かのこん 6 〜ナギサのぱいぱいぷー〜
西野かつみ
[#小見出し]  一、真夏、真夜中、彼女とプール[#「一、真夏、真夜中、彼女とプール」は太字]
「やっぱりやめましょうよ……ちずるさん」
と、耕太《こうた》は金網の扉を前に、いった。
「いいじゃない、耕太くん。入ろ、ね、入ろ?」
しかしとなりのちずるは、いつものような軽い調子でせがんでくる。
いたずらっぽい笑みを浮かべた彼女は、白いブラウスにチェックのスカートといった、学校の制服姿でいた。本当ならばその首もとには、耕太たち男子学生におけるネクタイのように赤く大きなリボンが結ばれているはずなのだが、いまはなかった。
代わりに、ちずるの首もとは大きく開けはなたれている。
それはもう、大きく、開けっぴろげに、ちずるの豊かでいとおしい吸いこまれちゃうような胸のふくらみが、軽〜く谷間まで覗《のぞ》けてしまうほどに、純白のブラウスの、第一ボタン、第二ボタン、あららのら〜と第三ボタンまで。
暑いからだ。
いまが夏だからだ。真夏もほど近い七月の半ばで、梅雨が明けたばかりだというのに、いや、明けたからなのか、やけに暑っくるしいからだ。こう、むわっと、絡みついてくるような暑さが、連日連夜で続いていた。
でも……だからって。
耕太は正面にある金網の扉を、もういちど見る。
金網の向こう、闇《やみ》のなかに、白いコンクリート製の階段が、ぼうと覗《のぞ》けた。
階段をいった先には――プールがある。
二十五メートルのプールだ。六つのコースがあり、各コースは、プラスチック製のちくわみたいなかたちのものをずらーっとならべて作ったコースロープで区切ってある、塩素の匂いが強い、そんな学校のプール。
そう――。
耕太とちずるは学校にきていた。
正確には私立|薫風《くんぷう》高等学校、略して薫風高校にきていた。生徒たちはさらに薫高《くんこう》などと略したりしている、耕太はその薫高の二年生だ。ちずるは三年生。
そして、もうひとり。
耕太のクラスメイトである、二年生、犹守《えぞもり》望《のぞむ》も、この場にいた。
生まれついての美しい銀髪を持った彼女、望は、プールへ続く扉を前に、困ってしまっている耕太と、しきりにせがむちずるとを黙って見つめながら、あいかわらずのなにを考えているのかよくわからない、とぼけた顔つきをしている。
望はちずるとおなじく、薫高の制服を着ていた。
ただし首もとには、きちんとリボンをつけてある。さらにその細い首筋には、あの、狼《おおかみ》の銀飾りがついたチョーカーも。
ちずると望のふたりにはさまれた格好の耕太は、彼女たちのような制服姿ではなく、ティーシャツにジャージのズボンなんていうラフな服装だった。
耕太が脇《わき》に抱えているのは、洗面器。
かっぽーん、なんて風呂桶《ふろおけ》の音がどこからか聞こえてきそうな、緑色の洗面器だった。なかにはタオル、せっけん、シャンプー、替えの下着が入っている。
つまり耕太は、お風呂に入りにきているのだった。
学校に――こんな時間に。
時刻はすでに夜の九時を回っていて、すっかりあたりは暗かった。向こうに見えるのは学校の校舎で、防犯効果を狙《ねら》ったものか、屋上近くに備えつけられた照明で自身をライトアップしている。そのため、くすんだ星空を背景に、白っぽく浮かびあがっていた。
どうしてお風呂に入るのに、学校にこなくちゃいけないのか。
そういうシステムだからである。耕太は学生寮に住んでいるのだが、薫高の寮にはお風呂がなかった。それは寮の建物が築四十年以上の古アパートを転用したものなのだから、しかたがない。なので、寮生(耕太ひとりしかいなかったけれど)は、学校の敷地内にある、合宿用の宿舎に備えつけの浴室を、使わせてもらっているのだった。
では、お風呂に入るのに、なぜちずると望が一緒なのか。
それは、みんなで一緒に入るから。
宿舎の浴室は広い。三人で使っても充分な余裕があった。もちろん、ちずると望《のぞむ》は寮生ではないから、許可なく入浴したら規則違反だし、それでなくても男と女がひとつところに入浴する、つまり混浴しちゃうのは問題なのだけども。
でも、平気。
入浴は[#「入浴は」に傍点]しないからだ。ちずると望は、耕太の背中を流すだけだからだ。当然、服を脱いだりなんかはしない。せいぜいが靴下を脱ぐくらいだ。そんな姿で浴室に一緒に入って、耕太の背中をこしゅこしゅとこする、ただそれだけなのだ。
いや、まあ、たまに、べつのところもこしゅこしゅ……ですけど。
そんなちずるは、耕太の恋人。
そして望は、耕太のアイジン。
ふたりは学校が終わると、耕太と一緒に寮に帰って、そのまま夜までいてくれる。ちずるはほぼ毎日、きまぐれな望はたまに。その後、耕太のお風呂《ふろ》につきあって、そこでちょっとしたスキンシップを果たしたら、学校で現地解散、ふたりは自宅に帰るというのが最近の流れだった。
だから耕太が困っているのは、入浴についてじゃあ、なかった。
困っているのは――。
「ねーねー、入ろうよう、耕太くぅん」
ちずるが耕太に身体をぴとりと寄せ、甘えてくる。
張りのある、しかしやわらかな胸のふくらみが、腰が、太ももが、耕太にくっついてきた。ふわんと、甘い匂《にお》いが耕太の鼻をくすぐる。それはちずるの匂い……汗ばんでいるせいか、いつもよりも濃いようだ。
耕太はそっとちずるの肩を押しのけ、自身もさがって、甘い香りから逃れた。
「だ、だめですよ、ちずるさん。だって、そんな――無断でプールに入ろうだなんて」
困っているのは、このことだ。
さっきからちずるは、勝手に学校のプールに侵入して、泳ごうなどというのだ。
耕太は学校に入浴しにきたのであって、プールに入りにきたわけではない。なのに、あー、あつーい、あつーいと開けっぴろげた胸元をぱたぱたと手であおいでいたちずるは、学校の校庭を通って、宿舎に向かう途中、目ざとくプールを見つけて、耕太を入り口まで引っぱっていき、ずーっと、入ろう、入ろうとせがみ続けているのだった。
「だってぇ、暑いじゃない。暑くて暑くてしかたがないじゃない。アツイゼアツイゼアツクテシヌゼ〜、ほら、見て見て耕太くん。わたしのおっぱいの谷間、汗でぬるぬるだよ?」
ちずるが、第三ボタンまで開いていたブラウスに手をかけ、さらに開いた。ぱつん、とついに第四ボタンまでもがはずれてしまう。
オープンにされた、深い深い一本線の、谷間。
ちずるはさらにふくらみを左右から開く。
たしかに暗いはざまは、ぬるぬるぽんだった。
おまけに、覗《のぞ》きこんでしまった耕太の顔に、ほわわわわ〜んとさわやかに甘酸っぱくも、まったりと濃い匂《にお》いがかかってきた。ちずるの匂い。特濃の匂い。生ぱいぱいぷーの匂い……ミルクの香りもすこし? 耕太はもう、くらくらぷ〜。
「ね、耕太くん、入ろう。泳ごう。いいじゃない、プールに入って塩素臭くなっても、すぐにお風呂《ふろ》に入れるし……ね? ね? ねー?」
きゅもっ、と抱きしめられた。
耕太の顔面は、ぬるぬるほわわわ〜んな谷間に埋《うず》まってしまった。
ちちまくらである。夏のちちまくらである。あまえんぼさん・イン・サマーである。
耕太はぴきーん、と両手両足、背中までも突っぱらせて、すぐに脱力した。身をゆだねた。顔面をゆだねた。慣れたもので、ちずるはしっかり抱きとめてくれた。
「れ……れも……み、みひゅぎ……」
そうです、水着がないんです。
水着なしでプールに入っちゃったりしたら、怒られるんです。いや、そもそも無断でプールに入っちゃったら、それだけで怒られるとは思うんですけど。耕太の脳裏に、今日も宿直であろう教師、八束《やつか》の顔が浮かんだ。つねに黒いスーツを着て、片手に木刀を持った、ちずるの弟のたゆらなんかは「ヤクザ教師」なんて呼ぶ、鷲鼻《わしばな》オールバックの男……。
「だいじょーぶだよ、耕太」
ささやきとともに、耕太の背中にくっつく身体があった。
いま耕太が顔面を埋《うず》めているちずるとは違って、しなやかな肉体だった。なにより熱い。愛情あぶらみ(by源《みなもと》ちずる)でほどよく包まれたちずるより、彼女は熱かった。
望《のぞむ》だった。
華奢《きゃしゃ》な身体に、とてつもない熱さを秘めた望が、耕太の背に身を寄せていた。
「パンがないんなら、ケーキを食べればいいんだよ、耕太」
あれ? どこかで聞いたことのあるセリフだよ?
「なあに、望。またヘンなとこ、なめなめしちゃう気? それともされたいの?」
それで耕太は思いだし、噴いた。いま顔面を埋めている谷間に、ぶふふーっと、口からの吐息を送りこむ。
ぶるるー、と谷間は揺れた。
やはぁあん、とちずる自身も揺れた。
「こ、耕太くん、ふいうち、ダメっ」
「ふ、ふみまふぇん」
むっ、と耕太の頭上で、ちずるが望を睨《にら》む気配があった。
「もう、望、あなたが余計なこというから……」
「だから、パンがなければケーキ」
「だから、こんどはなんなのよ、それ」
「水着がなければ、下着で入ればいいんだよ、ってことだよ、ちずる」
し、下着!?
下着って……ぶら? ぱんつ? 身体を硬直させてしまった耕太にはかまわず、ちずるは「あー、なるほどー」なんて、のんきな声で感心していた。
「わたしは裸になるつもりだったけど……うん、そうね。それならおカタイ耕太くんも、安心だよね。ね、耕太くん?」
は、裸!?
すっぽんぽんの、ぽん……。
いま自分を抱きすくめているちずるの、豊饒《ほうじょう》きわまる弾《はじ》けた裸身を、耕太はまざまざと思いうかべてしまった。豊かな胸とお尻《しり》、くびれた腰、腕や太ももにも適度に脂ののった、完璧《かんぺき》な肉体をだ。耕太の身体は、さらにおカタクなってしまう。
「耕太」
望が、耕太の背中から、その熱い身体をぐーっと押しあててきた。
こちらの華奢な裸身も、耕太はついつい思いうかべてしまう。手足が細く、胸やお尻はまるで少年のような小ぶりさで、しかしその曲線は女性のものでしかなく、なにより肌の白さといったら、本当に目の前にいるのか、不安になるほどで……。
ああ、もう耕太、かちーん、こちーん。
「ね……耕太くん」
「耕太」
望《のぞむ》に負けじと、正面のちずるも、耕太に身体を押しあててくる。
きっとちずるは気づいている。耕太がかちーんでこちーんなことに、気づいている。耕太が押しつけてしまっている腰の感触で、気づいている。ひめやかな、まるで楽しむような、ちずるのうねうねした腰の動きで、耕太はそれを知った。
あああ、もう。
かたや、やわらかくてあたたか。かたや、しなやかで熱い。そんな対照的なふたつの肉体に、ぐももももーんとサンドイッチされた耕太は、もう……もう……。
「あつい……」
だった。
熱い。熱くてしかたがない。だって夏だし。熱帯夜だし。だからちずるはプールに入ろうとしてるんだし。それなのに、こんなにふたりにくっつかれてしまったら、熱くてダメ、もーダメ。耕太はぐったりとちずるにもたれかかった。だらだらと流れた汗が、ちずるの胸に染みついてしまうかなー、ぼくくさいかなー、なんて思いながら。
「よーし、耕太くんもあついあついだし、望、善は急げよ。右腕、持って!」
「はれ?」
ふたりが離れ、おかげでそよそよと感じられた夜風に、うっとりする間すらなかった。
左腕をちずるに、右腕を、望に。
気づいたらそれぞれの腕を、耕太はがっちりと組まれてしまっていた。
正面には、プールの扉がある。
その金網の扉は、きちんと南京錠で閉じてあった。扉の上にはトゲトゲの有刺鉄線が張ってあるし、普通ならば侵入することは無理なはずだ。
まあ、ちずるさんも望さんも、普通じゃあないんだけど……。
と、思っているうちに、耕太の足元の感覚はなくなっていた。
跳んでいた。
耕太と両腕を組んだまま、ちずると望はタイミングをあわせて跳び、プールの扉を、そしてその上に張られた有刺鉄線を、軽々と越えていた。
向こう側の白いコンクリートの階段に、すたっと降りたつ。
「じゃ、いこっか?」
およそ、三メートルは跳んだだろうか……?
いきなりの浮遊感にふらふらしている耕太を引きずるように、普通じゃない女性、ちずると望は、奥にあるプールへと向かうのであった。
胸元深く、すでにボタン四つぶんまで開けてあったちずるのブラウスが、さらに、ぽつ、ぽつ、ぽつと、残りのボタンすらも外されてゆく。
ブラウスはちずるの肩をすべり、腕をぬけ、すとんとコンクリートの床に落ちた。
あらわとなった、ちずるのふくらみ。
大きいふくらみだ。豊かなふくらみだ。さっき、耕太が顔を埋《うず》めたふくらみだ。
とてもまるっとしていて、しかし張りによって決して垂れることのないそのふくらみは、肩ひもつきの白いカップによって包まれていた。
それは、ぶ、ぶらじゃー……。
耕太が、その純白で飾り気のない下着に意識を奪われているうちに、ちずるはすでにチェックのスカートに手をかけていた。
ぽつん。ホックがはずれる。
すとん。スカートが落ちる。
うろん。ぱんちゅまるみえ。
やはり純白で、飾り気のないシンプルな下着は、しかしなにやらひしょひしょがひしょひしょと翳《かげ》っているような……見えない。暗くて見えない。月明かりじゃ見えないよ……。
「耕太くーん? 人が脱ぐところばっかり見てないで、はやく耕太くんも、ほら、脱がなくちゃ」
夜のプールサイドにて、すでに下着姿になっていたちずるが、けんけんして黒い靴下を脱ぎながら、耕太をせかしてきた。
「え? あの……ぼ、ぼくもですか?」
「当たり前じゃない。ほら、望《のぞむ》なんか、もうとっくに脱いでるよ」
いわれて、耕太は真横にいる望を見た。
たしかに、望はすでに下着だけの姿になっていた。
というか、ぱんつ一枚だった。
なかった。上がなかった。ぶらがなかった。あの、なだらかな胸のふくらみを、望はすっかり剥《む》きだしにしていた。いや、むしろ腰に手を当て、つつんと尖《とが》った胸の先を、むんと突きだしていた。
いや、そんなことより、彼女の身体を唯一覆う、ショーツといったら――。
黒。
細かな刺繍《ししゅう》入りの、オトナぱんちゅであった。これはもう、正確にパンティーと呼ばねばなるまい。「ティー」は「トゥィー」である。パントゥィー。黒パントゥィー。
「それにしても……なんなの望、その下着」
耕太の脳裏に浮かんだ質問を、ちずるが尋ねる。
「せくしーしょーつ」
くいっと腰を突きだし、望は得意げに答えた。
「あなたはショーツの前に、身体のほうをセクシーにしたら? でも、ある意味うらやましいかな……。わたしなんか、ほうっておいてもあふれでてしまうこの色気を、いったいどうしたものかと悩んでいるというのに……」
うーん、と唇をかすかに尖《とが》らせながら、ちずるは自分の大きく張りだした、まるでメロンのような胸を下から持ちあげ、ふにんふにんと揺らした。
「ええ? 悩んでたんですか? ちずるさん」
ん? とちずるは耕太を見た。
ぱっと胸から手を離し、にここーっと微笑《ほほえ》む。
「耕太くーん? 脱げないんなら……手伝ってあげるっ」
ちずるが迫ってきた。
まだティーシャツ、ズボンを着たままの耕太に、手を伸ばしてくる。耕太は逃れようとするも、音もなく近づいていた望《のぞむ》に、背中から捕らえられてしまった。
「わ、わわっ! ちょっと……う、うひゃ、そんなとこ、触っちゃダメ! ダメです! やだ、えっち、あ、あああああ……ら、らめぇ!」
耕太はあっさりと、上も下も剥《は》ぎとられた。
それどころか、最後の砦《とりで》、トランクスまでも脱がされそうになった。耕太は下着を両手でつかみあげ、必死でこらえる。布は伸び、ぷちぷちぷちと糸の切れる音をたてた。
「こ、これはダメー!」
涙目になった耕太に、ようやくちずると望は手を離してくれた。
「やだなー、冗談だってば、耕太くん」
「やだなー、冗談だよ、耕太」
「じょ、冗談の割りには、すっごく力入ってたと思うんですけど……。あ、ぼくのパンツ……破れてる! 破れちゃってる!」
「まー、まー、耕太くん。あとでセクシーなパンツ、買ってあげるから。紐《ひも》のやつ」
「い、いらない!」
ぐすっ、と耕太は鼻をすすった。
「さーて、それじゃ、耕太くんも準備ができたことだし……いこっか」
「ぷーる、ぷーる」
「え? いや、だからあのそのえっとぼく」
プールの扉を跳びこえたときのように、耕太は両腕をがっちりと組まれた。
ちずると望は、楽しげな声をあげながら、プールサイドを駆ける。プールに向かって駆ける。月明かりや校舎からの明かりをてかてかと跳ね返しつつ揺らぐ黒い水面に向かって、駆けてゆく。
跳んだ。
びよーんと跳んで……一気に、プールの中央へと。
どっぽーん。
水しぶきをあげ、耕太は落ちた。
落ちて、もがいた。
がぼ! げぼ! がぼ! げぼ! ちずると耕太が組んでいた腕を強引にほどいて、真っ暗な、そして跳びこんだときの泡でなにも見えない水中のなかを、もがく。苦しむ。ぶっちゃけると――おぼれる。
暗い! 怖い! 苦しい! 死ぬ、死んじゃう! ぼく、死んじゃう!
……死?
死ぬのかな、ぼく……と、耕太は思った。もがき続けていた腕から力がぬけ、身体が沈んでゆく感覚を味わうと、そう思わざるを得なかった。もがいて、もがいて……ぼくはいったい、なにをつかもうとしていたの、だろうか……おっぱい?
見あげた先、闇《やみ》の向こうに――。
ぽぅ、と灯《とも》った輝きが、ふたつ。
ひとつは金色だった。もうひとつは銀色だった。
ふたつの輝きはみるみるうちに迫ってきた。迫って、耕太の身体をつかんだ。
一気に引っぱりあげる。
「――耕太くん!」
肌に感じた空気に、耕太は考えることなく息を吸いこんだ。肺に入ったとたん、咳《せ》きこんだ。がふ、げほ、ごはほと、水を吐き、空気を吸い、水を吐き、空気を吸い。
ぜひー、ぜひー。
ようやく、呼吸は落ちついてきた。
「耕太くん、だいじょうぶ、耕太くん!」
ちずるの問いに、耕太はなんとかうなずいた。
耕太を見つめるふたり――ちずると望《のぞむ》は、それぞれ金色と白銀の輝きを放っていた。
頭からは耳が生えている。
獣の耳だ。
ちずるは狐《きつね》の耳を、望は狼《おおかみ》の耳を生やしていた。水中に潜れば、尾てい骨のあたりからしっぽが生えているのもうかがうことができるだろう。ちずるは耳以外にも、艶《つや》やかな黒髪を金髪に転じていた。望も色こそ銀髪のままだが、毛先はところどころけばだっていた。
ふたりは、人間じゃなかった。
人ならぬもの――妖怪《ようかい》。
ちずるは自称|齢《よわい》四百歳の、狐の化生《けしょう》、化け狐。望は本人すらよくわかっていないけれど、たぶん耕太とおなじ十七歳くらいじゃないかなー、な、人狼《じんろう》。
「ね、耕太くん、どうしたの、なにに襲われたの? 河童《かっぱ》? 船幽霊?」
緊張に表情を強《こわ》ばらせながら、ちずるが尋ねてきた。
いるのだ。
耕太やちずる、望が通う薫風《くんぷう》高校には、妖怪が、いるのだ。
ちずると望のほかにも、ヒグマの妖怪だとか、かまいたちとか、かえるっ娘《こ》とか、いろいろいるのだ。それら妖《あやかし》は、ごくごく普通の、なにも妖怪のことを知らない、わからない人間の生徒たちに混ざって、ともに学生生活を送っているのだった。
そういった妖怪《ようかい》たちのほかにも、最近では耕太やちずるを狙《ねら》う人たちもいて……だから、いま耕太が妖怪に襲われたのだとちずるが勘違いしても、おかしくはなかった。
が、今回は違う。
おそらくは敵に備えて妖怪の姿に変化したちずるに、耕太は説明しようとした。
説明しようとして、自分が鼻水をだららと垂らしていることに気づく。洟《はな》をすすったらヘンなところに入った。また咳《せ》きこみだした耕太の背を、ちずると望《のぞむ》がさすってくれる。それぞれ、しっぽまで使ってさすってくれた。狐《きつね》と狼《おおかみ》のしっぽで、こすこすと。
「耕太くん、敵はだれ? 耕太くんをおぼれさせようなんて……そんなやつ、コロスから! 三枚におろして望に食わせるから! 教えて!」
耳を寄せてきたちずるに、耕太はいった。
「……げないんです」
「え?」
「ぼく……泳げないんです」
ちずるが、一瞬真顔になった。ぱちぱちと、まばたきをくり返す。
「……え? なに?」
「だから、ぼく、泳げないんです。それで、いま、おぼれたんです」
「あ……だって、ここ……足、つくよ?」
耕太はなんだか泣きそうになりながら、うなずいた。ちずるにしがみつきながら。その胸のぱいぱいぷーに頬《ほお》を埋《うず》めながら。横目に、ちずるの金髪を見ながら。
「足つくのに、ぼく、おぼれちゃったんですぅ……」
「だってだって、耕太くん、自然がいっぱいの田舎で育って……川だってあったでしょう」
「その川で……ぼく、子供のころ、おぼれて……もしもおじいちゃんに助けられなかったら、いまごろなむなむあーめん……だから」
「トラウマになったって……こと?」
洟をすすりながら、耕太はうなずいた。
「やだ、それならそうって、いってくれればよかったのに! そうすればわたし、無理にプールになんか、入ろうなんて誘わなかったよ?」
「すみません……でも」
耕太はうつむいた。
「は、恥ずかしいじゃないですか……泳げないなんて」
「もう……耕太くんったら、かわいいっ!」
ちずるが抱きついてきた。頬を耕太の頭にこすりつけて、かいぐりかいぐり。
耕太はちずるに頬ですりすりされながら、男として、『かわいい』なんて形容詞はいかがなものなんだろうか……なんて考えてみた。
「それにしても……望、あなた、耕太くんとおなじクラスなんでしょ? プールの授業、一緒に受けてるんでしょ? なのにどうして耕太くんが泳げないってこと、知らないのよ」
うーん? と望《のぞむ》は人さし指をくわえた。狼《おおかみ》の獣耳が、ぴくぴく動く。
「そーいえば耕太、プールのすみっこで、制服のまま、ずーっと座っていたよーな……あかねといっしょに」
「あなたねえ、それがわかっていて……って、なぬ? あかね?」
ちずるの声音が変わった。耕太を胸元に抱きしめる腕の力も、ぎゅむりと強くなる。
「うん。耕太、あかねといつもいっしょだった」
「いつもいっしょ……?」
ちずるの声はぞっとするほど冷たい。
どうじに、耕太を抱く腕の力は強さを増した。ぎりぎりぎりぎり。
「い、いた、痛い、ちずるさん、痛いですっ!」
するりとちずるの腕はゆるんだ。
耕太はほっと息をつきつつ、水の怖《おそろ》しさにちずるにしがみついたままでいた。ブラごしに頬《はお》を寄せたちずるのふくらみが、水面の揺らぎにしたがって、ふよ……ふや……と揺れるのを感じ、そうか、ぱいぱいぷーって水に浮くんだ……などと思いながら。
ちずるは、耕太をその胸元にしがみつかせまま、なにごとか呟《つぶや》いている。
「油断してた……考えてみれば、あの子は耕太くんとおなじクラスで、席も近くて、おまけに――なんだから、このバカオオカミなんかより、よっぽど手強《てごわ》いじゃないか……うう、授業中、いつもいっしょだと? わたしの耕太くんと、いつもいっしょだと? ううう」
「……あのー、ちずるさん?」
耕太は胸の谷間にそってあご先を滑らせ、ちずるの顔を見あげた。
ぎょっ、となる。
夜空を背にした金髪のちずるが、金色の瞳《ひとみ》をぎらぎらと輝かせながら、親指の爪《つめ》をがじがじと噛《かじ》りまくっていたからだ。彼女の狐《きつね》の耳ときたら、心のなかをあらわすかのように、びびんとそそりたっていた。
ぎらつくちずるの瞳が、耕太のほうを向く。
「――耕太くん、海、いこ!」
「……へ?」
「だから、海だよ、海。知ってた? 海水ってね、真水よりも浮力が高くって、浮きやすくって……つまりはプールよりも泳ぎやすいってわけ! ね、耕太くん、やっぱり泳げるようになりたいでしょ? 水が苦手なトラウマ、解消したいでしょ?」
「で……できれば」
「よし、決まり! 夏休みには海、いくぞー!」
ちずるは眼《め》をぎらぎらと燃やしたまま、拳《こぶし》を天に突きあげた。わかっているのかいないのか、横の望も「おー」と拳を突きあげる。耕太はちずるの胸の谷間にあご先を埋めたまま、突然の海行きを宣言した彼女を、ぽかーんと見あげるのだった。
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[#小見出し]  二、老人と海(ほか、狼と青年とカミナリオヤジ)[#「二、老人と海(ほか、狼と青年とカミナリオヤジ)」は太字]
N県S市Y町。
太平洋に面した、小さな町。
おだやかな海と、そこそこの広さの浜辺がある町だ。そのため、夏ともなると町は海水浴客でけっこうなにぎわいを見せた。いまはまだ七月の半ば、人ごみのピークではなかったが、それでも家族連れ、カップル、かきいれどきだと商売っ気を見せる地元民たちで、ビーチは芋をじゃぶじゃぶと洗うようだった。
そんな熱気とは、あまり関係がない、町の外れ。
県外へと向かう国道ぞいにある、深い木々で包まれた、小高い山なみの奥だ。
国道の途中から、その山なみの奥へ奥へと向かうと、やがて、切りたった崖《がけ》にでる。崖下では荒々しく海が打ちつけられ、白く砕けている崖だ。岸壁、絶壁だ。
そんな場所で、犹守《えぞもり》朔《さく》は闘っていた。
犹守朔。
犹守の姓が示すとおり、望《のぞむ》の兄である。
もっとも、あまりおもかげはない。鋭く拳《こぶし》、蹴《け》り、手刀、たまに噛《か》みつきなんてくりだしている彼は、背が高く、腕も足も充分な筋肉で引き締まっており、眼《め》も鋭く鼻も高く、似ているのはばさついた銀髪と、銀色の瞳《ひとみ》ぐらいなものだ。
それもそのはず、朔と望は血がつながってはいなかった。
朔はエゾオオカミ、望はニホンオオカミの化身。
かつて耕太《こうた》、ちずると闘い、そのスーパーラブラブパワーの前に敗北を喫した人狼《じんろう》、朔は、上半身は赤いタンクトップ、下は革のパンツ、足はブーツなんて姿で、狼《おおかみ》の耳としっぽを生やし、炎天下、めまぐるしく動き続けている。
闘っているあいては、イカだった。タコだった。
大きさは人の大人ほど。問題はその数で、何十匹といた。それらが、背後に林を広げた狭っ苦しい崖の上、うぞうぞとうごめいている。朔は殴り、蹴り、投げ飛ばして、何匹も崖下に落とした。荒々しい海に、白いイカ、赤いタコを呑《の》みこませた。しかしすぐさま彼ら(彼女ら?)は登ってくる。崖を、ぺたぺたと触手を貼りつかせながら、登ってくる。
朔はふー、と息を吐いた。
「こいつはキリがない……」
噛みちぎられてなお、朔の腕に絡みついてくるタコの足を引きはがし、喰らう。
しばらく噛んで、ぺっと吐きすてた。その足の持ち主だったタコは、ショックなのか、びびびーんと身体を震わせた。
「もう弱音か、朔……」
朔の後ろには、もうひとり、男の姿があった。
背丈の低い男だ。
その体格は、およそ、耕太とおなじほど……男の髪は見事なまでに白く、その白髪はオールバックにまとめてある。サングラスをかけているために目元はわからないが、鼻は高く、その鼻の下には髭《ひげ》。顎《あご》にも白い髭をたくわえていた。
男の顔には、年齢によってのみ刻まれる、深い皺《しわ》があった。
老人といってもいい顔つきだ。だが、服装は黒革のライダースジャケットに、朔《さく》とおなじ革のパンツ、ライダースブーツと、とても年寄りの格好ではない。
「だれも弱音なんか吐いちゃいませんよ、弦蔵《げんぞう》さん。これはただの状況確認ってやつだ」
「あいかわらず口の減らん男よ。で、状況を確認したならば、つぎはどうする」
ふっ……と朔は鼻で笑った。
「食べます、これ?」
背後の男、弦蔵に向かって、うねうね動くタコの足を放る。
「いらん」
宙にあるタコの足に向かって、弦蔵は腕を縦に振りあげた。
とたんに足は爆《は》ぜた。
このとき、弦蔵はなにも投げてはいない。爆発物も、武器も使ってはいない。
当てたのは、気――。
凝縮した気が、タコの足を粉々にしていた。あたりの草むらに散らして落としていた。元の足の持ち主であるタコを、もうかわいそうなぐらいにヘコましていた。
ほかのイカやタコたちにも、衝撃を与えたようだ。
朔と弦蔵を囲んでいた軟体動物たちが、じり、じりと退いてゆく。
「ちょっとちょっと、弦蔵さん。こいつらの相手はおれなんだから、余計なことしてビビらせないでくださいよ。これじゃおれの修行にならないでしょーが」
「たわけぃ。おぬしが余計なもん、放るからじゃろーが」
ヨケイナモン……アタシ、ヨケイナモン? すっかりつぶれてしまったタコを、仲間のタコやイカが触手でさすってなぐさめだす。
「まあいーや……。恨みはないが、おまえら、いじめさせてもらうぜ」
ずん、と朔が一歩足を踏みだした。
びくくっ、とイカタコ連合軍がさがった。
「保護者が……でてくるまでナァー!」
朔が吠《ほ》えた。
鋭い犬歯を覗《のぞ》かせ、吠えた。きゃー、と、もしイカやタコに口があればそう悲鳴をあげたであろう、すさまじい刺さるような闘気を吹きだして、彼らに迫った。たまらず逃げだすイカにタコ。崖《がけ》からつぎつぎに、ずととと、と落ちた。
「――お待ちください」
それは低く、しかしよく通る声だった。
どうじに風が吹く。海からの風。潮風だった。
一陣の潮風は、崖《がけ》にある、古びた社――神さまを祭る小さなほこら――の前でくるりと巻き、小さな竜巻と化した。その社は、さきほどまでイカやタコがひしめいていたせいで、姿がすっぽり隠され、見えなかったものだ。
社の小さな両開きの扉には、足跡がある。
朔《さく》のブーツの足跡だ。
ついさっき朔が蹴飛《けと》ばして、つけた足跡だ。
それで海の一族は怒り、イカタコ軍団が襲来したのだ。なにも知らぬニンゲンが冗談半分でつけたものならばまだ許しはある。せいぜい七代|呪《のろ》われ、ものすごく海難に遭いやすくなる程度だ。だが、おなじ人ならぬ存在……妖《あやかし》である朔がつけたのは、海の一族にとって許し難かった。それもあきらかにわざとなのだから。
で、さきほどのバトルだ。
朔はにたりと口の端をあげ、笑った。
「いよいよ保護者のおでましかい……」
にたりと笑った朔が、つむじの去ったあとに見たものは――。
バニーガール姿の、妙齢の女だった。
つんと澄ました顔で眼鏡をかけた、熟した肉体の女が、うさぎ耳、バニースーツ、網タイツなんて格好でモデル立ちしている。むろん手には銀のトレー、足は黒いハイヒールだ。
「……なに?」
「因幡《いなば》の白ウサギだろうよ」
呆然《ぼうぜん》とした朔の後ろから、弦蔵《げんぞう》が解説をくわえる。
「おそらくは秘書か、副官か。本命はほれ、ウサギちゃんの後ろだ」
バニーガールが、横に退く。
そこには、赤髪の青年がいた。
いや……その髪の色あいはもはや赤というより、オレンジに近かった。日に焼けたと思わしきオレンジ髪の青年は、しかし肌の色は白い。白すぎて、ある意味病的なくらいだ。眼《め》の下にはくままで浮かび、その瞳《ひとみ》の色ときたら、金色である。
青年は、白いマントを羽織っていた。
マントの下には、濃紺のシャツとズボン。どちらにも金糸で細かく複雑な刺繍《ししゅう》が入れてあった。ベルトのバックルはごつく、膝《ひざ》まであるブーツを履いている。
「ひかえおろう!」
突然、バニーガールが叫んだ。
「ここにおわすかたをどなたと心得る! 倭《やまと》の国にあまたいる海神《わだつみ》の頭領、大海神《おおわだつみ》、豊玉彦《とよたまひこ》さまが息《そく》、海鳴りのカイさまであらせられるぞ! 一同、頭が高い、ひかえおろー!」
「それやめてよ、シズカ。恥ずかしいから……」
カイと呼ばれた青年が止める。
「で、ですが、カイさまぁ」
「いいから」
は、と了承するも、すこしむくれ顔のバニー。
背は高いが猫背のカイが、ごほんとひとつ咳払《せきばら》いをした。
「わたくし、海鳴りのカイと申します。ここ一帯の海を治める、海神《わだつみ》でございます。あなたがたは……」
「おれは朔《さく》。犹守《えぞもり》朔。人狼《じんろう》だ」
朔が自分を親指で指しながら答えた。
その後ろに立つ老人も、カイの視線を受け、答える。
「……わしは弦蔵《げんぞう》。小山田《おやまだ》弦蔵。人間じゃ。ただのな」
「ふざけるな!」
怒鳴ったのはバニーだ。
「きさまがただのニンゲンであるはずがあるものか! さきほど、我が一族の足を破壊せし技、あれは〈葛《くず》の葉《は》〉と名乗るものたちが好んで使う技! おのれ〈葛の葉〉、いったいなにを企《たくら》んでいるのだ!」
「シズカ」
カイがすこし強めにバニーをたしなめた。バニーはしょぼんとヘコむ。
じっと、カイは弦蔵を見つめた。
「いまシズカがいったことは、本当ですか? 〈葛の葉〉と我ら海の一族は、不可侵条約を結んでいるはず。決して互いに干渉はしないと……」
「〈葛の葉〉は〈葛の葉〉でも、おれたちゃどちらも元がつく〈葛の葉〉なんだよ」
弦蔵の代わりに朔が答えた。
「元……?」
「ああ。昔はたしかに〈葛の葉〉にいたがな。いまは違う。どちらもフリーだ。おれは妹が、こちらは孫がひとり立ちしたんでね。気ままなふたり旅としゃれこんで……」
「――朔」
ぎろりと弦蔵が睨《にら》みつけた。
「おぬし、その口の軽さで、いつか死ぬことになるぞ。……わしの手でな」
睨《にら》まれ、朔は肩をすくめた。
そんなふたりに、カイは尋ねる。
「で、そのきままなふたり旅をしゃれこんでいたあなたがたが、なぜにこのような無法を働くのです。我が社をむやみに汚し、我が一族を傷つけ……」
「あー、悪い悪い。その件については謝る。べつにあんたらをバカにしてるとか、そういうことじゃないんだ。ただな……」
「ただ?」
「おれとのケンカ、買ってもらいたくてな」
ぴく、とカイの頬《ほお》が動いた。
先に反応したのはバニーのほうだった。
「きさまら、カイさまに……」
怒鳴りつけようとしたバニーの眼前に腕を伸ばし、カイは彼女を制止する。
「わたしと闘いたい……海神《わだつみ》のわたしとですか?」
「ああ、おれたちはそのためにきままなふたり旅をしてるんだ。全国にいる妖《あやかし》の猛者たちにな、ケンカ売ってまわってる」
「それは、きままな旅と呼べるのですか」
「きままだろ?」
「むしろ、わがままかと」
くく、と朔《さく》は笑う。カイも笑い、つかのま、緊張が解けた。
にこりと微笑《ほほえ》んだまま、カイがいった。
「この勝負、丁重にお断りします。――もしもそういったら?」
「おまえさんの後ろの社、ぶっ壊す」
ふー、とカイは息を吐く。
「壊されるわけにはいきませんね……」
「カイさま!」
「さがっているんだ、シズカ。決して手をだしてはいけないよ。これはこの海を守る神である、わたしがやらねばならぬことなのだから……」
きゅっと胸の前で手をあわせながら、バニーがさがる。
「では……」
カイがマントのなかに手を差しいれ、腰をひねった。
抜かれた手には、小刀があった。細やかな飾りつけのされた、美しい小刀だ。柄についた鈴が、涼しげな音色を奏でる。
「まいります」
「おうよ」
カイが、朔に向かって飛びこんだ。
なかなかの速さだ。だが、朔にはとある剣術の奥義から得た、あらゆる攻撃を受け流す〈逃げ水〉と呼ばれる技があった。その技とは――。
「カイさま!」
突如、バニーの悲鳴が響き渡る。
カイが倒れていたからだ。
朔がなにかしたわけではない。朔が〈逃げ水〉を使う前に、つまり攻撃が届く前に、カイは倒れていた。
こけたのだ。
見事な、すぽーんと、両腕を前に投げだす完璧《かんぺき》なこけかたを、彼はかましていた。
「う……く……」
腹でも打ちつけたのか、うめくカイを、「がんばれカイさま、ごーごーカイさま!」とバニーが励ます。
声援の甲斐《かい》あってか、カイは立ちあがった。
「……だいじょうぶか?」
「いまは勝負の最中、情けは無用!」
カイは斬《き》りかかった。
それで、ようやく朔《さく》の〈逃げ水〉は発動した。
ひらひらと落ちてくる葉を、宙にあるうちに斬ることは難しい。動くものに当てる困難さもさることながら、たとえ刃が触れたとしても、支えるところのない葉は、するりするりと宙を逃れてしまうからだ。
刃に決して逆らわず、受け流す――朔の動きもおなじだった。
つねに身体を揺らし、重心を限りなくゼロに近づけることで、宙にある葉とおなじ状態を作りあげ――。
「ぎゃふっ!」
たしかにカイはいま、ぎゃふっといった。
初太刀を、朔の〈逃げ水〉でぬるぬるとよけられたカイは、それでもすぐさま身を返し、つぎの一撃を浴びせようとした。
そのとき、悲劇は起きた。
またこけたのだ。
小刀を振ろうと踏みだしたとき、重心を支えていた足が、滑った。そしてカイは横っぱらを激しく打ちつけた。カイはいま、ううー、とうめきながら、雑草の生えた崖《がけ》の上を転がっているのだった。
「……」
朔が、カイが足を滑らせた場所を見おろす。
手を伸ばし、なにかを拾いあげた。
白いぶよぶよしたそれは、さきほど弦蔵《げんぞう》の一撃によって粉々にされた、タコの足だった。タコの足を持ちながら、朔は弦蔵を見た。
「……わしのせいか?」
「いや……だけど、このボウヤを闘う相手に選んだのはあなたのせいかな」
朔はぽいとタコの肉を捨て、弦蔵の元へと――林のあるほうへと歩きだした。
うめくカイを、その場に置き去りにして。
「これはどういうことです? 最強の相手のひとりが、この海にはいる……それを呼びだすためには、ちょっとばかり弱いものイジメをしなければならないが、と弦蔵さんがいうから、おれはイカやタコをイジメてたんですよ? それが、でてきたのはあのボウヤだ」
朔《さく》は背後の、いまバニーに駆けよられたカイを指さした。
「あのボウヤの、どこが最強の相手なんです? 弦蔵《げんぞう》さん、あなた、こんどの相手はかの〈九尾《きゅうび》〉にもならぶ大凶妖《だいきょうよう》とかいってましたけど……とてもそんな風には」
「おぬし、なにを勘違いしておる? わしがいう最強の相手とはな」
「お、お待ちください……」
それはカイの声だった。
カイは、倒れながら朔と弦蔵に向かって手を伸ばしていた。
「ま、まだ勝負はついていません。わたしはまだ、闘えます……」
「ご無理をなさらないでください、カイさま!」
「そうだそうだ、お姉ちゃんのいうとおり、ご無理なさるなよ、カイさま。おまえさんが闘えても、こっちが無理だ。狼《おおかみ》ってのはこれでなかなかプライドが高くてね……ぶっちゃけ、これ以上弱いものイジメするのは、ヤダ」
「よ、弱いもの、イジメ……わたしが、弱いもの……」
カイはくわっ、と眼《め》を見開き、続けて力なく、がくりとうなだれた。
「……朔、おぬし、充分イジメとるぞ」
「ん。悪いこといっちまったか? だけどさ、弦蔵さん。こういうことは正直にいったほうが、お互いのためだと思うんだ」
「うむ……まあ、それに、これで準備はよし」
「……準備?」
カイさま、カイさま、とバニーがうつぶせになったままの青年にしきりに声をかける。
カイは顔をあげた。
その頬《ほお》は、涙で濡《ぬ》れていた。
髪には雑草の切れはしがくっつき、鼻には土がこびりついている。そんな顔で、カイは泣いていた。さめざめ泣いていた。
「わたしには、わたしには……やはりわたしには、まだ海神《わだつみ》など早かったのか……」
ずすっと洟《はな》をすする。上を向いてぎゅっと目元をしかめたとたん、まぶたから押しだされた涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
地面で、きらんと弾《はじ》けた。
その瞬間――。
カァァァァァァァイィィィィィィ!
地の底から、いや、海の底から、声がとどろく。
その声はいま朔《さく》たちがいる崖《がけ》を揺らした。いや、声が揺らしたのか、それともその声を発した存在が揺らしたのか、よくはわからない。とにかく、崖は揺れ、朔と弦蔵《げんぞう》の後ろにある林から、いっせいに鳥や虫たちを飛びたたせた。
とどろきは続く。
わたしのォ! 息子をォ!
泣ァ! かァ! しィ! いィ! たァ! のォ! はァ!
「――きさまらかァー!!」
最後の叫びとともに、目の前の海から、間欠泉のごとく潮が噴きあがった。
潮の上には、巨大な亀《かめ》があった。
そして、その大人三人がゆうに乗れるほど大きな亀の上には、男がいた。
ふんどし姿の男だった。
白い髪を長々と背に伸ばし、肌は見事に灼《や》けて、赤銅色。
カイとは正反対な色あいをした男は、背が高く、胸板はぶ厚く、肩はごつく、腕は太く、腹はぼこぼこと筋肉で段ができた、ストロング・ボディーの持ち主だった。そのふんどしからにゅっと覗《のぞ》く太ももときたら、女性どころか男の腰回りなみの太さである。
そのふんどしは、股間《こかん》のマッスル丸わかりな、男のふんどし、六尺ふんどし。
男は、右手に三《み》つ叉《また》の銛《もり》を持っていた。
それは、男の体格にぴったりなでかさのため、銛というよりもはや三つ叉の矛、トライデントといったありさまだった。
男は宙に浮かんでいた。
なぜならば、男の乗った巨大|亀《がめ》が、その甲羅からだした短い手足を、懸命にぱたぱたと動かし、間欠泉のような潮がなくなったあとでも、空に浮いていたからである。
「ち、父上……」
「大海神《おおわだつみ》さま……」
カイとバニーは、男をそう呼んだ。
朔《さく》は眼《め》を剥《む》く。
「な、なに、大海神? おい、おい、おい、弦蔵《げんぞう》さん、これって……おい!」
「そのとおり。あれこそは海神《わだつみ》を統べる海神たちの王、大海神、豊玉彦《とよたまひこ》だ。いっただろう? 弱いものイジメすれば、最強の相手がでてくるとな」
「いや、しかし、えー? 子供のケンカだぞ?」
「うむ。でてくるのだよ、親が……」
「なるほどね……これはたしかに、九尾《きゅうび》なみの大凶妖《だいきょうよう》だぜ……」
だが……と朔は呟《つぶや》く。
「九尾の狐《きつね》はあいつになにかあっても、でてはこないだろうな……うーん、いや、あんがいあのひとも親バカかね?」
「なにをぶつぶついっておる? ほれ、望みどおりの最強の相手だ。ゆけ」
「ゆけっていわれてもな……」
見あげた先では、大海神が朔と弦蔵を怒りもあらわに睨《ね》めつけていた。
大男と大亀の後ろに広がる空は、ついさっきまでは入道雲もくもくの快晴だったというのに、いまはもうそれが嘘《うそ》だったかのように、黒々とした雲に覆われている。
暗雲は、やがて雷雲へ。
ごろごろと鳴り、ときおり雷光が輝きだした。
「や……やるしかねーかぁ。えーい!」
朔は気合いを入れた。
歯を食いしばる。鋭く尖《とが》った犬歯を剥きだしに、ぎゃりり、と奥歯のあたりがきしむほどに、強く、噛《か》みしめた。
朔の顔に、毛が生えだした。
最初はうぶ毛のようなものだった。しかしすぐに伸びた。銀色の毛が、あっというまに朔の顔を覆う。発毛は顔だけではなく、全身におよんでいた。
すっかり銀毛が身体を包みこむころには、体格も変化していた。肩や腕、胸、足の筋肉がふくれあがる。赤いタンクトップがぱんぱんになる。代わりに背中は曲がった。まるで二本足で歩く、獣のように。
そうして、元の倍ほどにも身体が大きくなったときには、朔の顔は、人のものではない、狼《おおかみ》のものへと変わっていた。二本足で歩く、巨躯《きょく》の狼だ。
牙《きば》の生えそろった口から、朔は獣のうなりをあげる。
「正気は保っておるか、朔《さく》」
「ナントカ」
朔は振りむき、ガウガウと弦蔵《げんぞう》にウィンクまで返す。
「よし……すこしはいままでの成果がでておるではないか。ゆけい、朔」
弦蔵は宙の大海神《おおわだつみ》を指さす。
「お、お待ちください。あなたがた……いったいなにをするつもりなのです?」
カイが、朔と弦蔵に尋ねてきた。
いまだにカイは地面に倒れたままだった。その背はバニーが支えていた。
「おぬしの父御《ちちご》と、こやつを闘わせる」
「な……なにを馬鹿《ばか》なことを!」
声を荒げたのは、カイの背を支えていたバニーだ。
「大海神さまに挑むなどと……正気なのか、きさまらは!」
「挑む、というかな……まさか、千に一つも勝てるなどとは思っておらんよ。だが、あの大海神と本気で闘って、それで生き延びれるようでなくては、これから先に控えている相手に対して、あやつはなんの役にもたたんのだ」
「これから先、控えている相手……とは?」
カイの問いに、弦蔵はすこし迷いを見せた。地面を向く。
「ふむ……カイどの、おぬしには、迷惑をかけてしまったからな……」
弦蔵はサングラスごしに、カイを見た。
「八体の〈龍《りゅう》〉……〈八龍《はちりゅう》〉」
「八体の……〈龍〉?」
カイの声を打ち消すように、朔は吠えた。
狼《おおかみ》の叫びをあげて、宙に浮かぶ大海神目がけて、跳んだ。
大海神は、ただ黙って、三《み》つ叉《また》の銛《もり》を高く掲げる。
空に向かって……黒々とした雷雲に向かって。
「ち、父上! お、おやめくださいっ!」
――オロカモノめ。
閃光《せんこう》が、走った。
雷だった。
雷光に、一瞬遅れての、雷鳴。雷――カミナリ――神鳴り。文字どおりの神の怒りを、ごろごろぴしゃーん、と朔は、そして弦蔵は受けた。
がうーん!?
ぬわーっ!?
崖《がけ》の砕ける音に混じって、一匹の獣の声と、一人の老人の声が、あがった。
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[#小見出し]  三、オペレーション・コード・フォックス[#「三、オペレーション・コード・フォックス」は太字]
ちずるさん、どうしたんだろ……。
耕太《こうた》は困惑していた。
困って、惑う……そんな、さあ、どうしよう状態。
さあ、どうしよう状態で、なにをするでもなく、ぽけーっと座っていた。
困惑しているのは耕太だけではない。みんなだ。
みんな――。
望《のぞむ》、あかね、蓮《れん》と藍《あい》、そしてたゆら。
この場にいる全員、困って惑っていた。フローリングの床の上、入道雲のようなもくもくなかたちをした黒いテーブルを思い思いに囲んで座りながら、おしゃべりするわけでもなく、さあ、どうしようと手持ちぶさたでいた。
ちずるがいないからだ。
正しくいうと、ちずるがなかなかやってこないからだ。
ここはちずるの住むマンションの一室、居間と台所がひとつになったリビングダイニングだった。
夏休みもほど近い、日曜日――。
耕太はちずるに誘われて、彼女の部屋を訪れた。
これがけっこう大変だった。まず、マンション入り口のオートロックで耕太はつまずいた。入り口横にあるボタンつきインターフォンの操作で四苦八苦。こわごわ部屋番号を入力して、ちずるの「あ、耕太くん、どーぞ!」と妙にはしゃいだ声に迎えられるまで、約十分。途中、まちがえて電話番号や自分のキャッシュカードの暗証番号を入力したことはナイショにしておきたい。
入り口の先は、広々としたエントランス・ホールだった。
吹きぬけの、まるでホテルのロビーのような広間になぜか緊張を覚えながら、耕太は通り抜け、奥のエレベーターに乗った。乗るといってもエレベーター。普段、あまり乗りなれない機械にひとりぼっちだと、耕太のどきどきは増してしまう。
ぼくは本当、イナカモノだなあ……。
ちょっぴり落ちこみつつ、七階まであがる。そこからの景観はちょっとしたものだった。街なみがかなり遠くまで覗《のぞ》ける。ちずるはこんな風景を毎日見ているのかな……とビルの群れを横目にしながら通路を歩くと、ようやくちずるの部屋にたどりついた。
「いらっしゃい、耕太くんっ」
笑顔のちずるに出迎えられ、案内されて、耕太は驚いた。
居間に、望がいたからだ。
そしてその横に、蓮と藍がいたからだ。
しゅたっと片手をあげて挨拶《あいさつ》する、ティーシャツに学校指定ジャージの望《のぞむ》――彼女は普段着が学校のジャージだった――の横に、ちょこんと座る、双子の少女。
七々尾《ななお》蓮《れん》。
七々尾|藍《あい》。
ふたりは栗《くり》色の髪を、蓮は左のおさげに、藍は右のおさげに、それぞれ細い黒のリボンでまとめあげていた。その小柄な、ちょっぴり幼い身体にまとっているのはワンピースだった。蓮の服は黒く、藍は赤い。前は蓮と藍を見わけるポイントは髪型以外になかったが、最近は耕太とちずるに気をつかって、違いをだしてくれているようだった。
蓮と藍の、いつもは眠たげに半ばくらいまで閉じた眼《め》。
それが、耕太を見て、ぱちっと開く。
「あー、パパー!」
「いらっしゃいませー!」
じつにうれしそうに、蓮と藍はいった。
「あ、うん……おじゃまします」
耕太はぺこりと頭をさげる。
そこに、けっ、と吐きすてる声が重なった。
たゆらだった。
ちずるの弟、源《みなもと》たゆら。やはり化《ば》け狐《ぎつね》で、薫風《くんぷう》高校二年生、耕太のクラスメイト。
たゆらの髪は長い。耳が隠れて毛先が肩に届くほどで、ちょっぴりくせっ毛だった。背も高く、眼、鼻、口のかたちは姉に似て整っている。ちずると血はつながってないはずなのに、狐というのは美形なのだろうか? その容姿から、たゆらは学校の女子にとても人気があった。また、さばけた性格から、男子にも人気があった。
もちろん、耕太も好きだ。
たゆらは口こそ悪いが、やさしく、男気がある。大切な友だちだと耕太は思っていた。もっとも、姉のちずると耕太は恋仲で、その姉をたゆらはとても大事にしているので、彼が耕太のことをどう思っているのかは、よくわからなかったりするのだけれども。
そのたゆらが、顔をしかめながら、いった。
「いらっしゃいませってな、ここはおめーらの家じゃねーんだぞ、ガキども」
やはり、口が悪い。
だが、そんなことをいうたゆらは、エプロンなんて締めた姿で、望と蓮、藍が囲むテーブルに、グラスに注いだジュースを運んでいたりした。ほれ、とぶっきらぼうに、氷が入ってストローつきのジュースを蓮と藍の前に置く。
やはり、やさしい。
「……ありがとです、たゆら」
「……でもうるさいぞ、たゆら」
受けとった蓮と藍は、頬《ほお》をふくらませながら、ちうう、とストローでジュースを飲んだ。
「文句があるなら飲むな!」
「というか、おまえが文句をいうな」
びし、とちずるがたゆらの尻《しり》を蹴《け》っ飛《と》ばす。
「ここは蓮《れん》と藍《あい》の家じゃないっていうけどね、たゆら、おまえの家でもないでしょーが。こ、こ、は、わたしのマンションなの。わかる?」
すらりと伸びた足を振りまわしたちずるは、白いキャミソールに、デニム地のぴったりとした半ズボン……サブリナパンツといえばいいのだろうか、そんな姿だった。耕太の胸はどきどきする。普段見慣れた制服じゃない、ちずるの私服姿にどきどきする。
「お、おれはちずるの弟だろ! だったらおれの家じゃねーかよ!」
「なに? だったらこの子たちはわたしの娘よ?」
ちずるの言葉に、蓮と藍が「ママー!」と歓声をあげた。
ぴょんと跳び、抱きつく。
受けとめるちずるママ。
それを眺める耕太はパパ。
ちずるがママ、耕太はパパ、蓮と藍は娘。
もちろん、本当の子供ではない。蓮と藍は薫風《くんぷう》高校一年生で、耕太の後輩だ。こんな大きな子供は耕太は作れない。そもそも、作るにいたる行為をしたことも、まだ……ない。
蓮と藍はかつて、〈葛《くず》の葉《は》〉と呼ばれる退魔の組織の一員だった。
こう見えてもすご腕の鎖使いなのだ。身体つきは幼く、一見すると細く見えるが、触れてみれば、鍛えぬいた筋肉が隠されていることがわかる。〈葛の葉〉時代の彼女たちは、妖狐《ようこ》であるちずるを狙《ねら》って、耕太たちに近づいてきた。
その後、紆余曲折《いろいろ》あって。
いまではふたりは、耕太とちずるの愛娘《まなむすめ》。
蓮と藍は、ひとしきり甘えたあと、ちずるをともなって、テーブルへと戻る。三人、ならんで座った。まるで、本当の母娘のように。
「パパ、パパ」
とんとんと板問の床を叩《たた》き、蓮と藍が耕太を呼ぶ。
どうやら、となりに座れということらしい。
「はいはい」
耕太は微笑《ほほえ》みながら、ママと娘の元へと向かった。
しかし……と、蓮、ちずる、藍と、さらにそのとなりに座る望《のぞむ》を見る。
恋人とアイジン。娘とアイジン。なのにちっともぎくしゃくしたところがない。蓮と藍も、望には敵意ではなく、敬意を抱いているようだ。「アイジンセンパーイ」などと呼ぶくらいなのだから。
なんだかヘンなの……。
ヘンだけど、いいよね、と耕太は思った。
なんだかんだいって、耕太とちずる、望《のぞむ》はうまくいっていた。ちずるが望を認め、望がちずるを立てているからだろうが、本気のケンカはなかった。最近では、ふたりでコンビネーションを組んで耕太をいろいろと責めたててくるくらいだ。
このままずっと、いれればなあ……。
でも……いつかは……?
浮かんできた想《おも》いを振り払い、耕太はちずるに尋ねる。
「あの、今日ってどんな用件なんですか?」
耕太は、自分以外にも望、蓮《れん》、藍《あい》が呼ばれていたことを知らなかった。
そもそも、ちずるのマンションに誘われること自体、ほとんどなかった。それはたゆらがいるからで、彼の前でいちゃつけば邪魔されるのが目に見えているからだろう。だからちずるはもっぱら耕太の寮にやってきて、そこでラブラブしていたのだ。
なのに、今日、自宅に耕太を呼んだ。
それも望、蓮、藍もともに。どうしてだろ?
「それはね……」
と、ちずるが答えかけた瞬間。
ぴんぽーん、と電子音が鳴った。
「あ、きたきた」
ちずるはすっくと立ちあがる。部屋の壁にかけられた、モニターつきのインターフォンに向かった。
「きたきた……? このほかにも、だれかくるんですか?」
尋ねてみるも、みな首を横に振る。たゆらさえも肩をすくめた。
「――はーい。どうぞー、なかに入ってー」
ちずるはスピーカーに向かって、そう答えた。
有無をいわさぬやりとりだったので、相手がだれかはわからなかった。
「さて、と……じゃ、わたし、準備しなくっちゃ」
「準備?」
ちずるは耕太たちに背を向け、歩きだす。行き先には部屋の扉があった。
おいおい、ちょっと待てよ、とたゆらが止める。
「いまから客、くるんだろ? そいつほっぽりだして、どこいくんだよ」
「そっちはたゆら、おまえにまかせた」
「まかせるって、どうすりゃいいのさ?」
「なかで待っててもらえばいいじゃない」
「待っててって……そもそもだれなんだよ、客って」
「おまえもよく知ってる相手よ……じゃあねー」
ひらひらと手を振り、笑顔とともにちずるはドアに向こうに消えた。
ぱたん、と閉じたドア。
耕太たちは、しーんと黙りこむ。
なぜだか、とりのこされた気分になった。
「なんなんだよ……ったく」
たゆらが耕太の前にグラスを置く。なかはメロンソーダだった。耕太の好みを、たゆらはちゃんと把握してくれていたらしい。やっぱりやさしい。
しばらく、耕太たちは無言でジュースを飲んだ。
ちゅー……。
望《のぞむ》が、空になったグラスをじゅじゅじゅじゅじゅーっとすすったり、そこにおかわりのジュースを注いだりしながら、待つことしばし。
来客を告げる、チャイムが鳴った。
「きたか、客が……。おれのよく知ってる相手たあ、いったいだれなんだか……女? やっぱり女か? だれだ? 思い当たる相手が多すぎて、わかんねーぞ」
ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、たゆらは玄関に続く廊下へと向かった。
いったいだれなんだろう……と耕太もすこしどきどきしながら、たゆらの消えた廊下を見つめる。蓮《れん》と藍《あい》も、ほんのりと硬い表情になっていた。望はひとり、平気な顔でグラスのストローをちゅー。
「――お、おおおおお!? な、なんで? なんでここにきたの? どーして?」
たゆらの声に、耕太まで驚いた。
よほどびっくりするお客さんだったらしい。
さっき玄関に向かうときのたゆらの呟きからすると、過去にかなりヒドイ振りかたをした女性なのか……耕太はさっきよりさらにどきどきを強めて、身じろぎもせず、待った。
やがて、廊下の向こうから、姿を見せたのは――。
「や?」
なんと、朝比奈《あさひな》あかね、だった。
前髪を思いきり左側でまとめて髪留めで押さえ、そのためつるんと剥《む》きだしになったおでこの下、眼鏡をかけた彼女の姿に、耕太も驚きの声をあげてしまった。ちなみにあかねの眼鏡は上部しかフレームのない、ハーフリムである。
「なあに、小山田《おやまだ》くん?」
あかねが、そのハーフリムの眼鏡の位置を直しながら、尋ねてきた。
半袖《はんそで》の柄が入ったワイシャツに、膝丈《ひざたけ》までのだぼっとしたパンツ、靴下は黒。
そんな私服姿のあかねの、じつに怪訝《けげん》そうな顔つきに、耕太は自分が彼女をまじまじと見つめてしまっていたことに気づいた。
「あ……えと、い、いらっしゃいませ!」
「……おじゃまします」
おー、あかねー、と望が片腕をあげた。
めがねセンパーイ、おでこセンパーイ、と蓮と藍は両腕をあげた。
「めがねセンパイ、おでこセンパイはやめてね、蓮《れん》ちゃん、藍《あい》ちゃん……」
挨拶《あいさつ》に応《こた》えながら、あかねは耕太たちの囲むテーブルへとやってくる。耕太とは反対側に、向かいあうかたちで、ぺたんと女の子座りした。
「……おい、耕太」
耕太のとなりに膝《ひざ》を屈《かが》めて、たゆらが尋ねてくる。
「おまえ、ちずるからなにか聞いてるか」
耕太はぶんぶんと首を横に振った。
なにも知らない。耕太はなにも聞いてない。
耕太とたゆらの疑問は、ひとつだった。
どうして、あかねがここにいるんだろう?
おそらくは彼女もちずるが呼んだのだろう。だが、ちずるとあかねは決して仲がよいとはいえないはずだ。悪いというほどではないにしても、ちずるはたしかに、いままであかねを避けるようにしてきたはずだ。
その原因は、耕太にあった。
耕太とちずるのいちゃつきさが、ヒドイからだ。
我がことながら、それこそ学生の領分を越えまくって、SでMな惑星をスナイプしちゃうくらいにダメダメなラブラブさだったからだ。ああ、ああ、ごめんなさい。
そのため、耕太とちずるはいつもあかねからお小言を頂戴《ちょうだい》していた。
ちずるがあかねを避けていたのはそれが原因だ。
怒られるから、避ける。口うるさいから、避ける。
なぜにあかねがそれほどまでに耕太とちずるをマークしているのかといえば、もちろん潔癖なその性格もあるだろうが、彼女が耕太のクラスの委員長なことも大きい。あかねは、耕太と望《のぞむ》、たゆらとおなじクラスで、クラスをまとめる委員長なのだった。
そして――あかねは妖怪《ようかい》ではない。
正真正銘、人間だ。おまけに彼女はちずるやたゆら、望が妖怪なことを知らなかった。薫風《くんぷう》高校に妖怪がいることすら知らない。あかねはなんにも知らないし、また、知られてもいけなかった。学校に妖怪がいることは、一般の生徒には秘密なのだ。
規則を破るものには厳しく、そのため、ちずるは避けている委員長。
そのあかねを、どうしてちずるは家に呼んだのか?
耕太はあかねのことは嫌いじゃない。むしろ友だちだと思っている。たしかに他人に厳しいかもしれないが、彼女は自分にも厳しいのだ。いわば正義の味方? 望はそんなあかねとよく一緒にいるし、蓮と藍もなついている。たゆらとはケンカ友だちかな……。
だけど、ちずるとは……?
怒るあかねを、ちずるがからかうところはよく見る。めんどくさそうに逃げるところもよく見る。でも、仲良くしているところは……見ない。
耕太はたゆらと視線を交わした。
ふたりどうじに、んー? と首をひねる。
考えども、考えども、答えはでなかった。
ちずるも、部屋から帰ってはこなかった。
そうして――。
ちずる不在の状態で、耕太、望《のぞむ》、あかね、蓮《れん》と藍《あい》、そしてたゆらでテーブルを囲んで座ったまま、時間はどんどんと経《た》っていった。
ちずるはでてこない。
部屋に引っこんだまま、でてこない。返事もない。
耕太は、思いきってあかねに尋ねてみることにした。
「あの、あかねさんは、ちずるさんになんていって呼ばれたんですか?」
「……わたし? わたしは、なんだか大切な話があるから、きてくれーって強引に。わたしだって、それなりに予定があったんだけどね」
「なに? 予定だと?」
たゆらがテーブルに身を乗りだす。
「日曜日に……予定? それって、つまり、で、でで、デートか! デートなのか朝比奈《あさひな》! だれだ、相手はだれなんだ、そんなのお父さんはゆるさないぞ!」
「なんなのよ、源《みなもと》。なにをいきなり興奮してるのよ」
「デートかどうかってきいてんの!」
「いないわよ、そんな相手。わたしがいきたかったのは図書館。返す本があって……って、なによ、悪かったわね、ひとり淋《さび》しく、本が恋人で!」
「そ、そんなこといってねーだろ。あ、そーだ、おれ、つきあおっか、図書館に」
「なに? えっちな本なんかないわよ?」
「そんなもん、いるか!」
「ま、そうでしょうね。源はモテるものね」
「な、なんだよ、急に……」
「聞いてるわよ、噂《うわさ》……女の子、けっこう泣かしてるそうじゃない」
「んな! だれだ、だれから聞いた、そんなばかげた妄想話! おれはこいつと違って、清廉潔白でっす!」
いきなりたゆらは耕太を指さしてきた。
「えええ!? どうしてぼく?」
「なーにが、えええ!? どうしてぼく? だっつーの、このエロス将軍! 盗《ぬす》っ人《と》猛々《たけだけ》しいとは正にこのことだぜ。ちずるのほか、アイジンやらガキやら、すちゃすちゃすちゃすちゃと、つぎからつぎにこしらえやがって、この天然種馬が」
返す言葉もなく、耕太はうつむいた。
「耕太を」
「パパを」
「いじめるな」
耕太の代わりにアイジンと娘が、たゆらを襲う。三人からずびしっ、とチョップを喰《く》らい、たゆらは頭を抱え、のけぞった。
うおー、と痛がるたゆらを見て、あかねはくすっと笑う。
「本当、仲がいいことで」
「ちっともよくねーよ!」
涙目でたゆらは返した。
そのとき、がた、とちずるが引っこんだドアが、音をたてる。
「あ、ほらほら、きたみたいよ、天の岩戸に引っこんだ、アマテラスさまが……」
「おまたせーっ!」
ちずるが飛びだしてきた。
満面の笑顔を見せる彼女に、しかし、耕太たちの呼吸は止まった。
ちずるの、その姿は――。
水着。
紺色の、スクール水着。
サイズがひとまわり小さくて、ぱっつんぱっつんの、食いこみまくりの、胸元には『さんねんしぃくみ みなもとちずる』と、わざと下手にマジックで書いた大きな名札を縫いつけた、スクール水着である。
それは、なんどか耕太とのプレイに使用した……もとい、なんどか耕太の前で着用した水着だった。室内で着用した、水着だった。
「ち、ちずるさん、その格好……」
「あ、ごめんね、耕太くん、みんなも待たせちゃって。この水着のやつが、なっかなか入らなくって。お尻《しり》もおっぱいも、けっこうサイズアップを果たしちゃったから……あ、でも、ウエストは前よりくびれてるんだよ? ホントだよ?」
そう答えるちずるの身体は、なるほど、胸のふくらみがどーん! 腰のくびれがきゅーん! お尻の迫力がめがとーん! だった。さらに、いまびしっとちずるが挙手したためにあらわとなった脇《わき》の下《した》は、するんとして、耕太はすっごくどきどきして……。
ん? 挙手?
ちずるは片手をあげていた。そして宣言をした。
「夏休み、我々は海にいきます!」
突然の宣言に、たゆらとあかねは、はあー? と声をあげた。蓮《れん》と藍《あい》は眼《め》を丸くして、前もってプールで聞いていた望《のぞむ》は平気な顔だ。おなじく前もって聞いていた耕太は、それでもびっくりした。
なぜかって……我々? 耕太とあかねと望だけでなくて、ここにいる、全員?
「ち、ちずるさん、我々って……」
「もちろん我々だよ、耕太くん。ここにいる全員、みーんな、夏休みに、海にいくのっ!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
異を唱えたのはあかねだ。挙手をしたのは、生徒会で発言するときの癖だろうか。
「いきなりそんなこといわれたって、わたし――」
「どうせ夏休みに予定なんかないでしょ?」
「あ、あります! 失敬な!」
「ま、ママ……」
「わ、わたしたちも……」
蓮《れん》と藍《あい》が、おずおずと手をあげた。はい、蓮、藍、とちずるが指名する。
「わたしたち……」
「水着が……」
蓮と藍の話によると、彼女たちは、ふたりで一着しか水着を持っていないという。もちろんスクール水着だ。では、どうやって彼女たちが水泳の授業を受けているのかいうと。「一回交代で、授業、休んで……」
「前回、わたしなら、今回は蓮」
「そして次回は、藍が……」
はー、と蓮と藍はうつむいた。
「こんなことなら、べつべつのクラスにすればよかったな、藍」
「まったくだな、蓮……」
「なーんだ、そんなことっ!」
落ちこんだ蓮と藍に、ちずるの輝かんばかりに明るい声がかかった。ぱっと顔をあげたふたりの前に、望《のぞむ》が頭をにゅっ、とつきだす。
「そうだよ、蓮、藍。ケーキがなければ……」
「違う! 望、蓮と藍におかしなこと、吹きこまないでちょーだい! ……ね、蓮、藍。水着があればいいのね?」
蓮と藍はうなずく。
「じゃあ、買ってあげるっ! というかね、蓮、藍。わたし、けっこうお金持ちなんだから、学校で使うのとか、必要なものがあるなら、遠慮なくいいなさいよね。あなたたちが、なるべく自分の力で生きていきたがるのはわかるけど……」
「ま、ママ……ママ……ママー!」
蓮と藍が、ちずるに抱きついた。
ぱつぱつスクール水着の胸元に、ぶにゅっと顔を埋《うず》める。
ちずるは受けとめるため、腰を屈《かが》めた。そのため、ただでさえ食いこんだお尻《しり》の水着が、さらに食いこんで……。
白い、むっちりしたお肉が、むきゅん。
はっと耕太は顔を逸らした。
な、なんでだろ!?
なんで、こんなにどきどきしちゃうんだろ!?
生のお尻《しり》だって、なんども見たことあるのに。だけどどうも、こいつは生以上の衝撃が……耕太は、そっと顔を動かし、目撃☆ドキュンならぬ桃尻☆むきゅんをうかがう。
「――わたしはいきませんから!」
あかねが叫んだ。
あわてて耕太は視線を元に戻した。心のなかで謝りもした。ごめんなさい!
「あら、どうして?」
「ど……どうしてもです! べつに、みなさんだけでいけばいいじゃないですか!」
「んー……でもそれじゃ、意味がないのよねー……」
「え?」
「なーんでもないっ! ほら、あかね、横見て、横」
「横……?」
眉間《みけん》に深く皺《しわ》を刻んだ顔で、あかねは右を向いた。
そしてびくつく。
すぐそばに望《のぞむ》の顔があったからだ。望が、人さし指をくわえて、銀色の瞳《ひとみ》で、じっとあかねを見つめていたからだ。
「あかね……いかないのぉ?」
「いや、あのね、望」
「あかね……いこうよぅ」
「だ、だから」
「あかねぇ」
「ちょ、ちょっと、小山田くんも、なにかいって――」
助けを求めるように、あかねは耕太の側を向こうとした。
そしてまた、びくつく。
蓮《れん》と藍《あい》が、左右からはさむかたちで、じっと見つめていたからだ。望とおなじように、触れそうなくらいの近さで、人さし指をくわえていた。さらに背後では、なんとたゆらまでもがおなじようにしていた。
「あかねぇ」
「めがねセンパイぃ」
「おでこセンパイぃ」
「あかねちゅわーぁん」
望、蓮、藍、そしてたゆらは、四方からあかねを囲み、見つめ続けた。
「あー! もう、わかった、わかったってば! いく、いきます、いけばいいんでしょう! だからやめて!」
とうとうあかねは降参した。頭を抱え、屈《かが》みこむ。
耕太はこのなりゆきを、半分、呆然《ぼうぜん》としながら見守っていた。
どうして……みんなと海?
べつにみんなと一緒に海にいくのが嫌なわけではない。ただ、ちずるの性格からいえば、みんなとではなく、耕太とふたりきりでいきたがるんじゃないかなと、そう思ったのだ。
どうも、腑《ふ》に落ちない。
「すこしは丸く……なったのかなあ」
ちずるの性格が……と、耕太は呟《つぶや》く。
「そうね……わたし、おっぱいやお尻《しり》、丸く、おっきくなっちゃった。耕太くんのせいで」
呟きを聞きつけたか、ちずるが、お尻をするっと撫《な》でながら、いった。
「ぼ、ぼく?」
「そうだよー? 思い当たること、あるでしょ?」
もく、もく、もく。
脳裏に浮かぶ、あれやこれや。むにむちょーん。
耕太は黙ってうなずいた。うなずいたまま、うつむいた。自然に足は正座となった。
ちら、とむちむちなちずるを見あげて、もうひとつ疑問が浮かぶ。
この水着姿って、海にいくって宣言する、ただそれだけのために、着替えたの……?
「さー、海だー!」
ちずるが拳《こぶし》を振りあげた。脇《わき》の下《した》、つるん。耕太、ごくり。えっと、つぎは、脇?
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[#小見出し]  四、海底四千マイルで監獄ロックだベイビー[#「四、海底四千マイルで監獄ロックだベイビー」は太字]
日本海溝。
北海道から東北にかけて、日本の東の海底を、南北に向かって走る海溝の名だ。
その長く深い切れ間は、長さ、およそ八百キロメートル。深さにいたっては、最深部において、八千メートルにもおよぶ。
海溝の底は、まさに暗黒の世界だった。
太陽の光など、当然、届かない。
超高水圧下にあるためか、うごめく生物たちは、みな奇妙奇天烈大百科。
そんな場所に、大海神《おおわだつみ》、豊玉彦《とよたまひこ》の宮殿はあった。
あの、いろんな意味で荒ぶる神さまの住まいにふさわしく、じつにワイルドな建物だった。海底に張りつくような平べったいドーム状だったが、そのかたちはところどころ、尖《とが》ったりへこんだり波うったりくねったり。まるで巨大な深海魚といった面もちだった。
宮殿内は、冷たい海水で満たされている。
海の一族にとって、水はなんら行動をさまたげるものではなく、むしろ心地のよい、いわば空気のようなものだからだ。
が、もちろん、ここでは空気を必要とする地上の生物は生きられない。
それは妖怪《ようかい》でもおなじだ。
生きられない。地上の妖怪は、一部を除いて、この宮殿では生きることが許されない。
ただし――。
ごく一部、この宮殿にも、空気で満ちた、つまり地上の妖怪でも生きてゆける領域があった。
そのひとつが、監獄だ。
地上の罪人用の牢《ろう》。神に逆らった反逆者のための牢。
そこに……。
「百三十一、百三十二、百三十三……」
いた。
朔《さく》と弦蔵《げんぞう》は、捕らえられていた。
いま数を数えているのが、反逆者であるオロカメン一号、犹守《えぞもり》朔。
銀髪の人狼《じんろう》は、牢と通路をへだてる鉄格子に足を引っかけ、頭を下に、逆さまになってぶらさがっていた。
そうして、腹筋運動をくり返す。
一、二、三と数えあげながら、床から膝《ひざ》の高さまで、腹筋の力で頭を持ちあげていた。
その身体は全身、汗まみれだ。熱気で湯気をあげている。そして、汗でびしょ濡《ぬ》れになった服は、あの赤いタンクトップに革のライダースパンツではなかった。
横に縞《しま》の入った、長袖《ながそで》にズボン。
すなわち、囚人服だった。
「百四十五、百四十六、百四十七……」
もうひとりの罪人、オロカメン二号の小山田《おやまだ》弦蔵は、牢の真ん中にいた。
やはり囚人服姿だ。
サングラスがなく、ふさふさの白い眉毛《まゆげ》をあらわにしていた弦蔵は、どっかりと床にあぐらをかき、座禅を組んでいた。
イッツ・ア・禅・マインド。
うっすらと開いたまぶたから覗《のぞ》く瞳《ひとみ》は、どこにも焦点をあわせてはいない。目の前の鉄格子で腹筋し続ける朔にもまったく気をとられず、ひたすら自分の世界に没入していた。
ふたりのいる牢は、けっこう広い。
大人十人が余裕で寝転がれるほどの大きさがあった。床や天井、格子にいたるまで、青く透明感のある、不思議な物質でできている。石にも似たその物質は、ぼんやりとした青白い光を放っていた。そのため、実際の室温以上に、ひんやりとした感じがあった。
部屋の隅には、ふとんと毛布、まくらが畳んで置いてあった。牢の奥には、カーテンでしきられた先に、トイレのほか、風呂《ふろ》やシャワーまで備えつけられてある。囚人とはいえ、あまり悪い環境でもないようだ。
「百六十三、百六十四、百六十――」
朔《さく》の動きが、ぴたりと止まる。
座禅を組んでいた弦蔵《げんぞう》も、眼《め》を見開く。
ふたりの捕らえられた牢《ろう》に、こつ、こつ、こつ……と、硬い響きが近づいていた。
足音だ。その数はふたり。
やがて、格子の向こう側にある廊下に姿をあらわしたのは、うさぎ耳、バニースーツ、網タイツに銀のトレーを持った女性と、オレンジ髪に白マントの、気弱そうな青年だった。
バニー、そして海神《わだつみ》、カイである。
いきなりバニーが顔をしかめた。
「――くさい!」
目の前の格子で、腹筋状態のまま汗まみれの朔に、鼻をつまむ。
「くさいくさいくさい! なんという男臭さか!」
「おいおい……汗は男のフレグランスだぜ?」
「くさいものはくさいといっている! ええい、カイさまにそのような男臭い匂《にお》いを近づけるな、匂いが移る! さがれ下郎!」
「なんだかな……運動すればだれだって汗ぐらいかく。そのボウヤだってかくだろう?」
「はっはっは、聞いて驚け、カイさまの汗は高貴なるバラの芳香だ!」
「それはおまえ、おまえさんがそのボウヤに惚《ほ》れてるからだろ」
とたんにバニーは真っ赤になった。かけていた眼鏡が、ぼぼんと曇る。
「ぶ、ぶぶ、無礼者! わたしごときいきおくれの大年増、カイさまになどふさわしくは……い、いや、むろんカイさまに求められれば……って、な、なにをいわせるか!」
「シズカ……」
カイにたしなめられ、バニーは真っ赤なまま、黙りこんだ。
「も、申し訳、ありませぇん……」
ぎゅ、と手に持った銀のトレーを胸に抱く。
「で……用件はなんだ? おれたちの処刑の日でも決まったのかい」
朔《さく》は格子から降りながら、尋ねた。
弦蔵《げんぞう》も立ちあがり、カイとバニーの元に近づく。
「――お許しください!」
いきなり、カイは深く頭をさげた。
「か、カイさま、なにを? こ、このような下郎に、そのような真似を……お、おやめください!」
「いや、わたしが悪いんだ。わたしがふがいなく、力がないばかりに、父上を呼びよせ……あなたがたを、このような目に」
「それはこやつらが悪いのです! こやつらがオロカメンだからです!」
「そのとおりだ、カイどの」
弦蔵が、やさしく声をかけた。
「我らはおぬしの父、大海神《おおわだつみ》どのと闘うために、カイどのを利用した。そして自分の意志で大海神と闘い、その結果、虜囚の憂き目とあっておる。すなわち、自業自得。おぬしが気に病むようなことではないのだよ」
「――いいえ」
じっとカイは弦蔵を見つめた。
「わたしは海神《わだつみ》です。あの海を束ねる海神なのです。海神である以上、なにがあろうとも、おのが手で海を、一族を守らねばならないのです。それが……わたしは、ぶざまに泣きじゃくり……父の助けを」
うつむき、垂らした拳《こぶし》を握りしめ、肩を震わせる。
「か、カイさま……」
バニーはカイに触れようとして、触れ得ず、自分もうつむいた。
「じゃあ、ここからおれたちをだしてくれよ」
軽く朔はいった。
「オヤジさんに頼んで、ここからおれたちをだしてもらってくれ。その上であらためて、おれとボウヤで決着をつけよう。どうだ?」
「き、きさま、よくぞそこまで自分たちに都合よく……」
わなわなと声を震わせるバニーを、カイが制した。
「残念ですが――それはできません」
「できない? どうしてだ?」
「父には……もうすでになんどもお願いしました。あなたがたを解放してくれと……。ですが聞き入れてはもらえません。『おまえは黙っておれ』……その一点張りです」
「ああ……たしかに、頑固そうだったからなあ」
朔《さく》は、ちらと真横の弦蔵《げんぞう》を見た。
「なぜわしを見る」
「いやあ、べつに」
「わしはガンコジジイではないぞ。スナオジジイだぞ」
「さあて? そこは耕太《こうた》に確認しなくちゃね」
軽口を叩《たた》きあう朔と弦蔵に、カイとバニーは眉《まゆ》をひそめた。
「ずいぶんと……余裕がありますね」
「ないぞ」
「ないな」
即答する朔と弦蔵。
「こちとら、牢《ろう》に囚《とら》われ、いつ処刑されるかもわからん身の上だ。おまけにここは海の底にあるんだろ? たとえ牢から脱出できたところで、地上まで何千キロもあるんじゃ、さすがに息は続かんし、えーと、あれだ、水圧? そいつでぺしゃんこになっちまうしな。ま、お手上げってとこか」
朔と弦蔵は、お手上げー、と両手をあげた。
「……信じられんな」
バニーがいった。
「その余裕、なにか策があるとしか思えぬ。答えろ、なにを企《たくら》んでいる?」
「だからなんにも企んでねえって。おまえさんがそのボウヤの心の負担をとりのぞきたくて、なんとかおれたちに逃げてもらいたいのはわかるが、いまのところは打つ手無しだ」
「な! べ、べつにわたしは、そのようなこと!」
「――あなたがたを、地上まで連れていってさしあげることはできます」
カイがいった。
「わたくしも海神《わだつみ》のはしくれ、あなたがたを海から守り、地上まで送り届けることは可能です。いえ、やらせてください。そうでなくては、わたしの気がすまないのです」
「か、カイさま! そんなことをなさっては!」
カイの眼《め》は、真剣そのものだった。
ふふん? と朔が笑みを見せる。目の前の格子を指先で弾《はじ》いた。
「と、なれば……あとはこの牢からでるだけだな。鍵《かぎ》をうまく盗んでもらって……」
「そんなものは、ないっ! ノー、鍵!」
バニーが吠《ほ》える。
「この牢は大海神《おおわたつみ》さまの偉大なるお力によって封が成されている! 大海神さまのお許しがないかぎり、なんぴとたりとも開けることはかなわぬのだ! だからカイさまをこれ以上、悪の道に導くな! しっ、しっ!」
カイを抱くようにして、朔《さく》から遠ざけ、バニーはきーっ、と声をあげた。
「べつにおれたちが導いてるわけじゃないぜ。なあ、弦蔵《げんぞう》さん……」
朔が同意を求めるも、真横に立つ弦蔵は、なにごとか考えこんでいた。
「弦蔵さん?」
「ふむ……この牢《ろう》が開きさえすれば、よいのだな?」
「ん? 開ける手だてがあるのか? さすがは元〈葛《くず》の葉《は》〉だな!」
「残念だが、〈葛の葉〉といってもいろいろあってな、術法に秀でたもの、武力に秀でたもの、さまざまだ」
「で、弦蔵さんは?」
「おぬしも知ってのとおり、元〈影〉だ。どちらかといえば武力が得意で、さほど術法には明るくない。それにな、観《み》たところこの牢にはたしかに神の息吹を感じる……たとえ術法を極めておったとしても、人の身ではどうにもならぬよ」
「じゃ、ダメじゃん」
「たわけ。話は最後まで聞け。おのれにできぬことならば、人の力を借りればよい。そのために友はおる。家族はおる。仲間はおるし、組織はおる」
「へえ……。具体的には?」
「大海神《おおわだつみ》と同等の力を持ったものに、力を借りる」
その言葉に反応したのは、バニーだった。
「バカな、大海神さまと同等の力の持ち主だと? 大海神さまは、そこな狗神《いぬがみ》のごときまがいものの神とは違う、正真正銘、本物の大御神《おおみかみ》にあらせられるのだぞ! その大海神さまと同等などと……ふざけるな! きーっ! きーっ!」
「……まさか、弦蔵さん?」
と、朔が低い声で尋ねた。
「〈龍《りゅう》〉か? ちずると耕太を、ここに呼ぶのか?」
龍? とカイは眼《め》をかすかに細める。
「たしか、あなたがたはその〈龍〉といつか対峙《たいじ》せねばならないと……そのために、我が父、大海神とも闘ったのだとおっしゃってました。いったいなんなのです、その〈龍〉とは? いまの口ぶりからしますと、〈龍〉は、父とおなじくらいの力を持っているという……そして耕太? ちずる? それは人の名ですか? それとも妖《あやかし》の?」
「……朔」
ごす、と弦蔵は朔の足を蹴《け》っ飛《と》ばした。
いたた、と朔は大げさに痛がる。
「わ、悪かったですよ。はいはい、無駄口を叩《たた》くな、ね。すみません、すみません」
朔は、ぱん、とカイに向かって手をあわせ、頭をさげた。
「すまん! それ以上つっこまないでくれ! 弦蔵《げんぞう》さんに殺される!」
「……不思議ですね」
カイは静かに微笑《ほほえ》む。
「朔《さく》さん……でしたか、人狼《じんろう》であるあなたのほうが、その、ニンゲンである弦蔵さんよりもはるかに力は上のはずだ。なのに……」
「そうだ、そうだ! 妖《あやかし》とニンゲンが仲良くしているなどと、気味の悪い!」
「シズカ、失礼だろう」
カイに叱《しか》られ、バニーは眉《まゆ》をしょぼんとさげた。さげながら、朔と弦蔵を睨《にら》みつけた。
くく、と朔は笑う。
「妖とニンゲンが仲良くは、気持ち悪い、か……これでちずると耕太を見たら、どう思うことやら」
「……朔」
どん、と弦蔵は朔の足を踏みつける。
ぐはー、と朔は足のつま先を抱えて、ぴょんぴょん跳ねまわった。
「――カイどの、ひとつお頼みしてもよろしいか?」
跳ねまわる朔に眼《め》を丸くしていたカイは、弦蔵の言葉に真剣な顔となった。
膝《ひざ》と腰を屈《かが》め、背の低い弦蔵を正面から見つめる。
「わたくしにできることであれば、なんなりと」
「もう、もう、カイさまったらあ、そんな下賎《げせん》なものに、下手になどでては……」
バニーを無視して、うむ、と弦蔵はうなずく。
「罪は罪、本来ならば、このままこの牢《ろう》に囚《とら》われたまま、大海神《おおわだつみ》さまのお慈悲を賜るのをお待ちすべきなのだろうが……あいにく、こちらにはそれを待つ余裕も時間もない。〈龍《りゅう》〉の覚醒《かくせい》は、いまにもそこに迫って……」
は、と弦蔵は口をつぐむ。
「げ、ん、ぞ、う、さぁ〜ん」
ここぞとばかりに朔が、にたにた笑いでつっこみを入れた。
おほん、と弦蔵はひとつ咳払《せきばら》いをする。
「とにかく……我らはいそぎ、ここから脱出せねばならぬ。そこでだ、この牢を開けるため、我らに代わり、地上へ助けを呼びにいっていただきたい」
「助け……ですか」
「そう。さきほどそなたたちは、この牢が大海神さまの力によって封じられているといった。ならば、大海神さまなみの力の持ち主であれば、牢を破ることもできるかもしれぬ……違うかな?」
「理屈としてはおかしくないとは思いますが……しかし」
「いる。いるのだ。大海神さまなみの力の持ち主が、地上にもいるのだ」
「地上にも……?」
カイとバニーが、頬《ほお》を寄せ、格子ごしの弦蔵《げんぞう》にぐぐっと顔を近づけた。
「それもふたり。これは、わしの知るかぎりふたりという意味だが……そのおふたりに、わしになりかわり、助けを求めていただきたい」
「ど、どのようなかたなのです」
「ひとりは、〈九尾《きゅうび》〉」
「な、なに、九尾だと? よもや、九尾とは、あの……!」
「知っているのか、シズカ」
カイは真横を向き、緊迫した声をあげたバニーに尋《たず》ねた。
それでバニーはすぐそばにカイの顔があったことに気づいた。真っ赤になって遠のく。
「も、申し訳、ありまっせー!」
「い、いや、シズカ。わたしはね、九尾というかたについてね」
「〈九尾〉とはですな、カイどの。大陸よりきたりし大凶妖《だいきょうよう》どののことですよ」
代わりに弦蔵が解説した。
「大凶妖?」
「はい。大陸において、三つの国を滅ぼした、九つの尾を持つ傾国《けいこく》の妖狐《ようこ》です」
「く、国を滅ぼした……」
「それともうひとり。念には念を入れて、〈御方《おかた》〉の名を持つ御仁にも、ご登場願います」
「〈御方〉?」
カイはバニーにうかがうように視線を向けた。
しかし、赤い顔をしてウサギ耳をぴんと立たせたバニーは、首をぶんぶんと横に振るばかりだった。彼女も知らないらしい。
「八千代のかなたより、魂となりてこのときまで生きぬいてきた、砂の術を極めし精霊のことです。まわりからは〈御方さま〉と呼ばれておりますな」
「八千代……ずいぶんと長生きなのですね」
「そうそう……長生きも長生き、おまけに女だ」
くっくっく、と笑いながら声をかけたのは朔《さく》だ。
「どちらも、とびっきりの熟女だよ。マダムンムンって感じか?」
「ま、マダムンムン……」
その単語に、バニーがむっと顔をしかめた。
「心配しなさんな。どっちのご婦人も、すくなく見積もって数千歳……おまえさんのほうがよっぽど若いし、その中身だって、ボウヤのオヤジさん、あのムキムキマッチョな大海神《おおわだつみ》さまと似たようなもんだ。だから気をつけなよ、ボウヤ。くれぐれもご機嫌を損ねたりしないように」
その言葉に、カイはごくりと喉《のど》を鳴らし、バニーはもじもじと恥じらった。
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[#小見出し]  五、愛ってやつはなんてむずかしいんだろう、夏[#「五、愛ってやつはなんてむずかしいんだろう、夏」は太字]
「わあ……」
思わず耕太《こうた》は声をあげた。
あげてしまった。
だって、目の前には……。
入道雲もくもくの、青空!
あちちと灼《や》けた、砂浜!
そしてそしてそして、どこまでも広がる、青い青い、海!
とうとう、きた。
ちずるの『我々は海にいきます!』宣言より、夏休みに入って、一週間後。本当に耕太たちは、海水浴にきてしまった。
太陽の日ざしが、じりじりと肌を灼く。
潮の香りはまるでむせかえるよう。
口のなかまでもしょっぱくなってきたのは……気のせいかな?
耳には打ちよせる波のざわめきが届いている。
視覚、触覚、嗅覚《きゅうかく》、味覚、聴覚。耕太はいま、まさに五感で海を感じとっていた。
ああ、と耕太は思う。
ここまで……すっごく苦労したなあ。
まずは車。
今朝、ちずるは耕太の寮まで、車で迎えにきた。
大きな、八人乗りの白いワゴンで。
運転手は――なんと、ちずるだった。
「ち……ちずるさん? どうして?」
耕太の疑問の声に、ちずるはウィンクして、じゃーん、とカードを見せつけてきた。
それは運転免許証だった。
にっこりと微笑《ほほえ》むちずるが写っている免許証に、耕太は素朴な疑問をぶつける。
「……偽造、ですか?」
「もー、ちゃんととったってば! 試験場にいって、この前!」
「あ、そっか、ちずるさん、戸籍の年齢では十八歳なのか……って、あの、この前って、『我々は海にいきます!』のあとですか? あれからまだ二週間も経《た》ってないですよ!」
「うん。すごいでしょ?」
「すごいっていうか……」
耕太もあまりよくわかっているわけではないが、自動車の免許というのは、教習所に通わなくてはとれないのではないだろうか。
疑問に、助手席のたゆらが答えてくれた。
「いや……そのまま運転免許センターの試験場にいっても、とれねーことはねーんだよ。ただし、筆記試験のほかに実技試験があって、それがすっごく難しーんだけどな」
「実技試験……」
「ああ。教習所で仮免《かりめん》とると、その実技試験が免除になるんだけどさ……だから、やってやれないことはないんだよ」
「でも、すっごく難しいって、いま」
「そりゃ難しいよ? でもほら、ちずるは年季が違うから。それこそ車が出始めたあたりから、無免許でぶいぶいといわせてきたわけで……ドライバー歴、百年近く?」
「余計なこと、いわない!」
ごすっ、と運転席のちずるが、肘《ひじ》を真横に一閃《いっせん》させた。
こめかみにまともに受け、たゆらは沈黙する。
「さー、耕太くん、乗った乗った! エアコン効いて涼しーよー」
「あの、この車は……」
「この前、買ったの」
「この前って……あの、おいくらで?」
「んー、細かいことはよくわかんないけど、いくらだっけ、たゆら? ……あれ、たゆら、なに寝てんのよ。もー、ほら、助手席には耕太くんが座るんだから! あー、邪魔だなこいつ! ここに捨てていくか!」
「あ、ぼ、ぼく、後ろでも……」
「ダメ! 耕太くんはわたしのとなりなの!」
その後、だらんとなったたゆらをふたりがかりで後ろの座席に移して、発進。
あかね、蓮《れん》と藍《あい》、望《のぞむ》と、順々に拾っていった。そのたびに、「わ、ちずるさん、なに車、運転してるんですか!」「わー、ママー、運転すごーい」「車すごーい」「……肉、ある?」との声を受けながら、海へのドライブへと向かった。
そこから、走り続けること、数時間。
途中、たゆらが車に酔ってリバースしたりしながらも、わきあいあいとしながら、ドライブは続いた。とくに、蓮と藍は家族連れでのドライブは初めてだったらしい。ドライブインで休憩したとき、そっと耕太にささやいてくれた。
「任務のとき、車で移動するのはよくありましたけど」
「バカンスでは、初めてです……」
「任務?」
「妖魔《ようま》滅殺《めっさつ》!」
「天魔《てんま》覆滅《ふくめつ》!」
蓮《れん》と藍《あい》は、びし、と互いの腕を斜め十字に重ねあわせた。
すぐに外し、恥じたようにうつむく。
「ご、ごめんですパパ……」
「いい妖怪《ようかい》がいること、知ってるのに。ママも……なのに」
耕太は黙って、ふたりの頭を撫《な》でた。うにゅーっと猫のように眼《め》をつぶるふたりからは、ミルクのような匂いがした……。
その後、ワゴンはN県S市Y町にたどりつく。
太平洋に面した町で、おだやかな海と、そこそこの広さの浜辺があるらしいが……ちずるが運転する車は、そのビーチを華麗にスルー。そのまま、町の外れへと向かった。
大変なのは、ここからだった。
県外へと向かう国道ぞいにある、深い木々で包まれた、小高い山なみ。
なぜか耕太たちは、その山のなかへと入っていった。
海にいくのに?
海水浴するはずなのに?
なぜ……山? 山なの?
耕太たちの問いかけはちずるの笑みに阻まれ、ともかく、山のなかを進むことになった。ワゴンは国道から山道へと入り、いきどまりで止まる。あとはひたすら、木々がならびたち、セミの音がぎょわぎゅわとうるさい林のなかを、歩き続けるのみ。
ずーっと歩いて、歩いて、歩いて。
そしてようやく……。
林を抜けた先に、耕太はこぢんまりとした浜辺を見つけたのだった。
「わー、海ですー! 広いですー!」
「わー、砂ですー! 熱いですー!」
蓮と藍が、耕太の後ろから、砂浜へと飛びだしてゆく。
足跡ひとつない、砂浜へと。
そう……この浜辺には、人の姿がなかった。
だれもいない。ひとひとりとしていない。それもそうだよね、と耕太は思った。なんていったって、この浜辺の後ろは山林、左右は切りたった崖《がけ》に囲まれているのだから。
町の近くに有名なビーチがあるのに、わざわざ山を越えてまでこんな場所にくる物好きな人は、耕太たち以外はそうそうはいないということだろう。
「へえ……本当に、だれもいないのね、ここ」
あかねが呟《つぶや》きながら、蓮と藍の元へと向かう。
蓮と藍はプライベートビーチ状態な浜辺を、ぴっちりしたティーシャツに、スパッツなんて格好で跳びまわっていた。そんな彼女たちの元へと近づいてゆくあかねは、半袖《はんそで》シャツにジーンズだ。背負っていたリュックを、ぽんと砂の上に放る。
「どう、耕太くん……ちょっとしたもんでしょ?」
耕太の横には、ちずるがいた。
にこやかに微笑《ほほえ》むちずるは、ノースリーブのブラウスに、膝丈《ひざたけ》までのぴっちりしたパンツで、そして、頭に白い帽子をかぶっていた。
吹いてきたさわやかな潮風に、ちずるの長い黒髪が、そよぐ。
ちずるはかきあげた。黒髪を、さらっと。
耕太の胸は――高鳴った、どきんと。
「……耕太くん?」
あらためて問われ、耕太は我に返った。
「あ、はい! なんでしょうか!」
「海、きれいでしょっていったの。耕太くんたちにはすごく苦労させちゃったけど、その甲斐《かい》はあるんじゃないかなあって、わたし、そう思うんだけどなあ」
「ええ……すごく、きれいです……ちずるさんは、すごく……」
「え?」
「や?」
なにやら誤解があったらしい。
しかし、ちずるはきゅっと身を縮めつつ、上目づかいで耕太を見つめてくるし、見つめられた耕太も、なんだか頭のなかがぽーっとなりつつ、ちずるを見つめ返してしまうし、ああ、これはなんだ、リゾート効果ですか? 地形効果ですか?
「うぉーい」
見つめあうふたりを、後ろからの声が邪魔をした。
「いちゃつくんなら、そこをどいてからにしてくれーい」
声の主はたゆらだった。
たゆらは、派手派手なアロハシャツにだぼっとしたハーフパンツで、顔にはサングラス。おまけに開けっぴろげた胸元から覗《のぞ》く首筋には、ちゃらちゃらしたアクセサリーを光らせていた。
そんなビーチ仕様のたゆらは、しかし、息も絶え絶えだった。
背には男女、ふたつぶんのキャンプセットと、バーベキューセット。両腕には水の入ったポリタンクが、ひとつずつ。それほどの重装備を持って、彼は林のなかを歩いてきたのだった。
耕太とちずるが左右によけると、たゆらは一歩、二歩とよろめきながら進んでゆく。
「もう……ダメだ……」
砂浜に、前のめりになった倒れこんだ。
う、と奇妙な声があがる。
「あぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃー!おぅわっちゃー!」
ブルースでリーな人の化鳥音じみた叫びをあげながら、たゆらは跳ね起きた。
ぱたぱたと身体を叩《たた》く。
「ばかねえ。灼《や》けた砂の上に倒れこんだら、そうなるに決まってるじゃない」
「う、うう……それががんばって荷物を運んできた弟に対する言葉なのか、我が姉よ!」
「がんばって運んできたねえ……あ、きた」
ちずるが、さきほどたゆらがでてきた林のほうを見る。
そこには望《のぞむ》がいた。
望は、やはりいつもとおなじ、ティーシャツに学校指定ジャージといったいでたちだったが……その荷物が、すごい。
まず細い肩に、クーラーボックスの肩ひもが、三箱分。ボックスのなかにはバーベキュー用の肉、野菜、魚などがぎちぎちに詰まっていて、ひとつだけでもかなりの重さなはずだ。さらにおでこにももう一箱分、引っかけていた。
両腕にはやはり水の入ったポリタンクが、ひとつずつ。
すさまじいばかりの重装備で山越えした望は、しかし平然とした顔だ。
さすがに汗はかいているものの、息ひとつ切らしてはいない。ちずるに「ごくろうさん」といわれ、ようやく荷物をその場に降ろした。
「どう、たゆら」
「どうっていわれてもな……おれはごくごく普通の妖怪《ようかい》なんだからさ、そーゆーバケモノな子と、一緒にしないでくれる?」
バケモノという言葉を褒め言葉と思ったのか、望はむん、と両腕に力こぶを作った。とりあえず耕太とちずるは拍手する。ぱちぱちぱち。
力こぶを作ったまま、望は頬《ほお》を赤らめた。ぽっ。
ちなみに蓮《れん》と藍《あい》も、その背のリュックに、五キロずつのお米を入れ、背負っていた。それでもいま、平気で浜を転げ回っているあたり、さすがはすご腕の戦士。
さーて、とちずるが声をあげた。
「海についたことだし、さっそく水着に着替えましょ。そのためには、まずテントを張って、着替える場所を作らなきゃ……はーい、全員、集合ー!」
ちずるはぱんぱんと手を叩《たた》いた。
いつのまにか波打ち際で遊んでいたあかね、蓮、藍の三人を呼ぶ。
しかし……三人の様子がおかしい。
ちずるの呼びかけに応《こた》えない。
いや、応えないだけではなく、耕太たちがいる場所より、はるか左側を見て、指さし、なにごとかこちらに向かって叫んでいた。
「なに? どうしたの?」
「――ちずるさーん! あれ、あれ!」
あかねが騒ぐも、いまいち要領を得ない。
左を向いてみても、そこには木々の茂みしかなかった。
「なんなのかしら……」
耕太たちはぐるりと茂みをまわりこんでみる。
「――は?」
まさに「は?」だった。
そこには、建物があった。
横に長い建物だ。左側はお食事所、右側は浮き輪やパラソル、ゴムボートなどを扱っているらしい。
すなわち、海の家。
だが……だがしかし、観光客がだれもいない、無人の浜辺なのに、海の家?
耕太は、屋根に掲げられた看板を見た。
そこには――。
『玉ノ屋』の文字。
玉ノ屋? と耕太は看板の文字を睨む。
なにやら聞き覚えのある名前だったからだ。玉ノ屋……玉……玉ノ湯……。
〈玉ノ湯〉。
それは、かつて耕太たちが働かされたことのある、山奥の温泉旅館で、経営者は、ちずるの母親である……。
「まさか……まさか!」
ちずるが悲鳴にも似た声をあげた、そのとき。
「いらっしゃ〜い、あなたたち〜」
まさかもまさか、たったいま耕太が思いうかべた、温泉旅館〈玉ノ湯〉女将、玉藻《たまも》があらわれた。
玉藻――。
ちずるの育ての親で、白面金毛|九尾《きゅうび》の狐《きつね》なんていう、大々々々|妖怪《ようかい》である。そして、この世で唯一、ちずるの頭があがらない相手でもあった。
そんな玉藻は、女将さん姿だったときの着物なんて装いでは当然なく、ウエストでしばったぴちぴちのティーシャツに、太ももむっちりの短パン、ビーチサンダルなんて格好でいた。髪型だけはおなじで、前髪を真ん中分けして、波打つ髪を胸元まで垂らし、残りは頭の上でまとめている。
ちなみに玉藻は、ちずる以上のエクスプロージョンなボディーの持ち主だった。
それが身体のラインのでにくい和装ではなく、でまくりなティーシャツなんて着ているために、なんというか、もはや彼女の胸元は耕太が直視できないほどの迫力を得てしまっている。かつて耕太は、それを生で拝見した過去もあり……ああ、ティーシャツの胸元に書かれた〈海の家 玉ノ屋〉なんていうロゴが、あんなにも伸びきってしまっている! もはや読めない! いや、読んでるけど!
「な……なんでこんなところにいるの、母さん!」
ちずるが叫ぶ。玉藻は微笑《ほほえ》む。
「うん? それはもちろん、お仕事のためよ。ね、雪花《ゆきはな》」
玉藻《たまも》は振りむいた。
視線の先、海の家の入り口から、またあらたに、蒼《あお》い髪の女性があらわれる。
「おひさしぶりでございます、みなさま」
ぺこりと頭をさげた。
彼女の名は、雪花。
温泉旅館〈玉ノ湯〉の、女中頭である。
蒼い髪を、出会ったときとおなじ、ポニーテールのかたちに束ねた雪花は、玉藻とおそろいの、玉ノ屋ロゴ入りティーシャツに、短パンといった姿だった。
彼女は、主人の玉藻ほどではないにせよ、成熟した、大人の身体を持っている。
そのため、肉づきのよい、しかし鍛えあげられてうっすらと筋肉の浮かぶ手足、おなかが、ティーシャツや短パンから覗《のぞ》いていた。
雪花の正体は、雪女。
さらには忍びでもあった。玉藻に仕える雪女たちの忍者軍団……その頭領だった。
「おまえたち、みなさまに、ご挨拶《あいさつ》を」
と、雪花が背後の海の家に向かって、声をかける。
「――はっ!」
無人と思われた建物の窓、屋根、軒下の砂のなかから、いっせいに影があらわれた。
例の、雪女の忍者軍団だった。
普段は〈玉ノ湯〉で女中をやっているはずの彼女たちが、やはり玉藻や雪花とおなじティーシャツに短パンといった店員の姿で、耕太たちに挨拶してくる。
その数、数十人。
にこやかな顔で、一糸乱れぬ動きで、片手をあげた。
「「海の家、玉ノ屋へ、ようこそ!」」
きれいにハモった。
「……はあ」
それ以外に、耕太たちに言葉はなかった。
だって、玉藻たちがいる玉ノ湯は、ここから遠く遠く離れた、山のなかにあるのだ。夏でも雪が止《や》まない、奥深く――それは、雪女たちがその力で降らしているらしい――で、妖怪《ようかい》専門の温泉旅館を営んでいるのだ。
なのになぜ? どうしてこんなところに?
だいたいにして雪女って、真夏のビーチでも平気なの? 融《と》けないの?
「あのー……パパ、ママ」
「このかたたち、お知りあいですか?」
唯一、玉藻たちと面識のないふたり、蓮《れん》と藍《あい》がおずおずと訊《き》いてきた。
「あ、うん、このひとはね……」
耕太とちずるの後ろに隠れつつ、ちらちらと玉藻《たまも》や雪花《ゆきはな》、そしてずらっとならんだ雪女の店員たちをうかがっている蓮《れん》と藍《あい》に、教えてやった。
「え! このかたが!」
「ママのママ! ですか!」
「うん、そうなの……。とても残念なことだけど……」
ちずるが頭痛でもするかのように、自分のおでこに手を当てた。
蓮と藍が、ぱたぱたと玉藻の前にゆく。
ぺこりと頭をさげた。
「わ、わたし、蓮です。七々尾《ななお》蓮です」
「わ、わたし、藍です。七々尾藍です」
「わたしたち、ママとパパにはすごくお世話になってます」
「よ、よろしく、お願いします」
「あらあら、かわいい子たちねえ」
玉藻が、やさしくふたりの頭を撫《な》でた。蓮と藍は、うにゅ〜っと眼《め》をつぶる。
「あなたたちね、ちずると耕太さんの子供というのは……それにしても、三ヶ月ほど前からこういう状態になっているはずなのに、母親であるわたしには、ちーっとも連絡、なかったわねえ?」
んじっ、と玉藻が見つめてきた。
「あ……も、申し訳ありません!」
耕太はその視線に撃たれ、直立不動の姿勢となった。
「ち、ちずるさんとこのようなことになってしまったのに、ご、ご連絡もせず……って、べつにあやまちを犯したとか、そういうことではないのですが!」
「そうよそうよ! べつに謝る必要なんてないよ、耕太くん! わたしはわたし、母さんは母さん、たとえ親子であったとしても、それぞれ独立した精神を持つ別個の存在であり、互いを尊重して過干渉せず……って、いうか! いま、三ヶ月ほど前からこんな状態っていった? いったよね、ね? それってどういうこと? どーしてそんなこと、母さんが知ってるわけ!」
ふっふっふ、と玉藻《たまも》は笑った。
「母はなんでも知っている……風の噂《うわさ》で、ちょっとね」
ちらと雪花《ゆきはな》に目配せした。
「……その風の噂とやら、もしかして忍びの格好なんてしてないでしょうね」
「な〜んのことかしら〜?」
あくまでとぼけた声をだす玉藻に、くっ、とちずるは歯がみした。
「と、とにかく! なんなの、母さん! こんなところにあらわれて、店なんか作って……なに! またなにか企《たくら》んでるわけ!」
「やだわ、企んでるのはあなたでしょう?」
ぷっ、とちずるが噴きだす。
「な、なにが? わたしがなにを企むっていうのよ?」
その声は、激しくスットンキョーであった。イントネーションがちぐはぐであった。
「いきなり免許とってみたり、車を手に入れてみたり、そもそも、海にくるのはいいけれど、みんなでなんて……ねえ? なにより……」
「シャーラーップ!」
ちずるが叫んだ。英語で「黙れ」と叫んだ。
「わったしの質問に答えなさっい! どーしてマザーはここにいるデッスか! ユー、アンサー? ファイナルアンサー?」
なぜかカタコトで、ちずるは自分の母親を問いつめた。
「だから、お仕事だっていったじゃない。夏場はほら、温泉宿って閑古鳥が鳴くでしょ。あ、閑古鳥の鳴き声って知ってる? きょわ〜、きょわ〜って、じつに気が滅入る鳴き声でねえ……」
「話をごまかすなっ!」
「もう……だから、暇だから出稼ぎにきたのよ。わたしも経営者として、従業員を養っていかなくちゃなりませんからね。だから、海の家をやることに決めたの。そうしたら、偶然、たまたま、なんの因果か、あなたたちがこの海にきて……」
「あのね、そんな都合のいい偶然、あると思う? ここはね、わたしが見つけた穴場のビーチなの。地元の人も立ち入らない秘密の場所なの。耕太くんが泳ぐ練習をするのに、人ごみでいっぱいじゃあ、集中できないと思って……」
「あらー? もう忘れたの?」
「な、なにがよ」
「あなたが見つけた穴場のビーチって、ここはむかしむか〜し、わたしたちが家族旅行で海水浴するとき、きた場所じゃない。覚えてないの? ほら、あの岬。あそこにね、豊玉《とよたま》のおじさんを祭ったほこらがあって……そこよ、そこ」
玉藻《たまも》が、遠く、切りたった岬を指さす。
しかしちずるは見ちゃいない。頭を抱えていた。
「え? ええ? そうだっけ? そういわれてみれば……えー?」
「ふむ……なるほどな」
たゆらがうなずく。
「ちずるが自分で見つけた穴場だなんて思いこんでいたこのビーチは、じつはガキのころ、玉藻さんに連れてきてもらった場所だったわけだ。つまり……勘違いだな」
ずがーん、とショックを受け、ちずるはよろめく。
「こ、子供のころなんて……そんな昔のこと、覚えてられるかー!」
膝《ひざ》から崩れ落ち、よよよと泣く。
耕太はちずるの背を撫《な》で、なぐさめた。それはそうだ、と思う。だってちずるが玉藻に拾われたのは四百年も前のこと。覚えていなくてもしかたがない。
だけど――。
耕太は玉藻たちを見た。
こんなだれもいない浜辺に、出稼ぎ……? お客さん、いないのに?
そんな疑念のこもった耕太の視線を、玉藻、雪花《ゆきはな》以下、海の家〈玉ノ屋〉従業員数十名一同は、いっせいに小首を傾《かし》げ、にこ〜と微笑《ほほえ》むことで、受け流していた。
「これほど、自分を、情けないと、思った、ことは……なーいっ!」
がん、がん、ががんとちずるはカナヅチを振りおろしていた。
硬く締まった土に、テントを支えるための細い釘《くぎ》――ペグが深々と突き刺さる。
耕太たちは、林のすぐそば……海の家〈玉ノ屋〉からはなるべく遠い場所に、日陰に入るようにして、ふたつのテントを設営していた。
ひとつは耕太たち、男性陣用。定員、二名。狭い。
もうひとつはちずるたち、女性陣用。定員、六名。広い。
「ううう……よりによって、母さんと一緒になるなんて……」
まあまあ、と耕太はちずるを落ちつかせにかかった。
「お母さんたちがいても、いいじゃないですか、べつに。大勢いたほうがにぎやかですし、それに海の家があれば、トイレとかシャワーとか便利ですし、あとあと、浮き輪やパラソルを借りることだって」
「やだ! あそこは利用しない!」
「ええ? どうしてですか?」
「だって、せっかく海にきたのに! 耕太とちずるのアイランドなのに!」
「いや、ここはアイランドではなく、普通の浜辺ですし……」
「日本は島国だもん! だからすべてはアイランドだもん! うう……くそう、せっかくの計画が……オペレーション・コード・フォックスが……邪魔される! きっと邪魔される! あのババア、ぜったいに邪魔するに決まってる!」
「あのー、おぺれーしょん・こーど・ふぉっくすって、なんですか?」
「え? あ、いや、なんでもないのよー、おほほほほー」
ちずるは笑ってごまかす。
やっぱり、と耕太は思った。
やっぱりちずるはなにか企《たくら》んでいた。それがなにかはまだわからない。だが、みんなで海にいこうといいだすなんて、おかしいと思っていたのだ。
でも……。
真剣な顔で、テントのペグを土に打ちつけるちずるを見ていたら、なんだか耕太はどうでもよくはなってきた。ちずるは、集中しているからだろう、軽く唇を尖《とが》らせている。それが、たまらなくかわいい。
望《のぞむ》は、蓮《れん》と藍《あい》、たゆらと一緒に、もうひとつ、女性陣用のテントを張ろうとがんばっていた。
ちずるはかわいいし、みんな楽しそう。
だったら、ちずるがなにを企んでいようが、べつにいいじゃないか。うんうん、と耕太はうなずく。
「そういえば……」
と、テントを支えるロープを持ったあかねが、呟《つぶや》きを洩《も》らした。
「わたし、ちずるさんのお母さんの旅館で働かされたことがあったわよね。そのときって、たしかわたし、最初は街のCDショップにいて……それが、気がついたら、遠く遠く離れた、雪深い山奥の、ちずるさんのお母さんの旅館にいて……あれって、けっきょくなんだったのかしら」
うーん、と考えこみだす。
耕太とちずる、向こうのテントのたゆらは、素早く視線を交わした。
まずい。
かつてあかねは、なにものかにさらわれて、そして玉藻《たまも》の旅館近くの、山中に捨てられた。その件については、じつは耕太たちも原因がよくわかってはいない。おそらく、〈葛《くず》の葉《は》〉の反ちずる派のしわざではないかと、耕太たちでは考えていたのだけど……。
あまり深く、あかねには考えないでいて欲しかった。
なぜなら、深く考えて、万が一ではあるが、妖怪《ようかい》の存在に気づかれてしまったら、非常に困るのだ。あかねは妖怪の存在を知らない。そして、これからも知られてはいけない。知られてしまうと、下手すれば、耕太たちは薫風《くんぷう》高校を退学の憂き目に――。
「む、昔のことなんか忘れちまえよ! おれたち若者は、いまを生きてるんだぜ!」
たゆらが声をあげた。
そうよ、とちずるが続く。
「せっかく海にきたんだもん、つまらない日常や過去のしがらみなんか忘れて、たっぷり楽しみましょ!」
おー、と拳《こぶし》を突きあげた。
耕太も、たゆらも、望《のぞむ》も、蓮《れん》と藍《あい》も、一緒に拳を突きあげる。そのいきおいにつられるかたちで、あかねも「お、おー?」と拳をあげた。ちょっと弱々しく。
いっひっひっ……。
耕太の真横で、たゆらはそんなじつに品のない笑い声をあげていた。
「どんな水着なのかなあ……楽しみでしょーがねーだろ、なあ、おい」
同意を求められた。
耕太は「はは……」とあいまいな笑いを返す。
すると、たゆらはなおも、ん? ん? と肘《ひじ》でつっついてきた。耕太には、どう見てもたゆらのほうが楽しみにしているようにしか思えない。
女性たちの、水着姿を――。
そりゃ耕太は楽しみである。ちずるがどんな水着を着てくるのか、想像しただけでもどきどきしてしまう。しかし、たゆらは……? 姉の水着姿を見て、それほど興奮できるものなのだろうか。望? もしや、大穴で蓮と藍? そういう趣味?
テントを建て終えてすぐ、耕太たちは水着の着替えへと入った。
男性陣用の、定員二名で狭いテントのなか、耕太とたゆらはけっこう苦労しながら着替えた。それでもかなり早かったはずだ。なぜなら、たゆらがバスタオルを使用することなく、いきなりズボンやパンツを降ろしたからである。
すなわち、たゆら、もろだし。ボロンゴと。刑事ボロンゴと。
わお。
耕太は、自分以外のアレを見るのは、幼いころ祖父とお風呂《ふろ》に入ったとき以来、初めてであった。そのため、妙に恥ずかしくなってしまった。
『あ? なにおまえ、人の身体じろじろ見てんだよ……って、なに顔、真っ赤にしてんだ! ぬ、脱げ、おまえも脱げ!』
『ひゃー!』
耕太はたゆらに脱がされた。
脱がされ、そして――。
たゆらはうなだれた。
『……どうして姉さんがあなたに惚《ほ》れたのか、わかったような気がします』
なぜか敬語だった。その視線は、一点に注がれていた。
耕太はあわてて手で押さえ、隠す。
『こ、これは、ち、ちずるさんにいろいろされているうちに、育ってしまって……』
『うおー、聞きたくねー! どーせおまえもちずるにいろいろして、育ててしまってるんだろ! チチとかシリとかさあ! どんなリアル育成ゲームだよ!』
その後、開き直った耕太とたゆらは隠すことなく着替えた。
なのでかなり着替えは早かったらしい。テントの外にでたとき、ちずるたちはまだ、だれひとりとして女性陣用の大きなテントから姿を見せてはいなかった。
というわけで、待つこと、しばらく。
いろいろあってヘコんでいたたゆらは、どうやら女性陣の水着姿を想像しているうちに、機嫌を直してくれたらしい。
ニコニコ……いや、ニマニマしながら、耕太を肘《ひじ》でつっついていた。
ちなみにたゆらは、真っ赤なビキニタイプの水着だった。耕太はごくごく普通の、トランクスタイプだった。まあ、どうでもよかった。
んー、とたゆらが声をあげる。
「それにしても遅えよなあ。女ってーのはなにかと準備に時間がかかるもんだが……ふむ」
唇をへの字にした。
なにを思ったか、女性陣用のテントに向かって、抜き足差し足忍び足で近づいてゆく。
「……た、たゆらくん?」
問いかけるも、しっ! と唇を人さし指に当てたたゆらに沈黙させられた。
たゆらが、ぺとりとテントにへばりつく。
片耳を当て――聞き耳を立てはじめた。
「ちょ、ちょっと、たゆらくん!」
「この、いいから黙れ! この偽善者めが……ほれ!」
止めようとしたら、耕太はたゆらに首根っこをつかまれてしまった。
頭を、テントの布地に押しつけられる。
なかから聞こえた会話は――。
「わあ、ママ……やっぱりおっぱい大きいです!」
「おまけにふさふさです! オトナです! オトナバディーです!」
蓮《れん》と藍《あい》の声だった。
耕太は眼《め》を丸くした。鼻から「ふがっが」と息も吐きだしてしまった。
「あなたたちもすぐに大きくなるって。もちろん、ふっさふさにもなっちゃうし」
これはちずるだ。
「でも……わたしたち、まだぺたんこです」
「つるつるでもあります」
「いいじゃない、邪魔なものがなくって。おっぱい大きいのも、これはこれでけっこう大変なのよ? 肩はこっちゃうし、走れば揺れまくって邪魔だし。うつぶせに寝ると苦しいし。いまの時期なんか、谷間とか、おっぱいの下と肌のあいだとか、汗かいて気持ち悪いし……ふさふさもねえ、水着とか着るとなると、これはこれで邪魔っけで……。いいなあ、成長してもお子さまなひとは」
「……ちずるさん、いま、だれを見ました?」
あかねだった。すごく硬い声だった。
「べっつにー? ただ、適度な大きさと薄さはいいなって、そう思っただけよ? だってほら、これから成育する見こみもないし」
「ま、まだ成育するもん! 失敬な!」
あかねの悲痛な叫びに、望《のぞむ》の、ぼそりとした声が重なった。
「……ちずる、なくなったときには大騒ぎしたくせに」
その言葉に、あかねが反応を見せる。
「え? なくなった? なくなったって……なんのことなの、望」
あかねの疑問声に、わー、わー、わーと、ちずるがばたばた動きだした。テントごしなのではっきりとした動きはわからないが……なぜか、蓮と藍も楽しげに跳びまわりだしたようだ。
「な、なんですか、ちずるさん。蓮と藍も、いきなり……あ、わかった! わかったわ!」
その声に、耕太までびくついた。
わ、わかった? わかっちゃったの? ちずるが胸のふくらみをなくしたことに、気づいてしまった……?
「毎月のアレがなくなって、それで大騒ぎってことね!」
耕太はぶふふーと口から噴いた。
真後ろのたゆらも、テント内のちずるも噴いた。
「もう、ちずるさん、不純すぎる異性交遊ももちろん大問題ですが、いたしてしまうならいたしてしまうで、どうしてきちんとしないんですか! セーフセーックス! です!」
げほほ、とちずるは咳《せ》きこんだ。
「あ、あのね、あかね……いや、そりゃさ、わたしだってセーフにほにゃららしたいけどさ、そもそもセーフしようにも、肝心のバッターが、なかなか……」
「ママー、『きちんとする』ってなんですかー?」
「ママー、『せーふせっくす』ってなんですかー?」
蓮《れん》と藍《あい》の素朴で無邪気な疑問。
それに答えたのは、望《のぞむ》だった。
「それはね、『ぴる』とか、『こんどー」
「黙れバカイヌ! 純真《じゅんしん》無垢《むく》な蓮と藍に、おまえの余計なスナイパー性教育を吹きこもうとするな! 悪魔よ、去れ!」
「えー、でもちずるー、いつか必要に……」
「ならなくていい!」
もはやテント内は地獄絵図であった。
けっこう女のひとって、生々しい会話をするんだ……いや、女のひとだけだから? 耕太はうつむき、もじもじと内股《うちまた》をすりあわせてしまう。
ふいに気がつく。
すでにたゆらは、耕太の首根っこをつかんではいないことに。
いつから? というか、ぼくは強制されることなく、自分から盗み聞きをしていた? あうー、恥ずかしいやち情けないやらでおろおろしながら、耕太は振りむいた。
後ろのたゆらは、鼻のあたりを手で押さえていた。
指の隙間《すきま》からは、鮮血が。
たゆらは、鼻血をだらだらと流していた。
「せ、せっくす……朝比奈《あさひな》の口から、せっくす……」
その息は荒い。ぼたぼたと落ちた鮮血が、地面に染み、どす黒くにじむ。
「……たゆらくん、気持ちはわからないでもないけど」
「ち、ちくしょう、録音しておけばよかったぜ……!」
「……録音して、なにに使うの?」
そのとき、テントのなかから悲鳴があがった。
声の主はあかねだった。
「ちょ、ちょっと、望……それ、なに? なんなの?」
「ん? 水着だよ?」
答えたのは望だ。
「水着って……上、なにもないじゃない!」
「ん? あるよ、ほら」
「それ、バンソーコーを貼《は》っただけじゃないの! ま、まさか下も……きゃー!」
どたばたと騒ぐ。
「わー、アイジンセンパイ、わたしたちとおんなじだー」
「ぺたんこで、つるつるだー」
「ん? 違うよ、蓮《れん》、藍《あい》。ほら、ここ、バンソーコーの上、ちょぱちょぱ……」
「――黙れ、痴女」
ドスの利《き》いた、ちずるの声だった。
「望《のぞむ》、あなた、水着はどうしたの。は? 大事なところは隠してる? そんなものが隠しているうちに入るわけ、あるか! ちょっとリュック、見せなさい。……ん? なにこれ、食べ物とー、ジャージとー、ぱんつとー……肝心の水着、ないじゃない!」
「だから、これ……」
「バンソーコーは傷口を押さえるためのものであって、恥ずかしいところを隠すためのものじゃなーい! 上だけならともかく、下までとは……このド痴女がっ!」
「そ、そうよ、望……。ちずるさんに痴女呼ばわりされるなんて、魔王に大魔王呼ばわりされるようなものよ!」
「……それ、ちょーっと引っかかるんですけど、あかねさん」
「とにかく、水着をどうにかしなくては……あ、そうだ、ちずるさん、海の家! ちずるさんのお母さんのお店なら、水着だって……」
「やだ! あのババアには頼らない、頼りたくない!」
「なにやら複雑な事情があるのはわかりますけど、このままじゃあ……あ、望、剥《は》がれてる、下、剥がれてる!」
「ん? あ、ホントだ。線が……」
「だー、わかった! わかったってば! ああ、さっそく母さんに頼らなくちゃいけないなんて……きっとあれよ、水着代ウン千万円とか、まーたわけのわからない借金を背負わされて、わたしたち雪花《ゆきはな》にこき使われまくるのよ。うえーん、せっかくの計画がー!」
「落ちこんじゃダメだよ、ちずる。人生、苦がありゃ楽あるよ」
「だれのせいで苦がきたと思ってんだ、このバカイヌー!」
それからいろいろあって。
ようやく、ちずるたちの着替えは終わった。
「じゃーん、です」
「ずばーん、です」
先頭を切ってテントのなかからでてきたのは、蓮と藍のおそろいコンビだった。
蓮は赤を、藍は黒を基調としたカラーリングの水着。その上は、おなかが大きく覗《のぞ》ける、スポーツブラのようなデザインのもの。下はスパッツ風だった。活発な彼女たちにふさわしい、身体にぴったりな水着だった。
「……ふんだ」
頬《ほお》を赤らめつつのご登場は、あかね委員長。
ハーフリムの眼鏡をかけたまま、髪型も変わらず、太陽におでこぴか。そんな彼女は、黒と白が入り混じったデザインの、上はひらひらつきの黒いチューブトップ――胸元を覆う筒状の水着のこと――で、下はおなじくひらひらつきの、まるでスカートのような水着だった。適度に落ちつき、適度にキュート。あかねらしい、グッドバランス。
「うふふ……」
見せつけるかのように、軽く背を反らしながらちずるはでてきた。
やはりちずるはビキニだった。
が、意外にもそのデザインは、白地にカラフルな花柄と、かわいらしい。
耕太が育ててしまった南国育ちなその胸のふくらみは、三角形のかたちをした布地に収まっている。布地と布地のつなぎ目、胸の谷間の部分は、なんと、ちょうちょ結びで留めてあった。やはり南国育ちなお尻《しり》は、黄色い長めのパレオで包みこまれており、しかし、布のスリットから覗《のぞ》く水着のサイドは、やはり胸とおなじくちょうちょ結びされてあって……しゅるんとほどけるさまを想像してしまい、耕太自身も、ああ、南国育ち。
「どう、耕太くん」
耕太は、力いっぱい拍手した。
となりのたゆらも、ぱちぱち拍手していた。
いま胸を締める感情は、えろえろー、とか、おっぱいおっぱいー、ではなく、ただひとつ、感動、だった。美しすぎると……感動する。
だから耕太は拍手した。たゆらにいたっては眼《め》をうるませていた。
拍手を受け、蓮《れん》と藍《あい》は背中をあわせてポーズを決めた。ちずるは手を腰の後ろで組んで軽く屈《かが》み、胸元を強調。あかねはつきあってられない、とばかりに視線を逸らして、ひたすら眼鏡の位置を直していた。しかしその頬はほんのりと赤い。
「――あ。そういえば、望《のぞむ》さんは?」
拍手する手を止め、耕太は尋ねた。
とたんにちずるの顔は曇った。
「あのバカはね……」
しかめた眼で、後ろのテントを見やる。
とたんに飛びだす、銀色の影。
影は耕太とたゆらのあいだを駆けぬけ、そのまま砂浜を爆走し、海までいった。ちょっぴりだけ海の上を走り、とって返してきて、耕太たちの元へと戻ってくる。砂煙をもくもくと跳ねあげながら……。
「あーおおー!」
砂煙で咳《せ》きこむ耕太たちのなか、ひとり彼女は叫んだ。
「野生児か!」
ちずるがその銀髪をぺしっと叩《たた》く。
叩《たた》かれた野生児、望《のぞむ》。
望は、なるほど、その呼び名にふさわしく、じつにワイルドな姿をしていた。胸元は緑色の布をただ巻きつけたようなデザインで、下も普通の水着に、ぎざぎざした腰布を巻きつけてある。まさに漫画にでてくるようなケモノっ子、そのままであった。
ちずるに叩かれた頭を押さえ、望はうー、と唇を尖《とが》らす。
「なによ望、なにか文句でもあるわけ? その水着、だれがお金をだしたと思ってるの? そもそもねえ、どーしてあなた、旅行にくるのに一銭も持ってきてないのよ!」
「まあまあ、そのくらいでかんべんしてあげなさいな、ちずる」
「水着ご購入、まいどありがとうございました、ちずるさま」
興奮するちずるを、脇《わき》からたしなめる声があった。
しかし、それが玉藻《たまも》と雪花《ゆきはな》では、まったく火に油を注ぐ効果しかない。
「いったいだれのせいだと思ってんのよ!」
「まあまあまあ」
噛《か》みつかんばかりのちずるに、玉藻はあくまで笑顔を崩さなかった。
「怒っちゃダメ。ほら、耕太さんが見てるわよ〜」
その言葉に、八重歯をまるで牙《きば》のように剥《む》きだしにしていたちずるは、はっ、と眼《め》をしばたたかせ、にか〜っと耕太に向けて笑顔を作った。
玉藻は、その隙《すき》を逃さない。
「さあさあ、みなさん、せ〜っかく海にいらしたんですから、遊びましょう、遊びましょう。海の家〈玉ノ屋〉は、遊びの道具も各種とりそろえておりますよ〜」
いよ〜、ぽん。
まるで歌舞伎《かぶき》かなにかのように、玉藻は大きく手を打ち鳴らした。
その音とともに、店員である雪女たちが、玉藻の背後から飛びだす。
それぞれ、浮き輪、空気を入れてふくらますイルカ、ゴムボート、それをこぐためのオール、ビーチバレーのボール、ネット、スイカ割り用の目隠し、スイカ割り用の棒、スイ力割り用のスイカ、シュノーケルに水中マスク、そして銛《もり》まで持っていた。
「「みなさま、ご利用は計画的に〜!」」
きれいにハモったが、それはちょっと違う、と耕太は思った。
熱い熱い太陽の日ざし。
でもそれも、ビーチパラソルがあればだいじょうぶ!
とのことで借りたパラソルが作りあげる影の下、やはりレンタルしたレジャーシートに腰をおろしながら、ちずるはため息をついた。
「けっきょく……母さんのペースに……」
となりでそのため息を聞いていた耕太は、ちずるに尋ねてみる。
「あの……お母さんのお世話になるのって、そんなに嫌なものなんですか?」
「べつに、そういうわけじゃあ、ないんだけど……」
山折りにした足を腕で抱えた、いわゆる体育座りの姿勢で、ちずるがじーっと耕太を見つめてくる。
「な、なんですか?」
ううん、とちずるは首を横に振った。
泳ぎやすいよう、ちずるは長い髪を短く束ねていた。なので髪は揺れず、代わりにうなじとほつれ毛が、耕太の胸を灼《や》く。
「ま、いいや!」
にこっとちずるは眼《め》を笑みのかたちに細めた。
そこに耕太は、すこしばかり自棄《やけ》の匂《にお》いを感じた。が、ぽんとちずるに白い小さな容器を手渡されたために、それを確かめるどころではなくなってしまった。
「はい、耕太くん、塗って」
白い小さな容器は、日焼け止めクリームだった。
「これって……」
「そ、日焼け止めクリーム。ほら、耕太くん、普段焼けてないのにさ、こーんな強い日ざしのなか、日焼け止めも塗らずにいたら、肌、まっかっかになっちゃって、あとですっごく痛い思いしちゃうよ? もうヤケドだよ、ヤケド」
「な、なるほど」
ちずるが、座ったまま、耕太に背を向けた。
それだけではなく、上の水着をゆるめだした。するんと背の紐《ひも》をほどく。そのため、背中ごしからでも、ほゆんと揺れるやわらかなふくらみがあらわに覗《のぞ》け――。
「な、なにをしてるんですか、ちずるさん!」
あわてて耕太はまわりを確認する。
あかねは蓮《れん》と藍《あい》、望《のぞむ》と連れだって、海の家〈玉ノ屋〉の店先にいた。なにか買い物でもしているらしい。たゆらは耕太とちずるが座るパラソルからすこし離れた場所に、もう一本、パラソルを刺すのに忙しかった。
よし、いまならだれも見ていない。チャンスだ!
――じゃなくって!
「だ、ダメですよ、ちずるさん。こんな、みんなの前で肌をあらわになんかしちゃ!」
「あれ? じゃあ、みんなの前じゃなきゃ、いいの?」
尋ねられ、耕太は答えに困った。はい、といったらちずるは本当にやるからだ。強制的に、ふたりっきりになろうとするからだ。
ふふ、とちずるが笑う。
「気にしすぎだって、耕太くん……。こういうのはほら、塗り残しがあったら意味がないでしょう? だからすみずみまで塗ろうとしているだけであって……これをえっちと感じるなら、それは感じるほうがえっちなんだよ。ね?」
そう……かなあ?
疑問はつきねど、ちずるは背を丸め、その染みひとつない肌を向けてくる。うなじ、肩甲骨、背骨の溝……耕太は、なんだかこういうシチュエーション、前にもあったなあと思いながら、日焼け止めクリームを手のひらにとった。
白いクリームを、手のひらで伸ばす。
ちずるの背に塗りつけていった。
「あ、はは、やだ、くすぐったーい」
ちずるが身もだえ、背を反らす。
「が、我慢してくださいよ……」
しゅるしゅる、しゅるしゅる。
塗りつけるたび、ちずるは身をくねらせる。笑い声も止まない。
そういう反応を見せられると、耕太の手の動きは、ついついねちっこいものへと変わってしまう。いきおいあまって、脇腹《わきばら》なんか触ったりなんかしちゃったりして。
「や、やあん、耕太くん、いきなり、そんな……おっぱいなんてぇ」
薄い皮膚の下、ちずるの肋骨《ろっこつ》の、こりこりした感触を耕太は味わっていた。
うーむ……こりこり、こりこり。ちずるさんは、肋骨の感触も、いい……。
――や?
おっぱい?
ぼくまだ、そんなとこ、触ってないよ?
耕太はちずるの肩口から、前を覗《のぞ》きこんだ。
そこには、正座しながらちずるの胸を揉《も》みしだく、望《のぞむ》の姿が。
ちずるも異変に気づく。
「わ! ちょ、ちょっと望、なにやってんのよ……こら! これは耕太くんの!」
望の手を払いのけて、胸を押さえ、さがった。自然とちずるは、後ろの耕太にすっぽりと抱えられるかたちとなる。
「ん」
いつのまに海の家から戻ったのだろう、望は正座して、ちずるの前にいた。そうして、耕太とちずるの眼前に、一本の黄色いボトルを突きだしてくる。
「うん? なによ、これ」
それはサンオイルだった。
となると、望はこれを海の家で買った……もとい、買ってもらったのだろうか?
「サンオイルって……塗って欲しいの? 耕太くんに?」
ん、と正座したまま、ボトルを突きだしたまま、うなずく望。
「まあ、いいけど……」
と、ちずるが許可をだした。耕太は思う。あ、あれ? ぼくの意見は?
「でも、いまわたしが耕太くんに塗り塗りしてもらってるんだから、望《のぞむ》はそのあとよ?」
「だいじょうぶだよ、こうすれば」
「は?」
耕太とちずるが見ている前で、望はサンオイルのボトルのふたを開けた。
「えい」
いきなり振りだす。
ちゃぱちゃぱと、耕太とちずる、そして望自身にも、中身のオイルがかかった。
「う、うわっ! 望さん、なにを!?」
「ぷわっ! ぺっ、ぺっ! な、なにするのよ、バカオオカミ!」
耕太とちずるはオイルで全身、べたべたになってしまった。
「いくよー、耕太、ちずる」
そこに、自身もオイルまみれになった望が、飛びこんできた。
まずちずるが、続けて後ろの耕太が、望に上に乗られ、あおむけになって押し倒される。
「わー! もう、なんなのよ、バカイヌ!」
「ほら、こうすれば、みんなで塗り塗りできるよー?」
「なに?」
望が、ちずるの上を滑る。
にゅるるぷー。
緑の水着で包まれたその薄い胸が、ちずるの顔を、そしてちずるの下敷きになった耕太の顔を襲う。塗りたくる。オイルでべたべたにする。ぷ、ぷふふー。
「えーい、やめろ、この野生児!」
ちずるは自分の身体の上でヘリコプターのようにくるくる回る望を捕らえ、自分の真横へと引きずり落とした。
耕太のすぐとなりに、てかてか顔の望がぽてっと落ちた。
そうして、ちずるは耕太の上でにゅるりと背を返した。耕太と抱きあうかたちになって、向きあい、その姿勢のまま、脇《わき》の望を怒鳴りつける。
「なにを考えてんのよ、あなたは!」
「ん? だって、みんなでぬるぬるしたいから……」
「ぬるぬるじゃなくて、塗り塗り! ぬるぬるするのはこの前、わたしの胸がほにゃららのときでおしまい!」
「えー、だって、ぬるぬる気持ちいーよー?」
「気持ちいいけど、おしまい! あのね、わたしたちはいま、日焼け止めクリームを塗っていたの。あー、もう、こんなサンオイルまみれにして……わかってる、望。普段日焼けしてないのにサンオイルなんか使ったら、普通はヤケドしちゃうのよ? とくにあなたみたいな、もう青いくらい白い肌なんか、てきめんに大ヤケドよ? いいの?」
「だいじょうぶだよ」
「なんで、どうして、だいじょうぶ?」
「だってわたし、ぴちぴちだから。……ちずると違って」
ぴく、と耕太の上で、ちずるが身体を震わした。
「な、なんですって?」
「だから、わたしはちずると違ってぴちぴち……」
「つまりそれは、わ、わたしが年増ってこと……?」
「ううん。わたし、ちずるが大年増だなんて、ひとこともいってないよ」
「お、大年増ぁ!?」
語気も荒く、ちずるは立ちあがった。
おかげで上に乗られていた耕太は楽になったが、代わりに、ふぁさ、と水着が身体に落ちてきた。ちずるの胸元を覆っていた水着だった。
ドズルん、と頭上で揺れるちずるのふくらみ。
耕太はあわてて立ちあがり、やらせはせん、やらせはせんぞー、とちずるのビッグでザムなふくらみに、下から腕を伸ばし、手のひらで覆い隠した。
望《のぞむ》は寝ころんだまま、パラソルすれすれに立ちあがったちずるを見あげている。
「だから、わたし、ちずるが大々年増だなんて」
「大、大、年増ぁー!? いまひとつ増えた! 大が増えた!」
「ち、ちずるさん、落ちついて、落ちついてください! ちずるさんは大々々年増なんかじゃありませんから! ぴちぴちなのは、ぼくがよくわかってますから!」
ぴきーん、とちずるは固まる。
「こっ、耕太くんまで、わたしのこと、大々々年増と……またひとつ増やした……」
あ。
耕太は自分の失態に気づいた。ふ、増やしちゃった! 大、増やしちゃった!
「――ママー!」
「――パパー!」
忙しいところに、蓮《れん》と藍《あい》がやってきた。
「アイジンとの三角関係をマンキツしているところ、キョーシュクではありますが!」
「わたしたちにも日焼け止めクリーム、塗ってください!」
蓮と藍はふたりでひとつの白いボトルを持っていた。
はい、と突きだす。
「あ、えーとね……」
どうしようかと耕太が悩んだとき。
いきなり、蓮と藍のボトルをひったくる手があった。
ちずるだった。
「あ」
耕太、望《のぞむ》、蓮《れん》、藍《あい》の声が重なった。
ちずるは無言でボトルのキャップを開け、その中身をぶちまけだす。
自分に。後ろから胸を押さえる耕太に。シートの上で寝そべる望に。白いクリームでべとべとになったと思ったら、こんどはあんぐりと口を開けたままの蓮と藍を抱きしめた。
「おー?」
また四人の声が重なる。
ちずるは蓮と藍、そして耕太を引きずったまま、倒れこみ、望とともに絡まった。
ぐっちゃんばっちゃん、ぐっちゃんばっちゃん。
ぬるぬるで、塗り塗り。
上になったり、下になったり。五人でぐちゃぐちゃになった。
「ひゃー! くすぐったいですー!」
「ふぁー! こしょばったいですー!」
「あー……わたしのサンオイル……」
「ち、ちずるさん、ど、どうしたんですか……お、落ちついて!」
だれかの股《また》ぐらから顔を突きだしながら叫んだ耕太の声に、ちずるは動きを止めた。
「や?」
ちずるは涙目だった。
涙目で、耕太を睨《にら》んでいた。頬《ほお》はふくれていた。その頬の横には、望の尻《しり》があった。
「どうせわたしは、大々々々年増ですよ……だから、肌のケアに気をつかわなくちゃいけないの! うー、耕太くんの、いぢわるー!」
塗り塗り、再開。
ぐっちゃんばっちゃん、ぐっちゃんばっちゃん。
相手が気にしていることに、触れてはいけない――耕太は、だれの足かもわからない太ももで頬をこすられながら、そう、思い知った。
「――なにをやってるんだか」
ぐっちゃんばっちゃん、ぐっちゃんばっちゃんな耕太たちを見つめながら、あかねが呟《つぶや》く。あかねは、さきほどたゆらが立てていたもう一本のパラソルの下、自分の手で日焼け止めクリームを塗っていた。
「なあ、朝比奈《あさひな》……おれたちも、ぬ、塗りあわないかーい?」
「塗りあいません」
たゆらの誘いを、あかねはきっぱりとはねのけた。
はねのけられたたゆらは、肩をすくめながらあかねから離れ、浜辺にしゃがみこむ。砂に指で書いた文字は――冷たいところもイイ!
波が、さーっと砂を濡《ぬ》らしては、さーっと去ってゆく。
耕太は、じりじりと照りつける太陽の下、波打ち際に立って、ひたすら波の動きを見つめ続けていた。ゆきては返す、波。その動きは、なかなかに素早い。
これが、海……。
ごく、と耕太は喉《のど》を鳴らした。
「よ、よし」
おそるおそる、足先を伸ばす。
波がきて、去った直後……いまだ! タイミングを計って、黒く濡れた砂に、一歩踏みだした。しかしとって返してきた波に、足首はすぐさま呑《の》まれてしまう。
「うひゃーっ!」
耕太は飛びのく。怖いよ! 速いよ! 冷たいよ!
「ふふ、うふふ……」
後ろで笑う人、あり。
ちずるだった。
ばつの悪い思いで振りむくと――そこには、太陽のようなちずるの笑顔と、彼女が伸ばした、すべらかな手があった。
「一緒にいこ、ね?」
ちずるの機嫌は、すっかりよくなっていた。
耕太は誓う。もう二度と、彼女の年齢には触れまいと……。
「お願い……します」
耕太はちずるの手をとった。きゅっ。しっかり握りしめられた。
さあ、覚悟を決めて、いざ海にいかん――。
と思ったら、蓮《れん》と藍《あい》に先をこされた。
「トリトン、いきまーす」
「ポセイドン、倒しまーす」
縦になって駆ける蓮と藍は、その脇《わき》にイルカ型の大きな浮き袋を抱えていた。
走るいきおいそのままに、海へと突撃する。
ちゃぷちゃぷと波を蹴散《けち》らして進み、やがて、腰まで沈んだところで、抱えていたイルカを水面に滑らした。
そのイルカの上に、ふたりで乗る。
ていていてい。蓮と藍は足でこぐ。懸命にごぐ。すこしずつ、蓮と藍が乗ったイルカは、遠ざかっていった。
耕太は思う。
……いいなあ。
「ね、耕太くん。耕太くんも、ああいうの、乗りたい?」
「ふえ? ど、どうしてですか?」
「だって、すっごく熱心に見てたし……そのとき手、きゅっと強く握ったし」
ちずるは、握手しあったままの手を示した。
「う……」
「いいよ、耕太くん」
「え」
「水に慣れて、そうね、泳ぐ練習、ちょっぴりだけしたら、こんどはあのイルカに乗ろ。あの子たちから借りてもいいし、その……母さんの店から借りても、まあ、いいし」
「は……はい」
耕太はうつむいた。ああ、恥ずかしい。
でも、うれしい……。
頬《ほお》のほてりを感じつつ、耕太は蓮《れん》と藍《あい》とイルカの様子を眺めた。いつのまにか、もうかなり遠く、沖のほうまででている。
さすがは妖魔《ようま》滅殺の戦士だなあ……と、感心していると。
「あ」
風が吹いたか、波に呑《の》まれたか、蓮と藍は、横倒しになった。
「ひゃー」
「きゃー」
遠く、ふたりの悲鳴が浜辺まで届く。
「あららら……きれいにひっくり返っちゃって」
ばしゃばしゃと水しぶきをあげる蓮と藍に、ちずるは笑った。耕太も笑った。手をつなぎあったまま、うふふ、あははと笑いあった。
「ねえ、ちょっと……ちずるさん、小山田《おやまだ》くん」
そこに、あかねがやってきた。
眼《め》の上に手をかざし、蓮と藍を見つめる。
「あれ……もしかして、おぼれてるんじゃないの?」
「……え?」
緊迫した声での指摘に、耕太も眼を凝らす。
あっぷあっぷと手をばたつかせ、どうにか顔を波打つ海面にだしている蓮と藍。
その顔が……とぷんと沈んだ。
しーん。
そのまま、浮かびあがってはこなかった。
「――蓮! 藍!」
耕太は叫び、海に向かって駆けこむ。
ちずるも駆けていた。手をつないだままだった。気づいてほどく。ふたりどうじに海に飛びこんだ。腕で水をかき、足で蹴る。波に逆らい、進む。
蓮《れん》、藍《あい》……待ってて!
「――おー、すげーな、耕太。おまえ、泳げるんじゃねーの」
後ろで、たゆらがのんきな声をあげていた。
そののんきな声に、耕太はすこしばかりの怒りすら感じてしまう。
まったく、いま、それどころじゃないのに……蓮と藍が大変なのに! ぼくが泳げるって、そりゃ――。
あれ?
ぼく、泳げたっけ?
ノン♪ ノン♪ 泳げませーん♪
「おわー!」
不思議なもので、気づいたとたん、耕太はおぼれた。
ばちゃばちゃと手をばたつかせ、どうにか顔を海面にだす。しかし迫る波に、あっさり呑《の》まれる。ぶふー。しょっぱい! 海水、すごくしょっぱい! い……痛い! 眼《め》が痛い! あ、鼻にも入って……ふがががが! こごご!
もうぼく……だめかも……。
とぷんと海中に沈んだ。視界が青に染まり、やがて黒へと――。
「――耕太くん、しっかり!」
あきらめかけた耕太を抱きかかえ、海面まで引っぱりあげてくれたのは、ちずるだった。耕太は咳《せ》きこみ、ひゅーと息を吸いこみながら、助けて! と手を伸ばす。
指先が引っかかった。ちずるの水着に。
水着はさがり――そして飛びだした。
だるびっしゅ。
太陽の下、あらわとなったまろみは、波間に揺れる、Oh、ぱいぱいぷー!
「ご、ごめんなさーい!」
「そんなのいいから、耕太くん。暴れないで。そう、そのままわたしに身体を預けて……なるべく、しがみつかないようにして。ふたり一緒におぼれちゃうから」
耕太はちずるの指示に従った。身体を預けるのには慣れているのだ。あまえんぼさんで。
生のまろみに顔を埋《うず》め、波にふたり、揺れ、そして耕太は、はっと気づく。
「そ、そうだ、ちずるさん、蓮は、藍は?」
「わかってる……けど、耕太くんをこのままにはしておけないし……」
ちずるが海中で身をひねり、砂浜のほうを向く。
浜辺にはたゆらとあかねの姿があった。
そうか、と耕太は思う。
ふたりの力を借りれば……。
しかし、たゆらとあかねはこちらを見ながらなにごとか会話したまま、動こうとはしなかった。あかねがたゆらを怒鳴っているようだが……あいにく、耕太には聞こえない。
「もう、なにやってるのよ、あいつらは……なになに、『早く助けにいってよ、たゆら』」
ちずるがいらついた声とともに、ふたりの会話を語りだした。どうやら唇の動きを読んでいるらしい。
「『まあ待て待て、朝比奈《あさひな》。まずは準備運動から』」
「『なにをのんきなこといってるの!』」
「『あのガキどもはそう簡単にくたばりやしねーよ……あー、はいはい、わかりました、わかりました。じゃ、いくとしますか』」
「『がんばって!』」
「『お? なになに、どーゆーこと。朝比奈は助けにいかねーの?』」
「『……のよ』」
「『は?』」
「『わたし、泳げないの! だから助けにいけないの!』……マジで?」
ちずるの感想に、耕太もマジで? と思った。
そういわれてみれば……と、学校での水泳の授業風景を思いだす。あかねは、ずっとジャージ姿でプールサイドに座り、耕太とともに見学していた。あれは女性には訊《き》いちゃいけない理由なのだとばかりすっかり思っていたのだが……泳げないから、サボり?
なるほど。
だから、ちずるが『我々は、海にいきます!』宣言したとき、あかねはあれほど強く抵抗したのか……耕太はちょっと納得してしまった。
「ちっ、しかたねーな!」
たゆらのその叫びは、耕太の耳にもじかに届いた。
「見てろよ朝比奈、おれのカッコイイ姿をな!」
うおー、とたゆらは波に飛びこんだ。
ふははははー、と高笑いしながらクロールし、みるみるうちに耕太のそばへと追る。すぐに通り抜け、蓮《れん》と藍《あい》が沈んだ場所へと向かう。
「が、がんばって、たゆらくん!」
「あの子たちを助けて、たゆら!」
「ぬははははー、まっかせなさーい! ついにきた、おれの時代がきた! これぞ必殺、フォックスレスキュー! きさまら、時代の証人となれい!」
泳ぎながらよくしゃべれるなあ……と思いながら耕太が見ると、たゆらは顔を横に向けたままクロールしていた。つまり、ずっと息継ぎしながら泳いでいるのだった。
すごいや……と思っていたら、もっとすごいのが、いた。
それは人影だった。
あかねの声援を背に、人影が、泳ぐたゆらの横を、走っていた。
文字どおり、海面を走っていた。
「……え?」
片足が沈む前に、もう片足をあげて前に踏みだし、その足が沈む前に、残った片足をあげ――なんて動きを超高速でくり返すなんてことは、やはりワンダー・ガール、望《のぞむ》にしかできなかった。
望は海の上を走る。走って、蓮《れん》と藍《あい》が沈んだ場所までゆく。
「とー!」
両足から海に飛びこんだ。
耕太は、ちずるは、望の消えた海面を、じっと見守る。
やがて……。
浮上してきた銀髪の横には、けほけほと咳《せ》きこむ、おさげ髪の双子の少女の姿があった。
「や……やったあ!」
耕太は歓声をあげた。ちずるもあげた。きっと浜辺のあかねもあげているだろう。
ただひとり。
たゆらだけは、固まっていた。
その横を、蓮と藍を首にしがみつかせた望が、犬かきしながら通っても、ぷかぷかと浮かんだまま、身じろぎひとつしなかった。
「望……ありがと。とりあえず、感謝しとく」
ちずるが耕太を連れたままならんで泳ぎ、声をかけた。
望《のぞむ》は「ん」とだけ返す。
蓮《れん》と藍《あい》は望にしがみつきながら、「ママー」「パパー」と泣きじゃくり、鼻水を垂らす。耕太とちずるは、せめてもの思いで、微笑《ほほえ》みかけた。
一緒に、浜辺へと戻る。
足で砂浜を踏んだとき、がくがくと耕太の膝《ひざ》は笑った。
やっぱり水……怖いなあ。
出迎えたあかねが、望に抱きつく。
「な、なんだかいま、海を走る人なんていうすっごくとんでもないものを見たような気もするんだけど、まあそんなことどうでもいいわ! 望、すごーい!」
望はあかねに抱きつかれたまま、むん、と胸を張る。
蓮と藍も「アイジンセンパーイ」「命の恩人ですー」と望に抱きついた。
耕太は砂の上にへたりこみながら、その様子を見守った。ちずるは、耕太のそばに寄りそって立っていた。
耕太の肩に、ちずるがそっと手を置く。
その手に、耕太は自分の手を重ねた。きゅっ、と指を絡める。
ひとり、たゆらは海から戻ってきた。
その脇《わき》には、イルカ型の大きな浮き袋があった。蓮と藍が乗っていたイルカを、たゆらはきちんと持って返ってきたのだ。
しかし、それを褒めるものはいなかった。
みな、英雄、望をあがめていた。
たゆらはひとり静かに砂場に屈《かが》みこみ……いつしか、山を作っていた。ひとりで作った山を、ぼーん、とひとりで崩す。
「……かっこよく、なりてーなあ。男に、なりてーなあ」
ぐすっと、鼻をすすった。
「――かっこよかったわよ? 途中までは」
はっと顔をあげると、黒と白が入り混じったデザインの水着を着た女性――あかねが、ひらひらと手を振りながら去ってゆくところだった。
「あ、朝比奈《あさひな》ぁ……」
「やだ、もう、まとわりつかないでよ、源《みなもと》」
「朝比奈ー!」
「しつこい!」
「痛い! でも朝比奈ー! やっぱきみはステキだー! おれの太陽だー!」
「うるさい!」
じつは泳げなかったことが判明した、蓮《れん》、藍《あい》、そしてあかね。彼女たちもくわえて、耕太は泳ぐ練習を始めた。
コーチ役はちずる、望《のぞむ》、そしてたゆらだ。
「さー、ビシ! バシ! いかせてもらうデェ〜!」
なにがあったのか、妙にたゆらははりきっている。
どこからか持ってきた竹刀を振りまわし、熱血指導をしていた。
「ほらほら、水は怖くない、怖くないんだよ! だいじょうぶ、海はトモダチさ! そう、そうだ、朝比奈《あさひな》、その調子だ! うんうん、朝比奈、きみはやればできる子!」
「――もう、恥ずかしいからやめてってば!」
浅瀬で、まずは顔を水につける練習から始めていたあかねが、たまらず顔をあげた。眼鏡をかけておらず、よく見えてないせいもあってか、あかねの目つきは鋭い。
そんな鋭い眼《め》で睨《にら》まれても、たゆらは平気な顔だ。
「ああ、恨めばいい。憎めばいい。それできみが泳げるようになるならば、わたしはあえて、鬼にでもなろうではないか! 悪魔となろうではないか!」
いや、むしろ喜んでるっぽい?
「なーにをやる気だしてるんだか……」
ちずるは醒《さ》めた顔つきで、たゆらを眺めていた。
すぐににこやかな顔になって、耕太を見つめてくる。
「じゃ、耕太くん。わたしたちもがんばろっか」
「は、はい!」
耕太とちずるは、ふたりとも胸元近くまで海につかっていた。
とりあえず耕太は、ちずるに触れてさえいれば、なんとか水が平気になっていた。
というわけで、つぎの段階、水面にそって、身体をまっすぐに伸ばす練習に入るところだった。
「それじゃあ……ゆっくりね、落ちついて」
「はい……」
ちずるに両手を引かれながら、耕太は足を浮かし、水中に身体を伸ばす。
なるべく、まっすぐになるようにした。
が、どうもうまくいかない。ん、なんだ、なにが悪い?
「耕太くん、力をぬいて」
すぐさま耕太は脱力した。だらーん。
「そうそう……上手だよ、耕太くん」
ちずるが、手を引く。
耕太は、でろーんと伸びる。
脱力するのは得意だった。だって、いつもちずるには脱力させられているから……その直前には、硬直させられてもいるわけだけども。人生、基本は緊張と弛緩《しかん》なのだ。
ぷは、と耕太は顔をあげる。ちずるの笑顔が待っていた。
「すごいじゃない、耕太くん。これならすぐに泳げるようになっちゃうかも」
「えへへ」
お世辞だとわかっていても、うれしい。よし、もういちどと顔を海につけようとする。
「――あれ? 蓮《れん》、藍《あい》? なにしてるの、あなたたち」
ちずるの声に、耕太はつけかけた顔を横に向けた。
すぐそばに、肩口まで海につかった蓮と藍の姿があった。
その前には、胸元までつかった望《のぞむ》の姿もあった。
「ちょっと、望……あなた、その子たちにまーたヘンなこと教えようとしているわけじゃないでしょうね」
「シッケイだなあ、ちずるは。ちゃんと泳ぎを教えてるよ」
「そうです、ママ」
「ちゃんと教えてもらってます」
「……どんな泳ぎ?」
「「犬かき」」
蓮と藍と望は、どうじに答えた。
「バカー! 普通の泳ぎを覚える前に、そんなヘンな泳ぎを覚えてどーするの! こういうのは、基本が大切なんだから……ヘンな癖ついちゃったら、なかなか戻らないのよ?」
「あ、あう、で、でも、ママ」
「わたしたちの命を救った、恩人泳ぎですから……」
かわいそうなくらい、蓮と藍はおろおろしだした。
その小さな肩を、ふたりのあいだに入った望が抱く。
うんうんとうなずいた。
「しかたないよ、蓮、藍。ちずるがダメっていうなら、ダメなんだよ」
「……なんだか、めずらしくものわかりいいじゃない、望」
「だから、このアイジンセンパイがかわりにアレを教えてあげよう」
「アレ?」
ちずると蓮、藍が首を傾《かし》げた。
「水面走り」
ぱーっと輝く、蓮と藍の顔。
それを打ち消す、ちずるの怒号。
「バカバカー! そんなの、まともなニンゲンにできるわけないでしょーが!」
「もう、ちずるはわがままだなあ」
「おまえに常識がないんだ!」
「あ、あのう、ママ」
「わたしたち、けっこうまともじゃない人間なので……」
「自分で認めちゃダメよ、そんなこと!」
「あ、ちずる、ほら」
「なによ!」
望《のぞむ》が指さした方向を、ちずるは見た。
「あ」
耕太は見られた。
首だけを水面にだし、水中で手足をかく――犬かきの練習をしていたところを。
「こ、こ、こ……耕太くーん!」
「ご、ごめんなさーい!」
けっきょく、ヘンな癖がついてしまった耕太は、その後、きちんとした泳ぎを学ぶのに、すごく苦労することになったのであった。
「バカバカバカー! だからいったのにー!」
「ごめんなさーい!」
ちなみに、蓮《れん》と藍《あい》は十歩までなら、水面走りができるようになった。めでたし。
「……むー」
ちずるは、ぶすっとしていた。
眉間《みけん》にかすかに皺《しわ》が刻みこまれているのは、機嫌の悪い証拠だった。
これは、例の年増騒動を思いだしたからではない。
耕太がハンパに犬かきを覚えてしまったからでもない。
蓮と藍が水面走りできるようになったはいいものの、肝心の泳ぎがさっぱりだからでもない。
ちずるは、焼きうどんをもそもそと食べていた。畳敷きの、座敷の上にあるテーブル席で、まわりを、耕太、望、蓮、藍に囲まれながら。
耕太は、海の家〈玉ノ屋〉にいた。
泳ぐ練習にひと区切りをつけたとき、時刻はすでにお昼をけっこう回っていた。そして、耕太たちはすごく疲れていた。水泳はかなり体力を使うものだ。耕太はもちろん、水面走りなんてやっていた蓮と藍も、あかねも、指導疲れたたゆらも、みんなへとへとだった。無尽蔵の体力を持つ、望をのぞいて、みんなだ。
本当だったら、お昼は用意した食材でご飯を作る予定だった。
だけど、本当に耕太たちは疲れ切っていたのだ。
そして、目の前には海の家があった。
お食事所のノボリ。
香ばしい、焼きそばやカレーの匂《にお》い。
全員からのすがるような目つきに、さすがのちずるも負けた。
「あー、もう、わかった! わたしが我慢すればいいんでしょ!」
と、いうわけで、耕太たちは〈玉ノ屋〉で昼食をとっているのだった。
海の家〈玉ノ屋〉は、けっこう広い。
入り口を入ってすぐに、横長のテーブルが一脚置かれ、そのまわりには丸イスがならべられてあった。そこに向かいあって座っているのが、たゆらとあかね。奥には板敷の座敷があった。耕太とちずる、望《のぞむ》、蓮《れん》、藍《あい》がいるのがその座敷だ。
「ちずるさん……」
耕太はカレーを食べながら、となりのちずるをうかがう。
〈玉ノ屋〉にきてからずっと、ちずるの機嫌は悪い。そんなちずるを、向かいあう蓮と藍が、目の前にならぶ焼きそばにも手をつけず、上目づかいで見つめていた。望は平気な顔でフランクフルトの山を片づけていたけれども。
「玉藻《たまも》さんを警戒する気持ちはわかりますけど……機嫌、直してくださいよ」
「え?」
ぱっとちずるは顔をあげた。
「あ、いや、違うよ、耕太くん。いや、そりゃこの店の居心地はよくないけど……それ以上に、なんというか、このうどんの味が、すっごくビミョーで」
「ビミョー?」
ちずるが割りばしで指したうどんを、耕太は見た。
ソースで褐色に染まった、太めのうねうねした麺《めん》……そんなに?
「ママ……」
「わたしたちのも……」
蓮と藍が、自分たちの前にある、焼きそばのちぢれ麺を示した。
「なんだか、麺がもそもそです」
「味つけも、まったりしてます」
「わたしのも、ビミョーだよ。なんかぬるいよ。熱々じゃないよ」
といいつつ、望はフランクフルトをつぎつぎに串《くし》だけにするのをやめようとはしない。
「あー、こっちのラーメンもビミョーだぞ」
テーブル席でラーメンを食べていたたゆらが、箸《はし》でつまみあげた麺を睨《にら》んでいた。
「この腰のなさったらどーよ」
「スープもビミョーよ。のっぺりしていて、味に深みがない」
おなじくラーメンを食べていたあかねも、レンゲでスープをすするなり、うーん、とうなりだす。
「み、みんなまで」
「耕太くんは?」
「え、ぼく? ぼくは……」
耕太はスプーンでひとさじ、ルーの載ったライスをすくい、口に運んだ。
「……う」
ビミョー、だった。
どよんと甘い。妙に粉っぽい。イモは崩れてるし、そもそも肉が存在しないし。
「ねー?」
「で、でも、ほら、店員さんに聞こえちゃったら、悪いですし」
「べつにかまいませんよ〜」
いつのまにきたのか、エプロン姿の店員が、耕太たちのいる座敷のそばに立っていた。
雪女である店員の表情は、あくまでにこやかである。
「ふふふ……美味《おい》しくなく、かといって食えないほどに不味《まず》いわけでもないという、ビミョーな味わい……これを生みだすのに、どれほど苦労したことか!」
「……普通においしく作ればよかったのでは?」
だって、温泉旅館〈玉ノ湯〉で食べた料理は、すごく美味しかったのに。
働かせられていたときの従業員用のまかないも美味しかったし、お祝いとしてやった宴会のときのお膳《ぜん》なんか、いままで食べたことがないほどに素晴らしかった。
だから、美味しく作ることはできるはずなのだ。
なのに……なぜ?
「ダメです! 美味しくちゃダメなんです!」
きっぱりと店員はいいきった。
「海の家の食事というのは、中途半端な味じゃなきゃダメなんです。それこそが海の家なんです。存在価値があってはならないんです。なんというか、だれにも邪魔されず、自由で、救われてなきゃダメなんだ。ひとりで静かで孤独で……」
「こらこら、途中からおかしくなってるわよ」
玉藻《たまも》が、ウィンクしながらあらわれた。
あいかわらず、飛びだしそうな胸のふくらみをかろうじて包むティーシャツ姿だった。
「げ。きた」
ちずるが、素直な感情を口にのぼらせる。
「こらこら。親になんて口のききかたするの」
「ふんだ」
つん、とちずるはそっぽを向く。
すねた顔もかわいいなあ、きれいだなあ……なんてことを思いながら、耕太はカレーを食べた。ああ、本当にこのカレーはビミョーだなあ。
「雪花《ゆきはな》ー?」
ぱん、と玉藻《たまも》が手拍子を鳴らす。
「は」
返事とともに、雪花《ゆきはな》が店の奥からやってきた。
やはりぴちぴちティーシャツに、太ももむちむちな短パン姿だったが、その手には湯気をあげるどんぶりの載った、おぼんがあった。
「どうぞ」
雪花は、耕太の前に、そのどんぶりを置く。
どんぶりのなかは、ラーメンだった。それもただのラーメンではない。薄く黄色がかった透明なスープのなかに、ちぢれ麺《めん》がある。すごいのはその具で、むき身のエビ、ホタテの貝柱、カニの身に、ほうれん草なんかが載っていた。
なにやら、すごく豪華なラーメンである。
「あああ、それは!」
さきほど海の家の料理のビミョーさを熱く語っていた店員が、叫ぶ。
「わたしの自信作、〈玉ノ屋〉特製、海の幸ラーメン! そのビミョーさは、まさに至高と究極が地獄の黙示録! ビミョーさのカーニバル! ハンニバル! ザンジバル!」
……それって、自信作といえるのだろうか?
「はい、耕太さん、どうぞ」
玉藻が、割りばしをわざわざ割って、耕太に手渡してきた。
「え? ぼ、ぼくですか?」
食べろと?
地獄の黙示録ラーメンを?
にっこりと玉藻は微笑《ほほえ》んだ。
雪花は黙って会釈した。
店員は眼《め》をきらきらと輝かせた。
「……わ、わかりました」
せっかくのいただきものだ。ありがたく受けとるのが礼儀というものだろう。将来、お義母《かあ》さんと呼ぶひとだし……耕太はあきらめ、麺をすくった。ふー、ふー、と吹く。
いざ食べようと、口を開けたら。
すぐ横で、なぜか玉藻が、口を開けていた。
「……え?」
「あーん」
あーん?
あーんって……つまり、あーん? 食べさせろってこと?
がたた、ととなりでちずるがテーブルを鳴らした。
「ちょ、ちょっと、母さん……それ、母さんが食べるの? いや、まさか……耕太くんに食べさせてもらうの!? 母さんが!?」
「そうよ? なにか問題でも?」
「あるに決まってるのコンコンチキだーい! 耕太くんはわたしの恋人で、つまり娘の恋人! どこの世界に、娘の恋人にあーんしてもらう母親がいるっつーのよ!」
玉藻《たまも》はぎゅっと眼《め》を細めて微笑《ほほえ》み、自分を指さした。
「ここに」
「バカヤロー!」
「なんなのよ、もう……わたしはね、あなたの手助けをしてあげようといってるのよ」
「わ、わたしの?」
「そう。わたし、考えたのよ。どうしてあなたが、みんなで海にきたのかって。だっておかしいでしょ? いつものあなたなら、耕太さんとふたりっきり、水入らずでお汁たらたらな冥府《めいふ》魔道《まどう》のおっぱい旅行としゃれこむはずじゃない」
「お、おっぱい旅行……」
耕太は手を伸ばし、テーブルの向こうの蓮《れん》の耳をふさいだ。
なんとなく、聞かせちゃいけない気がしたからだ。望《のぞむ》も察してくれたのか、フランクフルトを口にくわえたまま、藍《あい》の耳をふさいでくれた。眼をぱちくりさせる蓮と藍。
「ぱ、パパー?」
「あ、アイジンセンパーイ?」
「あら、十八禁でごめんなさいね、耕太さん」
「あのー……ぼくも、まだ十八歳未満なんですけど……」
おほほほ、と玉藻は笑う。笑ってごまかす。
「さて、そんな淫欲《いんよく》バリバリ伝説頭文字Hなちずる、あなたが、耕太さんとのふたりきりの旅行ではなく、みんなを誘った……それはなぜ?」
「わ、わたしも成長したのよ」
「へえ、成長」
「そうよ。耕太くんを独占だなんて、そんな心の狭いことは、もうしないのよ」
「ふうーん」
「わかった? わかったのなら、とっととこのラーメン、さげて-…」
「この、腹黒娘」
「は、腹黒ォ!?」
顔の険を強くしたちずるに、会話が聞こえない蓮と藍はまた眼をぱちくりとさせた。
「ど、どーしてわたしが腹黒なのよ!」
「だってそうでしょう。腹に一物抱えて恋に当たろうなんて、そんなのは腹黒でしょう。臆病《おくびょう》なのはべつに悪いことじゃないけど、それも度が過ぎて策を練ろうなんてところまでいったら、もうかわいくないわよ」
「さ、策なんか練ってない! 一物だってない! だって女だから!」
「……見せつけたいんでしょう、耕太さんは、自分のものだって」
その玉藻《たまも》の声は、ささやきだった。
まわりには届かない小声だったが、ちずるのとなりにいた耕太には聞こえていた。
え? ぼくが、ちずるさんのもの?
すぐさま、そんなの当たり前だよ、と耕太は思った。ぼくがちずるさんのもの、そんなのはいわれるまでもないことです。
しかしちずるは顔色を変えていた。
さっきまで怒りのために真っ赤だった顔が、さーっと白く、青ざめていた。
「ど……どうして、そのこと」
「わたしはあなたの母なのよ。そして女の、ずっとずっとセンパイ。だからわかるの。ね、あなたの計画、手伝ってあげるから」
「か、母さん……」
「と、いうわけで、あーん」
玉藻は耕太に向かって、あらためて口を開けてきた。
「だから、どーしてそーなるのよ!」
青ざめていたちずるの顔は、また怒りに紅潮した。
「もう、バカねえ……」
ふたたび、親子でささやきを交わしあった。あいだにいる耕太には丸聞こえだったが。
「あのね、耕太さんがほかの女といちゃついていても、あなたが余裕顔で見ていれば、それこそ耕太さんがあなたのものだという証明になるじゃない」
「そ、そっか」
「だから黙って文句をいわず、微笑《ほほえ》みながら見てなさい。わかった?」
「う、うん、わかった」
にこー、と玉藻は微笑み、耕太に向かって口を開けた。
「あーん」
こんどはちずるはなにもいわなかった。
かっちりと微笑み、黙って見つめている。その頬《ほお》は、かすかにぴくぴくしていたが……。
「い……いいんですか?」
「なにが?」
ちずるは笑顔のまま首を傾《かし》げた。
なにがなんだかよくはわからなかったが、いいらしい。
耕太はずっと押さえていた蓮《れん》の耳から手を外し、〈玉ノ屋〉特製海の幸ラーメンへと向かう。ラーメンはすっかりのびきっていた。麺《めん》がふくれあがり、スープが見えない。麺を箸《はし》ですくうと、ぶつんと切れた。しかたなく、レンゲですくった。
「……あ、あーん」
「あーん」
玉藻のつやつやな赤い唇に、レンゲを寄せる。
ちゅるん、と麺《めん》は吸いこまれた。
口元を指先で隠し、玉藻《たまも》はむぐむぐと食べる。
「うーん、さすがは我が〈玉ノ湯〉調理人……完璧《かんぺき》にビミョーな味わいね!」
その声に、そばに控えていた店員が、ありがとうございますと頭をさげた。
「とくに、麺がのびきったときのどうしようもなさには、気をつかいました」
「いやー、本当に完璧だわ。ほら、あなたも食べさせてもらいなさい」
と、玉藻がその店員をうながした。
「な、なに?」
声をあげたのはちずるだ。
崩れかけたその笑顔は、しかし玉藻の視線を受け、なんとか持ち直した。
「そ、そうね。こ、耕太くん、食べさせてあげて!」
……なんなんだろう、これ。
耕太は、「では失礼します」と腰を屈《かが》めた店員に、あーんと食べさせてあげた。
「うん、うん、さすがわたし……美しきまでのこのビミョーさ!」
「よかったわねえ……ほらほら、おまえたちも、耕太さんにお願いなさい」
ぱんぱん、と玉藻が手を叩《たた》く。
「「はーい」」
店の奥から、〈玉ノ屋〉ティーシャツと短パンでおへそ丸だしな雪女たちが、ぞろぞろとでてきた。耕太のいる座敷の前にならび、列を作る。
「「お願いしまーす」」
ハモられた。
「ちょ、ちょっと――」
腰を浮かせかけたちずるは、玉藻の「ちずる」という声に、ぎこちなく、それでもきちんと元通り座った。その笑顔ときたら、血の気が引きまくって、もはや悲壮なほどだ。
「ち、ちずるさん……」
「や、やってあげて、耕太くん」
ちずるの声は、震えていた。
それからは、なんというか、地獄だった。
「わたしはそのエビを」「わたしはホタテを」「スープ多めで」「ほうれん草はナシの方向で……」といった雪女たちからのリクエストを、耕太は順番で応《こた》えてゆく。
ひとによって、唇のかたちや食べかた――レンゲへの吸いつきかたは、違った。
ぱくりと半分ほどレンゲを口のなかに入れたり、ちゅるんと麺をすすったり、はふはふと数度に分けて食べたりと、じつにさまざまだ。
そして、食べさせるたびに、ちずるの眼《め》は血走っていった。
怖いよう……。
かすかに震えてきた耕太は、つぎの相手に眼を丸くする。
「え?」
「パパ、お願いします」
蓮《れん》と藍《あい》まで列にならんでいた。その後ろには望《のぞむ》だ。
そしてそして、最後尾には……。
あかねが、いた。
ちずるが、無言でテーブルにびたーんと手を打ちつける。
「ちょーっと待てーい!」
と、たゆらも立ちあがり、ずかずかとビーチサンダルの足音も高く駆けよってくる。
が、ちずるは玉藻《たまも》に鋭い眼《め》で睨《にら》まれて固まり、たゆらはまわりの雪女たちに「まあまあまあ」と押さえつけられていた。
「あの……べつにわたしは」
列から離れようとしたあかねを、雪花《ゆきはな》が肩をつかんで、元に戻す。
「ご遠慮なさらずに。めったにあることではございませんから」
「で、ですけど」
押し問答する、あかねと雪花。
あーんを待つ、蓮、藍、望。
おっほっほと微笑《ほほえ》む、玉藻。
地べたに「まあまあ」と押さえつけられ、「早まるな、朝比奈《あさひな》ー!」と叫ぶたゆら。
そして、涙目でまばたきもせず、耕太を見つめ続けてくるちずる。
楽しかった海水浴が……なぜ、こんなことに?
耕太は、暑いはずなのになぜか冷たい汗をかいてきた。脇《わき》の下《した》から脇腹《わきばら》へと、つつつーっと垂れてゆく。
「あーん……」
蓮、藍、望と、立て続けに食べさせた。食べさせてしまった。
残るは、いよいよ、あかねだけだ。
雪花に背を押されて、あかねは耕太の前にでてくる。その頬は赤い。眼鏡ごしの視線も逸らし、もじもじとしていた。
だが、やがて、雪花にうながされ、ついに。
「あ、あーん」
眼を閉じ、小さく口を開けた。
耕太は、震えががたがたと止まらない手で、伸びきって、冷めきったラーメンをレンゲにすくい……あかねの、口紅ひとつ塗っていない、唇へ……。
「きてはー!」
奇声があがった。
あげたのは真横のちずるだった。
ちずるは立ちあがり、ぴーんと背を伸ばして、足はつま先だち、顔は天井を向いていた。
驚きにレンゲをどんぶりのなかに落としてしまった耕太が、見たものは――。
涙。
耕太を見おろしたとき、ちずるは、すっかり涙を流していた。
「や、やっぱり……ダメー! 耕太くんは、わたしのー!」
泣きながら、ちずるは耕太に手を伸ばしてくる。
正座していた耕太をころんと後ろに転がし、背中を通って脇《わき》の下《した》と、膝《ひざ》の裏を持って、お姫さま抱っこした。
抱っこしたまま、耕太を店の外へと連れだす。
えぐえぐと泣いたまま、海の家の軒先に立てかけてあったゴムボートを蹴飛《けと》ばして砂浜に落とし、オールも蹴りこむ。紐《ひも》を足で引きずって、海へと運んだ。
波の上に浮かせたボートに耕太を投げこみ、途中まで手で押す。
腰のあたりまで沈んだところで、自分も飛び乗り、あとはオールをこぐ、こぐ、こぐ。あっというまに、沖まででた。
「ああ、パパが!」
「ママにさらわれた!」
店の外にでた蓮《れん》と藍《あい》が、猛スピードで遠ざかってゆくゴムボートを見て、驚きの声をあげていた。
玉藻《たまも》はそんな蓮と藍の頭をよしよしと撫《な》でながら、ふふふ……と笑う。
「そうそう、素直になりなさい。余計なことを企《たくら》むより、全身全霊でぶつかるの。きっと耕太さんなら、受けとめてくれるわ……」
「……本当に腹黒なのは、玉藻だね」
後ろに立つ望《のぞむ》が、ぼそりといった。
その手には、さきほどの海の幸ラーメンのどんぶりがあった。残ったスープを、望は麺《めん》や具ごと、ぐびぐびと飲みだす。
「あら、わかっちゃった?」
おほほほー、と玉藻は笑った。
そのころたゆらは、店内にてあかねにラーメンをあーんさせようとして、冷たく拒否、「そんなところがイイ……」と暗い笑みを浮かべていた。
どこまでも海は広く、浜辺は遠い。
洋上のゴムボートの上、耕太はちずるとふたりぼっちだった。波で海面が揺れるたび、ボートもゆらり、ゆらりと揺らめく。
泳げない耕太は、だけどちっとも怖くはなかった。
だって目の前で、ちずるが泣いているから。
「ごめんね、耕太くん……」
大切なひとが悲しんでいるのに、怖いもへったくれもない。それにちずるとふたりなら、なにも怖くはない。怖いものなんか、耕太にはなかった。
耕太は手を伸ばす。
そっと、指先で涙をぬぐってやった。
「ぼくこそ……ぼくが、きちんと断っていればよかったんです。ほかの女のひとたちに、あんな、あーんなんてしたら、ちずるさんがどう感じるかなんて、ぼく、わかっていたのに。なのに、流されてしまって」
ううん、とちずるは首を横に振る。
「わたしが悪いの。みんな、わたしが悪いの……」
「そんなこと……」
「聞いて、耕太くん」
耕太は黙って、ちずるの言葉を待った。
「……わたしね、今回の旅行、母さんのいうとおり……企んでたの」
「企み……? どんな……ですか」
「あのね、わたし、耕太くんは自分のもので、もうなにをしたって奪えないんだって……そう思い知らせるために、あの子のこと、この旅行にわざと連れてきたの」
「あの子って……だれですか? 望《のぞむ》さん? まさか、蓮《れん》と藍《あい》? まさかまさか……た、たゆらくん!? ぼ、ぼく、そっちの気は……」
ぐす、とちずるは鼻をすすりながら、いった。
「……あかね」
「え?」
「だって、あかねはニンゲンだもん。わたしや望、母さんとは違う、耕太くんとおなじ、ニンゲンだもん……。ほかの女の子だって、望のように妖《あやかし》なら、わたし勝つ自信はある。たとえニンゲンであっても、まだまだ子供の蓮と藍なら平気。だけど……あかねは……おない年の女の子で、しかも耕太くんとおなじ、ニンゲンだもん……」
「ちずるさん……」
「わたし、やっぱり妖怪《ようかい》だから。狐《きつね》のバケモノだから。耕太くんとは、どうしても、違う生き物だから……だから……ニンゲンの女の子には、勝てない」
ちずるの顔が、ゆがむ。
ぎゅっと閉じたまぶたから、ぽろぽろと涙をこぼした。
耕太は思った。
どうして、こんなにちずるは自信がないんだろう?
この前――春に起きたおっぱい消失事件のときもそうだった。たかだかおっぱいがなくなったというだけのことで、ちずるは耕太に嫌われるのではないかと、荒れた。そんなこと、あるはずがないのに。たしかに耕太はちずるの顔の凛《りん》とした美しさやとろけるようなぱいぱいぷーも好きだが、そんなことより、心が好きなのだ。やさしく、強く、かわいらしい、その心こそが、耕太が惹《ひ》かれ、愛《いと》おしく思うところなのだ。
なのに――通じない。
「やっぱり……」
ちずるが呟《つぶや》きを洩《も》らした。
「やっぱり、ニンゲンの男には、ニンゲンの女のほうが……」
耕太の頭は、かっと白く爆《は》ぜた。
「――どうしてそんなことをいうんですか!」
頭のなかが熱くなり、目の前が白く染まり――気がついたら、ちずるの肩をつかんで、耕太は激しく揺すぶっていた。
「ぼくが好きなのは、愛しているのは、人間の女の子なんかじゃない、あかねさんじゃない、ほかのだれでもない、妖怪で、狐のバケモノで、違う生き物の……ちずるさん、ただひとりだけなんですから! ぼくが、小山田耕太が惚《ほ》れたのは、ここにいる、源《みなもと》ちずるだけなんですから!」
なぜだろう。怒鳴るうちに耕太は泣けてきた。
ぐずずっ、と鼻をすする。
「だから、もっと……うう、自信、持ってくださいよぅ」
「こ、こ、耕太くぅん……」
ふえーん、とちずるは泣いた。
うえーん、と耕太も泣いた。
泣きながら、ふたり、抱きあった。
「いいの? 本当にわたしでいいの? 四百歳も年上の大々々年増だし、すごく嫉妬《しっと》深いし、腹黒だし、すっごくすっごくえっちだし、なにより化《ば》け狐《ぎつね》だし、それどころかわけのわかんない〈龍《りゅう》〉なんて潜んでいるし、〈葛《くず》の葉《は》〉のやつらにはなんだか狙《ねら》われてるっぽいし、本当にいいの?」
耕太は、答えの代わりに、抱いていた身体を離した。
きっと、言葉なんて、無力だ。
だから唇を重ねた。
ちずるは、眼《め》を閉じ、受け入れた。
そうして、どれほどの時が経《た》ったのか――。
耕太は、そっと唇を離す。
ふたりの唇のあいだに、つ……と唾液《だえき》のアーチができ、すぐに潮風に吹かれてぷつんと切れた。そっと唇をぬぐって、ちずるはうつむく。
「……もしかして、照れてます?」
「……ばか」
「ちずるさん、あの、すっごくかわいいです」
「もう、耕太くんったら! 調子に乗って……わたしのほうが、お姉さんなんだから!」
ちずるはぽかぽかと叩《たた》いてきた。
そのせいで、バランスが崩れ、ゴムボートが大きく傾く。耕太とちずるはふたり、ゴムボートを手で抑え、傾きを元に戻した。
しばらくそのまま、固まる。
ふたり見あって――ぷっ、とどちらともなく噴きだした。あは、あはは……と笑いあう。
ふう、と笑い終えて。
「ちずるさん。ぼく、ひとつ、ちずるさんに訊《き》きたいことがあるんです」
「訊きたいのは、〈龍〉のことでしょう?」
「ど、どうしてわかったんですか?」
「わかるよ……だってわたし、耕太くんのこと、いつも考えているもの。普通にすごしていても、気がつくと、耕太くんのこと想《おも》ってるもの。夜なんか、耕太くんのこと想って、どきどきしちゃって、眠れなくなったりすることもあるし……」
真顔でそういうちずるに、耕太は照れた。
恥ずかしくて、うつむく。
「だからね、わかるんだ。耕太くんがあれからずっと、〈龍《りゅう》〉のこと、気にしてたって」
あれから、の言葉で耕太は思いだす。
春先のふくらみ消失事件のことだ。蓮《れん》と藍《あい》もかかわっていたこの事件は、最終的に薫風《くんぷう》高校が巨大な昆虫たちの襲撃を受ける事態にまで陥った。
耕太は、虫と闘うためにちずると合体し――。
そして暴走した。
ちずるの身体に眠る〈龍〉という名のしっぽたちにそそのかされ、それにまんまと乗って、暴れた。襲ってきた昆虫をすべて焼き尽くし、それでも足りず、なんと世界を滅ぼそうなんてことまでやりかけた。ちずるの助けもあって、なんとかそのときは〈龍〉を抑えこむことができたのだが……。
その後、耕太はなんどかちずるに尋ねた。
〈龍〉とはなにか。その正体は。なぜ世界を滅ぼそうなんてするのか。どれも、ちずるにもわからない様子だった。
ただひとつ、はっきりと答えてくれた質問は、これだけだった。
あんなとんでもない力を持ってしまって、身体はだいじょうぶなんですか?
ちずるは答えた。
『だいじょうぶだよ』
にこりと微笑《ほほえ》みながら……。
耕太は唇を噛《か》む。
「ちずるさんのこと、信頼していないわけじゃないんです。ただ、ちずるさん、ぼくに心配かけまいとして、わざと元気なふりをしてるんじゃないかって……。いま思えば、ちずるさんはずっと、ぼくと合体しようとしなかった。胸がぺたんこになっちゃったときも、合体すれば戻るっていわれたのに、試そうともしなかった。それは、ぼくと合体することで、あらたな力に……〈龍〉に目覚めてしまうのを、避けるためだったんじゃあ?」
うっすらとちずるは微笑んだ。なにやらはかなげに感じたのは、気のせいか。
「心配性だね、耕太くんは……」
「だって、ぼくと合体するたびにしっぽの数が増えているのは、本当じゃないですか! そ、それに、あの〈龍〉……前にも、ちずるさんに化けてぼくのこと騙《だま》そうとしたり、虫と闘ったときだって、ちずるさんが傷つけられて、かっとなってしまったぼくにつけこんできたり……なんていうか、すっごく狡猾《こうかつ》だし! そんなのと、もしかしたらちずるさんは普段、目に見えないところでやりあってたんじゃないかって……なにより、蓮と藍がいってました! 〈葛《くず》の葉《は》〉の――美乃里《みのり》のめあては、ちずるさんだったって!」
ちずるの笑みは、すぱっと消えた。
なぜか、ふくれっつらになった。
ぷー。頬《ほお》がぷー。
「え? あ、あれ、ぼく、いまなにかまずいこといいました?」
「美乃里《みのり》っていった」
「あ、はい。美乃里……ちずるさんを狙《ねら》うなんて……」
「呼びすてした」
「……え?」
「美乃里のこと、呼びすてにした! ずるい!」
「ず、ずるいって、あの」
「ずるいずるいずるーい! わたしも呼びすてにしてよ、耕太くん! あ、あのね、じつをいうと、耕太くんが蓮《れん》と藍《あい》のこと、呼びすてにしてるのも、わたし、ちょっぴりうらやましかったりして……だから、ちずるっていって。ね、ちずるって呼びすてにして?」
指先をもじもじと絡めながら、ちずるはいった。
んじっ、とちずるに上目づかいで見つめられること、しばし。
耕太は覚悟を決めた。
「ち……ちずる」
「きゃーん、耕太くーん!」
抱きつかれた。
そして押し倒された。ゴムボートがどむんと揺れた。
「ち、ちずるさん、まだ話は途中で……わー!」
「やだ、ちずるって呼んで!」
「ち、ちずる!」
青空を背中にして、ちずるはにここーと眼《め》を細めた。
「だいじょうぶだよ、耕太くん……あいつら[#「あいつら」に傍点]が耕太くんに悪さをすることは、もうないから。このわたしがさせないから」
「え? それって、どういう……」
「耕太くーん!」
「ぬはー!」
水着に包まれた胸のふくらみが、耕太の顔に載った。
むにゅむにゅっと押しつけられているうちに、なんだかすべての出来事がどうでもよくなってきた。ちずるともまた一段、深く通じあえた気がするし……。
ぽふ、と耕太は手を載せる。
ちずるの、腰に。腰というか、大きな、お尻《しり》に。
びくくん、とちずるが震えた。
「……いつもの?」
ちずるの耳元でのささやきに、耕太は黙ってうなずきを返した。
動く。
ちずるが、耕太をまたぎ、その中心を、耕太の中心にあわせ、じんわりと動く。
水着ごしに重なる、ふたりの熱。
「ん……」
ちずるが、詰めたような息を洩《も》らした。
耕太はちずるのお尻《しり》を抱えたまま、自分でもじんわりと動き返す。
「ああ……耕太くん……耕太くん……んんっ!」
じれったそうに、ちずるは上の水着をずりあげた。ふるるるん、と下向きになったふくらみを、耕太の顔面にこすりつける。耕太は、はむん、と片側の先端を、くわえた。
軽く、噛《か》む。
「んっ!」
ちずるが身体をひくつかせた。
ああ、あれからぼくたち、なんどこんな秘め事をくり返しただろう?
ただあのときと違うのは、じかに触れあっていないということだ。なんど互いを汚しあっても、かならず互いの布地でへだてあう。それが、いつしか決まったルールだった。
「こ……耕太……くぅん……」
「ひふ……ふ!」
互いのタイミングを、微調整する。ぐりん、と押しぬく。
あと、もう、ちょっと。
――のとき、ボートが揺れた。
小さな揺れだった。しかし、波による揺れではなく、まるでなにかにぶつかったかのような揺れだった。ぽよんと、跳ね返された感覚があった。
「……え?」
海の上で、なににぶつかるっていうの?
耕太とちずるは至福の時を一時中断して、ふたり一緒に身体を起こした。なんだろ、とゴムボートの横を見やる。
そこには、ぷかりと白いものが浮かんでいた。
海面で揺らぐそれは……布?
すぐそばには、オレンジ色の髪をした頭があった。
「――あ、頭?」
耕太はびくつく。
頭……海に頭……人の頭……ぼく、ドザえもんです。
「わー!」
耕太はちずるに抱きついた。
そのいきおいで、ボートのバランスが崩れた。
傾く。
ボートの角度が、三十度、六十度、九十度ときて、百二十度。
「あ」
ぼっちゃーん。
それは、とてもきれいな顔つきの青年だった。
鮮やかなオレンジ色の髪で、その髪を頬《ほお》に張りつかせた横顔は、肌が白く、まつ毛が長く、鼻は小高く、唇はかたちよく、ちょっと女性のようにも見える。
そんなきれいな青年は、しかし格好がすごかった。
白いマントを羽織り、中身には金糸の刺繍《ししゅう》が入った濃紺のシャツにズボンを着て、さらにブーツを履いている。腰のベルトの後ろには小刀までくくりつけてあって、まるで、演劇の世界から飛びだしてきた王子さまのように、耕太には思えた。
王子さまはいま、砂浜の上に、あおむけになって、死んだように眼《め》を閉じている。
そして耕太たちは、その死んだような王子さまを囲んで見つめているのだった。
「おまえら、なにを拾ってきてんだ?」
呆《あき》れはてたようなたゆらの口調だった。
「べつに拾いたくて拾ったんじゃないってば」
答えたのは、全身びしょ濡《ぬ》れのちずるだ。
もちろん、となりの耕太もずぶ濡れだった。
あれから――この王子さまに驚き、耕太がゴムボートを転覆させてしまってから。耕太とちずるはなんとかボートを元に戻し、その上で、そばに浮かんでいたこの青年を拾った。そうして、一緒に浜辺へと戻ってきたのだった。
「ねえ……やっぱり通報したほうが、よくない?」
「必要ねえって。……こいつ、ニンゲンじゃねーし」
心配そうなあかねに、たゆらはだるそうな口調で返した。最後の、『こいつ、ニンゲンじゃねーし』のくだりは小声で。
あかねが、「え?」と聞き返す。
「なんでもねーですよ?」
この眠り姫ならぬ眠り王子は、どうやら人ではないらしい。
そのことを耕太は、海にいたとき、ちずるから聞いた。てっきり水死体を発見してしまったのかとパニックになりかけていた耕太を、ちずるは剥《む》きだしの胸元に抱きよせ落ちつかせてから、そっとささやいたのだった。
『わたしと似た気配がする』――と。
人ならぬものである青年は、寝そべったまま、身動きひとつしなかった。
望《のぞむ》がそばに屈《かが》んで匂《にお》いをかいでも、蓮《れん》と藍《あい》が木の枝でつついても、顔の上をカニが歩いていっても、動かなかった。
「ねえ、源《みなもと》……せめて、人工呼吸ぐらい、しなくちゃ」
見かねた様子で眼を細めながら、あかねがいった。
「それはなに? おれにやれっていってるわけ? やだよ、男相手になんか!」
「じゃあ、わたしが……」
「ちょっと待てーい!」
青年に向かって屈《かが》みこみかけたあかねを、たゆらが止めた。
「そんなんだったらね、おれだっておぼれるぞ! いますぐおぼれちゃうぞ!」
「な、なにをわけのわからないことをいってるのよ、源《みなもと》。これは医療行為であって……って、ちょっと、やだ、泣かないでよ! なんで泣くの!」
たゆらとあかねがいいあっているあいだに、こっそりと近づく人影があった。
むちむちなティーシャツ姿の女性……玉藻《たまも》だった。
「いただきまーす……」
と、青年に向かって屈みこむ。眼《め》をつぶり、そっと唇を突きだした。
「なにやってんの、母さん」
そこに冷たい声を浴びせたのはちずるだ。
「あら? なあに、ちずるさん。これはね、医療行為であってね」
「いま、いただきますっていったでしょうが……本当、いくつになっても枯れないんだから!」
うふふ、と玉藻は笑った。
「ずいぶんと……元気になったようじゃない」
「おかげさまでね」
ぷいとちずるは顔を逸らした。
にっこり笑う玉藻と、すねた顔つきのちずる。
だけど、ふたりはちゃんと通じあっている。仲が悪いように見えて、通じあっている。
親子か……と耕太はなんだか暖かな気持ちになった。
と。
「……う」
寝ていた青年が、声を洩《も》らした。
うう……とうなり、身体を左右に動かして、うっすらとまぶたを開く。
「シズカ……?」
ぱちくりとまばたきする。
眼を見開き、がばりと上半身を起こした。
「こ、ここは……あなたがたは……わたしはいったい?」
「おぼれてたんだよ、テメーは」
睨《ね》めつけ、吐きすてるようにたゆらはいった。
「たゆらくん……どうしてそんなに厳しく?」
「おれよりカッコイイやつは許せねえからだ!」
ふんぞりかえって、たゆらは耕太にきっぱりといった。
「……たゆらくん」
「わ……わたしが、おぼれていた? まさか」
「そのまさかよ。なぜおぼれていたのか、状況はわからないけど、あなた、ぷかーって海に浮かんでいた。そこをわたしと耕太くんで助けたのよ」
茫然自失《ぼうぜんじしつ》といった面もちで浜辺に座る青年に、ちずるはいった。
「あ、ああ……思いだしてきた……そうだ、たしかにわたしは、海流に巻きこまれて……ぶ、ぶざまだ! いくら、ずっとシズカと一緒で、ひとりで移動するのは初めてとはいえ、海神《わだつみ》が、たかだか海流ごときで……」
「……海神?」
うなだれた青年の言葉に、あかねは眼《め》をきゅっと細め、眼鏡の位置を直した。
「錯乱してんだろ……ほれ、このバカみてーな頭の色と、格好を見ろよ。ただでさえ錯乱した姿してんだ。おぼれたせいで、それがさらにひどくなったんじゃねえ?」
「……たゆらくん」
くっ、と青年は泣きそうに顔をゆがめながら、泣かずにこらえ、すっくと立ちあがった。
歩きだすも、すぐさまよろめく。
「ああ、まだダメですよ。えっと……」
「カイ。わたしの名は、海鳴りのカイです」
耕太が伸ばした手を静かに払って、青年は答えた。
「止めないでください。わたしはいかなくては……わたしのせいで囚《とら》われの身となった、あのかたたちのためにも!」
「囚われの身?」
「早くせねば、いつ我が父の気が変わり、あのかたがたが処刑されてしまうか……」
「なに、それ。走れメロス?」
ちずるの問いに、カイと名乗った青年は声を大きくした。
「そ、そんな、父上を邪知《じゃち》暴虐《ぼうぎゃく》の王だなどと! たしかに父は、頑固で強引で融通がききませんが、そこまでいわれるほどは!」
そのあまりにズレた答えに、耕太たちはみな、おなじ目つきとなった。
すなわち、かわいそうなものを見る目に――。
「あの、やっぱり、すこし落ちついたほうが……」
「いえ! いえ! わたしはいかねばならない。九つの尾を持つ傾国《けいこく》の妖狐《ようこ》なご婦人と、八千代を生きた砂の精霊なご婦人の、ふたりのとびっきりな熟女、そのどちらかのもとへと!」
九つの尾を持つ、傾国の妖狐?
耕太たちは、あかねをのぞいた全員、とびっきりの熟女、玉藻《たまも》を見た。
ただひとり、仲間外れになったあかねだけは「なに? なんなの?」といっせいに玉藻を見つめた耕太たちの側を眺めている。
みなの視線を集めた玉藻《たまも》は、頬《ほお》に手を当て、はあ、と吐息をついた。
「やだわ、みなさん、そんなに見つめて……ああ、美しいって罪ね」
「違ーう!」
あかねをのぞく耕太たち全員でツッコミを入れ、くわしい事情を尋ねようとカイのほうを向いたときには――すでに彼は姿を消していた。
あとに残るは、ただ、砂を巻く一陣のつむじ風だけ。
いきなりカイが姿をくらませたことで騒ぐ耕太たちを前に、雪花《ゆきはな》はそっと玉藻に尋ねた。
「玉藻さま……あのかたは、もしや?」
話しあう耕太たちをにこやかに見つめながら、玉藻はそっと答える。
「そうね……あわてものなところなんか、本当、父親にそっくり。どうやらわたしに用があったみたいだけど……ふふ、これは、ひさかたぶりに彦のやつと会うことになるかな?」
うふふふー、と、ひときわ楽しげに笑った。
[#改ページ]
[#小見出し]  六、走るカイ! 遊ぶ耕太![#「六、走るカイ! 遊ぶ耕太!」は太字]
雪の吹きすさぶ、山中奥深く。
ここは玉藻の旅館、〈玉ノ屋〉のすぐ近くの雪原だった。
玉藻によって保護された雪女の一族によって、この地には真夏でも吹雪《ふぶ》き、雪が降りつもっていた。そのため、空には星も、月も見ることができない。
そこに――。
「なにものだ、こやつ?」
「はて?」
吹雪のなか、忍び装束を身につけた女性ふたりが、いた。
忍び装束といっても、一般に考えられる、全員を黒い着物で覆った姿ではない。
袖《そで》がなく、裾《すそ》も太ももがあらわになるような短い着物の下に、目の細かい、まるで全身網タイツに見えるような鎖帷子《くさりかたびら》を着こみ、手《て》っ甲《こう》、すね当てをつけた、いわばセクシー女忍者といった姿だった。
このスタイルは、玉藻が時代劇を観《み》ていたときに思いついたものである。つまり彼女たちは、玉藻《たまも》配下の雪女の忍びなのだった。
玉藻不在の〈玉ノ屋〉を守る、彼女たち。
そんな彼女たちが見おろし、思案していたものは――。
オレンジ髪に白マントの青年、カイだった。
雪のなか、カイはうつぶせになって倒れていた。彼の上に、容赦なく雪は降りつもり、白く覆い隠してゆく。
「人ではない」
「敵……にも見えんが」
「しかし、我らが結界内に、無断でここまで入りこんでいる」
「遭難……?」
雪女の忍びふたりが思案するなか、カイは身動きひとつしなかった。
寝苦しさに、耕太《こうた》は目を覚ました。
顔面をなにかが包みこんでいる。ひどくやわらかで、あたたかく、そしてしっとりと湿ったものだ。
鼻に届く匂《にお》いは、甘く、かぐわしい。
そこにほのかなミルクの香りをかぎとって、耕太はだいたい理解した。
ぐりぐりと顔を動かす。
やはり、ふくらみの真上に、ちずるの寝顔があった。
ちずるは横から耕太を抱いていた。胸元に抱きしめながら、眠っていた。耕太は後頭部を抱きこむちずるの腕をそっと外し――起こしてしまったら、なんか大変なことになるような気がしたので――自分の頭を抜きとった。
そうして、身体を起こそうとしたら、こんどは下半身に違和感が。
見ると、望《のぞむ》の銀髪があった。
望は、耕太のトランクスに頬《ほお》を埋《うず》めていた。
幸せそうに、むにゃ……と寝息を洩《も》らす。
「……どこをまくらにしてるんですか」
耕太は頭をがしがしとかく。
やはりなるべく起こさぬように、そっと望の頭を外し、ゆっくり床のシートにおろした。
ようやく身体を起こし、ふう、とひと息つく。
「それに……しても……」
どうしてふたりが、ここにいるんだろ……?
まだいまいちぼんやりした頭で、耕太はまわりを見た。
低い、布張りの天井。
男ふたりが横になるのが精一杯の、狭い空間。
半分外にはみだしてる、荷物。
たちこめる蚊取り線香の香り。
ここは、耕太とたゆら用の、男性陣のテントだった。なのにいるのは、しどけない姿の……ぱんちゅ一枚だけで、うっすらと汗ばんだ肌身をすっかりさらしている、ちずると望《のぞむ》。
だいたいにして――と、耕太はあることに気づいた。
「……たゆらくんは?」
ぱぱっと上下左右を見るも「うふふ……耕太くん、ダメだったらぁ……」と寝言を洩らすちずると、「肉……肉……肉……」と寝言を洩らす望しかいない。
さーっと頭が冴《さ》えてきた。
「ま、まさか?」
耕太はテントの外へと飛びだす。
外はまだどっぷりと暗かった。夜空に明るい月が浮かんでいた。
耕太は夜のなかを、すぐそばに設営された、大きな女性陣用のテントへと向かう。
入り口のチャックをさげ、なかに顔を突っこんだ。
「たゆらくん!」
しかし、なかにたゆらの姿はなかった。
月明かりに浮かびあがったのは、妙に甘ったるい女の子の匂いでむんむんするなか、ティーシャツをすっかりまくりあげられていたあかねと、そのあらわとなった胸元に、左右両側から顔を載せ、まくら代わりにしてよだれを垂らす、蓮《れん》と藍《あい》だけだった。
「――ご、ごめんなさいっ」
耕太はテントから顔を抜きとり、背を向ける。
あまりにあかねの姿はきわどかった。肝心な部分こそ、蓮と藍の顔で隠されているとはいえ、おへそは丸見えだし、ショートパンツから覗《のぞ》く太ももも……あうあうあう。
「そ、そうだ。たゆらくんは?」
目に焼きつきかけた映像を、耕太はどうにか振り払い、たゆらを捜す。
もしかしたら、トイレかもしれない。
そう思った。おそらく、たゆらはちずると望に追いだされたのだろう。だがしかし、かといって、いくらなんでも女性陣のテントに忍びこむなんてことは……ねえ?
と決めて、自分のテントに帰りかけた、そのとき。
耕太は、発見してしまった。
星空のなか月がぽかりと浮かぶ海岸、そこにまるで墓標のように、なにか長くて太い、棒のようなものが突き刺さっているのを。
耕太は眼《め》を凝らす。
鎖が巻きついているように見えるのは、気のせいだろうか。
棒に手足があるように見えるのは、気のせいだろうか。
逆さまになった人が、頭から浜辺に突き刺さっているように見えるのは、気の――。
「パパ……?」
「どうしました……?」
戦慄《せんりつ》という名の震えがずびずばと駆けぬけまくっていた耕太の背に、眠そうなふたりの声がかかった。
振りむけば、蓮《れん》と藍《あい》だった。
蓮と藍が、テントの入り口から顔だけを覗《のぞ》かせ、しょぼしょぼと眼《め》をこすっていた。
「あ、あれ……」
耕太は波打ち際の墓標を指さす。指先が、震えてしかたがない。
「ああ……あれですか」
「あれは、忍びこんできたので、退治しました」
すご腕の鎖使いである蓮と藍は、きっぱりといった。
予想どおりの答えに、ひっく、としゃっくりをしてしまった耕太の前で、はわわ、とふたりはあくびをしだす。くひ、と噛《か》みつぶし、涙目になった。
「あの……ママの、パパへのお仕事が終わったら」
「戻ってきてもらっても、いいでしょうか」
「あかねセンパイのおっぱいまくらじゃ」
「ちょっぴり、もの足りないです……」
「あ……うん。伝えとく……」
では、と蓮と藍はテントのなかに引っこむ。
チャックの、じじじ、とあがる音を背に聞きながら、耕太は浜辺の墓標に向き直った。
「たゆらくん……きみってやつは……!」
黄色い月光に照らされ、きらきらと輝きながら長い影を伸ばすたゆらに向かって、手を合わせた。ちなみに輝いているのは、巻きつけられた鎖のようだ。
ああ、月は無慈悲な、夜の女王――。
薫風《くんぷう》高校、校門前。
もうお昼もすぎ、いよいよ夏の太陽が本気でぎらつくなか、女生徒が輪を作り、なにごとか会話をくり広げていた。彼女たちの手には楽器のケースがある。どうやら、夏休みの練習をするために学校を訪れたブラスバンド部が帰るとき、なにかにでくわしたらしい。
「なんだろーね、これ」
「ホームレスじゃない……?」
「えー、でも、王子さまみたいな格好してるよ? けっこうカッコイイし」
「じゃあ、ホームレス王子?」
きゃははは、と笑いあう。
彼女たちが作る、輪。
その中心にいたのは――やはり、カイだった。
うつぶせになって倒れているのは、昨夜、温泉旅館〈玉ノ屋〉のある山中で遭難したときと、まったく変わらない。そのオレンジ髪と白いマントには、雪山を訪れたなごりである、白い雪がこびりついていた。
「あ、先生、こっちです!」
その声に、女生徒たちは輪を崩し、入る隙間《すきま》を開けた。
校舎からあらわれたのは、オールバックに夏でも黒スーツで、手に木刀を持った男、八束《やつか》と、白いブラウスにえんじ色のスカートで、髪は太い三つ編みにした、小柄な丸眼鏡の女性――砂原《さはら》だった。
女生徒たちの輪に、八束と砂原は入る。
「……む?」
うつぶせていたカイに、八束の眉間《みけん》には深い皺《しわ》が刻まれた。砂原は眼《め》を丸くして口元に手を当て、「あららら〜」とのんきな驚きを見せた。
すっかり、日は暮れていた。
耕太は砂浜に腰をおろし、満天の星空を眺める。夕食のバーベキューを食べ終え、すこしばっかりぽっこりしてしまったおなかをさすりながら、今日一日の出来事を、夜空に思い浮かべた。
ああ、遊んだなあ……。
スイカ割り。
ビーチバレー。
そして、ちずるとふたりで、イルカの浮き袋に乗って、ちゃぷちゃぷ……。
あまり泳ぐ練習はしなかった。
というか、できなかった。
すべてはニンゲンであるあかねに見せつけるため――そんな旅行の目的を耕太に知られてしまったちずるは、もう、すっかり素直になっていた。
素直に、耕太といちゃついていた。
結果的に、それはあかねに見せつけることになっているのでは……とも耕太は思ったけれど、まあ、ちずるが楽しそうならそれはそれでよかった。素直になったちずるのいちゃつきに引っぱられるかたちで、耕太たちは遊んだ。遊びまくった。
まずはスイカ割り。
審判役というか、司会進行をつとめたのは、顔の腫《は》れも生々しいたゆらだった。
その素晴らしい生命力に感嘆する耕太の前で、たゆらは「さー、チキチキバンバン、第一回、華麗にスイカを割るコンテスト、略して『かれこん』! 始まり始まりー」と、大きなスイカを二玉持って、夜ばいの件で冷たい顔の女性陣の前で、笑っていた。
まあ、けっきょく、スイカは目隠しをしても匂《にお》いで場所がわかる望《のぞむ》や、もちまえの鋭敏な感覚でわかってしまう蓮《れん》と藍《あい》に、みんな一撃で砕かれてしまったのだけど。
ちずるは「それじゃ意味ないでしょ!」と怒ったが、まあ、おいしかったからいい。
つぎはビーチバレー。
これがまたぽろりだった。
すぽぽーんと脱げまくった。
最初は望の強烈なアタックが、ちずるの胸に当たり、それで外れてしまったのが始まりだった。これ自体は純粋なアクシデントである。それが、ちずるに対抗したのか、望が「いやーん」と自分で水着をずりあげたところから、話がおかしくなりだした。
なぜか、蓮と藍も「いやーん」「いやーん」と水着をずりあげる。
いつのまにか近くにいた玉藻《たまも》も、「いやーん」とティーシャツをずりあげる。
玉藻にうながされ、雪花《ゆきはな》も「……いやーん」とずりあげる。
それを見て怒りだしたあかねの胸も、望によって跳ねあげられ、「いやー!」
ぶろろろーん……ちずる。
するん……望《のぞむ》。
ぺたん……蓮《れん》。
ぺたん……藍《あい》。
どがらぐわがきーん……玉藻《たまも》。
ぶるるん……雪花《ゆきはな》。
ふよん……あかね。
と、それぞれ、さまざまな揺れを見せた。
それぞれ、大きかったり丸かったりなだらかだったりぺたんこだったり重そうだったり張りがすごかったり小ぶりだったり、さまざまなかたちをしていた。
それぞれ、色も……あうおうあう。
鮮やかに思いだしてしまった映像に、耕太はうつむく。
だ、だけど、いちばん好きなのは、ちずるさんのだよ。嘘《うそ》じゃないよ!
「なにが? 耕太くん?」
「わわわわ!」
いつのまにか、ちずるがとなりに座っていた。
ちずるは水着姿だった。あの、かわいい花柄のビキニだった。
「あ、えと、そ、そう、今日のこと、思いだしてました! いろいろ遊んだなあって!」
「ああ……なるほど。みんなのおっぱい、思いだしてたんだ?」
ちずるはにこやかな笑みを浮かべたまま、そう尋ねてきた。
「あ、う……」
うふふー、と笑いながら、ちずるは抱きついてくる。耕太の顔を、その胸元に埋《うず》めた。
夕食前に〈玉ノ屋〉でシャワーを浴びていて、それでほとんど無臭だったのが、耕太はすこしもの足りなかった。朝、テントのときは、濃くって、すごく甘くて……。
「あー、こらー! またべたべたしてるー!」
あかねがやってきた。
彼女はすでにティーシャツ、ショートパンツといった姿に着替えていた。
なお、たゆらや望、蓮や藍といった面々は、まだバーベキューを食べ続けている。なんだかんだいって面倒見のいいたゆらは、食べまくる三人相手に、汗まみれになりながら肉や魚、野菜を焼きまくっていた。「ウラ、野菜も食え!」とのたゆらの声が届く。
やってきたあかねに、ちずるは耕太を抱いたまま、唇を尖《とが》らした。
「なによ、べつにいいじゃない。わたしたち、恋人同士なんだから」
「子供たちの前でしょう! 蓮ちゃん、藍ちゃんの前で、そんな……だから悪影響を受けて、ビーチバレーのときだって、あんな……」
はっ、とあかねは口ごもった。
眼《め》を見開き、と思ったらうつむき、眼鏡の位置をくいくいと直しだす。頬《ほお》が、夜闇《よるやみ》のなかでもわかるくらい、さーっと赤く染まった。
どうやら、いやーん、でぽろりを思いだしたらしい。
ふふん、とちずるは笑う。
「そんなに気にしなくたって……耕太くんはあかねみたいななだらか〜な乳、べつに興味ないんだから」
「ど、どーゆー意味ですか!」
ちずるがからかい、あかねが怒る。いつものふたりの姿だった。
もう、ちずるは、あかねに嫉妬《しっと》はしていない。耕太はふー、っと安堵《あんど》の息をついた。
「うん? ちょっと、小山田《おやまだ》くん……なに笑ってるの!」
「え?」
安心したせいで、口元がゆるんでしまっていたらしい。あわてて耕太は口を押さえた。
「もう、小山田くんまで――」
「はいはいはーい、みなさーん」
怒鳴りかけたあかねを、ぱんぱんと手を叩《たた》きながらあらわれた玉藻《たまも》が邪魔した。
玉藻の姿は――。
白装束だった。
頭には三角の布を巻いていた。
つまり、幽霊の格好である。となりにはおなじく幽霊の格好をした雪花《ゆきはな》がいて、ふたりとも懐中電灯の光を顔の下から照らして、不気味な顔つきになるように演出していた。
「おこんばんは〜」
「わー!」
耕太とあかねは驚きのあまり、声をあげてしまった。一緒に跳びあがる。
「なんか用なの、母さん?」
ちずるだけは冷静だった。
「あらん、ちずるったら冷たーい」
「なんなのよ、その格好……いよいよお迎えがきたってわけ?」
ふっふっふっ、と玉藻は笑う。
「夏の夜の代名詞といったら……な〜に〜か〜、ひ〜と〜つ〜、わ〜す〜れ〜て〜な〜い〜?」
手をだらーんと中途半端なかたちにあげ、顔は傾け、口は半開き、眼《め》はぎょろっと剥《む》くといった、じつに完璧《かんぺき》な玉藻の幽霊っぷりに、きゃあ、とあかねは耕太に抱きついてきた。
ぎょ、とちずるも眼を剥く。
「こ、こら、あかね! なにしてんのよ、わたしの耕太くんに!」
「だ、だって……ちずるさんのお母さん、本当に、怖い!」
ちずるは噛《か》みつかんばかりに吠《ほ》え、あかねは耕太の背にしがみついたまま、震える。
耕太は思った。そりゃ妖怪《ようかい》なんだから、幽霊の真似をやらせれば、かなりすごくなるよね……それに、ちずるさんもここまでやると、やっぱりまだ嫉妬《しっと》するよね……。
押しても怒鳴っても耕太から離れないあかねに、ちずるは怒りの矛先を変える。
「か、母さん! いったいどういうつもりなの!」
「だから、これよ」
「これってなによ!」
ちずるの問いに、玉藻《たまも》と雪花《ゆきほな》は、ふたりどうじに手をだらーんと幽霊させ、答えた。
「「き〜も〜だ〜め〜し〜」」
きもだめしの内容は、つぎのとおりだった。
浜辺の海を正面にして左手側の岩場に、洞窟《どうくつ》があるという。その奥に置いたお札をとって帰ってくればよい。人数はふたりでひと組ずつで、その組みあわせは厳正なるクジによって決める。脅かし役は、〈玉ノ屋〉の店員……雪女たちがつとめるとのことだった。
これだけの説明を、海の家〈玉ノ屋〉の店内にて、耕太たちはやけに楽しげな玉藻の口から聞いた。
説明を聞いた女性たちの反応は、意外にものきなみ好評だった。
「ふーん……母さんにしては、なかなかいい考えじゃない。ね?」
「楽しそうでーす」
「きもだめし、初めてでーす」
「まあ……いいですよ、やっても」
ちずるや蓮《れん》、藍《あい》だけでなく、あかねも眼鏡の位置を直しつつ、けっこう乗り気だった。望《のぞむ》は雪花に、奥に置くお札を、なにか食べ物に換えて欲しいと頼んでいる。
耕太も、みながいいなら、とくに反対する理由はなかった。
脅かし役が、本物の妖怪《ようかい》である雪女なところに、ちょっとばかり不安はあるが……まあ、だいじょうぶだろう。いつも妖怪な女の子と一緒にいるのだし。
ただひとり、たゆらだけは青ざめた顔をしていた。
あかねが、めずらしくいじわるそうに唇の端をあげて、訊《き》く。
「どうしたの、源《みなもと》? まさか……怖いとか?」
「ま、まっさかー! 脅かし役がいるってわかってるんだから、そんなもん、ちーっとも怖くなんかないデスヨ? そ、そうさ……遊園地のお化け屋敷のアレとくらべれば、しょせんはシロウトのやるこった……へ、平気さ!」
「無理しないほうがいいわよ……源」
「む、無理じゃないもん!」
話は決まった。
そして、厳正なるクジ引きの結果、組みあわせは――。
耕太、ちずる組。
蓮《れん》、藍《あい》組。
たゆら、望《のぞむ》組。
あかね、雪花《ゆきはな》組。
このように決定した。
「ちょ、ちょっと待てーい!」
クジ引きの結果に、たゆらが文句をつける。
「どーしておれと望? いや、それはともかく、どーして朝比奈《あさひな》と、雪花さん? なんかおかしくない?」
「なにが〜? な〜んにもおかしくないわよ〜?」
玉藻《たまも》は、クジ引き用に色分けされた割りばしを後ろ手に隠し、へし折りながら、答えた。
「いや、だって、玉藻さん、ちょっと、後ろ! それ! いま、べきべきって!」
「――お母さまって呼びなさい」
きっ、と急に玉藻は真顔になった。
「え? あ、その」
「あなたはちずるの弟でしょう。そしてわたしはちずるの母。だったら、わたしのことをお母さまって呼ぶべきじゃあなくって? そりゃあ、こんなに若い女を、お母さまって呼ぶのは抵抗があるでしょう。それは痛いほどわかります。すべての罪は、こんなにも若く、美しく、キュートでプリティーでセクシーなわたくし、玉藻にあると……」
「えーっと……た、玉藻さん?」
たゆらはひたすら困っていた。
そのまま、けっきょくクジの件はうやむやになるのであった。
その後、海の家〈玉ノ屋〉からきもだめしの現場である洞窟《どうくつ》へと向かう途中――。
さっそく耕太と腕を組もうと狙うちずるを、玉藻が呼び止めた。
おいで、おいでと手招きする。
すでに望がしがみついた耕太をちらちらと見やりながら、ちずるは砂を蹴散《けち》らしつつ玉藻の元へと向かった。
「もう……なによ、母さん。耕太くんとのラブラブタイム、邪魔しないでよね!」
「あのね、ちずる……」
ちずるの耳元で、玉藻がなにごとかささやく。
「……え?」
さらに、なにかを手渡した。
手のなかのものを見て、ちずるは眼《め》を見開く。
「こ、これは……」
玉藻《たまも》は、にこやかに微笑《ほほえ》んだ。それは、まぎれもない母の微笑みであった。
1、たゆら、望《のぞむ》組の場合
暗い洞窟《どうくつ》のなかを、たゆら、望は無言で進んでいた。
洞窟は、岩をくりぬいたような形状をしていた。高さは二メートルほどで、丸く、天井も左右も地面も、なだらかなでこぼこだ。そんな映像が、たゆらがせわしなく照らす懐中電灯の光によって、ちかちかと映しだされている。
「……お、おい、ちょっと待てよ!」
水着に、アロハシャツを羽織った姿のたゆらは叫んだ。
「ん?」
と望は返すが、しかし声は遠く、姿も見えない。
たゆらがずーっと奥へ懐中電灯の光を伸ばすと、かなり先に、望は立っていた。望はあの野生児水着のままである。気に入ったのか、ずっとその格好だった。
「おまえ、黙ってすたすたといくな! もうちょっとゆっくり歩け!」
「えー? なにー?」
たゆらの声も、望の声も、やたら洞窟に響いた。エコーが効きまくる。
「ちっ……」
たゆらは舌打ちして、大股《おおまた》で望の元へと向かった。
「動くなよ! いいか、動くんじゃないぞ! お、おれをひとりぼっちにはするなよ! ぜーったいに動いちゃダメだからな! 泣くぞ! 大の男が泣くぞ!」
望は動かなかった。
ようやくたゆらは追いつく。
「あのな、耕太と一緒になりたかったのに、おれなんかとおなじ組になっちまって、不機嫌なのはわかる! わかるが、それは朝比奈《あさひな》と一緒じゃないおれもおなじだ! だから、ここはお互い、わだかまりをなくして、力を合わせてだな、目の前の困難に当たり……」
望は動かなかった。
「お、おい? 望?」
望は動かない――まばたきすらしない。薄い色あいの唇をかすかに開けたまま、身じろぎひとつしなかった。
「じょ、冗談はやめろよ、なあ……」
半笑いで、たゆらは望《のぞむ》の口元に、手のひらをかざした。
たゆらの笑みが、がちゃぴーん、と強《こわ》ばる。
「い、息、して……ねえ……」
きゃー!
か弱い女の子のような悲鳴をあげ、たゆらは走りだした。
途中、ホッケーマスクをかぶってオノを持った男や、赤と緑の横縞《よこじま》のセーターを着て帽子をかぶった長い鉄の爪《つめ》の男や、全身ぐずぐずのゾンビやらなにやらがあらわれたが、すでに白目を剥《む》いたたゆらにはわからなかった。
白目のまま、奇声をあげたまま、たゆらは走り続ける。どこまでも。
そして――。
ぷはっ。
望が、小さく息を吐いた。
ふー、はー、ふー、はー、と深呼吸しだす。
そんな望に、ホッケーマスクを外した雪女が、尋ねた。
「……どうして動かなかったの?」
「ん? たゆらが、動くなっていったから」
「本当は?」
長い鉄の爪をつけた雪女が訊《き》く。
「……腹黒なほうが、耕太の好みかなー、と思って」
にかっ、と望は微笑《ほほえ》んだ。
2、蓮《れん》、藍《あい》組の場合
「ぐはーっ!」
ホッケーマスクの男が、オノを振りおろした。
「キシャー!」
鉄の爪をつけた男が、腕を突きたてた。
「のーみそくれー!」
ゾンビが、のたのたとした動きで抱きついた。
そして蓮と藍は、そのすべてを喜んで受け入れた。
「わー! す、すごいぞ、藍!」
「テ、テレビで見たー! これ見たぞ、蓮!」
怖がるどころかはしゃぐ双子に、ホッケーマスクの男が女性の声で話しかけた。
「ねえねえ、どうしてあなたたちは平気なの?」
さ、サインください……とねだりかけていた蓮と藍は、互いに顔を見あわせる。
「だってわたしたち」
「仕事柄、ホンモノに接してましたので」
その答えに、オバケたちはうなずきあった。
「そういえばこの子たち、〈葛《くず》の葉《は》〉で妖怪《ようかい》退治なんかしてたんだっけ」
「それも七々尾《ななお》家よ。武門の家よ。イケイケよ」
ひそひそ、と話しあった。
蓮《れん》と藍《あい》はなおも語る。
「春ごろ、耕太パパがちずるママと合体して大暴れしたときは」
「それはそれは怖《おそろ》しい姿でした」
「しっぽが燃えて、龍《りゅう》みたいになって」
「どわーって、ぐわーって」
オバケたちはさらに話しあう。
「どうする? 〈八龍《はちりゅう》〉よりおっかないものになんか化けられないわよ?」
「〈九尾《きゅうび》〉じゃどうかしら」
「玉藻《たまも》さまを呼びにいくの? でも……」
どうしよ? と蓮と藍を見た。
蓮と藍は、つぶらな瞳《ひとみ》で見あげるのだった。
で、けっきょく。
「えー、なにが怖いって、まんじゅうが怖いねえ……」
洞窟《どうくつ》のなかで、怪談話が始まった。
ホッケーマスクの男が語る「まんじゅう怖い」を、蓮と藍はしゃがみこんで、聞いていた。その姿勢は前のめりで、とても夢中な様子である。
「……これでいいのかしら」
「そもそも『まんじゅう怖い』は落語であって、怪談じゃないしねえ」
「いや、そういうことではなく」
「やっぱり『牡丹《ぼたん》灯籠《どうろう》』のほうが……」
「そういうことでもなく」
横に立つオバケたちは、オバケの顔のまま、悩んでいた。
「……こんどはお茶が怖い」
サゲ――落語の落ちを聞いて、蓮と藍は拍手した。ぱちぱちぱち……洞窟のなかに、楽しげに響く。
3、耕太、ちずる組の場合
歩けども、歩けども、オバケがでてこない。
なんだか耕太はかえって不安になってきた。ちずると握りあった手にも、ついつい汗をかいてしまう。嫌がられないかな……と、そっちの意味でも不安になった。
洞窟《どうくつ》を油断なく懐中電灯で照らしながら、耕太は尋ねる。
「あの、ちずるさん」
「なあに、耕太くん」
「寒く……ないですか?」
洞窟内はひんやりと湿っぽかった。
耕太とちずるは、どちらも水着姿のままだった。それでも耕太はティーシャツを着ているからまだいいが、ちずるはビキニのままである。
「耕太くんは……寒い?」
「ちょっぴりだけ」
「じゃ、これでどう?」
ちずるがぴとりとくっついてきた。
耕太よりも背の高いちずるに、まるで抱かれるようにくっつかれると、すごく温かいのもそうだが、なにより心強い。強《こわ》ばっていた自分の心が、ほぐれていくのを耕太は感じた。
「耕太くん……」
「はい」
「ごめんね」
「え?」
ちずるに肩を抱かれるようにして、突然、耕太はぐいぐいと引っぱられた。
懐中電灯の明かりだけが頼りの暗い視界だというのに、ちずるはまるで眼《め》が見えているかのように、足早に進む。
あ、そうか。見えているのか。
だってちずるは、妖怪《ようかい》の女の子だもんね……と耕太が気づいたときには、なにやら脇道《わきみち》のなかに入りこんでいた。
「ここは……?」
尋ねたとたん、炎が灯《とも》る。
ピンク色にほど近い火が、めらめらと空中で燃えていた。
これは、狐火《きつねび》――。
はっと振りむくと、ちずるの髪は金色と化していた。
頭には狐《きつね》の耳が、腰からはしっぽが。ちずるは、化け狐の姿に、妖狐《ようこ》の姿に変化していた……いつのまに?
「ちずるさん……?」
狐の姿になったちずるが、無言で空中の狐火に指先を向ける。
指先を動かした。
すると、その動きに従って、宙の狐火は移動しだした。すっ……と音もなく動き、床におりる。
いきなり大きく燃えあがった。
たき火のようなその炎に、周囲の景色が照らしだされる。それで、耕太はいま自分たちがいる場所が、ちょっとした広間であることを見てとった。
広間……?
「あの」
尋ねようとしたとき、耕太は背中ごしに紐《ひも》のほどける音を聞いた。
しゅる……。
え?
ええ?
えええ?
ほどくって……ほどくって?
ほどくといっても、だってちずるはいま、水着しか着てはいない。それでほどくといったら、やはり……。
ぱさ、となにかが落ちた。
「ち、ちずるさん……な、なにを」
する、と、こんどはなにかを滑らす音がした。
たとえば、肌の上に、布を滑らすような。太ももの上に、タイトな布地――そう、水着みたいなものを、滑らすような。ついには足首から抜きとるような、そんな音を、すでに全身聴診器と化していた耕太は、身体で聴《き》いた。いや、感じた。
「耕太くん……こっち向いて」
向けなかった。
身体が固まってしまって、力んでしまって、動けなかった。動かせなかった。耕太はちずるに背を向けたまま、ぎり、と奥歯を噛《か》みしめる。
「お願い……わたしに、恥、かかせないで……」
か細い、ちずるの声。それで、耕太は動けるようになった。ぎ、ぎ、ぎ、と、まるで油を差していない機械のような動きで、振り返る。
ちずるは、生まれたままの姿だった。
たき火のごとくゆらめく炎に照らされ、そのでこぼこの豊かな身体が、さらに複雑な陰影を作りあげている。金色の髪は天糸のごとく流れ、きらきらときらめいていた。当然、下の、ふささ……も、金糸だった。足元には、上と下、ふたつの水着が、ぽとりと。
「日焼け止め塗ったんだけど……すこし、焼けちゃったみたい……」
ちずるが、手を下に伸ばした姿勢で、ぐっと胸を張る。
さすがに恥ずかしいのか、頬《ほお》は赤かった。いや、身体中、赤く火照《ほて》っているようだ。頭から生えた狐《きつね》の耳も、しっぽも、伏せ気味だ。
「どう……かな?」
「や? あ、きれい……です」
ごきゅきゅ、と耕太は大きく喉《のど》を鳴らしてしまった。
「こ、耕太くん……ううん、耕太」
「は、はい」
「――脱いで」
「はい?」
「耕太くんも、じゃなくて、耕太も、脱いで。裸に、なって」
え。
すでに耕太はへっぴり腰であった。
それはすなわち、男なら当然の生理現象が起きているからであって、この状態で水着を脱いでしまったら、それは――。
ビッグマグナム小山田先生、ご登場。
に、なるわけで。
「い、いや、だって、その」
「わたしだけ、裸のままにしておくの……?」
「そ、それは、ちずるさんが勝手に」
「自分は隠したままで……」
「で、ですから」
「耕太……そんなの、ずるいよ」
ちずるの瞳《ひとみ》が、きらめいた。
涙――。
狐火《きつねび》の炎に照らされ、きらめく彼女の瞳に、耕太はあわててちずるに背を向けた。
トランクス型の水着を、一気におろす。「わ」という声を背中というか、剥《む》きだしになったお尻《しり》のあたりに耕太は感じたが、半分|自棄《やけ》な気持ちで、足首から水着を抜きとった。
これで耕太、すっぽんぽーん。
「こっち……向いて、耕太」
ちずるの声は、横に移動していた。
半分自棄だった耕太は、完全に自棄になって、声のした側を向く。
てぽどん。
仰角九十度に近い垂直発射ミサイルが、ちずるの眼前にさらされてしまった。
「……! こ、耕太くん、す、すごい……」
ため息にも似た吐息を、炎の向こうのちずるは洩《も》らしていた。
ちずるは、耕太とは狐火を挟んで向こう側に立っていた。むろん、裸のままで。手を太ももにそろえて。耕太もおなじく、剥きだしだ。
「あ、あの、ちずるさん、そう、まじまじと見られると……」
ちずるの熱い視線に、耕太はぴくぴくと反応してしまった。
視線だけでも、感じることってできるんだ……耕太は腰を引く。
「え? あ、ご……ごめんなさい」
ようやく、ちずるがまっすぐに耕太を見つめてきた。
その上で、なぜか変化を解く。
す……っと金色だった髪が黒く戻り、どうじに頭頂部から生えていた狐《きつね》の耳や、背中を垂れていた狐のしっぽが姿を消した。
最後に、黄金の輝きを見せていた瞳《ひとみ》が、その輝きを失《な》くす。完全に人の姿となった。
「で、では、あらためて……耕太」
「はい」
「――わたしが欲しかったら、その火を越えてこい!」
人間の姿で、ちずるは叫んだ。
「……は?」
耕太は首を傾《かし》げてしまった。
そうして、しばらく見つめあう。どちらも無言だった。耕太とちずる、ふたりのあいだで燃えあがる狐火《きつねび》だけが、静かな音を発していた。
やがて、ちずるの表情はゆがむ。
みるみるうちに眼《め》から、涙をあふれさせた。
「なんかわたし、まるっきりバカみたい……」
「そ、そんなことありませんよ、ちずるさん!」
耕太はあわてて炎をまわりこみ、えぐえぐと泣きじゃくるちずるに近づいた。
「なにやってんの、耕太くん!」
なぐさめようとした瞬間、怒鳴られる。
「なにを普通に火をまわりこんできてるの! わたしはいま、火を越えてこいっていったでしょ! それじゃ意味がないじゃないょ!」
「す、すみません!」
耕太はすごすごと元の位置に戻った。
「うう……どうせわたしは淫乱《いんらん》だよう、好色だよう、色情狂だよう。あの小説のシチュエーションを再現しようったって、元のキャラが違うよう。でも、だってだってだって、真似したいんだもん! あんな風に、愛されている証《あかし》が欲しいんだもーん!」
えーん、と子供のように泣くちずるを前に、耕太は頭をぼりぼりかいた。
「えいっ」
思いきって、炎を跳びこす。
「きゃっ」
いきなり目の前に降りたった耕太に、ちずるはかわいい悲鳴をあげた。
「ちずるさんは、淫乱でもないし、好色でもないし、色情狂でもないですよ。だってほら、ぼくだって……」
耕太はちずるを抱きしめる。
そうして、ぐっ、と灼熱《しゃくねつ》の耕太ミサイルを、ちずるにくっつけた。
「あ……」
眼《め》を見開き、ひゅうと息を吸いこんだちずるを前に、耕太も息を深く吸う。
「ぼくもしたい!」
叫んだ。
いままでいえなかった、魂の叫びだった。
「ぼくもしたい……ちずるさんをぼくのものにしたい。だけど、うまくいえないんですけど、いちどそうなってしまったら、ぼく、もう歯止めが効かなくなる気がして……」
「い、いいんじゃない? お互い、いくとこまでいっちゃえば。いこうよ、ピリオドの向こう側へ」
「ダメですよ……いまでさえ……」
目の前にあるしっとりしたふくらみに、耕太は顔を載せた。
ぽふん。
「いまでさえ、ぼく、ちずるさんに……ううん、ちずるに、こんなに狂っちゃってるもの……あの……例の……」
「あまえんぼさん? それとも……おまたくにくに?」
「お、おまた……をするたび、ちずるさんを汚してしまうたび、なんだか、ぼく、もう、深みにハマっていってて……この先を知ってしまったら、きっとぼく、快楽におぼれてしまって、なにもできなくなる。まともに生きていられなくなる。それくらい……ちずるはぼくにとって魅力的すぎて……もはや、怖いというか……」
ちずるが、そっと耕太を抱いてきた。
腰も軽く屈《かが》めた。互いの部分が触れあう。が、一線は越えず、向こう側へと滑らせた。ちゅるんと、すでにちずるも準備万端な様子だった。
「耕太くんは……なにか夢があるんだ?」
滑ったときの快楽に息を詰め、ひくひくしていた耕太は、え? と顔をあげる。
「夢……ですか?」
「そう、将来の夢。いま、わたしにおぼれちゃダメなんでしょう? いま、がんばらなきゃいけないんでしょう? つまり……それだけ大切な、夢があるってことじゃないの?」
「夢……ぼくの夢……」
突然の質問に、しかし耕太は愕然《がくぜん》とした。
なかったからだ。
なにも、耕太にはなかった。
耕太はうつむき、しかしまた、おずおずとちずるを見あげた。
「ちずるさんには……夢、ありますか?」
「あるよ。耕太くんのお嫁さん」
ぎゅむー、と抱かれた。
腰も沈め、太ももも強く重ね、耕太を挟みこむ。あう、あう、あう。
「そ、そーゆーのではなく、たとえば、し、仕事とか……」
「だからすてきな奥さん。あ、もちろん、ふたりが生活する上でお金が必要になったら、いくらでも稼ぐよ? 昔のつてがいくつかあるし……仕事なんか、その気になればいまだってできるもん。ふふ……どう、耕太くん。夢のヒモ生活だよ?」
耕太は想像した。
ちずるに養ってもらっている、自分の姿を。
将来の自分――。
大きく、立派な、高級マンションに耕太はいた。
ちずるの部屋だ。
そのだだっ広いリビングダイニングに置かれたソファーの上、ごろりと横になって、大型プラズマビジョンのテレビを、耕太は眺めていた。
耕太の眼《め》は、死んでいた。
いや、腐っていた。
無精髭《ぶしょうひげ》を生やし、髪はぼさぼさ、頬《ほお》はこけ、眼は落ちくぼんでいる。そんな、びろんと伸びたスウェットの上下を着た、妙にやつれた自分は……。
小山田耕太、二十九歳。
なんでもしてくれる姐《あね》さん女房におんぶに抱っこで生きてきたために、なにも目標を見つけられず、ただただ時間を浪費するだけの日々を送る、ああ、ああ、踊るダメ人間。アイ・ニート・ユー。
「うわあああああ!」
あまりにリアルに思いうかべてしまった将来に、耕太は叫んだ。
「ど、どうしたの、耕太くん?」
「だ、ダメ、やっぱりダメ! ぼくは……まだまだ子供です! 将来、なりたいものも決まってない、やりたいことも決まってない、自分で満足にお金を稼ぐこともできない、お子さまランチなんです! だから……だから!」
耕太はちずるを振り払い、離れた。
「だから、ぼくが大人になるまで……ちずるさんに負けないくらい、立派な大人になるまで、たとえちずるさんの愛情を受けても、決して自分を見失わなくなるくらいに成長するまで、待ってもらえませんか!」
「耕太くん……」
ちずるが胸の前で作った拳《こぶし》を、きゅっと握る。
「わかった。待つ。わたし、待つよ、耕太くんが大人になるまで……」
耕太は、ほっと息をついた。
わかってもらえた……安心して、そして、将来の夢か、と考えてみる。見つけなきゃ……やりたいことを。
決意した耕太の前に、ふっ、と影が差す。
見あげると、ちずるが目の前に立っていた。
つかまれた。
さきほど、ちずるによって濡《ぬ》らされ、すっごくすーすーしながらも、まだまだ元気だった、ビッグマグナム小山田先生を……きゅっ。
「ひう!?」
耕太は腰を引く――も、つかまれているために引けない。
「な、なんですか、ちずるさん!」
「だって……すごく立派なんだもん、耕太くんの……」
「い、いや、だって、わかってくれたんじゃ? 待ってくれるんじゃ?」
「わかってる。最後までしなければいいんでしょう? つまり、寸止めってやつ?」
「わ、わかってないですよ、ちずるさん!」
「だから、ほら」
ちずるが、四角く、薄っぺらい、小さな袋を、耕太の顔の前でひらひらと振った。
「そ、それは?」
「コンドーさん」
「ぶっはー!」
耕太は叫び、逃げようとした。
きゅむむっ。
あへあへあ〜。しっかりとつかまれているため、逃げられなかった。
「へ、へううー……ち、ちずるさああん、だ、ダメですよう。ほら、みなさん、ぼくたちの帰り、待ってますし。ち、ちずるさんのお母さんだって! 玉藻《たまも》さんだって!」
「あ、母さん、このこと知ってるから」
「へ?」
「これ、母さんからもらったんだもん。この場所だって、母さんから教えてもらったし」
「ふへー!?」
「母さんがね、いわゆる最後までいっちゃうってのは、子供ができる行為をすることでしょっていうのね」
ぶんぶんと耕太はうなずく。
「でもこれを使えば、子供はできないから、だからたとえいたしてしまっても、それは最後の一歩手前なんだって。ね? だから、たとえ耕太くんがまだ大人じゃなくってもぉ……これを装着してれば、平気っ!」
それはぜったい、違う。
親が親なら、子も子。耕太はそんな言葉を、身体で理解した。
「いや、だってぇ」
「ほら、もうつけちゃったし」
「ふええ?」
見ると、いつのまにか、ちずるが持つ四角い袋は、端が切られ、中身が開けてあった。
耕太は音速の速さで下を向く。
ちずるのしなやかな指で握られていた、それは――。
蒸着完了。
「いつのまに!?」
「ついさっき」
ちずるがつかんだまま、耕太を抱きしめんとしてくる。マズイ。これで捕まえられたら、まちがいなく最後まで……ダメ! ぼく、ダメ人間になっちゃう! ダメ、ぜったい!
おのれの身を守るためには?
そう、攻撃こそが、最大の防御なり!
耕太はちずるの胸を、両側から揉《も》みあげた。
「ひゃんっ!?」
間髪入れず、耕太は唇を寄せた。
口でかぷこん。舌でなむこ。ああ、ちずるのさきっちょが、どんどんすくえあえにっくす。ばんだーい、ばんだーい。おおっと、舌は休めず、なむこ、なむこ、なむこっと。
「こ……耕太くん……」
ちずるがぴくぴくと身体を震わしだした。
やはり、ちずるは攻められるのに、弱い。
耕太は、いままで決して手をつけることのなかった箇所へ――禁断の地――エデンの園――へと指先を伸ばした。すなわち、そこは――。
おへその穴に、つぷりっ。
「ひああああ!? こ、耕太くん、そ、そこは……きゃんっ!」
これは、自衛行為なんです――。
すでに自分がとりかえしのつかない世界へ踏みこんでしまったような気もしつつ、しかし耕太は攻める手を休めなかった。なむこなむこ、つぷりつぷりつぷっ。
4、あかね、雪花《ゆきはな》組の場合
洞窟《どうくつ》のなかを、あかね、雪花は無言で進んでいた。
あかねはティーシャツにショートパンツ、ビーチサンダル。雪花は例の白装束に三角布といった、幽霊姿のままだった。
「あの……すみません、雪花さん」
前をゆく雪花に、あかねが声をかけた。雪花は立ち止まり、振りむく。
「はい?」
「さっきから、ぜんぜんオバケとか、でてこないんですけど」
「オバケですか?」
「はい、オバケです」
「オバケとは、なんですか?」
「え?」
「オバケとは……こういうものですか?」
雪花の言葉とともに、懐中電灯で切りぬかれた闇《やみ》の影から、人影が飛びだした。
それは、狐《きつね》の耳としっぽを生やした長髪の女性だった。おまけにその女性は、薫風《くんぷう》高校のブラウスにリボン、チェックのスカートを身につけていた。
つまり、彼女は妖狐《ようこ》に――化け狐に扮《ふん》していた。
こーん。
妖狐姿の女性は、身体をくねらせながら、鳴いた。
「それとも……これですか? これは?」
雪花の声に従って、だいだらぼっちのつもりか、黒いのっぺらぼうの着ぐるみを着たものや、狼《おおかみ》の耳やしっぽを生やした銀髪の女性があらわれる。だいだらー、肉ー、と、それそれだいだらぼっちと人狼《じんろう》は鳴いた。
あかねは眼鏡ごしの眼《め》を見開く。
「こ、これって……まさか、あのときの? 玉藻《たまも》さんの旅館のときの、巨人……それに、ちずるさんに、望《のぞむ》? え? ええ?」
「どうしました……?」
眼《め》を見張ったままのあかねに、雪花《ゆきはな》は落ちついた声で尋ねた。
「どうやら、オバケを見ての驚きとも違うようですが……まるで、これらのものを、かつて実際にその眼で見たことがあるような……」
はっ、とあかねは雪花を見た。
「ちずるさんたちは、やっぱり……」
と、いいかけ、口をつぐむ。
きゅ……っと、強く唇を噛《か》んだ。
血がでそうなくらい、強く、噛んだ。
そんなあかねを、雪花は黙って見守っている。ふたりのまわりでは、オバケ一同が、耕太くーん、とか、耕太ー、とか、だいだらー、とか、思い思いの演技をしていた。
やがて、あかねが、ふー……っと長く長く、息を吐く。
「いいえ、雪花さん……」
雪花に向かって、ゆっくりと首を横に振った。
「わたしはそんなもの、見たことなんかありません。たとえ、現実に妖怪《ようかい》なんてものが存在したとしても……ちずるさん、小山田くん、望《のぞむ》に、そして、源《みなもと》……みなが自分から明かしてくれない以上、わたしは知りません。知らないんです」
しあげに眼鏡の位置をきゅきゅっと直して、あかねはそういいきった。ロ元には、笑みすら浮かべていた。
「なるほど……」
と、雪花が呟《つぶや》く。うなずき、もういちど「なるほど」といった。
まるで雪解けした野山の景色のように、雪花の表情はやわらいでゆく。
微笑《ほほえ》み、あかねに向かって頭をさげた。
「これからも、ちずるさま、小山田さまと仲良くしてさしあげてくださいませ。できれば、たゆらさまとも」
「そんなこと、お願いされなくったって……だってわたしたち、友だちですから」
あかねも微笑み、こころなしか胸を張って答えた。
「これは失礼しました……では、これからは普通にきもだめしを楽しむといたしましょう。我ら〈玉ノ屋〉の精鋭たちが送る、渾身《こんしん》の恐怖絵巻……とくとご堪能あれ」
とたんにあかねは弱々しく縮こまる。
「あ、あの、わたしもいちおう、か弱い女の子なので……あまり怖いのは、ちょっと……」
いいかけて、びくつく。
遠く、声が聞こえていた。
「な、なに? やだ……」
怯《おび》え顔で、あかねは幽霊姿の雪花に身を寄せる。
身を寄せられた雪花は、遠くを見つめるような表情となって、耳をすませた。
「いや……これは、我々ではなく……」
その言葉に、あかねも眼《め》を閉じ、耳をすませた。
「こ、耕太くん、もうゆるして……ちずる、死んじゃう……もう、死んじゃうよう……」
ちずるの声であった。しかもすすり泣いていた。もう死にそうだった。
あかねの身体は、わなわなと震えだす。
「ゆ、油断してた……。まさか、こんなにまわりに脅かし役のひとたちがいる状況で、ことにおよぶだなんて……ちずるさんの野獣、もとい淫獣《いんじゅう》の本能をあなどっていた! 淫獣死すべし! こらー、ちずるさん、小山田くーん!」
声のする側へと、あかねはひとり、懐中電灯を振りまわしながら、駆けだした。
「おかしらさま……よろしかったんですか、いかせてしまって」
ぽつんととりのこされた雪花《ゆきはな》に、妖狐《ようこ》役をつとめた雪女が、尋ねた。
「ま、いいんじゃないか? これもひとつの友情のかたちというやつだ」
部下の前でめずらしく笑みを見せる雪花に、オバケ役の雪女たちは、互いに視線を見交わした。
遠く、あかねの叫びが届く。
「ぎゃーっ! な、なな、なにをやってるんですか、ちずるさん、小山田くんも、裸で……え? これは自衛行為なんです? なにをわけのわからないことをいってるの、小山田くん! ちずるさんも……狐《きつね》の耳としっぽを生やした、こすぷれなんかして!」
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[#小見出し]  七、三大怪獣大決戦+1[#「七、三大怪獣大決戦+1」は太字]
「シズカ……ごめん……食べる、これからはめかぶも食べるよ……」
と、カイは眼を覚ました。
ベッドの上、シーツをかぶせられながら寝ていたカイは、うす暗い部屋のなか、白い天井を見あげ、眼をぱちくりとさせる。
身体を起こし、あたりをぐるりと見まわした。
カイが寝ていたベッドのまわりには、カーテンのしきりがあった。そのため、室内の様子はよくわからない。ただ、白いカーテンごしに差しこむ、ぼんやりとしたやわらかい光が、カイにいまが朝であることを告げていた。あたりに漂うのは、消毒液の香りだ。
「ここは……?」
「ようやく目覚めたか」
冷たい声とともに、しきりのカーテンが開かれた。
それとともにカイの眼前に突きつけられる、木刀の切っ先。
カイは眼を丸くし、突きつけた相手――オールバックに黒スーツの男、八束《やつか》を見あげた。
「あなたは……」
「質問するのはこっちだ。きさま、人間ではないな? かといって、普通の妖《あやかし》とも少々違うようだが……人ならぬ身で、この地になんの用だ。なにをしにきた」
八束《やつか》の質問に、カイは答えない。
代わりに、つーっと頬に涙を伝わらせた。
「そうか……わたしは、またも……雪山に続き、遭難を……」
突然泣きだしたカイに、八束は怪訝《けげん》そうに眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せる。そこに、やたらのんびりした声がかかった。
「だめですよ〜、たかおさん。むやみにひとを泣かせちゃあ」
八束のとなりに姿をあらわしたのは、丸眼鏡に三つ編み、自いブラウスにえんじ色のスカートの女性――砂原《さはら》だった。
「泣かしてなどいないぞ、幾《いく》。こいつが勝手に泣きだしたんだ」
「そんな怖い顔じゃ、だれだって泣きます」
む、と八束はカイに突きつけていた木刀はそのままに、自分のあご先、頬を撫《な》でた。
「おれは、そんなに怖い顔……?」と呟《つぶや》く。
「ほらほら、あなたもだめよ。男の子でしょう? はい、ちーん」
砂原はベッドの上にカイに、ティッシュを箱ごと差しだした。
カイは、ぱぱぱ、と一気に紙を抜きとり、びーむ、と洟《はな》をかむ。ぐす、とすすり、ベッドから立ちあがろうとする。
「そ、そうだ……わたしに、泣いている暇などなかったんだ」
「だめよ〜? いくら妖でも、無理しちゃあ」
がくん、と傾いたカイの肩を、砂原はそっと支えた。
力なくカイは砂原を見つめる。
「なぜわたしが、人ではないと……? そういえば、あなたがたは、どちらもただのニンゲンではなさそうだ。どうぞ教えてはいただけませんか? わたしはおそらくこのあたりにある、薫風《くんぷう》高校という地におもむかねばなりません。そこで、教師をなさっているという、砂原幾というかたにお会いせねばならないのです」
砂原と八束は視線を交わした。
八束がいう。
「……ここが薫風高校だが。おまえは、薫風高校の、いま保健室にいる」
「そして、わたしが砂原幾ちゃんで〜す」
にこやかに自分の頬を両の人さし指でさす砂原に、カイは眼《め》を丸くし、八束は「幾ちゃんで〜す」などという歳《とし》か……と舌打ちした。
「で? わたしになにかご用なのかしら」
カイはベッドの上で姿勢を正した。正座する。
「わたしは、大海を治めし大海神《おおわだつみ》、豊玉彦《とよたまひこ》が息《そく》、海鳴りのカイと申します。砂原幾さまにお願いの儀ありまして、参上つかまつりました!」
正座したまま、深々と頭をさげる。
「わたしに……お願い? 大海神《おおわだつみ》さまの、ご子息が?」
「はい。砂原《さはら》さまといいますか、砂原さまに宿りし〈御方《おかた》さま〉と呼ばれるかたに、小山田《おやまだ》弦蔵《げんぞう》どの、犹守《えぞもり》朔《さく》どののご両人より、伝言が」
「なに……? 小山田弦蔵? 犹守朔?」
八束《やつか》が目元をゆがめる。
砂原はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「なるほど、なるほど。……じゃ、変わるわね」
かくん、と糸の切れた人形のように、うつむく。
とたんに彼女がしていた太い一本の三つ編みが、自然にほどけた。ざわざわと背中で波打ち、まるでソバージュヘアーのように変わる。
砂原が顔をあげたとき――。
丸眼鏡の向こうの瞳《ひとみ》は、いつもののんびりとしたやさしげなものではなく、燗々《らんらん》とした妖《あやかし》の光を放っていた。
「さて、わしがその〈御方さま〉じゃが。弦蔵と朔の小僧めが、わしになんの用じゃと?」
いきなり老成した声を発した砂原をまじまじと見つめてしまっていたカイは、尋ねられ、背筋を正す。
「先日、弦蔵どのと朔どのは、我が父、大海神と闘い――捕らえられてしまいました!」
「――というわけですので、〈御方さま〉には、わたしとともに父の宮殿におもむき、あのかたがたを助けていただきたいのです」
説明を終え、カイは深く頭をさげた。
〈御方さま〉は笑う。
「ふ、ふ、ふ……なるほど、息子のケンカにしゃしゃりでてくるとはのう。彦のやつめ、変わらぬ大バカ、いや、親バカよの」
「彦……? 父上をご存じなのですか?」
「よーっくご存じじゃよ。まだおむつをしていたときのおぬしも知っておる。あの赤子が、これほどまで大きくなるとは……あれは、幾《いく》の三代前に憑《つ》いておったときだったかな?」
「は……はあ」
「ところで、わしの前に、〈九尾《きゅうび》〉のオババにも助けを求めにいったらしいが」
「は、はい。それが、あいにくのご不在でして……」
カイはベッドの上、うつむく。
正座した太ももの上に置いた手を、ぎゅっとつかみながら、雪深い山中で遭難したこと、そこで雪女たちに助けられたこと、男っ気のない彼女たちに、いろいろされてしまったこと……などを涙まじりで語る。
「な、情けない話です。海神《わだつみ》ともあろうものが、遭難するとは……」
「まったくじゃの。海ではおぼれるし、山では行き倒れるし、ここ、街のなかでも倒れおるし。ちょっとおぬし、弱っちすぎるぞ」
あまりにハッキリした〈御方《おかた》さま〉のものいいに、カイはうなだれるばかりだった。
「力がないわけでもないのにの……。むしろ海神として、充分な力を持っておる。が、いかんせん、精神が弱すぎるわ。まったく、昔のオヤジどのとそっくりだのー」
はっ、とカイは涙で濡《ぬ》れた顔をあげる。
「ち、父も?」
「おうよ。おぬしの父親、彦はな、昔はじつにヘタレた、弱っちろいやつでのー。それを克服するために、身体を鍛えに鍛えて……ちょっと鍛えすぎて、とんでもなく男臭いやつになってしもうた。いまもそうか?」
「……はい」
すこし恥ずかしげにカイは答えた。〈御方さま〉は高笑いをあげる。
「ふふ……おぬし、そっくりなのはその弱っちろいところだけではないな。いまいち注意力がない、うっかりなところもそっくりよ」
「わたしが? うっかり……ですか?」
「うむ。おぬし、海でおぼれたとき、親切なひとたちに助けられたといったな? そのとき、よーっく話をしておれば……こんなに話がめんどくさくなることもなかったろうよ」
「え?」
「そうですね……」
と、八束《やつか》が〈御方さま〉にいった。
「〈九尾《きゅうび》〉どのは、いま、小山田とちずるにちょっかいをださんがために、その浜に向かっていたはずです。おそらくは、その場にも……」
「ええ?」
「ま、よい。なんにせよ事情はわかった。これは早くせねば、手遅れになるやもしれぬ……よいか、カイどの。できればいますぐ向かおうぞ」
「は、はい! ……あの、手遅れというのは、弦蔵《げんぞう》どの、朔《さく》どのが、処刑に……?」
「べつに弦蔵と朔なぞどうなってもよい。あやつらは殺したところで死ぬようなタマではないでな。問題は、おぼれたおぬしを助けた相手よ」
「……え? あのかたがたが、ですか?」
「おぬし、ここにくる前、彦に断ったか」
「ま、まさか、そんなこと! 弦蔵どのと朔どのを無断で牢《ろう》から解放するということは、つまり父上に逆らうということです。とてもとても、断ることなど」
「そこが問題じゃな。おぬし、いままで父親に無断で外泊したことはあるか?」
「……無断外泊、ですか? ……いえ」
「だろう? いままで決して無断外泊しなかった愛息子《まなむすこ》が、突如、行方不明になる……さーて、これであの親バカ彦太郎《ひこたろう》は、はたしてどうでるか。きっとおぬしを捜すじゃろーなー。捜し求め、狂うじゃろーなー。そんな大海神《おおわだつみ》が、ゆきつく先といえば……」
「あ」
海は、荒れに荒れていた。
黒い波が、うねり、ぶつかりあい、白い泡で水面を濁らす。空も昨日までの晴天が嘘《うそ》のような曇り空で、遠く、雷鳴の走る音すら聞こえていた。
これじゃあ、とても泳げない。
というわけで、いよいよ家に帰る海水浴最終日、耕太《こうた》たちは海の家〈玉ノ屋〉の店内にて、ずーっと朝から、海の様子を眺め続けているのだった。
「これは……しょーがねーよな。もうこのまま帰ったほうがよくねーか?」
入り口近くのテーブル席に座ったたゆらが、コーラを飲みながらいった。
「そうねえ……」
と、おなじテーブル席のちずるがうなずく。
ふたりとも、たゆらはアロハシャツにだぼっとしたハーフパンツ、ちずるはティーシャツに短パンといった、普通の姿だった。
海がこの状態なので、耕太たちはまだ水着に着替えてはいない。
ちずるのとなりの耕太はティーシャツに半ズボン、たゆらのとなりのあかねはブラウスにぴったりしたジーンズ、奥の座敷でかき氷を食べている蓮《れん》と藍《あい》はそれぞれ黒と赤のワンピースで、ただひとり、やはり奥の座敷で〈玉ノ屋〉特製海の幸ラーメンをもう三杯も食べている望《のぞむ》だけは、気に入ったのか、あの野生児水着だった。がおー。
うーん、とちずるが声を洩《も》らし、横の耕太をちら、と見た。
「でも残念だなあ……。あともうちょっとで耕太くん、泳げるようになるところだったんだけどなあ。犬かきのヘンな癖も抜けて」
「わたし、泳げまーす」
「わたしもー」
それぞれ、いちごとメロンのかき氷を食べていた蓮と藍が、手をあげた。
たしかに蓮と藍は、昨日の時点でクロールのほか、平泳ぎやら背泳ぎやら、ついにはバタフライまでもマスターしていた。水面走りは二十歩までいけるようになっていた。
耕太は座敷席の彼女たちに向かって、微笑《ほほえ》みかける。
「蓮と藍は、運動神経がいいからね……」
「鍛えてますから」
「パパも、鍛えますかー?」
「うん……考えとく」
耕太は自分の細い腕を撫《な》でながら、答えた。もっとも、水面を走れるようになるぐらいまで、鍛えたいとも思わなかったけれど。
「朝比奈《あさひな》も、かなりうまくなったよなあ」
たゆらが、となりのあかねに話しかけた。
「クロールは……なんとかね」
にこっ、とあかねは笑顔を見せる。アイスコーヒーのグラスに口をつけた。
はあ、と耕太はため息をつく。
「泳げないの……ぼくだけかあ」
「あーん、落ちこまないで、耕太くん。だいじょうぶ。ほら、泳ぎたかったら、いつでもわたしが身体を支えてあげるから。この、ちずる特製浮き袋で」
と、ちずるが耕太に抱きつき、腕に特製ぱいぱいぷーを押しつけてくる。
昨日、なりゆきとはいえ、吸って揉んじゃった、ぱいぱいぷー……それだけじゃなく、ぼくは、ちずるさんの、おへそまでも……つぷつぷっと。
「ま、しかたないんじゃない? 小山田くんは、泳ぐ練習じゃなくって、違う練習に励んでいたようだから」
昨日の目撃者、あかねが冷たくいった。
「う……」
耕太は落ちこみまくるほかない。どずーん。
くすん、と鼻をすすりながら、逃避の思いもあって、入り口から海を見た。
「――え?」
遠く、男がいた。
見間違いかと眼《め》をこする。
やはり、遠く、男がいた。
荒れ狂う海の上、雷雲の下、つまり空中に、男は浮いていた。
筋骨隆々の男だ。肌は灼《や》けて、すっかりまっかっか。髪は白く、ちずるほどの長さがあるだろうか。わしゃわしゃと背中に広がっていた。
そして、ふんどし。
男は、ふんどし一丁だった。手には銛《もり》だ。
漁師さん……? 一瞬、耕太はそう思った。思ったが、漁師は普通、宙には浮かない。男の足元を見やると、そこには亀《かめ》だ。亀が、必死になって足で宙をかいていた。いや、かいていたからって、しかし。
「……なに? どうしたの、耕太くん」
耕太の異変に、みんなも気づいた。
わ。
みんな、耕太と似たような反応を見せた。なかでもあかねは「へ、変質者だわ! 変質者が、海に!」などと容赦のないことをいう。
きさまらか……。
その声は、低く、重く、しかしはっきりと、耕太たちのいる海の家〈玉ノ屋〉の店内に響いた。
わたしの……かわいいカイを、さらったのは!
「え?」
と耕太が答えた瞬間、光った。
閃光《せんこう》だった。
耕太の視界は、瞬時に光に塗りつぶされ――全身が、強風にも似た力に襲われた。熱いのか、冷たいのか、なにも耕太にはわからない。ただ凄《すさ》まじい力の前に、ただ激しくもみくちゃにされることしかできなかった。
耕太は叫びを聞いた。その叫びが、自分のものなのか、それともまわりのだれかがあげたものなのか、それすらも、耕太にはわからなかった。
ぷはーっ、と少女は、水面から顔をあげた。
「ど、どう、桐山《きりやま》くんっ!」
水に濡《ぬ》れてぺしょぺしょとなったおかっぱ頭の少女は、そのたれ気味のあどけない眼《め》で、見あげる。
視線の先には、男がいた。
少女とおなじく、水着姿で、赤茶けた髪をつんつんと立たせた男だ。その小柄ながら鍛えぬかれた身体は、全身、傷だらけだった。
男が腰かけているのは――プールのスタート台。
ここは薫風《くんぷう》高校のプールだった。
ぎらぎらと照りつける太陽の下、薫風高校のプールで泳ぐ少女と、それを見守る男。
少女の名は、|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》。男の名は、桐山|臣《おみ》。
どちらも妖怪《ようかい》である。
桐山は風を操る妖怪、かまいたち。澪は、半分かえるの半妖《はんよう》、かえるっ娘《こ》。とくに桐山は、学校の妖怪たちをまとめる存在、番長だった。
「……もういちど、やってみろ、澪」
「うんっ」
桐山《きりやま》にいわれ、澪《みお》はとぷんと水に顔を沈める。
スクール水着に包まれた、小ぶりなお尻《しり》もちゃぷん、と沈む。
水は得意なはずの、かえるっ娘《こ》、澪が、桐山の見守るなか、いったいなにをやっているのかというと――。
腕はクロールだった。
しかし足は平泳ぎだった。
息継ぎは、腰をひねっていないため、平泳ぎのように、ぴょこん、ぴょこんと水面に顔を突きだしていた。腕の動きがクロールなため、なにやらバタフライのようにも見える。
「ど、どうっ?」
そんな意味不明な泳ぎを止め、澪はスタート台の上の桐山に尋ねる。
桐山の眼《め》は、糸のように、にゅーっと細くなっていた。
「……いつものやつ……平泳ぎ、やってみろ」
「え? う、うん」
その平泳ぎは、スムーズかつ美しいフォームだった。さすがはかえるの妖怪《ようかい》といえよう。
水音をほとんどあげず進み、かなり速い。
「……もう、その平泳ぎでいいんじゃないか、澪」
「えー?」
澪《みお》は平泳ぎのまま、桐山《きりやま》に語りだす。
「だ、だって、わ、わたしも、クロール、お、おお、泳げるように……なりたい!」
「でもな、澪。やっぱり向き、不向き、あると思うぞ」
「けろ?」
「はっきりいって、クロール、澪には、向いてないと思うぞ」
「けろろー?」
もう澪は涙目だった。
そこに、どすどすどすと、重い足音が近づいてくる。
「おお、やっとるな、桐山センパイに、澪センパイ」
それは、大男だった。
ワイシャツに制服ズボンを着た、縦にも横にも大きな、大男だった。かといってただ太っているというわけではなく、鍛えぬいた相撲取り、といった感じのごつい体つきである。
その片目は、つぶれていた。
傷跡だ。斜めに刻まれた十字の傷によって、彼の左|眼《め》はつぶれていた。
彼は熊田《くまだ》。
ヒグマの妖怪《ようかい》で、かつては熊田|流星《りゅうせい》という名のもとに、妖怪たちをまとめる、桐山のひとつ前の番長だった。いまは熊田|彗星《すいせい》という名で薫風《くんぷう》高校に入学し、ぴかぴかの一年生ライフを楽しんでいる。
熊田は、そのグローブのような大きさの手に、ジュースを三缶、片手だけで持っていた。
「ひと休み、せんか?」
にこやかに語りかける熊田に、しかし桐山は、プールのスタート台に腰かけたまま、じっと見つめ返すばかりだった。
プールからあがった澪が、ふたりのあいだで、おろおろしだす。
「……熊田さん」
「ん? なにかな、桐山センパイ」
「熊田さん……どうして学校、また入学した?」
「なんのことだ? わたしは熊田彗星……かつてこの学校で活躍していたというハンサムボーイ、熊田流星とは、別人だぞ?」
ふう、と桐山はため息をつく。
「前、虫がたくさん、ここを襲ってきたこと、あった……たぶん、熊田さん、ここにまた入学したのは、ああいうこと、敵が襲ってくること、またあるから。ああいうやつらと、闘うため……違うか?」
熊田はにいっ、と眼を細めた。
「どうしてそう思ったのかな?」
「おれ、いま、ここの番長。妖怪の長《おさ》。いろんな情報、入ってくる。だから知ってる。卒業したはずのセンパイたち、街に潜んでるってことも」
桐山《きりやま》の言葉に、熊田《くまだ》の右|眼《め》がかすかに開いた。
ふっふっふ……と肩を揺すって、低く笑いだす。
「潜んでいるとは人聞きの悪い。この街の大学に進学したり、この街で仕事についたり……ただそれだけのことだろう?」
「なぜ、ここからでていかない? おれたち、〈葛《くず》の葉《は》〉に捕まった。それで、自由になるため、ニンゲンどもの世界で生きる術を学ぶため、ここで、ニンゲンとともに、勉強してる。だから、ここ卒業したら、あと自由。そういう約束。なのに、センパイたち、この街にいる。おれたちを捕らえた砂原《さはら》や八束《やつか》がいる街に……そんなのおれ、信じられない」
「ふっふっふ……さて、信じられないのであれば、どうするかね?」
桐山は熊田を鋭い眼で見た。
熊田も、桐山を鋭い眼で見返した。
ぐっ、とお互いのあいだの空気が、圧《お》された感じがした。
「わー、わー、わー」
その圧した空気のなかに、澪《みお》は飛びこんだ。
桐山と熊田の視線がぶつかりあうなか、しばらく手足をバタバタさせ……やがて、はー、はー、と肩で息をする。
「……なにやってる、澪? 暑すぎて、おかしくなったか?」
桐山はスタート台から立ちあがった。
怪訝《けげん》そうに口をへの字にして、澪に近づいてゆく。
息を切らしていた澪が、いきなり、桐山に頭から飛びこんでいった。
「き、きき、桐山くん、だめー!」
がっちり澪を胸元で受けとめた桐山は、尋ねる。
「なにが? だめだ?」
「く、熊田さんとケンカ、だめー! だめ……だめ、う、うう、ぐす」
澪は、ひっく、ひっくとしゃくりあげだす。
とうとう泣きだした澪に、桐山は顔をしかめながら、いった。
「泣くな、澪……おれ、熊田さんとケンカ、そんなこと、しない」
「ほ、本当?」
たれ目を涙でいっぱいにし、ぼろぼろこぼしながら、澪は桐山を見あげた。
「ああ。当たり前だ」
わーん! うなずいた桐山に、澪は抱きつく。
桐山の胸で、くぐもった泣き声をあげた。
「泣く子には勝てませんな、番長どの」
はっはっは、と熊田は笑う。
「……熊田さん」
澪のちっちゃな背をさすりながら、桐山は尋ねた。
「なにかな?」
「おれ、番長。妖怪《ようかい》たちの長《おさ》。だから、おれはここの妖怪たちを守るの、役目。だけど……源《みなもと》と小山田を守るのは、役目、違う」
その言葉に、澪《みお》が涙でぐちゃぐちゃの顔をあげ、桐山《きりやま》を見あげた。桐山の胸元にくっついた鼻水が、てろーんと伸びる。
熊田《くまだ》は、にっこりと笑みを浮かべた。
「それでよい。それでよいのだ……桐山よ」
「で、でもっ!」
鼻水を伸ばしたまま、澪が叫ぶ。
「で、でも、ち、ちずるさん、ここの、学校の妖怪だよねっ! だ、だだ、だから、ちずるさん、あぶなくなったら、き、きっと桐山くん、助けるよね! 守るよね! ね!」
桐山の口元は、苦々しいへの字になった。
熊田が、がっはっは、と大笑いする。
「まったく、泣く子には勝てませんな、番長」
「……熊田さん。昨日、学校にやってきたやつのこと、知ってるか」
「はっはっは――は? やつ?」
桐山は熊田の笑いを途中で止めさせ、尋ねた。
「今朝になって、あいつ、でていったぞ。砂原《さはら》、八束《やつか》とともに。……一緒にいかなくても、よかったのか? 源と小山田、助けにいかなくて、よかったのか?」
ふっ……と熊田は低く笑った。
「いまの番長どのは、じつに怖《おそろ》しい……ふふ、ふふふ……」
熊田は、スタート台の上に、持っていたジュースを三缶、置く。
そのまま背を向け、プールから去っていった。
「え? き、桐山くん、いまのは?」
「つまり、熊田さんと砂原、八束たちは、仲良しということだ、澪」
「え? ええ?」
「澪、おまえは余計なこと、知らなくていい。黙ってクロール覚えろ」
桐山は澪を抱えあげ、プールに落とした。
「けろー!?」
水しぶきがあがる。
ざば、と頭を水面からあげる澪。
「ひ、ひどいよう、桐山くん」
「ほら、澪、がんばれ。見ててやる」
うう……と哀《かな》しげな声をあげながら、澪はばちゃばちゃと泳ぎだした。あの、奇妙な、平クロールフライを。
ぼく……生きてる?
耕太は薄目を開けた。
視界に飛びこんできたのは、炎だった。
燃えていた。
さきほどまで耕太たちが休んでいた海の家〈玉ノ屋〉の建物は、すっかり炎上していた。壊れ、崩れた天井が、折れた木の柱が、割れた床が、ぱちぱちと火の粉をあげ、炎に包まれている。
耕太は炎のただなかにいた。
が、不思議と熱くはなかった。
どうしてだろう、と身じろぎしようとして、耕太は自分がなにものかに抱きしめられていることに気づく。
ちずるだった。
金毛、狐《きつね》耳、しっぽを生やしたちずるに、耕太は抱きしめられていた。
いつものあまえんぼさ〜んな胸への抱きしめではない。耕太の身を守るような、自分の身体、腕で包むような抱きしめかただった。
「ち……ちずるさん……」
「耕太くん、気がついた?」
鋭い目つきで空を睨《にら》みあげていたちずるは、耕太を見て、その口元を笑みのかたちにゆるませる。
「ぼ……ぼくたち」
「攻撃されたみたい。たぶん、雷。相手は――」
「大海神《おおわだつみ》、豊玉彦《とよたまひこ》よ、婿《むこ》どの」
答えたのは、玉藻《たまも》だった。
玉藻は九尾《きゅうび》の狐の本性を、すっかりあらわとしていた。髪をちずるとおなじ金色の輝きに変え、頭からは狐の耳を生やしている。服装もどこからかだしたのか、またいつ着替えたのかもわからないが、色鮮やかな緋《ひ》色の着物になっていた。肩が剥《む》きだしになるように着崩しているため、その大きな胸の谷間が、しっかりとうかがえる。
なにより、そのしっぽだ。
九本の、細く長いしっぽが、ざわざわと背でうごめいていた。
玉藻のまわりは、さらに黒いねっとりとしたもやであふれている。それは九尾の狐の発する暗黒|妖気《ようき》だった。妖気は、どんどんとその色を濃く、深くしていた。
「大……海神?」
「そう。海神どもの大元締め、親分……三代目の豊玉彦ね。まったく、彦のやつ、ひとさまの店を簡単にぶち壊してくれちゃって」
「……母さん、あのふんどし男と知りあいなの?」
ちずるの問いに玉藻《たまも》が答える前に、耕太は叫んでいた。
「あー!」
「な、なに、どうしたの、耕太くん」
「みんなは! あかねさん、蓮《れん》、藍《あい》、たゆらくん、そして望《のぞむ》さん……みんなは!?」
「無事よ、婿《むこ》どの」
答えたのは玉藻だ。
玉藻が九本のしっぽを動かすと、その陰に、あかね、蓮、藍、たゆら、そして望が、店員姿の雪女たちに守られるように囲まれ、炎のなか、いた。
みな、耕太を見て、むん、とガッツポーズを決めてくる。どうやらとくに怪我《けが》なんかはしていないようだ。
耕太は、ほっと息をつきかけ……あかねを見て、その息を呑《の》む。
「あ、あかねさん!」
あかねはぐったりとしていた。
眼《め》を閉じ、眼鏡も顔からずらし、背を雪花《ゆきはな》に支えられるがままになっている。
「だいじょうぶです、小山田さま。ただ、気を失っているだけです」
ふー、と耕太はあらためて息をついた。
雪花は、すでにあのセクシー忍者姿だった。
肩と太ももがあらわな着物に、全身網タイツ……もとい、全身|鎖帷子《くさりかたびら》。手足には手《て》っ甲《こう》、すね当て。蒼《あお》い髪はポニーテールにまとめ、口元は布で覆っていた。さすがは忍者軍団の頭。行動も、着替えも早い。
「あ……それじゃ、ぼくたち無事なのは」
玉藻さんたちのおかげですか、と尋ねようとした瞬間、また目の前が光に包まれた。
しかし――。
さきほどとは違い、その先はなんら耕太を脅かすことはなかった。
おずおずと見あげると、玉藻の九つのしっぽが、まるで耕太たちを守るかのように、大きく、放射線状に広がっていた。うち一本は、天に向かって伸びていた。
さっき、ちずるはこれが雷による攻撃だといった。
すると、天に向かって伸ばした玉藻のしっぽが、避雷針の代わりをつとめたのだろうか。なんにせよ、やはり耕太は玉藻たちに助けられたようだ。
「うん? 炎が熱くないのは、どうしてだろ?」
「熱が届かないようにしてるんだよ、耕太くん。こっちには、ほら、雪女が腐るほどいるじゃない? だから、冷気を扱うのはお手のものってわけ」
「……いっておきますが、ちずるさま。我々、まだ腐っておりませんよ?」
雪花の言葉に、望たちのまわりにいる雪女たち全員が、真剣な顔でうなずく。
「――彦!」
玉藻《たまも》が、空に向かって叫ぶ。
呼びかけの先、雷雲の下には、大亀《おおがめ》に乗った大男がいた。
彼が、大海神《おおわだつみ》、豊玉彦《とよたまひこ》。
「……玉藻か? 久しいな」
大海神は、答えた。
玉藻が相手のためか、さっきまでの、心に直接響くような、威圧感のある声ではなかった。
「その久しい相手に、ずいぶんな挨拶《あいさつ》じゃない? いまおまえが雷を落として爆発炎上させた店は、わたしの店だったんだからね! 弁償しろ、こら!」
ふん……。
大海神は、九尾《きゅうび》の狐《きつね》相手になんと鼻で笑った。
「そんなこと、カイとくらべればなんでもない。玉藻、おまえ、わたしの息子をどこへやった。疾《と》く返せ」
「息子? ああ、あのボウヤなら、どっかいっちゃったわよ」
「とぼけるな!」
どがらぐしゃーん、と雷が落ちた。玉藻が天に伸ばすしっぽに命中する。
「とぼけてない!」
玉藻を包む暗黒|妖気《ようき》がふくれあがった。ばちち、としっぽから電気が散った。
どちらも怪物である。いや、もはや怪獣である。耕太はちずるにしがみついた。胸に頬《ほお》を埋《うず》めた。そうでなくては、とても目の前の光景を見続けている自信がなかった。
ふーっ、と大海神が、息を吐く。
「……カイの気配は、ここで途絶えている」
「ふーん。で?」
「そしてここには、魔性の大妖《たいよう》たる、玉藻、おまえがいた! となれば、これはもはや、おまえがどうにかしたとしかおもえぬ」
「あのね……あの子はおぼれていたのよ。それをわたしの娘と、婿《むこ》どのが助けたの。感謝されこそすれ、店を燃やされる覚えなんかなーいっ!」
「海神《わだつみ》が、海でおぼれるわけが、あるかーっ!」
玉藻が叫び、大海神も叫ぶ。
耕太はぎゅーっとちずるに抱きついた。ちずるも、ぎゅーっと抱き返してきた。
「正直に答えろ、この女狐《めぎつね》が! カイをどうした。たわむれに殺したか。たわむれに喰《く》ったか。たわむれに……犯したか! 犯しちゃったのか! わたしのカイを!」
「……あのね、彦」
「この、淫乱《いんらん》、好色、魔性の妖狐《ようこ》が! 我が息子を、返せー!」
また雷が落ちた。
こんどは連撃である。やたらめったらと落ちたその光を、防いだのはしかし、玉藻のしっぽではなかった。
砂だ。
砂が、ドーム状に耕太たちのまわりを覆っていた。
「え?」
砂が、崩れる。
そこに――玉藻《たまも》と大海神《おおわだつみ》のあいだの砂浜に立っていたのは、見知った顔の女性だった。
「まにあったようじゃのー」
「……さ、砂原《さはら》先生?」
驚きの声をあげ、すぐに耕太は、いや、と首を横に振った。
まず髪が三つ編みじゃない。荒れ狂う風雨にも不思議とおびやかされてなかったその髪は、波打つソバージュヘアーである。
そして服。
彼女は、橙《だいだい》色の着物姿だった。まるで、玉藻のような……。
「お、御方《おかた》さま?」
「おうよ、耕太。おぬし、あいかわらず愛されておるようじゃのう」
〈御方さま〉にからかわれるも、いま耕太はちずるの胸から離れる気はない。この勇気の実から、とても離れていられる状況じゃない。
「ふん……」
と、玉藻が鼻を鳴らす。
「ちっともまにあってなんかいないんだけど。わたしの店、ぶっ壊されちゃってるんだけど。見てわかんないの、砂女《すなめ》ちゃん」
「べつにいいではないか……しょせん、お遊びの店じゃろ?」
「遊びは本気でやるから楽しいのよ!」
きーっ、と玉藻は怒りだす。〈御方さま〉はカンラカンラと笑っていた。
「あ、あの……」
「か、母さんとこいつ……〈御方さま〉、知りあいなの?」
驚きまくる耕太とちずる。
「あら? あなたたち、知らなかったっけ?」
しれっと玉藻に答えられ、耕太とちずるはともに首を横に振る。知らない。九尾《きゅうび》の狐《きつね》と〈御方さま〉が知りあいだなんて、知らない!
「い、いま、砂女ちゃんって……」
耕太はかすれ声で尋ねてみる。
「そうなのよ。こいつの名前、砂女っていうのよ。なのに〈御方さま〉なーんて大仰な呼ばせかたさせちゃってねえ。だから口調が老けるのよね」
「やかましいわ。おぬしとてオババではないか」
「やめてよね。あなたとわたし、歳《とし》は似たようなもんでしょーに」
「肉体年齢はぴちぴちじゃ」
そういい捨て、〈御方《おかた》さま〉は空の大海神《ねおわだつみ》を見あげた。
「さて……久しいのお、彦よ」
「ええええー!」
三人とも知りあいなのー!? 耕太たちは驚きの声を高らかにあげる。そんな耕太たちにはかまわず、〈御方さま〉と空の大海神は、会話を続けていた。
「……砂女《すなめ》、おまえか。今日はよくよく懐かしいものと会う日だな」
「さて、さっそくじゃが、あわてん坊のおぬしに、ひとつ贈り物がある」
「贈り物だと……?」
〈御方さま〉は視線を砂浜後ろの林に向けた。
林の奥からでてきたのは――。
オールバックに黒スーツの男、八束《やつか》。
そして、オレンジ髪に白マントの青年、カイだった。
「父上!」
大海神は眼《め》を見開く。
「お……おお、カイか? カイなのか?」
「これで、おぬしが暴れる理由は、もうなかろう?」
「なんだ、これでおしまいなの? つまんないのー」
大海神にしみじみと語る〈御方さま〉に向かって、玉藻《たまも》は指をくわえて、とんでもないことをいいだす。いまのとんでもない状況を、このひとは楽しんでいたというの?
「よくはわかんないけど……とりあえず、解決したのかな?」
狐《きつね》の耳をぴこぴこ動かしながら、ちずるがそういった。
耕太はちずるに抱きつきながら、うなずく。そうなってくれればいい。心の底から、そう思った。
が、それはかなわなかった。
いきなり、大海神、絶叫。後ろの雷雲、ごろぴしゃーん。
「カイよ! わたしのかわいい、カイよ! そうか、こやつらか! 玉藻に砂女、こやつらが、おまえを汚したのか!」
頭を抱え、大亀《おおがめ》の上で身をくねらし、そんなことをいった。
「……なんの話じゃ?」
〈御方さま〉が怪訝《けげん》そうに尋ねる。
「うるさい、黙れ! きさまら、カイを汚したな! その身をもてあそび、清らかだったカイの純潔を、たわむれに奪い去ったな!」
「「はー?」」
玉藻と〈御方さま〉がハモった。
「おお……大陸で生まれし暗黒が塊、三国を滅ぼしそれでも足りずに我が国を喰《く》らおうとせし傾国《けいこく》の魔妖《まよう》、九尾《きゅうび》の妖狐《ようこ》、玉藻《たまも》!」
と、大海神《おおわだつみ》は銛《もり》の切っ先で玉藻を指した。
「神代の時より、肉体を失いしとても魂と成りて八千代を生きぬき、この国を裏から動かしてきた砂の悪霊、砂女《すなめ》!」
つぎは〈御方《おかた》さま〉を指す。
「おぬしら百戦錬磨の邪悪どもにかかってしまえば、純真《じゅんしん》無垢《むく》、ああ、それはあたかも陽にきらめかし凪《なぎ》の海のごときカイでは、とうていたちうちできるわけもなし……ああ、汚れた! カイは汚れてしまった!」
玉藻と〈御方さま〉はどちらも疲れ顔になった。
「「……おい」」
またハモる。
「なんだってわしらがそんな真似をせねばならぬ」
〈御方さま〉がいった。
「ホントだわ。傾国だの邪悪だの、好き勝手いってくれちゃって!」
玉藻はぷりぷりとお尻《しり》を振りながら怒っていた。
耕太はなんとなく、玉藻がおぼれていたカイに、人工呼吸と称して、キスしようとしていたことを思いだした。
大海神は叫ぶ。
「黙れ! この淫乱《いんらん》! 好色! 腹黒! 男好き! 女も好き! 色情狂めらが!」
〈御方さま〉と玉藻の顔は、すっと白くなった。
「いいかげんにせぬか、彦よ……」
「そうよそうよ! どうしてそんないいかたされなきゃならないのよ!」
大海神は、きっぱりと答えた。
「それはおまえらが……年増だからだ」
ぷっつーん。
なにかが切れる音を、耕太は聞いた。
それもふたつ、どうじに。
ひとりは玉藻、もうひとりは〈御方さま〉だった。
「あなた、いってはならないことをいったわね……」
「いくら歳《とし》をとろうとも、我ら、女ぞ。それを……」
ふたりの女性は、叫んだ。
うおおおお。
なにかが、ふくれあがった。
「うはーっ!?」
耕太たちは全員、吹き飛ばされた。
燃えあがる海の家〈玉ノ屋〉の破片とともに、宙を舞う。耕太はちずるに抱かれながら、見ると、あかねは忍び姿の雪花《ゆきはな》に抱かれ、蓮《れん》と藍《あい》は望《のぞむ》に両|脇《わき》に抱えられ、たゆらはひとりさみしくへちょーんとすっ飛びながら、砂浜へと降りたった。たゆらは、昨日の朝、蓮と藍に成敗されたときのように、頭から波打ち際に突き刺さった。
大海神《おおわだつみ》の怒りによる、風雨。
それに打たれながら、耕太たちはいま自分たちを吹き飛ばしたものを、見あげる。
玉藻《たまも》だ。
九尾《きゅうび》の狐《きつね》は暗黒|妖気《ようき》をふくれあがらせ、宙に浮かんでいた。その妖気のふくれあがりかたといったら、尋常なものではない。全長……何十メートル? もはやぽかーんと口を開けるほかない耕太たちの前で、玉藻の暗黒妖気は、かたちをぐねぐねと変えていた。
やがて、黒いコールタールのようなもやは、狐《きつね》の姿と化す。
狐のしっぽは、玉藻とおなじく、九つ。その狐の頭の中心で、緋《ひ》色の着物をはためかせた玉藻は、ぼんやりと黄金色の光を発していた。
そのとなりに立つのは、大巨人だ。
巨人の材質は、砂だった。砂浜の砂が集まって、できていた。小山のような大きさの砂巨人は、やがて、両手両足、顔をくっきりとしたものへと変えてゆく。
顔は――砂原《さはら》の顔。
いや、〈御方《おかた》さま〉の顔だった。丸眼鏡に、ソバージュヘアーもそのままで、〈御方さま〉が着てきた着物も、おなじである。
大巨人の表情は、怒りだった。
大魔神というか、アニメにでてくる巨大ロボットというか、とにかく見あげていると首が痛くなるでかさの砂人形だった。当の〈御方さま〉といえば、その大巨人の頭の上に、ちょこんと立っていた。
かたや、巨大暗黒|九尾《きゅうび》の狐。
かたや、巨大〈御方さま〉砂人形。
「だれが、年増ですって……?」
「だれが、年増じゃと……?」
巨大なふたりが声を洩《も》らす。地獄の底からの声のように、ぞっとする響きだった。
とりあえず耕太たちは逃げた。
雨のなか、林のあたりまで逃げながら、耕太は呟《つぶや》く。
「さっき、自分たちでもオババとかいいあってたのに……」
「冗談めかして自虐的なことをいっていても、いざ他人からいわれると腹がたつものなのです、小山田さま」
脇をあかねを抱えて走る雪花が、答えた。
「そうだぞ、小山田」
カイをうながしつつ走る八束《やつか》も、答えた。
「たとえ『わたしは阿呆《あほう》だな』と自分で自虐的な発言をしたからといって、実際、他人から『ああ、おまえは阿呆だな』と指摘されれば、怒り心頭に発するというものだ」
「なるほど……」
そもそも女性に年増発言は危険だったことを、耕太は思いだした。普段、めったなことでは怒らないちずるですら、怒って日焼け止めぬるぬる……。
「あの……ところで、雪花《ゆきはな》さんと、八束先生……妙に仲がよくありません?」
「気のせいです」
「気のせいだな」
ふたりはぱっと走りだした。
うーん、と首を傾《かし》げながら、耕太はちずるとともに、林のなかへ飛びこむ。
木陰から、三者を見あげた。
巨大|九尾《きゅうび》と、巨大砂人形。
そのふたりと対峙《だいじ》した洋上高くに浮いた大海神《おおわだつみ》は、ひどく小さく見えた。
しかし――大海神に、怖《おそ》れの色はみじんもない。
「素直に謝るなら、いまのうちよ、彦」
「そうじゃぞ。いまなら砂に生き埋めにするだけで許してやってもよいぞ」
「あとおしりぺんぺんね……婿《むこ》どのがちずるにおしおきするように」
ふっ、と大海神は笑った。
「黙れ、年増」
痛いくらいに凍《い》てついた静寂が、走った。
「――あなただって」
「――ジジイじゃろーが!」
巨大九尾が、大海神におどりかかった。その九本のしっぽを、ムチのようにしならせ、打ちつける。
巨大砂人形は、ギギ……と伸ばした拳《こぶし》を、頭に乗った〈御方《おかた》さま〉の指す方向――空中の大海神へと向けた。どんっ! と両腕は飛ぶ。まさにロケットパンチだった。
九尾のムチと、ロケットパンチ、ふたつの攻撃に狙《ねら》われた大海神は、手に持った三《み》つ叉《また》のごっつい銛《もり》を、「でいや!」と迫る衝撃に向かって突きたてる。
やられたのは――。
大海神だった。
なにかつぶれるような音とともに、あっという問に大海神は水平線のかなたへと消えた。
亀《かめ》はその場でぐるんぐるんとまわり、海に落ちる。
「や……やった?」
思わず、耕太が声をあげてしまった、そのとき。
き〜か〜ぬ〜わ〜。
リターン・オブ・大海神《おおわだつみ》。
大海神は帰ってきた。
大津波に乗って、ふんどしをなびかせ、高笑いをあげ、大胸筋をぴくぴくさせながら、大海神は戻ってきた。
巨大暗黒|九尾《きゅうび》が、大きく開けた口から、黒く燃える火球を吐きだす。
巨大砂人形は、〈御方《おかた》さま〉の指示に従い、着物の胸元から、ミサイルのかたちをした砂を連射した。おっぱいミサイル?
激突し、大海神ごと、津波を砕く。
水蒸気やら爆炎やら砂やらを噴きあげ、四散した。
巨大九尾と巨大砂人形、そして大海神の闘いは、激化の一途をたどっていた。
天は鳴き、地は裂け、海はとどろく……ハルマゲドンを思わせる闘いを、耕太たちは林の奥から、耳に手を当てて見守ることしかできなかった。それぞれの攻撃がいちいち大がかりなので、音がとにかく凄《すさ》まじいのだ。
だから、耕太はその声を、最初、聞き逃した。
「え?」
と耳に当てた手を外し、聞き返す。
横に立っていた黒スーツ姿の八束《やつか》が、あらためていった。
「このままではいかんぞ、小山田」
「は?」
「このままでは、この国が滅びます、小山田さま」
忍者姿の雪花《ゆきはな》までがいいだした。
「え?」
なにがなんだかよくわからない耕太に向かって、八束と雪花は説明しだす。
「御方さま、玉藻《たまも》さま、そして大海神さま……みな、その気になれば、たやすく山ひとつ吹き飛ばせるほどの力の持ち主なのだ」
「それほどの力を持ったあのかたがたの、本気の争い……危険です」
「そうだな、相乗効果もあるだろうから……下手をすれば、日本が沈むな」
「まさに、日本沈没ですね」
うんうん、とうなずく八束と雪花に、耕太はさーっと血の気が引いた。
「そ、それじゃ、どうにかしないと!」
「そうだな……」
「どうにかしなくては……」
んじーっと、オールバックの八束《やつか》、髪をポニーテール、口元を布で覆った雪花《ゆきはな》が、耕太を見つめてくる。続けて、となりにいる、妖狐《ようこ》姿のちずるを。
「……ぼ、ぼくたち?」
「ちょっと待った。どうしてわたしたちが……」
「神を説得しうるものは、ただ神だけだ。いまこの場において、まがりなりにもあのかたがたと近しい力を持つものは……」
「憑依《ひょうい》合体なされた、ちずるさま、小山田さまのほか、おりません」
耕太よりちずるより、オレンジ髪の青年、カイが驚きの声をあげた。
「こ、このかたがたに、父とおなじほどの力が? ……そういえば、耕太と、ちずる……? たしかに……あのかたがたもそんなことをいっていた……」
「おいおい、冗談じゃねーぞ!」
そこに、文字どおりカイを押しのけて割って入ったのは、たゆらだ。押しのけられたカイは、木の根っこがうねる地面につまずいて、ぎゃふっ! とこけていた。
「なんだってちずると耕太がそんなことしなくちゃいけねーんだよ! いくら力があるからって……危険を冒さなきゃならない理由にはならねーだろ!」
八束に吠《ほ》え、こんどは耕太とちずるに向き直った。
「なあ、さっさと逃げようぜ! 今回の件に関しては、おれたちはなーんにも悪くねえし、関係もねーだろ? ほうっておけよ。玉藻さんだって、砂原《さはら》だって、大海神《おおわだつみ》だって、バカじゃあない……テキトーに暴れれば、そのうち目を覚ますさ。な、な?」
ちずるが、すっと耕太を見つめてきた。
「――耕太くんはどうしたい?」
「……ぼく、ですか?」
「おいおいおい」
とたゆら。
「なにを悩むことがあるってんだ。おまえたちは正義の味方でもなんでもないんだぜ? 正義の味方はフォックス仮面だけで充分だろ!」
「やかましい」
と、たゆらの正面にいるはずのちずるが、たゆらを後ろから殴った。
痛え、と頭を押さえて振りむいたたゆらが――その涙目を大きく見開く。
たゆらをぶったのが、ちずるのしっぽだったからだ。しかも、その金色のしっぽの数は、四本にまで増えていた。
「これは元々あった、わたしのしっぽ」
と、ちずるが一本のしっぽをくねらす。
「これが新たなしっぽ……〈龍《りゅう》〉。ちなみにいまおまえを殴ったのはこれ」
続けて三本がくねる。うちひとつが、ぴこぴこと上下した。
「とりあえず、〈龍《りゅう》〉は三体までは支配下に置いた」
八束《やつか》と雪花《ゆきはな》が、おお……と小さく声をあげた。
ちずるはちら、とだけふたりに視線をやって、耕太に寄りそう。
「耕太くんに手伝ってもらえば、たぶん、あと三体も自在に操れる、はず。六龍を従えた状態なら、まあ勝てないにしても、あの場にいたって死ぬことはないはずよ」
ちずるは、闘いの続く海のほうを向いた。
雷は立て続けに閃光《せんこう》を発し、黒い火球が飛び交う。爆炎と黒雲と水蒸気のもやの隙間《すきま》に、巨大な砂人形が、コウモリのような翼を生やし、自由に飛びまわっておっぱいミサイルを連射しているさまが見えた。
「……地獄絵図だぜ」
たゆらの呟《つぶや》きに、この場にいるほとんど全員、耕太、八束、雪花、蓮《れん》と藍《あい》、そしてまわりに控えていたまだ店員姿の雪女たちも、無言の同意を見せた。気絶しているあかねと、いつ持ちだしたのか、手に持ったラーメンのどんぶりをすする望《のぞむ》だけは、べつだったが。
地獄絵図から、ちずるが視線を耕太に向けてきた。
「どうする、耕太くん。わたしは耕太くんに従う」
「おい、ちずる……」
なにか喋《しゃべ》ろうとしたたゆらを、ちずるは眼《め》で睨《にら》みつけ、黙らせる。
「たゆらの言葉も、正しいのよ、耕太くん。たしかにこの闘い、わたしたちは関係ない。べつに逃げたところでかまいやしない。相手は神さまだもん……だれも責めたりしない。だけど耕太くんは……どうにかしたいんでしょう?」
にこ、と微笑《ほほえ》んだ。
耕太は、もごもごと唇を噛《か》む。
たしかに、どうにかしたかった。
もしも本当に、ちずると合体した自分の言葉で、玉藻《たまも》が、〈御方《わかた》さま〉が、大海神《おおわだつみ》が争いを止めてくれるのならば、やってみたかった。
だけど――。
「怖い、です」
ほら、やっぱり見ろ! と得意げになったたゆらを蹴飛《けと》ばし、ちずるはやさしく問いかけてくる。
「怖いのは、闘いじゃない……そうだよね?」
「はい」
耕太はちずるの金色の瞳《ひとみ》を見つめた。
「たしかにちずるさんのいうとおり、みなさんを止めたいです。玉藻さん、砂原《さはら》先生たちを、止めたい気持ちはあります。でもそれ以上に……また、〈龍〉に操られて……怒りに我を忘れて、わけがわからなくなって、大暴れしちゃったら……ぼくは、それが怖い」
「だいじょうぶ」
ちずるはいった。いいきった。その眼《め》には、静かながら強い光が宿っていた。
「もう、耕太くんはおかしくなったりなんかしない。わたしが……させないから」
「うん。耕太は負けないよ。ついでに、ちずるも」
いつのまにかとなりにきた望《のぞむ》が、空になったどんぶりを手に、いった。
「パパー、ママー」
「がんばってー!」
とは、蓮《れん》と藍《あい》。
耕太はちずるを見つめて――そしてうなずく。
三大怪獣の闘いは、いよいよ大詰めを迎えていた。
しっぽが四本ちぎれた巨大暗黒|九尾《きゅうび》と、右腕、左足をなくして、それでも背のコウモリ型の羽でゆったりと浮かぶ巨大砂人形、そして、海の上、肩で息をし、鍛えぬいた赤銅色の肌のあちらこちらを傷つけた、大海神《おおわだつみ》。
三者は、しばらく見あい――そして、どうじに動いた。
大海神が、銛《もり》を雷雲に向かって突きあげた。
「ぬおおおおおお!」
落下した雷を浴び、大海神は吠《ほ》えた。
吠えながら、大海神は雷をその身にまとう。ばちばちと輝く白い雷球と化して、宙に浮かびあがった。
砂人形の上の〈御方《おかた》さま〉は、握りしめた拳《こぶし》から、金色の砂をさらさらと流す。
金色の砂はくるりと輪を描き――黄金の輪を、作りあげた。
〈御方さま〉の動きを眺めていた玉藻《たまも》が、あきれたように呟《つぶや》く。
「それ、ヒヒイロカネ? 古代の昔から、ずいぶんと物持ちいいことで……さて、武具なんていう無骨なものには頼らない、エレガントなわたくしは……」
巨大暗黒九尾が、さらにふくれあがった。
その大きさが倍ほどにもなり、さらにはちぎれた四本のしっぽをも再生させる。
「――やっぱり、肉体よね!」
雷をまとった大海神が、銛を振りあげ、投げつけんとする。
〈御方さま〉は黄金の輪を放《ほう》らんとする。
超巨大九尾と化した玉藻は、頭から飛びかからんとする。
ついに三者が激突する、その瞬間――。
「ま、待ってくださぁい」
ちずると合体し、ちずるのしっぽと〈龍《りゅう》〉の燃えるしっぽ六本、あわせて七つのしっぽを生やした耕太は、三人のあいだに飛びこんだ。飛びこんで、気づいた。
あれ? ぼく、やっちゃった?
それに耕太が気づいたのは、眼前に雷光まとい輝く銛《もり》と、空気を切り裂く黄金の輪と、巨大|九尾《きゅうび》の頭が迫ってくるのを目の当たりにしたときだった。
「――あ」
(――あ)
ぐちゅっ。
耕太と憑《つ》いたちずるは一緒に声をあげながら、すべてをまともに喰《く》らった。
雷を帯びた銛を、すべてを断つ黄金の輪を、巨大九尾の圧力を、すべて、その小さな身に喰らった。
衝撃で、雲が吹き飛ぶ。地が揺れる。海が弾《はじ》け飛ぶ。
それを遠く、林から見ていたたゆらは「……死んだな、こりゃあ」とこぼし、望《のぞむ》と蓮《れん》、藍《あい》にぽかーん、と殴られた。
「……ぬかった!」
〈御方《おかた》さま〉は黄金の輪を投げつけた姿勢のまま、叫んだ。
「あ……やっちゃった?」
玉藻《たまも》は口元を手で押さえた。
やがて――もやが晴れ。
耕太は生きていた。
すっかり服は吹き飛び、すっぽんぽん状態ではあるものの、黒い毛なみの狐《きつね》の耳を生やし、しっぽを七本生やした耕太は、傷ひとつなく、そこにいた。脇《わき》には大海神《おおわだつみ》の銛を、口には黄金の輪をくわえ、立っていた。
(しっかりして、耕太くん!)
耕太の脳内で、ちずるが必死に叫ぶ。
まだはっきりしない意識で、耕太は答えた。
「だ、だいじょうぶれふ」
しかし口がうまく回らない。視界もぐるぐるしていた。
(耕太くん……あなたの名前は?)
「おやまら、こうら」
(歳《とし》は?)
「十七さい」
(わたしの名前は?)
「みなもろ、ひふる」
(耕太くんとわたしの関係は?)
「こいひと」
(あなたはわたしを?)
「あいしてまふ」
(あーん、わたしもー!)
七本のしっぽがくねった。
「……あの、ちずるさん」
耕太はどんよりした頭を抱え、ちずるに尋ねた。
(なに、耕太くん?)
「ぼく、いま……なにをしてたんでしたっけ」
へにゃ、としっぽが垂れた。
(目の前にいるでしょ、おっかないのが三人。そいつらのケンカを止めにきたのよ)
たしかにいた。
ふんどしをしめた大きな男のひとと、砂の山の上に乗った、着物姿の女のひと。あとは、黒いもやをまとった、やはり着物姿の女のひとだ。
「ケンカ……どうして……」
(ほら、そこのふんどし魔神が、残りのおばさん妖怪《ようかい》ふたりに、淫乱《いんらん》だの好色だの、男好きだの女も好きだの、腹黒だのぬかして、あげくに大々々年増なんていったから……)
「……どうして、ふんどし魔神さんは、そんなこといったんですか?」
(おばさん妖怪ふたりが、ふんどしの息子に……いたいけな少年にいたずらしたと思いこんだみたい、だけど)
「いたいけな……少年……」
耕太の意識ははっきりしてきた。
「わかりました……わかりましたよ、ちずるさん」
耕太は大海神《おおわだつみ》を指さした。
「ふんどし魔神さん!」
「……わたしのことか、もしかして」
大海神は低い声で聞き返してきた。
「たしかに……たしかに、ちずるさんは、淫乱で好色かもしれません」
(……へ?)
耕太の脳内で、ちずるが声をあげた。
「男好きで女も好きかもしれません」
(あ、あのー、耕太くん? な、なにか、とても大きな勘違いしてなあい?)
「おまけに、腹黒で、大々々年増かもしれません!」
(耕太くん!?)
「だけど、それでも、ぼくは、ぼくは、ちずるさんを愛してるんですっ!」
絶叫した。
なぜか大海神は遠い目をしていた。ええい、と耕太は覚悟を決める。
「証拠を見せますっ!」
耕太はちずると離れた。
背から、ずるりと裸のちずるがあらわれる。
「ああ……耕太くん。わたし、悲しめばいいのか喜べばいいのか、わかんないよ……」
と、ちずるは笑みを浮かべながら涙を流していた。
耕太はそんなちずるを空中で抱きしめた。
口づけする。
ちずるは驚き、眼《め》を見開くも、やがて耕太に抱きつき、幸せそうにまぶたを閉じた。
そのまま――熱烈なキスをしたまま、まだ荒れ狂う海に、耕太とちずるは落ちてゆく。
「いかん」
そういって〈御方《おかた》さま〉が飛ばした砂に包まれたまま、耕太とちずるは落ちて――。
どっぱーん。
派手に水しぶきをあげた。
大海神《おおわだつみ》は沈んだままの耕太とちずるを見おろし、ひとこと洩《も》らした。
「……なんなのだ、いったい」
その顔からは、さきほどまでの荒々しいものが、すっかり消え去っていた。
玉藻《たまも》と〈御方さま〉は視線を交わして、互いにふふっ、と微笑《ほほえ》む。
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[#小見出し]  八、闘いが終わり、宴が始まり、そして……[#「八、闘いが終わり、宴が始まり、そして……」は太字]
太陽の沈みゆく、水平線――。
その光に赤く照らされながら、あぐらをかいた大海神は豪快なバカ笑いをあげていた。
「まったく、誤解ならそうといえばいいものを!」
「なんどもいったでしょーが」
「まったくじゃ」
と、玉藻《たまも》、〈御方《おかた》さま〉に突っこまれる。
「昔からバカなところはちっとも変わっとらんのう、おぬしは」
「それだけわたしが純粋だということだな、うむ」
「成長してないっていってんのよ」
はっはっは、とまたもバカ笑いする大海神。
手に持っていたとっくりをぐい呑《の》みする。まったく……と苦笑いしつつ、玉藻は大きな杯を、〈御方さま〉はおちょこをあおる。
三人が酒を酌み交わしているのは、かつて朔《さく》とカイが闘った、崖《がけ》の上だ。
カイが祭られていたほこらを横に、三人は輪になって飲んでいた。
「それにしても、あの若者……なかなかやるではないか。我々の本気の攻撃を喰らって生きているやつなぞ、そう滅多にいるものではない」
「わたしの娘の婿《むこ》どのなのよん」
とうれしげな玉藻《たまも》。
「耕太《こうた》というより……ちずるめの力じゃがの」
「わたしの娘なのよん」
えへへ、と笑う玉藻。
玉藻は酒を自分の大きな杯にくみ、〈御方《おかた》さま〉にもつぐ。
「で、どうなの……わたしの愛娘《まなむすめ》のしあがり具合は」
「それを確かめるために、わざわざこんなひと芝居をうったのではないのか? ま、おぬしの場合、芝居の前にいろいろ余計なちょっかいをだしてくれたようだが」
ふふふー、と笑う玉藻。
大海神《おおわだつみ》は片|眼《め》をしかめた。
「おまえら……またなにか悪だくみをしているのか? 四千年だったか……それだけ生きればもう充分、この世に未練もあるまい。そろそろ滅したらどうだ」
「その言葉、おまえにそっくり返すわよ」
ぴん、と玉藻はおつまみのたくあんを大海神にぶつけた。
「わたしはまだだ。カイが一人前になるのを、この目で見るまではな……」
「それではいつになるかわからんの……おぬし、ちいと過保護すぎやせんか?」
「親が子の心配をして、なにが悪い」
大海神はおでこにたくあんを貼《は》りつけたまま、口をへの字にする。
「心配は結構だが……ときには突き放してやるのも、親のつとめと思うがの」
「そうよー? 甘やかすだけじゃ、子供はいつまで経《た》っても一人前にはなれないわ」
「おぬしはちと放任主義すぎると思うが」
「しかたないでしょ。あの子ったら、すーぐに家出しちゃうんだもの。家出して、不良|狼《おおかみ》とつるんじゃって……ん?」
不良狼? と玉藻は首を傾《かし》げた。
「なにか忘れてるような気、しない……?」
「ん? そういわれてみれば……」
首を傾げだしたふたりに、大海神が声を荒げる。
「なにを悩んでおるのだ、おまえら。こんなときぐらい悪だくみはやめろ、やめろ。ほれ、呑《の》め呑め!」
くー、と呑む、三人。
大海神《おおわだつみ》と玉藻《たまも》、〈御方《おかた》さま〉が酌み交わす、岬。
その岬から覗《のぞ》ける砂浜で、耕太たちは夕焼けのなか、バーベキューをしていた。
けっきょく、今日は帰らないことにしたからだ。無理をすれば帰れないこともなかったが、天変地異に近い闘いを前に、みんなぐったりと疲れ切ってしまった。
と、いうわけで、望《のぞむ》ははぐはぐと肉を食べまくり、蓮《れん》と藍《あい》はエビを割りばしで奪いあい、あかねはそれをたしなめ、たゆらはひたすら焼いているのだった。
そして、そこからちょいと離れた場所で。
ちずるはしゃがみこみ、砂を指でいじいじとえぐっていた。
そんなちずるのとなりで、耕太はひたすらおろおろするばかりだ。
「ちずるさん……」
「いいんだ、いいんだ。耕太くん、本当はわたしのこと、淫乱で好色で男好きで女も好きで、腹黒な上に大々々々々年増だって思ってるんだ。そーなんだ」
「そ、そんなことは」
「いいんだ、いいんだ」
「ぼく、さっきのことぜんっぜん覚えてないんですよう、ちずるさあん」
八束《やつか》と雪花《ゆきはな》は、バーベキューを楽しむたゆらたち、いじけるちずる、なぐさめる耕太たちを、遠く、焼け跡も生々しい海の家〈玉ノ屋〉あとで眺めていた。
ふたり、並んで皿の料理を食べる。
ピーマンを食べながら、八束は雪花に尋ねた。
「あの件……考えていただけますか」
「時は近い……そういうことですか?」
八束はうなずく。
「玉藻さまと、相談してみます」
「是非」
あかねが蓮と藍の皿に玉ねぎを載せた。
「えー」
「あかねセンパイ……」
「好き嫌いしないで食べるの。じゃないと、ほら、ちずるさんみたいに、おっぱい大きくならないわよ?」
うー、と玉ねぎを見つめる蓮《れん》と藍《あい》。
「ほら、望《のぞむ》も」
望は皿をあかねから遠ざけ、ふるふると首を横に振る。
「いい。耕太、ちっちゃいおっぱいも好きだから」
「あのね、そういう問題じゃなくて」
汗をかきかき、肉を焼いていたたゆらは、あかねに話しかける。
「あのよ……朝比奈《あさひな》」
「うん? なあに、源《みなもと》」
「その……なにも訊《き》かねえの?」
「なにが?」
「なにって……ほれ、ふんどしオヤジの件とか」
怪訝《けげん》そうな顔をするあかね。
「なんの話? 雷のことなら、あれは異常気象でしょう? あとはわたし、ずっと気絶していたから……あーあ、けっきょく、今日、泳げなかったわね」
と、すっかり晴れた海を見つめた。
カイは離れた場所の岩に座りこみ、うなだれていた。
まわりには雪女の店員たちがいた。みんな手に焼きそばや焼きうどんなど料理の載った皿を持って、カイに勧めていた。
「やめてください……わたしはいま、おのれの無力さに打ちのめされているんです」
「やーん、悩んでいる顔も、カッコイイー!」
普段、男っ気のない雪女たちを阻むものは、だれもいなかった。
そこに、耕太はくすん、と泣くちずるとともに、向かう。
カイは立ちあがり、深々と頭をさげた。
「すみませんでした! わたしのせいで、あなたがたには大変な迷惑をかけてしまって……」
「いえ、そんなこと……」
と耕太は両手を広げて、ぶんぶんと振る。
「あの、聞きました。ここから、玉藻《たまも》さんの温泉のある山までいって、さらにそこからぼくたちの学校までいってきたって」
「ええ……ですが、けっきょく、なんの役にもたちませんでした」
とうなだれるカイ。
「耕太さん、とおっしゃいましたよね。わたしは、あなたがうらやましい」
「え? ぼ、ぼくがですか?」
「はい。わたしにあなたほどの力があれば……父を失望させることもないでしょう」
耕太はぽりぽりと頬をかく。
「あれはぼくの力じゃあないんです。ちずるさんの力で……」
「違うよ、耕太くん。耕太くんとひとつにならなくちゃ、あれだけの力はわたし、だせないもの」
「いや、でもやっぱり」
「そうなんだってば、耕太くん」
ちずるとゆずりあっているうち、ふいに耕太はまわりから視線を感じた。
雪女たちだった。
「あーあ……いいなあ、ラブラブでー」
ちずるはいいでしょー、と耕太と腕を組み、まわりに見せつけた。
耕太はぼく、いま顔が真っ赤だろうなあ……と思いながら、カイを見つめる。
「えーと、あれは、ぼくとちずるさん、ふたりの力ということで……」
いや、そうじゃない、と首を横に振った。
「みんなの力です。みんなが、ぼくたちのこと、信頼して、応援してくれたから……だからきっと、どうにかなったと思います」
と、バーベキューしているたゆらたちを示した。
「みんなの力……」
カイはうつむき、呟《つぶや》く。
「そうだ。わたしも、あのかたたちに鍛え直してもらえば……」
「あのかたたち?」
「そうです。あのかたたち……あのかたたち?」
みるみるカイの表情が変わってゆく。
「あ――――――!」
絶叫した。
そのころ……。
大海神《おねわだつみ》の宮殿内にある牢獄《ろうごく》では、朔《さく》と弦蔵《げんぞう》が、夕食のコンビニ弁当を食べていた。
「いま、どうなってんですかねえ」
もぐもぐとチャーハンをかきこみながら、朔がいった。
「さあな……」
トンカツ弁当のやけにピンクな漬け物を齧《かじ》りながら、弦蔵が答えた。
「大海神にボウヤの不在を気づかれてしまって、大騒ぎになって、それで……」
「これ、朔よ。牢《ろう》にいる身で悩んだところで始まるまい。ほれ、野菜をやろう」
弦蔵はカツの下敷きになっているレタスを朔のチャーハンの上へと放《ほう》る。
「いりませんよ、そんなの……」
「野菜を食うのも修行のうちだ」
ちぇ、と舌打ちする朔。わしゃわしゃとしなびたレタスを食らった。
そんなやりとりをするふたりの牢には、もうひとり、新入りの姿もあったりした。
格子につかまり、廊下に向かって叫ぶその女性は――。
「カイさまー! わたしは信じておりますからねー!」
王子不在の責任をとり牢にぶちこまれたバニーは、どこまでもカイへの信頼を寄せるのであった。
その後、朔と弦蔵は無事に助けだされ、また全国へきままな旅にでたり。
その旅に、オレンジ髪の青年と、バニー姿の女性がむりやりついていったり。
そして、夏休み明け、耕太の学校に、新任の保健医として、蒼《あお》い髪をポニーテールにした女性がやってきたりと、いろいろあるのだが――それはまた、のちほどのお話。
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[#小見出し] ごめんよー、ごめんよー、いろいろとごめんよー[#「ごめんよー、ごめんよー、いろいろとごめんよー」は太字]
「おまえ……ごめんなさい以外の言葉を知らないの?」
と、軍帽にボンデージ・ファッションのすこしきつめな顔つきをした美熟女に、ムチの柄であごをぐりぐり〜っと突きあげられても、今回ばかりは「ごめんなさい、ごめんなさい」とくり返すほかない、こんにちは、わたしが西野かつみです。(挨拶)
はい、かのこん六巻、どうでしたでしょうか。
わたしは今回はひどかったです。なにやら途中、書いていてわけがわからなくなって、試行錯誤をくり返して、さらにわけがわからなくなり、またいろいろやって、やっぱりわけわからなくなって、ぐちゃぐちゃで、結果、作業時間も阿呆《あほう》みたいに増えてしまって、ああ、迫るよ迫るよ締め切りが……なんていうダメスパイラルに陥ってしまいました。
思ったことは、絶対、編集者にはなるまい、と。
だって本当、ひどい目にあいまくりなんだもん、わたしの担当さんは。あ、さっきのまちがい。「西野かつみ」というもの書きの担当にだけはなるまい、でした。まったくよー、西野ってやつはめんどくせーんだよなー。「もうぼくだめー」なんてグチだけならともかく、「三十路《みそじ》は熟女か否か?」なんて熱く語ってくるんじゃねーっつんだよなー!
そんなダメもの書き、西野かつみがお送りいたしております、かのこん。
なんと、漫画化しております。
この小説のオビに広告が載っていたりするコミックアライブにて、絶賛連載中でございます。いやー、ためになりますね。だって、たとえば耕太の通う学校がどんな校舎かなんて、わたし、ぜんっぜん考えてないんですもん。それが、絵になっているわけですよ。こいつはすげーや! 資料にしなくちゃ!(ダメ発言) みんなも読みなよ!
さらにね、CDドラマにもなるんですと。
びっくりですね。信じられませんね。どうしてかのこんが漫画になったりCD化したりするかといえば、これはもう、みなさまのご声援のおかげでございます。えっちな小説大好きな、えっちなみなさまのおかげ! あ、ごめんなさい! えっちなのはわたしだけでした! みなさまは純粋|無垢《むく》な天使です! 美熟女です! ぼくを打って! ムチで!
あ、そうそう、今回、狐印《こいん》さんのイラストには大注目です。
いつもいつもステキで、きっと漫画化やCD化の要因の半分は狐印さんのイラストのおかげ(あと半分はみなさまのお・か・げ)だと感謝しておりますが、とくに今回、カラーピンナップの裏の登場人物一覧は、きっとすごく大変だったと思うんだなー。
担当さん、狐印さん、そして応援してくださるみなさまのおかげで、なんとか続いております、かのこん。できうれば、あとしばらくダメ作者の背中を押してくださいませー。
平成十八年十二月 ちょっとだけなら、痛くしてもいいよ?[#地付き]西野かつみ
発行 2007年1月31日(初版第一刷発行)
2008/06/10 作成