かのこん 8 〜コイビトたちのヒミツ〜
西野かつみ
[#小見出し] 序幕 耕太ロミオとちずるジュリエット[#「序幕 耕太ロミオとちずるジュリエット」は太字]
耕太《こうた》は、ちずるの尻《しり》に敷かれていた。
つまり、薫風《くんぷう》高校二年生で十七歳な人間の小山田《おやまだ》耕太は、薫風高校三年生で一見すると十八歳なんだけどじつは四〇〇歳(自称。本当はもっと……?)な化《ば》け狐《ぎつね》の源《みなもと》ちずるという、ひとつセンパイかつすごく年上で妖怪変化《ようかいへんげ》な狐っ子のあまりにも美しい恋人に、日々、甘えられたりすねられたり嘘泣《うそな》きされたり、そのセクシャルバイオレットすぎる肉体を上から下までまんべんなく駆使されちゃったりして、彼女に逆らうなんてことはもうすっかり考えられなくなっていたのでありました……のではなく。
いや、そのとおりではあるんですが。
ぼくはちずるさんに身も心もめろめろなので、すっかり骨ぬきなんですが。骨どころか精まで……げふんげふん。
「やんっ」
咳きこんだとたん[#「咳きこんだとたん」に傍点]、耕太の上で[#「耕太の上で」に傍点]、ちずるが身を震わせた[#「ちずるが身を震わせた」に傍点]。
ぶるるるる……と、小刻みながら、長くその震えは続く。
「こ、耕太くん……あまり、し、刺激しちゃだめだよ……そこは、すごく敏感なところなんだから……女の子の、大切なところなんだから……ね?」
まだ、ぴく、ぴくと身体を震わせながら、ちずるは小声でいった。
ふわい。
耕太は返事をした。
「ひんっ」
耕太の声は、口元を覆うちずるの肉体や、それを包む布地とかすかな湿り気とに吸いこまれ、重低音となって響く。響きは、ちずるの身をまたもや震わした。
「こ、耕太くんったら、ダメだっていってるのに、もうっ……」
ちずるは怒った。
だが、怒りながらも、動こうとはしない。
耕太の上から。
あおむけで大の字となった、耕太の上から。
ちずるはいま、耕太の上にぺたんと座っていた。
膝《ひざ》を曲げ、女の子座りに畳んだ足は、耕太の頭の両側へと。
すこし前に身を傾けているために、支えとしてついた腕は、耕太の胸板へと。
そして、お尻《しり》は――。
おっきなおっきな、ちずるのお尻は――。
耕太の、顔面へ、でうーん、と。
つまり耕太は、リアルな意味でちずるの尻に敷かれていたのでありました。うにょーん。
むふー……。
耕太は息を吐く。
「んんっ」
ちずるが、こんどは軽めに震えた。ふるる……っと。
なるほど、密着した状態で受ける吐息は、さぞかし熱いことだろう。ちょうど息が当たる位置は、『すごく敏感』な『女の子の、大切なところ』なのだから、なおさらだ。
だけど、耕太だって熱いんです。
吐いた息は、耕太の顔面をほぼ隙間《すきま》なく、むっちりと覆うちずるの肉体によって、耕太にも返ってくる。もちろんそれも熱いのだけど、それだけじゃあなく。
ちずる自身がすごく熱かったのだ。もう、なにもかもが。
彼女のお尻は、大きい。
丸々っとした、若々しさと成熟さをあわせ持ったなまなまなちずるのお尻には、染みなんてひとつもなく……もちろんそのままでも素晴らしいけど、ぱんちーやタイトなジーンズなんかを穿《は》いて、ぱんっ、と布地を張りつめさせているのもたまらなくて……ううん、もう、ただのスカートであっても、その魅力は隠しきれるものじゃない……。
ぶっちゃけ、ちかごろの耕太は、ちずるのお尻にめろりんきゅー。
もちろん、ちずるの豊饒《ほうじょう》たる胸のふくらみに飽きたという意味ではない。そんなのありえない。ただ、なんというか、彼女のあらたな魅力に気づいたといいますか。
まあ、ただ単に耕太がえっちになっただけ、というのも否定はできないのですが!
認めたくないものだな……自分自身の若さゆえのいやらしさというものを……。
やっぱり、耕太は立派な人間になりたかった。
たとえちずるが最近、やけに短めのスカートや、お尻《しり》がすごく窮屈そうなパンツルックを好んで、そんな格好で耕太の前を歩いたり階段をのぼったり、いっしょに部屋でまったりしているとき、無警戒に四つんばいになってお尻を突きだしたりしても、思わず胸を高鳴らせて凝視なんかしないような、立派な人間に……だけど、そんなの無理だよう。だってちずるさんったら、あまりに素敵すぎるんだもん……って、あれ?
もしかしてちずるさんに、ぼくの熱視線、気づかれてた?
気づかれてたんだろうな――。
だからこんなこと、してるんだろうし――。
だからこんなに、ちずるさん、熱いんだろうし――。
床に大の字になって、ちずるに顔面にぺっとりと座られながら、耕太は思った。
重たい。
いや、ちずるはけっして体重はかけていない。
いないのだが……なんというか、感触が重たいのだ。
普段、耕太はちずるのメロンメロンな胸の谷間に顔を埋《うず》める〈あまえんぼさん〉という行為に親しんでいた。だからやわらかな肉体に顔をぴっちりと覆われることには慣れているのだが……胸の、ふよふよとどこまでも包みこんでくれるようなやわらかさとは違って、お尻のそれは、こう、ずっしりと重たいやわらかさといいますか。狭間が持つ熱量もあいまって、じつにねっとりとした感触といいますか。
ああ、それにしても、ちずるさん、熱ぅい。
たちこめる、熱。
そして、熱がもたらす、濃密な湿り気。
熱帯雨林。アマゾン。森林の奥。湿度九〇パーセント。熟れた果実の匂《にお》い。甘酸っぱいそれは、ちずるの匂い……ああ、ちずるさん、えっちだよう。えっちすぎるよう。
こんな場所の匂い、本当は嗅《か》いだりしたらいけないんだ。
さすがのちずるさんだって、きっと恥ずかしく思うんだ。
そんなことは耕太にだってわかっていた。
わかってはいたが、いかんせん、耕太は生物であった。
生物である以上、呼吸はせねばならぬ。呼吸せねば、死ぬ。そして、呼吸してしまえば、嗅いでしまう。いくら口からだけ吸ったって、空気は鼻に届くものだ。
しかたがない、だから吸うのらー。
むふー、はふー、へふー……って、ダメだ! それは! 人として!
「ふへはっ!」
「ひやうんっ!」
ダメだ、と耕太は叫んでしまって、またちずるをびくびくと震わせてしまった。
「もう、耕太くんたらあ!」
す、すみまふぇん……。
耕太は口を動かさぬよう気をつけながら心のなかでちずるに謝って、さあ、どうしようと悩む。
簡単だ。ちずるにどいてもらえばいい。
ちずるがどいてくれないのなら、無理にでもはねのければいい。
いくら耕太がしょっちゅう中学生にまちがわれるほどに小柄で、いま顔にのっているちずるが私服だと大学生にまちがわれるくらいにオトナな体格であったとしても、その気になれば、はねのけられないことはないのだ。
だって、耕太は男、ちずるは女。
まあ、ちずるは化《ば》け狐《ぎつね》という妖怪《ようかい》でもあるのだけど……それでも、思いきり体重をかけられているわけでもなし、逃げようと思えば逃げられるはずなのだ。
のっているのが、ちずるひとりだけならば……ですが。
ところが、もうひとり、耕太の上にはのっていた。
場所は、腰の上。
ちずるの顔面騎乗によって、すっかりエネルギー充填《じゅうてん》一二〇パーセントとなってしまった耕太の波動砲の上に、彼女はぴとりと腰を落ちつけていた。
その彼女とは、犹守《えぞもり》望《のぞむ》。
薫風《くんぷう》高校二年生、耕太のクラスメイトで、そして、耕太のアイジンな、人狼《じんろう》……つまり狼《おおかみ》の妖怪だ。狼っ子だ。どうして恋人のみならずアイジンまでもが妖怪なのか、それは耕太にもわからない。もしかしたら、ぼくって、妖怪に好かれる体質なのかな?
とにかく、ちずると望は耕太の上に座っていた。
互いに向かいあった姿勢で、座っていた。
だから耕太は動けない。
だって、ちずるのおおぶりなお尻《しり》は、耕太の顔の上にあるし。
望のこぶりなお尻は、耕太の暴発寸前な波動砲の上にあるし。
これほどまでに完璧《かんぺき》な恋人とアイジンのコンビネーションを前に、どうやって若き耕太が立ち向かえというのか? 否《いな》、不可能であった。いや、いつもの耕太なら、まだ耐えられたかもしれない。だが、いまの耕太は、諸事情によって普段よりエネルギーが充満しすぎて……ぶっちゃけたまりすぎて……もう……ああ……ああ!
「――いいかげんにしなさい、あなたたち」
低く冷たい声が、耕太の野性を覚ます。
本当に冷たかった。声から凍《し》みてくるあまりに冷たい感情に、耕太のみならず、ちずるや望までもがびくついたほどだ。
「……もう、なによ、委員長。邪魔をしないでよね、劇の」
ちずるが返した。
「なにが劇ですか。こんな劇が……どこにあるんですか!」
声の主は爆発した。
冷たい感情の奥の怒りを、激しくぶちまけだす。
「ちずるさん! いいかげん、小山田くんの上からどいてください! ほら、望《のぞむ》も! 早く! 小山田くんも、黙ってやられたままになってないで……はりーあっぷ!」
ちぇー、とちずるが舌打ちした。
「はいはい、わかりました、わかりました」
耕太の顔を覆っていた灼熱《しゃくねつ》が、離れてゆく。
しぶしぶといった動きで、ちずるが立ちあがったのだ。
それを、耕太は、寝そべりながら、ぼーっと見守っていた。
薄闇《うすやみ》のなか、遠ざかってゆく、ちずるのお尻《しり》――それは、お尻から太ももまでを包む、だぼっとした半ズボン状の下着によって包まれていた。いわゆる、ドロワーズと呼ばれる下着だ。耕太の頭を挟んで上に伸びてゆく、ちずるの足のふくらはぎ、膝《ひざ》、太もも、そして白いドロワーズのまわりには、ひらひらの布がある。これはスカートの布だった。
つまり、耕太の頭は、ちずるのロングスカートのなかにあったのだった。
ちょっぴりだけ……ほんのちょっぴりだけ、さきほどの押しつぶされるような圧力をなごり惜しく思いつつ、耕太は身体を起こす。すでに望も立ちあがっていたので、もはや押さえつけるものはなにもなかった。
ちずるのスカートのなかで、すとんとひっくり返り、四つんばいとなる。
床までつくスカートをまくりあげ、ちずるの背中側から、もぞもぞと外に顔をだした。
と、前には女子生徒がいた。
首もとにリボンをつけた白いブラウスの上に、ブレザーをまとい、チェック柄のスカートを穿《は》くという、薫風《くんぷう》高校の制服に身を包んだ彼女は、肩幅ほどに足を広げ、左手は腰に、右手は顔の眼鏡に当て、肩は怒り肩に持ちあげ、レンズごしの眼《め》を鋭くしていた。
そのおでこは、つるりんぱ、だ。
前髪を端でひとまとめにしていたため、染みひとつない、みごとなおでこが、それはもう、凛々しくさらしてある。
おでこの彼女は、はー、とため息をついた。
「なんてところからでてくるの、小山田くん……」
「す、すみません……」
彼女の名前は、朝比奈《あさひな》あかね。
あかねは、望《のぞむ》とおなじく耕太のクラスメイトで、学級の委員長を務めていた。
耕太がいまからおよそ一年前、この学校に転入してきたとき以来、なにくれとなく面倒を見てくれたひとでもある。そして、耕太、ちずる、望が引きおこす問題……ほとんどが性的な暴走……についても、なにくれとなく説教してくれるありがたいひとでもあった。もし彼女がいなかったら、耕太はもっとただれた生活を送っていたに違いない。まあ、もうすでに充分、ただれた生活ではあるのですが……。
「まあまあ、怒らない、怒らない」
そういいながら、ちずるが四つんばいになったままの耕太の上に、腰をおろしてきた。
「そーだよ、怒っちゃだめだよ、あかね」
と、望までもが耕太にまたがってくる。
「そうやってさりげなく小山田くんの上にのって、こんどはなにをする気なんですか!」
当然ながら、あかねは怒った。
「んー? なにかしら、望?」
「んー? おうまさん?」
耕太の背上で、向かいあったちずると望が会話を交わす。
そのとぼけきった口調は、あかねの怒りに火を注ぐばかりだ。
「おうまさんって……いったいなにを考えてるんですか、本当に! あのですね、ちずるさんに、望! ここはあなたたちのプレイスポットでは――」
くどくどくどくど。
あかねのお説教は、続く。
そっと、耕太は四つんばいのまま身体をひねり、ちずると望を見あげた。
真紅のドレスをまとった、ちずるの背中が覗《のぞ》く。
さきほど耕太の頭をすっぽりと包んでいたのは、このドレスと一体となったスカートだ。ちずるの艶《つや》やかな黒髪は、そのスカートの始まりである腰のあたりまで伸びていた。
そして、ちずるの奥には――。
三日月があった。
くいんと、三日月が動く。
月は、望《のぞむ》だった。
正しくは、三日月マークのかたちをした黄色のかぶりものの、その真ん中に空いた丸い穴から顔をだしている、銀髪の望だった。マークから下は、全身黒タイツだ。
望がこちらを見たので、気づいたのだろう。
耕太には背を向けていたちずるが、すっ……と振りむく。
横顔を見せ、こちらにウィンクをした。
望はといえぱ、ぎゅーっと両目をつぶる。ん? んん? となんどもつぶる。どうやら、ウィンクをやろうとして、失敗しているようだ。ぎゅー。んんん?
耕太は、ふたりにそっと頭をさげた。
彼女たちが耕太に馬乗りとなったのは、べつにあらたなプレイをするためではなかったのだと、わかったからだ。
それは、耕太がちずるのスカートからぬけださなくてもいい理由を作るため――。
なぜにそんな理由がいるのか?
だって、耕太の波動砲ときたら、エネルギー充填《じゅうてん》一二〇パーセントのままなんだもの。
それでも着ている服が学校の制服だったなら、へっぴり腰にさえなればなんとかごまかせただろう。が、いかんせん、いまの格好は違っていた。
いまの耕太は、タイツだった。
それも、ぴっちぴちの、下半身のラインが丸わかりのタイツだったのだ。こんな状態で外にでてしまったら、もう、鬼のような波動砲が、びくびくびくんと丸わかりの、もっこりもこみちタイツとなってしまって……うひー!
耕太は望とは違い、全身タイツ一丁ではない。
きちんと、上には濃紺のジャケットを着て、腰には剣を差し、足にはブーツを履いていた。タイツなのは下だけだ。まあ、いまはその下が大問題なわけですが。
「――もう、聞いてるの、みんな!」
あかねが、きーっ、と叫ぶ。
「ま、聞いてねーやな、どうみても」
答えたのは、あかねの後ろに立つ、制服姿の男だった。
彼は、源《みなもと》たゆら。
首筋まで毛先が届く長髪に、長身。ちずるの弟で、血こそつながってはないものの、やはり彼も狐《きつね》の妖怪《ようかい》、化け狐だ。姉と血のつながりがあるといわれても信じられるほどの、美形。望、あかねとおなじく、耕太のクラスメイトだった。
「なーにをいってるのよ、たゆら。委員長さまのありがたいお言葉を聞き流すなんて、そんな真似を、このわたしたちがするわけがないじゃないの」
たゆらの言葉に、ちずるが返し、望《のぞむ》も続く。
「そーだよ、たゆら。わたしたち、あかねの話、ちゃんときいてたよ?」
「ねえ?」
「うん」
背中の上でうなずきあうふたりを見ながら、耕太は思った。
嘘《うそ》つきだなー……と。
あ。
「も、もちろんぼくも聞いてたよ、たゆらくん!」
耕太は正面を向き、あかねとたゆらにいった。
が、しかし、慣れない嘘は、すぐバレるものらしい。
あかねはうつむき、ぷるぷると震えだした。
そのさまは、噴火寸前の火山を思わせ――。
「んがー!」
あ、噴火しちゃった。
「もう、バカバカバカバカバカ!! なんでなの! どうして、哀《かな》しい愛の悲劇であるはずのロミオとジュリエットが、ちずるさんたちがやると、こんな『昼下がりの団地妻VS女子高生 〜このひとはわたしのもの〜』みたいなシロモノになっちゃうのー!」
ばたばたばたと広げた両腕を上下に振りながら、あかねは叫んだ。
そう。
耕太たちは、じつはロミオとジュリエットの劇をやっていたのだ。
配役は、耕太がロミオ、ちずるはジュリエット、望は……えーと、たしか、げっこー仮面。だからこそ、耕太は濃紺のジャケットにタイツなんて王子さまルックだったし、ちずるはドレス姿にドロワーズだったのである。望は三日月ルックだ。げっこー仮面だから。
耕太たちがいるのは、学校の体育館、その舞台上。
まわりを見れば、セットだってあった。
屋敷の中庭を模したセットだ。樹木や茂み、草花の描かれた板がところどころ置いてあり、奥のほうには、二階建ての屋敷のハリボテまである。とはいっても、二階の窓がひとつだけやけに強調されたものなので、大きさ自体はさほどでもない。
その窓は、ジュリエットが姿を見せる窓だった。
姿を見せ、あの名ゼリフをいう窓だ。
『ああ、ロミオよロミオ、どうしてあなたはロミオなの?』
と――。
まあ、すでにそのシーンはさきほどやったのですが。
ちずる演じるジュリエットは、その名ゼリフに続けて、こうもいったのですが。
『ああ、わたしよわたし……どうしてこんなに胸が大きいの?』
いったあとで、ぐにぐにと胸を自分で揉《も》みだし。
『それはね……ロミオ!』
窓の下で見守る耕太ロミオを見て。
『おまえを食べちゃうためさー!』
と、窓からダイブまでしたのですが。
そうしてロミオは、めでたくジュリエットに押し倒されまして。
そのまま、どにょーんと顔に座られまして。
ばさりとスカートに包まれ、ふがふがふー。
そこに、なぜか屋敷の上で三日月を演じていた望《のぞむ》が、仰々しく語りだし。
『まてー、怪人チチオバケー。ロミオはわたさないぞー』
などと、朗々《ろうろう》と。
『だ、だれが怪人チチオバケだ! おのれ、なにやつー! でてこーい!』
と、そんな三日月に、ちずるジュリエットはノリよく尋ね。
とーう、と望は飛びおり。
『わたしの名前は、げっこー仮面!』
三日月頭と黒タイツ姿で、ポーズを決めながら答え。
てっきり、耕太を助けてくれるのかと思ったら、だ。
てくてくてくと歩き。
『んしょっ』
と、望も耕太の上に座ったのでした。
むくむくと育った波動砲の上に、ちょこんと座ったのでしたあ。あーうー。
『こらこら、げっこー仮面。なにあなたまで座ってんのよ』
『ん? だって、ちずるだって座ってるよ?』
『ちずるじゃない! わたしはジュリエット! わたしはいいのよ。だってジュリエットだもん。ロミオを愛してるんだもん。だからオッケーなの!』
『んー……アイしてると、バカでかいお尻《しり》で顔をつぶしても、おっけーなの?』
『ば、バカでかくなんかないもん! 失礼な……。そりゃ、耕太く……じゃなくて、ロミオとの愛あふれる日々をすごすうち、この、うふ、実りに実っちゃった胸とおなじに、お尻もちょっとは育ったかもしれないけど……だけどこれは愛の証だもん! 耕太くんからの太陽のような愛をさんさんと浴びて、すくすくと元気に、そしてほんのり淫靡《いんび》に育った愛の果実だもん! だから耕太くんにいま、収穫してもらってるんだもん!』
『なるほど、いまが実りの秋だけに』
『そう、食欲の秋だけに……って、あのね、あなた、うまいこといってるつもりかもしれないけど、この劇中の季節は春なのよ?』
『そーゆー小さなことは気にしちゃダメだよ、ちずる』
『だから、わたしはジュリエットだと』
『だってさっき、ちずるもロミオのこと、耕太っていったよ?』
『う……そうだっけ?』
『うん』
『ま、小さなことは気にしちゃダメよね、うん、ダメダメ。小さなことを気にするやつは、器もミニマムなのよ……それはそうと、あなた、どうしてげっこー仮面なわけ?』
『ん? んー……ほら、月にかわっておしおきだから』
『いや、意味がわかんないから』
『じゃ、月のモノにかわっておしおき……』
『それは品がないから。あのね、そっち系のネタは耕太くんみたいな男の子、ドン引きよ? っと、そうか、望《のぞむ》はそろそろだっけ』
『ん。ちずるは……』
『もう終わったもーん。でなきゃ、さすがのわたしも耕太くんにこんなことはできないでしょ? だってわたし、乙女ですもの……いやん、いやーん』
『ふーん』
『ちょっと、どうしてそんな醒《さ》めた目でこちらを見るわけよ。っていうか、あなた、本当にそれが理由でげっこー仮面なの? そっちのほうがわたし、醒めた目になるんですけど』
『ん? もちろん嘘《うそ》だよ?』
『どうして嘘をつく! 意味がないし!』
『ふっ。人生にはやさしい嘘が必要なんだよ、ちずる……』
『なんかムカツクな、こいつ。望、あなたね……って、やんっ!?」
このあたりで耕太が咳《せ》きこみ。
顔上のちずるは咳《せき》の直撃を『すごく敏感』な『女の子の、大切なところ』で受け、びくびくと震えて――。
「……あー」
思いだしたら、あらためてムチャクチャさに気づき、耕太はうなだれた。いまの、四つんばいとなった自分の背にちずると望がのる姿勢が、じつにぴったりな心境となった。
そりゃあ、あかねもたまらず飛びだしてくるだろう。
だってヒドイもん! ヒドすぎるもん!
じつはあかねとたゆらは、今回のロミオとジュリエットの劇にはまったく関係がなかった。ただ、耕太やちずるがでるというので、舞台|袖《そで》から見学していただけなのだ。
ロミオとジュリエットの関係者は、あかねとたゆらの後ろにいた。
乳母やら修道士やら大公やら、ロミオやジュリエットの父やら母やら、ロミオとジュリエットにでてくる役柄の姿をしたものたちが、ぞろぞろと舞台袖からあらわれ、あかねとたゆらの後ろから、遠巻きに耕太たちを見つめている。
その全員が、女性だった。
そして彼女たちは、演劇部の部員だった。
つまりロミオとジュリエットは、演劇部がおこなっている劇なのだ。
なのに、どうして耕太とちずる、望《のぞむ》がでているのかといえば、耕太たちが演劇部に入部したというわけではなく――。
「ふふふ……あまり怒らないであげてね。えっと……朝比奈《あさひな》さんだったかしら?」
演劇部たちのなかからひとり、乳母役の姿をした女性が声をかけてきた。
乳母役とはいっても、黒いワンピースに、白いふりふりのエプロン、頭にはカチューシャと、すっかりメイドさんな姿だった。そして彼女は、そんなかわいい姿とは、ちょっとばかり反した容姿の持ち主でもあった。
髪は長く、波打ち、右|眼《め》側を隠し。
あらわになっている左眼は、長いまつ毛がふちどり、すっ……と細い。
にこやかな表情を浮かべてはいたが、それがかえって妖《あや》しげな雰囲気の助けとなっている。妙にオトナっぽいというか、エキゾチックというか、ラテン系というか。
「ですが、部長さん……」
あかねが振りむき、彼女に答えた。
そう、このメイドな乳母姿をした彼女は、演劇部の部長さんだった。
にこにこと微笑《ほほえ》みながら耕太たちの前までやってきた部長さんに、あかねはいう。
「あのですね、部長さん。わたしだって、ちずるさんと小山田くん、望が、この三人だけで、あくまでも人の目が入らない、たとえば自分たちの部屋なんかでさっきみたいな行為におよぶのなら、こんなにうるさいことはいいません。だって、三人は恋人同士なわけだし……望がアイジンというのがちょっと引っかかるけど……」
「えー。いっつもうるさいじゃーん」
ちずるが、耕太に馬乗りになったまま、茶々を入れた。
「それはちずるさんたちが、学校の用具室とか化学実験室とか屋上とか図書室とか視聴覚室とかプールの更衣室とかトイレとか、ところかまわずさかりだすからです! どうしてふたりきり……いや、三人きりになるまで待てないんですか!」
「アイは突然なんだよ、あかね」
と、答えたのは三日月頭の望だ。
「そうそう、突然なのよ、あかね」
ちずるもうんうんとうなずく。
「だって耕太くんのこと欲しくなっちゃうんだもん……しかたないじゃない……」
ああ、あかねの眼鏡ごしの目つきが、どんどん怖くなってゆく。
彼女の鬼のような視線が、きっ、と四つんばいなままの耕太へと向いた。
「小山田くんっ!」
「す、すみませぇん!」
耕太は頭を抱えながら、べちゃっと床に伏せた。
あかねのいわんとすることはわかっていた。
たとえちずるや望《のぞむ》が暴走しまくったって、耕太さえきちんと断れば、どんなエロス行為だって防げるはずなのだ。ちゃんとわかっていた。わかってはいたけれど……。
だけど、無理だよう。
床につぶれた耕太の上に、のっていたちずると望もそのまま落ちてくる。
ぬくもりが、重みが、やわらかみが、耕太の背に、腰に、すとんと落ちてくる。体重をそのままかけたりなんかしない。あくまでやさしく、耕太に彼女自身を伝えてくるだけだ。そのやさしい重みが、耕太にはとても快く……ああ……気持ちいいナリ……。
ぼく、ダメになったなあ。
耕太はしみじみと思った。
昔なら、きっとちずるたちの誘惑も、はねのけられていた。
そもそも、ちずるや望に座られることを、快くとまでは思わなかった。思わなかったとゆーか、そこまで性感が発達していなかったとゆーか。とにかく、純粋だった。
いまはもう、顔にお尻《しり》をのせられても、平気。
むしろ、好きになってしまいそう。
というか、おそらく、あらたなプレイにとり入れられるのだろう。〈あまえんぼさん〉〈ひみつのケーキ〉〈おまたくにくに〉に続く、これは……えーと〈愛の果実〉?
耕太は、本当、ダメになった。自覚すらあった。
ちずると望に迫られたら、最初こそダメです、ダメですと断りながらも、身体は正直、最後は流されてしまうような……むしろ自分から流しちゃうような……ううう。
いや、だからこそ耕太は、ロミオ役を受け入れたのだ。
このままじゃダメだと思うから、だから――。
「と、に、か、く」
あかねが、煮えたぎる感情を抑えこむかのように、いった。
「常識の範囲内での恋人同士の行為なら、わたしもこれほど文句はいいません。ですけど……ですけど……ですけど、これは、このロミオとジュリエットはっ! 劇じゃないですか! 観客の前でおこなう劇! それも、一週間後の薫風《くんぷう》祭で発表される劇……つまり、生徒のみならず、外からのお客さんも観賞する劇なんです! させるつもりなんですか!? 全校の生徒および親子連れのお客さんたちの前で、あんな『昼下がりの団地妻VS女子高生 〜このひとはわたしのもの〜』を演じさせるつもりなんですかっ、部長さんっ!!」
あかねが、耕太たちの前に立つ部長さんに向かって、いった。
彼女のとなりのたゆらも、腕を組んだ姿勢で深くうなずく。
「たしかにな……あれじゃシェイクスピアも草葉の陰で大号泣だぜ」
ああ……とあかねがつるりんぱなおでこに手を当てた。
「よかった……今日が、本番じゃなくて……」
と、カーテンこそ閉めきって暗くはなっているが、だれも観客のいない、がらんどうの体育館を横目に見ながら、いう。
あかねのいいぶんは、まったくもって正しかった。
耕太は返す言葉もなく、寝そべった床におでこをつけるばかり。むーん。
あかねのいうとおり、今回の劇は、十一月下旬におこなわれる、秋の薫風《くんぷう》高校の文化祭、通称、薫風祭で発表する予定のものだった。
もちろん、耕太のクラスの出し物ではない。耕太のクラスがやるのは喫茶店だし。
今回の劇は、演劇部の出し物だった。
いわば演劇部の、これまでの部活動の成果を示す場……だからこそ、稽古《けいこ》にも念が入っていた。いつもは放課後、演劇部の部室でおこなっていた稽古を、いよいよ薫風祭を一週間後に控えたいま、本番のときに使用する場所、学校の体育館で、本番とまったくおなじ衣装、セット、音楽、照明、進行でおこなうという、いわゆる本稽古に臨むほどだったのだから。今日は本稽古だからこそ、あかねたちも見学にきたというわけだ。
「まさか、ちずるさんたちっていつもあんな感じなんですか? 部長さん」
あかねが、耕太たちの前に立つ部長さんを、じろりと見つめる。
「まさか。それはないわ」
メイド服でエキゾチックな部長さんは、あかねに背を向けたまま、答えた。
「ですよね……毎回毎回、こんなことじゃ、とてもまともな劇には……」
うふふふふ。
部長さんが、突然、笑いだした。
「こんな……こんな素晴らしかったのは、今回が初めてよー♪」
くいん、と腰をひねりながら背を後ろに曲げ、あかねのほうを向く。
「え?」
「だってだって、わたしが求めたんですもの……源《みなもと》さん、小山田くん、犹守《えぞもり》さんに、『普段のあなたたちをだしてください』ってー♪」
うふふのふー、と笑いながら、くるんとターンして、部長さんはあかねとまともに向きあった。と思ったら、こんどは胸に手を当て、高らかに歌うように語りだす。
「だーかーらー、責められるべきはー、わーたーしーなーのーでーすー♪」
「そうなのよねー」
あいかわらず耕太にのったまま、ちずるがいった。
「『話の筋なんか、もうどうなったってかまいません』とか『真なる愛の姿をこそ描きだしたいのです』とか、そこの部長さんがいうんだもの。だからわたしたちだって、あんなはしたないことはみんなの前でしたくなかったけど、しかたなく……」
はあ……と片|頬《ほお》に手を当て、恥ずかしげにため息をつく。
「まったくもってそのとおりー♪ ああ……本当によかったわあ、あなたたち……ジュリエットの、ロミオへの抑えきれない感情のたぎりが、もう、これでもかとばかりに伝わってきて……うん? ああ、もちろんげっこー仮面もブラヴォーよ。いいアクセントになってた! あの、ジュリエットとの役者と役柄がクロスオーバーするメタな会話は、なかなかのものだったとわたしは思うわ。あー♪ わーたーしー、思ーうーわー♪」
「え、ええ……?」
ひとりミュージカル状態で、ひたすら褒めちぎる部長さんに、あかねはもう、ただただ眼《め》を丸くするばかり。
そうなのだ。
彼女こそが、演劇部の部長さんこそが、ある意味、耕太たちにあんなムチャクチャなことをさせた張本人だったのだ。
さらにいえば、耕太たちをロミオやジュリエット役に誘ったのも、彼女だった。
彼女が耕太たちを誘ったのは、一週間前。
北海道への修学旅行から帰ってきたばかりのことだ。
あの、望《のぞむ》が突然、姿を消して、人狼《じんろう》の里へと帰ってしまった修学旅行だ。いろいろあって、正式に望が耕太のアイジンとなった修学旅行だ。なんとも思い出深い……深すぎる修学旅行だ。カニも食べたし。
部長さんは、最初、ちずるを誘った。
ちずるがジュリエット、耕太がロミオで、ひとつ劇をやる気はないか、と。
『やーん、ステキー!』
一も二もなく、ちずるは受けた。
最初にちずるを誘ったのは、部長さんの作戦勝ちといえるだろう。だって耕太はちずるの尻《しり》に敷かれまくりなのだから。逆らえやしないのだから。
あんのじょう、部長さんとともにやってきたちずるは、『ねーねー耕太くん、やろうよー、やろうよー』と甘えたりすねたり嘘泣《うそな》きしたり、肉体を駆使したりして、耕太をなんとか陥落しようとした。
それでも、耕太はどうにか断ろうとしたのだ。始めのうちは。
しかし、部長さんのだした条件を聞いて、ロミオ役を受けると決めた。
条件とは、たったひとつ。
禁欲。
ただそれだけだ。
『べつに台本なんて、覚えなくてもかまわないわ。ロミオとジュリエットの台本を、あと一週間で覚えろなんていうこと自体が、土台、無理なこと……そもそも、演技力を求めるのなら、わたしたち演劇部だけでどうにかできるもの。わたしがね、源《みなもと》さん、小山田くん、あなたたちふたりに求めるのは、ただひとつ――愛よ』
『愛?』
『そう、愛……身を焼きつくすほどの、灼熱《しゃくねつ》の愛……それがあなたたちにはあると、わたしは思うの。そしてその情念は、わたしたち演劇部に欠けているもの……最後のピース。だからお願い。劇本番まで、どうか愛の行為を我慢して欲しいの。そしてそのリビドーを、舞台の上で解放して欲しいの。どーんと。ずばーんと。どばばーんと』
禁欲してくれとの部長さんの願いに、浮かれていたちずるは醒《さ》めた。
『あ、それ、無理だから』
と、劇にでるのを止《や》めようとすらした。
そんなちずるを『ねーねーちずるさん、やろうよー』と逆に耕太は説得したのだ。
べつに耕太はロミオ役に興味なんかない。人前でなにかを演じるだなんて、考えただけでも足がすくむ。なのになぜロミオ役をやろうと決めたかといえば、禁欲の二文字があまりにも魅力的だったからにほかならない。
最近の耕太は、ダメになった。
エロス行為に、すぐ流されるようになった。
むしろ求めるような心の動きさえ、あった。
そんな自分が、つくづく嫌になったのだ。
このままではいけない、そう思ったのだ。
だから、禁欲。
しばらく、ちずる、望《のぞむ》との肉体的接触を断って、これからの自分を考えよう。人は成長しなくちゃいけないんだ……なんだかんだでもう十一月、あと四ヶ月もすれば高校三年生になる。オトナにならなくちゃ、いろんな意味で。まあ、劇のためという大義名分がなければ禁欲すらできないのだから、我ながらもう手遅れな気もするのですが。
とにかく、禁欲。
耕太とちずるは、劇への出演を受け、稽古《けいこ》を始めた。禁欲も始めた。
ちなみに望は、いきなり稽古に乱入したところを部長さんに気に入られ、出演が決まった。そのときはげっこー仮面ではなく、西洋の鎧《よろい》をまとった騎士姿だった。本人いわくは、『ら・まんちゃー』とか……それってドンキホーテ?
そうして、稽古および禁欲を始めて、今日で一週間。
ここで耕太に、ひとつ誤算が生じた。
いや、プライベートではきちんと禁欲できていた。最初こそちずると望に誘われたが、耕太の決意が固いと知ると、ふたりも協力してくれるようになった。『そうだよね、我慢すればしただけ、解放するとき気持ちいいもんね!』と、少々、耕太とは思惑が違うようだったが、とにかく、一切、えっちなことはしなかった。
だが、しかし。
我慢したぶん、舞台上で爆発しちゃうなんて。
たしかにいままでの稽古のときも、ちずると望は暴走気味ではあった。たとえばロミオとジュリエットが初めて出会ったとき、いきなり濃厚なキスをしてきたりとか。だが、そのときは耕太も『ダメですぅ』とはねのけられたし、劇は問題なく続けられた。
が、今日はちょっと、暴走のレベルが違う。
お尻《しり》で、どにゅん、だし。
望《のぞむ》はちょこん、で、ふたりで暴走トークだし。
そして耕太は、お尻《しり》の下、ひたすら『むふー、むふー』と悦《よろこ》ぶばかり……これらはみな、我慢しすぎちゃったせいといっても過言ではない。もはや限界なのだ。ためにためすぎて、耕太たちは理性のタガが外れまくりなのだ。びちちちーん、なのだ。
我慢してためたリビドーを舞台で解放するのは部長さんのお願いとはいえ、これはあまりにも……。
「じつに素晴らしかったわあ、小山田くん」
「ふえ?」
気がつくと、耕太の目の前に、部長さんがしゃがみこんでいた。
うつぶせに寝そべっていた耕太は、うわっ、と驚き、しかし背にはちずるたちがのっているものだから、ただびくつくだけ。
「す、素晴らしかったって、なにがですか? だって、劇はメチャクチャで……」
「メチャクチャなのがいいんじゃない……破壊のあとに創造はあり、なのだから」
にまー、と部長さんの、右|眼《め》はウェーブがかった髪によって隠されているため、ただひとつあらわになっている左眼が、笑みのかたちに曲がった。
「で、ですけどぉ」
「ふふ……さっきの演技、本当に素晴らしかったのよ? 小山田くん、あなたのことをふたりがかりで押さえこみ、ただただ快楽をむさぼろうとする、源《みなもと》さん、犹守《えぞもり》さんの姿……まさに人。これこそが人の、そして真なる愛のかたち。あなたたちから、匂《にお》いたつばかりにあふれだしていた、生のほとばしり……うーん、すごかった。はーい、さっきのロミオとジュリエットを見て濡《ぬ》れた人、正直に手をあげてー」
部長さんは立ちあがり、振り返ってみんなに尋ねだした。
「なっ!」
声をあげたのは、あかねだ。
「ぶ、部長さん……いくらなんでもそれは」
「ひい、ふう、みい……」
「えええ?」
人数を数えだした部長さんに、あかねは振りむく。
あかねの背後に、ずらりとならんで控えていた演劇部の部員たち……修道士やら大公やら、ロミオとジュリエットにでてくる役柄の姿をしたものたちや、照明や音響、大道具など、裏方さんもふくめて、みんな、演劇部の部員たちは、部長さんとあかね、耕太たちのやりとりを、遠巻きに眺めていた。
その彼女たちが、ひとり、またひとりと、おずおずながら、手をあげだしている。
とうとう全員が挙手するにいたって、部長さんは、うんうん、と満足げにうなずいた。
「あー♪ わたしは立派な部員たちを持ってー、しーあーわーせーよー♪」
「ぶ、部長ー!」
部員たちが、両手を広げて歌う部長さんに向かって、飛びこむ。
部長さんはしっかりと受けとめた。
その目尻《めじり》には、ひと粒の涙が――キラリ☆
「……ねえ、源《みなもと》? これは、理解できないわたしがおかしいの?」
演劇部の部員たちによる輪を離れた場所で見守りながら、あかねがぽつりといった。
「おれにもよくわかんねーけど、これがゲージュツってやつなんじゃねーか、たぶん」
あかねのとなりにならんでいたたゆらが、答えた。
「ときに朝比奈《あさひな》。ひとつ、気になっていたことがあるんだが」
「なによ、源……」
「さっき、ちずると耕太、望《のぞむ》がやったエロロミオとエロジュリエットを称して、『昼下がりの団地妻VS女子高生 〜このひとはわたしのもの〜』とかいっていたけどさ……どうしてきみは、そんなひと昔前のAVライクなタイトルを知っているのかね?」
突然すぎるたゆらの問いかけに、あかねは咳《せ》きこむ。
「な、なによいきなり! そ、それは、お父さんの部屋の本棚の奥に隠してあったビデオのタイトルが……って、なにをいわせるのよ! あー、もう、ちずるさんがあまりにも団地妻なのがいけないんだ! とてもおなじ高校生とは思えない、その団地妻めいた色気のせいで、あんなトラウマタイトルを思いだしてしまって……て?」
八つ当たり気味にこちらを振りむいたあかねが、眼《め》をぱちくりとさせた。
や? と耕太は思って、あかねの視線をなぞり、身体をひねる。背の上を見あげた。
「わ」
ちずるが、手をあげていた。
望も、手をあげていた。
耕太の背中で、向かいあって座る女性ふたりが、そろって互い違いに片手をあげていた。
つまり、それって――。
さっきの、部長さんの、正直に手をあげてってやつ――。
「耕太くん」
こちらには背を向けるかたちで座っていたちずるが、肩ごしに見つめてきた。
「な……なんでしょう」
「稽古《けいこ》しなくちゃ」
「え」
「だって、薫風《くんぷう》祭まで、あと一週間しかないんだよ? つまり、わたしたちに残された時間は、ごくごくわずか……でしょう?」
「それは……」
たしかにちずるのいうとおりだった。
どう考えても稽古は足りていない。
もっとも、演劇部は違う。演劇部の部員たちは、修学旅行のずっと前から、長いあいだ稽古《けいこ》を重ねていたらしい。だから彼女たちに問題はなかった。
問題なのは耕太だ。
耕太たち、ではない。ちずるも望《のぞむ》もだいじょうぶだった。ちずるは演劇部と遜色《そんしょく》ないほど、いや、むしろ演劇部よりも豊かな演技を見せていたし、望は、そもそも飛び入り前提で台本そのものが彼女には存在しないので、稽古もへったくれもなかった。いまのげっこー仮面だって、今回の稽古でいきなり飛びだしたものだし。
だから、問題は耕太だけなのだ。
わずか一週間ばかりの稽古じゃ、とてもとても、台本を覚えることすら難しい。部長さんには演技なんて求められてないし、耕太がロミオ役を受けたのだって、『禁欲』の二文字につられた不純なものではあるけれど……やはり、やる以上はいいものを目指したい。
「さ、耕太くん」
ちずるが、うながしてきた。
「そ、そうですよね。稽古しなくちゃ……きちんとしたロミオとジュリエット、学校のみんなや、お客さんに見せなくちゃ……うん、そうだ。やらなくちゃ」
「よーし、耕太くん。じゃあ、さっきの続き……いくよ?」
「はいっ! って、え? さっきの続き?」
聞き返す間もなく、耕太は、ちずるによってごろんと転がされた。
そして、あおむけとなった耕太の上へ。
耕太の顔面へ。
ちずるのスカートが舞い、なかのドロワーズがあらわとなり。
「ち、ちずるさ……」
ねにょ。
それ[#「それ」に傍点]は落ちてきた。続けて、ぬにょんぬにょん。こすられた。
はは、ねにょ、だって。
耕太は自然と笑いがこみあげてくる。
ふ、ふふ、ふふふ、ははは、はは……そうか、さっきちずるさんが手をあげていたのは、やっぱり……はははははー! ねにょんねにょーん! ぬにょんぬにょーん!
えへ、ぼく、もう、ダメだあ。
一週間の禁欲生活によってためこんだ、エネルギー充填《じゅうてん》一二〇パーセントの腰を突きあげるような衝動が、耕太の脊髄《せきずい》を走りぬけ、脳髄にごつんとぶちあたった。
耕太の意識は、野獣めいた蒼《あお》き激情に呑《の》みこまれ。
ぐる、ぐるる……。
うなり声をあげ、耕太はちずると望をはねのけながら立ちあがり、叫ぶ。
「おっぱおー!」
遠く、悲鳴が、あがった、気が、した。
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[#小見出し] 二幕 恋の空騒ぎ[#「二幕 恋の空騒ぎ」は太字]
1
耕太《こうた》は、ヘコんでいた。
折りたたみ式のテーブルにつっぷし、ただただヘコみまくっていた。
ただいまの時刻、夜の八時。すでに窓の外は暗い。
アレから、すでに二時間は経《た》っていた。
アレとは、アレです。
一週間後に控えた薫風《くんぷう》祭にて発表すべく、学校の体育館で、演劇部の部員のかたがたとともにロミオとジュリエットの劇に励んでいたとき、ちずるのあまりにもご無体な肉体攻撃『ねにょ』を受け、若さゆえの情動に呑《の》みこまれた耕太が『おっぱおー!』との叫びをあげながら巻きおこした、アレのことです。アレレのレー、です。
あの騒動から、二時間後。
耕太は自分の部屋に戻っていた。
学校から帰り、古アパートを転用した学校の寮の、その二階にある自分の部屋へと戻って、そして、着替えもせず、ひたすらヘコみまくりんぐだった。へぷぷー。
「元気だしてよ、耕太くん……」
と、テーブルにつっぷしたままの耕太に、ちずるの声が近づく。
「そーだよ、耕太。ほら、ごはんだよ、ごはん。ごはん食べれば、元気になるよ」
すぐそばで、はしゃいだ声をあげたのは望《のぞむ》だ。
ちずると望は、耕太といっしょに部屋に帰ってきていた。
三人でいっしょに学校から帰り、耕太の部屋によって、夕食を食べ、たまにお風呂《ふろ》に入ったり、一泊したり、うにゃうにゃしたり……は、だいたい日常の生活ではあったが、今回はちょっとわけが違う。
彼女たちがいなかったら、耕太はとてもひとりでは帰ってこれなかっただろう。
だってもう、あまりにヘコみすぎて。
事実、耕太には下校途中の記憶がほとんどないのだし。
えへ、ぼく、もう、ダメだあ、と沈みまくっていた耕太を、ちずると望が、引きずるようにして運び、部屋まで連れていってくれたのだ。
耕太を運ぶなり、ちずるはすぐに夕食の準備にとりかかった。
望は、晩ごはんができあがるまでのあいだ、ずっと耕太のそばにいた。
ちなみに、昔はけっこう食べるのに覚悟が必要だったちずるの料理は、耕太と出会ってから約一年、ほぼ毎日のようにお弁当や晩ごはんを作り続けてきたこともあって、いまではだいぶまともになっていた。料理によっては美味《おい》しい、といってもいいほどだ。
ごはん……。
耕太は、ぐすっ、と鼻をすすりあげながらも、テーブルから身体を起こす。
夕食の置けるスペースを空けた。
「望《のぞむ》のいうとおりだよ、耕太くん。ごはん食べて、元気だそ。ね?」
涙でにじむ視界のなか、ちずるがテーブルのそばにしゃがみこむ。
ちずるは、エプロン姿だった。
制服の上に、直接エプロンをつけた格好だ。腰まである豊かな黒髪も、調理の邪魔になるからだろう、頭の後ろでポニーテール状にまとめてある。
「はい、熱いから気をつけてねっ」
その手には、湯気たつどんぶりののったおぼんがあった。
どんぶりの数は、みっつ。
そのどんぶりを、テーブルの上へと置いてゆく。
「これ……」
「うん。耕太くん、これ、好きでしょ?」
「はい……」
どんぶりの中身は、うどんだった。
白い、艶《つや》やかなうどんのほとんどを覆うほど、大きくぶ厚いあぶらげ。カツオだしに薄口しょうゆで味を調えた、香《かぐわ》しいつゆ。斜めに長く切ったネギと、紅白のかまぼこが彩りを添えてあった。
ああ、これはけつねうろん。
ちずるの料理のなかでも、最上級の美味《おい》しさに属するものだ。
ぐう。
たまらず、耕太のおなかは鳴った。
「あう……」
どれほどヘコんでいても、おなかは空くんだな……。
情けなさと恥ずかしさで、ぽーっと頬《ほお》を熱くした耕太に、ちずるは、うふふ、と微笑《ほほえ》みかけ、望はといえば、さらに盛大におなかを鳴らした。
ぐぐるぎゅごー。がぎょー。げうげうげう。わん。
「お、おおお?」
あまりの異音に、望は自分のおなかを見た。
「なによそれ、望」
ぷっ、とちずるが噴きだす。
耕太もつられて笑ってしまった。耕太とちずる、笑うふたりに挟まれ、ん? んん? ときょろきょろしていた望も、最後には『えへへー』と笑いだす。
あは、あはははは。
耕太は笑いすぎて、なんだか泣けてきた。えへ、ぐすっ……。
「あー、おかしい……ふふ、さあ、食べましょ、望《のぞむ》はもう、我慢の限界らしいし……ふふ、冷めたりのびたりしたら、せっかくのうどんが台無しだもんね」
はーい。
ちずるの言葉に返事して、みんなでさあ、いただきまーす。
耕太は箸《はし》をとり、ふー、ふー、と吹いてから、うどんをすすりこむ。
ちゅるるるん。
むぐ、むぐ、むぐ……うん、やっぱり、おいしい……。
ちずるの作るうどんの最大の特徴は、手打ちの麺《めん》だ。
一生懸命こねたあと、ビニール袋に入れて、さらに足で『これでもか!』とばかりに踏んづけて作るらしい。大変なだけあって、コシがすごい。噛《か》むと、ぐっ、と耐え、そして切れる。その後、麺自体のうま味が口のなかに広がり、喉《のど》ごしといったら……ああ!
ずず、ずー……。
うん、つゆも素晴らしい。
カツオだしをぞんぶんに使ったつゆは、香り高く……これは、カツオだけじゃなく、にぼしも使っていて……うーん、たまらないよ……ちゅるるるん。むぐむぐ。
「ふふふ……おいしい? 耕太くん」
ちずるが、にこやかに微笑《ほほえ》みかけてきた。
「はい、すごくおいしいです」
「ふふ、よかった」
ちずるの眼《め》が、にぃっと細くなる。
望は、訊《き》くまでもなく、えらいいきおいでうどんをすすりこんでいた。じゅろろろー、と口いっぱいに吸いこみ、丸くなった頬《ほお》をんぐんぐと動かす。
「あのね、耕太くん」
「はい」
互いに口をむぐむぐとさせながら、ちずると耕太は会話を交わす。
「わたし、さっきの耕太くん、悪くないと思うよ?」
「はい?」
「だからー、さっきの耕太くん……『おっぱおー!』のときの耕太くん!」
ぶふっ。
ちずるのいきなりの発言に、耕太は思わずうどんを鼻からだしてしまいそうになった。
「うん、たしかにすごかった、あのときの耕太」
望も、口いっぱいにつめこんだうどんをぐきゅん、と呑《の》みこんでから、いった。
「眼、血走ってたよ。ぎらぎらーって」
「そうそう、鼻息もすっごく荒くってね。ふんがっ、ふんがって」
「わたしとちずるに、『おっぱおー!』っていきなり襲いかかってきたよ?」
「いきなりおっぱいつかんでね! そのまま揉《も》んできてね! それもふたりいっぺんにね! わたしの大きいのも、望《のぞむ》のぺたんこなのも、かまわず、ぐわっしぐわっしってね!」
「んー、ちょっと痛かった」
「わたしも望も、揉《も》まれたまま押し倒されて、耕太くんたら、あおむけになったわたしたちの胸を、左手では望のを、右手ではわたしのを、しゃがみこんだ姿勢で、ぐにぐにぐにって揉みまくって……うん、あれはさながら、クラウチングスタートのように……」
「あかね、止めに入ったんだけど」
「いつもと違って耕太くん、『おぱ?』って逆に睨《にら》みつけたのよね」
「あかね、びくってなってた」
「そのあと、ぎゃーって悲鳴をあげて……まあ、戦闘態勢に入った耕太くんを、あの、ぴっちりぴちぴちタイツごしに見ちゃったら、しかたないけどね。耕太くん、すごいもの」
「泣きそうになってたよ」
「わたし、あんな錯乱したあかね、初めて見たなあ……。横のたゆらをさ、がくがく揺すってさ、『男の人って、みんなああなの!? ああなの!?』って訊《き》いてるし」
「なぜかたゆら、すごく落ちこんでた……んん?」
「まあ、男として、負けた気持ちになったんでしょうねー。耕太くん、本当にすごいもん。あ、そういえば、演劇部の女の子たちも、悲鳴あげてた」
「部長さんは笑ってたよ?」
「あの子はねー。なんていうか、計り知れないところがあるんだよねー。たまーに、ニンゲンにもああいうのが生まれるんだなあ……で、なにがいいたいかというとね、耕太くん。そんなに落ちこむことなんかないよって、わたし、いいたいの。ああいうワイルドな耕太くんも、たまにはいいと思うし……あ、あれ? 耕太くん、どうしたの?」
「お? 耕太、泣いてる?」
耕太はもう、涙が止まらなかった。
涙はだらだらだらと流れ、頬《ほお》を伝い、ぽちゃぽちゃぽちゃとどんぶりに落ちてゆく。
ぼくはダメな男だ……。
そうなのだ。
耕太はさきほどの稽古《けいこ》で、そんな暴挙を犯してしまったのだ。
『おっぱおー!』と叫びながら、ちずると望《のぞむ》の胸を、おぱおぱおぱ……ああ、ああ。ダメだ、ぼく、ダメ人間になってしまった……えうえうえーう。
「あー、もう、耕太くんったら……しかたないなあ」
いいながら、ちずるが立ちあがる。
腰に手をまわし、エプロンを外した。
しゅるん、と床に落とし、と思ったら、こんどは制服のブレザーに手をかけ……ボタン、ぷちぷちぷち。ブラウスも、ぷちぷちぷち。首もとのリボン、しゅるしゅるしゅる。チェック柄のスカートを外し、すとんと落とし、上着もすべて肩を滑らせて……。
「わー! ち、ちずるさん、なにを……なにをするつもりデスカッ!」
「なにって、なぐさめるつもりだよ、耕太くんを」
すっかり上下、白い下着のみとなったちずるが、軽〜く、いった。
夕食を作るためにポニーテールにまとめた後ろ髪に手をやり、ほどく。ふぁさ……と豊かな髪が、ちずるの背中に広がった。
ちずるは、続けて、むん、と気合いをこめる。
「えーい!」
髪が、瞬時のうちに金髪へと変わった。
頭頂部から、狐《きつね》の耳が生える。
尾てい骨のあたりからは、狐のしっぽが生えたはずだ。
瞳《ひとみ》も金色と化し、はい、狐っ子の一丁あがりー。
妖怪《ようかい》、化け狐のちずるは、その正体をすっかりあらわしていた。
「ふふふ……この姿のほうが、ちょーっぴりだけ、おっぱい、大きくなるもんね……じゃ、はい、耕太くん、どーぞ」
ちずるが、ぶらを外す。
大きめのぶらではあったが、やはりそれなりに締めつけはあるらしい。外したとたん、肌色のふくらみが、ぶわっとさらにふくらんだ。ぽやよん、と揺れ、重力に従ってほんのすこしだけさがり、落ちつく。
「ど……どうぞといわれましても……」
「いいから、ほら」
耕太は抱きよせられ、顔面からちずるの胸に飛びこんでいった。
だうんだうんだうーん。
お……おおお……。
ちずるの胸のふくらみは、一瞬だけ跳ね返すものの、すぐにやわらかく、耕太の顔を受けとめた。どこまでも受け入れ……ほわんとあたたかく、甘い香りが漂い、ああ、おっぱいって、えっちなだけじゃなく、こんなにもやさしい……。
お尻《しり》とは違う……だって、お尻はえっちなだけだもん……。
ああ、おっぱいは、正義だよう……。
耕太は膝立《ひざだ》ちとなって、やはり膝立ちとなったぱんちー一枚だけのちずるの胸に、ただただ抱かれ続けるのであった。
「耕太くん、どう?」
「じゃ、じゃすてぃす……」
「うふ? とりあえず、落ちついたみたいね? じゃあさ……すこしだけ……しよっか?」
ささやくような、ちずるの声だった。
「する……?」
「うん」
えっちなこと……。
そのひそやかな声に、耕太はぱっと顔をあげた。
「で、でも!」
「わかってる。部長さんと約束したもんね。普段はえっちなこと、我慢して、劇のときに爆発させてくれって……だけど、正直、ちょっとためすぎちゃったと思わない?」
「う……」
「わたしは『おっぱおー!』なワイルド耕太くんも悪くないとは思うけど、耕太くん自身は、嫌なんでしょう? だからあれだけ落ちこんだわけだし……だけどさ、このままだったら、きっとまたなっちゃうよ? 『おっぱおー!』って」
「そ……それは……」
「だから、すこしだけ、しよ? あんな、『おっぱおー!』ってならないくらいに……ほんのすこしだけ。ね? ねね?」
「す、すこし、だけ……」
「そう、すこしだけ。『おっぱおー!』、しないため……ね?」
「ぱ、ぱお……」
あ、とちずるが横を向く。
「望《のぞむ》、あなたはどうする?」
「ん……パス」
「じゃ、わたしのうどん、食べていいから。もう冷めちゃってるかもしれないけど」
「わーい」
すでに自分のどんぶりを空っぽにしていた望《のぞむ》は、さっそくちずるのどんぶりに手を伸ばした。じゅろろろろろん。口いっぱいにうどんをすすりこむ。んぐんぐんぐ。
「じゃ、はい、耕太くん」
ちずるは耕太に向き直り、自分の右胸を、ぐっ、と持ちあげた。
「あのね、こんな話、知ってた? ロミオとジュリエットの舞台となった街って、実際にあるのね? イタリアのヴェローナってところなんだけど、そこにはちゃんとジュリエットの生家もあって、その家の中庭には、ジュリエットの像も建てられてあるの。でね、そのジュリエット像なんだけど、あるいいつたえがあって……像の乳房に触れると、しあわせになれるっていう……本当だよ? 嘘《うそ》じゃないよ? だから……」
ジュリエットなちずるの乳房を、ロミオな耕太くん、どう?
訊《き》かれる前に、耕太は吸いついていた。
かぷこーん。
「あんっ……もう、吸うんじゃなくて、触れるんだってば……あ、甘がみするんでもなく……ち、ちろちろでもなくってえ……あ、あああ……こ、耕太くんったらあ……」
ちずるが、ぎゅっ、と耕太を抱く。
耕太も、ちずるの腰――の下、ややお尻《しり》側を抱く。
「こ、耕太くぅん……」
「ひふふふぁん……」
互いに抱きあい、互いに身体を押しつけあった。
最初はお互いにへっぴり腰だったのが、だんだんと近づき……やがて、ぴたりとくっつく。ちずるは素肌、耕太は制服のままだったが、腰をもじもじとくっつけ。
「……ん?」
ちずるが、妙な声をあげた。
腰を、ぐにぐにと回すように動かす。
あたかも、触れた部分を確かめるように――。
「耕太くん……」
「はい?」
「こ、耕太くんっ」
「わわ!?」
いきなり、ちずるは耕太を押し倒してきた。
耕太の服を剥《は》ぎとりだす。
ち、ちずるさん……ワイルドだなあ……。
上着には目もくれず、ズボン一直線を目指す手つきに、そういえばちずるさんも、かなり我慢してきたんだよなあ……と耕太は気づき、抵抗を止《や》めた。
しゅるん。
わお。
耕太のズボンは、手早くぱんつもろとも膝《ひざ》まで脱がされた。
すー、すー、とした外気が、耕太を襲う。
その涼しげな感覚に、もう秋なんだなあ……と耕太は思った。
やさしく、してね……。
きゅっ、と眼《め》を閉じ、身をまかせた。
「……ん?」
しかし、期待していたなにかは、いつまで経《た》ってもおとずれない。
「ちずる……さん?」
耕太は、眼を開け、様子をうかがう。
ちずるは、眼をくわっと見開きながら、さきほどズボンとぱんつをおろしてあらわにした部分を、微動だにすらせずに、ひたすら見つめ続けていた。
「んー?」
望《のぞむ》が、どんぶり片手にやってくる。
じー……っとちずるが見つめるものを見つめ――。
「こ……耕太ー!」
望の口から、うどんが飛んだ。
2
翌日、朝。
十一月の風はすこし肌に冷たいものの、空は青く、雲は白く、じつにさわやか。
息を深く吸いこめば、心までもすがすがしくなる朝の通学路を、しかし、どんよりどよどよと歩むものが、ふたりいた。
耕太の前をゆく、ちずると、望のふたりだった。
ちずるはすっかりうなだれ、眼の下はくまを浮かせた、憔悴《しょうすい》しきった顔で。
望は一見、普段と変わらないながら、眼の焦点がいまいちあっていない。
「ねえ、小山田《おやまだ》くん……このふたり、どうしたの?」
と、耕太の横からあかねが尋ねてきた。
あかねは、昨日の『おっぱおー!』騒動の衝撃からは無事に立ち直ったらしく、耕太には普通に接してくれていた。
と、いうより、あまりにもちずると望がおかしかったのだろう。
ふたりは、朝のさわやかな空気を侵すだけの鬱々《うつうつ》とした雰囲気を、瘴気《しょうき》のごとくあたりに漂わせながら歩いていたのだから。
「なんだあ? てっきり、昨日、あれだけやらかした耕太のほうがヘコみまくってるのかと思いきや……おかしくなってるのはこっちかよ?」
と、たゆらも、疑わしそうに眼《め》を細める。
「それが……その」
耕太は口ごもった。
さすがにちょっと、自分になにが起きたのか、口にはだしづらい。
とくに、女性に対しては……。
「んー?」
あかねとたゆらが、どうじに首を傾《かし》げる。
もしこのとき、ちずるに近づいて耳をすませば、聞こえたはずだ。
「こうなったら、もう、ペレしか……ペレに頼るしか……」
という、うわごとのような彼女のつぶやきを。
ペレ。
サッカーの王さま。
そして、ED治療のキャンペーン・シンボル。
ED。
Erectile Disorder――勃起《ぼっき》不全。
つまり耕太は、そうなってしまった[#「そうなってしまった」に傍点]のだ。
「ねえ、本当にどうしたの、小山田くん。なにか、ちずるさんたちがここまで落ちこむような出来事が、昨日、あれから起きたんじゃあ――」
「いいかげんにしなさいよーう!」
なおも尋ねてきたあかねに、突如、ちずるが振り返り、つめよる。
「いくら委員長だからってね、訊《き》いていいことと、悪いことがあるんだからねえー!」
ちずるはもう、半泣きだ。
「え、ええ? いや、あの、ちずるさん、わたしはただ……わっ」
あかねが眼をぱちくりさせた先には、望《のぞむ》の姿があった。
望は、いつのまにかあかねのすぐそばに立ち、うるみきった眼で見あげながら、ただひたすら、ふるふると首を横に振る。だめ……訊いちゃ、だめ……。
「う、うう……こ、耕太くんが……耕太くんが……」
ちずるはとうとう、泣きだした。
望もぽろぽろと涙をこぼし、ちずると抱きあう。
「耕太くんが、かわいそうだー!」
あーん、あーん。
女ふたりの泣き声は、街路樹の立ちならぶ通学路に、切なく響き渡るのであった。
「な……なんなの……?」
あかねもたゆらも、ただ、とまどうばかり。
はー、と耕太はため息をつく。
べつに、自分がかわいそうだと思っているからではない。
じつをいえば、耕太はさほど落ちこんではいなかった。
いや、もちろん、そうなったと気づいたときは、驚いた。いつもならちずるの胸元に抱かれただけで、はしたなくも勇気《ゆうき》凛々《りんりん》と化していた部分が、まったくもって育つ気配すら見せなかったときは、びっくりした。
が、心のどこかで、安心もしていたのだ。
どんどんとこらえがなくなってゆく、自分。
昨夜だって、また『おっぱおー!』と暴走しないため、という大義名分をちずるにチラつかされただけで、あっさりと禁欲を破ろうとしてしまった自分。
ダメな自分。
えっちすぎる、どうしようもない自分。
そんな自分を変えたくて、禁欲しようとしたはずなのに……ああああ。
だから、ほっとしたのだ。
だって、元気にならなければ、エロス行為もできないのだし。
できるかもしれないが、すくなくとも耕太は方法を知らない。つまり、あれほど求めていた、焦がれていた、えっちじゃない自分に、耕太はいま、なれたのだ。
むろん、ずっとこのままは困るけど……いまは、ひとときのさわやかさにひたりたい。
ああ……しあわせって、意外なところにあったんだなー!
「あーん、あーん!」
しかし、ちずると望《のぞむ》の泣き声が、開放感にひたっていた耕太の胸を刺す。
唯一の心残りが、このふたりだった。
ちずると望は、耕太がダメになったとわかったときから、ありとあらゆる手段を使って、復活をこころみていた。が、ダメなものはなにをやってもダメ。気がついたら朝になり……いまに至るのだった。
自分の身体の件については、さほど悲しくない。だが、自分の身体の件について、我がことのように悲しむちずると望を見るのは、とても悲しかった。
「おい、耕太……いったいなんなんだよ、これは」
と、たゆらが、ただただ泣く自分の姉を前に、じれったそうに疑問をぶつけてくる。
「え? あ、だから……えと……」
「ったく、はっきりしねーなー。どう見たって普通じゃねえってのに……なあ、この態度、どう思うよ、朝比奈《あさひな》……おい、朝比奈?」
たゆらの顔が、横のあかねのほうを向く。
あかねは、ぽーっとしていた。
ぽーっとしたまま、耕太を見つめていた。たゆらの呼びかけにもまったく反応せず、その眼鏡の奥の瞳《ひとみ》は、どこかうつろだ。
「あ……朝比奈さん?」
耕太の声にも返事はない。
んー? とたゆらは耕太への視線に割りこむようにあかねの前に顔を入れ、手をひらひらと振りだす。
「おい、朝比奈《あさひな》ー? 朝比奈……あっかねちゃーん!」
「きゃっ!」
目の前で叫ばれ、あかねはようやく我に返った。
眼《め》をぱちくりし……目の前でにんまりと笑うたゆらに気づき、眼をつりあげる。
「なにをする気なのよ、バカ!」
手を振りあげる。
すぱーん、と、小気味のいい音がたゆらの頬《ほお》からあがった。
「いったー! なんなんだよ、もう! 朝っぱらからボケてっから、わざわざ目を覚ましてやったんじゃねーか!」
「なんのことだか、ちっとも意味がわかりません!」
「わかれ! とにかくボケてたんだよ! く……病院いったほうがいいんじゃねーか」
「なんだとー!」
頬を押さえて涙目になったたゆらの言葉に、またもあかねは手を振りあげた。ひゃっ、とたゆらは頭を抱える。
「それだー!」
いきなり、ちずるが叫んだ。
「え? そ、それ? なにがですか?」
あかねは手を振りあげたまま固まり、自分の手を見たり、たゆらを見たり。
「そうだ……そうだよ、耕太くん! 身体の問題は、医者に訊《き》くのがいちばんだよ!」
「へ?」
ちずると望《のぞむ》は、耕太の両側に立ち、がきっ、と腕を組んだ。
強引に耕太を連れ、駆けだす。
「わー!? ちずるさーん、望さーん!?」
置いてけぼりにされた、あかねとたゆら。
「な……なんなの……?」
「さあ……」
ふたりはただただ、学校へと向かう生徒たちをはねのけるように突き進むちずると望、運ばれる耕太を、見つめるしかなかった。
だから、気づかなかった。
さきほどのあかねとおなじく、ぽーっとなって、ひたすら耕太を見つめるだけとなっていた女子生徒が、ほかにも多くいたことを。耕太の姿がなくなったとたん、みな、我に返ったことを。
あかねたちをふくめ、だれも気づくことは、できなかった。
★
「あー、もう、どうしてもっと早く気づかなかったのかな? そうよね、身体の問題は、やっぱり医者に訊《き》くのがいちばんよね!」
ちずるの声が響く。
学校の、保健室に。
「医者……?」
耕太は思わずちずるに尋ねた。
「なあに、耕太くん?」
「いや、このかたは……医者というか……養護教諭だと思うんですけど……」
「似たようなもんじゃない! ね、雪花《ゆきはな》!」
ちずるに問われ、彼女は答えた。
「いいえ、まったく違います」
と、きっぱり。
答えたのは、白衣を着た女性だ。
彼女は、保健室にある養護教諭用の机の前に置かれた椅子《いす》に、足を組んで座っていた。タイトスカートから伸びる黒いストッキングに包まれた脚が、太ももの部分で絡む。
彼女の名は、雪花。
「あと、わたしの名前は、雪花ではありません。雪野《ゆきの》花代《はなよ》です」
と、本人は名乗るが、雪花だ。
彼女の顔には、化粧気がほとんどない。が、それは、ちずるとおなじく、する必要がないからだと耕太には思われた。べつに色を調えるまでもなく肌は白いし、目元はすっきりしているし、まつ毛は長いし、鼻は高いし、唇の色は鮮やかなのだから。
髪の色は紫がかっており、無造作な感じでポニーテールにまとめている、雪花。
彼女は、雪女だった。
さらに、忍者でもあった。
ちずるの母である大妖《たいよう》、九尾《きゅうび》の狐《きつね》に仕える忍びだった。
その、本来ならばちずるの母親に仕えているはずの雪花が、なぜ耕太の学校で養護教諭なんてやっているのかといえば、よくわからない。
元々この薫風《くんぷう》高校は、不良|妖怪《ようかい》の更生施設なんて裏の顔を持つ、不可思議なところだ。
だから、雪花が養護教諭を務めだしても、おかしくないような気もするし、やっぱりおかしい気もするし……とにかく、ちずるがいくら問いつめても本人は『わたしは雪花などではありません。雪野花代です』といいはるばかりなのだから、どうしようもない。
「あのね、雪花……」
「ですから、わたしは雪花ではなく」
「もうそれはわかったから! とにかく、ちょっと診てよ」
ふう、と雪花《ゆきはな》はため息ひとつ。
「もう授業が始まるころなのですが……」
「授業と耕太くんの身体と、どっちが大切だと思ってるんだー!」
怒鳴ったちずるに、雪花は、おや? と眼《め》を細めた。
「では、小山田くんの身体に、なにか起きたのですか? 源《みなもと》さん、あなたではなく?」
「う……そ、そうよ」
「なにが起きたんです?」
「なにって……それは、ねえ、耕太くん」
「え? ぼくが説明するんですか?」
いきなりちずるに振られ、耕太はあたふたしてしまった。
「いや、だって、女の子の口から説明するのは、ちょっと……恥ずかしいじゃない?」
「ええー。男の子の口からだって、恥ずかしいですよう」
「恥ずかしい病ということは……なるほど、性病ですか」
「「違いますー!」」
耕太とちずるはハモりながら答えた。
「ではなんなのです?」
雪花の口調に、呆《あき》れた感じが混じりだす。
「だ、だから……」
「あのね、耕太のお○ん○んが、さすってもこすっても○○○○○しても、なにをしても、うんともすんともいわなくなっちゃったんだよ」
あっけらかんと説明したのは、望《のぞむ》だった。
「の、望!?」
「望さん!?」
「なるほど……話はわかりました」
雪花はそういうなり、立ちあがる。
耕太たちの横をとおり、窓際にあるベッドへと向かった。
「では、見せてください」
と、ベッドを示す。
「み……見せ……?」
「はい。小山田くんの○ち○ちんを」
「ちょっと、雪花!」
「患部を見なくては診察はできませんが。なにか問題でも?」
あくまで、雪花は真顔だった。
ちずるが、「う……」と口ごもる。
「し、しかたないか……」
「ちずるさん!?」
「ここは我慢だよ、耕太くん。わたしだって耕太くんの大切なところ、ほかの女になんか見せたくない……だけど、これも治療のためだもん! ね、お願い、耕太くん!」
手をあわせ、拝んできた。
見ると、望《のぞむ》も手をあわせ、なむなむとつぶやく。
「わ、わかりました……」
耕太は受け入れた。受け入れざるを得なかった。
★
とは、いうものの、いざ実際に見せるとなると、やはり抵抗がー。
耕太は保健室のベッドにあおむけになりながら思う。
男に見せるのだって、ちょっと恥ずかしい。なのに、相手は女性、おまけに知りあいなのだ。これがまったくの赤の他人であれば、まだすこしはマシなんだけど……。
「さあ、小山田くん」
と、ベッドの脇《わき》に立っていた雪花《ゆきはな》が、うながしてくる。
保健室のベッドは、まわりをカーテンレールで囲んであり、クリーム色のカーテンを引きさえすれば、外からは見られないようになっていた。
もちろん、いまはちゃんとカーテンを引いてある。
が、引いてあるがため、逆に、仕切られた狭い空間に、耕太と雪花はふたりきりな状態となってしまっていた。
なんか、すっごく、どきどきしてしまうのだ。
おまけにちずると望は、いま、保健室のなかにはいなかった。
雪花に追いだされていた。
『たとえ恋人であれアイジンであれ、この手の疾患の治療を見られるのは、あなたたちが思う以上に、患者にとっては苦痛なことなのです』
そういわれては、さすがにふたりとも、居すわるわけにもいかなかった。
おとなしく、廊下で待っている……はず。たぶん。
「小山田くん、どうしました?」
雪花が、軽く首を傾《かし》げる。
耕太は覚悟を決め、腰のベルトに手をかけた。
かちゃかちゃと軽い金属音をあげながらベルトを外し、えーい、と腰を揺すりながら、一気にズボンをおろす。続けてぱんつも、えーい。
ぽろんご。刑事ぽろんご。それはコロンボ。
「ほう? これは……ずいぶんと立派な……」
気のせいだろうか、雪花が、ずいぶんと感心したような声をあげたような。
「え?」
「いえ、あくまで医学的見地からの意見です。お気になさらぬよう」
「は、はあ」
雪花《ゆきはな》は、しげしげと眺め――。
と、思ったら、手を伸ばしてきた。
さわ、さわ。
「ひゃ! ゆ、雪花さん!?」
「わたしは雪花ではありません」
「ゆ……雪野《ゆきの》花代《はなよ》さん!?」
「これは触診です。多少のくすぐったさは、我慢してください」
冷静に答えられ、耕太は、返す言葉を失った。
触診は、続く。
雪花の、すこしひんやりとした指先が、つまみあげたり、首根っこをつつつとなぞったり、首の裏側を爪《つめ》でやさしくかりかりしたり、握って親指でくにくにしたり。
「い……いひつ、うひっ、おひひっ!?」
触診されるたび、耕太はぴくぴくしてしまう。
だってだって、たしかに耕太はキャプテン☆ED状態だが、べつに感覚がなくなったわけではないのだから。触覚はいまだ健在なのだから。なのに……お、おお、おおお、そ、そんなところまで!? 耕太は拳《こぶし》を握り、のけぞった。
だ、ダメだ、ガマンだ!
これは触診なのだから……で、でも、本当にこれ、触診……? なんだか、あまりにもツボをこころえすぎているような……? うひ! あひ! おひひ!
やがて、天国のような地獄のような触診は、終わった。
耕太はもう、ひたすらベッドの上で息を荒げるばかり。
「むう……なるほど。玉藻《たまも》忍軍、四八の快楽技のいくつかを駆使しても、育つ兆しすら見せないとはな……これはかなりの重症なようだ」
「ふえ?」
「気にするな少年。いわゆるひとつの、医学的見地からのひとりごとだよ」
雪花の眼《め》が、すっ……と細くなる。
「医学的見地……のな」
にぃ、と笑った。
「あ、あれ?」
と、耕太が感じたのもつかのま、雪花の表情は元の冷静なものへと戻っていた。
「え……?」
「どうしました?」
尋ねてくる表情も、やはりいつもの冷静な顔つきだ。
「い、いえ、いま、雪花さんが……じゃなくて、雪野先生が、にぃって、なんだかすごく意味ありげな、ちょっぴり怖い、ぞくぞくするような笑いかたをしたような、あれー?」
耕太はベッドから身体を起こし、うつむき、眼《め》をこする。ぐしぐし、ぐし。
「お、おかしいな、気のせいかな……?」
「気のせいではないよ、少年」
「ふええ?」
耕太は顔をあげた。
うあ、と眼を丸くする。
「ゆ、ゆゆ、ゆ……雪花《ゆきはな》……さん?」
ふふん、と雪花は、笑う。
どーん、と大きな胸のふくらみを、突きだしながら。
ちずるにも負けないほどのそのふたつの丸みは、下半分だけ支えるかたちの、黒いぶらじゃーで包まれてあった。
下を見れば、腹筋が軽くぽこぽこと浮き、おへそがぽつり、腰はくびれまくり。
さらに下には、黒いぱんちー。
ぱんちーのすこし上には、雪花の脚の、たくましい太ももから下を包む黒いストッキングへとつながる、黒い帯があった。いわゆるガーターベルトだ。
ブラに、ショーツに、ガーターベルト。
どれもこれも黒く、細かい飾りの入った、まさにオトナ下着であった。
雪花はそんなオトナ下着姿で、鍛えぬいた肉体をさらし、なぜか白衣だけはまとって、ベッドの脇《わき》に立っていたのであった。
「な、な、な……?」
「なにを驚く、少年?」
「いろいろ、お、驚いてますが、え、ええと……ふ、服は? 服はどうしたんですか? さっきまで、着てましたよね、ちゃんと、しっかり、保健室の先生っぽく」
「脱いだよ。忍びたるもの、服ごとき一瞬で脱げぬようではな」
「と、いいますか、どうして脱いだんでしょーか……?」
「むろん、治療をするためさ……少年」
雪花が、にぃ、とあの例の笑みを浮かべた。
と、指先を、口元に持ってゆく。
あの、触診をした指先だ。かたちよい爪先《つまさき》のそろった指先だ。
その指先の匂《にお》いを、すんすん、と嗅《か》ぎ。
「ちょ、雪花さん!?」
声をあげた、耕太の前で。
舐《な》めた。
触診しちゃった指先を、ぺろん、と。
「あ……」
耕太の口はもう、あんぐりあがあが。
口あんぐりな耕太の前で、雪花《ゆきはな》は、指先に舌を這《は》わせ、あげくくわえだす。二本指を、ちゅぱちゅぱと音をたてながらしゃぶった。
ちゅぽん、と唇から抜きとられた指先は、唾《つば》で、てかてかてかりんぐ。
と、雪花の視線が、下を向く。
「ふむ……これでもまだ、ダメか」
彼女の視線は、さらけだしたままの耕太の下半身にあった。
「わわわ!」
耕太はあわてて両手で覆い、隠す。
「だが安心しろ、少年。まだ手はいくつでもある……いや、手はさっき使ったな? 口とか、胸とか、脚とか、ふ、ふふ……こことか……な?」
雪花の両手が、腹筋軽くぽこぽこなおなかへとゆく。
すす、す……と撫《な》でだす。
撫《な》でる動きは、だんだんと下へ……黒ぱんちーへ……さらに下へ……。
「鍛えぬいた肉体が作りあげる、締めあげと、うねり、くねり……すごいぞ?」
雪花が、にぃっ、と微笑《ほほえ》んだ。
★
「か、かんべんしてくださーい!」
耕太は、保健室から飛びだした。
「こ、耕太くん?」
壁によりかかり、爪《つめ》をがじがじかじりながら待っていたちずるは、耕太の姿を見て、ぎょっ、と眼《め》を剥《む》く。となりの望《のぞむ》は、どこから持ってきたのかホットドッグをくわえていたが、やはり、眼をぱちくりとさせた。
だって、耕太ったら、下半身、丸だしなんだもの。
もちろん、隠すべきところは手に持ったズボンや下着で隠してはいたし、制服のブレザーやワイシャツの裾《すそ》によってもあるていど覆われてはいたが、脚は剥《む》きだし。体毛が薄く、男らしくないなーと自分でも気にしていた脚が、靴下と靴を残し、するりーん、だ。
「ど、どうしたの、いったい!」
耕太はなんだか泣きそうになりながら、ちずるに飛びこむ。
「ゆ、雪花さんが、雪花さんが、おかしいんですっ!」
「雪花が……?」
ちずるが怪訝《けげん》そうに眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた瞬間、保健室の扉がふっとんだ。
ふっとばしたのは、黒いストッキングに包まれた、たくましい脚だ。ハイヒールを履いた、長い脚だ。
脚に続けて、本人が姿をあらわす。
「女に恥をかかせるのは感心しないなあ……少年」
ゆらりとあらわれたのは、やはり黒下着、黒ガーター、黒ストッキングを身につけた身体の上に、白衣だけをまとった雪花《ゆきはな》だった。
ちずるの背中に隠れた耕太を見つめ、にぃ、と雪花は笑う。
「なるほど……これはたしかにおかしいよ、耕太くん」
「ですよね! ですよね!」
ちずるは耕太をかばうように前にでて、怒鳴った。
「雪花!」
「これはこれはちずるさま……なんでしょうか?」
「へえ? 雪花であることを、いまは否定しないのね?」
耕太は、どうにか持ちだした下着とズボンを穿《は》きながら、ようやく気づく。
雪花の口調が一変していたことに、だ。
そういえぱ、途中から、ぼくのこと『小山田くん』じゃなくて、『少年』って呼んでた……『少年』と呼ぶのは、忍者状態の雪花さんだけだ!
と、いうことは、いまの雪花さんは……?
「ま、それはともかくとして! こら、雪花、あなた、耕太くんになにをしたのよ! そしていま、なにをするつもりなのよ! こ、こんな、下半身丸裸なんて、うらやま……いや、ヒドイことして!」
「治療ですよ。EDのね」
雪花の落ちついた返答が、かえって怖い。
「治療って、あなたねえ……」
「治療の邪魔をするとあらば」
雪花が、白衣をまとった腕を、胸の前でクロスさせた。
その腕の先、グーのかたちに握った指のすきまには、薄く透きとおる刃が各四本ずつ挟んである。両腕で八本の、それは、氷の手裏剣だった。
「たとえちずるさまであっても、容赦はしません」
クロスさせた腕を開く。
手裏剣は放たれた。放射状に広がりながら、廊下いっぱいに。
「この……ふざけるな!」
ちずるは耕太を抱き、廊下へと伏せる。
伏せた耕太たちへと飛んできた刃は、ホットドッグをくわえたままの望《のぞむ》が、ひょいっと足先で弾《はじ》きとばした。
「いいかげんにしなさいよ、もう……いくわよ、望!」
「ふももー」
瞬時のうちに、ちずると望は変化《へんげ》した。
ちずるの黒髪は金色へと変わり、頭頂部から狐《きつね》の耳を生やし、腰からはしっぽを生やす。
望は銀髪こそそのままながら、やはり狼の耳としっぽを生やした。
「だ、ダメですよ、ちずるさん! 望さん! 学校で変化《へんげ》なんてしたら――」
「あぶない、耕太くん!」
「ふええー!?」
注意しようと思った耕太は、ちずるに抱きかかえられ、廊下の脇《わき》へと跳ぶ。
さきほどまで自分たちがいた位置には、いくつもの氷の刃が、しゅばばばばと、飛ぶ。
「この色ボケ雪女忍者、耕太くんに当たったらどうする気だ!」
おかえしとばかりに、ちずるが手のひらに火球を浮かべ、やー、と投げた。
ひねた感じに螺旋《らせん》を描きながら飛ぶ橙《だいだい》色の炎の名は、狐火。
雪花はあわてず騒がず、白衣の裾をひらめかせながら、かわす。かわしながら、またも氷の手裏剣を飛ばす。ちずる、耕太、望はさらにかわす。
「ち、ちずるさん……」
「耕太くんは、とりあえず、逃げて!」
ちずるの、ふさふさな毛なみのしっぽが、びし、と廊下の向こうを指した。望のすこしぱさついた狼のしっぽも、びし、と動く。
「いや、ですから、学校で変化はダメですよ! 正体を一般の生徒たちに知られちゃったりしたら……」
薫風《くんぷう》高校は、たしかに不良|妖怪《ようかい》の更生施設だ。
だが、その事実は一般の生徒には極秘なのだ。
万が一、妖怪の正体を知られるようなことがあれば……耕太の脳裏に、『退学』の二文字が浮かぶ。
「だっていまは緊急事態でしょ……っと!」
氷の刃をかわす。狐火を放つ。望も隙《すき》を見て、飛び蹴《げ》りをかます。
「なんでどうして雪花が色ボケになっちゃったか知らないけど、とにかく正気に戻さなくちゃ! だから……」
なるほど、耕太がいたら、ちずるたちは存分に闘えない。いちいち耕太の身をかばいながら動かなくてはならないのでは、いかにも厳しい。
いや、耕太とちずるは、口づけして合体することで、とてつもなく強くはなれた。
なれたが、なってしまうと、それこそ、学校自体どころか街をひとつ消滅させちゃうほどの強さなので……雪花を正気に戻すどころか、下手すれば殺《あや》めかねなかったのだ。
「わ……わかりました」
足手まといは、なるべくいないほうがいい。
「ですけど、ちずるさんも、望さんも、気をつけて。雪花さん……きっと、強いです」
「うん、知ってる」
ちずるは雪花と正対したまま耕太のほうは見ずに答え、望は無言で、びし、と親指を立てる。ホットドッグはすでにすべて口のなかに収まっていた。闘いながら食べたようだ。
耕太は駆けだす。
ちずる、望《のぞむ》、雪花《ゆきはな》の闘いを背に、廊下を走った。
向かう場所は、自分の教室だ。
雪花はちずるの母である、九尾《きゅうび》の狐《きつね》に仕えている忍びだった。
九尾の狐は、いわずと知れた最強の妖怪《ようかい》である。最強の妖怪に仕えているのだから、雪花自身の力も、それなりにあると考えたほうがいいだろう。よもやちずると望のコンビが負けるとは思わないが、けっしてあなどっちゃいけない。
ここは、たゆらくんにも手伝ってもらわなくちゃ……。
場合によっては、学校の妖怪たちのまとめ役である番長、桐山《きりやま》の力や、前番長、熊田《くまだ》の力も借りなければならないかもしれない。
保健室は一階、二年生である耕太の教室は、二階。
だけど、ああ、遠い、じれったい、ぼくの足、遅い!
あせりまくりながらも耕太は階段をのぼり終え、角を曲がり――。
「ふぎゃっ」
「きゃっ」
「やっ」
衝撃とともに悲鳴があがり、耕太は尻《しり》もちをつく。
耕太の目の前には、制服姿の女子がふたり、倒れていた。いけない、あわてすぎた! だれかとぶつかってしまった!
「す、すみません! だいじょうぶですか……って、あ」
むくりと身体を起こした相手は、なんと、キリコとユウキだった。
長い黒髪をきっちりとした真ん中分けにした、すこしきつめの目つきをした彼女が、高菜《たかな》キリコ。つんつんな短い髪に、そばかす顔が明るい彼女が、佐々森《ささもり》ユウキ。
どちらも耕太のクラスメイトだ。
「高菜さん、佐々森さん、ごめん!」
耕太はほとんど土下座のような姿勢となって、頭をさげる。
相手がだれであれ、悪いのはきちんと前を確かめずに全力疾走していた自分なのだから。
だけど……あれ?
ふいに、疑問が耕太の頭をよぎった。
いまはまだ、授業中のはずだ。
なのになぜ、このふたりは廊下を歩いていたんだろ?
「あの、高菜さん、佐々森さん……」
耕太が身体を起こした、とたん。
抱きつかれた。
「……え?」
それも、長髪の彼女、高菜《たかな》キリコに。
キリコとユウキはどちらもクラスメイトではあるが、耕太への対応はそれぞれかなり違う。けっこう親しげに接してくれるそばかす顔のユウキとは逆に、キリコは厳しい。『おなじ空気を吸うだけで新たな性癖に目覚めさせられる』とか『見ただけで生理が止まっちゃう』とか、さんざんないわれようだった。まあ、エロスカイザーなんてまわりから呼ばれている耕太と親しい女子のほうが、めずらしいのだけど……くすん。
そのキリコが、耕太に、抱きつく?
「あ、あの、高菜……さん? 高菜キリコさーん?」
地べたに尻《しり》もちをついたかたちの耕太にしがみつくキリコに、声をかけた。
「好き……」
彼女からの返答は、LOVE。
言葉とともに、抱擁の強さも、強く、熱くなる。
「え、えええ?」
「わたしも、好きだよ、小山田くん……」
見ると、ユウキも上気した顔を耕太に向けていた。
こちらは、どこからとりだしたものか、DVDビデオカメラで、耕太と耕太に抱きつくキリコのふたりを、フレームに収めていたが。
「な……なに、これ?」
「「おーやーまーだーくーん!」」
クラスメイトの暴挙にひたすら驚くばかりの耕太に、こんどは、なにやらかなり大勢からの声が飛ぶ。
キリコに抱きつかれたまま、耕太が振りむくと、そこには――。
「はあ……?」
廊下いっぱいに、女子生徒がいた。
教室の壁から窓まで、ぎっしりにつまった彼女たちは、みな、キリコたちとおなじく、ぽーっと上気した顔はしているし、眼《め》はうるんでるし。
いや、それどころか、だ。
暑いのかなんなのか、制服の首もとのリボンをぬきとったり。
ブレザーを脱ぎだしたり、なかのブラウスを脱ぎだしたり。
内股《うちまた》になってスカートを手で押さえ、もじもじしたり。
なんだかなー、な彼女たちは、みな、女子だった。
男子の姿は、ひとりもない。
「あ、あの……」
「「ああーん、小山田くーん、好きー!」」
ハモられた。
「うええ!?」
たくさんの女性に求められるというのは、男のあこがれのひとつかもしれない。
が、実際に求められてみると、耕太には恐怖しかなかった。
だって、何十人もの女性が、いっぺんにやってくるんだもん。
火照《ほて》った顔で、息も荒く、手を伸ばしてくるんだもん。
「わー!」
当然の帰結として、耕太は逃げた。
なおもしがみつくキリコを、どうにか振り払い。
わらわらわらわらと迫ってくる女子たちには背を向け。
走ろう――と思ったら、前方の廊下からもべつの女子たちがわらわらわらわらやってきたので、しかたなく、耕太はさきほどやってきた階段へと戻り、上へあがった。目指していた自分の教室からは離れてゆくこととなったが、気にする余裕はみじんもなかった。
「ああん、エロスカイザー、わたしの領土も征服してー!」
「恋人じゃなくていいのお。アイジンでいいのお」
「さすがはエロスカイザー、百人のってもだいじょうぶー! ……でしょ?」
階段をのぼる耕太を追ってくる、声、声、声。
ひー、と思いながら、耕太は三階へとあがった。
「げ」
すでに三階も、ああ、ばいお・はざーど、だった。
教室から、わらわらわらわらと、女子生徒が廊下へとでてくる。三年生が、最上級生が、耕太から見るとすっごくオトナな感じの女性たちが、あたかもゾンビのごとく。「小山田くーん」「エロスカイザーん」と耕太を求める姿は、ああ、まさにえっちゾンビ!
なかに、やはり男の姿はなかった。
どころか、授業中なはずなのに、廊下へとでてくる生徒たちをとがめる教師の声すらもない。
どうして……と思ったら、あ、先生はいた。
わらわらわらわらなえっちゾンビのなかに、女性教諭の姿も、わら、わら。
「あ、ああ……」
廊下は、前も後ろも、えっちゾンビたちで埋めつくされ、階段の下からは、えっちゾンビたちのあえぎ声めいた叫びが届く。
こうなったら、さらに上に逃げるしか……と、階段を見あげたとき。
「あ……」
屋上へと続く階段の踊り場に、彼女の姿を見つけた。見つけてしまった。
つるりんなおでこ。
きらりんな眼鏡。
すたりんな立ち姿。
そんな、委員長、朝比奈《あさひな》あかねの姿を。
「ま、まさか……」
耕太の背中を、ぞくぞくっとしたものが駆けぬけてゆく。
まさか、朝比奈《あさひな》さんまで!?
と、思ったのもつかのまだった。
「こっちよ、小山田くん」
「え?」
「追われているんでしょう? ほら、早く」
踊り場から手招きするあかねの顔は、逆光のなか、まともであった。
「あ……あああ、朝比奈さぁん!」
もう、耕太は泣けてきてしまう。
「そ、そうなんです! なぜなんだかよくわかんないんですけど、ぼく、女のひとたちに追われていて……すごく怖くて……うっ、うっ」
「もうだいじょうぶよ、小山田くん」
階段を駈《か》けのぼり、あかねの元へと逃れた耕太に、その声はとてもやさしい。
「さあ、とりあえず屋上へ逃げましょう。いっしょに……ね?」
「は、はい……」
ぐすっ、と鼻をすすりながら耕太は踏みだし、ちょっと待った、と止まった。
「どうしたの、小山田くん?」
「いや、ぼく……ダメだ。まだ逃げられません」
「え? どうして?」
あかねが首を傾《かし》げる。
「だって……」
ちずるさんと望《のぞむ》さんを、助けなきゃ。
あまりにも衝撃的な出来事が続いたために、あやうく忘れかけていたが、こうしている間にも、ちずると望は雪花《ゆきはな》と闘っているのだ。たゆらなり、桐山《きりやま》なり、熊田《くまだ》なり、あるいは薫風《くんぷう》高校における妖怪《ようかい》の監視官である八束《やつか》、砂原《さはら》なりに、助けを求めなければ。
自分ひとりだけ助かろうなんて、できるはずもない。
「だけど小山田くん、きみは、なぜかたくさんの女子生徒に追われているのよ。逃げなきゃ、捕まったらきっとヒドイ目にあうわよ? いろんな意味で」
「う」
そ、それは……。
耳をすませば、階段の下から、「小山田くーん、抱いてーん」「エロスカイザーん、領土を広げてーん」と、耕太を求めるえっちゾンビーズの声が、わらわらわら。
ど、どうしよう。
ちずるさんたちは助けなきゃならないが、自分もピンチだ。耕太は上を見あげたり下を見おろしたり、あたふたしているうち、ひとつ気づく。
耕太はたしかに追われていた。
だけど――。
「朝比奈《あさひな》さん、すみませんけど、ひとつ頼まれてくれませんか」
「頼み?」
「そうです。ぼくはたしかに追われてます。だけど朝比奈さんは、だれにも追いかけられたりなんか、してませんよね?」
「まあ……そうね」
「お願いします! たぶんたゆらくん、ぼくたちの教室にいると思うんですけど……教室にいって、たゆらくんに、保健室へ向かうよう伝えてもらえませんか!」
「源《みなもと》に? 保健室へ?」
「はい。そう伝えるだけでかまいませんから」
あかねの言葉を聞いて、たゆらが保健室の前までゆき、ちずる、望《のぞむ》と雪花《ゆきはな》の闘いを発見すれば、きっとなんらかの手を打ってくれるはずだ。
他力本願ではあるが、これで……。
「ごめんなさい、それ、無理」
あかねが、にっこりといった。
「へ?」
信じられない思いで見つめた耕太の前で、あかねはひたすら、にっこりにこにこ、笑う。
「だって……教室に戻って、源に保健室がどうとか伝えるためには、小山田くんと離ればなれにならなくちゃいけないでしょう? だから、だーめ」
「ま、まさか、そんな、やっぱり……」
「さあ、いきましょう、小山田くん……屋上で、ふたりきりになりましょう。きっと、小山田くんはここまで逃げてくるって思って、わたし、ずっと待っていたんだから……えへっ、あかねの予想、正解」
あかね、ただただ、にっこにこ。
「ぶ、ぶぶぶ……」
ぶるーたす、おまえもかー!
「も、もう、ダメだあ」
耕太の膝《ひざ》は、がくがくと震えだす。
屋上への道は、にこにこあかねがにっこにこ。
階段から下は、えっちゾンビーズが息も荒くわらわらわら。
つまり、逃げ道は、ないのだから。
耕太は彼女たちに捕まり、そして、さんざんに身体を……って、あ、そうか、ぼく、いま、キャプテン☆ED状態なんだから、ある意味、平気なのかな?
いや……。
耕太は首を横に振った。
とうとう階段の下にあらわれたゾンビーズを見て、理解してしまった。
廊下いっぱいにすっかりすしづめな彼女たちの眼《め》は、もはやまともではない。捕まれば、もみくちゃにされ、あたかも餓《う》えた獣に襲われた獲物のように、ズタボロとなり……。
「「小山田耕太ー!」」
目の前に迫った彼女たちに、耕太はぎゅっ、とまぶたを閉じた。
どうじに、耕太の身体は、なにやら硬い紐《ひも》状のもので、ぐるぐる巻きにされてしまった。ああ、なんて念の入ったことなんだろう。逃げられないよう、拘束までするなんて。
と、思っていたら。
「うえ?」
ぎゅいん。
耕太は引っぱりあげられた。
思わず眼を開けると、耕太は飛んでいた。
わらわらわらわらなゾンビーズの頭上高くを、ひょーいっと、飛んでいた。
「なー!?」
さきほど耕太の身体を拘束した、硬い紐状と思われたものは、鎖だった。
耕太は、自分に絡みついた鎖に引っぱられ、宙を運ばれていたのだ。
あかねが待ち受けていた階段の踊り場から、廊下いっぱいにひしめきあう女子生徒の群れを飛びこえ、すとん、と耕太の身体は床につく。
鎖はほどけ、そこに待っていたのは――。
「だいじょうぶですか、パパ!」
「お怪我《けが》はありませんか!」
細い腕にいま使った鎖をしゃきーん、と絡めた、双子の少女だった。
あどけない顔つき。
耕太よりも背丈が低く、それだけに幼い体つき。
一年生であることを示す、制服の胸のワッペン。
すべてがおなじのふたりだ。
唯一違うところといえば、頭の片側でまとめあげた栗《くり》色のおさげ髪、その位置だけ。
左おさげの少女が、七々尾《ななお》蓮《れん》。
右おさげの少女が、七々尾|藍《あい》。
耕太をパパ、ちずるをママと慕う彼女たちは、見た目こそかわいくとも、鎖を使った戦闘術に長《た》けた妖怪《ようかい》退治のエキスパートだった。いまふたりはその鎖をもって、耕太を女子生徒たちの魔の手から救いだしてくれたのだ。
「あ、ありがとう、蓮、藍!」
「さ、早く、パパ」
「逃げなくては」
振りむくと、えっちゾンビーズな女子生徒たちは、すぐさま耕太たちを見つけ、わらわらわらと追ってきていた。なんかもう、熱気でむんむんむんだ。
耕太は、蓮《れん》、藍《あい》と連れだって、走りだす。
「ところで、どうしたんですか、パパ」
「またママが、なにかやらかしてしまったんですか?」
左右にならぶふたりからの問いに、耕太は走りながら首を横に振った。
「ぼくにもよくわからないんだ……なぜかみんな、ぼくを追ってくるんだよ」
蓮と藍が、互いに顔を見あう。
「もしかして、気づいていないんですか、パパ?」
「え?」
「校内の女性たちの異変は、おそらく、パパのせいですよ?」
「ええ?」
「いまパパの身体からは、とてつもないほどの気があふれだしているのです。もう、学校中を満たすほどの、すさまじーやつが」
「その気を浴びてしまったので、女性たちはみな、パパに抱かれたガールになり」
「男たちは、失神KOされてしまったのです」
「えええ?」
だ、だから男子の姿はどこにもなかったの?
「だ、だけど、どうして? どうしてぼくの身体から、その、気とかなんとか」
学校
「いえ、それをわたしたちも知りたいのですが」
「てっきりわたしたちは、ママがえっちな術とか薬を、パパに……うっ!」
突然、蓮と藍は胸を押さえ、立ち止まった。
「蓮! 藍! どうしたの!」
「だ……ダメです、パパ!」
「パパの力が、これほど強いなんて……」
蓮と藍の瞳《ひとみ》が、うるみだす。
「も、もしかして……もしかして? 蓮と藍まで……なのお?」
「まさにそのもしかして、なのです、パパ」
「わたしたちも、ああ、もう、パパに抱かれたガール!」
「いえ、パパとえっちするのは、もともとやぶさかではなかったのですが」
「いつか、ママのように激しくやさしく愛してもらって……」
ぽっ。
蓮と藍は、頬《ほお》に手を当て、照れた。いやん、いやん。
「だけど、それはママの許しを得なくては!」
「わたしたち、ママにおしりぺんぺんされちゃう! パパがママにするように!」
がし、と抱きあう、蓮と藍。
頬の赤みや、眼《め》のうるみや、息の荒さや、さらには無意識なのか、互いの脚を絡め、くいん、くいんと腰をすりあわせる動きまで、さすがは双子、そっくりおなじであった。
「パパ、早くいってください……」
「お願いします……じゃないと……もう、しんぼうが……たまらんち……」
「う、うん、わかった!」
蓮《れん》と藍《あい》の一連の発言に、いろいろと問いただしたい点はある。
だが、彼女たちの腕に絡んだ鎖がしんぼうたまらん感じでちゃりちゃりと音をたてるのを聞き、とりあえず話はあとにしようと決めた。
耕太は駆けだそうとして――。
「わわっ!」
「「ああ、エロスカイザーん! 抱けー、このー」」
すでに前の廊下が、女子生徒たちによって埋めつくされていることを知った。
どうやらまわりこまれたらしい。かといって、後ろを向けば、こちらはあかねやキリコ、ユウキを先頭とした群れが迫ってきていた。
「くっ……どうしたら……」
耕太は教室のドアを見る。
すぐに首を横に振った。
たとえなかに入って鍵《かぎ》をかけたところで、人数が人数だ。すぐに破られてしまう。三階だから、窓から飛びおりるというわけにもいかない。
「だいじょうぶです……パパ」
「え?」
と尋ね返した耕太に、蓮《れん》の鎖が巻きつく。
藍《あい》は、廊下の窓を全開にしていた。
「ていやあ!」
耕太は、蓮の鎖に引っぱりあげられ、窓の外へと――。
「こ、ここ、三階だよー!」
耕太は、街の風景と、秋の外気を肌で感じながら、叫ぶ。
「わー!?」
視界がぶれた。
ぎょん、とすべてが下に――ということは、耕太の身体は上へ?
★
「あらあら……ちょーっと遅かったかしら?」
薫風《くんぷう》高校の門に、白い日傘を差した女性があらわれた。
女性の姿は、着物だ。
十一月も中旬、暦の上では冬だからなのか、深い藍《あい》色の生地に、雪のような淡い白が散らしてある着物だった。帯は紅《あか》い。
学校の校舎を見あげ、ふふ……と女性は笑う。
「まったく、ムコどのったら、激しいんだから」
笑みを浮かべたその顔は、ちずるによく似ていた。
髪型は違う。
真ん中で分けられ、胸元までゆるやかに落ちた前髪のほかは、まとめて、後ろでおだんご状にしてある髪型だ。腰まである豊かなストレートのちずるとは、ぜんぜん違う。
だが、たとえば整った顔つきとか。
とくに、切れあがった目尻《めじり》とか。
じつに雰囲気がよく似ていたのだ。
ただし、こちらの女性のほうが大人だ。顔つきも大人だし、全体的に漂う色香……とくに学校へと向かって歩きだした彼女の、その後ろ姿ときたら、もう、もう。
ちずるよりはるかに成熟した腰が、しゃなり、しゃなりと足をすりあわせるような歩きかたによって、ふりん、ふりんと揺れ……最近そちらに興味しんしんな耕太が見たら、きっとぐびりと喉《のど》を鳴らしただろう。
鳴らして、ちずるに本気で怒られただろう。
だって彼女は、ちずるの――。
3
「あだっ!」
耕太は、背中から落ちた。
ひとしきりうめく。
ううう、と声を洩《も》らしながらまぶたを開くと、視界は、一面の青空だった。
みごとなまでの秋晴れだ。
澄みきった青に、白い雲。身体を起こせば、遠くに山なみ、近くに街なみが見え、すぐ下に広がるのは学校のグラウンド。
耕太の身体は、屋上にあった。
蓮《れん》と藍《あい》の手によって、三階の廊下から、はるばるここまでほうり投げられたのだ。着地はひどかったが、耕太はふたりを恨んでなんかいない。
だって、緊急事態だったのだし。
「っと、そうだ」
耕太は起きあがり、屋上と校舎の出入り口へと向かう。
早く扉を閉めなければ、マズイ。
蓮と藍のおかげで、どうにか耕太に迫る女子生徒&女性教諭たちから、一時、逃れることはできた。しかし、まだ彼女たちはあきらめてないはずだ。いつ、この屋上にもやってくるかわからない。さいわいにも屋上の扉は金属製だった。鍵《かぎ》さえ閉めることができれば、そうそう簡単には破られないはずだ。
「でも、外側から鍵なんかかけられたっけなあ。たしか校舎側からだけだったような」
扉の構造を思いだしながら、耕太はノブに手を伸ばす。
しかし――。
「安心しろ、少年。すでにその扉はロックずみだよ」
ノブに触れる寸前、聞き覚えのある声が、した。
恐れていた声が――。
「あ、ああ……」
見あげた先に、いた。
扉のあるブロックの上に、いた。
「遅かったなあ、少年」
雪花《ゆきはな》の姿が。
その格好は、さきほどとさほど変わらぬ、ばたばたと風にはためく白衣の下に、黒い、ふくらみの上がまる見えハーフカップブラに、ショーツに、ガーターベルトに、ストッキングだけといった姿だった。
ただひとつ違うのは、口元に布が巻いてあることだ。
破れた布かなにか、まるでマフラーのように巻いてあって、ちょっぴり忍者っぽい。まあ、忍者っぽいというか、彼女は本当に忍者だったし、格好自体は下着姿で腕組みし、白衣をひっかけただけという、いわゆるただの痴女状態ではあるのだが。
「いずれはここに逃げこんでくるだろうと予想はしていたのだが……ふふ、あまり女性を待たせるものではないよ」
にぃ、と雪花《ゆきはな》の目元が笑う。
「ち、ちずるさんは、望《のぞむ》さんは、どうしたんですか!」
耕太は我に返り、脳裏に浮かんだ疑問をそのままぶつけた。
「やはり恋人とアイジンは気になるか。ほら、そこだよ」
くいっと顎《あご》先を動かす。
その先に、ちずると望はいた。
耕太たちが過去にいちど破壊した、円筒形の貯水槽を支える金属製の柱に、ふたりともくくりつけられていた。
「もごごー!」
「ふもー?」
ちずると望、どちらの口にもさるぐつわがしてある。
ふたりを柱にくくりつけていたのは、氷の縄だ。きらきらした見かけよりかなり頑丈で、妖狐《ようこ》姿のちずる、人狼《じんろう》姿の望がいくらもがこうとも、びくともしないらしい。
だけど、氷なら狐火《きつねび》で溶かせば……と思ったら、ちずるのおでこには、お札が。
お札……?
ぺったり貼《は》られたお札に眼《め》を凝らした耕太に、雪花がいう。
「少年、きみの考えているとおりだ。ちずるさまの力は、そのお札によって封じてある。玉藻《たまも》さま特製のお札でな……」
「た、玉藻さんの?」
おっと、と雪花がマフラー状の布ごしに自分の口元を押さえた。
「わたしともあろうものが、余計なことを口走ってしまうとは……ふふ、いけないな、どうも少々、興奮しすぎてしまっているようだ。ふ、ふふ、落ちつけ、雪花……」
ふふふのふ。
雪花はひとり、肩を震わしながら、笑う。
「ゆ、雪花さ……ひやあ!?」
耕太は『玉藻のお札』の真意を確かめようとして、悲鳴をあげた。
いきなり、背後から抱きつかれたからだ。
しかも、頬《ほお》を撫《な》でるその手のひらの感触ときたら……ぬろんぬろーん。
「な、なな……」
「あ、あはーん」
振り返ると、そこにはおかっぱ頭の少女が、いた。
耕太よりも背丈は低く、ちょっと見、小学生くらいの少女だ。
だが、少女は、耕太の先輩だった。
「み……澪《みお》さん……?」
「う、うふーん」
|長ヶ部《おさかべ》澪。
耕太の先輩で、見かけは小学生ながら、じつは高校三年生。
彼女は、ちずるたちとおなじく、妖怪《ようかい》だった。
かえるの妖怪、かえるっ娘《こ》だ。ただし、かえるが年経て化けたのではなく、人にかえるがとり憑《つ》いた、いわゆる半妖《はんよう》であった。
その、かえるっ娘の先輩が――。
「い、いやーん」
なぜか、スクール水着姿で、いた。
耕太を悩殺しているつもりか、ない胸をよせあげたり、寸胴の腰をくねらせたり、少年のようなお尻《しり》を自分で撫《な》でてみたり。
その身体は、ぬらぬらと光っている。
かえるっ娘である彼女の特殊能力、通称『澪の油』だろう。澪の肌から染みだすある種の汗は、切り傷、擦り傷、火傷《やけど》にローションプレイと、なんでもござれの万能薬になるのだ。どうやら澪は、最後の用途で用いているらしい。
「あの、澪さん?」
「え、えふーん……あ、は、はい!」
「なにをしているんですか……?」
「ゆ、ゆーわく……な、なんです、けどっ」
顔どころか手足まで真っ赤にした澪が、もじもじしながら、上目づかいに尋ねてくる。
「お、小山田くんは、どきどき、しません、でした、かっ」
「あ、えーと……」
さて、どう答えたものやら。
耕太の好みは、正直いうと、ちずるだ。ぼいんぼいーんでばいんばいーんだ。とはいえ、最近は望《のぞむ》のよさもわかってはきた。ないのはないで、いいものなのだ。わびというか、さびというか。無ゆえの境地というか。
が、しかし。
小学生は、さすがにちょっと。
いや、小学生ではないのだけど。澪は高校生なのだけど。けど、けど、けど。
「おっと。ぬけがけは感心しないな」
すぐ後ろから、その声は聞こえた。
振りむくと、わーお。
耕太の好みなタイプの、ぼいんぼいーんが、白衣の前を割って飛びだし、上半分は雪女ゆえか白い肌があらわで、下半分はレースの飾り入りの黒ぶらじゃーで、重たそう……。
「ゆ、雪花《ゆきはな》さんっ!?」
「ちずるさまたちを捕らえるために協力してもらった以上、たしかに|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》、きみにはともに少年のEDを治療する権利がある。だが、あくまでそれは、わたしとともに、だ」
雪花にいわれ、あう……と澪はうつむく。
「協力……?」
「そうだよ、少年。さすがにちずるさまと望《のぞむ》のふたりが相手では、わたしもかなり手こずった。遠距離からのちずるさまの狐火《きつねび》に、うまく絡んでくる望の接近攻撃……恋人とアイジン、てっきりあまり仲はよくないと思っていたのだが、なかなかどうして、素晴らしいコンビネーションだった」
たしかに、と耕太は思う。
いくら雪花が凄腕《すごうで》とはいえ、ちずると望がこれほどあっさり捕まるのは、おかしい。
「だ、だからわたし、て、手伝いましたっ」
スクール水着姿の澪が、手をあげる。
その腕から、ローション……もとい『澪の油』が、ぴしゃっと横に飛んだ。
「そう。いま澪の手から飛んだローションは――」
「ろ、ろろろ、ろーしょんじゃ、ありませんっ」
澪にとがめられ、雪花はこほん、と咳払《せきばら》いした。
「いま漂の手から飛んだ汗は、ローションにも使用できるほどの粘りを持つ。おそらく、澪がちずるさまたちに向かって汗を飛ばしたのは、たまたまなのだろう。わたしに加勢したいがために汗を飛ばしたが、あくまで注意を引くためであって、攻撃の意図はなかったのだろう。だが、その汗は網の目状だった。わたしはひらめいた。そしてそのひらめきのまま、澪の汗を凍らせた」
「み、みごとにちずるさんと望さん、身動き、とれなく、なりましたっ」
「澪の汗はね、氷になってもしっかりと粘りを維持していたんだ。だからこそ、ちずるさまや望を捕らえることができたのさ。硬いだけの氷の縄なら、あの人狼《じんろう》のバカ力をもってすれば砕けたはずだろう。だが、粘りを持つ氷なら……。ふふっ、あとはすかさず、ちずるさまのおでこに、あの力を封じる玉藻《たまも》さまのお札を貼《は》ったというわけだ」
「ど、どうして……」
耕太は、えっへん、と得意げな澪を見つめた。
「どうして、雪花さんに加勢したんですか? なぜ?」
「そ、それは……」
とたんに、澪はもじもじしだす。
「お、小山田くんが、す、好きだからですっ」
「き、桐山《きりやま》さんはどうしたんですかっ!」
「も、もちろん、桐山くんも、大好きですっ」
間髪入れずに答えられ、耕太はもう、ぴくぴくと唇の端を震わせるばかりだ。
な、なんなんだろう、これ。
「女というのはな、少年。ときにふたりの男を愛せるものさ」
後ろから、耕太は抱かれた。
雪花《ゆきはな》の耕太好みなぼいんぼいーんが、後頭部に、うにゅー。
あ、硬い。
おっぱいマイスター、耕太・F・オヤマダはすぐに感触の違いに気づく。
いつも抱かれなれてるちずるの胸は、もっとやわらかかった。若さゆえの張りこそあるが、すぐに耕太をやさしく受けとめるのだ。雪花のそれは、やはり忍びとして鍛えあげているせいか、あくまでちずるとくらべるとだが、すこしばかり硬かった。
「お、小山田、くん……ううん、こ、耕太くんっ。好きっ」
澪《みお》も、耕太の正面から抱きつく。
こちらはローションつきだ。じんわりと、耕太の制服に『澪の油』は浸《し》みた。
「さあ、少年。治療を始めようか?」
「わ、わたし、がんばります、からっ」
「ふぎー!」
「ふもー?」
オトナな女性と、小学生な女性、ふたりに抱かれ、耕太はああ、どうしよう!? ちずるは暴れ、望《のぞむ》もぐりぐりと動くも、やはり氷の縄はどうにもならないようだ。
ピンチだ。
ある意味、かつてないピンチだ。
「う、う、う……わー!」
耕太は手足をじたばたさせる。
だが、いわば最後のあがきも、雪花と澪は「ふふふ……」と微笑《ほほえ》みながら受けとめ、それどころか、耕太の動きを利用して、服を剥《は》ぎとりだす。
耕太は、蜘蛛《くも》の巣にかかった虫を思った。食べられる! ぼく、食べられてしまう!
「あああああー! だれか、助けてー!」
絶望の叫びをあげた、そのときだ。
「うらー!」
「しゃっ!」
どがん、と屋上の扉をふっとばし、ふたりはあらわれた。
風に長髪をなびかせる、長身の男、源《みなもと》たゆら。
風に負けぬつんつん髪の、小柄な男、桐山《きりやま》臣《おみ》。
たゆらはいわずとしれたちずるの弟で、やはり化《ば》け狐《ぎつね》。桐山は風を自在に操るかまいたちで、学校の妖怪《ようかい》たちを率いる、妖怪番長でもあった。
「た、たゆらくん、桐山さぁん……」
ぐすっ、と耕太は泣く。
「ぼ、ぼくを助けに……」
「耕太ァー! てめえ、けっして手をだしちゃならねえものに、手をだしちまったなあ!」
たゆらの叫びが、耕太の感激をふっとばした。
「ふえ?」
「星さ……。夜空に輝く、ひとつの星さ……。眼鏡とおでこの星……。その、触れてはならない、ひとつの星が……星が……『小山田くん、好き……』だと! うわごとのように、てめえを『好き』だと! これが許せるか! 許せるものか! きしゃー!」
たゆらの眼《め》から、涙が噴く。
紅《あか》い涙だ。血涙だ。だらだらだらと、真紅の涙を流し、たゆらはおたけびをあげた。
「――小山田」
桐山《きりやま》は、すっ、と眼を細くし、耕太を見つめてくる。
指さされた。
「おれ、おまえ、コロス。理由は、わかるな?」
指先は、耕太から、耕太に抱きつく、澪《みお》へと向く。
「あ……は、はい」
それはもう、充分に。
桐山に指さされた澪は、「き、桐山く、あう、小山田く、あう!」と、耕太と桐山を交互になんども見る。どうしたらいいものか、オーバーフローしてしまったようだ。
「よし……たゆら、いくぞ」
「ぐがががが!」
もはや一匹の戦鬼《せんき》と化したたゆらは、桐山にうながされ、髪を銀髪に、狐《きつね》の耳、しっぽを生やした。化け狐へと変化《へんげ》する。いっぽう、桐山はまわりに風を生じさせた。
「シッ!」
「ぐがー!」
桐山の放った風にのって、たゆらが右手に作りあげた狐火の炎が、ぐるぐると弧を描き、飛んでくる。炎の竜巻が、耕太たちを呑《の》みこまんとした。
「ふん……」
雪花《ゆきはな》が小さく笑う。
と思ったら、「き、桐山く、あう、小山田く、あう!」な澪を横に突きとばした。
「ゆ、雪花さ……」
耕太の視界は、ぶれた。
これは、さっきの――。
蓮《れん》と藍《あい》によって、校舎三階の窓から、屋上へとほうり投げられた感覚――。
やはり、耕太は高々と飛びあがっていた。
いや、飛びあがっていたのは、耕太を脇《わき》に抱えた雪花だった。桐山とたゆらが放った炎の竜巻は、下で、さきほど耕太たちがいた場所を通りすぎてゆく。むろん、横に突きとばされた澪《みお》には当たらない。
「ふん……男の嫉妬《しっと》ほど、見苦しいものはないな?」
貯水槽に降りたち、雪花《ゆきはな》はいった。
「澪には、ちゃんと当たらないように、した。おれの風だ。おれの思うとおり、動く。小山田だけ、呑《の》みこむ、簡単」
桐山《きりやま》が貯水槽に立つ耕太たちを見あげ、落ちついた口調でいう。
耕太は思った。落ちついていると、かえって怖いと。いや、桐山のとなりで、あぎぎぎぎ、と戦鬼《せんき》ってるたゆらも、充分に怖いのだが。
「ん?」
桐山が、眼《め》を細め、凝らす。
「源《みなもと》に、犹守《えぞもり》……おまえら、そこで、なにやってる?」
「ふもも、ももー!」
耕太たちの足元、貯水槽を支える柱に縛りつけられたちずるは、さるぐつわごしに、なにごとか、叫んだ。
「ふむ、そうか……では、たゆら!」
「がぎゃー!」
桐山の呼びかけに応《こた》え、たゆらの身体は、なんと、全身、燃えあがりだす。
文字どおり、まさに火だるまだ。
狐火《きつねび》で身体ぜんぶを覆うなんて――眼を剥《む》く耕太の前で、続けて、桐山の身体が竜巻に呑みこまれた。いや、桐山が竜巻を作りあげたのだ。
「いくぞ、おれたちの、合体技!」
「スカイラブ・ハリケーン!」
全身、炎と化したたゆらが、桐山の竜巻にのり――。
どん、と空気が爆《は》ぜる音とともに、耕太たち目がけて、すさまじいいきおいでつっこんできた。あぎゃぎゃぎゃぎゃー、とぐるぐる回転するたゆらは、もはや炎の弾丸だ。
「どこかで聞いたような技の名を……」
雪花のつぶやきとともに、またも視界はぶれる。
そして、爆発音と衝撃は、下からきた。
ま、まさか!
「あ……あああ!」
またもや、雪花は耕太を抱え、高々と飛びあがっていた。
はるか下で、炎をあげ、と思ったら、飛散する破片とともに水をあふれださせたのは、なんと、ちずると望《のぞむ》がくくりつけられた、貯水槽だった。
水は、またたくまに屋上に満ち、フェンスからあふれだす。
ざばばばー、と校舎を濡《ぬ》らしながら、校庭やら裏庭やらに流れ落ちだした。
「ち……ちずるさーん、望さーん!」
耕太は叫ぶ。
返事はない。代わりにきたのは――。
「もらったぞ、おまえら!」
「がごげー!」
男ふたりの怒鳴り声だった。桐山《きりやま》とたゆらは、きちんと一段高い場所に避難していた。屋上と校舎をつなぐ扉のあるブロックだ。ちゃんと、澪《みお》の姿もいっしょにあった。
「空中なら、逃げる、ムリだな?」
「あごごごごごご!」
またも桐山は竜巻を作り、たゆらは燃えあがる。
しかし、雪花《ゆきはな》は笑った。
いまだ宙におり、逃げ道がないはずなのに、静かに笑った。
「おろかな……忘れたか? わたしがなにものなのか」
雪花は、右腕で耕太を抱えていた。そのため、自由なのは左腕だけだった。その左腕を、はるか下の屋上へと向け、伸ばす。
広げた手のひらは、いまだ屋上を満たす水へ――。
きん……っと耳鳴りがした。
とたんに屋上の水が、激しく凍りだす。
「なっ……」
「ぐご?」
凍りかけた水は、屋上の出入り口があるブロックの上に逃れていた桐山とたゆら、澪に向かって、襲いかかった。
それはまるで、巨大な氷の顎《あぎと》のごとく。
顎《あぎと》は、ばくん、と三人を呑《の》みこむ。
「わたしは雪女なのだよ……っと、もう聞こえてはいないか?」
雪花は、耕太を抱きかかえたまま、凍りついた屋上へと降りたった。
桐山たちがいた場所には、大きな氷の山ができあがっていた。
透きとおる、氷山。
なかには、驚愕《きょうがく》に眼《め》を剥《む》く桐山と、最後の刹那《せつな》、彼に抱きつかんとするスクール水着の澪、そして燃えあがった身体ごと凍りついたたゆらが、いた。
耕太は、雪花に脇《わき》に抱きかかえられたまま、まじまじと三人を見つめる。
「な……なんてことを……」
「心配するな、少年。ただ凍りつかせただけだ。わたしは雪女。氷は自在になる。生かすも殺すも自在だ。あくまで邪魔さえされなければそれでいい。だろう?」
「いつでも殺せると……脅す、つもりですか」
「うん?」
ふっ……と笑い、雪花は抱えていた耕太をおろした。
「なぜ脅したりせねばならない? どうやらなにかかんちがいしているようだが、少年。わたしはきみの治療がしたいだけなのだよ。ただ、それだけのこと。なのになぜか少年は逃げだすし、ちずるさまたちは邪魔をするし……なぜなのだろうな。べつに痛いことをしようというんじゃない、むしろ気持ちいいことをしようというのに……」
「嘘《うそ》つきですね、雪花《ゆきはな》さんは」
自分の足で立ちながら、耕太は雪花を睨《にら》む。
「やぶから棒に、どうした、少年」
「嘘つきな理由は、ふたつあります」
「よし、訊《き》こう」
「ひとつ、どうしてそんなにぼくの治療をしたがるんですか? はっきりいって、善意や養護教諭としての責務にかられたからだけとは思えません。ふたつ、さきほど雪花さんは脅す気なんてないといいましたが、ちずるさんと望《のぞむ》さんはどこですか? ち、ちずるさん、望さんは、たゆらくんと桐山《きりやま》さんの合体技、スカイラブ・ハリケーンに巻きこまれて……まさか死んじゃったりはしてないと思うけど、だけど、姿がどこにも見えません! どこです、どこでふたりを氷づけにしているんですか!」
いい終え、はあ、はあ……と耕太は荒く息をつく。
雪花が、ふっ……と笑った。
「ゆ、雪花さん!」
「少年、まずひとつ、嘘《うそ》をついたことを認めよう。たしかにわたしは、善意のみできみの治療をしようとは思っていない。ぶっちゃけ、わたしはただ、きみとセックスがしたいのだ。きみのうら若き肉体を、これでもかといわんばかりにむさぼりたいのだ」
「セッ……」
あまりに生々しすぎる単語に、耕太は呼吸を乱してしまう。ひっく。
「ふたつめだが……わたしはちずるさまと望《のぞむ》のふたりを、どこにも隠してなどいない」
「だ、だったら」
「桐山《きりやま》といったか、あの少年」
雪花《ゆきはな》が、氷の山のなかの桐山に眼《め》をやる。
「なかなかやるものだ……」
「え?」
聞き返した耕太を、雪花が右腕で引っつかむ。
低めに跳んだ。
耕太たちがいた場所に、火球が飛ぶ。
起きる爆発。
と、耕太は衝撃を感じた。
宙にいる雪花が、なにものかに飛びかかられ、左腕で防いだのだ。
襲いかかってきたのは、銀髪の少女――。
「の、望さん!?」
「がうっ!」
吠《ほ》えながら、望は飛び去る。
代わりにやってきたのは、灼熱《しゃくねつ》の火球だった。
「ちいっ!」
雪花はやはり左腕を使い、火球を弾《はじ》く。
そのまま、バランスを崩しつつも、右腕で耕太を抱いたまま、地面へと降りたつ。
いまだ凍りついたままの屋上へ着地した雪花の左腕は、白衣の部分はすっかり焼け、肌は焦げてこそいないものの、ぶすぶすと白煙をあげていた。
にっ、と雪花の眼が笑う。
「まったく……小山田さまに当たったらどうするおつもりです?」
「わたしの狐火《きつねび》は、耕太くんを傷つけることはけっしてないのよ、雪花」
雪花の視線をなぞり、耕太は、息を呑《の》んだ。
「ち、ちち、ち……」
いた。
金髪を風に乱れさせ、怒りのためか、狐の耳としっぽをそれぞれびびんと立てた彼女が、そこにいた。
「ちずるさーん!」
「ごめんね、耕太くん。いろいろ苦労させちゃって……すぐ助けるからね!」
耕太たちの向かい側に立つちずるが、ウィンクを返す。
「がう、耕太、がう!」
となりには望《のぞむ》の姿もあった。
ふたりとも、さきほどたゆらと桐山《きりやま》が放ったスカイラブ・ハリケーンの影響だろう、制服はぼろぼろだし、頬《ほお》はすすで黒いし、髪もところどころちりちりとなっていた。だが、ふたりを縛《いまし》めていた氷の縄を溶かし、ちずるのおでこに貼《は》ってあった力封じのお札を剥《は》がしたのもまた、あのスカイラブ・ハリケーンなのだ。おそらくは、桐山の狙《ねら》いもそこにあったのだろう。たまたま、という線も捨てがたくはあったけど。
「さあ、雪花《ゆきはな》! おとなしく耕太くんを放しなさい!」
「がう!」
ちずるは指さし、望は吠《ほ》えた。
「さて……これはどうしたものかな」
自分を抱く雪花のつぶやきに、耕太はいう。
「あの、あきらめる、というのはどうでしょう」
「なるほど、悪い考えではないな?」
ふっ……と笑った。
「だが、無理だ。なぜなら、わたしはきみを愛しているのだから。愛ゆえに、きみを求めるのだから。ならば、愛ゆえに、闘うしかないだろう?」
耕太を背中側にまわし、雪花は手に、氷の刃を作りあげる。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、雪花!」
「おや、わたしたちの愛を認めてくださるのですか、ちずるさま?」
「だれが認めるか! じゃなくて……雪花、あなた、いつ耕太くんのこと、好きになっちゃったのよ?」
「ほう……まだお気づきにはなられてないようだ」
「なにが!」
「恋人のあなたより、となりのアイジンのほうが、よくわかってらっしゃるようですよ」
「は?」
ちずるが横を向くと、望は、眼《め》を見開いたまま、ふるふるふる……と震えだしていた。
「の、望?」
声をかけた瞬間。
望は噴いた。
鼻から、鮮血を。
いわゆる、鼻血、ブー。
血は、だらだらだらだらと垂れ、氷の上に広がってゆく。
「え、ええ? の、望、どうしたのよ! なんなの、それ!」
「ふぉ、ふぉうふぁ、ふひ……」
「耕太、好き? 耕太くんが好きだから、なによ? あなたが耕太くんを好きなのは知ってるっての! だからアイジンなんでしょーが! え? 好きすぎてしまう?」
「そのアイジンだけではありませんよ、ちずるさま。さっき、あなたもその眼《め》で見たように、|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》も、小山田さまを好きになった。それどころか、校内の女性、みな、小山田さまを好きになっているのです。むろん、わたしも、好きだ」
「ど、どういうこと……?」
「小山田さまから、ある種の特別な気があふれだしています」
「気?」
「ええ……高濃度のフェロモンといってもいいのかもしれません。その気を浴びて、みな、おかしくなってしまった。わたしなんか、もう、至近距離で浴びたうえ、小山田さまの……を、見たり触れたり味わったり……ふふ、完璧《かんぺき》に狂ってしまいました」
「あ、味わうだと!?」
きー、とちずるは鼻息を荒くしかけ、はっ、と自分の身体を見た。
「わたしはどうしてなんともないの……? いや、それどころか、耕太くんの異常に、まったく気づきもしないだなんて?」
「さあ? わたしも、小山田さまの気については、おかしくなってからようやくわかりましたから……もしかしたら、ちずるさまは小山田さまの気に慣れすぎていたのかもしれませんね。まあ、それも当然でしょうか。日夜、精を浴びているのだから」
「に、日夜じゃないわよ、べつに。たまに休むし……いまはガマン中だし……」
ちずるは照れた。
そのとき、雪花《ゆきはな》は笑った。
『にぃ』と……口元はマフラー状の布で覆われていたし、目元に変化はないのに、なぜか耕太にはそう感じられた。どうじに、耕太の背には寒気が走る。
「ち、ちずるさ――」
「油断大敵ですなあ、ちずるさま!」
耕太が注意をうながし終えるより早く、雪花が手のひらを向けた。
吹く、突風。
雪、雹《ひょう》の混じった、いわばブリザードが、雪花の背から吹き、ちずると望《のぞむ》に襲いかかった。
吹いたときとおなじく、瞬時のうちに止《や》んだとき、すでにちずるたちの姿はなかった。
「ち、ちずるさん!? 望さん!?」
「耕太……くーん!」
「ふぉーふぁー」
声に見あげると、青空のなか、ちずると望は高々と飛んでいた。
いや、飛ばされていた。屋上のフェンスをもはるばるこえ、ちずると望は、落ちてゆく。望《のぞむ》の鼻血が、秋晴れの空に弧を描きながら、ふたりの姿は屋上の下に消えた。
「うわー!」
耕太は叫び、駆けだす。
氷原の屋上を走りぬけ、フェンスへ身体ごとぶちあたった。
金網にしがみつき、下を覗《のぞ》きこむと――。
「ゆーきーはーなー! このー! よくもやってくれたわねー!」
ちずるが、豆粒みたいになりながらも、校庭で拳《こぶし》を振りあげ、怒鳴っていた。
となりの豆粒は望だろう。さすがは妖怪変化《ようかいへんげ》、屋上から落とされたぐらいではなんともなく、ちゃんと着地したらしい。はー、と耕太は息をつく。
「さあ、これで本当の邪魔ものなし、だな」
背中から迫る声に、耕太はびくつく。
「雪花《ゆきはな》、さん……」
耕太はフェンスを背にして、振り返った。
「ふふ、そんな眼《め》で見るなよ、少年……まるでわたしが悪人のようだ」
充分、悪人じゃないですか……と耕太は思ったが、口にはださない。
代わりにこういった。
「残念でしたね、雪花さん。いまのぼくは、あなたもご存じのとおり、ダメなんです。雪花さんの愛を受けとめることはできませんよ」
「残念だったな、少年。治療法もなく、わたしが追いかけたりすると思うか?」
「え?」
雪花が、白衣のポケットに手を差し入れる。
とりだしたのは……目薬ほどの容器?
「九尾湯《くびとう》だ」
「あ……」
「思いだしたようだな、少年。そうだ。かつてきみも口にした、我が玉ノ湯特製の超強力精力剤だよ。ふふ……きみが宴会場で飲んだときには、あくまで薄めてあったが、それでもちずるさまにおぼれ、仲間がまわりにいたというのに、かまわず、最後まで……この器のなかにあるのは、原液だ。効くぞ。たとえミイラであってもそびえたつほどだ」
「う、うう……」
耕太はさがり、しかし背中はフェンスだった。
フェンスをきしませながら、左右を見る。
どちらもがら空きだが……しかし、雪花がおとなしく逃がしてくれるとはとうてい思えない。おまけに、屋上の出入り口はたゆらたちといっしょに、透きとおる氷の山のなかだった。どうにも逃げようがない。
「なぜ拒む? きみは不能となった男性器を甦《よみがえ》らせることができる。わたしはそれをちょっと使って、気持ちよくなることができる。どちらにもメリットがある。いわゆる、Win―Winの関係というやつだ。自分も勝ち、相手も勝つ関係だ」
「ちずるさんを裏切ることになるじゃないですか! ちずるさんは負けちゃうじゃないですか! い、いくらぼくがエロスカイザーとかみんなから呼ばれているからって、いつ、なんどき、だれの挑戦でも受けると思ったら、大間違いです!」
「いや、違う」
「なにがですか!」
「きみはもはやエロスカイザーではない。昨日《さくじつ》の体育館での劇|稽古《けいこ》における『おっぱお暴走騒動』によって、一部からは銀河エロス大帝と称されているのだ。近いうち、称号は塗りかえられることだろう」
がーん。
耕太は衝撃を受けた。
や、やっぱり、『おっぱお』は、まずかったか……。
「きみはもう、汚れてしまっているんだよ、少年。ちずるさまと出会ったばかりのときの、純朴かつ潔癖なきみは、もういない。日々、恋人とアイジンとの変則的なプレイに興じる、まさに銀河エロス大帝となってしまったのだ。ここはいさぎよく、おのれの汚れっぷりを認めるべきだ。認め、わたしの身体をむさぼりつくすべきだ。ふふ……たしかにちずるさまの肉体は素晴らしいし、望《のぞむ》のつるぺたな肉体は、ある種、背徳的な快楽をもたらしてくれるだろう。だが、熟れた大人の女の肉体というのも、なかなか乙なものなのだぞ?」
雪花《ゆきはな》が、九尾湯《くびとう》の入った小さな容器を、胸元へと持っていった。
熟れた胸のふくらみの、そのあいだに挟みこむ。
ぐにん、ぐにん、と揉《も》みだした。
「女の身体の秘密、すべて教えてあげよう……きみは覚えが早い……ちずるさまに使ってやれ……泣かせてやれ……悦《よろこ》ばせてやれ……」
「くっ……」
ぐにん、ぐにんな胸の動きから、耕太は顔をそらす。
たしかに自分は汚れた。
この動き、あとでちずるさんにお願いしようかな、とか考えるくらい、汚れてしまった。
だけど……だけど!
「耕太くーん!」
ちずるの声が、地上から届く。
「きてー! 受けとめるからー!」
見ると、校舎のすぐそばまでちずるは近づいてきていた。
豆粒のような大きさで、手を広げ、耕太を呼ぶ。飛びおりろと叫ぶ。望はといえば、横向きになって倒れ、あいかわらず鼻血をだしながら、それでも片手だけではあったが、腕を広げていた。なんだか耕太は心配になってくる。あんなに出血して、いくら人狼《じんろう》でも、だいじょうぶなのだろうか?
後ろで、雪花《ゆきはな》が笑った。
「は、ははは……ちずるさまも勝手なものだな。ここから飛びおりろなどと、万が一のことがあったらどうするつもりなのか……っと、少年!?」
耕太は、フェンスをよじのぼった。
田舎育ちなので木登りは得意だ。あっというまに、上まであがり、フェンスをまたぐ。
「少年!」
耕太はフェンスに腰かけ、下の雪花を見つめた。
「雪花さん……たしかにぼくは、汚れてしまいました。田舎にいたころとくらべたら、もう、ぎとぎとに。銀河エロス大帝と呼ばれても、しかたないほどに」
おじいちゃん、ひさしぶりに会ったら、どう思うだろ……。ふと、祖父の厳しい、しかしやさしい顔が脳裏に浮かぶ。やっぱり叱《しか》られるかな?
「だけど、この汚れは、相手がちずるさんだから、いいんだ」
耕太はきっぱりといった。
「途中からは、望《のぞむ》さんもくわわりましたけど……だから、いいんです。たしかにぼくはえっちですし、ちょっぴりヘンタイになりました。そんな自分を情けなく思うし、変えたいとも思いますけど、だけど、汚れたこと自体に後悔はありません。それは、相手がちずるさんや望さんだから。愛してるから……愛がなくっちゃ、汚れられないんだ」
愛があるから、さらに汚れちゃう可能性もあるけど――。
「だから……ごめんなさい」
耕太はぺこりと頭をさげる。
「しょ、少年、待て……待て!」
振りむかず、跳んだ。
腕を広げ、地上の、豆粒大のちずるたちへと向かって、耕太は、跳んだ。
「ちずるさーん!」
「耕太くーん!」
風が強い。
いや、空気だ。空気が、耕太の身体を激しくすりぬけてゆくのだ。
みるみる地上は迫り、ちずるも迫り――。
どうーん。
しっかりと受けとめられた。
ああ、ちずるさんの胸はやっぱり、正義だ……!
おっぱいマイスター、耕太・F・オヤマダは、顔面でふくらみを味わう。
この大きさ、やわらかさ、まさに特上級……ぬっ!?
ち、違う!
大きすぎるし、やわらかすぎる! 匂《にお》いも違う! 耕太は顔をあげ、確かめた。
「うい!?」
目の前にあったのは、大人の女性の顔だった。
整った顔だちや、切れあがった目尻《めじり》など、ちずるによく似ていた。似ていたが、ちずるよりも大人な顔――。
「た、玉藻《たまも》さん!?」
「はーい、ムコどの」
ちずるの母、玉藻の紅さした唇が、笑みを描き……。
その唇で、耕太の唇はふさがれた。
んちゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
「ぬあー!」
という、ちずるの叫びを聞いたような気も、耕太はしたが。
口づけは続く。
んちゅちゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
「なにやってんだー!」
やはり口づけは続く。
んちゅちゅちゅちゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
「も、もう止めてよーう! うえーん! バカー、バカバカー!」
んちゅちゅちゅちゅちゅちゅちゅちゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
4
「なんとおわびすればよいかー!」
保健室に、雪花《ゆきはな》の痛切な叫びが響く。
雪花は、まだ黒下着に黒ガーターベルト、黒ストッキングと白衣といった格好のまま、保健室の床に正座していた。
氷の刃を作りあげ、逆手に持つ。刃の先が、剥《む》きだしのおなかへと向いた。
「こ、こうなったら、この腹、かっさばき……!」
「あなたのはらわたなんて、わたし、べつに見たくないから」
と、いったのは、こちらもまだ妖狐《ようこ》姿の、ちずるだった。
耕太たちは、ぼろぼろになった制服など、闘いのあともそのままに、みな、保健室にいた。ちずるは丸椅子《まるいす》に座る耕太の横に、よりそって立つ。望《のぞむ》は、鼻にわたをつめ、床に直接お座りし、天井を向く。蓮《れん》と藍《あい》は、黒下着姿の雪花を見て、なんの参考にするつもりか、メモをとる。うち、耕太だけが丸椅子に座っていたが、それはみんなに『耕太くん、疲れたでしょ?』『がうー』『パパ、どーぞ』と強引に勧められたからだ。
「で、ですが、ちずるさま」
雪花が、がくりとうなだれ、いう。
「わたしは、玉藻さまにお仕えする身なのです。なれば、玉藻さまのご子女であられるちずるさまは、主人に継ぐ身といっても過言ではなく……なのに、おのが分もわきまえず、ちずるさまの許嫁《いいなずけ》といってもいい小山田さまに、あ、あのようなみだらがましい真似をするとは……死なねば! この虫けら忍者めは、死んで罪を償わねば!」
「死んだら楽になるだけでしょーが。償いたかったら、生きて償いなさいよ」
「ち、ちずるさん、それは……」
やさしいようで厳しいちずるのものいいに、つい、耕太は口を挟んでしまう。
が、横のちずるは、いたずらっぽくウィンクを返してきた。
「それにね、雪花《ゆきはな》……わたしは、べつにあなたに怒ってなんかいないのよ。だって雪花、あなたがあーんな痴女になっちゃったのは、ちゃんと原因があったからなんでしょう? 耕太くんの気がどうとか……だったら、あなたに責任はないじゃない」
「ち、ちずるさま……」
「だからね、わたしが怒っているのは、あなたじゃないわけ」
「は?」
きっ、とちずるは睨《にら》みつけた。
本来ならば雪花が座るべき場所、養護教諭の机の席に座る、着物姿の女性を。
「あら、わたし?」
深い藍《あい》色の着物に身を包んだ女性、玉藻《たまも》が、自分自身を指さす。
ちずるの母である玉藻は、背もたれつきの椅子《いす》に腰かけ、にこにことお茶をすすりこんでいた。そのやわらかな笑みは、とても最強の妖怪《ようかい》、九尾《きゅうび》の狐《きつね》のものとは思えない。
「あったりまえだ! 娘の許嫁に、おのれ、あんな熱烈なキスをしてくさりやがってえええ……どうしてくれようぞ! ええい、死をもって償えい!」
「こらこら、死んだら楽になるだけじゃなかったの」
「どうせあなたは死んだところでそのうち復活するんでしょーが! ああ、せめてひととき、ひとときの安らぎを、わたしに……ああん、耕太くーん!」
「は、はい?」
「九尾の狐菌、消毒しましょう!」
「ふにゅっ?」
耕太はキスされた。
丸椅子に座ったまま、ちずるに抱きつかれ、んちゅちゅちゅちゅーっと。ちずるの舌は唇を割り、耕太の口中にまで侵入してくる。ぬにょん、ぬにゃん、ぬにゃにゃにゃ。あげく、ちずるは耕太の上にのり、耕太の胴をその太ももで挟みこんできた。がきっ。
「ひ、ひふふふぁん、ふぁっひも、ひょうほふひひゃひゃほへほへ」
ち、ちずるさん、さっきも消毒したじゃないですか……と、耕太は玉藻に口づけされたすぐあとのことを思いだす。あのときもすごかったのに。もう、唾液《だえき》をぜんぶ吸われ、逆に送りこまれ、飲まされたのに。体液交換、んぐんぐんぐ、なのに。ちらと横目をやると、蓮《れん》と藍《あい》が、まばたきもせずにこちらを見つめ、がりがりとペンを走らせていた。
ああ……娘の教育に、悪いよう……ある意味、性教育だけど……。
「もう、九尾《きゅうび》の狐《きつね》菌とは失礼ねえ。あのね、ちずるさん? わたしはただ、耕太さんの余計な気を吸ってあげただけなのよ?」
「ふも?」
玉藻《たまも》の言葉に、ちずるが、口づけしながら眼《め》をぱちくりとさせる。
「耕太さんからあふれだして、女たち、男たちの野性を呼び覚ます、気……まあ、女にはなんかヘンな感じに効いたし、男は耐えられずにほとんど失神しちゃったようだけど、それをわたしが耕太さんから直接吸いだしてあげたから、みんな元に戻ったんじゃない。雪花《ゆきはな》も、アイジンちゃんも、蓮《れん》ちゃん、藍《あい》ちゃんも、あなたをのぞく、全校のみーんな」
「ふも、も、も?」
「ええ、もちろんどうしてこうなったのか、原因もわかるわよ? そろそろあぶないかな、と思ったからこそ、わざわざわたしがこうして出向いたわけだし……ところであなたたち、まさか、禁欲なんてこと、してないわよね?」
耕太とちずるは、口づけしながら視線を交わした。
「やっぱり……だからまにあわなかったんだわ」
「ど……どういうことなの、母さん!」
ようやく、ちずるが唇を外す。
もっとも、いまだ丸椅子《まるいす》に座る耕太の上にのり、胴をがっちりと太ももで挟みこんだ状態のままではあったのだが。
「房中術って、知ってるでしょう?」
「ぼ、房中術? そりゃ知ってるけど……あれでしょ、えっちすることで、体内の気を練って強化する、ニンゲンの涙ぐましい鍛錬法のことでしょ? えっちするときぐらい、普通に気持ちよくやればいいのに……ホント、ご苦労さんだよねー」
「なにをいってるのよ。あなたたちだって普通にえっちしてないご苦労さんなくせに」
「な、なによ、わたしたちはべつに……」
「えー、〈あまえんぼさん〉〈おしおき〉〈ひみつのケーキ〉〈おまたくにくに〉〈おくちのこいびと〉……あと、なんでしたっけ? 〈おててすりすり〉? 〈あまえんぼくにくに〉? 〈おへそつぷつぷ〉?」
ずぬーん。
耕太とちずるは、抱きあいながら互いにうなだれた。ごめんなさい。本当にぼくたち、ごめんなさい。
「な、なんで母さんが知ってるのよう……雪花! あなたね!」
雪花は、ちずるの怒声に負けない速さで、ずびしっと頭をさげていた。
「くっ……ったく、べつにわたしたちが変則的なプレイに興じていたっていいじゃないのよ。だれに迷惑かけてるわけでもなし…………………… あ」
と口を開けたちずるに、玉藻が微笑《ほほえ》む。
「そう。あなたちは普通にえっちをしていなかった。普通にえっちをしていなかったがために、結果として、房中術とおなじ効果を得てしまった。〈あまえんぼさん〉するたび、〈ひみつのケーキ〉するたび、耕太さんの体内の気は、練られてしまった。強化されてしまった。まあ、それでも、〈おまたくにくに〉や〈おくちのこいびと〉なんかでちゃんと放出しているぶんには、問題はなかったんだけど」
「き……禁欲、しちゃったから……?」
「正解。ニンゲンどうしで房中術をするだけでも効果は高いのに、相手はあなたたち、化け狐と人狼なんていう、けっこうな妖力を持った妖でしょう? もう気の強化されっぷりったら、えげつないにもほどがあるって話よ。そのえげつない気が、放出されなかったがために……どばーっと、外にあふれだしちゃったと。で、あふれだした気は、女を、男を、人も妖もかまわず、狂わせてしまったと。まあ、そういうわけね」
玉藻《たまも》の話に、耕太は、がっくりとうつむく。
椅子《いす》の上、自分と抱きあうちずるの胸に、顔面から埋《うず》もれる。あまりの衝撃に、もはや身体に力が入らなかった。
ぼ、ほくは……もう、禁欲すらできない身体なのか……う、うう……。
「耕太くん……」
はたして耕太の思いに気がついたものか、ちずるが頭を撫《な》でてくる。やさしい。ちずるはいつでもやさしい。そして、彼女の胸のふくらみは正義。いつでも耕太を、やさしくいやしてくれる……。
お?
「きゃっ?」
ちずるが悲鳴をあげた。
耕太の上で、身をくねらせる。ぶるりと腰を揺する。
ま、まさか……。
「こ、耕太くん……」
くいん。
ちずるの腰が動く。
その存在を、確かめるように。
「や、やっぱり、耕太くん……」
「ち、ちずるさん……」
耕太は、押しあげた。ちずるは、押しあててきた。
「あ、ああ……耕太くんが、耕太くんのが……」
「ぼ、ぼくのが、ぼくのが……」
「ああ、そうそう」
と、ふたりでひそやかな感動にひたっているところに、玉藻の声がかかった。
「もしかしたら、耕太さん、お○○ちん、ダメになってた?」
ぶほっ、と耕太とちずるは噴く。
「な、な……」
「やっぱりねえ。あのね、おち○ん○って、いってみれば水道の蛇口みたいなものなのよ。蛇口をひねれば、身体の気が、びゅーっ、びくんびくんって。だけどさっきの耕太さんって、身体から気があふれだしていたでしょう? いってみれば、水道管が破裂して、そこからぜんぶ噴きだしちゃってたようなものなのよね。それじゃあ、いくら蛇口をひねっても、なにもでてくるわけがないという」
「あ……だ、だからだったの!?」
「いまはどうなの? わたしが余分な気はぜんぶ吸っちゃったから、いまは普通に流れているはずですけど……」
「げ、元気! すっごく!」
「ち、ちずるさん!? なにもそんな、正直に!」
「あら、それはよかった。じゃあ……」
微笑《ほほえ》む玉藻《たまも》の眼《め》が、ぬらりと光った。ように、耕太には感じた。
「うまく働くかどうか、確かめてみなさい、ちずる」
「うえ!? た、玉藻さ……」
「うん、わかった、やってみる」
「ち、ちずるさん!? ちょっ……うひっ!?」
椅子《いす》に座る耕太の上に、耕太の胴を太ももで挟むかたちで、ちずるはのっていた。
そのちずるが、沈む。
ぐ、ぐぐぐぐ、と、沈みこみ、押しあて……ぐり、めり、みき、ぬこ。
「あくっ……!」
圧迫による刺激に、耕太はちずるにしがみつく。
しがみつき、震える。
震え、こらえきれず、弾《はじ》けた。なんども、なんども、一週間分の気を、押しあてられたちずるのやわらか熱い部分へ、浴びせた。浴びせまくった。
浴びせ終え――完全脱力。
耕太は、ぐったりとちずるにもたれかかった。
「ち、ちずるさぁぁぁん」
「ごめんね……耕太くん……だけど……感じたくて……耕太くんの、感じたくて……」
だからって、みんなの前で、することはぁ。
玉藻さん、雪花《ゆきはな》さんはおろか、蓮《れん》や藍《あい》の前ですることはぁ。
耕太はちずるの胸元に顔を埋《うず》め、涙を染みこませた。とてもみんなの顔は見ることができなかった。できるはずもなかった。うう、ぼくは、もう、ぼくはぁ。
「うまくできた?」
「う、うん。ぼちぼち」
玉藻《たまも》の問いに、これまたちずるは正直に答える。だからぁ。
「よし、それじゃ、たまっていたものを、ぜんぶだしてしまいなさい、ここで」
「うええ?」
あまりにもご無体な玉藻の言葉に、耕太はちずるの胸から顔をあげざるを得なかった。
「い、いや、だってちょっとそれは……母さん」
さすがのちずるもそれには恥じらう。
「いいじゃない。ちょうどいい場所もあることだし」
と、玉藻は保健室の隅、カーテンつきのベッドをひょいひょいと指した。
「で、でも、みんないるじゃない……」
「そ、そうですよ、みんないますよ!」
「んー、でも、だせるときにだしておかないと、また、耕太さんの気、あふれだしちゃってもしらないわよ?」
「え?」
「いったじゃないの、耕太さんの気の量は、ちずる、あなたとアイジンちゃんのせいで、えげつないことになってるって……ねえ、アイジンちゃん、普段、耕太さんはどのくらいできるの?」
玉藻に尋ねられた望《のぞむ》は、お座りの姿勢で、両手を広げた。
指の数、十。
「よし、では毎日、十、しなさい。いい、ちずるに、望。これはあなたたちの仕事よ。耕太さんの気があふれだしたりしないように、毎日、しぼってしぼってしぼりぬく。なんなら十回以上したってかまわないから。わかった? あと、まあ、これはないと思うけど、万が一、あなたたちの身体が持たないようだったら、そこの熟れた身体をもてあます、エロ白衣女に手伝ってもらってもかまわないわ」
「た、玉藻さま!」
雪花《ゆきはな》の顔が、身体が、さーっと紅《あか》く染まりだす。
「いらないっての、そんな熟れた身体をもてあますエロ白衣女なんて! こちらには若き肉体がふたつもあるんだから……よし、望、いくわよ! 耕太くんのために!」
「がおー」
「ちょ、やだ、ダメ、こんなところじゃ……わー!」
耕太は、ちずると望の手によって、ベッドに連れこまれた。
ベッドのカーテンレールは、壊れてしまえといわんばかりのいきおいで引かれ、もう、外からはなにもわからなくなった。ベッドのきしみとか、耕太の泣き声とか、ちずるの鳴き声とか、望の吠《ほ》え声とか、音声のほかは。なお、とり残された雪花は、正座したまま、ひとり『エロ白衣……もてあます……』と自分の熟れた身体を見おろすのだった。
「あの……」
「すみません」
蓮《れん》と藍《あい》が、ならんで玉藻《たまも》の前に立つ。
「なあに、お嬢ちゃんたち?」
「今回のこと、すべてはパパの気が引きおこしたのだというのはわかりますが」
「どうしてママだけは平気だったんですか?」
「あと、房中術でいくら鍛えあげても、今日のパパのような、みなの野性を目覚めさせるような質の気になんてなるわけが……」
「もしかしたら、これはパパ自身の力で……じゃあ、パパは普通の人間じゃ?」
玉藻はにっこり微笑《ほほえ》み、答える。
「さあ……どうなのかしらねー?」
蓮と藍は、がくん、とこけた。
ふふふ……と微笑み、玉藻は窓の外を見あげる。
「あら……いい天気……」
にこやかに秋晴れの空へ視線をやる玉藻の横顔を、蓮と藍はんじっ、と見つめた。
「ぬ、ぬう……」
「て、手強《てごわ》い……」
玉藻は、にこやかに、お茶を、ずすっ、とすすりこむ。
★
そのころ、屋上では――。
「き、桐山《きりやま》く……あう、あうあう、あう」
秋晴れの下、そこいら中が水びたしのなかで、スクール水着姿の澪《みお》が、桐山にしがみつき、泣きじゃくっていた。
「泣くな、澪。おまえのせい、違う」
桐山は澪の背を片手で抱きながら、さする。
ふと、視線をさまよわせた。
「しかし、小山田、あの気、なんだ……? 澪、あの気のせいで、狂った。おれも、あの気のせいで、狂った。みんな、あの気のせいで、狂った。なんだ……?」
「ふい?」
桐山のつぶやきに、澪が泣き顔をあげ、見つめる。
「なんでもない。澪は気にするな」
桐山は笑みを浮かべ、澪の頭をわしわしと撫《な》でた。うにゅー、眼《め》を閉じる澪。
「ちっ……」
舌打ちしたのは、たゆらだ。
たゆらは、桐山と澪に背を向け、ひとり、水びたしの床にあぐらをかいていた。たゆらは、ぶつぶつとひとりごとをくり返す。
「やるしかねえな……やるしか……もう、これは、やるしか……」
さらに、屋上にはもうひとり、オールバックの髪型に、黒スーツを着た男もいた。
手には木刀を持つ彼は、八束《やつか》たかお。
薫風《くんぷう》高校の生活指導を担当している教師、八束は、学校の妖怪《ようかい》たちの監視官も務めていた。つまり、学校の妖怪が引きおこす問題の担当者でもあった。
「……どうしろというのか」
八束が見あげているのは、空。
いや、そこは本来は円筒形の貯水槽があるはずの場所だった。貯水槽は、たゆらと桐山《きりやま》の合体技によって完全に破壊され、いまは空しかなかったのだ。
八束は、ごくごくかすかな声で、もごもごとつぶやく。
「貯水槽が壊れたのは、これで二度目……ったく、どんな口実で〈葛《くず》の葉《は》〉の本部から修理費を引きだせというのか……ぐぐぐ……もう、薫風祭も近いというのに、ほうっておくわけにもいかんし……ああ、おれも事態に介入すればよかった。いや、しかし、〈御方《おかた》さま〉の指示は待機だったし……ぐぐぐぐぐ」
木刀の両端を持ち、折れよといわんばかりに力をこめる。
四者四様の姿を見せる彼らに、冷たく秋の風は吹くのであった。ぴゅるりら。
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[#小見出し] 幕間その一 牙には牙を[#「幕間その一 牙には牙を」は太字]
夜空のくすんだ星々より、なおきらびやかに輝く街のネオン。その刹那《せつな》的な光に引きよせられたかのように、男たち、女たちは集まり、一夜の夢に酔い。
どこにでもよくある、夜の繁華街の光景だ。
華やかな街なみ。けだるくはしゃぐ男女たち。
だがしかし、光があれば、闇《やみ》もあるもの。
光がまぶしければ、それだけ、闇もなお。
ビルとビルの隙間《すきま》、細い路地の奥。
ネオンの人工的な輝きがもたらす人工的な陰、暗くじめじめした闇のなかに、ぽつんとあるマンホール。そのマンホールの蓋《ふた》が、ずす、ずす、と、すこしずつ動きだした。
重い蓋をこじあけたのは、白い口先。
あらわれたのは、ワニだ。
全身真っ白な、巨大なワニだ。
本当に大きい。犬猫はおろか、人ですら丸呑《まるの》みにできそうなほどの大きさだ。そんな巨大白ワニが、下水道より、地上へと這《は》いでてきていた。
のたのたのた。
ワニは歩く。
まばゆいネオンの光や、人々のあげる浮かれた声に惹《ひ》かれたのだろうか、意外なほどの速さで、のたのたのたのた、四本足でワニは這《は》いゆく。
「ちょーっと、待った」
声をかけたのは、少女だ。
白いドレスに身を包み、脇《わき》にくまのぬいぐるみを抱えた、小学生くらいの少女。
彼女は、路地の奥にいた。
ワニがでてきたマンホールより、さらに奥にいた。
路地に、びゅうと風が吹く。
風に、少女のドレスと、長い長い髪が、ばさばさと舞う。踊る。
少女の顔が、あらわとなった。
燗々《らんらん》と輝く眼《め》のまわり、頬《ほお》やおでこ、鼻筋に、薄くだが、残る傷跡。
彼女は、三珠《みたま》美乃里《みのり》。
耕太襲撃の失敗の責をとり、属する組織、〈葛《くず》の葉《は》〉――というよりは、彼女を使う三珠|四岐《しき》によって、長いあいだ地下|牢《ろう》につながれ、『罰』を受けていた美乃里だ。はたしてどんな『罰』だったのか、顔に薄く傷跡を残した、美乃里だ。
美乃里は、四岐によって許され、すでに牢から解放されていた。
解放され、ここにいた。
ワニと出会うために。
「ちょっとばかり、やりすぎたよねえ」
無邪気な声で、美乃里はいう。
「下水道で地下の王さまを気どるぐらいならともかく、地上にでてきちゃダメさ。ここはネズミの世界じゃない。人の世界だもの。まして、人を襲っちゃ……もう、ダメダメ」
美乃里の眼が、笑みのかたちに細くなった。
「教えてあげるよ、ワニ。地上でいちばん怖いのが、だれか。それはね……って、こら!」
ワニは、歩く。
一瞬だけ、美乃里をそのガラス玉のような眼で見て、すぐに歩く。
のたのた、のた。
のた?
止まった。ワニの動きが止まった。びくともしない。
「もー、せっかく人が親切に教えてあげようとしてるのにさー」
美乃里が、歩く。
とたとたとた、歩く。
路地の向こう、ネオンの光によって、長々と伸びたワニの影の上を、とたとたとた。
「ふふ、影踏み遊びっと……人はね、こういうおかしな術も使えたりするんだよ。動けないでしょう? ふふ、ふ……いや、これは人の術じゃなかった……妖《あやかし》の術だったな……」
やがて、美乃里《みのり》の足が、ワニのしっぽを踏む。
ぶる、ぶるる……。
かすかに、ワニの身体は震えていた。どうにか動こうという、それはあがきだった。
ふ、と美乃里は笑う。
「さあて、と……じゃ、お仕事しよーかな」
おもむろに、ドレスを脱ぎだす。
かぼちゃぱんつ一枚だけの姿となった。
幼い胸が剥《む》きだしだ。彼女の素肌には、やはり顔とおなじく薄く傷跡が残り、しかし、もっとも深いのは、胸の真ん中をかぼちゃぱんつまで走る、一本の手術|痕《こん》だった。
と。
美乃里の影から、つまり背後から、なにかがゆっくりとせりあがってくる。
銀髪にも似た白髪で、片目を隠した女性だ。
鵺《ぬえ》だ。
美乃里に仕える人造|妖怪《ようかい》である鵺が、黒いタイトなセーター、ジーンズといった姿で、美乃里の影からあらわれた。
「はい、鵺」
後ろに、美乃里はドレスとくまのぬいぐるみを渡した。
無言で、鵺は受けとった。
ぐにょん。
鵺《ぬえ》の左腕が変形し、ぎざぎざな歯つきの口と化す。ちょうどいま美乃里《みのり》が踏みつけているワニの口のようなかたちだ。その口のなかに、鵺はドレスとぬいぐるみをしまいこむ。
「ん」
後ろに、美乃里は唇を向けた。
無言で、鵺は口づけした。
鵺の姿は消える。
すーっとかき消える。
消え、こんどは美乃里の身体に異変が起きた。
ぐにぐに、ごに。
幼い肉体が、みるみる成長し、やがて立派な、締まった筋肉つきの男の身体へと。
美乃里は、少女から青年へと変わった。
耕太を大人にしたような顔つきとなった。ただ、伸びきった髪の長さや、顔、身体の傷や、胸の真ん中を走る手術|痕《こん》や、そして、かぼちゃぱんつはそのままだったが。
「お」
かぼちゃぱんつに気づき、美乃里は、うつむき、頭をかく。
「脱ぐの、忘れてた……ったく、変化《へんげ》するのはいいけど、いちいち着替えなきゃならないのは面倒くさいよな……ま、しかたもないんだけど、ね」
ぐにょん。
美乃里の左腕がさきほどの鵺のように変形し、ぎざぎざな歯つきの口と化す。
「では、いただきます」
口を、身動きとれぬ足元のワニへと向けた。
★
かぷっ。
ごきゅり、ごり、がり。こきん。ぽく。ぺぽ。ぽちょむきん。
★
「……ま、生まれたての妖《あやかし》じゃ、こんなものかな」
青年姿の美乃里は、あいかわらずぱつぱつのかぼちゃぱんつ姿だった。
手には、石ころがある。
ぽいと放った。
宙の石めがけ、口を開く。
かっ、と無音の衝撃波、発射。
石ころは砕けた。ぱかんと、四つほどに。
「ふむ……まあ、使い勝手は悪くなさそうだが。しかし威力のほうはいまひとつだなあ。もうちょっと、こう……影を縛るやつみたく、補助系のやつが……」
ん? と声をあげる。
「どうした、鵺《ぬえ》? ああ、ぱんつ、どうにかしろって? そりゃぼくだって恥ずかしいけど、べつにだれが見ているわけでなし……ああ、なるほど、ぱんつが伸びるから? って、もう伸びてるだろう、鵺……あー、わかったわかった。じゃ、こうしよう」
美乃里《みのり》が、眼《め》を閉じた。
ぐにぐに、ごに。
美乃里の身体は、青年の姿からまた変形しだした。
が、大きさに変化はない。
ただ、肉体のかたちだけが変わりだす。
ぐにぐに、ぼいん、ぼいん、ぷりん、ぷりん。
筋肉のみだった胸に、脂肪のふくらみがあらわれ。
腰はくびれ、お尻《しり》もふくれ。
手足は細くなり。
美乃里は、女になっていた。
いや、元々少女だったが、いまは、育った女となっていた。耕太のオトナ女版だ。
「じゃーん、どうだい、鵺? ふっふっふ、ぼくもただ、牢《ろう》で四岐《しき》のサディズムを満足させていたわけじゃないんだよ……って、あ? これはこれでヘンだって?」
だって、大人な女が、かぼちゃぱんつ。
「……なるほど。わかったよ」
すっ、と美乃里の身体が、縮まってゆく。
すっ、と美乃里の身体から、鵺が離れ、実体化してゆく。
美乃里は、少女に戻った。
かぼちゃぱんつは、ぶかぶかだった。
「……ぬう」
ぐにん、ぐにん。
美乃里はぱんつのゴムを引っぱり、口をへの字にする。
鵺は、それを無言で見つめる。
「わかってるよ、鵺……」
美乃里は、ぱんつを脱いだ。
お尻、すりん。
代わりに、鵺が左手からだしたドレスをまとった。鵺はぱんつをしまった。
「あー、すーすーする……」
歩きだす。
てくてくてく、路地の先、ネオンの光に向かって。
と、振りむく。
「どうしたの?」
はるか後ろに、ワニがいた。
あの巨大白ワニだ。
ただし、しっぽはなかった。根元から、なくなっていた。
「あ、どうして殺さないのかって顔してるな? ふふ、答えは簡単だよ。わたしね、お友だちが欲しいんだ。強いお友だち……ムカツクやつらをブッコロしちゃうお手伝いをしてくれる、お友だちね? ついてきて、くれるかな? 友だちの、わー!」
美乃里《みのり》は、バンザイした手を頭の上でくっつけ、輪を作った。
くるりと正面を向き、歩きだす。
てくてくてく。
やがて、のたのたのた。
背後から足音がついてくるのを聞き、美乃里は小さく笑った。
「そうそう、獣だと、おのれより強いものにはおとなしく従うんだよね……ああ、そうだ、地上でいちばん怖いものね、それはもちろん人間さ。あいつらバカだもの。だって――」
あれこれ語りながら美乃里は歩き、ワニはそのあとをついてゆくのだった。
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[#小見出し] 三幕 恋の骨折り損?[#「三幕 恋の骨折り損?」は太字]
1
たゆらは激怒した。
かならず、かの邪知暴虐の王を除かねばならぬと決意した。
たゆらは正義など知らぬ。たゆらは、ただの化《ば》け狐《ぎつね》である。〈葛《くず》の葉《は》〉というニンゲンの組織にとっつかまって、ニンゲン世界を学ぶため、のんべんだらりと学生生活を送ってきた不良|妖怪《ようかい》だ。けれどもあの男の邪悪だけは、許せぬのだった。
『耕太《こうた》は、女をたらしこみます』
『なぜたらすのだ』
『相手が勝手に好きになる、というのですが、だれもそんな、恋心など持ってはおりませぬ。持つわけありませぬ。あんな小動物』
『たくさんの女をたらしこんだのか』
『はい、はじめはわたしの姉を。それから、人狼《じんろう》の娘を。それから、保健室の先生で忍者な雪女を。それから、双子の自称、おのれの娘を。それから、全校生徒を。それから、それから、あ、朝比奈《あさひな》、あ、あか……くーっ! おれの星を!』
『おどろいた。耕太は美男子か』
『いいえ、美男子ではございませぬ。小動物にしか見えない、ただのちんちくりんです。このごろは、あたりかまわずエロス行為におよび、とうとう銀河エロス大帝と称されるまでになってしまいました。今朝も、『だって気が、気が……』とかぬかして、我が姉と人狼《じんろう》相手に、朝までふんはっはっ』
『あきれた耕太だ。生かして置けぬ』
そう、生かしちゃおけねえ。
「あのヤロー、生かしちゃおけねー!」
「……いきなりなにを叫んでるのよ、源《みなもと》?」
脳内会話が盛りあがりすぎて、ついつい声にだしてしまったたゆらを、あかねが、怪訝《けげん》な目つきで眼鏡をくいくいと動かしながら、見つめていた。
「え? あ? んー……やあ、朝比奈《あさひな》、今日もステキだね」
とりあえず、たゆらはウィンクを返す。
あかねは、じつに冷たい眼《め》で、じーっとたゆらを見つめ、こういった。
「……バカ?」
ぞくぞくぞく。
たゆらの背に、走る戦慄《せんりつ》、ぞくぞくぞく。歪《ゆが》んだ悦楽、ぞくぞくぞく。
いやいやいや、気持ちよくなってる場合じゃねえよ!
たゆらは笑みのかたちにつりあがりかけた唇を強引に戻し、結果的にぴくぴくと強《こわ》ばらせながら、思った。
耕太のヤローをぶっコロす!
のは、無理だ!
つーか、耕太に手をだしたら、まちがいなく自分は姉、源ちずると、耕太のアイジン、犹守《えぞもり》望《のぞむ》にぶっコロされるだろう。いや、それどころか、一週間前のあの騒動、耕太の気だかなんだかが引きおこしたらしい騒ぎで、雪花《ゆきはな》もオチたっぽいし。当人に『雪花さんも耕太にやられちまったのかよ……』と訊《き》いたら、自い頬《ほお》をじわりと染め、『……わたしは、雪野《ゆきの》、花代《はなよ》です』と答えたので、まあ、ありゃ、惚《ほ》れてしまったのだろう。ほかに蓮《れん》と藍《あい》という自称娘もいるし、みんな凄腕《すごうで》だし、たゆらが勝てるわけねーのだ。
勝てぬなら、どうするか。
鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス。
勝てぬなら、女を落とそう、ホトトギス。
そうだ。
先にたゆらがモノにしてしまえばいいのだ……彼女のことを。
ここ、薫風《くんぷう》祭でな!
たゆらとあかねは、廊下にいた。
廊下は大変、にぎにぎしい。当然だ。だって、普段の校内には存在しないものでいっぱいだったのだから。
たとえば、制服を脱ぎすて、黒いワンピースに、ひらひらのエプロンをまとい、頭にはカチューシャをつけた、とてもかわいらしい、ただし、中身はむくつけき男なメイド。逆に、詰め襟の学生服を着た凛々しい女子。ほかに着物やら、着ぐるみやら、いろいろ工夫して、彼ら、彼女らは、客を引いている。
客とは、おとずれた一般人のことだ。
セーターを着たお父さんとか、彼に手を引かれる小さな女の子とか、お母さんとか、はたまた、他校の生徒とか、学校のOBらしきものとか。
本日、薫風《くんぷう》祭、初日。
いつもは学業を修める場である各教室は、今日、明日、明後日の三日間ばかりは、男メイド喫茶やらバンカラ男装喫茶やら映画館やらライブハウスやら同人誌即売所やらなにやら、さまざまな模擬店へと化していた。あ、もちろん、街の移り変わりだの、マジメな発表もあったが、残念ながら人気はあまりなく。
一週間前、耕太が引きおこしたあの事件。
あの事件の影響をのりこえ、無事に薫風祭は開催されていたのだった。
いや、とくに生徒たちに事件の影響はなかった。
みな、玉藻《たまも》が耕太からあふれていた気を処理した時点で、我に返り、都合がよいことに、事件の記憶をなくしていた。なくしたというか……あまりにもすごすぎる現実に、忘れることにしたっぽいというか……男はただただ、失神していただけだし。
問題なのは、貯水槽の件だった。
たゆらと桐山《きりやま》が、破壊してしまった貯水槽……おかげでしばらく、水の便が悪いこと、この上なし。一時は薫風祭延期の話もささやかれたが、突貫工事のおかげもあって、あらたな貯水槽の設置もまにあい、無事に開催へといたったのであった。なお、代わりに八束《やつか》の白髪はどっと増えたらしい。
とにかく、薫風祭は無事に開催された。
「薫風高校でおこなわれる文化祭だから、薫風祭、か……」
たゆらは、つぶやきながら廊下の窓へと向かう。
窓から、校庭のグラウンドにならぶ出店や、人の群れを眺め、思った。
文化祭って、お祭りっぽくね?
ま、文字のなかに『祭』って入ってんだけどね! 文化『祭』ってね!
お祭りなら……ある意味、デートスポットじゃね?
デート……。
ああ、なんて甘美な響きなんだろか……。
「ちょっと源《みなもと》、きみ、さっきからどうしたのよ。いきなりヘンなこと叫んでみたり、いまは校庭を眺めてよだれをたらしてみたり。調子が悪いのなら、べつに無理にわたしにつきあってくれなくったって……」
「もきー!」
たゆらはあかねにつめより、その両肩をつかんだ。
「つきあわせてよ、つきあわせてくれよ! う、うう……祭りに……祭りに……」
「ま、祭り? そんなにサブちゃん好きだった?」
あかねの天然香る発言に、たゆらは『ちげーよ』と小さくつぶやく。
たゆらは、あかねとともに、薫風《くんぷう》祭を見回ることとなっていた。
というか、たゆらから誘ったのだ。
文化祭の浮かれた雰囲気に乗じて、ハメを外しまくる生徒がいるかもしれませんぜ、ハメを外してハメ始めるかもしれませんぜ? そんなことをしかねない奴らを、わたしは三人ばかり知ってるんですがね……小山田《おやまだ》耕太というのと、源《みなもと》ちずるというのと、犹守《えぞもり》望《のぞむ》というのを……ゲシシシッ、と。
あかねはのった。
たゆらの誘いにのって、薫風祭を見回ることに決めた。くっくっく。たゆらは笑う。普通に誘っちゃ、まず、いっしょに文化祭を見て回るなんてことはできねーからな。うん、いっしょに文化祭を楽しむ。デートコースとしては悪くない。くく、くくく……耕太よ、ありがたく利用させてもらうぜ、おまえのエロスっぷりをなあ? くく……。
「こんどは笑ってるし……本当にだいじょうぶ?」
「お、おお? も、もちろんだいじょーぶだぜ。決まってんじゃねーか」
たゆらは、くるりとあかねに背を向けた。
頬《ほお》のあたりをつかみ、ぐにぐにと顎《あご》を動かす。
いかん、いかんな……思っていたことがそのまま口やら顔やらにでるとは、我ながら情緒不安定だぜ……だけどさ!
だけど、しかたねーじゃねーか!
だって、初デートなんだもの!
朝比奈《あさひな》あかねと、初めてのデートなんだもの!
たゆらは、よもや自分がこれほどまでに緊張するものだとは思っていなかった。女を知らないわけじゃない。むしろ、そこいらの高校生なんかお呼びもつかないほど、知ってるはずだ。モテるしな、おれ! モテモテだしな! えっちだってたくさんしたぜ!
しかし、昨日、たゆらは寝ていない。
楽しみで。不安で。
まったく眠れなかったし、いまも、手のひらにやたら汗をかく。脇《わき》の下もちとヤバめ。おれ、汗くさくねーよな。なにが起こるかわからないから、身体は念入りに洗ってきたのだが……口は? 口はどーだ? くさくないよな? はー、はー。
「ああ……」
たゆらはおでこに手のひらを当て、うつむく。
なんなんだろうな、こりゃ。
胸が痛い。切ない。朝比奈《あさひな》を見ると、喜びが湧《わ》く。はしゃいでしまう。話しかけられればたまらない。笑顔がまぶしい。たとえ叩《たた》かれたって、殴られたって、冷たくされたって、それは自分へと向けられたものなのだから、いいのだ。だって朝比奈は、ほかのやつにはそんなこと、たとえ耕太にだって、しないのだから。だから、いいのだ。
好きなんだよ……。
おれはおまえのこと、好きなんだよ、朝比奈……。
そのとき、背後でメロディーが鳴った。
なにやらスパイ映画のテーマのようなメロディーだった。
「ん?」
たゆらが振りむくと、あかねは携帯をとりだし、その画面を見つめていた。どうやらあかねの携帯が発した、メールの着信音だったらしい。
「……さっそく、ターゲット三名が行方不明になったようだわ」
「は?」
あかねの言葉が示す意味に、たゆらは気づく。
「ターゲット三名って……それ、耕太たちのことか? っていうか、なに? あいつらに監視役、つけてたの? ということは……おれたちだけじゃないの? ねえ、何人体制なわけ、これ? ふたりっきりじゃないわけ? なあ」
「さあ、いくわよ源《みなもと》! 現場へと!」
走りだすあかねを追いかけながら、たゆらは思った。
ふたりきりのデートが……あれー?
★
たゆらとあかねは、校舎の外へでた。
校庭には、さきほどたゆらが窓から見おろしたとおり、出店がならび、客はのどかに楽しみと、まさにお祭りといった雰囲気であった。
茶道部はオープンカフェを開き。
美術部は似顔絵を描き。
各クラスの生徒はたこ焼きやらイカポッポやら焼きそばやら作り。
校庭の一角ではブラスバンド部が演奏したり、それをバックに歌う娘《こ》がいたり。
「すげえもんだな……去年よりすごくねーか?」
「うん……もしかしたら、ちずるさんや小山田くんたちの影響もあるのかもしれないわね。いや、ふと思っただけだけど。小山田くんが転校してきて、ちずるさんがそれまでのお姉さんめいた仮面を外して、なりふりかまわずバカップルぶりをまわりに見せつけだして……あきらかにカップル、増えたもの。どうもこう……みんな快楽主義的になったというか」
たゆらは、頬《ほお》をぽりぽりとかく。
影響ね……。
たしかにあるかもしれない。
いや、人の側の影響はたゆらは知らない。妖《あやかし》側の影響だ。考えてみれば、みな、すごし変わった気がする。ちずるはいうまでもなく、とくに激しいのは桐山《きりやま》か。あいつ、ただのバカだったはずが、妙に最近、かっこよく……ちっ。
たゆらは舌打ちし、首を横に振った。
「とにかく、朝比奈《あさひな》。その悪影響大なバカップルを捜そーぜ。耕太たちの、ここが最後の目撃現場なんだろ? とはいうものの……」
ええ、とあかねが人ごみを見つめ、うなずく。
「これだけの人じゃあ、ちょっと骨が折れるわね」
「ま、いろいろと見てまわろーや。はは、一時はどうなることかと思ったけど、これならうまくデートに持ちこめそうじゃね?」
「は? デート?」
「いや? デートしている耕太とちずるたちを捜そうぜって、そういっただけダヨ?」
あぶねえ、あぶねえと思いながら、たゆらは歩きだす。
どうもまだ、情緒不安定気味だ……。
と、そこに。
「いらさいまーせ、いらさいまーせ」
「おいしいですーよ、おいしいですーよ」
耕太とちずる、ではなく。
ふたりの自称娘、蓮《れん》と藍《あい》があらわれた。
見た目すっかりおなじで、片方だけのおさげにしたその髪の位置が、左おさげは蓮、右おさげは藍な一年生の双子は、いま、トラだった。
トラの毛皮を模したビキニに、トラのかぶりものをして、手も、足も、トラ手な手袋、トラ足な靴、しっかり腰にはトラしっぽつきと、トラ姿だったのだ。
「……なんだおまえら、その格好」
たゆらの問いに、蓮と藍は片手をあげ、答えた。
「だっちゃー!」
「だっちゃだっちゃー! だ」
「えー……ちょっとコスプレのネタにするには古くねえか、それ。だいたいにしてあれは、トラじゃなく、鬼っ娘《こ》だろ……それに、体型もな、せめてもうちょっと育たないと……おまえら胸のビキニ、必要ねーじゃねーか」
「失礼だな、たゆら! ちょっとはあるぞ、必要!」
「そして妙にこだわるきさま、直撃世代だな!」
「うっ」
たゆらは第二次世界大戦終戦直後に、狐《きつね》から人の姿を得た。つまり、人でいうなら還暦なんかとうに過ぎてるわけで、直撃ではない。ないが、テレビの放送は見てました。すみません。映画も観《み》にいきました。すみません。
「だー! おれはオタクじゃねー! つうか、なんなんだよ、それ! おまえらはどうしてそんな格好をしてるんだ!」
「むろん、客引きだ」
「アルバイトだ。けっこう、時給、いいんだぞ」
えっへん、とトラ手を剥《む》きだしの腰に当て、トラビキニな胸を張る蓮《れん》と藍《あい》。
だが。
「……アルバイト?」
と、あかねの眼鏡が、きらーんと光った。
「どういう意味なのか、教えてくれる? 蓮ちゃん、藍ちゃん」
「げ」
「おでこセンパイ」
「その呼び名もちょっと聞き捨てならないけど、あのね、蓮ちゃん、藍ちゃん。文化祭とは、あくまで学校教育の一環であって、けっして利益追求の場ではないのよ? なのにアルバイトだなんて……もう、こんな年端もゆかぬ子供たちに、時給と称してお金を払って、こんな格好をさせて、客引きさせるだなんて!」
「いえ、めがねセンパイ」
「年端もゆかぬって、わたしたちは十六歳……」
「十六歳は未成年です! ああ、こうした行為がやがてエスカレートして、十二歳なんてまだ小学生な子供にきわどい水着を着させてローションを垂らして、股間《こかん》をぎゅーっとくいこまさせたりするんだわ……ああ、ロリコン大国、日本!」
「なんかくわしいね、朝比奈《あさひな》? またお父さんの部屋の本棚の奥に……」
「うるさい、ロリコンは死ね! 蓮《れん》ちゃん、藍《あい》ちゃん、責任者を呼んで! 責任者! えーい、いいわ、わたしがいく! この腐れロリコンどもが!」
なにかのトラウマを刺激したのか、あかねが、腕をまくりあげながら、蓮と藍が客引きしていた大きな屋根つきの店へとのりこんでゆく。
「お、おれはロリコンじゃねーよ、朝比奈!」
たゆらも追った。
蓮と藍の店は、パイプを組んで作る布製の屋根の下、テーブルと椅子《いす》がならべられた、けっこう大きなものだった。トラ娘な蓮と藍の客引きの成果か、店内のほとんどの席は客が埋めつくす。もっとも、かなりの数が親子連れだったので、あかねの指摘したようなロリコン客はいないようだったが。
「おーい、朝比奈、ちょっと落ちつけって……お?」
店の奥、裏の調理場へ続く出入り口の境目に、あかねはいた。
あかねの前には、馬がいた。
いや、馬のかぶりものをした、男だ。
首から下は黒いベストにシャツ、ズボンと、ちゃんとしたウェイターのものなのに、首から上は、馬の首部分に丸い穴が空き、そこから顔をだしていたのだから、なるほど、あかねが抗議も忘れ、ぎょっ、と立ち止まるのもわかる。男の顔が、メタルフレームの細長い眼鏡をかけた、なかなかに端正なものなのだから、なおさらだ。
と、おや?
「あんた……なんでここにいるんだよ?」
たゆらは、この馬頭《うまあたま》な男の顔に見覚えがあった。
去年卒業したはずの生徒だ。熊田《くまだ》が番長だったころ、参謀役を務めていた男。むろん、妖《あやかし》である。端正、怜悧《れいり》な顔つきの、この男の名は、たしか――。
「えっと……ベスさん、だっけ?」
「馬頭《めず》だよ、源《みなもと》たゆら。だれがスライムより一段階強いモンスターか。そのナチュラルに人をバカにするところ、変わらないな、きみも」
馬頭は、ふっ、とクールに笑った。
「質問に答えてもらってねーぜ」
「むろん、バイトだ。なあ、天野《あまの》?」
「ん? なんスカ?」
馬頭の呼びかけに、少年が応《こた》える。
まさに少年だ。中学生ライクな体格こそ耕太にかなり近いが、くりくりっとした眼《め》といい、襟足だけ伸ばした短めの髪型といい、彼はもっといたずらっぱい雰囲気があった。
彼は天野《あまの》。
馬頭《めず》とは違い、在校生で、中学生っぽく見えるが、桐山《きりやま》とおなじ、三年生だ。
空を自在に飛ぶ、ももんがの妖怪《ようかい》な彼は、その正体そのままに、腕から胴にかけて、びろーんとした布のついた、ももんがの着ぐるみ姿でいた。ただし色はピンクだったが。
「おー、源《みなもと》じゃんカー。ひさしぶりダナー」
てちてちてち。
あどけなく、しかしいたずらっぽい、いわゆる年上の女性好きした天野が、手をあげ、近づいてくる。その動きは着ぐるみのせいか、歩幅が狭く、まわりの在校生から「きゃー、天野さーん」と黄色い声をあげさせるのに充分な効果があった。てちてちてち。
「えっと……だれだっけ、あんた?」
てちちっ。
たゆらの言葉に、ピンク着ぐるみ天野はずっこけかける。
「オイオイ、いっしょにフォックス仮面をやった仲じゃねーカ!」
「じょーだんだよ、じょーだん」
天野ときたら、怒る姿もかわいらしい。
そう、たゆらはかつて、彼とともに飛行機に乗りこみ、ハイジャック犯と闘ったこともあったのだ。だから、顔見知りではあった。あった、が。
「だけど、本当、センパイとはひさしぶりでさー」
「ホントだよナー。おれも、もうちょっとおまえたちとは絡めるかと思ったんだけどナー。ほら、あのひとが再入学してきたじゃんか? あのひと、キャラ、濃いからサー」
「あー……なるほど、ある意味、出番を奪われたと」
「ねえ、なんの話をしているの? 源も、天野センパイも……」
互いに腕を組み、うんうんと語りあうたゆらと天野を、あかねがひとり、怪訝《けげん》な顔で見つめていた。
「ん? いや、その……」
そのとき。
「ぬっふっふっ……人のせいにするのはいかんなあ、天野センパイ」
ぬっ、と大きな影が、あらわれた。
布製の天井をつくほどの大男――熊田《くまだ》だった。
こちらは眼に眼帯をし、岩のような上半身には毛皮の陣羽織と朱色の胴を身につけ、腕には小手、足には股引《ももひき》に脚絆《きゃはん》、さらに頭には鉢がねと、すっかり江戸時代あたりの山賊風な格好をしていた。これがまた、異様なまでによく似あう。
「なんだよ、大将。その格好は」
たゆらの問いに、ぬ? と熊田は顎《あご》をさすりだす。
「いや、倉庫の整頓《せいとん》をしていたらな、昔、懐かしい服がでてきたものでな。ちょうど薫風《くんぷう》祭で、我らもなにかをやろうかと思っていたところ……よし、ならばコスプレカフェでもやってみようかと」
「いや、そこでコスプレカフェがでてくる意味がわかんねーよ。そもそも、それが昔の服って……熊田《くまだ》さん、あんた、まさか、山賊でもやってたのかい?」
熊田は、ぬっふっふ、と笑うばかり。
やってたな、これは……。
たゆらは熊田を見あげながら、頬《ほお》を引きつらせた。
「あの!」
と、あかねが、熊田の前に立つ。
彼女は、足を肩幅に広げ、片手は腰に当て、もう片手では眼鏡のつるを持つ、いつものスタイルではあったが……身長二メートル以上、おまけに山賊の格好をした大男が相手とあっては、ちょっとばかり分が悪そうだった。
「ぬふ? なにかな、朝比奈《あさひな》センパイ?」
「せ、センパイ?」
意地悪く、にた、と笑う熊田に、あかねの声は裏返った。
たしかに、学年上、熊田はあかねの下級生ではあった。
熊田は去年、いちど卒業したのに、また再入学してきたのだ。その際、熊田|流星《りゅうせい》から、熊田|彗星《すいせい》へと名をあらためてはいたが……熊田本人なのはだれにだってバレバレだ。
「熊田さんが、ここの責任者と考えて、よろしいのでしょうか!」
ほら、あかねの言葉づかいも目上に対するものだし。天野《あまの》だって、熊田が登場したとたん、直立不動だし。だから出番がなくなるんだよ……と、たゆらは思う。
「いや、桐山《きりやま》センパイが責任者だが」
と、熊田が答えた。
「き、桐山さんが、ですか?」
「うむ。だが、ちょうどいまは席を外しておりましてな。わたしが代わりに意見をうかがっておきましょう。なんです?」
「こ、この、ロリコン!」
「ぬ?」
眼《め》をぱちくりさせる熊田に、あかねは、あ……と口を手で押さえた。
「い、いえ、その……あの、蓮《れん》ちゃん、藍《あい》ちゃんを、アルバイトとして使っているのは、本当ですか! あ、あんな年端もゆかない子たちに、あんな恥ずかしい格好をさせて……そもそも、文化祭とは学校教育の一環であり、けっして利益追求の場ではなくですね……どうやら卒業したはずのかたがたも従業員としておられるようですし、ちょっと問題があると、そう思います、わたし!」
「ふむ……」
熊田《くまだ》は顎《あご》をさすりさすり、悩む。
かと、思いきや。
「ところでおぬしたち、ふたりっきりで、デートでもしておったのかな?」
どごーん。
全力で、ごまかしにかかった!
「デートなんか、してません!」
うっ……。
あかねの反論に、たゆらはわかっていながら、胸が痛かった。
「わたしたちは、ちずるさん、小山田くん、望《のぞむ》の三人が、外部からのお客さんも多数入場しているこの薫風《くんぷう》祭という場で、公開エロス行為に走らないか、監視しているんです!」
「ほう、小山田たちなら……」
「まさか、いるんですか! どこ、どこです!」
「ほれ、そこに」
熊田が示したテーブル席には、しかしだれもいなかった。
あるのは、空になった大きなグラスだけ。
溶けかけた氷のなかに、ハートマーク型の飲み口がふたつあるストローと、普通のストレートなストローが突き刺さっている、グラスだけだった。
「い、いませんが」
「さっきまで、そこでマンゴージュースを飲んでおった。源《みなもと》めがノリノリでな、カップル用のハートマークストローを求めてな、だが、小山田めがひとり残された犹守《えぞもり》めがかわいそうと、自分は普通のストローを使ってな。源め、『どうしてわたしがあなたと……』と不満げながら、犹守とハートマークストローで飲んでおったわ」
がっはっは、と熊田は笑う。
「くっ……ひとあし遅かったってわけね……」
あかねは空のグラスを睨《にら》みつけた。
「ところでー」
「パパのアイジンおでこセンパーイ」
と、トラ娘な蓮《れん》と藍《あい》がやってくる。
「なあに、蓮ちゃん、藍ちゃん……って、いま、なんて!?」
「ですから」
「パパのアイジ」
「だれがパパのアイジンおでこじゃーい!」
キレたのはたゆらだった。
ええ、これがキレずにおれますか。ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな!
「まあまあ、待ちたまえ、源たゆら」
がしっ、とはがいじめにしてきたのは、馬な頭の馬頭《めず》だった。
「は、放せ、馬!」
「わたしは馬頭《めず》だというに。ふっふっふっ、なんだかラブい匂《にお》いがしてきたじゃあないか? 邪魔は野暮というものだよ、フラレ狐《ぎつね》くん」
「だっ、だれがフラレ狐だ! てめえら、ただ耕太ネタでアルバイトの件をごまかそうとしているだけじゃねーか!」
「おや、いまわたしのなかで、きみの評価がひとつあがったよ」
「てめーの評価があがったって、ちっともうれしくねー!」
はっ、とたゆらはあかねを見る。
「ぱ、パパって、小山田くんのことでしょう? わたしが小山田くんのアイジンだなんて、そんな……アイジンは望《のぞむ》のことであって、あいつはおれでおれがあいつで、ああ、そうそう、中国語でアイジンはアイレンでしたっけ?」
「ああっ、あっさりごまかされとるーっ!」
あきらかに錯乱をきたしかけていたあかねに、蓮《れん》と藍《あい》がなおも追い打ちをかます。
「だって、おでこセンパイ」
「パパとママと仲良しですしー」
「そ、そそそ、それは、友だちだからよ!」
「いやいや、あのママですよ?」
「たとえ友だちであれ、パパに女っ気なんか、近づけるわけ、ないですよ?」
「と、ゆーことは」
「当然の帰結として、おでこセンパイは、パパのアイジンだと」
「ぬはー!」
ああ、いま叫んだのは、たゆらなのか、それともあかねなのか。
「ふむ……なるほどな」
会話に入ってきたのは、山賊|熊田《くまだ》だ。
「あの傍若無人なゴーイングマイウェー源《みなもと》ちずるが、たしかに朝比奈《あさひな》あかね、おぬしの言葉にはしぶしぶながら従う……そんな相手は、小山田耕太以外には、おぬしのほかにはおらん。つまり、それだけおぬしは源めに認められておるということだなあ」
「そ、そそそ、それは、クラスのイインチョーだからですっ!」
「あの源ちずるが、肩書きに従う? ありえんと思わんか?」
「あうあうあうあう」
すっかりゆであがって、ふらふらしだしたあかねの両肩を、蓮と藍のトラ手が、ぽんと叩く。
「だいじょうぶです、おでこセンパイ」
「パパなら望センパイのほか、アイジンのひとりやふたり、平気でこなします」
「我々だって……」
「もうちょっとオトナになったら……」
「ぽっ」
「ぽっ」
トラ手で、頬《ほお》を押さえ、ふたり、もじもじもじ。
「あ、ああ……」
あかねはもう、おでこでこでこ、おでこでこ。おでこが脂汗で光りだす。でこ。
「ぐ、ぐが……」
たゆらは、あまりの憤怒に血涙がでてきた。
血涙だけでは足りず、がぎりぐりごりと奥歯を噛《か》みしめたら、あら、歯ぐきから血が。
だらん、と力をぬく。
「ん? おい、源《みなもと》たゆら、どうした? いかん、ちょっと力をこめすぎたか……」
はがいじめしていた馬頭《めず》が、腕の力をゆるめた。
たゆらは力なくその場にしゃがみこむ……と見せかけていきおいよく振りむき、口から血を、噴射。喰らえ、毒霧じゃー!
「ぬおおー!? め、眼《め》が、眼がー! ……眼鏡がー!」
馬頭は顔を押さえ、身もだえる。
「思い知ったか、このエセムスカ! ったく、てめえら全員、脇《わき》の下からチ○コが生える奇病にかかって死んじまえ! ばーかばーかおたんちんー!」
たゆらは口からだらだらと血をたらしながら、あかねの手をとり、駆けだした。
振りむかず、店の外へと飛びだす。
「ふっふっふ……少々、やりすぎたかな?」
熊田《くまだ》が笑い、脇の下に手を当てていた蓮《れん》と藍《あい》は、我に返る。天野《あまの》が、「もう、アイツ、泣いてたっスよ、それも血の涙」とたしなめた。
と、眼鏡の毒霧を拭《ふ》き終えた馬頭が、むっ、となにかに気づく。
「蓮、藍」
「ん? なんですか、大佐」
「ラピュタは本当にありましたか」
「わたしはラピュタ王ではない。ほら、お客さんだ。ゆきなさい」
「おー」
「四十秒で支度しなー」
すかさず、蓮と藍はあらたに店内に入ってきたお客さんの元へとおもむく。
「いらさいませー」
「カフェ・熊酒場によーこそー」
入ってきたのは、口に×マークの描かれたマスクをつけた、小さな女の子だった。
目元にはサングラス、頭には帽子、身体にはコートと、小柄だということ以外、まったく正体がわからない彼女は、蓮と藍の案内で席につき、メニューを眺めだす。
ある文字を指さした。
「山賊パフェですかー」
「マロンベースのクリームに、のいちごたっぷり、山ぶどうたっぷり、はちみつたっぷりな、山の幸のパフェですかー」
蓮《れん》と藍《あい》の問いに、正体不明の女の子は、『○』のついた札をぴこぴことあげた。
2
走って、走って、走りまくって。
とうとうたゆらは、校舎のなかへと戻っていた。
はあ、はあ、はあ……。
ここまで手を引っぱってきたあかねともども、廊下にて、荒く息をつく。
ちら、と横のあかねを見る。
あかねも、ちら、とたゆらを見つめていた。一瞬だけ、交錯する視線。だが、すぐにあかねは顔をそらし、うつむく。
その顔は、真っ赤だった。
たしかにここまで走ってはきたが、その赤さ、それだけではあるまい。
ぐぐぐ……。
たゆらは、ぎりぎりぎりと歯がみした。
あ、あの、コスプレ妖怪《ようかい》ども……余計なことを……! っと、またもや歯ぐきから血がでる感覚があった。
はっ、だからどうしたよ!
「えー、りんごー、りんごー、りんごはいらんかねー」
「くれ!」
なぜか廊下でりんごを売っていた生徒から買い、たゆらはかぶりつく。
がしゅがしゅがしゅと芯《しん》まで食べた。
ごりがりと奥歯をいわせながらまわりを見渡す。
いまだ午前中、お客さんの数はこれから増えるのだろう。それでも充分に多い人ごみの奥に、『映画』の文字があるのを、たゆらは見逃さなかった。
眼《め》を凝らすと、どうやら視聴覚室で、自作映画を上映しているようだ。
映画? 映画だと?
映画→定番デートコース。
たゆらの頭のなかで、勝利の方程式が導きだされた。ちーん。
「朝比奈《あさひな》……映画、観《み》よう」
「え?」
あかねは、ハンカチで汗を拭《ぬぐ》っていた。
「あ、ああ、映画ね、映画……って、ダメよ、そんなの! もう忘れたの、わたしたちは、ちずるさんと小山田く……あうあうあう!」
なにを思いだしたか、あかねは手を振りだす。ハンカチ、ぱたぱたぱた。
「あー、もう、うるせー! いいからいくぞ! ほれ、映画といったら暗がり、暗がりといったらエロスだろ! あのエロリスト軍団ども、どこで無差別エロをしやがるかわからねえ! だからいくんだ、平和のために、ぼくたちは!」
「そ、そそ、そーね、暗いのはマズイわよね、う、うん」
さりげなくあかねの手をとり、たゆらは視聴覚室へとつきすすむ。
さきほど、連れて逃げたときは夢中だったのでわからなかったが……。たゆらは思う。女の子と手をつなぐって、こんなにどきどきすることだっけ?
あかねの手は、すこし汗ばんでいた。どき、どき。
★
あー、やっちまったくせー。
目の前のスクリーンでくり広げられる惨劇を前に、たゆらはだらん、と脱力し、座席のパイプ椅子《いす》にもたれかかった。惨劇とはいえ、べつにホラーとかスプラッター映画が流れているわけではない。
SFだ。自主製作の、SF大作映画だ。
タイトルは、『スペースケンカ番長』。
一介の番長が、地球を征服するためになぜか学校に転校してきた宇宙人とタイマンを張り、なし崩し的に全銀河を舞台とした闘いへとおもむく……のがストーリーらしい。よくはわからないが、「タイマン張ったらダチだぜよ」が銀河の決まりらしく、気がついたら主人公の番長は銀河連合なんかをダチという名の傘下に収めていた。
と、ストーリーこそ壮大ではあったが。
役者はみな学生でセリフはド棒読み、宇宙人はさっきの熊田《くまだ》たちのコスプレカフェのほうがマシなほどのちゃちな着ぐるみ、カメラアングルはブレまくり、舞台も最初は丸わかりな薫風《くんぷう》高校校舎、舞台が宇宙になってからは合成丸だしの星空がひたすらバックにあるばかりと、ああ、本当、これが惨劇といわず、なにが惨劇といえようか。
『生きてるってのは……こんなに熱いんじゃねえかよ〜!』
『あ、アニキィ〜!』
ちなみにアニキと叫んでいるのはタコ型宇宙人だ。声も合成だ。
うーむ……。
デートで観《み》る映画としては、大失敗といえよう。だが、あまりにもあまりにもな出来のおかげで、たゆらはだいぶ落ちつくことはできた。
朝比奈《あさひな》も落ちついてくれりゃいいんだけどな。
さきほどの因業妖怪《いんごうようかい》&因業双子どものたわごとなんか、ぜんぶ忘れて……と、たゆらはとなりに座るあかねを見た。
「ういっ!?」
なんと、あかねの眼《め》は、うるうるだった。
ど、どど、どこに泣く要素が!?
暗がりのなか、スクリーンと、そのスクリーンからの光に照らされたあかねの顔とを、たゆらは交互に見やる。
と、さらに、こちらははっきりと泣きじゃくる声が、後ろから聞こえた。
「どこのバカだよ、こんなバカ映画で泣くたあ……」
振りむき、たゆらは眼を見開く。
真後ろの座席にいたのは、桐山《きりやま》と澪《みお》だった。
桐山は、普段の触れれば斬《き》れそうな雰囲気の眼から、ぼろぼろと涙をこぼし、澪はそれを横からなぐさめていた。
「き、桐山くん……」
澪が、ハンカチを桐山の目元に持ってゆく。
桐山はハンカチを奪いとり、ぐしぐしと涙を拭《ぬぐ》って、さらに、ちーん、と鼻をかむ。
たゆらはあわてて前を向き、さらに椅子《いす》からずりさがって、自分の姿を隠した。
「なんだ……? おれがおかしいのか……? な、泣くべきなのか、これ……?」
スクリーンを見あげると、いよいよ物語は大詰めらしく、敵対する組織のボス、大宇宙帝国の皇帝が、その正体をあらわすところだった。
『ふっふっふっ……よくぞここまできたなー』
なにやら、聞き覚えのある声。
「あん?」
なんと、皇帝は、望《のぞむ》だった。
怪獣の着ぐるみを着た望が、皇帝だった。さらにその横には、なにやら恥ずかしそうに縮こまる、やはり怪獣の着ぐるみを着た耕太、ちずるの姿までもが。
『やー』
望が、手から電光を放った。
ぐわー。番長がうめく。
「あいつら……劇だけじゃなく、な、なにやってんだ……?」
たゆらは、ずるずるずると、完全に椅子からずり落ちた。
★
「ああ、おもしろかったわね!」
上映終了、廊下にでたとたん、あかねが、うるんだ眼で語りだす。
「もう、小山田くんやちずるさんのことも忘れて、すっかりのめりこんじゃった。まさか番長が敵の皇帝の息子だったなんて……びっくりしたわよね、ね!」
「あ? ああ、うん……つーか、気づいてねーの? 皇帝のなかのひとに……」
「皇帝のなかのひと? なにが?」
「い、いや、気づいてなかったならいいんだ、忘れてくれ……」
たゆらは首をひねる。
気づかぬほどに、没入していたというのか、あの映画に……うーむ。
わからん。なにがいったい、それほどに……わからん。
「あ、あのさ、あの映画のさ、どこがいちばんおもしろかったのか、教えてくんねーかな。いや、わかるよ? おれもあの映画の素晴らしさ、わかるよ? けっして、おもしろポイントを訊《き》いて理解の参考にしようとか、そーゆーわけじゃなく……なく……?」
尋ねかけ、たゆらは固まった。
あかねが、涙を拭《ぬぐ》っていたからだ。
眼鏡を外し、拭っていたからだ。
素顔だ。あかねの素顔だ。
こうして見ると、意外にも長いまつ毛。大きな瞳《ひとみ》。覆うレンズがないせいか、妙に、たよりなく、か弱く、あどけなく、なんていうか、こう、すっごく守ってやりたくなるというか、胸キュンというか、あ、頬《ほお》に、かすかなそばかすのあと……。
「ん、なに、源《みなもと》?」
あかねが、眼鏡をかけ、たゆらを見た。
「……眼鏡なしも、イイ!」
「は?」
「……眼鏡ありも、もちろん、イイ! とにかく、イイ!」
「はああ?」
じんわりと、あかねの頬《ほお》に朱がさす。
「ちょ、ちょっと、やだ、もう、いきなりヘンなこといわないでよ!」
ぱっ、と横を向くも、あかねの顔は、みるみる赤くなってゆく。
照れた顔も、すっごく、イイ!
「あ、あああ、朝比奈《あさひな》ー! おれはもう、おれはもう、おれおれー!」
「ジョルトカウンター!」
しんぼうメーターが振りきってしまったたゆらは飛びかかり、あかねの体重ののった右クロスカウンターをまともに食らった。
「げふがー!」
「なにをする気なのよ、この、この、この!」
ぶっとんだたゆらに、なおもあかねの追い打ち。踏み、踏み、踏み。あう、あう、あう、も、もっと……。
と、見あげたたゆらの、眼《め》に映ったものは。
踏みつけんとあげた太ももによって舞いあがったスカートの奥に、かすかに覗《のぞ》く聖域《サンクチュアリ》。青と白のしまぱんちゅであった。
「青と……白の……ストライプ……!」
「え? って、ぬああー! どこを見てるのよ、バカ!」
すこーん。
顎《あご》を蹴《け》られた。
「あ、あがが……こ、これは事故のようなもんじゃないか……」
「うるさい! このスケベ!」
スカートを押さえながら、あかねがたゆらからすこし距離を置く。
顎をさすりながら、たゆらは思った。
マジ、事故だってば……。
正直、嬉《うれ》しかった。ぱんつ見れて、たゆらは嬉しかった。
嬉しかったが、すぐそのあとで、得もいわれぬ罪悪感に襲われもしたのだ。なんだろーなコレ、なんだろーなコレ。すっげー嬉しいけど、すっげー辛《つら》いよ……。
恋ってやつは、まったく……。
まさか、今晩のオカズになんて、使えるわけが……。
……。
ノーコメント。
「源《みなもと》!」
「はい!」
たゆらは寝ながら、身体をびくつかせた。すみません、マジすみません!
「あそこ、いきましょう」
ぴっとあかねが真横を指さす。
指さした先は――。
「げっ」
お化け屋敷の、文字が。
ひゅーどろどろ、すっごくコワイよ! なんて脇《わき》に書かれた、お化け屋敷の看板があった。そのお化け屋敷である教室の入り口では、白い着物に長い髪、頭には三角の布といった古典的幽霊が、やたら元気よくお客さんをなかへと呼びこんでいる。
「え? ちょっと、どうして、朝比奈《あさひな》? こ、耕太たちの捜索は?」
「なにをいってるのよ、源。もちろん小山田くんたちを捜すために入るに決まってるじゃない。ほら、お化け屋敷といったら暗がり、暗がりといったらエロスでしょう? ちずるさんが率いるエロリスト軍団が、どこで無差別エロをするのかわからない……さあ、いきましょう、源。平和のために」
作りものめいた笑顔を浮かべ、あかねはたゆらの手をとった。
「へ、平和のためっていうか、これ、報復のためだろ! おれが朝比奈の聖域、み、見ちゃったから……ちょ、ちょっと……ぎゃー!」
ずるずるずるずる引きずられ、たゆらは手始めに、入り口のやたら元気な幽霊で、最初の悲鳴をあげた。
★
「あ、ああ、あ……」
たゆらは、テーブルのジュースをとろうとして、手が震え、こぼしてしまった。
「あーあ、もう、なにやってるのよ、源」
おなじ丸テーブルの正面に座るあかねが、ティッシュをだし、拭きだす。
たゆらとあかねは、お化け屋敷をでたあと、校内のオープンカフェにいた。オープンとはいっても、ただ廊下のいきどまりにある教室の、その廊下にテーブルをだしただけなのだが。
店名は、メイドバニーチャイナカフェ。
いろんなものを混ぜすぎてもはや意味不明なこの店だが、料理の腕前はたしかなものらしく、メニューには北京ダックの文字まであった。もちろん、たゆらたちは頼んではいない。頼んだのはライチティーと、マンゴーティーだった。
どうして、この店に入ったかといえば。
「なんで……本物がお化け役をやらねえんだよ……やれよ……たくさんいるんだからよ……コスプレカフェなんかやらねえでよ……おかしいだろ……」
ぶつぶつと唇から言葉を洩《も》らすたゆらに、あかねがため息をつく。
「ここまで源《みなもと》がお化けが苦手だとは思わなかったわ」
「だって、あいつら、お化けじゃないんだもん!」
たゆらは身をのりだした。
「こんにゃくみたいな冷たくてぶにょぶにょしたのをぺとりとしたり、普通に人魂をだせばいいものをライトで代わりにしてみたり、いきなり悲鳴をあげてみたり、飛びだしてみたり、ったく、汚ねえんだよ、あいつら! 本物だったら……本物だったら……ちっとも怖くねえのに……く、くくくー……」
「はいはい、ごめんなさい、ごめんなさい。本当、意外と臆病《おくびょう》なんだから」
目の前に顔を寄せて吠《ほ》えたたゆらに、あかねがティッシュを手渡す。
たゆらは素直にティッシュを受けとり、椅子《いす》に腰を戻した。
うつむき、涙を拭《ふ》きながら、口元でにやりと笑う。
作戦、成功!
くくく……わざと普通以上に怯《おび》えた姿を見せることで、相手の同情を引きだす……おかげでぱんちー目撃の怒りは収まり、それどころかいっしょにお茶まで飲めちゃって……まったく、自分の計算高さに震えがくるぜ……と、いや、マジ、ビビったんだけどね? マジ、泣いたんだけどね? いまの震え、恐怖の余韻なんだけどね? シャレになんねーよ、ホントに……。
「それにしてもあの三人、どこにいったのやら、ね……」
あかねが、ぽつりといった。
たゆらは、笑みを浮かべた唇を噛《か》む。
なるほど。
忘れないわけだ。
あれだけいっしょに楽しんでも、あの三人のことは。
耕太のことは。
ぎゅぎゅっ、と唇を噛む。
「――いいじゃねえか、どこにいったってよ」
「え?」
たゆらは椅子を鳴らして立ちあがり、そのまま歩きだす。
「ちょ、ちょっと、源!」
あかねの声が追ってきた。
追ってきているのを知りながら、たゆらは歩くのを止めない。すたすたすたすたと歩き続け、階段をのぼり、なお歩き。
「どうしたのよ、源!」
三階、屋上へと続く階段の踊り場へとついた。
「……追いかけては、くれたんだな」
後ろに立つあかねに向けて、ぼそ、という。
「は? いっしょにいた人がいきなりなにもいわずにいなくなったら、追いかけるのが当たり前でしょう?」
「まあ……ね」
「ねえ、源《みなもと》……」
「上、いこーぜ」
たゆらは、階段へ足を踏みだす。
「だ、だから源! こら!」
黙って、屋上と校舎をへだてる、金属製の扉の前までいった。
直前の階段に、腰をおろす。
「もう……」
あかねはしばらくたゆらの前で腕組みし、口をへの字にしていたが、やがて、あきらめたかのように、となりに座った。
たゆらは広げた足のあいだに頭を落とすようにうなだれ、そして、口元で――。
にたーり。
笑った。
作戦、ツー、成功!
くくく……いつもは従順な男が、突然キレて立ち去れば、意外と女はあとを追うもの……なぜなら人は、どんなことにでもきちんとした理由を求めるからさ……不可解な現象であればあるほど、理由を知りたがる……だから追う……くく、くくく。
ま、一瞬、ムカついたのは本当だけどな……。
ちら、と下にある、階段の踊り場へと眼《め》をやった。
たゆらが、あかねを発見した場所だ。
一週間前の、あの事件のときだ。
耕太からあふれだした気によって、みんなおかしくなってしまったあの事件だ。『澪《みお》が消えた。捜す、手伝え』と桐山《きりやま》に誘われ、校内中をまわり、最後に屋上をおとずれたとき、ここの踊り場に、あかねは倒れていた。
『小山田くん……好き……』
と、うわごとのようにつぶやきながら。
ぎり。
たゆらは奥歯をきしませる。あかねがそうなった理由はあとで聞いた。原因は耕太にあるが、しかたなかったのだと。いろんな偶然が重なって起きた、不幸な事故なのだと。
だから、本気であかねは耕太を好きになったのではないのだと。
だが……。
ぎり、ぎりり。
どうしてこれほどまでに耕太を許せないのか、いや、自分が焦っているのか、たゆらはちゃんとわかっていた。
耕太に、勝つ自信がないからだ。
容姿とか、頭脳とか、性格とか、はたまた戦闘能力とか、そういう部分ではない。
あかねの想《おも》いを勝ちとる争奪戦。
それに、たゆらは勝つ自信がなかったのだ。
あのちずるを落とし、望《のぞむ》を落とし、雪花《ゆきはな》まで落としたから……ではなく、たゆらは感じていた。耕太に、得体の知れないなにかがあるのだと。
カリスマというか、なんというか。
とにかく、人を惹《ひ》きつけるなにかがあいつにはあるのだ。自分だってそうだ。なんだかんだで、憎みきれずにいる。惚《ほ》れた女を奪いあうべきライバルを、愛《いと》しい姉を奪った男を、憎めずにいる。勝てるわけねえだろ、そんなやつに。
唯一の勝算は、耕太があかねを好きにはなっていないということだけだ。
いや、おそらく、耕太が好きになることはないだろう。ちずるひと筋だろう。望という例外はあるが、あれは押しかけアイジンみたいなもので、いわば粘り勝ちだ。
だけど、それでも。
ぎり、ぎりり、ぎりり。
「ふっ!」
たゆらは顔をあげた。わ、とあかねが驚く。
「なあ、朝比奈《あさひな》」
「な、なによ」
「覚えてるか、おれたちが、初めて出会ったときのこと」
「なんなのよ、いきなり……」
あかねが、じとっと眼《め》を細くする。
「もう、忘れちまったか」
「覚えてるわよ。いきなり授業をサボった、とんでもない不良のことはね」
「ははっ……そっか、覚えてくれてたか」
たゆらは下を向き、笑う。
かつてちずるが、〈葛《くず》の葉《は》〉に捕らえられたとき。
ちずるは、たゆらをかばって捕まった。弟である自分を逃がすために、あえて捕らえられたのだ。
それから約半年、たゆらはちずるを捜した。
が、捜しても捜しても見つからず、とうとう、自分から〈葛の葉〉に捕まった。
すべては姉を心配するがあまりの行動だったのだが……たゆらは妖怪《ようかい》用の刑務所に収容され、えいおー、えいおー、と運動したり慰労におとずれた妖怪演歌歌手のコンサートに涙したり、農作物を作ったり家具を作ったりしながら半年をすごし、ようやくちずるの元に送られたかと思いきや……。
『あら、たゆら、あなたもきたの?」
『き、きたのって、オイ!』
ちずるは、妖怪《ようかい》の更生施設という裏の顔を持つ学校、薫風《くんぷう》高校で、じつに学生生活をエンジョイしていた。心配してたのに。一年のあいだ、ずっとずっと心配してたのに! 辛《つら》い刑務所暮らしにも耐えながら! なのに、姉ときたら年甲斐《としがい》もなく学生服なんざ着て、高校生を演じることを楽しんでやがる。てめえ年を考えろ年を。この四〇〇歳が。
たゆらはもうすっかりふてくされて、まわりはニンゲンのガキばかりだし、なにもかもやる気を失ってしまい、さっそく最初の授業をサボって、校舎の裏で、ほけーっと空を見あげていて――そこに捜しにきたのが、あかねだった。
『なにをやっているのよ、源《みなもと》くん』
『あん? なんだ、おまえ』
『わたしは朝比奈《あさひな》あかね。あなたのクラスメイトです。ねえ、源くん。きみ、もう高校生なのよ? 不良のまねごとなんか、やめたらどう?』
『うるせえな……ガキは消えろ』
『わたしとあなたはおない年でしょうが。ほら……』
『あのな、おれは……!』
そのとき、あかねは、たゆらの手を握ったのだ。
握り、微笑《ほほえ》みながら見つめたのだ。
『さあ、戻りましょう。きみが思っているより、学校は楽しいところだから。もしかして、かっこつけてサボちゃった手前、戻るのが恥ずかしいのかもしれないけど、だいじょうぶ、そんなの本当のかっこよさじゃないから。ね?』
『……はい』
なぜかたゆらは、その手を振りほどくことができなかったのだ。
その小さな手を、ぬくもりを、振りほどくことができなかったのだ……いま考えてみれば、あのとき惚《ほ》れちまったんだよなー。
思いだし、たゆらは頭をばりばりとかく。
「で、源。わたしたちが出会ったときのことが、どうしたの?」
「ん」
じっと見つめてくるあかねに、たゆらは視線をそらす。
思い直し、見つめた。
「あのな、おれはな、あのとき以来……」
「あのとき以来……?」
「おまえのことが……」
「わたしのことが……?」
「す」
「す?」
「す、す、す……」
「す、す、す?」
ばっ、とたゆらはうつむく。
こ、言葉がでてこねえズラ!
たったあとひと文字、『き』がでてこねえ! かー、なんだコレ、なんだコレ! やべえ、おれのいまの心臓、やべえ! どっこんどっこん鳴ってやがる! なんか冷たい汗がでてくるし、耳はきーんと遠くなってくるし、あー、もう、あー、もう……。
たゆらは顔をあげた。
いえ、いうんだ。『すき』って、おれはおまえのことが好きなんだって、いうんだ!
「す、す、すー!」
そのとき、聞こえた。
『わー、だ、ダメですよ、ちずるさぁん!』
『ダメなのがダーメですー。ほら、ちゃんと気をぬかなきゃ……』
『そーだよ耕太。ぬきぬきしなきゃ』
と――。
ずばっ、とたゆらは後ろを向く。
屋上へと続く、金属製の扉を見た。
立ちあがる。
「あ、ちょっと、源《みなもと》……」
だがん。
蹴《け》っ飛ばす。
が、扉には鍵《かぎ》がかかっていた。
たゆらはなおも蹴る。蹴る、蹴る、蹴る。とうとう蹴り破る。青空広がる屋上へとおどりこみ、開けた扉は思いっきり閉める。がごん。鍵がかかった。
「み、源? 源ー!」
だんだんだん。
内側からあかねに扉を叩《たた》かれ、ノブも回されるが、開かない。がちゃがちゃがちゃ。
「あ……た、たゆらくん?」
「なによ、たゆら」
「お? おお?」
いた。
目の前に、小山田耕太、源ちずる、犹守《えぞもり》望《のぞむ》の三人が、いた。
三人は、耕太が王子さまめいたロミオの服、ちずるが王女さまめいたジュリエットの服、そして望《のぞむ》が、頭が月、身体が全身黒タイツなげっこー仮面の服を、それぞれ着ていた。ちなみに、耕太はすでに半裸だった。
ふ、ふふ、ふ……。
はは、はっはっはっー!
「た、たゆらくん……?」
「いきなりあらわれて、なにをバカ笑いしてるのよ、このバカは」
「お? おお? おおお?」
ああ、そうか、おれは笑っているのか。
くく……まったく情緒不安定だよな……たゆらは笑いを収めた。
「ったく……ああ、わかってるよ。おまえらはなんにも悪くない。悪いのは、おれさ。勇気の足りない、おれさ……。はは、自分でも自分がわからねえ。怖くて、怖くて、あのお化け屋敷より怖くて、で、飛びついちまった。おまえらにな」
だが。
「やるべきことは……やらなきゃなあ」
自分のブレザーの制服の内ポケットに、手を差しこむ。
とりだしたのは、虎《とら》のマスクだ。
ひさかたぶりの――マスク!
「とう! おれは犬笛にむせび泣く男、フォックスレッド! おのれ、そこな破廉恥ども、フォックスアイでとらえたその姿から推察するに、劇の稽古《けいこ》と称してエロス行為におよぼうとしておったな、この国際エロリストが! 無差別エロ、禁止!」
「は?」
眼《め》をぱちくりさせるばかりのエロリストに向け、虎のマスクをかぶることで変身したフォックスレッドは、なかのひと、たゆらが狐《きつね》の姿に変化《へんげ》し、全身を狐火で燃えあがらせることで灼熱《しゃくねつ》の弾丸と化し、つっこんだ。
「フォーックス・ボーム!」
「わー!」
★
ずずん、と響く。
その振動は、屋上への扉を背にしたまま、階段に座るあかねにも、もちろん届いていた。
が、あかねは動かない。
「……本当、臆病《おくびょう》なんだから」
と、静かに笑うだけ。それだけだった。
[#小見出し] 幕間その二 勘違いの喜劇[#「幕間その二 勘違いの喜劇」は太字]
すでに時刻は三時すぎ。
だが、いまだ薫風《くんぷう》高校のお祭りめいた校庭は、人ごみでごった返していた。
と、そのにぎにぎしいなかを、男女ふたり連れが、歩く。
「……四岐《しき》さま、またそのようなものをお食べになって」
「ほふ、はふ……うん、なかなかいけるぞ。おまえもどうだ、九院《くいん》?」
四岐。
九院。
どちらも、薫風高校を運営し、そして、ちずるを狙《ねら》う組織、〈葛《くず》の葉《は》〉の、それも組織を運営する八つの家の、当主の立場に立つものたちだった。
男は、三珠《みたま》家当主代理、三珠四岐。
実質、いまの〈葛の葉〉を支配しているといっても過言ではない男だ。ちずるの異質さに気づき、美乃里《みのり》などを使ってひそかにいろいろと探っているのも彼であった。
四岐は、サングラス姿だった。
サングラスどころか、普段は目立たぬようサラリーマンのような姿をしていた四岐が、いまは、髪はオールバックで黒いスーツに黒いネクタイを身につけ、さらに上には白いコートを肩にひっかけるかたちで羽織るという、いわばヤクザルックとなっていた。
となりによりそう女は、九院《くいん》家当主、九院。
〈葛《くず》の葉《は》〉に従う妖怪《ようかい》のみを集め作られた戦闘部隊・九院家の当主、九院は、蝶《ちょう》の妖怪であった。普段、銀座のクラブのママのような姿をしている彼女は、やはりサングラスに、ウェーブがかった紫の髪を後ろで軽くまとめて背中にたらし、紫のスーツに紫のパンツルックと、一見、正体不明っぽく見えなくもない。ただし、風にのり、あたりにぶうんと甘く、ちょっぴりだけエグく漂う香水は、若干、情婦チックだった。
まわりの学生や一般客が、思わず避けてとおる、このふたり。
ちずるはおろか、砂原《さはら》や〈御方《おかた》さま〉、八束《やつか》と敵対しているはずのこの四岐《しき》と九院のふたりが、わざわざ薫風《くんぷう》高校の、それも薫風祭の日に、なにをしにきたかといえば。
「はふはふ、はふっ」
「ですから、四岐さま……」
四岐は、たこ焼きを食べていた。
まわりにならぶ屋台のひとつから買い求めたのだろう、透明のパックに入った、ソースに青のりにマヨネーズがかかったたこ焼きを、つまようじで刺し、口に運び、はふはふと湯気をあげていた。ヤクザルックで。
サングラスごしの九院の視線に気づき、四岐は笑う。
「ふふ、ちょっとはしゃぎすぎか? まあ、いいじゃないか。文化祭というやつ、初めて見てみたが、なかなかに楽しいものだな。心が浮きたつよ。まるでお祭りのようだ」
にたりと、唇の両端を邪悪な感じで、あげた。
「それだけに心が痛む……くく、こんなに素晴らしい場所が、遠くない未来、わたしの手によって蹂躙《じゅうりん》されるかもしれんとはなあ?」
「四岐さま」
九院が身を寄せ、とがめるように四岐の名を呼んだ。
「どうした。〈御方《おかた》さま〉に聞かれると?」
「ええ。ここはすでに〈御方さま〉の領域……砂人形の眼《め》が、耳が、どこにあると知れません。さすがにあのかたの領域では、わたしも完全な探知はできませんし……」
しかし四岐は、ははっ、と笑いとばした。
「聞かれたからなんだというんだ? むろん〈御方さま〉とて、わたしたちの存在には気づいているだろう。一挙手一投足、一言半句にいたるまで、監視されているだろうさ。だが、だからといってなにができる? わたしたちは〈葛の葉〉で、そしてここは〈葛の葉〉の施設なのだぞ? 組織のものが組織の施設に訪れて、なにがいけないというんだ。ふふ……万が一、ここの妖怪どもが反乱でも起こしたときのため、どう攻略すべきか下見したといって、なにがいけないのだ。く、くく、く……」
肩を揺すって笑う四岐に、九院は濃い色をした唇から、小さくため息をつく。
が、じつはこれらのやりとりは、すべてわざとだった。
〈御方《おかた》さま〉側にすべて聞かれているだろうと知っていて、自分たちがすでに薫風《くんぷう》高校制圧まで考えていることを洩《も》らし、相手の動きを誘っていたのだ。
と、九院《くいん》がぱっと顔をあげる。視線をさまよわせた。
「ん? やはりすこしわざとらしかったかな」
小声でささやく四岐《しき》に、九院は『いいえ』と小さく首を振った。
「近づいてきます。かなり強い妖気《ようき》が」
「場所が場所だけに、妖気ならあちこちにあるが……おまえがわざわざ告げるということは、つまり」
「ええ」
四岐と九院は、視線を学校の玄関へと向けた。
玄関から、校庭の脇《わき》をぬけ、まっすぐ校門へと向かうのは――。
「たゆらくん……どうしてあんなこと……」
「あのバカ……なにを血迷ってるのよ! ったく、ったく!」
「がうーん……」
耕太《こうた》、ちずる、望《のぞむ》の三人だった。
みな頬《ほお》にすすをつけ、服もぼろぼろとなっていた。耕太の王子さまめいたロミオの衣装も、ちずるの王女さまめいたジュリエットの衣装も、すっかりぼろぼろ。望なんか、三日月のかぶりもののその先端が、へし折れていた。
「とにかく衣装、どうにかしなきゃ!」
「直すのは……無理ですよねえ」
「買うしかないだろうけど……似たような衣装、うまく売ってればいいけど」
「がうーん」
「あなたのは簡単でしょーが! それ、わざわざ手作りしたんでしょう? だったら直せばいいじゃないのよ、直せば。なんならげっこー仮面なんか止《や》めたって……え? あ、そっか、あなたオオカミだもんねえ。月にはこだわりがあるのか……」
「ん。お月さま、スキ。スキなお月さま、がうーん」
校門からでてゆく、耕太たち。
「……あれか。あれだな? あれがそうなんだな?」
「ええ……まちがいありません」
四岐は遠ざかるちずるの背を見つめながら、興奮の色を隠さなかった。
「ふふ、写真でこそなんども見たが、実際にこの眼《め》で見ると、なんとも……ふ、ふふ、一見、普通の人間のようで、ちょっと探ってみれば、妖気。さらに奥を探ってみれば、とてつもなくまがまがしい妖気……ふふ、なるほど、これが〈八龍《はちりゅう》〉か!」
「……あのニンゲンは、なんでしょう?」
九院が、ぽつりと洩らす。
その視線は、耕太の背にあった。
「人間? ああ、〈八龍《はちりゅう》〉の横にいる、あの少年か? 美乃里《みのり》の報告によれば、〈八龍〉はかなりの好色らしいからな……『エロギツネ』『キツネなのにウシチチ』とか。なるほど、たしかに男好きのする身体じゃないか? おそらくは〈八龍〉の獲物のひとりだろうが、かわいそうに、あんなか弱そうな少年では、長く持つまい。好色|淫乱《いんらん》な〈八龍〉に空になるまでしぼりとられ、すぐさま廃人と化す定めか……」
「本当に、そうでしょうか?」
「なんだ? なにか気になることでもあるのか」
「かすかに……ごくごくかすかにですが、妙な気を……そう、もしかすると、となりの〈八龍〉よりもなお、おそるべき力を……」
「ははっ! あまり笑わせるな、九院《くいん》。本当に〈八龍〉以上の力なら、どうしてごくごくかすかなんだ。まさか〈八龍〉に一日に十回も二十回もされて、ほとんど吸われてしまって、だから残ってないとでもいうつもりなのか? バカバカしい」
四岐《しき》は歩きだす。
残された九院は、ためらいながらも、四岐についていった。
「しかし……」
しばらく耕太の背を見つめていたが、ふと前を向き、あ、と声をあげた。
「四岐さま、またそのようなものを……焼きそばなど!」
[#改ページ]
[#小見出し] 四幕 じゃじゃ馬ならし[#「四幕 じゃじゃ馬ならし」は太字]
1
八束《やつか》たかおは、薫風《くんぷう》祭初日の今日もまた、校内を見回っていた。
髪型はオールバック、身体には黒いスーツ、手には愛用の木刀と、わざと威圧感を与える格好をして、見回る。顔もまた怖かった。眼《め》は鋭く尖《とが》り、なかの黒目が小さな三白眼。鷲《わし》のような鼻。これら生まれつきの自分の容姿を、八束はありがたく思う。薫風高校の生活指導を担当するおのれは、恐れられることで生徒たちが道を踏み外さぬようにする、それが役目なのだから。
とくに、薫風高校には、人だけではなく、妖《あやかし》までいるのだ。
ゆえになおさら、風紀は守らなければならぬ。
たとえ嫌われても、憎まれても、徹底的に――。
と、視線を油断なく周囲に向け、さらには気配等まで探る。
今日は文化祭なのだ。
ただでさえ生徒以外にも一般客がおとずれるというのに、おまけに〈葛《くず》の葉《は》〉の、しかも当主格の連中まで何人か入りこんでいるときた。現在の時刻は午後の四時、薫風祭の初日終了までは、もうすこし。無事に終了させるのも、また、八束《やつか》の役目だった。
と。
「センセー、八束センセー」
女生徒が八束に声をかけてきた。
めずらしいことといえる。いつもの八束なら、登下校の挨拶《あいさつ》こそされても、生徒たちに話しかけられることなどほとんどない。当然だ。自分は口うるさく、雰囲気も怖いはずの生活指導の教師なのだから。敬遠されて当たり前だったし、そうふるまってきたのだ。
「どうした。なにかあったのか」
「いや、おモチとか、どうかなーって。安倍川モチ、おすすめなんですけどー」
女生徒はカーキ色をした格子縞《こうしじま》の着物に、エプロンを身につけていた。
後ろの教室に立てかけられた看板によると、どうやら甘味処をやっているらしい。
「なんだ? 買収でもするつもりか?」
「やだなー、日頃《ひごろ》の感謝の気持ちですよー。……もちろん、お代はもらいますけど」
「なるほど、在庫処分というわけか」
八束は、ふっ……と笑った。
話しかけてきた女生徒のみならず、会話を聞いていたほかの生徒も、きゃはは、と笑う。
「いいだろう。いくつかもらおうか」
八束はスーツの内ポケットに手を入れ、革の財布をとりだした。
「あ、冗談ですよ? 先生からお金をもらうなんて、そんな」
「余計な遠慮はいらん。どうせ薫風《くんぷう》祭での売上は、必要経費を除き、すべて寄付することになっている。いわばこれは、募金のようなものだ」
ちぇー、と女生徒は舌をだす。
阿呆《あほう》、と八束が軽い調子でいうと、生徒たちはまた明るい声で笑った。
「まいどありがとうございました〜」
生徒一同の声を背に、八束は歩きだす。
手には、紙に包まれた安倍川モチがあった。八束はひとつつかみ、口に運ぶ。木刀を脇《わさ》に挟み、歩きながら、もぐもぐと食べた。むろん、監視の眼《め》は休めずに。
「あ〜、いけないんだあ、先生が歩き食いなんかして〜」
八束は立ち止まる。
ため息まじりに振りむいた。
「なんですか、砂原《さはら》先生。あなたも食べたいんですか」
八束の後ろには、大きな丸眼鏡をかけ、髪は太い三つ編みにした、スーツ姿の上にカーディガンを羽織った女性がいた。
砂原|幾《いく》。
八束とおなじく薫風高校の教師で、担当科目は社会科。一見、ほえほえ〜っと脳天気そうだが、その実、やはり脳天気。だが、彼女は八束とおなじく退魔の組織〈葛《くず》の葉《は》〉に属し、しかも、〈葛《くず》の葉《は》〉を動かす八家のひとつ、砂原《さはら》家の当主でもあった。
むろん、脳天気なだけでは当主は務まらない。
彼女のなかには、幾千年ものあいだ、魂だけの身で生き続けてきた砂使いの妖《あやかし》、〈御方《おかた》さま〉が宿っていた。というより、砂原家は代々、当主が〈御方さま〉の魂を引き継いでいた。つまり、やっぱり、幾《いく》自身は脳天気なわけなのだが。
「もちろんご相伴にあずかります、八束《やつか》先生」
うふふふ、とにこやかに幾が笑う。
ふっ……と八束は鼻で笑って、歩きだした。
幾は後ろをついてくる。
人影のない廊下のつきあたりまでゆき、八束は振り返った。
壁を背にし、もたれかかる。
八束のとなりに、幾はならんだ。背後の壁には窓があった。窓から差しこむあかね色の光に、八束と幾、ふたりの影は長く伸びる。
八束は、手に持った安倍川モチを、幾へと向けた。
「ふふ……たかおさんも、先生が板についてきましたねえ」
と、すこしくだけた口調でいいつつ、幾はモチをとり、ぱくりとくわえた。
「なにがいいたい、幾」
八束も口調をふたりきりのときのものに変える。というか、わざわざ人のいない場所までやってきたのはそのためだった。
「そんなにおれが生徒たちと会話していたのがめずらしかったか? あれはただ、生徒たちが文化祭の雰囲気に酔って、気安い気持ちになっていただけの話だ」
「んー、でも、なかなか悪くはなかったでしょう?」
「ふん……」
たしかに、悪くはなかった、が。
「つまりなんだ、普段から、もっと生徒たちから愛される教師になれと、おまえはそういいたいわけか? あのな、おれは生活指導なんだぞ。嫌われてなんぼ、憎まれてなんぼだろうが。みなから愛される教師は、おまえがやればいいさ」
「いいえ。充分、たかおさんは愛されてますよ」
「……なに?」
んぐんぐ、ごくん。
モチを呑《の》みこみ、幾は微笑《ほほえ》む。
「生徒たちのことを思えばこそ、厳しく接する……それはちゃんとみんなに伝わってますよ。だから、あの生徒たちはたかおさんにあんな素敵な笑顔を見せたんです。本当、たかおさんは立派な教師になりましたねえ」
「考えすぎだろう。言葉にしない想《おも》いが、そう簡単に伝わるものか」
そうだ。
相手のことを思えばこそ、厳しく接する。
言葉はいいが、しかし厳しくされた側は、思われているなんてわからないものだ。むしろ、ただ嫌われているのだと……かつての自分がそうだったのだから、八束《やつか》にはよくわかる。よくわかってしまうのだ。
「それに……立派じゃない人間は、立派な教師になどなれんだろうしな」
「え? たかおさんは、すっごく立派な人ですよ?」
「どこが立派なものかよ。あれからもう十年以上|経《た》つのに、幾《いく》、おまえをまだ……おれは自由にしてやれずにいるのに」
「たかおさん……」
むぐむぐ、むぐ。
しばし、ふたり無言でモチを食べる。
廊下の向こうでは、もう初日の終わりが近いというのに、いや、だからこそか、まだまだ生徒たちが元気だった。
「そうですか……あれから、もう十年以上、経ちますか」
「ああ。おれたちが出会ってから、もう十年以上だ」
幾のつぶやきめいた声に、八束もまた、つぶやきめいた声を返す。
そう、もう、あれは、十年以上前の話――。
2
朝の光が、そっと室内に入りこむ。
朝だ。時代劇に登場する武家屋敷のごとく、庭に面した板敷きの廊下と、いま光が入りこむ畳敷きの部屋とを隔てるものは、格子状の障子しかない。だが、薄い障子紙はそれなりの効果を発揮し、朝の光をぼんやりとしたやわらかなものへと変えていた。
だから、男と女は目覚めない。
酒、化粧、汗の、濃密な匂《にお》いがたちこめる広々とした畳敷きの部屋に、ひと組だけ敷かれたふとん。そのひとつのふとんにいっしょになって眠る男女は、光を身体に浴びても、ひたすら寝息をたてるのみだった。
女を抱く男は、まだ若かった。
若いとはいっても二十歳くらいなのだが、その身体は細身ながら鍛えぬかれており、ふとんがはだけてあらわとなった肩や腕、胸板は、針金をよりあわせたような筋肉が浮かび、浅黒い肌には無数の傷跡が覗《のぞ》く。寝息で規則正しく上下するその厚い胸板に、しどけなく抱きつく女の横顔をのせ、平気な顔で眠っていた。
と、男の眼《め》が突然、ぱちりと開く。
やたら鋭い目つきだった。
三角形の眼のなかに、小さな黒目が浮かぶ、いわゆる三白眼だ。鼻は鷲鼻《わしばな》。髪は長く、昨夜よほど激しかったのか、ざんばらと乱しきり、顎《あご》には無精髭《ぶしょうひげ》が生えていた。
「おい」
男は、ふとんからこぼれていた女の尻《しり》を、ぺちん、と叩《たた》く。
女は微動だにしない。
男はまた叩く。
ぺちん、ぺちん。叩くたび、たるん、たるるんと尻肉は揺れた。
「ん……」
ようやく女は目覚めだす。
ん……と身じろぎし、眼《め》をうっすらと開け、男の胸板からわずかに頭を起こした。
「なあに……?」
ふわ……とあくびしかけたその唇に、男は人さし指を当てた。
「いいか、ちょっと静かにしてろよ」
「んん?」
男が、視線を動かす。
視線の先――格子状の障子に、音もなく、人影が浮かんだ。
まったく足音をたてずに外の廊下を歩いてきたらしい人影は、また、音もなくしゃがみこむ。
「兄さん。たかお兄さん」
影の声は女だった。
それも若い。少女といってもいい若さだ。
「ああ……なんだ、たまき?」
まるでいま起きたばかりのような声を作って、男は返事をした。
たかお。
たまき。
そう、男は、若き日の八束《やつか》たかおだった。
そして二十歳の八束に障子の向こうから呼びかけたのが、彼の妹、八束たまきである。現在、八束家の当主代理を務める彼女は、このときはもちろん、当主代理などではない。厳しい修行を受けているとはいえ、ただの高校生だった。
「だれ……? 妹さん……?」
八束は、まだ寝ぼけ眼で尋ねてきた女の口を、手のひらでふさぐ。
しー。声にださず、顔の表情と人さし指を自分の唇に当てることで、再度、沈黙をうながした。女は、こくこくとうなずく。
「父上が、お呼びです」
たまきは女の声には気づかなかったものか、ただ用件を告げた。
「ん、オヤジが? またこんな朝っぱらからお説教か?」
八束も、しれっと返す。
「さあ、わたしにはくわしいことは」
「だろうな……」
「ただ、父上の元には、お客さまが見えられてます」
「客? こんな朝から? だれだ?」
「砂原《さはら》家のかたです」
「砂原家……? ということは、なにか、砂原家のやつがおれに用なのか?」
「さあ。とにかく、父上はすぐにこい、とだけ」
「わかったよ……じゃあ、すぐにいく、とだけ伝えておいてくれ」
「では……」
障子に浮かぶたまきの影は、きたときとおなじく、音もなく立ちあがり、音もなく去っていった。
八束《やつか》は無精髭《ぶしょうひげ》の生えた顎《あご》に手をやり、口をへの字にする。
「砂原家……砂原家……んー、呼びだされる心当たりはとくにないが……この前ぶん殴ったのは、三珠《みたま》家の阿呆《あほう》だったし。その前は、九院《くいん》家の阿呆|妖怪《ようかい》だし。すくなくとも砂原家のやつらには、手はだしたことはなかったはずなんだが……さーて?」
「ふふ……兄さん、だって。お兄さん、怒られちゃうわけ?」
八束の胸に両|肘《ひじ》をつき、女は微笑《ほほえ》んでいた。
ふっ、と八束は鼻で笑う。
「ま、褒められることだけはないだろうさ。なんせ、おれはガキのころからオヤジどのには嫌われているからな。なぜかはよくわからんが……」
八束は一瞬、陰りのある表情を浮かべた。
すぐに笑いで塗りつぶしながら、女を自分の下へと組み伏せる。
「やん……お兄さん、すぐにいくんでしょう?」
「ああ、すぐにいくよ」
「そっちのイクじゃなくて……もう、ちょっと……あん……」
「早くいこうが、遅くいこうが、どっちみちロクなことはない……だったら修行に励むさ。オヤジどのはふたことめには『黙って修行してろ』だからな」
「しゅ、修行? これ、修行なの?」
「そう。房中術ってな、男と女でおこなう、楽しーい修行なのさ」
「そういえば、たかおちゃん……あなた、なにやってるひとなの?」
「ん? おれか? おれはな、いってみれば正義の味方というか……」
そのとき、ざぱっ、となにかが断ち切られる音があがった。
びく、と八束は動きを止める。
おそるおそる、音があがった方向――障子の側を見ると。
ゆっくりと、障子が斜めにさがってゆくところだった。
やがて、ばたん、と断ち切られた障子が八束のいる部屋のなかへと倒れこむと、そこには少女が立っていた。
たまきだ。
セーラー服をまとい、頭は前髪ごと後ろでまとめたポニーテールにしたたまきが、八束《やつか》とおなじく鋭い三白眼でもって、静かにこちらを睨《にら》んでいた。
「兄さん」
ぬっ、と鋭い切っ先が、離れた寝床の八束の眉間《みけん》へとつきつけられる。
きゃっ、と女が悲鳴をあげる。それは剥《む》き身《み》の日本刀だった。この刀を使って、たまきは鮮やかに障子を断ち切ったのだ。
「な、なんだよ?」
「どこぞで拾ってきた女と、日夜、房中術の修行に励むのも構いませんが……くれぐれも、あなたはこの八束家の次期当主であること、お忘れなきよう」
「お、おーう」
★
「ったく、あの性格はだれに似たのかね? 下手に触れれば斬《き》れそうというか、触れなくても自分から斬りにきそうというか……オヤジよりひどい。あんなんじゃあ、男もよりつかんだろう。学校とか、どんな風にすごしてるのやら。目つきはともかく、顔はけっこう整ってるんだから、あの性格さえ直せば、男のひとりやふたり……」
ぶつぶつとつぶやきながら、八束は屋敷の廊下を歩く。
その姿はむろん、さきほどの裸ではなく、上は紺色をした半|袖《そで》の着物に、下は着物とおなじ紺色のズボン。腰には白い帯を締めていた。いわゆる甚兵衛に似た服装だが、これは八束家の正装だった。
正装だった、が。
適当に後ろに撫《な》でつけただけの髪といい、脂の浮いた顔といい、無精髭《ぶしょうひげ》の生えた顎《あご》といい、酒やら化粧の匂《にお》いをぷんぷんさせた身体といい、どう考えても客の前にでる格好ではなかった。さらに胸元から手を差しこんで、ばりばりと身体をかきだす。
なんら格好を直すことなく、八束は客間であるふすまの前へと立った。
「おう、オヤジ。呼ばれてきたぞ」
「……入れ」
八束は胸元には手を差しこんだまま、足でふすまを開けた。
いちおうは軽く会釈しつつ、なかへと入る。やはり足で、ふすまを閉めた。
なかは、和装の客間だ。
床の間に掛け軸が飾ってあったり、花が活けてあったり、部屋の中央には、茶を点《た》てるための炉があったり。灰が敷かれたその炉では、いま、茶釜《ちゃがま》が、ゆんわりと湯気をあげている。
茶釜《ちゃがま》を囲み、向かいあって座る人の姿は、ふたり。
ひとりは八束《やつか》そっくりの、しかし白髪を増やし、顔の皺《しわ》も増やした男だった。
八束の父親だ。短く刈りこんだ坊主頭に、息子や娘とおなじ三白眼。髭《ひげ》はなく、格好は例の八束家の正装、紺色をした半袖《はんそで》の着物に、白い帯を締め、下は紺色のズボンだった。ただし、当主であるためか、着物の上には紺色の羽織をまとっている。
八束の父は、黙って八束を見つめていた。
もっとも、黙っていてもその三白眼には、大変な圧力がある。しかし、もう慣れっこになっていた八束は、ふん、と鼻で笑った。
もうひとり、父親の向かい側には――。
「うん?」
まだ中学生くらいとおぼしき少女が、座っていた。
厚手のチェック柄のワイシャツに、デニムのジーンズを穿《は》いている。シャツの裾《すそ》はしっかりとジーンズのなかに入れてあって、さらに丸眼鏡、太い三つ編みと、どうも野暮ったい。八束は彼女の横に大きなリュックサックがあるのを見て、なるほど、キャンプにでもいくのか、と思った。
だが、キャンプにいく少女が、おれになんの用があるというんだ?
妹、たまきの話からすれば、おそらくは彼女が客で、彼女が八束に用事があり、おまけに彼女は砂原《さはら》家の人間なはずなのだ。
「まず、座れ」
八束の父が、いった。
ほう? と思いながら、八束は従う。
わざわざひどい格好をしてきたのに、『お客さまの前だ。帰れ』といわれなかったからだ。まあ、そういわれたら素直に帰って、そのまま戻らないつもりだったのだが。八束は茶釜の前にある、父親と少女、ふたりのあいだに位置するざぶとんに、腰をおろした。
父も客も正座していたが、八束はかまわずあぐらをかく。
父親の目つきは若干、鋭くなるも、とくに言葉はなかった。
へえ……。
やはりめずらしい。ここまですれば、普段なら『阿呆《あほう》が……』のひとこととともに、殴りとばされてもおかしくはない。どうやら斜め横に座る少女は、よほど大切な客のようだ。八束は、彼女に視線を向けた。
「う?」
少女は、八束の視線を受けてなお、にこにこと微笑《ほほえ》み返してきた。
予想外の反応だった。八束家伝統の三白眼で見つめられれば、普通、怯《おび》えるなりなんなりするものなのに。微笑み返されたのは、八束はこれが初めてだった。
「そのおかたは、砂原|幾《いく》さまだ」
とまどう八束に、父親がいう。
「ん? 砂原《さはら》幾《いく》?」
心当たりのある名前だった。しばし考え、八束《やつか》は思いだす。
「ああ、どこかで聞いたことがあると思ったら、へえ、おまえさんが砂原家の次期当主か。まさかまだこんなガキ……と、いや、まだこんなお若かったとはな。なんだ、いま、中学何年生だ? もしかして今日は、学校の行事でキャンプかなにかなのか?」
「お若いだなんて、そんな……えへへ〜、困ります〜」
なぜか、少女は照れだす。
「なんだ? おれはいま、なにかへんなことをいったか?」
「阿呆《あほう》。幾さまはな……」
父親はなにかいいかけるも、少女に、んじっ、と見つめられ、口ごもった。
「どうした、オヤジ」
「なんでもない」
どうも妙だ。
怪訝《けげん》に思う八束の視線を、父親はごほん、と咳払《せきばら》いで払う。
「幾さまはすでにもう、砂原家の次期当主ではない」
「次期当主じゃあない? あー、つまりアレか、なにかやらかして勘当されてしまったのか。なるほど、だからそんな大荷物を……まだ子供なのに大変だな。どうだオヤジ、しばらくうちに置いてやったら」
「ド阿呆。幾さまはきさまのような極道息子とは違う。幾さまは、すでに砂原家の次期当主ではない……なぜなら、さきほど、当主となられたからだ」
「当主となった? と、いうことは……」
へえ。
八束は、これまでの父親の態度にすべて納得がいった。
「なるほど、〈御方《おかた》さま〉の前じゃあな。かしこまるのも無理はないか……」
〈御方さま〉とは、〈葛《くず》の葉《は》〉の創設者のひとりであり、砂原家の当主に代々|憑依《ひょうい》することで、幾千年ものときを生きぬき、現代にまでその身を存《ながら》えていた砂使いの妖《あやかし》のことだった。いわば〈葛の葉〉という組織の大長老といってもいい。
ゆえに、〈御方さま〉のいる砂原家は〈葛の葉〉筆頭家の三珠《みたま》家とならぶ力を持つ。
おなじ〈葛の葉〉八家のひとつとはいえ、たかだか一戦闘部隊でしかない八束家の当主では、恐縮してしまってもしかたがないだろう。
しかし、このガキがねえ……。
八束は、ただの中学生にしか見えない少女、砂原幾を、じろじろと眺めた。砂原幾は、うつむきがちに正座したまま、恥ずかしいのか、ぽっ、と頬《ほお》を染める。
「で、オヤジ。その砂原家のご当主さまの御前に、なんだってこの勘当寸前な極道息子が呼ばれたわけだ? 〈御方さま〉直々に、ありがたいお説教でもしていただけるのか?」
「ほう。よくわかったな」
「あん?」
「では、お願いします、幾《いく》さま。それに、〈御方《おかた》さま〉」
父親が、少女に頭をさげる。
「おい、オヤジよ……」
「おう、極道息子よ」
と、返事したのは父ではなかった。
父親に頭をさげられた少女、砂原《さはら》幾だった。
いや、もはや少女は砂原幾ではなかった。
彼女の瞳《ひとみ》は紅《あか》く、三つ編みが自然にほどけ、ざわめき、身体のまわりにはなにやら紫色のもや――いわゆるオーラが浮かぶ。声色すらも違う。
なにより、この圧倒的なまでの存在感はなんだ?
ただ彼女の紅い瞳で見つめられているだけで、八束《やつか》は自分の身体から冷たい汗が染みだしてくるのを、どうしても止めることができなかった。
これか……。
これが〈御方さま〉か!
「ふむ……なるほど、これはみごとに伸びておるの」
〈御方さま〉がいった。
「の、伸び?」
「鼻じゃよ、鼻。おのれはもう充分に強いなどと勘違いした小天狗《こてんぐ》が、得意げに鼻を伸ばしておるわ。まーだオシメすらとれておらんというのにの」
「……ふん。初対面でいきなり、ずいぶんなものいいじゃないか?」
八束はにたりと笑いながら、腰を浮かし、片膝立《かたひざだ》ちとなる。
安い挑発だ。安い挑発だが、おかげでただすくむだけだった八束の身体には、力が入るようになつた。
「世の中、相手が偉いからといって、ただ黙ってへいこらと頭をさげるやつらばかりとは限らないんだぜ、〈御方さま〉よ」
「ごたくはいいから、ほれ、かかってこんか」
「なに?」
「おのれの力がどれほどのものか、知りたいのだろう。胸を貸してやるわ。ほれ、こい」
ほれ、ほれ。
〈御方さま〉が、その中学生にふさわしい小さな胸を、挑発的に突きだす。
「はは、あんたはいちいちわかりやすくていいな。オヤジとは大違いだ」
八束は立ちあがった。
「じゃあ、ありがたく貸してもらうとするかい。伝説の砂使いの貧乳をな!」
飛びかかる。
父親は、息子の行動を、止めるでもなく、ただ黙って見守っていた。
★
「と、いうわけでな、幾《いく》さまは当主の座につかれた手始めに、とある妖怪《ようかい》の退治へとおもむかれる。そこでたかお、おまえをここへ呼んだのはほかでもない。幾さまの手伝いをしてもらうためだ。幾さま、引いては〈御方《おかた》さま〉とともに闘うことは、きっとおまえにとってもいい勉強になることだろう。わかったか?」
と、父親が説明を終えた。
「では、お願いします、たかおさん」
と、幾が頭をさげた。
八束《やつか》は返事をしない。
したくてもできなかった。
〈御方さま〉に闘いを挑むも、みごとに返り討ちにあっていたからだ。
飛びかかったつぎの瞬間、八束は砂でできた巨大な拳《こぶし》にぶん殴られ、畳の上を跳ねながら壁とふすまをぶち破り、庭まで吹き飛ばされた。いちおう、追いかけてきた砂の手につかまれ、ぎゅーっと握りしめられたまま、元の客間へと戻され、しっかりと父親の説明を聞かされてはいたが、とても返事する気力などない。
「ぐ……く、か……」
と、うめくばかりが精一杯だった。
ふ、と笑ったのは、瞳《ひとみ》の色を紅《あか》に変えた幾だ。
〈御方さま〉のご登場である。
「ほほ、少々、やりすぎたかの?」
「いいえ。身体だけはしっかり鍛えてありますので。死にはせんでしょう」
父親が答えた。
「身体は鍛えてあると。となれば、あと、こやつに足りぬのは」
「ええ。心です。とにかく、こやつには心が足りぬのです」
「ま、またそれか、ジジイ……」
八束は、砂の手に握りしめられ、宙に浮いた姿勢で、父親を睨《にら》みつけた。
「てめえは、いつだってふたことめには、心、心……バケモノを倒すのに、なんの心が必要だってんだ! 力だけありゃいいだろうが! なのに……てめえは……」
げほ、がは、八束は咳《せ》きこむ。
身体を締めつける砂の手に散った唾《つば》には、血が混じっていた。
「わからぬか……」
父親が、長々とため息をつく。
「ま、よいわ」
ばちん、と〈御方さま〉が指を弾《はじ》くと、八束を握っていた砂の締めつけは消えた。
どころか、砂の手まで消え、八束《やつか》は畳の上へと投げだされる。八束は受け身もとれず転がり、そのままあおむけとなって、荒く息をついた。
「い、いっそ、殺せ……簡単なことだろうが……」
「殺しなどするか、たわけ。おぬしにはわしの手伝いをしてもらわねばならんのだからな。嫌などとはいわせんぞ、極道息子? おぬしはわしに無様に負けおったのだからな。負けた以上、おぬしはわしの下僕じゃ。犬じゃ。ミジンコじゃ。しばらくわしのそばにおって、よく考えてみるとよい。いま、おぬしはバケモノを倒すには、力だけあればよいといった。が、その力とやら、わしというバケモノにはまーったく通用せんかったことをな」
〈御方《おかた》さま〉の声を遠く聞きながら、八束は意識を失った。
3
ごととん、ごととんと、リズミカルな音をたて、電車はゆく。
窓を流れる景色は、山と畑。
ただそれだけだ。ほかになにもなかった。
ちっ……。
電車のなか、座席に座り、頬杖《ほおづえ》をつきながらずっと外の景色を眺めていた八束は、舌打ちする。すべてがいらついた。代わり映えのしない景色も、電車に乗っているいまの状況も、自分が置かれた立場も、なにもかもが。
いまの八束は、黒いスーツ姿だった。
遠くへ仕事をしにゆくときは、だいたいいつもこの格好なのだ。人相のあまりよくない自分が、黒スーツ姿にオールバックなんて姿でいると、いまのように移動中など、ほかの観光客から気安く話しかけられずにすむ。
話しかけられずにすむということは、いちいちごまかさずともすむということだ。
たとえば、いま八束のかたわらにある、灰色の袋に入った細長い棒状のもの。この中身を尋ねられ、はい、これは刀です、この刀を武器に、わたしはこれから妖怪《ようかい》退治にいくんです、などと正直に答えるわけにもいかない。かといって嘘《うそ》を考えるのも面倒な話で、つまり、威圧でもなんでもして、話しかけられないのがいちばんというわけだった。
だが。
「は〜い、たかおさん」
正面の、八束とは向かいあわせの席に座る、阿呆《あほう》ときたら。
「たかおさ〜ん?」
まったく、この阿呆ときたら。
「た、か、お、さん?」
ぎりり。八束は奥歯を鳴らす。
「たかちゃん?」
八束《やつか》は鋭い三白眼をさらに鋭くさせた。
「た〜か〜お〜♪」
「やかましい! 電車のなかで人の名前を高らかに歌いあげるな!」
くすくす、とほかの乗客の笑い声が届く。
「だって、返事してくれないんですもの〜……」
正面に座る少女、砂原《さはら》幾《いく》が、唇を尖《とが》らせた。
幾は、三日前、客間で出会ったときとおなじ、キャンプにでもいくような、チェック柄のシャツにジーンズといった格好でいた。横には大きなリュックサックもある。こんな格好をした中学生の少女が、黒スーツにオールバックの青年といっしょにいるのだ。目を引くどころか、やたら警官やら電車の車掌やらに話しかけられ、連行されかける始末だった。そのたび、〈葛《くず》の葉《は》〉の本部に連絡をとって、上のほうに働きかけてもらって……ああ。八束はもう、ため息もでない。
「じゃ、あらためて。はい、たかおさ〜ん」
と、幾が差しだしたのは、つまようじに刺したたこさんウインナーだった。
少女の太ももの上には、お弁当箱が広げてあった。駅弁ではない。彼女がわざわざ手作りしたものだった。
〈御方《おかた》さま〉にぶちのめされた八束は、動けるようになるまでに、三日を要した。
その三日のあいだ、いまのように、ずっと看病と称しておかゆを『あ〜ん』と食べさせられたのだ。まだ身体はあちこち痛むが、いいかげん、たくさんだった。もう治ったと嘘《うそ》をつき、八束はこうして、〈御方さま〉の妖怪《ようかい》退治の手伝いへとおもむいていたのだ。
その、『あ〜ん』を。
まわりに乗客の眼《め》があるここでも、またやろうというのか、このガキは!
八束は、目の前に突きつけられたたこさんウインナーを睨《にら》む。
「この……」
「はい、あ〜ん」
「ふも!?」
開けた口のなかに、なかば強引にたこさんウインナーを入れられてしまった。くすくす、くす。また乗客が笑う。
「くっ……!」
また腹立たしいのが、けっこう美味《おい》しいということだ。
看病のときのおかゆも美味《うま》かった。美味しいせいで、ついつい『あ〜ん』されてしまうのだ。とにかく、この砂原幾という少女、彼女に憑依《ひょうい》している〈御方さま〉はもちろんかなりのタマだが、幾自身も、なかなかのものだった。
「あのー、たかおさん?」
「なんだ! もう食わんぞ!」
「どうしてたかおさんは、不良なんですか?」
げふ、と八束《やつか》はあやうく口のなかのウインナーを噴きだすところだった。
「だ、だれが不良だよ」
「だって、たかおさんのお父さんがいってましたよ? たかおさんは、修行はサボるし、だれかれ構わずケンカは売るし、しょっちゅう女を家に連れこむし、酒は飲むし、バクチはするし、まさに不良、完全無欠の極道息子だと」
はい、とアルミホイルに包まれたおにぎりを、丁寧に剥《む》いてご飯と海苔《のり》を露出させてから、幾《いく》は八束に手渡す。「あ、中身は梅干しです」といいそえながら。
八束はおにぎりを受けとり、がくんとうなだれた。
「本当、おまえはたいしたガキだよ……よくぞそこまでおれに対してもの怖《お》じしない。なあ、おまえ、おれが怖くないのか? まったく?」
「怖い? どうしてですか?」
幾は丸眼鏡の奥の瞳《ひとみ》を、ぱちくりとさせていた。
ちっ……八束は舌打ちし、おにぎりにかぶりつく。くそ、やはり美味《うま》い。
「あのな、オヤジのいうことはぜんぶ本当だよ。たしかにおれは、飲む、打つ、買うの極道息子だ。だけどな……それはある意味、オヤジのせいでもあるんだぞ」
「え?」
幾は、鶏のからあげにつまようじを刺した。
「それふぁふぁっ」
それはな、と八束がいおうとしたところに、鶏のからあげが『あ〜ん』とばかりにつっこまれる。こ、このガキは、本当に……八束は睨《にら》みつけるも、屈強な男ですら震えあがらせるはずのおのれの三白眼は、幾をにこにこと微笑《ほほえ》ませる効果しかなかった。
「それはな! オヤジが、おれを闘わせてくれないからだよ!」
むぐむぐと食べつつ、八束はいった。
「お父さんが、闘わせてくれない……ですか?」
ここで八束は場所を考え、声を抑えることにした。
〈葛《くず》の葉《は》〉が退魔の組織であることは、一般人には知られていないのだ。また、なるべくなら知られぬままにしておかねばならない。さいわいなことに、まわりの乗客の顔つきを見るかぎり、さきほどまでの八束と幾の会話は、極道的解釈をされたようだった。
八束は、小声でささやく。
「ああ、闘わせてくれん。いや、ザコの妖怪《ようかい》とはやらせてくれるよ。だがな、一級の妖怪となると、直接当たるどころか、補助役にすらつけてはくれんのだ」
ふー、と八束は長々、息を吐いた。
「自分でいうのもなんだが、おれは闘うことにかけてはなかなかのもんだと思っている。ガキのころから、術でも技でもなんでも、すぐに覚えられた。どんな修行だって、簡単にこなせたしな……なんたって、まわりができないのを見て、なんでわざと失敗してるんだと思ったくらいだ。そんなおれをまわりのやつは天才と呼んだし、実際、力だけなら、八束《やつか》家のなかでもオヤジにつぐと自負している。だけどな……」
「お父さんは、強い妖怪《ようかい》さんとは、けっして闘わせてくれないんですね?」
「ああ……『まだ未熟だ』のひとことさ。ふん、いくら鍛えあげても、その力を使えないんだぞ? どうしてまじめに修行をする気になる? なのにオヤジときたら、とにかく修行しろの一点張りだ。『おまえには心が足りん』だとよ」
「心……ですか」
「そうだ。心だ。闘いにどうして心がいるんだ。精神力か? それならおれは売るほどあるつもりだ。死ぬことなんか、まったく怖くないんだからな」
「死ぬの、怖くないんですか? ぜんぜん?」
幾《いく》が、眼《め》を丸くする。
「そんなにおかしいか? いざ闘う段になって、死を恐れてどうするんだ。よくいうだろう。武士道は死ぬことと見つけたり……べつにおれは武士じゃないが、退魔の戦士ではある。妖怪に勝つためなら、死ぬ覚悟はできてるんだよ」
「だから……ですよ、きっと」
「あん?」
「はい? なんですか?」
幾が、にこやかに尋ね返してきた。
「いや……いまおまえ、なにかいわなかったか?」
「な〜にもいってませんよ? はい、あ〜ん」
「あ? あ〜ん」
つい、口を開けて卵焼きを受け入れてしまった。おれのかんちがいか……? 首をかすかにひねりながら、八束は甘じょっぱく味つけされた卵焼きの味を堪能する。むぐむぐ、ごくん。おにぎりも食べる。むぐむぐ。うむ、やはり美味《うま》い……。
「とにかく、だな。おれは闘いたいんだよ。いま持てる力を、全力で、ただぶつけてみたい。だってそのためにひたすら鍛えてきたんだぞ? なのに、オヤジはやらせちゃくれん。人魂を成仏させるだの、結界を張り直すだの、ひたすらそんなどうでもいい仕事ばかりだ。ったく……飲む、打つ、買うでもしなきゃ、やってられんだろうが」
やってられないのは、本当だった。
もちろん、父親へのあてつけめいた気持ちがないといったら嘘《うそ》になる。女を連れこむことなど、わざと見せつけている点はある。だが、それ以上に、八束は酒を、女を、バクチを、ケンカを、とにかく発散できるものを欲していたのだ。そうでなければ、もう狂いだしてしまいそうだったからだ。
鬱屈《うっくつ》した想《おも》いが引きおこす、いびつな、だが強力なエネルギー。
じっとしていると、それが、暴れだしそうになる。修行なんかした日には、その無意味さに見るものすべてを破壊したくなる。まったく、冗談じゃなかった。
いっそ狂えりゃ楽だろうに。
いまこうしているときだって、八束《やつか》は本当は叫びだしたいのだ。もてあます力を振るいたくて、しかたがないのだ。
ふん……鼻で笑った。
「そういや、どこぞの山奥には、あの九尾《きゅうび》の狐《きつね》が温泉宿をやっているとか、そんなふざけた話も聞いたことがあるな……いっそ、九尾の狐にお相手してもらおうかね」
口にだしてみると、なかなか悪くない考えに思われた。
最強かつ最凶と名高い九尾の狐、それとの闘いは、きっと八束を心の底まで満足させてくれるに違いない。勝てはしないだろう。まちがいなく死ぬだろう。だが、だからどうした? 死ぬのは怖くない。そもそも、いまだって生きながら死んでるようなもんだ――。
「なんじゃ? あの女狐《めぎつね》めとやりたいのか?」
幾《いく》の声音が変化したことに気づき、八束は眉間《みけん》に深く深く皺《しわ》を刻む。
でてきやがったな、このバケモノ……。
「わざわざ玉藻《たまも》めのところなんぞにいかんでも、相手が欲しけりゃわしにいえい。いつでもこの前のときのように、けちょんけちょんにのしてくれようぞ。ん?」
幾のにこやかだった眼《め》は細くなり、その隙間《すきま》から紅《あか》い光が覗《のぞ》いていた。
が、さすがに電車内だったこともあって、三つ編みがほどけたり、紫色の妖気《ようき》を洩《も》らしたりはしていない。
「へえ……つまりなにか、あんたはあの九尾の狐なみに強いってのか?」
八束はせせら笑いを浮かべ、あらわれた〈御方《おかた》さま〉に顔を近づけた。
「いくらあんたが〈葛《くず》の葉《は》〉の重鎮で、何千年と生きているからって、そりゃいいすぎじゃないか? あんたはしょせん、ただの砂使いなんだ……そうだな、砂で大巨人でも作れればわからんがな。ろけっとぱーんち、とか腕を飛ばしたりしてな?」
ははは、と至近距離で笑いを浴びせてやる。
ところが〈御方さま〉も、一緒になって笑いだした。
「それはいいアイディアじゃのー。こんどやってみるか?」
「はっはっは、本気かよ、あんた」
「ほっほっほ、本気じゃよ、おぬし」
「――って、いいかげんにしやがれ!」
根負けした八束は、顔を離し、かたわらに置いた袋入りの刀をつかむ。
「いちど勝ったからって調子にのるなよ。あのときはこいつがなかった。八束家の技の神髄は、刀術にあり、だ。刀がこの手にあるいま、簡単にはやられん」
〈御方さま〉が、にぃっと笑い――。
「その意気です、たかおさん!」
すぱっ、と表情を変えた。
「刀さえあれば、きっと勝てます! ガンバ、たかお!」
身をのりだし、鼻からすぴー、と息を吐きつつ握《にぎ》り拳《こぶし》を作る少女は、どこからどう見ても砂原《さはら》幾《いく》だ。
八束《やつか》は、がくっ、と傾く。
「あ、あのな……おれが〈御方《おかた》さま〉に勝つということがどういうことなのか、おまえ、わかってるのか? 〈御方さま〉はおまえに宿ってるんだぞ? つまり、〈御方さま〉がやられるということは、おまえの身体もやられるということで……」
「もしも勝てなくても、だいじょうぶですよ。努力はいつか実りますから」
「おまえ、もしかしておれの話、まったく聞いてないな?」
「たかおさんは、天才と呼ばれてたんでしょう? だったらいつかきっと、〈御方さま〉にも勝てますよ……じゃ、〈御方さま〉に勝つためにも、たくさん食べなくちゃ。はい、あ〜ん」
もはや喋《しゃべ》る気力もなくなって、八束は幾がつまようじに刺したたこさんウインナーを、素直に『あ〜ん』と食べた。
もしかしたらこいつ、〈御方さま〉より手強《てごわ》いかもしれん。そう思いながら。
4
「ふん……ここか?」
八束は木々が深く茂る山道の入り口に立ち、横の幾に尋ねた。
「はい、この山です」
見あげると、山の高さ自体はさほど大したことはないが、暮れかけた日が、すでに山林に深い闇《やみ》を作りだしかけていた。気温もかなり低い。電車、バスを乗り継ぎ、さらにはるばる歩いて、この東北の山中にまできたのだから、暗いのも寒いのも当然なのだが。
もっとも、暗さ、寒さなど八束は問題としない。
厳しい修行を収めた八束の眼《め》は、闇を見とおすことができたし、練気法や呼吸法などを駆使することで、体温、体力の低下も防ぐことができた。食事や排泄《はいせつ》だって、その気になれば三日程度なら我慢することができるのだ。なにも問題はなかった。
「よし、じゃ、いくとするか」
と、足を踏みだしかけ、そういえば、と訊《き》く。
「まだ相手がどんな妖怪《ようかい》だったのか、教えてもらってなかったな」
「あ、わたしも知りません!」
リュックを背負った幾が、元気よく答えた。少女も、さすがは砂原家の当主というべきか、それなりに鍛えあげていたらしく、ここまでの道中、苦にしたところはなかった。
しかし。
「……おまえも、知らないだと?」
「はい。あ、少々、お待ちください」
ふいに、幾の眼がさまよいだす。
ばちん、と焦点があった。
「いま、〈御方《おかた》さま〉から教えていただきました。ものすご〜く強い、羆《ひぐま》の妖怪《ようかい》さんだから、きっとたかおさんも気に入るだろう、とのことです」
「いや、それはいいんだが……」
「はい?」
「幾《いく》、おまえ、それでいいのか?」
「え?」
「どうもおまえに対する〈御方さま〉の態度が気にかかるというか……これから、かなりの力を持った妖怪……ええと、羆だったか、そいつと闘わなければならないんだろう? いくら闘うときには〈御方さま〉がでてくるとはいえ、危険にさらされるのはおまえの身体のはずだ。なのに、どんなやつと闘うのかすら、教えてもらっていない? いいのか、おまえ、本当にそんなことで」
「あ……え〜、そのー」
幾がうつむく。リュックの肩掛けの部分を持ったまま、唇をむにむにと噛《か》みだした。
ふー、と八束《やつか》は息を吐く。
「べつにおまえを困らせようってんじゃないんだがな……まあいい。いくぞ、幾。ものすご〜く強い、羆の妖怪だったな。なるほど、たしかにおれが気に入りそうな相手だ」
「は、はい!」
八束は先頭を切って山道へと入る。幾の声が、あとに続いた。
★
「なんなんだ、これは……幾」
八束の前には、泉があった。
泉というか、岩場の陰にある、人が数人入れるほどのくぼみに、こんこんと湧《わ》きだす、湯気たつこの水、いや、お湯は……。
「はい、温泉です〜」
「ふざけてるのか、おまえは!」
たまらず、八束は怒鳴った。
山道を歩き、道なき道もとおり、木々のあいだをぬけ、岩肌をのぼりと、月が中空に浮かぶほど山奥へと進んだ果てが温泉では、怒鳴りたくもなる。どうやら硫黄泉ではないらしく、温泉を予感させるような匂《にお》いもなかったため、なおさら衝撃が強かった。
「いえ、けっしてふざけているわけではなく……その、目的の妖怪さんが、よく利用する温泉なんだそうです。ですから、ここで待ち伏せすれば、苦労なく会えるだろう、と」
「〈御方さま〉がか?」
こくこく、とうなずく幾。
本当かよ……。
八束《やつか》は、どうもなにか裏がありそうな気がしてならなかった。
「じゃ、たかおさん」
「なんだ? ああ、待ち伏せか……さて、うまくいくのか、そんな作戦」
「いえ。こちら、どうぞ」
「あん?」
見ると、幾はタオルを差しだしていた。
「……なんだ? これは」
受けとり、広げてみる。書かれている文字は……『玉ノ湯』? どこかの温泉旅館のノベルティーグッズか?
「タオルです。お風呂《ふろ》に入るのには、必要じゃないですか」
「風呂に入る……? って、おまえ、まさか!」
「今日はずっと歩きづめで、汗、かいちゃいましたもんね〜」
すでに幾は、チェック柄のワイシャツを脱ぎ、岩場にかけていた。
続けて、なかのシャツを脱ぎ、ジーンズも脱ぎ、靴下を脱ぎ、ベージュ色のブラを外し、同色のショーツも脱ぎと、手早く裸になる。中学生にしては妙に肉づきがいいというか、成熟した臀部《でんぶ》をあらわにした。むろん、大きさはまだまだだが。
「やだ……たかおさんったら……あまり見られると、恥ずかしいです……」
と、よせばいいのに幾はこちらを向き、やはり中学生のくせに質感といい、色彩といい、妙に大人びた胸部を片手で隠し、意外なまでに生えそろった茂みを、もう片手で隠す。
「……はっ」
すぱっ、と八束は後ろを向いた。
「ど、どど、ド阿呆《あほう》! な、なにを考えとるんだ、おまえは!」
「え〜? そこの温泉に入ろうって……」
「そういう意味じゃなくだな……お、男の前で、そんな、中学生がぱっぱぱっぱと服をだな……じゃなく、ええと、ああ、そうだ、どうして温泉になど……でもなく、ド阿呆、いまは任務中じゃないのか! だいたいにして、いつその目的の妖怪《ようかい》が帰ってくるかもわからんのに……阿呆も阿呆、おまえは大阿呆だ!」
「ほう、怖いのか、おぬし」
「なっ……!」
〈御方《おかた》さま〉の声に、八束は振りむきかけ――。
「きゃーっ、たかおさんの、えっちー!」
幾の悲鳴と裸身に、向きを戻した。
ええい、どうしろというんだ! 八束は、手に持っていた刀の、白木の鞘《さや》と柄の両端をつかみ、折れよとばかりに力をこめる。
「え〜、〈御方さま〉からのお言葉を、お伝えします。我らはこれから目的の妖怪を現地点で待ち伏せするのだが、相手は羆《ひぐま》。人の体臭には敏感である。むろん、匂《にお》い消しの効果を発揮する砂もあるが、念には念を入れ、温泉に入り、汗をすべて洗い流せ。これは命令である。くり返す、これは命令である……とのことですけど〜」
ぐ、ぐぐ……。
八束《やつか》は歯がみした。
「わかったよ……入ればいいんだろう、入れば……くそっ!」
乱暴に、首のネクタイを引っぱり、ほどく。
「あ、ちゃんと替えの下着、用意してありますからね、わたしのリュックに」
「がーっ!」
八束は脱いだスーツの上を、岩場へと叩《たた》きつけた。
★
「いいお湯ですね〜」
と、幾《いく》が、湯船につけていたタオルで、頬《ほお》を拭《ぬぐ》う。
八束と幾は、月の浮かぶ星空の下、妖怪《ようかい》を倒すはずが、なぜか温泉につかっていた。なんだ。なんなんだ、これは。八束は、胸元から上をすっかりお湯の上にだすかたちで、くぼみが作りあげる天然の浴槽にあぐらをかきながら、だらだらだらだら、汗を流す。
「……おい、幾」
「はい〜?」
幾は小柄なせいか、肩口が覗《のぞ》くていどまで、しっかりお湯につかっていた。なお、丸眼鏡はかけたままだったので、すっかり曇ってしまっている。
「〈御方《おかた》さま〉をだせ」
「え?」
「いいからだせ」
「は、はい〜」
なにを企《たくら》んでやがる、あのバケモノ……。
お湯につかりながら八束《やつか》はずっと考えていたが、やはりおかしい。敵がすぐそばにいるかもしれないのに、体臭を消すため、温泉に入れ? ふざけるな、いま襲われたらどうするつもりなんだ。〈御方さま〉はなにかを企んでる。なにかを――。
と、幾の曇りきった丸眼鏡が、こちらを向く。
「すみませ〜ん、ちょっといま、外出中のようでして〜」
「なっ……! くっ、いったいどこへでかけるというんだ! 〈御方さま〉はおまえにとり憑《つ》いてるんだ、おまえの外になんかでていけないだろうが!」
あはは〜、と幾は笑う。
まったくふざけたバケモノだ……八束は腹だちまぎれに、頭にのせていたタオルを湯船に叩《たた》きつけた。しぼって、伸ばして、またのせる。ふー、息を吐く。
ん?
そうか、それなら……。
「なあ、幾《いく》。本当に外出、させてやろうか」
「はい?」
「〈御方《おかた》さま〉を外にだす……つまり、祓《はら》ってやろうかと、そういっている」
「〈御方さま〉を、祓う……?」
「できないことはないさ。〈御方さま〉だなんだいったって、あいつが魂だけの存在で、それがおまえに憑依《ひょうい》している状態なのは変わりがない。まともに正面から当たっちゃさすがに幾千年を生きぬいたバケモノ、勝ち目は薄いが、しかるべき準備をし、しかるべき儀式をおこなえば、きっと祓えるはずだ。どうだ?」
「〈御方さま〉を祓う……そんなこと……」
幾がうつむく。
丸眼鏡のレンズはすっかり曇っているので、その表情はうかがえない。
「いままで考えたこともなかった、か? だけどな、おまえ、まだ中学生なんだろう。なのにもう、砂原《さはら》家の当主なんぞやらされている……砂原家といったら、〈葛《くず》の葉《は》〉がその退魔の組織としての強大な力を暴走させぬよう、見守り、導く役目だ。まあ、そんなことは当主であるおまえがいちばんよくわかっていることだろうが……なあ、幾。おまえ、本当にそんなこと、やりたいのか?」
「わたしは、その……」
「おれだっていちおうは八束《やつか》家の次期当主候補だけどな……ま、おれの場合はいいさ。妖怪《ようかい》どもと闘うのは性にあってるしな。問題は、闘わせてもらえないことなんだが……このままじゃそのうち、次期当主候補からもおろされそうだし……と、おれのことはともかく」
うん? と八束は首を傾け、うながした。
「砂原家の当主は、代々〈御方さま〉を宿すと聞く。が、宿すという言葉こそ聞こえはいいが、実際はただの憑依《ひょうい》だ。とり憑《つ》き、代々の当主を思うがまま動かし、永遠に生きようとしているだけだ。さっき山に入るときの、今回相手にする妖怪の正体すら教えてもらっていなかったところからしても、〈御方さま〉のおまえに対するあつかいは知れる。いいのか? このまま〈御方さま〉の傀儡《かいらい》としての人生で、いいのか?」
「わ、わた、し……」
うつむいたままの幾が、唇をきゅっと噛《か》む。
「いや、かんちがいするなよ! おれはおまえのことを悪くいってるわけじゃないんだ。ただな……たとえば、〈御方さま〉が表にでてきているあいだ、おまえの意思はどうなってるんだ? 眼《め》も口も、なにもかも勝手に操られて、おまえ自身の意思じゃ、なにもできやしないんじゃないのか? なあ、自由に生きたくはないか。自由に、自分の意思で生きたくはないか。なあに、べつに〈御方さま〉を祓《はら》うからって、あいつをくたばらせるつもりはない。壷《つぼ》あたりにでも封じて、砂原《さはら》家にのしつけて返してやるさ」
「そんなことしたら……わたし、もう、砂原の家には帰れません」
じっ、と幾《いく》が、曇った丸眼鏡を八束《やつか》へと向ける。
「ん? そうだな……それなら……」
「たかおさんが、責任とってくれますか?」
「なに? せ、責任?」
幾は、ただただ頬《ほお》を紅《あか》くして、もじもじするばかりだ。いや、顔が赤いのは温泉につかっているからだろう。そうに違いない。そうだと八束は決めた。
「な、なに考えてるんだ、おまえは……まだ中学生のくせして」
「だって……」
「だが、まあ、たしかにそうだな。当主のおまえが、〈御方《おかた》さま〉を捨てちまったら、家にはもう帰れんか……わかった。だったら、おれもつきあってやるよ」
「え? そ、それって」
「違う! そういう意味じゃなくてだな……おれも、いっしょに八束の家を捨ててやる。なあに、放っておいたってそのうち勘当される身だ。未練なんざなにもないさ。そうだ……そうなんだよな……べつに、未練なんか……」
口にだして、八束は驚いた。
本当に、未練がない。
どうせ父親にはうとまれている身というのもあるが、八束の家を捨てる、と思った瞬間、じつに心が軽くなったのだ。意識はまったくしていなかったが、八束家次期当主の肩書きは、かなり重いものだったらしい。考えてみれば、父親に本当に強い妖怪《ようかい》とはやらせてもらえないとふてくされていたのだって、自分は次期当主候補なのに、という想《おも》いがなかったといえば嘘《うそ》になる。
ふ、ふふ……八束は自然と笑いがこみあげてきた。
「なあ、当主を辞めたらどうするよ。なにがやりたい?」
「わたしですか? わたしは……」
こころなしか、幾の声も明るくなったようだ。
「あの……笑いませんか?」
「笑うもんか。いってみろよ。なんだ? アイドルとかか?」
「いえ。あの、わたし、学校の先生をやってみたいです」
「先生?」
意外な答えがきた。
「はい。わたし……まだ次期当主候補の身だったとき、たぶん、たかおさんもだと思うんですけど、人の世を知るためという理由で、学校に通ってました。目的が目的ですし、〈葛《くず》の葉《は》〉の存在は普通のかたには内緒なので、あんまりクラスメイトのみなさんとは仲良くできませんでしたし、部活動なんかも無理でしたけど……だけど、とても楽しかった……楽しかったんです。だから……」
「へえ、なるほどな。ふむ、たしかにおれも学校にはいったが……そんなに楽しかったかなあ……うーん」
八束《やつか》は顔つきが顔つきだったし、当時は父親が強い妖怪《ようかい》とやらせてくれない問題がすでに発生していた時期でもあり、けっこうすさんでいた。そのせいか、どうもクラスでも浮きまくっていた記憶が……と、ん?
「そうか、幾《いく》、おまえ、まだ中学生なのに、もう学校、止《や》めさせられたのか」
「え? あ……あ、はい、そう、そうなんですっ! わたし、まだ中学生なのにっ!」
「ん? どうした? なんか様子、ヘンだぞ?」
「へ、ヘンなんかじゃ……やーん、たかおさんの、えっちー!」
ざぱん、とお湯しぶきをあげ、幾は背中を向ける。
なんだ……?
八束は、そのか細い肩と、湯に沈む太い三つ編みとを、見つめた。
「ま、とにかく、先生か。いいんじゃないか? まあ、学校がそんなに楽しかったというんなら、また中学校に通ってもいいと思うし……」
「あの、たかおさん」
八束には背を向けたまま、幾がいった。
「ん?」
「わたし、やっぱりこのままで、いいです」
「なに? なんでだ?」
「たかおさんはさっき、砂原《さはら》家の当主は〈御方《おかた》さま〉を代々宿すといいました。そのとおりです。わたしは、この世に生を受けたときから……お母さんのおなかのなかにいたときから、ずっと〈御方さま〉といっしょだったんです。当主が母となり、子を生《な》した瞬間から、〈御方さま〉はその子へと受け継がれてゆく。だからわたし、自分が不自由だなんて思ったことはありません。だって、〈御方さま〉がともにあるのが当たり前だったんですから。産まれてから、ううん、産まれる前から、ずっとふたりでひとつだったんですから。〈御方さま〉とわたしで、砂原幾という存在なのです」
「ふん……」
「それに……〈御方さま〉は、とてもとても重い使命を背負っておられるのです。死んだほうがいっそましだと思えるほどの、重い使命を……すべてはおのれが犯した罪のため、罪を償うため……」
「罪? 償い?」
幾は、あ、といい、背を向けたまま、手をちゃぷちゃぷと振る。
「と、ともかく、たかおさん、ありがとうございました! わたし、いままで自分が当主じゃなかったら、なにをしたいかだなんて考えたこともなくて……そうか……わたし、先生になりたかったんだ……」
あいかわらず背中を向けたままぶつぶつとつぶやく幾《いく》に、ふん、と八束《やつか》は鼻から息を吐きすてた。ひどく自分がちっぽけな存在に感じられてしまったからだ。おのれの使命にあくまで殉じようとする幾に対し、自分はいま、あっさりと捨ててしまおうと――。
「あー、すっかりお湯につかっちゃいましたね……もう、のぼせちゃう……」
と、いきなり幾が立ちあがりだす。
ざばり。
滝のようにお湯をたらす背中に続いて、やはり妙に成熟した感じを受ける臀部《でんぶ》、そして太ももがあらわとなった。大きさはさほどでもないのに、ぬう、なぜこんなに大人っぽいのだ……と鋭い三白眼をさらに鋭くさせていた八束は、自分の行動に気づき、すぐさま後ろを向く。
「だ、だから、男の前だと……阿呆《あほう》!」
相手は中学生なんだぞ!
お、おれはそっちの趣味はないはずだ……そっちの趣味は! しかしながら八束は、しばらく湯船から立ちあがれなくなってしまったのだった。ぐぬぬぬぬ! おれの阿呆!
5
八束は、岩場の陰に隠れていた。
長身である自分が隠れるに充分なほどの岩の向こう側には、八束《やつか》と幾《いく》が汗を流した温泉がある。湯気たつその湯船からあがって、もう一時間ほどが経過していた。
ひたすら、八束は待つ。
身じろぎひとつせず、手には愛用の刀を持ち、くるはずの相手を待ち続けていた。湯冷めの心配などはない。体温の調整からなにから、コントロールする術は知っていた。
あと何時間だって待つことはできた、が。
「ちっ……いまごろ気づくとは、我ながら情けない」
八束は刀をぬく。
白木の鞘《さや》から、月明かりにぎらつく刃があらわとなった。
その刃の切っ先を、かなたの、闇《やみ》が広がる茂みへと向ける。
「いいかげん、でてきたらどうなんだ、この出歯亀《でばがめ》野郎」
すると、闇のなかから、その巨体は染みだしてきた。
「いやあ……これは失礼」
「きさま、いつからそこにいたんだ」
「おぬしらが、ともに入浴しておるところからかな。あれからずっと、あまりに楽しげだったものでな、邪魔してはいかんかと思ってな……つい」
「本当に出歯亀かよ……いや、出歯|熊《ぐま》だったか?」
ふっふっふ、と笑った男は、本当に巨漢だった。
巌《いわお》のごとく、という表現がじつにしっくりとくる、ごつごつした岩石のような巨体。その巨体を覆うものといったら、これがなんと、山賊衣装だ。
朱色の胴の上には、毛皮の陣羽織。腕には小手。足は股引《ももひき》に脚絆《きゃはん》。
鉢がねを巻いた顔の、左|眼《め》には眼帯まである。
「いやいや……出歯山賊なのか?」
思わず八束はいいなおした。
「ふっふっふ、熊であっておるよ。この服装は、まあ、ちょっとしたおしゃれといおうか、なんといおうか、気にせずともよいよ。そんなことより、おぬしたち、わたしを待ち伏せしておったのではないのかね?」
「ぜんぶお見通しかよ……幾! いつまで寝てる! 起きろ!」
「は、はい! いいえ、ちゃんと起きてました!」
幾は、八束の横で、しばらく前からずっと、すー、すー、と立ったまま寝息をたてていた。風邪ひくぞ、と思いつつ、〈御方《おかた》さま〉もいることだし、平気かと八束は放っておいたのだった。
目覚めた幾は、んにゃ? とあたりを見まわす。
「寝ぼけてるな……目的の熊公のおでましだよ。〈御方さま〉をだせ!」
「は、はい〜」
幾の瞳《ひとみ》が、さまよう。
しかし、瞳《ひとみ》が八束《やつか》を見たとき、その色は黒いままだった。
「こ、断られてしまいました〜」
「な、なに?」
「え〜っと……『寝不足は美容の大敵じゃ、そんなこともわからぬのか』と……」
「ドド阿呆《あほう》! 美容の大敵もなにも、身体は幾《いく》、おまえなわけで、おまえが眠らずに〈御方《おかた》さま〉がいくら眠ったって、なんの意味があるんだ!」
「『なんじゃ? 自分は闘うことにかけては天才と呼ばれていただの、死ぬことなんて怖くないとかいっておったわりには、ひとりで闘うのは不安なのか?』」
「なんだと!」
「わ、わたしじゃないですぅ〜。〈御方さま〉が……」
「上等だ! 砂かけバケモノババアに、その耄碌《もうろく》した眼《め》、しっかりとひん剥《む》いておれの闘いぶり見てろと伝えとけ!」
「え〜……『わしは眠るといっておろうが、たわけ』と」
「うらぁ!」
八束は、八つ当たり気味に山賊姿の大男へと斬《き》りかかった。
男の胴を斜めに袈裟斬《けさぎ》りするはずの刃先は、しかし文字どおり空を切った。
大男は、宙を舞っていた。
くるくると前転しながら跳び、八束の背後へと軽やかに降りたつ。憎たらしいことに、八束に攻撃はせず、ぴしっ、と両手を広げ、着地ポーズを決めていた。
「なに……?」
八束の肝は、正直、冷えた。
巨漢の男はだいたい、動きが速いものだ。大きいから鈍いと考えるのは素人考えで、筋肉の量や体格が増すぶん、むしろ俊敏になる。
なるのだが、いまの動きはちょっと尋常じゃない。
「おい……熊《くま》、おまえ、名前はあるか?」
「ぬふ? わたしは、いちおう熊田《くまだ》流星《りゅうせい》と呼ばれておるよ」
「熊田流星? 人っぽいような……違うような、ヘンな名前だな。まあいい、覚えとく。熊田、おれは八束だ。八束たかお。覚える価値があると思ったら覚えておいてくれ」
「うむ、そうしよう」
ゆらりと八束は間合いに踏みこみ。
「捨!」
下からすくいあげるように斬りあげた。
★
「がっ!」
八束《やつか》は熊田《くまだ》の岩石のような拳《こぶし》で、殴り飛ばされた。
素早く刀を地面に突き刺し、がりりりとえぐることで、どうにか体勢を立て直す。
立て直すことは立て直したが、そこまでだった。
地面に膝《ひざ》をつく。片膝では足りず両膝をつき、地面に刺したままの刀にもたれるかたちで、激しく咳《せ》きこんだ。咳《せき》には血が混じり、月明かりに照らされた土を、黒く汚す。
もう、なんど殴られたことやら。
これまでの闘いのすさまじさを示すように、八束の顔はもうぼこぼこだった。
どこもかしこも腫《は》れ、とうに片目は開かない。
スーツもひどいものだ。
破れ、乱れ……左腕の袖《そで》は肩のあたりからないし、ズボンの裾《すそ》も破け、太もものあたりまで露出していた。
「ったく……バケモノめ……」
じろ、と両膝をついたまま、バケモノを睨《にら》みつける。
さきほど体勢を立て直すため突き刺した刀、それによって生じた地面の傷跡の、もう何十メートルも先に、バケモノ、熊田はいた。山賊姿の熊田は、すっかり上機嫌で、「むふーん、むふーん」と腕を交差させている。もしも胴や毛皮の陣羽織などまとわぬ裸なら、さぞかしぱかーん、ぱかーんと景気のいい音があがったことだろう。
これまで、熊田のダメージ、おそらくはゼロ。
そして、八束のダメージときたら、もうどこが痛いやら、なにやら。
「だけどな……」
よろめきつつ、八束は立ちあがった。
むふ? と大きな口をにんまりと曲げた熊田に向かい、叫びながら斬《き》りかかる。
がつん。
またフルスイングの拳を浴びた。
これだ。ふっとびながら、八束は思った。
八束の攻撃は、その巨体に似あわなすぎる軽すぎる動きでかわされる。
熊田の攻撃は、ただ無造作に振るってるように見えるのに、なぜか当たる。
要するに、熊田は強いのだ。
これがまた、ムチャクチャ強いのだ。
困ったことに、熊田の強さに裏はない。
ただ、もの凄《すご》く力が強く、もの凄く動きが早く、もの凄く攻撃を当てる勘がよく、もの凄く反応がよく……ただそれだけだ。
じつに単純で、それだけに手がない。
なにか裏のある強さなら、そこをつけばいい。たとえば、魂をどこぞに隠してあるから不死身とかなら、その隠してある魂をやればいい。だが、熊田ときたら普通にムチャクチャ強いのだから、もうどうにもなりやしなかった。
八束《やつか》にとって、唯一の救いといえば。
「……くっ」
またもや刀を地面に突き刺すことで、どうにか体勢を立て直した八束は、荒く息をつきながら思う。
熊田《くまだ》は強い。
強いが、その攻撃は――。
「おーい、どうした〜、極道息子よ〜」
〈御方《おかた》さま〉の声が聞こえ、八束は舌打ちした。
『わしは眠る』とかいっておいて、〈御方さま〉はちょくちょく幾の表にでてきては、八束にからかいの声を浴びせる。じつに腹立たしいのだが、いまのところ八束にとっての唯一の救いは、この〈御方さま〉からもたらされていた。
熊田の拳《こぶし》は、以前、〈御方さま〉から受けた砂の拳より、きつくない。
だから、なんとか八束はまだ立っていられたのだ。
熊田の拳はとんでもない威力だったが、八束はさらにとんでもないものを受けたことがある。受け、なんとか死ななかったことがある。それが、どれほどの強さを八束に与えていたことか……。
しかし、だ。
「いいかげん、これ以上喰らったら、死ぬな……」
もう身体に力が入らなくなっていた。
息を止め、奥歯を噛《か》みしめ、刀の支えも使って、どうにかこうにか立ちあがる。
乱れきった呼吸をどうにか抑えようとしつつ、地面に視線を走らせた。
地面には、熊田に殴られるたび八束が刀を刺して刻んだ傷跡が、縦横無尽にある。
殴られるたびいちいち地面に刀を刺していたのは、そうしなければ八束は林のあるところまでふっとんでいただろうからだ。八束と熊田が闘っていたのは、例の温泉がある岩場のすぐそば、ちょっとした広間だったが、まわりは木々で囲まれていた。殴られるたび、太い幹に当たって、余計なダメージまで喰らってはたまらない。
そして地面をえぐったあとが縦横無尽にあるということは、つまりそれだけ、八束は熊田の攻撃を受けたということを示していた。
と、思ってるんだろうな、あのバケモノも?
八束は地面の傷跡を見て、にやりと笑った。
「熊田……おまえは強い。とんでもなく強いな。おれより、はるかに……」
ぬふ?
熊田が、首を傾《かし》げた。
「それは……なにかな、負けを認めるということかな?」
「まさか。おれはいま、なんていうんだ、生きてる喜びってやつを猛烈に感じてるんだ。初めてだよ、これほど気持ちいいのは……これか。これが、本当の闘いなのか……」
「つまり……」
にたり。
熊田《くまだ》が笑みを浮かべる。八束《やつか》とおなじく、楽しくてしかたがないといったように。
「なにか、企《たくら》んでおるわけだな、おぬしは?」
「ああ。きっと楽しんでもらえることと思う」
「ぬっふっふ、それは楽しみなことで――」
熊田が語り終える前に、八束は動いた。
地面に刺していた刀をいったんぬき、あらたに突き刺し直す。
両手を素早く動かした。
交差し、複雑に動く手、そして指先。
空中に描かれる、印。
そうして八束は地面に突きたてた刀の柄を握り、身体にまだ残るすべての力をふりしぼって、注ぎこんだ。
とたんに八束の刀から、青自い炎のような光が放たれ、地面を走りだす。
「ぬ? ぬぬ?」
縦横無尽に地面を走る傷跡をレール代わりにし、光はひとつの図形を描きだした。
それは、熊田を囲む、五芒星《ごぼうせい》。
「封!」
八束のかけ声とともに、五芒星は光を増した。
青白い電光が走り、なかに捕らえられた熊田は、「ぬぬぬ!」とうめきをあげる。
「ふ、ふふふ……苦労したよ、おまえにぶっとばされながら、地面に正確に封印の結界を描きだすのはな……危うく、描き終える前に死んじまうところだった」
「ぬ、ぬぬぬ、ぬ」
「どうだい、満足したか? 満足したなら、そろそろ終わらせるが、いいか?」
「ほほう……」と、〈御方《おかた》さま〉の感心したような声を聞き、八束自身はちょっぴり満足ができた。
地面に突きたてた刀をぬく。
刀をぬいても、五芒星の輝きは消えることはなかった。刀を手に、八束は熊田の元へと近づく。
熊田の前に立ち、刀を脇《わき》に引きつけ、突きの体勢をとった。
「覚悟しなよ、熊田|流星《りゅうせい》……っと、おい、〈御方さま〉! こいつ、殺してもいいのか!」
〈御方さま〉から返事がくる前に、八束は熊田の笑い声に気づいた。
「なにを笑う?」
「ぬ、ぬふ、ふ……いや、たいしたものだと思ってな。ここまでわたしを追いつめたニンゲンは、いままでひとりしかおらんぞ。八束たかおよ」
「ひとり? だれだ」
「とあるマタギがおってな、この眼帯の下の傷も……」
いいながら、熊田《くまだ》は眼帯をむしりとり、左|眼《め》の傷跡を見せる。十字の、まるで流れ星が消え去る瞬間のような傷……なるほど、だから流星《りゅうせい》か、と八束《やつか》は思った。
「マタギ……まだおまえがただの熊《くま》だった時代の話か?」
「いや、そのときはすでにいまの姿と……と、まあその話はよい。わたしもな、ふふ、いま、さっきのおぬしがいっていたような、生きてる喜びというやつを猛烈に感じておる。本当の闘いというものを味わえてな。だから……」
「だから?」
「本気を見せよう」
「おいおい、ベタな強がりを……っと、なに!?」
マタギにつけられたという左眼の傷跡が、ばりばりと音をたてて開きだした。
そこから、まばゆい輝きが洩《も》れ――。
「ちいっ!」
舌打ちしながら、八束は突きを放つ。
だが、すべては遅かった。
熊田は野獣の咆哮《ほうこう》をあげながら、五芒星《こぼうせい》による呪縛《じゅばく》をあっさりと振りほどく。
振りほどきながら、放たれた、熊田の拳《こぶし》。
瞬時に八束は理解した。
あ、こりゃ死んだな。
いままでとはケタ違いの威力を持っているのだと、すぐにわかった。おそらく、左眼の輝きが、熊田になんらかの力をもたらしたのだろう。ただでさえ馬鹿力《ばかじから》なのが、いまは何倍になっているのだろうか……拳が作りあげる、空気のうねり。これは触れずとも死ねる。
ま、いいさ。
闘って死ねるなら、それほど悪い死にかたじゃあないし――。
妙に安らかな気持ちで熊田の拳という名の死を待っていた、そのとき。
八束の前に、小さな影が飛びこんできた。
幾《いく》だった。
「――阿《あ》」
呆《ほう》、という前に、八束は凄《すさ》まじい衝撃をその身に浴びた。
★
「こ、この、阿……阿……阿呆《あほう》、が……」
がは、と八束は咳《せ》きこんだ。
ひとしきり咳きこみ、血を吐き終え、八束は腕のなかにあった少女に、再度怒鳴る。
「幾! 幾! 死ぬな、阿呆!」
八束《やつか》は、林のなかにいた。
何十本もの木々を自分の身体でへし折って、林のなかにいた。
熊田《くまだ》の拳《こぶし》を浴び、そのまま吹き飛んだのだ。八束へ拳を振るった熊田は、はるかかなた、もはや肉眼では目視できぬほど遠くにいた。
もっとも、いまは熊田どころではない。
「幾《いく》! 幾! お、おれなんかかばって死んだら、承知しねえからな!」
腕のなかの小さな身体を揺すりたくても、まったく身体に力が入らなかった。
それがもどかしくてしかたがなかった。自分の身体のことなんか、どうでもよかった。
「幾……い、く?」
どうにか自分の横へと動かすと、幾の身体を、まるで繭のごとく、すっぽりときらめく砂が覆っていることに気づいた。
金色の砂だ。
砂は、さらさらと流れ、あどけない幾の顔をあらわにする。
しかし、丸眼鏡は片方が完全に砕け、もう片方のレンズにはヒビが入っていた。おまけに、顔を紅《あか》い血が、おでこから鼻筋、口元にかけて流れた。
「お、おい、幾……」
「――ヒヒイロカネじゃ」
幾の唇が動く。
ぼんやりと眼《め》も開けた。
「幾……いや、〈御方《おかた》さま〉か? なんだ、どうなってるんだよ」
「おぬしも見たとおりじゃ……幾のやつめ、おぬしの危機を、どうしたことか察知しおって、いきなり飛びこみおった……ふふ、まったく、女子の勘というやつ、あなどれぬものよ……いちおう、ヒヒイロカネで防御壁を張りはしたが、くく、あのバカ熊《ぐま》めの力、あまりに強すぎた……衝撃を殺しきれなんだわ」
「衝撃を殺しきれなかったって……おい!」
「案ずるな。幾の身に問題はない。気を失ってはおるが、の」
「阿呆《あほう》……気を失うくらいなら、最初からやるなってんだよ」
八束はうつむいた。すぐに顔をあげる。
「ったく、たいしたこともねえな、ヒヒイロカネだかヒヒジジイだか知らねえが、伝説の金属とやらもよ! だいたいにしててめえ、どうして幾を止めなかった! おまえ、幾の身体を自由にできるんじゃねえのかよ!」
八束の声を浴び、〈御方さま〉はふっ……と笑う。
「なにかかんちがいしておるようじゃがな、わしは幾の身体を自由になぞできんぞ? わしは幾の許可がなければ、表にはでれぬ。まあ、いまのように幾が気を失っておるときなぞはべつじゃが……」
「なに?」
「だが……わしを幾《いく》から祓《はら》うといったおぬしの言葉、とてもうれしく思ったぞ……」
「て、てめえ、あのときの話、聞いてたのかよ」
「ふふふ、おぬし、半分はわしに聞かせるつもりじゃったろうが……まったく、砂原《さはら》家の女たちを、もう、わしはどれほど犠牲にしてきたのか……いや、〈葛《くず》の葉《は》〉を作る前にも、いくつもの犠牲を……長い、長い旅だ。もし、おぬしがわしを祓ってくれるのなら……この贖罪《しょくざい》の旅に、終止符を打ってくれるのなら、わしは……」
〈御方《おかた》さま〉が閉じた眼《め》から、光るものがこぼれたように見えたのは、気のせいだったろうか。
「……話はあとだ。とにかく、幾は無事なんだな?」
「ああ……強い衝撃を受けたせいか、全身、しびれておるし、少々すりむいたりしてるかもしれんが……まちがいなく、無事じゃ。だがそれを聞いておぬし、なんとする?」
「決まってるだろう。逃げる」
八束《やつか》は、力のまったく入らない身体で、身体を起こそうとする。
「逃げる……? ふふ、そうか、逃げるか……」
「ああ。おまえの思うとおりになるのはしゃくだが、そうもいってられない。しっぽを巻いて逃げるさ」
「わしの思うとおり?」
「違うのか?」
どうにか上半身を起こした八束と、まだ寝たまま〈御方さま〉の視線が、静かにぶつかった。
〈御方さま〉の唇が、弱々しく笑みを浮かべる。
「ひとつ、質問がある」
「起きながら、訊《き》け。万が一、熊田《くまだ》が追ってきたらおれは幾を逃がす時間を作るため――かんちがいするなよ、おまえを逃がすためじゃないぞ――あのバケモノと闘わなけりゃならない。そうなったらこんどこそ、まちがいなく、死ぬ」
「ふむ……? 死ぬのは、怖くないのではなかったのか?」
八束は、身体を起こそうとする〈御方さま〉に手を貸しながら、眼をぱちくりとさせた。
「ん……そうだな。怖くないはずだ。いや、いまだって怖くはない。だが……」
ふ、ふふ、と〈御方さま〉が笑う。
「なにがおかしい……それより、質問とはなんだ」
「もう答えは聞いた」
「あん?」
八束は〈御方さま〉に肩を貸し、〈御方さま〉は八束に肩を貸し、ふたりはよろめきながら、互いに支えあい、その場から去った。
6
「あのときのおれは、本当にくだらない人間だった」
八束《やつか》の言葉に、横の幾《いく》はただ静かに笑みを浮かべる。
すでに、ふたりがならんで背にしていた窓からの光は、だいぶ暗くなりつつあった。薫風《くんぷう》祭初日は、もうすぐ終わりを告げるだろう。
「ちょっとばかりまわりのやつらより、力が上だからといって……自分が天才などと思いこみ、足りないものなどないと思いあがり……責任も義務も果たさず、好き勝手に生き、そのくせ思いどおりにいかなければふてくされ、親を憎み、すべてを憎み……最悪なのが、本気で死を恐れていなかったことだ。そんなもの、戦士としては使いものにならん。父がおれをけっして一級の相手には当てなかったのもよくわかる。真の戦士とは、どんな状況であれ、生きぬくという強い心を持ったものなのだ。なのに……おれは……」
八束は手のひらをおでこに当て、うつむき、はー、と息をつく。
「もしあのとき、〈御方《おかた》さま〉にやられてなかったら、おれはきっといまでも阿呆《あほう》のままだったろう。ぞっとするよ。あのときのおれは、いまのあいつら以下だ」
視線の先、廊下の向こうには、すでに片づけを始めた生徒たちがいた。
「たかおさんは、天才ですよ」
幾が、安倍川モチをはむはむと食べながら、いう。
「なにが天才なものか。本当に天才なら、とうに幾、おまえも、そして〈御方さま〉も、救いだすことができている」
「――なあに、おぬしはよくやっておるよ」
八束は、にこにことモチを食べる幾を見た。
「いまのは、〈御方さま〉のお言葉か?」
「はい〜」
ふっ、と八束は鼻で笑う。
「おまえはけっこう、平気で嘘《うそ》をつくからなあ……」
「あー、ひどーい、わたし、いつ嘘をつきましたかあ?」
「初めて出会ったときに、もうついていただろう」
「え?」
「なにが中学生だ。あのときのおまえは、おれとおなじ、二十歳だったじゃないか」
「そ、それは……あの、えと、〈御方さま〉を宿しますとですね」
「知ってるよ。〈御方さま〉をその身に宿したものは、外見上、あまり年をとらなくなるんだろう? だが、それは成長しきってからの話なはずだ。そしてあのときのおまえと、いまのおまえ、さほど違いがあるとは思えん。つまりおまえは、あのときも、いまも、ずっと二十歳のときのまま……道理で、中学生にしてはやたら色っぽい裸だと思ったよ」
「あー、たかおさんの、えっちー!」
八束《やつか》は幾《いく》の口を、ぺちん、とふさぐ。
「阿呆《あほう》。生徒に聞かれたらどうする気だ」
むー、と幾は八束を恨めしげに見あげた。
その眼《め》が、ふと揺らぐ。
「ん? なんだ」
八束は手のひらを外した。
「あのー、つきましては、ひとつ、謝らなくてはならないことがあるんですが〜」
「なんだ? 年をごまかしたことならもう気にはしていないが」
「そうではなく……あのですね、結果として、あの、八束家の次期当主候補であらせられましたたかおさんを、その……わたしの夢に引きずりこんでしまったといいますか、道を踏み外させてしまったといいますか……えーとお」
「ああ、父もいい面だったろうな。跡継ぎを更生させるために〈御方《おかた》さま〉に頼んだのが、結果として家を飛びでて、そのままおまえにつきあって教師なんだからな」
「あうう〜」
「冗談だよ。感謝している……幾、おまえにはな」
八束は、最後の安倍川モチを口に運ぶ。そうだ、この味も、幾のおかげで――。
そのとき、五時を告げるベルが鳴った。薫風《くんぷう》祭初日は、終わった。
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[#小見出し] 幕間その三 秋の夜の夢[#「幕間その三 秋の夜の夢」は太字]
彼女は、撃たれた。
空から墜《お》ちた、帚星《ほうきぼし》に。
八つの尾を持つ、帚星に。
彼女は狐《きつね》。
妖狐《ようこ》の娘。
八つの尾を持つ帚星に、彼女は撃たれ、死を迎え、そしてそして、甦《よみがえ》った。八つの尾と、一つのしっぽ、あわせて九つの尾を持ち、甦った。
彼女はいつしか、こう呼ばれた。
天狐《あまつきつね》と、そう呼ばれた。
天狐は、孤独だった。
神代の時代はいまよりも、人と妖《あやかし》は、あいまいなれど。
天狐は、人でもなく、妖でもなく。
ゆえにだれにも混じれず、どこにもゆけず。
天狐は、孤独だった。
孤独だから、人を求めた。妖《あやかし》を求めた。
されど、されど。
天狐《あまつきつね》は、人でもなく、妖でもなく。
ゆえにだれにも混じれず、どこにもゆけず。
天狐は、孤独だった。
ただただ、孤独だった。
時は経《た》ち。
やがて、人は集まり、力を持った。妖も集まり、力を持った。
力は、力を求めた。
手に入らねば、奪った。
その切っ先は、彼女にも向く。
孤独な、天狐にも。
されど、されど。
天狐の力は、天をつらぬき、地を裂き、山を砕き、川を涸《か》らす。
彼女へ向いた力は、砕けた。人も妖も、砕けた。
そして天狐は、べつの名を持った。
八つの首を、持つ〈龍《りゅう》〉だと。
〈龍〉は、孤独だった。
ただただ、孤独だった。
いくら力を砕けども、ただただ孤独だった。
しかし、彼女は出会った。
ひとりの、ニンゲンと。
少年のような顔をした、ニンゲンと。
〈龍〉は、孤独ではなくなった。
そして〈龍〉は、べつの名を持った。
姫だと。ニンゲンの妻の、姫だと。
ニンゲンと姫の元に、人は集まった。妖も集まった。力を持った。
力は、『国』と呼ばれた。
男は、王となった。
姫は、妃となった。
そして、ニンゲンは死んだ。
姫は、孤独となった。
「許しはせぬ」
姫はいった。
目の前の女に。裏切りものの女に。
「ゆえに、死なせぬ。死なせはせぬ。生きよ。生きて、罪を償え。生きて、生きて、生きぬいて、かならずや、愛《いと》しきあのかたの御魂《みたま》を甦《よみがえ》らせ、我が元へと――」
★
「――っ!」
ちずるは飛び起きた。
閉めきられたカーテンのすきまから注ぐ朝の光に照らされた彼女の姿は、裸だった。
横には、くかー、くかー、と寝息をたてる、やはり裸な耕太《こうた》の姿もあった。ちずるが飛び起きたせいでふとんははねのけられ、耕太の身体はおへそのあたりまであらわとなってしまっている。
外から、新聞配達だろう、バイクの音が近づいてきた。
バイクは停車し、がたん、と音をたてて新聞を差しいれ、また走りだす。
すっかりあたりは静まりかえった。
静寂のなか、ちずるが、自分の顔へと手をやる。
「わたし……」
頬《ほお》に指先を当てた。
「泣いてる……?」
ちずるの頬は、濡《ぬ》れていた。
うるみきった眼《め》から、つぎからつぎへと涙があふれだす。止まらない。
「ど、どうして……?」
ぐっ、と表情を強《こわ》ばらせ、ちずるは涙を止めようとした。
しかし涙は止まらない。とうとう、う……とうめき、ちずるは両手で顔を覆う。ぶるぶると肩を震わし、ひっく、ひっくと泣き声をあげだした。
★
「さ……寒い……」
あまりの寒さに、耕太は目覚めた。
まだうすぼんやりしながら身体をまさぐると、どうやらふとんがかかってないらしい。いまは秋、時刻は朝方、しかも自分は裸、なるほど、寒いはずだ……と、ふとんを引きあげようと、手で探す。
と。
「ちずるさん……?」
横で、ちずるはすでに起きていた。
身体を起こし、そして、手で顔を覆っていた。
肩は震え、口からあがる声は、ひっく、ひっくと、まるで――。
「ちずるさん!?」
耕太は飛び起きる。
泣いていた。
横でちずるは泣いていた!
「ど、どうしたんですか、いったい……」
「こ……耕太、くん……」
ちずるが覆っていた手を外すと、顔は涙やら鼻水やらで、すっかりぐちゃぐちゃだった。
耕太は正座し、頭をさげる。
「すみません! わかってます、ぼく、昨日、やりすぎちゃったんですよね! い、いくら玉藻《たまも》さんから一日、十回をノルマにされているとはいえ……昨夜は、それ以上に……ああ、昨日はげっこー仮面の衣装を作り直すために、望《のぞむ》さんは家に帰っていて、ちずるさんひとりだけだったのに……ま、まさか、どこか痛かったりするんですか!? 胸とか!?」
土下座スタイルのまま顔をあげ、耕太は様子をうかがった。
しかし、ちずるは首を横に振る。
横に振りながら、耕太を起こし、抱きついてきた。
「ち、ちずるさん?」
「こ、耕太くん……耕太くん……耕太くん、いなくならないでね? し、死んじゃったり……しないでね? こ、殺されたり……う、うう、う……」
ああああ、と耕太に抱きついたまま、泣きだす。
号泣といっていい泣きかたをするちずるに、耕太はただ、抱きしめ返すしか、ほかに術を知らなかった。
いや。
「う、うう、う……う?」
ちずるを、ふとんの上へと押し倒す。
「こ、こうら、くん?」
その泣き顔を、耕太は舐《な》めた。
「ひゃ、ひゃう、や、だめ、は、はなみじゅまで……こ、耕太くん? 耕太くっ」
耕太は口づけをした。長い、長い、口づけだ。
「――ぼくは死にませんよ、ちずるさん」
そういって、また、口づけをした。長い、長い、とても長い、口づけを。
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[#小見出し] 幕 終わりよければすべてよし[#「幕 終わりよければすべてよし」は太字]
ロミオとジュリエットの物語は、いよいよ終わりを迎えようとしていた。
耕太《こうた》はすでに死んでいる。
ちずる演じるところのジュリエットが死んでしまったとかんちがいして、絶望し、毒薬をあおって、みずから死を選んだのだ。
場面は、納骨堂だ。
暗闇《くらやみ》のなか、台の上に横たわる耕太ロミオと、それを呆然とした面もちで眺めるちずるジュリエットだけに、スポットライトが当たる。
ちずるが、耕太の頬《ほお》に触れた。
そっと触れ、そして、愛《いと》おしげに撫《な》でた。
「ああ、ロミオ……」
耕太のそばに転がっていた、毒の盃《さかずき》を手にとり、眺める。
「これは、毒……? ああ、これで永遠の別れを告げられたのね? だけど意地悪。ぜんぶひとりで飲み干して、わたしには一滴も残してはくださらないなんて。ううん、唇にはきっとまだ残っているに違いないわ。どうかわたしを殺して。あなたの口づけで……」
ちずるは耕太の口元に屈《かが》みこみ、口づけをした。
もちろん、本気だ。
唇と唇が重なる、本気キスだ。
わあ……! とそれを期待していただろう観客の声で、一瞬、体育館が埋まった。
口づけされながら、よし、と耕太は思う。
不安は多々あったものの、劇はここまで、ほぼ完璧《かんぺき》に進んでいた。台本どおりにだ。ノー・エロス・アドリブでだ。なんだか部長さんは不満げだったような気もするが、必死になって台本を覚えたかいがあったと、耕太は胸のなかを満たす達成感に、震えだしそうになる自分を抑えた。
いやいや、まだだ、まだ劇は終わっていない。
あとは耕太が演じるロミオはただ死んでるだけでいいとはいえ、エンディングはもうすこしあとだ。最後まで、油断せず……。
「あなたの唇……まだ、暖かい……」
と、そういいのこして死ぬはずのちずるが、ゆっくりと身体を起こした。あれ?
つ……と、ちずるの頬を、涙が流れだす。
「あ、ああ、あ、あ……」
表情がゆがんだ。
「や、やだ……し、死んじゃやだ……こ、耕太くん……耕太くん!」
なんと耕太の名を呼び、すがりつく。
「ち、ちずるさん、まずいですよ、ちずるさん……」
耕太は薄目を開け、小声でささやいた。
あんのじょう、客席はざわめきだしている。それはそうだ。いままでちゃんとロミオとジュリエットを演じてきたのに、最後になっていきなり『耕太くん』なのだから。耕太はなんども呼びかけるも、ちずるの本気泣きは止《や》まない。
どうやら、今朝の出来事がフラッシュバックしてしまったらしい。
なんだって、ちずるは急に耕太が死ぬなんて思ってしまったのか……なにか不吉な夢でも見たのだろうか? だがちずるは、なにかの夢は見たような気もするが、どんな内容だったのかはまったく思いだせないとのことだった。うーん。
と、耕太が悩むあいだにも、ちずるは泣きっぷりは加速してゆく。
「ぼ、ぼくは死なないっていったのに……う、嘘《うそ》つき……」
耕太にすがりつくちずるの眼《め》から、ぼろぼろと涙がこぼれ、ロミオの衣装へと染みた。
「嘘なんかじゃ、ありませんっ!」
耕太は身を起こした。
「ぼくは死んだりなんかしない……ちずるさんを残しては、絶対に、死なない!」
一瞬、涙顔で呆《ほう》けたちずるを、抱きしめる。
「こ……耕太くん……」
ちずるも、抱きしめ返してきた。
あ、やっちゃった。
!?
おそるおそる耕太が客席をうかがうと、全員の表情にみごとなまでの感嘆符&疑問符が浮かびまくっていた。
やっちゃった。
耕太も今朝の出来事のフラッシュバック、やっちゃった!
ど、どどど、どーしよう。
「え、えーと」
なにか、なにか気のきいたアドリブは……。
無理だ!
元々耕太はアドリブのきかないたちなのだ。そういうのはちずるが得意なのだ。だが、いまのちずるは耕太の肩にしあわせそうに顔を埋《うず》めるばかりで……ああ……ど、どうすればいいんだあ!
「げっこー仮面、とーじょー」
耕太がパニックにおちいりかけた、そのとき。
三日月の使者が、舞台へと舞い降りた。
「の、望《のぞむ》さ……」
「とーう!」
三日月のかぶりものをして、全身黒タイツ姿の望は、いきなり耕太に蹴《け》りを放ってきた。
そのいきおいこそ鋭かったが、最初から耕太には当たらないように蹴っていたらしく、避《よ》けたように見せるのはさほど難しいことではなかった。
耕太はちずるを抱いたまま蹴りを避け、叫ぶ。
「な、なにをするんだ、げっこー仮面! きみは正義の味方じゃなかったのか!?」
「ふっふっふ、じつはわたしは、げっこー仮面ではないのです」
「え?」
すぽーん、と望は三日月のかぶりものをとる。
なかからあらわれたのは、銀髪。
そして、銀毛の生えた、狼《おおかみ》の耳。
黒タイツで覆われたお尻《しり》からは、しっぽ。
なんと望は、みなが見ている前で、人狼《じんろう》の姿となっていた。
「わたしは、じつはオオカミ仮面だったのです。がおー」
と、望は飛びかかるような構えを見せる。
な、なるほど、と耕太は納得した。
演出の一環として思わせるつもりなのだ。なるほど、三日月のかぶりもののなかから狼の耳がでてきても、まさか本当に生えているとはだれも思うまい。
狼の耳としっぽがでてきた瞬間、たしかに客席は沸いた。
どうやら、悲劇であるはずのロミオとジュリエットは、どたんばではちゃめちゃな方向へとゆくのだと、理解してくれたらしい。
そこに。
「な、なぜ生きているのだ、ロミオ! そしてジュリエット! おまえたちさえ死ねば、すべての財産はわたしのものだったというのに……」
と、ジュリエットの乳母が舞台|袖《そで》から飛びだしてきた。
乳母役を務めるのは、部長さんだ。
いまのまがまがしいセリフに、彼女のやたらかわいらしいメイド姿と大人びた容姿といったアンバランスな組みあわせが、なかなか効果を発揮していた。
部長さんは、ウィンクしてくる。
その表情は、今日の劇のなかで、いちばん生き生きしているように、耕太には思えた。
さらに、やけっぱちめいたいきおいで、演劇部の部員たちもやってくる。
「おお、神よー!」
「マキューシオを返せ!」
「ティボルトを返せ!」
「肉一ポンド、よこせ!」
つぎつぎあらわれる登場人物たちに、耕太は腰の剣をぬいた。
重ねた厚紙に銀色を塗って作った剣の切っ先を向け、叫ぶ。
「えーい、ぼくの名前は引導がわりだ、まよわず地獄へ堕《お》ちるがよーい!」
と、昔、おじいちゃんとともに観《み》た時代劇のセリフをいいながら、斬《き》りかかった。
ちゃんちゃんばらばら、ちゃんちゃんばらばら。
舞台の上はもう、デタラメだ。
が、とりあえず、客席は沸いていた。
そして、耕太が腰抱きにした、彼女も――。
「あははは、耕太くん、カッコイイ! あはははは!」
笑っていた。
だったら、まあ、いいや。
いつしか耕太も笑いながら、剣を振るうのだった。あ、ロミオの父親を斬っちゃった。
このあと、舞台は、音響担当が必死のアドリブで流した某ドリフ大爆笑のテーマが鳴り響くなか、登場人物すべてを倒し、死屍《しし》累々《るいるい》の山のなか、ジュリエットを脇《わき》に抱き、剣を高々と掲げるロミオといった絵のなか、無事……無事? 幕を降ろした。
ちなみに、演劇部の『喜劇・ロミオとジュリエット』は、その年の文化祭の発表のなかでもっとも優れたものに与えられる賞、薫風《くんぷう》賞をみごと獲得したりもしたのでした。
[#地付き](めでたし、めでたし?)
[#小見出し] 『あ』したになればもっ『と』『が』んばれるさ『き』っと[#「『あ』したになればもっ『と』『が』んばれるさ『き』っと」は太字]
しんどいことは大嫌い、ひたすら漫画を読んだりゲームをしたり音楽聴いたりしながらだらだらだらだらと生きていきたい、どうも、西野かつみです。
おや、小説を読むのはどうしたの?
じゃなく。いや、それも大切ですが。
おや、小説を書くのはどうしたの?
というわけで、書きました。
お届けします、かのこん八巻。ここまで続くとは、我ながらびっくりです。いえ、わたしはこの『かのこん』という作品でデビューし、ただただがむしゃらに突っ走って……すみません、カッコつけました。ただただだらだらと生きて、もう二年。うわ、もう?
正直、この八巻は、一巻を書いたときに目指していたのとは違う場所にあります。
いろいろと違いはありますが、いちばん変化したのは、やっぱり哀・戦士もとい愛・行為でしょうか。ここまで耕太くんとちずるさんの愛が深くなるとは……我ながらびっくり。
さて、かのこんは、耕太くんとちずるさんは、どこまでいくんでしょう。
それはわたしにもわかりません。プロとしては恥ずべきことかもしれませんが、もう、書いてみないとわかんないんです。毎回、プロットはたてるんですが、そのとおりに運んだことなんていちどたりともありませんし。だから何回も書き直すし。しんどいよう。
しんどいのに、どうして書いてるんでしょうね、わたし。
しんどいこと、大嫌いなはずなんですけどね。
え? やだなあ、最後までいわせるんですか? もちろんそれは、読者のみなさまに読んでもらいたいからに決まってるじゃないですか。もっといえば、「おまえの物語に609円だしてやってもいいよ」といってもらいたい。認めてもらいたい。それは、漫画を読むよりゲームをするより音楽聴くより、気持ちのいいことなのです。
いちど味わったら、やめられないのです。すっごくしんどいですけど。
しんどいけど、しあわせなのです。
漫画にもなって、CDドラマにもなって、そして、アニメにまでなっちゃう。いいのかなあ、こんなにしあわせで。もちろん、自分だけの力じゃありません。狐印《こいん》さんの絵があって、狐印さんの絵があって、狐印さんの絵があって……まあ、狐印さんの絵があって。すごいですよね、今回のイラストも。もう、すごい以外の言葉がない。しあわせです。
あ、担当編集者のKさんも、もちろん感謝してますよ? ありがとう。
そして、読者のみなさん。
すべては、みなさんをしあわせにして、わたしもしあわせになるために。では。
平成十九年十月 あとがきの方向性を変えてみたけどどうでしょ?
[#地付き]西野かつみ
発行 2007年11月30日 初版第一刷発行
2008/06/10 作成