かのこん 10 〜おわりのはじまり〜
西野かつみ
[#小見出し]  一、風と共に駆けぬ[#「一、風と共に駆けぬ」は太字]
十二月二十四日。
いわずと知れたクリスマス・イブ。聖なる夜。恋人たちの夜。
じつはとっくに午前0時をまわっていたため、すでにイブではなく普通のクリスマスとなっていたのだが、どっちにしろ、いまの耕太《こうた》には関係がなかった。
雪が降る。
はらはらはらはら、聖夜をロマンチックに彩るため、夜空より舞いおりてくる。
これまた、いまの耕太には関係がなかった。
なぜって、唇から白い吐息をこぼしながら全力で突っ走る現在の耕太にとって、雪なんかもう、ただ自分の顔面にぴしぺしと当たるだけの存在でしかなかったからだ。たまに眼《め》に入る。冷たく溶け、視界を滲《にじ》ます。そうなったらぐしぐし拭《ぬぐ》う。ただそれだけだった。
耕太の脳を占めるもの、それは――。
ちずるさん! ちずるさん!
ちずるさんちずるさんちずるさん、ちずるちずるちずる、ち、ず、るー!
耕太は焦っていた。慌てていた。気が急《せ》いていた。
とうとう、国内でも有数の力を持つらしい退魔の組織、〈葛《くず》の葉《は》〉がちずるを襲った。その〈葛の葉〉の魔の手――おそらくは三珠美乃里《みたまみのり》という名の魔の手によって、ちずるはやられた。やられてしまった。わかる。耕太にはわかるのだ。
だから耕太はゆく。
愛《いと》しの化《ば》け狐《ぎつね》、源《みなもと》ちずるを〈葛の葉〉から救いだすため、イブの夜、ただひたすらに、懸命に、アイジンの人狼《じんろう》、犹守望《えぞもりのぞむ》とともに、レッツ&ゴー。走る速度はゆるめない。決してゆるめたりなんかしない。限界ぎりぎり、いや、それ以上の速さでゆく。
こうして耕太がダッシュダッシュダッシュする理由は、ふたつあった。
まずひとつ。
ここ、どこ?
ちずるが捕らわれの身になったであろう薫風《くんぷう》高校から、かなり離れた地に耕太はいた。
なんてったっていま耕太が走っている場所ときたら、左右両方に樹木が広がる林を突っ切って作られた、なんとも野趣あふれる道路なのだから。道はどこまでもまっすぐに伸び、街の光のかけらすらも耕太には見せちゃくれない。雪で濡《ぬ》れた路面はところどころひび割れ、照明灯もあまりなく、なんとも暗く寂しく不気味なところだった。
そして――。
耕太が全力超えダッシュをする、もうひとつの理由とは――。
「くらー! 待たんかー!」
そう怒鳴りながら追いかけてくる、〈御方《おかた》さま〉の存在にあった。
正確には、〈御方さま〉の乗る車にあった。
そう、車であった。
のっぺりと四角い顔をした、ミニバンであった。
「止まれーい! 止まれーい!」
と、塩辛声を浴びせてくる、〈御方さま〉。
普段は耕太のクラスの担任として、やさしくほんわかと接してくれる、薫風高校教師、砂原幾《さはらいく》先生。彼女に宿る砂の精霊、〈御方さま〉は、その普段の砂原先生がまるで嘘《うそ》だったかのような鬼の形相となって、車の助手席から上半身を乗りだし、波うつソバージュヘアーを振り乱しながら、ぶんぶんと腕を振っていた。
運転しているのは、おなじく薫風高校教師、八束《やつか》たかお先生だろう。
後部座席には、耕太の自称娘、七々尾《ななお》蓮《れん》と七々尾|藍《あい》の双子が、たぶんきっと、おろおろしているのだろう。だが、すぐ後ろに迫るヘッドライトの光がまぶしくて、〈御方さま〉の怒りに満ちた顔つき以外、耕太にはよくわからなかった。
あ、あともうひとつだけ、わかることがあった。
すこしでも走る速度を落とせば、耕太は轢《ひ》かれるということだ。まちがいなく。耕太だって限界を超えた速度で走る。
「……どうして」
耕太の脳のほとんどは、「ちずるちずるちずる」が占領、支配下に置いていた。
が、わずかに残った冷静な部分で、疑問に思う。
どうしてこうまでして、〈御方《おかた》さま〉はぼくの邪魔をするんだろ?
いや、耕太にだって理由自体はわかる。
〈葛《くず》の葉《は》〉がちずるを捕らえた目的、それは彼女を伝説上の怪物、〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉として復活させるためだった。そしてその復活の鍵《かぎ》は、耕太にあった。その時点でちずるがもっとも愛するものの危機こそが、彼女が〈八岐大蛇〉となるための方法なのだった。
だから、いかせない。
耕太がやられれば、ちずるは〈八岐大蛇〉になってしまうから。〈八岐大蛇〉になれば、ちずるの魂は消えてしまうから。魂の消滅は、つまり死とイコールだったから。
わかる。それはわかる。
けれども、耕太を止めるために車で礫《ひ》いちゃったりなんかしたら、その時点でちずるは〈八岐大蛇〉になってしまうんではないだろーか? そうなったら意味がないのではなかろーか? まさか〈御方さま〉が、目的と手段をとり違えるなんてことは……。
「耕太」
横から、望《のぞむ》の声が届いた。
望は、耕太の真横にいた。耕太にぴたりと寄りそって走っていた。
耕太とは違い、両手両脚を使った4WDでだ。
野を駆ける狼《おおかみ》のごとく、じつに美しいフォームで、望《のぞむ》は雪で濡《ぬ》れた地面をゆく。なぜだか望はホテルマンの格好をしていたが、そのズボンから伸びる狼のしっぽや、頭部から生える狼の耳、風になびく銀色の髪が、〈御方《おかた》さま〉の車のヘッドライトに照らされ、きらきらと輝いていた。「ちずるちずるちずる」な耕太でも、綺麗《きれい》だと感じる姿だった。
「なあに、望さ……」
「きけんがあぶない」
「ふえっ!?」
みよーん。
いきなり望は飛びついてきた。
望にがっちりと組みつかれ、耕太は真横へ、道路の外までも運ばれてしまう。ガードレールを飛びこえ、左右に広がる林、その手前の草むらへと、一緒に落下した。
直後、車が走りぬける。
おそらくはアクセルをベタ踏みしただろう〈御方さま〉のミニバンが、寸前まで耕太たちがいた地点を、殺人的スピードで通りぬけていった。
もし、あのまま道路にいたら?
死……?
「って、お、〈御方さま〉!? ほ、本気で……ぐへっ!」
あまりに衝撃的すぎる光景に、耕太は受け身をとるのをすっかり忘れた。
背中から草むらへ落ち、一瞬、呼吸を止める。
「耕太、だいじょぶ?」
道路の外に生えた背の高い草むらは、雪でずぶ濡れだった。
そこで耕太は、望にやさしく背中を撫《な》でられる。
「だ、だいじょぶ……」
「あ、またきけんがあぶない」
「ほあっ!?」
べよーん。
またもや組みついてきた望によって、耕太は宙を跳んだ。
こんどは元いた道路の上へと、戻る。
寸前まで耕太たちがいた草むらには、ぶくぶくぶくぶく、地面から大量に湧《わ》いてでてきた砂が、まるでアメーバのようにのたくっていた。
「うわあ……」
のたうつ砂を見つめ、思わず耕太は声をあげてしまう。
これが、耕太と望が道路の外へと逃げられない理由だった。
道路の外にでれば、すくなくとも車で轢《ひ》かれる心配はなくなる。しかし、〈御方さま〉は砂使いの精霊。砂を自在に操れる。土に面した場所では、〈御方さま〉の砂に捕まる可能性が高かった。嫌でも、アスファルトで覆われた路面をゆくしかなかったのだった。
そのとき、甲高い悲鳴があがった。
タイヤが地面とこすれてあげた叫びだった。
見ると、〈御方《おかた》さま〉の車が、一八〇度スピンターンを決めていた。
あの、のっぺりとしたフロントがこちらを向き、耕太と望《のぞむ》に冷たくヘッドライトの光を浴びせてくる。がうんがうんがうん、マフラーが鳴った。
「〈御方さま〉、本気だよ、耕太」
「うん……」
望の言葉に、耕太は同意した。
同意しつつ、いぶかしさに眼《め》をぎゅっと細めた。
やっぱり、おかしい。ヘンだよ、絶対。
耕太を止めるなら、もっとほかにいくらでも方法はあるはずだ。なのになぜ、殺《や》る気まんまんで轢《ひ》き殺そうなんてするのだろう。耕太が危機に陥ったら、ちずるは〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉になってしまうというのに、どうして……。
ぐおおんぐおん、ぐおん。
ミニバンの排気音が、だんだんと差し迫ったものに変わってきた。あまり耕太に悩んでいる余裕はないらしい。
どうしよう……。
耕太は、横の望をちらと見た。
前を向く望の、その色素の薄い唇を見た。
いや、まだだ。耕太は首を横に振る。まだ、いざというときまで、まだ……。
「耕太」
〈御方さま〉の車を見つめつつ、望がいった。
車を見つめたまま、しゃがみこむ。
両手を地面につく。ぐつ、と腰をあげる。さきほどまでの疾走フォーム、獣の姿勢となった。ぴこーん。狼《おおかみ》の耳が立つ。ひゅるん。狼のしっぽがくねる。
最後に、くいん、と顔の向きを変え、耕太を見あげた。
「乗って」
「……え?」
「はやく。〈御方さま〉のぶーぶー、きちゃう」
「や、でも、乗ってって……まさか」
「はやく! きけんがすっごくあぶない!」
獣の姿勢のまま、望は耕太をうながしてきた。
「だ、だけど!」
「あ、きた」
夜をつんざく悲鳴があがる。
タイヤが激しくホイールスピンする音だった。タイヤをさんざんに道路で陵辱して、車は飛びだす。やはり殺人的加速、殺人的スピードで、みるみる迫ってきた。
「耕太!」
わずかに迷った。
それは一秒あるかなしか、とても短く、しかしとても贅沢《ぜいたく》な時間、耕太は迷い、すぐさま振り切り、望《のぞむ》の背の衣服をつかむ。彼女の背に跳びのった。
望ロケット、点火《ファイヤ》。
そう感じるほどにすさまじい加速に、耕太の視界は、一瞬、ブレる。
そのまま望は、迫りくる車へと、まっすぐに――。
「え……ええええええ!?」
あまりにも予想外の行動に、耕太は叫んだ。叫びながら見た。ヘッドライトによる光の奔流のなか、フロントガラスごしに、ハンドルを握る八束《やつか》が三白眼を驚愕《きょうがく》に見開く姿や、後部座席で蓮《れん》と藍《あい》が顔を手で覆う姿や、助手席の〈御方《おかた》さま〉がにたりと、口元をゆがめた邪悪な笑みを浮かべる姿を、まざまざと。
そして、聞く。
風に乗った、「うー……」という、望のうなり声を。
すべての光が消えた。
正面衝突、ぐちゃりと無惨な結末を迎えるかと耕太が思った瞬間、視界を塗りつぶすへッドライトの輝きは消え、代わりに景色があらわれた。それは長々とまっすぐに伸びる道路や、その両|脇《わき》にならぶ樹木たち、降りそそぐ粉雪など、ついさっきまで目の前にあった景色だった。いや、すこし違う。妙に遠くまで見える。
跳んでいた。
車と激突する寸前、望は耕太を乗せたまま、高々とジャンプしていた。見事なまでの跳躍だった。長いミニバンの車体をばよーんと飛び越し、すとんと着地。そこで望は止まらず、駆けだす。耕太を背から降ろすこともなく、両手両脚を使って加速を始めた。
速い。
その速度ときたら、車なみ……いや、もはや車以上のスピードで、望は周囲の景色を後ろへと置き去りにしてゆく。
耕太の顔面を、雪まじりの風圧が襲った。
あうあうあう。
耕太は身を伏せる。
「だ……ダメだよ!」
風切り音に負けぬよう、耕太は顔を前へと伸ばし、望の耳元に口を寄せ、叫んだ。
「止まって、望さん! こんなスピードじゃ……望さんの手が!」
「このままいく」
振りむかず、速度も落とさず、望は答えた。
「ダメだってば! 道路は硬いし、冷たいし! 望《のぞむ》さんひとりならまだしも、ぼくの体重が乗ってるし! このままじゃ、望さんの手が、ぼろぼろになっちゃうよ!」
普通、冷えれば冷えるほど、物質は硬くなるものだ。
ただでさえ硬いアスファルトが、真冬のいま、どれほど硬く引き締まっていることだろうか。その上を、ひとひとり乗せて走ったらどうなるのか……いかに人狼《じんろう》といえど、無事にすむなんて、とても耕太には思うことができなかった。
「望さん!」
「だってちずる、ピンチだから」
「え?」
「だから、このままいく。耕太が自分で走るより、わたしが耕太を乗せて走ったほうが速いから。これならすぐつくよ」
「だ……だけど!」
「わたし、耕太のアイジン……」
望が、わずかに顔を後ろに向け、肩ごしに表情を覗《のぞ》かせた。
「そして、ちずるはトモダチ。ライバルだけど、おなじひとをアイしてる、トモダチ……。シンユウ。マブダチ。ポンユー。だからわたし、ちずるのこと助ける。だって、ちずるだってわたしがピンチになったら、きっと助けにきてくれるから」
「望さん……」
風に銀色の髪を踊らせながら、じっと見つめてくる望に、耕太は笑みを返す。
「うん、いこう……ちずるさんを助けに。ぼくと望さんで」
「おうっ」
耕太の言葉に、望は表情を笑顔で弾《はじ》けさせた。
眼《め》がぎゅっと細くなる。唇がにかっと開くゆそれは、心の底からの喜びをあふれさせた表情だった。
「ごー、耕太とわたし、ごー!」
望は前を向く。
さらに速度をあげる。
油断すると身体ごと持っていかれそうな風圧のなか、耕太はなるべく望の邪魔にならぬよう、さらに彼女にぴたりとくっつき、しがみついた。加速とともに激しさを増した揺れにも負けないよう、ぎゅっと抱きしめる。
「ごー、望さんとぼく、ごー……」
そっと、ささやいた。
望は風と化す。
銀色の風だ。
やがて、遠く、街の光が浮かんだ。
あまりに高速で移動していたため、かなり狭まった視界のなかではあったが、たしかにそれは街の光だった。
よし、これなら、あっというまにちずるさんの元へ――。
と、耕太が思った瞬間のことだった。
「や?」
「がう?」
突然、目の前に壁があらわれた。
壁だ。たぶん壁のはずだ。直前まではなにもなく、ただまっすぐに伸びていたはずの道路が、いきなり行き止まりとなる。あまりにも唐突すぎたその壁の出現と、あまりにもだしすぎていたスピード。そのふたつがそろってしまえば、さすがの望《のぞむ》も、ただ突っこむよりほか、とる手段はなかった。
「うーーーーーあーーーーーー!?」
耕太は飛んだ。
壁に激突し、高々とはね飛んだ。
痛いんだか痛くないんだか、とにかく全身を襲う衝撃に指先まで痺《しび》れさせながら、耕太は宙を飛ぶ。そして見た。
それは、あまりにも巨大な人影だった。
道路の横、樹木がならぶ林のなかから、ぬっ、とその巨人は身体を覗《のぞ》かせている。そして道路に腕を伸ばしていた。どうやら、壁だと思ったのはその手のひらだったらしい。まさか、〈葛《くず》の葉《は》〉が……?
宙に舞う耕太と望の、ちょうど目の前にあった巨人の顔。
それは……。
「――耕太くんっ!」
ちずるは叫び、目覚めた。
「……え?」
と、眼《め》をぱちくりとさせる。
「ここは……?」
明るく、そしてだだっ広い部屋に、ちずるはいた。
やたら奥行きのある部屋だ。天井には蛍光灯がならび、その光を受け、だいぶワックスのはげた床が鈍く輝く。ちずるから見て右側の壁は、一面、窓で占められていた。逆に左側の壁の奥には、スライド式のドアがある。
ちずるにとって、なんとも既視感を覚える部屋だった。
これでもし、いまはがらんとなにもない床に、ずらりと生徒用の机が何十脚とならべられでもしたら、見慣れた学校の教室だとしかちずるは思えなかっただろう。
と、いうか。
「ん? んん? んー?」
ちずるは、怪訝《けげん》そうに目元を細めながら、あたりを見回す。
視線が、ある一点に注がれた。
ちょうどちずるの真正面にあたる壁に、なにやら連絡事項らしきものが書かれた紙がぺたぺたと貼《は》ってある。その用紙の隅にあった図形に、ちずるの視線は止まった。
「なによ、これ……ここ、わたしの教室じゃない!」
正解だった。
ちずるは、薫風《くんぷう》高校の、しかも彼女のクラスの教室にいた。
運びだされたのだろう、机はひとつも残ってはおらず、やたら寒々しい光景をちずるの前にさらしている。ただし、教室後部の壁に貼られた学校行事等を連絡するための紙類はそのままだった。ちずるがさきほど確認したのは、その紙のひとつに彼女が書いた、自分と耕太の相合い傘の落書きである。教室の窓を見れば、びっしりと外から砂で覆われていた。ちずるたちが〈葛《くず》の葉《は》〉と戦った際に張った砂防壁は、まだ生きているらしい。
「でも……どうして?」
んー? とちずるが首を傾《かし》げたのも、無理はなかった。
ちずるを薫風高校に残す理由が、〈葛の葉〉にはない。
なぜなら、ここは〈御方《おかた》さま〉が支配していた場所なのだから。万が一〈御方さま〉がちずるをとり返しにやってきた場合――ちずるは、それはないとわかっていたが――守るのにはまったくもって適していないはずだ。むしろ危険なはずだ。そう考えれば、とっくにちずるの身は〈葛の葉〉の本拠地にでも運んでいなければおかしいのだが……。
「あいつら、なーに考えているのやら……」
と、突然、ちずるの表情は崩れる。
ふわ、ふわ、ふわ。
へくちょん。
かわいらしくくしゃみをして、かわいらしく鼻をすすった。うう、と震える。
「なんだか妙に冷える……って、ええ!?」
全裸だった。
ちずるが戦闘中に着ていたはずのボンテージのすべて、深紅の革のビスチェに、深紅の革のショーツ、深紅のロングブーツにいたるまで、みーんな剥《は》ぎとられている。そのため、狐《きつね》の耳としっぽを生やし、艶《つや》やかな黒髪を輝く金髪へと変えた、妖狐《ようこ》姿なちずるの肉体のなにもかもが、蛍光灯の明かりの下、がらんとした教室のなか、すぽんぽぽーん。
たとえば、胸。
耕太の愛を受け、あふれるほど豊かに実ってしまったが、決してぶざまに崩れたりはせず、つんと気高く上を向いた胸部のふくらみが。
たとえば、お尻《しり》。
やはり耕太に厳しく躾《しつけ》けられ、とろけんばかりにやわらかくも、すぱんと張った臀部《でんぶ》が。
たとえば、腰。
じつはちずるは耕太に対する触感的刺激を追求せんがため、全体的にほんのりと肉づきをよくしていたのだが、唯一、不断の努力によって、いまだくびれたままの柳腰が。
たとえば、脚。
耕太を心地よく挟みこむため、とぱーんとなった太ももや、ふくらはぎや、足首や、くるぶしや、はたまた『自然なままが好きですと耕太がいったから、わたしのふささは自然ふささ』な金色のふささが、すべて、ありのまま、隠すことなく、余すことなく。
「むー……」
ちずるは、じっと自分の身体を見つめていた。
うふふふ、と笑いだす。
「うーん、やっぱりわたしの身体って、素晴らしすぎる……本当、耕太くんと愛し愛されるために存在する、奇跡の肉体よねっ! どこもかしこもジューシーでぇ、フレッシュでぇ、とても食べごろ……やーん、耕太くん、思いっきりかぶりついてぇーん!」
くねくね、身体をくねらせだした。
両腕はバンザイのかたちにあげ、両脚は肩幅ほどに開いた姿勢だったため、ばやよんばやよん、揺れる揺れる、踊る踊る。腰まで伸びた金髪からジューシーな色気肉やら、もう、なにもかも、どこもかしこもが。
ふう、と息をつく。
「これさえなければ、完璧《かんぺき》なんだけどね……」
ちずるが見あげた先には、鎖があった。
金色の鎖だ。天井を突き破って生えた鎖が、バンザイしたちずるの両腕の、手首から二の腕までに絡みついている。一見、無造作な絡みかただった。
「こっちも」
見おろせば、鎖は脚にもあった。
床を突き破って伸びた金色の鎖が、ちずるの両の脚の足首から太もものあたりまで、ぐるぐるぐると巻きつく。
「ここもか!」
背中側を向くと、しっぽにもあった。
ちずるの尾てい骨から伸びた、唯一のしっぽにだ。
髪の毛や頭頂部から生えた狐《きつね》の耳とおなじく、黄金の毛なみで覆われた狐のしっぽにも、金の鎖は絡む。こっちのほうが、腕や脚よりもかなり念入りだった。天井と床の上下両方から、何本も伸び、巻きつく。締めあげる。
しばらくそのまま、ちずるはしっぽを見つめていた。
その視線は狐のしっぽにあったが、実際に見ているものは違った。ちずるは、かつて存在していたはずの、もう六本のしっぽを見ていた。
あの燃えあがる〈龍《りゅう》〉のしっぽだ。
いまその炎のしっぽたちはない。〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉の力の象徴たる〈龍《りゅう》〉のしっぽたちは、美乃里《みのり》との闘いですべて首を断たれ、消え去ってしまっていたのだった。
くっ……。
一瞬、ちずるの表情が強《こわ》ばる。
眉間《みけん》に皺《しわ》が刻まれ、奥歯を食いしばったことにより、頬《ほお》が引き締まった。
が、すぐにその表情は消えた。
くるんと顔の向きを正面へと戻し、はあああああ、と盛大にため息をつく。
「まあ、わたしのこと、ただ黙ってこんなところに置いておくとは思わなかったけどさー、なにも裸にひん剥《む》いて鎖で縛りあげておくことはないでしょーに。なに、趣味? そういうのが好きなの? まったく……」
んー!
突如、ちずるは力んだ。
みるみる、顔やそのあらわとなった肌が、紅《あか》く染まってゆく。
しかし、いかにぷるぷるとちずるが震えようとも、両腕、両脚とも、微動だにすらしなかった。鎖はちずるの動きを抑えこんだまま、きしみひとつあげない。
ぜー、はー、ぜー、はー。
息を切らし、ちずるは荒く呼吸した。
「なるほど、特別製ってわけだ……」
うー、と脚に巻きついた鎖を見おろす。
「こうなったら、ちょっとはしたないけど、しーって引っかけて、それでサビさせて、モロくして……って、落ちつけ、ちずる! そんなの、いったい何ヶ月かかるっていうんだ! んー……そもそも、この鎖ってサビるのかな?」
「なるべく、床は汚さずに願いたいものですが」
と、教室のドアが開いた。
ふたりの男女が、連れだって入ってくる。
男は、白いスーツの上下に黒いシャツを着て、ひどくやわらかな笑みを浮かべていた。
女は、紫色のスーツに身を包み、ひどく硬い表情をしていた。
「ひとつお教えしておきますと、ですね」
男が、やたらにこやかに語りかけてくる。
「いまあなたを捕らえている鎖は、ヒヒイロカネ製です。神世のいにしえより残る、伝説の金属ですよ。あなたの……その、お小水ですか、それがかかった程度では、たとえ何百年かかったところでサビたりなどはしません。まあ、なにか特別な成分でも含まれているのならば話はべつなのでしょうが」
ふん!
本気とも冗談ともつかない男の言葉を、ちずるは鼻で笑い飛ばした。
「軽いジョークだったに決まってるでしょ、ジョークに! この超絶無双、空前絶後、史上最美の美少女・オブ・美少女、源《みなもと》ちずるさまが、おしっこなんかするわけないでしょーが! いや、しない! トイレ自体、わたしはしない! だって美少女だから! たかだかアイドルごときがトイレしないのに、このわたしがするわけ、ないでしょうー?」
くくく……と、男がじつに楽しげに身体を震わす。
「なるほど、〈八龍《はちりゅう》〉よ。報告どおり、あなたはずいぶんと愉快な性格のようだ」
「わたしは源ちずるだっつーの! 世界遺産登録美少女の、源ちずる! つーか、いったい何者なのよ、あんたたちは。わたしたちとやりあったとき、たしか〈葛《くず》の葉《は》〉の後ろのほうで偉そうに指揮していたような覚えがするけど……世界遺産を、こんな剥《む》いて縛って、このエロエロスケベ、ヘンタイ! ムッツリ!」
「これは失礼」
男は、うやうやしく礼をした。
「わたしの名は、四岐《しき》。三珠《みたま》四岐です。はたしてあなたがご存じかどうかはわかりませんが、〈葛の葉〉の中心を成す八家のひとつ、三珠家の、その当主代理を務めさせていただいてます。どうぞよろしく……」
深々と頭をさげた四岐を、ちずるはただうさんくさそうに見つめるだけだった。
四岐が、こちらは、と横にならぶ女を示す。
「彼女は九院《くいん》。やはり〈葛の葉〉八家のひとつ、九院家の当主です。もしかすると、こちらの家のほうがあなたはくわしいかもしれませんね。なぜって、九院家はかつてのあなたの仲間、人狼《じんろう》、犹守朔《えぞもりさく》が所属していたところなのですから」
「朔が……?」
ちずるが、ぱちぱちとまばたきしながら、九院を見た。
その反応に、四岐の唇に浮いた笑みが、深みを増す。
「どうやら……犹守朔は、あなたになにも語らずに去ったようだ。昔の仲間だというのに、ずいぶんと冷たい……いや、彼は彼なりに〈葛の葉〉への恩義を果たしたのか。ふふ、人狼一族は筋を通す種族らしいし……」
ふんだ、とちずるはそっぽを向いた。
四岐が小さく笑う。
「さて、自己紹介もすんだところで、そろそろ本題に入りたいと思うのですが」
「まだよ」
そっぽを向いたまま、ちずるはいった。
「まだ?」
「そうよ。あいつはどこ? どこにいったの?」
「あいつ……とは、だれのことでしょう?」
「おとぼけはなしにしてよね……わたし、とぼけるのは好きだけど逆にやられるのは大っ嫌いなんだから。美乃里《みのり》よ! 三珠美乃里……あの、女なんだか男なんだかニンゲンなんだか妖《あやかし》なんだか、あげくの果てには都合よくコピー能力なんてもの身につけてやがった、バケモノのことよ!」
怒りもあらわに、ちずるは吠《ほ》える。
ところが、四岐《しき》は笑いだす。
最初は控えめにくぐもった声が、やがて高く大きく、派手なものへと変わっていった。
「なーにがおかしいっていうのよ、このキモ細目!」
「いや、これは失敬……ですが、ふふ、源《みなもと》ちずるよ、あなたにバケモノ呼ばわりされれば、美乃里《みのり》もさぞかし光栄なことでしょう。なんといってもあなたは、バケモノのなかのバケモノ、それこそ世界遺産級のバケモノ、伝説の邪龍《じゃりゅう》、〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉なのですから!」
その四岐の言葉に、ちずるは唾《つば》を返した。
ぺっ、と飛んだ唾は、見事に四岐の頬《ほお》に当たった。
いや、四岐はまったく避《よ》けようとはしなかった。表情ひとつ変えず、身動きひとつせず、ちずるの唾を受けた。そして貼《は》りついた笑顔のまま、九院《くいん》に頬を向ける。九院はちずるを睨《にら》みつけながら、四岐の頬をハンカチで拭《ぬぐ》った。
「ああ、そうそう……美乃里でしたか」
すっかり唾を拭わせてから、四岐は歩きだす。
鎖に捕らわれ動けないちずるは、自分のまわりを歩く四岐を、ただ視線で追うしかない。
「いま美乃里にはね、とても大切な仕事を頼んでいましてね、ちょっと忙しい」
「とても大切な仕事ォ?」
「ところで、ひとつ教えていただきたいことがあるのですが」
ちずるの真後ろで、四岐は立ち止まった。
「実際のところ、あなたと〈御方《おかた》さま〉はどのような関係だったのでしょう? どうやら〈御方さま〉はあなたを置いて逃げてしまったようですが……」
「いつものように調べさせたらー? あの三珠《みたま》美乃里にでもね!」
全裸の状態で、しかも背後に立たれているのに、ちずるの態度に変化はなかった。肩ごしに、四岐に向かってせせら笑いをぶつける。
「もちろん調べさせましたよ。しかし、どうにもわからない。まず、〈葛《くず》の葉《は》〉の創設者であるはずの〈御方さま〉が、〈八龍《はちりゅう》〉であるあなたをかくまっていたこと自体がわからない。だって、〈八龍〉を捕らえるという〈葛の葉〉の目的を定めたのは、当の〈御方さま〉自身だというのに……なのに、なぜ? 〈葛の葉〉全体を敵にまわしてまで?」
「そんなのちずる、わかんなーい。だってちずる、〈御方さま〉じゃないしぃー」
なんともすっとぼけた、ちずるの口調だった。
「かと思えば、今回、あなたを置いてじつにあっさりと逃げだす始末だ……ならば、最初から素直に渡せばよかっただけの話でしょう? そう、このあいだ美乃里が〈御方さま〉の元へ、最後通牒《さいごつうちょう》が書かれた文章を届けたときにでもね。しかし、〈御方さま〉ははねのけた。源ちずるなどという妖怪《ようかい》は、この学校には存在しないとまでいった」
「だーかーらー」
「そう、そのとおりだよ。〈八龍《はちりゅう》〉。おまえは〈御方《おかた》さま〉ではない」
その声は、ちずるのすぐ後ろからあがっていた。
ぎょっとなってちずるが振りむくと、四岐《しき》はいつのまにか、音もなく近づき、息がかかるほどそばにいた。耳元で、あの貼《は》りついた笑顔を浮かべていた。
「これはわたしの推測なのだが……なあ、〈八龍〉? おまえ、本当に知らないんだろう? 〈御方さま〉がなにを企《たくら》んでいるのか、なぜ自分をかばうのか、なにひとつ知りはしないんだ。違うか? ん?」
驚きに見開いていた眼《め》を、ちずるは静かに細める。ふふん、と笑った。
「……化けの皮、はがれてるわよ?」
四岐の口調と態度の変化を、揶揄《やゆ》した。
にた、と四岐は笑う。
糸のように細めた眼のすきまから、決して笑っていない瞳《ひとみ》を、わずかに覗《のぞ》かせた。
「まあ、いいでしょう……」
ちずるから身を離す。
こんどは彼女の真横に立ち、バンザイするかたちをしたちずるの腕に絡んだ、金色の鎖へと視線をやる。そのきらめく冷たい鎖に人差し指を伸ばし、つつ……と撫《な》でた。
「先ほど説明しましたが、この鎖はヒヒイロカネ製です。すでにその身でおわかりだとは思いますが、〈八龍〉であるあなたを完全に封じきるほどの力がある。さすがは伝説の金属といえましょう。ですが、それだけにとても貴重でしてね……〈葛《くず》の葉《は》〉にもほとんど残ってはいないのですよ。さて、この鎖、どこにあったと思いますか?」
「はあ? あのね、クイズをだしたいんならそこの女とでもやったら?」
「正解は、最初からここにあった、ですよ」
ぴき、とちずるの目元が硬くなる。
「最初から……? それって」
「そう……このヒヒイロカネの鎖はね、最初からこの薫風《くんぷう》高校にあったのです。まったく驚くべきことではありますが、これと同種の鎖が、校舎のいたるところに張り巡らしてある。ほとんど建物の骨組みとおなじですよ。つまり、それだけ〈八龍〉、あなたのことを〈御方さま〉は恐れていたんでしょうね。まあ、一般の生徒もこの学校に通っていたのだから、当然といえば当然の処置か……だが」
四岐は笑い声をこぼした。低く、地を這《は》いずるような笑いかただった。
「くくっ、〈八龍〉よ、きみは知らなかった……〈御方さま〉から、なにも知らされてはいなかった……犹守朔のことすらも。おそらくは、〈葛の葉〉の組織のことも、なにもかも。ふふ、ふふふ、ふふ……まったく、かわいそうに、いいように利用されてしまって」
「なーにそれ? もしかして、わたしのこと揺さぶってるつもり?」
「美乃里《みのり》」
四岐はぱちんと指を鳴らし、美乃里の名を呼んだ。
『はい』
声が返ってきた。
まちがいなく美乃里《みのり》の声が、しかし、天井から。
「え?」
ちずるは天井を見あげた。
だが、蛍光灯のほか、なにもない。
「『彼』の準備はどうなった?」
『すでに完了していますよ、四岐《しき》さま』
こんどは床から聞こえた。
弾《はじ》けたような動きでちずるは視線を移すも、やはり、のっぺりした床以外、ない。
「ど……どこにいるの、美乃里! 姿を見せろ、このぉ!」
ちずるの声に、美乃里は笑い声を返した。
教室の天井から、壁から、床から、四方八方から、どうじに、あはは、あはは、あはははは……と響く。それは、まるで美乃里に食べられ、胃のなかにでも納められてしまったかのような声の迫りかただった。
「な……な?」
さすがのちずるが、色を失う。
「いいかげんにしないか、美乃里!」
叫んだのは、両耳を手のひらで押さえた四岐だった。
しかしその口元には、苦笑とでもいうべき笑みが浮かぶ。
ぴたりと、美乃里の笑い声は止《や》んだ。
『これは……申し訳ありません、四岐さま』
「あまりはしゃぐなよ、美乃里……だが、まあ、気持ちはわからなくもない。いま、この薫風《くんぷう》高校のすべては、美乃里、おまえの手のなかにあるのだからな。すこしばかり調子にのってしまっても、ふふ、これはしかたのないことだ」
「薫風高校の、すべてですって……?」
「おや、どうした、〈八龍《はちりゅう》〉? さっきまでの威勢はどこへ消えたのかな?」
「うるさい!」
にこにこと微笑《ほほえ》む四岐に、ちずるは怒鳴った。
「薫風高校のすべてってなによ! 美乃里がなにを……」
『つまり、こういうことだよ、ちずる』
美乃里の声とともに、ちずるの両腕両脚、しっぽを拘束するヒヒイロカネの鎖の締めつけが、強くなる。締めつけ以上に、妖力《ようりょく》を封印する効果は高まった。力を奪われ、「ぎっ!」とちずるは声をあげる。
「み、美乃里……あなたは……」
『うん。薫風高校に備えつけられた機能のすべては、いま、このぼくの支配下にある。さっきちずる、きみが褒めてくれた力、コピー能力のたまものだよ。〈御方《おかた》さま〉からちょっとコピーさせてもらったんだ。いやあ、この学校、なかなかおもしろいね? ちょっとした要塞《ようさい》なみの機能があるよ。なのに、どうしてちずるたちはぼくら〈葛《くず》の葉《は》〉との戦闘のとき、使わなかったのかなあ……このヒヒイロカネの鎖だけでも、うまく使われたらぼくたちはだいぶ苦戦したと思うんだけど。ねえ、どうしてかな、ちずる?』
「ば……バケモノ男女……」
力を吸われながら、ちずるは強気に笑みを浮かべた。
『わかるかな、ちずる……〈御方さま〉は、きみに力のすべてを授けなかった……それがなにを意味するのか……』
すとんと、鎖の締めつけがゆるむ。
解放され、はっ、はっ、とちずるはうなだれたまま、激しく息を乱した。
『〈御方さま〉は、きみが〈葛の葉〉に敗北するよう、そう仕組んだんだ』
ちずるの呼吸が、一瞬、止まる。
静かに笑い声をあげた。
「ふ、ふふ、ふふふ……けっきょく、なにがいいたいのよ、おまえたちは。どうやら、〈御方さま〉とわたしの仲を引き裂きたいみたいだけど……。で? もしわたしが〈御方さま〉に利用されていたのだとしたら、いったいどうなるのかしら?」
「事実、おまえは利用されていたんだよ、〈八龍《はちりゅう》〉……」
四岐《しき》がいった。
「だから、利用されてたらなんだっつーのよ、キモ細目!」
「美乃里《みのり》……証拠を見せてやれ。かわいそうな『彼』の姿をな」
『はっ……』
美乃里の返事とともに、砂が落ちてくる。
青い砂だった。天井のすきまから、さらさらさらさらと落ちてきた青い砂は、ちずるのちょうど眼《め》の高さで、宙にとどまる。どんどんと集まり、やがて円をかたち作った。
円は、青く丸い鏡と化す。
「『彼』……?」
と、いぶかしく眼を細めたちずるの前で、鏡に映像が浮かびあがった。
「あ……」
ちずるが息を呑《の》む。
『これはね、ちずる。薫風《くんぷう》高校にある機能のひとつで、砂鏡というんだ。わかりやすく説明すれば、モニターかな。べつの地点からの映像を映しだす力が……』
「耕太くんっ!」
ちずるは叫んだ。
鏡に映しだされた映像、それは彼女の恋人、耕太の姿だった。
薫風高校よりかなり離れた地で、〈御方さま〉に追いかけられている姿……ではなく。
耕太は捕らわれの身となっていた。
ちずるとおなじく裸で、やはりちずるとおなじくバンザイした両腕と両脚をヒヒイロカネの鎖で拘束された姿で、耕太はそこにいた。がっくりとうなだれているため顔つきはわからなかったが、髪型、体格、かつて〈葛《くず》の葉《は》〉の潜入員に『あなこんだ』と称された部分まで、すべてはまぎれもなく耕太そのものだった。
と、うなだれていた耕太が、顔をあげる。
うるみきった瞳《ひとみ》で、こちらを見た。
はっ、と表情を変え、なにごとか叫ぶ。必死の形相だった。音声こそ伝わらないが、口はこう動いていた。『ちずるさん、ちずるさん、ちずるさん』……と。
「耕太くんっ、耕太くんっ、耕太くんっ!」
ちずるも、繰り返し叫ぶ。
ヒヒイロカネの鎖に両腕両脚を拘束されながらも、ちずるは目の前にある砂鏡に向かって、そこに映る耕太に向かって、精一杯に身体を伸ばす。顔を近づけてゆく。眼《め》に涙をいっぱいにため、噛《か》み砕かんばかりに歯を食いしばり、そして、吠えた。
「うああああああああああ!」
ちずるの叫びが、教室中に響き渡る。
どうじに、彼女のまわりの空間が、揺らぎだした。
黒い霧状のものが、滲《にじ》みだす。
その暗黒|妖気《ようき》の出現とともに、消え去っていたはずの〈龍《りゅう》〉たちは復活を果たした。狐《きつね》のしっぽの付け根から、六本の燃えさかるしっぽたちが、うねりながら放たれる。ちずるから遠のき、離れた場所から見つめていた四岐《しき》と九院《くいん》をも、その炎で呑《の》みこまんとした。
〈龍〉が、四岐と九院を捕らえる寸前。
天井と床から飛びだした無数のヒヒイロカネの鎖が、炎のしっぽに絡みつき、締めつけ、押さえこむ。みるみる炎のいきおいは弱まり、〈龍〉は縮こまって、か細く燃えあがるだけとなった。
「耕太くぅーん!!」
ちずるはもがく。涙をあふれさせながらもがく。ひたすらもがく。
やがて、がく、とうなだれた。
ぶつぶつと声を洩《も》らす。違う……そんなわけが……。
「そうだ、違う! この耕太くんはニセモノよ! そうに決まってる! じゃなきゃ……いや、絶対に違う! ふんだ、騙《だま》されたりなんか、するもんですか!」
いきおいよく頭を起こして、ちずるは四岐を睨《にら》みつけた。
四岐は、九院とともに教室の壁ぎわにまで退いていた。蒼白《そうはく》なのに、その表情自体は笑顔という恐怖と歓喜の入り混じった顔つきで、四岐はいう。
「〈八龍《はちりゅう》〉よ……おまえはどうなんだ?」
ちずるの前の砂鏡を、指さした。
「おまえの眼《め》から見て、彼はどうなんだ? 本物か? 偽物か? わかるだろう。愛する男の顔つき、身体、しぐさ……よもや、見わけのつかないなどということはあるまい」
砂鏡の向こうで、耕太は泣きじゃくっている。
さきほどのちずるとおなじく、うなだれ、肩を震わせている。
ちずるは見た。
見て、くっ……とうめいた。
『ちずる……彼を救えるのは、きみだけだよ……』
美乃里《みのり》の声が、ささやくように響く。
「そう、そのとおり。すべてはおまえ次第なんだ、〈八龍《はちりゅう》〉よ。我々がなにを求めているのか……もはやいわずともわかっているな?」
四岐《しき》が、ちずるのそばへとやってくる。
「〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉となれ、源《みなもと》ちずる」
四岐の笑みに細くなっていた眼が、開く。
つるんと光のない四岐の瞳《ひとみ》で、涙で濡《ぬ》れ光るちずるの瞳を見つめた。
「いまある〈龍《りゅう》〉の数は六本……あとわずか二本、目覚めさせてくれればいいだけのことだ。簡単だろう? ああ、もちろんわかっている。おまえが八本の〈龍〉を目覚めさせ、〈八岐大蛇〉として覚醒《かくせい》すればどうなるのか……死ぬんだろう? 大いなる邪龍《じゃりゅう》、破壊神たる〈八岐大蛇〉の魂の前に、たかだか妖狐《ようこ》でしかないおまえの魂はつぶされ、砕かれ、死んでしまうんだろう? だからどうした? おまえひとりの犠牲で、愛する男の命が守られるんだ……安いものじゃないか。真におまえが、この少年、小山田《おやまだ》耕太を愛するのならば……だが」
「……して」
ちずるが、首をふるふると横に振った。涙が散る。
「どうして、〈八岐大蛇〉なんかおまえたちは覚醒させたいのよ! おまえがいうとおり、〈八岐大蛇〉はバケモノよ! 大いなる邪龍、破壊神よ! なのに、なんで……まさか、世界を滅ぼしたいからとか、そんなくだらないこといわないでしょうね!」
「見くびられたものだな……わたしはそこまで愚か者に見えるのか?」
四岐は笑った。
「しかし……ふふ、やはり〈八龍〉よ、おまえはなにも知らないのだな。なにひとつとして〈御方《おかた》さま〉から聞かされてはいないんだ。なぜ我々〈葛《くず》の葉《は》〉がおまえを追っていたのか、それさえすらも、な」
「な、なに……?」
「なぜ、我々〈葛の葉〉は〈八岐大蛇〉を復活させようとしているのか……それは、〈神〉を復活させるためなんだよ」
「〈神〉? じゃあ、やっぱり!」
「いや、〈八岐大蛇〉ではない。〈八岐大蛇〉の復活、それ自体はあくまで過程でしかないのだ。〈神〉の復活という、真の目的を達成するための過程でしか、ね」
「なに? なんなの? いったいなんなのよ、その〈神〉っていうのは!」
「ふふ……」
笑みを浮かべたまま、四岐《しき》はちずるにくるりと背を向ける。
「美乃里《みのり》、始めろ」
『あーあ、ちずる……あーあ』
砂鏡の向こう側で、動きが生じた。
耕太が顔をあげ、あたりをきょろきょろと見だす。その顔には、あきらかなとまどいがあった。
ぬっ、となにかがあらわれる。
砂鏡のなか、視界をふさぐようにしてあらわれたもの、それは鞭《むち》だった。
「なっ……」
絶句したちずるの見ている前で、上半身裸の、妙に色の白い肌をした男が、床に鞭を打ちつける。音こそちずるたちの側には伝わらなかったが、耕太はびくっと身体を震わした。ぷるぷると、まるで小動物のように怯《おび》えだす。
「こっ、耕太くんっ!」
悲鳴のような声をあげたちずるを、四岐は微笑《ほほえ》みながら見つめた。それは、四岐が意識して作りあげたいつもの表情ではない、心からの笑みだった。
鞭に打たれて、耕太は苦痛の叫びをあげた。
容赦なく、大粒の雨のように鞭は降りそそぐ。耕太の剥《む》きだしの肌を走り、舐《な》め、赤いみみず腫《ば》れを残してゆく。耕太が泣けど、叫べど、その手が休まることはなかった。
耕太はもがく。
ちずるとおなじくがらんとした教室のなか、両腕両脚を金色の鎖によって拘束されているために胴をくねらせることしかできなかったが、激しくもがき続けた。
数分後――。
「よし、一時休憩」
その言葉を発したのは、鞭を振るっていた男ではなく、耕太自身だった。
砂鏡ごしに自分を見つめるちずるには気づかれぬよう、うつむいた状態で耕太が告げた命令に、拷問役の男は素直に従う。鞭を振りあげた姿勢で、ぴたりと止まった。
耕太の身体は、全身、痣《あざ》だらけ、傷だらけだった。
一部、血を流している箇所もある。息も荒い。
その状態で、やはりうつむきながら、なにごとか耕太はつぶやく。
とたんに、ちずる側に映しだされていた砂鏡の映像は消えた。
ただし、耕太側の砂鏡は、べつだ。
そう、耕太の目の前にも、砂鏡はあった。
こちらはちずるの姿を映していた。突然、砂鏡から消えた耕太の映像に、ちずるはわめく。おそらくは横にいるだろう、四岐《しき》に向かって怒鳴る。ちずるの眼《め》は流し続けた涙で真っ赤だった。涙は頬《ほお》だけではなく、あごから胸元に垂れ、ふくらみを濡《ぬ》らしていた。
そのちずるの映像を見て、耕太は笑い声をあげた。なんとも乾いた声だった。
「鰐淵《わにぶち》」
笑い終え、耕太はいった。
鞭《むち》を振りあげた姿勢で止まり、そのままずっと固まっていた男が、びくつく。
彼は肌だけではなく、髪までも、まさに透けるように白かった。瞳《ひとみ》は紅《あか》い。いわゆる、アルビノの性質を持つ男だった。
「絶対に手加減するな。わかったか?」
ぶんぶん、と男はうなずく。
「そう、ぼくがただの代わりじゃないと、証明するために……」
耕太は静かに笑みを浮かべ、視線を砂鏡へと戻した。その青い鏡に映る、さめざめとした泣き顔を見せるちずるに、口元の笑みを強く、濃くする。耕太には決して作りだせないだろう酷薄な笑みを、この耕太は見事に完成させていた。
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[#小見出し]  二、真夜中のカーボーイたち[#「二、真夜中のカーボーイたち」は太字]
あまりに見覚えのある、双球のかたちだった。
だって、それはちずるの胸のふくらみなんだから。
忘れるはずがない。耕太《こうた》にとってはあまりにも、見覚え、触り覚え、吸い覚え、軽く歯を立て覚え、汗の匂《にお》いを嗅《か》ぎ覚えのある存在だった。
見慣れていても圧倒的な、この大きさ。
ずしんと重たく、しかし軽やかという、相反する要素を持った、矛盾するふくらみ。
もちろん、大きいのは大きい。
だけど垂れたりなんかはしない。
重力に負けず、自重に負けず、その先端で、耕太を見つめ返してくる。先端は、するん、さらんとした白い肌の頂点で、鮮やかに色づいていた。ふっくらと、育っていた。
ふろん。
あ、揺れた。かすかだが、たしかに揺れた。左右のふくらみが、どうじに揺れた。ステレオで揺れた。なんともドルビーサラウンドな揺れであった。
「本当、好きよね、あなたは」
こんなに見つめちゃいけないよなー……と脳の片隅で思いつつも、本能がそれを拒否していた耕太の耳に、ちずるの声が届く。
「ううん、べつにかまわないけどさ。こんなもの、あなたに吸われるぐらいしか役には立たないんだし。ん? ち、違うわよ! べつに吸ってほしいだなんて……あ、こら!」
求められたのなら、応《こた》えましょう。
耕太は吸った。
くわえ、吸う。ちうちうちう。どうじに、がきっ、と耕太の後頭部は抱きしめられ、押さえつけられる。ん……んふっ、ん……。ちずるが、鼻から抜けるような声を洩《も》らした。
「もう……バカなんだから……」
発せられた言葉とは裏腹に、それは甘い口調だった。
素直じゃないなあ、ちずるさん……。
そう思って、耕太は気づく。
これ……本当にちずるさん?
いや、声はたしかにちずるのものだし、ふくらみだって、吸い心地だって、まちがいなくちずるのものでしかなかったが……だけど、あれ? あれれー? ちずるさんはいつだって、素直すぎるくらい素直だったはずじゃ……。
本人の顔を確認しようと、耕太はくわえたまま、視線を上へと向ける。
「がうー!」
望《のぞむ》の叫びが、あがった。
「や? やや?」
とたんにすべては消え去る。
吸っていたふくらみの感触も、ちずるの姿もなにもかも消え、代わりにあらわれたのは、まず雪だった。夜がもたらす闇《やみ》のなか、はらはらと舞う粉雪たち。えーと……。耕太は首を傾《かし》げ、さきほど叫びをあげ、いまもまた叫びをあげる望を見た。
「うー! あうー!」
望は、捕まっていた。
巨大にもほどがある『手』にだ。
その『手』に望の身体はすっぽりと握りこまれ、肩口と首、顔だけを上から覗《のぞ》かせていた。望は懸命にもがく。ぐいぐいと首を伸ばす。しかし、どうにも逃げられないようだ。とうとう、「がう!」と顔のすぐ下にある太い人差し指にかぶりつく。
「えうー……」
望は顔をしかめ、ぺっぺと口のなかにあるものを吐きだした。
それは土だった。
望をつかんでいた巨大な手は、なんと、土でできていた。土製の手……? とにかく、耕太は望の元へいこうと、歩を進める。早く助けてあげなきゃ! ところが、動かなかった。足が……というより、耕太はどこもかしこも動かすことができなかった。
「あう!?」
耕太も捕まっていた。
望《のぞむ》とおなじく、巨大な『手』にだ。捕まりかたもおなじだった。肩より下は、すっかり巨大な『手』が作りあげた監獄のなかに捕らわれてしまっている。自由になるのは、ただ顔と首だけだった。手足は微動だにすらしない。
「ええ……?」
耕太と望をその左右の手につかんでいたのは、巨人だった。
それも、〈御方《おかた》さま〉の顔をした巨人だった。
顔どころか、あまりグラマーとはいえないスタイルまでもおなじである。服装自体は着物だし、色あいも素材である土と同色の黒色で、なによりサイズが巨大にもほどがあったが、まちがいなくそれは、〈御方さま〉そのものだった。
砂人形……?
耕太は思いだす。
砂使いである〈御方さま〉は、砂で自分そっくりな人形を作りあげることができた。それは、〈御方さま〉の自在に動く人形だった。いま自分たちが捕まっている人形はあまりにサイズが大きすぎたが、しかし、耕太は見たことがあった。かつて〈御方さま〉が、砂浜にて特大サイズの砂人形を作りあげたところを。
どうやら、砂浜ではなく林では、砂の量が足りなかったらしい。
きっと、土に砂を混ぜこむかたちで、〈御方さま〉はこの巨人を作りあげたのだ。いつてみれば、砂人形ならぬ土人形か。
「離して……くれないかな」
耕太は、土人形を見つめ、いった。
幸いなことに、耕太の身体は土人形のほうを向けて握られていたため、無理に首を曲げる必要はなかった。
あう? 〈御方さま〉そっくりな顔をした土人形が、首を傾《かし》げる。
「ぼくたちは、ちずるさんの元にいかなくちゃならないんだ。なるべく、一刻も早く。だから……この手を、離してください。お願いします」
ぺこり、頭をさげた。
肩より下は動かなかったため、精一杯、顔を下に向ける。
望も、その耕太の様子を見て、頭をさげた。望の身体は耕太とは違い、土人形の『顔』ではなく、その『手』がつかんだ耕太のほうを向いていた。そのため、いったん土人形の側へと自分の顔の向きを九〇度変え、それから首を曲げていた。すこし辛そうだ。
土人形は、耕太と望、ふたりに頭をさげられて――。
捕らえていた指の力を、かすかにゆるめた。
え?
お願いしておきながら、耕太は眼《め》を丸くする。
まさか本当に離してくれようとするなどとは思いもしていなかった。だって土人形は、〈御方《おかた》さま〉によって作りあげられた存在なのだ。〈御方さま〉の命令ならともかく、耕太のお願いなんか、普通ならば聞くはずがない。なのに耕太が頼んでみたのは、ただなんとなくだった。さきほど見た一瞬の夢が、ヘンな感じに働いたのかもしれない。
この状況で、ちずるさんの胸を吸う夢を見るだなんて……。
まったく、ぼくというやつは……落ちこみつつ、しかしそれでチャンスを逃すつもりは耕太には毛頭もなかった。
顔を下に向けたまま、横目を使う。
望《のぞむ》もまた、耕太を横目で見つめていた。
どうじにうなずく。
巨人の『手』から這《は》いでようと動いた。わずかに空いたすきまを、ぐりぐりとずりあがる。なんとか両腕がでた。よし! 手を巨人の人差し指につき、一気に身体を抜く――。
「がっ!」
いきなりつかまれた。
胴体より下が、ぎりぎりぎりと締めつけられる。望を見れば、そっちは片足だけが捕まっていた。お、おしい! あともうちょっとだったのに、どうして……耕太が視線を向けると、土人形は、むー、としかめっ面をしていた。あれ?
「あ、あのー?」
耕太が話しかけると、ぷい、とそっぽを向く。
なぜ……と思ったとたん、耕太の疑問は解けた。
音が近づいていた。
あの、マフラーの排気音が。
なるほど、本人がやってきたんじゃ、ぼくのいうことなんか聞けるはずもないよね……はー、とため息をつく耕太の後ろ、はるか下で、車は停《と》まった。
ドアが開く。続けて、いきおいよく閉じた。
「手間をとらせおって……」
〈御方さま〉の声が、耕太の背中へと浴びせられる。
続けてもうひとつ、ドアが開いた。閉まった。またひとつ開く。こちらは、どうやらスライド式のドアのようだった。耕太は振りむいて自分の眼で確認したかったが、なにしろ土人形の手による圧迫がすごくて、どうにもならなかった。
と、動きだす。
耕太をつかんでいた土人形の手が、下へと動きだした。
いや、土人形自体がしゃがみこんでいたようだ。よっこらせ、と片|膝《ひざ》ずつ地面につき、かわいく、ちょこんと道路に座りこむ。その姿勢で、腕をまるで大きなものを抱きしめるかのように弧を描かせ、下げた。手につかまれた耕太と望は一緒に移動して、ようやく車から降りた〈御方《おかた》さま〉、八束《やつか》、蓮《れん》、藍《あい》とじかに顔を合わせることができた。
「パパ……」
「アイジンさん……」
蓮と藍が、不安さを隠そうとしない、目元も口元も弱々しくゆがませた表情で、耕太と望《のぞむ》を見つめてくる。耕太は安心させるため、ふたりににこりと微笑《ほほえ》みかけた。はう。蓮と藍が、その身体を縮こまらせる。
「耕太よ……なぜわからぬ?」
縮まった蓮と藍の前に立ち、〈御方さま〉はいった。
「おぬしはいうたな。ちずるが、〈葛《くず》の葉《は》〉に……いや、美乃里《みのり》の前に敗北し、捕らわれの身になったと」
はい、と耕太はまっすぐに〈御方さま〉の眼《め》を見つめ返し、答える。
「だからぼくは、ちずるさんを助けにいかなくちゃならないんです!」
「うー……。耕太、うー……」
望が、片足を土人形の手につかまれたままで、んじーっと耕太に視線をぶつけてきた。
土人形は腕を抱きしめるかたちにまわしていたため、手は隣りあわせとなっており、結果としてつかまれた耕太と望の位置は、すぐ近くとなっていた。間近で見つめられた耕太は、望の求めるところをすぐさま理解する。いい直した。
「もとい、ぼくと望さんは、ちずるさんを助けにいかなくちゃならないんです!」
うんうん、と望《のぞむ》が満足げにうなずく。
「どうやってじゃ?」
「え?」
「どうやってちずるを助けだすつもりじゃ、と訊《き》いておる。〈葛《くず》の葉《は》〉はの、伊達《だて》に国内有数の退魔の組織などと呼ばれておるわけではない。その力は、おぬしもよく知る、ほれ、あの九尾《きゅうび》の狐《きつね》めを相手にしても、決してひけをとるものではないのだ。そこまで強大な相手に、おぬしはなんじゃ? なにができるというのじゃ?」
「それは……」
「修行ひとつしたことのない小僧が……ふん、すぐさまやられてしまうわ。まあ、それはよい。痛い目に遭いたければ好きにすればよかろう。じゃがの、おぬしの危機は、ちずるの危機につながるのじゃぞ? おぬしが危機に陥れば、ちずるは〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉と化してしまう……そして〈八岐大蛇〉と化せば、ちずるの魂は砕け、死ぬのだ。よいのか? おぬしは、本当にそれでよいのか? 勝算もなく、ただおのれの感情がおもむくままに行動し、愛するものを破滅させる……それが耕太よ、おぬしの愛なのか?」
「ち、違う! 違います!」
「なにが違うというのじゃ」
「ある! 勝算なら……あるんです!」
「ほう……」
〈御方《おかた》さま〉の眼《め》が、鋭くなった。
「聞かせてもらおうかの? その勝算とやら……いや、見せてみい。耕太よ、ちずるを救いだせるとかいう、おぬしの勝算……実際に、このわしの前でやってみせよ!」
ちずるさん……。
耕太は、自分の首のまわりに巻いた黒いマフラーに、手を伸ばした。
ちずる特製、手作りの毛糸のマフラーだ。かたちはいびつで、編み目もそろってはいない。いかにも当時のちずるの不器用さそのままのマフラーは、毛糸だけではなく、彼女の各種体毛、エキス等が編みこまれてある。そのため、このマフラーから、耕太はちずるの力を借りることができた。
具体的には、変化だ。
耕太は、このマフラーを身につけているかぎり、ちずるに憑依《ひょうい》されずとも、妖狐《ようこ》の姿に変化することができた。能力自体は、じかにちずるに憑依されたときよりは落ちるが……。
しかし、いまは使えなかった。
マフラーから、なんの力も感じなかったからだ。
いつもの、ほんわかと暖かい、まるで包みこんでくるかのようなちずるの妖気《ようき》が、まったく伝わってこない。距離のせいだろうか。いや、やはりちずるの身にはなにか異変が起きているのだ。これはその証拠なのだ。
とにかく、耕太は妖狐に変化することはできない。
だけど――。
「望《のぞむ》さん!」
「おう!」
耕太の横で、片足を巨人の手につかまれていた望が、その身体を伸ばしてくる。やはり下半身を巨人につかまれていた耕太の顔をがっちりと両手で挟みこんで、顔を寄せた。
唇を、重ねる。
耕太は望とキスをした。
そう。マフラーを使えない耕太は、妖狐《ようこ》には変化できない。
だけど、人狼《じんろう》ならばどうだろうか? いる。人狼ならばいるのだ。すぐそばに、それもアイジンとして。憑依《ひょうい》合体するためには、互いに心を許しあってなくてはならないという。耕太は、望とならば、その条件を越えられる自信があった。
しかし……。
耕太と望は、唇を重ねていた。
ずーっと、重ねていた。
頭に雪がしんしんと降り積もって白くするくらい、重ねていた。が。がが。ががが。
「んん?」
耕太と望は、どうじにまぶたを開く。
互いに眼《め》をしばたたかせ、ぷはっ、と唇を離した。
「ど……どうして……」
どうしてぼくたち、合体できないのー!?
望も、がううー? と頭を抱えだす。なんで、どうして?
「満足したかの?」
その〈御方《おかた》さま〉の声は、思いもかけず優しかった。
「妖《あやかし》が人に憑《つ》くというのはの、そうそう簡単にできることではないのじゃ。耕太よ、おぬしはちずる以外に憑かれたことはないじゃろうからわからぬのも無理はないが……そもそも人狼というやつ、そのほとんどは肉体バカでの、妖術《ようじゅつ》に長《た》けたものはすくない。耕太よ、おぬし、望がなにか妖術を使ったところ、見たことがあるか?」
たしかに見たことはなかった。だが。
「で、ですけど、前にいちど……ぼくは望さんと合体したことが!」
「ほーう? ところでそれは、本当に望以外はおらんかったかの? たとえば、ちずるも一緒に憑いておったとか」
「あ」
そうだった。
あのとき、望が生まれた人狼の里で憑依合体したときは、たしかにちずるも一緒だった! 思えば、なるほど、ちずるがフォローしてくれていたから、望は耕太にとり憑くことができたのだ。
「そ、そんな……」
がくりと、耕太の身体から力が抜ける。抜けてゆく。
「ごめん、耕太……わたし、役立たず……」
「そんなことない、そんなことないよ、望《のぞむ》さん」
耕太は首を横に振った。
しかし、うなだれた身体を起こす力はなかった。それほどショックは大きかった。
できるのに、と思う。
いまの自分なら、できるのに。
耕太の脳裏に、ちずると望によって気をすべて吸いとられ、三日は目覚めることのない眠りに落とされていたとき、見た夢での言葉が浮かびあがる。それは、深層意識でつながったちずるに、心のなかで語られた言葉だった。
耕太の身体にはね、まだまだ気が眠っているの。
それはもう、無尽蔵なほどの量が――。
そう、あるのだ。耕太には力がある。無尽蔵なほどの量の、きっとちずるを救いだすことができるだけの力が。
なのに、いくら気があっても、それを力に転化することが耕太にはできない!
電気と一緒だ。いくらコンセントという、電気を無尽蔵なくらい使える場所があったとしても、それを力に転化する家電用品がなければなんの意味もない。ただの穴だ。いまの耕太もおなじだ。ただの気だ。でくの坊だ。役立たずなのはまったくもって自分だ。とんだポンコツ野郎だよ……え、えへへ、えへへへへ。
「どうやら、理解したようじゃな……」
〈御方《おかた》さま〉がいった。
「さ、わしらとともにこい。おぬしの気持ちはよくわかった。いまはその気持ち、胸にしっかりと抱いておけ。いずれ、報われるときはくる。否、わしがこさせてみせよう。心を鬼にして、おぬしを鍛え、いじめぬき、その膨大な気をぞんぶんに使いこなせるようにしてみせる。最強の術者へとしてくれるわ。覚悟しておくのじゃぞー?」
と、〈御方さま〉は笑いだす。
その楽しげな高笑いを浴びながら、耕太はぎゅっとまぶたを閉じた。唇を噛《か》む。
これで……終わりなの?
あっさりと〈御方さま〉に捕まって、それで強引に安全だとかいう場所へと運ばれ、それでぼくは終わりなのだろうか? ちずるのために戦うことひとつできずに?
〈御方さま〉はみじんも信じてはくれない。でも、それではダメなのだ。
いま助けにゆかなければ、ちずるの身にはなにか致命的なことが起こる。そして耕太は一生涯、そのことを後悔して生きる。わかるのだ。耕太にはわかってしまうのだ。
「ぼくに力さえ……あれば……」
かたく閉じた耕太の眼《め》から、涙がこぼれだす。
自分がふがいなかった。
力さえあれば、いま自分のなかからあふれてるとてつもない量の気、それを活かすだけの方法がありさえすれば、ぼくは、ぼくは……!
『――力が欲しいか?』
声が聞こえた。
はっ、と眼を見開き、しかし耕太は、最初は空耳だと思った。まさか、ここにあのひとがいるわけがない。そんな、都合よく。
『欲しいならくれてやる……なーんてな? いや、本当にプレゼントできるんだが、どうする、耕太くん? いるかい、力?』
まちがいなかった。この真剣な状況で、この茶化すような口調。
あのひとだ。
かつて耕太と、ちずるをめぐって闘った相手。過去、ちずるのパートナーを務めた男。初めて耕太が嫉妬《しっと》という感情を覚えたひと……。彼との闘いで、ちずるは〈龍《りゅう》〉の力に目覚めた。ある意味、すべてのきっかけになった存在といえないこともない。
「お? 兄さま、どこ?」
望《のぞむ》が、いそがしく周囲を見回す。
狼《おおかみ》の耳をぴんと立たせ、鼻もひくひくと動かす。〈御方《おかた》さま〉や八束《やつか》も厳しい顔であたりへ視線を向ける。しかし、だれも彼の姿は見つけだすことができなかった。
「……ください!」
耕太は叫ぶ。
空を見あげ、降りそそぐ雪に向かって、精一杯、声を張りあげた。
「力を! ちずるさんを守れるだけの力を、ぼくに……朔《さく》さん! 犹守《えぞもり》朔さん!」
『よし!』
嬉しげな声とともに、その男は飛びだした。
土人形の、その胸のなかから。
派手に土くれをあたりにまき散らしながら、銀髪で革のライダースジャケットを着こみ、目元はゴーグルで覆った男、人狼《じんろう》、犹守朔が、姿をあらわす。
その口元には、どう猛な笑みがあった。
「ハハハハハッ!」
耕太をつかんでいた巨人の手を、笑いながら蹴りあげ、砕く。返す動きで、望を捕らえていた巨人の手にパンチを落とす。あっさりと壊した。
「望!」
「おーう!」
朔への返事とともに、望は耕太の腰に組みつく。あうっ。
そのまま、耕太はひょいっと望《のぞむ》の肩にかつぎあげられた。
両手を壊され、土人形の顔は×印の、えーん、という泣き顔に変わっていた。その土人形が伸ばしたままの両腕に、朔《さく》と望は左右別々に跳びのる。
朔は左腕、望は右腕側を、それぞれ駈《か》けあがっていった。
耕太は望の肩にかつぎあげられたまま、落ちないよう彼女にしがみつきつつ、〈御方《おかた》さま〉と八束《やつか》、ふたりの動きを見つめる。
あれ……?
〈御方さま〉と八束は、動かなかった。
いまにも逃げだそうとする耕太を、眼《め》で追ってはくる。顔の向きで追ってはくる。しかし、実際に手や足を動かそうとはしなかった。〈御方さま〉は胸の前で腕を組んだまま、八束は木刀をだらりとさげたまま、黙って耕太を見送るだけだった。
な、なんで?
あれほど熱心に追ってきたのに……車で轢《ひ》き殺そうとすらしたのに?
なのに、どうして……。
いぶかしく思っているうちに、朔と望は土人形の腕を登り終え、肩を越えた。〈御方さま〉と八束、そして蓮《れん》と藍《あい》の姿は大きな土人形の背中に隠れ、見えなくなってしまった。土人形の背中を、そのまま朔と望は離してゆく。
あおーん……。
がうーん……。
わ、わんっ。
朔が吠《ほ》え、望が吠え、耕太も吠えた。
続けて、大排気量のバイクによる、野太い咆哮《ほうこう》があがった。発進して、加速度的に甲高くなりながら、そのエキゾースト・ノートはみるみる遠ざかっていってしまった。
「……いってしまいましたな」
八束が、つぶやくように洩《も》らす。
「ふん……」
〈御方さま〉は鼻で笑った。
その視線は、目の前にそびえる、自分とおなじ姿をした、しかし巨大な着物を着た土人形へと注がれていた。
土人形の顔は、×印の泣き顔のままだった。
両手は朔に砕かれて無くなったまま、胸には朔が飛びだしたときにできたハートマーク型の大穴を空けたまま、道路にぺたりと座りこみ、あーん、あーん、泣く。
「いつまで続くんじゃ? その泣き真似は」
びくん、と土人形が震えた。
「そもそもおぬし、痛みなんぞ感じんじゃろーが。その手も胸も簡単に直せるくせしおって……なのに泣き真似なんぞしおって、わざと道路をふさいで、わしらがやつらを追う邪魔をしてるのがバーレバレじゃ。まったく、あの不良オオカミがおぬしのなかに隠れていたことを黙っておったのもそうじゃし、おぬし、だれが創造主なのかきちんとわかっておるのか? このたわけめが……」
顔をしかめる〈御方《おかた》さま〉の前で、土人形は、てへ、と自分の頭を叩《たた》くしぐさをする。×印だった表情はすっかり元の顔に戻っていた。
あっさり、胸にあったハートマーク型の穴はふさがる。左手も元通り生える。
ところが、右手だけは戻らなかった。
耕太をつかんでいた右手だけは、再生せず、なぜか朔《さく》に砕かれた指のままだった。あーれー? と首を傾《かし》げて、土人形が自分の手をしげしげと眺めだす。
「やはり小山田《おやまだ》は……」
と、八束《やつか》が膝《ひざ》と腰を曲げて屈《かが》みこみ、〈御方さま〉の耳元でささやきだした。
「まだじゃ。まだわからぬ。まだ……」
「ですが砂人形のあの手、まちがいなく小山田の気を浴びたために相違ありません。一瞬、わずか一瞬ではありますが、小山田の気は変質しました。大きく無尽蔵だが茫洋《ぼうよう》とした、ある意味では空気のような気から、あの瞬間、たしかに……それにです。砂人形が創造主たる〈御方さま〉に逆らい、小山田をかばうような真似をしたのだって」
「まだわからぬといっておろうが! 早まるでないわ!」
叱《しか》るような〈御方さま〉の口調だった。
すぐさま八束は直立し、びし、と頭をさげる。
「申し訳ありません。出すぎた真似をいたしました」
「いや……すまぬ、わしが臆病《おくびょう》すぎるのじゃろう」
「いえ、〈御方さま〉はただ慎重にことに当たろうとしているだけです」
「違う。ただの臆病じゃ。本当はわしも信じたい。信じてしまいたい。だが許さぬ。わしの弱さがそれを許しはせぬのだ。ただおのれは逃げだしてしまいたいだけなのではないか? 永い永い旅路の果てにすっかり疲れ果て、すべてを放りだしてしまいたいだけなのではないか? そう思えてしかたがないのだ。おのれを信じることができぬ。どうして信じられようか? すべての始まりを作ったわしが、どうして……」
「もうすぐ、わかります」
八束の声は力強かった。
「もうすぐ……答えはでます。かならず」
「たしかにの。しかし、そのためにはまだ、あとひとつふたつ……」
そのとき、ふたりの背後でなにかが割れた。
ひとつ、ふたつ、破裂音は続く。
最初の音を背中に浴びた時点で、さすがの〈御方《おかた》さま〉と八束《やつか》が眼《め》を見開き、わずかに身じろぎした。すぐさまふたりは驚きから立ち直り、振り返る。
後ろに停車してあったミニバンが、がくんがくん、傾いていた。
そのタイヤからは、激しく空気が洩《も》れだしている。
「やー!」
「たー!」
ぱん、とあらたな破裂音があがった。
それは最後のタイヤが、伸びた鎖に貫かれ、パンクさせられる音だった。
「てやー!」
「とやー!」
四本のタイヤを破裂させた張本人、蓮《れん》と藍《あい》が、続けて右腕を振るう。
双子の手から放たれた鎖の先端は、こんどはミニバンののっぺりとしたフロント、そのエンジンが納められた部分に突き刺さった。
ずるるるん、と鎖が抜けた途端、空けられた穴から火が噴く。
そのままミニバンは爆発、炎上した。
火の粉をあげ、炎であたりを派手に色づかせたミニバンを背に、蓮と藍は〈御方さま〉たちへと向き直る。双子の四つの瞳《ひとみ》が、逆光のなか爛々《らんらん》と輝いた。
「……おぬしら、これはいったいなんの真似じゃ?」
〈御方さま〉の問いかけに、蓮と藍は構えをとる。
「パパのあとは……」
「追わせない!」
「耕太パパとちずるママの愛娘《まなむすめ》たる、我ら!」
「七々尾《ななお》蓮、七々尾藍の名にかけて!」
〈御方さま〉の唇に、ふっ……と笑みが浮かんだ。
「耕太パパのあとは追わせぬとな? だがおぬしら、たしかちずるママより頼まれたのではなかったのかの? 耕太パパを守ってやってくれと……」
「そのとおりだ!」
「ママはいった、パパを守ってあげてと!」
「ふむ……ならばなぜ、パパを安全な場所へと運ばんとするわしの邪魔をする? なぜパパがママを助けにいってはならぬのか、その説明はおぬしらも聞いておったな? そのうえで邪魔するのは、耕太パパとちずるママ、双方の命を危険にさらすことにはならぬか?」
その言葉に、爛々と輝いていた蓮と藍の眼が、伏せられる。
「……ママの優しさに」
「わたしたちは甘えてしまったんだ」
「甘え……とな?」
双子はそろってうなずいた。
「ママはいった。パパを守ってやってくれと」
「だけどそれは、わたしたちを守るための、ママの優しさだった」
「わたしたちが、かつての仲間たちと……肉親と争わずにすむように、互いに傷つけあわずにすむように、あえてそういったんだ。戦いの場から離れるための理由を、ママはわたしたちにくれたんだ」
「わかっていた。わかっていたのに、わたしたちは甘えた。甘えてしまった」
「だから……」
「そう、だから!」
瞳《ひとみ》が、また〈御方《おかた》さま〉へと向く。輝きを増す。
「もう、甘えない!」
「ママのため、我らも戦う!」
「まずはパパの手助けだ!」
「ママを助けにいったパパの邪魔は、させない!」
たー!
蓮《れん》と藍《あい》が放《ほう》った鎖が、〈御方さま〉の顔面を襲う。
しかし鎖は、笑みを浮かべたままの〈御方さま〉の顔面を貫く寸前で、横あいから八束《やつか》が突きだした木刀によって、払われた。
そのまま八束は〈御方さま〉の前に立つ。
「この阿呆《あほう》どもが……!」
鋭く尖《とが》った八束の三白眼を、蓮と藍は負けじと睨《にら》み返した。
「まあ、待て待て」
〈御方さま〉が、自分の前に立った八束をなだめるように、その背に手のひらを示した。
「のう、蓮よ、藍よ、おぬしたち、このまま見事わしらを成敗したあかつきには、いったいどうするつもりなのじゃ?」
「せ……セーバイした?」
「そのアカツキ?」
蓮と藍は、〈御方さま〉たちを倒せるなどとはまったくもって思ってもいなかった証《あかし》のように、強く戸惑う。
「そう、わしらを倒したそののちのことよ。できておるのか? かつての仲間たちと……あの酒好きの父親と互いに殺しあう覚悟はちゃんとできておるのか、そう訊《き》いておる。どうなのじゃ? ん? んんー?」
〈御方さま〉はなんとも底意地の悪い笑顔を浮かべ、蓮と藍に尋ねるのだった。
薫風《くんぷう》高校の、一階にある教室の一室。
そこが熊田《くまだ》ほか、ちずるとともに〈葛《くず》の葉《は》〉と戦った妖《あやかし》たちが押しこめられていた場所だった。ちずるが捕らわれの身となった教室とおなじく、机や椅子《いす》はすべて運びだされ、がらんとした床に、彼らはみなヒヒイロカネの鎖でもって縛りあげられ、転がされていた。
「んぎー! こぎー! はぎー! もぎー!」
ひたすらもがき続けているのは、〈鬼〉の娘、乱《らん》だ。
床に転がる、身長二メートル級の筋骨たくましい彼女の身体。美女というよりは美男に属する凛々《りり》しい顔。それらはみな、先の戦闘における熊田との乱打戦によって、ぼこぼこに腫《は》れ、どこもかしこも青あざだらけとなっていた。虎縞《とらじま》の服も焦げたり裂けたりでぼろぼろ、上半身なんかは剥《む》きだしで、彼女の豊かなふくらみをぞんぶんにさらしている。
鎖は、その胸のふくらみの上下を挟みこむかたちで、乱の身体に巻きつけてあった。
乱の太い両腕は背中で一緒に押さえつけられ、さらに膝《ひざ》と足首にも鎖は絡みつく。
ヒヒイロカネの鎖には妖力《ようりょく》を封じる効果があったため、いかにがんばろうとも、彼女は毛虫のようにのたくることしかできなかった。
やがて、乱はぜひー、ぜひー、と荒く息をつく。
「あ、あんたも、ちったあ抜けだす努力をしてみたらどーなのさ!」
「ぬ?」
乱に床から怒鳴られたのは、熊田だった。
累々と横たわる仲間たちのなか、熊田はひとりあぐらをかいていた。そのため、まるで山のようにそびえて見える。上半身を覆う衣服はない。ぐるぐる巻きの鎖の下、やはりさきほどの戦闘でぼろぼろとなった肉体を、濃いめの体毛ごと剥《む》きだしにしていた。
ぬっふっふっ……と熊田は低く笑う。
「さきほどおぬしにもいったろう……この金の鎖はヒヒイロカネでできておる。わたしたちレベルの妖がなにをしようとも、抜けだすことはできんよ」
「だったら、このまま黙ってちずるさまがいたずらされるのを見てうってーのかーい!」
そのあまりの大声に、乱のまわりの妖たちは、ぴきーん、と身体を硬直させた。
鎖で拘束されているため、離れることも耳を押さえることもできない。ただ、あわあわあわ……と痺《しび》れるしかなかった。
ああ、と乱は身体をくねらせだす。
「かわいそうなちずるさま……きっといまごろ、裸に剥かれて、鎖で縛りあげられて、いやらしーやつらに囲まれて、あんなことやこんなこと……うん、きっとそうだ! あの九院《くいん》なんか、顔と身体を見ればわかるとおりのエロ熟女だもん。エロ熟女のねちっこい責めの前に、いつしかちずるさまの眼《め》からこぼれた涙、それはああ、屈辱と歓喜の入り混じった、嫌よ嫌よも好きのうち、へへっ、身体は正直だな? ああん、ダメェ……」
「元気だな、おぬしは……」
ぽつりと、熊田はいった。
妄想にひたって腰を中心にくねくねしていた乱の顔が、さーっと赤くなってゆく。
「な、なななな、ななな」
「そこまで心配せずとも、おぬしが想像しているようなことにはならん。おそらくな……」
「そ、そそ、想像なんかべつにあたしは……って、あん?」
「――源《みなもと》も心配ではありますが」
口を挟んだのは、馬頭《めず》だった。
乱《らん》のそばに転がっていた馬頭は、ほとんどレンズが砕け、よれよれのフレームだけとなった眼鏡を、それでもかけていた。
「我々の身も心配せねばなりません。どう考えても無事にはすまないでしょう。良くてあの〈葛《くず》の葉《は》〉の妖《あやかし》用刑務所送り、悪ければ……いや、十中八九、このまま始末され」
「んなこたどーでもいーんだよ! この青ビョーターン!」
「るぴぱー!」
乱に耳元で叫ばれ、馬頭の眼鏡にわずかに残っていたレンズが、完全に砕け散った。白目を剥《む》いて失神した馬頭を無視して、乱は熊田《くまだ》を見あげる。
「ど、どーゆー意味だい、それ! ちずるさまがあたしの想像していたようなことにはならないって、まさか……あれ以上のひどい目に!? そんな、エロ熟女の股間《こかん》から、わー、触手が生えちゃったー! ダメー! その数は、さすがのちずるさまでも、無理!」
「本当に元気だな、おぬしは……」
すぱぱぱぱー! と乱の鼻からいきおいよく息が吹きだす。
「なななな、なななな、ななななななな」
「待つのだ」
落ちついた調子で、熊田はいった。
「ま、まま、ま……待つ?」
「うむ。かならずや機会はくる。そのときのため、いまは待つのだ。いざというとき動けるよう、いまは身体を休めて……な」
と、熊田は眼《め》を閉じる。
そのまま寝息をあげ始めた。
乱はしばらくのあいだ、あぐらをかいたまま眠る熊田を呆然《ぼうぜん》として見つめていた。だがやがて、ふん、と転がり、天井を向く。
「あたしはあたしのやりかたでいくさ。……んぎー! こぎー!」
歯を剥きだしにして、ふんばりだした。
そのまま、乱はひたすらうなり声をあげる。はぎー! もぎー!
熊田はひたすら寝息をたてる。 ぐがー、ごがー。
あとは残った妖たちが小声で語りあうだけとなった教室の、その隅。
そこにたゆらと桐山《きりやま》はいた。
ふたりは一緒に縛りあげられ、転がされていた。
どちらも意識はない。
〈かまいたち〉の沙介《さすけ》とシーナの攻撃によるダメージから、まだふたりは回復していなかった。ヒヒイロカネの鎖は妖力《ようりょく》を封じる。そのため、回復力をも奪われていたのだ。
うーん、うーん。
そのたゆらと桐山《きりやま》の上に、澪《みお》はいた。
おかっぱ頭の澪の口から、うーん、うーんと声は洩《も》れる。澪はどうにかして治癒効果のある体液、通称『澪の油』をだそうとしていたが、ヒヒイロカネの鎖によって、やはり彼女の能力も封じられていた。
「ミオ……」
〈ももんが〉の小柄な体格の男、天野《あまの》が、心配そうに澪を見つめる。しかし止めようとはしなかった。まわりの妖《あやかし》のだれも、澪の行為を止めようとはしなかった。
うーんうーん、うーんうーん。
股《また》の下から湧《わ》きあがってくる、エンジンの駆動音。
背後で高く鳴り響く、マフラーの排気音。
耳を激しくこすって通りすぎてゆく、風切り音。
それらすべてに負けぬよう、耕太はいま自分が腕をまわしてしがみついていた大きな背中に向かって、叫ぶ。
「あの、朔《さく》さん!」
「なんだい、耕太くん!」
革のライダースジャケットに包まれていた背中が、負けじと叫んで答えた。
しかし、銀髪を風に踊らせつつ、彼は振りむこうとはしなかった。
当然だった。
だって彼はバイクを運転している最中なのだから。
いちいち振りむいていたら危なくてしかたがない。スピードだってかなりのものだし、それに耕太たちは全員ヘルメットを未着用の、ノーヘル状態だった。もし事故ってしまったら、人狼《じんろう》である朔と望《のぞむ》はともかく、耕太は下手すれば死ぬ。
耕太たちは一台のバイクに、三人乗りをしていた。
朔に耕太は抱きつき、その耕太に望は抱きつく。つまり、朔、耕太、望の順番でバイクのシートにまたがっていたのだった。
バイク自体はかつて朔が耕太の街にやってきたときにも乗っていた、排気量数千CCとかいうシロモノで、タイヤからエンジンから、シートまでもが大きかったため、三人でまたがるのにもあまり苦はなかった。
「ひとつ……ひとつ、お訊《き》きしたいことがあるんですけど!」
耕太たちが〈御方《おかた》さま〉の元から逃げだして、数分が経《た》つ。
朔《さく》が首尾よく用意していたこのバイクに乗ることで、耕太たちはかなりの速度で薫風《くんぷう》高校へ迫ることができていた。
ありがたかった。ものすごく助かった。
だけど、ひとつ疑問は残る。
どうして朔は、あんな都合よく、あの場にいてくれたのだろうか?
〈御方《おかた》さま〉が作りあげた土人形のなかから、朔はあらわれた。ということは、ずっと朔は土人形のなかに潜んでいたということだ。それっておかしくはないだろうか。土人形のなかに、朔はいつ入りこんだのだろうか。どうして土人形は〈御方さま〉に朔の存在を知らせなかったのだろうか。それに、ぼくにくれる『力』というのは、いったい?
「どうして……」
「あんなところにいたかって? きみを助けるためだよ、もちろん!」
間髪入れずに朔は答えた。
「た、助けるためってことは、つまり……」
「ああ、状況はよーくわかってるさ! ついに〈葛《くず》の葉《は》〉が動きだしたことも、ちずるが捕らえられてしまっただろうことも! そして……〈葛の葉〉の目的が、ちずるのなかに眠る〈八龍《はちりゅう》〉に……そう、〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉にあるってこともな!」
耕太は息を呑《の》んだ。
「な、なんで朔さんはそこまで知って」
「つまり耕太、おまえはひとりじゃないってことだ。いるんだよ、おれ以外にも味方が。おれはそのひとに教えてもらったのさ……いろいろとな」
その言葉に、耕太はどきん、となる。
味方……? 朔さんのほかに……?
「い、いったいどんなかたが、ぼくの」
ぶーぶー。
と、耕太の背後で、かわいくブーイングがあがった。
「んー!? なんだよ、望《のぞむ》!」
「耕太がひとりじゃないの、当たり前だよ、兄さま」
朔の問いかけに、望はぶうとふくれながらいった。
「ああ……なるほどな。すまんすまん」
「うん。わたしがいるもんっ」
ぎゅっ。
望が、耕太の腰にまわした腕に力をこめた。
背中に顔を当て、すりすりもしてきた。
「の、望さん……」
「耕太……わたし味方だよ……ずっとずっと……」
すりすり、すりすり。あああ、ああ。
「ところで、耕太くん!」
いきなり朔《さく》に話しかけられ、耕太は「はいっ」と背筋を伸ばしながら返事する。
「おれが〈葛《くず》の葉《は》〉にいたことは知ってるな!? おれは〈葛の葉〉からちずるを調べるよう命じられ、薫風《くんぷう》高校に潜入した! 覚えてるだろう、あのときのことは!」
「あ……は、はい」
耕太の脳裏に、ちずるが〈龍《りゅう》〉に初めて目覚めたときの闘いの映像が浮かんだ。
「あのとき、おれは〈葛の葉〉の命令を華麗に無視して、じつは耕太くん、きみのことを確かめていた! はたしてこれから先、〈葛の葉〉から送りこまれるだろう刺客から、ちずるを守りきることができるか否かを! その資質と、覚悟を!」
耕太は身体を、びくりと震わしてしまう。
「……どうした、耕太くん?」
朔が、わざわざ振りむき、自分の肩ごしに耕太を見つめてきた。
その口元に浮かぶ微笑《ほほえ》みが辛《つら》くて、耕太はうつむく。
「すみません。ぼくはけっきょく、ちずるさんを〈葛の葉〉に……」
「ハハッ! なにをいってるんだよ、耕太! 戦いはこれからだろう!? まだなにも終わっちゃいないさ! さっきおれはいったよな、耕太くん、きみの資質と覚悟を確かめたと! 結果を教えてやろうか! 合格だよ、合格! おまえは見事なまでにちずるの恋人にふさわしかったぜ! なんたってこのおれに勝ったんだからな!」
「で……でも!」
「力か? 力ならやるさ! そのためにおれはきたんだ!」
「そのために……?」
朔が、ふふ……と笑った。
「なあ耕太……気づいてるか? いまおまえの気が、すごいことになってるのを」
「……あまり、自覚症状は」
「そうか? その割には、時速六〇キロの車に追いかけられても余裕で逃げてたし、まつたく疲れたそぶりも見えないけどな?」
「え」
じ、時速六〇キロ?
「〈御方《おかた》さま〉の車、そんなスピードがでて……って、見てたんですか、朔さん!? ぼくと望《のぞむ》さんが〈御方さま〉たちに追いかけられてるところ、ずっと!」
「いっただろう、耕太、おまえを助けにきたってな! いや、おしかったぞ! あともうちょっとで自分たちだけの力で逃げきることができたんだけどな! まあ、〈御方さま〉が砂人形をくりだしちゃ、さすがに分が悪いのはわかっていたから、ちょうど林のなかで完成しかけてた砂人形本人に頼んで、ちょっとなかに潜ませてもらったんだが……」
「ま、待ってください!土人形……いや、砂人形本人に頼んだって……え?」
「頼んだのさ。もうすぐここにやってくるかわいい耕太くんのために、ちょっと身体のなかに入れてくれって」
やけにあっさりした、朔《さく》の口調だった。
もちろんそれで耕太が納得できるはずもない。
「そ、それで砂人形さんは、入れてくれたんですか!?」
「もちろん、入れてくれたから、あの登場のしかたができたんだろう? どうだった? なかなかイリュージョンなあらわれかただったろうが?」
な、なんという……。
楽しげに笑う朔に、耕太は絶句するしかなかった。
「とにかく、耕太、おまえの気はいま、量だけなら〈御方《おかた》さま〉よりもはるかに上なんだよ! それだけの気があれば、ちずるを救いだせるさ……どんなやつを相手にしたってな! だから自信もてよ、おまえは強い!」
「そ、そこなんですけど、ぼくは自分の気をですね、そのー」
「わーかってるって……いくぞ!」
いきなり朔はバイクを加速させた。
ぐん、と耕太は後ろに重心を引っぱられて、背中の望《のぞむ》にがっちりと支えられる。
お、おおお……。
どうにか耕太は重心を前に戻す。
「ちゃんとつかまってろよ、耕太、望!」
「や?」
急に、浮遊感に襲われた。
お? と前方を確かめようと思うも、朔は身長も高く背中も大きいため、小柄な耕太では覗《のぞ》きこむことすらできない。んー、と下を向くと、おお?
「へ?」
地面がなかった。
闇《やみ》が広がっていた。
なぜ、と思って振りむくと、「ん?」と首を傾《かし》げた望の顔のはるか後ろに、おそらくさっきまで走っていただろう、白いガードレールが伸びる峠道が、外側から見えた。
外から見た峠道は、かなり角度のあるカーブを描いていた。
たぶん、きっと、そのカーブから、ガードレールのすきまを抜けて、いま朔が運転するバイクは崖下《がけした》へと飛びだしているのだ。そして耕太は、その朔の後ろにまたがり、一緒に飛んでいるのだ。でも……でもでもでもでも!
「な、なんでー!?」
耕太は顔の向きを戻す。
「なんでなんですかー!? 朔さーん!」
目の前の背中に向かって怒鳴った。
「ん? このほうが近道だからな」
なんともあっさりした調子で、朔《さく》は答えた。
もちろん耕太は納得なんかしない。絶対しない。
「朔さーん!」
「ハッハッー!」
「がうー!」
三者三様の声をあげ、バイクは夜空を飛んだ。
いや、落ちた。
いくら事前に加速して飛びだそうとも、重力の従うところによって、バイクは落ちる。落ちてゆく。放物線を描きながら、まるで闇《やみ》のなかでジェットコースターに乗っているかのように、どこまでもどこまでも、見果てぬ底へと向かって落ちてゆく。
「うああああああああー!!」
と。
突然、耕太の身体は沈んだ。
ぞわ、という嫌な感じが、みぞおちに生まれる。
がつん、とすぐさまなにかに当たり、耕太の身体は跳ね返った。
バイクが着地し、車重と速度と落ちた高さの求めるところに従って、タイヤのシリンダーは沈むことのできる限界まで沈み、限界で止まり、びよ〜んと跳ねあがったのだと、耕太はそう理解した。
シートに打ちつけた股間《こかん》の痛みに、うめきつつ。
「あ……あう……ひ……」
「お? 耕太、どうしたの?」
耕太の痛みは決して理解できないだろう望《のぞむ》が、背中を撫《な》でてくれる。できれば腰をとんとんと叩《たた》いてほしいなあ、と耕太は思いながら、股間を押さえ、ぷるぷると震えた。
一方、朔《さく》といえば、着地する瞬間に腰を浮かせ、うまく調整したらしい。
とくに痛むそぶりも見せずに、朔は後ろの耕太をしばらく眺めていたが……。
「……よし!」
やがて、そういった。
苦痛で朦朧《もうろう》とした意識のなか、耕太は思う。
なにが? なにがよし?
痛みに冷や汗すらでてきた耕太をそのままに、朔はバイクを進めだす。
てろてろてろ……と低速で走り、すぐに止まった。
「ついたぜ、耕太くん」
「えう?」
顔をあげると、耕太の視界は涙でぐしゃぐしゃだった。
ぐしぐしと手の甲で涙をこすり、あらためて見た。
トレーラーがあった。
一台だけではなく、数台あった。その背後には森らしき暗がりが広がっていた。どうやらここは駐車場の一種らしい。
そのトレーラーの前には、人がいた。
男性がひとり、女性がひとりの、計二名だ。
親子ほど年の離れたふたりだった。
男は、まるでロードムービーに登場するアメリカの長距離トラッカーのような外見をしていた。身体は肉が主食なのだと訴えるかのように大きく、ごつく、たくましい。派手な柄のバンダナが巻かれた頭からは金髪が伸び、目元にはサングラス、口元にはやはり金髪の口ひげをたくわえている。胸板の筋肉でぱんぱんに張ったティーシャツの上に、デニムの、しかも袖《そで》のないジャケットを羽織り、下もジーンズだ。ファッションなのか、ただ単に穿《は》き古しただけなのか、ジャケットもパンツもぼろぼろだった。靴は鰐革《わにがわ》の、先が尖《とが》ったものである。
「ハーイ、コウタボーイ」
と、いきなりそのマッチョな中年男性に挨拶《あいさつ》をされた。
なんともインターナショナル臭の漂うその挨拶に、耕太は「は、はーい……」と弱々しく応《こた》えるしかなかった。あまり耕太は英語は得意じゃなかった。
気恥ずかしさを覚えつつ、耕太は視線を彼の横に立つ女性へと向ける。
「あれ?」
彼女を見て、耕太はなんどかまばたきをした。
軽く首を傾《かし》げる。
「あなたは……」
となりのマッチョマンとおなじく、アメリカンな格好をした年若い女性だった。
髪は金髪ではなく茶髪だったが、頭にバンダナを巻き、ティーシャツの上にはデニムの、ただしこちらはきちんと袖《そで》の残ったジャケットを羽織る。パンツもデニム地だが、スキニーというのだろうか、脚線にぴったりとしたタイトなものだった。
「やあ、おひさしぶりだねー、小山田耕太くん」
と、女性が手を振る。
その眼《め》は、まるで喉《のど》の下を撫《な》でられた猫のように、はにゃーんと細かった。
「や、やっぱり!」
耕太は彼女に見覚えがあった。
かつてホワイトデーのとき、耕太がちずるたちへのお返しのプレゼントとしてアクセサリーを買った相手、それが彼女だった。しかしあのときの彼女は、耕太の街の通りの軒先で、アクセサリーを広げて売る露天商だったのだが……。
耕太は振りむく。
後ろの望《のぞむ》はすぐに察して、着ていたホテルマンの制服の襟元を、むん、とくつろげた。望の白く細い首筋が、肩胛骨《けんこうこつ》のくぼみまでもあらわとなる。
望の首には、チョーカーがあった。
狼《おおかみ》の銀飾りが光る、黒く細い紐《ひも》のチョーカーだ。望が『首輪』と称するこのチョーカーこそが、あの猫のような眼のお姉さんから購入し、プレゼントしたものだった。
「あー、ちゃんとつけてくれてたんだー。うれしーなー」
いつのまにか近くにまできていたお姉さんが、覗《のぞ》きこみ、いう。
むむん、と望は胸を張った。
「あの……お姉さんは、いったい……?」
「わたし? わたしはナツミ。千里《せんり》ナツミ。よろしくねん」
うっすらとそばかすの浮いた頬《ほお》で、やはり目元をにゃふーんと細め、お姉さんは手を伸ばしてくる。
まだバイクに乗ったままの耕太は、握手しようとして、ぴた、と手を止めた。
このひとは、たしか――。
「イエース」
躊躇《ちゅうちょ》していた耕太の手は、やたらと大きな手に、がき、とつかまれる。
「いい!?」
握手したのは、お姉さんのとなりにいたリアル・アメリカンなマッチョ中年のおじさんだった。体格とおなじく手も大きく、耕太の手はすっぽりと包みこまれる。やはりというべきなのだろうか、ごわごわした感触だし、ところどころタコなのだろうか、硬い。
ただ、悪くはなかった。
じんわりと伝わってくるぬくもりに、耕太は祖父の手を思いだしていた。
おじいちゃんの手も、決してなめらかではなかったが、なんというか、優しく温かかった。まだ小さいころ、夕焼けに沈む田んぼのあぜ道を、祖父と手をつないで家へと帰ったことを思いだし、耕太の胸はきゅん、となる。
おじいちゃん……。
『フフ……幸せものだな、弦蔵《げんぞう》は……』
そう声が聞こえたような気がして、はっ、と耕太は顔をあげた。
外国人にしか見えないおじさんと、サングラスごしに眼《め》があう。
おじさんは、にや、と金髪の口ひげに囲まれた唇を曲げた。
「あ……」
耕太は思いだした。
バンダナを巻いた猫目のお姉さん、たしか千里《せんリ》ナツミと名乗ったアクセサリー売りのお姉さんは、普通の人間ではなかったということを。
お姉さんは、妖怪《ようかい》だった。
それも、人の心を読むことができる、サトリという名の妖怪!。
「Oh、ソーリー、ボーイ」
おじさんが、手を離す。
「もー、パパ、勝手に心、読んだわけー?」
ナツミが、ごずん、とおじさんの脇腹《わきばら》に肘《ひじ》を叩《たた》きこんだ。
アウ! と悲鳴をあげ、おじさんはうずくまる。
「ごめんねー、耕太くん。いやだよねー、勝手に心のなか読まれるなんて……もう、そんなことだから、わたしたちの一族は嫌われものになっちゃうんだからねー! それじゃパパ、いつまでたってもママ、戻ってきやしないよ!」
「ナンシー……そのワードはわたしのハートにクリティカル・ヒットだよ……」
「うっさい! このアメリカかぶれ! 本名、多々良谷権左右衛門《たたらやごんざえもん》のくせに!」
「オー・マイ・ガッ!」
本名が多々良谷権左右衛門とかいうマッチョな中年男性は、どう、と地面に倒れ伏した。
「ご……権左右衛門……?」
「そうなのよ、耕太くん。権左右衛門なんて和風にもほどがある名前のくせに、自分ではジョニーとか名乗ってんのよ、このオヤジ。まったく、アメリカかぶれだしサトリの力は乱用するし、納豆食えないし趣味が筋トレだし、ママもあいそをつかすってもんよ! あ、だからパパとわたしで名字違うのね。別れたから。千里は母方の名字なのよん」
「は、はあ……」
「――で、多々良谷家というのはな、〈葛《くず》の葉《は》〉なんだよ、耕太くん」
と、朔《さく》がいった。
耕太は前にまたがる朔《さく》の、その背中と銀髪とを見つめる。
「〈葛《くず》の葉《は》〉の……?」
「ああ、〈葛の葉〉というのはな、おもに八つの家が中心となっていて……その八家のひとつが、多々良谷《たたらや》家なんだ。そしていまぶっ倒れてる彼が、その当主である、つまりいちばん偉いひとである、ジョニー多々良谷こと多々良谷|権左右衛門《ごんざえもん》さんだ」
耕太は飛び退《の》いた。
望《のぞむ》も一緒に飛び退き、朔のバイクから、お姉さんから権左右衛門から、離れる。
「朔さん……あなたはやっぱり……!」
「兄さま……裏切りは死だよ?」
望が、かばうように耕太の前に立った。
彼女は狼《おおかみ》の耳としっぽは威嚇のためか毛羽立たせ、低く構える。いまにも飛びかからんと、うなり声をあげだした。
「かんちがいするなよ、耕太、望……」
朔はまったく動じなかった。
あわてず騒がず、バイクにまたがったまま、告げる。
「〈葛の葉〉は〈葛の葉〉でもな、こちらの多々良谷家のみなさまは、耕太、おまえに協力してくださろうとしてるんだぞ? ん?」
「え……?」
「がう?」
お姉さんが「にゃはー」と手を振り、倒れていた多々良谷家当主、ジョニーこと権左右衛門は、むくりと顔を起こし、「イエース」と親指を立てた。その笑顔からこぼれる自い歯は、なんともまぶしかった。
「あ、あの……ほ、本気ですか?」
耕太の問いかけに、アクセサリー屋のお姉さん、ナツミは笑顔で答えた。
「うん、脱いで?」
やっぱり、にゃふーんと、猫のように細めた目つきで。
耕太は、コンテナのなかにいた。
アクセサリー屋のお姉さんだった千里《せんり》ナツミと、多々良谷家の当主である多々良谷権左右衛門の後ろに数台ならんでいた、大きなトレーラー。うち一台のコンテナに、耕太はナツミに案内され、入っていた。朔と望、権左右衛門は、外で待機だ。
コンテナのなかは武器だらけだった。
天井にある照明灯の暗めの光によって、両側の壁沿いにならべて立てかけられていた刀、槍《やり》、棒、鎌《かま》、鎖、のこぎりなどが、それぞれの材質、造りに応じた浮かびあがりかたを見せる。鈍く光ったり、ぎらぎら反射したり、逆に沈んだり、じつにさまざまだった。
多々良谷《たたらや》家というのは、〈葛《くず》の葉《は》〉のなかでは兵站《へいたん》を担う家なそうな。
兵站とは、じつは耕太もお姉さんから説明されて初めて知ったのだが、戦闘に必要な物資を、後方から支援する部隊のことなんだそうだ。〈葛の葉〉の武器や防具はもちろん、医療品のほか、食料品まで、多々良谷家が一手に引き受けているらしい。
『つまりパパの役目は、縁の下の力持ちってことね』
と、説明しながらお姉さんは微笑《ほほえ》んだものだった。
当のパパ、多々良谷|権左右衛門《ごんざえもん》はナツミの横で得意げに大胸筋をアピールするポージングを決めて、彼女に思いっきりアッパーを喰《く》らい、悶絶《もんぜつ》していたが……。
「さ、早く、早く」
その、見事なアッパーを決めたお姉さんは、いま、耕太の前にいる。
両|脇《わき》を武器に挟まれたコンテナの通路で、耕太を脱がそうと急《せ》かしていた。
「ま、待ってください! どうして……どうしてぼくが脱がなくちゃいけないんですか?」
「だって欲しいんでしょ? 武器」
「ぶ……武器? え? 武器?」
あれ? とナツミは首を傾《かし》げる。
耕太も一緒に首を傾げてみる。
「あ、あのー」
「えーっとね、耕太くん」
と、ナツミがいった。
「わたしたち多々良谷家が、兵站を担う家だというのは、説明したよね?」
耕太はうなずく。
「で、多々良谷家は戦時……いまみたいな、〈葛の葉〉が総力をあげて戦闘行為をおこなうときなんかは、食料品や医療品を戦場に運ぶのがおもな任務なんだけど、平時……普通のときね? つまりいつもは、武器、防具の開発、製造するのがお仕事なのね?」
「武器、防具の開発、製造……ですか」
「そうなのよん。カンカンカーンって、金属を金槌《かなづち》で叩《たた》いて刀を打ったりとかもするのよ? わたしじゃなくて、パパがだけどね」
ああ、と耕太は思った。
多々良谷家の当主と握手したときの、あの硬くてざらついた感触は、鍛冶《かじ》仕事でできたものだったのだ。働く男の手……なんだか耕太はどきどきしてきた。自分はあんな手になることができるだろうか? ふと、自分はもしかしたらファザコンなのだろうか、と思った。どうも、オトナな男の人には弱い……あこがれてしまう……。
「さて、耕太くん。あなたはいま、お困りですね?」
「え?」
「困ってないの? 力が欲しいんでしょ?」
「あ……は、はい! 欲しいです! すっごく!」
うんうん、とナツミがうなずく。
どれどれ、と手を伸ばしてきた。
おでこに触れたその手を、耕太は黙って受け入れる。
「うん……やっぱり、耕太くんの気はすごい……とんでもなくふくれあがって……うわ、ちょっと洩《も》れだしてるよ。これは……うっわー、うっわー」
「な、ナツミさん……?」
「あのね、耕太くん。前……きみがわたしからアクセサリーを買ったときなんだけど、わたし、きみの心を読ませてもらったよね? 指輪のサイズを確認するとき、きみの心のなかにいたちずるさんの指、測るために。そのときにも感じたんだけど、きみって、なんていうのかな、キャパシティーがものすごいのよ」
「キャパシティー……ですか?」
「そう。だってさ……もうぶっちゃけちゃうけど、ちずるさん、〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉だったんでしょう? その〈八岐大蛇〉の力がさ、完全とはいわないけど、けっこう目覚めた状態で、耕太くん、ちずるさんをとり憑《つ》かせて、ぜんっぜん平気だったわけだし」
「いや、平気ってわけじゃ……」
「平気、だよ。まだちずるさんが〈八岐大蛇〉の力に目覚めていない、ただの化《ば》け狐《ぎつね》だったころとは違うんだよ? 〈八岐大蛇〉といったら、伝説の怪物……いってしまえば、神さまの部類に入っちゃうほどなの。神さまが宿ったりなんかしたら、普通のニンゲンだったら、まずまちがいなくどうにかなってるよ。具体的には、あまりのエネルギーに耐えきれなくて……ぱんっ、と爆発しちゃうとか?」
耕太の眼《め》の真ん前で、ナツミは手の指を、ぱんっ、と開いた。
ぐび、と耕太の喉《のど》は鳴る。
「だ、だけど」
「つまり、それだけ耕太くんは力を受け入れる容量がすごいってわけ。普通の人がコップ一杯ぐらいのキャパシティーだとしたら、耕太くんは……えーと、プールぐらい?」
「プール!」
「それも、一〇〇メートルのプール?」
「一○○メートル!」
「そのキャパシティーが、耕太くんはいま自分の気でいっぱいになって、ちょっぴりあふれだしちゃってるのよね。これって、ホントすっこいことよ?」
「は……はあ」
耕太は頬《ほお》をぽりぽりとかく。
よくわからない、というのが正直なところだった。すこしは足が速くなって、スタミナもついたみたいだが、だからどうしたというのだろう? たとえば、耕太は〈御方《おかた》さま〉の土人形の前には敵《かな》わなかった。もちろん朔《さく》にも敵わない。望《のぞむ》にだって敵わない。もしかすれば、いま目の前にいるお姉さんにだって。なのに、気なんかいくらあったところで。
「その気をね、闘う力に変えることができるとしたら……どうする?」
耕太は、頬《ほお》をかく指を止めた。
「え……?」
「あるんだよね……そういう武具が。多々良谷《たたらや》家が開発、製造したなかに」
「な……ナツミさん!」
耕太は飛びつく。
ナツミの手を、両手で握った。顔を寄せた。懇願した。
「お願いします! ください、その武具を! それさえあれば、ぼくは……」
にま〜ん、とナツミは笑った。
そばかすの浮いた頬が、にゅいんと笑みで持ちあがる。
「じゃあ、脱いで?」
「ですから、なぜ!?」
「測定するためよん」
「そ……測定?」
「そう、測定。気を力に転化するには、その気の質をよーく確かめないとダメなの。ほら、電気だってさ、直流とか交流とか、一〇〇ボルトとか二〇〇ボルトとか、何アンペアがどうしたとか、いろいろあるでしょ? そのあたりをきちんとチェックして調整しておかないと、うまく力に変わらなかったり、最悪、武具が壊れちゃったり」
「すみません。ぼくが脱がなきゃならない説明にはまったくなってないと思うんですが」
「だから、その測定法が、肌にじかに触れることなの!」
「肌に……じかに?」
「うん。おたがい裸になって、じっくりと触れあうことで、身体を巡る気の流れとか、チャクラの大きさとか、そういったものを……まあ、耕太くんのすべてをよね」
「お……おたがい? ということは、ナツミさんも……まさか?」
「もちろん。脱ぐよ?」
いうが早いか、ナツミはデニムのジャケットを脱いだ。
ぽいと、真横にならぶ刀の柄に放《ほう》り投げ、ひっかける。
「ほらほら、耕太くんも」
「いや、だって……ダメなんですか? 手のひらで触って調べるとかじゃ?」
顔を手で覆った耕太の前で、ナツミはティーシャツを脱ぐ。
なんとまあ、そのふくらみを締めつけるものはなにもなかった。
「うーん、それでもまあ、やってやれないことはないんだけど、すっごく時間がかかっちゃうんだよねー。手のひらだと、一日がかりになっちゃうから……あんまり余裕ないんでしょ? その点、裸と裸で抱きあうんだと、すぐに終わるし」
脚にぴったりなジーンズを、ナツミはけんけんしながら脱いだ。
最後に残った一枚も、あっけらかんと脱ぎ去る。
「だ……ダメ!」
間一髪、耕太は後ろを向いた。
お姉さんときたら、ある意味では父親似といえるのか、なんともアメリカンサイズであった。でるところはでて、へこむべきところはへこむ。ナイス・ボディーといえよう。しかし、耕太はちずるを知っていた。ちずるのパーフェクト・ボディーを知っていた。ジャパニーズの清楚《せいそ》さを保ちながらアメリカンな迫力を持つ胸のふくらみを、知っていたのだ。知らねば、危ないところだったかもしれない……。
いやいや、そーゆーことじゃなくって。
耕太は自分自身につっこむ。
「ダメですダメです、ダメですー! こ、こんなの……だ、ダメー!」
「どーしたの? こんなのよりもっとすごいの、普段から見慣れてるでしょ?」
そりゃあまあ、見慣れてはおりますが。
ちずるのふくらみ、ぽん・で・らいおーん。
見慣れているだけではなく、触れ慣れたり吸い慣れたりもしてはいる。だが、だからといってナツミお姉さんのふくらみを見たり触れたりしていいということにはなるまい。だいたいにして、耕太が見たり触れたり吸ったりしているのは、源《みなもと》ちずると犹守望《えぞもりのぞむ》、恋人とアイジンのものに限ってのことだ。
なのに、さほど面識もないナツミお姉さんと……。
「とにかく、耕太くんのすべてをわたし知らないと、調整のしようも……」
ダメだダメだダメだ。
浮気だ裏切りだ犯罪だ。許されることではない。
ナツミの言葉を振り払おうと、ぶんぶんぶんぶん耕太が首を振り続けていたら、目の前にスレンダーな肌が浮かんできた。
ちずると違い、その胸のふくらみは、ない。
まったくないわけではなく、あくまでちずるとくらべれば、だ。
触れればある。やわらかく沈む。しかし、すぐに胸部の骨にいきつく。身体の脂肪はすくない。お尻《しり》はこぶり。うっすらと肋骨《ろっこつ》が浮かぶ。手足も細い。だが、その静脈の青が透けるほど白い肉体全体を見れば、やはり女性特有の丸っこさがあり、抱きしめれば、ふよっとした感触がある。
銀色の髪は、すこしぱさつく。
おなじく銀色の瞳《ひとみ》は、きらきらと輝き、まっすぐ耕太を見つめてくる。
唇の色は、その胸のふくらみの先端とおなじく、色素が薄かった。
それは耕太のアイジン、犹守望の裸身。
ああ、望さん、ごめんなさい、耕太は首を振りながら謝る。罪悪感のあまりに、アイジンの姿が、こんなにも鮮やかに見えだすだなんて、ぼくは――。
「耕太」
「ぬわっ!」
幻覚ではなかった。
本物の望《のぞむ》がいた。なぜか全裸で。
「な、ななな、なな?」
「入った。なんかぴぴっときたから」
外で待ってたはずの望が、なぜいま目の前に?
そう尋ねようとした耕太の意図をきっちりと理解して、望は答えた。
「ふ、ふふふ、ふふ?」
「そこ。なんか脱いだほうがいいかなって思ったから」
服はどうしたのか、という耕太の質問に、望は横にならぶ武器類を指さす。
青竜刀の柄に、望が着ていたホテルマンの服はぐちゃぐちゃでひっかかっていた。上に、しましまのぱんつが、ぽてん、と乗っかっている。
むんず。
望は耕太の襟元に両手をさしいれ、つかんだ。
「ちずるのためだよ……耕太」
「え、えええ、ええ?」
「てーい」
ずぱちぽーん。
望が、耕太の服を引き裂いた。
耕太がちずるとのクリスマス・イブのデートのために着ていたシャツのボタンが、すぽぽぽーん、ちぎれ飛ぶ。なかに着ていたティーシャツは引き裂かれ、ひらひらとなびく。さらに望は、ズボンに手をかけ、ずるぷりーん。一気にさげた。
「き、ききき、きき?」
きゃー!
耕太は悲鳴をあげた。
足首にくしゃくしゃとなったズボンとトランクスのかたまりを絡ませ、もろだしとなった下半身を、上に羽織ったジャケット、シャツ、真ん中から裂かれたティーシャツを寄せ集め、なんとか隠す。
「な、なにをするんですかあ、望さぁん!」
「だから、ちずるのため」
望はなおも耕太を脱がそうと、手を伸ばしてくる。
服をつかんだ望の手を、耕太は抵抗しようと触った。なんとか引きはがそうとして、その感触に、ぞっとする。
「こ……これ……望さん!?」
望の手のひらは、ぼろぼろだった。
皮がところどころ剥《む》け、肉をさらし、もちろん血が滲《にじ》む。すでに出血は止まってはいるようだったが、指を見れば、爪《つめ》がはがれている箇所もあった。
「ああ……やっぱり……!」
冷たく硬いアスファルトの上を、耕太を乗せて走るのはやはり無理があったのだ。耕太は触れようとして、触れ得ず、そっと手の甲側から、かぶせるようにして胸に抱く。
「望《のぞむ》さん……こんな……」
「ぜんぶちずるのためだよ、耕太」
望はいった。
耕太は顔をあげた。
自分の涙でかすかに滲《にじ》んだ視界のなか、望は耕太の顔をまっすぐに見つめ、うなずく。耕太もうなずいた。うんうん、となんどもうなずいた。
耕太は自分の服に手をかける。
脱ぐ。ジャケットを脱ぎ、シャツを脱ぎ、真ん中から裂けたティーシャツを脱ぐ。すでに下半身は脱げていたので、足首に引っかかっていたズボンとトランクスを靴ごと蹴り脱ぐ。靴下も脱ぎ、もはやなにも覆うもののない、生まれたままの姿となって、振り返った。
「おー」
ぱちぱちぱち。
ナツミお姉さんが、拍手をした。
「じゃ、耕太くんも覚悟を決めたところで、測定を始めよっか? 耕太くんのすべて、このわたしが、にゃははははー」
「まかせて……ください」
「え?」
わきわきと指を動かしながら伸ばしてきたナツミの手の、その手首を耕太はつかんだ。
まだバンダナだけは頭に巻いていたナツミが、眼《め》をぱちくりとさせる。
そのナツミの背後に、望が瞬時に移動した。
「ええ?」
望は、ナツミの脇《わき》の下《した》から腕を通し、がっきりと羽交い締めにした。
「えええ?」
ナツミが、耕太と望とを、きょろきょろと交互に見やる。
「ね……ねえ、耕太くん? アイジンちゃん?」
「見せます。ぼくのすべて……」
とまどいが隠せないナツミの眼前で、耕太は自分の指先をわきわきと動かす。
「そう、すべてを! ぼくがちずるさんから伝授された、対女の子用の技術まで、すべて、ナツミさんに!」
「は?」
「ちずるのためだよ、耕太」
「はあ?」
「耕太、いきます!」
「はああ?」
コンテナの外に、朔《さく》と多々良谷《たたらや》家当主、ジョニー多々良谷はならんで立っていた。ちらちらと、雪は小粒ながら、また降り始めている。
「ご協力、感謝するよ」
朔が、ぴっ、と人差し指、中指の二本をそろえて伸ばし、示した。
「べつに、サンクスはノー、だ」
ジョニー多々良谷は、腕を組んだまま、前を向いたまま、そう答える。ただしその金髪の口ひげに囲まれた口元には、微笑《ほほえ》みが浮かんでいた。
「こちらはこちらで、メリットがあってやっていること……それでもサンクスがしたいというのならば、わたしとユー、共通のオールド・フレンドにアルコールの一本でもプレゼントすることだな……」
HAHAHA……と笑った彼に、朔が尋ねる。
「ところで、そのオールド・フレンドはどこかな? てっきりあんたたちと一緒で、耕太がいたものだから顔がだせないでいるのかと思ったら……違うようだ」
朔は、くんくん、とあたりの匂《にお》いを嗅《か》ぐしぐさをする。
いま朔たちがいる駐車場には、多々良谷家が薫風《くんぷう》高校へと輸送するために運んできた武器、防具、医薬品、食料品が詰まったコンテナつきのトレーラー以外、まったく車は停《と》まってはいなかった。がらんと広い駐車場のすべて、多々良谷家のトレーラーと、朔のバイクが占めている。
「やつならもうとっくに薫風高校にゴーしたよ。かつての部下に用事があるそうだ」
「かつての部下?」
ははあ、と朔は声を洩《も》らした。
「なるほど……あのひとは元|悪良《あくら》家だったっけ……」
腰に手を当て、苦笑しだす。
「だからって、単独で敵地に乗りこむかね? まったく、孫にはとことん甘いな」
「ユーもなかなかあのボーイにはスイートなようだが」
からかうようなジョニーの声に、朔は笑みを小さく、静かなものへと変えた。
「まあ……ね」
自嘲《じちょう》の笑みを浮かべる。
「不思議なやつだよ……どうも、助けてやらずにはいられなくなる。まあ、おれの場合はちずるのこともあるからな、あいつを救いだすためには、どうしたって耕太を使わなきやならないんだが……まあ、それを抜きにしても、なんというか、かわいいやつだよ。いちど飲んでみたいもんだな。サシで、酒をさ」
朔《さく》は杯を持つしぐさをして、唇に寄せ、くい、と傾けた。
「……で、どうだったんだ?」
横目で、真横に立つ多々良谷《たたらや》家当主をうかがう。
「ホワット?」
「とぼけなさんな。コウタボーイのことだよ。読んだんだろう? 握手したときに、耕太の心を……当主であるあんたなら、心の奥の奥までも読めたはずだ。どうだった? やはりあいつはそうだったのか?」
にたり、とジョニーは笑みを浮かべた。
「コウタボーイ・イズ……」
あにゃーん!
それは、発情期の猫のような叫びだった。
ふにゃー、はにゃー、ふぎゃー!
やがて絶頂をも極めたらしいその叫びは、朔とジョニー多々良谷が背にしていたコンテナのなかからけたたましくあがっていた。
朔とジョニーが、顔を見あわせる。
振り返り、コンテナに向かっていぶかしげに眼《め》を細めた。
「……ん? 望《のぞむ》? おい、望、どこいった?」
朔が、望の不在に気づいた。
ぶんぶんとあたりを見やる。どこにも姿はない。朔が鼻をひくつかせると、彼の視線はするすると背後のコンテナへと辿《たど》りついた。
「まさか……?」
コンテナのなかは、激しい呼吸音で満ちていた。
息を荒げていたのは、ナツミただひとりだ。
彼女はぐったりと床に倒れ、そのアメリカン・ビッグ・サイズな胸を、呼吸で激しく上下させていた。肌は汗でびっしょりと濡《ぬ》れ光り、全身、薄桃に色づいている。服を脱いだときにも外さなかったバンダナが、いまはほどけ、床に茶髪を散らしていた。
彼女の前後に、耕太と望は立つ。
立って、見おろしていた。
「あの、ナツミさん……?」
耕太は尋ねた。
「……かったのに」
ナツミが、ぐったりしたままつぶやく。
「え?」
「ただ……裸で触れあうだけでよかったのに」
しくしくしく。
ナツミは顔を手で覆い、身を丸め、泣きだした。
「えええ?」
耕太はもう、おろおろおろと右を向いたり左を向いたり、手足をバタつかせたり。
「だ、だって、ぼくのすべてって……」
「わたしは耕太くんの気の流れをすべて知りたかっただけだもん。あんなスペシャルテクニックのオンパレードなんか、べつに身体で知りたくなかったもん」
「えー!」
そのとき、ぽん、と耕太の肩に手が置かれた。
ナツミを挟んで耕太の正面に立つ、望《のぞむ》が伸ばした手だった。
「しかたないよ、だって耕太はわいせつ王子だから」
「ちょ、ちょっとやめてよ、そのナントカ王子を嫌な感じでコピーした愛称は! だいたい、ナツミさんの尾てい骨を責めまくったのは望さんじゃない!」
「おっぱいつんつんは、わたししてない」
「でもそれを吸って噛《か》んだのは、望さんでしょ!」
「うなじを触れるか触れないかの微妙なタッチで撫《な》でたりは、わたししてない」
「望《のぞむ》さんは脇《わき》の下《した》!」
「背中を八の字を描くように撫でたりは、わたししてない」
「肋骨《うつこつ》ふにふにー!」
「膝《ひざ》の裏、してない」
「ふくらはぎ噛《か》み噛《か》みー!」
ぷっ、とだれかが吹きだす。
あはははは、と笑いだしたのは、しくしくと泣いているはずの、床で丸くなっていたナツミだった。
ナツミが、むくりと身体を起こした。
「いやー、もう、ホント、ヒドイよねー、きみたちは」
「ナツミ……さん?」
「平気よ、平気。いや、それほど経験はないんだけど、ほら、わたし、サトリだから、いろいろと、知識はね。さっきだって、どんな行為をされるのか自体は先に読みとっていて、でもまあ、なんかすごそうだったし、興味もちょっぴりあったから、あえて受けてみたんだけど……受けてみたら予想をはるかに超えてた! まったく、耕太くん、きみはとんだわいせつ王子だ! 超時空エロス上皇コーウタだ!」
「も……もも……」
耕太は床に膝をつく。
「申し訳ありませんー! でしたー!」
思いっきり土下座した。
コンテナの床は冷たかったが、気にしている余裕なんかはなかった。
「ごめんね、ナツミ」
望もしゃがみこみ、床に座りこむナツミの肩に、ぽん、と手を置いた。
「ふ……」
ナツミはなんともいえない微妙な笑みを浮かべると、土下座したままの耕太の頭の、そのうなじに、伸ばした人差し指を、ぴと、とくっつける。
『あげるよ……』
そのナツミの声は、耕太の脳裏に直接響いた。
『お姫さまを悪いドラゴンの魔の手から救いにいく、ちょっとえっちな……ううん、かなりえっちな王子さまに、とっておきのアイテムを、ね。伝説の武具ってやつ? おかげで気のデータは、充分以上に集まったしさ……?』
耕太は、その姿を変えた。
いままで着ていた、ちずるとのデートのときの格好そのままだった、ジャケットにシャツ、ズボンは脱ぎ去り――望《のぞむ》にシャツのボタンはちぎられたし、ティーシャツは引き裂かれたからというのもあったけれど――代わりに朔《さく》の姿と似た、革のライダースジャケットとパンツに身を包んでいた。あつらえたかのようにぴったりなこの衣服は、多々良谷《たたらや》家が用意してくれたものだった。
「これが……武具?」
しかし耕太がしげしげと見つめていたのは、その上下のライダースではなかった。
両の手首だった。
手首にはめた銀の腕輪に、耕太の視線はあった。
銀色の金属で作られた腕輪だ。
とくに装飾などはなく、丸く細いものだった。銀色に光りを反射してはいるが、銀製ではないようだ。
というより、本当に金属なのかどうか怪しい。
ナツミと多々良谷家の当主で耕太の気にあわせた調整をほどこした腕輪を持ってきたときのことだ。その腕輪を耕太の手首に近づけると、なんとするりと入りこんだ。腕輪が、まるで水銀のようにやわらかく水のようになって、あっさり装着できたのだった。
問題はそのあとで、手首にはまったとたん、腕輪は普通の金属となった。
硬い。左手首と右手首で打ちあわせると、澄んだ音で鳴る。
ところが、まったく冷たくないのだ。かといって温かくもない。まるで元々耕太の身体の一部だったかのように、すんなりと溶けこんでくる。そのうち、身につけていることすら忘れてしまいそうだった。
「ん……」
耕太は、ライダースジャケットの襟元を開き、喉元《のどもと》に手をやる。
喉には、両手首の腕輪とおなじ材質で作られた、首輪があった。やはりとくに装飾はなく、丸く細く、そしてつけるときもするりと入りこんだ。こちらも、金属特有の冷たさはまったくもってなかった。
「そーだよん」
ナツミが、にゃはー、と眼《め》を細めながらいった。
当然ながら、ナツミは元通り、衣服を身につけていた。バンダナもきちんと巻いてある。
「その、いま耕太くんが触れてる首輪が、きみの気を集めるのね。で、集めた気を、両腕の腕輪へ送りこむの。送りこまれた腕輪は、気を、それぞれ右手が攻撃、左手が防御の力へと、変える」
「右手が攻撃……左手が防御……」
耕太はあらためて見た。
しかし腕輪はただ、銀色に光を反射するだけだった。
そこに、どるん、とバイクの排気音が響く。
バイクにまたがった朔《さく》が、エンジンをスタートさせた音だった。着替え終え、腕輪、首輪をつけ終えた耕太は、すでにコンテナの外、駐車場へと降り立っていた。
朔は続けて、アクセルをふかす。
耕太とは違い、朔はとくに武器らしきものをもらった様子はなかった。おそらく必要がないのだろう。ゴーグルは外し、首にさげていたため、あの鋭く、しかしすっと通った眼《め》が、じかに耕太を捉《とら》えていた。唇には笑みが浮かぶ。
「似合ってるぜ、耕太」
「は、はあ」
くくく、と声をあげ、朔は笑った。
「本気でいってるんだよ。腕輪や首輪はともかく、そのライダースがいい。なかなかしっくりきてる。どうだ? こんどこいつに乗ってみるか?」
「バイクはきけんがあぶない。ダメ」
ダメだししながらあらわれたのは、望《のぞむ》だった。
望も、あのホテルマンの服は脱ぎ去り、革の衣服に身を包んでいた。ただし、ジャケットとパンツの上下にわかれた耕太や朔の格好とは違う。
上下の区別のない、つながった革のツナギだった。
黒くぴかぴかしたそのツナギは、首元からおへその下まで続くファスナー以外、身体を出し入れする場所がない。とくに飾りもなく、ぴったりとして、望の細身ながら女の子特有のやわらかさを持った肉体を、すっかり丸わかりにしている。
セクシーさを強調しているつもりなのだろうか。
それとも女スパイを気取っているつもりなのだろうか、望はファスナーを胸元まで開いていた。そのため、そのふくらみのないふくらみが、ちょっと見えそうで見えなかった。
「なんだよ、望……そんな危険なバイクに、おれは乗ってていいのか?」
「兄さま、殺しても死なないもん。だからオッケー」
望は、手にさげていた袋から、ハンバーガーをとりだす。
口に運び、がつがつと食べだした。
望がだらんとさげた腕の先につかんでいた袋を見ると、某ファストフード店のものだった。またたく間のうちにハンバーガーを食べ終えると、またあらたなハンバーガーをとりだし、食べる。
望はまた、あの発作が始まっていた。
例の、耕太との純愛行為のせいで高まりすぎた気による異常食欲だ。
それを解消するため、本来はジョニー多々良谷《たたらや》氏のおやつになるはずだった某ファストフード店のハンバーガー類は、望の食事となってしまっていた。多々良谷家当主の食事量が、望とおなじレベルだったことが幸いだった。もっとも、つぎつぎにハンバーガーを平らげてゆく望を、しょぼーんと指をくわえながら見つめる当主にとっては、まったくもつて不幸な出来事ではあったが。
「本当に、ありがとうございました!」
耕太は深々と頭をさげた。
これ以上ないくらい、思いっきり腰を曲げる。
「なにからなにまで……本当に……」
「まー、気にしない、気にしない」
ほら、とナツミがなにかを差しだした。
耕太が頭を起こすと、かぽん、となにかがかぶせられる。
なんだろ? と手で持ちあげて確かめてみると、それは頭をすっぽりと覆うかたちの、いわゆるフルフェイスのヘルメットだった。
「えーっと、これは……」
「安全第一ってやつ。ほら、アイジンちゃんもいってたでしょ? バイクはきけんがあぶないって。妖《あやかし》じゃない、ニンゲンの耕太くんはかぶったほうがいいよ」
「あ……は、はい、ありがとう、ございます」
ありがたくいただくことにした。
ぐりぐり、ぐりぐり、押しこむようにしてかぶる。き……キツい。バイクのヘルメットって、こんなに窮屈なものだったんだ……むふー。なんだか苦しくて、耕太は呼吸を深くした。むふー、むふふー。
「望《のぞむ》さん」
すぽん、と目の回りを覆うシールドをあげ、耕太は歩きだす。
うう、視界が狭い……。慣れないと、ヘルメットって大変だなあ……と思いながら、望のところまでいった。
「ん? 耕太、なに?」
「手……だいじょうぶ?」
ハンバーガーをすべて食べ終え、望は指先についたソースをぺろぺろと舐《な》める。
その指先の爪《つめ》は、なかった。手のひらは、やはりぼろぼろのままだった。
「だいじょぶだよ」
「でも、なにか治療をしたほうが……薬を塗るとか、包帯巻くとか」
「そうはいったんだけどねー。『ぺろぺろしてれば治る』っていいはるから……わたしたちのところには薬もたくさんあるんだけどさっ。それこそ、横流しできるくらい」
「ナンシー……人聞きのバッドなこと、ノー・スピーキングだよ」
危ないことをいいだすナツミに、多々良谷《たたらや》家の当主が、しー、と唇に人差し指を当てた。
「望さん……」
耕太は望の手を、両方ともとる。
シールドをあげたヘルメットごしに、見つめた。
すれて剥《む》け、ケバだった皮膚。赤く覗《のぞ》く肉。じくじくと染みだす体液。いくら人狼《じんろう》だって、これじゃ……ぼくのせいで……ぼくのせいで……。
「気にする必要ないよ、耕太。だってわたしは」
「ほくのアイジンだっていいたいんでしょ? だけどぼくは、アイジンだからこそ、望《のぞむ》さんにはなるべく傷ついてほしくないんだ……」
ぼんやりと、光が生まれる。
光は耕太の左腕から発せられていた。
正しくは、左手首にある銀の腕輪から放たれていた。
温かく、白く、しかし決してまぶしくは感じない光が、腕輪から耕太の左手へと流れ、さらに望の手のひらへと伝わってゆく。
光は、望の両手を包みこんだ。
やがて、消える。
「お……おお?」
望は、眼《め》を丸くして自分の手を掲げた。
「耕太!」
くるりとまわして、手のひらを耕太へと見せてくる。
そこには、いっさいの傷がなかった。
まるでついさっきまでの惨状が嘘《うそ》だったかのように、望の手は、元通り、つるつるですべすべとした、どこかか弱くも感じる、細い指の小さな手へ戻っていた。
「え?」
あ、う、お?
耕太は自分の手を見た。
その手首で銀色に光る腕輪を見た。
そこまでやって、ようやくいま起こった現象を思い返してみた。
たしかに、自分がやった。
自分が、望の手を治したのだ。
気を防御の力へと変えるという左手首の腕輪で、完璧《かんぺき》に治療した……なるほど、たしかに回復能力は防御の力といえるのかもしれない。
腕輪は気を転化したのだ。力へと。
「さすがだねー、耕太くん。もう使いこなしちゃうかー」
顔をあげると、ナツミがにこにこと微笑《ほほえ》んでいた。多々良谷《たたらや》家当主、ジョニー多々良谷こと多々良谷|権左右衛門《ごんざえもん》も、親指をびしっと立て、ナイスボーイ、と輝く白い歯を見せつけてくる。
「耕太……」
静かな口調で、朔《さく》がいった。
「その腕輪と首輪な、できればいまの調子で、ゆっくりと試させてやりたいんだが」
「そんな時間はない……わかっています」
耕太はうなずく。
胸のなかにあふれてくる嫌な予感は、まったく消え去ってはいなかった。
ちずるさん! ちずるさん!
ちずるさんちずるさんちずるさん、ちずるちずるちずる、ち、ず、るー!
落ちつけ、と耕太は自分にいいきかせる。
いまのいままで、どうにか心の奥に押しこめていたものが、現金なもので、力を手にしたとたん、噴きだしてきた。
でも、たしかに急がなくちゃいけない。
ちずるの身に危険が迫っていることを、耕太はよくわかっているのだから。魂の奥で感じているのだから。たぶんきっと、ちずるとつながっている部分で。
「よし……じゃあその腕輪と首輪の力、実戦で試すとしよう。とりあえず、このあとすぐに会う、〈葛《くず》の葉《は》〉のやつらにぶつけてやれ。いいな?」
「はい!」
そばの望《のぞむ》と、耕太はうなずきあう。
耕太は最後にもういちどナツミと多々良谷《たたらや》家の当主に頭をさげ、望とふたり、駆けだした。エンジンの音を低く震わす朔《さく》のバイクの元へと向かう。
朔の後ろにまたがった。
耕太の後ろには、望がまたがった。
「ん、耕太」
望は背中側から手を伸ばし、耕太のヘルメットのシールドをさげてくれた。
「ヘイ、ウルフ!」
多々良谷家の当主が、朔を呼ぶ。
「さきほどのクエスチョンに対するアンサーだが……コウタボーイに渡したウェポン、れが我ら多々良谷家のアンサーだ」
ゴーグルを目元にかけていた朔が、ちら、と耕太のほうを向く。
耕太の首輪と、朔の腰にまわした腕の手首を見つめ、口元に笑みを作った。
「なるほどね……」
「朔さん?」
「よし、いくぞ、耕太!」
朔はアクセルを派手にふかした。
「は、はい!」
「おーう」
バイクは後輪を滑らせた。
飛びだし、跳ねあがり、前輪を浮かす。傾く。耕太は朔にしがみつく。
「う……わあああああ!?」
そのまま、駐車場から道路へと、けたたましくバイクは走りぬけていった。
「がんばってね、王子くん……」
ナツミが、遠ざかるバイクを手を振って見送る。
そのナツミの言葉を、となりの多々良谷権左右衛門《たたらやごんざえもん》が聞きとがめた。
「Oh、プリンス? コウタボーイが?」
「そ。パパだってわかってるんでしょ? 弦蔵《げんぞう》おじさんのいってたこと、ぜんぶ本当だったって。王子さまだったって……だから渡したんでしょ、あれ」
ふっ、と多々良谷権左右衛門は笑う。
「プリンス、ノーね……コウタボーイは……」
「いーや? 耕太くんは王子さまだよ?」
「ホワーイ?」
へへー、とナツミは満面の笑顔を見せる。
「だって、わいせつ王子だもんさ!」
「わいせつプリンス……?」
サングラスから覗《のぞ》く眉《まゆ》を怪訝《けげん》にゆがめた父親をよそに、ナツミはもう見えなくなってしまった耕太たちの後ろ姿を追いかけ、つぶやいた。
「耕太くん……きみ、わかってる? 〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉を受け入れるほどのキャパシティーを、きみの気は埋めつくして、いまあふれださんばかりになってるってこと……その意味をさ」
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[#小見出し]  三、美乃里の異常な愛情[#「三、美乃里の異常な愛情」は太字]
ちずるへの拷問は、ずっと続けられていた。
彼女はうなだれ、ただただ涙を流す。
ひっくひっくと、しゃくりあげる。
「や、やめ、やめて、もうやめてよう……」
と、涙でぐじゃぐじゃの顔をあげたちずるの肌には、傷ひとつつけられてはいなかった。
傷だらけなのは、鏡のなかの耕太《こうた》だった。
ちずるの目の前に置かれた青い砂鏡のなかに映る、ちずるとおなじく金色の鎖に両腕、両脚を縛りあげられていた耕太は、もう息も絶え絶えとなっていた。鞭《むち》によるみみず腫《ば》れは無数に残り、蝋燭《ろうそく》による蝋《ろう》のあとも、ところどころにある。それどころか、口にゴムを噛《か》まされ、思いっきり伸ばしたあげくにべちーんと当てられたり、でこびん百回されたり、こめかみをぐりぐりと梅干しされたり、脇《わき》の下《した》をぎゅーっとつねられたり、乳首や……に洗濯ばさみを挟まれ、いきおいよく引っぱられたあとも、そこにはあった。
「……四岐《しき》さま」
ずっと見届けていた九院《くいん》が、四岐の耳元でささやく。
「これはなんのコントなのですか?」
「まあ、落ちつくんだ、九院《くいん》。それなりに効果はあるじゃないか」
四岐《しき》は、えぐえぐと泣くちずるを指さしながら、九院にささやき返す。
「ですが……最初の鞭《むち》がいちばん厳しい責めだったというのは、あまりにも……そもそも、ゴムがぱちーんって、そんなゆーとぴあ攻撃を見て泣く〈八龍《はちりゅう》〉がどうかと」
「わかったわかった。どうにかしよう」
四岐は手のひらをひらひらと振り、九院から身を離した。
ちずるの元へ向かい、ばちん、と指を鳴らす。
「おい、美乃里《みのり》……もうすこし責めを厳しくさせないか。どうにも効果が薄いぞ」
はっ、とちずるが顔をあげる。
「ま、待って、待ってよ、わたしは……」
「美乃里、聞こえてるのか?」
「待ってったら!」
にた、と笑みを強めながら四岐はちずるを見た。
「だったら」
ちずるの頭をつかみ、ぐい、と彼女の背中側へと向ける。
「さっさと残り二体の〈龍《りゅう》〉を目覚めさせたらどうなんだ? ん?」
ちずるの尾には、まったく変化が生じていなかった。
狐《きつね》のしっぽが一本と、燃える〈龍〉のしっぽが六本の、計七本。ちずる自体の反応は良好なのだが、肝心のしっぽにはちっとも動きが見られない。九院の訴えはとにかく、たしかにそろそろ責めかたを変えるべき頃合《ころあ》いではあった。
「わかってる! わかってるけど……」
しっぽを見て、ちずるが叫んだ。
「だってできないのよ! さっきから、ずっとやろうとしてる! どうにか目覚めさせようとしてる! だけど、どうしても目覚めてくれないのよ!」
んー? ゆっくりした動きで、四岐は首を傾《かし》げる。
「そんなに自分が大切なのかな? 恋人の命なぞより、自分の命が?」
「そんなわけがないでしょう! わたしの命なんか、耕太くんの命とくらべたら……!」
「さあて、どうかな……」
美乃里、と四岐は声をかけた。
「いっそ腕のひとつでも、折ってやれ」
「きさま!」
ちずるは眼《め》を剥《む》きながら叫ぶ。
どうじに、〈龍〉のしっぽの炎はふくれあがった。
すぐさまヒヒイロカネの鎖の拘束は強くなり、激しく締めあげ、絞りこむ。だが、なかなか抑えきれない様子だった。それを見て、四岐はにたりと口の端をあげる。
「四岐さま」
そのとき、九院《くいん》が四岐《しき》に身を寄せてきた。
「なんだ、九院……」
いいところを邪魔されたせいか、九院を見る四岐の目つきはめずらしく鋭かった。
だが、九院が耳元で、ちずるには聞こえぬよう手のひらで覆いながらなにごとか語りだすと、その眼《め》はわずかに大きくなった。
「なるほど……わかったよ。たしかにきみのいうとおりだ」
一瞬だけ変化させた表情をいつもの笑顔で塗りつぶすと、四岐は語りだす。
「考えてみれば、彼は普通の人間なのだったな。鍛えている我々や、まして妖怪《ようかい》とは違うのだった。わたしとしたことが、ついつい忘れてしまっていたよ……たしかに、やりすぎて殺《あや》めてしまうのは〈葛《くず》の葉《は》〉としても本意ではない。すこし休憩するとしようか。美乃里《みのり》! 聞いていたな? しばらく休憩だ!」
四岐が怒鳴ると、耕太が映っていた砂鏡の映像が消えた。
「では、〈八龍《はちりゅう》〉よ……よく考えておくことだ。彼を救いたいのならば、な」
四岐は九院と連れだって、歩きだした。
そのまま教室からでてゆく。
廊下で待機していたと思わしき、全身が黒い、防弾チョッキ、ヘルメット、手《て》っ甲《こう》、すね当てを身につけ、手にはマシンガンをさげた三珠《みたま》家のものが、ドアを閉じた。
「耕太くん……わ、わたしのせいで……」
ひとり残されたちずるは、がくりとうなだれる。
「いっそ死を選ぶべき? ううん、ダメ……いくらわたしが死のうとしても、きっと死ねない……〈龍《りゅう》〉が、〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉の力が、わたしを生かす……どんな状態からでも再生する……ああ、だったらどうすればいいっていうのよう……」
ちずるが首を横に振り、金髪を踊らせたそのときだった。
四岐の指示によって消されたはずの砂鏡に、ふっ、とまた映像が浮かびあがりだす。
廊下を歩きながら、四岐は尋ねた。
「巨大な気……ですか?」
校舎の外壁を砂防壁ですっぽりと覆ったままなため、窓の外は砂でびっしりな三階の廊下を、四岐は進んでいた。四岐の後ろには九院が黙ってついて歩く。まわりには親衛隊といってもいい、四岐のガード役を務める三珠家のものが、完全武装で四人、四岐を中心に囲む。
四岐が尋ねたのは、そのうち、だれでもなかった。
彼の横に、ならんで歩くふたりの女性。
うちひとりの、口に×印が書かれたマスクを着用した、ローブ姿の少女だ。
彼女は、〈葛《くず》の葉《は》〉八家のひとつ、土門《つちかど》家の当主だった。
まるで西洋の魔女のように、フードつきのローブを着こみ、そのフードをきっちりとかぶる。ローブの細部には梵字《ぼんじ》などが描かれ、腰には帯を巻きと、東洋の術式に従ったものであった。服のサイズが大きいため、ずりずりと裾《すそ》を引きずって歩くこの少女は、手に○と×が書かれた札を持っていた。
なぜ少女は、×印のマスクをして、○と×の札を持つのか。
喋《しゃべ》ることが許されないからであった。
少女はあまりにも優れた霊力を持つため、発する言葉ひとつとっても、周囲に思わぬ影響を与えてしまう可能性があった。たとえば、少女が「めたぼ」といえば、たとえ対象が太っていなくても、みるみる太りだす。メタボリックシンドロームに襲われてしまう。ゆえに彼女は、コミュニケーションを、○と×の札でとるしかなかったのだった。
いまも、少女は四岐《しき》の問いに、○の札をあげて答えた。
続けて、彼女の横に控えていた女性が、口を開く。
「空前絶後の大きさをもった、気です」
女性は、土門家当主である少女の副官だった。
少女とおなじくローブと着物が和洋折衷した衣服を着たこの女性は、眼鏡をかけ、厳しく目元、口元を引き締めて、一見、仕事がすごく出来る管理職といった雰囲気をかもしだしていた。そしてその手には、一冊のスケッチブックをさげていた。
副官である彼女は、当主の少女の翻訳係を務めてもいた。
「空前絶後……ですか」
彼女の言葉に、四岐は小さく笑い声をこぼす。
「笑いごとではありません」
副官の女性は状況の説明を始めた。
「これより三十分ほど前ですが、薫風《くんぷう》高校より数十キロ離れた地点にて、突如、とてつもなく巨大な気が発生したのを、当主が探知いたしました」
「とてつもなく巨大な気……?」
「はい。空前絶後というのは、その気の大きさもさることながら、質にあります。人とも妖《あやかし》ともつかぬ、異常かつ異質な気。まったくもって不可思議としかいえぬ気でした」
「人でもなく、妖でもない……ふっ、まさか、神の気だったなどというのではありますまいね? いや、これは失礼。少々口がすぎましたか」
四岐は手をあげ、謝罪する。
「で、その不可思議な気とやらは、現在どうなっているのですか」
「こちらへ向かって……接近していました」
「いました? 過去形ですが」
「あるていどまでこちらに近づいたところで、突如、消え去りました」
「消え去った……」
「はい。忽然《こつぜん》と。あとかたもなく」
「ふむ……」
「気の持ち主になんらかの事故が起きたとも考えられはしますが、おそらくは本人が自分の意志で気を消したと、そう考えたほうが無難かと思われます」
「まあ、そうでしょうね。気を消すことぐらい、初心者だってできることだ……ところで、肝心の強さですが、どうなんです? レベルでいうならばどのくらいですか?」
ここで土門《つちかど》家副官の女性は、当主の少女に視線を送った。
こくりと少女はうなずく。
すぐさま副官の女性は持っていたスケッチブックを開く。
しゃがみこみ、少女が書きやすい高さに掲げ持つと、ペンを手渡した。受けとった少女は、すらすらすらりんと、スケッチブックの白い紙に、なにごとかを描きだす。
書き終えるなり、ぱっ、と副官は四岐《しき》たちヘスケッチブックを向けた。
一同、怪訝《けげん》な表情となる。
紙に書かれていたのは、ひとことだった。
わからにゃい
あとは、余白に描かれたうさぎさんの絵だけだった。
「わからない……とは?」
四岐の言葉を受けて、土門家当主の少女はまたもペンをとる。
副官の女性はすぐさまページをめくり、あらたな白を少女の前にさらした。すらすらすらりん、すらすらりん。きゅ、きゅ、きゅきゅー。
き おおきいけど ばとる むいてない
でも いっしゅん すごく こわくなった
それいがい ずっと やさしい あるいみ へたれ
「ヘタれ……?」
んー。ちょっと悩んで、少女はつけたす。
あと すこし ぴんく
「八葉《はちよう》さま、いけません」
副官の女性が、最後の一文を指して、当主である少女をたしなめた。少女は首を傾《かし》げる。どうして? 女性は答える。どうしてもです。
つまり、と四岐はまとめた。
「空前絶後の異常かつ異質でとてつもなく巨大かつフレンドリーで一瞬は強いけどだいたいヘタれの、ちょっとえっちな気を持ったなにものかが、この〈葛《くず》の葉《は》〉と〈八龍《はちりゅう》〉がいる薫風《くんぷう》高校を目指して、接近してきている、ということでよろしいですか?」
こくこく。
土門《つちかど》家当主の少女、土門|八葉《はちよう》は、うなずきながら○の札をあげた。
「承知いたしました。ご報告、ありがとうございます。あとは我らにおまかせください」
四岐《しき》が、八葉に向かって頭をさげる。
少女と副官の女性が去ってゆくのを、待った。
ふたりが二階へと続く廊下の階段を下りるのを見計らったかのように、四岐の後ろに控えていた九院《くいん》が口を開く。
「〈御方《おかた》さま〉……でしょうか?」
「さあて? その空前絶後とかいう気の持ち主が仮に〈御方さま〉なのであれば、土門家の当主が見抜けないわけもないし……引っかかるのは、途中まで気をさらしておきながら、消したということか。なぜ最初から消しておかなかった? なぜわざと見せつけた? まさか空前絶後の気の持ち主ともあろうものが、気配を隠す術のひとつすらも知らないということはあるまい? まったくの素人が、突如なんらかの力に目覚めたというなら、まあ、話はべつだがな……」
自分でいっておきながら、四岐は笑いだした。
ありえないと、手を振って打ち消す。
「考えられるのは、おとりか。こちらがその異様な気に注意を向けたところで、本命……もしかすると〈御方さま〉が、裏からやってくるという。もしくは示威かもしれん。あえて力を見せつけ、こちらを疑心暗鬼にさせるとか。本能的に人は不可解なものを恐れるものだからな。なんにせよ、放《ほう》っておくわけにはいかないだろう」
「では」
「ああ。〈葛の葉〉全隊に伝令。警戒態勢から厳戒態勢へと移行せよ。すでに三珠《みたま》家の半数は周囲にでて、悪良《あくら》家とともに侵入者の警戒に当たっていたはずだな? もっと厳しくさせろ。そうだな……仮に〈御方さま〉が相手の場合、いまの数では時間稼ぎすらできないか……よし、三珠家はもう最低限の人員だけここに残して、あとは外にだしてかまわん」
「四岐さま、それでは……」
「いいんだよ、九院。万が一〈御方さま〉が戻ってきた場合、この薫風高校のすぐ近くにまで接近されてしまえば、校舎のコントロールを奪われてしまう可能性がある。いまは完全に美乃里《みのり》が支配しているとはいえ、なんといっても元々は〈御方さま〉の領域だったのだから、な……」
四岐は視線を落とした。
廊下を見つめる。
「わかっているだろう、九院。〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉が完全|覚醒《かくせい》したとき、その力を抑えきることができる設備は、現状、この薫風《くんぷう》高校にしかないということは。もちろん、あらたに設備を作ることはできる。だが、それには多少の時間がかかる……わたしはその時間が惜しい。なぜなら、〈御方《おかた》さま〉はなにかを企《たくら》んでいるからだ。あの道理の通らない行動、かならずや企んでいるに決まってる。だからわたしは急ぐ。今夜だ。今夜のうちにすべてを終わらせる。くく、ならば、たとえ〈御方さま〉がなにを企んでいようと、どうにもならないだろう? すべては終わったあとなのだから!」
顔をあげ、四岐《しき》は笑みに細めた眼《め》を九院《くいん》に向けた。
九院は微笑《ほほえ》む。
「ええ、四岐さま……」
「そのためには、我らはこの薫風高校にいなくてはならん。そして、〈御方さま〉を絶対に薫風高校に近づけてはならん。外で止めるのだ。校舎の外……そう、できれば街のあたりでどうにかするんだ。だから三珠《みたま》家はほとんど外にだす。〈御方さま〉に校内に侵入されれば、その時点で終わる可能性があるのだからな。いくら戦力が残っていても意味があるまい?」
「はい。四岐さまのお考えにあやまちはございません。わたくしもそう思います」
九院の答えに、四岐は満足げにうなずく。
よし、いけ、とまわりの親衛隊たちに命じた。
「ああ、ちょっと待て」
伝令に走ろうとした親衛隊のひとりを、四岐は手で制する。
あご先に手を当て、すこし悩みだした。
「念のためだ……七々尾《ななお》家、八束《やつか》家にも準備しておくよう伝えろ。いつでも行動できるように」
こんどこそ伝令は走った。校内に張り巡らされたヒヒイロカネの鎖がその力を全開しているためか、現在、薫風高校内では携帯電話などを使うことができなかった。結果として、古来からの伝令方法に頼ることになっていた。
「さて……処理もすんだところで、〈八龍《はちりゅう》〉の説得を再開するとしようか。どれほど得体の知れない存在がここを目指していようが、迫る前に〈八龍〉の覚醒《かくせい》を終えてしまえばいいんだからな。つまり、最良の解決法は〈八龍〉を責めることにあるというわけだ」
四岐は後ろを向く。
九院と連れだって、さっきまでいたちずるの教室へ向かおうと、一歩足を踏みだした、その瞬間のことだった。
大地が跳ねた。
激しい縦揺れに、四岐の身体は一瞬、跳ねあげられる。それほどの揺れに、天井にならぶ蛍光灯はいっせいにちかちかと明滅した。
な……なんだ?
揺れは一回だけで終わる。
四岐《しき》は足下を向き、廊下の奥、大地のなか、プレートのうねりを思った。
いや……違う!
顔をあげる。
水平に向けた視線の先にあるもの、それはいま四岐が目指していた場所だった。
ちずるのいる、教室。
四岐は駆けだす。
九院《くいん》を残し、ひとり廊下を駆け、教室へと向かった。
近づくほどに四岐の肌は粟立《あわだ》つ。
冷えきっていた。凍てついていた。
気温の問題ではない。人の肌を侵し、命を消し去る、まがまがしいほどの妖《あやかし》の――いや、バケモノの気が、あたりに満ちていた。なんという邪気! 邪神の気!
『やめたほうがいいよ、四岐さま……』
と、声が届く。
どうじに、しゅるしゅるしゅると、天井から青い砂が落ちてきた。
砂は、四岐をとどめるように、彼の前に大きな砂鏡を作りあげてゆく。
「美乃里《みのり》!」
『普通の人間ならば、近くによっただけでも死ぬほどの悪気……たとえ四岐さまであっても、すこしあぶない。いまの四岐さまは〈葛《くず》の葉《は》〉を動かす大切なお身体。だから、これで我慢してくださいよ』
砂鏡に、映像が映った。
ちずるだった。
すっかりうなだれ、完全に脱力し、バンザイするかたちにあげた両腕に絡むヒヒイロカネの鎖だけで身体を支えられたちずるが、砂鏡独特の青い色味の入った姿で、浮かびあがる。ちずるの狐《きつね》の耳はすっかり垂れ、心なしか、金髪も艶《つや》がなく映った。
ぐぐっ、と映像はまわりこんでゆく。
真横からのアングルで映しだされたもの、それはしっぽだった。
八本のしっぽだった。
狐のしっぽが、一。
炎の激しく燃えあがる〈龍《りゅう》〉のしっぽが、七。
そう、〈龍〉の数は七体となっていた。
一体、あたらしく目覚めていた。目覚めて、ヒヒイロカネの鎖に縛りあげられ、なおものたくっていた。火の粉を散らしていた。
「な、なんと……!」
四岐の唇の笑みが、歯を覗《のぞ》かせた大きなものへと変わる。糸のように細めて弧を描いた眼《め》が、開き、白目と黒目の三日月を作りあげる。
ここで、九院は四岐に追いついた。
四岐《しき》が見ていたものを覗《のぞ》きこみ、眼《め》を見開き、息を呑《の》み、最後に声を荒げる。
「美乃里《みのり》、おまえ、なにをやった!?」
『べつに……たいしたことではありませんよ』
砂鏡の映像が切り替わった。
映しだされたのは、手、だった。
ひら、ひら、中途半端に握りこまれた手は、振られる。
「美乃里……?」
怪訝《けげん》な顔をした四岐と九院《くいん》の見ている前で、砂鏡の映像は、ずーっと引いていった。
四岐と九院が、驚きの表情を浮かべる。
その手は、耕太の手だった。
正しくは、美乃里が化けていた耕太の手……だが、問題はそんなことではなく、美乃里が化けた耕太は、自分の右手を、自分の左手で持って、振っていたのだった。
耕太の右腕は、なくなっていた。
肘《ひじ》のすこし上の部分から、なにか鋭利な刃物で切断したのだろうか、綺麗《きれい》な断面を残し、切りとられていた。
そして片腕の耕太は、その切りとられた右腕を、左手で持って、振る。
なんとも悪趣味きわまる映像だった。四岐も九院も、ごくりと喉《のど》を動かすほどだった。切りとられた自分の腕を振るという行為自体よりも、その行為をおこなう本人の表情が、じつに晴れやかなのが異様さを増していた。
『見せたかったナア、四岐《しき》さまたちにも』
耕太の顔で、美乃里《みのり》はいう。
『ぼくが腕を切りとられた瞬間の、ちずるの姿ときたら……たかだか腕の一本ごときで、泣くわ、わめくわ、天地がひっくり返ったかのような大騒ぎ。あげく、鼓膜が切り裂かれるんじゃないかってぐらい甲高い叫びをあげて、〈龍《りゅう》〉のしっぽの一本ばかりを覚醒《かくせい》させたあと、最後には失神ときた。こんなの、すぐくっつくのにさ』
美乃里は左手に持っていた右腕を、傷口に当てた。
ぴく、と指先を震わし、すぐにぐーぱー、ぐーぱー、右手を動かす。
『あ、くっつけたらダメか。ちずるにバレちゃうバレちゃう……』
えい、と引きちぎった。
耕太の姿をした美乃里は、ぷつぷつん、とちぎった右腕を、横に仏頂面で控えていたアルビノの鰐男《わにおとこ》、鰐淵《わにぶち》に放《ほう》る。鰐淵は手に血のついたナタを持っていた。
と、美乃里はいきなり頭をさげる。
『四岐さま、指示も待たず、勝手に行動したことはお詫《わ》びいたします。ですが、なにやら得体の知れぬ気の持ち主も接近していた由、ついつい焦り、このような真似をしてしまいました』
「ほう……わかったのか? 美乃里、おまえにも空前絶後とやらの気の接近が」
『ええ……薫風《くんぷう》高校には、レーダー的な機能もありましたので』
「初耳だな」
『申し訳ありません。わたしもさきほど気づいた機能ですから』
「さきほど気づいた、だと?」
「はい」
四岐は黙って頭をさげ続ける耕太姿の美乃里を見つめ続けていたが、やがて笑った。
「まあいい……それでなんだ? ああ、べつに美乃里、おまえが自分への拷問を勝手に再開していたことなら、とがめるつもりはわたしにはないそ? 結果的に〈八龍《はちりゅう》〉の覚醒を残り一体のところまで推し進めてくれたわけだからな。不問に処そう」
「四岐さま、いけません」
九院《くいん》は横で異を唱えたが、四岐は微笑《ほほえ》むだけだった。
「ほかになにかあるか? 美乃里」
『〈八龍〉のことは、ぼくにまかせてくださいませんか、四岐さま』
莫乃里はさげていた頭をあげ、そういった。
その耕太の顔には、まるで四岐の素顔のような、毒々しい笑顔が浮かんでいた。
「まかせろ……だと?」
『ええ。いま接近している、得体の知れない、空前絶後の大きさを持った気……危険です。きわめて。絶対にこの薫風高校へと近づけてはなりません。そのためには、四岐さま、あなたは〈葛《くず》の葉《は》〉の指揮へと集中すべきです』
「なんと不遜《ふそん》な! 美乃里《みのり》、その口の叩《たた》きかたはなんだ!」
吠《ほ》えた九院《くいん》を、四岐《しき》が手を伸ばして抑える。
「なあ美乃里。その、おまえが例の気の持ち主をきわめて危険だと思う理由はなんだ? 薫風《くんぷう》高校には危険度を判断する機能までついていたのか?」
『いえ……あえていうならば、勘です』
「勘。ほう、勘」
『はい』
「……いいだろう」
「四岐さま!」
にたり、と四岐は笑った。
「べつに美乃里、おまえの勘とやらを信じるつもりはない。だがしかし、おまえの提案自体は道理でもある。〈八龍《はちりゅう》〉を〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉として覚醒《かくせい》させる仕事は、美乃里、現状、小山田《おやまだ》耕太に化けたおまえにしかできない。そして得体の知れない気の接近を防ぐ仕事は、〈葛の葉〉全体を統括するわたしにしかできないのだ。なにより……」
四岐は砂鏡の向こう、黒々とした廊下の奥へと視線をやる。
なぜか、砂鏡より奥側の廊下では、蛍光灯が点《とも》っていなかった。そうして生じた闇《やみ》のなかで、空気は重たくよどみ、静かに腐り、すべてをじわじわと侵そうとしていた。
「この気のなかに残っていられるのは、数十分が限度だろう。そこまでして、〈八龍〉の覚醒を見届けることもあるまい。よし、〈八龍〉の件は美乃里、おまえに一任しよう。わたしは接近者の排除にかかる。いいか?」
「お待ちください、四岐さま」
九院がいった。
紫色の髪がわずかにかかる瞳《ひとみ》を、なにか覚悟のこもった強さをもって、四岐に向ける。
「なんだ、九院? そんな顔をして……」
「わたくしが残ります。〈八龍〉の元には」
「おい」
「いえ、残らせてくださいませ。やはり美乃里は信用がなりません。なるほど、美乃里はつねに監視下にあります。つねに美乃里の元におり、いまも美乃里と一体となっている人造の妖《あやかし》、鵺《ぬえ》によって。鵺は〈葛の葉〉によって造られた妖。ゆえに〈葛の葉〉は裏切れない。ですが、どうかお考えにもなってみてください、四岐さま! あの〈八龍〉の力をコピーできるほどの美乃里が、鵺に仕込まれた〈葛の葉〉への忠誠心を、解除することができぬはずがないではありませんか!」
「……かもしれないな」
答えた四岐の表情は、いつもの笑みで塗りつぶされていた。
「四岐……さま?」
「まあ、九院《くいん》。残りたければ残ってもらつてもかまわない。〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉が復活を果たす、その素晴らしい瞬間を、わたしの代わりにきみに見届けてもらうというのも悪くはない。だが、だいじょうぶなのか? この〈八龍《はちりゅう》〉の気……尋常なものではないぞ」
「問題ありません。わたくしは妖《あやかし》……それも九院家当主なのですから。妖気《ようき》に対する耐性は、人よりもはるかに上です」
「いいだろう……美乃里《みのり》! かまわないな?」
『ええ、もちろん……よろしくお願いします、九院さま』
「よろしくお願いするわ……美乃里」
美乃里の声に、九院は艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》み、応《こた》えた。
九院の艶然とした笑みを、美乃里は砂鏡こしに受けていた。
「無理するよ……七龍まで目覚めた段階で、ここまで濃厚な毒気なんだ……これで八龍がそろった〈八岐大蛇〉と化したら、まちがいなく無事じゃすまないだろう。いやはや、愛に生きる女は強い……いや、愛に生きる女は無謀、かな?」
耕太の顔のまま、美乃里は笑う。
その身体は、ちずるとおなじくヒヒイロカネの鎖で両腕、両脚とも拘束されてはいた。ただし、こちらの金色の鎖は身体の動きを邪魔したりはしない。美乃里が腕を動かせば、素直についてきた。いま、その腕は片方なかったが。
美乃里の前にある砂鏡の映像が、動いた。
九院の耳元でなにごとかささやき、まわりの親衛隊とともに歩きだした四岐《しき》を映しだす。
「よしよし……頑張るんだぞ、四岐。〈八岐大蛇〉は、ちゃーんとこのぼくが復活させてあげる。だから、いましばらく兄さんを近づけるな。いま兄さんの気の存在は、校内に張り巡らされたヒヒイロカネの鎖の力で、ちずるには感じとれないようにしてある。だが、兄さんが校内に一歩でも足を踏み入れるようなことがあれば、さすがに無理だ。ちずるに兄さんの気を感じとられてしまう。そうなれば、いかにぼくと兄さんの存在が同一といえども、どっちが本物の小山田耕太かは、気づかれてしまうだろう。だから……頼むぞ四岐。おまえに兄さんを倒せなどと、不可能なことはいわない。せめて時間を稼げ。〈葛《くず》の葉《は》〉すべての力をくれてやったんだ。そのくらいはおまえでもできるだろう……?」
美乃里は、ふいに顔を横へと向けた。
教室の壁の、なにもない場所を、遠い目線で見つめる。
「兄さん……おとなしく<御方《おかた》さま〉と逃げていればよかったものを。わざわざ見逃してあげたというのに……死ににくるか、ぼくのために……」
美乃里の、その耕太としての顔の表情は、ひどく冷たいものだった。
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[#小見出し]  四、ダンス・ウィズ・ウルブス![#「四、ダンス・ウィズ・ウルブス!」は太字]
雪のちらつく街外れで、彼女は待っていた。
国道沿いにいくつもならぶ、いわゆる郊外型大型店舗のひとつ、すでに営業時間が終わり、照明の落とされた暗い中古車店の、その一台の車の陰に隠れながら。
彼女は、〈葛《くず》の葉《は》〉八家のひとつ、三珠《みたま》家のものだった。
しかも、その隊長格だ。
かつては潜入任務のため、ファミレスで半年ほど店長を務めたこともあった。そのとき一緒にファミレスで働いていた部下たちは、いま、やはり彼女とともに、全身、目立たぬような黒い色彩の、上半身を覆うアーマーや、手《て》っ甲《こう》、足のすね当て、ヘルメット、ブーツや、銃器、ナイフなど、三珠家のフル装備でもって、周囲に潜んでいる。
隊長である彼女の、ヘルメットから覗《のぞ》く切れ長の眼《め》が、鋭くなった。
彼女は雪辱に燃えていた。
あの、ファミレスでの潜入任務の、失敗――。
人畜無害と思われた対象の少年が飼っていた、害獣、巨蛇、鎌首《かまくび》もたげた――。
あ、あなこん――。
ぶんぶんぶん。彼女は首を横に振り、脳裏の映像を追いだす。
もはやミスは許されない。
彼女は車の陰から、中古車店に面した、数車線もあるだだっ広い国道を覗きこんだ。
もうすぐ、目標がやってくる。
〈葛の葉〉全体に敷かれた、厳戒態勢の命。
とくに彼女たち三珠家には、不審な侵入者を発見しだい、迎撃するよう指令がくだっていた。これからやってくるのは、不審も不審、一台の大型バイクに三人乗りしたものたちだった。
おまけにその三人のうちふたりは、人狼《じんろう》であるという。
どちらも銀髪の男と女で、どちらも狼《おおかみ》の耳としっぽを生やしているらしい。まだ正体は不明だったが、放胆なことに顔をさらしているため、いずれは〈葛の葉〉に蓄えられたデータベースと照合され、どんな妖怪《ようかい》なのか判明するはずだ。
人狼以外の残ったひとりは、正体不明。
ひとりだけフルフェイスのヘルメットをかぶった、小柄な人物なそうな。おそらくは少年。ただ、どうにも気が探りとれないらしい。人間なのか妖怪なのかすら判別がつかないようだ。
ふん、と彼女は口元をにやりとさせる。
すぐに正体はわかる。
闘えば……すぐに。
すでに道路には棘《いばら》のならんだスパイクのベルトを、横断するかたちで広げてある。知らずにバイクで通過すれば、たちまちタイヤはパンクしてしまうはずだ。うまくすれば事故を起こす。うまくしなくても、足を止めることはできる。
やがて、バイクの排気音が近づいてきた。
彼女は手をあげる。周囲に潜んでいた部下たちが、おのおの、うなずきを返した。よし、準備万端。いつでもやってこい、不審きわまる侵入者どもめ。
三。
二。
一!
ヘッドライトを輝かせたバイクが、いきおいよくスパイクのベルトがならんだ地点を通過した。見事に破裂音を鳴らし、がくがくがくとうねり、くねり、倒れて、派手な音をあげながら、道路を横滑りしてゆく。
彼女の前を、通過していった。
「……なに!?」
そこにはバイクしかなかった。
当然乗っているはずのライダーの姿は、どこにもなかった。
バカな、三人の乗り手は、いったいどこへ――。
「店長!」
直前までの任務の癖が抜けてなかったのか、部下がそう叫んだ。
しかたがないやつめ。まあ、たしかにあの任務は楽しかったが……と思いながら彼女はウェイトレスだった部下の女性へと視線を向ける。
部下は、空を指さしていた。
その指を彼女がなぞってゆくと、そこには、月。
ゆるやかに舞いおりてくる雪の白のなか、冴《さ》え冴《ざ》えとした光を放つ月を、まるで背景にして、逆光のなか、黒々とした影が浮かぶ。
影は、人の影だった。
影は、宙を跳んでいた。
影は、狼《おおかみ》の耳としっぽを生やした、背の高い男の姿をしていた。
影は、その手の爪《つめ》を鋭く尖《とが》らせ、その足をいまにも蹴《け》りを放つかのように曲げていた。
影は、ゴーグルをつけ、口元に野性味あふれる、牙《きば》の鋭い笑みを浮かべていた。
影は、背中にやはり狼の耳を生やした少女と、ヘルメットをかぶった少年を乗せていた。
影は、まっすぐにこちら側へと落ちてきて――。
「あ……」
風が吹き荒れた。
銀色の髪をなびかせた、全身、黒い革の衣服に身を包んだ風だ。
まさに暴風のごとく、人狼《じんろう》の男は脚をひらめかせ、蹴《け》りを飛ばす。拳《こぶし》を突きだす。肘《ひじ》をうつ。彼の背にいた人狼の少女も、がう! とドロップキックを放つ。ぐーぱんちをだす。頭からびよーんと飛びこんでゆく。噛《か》みつく。がうがうがう。のぞむぱーんち!
ふたりの人狼が動くたび、確実に部下は数を減らしていった。
「う……撃て! 撃つんだ! とにかく体勢を立て直せッ!」
彼女は怒鳴った。
厳しい訓練を乗りこえたはずの部下たちだった。たとえどんな混乱下にあろうとも、隊長である彼女の命令は聞くはずだった。頭で理解できずとも、身体で理解し、とにもかくにも引き金を引けるはずだった。
動けさえ、すれば。
部下はみな、倒されてしまっていた。
わずか三体の……いや、実質働いていたのは二体の人狼だけだったが、その男と少女によって、部下たちはそれぞれ、地面に転がり、芝生に飛びこみ、中古車のボンネットにめりこみ、動けない。
「くっ……!」
ただひとり残された彼女は、動く。
隊長として、このままぶざまに全滅することだけは絶対に避けねばならなかった。持っていたマシンガンを腰だめに構え、彼女は狙《ねら》いを定める。
標的は、少年だ。
フルフェイスのヘルメットをかぶり、上下とも革のライダースに身を包んで、先ほどの戦闘中、ひたすらおろおろとしていただけの小柄な少年。三体の敵のうち、もっとも確実にしとめることができるのは彼だった。
かわいそうではあるがな……。
刹那《せつな》、意識をかすめた感情とは裏腹に、彼女の指先は冷酷に引き金を引く。
無数の弾丸、それも一発一発に退魔の術がこめられた弾丸が、適度に散らばりながら、少年へと襲いかかった。
一瞬だった。
弾丸は、ヘルメットのシールドを砕き、革のライダースジャケットにいくつもの穴を開け、内部の肉をえぐり、ぐちゃぐちゃのミンチと化し、裂かれた革袋のごとく、鮮血を噴きださせる――はずだった。
しかし、その無惨な光景は、あらわれなかった。
ヘルメット姿の少年は、いまだ無傷のまま、そこに立っていた。
少年は、手をこちらへと向け、伸ばしていた。
それは左腕だった。不思議なことに、少年の広げた手のひらは、ぼんやりとした光を放っていた。
すっ……と、少年がその左腕を下ろす。
すると、なにやら軽い金属音が地面からあがった。
それも無数に。
「まさか……」
マシンガンをぶっ放した彼女は、思った。
まさか、いまの金属音は、弾丸が?
まさか、すべて空中で止められて、そしていま地面に落ちたのだとでも?
「ふざけるな! バリヤーを張ったとでもいうのか!」
叫んだ彼女の前で、少年は、腰をひねっていた。
ぐつ、とため、思いきり、その右腕を伸ばしてくる。
まずい、と彼女は歯を食いしばり、衝撃に備えた。
少年の右腕は輝き、その手のひらから、彼女へ向かって力が――。
「ひやん!」
彼女は、かつて洩《も》らしたことがないくらいにかわいい声をあげてしまった。
襲われたからだ。
なまぬる〜い、人肌ほどのぬくもりをもった感触に、素肌を、胸を、その敏感な先端を、脇腹《わきばら》を、おへそを、さらにその下……内股《うちまた》の部分まで……奥……を、ぬらりんと撫《な》でられたからだった。
すべて覆ってあるというのに。
アーマーで、タイツで、シャツで、下着で、覆ってあるというのに、少年から放たれた力は、すべてをすり抜け、彼女の肉体を襲った。
な、なんといやらしい力か!
彼女は頬《ほお》の火照《ほて》りが身体全体へと広がってゆくのを感じながら、ヘルメット姿の少年をののしる。それは恐怖の裏返しだった。甘い……あまりに甘く肌の残った触感に、彼女は鼓動の高鳴りを止められない。もし、あの攻撃を再度受けたら……続けられたら……きゅん、と彼女の胎内は縮みあがった。
「この……シャイニング・エロス・フィンガーが!」
彼女は腰にさげたナイフを抜く。
逆手に構え、これ以上の陵辱を防がんと、少年に飛びかかった。これ以上されたら、わたしは、わたしの肉体は……!
ところが、ヘルメット姿の少年は、声をかけてきた。
「あ、あれ? その声は、たしか……」
ヘルメットごしでくぐもった少年の声に、彼女の動きは激しく鈍る。
聞き覚えがあったからだ。
それはそう、彼女の心に刻まれた声だった。
トラウマという名の刻みを、彼女に与えた主の声――。
「い、い、い……」
彼女は、しゃくりあげるように、声を洩《も》らし、そして叫ぶ。
「いやぁあああぁぁあああああぁぁぁあああー!」
あーなーこーんーだー!
まざまざと脳裏に浮かびあがった、ボア科アナコンダ属に属する世界最大級の蛇の姿に、彼女は、そういえばアナコンダは毒を持っていないのだったな、と薄れゆく意識のなか、事典の知識を基に、思う。
いや、持ってるな。
事実わたしは、すっかりやられてしまったではないか。
彼のあなこんだの、毒の前に……あーなこんだ、あなこんだー♪
うふふふ、きゃはは、と笑みを浮かべながら、彼女の意識は消失した。
「どうした、知りあいか?」
「知りあいといいますか……以前、面接されたといいますか……」
朔《さく》の問いに、耕太《こうた》は地面に倒れ、丸くなり、親指の爪《つめ》をかじりながら、あなこんだ……あなこんだ……と、なぜか楽しげに呟《つぶや》き続ける、かつてバイトしようとした先のファミレスで店長を務めていたはずの女性を見おろしながら、答える。
なぜ彼女が、こんな完全武装で、ぼくたちを襲ってきたのか?
答えはひとつ、彼女が〈葛《くず》の葉《は》〉の一員だからだ。
「そうだったんだ……」
だからちずるさんと望《のぞむ》さんは、ぼくがあのときファミレスで働こうとしたのを邪魔したんだ……。ようやく耕太は理解した。
「ところで望、おまえ、あまり調子がよくないだろう」
朔がいった。
耕太は驚く。
「え? 調子が?」
とてもそんなふうには見えなかったのに? ただ女性にヘンな声をあげさせることしかできなった自分とは違い、とんでもなく強かったのに?
指摘された望は、んー? と首を傾《かし》げていた。
「とくに鼻の利きが悪い……違うか?」
望は、鈍く光を反射する革のぴったりなツナギに、そのスレンダーな身体のラインを浮きだたせながら、首だけを傾げ、戻し、やがて、ぽつりという。
「そうかも」
「やっぱりな……どうも闘ってるとき、反応が鈍いと思ったんだよ。おれたち人狼《じんろう》にとっちゃ、鼻の利きは死活問題だからな。感覚のかなりの部分を鼻に頼ってしまってるんだ、無意識にな」
ふむ、と朔《さく》が腕を組み、視線を落とす。
「思えば、〈御方《おかた》さま〉の作った砂人形のなかに隠れていたおれのことをおまえが見つけだせなかった時点で、気づくべきだったな……いかにあのとき砂人形はほとんどが土でできていたからって、人狼《じんろう》なら匂《にお》いを嗅《か》ぎとれないはずがなかったんだ」
「だ、だいじょうぶなの、望《のぞむ》さん!」
耕太は望の肩をつかみ、揺さぶった。
がくんがくん、望の首は揺れ、銀髪も揺れる。
「だいじょぶ!」
ぱん、と望は耕太がかぶっていたフルフェイスのヘルメットを、両側から手で挟みこんで、そういった。びく、となって耕太は望を揺さぶる手を止める。
「そ……そう」
「うん。だけど……」
きっ、と強く見開いていた眼《め》を、望はか弱く細めた。
いきなり抱きついてくる。
「ぎゅっとして、ぎゅって。そうすれば、もっとだいじょぶ」
「あ、うん」
ぎゅー。
耕太が背に手をまわして抱きしめると、望は「うー……」と心地よさげにうなる。腰から伸びる銀毛のしっぽをぱたぱたとさせた。
「おー、おー、すっかり手玉にとられてるな、耕太」
横で朔は、微笑《ほほえ》んでいた。
「そ、そんなことは……」
あります……と耕太はヘルメットのなか、小声でつぶやく。
「さて、愛情の再確認をしているところ、たいへん申し訳ないがね、おふたりさん。我々は先を急がねばならないのではなかったかな?」
「あ、はい!」
しかし、望は耕太にくっついたまま、しっぽをぱたぱたさせたまま、離れない。
「の、望さん?」
「うー……あと五分。ううん、三分」
「朝、ふとんから起きられないひとじゃないんですから」
ふー、と朔が長々と息を吐く。
「望……やはり、鼻が利かないというのは不便なもんだな」
がう?
朔の言葉に、望が身体をすこし離し、兄を見た。
耕太も朔《さく》のいわんとすることに気づく。
「それって、まさか……」
「そう、お客さんだ。さすがは〈葛《くず》の葉《は》〉というべきかな?」
耕太と望《のぞむ》は、すぐさま動く。
朔と三人、背中あわせの体勢となった。
三角となって、周囲に油断なく視線を走らせる。
「さて、どこかに監視の目があったのか、それとも耕太くんの知りあいとかいう彼女がさっきあげた悲鳴を聞きつけてやってきたのか……なんにせよ、気は抜くなよ、耕太、望。もうここから先は〈葛の葉〉の勢力圏内だ。〈葛の葉〉ったら、もうとにかく数がすごいんだよ、数が。とくに三珠《みたま》家はな、それだけで〈葛の葉〉の約半数を占めてるからな。そんなのが、うじゃうじゃうじゃうじゃ……もう、いちゃつく暇はないぜ」
ぐっ、と耕太は腰を落とした。
望も低く、まるで獣が飛びつくかのように構えた。
ただ朔は、すらりと立っていた。
と、揺らぐ。
ゆらゆら、ゆらゆら……一見やる気のなさそうな意味不明の動きだが、これこそは朔が本気で闘うときの構えだった。重心を固定せず、瞬時に体勢を変化させることができる……その恐ろしさは、耕太も自分の身でよく理解していた。
「くるぞ……耕太、望!」
「はい!」
「がう!」
朔の声とどうじに、あたりにならぶ中古車の陰から、無数の人影が襲いかかってきた。
薫風《くんぷう》高校における〈葛の葉〉の司令室は、職員室にあった。
校内に張り巡らされたヒヒイロカネの鎖の力が全開にされていたことによって、現在、薫風高校において携帯電話は使用できない。結果として伝令役の人間が走らなければ指示をくだすことができない現状、学校の中心に位置する二階の職員室が、司令室としてはもっとも都合がよかったからであった。
机は、すでにならべ替えてある。
縦長の大きなテーブルとなるように、くっつけてならべられた机の、その頂点の部分にぽつりと置かれたひとつの机に、司令官役の四岐《しき》は座っていた。
元は教頭のものだった革張りの椅子《いす》に背を沈め、四岐は配下のものたちの報告を聞く。
配下のものたちは、彼の目の前に、縦長の大きなテーブルとなるようくっつけられた机を、まさにテーブルのごとく囲み、座っていた。
「――さきほど、国道より侵入したとの報告がありました三名、男の人狼《じんろう》と少女の人狼、それと正体不明の少年らしきものですが、待機させていた一隊を倒したのち、さらに二隊を倒し、突破。戦闘となった地点はちょうど郊外の中古車店だったのですが、そこの車を奪い、街へと向かった模様であります」
ひとりの報告を聞き、四岐《しさ》は苦笑を洩《も》らす。
「それはなんとも大活躍だな……で? こちらの対応は?」
「対象の現在地は完全に捕捉《ゆそく》しております。付近にいる三珠《みたま》家のものたちをさし向けます」
「あまり戦力を集中させすぎるなよ」
四岐はいった。
「おとりの可能性がある。とくにその、フルフェイスのヘルメットで顔を隠した少年というのが怪しい。その少年の気を探知できないというのは……おそらく、先に土門《つちかど》家が感知した気、空前絶後とやらのいわく形容しがたいが、突然消えた気の持ち主がその少年なのだと、こちらに勘違いさせるためだろうと思われる。とはいえ、当てる戦力がすくなすぎれば、止めることもできんか……ふむ、痛し痒《かゆ》しだな?」
のんきな声を四岐はあげる。
「四岐さま、人狼の正体が判明いたしました。男と少女、二体ともです」
と、あらたな報告が届いた。
四岐は手元に渡された書類に目を通し、ふふん、と笑う。
「やはり、犹守朔《えぞもりさく》と犹守|望《のぞむ》か……人狼と聞いた時点で、そのふたりではないかと思ってはいたが……しかし、〈葛《くず》の葉《は》〉にあるデータより、かなり戦闘能力は高いようだが……?」
「一年前のデータでありますから」
「なるほど、修行でもしていたか? だが犹守望のほうは、あの〈八龍《はちりゅう》〉の恋人である少年の、アイジンをただ務めていただけだろう? それでこのパワーアップぶりとは……よほど小山田《おやまだ》耕太の精気は純度が高く、濃厚らしい」
くくく、と少々、品のない笑い声をあげた。
笑いを止める。
ふと、四岐は首を傾《かし》げた。
まさかな……?
ヘルメット姿の少年が、小山田耕太なのではないかと、ふいに四岐は思ったのだった。
そんなはずがない。彼はただ、好色な〈八龍〉に絡めとられた、あわれな肉奴隷でしかないはずだ。美乃里《みのり》の報告ではそうだったし、四岐が九院《くいん》とともに薫風《くんぷう》高校に潜入してみたときに見た小山田耕太も、すかすかの、一般人より脆弱《ぜいじゃく》な気の持ち主でしかなかった。
だから四岐は、天啓ともいえたそのひらめきを、あっさりと捨て去ってしまった。
「よし、方針を変更しよう」
ばちん、と指を鳴らし、四岐はいった。
「外にだした三珠家の戦力をな、とりあえず半分ほどぶつけてみよう。それならまちがいなく倒せるはずだ。いかに犹守朔《えぞもりさく》、犹守|望《のぞむ》といえどもな……まあ、四分の一ほどの戦力でも充分に勝てるがな、念には念を入れよう。この隙《すき》に〈御方《おかた》さま〉が侵入しようとしても、悪良《あくら》家の目と、土門《つちかど》家の探知能力なら、決して見逃さないはずだ。よし、やれ」
指さされ、配下のものたちは一礼した。
おのおの、四岐《しき》の命令に従って、自分の仕事にとりかかる。街の地図と耕太たちの現在地を見ながら、攻撃方法を立案するもの、現在の三珠《みたま》家の配置を確認するもの、武具、食料品、医薬品等に過不足がないか点検するもの、さまざまだった。
その様子を見て、ひとり四岐は笑う。
身体を前に傾け、机に両|肘《ひじ》をつき、組んだ手の甲の下に口元がくるような姿勢をとった。こうすれば、ゆがんだ口元を配下たちに目撃されることはない。
問題なし……。
四岐は満足した。
すぐに侵入者の三人は排除できるだろう。いくら人狼《じんろう》、犹守朔、犹守望でも、百人単位の三珠家を相手ではひとたまりもない。敵《かな》うはずはなかった。
四岐は天井を見つめる。
天井の奥、〈八龍《はちりゅう》〉の姿を思った。
美乃里《みのり》が化けた小山田耕太を、そうとは知らず、苦痛の涙を流す〈八龍〉。最初、美乃里が「ぼくが〈八龍〉の恋人に化けるよ」と提案してきたときには、すぐに見破られるだろうと思ったが、どうして、よくやっている。
そして、その騙《だま》されている〈八龍〉の横。
瘴気《しょうき》にも似た〈八龍〉の毒気が立ちこめるなか、健気《けなげ》にも四岐のため、美乃里の監視についた九院《くいん》。身体を押し包み、とりこみ、腐らそうとする空気のなか、懸命な顔でこらえる九院を思ったら、なにやら四岐はこみあげてくるものがあった。
犯したい。
あの爛熟《らんじゅく》しきった九院の肉体を這《は》わせ、後ろから貫きたい。
かつてなかった激しい欲求に、四岐はどうにか自分が笑いだすのをこらえる。なんとかわいいやつか。なんとかわいい女か。九院。わたしの九院。もうすぐ、もうすぐだ……。
「四岐さま!」
唐突な声に、四岐はあやうくぶざまに飛びあがるところだった。
あえてゆっくりと、報告しにきた配下に向かって尋ねる。
「どうした……もう殲滅《せんめつ》したのか……?」
「いえ……それが」
「なんだ、はっきりいえ」
「あらたな侵入者があらわれたのです。やはり数は、三人で」
ふっ、と四岐は笑みを浮かべる。
いつもの貼《は》りついた笑顔を、さらに強くしてやった。
「やはり、犹守朔《えぞもりさく》たちはおとりだったというわけか……。で? なんだ、その三人の正体は。〈御方《おかた》さま〉なのか?」
「そうではなく、ですね」
どうも配下の口調ははっきりとしない。
四岐《しき》はじれてきた。
「なんだというんだ、いったい……結論をいえ」
「やはり犹守朔、なのです」
「なに?」
「犹守朔と、犹守望《のぞむ》と、あと小柄な体格のヘルメットかぶった少年が、まったく先の犹守朔らとおなじ、革のライダースジャケットやツナギといった格好で、あらわれたのです」
「なん……だと?」
「おまけに、それが六組、どうじに」
がたりと音を鳴らして、四岐は椅子から立ちあがった。
「いたぞ! こっちだ!」
声とともに、男たちはあわただしく駆けてゆく。
男たちは全員、〈葛《くず》の葉《は》〉の三珠《みたま》家のものたちだった。場所が街中で、一般人の目があるために、郊外で耕太たちを襲ったときのような、全身黒ずくめのアーマー、ヘルメット、手《て》っ甲《こう》、すね当てに銃器といった格好を、彼らはしていなかった。
サラリーマンであった。
クリスマス・イブの真夜中、ちょっとお姉ちゃんのお店で飲みすぎたお父さんといった、よれよれスーツにネクタイハチマキの姿で、しかし走ったためちらりと覗《のぞ》く脇《わき》の下《した》にさげたホルスターには銃が光る。
そんな変装をして、彼らは繁華街の裏道を、ゴミ箱を蹴散《けち》らしながら走っていた。
「見つけたぞ!」
あらたな声とともに、ほかの男たちがやってくる。
こんどは大学生風の姿だった。
やはりあわただしく建物と建物のすきまを通りぬけてゆく。
「遅れをとるな!」
「あっちにもいたぞ!」
「待て〜るぱ〜ん」
「きみはラピュタ王の前にいるのだよ」
「犹守朔発見、犹守朔発見!」
「早く封鎖しろ!」
サンタクロース、トナカイの着ぐるみ、某ファストフード店の店員、ホストクラブのナンバースリーと思わしき濃い顔の男性、ビリヤードのキューを持ったベスト姿の男、着古したコート姿の警部、デコの広いサングラス姿の大佐、ハイヒールを履いたスリットの深いチャイナドレスの女性、食いだおれ人形、メイド、プロレスラー、探偵、弾き語り、すもうとり、猫、ホームレス、赤いランドセルを背負った小学生、さらには犹守朔《えぞもりさく》、犹守|望《のぞむ》、フルフェイスのヘルメットをかぶった少年までもが、忙しく突っ走る。
「……これって」
大きなチェーン店の飲み屋の裏に、三つならべて置かれた青いポリバケツ。
うちひとつから、その声は聞こえた。
「いったい、どういうことなんでしょ……?」
そろそろと、ふたがあがってゆく。
ポリバケツのなかから顔を覗《のぞ》かせたもの、それはヘルメット姿の耕太だった。
続けてポリバケツのふたは開き、望、朔も顔をだす。
三人とも、すっかりぼろぼろだった。
耕太のヘルメットはひび割れ、目元を覆うシールドまでもが砕けて、すっかり目元をさらけだしてしまっている。望も、鼻血をだしたあとが鼻の下にこびりつき、頬《ほお》に擦り傷が残っていた。朔は目立った外傷はないが、鼻をつまんでいた手の甲は、赤く染まっている。袖口《そでぐち》はぼろぼろだ。
「ねえ、朔さん。さっき、たしかにぼくたちにそっくりな人たちが目の前を走っていったんですけど、あれってどういうことなんですか? あのひとたちが、朔さんがいっていた、ぼくの味方……なんですか?」
「ふぁーふぁー」
朔は、鼻をつまみながら答えた。
「え?」
「ふぁーふぁふぁ、ふぁふぁーふぁー」
「兄さま、手、離す」
望が、鼻をつまんでいた朔の、その手を払った。
ぺしっと払われたとたん、おぐぅ、と朔が形容しがたいうめきをあげる。
びよん、とポリバケツから飛びだし、いきおいよく離れた。
見つめる耕太たちの前で、激しく咳《せ》きこみだした。
「うい、うえ、うお! く〜〜〜〜〜〜、あ〜〜〜〜〜〜、か〜〜〜〜〜〜、がっ、望、おまえ、なんてことするんだ! だいたいおまえは平気なのか、この悪臭が!」
「だってわたし、いま匂《にお》い、あんまりしないもん」
「あーあー、そうだった、そうだったよな!」
うえっぷ、と朔が口元を押さえる。
「このときばかりは、人狼《じんろう》である自分を恨みたくなるぜ……ぐぐ」
「ところで朔《さく》さーん、さっきのお話なんですけどー」
「容赦がないな、耕太! いや、悪くはないよ、悪くは……愛するものを守るためなら、手段を選ぶなと教えたのはおれだしな……だがしかし、くー!」
朔は鼻をつまみ、ぶるぶると首を横に振る。その目尻《めじり》には涙が浮かんでいた。
「兄さま?」
「朔さん?」
「わかったよ! そんな眼《め》でおれを見るな! あれは違う! あの、おれや望《のぞむ》、あと耕太、おまえに化けたらしいやつらは、おれの知ってる味方じゃあない。っていうかな、おれの知ってる耕太の味方は、三人なんだ。あのおれたちに化けたやつらは……ずいぶんといるようだぜ」
朔が上を向き、狼《おおかみ》の耳をぴくぴくとさせながら、いった。
「じゃあ、あのひとたちは……」
「まあ、おまえの味方なんだろうな」
「え?」
いやだってさっき、おれの知ってる味方じゃないって……そう問いかけようとした耕太に、朔はにやりと笑いかけてきた。
「つまり、おれの知らない耕太の味方ってやつさ。おれはどうもおまえのアイジンが怪しいと思うんだが、どうかな、望?」
「――ご明察だ」
声は、真横の望《のぞむ》からではなく、耕太の頭上からきた。
「だが、姫さまをアイジン呼ばわりは許せんな、犹守朔《えぞもりさく》よ」
耕太と望は、そろって見あげる。
朔は、ただ静かに笑みを浮かべた。
いた。
ビルとビルが切り立つ、細い路地。そのビルとビルの壁のあいだに、両手両脚をぴんと突っ張ることで身体を支えながら、ふたりの男女が、耕太の頭上にいた。
それは、狼《おおかみ》の耳としっぽを生やした、銀髪の男女!。
「おひさしぶりです、姫さま」
「おひさしぶりです……小山田さま!」
ふたりは、ポリバケツに入ったままの耕太と望の前に、降りてきた。
男は朔とおなじく、黒い革のライダースジャケットを着こみ、女は望とおなじく、黒い革のツナギを着こむ。体格の似た男はともかく、女性のほうはなかなか肉感的な体つきだったため、どう見ても望とは勘違いできなかった。
「あ、あなたたちは……」
ふたりが、ひざまずく。
右手の拳《こぶし》を地面につき、左腕は腰にまわした。
この挨拶《あいさつ》は、人狼《じんろう》の一族特有のものだった。
それも、望の生まれた一族に特有の。
男の名は、マキリ。
女の名は、レラ。
かつて望の父親が長《おさ》を務めていた一族の、いまの長と、その妻だった。
薫風《くんぷう》高校の職員室に置かれた〈葛《くず》の葉《は》〉の司令室は、混乱しきっていた。
「なんなんだ、これは!」
だれかが叫ぶうちにも、七組の犹守朔らの動きは、逐次報告されてくる。
「二区の犹守朔らが、三区へと移動中!」
「犹守朔らが、繁華街の道路を移動中!」
「国道北の犹守朔らと交戦中!」
「ドライブスルーでハンバーガーを買いこむ犹守朔らを発見!」
「狙守朔らがビルからビルへと飛び移っている!」
耕太たちの現在地は、地図に置かれたコマで記されていた。
報告が入るたび、その耕太のコマは動く。動く。動く動く動く。しかし、だんだんとズレ、最後にはぐちゃぐちゃとなってしまうのは、どうにも避けられなかった。コマを動かしていたものが、諦《あきら》め、持っていたコマをぽいと放《ほう》る。
「また新たな犹守朔《えぞもりさく》たちです! やはりおなじ格好で、こんどは南地区へ出現!」
その報告に、一瞬、全員が息を呑《の》んだ。
ざわ……。
前よりいっそう、ざわめきは強くなる。
司令室のものたちの話しあいに、熱がこもりだした。
まずは各犹守朔たちの見わけをつけるべきだ。どうやって。なにか特徴は。すっかり姿はおなじだぞ。ならば色分けでもして。だれがするんだ。名前はどうしよう。バカか。い、ろ、はでいいだろうが。犹守朔『い』、犹守朔『は』か……いいづらくないか? だったらA、B、Cにしとけよタコ。だれがタコだ。うっさいタコ。タコタコタコ。くだらんことで争うな。それより犹守朔たちだ。どうしよう……。
「しばし、みな黙れ」
見計らっての四岐《しき》の声に、全員が沈黙した。
みなの注目を受け、四岐はとりあえずいつもの微笑《ほほえ》みを浮かべながら、数度うなずく。両手を掲げ、手のひらを下に向け、落ちつかせるよう動かした。
終わりに両手を叩《たた》き、甲高く音をあげる。
「まず整理しよう! 現在、犹守朔たちの数は何組だ?」
「最初の犹守朔たち一組に、六組くわわり、さきほどもう一組増えたため、計、八組です」
「なるほど、八組の犹守朔たちが、いま我々のまわりをにぎやかしているというわけか。まったく、そいつはうるさいハエだな? さてここで質問だが、ぶんぶん飛びまわる無数のハエに対し、きみたちには残念ながら一本のハエ叩きしかないとする。どうする?」
答えるものはいなかった。
「どうしたどうした……答えは一匹ずつしとめてゆく、それ以外にないだろう? 今回だっておなじだ。相手がどれだけの人数がいようとも、一匹ずつしとめていけば、やがてはすべて退治できるんだ。わかったか? わかったのか、おい」
「は……はっ!」
一同、大声で返事をする。
「果たしてあらたにあらわれた犹守朔たちが、どれほどの力を持つのかはわからない。もしかしたら最初の犹守朔たちと同程度の戦闘力があるのかもしれない。だが、それでも〈葛《くず》の葉《は》〉の、我ら三珠《みたま》家の優位に変わりはないんだ。命令はさきほどとおなじだ。一組の犹守朔たちに対してのみ、戦力を集中させて叩け。ただし、集中する三珠家の戦力は三分の一だ。残りはひたすら守れ。防御に徹すれば、たとえ数組の犹守朔たちに襲われたとて、しのげないことはないはずだ。そのあいだに、まわりが応援すればいい」
最悪の場合。
ひそかに四岐は思った。
最悪、七々尾《ななお》家と八束《やつか》家を使うことになるかもしれないなと、心に決める。七々尾家、八束家とも、次期当主候補が〈御方《おかた》さま〉の近くにいた以上、絶対の信用は置けず、いままで投入してこなかったのだが、しかたがない。本来、両家とも〈葛《くず》の葉《は》〉の戦いを担う家で、純然たる戦闘能力だけなら三珠《みたま》家以上ではあったのだから。
「なにか意見はあるか?」
四岐《しき》の問いに、だれも返事はしなかった。
「よろしい! では動け。こうしているあいだに、同胞たる三珠家の人間が血を流しているかもしれんのだぞ。我ら三珠家は組織的戦闘に長《た》けた家。なのに、指揮する側がこうも混乱していては、彼らは動けないではないか!」
「はっ! 申し訳ありませんでした!」
ようやく正常に動き始めた司令室を眺め、四岐は苦笑とともにため息をつく。
ずっと自分が立ちあがっていたことに気づき、椅子《いす》に腰をおろした。
ふん……いくら数がいようと、しょせんは人狼《じんろう》。
負けるはずがあるか、負けるはずが……。
四岐はさきほど、新手の犹守朔《えぞもりさく》たちの戦闘能力と、元からいた犹守朔たちの戦闘能力はおなじかもしれない、と配下たちにいった。だが、内心ではありえない、と思っていた。
犹守朔と犹守|望《のぞむ》の力、あれは異常だった。
もちろん人狼は闘いに長けた種族だが、たかだか数匹程度では、本来、隊を組んだ三珠家に敵《かな》うほどの能力はない。だが犹守朔と犹守望は、あっさりと数隊を突破した。おそらく、あのふたりは特別なのだろう。突然変異種というやつだ。あのふたりさえどうにかすれば、あとのザコはどうにでもなる。
そう、負けるはずが――。
と、いま四岐が思ったとおり、本来、負けるはずはなかった。
マキリとレラたち人狼の一族は、朔と望、そして耕太に変装することで、〈葛の葉〉を混乱させようとしていた。混乱の隙《すき》をつき、本物の朔、望、耕太を薫風《くんぷう》高校へとたどりつかせようとした。
その試みは、半分まで成功しかけていたといえる。
だが、すぐさま三珠四岐は立て直した。
結果、マキリたちの企ては破れるはずだった。耕太たちが薫風高校へ到着する前に〈葛の葉〉は態勢を整えるはずだった。そして、耕太たちはともかく人狼の噌族は、三珠家の前にやられ、あえなく全滅してしまうはずだった。
しかし。
耕太の味方は、この人狼だけではなかった。
いたのだ。もう一体、とんでもないのが。
「やっほー♪」
彼女の出現によって、〈葛《くず》の葉《は》〉は、完全なる混乱へと落ちこむこととなる。
「――四岐《しき》さま!」
始まりは、その男の叫びだった。
四岐はうんざりした思いで彼を見る。なんだというんだ……一から十まで、わたしが指示してやらなければなにもできないのか? そう思いつつも、もちろんおくびにもださず、普段のにこやかな表情で、男に応《こた》えた。
「どうした……またあらたな犹守朔《えぞもりさく》か?」
「きゅ、九尾です……」
「なに?」
まだ微笑《ほほえ》んだままの四岐の問いかけに、男は死人の顔色と声で、いった。
「九尾《きゅうび》の狐《きつね》が……あの、白面金毛九尾の狐、玉藻《たまも》が……あ、あらわれました」
四岐の顔から、笑みが消え去った。
ふんふんふんふーん♪
玉藻は歩いていた。
ネオンの輝く街なみを、じつに堂々とした態度で、鼻歌まじりで。
道ゆく通行人が、みな、彼女を見つめる。
玉藻は、じつに目立つ格好だった。
まず、その着物。
玉藻は紅《くれない》と橙《だいだい》が入り混じった着物を婀娜《あだ》に着崩し、胸元を大きくくつろげ、その豊かであまりにもやわらかな谷間をおしげもなくさらし、歩くたびに揺らしていた。
そして、髪。
玉藻は黄金色の髪を、くるくると巻き、箸《はし》のようなかんざし数本でまとめていた。
最後に、しっぽ。
玉藻は九本の狐のしっぽを、隠すことなく伸ばし、背後でうねらせていた。
つまり、玉藻は九尾の姿全開だったのである。
こんなもの、目立たないほうがおかしかった。おまけに彼女は、背後にずらりと雪女たちを引き連れてもいた。みな、玉藻ほどではないながら、着物姿であった。
とはいえ、たいした騒ぎにはなっていなかった。
これは玉藻《たまも》の肉体が持つ、傾国の美女としての能力が大きい。あまりに玉藻の魅力が強すぎて、常人では見るだけでぽーっとなってしまうのだった。男も、女も、玉藻の姿が見えなくなってしまったあとも、ただただ立ちつくす。
と、玉藻が、無言で横に手を差しだした。
後ろにいた雪女が、無言で煙管《きせる》をその手に置く。
玉藻は吸い、ふわ〜……と白い煙を吐いた。
「何年ぶりかしらねえ、人里に降りてきたのも……十年? 百年? うふふ、ずいぶんと変わったような、あんがい変わってないような……あら?」
玉藻が駆けだす。
小走りに近寄ったのは、メイドカフェの看板であった。
「あらら、あら〜」
書かれたメイドさんの姿を、しげしげと眺める。
「ねーねー、あなたたち、こういうの、どう? どう?」
ぶんぶんと手を振って呼びよせてくる玉藻に、雪女たちは互いに視線を交わした。また始まった……彼女たちの表情は、そう語っていた。
そのなかに、雪花《ゆきはな》の姿はない。
雪女であり、玉藻配下の忍びでもある彼女たち。その玉藻忍軍を統率する役目である、お頭、雪花は、このとき、玉藻のそばにはいなかった。
「あ〜、いいわよね〜、メイドさん……よし、これから玉ノ湯は、メイド温泉☆玉ノ湯にしましょう! うふふふ〜。あー、楽しみだわ。苦々しく顔をゆがめた雪花《ゆさはな》さんに、むりやりかわいらしいメイド服を着せて、熟女メイドにするのが……うふふふ〜!」
玉藻《たまも》はくいんくいんと身をよじる。
九つのしっぽがしゅるりんしゅるりんとくねる。
雪女たちは、ただただため息をつく。
そんな玉藻たちを、一般人に化けた三珠《みたま》家のものたちは、ただ遠巻きに囲むしかできなかった。玉藻の着物から覗《のぞ》く白いふくらはぎを見て、数人がほわーんと幻惑された。
「……監視していたのではなかったのか?」
四岐《しき》は、自分でもうつろだと感じる声で、尋ねた。
「そのはずですが……」
「ならば、なぜ九尾《きゅうび》の狐《きつね》がここにいる!」
思いきり机を殴りつける。
「九尾の狐は〈八龍《はちりゅう》〉の母親なんだぞ! だから九尾の狐が〈八龍〉を救出にやってくるのは充分に考えられた! なればこそ三珠家、悪良《あくら》家で厳重に監視させておいたはずなのに……これでは意味がないではないか! わかっているのか! 相手は九尾の狐だぞ! こうるさい人狼《じんろう》などとはわけが違う! 〈葛《くず》の葉《は》〉すべてでかからねば、抑えこむことなどできはしない存在なのだ……おのれ!」
四岐はもういちど、握《にぎ》り拳《こぶし》をハンマーのように机へと振りおろした。
まずかった。
あまりにもまずかった。
なぜ今回、〈葛の葉〉八家すべてを招集したのか?
〈八龍〉のためだけではなかった。〈八龍〉は、その力をコピーした美乃里《みのり》をぶつければ、さほど手こずらずに勝てるのはわかっていた。
八家を集めたのは、〈御方《おかた》さま〉と、なにより九尾の狐に備えるためだったのだ。
とくに問題は九尾の狐だった。
伝説の妖怪《ようかい》。まぎれもなく国内最強の大妖《たいよう》。
〈御方さま〉も危険だが、単純に力だけを見れば、九尾の狐のほうがはるかに高い。
かつて〈葛の葉〉は、いちど九尾の狐と戦ったことがあった。そのときはもちろん〈御方さま〉もいたにもかかわらず、〈葛の葉〉すべての戦力と、さらに当時の国の軍隊すべてをぶつけて、ようやく九尾の狐とは引き分けに持ちこんだくらいなのだから。
それでも、退けるだけの戦力は、いまの〈葛の葉〉にはあるはずだった。
準備が万端ならば、だったが……。
すべての戦力を薫風《くんぷう》高校に集め、防御に徹しさえすれば、現在の〈葛《くず》の葉《は》〉ならば九尾《きゅうび》の狐《きつね》に勝てぬまでも、退けることは可能なはずだった。
しかし、大多数の戦力は薫風高校の外にある。
三珠《みたま》家のほとんどは、〈御方《おかた》さま〉の襲撃に備えるため、〈御方さま〉を一歩たりとも薫風高校にいれぬため、あえてまわりに散らしてしまっていた。これではどうにもならない。いまさら戻したところで、もはや間にあいはしないだろう。
なぜ四岐《しき》は、それをわかっていながら三珠家の戦力のほとんどを外にだしたのか?
九尾の狐にはちゃんと監視をつけていたからだった。
もしも九尾の狐が動いたときには、四岐の元へ連絡が入るはずだった。連絡が入ったら、すぐさま三珠家のものは戻せばよかった。それで充分に間にあうはずだった。
結果は、これだ。
「あの、四岐さま……どういたしましょうか」
「……うん?」
のろのろと四岐は顔をあげる。
司令室にいた全員が、四岐へとすがるような眼《め》を向けていた。
知るか、と吐きすてたい気持ちを、四岐はかろうじて抑えこむ。どうすればいいのかなんて、自分が知りたいくらいだ。こうしているうちにも、九尾の狐は薫風高校へと迫ってきているのかもしれない。こんなとき、九院《くいん》はどうした? なぜわたしの元にいない。ああ、〈八龍《はちりゅう》〉の元にいるんだったか……。
美乃里《みのり》。
〈八龍〉で、四岐は美乃里の存在を思いだした。
とたんに千々に乱れていた心が、しゃっきりとしてくる。そう、わたしにはあの美乃里がいる。神の器が。〈龍〉の力をコピーしたものが。いざというときには、美乃里をぶつければいい……そう思ったとたん、頭のなかが冴《さ》えた。
「九尾の狐のまわりに、薫風高校の外にだした戦力をすべて集めろ」
あたりがざわめきだす。
「で、ですが四岐さま、それでは」
「おっと、勘違いするな。とりあえずは集めるだけだ。決してしかけたりはするな。待て。そして、もしも九尾がしかけてきたら、守れ。守りきれ。専守防衛だ。死守しろ。ああ、もうはっきりといおうか? 時間を稼がせるんだ。薫風高校に残った我々が態勢を整えることができる、時間をな……」
ざわめきが強くなった。
「ほかに手はあるのか?」
四岐の問いに、ざわめきは静まる。
「だろう? わかったら、ほら、早く命令を伝えろ。いうまでもないことだが、我々のために捨《す》て駒《ごま》となれなどと余計なことはいうなよ。ほら、早くしろ!」
「四岐さま……」
「なんだ?」
「犹守朔《えぞもりさく》たちは……」
「なに? 犹守朔たち? おまえ、たかだか人狼《じんろう》が数十匹と、九尾《きゅうび》の狐《きつね》、どっちが危険だと思う? わかったらさっさと動け! くだらんことを訊《き》くな!」
四岐《ししさ》は吠《ほ》えた。
すでに彼の顔からはあの貼《は》りついた笑顔は消え去り、すっかり素のままの表情で、眉間《みけん》にしわを寄せ、口元をみにくくゆがめていたのだが、もちろん本人に気づく余裕はなかった。
「し、四岐さま!」
あらたに口をだしてきた男に、四岐はぎりりと奥歯を鳴らした。
「いいかげんにしろ! まだわからんのか、いまの状況が!」
「い、いえ、それが、その……」
「なんだ、九尾の狐が動いたか?」
「いえ、土門《つちかど》家の当主が動きました」
「はあ?」
土門家当主、土門|八葉《はちよう》は、車の後部座席にちょこんと座っていた。
すっぽりとフードをかぶり、口に×印のマスクをつけた彼女は、前髪がわずかにかかる目元を、むん、と力強くし、床に届かない脚をぶらぶらさせる。
彼女は、ロールスロイスに乗っていた。
高級外国車の代表格ともいえるその車を、運転していたのはあの副官の女性だった。きらりと眼鏡を光らせながら、副官の女性はアクセルを踏み、ハンドルをくるくる回す。
車は、薫風《くんぷう》高校をでて、街へと向かっていた。
「土門家の当主が……?」
四岐は、口元で軽く手を握りこむ。
そのまま考えこんだ。
「制止いたしますか」
「いや……待て」
配下のものの問いに、四岐は手のひらを広げ、伸ばした。
悪くはない、か?
いや、まったくもって悪くはない。
どうせ九尾《きゅうび》の狐《きつね》が薫風《くんぷう》高校へ〈八龍《はちりゅう》〉をとり返しにきたときぶつけるのは、美乃里《みのり》なのだ。そうなってしまえば、もはや土門《つちかど》家のでる幕はない。
つまり、土門家はいてもいなくてもかまわない戦力だった。
もちろん、最低限の結界は張っていてもらわなくては困る。その点も、当主だけが向かって、土門家の本隊自体は残っているのだから、問題はない。
どうせ、九尾の狐は時間稼ぎしかできない相手なのだ。勝つことはできない。
そして時間稼ぎすると考えれば、土門家の当主はもってこいの存在といえた。
少女は法術のスペシャリストなのだ。
妖怪《ようかい》を封じる技術においては〈葛《くず》の葉《は》〉において最高の術者なのだ。
「いいだろう……まかせようじゃないか。その意気やよし、だ」
こみあげてくる笑いを、四岐《しき》は抑えきれず、こぼした。
「ふむ……となれば……」
さきほど放《ほう》っておけ、と自分でいった犹守朔《えぞもりさく》たちの動きが、なにやら気になってきた。
四岐は机に手を置き、こつこつと指先で叩《たた》き、音を鳴らす。
しばらく鳴らして、ぴた、と止めた。
「七々尾《ななお》家、八束《やつか》家に伝令」
これも、どうせ九尾の狐の前には無駄な戦力だ。
せいぜい、八組いるとかいう犹守朔たちを、血祭りにあげてもらうとしよう……。
薫風高校、校庭。
いまだ校舎を包む砂防壁は解けておらず、ちょっとした小山といった様相を呈していたが、すでに校庭を埋めていた砂は、すっかり引け、元通りにサッカーや野球のグラウンド、プール、フェンスに囲まれたテニスコートなどをあらわにしていた。
その隅に、七々尾家当主、七々尾|宗仁《そうじん》はいた。
ブリキの一斗缶に木々をくべ、燃やし、その火に当たっていた。
火に手をかざしながら、宗仁はがたがたと震えていた。
格好自体は七々尾家伝統の戦闘着である、袖丈《そでたけ》のない黒い着物に、紅《あか》い帯、袴《はかま》といった姿で、上に毛皮のコートを羽織ってはいたが、どうにも寒い様子だった。酒飲み特有の赤黒い顔は、鼻水を垂らし、口の下に生えた白髪まじりのあごひげまで濡《ぬ》らしている。
折りたたみ式の小さな椅子《いす》に座り、身を縮める宗仁の横には、鉄球が転がっていた。
当主である彼は、ほかの七々尾家のものたちと、多少使う武器が違っていた。
太い鎖はおなじだが、その先に、大きなスイカ大の鉄球がついていたのである。いま足下にあるのが、その鉄球であった。
「ったく、寒《さみ》いなあ」
「冬が寒いのはあたりまえですぜ、宗仁《そうじん》さま」
宗仁のまわりには、やはり七々尾《ななお》家の戦闘着、袖丈《そでたけ》のない黒い着物に紅《あか》い帯、袴《はかま》を着こんだ男たちが、数十人、いた。鍛えあげた肉体をその鎖が絡んだ腕の筋肉などで見せつける彼らは、とくに寒そうなそぶりをしてはいなかった。
「おれは冬に寒くなっていいと許可した覚えはねえ。おい、おまえ、ちょっと買ってこい」
「酒ですか? いけませんよ、そんなの。だいたいにして三珠《みたま》家から動けって指示でてるのに、いいんですかい、こうしていて」
「動くために燃料がいるんだろーが。呑《の》んであっためねえと、どうにもなんねっつーの」
「何杯呑んだら宗仁さまのエンジンは動きだすんですか」
「そりゃー、呑んでみねーとわっかんねーなー」
えっひゃっひゃっひゃっひゃ、と笑う。
当主の笑いに、まわりの男たちも、あっはっはっはっ、と豪快に続いた。
「ひゃっひゃっひゃ……ん?」
宗仁が、笑いを納める。
男たちも納め、宗仁が向いたほうを見た。
吹きすさぶ風のなか、なにものかが……いや、なにものかたちが、宗仁たちの元へ近づいてきていた。無数の足音が、迫る。
無言で鎖を引き締め、金属音を鳴らす男たちを、宗仁が手をあげて制した。
宗仁の顔には、笑みが浮かぶ。
「いよう……たまきちゃん」
あらわれたのは、金糸の飾りが入った濃紺のスーツに身を包んだ女性だった。
一見、軍服にも見える格好をした彼女は、髪を後ろで束ね、その眼《め》は鋭い三白眼にし、手に白木鞘《しらきざや》の刀をさげていた。背後には同様の格好をしたものたちを引き連れている。
彼女は、八束《やつか》家当主代理、八束たまきだった。
八束たかおの実妹でもあるたまきが、宗仁の前に立つ。
「どうも、七々尾のおじさま」
「その様子じゃ、たまきちゃんのところにも命令は飛んだみてーだな」
「ええ。薫風《くんぷう》高校へと訪れるだろう人狼《じんろう》と謎《なぞ》の少年の三人組を、八組、すべて処理せよと」
「へっへっへ……おなじだよ、おれたちんとこと」
「で、どういたしますか?」
「どうしますも、なにもなあ……」
たまきが、あいだを開けて後ろで控える八束家のものたちに、「地図を」と命じた。
副官役の青年が駆けより、学校周辺の地図を広げる。
「人狼と少年の三人組とやらは、現在、八組すべてがこの街にいるようです。そして街から薫風高校へと向かうためには……この橋を突破せねばなりません」
たまきの指先が、風で裾《すそ》をはためかす地図の上をなぞる。
「橋を突破すれば、あとはこの商店街と、この住宅街を通れば、ここ、わたしたちがいる薫風《くんぷう》高校です。となれば、さて……」
「んー、じゃ、橋で待つかい?」
「川を越えられてしまえば、無駄になります」
「ま、べつに無駄になってもかまやしねえんだが、おれは……と、冗談だよ、冗談」
たまきの鋭い三白眼に睨《にら》まれ、宗仁《そうじん》は笑ってごまかした。
「ふむ……じゃ、ここかな」
と、宗仁が指さしたのは橋を越えた先の商店街だった。
「あとは、ここ」
商店街の先、住宅街を指す。
「ですが……」
「ここだって、川を越えてべつの地点から入りこまれたら無駄になるってんだろ? だがね……こりゃああくまで勘なんだが、人狼《じんろう》と少年の三人組だったか、そいつらはまっすぐにここを、学校を目指すと思うよ」
「勘……ですか?」
たまきの眼《め》が、怪訝《けげん》そうに細くなる。
「ジジイの勘に、あえて補足するならば、だ……道なりに進んだほうが安全だからだ。開けた道路ならば、敵の待ち伏せも読みやすい。逆に家のなかとか、屋根の上とか進むのは、どこになにが潜んでいるかもわからねえしな。それになにより、道なりに進んだほうが、早く到着するからね。この薫風高校へ」
「早く……ですか」
「たぶん、この三人組は〈八龍《ほらりゅう》〉が〈八岐大蛇《やまたのおろち》〉になっちまう前にとり返したいんだろ。そうなりゃ、多少強引でも、強行突破して最短ルートを進むんじゃないかね」
「なるほど……さすがジジイの勘です」
感心したようにうなずくたまきに、宗仁はがくっとこけた。
「そ、そりゃー褒めてんのかい、たまきちゃん」
「無論です。では、わたしたちはこの商店街で侵入者を待ち受けますので」
「ん? べつにかまいやしねーが、そこで待つ理由は?」
「橋により近いから……つまり、先に侵入者と会えるからです」
「おー、おー、やる気まんまんだね。じゃ、おれたちは住宅街で待つとするよ」
くるりとたまきは背を向けた。
副官が地図を急いで折りたたみ、たまきについてゆく。
と、たまきが立ち止まった。
「ん? どーしたい、たまきちゃん」
鉄球を軽々と持ちあげていた宗仁が、尋ねた。
「くると……思いますか」
背を向けたまま、たまきはいった。
「くるだろーね」
ぽんぽんと鉄球を手のひらで遊ばせ、宗仁《そうじん》は答える。
「本当は三珠《みたま》家のほうじゃ、おれたちを使いたくはなかったはずだ。次期当主候補が、〈御方《おかた》さま〉のそばにいた七々尾《ななお》家、八束《やつか》家はね……それでも使うってことは、人狼《じんろう》だかの三人組にかまってる余裕がないからさ。まあ、九尾《きゅうび》の狐《きつね》がおでましとあっちゃ、それもしかたねーんだろーが……九尾の狐にぶつけられなかっただけでも、ありがたいと思わなくちゃいけないのかね?」
「いえ、そうではなく」
「あん?」
「……申し訳ありません。いまの話は忘れてください」
たまきは振り返り、きちんと宗仁に一礼して、去った。
ぞろぞろと八束家のものたちを引き連れてゆくたまきの背をしばらく眺め、宗仁はばりばりと白髪まじりの頭をかく。
「くるだろーな、あいつらもよ[#「あいつらもよ」に傍点]」
あーあ、とため息をついた。
「きちゃうんだろーなー、やっぱりよー」
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[#小見出し]  五、戦場にかかる橋[#「五、戦場にかかる橋」は太字]
「が……あ……」
最後のひとりが、どうと音をたてて倒れた。
その全身黒ずくめの男を、耕太《こうた》は息を切らしながら、見つめる。
橋の上だった。
耕太は、橋のど真ん中に立っていた。
左から、金属製の欄干。歩道。そして大きな道路。また歩道。また金属製の欄干。
その欄干と欄干に挟まれた橋のめいっぱいに、大勢の人が倒れていた。数でいえば何十人いるんだろうか? 朔《さく》と望《のぞむ》、マキリ、レラで、いったい何人の〈葛《くず》の葉《は》〉を倒したんだろうか? 折り重なって動かない彼らの奥には、バリケードのつもりだろうか、車が数台、横になって橋をふさいでいる。
ここは、街と学校とをつなぐ、橋だった。
ついに耕太は、ここまできた。
あとは商店街と、住宅街――耕太が住む学校の寮があるところ――を越えれば、ちずるがいる薫風《くんぷう》高校は目の前だった。そうなのだ。とうとうここまできたのだ。
でも、と耕太はまわりを見る。
「うまく、いきましたね」
耕太のそばに、レラがやってくる。
その歩きかたはおかしかった。彼女は片足を引きずっていた。人狼《じんろう》独特の鋭く尖《とが》った、しかしいまは微笑《ほほえ》みにやさしく曲がっている眼《め》は、片方つぶれてもいる。望《のぞむ》に化けるためだろう、短く切った髪や、その身を包んでいた革のツナギも、ぼろぼろだった。
「すぐ治します!」
耕太はそっとレラの顔へ左手を当てた。
ぼんやりとした治癒の光が放たれる。
「あ、小山田《おやまだ》さま……」
「動かないで」
レラの治療をしながら、耕太は彼女の夫で人狼の一族の長《おさ》、マキリを見た。
マキリは、新手がこないか、耕太たちからは離れ、街へと注意深く視線をやっていた。
その腕は、だらりとさがっている。折れているのだ。朔《さく》とそっくりな革のライダーススーツは、やはりぼろぼろで、ところどころ血が垂れる。長い髪を押さえるため、そのおでこに巻いていた黒いハチマキは、さきほどの激しい戦闘でどこかへいってしまっていた。長い銀髪が、川からの強い横風にあおられて、派手になびく。
マキリさん、レラさん……。
このふたりと、そして玉藻《たまも》がたてた作戦は、成功した。
人狼一族が耕太、朔、望にたくさん化け、〈葛《くず》の葉《は》〉を混乱させる。
そこに玉藻もあらわれ、混乱にとどめを刺す。
見事に成功し、〈葛の葉〉の指揮系統はメチャクチャになった。統制のとれていた恐るべき相手が、右往左往しだした。その隙《すき》をつき、耕太たちはまっすぐに街を突っ切り、薫風高校へと続く橋へと向かうことができた。
だが、やはりというべきか、さすがというべきか。
街と薫風高校とをつなぐ唯一の橋には、きちんと多くの〈葛の葉〉の戦力が残っていた。数台の車体によるバリケードまで張ってあった。
そして、耕太たちに待っている時間はなかった。
ちずるに危機が迫っているのだ。一刻も早く救いださねばならないのだ。耕太たちは突つこんだ。正面から突破を図った。
結果、これだ。
マキリもレラも、大きく、たくさんの怪我《けが》を負った。さすがは〈葛の葉〉の精鋭、無事ではすむはずもなかった。
ぼくのために……ちずるさんのために……。
きゅっ、と耕太は唇を噛《か》む。
「小山田さま……?」
耕太が左手による治療をしていたレラが、無事だった眼《め》を、ぱちくりとさせる。
「あ、脚、治します」
耕太は治癒の光を放ち続ける左手を、屈《かが》み、レラの膝《ひざ》へと向けた。
すっかり元の綺麗《きれい》な両目となったレラが、両手を伸ばして耕太を制する。
「いえ、もうわたしは充分です。もう時間がないのでしょう? 早くちずるさまの元へと向かわなくては」
「で、ですけど」
「そーだよ、耕太。いそがなきゃ」
声をかけてきたのは望《のぞむ》だった。
もちろん望も無傷ではすまなかった。革のツナギは戦闘によってすっかり引き裂かれ、上半身の半分は、腕も胸もあらわとなっている。そのたおやかな胸のふくらみには、刃物による切り傷が、一本、斜めに入っていた。そこから流れた血が、望の自い肌を汚す。
「の……望さん!」
耕太は左手をふくらみに当てた。
光によって、じわじわと切り傷は消えてゆく。
だが、まだ望の肌には細かい傷跡が残っていた。殴られたことによる打撲傷、こすれたことによる擦過傷など、無数にあったのだ。
「ぼ……ぼくは……ぼくは……」
みな、傷だらけだった。ぼろぼろだった。
なのに、耕太だけは無傷だった。
かすり傷ひとつなかった。
いまだ着用しているフルフェイスのヘルメットのおかげだけでは、もちろんない。左手首の腕輪の力だ。左手首の腕輪による不可視の盾は、あらゆる攻撃を防ぎきった。刃物だろうと弾丸だろうと、まったく通しはしなかった。
だが、だけど、でも、なのに。
「ぼくは……!」
望の胸の傷を治した姿勢のまま、耕太は彼女にすがりつく。
耕太の防御の力は、完璧《かんぺき》といってもいいものだった。
なのに、攻撃ができない。
いくら右腕を振るおうとも、耕太の攻撃が敵を倒すことはなかった。せいぜいが、「いひ?」と奇妙な声をあげさせるだけだった。そういえば、あのファミレスの店長さんだった〈葛《くず》の葉《は》〉の女性がこういっていたように思う。シャイニング・エロス・フィンガー……まったく、ぼくはこんなところまでエロス大王なのか!
「守れるはずなのに……守れたはずなのに、みんなを、みなさんを! この左の腕輪の力が、これほどあるんだから……きっと右の腕輪からは、すっごい攻撃が放てるはずなのに! いや、放てなくちゃおかしいんだ! なのに……なのにぼくは!」
「耕太……」
望《のぞむ》が、そっと耕太の背に手をまわす。
「だいじょぶだよ」
「で、でも」
「だいじょぶ……耕太なら、だいじょぶ……」
ゆっくりと耕太の背を撫《な》で、そして望はいった。
「んー、でも、キアイ、欲しい?」
ん? と望が首を傾《かし》げながら、尋ねてくる。
しばらく迷って、耕太はうなずいた。
「お、お願いします……」
「では」
するんとした動きで、望は耕太の背にまわった。
「キアイだー!」
いきなり、尻《しり》をべちこーん、と叩《たた》く。
きゃうーん!
耕太はすっ飛ぶ。
尻を突きだした体勢で、破片散らばる地面へと頭からつっこんだ。そのまま、尻を突きだしたままとなる。ぴく、ぴくと震える。
「ん? どう耕太、キアイ、バッチシ入った?」
「ば、バッチシです……」
遅れて、じわ〜と熱と痛みを発してきた尻を撫《な》でさすりながら、耕太は身体を起こした。
「ありがとう、望さ……」
あなたは、優しすぎるのよ――。
「え?」
そこには、ちずるがいた。
〈葛《くず》の葉《は》〉によって薫風《くんぷう》高校に捕らえられ、いま耕太たちが助けに向かっているはずのちずるが、いま、耕太の目の前に横たわり、微笑《ほほえ》んでいた。
いや、おかしい。
そんなはずが……と耕太は思うも、しかし、たしかにそれはちずるだった。ちずるでしかありえなかった。
だって、裸なんだもの。
しどけない全裸で寝床に横たわるちずるの身体を、ちらちら、炎の揺らぎが舐《な》める。揺らぐ陰影をつける。横になっているため、横向きに重たくさがる胸のふくらみや、締まったおなかや、豊かな太ももや、そのはざまの、金色のふささ……にいたるまで、すべてがまったく、耕太が見慣れたちずるの裸身だった。
「あなたは、優しすぎるから、だから」
ちずるが、自分の金髪を、指先でくるくると絡めながら、いった。
「いつか、その優しさは、あなたを……」
耕太を見つめたちずるの瞳《ひとみ》は、濡《ぬ》れ光っていた。
顔を横に振って、涙を散らす。
耕太へすがりついてくる。
ちずるを抱きしめようと、耕太は腕を伸ばして――。
伸ばしたままとなった。
「や……や?」
眼《め》をぱちくりとさせる。
ちずるの姿は消えていた。
目の前には、ただただ橋の光景が広がるだけだった。
耕太を、望《のぞむ》やレラが怪訝《けげん》な顔で見る。マキリまでもが遠くで、振りむき、む? と見る。
「どーしたの、耕太?」
「あ、うん、いや、なんでもない、よ……たぶん、だけど」
身体の埃《ほこり》をぱんぱんと払いながら、耕太は立ちあがった。
「夢デモ見タカ、耕太……」
そこに、朔《さく》が話しかけてくる。
朔は、変化を解く最中だった。口調がぎこちないのは、まだ顔が狼《おおかみ》のままなためだ。
橋での戦闘中、ついに朔は狼と化した。
巨大な、人がまたがれるほどに大きな狼の姿にだ。
そうなることで、朔は身体能力を数倍にもすることができた。実際のところ、朔が狼の姿にならなければ、さっきの闘いは危なかったかもしれない。無数の弾丸が飛び交うなかを、狼は全身、銀の体毛で覆った狼となり、単身、飛びこんでいってほぼ無傷だったのだから。そのいきおいと銀の体毛は、弾丸をも弾《はじ》き返す力強さがあった。
「チズルノ夢デモ……な!?」
顔を人のものへと変えながら、朔の身体は縮んでゆく。
倍ほどにもなっていた狼の肉体から、元の人の姿のときの体格へと戻っていった。骨格も、猫背といっていい獣のものから、まっすぐな人のものへと変わる。もちろん、身体を覆う銀色の体毛もばさばさと抜け落ちた。かと思ったら、毛はもやのようになって、朔の身体に吸いこまれて消える。どうやら毛は、妖気《ようき》となって戻るものらしい。
「あの、朔さ……って、えええ?」
やたら現実的に感じられたちずるの幻影の件を相談してみようと決め、そうして尋ねかけたとたん、耕太は眼を丸くした。
だって、元の人の姿に戻った朔《さく》は、全裸だったんだもの。
なにもかもが、おっぴろげー。
すごく立派なウルフ・ガイも、ビック・ジョン。
「さ、朔さん!?」
「うん? ああ、これか? これはだってしかたがないだろう。いや、前はな、狼《おおかみ》になるとだいたい一・五倍ぐらいの体格になるぐらいですんでたからな、下はなんとか無事だったんだがな、修行してパワーアップしたら、体格も二倍以上になるようになってな……着ていた服はみーんな裂けるようになっちまった。ほら、裂けちまうんだから、どうしようもないだろ?」
と、朔は豪快に笑った。
おっぴろげのまま、腕を組みながらだ。ビック・ジョンもジョンブルジョンブルだった。
は、はは……笑うしかない耕太の前で、朔は倒れている〈葛《くず》の葉《は》〉のものたちから、服を剥《は》ぎとりだした。
「これは……いや、サイズがあわんなー」
穿《は》いてみるなり、脱ぎ、ぽいと捨てる。
残るは、下がトランクスだけとなった、あわれな〈葛の葉〉の男たちだけだった。
羅生門……?
なんだか切ない気持ちになって朔の物色行為を見ていた耕太に、いつのまにか近づいてきていたマキリが、話しかけてくる。
「小山田耕太」
「あ、マキリさん。いま治します!」
「姫さまやレラの話を聞いていなかったのか? おまえは一刻も早く源《みなもと》ちずるを助けにゆかねばならないのだろう。犹守《えぞもり》朔が服を身につけ次第、先へ向かえ」
「いえ、でも、その傷……ああ、ヒドイ!」
マキリの片腕は、やはりびくとも動かなかった。
近くで見ると、マキリの着る革のライダースジャケットには銃によるものと思われる穴も、ぽつぽつと空いていた。そこからじくじくと血は流れる。
「闘いのときに無力だったおまえの罪悪感を解消するために、わたしを治療しようとするのは止《や》めろ。罪悪感を晴らしたいのならば、とっとと闘いの力を得るんだ」
その言葉は、思いっきり耕太の胸に図星と刺さった。アイタタタ。
「は……はい!」
こみあげてきた涙をこらえて、耕太は答える。
しかし眼《め》がうるんでしまうのは我慢しきれない。
「で、でも、移動しながらでも、ぼく、治療はきっと、できると思うんですけど……」
「わたしたちは、おまえとともにはいかない」
「え……?」
「わたしとレラはここに残る。いまだ玉藻《たまも》さまの出現による混乱から〈葛《くず》の葉《は》〉は立ち直ってはいない様子……だが、立ち直る可能性がないとはいえない。そのときのため、わたしたちはこの橋に残り、立ちはだかり、街にいる〈葛の葉〉が薫風《くんぷう》高校へ戻るのを防ぐ」
「そ、そんな……だってそれって、すごく危険じゃ!」
「なにをいってるんだ、小山田耕太? 断言するが、薫風高校へと向かうほうが、はるかにわたしたちより危険なはずだぞ?」
「あう……」
まったくマキリのいうとおりだった。
〈八龍《はちりゅう》〉であるちずるを倒したであろう美乃里《みのり》が待つ、薫風高校……なぜか耕太は、ちずるを倒したのが美乃里であることが、わかっていた。疑問とも思わず、ただの事実として認識していた。その美乃里と、おそらく耕太は闘わねばならないのだ。
「耕太」
ぽん、と望《のぞむ》が耕太の肩を叩《たた》く。
「いこ」
「でも! マキリとレラさんだけ残すなんて……」
「小山田耕太、おまえは傲慢《ごうまん》だな」
マキリが、あのガラス玉のような眼《め》を耕太に向け、いった。
「え。ご、傲慢? ぼくが傲慢……ですか?」
「ああ、傲慢だ。わかるか? 姫さまは我らを信頼してくださっているのだ。我らの強さを、意志を、信頼してくださっているからこそ、ここをまかせて先に向かおうとしているのだ。なのに小山田耕太、おまえはなんだ。おまえは我らをまったく信頼していないだろう。我らの強さを、意志を、疑問に思っているだろう。それは強者の傲慢というものだ」
「ぼ、ぼくは強くなんかありません!」
生まれて初めていわれた「おまえは強い」という言葉に、耕太は反射的に反応した。それは否定であり、反発であった。まるで図星をつかれたかのように、耕太は脊髄反射《せきずいはんしゃ》で応《こた》えてしまっていた。
「気づいてないのか……? 小山田耕太、おまえは強いぞ。さきほどの闘いはおろか、ここへ至るまえ、街中でいくつもあった〈葛の葉〉との戦闘中、おまえは傷ひとつ負わなかった。それがどれほどの強さを示すことなのか、それすらもわからないのか? やはり傲慢だ。傲慢無礼だ」
あいかわらずマキリ、ガラスの透きとおった眼で見つめてくる。
「だ、だって、ぼくは、本当に」
「おーい、あまりいじめないでやってくれるかー?」
と、遠く、朔《さく》の声が届いた。
どうやら朔は、サイズのぴったりあう衣服を探しだしたらしい。上下とも黒い、身体にぴったりした長袖《ながそで》のシャツとズボンに身を包んでいた。
さらに朔《さく》は、移動手段も見つけだしたようだ。
朔は、車からその身体を覗《のぞ》かせていた。〈葛《くず》の葉《は》〉がバリケードに使っていた車のうちの一台らしい軽自動車のドアを大きく開け、半分だけ身を乗りこませた朔が、アクセルをふかす。
「安心しろよー、耕太! そのふたりだけ残すつもりはないからな!」
「なんだと、犹守《えぞもり》朔? なにをいう?」
「おれは強いからな、強者の傲慢《ごうまん》しまくりなのさ……おーい、おまえたち!」
朔が、橋の外に向かって、叫んだ。
耕太はいぶかしく思う。
橋の外には、ただ川が流れるだけのはずでは?
「すみません……」
ところが川からは、ちゃんと声が返ってきた。
どうじに、すぱっ、と何者かが川から跳びあがってくる。橋に降り立ったのは、オレンジ色の髪に、白いマントを羽織った青年、それとバニーガール姿をした女性の、ふたりだった。
「あ」
青年を見たとたん、耕太の脳裏に、あの夏の海岸での思い出が、まざまざとよみがえる。
ちずるさんたちとの海水浴――。
ふんどし大海神《おおわだつみ》の大暴れ――。
「カイさん? ですよね?」
耕太はバニーガール姿の女性には面識がなかった。
だが、青年には見覚えがあった。ちずるとゴムボートで海にでたとき、拾ったどざえもんが彼だったからだ。
「どうも、みなさん、おひさしぶりです……」
「えーい、ひかえおろー!」
気弱に頭をさげたカイの前で、バニーガールが見得を切る。
すぐさま、カイに「シズカ、ダメだよ……」とたしなめられ、小さくなった。
カイが、朔のほうを向き、やはり気弱に頭をさげる。
「すみません、朔さん……あまりに警戒が厳しくて、どうしても薫風《くんぷう》高校には侵入することができませんでした。とくに校内を〈葛の葉〉に制圧されてからは、学校に備えつけられた防衛機能のすべてを押さえられたらしくて……」
「いーえ! カイさまは精一杯、できるかぎりの努力をいたしました!」
バニーガールが朔に詰め寄り、くわっ、と睨《にら》みつける。
「きさま、このグズノロマオオカミめ! カイさまばかりに危険な任務を背負わせおって、のんきにいまごろのこのこと!」
「すまん、すまん……だが、こっちはこっちでけっこう大変だったんだぜ?」
はっはっは、と朔《さく》は笑った。
きー、と湯気をあげ、飛びかからんとするバニーガールを、カイが後ろから羽交い締めにして、どうにか押さえる。
耕太は、ぽつりといった。
「……朔さんと、カイさん、いつ知りあいに?」
「兄さま、昔からヘンなのばっかり知りあいにする。ちずるとか」
耕太の横で、望《のぞむ》もぽつりといった。
そのヘンな知りあいのうちに、はたして耕太は入っているんだろうか? 見つめる耕太に、望は、ん? と首を傾《かし》げるばかりだった。
「というわけだから、安心しな、耕太! この大海神《おおわだつみ》の息子さんが、手助けしてくれるから! なーに、橋の下は川、川とくれば水、水のある場所なら海の一族は無敵だぜ!」
びし、と朔は親指を立て、シズカに「勝手に決めるな!」と吠《ほ》えられた。
「……よし!」
耕太はうなずき、いきおいよく振り返る。
黙って、マキリの腕に左手を当てた。
「小山田耕太、おまえ……」
「すみません、時聞がないんで……ちょっと痛いと思いま、す!」
抗議するマキリを無視して、フルパワーで治癒の力を送りこむ。一瞬、マキリの顔は苦痛でゆがんだ。だが腕は元通り動くようになったようだ。
耕太は、マキリとレラに頭をさげる。
マキリはむくれて、レラはくすくす笑っていた。
耕太は走る。
朔《さく》が待つ車の元へゆき、乗りこむ直前、カイとシズカにも頭をさげた。
軽自動車の助手席へ乗りこみ、座る。
耕太のあとをついてきて、一緒にカイとシズカに頭をさげた望《のぞむ》が、後部座席へ、割れた窓から入りこんだ。
「朔さん……いきましょう!」
ふっ、と朔は笑い、アクセルを踏みこむ。
派手にタイヤを滑らせながら、車はじり、じり、じり、と動き、そして、飛びだした。
耕太たちは、薫風《くんぷう》高校へと続く最後の道を、走りだしていった。
ここで、しばし時はさかのぼる。
耕太たちが、橋を飛びだす、その十分前のこと……。
八束《やつか》家は、すでに商店街に陣どっていた。
薫風高校より徒歩十分ほどの地点にあった商店街の住人は、みな眠っている。ただの眠りではない。悪良《あくら》家による工作と土門《つちかど》家による結界の相乗効果でもって、住人たちはきわめて深い、騒ごうとも暴れようとも、たとえ本人が暴行を受けようとも決して目覚めることのない眠りに沈められていた。
その静まり返った商店街の通りに、八束家は立つ。
まったく隠れず、正々堂々とその身をさらして、両側に店がならぶ道路いっぱいに広がり、耕太たちを待っていた。
そしてたまきは、その先頭にいた。
八束家当主代理である八束たまきは、軍服風の紺地に金糸の飾りが入った衣服をまとい、白木鞘《しらきざや》の日本刀は左手に持ってさげ、その鋭い三白眼をまだ見ぬ敵へと注ぐ。彼女の背後に、ずらりと部下のものたちはならび、同様に視線を通りの奥へと向けていた。
偶然ではあったが、たまきたちがいたのは、あの精肉店の前だった。
かつて、耕太と望が初めて出会った、スペアリブを店頭販売するお肉屋さん……その前で、たまきたちは耕太たちを待っていたのだった。
ゆるやかに、雪が舞う。
軽やかな雪だった。
今夜は、雪が止《や》んではまた降るのをくり返していた。もう何度目の雪だったろうか。
しかし、たまきは動かない。
雪が髪や肩を白く彩り始めても、微動だにせず、ただ白い吐息をゆっくりと洩《も》らすだけだった。後ろの八束《やつか》家のものもおなじ、みな動かず、白い吐息を吐く。
と。
たまきの三白眼が、鋭さを増した。
「きたか……」
左手に持つ白木鞘《しらきざや》の刀を、静かに腰へと引きつける。
やってきていた。
街灯がぽつぽつと照らす商店街の通りを、遠く人影があらわれ、待ち受ける八束家の元へと、まっすぐに近づいてきていた。
「たまきさま」
声をかけたのは、彼女の真後ろに控えていた青年だった。
彼は、つねにたまきの補佐役を務める副官でもあった。
「なんだ」
「敵の数は、人狼《じんろう》が二人に少年が一人の、三人ではありませんでしたか」
「だから、どうした」
「ですから、数が」
いま八束家の元へと迫る人影は、たったひとりだけしかいなかった。ほかに姿は見えない。足音も、たしかにひとりだけだった。
「あやつがおとりとなって、残りふたりを先にゆかせるつもりでは」
「違う」
たまきは断言した。
「ひとりなんだよ、あの阿呆《あほう》はね……」
「え?」
青年の声には、明確な疑問の色があった。
おそらくはその顔もさぞかし怪訝《けげん》なものなのだろう。
だが、たまきは彼の疑問に答えるつもりはなかった。口にだしたくなかったからだ。振りむきもしない。ただ黙って、近づく相手を睨《にら》みつける。相手は、手になにか棒状のものを持っていた。たまきは、眼《め》で確認せずともそれが刀なのだとわかった。
実際、男が手に持ってさげていたのは木鞘の刀だった。
相手の正体が、手の得物ごとわかる距離になったとき、たまきの後ろにならぶものたちはどよめいた。肉体、精神ともに鍛えぬき、滅多なことでは動揺せぬはずの八束家の男女が、激しい動揺を表にだした。
たまきはひとり、動く。
腰をひねり、腰に引きつけて持った刀の鞘《さや》へと右手をやる。
一気に抜いた。
ぬらりと光る刀をそのまま構えて、叫ぶ。
「兄上!」
呼ばれた相手、八束《やつか》たかおは、その三白眼の目元を揺らがすことなく、ただ黙って歩を進めてきた。たまきたちとの距離を、さらに縮める。
七々尾《ななお》家は、薫風《くんぷう》高校より徒歩五分の地点にある住宅街に陣どっていた。
こちらは正々堂々たる八束家とは違い、屋根に潜んでいた。
いや、べつに卑怯《ひきょう》な真似がしたいわけじゃなくて、まあいきなり襲いかかるわけではあるんだけども、だって騙《だま》されるほうが悪いんじゃん? つーか、そもそもおれたち得物は鎖だし、鎖は中距離向けの武器なわけだから、どうしても遠間に立つしかないんであって、そうなるとほら、屋根の上あたりに潜むのがちょうどいいのよ。だからしかたないのよ。
と、七々尾家当主である七々尾|宗仁《そうじん》は、彼なりの理屈の下、潜んでいた。
細い道路沿いにならぶ、家々の屋根に伏せながら。
思いっきり、頭を抱えながら。
「あーあ、やっぱりきちゃったよ……」
眼下の道路を、ちらと覗《のぞ》きこむ。
「くると思ったんだよなー、あああああ」
道路には、ふたりの少女の姿があった。
襟元のリボン状のネクタイに、ブレザーと、チェックのスカート。
小柄な身体をそんな薫風高校の制服で包みこんだ、髪は栗《くり》色で、それぞれ頭部の左側と右側におさげを結んでいた、それ以外はすべてそっくりな、双子の少女だ。
左おさげの少女が、七々尾|蓮《れん》。
右おさげの少女が、七々尾|藍《あい》。
七々尾宗仁の娘、蓮と藍は、その細い両腕に鎖を巻きつけた完全なる戦闘態勢でもって、屋根の上を見あげ、眼《め》を鋭くさせていた。
「父上……」
「いるのはわかってる……顔をだせ!」
八束たかおと八束たまきは、いや、兄妹であるふたりは、睨《にら》みあっていた。
互いの位置まであと十歩の距離で、ただ見つめあっていただけなのだが、その親ゆずりの三白眼は、敵意もあらわに視線をぶつけあっているようにしか、まわりに映さなかった。
「なにをしにまいられました……兄上」
刀を構えながら、たまきが尋ねた。
「止めに、だ」
こちらはだらりと右手に木鞘のままの刀をさげながら、たかおは答えた。
「止めに、とは」
「もうすぐここには、おれの生徒がやってくる」
八束《やつか》たかおは、自分の背後を指さす。
「おまえたちはそいつらを待ち受けているんだろう? 人狼《じんろう》の男女ふたりと、謎《なぞ》の少年ひとりの三人組のことだよ。その人狼の少女と謎の少年は、現役の薫風《くんぷう》高校の生徒でな……人狼の男も、すぐにいなくなったが、在籍してたことがある。おれは教師なのでな、生徒は守らねばならん」
「なるほど、その生徒たちのほうを止めようというのですか」
たまきの口元に、小さく笑みが浮かんだ。
「たしかに我ら八束家は、三珠《みたま》家などとはものが違う……その三人組がいかな力を持とうとも、無事ですむはずがない。否、すましはしない。ふふ、しかし生徒のために兄上も、わざわざこんなところまでご苦労なこと」
微笑《ほほえ》みながらのたまきの言葉に、なんだ……と彼女の背後に控える八束《やつか》家のものたちが安堵《あんど》のざわめきを洩《も》らした。いかに精鋭たる八束家の男女とはいえ、かつては次期当主候補だった八束たかおとやりあうのは、かなりの覚悟を必要とする行為だった。
「残念だが、違う」
たかおの回答に、ざわめいていた八束家の男女は、静まりかえる。
たまきは眼《め》を鋭くさせた。
「違う……ですと?」
「ああ、違う。おれは生徒を止めにきたのではない。おれはたまき、おまえたち八束家を止めにきたのだ。三人を……小山田耕太を、無事に薫風《くんぷう》高校へと送りこむためにな」
「できる……おつもりか!」
たまきが、構えていた刀の切っ先をあげ、垂直にし、身体の横へと引きつける。腰をひねり、いつでも斬《き》りかかることができる体勢となった。
「できん、だろうな」
あっさりとたかおはいった。
八束たかおは、だらりと刀をさげたまま、まだ構えのひとつもとってはいなかった。
「兄上、あまりふざけた態度は……」
「そう、おまえたち全員とやれば、まちがいなく無理だろうよ」
「なに?」
「ゆえに八束家当主、八束たまき。おれは貴殿と一対一での勝負を所望する」
その瞬間の八束家のものたちのざわめきといったら、なかった。
たまきも、その三白眼を大きく見開く。
すぐさま細め、鋭くし、深く息を吸いこんだ。
「断る、といったらどうなされます?」
「おれは死に、そしておまえたちも死ぬ。ただそれだけのことだ。さほど問題ではない」
ふ、ふふふ、ふ……。
たまきはうつむき、笑い声で身体を震わせだす。
「よろしいでしょう」
顔をあげた。
その口元には、激しすぎる怒りによる笑みが浮かんでいた。
「わたしが、この手で! 兄上を殺《あや》めてさしあげようではありませんか!」
かけ声をひらめかせ、たまきはおどりかかる。
上段からの袈裟斬《けさぎ》り、下段からの返し、中段からの横切り、その風をも断ち切る刃先を、八束たかおは身を引き、さらに引き、最後はくの字になって、すべてかわした。
三度の斬《ざん》を放ったたまきは、突きを放つ体勢となる。そのきらめく切っ先は、八束たかおの顔面へと向けられていた。
「抜きませい、兄上」
八束《やつか》たかおの眉間《みけん》からは、ひと筋の血が流れだしている。
かわしきったかに見えたたまきの刃が、わずかにかすめたものだった。
「すまんが、これは刀ではないんだ」
鷲鼻《わしばな》をつたう血もそのままに、八束たかおはやはりだらりと右手に木鞘の刀をさげ持っていた。たかおの言葉に、たまきは目元をわずかにゆがませる。
「刀ではない……まさか、木刀だと?」
「ああ」
「挑発のおつもりですか?」
「いや。べつに信じる必要はないが、おまえたちを止めるためにおれはいま、まさに全力を尽くしている。それだけはいっておこう」
「……信じましょう」
じり、とたまきは突きの体勢のまま、すり足でたかおへと近づく。
「たまきさま!」
ようやく衝撃から立ち直ったらしいたまきの副官である青年が、叫んだ。
「だれも手をだすな。だせばまずそいつから殺す。おまえであろうともだ!」
本気であることを思わせる冷たい殺気まじりのたまきの背に、青年は両手を左右に伸ばし、まわりのものを押さえつけながら、「さがれ!」と指示をだす。
従い、八束家のものたちは十メートルほども退いた。
それを確認したかのように、たまきはすり足での接近を再開する。八束たかおへ、じり、じり、すこしずつ迫っていった。
八束たかおは、微動だにしない。
近づいてくるたまきを前に、あいかわらずだらりと木刀をさげたまま、ただ黙って彼女を見つめていた。
「いったいなにをしにきやがったんだよ、おまえらはよ」
七々尾宗仁《ななおそうじん》は、そう尋ねた。
宗仁は、すでに家の屋根から、住宅街を突っ切る道路へと降り立っていた。
そうして、娘である蓮《れん》、藍《あい》と向きあっている。
残りの七々尾家のものたちは、道路の両|脇《わき》へならぶ家々の屋根に残ったままだった。降りる気配はないし、宗仁も彼らに降りうと命じるつもりはなかった。
「決まってる」
「止めに、だ」
宗仁に尋ねられ、蓮と藍は答えた。
「止めるって……なにをだよ。成長か? とくにチチとケツの。いや、止める必要なんかねえか? 止めなくったって、どーせ育ちやしねーんだからな」
イッヒッヒ、と笑う父親の下品な冗談にも、蓮《れん》と藍《あい》は反応するそぶりすら見せない。宗仁《そうじん》は笑いを納め、ばりばりと頭をかいた。
「あー、例のパパ、か?」
「そうだ」
「もうすぐここに、パパが学校のママを助けるため、やってくる」
けっ、と宗仁は吐きすてる。
「つまり、パパがママを助けにここを通るのに、おれたちみたいな戦闘バカの集団がバカ群れなしてバカ待ちしてちゃ、邪魔で邪魔でしかたがねーってか? なるほどなるほど……だけどな、おまえら、ほれ、あっち側にはもっと恐ろしい鬼みてーなお姉ちゃんが、斬殺《ざんさつ》集団を率いて待ち受けてんだぞ? あっちはいーのかよ、あっちは」
「すでに矢は」
「放たれてる」
「あん?」
しばらく蓮と藍のいった言葉の意味を考え、宗仁はにたりと笑った。
「すでに矢は放たれた、か……それって、もうとり返しはつかねえ、あとはやるしかねえってときに使う言葉なんだが? つまりおまえら、できたのかよ、覚悟は」
蓮と藍は、そろってうなずく。
そろって、互いにべつの足を後ろに引いた。まるで鏡に映ったかのように、左右対称で闘いの構えをとる。
「できた!」
「自分たちが死ぬ覚悟も!」
「かつての仲間たちを殺す覚悟も!」
「父上、あなたを殺す覚悟も!」
「みな、できた!」
「もはや、我らに迷いはない!」
じゃら、とふたりの腕に絡んでいた鎖が、ほどけ、地面へと落ちた。くい、とふたりが手首をひねると、まるで生きた蛇のように、鎖は宗仁を向き、のたうつ。
闘志を剥《む》きだしにする娘を前に、宗仁は笑った。
はっはっはっ……と笑い、にたりと口の端を曲げる。
「おまえら、もう忘れたのかよ。なあ、藍。この前のとき、おまえは素手のおれにすら敵《かな》わなかったよな? その鎖を奪われて、逆に縛りあげられちまったよな? なのにいま、このおれの手には……」
ぶん、と両腕を振った。
やはり彼の両腕に絡んでいた太い鎖、その先についていた鉄球が、宗仁の後ろから跳ねあがり、飛びだしてくる。
スイカ大の鉄球は、そのまま蓮《れん》と藍《あい》のすぐ横へと落ちた。
ずん……と鈍く地響きが起こる。
宗仁《そうじん》が腕を引くと、やはり鉄球は跳ねるような動きで飛び、彼の元へ戻った。鉄球が落ちたあとは、見事にくぼみが残っていた。放射状に、細かくひびも入る。
「これがあるってわけだ。それでもオヤジを殺せるってのか、ん? おまえら、もしかしてこのわずか数週間のあいだに、ムチャクチャパワーアップでもしたか? オトナの階段のぼっちゃったとかでよー」
げっひゃっひゃっひゃっひゃ。
あいかわらず下品な宗仁の冗談に、しかし蓮と藍は、微笑《ほほえ》みで応《こた》えた。
宗仁の眼《め》は、飛びださんほどに見開かれる。
「な、なに!? ま、まさか、おまえら、本当に……パパか! 相手はパパなのか!」
あわてふためく父親に、蓮と藍は、ふっ、と鼻での笑いを見せた。
ただ鼻で笑い、オトナの余裕を見せつけるだけだった。
ぎゃー!
〈葛《くず》の葉《は》〉の工作によって寝静まり、静まりかえった住宅街に、宗仁の悲鳴がとどろく。
「や、やられちまった……蓮が、藍が、あのちんちくりんなガキに! ちくしょう、娘に手をだすたあ、なんたる鬼畜か! 許せねえ……許すわけにはいがねえ〜!」
「冗談だ」
「バカ」
身体を奇妙にくねらせ、指先をわきわきとさせていた宗仁が、なぬ? と蓮と藍を見た。
「時間がない」
「やろう、父上」
蓮と藍が、腰を落とす。
宗仁に向かい、鎖をしゅるしゅると動かして見せた。
「て……てめえ、親をからかいやがって! よーし、いいだろう。そんなにぼっこぼこにされたきゃ、オヤジの怖さ、オトナの恐ろしさ、じっくりてめえらに教えてやろうじゃねえか! その身体でな!」
宗仁は腕を高々とあげてぐるんぐるんと振り、その腕から伸びた鎖の先の鉄球を、がおろん! がおろん! と空中で激しく回し始めた。
「ぐーらー!」
酒焼けしてただでさえ赤黒い宗仁の顔が、怒りでさらに赤く染まりだす。
そんな大魔神のごとき様相の父親を前にしながら、蓮と藍に恐れの色はなかった。
逆に浮かべた。
うっすらとした笑みを。
鈍い地響きが、わずかに空気を揺らす。
「たまきさま!」
副官の青年の叫びに、だがたまきに答える余裕はなかった。
さきほどからなんども、あの鈍く重たい打撃音は響いていた。どうやら七々尾《ななお》家が布陣する後方の住宅街のほうでも、なにか異変が起きているらしい。
しかし、いまはそれどころではなかった。
じりじりと、すこしずつたまきが狭めた、八束《やつか》たかおとの距離。
それが、もはや限界近くにまで迫ってきていたからだ。
間合い、というものがある。
自分の攻撃が届く距離のことだ。
そして自分の攻撃が届く距離ということは、だいたいの場合において、相手の攻撃もこちらに届くということだった。
その、互いの攻撃可能距離まで、あと、数センチ。
あと、もう一歩踏みだせば、到達する。到達してしまう。
つっ……とたまきの頬《ほお》を、汗がつたった。
たまきは、突きの体勢をとっていた。
突きは、切っ先を伸ばして貫くため、普通に斬《き》るよりも間合いは遠い。それだけ、遠距離から攻撃ができる。つまり、先にたまきの攻撃は届く。
普通ならば、だが。
八束たかおは、だらりと木刀をさげたまま、ただ黙って突っ立っていた.
まちがいない。
八束たかおは、たまきの突きをかわし、その上で攻撃しようとしているのだ。だからこそ構えない。構えず、脱力し、瞬時に動けるようにしている。そうして突きをかわし、必殺の攻撃を喉きこもうとしている。いってみればカウンターを狙《ねら》っていた。
「兄上……わたしの兄、八束たかおよ」
「なんだ、たまき」
八束たかおは、さきほどたまきに傷つけられた眉間《みけん》からひと筋の血を流し、鷲鼻《わしばな》から口元までを濡《ぬ》らしつつ、あの三白眼で、どこを見るともなくたまきの全身を見つめていた。
「なぜ……です?」
それは万感の思いがこもった、「なぜ」だった。
なぜ、あなたは八束家の前に敵として立つのか。
なぜ、いまわたしの前に敵として立つのか。
なぜ、あなたは八束家を捨てたのか。
なぜ、どうして、なぜ。
「すまんな」
茫洋《ぼうよう》とした眼《め》で、八束《やつか》たかおは答えた。
「おれは、知ってしまったのだ」
「なにを、です」
「おのれの生きるべき道というやつをだ。ただのクズでしかなかったおれが、あのかたと、あいつと出会うことで、知った。知ってしまった。知ってしまった以上、こう生きていくしかなかったんだよ」
「〈御方《おかた》さま〉ですか」
「と、ひとりの女だな」
瞬間、たまきのつま先は、一気に間合いを踏み越えた。
ちっ!
かっ!
かけ声を互いの唇から洩《も》らしつつ、ふたりは動く。
たまきは全身全霊をかけて、踏みこみ、突いた。両手で支え持っていた刀を、始動、加速は両腕のまま、最後は片腕だけに変えて、伸ばす。
八束たまき、必殺の片手突きが放たれた。
一方、八束たかおは、予想とは裏腹に、かわさなかった。
ひゅるん、とねじった身体の動きで、右腕を振りあげる。
右腕が持った木刀の先が、八束の喉元《のどもと》へと伸びたたまきの刃へと向かって、下から伸びあがってきた。
無駄だ、と刹那《せつな》の刻《とき》、たまきは思った。
たまきの気がこもった刃が、たかだか木刀ごときで折れるはずがない。いや、反らすことすら敵《かな》わない。刀は微動だにせず八束たかおの喉《のど》へ届き、刺さり、貫く。八束たかおは、兄は、死ぬ。まちがいなく。このわたしの手で。
木刀が、たまきの刃に当たった。
「うりゃー!」
「たりゃー!」
蓮《れん》と藍《あい》のかけ声が、真夜中の住宅街の沈黙を切り裂く。
ふたりは、ひたすら宗仁《そうじん》のまわりを跳びまわっていた。跳びまわりながら、宗仁の鉄球を避《よ》け、自分たちの鎖を飛ばす。セオリーどおりの闘いかたといってよかった。
しかし、そのセオリーを叩《たた》きこんだ張本人には、当然ながら通じなかった。
「おらおら、逃げてばかりじゃ勝てねーぞーう!」
道路の真ん中にがに股《また》で立って、頭上でぶんぶんと鉄球を振り回していた宗仁が、その鉄球のひとつを放つ。
蓮《れん》を狙《ねら》った鉄球はそれ、家と道路をへだてるブロック塀、そこにめりこんだ。
いや、貫き、つながった鎖に引っぱられて、またブロック塀を壊しながら戻ってゆく。
振り回され続ける鉄球は、遠心力の効果によって、間断のない攻撃を可能としていた。
そして、蓮と藍《あい》の鎖はまったくもって効かない。
なんども鎖は宗仁《そうじん》を襲ったが、そのたび、宗仁は口笛まじりで腰をくねらせて避《よ》けたり、がに股《また》の脚で蹴《け》り返したり、鉄球で豪快に払ったりした。
「どうしたどうした、ガキどもー!」
うっひゃっひゃっひゃ、と宗仁は笑う。
その笑い声に、蓮と藍は動きは止めずに、顔を伏せた。
口元に浮かんだ笑みを、隠すために。
作戦どおり!
ここまではすべて、蓮と藍の作戦どおりに運んでいた。
蓮と藍は、ただ確かめていたのだ。
はたして、七々尾《ななお》宗仁は本気で娘である自分たちを倒す気があるのかないのか?
答えは、「ない」だった。
本気で倒す気なら、とうに蓮と藍はやられていた。それだけの力の差はあった。七々尾家当主の名は伊達《だて》ではないのだ。
実際、蓮と藍自身だって、宗仁のことは認めていた。
父親としてはあまりに酔っぱらいだし、だらしがなさすぎるし、足は臭いしギャグは下品だし、一緒にお風呂《ふろ》に入るのはもちろん、一緒に衣服を洗濯するのも勘弁してほしかったが、その技量は認めざるを得ない。一術者として、認めざるを得なかった。
認めたからこその、この作戦だった。
まず、七々尾宗仁の本気を確かめる。
宗仁は本気ではないとわかった。
決して、娘を殺《あや》めるつもりなどないのだ。
それどころか、戦闘不能状態にして、身体を拘束するつもりすら、おそらくはない。下手をすれば傷ひとつつける気はないのかもしれない。この戦闘など、宗仁にとっては娘とのちょっとした遊びでしかないのかもしれない。
そこに、つけいる隙《すき》はある。
このままなら、闘いはいつまで経《た》っても終わらない。
蓮と藍が宗仁にやられることはないだろう。だが、蓮と藍が宗仁を倒すことも、またないのだ。それでは困る。もうすぐ耕太たちはくるのだから。耕太がくれば、宗仁はすぐさま攻撃の矛先を蓮と藍から変え、襲いかかるだろう。
させない。
パパがくる前に、倒す。かならず。
そのために――。
蓮《れん》は、藍《あい》を見た。
藍も、蓮を見た。
双子は、宗仁《そうじん》の暴風のような、しかし手加減された鉄球による攻撃を動き回って避《よ》けながら、互いの顔を見た。
互いに、うなずく。
「ほーらよっ!」
鉄球が、今回はふたつどうじに放たれた。
ぎりぎり、避けることができる鋭さの鉄球だ。
藍は、避けた。
だが。
「ママ、パパ……」
蓮は喰らった。
ちずると耕太の愛称を呼び、蓮はまともに、ガードもなにもせず、避けられたはずの鉄球を喰らった。
べきべきと、蓮の骨は折れる。砕ける。
めきめきと、なにかがつぶれる。
痛いもなにもなく、ただただ全身に広がる衝撃に痺《しび》れながら、蓮は笑った。笑ったら、唇から血が飛び、蓮は咳《せ》きこんだ。
「てっ……めえら!」
宗仁は、眼《め》を剥《む》いて鉄球を止める。
腕に筋肉を浮かせ、血管を浮かせて、鎖を引き、戻す。
だがもう遅かった。蓮は、身体中から血を霧のように散らしながら、まさにボロ布のようになって地面に崩れ落ちる。どちゃ、と前のめりに倒れ伏した。
「やれ……藍……」
こぼぼ、と唇で血の泡を作りながら、蓮はいった。
「うあああああああああー!」
呆然《ぼうぜん》としていた宗仁に、その一撃は飛んだ。
眼に涙を浮かばせていた藍が、飛びこみ、放った一撃。
渾身《こんしん》の一撃を喰らい、宗仁はふっとぶ。
きらめきが、宙を飛ぶ。
くるくると旋回しながら飛ぶそれは、弧を描いていた。
やがて落ち、すとん、と道路に突き刺さる。
アスファルトをまるで粘土のようにして刺さったその弧は、刀の刀身だった。
「な……」
信じられないものを見るように、たまきの眼《め》は大きく見開かれていた。
視線の先には、彼女が手に持つ刀があった。
いや、元刀だったものがあった。
たまきが持つ刀は、根本のあたりから完全に折られてしまっていた。綺麗《きれい》に折られ、その先の刀身はない。宙を飛んで、道路に突き刺さっていた。
そして、眼を大きく見開くたまきの喉元《のどもと》には、木刀の切っ先がつく。
突きつけていたのは、八束《やつか》たかおだった。
「おれの勝ち、だな」
と、木刀をおろす。
「なぜ……? なぜ、折れた……折られた……折られるはずがないのに!」
焦点のあってない眼で、たまきは八束たかおを見た。
「これが、わたしと兄上との、技量の差なのですか?」
「いや、違う。正直、おまえとおれとの技量の差はほとんどない。正々堂々とやれば、どちらが勝つかは時の運だろう。腕をあげたな、たまき」
「正々堂々……? では」
「ああ、おれは卑怯《ひきょう》な手を使った」
これだ、と八束たかおは持っていた木刀を示す。
「一見、ただの木刀に見えるだろうが……」
たまきの目の前に、刀身がくるように持ちあげた。
「これは……!」
木刀は、一部が削れていた。
おそらくはたまきの刀を打っただろう部分が、削れ、中身を覗《のぞ》かす。
とはいえ、本当に木刀ならば、中身もやはりただの木なはずだが、いまたまきの目の前に映るのは、黄金の下地だった。
「ヒヒイロカネだ」
「なっ……」
「ヒヒイロカネでできた、なんていうんだ、いってみればヒヒイロカネ刀に、木っぽい色を塗って作った、模造の木刀だよ」
ふ、と八束は自嘲《じちょう》の笑みをこぼした。
「卑怯者《ひきょうもの》、と蔑《さげす》んでくれてかまわんぞ。おれはこれが木刀なのだとおまえにあえて勘違いさせ、攻撃を誘ったのだからな。もし仮にこの刀がヒヒイロカネ製だとわかっていたら、すぐにおれの意図を察し、おまえはうかつな攻撃は避けたはずだ」
「なぜ、そのようなことを……?」
「時間がなかった。すぐに小山田たちはくる。小山田たちとおまえたちを、どうしても闘わせるわけにはいかなかった。だからだまし討ちのような真似をしたわけだ」
「生徒を守るため……だからですか」
「そのとおりだ。だが、それだけでもない」
「なんと?」
「いっただろう……もしおまえがおれとの一対一での勝負を受けてくれなかった場合、おれは死に、そしておまえたちも死ぬと……。いまだ小山田耕太は、その力に目覚めてはいない。だが、おまえたちほどの力量の持ち主とやりあえば、まちがいなく覚醒《かくせい》するだろう。せざるを得まい。そしてそうなれば、おまえたちは死ぬ。おまえたちが強いぶん、小山田耕太の攻撃も、また強くなってしまうからだ。問題はそのあとだ。自分の力が引きおこしたあまりに無惨な結果を見た小山田が、どうなってしまうか……」
じっ、とたまきは兄を見つめる。
「兄上、その小山田耕太とはいったい何者なのです」
八束《やつか》たかおは、ちらと妹へ視線をやった。
続けて、その視線を前へと向ける。
「それが、おれにもよくわからん」
「兄上……」
「嘘《うそ》ではない。おれは……いってみればそれを確かめるために、ここまできたのだ」
「……〈御方《おかた》さま〉も、ですか」
八束たかおは、たまきに横顔を向けたまま、沈黙し続けた。
「まあ、よろしいでしょう」
たまきは笑った。
それは、いままでにないほど、軽やかな笑顔だった。
「わたしは負けたのですから。いえ、その偽装したヒヒイロカネ刀のせいだとはおっしゃいますな。見抜けなかったわたしが愚かだっただけです。いや、真に研鑽《けんさん》を積んでさえいれば、ヒヒイロカネごときに負けず、兄上の喉《のど》を刺し貫き、いまごろは地獄八景巡りを楽しんでいただけていたはずなのに……まったく、我ながらふがいなや」
「待て。おれの地獄行きは確定なのか?」
「お互い、極楽などいけるはずもありますまい? このようなものを振り回すものが、どうして極楽にいけましょうや?」
たまきは歩きだし、八束たかおに背を向けながら、刃のない刀をくるりんと振った。
「ですので、わたしはもう辞めます」
「……なに?」
「普通の女の子に戻る、といっているんですよ、兄さん」
ふんふんふん、と足取り軽く、駆けだす。
「おい、たまき……」
「たったいまこのときをもって、八束たまき、八束家当主代理の座を、辞しまーす! そしてなります、花嫁さんに!」
ぽいと刃のない刀を放《ほう》り投げ、たまきは、ずらりとならんで彼女を待っていた八束《やつか》家のものたちのうちひとり、副官を務めていた青年に、抱きついた。
「なあ、詩郎《しろう》? ハネムーンはどこにいこうか?」
えええええ!?
八束家の男女は、激しいどよめきをあげた。
「なん……だと!」
八束たかおも、その三白眼を大きく見開く。
その顔は、さきほど刀を折られたときのたまきの表情に、じつにそっくりであった。
「も、も、も……」
たまきに抱きつかれたままの青年が、しゃくりあげるように声を洩《も》らす。
「申し訳ありません、たかおさま! みなさま! わ、わたくし、副官を務める身にありながら、当主代理であらせられますこちらの八束たまきさまと、その、い、いわゆる不適切な関係を、結んでおりました〜!」
青年はひざまずき、ぺこぺことなんども土下座をした。
彼に抱きついたままぺたんと両|膝《ひざ》をそろえて座ったたまきが、なによう、とふくれる。
「いつもは、たまきと呼びすてのくせに」
ぬあ〜!
青年は叫んだ。
その青年を、まわりの八束家のものたちが、男も女も踏みつけた。こいつめこいつめ。たまきは手を広げてかばう。怒鳴る。わたしの詩郎になにをするか! しかしそのすきまをぬって、青年は踏まれる。こいつめこいつめ。
「ちょ、ちょっと待て」
八束たかおは制止した。
べつに青年が気の毒になったからではなかった。
「たまき……おまえが当主代理を辞めたら、だれがあとを引き継ぐんだ。その男か?」
指さされて、ぼこぼこになった青年が、へろへろながらも「とんでもない」と首と手を横に振った。
「では……」
ふと、八束たかおは異変に気づいた。
みなが、じっと自分を見つめている。
「……なんだ、その眼《め》は。まさか」
「そのまさかですよ、兄さん。現当主代理を、あなたは見事倒したのですから。倒した以上、きっちりと責任はとっていただかなくては」
うんうん、とこの場にいた八束家のもの、全員がうなずいた。
「いや、だが、しかし、おれは、家出した身……」
わずかに泳いでいた八束《やつか》の眼《め》が、ぴたりと定まる。
「そう、家出をして、オヤジには勘当あつかいされた身だ! いまさら八束家の当主なぞ、できん!」
「兄さん」
きっ、とたまきがその三白眼も、口元も、声質も、態度も、すべて厳しくさせて八束たかおを見あげた。横でぐったりしていた青年もなぜかびくっと身体を震わせるほどの厳しさに、八束は「うむ」と答えるほかなかった。
「兄さん、あなたももう四十歳近く……そのあいだ、ず〜〜〜っと好き勝手に生きてこられたのです。いえ、たしかに教師という職は尊いものでしょうが、家出したっきりなんの連絡もよこさなかった息子を持つ家の側からしたら、兄さん、まさにあなたは放蕩《ほうとう》息子。べつにいま務めている教師の職を辞めろとは申しません。〈御方《おかた》さま〉……いえ、〈御方さま〉の宿る砂原幾《さはらいく》どのと別れろとも申しません。ただ、やるべきことはやらなくては。そうでなくて、どうして人にものを教える教師など務まりましょうや?」
う……く……。八束に返す言葉はない。
「わ……わかった……八束家の当主も、やる……」
がくりとうなだれ、答えた八束に、その前にいる八束家のものたちは、手の刀を捧《ささ》げ持った。それは、新当主への忠誠の証《あかし》だった。
「動くな! 動けば、父上の首をヘシ折るぞ!」
七々尾藍《ななおあい》は、鎖でぐるぐる巻きにした七々尾|宗仁《そうじん》の首を踏みつけ、叫んだ。
叫んだ先は、まわりにならぶ家々の屋根だった。
屋根の上に潜むほかの七々尾家のものへの威嚇を終え、藍は視線を、地面に横たわる双子の姉妹、七々尾|蓮《れん》へと向けた。
「蓮、どうだ、だいじょうぶか! 蓮、蓮!」
なんども呼びかけるも、蓮から返事はない。
奇妙に腕をくねらせて前のめりに倒れる蓮のまわりには血だまりができ、しかもじわじわと広がっているように見えた。
「蓮! 答えろ、蓮!」
藍の表情はゆがむ。
さきほど七々尾家のものたちを威嚇したときとは真逆の、いまにも泣きだしそうに崩れた顔となった。
「おい、蓮! 頼む、答えてくれ、答えて……」
蓮が、右手をあげた。
震えながらのとても弱々しいものではあったが、あげ、親指を立てる。ぐっ、と藍は言葉を呑《の》みこんだ。代わりに瞳《ひとみ》には涙があふれだす。
「……蓮《れん》の具合をみさせろ」
藍《あい》に首を踏みつけられていた宗仁《そうじん》が、いった。
宗仁の顔は、さきほど藍に喰《く》らった一撃で腫《は》れ、見事に変形していた。
「そ……その手は食うもんか。具合を見るふりをして、人質にとるつもりだろう」
「バカたれ。あー、もう情けねえ、おれは娘相手にそこまで外道なことをする父親だと思われてんのかね? おーい、おまえら!」
と、宗仁が屋根へ向かって呼びかける。
「あ、こら、ダメだ! お、折るぞ、首!」
藍の恫喝《どうかつ》も無視して、七々尾《ななお》家のものたちはつぎつぎに屋根から降りてきた。音もなく道路に着地し、蓮の元へと近づいてゆく。
「く……あ……」
くるな、といおうとしたのか、蓮はうめきながら弱々しくもがくも、あっさりと捕まった。男たちのうちひとりが、蓮に向かって手をかざす。もうひとりは指先で触れだした。
「これは……ひどい、骨がバラバラですな。内臓にも損傷多数……肺……心臓……肝臓……腎臓《じんぞう》……胃……もうぜんぶがダメだ。さすがは蓮さま、気を回復ではなく、機能の維持にまわすことで、かろうじてどうにかしていますが……よし、おまえら、気を注げ」
数十人の男たちが、蓮を中心にぐるりと囲み、上から横から手を伸ばす。
その気の放出量に、ぼんやりと蓮の身体は青白く輝きだした。しかしまわりはぜんぶ男たちが囲みつくしているため、その輝きはすきまからかろうじて洩《も》れるだけだった。
「むう……脊髄《せきずい》にまでダメージが……これは後遺症が残るやも……」
「ああ、蓮!」
藍の顔は、すっかり蒼自《そうはく》となっていた。
その眼《め》の涙は、もうあふれてこぼれ落ちてしまいそうだった。
「まったく、バカ娘が……」
藍の足下で、宗仁がつぶやく。
「てめえのオヤジがどれほど強いのか、まだわかってなかったのかよ? おれの鉄球をまともに喰らったら、こうなるに決まってんじゃねーか」
「わかってたさ!」
藍は叫んだ。
「アンタが強いのなんて、知ってた、わかってた! だから……わかってたから、こうするしかなかったんじゃないか……」
ぐ、と唇を噛《か》む。
ゆがみきった藍の眼からは涙がぼろぼろとこぼれ、足下でまだ首を踏まれたままの宗仁の顔に、ぱたた、と当たった。
「作戦だったってか? なるほど、やられたよ。まさかあの鉄球が蓮に当たるとは夢にも思ってもいなかったからな。まさか、てめえの手で娘を殺しかける羽目になるたあ……。もう、わけがわからなくなって、呆然《ぼうぜん》としてたところを、藍《あい》、おまえは上手《うま》くやったわけだ。普通ならかわせるはずの一撃を、見事におれに当ててな」
まだ藍は泣きやまない。
涙が、宗仁《そうじん》の顔に当たり続けていた。
「……おれの鉄球を喰《く》らう役は、どうやって決めたんだ」
「じゃ、じゃんけんだ」
「負けたほうがおとりか」
「違う。勝ったほうだ。蓮《れん》はパーだった。わたしはグーだった……」
ふー、と宗仁は息を吐く。
「そんなに……パパとママはおまえたちに優しくしてくれたか」
ぐしぐし、と藍は目元をこすった。
「そ、そりゃあ、してくれたよ」
「ふーん。どんなだ」
「お、お弁当、作ってくれたり」
「ママがか」
「パパも。ナイショだけど、パパのほうが美味《おい》しいときがよくあった」
「そうかそうか……あとは?」
「アイスとか、ホットケーキとか、おだんごとか」
「なんだ、食い物ばかりだな?」
「ち、違うぞ! ふ、服だって買ってくれた。ぱんつとか。ぶらとかも」
「おまえら、ブラジャーなんてまだまだ必要ないだ……いた、いたた、いた、悪い、悪かったよ、かかとに力こめるな、折れる、首、折れちまうだろ! ひー。つーかな、おまえら、おれからの仕送りがなくなったあと、ずっとあばら屋みてえなところに住んでたよな? 腐ったような家によ。不法占拠で。ママはずいぶんと豪勢なマンションに暮らしてたみてえだが、どうしておまえらを住まわせてくれなかったんだ?」
「そんなの、わたしたちのプライドを傷つけないために決まってるだろ!」
どん、と藍は宗仁の首のすぐそばに脚を落とし、鳴らした。
「ママはお金持ちだから、その気になればどんなことでもできたさ。でもママは、それじゃわたしたちのプライドが傷つくって、わかってたんだ。だから……」
また、藍の眼《め》からは涙があふれだす。
宗仁の顔に落ちて濡《ぬ》らす。
「アルバイトを紹介してくれたこともあったよ。そのバイト料に、ママはさりげなく上乗せしてくれてた。そういうひとなんだ、ママは」
ひっく、ひっくとしゃくりあげだした。
「さ、裁縫だって、不器用なのに、してくれたし……たゆらのほうが上手かったけど、でも、わたしたちはママにしてほしかったから……指、針で傷だらけにしながら、縫ってくれた。ママは、ママは……」
「そうか……」
宗仁《そうじん》は眼《め》を閉じた。
「ずいぶんといいパパとママだったんだな。というか、まあ、おまえたちがより懐いてるのはママのほうらしいが……へっ、どうしたって子供のことじゃ、父親は母親には敵《かな》わないのかね?」
と、むくりと起きあがる。
驚きに眼を丸くする藍《あい》の前で、あっさりと身体に巻かれていた鎖をほどいた。
「な……」
宗仁はそのまま地面にじかにあぐらをかき、くきくきと首を鳴らす。
肩をぐるぐると回し、うーむ、とうなった。
「さて、どうしたもんかな」
「こ、この……!」
飛びかかってきた背中側からの藍の攻撃を、宗仁はあぐらをかいたままひょいっと避《よ》ける。いきおいあまって脇《わき》をすり抜けてゆく藍を捕まえ、こちょこちょとくすぐりだした。たまらず、藍は笑い声をあげながらのたうちまわる。
「や、やめ、きゃ、ふひぇ、みひょ」
「パパとママに味方することはできん。そりゃ〈葛《くず》の葉《は》〉への裏切り行為だ。いまんとこ、とくに裏切るような理由もないしな」
「ひゃ、ゆるひぇ、ぬひょ、みみゃ!」
「かといって、パパとママを倒すこともできなくなっちまった」
「ぬぇよ?」
涙でぐじゃぐじゃとなった顔で、藍は父親を見あげた。
「娘がこれだけ世話になっておいて、襲いかかるなんざ……まさに恩を仇《あだ》で返すってやつだぜ。だが〈葛の葉〉はやれっていうし。でもパパとママには恩があるし。義理と人情、秤《はかり》にかけりゃ、なあ、どっちが重いと思うよ、おまえらは?」
と、宗仁は蓮《れん》と治療を続ける配下のものたちに尋ねる。
「さあ」
ぐるりと蓮を囲む男のひとりが、いった。
「ですが、宗仁さまが男のなかの男なのは、わたしら全員、知ってますぜ」
「答えになってねえ」
へっへっへ……と笑って、男は蓮へ気を送りこむ作業に戻った。
「しかしなるほど、七々尾《ななお》宗仁は男でござる、か……」
「父上……?」
あぐらをかいた宗仁に抱かれたまま、蓮は父親を見あげた。
朔《さく》が運転する軽自動車は、軽快に走っていた。
〈葛《くず》の葉《は》〉によって橋を封鎖するバリケードに使われていたにしては、とくに異常はない。橋での戦闘の影響を受け、ボディーはぼこぼこだしサイドのガラスはすべて砕けてしまっていたが、フロントガラスはヒビが入りながらも無事だし、走行に不自由もなかった。
「ぼく、強くなんか……」
ぽつりと、耕太はつぶやく。
「ん? さっきの話か?」
片手でバックミラーを調整しつつ、朔が尋ねた。
「はい……マキリさんにはああいわれましたけど、ぼく、本当に強くなんかないです。強かったら、みんなもっと、あんなに危険な目に遭わせずにすんでたはずですし。ぼくは、望《のぞむ》さんにすら、ここにくるまでにたくさん怪我《けが》させてしまって……」
「そういうところが、傲慢《ごうまん》なのさ」
「え……」
前を見つめながら、朔はいう。
「自分に強ささえあれば、みんな助けられたはずとか……そう思うのって、耕太、おまえ、気づいてるか? それって強いやつの考えだぜ? 自分はみなを助けねばならない。なぜならば、自分はだれよりも強いからだ。アイアム・ナンバーワン!」
「そ、そんなことは」
「そうなんだよ。すくなくとも、狼《おおかみ》的考えだと、そうなるんだな。狼の群れの長《おさ》には、いちばん強いやつがなるものなのさ。だいたいの獣はそうじゃないか? で、どうしていちばん強いやつが長になるかといえば、強くなきゃ群れは守れないからなんだよ。そしてさっきのおまえの考えは、その長の考えかただ」
「で、でも……」
「そこで、はい、ぼくは強いんですっていえるようなら、その腕輪も使いこなせるかもしれないんだがな」
朔がちら、と横目で見つめたのは、耕太の右腕だった。
耕太は自分の右腕を抱く。
革のライダースジャケットの裾《すそ》をさげ、手首についた銀色の腕輪をだした。
右の腕輪。
それは、攻撃を司る腕輪。
耕太は、守備を司る左手首の腕輪は使いこなせる。だけどこちらの、攻撃を司る右手首の腕輪はまったくもって使えなかった。ただ妙な波動がでるだけだ。受けた相手に「ひゃん!」と妙な声をあげさせるだけの、妙な波動がでるだけだった。
「ぼくは強いんですって、いえるようなら……?」
耕太は右手首にある腕輪のすぐ下を、ぎゅとつかむ。
「だったら……ぼくは……」
「ダメ、耕太」
ぽん、と肩を叩《たた》かれた。
望《のぞむ》が、後部座席で、ん? と首を傾《かし》げていた。
耕太は微笑《ほほえ》む。
肩に置かれたままの、望の手に自分の手を重ねた。
「そうだね。ぼくは、ぼくらしくなきゃ、ダメだよね」
「そーだよ。耕太は、耕太らしく……わいせつ王子じゃなきゃ」
「だからね、望さん!」
「っと、いちゃつくのはあとだ、耕太、望」
そう朔《さく》がいった。
朔は眼《め》を鋭くさせ、鼻をくんくんと動かしていた。
「もしかして、〈葛《くず》の葉《は》〉ですか?」
「おそらくな。だが、これは……うん? どうも敵意を感じないが」
「敵意がない、〈葛の葉〉のひと?」
耕太は視線を前へと向ける。
ヒビの入ったフロントガラスに広がるのは、商店街だった。
両側に店がならぶこの通りと、あとは住宅街を抜ければ、もう薫風《くんぷう》高校はすぐそこだ。クリスマス・イブの飾りがところどころで寂しく風に吹かれているなかを、車はけっこうな速度で進んでいる。
「あ……?」
人がいた。
それも大勢の人だ。
数十人もの、濃紺に金糸の飾りが入ったスーツっぽい服を着た男女が、手に刀をさげて、そして、道路の両|脇《わき》、店々の前に、横一列でずらりとならんで立っていた。
「これは……?」
「格好から察するに、八束《やつか》家のやつらだな」
「八束家……八束先生の」
「ああ。とにかく、敵意は感じない。どうやら黙って通してくれるようだな……っと、ほら、あそこにいるぞ、その八束センセーが」
「ええ?」
耕太はガラスのない、助手席の窓から顔をだす。
たしかにいた。
薫風高校の生活指導を担当する教師、八束たかおが、列の最後にいた。
〈御方《おかた》さま〉とともに殺すいきおいで耕太たちを追いかけてきたときとおなじく、黒いスーツ姿で、手には木刀を持っていた。
いつものように八束《やつか》は、鋭い三白眼を、むすっとした顔で向けてくる。
あっというまに、車は八束を通りすぎ、後ろへと追いやってしまった。
「どうして八束先生がここに……」
「どうやら、八束センセーが抑えてくれたみたいだな。八束家のやつらを」
「そんな……」
耕太は朔《さく》に向き直る。
「だって、八束先生は〈御方さま〉と一緒に、ぼくがちずるさんの元へ向かうのを止めようとしてたんですよ!? なのに、なぜそんな、〈葛《くず》の葉《は》〉を抑えるだなんて……ぼくの手助けを……」
「さあね。〈御方さま〉側の事情はわからんが……」
車は、商店街を越え、住宅街の区域へと入った。
しばらく車内は沈黙に沈んでいたが、またも朔はすんすん、と鼻を動かしだす。
「また……ですか?」
「ああ。またみたいだな」
と、人があらわれた。
やはり大勢の人だ。
ただしこんどは、ブロック塀とブロック塀のあいだに挟まれた道路にではなく、横にならぶ家々の屋根にならんでいた。
みな、筋骨隆々の男たちだった。
肩が剥《む》きだしの袖《そで》がない黒い着物に、袴《はかま》を穿《ほ》き、紅《あか》い帯を締めたたくましい男たちが、腕組みして立っている。その太い腕には鎖が巻いてあった。
こ、これは……?
威圧感を覚えた耕太に、朔が説明をする。
「こりゃ七々尾《ななお》家だな。やはり敵意はない。安全だ」
「七々尾……?」
「耕太」
望《のぞむ》が、ひとつの屋根の上を指さしていた。
耕太は眼《め》を見開く。
「あ……藍《あい》?」
ゆるやかなカーブを描く屋根の斜面に、制服姿の藍がひとり、笑顔で耕太が乗る車に向かって手を振っていた。
ところが、蓮《れん》の姿はどこにもない。
めずらしいことだった。いつでもあのふたりは一緒だというのに……。そう耕太が考えるうちにも、藍は近づき、そして遠のいてゆく。
「だいじょうぶ……だよね」
耕太はしばらく振り返って藍《あい》の姿を見つめていたが、やがて、前を向いた。
そのとき、藍がいた屋根の向こう側、耕太からは見えない位置から、むくりと小さな影が身体を起こす。
「パパ……どうだった?」
「元気そうだったぞ、蓮《れん》」
蓮は、全身を包帯でぐるぐる巻きとされ、ミイラと化していた。かろうじて蓮だとわかるものは、包帯から飛びだした栗色のおさげ髪だけだった。
「わたしの姿を見たら、パパ、きっと心配するからな……」
「ああ。だいじょうぶ、パパはかならずママを助けだしてくれる!」
そんな双子の思いを知るよしもない耕太は、ただただ一点へと意識を集中させていた。
住宅街を通りぬけ、とうとう見えたからだ。
薫風《くんぷう》高校の、姿が。
フェンスごしに覗《のぞ》く薫風高校は、普段とは違い、なにかに包みこまれていて、まるで山のようだった。
だけど、まちがいない。
まちがいなく、あれは薫風高校だ。
あそこに、ちずるさんが――ちずるさんが!
「朔《さく》さん!」
噴きでたアドレナリンの命じるままに、耕太は叫んだ。
「おうよ、耕太。いくぞ、このまま!」
朔が、アクセルを踏みこむ。
このまま車ごとつっこむと、朔はそういった。耕太はうなずく。薫風高校はなにか砂状のものに包みこまれており、普通の手段では侵入できそうになかった。なにより、いまは一刻の時間も惜しかったのだ。
一気に正門前までゆき、横にスライドしながらターン。
アクセルベた踏みで、タイヤをスピンさせ、思いっきりつっこみ――かけたそのとき。
地面が跳ねた。
激しく縦揺れし、加速しかけた車が、飛んだ。
どうじに、目の前の空気がふくれあがる。
ぐにゃりとゆがみ、ふくれ、そして裂けた。
結界だった。
土門《つちかど》家が何重にもかけていた結果が、内部からの圧力に耐えきれなくなって、ふくれ、引きちぎられた光景を、それと知らず、耕太は見たのだった。
耕太は浴びた。
結界によって抑えこまれていた気を、もろに浴びた。
それは毒気だった。悪気だった。邪気だった。
吹きすさぶ負の極限たる怪物の気を浴び、耕太は恐れるより、震えるより、なぜか不思議と、安らぎを覚えた。
惹《ひ》きつけられたかのように、視線を上に向ける。
砂で包まれた校舎が、爆《は》ぜていた。
その屋上から、覗《のぞ》いていたもの。
それは〈龍《りゅう》〉だった。
八体の炎の〈龍〉が、うねる。くねる。互いの身を絡ませる。
「――朔《さく》さん!」
「――ちっ!」
「がうー!」
車が、再加速を始める。
飛びだし、消え去った結界をこえ、砂で包まれた校舎の、正面玄関に位置する地点に、頭から――。
ぼくたちは、まにあわなかったのかもしれない。
いや、まだだ、と耕太は打ち消す。迫る砂の壁を前に、右の手首をつかむ。
まだ、ぼくは、まだ――。
「ちずるさーーーーーーん!」
[#小見出し] あとがき[#「あとがき」は太字]
えー、まずぶっちゃけますと、九巻から始まった『ちずるさん大ぴんち』なエピソード、本来ならば上・下巻でまとまる予定だったんです。
つまり、十巻である本巻でかっちりと決着はつく予定だったんですね。
ところが書きあがってみれば、下巻のはずが、あれ? 中巻になってるぞ?
終わらなかったんだなあ、これが。
なんかもう、でてくる人でてくる人、敵も味方もみんなみんな頑張りすぎてしまって、ページ数が増える増えるよ増えるわかめ。もちろん耕太くんだって頑張ってます……あれ、頑張ってたっけ? あ、うん、だいじょうぶ、頑張ってます! いろんな意味で!
というわけで、また続いてしまうのでした。
おまけに、けっこうエライところで引いたりもしちゃうのでした。
うわあ……我ながらヒドイナリ……。
なんだかすごく申し訳なくなってきましたので、読者のみなさまにちょっぴりだけ今後の展開をお伝えしておこうかと思います。
まず、次巻ではいろんな決着がつきますわな。
耕太《こうた》くんとちずるさんの縁も明らかにされますわな。
そして、耕太と美乃里《みのり》の縁も……もう、ありとあらゆることを白日の下に! あんなことやこんなことまで! 奥の奥までおっぴろげー!
(※予定は変更される場合があるですゴメンなひゃい)
(※そもそも予定どおり進められる筆者なら上下巻のはずが上中下巻にはならないです)
さて、本巻が発売されるあたりは、アニメも佳境に入ってるころでしょうか。
素晴らしいですよね、アニメ。
いいの? こんなことまでアニメってやっていいものなの? と原作者に感じさせるほどのナイフ・オン・ザ・エッジぶり。アニメにここまでやられてしまうと、原作もイクとこまでいかなくちゃならなくなるじゃないですかー。いやー、まいったなー(棒読み)。
よーし、負けないぞー。
ほーら、狐印《こいん》さんのステキイラストを喰《く》らえ! はっはっはっ、狐印さんのこの鋭さとやわらかさを兼ねそろえた絵を見ることができるのは、小説だけなのだっ!(他力本願)
……え? 違う?
DVDのカバーとか、アニメ関連でもいろいろと書きおろしがある? へー、ふーん。
あはは! アニメも漫画もゲームもいいけど、しょ、小説もヨロシクね!
平成二〇年四月 すこしずつ書く速度が遅くなっている気がするんだ
[#地付き]西野かつみ
2008年5月31日 初版第一刷発行
2008/07/02 作成