり、と唇の端を持ちあげ、笑った。
ごく普通の笑顔なはずなのに、耕太の背筋にはぞくぞくと寒気が走った。
★
「あんだとー!」
たゆらの叫びが、廊下に響く。
まわりの視線が、いっせいにこちら側へと集まった。
廊下には、じつに多くの生徒たちの姿があった。
本日は三学期の初日、朝のホームルームが終わればすぐに始業式の予定なため、会場である体育館へ向かおうと、みなが廊下に整列していたからだ。
だから、何十人もの、ほかのクラスもあわせれば百人を越える眼が、耕太たちを捉える。
なんでもないよー? なんでもないよー?
集まった視線に対して、耕太、たゆら、蓮、藍の四人は、手と顔とを横に振って返した。
ちずると望もそばにはいたが、望はいつもどおりの唯我独尊ぶりだし、ちずるは耕太への羞恥心《しゅうちしん》からか、蓮と藍の陰に隠れて、へふー、へふー、と呼吸を荒くするばかりなので、役には立ってくれなかった。
耕太たちのごまかしを受けて、生徒たちの視線は元へと戻る。
それでなくても、耕太のクラスの生徒たちは、三珠未弥と触れあうので忙しかった。引率役である砂原先生と、学級委員長であるあかねがどうにかきちんと整列させようと努力はしているが、いまいちうまくはいっていない。
「あいつが……あの三珠四岐の妹だあ?」
こんどは小声で、たゆらはいった。
たゆらが首の動きで示した先にいるのは、もちろん三珠未弥だった。
生徒たちに囲まれて微笑む未弥を見つめて、蓮と藍がうなずく。
「まちがいない」
「顔に見覚えもある。たしかだ」
「マジかよ……三珠なんて名字だから、なにかあるたあ思ったけどよ……。だって三珠四岐って、あれだよな? 前の戦いのとき、〈葛の葉〉を率いてたんだよな? ボスだったよな? ということは……あのガキも、組織的にかなり上の立場にいるのか?」
たゆらの問いに、しかし蓮と藍は顔を見あわせる。
「うん? どした?」
「わからん」
「三珠四岐が三珠家の当主代理として〈葛の葉〉に君臨していたころは、三珠未弥の名はまったく聞こえてこなかった。すくなくとも、わたしたちのところには」
「あん? つまりどういうこった?」
「だから、あいつはなにもしていなかったんだ」
「なにか役職についていた、ということもなかったはずだ。まるで、三珠未弥なんてものは存在していないかのように……」
「なんだよ、そりゃ」
たゆらが、あらためて未弥へと視線をやった。
「いわゆる……アレか、ニートってやつか? 引きこもり?」
「油断はしないほうがいいぞ、たゆら」
「あの〈魅了〉の術……あれほどの力を持っていながら、まったくの無名だったなんて」
「だな。逆に怪しいぜ」
たゆらが、親指の先で自分の鼻の頭を弾く。
「おい、耕太」
と、こちらを向いた。
「……え? なに、たゆらくん」
「こらこら、なに、たゆらくん? じゃねーよ。どーした。なにボケてやがる」
「あ……いや、なんでもないよ」
「なんでもねーわけねーだろーがよ」
気がつくと、蓮と藍も、心配そうに耕太を見つめていた。
「本当に、なんでもないんだ。ただ……」
耕太は、蓮と藍の頬を撫でる。
「ぼくは、彼女のお兄さんを……」
顔をあげ、群れなす生徒たちの奥、ツインテールの少女の顔を見つめた。
にゅいん、と糸のように細めた彼女の目つきに、そりゃ覚えがあるはずだ。だって、彼女はあの三珠四岐の妹だったのだから。
逆に、すぐさま思いだせなかった理由もわかる。
耕太は三珠四岐と、べつに直接闘ったりなどはしなかったからだ。
いってしまえば耕太にとっての三珠四岐とは、ただ三珠美乃里との闘いの場にいた男、というだけの存在でしかなかった。
そう、ただ美乃里との闘いのまきぞえで、倒してしまった、というだけの……。
「耕太!」
ぴしゃっ、と耕太の両頬を挟みこむように叩いたのは、たゆらだった。
「余計なこと考えてんなよ。どーせ考えたってどうにもなんねーことなんだろ?」
「そうです、パパ!」
「あれは必要な犠牲です! いわゆる正当防衛ってやつです!」
「たゆらくん……蓮、藍……」
両の頬を挟みこまれてタコのような口になりながら、耕太は三人の名を呼んだ。
「ありがと……」
と、続けて礼をいいかけたとき、きしゃー! とたゆらがなにものかに襲われ、その場に倒れこむ。
「ぶったな……? 耕太くんをぶったな……? 親父にすらぶたれたことないのに!」
襲撃者の正体は、ちずるだった。
たゆらに馬乗りとなって、鋭く立てた爪を、振りかぶる。
「ちょ、ちょっと、お姉さま? いまちゃんと見てなかったの? おれ、けっこういいことしたよ? たしかに叩いたけど、それで耕太を救……ぎゃー!」
ざっしゅざっしゅとちずるの両腕は振りおろされていった。
「ち、ちずるさーん!」
「「ママー!」」
耕太は蓮と藍とともに、あわてて止めに入った。
望はひとり、へふー、とため息をついて、肩をすくめるばかりだった。
このとき、三珠未弥はちずるを引きはがそうとする耕太たちを見て、くすっ、と小さく笑ったのだが、気づくものはだれもいなかった。
★
始業式が始まった。
体育館のなかに、理事長代理の長々としたお言葉がスピーカーごしに響く。
冬休みはどうすごしたか、三学期がどれほど大切なのかを切々と訴えていたが、残念ながら生徒たちのなかで真面目に聞いているものはごくわずかなようだ。
若干の心苦しさはあったが、耕太もまた、ほとんどを聞き流していた。
なぜなら、となりのたゆらのささやきに耳を傾けていたからだ。
「なんにせよ、だ」
たゆらの顔は、さきほどの傷により、包帯ぐるぐる巻き状態であった。
髪の毛と眼と口の部分以外は包帯に覆われたミイラ顔で、たゆらはささやきを続ける。
「あーだこーだと考えるよりか、八束《やつか》たちに訊いてみるほうが早えーだろ。正直に答えてくれるかどうかはともかくとして……な」
耕太は小さくうなずく。
学校の生活指導担当である八束たかおと、耕太のクラスの担任である砂原幾は、どちらも〈葛の葉〉の一員だった。
また、ふたりはそれとなく、耕太たちを助けてくれてもいた。
二週間前、耕太たちと〈葛の葉〉がぶつかりあったときも、ひそかに耕太たちの側に立って、なにかと援護してくれていたらしい。
たゆらのいうとおり、まずはふたりに尋ねてみるべきだろう。
「ま、〈御方さま〉のほうは、まだ引きこもってるんだろうけどな……」
はは、と小声でたゆらは笑う。
「成仏しちゃったんじゃねーか? もしかしてよ」
耕太は笑えず、あいまいな表情を返した。
あの〈葛の葉〉との戦い以来、砂原幾の魂に宿る砂使いの精霊、〈御方さま〉は、表にでてこなくなっていた。
いくら砂原が話しかけようとも、引っこんだまま、返事すらしてくれないらしい。
かといってたゆらのいうとおり消え去ってしまったわけでもなく、砂原先生いわく、まだ自分のなかに〈御方さま〉の存在は感じるそうだ。
なのになぜ、表にあらわれてはくれないのか?
砂原先生は『恥ずかしいからかしら〜』といった。
ちずるは『都合が悪いからでてこれないんでしょ』といった。
耕太はどちらの言葉も理解できた。
〈御方さま〉は、ある意味、すべての運命を作りだした人だからだ。
彼女が素戔鳴尊《すさのおのみこと》を殺《あや》めねば、奇稲田姫《くしなだひめ》が狂気に陥《おちい》りかけることもなく、ゆえに身代わりとしてちずるの人格が生まれることはなかった。素戔鳴尊の転生体を探すための組織、〈葛の葉〉が作られることもなかった。ひいては、この薫風高校もなかったはずだ。
つまり〈御方さま〉がいなければ、なにも起こらなかったわけだ。
ぼくとちずるさんが、出会うこともなかったんだよね……。
そういう意味では、耕太は〈御方さま〉に感謝しなくちゃいけない。
ただ、〈御方さま〉は奇稲田姫から素戔鳴尊の転生体を探しだし復活させるよう命じられていたわけで、考えてみれば、耕太たちに味方したのはおかしい話だった。
だって、素戔鳴尊が復活したら、耕太の存在は消えてしまうのだから。
〈神〉の巨大な魂の圧の前に、耕太の魂はあっさりと砕け散ってしまうはずなのだから。
条件はちずるもおなじだ。素戔鳴尊が復活するとき、奇稲田姫もまた復活する。奇稲田姫が復活するとき、器であるちずるの魂は消滅する。つまり、死ぬ。
なのに、〈御方さま〉は耕太たちを助けるような真似をした。
どうして?
というか、そもそも、どうして〈御方さま〉は素戔鳴尊を刺したりなんかしたのだろう? あのとき、耕太が見た映像のなかでは、〈御方さま〉は奇稲田姫のそば近くに仕える女性だったはずだ。なのに、どうして……?
いろいろと謎は残っていたが、なんにせよ、〈御方さま〉本人があらわれて答えてくれないことには、解けるはずもなかった。なにしろ数千年前の話だし、〈御方さま〉以外にすべてを知るかもしれない存在といったら、ちずるに憑《つ》いていた〈龍〉たちぐらいなものだった。その〈龍〉たちだって眠っている。おそらく、〈御方さま〉以上に〈龍〉たちが目覚めることはないだろう。本人たちがそういっていたのだから……。
と、ここで、にわかに体育館がざわめきだした。
「どうしたの? なにかあったの?」
耕太は小声でたゆらに尋ねる。
「新任の教師の紹介だとよ」
「新任? こんな時期に?」
普通、新しい先生というのは、四月、新学年の始まりのころに入ってくるものではないのだろうか。なるほど、ざわめくわけだ。
「見たことねえやつなんか、いねえけどな……?」
たゆらと一緒に、体育館の隅にならぶ教師たちを見回していた、そのときだった。
「あーっはっはっはっはっはっはっ!」
突然、高笑いがとどろく。
なんともすさまじい大音声だった。
声は頭上、体育館の天井から発せられていたが、耕太は押しつぶされそうな錯覚すら覚える。見あげると、声にふさわしく大柄な人物が、体育館の天井を走る骨組みの上に、両手を腰に当てて立っていた。
「とうっ!」
なんと、その人物はかけ声ひとつあげて飛び降りてきた。
悲鳴があがる。
しかし彼女は、見事に体育館の前方、ステージの上へと、降りたった。
そう、声の主は『彼女』であった。
そして耕太たちが見覚えのある人――いや、妖《あやかし》であった。
「あたしの名前は――鬼ヶ島、乱《らん》!」
マイクも使わず体育館中に届く自己紹介をしたのは、たくましいにもほどがある肉体をジャージに無理に押しこめた、鬼の妖怪、乱だった。なかばまでファスナーを開けたというより閉まらなかった胸元から、黒いタンクトップに包まれた大きな胸の谷間が覗《のぞ》く。
「見てのとおり、体育の教師さ! 逆らうやつは死なない程度にブン殴るよ! わかったかい、ガキども! わかったらハイと返事しな!」
乱は袖をまくりあげ、あまりにも立派なちからこぶを見せつけた。
どうじに、牙といってもさしつかえない鋭い八重歯を剥きだしにして前列の生徒たちを脅しつけ、「ハイ!」と強制的に返事させる。
もう、耕太は口をあんぐりとさせるほかなかった。
横を見れば、ミイラ男なたゆらもまた、口をあんぐりさせていた。
体育館の隅に眼をやれば、教師陣はみな、頭を抱えている。八束などは、うつむき、苦りきった顔で首をなんども横に振っていた。
ただひとり、にこにこして拍手していたのは、砂原先生だけだった。
「よろしくなー!」
乱の叫びが、鼓膜をつんざいた。
2
ずんずんずんずん、ミイラ男なたゆらを先頭に、廊下を突き進む。
あとに続くのは、耕太、望、蓮、藍、そしてちずるの五人だ。
廊下には波乱の始業式のあと、清掃、帰りのホームルームを終え、もう残るは帰るだけとなった生徒たちでひしめいていたが、たゆらのミイラ顔が効いたのか、あたかもモーゼが海を割るシーンのごとく、道を開けてゆく。
職員室に、到着した。
一同、顔を見あわせ、うなずきあう。ただひとりちずるだけは、やはり望の後ろに隠れて、もじもじと耕太を恥ずかしそうに見つめるばかりだった。
「たのもー!」
ごんごん、とノックし、たゆらはいきおいよくドアを開く。
「うぬおっ!?」
職員室のなかへ一歩踏みこんだとたん、たゆらは奇妙な声をあげ、まるでカエルのように足をガニマタにし、両手をバンザイして、身を引いた。
ん? と耕太は、たゆらの横から室内を覗きこむ。
「やや!?」
眼を丸くしてしまった。
職員室のなかに、このあいだの〈葛の葉〉との戦いのときに出会った、多々良谷家の当主であるジョニー多々良谷こと多々良谷|権左右衛門《ごんざえもん》氏と、その娘、千里ナツミ、そして八束先生の妹であるという八束たまき、そして玉藻を相手に、法術と妖術とフライドチキンとピザを駆使した激烈な戦闘をくり広げたという少女、土門八葉《つちかどはちよう》の姿があったからだ。
みな、変わらない。
ジョニー多々良谷は金髪の頭に派手なバンダナを巻き、サングラスをかけ、金髪の口ひげをたくわえて、プロレスラーかと見まがうほどの肉体をデニム地中心のアメリカン・バイカーライクな服装で包みこむ。ナツミも父親とおなじく、茶髪にバンダナを巻き、デニム地中心の、ただしこちらはスキニーな服装を身につけ、眼は猫のように、にゃはーん、と細めていた。
八束たまきは、黒のジャケット、パンツのスーツ姿で、兄ゆずりの三白眼を、いまはやわらかな笑みに変えている。
若干十一歳の少女、土門八葉は、魔法使いのようなフードつきのローブ姿で、口元には『×』が書かれたマスクをし、手には『○』と『×』が書かれた札をさげていた。彼女は霊力が強すぎるために言葉を喋《しゃべ》ることが禁じられており、その『○』『×』の札で返事をするのだという。耕太が会ったときには薫風高校に結界を張ったので力を使い果たしていたそうで、普通に会話できたのだが。
なんだかとても懐かしく思えて、耕太は挨拶しようと、足を踏みだした。
「どうもみなさん、おひさしぶりで……ごえ!」
「てめえら!」
「なんの」
「つもりだ!」
挨拶しかけた耕太を押しのけ、身構えたのは、たゆら、蓮、藍の三人だった。
望はしゃがみこみ、たゆらたちに吹っ飛ばされて地面に倒れこんだ耕太に、「だいじょぶ?」と尋ねてくる。望の後ろに隠れていたちずるは、耕太を吹っ飛ばしたたゆらに向かって、眼を爛々《らんらん》と輝かせていた。
「〈葛の葉〉の当主どもが雁首そろえやがってよ……まだ懲りずにちずるにちょっかいだそうとしてやがんの……うーわー!」
「ママの身は」
「わたしたちが守る!」
たゆらは見栄を切ろうとしてちずるに襲いかかられ、蓮と藍はブレザーの制服をなかのブラウス、シャツごと押しあげ、おなかに巻いてあった鎖を抜きとる。携帯用なのだろうか、いつも使っているものより、細めな鎖だった。
「ち、ちずるさん、ストップ! 蓮、藍も、抑えて……」
たゆらに馬乗りになって腕を振りあげたちずるを止めようとしつつ、耕太は蓮と藍にも声をかける。
「おまえたち、勘違いをするな」
と、落ちついた声で制したのは、三白眼も鋭い生活指導担当教諭、八束たかおだった。
「勘違い……」
「だと?」
職員室にある自分の席に腰かけていた八束は、警戒を解かない蓮と藍に対して、開けっ放しになっていて廊下に騒ぎが丸聞こえだったドアを指さし、こう告げた。
「まず、きちんとドアを閉めろ。話はそれからだ」
★
耕太たちは職員室の奥、くもりガラスのしきりで隔てられた応接間へと案内された。
長方形のテーブルを挟んで向かいあわせにならべられたソファーの、そのど真ん中に、さきほどあやうくあらたな傷を刻まれるところだった包帯ぐるぐる巻きのたゆらが大股開きで腰かけ、さっそく正面に座る八束に向かって身をのりだす。
「さあ、なにが勘違いなのか、説明してもらおうじゃねーか! だが、この名探偵、源たゆらの眼はごまかせねーぜ! 母上さまの名に賭けて!」
「ねえ、たゆらくん……なあに、それ? 『母上さまの名に賭けて』って」
たゆらの横に狭い思いをして座っていた耕太は、ついつい尋ねてしまった。
「あん? ほれ、こういう場合はとりあえずだれかの名に賭けるもんだろ? よくいうじゃねーか、じっちゃんの名に賭けて! とか」
「あー……なるほど。たゆらくんには立派なお母さんがいるもんね」
「おうよ。義母だけどな!」
「――玉藻さまの名は、重うございますよ、たゆらさま」
音もなく空いた天井の穴から、にゅっ、と雪花《ゆきはな》が顔を覗かせてつっこみ、すぐに姿を消す。空いたときとおなじく、天井の穴は音もなく閉じた。
「……」
穴の跡さえわからない天井を見あげて、しばし耕太とたゆらは黙考する。
「九尾《きゅうび》の狐だもんね……たゆらくん」
「九尾の狐だもんな……耕太」
あはは、とふたり、笑った。
そのとき、くもりガラスのしきいの向こうから、どすどすどす、と重低音が響く。
「あーん、ちずるたまー!」
飛びこんできたのは、ジャージ姿の乱だった。
ちずるたちは、耕太が座るソファーの後ろに、職員室内の机から持ってきた椅子をならべて、それぞれ腰かけていた。
必然的に、進路上にあったたゆらの首をばきっ、と鳴らして、乱はちずるへと抱きつく。
あいかわらずちずるは望の陰に隠れていたが、さすがは望というべきか、寸前で彼女はひょいっと避けていた。
「え……あ……あ? ら、乱?」
自分よりはるかに大きな相手に抱きつかれたからか、ちずるは正気に戻る。
「ええ? あなた、どうしてここにいるの?」
「これからはずーっと、おそばにございますー!」
涙をぼろぼろとこぼしながら、ワイルドに伸ばした深緑色の髪を振り乱して、乱は頬をちずるにこすりつける。こすりつけられたちずるは、首をぐにんぐにんとさせながら、眼をぱちくりさせた。というか、どうしてここにいるの、と乱に尋ねたということは、つまりちずるは始業式のあいだ中、まともではなかったということになる。
なんか……だんだんひどくなっているような?
ぐおー! ぐおー! と首を押さえて苦悶の声をあげるたゆらの横で、耕太は思った。
冬休みのあいだは、触れることはできないまでも、ちずると普通に会話することは可能だった。いまは果たしてどうだろうか? 無理なんじゃないだろうか?
「どうしても、源、おまえのそばにいたいというのでな」
と、八束がいった。
その言葉が、なぜ乱が薫風高校にいるのかというちずるの質問に対しての回答だったのだと気づくまで、耕太はしばらくかかった。
「いや、わたしのそばにいたいからって……」
「本当は、ちずるさまのクラスメイトになりたかったんですけどぉ」
困惑の表情を浮かべるちずるに向かって、乱は切なげに身をよじった。
「せ、生徒はムリがあるだろ……」
首を押さえながら、たゆらがかすれる声でつっこみを入れる。
「こ、高校生には見えねえし……」
「あまりにたくましすぎる」
「筋骨|隆々《りゅうりゅう》だ」
「あれ、あぶらみじゃなくて……赤身肉?」
すさまじいつっこみ根性を見せるたゆらに続き、蓮、藍、望がそれぞれつっこみをかました。耕太はあえて、ノーコメント。
「っていうか、ここって、薫風高校って、そんな簡単に入れるものなの!?」
最後につっこんだのは、ちずるだった。
しがみつく乱をどうにか引きはがそうとしながらのコメントであった。
「しかたあるまい……あれほどの覚悟を見せられてしまったらな」
「覚悟?」
八束は手のしぐさで、自分のオールバックにした頭の、額の生え際、両端を示す。
「そこって、なに、角? 乱の角がどうしたってのよ」
「いいから、見てみろ……」
「んー? 見てみろって、だって角なんかないじゃない。ってゆーか、あるわけないし。角があったら鬼だってすぐばれるし。ニンゲン社会に入りこもうっていうんなら、まずニンゲンに化けるところから始めないと……って、あれ? 乱、あなた、化けるなんて真似、できたっけ?」
「いえ! できません! 脳みそ筋肉ですから!」
「……じゃ、角、どうしたのよ」
「ハイ! ヘシ折りました!」
「ああ、なるほどね〜、ヘシ折ったわけだ〜……って、ヘシ折ったあ!?」
ちずるが、乱の頭をつかみ、本来角があるだろう位置を、かきわけだす。
「っげ!」
引きつった声をあげた。
「あ、あなた、本気で……」
「ええ、やりました! べきっと」
「いやいやいや。折ったりなんかしたら、タダじゃすまないでしょ、タダじゃ」
「いえ、意外と平気でしたよ? ちょっと痛かったですけど。でも、まあ、たかだか腕をヘシ折られて、その折れたところを中心にぐりぐりとねじられたぐらいなもんですし。あー、そういえば、血が三日ぐらい止まらなかったのはウザかったなー」
ちずるは絶句する。
たゆらたちも、「スゲエ……バカはバカでも、超ド根性が入ったバカだ……」「一本、筋がとおってる……」「筋肉という筋が……」「んー、ニクデレ?」と、賞賛の声をあげるほか、なかった。
「だ、だいじょうぶなんですか?」
思わず耕太も、ソファーの背もたれごしに、ちずるに尋ねてしまう。
結果として、なんの遮蔽物もなしに、ちずると向きあってしまった。
しまった、と思ったときには、もう遅かった。
ちずるの表情が、ぱききっ、と固まる。
素早く乱の大きな背中へと隠れた。あとはもう、乱の身体の向こうから、はふー、へふー、という荒い呼吸だけしか聞こえなくなる。
「ど、どうしたんですか、ちずるさま?」
乱は困惑しきった顔で、自分の背後で縮こまるちずるに向かって尋ねた。
その乱を望、蓮、藍が囲んで、こしょこしょと耳打ちしだす。左右、両の耳から事情を注ぎこまれるにつれ、乱の表情が、にたー、となんかイヤーな感じの笑顔へと、しだいに変わっていった。
「な……なんですか?」
「いーんや? べっつにぃー?」
乱の笑顔のいやらしさが、どんどん増してゆく。
くっ……!
なぜだか耕太は、追いつめられた気分になった。
「って、ゆーかよ……」
たゆらが、深くソファーにもたれこみながら、いった。
「とりあえず、そこの鬼のねーちゃんがここにいるわけはわかった……けどよ、ほかのやつらはどうなんだ? まだ〈葛の葉〉の当主たちがぞろっと揃ってるわけ、聞いてねーぞ」
3
そうだった! と耕太は話の本題を思いだし、八束たちのほうを向く。
耕太の横でいまだ首を押さえ続けるたゆらは、声だけではなく、包帯で覆われた顔のすきまから覗く眼もうつろで、かなりダメージが深そうだった。
「んー、じゃ、まずはわたしたち多々良谷家から説明、いーい?」
八束側のソファーの後ろには、やはりソファーに座りきれなかったものたちが、適当に椅子を持ってきてならべ、腰かけていた。
うちひとり、多々良谷家の当主の娘であるナツミが、自身を指さす。
ナツミの横には、多々良谷家の当主、ジョニー多々良谷が、腕を組んで、どっしりとパイブ椅子に腰かけていた。その巨体に、いまにもパイプが折れてしまいそうだった。
辛そうなたゆらの代わりに、耕太はナツミに向かってうなずく。
「お願いします」
「わたしたちはねー、校舎の様子、見にきたのよ」
「校舎の様子……ですか?」
「そ。だって、わたしたちが建て直したんだもん。耕太くんがほとんど跡形もなく消滅させた、この学校の校舎」
「ええっ!? そ、そうだったんですか!?」
耕太は驚きの声をあげてしまった。
「そうだったのよん。〈葛の葉〉のなんでも屋、多々良谷家でございます」
にゃははー、とナツミは猫のように眼を細めて、笑う。
となりのジョニー多々良谷も、HAHAHA……とアメリカンチックに笑い、どこからとりだしたものか、のこぎりやトンカチ、ノミ、ドリルなどを左右の手に持って広げた。
耕太は目の前のテーブルに、がしっ、と両手をつく。
「も、もうしわけありませんでしたー! ぼくのせいでっ!」
テーブルぎりぎりまで、びたーっと頭をさげた。
ソファーに座ったままではあったが、土下座に近い姿勢をとる。
「いやいやいや、やめてやめて、頭をあげてよ、耕太くん。むしろわたしたちは嬉しいんだよ? だって校舎を消滅させたのは、耕太くんの力だけじゃないじゃない。わたしたちが作りあげた、あの三種の神器のレプリカの力もあってこそだったじゃない。でしょ?」
ナツミのいうとおりだった。
〈葛の葉〉との戦いのとき、耕太は天叢雲剣《あめのむらくものつるぎ》という光の剣と、八咫鏡《やたのかがみ》という不可視の盾《たて》を使い、あの美乃里にも勝利することができたが、それは多々良谷家から三種の神器のレプリカである、銀の首輪、腕輪を借りていたからだ。
三種の神器のレプリカなしでは、耕太はなにもできない、ただの人だったろう。
「あれだけわたしたちが作った武具を使いこなしてくれたらねー。ホント、鍛冶《かじ》師たるわたしたち多々良谷のものとしては、冥利につきまくりだよ。ね、パパ」
ヤー! とジョニーが、親指を立て、にかっ、と白い歯を見せる。
続けてナツミも、にかっ、と白い歯を輝かせ、親子そろっての笑顔競演が完成した。
「でねー、耕太くん。この校舎、建て直したのはいいんだけど、ほら、周囲の住人たちや、部活動で登校する生徒たちにバレないように、わずか一日だけの超突貫工事だったから……さすがに、いろいろムリがねー。で、こうしてちょこちょことやってきては、問題があるところを直してるの」
「トゥデイは、職員オンリーの、トイレットね」
ナツミの言葉を受け、ジョニーがいった。
「職員専用のトイレ……直すんですか?」
「ノンノン。ニュー・ビルド」
「い、いまから作るんですか!? それじゃ、今日は……」
おそるおそる、耕太は正面のソファーに座る八束を見た。
ぶすっとした顔つきで、八束は答える。
「しかたなかろう。職員全員、こっそりと生徒用のトイレを使ったよ」
「ご、ご迷惑、おかけしてます……」
耕太は頭をさげた。
と、なにやら人の近づく気配を感じた。
頭をあげると、そこにいたのは、八束の妹、八束たまきだった。
たったいま座っていた椅子から立ちあがり、近づいてきたようだ。上下黒のスーツ姿のたまきは、テーブルのすぐ脇に立って、腰を屈め、じーっと耕太の顔を見つめてくる。
「あ、あのう?」
「ふむ……なるほど、いい眼をしている」
たまきの兄そっくりな三白眼が、やわらかく細まった。
「わたしはこれでも、男を見る眼はあるつもりだよ」
「あ、えーと」
耕太は〈葛の葉〉との戦いのあと、その場にいた〈葛の葉〉八家の当主格のものたち全員から、挨拶を受けていた。その内容を思いだす。
「八束たまきさんですよね。八束先生の妹さんで、八束家の当主代理の」
「いや、いまはもう、当主代理ではない」
「そうなんですか?」
「そう。いま八束家の当主代理を務めているのは、そこの兄、八束たかおだ」
「えー!」
まじまじと、耕太はたまきの兄、八束たかおの顔を見つめた。
八束の顔は、眉間《みけん》には深く皺《しわ》が刻まれ、口元は歪みと、じつに苦々しいものだった。
振りむき、ソファーの後ろにならんで座る蓮と藍の顔も確かめてみた。
ぶるんぶるん、とふたりは顔を横に振る。
どうやら彼女たちも、まったく知らなかったらしい。
「伝えてはいなかったのですか? 兄上」
「いう必要もないことだろう」
やはりぶすっとした顔つきで、八束は答えた。
たまきは苦笑する。
「あれから――耕太どの、あなたがたと戦ってから、すぐにわたしは結婚してね。いわゆる結婚退職ということになるのかな。いまは兄にすべてを引き継ぎ、あくまでも八束家の一剣士として、そしてひとりの新妻として、ふたつの家を守りながら、なかなか幸せに生きている。今日は現当主である兄への細々とした報告もかねて、あなたがたの様子を見にきた。どうかな、お変わりないかな?」
「結婚……お、おめでとうございます!」
「まだ当主じゃないぞ、当主じゃ! おれはあくまでも当主代理だ!」
そんな八束の声を聞きながら、耕太はたまきに向かってお祝いの言葉を贈った。蓮や藍、望も、「おめでとー」と祝福の弁を述べる。
「ありがとう」
拍手のなか、たまきはほんのりと頬を紅く染めた。
ああ、ところで、と蓮と藍に向かって切りだす。
「蓮どの、藍どの、たまには家に帰ってやるつもりはないかな? あなたがたのお父上どのとお会いするたび、相談されてね。年ごろの娘とはどうすればうまくやれるのかと」
「うまくやるのはほぼ絶望です」
「まず、あのジジイに一緒に風呂に入ろうと迫ってくるな、と伝えてください」
蓮と藍は、吐き捨てるようにいった。
〈葛の葉〉との戦いが終わったあと、蓮と藍は一日だけ実家に帰っていた。
そのとき、戦闘によってふたりとも、とくに蓮がひどい傷を負っていたが、耕太が三種の神器のレプリカの力を借りての治癒の光で、あっというまに回復することができた。
そうして元気になって七々尾の家に帰ったふたりは、しかし、すぐに戻ってきた。
愛に飢えた父親の、情熱的すぎるスキンシップがたまらなく嫌だったらしい。
「しかしだな、蓮どの、藍どの。それもまた、お父上どのの愛の深さゆえの所行だと……」
「ムリなものはムリです」
「たまきどのは、あの父親と一緒に風呂に入れますか!」
「それはわたしもムリだが、だが、しかし、それでもだ。たったひとりの肉親ではないか」
たまきの、蓮、藍への説得は続く。
「えーと?」
耕太は、これまでの内容を反芻《はんすう》した。
「ジョニーさんとナツミさんは、校舎の修繕。たまきさんは、八束先生への報告と、それとたぶん、蓮、藍のお父さんに頼まれて、娘ふたりの説得。あとは……」
と、視線を向ける。
視線の先には、パイプ椅子に座って、足をぶらぶらとさせていた少女、フードつきの白いローブがかわいらしい、土門八葉の姿があった。
「土門八葉さん……だったよね? きみは……」
あ、でも質問しても、喋ってはくれないんだっけ、と少女の口元を覆う×印のマスクを見て気づいた。
そんな耕太の思いを察したのか、八葉は手をナツミの側へと伸ばす。
ナツミはにこにこしながら、八葉の小さな手をとった。
「んー……」
ナツミの瞳が、宙をさまよいだした。
ああ、なるほど、と耕太は思う。
ナツミは、接触することで相手の思考を読みとれる、サトリの能力者だった。こうすれば、喋らずとも八葉は自分の意志をこちらへ伝えることができるというわけだ。
どうやら、読みとりが終わったらしい。
ナツミの瞳が、耕太へと向く。
「あのね、八葉ちゃんは、フライドチキンが食べたかったんだって」
「……え?」
「だから、フライドチキン。八葉ちゃんの家って、すっごく厳しくて、ファストフードとかいっさいダメなんだってさ。だから、わたしたちが薫風高校に用事があると知ったら、土門家の人たちの眼を盗んで、一緒にきちゃったんだって。じゃ、八葉ちゃん。わたしたちの仕事が終わったら、帰りに食べにいこーねー」
ナツミの言葉に、八葉は『○』が書かれた札をぴこぴことあげまくる。
少女の口元を覆う×印のマスクは、もういまからたまらなくなっているのか、あふれだしたよだれですっかりびちゃびちゃとなっていた。
「な、なるほど」
まあ、人にはいろいろあるのだろう……。
「じゃあ、八葉さんは、フライドチキンが目的だったと……うん、これで、〈葛の葉〉のみなさんがここにいる理由、わかりましたよね?」
耕太は振りむき、みなに確認した。
あいかわらず乱の後ろであうあう状態なちずると、とくに興味もなさそうな望はともかく、蓮、藍、そしてたゆらには確認しなくてはならない。〈葛の葉〉の当主たちに対して強く疑いの眼を向けていたのは、たゆらたちだからだ。
「え、なんですか、パパ?」
「フライドチキン……が、どうしました?」
いまだたまきから説得を受け続けていた蓮と藍は、耕太の話を聞いてなかったらしい。
あらためてふたりに説明する。
「ああ……はい、わかりました、パパ」
「それより、パパ! 助けてください!」
だいぶふたりはたまきを相手するのにうんざりしているようだ。
「うーん……あのね、蓮、藍。たまには実のお父さんのところに帰ってあげても、いいんじゃないかなーって、ぼく、思うんだけど」
「「がーん!」」
蓮と藍の眼と口が、大きく開かれる。
「「パパに捨てられた!」」
ぶるぶると震えだした。みるみるうちにその眼はうるんでゆく。
「いや、捨ててない、捨ててないから! ただぼくは……」
ひっぐひっぐとしゃくりあげだした蓮と藍を、耕太はあわててなだめにかかった。
「あーあ、いっけないんだ」
その声に、耕太はぞくり、となる。
背筋を走る寒気――。
耕太は振りむく。
振りむいた先にいたのは、やはり、あの少女だった。
眼を糸のように細め、水色の髪をツインテールにまとめた、あの、三珠四岐の妹。
三珠、未弥。
彼女は、耕太に向け、右腕をまっすぐに伸ばしていた。
その伸ばした腕の先で、拳銃を模したのだろう、やはりまっすぐに伸ばしていた人差し指の銃口が、耕太の眉間を捉える。
「まーた女の子泣かして、さ」
ぱあん、と撃たれた。
思わず耕太は自分の眉間を手で押さえる。
そのしぐさがおもしろかったのか、未弥は声をあげて笑いだした。
「ど……どうして、きみが、ここに?」
「うん?」
笑い声を納め、未弥は小さく首を傾げる。
「ねえ耕太、それはどういう意味? どうしてわたしはこの職員室にきたのかって意味? それとも、どうしてこの董風高校にやってきたのかって意味? どっち?」
「に、二番目です! どうしてここに、この薫風高校にやってきたんですか!?」
「んー……まあ、べつに教えてもいいんだけど」
未弥は、まだ拳銃のかたちのまま伸ばしていた人差し指を、とんとん、と自分の頬に当てた。
「それよりもさ、彼、だいじょうぶ?」
と、指さす。
「え?」
未弥の指先は、耕太のすぐ脇を示していた。
見ると――。
「た……たゆらくん!?」
顔面に包帯ぐるぐる巻き状態のたゆらが、ソファーに深くもたれ、ぼんやりと天井を見あげていた。
みょ、妙に静かだとは思っていたけど……!
「た、たゆらくん、たゆらくん!」
耕太はたゆらを揺する。
しかし、いくら強く揺すっても、たゆらは首をがくんがくんとさせるだけで、反応を見せることはなかった。
「え……ちょ、ちょっと、たゆらくん……」
おかしい。
よく見れば、包帯のすきまから覗く眼は、どこにも焦点があっていない。妙に濁ってもいる。口は半開きだし、身体にまったく力が入っていない。
「ま……まさか……」
「おい……」
「たゆら……」
蓮と藍も、ソファーごしにたゆらを覗きこんできた。
「た……た……た……」
耐えられず、ひぐっ、と耕太は呼吸を乱す。
「た、た、た、たゆらくーん!」
がむしゃらに耕太はたゆらの身体を揺さぶり、叫んだ。
だが、いくら揺すろうとも、叫ぼうとも、たゆらの身体に、力が戻ることはなかった。
死……んだ?
たゆらくんが、たゆらくんが、死んで、死んでしまった――。
★
「勝手に殺すなよなー」
たゆらが、床にうつぶせになりながら、いった。
「あのね、たゆらくんがまぎらわしいことするのがいけないんじゃない!」
耕太は、そのたゆらの背にまたがり、首のあたりをマッサージしながら、怒鳴る。蓮と藍も、「まったくです!」「ホントに死ねばよかったのに!」と吐き捨てた。
「ぼく、泣いたんだから! 泣いたんだから!」
「いで、いでで、悪かった、悪かったよ! でもな、あの鬼のねーちゃんに首バッキバキにされて、マジで死にそうだったんだから、カンベンしろよな」
と、たゆらは顔を横に曲げ、乱を睨《にら》んだ。
当の乱は、まったく平気な顔だった。
「なんだい、ちずるさまの弟だってのに、ヤワだねえ。あたしが鍛《きた》えてやろーかー?」
そんなことをいって、笑う始末だ。
「ったくよ……ちょっと、いやかなり強えからって、ムカツクぜ……」
ぶつぶついうたゆらの首を、耕太は揉《も》む。
「お、お、お……あー、いいな、耕太。おまえ、けっこううまいなー」
「おじいちゃんの身体、よくマッサージしてたからね」
すっかりリラックスしきったたゆらの痛んだ首筋を丹念に揉みほぐしながら、耕太は、さきほどまで自分たちが座っていたソファーを見つめる。
ソファーにいたのは、あの三珠未弥だった。
耕太たちがいなくなって空いたスペースに、彼女はそのまま座っていた。
座っていたのは未弥だけではない。
彼女の左には望が、右には土門八葉の姿があった。
三人ならんで仲良くソファーに腰かけ、いったいなにをやっているのかといえば、ハンバーガーの食いまくりだった。
某ファーストフード店のハンバーガーである。
各種ハンバーガーのほか、ポテトもあれば、チキンナゲットもあった。
三珠家の人なのだろうか、未弥に続いて砂原と一緒にやってきた黒服の男ふたりが、両手いっぱいに抱えて職員室に持ってきたものだった。
「たべふ?」
チーズバーガーをくわえながらの未弥の誘いに、のったのが望と八葉だ。
望は例のごとくの食いしん坊オオカミだし、八葉は日常的にファーストフードに飢えてるしで、三人の食べるいきおいはかなりのものだった。
「さて……さきほどの質問に答えていただけませんか、未弥どの」
ぱんぱんにふくらんだ頬でストローを吸って、ドリンクを飲み干し、じゅじゅじゅじゅじゅー、とけたたましい音を鳴らしていた未弥に、正面ソファーに砂原とならんで座る八束が、尋ねた。
「質問? ふぁに?」
「なぜ、薫風高校にこられたのか、です」
耕太は眼を見張る。
まるで、おなじ〈葛の葉〉のものである八束すらも、なぜ未弥が薫風高校にやってきたのかわからない様子だったからだ。
「だまされんなよー」
耕太の手が止まったので察したのか、たゆらが小声でささやく。
「おまえはすーぐだまされるからな。お人好しすぎんだよ」
「う、うん」
八束に尋ねられた未弥は、べつのドリンクで口内のハンバーガーだかポテトだかを胃に流しこみ、ぺろりと指先についたソースを舐《な》めた。
「んー、たまにはファーストフードが食べたかったから、じゃダメ?」
「では、目的を達成された以上、お帰りになっていただけますか?」
じつにそっけない八束の態度に、未弥はけたけたと笑いだす。
「あはははは、なるほど、八束たかお、きみは〈葛の葉〉の人間である前に、薫風高校の教師なんだねえ。たとえおなじ〈葛の葉〉のものでも、不審人物は排除するって?」
「ええ……」
すっ、と八束は眼を細め、そして、とんでもないことをいった。
「たとえ、それが三珠家の当主である、あなたでも――です」
や?
三珠家の、当主?
だれが?
耕太は、しばらく八束の発した言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
「あんだとー!」
たゆらが、身体を起こしながら叫ぶ。
いきなり起こしたので、背中にまたがって首を揉んでいた耕太のあごに、がごん、とたゆらの脳天はぶつかった。
あぎゃ!
耕太とたゆらは、そろってその場にのたうちまわる。
「おまえが」
「三珠家の当主!?」
ちょっと喋る余裕のない耕太とたゆらに代わって、蓮と藍が問いかけてくれた。
「あれ? 知らなかったの? 蓮、藍、きみたち、七々尾家当主の娘でしょ?」
蓮と藍は、う、と黙りこむ。
ふたりは実家から家出状態なのだ。〈葛の葉〉の内部事情が伝わってなくても、しかたがなかっただろう。さっそく、たまきが「そう! だからこそ、〈葛の葉〉の情報を知るためにも、せめて月に一回ぐらいは家に戻るべきなのだ!」と説得にかかる。
耕太は、痛むあごをさすりながら、涙で歪む視界のなか、未弥を捉えた。
あの子が……三珠家の当主……?
三珠家の当主とは、よくはわからないが、〈葛の葉〉のなかでいちばん偉い存在なのではないだろうか。事実、二週間前の〈葛の葉〉との戦いのとき、組織を率いていたのは、当時、三珠家の当主代理だった、三珠四岐だったはずだ。
つまり彼女は、〈葛の葉〉でいちばん偉いひと……?
このとき未弥は、八束の三白眼と、真っ向からぶつかりあっていた。
八束のどこまでも見透かすような鋭い視線をかすかに微笑みながら受け止め、まっすぐに見つめ返す。
やがて、くすくす、と未弥は小さく笑いだした。
「たとえ三珠家の当主でも、か……愛されてるねえ、生徒さんたち」
ねえ? と耕太たちに同意を求めてくる。
「これなら、うん、たとえ〈御方さま〉がいなくても、充分に代わりが務まるよ」
その言葉に、耕太はみぞおちのあたりがひんやりと沈みこむのを感じた。
それが狙いなのか――。
すとん、とすべてが腑《ふ》に落ちたような気がした。
薫風高校は、〈葛の葉〉が管理運営する学校だった。
妖《あやかし》を、なにも知らない一般人の人間と一緒の学校に通わせる。
そうやって人間と近しい環境に置くことで、妖に人間社会での生きかたを実地に学ばせる、それが薫風高校の狙いなのだ。
その際、妖が暴走しないよう監督、指導する立場にあるのが、〈御方さま〉だった。
だが、いま〈御方さま〉はいない。
砂原幾のなかに隠れたまま、でてこようとはしない。
つまり現在の薫風高校は、監督者不在の状況なのだ。
もし、そこを三珠四岐に突かれたとしたら?
最悪、監督者不在により廃止、なんて可能性だって、ある。
かくして、人間である耕太と妖であるちずるは、離ればなれの憂き目に……そんなあ!
「〈御方さま〉のこと、知らないと思った?」
未弥が、ポテトをつまみながら、いった。
「……その件でいらしたのですか?」
「いいや、違うよ?」
ポテトをくわえて、にかっ、と笑う。
え、ち、違うの?
「安心した? いっただろ、八束たかお。きみなら充分に〈御方さま〉の代わりが務まるってさ。砂原幾もいるしね」
「はい〜」
八束のとなりでのんびりとお茶をすすってた砂原が、にこやかに答えた。
「たかおさ……八束さんと、がんばり、まっす」
えい、とガッツポーズを決める。
八束はおでこに手を当て、はー、とため息をついた。
「――で?」
おでこに手を当てたまま、八束は未弥を見据える。
「〈葛の葉〉を率いる三珠家の当主として、この薫風高校の存廃を監査するためにいらしたのではないというのなら、なんの御用なんです? 未弥どの」
「そうつれなくしないでよ、八束先生……いまはわたしも生徒だよ?」
あむ、と未弥はチキンナゲットを口のなかに放りこむ。
未弥の横では、望がチキンナゲットの入っている袋をざーっと傾け、一気食いしていた。頬をハムスターのようにふくらまして、むっちゃむっちゃと食べる。いっぽう、八葉はケチャップとマスタード、二種類のソースを食べくらべているようだ。ふたつどうじにつけたりもしていた。
んぐんぐと、未弥が口を動かす。
そのあいだも、おでこに手を当てたままの八束の視線が未弥から外れることはなかった。
とうとう根負けしたのか、はふっ、と未弥が小さく息を吐く。
「神さまを見にきたんだ」
「〈神〉? それは――」
八束の視線が、乱の後ろに隠れるちずる、そして耕太へと向けられた。
「当たり。薫風高校が誇る二柱の神さまカップルのことさ」
にっこりと未弥は細めた眼の笑みの角度を強くする。
「や、やっぱり、てめえ……!」
未弥が示したちずる、耕太への関心に、たちまちたゆらが反応した。
のたうちまわっていた床から立ちあがり、未弥を睨みつける。
蓮と藍もすばやく、ちずるの両脇にまわっていた。
ちずるを背中に隠していた乱は、ん? んん? とたゆらたちの動きを見て、「敵? あいつ、敵?」と未弥を指さし、尋ねる。
「「「敵!」」」
そうたゆら、蓮、藍がハモって答えると、よーし! と意気ごみだす。
歯を剥きだしにし、がっつんがっつん、胸の前で拳と拳を打ち鳴らした。
このとき望は、未弥の横で丸ごとハンバーガーを口のなかにふくんで、丸く開けた口から、そのままパンとハンバーガーとレタスを覗かせていたが、「ほが? ほがが?」とたゆらたち、未弥たちを交互に見つめてから、ぐきゅん、と一気に飲みこむ。
ソファーから立ちあがり、とてとてとてと、ちずるのほうへ向かった。
一気に、緊迫感が高まりだす。
「あれ? あれれ?」
突然の変化に、ナツミが眼をぱちくりとさせた。ジョニー多々良谷はHAHAHAと笑った。たまきも眼を、わずかに鋭くさせた。
「ま、待って! ちょっと待って! 待ったー!」
いまにも飛びかかりそうだったたゆらたちの前に、耕太は割って入る。
「耕太?」
「パパ!?」
いぶかしげな顔つきとなるたゆらたちを、ちら、と見やって抑えてから、まだソファーに座ったままハンバーガーを食べ続けている未弥へ、視線を向けた。
「ぼくとちずるさんを見にきたって……どういう意味なの?」
「言葉のとおりだよ、耕太。きみたちのことを見にきたんだ。三珠家の当主として、〈葛の葉〉を導かねばならない立場のものとして……素戔鳴尊なはずの耕太と、こちらはまちがいなく奇稲田姫《くしなだひめ》であるちずるの、ふたりの神さまをね。ほら、いうでしょ? 百聞は一見にしかずって。百の資料より、一の体験ってわけ」
と、となりの八葉がハンバーガーからよけていたピクルスをつまみながら、いった。
「あとは……学生生活ってやつにもちょっと興味があったし。ハンバーガーにも」
「んな言葉、信じられっかー!」
「うえ!?」
耕太は感情を剥きだしにしたたゆらに押しのけられ、バランスを崩す。
どうにか体勢を立て直そうとするうち、くるりと振り返ってしまった。
と、望がちずるになにやら耳打ちしているのを発見する。おどおどしていたちずるの顔が、だんだんと引き締まり、最後には大きく眼を見開いた。
「てめえらはな、つい先月、ちずるのことを襲って……おわ!?」
「あなた!」
たゆらは覚醒したちずるに押しのけられ、吹っ飛ぶ。
職員室の本棚に激突し、雪崩れた本に埋もれた。
「ぐはー!」
「た、たゆらくーん!」
耕太は駆けよりかけるが、しかし未弥と向きあうちずるも気になる! どうしよう!
「あなた……耕太くんを見にきたって、そういったのね?」
「うん、そういったよ、奇稲田姫さま?」
未弥はどこか楽しそうに、ちずるに向かって微笑みながら答えた。
「耕太くんは……耕太くんは……耕太くんは!」
きっ、とちずるが未弥を睨みつける。
「耕太くんは、あなたなんかには渡さないんだからーっ!」
指先を未弥に向かって振りおろし、きっぱりと宣言した。
「……え?」
まさか、と耕太は望を見る。
あんのじょう望は、うんうんとうなずいていた。どうやらなにか適当なことをちずるに吹きこんだらしい。おそらくは未弥が耕太を狙ってるとか、なんとか。そんな策士、望を蓮と藍は尊敬のまなざしで見あげ、乱は「ちずるさまあ……」と涙目になって指を噛む。
「負けない……!」
なおもちずるの演説は続いていた。
「わたし負けない! わたしが、そう、わたしこそが、耕太くんのオンリーワン、世界にひとつだけの花なんだから! とろけるほどに甘〜い、このわたしの蜜、吸っていいのは耕太くんだけなんだよ!? そして、そして、ああ、そして! おしべとめしべが触れたら、そうよ、くるのよ、あん! やん! 受粉、じゅふーん! 受粉、じゅふーん!」
リズムにのって、ダンスを踊りだす。
受粉、じゅふーん!
受粉、じゅふーん!
耕太は、ああ、ちずるさん、ちっとも変わってないや……と思った。でも、なぜなんだろ、ぼく、遠くを見つめてしまうのは……?
と、受粉ダンスを踊るちずるが、耕太に気づいた。
とたんにちずるは、じゅふーん! と固まる。
ぎ、ぎ、ぎ、とさびた機械のようなぎこちない動きで耕太に背を向け、すかさず走りだした。
「やーん、やーん! はずかちー!」
顔を覆って、背中を踊る黒髪を振り乱し、職員室から飛びだす。
「ああ、ママ!」
「待ってください!」
「ちずるさまー!」
「ちずるの花……らふれしあ……うつぼかづら……」
蓮、藍、乱、望が、あとを追いかけてゆく。
耕太はしばらく立ちつくしていたが、あ、と我に返り、「ち、ちずるさーん!」とみんなのあとを追った。手を叩いてソファーの上を笑い転がる未弥と、あらあら〜とあくまでも呑気な砂原の声とを後ろに残して。
なお、本の山に埋もれたまま生死不明だったたゆらのことは、すっかり忘れてた。
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三、煙が目にしみる
1
なんだか今朝は、妙に冷えこむ。
街路樹がならぶ通学路を吹きぬける北風も、これまでの暖冬っぷりがまるで冗談だったかのように、やたらと厳しかった。
耕太は、ぶるりと震えながら首をすくめる。
コートの前をつかんで縮こまり、ひとり、風に立ち向かった。
そう、ひとりだった。
もしかしたら、妙にいま耕太が寒く感じる理由の半分は、ひとりぼっちだったせいもあるかもしれない。いつもならちずるが一緒なのだから。冬なんかはぴったりと寄りそって、その偉大なるふくらみとともに、ぬくもりを伝えてくれるのだから。
耕太は小さくため息をつく。
眼を伏せ、すぐ横のガードレールごしに車が走る歩道に、視線を落とした。
昨日もちずるとはべつべつに登校したから、シングル登校、今日で二日目。
たった二日だけだというのに、なんだろう、切なくってしかたがない。ちょっとでも気を許すと、もう泣いてしまいそうだ。
けっきょくあのあと、職員室から飛びだしたちずるを見つけだすことはできなかった。
見つけだせないまま、耕太は寮の自分の部屋に帰った。
なんとなくぼーっとして、気がつくとあたりはまっ暗だった。
電気をつけようと立ちあがったとき、がちゃ、と玄関のドアが開いた。
ちずるさん!?
二間しかない部屋のために振りむくだけで見える玄関へ、喜びいさんで耕太が視線をやると、そこにいたのは、ちずるではなく、蓮と藍だった。
「ぱ、パパ」
「ごはん、です」
普段、夕食を作ってくれるちずるの代わりに、ふたりは食事を持ってきてくれたのだ。
スーパーで買ってきてくれたのだろう、天丼《てんどん》、かつ丼、親子丼のお弁当をインスタントのお吸いもので食べながら、そのとき、耕太は蓮と藍から事情を聞きだしてみた。
「いま、ママは自分自身と闘っているんです」
「パパとのアーリーデイズをとり戻すため」
「アクア・ウィタエを懸命に」
「愛という名のおぼんへと、そそぎこんでいるんです!」
うん、意味がわからない。
お米つぶを口のまわりにつけながら、くー! と涙をこらえる蓮と藍を前に、耕太は考えこむしかなかった。
とりあえず、現在わかっていることは、ひとつ。
ちずるが、異様なまでに恥ずかしがりになったということだ。
まさしく異様だった。冬休みのあいだは、ただ触れることだけを恥ずかしがって、べつに会話することや見つめあうことなんかは平気だったはずだ。それが三学期が始まったとたん、眼と眼があっただけで逃げだすほどに悪化してしまった。
つまり昨日、三学期の初日に、ちずるの症状はひどくなったのだ。
昨日、いったいなにが……?
理由として思いつくものはあった。
そう。
それはあの、転校生、三珠の姓を持つ――。
「やあ、おはよ。小山田フライング・エッチマン」
びくーん! と耕太の寒さで縮こまっていた背筋は伸びた。
振りむけば、斜め後ろに、いた。
にこやかに眼を糸のごとく細め、曇り顔の冬空よりなお空っぽい色あいをしたツインテールと、黒の長いコートの裾《すそ》とを風にはためかせた、足の黒いニーソックスが鈍く光る、三珠家当主、三珠未弥が、いた。
「なんて顔してんの、エッチマン」
あはは、と未弥が笑う。
「お、おはようございます、三珠……さん」
「やだなあ、エッチマン」
にぃ、と未弥は笑みを強めた。
「もっとフレンドリーにさ、未弥って呼んでよ、未弥って。エッチマンとわたし、なんていうの、まんざら知らない仲ってわけでもないんだし……ね?」
耕太は、じっと未弥の顔を見つめる。
たしかに、知らない仲ではないのかもしれない。
彼女とおなじく三珠の姓を持つ、耕太の妹、三珠美乃里とは死闘をくり広げた。
そして未弥の兄、三珠四岐とは直接闘いこそしなかったが、ちずるを賭けて〈葛の葉〉とぶつかったとき、その戦闘を指揮していたのは彼であった。また、不可抗力ではあったが、美乃里もろとも耕太は彼を天叢雲剣《あめのむらくものつるぎ》の力で消し去ってしまってもいた。
いわば、未弥にとって耕太は、兄の仇だった。
だから……?
だから、彼女はちずるさんに……?
「おーい、エッチマン」
ずい、と未弥に近づいて呼びかけられ、耕太はびくついた。
びよーん、とヘンな格好で飛び退く。
「は、はい!?」
「話、聞いてるー?」
「き、聞いてます!」
「ホントかなー……?」
かすかに、未弥の眉間《みけん》には皺《しわ》が浮かんでいた。
「じゃ、呼んでみてよ」
「え」
「ほら、未弥って。ほらほらほーら」
「だ……だったら、ぼくのことも普通に呼んでくれますか。耕太って」
ユウキからでも聞いていたのだろうか、未弥はさっそく新命名されたばかりの耕太のあだ名を使いこなしていた。
「オッケー、耕太。これでいい?」
「あ、あの、未弥さん」
「お、さっそく」
糸のようだった未弥の眼が、さらに細まる。
耕太は未弥に、薫風高校へきた真意を尋ねるつもりだった。
あの「耕太とちずるを見にきた」という言葉の意味は、なんなのか。本当に『見る』だけのつもりなのか。
もし『見る』だけじゃないのだとしたら。
ちずるの異変は、まさか未弥が……?
「未弥さんは、どうして」
尋ねかけた瞬間、耕太の目の前を、なにか高速の物体が飛んでいった。
物体は、小さく丸かった。
が、とにかくいきおいがすさまじかった。
うなるような風切り音をあげ、向かいあう耕太と未弥のあいだを、まるで邪魔するかのごとく通過してゆく。と思ったら、やってきたときとおなじいきおいで、戻っていった。
ぱしっ。
なにかをキャッチする音が、甲高く届く。
耕太は音の発生源を視線で追いかけ、そして自分の真横、車が行き交う車道の向こう側、反対側の歩道に、見つけた。
セーラー服を身にまとった、ちずるの姿を。
「え」
学校の制服は、ブレザーである。
なのにちずるは、どこから持ってきたのか、紺色のセーラー服姿であった。髪型もいつもと違い、頭の後ろでひとつにまとめた、いわゆるポニーテールだ。
セーラー服に、ポニーテール。
これだけでも充分におかしかったが、ちずるはさらに、ポーズまで決めていた。
手に、丸く小さな、そう、ヨーヨーを持ち、そのヨーヨーをぐっと引きつけ、いまにも投げられそうな構えをとる。
なるほど、さきほど耕太の目の前を高速で往復した物体は、このヨーヨーらしい。
「あ、あのー、ちずるさー」
「薫風高校三年B組、源ちずる……」
道路を挟んだ向かい側の歩道で、じゃきーん、とちずるがヨーヨーを構え直す。
「またの名を、すけぱん刑事《でか》!」
ぱかん、と真横を向いていたヨーヨーのフタが、開いた。
なかにはなにか絵柄が描いてあったようだが、道路ひとつ挟んだ距離では、いまいち耕太にはよくわからない。
それよりも、だ。
いま、すけぱんっていわなかった?
いや、まさか、きっと聞きまちがいだよ、そうに決まってるよ、だって……と耕太が自分の耳を疑っているあいだにも、ちずるの口上は続いていた。
「九尾の狐を義母と仰いで四と百とせ、生まれの証《あかし》さえ立たんこのあてーが、なんの因果かマッポの手先……けんどなぁ! こんなあてーでも、愛という言葉の意味は、このダイナマイトなボディーでもピュアなソウルでも知ってるき! っていうか、あてーに愛をじっくりねっぷりたっぷりと教えこんだ憎いヤツ☆ ちずる法第二四二条、純愛罪で、タイホしちゃう、ぞ☆」
でやっ! とちずるがガードレールを跳びこえ、またたくまにこちらへと迫ってくる。
陸上競技のランナーを思わせる走りで道路を駆けぬけ、耕太のいる側のガードレールに足をかけて、そしてちずるは跳んだ。
みごとな跳躍だった。
まるで幅跳びのような姿勢で、だからふわりと両足を耕太に向けつつ高々と跳んで、ということはスカートの中身というか、太ももというか、両足のはざま、奥の奥までもがまるわかりってゆーか、なんだかだんだんと、アレ? 近づいてきてるよ?
ばにゅっ。
耕太の顔面に、ちずるの両足のはざま、奥の奥がめりこんだ。
ちずるの太ももが、耕太の顔の両側を挟みこむ。
耕太は理解した。
挟みこまれる瞬間、理解した。
ちずるが、正真正銘、まぎれもない『すけぱん刑事』であったことを。
草原が。
ドナウ川が。
そう、美しく青きドナウがー。
と、ここまで思ったところで、がつん、と衝撃が耕太の後頭部を襲った。
あー、そっかー、ちずるさん、けっこうないきおいだったもんなー、そりゃ押しつぶされるよなー、と薄れゆく意識のなか耕太は思い、しかし、ずっとおあずけ状態だったためか、なかば本能による動きで、ちずるの太ももを両手でがっちりとつかむ。
頬を圧する、両の太もも……。
顔面を圧する、青きドナウ……。
やはり……ちずるさんは……素晴らし……かった……が……ま……。
★
冷たい風が吹きすさぶなか、ちずるは微動だにしなかった。
耕太の顔面にまたがって腰をおろしたまま、胸の前で腕を組み、口はへの字にし、いくら風にポニーテールが踊ろうとも、スカートがなびこうとも、眉ひとつ動かさない。
「ま、ママ……」
「なんですか、それは……」
横からの声に、初めて、ん? と顔の向きを変えた。
「なんじゃき?」
視線の先では、蓮と藍がすっかり呆然《ぼうぜん》とした顔で立っていた。
ふたりのとなりには、望の姿もある。
どうやら蓮、藍、望の三人は、陰に隠れて見ていたらしい。
「見てわからんか?」
得意げなちずるの問いかけに、蓮と藍はぶんぶんとうなずく。
ふっ……とちずるは鼻で小さく笑った。
「これぞ、ヤンデレじゃきー!」
胸の前で腕を組んだまま、吠える。
ヤンデレじゃきー! ヤンデレじやきー! ヤンデレじゃきー! と、あたりにその声は響き渡った。
蓮と藍の口は、ぽかーん、と開く。
となりに立つ望は、へふー、とため息をつきながら、肩をすくめた。
ちずるに近づき、耳元でこしょこしょとささやく。
「えー!」
ちずるの叫びが、やはりあたりに響き渡った。
「こ、これ、違う? 違うの? ヤンデレって、なに、ヤンキーがデレデレするの略じゃなくって、病んだ愛しかたをする行為の総称……?」
「っていうか、ママ」
「ヤンキーって、なんですか?」
そろって首を傾げた蓮と藍に、ちずるの眼は丸くなる。
「ちょ、ちょっと待ってよ、蓮、藍。あなたたち、ヤンキー、知らないの? マジで?」
「いまどき、不良のことをヤンキーとはいわない。ちずる、センス古すぎ」
呆れた口調で望がいうと、蓮と藍は驚きを見せた。
「ええっ!?」
「ヤンキーって、不良の意味だったんですか!?」
ちずるの頬が、ほんのりと色づく。
「う、うるさい! 望、あなただってヤンキーが不良の意味だって、知ってたくせに!」
「ほら、耕太だってちずるのこと、古くさいと思ってる」
と、望がちずるの真下を指さした。
指さして、ん? と首を傾げる。
「古くさいというより……耕太、ちずるくさいと思ってる?」
とたんにちずるは、びきーん、と固まった。
ぎ、ぎ、ぎ、と視線を自分の股下へと落とす。
「あ、あ、あ……」
みるみるうちに、顔だけではなく、首から腕から太ももから、全身、真っ赤に染まっていった。
「いやあああああああああああああああああ!」
絶叫しながら、ちずるはこの場から走り去る。
「ああっ」
「ママーっ!」
蓮と藍が、あとを追って駆けだした。
望は、へふー、とため息をつきながら、こちらはのんびりと歩く。
そして、ちずるたちのやりとりをずっと唖然としたままそばで見守っていた未弥は、望の姿が遠くになって、ようやく、ぶるぶると震えだした。
弾けたように、笑いだす。
「あーっはっはっはっはっはっはっは、あはは、あははは! な、なに、なんなの、これ!? すごい、すごすぎるよ! まさに資料どおりの……いや! 資料以上! さすが、神さま……人智を越えた行動を……あは、あははははは!」
腹を抱えて身をよじり、眼には涙すら浮かべた。
そうして笑い声をあげ続ける未弥の横で、歩道に仰向けになったままの耕太は、風に服をはためかせながら、まったく動くことは、なかった。
ひとひらの雪が、舞い降りてくる。
耕太の頬に落ちて、溶けた。安らかな笑顔を作る、耕太の頬に。
2
〈葛の葉〉の方針により、人知れず薫風高校に通う妖怪たち。
彼らが普段、たまり場としているのが、校舎三階の奥にある、元は視聴覚室として使われていた教室だった。
しかし、いまその教室の黒板には、こう大きく書かれてあった。
『あくあ・うぃたえ大作戦 会議中』
と――。
その黒板の前に、ちずるたちは椅子を持ち寄り、輪になっていた。
「ママ……ママがヤンデレを勘違いしたのはわかりましたが」
「でもどうして、それが『すけぱん刑事』に?」
いまだセーラー服姿のまま、まるで某貞子のように髪を前にたらしてうなだれていたちずるに向かって、蓮と藍が尋ねる。
「そうだよ、ちずる」
望もいった。
「教えたでしょ、ヤンデレをやるなら、このDVD、観ておけって」
「そ、それが……その教えてもらったタイトルを書いたメモ、なくしちゃって……」
ちずるの言葉に、望は、へふー、と息を吐く。
でも! とちずるは髪を振りあげながら身を起こした。
「でもでも、なんとなくは覚えていたのよ! いたんだって! たしかタイトルが、学校に関係するものだったって……だから、学校、学校ってレンタルDVD屋さんのなかを見て回って、そしたら、ジャケットに制服姿の女の子が写っていたから……」
「それが、すけぱん刑事?」
「ああっ!」
ちずるはまたもうなだれる。
「わたし、耕太くんにあんなことを……す、すけぱんなんか穿いて、あんなことを!」
きゃー、と叫んだ。
「し、死ぬ! わたしもう死ぬぅ! 恥ずかしくって恥死するう!」
「でも、やりかたはまちがってなかった……」
望が、ぽつりとつぶやく。
「ふえ?」
自分の首にヨーヨーの鎖を巻きつけながら、ちずるは涙目で望を見た。
「だってちずる、我に返るまでは耕太に触ること、できたでしょ?」
「い、いわれてみれば……」
「ママ、触るどころか、思いっきり押しつぶしてました!」
「あれならパパも天国いきです!」
「いやー、そうかなー」
ちずるは自分の頭に手を当て、えへへ、と照れだす。
「あれ? でも、どうしてさっきは平気だったんだろ?」
「やっぱり、なりきっていたから……」
望の眼が、すっ、と細くなった。
「すけぱん刑事に……」
「すけぱん刑事に……?」
「だったら……」
「だったら……?」
ちずると望、蓮、藍の四人は、見つめあう。
四人どうじに、うなずいた。
そして四人どうじに、教室の後ろ側を向いた。
そこには、「なんであいつら、ここで……」とぶつぶつ文句をいっていた〈かまいたち〉で妖怪たちの番長を務める桐山臣《きりやまおみ》、それをなだめる〈かえるっ子〉の|長ヶ部澪《おさかべみお》、難しい顔でパソコンをいじる元番長の〈妖熊《ようゆう》〉熊田彗星《くまだすいせい》など、本来、この教室をたまり場としていた学校の妖怪一同が、そろっていた。
「うん? なんだ、おまえら……」
★
朝のホームルーム前、生徒たちがあれやこれやとおしゃべりして笑い声をあげるのを、耕太は机に頬をべったりとつけながら、眺めていた。
眺めていたというか、ただぼんやりしていたというか。
なかば閉じかけた眼を、なんとなく向けていただけというか。
「どうしたの? なんか、顔、死んでるんだけど」
となりの席に座るあかねが、心配そうに覗きこんでくる。
「ちょっと……圧死しかけたというか、凍死しかけたというか……」
「へ? 圧死? 凍死?」
「あ、いえ、すみません! なんでもないです!」
耕太はあわてて身体を起こした。
あはははー、と笑う。
んー? とあかねは怪訝《けげん》そうに眼鏡の奥の眼を歪ませていたが、ひたすら笑ってごまかした。
ふう。
まだなにかいいたそうなあかねの視線を真横に感じつつ、耕太は机にべたっとつけていたため、すこし痛む頬を撫でる。
そのとき、声が届いた。
(タイホされちゃったんだよねー、すけぱん刑事に)
びくっ、として振りむくと、遠く、すっかり人気ものになって生徒たちに囲まれる、天然〈魅了〉能力者、三珠未弥の微笑みがあった。
未弥は、耕太に微笑んだのも一瞬、すぐに生徒たちとの交流に戻る。
いまの、テレパシーってやつ?
いや、人知れず、声を遠くの人間に届かせる技とみた。おそらく。
さすがは三珠家の当主、ホント、いろんな芸を持ってるよ……ねえ、たゆらくん、と耕太は前の席に座るたゆらの背中へと視線をやった。
しかしたゆらは、机に突っ伏したまま、振り返ってはくれない。
というか、昨日、職員室で本の山に埋もれたままのたゆらのことをすっかり忘れて放置したため、すねているらしい。朝からいちども耕太のほうを向いてはくれなかった。
ふう。
なんか最近、ため息の量が増えたような……と思いながら、耕太はたゆらの横、あかねの前にある、望の席へと視線をスライドさせる。
望の机は、空のままだった。
きっとまた、なにか企んでるんだろうなあ……へうううううう〜、と耕太は深く深くため息をつき、机にごちん、とおでこをつけた。
ちずるの影に、望の姿があるだろうことはもうすでによくわかっている。
おそらくはいまごろ、あらたなる作戦でも練っているに違いない。
と思ったら、さっそく、きた。
ひょろろろろ〜、ぼひょ〜。
もの哀しげな尺八の音色が、廊下から響く。
なんだなんだとざわめくなか、がたん、と教室のドアが開き、いきなり着物姿の、小柄な少女が姿をあらわした。
「た、たたた、たぁすけてくださぁい〜」
見ると、それは〈かえるっ子〉の半妖、|長ヶ部澪《おわかべみお》だった。
おかっぱ頭が着物によく似あう澪は、あきらかな棒読みで助けを求めると、とてててて、とまっすぐに耕太の元へとやってきて、後ろに隠れた。
「み……澪さん? なにをやってるんですか?」
澪が答える前に、あらてが飛びこんでくる。
「がっはっはっ! 娘を返せー、そこの小山田よ!」
「なんでおれたち、こんなこと……」
「オイオイ、ノリ悪いナー、番長ー?」
ドアを蹴破り入ってきたのは、なぜか全員、時代劇でよく見る浪人の格好をした、元番長の〈妖熊《ようゆう》〉熊田|彗星《すいせい》と、現番長の〈かまいたち〉桐山臣、そして〈ももんが〉の天野だった。
いや、よく見れば、熊田だけは違う。
熊田だけは文化祭のときコスプレカフェで着用していた、朱色の胴に陣羽織《じんばおり》、鉢がねといった、山賊姿であった。気に入っているのだろうか?
山賊姿の熊田、浪人姿の桐山、天野が、刀を抜く。
耕太に向かって構え、じりじりと近づいてきた。
「く、熊田さんたちまで?」
「……なにやってんだ、おまえら?」
耕太だけではなく、机から身を起こしたたゆらも、つっこむ。
そのたゆらの頭に、かぽん、とかつらがかぶせられた。
かぶせたのは、手に尺八を持つ、全身黒ずくめな黒子姿の、蓮と藍だった。
「な、なんだ、コレ? え? ちょんまげ?」
「いいから」
「はやく」
「お、おい、ちょっと待てよ! こ、こら……うお!?」
さらにたゆらは腰に、ベルトを通して刀を差され、制服なのにちょんまげ姿で、強引に桐山の横へと連れてゆかれた。
「なんなんだよ、こりゃあ!」
わめくたゆらに、桐山がじとっと横目で見つめながら、いう。
「おまえ、手伝うの当たり前」
「なんでおれが手伝うのが当たり前なんだよ! 熊田一座の新春公演なら、おまえたちだけでやれ! おれまで巻きこむな!」
「その言葉、おまえに返す。おれたち、巻きこむな」
「あん?」
なんとなく耕太は、これからなにが起こるのか、わかったような気がした。
自然と、眼が遠くを見てしまう。
(こんどはなんだろうね、なんだろうね、耕太!)
なぜか興奮した様子の未弥の声を聞きながら、逆に耕太の心は白く透きとおっていった。
そのとき。
熊田たちに蹴破られて開けっ放しだった教室の出入り口の向こうから、ごろごろと車輪の転がる音が近づいてくる。
熊田と天野が、やたらノリノリな動きで、「ぬうっ!?」と振り返った。
桐山は完全にやる気なく、はー、とため息をひとつこぼした。
たゆらは出入り口の向こうにあらわれた人物を見て、「あ、なるほど」と納得した。
ばーん。
という蓮と藍が口で放った効果音とともに、出入り口の向こうに姿を見せたのは、大きな乳母車――といっても、台車に大きな段ボール箱をくくりつけただけの――を押す、一匹の侍だった。
もちろん、ちずるである。
段ボール製の乳母車のなかにいたのは、望であった。
「おのれ、なにやつ!」
やはりノリノリな熊田が、尋ねる。
ちずるの眼が、くわっ、と開いた。
「子連れ狐!」
「子どもはオオカミー!」
ちずるに続けて、望も叫ぶ。
その後ろで、黒子姿の蓮、藍が、ぼひょひょ、ぼひょ〜、と尺八を吹きまくった。
「うぬぬ……きさまが噂の子連れ狐、拝《おがみ》ちず刀《とう》か!」
しかしこの熊田、本当にノリノリである。
「エーイ、子連れ狐だかキタキツネだか知らネーガ、ジャマすんじゃネー!」
やはりノリノリな天野が、刀を振りかぶった。
「ま、待てい、早まるな!」
おそらくは打ちあわせどおりなのだろう、熊田の制止もまにあわず、天野は斬りかかって――。
撃たれた。
銃声とともに、ぐぎゃー! と悲鳴をあげ、天野は倒れる。
眉間を押さえ、床にごろごろと転がった。
わー……なんてリアルなお芝居なんだろ……。
感心して耕太が見ていると、段ボール箱のなかに入っていた望が、ゆっくりと腕を持ちあげた。
彼女の手に鈍く光るのは、やたらとでかい拳銃だった。
本物なら猛獣だってしとめられそうに映る――っていうか、それって、エアーガンでもシャレにならない威力なんじゃ? どうやら望は段ボールごしに撃ったようだが、撃たれて床を転がった天野は、いまはぐったりして、動かなかった。
お芝居じゃ……ない?
「ちょ、ちょっと待てー!」
たゆらが声を大きくする。
「望、おまっ、それはアウトだろ! 銃は人に向けちゃいけません! まして、撃ったりなんかしちゃダメなんですぅー!」
たゆらの注意に、ちずると望は答えた。
「子連れ狐!」
「子どもはオオカミー!」
「バカだろおまえら!」
にわかに、緊迫感が高まる。
それまであくびすらしていた桐山すらも、頬を引きつらせていた。熊田はすごみのある笑みを浮かべ、たゆらはもう、泣きそうだ。
子連れ狐と浪人たちが、静かに視線をぶつけあう。
なお、拝《おがみ》ちず刀《とう》ことちずるの髪や着物は、寂寥《せきりょう》感をかもしだすためか、始終はためいていた。黒子役の蓮と藍が、横から扇風機の風を当てていたからだ。
聞こえるのは、その扇風機の音だけとなり。
そして。
「うおおおおお!」
「……!」
熊田、桐山、たゆらが刀を振りあげ襲いかかり、ちずるは無言で腰の刀に手を当て、ぐっ、と身体をひねり――。
「このドアホウどもがー!」
突然、怒号が響き渡った。
その殺気に満ちた声とともに、教室におどりこんできたのは八束だった。
八束は、ぱん、ぱん、ぱぱーん、すぱぱーん、と小気味のいい音を立てて、ちずるたちの頭を、蓮と藍もふくめて、竹刀で打つ。
打たれたものたちは、ちずると熊田を除いて、ぐおー、と頭を押さえて屈みこんだ。
がっはっはっ、と平気な顔で笑う熊田を無視して、八束はちずるを睨みつける。
「……わたしになにか用か?」
ちずるはいまだ拝ちず刀のままなのか、打たれてもノーリアクションだった。
「なんで打たれたのか、いちいち説明してやらなくてはわからんのか、源?」
「わたしは源などという名ではない……」
「では、なんだというんだ」
「子連れ狐!」
「子どもはオオカミー!」
「やかましい!」
ぱんぱーん! と八束はちずる、望の頭を竹刀で打つ。
「だから、わたしになんの用なのだ?」
ちずるは眉をひそめながらいった。
「これからわたしは、みごとこの浪人どもを撃退するも、その後、吉原忘八《よしわらぼうはち》に捕まり、逆さづりにされたあげく水をざんぶとかけられ、竹の棒で「ぶーりぶり! ぶーりぶり!」と打たれなくてはならんのだ。そうして息も絶え絶えとなったわたしを、そっと助けにくるのは、そう……吉原の花魁《おいらん》、小山田|太夫《だゆう》……」
げほほっ、と耕太は咳きこむ。
ぼ、ぼく、花魁役!?
(あはははは! すごい! なんて細かな設定なの! 見たい、見たいよ! 小山田太夫が拝ちず刀を助けにゆくところ! そのあとどうなるのか、見たい!)
未弥のはしゃぎきった声を聞きながら、耕太は、はは……と力なく笑った。
ちずるはいったい、耕太のことをどう捉えてくれているのだろーか。
ぼく、男の子なんだけどー。
女の子じゃ、ないんだけどー。女装趣味も、ないんだけどー。
「ぬぬぬぬぬ……」
八束が、うなる。
ぎりぎりと歯を噛みしめ、あたりに野獣めいた気を発散させだした。
怒りの矛先は、桐山たちへも向く。
「だいたいにして、桐山に熊田! おまえたちまでもがこいつらと一緒になってなんだ! なにをやっている!」
「お、おれたち、巻きこまれただけ!」
「ぬはは、めんぼくない」
桐山は怒りもあらわに反論し、熊田は笑って頭をかいた。
「ったく、どいつもこいつも……!」
ぱん、と八束は竹刀で壁を打ち鳴らす。
ちずるたちはまったく平気な顔だったが、まわりの生徒たちは、いっせいにびくついた。
「とにかく、きさまら全員、こっちへこい! 二度とこんなふざけた真似をしないように、たっぷりと指導をくれてやる」
と、八束は竹刀の先で、耕太を指す。
「小山田、なに人ごとのような顔をしている。おまえもだぞ」
「え」
「この騒動の原因は、どうやらおまえにあるようじゃないか……じっくりと話を聞かせてもらおう。なあ、小山田太夫?」
あう。
「待てい!」
耕太と八束のあいだに割って入ったのは、拝ちず刀だった。
「小山田太夫は関係あるまい! 今回の件は、ただ、わたしが耕太くんにアクア・ウィタエ……エ……エ……エボシライン……」
おや? と思う間もなく、ちずるは、ぎ、ぎ、ぎ、と振りむく。
耕太の視線を浴びていると気づいたとたん、ぼんっ、と顔が赤く染まった。
どうやら耕太をかばおうと今回の演技の理由を語りだした過程で、素に戻ってしまったらしい。すっかり拝《おがみ》ちず刀《とう》から源ちずるに返っていた。
「きゅー」
くなんくなんくなん、と、ちずるは揺れながら倒れた。
「ああっ、ちずるさーん!」
耕太はあわてて駆けよる。
(あはははははは! おもしろい! おもしろい!)
未弥はひとり、なんとも楽しそうであった。
3
耕太は、とぼとぼと八束のあとをついてゆく。
もう各教室では朝のホームルームが始まっているらしく、廊下を歩く生徒たちの姿は、連行される耕太たちのほか、だれもいない。そのため、やたら廊下は静かだった。
その静かな廊下に、ごろごろという車輪の音が響く。
例の、ちずる扮する子連れ狐が押していた乳母車――望がのっていた、段ボールつきの台車の動く音だ。
いま、その乳母車には、望ではなくちずるがのっていた。
のっていたというより、運ばれていたというほうが正しいか。
段ボール箱のなか、ちずるはすっかり眼を回していた。侍姿のまま、まるで酔っぱらったかのように真っ赤となって、ふにー、と妙な声を洩らす。
で、台車を押しているのは望だ。
「まさしく子連れ狼になってしまった……」
とかなんとか、ぶつぶつとつぶやく。
八束を先頭に、耕太、ちずる、望、たゆら、蓮、藍、桐山、熊田、天野、そして澪の、総勢十一人でぞろぞろと廊下を進み、やがて、生徒指導室へと到着した。
「入れ」
戸を開けて、八束が入室をうながす。
「入れって……この人数で入れると思ってんのかよ」
たゆらがいった。
たしかに、生徒指導室はさほど広くはない。
六、七人ほどならともかく、十一人も入ったら、まるで満員電車の乗客のごとく、ぎゅうぎゅう詰めとなってしまうだろう。
「心配する、いらない」
桐山が、一歩前にでた。
そのまま、生徒指導室のなか――ではなく、入り口の横に、壁を背にして、立つ。
黙って熊田、天野、澪も続き、生徒指導室のドアの両脇に、あたかも警護するかのように、ずらりと整列した。
「こういうこと、違うか?」
桐山の問いかけに、八束は、ふっ……と小さく笑う。
「ど、どーゆーこったよ?」
「つまり、八束先生はおぬしたちと話がしたかったのだよ。だれかさんには内緒でな」
ぬふっ、と熊田は笑いながらいった。
だれかさん……。
未弥さん?
耕太は、はっ、と八束の顔を見る。
八束は静かに答えた。
「知りたかろう? 三珠未弥……あの三珠四岐の妹が、三珠家の現当主が、なぜわざわざ薫風高校へとやってきたのか」
★
「三珠未弥がこの薫風高校へとやってきた理由なのだが……」
机がひとつ、向かいあわせで椅子がふたつ、窓がひとつ、その窓にはブラインドと、まるで警察署の取調室のような生徒指導室のなか、しっかりとドアに鍵をかけた上で、八束は切りだした。
ごくり、と耕太は息を呑む。
「正直にいおう。おれたちにもよくわからん」
かくん、と耕太たちはこけた。
緊張していたぶん、脱力感もひどかった。
「あ、あのな!」
ひときわ派手にずっこけたたゆらが、床の上で拳を振りあげる。
「事実だ。なにしろ三珠未弥が薫風高校へ転入するという三珠家からの知らせ自体、転入日の前日という唐突さだった。おまけに、なぜ転入するのか、期間はいつまでなのかという問いかけにも現在までいっさい応えてはくれん。だから最初は、〈御方さま〉不在の噂を聞きつけて、ここを廃止させようとしているのかと本気で思ったぐらいだ。財政、厳しい折でもあることだしな」
耕太は、眼をぱちくりとさせる。
「ざ……財政、厳しいんですか?」
「ああ。音楽室を破壊したり、屋上を破壊したり、あげくの果てには校舎丸ごと破壊したりしてくれた、どこかの破壊神のおかげでな。とうに十年分の予算がこの薫風高校にはつぎこまれている。〈葛の葉〉から見ればここは金食い虫もいいところだよ」
八束は吐き捨てるようにいった。
あう。
どこかの破壊神である耕太は、身を縮こまらせる。
「ま、まことにもうしわけなく……」
「最後の、校舎を丸ごと破壊した件だけは冗談だ。あれは三珠四岐および三珠美乃里の反逆行為による結果だと〈葛の葉〉内では決着がついている。すくなくとも三珠家においては、三珠家に属する両者の暴走を止められず、素戔鳴尊《すさのおのみこと》の転生体たる小山田、おまえと、こちらは奇稲田姫《くしなだひめ》であることが確定している源を危険にさらしてしまったということで、責任すら感じている。じつをいえば、三珠未弥が当主となったのも、そのせいだ」
「え? それは、どういうことですか?」
「三珠家の前当主は、責任をとって当主の座を降りた」
「そ、そうだったんですか!?」
耕太は脳裏に、前当主の顔を思い浮かべた。
美乃里との決着がついたあとに、前当主、三珠四岐の父親だという人とは顔をあわせた。
四岐と美乃里の企みによって、ずっと昏睡状態に陥っていたというその人物は、雪花の活躍によって助けだされ、戦いの場であった薫風高校跡地へとやってきたのだった。
そういえば、あの人の眼も、細かった……。
三珠家の遺伝なのだろうか……?
「それを口実に、あやうくおれの父親まで降りるところだったがな……ムリヤリとどめた」
苦々しく、八束はいった。
「あ、そういえば、当主代理……でしたっけ、ご就任、おめでとうございます」
耕太はぺこりと頭をさげる。
「ちっともめでたくなんかあるか! というかな、小山田。きさま、当主というものがどんな立場なのか、ちゃんと理解しているのか?」
「え、あー……会社の部長さん、とか……」
「もっと責任は重い。会社なら多少上司がミスしたところでそうそう部下が死んだりはせんが、こっちは死ぬからな。わかるか? どれだけおれがうんざりしているか」
「八束先生なら、だいじょうぶ、できますよ」
と、耕太は無責任にいってみたが、八束は虚をつかれたようだった。
一瞬だけ素になるも、すぐさま、ふん! と鼻で盛大に笑う。
あれ、照れた? 照れました?
「これもなにかの機会だ。〈葛の葉〉というものがどういった組織なのか、おまえたちに説明しておくとしようか……」
★
「まず〈葛の葉〉とは、なにを目的として作られた組織なのか。表向きは、妖怪退治がおもな目的の、いわゆる退魔の組織だ。実際は、すでにおまえたちも知ってのとおり、素戔鳴尊の転生体を探すため、奇稲田姫によって作られた組織である」
こくこく、と耕太はうなずく。
まるで授業を受けているかのように、耕太たちは壁にかけられたホワイトボードの前に立つ八束を中心として、床に体育座りをしていた。
「で、その〈葛の葉〉を構成するのが、八つの家だ。これを〈葛の葉〉八家と呼ぶ」
八束が、ホワイトボードに、きゅっ、きゅっ、とペンを走らせてゆく。
三珠家、砂原家、八束家、七々尾家、多々良谷家、土門家、九院《くいん》家、悪良《あくら》家、と各家の名称を記した。
「この八家の力は、決して均等ではない。あくまで、表向きは平等ということになってはいるがな……で、もっとも力を持つのが、この三珠家だ。三珠未弥が当主を務める、な」
とんとん、と八束は三珠家の名をペン先でつっつく。
「実質、〈葛の葉〉はこの三珠家が率いているといっていい。なぜそれだけの力を持つのかといえば、端的には所属する人数の多さがある。三珠家に属する構成員の数は、〈葛の葉〉全体のおよそ半数を占める。戦闘人員だけではなく、経理だの事務だの、非戦闘員もふくめての数だがな」
へー、と感心したような声を、耕太だけではなく蓮と藍までもが洩らした。
「知らなかったな……」
「勉強になるな……」
と、こそこそ会話を交わすのが聞こえた。
「三珠家が〈葛の葉〉を率いるのならば、ではほかの七家はなんなのかというと、いわば専門職だ。おれが属する八束家や、そこの蓮、藍が属する七々尾家は、戦闘に特化している。多々良谷家は武具や法具の製造や、あとはまあ、ほら、ここを建て直したように、裏方的仕事ならなんでもやる。土門家は法術を専門とし、九院家は妖怪を集めた家で、悪良家は諜報がその任だ。おれは、こうして三珠家が組織の方向性を決め、他の家は従うというのはそれほど悪くないやりかただと思っている。船頭多くして、船、山に登るともいうからな……だから」
「はい! センセー!」
たゆらが手をあげた。
「なんだ、源弟」
八束がペンの先で指す。
「砂原の幾ちゃん率いる砂原家は、どんな役割を持ってんだよ? 近ごろは引きこもってるとはいえ、幾ちゃんのなかの〈御方さま〉は、なんかやたら偉そうだったじゃん?」
「偉そうではなく、〈御方さま〉は偉いんだ。阿呆」
ふー、と八束は息を吐いた。
「〈御方さま〉は……おそらく小山田や源から聞いているだろうと思うから話すが、〈葛の葉〉を作られた創設者である。ゆえに、〈葛の葉〉が道を外さぬよう、指導する立場にあるのだ。知ってのとおり、〈葛の葉〉は強大な力を持つ。その気になれば、絶大な権力を手に入れることすらできるだろう。それが暴走せぬよう……」
「暴走したじゃねーか、ついこのあいだよ」
「た、たゆらくんっ」
けっ、とたゆらは吐き捨てる。
「その件については、直接〈御方さま〉に訊け。おれは答える言葉を持たん」
「訊きたくっても表にでてきやしねーじゃねーか! ったく、オトナってのはよ、すーぐこれだ! 都合が悪くなるとごまかしやがる!」
「小山田」
ぎゃーぎゃーと騒ぐたゆらを無視して、八束は耕太を見つめた。
「ここで、三珠未弥についておれの知るかぎりのことを、おまえに話しておこうと思う」
「知るかぎりのこと……ですか?」
「ああ。とはいえ、ほとんどなにもわかってはおらんのだがな。三珠四岐が三珠家の次期当主候補であったころ……つまり、つい先ごろまで、三珠未弥の名はまったく無名だった。三珠家内部での評価はともかく、すくなくとも外にまでは洩れ聞こえてはこなかった」
耕太は、蓮と藍もおなじことをいっていたと、思いだす。
「それが、前当主である父親の跡を継ぎ、当主の座についたとたん、いままでの無名ぶりが嘘だったかのように能力を発揮し始めた。手始めにおこなったのが、大小、さまざまな改革の断行だ。とくに、肥大化しつつあった〈葛の葉〉の、各部門の整理、併合、縮小など、組織のスリム化あたりは、部外者であるおまえにいってもわからんとは思うが、尋常な能力でできることではない」
たしかによくはわからなかったが、未弥がすごいのだということだけは伝わってきた。
「それだけに、疑問が残る。なぜあれほどの能力を持ちながら、三珠四岐が健在だったときは無名だったのか? どう思う、小山田」
「あえて、力を隠していた……ですか?」
天然〈魅了〉体質や、人知れず会話をする術など、これまで未弥が見せた力を思い浮かべながら、耕太はいった。
「そう考えるのが自然だろうな。なぜなのかはわからんが……な」
「あの、四岐さんと未弥さん、兄妹の仲は、どうだったんでしょうか」
耕太は、ぽつりと尋ねた。
「うん? さあて……なにしろ無名の存在だったのでな。調べるか?」
「いえ」
耕太は首を横に振る。
「本人に、直接訊いてみます」
「そうか……気をつけろよ、小山田。いまのところ、おれにはそうとしかいえん」
「先生……」
「さて、これでだいたい話は終わったわけだが……おまえたちはさっきからいったい、なにをやっている?」
八束の視線は、耕太の真横へと向けられた。
耕太の横、ちょうど部屋の出入り口の前には、例の段ボール箱製乳母車が、狭い生徒指導室のなかへ強引に入れられて、でん、と置いてあった。
その乳母車の正面には、望がいる。
望は段ボール箱のなかを覗《のぞ》きこんで、なにごとかひしょひしょと話しあっていた。
なにか、マシマシ……という単語が聞こえたような気がするのは、耕太の勘違いか。
マシマシ? なにがマシマシ?
「おい、聞いているのか、おまえら? というより、聞いていたのか、いままでの話を? かなり重要なことだったと思うのだが?」
八束の問いかけに、段ボール箱のなかから、だるそうな声が返ってくる。
「うっさいなあ……」
返したのは、段ボール箱のなかに隠れた、ちずるだった。
とりあえずいまのところ、ちずるは耕太の姿を見さえしなければ、正気を保つことができるようだ。そのため、ずっと段ボール箱のなかに身を縮め、望と、おそらくはこれからの作戦会議をおこなっていた。
「重要さならこっちだって負けてないもん! いかにしておのれに勝つか、アクア・ウィタエを愛のお盆に注ぐか、もう大変なんだから! さっき、せっかくの子連れ狐をだれかさんに台無しにされたおかげで、またあたらしいのを考えなくちゃならなくて……あー、もう、邪魔すんな! このプチ黒目!」
「きさま……心配ではないのか? 未知数の能力を持った相手が、源、おまえや、小山田を狙っているのかもしれんのだぞ?」
「だから、耕太くんをとられないように作戦を練ってるんじゃない!」
「そっちではなく。狙っているのが命だったら、どうするつもりだ」
「べつに? だれが相手でも、耕太くんが負けるわけないでしょ……」
ちずるは、望との作戦会議へと戻る。
やっぱりマシマシ?
うん、マシマシ。
謎の単語のやりとりが続く。
「三種の神器のレプリカを持たねば、小山田はただの人間と変わらんのだぞ……?」
と、八束は自分のおでこに、ぴしゃりと手を当てた。
耕太はもう、笑うしかなかった。
本当、笑うしかなかった。
★
その後、授業中ではあったが、耕太たちは自分の教室へと戻った。
耕太は教室の後ろのドアから、そっと自分の席へと戻る。たゆらはかなり堂々と、あくびをしながら戻って、あかねにぴしゃりと叩かれた。
そして望は、作戦会議が残っているとやらで、戻ってはこなかった。
(どうだった、耕太?)
耕太が席につくなり、未弥の声が届く。
例の、人知れず話す会話法だった。
(話してたんでしょ、わたしのこと)
見ぬかれてるし。
くすくす……。
ご丁寧にも、未弥は笑い声まで耕太の耳元へと届けてくれた。
未弥の笑い声を聞きながら、なるほど、これは手強いや、と耕太は思う。
続けて、からっぽなままだった望の席も見て、こっちはこっちで、やっぱり手強い……んだろうなあ、と静かにヘコむ。
はあ。
4
意に反して、ちずるたちの襲撃は午前中にはなかった。
ずっと妙な緊張感に包まれながら授業を受けていた耕太は、なんだか気のぬけた思いで、お昼休みの始まりを告げるチャイムの音色を聴く。
しばらくそのままぼんやりしていたが、気をとりなおして、席を立った。
いつもならお弁当を作ってくれるちずるが例のとおりなので、自分で昼食を用意しなくてはならなかったからだ。まったく、昨日の夕食といい、本当、ぼくはちずるさんに頼りきって生きてきたんだなあ……としみじみしながら、教室のドアに向かって歩く。
と、そのドアが、いきおいよく開いた。
「へらっしゃー!」
やたらと景気よくあらわれたのは、頭にバンダナを巻き、上半身は黒いティーシャツ、腰には白いエプロンをつけた、まるでラーメン屋の店員といった格好の、望だった。望の両サイドには同様にラーメン屋さんの格好をした蓮と藍の姿もあり、「へらっしゃー!」
「へらっしゃー!」とハモる。どうやら「へい、らっしゃい」と叫んでいるらしい。
とうとう、きたか。
ラーメン屋さんの店員の姿をした三人を前に、耕太は身を強ばらせるしかない。
(ようやく始まったねー!)
未弥の喜びに満ちた声を背に、耕太の身体は運ばれた。
「わー!」
耕太を運ぶのは、あの子連れ狐のとき使用していた段ボール製乳母車だった。三人の店員にがむしゃらに押され、廊下をまさしく、滑るがごとく走る走る。生徒は轢《ひ》きかける。階段はそのまま跳ねながらくだる。あうっ、あうっ、あうっ。
あっというまに、調理実習室へと到着した。
「へらっしゃー!」
「うわっ!」
望にのっていた乳母車を傾けられ、耕太は蓮と藍が素早く開けたドアのなかへと転がりこむ。
「うう……」
なんかもう耕太が泣きそうになりながら頭をあげると、目の前に、巨大な寸胴があった。
あの、ラーメンのスープを煮たりする、寸胴だ。
本当に大きい。ひとひとり、後ろに隠れられるほどだ。寸胴は床に広げた新聞紙の上に直接置いてあったが、きちんと温めてあるらしく、その口からは湯気があがっている。
寸胴の上には、のれんがあった。
「や……?」
ラーメン、ちずる。
天井から紐で吊されてあったのれんには、そう書かれてある。
なるほど、ということは、ラーメンを食べさせてもらえるのかな? もしかして午前中いっぱい、スープのしこみをしていたとか? ちずるさん、どんどん料理がうまくなってるもんなあ。きっとこのスープも……。ああ、たまらなくなってきた……じゅるり。
「て、店員さん、ラーメン一丁、お願いします!」
振りむき、背後に控えていた望たちに、耕太は注文を発した。
しかし望、蓮、藍は、ちっ、ちっ、ちっ、と指先をワイパーのように動かす。
「お客さん……ラーメンちずるは、ラーメンじゃないんだよ」
「へ?」
「ラーメンちずるは……ちずるという名の食べ物なんだよ!」
「おっぱいマシマシアブラカラメー!」
そう叫びながら大きな寸胴のなかから飛びだしてきたのは、その食べ物だった。
下にタオルを巻いただけの、ちずるである。
ちずるは、耕太に抱きつき、そのぬらんぬらんとした剥きだしのふくらみを押しつけてくる。熱い。そしてたしかにマシマシだった。体温が熱いからだろうか。熱膨張だろうか。まちがいなく大きくなっている。ふくらみを覆うぬらぬらは、どうやら汗らしい。
なるほど、アブラカラメ……。
まさしくこいつはちずるのアブラカラメー!
どうやらちずるは、寸胴のなか、おそらくは自分で狐火を使ってサウナ状態にしたのだろう、ひたすら汗をかきまくっていたらしい。ぬらつくほどの粘度を持った汗は、ゆえにちずるの匂いが芳醇すぎて、あっ、あっ、あっ、ひさしぶりだから、あふん。
びくん、びくん、びくん。
耕太は身体を震わした。
「あ、あれ? お客さん? お客さん!?」
遠のく意識のなか、ちずるという名の食べ物が耕太を揺すった、ような気が、した。
「やはり、初心者におっぱいマシマシはハードルが高かったか……チズリアンでなくては」
うんうん、とうなずきながら望がそういった、ような気も、した。
チズリアンか――。
食べ物なら、食べなきゃ失礼だよね。
かぷん、と耕太はかぶりつく。
「や、やあ!? お、お客さん……お客さんっ!!」
なんだかかぶりついた相手も、びくん、びくん、びくん、と震えたような気がしたが、きっと気のせいだろう。食べ物なんだし。
ちずるは、多少塩っ気が強かったけど、美味しかった、です。ぺろぺろ。
「お客さああああああああんっ!」
★
耕太は、蛇口を大きくひねった。
水飲み場にいきおいよく流れた水流に、頭をつっこむ。
「あー!」
ぼくってやつはー!
ぼくってやつはー!
ぼくってやつはー!
あのあと、耕太はひとり、調理実習室で目覚めた。
まわりにはちずるも望も蓮と藍も寸胴ものれんもなく、まるですべては夢だったかのようにも思えたが、しかし、色濃く移ったちずるの残り香と、そしてやけにひんやりとした一部分の感触が、耕太にあれは現実だったのだとはっきり教えてくれていた。
「ううううう」
もう、泣いちゃう。
いくらずっとおあずけされていたからって。
頭を流れる冬の水は、もう身が切れそうなほどに冷たかったが、その厳しさがいまはかえってありがたかった。
「ぼ……ぼくは……学校で、あんな……」
さんざん自分をいじめたあとも、耕太はぼたぼたと頭から水を垂らしたまま、動かない。
くっ……と歯を食いしばった。
「風邪ひくよー?」
「ういあ!?」
あまりにも予想外の状況に、耕太は飛び退く。
だらだらと視界を前髪からの水が流れるなか、微笑んでいたのは、未弥だった。
「い、いつのまに……」
「ほらほら、風邪ひくってば。拭きなよ。はい」
未弥はタオルを放ってくる。
顔に当たったタオルを耕太は受けとり、呆然と未弥を見つめながら、頭をぐしぐしぐし、とこすった。
「ど、どうも」
「どういたしまして」
未弥が、にっこりと微笑む。
あいかわらずの、糸のような目つきでの笑顔だった。
耕太は黙って自分の顔、そしてびしょ濡れとなった首筋のあたりを拭いていたが、ふと、あることに気づいて、タオルを見つめた。
どうしてぼくにタオルがいるって、わかったんだろ?
もし未弥が、仮に耕太がチズリアン状態だったと知っていたとしても。
そのあと、耕太が罪悪感からいてもたってもいられなくなって、水飲み場に駆けだし、頭から蛇口の水につっこむことまではわからないはずだ。
というか、そもそも、どこからこのタオルは持ってきたんだ?
「あの……このタオル……」
「うん? ああ、心配しないでよ。わたしのだから」
「未弥さんの?」
「うん。なんとなく、必要になるって思ったから」
「そ、それって、どういう」
「耕太たちは楽しそうだよねー」
はぐらかすように、未弥は身体の向きを変えた。
耕太には真横を向くかたちで、水飲み場に軽く腰をかけるようにする。
「楽しそう?」
「うん。まるで、毎日がお祭りみたいじゃない?」
「い、いつもこんな大騒ぎしているわけじゃないよ。今回はたまたま、ちずるさんの様子がおかしくって……」
「へえ? おかしいんだ? どうして?」
「ど、どうしてって……」
「妙にちずるが恥ずかしがってるのはわかるけど。どうして?」
耕太は口ごもる。
ちずるさんがおかしくなった原因、きみはよーく知ってるんじゃないのォ?
とは、さすがに口にだせなかったからだ。
すこし考え、こう切りだす。
「ぼくはいま、とても幸せだよ」
突然の耕太の言葉に、未弥の細められていた眼が、わずかに開いた。
「ちずるさんがそばにいてくれる、ただそれだけで、ぼくはとても幸せなんだ。そのことが、どれほど素晴らしいことなのか……いちど失いかけたいま、なおさらよくわかる。だから、なんでもないことが、とても幸せだと感じられるんだ」
だけど、と続ける。
「ぼくの幸せの影で、不幸せになっている人たちがいるのも……知ってる」
ふふ、と未弥は笑いだした。
「なるほど、耕太がなにをいいたいのかわかったよ。つまり、耕太の幸せの影で不幸せになっているものたち……つまり、耕太に倒されたわたしの兄上の仇を、わたしが討とうとして、それで、ちずるになにかしたと思ってるんだ?」
「あ、いや、その」
未弥にはっきりといわれて、逆に耕太のほうがおどおどしてしまった。
だ、ダメだ。しっかりしないと!
「ど……どうなのかな!? 未弥さん、あなたのしわざなのかな!?」
なるべく真剣な顔を作って、耕太は詰め寄ってみる。
「わたしは――」
と、未弥がなにかを語りかけ、耕太はさらに身をのりだした、瞬間。
「あーれー!」
耕太の背後のガラスを突き破って、なにものかが悲鳴とともに廊下へと飛びこんできた。
もちろん耕太は驚く。
が、驚きとどうじに、なんだかイヤ〜感じにも襲われる。
その『なにものか』の声に、あまりにも聞き覚えがあったからだ。
「あ、ああ……勇者さま……」
耕太の眼は丸くなる。
予想どおり、振り返った先には、ちずるという名の食べ物――ではなく、ちずるがいた。
みごとに予想どおりだったわけだが、ならばなぜ、耕太の眼は丸くなったのか?
ドレス姿のちずるが、触手に襲われていたからだ。
なにやらぬめぬめした液体に包まれた金色の触手が、頭にはティアラ、身体にはドレスを身につけたちずるに絡みつき、ぐねぐね、うねうねと動きまくる。
「あ、ああっ、お逃げください、勇者さまっ」
うるんだ眼のちずるが、耕太に気づき、そう叫んだ。
どうやら今回の役は、ちずるがモンスターに襲われるお姫さま、耕太がそれを助ける勇者、といったところらしい。
しかし窓の外から伸びる金色の触手の動きときたら、じつに遠慮がない。
ちずるが身体にまとったドレスを無惨に引きちぎり、なかの下着を覗かせる。その下着は、お姫さまという役柄にあわせたのか、上下とも純白の、細かな飾りの入ったレース仕立てのもので、腰から足にかけてはやはり純白のガーターベルトが伸び、白いストッキングを引っぱりあげていた。
金色の触手ったら、その下着のなかにまで、まあ入りこむったら。
ぬめんぬめん、じゅしょんじゅしょん、ぐちゅっ、ぐちゅっ。
「や、やあん、あ、あはっ、ゆ、勇者さまっ、んんっ、んんんっ!」
はっ。
気がついたら、じっと観賞してしまっていた。
耕太はいつのまにか口元を汚していたよだれを拭い、ちずるに向かって駆けだす。
「ま、待てー! 姫を放せー!」
ちずるの身体に絡みつく触手につかみかかり、そして、耕太も捕らえられた。
あれ?
「わー!?」
触手に絡めとられ、ちずるもろとも耕太は宙に浮く。
そして、やはりここでも触手の動きに遠慮はなかった。
「や、やや、ちょっと、ま、待って……わー、やめてとめてー! たすけてー!」
じゅるるんじゅるるん、とぬめりながら耕太の制服のなかに入りこみ、こちらはちずるのドレスに対する動きとは違い、妙に丁寧に剥ぎとってゆく。
「そ、それだけは! それだけはー!」
下着を脱がせようとする触手と、引っぱりあいになった。
生々しい声をあげるちずる姫と抱きあうかたちで、耕太は自分の下着を必死になって引っぱりあげながら、ふと、窓の外、触手の伸びてくる先を見る。
「あ」
触手の伸びてくる先には、こちらに背を向ける、金髪の女性の姿があった。
女性は紅い着物姿で、その豊かで脂ののった、なんというか、大トロというか松阪牛というか、そんな言葉がしっくりくる感じのお尻の付け根、尾てい骨のあたりから、こちらへと触手を伸ばしてきていて……って、それって、まさか!
うふん?
と、着物姿の女性が振りむき、ウィンクした。
「や、やっぱりぃ!」
女性は、ちずるの母、玉藻であった。
伝説の妖怪、白面金毛《はくめんこんもう》九尾の狐である玉藻は、その九つのしっぽを触手に変えて、いま耕太とちずるを絡めとっていたのだった。
よくよく見れば、玉藻の両脇には望、蓮、藍の姿もある。
たしかに、窓の外は校舎裏で、あまり生徒の目にはつかないとはいえ。
まさか、あくあ・うぃたえとやらに玉藻さんまで動員するなんて!
「ゆ、勇者さま……」
「ほえ?」
気がつくと、耕太の顔の真横で、ちずるは上気した顔で声を震わしていた。
うるみきって揺れる瞳で、まっすぐに耕太を見つめてくる。
「あえ?」
いつのまにやら、耕太は生まれたままの姿となっていた。
そして、やはりいつのまにやら、さっきあれだけちずるという名の食べ物を喰らったばかりなのにもうすっかりおかわりおかわり! 状態となっていた耕太のローレシアが、ちずると抱きあうかたちだったために彼女の太ももと太もものあいだに挟まれ、すっかり姫のサマルトリアなムーンブルクとパーティー結成、あっというまにはかぶさの剣となる。
かいしんのいちげき!
こうたとちずるはおたがいをたおした!
5
「おらー! しゃきしゃき走れー!」
ジャージ姿の乱が、校庭にて生徒たちに向かって声を飛ばす。
彼女の手には、金棒があった。
まさしく鬼が持つような、トゲトゲもじつに痛々しい、長く太い金棒である。
その金棒をまるで杖のようにして構え持つ乱を前に、生徒たちは息も絶え絶えとなりながら、それでも足を休めず、楕円形のグラウンドをへろへろと走っていた。
たいへんだなあ……。
と、耕太は、ガラスごしに彼らの様子をぼんやりと眺めながら、思った。
ふう、と息をひとつ、吐く。
ベッドのなか、ごろりと仰向けになった。
白い天井を見あげて、はあ、とまたひとつ、息を吐く。
「お疲れのようですね」
耕太は、声のかかってきたほうを見た。
机にて、なにか書きものをしていた白衣の女性が、その手を止め、振りむく。
学校の養護教諭である雪野花代こと、〈雪女〉の雪花が、軽く椅子をきしませながら、かけていた眼鏡を外し、耕太に向かって微笑みかけてきた。
「またちずるさまがなにか始められたとはうかがっておりますが……」
雪花は、玉藻に仕える〈雪女〉忍軍の、その頭を務めるほどの忍びだった。
となれば、ついさっき玉藻がくわわった騒動もふくめて、すべて知らないはずがない。
だから耕太はいった。
「雪野先生なら……ご存じなんじゃないんですか? ぜんぶ」
雪花が、くすくすと笑う。
「いえいえ、わからないことばかりですよ。まだまだ未熟者、修行が足りません。たとえば……そうですね、耕太どの、ひとつ教えてはいただけませんか?」
「え? ちずるさんのことでしたら、ぼくもよくは」
「いえ、ちずるさまのことではなく。耕太どの、あなたについてです」
「ぼ、ぼくですか?」
思わず耕太は身を起こした。
かけてあったシーツが落ち、さきほどの触手プレイでぐちゃぐちゃになった制服の代わりに着ていたジャージがあらわとなる。
「ええ。耕太どのは、いったいどう処理されてます?」
「しょ、処理?」
「はい、処理です」
「処理って……なんのですか? ゴミの? あ、もしかして、毛、ですか?」
「違います。よもやお忘れにはなっていないと思いますが、耕太どの、あなたは一日に数度『気』を解放せねば、暴走してあふれだしてしまうという難儀な体質。おまけにあふれだした耕太どのの気は、男は退け、女は激烈に惹きつけるという魔性のフェロモンと化すという二重苦。かくゆうこのわたくしも、その毒牙にかかり、無様な真似を……」
「そ、その節は、とんだご迷惑を」
「いえ。わたしはただ疑問なのです。わたくしが知るかぎり、耕太どの、あなたはちずるさまはもちろんのこと、望どのとすらも長いあいだ触れあっていないはず。完全なるロンリー・チャップリン状態……となれば、とっくに気は暴走していてもおかしくないはず」
「あ、それは、その」
「なんでしたら……」
雪花が、ゆらりと椅子から立ちあがった。
「わたくしがお手伝いを……」
「ひ、ひとりでだいじょうぶですぅううぅう!」
耕太はベッドから飛び起き、大きく弧を描いて雪花を避けながら保健室のドアまでたどりついて、すぐさま廊下に飛びだす。
「し、しし、失礼しまっした!」
ぴしゃり、とドアを閉めた。
★
「なーんて、冗談、冗談……だったんですが」
ぴしゃり、と閉められたドアを見つめながら、雪花は、ほう、とため息をつく。
「あら、冗談には聞こえなかったわよ〜?」
いつのまに、いったいどこからあらわれたものか、さきほどまで雪花が座っていた机の椅子に、なんと玉藻が腰かけていた。背中をざわめく九つのしっぽのひとつで、器用に雪花が使っていたペンを回す。
「それこそご冗談はおやめください。まさか玉藻さまの前で、そのような真似を」
「つまり、わたしがいなかったら、してたってこと?」
「玉藻さま……」
と、そのとき、保健室のドアがノックもなく開いた。
「おーい、耕太ー? 死んでっかー?」
あらわれたのは、たゆらだった。
机に座る玉藻を見て、飛びあがる。
「おお!? な、なに、玉藻さん、なにやってんの、こんなとこで!?」
「ふふっ、触手プレイをちょっとね」
「しょ、触手?」
「そういうたゆらさんは、ノックもせずにどうしたのかしら? ああ、耕太さんが保健室に運ばれたのを聞きつけて、もう心配で矢も楯もたまらなくなって駆けつけてきたのね?」
「そ、そんなんじゃねーって!」
「たゆらさんて、ツンデレ?」
「たゆらさまは、ツンデレです」
玉藻のしっぽでたゆらを指さしての問いに、雪花は間髪入れず答えた。
「あ、あのね、玉藻さんに雪花さん? なにか勘違いしてるようだけど、おれはべつに」
「あら?」
突然、玉藻がたゆらの身体を、上から下までしげしげと見つめだした。
「あらあら、あら〜? けっこう鍛えたのね〜?」
「わ、わかる? いやあ……」
照れて頭をかきだすたゆらに向かって、玉藻は立ちあがって近づき、その両肩に手を置く。やさしく微笑みかけた。
「たゆらさん……いまのあなたに足りないのは、あと、覚悟だけよ」
「へ?」
「さ、ここに耕太さんはいないわよ。いったいった」
両肩に置いた手を使ってくるりと背を向かせ、そのお尻をぺちんと叩く。
「へ、へーい」
まさに狐につままれたような顔となって、たゆらは廊下へとだされていった。
たゆらを保健室から追いだして、玉藻はにこやかに振り返る。
「さて……じゃ、聞きましょうか? 雪花さんの、ご報告」
★
「ああ……つ、疲れた……」
ようやく耕太は、学校の寮にある自室へと帰りついた。
さすがに今日は、精神的にも肉体的にも疲れ切った。とりあえず寝よう……と靴を乱雑に脱ぎ、部屋に入ったところで、しかし耕太は立ちつくす。
なぜか、部屋のなかにふとんが敷いてあったからだ。
そのふとんが、なぜかひとひとりぶん、ふくらんでいたからだ。
今朝、まちがいなく耕太はふとんを押し入れに片づけたはずなのに。いや、そもそも、どうしてふとんが人のかたちにふくらんでいるというのか。
「まあ、理由はひとつなんだけどね……」
このまま黙って立っていたってしかたがない。
まさか逃げるわけにもいかないんだから、となれば、進むしかないのだ。意を決して、耕太は歩を進め、ふとんをめくってみた。
やはりなかにいたのは、ちずるだった。
その姿は薫風高校の制服であるブレザーで、髪型などにおかしなところも見受けられない。つまり、普通だった。普通のちずるだった。普通のちずるが、妙に恥じらった様子で、ふとんのなかに隠れていた。
「えっと、ち、ちずる……さん?」
恥ずかしそうなちずるに、耕太は呼びかけてみる。
が、返事はない。
ん?
「ちずるさーん。ちずちずー。ちーちゃーん。おーい、やっほー」
いくら呼びかけても、ちずるから反応はなかった。
というか、まばたきすらしないっていうのはどうなんだろう? 表情こそ恥じらってはいるものの、まるで凍りついてしまったかのように、微動だにすらしないなんて……。
おや?
なにか、ちずるの服の肩口のあたりに、小さな、タグのような布がくっついている。
つまんで、読みあげてみた。
「源ちずる、抱きまくらカバー……?」
と、ちずるが突然動きだす。
ごろんと、背中を向けた。
とたんにちずるは姿勢を変え、いわゆる腰を突きだした格好となった。スカートを大きくまくりあげ、ぱんつまですこし自分でずりさげる。
「お……表と裏で、姿勢が違う!? 2ウェイ仕様!?」
耕太の頭の中は、なんだかぐるぐるとしてきた。
うううう、と唇を噛みしめ、ちずるの身体を揺する。
「ちずるさああん、普通にしましょうよう」
ぐらぐらとちずるの身体は揺れた。
こてん、と倒れる。
すぐさまちずるの姿勢は表向きの、恥じらったバージョンへと戻った。
「…………………………………………………………………………そうですか」
耕太は正座してうなだれながらぽつりとつぶやき、そして、きっ、と顔をあげた。
「わかりました! 抱きまくらだというなら! そう扱いますよ!」
耕太は服を脱ぐ。
パジャマ代わりのジャージ姿になって、ちずるが恥じらった状態で抱きまくらってるふとんに、入った。
で、寝た。
抱きしめながら、寝た。だって抱きまくらだから。すぴー。
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四、愛の賛歌
1
「なにか……なにかまちがってる、そんな気がする! すっごく!」
と、ちずるが、親指の爪をがしがしと囓《かじ》りながら、つぶやく。
しかし、ちずるとともにこたつのなか、それぞれ向かいあって座る望、蓮、藍の三人からは、なんら反応はなかった。
望は、こたつ中央にざるに入れられて置かれたみかんの山を平らげるので忙しい。
蓮と藍は、真っ白な毛なみの子猫と遊ぶので、これまた忙しい。
前に川べりでちずるたちと出会った子猫は、すっかり綺麗《きれい》になって、いまは蓮と藍が揺らすねこじゃらし型のおもちゃを追いかけるのに、もう夢中だった。
「そうよ、そうだ……ああ、なんでいままで気がつかなかったんだろ?」
なおもちずるはひとり、つぶやく。
ちずるとたゆらが姉弟そろって住むマンションの一室、居間と台所とがひとつになったリビングダイニングに、どこからか持ちこまれたホワイトボードの、『小山田耕太 対策会議』の文字が、なんとも空しかった。
「だってそうじゃない? たとえ仮にすけぱん刑事とか子連れ狐とかラーメンとか触手ぬるぬるお姫さまとか抱きまくらになって耕太くんと愛しあえたとしても、それってわたしじゃないもん! 源ちずるじゃないんだもん! あくまでもわたし自身として、源ちずるとして耕太くんと愛しあえなきゃ、意味がない……って、聞いてるのか、そこぉ!」
ずびしっ、とちずるが指さす。
「ふぁほ?」
指さされた望は、口にみかんをくわえたまま、返事をした。
「ふぁほ? じゃない、ふぁほ? じゃ! だから、すけぱん刑事とか子連れ狐とかラーメンとか触手ぬるぬるお姫さまとか抱きまくらになって耕太くんと愛しあえても、まったくもって、ぜんっぜん意味がないでしょっていってんの! っていうか、抱きまくらやるのすっごいタイヘンだったんだから! まばたきすらできないし! 耕太くん本気で寝ちゃうし! あわてて逃げ帰ってきたんだから!」
「すけぱんは、ちずるが勝手に……」
「うるさいうるさいうるさーい! いいから質問に可及的速やかに答えろー!」
ぺしぺしぺしぺし、とちずるはこたつの天板を叩きながら、怒鳴った。
「んー」
望は首を傾げつつ、あらたなみかんへと手を伸ばす。
「まあ、そのとおり?」
「まんごすちーん!」
あんぽんたん、といいたかったのだろうか、ちずるは果物の女王の名を叫び、望目がけて横にあったクッションを投げつける。ひょいっと望は避け、クッションは背後にあったドアに当たって、すとん、と床に落ちた。
「そのとおりって、つまり意味がないってこと!? だったらどうしてやらせた! くら!」
「だってー、わたしはべつにー、耕太とちずるがリアルふたりえっちさえすればー、それでいいしー」
ちずるに胸ぐらをつかまれ、がくんがくんと揺すられながら、望は答えた。
「あ、なるほどー。とにかく耕太くんとわたしにえっちさえさせれば、あとはもうアイジンとしての義理も果たしたし、ガマンせずに耕太くんとアイジンえっちできると。そっかそっかー、そうだったんだー」
「うん。まさかアイジンが恋人より先にえっち、できないし」
にこやかにちずるは尋ね、望はうなずく。
瞬間、ちずるの頭は、まさに怒髪《どはつ》、天をついた。
「きーさーまー!」
ぶわりと巻きあがった黒髪が、またたくまに金色へと色づいてゆく。どうじに、頭からは狐の耳が、腰からはしっぽが生え、そして怒りに燃える瞳は黄金の光を放った。
激怒のあまり化け狐と化したちずるは、そのまま、望に飛びかかる。
「きさまを信じたわたしがバカだったわー!」
「ふっ、ちずるよ。きみはいい友人であったが、きみのコイビトがいけないのだよ」
「望!? 謀《はか》ったな、望!」
そんなやりとりをしながら組みあうふたりを、蓮と藍、そして子猫の二人と一匹は、がくがくと震えながら見つめるのだった。
そこに、空気を読まずにひとりの男が、ドアを開けて入ってくる。
「あー、いいお湯だった」
濡れた髪をオールバックに撫でつけ、上半身は肩にタオルをかけただけの裸、下半身はスエットのパンツ姿という、まさしく風呂あがりといった格好のたゆらは、目の前に落ちていたクッション――さきほどちずるが望目がけて投げたもの――を拾いあげると、ぽん、と蓮と藍に向かって放った。
「おまえらも風呂、入っていったらどうだ? いまの時期、川の水は厳しーだろ?」
クッションを受け止めた蓮と藍は、むっ、とする。
「し、失敬な!」
「ちゃんと家に風呂ぐらい、あるぞ!」
「あのあばらやにか?」
「あ、あばらやっていうな!」
「シャワーだってあるんだからな!」
「まさかとは思うがそのシャワー、台所についてるガス湯沸かし器じゃねーだろーな? 湯船は流し台、とかよ」
蓮と藍は、う、と口ごもった。
はー、とたゆらは息を吐く。
「悪いこといわねーから、入ってけよ、風呂。どーせこのあと、メシ、食ってくんだろ? っと、おー、おまえもメシか? よしよし」
子猫がたゆらの足下にすりより、見あげて、にーにー、と鳴いていた。
たゆらはキッチンへと向かう。
その後ろを、子猫が足早についていった。
蓮と藍は、自分たちがあれほど震えあがった、ちずるが怒り狂って望に詰め寄る姿をおなじく目の当たりにしながら、まったくもって平然としていたたゆらの、いまは子猫にエサを用意する様子を見つめて、ぽつり、と洩らす。
「思っていたより……」
「やる……のか?」
互いに顔を見あわせ、うーん、と腕を組み、考えこんだ。
そのころ、ちずると望の揉めごとも、終わりへと近づいていた。
「諸君らの愛した源ちずるは騙《だま》された! なぜだ!」
「ボウヤだからさ……」
「くー!」
どんなやりとりがあったものか、なぜか望は得意がり、ちずるは泣く。
「あーん!」
ちずるは、自分の狐のしっぽを股のあいだから前に持ってきて、ぎゅーっと抱きしめた。
「どうしたらいいのよーう! このままじゃわたし、ずっと耕太くんと触れあえない。ううん、それどころか、見ることすらできない! まさか、このまま? このまま一生? ノールック耕太? やだー! そんなのやーだー! 耕太くんなしでこれから先すごすだなんて、もう死んだほうがマシだー! あううううう〜!」
しっぽを抱きしめたまま、ちずるはごろごろと床を転がる。
「んー、じゃ、こーゆーのはどうだろう」
と、ひとりこたつに戻って、みかんの皮を剥いていた望が、いった。
身体を起こして、ちずるは叫ぶ。
「だ、騙されないからね、もう!」
「まあまあ、ダマされたと思って」
「だから騙されないって!」
「ちずるは、ちずる自身じゃなきゃ耕太とえっち、ダメなんでしょ?」
望は、すっかり皮を剥いたみかんの実を、めり、と半分に割って、自分の口に放りこむ。
はもはもとふくらんだ頬を動かす望に、ちずるはしっぽを抱きしめながら、答えた。
「べ、べつにえっちに限定するわけじゃないけど。でも、うん、そうよ。わたしはあくまでもわたし自身として、耕太くんと向きあいたいの。じゃなきゃ意味がない」
「でもちずる自身のままじゃ、耕太とは向きあえない」
「だ、だって死ぬほど恥ずかしくなっちゃうんだもん! しょうがないじゃない!」
「つまりちずるは、ちずる自身のままじゃ恥ずかしくて死んじゃうのに、ちずる自身のままじゃないと耕太とはらぶらぶしたくないんでしょ? うん、だったら、残る道はひとつ。ちずるはちずるを演じたらいいんだよ」
「は?」
ちずるは眼を、ぱちくりとさせた。
横で話を聞いていた蓮と藍の眼も、ぱちくりとなる。ちなみにたゆらはエサを食べ終えた子猫の喉を撫で、撫でられた子猫は喉をごろごろと鳴らしていた。
「わたしが……わたしを演じる……?」
もういちどちずるは、眼をぱちくりとさせた。
★
朝。
いきなり耕太は、拉致《らち》された。
「え、あ、お? ちょ、ちょっと、望さん、蓮、藍、なに? なんなの? えー?」
いきなりもいきなり、なんてったって耕太が登校して、学校の玄関で自分の靴箱に外履きを入れた瞬間のことなのだから。
「わー?」
有無をいわさず、耕太の身体は望、蓮、藍の三人に高々と持ちあげられた。
三人が伸ばした腕の上に、まるで丸太かなんかのようにつかみあげられ、耕太は廊下をひたすら運ばれる。
送り届けられた先は、音楽室だった。
がら、とドアを開けるなり、ぽーん、と放りこまれる。
「あだ!」
みごとに腹から床に落ち、耕太はうめく。
「じゃ、ちずる」
「あとは」
「がんばってください!」
そういい残して、拉致グループの三人はドアを閉め、去っていった。
が、がんばるんだあ。
今日も朝からかあ……ハードな一日になりそうだなあ……と思いつつ、耕太はグランドピアノの前で、こちらには背を向けて待ち受けていた黒髪の恋人の名を、呼ぶ。
「ちずる……さん?」
呼びかけたとたん、ちずるの両肩は、ぴく、と震えた。
うん、うん、とまるで自分を鼓舞するかのように数度うなずき、ちずるは振り返る。
腰まで覆う艶やかな黒髪が、舞った。
そしてその黒髪とおなじく艶やかな瞳が、まっすぐに耕太を見つめた。
「耕太くん!」
「は、はい!?」
「わたしのことを……」
「はい」
おもむろに、ちずるが自分のブレザーの制服へと、両手をやる。
「抱け!」
と、ちずるはブレザーをつかむなり、引き裂くいきおいで引っぱって、留めていたボタンをぜんぶ飛ばした。なかのブラウスのボタンすら飛び、結果、その胸のふくらみを包みこむ純白の下着と肌とおへそとが、開ききったブレザーのあいだ、あらわとなる。
「はい?」
「だから、抱きなさい! 早く!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、ちずるさん……」
「ダメですぅー! 待てませーん!」
ぴん、とちずるが腰のスカートを弾いた。
すとん、とスカートは床に落ちる。
やはり純白だった下着が、おなじくらい耕太の眼を惹きつける白い太ももとともに、音楽室のなか、あらわとなった。
「ちずるさーん!」
「わたしを、早く、抱け、コノヤロウ!」
一歩歩くごとに喋《しゃべ》りながら、ちずるが近づいてくる。
「だから、なんですか、それは! 今日はいったいどういうコンセプトなんですか!」
「いいから、早く、抱いて、抱いて、抱きまくれ、YO!」
「YO! って! ラッパー? ラッパーなんですか? DJchizu?」
「エロそうなヤツはだいたい友だち! さあ、早く! 抱け! 抱くんだコラ!」
とうとう、ちずるは耕太の目の前にまでやってきた。
くっ、と耕太は息を洩らす。
「ちずる!」
強くちずるの肩をつかんだ。
「いったいどうしたの! 教えてよ! ちずるったら!」
揺すりたてる。
と、ちずるの様子が変わった。
眼を大きく見開いたまま耕太を見つめ、と思ったらぷるぷると震えだし、瞳までうるませる。
「こ、こ、こ……」
「え?」
「耕太くんに、怒られたー!」
あーん、あんあん。
まるで子どものように、立ったまま、こぼれる涙を拭おうとすらせず、ちずるは泣いた。ひたすら泣いた。泣きまくった。
★
「でね、望がね、わたしがわたしのまま、源ちずるのまま耕太くんと愛しあうためには、もう源ちずるを演じるしかないって。だから……」
しゃくりあげながら、ちずるはいままでの行為の理由を説明してくれた。
「ちずるさんが、ちずるさんを演じる……ですか?」
鼻をすすりあげ、ちずるはうなずく。
「つまり、過剰に自分を演じろって意味なのね。大げさに、デフォルメして自分を演じれば、自分とは違うものでありつつ、しかし本質は自分のままでいられるって……で、わたしの本質は、痴女デレだって望がいうから……」
ああ、なるほど、と納得しかけていた耕太は、最後の言葉に、ええ? となった。
「ち、痴女デレ?」
「うん。ツンデレとかヤンデレとかクーデレとか、世に属性は数あれど、わたしの本質としてもっともふさわしいのは、痴女デレなんだって……痴女が、デレデレ……」
「だ、だからあんなことを……?」
「いや、わたしもいまいち痴女デレっていうのがよくわかってなくて、とりあえず肉体関係を迫ってみたんだけど……どう? わたしって、あんな感じ?」
ぶぶぶん、と耕太は首を横に振る。
「あんなのぜんっぜん違いますよ! 違います! たしかにちずるさんは迫ってきたりしますけど、もっとこう、真綿で首を絞めるようなというか、やわらかなふくらみで鼻と口を押さえこむようなというか、とにかく、もっと素晴らしいですっ!」
「ありがと……耕太くん……」
ぐすっ、とちずるは目元をこすった。
なんだか耕太は照れてしまってうつむき、そしてあることに気づく。
「あれ? じゃあ、いまのちずるさんは、どういうちずるさんなんですか?」
え? とちずるも現在の自分自身の状態に気がついたようだ。
「わ、わたし? いまのわたしは……」
じわじわじわ〜、とちずるの顔は真っ赤になってゆく。
「わ、わた、わたわたわたわたわた」
「わー!? ちずるさーん!?」
あわてだすちずるに、耕太もあわてる。
どうやらちずるは、完全に素の状態に戻ってしまったらしい。
「と、とりあえず、ぼく、外にでてますから!」
音楽室の外にでようとした耕太の動きは、しかし止められた。
ドアへ向かって歩きだそうとした耕太の腕を、ちずるがつかんだからだ。
「ま、待って、耕太くん……」
「ち、ちずるさん?」
「わ、わたし、いまなら、すこし、がんばれそうなの。どうしてかな。耕太くんに叱られちゃったからかな。だ、だから、いまのうちに、耕太くんに、手伝って欲しいの」
「て……手伝う、ですか?」
「う、うん。あのね」
ちずるが、消え入りそうな小声で、ささやく。
わたしの――に、触って?
「――え」
耕太は、まじまじとちずるの顔を見つめた。
ちずるの顔はすっかり真っ赤で、いまにも泣きだしそうに唇をまっすぐに引き結んでうつむいている。が、その濡れた瞳は、上目遣いでしっかりと耕太を見つめ返していた。
「ち、ちずるさん、いま、なんて?」
「だ、だから、触ってって」
「だ、だから、なんでですか? どうして?」
「そ、その……」
くきゅん、とちずるが唾を飲みこむ。
「わ、わたし、なんだかよくわからないけど、耕太くんに見られることすら耐えられないくらい、すっごく恥ずかしがりになっちゃったでしょう? で、でも、このままじゃいけないでしょ? だから、わたし、思いついたの。恥ずかしいのなんて、慣れちゃえばいいんだって。慣れれば、きっと平気になるって。それで……」
「な……慣れるために? た、タッチ?」
「う、うん。耕太くんに……恥ずかしいことされれば……されまくれば……されまくってもガマンすれば……いつか、いつか慣れることができる……と、思う。たぶん」
たしかに、痴女デレかもしれない。
そんな、一瞬浮かんだ不埒《ふらち》な思いをすぐさま振り払って、耕太はうなずく。
「わ、わかりました!」
ちずるのあまりに真剣なまなざしに、耕太はうなずかざるを得なかった。
「で、では!」
耕太は、ちずると正面から向きあう。
ちずるも、上目遣いでうつむきながら、耕太に対してまっすぐに立った。
ごくり、耕太は唾を飲みこむ。
すでに、ちずるはさきほど自分でスカートを脱いでいた。
ゆえに、純白のぱんちーは丸見えであった。
目標、捕捉。
「い、いいんですね、ちずるさん」
「お、お願いしまっす!」
がちがちになりながら、ちずるが答えた。
よ、よし……。
おっぱいマイスター、耕太・F・オヤマダ、目標を駆逐するぅ!
「やー!」
いつかどこかで聞いたようなセリフを心のなかで叫びながら、耕太は震える手を純白ぱんちー目がけ、アンダースローで飛ばした。
ぽむっ。
手のひらが、当たる。
や、やわらかいんだ……。
そのぬくもりとやわらかさに、耕太がしばし感慨にふけっているとき、敵目標はもう、とんでもないことになっていた。
「あわ、あわわ、あわわわわわわ」
がくがくとちずるは震えだす。
その顔は、そして身体は、さきほどまでの真っ赤さが普通に見えるほど、まさに灼熱の真紅と化していた。と……とらんざむっ!?
「ち、ちずるさん!?」
「あわわわわわわ、あわわわわわわ、あわわわわわわわわわわわわ……………………」
わ。
突然、ちずるの震えは、ぴたっ、と止まる。
どうじに、耕太の手のひらには、なにやらぬくみが、じわり。
「ち……ちずるさ……?」
かくん。
ちずるの身体は崩れ落ちた。敵目標、沈黙。
「うわー!? ちずるさん、ちずるさーん!?」
2
「おらー! ガキは風の子だろがー!」
ジャージ姿の乱が、またも校庭にて生徒たちに向かって声を飛ばす。
やはり彼女の手には、ごついトゲトゲの金棒があった。
が、その乱を前にして走る生徒たちの様子は、前回とは一変していた。
すっかり調教されたのか、まるで軍隊のように、整然とならんで走る。「かーちゃんたちにはナイショだぞー♪」などと歌までそろって口ずさむ始末だ。
その様子を、ちずるは窓ごしにぼんやりと眺めていた。
やがて、ふう、と息をひとつ、吐く。
ベッドのなか、ごろりと仰向けになった。
白い天井を見あげて、はあ、とまたひとつ、息を吐く。
「お気づきになられましたか」
「ひゃあっ!?」
ちずるは驚き、声のかかってきたほうを向いた。
ベッドのまわりを覆っていたカーテンのしきりを開き、そして、眼を見開く。
「え? あ、ゆ、雪花? どうして?」
と、見開いた眼をしばたたかせた。
「どうしてもなにも、ここは保健室ですよ、ちずるさま」
机にて、なにか書きものをしていた雪花が、その手を止め、振りむく。
軽く椅子をきしませながら、かけていた眼鏡を外し、ちずるに向かって微笑みかけた。
「保健室に学校の養護教諭であるわたくしがいるのは、当たり前のことです」
「そ、そりゃそうだ。って、あれ? どうしてわたし、保健室にいるんだろ?」
んん? とちずるは首をひねる。
そのまま、んー、と声を洩らしながらしばらく考えていたが、やがて、視線を下へと落とした。
シーツごしに自分の腰元を見つめたまま、動かなくなる。
「んんん?」
睨むように眼を細め、もぞ、とシーツのなかに手を差し入れた。
ぱきーん。
ちずるの眼が、大きく剥きだしとなった。
身体が、わなわなと震えだす。
「あ、あ、あ……」
「ご心配なく、ちずるさま」
表情ひとつ変えず、雪花がいった。
「な、ななな、なにが!? なにがご心配なく!?」
「わたくしはなにも知りませんから」
「は?」
「耕太どのがすべてを処理なされましたので」
「こ、耕太くん、が……?」
「はい。耕太どのが」
と、ここで雪花が耳をふさいだ。
きゃああああああああああああああああああああああああ!
ちずるの絶叫が、保険室内にとどろく。
「ううう、嘘でしょ嘘! 嘘っていいなさいよ雪花! もうこうなったら嘘でもいいから、ぜんぶ嘘でしたっていいなさいってのコノ雪花ボケー!」
「ちずるさま、落ちついてください。言動が支離滅裂です」
「これが落ちつけるか! いや、ダメ。もうダメ。わたし狂う。狂うわ。だってわたし、いま理解したもの。狂気って、逃れられない哀しみから逃れるための唯一の方法なんだって。ソウヨソウヨキットソウヨ。アハハ。チョウチョ。チョウチョ。チョウチョガキレイ」
「耕太どののことを知りたくはありませんか?」
この言葉に、どこまでも広がりかけていたちずるの瞳孔が、きゅん、と戻った。
「こ、耕太くんのこと?」
「ええ。耕太どのが、どうやってちずるさまをこの保健室まで運ばれたのか」
「し……知りたいような、知りたくないような」
「耕太どのは、ちずるさまをいわゆるお姫さまだっこの状態で抱えて、ここまで運ばれました。なぜか理由はわかりませんが、ご自分の制服の上着を、ちずるさま、あなたの腰にかぶせて見えなくしてです。その上でわたくしに、なにも訳を訊かず、しばらくのあいだ保健室を貸してくれ、とおっしゃいました。わたくしをまっすぐに見つめて……恥ずかしながら、わたくし、胸の高鳴りを覚えてしまったことを告白せねばなりますまい」
「ちょっと待った。あなたいま、なんか聞き捨てならないことを」
「で、わたくしは黙って保健室をお貸しし、廊下にて待ちました。待っていたあいだ、なにが起きたのかは知りませんが、ただ、じゃぶじゃぶとなにかを洗う音や、ドライヤーを使ってなにか乾かす音が、ドアごしに聞こえてきたような? はて?」
「あなた、本当はわかってるんでしょ? なにが起こったのか」
「そしてすべてをやり終えた耕太どのは、保健室をあとにしたのです。わたくしに、ちずるさまのことを託されて……」
「た、託して、どこへいったの? 耕太くん」
「わかりません。わかりませんが、まあ、よもや、音楽室の掃除をしているなんてことだけはありますまい。ぞうきんとバケツを持って、拭き掃除なんて、まさか……ははっ」
「雪花ァ! やっぱりきさま、ぜんぶわかっているな!」
ちずるは雪花を睨みつけ、ぎぬぬ……と歯を食いしばる。
が、すぐに折れ、くたん、とベットの上、前のめりに崩れ落ちた。
「あああ、もうダメだ、わたし。耕太くんとまともに顔、あわせられない! 死ぬ、死んじゃう! まちがいなく羞恥心《しゅうちしん》で羞恥死んする! あーうーおー!」
「たかが嬉ションごときで、なにを大げさなこといってるの」
「にゃにゃにゃにゃにゃ、にゃにおー! だったらテメーコノヤロー、惚れた男の前でやってみろってんだー! あとの始末こみでなー!」
ちずるは真っ赤になって唾を飛ばしてから、いまの発言の相手に気づき、眼を丸くした。
「か、母さん?」
はい〜、と玉藻は、にこやかに娘に向かって挨拶をする。
今日の玉藻は、黒系統に雪のごとく白が散った、渋めの着物姿だった。
「な、なにやってんの、母さん? こんなところで」
「なにやってんの、じゃないでしょう? 人にあんな触手プレイやらせておいて」
「いや、それはたまたま母さんがここまでやってきてたからで……だっていま、温泉旅館はシーズンまっさかりでしょ? いいの? こんなゆっくりしてて。お客さんは?」
「それは……」
玉藻が、微笑みまじりの視線を、天井へと向ける。
「どうー? あなたはおわかりかしらー?」
え? とちずるは続けて天井を見た。
おなじく天井を見た雪花は、はっ、と驚きの表情を浮かべ、「まさか……」とつぶやく。
玉藻が微笑み、ちずるが眼をぱちくりし、雪花が驚く前で、保健室の天井の一角、その板が、がたがたと揺れ、そして、かぽん、と外れた。
「ふふ……」
笑い声とともに、空いた穴から二本の細く束ねた、水色の髪が垂れてくる。
「さっすが、世に名高い白面金毛九尾の狐、玉藻さま。見破られちゃった」
と、いわゆるツインテールと呼ばれる髪とともに屋根裏から顔を覗かせ、にゅいん、と糸のように細めた眼で笑った三珠未弥に、ちずるは「げっ」と声をあげ、雪花は「くっ」と悔しげに口元を歪めた。
玉藻以外のふたりに衝撃を与えた少女は、すと、と三人の前に降り立つ。
降り立つなり、雪花に微笑みかけた。
「あ、雪野先生? 校内の隠し通路、きちんと通しておいてくださいね? 大変だったんですよー、音楽室までつながってなくて」
彼女の存在を感知できず、おまけに自分の作った隠し通路まで使われ、屈辱にすっかり目つきを鋭くさせていた雪花へ向かって、さらに未弥は悪びれもせずにそう告げる。
雪花の顔から、すっ、と表情が消えた。
そこに、ちずるが割って入る。
「ちょ、ちょっと待った! お、音楽室って、あなた、まさか……」
「うん、ぜんぶ拝見させてもらったよ? ほら、いったでしょ? わたしは耕太とちずる、ふたりを見にきたんだって……っと」
未弥は耳をふさいだ。
ちずるの悲鳴が、あたりをつんざく。
どうじに、雪花が手を振りかぶる。
彼女の手のなかには、瞬時のうちに作りあげた氷の手裏剣があった。
「あら、ダメよ、雪花?」
玉藻が視線を向けただけで、その氷片は霞と消え去った。
「この子に唾をつけたのはわたしが先なんだから。あなたがこの子と遊ぶのは、わたしのあと。わたしの用事がすんでからになさい。わかった?」
そう雪花に釘を刺しておいて、玉藻はにこやかに未弥を見つめる。
「で、どうなのかしら? せっかくのかき入れどきに旅館をうっちゃってまで、わたしがここにいる理由。あなたにはおわかりかしら?」
「娘さんを助けに、でしょ?」
未弥の回答に、うふふっ、と玉藻は笑った。
「ぴんぽーん。せいかーい」
「ふえ? わたしを助けに?」
明るく肯定する玉藻に、未弥にすべてを覗き見されていたと知ってさめざめ泣いていたちずるが、その泣き濡れた顔をあげた。
未弥が、玉藻からちずるへと向き直る。
「ねえ、ちずる。いまのきみの変調って、どうしてだと思う?」
「へ、変調?」
ちずるの表情が、はっ、と引き締まった。
「わたしの……まさか」
鋭く未弥を見つめ返す。
「わたしが耕太くんと触れあえなくなっちゃったのは……妙に恥ずかしく感じるようになったのは、まさか、あなたたち、〈葛《くず》の葉〉が!?」
ふっ。
小さな笑い声とともに、未弥の糸のように細められていた眼が、かすかに開いた。
★
耕太は、音楽室の前に置かれたロッカーを開く。
手に持っていた掃除用のバケツとぞうきんとを、なかへとしまいこんだ。ロッカーの戸を閉め、ふう、とひと息つく。
「なにやってんだ、おまえ?」
背後からの突然の声に、耕太は背筋を伸ばした。
おそるおそる振りむき、はあ、と安堵の息を吐く。
「なんだ、たゆらくんか……」
「たゆらくんか、じゃねーよ」
階段の前に立っていたたゆらが、怪訝《けげん》そうに眼を細めながら、いった。
「朝から姿が見えねーと思ったら、なんでおまえは音楽室なんか掃除してんだ? わざわざこんな時間によ」
「あ、いや、その!」
耕太は焦って、手をぶんぶんと振る。
ん? とその手を止めた。
「たゆらくん……もしかして、ぼくのこと、捜しにきてくれたの?」
「うん? まあな?」
「で、でも、いま、授業中だよ?」
「だからいいんじゃねーか。心配だからおまえを捜しにゆくなんて、授業をサボるにはいい口実だろ?」
あやうく感動しかけていた耕太は、あ、なるほど……と、たゆらの行動に納得する。
「おまえ、なんだその顔! 理由はどうあれ、捜してたのは事実だろーが!」
「わ、ごめん、たゆらくん、ごめん!」
思いが顔にでてたのだろうか、たゆらが襲いかかってくる。
頭に腕を回して締めあげられ、耕太はひたすら謝った。
★
「あの鬼のねーちゃん、意外と生徒の評判、悪くないらしいぜ」
たゆらが、窓の外、眼下に広がる校庭で、金棒を手に生徒たちに向かって声を張りあげる乱の姿を見つめながら、いった。
「へー、そうなんだ」
耕太とたゆらは、音楽室の近くにある窓にならんで立って、外を見下ろしていた。
授業中で廊下はすっかり静まり返っていたため、乱の怒鳴り声や、生徒たちの「サー、イエッサー!」という返事が、窓ごしに耕太たちのところにも伝わってくる。
しばらく、耕太とたゆらは黙って乱の授業ぶりを眺めた。
しかし季節は冬、なのに廊下はあまり暖房が効いてなくて、じんわりと寒さが耕太の身体に染みてくる。ぶる、と震えたところで、たゆらが話しかけてきた。
「なあ、耕太……」
「ん、なあに、たゆらくん?」
「おまえ、将来、どうしようとか考えたこと、あるか?」
「しょーらい?」
「おうよ。おれたち、もう三年生になるんだぜ。そろそろ進路を本気で考えなくちゃならない時期だろ。おまえ、どうするんだ? 高校卒業したら、ちずると結婚しちゃうんだろ? となれば、やっぱ進学しねーで就職すんのか?」
突然の話題だった。
耕太は、とりあえず腕を胸の前で組み、う、うーん、とうなる。
「なんだよ、おまえ、まったく考えてねーのか? ちずると将来について話したりしてねーのかよ。おまえら、よくそれで結婚とかいえるなー」
「い、いや、違うんだよ、たゆらくん。考えてる、考えてはいるんだけど……あのね、ぼく、最初は田舎に帰って、おじいちゃんの跡、継ごうと思ってたんだ」
「じいちゃんの跡? おまえのじいさん、なんかやってんのかよ。まさか探偵とか?」
「ぼくのおじいちゃんは金田一耕助じゃないよ……普通の農家。田んぼや畑を耕したり、ビニールハウスでイチゴ作ったり……って、いままでは、そんな普通の農家だと思ってたんだけど。でも、じつはぼくのおじいちゃん、〈葛の葉〉の、えーっと、悪良家だったかな? そこの元当主だったとかで。つい最近、わかったんだけどね」
「げ、マジでか?」
「うん、マジで。そのほかにも、まあ、なんていうか、いろいろあって……いまになって思えば、なんかいまいち普通の農家じゃなかったようなフシもちらほらとあり……となると、はたしてぼく、素直に跡を継げるものなのかなあ、って」
「な、なんつうか……おまえもけっこう複雑なんだな」
「まあね……。それに、ちずるさんも、べつに結婚するからって就職のことばかり考えなくてもいいよっていってくれて。だから、どうしようかなあ、って。ちずるさんと一緒に大学にいくのもいいかなあ、なんてちょっと思ったりなんかもしたりして」
「そのバカップルぶりを大学生にも見せつけたいってか。ま、いいんじゃねーの、それも」
「たゆらくんは? 将来のこと、考えてるの?」
尋ねると、ん? となぜかたゆらの表情はぎこちないものとなった。
「お、おれか? おれは……なんつうの、まあ、アレだ。朝比奈しだい……か」
「朝比奈さん? どして?」
「ど、どうしてって、それはだな……」
「うん」
たゆらが、きょろ、きょろ、とあたりを見だす。
もちろん、授業中に廊下を歩く生徒の姿はない。
人がいないのを確認すると、たゆらは、ぱっ、と耕太の耳元に口をよせてきた。
こしょ、こしょ、こしょ。
たゆらの口からつむぎだされた言葉に、耕太は眼を見開く。
「えー! たゆらくん、朝比奈さんのことが好きだったのォー!?」
「でけえ声だすんじゃねーよバカ! つーかてめえ、本気でいままで気づいてなかったのか!? ニッブイなあ、ホント! ハーレムものの主人公かおまえは! いやまあ、たしかにハーレムは築きつつあるけどよ!」
「ハ、ハハ、ハーレムなんか築いてないよ、ぼく!」
「築いてんじゃねーか。ちずるを筆頭に、望だろー、蓮だろー、藍だろー、雪花さんも怪しーし、さんだってありゃお願いすりゃイケそうだし、聞くところによればサトリのねーちゃんにもなんかおまえやらかしたそーだし、七人いれば充分じゃねーか」
「そのなかで認められるのはちずるさんと望さんの二人だけです!」
けっ、とたゆらはそっぽを向く。
耕太も、ふんだ! と顔を反対側に向けた。
「……好きだから、朝比奈さんとおなじ道を進むの?」
ちら、とたゆらの後頭部を見ながら、耕太は尋ねる。
「悪いかよ。あーあー、たしかにおれはキモいですよね、進路ストーカーですよね」
「そんなことだれもいってないじゃない!」
「おれだってわかってんだよ。しょせんは人と妖《あやかし》、結ばれることのない恋だってのはな……だけどよ、しかたねーじゃねーか。ホレちまったんだからよ。好きになっちまったんだからよ。化け狐のおれが、よりによってニンゲンの女をよ! だから……せめてよ、そばにいてよ、あいつを、朝比奈を見守っていてえんだよ。それだけで、おれは充分に」
「たゆらくんの……」
「あん?」
「ヘタレー!」
耕太は殴った。
生まれて初めて、親友を殴った。
たゆらは頬を押さえて、よろめく。
「な、なにしやがんだ、コノヤロウ……」
「どうしてそんなヘタレたこというの! 人と妖は、結ばれることなんかないだなんて……そんなの、やってみなくちゃわからないじゃない! ほら、ぼくとちずるさんだって!」
「だっておまえ、ニンゲンじゃなかったじゃん」
がーん!
そんなこと、いうー!
ぐらり、と耕太の身体は思考とともに揺れた。
「た、たしかにぼく、異様な気を持ってたり、素戔鳴尊の転生体とかいわれたり、三種の神器のレプリカとか使えたり、学校を丸ごと吹っ飛ばしたりしちゃったけど、でも、でも、でも、あくまでもまだ人間のつもりで、あれ? 違うのかな? ぼく、もう人間じゃないのかな? 妖怪人間なのかな? 闇に隠れて生きなくちゃならないのかな?」
ふらつく身体を、壁に手をつくことでようやく支える。
と、たゆらが笑いだした。
「冗談だよ、冗談。本気にするなよ、バーカ」
「ふえ?」
「つーか、ちっとも痛くねーぞ、おまえのパンチ。おまえはホント、闘うことにかけちゃド素人なんだなあ。まったくパンチに腰が入ってねえ。教えてやろうか? 殴りかた」
押さえていた手を離し、たゆらはその頬を見せる。
まったくもって、たゆらの頬はなんともなってなかった。赤くなってすらいない。
あ、あれれー?
「でも……まあ、効いたぜ」
たゆらが唇に、笑みを浮かべる。
「たしかにな。いまのおまえはかなりニンゲン離れしちゃいるが、昔の……ちずると出会ったころは、ちょっと憑依《ひょうい》のときの相性がいいだけの、普通のガキだったもんな」
「たゆらくん……」
「なあ、耕太、おまえ、覚えてるか? いちばん最初のころ、そこの音楽室でおまえとちずるがいちゃついてたところにおれがのりこんでいってよ、そのとき、おれ、こういったんだよな。『ニンゲンと妖が、うまくいくわけねーだろ』ってさ。ところがどうだよ。なんだかんだで、しっかりやってんだもんなあ」
「そ、そうだよ。だから、たゆらくんだって」
「世の中、そう簡単にいったらだれも苦労しねーっての」
「たゆらくん!」
「耕太……おまえはけっこーあっさりとおれたちみたいな存在のこと受け入れたからわかんねーだろーけどさ、普通は、妖の存在って、かなり受け入れがたいもんなんだぜ? 朝比奈みてーに、お堅いやつはとくに、だ」
なにもいえなくなって、耕太は微笑を浮かべるたゆらの横顔を、ただ見つめた。
へっ、とたゆらが、笑う。
「そんな顔すんなって……だいじょうぶ、わかってるよ。おまえに殴られて、すっかり目が覚めた。やってもみないうちから諦めるなんて、ホント、ヘタレだよな」
ぽん、とたゆらは笑顔で、耕太の頭に手を置いた。
「そ、そーだよ、たゆらくん! まったく、たゆらくんはヘタレだよ! ヘタレキング!」
ぴきーん、とたゆらの笑みが、強ばる。
「いわせておけば、この! ヘタレヘタレうるせーんだよ! けっこう気にしてんだぞ!」
「い、痛い! 痛いよたゆらくん! ご、ごめん、ごめんなさいー!」
耕太はたゆらに頭を抱きすくめられた上でこめかみをぐりぐりされ、ひたすら謝った。
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五、ケ・セラ・セラ
1
真夜中のことだった。
ふとんのなか、すー、すー、と寝息を立てる耕太の部屋の、その窓が、音もなく開く。
吹きこむ外気にカーテンを舞わせながら、室内に入ってきたのは、黄金色の髪に、狐耳、狐しっぽを生やした、制服姿のちずるだった。
妖狐姿のちずるは、開けたときおなじく、音もなく窓を閉める。
そっと耕太のそばに近づき、屈みこんだ。
しばらく、耕太の寝顔を見つめる。
やがて、ちずるは耕太の頬に、その白い指先を伸ばした。
瞬間、耕太はむにゅ、と寝言を洩らす。
「ちずるひゃん……っぱい……お、おおきすぎましゅう……っぱい……っぱい……」
むに、もに、と唇をもごもごさせた。
触れかけた指先を止め、ちずるは身を震わす。
「こ、耕太くんたら……」
ぐっ、と唇を噛みしめ、笑い声が洩れないようにした。
「もう、どんな夢を見ているの? でも、しかたないよね、わたし、耕太くんのこと、ずっと満足させてあげられてなかったもんね。どう? 夢のなかのわたしは、きちんと耕太くんのこと、悦ばせてあげられてる? 夢のなかでもわたしのおっぱい、気持ちいい?」
その表情が、きゅっ、と引き締まる。
「耕太くん……もう、だいじょうぶだから」
ぐっ、と身を屈めた。
「わたし、耕太くんのこと、満足させてあげられる身体になって、帰ってくるから。あなたのことを愛せるようになって、ぜったいに帰ってくる。そのために、あの女の……三珠未弥のところにいって……だから……」
静かに、ちずるは耕太の顔面へ、ふにょん、と胸のふくらみをのせた。
耕太の顔は、とたんに緩む。
「っぱい……っぱい……ちじゅるの、っぱい……しゅき……」
眠ったまま、ふとんから両手をだし、ちずるの胸をふにふにと揉《も》みしだく。
んっ、とちずるは唇を噛みしめて、そしてささやいた。
サヨナラ……耕太くん……。
★
「……っぱお!?」
耕太は飛び起きた。
飛び起き、自分の顔の両脇に、まるでなにかを揉みしだくかのように掲げられてあった両の手を、ぶん、ぶん、と交互に見る。
続けてきょろきょろと自分だけの室内を見回して、な、なーんだ、と笑った。
「まいっちゃうな、あんな夢、見ちゃうなんて……ちずるさんの、あんな……でも、なんだかすっごくリアリティーのある夢だったなあ……あんな夢なら、また見たいかなー、なんて……こ、これも浮気のひとつになっちゃうのかなあ?」
えへへ、と両手で頬を挟みこんで、あれ? と気づく。
窓を見た。
部屋の窓は、きっちりとしまっていた。
だが、カーテンだけは、妙に中途半端なかたちで開いていた。まるで、外から窓を開けて、だれかが入ってきたかのごとく。
「まさかね……」
耕太は立ちあがって窓に近づき、空に浮かぶ月を一瞥してから、カーテンを閉める。
なんの疑問もなく、ふとんに戻った。
潜りこみ、ふとんのぬくもりを味わいながら、さっきの夢の続きを見ようと、まぶたを閉じる。
そして、だれもいなくなった。
2
「どうだった、耕太!」
わずかに呼吸を乱しながらのたゆらの問いかけに、耕太は首を横に振った。
耕太の後ろには、蓮と藍のクラスの教室がある。
その教室のドアからは、いったいどんな噂が伝わっているのやら、一年生たちが興味しんしんな様子で顔を覗かせ、耕太を見つめて、「あれが……」「エロスの鉄人センパイ……」などと会話を交わしていた。
「双子もかよ?」
「うん。たゆらくんのほうは?」
「こっちもだ! 砂原の幾ちゃんどころか、八束も、あの鬼のねーちゃんも、おまけに雪花さんまでもがいねえ! みーんな適当な理由をつけて、どこかいっちまった!」
たゆらは自分の手のひらを殴りつけ、ぱん、と音をたてる。
先ほどたゆらの呼吸が乱れていたのは、職員室までひとっ走りしてきたからだった。
「八束先生に、乱さんに、雪花さんまで……?」
「おうよ。理由だって適当も適当、八束はまだ身内の不幸だからいいとして、鬼のねーちゃんは自分探し、雪花さんなんか、『人間不信』って一筆書いて、失踪《しっそう》だぞ? あんたはアントニオ猪木に裏切られた坂口征二かっつーんだよ!」
みんな、いなくなってしまった。
最初に異変に気づいたのは、朝、ホームルームが始まるときのことだった。
教室に、耕太のクラスの担任である砂原が、やってこなかったのだ。
代わりにやってきた、副担任の、普段は影の薄い、中肉中背、眼鏡をかけた数学の教師は、ぼそぼそとした声で、こういった。
「えー、砂原先生は、今日、急な出張が入りましたので……かわりに、わたしが一日、担任を務めます」
出張……? いきなり……?
教師の言葉を聞いた耕太の胸は、にわかにざわめきだした。
望の席を見る。
席は、空っぽだった。
だがそれは、最近はめずらしいことではなく、てっきり例の、ちずるとの作戦会議とやらで忙しいのだろうと、砂原の突然の出張を知るまでは、そう軽く考えていた。
そこに、たゆらがささやきかけてくる。
「そういえばな、耕太」
たゆらもおなじ胸騒ぎを覚えていたのだろうか、表情が硬かった。
「昨日、ちずる、家に帰ってこなかったんだよ」
「え?」
「てっきり、望と、あと双子の四バカでもって、徹夜でおまえを襲うための小道具でも準備してるんだろうって、そのときは軽く考えてたんだけどよ……」
さらに増した不安のなか、耕太は三珠未弥を見つめる。
居ならぶ席の向こう、未弥は、耕太の視線に気づくなり、にこやかに微笑みかけてきた。
そう、彼女はただ、微笑みかけてきたのだ。
なのに、なんだろう、この胸の奥に生まれた、ずん、と沈みこむような感覚は。
心臓からみぞおちまで、重たく沈みこむような、この不快感は。
ホームルーム終了後、耕太とたゆらは、ちずるの教室へと駆けた。
到着するなり、もどかしくドアをノックして、そしてあらわれた三年生の先輩女子たちが「やっだー! ちずるのかわいい恋人だよー!? どうしたの、こっちにくるなんてめずらしー!」「弟くんまでいるしー! いえーい、義兄弟そろい踏みー」「ヤバ、近くで見るとホンットかわいい。チズの気持ち、わかるわー」「飼いたくなるよね」「あ、でも、やっぱり男の子ー。手、大きー」「ちょっと、なにさりげなく触ってんのよ。でも、まあそうじゃなきゃ、あの源をあそこまでメロメロにはさせられないって」「え? どゆこと?」「手が大きい男って、ほら、べつのところも……」「ぎゃー! なにいってんのよ、いきなり! でも、それってマジ? ねえ、マジなの、きみ?」と、さんざん耕太をおもちゃにするなか、ようやく聞きだしたのが、つぎの言葉だった。
「え? ちずるなら、まだきてないよ?」
あとは、耕太とたゆらは二手にわかれ、耕太は蓮と藍の教室へふたりの出欠を確認しに、たゆらは職員室へ向かって砂原先生の欠席の真相を調べに、それぞれ向かった。
結果は、全員の不在がわかっただけだった。
ちずるはおろか、望も、蓮も、藍も、砂原も、八束も、乱も、雪花も、みな、まるでしめしあわせたかのように、いなくなっていた。
な、なんで……?
耕太は、一瞬、足下が消え去ったかのような感覚にとらわれ、はいあがってきた震えを、必死で押さえこむ。
気がつくと、横でたゆらが携帯電話をとりだしていた。
「ちずるさんに……?」
「いや、玉藻さんにだ」
親指で素早くキーを操作するなり、たゆらは携帯を耳に当てる。
しばらくそのままでいたが、やがて、ちっ、と舌打ちした。
「こっちもダメか! 旅館、だれもでやしねえ! このクソ忙しいときに、留守電にもなってねえってのはどういうこったよ! 店はどうした、店は!」
「玉藻さん、携帯電話は、持ってないの……?」
「山奥だからな。電波、届かねえ」
「ああ……」
このとき、ふいに、耕太の両手に、ある感触が甦《よみがえ》る。
あの、やわらかな揉みごたえが、ふやん、ふよん。
「もしかして……」
「うん? どうした?」
「いや、昨日の夜のことなんだけど。ぼくが寝ているところに、ちずるさんがきたような、そんな感じがあって……てっきりぼく、夢だとばかり思いこんでいたんだけど」
「ちずるが? おまえのところに?」
たゆらは、なにやら考えこみだす。
「あいつか……?」
「え?」
「あいつだよ! 三珠未弥! 三珠家の現当主、いまの〈葛の葉〉を率いるもの、謎の転校生! 考えてみりゃ、ちずるがおかしくなったのも、あのガキがやってきてからじゃねーか。そうだよ、そうに決まってる! じゃなきゃ……」
しかし、耕太はうつむく。
「ん? どーしたんだよ。違うってーのか?」
「なんとなく……なんとなくなんだけど、彼女はそんな悪い人じゃないって、そんな気が」
「まだそんな甘っちょろいこといってんのか、おまえは! 悪かろうが悪くなかろうが、とにかく現状、いちばん怪しいのはあのガキだろうが! ちずるひとりならともかく、望、蓮、藍、砂原、八束、鬼のねーちゃん、雪花さんまでもをどうじに消せるやつなんざ、〈葛の葉〉の頭領たる三珠未弥、あいつしかいねえだろ! あん? 違うか!?」
たゆらは、耕太の胸元をつかんで、激しく揺さぶりながら、いった。
「たしかに、そう……なんだけど」
「かー! ホントーにおまえってやつは救えねえ! とにかく、いくぞ!」
「え? 未弥さんのとこに?」
「ノンノン! 熊田&桐山の、新旧番長ズのところにだ!」
「熊田さんと、桐山さんの……?」
「あいつらの力、借りる必要があるだろーが! だって、おまえ、いまはただのニンゲンなんだろ? 三種の神器のレプリカとかいう反則アイテム使ってスサノオだかにパワーアップしてたときと違って、いまのおまえは小動物ライクなかわいいかわいい耕太きゅんなんだろ? となれば、いかにおれが冬休みのあいだプライベートすら犠牲にして特訓してたとはいえ、ただのニンゲン&化け狐じゃ、〈葛の葉〉の当主クラスを相手するのには分が悪い……ほれ、いくぞ! 我が校が誇る妖怪軍団、ビッグ・ボンバーズのところによ!」
「わ、わわ、た、たゆらくーん!」
有無をいわさず、たゆらは耕太の腕を引っぱり、駆けだした。
★
「マジ……かよ……」
呆然としたたゆらの声が、無人の教室内に、むなしく響き渡る。
いつもなら熊田や桐山、澪《みお》、天野など、校内の妖たちがたむろする、校舎三階奥、元視聴覚室だった教室は、いま、がらんとして、すっかり冷えきっていた。
熊田さんたち、まで?
さすがに耕太も、息を呑む。呑まざるを得なかった。
「残ってるのは、ぼくたち……だけ?」
「まさか、まさかだろ……おれたち以外、みんな、消されちまったとでもいうのかよ!?」
(そのまさか、ですよー)
耕太とたゆら以外、だれもいないはずの教室に、少女の声があがった。
瞬時のうちに耕太とたゆらは背中あわせになって、死角を消し、その上で、素早くまわりに視線を走らす。
やはり人の姿は、どこにもない。
が、耕太は、無人の教室の、そのど真ん中の床を見つめた。
「未弥さん……そこだね!?」
あはははっ、と明るい笑い声が返ってくる。
「さっすが、世に名高い素戔鳴尊の転生体、耕太。見破られちゃった」
ぽこん、と床の板を外し、床下に隠れていた未弥は、よっ、とあがってきた。板を戻して足で踏みつけ、わからなくしてから、やほー、とにこやかに片手をあげる。
「て、て、てめえ……」
わなわなと震えるたゆらに、未弥は軽く首を傾げた。
「やだなあ、たゆら。文句なら雪野先生にいってよ。こんなところに隠し通路を作ったのは、あのきみのお母さんにおつきの忍者さんなんだから」
「んなこたどうでもいい! てめえか? てめえなんだな? ちずるたちを……おれたち以外のやつらを、どうにかしたのは!」
「うん、そうだよ」
あっさりと未弥は犯行を認めた。
「ど……どうして? どうしてそんなことを?」
耕太は尋ねた。
たしかに耕太は、未弥に対していい知れぬ不安を感じとってはいたが、そのいっぽうで、彼女は悪い人間ではないと、そうとも感じとっていたからだ。
「理由、知りたい?」
未弥が、ぎゅっ、と眼を細めながら、いった。
「う、うん。知りたい」
「すっごく?」
「う、うん。すっごく」
「でもダメー。教えたげない」
「ナメてんのかコノヤロー!」
耕太の代わりにたゆらが吠えた。
ガー、と前にでて威嚇するたゆらに、ふふふっ、と未弥は転がるような笑い声をこぼす。
「これだけは教えてあげる。たしかに、まちがいなく、わたしがちずるたちをどうにかした。源ちずる、犹守《えぞもり》望、七々尾蓮、藍、砂原幾、八束たかお、鬼ヶ島乱、雪野花代、熊田|彗星《すいせい》、桐山臣、長ヶ部澪、その他もろもろの妖怪たちをね。だけど、どうしてわたしがそんなことをしたのか、また、ちずるたちをどうしたのかは、タダじゃ教えてあげない」
「ど……どうすれば教えてくれるの?」
「決まってるでしょ、耕太」
未弥が、微笑みながら、ブレザーの制服の袖をまくりあげた。
細い腕の、ちょうどちからこぶができるあたりまでを剥きだしにして、ぺちぺちと叩く。
「いざ、尋常に、勝負」
じんじょーに、しょーぶ、とじつに軽い口調で、未弥は決闘を迫ってきた。
3
「さあさあ、どうぞ」
と、未弥が、体育館のなかから、こちらへ向かって手招きしてくる。
校舎から体育館へと続く通路に残っていた耕太とたゆらは、互いに顔を見あわせた。
目の前にある、大きく開かれた体育館の入り口の両脇には、おそらくは〈葛の葉〉のものたちなのだろう、黒ずくめのスーツにサングラスをかけた男ふたりが、左右にわかれて立っている。
耕太とたゆらは、うなずき、体育館の入り口をくぐった。
入るなり、驚く。
体育館のなかは、すべての窓がカーテンで閉め切られており、天井の照明がつけてあった。はー、と耕太が見回しているうちに、背後で、金属製のドアが閉じられる。
どうやら、閉じこめられたようだ。
見れば、入ってきた出入り口だけではなく、ほかの扉も、完全に閉じてあった。
「どーお、耕太?」
がらんとした体育館の、その真ん中に立ち、未弥は耕太へと得意げな笑顔を向けてくる。
「外から見えないようにしてあるだけじゃないよ? 音だって、結界を駆使してきっちりと外には洩れないようにしてあるから。これなら生徒バレを気にせず、思いっきりやりあえるでしょ? どうかな、戦場として気に入ってくれたかな?」
「どうしても……なの?」
答えがわかっていながら、耕太は尋ねざるを得なかった。
「どうしても、ぼくたちは闘わなくちゃいけないの?」
「あのね、耕太――」
と、未弥が語りかけた瞬間。
「この期におよんで、てめーはなにをぐだぐだぬかしてやがんだ! バカ!」
べちーん、と耕太の頭は、真横のたゆらから叩かれる。
「な、なにするのう、たゆらくぅん!」
脳天を両手で押さえながら、涙目になって耕太は訊いた。
すでにたゆらは、その黒髪は銀髪へ、頭からは髪の毛とおなじく銀毛に覆われた狐の耳を、腰からは狐のしっぽを生やして、化け狐の姿へと化していた。
戦闘準備完了な妖狐状態で、たゆらが吠える。
「なにするのう、じゃねーよ、タコ! あいつひとり倒せばちずるの居場所からなにからぜんぶ教えてくれるっていうんだ、ありがたくぶちのめさせていただくのが礼儀ってもんだろーが! つーかな、おれはてっきり配下のやつらもでてくんのかと覚悟してたんだからよ、あのガキの気持ちが変わらねえうちに、さっさとやっちまおうぜ!」
「た、たゆらくん……」
正論なんだけどー。たしかに正論ではあるんだけどー。
耕太は自分の顔に、ついつい、微妙な表情が浮かんでしまうのを止められない。
そのとき、未弥が笑った。
「あはははははは、うん、きみはちっともまちがってないよ、たゆら。しかし、ずいぶんと強気だね? そんなに自分の力に自信があるの?」
くっくっくっ、とたゆらは笑い返す。
「おまえこそ、ずいぶんと自信ありそうじゃねーか? まあ、わかるぜ? ここの耕太はよ、気の力こそやたらバカでかくても、その使いかたを知らねえ、いわばただの小動物……そしておれはといえば、いかにハンサムでナイスガイでも、ただの化け狐だ……〈葛の葉〉の、それも三珠家の当主さまともなれば、ただのニンゲンと化け狐の二人ごとき、簡単に始末できると思ってんだろ? だが……それがおまえの敗因だ。そう、おれが『化け狐』であることを忘れたおまえのな!」
「へー、そうなんだ?」
「そうともよ! さあ、見せてやろうぜ、耕太!」
「はえ?」
妖狐姿のたゆらが、耕太の肩をがっきとつかみ、そして、残る片手で、あご先を、そっと持ちあげてくる。
ゆっくり、顔を近づけてきた。
まぶたを閉じて。唇を、わずかに尖らせて。
「ちょっと待った! ナニをする気なの、たゆらくん!」
「覚悟を決めろ、耕太! おれだってやりたかねえ! ああ、やりたかねえさ! 虫酸《むしず》が走る! だけどな、こうするよりほか、もうねえじゃねーか。そうさ……おまえは、憑依《ひょうい》さえされれば、その気の力を使うことができるんだ。だから……」
あなたと合体したい――。
「あくえりおーん!? いやいやいやいや、待って、お願いだから待って、たゆらくん!やめて! 唇を尖らせるのはやめて! っていうか、べつに憑依ならキスしなくたってできるでしょ! ちずるさんがわざわざぼくにキスしてとり憑《つ》くのは、あれはただ単にちずるさんの趣味なだけであって!」
「あ」
耕太の顔面、わずか数センチのところで、たゆらの眼が、ぱちくりとまばたきをした。
「そ、そーいやそーだったな! 忘れてたぜ!」
「ど、どーして化け狐であるたゆらくんが、忘れるのさ……」
「お、おまえたちのせいだろ。おまえたちが、毎回毎回キスして憑依合体するから……つーかよー、おれ、いままで人にとり憑いたことねーしよー」
「そ、そうなの?」
「わ、悪いかよ! どんなことにだって初めてはあるんだからな!」
はあ、と耕太はため息をつき、そして、ようやく離れたたゆらに、告げる。
「残念だけど……たゆらくんとぼくが憑依合体することは、できないよ。たぶん」
「な、なぬ!? 初めてだからってバカにしてんのか!? 憑依童貞をバカにするのか!?」
「違うよ。ぼくの力が、あまりに強すぎるんだ」
眼を剥いたたゆらに、耕太はなるべく静かな口調でいった。
「だっていまのぼくの気の力は、神さまとおなじなんだもん……おなじく神さまだったちずるさんならともかく、たゆらくんじゃ、きっと耐えられない……と、思う」
ぐっ、とたゆらが唇を悔しげに引き結ぶ。
「だ、だったらどうすんだよ! おまえの気はたしかに神さまクラスかもしんねえけどよ、ちずるに憑依してもらうか、三種の神器とやらのレプリカを使わなきゃ、ちっとも闘いの役にはたたねえんだろ!? 相手は三珠家の当主だ! イチかバチか、おれがとり憑いてみるしかねーじゃねーか!」
「だいじょうぶだよ、たゆらくん」
耕太は、たゆらに微笑みかけた。
「ぼくにまかせて」
「まかせて、って、おまえ……」
「未弥さん!」
と、耕太は体育館中央の未弥へと向き直る。
「うん? なあに、耕太?」
「教えて欲しいんだ。ぼくと闘わなくちゃならない理由……ううん、どうして未弥さんは、ぼくに闘いを求めるのかって、その理由。どうしてそんなに闘いたいの? わざわざ、ちずるさんたちに手をだしてまで」
「教えたら、素直に闘ってくれる?」
「理由に、よります」
ふふ、と未弥は身体を小さく揺すって、笑った。
「そうだね……ねえ、人と人とがわかりあうために、もっとも有効な方法って、耕太、なんだかわかる?」
「人と人、が、わかりあうため……?」
「うん。答えは、セックスと、ケンカだよ」
「せ、せせ!?」
耕太の頬は、じんわりと熱くなってゆく。
「前にいったでしょ? わたしは、耕太とちずる、きみたちを見に、この薫風高校までやってきたって……だから、わかりたいんだよ、耕太のこと。まあ、べつに気持ちいいほうを選んでもよかったんだけど、〈葛の葉〉の資料によれば、耕太って意外とお堅いらしいから。となれば、痛いほうで、ね」
「そう、ぼくのこと、わかりたいから……だったら」
ふー、と耕太は、息を吐く。
ゆるゆると、長く、長く、息を吐く。
底の底まで絞り終えて、そして、すっ、と吸った。
どうじに、軽く握りしめるかたちで、上下に重ねていた両の拳に、力を通した。
そう、耕太は、自分の力を、『気』の力を、通した。
拳から、光が、伸びる。
耕太は、あの光の剣――天叢雲剣《あめのむらくものつるぎ》を、三種の神器のレプリカなしで、自分の力だけで、作りあげていた。
「……な」
なーにー!
たゆらの叫びが、体育館に響く。
「こ、耕太、おまえ、なんだそりゃ! どういうこった!」
「ごめん……ナイショにしてて」
「ナイショって、おまえ、バカ、びっくりさせるんじゃねーよ! 心臓が止まるところだったろ! つーか、それ、アレか? 三種の神器の力とかいう……」
「うん。なんとなく、できるようになっていたんだ。自分の力だけで」
「な、なんとなく、って……」
「どう、未弥さん。これでわかってくれた? ぼくはいま、自分自身の意志だけで、〈神〉の力を、素戔鳴尊《すさのおのみこと》の力を、使えるようになってる。このことを、三珠家の当主で、〈葛の葉〉の頭領である未弥さんは、確かめにきたんじゃないの?」
「やっぱりね、とだけいっておくよ、耕太」
言葉のとおり、たしかに未弥は、耕太が光の剣を作りだすところを目の当たりにしても、たいして驚きもしていなかった。
「耕太が気の力をコントロールできるようになっていることは、ある程度わかってた。だって、源ちずるとずっと肉体的接触がなかったのに、気を暴走させてなかったんだもん。ちずるだけじゃなくて、犹守望やそのほか、どの女性とも耕太は接触してなかった。自分で処理していた? それも違うよね。たしかに多少、自分で処理はしていたみたいだけど、とても気を抜ききれるほどの量は、足りてなかった……」
「え!? ちょ、ちょっと待って。どうしてわかるの、量とか、そんな?」
「家からでるゴミを調べれば、簡単に」
うーわー!!
耕太は両頬に手を当て、ムンクの叫びのごとき形相となる。右手には光の剣を持ったままだったため、右耳に高周波のような音が、きーん、と響いた。
「気の処理をしてないのに、暴走を起こしていない……となれば、もう耕太は気の力をコントロールできるようになってると考えるのが自然だよね。ということで、耕太が〈神〉の力を使えるのは、もうわかっていたのさ。さ……耕太」
未弥がわずかに眼を開き、薄く、黒目を覗かせてゆく。
「それじゃ、続きをわかりあうとしようよ」
未弥の身体が、かすかに前に傾いた。
耕太は、反射的に左手をひらめかせる。
左手から発生した不可視の盾――とてつもない強度を誇る八咫鏡《やたのかがみ》が、瞬時のうちに耕太のふところへと飛びこんできた未弥の攻撃を、防いだ。
未弥の手のなかには、奇妙にくねったナイフがある。
どうやらナイフにはなにかしら力がこめられているらしく、その切っ先が当たった箇所が、ばちばちと光の粒子を放っていた。
「無理だよ、未弥さん! この盾は美乃里が〈八龍〉の力をコピーして作った剣すら防いだんだ! 人の力じゃ、破れない!」
「だろうね」
未弥の笑顔とともに、灼熱が、耕太の肩を貫く。
「え……」
背後から? 攻撃? だれが?
振りむくと、床から槍が飛びだしていた。
槍は、斜め下から、耕太の肩をえぐっている。
受けたダメージを正確に認識したとたん、耕太の身体には痛みが走った。
耕太は悲鳴をあげる。
「き……汚ったねえぞ、コラ!」
横からたゆらが罵声を浴びせるのが聞こえた。
「相手は〈神〉なんだよー? か弱い人間としては、このぐらいのハンデはもらわなくっちゃ」
たゆらにいい返し、未弥は耕太を見つめて、くす、と笑う。
「いくら耕太の盾が強靱《きょうじん》だって、すべての方向を覆うことはできないでしょう? さあさあ、この体育館のなかには、耕太のために、たーっぷりといろいろなしかけをさせてもらったよ? その〈神〉の盾で、どう防ぐの? 耕太」
と、未弥が告げるとどうじに、こんどは耕太の真下からいくつもの刃が突きだしてきた。
足が、太ももが、貫かれる。
耕太の喉は、ありったけの叫び声を放った。
★
「あ、ああ、う、う……」
ずりゅん、と耕太の足を貫くすべての刃が抜け、下へと潜りこむ。
「うあっ!」
耕太は、また苦痛の叫びをあげることとなった。
ぼたぼたと、床に血が滴り、血だまりを作りあげる。
その血だまりのなかへ、たまらず、耕太は崩れ落ちた。
「耕太!」
たゆらの声が、耳に遠い。
「攻めろ! 守るんじゃなく、攻めるんだ! 盾じゃダメだ! 剣を振るえ! わかるか、おまえは罠《わな》にハマっちまったんだよ! ここは敵の領域で、どこから攻撃がくるのかわからなくて、っつーか、んなもん防ぎきれるか! だから攻めろ! 攻撃は最大の防御っつーだろ、とにかく攻めるんだよ! あの、学校ごと吹き飛ばしたやつで、ぶちのめせ!」
ふふ、と未弥の笑い声が、聞こえた。
やけに近くから聞こえたように感じられて、血だまりのなか、傷ついた足を両手で押さえていた耕太は、頭上を見あげる。
すぐ目の前に、未弥は立っていた。
「いいアドバイスだねー、たゆら。どう、耕太、ちゃんと聴いてた? 攻めるんだよ、攻め。ほらほら、その立派な剣、振るって。わたしのこと、早く倒さなくっちゃ、もっともーっと痛い思い、しちゃうよー?」
たゆらへ向けていた視線を耕太へと落とし、そして、にぃ、と歯を見せて笑う。
「もう、傷も治ったころでしょう?」
「ぜんぶ……お見通しなんだ……」
耕太は、左手から発生させた治癒の力でもって、こっそりと、とりあえず動けるぐらいにまでは足の傷を回復させていた。
「たー!」
立ちあがりながら、お望みどおりに右手の剣を振るう。
下から上へ、剣を使って光の軌跡を描いた。
が、この斬撃すらもお見通しだったのか、あっさりと未弥はかわし、後ろへと大きく、軽やかに飛び退る。
その着地を狙って、耕太は追った。
もう痛いのは勘弁だった。剣の威力は、当たればしびれる程度に弱めてある。申し訳ないとは思うが、なんとか気絶させて――。
突然、足下の床が、消失した。
あまりにも予想外のことに、耕太はまったく対応できず、その落とし穴へと落ちる。
めきょ。
股間から一直線に、頭のてっぺんに向かって、衝撃が駆けていった。
「あ、あ、あ……」
耕太は、両足を、ぴーん、とつま先までまっすぐに伸ばして、うめく。
あまりの衝撃に震えが止まらない身体で、視線を下に落とし、いま、自分に痛撃を与えたものの正体を、確かめた。
落とし穴のなかにあったもの、それは、いわゆる三角木馬であった。
耕太の両足のど真ん中、股間に当たる位置に、その三角形の頂点が、めりこむ。耕太の体温は冷えた。冷たい汗が、だらだらと流れた。う、動けない。とても動けない!
ごすっ。
「ひぶばっ!」
さらなる追撃が、耕太の脳天を直撃した。
がらんがらん、と落とし穴、三角木馬の横に落ちたのは、金だらいであった。どうやら、天井から落ちてきたものらしい。
「あはっ、あははっ、あははははははっ、あはっ、耕太ー、だいじょうぶー?」
とても楽しそうな未弥の声が、くらくらと視界が暗くなってきた耕太の耳に、届く。
て、て、て……手強い!
未弥は、いままで耕太が闘ったことのないタイプであった。
朔《さく》といい、美乃里といい、ある意味では正々堂々、正面から力押しでくるタイプではなく、彼女はいってみれば斜め後ろから、搦《から》め手を使って攻めてくる。
そして耕太は、その恐ろしさを、これから思うぞんぶん、味わうこととなるのだった。
4
はあ、はあ、と未弥が、軽く乱れた呼吸を整えながら、流れる汗を袖で拭う。
未弥の顔は、スポーツで心地よく汗をかいたかのように、うっとりと上気していた。
しかし彼女がその手に持つのは、テニスのラケットや、ラクロスのスティックなど、スポーツの道具では、決してない。
モーニング・スターであった。
いわゆる、鉄の棒の先にトゲつきの鉄球がついた、人を殴り殺すための武器である。
そのトゲの生えた鉄球のかたちが『星』を連想させるため、モーニング・スターと名づけられた殴打武器は、いま、血によって、紅く濡れ光っていた。
「嘘……だろ……?」
たゆらの、絞りだすような声が、体育館に響く。
体育館のなかは、すっかり様変わりしていた。
そこいら中の床や壁から、槍だの、剣だの、トゲトゲだの、回転のこぎりの歯だのが飛びだし、何ヵ所も落とし穴が開き、天井からは振り子状に飛びだした鉄球がぶらさがり、その他、足を滑らせるオイルや、逆にくっつける接着剤など、大小さまざまな罠が覗く。
そのすべてに、おびただしい血痕が残っていた。
そう、惨劇のあとが。
「なんで……なんでおまえが、そんなあっさりとやられちまうんだよっ! 耕太ァ!」
たゆらの叫びを、耕太は、床に前のめりに倒れたまま、聴く。
耕太は、未弥からの一連の攻撃をすべて喰らい、全身、血まみれとなって、体育館の床に力尽き、血だまりのなか、倒れ伏していたのだった。
「おまえ、朔だって、美乃里だって、なんだかんだで全員ぶっ倒してきたじゃねーか! なのに、なんで……なんでそんなガキにいいようにやられるんだよ! いくら三珠家の当主だからって、おまえ、〈神〉の力、使えるんだろ!? なんでやられる!?」
「ふふっ、ふふふっ……」
未弥が、笑う。
「なんでやられるのか、だって。わかる、耕太?」
わかってる。
耕太は、もうどこが痛くてどこが痛くないのか、ちっともさっぱりなズタボロ状態で、胸のなか、答えた。
とっくに原因ならわかっていたのだ。
簡単だった。
こちらの攻撃はまったく当たらず、逆に未弥の攻撃はおもしろいほどよく当たるからだ。
いかに耕太が〈神〉の力を使えようとも、当たらなくてはなにひとつ意味がない。
「一発だ! 一発当てればいいんだよ、耕太! 耕太ァ!」
たゆらの、必死な声が届く。
「だってさ、耕太。本当、いいアドバイスするよねえ、たゆらは。そのとおり、当てればいいんだよ。たった一発、それだけで立場は逆転する。わたしが保証するよ?」
「……予知」
ぼそりと、耕太はいった。
ぴく、と未弥が、身体を震わしたような、そんな気配がした。
耕太は、力の入らない身体をどうにか動かし、頭をあげ、見あげる。
未弥は、口は微笑みのかたちのまま、眼を耕太へ向かって大きく見開いていた。
「さすが耕太……いつ?」
「タオル……あと、ここの、罠……未弥さん、罠を動かす気配、ない……」
「な、なに? なんだ? 予知? なぬ?」
たゆらが戸惑っているのが伝わってくる。
さきほどの会話、未弥は、耕太に「いつわかったのか」と尋ね、耕太は「あのラーメンちずるのあと、水飲み場で頭を濡らした耕太に、まるでそうなることがわかっていたかのように未弥がタオルを持ってきた件、そして、体育館の数々の罠が、未弥の操作ではなく、まるで耕太がハマるのがわかっていたかのように自動的に発動していた件、そのふたつでわかりました」と答えた。
「あと……ぼく……素人……」
耕太は、無理矢理に身体を起こす。
がくがくと、まるで生まれたての子鹿のように震えながら、いった。
「素人の攻撃、かえって、達人は避けづらいって……なのに、未弥さん、避けた……」
それは、耕太が格闘技の本を読んで知った理屈だった。
素人のやけっぱちな攻撃は、格闘技のセオリーから外れているぶん、ずっとその格闘技の練習をくり返してきたプロには、逆に対処しづらいのだという。これを読んで、耕太は、どうして自分が朔や美乃里に勝てたのか、わかったような気がした。
戦闘の達人である朔や美乃里には、ド素人な耕太の攻撃は、逆に避けづらかったのだ。
だから当たった。
そして、耕太の攻撃はド素人ながら、〈神〉の力によって喰らえば致命傷になりうる威力を持っていた。それがあるから、おそらく耕太は彼らに勝てたのだろう。つまり、裏を返せば、下手に耕太が闘いの特訓なんかしてたら、負けていた、ということなのだが。
でもって、未弥だった。
なぜに未弥は、朔や美乃里ですら喰らった攻撃を、かわし続けることができたのか? あらかじめわかっていたからだ。
耕太の動きがすべてあらかじめわかっていたから、攻撃はすべてかわせたし、また、逆にすべて罠にかけることができたのだ。
「そう、正解!」
きっぱりと、未弥がいった。
「まあ、正しくは、予知じゃなくて、『超予測』というべき力なんだけどね。というのもね、耕太。わたしはね、人物をある程度見続けることで、それから先、相手がどう動くのかが、かなり正確なところまで読めるようになるんだよ。こんな話を知ってるかな? 天気予報なんてない時代の漁師はさ、空の色、風の音、波の動き、空気の流れなんかで、かなり正確に天候を読んだそうだよ。わたしもそれとおんなじ。さまざまな情報を無意識のうちに頭のなかで統合して、答えを導きだせるんだ。天候ならぬ、人の動きをね」
「ま、まてよ……オイ……」
かすかに声を震わせながら、たゆらがいう。
「つまり、てめーは、耕太がどう動くのか、すべてわかってる、ってことか?」
「すべてっていうか、ほとんどはね」
「そ、そんなもん、勝てるわけねーじゃねーか……! どこにどう攻撃するのかわかって、どこにどう避けるのかもわかってるなんて、そんなの、反則じゃねーかよっ!」
いや、勝てる。
耕太は、ようやく膝立ちになって、未弥を睨むように見つめながら、思った。
どうすれば未弥に勝てるのかは、もうすでにわかっていた。
未弥の能力が予知であろうと見ぬいた時点で、その対処の方法も、一緒にひらめいていたのだ。
だけど――。
「と、たゆらはいってるけど? どうなの、耕太?」
細めた眼で耕太を見つめ返しながら、未弥が楽しげにうかがってきた。
「わかっているんじゃ……ないの……? 未弥さん」
「ところがどっこい、ぎっちょんちょん。さっきもたゆらにいったとおり、耕太がどう動くのか、そのすべてが一〇〇パーセント読めるわけじゃないんだなあ。ほら、耕太がわたしの人間予報能力を見ぬいたときにも、わたし、驚いたでしょう? 予測だと、耕太が見ぬくの、もうちょっと耕太のことを痛めつけてからだったんだよねー」
「こ、耕太!?」
たゆらが割って入ってくる。
「おまえ、もしかして、あんのか!? そのガキをぶっ倒せる手、歩く人間気象庁に勝てる方法が、なにかあんのかよ!?」
ある。
あるけど、それは――。
「残念でしたー。たゆら、その方法はきみがいると使えないんだなあ、これが」
うつむき、ぐぐぐっ、と奥歯を噛みしめていた耕太は、はっ、と顔を見あげた。
「な……に?」
未弥は唇の端を歪めながら微笑み、たゆらは、呆然とした表情を耕太にぶつけてくる。
「耕太……それはどういうこった……?」
うつろな眼で見つめられ、耕太は唇を噛んだ。
「ひとつ……ひとつだけ、方法を思いついたんだ。でも、それは」
「ごちゃごちゃいわねーで、さっさと話せ! なんだ、その方法っては!」
「どう予測しようが、避けようのない攻撃……つまり、この体育館をすべて埋めつくすぐらいの、強く、広い範囲に渡る攻撃なら、いくら未弥さんが避けようとしても、きっと」
「あ……」
たゆらの口が、ぽかんと開く。
「な、なるほど。アレか、おまえが美乃里とやりあったとき、学校の校舎ぜんぶを吹き飛ばしたやつの、縮小版か。そーかそーか、いや、うん、イケるんじゃね? いーじゃねーか! 体育館ごと吹き飛ばしちまえば、どこに隠れようが、倒せるってわけだ! よし、いけ! 耕太! やっちまえ!」
「うん、一緒に逝こうね、たゆらっ」
未弥の無邪気な声が、空気をしん、と沈ませた。
たゆらが、未弥のほうを向く。
「……あん?」
「あれ、まだわかってない? たしかにたゆら、きみのいうとおりだよ? 体育館ごと吹き飛ばされれば、たとえ床下に隠れようが、体育倉庫に逃れようが、わたしはやられちゃうよね。でも、それはたゆら、きみもおなじことでしょう? つまり、わたしがやられるときは、たゆら、きみもやられる。あははっ、もうわかった? どうしてわたしが、わざわざたゆら、きみをこの体育館へとつれてきたのか! わたしの盾、源たゆらくん!」
未弥は、容赦のない笑い声をたゆらへと浴びせた。
あざ笑いのなか、たゆらは、静かにまぶたを閉じる。
そのまましばらく黙って立っていたが、やがて、ゆっくりと眼を見開いた。
「――耕太」
まっすぐに、耕太を見つめてくる。
「おれは、そんなに頼りないか?」
「た、たゆらくん……違うんだよ。剣の状態で振るうのならともかく、広範囲にわたって力を放出するときは、ぼく、うまく威力を調節する自信がないんだよ! だから」
「んなこた訊いてねえ! おれは、そこのガキより弱そうに見えるのかって訊いてんだ!」
未弥を指さし、いった。
「いや、弱えだろうよ! 闘えば負けるだろうな、ウン! だけどよ、体力なら、耐久力なら、人と妖だぞ!? おなじ攻撃を喰らったって、おれだけやられるってこたぁねーだろーがよ! むしろ逆だ! おれは耐えて、あいつはバタンキュー! 違うか!」
耕太も、そして未弥も、眼を丸くする。
「やれ、耕太! 思いっきりな!」
たゆらが、身を守るように、×の字にクロスさせた両腕を顔の前に置き、ぐっ、と両足をふんばった。狐の耳が、しっぽが、ぴん、と伸びる。
「たゆらくん……」
「おれをだれだと思ってんだよ。あのちずるに、ウン十年とどつかれてきた男だぜ! 耕太、てめーごときの攻撃で、くたばったりするもんかよ! あとそこのガキも、腐っても三珠家の当主だ。死にやしねーだろ! ほれ、早く! とっととちずるたちを助けにいこうぜ! 桐山だって澪ちゃんと一緒に、泣いてんだろーしな!」
耕太は、未弥を見つめた。
ちょうど、未弥もたゆらから耕太へと視線を移すところだった。
強ばった笑みを浮かべる未弥と、眼があった。
耕太は、うなずく。
「ううううううううううううううう、やー!」
立ちあがり、天叢雲剣を、両手で持って、思いっきり振りあげた。
「だー!」
力を注ぎこんだ瞬間、天を向いた光の刀身が、一気にふくれあがる。
光は、体育館に、満ち――。
★
「たゆらくん、たゆらくん! しっかりして、たゆらくん!」
「あ……?」
さんざん揺さぶって、ようやくたゆらは、薄目を開けた。
「あ……ああ? 耕太? どした?」
「よかった……いま治してるからね」
たゆらの視線が、耕太の顔から、いまたゆらを治療するために向けていた耕太の左手へと向く。そのまましばらく黙って治療されていたが、やがて、すこしは回復したらしく、たゆらは身を起こした。
あたりを見つめ、ぽつりとつぶやく。
「ヒデエな……」
たゆらの言葉どおり、体育館のなかは、すっかりぼろぼろとなっていた。
床から、壁から、天井から、耕太が放った天叢雲剣の威力によって内側から強く圧迫されたために、ひしゃげ、外に向かってふくらんでいる。直線が支配していたはずの体育館のデザインが、いまは曲線だらけとなっていた。未弥がしかけていた数々の罠から、バスケットボールのゴールにいたるまで、体育館に存在していたもの、すべてがだ。
「よくおれ、生きてたもんだ……っと、あのガキはどうなった? 死んだか?」
「ごめんね、たゆら。まだ生きてて」
苦笑しつつ、未弥はいった。
未弥はすでに耕太によって治療ずみだった。もっとも、格好までは治せず、ツインテールだった髪の毛はほどけていたし、制服だってところどころ破けてしまっていたが。
「お先に治してもらったよ? わたしのほうがダメージ、大きかったからさ」
「ったりめーだ。鍛《きた》えかたが違うんだよ」
ふふっ、と未弥は笑い、たゆらも、へへっ、と笑った。
「未弥さん……教えてくれる?」
耕太は、たゆらの治療を続けながら、未弥に尋ねる。
「ちずるさんたちの居場所はもちろんだけど、どうしてあそこまで本気になって、ぼくと闘いたがったのか。よかったら、それも教えてくれると、ぼく、嬉しいんだけど」
「はいはい、敗者は黙って勝者に従いますよー。でも、べつに驚きの真相なんてないよ? 前にもいったとおり、わたし、三珠家の当主になっちゃったからさ。〈葛の葉〉の頭領格としては、今後の組織の動向を決めるためにも、素戔鳴尊《すさのおのみこと》の転生体である耕太と、奇稲田姫《くしなだひめ》が宿るちずるのことは、きちんとわかっておかなくちゃならなかったんだよ。で、いったでしょ? 『わかる』ために有効な方法」
「ケンカと……」
「そ。セックス。だから、本気で闘いたかったの。ただそれだけ」
「本当に、ただそれだけ?」
「え?」
未弥が、耕太を見た。
耕太は、じっ、と見つめ返した。
やがて、ふふっ、と未弥が眼を糸のように細めて、笑う。
「耕太も……使えるの? わたしの『超予測』」
「ううん。ただ、なんとなく、そう思っただけ」
「なんとなく、ね……じゃあ、この件はノーコメント、ということで」
ん? んん? とたゆらが、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、耕太と未弥を交互に見やった。
「なんだ? 耕太、おまえ、またあらたなハーレム候補を見つけたのか?」
「なな、なにをいってるのさ、たゆらくん!」
あははっ、と未弥は声をあげて笑う。
そして、ぱちん、と小気味よく親指を鳴らした。
どうじに、凄まじいエンジン音と風切り音とが、あたりに響く。
「な、なに? なんなの?」
耕太とたゆらは驚き抱きあって、音のした方向を見た。
ぎ、ぎぎ、と苦労した様子で、体育館のドア、校庭へと続く出入り口が、開く。
開いたのは、〈葛の葉〉のものだろう、黒服の男だった。
そして、校庭で派手に風を巻きあげていたのは、真っ黒なヘリコプターだった。
「さあ! いきなよ、耕太、たゆら! あれにのれば、あとは自動的にちずるたちの元へと連れていってくれるよ! さあさあ、早く早く! 急がないと、生徒たちがきちゃうよ? 見られないうちに、のりなよ!」
もう充分に目立っているような気もしたが、耕太とたゆらは未弥の指示を受けた黒服の男たちに押されるようにして、プロペラから襲いくる風圧をのりこえ、真っ黒なヘリコプターへとのりこもうとした。
のりこみかけて、耕太は、気づく。
「た、たゆらくん、それ……」
「うん? ん……おおっ!? おおおおっ!?」
たゆらのしっぽが、二本に増えていたことに。
その銀毛のしっぽを見つめ、たゆらが、感慨深そうに、いった。
「覚悟……あのとき玉藻さんがいってたのは、このことだったのかよ……」
「え?」
「話はあとだ! 早くいこうぜ、ちずるたちのところへよ!」
「う、うん!」
ヘリコプターにのりこみ、座席に座る。
すぐさま、ヘリコプターは浮きあがった。
すさまじいエンジン音が耳をつんざくヘリコプターの機内で、二本になったしっぽを眺めてやたら嬉しそうなたゆらの横、耕太は窓から、変形した体育館を見下ろす。
ぼくと本気で闘いたかったのは、お兄さんのためでもあったんだよね、未弥さん?
そう、心のなかで、尋ねた。
どうして三珠四岐が〈葛の葉〉にいるあいだ、あれほどの能力を誇る未弥が、まるで存在していないかのごとく、無名だったのか。
それは、兄を越える能力を発揮することを、未弥がためらったからではないのだろうか。
兄妹、か……。
耕太は、曇り空のなかを滑るように飛ぶヘリのなか、思った。
自分の妹、三珠美乃里のことを。
[#改ページ]
六、ラストダンスは私に
1
ヘリが進むなり、なぜか、たゆらの表情は、曇っていった。
「ど、どうしたの? たゆらくん」
「いや……まさか……だが……」
いくら耕太が尋ねても、口元を押さえてもごもごとつぶやくばかりで、要領を得ない。
そうこうするうちにも、耕太とたゆらをのせたヘリは、野を越え山を越え、街を越え村を越え、川を越え谷を越え、雪山へとたどりついていた。
いよいよ目的地についたらしい。
ヘリが、雪原へと降りてゆく。
「やっぱりか!」
外にでたとたん、たゆらが叫んだ。
すぐにその理由はわかった。
遠く、雪原の先に、『人間不信』とだけ書いて消息不明となったはずの雪花が、あの鎖帷子《くさりかたびら》が網タイツにしか見えないセクシーくのいちの姿で、待っていたからだ。
雪花だけではない。
まわりには、雪女だけで構成された、玉藻忍軍の姿もずらりとならぶ。
と、いうことは……。
「ここって、玉藻さんの、山?」
背後で、耕太とたゆらを降ろしたヘリが、風を巻きおこしながら飛び去っていった。
派手に舞いあがる雪煙のなか、雪花が足早に迫り、耕太の手首をつかむ。
「遅かったですね」
「や?」
「さあ、お急ぎを!」
「ややや?」
★
みんな、いた。
浮かんだ疑問を尋ねる余裕すらなく、耕太とたゆらは、雪花率いる玉藻忍軍によって、雪山に張られた結界の奥、玉藻が営む温泉旅館、〈玉ノ湯〉へと運ばれた。
その〈玉ノ湯〉に、みんな、いたのだ。
桐山が、澪が、天野が、その他、耕太たちがいまだ全容を知らぬ学校の妖たちが、全員、〈玉ノ湯〉のハッピを着せられて、旅館にいたのだった。
「いらっしゃいま――なんだ、おまえらか」
玄関で、対お客さん用の挨拶をしようとしていた桐山が、顔をしかめる。
「なんだ、おまえらか、じゃねーよ……なにやってんだ、おまえらはよ?」
と、耕太とおなじく口あんぐりとなったたゆらが、問いかけた。
「見てわからないのか? おれたち、手伝わされてる。ちなみに熊田さんは、また冬眠した。澪も危なかったが、がんばってる。澪、エライ」
「いや、エライっつーか、なんつーか、だから、どうして手伝ってるんだよ?」
「なにいってる? 小山田のせい、違うのか?」
「ぼ、ぼくのせい!? なんですか!?」
質問の答えを聞く前に、耕太の腕は強く引っぱられた。
「さあ、早く、耕太どの!」
なぜだか、妙にせっぱ詰まった顔で、雪花は耕太の腕を引っぱってゆく。
旅館の廊下を、ずんどこずんどこ、どこまでも。
★
旅館の奥、離れの位置にあった部屋の前で、ようやく耕太の腕は解放された。
「どうぞ、なかへ。みなさまがお待ちです」
「みなさま……?」
あいかわらずなにがどうなっているのかちっともわからないまま、とりあえず、雪花にうながされて、耕太は部屋のふすまを開く。
「あ」
「お?」
耕太とたゆらは、声をあげた。
「あらあら〜。耕太さん、意外とてまどったのねえ」
なかにいたのは、頭に白い手ぬぐいを巻いて、身体にはやはり白い割烹着姿をした、玉藻だった。
「た、玉藻さん、あの」
「さあさあ、ふたりがお待ちよ〜」
「ふたり……?」
ちずると望のことだろうか?
玉藻に背を押されて、耕太はさらに奥のふすまを開く。
「あ……耕太くん……」
その声を聞いたとたん、耕太の胸が、熱いもので満たされた。
「ち、ちずるさん!」
会えた。
ようやく会えた!
胸のなかどころか、視界までもが、みるみるうちに熱いものによって満たされてゆく。
ぐすっ、と鼻をすすりながら、耕太は見た。
すっかり精も根も尽き果てたといったように疲れ切った様子で、しかしなにかをやりとげたように満ち足りた微笑みを浮かべながら、ふとんに寝かされていたちずるの姿を。そんなちずるのまわりには、玉藻とおなじく割烹着姿をした望、蓮、藍、そして砂原の姿もあって――それに――。
え?
耕太は、眼をこすった。
涙を拭いとって、もういちど、見る。
耕太の後ろで、たゆらが、「えええええええ!?」と驚きの声を発した。
ぐびりと、耕太は喉を鳴らす。
「そ、そ、それ、それ……は……」
「うん」
ちずるが、満面の笑みを浮かべて、その胸に抱いていたものを、耕太に見せてきた。
「だあ」
と、それが、耕太を見て、笑いながら、声をあげる。
それは、ちょぽちょぽっとした金髪を生やして、とってもちっちゃくて、そして、なにより、狐の耳を生やしていた。
つまり、赤ん坊だった。
やけにちずるの面影のある、赤ん坊だった。
「はい、パパ……女の子だよ」
まさしく慈母のごとき笑顔で、ちずるがいった。
ちずるの胸に抱かれる赤子は、きゃっきゃっ、と笑った。
耕太は、ただ、立ちつくした。
そりゃあもう、立ちつくすよりほかに、術《すべ》なんてなかった。
パパ?
ぼく、パパ?
2
「だから、すべての原因はあの、百八発えっちなのよ」
玉藻が、お茶をすすりながら、語る。
「いかにちずるさんの精神世界内のできごとだったとはいえ、ほら、あのときの耕太さんって、ほとんど神さま状態だったでしょう? その、神さまの、とーっても濃ゆい気を、百八回も注ぎこまれてごらんなさい。さすがのちずるさんでも、耕太さん中毒になるわ」
「ぼく中毒……ですか?」
「そう。耕太さん中毒」
にっこり、玉藻が微笑んだ。
「薬とおなじよ。適量なら薬になってもね、それ以上に与えられたら、どんなものだって毒になってしまうものでしょう? 気もおんなじ。ただでさえ耕太さんの気は強いのに、それをあれだけ注がれちゃあ……ちずるさんは肉体的には〈神〉だったからまだ耐えられたけど、それももう、ぎりぎり限界。あれ以上耕太さんの気を受けたら、きっと壊れてしまっていたでしょうね」
ぶるり、と耕太は震える。
そ、そんな危ない状態だったなんて!
「ところが、ちずるさんったら、まったく自覚症状はなかったみたいなのよねえ。でも、無意識のなかでは、これ以上耕太さんの気を受けることを、拒否した」
「だ、だから、あんなに……恥ずかしがりに?」
「そう。でも、耕太さん、触っちゃったりしたんでしょう? 軽い接触でも、気は染みこむものだから……どんどん悪化していっちゃって。最後には、きっと防衛本能なんでしょうねえ、耕太さんに対する羞恥心を、もう見るのも耐えられないくらいに強めたのよ」
がくりと、耕太は両手を畳の上について、うなだれた。
「ぜ、ぜんぶ、ぼくのせいだったなんて……」
「そんなに自分を責めないの。知らなかったんだから、しかたないでしょう? それに、もう危機は脱したんだから」
「え」
「このままじゃ、ちずるさんのなかに注ぎこまれた耕太さんの気がどうにかなるまで、あなたたち、いちゃつけなかったでしょう? だから、耕太さんの気を、どうにかしたのよ」
「も、もしかして、ですか?」
「そのもしかして、よ。ちずるさんの身体から、耕太さんの気を分離したの。ところが、耕太さんの気と、ちずるさんの気ったら、やけにがっちりと絡みあっちゃっててねえ。ちょっと簡単には引き離せそうになかったのよ。さすがは耕太さんとちずるさん。気ですらも愛しあってるというか、気ですらもスケベというか」
「あ、愛しあってるほうで、お願いします!」
「いいわよ? で、その愛しあってるふたりの気を、わたしだけじゃすこしばかり不安だったから、砂女《すなめ》ちゃん……〈御方さま〉ちゃんの力も借りて、ここ、わたしの本拠地、温泉旅館〈玉ノ湯〉で、妖術の粋を尽くして、どうにか分離したと、そういうわけ」
「お、〈御方さま〉、ですか!?」
「そうよ? 見たでしょう、さっき」
そういえば、たしかに砂原先生の姿は見た。
しかし、ずっと姿をあらわしてくれなかった〈御方さま〉が、このちずるの危機に、手を貸してくれたなんて……。ちなみに、八束と乱は、気を分離する施術の最中、万が一にも邪魔ものが入らないよう、守ってくれていたらしい。
オトナって本当、よくわからないや。
ふー、と耕太は、息を吐く。
「そして、分離されたぼくたちの気が……」
真横を向いた。
耕太と玉藻が向かいあって座布団に座る横では、ふとんに入ったちずると、かごに入った赤ん坊が、ふたりならんで、静かに寝息を立てている。
いま、薄暗い室内には耕太と玉藻、ちずる、そして赤ん坊の、四人だけだった。
ほかのみんなは、玉藻の初孫祝いということで、宴会場にて飲めや歌えの大騒ぎをしているはずである。あまり九尾湯《くびとう》は飲みすぎないほうがいいと、耕太は思うが。
「そう。あのちずる子ちゃん。さすがに〈神〉の気ともなれば、人格すら持つのねえ」
すやすや眠る赤ん坊に、眼を細めながら、玉藻がいった。
「ち、ちずる子?」
「あら、じゃあ、耕太子ちゃんがいい?」
「いえ、それもちょっと」
「早く名前、決めなくっちゃね、お父さん?」
さくっ、と胸に突き刺さった玉藻の言葉に、うぐ、と耕太はうめく。
お、お父さん、か……。
現実世界ではなにもしていないうちに、ぼく、お父さん……。
「ああ、そうそう」
玉藻がいった。
「ちなみに、わたしにちずるさんの異常を教えてくれたのは、あの子なのよ。三珠未弥。三珠家のお嬢ちゃん」
「え……」
「まあ、そのことを利用して、耕太さん、あなたの力を測ったのも、あの子なんだけど。だから、許してあげて、耕太さん。身体の傷は、〈玉ノ湯〉でじっくり治せばいいし」
「は、はあ……」
未弥が、ちずるの異変を利用したのだということは、さっき聞いていた。
耕太とたゆらにはまったく教えず、望、蓮、藍や、熊田、桐山、乱など、ほかの全員にはちずるの異変と、気を分離するために色々と手伝って欲しいのだと告げ、例のヘリを数台使って、この〈玉ノ湯〉まで連れていった。
ちずるをふくめたみんなに、「耕太とたゆらはべつのヘリで向かう」と嘘をついて。
あとは、ちずるたちをさらったと耕太に思わせておいて、闘ったというわけだ。
けっきょく耕太は、すっかりあの少女にしてやられたということだろうか?
まあ、いいか。
耕太は、座布団から立ちあがる。
玉藻が見守るなか、自分の愛しい恋人と、彼女と自分の気が融合して生まれた赤子の元へ、向かった。
「玉藻さん……」
「なあに、耕太さん」
「ぼく……パパになっても、いいんでしょうか」
耕太は、ふたりの頭のそばに腰をおろし、その安らかな寝顔を見つめながら、尋ねる。
返ってきたのは、くすくす、という笑い声だった。
「父親なんて、だれかに許可されてなるものじゃあ、ないでしょう? 耕太さんは? どうなの?」
「ぼくは……」
耕太は、ふたりに向かって、そっと、指先を伸ばす。
ちずるは、ふとんからだしていた手のひらに指をのせると、きゅっ、とつかんできた。
赤ん坊も、耕太の指を、その小さな手で、しかし強く、つかんだ。
耕太は、微笑みながらうなずく。
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あ・と・が・き
なんでだろ、たゆらだよ。
えー、当作をしっかりと全巻に渡って読んでくださっている素晴らしき純愛ファンのみなさまならばご存じかとは思いますが、かのこんはしばらく、『ちずるさん危機一髪』シリーズと銘打ったシリアス路線でございました。大変でした。ええ、作者大変でした。
その反動から、つぎの巻は弾けようと、そう作者は心に決めておったのですが。
なんでだろ、たゆらだよ。
べつにたゆらくんが主役の話じゃないんですが。
いつもどおり、彼はナイスガイで、ちょっぴりヘタレで、やっぱり報われないんですが。
話の中身自体も、耕太とちずるがあらたな純愛絵巻への第一歩を踏みだすという、ある意味ではかのこんのキーポイントとなるべき内容なはずなんですが。
新キャラの未弥も狐印《こいん》さんのイラストふくめ、いいキャラになったと思うんですが。
書き終えて感じたのは、「なんでだろ、たゆらだよ」でした。
読み終えてみなさんは、どう感じられましたでしょうか?
ってゆーか、たゆらって本当にいいやつですよねえ。いつか報われればいいなあ……と、ひとごとのような口調でつぶやいておきます。作者のくせに。
さて、このかのこんですが、アニメになりました。
みんな観た? おもしろかったろ? 好きだろ? ぼくも好きさ! 愛してるゼ!
ところが問題がひとつ、起こりまして。
わたし、アニメの影響、ダダ受け。
キャラの口調や行動がアニメに寄る。寄ってしまう。寄っちまうンだッ!
とくにユッキーヤバス。耕太も微妙にヤバス。小説の耕太くんって、アニメの耕太くんより微妙に男らしいんだなあ、これが。
最初はマズイなー、と思ってなるべくアニメの影響を除こうと努力してみたんですが、諦めました。アニメと漫画と小説の融合。それがかのこんなのさ。なので小説を読むときには、みんな、頭のなかでアニメを動かすといいと思います。脳内アニメーターさんに描かせて、脳内声優さんに演じさせなよ! だって作者はそうして書いてるんだぜ!
じゃ、みなさん、またつぎの巻で。
くれぐれもお身体にはご自愛ください。わたしも自愛ます。じあいじあーい!
平成二〇年 狐印さんのかのこん画集『foxmark』を眺めながら 西野かつみ
2009年1月31日 初版第一刷発行
[090314]