かのこん 11 〜アイはぼくらをすくう!〜
西野かつみ
一、誰がために鐘は……?
『九尾《きゅうび》の狐を退治しようと思ったら、トナカイにされていた』
なにをいっているのかわからないと思うが、土門《つちかど》家の当主である少女、土門|八葉《はちよう》自身もなにがなんだかわからなかった、超スピードだとか幻術だとか、そんなチャチなものでは断じてない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わった……。
九尾の狐の登場は、じつに突然だった。
八葉の率いる土門家が属する退魔の組織、〈葛《くず》の葉〉
その〈葛の葉〉が、永きにわたる宿願であった〈八龍《はちりゅう》〉奪取のため、クリスマス・イブの夜に、私立|薫風《くんぷう》高校の校舎を包囲、侵攻し、占拠を果たしていたとき、突如、九尾の狐はあらわれたのだ。
出現場所は、〈葛の葉〉が占拠した学校から、橋ひとつへだてた地点にある街。
その街の、ネオンきらめく繁華街のど真ん中に、九尾の狐は配下である雪女たちを多く引き連れて出現し、堂々と練り歩きだしたのであった。。
いきなりの彼女の登場に、〈葛の葉〉は震えあがった。
〈葛の葉〉は、退魔の組織としては国内でも有数の力を持つ。
だが九尾の狐は、国内どころか世界ですら一、二を争うほどの超|大妖《たいよう》なのだ。突然の超大妖の出現に〈葛の葉〉が震えあがり、恐慌状態に陥ってしまったとしても、責めることはできないだろう。
九尾の狐。正式名称、白面金毛《はくめんこんもう》九尾の狐。
名を、玉藻《たまも》という。
愛称はタマちゃんである。もっとも、それはあくまで最近になって本人がつけた自称であって、彼女を『タマちゃん』などとフレンドリーに呼べるものなど、知人にも客にも配下にも家族にも、だれひとりとしていなかったのだが。
過去に三つの国を滅ぼし、我が国ですらも一度は滅ぼしかけた、まさに傾国の美女。
現在は山奥にある妖怪専門の温泉宿、〈玉ノ湯〉にて、傾国の美女女将として生きる。ちなみにこの『傾国の美女女将』も、玉藻の自称であったりした。
こんな九尾の狐と〈葛の葉〉のあいだには、とある因縁があった。
とくに、トナカイになった少女、土門八葉が当主を務める土門家とは、深く、重く、強く――ゆえに、突然の九尾の狐出現によって揺れる〈葛の葉〉のなかで、八葉はいち早く動くことができたのであった。これまでの因縁に決着をつける好機と思ったからこそ、八葉は独断で動き、玉藻の元へと向かうことができたのである。
退治するんだっ。
ほかのだれでもなく、土門家が――土門家の当主たる、このわたしがっ。
弱冠十一歳の少女としては立派すぎる決意を胸に、死をも覚悟の上で、土門家当主、土門八葉は、副官のみをともない、白面金毛九尾の狐、玉藻の前へと立った。
で、剥かれた。
え?
このとき玉藻は、クリスマスの飾りもにぎにぎしい繁華街の、その店内ではなく道路のど真ん中で、派手派手しく宴をくり広げていた。どん、と道路にテーブルをならべ、各種ボトルやつまみを広げて、玉藻本人は中央の椅子にひとり座り、まわりに配下の雪女たちをはべらせて、ワイングラスを傾けていたのである。
その玉藻の格好もまた、宴に負けないほどに派手派手しいものであった。
橙《だいだい》と朱の入り混じった着物を、なんとも婀娜《あだ》に着崩していた――からだけではなく、九本のしっぽをあたりにしゅるしゅると伸ばし、金色の髪がまばゆい頭部からは、狐の耳をぴんと生やしていたのだ。
つまり、玉藻は正体をまったく隠していなかったのである。
案の定、パーティー会場である道路両脇の歩道では、通行人が鈴なりとなっていた。
だが、その眼にはみな一様として光がない。玉藻が自然とかもしだす妖気が、全員をすっかり幻惑していたからであった。なかには一般人だけではなく、監視役の〈葛の葉〉のものも潜んでいたのだが、おなじくやられていた。さすがは傾国の美女女将であった。
もちろん、このぐらいの光景でおののく八葉ではなかった。
いや、本当はちょっぴりだけひるんだが、すぐに気を取りなおし、いざ土門八葉必殺の奥義をぶつけんと、先手必勝、自分の口元を覆っていた×印のマスクをずらそうとした。普段から言葉を発さず封じることで、溜めこんであった言霊の力を、いまこそ――。
「あらん……かわいいお嬢ちゃんだこと」
しかし玉藻は、マスクをずらした八葉を見るなり、とろんと微笑んだ。
そして、眼を笑みのかたちに細めたまま、こう告げたのだった。
「歓迎するわあ……わたしたちのクリスマス・パーティーに、ねっ」
その言葉が合図だったかのように、玉藻のまわりにいた雪女たちが、いっせいに八葉と、横にいた副官の下へとおしよせてくる。
やーん、かわいー!
気がついたら、八葉は着ていた服を剥ぎとられていた。
土門家の正装である衣服、一式をだ。
一見すると魔女が着るローブのような、フードがついた丈の長い着物で、白を基調にデザインされており、なんだか魔女っ子みたいで、ひそかに八葉はお気に入りだった着物を、雪女たちはよってたかって脱がした。
代わりに着せたのが、角つきのトナカイの着ぐるみであった。
焦げ茶色の着ぐるみに、顔以外の両手両足胴体を包みこまれて、八葉は思う。
どーして。
なんでこんな。トナカイに。あ、サンタさんか。じゃあ、プレゼントは?
と、浮かびあがりまくりんぐな疑問はさておき、八葉はともに襲われたはずの副官を探しにかかった。自分がトナカイならば、彼女はどうなったのだろうか。……ソリか!
違った。副官は、一升瓶をラッパ呑みさせられていた。
いや、『させられていた』というのは正しくなかった。どうみても彼女は自分でラッパ呑みしていた。いつもは頼りになる、眼鏡姿もきりりと凛々しい副官が、まわりの雪女たちの手拍子とかけ声とをバックに、おのれの手で瓶を傾け、喉を鳴らし、唇から透明な液体を滴らせてゆく。
やがて、副官であったはずの彼女は、一升瓶を抱きしめ、ぐーすかぴー、夢のなかへ。
そして、九尾の狐を退治しにきたはずの八葉は、ご丁寧なことに鼻の頭も赤く塗られたトナカイ姿で、道路のど真ん中にならぶテーブル席のひとつに、そのパーティーの主役と向かいあうかたちで座らせられていた。
トナカイの手に、フライドなチキンを握らされて。
そう、チキンであった。
いかな妖術であろうか、この寒空の下、いまだ揚げたて熱々なチキンであった。
八葉の手は震える。心も震える。自分ではわからないが、もしかしたら瞳孔までもが、がくがくぶるぶる。寒いからではない。トナカイの着ぐるみはけっこう暖かい。
八葉は、魅せられていたのだ。
チキンに。フライドなチキンに。揚げたて熱々、ジューシーチキンに。
震えたまま、チキンを口元へと運ぶ。運んでしまう。もはや自分の意志はない。勝手に手が動き、口は開く。すでに×印のマスクは下げてあった。これもまた勝手に。
あ、あーん……。
かぷっ。
「〜〜〜〜〜〜!」
なんたるちあ、なんたるちあ!
言葉にならなかった。
かぶりついたとたん、衣はぱりっと裂け、なかから熱々のお汁がじゅわっと飛びだし、はふはふ、熱さをこらえて、いや、もはや本能の命令に逆らえず、がぶっと歯を突きたてると、弾力がありながらもやわらかな肉本体が口のなかへと飛びこんで、スパイシーかつ甘辛いタレの味が油とともに口中に満ちて……あばば、うばば、あじすあべば!
はっ。
「〜〜〜〜〜〜!」
八葉は我に返って、首を真横にぶんぶんぶんと振る。振りまくる。
なんたるちあ、なんたるちあ!
そう、土門家当主、土門八葉の十一年の生涯において、フライドなチキンなるものを彼女が食したのは、これが初めてであった。土門家の当主となるべく育てられた身では、ジャンクフード類を食べることは許されなかったのだ。食べることが許されたものといえば、脂っ気のない精進料理ばかり。観ることが許されたテレビは、国営放送ばかり。
まったく、これではひとたまりもない!
免疫がないところに揚げたて熱々のフライドなチキンなどつかまされれば、そんなの食べてしまうに決まっている。食べないわけがあるだろうか? はぐはぐっ、はぐっ。
「もうおひとつ、いかがでしょうか?」
雪女のひとりが、バスケットからあらたなチキンを取りだし、手渡してくる。
見ると、フライドなチキンが詰まったバケツ状の容器には、めらめらと妖気の炎で燃えあがるしっぽが一本、巻きついていた。なるほど、だから真冬の寒空の下でも揚げたて熱々なままだったのか。むろん、そのしっぽは九尾の狐、玉藻のものであった。玉藻ときたら、チキンを温めつつ、しれっとチーズなぞ指先でつまみ、あーん、と食べている。
お、おのれー。
八葉は、玉藻を睨み、目の前に差しだされたフライドなチキンを見つめ、また玉藻を睨み、チキンを見つめ、なんどか視線を行き来させ、最後に唇を噛んで、ぎゅっと眼をつぶって、えーい、とあらたなチキンを雪女の手から奪いとった。
な、なさけないっ!
あまりのおのれのふがいなさに、閉じたままの眼から、八葉は涙を滲ます。だが口は止まらない。止まってくれない。はぐはもっ、はふっ。
「うふふ……」
ささやくような笑い声に、ぱっ、と八葉はまぶたを開いた。涙が散った。
テーブルの向こうの玉藻は、なんとも、やわらかく微笑んでいた。
な、な、な……。
八薬は震えた。憎たらしい表情をされるなら、まだましだった。
だが、優しかった。玉藻の笑みは、まるで母親が子供に向けるかのように、優しかったのだ。敵だとすら、思われていないというのか……八葉の涙は増える。ぼろぼろとこぼれ、トナカイの着ぐるみを濡らす。な、なんたる、くつじょく……!
「バカになんかしてないわよ、八葉ちゃん」
えう?
八葉は涙で濡れた眼を、ぱちくりとさせた。
玉藻は、あいかわらずの母性に満ちた笑みを浮かべて、八葉を見つめていた。
「ただ、いまはあなたたちとやりあうつもりはないってだけ」
へう?
思わず眼を丸くしてしまった八葉に、ふふふ、と玉藻が小さく笑い声を転がす。
「あなたたち土門家とはもちろん、〈葛の葉〉自体とも、いまはやる気はないのよ。まあ、八葉ちゃんたちとは、できればたっぷりと遊んであげたくはあるけど……わたしのダンナさまの件では、いろいろとお世話になったものねえ……本当、いろいろと……。でも、ダーメ。いまは時間がないもの」
時間が?
「とにかく、わたしは〈葛の葉〉からあの子を取り返そうとか、そんなことはまったく考えてないわ。ええ、もちろんすべて承知の上でのことよ? 〈葛の葉〉がなにを望み、あの子を――ちずるをどうするつもりなのか、わかった上でいってるの。どう、納得した?」
ぜんっぜん、八葉は、納得なんてできなかった。
まさに狐につままれたかのような話だった。自分の娘である〈八龍〉――源《みなもと》ちずるを、取り返すつもりがない? ならば、どうして九尾の狐はここへきたというのか。まさか、クリスマス・パーティーをするためではあるまい。
「あら、納得、ムリ? うん? 理由が知りたいの?」
こくこくと、八葉はうなずく。
「あの子の……尻ぬぐいのため、かしら?」
視線をさまよわせながら玉藻は答え、最後に笑った。
しり?
ひっぷ? 〈八龍〉の……ひっぷっぷー?
「あ、ほら、始まったわよ」
と、玉藻が、突然、横を向く。
どうじに、八葉の産毛は全身、逆立った。
な、なんだ!?
玉藻とおなじく、真横を見る。
それは遠く、ビルが群れなす街の向こう、橋ひとつぶん越えた先、〈葛の葉〉が占拠した薫風高校の上空にて、起こっていた。
蛇だった。
べたりと、夜よりもなお冥《くら》く塗りつぶされた蛇たちが、一匹、二匹、とにかくたくさん、冬の星空をのたくり、つぎつぎと切りとってゆく。
その数、八。
まちがいなく八、八体の蛇が、薫風高校の真上に、たしかに存在していた。
〈八龍〉覚醒の瞬間であった。
まるで巨大な観葉植物のように夜空に咲いた〈八龍〉の、その鉢ともいえる薫風高校では、屋上は空に飛びだした〈龍〉たちによって破壊され、正面玄関も強引に侵入しようとする耕太《こうた》たちによって壊されようとしていたのだが、もちろん、街から見つめる八葉の知る由ではなかった。
八葉は、動く。
それは、まったく無意識での行動だった。さきほどフライドなチキンをむさぼったときとおなじく、本能の命ずるがままに、八葉はトナカイの着ぐるみに包まれた指先をなめらかに動かして、結印する。術式を完成させた。
「――封っ!」
とどめに言葉を放つ。それは、沈黙というかたちで封じることで、何十倍にも増幅された言葉だった。放たれた言葉は言霊《ことだま》となって、力を生む。
八葉は〈八龍〉のまわりに、球状の強力な結界を作りあげた。
間一髪、結界の壁によって、〈八龍〉から洩れだす毒ガス状の邪気を抑えこむことに成功する。さらに結界で、〈八龍〉の姿をも隠した。まがまがしくも神々しい、神話の時代の化け物たちの姿が、うっすらと消えてゆく。
あとには、ごくごく普通の夜空が残った。
ぬぬっ!
すべてをやり終えるなり、八葉は飛び退く。
椅子を蹴って、後ろへと飛び、真正面を睨みつけた。
「あらん。やだ、怖い顔」
テーブルに座ったままの玉藻は、うふ、と微笑む。手に持ったワイングラスを揺らし、なかの真紅の液体を、くるん、とまわした。
八葉の眼は、釘づけとなっていた。
くるんとまわったワインに――ではなく。
グラスを持つ手とはべつの手、その伸ばした腕の指先にだ。
玉藻の、びしっとそろった人差し指と中指は、しっかりと〈八龍〉へと、薫風高校へと向けられていた。
彼女も、結界を張ったのだ。
八葉とどうじに、それも妖術ではなく、法術を使って――。
おそらく、八葉が結界を張ろうとしたのを見て、あえて玉藻も法術を使ったのだろう。妖術と法術では術の形式が違う。八葉が法術で張った結界に、玉藻が妖術で重ね張りすれば、互いに効果を打ち消しかねない。それが、玉藻も法術で重ね張りするならば、打ち消すどころか、結界を増強することが可能となるからだ。
と、理屈ではわかる。
が、玉藻は妖怪なのだ。
いかに超大妖、白面金毛九尾の狐であるとはいえ、その本質が妖怪であることに変わりはない。そして普通、妖怪は妖術しか使えないはずだった。なのに玉藻は妖術ではなく、法術を使った。それも法術のエキスパートである土門家の当主、八葉と同等レベルの術を。恐るべし九尾の狐といわざるを得なかった。
「なあに? いっておくけど、べつにわたしはあなたのことを手伝ったわけじゃあないのよ。八葉ちゃんが結界を張ろうが張るまいが、わたしは〈八龍〉の力を抑えこんでいたわ。だって、そのためにわざわざこんなところまできたんですもの」
八葉の眼は、丸くなる。
では、尻ぬぐいとは……。
「そう。〈八龍〉の力がまわりに余計な被害をもたらさないようにするため、わたしはきたのよ。うん? なんでわざわざそんなことをって? だってしかたないじゃない。わたしはあの子の親なんですもの。あの子が元に戻ったとき、〈八龍〉だった自分が、近隣住民を大量に殺戮してましたー! なんてことになったら、ものすっごく落ちこんじゃうでしょうし。ぐえーん、耕太ぐんに嫌われるー! なんてね」
ぱちりとウインクして、玉藻はワイングラスを傾けた。
一気に空とする。
視線を、〈八龍〉へと向けた。
結界に隠され、夜空にいまは〈八龍〉の姿は映っていなかった。だが、超大妖たる玉藻の眼ならば、しっかりと〈八龍〉を捉えられていたはずだ。
「あとはまかせたわよ……ムコどの」
うふ、とかわいらしく首を傾け、玉藻は視線を八葉へと戻す。
「それにしても……まさかあなたが、わたしを助けてくれるなんてねえ?」
あ。
八葉は気づいた。
結果的にではあるが、退治しにきたはずの九尾の狐を、自分は手助けしてしまったのだということに。いや、あそこで結界を張らなければ、玉藻のいうとおり、まちがいなく近隣住民には多大なる被害が生じていたに違いないのだが、ああっ、過去の因縁が、ご先祖さまへのもうしわけがっ。へうううううう〜。
「八葉さま……こちらなど、美味しいかと存じますが」
立ったままうなだれる八葉に、気をきかせたつもりなのだろうか、雪女のひとりがテーブルの上の皿を指さす。
それは、ピザだった。
八葉は、涙目で睨む。
すたすたとテーブルに近づいた。立ったまま、手を伸ばす。
とろけたチーズでトナカイの着ぐるみが汚れるのもかまわず、ピザの切れ端をつまみあげた。えいやっ、と口のなかへと放りこむ,
ンマーイ!
モッツァレラ! パルメジャーノ! トマト! バジル! クリスピーな生地! すべてが渾然《こんぜん》一体となって、とにかくンマーイ! 生まれて初めて食べたピザ・マルゲリータの前に、八葉は泣いた。こぼす。屈辱ではなく、歓喜の涙を。
あーん、あんあん……。
あーん、あんあん……。
まるで赤子のようだった。
黒く渦巻く竜巻のなかから、その泣き声は風に乗って、教室中へ流れてゆく。
〈八龍〉の発生地点である薫風高校、三階の教室は、まさに地獄絵図と化していた。
八体の〈龍〉たちから放たれた暗黒の邪気が、渦を巻き、黒き死の風となって教室のなかを吹き荒れる。生きとし生けるもの、すべての命を奪わんとする。
校舎全体が、ヒヒイロカネの鎖によって強化されていたのが逆に災いした。
覚醒した〈八龍〉の直撃を受けた天井部分こそ消し飛んだが、まわりの壁や床はそのまま残り、結果として〈龍〉の気を逃さず、教室のなかにとどめてしまっていたのだ。
ただでさえ、普通の人間ならばわずかに触れただけで死に至る〈龍〉の邪気。
それが、とどめられることで激しく濃縮され、まさしくへばりつくようなタールの風となって、教室すべてを死の領域へと変えていた。
その滅びの黒き風のなかで、彼女は泣く。
狐の耳が生えた頭部から、金色の豊かな髪をしゃらりと流し、なめらかな裸身の上を腰までも滑らせた姿で。重たさゆえにわずかに沈んだ胸のふくらみの下、おへそはぽつりと切れこんで、くびれからのラインは大きく張りだし、太ももから美しく収束してゆく。
尾てい骨からは、金色の毛なみを持つ、一本の太くて長い狐のしっぽが生えていた。
そして、その狐のしっぽのまわりには、天に向かって伸びあがり、周囲に死の風を振りまく、八体の黒き〈龍〉たちの存在があった――。
〈八龍〉である彼女は、見事すぎる裸体をさらしたまま、泣く。
ぼろぼろ涙をこぼしながら、声をあげながら。
ひとしきり泣いて、あぐあぐ、えぐえぐとしゃくりあげ、すんっ、と鼻をすする。
ぐしぐしと両の手の甲で乱暴に涙をぬぐって、ようやく泣きやんだかと思えば、ひううううう〜、と口をへの字に曲げ、みるみる顔全体を歪ませてゆく。
「だああああああああ」
耕太くんがあ、耕太くんがあ。
またもや泣きだす彼女の両腕には、金色の鎖があった。鎖は手首に申し訳程度に絡みつき、短く、下にだらんと垂れていた。
それこそは伝説の金属、ヒヒイロカネでできた封魔の鎖であった。
ダイヤモンドをはるかにしのぐ超硬度と、妖力を封じこめる能力とで、ついさっきまで彼女の身体を拘束していたはずの封具である。しかしいま、その鎖は〈八龍〉覚醒の衝撃に耐えきれず弾け飛び、途中で切れてしまって、まったく用を成さなかった。彼女の両の足首にも鎖はあったが、やはり中ほどで切れ、床に蛇行するかたちで情けなくまとわりつくだけでしかない。
だから、彼女は――源ちずるは、いま、自由の身だった。
しかしちずるは、逃げだそうとするそぶりすら見せない。
ただその場に立ちつくして、耕太くんが、耕太くんがと愛するものの名を呼びながら、ひたすらに泣きまくるだけだった。
ひぐううううううう。
ずずるびー、とちずるは鼻をすすりあげる。そして泣く。とめどなく泣く。
「ぎょうだぶーん!」
どうやら、耕太くん、と叫んだらしい。
その叫びを、狂風吹き荒れる教室の隅で、聞いているものがひとり、いた。
「く……あ……」
もっとも、彼女はべつに聞きたくてちずるの叫びを聞いているわけではなかった。〈八龍〉が引きおこすタール状の死の風のなか、どうにも身動きがとれなくなって、だからしかたなく、ちずるの泣き声やら叫び声やらにさらされていただけだった。
彼女は名を、九院《くいん》という。
〈葛の葉〉の中核を成す八つの家のひとつ、九院家の当主であった。九院家とは、〈葛の葉〉に従う妖怪だけを集めて作られた戦闘部隊の名称であり、その当主は代々、『九院』の名を引き継ぐ。『九院』として妖怪たちを率いる彼女もやはり、蝶の妖怪なのだった。
いま九院は、その妖蝶《ようちょう》としての姿でいた。
とはいえ、さほど異形ではない。夜空にも似た色あいを持つ深紫色をした髪の、その前髪の一部を触角のように細くして弧を描かせたほかは、髪とおなじ深紫色のスーツとパンツに包まれた肉体を変化させるものは、背から生えた四枚の蝶の羽以外にはなかった。
無数の色彩が散りばめられた、一種、寒気すら感じさせるほどの、美しい羽である。
しかし、その本来ならば美しく昏く輝いているはずの彼女の羽は、いま、あたかも枯れ木に残った最後の一葉のごとく、見るも無惨な姿をさらしていた。
原因はもちろん、〈八龍〉が巻きおこす黒き死の奔流にあった。
〈八龍〉からの狂風によって教室の隅に押しこめられるかたちとなった九院は、身を守るため、背の羽を前へとまわして、さなぎのように身体をくるむよりほかなかったのだ。
結果として、羽は猛烈無比な〈八龍〉の邪気をまともに浴びることとなった。
へばりつく腐食性の気の風にさらされて、羽は激しく震えながら鱗粉を散らし、わずかずつではあるが、しかし確実に、端からぼろぼろと崩れていった。
「四岐……さま……」
侵されゆく羽のカーテンのなか、九院の顔は苦痛に歪みきっていた。
このままでは、遠からず自分は死ぬ。
九院にもそれはよくわかっていた。
が、なにせ身動きがとれないのだから、どうにもならない。
覚醒した〈八龍〉が夜空に向かって広がっていったとき、通り道だった教室の天井は吹き飛んでいた。だから、九院の頭上二メートルほどのところに、死の風から逃れるための脱出口が空いてはいた。
だが、そのわずか二メートルすらも、九院は飛ぶことができなかった。
それほど〈八龍〉の邪気は濃く、そして激しすぎたのだ。身を守る羽を広げたとたん、九院の肉体は黒い狂風に侵され、瞬く間に命を奪われるだろう。
もはや、九院に打つ手はなにもなかった。
あとはこのまま座して死を待つのみという状況のなか、やがて九院の意識は陰ってゆく。命の光が、くすんでゆく。
「四岐《しき》さま……わたくしは……もう……」
九院の身体から、ついに力が抜け落ちた。
とたんに、九院は楽になる。
一瞬、とうとう自分は死んでしまったのだろうかと彼女が思うほどに、すべての負荷は消え去っていた。あれほどまでに彼女をなぶっていた〈八龍〉の風が、いまはみじんも感じられない。まるで、〈八龍〉がどこかへいなくなってしまったかのようだった。
九院は自分の身体を包んでいた蝶の羽を、わずかに開く。
きしむ羽の痛みに片目をしかめながら、前を覗きこんだ。
「あ……」
思わず声がでた。
〈八龍〉がいなくなっていたから、ではない。〈八龍〉であるちずるを中心とした黒い竜巻は、いまだ教室の真ん中にあって、ヘドロのような狂風をあたりに振りまいていた。
声がでたのは、九院のすぐ前に、見慣れた男の背があったからだった。
彼女の前に立ち、死の風を一身に受け、防いでくれていた男。
染みひとつない白いスーツに身を包んでいた彼は、九院へと横顔を向け、糸のように細めた眼と口を、笑顔のかたちにつりあげていた。
その男の名は――。
「四岐さま!」
名を叫んだとたん、九院はよろめく。
よろめきのまま一歩、二歩と進み、三珠《みたま》四岐の背中にぶつかった。ぶつかった背に、九院はすがりつく。四岐の背を包む白いスーツの生地を握りしめ、皺を作った。
「な……なぜです、四岐さま……」
「なぜ? なにがだ? 九院」
「なぜここへきたのです! ここはあまりに危険な……〈八龍〉より生じた邪気が、狂った死の風と化して、すべての命を消し去らんとする死の領域! なのに……」
そう、四岐は、この場所のひとつ下の階、二階にある、元は職員室だった教室を転用して作った臨時の司令室にいるはずだった。その安全な場所で、ちょうど学校へと迫っていた侵入者たちを排除するため〈葛の葉〉全体に指示をだしながら、あの三珠|美乃里《みのり》が〈八龍〉を目覚めさせるのを、じっと待っているはずだった。
〈八龍〉の宿主である妖狐、源ちずる。
そのちずるの恋人、小山田《おやまだ》耕太に化けた美乃里が、耕太の姿となった自分の身体を手ひどく拷問してみせることで、ちずるの精神をとことんまで追いこみ、彼女を〈八龍〉として覚醒させるのを、じっと――。
「ああ、なのに……どうしてなのですか、四岐さま……」
「おまえを助けるために決まっているだろう?」
その言葉に弾かれて、九院は四岐の背に押しつけていた顔を、ぱっとあげた。
肩ごしに自分を見つめる四岐と、視線があう。
四岐の顔には、笑顔が浮かんでいた。
一見すると、いつもの表情だと感じられなくもない笑顔だった。周囲への憎悪とおのれの欲望を隠しぬくための、張りついた笑顔。糸のように細めた眼で瞳の光を抑えこみ、うすら笑いで感情を抑えこむ、あの作られた笑顔。
だが、違う。
いまの四岐の笑顔は、決して作られたものではなかった。四岐は、すくなくとも九院とふたりきりのときは、特別な表情を彼女にくれる。操作したものではない、真の感情からの表情をだ。そして九院には、それがわかるのだ。
九院が見てとったかぎり、四岐は心の底から喜んでいた。
また、ちょっとばかり得意げでもあった。
なんだろう?
九院は四岐の笑顔を前に、考えこむ。どうして彼はここまで喜んでいるのだろう。なぜ得意に? わからなかった。四岐がこうまで無邪気に喜ぶなんて、いったい……?
と、四岐の表情が変わった。
こんどはわずかに首を傾げ、目元はしかめだす。口の端は苦そうに曲げていた。どうやら、なにかがお気に召さないらしい。
「なんだ、九院。どうして喜ばない」
「喜ぶ……?」
「おい、わたしはおまえを助けるために、〈八龍〉の邪気吹き荒れるこんな死地へやってきたといっているんだぞ? 嬉し涙のひとつぐらい、こぼして見せたらどうだ」
「ああ……なるほど」
「なるほど? ああ、なるほどだと?」
「あ、いえ、申し訳ありません。たしかに嬉しく思います。思います、が……」
到底、あり得ないことだった。
たしかに四岐は九院を愛してくれているのだろう。それも、おそらくは本気で。
だが、その愛は決しておのれを犠牲にするたぐいのものではなかったはずだ。そんなかたちの愛は、すくなくとも四岐と九院のあいだには存在しなかったはずだ。
なぜなら、被虐的な愛こそが、四岐が九院に求めるところだったのだから。
四岐はおのれのためだけに、九院の心と肉体とをむさぼる。九院は四岐にひたすら従い、すべてを捧げる――多分にマゾヒスティックな喜びを得ながら。いや、とくに九院に被虐趣味があるわけではなかった。前の男のときにはサディスティックに接していたくらいだ。
ただ、今回の『遊び』はそういうルールというだけだった。
そう、遊びだった。
九院にとっては、すべてが遊び、戯れだったのだ。
妖とは敵対する立場にある組織、〈葛の葉〉に妖蝶の身でありながら与してみたこともそう。そこで出会った偏屈で孤独な少年、三珠四岐を愛してみたことも、そう。
だって九院は、これまで何百年と生きてきた。
そしてこれから先も、何百年と生きてゆくのだろう。下手をすれば何千年と、なんら目的もなく――。無限に近い生を持つがゆえに、九院にはなにもなかった。ただ生きてゆくよりほかに、なにもなかったのだ。
限りあるからこそ、生はまばゆく輝く。なにか残そうとあがく。
終わることのない命は、ただ茫洋とさまようだけだ。永遠という名の退屈とともに。
だから、遊ぶ。
もちろん本気でだ。本気でなくては遊びはおもしろくないだろう。本気になって九院家の当主を務め、本気になってニンゲンの男を愛する。彼、三珠四岐の命が尽きるまで、たかだか百年にも満たない時間の退屈しのぎ……永遠からの逃避行。
その逃避行の相手が、ふっ、と鼻で笑った。
「ああ、そのとおり、冗談だよ。つまらない冗談だ。すまなかった」
このとき四岐が浮かべた表情に、九院は驚きを覚えた。
四岐の顔にあったのは、例の作られた笑顔だった。つまり四岐は、さっきまであらわにしていた感情を、いまは隠しているのだ。これが意味することは、ひとつ。
このかたは、傷ついている!
すると、四岐が九院を助けにきたというのは、あながち嘘ではなかったらしい。なのに九院は信じなかった。だから四岐は傷ついた。そして感情を隠した。
あ……?
ふいに、奇妙な感情が九院のなかに生まれた。
痛いような、辛いような、切ないような、それでいて甘いような、なんとも不思議な情動が、あっというまに九院の胸のうちを埋めつくす。これは……? これはなんだ?
「ところで九院」
「は、はい!」
「わたしはいま、とくになにもやってはいないのだが」
「え?」
にやりと笑う四岐の言葉の意味を、一瞬、九院は計りかねた。
すぐに理解する。
たしかに、四岐はなにもやっていなかった。
〈八龍〉からの猛毒じみた狂風を防ぐための障壁ひとつ、四岐自身では張っていなかった。それが四岐の背に触れている九院にはよくわかった。彼の身体から、なんら力が発せられてはいなかったからだ。
では、どうして四岐は無事なのだろう?
ふと、九院の脳裏にひらめくものがあった。
ひらめきは、九院が敵と固く信じる、あの少女の顔をしていた。
「……美乃里、ですか?」
「そのとおりだ。九院、おまえもわかっているとおり、やつはいま、この建物に秘められた力のおおよそを使いこなすことができる。いまわたしに張ってある結界も、そのひとつ。しかし、これほどまでに猛烈な〈八龍〉の毒気を受けて、びくともしないとは……さすがにここは〈御方《おかた》さま〉が対〈八龍〉用に作った施設だな。結界も特別製だ」
四岐は、自分のまわりにあるだろう、不可視の障壁に向かって手を仲ばした。
「――四岐さま。まだ答えを聞いておりませんが」
「ん? 答え?」
仲ばしかけた手を止め、四岐が九院のほうを向く。
「なぜここへきたのか、本当の理由です」
美乃里の存在を思いだしたとたん、九院の頭は冷え切っていた。
続けてわき起こったいらだちに引きずられるかたちで、気がついたら九院は四岐へ問いかけをぶつけてしまっていた。いや、いまでは四岐が自分を助けにきたという言葉を、九院は疑っていない。だがそれは、あくまで理由のひとつでしかないはずだ。ほかにも理由があるはずだ。直感的に、九院はそう察していた。
と、四岐の顔つきが、いぶかしげなものへと変わる。
「わからないのか? 本当に?」
「え、ええ」
ふ、ふふ、ふはは、はは、ふはははは。
突然、四岐は狂ったように笑いだした。
「〈八龍〉だよ! 〈八龍〉が完全に覚醒したからに決まっているじゃないか! とうとうあの〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉が現世に復活したから、だからこそここへきたんだ! 〈葛の葉〉数千年の歴史のなか、だれひとりとして成し遂げられなかった、あの〈御方さま〉ですらできなかったことを、このわたしが! 三珠四岐が! 成し遂げたんだ!」
はははははは……!
四岐の笑い声は続く。
なるほど、九院が最初に四岐の顔を見たとき、妙に彼が嬉しそうだったのは、ついにあの〈八龍〉を覚醒させたからだったのだ。
しかし九院は、その答えに違和感を覚えた。
〈八龍〉が……覚醒した?
たしかに現象だけを見れば、そのとおりなのだろう。八体の〈龍〉は源ちずるの身体から出現しているし、周囲に吹き荒れている黒い邪気の風も、〈八龍〉の覚醒を裏づけてはいる。だがしかし、ならばどうして九院は、最初に四岐が喜んでいるのを見て、その理由が〈八龍〉覚醒にあると気づけなかった?
答えは簡単だ。
あのとき九院は、〈八龍〉が覚醒したとはみじんも感じていなかったのだ。
いや、いまだにそうだった。いまだに九院は、〈八龍〉が覚醒したと信じることができずにいた。おかしかった。まちがいなく、なにかがおかしかったのだ。
そのとき、吹きすさぶ黒い狂風に乗って、ちずるの泣き声が九院の耳に届く。
あーん、あんあん……。
あーん、あんあん……。
「あ……」
九院は声をあげた。そうか、そうだったのか!
三珠美乃里は笑っていた。
ちずるをあざむくために化けた、小山田耕太の姿のまま、声のままで。
それも、なにひとつ隠すもののない、真っ裸のままで。
剥きだしとなった彼の肌のいたるところには、まだ生々しく血を流す傷があった。鞭による擦り傷、刃物による薄い切り傷、バーナーによる火ぶくれと、なんとも種類豊富な傷跡たちだった。右腕にいたっては肘から先がない。切りとられてあった。
とどめが、胸に突き刺さる槍である。
銀の槍が、耕太の姿をした美乃里の、その背中から胸にかけて、心臓を通るかたちで斜め下に貫いていたのだ。下を向いた銀色の穂先から、たらたらと血が滴り落ちる。床に血だまりを作りあげる。まさにとどめだった。まちがいなく耕太は死んだと思える姿だった。
事実、この槍こそがちずるへのとどめでもあった。
槍が突き刺さる瞬間をまざまざと見せつけられることによって、それまでの耕太への拷問で消耗しきっていたちずるの精神は、完全に崩壊した。砕け、ついで心の奥からあふれだした原始の感情のおもむくままに、ちずるは〈八龍〉を発現させたのだ。
すべてを成して、美乃里は笑う。
耕太の姿のまま、拷問の跡も治すことなくそのまま、左腕と両足にはヒヒイロカネの鎖による拘束まで残した状態で、狂おしく身をよじる。ちゃりちゃりと鎖は鳴り、笑うたびに口から血が飛ぶ。突き刺さった槍は笑いとともに震え、右肘からぴゅっぴゅと血も噴く。
まさに、狂気としかいえない笑いかただった。
その狂気は、ちずるの元、九院のそばで高らかに勝利の笑い声をあげる三珠四岐にも負けず劣らずの深度があった。さっきまで拷問役を務めていた美乃里の配下、鰐淵《わにぶち》も、血まみれのまま彼の脇に立ちつくし、色素の薄い顔で、黙って彼を見つめるばかりだ。
あはははははは――はがっ。
とうとう、美乃里は咳《せ》きこみだした。
くの字に曲げた背中を、激しく跳ねさせる。斜めだった槍を垂直にして、がほっ、げほほっと咳きこみ、血を吐く。
やがて、ひゅー、ひゅー、とかすれた呼吸をあげ始めた。
ふ、ふふ、ふふふ。
こんどは控えめではあったが、やはり美乃里は笑いだす。
笑いながら、うつむいていた顔をあげた。
耕太の顔で、自分の正面にあった丸くて大きな鏡――薫風高校内にある〈御方さま〉の妖力が浸みた砂で作りあげた、遠見の砂鏡――に、視線をやる。
砂鏡には、ちずるの姿が映しだされていた。
あーん、あんあん……と泣く、尾てい骨のあたりから八体の〈龍〉と一本の狐のしっぽを生かしたちずるを見つめて、美乃里は血に染まった唇の端を、歪める。笑みとも、哀しみをこらえているともとれる表情となった。
ふふふふふ。
美乃里は下を向き、肩を揺すりあげる。
「やっぱり[#「やっぱり」に傍点]……やっぱり[#「やっぱり」に傍点]……ダメだったか[#「ダメだったか」に傍点]……」
と、耕太の声ではなく、自分自身の、それも少女状態の声でつぶやくと、美乃里はまた大きく笑いだした。だんだんと、笑いの深度がさきほどまでの狂気へと戻ってゆく。
あはははははは――。
そして。
美乃里が狂気の笑いを取り戻すとともに、あーん、あんあん……とひたすら泣きまくるだけだったちずるに、異変が起こる。
「あ……?」
ちずるが、眼を丸く大きくした。
とまどったように狐の耳をくりん、くりんと動かしながら、泣きはらして真っ赤になった眼を、なんどかぱちくりさせる。
最後に、ずびびー、と鼻をすすりあげた。
涙と鼻水によって、どこもかしこもぐちゃぐちゃになっていた顔で、こうつぶやく。
「耕太……くん?」
最初は、砂だった。
砂防壁と呼ばれる、外部からの侵入者を防ぐため、薫風高校に備えつけられた機能のひとつである。〈御方さま〉の力のこめられた砂が、壁となって校舎を覆うのだ。
その砂の壁に、車で真っ正面から突っこんだ。
ぞんぶんにアクセルを踏んで加速した軽自動車の、そのエンジンの納められたフロント部分が砂防壁に激突してつぶれ、ボンネットがぐちゃりとなるのが見てとれた。
もちろん、衝撃だって伝わってくる。
まさしく息が止まるような衝撃のなか、しかし車は止まらない。そのまま突き進んで、ずまもんっ、と砂のなかへ入ってゆく。
砂の壁に圧されたフロントガラスに、ヒビが走る。
びきききっ、と全面、白く濁って、ガラスはあっけなく破れた。そう、感じとしては、『砕けた』というよりは『破れた』という感じだった。破れて、車内には砂がだばだばとなだれこんでくる。呑みこまれる寸前、息を止めることには成功した。眼は反射的に閉じていた。そして、すっぽりと頭までが砂に呑みこまれた。
がきょばさばうーん。
と、砂防壁自体は、一瞬で突破した。
校舎を覆う砂の壁を抜けて、正面にある生徒用の玄関の戸に「がきょっ」とぶち当たり、瞬時に突き破って、「ばささっ」と玄関内へ、砂とともに入りこんだ。「ばうーん」といきおいよく車は飛びだす。
で、すぐさまあらたな障害物に激突した。
障害物の名は、下駄箱といった。
生徒用玄関にずらりと居並ぶ下駄箱たちの、そのひとつに、車は左半分だけ思いっきり体当たりして、あっさりと敗北、すっ飛び、ひねりながら宙を舞った。この空中半回転ひねりの時点で、車内に入りこんでいた砂は砕けていたリアガラスから抜けていったので、最後の瞬間はよーく目視できた。
車は、逆さまになって飛ぶ。
そのまま屋根から床に着地して、火花を散らしながら、いきおいよく滑ってゆく。
どぐちゃら!
と、壁にめりこみ、
……すん。
と、ちょっと沈んで、ようやく車は止まった。もちろん、逆さまのままで。
「く、う、う……」
おや、だれの声だろ?
「あうあ?」
だれが苦しがっているんだろう、と尋ねてみたら、自分の声だった。どうも、知らず知らずのうちにうめいていたらしい。
無理もなかった。
だって、身体中、どこもかしこもヘンだったんだもの。
たぶん、痛いんだろうとは思う。ただ、どこがどれほど痛いのか、まったくわからなかった。ただ、じーん……としびれまくっているだけだった。とにかく、頭のてっぺんから足のつま先まで、すべてがぐっちゃぐちゃな状態だったのだ。
さらには、車といっしょに、自分の天地も逆だったりして。
足が上に、頭は下へ。
昇る。頭に血が昇る。というか、下がる? 足から頭へ、血が下がってくるぅうう。
きちんとシートベルトをつけていたのが、その原因だった。
いや、律儀にシートベルトを着用していたからこそ、あれほどの衝撃を受けても車の外に飛びださずにすんだのだけど。だが、そのベルトが肩に食いこみ、逆さまとなった自分の身体を支えて車に固定していたのも、また事実だった。
早く、ベルトを外さなくちゃ。
でなきゃ、身動きがとれない……頭に血も下がる……ううう。
「う、くく、くくく……」
いまだしびれたままで感覚の薄い両腕を、なんとか動かす。
腰の位置にある、ベルトの着脱スイッチをいじった。が、かちゃかちゃと音が鳴るばかりで、いまいちうまく外れてくれない。
しかたがないので[#「しかたがないので」に傍点]、斬ることにした[#「斬ることにした」に傍点]。
右手の、人差し指と中指を、そろえて伸ばす。
あたかもナイフのように伸ばした指先で、しゅっ、とベルトを撫でた。
簡単にベルトは斬れた。
「ふにっ!」
とたんに、頭から車の天井へと落ちる。
たぶん、逆さまに着地した時点でつぶれていたのだろう、天井への高さ自体は大したことがなかったが、なにしろ予想していなかったので、ヘンな声をあげてしまった。
く、くー……。
気を取り直して、こんどは身体をひねる。
右に、左に、身体をよじって、くねって、どうにかこうにか助手席側の窓から外へと這いでる。うまい具合に、ドアのガラスはなくなっていた。
「うああああ」
這いでるなり、その場にごろりと仰向けになった。
はー、はー、と荒く息をつく。すこしずつしびれはとれ、じんわりと身体のあちこちが痛みだしていた。どうやら、骨が折れたりなんかはしていないらしい。首も平気だった。だが、やはりあれだけの大事故、なんらかのダメージは残っているようだ。しばらく仰向けのまま、呼吸に専念した。
よし……。
落ちついたところを見計らって、まず上半身だけを起こしてみる。
予想していたよりもかなり楽に起きあがることができた。そのことに勇気を得て、こんどは立ちあがってみる。片膝を立て、手を後ろにつき、よっこらせっと……ととと、ふらつきながらも、なんとか立ちあがることができた。
「ふう」
息をつき、続けて背筋を伸ばす。
天井を見上げた。
いるんだ。
この奥に、先に、あのひとがいるんだ。あのひとが、捕らわれのあのひとが。
きた。ついにぼくは、ここまできた。
いや、違うよ、と打ち消す。これからだ。すべてはこれからなのだった。だって自分は、あのひとを助けだすために、ここまでやってきたのだから。
助けるんだ。絶対に。かならず。あのひとを。ぼくが。このほくが。
天井の奥、先にいるはずの彼女を見つめて、すぅ、と大きく息を吸いこんだ。
「ちず――」
「あ、耕太」
「おお……どうやら無事なようだな」
叫ぼうとしたら、いきなり後ろから話しかけられた。もちろん驚く。叫びかけた言葉を、んがんっくと呑みこむ。
あわてて振り返ると、どちらも銀髪の、黒い衣服に身を包んだ男女がいた。
そう、ふたりとも髪は銀色で、服は黒一色だった。
が、受ける印象は、男女で大きく異なる。
男の背は高く、肉体は均整のとれた素晴らしいものだったが、まとっている服は、すこしばかり窮屈そうな黒いシャツとズボンだったし、女性は小柄だったが、着ている服ときたらセクシー極まる上下ひとつなぎの革のライダースーツで、おまけに上半身は裂けて胸のふくらみがあらわあらわという、彼女が体格だけでなく胸のふくらみまでもがイッツ・ア・スモールワールドでなかったら、とても直視できない格好であった。
どちらも、その肌はまるで月夜に照らされた雪原のごとく、蒼く、白い。
そして、そのぱさついた銀髪の頭からは、正真正銘、獣の耳を生やしていた。
狼の耳である。
腰から下には、銀毛のしっぽが伸びる。やはり、狼のしっぽであった。
「お、驚かすのはやめてくださいよう、朔《さく》さん、望《のぞむ》さん」
と、人狼の兄妹である犹守《えぞもり》朔、犹守望のふたりにいった。
すると、妹の望は、ん? といつものようにとぼけた顔つきで首を傾げるばかりだったが、兄の朔は、なぜだろうか、くっくっくっ……と楽しげに笑い声をあげだした。
「どうして驚くんだ、耕太……?」
笑みを浮かべながら、朔は尋ねてくる。
「ど、どうしてって……そりゃ、いきなり後ろから話しかけられたら、だれだってですね」
「違うだろう?」
朔の唇の端が、にやりとあがった。
「おれたちの存在を、すっかり忘れていたから……だろう?」
どきっとした。
その様子を見てとったのか、朔が、くっくとまた肩を震わせだす。
「そうでなきゃ、あそこまで驚くもんか。いや、まったく大したもんだよ。ここまでともに数々の苦難を乗りこえてきた仲間の存在を、ああまで完璧に忘れるなんてな……だいたい、車があんなことになったんだぞ? 普通、まずは同乗してる仲間の心配をするもんだろう? なのにおまえときたら、大丈夫かのひとことすらないまま、ひとりでさっさと車の外にでたあげく、こっちは無視でなにかやろうとしてやがった……なあ?」
「あ……う……」
一ミクロンたりとも、返す言葉はなかった。事実、あのとき、朔と望のことは頭の片隅にすらなかったのだ。あったのは、たったひとりの女性の存在だけだった。そう、たったひとりの――。
「おっと、勘違いするなよ? おれはな、本気で褒めてるんだよ。ようやく……ってな」
「え……?」
朔の言葉に、うつむいていた顔をあげる。
ようやく……?
「さあ、やれよ、耕太。さっきの続きをさ。おれたちが声をかけて邪魔しなかったら、やっていたはずのことを……きっとあいつも、それを待ってる」
待ってくれてる? あのひとも?
こちらの視線に答えるように、無言で朔はうなずいた。
「は……はい!」
元気よく朔にうなずき返して、さきほど見上げた天井へと、身体の向きを戻す。
息を、大きく大きく吸いこんだ。
「ちずるさーーーーーーーーーーーん!」
届け、ちずるさんへ!
叫びはあたりに響き渡る。廊下を通りぬけてゆく。
かくして、ぼく、小山田耕太は、ついに、ちずるさんの捕らえられた薫風高校へと、辿りつくことができたのだった。
二、学校の巣のなかで
「ああ……ああ……!」
ちずるの唇から、感極まった声が洩れる、
彼女の表情は、すでに泣き顔と笑顔とがあいまった、ぐしゃぐしゃなものへと変わっていた目元、口元を笑みでほころばせながら、ほろぼろと涙をこぼす,
「耕太くんが………耕太くんが……」
と、それまでの疲労によってすっかり青ざめていた肌に、生気が一戻ってゆく。
肌だけではなかった、よれよれになって背中や腕、胸元にぺたりと張りついていた金色の髪や、へたれていた狐の耳にしっぽ、どよんと沈んでいた胸のふくらみ、お尻、ふささ……と、ちずるの肉体のすべてが、元の張り、艶、輝きを、みるみるうちに甦らせてゆく
「耕太くんが、ここに、ここに……」
あたかも耕太が目の前にいるかのように、ちずるはなにもない空問を、ぎゅぎゅっと抱きしめた。ふるふると首を振る。涙を散らす。
「耕太くーーーーーーーーーーーん!」
声のかぎりに叫んだ。
届いていたのだ。
耕太がちずるの名を呼んだ場所は、校舎の一階。
ちずるがいま捕らえられている教室は、校舎の三階。
常識で考えるならば届くはずのない距離だった耕太の声は、しかしちずるに届いていたのだ。鼓膜の働きではなく、いってみれば心の働きによって、ちずるは感じとっていた。
感じとって、ちずるは叫び返した。
叫び返して、そして。
「あれ?」
と、首を傾げる。
「じゃあ……あの耕太くんは……?」
きょろきょろとあたりを見回し始めた。
さきほどまで猛威を振るっていた〈八龍〉による黒い死の旋風は、ちずるが正気を取り戻すとともに完全に止んでいた。すっかり凪《な》いで、そよ風すらも吹かない。もっとも、風を生みだしていた〈八龍〉自体にはまったく変わったところがなく、ちずるの腰から伸びた八体の黒い〈龍〉たちは、天井に空いた穴からいまだ夜空に飛びだしたままだった。
そして、風が去ったあとの教室はといえば、まさに惨憺たるさまをさらしていた。
〈八龍〉からの狂風にさらされ続けたため、壁も床も天井も、すべてがひび割れ、もはや崩れ去る寸前に映る。ただし、その崩壊はあくまで表面だけのことであって、ひび割れから覗く、まるで網の目のように校舎内部に張り巡らせてあったヒヒイロカネの鎖の黄金の輝き自体にはなんら薄れたところがない。さすがに〈八龍〉の直撃を受けた天井の大穴からは、ところどころ切れた鎖がだらりと垂れさがってはいたが。
そんな荒廃しきった教室の隅に、前後重なるかたちでふたりの男女がいた。
汚れひとつない白いスーツ姿だった三珠四岐と、彼の後ろで、ぼろぼろになった深紫色のスーツと、やはりぼろぼろになった極彩色の蝶の羽とを覗かせていた九院である。
四岐はちずるを凝視したまま、身じろぎひとつしていなかった。
髪を後ろに撫でつけたオールバックの髪形の下、いつもなら糸のように細めて感情を隠していたはずの眼を、いまは大きく見開いて、まばたきすらしない。
いったい? なにが? どうなった? ああ?
と、四岐は、まさしく呆然となったまま、動かずにいた。
一方、彼の背からちずるを見つめていた九院の表情は、厳しく、険しい。彼女の顔に浮かんでいたのは、四岐とは違い、『やはり……』という、ひとつの確信だった。
「――ん?」
そのとき、あたりを見回していたちずるが、四岐と九院の存在に気づく。
「ねえねえ、ちょっとあなたたち、あの耕太くんって……」
ちずるが、自分の腰から天井の穴に向かって伸びる〈八龍〉をずりりりと引っぱりながら、ふたりの元へと足を踏みだした、瞬間。
四方八方から、ちずる目がけて鎖が飛んだ。
「ひゃわっ!?」
封魔の効力を持つヒヒイロカネの鎖が、ちずるの手足だけではなく、首や腰、さらには〈八龍〉に絡みつき、締めつけ、強く引っぱって、彼女の動きを止める。な、なに? と戸惑うちずるに、四方八方から、こんどは笑い声が飛んできた。
あははははははは――。
天井、壁、床と、教室のいたるところからやってくる笑い声に、ちずるは自分の身体を締めつける鎖に抗《あらが》いながらも、「この声、たしか……」と眉間に皺を刻みこむ。とたんに、彼女の真正面にある床のひび割れから、どろりと、なにか黒いものが染みだしてきた。
「あははははははは」
笑いながらあらわれたのは、うごめくコールタールとでもいうような、じつに奇妙な物体だった。びくっとなったちずるの前で、その生きたコールタールはぐねぐねとかたちを変え、人のかたちを成してゆく。
やがて、小柄な体格をした少年の姿ができあがった。
ただしそれは、顔も身体も肌も眼球も歯も粘膜も、すべてが黒一色でベタ塗りされた、まるでだれかの影がそのまま動きだしたかのような少年の姿ではあったが。
「やあ、ちずる」
少年ができあがっての第一声は、ほがらかな挨拶だった。
彼ができあがるまでを眼を見開きながら見つめていたちずるは、いきなりの挨拶に、またもびくつく。鎖に締めつけられて歪んでいた両胸のふくらみが、ふるる、とわずかに表面を波打たせた。
すぐに立ち直り、眼と唇の端をつりあげた、じつにどう猛な笑みを完成させる。
「なによそれ! カゲマンのつもり!」
「……カゲマン?」
首を傾げた黒一色の少年に、わたわたとちずるはあわてだす。
「え、ちょっと待って、カゲマン、知らない? ほら、子供向けのマンガでさ、あったじゃない……って、ああ、そっか、世代が違うのね。はー……ウン百年も生きてると、十年、二十年はたいした違いに感じられなくって……耕太くんとおしゃべりしてるときにも、たまーにやらかしちゃうんだよねー……でもね、だいじょうぶ! 耕太くんはやさしいから、教えてください、ちずるさんって、ちゃーんと話題にのってくれるんだもんっ!」
ちずるの表情が、にまままー、と笑顔で崩れた。
「だから、とっとと正体をあらわしなさいよ……たとえ影であっても、その姿はやめろ、このぉ!」
すぱっと表情を真剣なものにして声を荒げたちずるに、しかし少年は薄笑いを返す。
「へえ、わかるんだ? これがだれの姿なのか……こーんな、どこもかしこもまっくろくろすけで、顔のつくりだって判別のつきにくい、ほとんどシルエットクイズのような状態であっても……」
「わからいでか! 愛の力を舐めンなヨ! ン!」
「でも、わからなかったよね、あのときは」
少年が、すっ……と腕を動かした。
手のひらを大きく広げて、自分の顔の前へとかざしてゆく。横からスライドさせるかたちで、ほんの一瞬だけ自分の顔を隠して、すぐに通りすぎさせた。
そうして手のひらが通りすぎたあとにはもう、少年の顔は黒一色ではなくなっていた。
肌はまさしく肌色に色づき、眼球も黒白で、歯だって白く、舌は赤い。ちずるが眼を見張ったときには、すでに顔以外の部分もきれいに着色されており、思わず視線を下へと動かした彼女が、いやん、と頬を紅く染めるほどだった。
「……ん?」
頬を染めたちずるの目元に、くわわっ、と深く睨み皺が刻みこまれる。
「ちょっと待った! そこのサイズ、どうやって調べた!」
「……まず最初に気になるのが、そこなんだ?」
「すっごく重要なことでしょ! 色あい、かたち、生えぐあいまで完全コピー、すなわち完コピで……日々いちじるしく成長を続ける耕太くんの肉体は、わたしと望以外には知る術すらないはずのトップ・シークレットなのに! どうやって知った! 答えろ!」
「そりゃわかるさ……兄さんとぼくは、遺伝子的には同一なんだから」
「は?」
ちずるは、まじまじと彼――小山田耕太そっくりの姿をした美乃里を、見つめた。
「それはどういう意味だ、美乃里……?」
背後からの声に、耕太の姿のまま、美乃里はゆっくりと振りむく。
声の主は、ひび割れだらけとなった教室の隅に九院とともにいた、四岐だった。
「これはこれは、四岐さま……ご無事でなによりです」
「質問に答えてもらおうか? 兄と遺伝子的にはおなじ、とはどういう意味だ? 話を聞くかぎりでは、その兄とは、〈八龍〉の情夫である少年のことらしいが……」
「こ、耕太くんは情夫違う! れっきとしたわたしの恋人!」
「四岐さま、やはりこやつ、我らを裏切っていたのです!」
ちずるの声に重なるかたちで、九院が四岐の背後から叫んだ。
「お考えにもなってみてください。不審な行動の目立つこやつを、それでも我らが信用できた理由は、ただひとつ、鵺《ぬえ》の存在があったからではありませんか! 憑依合体することでこやつの記憶をあまさず写し取り、すべてを我らに報告できる人造妖怪、鵺があればこそ、たとえ不審な行動をとられても、我らは信用してきたのです」
「そーお? 九院さまはぼくのこと、ずっと疑っていたように思うんだけど」
チャチャを入れた美乃黒に一瞬だけ鋭い視線を飛ばして、九院は説明へと戻る。
「しかしいま、その監視装置たる鵺自体が、まったく信用ならぬことがわかりました! さきほどのこやつの言葉――〈八龍〉の情夫、小山田耕太と遺伝子的には同一という言葉、それこそが証です! 我らの知らぬ秘密を、こやつは持つことができたのです! となれば、もはや信用できる理由など、なにひとつないではありませんか!」
「だからって、すぐに裏切ったと決めつけるのは早計じゃないかなあ?」
「黙れ、美乃里! 裏切りの証拠ならば、そこにある!」
と、まるでひとごとのように呟く美乃里を睨みつけながら九院が指さしたのは、耕太の姿をした美乃里――ではなく、ちずるだった。
「へ? わたし?」
ちずるが自分を指さそうとして、身体を拘束していた鎖を、ぴしっ、と鳴らす。
「なーんでわたしなのよ! 美乃里と組んだ覚えなんか、ないんデスケド!」
「なぜ、泣いていた?」
「はあ?」
「さきほど、おまえの愛する小山田耕太が槍でその心の臓を貫かれ、殺されたように思えたとき、なぜおまえはただひたすら泣いていたのかと、そうわたしは訊いている」
「な、なぜって……そんなこといわれても」
「四岐さま。わたくしは、ここで一部始終を見届けていました。美乃里の化けた小山田耕太ではありましたが、最愛の男の死を目撃した〈八龍〉が、その衝撃によって八体の〈龍〉すべてを覚醒させる姿を……そして、八体の〈龍〉を覚醒させた〈八龍〉が、まるで赤子のように泣きだすのを……」
「……で?」
四岐が、背中に立つ九院に向かって、続きをうながす。
「わかりませんか? 最愛の男の死を目の当たりにしたのですよ? なのに、赤子のように泣く? ありえません! もしわたくしに同様のことが起こったならば、泣く前にすべてを殺すでしょう。愛するものをなぶりものにしたすべてをです。決して赦しなどしません。もし泣くとすれば、すべてを終わらせてから……。そして、〈八龍〉にはあのとき、それを実行できるだけの力がありました。なぜって、八体の〈龍〉、すべてを目覚めさせていたのですから! つまり、もし本当に〈八龍〉が美乃里の化けた小山田耕太の死を信じていたのだとしたら、真っ先に復讐に動いていなければならないはずなのです! しかし、〈八龍〉は泣いていた……ただひたすらに、泣いていたのです」
「なるほど。では、あの黒い風が止んだのも」
四岐が、つぶやくようにいった。
「ええ、そうです」
「そうか……そうだったか……」
「ちょっ、ちょっとちょっと、待ちなさいよ」
ちずるが、ふたりの会話に割って入る。
「あなたたちだけで納得してないで、わたしにもわかるように説明しなさいよ! なんたってわたしは当事者なんだからね! すっごく不本意だけど!」
「つまりちずる、きみはまだ〈八岐大蛇〉じゃないってことさ」
四岐と九院の代わりに、いまだ耕太の姿なままだった美乃里が答えた。
「は? いやだって、〈龍〉のしっぽはほら、もう八本ぜんぶ……」
と、ちずるは自分の背後を見あげる。
それぞれヒヒイロカネの鎖に巻きつかれながらも、悠々と夜空に向かって伸びあがる黒い〈龍〉の数は、たしかに八本あった。
「そう……たしかに〈龍〉は、八体すべてが目覚めたよ。だけど、それだけじゃ足りないんだなあ……ねえ、ちずる? きみは〈御方さま〉からなんて聞いていた? 〈八岐大蛇〉となったが最後、自分はどうなってしまうのかって」
「どうなるって、それは……」
あ、とちずるは大きく口を開く。
「わたしという人格は無くなってしまう……〈八岐大蛇〉という巨大な魂の前に、源ちずるの小さな魂は砕かれ、消え去ってしまう……」
「で、いまのきみは?」
「い、いる! わたし、まだわたしのまま! かわいいちずるちゃんのまま、いる!」
「と、いうわけだよ」
美乃里は肩をすくめた。
「――そしてぼくは、正真正銘のまがいものだと、証明されてしまったわけだ」
「は? まがいもの?」
「そろそろいいかな、美乃里……」
ふたりが語り終えるのを待っていたかのように、四岐が入ってきた。
「〈八龍〉への解説が終わったところで、わたしたちにも説明願いたいんだがな。いろいろと訊きたいことがある。いまの、『まがいもの』という言葉の真意もふくめて、な」
にっこりと、耕太の顔で、美乃里は微笑む。
「もちろんですよ、四岐さま。ただ、いまはあまりゆっくりとご説明している余裕がありません。なんたって、お客さまがいらっしゃいましたのでね」
その言葉に、はっ、とちずるが美乃里の顔を見やった。
「お客さま――って、耕太くん!?」
ふふん、と美乃里は鼻で笑うだけだった。
「いま〈八龍〉がいったとおりの、小山田耕太ですよ、四岐さま。例のアレです。空前絶後の気を持った、謎の接近者とやら……その正体が、なんと〈八龍〉の情夫、小山田耕太だったんです。彼は犹守朔、犹守望の人狼ふたりを引き連れて、ついさっき、砂防壁を破り、校舎内へと侵入しました。律儀にもまあ、生徒用の正面玄関からね」
「あの少年が……」
美乃里の報告を受けた四岐が、つぶやきめいた言葉を洩らす。
「一瞬、そうなのではないかと思ったこともあったが……すぐにその考えは捨ててしまった。まさかとな。なあ九院、おまえも覚えているだろう? わたしたちがあの少年、小山田耕太を見たとき、気はごくごく普通の人間のものとしか感じられなかった……美乃里。あれはおまえの工作だったのか?」
「いえ。それは〈御方さま〉の工作でしょう。おそらく、ですが」
「だがおまえは、小山田耕太が普通の人間ではないと、知っていた。知っていながら、わたしたちには隠していた。そうだな?」
「まあ……そうなりますか」
「なぜだ? やはり裏切っていたのか?」
ふたりの視線が、ぶつかりあう。
「四岐さま……」
先に口を開いたのは、美乃里だった。
「ぼくはあなたに、絶対の忠誠を誓っていますよ。いまだ変わらずにね」
「ぬけぬけと、おのれ、よくも……!」
「待て、九院」
飛びかかろうとした九院を、四岐は片手で抑える。
「では、なぜだ? なぜ報告しなかった?」
「そうですね……あえていうならば、存在証明のため、でしょうか」
「ほう。存在証明、ときたか」
「はい。四岐さまとおなじく、自分が自分であると証明するために、どうしてもやらなければならないことが、ぼくにもあるんです。そのために多少、手段を歪めはしましたが……あくまでぼくは、四岐さま、あなたの利益になるように行動しています。どうか思いだしてください。〈葛の葉〉の実権を手に入れるため、〈八龍〉を〈八岐大蛇〉へと覚醒させるため、そして、〈神〉を現世に復活させるため……ぼくは動いてきたはずです」
「……たしかにな」
「お、お待ちください、四岐さま! 騙されては――」
たまらずといった動きで九院は四岐の顔を覗きこみ、そして息を呑む。
四岐の顔には、例の張りついた笑みが戻っていた。閉じたまぶたの奥に瞳の輝きを押しこめ、笑みで真意を塗りつぶした、例の笑顔が。
「心配するな、九院……こいつは絶対にわたしを裏切りはしないよ。すくなくとも、おのれの存在証明とやらに反しないかぎりは、だが」
「なぜ……そう断言できるのです?」
「おなじだから、かな」
「おなじ……とは、おのれの存在証明のために一命を賭していることが、ですか?」
「もうひとつ、ある」
四岐の両頬が、笑みのかたちにつり上がる。
「親殺し、さ」
九院の表情が、さっと強ばった。
四岐は笑顔のまま、視線を美乃里へと移す。
「さあて、美乃里? どうやらおまえの作戦は失敗したようだが? おまえが〈八龍〉の最愛の男、小山田耕太に化け、〈八龍〉の前で窮地に追いこまれることで、〈八岐大蛇〉の覚醒を促すという作戦がな……で、これからどうするつもりだ?」
「ええ、作戦は失敗しました。ですが、幸いなことに本物がわざわざあちらからやってきてくれましたからね。せっかく〈八龍〉が逃がしたはずの、本物の小山田耕太が……ふふ、〈八龍〉が偽物ではお気に召さないというならば、本物でいくとしましょう」
「ほ、本物って……そんなの、このわたしが絶対に許したりは……!」
怒鳴りかけたちずるの唇を、美乃里が人差し指をぴたりと当て、ふさいだ。
ちずるの耳元へとそっと耕太の唇を寄せ、ささやく。
「文句をいうなら、きみの愛する男にだよ、ちずる……。せっかくきみと〈御方さま〉で逃がしたというのに、兄さんは戻ってきてしまった……。おそらくは、〈御方さま〉の手を振り切ってね。いや……もしかしたら、〈御方さま〉の思惑どおりにかな……?」
「〈御方さま〉の……思惑どおり?」
ちずるの目元が、わずかに歪んだ。
はっ、と思いだしたかのように、間近にあった愛する男の顔に向かってかじりつく。ひょいっと美乃里が顔を引いたため、ちずるの歯はむなしく打ちあって、硬い音をたてた。
「まーた意味深なことをいって、こっちを混乱させようとして……その手にはのるか! だいたいにしてね、おまえ、いったいいつまでその耕太くんの姿のままでいるつもりなのよ! 自分でもいってたくせに! ぼくは『まがいもの』なんだって! 偽物が本物の真似しようったってね、そうは問屋が卸さないんだから! 在庫を抱えて路頭に迷うゾ!」
「なにやら興味深い話ではあるが……美乃里」
例の笑顔を浮かべたまま、四岐がいった。
「お客さんがきたから、あまり時間の余裕はないんじゃなかったのか? さっきおまえがいったとおり、本物の小山田耕太を使うのはいいだろう。だが、どうやってだ? 捕らえるにせよ、その場で片づけるにせよ、もはや校内に戦力は残ってないんだぞ」
捕らえる!? 始末する!?
四岐が不穏当な単語を発するたびに、ぐるる……とうなりながら八重歯を剥きだしにしていったちずるは、最後の言葉で、ほほ? と喜びの入り混じった驚きの声をあげる。
驚いたのは、四岐の後ろに立つ九院もだった。
「戦力が残っていないとは……どういうことですか、四岐さま?」
「そのままの意味ですよ、九院さま」
四岐ではなく、美乃里が答えた。
「ずっとここで〈八龍〉……というより、ぼくの監視を続けていた九院さまはご存じなくて当然なんですが、学校の外ではいろいろとありましてね……。謎の気の持ち主、小山田耕太の接近だけでなく、たとえば小山田耕太たちの偽物が多数あらわれたり、極めつけはあの白面金毛九尾の狐があらわれたりで……そのために、校内に予備戦力として残してあった〈葛の葉〉の部隊は、ほとんどが出動してしまったんですよ」
え、母さんまできたの? と眼をぱちくりさせるちずるを無視して、九院はうかがうように四岐を見つめた。四岐は彼女に向かって微笑みかける。
「美乃里のいうとおりだよ、九院……。もし、仮に現在の状況を作りあげることこそがやつらの狙いだったとしたら、わたしはまんまとのせられたことになるな」
「四岐さま……」
「おまけに、わずかに残っていた人たちまで、〈八龍〉覚醒の衝撃で、使いものにならなくなっちゃいましたしね」
「なに? 〈八龍〉覚醒の、衝撃?」
九院の問いかけに、美乃里はうなずく。
「八体の〈龍〉が目覚める瞬間に立ち会った九院さまなら、その衝撃がどれほどのものだったかはご承知でしょう? 〈葛の葉〉八家の当主である九院さまですら、その身をずたずたにされてしまうほどの負荷……並の術者では、とうてい耐えられるものではありません。いえ、下手に妖気への感度があったのが災いしました。まともに〈八龍〉の邪気を受け、みな意識を失ってしまったんですよ。とくに、接近者に備えるため学校周辺の気を探る任にあたっていた土門家などは……」
「わたしがいた司令室もな、無惨なものだったよ。普段は三珠家の重鎮として、ああだこうだと偉そうにしていたものたちが、あっけなくな……いや、わたしだって、間一髪、美乃里が結界を張ってくれなかったならば、おそらくは」
四岐の言葉に、〈八龍〉の邪気のために服も背の羽もぼろぼろにされた九院は、悔しそうに唇を噛みながらも、納得してみせるしかなかった。
「ところで美乃里……」
と、四岐が尋ねる。
「おまえが、〈八岐大蛇〉が目覚めたなどと嘘をついてわたしをここまで移動させたのは、その……小山田耕太に、備えてのことなのか?」
「いいえ、四岐さま。ぼくは嘘などついてはいませんよ?」
耕太の顔で明るく笑みを浮かべて、美乃里はしれっと返した。
「ぼくはただ、あたりに立ちこめた異常な妖気に驚く四岐さまが、『これは……ついに目覚めたのだな、美乃里!』と尋ねてこられたのに対して、そのとおりです、と答えただけです。だから嘘はついていません。たしかに〈龍〉は、八体、目覚めたのですからね」
「なるほど、そうかそうか……」
四岐も、例の張りついた笑みで応える。
「それがいままでのおまえのやりかただったのか。都合の悪いことは答えず、こちらがうまく勘違いするようなかたちをとると。まったく……」
くくく、と笑いだした。
美乃里は笑みを浮かべたまま、その笑い声を受ける。
「で? まだ答えは聞いてないが? 美乃里、校内に侵入してきた本物の小山田耕太たちを、おまえはいったいどう処理するつもりなんだ? これはごまかさず、答えろよ」
「すでに手は――打ってあります。最初の手は、ね」
笑顔で細めた眼の隙間から、鈍く瞳の光を覗かせて、美乃里はいった。
廊下は、淡い、ぼんやりとした光で満ちていた。
校舎の外側はすっかり砂防壁で覆われていたため、廊下の横にずらりとならぶ窓はみんなふさがれ、月明かりすらも入ってはこない。また、電気系統になんらかの障害が発生したのか、天井の蛍光灯は一本たりとも光を放ってはおらず、ためしに壁にあった電源スイッチをぱちぱちとさせてみても、ウンともスンともいってはくれなかった。
では、淡い光はどこからやってきているのかといえば、廊下全体から、であった。
廊下全体が、天井、壁、床と、教室に入るドアにいたるまでも、すべて、ぼんやりと光っていたのだ。間近に寄って確かめてみると、光を放っていたのは、小さな砂粒だった。淡く光る砂粒が壁や天井などに細かく張りついて、廊下金体を照らしていたのだった。
おかげで、耕太が廊下を進むのに困ることはなかった。
あくまでも、視界という点においてのみは、だったが。
「ここ……階段だったはずなんですが」
耕太は前を指さしながら、真横の朔にうかがう。
指さした先には、壁があった。
つなぎ目ひとつない、見るかぎりでは以前からあったとしか思えない、ごくごく普通な壁だ。だが、耕太にはその異常さがわかる。薫風高校の生徒として、約一年間にわたってこの校舎で学び続けてきた耕太には、わかるのだ。
まちがいなく、ここには上の階へと続く階段があった。
なのにいま、目の前には壁しかない。おかしい。おかしいにもほどというものがある。
「ふむ……」
朔が、腕を胸の前で組みながら、いぶかしげに眼を細めた。
「望、おまえの意見は?」
朔に尋ねられ、耕太の脇によりそう望も、こくこくとうなずく。
「階段、ここにたしかにあったよ、兄さま」
「現役の生徒ふたりが断言するなら、そうなんだろうな。と、なれば、この壁は……」
朔が、手のひらを伸ばし、壁へと触れた。
すっ……と撫でだす。あるところまでいくと、手の甲でノックしだした。こんこん、硬い音が響く。
「これならいけるかな?」
「あの……朔さん?」
なにをやっているんでしょうかと、耕太が尋ねかけたときだった。
「――ラァ!」
短くかけ声をあげながら、朔が壁に向かって鋭い爪を突きたてる。
いや、突きたてたどころか、くわっ、と開いた五本の指先は、ばこんと壁のなかへ入っていった。さらに朔はもう片手もくわえて、べききききっ、と穴を大きく広げてゆく。
「ありゃ、こりゃダメだ」
穴を覗きこんで、朔はいった。
耕太も、その壁の穴を覗きこむ。
「あ」
壁のなかには、金色の鎖が細かい網の目となって、走っていた。
「これはな、ヒヒイロカネ製の鎖だよ」
「ヒヒイロカネ、ですか」
「ああ。使うものの意志と力次第で、いくらでも硬く、粘り強くなる伝説の金属のことさ。さらには、触れた妖の力を奪う効果もあってな……つまり、さすがのおれでも、この鎖を破るのはかなり骨が折れるってことだ」
「この壁って、やっぱり……」
「だれかが作ったんだろうな。まあ、学校の階段ってのは、それひとつで最上階にまでいけてしまうものだからな。こうしてふさいでおかなきゃ、あっさりと突破されちまう……どうやら奴さん、そう簡単にはちずるの元へといかせてくれるつもりがないらしい」
「う、く……」
耕太は、奥歯を噛みしめながら、壁の上部へと視線をやった。
見つめながら、壁の向こう側にあるはずの階段、その踊り場を思う。
ここからいけたはずなのに――。
この壁の奥にある階段を使えば、一気に校舎の三階、ちずるさんが捕らえられているだろう場所までいくことができたはずなのに。自然と、奥歯を噛む力を強くしてしまう。ぎりりと、鳴らしてしまう。
「落ちつけよ、耕太」
朔がいった。
どうじに、横の望も、「そーだよ耕太」と、耕太の肩にぽん、と手を置く。
「気持ちはわかるがな……焦れば焦るほど、考えも動きも荒くなるぞ。ちずるを助けだしたいと、熱くなるのはいい。燃えあがった心は、思い切りをよくするからな。だが、焦りはダメだ。焦らず、冷静に、ただし心は熱く……な?」
「は、はい……すみません……」
耕太の肩に手を置きながら、うんうん、と望もうなずく。
「ここがダメなら、ほかからいけばいいんだよ、耕太」
「そ、そうだよね! パンがないならケーキ……じゃなくって、ここの階段がダメなら、ほかの階段からいけば……!」
「まあ、ここがこうして封鎖されている以上、ほかの場所にある階段もおなじだとは思うがな……って、そんな顔するなよ、耕太! とにかく、もうすこしあたりを見てみることにしよう。どうせ、ちずる以外にも助けだしてやらなきゃならないやつらがいるんだ」
「え? ちずるさん以外にも、ですか?」
すでに歩きだしかけていた朔が、足を止め、振りむく。
「おいおい……忘れたのか? ちずるといっしょに〈葛の葉〉と戦ったやつらのことを」
朔の顔に浮かんでいたのは、引きつったような、なんとも微妙な笑みだった。
あ。
あ、あ、あ。
「あー!」
思いだす。思いだした。すっかり忘れてたっ!
「た、たゆらくんたちっ!」
「耕太、おまえ、さっきから本当にちずるのことばっかりだな?」
「あ、あうう……」
しょぼーん、と耕太はうなだれる。
その肩を、望がぽんぽん、と叩きながらいった。
「いいんだよ、耕太」
「の、望さぁん」
「目的を達成するためには、多少の犠牲は……」
「こ、怖いこといわないでよ!」
いつもどおり感情の薄い望の眼が、今回にかぎってぎらりと冷たく光ったように感じて、耕太は思わず声を大きくした。
「じょーだんだよ、じょーだん」
あっはっはっ、と望は笑う。
「いや……望のいうことにも、一理ある」
「うええ? 朔さん?」
朔が、薄く笑みを浮かべながら、いった。
「犠牲うんぬんはともかくとして、だな。耕太、おまえがちずる以外のことを考えられなくなっているのは、決して悪いことじゃない。それはつまり、おまえのちずるへの想いの強さをあらわしているんだからな」
「で、ですけど」
「もしかすると、それが鍵かもしれないしな」
「え?」
「おれは思い違いをしていたのかもしれない。闘いのなかで目覚めるのだと……そうではなく、想いの強さこそが鍵だったのだとしたら……」
「朔さん? 朔さーん」
「よし、耕太!」
ぱん、と朔が両手を合わせて打ち鳴らす。
「これからおまえは、ちずるのことだけを考えろ!」
「はい?」
「べつに難しいことじゃないだろう? いままで……すくなくとも校舎に入ってからは、実際にちずるのことしか考えてなかったんだから。それを続けろっていってるんだよ。捕らえられているたゆらや熊田たちのことは、おれたちにまかせてな」
「そ、そんなことは……」
「思いだせ、耕太!」
朔が耕太の両肩をつかんだ。がくんがくんとゆさぶる。
「学校に侵入する直前の、あの光景を……校舎の屋上を割って飛びだした、八体の黒い〈龍〉のことを! いまだって、ほら、上からびんびんに感じるだろう? このとてつもなくまがまがしい気を……正直、おれはずっと鳥肌がたって収まらんぜ」
と、片腕の袖をまくりあげて、耕太に見せてきた。
たしかに、ぼつぼつと朔の肌は粟立っている。それだけではなく、銀髪から生えた狼の耳も、腰から伸びる狼のしっぽも、その銀毛を逆立たせていた。
あの朔さんが、昧えている……?
「わたしもわたしもー」
望も破けた革のツナギから腕を抜き、耕太の頬にこすりつけてきた。
ずりん、ずりん。
なるほど、たしかに産毛が逆立ち、ぷつぷつとなっていた。耕太は望にずりんずりんされて頭をかくかくさせながら、自分の腕も撫でさすってみる。
なんともなってはいなかった。
冷や汗ひとつ、かいてはいない。たしかにちずるの気は感じる。正確な居場所すらわかってしまうほどに強大かつ巨大な気が、三階から感じとれる。それはかつて耕太が出会った最強クラスの妖たち、たとえば九尾の狐である玉藻や、神の名を持つ大海神《おおわだつみ》に優るとも劣らない大きさを持っていた。
だけど、怖くはなかった。
怖いどころか、親しみすら耕太は感じていた。ようやく出会えたということに対する懐かしさすら覚えていた。早く会いたい。ちずるさんに、早く――。
「耕太……おれたちは、すこしばかり間にあわなかったのかもしれないが」
その言葉に、はっ、と耕太は朔の顔を見つめる。
「だからといって、ここで立ち止まることなんかできないだろう? いくんだよ。いくしかないんだよ、耕太。なにがあろうともちずるの元に辿りついて、もしおかしくなっていたとしたら、ビンタのひとつでも張って、正気に戻してやれ。な?」
「ダメだよ、兄さま」
そう朔にダメだしをしたのは、望だ。
「あん? なにがダメなんだ、望?」
「ビンタじゃダメだよ。眠り姫を目覚めさせるのは、王子さまのキスだけなんだよ」
あいかわらず真顔での望の言葉に、朔は、ぷっ、とふきだす。
「なるほどなるほど……そうか、そうだな。ちずる姫を目覚めさせるのは、耕太王子のキスだけってわけだ。やってやれ、やってやれ。キスといわず、もういっそ、最後の最後までな。……ところで、どうなんだ、望? まだ清く正しい関係なのか、ふたりは?」
「んー、清くも正しくもないけど、最後まではまだいってないよ」
「まだ? 本当かよ」
「うん。わたしもだけど」
「それはそれは……ずいぶんと健全なことだな。仮に小学生に見せても問題がないくらいの、健全カップルぶりじゃないか?」
「さ、朔さん……望さんも!」
耕太の頬は、かーっと熱くなった。
まったくもう……! こ、こんなときに……!
健全で悪かったですね……と心のなかでぶつぶついって、うん? 健全? と首を傾げる。健全っていっていいのかな、ぼくたち? 本当に?
「なあ、耕太。八方美人なのは、決して悪いことじゃないよな」
と、朔が、なぜか廊下の向こうを見つめながら、いった。
「ふえ? は、八方美人、ですか?」
「そう、八方美人さ。万人に対して優しく接することができる……おれなんかは無理だな。気性のせいか、好き嫌いが激しくてな。望もそうだろう? 興味のないやつは、相手にすらしない。で、その好き嫌いもだいたい、ひと目見た瞬間に決まっちまうんだな……。第一印象がすべてといおうか、直感がすべてといおうか。でもな、耕太、おまえは違うだろう? おまえはみんなに優しくできる。わけへだてなくな。それは素晴らしいことだ」
「ぼ、ぼく……八方美人、なんでしょうか?」
「じゃなきゃ望をアイジンにはしないだろうよ」
ズバリと切りこまれて、耕太の呼吸は一瞬、止まる。
「い……いえ! 望さんがアイジンなのは、ぼくが八方美人だからではなく」
「北海道でのことは聞いてる。ああ、たしかにいまは違うかもな。それなりに好意を持っているからこそ、アイジンとして認めているんだろう。だが、望がアイジン宣言をしておまえとちずるのあいだに割りこんだ時点では、望のことをなんとも思ってはいなかったはずだ。ただ、かわいそうだから、アイジンとして黙認していた……違うか?」
「う……」
冷たい汗が、つつー……っと脇の下を流れてゆく。
はたして真横の望が、どんな顔で自分のことを見つめているのか、耕太は恐ろしくて確かめることができなかった。
ふっ、と朔が小さく笑う。
うつむく耕太の頭に、ぽん、と手をのせた。耕太は声を洩らす。ふみゅ。
「まったく、おまえはお人好しだよ、耕太。それも底抜けのな……本当なら、おまえみたいな八方美人タイプは、おれも望も大ッ嫌いなはずなんだ」
けっこうな衝撃の事実であった。ぴしっ、と耕太は硬直してしまう。
「だけどな……おまえくらいに度が抜けてると、逆に憎めなくなってしまうものらしい。なんたって、本気で愛してもいない女のために、命を賭けることすらできるんだからな。バカだよ、バカ。まさにおまえはお人好しバカだ」
「あ、いえ、望さんの故郷での件につきましては、とくに命を賭けたわけでは」
「だれが望のことだといった?」
「は」
だって、望さんのことじゃなかったら。
『本気で愛してもいない女のために、命を賭けることすらできる』のに該当するひとなんて……。
「まさか……まさか」
「伏せろ!」
朔が、さきほど、ぽん、と手をのせたままだった耕太の頭を、強く押しさげた。
「ふやっ!?」
あまりに突然だったため、耕太にはなんの準備もなかった。思いっきり顔面から床へと叩きこまれる。どうにか、ぎりぎりで手を差しだして顔面をかばったため、鼻からぶつかって鼻血ぶーになるのだけは避けられた。それでもかなりの衝撃は受け、「ぎゃふっ」と声をあげてしまう。
その「ぎゃふっ」とどうじに、頭上を鋭い風切り音が通りすぎていった。
え? と床に這いつくばったまま、視線を廊下の奥へと向ける。
「ひさしぶりだな……朔」
「妹のお嬢ちゃんもね。たしか……絶《たえ》ちゃんだったかしら?」
淡く光る廊下の向こうに、うっすら、人影が見えた。
数はふたり。声から判断するかぎりでは、ひとりは男性で、もうひとりは女性のようだ。
そして、ふたりとも朔と望の顔見知りらしい。
名前を『絶ちゃん』とまちがえられて、「望。犹守望」と訂正する望をちらと見あげて、耕太は思った。
ふたりの知りあいで、しかも『ひさしぶり』ということは、つまり……。はちなみに、望も朔も廊下の端に避けることでさきほどの風切り音をかわしていて、床に這いつくばっていたのは、耕太ただひとりであった。
「ああ、お嬢ちゃんは望だったか? 絶のほうがいいと思うが……なあ、シーナ?」
「そうよねえ、沙介《さすけ》。あ、だったら朔、あなたが絶に名前を変えなさいよ。そうすれば」
「兄妹あわせて、絶望ってか? いいかげんにしろよ、沙介、シーナ」
ふたりの軽口に、苦笑いしながら朔が応える。
廊下の向こうから姿を見せたのは、やはり男と女のふたり組だった。
どちらも細身の長身で、ふたりとも白いふぁさふぁさしたファーつきのブルゾンを羽織り、なかにはティーシャツを着こんでいる。下は、男は黒のタイトなジーンズで、女はやはり黒の、ただしこちらはぴっちりとしたホットパンツ状態なジーンズであった。
男の髪は、つんつんと逆立っていた。
女の髪は、波打ち、肩口まで伸びていた。
そしてその目つきときたら、どちらもやたらと鋭かった。
ふたりの眼に、耕太はとある人物を思いだす。
薫風高校の妖怪たちをまとめあげる立場にある、通称、番長。やはり妖怪で、〈かまいたち〉の、最上級生。耕太のセンパイでもある彼に、雰囲気といい、目つきといい、よく似ていた。もっとも彼の体格は、耕太とおなじくらいの小柄さだったが……そう思ったとたん、「ふざける、コロスぞ!」なんて声まで聞こえてくる。
「桐山《きりやま》……さん?」
腹ばいになりながらの耕太のつぶやきに、朔が「わかるか?」といった。
「あいつらは桐山の兄姉だよ。兄のほうは沙介、姉のほうはシーナという」
「兄姉……? じゃあ」
「そう。あいつらも〈かまいたち〉さ。それもかなりタチの悪い、な」
つまり、さっき頭上を通った風切り音は、真空の刃の? もし朔が強引に伏せさせてくれなかったら……? ぱかーん、と腰から半分に分けられて中身をまき散らす自分の姿を想像して、ぶるり、と耕太は震える。決して、床が冷たいからだけではなかった。
「おいおい、朔。タチが悪いのはお互いさまだろうよ」
「そうよ、朔。むしろ、あなたとくらべればまだこっちがマシだわ」
「ちょっと待て。いきなり攻撃してきたおまえたちより、おれはひどいってのか?」
朔と沙介、シーナの三人が、どうやら軽口の叩きあいでもって旧交を混め始めたのを見計らって、耕太は小声で廊下脇に立つ望に尋ねる。
「あの、望さん、望さん」
「ん? なーに、耕太」
望がとてとてと歩みより、まだ寝そべったままの耕太のすぐ横に、しゃがみこんできた。
「桐山さんのご兄姉のかたたちと、朔さん、望さんって、どんな関係だったんですか?」
「んーとね、兄さまとわたしが、〈葛の葉〉にいたときからの、関係」
「あ、やっぱり。〈葛の葉〉なんだ……」
「でね、兄さまと沙介、シーナはね、シテンノーだったの」
「四天……王?」
なんですか、ソレ?
「たしか、なんとか家っていう、わたしたちみたいなヨーカイ変化ばっかり集めた家のなかで、強いのを四匹、集めたやつだよ」
「九院家だ、望」
しっかりとこちらの会話にも聞き耳をたてていたらしい朔が、補足した。すぐに朔は「だいたいだな……」と沙介、シーナとのやりとりへと戻る。
「そうそう、九院家。蝶のおばさんがエライひとだった家。そのときからのね、ナットーみたいな仲。ねばねばーって」
「納豆……ねばねば……あ、わかった。腐れ縁ですね?」
「ぴんぽーん」
耕太は、うーん、と考えこむ。
「四天王だったってことは……あのふたりと、朔さんの力は……」
「うん。おなじくらい強かったよ。昔は、だけど」
「ちょっと待った。いまだって強いぜ、お嬢ちゃん」
「そうよ、いや、むしろいまならわたしたちのほうが強いくらいよ、お嬢ちゃん」
朔だけではなく、沙介とシーナまでもが、わざわざこちらの会話を盗み聞きしていたようだ。それどころか、三人の話題は耕太と望の会話を元にしたものへと移ってゆく。
「そうだ。沙介、シーナ! 四天王といえば、あいつはどこいったんだ?」
「あいつ? いったいだれのことだよ、朔」
「わたしたちはあなたのママじゃないのよ。あいつでわかるもんですか」
「あの落ち武者のことだよ! 海坊主!」
「ああ、あいつなら……どっかいっちまったよ。なあ、シーナ」
「ええ、沙介。ちょうどさっきの戦闘中にね。やられたんじゃないの? たぶん」
「ほう? 殺しても死なないやつだと思っていたが……」
朔の言葉に、沙介とシーナが笑い声をあげだす。
沙介は「くっくっくっ……」と、シーナは「くすくす……」と、肩を揺すった。
「うん? なにがおかしいんだ?」
「いや、だからな、不意打ちされる心配はしなくてもいいんだよ、朔」
「ふふふ……それが知りたかったんでしょう、朔?」
ふたりの言葉に、朔が、にやりと唇を歪める。
おお……と耕太は感心した。
つまり朔は、軽口に見せかけて、厄介な敵の動向を探っていたのだ。このあたり、ちょっとちずるさんに似てなくもないかも、と耕太は思った。
「さて……朔の不安もなくなったところで、そろそろ始めようか?」
「そうね、覚悟しなさい、朔」
沙介とシーナのふたりが、ぐっ、と腰を落とす。
いきなり高まった緊張感に、耕太は寝そべっていた床からあわてて起きあがり、膝を立てながら、自分の右手首へと左手を当てた。
右の手首に巻かれた銀の腕輪に、触れる。
多々良谷《たたらや》家のお姉さんと当主のおじさんから貰った、武具のひとつだ。
銀の輪は右の手首だけではなく、左の手首にも、それから首にもあった。それぞれ、右の腕輪が攻撃を司り、左の腕輪が防御を司る。首の輪は、耕太の、膨大だが使いかたを知らない気をまとめあげ、左右の腕輪へと力を送りこむ――はずだったが、いまのところ耕太が使いこなせていたのは、左の腕輪、すなわち防御の盾の力だけだった。
攻撃を司る右の腕輪に関しては、まったくもって使えていなかった。
どうにか攻撃を放っても、なにやら相手の全身をいやらしく撫ですさるだけの、妙な力しかでないのだ。シャイニング・エロス・フィンガーなどと呼ばれたアレしか。
よし……。
こんどこそ、ちゃんとした攻撃の力を、使えるようにならなくちゃ……。ぎゅっ、と耕太は銀の腕輪の上から、右の手首を握りしめた。
「耕太」
語りかけてきた朔に対して、耕太は元気よく立ちあがり、返事する。
「はい!」
「さっきの話、忘れてやしないだろうな?」
「は、はい? さ……さっきの話?」
「なんだ、もう忘れちまったのか? これからおまえは、ちずるのことだけを……」
思いだした。
これからおまえは、ちずるのことだけを考えろ――。
「で……ですけど!」
「ごちゃごちゃいうなよ、耕太。おまえにはおまえにしかできない仕事がある。すなわち、お姫さまへのチューだ。そしてもうすでに、〈龍〉は八体まで目覚めちまってる。つまり、一刻も早く、お姫さまにチューしなくちゃならない。となれば、消去法的に考えてだな、こいつらの相手をするのは、おれの仕事なんだよ」
「ダーメですよ! だってこのひとたち、朔さんとおなじ四天王で、だから朔さんとおなじくらい強くて……」
「望、早く連れてけ」
「ん」
「の、望さんもぼくといっしょに!? それじゃ、朔さん、二対一じゃないですかあ!」
望に肘をつかまれ、くいくいと引っぱられながら、耕太は叫ぶ。
叫んだとたん、足の裏をぐいと持たれた。
お姫さまだっこの、完成である。
これで生涯何度目の、女性にされるお姫さまだっこ、いわゆる掟破りの逆お姫さまだっこだったのであろうか。もちろん耕太に、感慨にふける余裕などはない。
「ダメだってば、望さん! 闘うなら、三人で……!」
「だいじょぶだよ、耕太。いまの兄さまは、昔とは違う。あのふたりが相手だって……」
「おいおい、お嬢ちゃん。だからな」
「昔と違うのは、わたしたちもおなじなのよ?」
沙介とシーナが、ぐっと腰を落として両手をだらりとさげた、いつでも真空の刃を放てる姿勢となって、いった。
「そして、ふたりだけでもない」
「もうひとり、いるのよね」
と、ふたりの背後から、ゆらりと影があらわれた。
大きい。
沙介とシーナは比較的長身だったはずだが、後ろの影はそれをさらに頭ふたつほど超えていた。肩幅もまた、広い。肩はごつい。腕は太い。おそらくは胸板も厚いだろう。だが、無駄な贅肉はなく、均整のとれた、まるでボディービルダーのような影だった。
だんだんと、シルエットがはっきりしだす。
髪は長い。珍しい碧《みどり》色で、荒々しく乱れながら背中へと広がり落ちる。その顔ときたら、本来は整っているのだろうが、ぼこぼこに腫れ、ちょっと恐ろしさすら感じさせた。
そして、彼の頭には、二本の鋭い角があった。
薄く開いた唇から覗く、噛みしめた白い歯のひとつには、やはり鋭い八重歯がある。
鬼――。
あまり妖怪に対する知識のない耕太ですら、わかった。角に、牙。たくましい身体つき。見るからに恐ろしい顔。腰には虎皮の布を巻き、上半身はなにもまとわず、そのぶ厚い胸板と、たわわに実ったふたつのふくらみを――。
ふたつのふくらみを――。
ふく、らみを――。
「ふくく?」
そう、それはふくらみであった。
ちずるにも負けないほどの、立派なものである。とはいえ、ちずるとでは体格自体が大きく異なってはいたのだが。でっぱい。いや、でっかい。
つまり。
つまり、だ。このひとは、男性じゃあなくって……。
「お……女のひと……ですか?」
「小山田耕太ってのは……あんたかい?」
上半身をすっかり剥きだしにして、大きく張ったふくらみをまったく恥じることなくさらしていた彼女が、ぎりり、と歯を噛みしめ、鋭い八重歯を見せつけてきた。
彼女のふくらみのあいだには、きらりと、まるで宝石のように光る、小さな石があった。
時は、すこしばかり前にさかのぼる。
場所は一階。耕太たちと沙介、シーナたちが遭遇した地点から、廊下をずっと奥に進んだ、校舎の端にある教室。
その教室に、熊田をはじめとした妖怪たちは、全員、押しこめられていた。
〈葛の葉〉との――いや、正しくは美乃里ひとりとの戦いに敗れ、捕らえられたたゆら、桐山、熊田ほかの面々は、それぞれヒヒイロカネの鎖で縛りあげられ、身動きをとれなくされた状態で、元は各種教材がしまわれていた教室の床に、転がされていたのだった。
彼らのほとんどは、意外なほどに元気であった。
ちずるが八体目の〈龍〉を発現させた瞬間に、放たれたすさまじいばかりの邪気。
その邪気にやられて、校内にいた〈葛の葉〉のものたちは、各所に残っていた三珠家のものたちも、九院家の妖たちも、体育館で周囲の気配を探っていた土門家のものたちも、みな意識を失ってしまっていたというのに。
なぜ、熊田たちは平気だったのか?
それは、彼らの身を拘束していたヒヒイロカネの鎖に理由があった。
ヒヒイロカネの鎖にある、妖の力を奪う効果。その効果が、〈八龍〉の邪気に対しても発揮されたのだ。結果として、身体を縛る鎖に逆に守られて、熊田たちは〈八龍〉の気を浴びても、ちょっと驚くだけですんだのだった。
驚かなかったのは、わずかに三人だけだ。
意識を失っていたたゆらと桐山、そしてそのふたりをどうにか治療しようと専念する澪《みお》の、三人である。
たゆらと桐山は、いまだ沙介とシーナによってやられた傷から回復していなかった。
そして澪はふたりの上に乗って、治療効果のある体液、通称〈澪の油〉をだそうとして必死だった。澪の身体に巻きつくヒヒイロカネの鎖は、彼女の特殊能力を完璧に封じきっていたのである。
この三人――たゆら、桐山、澪以外のものたちは、いま、天井を見あげていた。
あぐらをかいた姿勢で、ずっとのんきにいびきをかいていた熊田までもが、目覚めて、難しく細めた眼で、〈八龍〉の邪気が発せられた方向を見つめる。
「ぬう……」
「熊田サン……」
〈ももんが〉の妖怪、小柄な体格をした天野のほか、まわりの妖たちが、元番長へとすがるような視線を向けた。
「んがー!」
突然の叫びに、その全員がびくつく。
叫んだのは、ヒヒイロカネの鎖を、ひとりだけやたら厳重に、剥きだしとなった胸の上下、膝、足首と巻きつけられて、床に芋虫のごとく転がされた、二メートル級の筋骨隆々な大女、乱《らん》であった。
頭から二本の角を生やした〈鬼〉である乱は、ぐねぐねともがく。
「ちずるさまが! ちずるさまがー!」
くそー、くそー、と涙をこぼしながら吠え、もがき、どうにか鎖から抜けだそうとする。だが、特別厳重に巻きつけられたヒヒイロカネの鎖の力は絶大で、いかに乱がふんばろうとも、きしみすらあげない。彼女の胸のふくらみのあいだに光る石、乱の力を何倍にもする効果がある〈金剛石〉も、輝きを発することができなかった。
「うあああああああ!」
ひときわ高く乱が吠えた、そのときだった。
がらりと教室のドアが開く。
「うるさいぞ、乱」
「廊下にまで洩れてるわよ、その声」
あらわれたのは、〈かまいたち〉の兄妹であり、桐山の兄姉でもあるふたり、沙介とシーナだった。
「あ、あんたたち……」
集まったみなの視線をものともせず、沙介とシーナは転がる妖たちのあいだを縫いながら、教室のなかを進んでゆく。
立ち止まったのは、かつての仲間だった乱の元、ではなく。
たゆらと桐山の上で〈澪の油〉をだそうとうんうんうなる、澪の元だった。
「お、おまえら……ナニをする気ダ!」
天野が吠える。
ほかの妖たちもざわつくなか、ふむ、と熊田だけは静かに見守っていた。
「なあに、借りを返すだけさ」
「かえるのお嬢ちゃんから、受けた借りを、ね……」
と、沙介とシーナはふたりそろって、片手を高々とあげてゆく。
すぐそばに立つ沙介とシーナのことがまるで目に入らないかのように、ひたすらうんうんとうなり続ける澪に向かって、指先をそろえた手を、振り落とした。
悲鳴と怒号が、あがる。
どうじに、小さく、金属音もあがった。きん、という甲高い音とともに、澪の胴体に、両腕を縛りつけるかたちで巻きつけてあったヒヒイロカネの鎖が、沙介とシーナの手刀の位置で、切れる。
「……?」
ひたすらうなるばかりだった澪が、ようやく、ほかの反応を見せた。
切られた鎖を滑り落としながら身体を起こし、自分の真正面に立つ沙介とシーナの顔を、じっと見つめる。
沙介とシーナは、薄く微笑んでいた。
「これで、貸し借りなしだ、お嬢ちゃん」
「逃げるなりなんなり、お好きになさいな」
「え……」
戸惑う澪に、ふたりの笑みは強くなる。
「お嬢ちゃんは、殺そうと思えばいつでもおれたちを殺せただろう? なんたっておれたちは、毒にやられて、指先ひとつ動かせない状態だったんだからな。なあ、シーナ?」
「ええ、沙介。ちょっと毒の濃度を高めれば、呼吸を止めることだって、心臓を止めることだって、あなたはできたはずだわ。だけどしなかった、その借りよ」
「じゃあな、お嬢ちゃん」
「お元気でね」
沙介とシーナはくるりと身を返し、歩きだした。
またもや妖たちのあいだを縫って辿りついたのは、こんどこそ乱の元であった。
乱が、仰向けのまま、ふたりに尋ねる。
「えーと……あたし、あんたたちになにか貸し、あったっけ?」
「ないな」
「まったく」
沙介とシーナの回答に、はっ、と乱は諦めたように笑った。
「じゃあ、これでサヨナラってわけだ……裏切りものを処罰しにきたんだろ?」
「残念だがな、それもハズレだ」
「本当、残念だったわね、乱」
「あん?」
乱が熊田戦の激闘でぼこぼこだった顔を疑問に歪めたとき、声が響く。
『やあ、乱……元気だったかい?』
その男の声は、教室の天井からあがっていた。
乱の表情が、疑問から怒りへと、すぱっと変わる。
「だれだい、あんた……馴れ馴れしく人の名前、呼び捨てにするんじゃないよ!」
『ああ、この姿ではあったことがなかったか……じゃあ、これでどーう、お姉ちゃん!』
声が、青年のものから、少女特有の甲高いものへと変わった。
乱が、はれぼったくなっていたまぶたを、ぱちくりとさせる。
「あ、あんた、たしか……」
『そうだよ、美乃里だよ! あのね、わたし、ちょっとばかり乱お姉ちゃんに、お手伝いしてもらいたいことがあるんだー』
「お手伝い……だって?」
うん! と美乃里の返事は元気がよかった。
『たったいまこの学校に侵入したね、三人をやっつけてほしいの』
侵入した三人、の言葉に、教室内の妖たちがざわめく。
「三人?」
『そーだよ。うちふたりは人狼。ひとりは犹守朔。乱お姉ちゃんが九院さまにスカウトされる前、九院家四天王のひとりだったひとだよ。たぶん、乱お姉ちゃんとおなじくらい、強いかな。もうひとりは、犹守望。朔の妹でね、現時点での力量はそこそこといったところだけど、でもあなどっちゃいけないよ。純度の高い気を、とあるニンゲンからたーっぷりと吸ってるからね。化けるかも……』
朔、望と名前があがるたび、教室内のざわめきは高まっていった。
『残るひとりは……ニンゲンだよ。名前は、小山田耕太』
耕太の名前で、ついにどよめきが起こる。
どよめきのなか、乱はひとり、笑っていた。
くく、くくく……と震え、あーっはっはっはっはっ、と声をあげる。
「そうか、そうかい。耕太……ちずるさまのいまの恋人が、きたのかい。ちずるさまを助けに……ここまで! で? お嬢ちゃん、あんた、あたしになにをさせたいって?」
『校内に侵入した三人の、排除』
「やると思うのかい、このあたしが? ちずるさまを助けにきた三人を? 冗談じゃないね! ちずるさまの味方は、あたしの味方だ。助けることはあったって、敵にまわることなんかありはしないよ! たとえ殺されたってね!」
『へえ、いいんだ? 殺されても?』
「ああ、やるんならやりなよ、早く!。ほら、沙介、シーナ。あたしの素っ首、叩き落としな! ちずるさまの敵にまわるぐらいなら、死んじまったほうがましさ!」
ぐい、と顎をあげて、乱はたくましい首を覗かす。
『乱お姉ちゃんを殺すなんて、だれもいってないよ? もし殺すとしたら、それは、乱お姉ちゃんの、愛しい愛しいひとだよ』
「なんだって……?」
ふくれあがった乱の筋肉に、彼女を縛りあげていたヒヒイロカネの鎖が、張りつめた。
「あんた……!」
『忘れないでね、お姉ちゃん。愛しのちずるさまは、いま、わたしたちのところにいるんだってこと。殺すも生かすも、わたしたちしだいなんだから……さあさあ、早く早く。小山田耕太たちは車から這いだして、もう動きだしちゃってるよ。階段をふさいで、廊下は一本道にしてあるから。だから、正面玄関から入った小山田耕太たちと、この教室をでたお姉ちゃんたちは、途中で出会えるはずだよ。出会ったら、話は簡単! 乱お姉ちゃんのそのバカ力でもって、小山田耕太たちをぶっとばせばいいよ!』
ぱきん、ぱきん、ぱきんと、乱の胸、膝、足首を縛っていたヒヒイロカネの鎖が、切れてゆく。自由の身になった乱は、がぎりりりと奥歯を鳴らしながら、筋肉を張りつめさせてぷるぷると震えながら、ゆっくりと身体を起こした。
フンガー!
まるで興奮剤を打たれたゴリラのようなおたけびを、あげる。
「いいだろう、いいだろう、いいだろうともさ! やりゃあいいんだろう、やりゃあ! どうせちずるお姉さまがそこにいる以上、あたしは逆らえやしないんだ……フンガー!」
鼻息荒く、どすどすと乱は教室のドアへ向かって歩きだしていった。
その背を、沙介とシーナが肩をすくめながら追いかけてゆく。
「待てよ、乱」
「そうよ、あなた、案内なしじゃ、迷うでしょう?」
「さっき廊下は一本道にしてあるっていってたじゃないか! いくらあたしの脳みそが筋肉でも、一本道で迷えるものかいっ!」
がらっ、とドアを開け、乱はずんずんと廊下を進んだ。
「だから、そっちじゃないぞ?」
「玄関は、こっちよ?」
「う……うるさい、うるさい、うるさーい! 黙れ、このペテン師兄妹!」
肩をぷりぷりに怒らせて、乱は戻る。その頬は、ほんのりと紅かった。
「おまえ、それが親切に道を教えてやった相手にいう言葉か?」
「だいたい、わたしたちのどこがペテン師なのよ」
「ちゃーんとわかってるんだよ、あたしは……さっき、あんたたちがあのかえるのお嬢ちゃんの鎖を切ったアレ、自分たちの力でやったんじゃないってことをね! このあたしが破れない鎖が、あんたたちに切れてたまるもんか。アレは、あの憎ったらしい美乃里のガキンチョに、うまくタイミングをあわせて切ってもらったんでしょーが!」
乱の指摘に対する沙介とシーナの回答は、ハミングだった。
なかなか上手に低音、高音でハモって、んーんんー♪ と哀愁ただようメロディーを奏でだす。
「ごまかすんじゃないよ、この!」
開けっ放しだったドアから届く三人の声が、遠ざかってゆく。
そして時は、耕太たちと沙介、シーナたちが遭遇した時点まで流れ――。
「逃げろ、澪!」
教室に、桐山の声が響く。
「落ちつけよ、番長……」
しみじみと返したのは、桐山とは背中あわせの状態で、ふたりいっしょにおなじヒヒイロカネの鎖によって縛りあげられていた、たゆらであった。
ふたりとも、その身体は全身、なにやらぬるぬるした液体で濡れそぼっている。
この液体こそが、沙介とシーナの一撃によって深くダメージを負い、さらに妖力を奪うヒヒイロカネの鎖で拘束されたため、回復力が普通の人間レベルにまで落ちてしまい、ずっと意識を失ったままでいた桐山とたゆらを、目覚めさせた特効薬だった。
すなわち、〈澪の油〉である。
そんな抜群の治療効果を持つ粘液を発したおかっぱ頭の少女、〈かえるっ娘〉である|長ヶ部《おさかべ》澪は、床に転がってわめく桐山となだめるたゆらの上にべたりと乗ったまま、「んー! んー!」と横に首を振って、その場を動こうとはしなかった。自身で作りあげた〈澪の油〉によって、全身汗みどろならぬ汁みどろとなって、薫風高校の制服であるブレザーの上着やチェック柄のスカートをぐっしょりと幼い肉体に張りつかせてもいたが、気にする様子もない。
ぎゅっと眼を閉じて、背中あわせで縛られた桐山、たゆらにひたすらしがみつく。
「澪! ききわけ、しろ!」
「んー! んー!」
「だーから、そんな怒鳴ったって無駄だってばよ、番長さんよー」
沙介とシーナによって、捕らえられた妖たちのなかからただひとり、ヒヒイロカネの鎖による拘束から解放された澪が、選んだ道がこれだった。
桐山とたゆらを、絶対に治す。
妖力を奪うヒヒイロカネの鎖はもう効果を発揮しなかったため、澪はぞんぶんに〈澪の油〉を流すことができた。その量ときたら、床に油だまりができるほどで、おかげでまわりの細かな怪我をした仲間たちが、すっかり傷を治せたくらいだ。
澪の努力のかいあって、桐山とたゆらは、意識を取り戻した。
まばたきしながら、ぽーっとあたりを見回す桐山の首に、澪は抱きつく。強く強く抱きついて、「桐山ぐーん!」と泣きじゃくる。戸惑っていた桐山も、やがて事情を察して、「澪、おまえ、助けてくれたか……ありがとう」と感謝を告げ、すぐそばにいたたゆらも、ぐすっと鼻をすすりながら、うんうんとうなずく。三人全員が、無色透明、無臭な〈澪の油〉まみれでぐちょぐちょになりながら。
と、ここまではよかった。
問題が発生したのは、まさにここからであった。
「澪、おまえ、このままだと、死ぬ! わかってるのか!」
桐山が、身体を揺すりながら、叫ぶ。
だが、いかに桐山が「せっかく自由になったんだから、おまえだけでも逃げろ」と繰り返し説得しようとも、上に乗る澪は動こうとしなかった。「んー! んー!」と首を横にぷるぷると振るばかりで、必死で桐山にしがみつき、離れない。
たゆらは、ため息をつく。
「押してもダメなら引いてみろって言葉、知らねーのかよ……いちど女が覚悟を決めちまったら、いくら怒鳴ったところでどうにもなりゃしねえっつーの。番長になってちったあ成長したかと思ったんだが、やっぱり惚れた女にゃ弱えーのかね? ったく……」
と、小声でつぶやき、ぱっ、と顔を澪のほうへと向けた。
「なあ、澪ちゃん?。このままじゃあ、こちらの番長さまのいうとおり、みーんな死んじゃうかもしれないんだぜ? おれたち、ほら、〈葛の葉〉に逆らって捕まってるわけだし。どう考えても無罪放免で解放なんてことはないんだし。まー、良くて〈葛の葉〉謹製の妖怪刑務所送り、悪けりゃ、この場で処刑なんてことも……だからさ」
「だ、だだ、だいじょぶ、です……」
初めて澪が、「んー! んー!」以外の言葉を返した。
「だいじょぶ?どして?」
「お、小山田くんたち、望さんも、あの朔さんも、す、すぐそこまで、やってきたって……だからきっと、みんな、助かり、ます」
「澪、おまえ、考え、甘い! スーパースイーツ!」
桐山の怒声に、澪はびくつく。
眼を硬く閉じ、身体も強ばる。それでも両手両足をふんばって、桐山にしがみつく。
「まー、まー、まー。落ちつきなよ、番長。澪ちゃんのいうことにも一理あるじゃねーか。なるほど、耕太、望、朔ね。望と朔のヤロウはとにかく、耕太はとびっきりのお人好しだからな。ちずるのついでに、おれたちのことも助けてくれそーだ」
「たゆら、おまえ、そう思ってる、本気か?」
桐山に問いかけられて、たゆらは口元に小さな笑みを作った。
「いーや……まったくもって思ってねーよ」
たゆらの言葉に、強ばったままだった澪が、閉じていた限を開く。
すこし垂れた眼のなか、濡れた瞳で、じっとたゆらを見つめる。その視線をたゆらはちっとも気にしないそぶりで、背中の桐山に向かって、話しかけた。
「おまえだってわかるだろ? 上からビンビンに感じる、このなんともいえない、嫌〜な気の意味はさ……もうちずるは、ぎりぎりのところまで追いこまれてるんだ。となれば、耕太はちずるを優先する。おれたちのところにくるとしても、ちずるを助けたあとだ」
たゆらは天井を見る。
桐山も身じろぎして天井を見つめ、澪もまた、首をぐにんと曲げ、視線を向けた。
「で、問題は、ちずるを助けるためには、ほぼまちがいなく美乃里とは戦闘になるってことで……ちずると闘ったとき、たしか学校の屋上、吹っ飛んだんだよな? もしそれ以上の戦闘になったとしたら……下手すれば学校自体がどかーんって吹き飛んで……あえなく、忘れられたおれたちは生き埋めになって……」
「あ、あう?」
澪の眼が、とたんにうるみだす。
「あーあ、だれか、耕太たちに伝えにいってくれねーかなあー! 美乃里と闘う前にさ、おれたちをここから連れだしてくれって。じゃねーと、おれたちみんな、生き埋めに……」
「あう!」
澪が、涙を散らしながら手をあげた。
うるみきった澪の瞳は、あふれる涙で像が歪んで、まるでぐるぐるまなこのように映る。そのぐるぐるまなこのまま、澪は叫んだ。
「わたし、いく、いきます! 小由田くんたち、助け、呼びます!」
「へ、へーえ? でもさ、危ないんじゃないかな、澪ちゃん。いまごろ耕太たちは、あの〈かまいたち〉のふたりや、鬼のねーちゃんとバトってるはずだし」
あう、あう、と澪は、ぐるぐるまなこであたりを見回しだした。
はっ、となにかを発見し、とたとたと、教室の隅へ走ってゆく。
辿りついたのは、細かな道具類が入った、大きめの段ボール箱だった。それは、たゆらたちをこの教室に押しこめる際、〈葛の葉〉のものたちが片づけ忘れたものであった。
その段ボール箱を、澪はつかむ。
一気に、中身を床へとぶちまけた。ガムテープやら紐やらポロ布やら、さまざまなものを放って、逆さにした段ボール箱を、さらにぺちぺちと叩き、なかのほこりを落とす。
そうして空にした段ボール箱を持って、澪は戻ってきた。
「こ、これ、かぶります! げ、ゲームで見ました!」
澪は逆さにした段ボール箱をかぶって、丸く伏せる。小学生にまちがえられたりするほどに小柄だった澪の身体は、すっぽりと箱のなかへと入りこんだ。
その状態で、ずりずりと動く。
完璧に箱だけが、床を這いずっているように見えた。
「ほ、ほーう。なるほど、メタルでギアなアレか……でもアレ、主人公、なんたらスネークだったよーな? 澪ちゃんはかえるっ娘……ヘビとかえる……うーむ。まあ、いいや。オッケー、オッケー! じゃ、澪ちゃん、お願いしても、いいかなー?」
「い、いいともー!」
ちらりとあげた段ボール箱のすきまから、澪は返事をした。
おずおずと、視線を桐山へと移す。
なにやら桐山は、苦いものでも噛みつぶしたかのような、非常に複雑な表情を浮かべていたが、やがて、ぼそり、といった。
「気をつけろよ、澪」
「う、うん!」
喜び勇んで、澪は開けっ放しだった教室のドアへと向かう。
段ボール箱をかぶったまま、ずりずりずりずりと移動して、廊下にでる直前、止まった。そろーっと廊下にでて、左右を確認してから、ずりー、ずりー、ずりー、と去ってゆく。
「……たゆら」
澪の姿が完全に消えてから、桐山はいった。
「ん? なんだよ? あ、わかった、文句だな? あのな、いまの場合、おまえには礼をいわれてもだな、文句をいわれるすじあいはだな」
「礼だ。すまん。感謝する」
桐山が、ぺこりと頭をさげる。
とたんにたゆらはあわてた。
「や、やーめろよ、気持ち悪い。なんだ? なにか企んでるのか?」
「おまえ違う。おれは企む、ない。礼をいうのは、おまえがその口で、うまく澪のこと、ダマしてくれたから。おまえがダマさなかったら、アイツ、ずっとここ、残ってたはず。だからおれ、礼をいう。助かった。よくダマしてくれた」
「って、褒められてんだか、けなされてんだか。……ま、せめて澪ちゃんぐらいは助けねーとさ、あまりにもカッコ悪いだろ、おれたち」
「オイ? たゆら、いまオマエ、なんてイッタ?」
と、黙ってたゆらたちのやりとりを温か〜い眼で見守っていた天野が、尋ねる。
「澪ぐらいは助けネーと……って、どーゆーことダ?」
「つまり、さっきの話、おれは嘘はついてないんだよ、天野センパイ」
たゆらはいった。
「澪ちゃんにいったとおり、ここはヤバイのさ、マジで。美乃里もそうだけど……わかるだろう、センパイ? このちずるの気の異常さをさ。もうこれは、妖の気じゃないぜ。どっちかっつーと、〈神〉とか、そっちの部類の気だ。いや、この場合、〈悪魔〉か? あのさ、耕太と美乃里が仮に闘ったとして、ちずるが黙ってると思うか?」
「……オマエのネーちゃんは、死んでも黙ってないナ」
「となれば、爆発するわけだよ、この悪魔じみた気が。さて、爆発したらどうなる?」
「生き埋め……カ?」
「それですむなら、まだマシかもね」
天野の顔が、びきっ、と強ばった。
「だから、せめて澪ちゃんだけはって話になるのさ。澪ちゃんを抱えることになる耕太たちには負担だが……まあ、おれたちのことを助けにくるかはともかく、澪ちゃんを見捨てるような真似はしねーだろ。ここに残るのと、耕太たちの元に向かうの、どっちも危険っていえば危険だろーが、ま、澪ちゃんって、けっこーお強いみたいだし……」
「たゆら、オマエ……」
「フッ。やめてくれよ、天野センパイ。男として当然のことを、おれはしただけだぜ」
「今回、ようやく役に立ったナア……」
「オーイ! あんただっておれと似たよーなもんだったじゃねーか!」
たゆらと天野のやりとりに、どっ、とまわりの妖たちが笑いだす。
ちっ、とたゆらは舌打ちをして、むくれたまま、いきおいよく首をひねった。顔の向きを変えて、叫ぶ。
「熊田彗星さんよ!」
ぬ? と突然水を向けられた熊田は、あぐらをかいて縛りあげられた姿勢のまま、片目をぱちくりとさせた。
「さっきから大将、あんた、ずーっと黙りこくってるけどさ! いったいなにを考えてるのかな? もしかして……あるのかな? ここから脱出するための妙案とか……さ?」
「ふむ。ここから脱出する、妙案、か……」
低く太い熊田の声に、みなが息を呑む。
「すまんが、ないなあ、そんなものは」
がっはっはっ、と豪快に笑い飛ばされ、全員、がっくりとこけた。たゆらも、ごつん、と床に頭を打ちつける。
「あ、あのなあ……だったら、どーして意味深長にずっと黙ってたんだよ、元番長!」
「うん? いや、おぬしのいうとおり、わたしは元番長、熊田流星によく似た男だからな。元番長によく似た男として、おぬしたち現役世代のやりとりを、頼もしく思いながら見ておったのだ。さきほどの、澪に対するおぬしたちの想い、この胸が熱くなったぞ」
「なんだよ……じゃあ、やっぱりおれたち、全滅エンドかよお……」
「ケッコー期待してたノカ……」
落ちこんだたゆらを見つめる天野の目つきときたら、なんとも生暖かいものだった。がっくりとうなだれるたゆらとは背中あわせの桐山は、フン! とバカにするかのように鼻息を荒くする。
しかし、熊田は、ぽそり、といった。
「さあて……死にはせん、と思うが」
この言葉に、たゆらだけではなく、教室中の妖、すべての視線が熊田へと集まった。
「……さっきみたいなフェイントは、よしてくれよな」
「いや、源弟よ、重ね重ねで申し訳なく思うが、根拠といえるほどたしかなものは、べつにないのだ。ただわたしは、どうも『ここでは死なんだろう』と思えるだけでな……まあ、勘のようなものだな。たいした当てにはならん」
「勘……つまり、野性の勘ってわけか? いや、違うな……」
へへっ、とたゆらは笑い、だらん、と身体の力をぬく。
「熊の神さま、〈キムンカムイ〉だったあんたの勘は、ある意味、神の勘、いってみれば神さまのお告げだ。そう思えば、ちったあなぐさめになるよ」
皮肉ではなく、実際、たゆらはリラックスしきって横になった。
「おお、さっそくきたようだな」
「あん?」
熊田の声に、たゆらはゆっくりと頭を持ちあげ、教室のドアのほうを向く。
そこに立っていたのは――。
「いい!?」
うまく騙して逃がしたはずの、澪であった。
澪は、段ボール箱を両手で持ちあげ、まるで特大の帽子のようにしながら、隠れもせず、その場に立っている。
「ど、どーしたのよ、澪ちゃん!?」
あ、あう……と困ったような表情をする澪の背後から、さらにもうひとり、すっと姿をあらわした。
熊田を除く全員が、驚きに眼を見開く。
「……全員、そろっておるようじゃの?」
問いかけたのは、丸い眼鏡をかけ、その肩まで伸びた波打つ髪を、風もないのにざわざわとうごめかした女性――白いブラウスと紺のスカートを身にまとった、薫風高校教師、砂原幾《さはらいく》のなかに眠る〈御方さま〉、そのひとであった。
三、〈御方さま〉の陰謀
「だっしゃー!」
乱が、拳を振るう。
筋骨隆々のたくましい肩、腕、そして背筋から太もも、ふくらはぎと、全身の肉体をあますことなく駆使して放たれた、まさに必殺の拳であった。拳は、空気をうねらせ、まわりを。圧しすらして、飛ぶ。
間一髪、朔の頭をかすめた。
ぎりぎりで朔がかわしたのだ。
口元にうっすらと笑みを浮かばせながら、朔は、乱の拳を自分の背後へと追いやってゆく。その拳にかすかに触れただけの銀髪を、ぱっ、とあたりに散らしながら。
「らっ!」
「たっ!」
このとき、沙介とシーナは、高々と跳びあがっていた。
沙介は左、シーナは右と、ふたり、別々の方向へだ。そうして跳びながら、空中でもって指先をそろえて作った手刀で空間を切り刻み、左右から真空の刃を放った。
いや、沙介とシーナは、両手のみならず、両足までも使っていた。
両手両足、四つの刃で無数に空間を切り裂き、無数の真空の刃を生みだしてゆく。左右、はさみうちになるかたちで放たれた刃は、乱の拳をかわしたばかりの朔へと、つぎつぎに襲いかかっていった。
そのすべてを、朔は避けた。
眼には映らないはずの真空の刃が、朔には見えているのか、ただの勘か、それとも、人狼特有のなにか鋭敏な感覚を利用しているのか、とにかく、朔はまるでダンスでも踊っているかのように軽やかに身をひねって、刃と刃のあいだを縫っていった。
華麗に避け終えて、しめくくりに、とん、と朔は片足で着地する。
ふふん、と笑ってみせた。
たったいま攻撃をくわえてきた三人に向かって、朔はみごとな冷笑を浴びせたのだった。
「フンガー!」
乱が、こめかみの血管をはちきれんばかりにしながら、叫ぶ。
「あんた、さっきからずーっとちょこまかと逃げてばっかりで、やる気、あんのかい!」
すぴー、と鼻息も荒く迫る乱の身体は、すっかり汗みどろだ。
元々、熊田との激闘を経て、美乃里の〈龍〉による攻撃を喰らってしまった乱は、かなり体力を消耗していた。さらに妖の力を奪うヒヒイロカネの鎖によって厳重に拘束されていたため、まったくといっていいほど回復もしていない。はあ、はあ、と乱が呼吸を激しくして、その肩を大きく上下させると、あらわだった彼女の上半身の、疲れからか背を曲げていたためにすこしばかり下向きだった胸のふくらみが、るん……るん……と、汗で濡れ光りながら、ほのかに揺れた。
「まあ、すくなくとも、『真正面から』やる気はないだろうな」
「だって三対一だもの。まともにやっちゃ、さすがに朔に勝ち目はないわ」
と、沙介、シーナが、まるでひとごとのようにいう。
ふたりとも乱とは違って、直前の戦闘では澪の毒によって麻痺させられていただけだったので、動きはともかく、体力的な面で問題はなかった。汗ひとつかかず、例の白いファーつきのブルゾン姿で、余裕めいた笑みを浮かべている。
「あんたたちね……なにをのんきなこといってんのさっ! あたしたち、すっかりやられてんだよ、こいつに!」
乱が怒鳴った。
「ああ、そのとおりだ。まったく、完全にやられちまったよ。なあ、シーナ?」
「ええ、沙介。本当、やられてしまったわ……朔、あなたと妹さん、そして、とりわけ、あのボウヤにはね」
乱、沙介、シーナの視線が、朔に集まる。
三人の視線を浴びながら、朔はなおも冷笑を続け、腰から生えた銀毛のしっぽを、ふぁさりと、波打つかたちでくねらせた。
頭から生えた狼の耳は、得意げに反る。
そんな笑みを浮かべる朔の顔は、いまだ人のものだった。
つまり朔は、彼の最強の状態であるはずの、巨大狼の姿にはなっていなかった。
しかし、ただ単に狼の耳としっぽを生やしただけの姿なのかといったら、それも違った。
一番の変化は、手足だった。
ごつく、太く、鋭くなり、銀毛が覆う。その尖った爪は、まさしく巨大狼のときの、獣の手足であった。なのに、顔や体形は、人の姿のままを保つ。あくまでも人の状態のまま、朔は手足だけを巨大狼のものへと変化させていたのだ。
いや、髪形も、若干変化していた。
とにかく襟足が長い。毛先が、背中のなかばまでも伸びていた。
この新たな変化、いってみれば半獣半人形態こそが、耕太の祖父、小山田弦蔵との修行の旅の果てに、朔が得たものなのであった。いわゆる修行の成果である。
そしていま、この場に耕太と望の姿はなかった。
半獣半人形態の朔と、興奮で顔どころか身体まで真っ赤っかな乱、どこか他人ごとの沙介、シーナの四人しか、この薫風高校、一階の廊下には、いなかったのであった。
耕太と望は、いま――。
耕太と望は、薫風高校、二階の廊下を進んでいた。
一階とおなじく、廊下は全体がぼんやりと光るだけで、薄暗い。
そんな先の見通せない一本道を、望とふたり、ならんで歩く。
どうして走らずに歩いているのかといえば、さっきの〈かまいたち〉兄妹の攻撃のような、突然の不意打ちをまた喰らわないためだ。とくにいまは、望がまだ突然の体調不良から回復していなくて、鼻がまったく利かなかった。人狼の優れた嗅覚を当てにできないわけで、おのずと慎重にならざるを得なかった。
あたりに注意を払いつつ、耕太は真横の望を、ちらと見る。
「……朔さん、だいじょうぶかな」
「ん? 心配なの、耕太?」
望が、真っ正面、廊下の奥を見つめたまま、いった。
その横顔は、凛々しいながら、あいかわらず表情にとぼしい。だが、わずかにつりあがった眉毛と、ぴんと雄々しく立った狼の耳から、耕太は彼女の覚悟と意気ごみを、雄弁に感じとる。
「心配だよ、やっぱり……だってあのひとたち、強いんでしょう?」
「うん、すっごく。だって、シテンノーだし」
耕太は立ち止まった。
うつむき、ぐっ、と唇を噛む。
「耕太?」
「朔さんに、なにかあったら」
「耕太」
「ぼくは……ぼくは……」
「耕太ー!」
べちん、と両頬に衝繋を受けた。
ふい? と耕太が顔をあげると、真正面に望は立っていた。耕太の両頬を手で挟みこんだまま、んじっ、と見つめてくる。
「耕太は、どうしてここにいるの」
「の、望ふぁん?」
「どうしてあのとき、兄さまを置いていったの?」
望の、きらめく宝石のような銀色の瞳が、まっすぐに耕太を捉えていた。
その銀色の瞳を見つめながら、耕太は思い起こす。
あのとき――。
沙介とシーナ、そして乱の三人に行く手を阻まれていたあのとき、『ここはおれにまかせて、先にゆけ』という朔に、最後まで抵抗していたのが、耕太だった。
ダメです。朔さんひとり、置いてなんかいけません。
闘うなら、ぼくたちもです。
ひとりだけでなんて――ダメ、絶対!
と、望にお姫さまだっこされた状態で、耕太は繰り返した。
繰り返しながら、うかがっていた。
沙介、シーナ、乱の、三人の、隙を。
『あんたたち、ごちゃごちゃとやってないで……』
そういいながら、乱が沙介とシーナのあいだを割って、耕太たちのほうへと迫ってきた、その瞬間。
耕太は、ぽん、と軽く望の身体を叩いた。
叩いたのを合図に、望は飛びだす。
まさしくロケットのような、お姫さまだっこされた耕太の視界が、前に〈御方さま〉の殺人カーを避けたときと同様、派手にブレるほどの加速で、望は駆けだし、眼を剥いた乱に激突する寸前で、『とー!』と跳んだ。
『逃がしは』
『しないわ』
乱の後ろにいた沙介とシーナが、宙にいた耕太と望に向かって、飛びかかってくる。
が、彼らは銀色の疾風に弾かれた。
沙介とシーナを蹴散らした銀色の疾風、それは朔であった。
両手両足は獣化したのに、身体は人のままという、いままで見たこともない変化をした朔の、長くひるがえる銀色の襟足をあとにしながら、振り返らず、耕太と望は廊下を疾走する。実際に走ったのは、耕太をお姫さまだっこしていた望だったが。耕太はただ、望にしがみついていただけだったが。
フンガー! という乱のおたけびが、背後でとどろいた。
その叫びに追われるように、耕太と望は速度をあげる。
そして、廊下を進んだ先で、上の階へと続く階段を発見した。なぜかはわからないが、その階段は例のヒヒイロカネの鎖入りの壁で封鎖されてはいなかった。
怪しい。でも、悩む前に、動け。
耕太と望はうなずきあって、一気に階段を駆けあがった。
二階の廊下へと、立つ。
残念ながら、階段は二階まででとぎれていた。三階へと続く道は、例のヒヒイロカネの鎖入りの壁によって、しっかりとふさがれていたのだった――。
そうしていま、耕太は、望といっしょに二階の廊下を進んでいる。
朔ひとりを、あのおそろしく強いだろう三体の妖の元に置き去りにして。
そうしたのは、自分だった。
まぎれもなく耕太が、耕太自身が、そう決断し、そう行動したのだった。
「ぼくは……ちずるさんを助けにゆくために、そのために、朔さんを置き去りにした。ううん、朔さんだけじゃない、望さんの故郷の人狼のかたたち、マキリさん、レラさんをはじめとしたみなさん、それに、カイさん、シズカさんだって……」
「うん、そうだね」
耕太の両頬を手で挟んだまま、望はいった。
「で、耕太は、どうしたいの?」
「ぼ、ぼくが?」
「うん。これから、どうしたいの? 犠牲になったみんな、兄さまやマキリ、レラ、カイとかシズカとか、助けにいきたいの?」
「ぽ、ぼくは……」
ぐっ、と耕太は奥歯を噛みしめる。
望の手に頬を挟まれながら、首を横に振った。
「ぼくは、ちずるさんを、助けにいきたい。朔さんたち、じゃなく」
自分でいっておいて、なんだか耕太は泣きそうになってきた。
なんて自分は勝手なんだろう?
みんなを犠牲にして、傷つけて、血を流させて、それでもなお、好きな女性ひとりを助けだすことしか選べない。そう、選べなかった。選択肢はほかになかった。
そのくせ、みんなが心配で心配で、しかたがないとか。
ああ、なるほど、たしかにほくは傲慢だ!
マキリにいわれた言葉、『小山田耕太、おまえは傲慢だ』を思いだす。まったくだった。みんなを犠牲にしてでも進む道を、ほかならぬ自分自身で選んだくせに、心を痛めてる。とんだ偽善だった。後悔するぐらいなら、最初からひとりだけでくればよかったのだ。
ああ……ああ!
そうだ。きっとぼくは、そうなんだ。
きっとぼくは、彼女のことも犠牲にする。こんな身勝手な自分を好きでいてくれる、アイジンなんて立場でも我慢していてくれる彼女すら、きっと、ぼくは、この先、ああ!
「うん」
にこっ、と望が笑った。
「それでいいんだよ、耕太」
と、微笑んだまま、顔を近づけてきた。
ちゅっ。
耕太の唇に軽く自分の唇を重ねて、望は離れる。ずっと耕太の頬を挟みこんでいた手も外し、ひとり、廊下の先に向かって歩きだした。
立ち止まり、振りむく。
「ん?どうしたの、耕太?」
「……の、望さん」
気がついたら、耕太は自分の唇をぷにぶにと触っていた。
あわてて、望の元へと駆けよる。
「ぼ、ぼくは、ぼくは」
「しっ」
望が、自分の口元に、立てた入差し指を当てた。
視線を、耕太から廊下の奥へと向ける。
望の視線をなぞって、耕太も廊下の奥を見つめた。
人影が、あった。
淡く光る廊下の奥から、たっ、たっ、たっ、と足取りも軽く駆けよってきた人影に、耕太は緊張する。横の望も、腰をぐっ、と落として、まるで飛びかかる前の獣のような姿勢をとった。
謎の接近者は、長い金髪を踊らせながら、走り、近づいてくる。
その頭からは狐の耳を生やし、腰からは狐のしっぽを伸ばし、ぷぷっぴどぅーな身体はまんべんなくさらけだして、剥きだしの胸のふくらみを、ばゆん、べゆん、どゆん、どらゆん、どらやゆん、どらやゆみゆん、と揺らして――。
「ええ? えええ?」
「耕太くんっ!」
飛びついてきたのは、ちずるだった。
軽くつりあがった眼を、ぎゅっ、と閉じて、涙をこぼし、しかし顔には満面の笑みを浮かべて、耕太に抱きついてくる。がっきと首にしがみついた。
「耕太くんっ、耕太くんっ、耕太くんっ!」
「ち……ちずるさんっ、どうして!」
「逃げてきたのお、ちずる必死でがんばったのお、あーん、怖かったあ!」
「に、逃げてきたって……わぷっ!」
いつものように、ちずるは耕太の頭を押さえこんで、自身のふくらみ――アメリカ最大級のダム、グランドクーリーダムにも優るとも劣らない水量を誇るゆやゆよんに、ぎゅむー、と沈めてくる。
うぷぷ、うぷぷぷと、もう慣れきった呼吸困難を味わいながら、耕太は思った。
あれ? これって……。
と、横から、すんすん、と望がちずるの匂いを嗅ぐ。
「ホンモノだ……ちずるの匂い、する。いやらしい匂い……」
「なによ、望。このわたしがニセモノだっていうの? っていうか、いやらしい匂いっていうな! まだそういう気持ちになってないのに! ということはなに? わたしは普段からみだらな体臭ってことなの? ガー!」
匂いを嗅いだ望に、耕太は確信した。
やっぱり、そうなんだ。これはそうなんだ。
だったら、もうすぐ……あともうすこしで……。
とろけんばかりのちずるの胸の感触を、顔のすべてであますことなく浴びつつ、耕太は眼をつぶる。
もや〜っと、自分を抱きしめるちずるの姿が、脳裏に浮かびあがった。
その脳内のちずるが、ぐっ、と片腕を引く。
横に立った望からは見えないように片腕を引いて、にょきにょきにょき、と鋭く爪を伸ばす。まるで怪奇映画のモンスターのように鋭くさせた爪を、抱きしめた耕太へと、思いきり突きたててきた。
もちろん、耕太は避けた。
顔面を包みこむふくらみを振り払って、後ろへと飛び退く。そのまま床をごろごろと転がって、距離をとった。
どうじに、ちずるの横にいた望が、ぐーぱんちを飛ばす。
「とりお・ざ・ぱんち!」
「くっ……」
不意をつくつもりが、逆に不意をつかれるかたちとなったちずるは、あやうく望の必殺技を喰らうところだった。ぎりぎりでかわして、さきほどの耕太とおなじく、真後ろへと飛び退く。
耕太と違うのは、決して無様に転がったりはせず、ふわり、と床に降りたったことだ。
「な、なあに!? どうしたの、耕太くん!? 望!?」
ちずる――いや、ちずるに化けた偽物が、驚きを見せる。
「無駄ですよ、そんな演技をしても」
もうこのとき、耕太の眼には、彼女の正体がはっきりと映っていた。
それは、オトナの女性だった。
染めているのか、地毛なのか、紫色の髪で、その波打つ前髪だけを髪の両側をとおすかたちで首もとまで落としたほかは、ぜんぶ後ろ側でまとめてある。着ているのは髪とおなじ色あいをした紫色のスーツとパンツで、なぜか、すっかりぽろぽろだった。
ぼろぼろなのは、背から生える羽も同様だ。
おそらくは蝶の羽と思わしき四枚の羽は、嵐にでも遭遇したのか、すっかりよれよれとなっている。端は破れて千切れ、模様を描く鱗粉さえも、まだら状であった。
「なにをいってるの、耕太くん。そんな眼をして……やだあ、ちずる、こわーい!」
彼女が、身を縮めて、くねくねと腰をくねらせだす。
「だから、無駄なんです。紫のスーツを着た、蝶の妖のひと」
ぴた、と彼女の腰の動きが止まった。
「なぜ……?」
正体がわかったのだと、鋭くさせた眼で、耕太を見つめながら、問いかけてくる。
耕太には、幻術のたぐいに対する、強い抵抗力があった。
だから、どれほど優れた術者であろうとも、耕太の感覚すべてを完全に騙しきることは極めて難しい。今回の場合、彼女が犯したあやまちのひとつは、自分の胸に耕太の顔を埋めたことだった。
まったくもって違っていたのだ。
あの、ちずる特有の張り、重み、やわらかみ、ぬくもり、湿り気、沈み具合、反発力、すべてが違っていたのだった。ゴールドブレンドなちずるのおっぱおを味わい尽くしてきた違いのわかる男、小山田耕太には、違いがわかってしかたなかったのだ。
そうして芽生えた疑念は、もうひとつの彼女が犯したあやまちによって、確信にいたる。
そちらのほうが、決定的なミスといえただろう。そのミスによって彼女が偽物のちずるなのだと確信した耕太は、意識を集中させて、幻覚自体もどうにか破ったのだから。
「くっ……やはり、〈八龍〉のダメージが……」
と、ちずるに化けていた彼女が、自分の背の羽を見やる。
無惨なほどにぼろぼろとなった羽を見返したということは、もしかしたら、鱗粉が幻覚を生む元なのかもしれない。だとしたら、耕太がおっぱおの違いを見抜けたのも、そのダメージとやらのせいなのかもしれない。
しかし、それらの分析結果を相手に伝える気は、耕太にはなかった。
そっと、望をうかがう。
望もまた、耕太のほうをうかがっていた。
銀色の瞳で見つめて、望は、こく、とうなずく。
しゅるんしゅるんと動いていた狼のしっぽの先で、びし、と廊下の奥、ちずるの偽物である女性の向こう側を、指した。
耕太の胸は、ずきんと痛む。
その痛みを振り切って、駆けだした。
突然の耕太の行動に、ちずるに化けていた蝶の化身であろう女性が、驚きに眼を見開く。
自分に向かって、耕太が走りだしてきたからだ。
すぐに、濃い色あいの唇を、微笑みのかたちに曲げる。
歓喜に満ちた表情で、鋭く伸ばしたままだった紅い爪先を、追る耕太へと突きたててきた。
そんな彼女に、真横から望の蹴りが飛んだ。
「きっく・で・あみーご!」
「なっ!?」
避けきれず、彼女は吹き飛んだ。
かろうじて顔面への直撃は腕で防いだものの、威力までは殺せず、廊下の壁へと激突する。悲鳴をあげた。
おかげでがら空きとなった廊下を、耕太は駆けてゆく。
振り返らずに。
ひとりで。
望を、あとに残して。
「……くっ」
耕太はうつむく。ぎりりと歯を食いしばる。
いや、とすぐに顔をあげた。真正面を睨むように見据えた。
泣いたりなんか、するもんか。
ちずるさんの元へ――辿りつくんだ、絶対に!
遠ざかってゆく耕太の足音を、望は背中で聴いていた。
視線は、先ほど自分が蹴り飛ばした、いまは壁ぎわにうずくまる女へと、油断なく注ぐ。
ふ、ふふ、ふふふふふ。
望に蹴り飛ばされた女――幻術によってちずるに化けていた九院が、笑いながら、ゆっくりと立ちあがった。
「どうして……わたしの居場所がわかった……?」
九院が、望に問う。
「あのボウヤ……小山田耕太に正体を見破られたとどうじに、わたしは幻覚の種類を変えていたのよ。闘いになるだろうとふまえて、こんどはわたしの姿を気配もろとも消し去る幻覚にね。ふふ、だから、小山田耕太がわたしに向かって走ってきたときには、てっきり幻惑されたものだと決めつけてしまった。わたしがいなくなったものだと思って、その隙にここを突破しようとしたのだとね。そうして、このざま……ふふ、ふふふふふ」
九院は身体を完全に起こした。
その唇からは、さきほど望に蹴られたダメージからか、一筋、血が流れる。
「ねえ、なぜなのかしら? あなたは、ただの人狼なはずでしょう? いっておくけれど、わたしの幻術は、〈葛の葉〉のどの妖とて防ぐことはかなわないのよ? なればこそ、九院家の当主として、妖どもを従えてきたのだから……。なのにあなたは、なぜ? まさかあなたは、〈葛の葉〉すべての妖よりも、強い抵抗力を持つとでもいうの?」
「ううん」
望は、首をぶるんぶるんと横に振った。
「効いてるよ、幻術。だってオバサンの姿、いまも見えないもん」
「はああ?」
不気味極まりない動きを見せていた九院が、興奮のあまりか、しゃんと立つ。
「効いているのなら、どうしてわたしのいる位置がわかった! おまえはさっき、わたしの顔目がけて正確に蹴りを放ったはず! いや、その前だってそう! 〈八龍〉に化けていたわたしを、おまえはためらいなく殴った! なぜだ!」
「ん? 〈八龍〉? だれのこと?」
「源ちずるのこと! わたしの幻術は、五感すべてをあざむく……たしかに幻術が効いていたというなら、あのときのわたしは、味覚はさておき、視覚、聴覚、触覚、嗅覚と、すべての感覚において〈八龍〉本人だと……源ちずる本人だとしか感じとれなかったはず! なのに、どうしておまえはわたしを殴った! それも本気で!」
「それ」
「なに?」
「だから、味覚、視覚、聴覚、触覚、嗅覚の、嗅覚。それが問題」
「きゅ……嗅覚が、いったいどうしたというのか!」
「だってわたしいま、鼻、ダメなんだもん。ぜんぜん匂い、しない。なのにさっき、ちずるのいやらしい匂い、した……だから、なんかおかしいなーって、わかった」
九院は絶句した。
「げ、幻覚が完璧だったために、かえって見破られたと……? ふ、ふふ、ふふふ、ふふ……ええい、ならば! ならばもうひとつは! いまもなお、おまえはわたしの姿が見えないという!」
と、望に鋭い視線をやった。
「うん。見えないよ。オバサンの声しかしない」
「嘘をつくな! だったらどうしておまえは、いま、わたしを見つめている!」
「だから、オバサンの声がするから。声がするほう、見てるだけだよ?」
望は、壁を支えに立つ九院のほうへ、手をそえた耳を向けた。
さーっと九院の頬に、朱がさす。
「だ、黙れ! だいたいにして、さっきからオバサン、オバサンと、わたしはまだウン百年しか生きてないのだぞ! 自称四百歳とやらの源ちずるより、わたしは年下だっ!」
「え、ホントに?」
「ホントだっ!」
「ホントだったら、ごめーん」
「くっ……! と、とにかく、おまえはわたしの姿が見えないという! なのに、さっきはわたしを蹴った! 蹴り飛ばして、小山田耕太を先にゆかせた! どうやってだ!」
んー、と望は首をひねりだす。
「……勘?」
「ふざけるな!」
「ふざけてないよ? オオカミの勘、それは、五感、六感に続く、第七の感覚……ウルフセンシズなのです」
「う、ウルフセンシズ?」
「そうです。愛の力によって目覚めた神秘の力、わいるど・らぶ・ぱわーなのです」
望は両腕を横に水平に伸ばし、続けて、かくん、と肘を曲げた。手を上に向けたそれは、真正面から見ると、ウルフの頭文字、つまりWOLFの『W』に映らないこともない。への字に曲げた口と、張った胸が、なんとも誇らしげではあった。
ぐぬぬ……と九院は歯がみする。
「愛なら……愛の力なら、わたくしとて!」
「……こうなることを、予測していたのか?」
砂鏡に映る映像を見つめながら、四岐は尋ねた。
いま、四岐の前にある青い砂鏡に映っていたのは、ひとり廊下を駆けてゆく耕太の姿だった。耕太は、途中にあった階段をのぼり、三階へと向かう。その姿に、ちずるが「きゃーん! さっすが耕太くーん!」と自分の身体を締めつける無数のヒヒイロカネの鎖をきしませながら、歓声をあげた。
「いえ。あの九院さまが、こうもたやすく突破されようとは、まったくの予想外です」
四岐に尋ねられた美乃里は、いまだ耕太の姿のままで、答えた。ただし、全裸ではさすがになく、黒い、ぴったりしたタイツ状の服で全身を覆ってあった。
重ねて四岐が問う。
「小山田耕太は……本当に人間か?」
「人間ですよ。生物学的には、ですが」
「なるほど、では質問を変えよう。九院は、〈葛の葉〉きっての幻術使いだ。たしかにさっきの九院は、〈八龍〉の邪気によって少なからぬダメージを負ってはいたが……それでも、彼女が一流の術者であることに違いはない。なのに、どうして小山田耕太には通じなかった? 土門家の当主に『空前絶後の気の持ち主』だと観測されたことといい……小山田耕太とは、いったいなにものなんだ?」
「これは、あくまでぼくの考えなのですが……」
砂鏡のなかの、自分とおなじ姿をした耕太を見つめて、口元を軽くほころばせながら、美乃里は告げた。
「小山田耕太は、強いんですよ」
「なに?」
「とてつもなく強い。だから、自分より弱いものの術など、通じないんです」
「……つまり」
四岐の視線が、砂鏡から真横の美乃里へと向かう。
「小山田耕太は、九院よりも強いのだと、おまえはそういいたいのか?」
「事実、結果がそう物語っています。じつに雄弁に」
美乃里も、四岐を見つめ返して、いいきった。
「なるほど……そういうことか」
四岐の、例の張りついた笑みが、その強さを増した。
「なんです四岐さま、そんな顔をして……」
「美乃里、おまえはたしかに予測はしていなかったな。『こうもたやすく』九院が突破されることについては。そう、おまえは小山田耕太が九院を突破すること自体は予測していたんだ。確信していた。その上で、九院を送りこんだ。違うか?」
「どうしてぼくが、そんなことをしなくてはならないんですか?」
「とぼけるな。ではなぜ、おまえは校内を完全に封鎖しなかったんだ? しようと思えばできたはずだな。薫風高校の機能のすべてを掌握しているおまえならば……。なのにおまえは、中途半端に各階の階段をふさいで、わざわざこの〈八龍〉がいる教室までの一本道を作りあげた。そうしておいて、各所にあの〈かまいたち〉どもや、九院を配置した。それはなぜか……」
「なぜなんでしょう?」
美乃里の耕太そのものだった顔には、どこかおもしろがるような表情が浮かんでいた。
四岐も楽しげに、いう。
「美乃里よ、おまえは小山田耕太の力を引きだそうとしている。〈かまいたち〉たち、九院と、強敵をぶつけてゆくことでな」
「ちょーっと待った!」
狐の耳をぴくぴくさせて、まさに文字どおり四岐と美乃里の会話に聞き耳を立てていたちずるが、たまらず、といった様子で入ってきた。
「な、なんで美乃里が、耕太くんをパワーアップさせるような真似なんかするのよ?」
「さあな、〈八龍〉よ。真意は当人に訊いてみなければわからないが……だが、小山田耕太を兄と呼んでみたり、遺伝子的には同一と称してみたり、かと思えば自分は小山田耕太のまがいものだと自嘲してみたり、あげく、いままでの不審な行動の理由は、おのれの存在証明という。なんとなく、見えてくるものがないか?」
ちずるは、ぐっ、と口を真一文字に引き結んで、黙りこむ。
「それほどのこだわりを持った相手だ……すべての力をきっちりと引きだし、その上で完璧に粉砕しようと思っても、おかしくはあるまい……どうだ?」
四岐が、首を軽く傾げながら、美乃里に問いかけた。
しかし美乃里は、耕太の顔で、ただ微笑み返すだけだった。
ふっ、と四岐が鼻で笑う。
「都合が悪くなったらだんまりか、美乃里? だが、残念だったな。一階に置いた〈かまいたち〉どもは、犹守朔によって、二階に置いた九院は、犹守望によって、小山田耕太を鍛えようと配置したものたちは、そのどちらも人狼の犹守兄妹に持っていかれてしまった。そして、小山田耕太を成長させるものは、もはやなにもない。校内にはもう、戦闘可能な人員など、もうここにしか残っていないのだから。みな、〈八龍〉の邪気によってやられてしまった……」
はははははと、四岐はなんとも乾いた笑い声をあげた。
「けっきょく、わたしにとっては最善の結果になったというわけだ。美乃里、おまえの企みも、〈八龍〉、おまえの暴走も、そしてあの人狼どもの犠牲も、ぜんぶ裏目にでた。小山田耕太はたいした力も持たぬまま、ここへと辿りつき、そして美乃里、おまえにあっさりと殺される。かくして、愛するものを目の前で殺された〈八龍〉は〈八岐大蛇〉と化し、万事、めでたし、めでたしと」
「……ちょっと待ってよ」
声をあげたのは、ちずるだった。
「うん? 残念だが、〈八龍〉よ。いかに結末が気にくわなくとも、もはやどうにもなりはしないのだよ。もうすぐ、ここには小山田耕太がくる。つまり、これはすでに確定した未来なのだからな」
「違う。アレ……アレはなんなの」
「アレ?」
「そうよ。さっきあなた、もう校内には戦闘可能な人員なんか残ってないって、そういったでしょ? じゃあ、アレはいったいなんなのよ、このキモ細目!」
鎖で全身を拘束されていたため身動きのとれないちずるが、あご先の動きで、砂鏡を示す。四岐は、ちずるが示した砂鏡を、覗きこんだ。
「なに……?」
その糸のように閉じられていた眼が、かすかに開く。
耕太はひとり、廊下を駆けていた。
三階の廊下も、やはり一階や二階とおなじだった。窓はすべて砂防壁で覆われており、天井の蛍光灯もついてはいない。視界の助けとなるものは、廊下全体に散らばり、あたりを淡く光らす、発光性の砂粒だけしかなかった。
ある種、幻想的ともいえる光景のなかを、耕太はほぼ全力で駆けてゆく。
ヤケになっていると、自分でもわかっていた、
あまりにも、心が痛かったのだ。
望をも犠牲にしたという事実は、あとから耕太の心に、ずしりと喰くのしかかってきた、いま耕太は、吐きだしてしまいそうなくらいに自分自身が嫌だった。まったく、なんなんだろう、ぼくってやつは。なんて薄汚く、情けないんだろう。くそう、くそう、くそう。
いっそ、敵でもでてきてくれれば――。
そうすれば、闘いになれば、ようやく、自分も、朔や望たちとおなじように、傷つくことが――。
『たわけ』
耕太は、びくっとした。
うなじのあたりになにか刺さるような、鋭い感覚が生じる。
反射的に耕太は横に飛んでいた。
全力疾走していたため、ほかに回避する手段がとれなかったのだ。走っていたいきおいのまま、耕太は廊下の壁にぶつかる。めりこんだ肩がきしみ、脳髄を貫いた痛みとともに、耕太の息は詰まった。
直後、巨大な質量を持ったなにかが、横を通りぬけてゆく。
それは、寸前まで耕太がいた廊下のど真ん中を、うなりをあげながら伸びていった。限界まで伸びきって、ぐいんと引き戻される。
拳だった。
巨大な、砂でできた拳だ。
その拳が、おなじく砂でできた腕によって引き戻され、まるでボクサーのように、右拳、左拳と、顔の横にそろえて構えられる。
顔は、やはり砂でできた、巨大なものだった。
丸く大きな眼鏡をかけ、肩までおろした髪は、わずかに波打つ。そんな彼女の身体は、廊下に入りきらないのか、上半身だけしかなかった。だが、それで充分だった。充分に廊下をふさぎ、耕太の行く手を阻んでいた。
上半身だけの砂人形、いや、砂巨人を見つめながら、耕太はつぶやく。
「〈御方さま〉……!」
「はーい!」
と、〈御方さま〉そっくりな顔をした砂巨人の後ろから、女性たちがでてきた。
その数は三人。
いずれも、白い着物に紅い帯を締めて、下にやはり白い、ズボン状に足首を絞った袴を穿いていた。そんな、まるで古代の巫女のような姿をした彼女たちが、なんともにこやかな表情で、そろって片腕をあげ、耕太に対して挨拶をしてくる。
「どーもー、初めましてー!」
「砂原家からまいりましたー!」
「こう見えてもけっこう年、食ってまーす! 騙されちゃダメですよー?」
「「余計なこと、いうな!」」
真ん中にいた女性が、左右両脇の女性から、どうじにツッコミを喰らった。そのツッコミはなかなか痛々しいもので、左右どうじに掌底を喰らった女性の頬が、すぱーん、と甲高い音をあげるほどであった。
「……え?」
てっきり〈御方さま〉があらわれるのかと思って、身体を緊張させていた耕太は、肩すかしにあったのと、突然始まったトリオ漫才への困惑で、かくん、と力を抜いてしまう。
「あ、ごめんなさーい!」
耕太の眼から見れば全員若いように映る年齢不詳の女性たちが、そろって頭をさげた。
「ほらー、お客さん、もう、あきれてんじゃないのよ」
「っていうか、ドン引きよ、ドン引き」
「でも、こういうことはちゃんとハッキリさせておかないと。ヘンに期待させておいてね、あとで失望させちゃ、かえってお客さんに気の毒ってもんですよ?」
「まあ、一理あるわね」
「うん、嘘はいけない。嘘は」
「というわけで、ハイ、わたしたち、〈御方さま〉より偉いでーす!」
「だから、嘘をつくな!」
「〈御方さま〉のつぎに偉い、でしょ!」
「あ、まちがえた。でもね、あんなのたいしたことないですよ。ザコですよ、ザコ」
「な、なによその突然の下克上宣言!」
「わたしたち関係ありませんからねー、いっておきますけど!」
「この前なんかね、パシリに使ってやりましたよ。百円渡してね、コーラとパン買ってこいってね。お釣りはおだちんにってね。……って、このひとがいってました」
「「お客さんのせいにするなっ!」」
『このひとがいってました』と耕太を指さした女性が、またも両側から頬に掌底を喰らった。すぱーん。
「……あのー」
いいかげん、耕太もつっこまざるを得ない。
このまま放置しておけば、延々と続いてしまいそうだった。彼女たちの後ろにそびえていた〈御方さま〉顔の砂巨人には、受けまくってはいたのだが。あまりにバカ受けしすぎて、砂巨人は声もなく笑いながら身をくねらせ、悶絶もしていたのだが。
「あらー……こういうの、あまりお気に召さない?」
「いま風の芸のほうが、お好き?」
「残念だわー。いやー、本当、残念だわー」
三人そろって、胸の前で腕を組み、うつむいて、首を横に振る。
「まあ、しかたないわね」
「これも時代の流れか……」
「というわけで、お命、ちょうだいしまーす」
「は?」
尋ね返す間もなく、彼女たちの背後にいた砂巨人が、ボクサーのように両腕を構えた。
どん、と巨大な岩石の塊のような砂の拳を、充分に肩を入れて、放つ。
ボクシングでいうところのストレートが、壁ぎわの耕太目がけて、正確に飛んできた。
「はああー!?」
校舎が、揺れた。
ぱらぱらと埃に混じって、天井に張りついていた淡く光る砂が落ちてくる。
「……始まったか」
天井を見あげて、朔はいった。
どうじに、くるりと身を返す。
直前まで朔がいた位置を、沙介とシーナが交差しながら通りすぎていった。むなしく、空間だけがXの字に切り裂かれる。
ちっ、と舌打ちしながら、ふたりは止まり、その場から真空の刃を放った。
だが、連続しての攻撃も、「おっと」と声を洩らして飛び退いた朔に、あっさりとかわされてしまう。
「なるほどな……」
沙介が、感心したような声をあげた。
「朔、おまえがその妙な姿になった理由がわかったよ」
「そうね、沙介」
彼の横のシーナも、なにか気づいたようだった。
「その姿……中途半端に狼に変化した姿は、パワーアップのレベルこそ狼の状態より落ちるけど、代わりに持久力が大幅に増すのね。狼の状態ならば、力は乱に、速さはわたしたちに伍するでしょう。でも、それは十分ぐらいしか持たない。一日一回しか使えないし」
「いまは、十五分ぐらいは持つようになったよ。一日、二回まで使えるようにもなった」
「で? ここにくるまでのあいだに、何回使った?」
シーナの言葉を訂正した朔に、沙介が尋ねる。
「一回、だな。さすがは〈葛の葉〉が誇る三珠家の精鋭だ。使わざるを得なかった」
「となれば、あと一回か」
「十五分じゃあ、わたしたちを倒すところまではいかないわね。とくにそこの乱ときたら、脳みそまで筋肉なぶん、とんでもなく頑丈なんだから」
「う、うるさいね!」
乱が吠えた。
朔を追い疲れて、彼女はもう動けなくなっていた。
「あら、褒めてるのよ? 頑丈だって」
「脳みそが筋肉ともいった! あたしの耳は飾りじゃないんだよ!」
「だって、脳みそが筋肉なのは、あなた自分でも認めてたじゃない」
「自分で認めてたって、人にいわれたらムカツクんだよ! シーナ、あんただって最近太った、太ったっていってるけど、あたしから『ああ、たしかに太ったね』っていわれたら、ムカツクだろ!」
「そうね。とりあえず切り刻むわね」
はははは、と沙介が笑う。
「一本とられたな、シーナ?」
シーナは肩をすくめ、乱はあっかんべー、と舌を伸ばした。
「って、ひと昔前のコメディ漫画みたいなことやってる場合かい! そこのオオカミ男の中途半端な変化がどーとか、あんたら、なにをのんきなこといってるんだい! 早く倒さないと、ちずるさまが……!」
「まあ、待てよ乱。だからおまえは、脳みそまで筋肉だといわれるんだ」
「いってるのは沙介、あんたたちだろーが!」
「そこの朔はな、おまえの愛しのちずるさまの、一応は仲間なんだぞ?」
「わーかってるよ、そんなこと!」
「だったら、なにもバカ正直に美乃里のいうことをきいて倒しにかからなくても、こうしてお茶を濁していたほうがいいんじゃないのか?」
「あ」
「あらあら、すっかり状況を忘れてたのね。どうせ脳みそまで筋肉な乱のことだから、けっこう朔が強いのを見て、もう正面から殴りあうことしか考えられなくなっちゃったんでしょう? だからちょこまか逃げる朔に、いらだちを覚えた。違う?」
「う、う、う」
フンガー! あたし、脳みそ筋肉ー!
乱の叫びは、一階の廊下中に響き渡った。
「うー……で?」
叫び終えた乱が、沙介に問いかける。
「うん? なにがだ?」
耳をふさいでいた沙介は、問いかけられた意味がわからず、逆に尋ねた。
「お茶だよ、お茶! 濁すお茶! そこのオオカミ男が中途半端に変化した理由ってやつだよ! なんなんだい、いったい!」
沙介とシーナは互いに見つめあって、ふっ、と小さく笑う。
「ああ、そうだな……まあ、ひとことでいえば、時間を稼ぐだけなら、この変化で充分ってことだ。なあ、シーナ?」
「そうね、沙介。この半分だけ狼になった変化だと、完全に狼になったときと違って、力は乱、あなたに及ばないし、速さもわたしたちには敵わない。だけど、倒すのではなく、ひたすら逃げるだけなら、それでもかまわないのよ。力や速さが及ばないとはいっても、まったく相手にならないってほどでもないもの。なんとかしのげるくらいはあるから」
「そして、なによりの利点は長時間、変化を保てるということだな」
「ええ。完全な狼体の場合、十五分しか持たない。だけど、その半分だけ狼体なら、ねえ、どのくらい持つのかしら?」
「一時間は余裕、かな」
口元に浮かべた笑みとともに、朔は答えた。
「と、いうわけだ、乱」
「わかったかしら?」
「へ、へー。そーなんだー……って、すぐ終わっちゃったじゃないか! これからどうやって、お茶、濁すつもりなんだい!」
「さあて……」
睡を剥き、歯も剥いて鋭い八重歯を覗かせた乱に、沙介は首を軽く傾げてみせる。
「あとは、そこの朔にでもまかせてみようじゃないか」
「そうね、沙介」
「あん? オオカミ男に?」
朔は、狼の手と化した腕を組んで立って、乱たちのやりとりを楽しげに見守っていた。
三人の視線を受けて、浮かべていた笑みを深くする。
「あたらしい話題か? そうさな……耕太の話とか、どうだ?」
「ぬ! ちずるさまの思い人の話だね!」
乱が、眼をらんらんと輝かせて、身を乗りだした。
「そう、ちずるの思い人だ……ただし、一方通行のな」
「あんだって?」
「愛しているのは、ちずるのほうだけだったのさ。耕太のほうは、ちずるのことを愛してはいなかったんだな、これが。これっぽっちも……な」
「ほうら」
九院の長く伸びた爪先が、望の頬を切り裂く。
「ふふふ……」
ぱっ、と望の頬から鮮血を散らして、九院はじつに楽しそうに笑った。
弧を描いた真紅の爪から、その色あいとおなじ真紅の液体が、たらたらと滴り落ちてゆく。九院は爪を自分の口元へと持っていった。
舌を伸ばし、ちろりと舐めとる。
「うふふふふ……どうしたの、狼のお嬢ちゃん? ウルフセンシズとやらは? たとえ幻覚のただなかにあっても、愛の力で、わたしの居場所はわかるんじゃあなかったのかしら? つまりこれって、あなたの愛の力は、こんなものってこと? うふふふふ……」
血を舐めとった口で、九院はあざけり笑った。
それは、望のすぐ横、手を伸ばせば届く距離でのことだった。
だが望が、反応を見せることはまったくなかった。
ほとんど耳元で笑い声をあげられていたというのに、拳のひとつも飛ばさない。望はあらぬ方向を見つめたまま、なにかに耐えるように、固まっていた。
その姿は、もうすっかりぼろぼろだった。
九院の爪による四本傷は、さきほど受けた頬だけではなく、肩にも、腕にも、薄い胸にも、背中にも、脇腹にも、太もも、ふくらはぎにまである。薫風高校にくるまでの激闘で、すでに望の着ていた上下ひとつなぎの革のライダースーツはずたずたとなっていて、上半身はすっかり剥きだしだったため、九院の攻撃による傷跡は、その白い肌を流れる血とともに、よくわかった。
おまけに、望の眼の焦点は、まったくあっていなかった。
いつもなら美しくきらめいているはずの銀の瞳が、茫洋として、輝きがない。
原因は、彼女の横でまだ笑っている九院の、背の蝶の羽にあった。
ほとんど枯れかけた蝶の羽の、わずかに残った最後の鱗粉の力によって、望は幻覚の世界へと飛ばされていたのだ。
望がいたのは、黒い風が激しく吹きすさび、身体にへばりつく、嵐の世界だった。
さきほど九院がさんざんに命を脅かされた、〈八龍〉の生みだした邪気による死の世界である。もっとも、命を削りとるところまでは再現されなかったが、強風によって身体の自由を奪われてはいた。
その幻覚による黒い疾風にまぎれながら、九院は好き放題に攻撃をくわえる。
つまり望は、身動きがろくにとれない状況で、四方八方からの突然の攻撃に、これまでずっと耐え続けてきたのだ。まだ致命傷を受けていないのが奇跡のようなものだ。充分、ウルフセンシズは効果を発揮していたといっていいだろう。
しかし。
「さあて……」
口元に笑みを残しながら、九院は動きだした。
望の脇をするりとぬけ、彼女の背後へとまわる。
背中から、望の首筋に、ぴたりと真紅の爪を当てた。
望の白い首には、かつて耕太からプレゼントされた、狼の飾りつきチョーカーがあった。そのチョーカーの黒い紐の上から、こうして鋭い切っ先を向けられても、やはり望は反応しない。ただ、吹きすさぶ風に耐えるように、身体を強ばらすだけだった。よほど幻覚の風が強いのか、たまに、身体を揺らしたりもする。
「四岐さまのお役に立てず、小山田耕太を取り逃がすこととなった恥辱、まだまだこのていどでは晴らせるものではないけれど……さきほどからの、この振動。小山田耕太と美乃里が闘っているにしては、すこしばかり妙な……? 美乃里の力は〈龍〉による炎なはず。炎の攻撃で、こうまで揺れるものなのか……。どうも気にかかる。もっと嬲《なぶ》っていたくはあるけれど、しかたがない、そろそろ終わりにするとしましょう」
立て続けに起きる振動によって、天井から細かな砂が落ちるなか、九院はいった。
なお、この声は望には届いてはいない。
なのになぜ九院が口にだしたかといえば、ただ昏い喜びのためであった。
「さよなら、お嬢ちゃん……なかなか楽しかったわ……」
一気に頸動脈を切り裂こうと、九院の手の甲に、力がこめられた刹那。
「あ、わかった」
突然、望がいった。
「な、なに?」
九院は飛び退く。
望の正面にまわって、注意深く顔を覗きこんだ。
なぜか望は、ふふふん、ふふふん、と鼻から強く息を吐きだしていた。
だが、妙だったのはそれだけで、いまだ眼はくもりきっており、真正面の九院にも気づいておらず、とくに幻覚から抜けだした様子はない。
「まったく、最後までふざけた子……!」
ぎりり、と九院は歯を噛みしめた。
もう背後にはまわらず、真正面からゆく。首の巻かれた黒いチョーカーの横から、真紅の爪先を当てた。
「疾《と》く、死になさい!」
こんどはもったいぶらず、一気に手首を返す。
ぷつ、という音とともに、九院の顔に歓喜の色が広がった。
が、すぐに消えた。
代わりに九院の顔に浮かびあがったのは、驚愕だった。
驚きに彼女が見開く眼の先には、首から血を流す望の姿が、ある。
そう、血は流れていた。
決して頸動脈を切り裂かれて、噴水のように鮮血を噴きだしたりはしていなかった。わずかに薄皮一枚だけを切られて、たらたらと血を流しているだけだった。
では、ぷつ、という音はなんだったのか。
と、床でなにかが軽く跳ねる。
それは狼の飾りつきのチョーカーだった。九院の爪によって、ぷつ、と見事に黒い紐が断ち切られ、望の首から落ちて、床に当たり、軽く跳ねたのだった。
つまり望は、間一髪、九院の爪を避けていたのだ。
切り裂かれる瞬間に素早く身を引いて、そのまま九院から離れていたのであった。
「な、なぜ……」
「なぜかわすことができたのかと、オバサンはいう」
「なぜかわすことが、で、で、でいもん・ひる!」
びし、と指さしながらの望の予告を、九院は強引に破った。
おー、と望が感心したような声をあげる。
「い、いいから答えなさい! なぜかわすことが、でいもん・こぐれだったの!」
「もちろん、幻覚が解けたからだよ?」
まだカンペキじゃないけど、と望は目元をぐしぐしこすった。たしかにその瞳は、銀色に美しくきらめきつつ、しっかり九院を捉えている。
「だから、なぜ!? なぜに幻覚が解けた!」
「では、ここで質問です。どうして、わたしの鼻はおかしかったのでしょーか」
「はあ?」
ちょっと怖いぐらいに怪訝な顔をした九院にはかまわず、望は秒を数えだした。
ぴっ。ぴっ。ぴっ。ぴっ。ぴっ……ぶー。口でブザーを鳴らす。
「残念、時間切れです。正解は、耕太とおんなじ、でした!」
「し、質問の意図もわからなければ、回答の意味もわからない……! な、なんなのかしら、これは? もしかして、まだ幻覚が妙な感じに効いている? いや、この子は、最初からこんな感じだった……はっ! そうか、元からヘンだから、幻覚が効かないのか!?」
「それヒドイよー、オバサンー」
「わたしはオバサンじゃないっていったでしょーがっ! あなたのほうがヒドイわ!」
「あ、ごめーん」
「くっ……! 違うのだとしたら、なんだというのか! 鼻がどうとか、小山田耕太がどうとか……さっぱりわけがわからないのよ! ちゃんと説明しなさいなっ!」
きー、と九院は金切り声をあげた。
「んー、だから、耕太はゲンカイイジョーに気をためこんじゃったから、蛇口から水がでなくなっちゃったの。わたしも、耕太とおんなじ。ゲンカイイジョーの妖気をためこんじゃったから、鼻がくんくん、できなくなったんだよ」
「限界以上に、妖気を……?」
「うん。おくちのこいびと、しすぎた?」
「おくちの、こいびと……?」
「で、いまのわたしは妖気がたっぷりなんだってわかったから、その妖気、使っただけ。使ったら、ぱわーあっぷした。ぱわーあっぷしたら、幻覚、解けた」
「ぱ、パワーアップぅ?」
眼を剥く九院の前で、望は腕を真横に伸ばし、手を上に向けるかたちで、かくん、と肘を曲げた。例のWOLFの頭文字にあたる『W』マークを作りあげる。
「そして……さらにもう一段階……」
とたんに、『W』マークな望から妖気が噴きだした。
銀髪がざわめき、頭から生えていた狼の耳や、腰から伸びていた狼のしっぽも、その毛なみを逆立たせる。
「う、う、う、う、う……がおーっ!」
吠えるとどうじに、望の両手が、ぽん、と煙をあげて変化した。
足も、ぽん、と煙をあげて変わる。
後ろ髪が、ぞわわわっ、と伸びた。
それは、朔がさんざんに修行したあげくに身につけた、半獣半人変化であった。
ただし、手足は朔の野性味剥きだしなワイルド極まる獣のものではなく、なんともかわいらしい、着ぐるみチックな、ファンシーなふわふわの狼の手足だった、が。
「これぞ、すーぱーうるふ人……」
また腕と頭で『W』のマークを作ったまま、望はしみじみといった。
「はやく逃げるんだ、オバサン。オラの理性がまだ残っているうちに……」
しかし九院は、ふっ、と鼻で笑う。
「なにをいっているのよ。ちょっとばかり姿が変わったぐらいで、もう勝ったつもり!?」
九院は、胸の前で腕を交差させた。
交差させた腕をいきおいよく広げて、両斜め下へと真紅の爪先を伸ばす。さらに、背中の蝶の羽も大きく広げた。いまにも飛びかからんばかりに、身体を斜めに倒す。
「ん?」
ところが、望の眼はまったく九院へは向けられていなかった。
せっかくの九院の威嚇も無視して、床のとある場所を見つめる。
眼を見開いた望が、よろよろと歩き、辿りついた場所には、あの狼の飾りつきのチョーカーがあった。切られた黒い紐が床にのたくっているのを見て、望はわなわなと震えだす。
「あ、あ、あ」
「なあに? ああ、チョーカーね。なによ、たかがチョーカーのひとつやふたつ……ふふ、いいでしょう。あなたも細切れにしてあげるわ、そのチョーカーのようにね」
「そのチョーカーのように……?」
かっ、と望の眼が光った。
「首輪か、首輪のことかー!」
|卍解《ばんかい》!
なにやらいろいろと混ぜこみながら、望は九院に飛びかかった。
望が飛びこんだあとで音が鳴るという、まさに音速をも超えたうるふぱんちは、しかし、大きく九院を逸れ、彼女の真横の床へと命中する。
床は、吹き飛んだ。
ほとんど爆発に近い衝撃と、音、そして埃が、発生する。
望は、盛大にあがった埃のなか、ファンシーな着ぐるみの拳をすり鉢状の大穴と化した床の中心部に突きたてた姿勢で、激しく咳きこんでいた。
咳きこみながら、横に立っていた九院を、睨む。
睨まれた九院は、びくっ、と身体を震わせた。埃まみれの顔は青ざめ、大きく広げていた背の羽は、すでに小さく縮こまっている。
「じょ、じょ、じょ……」
「落ちろっ、カトンボー!」
「冗談じゃないわっ!」
こんどの望の音速越えアタックは、天井に当たった。
九院の真上にあたる天井に、大穴を開け、校舎内を走ったヒヒイロカネの鎖を露出させる。鎖に足が絡んだか、望は逆さになったまま、なぜだ、なぜ動かん、じお! ともがき、どうにか抜けだそうと頑張っていた。
あわてて九院は、望から遠ざかる。
「あまりに強すぎる! これはあの、〈金剛石〉を使った乱と互角……いや、もしかして、それ以上……!? なんなの、なんなのよ、これは! くっ……こうまであの子をパワーアップさせた、小山田耕太への〈おくちのこいびと〉とは、いったい……!」
「待てー。逃げるなオバサーン」
「こんなの、逃げるに決まってるでしょうが! あとわたしはオバサンじゃ……」
「ぎあ・せかんどー!」
走っていた九院のすぐ真後ろで、爆発が起こった。
背後からの衝撃にあおられ、九院は吹っ飛ぶ。
「う……うう……」
床に打ちつけられ、うめきながら、九院はいま自分を吹き飛ばした爆発の中心部を、振りむいて見つめた。
もうもうとあがる埃のなか、ゆらりと、人影が立ちあがる。
狼の耳と、しっぽと、長い襟足と、ぬいぐるみのような手足を持つ小柄なシルエットに、九院は震えあがった。
「あ、ああ……四岐さま……!」
耕太に浴びせられる拳の雨は、止むことを知らなかった。
〈御方さま〉の姿そのままな顔かたちをした巨大な砂巨人の、大きな大きな拳である。上半身だけを床から生やした丸眼鏡の彼女は、ボクサーのように構えた両腕から、ジャブ、ジャブ、ストレートと、リズミカルに拳を放っていた。ときおり、フックやアッパーなども交えつつ、ひたすら耕太へと殴りかかってくる。
さまざまな軌道を描いて飛んでくる巨大な拳は、しかし耕太の眼前で弾き返されていた。
あの、不可視の盾の力である。
耕太が多々良谷家の当主と娘からもらった、武具。耕太の両の手首に巻かれた銀の腕輪の、その左手首にある腕輪から発せられた、護りの盾であった。
だから、いまのところ耕太にダメージはない。
ない、が。
「う……」
ずず、ずずず。
砂の拳が盾に当たるたび、耕太はすこしずつ、後ろへと押されていた。これまでの闘いではなかったことだった。おまけに、ずっと透明だった盾自体も、攻撃を受けるたび、だんだんと光を帯び始め、いまでは白く濁りつつある。
おそらくは、砂巨人の打撃が、あまりにも強すぎるのだろう。
このまま殴り続けられたら、いったいどうなってしまうのか?
ばりんと、破れる……?
耕太は理解した。
この盾は、決して絶対ではないのだ。限度以上の力を受ければ、破れてしまうものなのだ。考えてみれば当たり前のことなのだが、前にこの盾は、弾丸すらも平気で止めたことがある。そのあたりから、どうも耕太は過信してしまっていたらしい。
どうする……?
耕太は、目の前でがつん、がつんと見えない盾にぶち当たり続ける巨大な拳を、睨みながら思った。
このままじゃ、いつかは……。
盾、ばりーん。
拳、ずどーん。
ぼく、ばかーん。
「「「おーほほほほほほほー」」」
つい嫌な想像をしてしまった耕太に、女性たちからの笑い声が浴びせかけられる。
砂風家の重鎮を自称していた、古代の巫女風な格好をした、三人の女性だ。
彼女たちは、いま耕太に向かってげんこつの雨を降らしている砂巨人の、その顎の真下、胸の前に三人ならんで立っていた。
「守っているだけでは、勝てませんよ、耕太どのー?」
「勝てねば、ここより先には進めませんよ、耕太どのー?」
「で、いくらだしますか、耕太どのー?」
カツアゲかーい、と最後にボケた女性が、ふたりから掌底ツッコミを受ける。
いまだに耕太は三人のノリにはついていけなかった。ついていっちゃ負けな気すらした。そして、彼女たちがトリオ漫才をやっているあいだにも、砂巨人は、むん、と意気ごんで、がつん、がつんと耕太を殴り続けて、護りの盾を光らせ、限界へと近づけてゆく。
「くっ……」
耕太は、右腕に力をこめた。
護りの左腕でなく、攻撃の右腕にだ。
ぎゅむー、と拳を握りしめ、引いて。
一気に、てーいっ!
「うりゃー!」
三人の女性に向けて、耕太は広げた右の手のひらを突きつけた。
右手首の腕輪がきらめき、ぶわりと、右手からなにかが放たれてゆく。放たれたなにかは、一直線に三人の女性へと飛んでいった。
見事に当たって――。
「あはーん!」
「えふーん!」
「おほーん!」
彼女たちに、嬌声をあげさせた。
「んなっ……!」
耕太の右手から放たれたなにかを受けて、彼女たちはぎゅーっと自分の身体を抱きしめていた。縮こまり、ぶるぶると震えて、はう、と息を吐く。その頬は上気し、目元はとろけ、口元は弛みきっていた。
「ああ、なんてすさまじい攻撃……身体のすみずみを、あんなところやこんなところまで」
「まさに舐めるがごとく、撫でてゆく耕太どのの気……もしもわたしたちが生娘だったなら、耐えきれず、心をべっきりと折られていたかもしれないけれど」
「哀しいけど、わたしたちって経験豊富な年増なのよね」
だれが年増じゃーい! とツッコミを受け、ボケ役を務めた女性は、経験豊富なのは否定しないのねー! と返した。
三人が、なにごともなかったかのように耕太へと向き直る。
「と、いうわけで」
「それは効きませんよ、わたしたちには」
「むしろ、かまーん、かまーん!」
三人は、古代の巫女を連想させる着物の、その胸元をくつろげてみたり、耕太に向かってお尻を振ってみたり、裾をまくってちらちらと脚を露出させてみたりしだした。
耕太は、もうあまりの情けなさに身を震わせるしかなかった。
この期におよんで、なんでぼくは、こんな、シャイニング・エロス・フィンガーしかっ! がっきと右の手首を握りしめ、ぐぎりぎりと歯を食いしばる。
「……なぜだ? なぜ砂原家が?」
遠くの映像を映す砂鏡を見つめながら、四岐はいった。
もっとも、いま映っているのは遠くの映像ではなかった。四岐たちのいる教室から、すぐそこ、ドアを開けて覗きこめば目の当たりにすることだってできるだろう校舎三階の廊下で行われている、耕太と砂原家のものたちの闘いだった。
砂巨人の拳による振動が、四岐たちのいる教室を重々しく震わす。
〈八龍〉によって空いた天井の大穴から、細かなコンクリート粒を落とした。
「なぜだ、じゃないでしょーが!」
ちずるが怒鳴った。
「耕太くんの行く手を阻むものは、もうなにもないっていってたくせに! 校内には戦力は残ってないって! なによこれ、耕太くん、ボッコボコじゃない! ウソツキ! このウソツキ細目、キモ細目、あわせてウソツキモ細目ー!」
「美乃里……おまえか?」
わめくちずるを無視して、四岐は美乃里へと尋ねる。
まだ耕太の顔かたちだった美乃里は、眼をぱちぱちとさせながら、首を傾げた。
「どうして、ぼくが?」
「それはな、わたしは砂原家に対してなんの命令もくだしてはいないからだよ」
「ああ、四岐さまじゃなければ、ぼくのしわざだと。なるほど、論理的ですね」
「だろう? で、どうなんだ?」
「残念ですが、今回はぼくでもありませんよ、四岐さま」
「では、だれだ?」
「四岐さまでもない。ぼくでもない。となれば、あとはひとつでしょう」
「……砂原家が、自主的に動いたと?」
ふむ、と四岐は考えこむ。
「たしかに、〈御方さま〉が〈葛の葉〉を裏切ったいま、砂原家の立場は微妙だ。ここで侵入者を排除すれば地位を保てると、そう考えたとしてもおかしくはない……いや、やっぱりおかしいな。命令もなく、また許可をとることすらせずに勝手に行動しておいて、それでなにかしらの評価を得ようなどと、あまりに組織というものを理解していない。。砂原家のあの年増ども、年を食っているだけあって、決して愚かではないぞ」
「となれば、答えは決まりですね」
美乃里は、にこりと笑った。
「まさか……〈御方さま〉だと?」
答えに気づいたとたん、四岐の目つきは鋭くなる。ちずるも、「え? 〈御方さま〉?」と眼を丸く、ぱちくりとさせた。
美乃里はひとり、耕太の顔で薄く笑みを浮かべたまま、砂鏡を見つめる。
「やってくれるね、まったく……やはりすべては、あのひとの手のひらの上……かな?」
砂鏡のなか、砂巨人に殴られる耕太の映像にあわせて、教室が、震えた。
「もういちどいってみな!」
やはり砂巨人の影響で震えていた一階廊下では、乱が、朔の胸元をつかみ、ぐいと持ちあげていた。興奮のあまり、ずかずかと朔に迫っての行動だった。
「ちずるさまの思い人である、あのニンゲンが……小山田耕太が、本当はちずるさまを愛していないって、そういうのかい!?」
「ああ……そうだよ」
片手で自分を持ちあげ、目の前で八重歯を剥きだしにする乱に、朔は落ちついて答えた。
「耕太はちずるを愛していない。というか、愛ってのがどういうものなのか、まだわかってないのさ。まあ、それでも耕太本人に訊けば、『ぼ、ぼくはちずるさんのこと、あ、ああ、あ、愛してますぅ……』と、気弱に答えるんだろうが」
「た、たしかに、気弱なのは問題だねっ。そこはキッパリといいきらないとっ」
「うん、まあ、そうだ。まったくもってそのとおりなんだが、問題はそこじゃなくってな……ところでお嬢さん、ちょっと降ろしてくれるかな? すこし話が長くなりそうだ」
自分の胸元をつかんでいた乱の腕に、朔は、ぽん、と狼だった手を置く。
「うん? あ、ああ」
ぱっ、と乱は手を離した。
浮いていた狼のつま先をようやく地面に落とすことができた朔は、びろんと伸びきって戻らなくなった自分の服の襟元をすこし切なげに見つめつつ、語りだす。
「つまりな、耕太は優しすぎるんだよ」
「や、優しい?」
『お嬢さん』と呼ばれたためか、乱の頬はほんのりと紅く染まっていた。
「そうだ。優しすぎるから、迫る相手をはねのけることができない。好意を寄せられれば、他意がなくても返してしまう。傍目から見ればちずると耕太は、さぞ仲むつまじい恋人同士に映るんだろうが、現実はそうだ。ちずるが追ってくるから、耕太は受け入れた。ちずるが好意を寄せてくるから、愛してなくても耕太は好意を返した。ただそれだけのことなんだよ。恋人同士なんていうのとは、ほど遠い関係だったんだ、本当は」
「わっかんないだろ、そんなことっ!」
と、乱は朔の胸元をつかみかけて、途中で気づき、腕を戻す。
「あ、あんたが考えすぎてるだけで、本当に仲むつまじい恋人同士の関係だったかもしれないじゃないか! 愛しあっているかもしれないじゃないか!」
「このことは、実際にしばらく観察してみての感想なんだが……それに、検証もしてある」
「け、検証?」
「ああ。おれの妹の、望でな」
「妹?」
「ほら、耕太を抱きかかえながら、ここから逃れて、先に向かった銀髪の人狼がいただろう? 身体の小柄な。あれが望だよ。で、その望はな、耕太のアイジンなんだ」
ああ、あの子ね……と思いだし、うなずいていた乱の顔が、瞬時に強ばった。
「あ、アイジンッ!? 愛の人と書いて、アイジンッ!?」
「そのとおり、愛の人と書いてアイジンだよ。まあ、耕太にひと目ぼれしたが、すでにそのときちずるがいたんであっさりとフラれた望に、だったらアイジンになったらどうだと勧めたのはこのおれなんだが」
「なーにを余計なことしてくれてんだいっ!」
こんどこそ乱は朔の胸元をがっきとつかんだ。
高々と、自分の頭より上にまで持ちあげる。
「だいたいにして、妹にアイジンになることを勧めるたあ、あんた、それでも本当に兄なのかい!? てめえの血は、何色だっ!」
「たしか赤だったはずだが……もしかすると、そろそろ青くなっているかもな?」
狼だった足を宙でぶらぶらさせられながらも、朔はとぼけた調子でいった。
「赤なのか青なのか、眼で見てわかるようにしてあげようかい、このあたしがっ!」
ふしーっ、と乱の鼻から、荒々しく息が噴きだす。
「丁重にお断りしておこう。ところでお嬢さん、おれに正義の怒りをぶつけるのもけっこうだが、もっと怒るべき相手がいるんじゃないか? たとえば、ちずるという恋人がいながら、望というアイジンを受け入れた、小山田耕太なんて男、とかな」
「ぬっ! あんたが送りこんだくせにっ!」
「たしかに送りこんだのはおれだ。だが、受け入れたのは耕太自身だよ。耕太に対しては、おれはなにも手をくだしてはいない」
「ぬ、ぬぬ、ぬー……」
朔を持ちあげる乱の腕が、ふるふると震えだした。
「どうして耕太が望をアイジンとして受け入れたのか、知りたいか? べつに望のことを愛していたからじゃないぜ。ちずるが、望を受け入れたからさ」
「ち、ちずるさまが?」
「そう……ちずるが望をアイジンとして受け入れたから、耕太も望を受け入れたんだ。わかるか? 耕太は優しすぎるから、ちずるだけじゃなく、望のことだって、迫られればはねのけることができないのさ。だが、そのまま望を受け入れて、ちずるを哀しませるようなことも、またできない。優しすぎるからな。けっきょくは、板挟みになって苦しむ耕太を見かねたちずるが、引いたってわけだ。ちずるもまた、普段は傍若無人なくせに、惚れた男にだけは気を遣うからな……」
話を聞いた乱はしかめっ面になって、しかし持ちあげていた朔を、降ろす。
すと、と床に降りたった朔に向かって、いった。
「たしかに、小山田耕太は、ちずるさまを愛してないね」
「ああ、愛してない。愛してれば、望をアイジンとして受け入れたりはしないだろう」
「おいおい、朔よ」
黙って朔と乱のやりとりを脇で聞いていた沙介が、笑みを浮かべつつ会話に入ってきた。
シーナはいつものように、沙介の横にならんでいる。ふたり、廊下の壁にもたれかかって、もうすっかりリラックスしきっていた。
「狼のおまえが、それをいうのか? 狼もふくめて、たいがいの群れを作る獣は、一匹の長が群れのすべてのメスを手に入れるものだろうが。なあ、シーナ?」
「そうね、沙介。ニンゲンの世にだって、一夫多妻制なんてのがあるし」
「朔よ。たかがアイジンのひとりやふたりがいたぐらいで、その彼が相手を愛してないだなんて、どうしていえるんだ?」
「はん! あんたたちには、わかりゃしないよ!」
乱が、顔をしかめつつ、いう。
「ずっと兄妹だけで気持ち悪〜くイチャイチャしてるあんたたちには、絶対にね!」
「おお、さすがは恋愛の大家、乱だな」
「伊達にハーレクインロマンスばっかり読んでないわ」
「う、うっさいね! ハーレクインロマンスは文学じゃないんだよ、人生なんだよっ!」
「――耕太の場合は、違う」
朔はいった。
「沙介、おまえのいうとおり、愛する対象が多いからといって、その人物が愛を知らないとはいえないよ。でもな、耕太は本当に愛ってやつを知らないんだ。たとえば……なあ、沙介? 愛するものが危機に陥って、いますぐ助けにいかなくちゃならないとする。なのに、横では仲間が傷ついてるとしよう。さあ、おまえならどうする?」
「これはまた、ずいぶんとわかりやすい質問がきたな」
沙介は、横にならぶシーナを見る。
シーナも、沙介を見つめた。視線を絡めて、ふたり、ふふ、と微笑みあう。
「そりゃもちろん、愛するものを助けにいくだろうよ……と、答えればいいか?」
「ところが耕太は、傷ついた味方の治療を始めるんだ。事実、今回、始めた」
「ふふん? だからといって、その彼が『愛』を知らないとはいえないな。いたずらに焦らず、味方の治療をして戦力の低下を防いだのだと考えれば、むしろ結果的には愛するもののためになっているといえる。なあ、シーナ?」
「そうね、沙介。プロね、その子は」
「残念だが、そんなプロフェッショナルな考えのできるやつじゃないんだな、耕太ってやつは。ただの甘ちゃんってだけだよ。いっただろう。耕太は優しすぎるんだ。みんなに対して、その愛は向けられるのさ」
「悪いけどな、朔。その耕太くんとやら、ちょっと好きになれなそうだ」
「苦手なタイプだわ」
「いや、おまえたちはまちがいなく好きになるよ。耕太の、とくに妖に対するカリスマ性ときたら、もはや悪魔的だぜ。いや……まさしく<神〉かな?」
「じゃ、なるべく避けるとしよう」
「君子、危うきに近寄らずね」
「ああ……ああ! ちずるさまがかわいそうだっ!」
突然、乱が吠えた。
その場に崩れ、膝をつき、がっしがしと碧色の髪をかきむしる。
「そんな妖ジゴロなガキに騙されて、あげく愛してももらえず、ただひたすら一方的な愛を捧げるだけだなんて……これが悲劇でなくて、なにが悲劇だというのかっ!」
「本人はけっこう幸せなようだが。日々、いろいろなプレイを編みだしたりしてな」
「プレイ!? まさか、ちずるさまを夜の蝶にするために!? くっ、小山田耕太……ちずるさまをもてあそぶだけでは飽きたらず、プレイを仕込んで、それを使ってお金まで搾りとろうだなんて……悪魔! 鬼! 深く淫らなもの、ニャラルトエロップ!」
「いや、どちらかといえば、ちずるが耕太にプレイを仕込んでいるんだが……それにな、ちずるが一方的に愛するばかりでも、どうやらなくなってきたようだよ」
「あん?」
乱が、涙まみれとなった顔をあげ、朔を見た。
「ど、どーゆー意味、だい?」
ずびびびー、と鼻をすする。
「ちずるへの危機が功を奏した、のかもしれない。万人へと向けられていた耕太の優しさが、ここにきてちずるひとりへと向けられ始めた。本当はな、耕太はちずるがここでおとりになっている隙に、逃げる予定だったんだ。だが、耕太は逆らった。逆らって、ちずるを救いだすため、ここまでやってきた。まあ、途中、やっぱりダメかな、と思うところもちょっとはあったんだが。さっきいった、ちずるよりも傷ついた仲間の治療、とかな」
「……で? いまもまだダメなのかい? 小山田耕太は」
「いや……けっこう見こみがでてきたよ。学校に侵入してからは、とくに。ここにはな、ちずるの仲間たちも捕まっているだろう? たぶん、おまえたちとやりあったんだろうと思うが……狐とか、熊とか、そうそう、沙介、シーナ、おまえたちのかわいい弟とかな」
沙介とシーナは、にこりと笑うだけだった。
「その仲間のことを、耕太は忘れきっていた。あのみんなに対して優しすぎる耕太くんがな? ようやく耕太は、ちずるのことだけを考え始めたんだよ。ちずるだけに優しさを向け始めた。そして、いまここに残る、おれの存在さ。覚えてるだろう、おまえたち……耕太が、おまえたちをあざむいてまで、おれを残し、先へと進んだことを。つまり耕太は、ちずるのために、おれを犠牲にしたんだ。犠牲にすることが、できたんだ……」
「なるほど……読めてきたよ、朔」
沙介がいった。
「だからおまえは、妹をいつしょにいかせたんだな? この先になにがあるかは知らないが、まさかおれたち以外に行く手を阻むものがなにもないってことはないだろう。この先の困難と出合ったとき、妹は朔、おまえとおなじことをするんだな? 『ここは自分に任せて、先にいけ』と」
「で、耕太くんはまた選択を強いられるってわけね。ところで朔、もし耕太くんがあなたの妹さんを選んじゃったら、どうするの?」
「べつに。兄として、妹の幸せを祝福するだけさ」
ふふふ。ははは。沙介とシーナは笑いだす。
「朔、本当にヒドイやつだな、おまえは!?」
「普通、妹まで利用する?」
「自覚はしている」
朔は、真顔でいった。
「でもな……おまえたちだって、そうじゃないのか? 本当に愛するもののためなら、なんだって犠牲にするし、利用だってする……それが『愛』ってやつだろう?」
「ちょっとばかり極論にすぎる嫌いはあるが、まあ、そうかな」
「そうね。そして朔、あなたは愛する耕太くんのため、自分どころか、妹まで犠牲に……」
「そういう冗談は、あまり好きじゃないんだが」
「あ、あんた、そうだったのかい?」
「だから、好きじゃないんだが」
にやにやするシーナや、座りこんだままなぜか眼をきらきらさせる乱を、朔はきっぱりとはねのける。
「とにかく、耕太はようやく、愛するってことを理解しだした。ここにきて、ホント、ようやくな。あとは……」
朔は、くるりと身を返した。震える天井を見つめる。
校舎は、朔たちがやりとりしているあいだも、いまだ小刻みに振動し続けていた。
「いいかげん、覚悟を決めろよ、耕太……。おまえだけなんだぜ、ちずるを運命の輪から救いだせるのは……」
『――のだ?』
その声は、突然、耕太の脳裏に響いた。
はっ、と耕太は顔をあげ、きょろきょろとあたりを見回す。
だが、視界に入るものといったら、〈御方さま〉そっくりな砂巨人がデンプシーロールから放つ拳の壁と、その隙間からかすかに覗く、年齢不詳な三人の女性ぐらいなものであった。あとは淡く明るい光を発する、廊下の天井、壁、床だけで、声の主であるはずの女性は、どこにも見えない。
げ、幻聴……?
自分のあまりのふがいなさに、とうとうぼくはおかしくなっちゃんだろうか。薄ら寒くなって、耕太はぶるりと震えた。
『なぜ、闘わぬのだ?』
再度響いた声に、うひ、と耕太は声をあげてしまう。
やっぱり、まちがいなかった。
「お、〈御方さま〉!?」
この声は、〈御方さま〉のものだったのだ。
しかし、姿はどこにもない。廊下をふさぐ、姿だけは〈御方さま〉だった巨大な砂巨人と、その前で隙あらば漫才をくりださんとする砂原家の三人娘と、それ以外に、薫風高校校舎三階の廊下に立つものはなかった。
「ど、どこに……」
『妖怪だからか』
「や?」
『妖怪だから、ちずるを……いや、あやつが伝説の怪物、〈八岐大蛇〉だから、おぬしは闘おうとはせず、見捨てるのか』
「そ、そんな、見捨てるだなんて!」
返事をしながら、ふと耕太は思った。
あれ? このやりとり、たしかどこかで?
とたんに、まざまざと思いだした。
鼻をくすぐる消毒液の匂い、座ったベッドの硬い感触、白を基調とした部屋、窓から入りこむ秋のほがらかな日射し――それは、学校の保健室だ。
ちずるの嘘。
不信。不審。結果、ちずるを見捨てかけた自分。
あのとき、いま思えばたわいもないちずるの嘘に、自分は傷ついていた。傷つき、彼女が信じられなくなっていた。あげく、ちずるだけを当時の番長だった熊田との一戦に送りだして、残った自分は、保健室でひとり、悶々としていた。
そこに、〈御方さま〉はあらわれたのだ。
あらわれ、問い質したのだ。
なぜ、おぬしは闘わぬのだ?
そう、強く厳しく、優しく――。
「ぼくは……ぼくは!」
『おぬしは、またおなじあやまちを繰り返そうというのか?』
「ち、違う! 違います、違うんです! ぼくは闘いたい! あのころとは違う! ちずるさんのために、ぼくは闘いたい! だけど、どうしても力が! どうしても、闘うための力をだすことが、できなくって!」
耕太は、銀の腕輪がはまった右手首を、強く握りしめた。
『力? 力ならばだすことができたではないか。覚えておらぬのか? 耕太よ、おぬしがここへ侵入した直後……ひっくり返った車のなか、宙づりになっておったおぬしは、身体を抑えつけておったシートベルトを、その右手首にある腕輪の力で、斬ったではないか』
「あ……」
『よいのだ』
〈御方さま〉の声は、思いがけないほど、やわらかなものだった。
『なぜおぬしが闘えぬのか……それは、おぬしがあまりにも優しすぎるから。そう、わしは理由を知っておる。あのときも、そうだったんじゃからの……』
「あのとき……?」
耕太は最初、熊田との闘いに、ちずるだけをいかせたことなのかと思った。
違うな、と打ち消す。
あのときの耕太は、ただ情けなかっただけだ。
嘘をつかざるを得なかったちずるの辛さもわかってやろうとせずに、ただ自分ひとり、犠牲者をきどっていただけだ。まわりがまったく見えてなかった。相手の気持ちを理解しようとしていなかった。ただ自分だけだった。子供だったんだ、ぼくは。
でも……じゃあ……?
〈御方さま〉はなにを指しているのか、と考えたとき、ふいに、視界が変わった。
いや、変わったのは視界だけではなかった。
耕太のまわりをとりまくものすべて、砂巨人の重たい拳も、砂原家の三人娘も、廊下も、校舎も、空気も、音も、匂いも、すべてが、移り変わってゆく。
気がつくと、だれかが泣いていた。
そして耕太は、その泣きじゃくる相手に、上半身を抱き起こされていた。
身体を動かそうとするも、まったく力が入らない。両手両足とも、地面にだらんと伸びたまま、震わすことすらできなかった。なにやら、眼までかすむ。
原因は、腹部にできた傷らしい。
抱き起こされるかたちだったため、頭を動かさなくても、自分の身体は見ることができた。とにかく、腹部からの出血がすごい。白かった服を真っ赤に濡らし、それでもなお、血は流れ続けていた。流れる血液とともに、耕太の身体からは、力が失われてゆく。
「いやぁ……いやぁあ……」
その声に、はっ、となって耕太は視線を上へと向けた。
自分を抱き起こしていたのは、ちずるだった。
いや、違う。
似ている。よく似ているけれど、ちずるではない。
狐の耳を生やしていたし、髪は金髪だし、目元も軽くつりあがってはいた。だが、彼女はちずるよりも年上の、大人の女性だった。格好も違う。現代のものではなかった。そう、さきほど、砂原家のものである三人の女性が身にまとっていたのとよく似た、古代日本の、巫女のような服であった。
ここは、いったい……?
耕太はあたりに視線をやって、そして、息を呑む。
あたりはすっかり滅んでいた。
滅んでいた、と称するよりほかない光景だった。
なにかとてつもない力に、押しつぶされ、吹き飛ばされたかのように、岩と土くれ以外、なにもなかったのだ。例えるなら、月面のクレーター。自分を抱きかかえる女性の泣き声以外なにひとつ音のない、死の静寂に満ちた、無機物だけの世界であった。
いや、ここが月面であるなら、まだよかった。
だがここは、まちがいなく地上だったのだ。
どこまでも、地平線の向こうまで、なだらかなすり鉢状のクレーターは広がっていたが、彼方には太陽があったのである。太陽は燃えあがりながら沈み、終末の残照でもって、耕太たちを貫いていたのである。
そして、地上にできたクレーターの中心にいたのは、耕太たちだ。
つまり。
つまり、これって。
ぼくが――。
『あなたさま[#「あなたさま」に傍点]は、あまりに優しすぎた……』
おののく耕太の脳裏に、〈御方さま〉の声が響く。
『これは、あなたさま[#「あなたさま」に傍点]の優しさが生んだ、悲劇……』
「ぼ、ぼくが? ぼくが、これを? こ、こんな……こんなことって!」
耕太は首を振り、一歩、二歩とさがった。
そう、耕太はさがっていた。いつのまにか耕太は、滅び去った世界の中心で、泣きじゃくる女性に抱きかかえられている自分ではなくなっていた。ふたりの横に立ち、そしていま、おののくまま、ふたりから離れたのだった。
『逃げるか。ま、それもよかろう。ここでちずるを捨てるのも、の』
〈御方さま〉の声が、耕太の足を地面へと縫いつける。
「ちずるさん……を!?」
『これまで、なんども選択肢はあったはずじゃ。ちずるを捨て、ごく普通の、ありふれた高校生として生きる選択肢はの……。熊田との闘い。朔との闘い。美乃里との闘い。その他、さまざまなつど、選択肢はあった。そして耕太、おぬしは選んできたはずじゃ。ちずると生きる道を、選び続けてきた。おぬしにはさほど自覚はなかったろうが』
「あ……」
『これは、最後の選択なのだと知れ。ちずるを選べば、いずれこうなる』
〈御方さま〉の声に従って、耕太はまわりを見た。
ほかならぬ自分の力によって減び、一面の月世界と化した世界。そのクレーターの中心で、いまにも死にかけている自分。そして、死にかけた自分を抱きかかえて泣く、ちずるによく似た大人の女性――。
「ああ……」
耕太の頬を、涙がつたう。
〈御方さま〉の言葉は、嘘ではないとわかっていた。
事実、ここまでくるのに、どれほどのものを犠牲にしてきたというのだろう。
朔を、望を、マキリをレラを、人狼たちを、カイを、シズカを、それにたゆら、熊田、桐山、澪、そのほかの仲間たちを、みんな耕太は犠牲にして、ここまでやってきたのだ。
ちずるを選べば、この先も、もっと多くのものを犠牲にすると、〈御方さま〉はいう。
最後には、無関係のものたちさえも、多く滅ぼしてしまうだろうと、いう。
「ああ、ああ……」
だが、耕太が泣いたのは、そのためじゃなかった。
自分たちのために、犠牲になるものたちのためじゃ、決してなかった。
さっきから、耕太の眼にはひとつしか映らなかったのだ。
自分のために、滅びてしまった世界の光景じゃあない。
腹から血を流し、死にゆく自分の姿でもない。
岩と土塊だけの世界で、いままさに死のうとしている自分を抱きかかえ、泣く女性、その姿だけだった。沈みゆく太陽の、鮮血にも似た光に照らされ、長く長く影を伸ばす、ちずるそっくりな大人の女性のことだけしか、耕太には見えなかったのだ。
「ぼくは……」
ああ、ぼくは! ぼくってやつは!
耕太はもう、涙が止まらない。
あふれでる涙で頬を濡らしながら、耕太は両腕を高々とあげた。天をつくように伸ばした腕の先で、ぎゅっと、指先を握りこんでゆく。
『ほう……』
〈御方さま〉が、感心したような声をあげた。
耕太の手のなかには、光り輝く一本の棒が生みだされていた。光の棒は、耕太が思うままにかたちを変え、やがて、光り輝く、細い両刃の剣と化した。
「〈御方さま〉、ぼくは……ぼくは……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、鼻をすすりながら、耕太は震える声でいった。
『なにを嘆くか。悲しむか。それがおぬしの選択なのじゃろう?』
耕太はもう、言葉を発することができなかった。うんうんと、ひたすらうなずく。涙と鼻水を飛ばしながら、うなずく。
たとえ、自分をふくめたありとあらゆるすべてのものを、犠牲にしたとしたって。
たとえ、この選択があやまちであったとしたって。
ぼくは、ちずるさんを――。
ちずるさんのことだけを――。
「うああああああああー!」
叫びながら、両手で持った光の剣を、耕太は振りおろした。
縦一直線に、光の軌跡が走る。
その光の線を中心として、突如、視界は砕けた。ぱりん、とまるでガラス細工のように、砕け、散って、なかから元の光景、ひたすら殴る砂巨人と、三人の砂原家の女性、そして薫風高校三階の廊下を出現させる。
と、右ストレートを伸ばしたまま、砂巨人は固まった。
〈御方さま〉そっくりな彼女をまっぷたつにするように、光の線がなぞる。
やーらーれーたー。
光の線にそって、砂巨人はまさしくまっぷたつとなって、さらさらと砂を流していった。最後には一気に、ばさっと崩れ落ちる。ぶわりと砂は舞い、風とともに耕太へと吹きつけ、廊下を抜けていった。
左手首の腕輪の力で盾を張り、砂を防いでいた耕太は、その力を解く。
小高い砂の山と化した元・砂巨人の前で、三人の女性が、ぱたぱたと服の埃を払っていた。ぺっぺっ、と砂を吐く。
耕太に気づいた。
三人そろって、ぱちり、とウインクしてくる。
耕太はぐしぐしと目元をこすり、涙をぬぐって、深々と頭をさげた。
「ありがとう、ございました!」
どういたしましてー、の声を聞きながら、耕太は駆けだす。廊下を埋めつくす砂の山を砂原家の女性たちごと軽々と飛び越え、その先へと、ちずるが待つ場所へと向かった。
右手に、光の剣を輝かせながら。
もう、迷いはない。
「ちずるさーーーーーーーん!」
耕太は、声のかぎりに叫んだ。
「耕太くーーーーーーーん!」
届いた耕太の叫びに、ちずるも叫び返した。
涙をこぼし、身体を激しくくねらせ、手足、胴、首、しっぽに絡みついていたヒヒイロカネの鎖をきしませる。前のような、感覚によって聞きとった耕太の声ではなかった。現実に、すぐ間近であがった声だった。耕太くん、耕太くんとちずるは泣く。喜び、泣く。
「やられたな」
一方、四岐の声は、うつろなものだった。
「砂原家は……いや、〈御方さま〉は、みごと小山田耕太のなかに眠る力を目覚めさせることに成功したというわけだ。あの光の剣……美乃里、おまえが〈龍〉の力で作りあげた黒い剣と、ずいぶんよく似てるじゃないか? さて、威力はどうだろうな?」
と、四岐は横でともに砂鏡を見つめていた美乃里へと視線をやって、はっ、となった。
にたり、と口元を曲げる。
「美乃里……」
「なんですか、四岐さま」
砂鏡を見つめたまま、美乃里は答えた。
「ずいぶんと嬉しそうだな」
「え?」
「おまえ、気づいてないのか」
「なにがでしょう」
「自分が笑ってることに、だ」
そう四岐に指摘されて、初めて美乃里は砂鏡から視線を外した。
顔を指先で撫でだす。たしかに唇も、頬も、眼も、耕太そのものだった美乃里の顔は、笑みを描いていた。自分で確認して、美乃里は、はっ、と笑いだす。
「まあ、いいだろう」
四岐がいった。
「最初からおまえは、小山田耕太には力に目覚めてもらうつもりだったんだからな。その上で、叩きつぶすつもりだった。だろう? さきほどの闘い、こことは目と鼻の先でやってたんだ。妨害しようと思えばできた。が、やらなかった」
「四岐さまもね」
美乃里の返しに、四岐は声をあげて笑う。
「なあに、組織の長たるもの、配下の願いはなるべぐ叶えてやらなくてはな。とくに、もっとも功績のある配下の願いは……忘れるなよ、美乃里? 裏切りともとれるおまえの行動は、もっとも功績が高いからこそ許されるのだということを。失敗は許されん。万が一にでも、小山田耕太に敗れ、〈八龍〉を取り返されるなどということは……な」
「ご心配なく。必ず殺しますよ。ちずるの前で、兄さんをね」
「よし。そのおまえの姿、小山田耕太の姿は、決意のあらわれだと信じるぞ。どちらが『本物』なのか、白黒つけようという、な……」
いいながら、四岐は教室の端へとさがってゆく。
美乃里も、教室のほぼ中央で四方からのヒヒイロカネの鎖に捕らわれたちずるの前に立ち、ドアへと視線を向けた。
迫る、足音。
ちずるは涙を散らし、叫ぶ。
「耕太くーーーーーーーん!」
耕太は、ちずるの声を聞きながら、目の前にある教室のドアへ、光の剣を振りおろした。
斜めに光の軌跡を走らせたドアが、その線にそって、ゆっくりと倒れてゆく。
まずなかから吹きつけてきたのは風だった。
外気を思わせる冷たい風に髪を踊らせながら、耕太は、かまうことなく教室のなかへと踏みこむ。
いた。
求めるものは、目の前にあった。
教室の天井には大穴が空き、そこから八体の黒い〈龍〉が、空に向かって飛びだしている。その〈龍〉の発生源であった彼女は、穴の真下で、教室の四方から伸びる黄金の鎖によって、手足、首、胴を締めつけられ、完全に身動きのとれない状態にされていた。
その鎖以外に、彼女の身体を覆うものは、なにもなかった。
すべて剥きだしだったのだ。
首筋も、鎖骨も、胸も、脇腹も、おなかも、おへそも、ふささ……も、太ももも、膝も、ふくらはぎも、足首も、つま先にいたるまで、すべてが。
豊かな金色の髪が、背中だけは覆う。
そんな髪を割るようにして、頭頂部からは、狐の耳を生やしていた。腰からは狐のしっぽと、あと、八本の〈龍〉を。
彼女は泣いていた。
耕太を見て、笑いながら、泣いていた。
「ちずるさんっ!」
「耕太くんっ!」
ひぐー、とちずるは、顔を歪ます。
だらだらと涙を流し始めたちずるの前には、自分とおなじ顔かたちをした、ただし身体は黒いタイツ状にぴったりとした服を身につけていた男が、微笑みながら、立っていた。
「美乃里……だね?」
「へえ? さすがは兄さん、驚くかなー、と思ってわざわざこんな姿をしていたのに、一発で見ぬいちゃうなんてね。これなら、ちずるに化けてればよかったかな?」
そういいながらも、美乃里は耕太の姿から戻ることはなかった。
右手を、まっすぐ横へと伸ばす。
ぐっ、と空間を握りしめた。
とたんに、黒い炎が生じる。炎は伸び、そして黒い剣と化した。
耕太が手に持つ光の剣と、まったく対照的な漆黒の剣を、美乃里は作りあげた。
「さあ、始めようか……兄さん!」
四、真夜中の決闘
薫風高校のまわりに広がる住宅街に、ぽつりとある二階建てのビル、
その屋上に、ひとりの男の姿があった。。
真冬の寒風にさらされながら、黙って校舎へと視線を注ぐ彼の風貌は、老人のものといっていい。頭の後ろで束ねた髪や、立派にたくわえた口ひげなど、毛髪は完全に白く、顔に刻みこまれた皺は深かった。ただしその格好白体は、小柄な身体に革のライダースジャケットを着こんでみたり、真夜中だというのにサングラスをかけたままでいたり、かなり元気あふれるものだったが。
彼は、小山田弦蔵。
小山田の名字が示すとおり、耕太の祖父である。
朔に先がけて薫風高校へと向かっていたはずの弦蔵は、なぜか外から、じっと校舎を見つめ続けていた。
「……始まりますか」
弦蔵の背後から、まるで闇から染みだしてきたかのように、すっ……と男があらわれる。
それは、感情というものをすっぱりと削ぎ落とした顔つきの男だった。
感情をひたすら笑顔で隠しきる四岐とも、また違う。完璧に殺していた。
髪は短く刈りこみ、目元は冷たく鋭く、黒ずくめだった服装は薄く、その鍛えた肉体の輪郭をくっきりと映す。唯一自己主張していると思えるのは顔のピアスで、耳はおろか、まぶたやら鼻やら唇やら、やたらにさまざまなかたちのリングで飾りつけてあった。
彼は、〈葛の葉〉八家のひとつ、悪良《あくら》家の、それも当主の座にある男だった。
主に諜報活動を担う家の、当主である。
諜報活動には、暗殺などもふくまれる。
が、そんな男に突然話しかけられたというのに、弦蔵に驚いた様子はなかった。
振りむきもせず、ただ、うむ、とうなずく。サングラスごしの視線を、薫風高校から外すことすらなかった。
「配下のものたちは?」
弦蔵は、悪良家当主である男に尋ねる。
尋ねられた男は、職業柄か、音もなく弦蔵の横へと立ち、答えた。
「みな、すでに退避させております。退避するついでに、校内に残る〈葛の葉〉のものたち、三珠家や土門家など、目につくものは拾わせておきました。あとのものは、どうやら〈御方さま〉が片づけてくださっているようで……」
「よし。ごくろうだった」
弦蔵はねぎらう。
ねぎらって、苦笑した。
「いや、すまぬ。どうも昔のくせが抜けぬようだ」
「いえ、懐かしく思いました。弦蔵さまが当主だったころ……弦蔵さまは、大変お厳しく、また、お優しく……」
くっく、と弦蔵は笑った。
「あまり老人をいじめるものではないぞ、現当主どのよ」
ぴたりと笑いを収め、弦蔵は真横に彼へと向き直る。
「おぬしには、かなり世話をかけてしまった……。たかだか前の代の当主であったというだけのわしの頼みを、よくぞここまで聞いてくれた。感謝してもしきれぬ」
「お止。めください、弦蔵さま」
頭をさげようとする弦蔵を、当主である男は制した。
なぜ、〈葛の葉〉の監視下にあったはずの玉藻ほか人狼たちが、だれに気づかれることもなく、この街へとやってくることができたのか。
すべては弦蔵と、この悪良家当主である男の、画策であった。
企みは、玉藻の件だけではない。
なぜ耕太たちは、〈葛の葉〉が守りを固めていたはずの街を、比較的簡単に突破することができたのか。いかに人狼たちが耕太たちに化けたとはいえ、ああもたやすく。
悪良家は、諜報活動の専門家である。
あの程度の変装など、たやすく見破ることはできた。
できた、が、報告しなかったのだ。
玉藻の件もおなじである。雪女たちの手引きによってひそかに山を下りた玉藻一同を、現地の悪良家は見ぬいてはいたが、〈葛の葉〉へは一切報告しなかったのだ。
そうするよう、弦蔵が頼んだからであった。
そして、悪良家の当主の男が、弦蔵の頼みを受け入れたからであった。
「わたしにとって、いや、悪良家のものすべてにとって、いまだ弦蔵さまは当主なのです」
やはり無表情で、悪良家の現当主は、淡々といった。
「ですから……」
「すまぬ」
弦蔵は彼の制止を振り切って、深々と頭をさげた。男を、無表情なままながら、ひとしきり困惑させておいて、元通り、頭をあげる。
サングラスの下、立派な口ひげに囲まれた口元で、にやりと笑った。
「変わりましたね、弦蔵さま」
男が、いった。
「そうか?」
「ええ。少々、なんといいますか、お茶目になられました」
「おぬしは、昔とあまり変わらんな」
「闇に生きるものなど、だいたいこんなものです。弦蔵さまも、当主を務めてらっしゃったころは、いまのわたしとさほど変わらなかったかと」
「そうだったかな……うむ、たしかにそうかもしれん」
「弦蔵さまを変えたもの、それは……」
うむ、と弦蔵はうなずき、校舎へと視線を向ける。
視線の先では、月明かりの下、砂でその身を覆われた薫風高校の校舎が、冴え冴えと照らされ、校舎に向かって色濃い影を落としていた。屋上からは、あいかわらず〈八龍〉が見あげるほど高く伸びあがり、星空のなか、ぐねぐねと身じろぎする。
「耕太よ……」
弦蔵は、孫の名を呼んだ。
光の剣と、闇の剣。
耕太と美乃里が互いの手に持つ、かたちはそっくりながら正反対の性質を有した剣が、激しく打ちあわされた。
剣と剣は削れて、それぞれ、光と闇の粒子を散らす。
「ちずるさんを、返すんだ、美乃里!」
「ははは、やる気だねえ、兄さん!」
剣とおなじく、耕太そっくりな顔かたちだった美乃里が、剣を大きく振りかぶった。
黒い軌跡を描いて落ちてきた刃を、耕太は光の刃でもって受け止める。
「ちずるさんさえ……ちずるさんさえ、返してくれれば……」
「なんだい、兄さん? すべて水に流してくれるとでも?」
「ああ、許すよ! ぜんぶ許す! だから……だから!」
ぎりぎりと剣と剣がこすれあい、白と黒の火花を散らすなか、耕太は叫んだ。
ふっ……と美乃里は小さく笑う。
「――いいかげんにしなよ、兄さん!」
と、剣を引くなり、鋭い突きを繰りだしてきた。
黒く燃えあがった切っ先が、あやうく耕太の喉もとをかすめてゆく。
「うっ……」
「この期におよんで、よくもまあ、そんなことを……兄さんは憎くないのかい、このぼくが? 知っているんだろう? ちずるが〈八岐大蛇〉と化せば、彼女の魂は砕け散ってしまうんだってことは。つまり、〈八岐大蛇〉を復活させようとしているぼくは、ちずるのことを殺そうとしているんだよ? なのにどうして許すなんてことがいえるのさ!」
「わかってる」
喉を撫で、手のひらについた血を太ももにこすりつけながら、耕太はいった。
「だから、いったんだ。ぼくはもう、ちずるさんを取り戻すって決めたから。そのためになら、たとえ世界ぜんぶを敵にまわしたって、その結果、すべて滅ぼしてしまうとしたって、かまわないって決めたから。それに、ぼくには、ぼくには……」
「実際に世界を滅ぼせるだけの力があるし?」
美乃里が、くるん、と手首を返して、黒の剣をまわす。
「え? って、うわっ!」
また鋭い突きを放たれ、あわてて耕太はさがった。
「じ、実際に世界を滅ぼせるだけの力?」
「あれ? さっき〈御方さま〉から、兄さんはすべての真相を聞かされたんじゃないのかい? だからその武具の力を使いこなせるようになったんじゃ?」
美乃里が剣の切っ先で、耕太の首、左手首、右手首にある銀の輪を、順番に指してゆく。
「い、いや、いろいろとためになるお話はされたけど……し、真相って?」
「待った。じゃあ兄さんは、『ぼくにはぼくには』のあと、なんていおうとしてたのさ?」
「や? あ、あーっと……な、なんだったっけ? あれ? あれれー?」
本当にわからなくなって、耕太は首を傾げた。
ど、どうしちゃったんだろ、ぼく?
「ふうん……力を引きだしはすれど、真相は明かさず、か……なにを考えているんだろうね、〈御方さま〉は。このために、みんな利用したんじゃなかったのか?」
「みんな、利用した?」
「そう、利用したのさ。っていうか、兄さん、まさか〈御方さま〉が、ただの善意で兄さんを助けただなんてこと、思ってやしないだろうね? ちずるもだよ。きみが〈八岐大蛇〉だと知って、なぜに〈御方さま〉は〈葛の葉〉を裏切るような真似をしたのか? いや、おそらくはぼくたちの企みすらも、みんな、〈御方さま〉は利用して……」
「騙されないからねっ!」
耕太の自分に対する決意に、感動のあまり滂沱の涙を流しつつ身を震わせていたちずるが、美乃里の言葉に、きしゃー、と吠える。
「耕太くんがここにくる前にも、『〈御方さま〉の思惑どおりか……』とか、なんか意味ありげなことばっかりいって! その手には乗るもんですか!」
ふふん……と美乃里は鼻で笑った。
「ねえ、兄さん?」
いきなり、なんとも無造作に斬りかかってくる。
「どうして〈葛の葉〉がちずるを狙っていたのか……その理由は、知ってるよね?」
腕の振りかたも足の運びも、なにもかもがてんでばらばらな、適当としか思えない動きなのに、その刃先は鋭かった。
耕太は、どうにか最初の一撃を剣で受けた。
が、続けて斬りかかられ、防戦一方、受けるだけで精一杯となってしまう。
「や、〈八岐大蛇〉を、ふ、復活させるっ、ためっ!」
「正解。じゃ、どうして〈葛の葉〉は、〈八岐大蛇〉を復活させたいんだろう?」
「え、えーと! んーと! その!」
「〈神〉よ!」
代わりに答えてくれたのは、ちずるだった。
「〈神〉を甦らせるためなんだって、そういってたっ!」
美乃里が、にたりと笑みを浮かべる。
笑みを浮かべながらも、耕太への攻撃の手は休めない。変わらず無造作な、乱暴極まる動きで、確実に耕太を追いこんでくる。
「そう、〈神〉だ……じゃあ、〈神〉ってなんだろう? なぜ、〈八岐大蛇〉を復活させれば、〈神〉が現世に甦るというんだろう? わかるかな、兄さん!」
とうとう、耕太の剣は弾かれた。
跳ねあがった光の刃の下をくぐり抜けて、闇の刃が、迫ってくる。
「くっ……やあっ!」
耕太は、迫る刃に向かって、左手を伸ばした。
左手首に巻かれた銀の腕輪が輝き、不可視の盾を放つ。美乃里の黒の剣は、耕太の作りあげた盾に当たった。耕太の盾には紫電が走り、その半球状のかたちを浮かびあがらせ、美乃里の剣は、ゆらりと揺らぐ。
「〈葛の葉〉が現世に甦らそうとしているもの、それはね……女神なのさ」
「め……女神?」
「名を、奇稲田《くしなだ》姫っ!」
耕太の盾に阻まれていた美乃里の剣が、突如、暗黒の炎を噴きあげた。
「く、奇稲田姫? だ、だって、奇稲田姫は……」
「ああ、そうだよ! 奇稲田姫は、〈八岐大蛇〉の生け賛として捧げられた女神だね! そして素戔鳴尊《すさのおのみこと》に助けられ、彼の妻となった! どうして〈八岐大蛇〉を復活させれば奇稲田姫が甦るのか、まったくもって理由はわからないけど、でも〈葛の葉〉にはそう伝わっているのさ! そのために〈葛の葉〉は作られ、数千年にわたって歴史の闇を生きてきた! すべては〈神〉を現世に甦らせるために!」
耕太を黒い炎で包みこみ、至近距離にいた自身をも燃やしながら、美乃里は叫ぶ。
「――まあ、嘘なんだけどね?」
にたりと笑って、いった。
一瞬、耕太は息を呑む。
すぐに立ち直った。
たー! と光の剣を突きだし、自分の作りあげた盾ごと、美乃里を貫こうとする。
しかし、盾を貫いたときには、すでに大きく美乃里は飛び退いたあとだった。
飛び退いた美乃里が、笑みを浮かべたまま、また襲いかからんと、踏みだしてくる。
「待て、美乃里」
男の声が、美乃里を制した。
止めたのは、教室の隅にいた、上下とも白いスーツ姿の男だった。オールバックの髪型をした、始終笑みをたたえていた彼の存在に、もちろん耕太は気づいていた。だが、とくに邪魔をする様子もなかったし、美乃里を相手するのに忙しかったので、ただ構わずにいただけだった。
その彼が、美乃里に対して、笑み混じりではあったが、なにやら難しい表情をぶつける。
「なんです、四岐さま?」
四岐と呼んだ男に、美乃里は満面の笑みを返した。
「おまえ、いま、なんといった? 〈葛の葉〉の目的が……」
「嘘。ええ、嘘だといいましたよ」
「なにをいっている? 〈葛の葉〉の目的は、〈神〉を現世に甦らすことだろう?」
「あ、それは嘘じゃありません。嘘なのは、その〈神〉というのは、奇稲田姫ではないということです」
「ではなんだというんだ! その〈神〉とは!」
「素戔鳴尊、ですよ。こちらにいらっしゃる、ね」
と、美乃里は耕太を指さした。
美乃里を除く全員が、固まる。かっちり数秒、時間は止まった。
「なにを――」
「ふざけるな!」
あがった声のうちで、もっとも強かったのは四岐のものだった。
「わたしは知らないぞ! 三珠家の当主である、このわたしは!」
「当然ですね。〈葛の葉〉の真の目的が、奇稲田姫を甦らすことではなく、素戔鳴尊を甦らすことにあるというのは、〈葛の葉〉八家のなかでも、三珠家、砂原家の二家、それも当主にしか伝わっていないことなのですから。まあ、よくあることですよね。真の目的を偽の目的でもって覆い隠すというのは。〈葛の葉〉ほどの組織になれば、他の組織の注目も浴びますから。〈神〉の復活ともなれば、邪なものに利用される可能性だって……」
「だからわたしは、三珠家の――」
「当主ではないでしょう? あくまで、まだ当主代理でしょう?」
ぴしゃりとはねつけられ、こんどこそ四岐は沈黙した。
「正統に受け継いだのではなく、当主であった自分の父に毒を使って、意識不明の状態に陥らせ、そうして掠めとった当主の地位です。だからね、四岐さま。あなたがご存じないのは当然のことなんですよ。だって、教えてもらってないのですから、当主から。はは、みごとに効果はあったわけですね。〈葛の葉〉が真の目的を隠した効果は、ね。四岐さまは、まんまと騙されることとなったわけだ……〈葛の葉〉に」
「美乃里……きさま、まさか、そのために?」
「お考え違いをなさらぬよう。父に毒を与えよとは、四岐さま、あなたがぼくに命じたことですよ。ぼくはあなたの命令に従っただけ……あなたの望みを、ただ叶えただけです。まあ、多少、その結果を利用させてはいただきましたが……」
「多少、ときたか」
四岐は、笑いだす。
「そうか、そうだな、それがおまえのやりかただったのだな……」
その笑いは、すこしずつ、狂気を滲ませたものへと変わっていった。
「さて……」
美乃里は、耕太へと向き直った。
「話を戻すとしようか? さっきもいったとおり、〈葛の葉〉の真の目的とは、荒ぶる破壊神、素戔鳴尊を現世に甦らすことだった。そのために〈葛の葉〉は、数千年の永きに渡ってずっと探し続けてきたんだよ。素戔鳴尊の魂が宿っているだろうニンゲン……いわゆる素戔鳴尊の転生体の存在をね。つまり兄さん、あなたのことをさ」
「ぽ……ぼくは」
「バカなこと、いわないでよっ!」
叫んだのは、ちずるだった。
「耕太くんが素戔鳴尊だなんて……そんな……そんなこと……!」
「おや、なにをそんなに怒っておいでなんです、奇稲田姫さま?」
「く……奇稲田姫? わたしが?」
戸惑うちずるに、美乃里は静かに笑う。
「いったろう、〈八岐大蛇〉が目覚めれば、奇稲田姫もまた、目覚めるんだって……奇稲田姫の復活自体はたしかに、〈葛の葉〉がまわりをあざむくために作った、偽りの目的ではある。だけど、中身は嘘ではないのさ。〈八岐大蛇〉が目覚めれば、本当に奇稲田姫も目覚めるんだよ。過去にいくつか事例はあった。素戔鳴尊の転生体の危機に、呼応してね」
「素戔鳴尊の転生体の、危機……」
美乃里の言葉に、耕太は〈御方さま〉の言葉を思いだしていた。
ちずるが〈八岐大蛇〉と化してしまうための鍵とは、彼女が真に愛するものの危機なのだと。ちずるが心から愛するものに命の危険が迫ったとき、それを助けるため、彼女は〈八岐大蛇〉の力を目覚めさせる――。
「そのとおりだよ、兄さん。だから、あなたが死にそうになれば、ちずるは〈八岐大蛇〉になって、そのあと、奇稲田姫になるってわけさ。まあ、それからあとどうなるかは、兄さんが本当に素戔鳴尊なのかどうかによるんだけどね」
「ぼくが、素戔鳴尊なのかどうかに、よる……?」
「そうだよ。まだ兄さんが、本当に素戔鳴尊の転生体であるかどうかはわからないのさ。ほら、さっき、『過去にいくつか事例はあった』っていっただろう? いままで何人もいたんだよ……兄さんのように、素戔鳴尊の転生体ではないかと思われた人物はね」
「ぼくのように……」
「もし兄さんが、本物の素戔鳴尊の転生体であったならば、おそらく、目覚めた奇稲田姫は現世にとどまるだろう。そして、兄さんのなかに眠る素戔鳴尊を、自分のように目覚めさせるはずだ。かくして、二柱の〈神〉は現世に復活し、〈葛の葉〉はみごと目的を達成するってわけさ。わずかに、〈神〉の復活によって砕け散ったあわれなニンゲンと妖の魂、兄さんとちずるを犠牲にしてね……めでたし、めでたしと」
「ちっともめでたく、ないっ!」
ちずるが怒った。
まったく、めでたくはない。
「って、待ちなさいよ? じゃあ、もしも耕太くんが本物の素戔鳴尊だったら、死んじゃうってこと? 〈八岐大蛇〉になっちゃったわたしのように、魂を砕かれて……」
「そのとおりだよ、ちずる。ああ、だから〈御方さま〉は兄さんに真実を伝えなかったのかな? そりゃあ、素戔鳴尊になれば自分の魂はなくなるんだって、自分は死んでしまうんだってわかっていれば、だれもなろうなんて思わないか……」
はははは、と笑う。
「違うよ」
ぽつりと、耕太はいった。
「うん? 兄さん?」
「〈御方さま〉は、ぼくに選ばせてくれた。このまま進めば、自分をふくめて、すべてを失うことになるかもしれないって……だけど、ぼくは選んだんだ。ちずるさんを救うために、闘うための力に目覚めることを、だれでもない、このぼく自身が選んだんだ」
耕太は、手のなかで輝く光の剣を持ちあげ、その切っ先を、美乃里へと向ける。
美乃里は口元に、うっすらと笑みを浮かべた。
「兄さん、あなたってひとは、本当に……」
笑みを浮かべながら、美乃里もまた、自分の闇の剣をゆっくりと持ちあげる。
「待って!待って、耕太くん! お願いだから、待って!」
ちずるが、いまにも剣戟を再開しそうになったふたりを、止めた。
「美乃里、もしも耕太くんが素戔鳴尊じゃなかったら、どうなるの! さっきあなたは、奇稲田姫が復活したあとどうなるかは、耕太くんが本物の素戔鳴尊かどうかによって違うんだって、そういってた!」
「必死だね、ちずる……ふふ、まあ、気持ちはわかるよ。兄さんが本物の素戔鳴尊の転生体だったなら、兄さんは死んでしまうんだからね。いいだろう、教えてあげるよ。もしも兄さんが、本物の素戔鳴尊の転生体ではなかったとしたら……眠るのさ。復活した奇稲田姫は、また眠りにつく。自分が復活したことによって、砕け散ったちずる、きみの魂をあたらしく作りあげてね。そして、前の記憶を一切なくしたきみは、旅にでる……あらたな素戔鳴尊の転生体の候補と出会うための旅にね……」
「あらたな転生体の候補を探す旅……ですって?」
「そうだよ、ちずる。きみ――源ちずるはね、素戔鳴尊の転生体を探しだすため、奇稲田姫が作りあげた疑似の魂なのさ。だからこそ……きみは兄さんを好きになったんだ」
「はあ?」
「ねえ、ちずる? どうしてきみは、兄さんに惹かれた? 出会ったばかりの、小山田耕太という少年の、なにに? ひと目ぼれ? はは、違うさ。きみが惹かれたのは、兄さんの素戔鳴尊の転生体としての資質にだ。そこに、きみのなかに眠る奇稲田姫が惹かれ、そして、好きになったのさ」
「ち……違う……違う! そんなの、違う!」
ちずるは必死になって否定した。
首を振る。髪を振り乱す。身体ももがく。もっとも、いくらちずるがもがこうとも、彼女の身体を拘束するヒヒイロカネの鎖は、まったく揺るぐことはなかった。
「わたしは、耕太くんだから好きになったの! 素戔鳴尊とか、そんなこと関係ない! 耕太くんの優しさに、わたしみたいなバケモノだって受け入れてくれる強さに、大きさに、わたしは惹かれたの! 獣が生きることができる、自然だから、耕太くんは、だから」
「まあ、口ではなんとでもいえるけど」
「違う、違う、違う! 違うったら、違う! わたしは……」
「いいじゃないですか、ちずるさん」
耕太はいった。
涙をも流し始めていたちずるに、やさしく微笑みかける。
「たとえ、始まりがどうであったって……だっていま、ぼくはちずるさんのことを、愛しているんだから。自分の身がどうなろうと、まわりがどうなろうと、かまいやしない。ちずるさん、愛しています。だれよりも、あなたを」
「こ……耕太くん……」
「ちずるさんは? どうですか?」
「愛してるよ! もうどうしていいのかわかんないぐらい、ほかになんにもいらないくらい、耕太くん、あなたのこと、愛してる! 愛してるっ! 愛してるーっ!!」
「だから、そんな話、関係ないよ、美乃里。ちずるさんをなぶるのは、やめろ」
美乃里を見つめる。自分とおなじ顔の相手に向かって、厳しく細めた眼を、ぶつけた。
ちずるも、こんどは喜びによる涙を流しながら、美乃里に向かってぶんぶんとうなずく。
「そ、そーよ、そーよ! だいたいにして、耕太くんが素戔鳴尊の転生体だっていう、証拠はあるの、証拠は! わたしはあなたたちのいうとおり、〈八岐大蛇〉なんでしょうよ。奇稲田姫かどうかはともかく、なんかおしりから黒い〈龍〉、八本も生えちゃってるわけだし……だけど耕太くんは、べつに普通じゃない! わたしとラブラブなだけの、普通の男の子じゃないの!」
「普通? 兄さんが? どこがなのさ。あれだけ巨大なものを持っておいて」
「い、いや、たしかに耕太くんのは大きいけど……でも最初はかわいかったし、わたしと望がいろいろしちゃったから、あんなにたくましく育っちゃっただけで……っていうか、素戔鳴尊の転生体候補の資格って、そうなの? 巨大なモノであることが、条件なの?」
「……ちずる、きみがいったいなにと勘違いしているのかは知らないけど、ぼくがいっているのは、〈気〉のことだよ。兄さんの、巨大な気」
あ、とちずるの口が大きく開く。
「ち、ちずるさん……」
頬が熱くなるのを感じながら耕太が見つめると、ちずるも頬どころか剥きだしの素肌すべてをほんのりと紅くして、身を縮めた。
「ご、ごめーん、耕太くん……」
「まったく、どんなときでもちずる、きみの頭にあるのはそのことばかりのようだね。ある意味、大したものだよ……」
「う、うるさい! おまえが誤解するようないいかたするから悪いんでしょうがっ!」
「まず、兄さんの異常なまでに大きな気だ。ニンゲンでもなく、妖でもない、異質なね」
ちずるの怒声を無視して、美乃里はいった。
「そして、兄さんがいま身につけ、完全に使いこなしている銀の首輪と腕輪は、それぞれ、首輪は八尺瓊曲玉《やさかにのまがたま》の、左手首の腕輪は八咫鏡《やたのかがみ》の、そして右手首の腕輪は、天叢雲剣《あまのむらくものつるぎ》の……いわゆる、三種の神器と呼ばれるものの、レプリカだ」
耕太は、はっ、となって自分の両の手首にはめてあった銀の輪へと視線を落とす。
そっと、左手の指先で首の輪にも触れた。
まったく冷たさを感じなかった。というより、金属だという感じがしなかった。触れた質感は、まちがいなく金属の輪であるはずのなのに、なぜか、まるで自分の身体に触れているかのように、違和感がまったくなかった。
多々良谷家の当主である、プロレスラーのようなおじさんと、彼の娘である、どこか猫っぽい、だけど猫娘ではなくサトリの娘だったナツミ……そのふたりから贈られた武具である。首輪で耕太の気を転化させて、左手の輪から不可視の盾を、右手の輪から光輝く剣を生みだすことができるこれら銀の輪が、三種の神器……?
「なにより、兄さんが素戔鳴尊の転生体の候補たる、いちばんの証拠は……あなたが、ぼくの兄さんである、ってことさ」
さきほど耕太がやったように、美乃里は闇の剣を持ちあげ、切っ先を向けてきた。
切っ先が、ぴたりと耕太の顔に、合う。
「なによそれ! ちっとも意味わっかんないし、そもそも、耕太くんのことを兄さんとかいうんだって、あなたが勝手にいってるだけじゃない!」
美乃里は、剣先を耕太に向けたまま、ふっ……と笑った。
「では、ちょっとばかり昔話をするとしようか」
「むかし……ばなし?」
「さっきいったとおり、〈葛の葉〉の真の目的とは、素戔鳴尊を現世に甦らすことだった。だけどね、組織が創られて千年以上の月日が流れても、転生体の候補こそ何人か見つかれど、本物の素戔鳴尊を探しだすことはできなかった……」
黒い剣を耕太に突きつけたまま、美乃里はゆっくりと近づいてくる。
「そのとき、こう考えるものがあらわれたのさ。見つからないのなら、造りだせばいい。〈神〉が宿るにふさわしい器を。素戔鳴尊が転生するに、足る人間を、自分たちで……それが、それこそが、〈神の器〉計画」
すっ……と、美乃里が剣を下げた。
「すべての始まりだよ。すべての悲劇の……いや、喜劇の、かな?」
下げた闇の剣を、美乃里はいきおいよく上げ、そのまま放り投げた。剣はひゅるひゅると回転しながら、耕太の背後へと落ちてゆく。
かつん、と後ろの床に当たり――。
「や?」
凍てつく風が、吹きぬけてゆく。
薫風高校のグラウンド中央付近は、まわりになにも遮るものがないぶん、真冬で真夜中の冷えきった風が、ぞんぶんに吹きすさんでいた。
たまらず、くしゃみが飛ぶ。
「ひえっぷ、しゃい!」
べろん、と鼻水を伸ばしたのは、たゆらであった。
長髪とともに、鼻水がなびき、踊る。
横にいた澪が、あわてた様子で制服のポケットからティッシュをとりだし、拭った。しかしティッシュは前の〈澪の油〉の影響でめためたなローションティッシュ状態であり、鼻水は伸びるだけで、いまいち綺麗にはならなかった。
鼻水ずるずるなたゆらの背中では、桐山が、仏頂面であぐらをかく。
ふたりは、いまだヒヒイロカネの鎖によって、背中合わせの状態に縛りあげられていた。
まわりには、熊田や天野、前に乱に耳元で怒鳴られてからずっと失神したままの馬頭《めず》など、仲間たち全員の姿がある。みな、たゆらたちと同様、ヒヒイロカネの鎖で拘束されたままであった。唯一、解放されていたのは澪ひとりで、たゆらのようにくしゃみをするものたちなどのケアに、いそがしく当たっていた。
「たゆら、貧乏、揺するな」
桐山が、背のたゆらに向かって、いう。
たゆらは、青ざめた顔で、がたがたと震えていた。
「だ、だれがビンボーだ……これは寒いからだよ。生理現象だ、生理現象……」
「心頭滅却、火、涼しい。氷、暑い。おまえ、修行足りない」
「あのな、おれだってな、普通のときならな、このていどの寒さ、平気なんだよ。こ、この鎖が悪い。こ、この鎖が力を吸うもんだから、妖狐の姿に変化もできねえ……寒さに対する抵抗力まで、ニンゲン並み、いや、ニンゲン以下にまで、お、落ちちまってる……」
へぶしゃっ! と、またくしゃみをする。
澪が、まためためたなティッシュでぬちぬちと拭った。
「オイ、オマエラ、すこしは静かにしろヨ……ココはまだ、薫風高校の真ン前なんだゾ。〈葛の葉〉の連中が、ドコにいるカ……」
そばにいた天野が、ふたりをたしなめだす。
彼の顔も、すこしばかり青ざめていた。
というより、まわりの妖怪たちのほとんどが、熊田など寒さに強いものを除き、青ざめ、震えていた。たゆらのいうとおり、ヒヒイロカネの鎖は、彼らから基本的な耐久力まで奪っていたのである。そのため、妖怪たちは吹きつける風に耐えるように身を寄せあい、すこしでも暖かくなるようにしていたのだった。
「でもって、おれたちに闘う力はねーしな……ったく、なーに考えてやがんだろーな、あの砂かけババアはよ!」
たゆらは、舌打ちをする。
鼻水をすすりながら、あたりを見やった。
「おーい、ババア! どこだ、どこいったー!」
「オイオイ、たゆら……だから、〈葛の葉〉の連中にバレたラ」
「つーかよ、天野センパイ。あのババア、本気でおれたちのこと逃がす気、あると思うか? 学校のなかから連れだしてくれたはいいけどよ、こんな校庭のど真ん中なんかに、この鎖つきで放置しやがって……〈葛の葉〉の連中にやられる前に、凍死するっつーの!」
「ン……ンー」
天野までもが、考えこみだす。
「――そうせねば、おぬしたち、戻ってしまうじゃろうが。学校に、ちずるめを助けにの」
声は、グラウンドの下、土のなかからあがった。
「ババア!」
ずぬぬぬぬ、と、丸眼鏡の小柄な女性が、土のなかからあらわれる。
「それが、命の恩人に対する言葉遣いかの?」
と、いいつつ彼女――〈御方さま〉の口元には、笑みが浮かんでいた。
土のなかを通ってやってきたというのに、〈御方さま〉の身体にはまったく汚れたところがない。ちなみに、たゆらたちもこうして、強制的に土のなかを通して学校から校庭へと連れだされていた。前に、耕太たちに逃げられたあとの〈御方さま〉たち、八束《やつか》や蓮《れん》、藍《あい》が、先回りして薫風高校の近くにあらわれることができたのも、こうして土中を進んだからであった。
「うるへー! さっさとこの鎖、外せ、ババア!」
たゆらが、自由だった足をじたばたとさせる。
「そうはいかぬ。おぬしたちに耕太の邪魔をさせるわけにはいかぬでな」
「こ、耕太の? ってことは……」
「うむ。耕太はちずるの元に、無事、辿りつくことができた。そしていま、美乃里と闘っておる。ちずるを救いだすためにの……」
「だ、だったら、なおさらだぜ!」
たゆらが身体を起こそうとした、そのとき。
「おお!?」
〈御方さま〉の背後で、グラウンドの土がつぎつぎに盛りあがりだした。眼を丸くするたゆらほか妖たちの前で、もこもこと、いくつもの小山ができあがる。
「――ぷはっ!」
最初に顔をだしたのは、狼の耳を生やした、銀髪の男だった。
「あ……あんたは……」
「ん? ここは……と、お、たゆらか?」
「さ、朔! 犹守朔じゃねーか!」
朔は土のなかから上半身までだした姿で、「よう」とたゆらに向かって片手をあげる。その手は、半獣半人変化の、狼の手のままだった。
「ほう?」
「あら?」
「フンガー!」
続けて、〈かまいたち〉の兄妹である沙介とシーナ、〈鬼〉の乱も姿をあらわす。
「お? おお?」
戸惑いながらでてきたのは、望だ。
やはり望も、朔とおなじ半獣半人変化、ただし手はぬいぐるみ状態のままだった。
そして――。
「あ……ああ?」
九院も、その傷だらけの顔を見せる。
よほど望に追いこまれたものか、彼女の顔や服、蝶の羽は、ずたぼろとなっていた。
どさり、とグラウンドに倒れる。
九院だけではなく、朔も、望も、沙介、シーナ、乱も、みな、全身を土のなかから覗かせるなり、倒れた。
全員、ヒヒイロカネの鎖によって、身体を拘束されていたからだ。
「ずいぶんとまあ、いきなりですね、〈御方さま〉……」
朔が、身体を起こして、膝立ちとなり、〈御方さま〉を見あげる。
「闘っている最中に、突然、床が沈みこんだと思ったら、これだ」
「まったくだよ! 真剣勝負の真っ最中にさあ!」
乱も吠えた。
なぜか乱は、〈葛の葉〉に捕まったときとおなじく、胸のふくらみの上下、膝と、ひとりだけ厳重に、三カ所にわたって鎖で縛りあげられていた。
「なーにが真剣勝負の真っ最中に、じゃ。おぬしたち、耕太の話のネタが尽きたら、好きなインスタントラーメンはどれだとか、くだらぬ話でひたすら盛りあがっておっただけじゃろうが。むしろ感謝して欲しいものじゃの。下手をすれば巻き添えを食って死んでおったやもしれぬところを、助けてやったんじゃからの」
「へえ……下手に巻き添えを食らえば死にかねないほどに、強くなりましたか、耕太は」
「さあての? すくなくとも、迷いは消えたようじゃが」
朔は、小さく笑う。
「充分ですよ、それで。充分。まったく充分だ……」
「ん? んん? 耕太?」
望はまだ状況がっかめていないのか、落ちつきなくあたりを見回していた。くんくんくんくん、匂いを嗅ぎだす。
「落ちつけ、望」
「おお? 兄さま?」
見つめる望を、朔はしげしげを見つめ返した。
「望……おまえ……」
背のなかばほどまで届く長い襟足か、ぬいぐるみのようながら、たしかに狼の毛なみ、爪が生えた手足を眺め、はあ、とため息をつく。
「おれが修行の果てに得た変化を……」
「うん? どしたの、兄さま?」
「――おまえら、いいかげんに、ぜんぶ説明しろい!」
怒鳴ったのは、たゆらだった。
「なんか耕太が強くなったとか、美乃里と闘ってるとか、いろいろあるみてーだけどよ……なんだ? あの八体の〈龍〉とか、なんなんだ? 〈葛の葉〉はどうしてちずるを狙ってる? ぜんぶ説明してくれよ! わかってるんだろう、おまえらは!」
と、校舎の屋上を突き破って生えている〈八龍〉を示しながら、たゆらがいった。
「って、尋ねてますが、〈御方さま〉?」
朔が、〈御方さま〉にうながす。
しかし、当の〈御方さま〉は、九院と視線を交わしあっていた。
ヒヒイロカネの鎖に胴と腕を縛りあげられ、土のグラウンドに両膝をつき、うなだれた九院は、顔は擦り傷だらけ、紫色の髪はばさばさで、紫色のスーツもところどころ引き裂かれて、背の羽にいたっては四枚のうち一枚が、原形をとどめていない。
そんな状態なのに、見あげた九院の視線はあくまで鋭かった。
その視線を、〈御方さま〉は静かに受け止め、見つめ返す。
「朔よ……まずはおぬしが説明せい」
九院を見つめたまま、〈御方さま〉はいった。
「おれが? ですか?」
「うむ。わしも、朔よ、おぬしがどのあたりまでわかっておるのか、知りたいでな。どこまで弦蔵が調べあげたのか、のう」
朔は苦笑する。
「じゃあ、まずはおれが知っているかぎりのことを話すとしようか……」
一同を見回し、いった。
「素戔鳴尊を、自分たちの手で造りあげようという〈神の器〉計画。その始まりは、ちずる、きみにも深く関係しているんだよ」
「耕太くん!? 耕太くんっ!?」
美乃里がうながすも、ちずるは応えなかった。
ひたすら耕太の名を呼ぶ。
そして、ちずるに名を呼ばれた耕太もまた、彼女に応える余裕はなかった。
「う……うう!?」
まったく身動きがとれなくなっていたのだ。
美乃里は、楽しげに笑みを浮かべながら近づいてくる。なのに、耕太は身構えることはおろか、手に持っていた光の剣を、一ミリたりとも動かすことができなかった。
耕太の足下からは、影が、前に向かって、長く長く伸びる。
迫る美乃里の足に踏みつけられながら、ずっと先までも。
影が伸びる原因は、さきほど美乃里が耕太の背後へと放った、闇の剣にあった。
剣は耕太の後ろに落ちるなり、激しく燃えあがったのだ。
燃えあがり、耕太を照らした。
照らして、影を前方へと長く長く伸ばした。
そして、その伸びた影を美乃里が足で踏んだとたん、耕太の身体の自由は完全に奪われていたのだった。なにか、妖術の一種であるらしい。
「耕太くん、耕太くーん! ぐぐ……美乃里、あなた、耕太くんになにをしたのよ!」
「簡単な術だよ。影を縛るという……まあ、単純だし、よくある技ではあるが、意外と使い勝手はいいんだなあ、これが。ねえ、兄さん?」
そんなことより、と美乃里はちずるを見た。
「さっきの話の続きだ。最初に造られた〈神の器〉はね……」
「知らないっての、そんなこと! 〈神の器〉なんか、わたしは……」
「最初に造られた〈神の器〉が、きみの母親、白面金毛九尾の狐である玉藻と闘ったといっても? しかも、玉藻にやられそうになった〈神の器〉を助けるために、当時のきみは〈八岐大蛇〉と化したんだよ……ふふ、九尾の狐対〈八岐大蛇〉、さぞや見ものだったろうね」
文句をいおうとしたちずるが、固まる。
「――それって」
「そう、かの有名な安部泰成《あべのやすなり》さまのことさ。じつは彼は〈葛の葉〉によって造りだされた〈神の器〉だったんだなあ。まあ、その泰成さまでさえも、〈八岐大蛇〉より変化した奇稲田姫には、素戔鳴尊だとは認められなかったんだけどね……」
「だって、その安部泰成と、母さんは……」
「そうなんだよね。〈葛の葉〉にひそかに残されていた記録によれば、当時のちずる、きみと安部泰成は、互いに憎からず想う仲だったらしい。だけど、〈八岐大蛇〉となったことで、そのときのちずる、きみの魂は消失してしまった。復活した奇稲田姫が眠りにつくときに、あらたなちずるは作られたものの、前のちずるとは別人格だし、記憶はないし、ほかの素戔鳴尊の転生者候補を探しに旅立っちゃうしで、だいぶ泰成さま、ヘコんじゃったみたいで……そこを玉藻につけこまれたのかな? 泰成と玉藻のふたりで手に手をとって駆け落ちして、泰成は〈葛の葉〉を去ってしまうんだよねえ。当然だけど、〈葛の葉〉はあの手この手で玉藻から泰成を取り戻そうとしたみたいだよ? なんたって泰成は初代の〈神の器〉だもん。〈葛の葉〉の秘術の粋がこめられた、いわば最新兵器、歩く重要機密だ。放っておけるはずはないよね」
「あ、だから母さん、あんなに〈葛の葉〉のこと、嫌ってたんだ……」
んん? とちずるは考えこむ。
「あれ、じゃあ、記憶をなくしてさまよっていたわたしを、母さんが拾って自分の娘にしたのは、もしかして……」
「もしかしなくても、そのときのことを覚えていたからだろうねえ」
「だ、だったら、母さん、ぜんぶ知ってたってこと!? けわたしの秘密、ぜんぶ!」
「知ってただろうさ。知ってて、おそらくは〈葛の葉〉への当てつけの意味をもって、きみを娘なんかにしたんだ。なんとも気の利いた復讐だよ」
「そ、そんな……」
「ちずるさん」
耕太は、身体の自由を奪われていたため、顔の向きを変えてちずるを見つめることはできないものの、無事だった口を使って、話しかけた。
「だいじょうぶです。玉藻さんは、ちずるさんを愛してます。始まりがどうだって……」
「うん……わかってる。いまがいいなら、それでいいんだよね。うん、うん……」
ぐす、とちずるが、鼻をすする。
ふん、と美乃里は、つまらなそうに鼻で笑った。
「〈葛の葉〉に残っている記録だとね、ちずる、きみは対九尾の狐戦ののちは、数百年後……異国からの船に乗ってやってきた悪魔にとり憑かれた織田信長、俗にいう六天魔王信長と本能寺で闘うまで、〈八岐大蛇〉にはならなかったようだ」
「……わたし、ひそかに歴史を動かしてた?」
「で、話を戻すとだ。じつは〈神の器〉は、初代の安部泰成以降、造られてはいなかった。べつに〈神の器〉計画が凍結されていたわけじゃないよ。造りだせなかったんだよ、ひとりたりともね」
もう美乃里は、耕太のすぐそばにまで迫ってきていた。
耕太の顔で、暗い笑みを浮かべる。
「ねえ兄さん……どうやって〈神の器〉が造られるか、知ってる?」
手を伸ばし、するりと頬を撫でてきた。
耕太の背筋に、悪寒が走る。こらー、というちずるの抗議も、飛んだ。
「基本的にはね、植物なんかの品種改良と変わりがない。優れた性質を持つ種どうしを掛けあわせて、より良い種を造りあげるんだ。つまり、優れた能力、資質を持つ男女を、掛けあわせ、より良い子を産ませる……その積み重ねの果てが、〈神の器〉なのさ」
その内容に、耕太の背筋には、美乃里に触れられたときとはまた違った悪寒が生まれる。
「それって、つまり」
「もちろん、当人の意志なんか関係ないよ。なかには逆らうものもいたらしいが……ほとんどは組織に命じられるがまま、結ばれ、子を成していった。何代にもわたってね。もちろん、法術、薬物のたぐいも使うよ。まあ、ある種の強化人間なのだといっていいかな」
「そ、そんなこと、〈御方さま〉が許すはずが」
「なにをいってるのさ、兄さん。〈御方さま〉が知らないはずはないでしょう。許したさ。兄さんがどう思っているのかは知らないけれど、〈御方さま〉は、素戔鳴尊を見つけだす、ただそれだけのために生きているといっても過言じゃないんだよ」
耕太は衝撃を受けた。
いままで知らなかった〈御方さま〉の陰の面を、まざまざと見せつけられた思いだった。いや、これこそが表なのだろうか。本当の、〈御方さま〉の姿なのだろうか。
「だけどね、失敗した。なんど〈神の器〉を造りだそうとしても、安部泰成ほどのものはできなかったんだ。多少、能力は高くてもね。なんどか、当時のちずる、きみの元へと送りこんでもみたようだが、全員、見向きもされなかったようだよ」
「当たり前だ! わたしは耕太くん一筋だもん!」
「だから、きみは素戔鳴尊の資質を持ったものなら、なんだってオッケーなんだって……それに、昔のきみと今のきみは、違う存在なのだし。残ってないんだろう、記憶?」
「ふんだ! いまがよければそれでいいんだもん!」
やれやれ、と美乃里は肩をすくめる。
耕太へと視線を向けた。
「ところが、だ……いままた、〈神の器〉は造りだされたんだよ、兄さん」
くす、と笑う。
「十七年前に、ね」
「じゅう……なな年?」
「そう、十七年前。当時、〈葛の葉〉のなかでももっとも優れた術者である男と女を掛けあわせて、その〈神の器〉は造られた。とてつもない能力の持ち主だったらしいよ。とくに、〈気〉が異常だったんだってさ。人でもなく、妖でもなく、なんとも不可思議な性質で、しかもすさまじく巨大。まるで〈神〉のような、ね……」
ぐびりと、耕太は喉を鳴らしてしまう。
「だけど、その〈神の器〉は、消えてしまった」
笑顔を引っこめ、真顔となって美乃里はいった。
「造られて、一年も経たないうちにね。歴代の〈神の器〉のなかでも最高といっていいほどの資質を持った赤子は、なんと、その父と母によって連れ去られたのさ。理由はわからない。それまでは忠実な組織のニンゲンだったはずなのに……真相は闇のなかなんだ。だって、ふたりは〈神の器〉ともども、死んでしまったのだからね」
耕太の呼吸は、一瞬、止まる。
「そうだよ、死んだんだよ。逃げたふたりを、当然ながら〈葛の葉〉は追った。諜報活動に長けた、いってみればスパイや忍者のような任務をこなす悪良家の、それも当主みずからが出向いて、追跡にかかった。結果、追いつめられた両親は、赤子であった〈神の器〉ともども、自爆した。いってみれば心中かな……」
ひそやかな声で、美乃里は笑う。
耕太はとても笑うどころではなかった。ちずるも、ひとこともない。わかっているんだろう、と耕太は思った。美乃里の会話の行き着く先が、結論がなんなのかを。
「そして、喜劇は始まった」
笑い終えた美乃里が、また語りだした。
「失われた〈神の器〉の代わりに、〈葛の葉〉はあらたな〈神の器〉を造りだしたんだ。なんたって前の〈神の器〉がすごかったからね、意気ごみは強かったよ。両親はどちらも死んでいなくなっていたけれど、受精卵は残されていたからね。ああ、そうそう、いまは技術が進歩したから、〈神の器〉を造るときは、あらかじめ精子と卵子を採取して、さまざまな秘術で強化の上、受精卵を造りだすんだ。その受精卵を母胎に戻すってわけ。万が一に備えて、いくつかに分割して、スペアを作っておいてね。で、こんどはそのスペアの受精卵を使ったってわけさ」
「使うって……だって……」
「うん。両親は死んで、もういない。だからね、こんどは母親の姉を使った。姉の胎内に受精卵を戻し、産み落とさせたんだ。借り腹ってことになるのかな。だけど……そうして造られた(神の器〉はね、クズだったんだ。能力こそ並以上ではあったけどね、前の赤子とくらべれば、とてもとても……だけどそのあと、残ったスペアの受精卵、すべてを使っても、あらたな〈神の器〉は誕生しなかった。残されたのは、まがいものだけ……」
「美乃里」
「〈御方さま〉は、普通に育てよ、と命じたらしい。だけどね、命じられた側はそうしなかった。あまりにも前の〈神の器〉の印象が強かったんだろうね……ひそかに、さまざまな施術をほどこした。体内に、霊力の増幅装置を埋めこんでみたり、失敗作とされた人造妖怪を、ためしに憑依させてみたり。まるきり実験動物さ」
「美乃里、その子って」
「でもね、兄さん! その失敗作とされた人造妖怪との出会いが、まがいものの〈神の器〉の……少女の運命を変えたんだ!」
興奮したのか、美乃里が血走った眼を向けてきた。
「その人造妖怪はね、百年ほど前に、当時の土門家のニンゲンが造ったものなんだ。土門家とはね、法術の専門家たちの家で、でもそのニンゲンは、かなり異端の存在だったらしい。マッド・サイエンティストってやつかな。ただ、人造妖怪を造りあげたのはいいけど、意識というものを与えることはできなかったんだよ。だから失敗作として、封印されていたのさ。そのまったく動こうとしなかった人造妖怪が、〈神の器〉の失敗作たる少女に憑依したことで、変わった。少女の心を写しとって、自意識を持ったんだ」
うつむき、くくく……と肩を震わせる。
「なぜかわかるかい、兄さん……あったんだよ、その人造妖怪には。コピーする能力が。能力を、心を、記憶を、写しとることができる能力が!」
美乃里の表情が、うっとりと、なにか酔ったようなものへと変わった。
「そして少女は、その人造妖怪によって、力を得た……まわりにいたものたちの能力を、人造妖怪の力で写しとったんだ。すぐさま、写しとった能力で、みな殺しにしてやった。簡単だったよ? だって少女は、そいつらによって強化されていたんだからね。身体を切り刻まれて! どうじに、少女は倒したものの記憶も写しとっていた。とにかく情報が欲しかったんだよ。だって監禁状態といってもよかった少女は、なにも知らなかったんだから。少女は知ったよ。〈葛の葉〉のことを。自分自身の立場を。さっそく少女は動いた」
にんまりと、両の頬を吊り上げる。
「少女は、自分の存在を、〈御方さま〉に知らせたんだ」
こらえきらないように、ひゃは、と笑った。
「〈御方さま〉は激怒したよ。自分の命に背いたからなのか、少女を実験動物あつかいしたからなのか、理由は定かではないけどね。関係者はみな捕らわれ、処罰された。といっても、ほとんど残ってなかったけど。少女がぶち殺しちゃってたから」
うふふ、と首を傾げてみせる。
「そして少女は、〈御方さま〉によって、三珠家へと預けられることとなる。それは、少女に関わっていたもののなかに、三珠家のものが多かったからのと無関係じゃあなかった。ようするに、懲罰的な意味あいがあったんだね」
美乃里が、笑顔混じりで、ふー、と深く息を吐いた。
「さて、もうわかってるだろう、兄さん? その少女の名は、三珠美乃里。〈神の器〉の失敗作、まがいものさ。で、そんな彼女を救った人造妖怪は、鵺」
まっすぐに耕太の眼を、見つめてくる。
「そして兄さん、あなたは……」
「そんなはず、ないっ!」
ちずるが叫んだ。
「耕太くんが、そんな、そんな……」
「いいんです、ちずるさん」
耕太は、微笑みの表情を作った。
おそらくちずるからは見えないだろうとは思ったが、自分を落ちつけるためにも、いまは無理にでも微笑むことが必要だった。
「美乃里、ひとつ訊きたいんだけど。おじいちゃんは……」
「〈神の器〉と連れ去った両親を追跡し、死に追いやった当時の悪良家の当主……彼の名は、弦蔵といったね。いまは小山田弦蔵なんて名乗っているみたいだけど」
ああ、やっぱり、と耕太は思った。
おじいちゃん……!
「そう……兄さん。あなたこそが、両親とともに死んだとされたはずの〈神の器〉。〈葛の葉〉の手による人造のニンゲン、素戔鳴尊の転生体候補なのさ」
「さあ、話は終わりだ、兄さん」
と、美乃里が手を高々とあげた。
手のなかに、黒い炎が燃えあがる。
たちまちのうちに、闇の剣が作りだされた。
耕太の後ろでは、剣を使って生みだされた炎が、いまだ燃えさかっていたというのに……どうやら、剣はべつに一回につき一本というわけでもないらしい。
「なるべく、苦しまないようにするよ。首を叩き落とせば、痛みもなく死ねるだろう。そして、ちずるは〈八岐大蛇〉となる」
「ち……ちずるさんを〈八岐大蛇〉にして、どうするのさ」
まったく身動きのとれない身体で、それでも耕太は美乃里の顔を見つめる。
「ぼくが死んじゃったら、当然、素戔鳴尊は甦らないわけだし……〈葛の葉〉の目的だって、達成できないだろう。美乃里、きみの目的はなんなのさ」
「死にゆく兄さんには、関係のないことだろう?」
美乃里が、剣を横にゆっくりと引いた。
ありがたいことに、予告どおり、首を叩き斬ってくれるらしい。
「耕太くんっ! やめろ、美乃里、やめろっ! やめろーっ!」
ちずるが悲痛な叫びをあげていた。
だいじょうぶですよ、ちずるさん、と耕太は心のなかでいった。
すでに、手段は思いついている。
つまるところ、影なのだ。
影を消しさえすれば――。
「さよなら、兄さん……」
漆黒の剣が、水平に滑ってきた。
「うあああああああああああ、耕太くんっ!」
ちずるの絶叫のなか、耕太は手に持っていた光の剣に、力を注ぐ。めいっぱいに、限界を超えるまで。
狙いどおりに、剣は爆ぜた。
光が、あたりに飛び散る。
「くっ!?」
閃光のなか、眼を細めながらも、美乃里は剣を放ってくる。吸いとってでもいるのだろうか、光のなかでも、美乃里の剣は黒いままだった。
耕太は瞬時にあらたな光の剣を作りあげ、その闇の剣を受ける。
さっき耕太が放った光によって、影を、瞬間、消し去ることに成功した。そのため、耕太は身体の自由を取り戻し、自在に動けるようになったのだ。もちろん、光が消える前に、位置をずらし、また影を踏まれないようにする。
「……やってくれるね、兄さん!」
「美乃里どうしてぼくたちは闘わなくちゃならない?」
「っと、兄さん、まだそんなことを!」
「じゃなくて! 美乃里の話が本当ならば……いや、本当だってわかるよ。美乃里がぼくと近しい関係にあるというのは、最初に見た瞬間から、わかってた。そう感じてた。でも、だったら、ほくたちは血を分けた兄妹、いや、双子のようなものじゃないか」
「だからだよ、兄さん……」
かっ、と美乃里の口から、突如、なにかが放たれた。
その目に見えないなにかに、耕太の頭は後ろへと吹っ飛ぶ。いや、後ろに吹っ飛ぶだけではなく、あやうく頭の中身までもが吹っ飛びそうになった。くらくらする。なにか、脳をすさまじく揺らされたように、意識がもうろうとなっていた。
しょ……衝撃波?
「見てよ、耕太お兄ちゃん……」
声は、男のものではなかった。
耕太は頭をぶんぶんと振る。どうにかゆらめく意識と視界をはっきりさせようとした。
「う……うう?」
目の前には、あの、少女姿の美乃里がいた。
耕太の記憶にあるものより、髪が長い。ざんばらと、腹部に届くくらいにある。たしか前は、首のあたりまでしかなかったはずだ。
そして美乃里は、裸だった。
美乃里が、こちらは変わらずぺたんこな胸元を、指す。
やはり前に見覚えがある、喉のすぐ下からおへそのあたりまで、真一文字に走った、手術痕と思わしき傷跡を示した。
「これがね、わたしがさっきいった、霊力の増幅装置を埋めこんだときの痕。手術したのはね……お母さんだよ」
「お母……さん?」
「うん。産みのお母さんは、技術者だったから。わたしを抱きしめる代わりに、傷をくれたの。あのひとにとって、わたしは子供じゃなかった。まあ、妹の子供をむりやり授けられたんだから、しかたないけど。でも、せめて憎んでほしかったな」
えへ、と美乃里は笑った。
「その……お母さん、は……?」
「殺したよ? わたしが、この手でね」
えへへへ。美乃里は変わらぬ笑顔で、笑う。
「愛されず、憎まれすらしなかった子供に、ほかになにができるの?」
耕太はうなだれた。
「ぼ……ぼくは、父さんも、母さんも、いなかったから……」
「そうだね。死んだってことになってるね、どっちも。だけど、お兄ちゃんにはおじいちゃんがいたでしょう? おじいちゃんに、愛されながら育てられたでしょう?」
耕太は、もう言葉もなかった。
美乃里は冷笑を浮かべながら、元の、耕太の姿へと戻ってゆく。
「だから、わかるだろう、兄さん。あなたさえいなければ、ぼくは生まれずにすんだんだ。失敗作として実験動物のように扱われることも、母親に憎まれすらせず、この手で殺めてしまうことも、なかったんだよ。ねえ、闘う理由なんて、もう充分でしょう?」
「美乃里……美乃里、ぼくは」
「それでも闘いたくないというのなら、死んでよ、兄さん。ぼくのために」
「うっ……!」
美乃里は完金に耕太の姿となって、漆黒の刃を振りあげていた。
耕太は唇を噛む。
死ぬわけにはいかない。
もう自分だけの命じゃあなかった。耕太がやられれば、それに呼応して、ちずるは〈八岐大蛇〉と化してしまうだろう。そして〈八岐大蛇〉として目覚めれば、耕太が素戔鳴尊であろうがなかろうが、いまのちずるの魂は消えてしまうのだ。
だけど……斬るのか、ぼくは?
自分のために、こうなってしまった相手を。
血を分けた双子の妹を。
一瞬、耕太は迷った。
ちずるのために覚悟を決めたはずなのに、一瞬、迷ってしまったのだ。
美乃里が、剣を振りおろす。
耕太は、剣を振りあげる。
光の剣と、闇の剣が、交差した。
「ありがとう……兄さん」
「あ……」
耕太は、自分の胸元から、鮮血が噴きでていたのを、見た。光の剣は、半分となっていた。美乃里の刃は、耕太の剣も、耕太が作りあげた不可視の盾も、みな、断ったのだ。
ちずるの絶叫が、あがった。
どうじに、ちずるの腰から伸びた八つの〈龍〉が、動きだした。
五、月の輝く夜に
八葉と玉藻、反応したのはどうじだった。
遠く、薫風高校で生じかけた異変を、橋ひとつ離れた街で路上クリスマス・パーティーに興じていたふたりは、瞬時に感知したのだ。
八葉は、食べかけていたフライドなチキンを放り投げる
玉藻は、飲みかけていたブランデーグラスを横の雪女へとパスする。
どうじに、薫風高校へと向き直った。
先に八葉、玉藻によって張られた結界のなか、おとなしくしていたはずの〈八龍〉が、その体積を増すところだった。みるみるふくれあがり、ぱんぱんになった球状の結界を、いまにも割って外に飛びだそうとする。
八葉は、「在《あ》れ!」と叫んだ、
溜めこんでいた言霊の力を、残さず注ぐ。
玉藻は、九尾のしっぽをすべて〈八龍〉へと向けた。
妖力を転化させ、八葉の張るだろう結界にあわせ、放つ。
ぎりぎり、あらたな結界は問にあった。
風船を割るように古い結界を爆ぜさせて飛びだした〈八龍〉を、ひとまわり大きな結界で包みこみ、抑えこむ。
しかし、姿までは隠すことができなかった。
そのため、激しく紫電を走らせる球状の結界のなか、ぐねぐねとうごめく巨龍たちの姿を、周囲にあますことなくさらすこととなってしまった。クリスマスの夜、いまだ眠ることなく外を出歩いていたものたちは、目撃することとなる。
神話の時代の怪物、〈八岐大蛇〉の姿を――。
「ど……どうなってんだよ、これは……」
たゆらが、うめく。
校庭にいたたゆらたちは、暴風のただなかにあった。
あの〈龍〉の邪気による、黒い暴風である。かつてちずるが捕らえられていた教室を死の領域へと変えた滅びの狂風が、いまは薫風高校の敷地内、八葉と玉藻が張った結界のなかに、吹き荒れていた。
ただし、八葉と玉藻の結界内に〈御方さま〉がさらに張った結界のなかにいたため、たゆらたちのなかに前の九院のような目にあったものはいない。ただ、まわりで激しくうねる黒い風を、呆然としながら見つめるだけであった。
「目覚めたのだ……〈八岐大蛇〉が、ついに、の」
たゆらのつぶやきに、〈御方さま〉が答える。
「この〈龍〉の邪気のおかげで見えぬがの、空では、〈龍〉どもが暴れまわっておるじやろう。ちずるめの怒りに呼応して、の……」
「そ、それって……つまり、耕太がやられたってのかよ!」
朔によって、たゆらたちはだいたいの情報を得ていた。
〈葛の葉〉の目的が素戔鳴尊の復活にあること、ちずるは〈八岐大蛇〉であり、奇稲田姫であること、そして耕太は素戔鳴尊の転生体の候補であること。
耕太の身に危険が迫れば、ちずるは〈八岐大蛇〉として目覚めてしまうだろうこと。
そして、耕太とちずる、そのどちらも〈神〉を目覚めさせてしまえば、本来の自分自身の魂は砕け散り、死んでしまうということ……みな、知っていた。
「ちくしょう!」
がつん、とたゆらは身を屈め、地面に頭を打ちつける。
まだヒヒイロカネの鎖によって背中あわせに縛りあげられていた桐山が、ぐいん、と背筋を伸ばしてたゆらの上に乗る格好となった。
「落ちつけ、たゆら。まだ終わり、決まってない」
「決まっちまったんだよ! 耕太はともかく、もうちずるは決まっちまった! 〈八岐大蛇〉になっちまったら……もう、もう……ちずるの魂は……」
桐山に、たゆらはいい返した。その言葉を聞いた乱が、ぎゃー! と叫んで、失神する。
「まだ、いくばくかの猶予はある」
〈御方さま〉がいった。
「あん?」
「〈八岐大蛇〉になった段階では、ちずるの魂は砕けぬ。その後……奇稲田姫さまとなった時点で、砕けるのだ」
「ど、どっちみち、時間の問題じゃねえか……」
「戻せるんですか?」
尋ねたのは、朔だった。
「〈八岐大蛇〉から、元のちずるに……戻すことはできるんですか?」
しかし〈御方さま〉は、首を横に振った。
「わしが知るかぎり、歴代のちずるが〈八岐大蛇〉となった状態から、奇稲田姫さまが目覚めなかった事例はない。まちがいなく、目覚める」
「ぬ、ぬか喜びさせんじゃねえよ!」
たゆらが吠えた。
「ちずる、ちずるぅ……」
地面にうずくまり、丸めた背に桐山を乗せて、たゆらはすすり泣く。
その肩に、ぽん、と手が置かれた。
「だいじょぶだよ、たゆら」
置いたのは、望だった。
それは、いまだ半獣半人変化は解かれてなかったため、ぬいぐるみのような手であった。
「な、なにが大丈夫なんだよ、バカヤロウ……」
「耕太がいる」
「その耕太がやられたから、ちずるは〈八岐大蛇〉になったんだろうが!」
涙まじりの声で、たゆらは怒鳴った。
「耕太は、負けない」
きっぱりと、望は返す。
「だって、耕太だから……!」
身を返し、まわりを吹き荒れる黒い風の壁のなか、校舎があるだろう側を向いた。
半獣半人変化で伸びた銀髪の襟足が、ひゅるん、と背を踊る。
「い、意味わかんねえよ、バァロォ……」
鼻をすすったたゆらの泣き言を背に、望は銀色の瞳を校舎へと注いでいた。
外がそうであったように、〈八岐大蛇〉が目覚めた教室のなかも、黒い暴風が吹き荒れていた。いや、発生地点であるぶん、邪気の濃度も、風力の猛烈さも、外に何倍する威力で、かたちのあるものは砂に、肉のあるものは骨にせんと、荒れ狂う。
だが美乃里は、薄笑いを浮かべすらして、立っていた。
そしてもうひとり、四岐も教室の隅に、立っていた。ただしこちらは、呆然となって、自分のまわりを囲む結界を見つめていた。
「美乃里、なのか……?」
と、つぶやく。
どうじに、声がとどろいた。
『美乃里!』
それはちずるの声だった。教室を占める暗黒の暴風のなか、ちずるの声は落雷のごとくとどろき、響き渡る。
『おまえを、殺す!』
「いいのかな、ちずる!」
美乃里は笑みを浮かべながら、暴風のなかへと叫び返した。
「ぼくを殺せたとしても、やっぱりきみも死ぬんだよ! 〈八岐大蛇〉の力を覚醒させてしまった以上、きみの魂は砕け散るんだ!」
『かまうものか……!』
ぶわりと邪気の壁が、開く。
モーゼの十戒のシーンのごとく、教室内を吹き荒れる邪気を縦に割って、金色の髪を逆立てて眼を妖しく輝かせたちずると、手に暗黒の剣をさげた美乃里をあらわにした。
そして、美乃里のすぐそばに倒れる、耕太の姿も。
ちずるの眼が、血だまりに沈む耕太へと向き、揺らぐ。
『おまえをすぐに消して……耕太くんを助けさえすれば、あとはもう……』
「いい覚悟だ……じゃあ、早くおいで、ちずる。ほら、兄さん、死んじゃうよ?」
『美乃里ィ!』
「――いや、まだだよ!」
耕太は、いきなり身体を起こした。
飛びこもうとしたちずると、迎え撃とうとした美乃里、両者がびくっ、となる。
「こ……耕太くん?」
「兄さん?」
このときちずるは、〈八岐大蛇〉としてではなく、源ちずるの声をあげていた。
「まだですよ……ちずるさん……」
耕太はうずくまり、咳きこむ。
床に血が飛び散った。
『耕太くん……!』
ちずるの声が、またあたりに響く〈八岐大蛇〉のものへと変わる。
「まだ……まだ……」
「無駄だよ、兄さん」
美乃里がいった。
「その頑張りは認めてあげるけど、ちずるはもうおしまいなんだよ。いちど〈八岐大蛇〉になってしまった以上、もはや戻ることはできない。このままぼくと闘って存分に力を振るったあとは、奇稲田姫となって、兄さんへの素戔鳴尊チェックをおこなうだけさ。ほら、だから兄さん、あまり無理をしないほうがいい。本当に死んじゃうよ?」
「まだだって……いってるだろぉ!」
耕太は力を振り絞って、立つ。
ちずるに向かって、駆けだした。
「兄さん! なにを……!」
決まってるさ。
耕太は、血で汚れた唇を、薄笑いのかたちに曲げた。
「ちずるさん……」
「耕太くん!」
待ちかまえていたちずるに、飛びこむ。
「ぼくたちがどれだけ愛しあってるのか、美乃里に教えてあげましょう。とっても、わかりやすーく、ね……」
ちずるの眉間に、きゅっ、と皺が寄った。唇を噛んだ。
「ああ、耕太くん……」
抱きよせ、そして、ふたり、口づけをする。
視界が、光に満たされ――。
耕太は山のなかにいた。
まさしく深山幽谷、あたりの木々は深く、霧は立ちこめ、人の気配などない。あてどもなくさまよっていたら、川を見つけた。どうしよう、と川の水面を眺めていたら、箸が流れてくる。箸を使うのは、人であろう。耕太は人を求めて、川上へと歩きだした。
「……あれ?」
で、気がついたら家のなかにいた。
妙な家だった。
ひとことでいえば、テントである。
ただし、その材質は木とわらであった。木で組んだ骨組みに、ただわらをかぶせただけなのである。床は、地面を一メートルほど深く掘ってあって、ざぶとんのたぐいはない。
土の上に、直接、耕太はちょこんと腰をおろしていた。
竪穴式住居、だっけ……?
耕太は、目の前にある、いろりというよりはたき火から爆《は》ぜる火の粉を眺めつつ、授業で習ったことを思いだしていた。えーと、たしか、これは弥生時代の住居で……。
「お助けくだせえ!」
「うわっ!」
耕太が眺めていたたき火の左右には、中年の男女がいた。
いつあらわれたものか――いや、最初からいて、ただ耕太が気づかなかっただけのなのか、ふたりは、驚くこちら側には構わず、涙で歪めた顔で、ひたすらすがってくる。
「お願えしますだ!」
「山に住む、悪い怪物を倒してくだせえ! お願えしますだ、神さま!」
ふたりとも、袖無しのワンピースのような服の、その腰のあたりを紐で縛ってすぼめるという、いわゆる古代の人間の格好をして、髪形もまた……って、え?
「か、神さま? ぼくが?」
「……あれ?」
気がつくと、耕太は山の頂上近くにいた。
見渡すかぎり岩と枯れ木しかなく、おまけにあたりにはどろどろとした黒いもやが漂っているという、完全に荒廃しきった地であった。おとずれるものを全身で拒絶している、と耕太は感じた。実際にもやで肌を刺されて、感じまくった。
だけど……。
と、手で触れられるほどに濃いもや――邪気を手のひらに滑らせて、耕太は思う。
本当は、彼女は……。
『なにものだ……?』
突然、声が響いた。
もやが濃いために姿はまったくわからなかったが、女性の声だった。
『もし迷いこんだものならば、早く去れ。死にたくなければな。また性懲りもなくやられにきた愚かものたちならば、やはり早く去れ。なんどやればわかる? なんど無駄に死ねばわかる? おまえたちではわたしには勝てない。わかったら、消えろ』
「いや、ぼくはですね」
『ああ、騙されたな? どうせ、山に悪い怪物がいるから倒してくださいとでも頼まれたんだろう? ちょっと力がありそうなものを見れば、よくあいつらはこの手を使う。そして、馬鹿なものほど騙される。黙って帰れ。あいつらはただ、わたしが目障りなだけなのさ……どうしても勝てず、いうことも聞かないのに、ここに居座ってるからな』
「ですから、ぼくはですね」
『しつこいな……』
という声とともに、風が吹きつけてくる。
邪気による黒いもやが吹き飛び、そしてあらわれたのは、ちずるだった。
金色の髪、狐の耳、狐のしっぽ、つりあがった眼、そして八本の黒いしっぽと、まったくもってちずるである。ただ黒い布を巻きつけただけの身体も、その布ごしに浮きあがったラインの暴力的なことといったら、まちがいなくちずるのものであった。
でも、違う。
わかっていた。なぜか耕太には、彼女の正体がわかっていたのだ。
「〈八岐大蛇〉さん……ですね?」
尋ねたとたん、耕太は彼女の黒いしっぽのひとつで、打たれた。
「その呼び名は、嫌いだ」
耕太の身体は激しくしびれる。どうやら〈龍〉は、炎だけではなく雷の力も使えるようだった。そういえば朔との闘いでちずるが初めて〈龍〉の力に目覚めたとき、炎やら氷やら雷やら、いろんな種類のしっぽの形状だったなあと、耕太はしびれながら思いだした。
「あいつらが勝手につけた名だ。なにが八つの又に分かれた大蛇だ。わたしは蛇なんかじゃない……蛇なんかじゃ……わたしは……」
ちずるそっくりな姿をした〈八岐大蛇〉が、きゅっ、と自分自身を抱く。
「狐さん、なんでしょう?」
「なに?」
ぷすぷすと煙をあげながらの耕太の言葉に、〈八岐大蛇〉が、一瞬、虚をつかれた表情となった。
すぐにくるりと背を向ける。
「う、うるさい、とっとと消えろ! これで力の差はわかったはずだ。わたしがおまえを殺してしまう前に……帰れ」
歩きだしながら、いった。
「待ってください!」
〈八岐大蛇〉は、立ち止まる。
「……なんだ?」
「ほくに、帰る場所などありません」
やや?
耕太の口は、勝手に動きだしていた。意志に反して、つぎつぎに言葉をつむいでゆく。
「ぼくとあなたは、おなじなんです。力あるがゆえに、はぐれた獣よ」
「わたしとおまえが、おなじだと……?」
振りむいた〈八岐大蛇〉の顔は、憎しみで歪んでいた。
八本の〈龍〉が鎌首をもたげ、あたりに濃い邪気を滲ます。
「ふざけるなあ!」
つぎつぎに、〈龍〉たちは襲いかかってきた。
黒炎を噴きあげながら、雷光をきらめかせながら、疾風を巻きおこしながら、氷雪を浴びせながら、鉄鋼で尖りながら、耕太の身体をなぶる。消し去らんとする。耕太のまわりの岩山は溶け、散り、飛び、凍り、砕け、大きな大きなくぼみを残した。
だが、耕太は傷ひとつ負わなかった。
着ていた服はすべて消し飛び、裸だったが、あらわとなった肌には、かすり傷どころか、あざのひとつすらもなかったのだった。
「お、おまえは……?」
たじろぐ〈八岐大蛇〉に向かって、やはり耕太の口は勝手に語りだしていた。
「力があるがゆえに……いや、ありすぎるがゆえに、疎まれ、憎まれ、やがて害される。決して望んで得た力ではないというのに……おなじなんだよ、ぼくたちは。ぼくも、この力のせいで、姉上に疎まれ、憎まれ、そして国を追いだされた。いや、それでよかったんだろう。害されるよりは、追いだされたほうが」
「……なるほど。たしかにおまえは、わたしとおなじようだな」
で? と〈八岐大蛇〉は問いかけてくる。
「いったいここにはなにをしにきたんだ? おなじ立場のわたしに対して?」
「え? あ、えーと」
ここでコントロ!ルは、耕太へと戻った。
ああ、もう、どうせなら最後までやってくれればいいのにぃ……と毒づきながら、耕太は自分が手に酒の入ったつぼを抱えていたことに気づく。
「の……呑みにけーしょん、なんて……」
「毒入りの酒をか?」
「へ」
「おまえを騙したやつらが持たせた酒なのだろう? だったら毒入りに決まってる。あわよくば、おまえごと……と考えたのだろうが」
まあいい、と〈八岐大蛇〉は笑った。
「毒などわたしには効かない。おまえにも効かないだろう。わたしの〈龍〉たちの攻撃を、ことごとく受けて平気だったおまえなのだからな。せっかくだから、いただくとしよう……ところで、おまえ、名はなんというんだ?」
「あ、はい、素戔鳴尊ともうします」
このとき、自分自身で喋ったのか、それともさっきのように素戔鳴尊当人が喋ったのか、気がついたら、耕太はそう名乗っていた。
「……あれ?」
気がつくと、耕太は裸だった。
そしてとなりには、やはり裸の〈八岐大蛇〉がいた。
岩のくぼみのなか、敷きつめた枯れ草の上、真っ暗ではあったが、素戔鳴尊である耕太の眼には、しっかりちゃんときちんとなにもかもが映る。耕太も、手足を絡めてくる〈八岐大蛇〉も、どちらも汗ばんでおり、岩屋のなかは体臭と酒と、そしてほんのり漂う酸い匂いで、むせかえるほどであった。
や……やっちゃった?
ぼく、やっちゃったの?
耕太のおろおろが伝わったのか、〈八岐大蛇〉が、うっすらと眼を開けた。
ふふ、と笑う。
「おまえ……かわいらしい外見によらず、おそろしいやつだったんだな……わたしに、あんなことやこんなこと……」
きゅっ、と唇を噛んで、耕太の胸に、おでこをぴたりとつけて潜りこんできた。
「は、初めてだったんだぞ、わたしはっ」
「ぼ、ぼくだって、初めてのはずですっ!」
「嘘をつくな。やたらと慣れきった動きだったぞ。唇の運び、舌の運び、手指の運び、手順、手管、じつに堂に入ったものだった。やめてっていっても、撫でて、吸って、しごいて、つねって、ひねって、わたしをなんどもなんども高みへと……高天原《たかまがはら》へと……」
くっ……ちずるさんにしこまれた技術か……!
「でも、まあ、信じるよ。おまえのいうことだしな……うん、考えてみれば、身体がおなじなんだから、感じる術を知っていてもおかしくはない。だが、そうなると、おまえ、ずいぶんと自分で自分のことをなぐさめて……やっぱりおそろしいな、おまえ」
「じ、自分で自分をなぐさめてって……え? 身体がおなじ?」
その言葉に、耕太は自分で自分の身体をまさぐってみた。
なかった。あるべきものが、ちずると望の連合軍によって、デカルチャー! と育てられたマクロスが、なかった。代わりに、なにやらぬめぬめぬらぬらな、裂け目が、唇が、傷口がっ。
「えええ?」
こんどは胸をまさぐってみると、こんどはあるやなしやのふくらみが、あった。
ぼ、ぼくは……ぼくは……。
いや、素戔鳴尊は……じつは……。
「お返しだ」
と、衝撃の事実に呆然となっていた耕太を、〈八岐大蛇〉が押し倒してきた。
ちゅっちゅちゅっちゅと口づけして、首筋に舌を這わせ、あるやなしやのふくらみを存分に舐めしゃぶり、おへそ、脇腹と経由して、いったんフェイントをかまして太もも、ふくらはぎとゆき、いってかえって核心へ、ちゅっと……。
「ひうっ!?」
耕太の腰は引けた。代わりに背中は反った。
「ほら……いくよ……」
つぷん、と。
つぷぷん、と。
通常、男では感じ得ない、侵略される感覚に、耕太はのけぞり、身もだえ、やがて、ぷるる……と太ももを痙攣させて、散る閃光とともに、高みへと……高天原へと……。
甘い生活を送る素戔鳴尊と〈八岐大蛇〉の元に、多くの人や妖たちがやってくる。
この時代、人と妖の境界は、いまよりもあいまいなものであった。互いに、とくに差別しあうこともなく、普通にいっしょになって暮らしていたりもした。
その彼らが、素戔鳴尊と〈八岐大蛇〉の前に、ひれ伏す。
彼らのなかには、素戔鳴尊を騙して〈八岐大蛇〉の元へと送りこんだ夫婦の妖もいた。
「おまえら……!」
追い返そうとする八岐大蛇を、素戔鳴尊が制した。
「甘いよ」
〈八岐大蛇〉は、吐き捨てるようにいった。
「さんざんわたしたちを疎み、憎み、害してきたくせに、自分たちが危なくなったとたん、助けてくれなんて……こんなやつら、見殺しにしてやればいいんだ!」
「そういうわけにはいかないよ……」
素戔鳴尊は、哀しげに微笑みながら、いった。
「彼らを攻め滅ぼそうとしているのは、ほかならぬ、わたしの姉上なのだから……」
すこしずつ、人が妖が集まって、やがて国ができた。
素戔鳴尊は王となる。
〈八岐大蛇〉は名を奇稲田姫を改め、彼の后《きさき》となった。
素戔鳴尊は倒れた。
姉との戦争が激化する最中の、王宮での出来事だった。
素戔鳴尊の腹からは、血が流れてゆく。〈神〉である彼でも、止められぬ出血であった。
おなじく<神〉である彼の姉が力をこめし、神殺しの短剣による傷だからだ。
その奇妙に曲がりくねった、鈍い銀の光を放つ神殺しの短剣は、少女の手にあった。
みずからの所行を恐れるかのように、震えながら立つ彼女は、奇稲田姫のそば近く仕える側女のひとりであった。
名を、砂女《すなめ》と呼ぶ。
おのれの死期を悟った素戔鳴尊は、最後の力を振り絞って、彼の姉の元へと向かった。
そして、栄華を極めていた彼の姉の国は、見渡すかぎりのクレーターと化した。
「殺しはせぬ」
やつれきった、しかし憎悪に満ちた顔で、奇稲田姫はいった。
彼女の前に平伏していた少女が、びくりと身体を震わす。
「できうるならば、八つ裂きにしたい。おまえの一族郎党、痕《あと》すら残さず消し去りたい。だが、あいつはいったのだ。死ぬまぎわ、わたしにいったのだ。恨んではならぬと。おまえも、ただ利されただけなのだと。あいつは、最後までおのれら民草のことばかりを思っていた。ただ、民草のことばかりを……」
奇稲田姫は、遠くを見つめるような目つきとなった。
「だが、我慢できぬ」
ぐっ、と自分の身体を抱きしめ、わなわなと震えだす。
「わたしは……わたしは、許せぬのだ。どうしても許すことができぬのだ。砂女よ、おまえだけではない。あいつに甘え、すがり、とうとうむさぼりつくしてしまった愚かものどもを、許すことができぬ。いつか、わたしは滅ぼしてしまうだろう。あいつが愛した民どもを、この国を、すべて……この手で、滅ぼしつくしてしまうだろう……」
爪先が食いこんだ奇稲田姫の腕から、血が流れだした。
「だから、わたしは眠る」
奇稲田姫は指先についた血を払いながら、いった。
「眠り、代わってこやつにわたしの身体を預ける。そしてこやつにあいつを……素戔鳴尊を探しださせる。あいつは〈神〉だ。死にはしない。かならずや甦る。そうわたしは信じる……信じねば、わたしは……わたしは……」
と、奇稲田姫はしっぽとした伸びる〈龍〉の一本を持ちあげ、くねらせた。
「おまえもだ、砂女」
しっぽの先で、少女を指す。
「それがおぬしの罪に対する罰だ。素戔鳴尊を探しだすまで、おぬしは死なぬ。死ねぬ。たとえ死にたくともな……永遠に生き、探し続けるのだ。それが我が呪い。〈神〉の呪い。〈神〉の呪縛だ。死にたくば、許されたくば、見つけだすのだな……」
〈神〉を殺した少女、こののち〈御方さま〉と呼ばれる彼女、砂女は、平伏したまま震えて、うなずいた。
「このあと、砂女は組織を作りあげる。素戔鳴尊を探しだすための組織を。おまえも知っているだろう」
「うん……〈葛の葉〉……」
耕太は答えて、我に返った。
あたりは、前にどこかで見たことがあるような、粘膜色の、なんとも肉感的な濃い赤で満ちていた。上下左右、三百六十度、真っ赤っかである。天井はなく、大地もなく、耕太は覚めるような赤のなか、ふよふよと宙に浮かんでいた。
ああ、と耕太は思いだす。
ここは、ちずるの精神の世界だった。
以前、耕太が〈八龍〉のうち一匹にとり憑かれていたとき、いくどとなく連れていかれた世界である。あのときは、雪山で遭難しかけたり、玉藻の温泉旅館で激務に耐えさせられたり、だいだらぼっちが暴れたり、美乃里に襲われたり、じつに大変だった……。
そして、すこしばかり遠い目となった耕太の前には、ちずるがいた。
耕太とおなじく、全裸である。
ただし、その髪と眼の色は、燃えるような赤だった。
「きみは、〈龍〉……だよね?」
「こっちだ」
正しいともまちがっているとも答えず、ちずるとおなじ姿をした、ただし髪と眼の赤いなにかは、ぐねぐねと粘膜がうごめく世界を、動きだした。
とりあえず、耕太はついてゆく。
平泳ぎで、すいー、すいー、と泳いでいった。
「さっきの映像、見せたのはきみだね?」
「正しくは、わたしたち、だ」
「わたしたち……〈八龍〉?」
「八つではない。七つだ。覚えていないのか。奇稲田姫は、〈龍〉のひとりを、素戔鳴尊を探すためにおのれの代わりとした。だから、〈龍〉は七体しかいない」
「じゃあ、ちずるさんは……」
「〈龍〉だった。元は、だが」
くるりと、〈龍〉である赤髪のちずるが、振りむく。
「ショックか」
「ううん。ちずるさんはちずるさんだよ」
「そうか」
と、また〈龍〉は進みだした。
「ねえ……どうしてあんな映像を見せたの?」
「見せれば目覚めるかと思ったからだ。素戔鳴尊として、な。わたしたちは奇稲田姫の力。宙《そら》より墜ちて、奇稲田姫に宿りし力。ゆえに、奇稲田姫のため働く」
「……やっぱりぼくは、素戔鳴尊なの?」
「わからない。歴代の素戔鳴尊の転生体の候補たちのなかでは、図抜けてはいる。力はもちろん、ちずるからの好かれかたが、とくに。いちおう、ちずるの名誉のために伝えておくと、歴代のちずるは、いままでの素戔鳴尊の転生体の候補たちとは、プラトニックな関係しか築いていなかった。キスすらない。そして、素戔鳴尊はアレだったゆえに、つまるところ、ちずるは正真正銘、生娘である。どうだ、嬉しいか」
「あ、うん。ありがとう……教えてくれて」
耕太に背を向けたまま、〈龍〉は小さく笑った。
「もはや、生娘であろうがなかろうが、関係ないか」
「いや、そんなことは……気になることは気になるけど、でも、うん、平気だよ。ちずるさんにどんな過去があったって、ぼくはもう、平気」
「いいだろう。では、その覚悟をもって、これからを臨め」
「え?」
「見ろ。ちずるだ」
ほら、と〈龍〉が示す。
「あ……」
〈龍〉が伸ばした腕の先に、ちずるはいた。
「ううつ……くぅっ!」
ちずるは、苦悶の表情を浮かべながら、うめいていた。
彼女の腰から伸びる、八つの黒いしっぽ、〈龍〉。
天をつくように伸びあがった、その黒いしっぽのひとつが、やたらと大きくなっていた。もはや他の〈龍〉に倍するほどの太さである。
その、一本だけ太いしっぽが、どくん、と脈動した。
とたんに、ちずるの身体に血管のような黒い模様が走る。ちずるは苦しみ、とうじに、その脈動したしっぽは、大きさをさらにふくらました。
「ち、ちずるさん!?」
「ちずるは、元々、〈龍〉だった……」
ここまで案内してくれた〈龍〉が、静かに語りだす。
「それが、眠った奇稲田姫の代わりに彼女の身体を動かすため、『源ちずる』という疑似人格を与えられたのだ。そして、奇稲田姫の肉体に宿らせられた。では、自分の身体に〈龍〉を宿らせた奇稲田姫の魂は、どこへいったのか?」
はっ、と耕太は気づく。
「もしかして……」
「そうだ。奇稲田姫の魂は、ちずるとなって空となった〈龍〉のなかへと入ったのだ。そして眠りについた。深く、な……」
耕太は、なぜ〈八岐大蛇〉が目覚めれば奇稲田姫が復活するのか、理由を知った。
八本目の〈龍〉が、奇稲田姫だったからだ。〈八岐大蛇〉とは、〈八龍〉すべてが目覚めることを意味する。〈龍〉が目覚めれば、なかに眠る奇稲田姫の魂も、また……。
「ああ……っ!」
一本だけ太い、おそらくは奇稲田姫が宿っているだろう〈龍〉のしっぽが、また脈打つ。ちずるの身体に、血管のような模様を浮かばせた。その黒い模様は、さきほどよりも、あきらかにちずるの身体を浸食していた。
「目覚めるのか……?」
四岐が、美乃里に尋ねる。
教室に吹き荒れていた邪気は、すっかり消え去っていた。
すべての邪気が、教室の真ん中に立つちずるの、その腰から天に向かって伸びる八体の〈龍〉に、突然、吸いこまれたのだ。邪気を吸いこんだ〈龍〉のうち、一本は、ほかに倍するほどにふくれあがり、脈動していた。そして、脈動するたび、ちずるの身体に奇妙な模様を浮かばせる。重なっていた唇からは、うめきを洩らさせる。
そう、ちずるの唇には、唇が重なっていた。
耕太の唇である。耕太は、ちずると口づけしたまま、互いの身体をほんやりと発光させて、憑依合体もせず、ただ抱きあっていたのだった。
「ええ……おそらくは、ですが」
教室の隅にいたままの四岐とは離れた、ちずるにほど近い場所に立っていた美乃里が、答えた。
「おそらく? 小山田耕太が気にかかるのか?」
「気にならない、といえば嘘になりますが。兄さんはちずるを憑依させることで、どうにか奇稲田姫の復活を防ごうとしたんでしょうしね。ですが、現実はこのとおり、憑依すらできずにいます。たぶん問題はないと思いますよ」
「そうか……」
と、四岐が視線を落とす。
ためらいがちに、美乃里の背を見つめた。
「美乃里なぜわたしのことを、助けた?」
ぴく、と美乃里の肩が震える。
ゆっくりと振りむいた。
「いったじゃないですか、四岐さま……ぼくは、四岐さまを裏切ったりなどはしないって。四岐さまの望みは叶えますよ。必ずや四岐さまに、〈葛の葉〉における栄光の頂点を、差しあげます」
耕太の顔で微笑みながら、美乃里はいった。
「ひとつ、わかったことがあるんだが」
「なんです、四岐さま」
「なぜおまえが、あれほどまでに、わたし以上に〈葛の葉〉の影の歴史に詳しかったのか、だ。おまえ、わたしの命令によって父に毒を盛ったとき、父の記憶を写しとったんだな? その鵺の力で」
「正解ですよ、四岐さま」
「ああ、あともうひとつだ、美乃里」
「どうぞ」
「なぜおまえが小山田耕太に化けて、ちずるを騙そうとしたのかだよ。それは、自分が小山田耕太と同等なのだと、決して粗悪なスペアなどではなかったのだと、証明したかったのだろう? ちずるがおまえを小山田耕太と思いこんで、〈八岐大蛇〉に目覚めたなら、その証になるからな……違うか?」
ふふ……と美乃里は声をあげて笑った。
「だから四岐さまを裏切れないんですよ、ぼくは。よくぼくのことをおわかりだ……」
「いや、考えても考えても、どうしてもわからないことが、ひとつある」
「へえ、なんでしょう?」
「〈八岐大蛇〉を復活させようとする理由、それは〈八岐大蛇〉の力を手に入れるためだろう。鵺の能力で写しとるつもりでいるんだ。それはわかる。わからないのは、そんな〈神〉にも等しい、おそらくはあの九尾の狐以上の力を手に入れて、どうするつもりなのか、ということだ。〈葛の葉〉に復讐でもするか? おまえの運命を造りだした、な」
「さあて……どうしましょうかね……」
美乃里が口元をゆがめた、そのときだった。
口づけしたままの耕太とちずるに、異変が生じる。
「ちずるさん!」
耕太は、ちずるに向かって飛ぼうとした。
しかし、飛びだそうとした瞬間、〈龍〉によって後ろからはがいじめにされる。
「は、離せ、離せー!」
「落ちつけ」
もがく耕太に、〈龍〉はなだめるような声をかけてきた。
「やみくもに近づいてみても、ただやられるだけだ。あの奇稲田姫が眠る〈龍〉は、おのれの復活を邪魔しようとするものを、徹底的に排除しようとするだろう」
「だ、だからって、このままじゃ、ちずるさんは……」
「いいから落ちつけってんだよ、ガキ」
「あきまへん、ほんまあきまへん」
「がむしゃらにいってもね、ぺしって叩かれて終わりだと思うんですよね、わたし」
「ぺしってやられたらねー、飛んでっちゃうんだよ、ずっとあっちまで!」
「そうなったら、おしまいなのですわっ いけませんわっ」
「一巻、終」
と、やたらめったら、声が増えた。
「え? えええ?」
振りむくと、自分をはがいじめにしていた赤髪の〈龍〉のほか、橙《だいだい》、黄、緑、青、藍、白といった色あいの髪、眼、ふささ……をしたちずるたちが、ずらりと背後にならんでいた。その数、じつに七人である。
「あ、あなたたちは……全員、〈龍〉? ですか?」
「八岐《やまた》戦隊!」
と、耕太をはがいじめにしていた〈龍〉が、高らかに叫ぶ。
「「オロチンジャー!」」
ほかの六人たちが、めいめいにポーズを決めた。それぞれ、かっこつけたり、かわいこぶったり、さまざまであった。
「いや、あのー、すみません、ぼく、いま、そういうのにつきあってる余裕は……」
「助けてやろう、というのにか」
「はい?」
やはりレッドはリーダーなのだろうか、赤髪の〈龍〉がいった。
「やみくもに近づいても、奇稲田姫の〈龍〉にやられるだけ……だから、わたしたちが抑えようというのだ。奇稲田姫の〈龍〉の力を」
「感謝しろよ、オメーよ!」
「きばりますえー。奇稲田姫はん、ほんま、こわいのんけどね」
「まかせてくださいよね、大船に乗った気持ちでね、わたしたちにね」
「んー、がんばるっ!」
「おほほほ、微力ではございますけどっ」
「一同、奮起」
おのおのが、それぞれの性格があらわれた笑顔を、耕太に向けてきた。
「ど……どうして? だって、きみたちは……」
「〈龍〉だ。奇稲田姫に従う力だ。だが、小山田耕太よ、おまえには、わたしたちみな、借りがある。いま、その借りを返そう」
「か、借り?」
「――〈気〉を、送りこめ!」
耕太をはがいじめにしていた〈龍〉の姿が、かき消えた。
「ちずるの魂が、奇稲田姫復活による圧力に対抗しうるだけの〈気〉を! いっておくが、キスなどではまにあわないぞ!」
赤髪の〈龍〉に続けて、残りの〈龍〉たちも消えてゆく。
べろりと舌をだしたり、バイバイと手を振ったり、ぺこりと頭をさげたり、やはりそれぞれのやりかたで、去っていった。
「〈気〉を……ぼくの〈気〉を? キスじゃダメ?」
つぶやいたとたん、ちずるから伸びる〈龍〉たちが、動きだした。
奇稲田姫の脈動する太い〈龍〉を除く、七本の〈龍〉たち。それが、いっせいに奇稲田姫の〈龍〉へと絡みついた。そして、ぎりぎりと締めつけだす。
「あ……」
驚きながら見あげていた耕太は、すぐに我に返った。
ちずるの元へと向かう。
迫る耕太に対して、奇稲田姫の〈龍〉は激しく身を震わせたが、ほかの七本の〈龍〉の拘束を解くことはかなわなかった。
「ちずるさん!」
「こ、耕太、くん……」
ちずるはもう、半分、意識がもうろうとなっていた。
「わ、わたし……」
「すみません……時間がないんです!」
耕太はちずるの唇に、いきなり自分の唇を重ねた。
ちずるが、眼を見開く。
すぐに、うっとりと閉じた。
唇を緩め、押しつけ、はざまから舌を伸ばし、絡めてくる。
「ん……んん……耕太くん……ん……」
「……やっぱりダメか!」
ぱっ、と耕太は離れた。
「え? も、もう、なんなのよう、耕太くん」
ちずるが、すねたように唇をとがらす。
耕太は、ぐっ、と自分の唇を噛んだ。噛みしめた。噛みしめるしかなかった。
「ちずるさん……」
がきっ、とちずるの肩をつかむ。
「な、なあに、耕太くん」
「ぼく……ぼく、えっちだから、スケベだから、ヘンタイだから、だから、だから、だから、キス以外でちずるさんに〈気〉を送りこむのって、もう、これしか思いつかなくって! だから、その、こんな、ムードもへったくれもないところで、ひじょーにもうしわけなく思うんですけど、あの……」
「あげる!」
すぱっ、とちずるがいった。
「え」
「あげる、ちずるのすべて、みんなあげちゃう!」
「いや、あの、ちずるさん?」
「だってそうでしょ? そういうことなんでしょ?耕太くん、ちずるのすべて、求めてるんでしょ?」
「あ、はい、そうです」
「だから、あげる、ちずるの初めて……あのね、耕太くん」
「はい」
「わたし、耕太くんと出会う前、薫風高校に入る前はね、その……歌舞伎町なんかでね、たゆらとふたり、何でも屋みたいなことやって、本当、適当に生きていたの。もちろん恋なんて知らなくて……ただ快楽のまま、つまみ食いする日々だった。あ、相手は女の子だよ? いうまでもないけど」
「は、はあ」
「だから、耕太くんと出会ったとき、どうしたらいいのか、わからなかったんだ」
金色の瞳で、耕太を見つめてくる。
「いままで会ったことのない、ちっとも汚れてなんかない、自然そのものだった耕太くんと出会って、好きになって。だけど、わたし、想いを伝える術《すべ》が、ぜんぜんわからなくて……だって、いままでのわたしのやりかたっていったら、脅すとか、たらしこむとか、騙すとか、そんなのばっかりで……普通の女の子のやりかた、知らなかったから。だから、会ったその日に、押し倒すとか……ごめんね!」
ちずるが、頭をさげた。
さげたままとなったちずるの髪を、耕太はやさしくかきあげてやる。
「ぼくは、そんな綺麗な人間なんかじゃ、ないです」
「こ、耕太くぅん」
ちずるの瞳は、すっかり涙でうるみきっていた。
わずかに目尻からあふれたちずるの涙を、耕太は口づけして、舐めとる。
「ちずるさんが迫ってくれるのをいいことに、ただ身を任せていただけで……ほくだって男だから、興味もあったし、期待もしてましたし。いまだって、ほら、こんな状況だっていうのに、ぼくってやつは……」
と、ちずるの手を導いた。
「きゃっ」
ちずるは声をあげ、手を引く。
やがて、おずおずと伸ばし、なで、なで。うひ、おひ、と耕太は腰が引けてしまう。
「す……すごいね、耕太くん」
「ちずる……さんは?」
「わ、わたし? わたし、は……」
ちずるが、耕太の手をとった。
導く。
「ひゃうっ、んっ……」
「す……すごいですね、ちずるさん」
「うん、わたし、すごい……すごいことになってる……耕太くん、耕太くんのせいだよ、こんな、こんな、ああ、やだあ、わたし、壊れちゃった……壊れちゃったよう……」
「ちずるさん……」
「耕太くん……きて!」
「いく! いきます、ちずるさん!」
耕太は、ちずるを抱きしめた。
骨がきしむほどに強く抱きしめ、唇を吸う。吸いあう。
さきほど確かめた場所へ、押し当て、ぐっ、と力をこめて、一気に――。
「あっ――」
外の世界でも、ちずるの精神世界と同様の変化が起こっていた。
奇稲田姫の宿った、一本だけ太い〈龍〉に、ほかの七本の〈龍〉が巻きつき、激しく締めあげる。どうにか奇稲田姫の〈龍〉は逃れようとするが、わずかに身をくねらせるだけで、抜けだすことはできなかった。
「どうも、気にくわないな……」
その様子を、教室の天井に空いた大穴から見あげていた美乃里が、つぶやく。
手に持っていた闇の剣を、すっ……と持ちあげた。
「すこしつついてみるか……」
たあ! と、いきなりちずるに斬りかかる。
「うん!?」
その美乃里の凶刃を阻んだのは、突然あらわれた、七つの人影だった。
ちずるの姿をした、しかし髪の色が、赤、橙、黄、緑、青、藍、白と、それぞれ違う、素っ裸の女性たちである。
「なにものだい、きみたちは」
薄笑いを浮かべつつ、美乃里は尋ねた。
「八岐戦隊!」
「「オロチンジャー!」」
赤髪のちずるの号令にあわせて、残りのちずるがポージングを決めた。
「……〈龍〉、でいいのかな」
「八岐戦隊!」
「「オロチンジャー!」」
「わかった。とにかく答えてくれ。いったいなにが起きてる? これはどういうことだ?」
と、美乃里は薫風高校の上空で起きてる、〈八龍〉の絡みあいを剣で指した。
「やっている」
赤髪のちずるが、簡潔に答えた。
「……なに?」
「いままでのぶんがよほど溜まっていたのか……一回、注ぎこめば充分だろうに、もう……何回目だ?」
「七十三、四、五、六……」
赤髪のちずるの問いに、べつの〈龍〉がカウントを返す。
「ほとんど主導権がちずるに戻っているため、精神世界での体感時間も思いのままだ」
「お、ちょうと百八つだ」
「煩悩とおなじ数か……絶倫にもほどというものが……応えるちずるもちずるだ……」
七人のちずるたちの姿が、すっとかき消えてゆく。
「待て! それはどういう……」
美乃里が止める間もなかった。
そして、口づけしたままだった耕太とちずるが、まばゆく光り輝く。
「なっ……」
教室を満たし、天井に空いた穴から夜空をも照らしたほどの光量が消え失せたとき、そこには黒い狐の耳としっぽと、八つの黒い普通のしっぽを生やした、ちずる――ではなく、耕太の姿があった。
「兄さん……? 兄さん、なのか……?」
「ああ、そうだよ、美乃里!」
耕太は、頬の三本髭を、ぴるん、と動かす。
「ぼくは小山田耕太! 素戔鳴尊じゃ、なーいっ!」
「そしてわたしは、源ちずる! 奇稲田姫じゃ、なーいっ!」
と、耕太の口を使って、ちずるも元気よく答えた。
「な、なんだ……?」
校庭から、校舎を見あげていたたゆらは、突然消え去った〈八龍〉の姿に、ただただ呆然となっていた。たゆら以外のものたちも、ひたすら眼をぱちくりとさせるだけだった。
「やったんだよ」
望がいった。
「耕太が、やったんだよ!」
校舎を見あげ、ぎゅっ、と唇を噛む。
「耕太、が……?」
まだたゆらは、状況を把握しきれていないようだった。
「〈御方さま〉……残念でしたね」
朔が、〈御方さま〉に向かって、にやりと笑いかける。
「素戔鳴尊探しは、まだ続くみたいですよ」
しかし、〈御方さま〉から返事はなかった。
〈御方さま〉は、みなとおなじく、校舎を見あげていた。見あげながら、眼を見開き、なにごとかつぶやいている。
「そうか……そうじゃったのか……やはり、あのおかたは、やはり……! ああ、わしの旅は、ようやく……ようやく……!」
丸眼鏡の奥の眼から、涙があふれ、頬をつたった。
「〈御方さま〉……?」
朔の表情が、怪訝なものとなる。
「鎖を解いて」
そういったのは、九院だった。
切羽つまった、真っ白な顔で、〈御方さま〉に向かって身を乗りだす。
「いますぐ解いて! 解きなさい!」
〈御方さま〉は、黙って指を弾いた。
とたんに、この場にいたもの全員を拘束していたヒヒイロカネの鎖が、砂状となる。
どうじに、九院は飛んでいた。
「四岐さま! 四岐さまー!」
ぼろぼろになった背の羽をはばたかせ、まっすぐに、耕太と美乃里、そして四岐がいる教室へと、飛びあがってゆく。
美乃里は、笑っていた。
耕太の姿で、身をくねらせ、目尻には涙すら浮かす。
「ふ、ふふ、ふふふ……そうか、ぼくの負けってわけか? すべては〈御方さま〉の思惑どおりに……いや、違うな。これは〈御方さま〉ですら望んでいなかった決着のはずだ。だって、兄さんは素戔鳴尊にならなかったんだからね」
だらん、と美乃里は力を抜き、ふー、と深く息を吐いた。
「なぜ? どうしてちずるは、〈八岐大蛇〉に、奇稲田姫にならなかった? どうして兄さんは、素戔鳴尊にならなかったんだ。動きだしていた運命の輪を、どうやって元に戻したというんだ」
「ごめん。ぼくにもわからないよ。ただ……」
「ただ?」
「ぼくが素戔鳴尊なら……きっと……」
ふっ……と美乃里は小さく笑う。
闇の剣を、構えた。
「まだだ。まだ終わっちゃいない。兄さんを――小山田耕太を殺しさえすれば、〈八岐大蛇〉は、奇稲田姫は目覚める。そう殺せばいい。殺してしまえば、もう兄さんはちずるを助けることもできないんだから。ぼくが甘かった。ぼくが甘かったんだ!」
耕太は、黙って光の剣を作りだし、構える。
「へえ? お得意の綺麗事はもう、いわないんだ?」
あはははは、と美乃里は笑いだした。
が、やがて、その笑いが崩れる。
「まったく……兄さん! あなたは! 優しすぎるんだよ! その優しさが……どれほどぼくにとって屈辱なのか……憐れむな! 憐れむんじゃない!」
「美乃里……ごめん」
叫びながら、美乃里が斬りかかってくる。
耕太は、その闇の剣に向かって、斬り返す。
光と闇は、ぶつかりあった。
そして光は、ふくれあがる。
大きく大きく、どこまでもふくれあがって、とうとう薫風高校の校舎すべてを呑みこむほどに大きくなって――。
瞬間、耕太は、四岐さま、という声と、九院!? という声を聞いた気がした。
光が、爆ぜる。
星が、綺麗だった。
前に〈御方さま〉に見せられた光景のように、すべてなくなり、クレーターと化した薫風高校校舎跡地に、耕太はごろんと寝そべっていた。
満天の星空を視界に収めながら、いう。
「逃げられちゃいました」
「逃がしちゃいました、でしょ」
狐耳、金髪のちずるが、にゅっ、と視界に入ってくる。
ちずるは、耕太をひざまくらしていた。裸だったので、胸のふくらみもいっしょに耕太の視界には入ってくる。耕太は手を伸ばし、そっと触れた。
「甘い……ですよね」
「うん。おめおめと生き残らされた相手にとっては、さぞかし屈辱だろうし」
あう、と耕太は固まる。
「だけど、そんな耕太くんが、わたしは大好きだよ」
と、顔を近づけてきた。
唇を、ちゅっ、と重ねる。
視界の隅で、やはり、月は輝いていた。輝き、耕太とちずるを照らしてくれていた。
六、許されたる者
わー、と耕太とちずるの元に、みな、集まってきた。
真っ先にやってきたのは、望だ。
望は、着ぐるみのようだった狼の手足のまま、獣のように四足歩行で駆けより、耕太に抱きついてくる。
「耕太ー! 耕太耕太耕太耕太耕太ー!」
うああああん、と泣きだした。
「望さん……」
耕太はしがみつく望をそっと抱き返し、ちずるは横で苦笑する。
「へっ、なーにが耕太は負けない、だよ、やっぱり不安だったんじゃねーか」
たゆらが、耕太に抱きついたままひたすら泣きじゃくる望を見つめて、毒づきながらも、うるみきった自分の眼をこすった。鼻をすすりあげる。
「ゆかんのか?」
そんなたゆらに、熊田が尋ねた。
「あん? おれか? おれはべつに……」
ひらひらと手を振りながら、たゆらは耕太たちに向かって背を向ける。
「たゆら」
その背に向かって、ちずるが声をかけた。
「ほら、おいで」
と、たわわな胸元を差しだす。
とたんに、たゆらの身体はわなわなと震えだした。
「ね……姉さーん!」
泣きながら、鼻水をたらしながら、たゆらはちずるに飛びついた。おお、よしよし、とちずるはたゆらの頭を撫でる。
「ヘタレなヤツ!」
望とともに、うあああああん、と泣きじゃくるたゆらに、桐山は、ふん! と鼻で笑ってから、そう吐き捨てた。だが、彼の目もまた、涙でうるんでいる。そんな桐山の横には、澪がぴたりと寄りそい、にこやかに笑い泣きしていた。
彼らを、校庭の隅から見守っている人影があった。
朔、弦蔵、カイ、シズカの四人である。朔は笑みを浮かべながら、弦蔵は厳しい顔で、カイは思いっきりもらい泣きし、シズカはカイの鼻にティッシュを当てつつ、静かに耕太たちへと視線を送っていた。
「いかないのかい?」
朔は、弦蔵に尋ねながら、耕太を指さす。
「いまはな……耕太も、いろいろと知ってしまっただろう」
「だから顔をあわせづらいって?」
弦蔵は答えず、耕太たちに背を向け、歩きだした。
「やれやれ、孫が無事で、いまにも飛びつきたいくせに……素直じゃないねえ」
朔は、小さく笑いながら弦蔵のあとを追おうとして、「うん?」と立ち止まる。
「あれは……」
「きさまら!」
と、校門からあらわれたのは、街より戻った、三珠家のものたちだった。
校門どころか、校庭を取りまくフェンスを乗りこえ、四方から耕太たちを取り囲もうとする。ずっと街にいた上、学校内の〈葛の葉〉のものたちは〈八龍〉覚醒の影響で失神していたため、情報を得られず、まったく現状は把握できていないようだった。
だが、薫風高校の校舎は耕太の力で消滅、ただの平地となっているし、捕らえたはずのちずるや熊田、たゆらほかの妖たちはなにやら騒いでいるしで、とにかく押さえこもうと考えたらしい。手に持った銃器を構え、じりじりと迫ってきていた。
「いいストレス解消になるね……」
ちずるに抱きつくたゆらを見て、指をくわえていた乱が、にたりと八重歯を覗かせる。
熊田や桐山、そのほかの妖たちや、泣いていたたゆらまでもが、ぐるりと耕太、ちずるを囲むように構えて、じわじわと包囲を狭める三珠家のものたちに向かって、放射状に対峙した。
一種即発の状況に、そっと去ろうとした朔や弦蔵も飛びこもうとした、そのとき――。
車が、飛びこんできた。
白いバンは、校門から飛びこみ、そこにいた三珠家のものたちをつぎつぎにはねとばして、校庭へと入ってくる。雪で固く湿ってグラウンドを横滑りにドリフトして、熊田たちが構える円の前で、停まった。
その車は、なんと、救急車だった。
「……え?」
人を救うはずの救急車が、人をはねた?
ちょっとばかり思考停止に陥った耕太の見ている前で、後ろのドアが開く。
「やめぬか!」
大音声が、響いた。
耕太たちのみならず、まわりを囲む三珠家のものたちまでもが注目せざるを得ないほど、大きく、威厳に満ちた声であった。
「……と、当主!?」
三珠家のものたちから、声があがる。
救急車から降りたったのは、伸びきった白髪を風になびかせた、初老の男性だった。着ているのはやたら高そうな生地の着物だったが、よく見ると、頬はすっかりこけ、だいぶ消耗しているようにうかがえた。
彼の身体を支えて、ともに女性の看護師たちが降りてくる。
だが、最後にあらわれたのは、看護師ではなかった。のぞそれは、スリットの入った忍びの服から、網タイツに見える鎖帷子《くさりかたびら》で包まれた太ももを覗かせた、くのいちであった。
「ゆ……」
「雪花《ゆきはな》!?」
耕太とちずるは、見知った彼女の姿に、驚きの声をあげてしまう。
雪花は、ぺこりと頭をさげた。
なにか激しい戦闘でもあったのだろうか、彼女の顔や衣服には、その戦いのほどを物語るような傷や汚れがたくさんある。左目のあたりには包帯が巻かれてあった。
そして、このあと雪花が語ったことは、まさに驚くべきことであった。
雪花たちは、〈葛の葉〉の本拠地に潜入したというのである。
薫風高校への襲撃のため、〈葛の葉〉はそのほとんどの戦力を投入していた。そうして手薄となった本拠地へ、雪花たちは忍びこみ、三珠家の当主と接触、美乃里の毒によって昏睡状態となっていた彼を目覚めさせ、ここまで運んだという。
「め、目覚めさせたって……」
「九尾湯《くびとう》の原液を服用していただきました」
なるほど、そりゃどんな状態からでも目覚めるはずだ、と耕太は思った。
だが、何年も意識のないまま寝たきりだった三珠家の本来の当主は、かなり辛そうではあった。着物に覆われていてわからないが、おそらく、身体は棒のようになってしまっているはずだ。耕太は、美乃里が語っていたことを思いだす。三珠四岐という男の命令で、このひとに毒を与えたこと……三珠四岐とこのひととは、実の親子だということ……。
「申し訳、ありませぬ」
当主が、凍てついたグラウンドへと、よろめきながら膝をついた。
耕太とちずるに向かって、平伏する。
「すべては、このわたしが至らぬせいであります。〈神の器〉を造りあげたこと、美乃里を造りあげたこと、そして、我が息子、四岐の本質を見抜けず、暴挙をむざむざと許したこと……〈葛の葉〉をまとめあげる三珠家の当主として、失格だったとしかいえませぬ」
「そ、そんな、やめてください!」
「そうよ。そんなことをされても耕太くんはちっとも喜ばないし……だいたい、〈神の器〉は造りあげてオッケーでしょ。じゃないと耕太くん、この世にいないんだもーん」
ちずるは耕太に抱きついてきた。
その肩には、妖たちのひとりがかけてくれた薫風高校のブレザーがある。その前のあわせから覗くふくらみが、ぎょむぎょむと耕太の顔に押しつけられてきた。耕太は、おぷ、えぷ、とちずるのふくらみを存分に味わう。ああ、懐かしいなあ、と思いながら。
「そうですな……御主《おしゅう》さま」
四岐そっくりな、細い眼を笑みに曲げながら、当主はいった。
「御主……さま?」
「神さま、っていいたいみたいよ」
ふくらみのなか首を傾げた耕太に、ちずるが教えてくれる。
「ち、違いますよ! ぼくたちは、あくまで小山田耕太と源ちずるのままです!」
「しかし……これほどの力……」
と、三珠家の当主は消滅した薫風高校跡地を見た。
「じゃ、確認してみましょうか?」
ちずるはいい、くいん、と腰を動かす。
とたんに、ぽん、と耕太たちの前に、ちずるとおなじ姿かたちをした、ただし髪の色が違う女性たちがあらわれた。
「八岐戦隊!」
「「オロチンジャー!」」
ポーズを決めた擬人形態の〈八龍〉たちに、ちずるは尋ねる。
「ねえ、あなたたち。わたしはなあに?」
「元〈龍〉の一匹だ。そしてこれより先は、ただの妖狐となるだろう」
赤髪のちずるが、簡潔に答えた。
「ねー?」
当主に向かって、ちずるは微笑みかける。
「ところであなたたち。あなたたちはこれからどうする気?」
「消える。これより先、しっぽというかたちであっても目覚めることはない」
やはり簡潔に、赤髪のちずるは答えた。
「つまり、奇稲田姫を抑えてくれるってわけ?」
〈龍〉たちの答えは、沈黙だった。
んー? とちずるが、微笑みながらも首を傾げる。
「どうしてそこまでしてくれるの? 奇稲田姫が目覚めかけたときといい……感謝してるわよ? もちろん感謝してるけど、でも、あなたたち〈龍〉に、そこまで助けてもらえる理由が、わたしたちにはない。ねえ、どうして?」
「……愛されたからな」
たっぷり沈黙したあと、〈龍〉はいった。
「は?」
赤髪の〈龍〉は、素早くちずるの耳元に口を寄せ、なにごとか小声でささやく。
「ええ?」
眼を丸くするちずるをよそに、〈龍〉たちはそれぞれのリアクションをとりながら、消えていった。
消えたあとで、ちずるはいきなり望の頭に腕をまわす。
プロレス技でいうところのヘッドロックのかたちをとって、締めあげだした。
「まったく……あなたのおかげで助かったなんてね!」
「お? おお?」
「ち、ちずるさん? どういう意味ですか、それ?」
「つまり、ひみつのケーキなのよ、耕太くん!」
「……は?」
ひみつのケーキ?
それって……尾てい骨をなめなめ……。
「ええ……? で、でも、どうして?」
「耕太くん……しっぽはどこから生えると思う?」
「しっぽは……尾てい骨から……あ」
意味に気づいて、耕太は口をあんぐりとさせた。
「そうよ、耕太くん。だから、望がわたしたちを救ったようなものなのよ! ひみつのケーキのおかげで、たっぷり愛されたからだって!」
騒ぐ耕太たちに、まわりのたゆら、熊田、桐山ほかの面々は、意味がわからず、怪訝そうに首を傾げていた。いや、当の望も、ちずるに頭を締めあげられながら、ん? んん? といまいち理解できていないようだった。
は、はは……。
耕太は笑う。もう笑うしかなかった。
あ。
あることを耕太は思いだす。もうぼろぼろとなっていたズボンのポケットを探った。
「よかった……壊れてない……」
リボンのついた小さな箱を取りだし、ちずるへと渡す。
「え? これ……なあに、耕太くん?」
望にヘッドロックしたまま、ちずるは眼をぱちくりとさせた。
「あの……クリスマス・プレゼントです。なんか、こんなときなんですけど」
「え! プレゼント!」
ぱっ、と望から腕を外す。
「う、嬉しい……あ、開けても、いい?」
「もちろんです」
中身は、ペア・ウォッチだった。
耕太が悩みに悩みぬいて、けっきょくべタな感じに落ちついてしまったものだ。だが、ちずるは涙をぼろぼろとこぼして喜んでくれた。
「あ、ありがとう、耕太くん……」
「ズルイ」
ずい、と望が、唇を尖らせた顔を突きだしてくる。
「ちずるばっかり、ズルイ。わたし、ひみつのケーキで耕太とちずる、助けたのに。がんばって耕太とちずるのために闘って、チョーカー、壊れちゃったのに。壊れたチョーカー、耕太がどかーんしちゃって、この世から消えちゃったのに。ズルイズルイズルイズルイ」
「わ、わかりました! あとで望さんにもプレゼントしますから!」
「えー。耕太くん、なにそれ!」
「トリプルウォッチとか、ダメ、ですか……? だって、望さん、やっぱりぼくたちの命の恩人なわけですし」
「うーん……まあ、しかたないか……うーん」
「わーい」
「はい、望さん、とりあえずぼくの時計を……」
耕太は望に、さっそく時計をつけてやろうとした。しかし、腕が狼の着ぐるみのように変形したままだったので、とてもベルトが巻けない。
「これ、戻してもらえます?」
「ん」
と、望は返事をした。
が、いっこうに着ぐるみの手は、戻る気配がない。
「あのー、望さん?」
「……解きかた、わからない」
「「えー!」」
耕太とちずるは、ハモりながら叫んだ。
「解きかたわからないって、どうするのよ!」
「どうしよう」
「このバカイヌー! あなた、ずっとこのままでいるつもり!?」
「んー……ダメ?」
「ダメに決まってるでしょーが!」
ぎゃーぎゃーと、いつものようにやりとりするちずると望を見つめながら、ついつい、耕太は笑ってしまった。帰ってきたんだと、帰ってこれたんだと、実感しながら。
「ねえ、耕太くーん! 耕太くんもなんかいってやってよ、ねえ、耕太くんったらあ!」
(どんとはれ)
あとがき
えーい、おっぱい、おっぱいはどこだ!
なんだってかのこんで三巻にわたって純愛行為の薄い話を書かなくちゃならないんじゃー! だれのせいだ! わたしか! そうか、ごめん! だめだ許さん! 死をもってつぐなえ! 断る! だってぼくにはまだやらなくちゃならないことがあるから……ララァならわかってくれるよね? ほう、やりたいこと? そりゃなんだい?
人類を、乳《にゅう》たいぷとして覚醒させることさ……!
というわけで、早く人類の革新が見たい、西野かつみです。
今回、しんどかったです。
だって、書けども書けども、あのやはらかなふくらみがでてこないんですもの。書きましたけどね。隙を見てどうにか書きましたけどね。でもやっぱり足りない。本腰入れて書きたい。でも書けない。しんどかった。しんどくってしんどくって、もう途中は泣きながら書いてました。中盤がいちばんきついんですよね。最後あたりはゴールが見えてきますからね。スパートかけられるんですけどね。きつかったなあ……。あー。おっぱいー。
つまり、もう乳房がもたんときがきているのだ!(わたしに書かれたくて)
エロだよ、それは!
ええい、きさまだって乳たいぷだろうに!
と、精神が崩壊しかけるほどに苦労しました、かのこん十一巻。いかがだったでしょうか。今回、これがわたしの精一杯です。某ルパンのように、お姫さまの前で国旗をだす手品をしながらいいます。がんばりました! がんばりました! がんばりすぎて、最後、ちょっと暴走しちゃった感もありますが、まあ、いいじゃないですか。おっぱい。
次巻こそは、お得意の方向でいきます。絶対。
じゃなきゃ死ぬ。死んじゃう。あ、今巻で終わりじゃないですよー。あともうちょっとだけ続きますよー。とかいいつつ、一巻を書いた時点では五巻ぐらいで終わらせる予定だったんですけどねー。どうなるんでしょうねー。わたしが知りたいですー。
狐印《こいん》さん、いままでにも増して素敵なイラスト、ありがとうございます。
八葉ちゃんと玉藻さん、最高です。幼女と熟女、ごっつあんです。
そうそう、アニメ、素晴らしかったですよね!
そのアニメのファンブックがでます。わたしもちょっとした短編、書いてます。アニメのメモリーに一冊、お手元にどうでしょうか。おっぱいぱいぱい、ぷぷっぷー。
平成二〇年 こんなあとがきを……作者……乳房欠乏症にかかって…… 西野かつみ
2008年9月30日 初版第一刷発行
2008/10/23 作成 ルビは一部のみ