かのこん 9 〜あらたなるめざめ〜
西野かつみ
[#小見出し] 一、小山田耕太の重罪と軽罪[#「一、小山田耕太の重罪と軽罪」は太字]
1
香ばしい匂《にお》いが濃密にたちこめる通路を、耕太《こうた》は歩いていた。
なんともたまらない匂いだった。ハンバーグだろうか、ステーキだろうか、お肉が焼かれ、じゅじゅ〜っと脂を弾《はじ》けさせる匂い。天ぷらやフライがからりと揚げられる匂い。ドミグラスソースの甘く、スパイシーな匂い。カレーがくつくつと煮こまれる匂い。
ただいまの時刻、夕方四時半。
だから耕太の腹は、まださほど減っていない。はず、だった。
なのに、耕太の口のなかには唾《つば》があふれだしてくる。
くきゅんと呑《の》みこんだら、こんどはぐきゅるくくーと腹時計が鳴りだす。その音はたやすく、耕太が着ていた厚手のコートと学校の制服であるブレザー、ワイシャツ、ネクタイの層を突きぬけ、外に洩《も》れた。ぐぐぐー。ぺきゅー。ぺぺろちー。
わ、わわわ。
ぱっ、と耕太はおなかを押さえる。が、鳴ったあとでは、たいして意味もなく。
「あう……?」
耕太は、そっと前方をうかがった。
天井の蛍光灯だけが照明の、すこしばかり薄暗い廊下。奥には段ボール箱が無造作に積んでもあるこの通路で、耕太の前をゆくひとりの女性。その背を、見つめる。
大人の女性だ。
純白のワイシャツに漆黒のチョッキ、ズボンと、中性的な姿だった。いまは耕太に背を向けるかたちなのでわからないが、首もとには蝶《ちょう》ネクタイもある。髪はなめらかな栗《くり》色で、ヘアピンで丸くぺたりと押さえ、ちょっぴり長いえり足以外は短くまとめてあった。
彼女は、店長さんだった。
服装から見てとれるとおりの、レストランの店長さんだ。
レストランとはいっても、決して高級なお店ではない。頭にファミリーがつく庶民的レストランだった。もっとも、店長である彼女自身は、切れ長の眼《め》にとおった鼻筋、きりりと引き締まった顔つきと、あまり家族向けな雰囲気ではなかったけれども。
店長さんの歩みに、変化はない。
後ろをついてゆく耕太を振り返るそぶりもなかった。どうやら、さきほど耕太が盛大に鳴らした腹時計の響きは聞かれずにすんだようだ。
ほっ、と耕太は息をつき、そして思う。
考えてみれば当たり前かな……。
なにしろ、通路の先にあるだろう調理場からは、焼いたり炒《いた》めたり切ったりと、美味《おし》しい食事を作りあげる音がひっきりなしに届いていたのだから。耕太のおなかの音なんか、まぎれてしまってもちっとも不思議じゃあない。
ああ、それにしてもと、耕太の胸は高鳴りだす。どきどき。
これからぼくは、調理場《あそこ》で働くんだ。センパイがたといっしょに、焼いたり炒めたり切ったり……は、しないけど、でも、皿洗いを一生懸命……。
「どうしたの? こっちよ、きみ」
ごく近い将来に想《おも》いをはせ、通路に仁王立ちし、ぐっ、と握《にぎこ》り拳《ぶし》を作っていた耕太は、店長さんの声に我に返った。顔を向けると、店長さんは通路の途中にあるドアの前で、こちらを見つめていた。眉間に軽く皺《しわ》のよった、なんとも怪訝《けげん》そうな顔つきで。
「す、すみませんっ」
頭をさげながら、耕太は店長さんの元へと駆けだす。
いけない、いけない。
まだこのファミレスで働けるかどうか、決まったわけじゃないのだ。働けるかどうかはいまから決まる。店長さんとの面接によって、決められる。
耕太は、生まれて初めてのアルバイトをするため、ここへ面接にきたのだった。
面接場所は、お店の奥、従業員の休憩室だった。
五、六人も入ればいっぱいになってしまうだろうほどの部屋で、さほど広くはない。なかには白いテーブルがあり、まわりにはパイプ椅子《いす》が乱雑にならんでいた。乱雑さはテーブルの上にもおよんでいて、パチンコだかパチスロだかの攻略本や、漫画誌が適当に読み捨ててあり、真ん中にある灰皿ときたら、たばこの吸い殻でいっぱいだった。
耕太は、そんな、たばことお化粧のオトナ臭い香りの充満する部屋に、ひとりでいる。
「ちょっと待っていてちょうだい」
そういい残し、ここまで耕太を案内してくれた店長さんが去ってしまったからだ。なにごとかあったのか、耕太を連れてくるなり、店長さんは従業員に呼ばれ、いってしまった。
だから耕太は、ひとり、椅子に座って店長さんを待っている。ぽつねん。
やがて、そわ、そわ。
緊張もあるし、心細さもあるし。
気をまぎらわせたくて、耕太は視線をさまよわせてみた。部屋の奥にあるドアが、どうやら更衣室らしいことを確かめてみたり、壁に貼ってあるシフト表を眺めてみたり、目の前のテーブルにあった、アライブという名の漫画月刊誌を開いてみたり。ちょうど女の子が裸になっているページだったので、あわてて閉じてみたり。
ふー、と息を吐く。
どきどきする。とにかくどきどきする。
だって、生まれて初めての面接なんだもん。
ただでさえ初めては緊張するものなのに、それが面接なのだ。そう、面接だ。あの店長さんと、直接受け答えをするのだ。それで採否は決まってしまう。耕太の態度や、質問に対する答えの内容によって。どんなことを聞かれるんだろ……ああ、もう。ちゃっちゃとすませてくれればいいのに。こうやって間を置かれると、かえってたまらないよう。
「落ちつかないようですねえ、お客さま」
「そりゃあ、もう……アレですよ、まな板の上のフナってやつです」
「それをいうなら鯉《こい》かな?」
「でしたっけ? とにかく、ホント、生殺しで……いっそひと思いに! スパッと!」
「まあまあ。これでも飲んで、気を楽にしてくださいな」
とん、とテーブルに、ガラスのコップが置かれる。
白い液体が注がれたそのコップを、耕太はとり、口をつけた。冷たい牛乳だった。美味《おい》しい。いまは十二月の半ば、暦の上でも気温の上でも冬なのだが、室内は充分に暖房が効いていて、むしろ汗ばむくらいだった。緊張もあって喉《のど》がからからだった耕太は、ぐびぐびと音を鳴らして、一気に飲み干す。まったりとした後味が、喉に、舌に広がった。
「ああ……」
知らず強《こわ》ばっていた耕太の身体から、ゆっくりと力がぬけてゆく。
ありがとうございました、と頭をさげかけて、耕太はようやく気づいた。
「いえいえ」
と、にこやかに耕太の横で微笑《ほほえ》む彼女が、源《みなもと》ちずる、そのひとであったことに。
源《みなもと》ちずる。
耕太の恋人。高校三年生。だから、学年上は二年生である耕太のひとつ年上の恋人。実年齢はもっと上。なぜなら彼女は、四百年の歳月を生きる狐《きつね》の妖怪《ようかい》なのだから。
こんこんここん、うふふふふ……。
微笑《ほほえ》む化け狐な恋人に、耕太は驚いた。口があんぐりと開いたままになるほど、驚いた。
驚く理由はいくつもある。
ひとつは彼女の格好だ。
ちずるは、耕太とおなじ薫風《くんぷう》高校の制服姿ではなかった。
代わりに、ぱりっと糊《のり》の効いた白いブラウス、えんじ色のふわりと広がるスカート、頭にカチューシャ、首に赤いリボンタイ、そして脚には靴下……短めのスカートのぎりぎり下まで届く、黒いオーバー・ニー・ソックスなんて格好でいた。
それは、いままさに耕太が面接を受けようとするファミリーレストランの、ウェートレスさんの姿であった。
似あってはいる。艶《つや》やかな黒髪が豊かに腰まで伸びる、外見だけならすごくおしとやかな女性であるちずるに、とてもよく似あってはいる。笑顔も完璧《かんぺき》だ。
だけど、どうして?
どうしてちずるさんが、ここに?
口をあんぐりとさせたまま耕太が視線を動かすと、更衣室のドアが開いていた。さっき見たときは、たしか閉じていたはずだ。すると、ちずるはそこからでてきたらしい。
「あ、あの、ちずるさん……」
「耕太くん、面接受けるんだ? アルバイトするために?」
う、と耕太はびくつく。
ちずるは歩きだし、耕太に真横を向けたまま、止まる。そうして、横目でじっと見つめてきた。ふふ……と唇に笑みが浮かぶ。
「わたしたちには、今日、これからちょっと用事があるんですぅ、なーんていってたのに。まさかその用事が、バイトの面接だったなんて……ねえ?」
「えと、その、それは」
「どうして黙ってたのかなあ?」
にっこりと眼《め》を笑みのかたちに細め、ちずるはぐーっと顔を近づけてきた。
耕太は引く。がたん、と椅子《いす》の背もたれに当たって止まるほど、引く。
き、気まずい。
なぜに気まずいのかといえば、ちずるのいうとおり、黙ってアルバイトをしようとしていたからだ。今日、授業が終わって、放課後、いつもどおりいっしょに帰ろうとするちずるたちに、耕太は『ちょっと用事が』とだけ告げ、別れた。そうしてひとり、このファミレスへとやってきた。アルバイトの件はまったく話していなかった。
だがしかし、なんだってちずるさんはこの場にいるんでしょうか。あとを……つけてきたのかな。ありえる。充分、ありえる。だって彼女なら。
「ねえ、どうして? どうして? どうしてぇー?」
ちずるの顔は、なおも迫ってきた。
もう耕太に引くスペースはない。ちずるの笑みが、ぐーっと視界いっぱいに迫り、すべてを覆いつくす。どうにかいいわけしようと、耕太が口を開いた、そのとき。
はにゅっ。
半開きだった耕太の口はふさがれた。ちずるの唇によって。
続けて、ぬめっとしたものが耕太の口のなかに入りこんでくる。舌だ。ぬらぬら、にゅるにゅる、にゅぱぱぱぱ。舌によって蹂躙《じゅうりん》される、耕太の口中、ちゅっちゅくちゅー。
ふ、ふも、まふ……。
アルバイトすることを黙っていたのには……理由があるんです……。
ぼくは……オトナになりたくて……ちずるさんを守れるくらい、あなたをお嫁さんにできるくらい、立派な、一人前の大人になりたくて……だから、『働く』ことを知っておこうと……だけどちずるさんにアルバイトするって告げれば、いっしょに働こうとするから……そりゃちずるさんといっしょなら、ぼくだって心強いし、楽しいし、嬉しいけど……。
けど、それじゃ、ぼく、一人前になれないから……。
だってちずるさん、きっとぼくのこと、助けてしまう。すべてを助けてしまう。なんでもできるオトナなちずるさんは、コドモなぼくのこと、助けてしまう。でも、ただ助けられるままじゃ、いつまでたってもぼくは、一人前のオトナには……だから……。
そんな耕太の声は、言葉になることもなく。
にゅまにゅま、つつつ、にゅるるるるん……ちゅるん。
味わうだけ味わって、ちずるの唇は離れた。
舌は伸びたままだ。耕太の舌はそのちずるの舌に引きつけられるように、やはり伸びる。つぅ……と、先端だけくっつけ、伸びるだけ伸びて、ようやく、完全にはずれた。
「ふふ……」
ちずるは笑う。気がついたら、ちずるは横向きで耕太の太ももの上に座っていた。椅子《いす》に座る耕太の上に、ちずるのおしりと、オーバー・ニー・ソックスに包まれた太ももと、包まれてないわずかな生太もも――いわゆる『絶対領域』――前にクラスメイトの月見くんが教えてくれた単語だ――が、ふにゅんとのる。やわらかく、温かい。
「ちずるさん……ぼ、ぼくは、お、おお、オトナに」
「ああっ、お客さま、もうしわけありません!」
もうアルバイトの件を説明しちゃおう、と開いた耕太の口は、またもやふさがれることとなった。こんどは唇ではなく、ちずるの声と、彼女が身をよじるしぐさによって。
「さきほどのお客さまのご注文は、ミルクではございませんでしたね! 特濃ちずミルクでした! しぼりたての!」
「え……あ、特濃ちずミルク……ちずミルク……ちずミルク!? しぼりたての!?」
「はーい、ただいまお持ちいたしまーす!」
ぼくはなんにもいってない。
なのにちずるは、てきぱきと動いた。大きく胸のあたりがはりつめたブラウスのボタンをぱつつつんと手早くはずす。前を広げ、なかのふくらみを外へと解放させる。
じゃーじーにゅー。
耕太の眼前に突きつけられる、純白のぶらに包まれた雪印、明治森永小岩井乳業。さらにちずるはためらわず、ぶらを上へとずりあげた。
ほるしゅたいーん。
生が。生乳が。『なまちち』ならぬ『せいにゅう』がっ。はんなりと横に広がり、すんなりと下に沈むも、反発し、上へ弾み、ほるんほるんのほるしゅたいん、つつんと尖《とんが》りたる薄桜色の先端が、誘う誘う、耕太をちずミルクの世界へと、おぱおぱーお。
「はぁい、お客さま……新鮮なうちに、どうぞ……」
いわれるまでもなくなくなっしんぐ、耕太はいただきまーす。
ぱくにゅん。
そう、すでに耕太のシンク・タンクはちずるのミルク・タンクの前に崩壊、倒産、会社更生法を申請していた。もはや人としての意志は消失していた。ここにいるのは一個の獣。ただのおっぱお好きの獣であった。おぱおぱーお、おぱおぱーお。
はむはむっ、ちゅちゅちゅー。
「んっ……お客さま、そんな、ああ、はげしく……」
甘噛《あまが》みされ、吸われ、ちずるは息をつまらせる。尖《とんが》りはさらに尖る。
「お客さま……お味は、どう……ですか?」
味? 味ですか?
ちゅー、んちゅー、んちゅちゅー。吸う。味はどうかと問われ、耕太はさらに吸う。吸いまくる。ちゅちゅちゅー、ちゅー……じゅわっ。
と。
なんか、甘いの、でたよ?
ふむ、この、舌の上にまったりと、しかししつこくなく広がる甘み……さきほど飲んだ牛乳ともひと味違う、なんともやさしい滋味……ああ、喉《のど》ごしもふんわりふわふわと……。
「――って、うええー!?」
さすがに耕太は口をはずした。
自分の上にやわらかく腰かけるちずるを見あげ、問う。問わざるを得なかった。
「ち、ちずるさん、こ、ここ、これはー!?」
「あら、どうしました、お客さま」
「いや、どうしましたって、その……お、おぱ、おっぱ……から、おっぱ……が」
「おっぱいから、おっぱいがでた……と?」
耕太はこくこくとうなずく。
「お客さま、おっぱいからおっぱいがでるのは、しごく当たり前のことじゃありませんか」
「あ、そ……そっか」
そうですよねー、と耕太はまたくわえた。ぱくにゅん。
ちうちう。吸う。んー、甘い……あまあま……おいちい……ちゅー。
「――って、じゃなくて! ちっとも当たり前じゃないですよ! おっぱ……から、おっぱ……がでるようになるには、赤ちゃんができなくては!」
「ですから、そういうことですわ」
あ・な・た。
と、ちずるが、耕太の耳元でささやく。
「そ、それって……」
かわいいベイビー、ぼくのベイビー、こんにちは赤ちゃん?
見つめると、ちずるはうっすらと頬《ほお》を紅《あか》く染めながら、ひどくやわらかな笑みを浮かべ、視線を自分の下腹部へとおろしていた。両手で、ゆったりとおなかを撫《な》でだす。
「あ、ああ、ああああ……」
予期せぬかたちで、ぼく、オトナにっ!
頭を抱えかけ、いや、と耕太はその手をおろす。覚悟はある。あるに決まってる。愛するものが愛しあった結果、子供を授かるのはしかるべきことだ。
が、いかんせん、準備が足りぬ。
まだ学生の身なのだ。祖父に養育されている身なのだ。ああ、祖父といえば、おじいちゃん、このこと知ったら、どう思うんだろう。まだ祖父は知らない。耕太とちずるが恋仲にあることすら知らない。
耕太が、田舎からこちらの学校へ転校するとき、祖父はいった。
『いいか、耕太。わしに便りなど送るなよ。電話もいかん。むろん、電報もだ。わしからもせん。もうおまえも、ひとりの男として巣立ちせねばならぬ年……たとえ淋《さび》しくとも、我慢するのだ。……まあ、どうしても辛《つら》くて、夜、泣いちゃうようならしかたもない。ちょっぴりだけなら、うん。……なに? ホントはおじいちゃんのほうが淋しいんじゃないの、だと? ばっかもんっ! 耕太、おまえ、親をからかうか!』
怒鳴った祖父の眼《め》に、うっすらと光るものがあったように感じたのは、耕太の気のせいだったろうか? ともかく、耕太は祖父のこの言葉に甘えて、転校してから一年以上経つのに、いちどたりとも連絡をとらずにいた。転校初日にちずると出会ったおかげで、淋しくなんてまったく思わなかったこともあるし、なにより、ちずるのことをどう説明したものかと迷ったのが大きい。ちずるは人間ではないのだ。化《ば》け狐《ぎつね》の妖怪《ようかい》なのだ。耕太はちずるがなんだってちっとも気にはしないが、祖父ははたしてどうだろうか。
なのにいきなり、ごめんおじいちゃん、孫、できちゃった! なんて。
は、はは、ははは。耕太は力なく笑う。
自業自得……だよね……。
まさに自分でまいた種、だった。
いままで祖父に黙っていたのもそうだし、なにより、種をまかなければ、実がなろうはずもないのだから。そう、すべてはぼくの種が、ちずるさんを……。
ん? ちょっと待てよ?
「あの……ちずるさん。ぼくたち、いつ……その、しましたっけ?」
「うん? したって? なにを?」
「だ、だから、種まき……じゃなくて、その、えっち……なこと」
「えっちなことなら、やだ、毎日してるじゃない」
「してますが! たしかにしてますが! だけど、最後……までは、まだ」
そうだ。たしかに耕太は毎日している。時間も夜だけではなく、朝、目覚めてすぐだったり、日中、学校のどこかでだったり、節操のなさは自分でも落ちこむほどだ。
だけど、最後まではいたしていない。
耕太には断言できた。まあ、最後の一線以外は、ほとんど……だが、赤ちゃんができるような行為だけは、絶対にしていない。
だってぼくまだ、オトナじゃないから! 責任とれないから!
「だから、あの、赤ちゃん、できてるはずが……ひっ」
耕太は、自分の太ももの上に座る恋人を見あげ、小さく悲鳴をあげた。
ちずるの顔からは、表情が失われていた。
耕太の唾液《だえき》で先端が濡《ぬ》れ光る胸のふくらみをさらけだしたまま、さきほどまでの笑顔がまるで嘘だったかのように、感情のない眼《め》を耕太に向けてくる。どよーん、と。
「うああああ、ご、ごめん、ごめんなさい、ちずるさん! ぼくが……ぼくがバカでしたー! ちずるさんのこと、疑うだなんて……ごめんよー!」
耕太はちずるを抱きしめた。
このまま軽蔑《けいべつ》されたままでいられるのが怖くて、嫌われてしまうのが怖くて、抱きしめた。最低だ、ぼくって! なまなまなふくらみに顔を埋《うず》め、目尻《めじり》に浮かんだ涙をこすりつけるように強くしがみつき、揺さぶる。ごめんなさいごめんなさいっ。
ぷっ。
頭上で、だれかが吹きだした。
いや、だれかって、ちずるしかいない。けど、え?
「ごめーん、耕太くん。赤ちゃんができたというのは……冗談でしたー」
「うえええええー!」
ななな、なんですかそれはー!
「う、嘘つきー! ちずるさんの嘘つきー! もう嘘つかないっていったのにー!」
「嘘じゃないもーん。冗談だもーん。イッツ・ア・ジョークだもーん。ジョークは紳士淑女のたしなみだもーん。セレブセレブゥー。スイーツゥー」
まるで子供のようなことをいい、ちずるは唇を尖《とが》らせた。
その表情はすぐに弾《はじ》け、笑みへと変わる。狐《きつね》の変化たる彼女の特徴、すこしつりあがった眼も、すぐさま笑顔に従った。
「まあまあ、これでも飲んで、怒りをおさめてくださいな、お客さま」
耕太の目の前に差しだされる、ちずミルクやわらか製造工場。
あまりにやわらかく、しかし張りがあり、重みもあるその工場を、耕太は「し、しかたないなあ……」とつぶやきながら、ありがたく口で拝領した。
だっておいちいんだもん! 甘くて! ちうちう、ちうー!
「……あ、ところでちずるさん、これ、赤ちゃんができてないんなら、どうして」
「ん? うふ、うふふふふ……知りたいー?」
「ぜひ」
「耕太くんとおんなじなのっ」
「え」
「耕太くん……『気』がとんでもないことになっちゃってるでしょう? 毎日、ぬきぬきしなくちゃいけないくらい……それとおんなじ。わたしもね、耕太くんとの愛あふれまくりな日々をすごすうち、例の房中術効果でもって、気がわんだばわんだ、もう、身体のなかに満ちすぎちゃって。だからあふれだしたの。『気』が。ここから、じゅわーって」
耕太の血の気は、さーっと引く。
例の房中術効果……。
房中術とは、簡単にいえば、普通にえっちしないことで体内の気を鍛える、特殊な鍛錬法のことだった。耕太もくわしくは知らないが、『接して漏らさず』とか、なんかすごくたいへんらしい。
まあ、耕太も、気づかないうちにおこなっていたわけですが、その鍛錬法。
たしかに、毎日毎日、時も場所も考えずに……なのに、赤ちゃんができる行為自体はまだ未遂なのだから、そりゃ普通のえっちじゃないよねー。
おかげで、耕太の身体の『気』は高まりまくり。
一日に最低五回は『気』を外にださなければならない肉体となってしまった。だってださなければ、『気』があふれだし、まわりに多大なる迷惑をかけてしまうのだ。事実、いちどかけた。全校生徒を巻きこんでのあの騒動……二度と起こしたくはない。
それが、ちずるさんの肉体にも?
想定していてしかるべき事態といえた。愛の行為は耕太ひとりだけではおこなえないのだから。ちずるとの共同作業なのだから。ならば、ちずるの『気』も。当然。
「ああ……ちずるさん……」
たうー……っと耕太の両|頬《ほお》を伝うものは、そう、涙。
ぼくのせいだ。
耕太の心に、悔恨という名の黒雲がどろりんと満ちた。そうだ、ぼくだ。ぜんぶぼくが悪いんだ。ぼくがまだコドモだから……自分に自信が持てないから、怖くて、ちずるさんはいつだって求めていたのに、逃げて、『あまんぼさーん!』ってごまかして……だから、ちずるさんの身体、とうとう、こんな……。
「ど、どうしたの、やだ、耕太くん、泣かないで」
「だって……ちずるさん、ぼくのせいで、母乳がぼにゅーんとでる身体に……」
「べつに耕太くんだけのせいじゃ……それに、これ、母乳じゃないし」
「ふえ?」
「だから、これはあくまで『気』なの。たまたまわたしのおっぱいの先からあふれだしてるってだけで……よく見て、ほら。液体じゃないでしょ? 濡《ぬ》れてるのは耕太くんの唾《つば》」
「で、でも、甘いし、おいちいし」
「ふーん……そうなんだあ……」
にたりと、ちずるは妙にうれしげな、得意げな、そんな笑みを浮かべだした。
「わたしの『気』って、そんなにおいしいんだ……ふふ、よかった。これから耕太くんには毎日お口でしぼってもらうんだもん。甘くておいちいほうがいいよねー」
「ま……毎日……? お口でしぼる……?」
「うん、毎日。だってそうでしょ? どうしてここから『気』があふれだしてるかといえば、わたしの体内の『気』が高まりすぎてるからなんだもん。このままほうっておいたら、前の耕太くんのときみたいに、とんでもないことになっちゃうかも。だから、そうならないように、毎日、ちゅーって、耕太くんに吸ってもらって、『気』を減らしておかないと。ほらぁ、わたしが耕太くんに毎日してるみたいに……ね?」
「あ……う」
「では、納得していただけたところで、はい、今日のぶん」
にゅん。
突きつけられた。耕太の口元で、飲み口が揺らぐ。
「吸いなさい」
「……はい」
ぱくん。
ちうちう、ちう。
「んっ……んんっ、たいへん、よろしい。つぎは、こっちも……」
いままで耕太が吸っていたのとはべつの飲み口が差しだされた。にゅー、たいぷん。耕太は、くわえ、吸い、飲みながら思う。なるほど……たしかに液体じゃない。甘いけど、口のなかで消える。ほわほわと消えてゆく。さわやかな後味はこのためか……。
「ふふ……耕太くん、赤ちゃんみたい……」
耕太の頭を抱きしめて、ちずるはそんなことをいう。
いわれてもしかたのない体勢、状態だった。おっぱーをちうちう吸ってるわけだし。
だから、耕太は決意を固くした。
――オトナに、なる。
ぼくは一刻も早く、オトナになる。立派な、一人前の、いつでもちずるさんをお嫁さんにできるオトナになる。可及的速やかに、だ。
じゃなきゃ、このままほくたち、どこまでイッちゃうことか。
どこまで肉体に変化が起きてしまうか……手遅れにならないうちに! ミルキーな気、すなわちミル気ーがでるていどですんでいるうちに! いまのうちにオトナになって、ちずるさんと普通に愛しあうんだ! ごくごく普通に!
そのために……ために?
そうだ、ぼくはそのために、ここへ、アルバイトをしようと……。
「ごめんなさい、待たせてしまって。いまから面接を――」
ドアが開いた。
そして入ってきた。
チョッキにズボン、蝶《ちょう》ネクタイといった格好で、栗《くり》色の髪を丸く短くまとめた、ちょっぴり冷たい印象を受ける店長さんが、休憩室へと入ってきた。
耕太を見て、動きを止めた。
「……は?」
ちうちうしていた耕太の動きも、止まった。
時が凍りついたのは、一瞬。
ちううううううー!!
「や、あああああーん!」
動揺のあまり、思いっきり吸ってしまった耕太に、ちずるが悲鳴にも似た声をあげる。ぎゅーっと強く耕太の頭を抱いた。悲鳴を前に、店長さんは、びくくん、と固まり、手に持っていた封筒を床に落とす。それは耕太の履歴書が入った封筒だった。
ちずるの身体から、力がぬける。
はー、はー、と荒く息をついた。
「い……いっちゃった……吸われて、いっちゃった……もう、耕太くんったら、ダメだよう、あんな、いきなり強く……あ、ああん……」
と、ちずるが耕太の太ももの上から落ちそうになる。
耕太はあわてて抱きあげた。
抱きあげつつ、店長を見た。
「あ、あの、こ、これはですね、そのですねっ」
「な……なにをやっているの、あなたたちは! いったいここで、なにをっ!」
「ですから……ああ、ですからあ」
「面接の場に女を連れこむだなんて……たしかにちょっと待たせすぎたかもしれないけど、だからって、自分の彼女にお店の制服を着せて、なに、コスプレっていうの、それをさせて、おっぱいちゅうちゅう、ちょっと気ままな時間つぶしって……酷すぎでしょうっ!」
ああっ、事実すぎて、いいわけすらできない!
「まったく、汚らわしい……最近の若い人は、これだから、もう……!」
吐きすてるような、店長さんのお言葉。
それに反応したのは、耕太に抱えられ、ぽーっとしていたはずのちずるだった。
「……なんですって?」
耕太の腕からするりとぬけ、立ちあがる。
腰に手を当て、店長さんを睨《にら》みつけた。眼《め》だけではなく、耕太にさんざん吸われて、唾液《だえき》で濡《ぬ》れ光る胸のふくらみも、開いたブラウスから飛びだしたまま、店長さんに向く。
「なに? なにか文句でもあるというの? というかその胸、早くしまいなさいっ」
店長さんは、きっ、と眼をきつくして、ちずるの視線と胸とを受けとめた。
ぶつかりあう、ふたりの視線。ばちばちばち。
「だ、ダメですよ、ちずるさん。悪いのはぼくたちで……って、え?」
制止しようとして、耕太はちずるに「立って、耕太くん」と椅子《いす》から立ちあがらされた。立たせたちずるは、耕太のとなりに立つ。
「耕太くんが汚らわしいだなんて言葉……これを拝んでからいーなさい!」
ちずるの手が、耕太の腰のベルトをぬきとる。しゅるーん。
さらにズボンをパンツもろともさげる。ずりーん。
しゃんぜりーぜ、と耕太のエッフェル塔はそそり立つ。ぺちこーん。
「うああああああ!」
「きゃあああああ!」
耕太は悲鳴をあげながらラ・トゥール・エッフェルを隠し、店長さんは意外なほどにかわいい悲鳴をあげながら、その場に屈《かが》みこんだ。
「どうだ! これを見てもまだ汚らわしいなんていうか!」
この惨事を引きおこしたちずるは、あいかわらず胸をさらけだしたまま、絶対領域な脚を動かし、店長さんに近づいてゆく。
「んー? どうなのよ、こら」
店長さんは、床に屈みこんだまま、ぷるぷると震えていた。
間近まで迫ったちずるを、怯《おび》えきった表情で見あげる。
「……あ」
「あ?」
「あな……こんだ……」
大人な店長さんの眼《め》には、涙が浮かんでいた。大人なのに。
ふふん、とちずるがせせら笑う。
「でしょうー? 古来より、蛇は神の御使いとされているのよ……となれば、アナコンダのごとき存在をその身に持つ耕太くんは、まさに――」
「ちずるさんのブァカー!」
耕太は怒鳴った。もう我慢できなかった。
「ブァカバカバカー! あんぽんたーん! えっちすけっちわんたっちー!」
「な、なによう、耕太くん。やぶからぼうに、そんな……」
「なにって、わかんないんですか!? ホントに!?」
「いや……まあ、いきなり耕太くんの巨大アナコンダ、アマゾンに舞う! を見せつけてやったのは、ちょーっぴり刺激が強すぎたかなー、とは思うけど……」
「ちょっぴり!?」
「ごめん、耕太くん、ごめんってば! だってこの女、耕太くんのこと汚らわしいなんて、ムカツクこというんだもん! わたし、腹がたっちゃって」
「汚らわしく思われるようなこと、ぼくたちがしてたからじゃないですかー!」
ひっく、ひっく。
気がつくと、店長さんは泣いていた。床にへたりこんだまま、顔を両手で覆い、すすり泣きをあげる。
「ちずるさん……どうするんですか、もう」
「あらら……ねえ、ちょっと、年増がかわいこぶっても、ただ鬱陶《うっとう》しいだけよ?」
「ちずるさーん!」
「いや、だって、この年になったら、男がああなった状態なんて、もういくつも見てるはずでしょう? なのに、こんな生娘みたいな反応されてもさー」
「……あああ、ちずるさんだって、本来なら生娘のはずなのに」
「ちょっと耕太くん、それ、聞き捨てならないんですけど。どーゆーこと? それじゃまるで、わたしが生娘とはほど遠い反応をしてるみたいじゃない」
と、そこに、か細い声が届く。
「……だもの」
床にへたりこんだままの店長さんが、震えながら洩《も》らした声だった。
「あ、あんな……とんでもないの、生まれて初めてなんだものー!」
こわい、あなこんだ、こわい!
またもや顔を手で覆い、ぶんぶんと首を横に振りだした店長さんに、耕太とちずるは互いの顔を見あう。
「……ぼくのって、そんなに?」
「わ、わたしはかわいいと思うな! 慣れれば、意外と! それに、さっきのなんてまだ半分ぐらいの力なのに、このひと大げさだよ。あんなのまだまだ……全力をだした耕太くんの、わたしですらたまーに恐れおののくほどのびきびき耕太くんとくらべたら」
「な、慣れれば意外とっ!? 恐れおののくっ!?」
「た、たまーにだよ、たまーにっ! いや、好きだってば、愛してるってば!」
こ、恋人にまでぼく、恐れられていたなんて……耕太の心はべきりと折れかけた。
そのとき、女性の声がやってくる。
「店長ー!」
声は、いまさめざめと泣く店長さんが入室した際、そのまま開けっ放しにしていたドアの向こう、廊下側から聞こえてきた。声とともに、足音も迫ってくる。
「て、店長、たいへんなんです、厨房《ちゅうぼう》が……え?」
ちずるとおなじく、白いカチューシャにブラウス、えんじ色の広がるスカートに絶対領域仕様の黒いオーバー・ニー・ソックスといった格好をした女性従業員が、ドアから顔をだし、室内を覗《のぞ》きこんで、ぎょっ、と眼《め》を丸くした。
「え……ええ? て、店長……えええええ?」
彼女の視線が、床で泣く店長さんと、ようやく胸をブラウスのなかにしまいこみ始めたちずる、ヘコんでいた耕太のあいだを、なんどもゆきかう。止まらない。
「なに、どうしたの?」
尋ねたのは店長さんではなく、ちずるだった。店長さんは、こわいの……あなこんだ、こわいの……とつぶやくばかりで、どうにもならなかった。
「あ……あの、あなたたちは……? て、店長は?」
「いいから、どうしたの。なにか起こったんでしょ、厨房で」
「は、はいっ! あの、突然、厨房にですね」
「わかった! 銀髪のやたら乳が絶望的な絶壁ぺたんこ娘が、突然、厨房にやってきて、有無をいわさず食材を肉中心にむさぼり喰らっている……違う?」
「そ……そのとおりですっ!」
銀髪の……ぺたんこ娘? 食材をむさぼり喰らっている?
耕太は嫌な予感を覚えまくって、ちずるを見た。彼女はブラウスにしまい終えた胸の前で腕を組み、なぜか女性従業員に対して、偉そうな態度でうんうんとうなずいていた。
「ちずるさん、それって、まさか……」
「よーし、じゃ、逃げるよ、耕太くんっ」
「なぜ!」
答えはなかった。
耕太はちずるに手をとられ、「あーははは!」と高笑いをあげながら駆けだした彼女とともに、廊下へと飛びだす。いまだ「あなこんだ……こわい」とうつろな声を洩《も》らし続ける店長さんと、唖然《あぜん》とする女性従業員、そして耕太の初めての面接とを、更衣室のなかに置き去りにして。
★
その銀髪のぺたんこ娘は、あとからやってきた。
けっきょくちずるは、耕太の手を引っぱったまま、ファミレスの裏口から本当に逃げだしていた。そして、ポケットから小さな笛をとりだし、くわえ、吹く。
笛からは、なんの音もしなかった。
犬笛……?
と耕太が思う間もなく、ファミレスから声があがる。きゃー、とか、うお、とか、まぎれもない悲鳴だった。おまけに、それはお客さんのいる側から聞こえた。車が数台止まる駐車場にいた耕太からは、店のガラスごしに人のシルエットが動くのが見えた。
やがて、ファミレスの裏口ではなく、正面の入り口から、彼女はあらわれる。
銀髪のぺたんこ娘――犹守《えぞもり》望《のぞむ》が。
犹守望。耕太のクラスメイト。高校二年生。耕太が、祖父にちずるのことを話せなかったもうひとつの理由。耕太のアイジン。
『おじいちゃん! ぼく、恋人のほかに、アイジンまでできちゃったんだ!』なんてこと、いえるはずもなく。さらにいえば、望はちずるとおなじく、人間ではなかった。狼の妖怪《ようかい》、人狼《じんろう》だった。実際、いま望は毛先が肩まで届かないくらいの短さの銀髪頭から、狼の耳を生やしていた。おしりからはしっぽもだ。ふぁさふぁさ、振られる。
望はいつ着たのか、ちずるとおそろいのウェートレス姿――白いカチューシャに、ブラウス、えんじ色のスカート、黒長靴下にセンチ単位の絶対領域という格好だったので、まあ、銀毛の狼の耳、しっぽは、よく似あってはいたのだけれど。じつにかわいらしい。
かわいらしい、けどさ。
「……なにをやってるんですか、望さん」
耕太の問いに、望は、がう? と首を傾《かし》げる。
望《のぞむ》は、背にふろしき包みを背負っていた。唐草模様がじつにドロボウ臭いその包みから、薫風《くんぷう》高校のブレザーの袖《そで》が飛びだしているところから見ると、どうやら自分とちずるのぶんの制服を持ってきたらしい。もしかしたら耕太のコートもか。
問題はそんなことではなかった。
望の口元は、汚れていた。
肉汁だか魚汁だかドミグラスソースなんだか、べったべただ。さきほど、まだ店のなかにいたときにちずるが洩《も》らした言葉、『銀髪のぺたんこ娘が厨房《ちゅうぼう》の食材をむさぼり喰《く》らっている』を、耕太は思いださざるを得ない。
「どうして、こんな……!」
「まあまあまあまあ」
問いつめようとした耕太の声は、ちずるに抱きしめられたことで、彼女の大規模ミル気ー製造工場に吸いこまれてしまう。もふふもふふ。
「望がこんなことしたのは、耕太くんにもちょっぴり原因があるんだから」
ぼくに? ちずるの胸に顔の下半分を覆われたまま、耕太は彼女を見あげ、尋ねた。
「そうだよ? わたしのここ[#「ここ」に傍点]とおんなじで……っと、まずは逃げなきゃ。追ってこられたら面倒だし、サツを呼ばれちゃかなわないし!」
「おーう、ボス、がってんだー」
ちずるの言葉に、まるでドロボウヒゲのように口のまわりを汚した望が、びしっ、と敬礼する。
ちずる一味は逃げた。ちずると望で耕太の腕を両側から組み、すたこらさっさーと逃げた。耕太は向きが後ろだったため、後頭部で冬の北風を浴びることとなった。
今日、わずかに降った雪で黒く濡《ぬ》れた歩道を駆けゆく、三人。
ウェートレス×2に腕を組まれ、後ろ向きで引っぱり倒される制服姿の少年といった姿に、道ゆく人々は、ぎょっと顔を驚かせる。耕太は、去ってゆく視界のなか、追いかけてくる一般市民の視線を感じとり、身を縮こませた。ぶるり。
「あ、耕太くん、寒い?」
「寒いというか、なんというか……みんなの視線が、寒い、かな……」
「あははは、耕太くん、おもしろーい!」
ぼく、ちっともおもしろくない。
「……あの、ところで、さっきの件なんですけど」
「ああ、このぺたんこ娘があの店の食材を勝手にむさぼり喰った原因が、耕太くんにもあるってこと? だから、わたしのおっぱいとおんなじなんだってば」
「すいません、まったく意味がわかりません」
「そーだよ、ちずる。わたし、ぺたんこ娘じゃないよ」
望が口を挟む。ちょっとはあるもん、と唇を尖《とが》らす望を、ちずるは見もしなかった。
「あのね、つまり、例の房中術効果なのよ。耕太くんやわたしとおんなじで、やっぱり望の『気』も高まっちゃっていて……ただ、耕太くんとわたしの場合は気が身体からあふれだしたのが、望《のぞむ》の場合、食欲に転化しちゃったみたいなのよね」
「しょ、食欲に?」
「うん。大量に食事を摂取して、それを消化するのに『気』を使うことで、高まりすぎた力を解消しているみたいなの。もー、ただでさえ大食いなのが、一般家庭なら食費だけで破産しちゃうほどよ? おまけにこの異常食欲、たまーに暴走しちゃって、美味《おい》しそうな食べものの匂いをかぎとったらしんぼうたまらず、がうー、がつがつがつ。肉なんかあった日には、もうたいへん……ねえ、望。さっき自分がなにを食べたか、覚えてる?」
「ん? んー……冷蔵庫に入ってた生はんばーぐが、えーと、ぜんぶだから……二十、三十、もっと? あとお肉のかたまりと、魚と、えびと、かにと……」
途中、けぷー、とげっぷを混ぜながら、望は平らげたメニューをならべあげていった。
耕太は静かにまぶたを閉じる。涙があふれ、こぼれだした。
「房中術……またも房中術……すべてぼくのせい……ぼくがまともにえっちしてこなかったから……〈あまえんぼさん〉に逃げてきたから! あああ、ぼくが悪いんだ……」
「それは違うよ耕太くん! だって望は〈あまえんぼさん〉できるくらい、胸ないし!」
「がうー!? できるよ? ちちまくら、わたしだってできるよ?」
「え? なに、石まくら? 超々高反発でかっちかちの?」
「がううー!? 『いし』じゃないよ? 『ちち』まくらだよー?」
その後も、ちずると望《のぞむ》は『おっぱい』だの『尾てい骨』だの『鎖骨のくぼみ』だの不穏当な単語を人前だというのに大声でならべたてつつ、一路、耕太の住む学生寮へと走った。
冬の陽は、沈むのが早い。
広がる闇《やみ》のなか、ぽつぽつと点《とも》る街灯、家々の光を見ながら、耕太は決意を新たにした。オトナになろう、早く立派な、一人前のオトナになろう、そしてまともにえっちをしよう、とりあえず今夜だけでも〈あまえんぼさん〉は封印しておこう……と。
2
前夜のことだった。
耕太がちずるにアルバイトの面接を邪魔され、〈あまえんぼさん〉の当夜のみ封印を決めた、およそ十六時間前。時刻は深夜午前二時。いわゆる草木も眠る丑三《うしみ》つ時《どき》、星だけがまたたく真夜中に、私立|薫風《くんぷう》高校の門をくぐるものの姿があった。
その数、三。
『三人』としなかったのにはわけがある。先頭を歩く少女を除いて、彼らは人ではなかった。かといって、『一人と二匹』もすこし違っている。彼らは獣でもなかった。
彼らは妖怪《ようかい》だった。
ひとつは人造の、もうひとつはつい先日なりたての、彼女は、彼は、妖怪だった。
唯一の人間である、先頭の少女。
彼女は、年のころは小学生くらいで、真冬だというのに薄手の白いドレスと、靴だけといった格好でいた。コートなど、防寒具のたぐいはいっさいなにも身につけていない。ただ、脇《わき》にくたびれたくまのぬいぐるみを抱えるのみだ。
冷えきった夜風にドレスの裾《すそ》がひるがえり、か細く幼い少女の脚が覗《のぞ》く。
ついでにかぼちゃぱんつも覗く。
しばらく切らずにそのまま放置していたとおぼしき長めの髪も派手に踊り、少女の顔を覗かせた。頬《ほお》に薄く傷跡の残る彼女の顔。それは、美乃里《みのり》のものだった。
三珠《みたま》美乃里。
自称、耕太の妹。事実、彼女の顔だちは耕太によく似ていた。ちずるを――正しくはちずるのなかに眠る〈八龍《はちりゅう》〉の力を狙《ねら》っていたがため、耕太とは敵対関係にあったが。
そんな美乃里のあとに続く、ふたつの妖怪。
ひとつは女の姿をとっていた。銀髪に白い自髪の持ち主で、長さは胸に届くほどだ。その自い前髪が片目を隠す髪型をした彼女は、鵺《ぬえ》。〈葛《くず》の葉《は》〉で人の手によって造られた人造の妖怪だった。つねに美乃里とともにあった鵺は、いまもまた、黒いタイトなセーターにジーンズといったいでたちで、少女の後ろに控えていた。
もうひとつの妖怪、こちらは新顔だ。
白い。髪も肌も白く、眼《め》だけが淡く紅《あか》い、いわゆるアルビノの性質を示す男の姿だった。やたら顔の作りが整っており、背は高く手足は長く、着ている服も黒のスーツで、くせのある短髪と透きとおるような肌の質感もあいまって、まったくの伊達男《だておとこ》であった。
美乃里《みのり》と鵺《ぬえ》、そして新顔の美男子。
彼女たちは耕太の敵のはずだった。
美乃里はちずるを狙《ねら》っている。逆に、薫風《くんぷう》高校を治める主、〈御方《おかた》さま〉はちずるをそれとなくかくまっている。だから、彼女が薫風高校を訪れるというのは、一種の異常事態だった。緊急事態のはずだった。
が……。
美乃里はなんの抵抗にも遭わず、薫風高校の門をくぐりぬけた。
いや、そもそも、最初から門は閉じていなかった。
時は真夜中、本来ならば閉じていなければおかしいはずの金属製の門は、あたかも来客を歓迎するかのように、すっかり開かれていた。決して閉め忘れではない。その証拠に、美乃里たちが通ったとたん、門は閉じた。音を夜に響かせ、だれに引かれるでもなくスライドし、自動的に。
美乃里たちは背後で閉じた門を気にすることもなく、そのまま進む。
やはり開いていた来客用玄関のドアをとおり、ひとけのまったくない暗い廊下をひたひたと歩き、やがて、校舎の奥、理事長室の前へとたどりついた。
「きみはここで待ってるんだよ、鰐淵《わにぶち》」
美乃里の言葉に、名を呼ばれたアルビノの伊達男は大げさすぎるほどのしぐさでうなずく。両手をびしっと広げ、首どころか腰まで曲げるその動きは、まるで応援団のようだ。
くすっ……。
美乃里が笑みをこぼした。
「ついこのあいだ人間の姿になったばかりだからしかたないけど、せっかく色男なんだから、もうちょっと、こう、ねえ? いや、でもまあ、これはこれでおもしろいからいいかな……? ふふ……ふふふふ……」
楽しげに肩を揺すりながら、美乃里は理事長室のドアへと手を伸ばす。
「さーて、いこうか、鵺。ちずるとの……いや、お兄ちゃんとの、かな。とにかく、すべての因縁に決着をつけるための、まずは第一歩へ……」
手の甲で、ノックした。
ややあって、ドアは開く。
顔をだしたのは、鋭い三白眼と鷲鼻《わしばな》を持つ薫風高校の教師、八束《やつか》たかおだった。
八束は、ドアのすきまからこぼれる室内の光を浴びて、まぶしげに眼《め》を細めた美乃里と、平然としている鵺、そして微動だにしない鰐淵とを眺め、告げる。
「……よし、入れ」
美乃里は薄く微笑《ほほえ》み、理事長室のなかへと入った。
理事長の机に座る〈御方さま〉――丸眼鏡に太い三つ編みという、年にしては子供っぽい外見の薫風《くんぷう》高校教師、砂原《さはら》幾《いく》に宿る砂使いの精霊と、対峙《たいじ》した。
このあと、なにが語られたのか。
知るものは訪れた美乃里《みのり》と鵺《ぬえ》、待ち受けていた〈御方《おかた》さま〉と八束《やつか》、そしてちずるのほか、いまはまだだれもいない。
そう、ちずるはいた。
美乃里と鵺には悟られぬよう、物陰に潜み、理事長室のなかにいた。そうして、四人の会話を聞いていた。ひそかにではない。〈御方さま〉は知っていた。なぜなら、ちずるを呼び、潜ませたのは当の〈御方さま〉自身なのだから。
すべてがひどく急ぎ足で動きだした、このとき――。
耕太はといえば、眠っていた。
学生寮の自室で、暖かなふとんのなか、ひさしぶりにちずるも望《のぞむ》もいない、ひとりぼっちの安らかな睡眠を、こころゆくまで味わっていた。
うにゃ、むにゃ、まくらに半分めりこんでいた唇が、動く。
「ちずるひゃん……」
耕太はしあわせだった。いまだけはまちがいなく。だが。
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[#小見出し] 二、ちずるはある朝突然に[#「二、ちずるはある朝突然に」は太字]
1
シャワーのノズルから放たれた細かなお湯が、ちずるのぬめらかな肌に当たり、弾《はじ》かれかれてゆく。昨夜、耕太《こうた》があれほど吸った――あくまで『気』を――彼女の胸のふくらみは、当然といえば当然ながらまったく縮むこともなく、シャワーの湯をやわらかくも小気味よく弾き返して、あたりにもうもうと湯気をたちこめさせていた。
ちずるが、手に持ったシャワーの向きを変え、全身を濡《ぬ》らす。
すんなりとした肩を、くっぽりとした鎖骨のくぼみを、細く伸びやかな腕を、ミル気ーはママの味だった胸部のふくらみを、うっすらと肋骨《ろっこつ》の浮く脇腹《わきばら》を、するんとしたおなかを、きれこむおへそを、そしてそしてそして、金色のふささ……を。
しゅるん、しゅるるん。
ぬちちっとしたふとももの後ろで、金毛のしっぽがくねる。
ちずるは化《ば》け狐《ぎつね》の姿になっていた。
背中を腰のあたりまで覆う長い黒髪は、いまやしっぽとおなじ金毛へと変わり、その頭頂部からは狐の耳をぴんと立たせている。耳も髪もしっぽもふささ……も、シャワーのお湯が染み、しんなりとなりかけていた。
「……ん?」
鼻歌まじりでシャワーを浴びていたちずるの眼《め》が、ちらとこちらを向く。
やだ、もう、と声をあげた。
「耕太くんったら、わたしの裸なんて、毎日毎日、それこそ昨日だって、たーっぷりと見てるくせに、そんな、じーっと見つめたりなんかして……えっちぃえっちぃ」
見事にもほどがある胸元を抱くようにして両腕で覆い隠し、ちずるはいやんいやんと身体をくねらせた。シャワーのノズルは手に持ったままだったので、お湯が四方八方、耕太の肌にまで飛んだ。あちっ。
「す、すみません!」
けっこう熱めのお湯にあちちと踊りつつ、耕太は身体ごと後ろを向く。
やたら楽しげなちずるの笑い声を背に、深く反省した。たしかに、親しき仲にも礼儀あり、まじまじと見つめちゃうだなんて、あまりにも失礼すぎた。
だけど、ちずるもいけないと耕太は思う。
だって、あまりにきれいすぎるんだもん……。
不思議だった。
どれだけ耕太の前で乱れ、すすり泣き、あられもない姿をさらそうとも、いまこうしてここにあるちずるの裸身は、どこまでも清らかで、ただただ美しいのだから。昨日の夜、耕太とちずると望《のぞむ》の三人でくり広げた行為なんて、余韻すらも感じさせやしない。いっそ、神聖ですらあった。あんなことやこんなこと、たくさんしたというのに。
背中でシャワーを浴びる恋人の神秘さに、耕太は感慨深くため息をつく。
ちずるさんはオトナだな――。
なのにぼくは――。
耕太たちは、お風呂場《ふろば》にいた。
いつもの、薫風《くんぷう》高校の敷地内にある、合宿用の宿舎に備えつけの共同浴場だ。
合宿用の設備のため、三人分のシャワーに洗面用の鏡、蛇口、椅子《いす》と、数人がどうじに入れるほどの大きさの浴槽を持つこの共同浴場は、合宿時の生徒だけではなく、耕太のような学生寮に住む生徒にも開放されていた。
なにしろ、寮の建物は築ウン十年のアパートを転用したもので、お風呂がない。また、近くに銭湯もない。つまり、寮から徒歩五分の場所にあるこの薫風高校内の宿舎以外、入浴施設はどこにもないわけで、寮生はここを使うよりほか、しかたがなかったのだ。
というわけで、寮生である耕太は使っていた。
早朝、夜が明けてすぐに。
耕太の意志ではない。そもそも、規則で入浴は夜の七時ごろから九時ごろまでと定められていた。それ以外の時間帯は、ほかならぬ生活指導担当の鬼教師、八束《やつか》の手によって宿舎自体に鍵《かぎ》がかけられている。もっとも、ちずるの前に鍵なんか、なーんの役にもたたなかったのだけれど。いつ作ったのやら、合い鍵《かぎ》なんて持っていたから。
朝早く、耕太はちずるにつぶし起こされた。
その胸のふくらみで、顔をつぶされ、甘く苦しく窒息起床、おはようございまーす。
目覚めはしたけど寝ぼけたままの耕太を、ちずると望《のぞむ》は毛布でくるみ、抱えて外に飛びだした。夜明けの光がしらじら注ぐ住宅街の道を、冷えきった空気を切り裂きゆくちずるたち。ちずると望がそれぞれ、妖狐《ようこ》と人狼《じんろう》という妖怪《ようかい》の姿のままであったことに耕太が気づいたのは、学校につき、合宿用宿舎のなかの脱衣所に転がされてからだった。
でも、まあ、シャワーを浴びること自体は、しょうがなくはあるんだよね……。
じつは、シャワーのため、時間外に宿舎へ侵入するのは、今回が初めてじゃなかった。
なぜって、耕太はくだんの房中術効果によって、一日に最低五回、たまに十回、ごくまれに二十回は『気』を放出しなくてはならない肉体となってしまったのだから。放出すれば、そりゃ汚れちゃう。汗とかー、唾液《だえき》とかー、その他さまざまな液体によって。
となれば、シャワーを浴びるほかないわけで。
まさか、べっとべとでかっぴかぴなまま、学校にはいけないし。
だけど、それでも普段は、なるべく汚れないようにしていた。寸前に〈おくちのこいびと〉を選ぶことで、放たれた耕太の『気』を外にこぼさずに……あれ? もしかしてちずるさんや望さんの『気』がパワーアップしたのは、そのため?
と、とにかく、耕太たちはお互いをあまり汚さないようにしていた。
が、昨夜ときたら。
あの狂乱の夜ときたら。
「……」
耕太はうつむく。
すごかった。まるで明日ですべてが終わるのかと思うくらい、ちずるも望も求めてきた。耕太もまた、その一種狂気にも似た熱に浮かされ、すっかり応《こた》えてしまった。重ねあったふたりのあいだに……はさまれ揉《も》まれ……三人ともべっとべとのかっぴかぴ、よくもまあ最後の一線を越えずに踏みとどまったものだと、耕太は自分を褒めてあげたいくらいだ。
ああ、そうなんだよね――。
踏みとどまってしまったんだよね――。
だからいけないんだよね――。
してしまえばいーのだ。
最後の一線を越えてしまえばいいのだ。わかっていた。耕太もちずるも望も、例の房中術効果でもって肉体に異変が生じていたが、それもまっとうに行為をすれば解決するはずなのだ。だって、普通におこなっていないからこそ房中術効果とやらが発揮されているのであって、きちんとしちゃえば、各効果もたちまちかき消えるはず。
そうすれば、耕太が、一日に数十回も『気』を放つこともなく。
ちずるが、ボニュー特戦隊になっちゃうこともなく。
望《のぞむ》が、突撃となりの晩ごはんと、勝手にファミレスの厨房《ちゅうぼう》に入って食材を平らげることもなくなる。平和だ。じつに平和な日常だ。
だけど……ね。
耕太にはできなかった。
なんていうか、そういうのって、こう、決意と覚悟と情熱をもっておこなうべき恋人どうしの大切な儀式であって、困ってるからどうとか、それ違う。違うと思う。この考えを前にたゆらに話したら、『ぐひゃひゃひゃひゃ、童貞小僧みてーなこといってんじゃねーよ!』と腹を抱えてのたうちまわるほど笑われたが、だってぼく、童貞小僧だし。
だから耕太は早く、オトナになりたかった。
決意と覚悟と情熱をもつ、立派な、一人前のオトナに。そうなれば、ぼくだってちずるさんと……だけど、ああだけど、そのための第一歩、初めてのアルバイトは、昨日、無惨にも恋人とアイジンの手によって打ち砕かれて……あうあう。
「なーにやってるの、耕太くんっ」
と、耕太の背中に、シャワーのお湯が浴びせかけられた。
「いひょひょっ!?」
耕太はたまらず、ぴーんとつま先立ちになった。冷えた身体に、ちずる好みの熱いお湯をかけられては、ちょっとたまらない。
「なにやら、いろいろとお悩みのようですけど」
そのまま、シャワーのお湯は、耕太の肩口から注がれだす。
あいかわらず熱いが、耕太はなんとか我慢した。熱が身体に染み、ぶる、とひと震えして、息をゆったり吐く。はふうううう。
「あのね、昨日のファミレスの件、気にしてるんだったら、今日、わたし、ちゃんと謝ってくるから。望が食べちゃったぶんのお金も持っていって」
ちずるが、耕太の身体を洗い流しながら、いう。
シャワーを注ぎ、手のひらでやさしく、肩、首筋、背中を撫《な》でこする。指先は耕太のおしりのはざまにまで伸びてきた。あひょ、とのけぞるも、ダーメ、と押さえつけられ、こちょこちょこちょ。
「あ、あのっ、ふぁ、ファミレスなら、ぼくもいっしょに!」
「いいからいいから……すべてわたしにおまかせくださいな、耕太さん」
「そ、そういうわけには……うききっ、そこは! って、はい? こ、耕太『さん』?」
「ええ。なにかおかしいですか、耕太さん?」
「な、なんですか、その耕太『さん』というのは……」
振りむくと、ぴこんと狐耳《きつねみみ》を立たせた金髪のちずるに、微笑《ほほえ》みかけられた。
きれいすぎる白い首筋と、なだらかな肩、くっぽりくぽくぽな鎖骨にどぎまぎし、耕太は「すみませんっ」と顔の向きを前に戻す。
いいから、と頬《ほお》に手を伸ばされ、顔の向きを、くりん、またもちずるのほうへ。
「後ろは終わったから、つぎは前」
「あ、洗うのは、もう自分でやりますから」
「ダメ。わたしがやります。耕太さんの身体は、ぜーんぶわたしが洗うの」
「で、でも……いや、だからその耕太『さん』というのはいったい……わわわ、ちょっと、ちずるさん、待ってえ、ひゃー!」
肩をつかまれ、強引に身体全体の向きを変えられた。
あなこんだーん!
昨日、大のオトナを大泣きさせた大蛇が、はい、こんにちはー。手で押さえはしたが、押さえきれぬ耕太の純情な感情。あなこんだーが、あ、こんなんだー?
「あ……やだ、もう、耕太くんたら……」
ちずるはしっかりと見つめ、泣くどころか、にたりと笑った。
「うう……ちずるさんのえっちぃえっちぃ」
百万言より雄弁なちずるのにたにたした笑みに、耕太はもう、涙、涙。
いや、わかるけど。昨日、あれだけの狂乱ナイトをおくったというのに、今朝また雄々しくそびえ立つ、ぼくの狂乱。まったく、我がことながら、どこまで狂戦士なんだか。
「あん、ごめんごめん。さ、耕太さん、もう覚悟を決めて、バンザイして。ちゃっちゃと洗っちゃうから。そうしたら……ね?」
そうしたら?
そうしたらなに?
期待に応《こた》えてすぐさま反応、べるせるくーな自分に、耕太はまたも、涙、涙。
「あのね、耕太さん」
脇《わき》の下《した》を洗いながら、ちずるがいった。
「うう、な、なんですか、ちずるさん」
「わたしがいま、耕太『さん』って『さん』づけで呼んでる理由。それはね、あなたがわたしのこと、いつまでたっても『ちずる』って呼びすてにしてくれないからなんだよ?」
「……へ?」
「ね、覚えてる?」
ぎゅっ、とガッツをつかまれた。
ひゃん、と耕太は子犬のようにうめく。
「お、覚え……あの?」
「夏、海にいったとき。ほら、あの、ふんどし大海神《おおわだつみ》とわたしの母さんと〈御方《おかた》さま〉が年増バトルを始めて、わたしたちまで巻きこまれた、とんでもない海水浴のとき。耕太さんにわたし、淫乱《いんらん》だとか好色だとか男も女もいける口だとか腹黒だとか大々々々々年増だとかいわれて、さんざんだったけど、ひとつ、いい思い出があるんだ。ふふ、それはね、耕太さんと大海原の上、ゴムボートでふたりっきりのとき、わたしのこと『ちずる』って、たしかに呼びすてしてくれて……えへへへへー!」
ぎゅーぎゅーぎゅー。
痛い痛い。
「あれから、ずっと待ってたんだよ? みんながいるときは、そりゃ耕太くん恥ずかしがり屋だから、無理だってわかってるけど……でも、ふたりでいるときなら、いつかは『ちずる』って呼びすてしてくれるかなー、って……なのに……ちっとも……うー」
ぐにぐにぐにぐに。指先がうごめく。
うひおひひ。
「だからね、わたし、考えたの! これはもう、こちら側から訴えかけてゆくしかないって! まずは呼びかたから。耕太『さん』って、わたしのことをちずる『さん』と呼ぶあなたに合わせて、対等の立場なのだとアピールし、そして……」
「わ、わかりました」
「いやがおうにでも……え?」
「よ、呼びます。ぼく、ちずるさんのこと、いまから呼びすてにします」
「あ……う、うんっ、お願いします!」
ちずるはにぎにぎしていた手を離した。
背をまっすぐにし、姿勢を正す。ぼよよんもふささも丸だしに、あごを引き、手は太ももにそって伸ばした。シャワーのノズルは手に持ったままなため、お湯が床を叩《たた》く。
「えー……」
耕太もすべて丸だし、あなこんだーんな状態で、ひとつ咳払《せきばら》い。
「ち……ち……ち、ちち……ちずるっ」
「はいっ!」
その、名前を呼ばれたちずるの、きらきらと濡《ぬ》れ光る眼《め》の輝きときたら、もう。
耕太の胸にも、じーんとこみあげてくるものがあった。唇をもごもごと噛《か》み、いう。
「……ぼく、ふたりきりのときは、あの、なるべく呼びすてにするようにしますから。努力します。だから、ちずる……も、ぼくのこと、その」
「イエス、マイロード」
「呼びすてに……って、ええ!?」
「あら、お気に召しません? では、マスター、わたくしにご指示を」
「そ、それもちょっと……」
ふふっ。ちずるが笑った。
「冗談だよ……耕太」
耕太。
こうた。
ただ名前を呼ばれただけだというのに、耕太の鼓動はまちがいなく一瞬、止まった。
ためにためて、どくん、とひときわ大きく跳ねる。これだ。これなんだ。どうしてちずるがあれほど歓喜の表情を浮かべたのか、耕太は身体で理解した。
「ち……ちずる」
「なあに、耕太」
「ち、ず、る?」
「こ、う、た?」
「ちずちずー?」
「こうちゃん?」
でへへへヘへ。
ふたり、素っ裸で見つめあい、お互いに照れ、笑う。
ああ、なんだかすっごく恋愛って感じ。耕太は思った。そうだよ、きっとそうなんだよ。恋愛ってのは、きっとこう、あまずっぱいものなはずなんだよ。思えば、いままで、恋愛よりも肉欲ばかりを優先し……これだ、これなんだっ。
「ち、ちず――」
「へい、おまちー!」
もういちど呼びすての快楽を味わおうとしたとき、がらりとガラス戸が開き、なにものかが入ってきた。
望《のぞむ》だった。
ちずるとおなじく――いや、その身体はあんまりおんなじじゃない。胸はかろうじてふくらみとわかるほどのなだらかさだし、おしりもきゅっと締まった小ぶりさだし、ふささ……もほとんどなくて、すべてが丸見えすぎるくらい丸見えと、耕太の恋人とはまた違った清純さが、耕太のアイジン、望《のぞむ》の肉体にはあった。
おなじなのは、全裸ということだ。
そして、狼の耳としっぽを生やした、人狼《じんろう》の姿――妖怪《ようかい》の姿であることだ。
そんな望は、脇《わき》に、大きな段ボール箱を抱えていた。
「……望さん、それ、なんですか?」
耕太の言葉に、望が「ん? これ?」と箱を逆さにすると……。
大きくて透明なボトルと、大小さまざまな筆が、お風呂場《ふろば》のタイルの上、重たげに弾んだり、からころーんと跳ねたりした。ボトルは五百ミリリットルくらいの容器で、中身は透明な液体であること以外、わからない。筆はすべて真新しかった。
――どうして望は更衣室に残ったまま、こっちにこないんだろ?
と、耕太はちずるといちゃつきながらも、ずっと頭の隅で思ってはいた。どうやら、望はこれらをとりにいっていたらしい。だが、だが、だが、えー……?
「これでいーい? ちずる」
「うん、ありがと、望」
ちずるは屈《かが》み、透明なボトルを拾いあげた。
さっそくキャップを開け、逆さにし、中身をだす。
手のひらに、とぅー……っと、やたら粘り気のある液体を垂らしだした。
「ち……ちずるさん、まさか、それ」
「正解。『澪《みお》の油』」
澪の油。
かえるの半妖《はんよう》、かえるっ娘である薫風《くんぷう》高校の生徒、|長ヶ部《おさかべ》澪センパイが、その肌からたらたらと流す、油状の汗。切り傷擦り傷、火傷《やけど》に打ち身、なんでもござれの万能薬。
だけど、おそらくちずるさんはこれを、いまから想定外の目的で使用するつもりだ!
「あ、ぼく、もうシャワー浴びたんで」
「ていっ」
更衣室に逃げだそうとしたら、望に捕まり、足払い一閃《いっせん》、宙に浮かされた。空中の耕太を、望はお姫さま抱っこのかたちで受け止め、やさしく、床のタイルに横たえる。
「ふふ……耕太くんったら、なんのためにこんなに朝早く、ここにきたと思ってるの?」
ちずるは、さらに床から、小さな筆を拾いあげていた。
その白い毛先を、手のひらにとった澪の油に、ひたす。
「ほら、望……」
と、望のなだらかな、平面に近い曲線を描く胸に、まる書いて、ちょん。
「ひゃひゃ、ひゃうっ! うー、ちずる、やったなー」
望も、ボトルをわしづかみ、ぶにゅー、と手のひらにしぼりだす。望が選んだのは、けっこうごんぶとな筆だ。びちゃ、ぐちゃ、ずりずりと毛先になすりつけ、なんと、ちずるの股下《またした》から一直線に振りあげた。ずにょろべちゃにょろっ。
「ひややややーっ! な……なんてことするのよ、あなたは……っ!」
股間《こかん》を押さえ、ちずるは前屈《まえかが》みになってぶるぶると震える。
「くのっ……!」
「やーん、ちずる、やーん、そこ、やーん」
べちゃらべちゃら。みにゃらみにゃら。ぬらぽんぬらぽん。
澪《みお》の油を墨に、互いの身体を紙にしてのお習字は、しばらく続いた。
やがて、その身体のほとんどをぬらぬらと塗りつぶしたふたりの眼《め》は、床の耕太へと。
「さーて耕太くん、お習字の時間だよー?」
「耕太、すっごいすべるよ、耕太」
「あ、あああ……」
そのぬらつく毛先は、耕太へ。耕太の、あなこんだへ。
すべては、澪の油が織りなすぬらぽんお習字ワールドへと取りこまれてゆく、そう、定めなのだった。いろはにほへと、ちりぬるをが描く狂気と希望と幻滅のまっただなか、耕太は生命、宇宙、そして万物についての究極の答えが『四二』だと唐突にひらめいたような気がしたが、うん、やっぱり気のせいだねっ。
「にひゃにゃーっ!」
★
「う、うう……」
足がちっともいうことを聞いてくれない。
重い。ひたすら重い。それどころか、全身、まったく力が入らない。耕太はよろめきつつ、寮の階段を上った。一段、一段、金属製のプレートを踏みしめてゆく。
「だいじょうぶ、耕太くん?」
「がうー?」
両|脇《わき》から耕太を支えてくれていたちずると望が、心配そうに顔を覗きこんできた。
もちろん、だいじょうぶじゃないです。
だれのせいですか……と心のなかでつぶやくも、もちろん声にはださない。だって、しっかりと応《こた》えてしまった自分にも責任はあるのだから。それにしても、ああ、人間ってすごい。限界だと思っても、まだまだ限界じゃないんだ……うっ、太陽が黄色い……。
すでに街は目覚めかけていた。
学校から寮まで帰ってくる途中、耕太はたちならぶ家々から、朝のニュースを告げるテレビの音や、おみそ汁の匂《にお》いなんかを感じた。早めに出勤するサラリーマンや、登校する学生ともすれ違った。みんな、寝巻き姿の耕太たちに驚いていた。
すると、二時間ぐらい、ぼくたちはぬるぽんぬるぽん?
ああ、と耕太はため息をつく。
途中までは、たしかけっこういい感じだったはずなのに。
お互いの名前を呼びすてしあったあたりは、いい感じであまずっぱく、恋愛ぽかったはずなのに。なのにどうして最後まで、ぼくらはその方向でいけないんだろ……。
「じゃ、耕太。またあとでねー」
寮の二階、各部屋のドアがならぶ通路の最初、いちばん手前のドアで、望《のぞむ》が別れた。
「あ、はい。では、また……」
ちずるに支えられたまま、耕太は力なく手を振る。
望はドアのなかへと消えた。
耕太とちずるはよろよろと進む。
二番目の部屋のドアまできたとき、ちずるも別れた。
「じゃ、耕太くん、わたしもここで。だいじょうぶ? ひとりで……」
「あ、はい。だいじょうぶです……たぶん」
「朝ごはん準備したら、耕太くんの部屋にいくから。いまの望、バカみたいに食うから、けっこう作るのたいへんなんだけど……でも、すぐだからね。待っててね、耕太」
ウィンクして、ちずるはドアのなかへと消える。
耕太はふらつきながら、さらにひとつ奥にある、自分の部屋のドアへと向かった。
学校、休もうかな……。
なんてことを考えつつ、でも実際に休めるわけもなく、なにしろぼく、根がマジメだから……と、とりとめもなく思考をさまよわせながら、耕太はドアノブに手を伸ばした。
「……ん?」
マテ。
いま、ちずるさんと望さん、どこに消えた?
二階にある寮の一室に、まるで自分の部屋のような顔をして、入らなかったっけ? だけど、この薫風《くんぷう》高校学生寮には、耕太以外、だれも住んではいないはずだ。そもそも、ちずるも望も、自分の家はちゃんとほかにあるはずだ。
「え……?」
耕太は歩きだす。
よたよたと足を引きずり、ふたりが入った部屋の前へと向かった。
ドアの横にかけられた表札には、すでにそれぞれの名が書かれてあった。
ちずるの部屋の表札には、綺麗《きれい》な字で『源《みなもと》ちずる』と。
望の部屋の表札には、最初、『がうわうわおーん』と書いてあった上に×が引かれ、その下にちずるのものとおなじ字で『犹守《えぞもり》望』とあった。どうやらちずるに書いてもらったらしい。もしかすると書き直されたのかもしれないけど。
「え……えええ? えええええ?」
ど、どういうことなの、これ?
示している事実はひとつ。
ちずると望《のぞむ》は、引っ越してきたのだ。学生寮に、耕太のとなりに、引っ越してきたのだ。
でも、だけど、なぜ? どうして? ほーわーいー!?
2
「――で、ちずるはなんだって?」
耕太の話を聞き終えるなり、逆にたゆらは尋ねてきた。
北風が冷たく吹きすさぶ学校の校庭で、おいっちにー、おいっちにーと準備運動しながら。いまは体育の時間で、男子は寒空の下、外でサッカーだった。女子は体育館でバスケで、男子一同、あっちはいいよなーとボヤいたが、どうしようもなく。
全員で校庭にならび、体育着で寒さに震えながら、屈伸したり、前屈したりしていた。
「ちずるさんは……」
耕太はたゆらに訊《さ》いていた。
ちずると望が、いきなり耕太のとなり、学生寮の空き部屋へと引っ越してきた件についてだ。もちろんちずるには訊いていた。あれから、寸胴鍋《ずんどうなべ》いっぱいのおみそ汁と、朝から山盛りの唐揚げを持ってきたちずるに、運ぶのを手伝いつつ、まっさきに尋ねていた。
けど。
『ほら、もうわたしたちも来年には三年生でしょう? え? わたしは来年には卒業するはずだって? しないよ? 卒業なんてしないもん。わたしは留年して、耕太くんのクラスメイトになるんだもん。たとえ卒業させられたって、強引にでも通ってやるう! って、あ、そうそう、引っ越してきた理由だよね。それはほら、もうお互い三年生になるんだから、ということは、耕太くんとわたしが卒業を機に結婚するまで、あと一年ちょっとってことで……え? するよね? 卒業したらわたしたち、結婚するんだよね? うんうん。だから、そろそろ、なんていうの、結婚生活の準備をしておいたほうがいいかなー、なんて……えへへへへ。おとなりさんになって、準|同棲《どうせい》生活スタート! っていうか!』
と、照れ笑いしながらのちずるの回答は、納得できるような、できないような。
結婚生活の準備?
だから準同棲生活のスタート?
どうも、耕太は納得ができなかった。
なので、まわりに男子しかいない、つまり望に聞かれる心配のないこの体育の授業のとき、耕太はたゆらに事情を説明し、ちずるたちが引っ越しした本当の理由を尋ねていたのだった。もちろん、こっそりと、ほかの男子には聞かれないよう、小声で。
「ちずるがそういうんなら、そうなんじゃねーの?」
上半身をぐりんぐりんとまわして、たゆらは答えた。耳が隠れ、首筋まで届く長い髪が、ばさりばさり、揺れる。
「でも……」
「なにがおまえ、そんなに疑問なんだ? べつにおかしかねーだろ、ちずるが自分の感情のおもむくまま、テキトーかつムチャクチャに行動するのなんか。つーかな、いいかげん理解しとけ、恋人っていうんなら、そのあたりのことは」
「いや、そこは重々承知しているつもりなんだけど」
耕太も、たゆらとおなじく上半身をぐりんぐりんまわしながら、いった。
「じゃ、なんだよ?」
「うーん、なんていうか、その……うーん」
うまく言葉にできない。
でも、なにかがおかしい。昨夜、そして今朝の狂乱すぎるナイト&デイもそうだ。どうしてあそこまで……正という字はどう書くの? こう書くの……。
「けっ、はっきりしねーやつだ。いつまでもぐだぐだと悩んでねーで、ほれ」
たゆらが、耕太に背中を向けてきた。こい、とうながす。
「そんなことより、おまえ、もう決めたのか?」
「え? なに?」
耕太はたゆらの背中に、自分の背中をくっつけた。
互いに後ろ向きになって腕を絡め、交互に前屈、背筋を伸ばす運動、開始。
「クリスマスのプレゼント……だよっ」
ぐにゃー。たゆらが前に屈《かが》み、耕太の背筋は伸びた。
「く……クリスマス?」
「ああ。もうすぐ終業式で、その日はちょうどクリスマス・イブなんだぞ? 学校が終わった開放感もあいまって、いつもは凍てつくあの娘のハートも、雪解け模様な祝福の日……気持ちを伝えるにはベスト・オブ・ベストじゃねーかよ。ま、告白うんぬんはおまえには関係ねーし、今回ばかりは朝比奈《あさひな》へのプレゼントはおれとフォックスレッドが許さねーが、どうなんだ、ちずると望《のぞむ》へのプレゼントは、もう決めてあるのか?」
「んっ……んんー? んんんー?」
すとん。元に戻り、耕太の足は地面につく。
「なんだ、妙な声あげて?」
「い、いや……」
「ははーん。おまえ、クリスマスのこと、すっかり忘れてたな?」
どきっ。
「そ、そんなことは!」
「なんだかなー。いきなりおまえ、バイトするとかぬかすから、てっきりおれはプレゼントの資金を稼ぐためかと思ってたら……違ったのかよ」
「あ、アルバイトは、その、オトナの階段を上るためで」
「あん?」
「な、なんでもないです……あ、そーだ! たゆらくん、ちずるさんにぼくがアルバイトすること、バラしたでしょ! おかげでぼく、昨日、すごくたいへんな目に……」
「バラしてなんかねーよ。だいたい、訊《き》かれもしてねーし」
「いいよ、ごまかさなくったって……たゆらくんがちずるさんに逆らえないこと、ぼく、よーくわかってるから」
「てめーだって逆らえねーくせに、自分のことは棚にあげやがって……あのな、ホントに喋《しゃべ》ってねーぞ? たしかにおれはちずるに逆らえねーが、今回はマジだ。本気と書いてマジで、おれは喋ってない。アレじゃねーのか、耕太、おまえの挙動が不審すぎたんじゃねーのか? ちずるの勘は、心が読めるんじゃねーかっつーくらい、鋭いからな……ま、引っ越しの件に気づくあたり、おまえの勘も、なかなか鋭いみたいだが」
「え? 最後、ぼくがなに?」
「つーか、どうすんだよ、クリスマス・プレゼント。おまえ、もしかして釣った魚にはエサをやらない主義? ちずるも望《のぞむ》も、ノー・プレゼント?」
「お、贈るよ、もちろん! だけど……」
「けど?」
「……たゆらくん、あの、お金のことでちょーっと相談が」
「ねーぞ。おまえに貸す金は、ビタ一文、ねえ」
「いぢわる! たゆらくんのいぢわる!」
「金だったら、ちずるから借りればいーじゃねーかよ」
「プレゼントする相手から借りられるわけがないじゃない!」
ひゃっひゃっひゃ、とたゆらは笑う。
背中ごしに笑いの振動が伝わってきて、耕太は、うー、とうなった。
「ほれほれ、いつまでくっついたままでいる気だよ。屈《かが》め、屈め。早くおれの背筋を伸ばせ。べきべきべきってな」
うー。
えい、と耕太は思いっきり腰を前に屈めた。
背中に乗ったたゆらの背筋が、べきべきべきと音をたてる。おほほほ、とたゆらは心地よさそうに声をあげた。
ところが。
耕太は自分の足腰が、今朝のちずると望とのOh! シュージ! で、すっかり骨ぬきにされてしまっていたことを忘れていた。からかわれた怒りで忘れてしまっていた。いや、お習字されすぎて、頭がぼーっとしていたのがたぶん大きい。
たゆらの体重がのった耕太の膝《ひざ》は、がくがくと揺れまくり。
耐えきれず、あっさり、べちゃとつぶれた。
「おおおっ!?」
「ふぎゃっ」
耕太は、校庭にまるでおまんじゅうのように丸くうずくまり、たゆらは、その上に背中を反らした状態で乗っかる。
「なんだよ、耕太、おまえ、ちょっとひ弱すぎねーか? それともおれ、重いか?」
「ご、ごめーん……」
耕太は素直に謝った。しかし。
「耕太くーん!」
「がうおー!」
ちずると望《のぞむ》は乱入してきた。
いままで、校庭の隅にある茂みの陰に潜んでいたらしい。なぜかちずるは桃色のナース姿で手に救急箱を持ち、望は白衣に白ヒゲ、頭に銀のわっかの鏡、首からは聴診器といった医者の姿で、とてつもなくすさまじいスピードで駆けよってきた。
へ? と耕太の背から起きあがりかけたたゆらに、ちずると望はどうじで跳びあがる。
激しすぎるいきおいのまま、足の裏を叩《たた》きこんだ。まるでロケットのように突き刺さつたその動きは、いわゆるダブルドロップキック。
「あばらばっ!」
たゆらは奇妙な声をあげ、さらには手足をくねらせた奇妙な姿勢で吹き飛んだ。
「だいじょうぶ耕太くん! 怪我《けが》はない!?」
「あ、ぼくはだいじょうぶですけど、た、たゆらくんが……」
「あー、膝《ひざ》、擦りむいちゃってる! 痛いでしょ、耕太くん、これ、痛いでしょ!」
頭から地面にめりこみ、逆大の字を描いていたたゆらには目もくれず、ちずるは救急箱を開け、がちゃがちゃと道具をかき混ぜていた。望はその横でただ黙って正座し、への字口でちずるの治療を見つめるばかり。髪が半分黒いのは、某ブラックでジャックな名医を意識してのことだろうか? あと、頭につけたわっかの鏡がぴかぴかとまぶしい。
「はーい、ちょっとしみるよー?」
いつっ、とちずるが脱脂綿につけた消毒液の刺激に顔をしかめつつ、耕太は思った。
やっぱり、おかしい。
なんだろう、なにかが……。
★
なにがおかしいか、わかった。
やたらちずると望は、耕太にくっついてくるのだ。
授業中だろうがなんだろうが、一切合切気にせず、ところかまわず。
「ほら、耕太くん、この問題の正解はこれだよ」
「ほら、耕太くん、つぎの授業は視聴覚室だよ。あ、これ、教科書とノートね」
「ほら、耕太くん、靴だよ。足、あげて」
「ほら、耕太くん、おしっこ、しー。できる? ひとりでできる? 持っててあげよっか? ううん、持っててあげるっ」
「もう、いいかげんにしてくださぁい!」
耕太は男子トイレから逃げだした。
ちずると望《のぞむ》は追ってきた。
耕太くーん、耕太ー、と呼びながら。まわりの男子を、ぎょっ、とさせながら。
もしかして、となりに引っ越してきたのも、このべたべたっぷりの一環なのかな……だけど、なんだって急に、こんな。
「耕太くーん」
「耕太ー」
つーかまえったっ、と耕太は捕まった。ちずると望のふたりに捕まり、首根っこをつかまれ、ずりずりずりと引きずられながら、トイレへと。まぎれもない、男子トイレへと。
おしっこ、しー。
「わーん!」
もう耕太は泣く以外にない、あまりにも過剰すぎるべたべたっぷりは、下校時間になってもまだ続く。
「……まるで、お母さんみたい」
と、あかねの感想を後ろから浴びながら、耕太は通学路を帰るのだった。
当然、両|脇《わき》はちずると望に挟まれつつ。しっかりと腕を組まれ、べったりとくっつかれつつ。「足下、気をつけて!」とか「車、あぶないっ!」とか、いちいちかまわれつつ。
ホント、お母さんみたいだ……。
耕太はがくりとうなだれた。そういえば、ちずるさん、ミル気ーがママの味になっちゃったんだよなあ……だからこんな、母性に目覚めちゃったのかなあ……だから、べたべたと……でもこれじゃ、ぼく、いつまでたってもオトナになれない……。
「ま、なんにせよ」
「仲がいいのはよいことです」
そういってにっこり笑ったのは、蓮《れん》と藍《あい》だった。
七々尾《ななお》蓮。
七々尾藍。
薫風《くんぷう》高校一年生、双子の姉妹だった。どちらが姉でどちらが妹なのか、耕太にもわからない。いちど訊《き》いたことはあるが、答えは「……さあ?」「わかりません、パパ」というものだった。つまり、本人たちにも不明らしい。
双子らしく、すこし眠たげな目つき、小ぶりな鼻、小柄な体格と、うりふたつなふたり。
見わけかたのポイントは、その栗《くり》色の髪にあった。
頭の片側だけでまとめた、おさげ髪のふたり。そのおさげのある位置が、蓮は左、藍は右にあるのだ。まあ、それがなくても、耕太にはなんとなーくではあったが、どちらがどちらかわかるようにはなっていたけど。伊達《だて》にパパと呼ばれているわけではない。
そう、耕太はパパだった。
そしてちずるはママだった。
過去にいろいろあって、耕太とちずるはふたりにパパ、ママと慕われるようになっていたのだった。ああ、そうだ。あのミル気ー、ふたりにも吸わせてみようかな、喜ぶかな……と耕太が思った瞬間、まるで考えを読んだかのように、蓮《れん》と藍《あい》は別れを告げた。
「バイトがありますので」
「冬は野草もすくないですし、稼がないと」
てくてくてくと、双子の少女は耕太たちと別れ、離れてゆく。
★
てくてくてくと歩く蓮と藍の速度が、だんだんと速くなっていった。
もはや駆け足だ。
ちらと、お互いに視線を交わす。
どうじにうなずき、二手に分かれる。
スピードはさらにあがっていた。もはや常人には影としか感じられない速度で、ふたりは互いの距離を離す。
蓮だった影は街のほうへ、藍だった影は川べりへ。
残された人影が、ぽりぽりと頭をかく。
やたらだぼついた服と、じゃらついた銀のアクセサリーに身を包んだ彼は、追跡者だった。こっそりと、蓮と藍のあとをつけていたのだ。
「小賢《こざか》しい真似《まね》、しやがる……」
数秒迷って、追跡者は街へと消えた蓮を選ぶ。跳んだ。
★
蓮は一瞬、後ろを向く。
ついてきていた。街路樹から街路樹へ移り、ビルからビルへ跳び、アーケードの屋根を音もなく駆けぬける蓮に、人影はしっかりとついてきていた。数はひとり。
ふっ……。
蓮の唇に、笑みが浮かぶ。
横に跳びながら、鞄《かばん》に手を入れた。鞄のなかで鎖をつかみ、くるんと腕をまわす。鎖はまるで生き物のように動き、蓮の腕に絡みついた。
鞄から手をぬき、準備万端。
腕に絡んだ鎖をほどき、投げ放ち、ビルの屋上から伸びるポールに巻きつけ、あたかもスパイダーなウーマンのごとく、振り子の原理で移動。振り子の頂点まできたところで、鎖をほどき、またつぎの支点へと。
数ビルほど移動したら、くるん、と身体をひねり、ビルとビルのすきまへゆく。
地面に降りたった。
両側にビルがそびえる、細い路地のなかだった。
「追いつめたと思ってるな?」
蓮《れん》はつぶやく。
「だが、追いつめたのはこちらだ……なあ、藍《あい》?」
後ろにいるだろう追跡者に向かい、蓮は振り返った。
そう、すべては罠《わな》だった。
追跡者がいること、その数がひとりであることを確認した蓮と藍は、二手に分かれた。
そうなれば、追跡者はどちらかひとりを追うしかない。もしくは追跡を諦《あきら》めるか。
諦めればよし。だが、もし諦めず追ってきたなら、追われたほうは誘いこみ、追われなかったほうは追跡者を逆に追いかけ、挟み撃ちにして、相手を捕らえるつもりだった。蓮と藍は自分に自信があった。追いこんでしまえば負けるわけがないと、そう思っていた。
しかし、目の前に、文字どおり転がる現実は――。
蓮の、いつもは眠たげな眼《め》が、大きく見開かれる。
彼女の前には、あとから追ってくるはずの、藍がいた。鎖を全身に巻きつけられ、地面に転がっていた。「ううう、蓮……」と情けない声をあげていた。
「修行が足りねえなあ」
藍のそばに、追跡者はいた。
「お、おまえ!?」
「よう……我が愛娘《まなむすめ》たちよ、元気だったか?」
キャップにだぼだぼの服、ズボン、そして首にはぎらぎら光るネックレスを五本と、あきらかに若者風俗をどこか勘違いした格好の彼は、七々尾《ななお》宗仁《そうじん》。顔を見れば酒好きが匂《にお》う赤黒い肌で、髭《ひげ》には白いものが混じりと、けっこうな年である蓮と藍の実の父親だった。
「な、なんだ、なんなんだ、その格好は……父上!」
「ん? 変装のつもりだけどな。どうだ、けっこう似あうだろ? ガイアがおれにもっと輝けとささやいている――なんつってな! あーっはっはっ」
蓮と藍は、高笑いをあげる実父を、ただただ、冷たい目で見つめるのだった。
★
「娘をストーキングするとは」
「おまけにわたしのこと、鎖で縛りあげたぞ」
「完全なる児童虐待だな」
「立派な犯罪だ。ん、どーだ、くさいメシ、食うか?」
やつぎばやにいいたててくる双子の娘ふたりに、宗仁《そうじん》は顔をしかめた。
「あのな、おまえら……それがひさしぶりに顔をあわせた父親に対しての娘の口の利きかたか? あんまり調子にのってると、泣くぞ? 泣いちゃうぞ、おれは。いいのか? 親を泣かすと、すっごく後味悪いんだぞ?」
蓮《れん》と藍《あい》、宗仁の七々尾《ななお》一家は、街の裏通りにぽつんとあった屋台に、三人ならんで腰かけていた。屋台の主人はやたら渋くて無口なオヤジで、宗仁は彼をひと目見るなり妙に気に入り、『こういうオヤジのメシはうまい』と、娘ふたりを強引に連れこんだのだった。
ぶつぶつと、宗仁がつぶやく。
「ったく、外にパパやらママやら作ってやがるし……いままでおまえらを育てたのはだれだと思ってんだっちゅーの! おしめだってとりかえてやったっちゅーの!」
「……ほう」
「知ってるのか、パパとママの存在を」
蓮と藍が、鋭い視線を宗仁にぶつけた。
「だからな、それが親に対する目つきかと」
しかし、蓮と藍の視線はまったく変わらない。とうとう宗仁の眼《め》は、うるうるしだした。
「な、泣くぞ? いいんだな? お、おれは本気だぞ?」
「「ウザい」」
ハモった娘ふたりの声に、がーん、と宗仁は口を開けた。屋台の主人が、無言で宗仁の前にコップを置く。日本酒で満たされたそれを、宗仁は一気に飲み干した。涙とともに。
「ああ……知ってるともよ」
げふー、と酒臭い息を吐きながら、宗仁はいった。
「知ってるさ、いろいろと……パパのことも、ママのこともな。たとえば、おまえらのママがあの〈八龍《はちりゅう》〉だってことも、もう〈葛《くず》の葉《は》〉は知っちまってる」
蓮と藍が、眼を見開く。
彼女たちの前に、屋台の主人がどんぶりを置いた。大きなあぶらげの浮いた、きつねうどんだった。蓮と藍はどうじに割《わ》り箸《ばし》をとり、どうじに割って、ちゅるるん、うどんをひとすすりして、いったん箸を置く。
「……〈八龍〉?」
「なんだ、それは?」
かくん、と宗仁はこけた。
「し、知らんのか? まあ、〈八龍〉のことは〈葛の葉〉のなかでも一部しか知らん、機密事項ではあるが……しかし、あの〈八龍〉をママと慕うおまえらなら、あるていどは本人からでも聞かされてるかと思っていたがな?」
「べつに」
「ママにどんな秘密があったって、ママはママだ」
まっすぐな眼《め》で答える蓮《れん》と藍《あい》に、宗仁《そうじん》はにやりと笑う。
「なるほどなるほど、さすがは我が娘、じつに素晴らしい回答だ。ところでひとつ質問だがな、もしそのママに危険が迫るとしたら、おまえら、どうする?」
「愚問」
「絶対死守」
ちゅるちゅるとうどんをすすりながら、蓮と藍は答えた。
「つまり、おれと殺しあう覚悟はすでにできてるってわけだ」
ふたりの、うどんをすする動きが止まる。
ぷつん、と切れて、すすりかけのうどんは、ぽちゃん、とどんぶりに落ちた。
「「……なにをいってる?」」
宗仁は屋台の主人が注いだ酒をちびちびと飲みながら、語りだす。
「いっただろ、〈葛《くず》の葉《は》〉が〈八龍《はちりゅう》〉の存在を知っちまったってな。我ら〈葛の葉〉が存在する真の意味、それは〈八龍〉を捕らえることにあるんだ。妖怪《ようかい》退治なんざ、それとくらべりゃあくまで余技でしかない。〈八龍〉を捕らえ、そして、〈神〉をこの世に――」
と、宗仁はいったん、口をつぐんだ。
「とにかく、今回、〈葛の葉〉は本気だ。本気で〈八龍〉を捕らえようとしている。おまえらも関わった、あの三珠《みたま》美乃里《みのり》と蟲《むし》使いの騒動、今回はあんなもんじゃないぞ。事実、我ら七々尾《ななお》家にも出動の命令がくだっている。七々尾家だけではなく、八束《やつか》、土門《つちかど》、多々良谷《たたらや》、悪良《あくら》、九院《くいん》、砂原《さはら》、そして三珠と、〈葛の葉〉八家、すべてにだ。〈葛の葉〉の総力をあげ、〈八龍〉を……おまえらのママを、捕らえるつもりでいる」
さて、と宗仁は意地の悪い笑みを浮かべた。
「ここでもういちど訊《き》くそ? ママに危険が迫るとしたら、おまえら、どうする?」
蓮と藍は、こんどは即答できなかった。
どんぶりにふたりの視線が落ちる。
「だよな。命をかけてママを守ることはできても、そのために仲間と戦うのは厳しいよな。ま、おれのことは親とも思ってないようだから、むしろ喜んで向かってくるだろうが? 七々尾の家には、おまえらがまだおしめを穿《は》いていたころから、あれこれと面倒を見てくれたものたちがいる。幼いおまえらと遊んでくれたもの、闘いの術のなんたるかを教えてくれたものもな……みな、仲間だ。家族だ。そんなの、殺せんよなあ」
「殺……す?」
「殺さねば、殺されるぞ。それだけ本気なんだ、今回の〈葛の葉〉はな」
ぐーっとコップ酒を飲み干し、宗仁は席を立つ。
「二十四日だ」
のれんをくぐり、蓮と藍には背を向け、いった。
「世間じゃクリスマス・イブってやつか。薫風《くんぷう》高校の終業式がある日……すべてはそのとき、動く。それまでに決めておけ、家出娘。おとなしく家に帰ってくるか、あくまでママを守るため、仲間と殺しあうかな」
「な……父上? このまま、黙って戻るのか?」
「わたしたちのこと……連れ戻しにきたんじゃないのか?」
蓮《れん》と藍《あい》はそろって振りむき、去っていこうとする父親の背を見つめた。
「なんだ? 鎖で縛りつけて、無理にでも連れ帰ってほしかったか? ん?」
あくまで背中しか向けない父親に、蓮と藍はうつむく。
「そんなことは……」
「あるわけ、ないだろ……」
ふっ、と宗仁《そうじん》は笑った。
「せんよ、そんなことは。おれはあんまりいい父親じゃなかっただろうがな、だからこそ、我が子を自分の思いどおりにするつもりはない。考えろ。頭に穴が開くくらい考えて、悩んで、それで決めろ。それはおまえらの権利なんだからな……蓮、藍、おれの娘たちよ」
ひらひらと手を振りながら、宗仁は去る。
充分に遠ざかってから、肩ごしに、ちらりと見た。
すっかりうなだれた状態の蓮と藍に、へへっと小さく笑い声をあげ……屋台の主人に視線をやって、彼に向かい、小さく頭をさげた。
「……」
残された蓮と藍は、どんぶりに視線を落としたまま、微動だにしなかった。きつねうどんは冷めかけ、湯気のひとつもあげはしない。
「ツンデレってやつね」
渋いはずの屋台の主人が、女の声でぽつりと洩《も》らした。
「「え」」
「口でどういっても、いざあなたたちが敵にまわったとしたら、あのひとは闘わないでしょう。自分の身がどうなろうとも、たとえ組織を裏切っても、蓮、藍、あなたたちを守り、生かそうとするでしょうね。もー、態度で丸わかりってやつよ。だから、ふふっ、ツンデレ。外見はツンツンしてるくせに、本心はデレデレってやつよ。知ってる?」
「お……おまえは?」
「ま……まさか?」
「あらあら、まだ気づかないの? あなたたちのお父さんはわたしの正体、すぐに勘づいたみたいだけど。まったく、すでに〈葛《くず》の葉《は》〉の手のものはあたりに入りこんでるでしょうにね……知られればまちがいなく反逆者あつかいされるというのに、あなたたちだけじゃなく、わたしにまでいろいろと教えてくれちゃってさ……本当、いいお父さん。ま、耕太パパには負けるんだけどね!」
まじまじと眼《め》を見開き、固まる蓮と藍。
その視線の先、屋台の主人の頭には、一枚の葉っぱがあった。
「さて、蓮《れん》、藍《あい》。あなたたちにはひとつ、ママからお願いがあるの。ほかならぬ、パパのことなんだけどね――」
3
クリスマス・イブ、かあ……。
去年はどうだったかなあ、と耕太は考えて、ああ、ちずるの母親、玉藻《たまも》さんが山奥で営む妖怪《ようかい》専門の温泉旅館で、借金返済のため、働かされていたんだっけ、と思いだした。
いろんな意味で、思い出深い出来事だ。
初めての借金に、初めての労働、そして初めての宴会。〈九尾《きゅうび》の狐《きつね》〉である玉藻と会ったのも初めてだし、耕太の妹でちずるを狙《ねら》う、あの三珠《みたま》美乃里《みのり》とも初めて――。
だが、いちばん強く覚えているものといったら、白だった。
雪の白だ。木も草も川も、山々のすべてを埋めつくすほどの雪が作りあげた、白の世界。それはそう、まさにいま耕太がちうちうと吸いつく、大きくもやわらかな、ふよふよの白いふくらみにも似て……ちうちう。
「んっ……」
吸ったら、ちずるが声を洩《も》らした。
いま耕太は、ちずるのおっぱおを吸っていた。
薫風《くんぷう》高校学生寮、自分の部屋で、学校から帰って、制服から着替えるなり、すぐ。
耕太はジャージ姿で、ちずるは薄桃色をしたワンピース状の部屋着に、ぴったりしたズボンといった格好だったが、いまはそのワンピースをなかの肌着ごとまくりあげ、ぶらもはずし、すっかりぽよぽよなおっぱおをさらけだしていた。
その右おっぱおに、耕太は吸いつく吸いつく、ちうちうちう。
もちろん吸ってるのは『気』です。ふんわりと甘い、ちずるの『気』です。
「耕太くん……つぎ、こっちね……」
はーい。
右おっぱおに代わって差しだされた左おっぱおに、耕太はためらわず、かぷこん。続けて、吸うとりーとぱぁいおーつー、略してストツー行為にいそしむ。
はどーけん、はどーけん、たつまきせんぷーきゃくっ。
「やぁん、耕太くんたら、吸うの、ちょっと強すぎだよ……」
ごめんなさい。
ちなみに望《のぞむ》といえば、いつもの学校指定のジャージ姿で、ストーブの前に丸くなり、すぴー、すぴー、と眠りこけていた。歌には、冬になると『犬は喜び庭駆けまわり、猫はこたつで丸くなる』とあるが、狼はストーブの前で丸くなるものらしい。
耕太は、ちずるのおっぱおを吸いながら、思う。
クリスマス・プレゼント、どうしようかな……と。
耕太がちずるのおっぱおから、こうして余分な『気』を吸うようになって、数日が経《た》つ。
おかげですこし慣れつつあった。
おっぱおを甘くかみかみ、下から支える手ではもみもみ、口ではちうちうして、ちずるに『んっ……』と鼻にかかった声をあげさせ、彼女の自い雪山をほのかに色づかせつつ、プレゼント、どうしよう……などとほかのことを考えられるくらいには。
あいがー、あいがー、あいがーあっぱーかっ。
「だ、ダメだったらぁ……か、噛《か》んじゃダメえ……」
ストツー行為は忘れず、耕太は悩む。
去年は玉藻《たまも》さんの旅館で働かされていたから、きちんとクリスマス・イブをすごすのは、今回が初めてだ……これは、プレゼントにも気合いを入れなくちゃ……でも、どうしよう。前、ホワイト・デーのときは、ちずるに指輪を、望《のぞむ》にチョーカーを贈ったけど、今回は……うーん。服? イヤリング? バッグ? でも、あんまりお金ないし……。
ふんふんふんふんふん、百列張り手、ふんふんふんふんふん。
「や、やあ、舌、やああっ、んっ、んんっ、耕太、んんんーっ!」
ぎゅむー、とちずるに抱かれても、思索は止めない。
それにしても、クリスマス・イブかあ……。
最近、ただでさえちずると望の求めかたはすごいのだ。もう、言葉にならないほど……それが聖夜ともなったら、どうなるんだろうか。きっと燃える。聖夜が性夜、そして灼熱《しゃくねつ》夜へ。灼熱……炎……ファイヤ……よが、ふぁいや……。
よが、ふぁいや。よが、ふぁいや。よが、ふぁいや。よが、
「も、もうっ、耕太くん、ゆるしてっ!」
ちゅぽん。
耕太の口から、おっぱおが引きぬかれた。
あれ?
首を傾《かし》げる耕太の前で、ちずるは自分の胸元を抱くようにして押さえていた。
そしてなぜか涙目で、こちらを睨《にら》みつけていた。
わずかではあったが、座りながら後ずさりまでした。
「あ……あのー?」
「耕太くん、ちょっとえっちすぎるよっ! えっち赤ちゃんだよっ!」
「え? えええ?」
ぼ、ぼく……いまなにかした?
耕太が覚えていることといったら、ただちずるの『気』を吸いながら、クリスマスのプレゼントについて考えていたことぐらいで……なのに、あれ?
「ちうちう、かみかみ、なめなめ、舌でつんつんだけならまだしも、まるで舌先をドリルのように……もう、なんて上達の早さなの? 耕太くんにそっちの才能があるのは、いちいちツボは心得てるし、覚えは早いしで、身体で理解していたけど……うー」
きっ、とちずるに睨《にら》まれ、耕太はびく、と震えた。
「負けないもん」
「え」
ちずるは、自分の胸元を隠していた両腕をはずす。
だゆん、と大きくふくらみを揺らしながら、呼びかけた。
「望《のぞむ》、おいで!」
ストーブの前で丸くなっていた望が、ん? と身体を起こす。
「うー……まだおなか、ぐーぐー、してない……」
「ごはんの時間じゃない! いいから、早くきて! ほら、早く早く!」
「うー……」
ぐしぐしと目元をこすり、望はやってきた。
「なに? ちずる」
「まず、おすわり」
ちずるの指示どおり、望はぺたんと座る。
まだ寝ぼけているのか、犬のおすわりとおなじ、両腕を床につき、腰をおろした姿勢だった。ぬぼー、と、重たげなまぶたをかろうじて開けていた。
「ふふふ……」
ちずるは笑った。
笑いながら、艶《つや》やかに眼《め》を細め、耕太を見つめてくる。耕太の唾液《だえき》で濡《ぬ》れ光るおっぱおは、さいこくらっしゃーあたーっく、とさらけだしたままだ。
「耕太くんに……ひとつ、教えてあげる」
「な……なんでしょう」
「わたしが、どれだけえっちなのか」
「いえ、えっちなのは……」
よーく知ってます、と答えようとした耕太の唇が、ちずるの指先でふさがれる。
ちっ、ちっ、ちっ。
ちずるは唇に当てた人差し指を振った。
「耕太くんがその身体でよーく知っているのは、わたしの対男の子用の技でしょ。わたしはね、耕太くんが初めての男の恋人で、だから本当はあまりそっちは上手じゃないの。ね、すごいでしょ? 正真正銘の乙女なのに、あれだけがんばったんだよ? 褒めて褒めて」
わー。耕太は拍手した。ぱちぱちぱち。
「えへへ、ありがと。でね、耕太くんも薄々勘づいているとは思うんだけど……女の子とはね、わたし、初めてじゃなくて……そっちの技はけっこう得意なんだ。だからね、ふふ、耕太くんに教えてあげちゃう! わたしの、対女の子用の技! 秘技のすべて!」
「いえ、べつに……」
教えてもらわなくても、と答えようとした耕太の唇は、ちずるの唇でふさがれる。
ちゅっ……。
にこりと、いやらしさのかけらもないやさしい笑みが、そこにはあった。
「知ってもらいたいの。わたしのすべて……わたしが、どんなえっちな子だったのか、そのすべて。知って、耕太くんに変えてもらいたいの。みーんな、耕太くん色に。わたし、変わったよ? たとえば、前は、おしりぺんぺんするのは好きでも、されるのなんて考えたこともなかったし。だけどいまは……ああ、あの屈辱的な痛みが、たまらなくて……」
ちずるは腰を中心にぶるりと震え、うっとりと唇を噛《か》みしめた。
おっと、いけない。ぷるぷるっと小刻みに首を横に振る。
「だからね、知って? わたしのえっちさの、すべて。そして、変えて? 耕太くん色に、塗りつぶして? お願い……耕太」
「ちず……る」
にこー、とちずるが微笑《ほほえ》み。
続けて、横でぬぼーっとしている望《のぞむ》の唇を、なんと、奪った。
「ふもっ!?」
望が、眼《め》を大きく見開く。
抵抗しようと伸ばした腕を、ちずるはがっちりとつかみ、んちゅーれろれろれろ、その場に押し倒した。
「うもっ、はもっ、ち、ちずっ……んんん、ふー! ふふー! ふぉふぉー!」
ばたばたもがいていた望の動きが、しだいに弱まってゆく。
やがて。
「……お、おお? おおお?」
望は、とうーんとうるみきった眼をして、ぴくぴくと震え、そのなだらかな胸を呼吸でただ上下させるだけとなった。
ふふ……。唇をはずしたちずるが、望の顔を覗《のぞ》きこむ。
「やっぱり望、まだまだね。ぜーんぜん、女の子になってない。知ってる? 女の子ってね、もっともっと気持ちよくなれるんだよ? 耕太に触られたり、吸われたり、かじられたり、ぐにゅーってこすりあげられるのはとても気持ちのいいことだけど、もっともっと……ね。だってわたしは、望、あなたの何倍も気持ちいいもん。死んじゃうくらい、壊れちゃうくらいに。いまからそれを教えてあげる……あなたの扉、開いてあげる……」
ちずるが、自分の指先を、ちゅぷちゅぷと舐《な》めた。
「ち、ちず……」
反応しかけた望のズボンのなかへ、その濡《ぬ》らした指先が滑りこむ。望は弾《はじ》けたように動き、身体を丸め、ちずるにしがみついた。
「はぁ、んっ、ちずる、そんな、あ、や、ん、んんっ、そ、そこっ」
「いいの。いいのよ。怖くなんかないんだから。これを覚えたら……耕太くんを、もっと愛せるようになるんだから。……そう、わたしの代わりだって、できるようになる」
ぎゅーとしがみつく望《のぞむ》を、ちずるはやさしく抱きしめながら、いった。
止まらない。
望のズボンのなかへ入った指の動きは、止まらない。もぞもぞと、ズボンのふくらみごしにすさまじく細かくうごめくのが、ただ座って見守るばかりの耕太からもわかった。
そして。
「はっ、ははっ、はっ、ん、んー、んー、ちず、んんー……っ!」
望がちずるにしがみついたまま、痙攣《けいれん》した。
震えるだけ震え、かくん、と落ちる。
はー、はー、はー。
室内には、望の荒い呼吸だけが満ちた。
ぐきゅん。
これは耕太の喉《のど》を鳴らす音だ。ちずるは望のズボンから指先をぬきとり、濡《ぬ》れ光るそれをちろりと舐《な》め、続けて耕太を見つめてきた。
「さあ、耕太くん……きて。わたしの対女の子用の技、近くで見て。まだまだこんなものじゃないんだから。それをぜんぶ見て、そして覚えて。耕太くんなら、きっと見ただけで覚えられるから。そうしたら……わたしにも……それ……」
ちずるが、閉じていた太もものあいだを、すっ……と開く。
「耕太、は、や、く」
「ち、ちず……る……」
耕太は立ちあがった。
ふらふらとよろめきながら、ふたりへ近づいてゆき――。
★
「おーい、どうしたー? ちゃんと前見て歩かねーと、ケガすんぞー」
「え」
前で振りむき、呼びかけていたのはたゆらだった。
たゆらは制服姿で、両手でもって大量の用紙を抱え持っていた。いや、耕太も用紙を抱えていた。おなじく制服姿でもあった。まわりを見れば、学校の廊下だった。
「なんだ? なにボケてんだ、おまえ」
「あ……」
耕太は我に返った。
ここは学校だ。いまは社会の授業前で、砂原《さはら》先生に頼まれ、耕太とたゆらは授業で使うプリントを教室へと運んでいたのだった。
「ご、ごめん」
「なんだかな……朝からおまえ、ずーっとボケてねーか? 昨日、なにかあったのかよ」
「うん……女の子って、すごいな、すごすぎるなって。いや、もしかしたらぼくは、パンドラの箱を開けちゃったのかもしれない。あらゆる災厄を解きはなっちゃったのかもしれない。だけど、箱の底には希望が残っていたんだ……対女の子用の技という、希望が」
「いったいなにをいってるんだ、おまえは?」
しっかりしろよ、ととなりにきたたゆらが、耕太のおしりを蹴った。
「ああっ」
耕太はへろへろへろ、と前に流れ、そのまま立て直せず、転ぶ。抱えていたプリントが、床に盛大に散らばった。
「な、なんなんだよ、おいっ! どうしたっつーんだよ!」
「うう……」
足腰に、まったく力が入らなかった。
あまりにも『気』を放出しすぎだ……。
ずーっと毎日毎日、ちずると望《のぞむ》相手に、できなくなってもあの手この手で甦《よみがえ》らせられ、それこそ限界の限界の限界を突破させられてるのだ。たぶんだれだってこうなる。
「……ずいぶんと、お楽しみだったようだな?」
起きあがれない耕太を睨《ね》めつけ、たゆらはいった。
「の……ノーコメント」
「なにがノーコメントだ、くのっ、くのっ、くのっ」
「ああっ、止《や》めて、痛いよたゆらくんっ」
たゆらはプリントを抱えたまま、ストンピングストンピングと、足で踏みつけにしてきた。もちろん軽くだ。それでも耕太は、床に転がり、大の字となった。
「ったく」
「ごめーん……」
「謝んじゃねーよ、バカ」
ふー、とたゆらが大きく息を吐く。
「あのな、ちずるとおまえがそーゆー行為におよんでたって、べつにいまさら驚きもしねーし、嘆きもしねーよ。ムカツキはするけどな! なんてったって姉だしな! ちずると出会ったのは、おまえよりおれのほうが先だったしな!」
「ご、ごめ……」
「だから謝んな! なおさらミジメになるじゃねーか」
「ご……」
たゆらに睨《にら》まれ、耕太は床の上、自分の口を押さえた。
ふん、とたゆらが鼻で笑う。
「あのな、耕太……別れは、いつだって突然だ」
「え」
「いきなりくるもんさ。おれを見ろ。姉ひとり、弟ひとり、互いに助けあって、姉弟ふたり、世知辛い世の中をそれでも強く生きてきたというのに……突然の転校生に、いきなり奪われてよ! 姉を! ガキのころから、時には親として、時には姉として、ウン十年にわたっておれを育ててくれた姉さんを、こんなちんちくりんに! くの〜!」
たゆらは耕太の腹に膝《ひざ》をのせ、ぐりぐりとしてきた。
うひゃひゃひゃひゃ、と耕太は笑い転がる。
「ご、ごめん、ごめんなさい、だけどぉ」
「あー、わかってるよ! おまえだけが惚れてるっつーなら邪魔もできようが、ちずるも惚れてるんじゃ、どーしよーもねー! 泣く泣く我慢するっつーもんよ! 男らしくな!」
「あ、ありがとうございます」
「とにかく! たった十七年ぽっちしか生きてねー、まだまだガキなおまえには思いもよらねーことだろうが、別れは突然くる! だから……なんつーの、そう、日々を大切にすごすこった。なくなったときには、もう遅いんだからよ」
たゆらが、抱えていたプリントを床に置く。
耕太が廊下いっぱいに散らばしたプリントを、拾い始めた。
「あ……」
あわてて耕太も起きあがり、自分のプリントを拾う。
「その……たゆらくん、ありがと」
「おう。で、ときに耕太。おまえ、クリスマス・プレゼントはどーした? もう日はねーぞ」
「う」
思わず、プリントを拾う手が止まってしまった。
「まだ決めてねーのかよ……ったく、しゃーねーな。前にてめーに貸す金は一銭もねえといったが、ほかならぬ姉へのプレゼントだ。ちったあ融通してやってもいーぞ」
「う……うん。ありがと。だけど……」
「なんだ。いえよ」
「なにを買えばいいのかなあ……って」
「はあ?」
「ねえ、たゆらくん、ちずるさんって、どういうのが好みなのかなあ? ほしがってるものとか、わかんない?」
「……オトナの玩具《おもちゃ》とか?」
「あの、ぼくいま、かなり本気で相談してるんだけど」
「おれだって、いまけっこう本気で答えたんだけどな。んー、そーだなー……」
「――ピアスとか、どうかしら〜」
「ぴ、ピアス? でも……耳たぶに穴、開けるんでしょ? ぼく、ちずるさんの身体に傷、つけるのはあんまり。ちずるさんの耳たぶ、好きだし……えへへ」
「じゃあ〜……下着なんかどうかしら〜」
「し、下着!? 下着……下着。うーん、そうか、下着かあ……」
「けっこう喜ぶと思うわよ〜? ちょっぴりオトナな感じのとか〜」
「あ、でも、ぼく、白い、シンプルなやつのほうが好きだな……」
「あらあら〜、小山田《おやまだ》くんたら〜、趣味がちょっとオジサン入ってるわよ〜?」
でへへへ。
と笑って、耕太は気づいた。
あれ? なんだか相手がたゆらくんじゃないよ?
振りむくと、肩ごしに覗《のぞ》いたのは、丸い眼鏡に太い三つ編み、のほほんとした顔と、紺色のスーツがなかったらちょっと学生に混じってもわからない教師、砂原《さはら》幾《いく》だった。
「遅いから、迎えにきちゃった〜」
「す、すみませんっ!」
微笑《ほほえ》む砂原に、耕太は急ぎ床のプリントをかき集め、立ちあがる。
たゆらはすでに、自分のプリントを抱え持ち、知らん顔して前を歩いていた。
「た、たゆらくん、教えてくれたって!」
「気づかねーほうがどうかしてるだろ。ちょっと夜、励みすぎじゃねーのか」
「さ、さっき、日々を大切にすごせって!」
「大切にしろとはいったが、大量に放てとはいってねーんだけどなー」
「た、たゆらくーん!」
いいあいながら遠ざかる耕太とたゆらを、砂原幾はにこにこと見送っていた。
ふと後ろを向く。
幾の背中に、望《のぞむ》が隠れていた。屈《かが》みこみ、まるで物陰に隠れているかのように、ちら、ちらと顔を覗かせ、耕太へ注意深く視線を送る。
「護衛?」
「ん」
「ご苦労さま。源《みなもと》さんは〜?」
「ん」
望が、視線を耕太からは外さずに、指さした。
窓の向こうだ。いま幾と望がいるのは、L字型の校舎のその端側だったが、望の指先は、窓の向こう、逆側の校舎の端にあった。
校舎三階の、端。
窓ごしに見える廊下に、隻眼の巨漢、熊田《くまだ》と、短躯《たんく》のつんつん髪、桐山《きりやま》の、旧・新の両番長がいた。そして、ヒグマの妖怪《ようかい》である熊田と、かまいたちの妖怪である桐山の前には、ちずるの姿が。ちずるは熊田と桐山に向けて、なにごとか喋《しゃべ》っていた。
「なるほど。本当……ご苦労さまね、みなさん」
「ん」
「終業式まで……クリスマス・イブまで、もう、あと――」
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[#小見出し] 三、ぼくらの生涯の最良のとき[#「三、ぼくらの生涯の最良のとき」は太字]
1
いよいよ、終業式とクリスマス・イブは、手と手をたずさえやってきた。
すでに終業式を終え、あとはもう帰るだけとなった耕太《こうた》のクラスは、かなりにぎやかだった。無理もなかった。明日から冬休みだという開放感と、このあと家族や友人、または恋人とすごすイブへの期待感、そのふたつがいっぺんにおしよせているのだから。そりゃテンションだってあがる。ごく一部、逆にテンションがさがっているものもいたが。
その騒々しさが、一瞬ざわめき、そして止《や》む。
「……なによ、これは」
「決まってんだろ。クリスマスのプレゼントだよ」
静まりかえった教室に響く、男女の声。
女はあかねだった。
眼鏡ごしの眼《め》を丸くする彼女の前には、リボンに包まれた黒い箱があった。
渡した男はたゆらだった。
黒い箱を手に持った彼は、真剣そのものの顔で、あかねを見つめていた。
「は? クリスマス・プレゼントって……なにが」
あかねの声は、爆発的な歓声にかき消される。
クリスマス・イブのこの日に、想《おも》い人にプレゼントを渡すという果敢な行動を見せたたゆらには賞賛の声が、プレゼントをもらったあかねには羨望《せんぼう》の声が、それぞれまわりのクラスメイトから届けられた。
「へえ。ラブラブね」
「わー、いいないいなー。ねーね!源《みなもと》くん、わたしにはー?」
と、キリコもクールに感想を告げ、ユウキはビデオ撮影しながらうらやましがる。
「な、なな、なにを……」
ひたすら歓声を浴びるあかねの顔は、もう真っ赤だ。
へっ、とたゆらは笑う。
「そんなに深い意味はねーよ。いままで世話になったからな……その礼だ」
「お、おお、お返しなんか、用意してないわよ!」
「お返し? ああ、お返しのプレゼントか……はは、そーだな、もちろん期待させてもらうぜ? 委員長ともあろうものが、まさか人からプレゼントをもらうだけもらって、そのままってわけはねーよな?」
「なるほど。お返しをもらうのにかこつけて、冬休み中にデートする作戦ね?」
「わー。さすがはちずるセンパイの弟さんだね! 策略家だっ!」
キリコとユウキにコメントされ、たゆらはひときわ大きく笑った。
「ははっ、ま、そーゆーこった。じゃーな、朝比奈《あさひな》委員長。あとで連絡するわ!」
プレゼントをあかねに押しつけるなり、鞄《かばん》をひっつかみ、足早に歩きだす。
「ま、待って、ちょっと、源《みなもと》……こらー! 待ちなさーい!」
あかねの声を背に、たゆらは教室からでた。
「――ヘタレなおまえにしては、ずいぶんと思いきったじゃない?」
声をかけたのは、ちずるだった。
ちずるは、教室のドアのすぐ横の壁にもたれかかり、たゆらへ小さく微笑《ほほえ》みかけていた。たゆらはそのまま歩き、ちずるの前で立ち止まる。前を向いたまま、いった。
「ま、いちおー、思い残しておくことのないようにな」
「だったらいっそ告白したらよかったのに」
「もう会えなくなるのにか? 今日のが成功しようが失敗しようが、もう……ここには戻れなくなるんだぜ。朝比奈とは会えなくなる。下手すりゃ、一生な」
「べつにいいじゃない。どうせフラれるんだし」
「あのな! うまくいくかもしれねーじゃんか、万が一!」
けたけたとちずるは笑う。
ちっ、とたゆらは舌打ちした。
「おれのことはともかく、そっちはどうなんだよ? まだ耕太と最後の一線は越えてねーんだろ? あのな、ちずるみたいなのが思い残しのあるままこの世から去ったりなんかしたら、まちがいなく大悪霊になっちまうぞ? えっちがしたーい、てな」
「だーれーが、大悪霊だ! この……」
蹴《け》りあげたちずるの足を、たゆらはひょいと避《よ》ける。
「後世に害を残さないためにも、ちゃんとしてもらうこったな……最後までさ!」
そういい残して、たゆらは走り去った。
「――あれ、たゆらくん、そんなにいそいで……あたっ」
耕太は、前から駆けてくるたゆらにすれ違いぎわ、ぺしんと頭を叩《たた》かれた。たゆらはそのまま、手をひらひらと振りながら去ってゆく。
「うまくやれよー! このちんちくりんー!」
「ええ……?」
耕太はごみを捨てにゆき、空のごみ箱を抱えて帰ってきたところだった。となりには望《のぞむ》がいる。行きは手ぶらだった彼女は、帰りは焼きいもを持っていた。熊田《くまだ》が、外でたき火をして作っていたのを、みっつもらってきたのだ。すでにふたつはおなかのなかだった。
「あ、ちずるさん」
ちずるが、教室の入り口そばの壁によりかかり、こちらに向かって手を振っていた。
耕太は、ちずるのそばまできて、妙に教室が騒がしいことに気づく。
入り口からなかを覗《のぞ》きこむと、ひとだかりができていた。中心にいたのはあかねで、まわりからなにごとか訊《き》かれ、しかし両耳を手で押さえ、ぶんぶんと首を振っている。見ると、その顔はゆであげられたかのように真っ赤っかだった。
「……なにかあったんですか?」
「さあ? そんなことより、帰ろ、耕太くん。待ってたんだよ?」
「あ、はい……」
笑顔のちずるを、耕太はとても見ていられず、うつむく。
恥ずかしかったからだ。
「約束どおり、今日はずーっと、わたしとふたりきり……ね?」
そう、今日はちずるとふたりっきりだった。
クリスマス・イブに、ちずると、ずっと、夜まで、いや、もしかしたら翌朝まで? 頬《ほお》を熱くする耕太の横で、望が残りのいもを、ぽいとひとくちに食べた。むぐむぐ、ごくん。
2
耕太にとって、それは予想外だった。
てっきり、イブはちずると望の三人ですごすのだと思ってばかりいたのだ。なのに、望は急用ができてしまったとかで、いない。だから、すっかりクリスマス一色に染めあげられた街のなかを、耕太はちずるとふたりだけで歩いていた。
いま歩いているのは、アーケード街だった。
夜空の星こそ見えないが、星形の飾りはあちこちにあるなか、肩がぶつかるほどの人混みを、ふたり、ぴったりとくっついて進む。耕太はコートに、あのちずるの手作りの黒いよれよれマフラー、足はジーンズ。ちずるは丈が短めのブラウンのコートに、赤いスカート、そして黒いニー・ソックスといった、よそ向きの格好だった。
ふたり、会話はない。
耕太は予想外の状況に緊張しまくっていたし、ちずるもうっとりと腕にしがみつき、ぬくもりを伝えてくるばかりで、言葉を発そうとはしなかった。それで充分に満足だった。耕太は満たされていたし、おそらくはちずるもそうだろうと、どうしてか思えた。
やがて、耕太とちずるは、クリスマス・ツリーの前へとたどりつく。
ライトアップされたもみの木を、ふたりそろって見あげた。
てっぺんに飾られた大きな星から、視線は奥にたつ、高層ホテルへと。
「さ、いこ、耕太」
「う、うん……ちずる」
わー、何十階あるんだろ……とため息まじりに見あげていた耕太は、ちずるに腕を引かれるまま、ホテルの入り口を通った。
慣れない耕太は、なかに立つドアマンがした礼に、思わず礼をし返してしまった。
★
えーと。
耕太の前には、『イカとオクラのタルタル、ムール貝のマリネサラダ添え』という名の料理があった。しっとりと落ちついた照明の下でも色鮮やかな、美しくも食欲をそそるオードブルだ。そのさっぱりした感じは、このあとに控えるメインディッシュ、『米沢豚、肩ロース肉のローストと煮こみ盛りあわせ、シュークルート添え』なんて、なんだかすっごく食べごたえのありそうな料理の前菜としては、じつにふさわしく思えた。
けど。
耕太は、右に持ったナイフを見る。
続けて、左に持ったフォークを見る。
ぴこびこと上下させてみる。ぴこぴこ、ぴこ。
「――ね、お箸《はし》にする? いえば持ってきてくれるよ?」
テーブル席に耕太と向かいあって座るちずるが、小声で尋ねてきた。コートを脱ぎ、ジャケット姿となったちずるは、すでに慣れた手つきで、皿のムール貝にナイフを入れ、フォークを刺している。おなじくコートを脱いで、着慣れないジャケット姿だった耕太は、ぶんぶんとナイフとフォークを横に振った。
「あ、いや! 平気です! ナイフとフォークで、ぼく、平気!」
「フランス料理だからとか、そんなの気にしなくてもいいんだよ。食事なんて、楽しく美味《おい》しく食べられたら、それがいちばんなんだもん。耕太がお箸《はし》にするなら、わたしもお箸にする。いっしょにお箸、ね?」
ちずるの誘いは、ナイフとフォークを使った食事に不慣れな耕太には、とても甘美なものに聞こえた。『いっしょにお箸』が、とくによかった。
でも。
「いや……やっぱりこのままがんばってみる。慣れてないからって避けてちゃ、ずっと苦手なままだと思うんだ。だからこのまま、ナイフとフォークで」
「うん、そうだね。じゃ、わたし、教えてあげる」
「はい、お願いします」
にこ、とちずるに微笑《ほほえ》まれ、耕太も、にこ、と微笑み返す。
よし……と耕太はナイフとフォークをつかみ直し、皿へと向かった。
静かにピアノが流れ、窓からは夜景が覗《のぞ》け、メニューはフランス語で、もちろん読めない耕太はちずるに注文してもらった、まわりのお客さんの年齢層も高めな、ホテル内のオトナスポット・レストラン。そう、ここはオトナスポットなのだ。耕太は、この場所をかたちつくるすべての要素に、高濃度なオトナパワーを感じずにはいられなかった。
きっと、ここでの経験はぼくをひとつオトナにする。
立派な一人前のオトナへ……まずはナイフとフォークの使いかたから。うん。
「あのね、耕太」
「う……うん?」
ああ、たてまいとすると、かえって食器の音はあがってしまう。どうしてもちずるさんのように、静かに食べることができない。耕太はちずるに生返事しながら、ナイフとフォークの動きに意識を集中させた。
「今日、部屋、ここにとってあるんだ」
「そ……そうなんですか」
うー、サラダって、フォークの先で突き刺して食べていいんだろうか? ここはやはり、フォークをスプーンのように使って、のせて、口に運ぶべきか……くっ、オトナ技術め!
「ちょっと奮発して、スイートルームにしちゃった」
「なるほど、スイートルームですか」
「うん。初めての思い出になるだろうし」
「ふんふん、初めての……え?」
耕太は手を止め、顔をあげる。
「あの、いま、なんて……」
「わたし、本気だよ」
ちずるは耕太の眼《め》を見ず、視線を自分の皿に向けたまま、ナイフとフォークを使いながら、いった。サラダをフォークにのせ、口に運ぶ。
「だけど、耕太が嫌だっていうなら、止《や》める」
黙々とオードブルを食べ続けるちずるとは裏腹に、耕太の手は止まってしまった。
ぼく……ここで、オトナに……?
ひとつどころじゃなく、もしかしたらたくさん、ものすごくオトナに……?
★
耕太は、固まっていた。
三人で寝てもぜんぜん余裕があるほど大きなベッドの、その端に腰かけ、がっちがちに固まっていた。前には、ほぼ壁一面といっていいほどに大きなガラス窓があり、それはそれは見事な夜景が広がっていたが、もちろん、いまの耕太に景色を楽しむ余裕なんかなく。
室内は暗い。
照明といえるものは、いま耕太が腰をおろしているベッド、その脇《わき》で淡く点《とも》る、奇妙にねじくれたかたちのえらく高そうなベッドライトぐらいなものだった。
オレンジ色の、ぼんやりとした灰暗《ほのぐら》い光に、耕太は照らされ。
耳に届く音といえば、くぐもった小さなシャワー音だけ。
音が小さいのは、バスルームが遠いからだ。さすがはスイートルーム、客間やらなにやらやたらと部屋があり、しかもそれぞれが広かった。結果的に、いま耕太が固まっているベッドルームと、ちずるがシャワーを浴びているバスルームの距離も、遠かった。
シャワー……。
ぐきゅりと、耕太は喉《のど》を鳴らす。
この音が止めば、ちずるはやってくる。耕太のベッドルームへ。ベッドに入りに。
いいのか。
このまま……ぼく、いいのか?
まだぜんぜんオトナじゃないのに。責任なんてとれやしないのに。なのに。だのに。
「いや、違う……」
イイワケだ、そんなの。
ぶんぶん。耕太は首を横に振った。
たしかあれは夏、そう、ちずるを初めて呼びすてにした海水浴で、きもだめしのため海岸の洞窟《どうくつ》に入ったとき。そこで、ちずるがいった。いや、実際はちずるの母である玉藻《たまも》さんの言葉だったか、要約するなら、『避妊具つければ本気えっち違うよねー』。
強引にもほどがある論理だが、ひとつの真理ではある……と耕太は思う。
つまり、責任をとらなくてもいい状態にできるのなら、えっちを拒絶する理由なんか、本当は耕太にはないはずなのだ。
なのに、耕太は拒絶している。
ときにちずるを哀《かな》しませてまで。
自分の肉体のみならず、ちずる、望《のぞむ》の肉体を『気』によって変質させてまで。
「ぼくは……ただ、臆病《おくびょう》なだけだ」
恐《こわ》いのだ。
なにを? なにを恐れてるんだ? わからない。言葉にできない。だけど、たしかに、なにかをぼくは恐れている。失うこと……変わること? 変化してしまうこと?
「ううう、バカ! ぼくのバカ!」
耕太はベッドを殴りつけた。
ばすっ。ばすばすっ。たてつづけに軽い音をあげる。
ぎりり、と奥歯を噛《か》みしめ――。
「……しよう」
ちずるさんと、しよう。
本気えっち、しよう。
ちずるさんの想《おも》いに応《こた》えよう。きっと今日、望さんがいないのだってそのためだ。あれで望はアイジンとして恋人であるちずるに気をつかう。初めての瞬間を、ぼくとちずるさんのふたりだけで迎えられるよう、たぶん彼女は引いてくれたのだ。
よし……と耕太は覚悟を決め、あ、そうだ、と思いだす。
ジャケットのポケットを探った。
指先に箱の感触を確かめ、ふう、と息を吐く。
「……ちずるさん、喜んでくれるかな」
ちずるへのクリスマス・プレゼント。
中身は、おそろいの――。
と、シャワーの音が止まった。
耕太はわたわたとあせり、とりあえず立ちあがる。ドアの側を向き、そのまま、立って待った。
やがて……ドアが開く。
「……待たせちゃったね」
白いバスローブ姿の、ちずるがあらわれた。
首筋と胸元の白さがあまりにあでやかな彼女に、耕太はぶんぶんと首を横に振る。
「ま、待ってません! ちっとも!」
くす、とちずるが笑った。
耕太は、ぎく、しゃく、とぎこちない動きで歩きだした。
「つ、つぎはぼくが、シャワーを……」
「いい」
ドアの前に立っていたちずるに、そっと止められた。
「え」
「そのままで……いいから」
「い……いや、だって、ぼく、一日中このままで、だから、きっとすごく汗くさくて……あ、ぼく、このまま逃げたりなんかしませんよ! ごしごし洗って、すぐに戻って……」
ううん。違うの。
小声でいって、ちずるが首を振った。濡《ぬ》れた肌から、ボディーソープが香った。
「そのままの耕太くんが……いいの。こんなこといったら、た、たぶんすっごく引くと思うんだけど、わたし、やっぱり元はケダモノなんだなーって思うんだけど、その……こ、耕太くんの匂《にお》い、好きだから……匂い、強いほうが……」
あー、と顔を手で覆う。
「ごめん! やっぱりいい! いって、シャワー浴びてきて! あー、もう、わたし、なにいってんだろ……もう、ヤダヤダ、お互い初めての、記念すべき日なのに……うー」
目元に浮いた涙をぬぐいだす。
そんなちずるを、耕太は抱きしめた。
「ひ、あ……こ、耕太くん?」
「……ちずる。ひとつ忘れてますよ。ふたりきりのときは……」
抱きしめられて、ぴきーんと身体を強《こわ》ばらせた恋人の名を、耕太はやさしく呼んだ。
「あ、ご、ごめん! 耕太く……ううん、耕太! あー、わたし、自分からいいだしたのに、呼びすてのこと……なのに、自分で忘れるなんて……もう、テンパりすぎ……」
「ちずる」
「は、はいっ」
「ぼくも、ちずるの匂《にお》い、好きです。だからぼくもケダモノです」
「あ、ごめん。シャワー、浴びちゃった」
「いえ。でも……ひとつお願いして、いいですか」
「……な、なあに?」
「狐《きつね》の姿になってください。ぼく、本当の姿のちずると、したい。初めては、それがいい。いや、そうじゃなくちゃ、いやだ」
ちずるが、一瞬、息を止めた。
ゆっくりと吐き、それから、耕太をしっかりと抱きしめ返す。
「わたし……耕太のこと、好きになってよかった」
「ぼくも」
「耕太……」
「ちずる」
唇を、重ねた。
ふぁさり、床にちずるのバスローブが落ちる。
★
「――あ、そうだ。あれ、つけないと」
「いいから」
「え」
「今日、だいじょうぶな日だから」
「だ、だけど」
「お願い。初めては、やっぱりそのまま……ごめん、やっぱりケダモノっぽいね、わたし」
「う、ううん。そんなことない。ぼくも、できればそのまま、ちずるさんとひとつに」
「じゃあ」
「うん、このまま、いきます」
「ありがと……耕太」
「では……えと……こ、ここですか?」
「もうすこし……下」
「……こ、ここ?」
「やっ、そ、そこは下すぎ。もうちょっと上」
「あ……こ、ここですね?」
「そう……そこ……そこが、わたしの……」
「じゃ、じゃあ、いくよ、ちずる」
「うん。わたしのこと、耕太のものにして……」
「……くっ」
「……あっ」
「くくっ、ちずるっ」
「あっ、あっ、あっ、すこしずつ、入って……ああ、耕太、やっぱり、ごめんねっ」
「や?」
突然、ちずるが腰を引いた。
そのため、軽く埋まりかけていたのが位置がずれ、ちゅるるんとちずるのやわらかな谷をすべりあがる。すっかり高まりきっていた耕太は、たまらず。
「あうっ」
ぎゅっと身体をしぼり、こらえきれず、弾《はじ》け散らした。
その痙攣《けいれん》は、ちずるの身を汚すことはなかった。身体を起こしたちずるが耕太の腰を抱き、やわらかく熱く包んで始末していたからだ。始末され、止まらなくなった。ぎゅーっと、どこまでも昇りつめてゆくような破滅的頂上感にとらわれ、そして耕太は。
あ。
闇《やみ》へと。暗転。
★
スイートルームの、ドアが開いた。
カートを押しながら入ってきたのは、ホテルのスタッフだった。どうやらルームサービスらしいが、それにしてはドアをノックした気配すらない。
小柄なスタッフは、カートを押し、客間からそのままベッドルームへ。
ベッドルームには、ちずるがいた。
輝かんばかりの金髪と、狐《きつね》の耳、しっぽ、そして弾けんばかりの裸身をさらしたままで。
ちずるは、無言で入ってきたスタッフを気にするそぶりもなく、その大きなふくらみを、おしりを、太ももを、すべてを大胆にさらけだしたまま、ベッドにシーツをかけられて横たわる耕太を、静かに見おろしていた。
スタッフが、すんすん、鼻を鳴らし、室内の匂《にお》いを嗅《か》ぐ。
「ちずる……しなかったの?」
「うん。しなかった」
「どーして?」
スタッフの正体は、望《のぞむ》だった。
ホテルの従業員の格好をした望が、カートを押し、この部屋へとやってきたのだった。
「イタイの、コワかった?」
「ううん。痛いのはべつに……だって相手は耕太くんなのよ? どれだけ痛くても、平気。どんな痛みだって、悦《よろこ》びに変えてみせるもん」
「ちずるは、ホントーにヘンタイだね」
「なによ、望《のぞむ》、あなただってそうでしょ」
「わたし、ヘンタイ、違うよ?」
「じゃあ、その首輪はなによ」
「ん」
望は、自分の首に巻かれたチョーカーに触れた。それはかつて耕太が贈った、狼の飾りがついたチョーカーだった。
「ふくじゅーのしるし」
「そういうのを世間ではヘンタイっていうんだけど。服従の印なんて……ふふ、もちろん、わたしもあなたのことはいえない。わたしたちのすべては、耕太のものなんだ」
ちずるが自分の手の甲をかざす。
その薬指には、銀の指輪があった。やはりかつて耕太が贈った、銀の指輪だった。
「だからね、やっぱり悪いじゃない。おなじひとを愛したものどうし、抱かれるのなら、やっぱりふたりいっしょじゃないと……さ」
ちぇー、と望は舌打ちした。
「ちずるがしないんじゃ、わたしも耕太と本気えっち、できない……。せっかくちずるがいないあいだ、耕太とたくさんたくさんしようと思ってたのに」
「なるほど、そうしてわたしから耕太くんを寝取ろうと」
「うん、もちろん」
「それがわかっていたからしなかったのよ!」
と、怒鳴ったちずるの表情は、しかし笑顔だった。やれやれ、とため息をつく。
「ね、持ってきてくれた、着替え」
「ん」
望は、押してきたカートから紙袋をとりだした。
ちずるは受けとり、なかを覗《のぞ》きこむ。
「……なに、これ」
「ん? 動きやすい服っていったから」
「いや、たしかに動きやすそうではあるけど……ていうか、そもそも肌、あまり覆ってないというか……ぴちぴちの、ぱつぱつというか……」
「ん? ダメ? ぶるまとか、れおたーどとか、ふんどしとか、迷ったんだけど」
「なるほど、よくわかった。あなたに服を頼んだわたしがバカだったってことが」
ん? 望は首を傾《かし》げるばかりだった。
「耕太くんのこと……お願いね」
ちずるはベッドで死んだように眠る耕太を見つめながら、いう。
「計画どおり、わたしたちで『気』を限界まで使わせて……さっき、ぎりぎり残ってたぶんも吸って、完全に空っぽにしちゃったから、たぶん、三日は眼《め》を覚まさないだろうし、やつらに探知されることもないとは思うけど」
「おう、まかせろ」
望《のぞむ》が、自分の胸を叩《たた》き、答えた。
「だから、ちずるも……」
「ん?」
「死なないでね」
望はまっすぐにちずるを見つめていた。
「生きて返って、ぜったい、いっしょに耕太と本気えっち、しようね」
ふっ、とちずるは笑う。
「死ぬわけないでしょ。絶対に死なない。生きて返ってくる。生きて耕太くんと……あ、そうか。もしかしたらわたし、耕太くんとしなかったの、だからかな?」
「そうだね。耕太とえっちするまでは、ちずる、殺しても死なないもんね」
「まったくだ! 殺されたって甦《よみがえ》ってやる! 愛の力をなめるなよ!」
ちずると望は、ひとしきり笑い――。
最後に、こつん、と拳《こぶし》を打ちあわせた。
もう、言葉はなかった。
[#小見出し] 四、或る夜の出来事[#「四、或る夜の出来事」は太字]
1
耕太《こうた》は、走っていた。
時はいまだ夜明け前。人の気配はまったくなく、星空の下、月と街灯だけが灯火の住宅街の道路を、口から白い吐息をこぼしながら、進む。
前には、ちずるの姿があった。
まとめた長い髪が、ポニーテールの名前どおり、リズミカルに揺れる、踊る。後ろから見ても、その走りは軽やかなものだった。
ちずるの格好は、カラフルなスポーツウェアだ。
そして耕太の格好は、学校指定のジャージ。
つまり耕太とちずるはジョギングをしていた。なぜにそんなことをしているのかといえば、例の『気』のせいだった。耕太が一日になんども『気』を放たなくてはならなくなった原因、それは『気』がありあまっているからだ。ならばべつの方法でぬけばいい。
だから、ジョギング。
適度な運動による、発散。
ある意味、青少年における定番の解消法というか、まともな解消法というか。ともかく、こうして『気』を運動によって発散しておけば、ちずると望《のぞむ》にかかる負担も減るだろう。
減る……あれ?
いや、でも最近、逆だったような……あれれ?
減るどころか、ちずると望の負担はムチャクチャ増えて、耕太はもう、すかすかのへろりんぷーにされてしまったような……あれれのれー?
「耕太っ」
「わっ」
気がついたら、ちずるは耕太の横に、ならんで走っていた。
その胸元ときたら、軽やかなちずるの走りとは裏腹に、ゆたっゆたっゆたっゆたっと、じつに重たく……す、すごいやっ。ちずるさん、やっぱりすごいやっ。
「耕太の、えっち」
「え」
じーっとちずるは、鋭くさせた眼《め》でこちらを見つめていた。
胸を張り、あえてなのか、揺さぶりだす。
だゆんっ、だゆんっ、だゆんっ、だゆんっ。
「ち、ちずる……重たくは……痛くは……」
「重いし、痛いよ、もちろん?」
いいながら、上のウェアを脱ぎだした。
あ……と耕太が見ている間に、脱ぎ去り、後ろへと放《ほう》る。ウェアはひゅるりらと風に舞い、夜の闇《やみ》に消えていった。
「ち、ちず……おおっ」
ウェアの下は、スポーツブラだった。
黒いブラに包まれた球体が、ゆたたたゆたたた、上下に動く震える暴れる。鎖骨のあたりから流れた汗が、ブラに染みた。汗は香る。ちずるの汗は、冷たい外気をとおしても、甘ったるかった。どこかアーモンドを思わせるような、甘く、香ばしく、心くすぐる……。
「これ、ほしい?」
ちずるが横目で尋ねてきた。
「う、うんっ」
耕太は素直にうなずく。
なぜだか、いまはとても素直な気持ちになれた。いつもより、はるかに。
「だったら……捕まえてみてっ」
ちずるがそのスピードをあげる。
「あ、ち、ちずる……う、うおおー!」
耕太は追った。
その後ろ姿を、踊る長いポニーテールを、ゆたたたゆたたたを、すこしばかり乱暴な感情のおもむくままに、獲物を追う肉食獣のようないきおいで。
ぼくはライオン、がおー!
「待てー!」
★
「ま、待て……ぼくの……」
ぱいぱいぷぅ。
耕太の声は、車内に小さく広がった。
乗車席が三列の、いわゆるミニバンに乗っていた乗客たちが、いっせいに真ん中、二列目の席で眠りこけているはずの耕太を見つめる。
「……パパ?」
「……まさか、起きてますか?」
最後尾、三列目の座席から覗きこんでいたのは、蓮と藍だった。双子の少女は、薫風高校の制服姿で、互いの顔をならべ、心配そうに見つめていた。
「ん……だいじょうぶ、だと思う」
答えたのは、耕太の頭をその太ももの上にのせていた、望《のぞむ》だ。
望は、あのホテルのスタッフの姿のまま、二列目の座席で耕太を膝《ひざ》まくらしていた。まるで赤ん坊にように身体を丸めて眠る耕太の頭を、ゆっくりと撫《な》でる。うにゃうにゃ……耕太はしあわせそうに微笑《ほほえ》み、『ぱい……ぷぅ』とつぶやいた。
「そう簡単に、目覚めはせんよ」
最前列、助手席に座る女性が、いった。
丸眼鏡に、太い三つ編みの彼女は、薫風《くんぷう》高校の教師、砂原《さはら》幾《いく》――いや、その紅《あか》く光る眼《め》は、〈御方《おかた》さま〉のものだった。振りむかず、〈御方さま〉はいう。
「『気』が空なのだ……まともなニンゲンであれば、絶対に目覚めぬ。まちがいなく三日は、そのまま眠っておるはずじゃ」
「ですが、〈御方さま〉……」
その声は、となりで車を運転する鋭い三白眼の男、黒いスーツ姿の八束《やつか》たかおからあがった。幾とおなじく薫風高校の教師である彼の視線は、バックミラーごしに望《のぞむ》の太ももで眠る耕太へ、鋭く注がれていた。
「『気』が空の人間は、普通、死んだように眠ります。あのように、寝言など」
「ま、こやつは普通ではないからの」
〈御方さま〉はあっさりと認めた。
「その身に眠る『気』の量が、まったく尋常ではないわ。『気』だけなら、わしなどおよびもつかぬほど……だがの、だからこそ逆に目覚めはせん。いちど空っぽになってしまえば、目覚めるていどの『気』を得るのですら、時間がかかってしまうのだ。普段、あまりに膨大すぎる『気』で生きている弊害というやつじゃの。ま、そんなに気になるのなら、わし特製、眠りのお札も貼《は》っておこうかい」
と、〈御方さま〉がふところから複雑な文字の書かれたお札をとりだす。
「これで、絶対に目覚めぬ。たとえ……これよりちずるの身になにが起ころうとも……の」
その言葉に、蓮《れん》と藍《あい》はうつむく。
望は表情を変えず、彼女に頭を撫でられている耕太は、はたしていかなる夢を見ているものか、『ぱい……?』とつぶやいた。
〈御方さま〉たちは、車に乗っていた。
乗って、走っていた。
夜の道を、あえて高速道路にはのらず、下道を使って。薫風高校がある街では降っていなかった雪が、フロントガラスに散りだした。八束はワイパーを動かす。
耕太をのせた車は、北へ、北へ――。
2
「なんともまあ」
校舎の屋上からあたりを見回し、たゆらは声を洩《も》らした。
なんともまあ。髪を銀髪に転じ、狐《きつね》の耳としっぽを生やした〈化け狐〉の姿で、たゆらはもういちどつぶやく。
薫風《くんぷう》高校は、完全に包囲されていた。
まず、わかりやすいのは校庭だ。
たゆらが屋上から見おろす薫風高校の校庭には、ずらりと人影がならんでいた。一糸の乱れもなく整列するその姿は、全校集会に参加する生徒たちのように見えないこともない。が、もちろん生徒などではなかった。
彼らは、退魔の組織である〈葛《くず》の葉《は》〉、三珠《みたま》家の本隊だった。
〈葛の葉〉をまとめあげる立場にある三珠家は、戦闘も法術も、それなりに使いこなすことができる。戦闘では八束《やつか》家と七々尾《ななお》家、法術では土門《つちかど》家と、それぞれのエキスパートである家にはかなわないが、逆に総合力では、八家すべてをうわまわっていた。
その三珠家の本隊が、校庭に居ならぶ。
頭には黒くつや消しされたヘルメットをかぶり、身体には防弾チョッキらしきものをまとっていた。手《て》っ甲《こう》、すね当てもつけ、その手にはなんと、マシンガン。まるで軍隊だ。
「なんだかなー。あれが妖怪《ようかい》退治の格好か?」
「三珠家だからな、しかたもないのだよ、源《みなもと》たゆら」
たゆらのつぶやきに答えたのは、細い眼鏡がインテリ臭を放つ細身の男、馬頭《めず》だ。
かつて薫風高校に通い、いまはもう卒業したはずの〈妖馬《ようば》〉の妖怪が、なぜかいま、たゆらといっしょに、薫風高校の屋上にいた。
いや、馬頭だけではない。
巨漢の元番長、〈妖熊《ようゆう》〉熊田《くまだ》彗星《すいせい》に、つんつん頭の〈かまいたち〉桐山《きりやま》臣《おみ》、おかっぱ頭の〈かえるっ娘〉、|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》の姿までもがあった。その全員が、薫風高校の制服姿だった。
「あん? 三珠家だから?」
たゆらの問いに、馬頭はうむ、と眼鏡のフレームの真ん中を押さえながらうなずく。
「三珠家は、『刀』の八束家や『鎖』の七々尾家などと違い、得意とし、代々伝承する武器がない。逆にいえば、縛るものがなく、なにを使おうが自由だということだ。あのような近代兵器も、なんらこだわることなく導入できる。はは、当たるときっと痛いぞー、源たゆら? おそらくは、なんらかの法術がこめられた銀の弾丸だろうからなー」
はははは、と笑った。
「あのな……」
なにがおもしれえんだ、といい捨て、たゆらは視線を外へ向ける。
薫風高校は、街の中心からは離れた場所、ちょうど住宅街のなかにあった。裏にはちょっとした林もある。
それらすべてから、多くの気配が届いていた。
校庭の三珠家とは違い、姿はない。だが気配は消していない。消すつもりがないのだ。完全なる示威行動、脅しだった。
もう逃げられはしない。覚悟を決めろ。
うっすらとした殺気すら漂わせる気配の群れに、たゆらは口元を苦くゆがめる。
「どれだけいるんだろーな」
「〈葛《くず》の葉《は》〉の八家、すべてだろうなあ」
こんど答えたのは熊田《くまだ》だった。
左目に星のような十字の傷を刻んだ大男、熊田は、喜びの笑みを浮かべていた。
「八家、すべて?」
「うむ。あそこにおる三珠《みたま》家に、闘いを司る八束《やつか》、七々尾《ななお》の両家、法術を司る土門《つちかど》家はいうにおよばず、諜報《ちょうほう》担当の悪良《あくら》家、武具製造の多々良谷《たたらや》家、そして……」
「九院《くいん》家だ、熊田さん。おれたちとおなじ、妖《あやかし》たち、集まった家」
桐山《きりやま》が、鋭い目つきで、いった。
「あいつらが……ウラギリモノが、いる家……」
怖い顔で笑い、ぎらりと八重歯を覗《のぞ》かせる桐山に、斜め後ろに立つ澪《みお》が、「桐山くん……」と、すがるような視線を送った。
熊田は、そんな桐山を見て、ふっ……と静かに笑う。
「そうそう、九院家だな、桐山番長。それと、砂原《さはら》家」
「砂原家ェ!? どーしてだよ、ここに御当主さまがいるってーのに……まさか、ここに〈御方《おかた》さま〉がいないの、バレてんのか?」
小声で尋ねたたゆらに、熊田は「違うな」と断言した。
「気づかれてはおらんはず……というかな、たゆらよ。砂原家は砂原家で、生き残るのに必死なのだ。当主が〈葛の葉〉に対し裏切り行為をおこなっている以上、なおさら砂原家自身で当主を押さえねば、もろとも家がつぶされてしまうからな」
けっ、とたゆらは吐きすてる。
「政治ってやつかよ……まったく、ニンゲンたちはめんどくさいねえ! いや、組織ってやつか? ま、なんにせよ、〈葛の葉〉は本気ってわけだ。本気も本気、全力でもって、〈御方さま〉をぶっ倒して……〈御方さま〉が隠し、いままで守ってきた〈八龍《はちりゅう》〉を、ちずるを、奪いとるつもりなわけだ!」
「――そういうことねっ」
その声は、空からやってきた。
闇《やみ》にきらめく黄金色の髪。
尖《とが》る狐《きつね》の耳。ゆらぐ幾本もの炎のしっぽ。
ちずるだった。
〈葛の葉〉が〈八龍〉として狙《ねら》う彼女、源《みなもと》ちずるは、本来の狐のしっぽと、〈龍〉と呼ばれる六本のしっぽを生やして、空を飛び、この薫風《くんぷう》高校の屋上へとやってきたのだ。
「ちず……るぅ?」
たゆらは顔を喜びに輝かせかけて、すぐに怪訝《けげん》なものへと変える。
「な、なんだよ、その格好は?」
ちずるは、女王さま然とした深紅のボンテージ・ルックだった。
その身を包むぴっちぴちでつっやつやなエナメルのビスチェとショーツは、胸元は大きく広がって白い谷間をさらけだしてるし、股《また》ぐらは角度急なハイレグ・カットだしと、戦場仕様と扇情仕様を勘違いしたのではないかと思われるほどのものだ。足にはやはり革のロングブーツを履いていたが、ぱっつんぱっつんな太ももはすっかり丸見えで、あまり身を守る助けにはなりそうにない。
「おまえ……初めて結ばれる夜に、のっけからそういうSでMなプレイって……いくら耕太が銀河エロス大帝だからって、あまりにも覇道を極めすぎじゃね?」
「違う! たしかにその気があることは認めないでもないけど、わたしは耕太くんの前ではM! えむえむっ! そして耕太くんはS! えすえすっ!」
「うーわー、聞きたくねー。姉の性癖なんて、弟としては聞きたくねー」
げんなり顔で耳を押さえるたゆらの前で、ふふん、とちずるは胸を張る。
ぴちぴちのビスチェはさすがで、ちずるの胸ほどの質量であっても、揺らさずしっかりと納めていた。
「……ふむ。意外と望《のぞむ》のセレクトも悪くない、か」
ちずるはめずらしく揺れず、邪魔にならない自分の胸を見おろし、つぶやく。
「あん? なんだって?」
「なんでもないっ! それより、あなたたちっ!」
ちずるが、熊田《くまだ》、桐山《きりやま》、澪《みお》、馬頭《めず》たちへ、金髪をなびかせながら身体を向ける。
「――ありがとう」
突然、おまけに深々と、頭をさげた。
鋭かった桐山の眼《め》が大きく見開かれ、半分おしり丸見えのちずるの姿に顔を手で覆っていた澪が、ぽかんと口を丸くする。馬頭は黙って眼鏡の位置を直し、熊田はただ、むっふっふ……と笑った。
「あなたたちには、本当、いくらお礼をいっても足りない。耕太くんのために……ううん、わたしたちのために、下手すれば死んでしまうかもしれない、こんな危険な戦いにかりだしてしまって……もし生きて帰ることができたら、みんなには、わたし、どんなお礼でもするから。あ、もちろん、えっちはダメよ? だってわたしの身体はわたしのものじゃなくて、耕太くんのものだからっ」
うふふー、と腕と腕を絡め、くねくねしだす。
そんなちずるを、たゆらは眼を両手でこすりながら見つめ、いった。
「ちずるが……あのちずるが、ほかのやつに頭をさげるなんてっ!」
「あのね、たゆら。わたしだってお礼のひとつぐらい、たまにはするっての」
「いや、だって……」
ん? たゆらは首を傾《かし》げる。
「ところで、どーしておれにはお礼、ないわけ?」
「だっておまえがわたしのために命を張るのは、しごく当たり前のことでしょーが」
「あ、あのなっ」
「――べつに礼、いらないぞ」
桐山《きりやま》がいった。
「おれ、ここに残ったの、闘いたい相手、いるから。あいつら、やってくるってきいたからだ。だからおまえに礼、いわれるスジ、ない」
「ああ、あの、あなたのご兄姉だっけ? でも闘えるかどうか、わかんないわよ」
「いえ、その心配はないでしょう」
いったのは馬頭《めず》だった。
「〈葛《くず》の葉《は》〉に従う妖《あやかし》が集められた部隊、九院《くいん》家……まちがいなく投入されるはずです。なぜなら、我ら妖の命、彼らにとっては人のそれより軽いですから」
ふっ……とちずるは腰に手を当て、笑う。
「たしかに……ね」
「あの、ちずるさん、わたしも、お、お礼は、いらない、です」
おずおずと、澪《みお》が桐山の後ろからでてきて、いった。
「わたしの力で、み、みんな助けられたら、そ、それが」
「みんなっつーか、桐山を助けられたらのまちがいじゃねーの? 澪ちゃん」
「はううっ」
たゆらは茶化して、桐山とちずるの両者から尻《しり》を蹴《け》り飛ばされた。ぎゃうっと鳴く。
「澪の汗、みんなの傷、治す。すごい力だ。バカにする、コロスぞ」
「ば、バカになんかしてねーっての……いわゆるひとつの真実を的確にだな」
無言で桐山は手刀をあげる。
空気の刃を飛ばすのを、たゆらのつっこみで顔を真っ赤にしていた澪が、眼《め》を涙目にしつつ、必死で止めた。
「離せ、澪。バカを治す、コロスしかない」
「だめー! 桐山くん、だめー!」
ぎゃーぎゃー、わーわー。
そんなたゆらたちの騒ぎをよそに。
熊田《くまだ》も、ちずるに告げていた。
「むろん、わたしもだぞ。理由はいらんな?」
「ええ。〈葛の葉〉の強敵と闘いたいから……のと、〈御方《おかた》さま〉への義理、でしょう?」
ぴたり。
揉《も》めていたたゆらと桐山、澪が、その動きを止める。
はーっはっはっ、と熊田の高笑いが、夜空に響いた。
「もしや、〈御方さま〉が教えたのかね?」
「いえ? 得られた情報を元に、推測してみただけよ。つまりただの勘」
「ふふ……おぬしのいうとおり、たしかにわたしと〈御方《おかた》さま〉は、よしみを通じておる。というのも、いちど〈御方さま〉とは闘ったことがあってな……」
「こてんぱんにやられたの?」
「うむ。砂の巨人を作られるまでは善戦したと思うのだが。まあ、そういうわけで、『タイマン張ったらダチだぜよ』の格言どおり、わたしと〈御方さま〉は、たまーにお茶を飲んだり、ファミスタしたりするぐらいの仲になったのだな」
熊田《くまだ》の視線が、ちずるから桐山《きりやま》へと向く。
「どうだ? 軽蔑《けいべつ》したかな?」
「べつに。なんとなく、おれ、気づいてた。アレだ、得られた情報と推測だ。勘だ」
たしかに、眼《め》と口を丸くしたまま固まるたゆらと澪《みお》とは違い、桐山は落ちついていた。
「それに……〈御方さま〉とファミスタ、熊田さんだけ、違う」
桐山の視線は、馬頭《めず》へと向けられていた。
見つめられた馬頭が、低い声で笑いだす。
「なるほど、さすがは熊田さんが『番長』と認めた妖《あやかし》だ」
「ま、まさか……」
指さしたたゆらに、馬頭がうなずく。
「そのとおりだよ、源《みなもと》たゆら。わたしもまた、〈御方さま〉と通じた妖なのだ。いや、わたしだけではない。いまこの学校に残るものはみな、そこの桐山|臣《おみ》と|長ヶ部《おさかべ》澪を除き、すべて〈御方さま〉によって集められたのだよ。このような有事の際、力となるべくな」
と、馬頭は下を指さした。
屋上の下、校舎のなかを。
校舎内には、〈ももんが〉である天野《あまの》ほか、多くの妖が控えていた。
「いや、ちょっと待てよ! ここは……薫風《くんぷう》高校は、不良|妖怪《ようかい》が、更生するための」
たまらず、といった様子でたゆらが声をあげた。
「不良妖怪の更生施設とは、あくまで隠《かくれ》れ蓑《みの》。〈葛《くず》の葉《は》〉の眼をごまかすためのね」
「ええ……?」
んんー? とたゆらは考えこむ。
「ということは、なんだ? つまり〈御方さま〉は前々から、〈葛の葉〉への反抗を企《たくら》んでいたってわけか? 三年前、たまたま捕らえたちずるが〈八龍《はちりゅう》〉だってわかって、それで助けようと思って動きだしたってわけじゃなく、それよりもずっと前から……?」
たゆらは、ちずるを鋭く見つめた。
「ちずる……話せよ。おまえ、知ってるんだろ? 〈御方さま〉がなにを企んでるのか。ずっと前に、あの三珠《みたま》美乃里《みのり》の野郎……野郎でいいんだよな、あいつと会ったとき、いってやがったぜ。あいつですら、〈御方さま〉がなにを考えてるかわかんねーってな」
「あら。わたし、ずっと前におまえと美乃里が会ったなんて話、初耳だけど」
「ごまかすなよ! おれがちずる、おまえから聞いてるのは、おまえが〈八龍〉だと知った〈御方《おかた》さま〉が、その運命を哀れみ、組織に逆らってまでも助けようとしてくれてるって話だ。違うのか? あれはぜんぶ嘘《うそ》だったのか? 答えろよ、ちずる!」
ややあって、ちずるは答えた。
「嘘じゃ……ない」
「ちずる!」
「本当よ。本当に〈御方さま〉は、わたしを助けようとしてくれている。わたしが〈八龍《はちりゅう》〉として完全に目覚めてしまえば、どうなるのか……それをわかって、〈葛《くず》の葉《は》〉に逆らってまで、決して〈八龍〉にならないよう、してくれている。ほら、だからこそ、いまこんなことになってるんでしょうが」
ちずるは腕を伸ばし、完全包囲されている校舎のまわりを示した。
「た、たしかにそーだけどよ」
「そうまでしてくれる真意は……わたしにもわからない。というか、熊田《くまだ》たちだってわからないはずよ。ね、あなたたち、そうでしょ?」
熊田も馬頭《めず》も、うなずく。
「わからんな」
「わたしもです」
「わ、わからないって、あのな……そんなわけ、ねーだろ!」
顔をしかめたたゆらに、熊田は、ぬっふっふ、と笑う。
「本当にわからんのだ。ぶっちゃけ、わたしはただ、〈葛の葉〉の強敵たちと闘えるからこの場にいるだけでな。〈八龍〉とかなんとか、どーでもいいのだな」
「我々のほうは、〈御方さま〉から、ただ源《みなもと》ちずるを助けるよう指示されただけでね」
がっはっはと笑う熊田と、ふふふ……と眼鏡の位置を直す馬頭に、たゆらの頬《ほお》はびくびくと痙攣《けいれん》しだした。
「こ、こいつら……」
「信じられないだろうけど、本当よ、たゆら。数千年のときを生きてきた、砂の精霊、〈御方さま〉……なにを考えているのかなんて、たぶん、八束《やつか》ぐらいしかわからない。でも、いま重要なのは〈御方さま〉がわたしを助けようとしてくれているという事実。たとえ、裏でなにかを企《たくら》んでいるとしても……〈葛の葉〉ほどの強大な力を持った組織と対抗するには、けっきょく、〈御方さま〉に頼るしかないんだし」
「……まあな」
しかし、たゆらの頬はぶすっとふくれた。
「あーあ、こんなとんでもねえのに拾われて、まんまと弟なんかになっちまったのがおれの運の尽きか。あー、どーしてあのとき、ついていったんだろ……なにしろ、腹減ってたからなあ。あぶらあげがすげーうまくて……くー、ウン十年前の、おれのバカ!」
「そうそう、もう諦《あきら》めなさい。なんたって、たゆら、おまえはわたしの弟なんだから」
「わかったよ……姉さん」
へっ、とたゆらは笑った。
「よし! ヘタレも覚悟を決めたところで、時間もないことだし、今回の戦術のおさらい、いくよ! まず始めに、みんなにいっておくことがある」
ヘタレかよ……とヘコみかけていたたゆらをふくめ、全員が表情を引き締める。
「わたしのこの〈龍《りゅう》〉の力には、あまり期待しないで。もちろん、いざというときは使うけど……できることなら、最後の最後まで温存したい。それは、〈龍〉の力を使うことで、まだ眠る残りふたつの〈龍〉が刺激されて目覚め、万が一にでもわたしが〈八龍《はちりゅう》〉となってしまうことを恐れるからだけど……でも、それだけじゃない」
ちずるは、背でゆるゆると燃える六本の炎のしっぽを見つめながら、いった。
「この力は……あまりに強すぎる。使えば、多くのものたちが死んでしまう。甘いこといってるようだけど……」
「だって耕太に嫌われちまうもんな?」
たゆらがにたにたと笑った。
「それも、もちろんある。わたしが人を……ううん、人でなくても、妖《あやかし》であっても、殺《あや》めたとしたら、耕太くんは心を痛める。自分のことのように、わたしの罪を背負ってしまう。耕太くんにそんな思い、させたくない。だから、できるだけ殺したくない……でもね、それ以外にも、殺して、相手を本気にさせたくないってのいうのもあるのよ」
「なるほど、さすがです。犠牲をだしてしまえば、相手はそれだけ引けなくなる。死んでいった仲間のためにもと、死にものぐるいになる。弔い合戦はニンゲンのお得意ですし」
感心する馬頭《めず》に、たゆらは「前言撤回」といった。
「やっぱ姉さんは計算高いわ」
「それ、いまは褒め言葉として受けとっておく。だからね、できるだけ、あなたたちにも相手は殺めないでほしい。もちろん、自分の生命に危険がおよばぬかぎり、だけど」
「無茶いうぜ……」
「いやいや、源《みなもと》たゆら。悪くないやりかただぞ? 我々の狙《ねら》いは、あくまで時間稼ぎなのだからな……」
「おい、馬! おまえ……」
たゆらが馬頭を睨《にら》んだ。
「安心しなさいな、たゆら。わたしがここにやってきたときに、ちゃんと結界は張っておいたから。外からわたしたちの会話を聞かれる心配はない。ってゆーか、じゃないとさっきの〈御方《おかた》さま〉のこととか、ヤバすぎて話せないでしょーが」
「いや、さっき話してたときは、すっかりまわりに〈葛《くず》の葉《は》〉がいることは忘れてたっつーか……あのさ、〈葛の葉〉には法術専門の家だってあるんだろ? だいじょうぶか?」
「いまのわたしに比する術者なんか存在しない。〈龍〉の力を用いた結界を、だれが破って会話を聞けるもんか。たとえ土門《つちかど》家の当主だって、不可能よ」
「おー、おー、すげえ自信だこと」
ちら、とだけちずるはたゆらを冷たい目で見やった。
「話を戻すわよ。さっきそこのメガネな彼がいったとおり、わたしたちの狙《ねら》いは、あくまで時間稼ぎ。耕太くんが無事、逃げ切るまでの……ね」
「耕太……ねえ」
たゆらが唇の端を曲げる。
「まったく、耕太ひとりを守るために、手間なこった」
「わかってるでしょう。〈八龍《はちりゅう》〉であるわたしを捕らえるのにいちばん効果的な方法は、耕太くんを人質にとること。正攻法でかかったら、たとえ〈葛《くず》の葉《は》〉でも、この〈龍〉の前に大きな損害がでるでしょう。だけど、耕太くんを人質にされたら、わたしは……」
「そりゃそうだけどよ……いまさらいってもなんだけど、もうちょっとこう、なんか方法はなかったのか? こうしておれたちがおとりになって耕太を逃がすってんじゃなくて、もっとスマートな……せっかく十日以上も前から、今日、終業式&クリスマス・イブのこのときに、〈葛の葉〉が総出をあげて攻めてくるのはわかってたんだからさ」
「あれは罠《わな》よ」
ちずるはきっぱりといった。
「あの三珠《みたま》美乃里《みのり》が〈御方《おかた》さま〉あてに届けた書状……『十二月二十四日までに、〈八龍〉を渡せ』。三珠家当主代理からの命。〈葛の葉〉からの最後《さいご》通牒《つうちょう》。そのすべては罠よ。あの話にのってあわてて逃げだしてたら、あっさり捕まっていたでしょうね。〈御方さま〉の庇護《ひご》がない街の外なら、〈葛の葉〉は手加減なしでわたしを襲えるのだから」
「だから、いままであえて動かなかった……か」
「そう。そしていま、引き渡しの期日の今日、動いた。〈御方さま〉だけが、おそらく〈葛の葉〉から見ればただわたしの恋人でしかない耕太くんを連れて逃げた。わたし、〈八龍〉本人は置き去りにしてね。ふふっ、きっとうまくいく。だってここにわたしはいるんだもの。わざわざ目につくように、派手に空を飛んで、この素晴らしい身体をさらして、学校までやってきたんだもの。だれが思う? 〈八龍〉を残して、〈御方さま〉だけが逃げだそうなんて。まさに思考の盲点ってやつよね」
「だったら、おれたちも……」
「まだよ。耕太くんが完全に逃げきるまでは、まだ。耕太くんの安全が保証されたなら、そのとき、わたしたちも逃げるわ。たゆら、楽しみにしてなさいよー? この〈龍〉を使って、もう派手に吹き飛ばしてやるから。この校舎ごと爆破して……」
「その隙《すき》に逃げるってわけだ。まったく、派手好みなこって」
「そう、だから……」
「――ひとつ、聞かせてほしいことがあるのですが」
話に割って入ったのは、馬頭《めず》だった。
「なあに、メガネさん」
「わたしの名前は馬頭ですが、まあ、それはいいとして。聞きたいのは……なぜ、ここまで小山田《おやまだ》耕太を?」
「ええと、質問の意味がわからないんだけど」
「作戦のすべては、小山田耕太の安全だけを考えてたてられているように、わたしには思えます。なぜです? まるで、源《みなもと》ちずる、あなたが〈葛《くず》の葉《は》〉に捕らえられたとしても、小山田耕太さえ無事なら、平気なようだ」
ちずると馬頭《めず》の、視線がぶつかりあう。
しばらく、そのまま黙って見つめあった。
「お……おい、ちずる、馬?」
あいだに入っていたたゆらが、ふたりを交互に探るように見る。
「……メガネさん、あなた、理由、そんなに知りたい?」
「是非」
「――それは愛よ!」
むん、とちずるは胸を張った。
「耕太くんへの愛が、わたしをそうさせたのよ!」
白い胸の谷間を前に、馬頭はしごく冷静に眼鏡の位置を直す。
「……なるほど、わかりました」
「わ、わかったのかよ!」
思わず、といった感じでたゆらはつっこんだ。
「おお、ナイスツッコミだな、源たゆら。どうだ、この戦いが終わったら、いっしょに漫才コンビでも組まないかね?」
「断る。だれかほかのを探せ」
「それは残念だ……。ああ、源ちずる、本当にわかりましたよ。真実は知らないほうがいいということがね」
「あん?」
「余計なことは知らないほうがいいということだ。捕らえられたときのために」
「あああん?」
「……メガネさん、あなた、性格悪いっていわれない?」
「ええ、よくいわれますね」
「あああああん?」
「――うるさいぞ、おまえ」
「あだっ!」
疑問顔をちずると馬頭に向け続けるたゆらの尻《しり》を、桐山《きりやま》が蹴《け》った。
「な、なにすんだよ、おまえ!」
「バカの考え、休みがそっくりだ。バカが下手に考える、かえって悪くなる。やめろ」
「あのな、おまえにバカあつかいされると本気でヘコむんだよ。やめてくれ」
「ちずる。つまりおれたち、いつまで耐えればいい? 大切なの、そこだ」
「ああ! 無視された! 桐山《きりやま》に無視された!」
自分を無視してちずるに話しかけた桐山に、たゆらは頭を抱え、叫んだ。
「そうね……夜明けまで。夜が明けるまでには、〈御方《おかた》さま〉は耕太くんを安全な場所まで運んでくれるはず。それに、夜が明ければ、街が動く。人が動く。そうなれば、いかに〈葛《くず》の葉《は》〉だって、大規模な戦闘行為を続けるわけにはいかないはず。このあたり一帯すべてを、結界なりなんなり使って、完璧《かんぺき》に眠らせてはいても……ね」
「夜明け、だな?」
「そう、夜明けまで。夜明けまで、耐えきれば――」
ちずるたちが、視線を校庭へと向ける。
校庭に居ならぶ三珠《みたま》家本隊の最後列には、ひと組の男女の姿があった。
★
ちずるたちの視線を知らず受けていた男女のうち、ひとり。
三珠家当主、三珠|四岐《しき》は、興奮の極みにあった。
もっとも、それは外からはほとんどわからない。白いスーツに、黒い革のコートを肩にひっかけるかたちで羽織った彼は、感情を隠す術には長《た》けていたからだ。
短めのオールバック。すこし痩《や》せた頬《ほお》。糸のような細い眼《め》。薄い唇。
そういったパーツで構成された顔を、四岐は自在に操ることができた。いま彼は、いつもの笑顔を浮かべている。眼と唇を笑みのかたちに曲げた、他人に不快感を決して覚えさせない笑顔。三珠四岐、得意中の得意の表情。
だが、心のなかは沸きたっていた。
ついに。
ついにだ。
ついに、自分は〈葛の葉〉の頂点に立つのだ。〈葛の葉〉の宿願である〈八龍《はちりゅう》〉を手に入れ、そして〈神〉を復活させることで、立てる。四岐自身は〈八龍〉にも〈神〉にもなんら興味はなかったが、その結果によって得られる報酬には強く興味があった。
その報酬の名は、賞賛。
数千年の〈葛の葉〉の歴史のなかで、だれひとりとして成しえなかった、〈神〉の復活。それを成せれば、みなが自分を褒めるだろう。認めてくれるだろう。だれにも顧みられることのなかった自分が、じつの父ですら[#「じつの父ですら」に傍点]認めようとしなかった自分が、三珠家の頂点どころか、〈葛の葉〉すべての頂点に立つのだ。
あまりの悦楽に、一瞬、四岐の口元はいつもよりゆがみかけた。
いかん、いかん、まだ早い。
表情を引き締めながら、四岐は思う。
この仮面を外すのは、すべてを手に入れてからだ――。
「四岐《しき》さま」
名を呼ばれ、四岐は視線を向けた。
呼んだのは、女だった。
九院《くいん》。〈葛《くず》の葉《は》〉に従う妖怪《ようかい》たちが集められた家、九院家の当主。女のかたちをした、蝶《ちょう》の妖怪。彼女は白いスーツ姿の四岐にあわせたのか、紫色のスーツ姿で、毛皮のコートを羽織っていた。パンツルックではあったが、タイトなデザインのものなので、四岐が知るどの女よりもなまめかしい腰の曲線を、じっくりと外からうかがうことはできる。
「なんだろう、九院どの」
「全隊、所定の位置に配置されたようです」
「そうですか」
四岐は視線を、九院の腰からその崩れ落ちそうなほどやわらかな胸のふくらみへと這《は》わせ、首筋をなぞり、ようやく彼女の顔へと辿《たど》りつかせた。
紫色の髪をアップにまとめた九院の顔は、今日もまた美しかった。
その整った顔を自分の身体の下、ぐずぐずの泣き顔へと壊してやったところを思い返しつつ、四岐は視線を薫風《くんぷう》高校の校舎へと向ける。
準備は万端だった。
校舎の屋上は、白い半球状のもやで覆われていたが、それはさきほど〈八龍《はちりゅう》〉が空を飛んであそこに降りたつなり、結界を張ったからだった。つまり、あのもやのかたちをした結界があるかぎり、〈八龍〉は校内にいると考えていい。むろん推測だけで物事を運びなどしない。法術の専門家たる土門《つちかど》家に命じて、〈八龍〉の妖気《ようき》は捕捉《ほそく》させていた。
〈八龍〉は、あの学校のなかに、まちがいなくいる。
すでにこちら側でも校舎のまわりに結界は張り巡らせていた。〈八龍〉の到着を確認してすぐ、万が一にも逃げられないようにだ。
付近の住民も、すべて眠らせてある。たとえどれほどの騒ぎを起こそうと、気づかれる心配はない。そう、どれほど激しい戦闘を起こしたとしても……。
「いまのところ、問題はありませんね」
にこやかに、四岐は九院に話しかけた。
が、彼女から反応はない。
べつに返事を期待して口にしたことでもなく、ただ現状の確認をした、いわばひとりごとのようなものだったが、無視されれば気になった。
見ると、九院は目元に皺《しわ》を寄せた、いわゆる浮かない顔をしていた。
「九院どの、どうしました?」
「いえ……」
「なんだ、九院。わたしの成功を、喜んではくれないのか?」
ぴたりと四岐は彼女に身を寄せ、まわりには聞かれないように、耳元でささやく。
四岐と九院の関係は、まわりには隠していた。三珠《みたま》家と九院家、〈葛の葉〉八家のうち二家の当主が、男と女の関係にあるなど知られれば、四岐《しき》はともかく、九院《くいん》は当主の座から降ろされる可能性がある。権力の集中を〈葛《くず》の葉《は》〉は好まない。まだ四岐は、〈葛の葉〉のすべてを掌握したわけではなかった。
「もちろん、喜んでいますわ」
「ではなぜそんな顔をする。今回の作戦が、美乃里《みのり》の立案だからか?」
「それもあります」
「またいうつもりだな? 『四岐さまは、あのものを信用しすぎています』。九院、きみのお気に入りのセリフだ」
四岐は低く笑った。
「美乃里はわたしを裏切れない。鵺《ぬえ》という名の監視装置があるかぎり、不可能だ。なんどもいったじゃないか」
「ええ。わかっていますが……」
「それに今回の作戦は、悪くない。なにより正当な手順を踏んでいるところがいい。いきなり〈葛の葉〉全隊をもって〈御方《おかた》さま〉を攻めこみ、〈八龍《はちりゅう》〉を渡せと恫喝《どうかつ》するのではなく、まずは文書でもって、渡すようにうながす。それで〈八龍〉が逃げれば逃げたで、〈御方さま〉の邪魔さえ入らないのなら、どうとでもなる。〈御方さま〉がおとなしく渡してくれるのならばそれでもいい。もし渡さず、逃げもしないのなら……こうして、正面から奪ってやるだけだ。なにか問題があるかな?」
「わたくしにすべてまかせてさえいただければ、このような手間など」
「ああ、きみの配下の妖怪《ようかい》を使ってか? 悪いがそれはできない。妖怪の手を借り、拉致《らち》だの襲撃だのまっとうならざる手段で〈八龍〉を手に入れたとしても、わたしはだれの賞賛も得ることはできないからだ。だれが認める、そんな男など」
「ですが、相手には〈御方さま〉だけでなく、〈八龍〉もいるのですよ? あの〈九尾《きゅうび》の狐《きつね》〉ともならぶ大妖《たいよう》がふたりもです。たとえ〈葛の葉〉全隊の力をもってしても、負けるとはいいませんが、あまりに犠牲が大きくなりすぎましょう。〈葛の葉〉は――四岐さま、こののちあなたの力となるもの。その力を、このような戦いでむざむざ削《そ》ぐ必要など」
「ありがとう……九院」
四岐はやさしく微笑《ほほえ》みかける。
それは、九院以外には決して見せることのない、まったく操作していない表情だった。
「きみだけだ。きみだけが、わたしを認め、愛してくれた。そんな存在はほかにはいない。ほかのものはだれひとりとして、わたしを認めてはくれなかった。見ようとすらしなかった。父も、母も、だれもだ」
一瞬、四岐の顔に、泣いてるような、笑っているような、そんな狂気の表情が浮かぶ。が、すぐにいつものあの笑顔で塗りつぶされた。
「だいじょうぶ。わたしはすべてを手に入れるから。九院、きみのためにも」
にこりと笑いながら、いう。
「なんの勝算もなく戦いを挑むほど、わたしは愚かではないよ。〈御方《おかた》さま〉と〈八龍《はちりゅう》〉を敵にまわし、なおほぼ無傷で勝てる勝算があるからこそ、今回、美乃里《みのり》のたてたこんな作戦にのったのだ。ふふ、べつにわたしは〈葛《くず》の葉《は》〉の力になどさほど興味はないが、しかしわたしを認める前に死なれるのも困る。それでは復讐《ふくしゅう》にならないからね」
「勝算……ですか?」
「ああ。すくなくとも〈八龍〉の力は、恐れる必要がない。もしかすれば……〈御方さま〉すらもね」
「四岐《しき》さま、それはいったい……」
「四岐さまー!」
元気よくあらわれたのは、さっき話題にしていた主、美乃里だった。
美乃里は白いドレスの裾《すそ》をひるがえし、校庭を駆けよってくる。その少女の姿に、四岐は微笑《ほほえ》み、九院《くいん》は冷たく表情を凍らせた。
「どうだ?」
四岐の問いに、うん、と美乃里はうなずく。
「だいじょーぶだよ。あの〈八龍〉は、まちがいなくホンモノの〈八龍〉だよ。〈八龍〉はたしかにホテルの屋上から、あのヘンタイそのものな女王さまルック&妖狐《ようこ》の姿で空を飛んで、この薫風《くんぷう》高校の校舎に降りたったよ。移し身とか、幻影じゃない。わたしだけじゃなく、土門《つちかど》家のひとにも視《み》てもらいながら追ったから、絶対だよ!」
「よし……よくやってくれた。こちらでも〈八龍〉が飛んできた時点で土門家に視てもらい、確認はした。まちがいなく〈八龍〉の妖気《ようき》だそうだ。しかし意外だったな? てっきり逃げだすのかと思ったが……」
「そこです、四岐さま」
九院がいった。
「なぜ、〈八龍〉はわざわざここへ飛んできたのでしょう? わざと姿を見せつけるようなことまでして……。おかしいとは思いませんか? ここをわたくしたち〈葛の葉〉が包囲していることは、あの〈八龍〉とて知らないはずがないのに」
「まあ……そうかもしれませんが」
美乃里がきて九院とは身体を離しているため、四岐は言葉遣いを変えていた。身を寄せてのささやきではなければ、まわりの部下たちに会話を聞かれる可能性があったからだ。
「なにか……なにかわたくしは気になるのです。なにか……」
「考えすぎじゃないかなー」
そう返した美乃里を、九院の鋭い視線が射ぬいた。
わ、と美乃里はさがり、すぐ後ろにやってきた白髪の人造|妖怪《ようかい》、鵺《ぬえ》の背に隠れる。黒いタイトなセーターにジーンズといった姿の鵺の肩の横あたりから、顔だけを覗《のぞ》かせた。
「だ、だってさ、まちがいなく〈八龍〉はここにいるんだよ? だったらいいじゃない?」
「美乃里……!」
「まあまあ、九院《くいん》どの。美乃里《みのり》の言葉にも一理あります」
「四岐《しき》さま、ですが!」
「たしかに、ここに〈八龍《はちりゅう》〉がいることは確実なのです。ならば、たとえなにかの罠《わな》であろうとも、我らは進むよりほか、ないではありませんか」
九院が、唇を噛《か》む。
「くっ……あの少年さえ捕らえておけば」
「少年? ああ、〈八龍〉の恋人とかいう、あの少年のことですか」
「ええ、小山田耕太です。あのものさえ捕らえておけば、〈八龍〉に対する人質としてさぞ有効だったでしょう……なのに」
また九院は美乃里を睨《にら》んだ。
「だ、だってさ、無理だよう、〈御方《おかた》さま〉の眼《め》があるのに、この街で拉致《らち》するのはさ。わたし、がんばったんだよ? でも、なんか知らないけど、すぐそばにはずーっと〈八龍〉か、人狼《じんろう》の女のどちらかがくっついているし、さっきだって、〈八龍〉に気をとられているうちに、ルームサービスといっしょに消えちゃうし……ああ、いちばんチャンスだったのは小山田耕太がアルバイトしようとしたときだったんだけど、やっぱり〈八龍〉と人狼に邪魔されたし。まいっちゃった。よくわかんないけど、配置していた人員、使いものにならなくなっちゃって。『あ、あなこんだ、こわい……』とかいってさー」
「許してやってください、九院どの」
ひたすら美乃里《みのり》を睨《にら》み続ける九院《くいん》の視線に、四岐《しき》は手をかざし、微笑《ほほえ》んだ。
「美乃里のいうとおり、〈御方《おかた》さま〉の領域で下手な真似《まね》はできません。それに、まだ〈御方さま〉が敵と決まったわけではないのですから。敵になるかどうかは、先に文書で示した日時……〈八龍《はちりゅう》〉を〈葛《くず》の葉《は》〉に差しだすかどうかを決める期日、本日、十二月二十四日の、二十四時に決まるのです」
四岐は、美乃里を見つめる。
美乃里はうなずき、鵺をぽんぽんと叩いた。うながされた鵺はその左腕を巨大な口へと変形させ、なかから懐中時計をとりだす。
時計の針は、長針、短針とも、もうすぐ、十二を指すところだった。
★
いよいよ期限が直前に迫った、このとき。
屋上では、ちずるたちが肩を組み、円陣を作っていた。
「よし……じゃあ、みんな、いくよ?」
ちずるの言葉に、たゆら、熊田《くまだ》、桐山《きりやま》、澪《みお》、馬頭《めず》が、うなずきを返す。
円陣の中心には、人形があった。
砂でできた人形だ。三等身の、まるでマスコット人形みたいな作りで、高さは人の腰ほどもある。そしてその顔は、砂原《さはら》幾《いく》の……いや、〈御方さま〉のものだった。
ちずるが、手を高々とあげる。
「さーて、まずはわたしたちからの一撃! これでも……喰らえー!」
思いっきり、〈御方さま〉の三等身砂人形の大きな頭を、ぶっ叩いた。
びよよよ〜ん、と砂人形の頭は揺れる。
揺れて、揺れて、揺れて……やがて、校舎まで揺れだした。
いや、揺れているのは校舎だけではなかった。
校庭もだった。
というより、薫風《くんぷう》高校の敷地内、すべてが揺れだしていた。
揺れはどんどん大きくなり、校庭にならんでいた三珠《みたま》家の精鋭ですらもが立っていられなくなったところで、校舎の周囲と、そして校庭のいたるところから、まるで間欠泉のごとく、砂を噴きあげる。
薫風高校に備えつけられた防御機構のひとつ、砂防壁だった。
その濁流のごとき砂は、校舎をちずるたちがいた屋上だけを残してすっかり覆いつくし、校庭は、三珠家の本隊ごとすべて呑《の》みこみ、あとになだらかな砂の山だけを残す。
時刻にして、二十三時五十九分。
〈葛の葉〉が示した期限の、わずか一分前の出来事だった。
3
「……やったか?」
屋上のフェンスそばに身を屈《かが》めて、眼下の光景を見つめ、たゆらはつぶやく。
すっかり校庭は砂に覆いつくされていた。
砂防壁は、直前までこれみよがしに整列していた三珠《みたま》家の本隊をすべて生き埋めにし、そこに広大な砂丘を作りあげていた。月明かりに、砂丘は冴《さ》え冴《ざ》えと白い。
「さて、どうかな」
答えたのは、となりに屈んでいた馬頭《めず》だ。
「とりあえず先制攻撃に成功はしたが。しかし、あちらには砂原《さはら》家がいる……彼らは砂防壁を止める手段を持っているかもしれない。よしんば、このまま三珠家の動きを封じられたとしても、八束《やつか》家、七々尾《ななお》家も控えている」
たゆらは顔をしかめた。
「どうしてあんたはそう悲観的なんだよ。いまはこの、目の前の勝利を味わえよ」
たゆらが、そういって校庭を指さした瞬間だ。
砂丘の一部が、二ヵ所、爆発した。
爆発箇所から、さきほど砂防壁が発動したときのように、間欠泉のごとく砂が噴きあがる。もっとも、その規模はどちらも人ふたりぶんほどの、小さなものだったが。
噴きあがった砂の頂点からあらわれたのは、人だった。
ひとつは、背中からコウモリの羽を生やした鵺《ぬえ》に抱えられた、美乃里《みのり》。
もうひとつは、背中から蝶《ちょう》の羽を生やした九院《くいん》に抱えられた、四岐《しき》。
四岐は、九院に横から抱きかかえちれたまま、空中から砂丘と化した校庭を見おろす。
「やってくれるものだ……あの〈御方《おかた》さま〉が、よもや期限前に、しかもなんの前触れもなく、このような攻撃をしてこようとは。これまでの行動からは、とても考えられん」
「……四岐さま、みな、無事です」
九院が、その紫色の髪からたらしてある前髪を、まるで触角のように動かし、いった。
「無事? 全員がか?」
「はい。ひとりたりとも、死んではおりません」
「死亡者なしだと? 怪我《けが》は? 動けるのか?」
四岐の問いに、九院の触覚のような前髪が、たがい違いにいそがしく働く。
「……ほとんどのものは砂に包まれ、身動きがとれません。一部、周囲に障壁を張ることに成功したものは、どうにか脱出しようと試みてはいますが……しかし、この砂は、つねにうねり続けています。これでは……」
「死にこそしないにせよ、脱出は不可能と、そういうことか」
「現状では、ですが」
ふん、と四岐は鼻を鳴らす。
「なるほど、さすがは〈御方《おかた》さま〉。あくまでこちらの身動きをとれなくするだけで、攻撃の意図はないというわけか。いや、これはまったくお優しい」
「どういたしますか。砂原《さはら》家に命じ……」
「砂原家のものに、この砂の動きを止めさせると? ふむ……いや、止《や》めておこう」
「やはり、信用できませんか」
「それもあるが、なにより手柄をたてさせたくない。下手に功績をあげられてしまうと、〈御方さま〉とともにつぶすことができなくなる。せっかく〈葛《くず》の葉《は》〉八家を〈葛の葉〉七家へと減らすチャンスだ。なるべく逃したくはないな」
「となれば、控えてある八束《やつか》、七々尾《ななお》に」
「八束家も七々尾家もダメだ。どちらの家も、次期当主候補だったものが〈御方さま〉のもとにいる。〈御方さま〉と通じてない保証はない。よもやあちらにつくとは思わないが、わざと〈八龍《はちりゅう》〉を逃がす可能性はある。陽動ならともかく、主力としては使えない」
ここで、四岐《しき》は九院《くいん》の顔を見つめた。
互いに抱きあうかたちでいたため、その顔はごく間近にあった。濃くアイシャドーを刷《は》いた九院の眼《め》が、しばたたく。
「あの、四岐さま?」
「九院……あのものたちは、連れてきてるな?」
「え……ええ。ですが、よろしいのですか? 妖《あやかし》の力を借りては、四岐さまの栄光に」
「ああ、さっきの話か? かまわない。なんといっても状況が状況だからな……できれば三珠《みたま》家の力だけで〈八龍〉を手に入れたかったが、それがかなわないとあれば、しかたもないだろう? 都合のいいことに、わたしたちはいま〈御方さま〉から攻撃を受けている。あちらの意図はともかく、拘束されているんだ、立派な攻撃さ。理はこちらにある」
「しかし……あのものたち、力こそ尋常ならざるものがありますが、なんといっても気性に難が……加減できず、必要以上にやりすぎてしまうやも」
くつくっく……四岐は楽しげに笑う。
「いい。それでこそ九院家の四天王だ。だが、万が一にでも〈八龍〉を殺《あや》めてしまっては困るな……よし、美乃里《みのり》!」
背にコウモリの羽を生やした鵺《ぬえ》に、後ろから腰を抱かれて空を飛んでいた美乃里は、うー、と顔をしかめながら、髪やらドレスやらにこびりついた砂を手ではたいていた。
「はーい、なあに、四岐さまー」
「伝令だ。九院家の四天王のもとへ、いまから九院の命令を伝えにゆけ。内容は〈八龍〉の捕獲だ。その障害となるものは徹底的に排除してかまわんとな。伝令後は、美乃里、おまえは彼らについてゆけ。同行し、彼らが〈八龍〉を殺めることのないよう、監視しろ」
えー、と美乃里は口を尖《とが》らす。
「わたし、お目付役ー?」
「文句をいうな。たしかおまえは、前にも九院家の四天王を相手にしたことがあったな?」
「ああ、人狼《じんろう》のお兄ちゃんね……でもあのひと、〈葛《くず》の葉《は》〉から逃げて姿くらましちゃったし、その妹の人狼も、あの小山田耕太とくっついて、今回、すっごい邪魔されて、さっき九院《くいん》さまに怒られちゃったし。あまりいい思い出、ないんだよなあ……」
「お待ちください、四岐《しき》さま!」
たまりかねたように、九院がいった。
「このようなものに命じずとも、当主であるわたくしが直に……」
「ダメだ。九院、きみはわたしのそばにいろ」
「ですが……」
四岐は九院を強く抱きしめ、その深紅のルージュが塗られた唇を奪う。
ふぁさ、ふぁさ、と九院の背から生えた鮮やかな蝶《ちょう》の羽が、ゆったりとはためいた。
ゆっくりと、ふたりの唇は離れる。
「し、四岐さま……このような場所で、まわりには他家の眼《め》が」
「いざというときわたしが信用できるものは、おまえのほか、だれもいない。わかっているだろう? そばにいろ。この戦いのあいだは、ずっとわたしのそばに」
四岐のささやきに、九院はうなずくほか、なかった。
「……はい」
★
「……うん?」
屋上のフェンスのそばに屈《かが》みこんで、双眼鏡のように両手を丸くし、砂防壁から逃れて宙に浮かぶ四岐と九院、美乃里《みのり》と鵺《ぬえ》を注意深く見つめていたたゆらは、声をあげた。
「なんか、動きだしたぜ」
「ひと組だけだな。白いドレス姿の少女と、白髪の妖《あやかし》だけだ。もうひと組は動かない」
たゆらのとなりで、おなじく屈んで手を双眼鏡にしていた馬頭《めず》が、続いた。
「ふむ……だが、あの三珠《みたま》美乃里とかいう少女、こちらにくるつもりはないようだぞ。あの少女と、その背の女性……どちらからも得体の知れぬ力を感じるが……彼女らは闘わんのかな? 闘ってみたいものだがなあ……ぬふふふ」
そのとなりで、やはり屈んで手を双眼鏡にしていた熊田《くまだ》も、続いた。
「なんか、学校の外、いくぞ」
そのとなりで、やはりやはり屈んで手を双眼鏡にしていた桐山《きりやま》も、続いた。
「あ、あれ!」
そのとなりで、やはりやはりやはり屈んで手を双眼鏡にしていた澪《みお》は、桐山に「澪……隠れてなきゃ、ダメだぞ」と睨《にら》まれ、「あう……」とうつむいた。
ここに、ちずるの姿はない。
深紅のボンテージに身を包んだちずるの姿は、いま、屋上のどこにもなかった。
「なんだ……ありゃ」
たゆらが、さきほど澪《みお》が指さした側を見て、声をあげる。
それは、学校の敷地の外だった。
大きなコンテナをつんだトラックが、砂で埋まった校庭に面した道路へとやってきて、停《と》まる。数は四。四台のトラックが、つぎつぎに停車した。
コウモリ羽の鵺《ぬえ》に抱えられた美乃里《みのり》が、そのトラックの近くへと降りたつ。
一台のトラックのコンテナが、ゆっくり開き――。
とたんに、たゆらたちは震えた。
扉が開くとどうじに外に洩《も》れだした妖気《ようき》が、たゆらの眼《め》を剥《む》かせ、馬頭《めず》の眼鏡の位置をずらし、熊田《くまだ》を笑顔にさせ、桐山《きりやま》の眼を鋭く、澪の眼を涙で満たす。
「こ、こりゃあ……とんでもねえぞ!」
たゆらが、叫んだ。
★
ふぁーあ。
トラックのコンテナから、九院《くいん》家の四天王と称される妖怪《ようかい》のひとりが、あくびをしながら砂まみれの道路へと降りたつ。
その姿は、女のものだった。
ただし、かなり大きい。二メートル近い背丈はもちろんのこと、肩や、その伸びやかな手足など、浅黒い肌にはごつごつと筋肉が浮かんでいる。タンクトップにスパッツ、腰には虎《とら》柄の革を巻いただけと、動きやすさ重視のぴったりした格好だったため、そのたくましさのほどはよく見てとれた。ゴムまりのような大きさの胸のふくらみも。どゆゆん。
肉体の育ちっぷりに対して、その顔はあどけなかった。
あくびをしたため目尻《めじり》に涙の浮いた眼はつんとつりあがり、鼻は小高い。化粧気はまったくなく、深緑色の髪も、長さは腰までもあったが、ばさばさとあまり手入れはされてなかった。傍《はた》からは、ただ無造作に伸ばしたように見える。
その緑色の無造作ヘアーの頭頂部には、二本の小さな角があった。
むにむにとあくびをかみつぶした唇からは、鋭い八重歯も覗《のぞ》く。
そして、彼女がその肩に担いでいたのは、身体ほどもある巨大な金棒だった。
鬼だった。
九院家四天王がひとりである彼女――乱《らん》は、〈鬼〉なのだった。
「あー……もう、気持ちよく眠ってたのにさ。あのね、お嬢ちゃん。寝不足は美容の敵って言葉、知ってる?」
ぐっと唇をへの字に曲げ、乱は視線を鋭くさせる。
しかし睨《にら》まれた少女、白いドレス姿の美乃里は、平気な顔で微笑《ほほえ》んでいた。
「だって九院《くいん》さまのご命令なんだもん。しょーがないでしょ?」
「九院さまのご命令ねえ……」
にやにやと笑っていた乱《らん》の表情が、いきなり真剣なものとなる。
真剣な表情のまま、大股《おおまた》で美乃里《みのり》へ近づいていった。さすがに美乃里はびくつく。
「な、なに?」
「ねえ、これ……どこで売ってんの?」
美乃里の、その着ていたドレスの裾《すそ》をつまみ、乱は持ちあげた。
「え?」
かぼちゃぱんつを丸見えにしたまま、美乃里は表情を固まらせる。
「いや、だからさ……この、なんていうの、ひらひら服……」
「お姉ちゃん、ほ、ほしいの? これが?」
「けっこーあたしに似あうと思わない?」
美乃里は自分のドレスを裾からつまみあげている大女の、その筋骨隆々な体躯《たいく》を、上から下まで、見た。
「……うん! とっても!」
なにかを押し殺したような完璧《かんぺき》な笑顔で、答える。
「だよねー! うーん、いいなあ、ひらひら服……ふふふ」
彼女にとっては素敵な映像を思い浮かべているらしく、乱の顔はにやけだした。
「乱……アンタ、身の丈という言葉、知ってるかい……」
ぞっとするほどひんやりした声が、じんわり、響く。
ちっ、と乱は舌打ちした。
間髪入れず、その肩に背負っていた金棒を、自分の背後に向けてうならせる。なんの前触れもなく、あまりに鋭いその一撃は、音もなく乱の後ろに立っていた男の頭を、完璧に打ち砕いた。
残ったのは、手に杖《つえ》を持ち、白い着物を着た男の身体だけ。
だが。
血と肉と骨と皮の代わりに散ったのは、透明な液体だった。
さらに、頭のなくなった男の首から、やはり透明な液体が、ざわざわと湧《わ》きあがる。
液体はやがて、やたらおでこが広く迫《せ》りだした頭を作りあげ、白く色づく。丸く大きな前頭部はつるりとはげあがり、後頭部からは長髪を背に伸ばす、青白い男の顔となった。
男は、ヒッヒッと笑う。
「ワタシにそんなモノ、無駄さね……乱、アンタ、どれだけやれば、学ぶんだい?」
「うっさい!」
乱はもういちど、こんどは正面からフルスイングした。
びしゃ、と男の胴体が、砕け散る。分断された男の胸から上が、ぐるぐると回転して飛び、いって返ってきた乱の金棒にこっぱみじんにされた。
しかし、すぐに男は再生しだす。
残された身体からうにうにと透明な液体が動き、あたりに散った元男の肉体である液体も、戻り、集まり、やがては元どおり、不気味な男の姿をとりもどした。
この透明な液体は、海水。
この奇妙な男は、水を自在に操る妖《あやかし》、〈海坊主〉だった。
ヒッヒッと笑う海坊主に、乱《らん》がどすどすとじたんだを踏む。
「あー、もう、キショイキショイ、どうしてくれようかな、コイツ! そうだ、吸いとってしまえば……お嬢ちゃん、生理用品、貸して! あたしのとあわせれば……」
あのね、と美乃里《みのり》がつっこもうとしたとき、男女の声が代わりにつっこんだ。
「『吸いとるもの』で最初に思い浮かぶのが、おまえ、それか?」
「さすがは乱ね。脳みそまで筋肉」
「なんだとー!」
男は、乱ほどではないが、長身だった。
そして彼女より痩身《そうしん》でもある。白いファーつきのブルゾンを着て、なかはティーシャツ、脚にはタイトな黒のジーンズを穿《は》いていた。
男の髪はつんつんと立ち、目つきは微笑《ほほえ》んでいるというのに、鋭い。
それは、ある男を思いださせる顔つきだった。
〈かまいたち〉の妖、桐山《きりやま》臣《おみ》に、よく――。
桐山が成長したら、男とそっくりになるのではないだろうか?
それは、男に寄りそう女にもいえた。
もっとも、彼女の場合はその鋭い目つきだけだったが。さらに化粧してあるため、男より受ける印象はやさしい。髪は波うつウェービーヘアーで、男とおなじく、白いファーつきのブルゾンに、ホットパンツ状の黒いジーンズ、それとロングブーツといった姿だった。
「沙介《さすけ》! シーナ! だったらあんたたち、『吸いとるもの』っていったらなにさ!」
肩を文字どおりにムキムキと怒らせ、乱は尋ねる。
沙介、シーナと呼ばれたふたりは、黙って指さした。
すぐ横の、『砂』がてんこもりにある、薫風《くんぷう》高校の校庭を。
「ぐっ……く、くくっ……がー!」
乱は吠えた。
「どーせあたしは脳みそ筋肉だよ、ちくしょー!」
夜空に響き渡る乱の絶叫に、沙介とシーナ、海坊主は、遠慮なく笑う。
「――あのー」
手をあげたのは、美乃里だった。
「ですから、九院《くいん》さまからのご命令、なんですけど」
「あん!?」
涙目の乱が、美乃里にすごむ。
「まあ、待てよ、乱《らん》」
その、まさに〈鬼〉の形相となった乱を、沙介《さすけ》がなだめた。
「なんだよ、沙介!」
「仕事は仕事だ。おまえが九院《くいん》をあまり気に入ってないのはよーくわかってるが、ここにいる以上、もらってる報酬のぶんは働かなくちゃな」
「だったらあんただけやればいいだろう。あたしはヤダ。理由? 脳みそ筋肉だから!」
「いいのか? 九院には昔の恋人を探してもらっているんだろう?」
そっぽを向いていた乱が、びく、と震える。
「う……うう……くそー……」
しぶしぶ、といった動きで、美乃里《みのり》の元に歩みよった。
「しゃーない、あのひとのためだ……聞こうじゃないの、九院の命令とやらをさ」
それにしても、と乱は沙介を見る。
「あんた、ずいぶんと乗り気じゃないか。いつもは兄妹のくせしてふたりで気持ち悪〜くいちゃいちゃするのに夢中でさ、あたしよかよっぽどやる気ないのに」
「まあ、今回はな。ちょっとした楽しみがあるのさ」
「なにさ?」
「そこの学校にな……弟がいるんだよ」
「弟?」
沙介が指さしたのは、薫風《くんぷう》高校の校舎だった。
「ああ。もう何十年ぶりになるのやら……なあ、シーナ」
「そうね、沙介」
「なに? つまりいちゃつく相手が妹から弟に変わっただけ? あー、キショイキショイ」
あきれた様子の乱に、沙介とシーナはそのいつでも鋭い目つきで見あい、静かに微笑《ほほえ》みあう。
彼らは、やはり〈かまいたち〉で、そして、桐山《きりやま》の――。
「じゃ、説明するよー?」
美乃里が、九院家四天王に、九院からの命令を伝えだす。
★
薫風高校の校庭に面した道路に停《と》まった、四台のコンテナつきトラック。
その前でなにごとか会話を交わす美乃里と九院家四天王の姿を、たゆらたちは屋上から、ただただ見守ることしかできなかった。
「ちっ、なに喋《しゃべ》ってやがんだか……くるならこいってんだよ、ったく」
「いいのか、源《みなもと》たゆら? やつらの力、尋常ならざるものがあるぞ」
フェンスごしに吐きすてるたゆらに、馬頭《めず》がからかうような声でいった。
「んなこたわかってるよ! あいつら見てからおれは、ずっとうぶ毛が逆立ったまま戻りやしねえんだから! だからって、逃げるわけにはいかねーだろ。やるしかねーんだよ、やるしか……もう、やるしか……や……やってくれますよね、熊田《くまだ》センパイ?」
ぬ? 突然たゆらにまかされ、一瞬、熊田は眼《め》を丸くする。
がっはっは。すぐに笑った。
「ああ、やるとも。いや、やらいでか。ぬっふっふ、まったく楽しみではないか。ああ、どんな能力を持っておるのだろうなあ。痛いのか、辛《つら》いのか、苦しいのか、熱いのか、冷たいのか、痺《しび》れるのか、溶けるのか……ああ、早くこんかな」
うっとりとしだす熊田を、たゆらはげんなりと見あげた。
「戦闘狂っていうか、ただのハードMなのか……?」
はっ、と気づき、自分の尻《しり》を押さえる。狐《きつね》のしっぽがぴーん、と立った。
「け、蹴《け》るなよ! 蹴るんじゃねーぞ! 蹴るんじゃ……」
ん? と横を見る。
「どうしたよ、桐山《きりやま》?」
桐山は、笑っていた。
口をにんまりと開き、なかの八重歯を鋭く覗《のぞ》かせた、まがまがしい表情で。
その視線は、あの美乃里《みのり》と四体の妖《あやかし》に注がれていた。
「いた……」
「いた? なにが?」
「――動いたぞ!」
馬頭《めず》の声に、たゆらは視線を桐山から美乃里たちへと戻す。
つんつん頭の男とウェービーヘアーの女を中心として、風が巻き起こっていた。そばの校庭から砂を吸いこんでいるのか、遠目からでも風の動きはよくわかった。
「んん……?」
やがてできあがった竜巻のなかに、それを作ったふたりの男女と、金棒を持ったでかい女、美乃里と鵺《ぬえ》が包まれる。が、残りひとり、落ち武者のような姿の男だけは、残った。
いや、男はひとり、すぐそばにあった消火栓へと向かっていた。
男が、手に持っていた杖《つえ》で、道路の消火栓を叩《たた》く。
水が噴きだした。
激しい水流は男を直撃したが、まったく動じることがない。それどこか水流に打たれるまま、消火栓へと近づいてゆき――。
しゅるん、と消えた。
「ああ?」
たゆらは眼をこする。
が、たしかに男は消えていた。
そして消火栓から水はでていない。あれほど激しかった水流が、いまは止まっていた。すると、男はあの消火栓のなかへ? と、また消火栓から水はでてきた。
「ど、どーゆーこった?」
「――しまった!」
となりで馬頭《めず》があげた大声に、たゆらは「ひっ」と跳びあがる。
「な、なんだよ、この馬野郎! 驚かせやがって……」
馬頭はすでに走っていた。
屋上を駆け、その行き先は……円筒形の貯水槽。
ひとっ飛びで跳びのり、貯水槽についていた栓の、大きなハンドルを回しだした。
「まにあえ!」
いつもの馬頭からは考えられない動きに、たゆらはきょとんとなる。
貯水槽のハンドルは、きしみながら回り、やがて栓が成された。
ほっ、と馬頭が息をついた、その瞬間だ。
きききき……とハンドルが震えだす。
そして、ゆっくり、開く方向へと勝手に回りだした。
「ま、まさか……」
馬頭はハンドルに飛びつく。締めようとした。
栓が爆発したのは、どうじだった。
ハンドルに組みついていた馬頭ごと吹き飛ばし、あたりに水しぶきを派手に散らす。
そのとき、たゆらは見た。
パイプから散った水が、一瞬、あの消火栓へと消えた気味の悪い男の姿をしていたのを。
その水はすぐにパイプのなかへと入った。
「な……?」
「侵入された!」
馬頭が叫んだ。
至近距離で爆発した栓の破片を浴びた彼は、全身血まみれで、屋上の床に転がっていた。そばでは澪《みお》が泣きながら、ボトルに入れて持っていた『澪の油』を振りかけている。
「し、侵入?」
「やつは水の妖《あやかし》だ! 自在に水と同化できる! あの消火栓から水道管を通り、校舎内へと……は、早く……早く、校内の仲間に知らせるんだ! 源《みなもと》ちずるが……捕らえられれば……すなわち……我らの、敗北……なの……だから……」
声が、どんどんと力なく、弱々しくなってゆく。
「もう喋《しゃべ》んな! 死ぬぞ、あんた!」
たゆらは駆けより、馬頭を抱え起こそうとした。
馬頭のすぐそばに落ちていたものを見て、口元をゆがめる。それは馬頭の眼鏡だった。眼鏡は、レンズが片方、砕けてしまっていた。
「は……早く……するんだ……」
「いわれなくても学校のなかへいくよ! ここは戦場になる。怪我《けが》人を置き去りにはできねえ……さ、澪《みお》ちゃんもいっしょに。おい、桐山《きりやま》! てめえも手伝……」
振りむき、絶句する。
砂をまいた竜巻が、屋上へと降りたっていたからだ。
ひゅるりと風が弱まり、なかからあらわれたのは、五人の姿。
純白のドレスをまとった少女、三珠《みたま》美乃里《みのり》。
セーターにジーンズで、白髪な女性、〈人造|妖怪《ようかい》〉の鵺《ぬえ》。
タンクトップにスパッツ、虎《とら》柄の腰巻き、手には金棒を持った筋肉女、〈鬼〉の乱《らん》。
ファーつきブルゾンにタイトジーンズ、つんつん頭の〈かまいたち〉、沙介《さすけ》。
おなじくブルゾンにホットパンツ、ウェービーヘアーの〈かまいたち〉、シーナ。
五人の、おそらくはとてつもない力を持つ、敵たちだった。
「――ねえ、ちずるは、どこ?」
美乃里が前にでてきて、いった。
首を傾《かし》げ、きょろきょろと屋上を見回す。〈海坊主〉が壊した貯水槽のパイプからは、止まることなく水があふれだしていた。
「どこにもいないね。ま、そう簡単に見つかるとも思ってないけどさっ。さて、いちおう訊《き》いておくけど、ちずるのこと、おとなしく渡すつもり、ない? わたしたちはべつに、〈八龍《はちりゅう》〉さえ手に入れば、あなたたちのことなんかどーでもいーんだし」
「うるせー、バカ!」
たゆらは吠《ほ》えた。
「ほしかったらテメーらで勝手に探せ! いっておくけどな、簡単に見つかるとこにゃ隠れてねーぞ! おっと、おれたちのこと拷問して口を割らせようったって無理だぜ。なぜなら、おれたちだって知らねーからだ!」
「知らないのに、どーしてちずるが簡単に見つかるとこに隠れてないってわかるの?」
「そりゃちずるだからに決まってんだろ! バーカバーカ!」
「なるほど、それはひじょーに説得力があるね」
にっこりと美乃里は笑った。
「じゃ、めでたく交渉決裂ということで。これからは九院《くいん》家四天王のみなさんにおまかせすることにするよ。いまのところ、わたしはこのひとたちが〈八龍〉を殺したりしないように注意する役目しか仰せつかってないからさ。じゃ、センセーがたのご登場でーす」
美乃里は鵺とともに横に流れた。
屋上の隅へ、移動する。
鵺が腕を口に変形させ、そのなかからシートをとりだし、広げた。さらにはバスケット・ケースまでとりだし、すっかり夜のピクニック気分を満喫しだす。
「……あいかわらず読めねえやつだ」
たゆらは澪とともに馬頭《めず》を肩に組み、校内への入り口へと向かおうとした。
「おい、桐山《きりやま》! おまえもこい!」
が、桐山は動かない。
たゆらたちには背を向けるかたちで、熊田《くまだ》とならび、九院《くいん》家四天王の三人と対峙《たいじ》していた。いや、正しくは、〈かまいたち〉の沙介《さすけ》とシーナの兄妹と、向きあっていた。
「……お友だちが呼んでるぞ、青《アオ》」
「おれ、その名、違う!」
沙介に青と呼ばれ、桐山は怒りもあらわに返す。
「いま、桐山|臣《おみ》だ、白《シロ》、赤《アカ》!」
ふっ、と沙介とシーナはどうじに笑った。
「おれたちもいまはその名じゃない。おれはいま沙介と呼ばれている」
「わたしはシーナよ、臣……」
桐山と沙介、シーナの視線は交錯した。
もっとも、桐山の眼《め》はどこまでも鋭く、沙介とシーナはあくまで微笑《ほほえ》んでいたが。
「なんだ? あいつら……いったいどういうご関係?」
「きょ、兄姉……桐山くんの……」
たゆらの疑問に答えたのは、いっしょに馬頭《めず》を運んでいた澪《みお》だった。
「兄姉? あの……あれか、桐山を裏切ったとかいう」
「――なに? 裏切った? おれたちが?」
沙介がたゆらの言葉をめざとく聞きつけ、不思議そうに片|眉《まゆ》をあげる。
笑いだした。やはりシーナとともに。
「は、ははは……そうか。青……じゃなかった、ええと、臣、おまえはあのときのことを、まだしつこく恨んでいたのか」
「忘れる、ないっ!」
桐山は殺意もあらわに叫ぶ。
「おまえたち、おれ、おとりにして、自分たちだけ、逃げた! おれ、ニンゲン、捕まって、あんな……」
「だからなんだ? 危機に陥ったとき、いちばん弱い種が、より強い種を生き残らせるため犠牲になるなんて、野生の世界ではしごく当然のことだろう。あのとき、おれたち三人のなかではいちばんおまえが弱かった。だからおとりにしたんだ。なんの疑問もなく、罪もない。あえて罪があるとしたら、臣、おまえの弱さにだよ」
「ブチコロス!」
桐山を中心に、風が鋭く巻き起こった。
「待て、このバカ!」
たゆらは、校内への出入り口である金属製の扉から、身体半分だけ覗《のぞ》かせて、怒鳴った。
「おまえひとりで、そのふたり相手にして勝てるか! 引け! いったん!」
「うるさい、たゆら、黙れ!」
「だれが黙るか! このバカ番長、てめえ、ここの馬の最後の言葉、聞いてなかったのかよ! ちずるが捕まればおれたちの敗北、負けなんだ! 逆にいえば、ちずるさえ無事なら負けじゃねーんだよ! 本当にてめえが番長なら、手下の遺言ぐらい、聞きやがれ! いまおまえがしなきゃいけねーのは、戻って、なかのやつらといっしょに、あの水のバケモンを倒すこった!」
桐山《きりやま》が、くっ……と歯を噛《か》みしめる。
そしてたゆらのすぐそば、校内の出入り口のなかで横たわっていた馬頭《めず》は、「ま……まだわたしは、死、死んでは……」とうめき声を洩《も》らした。
「……沙介《さすけ》、シーナ」
「うん? なんだ、臣《おみ》?」
桐山の低い声に、沙介とシーナは微笑《ほほえ》みながら軽く首を傾《かし》げる。
「おまえらコロス、おれ。首洗う、待ってろ!」
桐山は身を返し、たゆらが身体を覗《のぞ》かせてた校内への出入り口へと飛びこんだ。すぐさま金属製の扉は閉じられる。扉から、鍵《かぎ》をかける音があがった。
ふふふ……。
「青《アオ》のやつ、成長したな、シーナ」
「本当にね、沙介」
沙介とシーナは、楽しげに笑いあった。
そろって歩きだす。
熊田《くまだ》の近くまできて、その巌《いわお》のごとき巨躯《きょく》を見あげた。
「いいのかな、いっても?」
「どうぞ」
熊田は、沙介とシーナに視線すらやらず、答えた。
彼の右目は、前に立つ長躯《ちょうく》の女性、〈鬼〉の乱《らん》に注がれていた。
「なるほど、だれがいちばん強くて、だれをいちばん学校のなかに入れちゃいけないのか、よーくわかってるってわけだ。すごいねえ、あんた……」
沙介とシーナは、熊田の横をとおりぬけ、校内へと続く金属製の扉の前に立つ。
せーの、とどうじに立てた指先で撫《な》でるように×の字を描いた。
扉はそのまま、×の字に斬《き》れる。
沙介とシーナは、学校のなかへと侵入した。
そのあいだ、熊田はいっさい動かない。
熊田と対峙《たいじ》する乱も、動かない。
ふたりどうじに、一歩前にでた。
二歩。三歩。四歩。
もう手を伸ばせば届く距離になって、熊田は身体をひねり、右拳《こぶし》を振りかぶった。
乱もおなじく、自分の背丈ほどもある太い金棒を、振りかぶる。
一瞬、制止。
そして、始動。
「――ぬああああああ」
「――らぁ!」
拳《こぶし》と金棒によって、空気が、うねり、きしみ、そして。
4
校舎が、揺れた。
激しい縦揺れに、しかし、校内にいたたゆらは反応ができなかった。
「なんだ……こりゃあ」
外壁は砂防壁で覆われ、電気もおそらくは〈葛《くず》の葉《は》〉の手によって落とされていたため、校内はまさに真の闇《やみ》で満ちている。
が、たゆらが驚いたのは、闇などではない。
妖《あやかし》の眼《め》は闇を見透かす。たゆらだけでなく、桐山《きりやま》や澪《みお》、死にかけの馬頭《めず》も、個人差こそあれど、闇のなかでもあるていどの視界は保つことができた。
その視界のなかが。
死屍《しし》、累々《るいるい》。
廊下に、天井に、壁に、さまざまな妖《あやかし》たちが、異様にねじれた姿勢で力つき、なんとも奇妙なことに、宙に浮いていた。
その表情はみな、一様に苦悶《くもん》に満ちている。
床の上なのに浮いているひとりにたゆらが近づくと、なにか透明な、丸いぶよぶよしたものに包まれているのがわかった。手を伸ばそうとして、制止される。
「止《や》めるんだ、源《みなもと》たゆら……」
止めたのは死にかけの馬頭だった。
どうやら『澪の油』が効いてきたらしく、出血は止まり、傷もふさがりかけていた。だがまだ、身体には力が入らないようだ。桐山と澪の肩を借りたまま、動けない。
「わかってるよ。触るつもりはねーさ。こりゃ水だ。つーことは、あいつだな」
水道管を伝い、校内に侵入した妖。
侵入を防ごうとした馬頭に、瀕死《ひんし》の重傷を与えた水のバケモノ。
「おれのせいだな。あんたに忠告された時点で、さっさと動いて校舎のなかに入って、みんなにあのバケモノのことを教えておけば、こんなことにはよ……」
「おまえのせい、違う」
桐山がいった。
「おれのせい。おれ、私怨《しえん》で、仲間のこと、忘れた。番長なのに。それがこれ、結果」
「き、桐山くん……」
「いや……それも違うな……」
力なく、馬頭《めず》がいう。
「このレベルの敵に校内に侵入された時点で、我らの負けだったんだ……砂防壁で校舎を覆い、その上でわざと出入り口を屋上に残すことで、敵の侵入経路を限定する。あとは熊田《くまだ》さんを中心とした布陣で防ぐだけ。傷つき、消耗したら、校内に逃がし、澪《みお》の力で回復させ、また前線に戻す。いわばローテーションを組んでの戦い。澪のローションで治療し、ローテーション……ふ、ふふふ、ふふ……」
「ずいぶんと余裕、あんじゃねーか」
桐山《きりやま》と澪の肩を借りながら低く笑う馬頭に、たゆらは苦々しく顔をゆがめた。笑いのネタにされた澪は顔を赤くする。もっとも闇《やみ》だったので、まわりにはわからなかったが。
「ないよ。もはや余裕などない。いわゆるひとつの自棄《やけ》になっているだけだ、源《みなもと》たゆら」
「あのな、あんた……」
「自棄になってる暇、ないぞ、馬頭センパイ。水のバケモノ倒す方法、考えなきゃダメだ」
桐山が、馬頭を見ながら、いった。
馬頭は、半分レンズの砕けた眼鏡の位置を、くいくいと直す。
「ええ、桐山番長。水とくれば砂、〈御方《おかた》さま〉でもいれば簡単なのでしょうが……」
「おれの風、斬《き》ってもたぶん、通じない。もしかすると熊田さんでも、ムリ」
「はい。そうなると……」
桐山と馬頭の視線が、たゆらへと向く。
ひたすら桐山を見つめていた澪の視線も、続く。
「へ?」
たゆらは自分を指さし、銀毛の狐《きつね》のしっぽを『?』のかたちにくねらせた。
「水、炎に弱い。常識」
桐山がいった。
「い、いやー……でもよ、消えねーかな? ちずるのあの〈龍《りゅう》〉ならともかく……」
「そこ、おれたち、なんとか……」
ぴく、と桐山が震えた。
「伏せろ!」
肩を貸していた馬頭ごと澪を押し倒す。
え? と立ちつくしていたたゆらの脚も桐山は払った。たまらずたゆらは転ぶ。
「な、なにすんだよ、てめー!」
怒鳴りつけようとして、たゆらは眼《め》を剥《む》いた。
寸前までたゆらの上半身があった位置に、ぶわりと透明な水の塊が浮いていたからだ。
いや、水は天井からたれていた。
スプリンクラーの噴射口から、まるで果実のように、ぶわりと。
その水の塊が、変形しだす。
球形だったのが、細く尖《とが》り、やがて、逆さになった男の姿へ。
「おしかった……ナア……」
人型となった水が、色づいてゆく。
着物姿の、肌は水死体のような青白さで、おでこは異様に広くでっぱり、後頭部からのみ生えた髪は、長く、逆さまなため、たゆらの眼前へとたれる。
「だけど……ネエ」
ヒッヒッ。
男は、不気味に笑った。歯がいくつか欠けていた。
「これで……オシマイ……さね!」
手を後ろについて身体を起こし、口をあんぐりさせていたたゆらに、手を伸ばす。
目の前に広がる手のひらを見て、たゆらは「ぎょえーっ!」と悲鳴をあげた。
「――待てよ、〈海坊主〉」
男の手が、たゆらに触れるぎりぎりで止まる。
「……なにかネ、沙介《さすけ》」
いた。
〈海坊主〉の視線の先に、沙介とシーナの〈かまいたち〉兄妹が、立っていた。
「そいつらはおれたちのお客さんなんだ。遠慮願えないかな?」
沙介はいった。
睨《にら》む桐山《きりやま》に、笑みを返しながら。
〈海坊主〉は、ただ無言で沙介とシーナを見つめている。
「まだこの学校のなかに、獲物はいるだろう。そっちと遊びなよ」
「……ひとつ……貸しだよう……」
じゅるん、と〈海坊主〉はスプリンクラーのなかへと入りこみ、消えた。
はー、とたゆらは胸を押さえ、息を吐く。
「助かっ……」
「――どういうつもり、答えろ! なぜおれたち、助けた!」
桐山だった。
彼は立ちあがり、沙介とシーナを睨みつけていた。
「べつに助けた覚えはないぞ? 臣《おみ》」
「そうよ? 臣」
「なに?」
ふふふ……沙介とシーナは笑う。
「だって……やるんだろう、おれたちと。なあ、シーナ」
「ブチコロスって、首洗って待ってろって、そういってたわ。ねえ、沙介」
「そしておれたちとやるということはな、臣」
「わたしたちに返り討ちにされるってことなのよ。ああ、かわいそうな臣」
あははは、あははは、あはははは。
笑いのハーモニーを響かせるふたりに、桐山《きりやま》はがぎり、と奥歯を鳴らした。
「ブチブチブチコロース!」
「っと、落ちつけっての、臣《おみ》ちゃんよ」
吠《ほ》える桐山のとなりに、たゆらはならぶ。
桐山は、驚きと怒りが入りまじった表情をたゆらに向けた。
「なんだ、たゆら!」
「二対一じゃどーしよーもねーだろっての。となれば、馬頭《めず》のメガネはあのとおりだし、まさか澪《みお》ちゃん闘わせるわけにもいけねーし、おれがおまえのパートナーになるしかねーじゃねーか。よろしくなー、相棒」
たゆらはにこやかに微笑《ほほえ》む。
桐山が、がぎごぎりと奥歯を鳴らした。
「ふざける、メガコロスぞ?」
「ふざけてねーよ。本気だ。だいだいだな、おまえはすぐに頭に血が……」
そのとき、悲鳴が聞こえた。
遠い。だが校内のどこかだ。またあがる。数度たて続けにあがって、ぴたりと止《や》んだ。
「……さっきの逆さ落ち武者だぜ」
たゆらは〈海坊主〉をそう称した。
「早くしねーと、どんどん犠牲は増えちまう。あの逆さハゲ倒すにゃ、おれの炎しかねーんだろ? だったら、とっととおまえの兄姉ぶっ倒して、逆さデコやっつけるんだ!」
「……しかたない。おれ、番長。多少の苦痛、我慢する」
「苦痛なのかよ、おれと組むのがそんなによ」
ちっ、とどうじに舌打ちして、たゆらと桐山は沙介《さすけ》とシーナのほうを向く。
「たゆら、秒コロスだぞ!」
「あったりめーだ! 秒コロス!」
沙介とシーナが、嬉《うれ》しげにそろって唇をちろりと舐《な》めた。
「いいだろう。ならばおれたちも、おまえたちを」
「秒コロス、してあげましょう」
四人、睨《にら》みあう。
その横、廊下の壁際では、澪がはらはらした顔で桐山とたゆらを見つめていた。見つめたまま、手をあわせて祈りだす。馬頭は壁に上半身をもたれさせ、眼鏡の位置を直した。
たゆらと桐山が、沙介《さすけ》とシーナが、四人、どうじに動く。
身体が交差し、きらめき、炎が散った。
まさに一瞬だった。
闇《やみ》のなか、鮮血が噴きあがり、そして倒れたのは――。
「ほらな」
「秒コロスよ」
たゆらと桐山《きりやま》だった。
ふたり、おなじタイミングで、傾き、血を噴き、倒れ、床に転がる。
澪《みお》の悲鳴が、廊下をつんざいた。
★
熊田《くまだ》と乱《らん》は、ひたすら殴り、叩《たた》きあっていた。
まずは熊田の一撃。相手に背中を向けるほど腰をひねっての、石の拳《こぶし》。それは乱の顔面を見事にとらえ、肉がつぶれ骨が砕ける音とともに、吹っ飛ばす。
が、乱の足は、まるで釘で打ちつけられたかのように、びたりと動かなかった。
思いきりのけぞり、地面すれすれまで頭を近づけ……起きあがりこぼしのごとく、乱が顔面を元の位置へと戻す。
「あははははは」
ぼこぼこの顔で、八重歯を覗《のぞ》かし、笑った。
こんどは乱の一撃だ。伸びあがるように振りかぶり、ひゃん、と甲高い音をあげて極太の金棒を叩きこむ。めきょりぽ。
ハンマーでボウリングの球をつぶしたかのような異音を発し、熊田の頭は一気に自分の足下へと、手を後ろに伸ばしての前屈のようなかたちで飛んだ。
が、やはりぎりぎりで耐えきる。熊田は身体を起こした。
「ぬふふふふふ」
腫《は》れて岩のようになった血まみれの顔で、笑う。
互いに顔を近づけ、あはははは、ぬふふふふと笑いあって。
また交互に殴り叩き、再開。
「うのごがっ!」
「あびらぼっ!」
「えぐのびっ!」
「ぐぬるばっ!」
殴る、叩く、殴る、叩く、殴る、叩く、殴る、叩く。
それは、もはやエンドレスでどこまでも続くかのようだった。
「なんていうか……バカだねー」
屋上の隅でおにぎりを食べながら、ずーっとふたりの様子を見守っていた美乃里《みのり》が、しみじみとつぶやく。横に座る鵺《ぬえ》が、水筒からお茶を入れた。
「――あーはははははは!」
まさに喜色満面で、乱が大笑いした。八重歯が一本、なくなっていた。
「たまんないねー、あんた! いやー、すごい、すごいわ! このあたしとここまで正面からやりあうやつなんて、初めてだよ! まったく、まーた九院《くいん》のクソ仕事かと思ってたら、なんて素敵な大誤算だろ! ああ、ホント、最高のクリスマス・プレゼントだよ!」
うむうむ。熊田《くまだ》がうなずく。
「おぬしとまったくの同意見だ。作為のない、ただただ純粋で完全な、力のぶつけあい……裏をかきあう闘いも悪くはないが、やはりストレートは、たまらんな」
「そうそう、そうなんだよ。やっぱ闘いはさ、がつーんで、ごつーんじゃなくっちゃ。なのに今日《きょう》日《び》の妖《あやかし》やらニンゲンときたら、ヘンな術を使ったり、罠《わな》を張ったり、いちいち姑息でさあ! あたしとやりあいたきゃ、正々堂々とこいってんだ!」
どでゆーん、と乱《らん》はタンクトップに包まれた見事なふくらみの塊を揺らしあげる。
「ぬっふっふ……それだけに、ここで終わらせるのが、ちと惜しいが」
「うんうん、ここで終わらせるのが……って、あん?」
嬉《うれ》しげにうなずいていた乱の眉間に、皺《しわ》が刻みこまれた。
「ちょっと……どーゆー意味だい、それ?」
「いや、できればいつまでも楽しんでいたいが……少々、遊びがすぎたようだ。なかにおるものたちのことも心配になってきたのでな」
と、熊田は下、学校の校舎を指さす。
「ああ、なるほど。だけどあんた、沙介《さすけ》とシーナを黙って通したのは、なかにいるやつらだけであいつらを始末できるからじゃなかったのかい? それにあの〈海坊主〉なら、ほれ、〈御方《おかた》さま〉ってのが砂使いなんだろ。簡単に倒せるじゃないか。わかってるよ、水を吸いとるには砂だ、うん。決して生理用品なんかじゃあない、うん」
「うむ、だいじょうぶだろうとは踏んでおる。が、いかんせん、わたしは心配性でな」
「とてもそうは見えないけどねえ……」
ぬふふ、と熊田《くまだ》は口をにんまりとさせた。
その身体が、ひとまわりふくれあがる。着ていた制服を、すでに乱《らん》との激闘でぼろぼろの状態ではあったが、内部から完全に引きちぎった。
胸毛や腕毛など、濃い体毛の上半身をあらわとする。
熊田の肉体はまさに岩石のごとく筋肉で覆われていた。その筋肉はさらにふくれ、体格を鍛えあげた相撲とりから、一瞬、ボディービルダーのものへと変える。
最後に、熊田の、十字の傷によってつぶれていた左目が、開いた。
左目は光を放ち――。
口を開けたまま熊田の変化を見つめていた乱の腹に、拳《こぶし》が叩《たた》きこまれた。
トマトがつぶれたような音が、あがる。
乱の姿は、消えた。
と、はるか遠く、夜景と化したビルで、音があがる。なにか激突し、鉄筋ごとコンクリートを崩す音だった。続けて、小さく、煙があがった。
「へえ。金剛石」
お茶をすすっていた美乃里《みのり》が、そのコップを膝元《ひざもと》に置き、いった。
「それを持つものの力を、何倍にも高める神秘の魔石。この世にひと組しかないといわれるその金剛石を、まさか熊田|流星《りゅうせい》、あなたが持っていたとはね」
ぬっふっふ。熊田は左目を白く輝かせたまま笑う。
「わしの名は熊田流星でないぞ? 熊田|彗星《すいせい》だぞ?」
「それ、もしかして〈御方さま〉からもらったの?」
「いいや……まあ、人には……いや、熊にはいろいろあるものだ。さて、つぎはおぬしかな?」
熊田に向き直られ、美乃里は自分を指さす。
「え、わたし? いやいや、とてもとても、ただでさえバカ力な熊田流星……彗星さんが、その金剛石でバカバカバカバカ、すーっごくバカ力になってるのに、相手なんか、ムリムリ、ムリだよ。いまのところわたし、まだ〈八龍《はちりゅう》〉を殺さないよう見届けろ、としか命令受けてないし。それにさ……」
小首を傾《かし》げながら、コケティッシュに笑った。
「まだ、終わってないもん」
「ぬ?」
ぬーああー。
遠く、叫びが届く。
それは、さきほど熊田が乱を金剛石の力を全開にして殴りつけ、吹き飛ばしたはずのビルの方角からだった。
あー……あー! あたしは脳みそ筋肉ー!
ひとしきり叫んでー。
乱は帰ってきた。
「うがぬがらー!」
叫びながら跳んで帰ってきて、そのまま熊田を手に持っていた金棒で殴りつける。
「ぬぬぬ!?」
熊田は衝撃をこらえながら、信じられないものを見たかのように、右目を見開いた。
ふー、ふー、と目の前に立つ乱の息は荒い。
持っていた金棒が、いまの一撃で折れたのを見て、放《ほう》り捨てた。
「まーったく、あんたとは……気があうねえ!」
乱が、自分のタンクトップに手をかける。
一気に引きちぎった。
あらわとなる、意外と硬そうではなく、筋肉にも覆われておらず、色あいも清楚《せいそ》で、美しくも大きな両のふくらみ。
そしてその、だるるるん……と揺れるふくらみのあいだには、光る石が。
「ぬう……!」
「あー、そーさ! まっさか奥の手までいっしょだなんてねえ、こいつあ運命の出会いかな! ところがどっこい、残念だけどごめんなさい! あたしには心に決めたかたがいるのさ! 何百年も探してる! あたしの身体は、とっくにそのひとのものでね!」
あはははー、と笑う乱の胸には、熊田の左眼とおなじ、金剛石の輝きがあった。
「さーて、じっくりとつきあってもらうよ? 仲間を助けにいくだって? 冗談じゃない、あたしは乳まで見せたんだ。心ゆくまで、この楽しい殴りあいを続けようじゃないか!」
熊田の表情が、初めて苦しげにゆがむ。
「ぐぬ……ぬぬ……」
「おーらおらおらおら! どうした! どうしたのさ! こいよ、ほら!」
狂ったような笑い声をあげながら、乱は熊田を激しく殴りつけた。止まらない。そのゴムまりのような胸のふくらみを揺らしながら、乱は、殴る、殴る、殴る。熊田はひたすら、腕で頭を覆うようにして防いでいたが、なんといっても金剛石によって力が数倍にもなつている乱の拳《こぶし》の衝撃ときたら、さきほどまでの金棒の比ではなかった。
「……なるほどね」
美乃里《みのり》がつぶやく。
彼女の髪は、乱の拳が熊田の肉体にめりこむごとに発生する風圧で、ぶわりぶわりとなびいていた。おなじく白髪をなびかす鵺《ぬえ》が、お茶のおかわりを美乃里のコップに注ぐ。
「やっぱり、〈御方《おかた》さま〉はいないんだ。いるなら、あんな〈海坊主〉なんて学校のなかに侵入すらさせてないはずだもん。しかし、ちずるはいる。ホテルから学校へ飛んできたのは、まちがいなくちずるだった……どういうことかなあ、これは。ふ、ふふ、ふふふ、ふふ……そうか、うん、やっぱりお兄ちゃんが、すべての鍵《かぎ》なんだ」
「――だっちゃー!」
乱《らん》の猛攻に、とうとう、熊田《くまだ》は吹き飛ばされた。
〈海坊主〉に破壊され、いまだパイプから水をあふれさせる貯水槽の、その円筒形のタンクがのっている台に、背中からぶつかる。
「あーもー、どーしたんだい、あんたは! きなよ、本気で! さっきあたしをあーんな遠くまでホームランしたパンチ、ぶちこみなよ! この『力がもりもり石』を持ってるやつとやるのは、あたし、初めてなんだからさ! あー、もう、それがぶつかりあったらどうなることか……たぶん、こんな屋上なんか、簡単に消し飛ぶね!」
胸に金剛石を輝かせた乱が、表情まで期待に輝かせだした。
「……ん? 屋上が、消し飛ぶ?」
美乃里《みのり》がお茶を飲む手を止め、首を傾《かし》げる。
「ふうん……だから、か。熊田|彗星《すいせい》は、だから……」
うふふ、と笑い、お茶を両手で抱え、すすった。
「ちょっとちょっと、なんだい、お嬢ちゃん? 気になるじゃないか」
片目をまぶたの腫《は》れでつぶした乱が、美乃里をもう片目で見やる。
「そこの熊田さんが、急に反撃しなくなっちゃったわけだよ。それは下手に反撃したら、お姉ちゃんのいうとおり、屋上が消し飛んじゃうかもしれないからさ」
「あん?」
「消し飛んじゃこまるものが、屋上にあると、つまりそーゆーこと……。いやあ、すっかりだまされちゃったな。わたしたち、みんな、てっきりちずるは、〈八龍《はちりゅう》〉は、学校のどこかに潜んでいるものだとばかり思いこんでちゃった。灯台もと暗しってわけだ」
「はあ……?」
乱は口をへの字にひん曲げ、首を傾げた。
ふん、と鼻を鳴らし、貯水槽がのった台にもたれてうなだれたまま、「ぐぬう……」とうめくばかりの熊田を、見おろす。
「どーでもいーさ、そんなこと! べつにあたしは〈八龍〉になんか興味はないんだから! よーし、あんた! 反撃できないっていうんなら、どうしても反撃しなくちゃならないようにしてやるよ!」
「ん? お姉ちゃん、どうやって?」
「こうやって!」
ぬあらーっ! と乱は、ボクシングのボディーブローのような軌跡で、目の前に座りこむ熊田へ拳《こぶし》をぶちこんだ。拳は、ちょうど熊田の顔面の位置に当たる。
「ぐっ……」
熊田《くまだ》は、顔面で乱《らん》の拳《こぶし》を受けた。
止まらなかった。
乱の拳は、彼女の充分な腕のひねりと膝《ひざ》のためを受けて、熊田の顔面ごと、その巨体を浮きあげ、頭上にあった貯水槽のタンクへめりこませた。
熊田は宙を舞う。
めりこみ、台から引きはがされた、円筒形の貯水槽のタンクごと、夜空へ浮かび、そして、屋上へと落下した。
貯水槽のタンクは、熊田の巨体の下、ひしゃげ、つぶれ、裂ける。
「ぐ……ぐぬ……ぬかったわ……だが、まだ……」
「――もう、いいわ」
身体を起こそうとする熊田の肩を、白い腕が、止めた。
腕は、熊田の下敷きとなった貯水槽のタンクのなかから伸びていた。
と、タンクから、さらに飛びだすものがある。
炎だった。
鞭《むち》のようにつらなり伸びる炎が、一本、二本、三本、四本、五本、六本。炎はひしゃげたタンクを、熊田を傷つけることなく、飴《あめ》のように切り裂いてゆく。
ただの金属片となったタンクのなかから、あらわれたもの。
狐《きつね》の耳と、しっぽを生やし、髪は金髪に、身には深紅のボンテージ・ルックをまとい、そして六本の〈龍《りゅう》〉をうねらす、妖狐《ようこ》。
「やあ」
源《みなもと》ちずるは、にこりと挨拶《あいさつ》した美乃里《みのり》を、ただ冷たく見つめ返した。
★
そのころ、闇《やみ》に沈む校内では。
いたるところから悲鳴があがっていた。〈御方《おかた》さま〉に認められて、それなりの力を有しているはずの妖《あやかし》たちが、男も、女も、あえなく水に呑みこまれ、おぼれ、力つきる。
無理もなかった。
海妖《かいよう》である〈海坊主〉には物理攻撃はまったく通じなかったし、たとえ炎の使い手でも、水道管がもたらず豊富な水量に、蒸発させるどころか、消火された。さらにはスプリンクラーや蛇口など、神出鬼没で、気づいたときには〈海坊主〉の作りあげる水球に呑みこまれるほか、もうどうしようもなかった。
そして、とうとう、最後のひとり、廊下を目まぐるしく跳びまわり、逃れていた〈ももんが〉の天野《あまの》も呑みこまれて。
校内は、沈黙に塗りつぶされた。
[#改ページ]
[#小見出し] 五、ワイルドパーンチ![#「五、ワイルドパーンチ!」は太字]
1
「どうやら、終わったらしいな」
「そうね、沙介《さすけ》」
沙介とシーナは、頭上を微笑《ほほえ》みながら見あげ、いった。
さきほどまで激しく校内を麗わせていた屋上からの振動が、いまはもうない。
「どっちが勝ったと思う、シーナ?」
「あら、乱《らん》じゃないの? あの娘、頭が筋肉なだけあって、本当、バカ力よ。バカ力も、あそこまでいけばバカにはできない……おまけに、奥の手だってあるし。まあ、あの奥の手、問題なのはいちいちあの娘、使うときに脱ぐことなんだけど」
うふふ、ふふふ……。
沙介とシーナは、その身をくっつけあう。
「そうだな……たしかに乱は強い。それに、上にはあのお嬢ちゃんもいるし」
「三珠《みたま》美乃里《みのり》……あの朔《さく》と、妙にウマがあっていた子ね?」
「ああ……あのお嬢ちゃん、まったく底が知れない……もしかしたら、おれたちや乱なんかより、よっぽど……」
身を寄せあい、まるで恋人のように語りあう沙介とシーナを、馬頭《めず》は、廊下の壁にもたれ、足をだらんと伸ばしたまま、ただ見つめていた。
その壊れた眼鏡ごしの視線が、動く。
床に倒れるたゆらと桐山《きりやま》、そしてそのふたりの上に覆いかぶさる澪《みお》を、見た。
ふたりが倒された瞬間には、ただただ悲鳴をあげていた澪は、すぐに我に返り、着ていた上着をすべて脱ぎ去って、たゆらと桐山にかぶさった。身体から治癒効果のある粘液を流し、ふたりを包みこむ。すでにその粘液は、たゆらと桐山が床に流した血だまりをも呑《の》みこみ、広がっていた。
「……澪」
馬頭は小声で、語りかける。
「きみだけでも逃げるんだ……。我々の敗北は、もはやほぼ確定したといっていい。校内のあちらこちらであがっていた悲鳴が、いまはもう、聞こえない。そして、あのおそるべき水妖《すいよう》を、我らの仲間で倒せたとも考えにくい……つまり、仲間は全滅した」
馬頭の声に、澪は微動だにしない。
「屋上にいけ。熊田《くまだ》さんも、もしかしたら……だが、屋上には源《みなもと》ちずるがいる。いくんだ。いって彼女と合流しろ。源ちずるの〈八龍〉の力なら、あるいは〈葛の葉〉の包囲を突破することもできるかもしれない。澪、きみは……我々とは違い、〈御方《おかた》さま〉に従っているわけではない。犠牲になる必要はないんだ。さあ、いけ、いくんだ、澪《みお》」
「へえ、〈八龍《はちりゅう》〉は、屋上にいるのか?」
沙介《さすけ》とシーナが、そろって腰を屈《かが》めて馬頭《めず》を覗《のぞ》きこんでいた。馬頭は答える。
「……おそらく。あくまでわたしの推測でしかないが、可能性は高いはずだ」
「いいのかしら? わたしたち、聞いてしまったけれど」
シーナの言葉に、馬頭はもたれた壁から動くことすらなく、ただ低く笑う。
「べつに……きみたちは、〈八龍〉になんか興味はないだろう。きみたちが興味があるのは、桐山《きりやま》臣《おみ》、彼だけのはずだ」
「それも推測か?」
「ああ」
はははは、ふふふふ。沙介とシーナは笑った。
「いい頭の出来してるな、まったく……なあ、シーナ?」
「ええ。ちょっと斬《き》って開いてその中身、見てみたいくらい。ねえ、沙介?」
あはははは。
うふふふふ。
廊下に、沙介とシーナの笑い声が響き渡る。
「――どうするつもりですか」
少女の声が、沙介とシーナの笑いを止めた。
「……なにを、かな?」
沙介とシーナが声のしたほうを向く。
視線の先にいたのは、澪だった。
その幼い、しかしたしかに女としてやさしい曲線でかたちづくられた上半身を、自分のだした粘液でぬめぬめとさせ、澪は立ちあがっていた。
その眼《め》に、弱さはない。
いつもは気弱なたれ目なのが、普通になって、沙介とシーナに向かいあっていた。
「桐山くんを、どうするつもりですか」
臆《おく》せず見つめる幼い少女に、沙介とシーナはたまらずといった様子で、吹きだす。
「ふふ……さあて、どうしようかねえ。どうする、シーナ?」
「そうね……とりあえずお家《うち》に持ってかえって……ふふ、どうしましょう、沙介?」
「――させるものか」
例のごとく沙介とシーナは笑いだしかけて、その半笑いの口のまま、止まった。
「桐山くんは……ワタシが、マモる!」
澪の身体には、瞬時に紋様が浮かんでいた。
なだらかな肩に、腕に、平らな胸に、脇腹《わきばら》に、スカートの下の太ももに、そして頬《ほお》に、おでこに、黒くうねる、まるで黒雲のような、紋様が。
「オミのことは、このワタシ、ミオが!」
★
闇《やみ》と沈黙とに塗りつぶされた校内に、動きがおこる。
蛇口から、スプリンクラーから、あらたに水がでてきた。水はうねうねとうねりながら、廊下や壁、天井、教室、階段、トイレなど、校内各所で水の塊に包まれ、溺死状態にあった妖《あやかし》のもとへ、辿《たど》りつく。
妖を包んでいた水の塊が、ぷーっとふくれあがり、弾《はじ》けた。
おぼれていたはずの妖たちは、投げだされるなり、激しく咳《せ》きこんだ。首を振り、頭を押さえ、まわりを見る。
「――感謝するのだぞ、地上の妖ども」
復活した彼ら、彼女らに、女性の声が響いた。
「いま使ったのは我ら海の一族、その王族にのみ伝わる治癒の水。母なる海の水。本来ならば、土臭く汚らわしい、きさまら地上の妖などに……」
「――シズカ」
やたら強気なその女性の声を、おとなしそうな青年の声が静かにとがめる。
「いけないよ、そんなものいいは。わたしたちだって、もうずっと地上に居続けているんじゃないか。充分、土臭い地上の妖だよ」
「な……なんということを! あなたは誇り高き海の一族、その王族で……」
「他者をおとしめるようなことをいうシズカなんて、わたしは好きじゃないな」
「か、カイさまー!?」
「でも素直なシズカは、わたしは大好きだよ」
「あ、あう……」
声は、すぼんで消えていった。
妖たちはきょろきょろとあたりをうかがっていたが、やがてうなずき、立ちあがる。その数は、どんどんと増えていった。
2
馬頭《めず》の眼《め》は、見開かれたまま、閉じない。
廊下に足を投げだした姿勢で壁にへばりつき、半分壊れた眼鏡ごしに、まばたきひとつせず注ぐ彼の視線。それは、馬頭の前でふたりの男女と対峙《たいじ》する、ひとりの幼い少女へと向けられていた。
その肌に奇妙な紋様を浮かせた少女、澪《みお》は、動かない。
ふっ、ふふ、ふふふ……。
澪と向きあう沙介《さすけ》とシーナが、静かに肩を震わせだした。
「どうしたんだ、お嬢ちゃん……こないのか? 『オミはミオが守る』だったか、ずいぶんと威勢はよかったが」
「そうよ、お嬢ちゃん。早くわたしたちやっつけないと、臣《おみ》、死んじゃうわよ」
シーナが、澪《みお》の後ろを指さす。
澪の後ろでは、桐山《きりやま》とたゆらが粘液まみれのまま、あいかわらず倒れていた。
「こないなら……しかたない、こっちからいくか、シーナ」
「しかたないわよ。このまま見あっていても、ねえ、沙介《さすけ》」
ゆら、と沙介とシーナが前に傾く。
足はそのまま床から動かさなかったため、ただ身体だけが傾き――倒れる、とだれもが感じるだろう瞬間、澪に向かって一気に跳んだ。
交差する。
ただ立ちつくす澪の、そのぬらつく裸の胸元へ、沙介とシーナで斜めに手刀を入れ、×の字を描いた。そのまま、澪の背後へぬけてゆく。
「また秒コロス、しちゃったな」
「まあ、まだ若いから、傷はすぐ消えるわよ。死ななければ、だけど」
倒れていた桐山とたゆらをも飛び越えてから、くるりと沙介とシーナは振りむき、澪を見た。
沙介とシーナに背を向けたまま、澪は動かない。
「……ん?」
にたにた笑う沙介とシーナの表情が怪訝《けげん》なものとなったとき、澪はゆっくり振り返った。
「なに……?」
「なんですって……?」
沙介とシーナの眼《め》が、驚きに見開かれる。
その幼い胸板には、傷ひとつなかった。その表情にも、苦悶《くもん》ひとつない。
「バカな、たしかにいま、おれたちは……」
「斬《き》ったはず! ×の字に!」
と、そのとき沙介が、自分の腕を見た。
手を顔の前に持ちあげ、闇《やみ》のなか、まじまじと眼をこらす。
指先は、澪の粘液によってわずかにぬらついていた。
「これは……油か? だから……いやしかし、たかが油ていどでおれたちの刃が」
「ワタシのアブラ、キズ、ナオす」
その澪の声は、表情とおなじく冷たいものだった。
「どんなキズでも、ナオす。だからキる、ムリ」
「……なるほどね」
沙介は腰に手を当て、片方の唇をつりあげた笑みを浮かべる。
「だが、どうする? なるほど、おれたちはお嬢ちゃん、おまえさんにこのまま傷を負わせることはできないかもしれない。しかし、それはお嬢ちゃんもいっしょだろう? だからこそ、さっきお嬢ちゃんは、ずーっと攻撃もせずに黙って立っていた。違うかな?」
「チガう」
「なに?」
「もうコウゲキ、オワった」
くくくっ、と沙介《さすけ》が腰に両手を当てたまま身体を折り、笑った。
「それはそれは、ずいぶんと素早い攻撃だな。〈かまいたち〉であるおれたちに気どられないほど速いとは……なあ、どうだ、シーナ……ん、シーナ?」
シーナは、沙介の横で奇妙にくねっていた。
かたかたかた、と震え、驚きに満ちた表情で、すがるように沙介に手を伸ばす。
「シーナ! な、なにが……が……がが?」
沙介も、震えだした。
震えるまま、自分の身体を抱くようにくねり、すでに澪《みお》の攻撃に冒されていたシーナへ、やはり手を伸ばし、互いに身を寄せあう。
「ど……」
沙介とシーナが、澪を見た。
彼らの眼《め》から見る少女の身体からは、うっすらと、紫色と緑色が入り交じった湯気のような妖気《ようき》が、あたりに広がっていた。
「毒……とはね」
沙介とシーナは、ふたり、抱きあいながら、倒れる。
澪はしばらく黙って〈かまいたち〉の兄妹を見おろしていたが、やがて動いた。
駆け足で、廊下に転がったままの桐山《きりやま》とたゆらのもとへと向かう。
屈《かが》みこみ、ほっ、と息をついた。
「ヨカった……ちゃんと毒ケシ、キいてる……」
桐山とたゆらを抗毒作用のある粘液で浸しておいて、澪は、廊下いっぱいに、粘液を気化させて生じる毒をまいた。狙《ねら》いは当たり、みごと、〈かまいたち〉の兄妹を倒したわけだが……ひとつ、彼女には誤算があった。
馬頭《めず》の眼は、見開かれたまま、閉じない。
廊下に足を投げだして壁にへばりつく馬頭の身体は、完全に麻痺《まひ》していたのだった。
★
「このまま休んでて」
ちずるは、そばで膝《ひざ》をついたままの熊田《くまだ》の肩に、ぽんと手を置く。
そのまま歩を進め、熊田の前に立った。
金髪に深紅のボンテージ、狐耳《きつねみみ》、狐しっぽという姿で、六本の〈龍《りゅう》〉を自分の身を守るようにくねらせ、目の前の相手へと鋭く細めた眼《め》を向ける。
「あとは……わたしがやるから」
視線の先には、美乃里《みのり》と鵺《ぬえ》、そして乱《らん》がいた。
白いドレス姿で、小さく笑みを浮かべる美乃里。
黒いセーターにジーンズ姿の、頭が白髪の鵺。
このふたりに対しては、ちずるの眼は鋭いままだった。
が、最後のひとり、乱に対しては、奇妙にゆがむ。女なのにやたらごつく、顔はぼこぼこで、おまけに大きな胸はさらけだし、そのふくらみのあいだがなにか光ってもおり、髪は深緑、角を生やし、スパッツに虎《とら》柄の革を巻いて、足はスニーカーな〈鬼〉の乱に、ちずるは眼をこらしたり、首を傾《かし》げたり。
「ゴリラ……? いや、顔は女の子……? いや、やっぱりゴリラ……?」
「み、源《みなもと》よ……わたしはまだ、へ、平気だぞ……」
熊田《くまだ》の声に、はっ、とちずるは我に返った。
ちずるの後ろで、熊田はどうにか身体を起こそうとしていた。その頭に、ちずるは自分の狐《きつね》のしっぽをぺしん、とのせる。
「ダメよ。あとはわたしがすべてやる。いや……最初からこうするべきだったのよ。いくら〈御方さま〉とつながりがあるからって、本来ならあなたたちにこうまでしてもらう義理なんて、わたしにはなかったんだもの。正直、〈葛《くず》の葉《は》〉を甘く見てた。熊田さん、あなたがここまで追いつめられるだなんて……熊田さんでこれじゃ、校内のみんなは、いまごろどうなってることか……。やる。もう手を汚すのが嫌とかなんとか、いってられない。わたしが、こいつら全員――」
「〈龍《りゅう》〉の力でやっつけてやるって?」
それは、微笑《ほほえ》みながらの美乃里の言葉だった。
「できるの? だってちずるは、まだ〈龍〉の力を自分の完全な支配下には置けてないでしょ? あまりにも〈龍〉を使った結果がおっかなくて」
「ええ! たしかにわたしはまだ、〈龍〉を完全にコントロールすることはできない。それはつまり、手加減できないってことよ! わたしはそれが怖かった。きっと多くのものを殺《あや》めてしまうでしょうから……たとえわたしを狙《ねら》う相手とはいえ、それはあまりにも」
「嘘《うそ》ばっかりだね」
美乃里の声は、じつに軽やかなものだった。
「……なにが嘘よ」
「ちずるが本当に怖いのは、そんなことじゃないってことさ。〈龍〉を使うことによって〈葛の葉〉の連中が死んでしまうのが怖いんじゃない。〈龍〉を使うことによって、ちずる、あなた自身が死んでしまうことこそが、怖いのさ」
「美乃里……!」
ちずるは、眼を剥《む》く。
「あなたは……まさか……」
ははっ、と美乃里《みのり》は笑った。
ぱっと後ろに飛び退《の》き、そこに立っていた鵺《ぬえ》に、背中から美乃里は抱かれる。
「いいよっ、〈龍《りゅう》〉の力、使いなよ! 不完全なやつをさ! そうすれば、わたしが――っと、あ、そっか」
屈《かが》む鵺と口づけしようとしていた美乃里は、唇が触れるぎりぎりで、止《や》めた。
斜め前方に立つ、乱《らん》の大きな背を見る。
「わたしはまだ、監視役なんだった……ほらほら、〈鬼〉のおねーちゃん! そこに〈八龍《はちりゅう》〉、いるよ! さっさと捕まえて、九院さまのとこに連れていきなよ!」
長い深緑の髪がそのほとんどを覆う乱の背に、しかし動きはなかった。
「ちょっと、お姉ちゃん?」
「……ちはる、お姉さま?」
美乃里が首を傾《かし》げたそのとき、乱が、声を洩《も》らす。
それは、その外見にはあまりにも似つかわしくない、か細く、か弱い声だった。
「ちはるお姉さまでは、ありませんか?」
乱は、剥《む》きだしの胸の前で祈るように手を組みあわせ、乙女チックに迫る。迫った相手は、深紅のボンテージでSMの女王さまチックな、ちずるだった。
「え……えと?」
眼《め》をぱちくりさせたちずるに、乱はさらに乙女チックに迫った。
「お姉さま、わたしです! 乱です! いまはこんなにすくすくと健《すこ》やかに育ってしまいましたが、ウン百年前は、お姉さまの肩より小さくて……覚えておられませんか!?」
「あ? あ……。ああ……あー!? 乱!? あなた、あの、乱!? こんなだった!?」
ちずるは自分の胸元あたりで、手を水平に激しく動かしだす。
「そう、そうです! あの乱です! ああ、お姉さまはまったくお変わりなく……」
「い、いや、昔のわたし、こんな格好はしてなかったし」
「いえ、イメージぴったりです! よくお似あいです! うふふ、お姉さまったら、昔はわたしのこと、それはもう、厳しく厳しく、おしりぺんペーん、て……」
いやんいやん。
乱は両|頬《ほお》に手を当て、恥ずかしげに身体をくねらせる。
ちずるはそのたくましい肉体を、上から下まで、はー、と驚きともつかない声をあげ、なんども見つめた。
「ずいぶんと……変わったわねえ、あなた……」
「お姉さまこそ、お名前、お変わりになられたんですか? 昔は『三日月《みかづき》ちはる』なんてお名前でしたのに……いまは? ちずる……ですか?」
「い、いやー、まあ、いろいろあってね、いろいろっ! ほら、占いでさ、改名したほうが運が開けるっていわれたから……だからねっ!」
あはははー、とちずるは頭をかく。
笑うしかなさそうなちずるの背後で、熊田《くまだ》もくぐもった笑い声をあげた。
「ぬっふっふ……なるほど、偽名か。だがしかし、偽名とは通常、正体を隠しておきたいときに使うもの。ということは、つまり、かわいそうだが、遊びの相手だったと……」
「黙れ、熊公!」
べちーんと、ちずるは狐《きつね》のしっぽではなく、〈龍《りゅう》〉でぶっ叩《たた》いた。
「がはっ!」
熊田は顔面で喰《く》らい、じゅーっと焼ける音とともに、後ろにごろごろ転がる。
「……あのー、お姉さま?」
あちちちと顔をはたく熊田を、わずかに開いた唇からぎりぎりと噛《か》みしめた前歯を覗《のぞ》かせつつ睨《にら》んでいたちずるに、後ろから乱《らん》が話しかけた。
「あ、な、なあに、乱!」
「わ、わたしぃ、ずっとお姉さまのことぉ、探していてぇ、だってお姉さまぁ、いきなりわたしの前からいなくなってしまってぇ、だからぁ、ずっとぉ……」
両の指先をもじもじとあわせながら、乱はいった。
「あ、あー、うん、それはホント、ごめん……」
「いえ! ですから、あの、その、ま、また、前のように、わたしと、愛しあって……」
「ごめん、それはムリ」
「ええ!」
乱《らん》が、その眼《め》を大きく見開く。熊田《くまだ》との一戦で片目はほとんどつぶれていたが、それさえもが開いた。
「ど、どうして、ですか……?」
「だってわたしいま、恋人いるし」
「えええ!」
「しかも、男」
「ええええええ!」
「あと、わたし、彼の前じゃハードM」
「えええええええええええ!」
眼をくわわっと見開き、乱はそのたくましい腕を震わしながら、ちずるの後ろを指す。
「あ、あれ……ですか?」
それは、ようやく立ちあがった熊田だった。
「違う、違う!」
さきほどの闘いによる腫《は》れで、すっかり岩となってしまった顔をさらに〈龍《りゅう》〉で焦がした大男の姿に、ちずるはぶんぶんと手と顔としっぽとを振る。
「じゃあ、どこです!? どこなんです!? ちずるさまの肉体をおもうままむさぼっている、そんな断罪すべき大悪人はっ!」
「あのね、耕太《こうた》くんに手をだしたら、乱、いくらあなたでも、タダじゃおかないわよ!」
「ち、ちはるお姉さま……」
眼から、ひょろ〜んと涙の軌跡を宙に描き、乱は横に崩れ落ちた。
「こ、耕太……それが、ちはるお姉さまのいまの恋人の名……」
よ、よ、よ。立てた親指の爪を噛《か》み、すすり泣く。
「あのね、いまのわたしはちはるじゃなく、ちずるなの。もう、あらたな人生を歩んじゃってるわけだから……ずっとわたしのことを探し続けてくれたあなたにはホントごめんなさいだけど、乱も、ね? あらたな人生を……」
「わかりました!」
乱はすっくと立ちあがった。
「え、もう? ずいぶんと立ち直りが早い……」
「ではわたし、ちはる改めちずるお姉さまの、アイジンとなります!」
「いらん! アイジンはもう、いらん!」
「いえ、なります!」
間髪入れず断ったちずるに、乱はさらに間髪入れず拒否し、いきおいよく振り返る。
「ちずるお姉さまのアイジンとなるため……まずはこいつら、ブチのめす! 〈八龍《はちりゅう》〉だかなんだか知らないけど、お姉さまを狙《ねら》うやつは、あたしがゆるさん!」
向き直った先には、美乃里と鵺がいた。
「いや、ちょっと、あなた、あのね、アイジンって……」
「諦《あきら》めるのだな、源《みなもと》よ」
ぬっふっふ、と笑いながら乱《らん》の横にならんだのは、熊田《くまだ》だった。
「これはおぬしの過去の行状がもたらした悲劇。おとなしく受け入れるほか、あるまい」
「あのね、熊公。こんなの、どう耕太くんに説明しろってーのよ」
「じっくりと説明するのだな。まあ、すべてはこの場を切りぬけてからの話だが……」
熊田の視線の先には、やはり美乃里《みのり》と鵺《ぬえ》の姿があった。
いや、その背後、遠く砂丘と化した校庭の上空に浮かぶ四岐《しき》と九院《くいん》にも、さらに奥、薫風《くんぷう》高校の周辺にも、熊田の眼《め》は向けられていた。
「……たしかに、ね」
ちずるも、正面から美乃里と向きあう。
彼女の腰から狐《きつね》のしっぽとともに伸びる六体の〈龍《りゅう》〉が、その炎のいきおいを増し、伸びあがった。ちずるの両|脇《わき》に立つ乱の胸と、熊田の左眼の金剛石も、光を放ちだす。
「やれやれ」
と、美乃里はため息をついた。
後ろから抱きしめる鵺の腕をとって、彼女を見あげながら、美乃里はいう。
「なんだろーね、この展開。こちらが連れてきた妖《あやかし》の、なかでもいちばん戦闘向きな、たぶんそこの熊のオジサンとおなじくらい強いのが、ちずるの昔の恋人だった? だからあっさりと裏切るって? まったく、どこまで悪運強いんだろーね、このチチオバケは」
「ふんだ」
チチオバケと呼ばれて、ちずると乱がその胸を上下させた。ちずるのはぴったりと革のビスチェに収まっていたため揺れず、剥《む》きだしだった乱のはゴムまりと弾む。金剛石の力を解放した際、服が破れて胸毛剥きだしの熊田は、にかっと笑って、胸筋を作った。
「さて、九院家四天王のうち、ひとりは裏切ったと」
「おうよ! あたしはちずるさまのものだ!」
乱が元気よく答える。
「残りの三人、校内に侵入したものは……」
「――熊田さんっ!」
屋上の、校内へと続く入り口、沙介《さすけ》とシーナが斬《き》っていった扉から、天野《あまの》や、幾人もの男女が顔を覗《のぞ》かせた。
「〈かまいたち〉の兄妹は、倒したゾ!」
天野が伝える。
ぬふふ、と熊田は笑った。
「そうか……倒したのはやはり桐山《きりやま》かな?」
「いや、澪《みお》! 桐山と源はやられて、いま治療中! あと馬頭《めず》さんも、不幸な事故でやられた! でも、いまンとこ、死んだやつ、いないゾ!」
「ぬ? 澪《みお》が倒した……と?」
熊田が、両目をぱちぱち、まばたきさせる。左眼の金剛石の輝きも、ぱちぱち、ぱち。
「ふうん。あの〈かまいたち〉の兄妹も、やられちゃったんだ……と、なると、あと、残るひとりは……?」
美乃里《みのり》は、視線を遠くさせた。
★
〈海坊主〉は、引きずりまわされていた。
水道管のなかをひたすら引きずられ、とうに身体は薫風《くんぷう》高校の校舎から離されている。付近の住宅街からも離され、ついには街全体からも離され――。
ぐおおおおお。
彼は必死になって自分を引きずる『手』から逃れようとはしていたが、まったくもって通じなかった。いまの彼にできることは、ただただ悲鳴をあげることだけしかなかった。
ワタシより、上位の海妖《かいよう》……?
〈海坊主〉の、ワタシより……?
浮かんだ疑問さえもが薄れ去るほどの、〈海坊主〉本人にとってはとてつもなく永く、実際はさほどでもない時間が経《た》ったあと、ようやく、解放される。
解放というか、放《ほう》り投げられていた。
どこかの水場らしき場所から放り投げられ、そのまま地面へと叩《たた》きつけられる。びしゃりと広がり、土の上、ただの大きな水たまりとなった。
しばらく、そのままでいたが。
なんとか、彼は動きだすことができた。土に吸いこまれ、本当の水たまりとなる前に、〈海坊主〉としての意識をとりもどすことに成功した。
「あ、アブ、アブ、アブな、かった、ねえ……」
まだうまくかたち作れない上半身だけの姿で、〈海坊主〉はあたりを見回す。
公園だった。
ベンチと小さなあずまやのほか、遊具らしきものはない。元々なかったのではなく、最近撤去されたらしく、跡が残っている。まわりでは、木々が寒そうに枝だけを伸ばしていた。ぽつぽつと照明が照らしているため、夜ではあったが意外と明るい。人気はまったくなかった。音といったら、小さな噴水があげる水音のほか、なにもない公園だった。
〈海坊主〉は、その噴水を見る。
どうやら、あそこの噴水から彼はこの公園へ放り投げられたらしい。とにかく、水はあった。水こそは海妖たる彼の力だ。海水、できれば海洋深層水ならいうことはないが、おそろしく力を消耗したいま、贅沢《ぜいたく》はいってられなかった。早く回復せねばならない。
ヒッヒッ……。
〈海坊主〉は、上半身だけの姿で、腕を使い、動く。
つきでた広いおでこの後ろ、後頭部からだけ伸びる髪を地面に引きずりながら、小さな噴水へと向かった。
と、彼のつるりとしたおでこに、影がかかる。
人影だった。
その数はふたつ。
〈海坊主〉は見あげて、ヒッヒッと笑う。笑いは止まらなかった。
「そうかね、そうかね、そういうことかねえ……」
彼の前に立ったのは、マントを羽織った青年と、そしてバニーガール姿の女だった。
マントを羽織ったオレンジ髪の青年が、黙って見おろす。
黙っていなかったのは、眼鏡をかけたバニーガールの女だ。
「ひかえおろー! ここにおわすおかたをどなたとこころえる! おそれおおくも……」
「ヒッ、知ってるさね……大海神《おおわだつみ》さまの、ご子息、海鳴りのカイさまでしょう……?」
ぬ、とバニーは黙る。
「ワタシを、成敗しに、きたかねえ?」
「――きみは、多くの命を奪うことにあまりにためらいがなさすぎる。さっきだって、わたしたちが治癒の水を与えなければ、学校にいた妖《あやかし》たちはその多くが亡くなっていただろう。海の一族、その王族に連なるものとして、きみの行為は見すごすことができない」
カイはどこか哀《かな》しげな眼《め》で、〈海坊主〉を見おろしていた。
静かに自分のマントのなかに手を差し入れ、腰に差した小刀の柄をつかむ。
ヒッ。
ひと声笑い、〈海坊主〉はうつむいた。
「しかたも……ないヨねえ……」
カイが、小刀をぬき、その刃を公園内の照明と月明かりにきらめかせた、そのとき。
キヒャーッ!
奇声をあげ、〈海坊主〉は飛びかかった。
カイは、傍《はた》からはゆっくりにも見える動きで、小刀をまっすぐに振りおろす。
飛びかかった上半身だけの〈海坊主〉は、吸いこまれるように小刀の軌跡へ入って、そのまま、まっすぐにとおりぬけた。
断。
カイの背後で、〈海坊主〉が、半分に断たれた。
左右とも、カイの後ろの小さな噴水へと、落ちる。水しぶきひとつ、あがらない。
「殺しはしない……が、もはやきみに、海の一族としての力はない……」
「おみごとです、カイさま!」
眼鏡のバニーガールが、横で拍手をしだした。
「や、やめてよ、シズカ……」
公園内に高らかに響き渡るその音に、カイはおどおどと眼《め》を伏せる。
「それよりも、だよ」
「はっ! ここからが……」
「うん。本番だ。〈葛《くず》の葉《は》〉によって結界を敷かれる前に……」
カイとシズカは、背後の小さな噴水を見た。
3
「……申し訳、ありません」
九院《くいん》は、四岐《しき》にうつむきながら、いった。
いまだふたりは砂に覆われた薫風《くんぷう》高校の校庭の上、宙に浮いていた。九院が、その背から生やした蝶《ちょう》の羽の妖力《ようりょく》によって得た浮力で、飛び、四岐はそんな彼女に抱きかかえられ続けていた。
四岐と九院の眼は、校舎の屋上へと向いている。
すでに乱《らん》の裏切りと沙介《さすけ》、シーナの敗北は、四岐たちもわかっていた。九院が、そのたらした前髪を触覚として伸ばしたセンサーで、感じとっていたからだ。
「べつに、謝ることはない」
「ですが」
「充分、きみの配下はやってくれた……すくなくとも〈御方《おかた》さま〉が不在であろうことがわかったのはとても大きい。いかんせん、〈八龍《はちりゅう》〉を残して〈御方さま〉だけ逃げるなどまったく想定していなかったからな、捕らえることができるかどうかはわからないが……」
海妖《かいよう》、〈海坊主〉がまったく止められなかったことで、美乃里《みのり》とおなじく、四岐、九院も〈御方さま〉の不在に気づいていた。気づくなり、すでに追跡の命はだしてある。が、〈八龍〉が薫風高校にまちがいなく存在していると決まった時点で、戦力はほとんど学校に集中しているため、あまり〈御方さま〉への追跡に人員は割けなかった。
「ここで重要なのは、いまわたしたちが〈八龍〉を手に入れる上で、〈御方さま〉とは戦闘しなくともよくなった、ということだ。つまり、〈八龍〉さえどうにかすればいい」
「しかし、〈八龍〉もまた、強敵です。それに……」
九院は、遠く、屋上の上で、ちずるを守るようにその前に立つ乱を見た。となりにならぶ、熊田《くまだ》も見やる。
「あのものたち……けして侮らざる力が……」
ふっ、と四岐は笑った。
思わず、といった鼻での笑いは、やがて、声をあげての高笑いへと変わる。
「四岐さま……?」
「ふふ、ははは、いや、すまない、ふふ、だがね、あのものたちていど、もはやなんら問題とはしないのだ。そう、もはや〈八龍〉さえも、わたしたちは……」
ははは、ははは、はははは。
狂ったように、身をくねらせ、四岐《しき》は笑い続けた。抱きしめていた腕から落ちそうになって、あわてて九院《くいん》は強く抱きしめ直すしかなかった。
「くくく……勝った。わたしは勝ったよ、九院。ついに……〈八龍《はちりゅう》〉を手に入れた」
「あの、四岐さま、いったい……」
「『勝算』だ」
「はい?」
「なぜわたしが、〈八龍〉と、〈御方《おかた》さま〉、そのふたりをどうじに相手にするかもしれない愚を犯して、このような、いってみれば強硬手段にでたか……その答えが、いま、でる。よく見ていろよ、九院。わたしの勝利する瞬間を」
四岐は、見た。
薫風《くんぷう》高校校舎の屋上を。屋上で、白髪の〈人造|妖怪《ようかい》〉に背中から抱かれる少女を。
白いドレス姿の少女、美乃里《みのり》も、振りむき、鵺《ぬえ》の横から、四岐を見つめていた。
四岐は、うなずく。
美乃里は、にっこりとほがらかに笑った。
★
「さて……でたよ、許可が」
美乃里は、向きを四岐からちずるたちへと戻し、いった。
その顔には、さきほどのにこりとした笑みが、貼《は》りついたままだった。あまりにもほがらかすぎて、近くで見るものに、逆に薄ら寒いものを感じさせる笑みが。
「許可?」
聞き返したちずるに、美乃里はうっとりと眼《め》を細め、自分を後ろから抱く白髪の〈人造妖怪〉、鵺の顔へ、身体をひねりながら手を伸ばす。鵺も身を屈《かが》めていた。
「そう、許可……わたしたちが……」
美乃里と鵺の唇が、触れあう。
ふたりから、その身体を割るように、光があふれだした。口づけしあう美乃里と鵺の肉体に、輝きによるヒビを入れながら、発せられる光の量は増えてゆく。その自分たちから放たれる光のため、かえって暗く塗りつぶされたふたりの肉体が、すーっと融《と》けあった。
融けあい、質量を増した肉体は、やがて青年の姿へと。
「……ぼくたちが、ちずる、きみを倒す許可さ!」
声とともに、光は弾《はじ》ける。
あらわれた。耕太をそっくりそのまま成長させたと思わしき顔つきの、しかしその表情には耕太が持ちえない薄笑いを浮かべさせた青年姿の三珠《みたま》美乃里が、黒い身体にぴったりした衣服に身を包んで。
「やあ……この姿では、ちずる以外、はじめまして」
片手をあげ挨拶《あいさつ》する美乃里《みのり》の髪は、少女姿のときのなごりか、前より長かった。首の付け根あたりまである。
「そして、すぐにさようなら」
美乃里は歩きだす。
じつにあっさり、熊田《くまだ》と乱《らん》の間合いへ入った。その無造作さは、熊田と乱のふたりが、一瞬、あっけにとられて動けなくなるほどだった。
「ぬうっ」
「うりゃっ」
反射的に、といった感じで、熊田と乱が拳《こぶし》をふるう。
美乃里は、その拳を両の手のひらで受け止めた。これまた、じつにあっさりと。
熊田と乱が、驚愕《きょうがく》に眼《め》を剥《む》くほどの簡単さだった。
が、ふたりの攻撃は決して簡単なものではない。熊田も乱も、その左眼と胸の金剛石はしっかりと輝いていたし、実際、孤を描いて襲いかかった拳は、空気をうねらせ、ふたりの後ろにいたちずるの金髪をなびかせるほどのものだった。両腕を伸ばして受け止めた美乃里の背後にも、衝撃を飛ばし、屋上のフエンスを吹き飛ばしている。
しかし、美乃里が簡単に受け止めたのも、また事実だった。
「な……なんと?」
「あんた……いったい?」
「きみたちが、いかに怪力無双とはいっても……しょせんは妖《あやかし》の力。金剛石によって数倍にもなっているとしても、〈神〉の力の前には、ね」
美乃里は、ふたりの拳を払った。
受け止めていた手のひらを返し、手の甲で、軽く。
それだけで、熊田と乱の腕は弾《はじ》かれ、ふたりに尻餅《しりもち》をつかせた。
ちずるの前に、立つ。
深紅のボンテージに身を包んだちずるの、そのつりあがった狐目《きつねめ》が、驚きに見開かれた。
「み、美乃里……あなたは?」
「まあ、よくある能力だよ」
「え?」
「このぼくの能力さ。いや……正しくは鵺《ぬえ》の能力だけど。でも、ぼくの容量がなきゃ使いこなせないわけだから、そう、いわばぼくたちの能力か」
「な、なにを……」
突如、意味不明のことをいいだした美乃里に、ちずるはとまどいを見せる。
「わからないかい? 実例をあげるならば……」
全身、タイツのような黒く薄い衣服に覆われていると思われた美乃里の右腕、その手の甲に、輝きが生まれた。
「その光は……」
「あ、あたしのとおなじ、金剛石!」
さきほど美乃里によって弾かれた右腕を押さえ、苦痛に顔をゆがめながら、乱が叫ぶ。
「ぬう、しかし金剛石は、この世にふたつしかないはずだが……?」
やはり腕を押さえながら、熊田《くまだ》もいった。
「そうだね。たしかに金剛石はふたつしかない。じゃあ、これはなんだろうね?」
美乃里はにこやかに、まるで教師のように乱、熊田、そしてちずるを見回す。
「……コピー、ね」
答えたのはちずるだった。
苦々しく唇の端と頬《ほお》とをゆがめるちずるに、美乃里は「うん、正解!」と笑いかける。
「コピーしたのさ。もっとも、さすがの鵺《ぬえ》も無機物である金剛石自体をコピーはできないから、いまのこれは、乱、きみが金剛石を使っている状態をコピーしたものだ」
「な、なんだって? い、いつのまに!」
「さっき。熊田と闘っていたとき」
乱が、口をあんぐりとさせた。
「……本当かな?」
驚くしかない乱の代わりに、熊田がつぶやく。
「相手の能力をコピーする力、それはわかる。そうめずらしいものではない。わたしとて、いちど、そういった力の持ち主と闘ったことはある……が」
「が……なに?」
「普通、なにかしら弱点があるはずだ。コピーした対象とはほど遠い、弱い能力しか使えんとか、コピーするのには時間がかかるとか、強すぎる力をコピーすると、いわゆるキャパシティー・オーバーで自滅するとか。なのに、金剛石の力を完璧《かんぺき》に、あっというまに、しかもまったく身体に負担なくコピーするとは……そもそも、この金剛石とはな」
「わかってるよ、熊田。金剛石は、たしかにそれを使うものの力を何倍にもする……だが、それだけに負担が大きい。熊田や乱、きみたちぐらいの強靱《きょうじん》にもほどがある肉体の持ち主でなければ、耐えきれず、崩壊してしまうだろう……ふ、ふふ、ふふふ、ふふふふ」
美乃里が、高笑いをあげだした。
「ぼくを、この三珠《みたま》美乃里を、なんだと思ってるんだ! 〈神の器〉だよ! わかるかい、〈神〉だ!! 〈神〉の、その無尽蔵ともいえる魂を受け止めるために造りだされた器さ! たかだか金剛石ていど、問題になろうはずがない。……とは、いえ」
ふー、と息を吐く。
「以前のぼくなら、そして鵺なら、たしかに金剛石クラスのコピーには多少の時間がかかっただろう。そう……三日ほどは」
「み……三日? たった三日? あたしの力、たった三日?」
「三日も、だよ。乱、きみのはかなり時間がかかるほうだ。たとえば口から衝撃波を飛ばすなんてのは、数分もあればコピー完了だからね」
情けない声をあげる乱《らん》に、美乃里《みのり》はやさしくいった。
「というのも、鵺《ぬえ》は、相手の遺伝子から能力をコピーするんだけどね。血液とか、髪の毛とか……ただ、強力な能力であればあるほど、なんていうのかな、写しとるのに時間がかかるんだ。遺伝子から能力の解析、転写……強い力ほど、複雑な構造をしているらしいよ。ああ、ちなみに乱、きみの場合、熊田《くまだ》に殴られて折れた八重歯を使わせてもらった」
「なー! か、返せ、あたしのチャーミングポイント!」
乱は美乃里に飛びかかる。
しかし、ぱしゃりとすりぬけた。
濡《ぬ》れた自分の腕を見て、乱は、まじまじとした視線を美乃里に向ける。
「あ、あんた、それ……」
あの〈海坊主〉の能力を使って身体を水と化した美乃里は、にこりと笑って、こんどは腕を振るった。
遠く、屋上の床に散らばっていた貯水槽のタンクの破片が、まっぷたつに割れる。
それは、まぎれもない、〈かまいたち〉の真空の刃だった。
「まあ、能力なんて数があったってしかたないんだけどね。コレクターの性《さが》といおうか、なんといおうか。あ、この金剛石はなかなかのものだよ。使っているあいだ、体力の消耗が激しいのが難ではあるけれど。これ、あんまり長時間は使えないね」
呆然《ぼうぜん》とする乱に笑みをくれてやって、美乃里はちずるへと向き直る。
「さて……察しのいいきみのことだ、もう気づいているんだろう? ちずる」
乱に向けたのとは大違いの、薄い笑みが美乃里の唇にはあった。
「なぜ、以前ならば三日もかかるような金剛石のコピーが、あっというまに終わってしまったのか……いや、終わらせてしまえるようになったのか? それはつまり」
「より強力な、とてつもなく強力な、そう、いわば〈神〉にも等しい能力を、写しとることに成功していたから。とてつもなく難解なプログラムを解析したようなもの……その能力とくらべれば、金剛石を使った乱の能力のコピーなんて、簡単なものだった」
そう語るちずるの表情は、あくまで硬い。
「さすがだね、ちずる。そう、正解だよ……ふふ、大変だったよ。去年、そう、一年前にちずる、きみと雪山の、あの温泉旅館で初めて出会ってから、いままで、ずーっと鵺は解析し続けていたんだ。終わったのは、つい最近のことさ」
「たかだかコピー……本物に勝てると思うなッ!」
ぶわりと、ちずるの金髪がふくれあがる。
背後から、六本の〈龍《りゅう》〉が、その灼熱《しゃくねつ》の身体を踊らせ、伸びあがった。
「そのとおり、たかだかコピーだ……おまけに数は、ちずる、あの時点できみが目覚めさせていた四体しかない。まあ、数なら負けてるね、どう考えても」
威嚇するように夜空に踊る六本の〈龍〉を前に、美乃里に恐れの表情はない。そばの熊田や、乱《らん》ですらもが表情を強《こわ》ばらせ、わずかに顔を青ざめさせていたというのに。
「でも、きみは忘れてるなあ」
「なにをッ!」
「なぜ、さっきほくは、熊田《くまだ》と乱を相手にもしなかったのか。金剛石によって力を数倍にもしたふたりの拳《こぶし》を、簡単に受け止められたのか。わからないかな? 〈龍《りゅう》〉の力を、たかだか現出させて相手にぶつけることしかできないきみと違って、つまりぼくは、使いこなしているんだよ、完璧《かんぺき》に」
美乃里《みのり》が、右腕を横に水平に伸ばす。
広げていた手を、握った。
その手が握ったものは、手から伸び、瞬時にあらわれた剣だった。
炎……いや、光り輝く剣だ。それも、高密度に圧縮され、固められたと覚しき、両刃の剣だった。
「さあ、おいで、源《みなもと》ちずる……ぼくたちで神話を再現しようじゃないか。この国に伝わる神話……八つの首を持つ邪龍《じゃりゅう》、八岐大蛇《やまたのおろち》は、〈神〉である素戔鳴尊《すさのおのみこと》によって、みごと退治されましたってやつをさ。ふふ、残念ながら、〈八龍《はちりゅう》〉であるきみと違って、ぼくは本物のスサノオではないけどね……」
「美乃里、あなた、どこまで……まさか……」
ちずるはそこまでいいかけて、ぶるぶるぶるっと首を横に振る。
「倒す! ここで!」
ちずるは吠《ほ》えた。
その声に呼応して、彼女から伸びる六本の〈龍〉も吠える。
顎《あご》を剥《む》きだしに、その炎の身を美乃里の剣のごとく白熱化させ、伸びあがった夜空から、うねりながら獲物を喰らわんと、落ちてきた。
美乃里は口元に笑みを浮かべ、ただそれを待つ。
握っていた両刃の剣を、ほんのすこし軽くだけ、握り直し――。
一閃《いっせん》。
断たれたのは、六本の首だった。
返す刀で、美乃里はちずるを打つ。
美乃里の刃は当たる瞬間、ふくれあがり、炎を発した。
閃光《せんこう》に包まれ、ちずるは悲鳴とともに吹き飛ぶ。
吹き飛んだちずるが屋上に転がったとき、どうじに宙を舞う六本の〈龍〉の首も落ちて、六つのきらめきを放った。
きらめきは、暴力的にふくれあがる炎へと変わる。
爆発。
屋上のすべては、爆炎に呑《の》みこまれた。
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[#小見出し] 六、耕太は虹を渡る[#「六、耕太は虹を渡る」は太字]
はーい、ぬぎぬぎしましょーね。
「え?」
気がついたら、耕太《こうた》はちずるに服を脱がされていた。
しかし耕太とちずるは、『気』をぬくための夜明け前のランニング改め、追いかけっこをしていたはずだ。ずっとずーっとしていたはずだ。寝静まった住宅街を駆けぬけ、川べりを走り、いつのまにやら玉藻《たまも》が経営する温泉旅館、〈玉ノ湯〉の廊下を通り、どこまでも、どこまでも……。
「ほらほら、風邪引いちゃうでしょ」
だが、いま、耕太はちずるに服を脱がされている。
ジャージのファスナーを開かれ、シャツをはぎとられ、ズボンも引っぱられ、とうとう、最後の一枚まで……。
「って、ちずるさんだって、汗でびっしょりじゃないですか!」
ちずるの顔は、汗まみれだった。
ちょっと尋常ではない。
かたちよい鼻、頬《ほお》、唇、あごと、顔はいうまでもなく、その長い長い、腰まである黒髪までもが、ずぶ濡《ぬ》れで、身体に貼《は》りついていた。
というか、ちずるは全裸だった。
汗が谷間を流れ落ちる、それ自体もてらてらな胸の谷間や、おへそや、ふささ……に、太ももまでもがあらわあらわ。なぜか靴下だけは履いていたのはなにかのこだわりか。
甘ったるく、しかしほんのりと果実を思わせる心地よいちずるの香りが、濃密に漂う。
「ああ、気にしないで、わたしはべつに」
ちずるがその妖狐《ようこ》としてのなごりを見せるつりあがった眼《め》を、笑みにしながらいった。
「き、気になりますよ! どうしたんですか、熱でも……」
耕太は手を伸ばし、ちずるのおでこに触れる。
あ。
そのまま、ちずるは倒れた。
「ち……ちずるさん!? ちずるー!」
耕太は飛びつき、床のちずるを抱きあげる。
床はただただ真っ白で、というよりあたり一面、ひたすら真っ白なのだが、いまの耕太にそんなことを気にする余裕はなかった。
身体が、熱い。
とてつもなく熱く、そしてちずるの呼吸は荒い。胸が上下し、おなかもうねる。
「ちずる、ちずる!」
「だ、だいじょうぶだよ……耕太……」
微笑《ほほえ》みながら、ちずるが手を伸ばしてきた。
その頬《ほお》に伸びた手を、耕太はとる。
「ぜんっぜん、だいじょうぶじゃないよ、ちずる」
じっ、と見つめた。
ちずるの濡《ぬ》れた顔、そして濡れた瞳《ひとみ》。
続けて、耕太はあたりを見やる。白い。どこまでも白い。というより、存在してない。
「夢だね? これは、ぼくの」
「……どうかな」
弱く、ちずるは笑みを浮かべた。
「ぼく、起きたい。眠りから覚めたい」
「無理。だって、耕太、いま『気』が空っぽだもん。三日は目覚めないよ」
「だから空にしたんだ? あれだけはげしく、朝も夜も、毎日」
「うん……」
ちずるは、申し訳なさそうに、そして照れくさそうに、横を向く。
「だって耕太、きっとおとなしく逃げてくれないし……」
「逃げる? ぼくいま、逃げてるの? ちずるを置いて?」
あ、とちずるは自分の口を押さえた。
「あん、もう、わたしのバカ……余計なことを」
「ちずるは……いまぼくの前にいるこのちずるは、本物のちずるなの?」
「うーんとね、まあ、本物っていえば本物なんだけど……あのね、耕太とわたしは、なんていうの、魂レベルで結びついちゃってるらしいのね? だから、どれだけ離れていても、魂の底ではくっついてるわけで……いまのわたしは、たしかにちずる本人なんだけど、いってみれば深層意識のちずるであって、実際のちずるは、いまわたしがこうして耕太と会話していることなんて、なーんにも知らないという」
「ふうん……」
耕太は、鼻の下、口元を押さえるように手を当て、ぐにんぐにんと動かしながら、しばし考えこむ。
「あ、なんか耕太、悪だくみしてる」
「うん。ごめん、ちずる。だってちずる、すっごくピンチなんでしょ?」
「……どうかな」
「だからぼく、どうしても目覚めなきゃ。目覚めて、きみのこと、助けにいかなきゃ」
「でも耕太、『気』が空っぽなわけで……」
「足りない『気』なら」
ごろん、と耕太はちずるを床に転がした。
「もらえばいい。でしょ?」
足下にまわり、その両足を割って入って、そっとちずるの、呼吸で上下するおなかへ手を置く。
「耕太……強引」
「ごめん」
「それにそこ、汚れてるし。いまのわたし、汗、かきまくりだし」
「ぼく、ちずるとおなじでケダモノだから」
「わたしにそんなことしたって、『気』なんか吸いとれやしないんだから。だってわたしの本体は、ここじゃなくて遠くにあるんだもん。いってみればこれは、身体があるように見せかけた電話みたいなものなの。電話ごしに『気』、吸えると思う?」
ん。
そ、そーなんだ。耕太は唇を噛《か》み、うつむく。
「……だけど、きっかけにはなるかもね」
耕太が顔をあげると、ちずるはぷいとそっぽを向いていた。向きながら、続ける。
「あらたな耕太の『気』を目覚めさせるきっかけには。耕太の身体にはね、まだまだ『気』が眠ってるの。それはもう、無尽蔵なほどの量が。だから、その『気』が目覚めちゃえば、いまの空っぽな状態なんて、すぐに満タンになっちゃって、眠っていた耕太も……」
「ちずる……」
「だから、ほら、するなら早くしてよ! わたしだって、たまには恥ずかしいんだから!」
「いつもその、恥ずかしいことをぼくにしてるくせにぃ……」
ちずるが、ゆるゆると両足を広げた。
耕太は屈《かが》みこむ。
ふささ……は、すっかり汗で濡《ぬ》れそぼっていた。
唇を近づけ――。
★
耕太は、目覚めた。
目の前にあったのは、望《のぞむ》の顔だった。
なにやら見慣れない制服を着た望の眼《め》が、大きく見開かれる。
「耕太……」
ざわ、と声があがった。
耕太は身体を起こす。おでこにあった〈御方《おかた》さま〉特製眠りの札が、はらりと落ちた。
車のなかだった。
助手席から丸い眼鏡をかけた砂原《さはら》幾《いく》が、運転席から三白眼の八束《やつか》たかおが、それぞれ振りむき、耕太を見つめてくる。驚きのためにか、その眼は大きくなっていた。耕太は幾の眼が、〈御方さま〉を示す紅《くれない》に輝いていたことを認める。
「「……ぱ、パパッ!?」」
後ろの座席で声をあげたのは、双子の少女、蓮《れん》と藍《あい》だ。やはり、眼《め》を丸くしていた。
「蓮、藍……望《のぞむ》さんと、八束《やつか》先生、それと砂原《さはら》先生……いえ、〈御方《おかた》さま〉」
耕太はぐるりと見回し、いう。
「ちずるさんのところに、戻ってください」
しばらく、だれも声をあげなかった。
★
「……ふん」
美乃里《みのり》は、つまらなそうな顔で、宙に浮いていた。
背から生えたコウモリ状の羽が、ゆったりとはためく。彼の手には、あの白光する炎の剣があった。あたりの空気を、ゆらり、ゆらがせる。
美乃里の視線は、下にあった。
六本の〈龍《りゅう》〉の首があげた爆炎、それによってすっかり様相を変えた薫風《くんぷう》高校の屋上に。視界を覆うほどの黒煙、その隙間《すきま》から覗《のぞ》く屋上は、わずかな金属の骨組みを残し、すっかり平らとなっていた。いちぶ、大穴まで開いている。
そこに転がる、三体の妖《あやかし》。
熊田《くまだ》に、乱《らん》に、そしてちずる。
美乃里の眼は、ちずるだけに注がれていた。
ちずるは、金髪、狐耳《きつねみみ》、狐しっぽという姿ではいたが、もうあの〈龍〉は生やしていない。ぼろぼろになった深紅のショーツに包まれた、半分|剥《む》きだしになっているおしりの部分からは、ぐてんと伸びる狐のしっぽしかなかった。
「ちずる、きみは……」
「よくやってくれたな、美乃里」
美乃里の横に、九院《くいん》に抱きかかえられた四岐《しき》がやってくる。
四岐の顔は、彼にはめずらしく操作されていない笑みが浮かんでいた。背に蝶《ちょう》の羽を生やし、前髪を触覚状にした九院は、美乃里を冷たく見つめるだけだったが。
ふっ、と美乃里は笑う。
「いえ。わたしはただ、四岐さま、あなたのご命令どおり動いただけですよ」
まったく笑っていない眼を、伏せることで四岐には見えないようにしながら、いった。
「それより、〈御方さま〉の捜索はどうしました? 〈御方さま〉がここにいないのは、もう気づいておられるんでしょう」
「とっくにだしているよ。だが、べつに〈御方さま〉などもはやどうでもいいだろう? 〈八龍《はちりゅう》〉はもう、ここにこうしているんだ」
「ええ……そうですね」
にたり。
こんどは美乃里《みのり》は、眼《め》もふくめて、しっかりと笑みを浮かべた。
「では、わたしは校内に残るやからの始末に向かいましょう。では」
美乃里はひらりと、まだあちこちで火の粉をあげる屋上へと降りてゆく。
横目で、横たわるちずるを見た。
「ちずる……兄さんさえいなければ、おのれのなかに眠る〈八龍《はちりゅう》〉の完全なる覚醒《かくせい》はないと踏んでいるんだろうが……そうはいかないよ。『源《みなもと》ちずる』としてのきみは、今日、これから、完全に消えるんだ。〈八龍〉によって……〈神〉によって、ね」
★
「――八岐大蛇《やまたのおろち》じゃ」
「え?」
〈御方《おかた》さま〉の唐突な言葉に、耕太は尋ね返す。
車はまだ、八束《やつか》の手によって運転されたまま、止まってはいなかった。小雪のちらつく夜道を、とくに飛ばすことなく走る。まるで目立つのを恐れるかのように。
「聞いたことがないかの? 神話にでてくる伝説の怪物。八つの首を持つ邪龍《じゃりゅう》。〈神〉である素戔鳴尊《すさのおのみこと》によって、退治された……とされておる、いってみれば〈悪神〉じゃ」
「それが、ちずるさんのなかに眠るものの正体ですか?」
耕太の言葉に、背後の蓮《れん》と藍《あい》が、「え!」と驚きの声をあげた。
「ま、ママが……?」
「やまたのおろち……?」
「……耕太よ、おぬしは驚いておらんようじゃな? 知っておったのか?」
「いえ。ぜんぜん」
〈御方《おかた》さま〉の質問に、耕太は正直に答えた。
「本当です。ただ、いきなりちずるさんが神話にでてくる八岐大蛇《やまたのおろち》とかいわれても、まったく実感がないだけで……でも、いまちずるさんが大ピンチなのだけは、わかります」
「そうかの? あやつはいまいったとおり、伝説の怪物の力を使えるのじゃ。いかに〈葛《くず》の葉《は》〉の精鋭が相手とはいえ、そう簡単にやられはせんよ」
簡単な状況は、すでに説明を受けていた。
〈葛の葉〉がとうとうちずるの存在に気づいたこと。ちずるはあえて薫風《くんぷう》高校にたてこもり、包囲する〈葛の葉〉と戦っていること。なぜそうしたといえば、耕太の安全のため、そしてちずる自身の安全のため。なぜなら、耕太が人質にとられれば、ちずるは抵抗する術をなくすのだから。だったら、自由に〈八龍《はちりゅう》〉の力を使える状態で戦ったほうがいい。
「いえ、ちずるさんはいま、大ピンチです。わかるんです、ぼくには」
耕太は〈御方さま〉の眼《め》を臆《おく》せず見つめて、いう。
「それに、いまちずるさんを襲う〈葛の葉〉のなかには、あいつがいる。ぼくの妹……三珠《みたま》美乃里《みのり》が。あいつは……美乃里は、危険だ。危険なんです、すっごく!」
「ふむ……」
〈御方さま〉が、考えこむようなしぐさをする。
「あるいは、そうかもしれん。しかし、それが狙《ねら》いだとしたら、どうする?」
「え?」
「ちずるが敗北し、〈葛の葉〉に捕らえられること……それこそが狙いだとしたら、おぬし、どうするつもりじゃ、と聞いておる」
「ちずるさんが捕まるのが、狙い……? そんなのって」
「そもそもな、なぜ〈葛の葉〉はちずるを捕らえようとしておるのか? 〈八龍〉、八岐大蛇であるちずるをな。それはの、〈神〉である……いや〈悪神〉である八岐大蛇を、現世に甦《よみがえ》らせるためなのじゃ」
その言葉に、耕太のみならず、背後の蓮、藍までもが驚いた。
「な……なんでそんなことを? だって、悪い神さまなんですよね?」
「くわしくは……ナイショじゃ」
「お、〈御方さま〉!」
「〈葛の葉〉における秘中の秘、そこの蓮と藍とて知らぬことなのじゃ。おいそれと明かすわけにはいかぬ。が、ひとつだけ……耕太よ、なぜおぬしだけを、こうも厳重に警護して、しかもちずるがおとりになってまで、逃がしておるのか……それはの、ちずるを八岐大蛇《やまたのおろち》として復活させるための、耕太よ、おぬしが鍵《かぎ》だからなのじゃ」
耕太は眼《め》をぱちくりとさせる。
「ぼ……ぼくが、鍵?」
「うむ。ちずるはな、じつは過去にも数度、八岐大蛇として復活しかけたことがある」
「ええ!?」
「近くは、四百年ほど前にも、いちどな……ところで耕太よ、おぬし、ちずるが初めて〈龍《りゅう》〉の力に目覚めたときのことを、覚えておるかの?」
突然尋ねられ、耕太は眼をしばたかせた。
「は、はい……」
視線をさまよわせる。
「あれは、朔《さく》さんと、闘ったとき……」
となりの望《のぞむ》を見ながら、いった。
望の兄、犹守《えぞもり》朔。かつてちずると相棒だった人狼《じんろう》。彼は、かつての相棒であるちずるにできた恋人を試すため、耕太を襲った。そのとき、追いつめられた耕太を助けるため、ちずるは四本の〈龍〉を目覚めさせ――。
「あ」
耕太は、〈御方《おかた》さま〉を見る。
「も、もしかして……」
「そうじゃ。八岐大蛇が復活する鍵とは、すなわち、ちずるが真に愛するものの危機なのじゃ。そのときちずるが心から愛するものに命の危険が迫ったとき、それを助けるため、〈龍〉は、八岐大蛇は目覚める。目覚めてしまう。わかるかの? だからこそ、ちずるは、そして我らは、耕太よ、おぬしを逃がしておるのだ」
「で、ですけど、ちずるさんは、いま!」
「〈葛《くず》の葉《は》〉に捕らえられておっても、問題はない。ちずるだけでは、八岐大蛇が復活することはないのじゃ。なにをされても、たとえ己の命が奪われようとも、耕太よ、おぬしがいないかぎり、復活はせん。そして〈葛の葉〉の目的が八岐大蛇の復活である以上、ちずるの身にそうそう危険はない。ないのじゃ」
「いや……違う」
耕太の声は、自分でも驚くほど、しわがれたものだった。
「美乃里《みのり》がいる……あいつは、ぼくの……あいつなら……」
「……耕太よ、おぬし?」
「戻ります!」
耕太は、怪訝《けげん》な顔をした〈御方さま〉に向かって、叫ぶ。
「戻って、ちずるさんを助けます!」
「いかん!」
〈御方《おかた》さま〉も叫んでいた。
「なぜわからぬ! いまおぬしがいては、かえってちずるは危険なのじゃ!」
「だって、だって、ちずるさんは、ちずるさんが……」
耕太はいやいやと首を振る。
理屈じゃなかった。
身体の奥、奥の奥、ずっと奥底から、湧きあがってきていた。助けろと。ちずるを救えと。いま、いかなければ、きっと死んでも後悔すると、魂が叫んでいた。
「おぬしが戻れば、ちずるは死ぬ。そういうてもか」
ぴた、と耕太は固まる。
「え……?」
見あげた耕太は、〈御方さま〉の、厳しく細めた眼《め》の奥にある、紅《あか》い瞳《ひとみ》に射ぬかれた。
「なぜ、ちずるは四百歳なのじゃと思う?」
「え」
「どうして、ちずるには四百年前からの記憶しかないのじゃ、と問うておる。さきほどわしはいうたな? なんどかちずるは八岐大蛇《やまたのおろち》として復活しかけたと。つまり、ちずるは四百歳どころでなく、もっともっと生きておるのだ。それこそ、何千年とな……」
ふ、と〈御方さま〉は笑う。
「むろん、年をごまかしておるとか、そんなくだらぬ理由ではないぞ? あやつは……ちずるは、死んでおるのじゃ。八岐大蛇として復活しかけるたび、なんどもの」
「死、死んでる?」
「まあ、正しくは違う。死ぬというより、消える、といったほうがよいか。神話に残る伝説の怪物、八岐大蛇……その魂のほどは、まさに〈神〉にも等しい。無尽蔵ともいえる大きさを持つ、〈神〉の魂よ。それが復活した時点で、しょせんは妖《あやかし》にすぎんちずるの魂は、つぶれ、砕け、消え去る。そして、再生される」
「再生……?」
「理由はわからんがの……。復活に失敗した八岐大蛇がまた眠りについた時点で、空となった肉体にはあらたなちずるの魂が宿る。しかし、以前の記憶なぞいっさいない。まさに生まれたての赤子よ。もはや、以前のちずるは死んだ、といってもさしつかえなかろう」
ぐきゅ、と耕太は唾《つば》を飲んだ。
〈御方さま〉が、やさしく微笑《ほほえ》みかけてくる。
「だからの、耕太よ。いまはわしらとともに、逃げよ。逃げて、時を待て。おぬしには才がある。その、とてつもない『気』……鍛えれば、最強の術者にもなれよう。そうなれば、八岐大蛇復活の鍵《かぎ》であるおぬしが、危険に陥ることもない。それから、ともに〈葛《くず》の葉《は》〉に囚《とら》われたちずるめを助けにいこうぞ。そのときは、むろん、わしらもいっしょじゃ」
のう、耕太?
やさしく語りかけられ、耕太は答えた。
「やだ」
ぷう。涙目になって、頬《ほお》をふくらましながら。
たちまち、〈御方《おかた》さま〉の眼《め》がつりあがった。
「おぬし、わしの話を聞いておらんかったのか! おぬしがのこのこでむいて、死ぬような目にでもあえば、すぐさまちずるは八岐大蛇《やまたのおろち》として復活してしまうのだぞ! そうなったらちずるは死ぬ! すべての記憶を、そう、おぬしとすごした日々も、おぬしへの想《おも》いも、愛も、なにもかも、永遠に失うのだぞ! よいのか、おぬしはそれで!」
「わかってます」
耕太はうつむき、ぎゅっと太ももの上に置いた手を拳《こぶし》に握った。
「わかってますけど、だけど……だけど! いまいかなくちゃ……」
いま、いかなければ、きっと死んでも後悔するぞ。
身体の奥、魂からの叫びに、わかってるよ、と耕太は答える。
無言で、望《のぞむ》を見た。
時間としては、数秒。
だが、耕太とどうじに、望はうなずいた。うなずいてくれた。
「――いかんぞ」
〈御方さま〉の声だった。
耕太は無視して、自分の横のスライドドアの、そのロックを外す。もう片腕では、望の手を握っていた。
「耕太!」
「ごめんなさい、〈御方さま〉!」
ドアを開け、望とともに、道路へと飛ぶ。
いや、正しくは望に抱きしめられながら、飛んだ。耕太だけじゃ、時速数十キロで走る車から降りただけで、下手すれば死ねる。
「ありがとう、望さん」
「しかたないよ、わたし、耕太のアイのドレイだし」
耕太と望は抱きあいながら、会話した。
と、いきなり望が宙を蹴る。
耕太と望は浮く。どうやら宙だと感じたのは耕太の勘違いで、実際は道路が迫っていたらしい。とん、とん、とん。三蹴りでうまく体勢を直し、望は耕太をしがみつかせた姿で、小雪で濡《ぬ》れる地面に立った。
耕太たちの後ろでは、タイヤと地面が激しくこすりあげられる音があがっている。
振りむくと、〈御方さま〉たちの乗る車が、急ブレーキして止まっていた。
耕太と望は、うなずきあう。
雪のなかを、駆けだした。〈御方さま〉の車には背を向け、ちずるの元へと――。
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[#小見出し] あとがき[#「あとがき」は太字]
どうも、女の子が大好き、西野《にしの》です。
あ、まちがえた。女の子を描くのが大好き、西野です。
ええ、本当に好きなんです。好きで好きでしかたがないんです。大きいのはもちろん、小さいのもいい。ほどほどなのも捨てがたい。やわらかいのもいいし、つん、としたのもたまらないし、硬いのもそれはそれでステキ!
ああ、いいなあ、女の子って……。
え?
あとがきでいきなりおまえはなにをいいだすんだって? このスケベ? ヘンタイ?
やだなあ、みなさん。
ぼくがいってるのは女の子の『態度』ですよ?
『態度』が大きいはもちろん、小さいのもほどほどなのも、やわらかいのもつん、としたのも、硬いのもいいって……みなさん、いったいナニと勘違いしたんですか? まさかあの神秘のふくらみじゃないでしょうね! まったく、かのこんはあくまで純愛小説で、ぼかぁあくまで純愛小説家ですよ! ホント、いやらしいと感じる人のほうがいやらしいんですよね! ぷんぷん。
と、世迷《よま》い言《ごと》はここまでにして。
かのこん九巻、いかがだったでしょうか?
お読みになってくださったかたはもうおわかりだと思いますが、今回、すこしばかりいつもと雰囲気が違います。いえ、あくまで明るく楽しく激しくをコンセプトに純愛の王道をつらぬいているのは変わりませんが、ただ、ちょーっとだけ、違うんです。今作を最後まで読んで、読者のみなさまがどのような感想を持たれるのか……かなりどきどき、すこしわくわくしながら、みなさまのご感想、お待ちしたいと思います。
さて、いよいよかのこんも次巻は十巻の大台へと。
まさかデビュー作でここまでこれるなんて、正直、思ってもいませんでした。それどころか山木《やまき》鈴《りん》さんの手によって漫画にもなるし、ドラマCDにもなるし、ついにはアニメ化だなんて……応援してくださった読者のみなさまには多大なる感謝を贈りたいです。みなさまが買ってくださらなかったら、ここまでくることはありえませんでした。ありがとう。本当にありがとう。裏切りませんから。期待にはかならず応《こた》えますから。
最後に、いつもすばらしいイラストによる絵力で作品の魅力を何倍にもしてくださっている狐印《こいん》さんと、まいど迷惑かけっぱなしの担当さん、そしてMF文庫J編集部のみなさまへ……読者のみなさまとはすこし違った意味で、感謝します。これからもどうか。
平成二〇年一月 十巻はすぐ書きますよ! すぐです、すぐ……!?
[#地付き]西野かつみ
発行 2008年2月29日 初版第一刷発行
2008/06/10 作成