かのこん 5 〜アイをとりもどせ!〜
西野かつみ
[#小見出し] 一、春だ、桜だ、ぱいぱいぷー[#「一、春だ、桜だ、ぱいぱいぷー」は太字]
都会なんだなあ……。
おでこからしたたる汗を拭《ぬぐ》いながら、耕太《こうた》は思った。
校庭のまわりでは、桜をはじめとした、さまざまな樹木、草木が、芽吹き、育ち、咲き、あざやかに色づいている。まさに春まっただなか、うっきうきのぽんだ。
日ざしもぽかぽかと暖かい。
もう暑いくらい……なのは、たったいま、耕太が体育の授業を終えたからだ。
でも、と耕太はまた汗を拭う。
たしかにさっきの授業はサッカーだったし、中盤の底として耕太は走りまわった。それにしたって、ほんの三日前、新二年生として始業式をやったばかりだというのに、やけに暖かい。暖かすぎる。これは耕太の知っている、四月上旬の気候ではない。
なんたってもう、桜だって散りかけているくらいだし。
薄桃色の花びらを踏みしめながら、耕太はふたつのボールを足で転がして、グラウンドの隅にある用具室を目指す。腕には一チームぶん、十一人ぶんのビブス――チームの区別をつけるため、体操着の上に着るメッシュのベスト――を抱えていた。ほかのクラスメイトはつぎの授業のためすでに教室に向かっている。今日は耕太が片づけの当番だった。
「やっぱり……ここは都会なんだよね……」
汗をかきかき、手でふきふき、耕太は呟《つぶや》く。
耕太は去年秋、山と川と草木がいっぱいある、逆にいうとそれしかないところから、ここ、私立|薫風《くんぷう》高校へ転校してきた。まだぴかぴかの一年生のときだ。
故郷は雪深い地なため、春のおとずれは遅い。
だから、耕太の知っている四月上旬は、まだこんなに暖かくはないのだ。桜なんてこれから咲き始めるところなのだ。いまは梅が見ごろで、おじいちゃんの梅酒はおいしいのだ。
なんだろう、耕太、しんみり。
転校して半年……最初のうちこそ、ビルやウォッシュレットのトイレ、人の多さやその服装に、耕太は故郷と都会の差を、違いを感じていた。が、最近ではもう、慣れてしまい、都会におどろくことも、ふるさとを想《おも》うこともなくなっていた。
だけどいま、春の違いに、耕太は都会との差を強く強く感じた。
差を感じて、ふるさとを想った。
まだつぼみだろう桜を想って、静かにため息をついたら、用具室にたどりついていた。
校庭隅の木陰にある用具室は、小さな小屋だ。
なかはやけに暗い。窓はひとつあるようだったが、ところ狭しと置かれた道具類のため、春の陽光はほとんどさえぎられていた。
「よし……っと」
床にあった段ボール箱にビブスをごちゃっと落とし、ここまで足で転がしたサッカーボールを手で拾いあげる。金属製のかごに放りこんだ。
両手をはたいて、ボールに触れてついた土ぼこりを払い、さあ、教室へ帰ろう――。
「ふご!?」
いきなり背後から口をふさがれた。
突然の襲撃者は、耕太を後ろから押さえつけ、そのまま用具室の戸を閉める。すっかり室内は暗くなってしまった。
闇《やみ》のなか、耕太は揉《も》みあうかたちで、襲撃者に転ばされる。
なにやらやわらかいものの上に、背中から抱かれたまま、倒れた。おそらくは高跳び競技のときに使う、ぶ厚くて大きなマットだろう。
もが? ふが? ほが?
耕太はすぐに緊張を解き、身体の力をぬく。
相手がだれか、わかったからだ。
背中にむにぐにうにんと押しあてられている、ふたつの大きな大きなふくらみ――高跳び用マットの質感とはくらべものにはならないほど、とろやか〜で重やか〜な感触が、その持ち主の正体を雄弁に物語っていた。
耕太は口元を覆う相手の手をつかみ、そっと外す。
「いったいどうしたんですか、ちずるさん」
ふふ……と背中の恋人が、低く笑った。
都会にきて、この学校に転入して、そうして出会った、耕太の恋人……。
「あーあ、バレちゃった……ね、どうしてわかったの、耕太くん。愛? やっぱりそれは愛? 耕太くんの無限の愛が、わたしの正体をすぱーんと教えてくれたの? ねえ……」
耕太は黙っていた。
だって、じつはおっぱいがぼいーんと教えてくれたんです、なんてとてもいえないし。
「あの……ちずるさん……?」
耕太に後ろからくっついたまま、ちずるはぴくとも動かなかった。
ただでさえ体育のあとで暑いところに、背中から密着されたまま、やわらかなマットに一緒に沈んでいたりするものだから、耕太の身体はじっとりと汗ばみだす。
「ほら、早くしないとつぎの授業、始まっちゃいますから。ね、ちずるさん」
耕太の腰を後ろからがっちりとつかんでいるちずるの腕には、なんの反応もなかった。
代わりにちずるは耕太の頭に埋《うず》めていた鼻を、すんすん、とうごめかす。
「ああ、耕太くんの匂《にお》い……体育のあとの、いっぱいの汗……すてき……」
「ちょ、ちょっと、ちずるさん、な、なな、なにをやってるんですかっ」
耕太はもがいた。どうにかちずるの腕をふりほどき、身体を起こす。
「あ〜ん、逃げられたあ〜」
「逃げられた〜、じゃなくてですね……」
あぐらをかいた格好で耕太は振りむき、口を開けたままとなった。
寝転がったまま、甘えるように両手を伸ばすちずるが、体操着姿だったからだ。
ようやく薄闇《うすやみ》に慣れてきた耕太の眼《め》は、ちずるの白い丸首の体操シャツと、えんじ色のジャージズボンをとらえている。ちなみに耕太のジャージは水色だったが、それは学年によって色が違うからだ。耕太は二年生で水色、ちずるは三年生でえんじ色なのである。
彼女の髪は、ポニーテールに束ねてあった。普段、ちずるは腰まで髪をおろしているのだが、きっと運動しやすいようにまとめたのだろう。
「ちずるさんも……体育だったんですか?」
耕太に続いて、ちずるも身体を起こした。
うふふー、と笑いながら、ぽん、といきおいよくマットから立ちあがる。
そのまま歩きだした。
用具室のなかはとても暗い。さらに、ごちゃごちゃと道具が置いてある。そのため、とても手探りじゃないと動けないはずなのに、ちずるは自在に歩きまわっていた。
まあ、当たり前か、と耕太は闇のなかをうごめく白い背中を見て思う。
だって彼女は、人間じゃあないんだもの……。
「わたしはね、さっき体育館でバレーだったの。ほら、体育館と校舎をつなぐ通路ってあるじゃない? 屋根があるだけの吹きぬけで、校庭が丸見えのところ。そこからね、後片づけで耕太くんが用具室に向かうのが見えたものだから……つい」
「つい……で、こんなことを?」
「だって、しかたないじゃない。ふたりっきりになれるかなーって思ったら、胸がこう、きゅん……ってなっちゃったんだもん……あ、あったあった」
折りたたみ式の小さなパイプ椅子《いす》を手に、ちずるは戻ってきた。
部活動のときにでも、顧問の先生がふんぞり返って座る椅子だろうか。ちずるはその椅子を開き、マットの横に置く。
はい、どうぞ座って、とうながされた。
「あの……いったいなにを……? というか、ダメですよ、ちずるさん。休み時間は十分しかないんですから……ほら、つぎの授業、もう始まっちゃいますよ」
なかば強引に座らされながらも、耕太はちずるを手で抑えるしぐさをする。
「じゃ、さっさとすませちゃお。ね?」
「え?」
ちずるが、自分のジャージのズボンに手をかけた。
するん、と赤い短パンが覗《のぞ》く……と思ったら、一気にズボンを足首までおろしていた。
輝かんばかりの生足が、耕太の網膜を灼《や》く。
ああ……むっちりもちもちとした太もも……つるんとしたひざ小僧……黒い靴下に、半分まで包まれたふくらはぎ……なんて美しい……。
――はっ。
耕太はかたくまぶたを閉じ、首を振って、網膜に焼きついた生足映像を追いだす。
「だ、だだ、ダメです! ぼくはもう決めたんです! ぼくも二年生になった以上、いままでの自堕落な、流されるだけのふしだらな日々には別れを告げて、高校生らしい、マジメな学生生活を送って……そして、そして、ちずるさんにふさわしい、立派なオトコノコ――じゃなくて、オトコになるって!」
「うん。オトコになって、耕太くん」
真上から聞こえた声に、え? と耕太はまぶたを開けた。
目の前に、白い体操着がある。
ちずるは、椅子に座った耕太を、あのむっちりもちもちな生足を広げてまたぎ、上から見おろしていた。角度的に、筋骨隆々ならぬ柔肉隆々な胸の双球のあいまに、まるで初日の出のように彼女の顔は見えた。
「わたしでオトコに……ね?」
ちずるは自分の頭の後ろに手をまわし、ポニーテールをまとめていた髪ゴムをひきぬく。
首を振ると、ぱさっと髪は元通り、背中に垂れた。
「あ……だ、ダメです、ちずるさん、ダメ、ダメ……」
ちずるは、椅子に座る耕太の上に、うぬん、と腰かけてきた。
向かいあったまま、耕太の首に両腕をまわし、ぐっ、と深く腰を入れてくる。あの太ももが――というより、内ももが、すきゅっと耕太のおなかを挟みつけてきた。
そうして、耕太を抱きしめる。
耕太は、眼前にそびえたつ、おわん状のふたつの山……体操着を下からつきあげ、ずおーんと迫りくるちずるマウンテンに、顔面からダイブした。
だっぽん。
ふがふがふー、と耕太は手をばたつかせる。
「ね、耕太くん……」
ちずるのささやきに、耕太はもがきを止めた。
「わたしにもね、耕太くんのように、三年生になっての目標があるの。半年前、耕太くんと出会ってから……キスして、抱きしめて、裸を見て、見られて、お尻《しり》を触られて、ぺんぺんもされて、おっぱいをちゅうちゅうって……ね、いろいろしたよね」
した。たしかにした。してしまった。
ちずると出会って半年……わずかといえばわずか、長いといえば長いあいだに、耕太はさまざまなことを経験した。自堕落でふしだらな日々を、ちずると送った。
でもそれは、えっちなことばかりじゃあ、ない。
学校の番長であるヒグマの妖怪《ようかい》と闘い、ちずるの昔の知りあいであるオオカミの妖怪と闘い、彼女の母親である九尾《きゅうび》の狐《きつね》には温泉旅館でこきつかわれ、ああ、そういえば、だいだらぼっちなんて大巨人もいたなあ……ハイジャック犯とも闘ったなあ……。
そして――耕太の妹だと名乗る、なぞの少女であり青年、三珠《みたま》美乃里《みのり》。
彼女……彼? との闘いは、妙に印象に残っている。
自分とよく似た顔つきの少女、美乃里とは、また出会い、そして闘わねばならない……。なぜか耕太にはそんな予感めいた思いがあった。
そういった妖怪たちとの出会いと闘いは、そのほとんどが、いま耕太を抱きしめている彼女、源《みなもと》ちずるをきっかけとしていた。
もちろん、ちずるも普通の人間ではない。
彼女は自称四百歳の妖怪、化け狐で、そして、なぞのしっぽを持つ――。
ぐりん。
腰を走りぬけたしびれに、う、と耕太はうめく。
耕太の腰に、自分の腰を上から重ねていたちずるが、あやしげな動きを始めたのだ。やわらかな内もも……の、そのど真ん中部分が、うにん、と円を描く。
「ひゃっ! ち、ちずるさん!」
そう耕太は叫んだつもりだ。しかし言葉はちずる山脈の深いちずる谷に吸いこまれてしまい、意味をもってはくれなかった。ただ、ふがふがふー、とだけ。
「耕太くんの二年生になっての目標、聞いたから……わたしも、三年生になっての目標、教えてあげる……」
熱い吐息が、耳たぶにかかる。ぞびぞびと耕太は震えた。
「それはね、まだオンナノコなわたしを、耕太くんに……オンナにしてもらうこと……」
ぶげほ、と耕太はちずるの胸のなかで咳《せ》きこむ。
どうにかちずるから逃れようとした、そのとき。
ぐりりん。
また腰を回され、耕太は座っていた椅子《いす》をがたがたと鳴らす。
「ほら……耕太くんのオトコノコ、すっかり元気いっぱいだよ?」
たしかに元気であった。そりゃ、この状況じゃしかたがないっス。
「わたしのオンナノコも……準備万端……かも」
ぶはひ、と耕太はまたちずるの胸で咳きこんだ。
ちずるは甘やかな腰の動きを止めようとはしない。うにん……くにん……ぬにん……パイプ椅子はきしきしときしみ、耕太は身体の中心を襲うしびれに、ひたすら身震いした。
「ね、耕太くん……いやらしい女は、キライ? あのね、わたし、すごくいやらしい、えっちなことしてるって、自分でもわかってる……でもね、そうでもしないと、耕太くんのほうからは、きっとしてくれないし……」
わずかに、耕太の頭を抱いていた力がゆるむ。
耕太は埋《うず》まっていた胸の谷間のなか、顔をふにふにとずりあげ、ちずるを見あげた。
彼女の瞳《ひとみ》はうるみ、揺れていた。
「好きなの、耕太くん。好きで好きでしかたがないの。だから……えっちになっちゃうの」
ぎゅ、とあくまで軽く、耕太を抱きしめる。
体育のあとだからだろうか、ふくらみはいつもより熱く、ふかふかだった。まるでお日さまに干したふとんのような感触に、耕太のまぶたは自然に落ちる。顎《あご》を埋めた谷間からは甘い香りが立ちのぼり……奥に濃密さを秘めた、ちずるの香りが……。
ぼくは……ぼくは……。
「ね、耕太くん……。わたしのものに……なって……?」
ちずるのささやきが、耕太の脳を揺らす。
うおおおお、と耕太は心のなかで叫んだ。おのれの中心もびびんと絶叫した。そして。
ぱいぱいぷー。
すべてをゆだねた。
眼《め》を閉じ、ちずるに体重をあずける。それを見てとったちずるが、ゆるやかな腰の動きを再開し、電気のような刺激を耕太の腰に駆けぬけさせても、ただ、うめくのみ。
ん、んん……。
ちずるもかすかに声を洩《も》らし、甘酸っぱい匂《にお》いを放ちだす。耕太の頭はくらんできた。
遠く、チャイムが鳴る。
きーん、こーん、かーん、こーん……つぎの授業の始まりを告げる合図だ。
しかし耕太はぱいぱいぷー。用具室の戸がするすると開き、まぶしい光が差しこんでも、ぱいぱいぷー。近づくだれかの気配を感じても、耕太はとことん、ぱいぱい……。
「ぷぷぷー?」
さすがに顔をあげた。
闇《やみ》に慣れた瞳《ひとみ》に、外の光はまぶしい。眼《め》を細め、逆光のなか、やけに髪をきらめかせる華奢《きゃしゃ》な姿の来訪者をとらえ……相手が銀髪の少女だと知って、耕太はほっと息をつく。
ちずるは彼女に向かって、ぶんぶんと手を強く振っていた。
「望《のぞむ》、なにやってるの! 外から見られちゃうでしょ、早く閉めて、閉めて」
彼女はおとなしく従い、戸を閉めた。
室内を薄闇《うすやみ》に戻して、耕太たちのほうを向く。
「ねーねー、耕太とちずるはー……ここで、ナニやってるの?」
銀色の瞳をぱちくりさせて、首を傾《かし》げた。
暗がりのなかでも、その銀色の眼と髪はよくわかる。傾けた顔の角度に応じて、耳の前を伸びた髪が、さらさらと頬《ほお》をすべった。
彼女の姿は、耕太やちずるとおなじく、上は白い丸首の体操シャツ、下はジャージだ。
それは彼女が耕太のクラスメイトで、つまりおなじく体育の授業だったからなのだけれど……もっとも、男子と女子では授業内容はべつべつだったが。
彼女――犹守《えぞもり》望とも、ちずるをきっかけとして耕太は出会った。
つまり望も妖怪《ようかい》だ。狼《おおかみ》の化生《けしょう》、人狼《じんろう》で――だからすごく鼻が利く。いまもほら、くんくんとあたりを嗅《か》ぎまわり……望はきゅっと鼻をつまんだ。
「いやらしい匂《にお》い、すっごくするよ。耕太とちずる……いやらしいこと、またしてた」
鼻をつまみながら、顔をしかめていた。
ふふん、とちずるは耕太に座ったまま、鼻で笑う。
「なにか問題でもあるの? 耕太くんとわたしは、もうすでに婚約までしている仲なんだから……いやらしいことのひとつやふたつ、みっつよっつにたくさんたくさん、したってちっともおかしくなんかないでしょう? ほら……婚約指輪……うらやましい?」
望に向かって、右手の指先を伸ばす。
薬指で、銀のリングが鈍く光った。
かつて耕太が贈った指輪だ。耕太はただ、バレンタインのお返しのつもりだったのだが……ちずるは勝手に薬指につけ、婚約の証としてしまった。
すたすたと近づいてきた望の姿に、ちずるはあわてて指先を引っこめる。
「あ、あげないからね!」
「べつに、いらない」
ちずるの指には見向きもせずに、望は耕太の前に立った。
自分の首につけてあった黒いチョーカーを外す。狼《おおかみ》を模した銀飾りのついたそのチョーカーも、やはり耕太がバレンタインデーのお返しとして、彼女に贈ったものだ。
「耕太に、お願い」
望が耕太に向かって、チョーカーを広げて見せた。
「えっ……と?」
椅子《いす》とちずるに挟まれたまま、耕太は望《のぞむ》とチョーカーを交互に見やった。
「耕太の手で、わたしにこの首輪、つけて」
ぶふーっとちずるが噴きだす。耕太も、えふふっ、と噴きだした。
「耕太、ごめんね。わたし、本で読んだよ。首輪をつけるってことは、相手を自分のものにするっていうことなんだよね。だから耕太、アイジンのわたしに、この首輪くれたんだよね。なのにわたし、自分でこれ、つけちゃった……やっぱり、首輪はご主人さまの手でつけなきゃダメだよね。そうして初めて、わたし、ミもココロも耕太のものになるんだよね。わたし……ちゃんと耕太のメスイヌになりたい」
そう……耕太は高校生の身で、婚約者と愛人がいるのであった。どちらも非・人間の。
婚約者のちずるが叫ぶ。
「ふざけるんじゃなーい! 首輪とかメスイヌとか、いったいなんなのよ、そのSとMな関係は! そもそもそれは首輪じゃなくてチョーカーでしょうが……まったく、本を読んだっていうけど、どんな本を……本当に、本当に……うん、それも悪くはないかな?」
「ち、ちずるさん!?」
なにやらツボだったらしい。ちずるは耕太を強く抱きしめてきた。ぱいぱいぷー。
「ああん、ご主人さまあ、耕太さまあ」
「あー、わたしもわたしもー。ご主人たまー」
望は椅子の後ろから、耕太の後頭部にその微量な胸を当ててきた。ないぱいぷー?
「ねえ、ちずる……」
「そうね、望《のぞむ》……」
婚約者と愛人が、耕太の頭上で秘密会談を始めた。ひそひそ、ひそひそ。
「でも望、最初はわたしよ?」
「うん。わたしアイジンだから、ガマンする」
「それじゃあ……」
「えーい」
耕太は前後からつかまれ、椅子《いす》から立ちあがらせられた。
そのまま、横にある高跳び用のマットへと運ばれる。ぽいっと転がされて――。
「ご主人さまあ」
「ご主人たまー」
ふたりにのしかかられた。
「ひえええええ! どーしてご主人さまが、逆に責められてー!?」
耕太のシャツの裾《すそ》はまくりあげられ、ジャージのズボンは引きおろされ、止めようとあげた手はむちむちな太ももと、するするな太もものふたつに挟まれ、両サイドから舐《な》められ、吸われ、軽く噛《か》まれ、やがてふたりの手は、おへそのその下の、そして伝説へ……。
いく直前で、すぱーん、と用具室の戸が、開いた。
「――いったいなにをやってるんですか、あなたたちは!」
後光を背負った彼女が、耕太には神の救いにも見えた。
前髪をぐいっと左サイドにもっていって、髪留めで押さえて剥《む》きだしにしたおでこの下、眼鏡をぎらぎらと光らせている彼女は、朝比奈《あさひな》あかね。
あかねは耕太のクラスの委員長だ。
その潔癖な性格と、校則の番人としての立場から、ちずる&望の暴走にはつねに目を光らせていた。だからこそ今回も捜しにきてくれたのだろう。ありがたやー、であった。
あかねは、ずかずかと用具室のなかへ入ってくる。
「小山田《おやまだ》くんと望の姿が見えないものだから、さてはまたちずるさんと、と思ったら……本当にそうなんだもの! いいかげんに成長したらどうなんですか、あなたたち!」
ちなみにあかねは、普通の人間で、ちずると望が妖怪《ようかい》だとは気づいていない。
というよりも、一般の生徒はみな、校内に人に扮《ふん》した妖怪がいて、一緒に高校生活を送っているなんてことはつゆとも知らなかった。妖怪の存在は極秘だった。
じつはここ薫風《くんぷう》高校は、〈葛《くず》の葉《は》〉と呼ばれる組織によって運営されている。
その目的は――不良妖怪の更生。
軽微な罪を犯した妖怪を、人間とともに生活させることで、人の世で生きる術《すべ》を学ばせようというのだ。つまり校内の妖怪はみな、いわくつきなのであって……。
そのいわくつきなちずると望は、ちぇー、と唇を尖《とが》らせ、耕太を襲いながら脱いだのだろうか、乱れきった自分の服を元に戻している。体操着の裾をおろしておへそを隠したちずるの姿に、耕太は自分も半裸状態だったことに気づいた。あわててズボンをあげる。
「まったく……」
あかねはおでこに手を当て、長々と息をついた。
「小山田くんも、望《のぞむ》も、そしてちずるさんも。始業式はほんの三日前だったんですよ? そこで晴れて、わたしたちは二年生に、ちずるさんにいたっては三年生、最上級生になったというのに、どうしてそんなにふしだら、みだらなんですか! いいですか、わたしたちは新しく入学した一年生の見本とならなければならないんです。なのに授業をサボってこんなことして、なんの見本になるつもりなの。まさか、保健体育の実習の見本!?」
「か、返す言葉もありません……」
耕太はマットの上に正座して、深々と頭をさげた。ちずるたちもそれにならう。
「はいはい、すみませんでした」
「ごめんね、あかね。ガマンできなくて」
「もう……わたしに頭をさげられたって、しかたないんですけど……そもそも本気になって、反省してます? 小山田くんはともかくとして……いや。小山田くんもすこしあやしいかしら。最近ちょっときみ、流され気味じゃない?」
う、と耕太は胸を押さえる。
あかねの言葉は胸の奥の痛い場所にぐっさり突き刺さっていた。たしかに最近、我ながらひどいかも……と思いながら、弱々しく顔をあげる。
そこで男の姿に気づいた。
「……あれ?」
彼はあかねの後ろ、開けっぱなしの用具室から、こちらを覗《のぞ》き見ていた。
すらっと高い長身に、長い手足。そんな恵まれた身体をわずかに戸からはみださせ、耳元をすっぽり隠すほど伸びた長髪に、切れ長の眼《め》、通った鼻、引き締まった唇と、整った顔つきをちら、ちらと見え隠れさせている。
ははーん、とちずるが声をあげた。
「なるほど、あいつがこの子を連れてきたわけだ……ウラギリものめ」
それで耕太もわかった。
ただの人間であるあかねに、耕太たちが用具室に潜んでいることがわかるはずなどなかったのだ。だれか感覚の鋭いものが耕太たちの気配を察し、彼女をここまで導いた……。
それが彼だ。
「たゆらー? こっちきなさーい」
男はちずるのやさしげな声にかえってびくつき、戸の陰に姿を消した。
「……源《みなもと》? どうしたの、きみがここまでつれてきたのに……なぜ隠れるの?」
あかねの言葉に覚悟を決めたのか、男は笑いながらでてきた。
「いやー、みなさん、とてもお元気そうで……あはははは」
乾いた笑い声をあげる彼の名は、源たゆら。
源《みなもと》の姓が示すように、ちずるの弟である。やはり妖怪《ようかい》で、姉とおなじ化《ば》け狐《ぎつね》だ。血はつながってはいないのだが、容姿はよく似ている。美形なところがそっくりだった。
耕太と望《のぞむ》、あかねとおなじクラスで、クラスメイトには男女間わず人気があった。
なのに恋人はいないらしい。それはいま、ちずるの妖気《ようき》を感じとって邪魔しにきたように、ちょっとばかり姉思いすぎるからだろうか。耕太にはわからない。はたしてたゆらに好きなひとはいるのか……耕太にはそれもやっぱりわからない。
「たゆら……? おまえってやつは、いつもいつも耕太くんとわたしの邪魔ばっかりしてくれちゃって……本当……いいかげん、うんざりかな」
あははは、とたゆらに負けないぐらい、ちずるは乾いた笑い声をあげた。
「あ、あのー、お姉さま? なんだか、こ、怖いですよ?」
「もうわかってるでしょ、たゆら。自分がこれからどんな目にあうのか……ね?」
笑顔のまま、ちずるは握り拳《こぶし》をぎゅっ、と作った。
すでにたゆらは背を向け、全力で駆けだそうと腕を大きく振り、足を高々とあげている。
しかしその足を踏みだす瞬間、目の前に、銀色の残像まじりで望があらわれた。
たゆらの行く手を阻んだ望は、はーい、と手をあげる。
「わたしも、たゆら、ボコるー」
あげた手は、やはり拳だった。
「こ、こうなったら……。最後の手段しかねえな……」
前門の狼《おおかみ》、後門の狐《きつね》。挟みうちにされたたゆらは、じり、じり、と用具室のなかへと押し戻されていた。望とちずる、両者を見やったたゆらが、突如、真後ろへと跳ぶ。
跳びながら身体を丸め、用具室の隅に積まれた段ボール箱の上に降りた。
びしーっと、土下座の格好で。
「ごめんちゃーい!」
見事なまでのジャンピング土下座であった――しかし。
「死すべし弟、我が拳で!」
「ボコるー。ボコボコるー」
ぐるりと肩をまわしたちずるを、耕太はあわててはがいじめにした。あかねも望を後ろからとり押さえている。
「ちずるさん、落ちついて、落ちついて!」
「ああん、離して耕太くん! こいつ、殺せない!」
「望、駄目よ、暴力はいけないわ!」
「あかね、力なき正義は無力だよ?」
狭い用具室のなか、耕太たちはどたばたと揉《も》みあう。
「……おまえら、なに、やってる?」
その声に、みんなでいっせいに入り口のほうを向く。
そこには、赤茶けた髪を剣山のように逆立てた、小柄な体格の男がいた。
体操着姿の彼のおでこには、白い包帯が巻かれ、頬《ほお》には絆創膏《ばんそうこう》が貼《は》ってある。男は怪我《けが》だらけだったが、その眼《め》はあくまで険しく――って、怪我だらけ!?
「き、桐山《きりやま》さん、どうしたんですか、その姿? それに、どうしてここに?」
耕太はちずるのはがいじめを解きながら、尋ねた。
「いま、おれたち校庭で体育。うるさいからここにきた。これはべつに、なんでもないぞ」
と、包帯が巻かれた手を振って答えた。いえ、なんでもありすぎます。
彼は桐山|臣《おみ》、かまいたちの妖怪《ようかい》だ。
かつて耕太たちとは敵対していたが、ともに闘ったりするうち、仲良くとまではいえないものの、それなりにつきあえるようになっていた。
三年生の彼は、学校の番長である。
薫風《くんぷう》高校の番長は、ただの不良のトップではない。そもそも学校に不良はいない――人間の不良は。つまり番長とは不良妖怪……校内の妖怪たちのまとめ役なのだった。
段ボール箱の上で土下座したままのたゆらが、おいおい、と桐山に声をかける。
「なんだよ、その包帯まみれの身体。もしかしていじめられてんのか、番長さんよ?」
「そういうおまえ、そんなとこで土下座、どうした。こいつらに、いじめか?」
「お、おれ? おれはアレだよ、これ、流行ってるんだよ。段ボール箱ダイエット……」
「うん? おまえ、ダイエット、してるのか?」
「お、おう。ほれ、バレンタインでチョコ食いすぎてな……モテる男はつらいよなー、はははのはー!」
どんどん深みにハマるたゆらを、桐山は怪訝《けげん》そうに眼を細めて眺めていた。
「き、桐山くん……」
桐山の後ろから、小さくかわいい、本当に小学生みたいな、おかっぱ頭の女の子が姿をあらわす。しかしその姿は、体操着にちずるとおなじ、えんじ色のジャージだった。
彼女は|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》。れっきとした高校三年生である。
半分かえる、半分妖怪の半妖《はんよう》だ。桐山とはいつも一緒で、いまもそうらしい。
そんな彼女に、ズバリちずるが尋ねる。
「ねえ澪。あなたの彼氏、どうしてこんなボロボロなわけ?」
なるほど、本人に訊《き》いて教えてくれないなら、いつも一緒の彼女に訊いてみるわけだ。
が、しかし。
「ひゃー、ひゃー、き、桐山くん、か、かか、彼氏、ひゃー!」
澪は顔を手で覆うなり、ふるふると身体を横に振りだした。乱れるおかっぱ頭。
「おい、どうした、澪。落ちつけ」
「ひゃっ……」
桐山が、身もだえる澪の腕をとった。
それで澪の顔を覆っていた手が外れる。真っ赤な顔と、涙であふれんばかりになった澪のたれ目があらわとなった。桐山を見て、澪の瞳《ひとみ》はぷるぷると震えだす。
「け……けろ……」
ただでさえ赤かった澪《みお》の顔が、ぼっ、と火がついたようにさらに赤くなった。
「んー? なんだ?」
澪の顔を覗《のぞ》きこんだまま、桐山《きりやま》が首を傾《かし》げる。
「おい、そこのバカップル」
いきなりちずるは桐山の尻《しり》を蹴《け》った。
わたたた、と桐山は手をばたつかせ、澪に触れて「ちゅっ」という音をあげる。桐山はまなじりをつりあげながら振り返った。
「なにする! 澪とぶつかるところだった! コロスぞ!」
「だから、どーしてあなたは怪我《けが》してるのよ。たいした秘密でもないんだろうから、ちゃっちゃと教えなさい。いらいらするったらない」
ぎぬぬ……ちずるを睨《にら》みつけ、歯を食いしばっていた桐山は、突如、ふはー、と息をはく。すーはー、すーはー、と深呼吸しだした。
「おれ、番長……番長はザコ怒らない……ザコいじめない……ザコ、コロさない……」
へえ? とちずるが感心したような声を洩《も》らす。
それは耕太もおなじ思いだった。土下座中のたゆらも眼《め》を剥《む》いている。あの超々短気でブレーキの壊れた軽トラとひそかに呼ばれた桐山が、いまのでぶちキレないなんて!
「そんなに知りたい、だったら教えてやる。これ、挑戦を受けてできたケガだ」
桐山は包帯まみれの手で、おでこの包帯を指さした。
「挑戦? だれの?」
「新入りの一年どもだ」
「一年生……ああ、なるほどね」
ちずるは小さく、こくこくとうなずく。
新しく入った妖怪《ようかい》たちが、番長――つまり自分たちの長である桐山に挑戦したのだ。不良は闘って力を確かめないと、やはり相手を番長とは認めることができないのだろうか。
「おまえ、それでどうなったんだよ。まさか、やられちゃった?」
「もちろん勝ったぞ。新入りボコボコ、番長として当たり前。な、澪」
桐山はいまだ正座中のたゆらの問いに得意げに答え、続けて澪に同意を求めた。
しかし、返事はない。
「……澪?」
真っ赤だった澪は、真っ白な顔で、表情を固まらせていた。まばたきひとつしない。
「澪、おい、澪!」
肩をつかみ、桐山はがくがくと揺する。おかっぱ頭がばさばさ揺れた。
「……き、桐山くん」
「おお、澪、どうした」
「……さっき、桐山くんが、き、き、きき、きす、すす、す、すー!」
また顔が赤く色づき始めた。
完熟トマトのようになったと思ったら、こんどは青ざめる。ついには真っ白になった。
「澪《みお》? 澪ー!」
がたがたと震えだした澪を、桐山《きりやま》が揺すりたてる。
「さ……バカップルは置いといて、帰りましょうか」
ちずるはさっさと用具室からでていった。
耕太たちもぞろぞろあとをついてゆく。太陽のまぶしさに眼《め》を細めながら、耕太はなんども振りむき、いまだ大変な様子の桐山と澪を見守った。
「それにしても、あかね、あなたいいの? わたしたちを捜しにきたのはいいけど、もうとっくに授業始まってるじゃない。当のあなたがサボるんじゃ、問題あるんじゃないの、委員長さん」
「いまは自習中だから、だいじょうぶです」
「え? 自習なんですか?」
耕太はあかねに問いかけた。
「たしかいまの授業は……」
「そう、砂原《さはら》先生。一学期になってから、ずっと砂原先生、休みで、授業が自習なのよね……なにかあったのかしら」
砂原先生――彼女は社会科の教師であり、耕太のクラスの担任でもあった。
しかしてその正体は、ちずるたちをはじめとした校内の不良|妖怪《ようかい》が悪さをしないかを見張る、管理官であった。つまり薫風《くんぷう》高校を運営する組織、〈葛《くず》の葉《は》〉の一員だ。
一見すればぽやぽや〜とした印象しか受けない彼女は、その身に数千年ものときを生きる妖怪の意識を宿していた。〈御方《おかた》さま〉と呼ばれるその砂使いの力は絶大で、校内の妖怪はちずるもふくめて、彼女に逆らうことはなかった。
そんな砂原先生に、なにか起きた……?
耕太の胸に、黒い雲がわきおこる。ドス黒い雲は、耕太の心臓を押し包んで、じわじわと圧力をかけてきた。春だというのに寒気がする。
「耕太くーん。どうしたの? 学校、エスケープするんならつきあうけど?」
「わたしもわたしも」
「あ、そんじゃあ、おれもおれも」
「ちずるさん、望《のぞむ》、そして源《みなもと》……いいかげんにしなさい!」
眼鏡の位置を直しつつ、肩を高々とそびやかすあかねに、ちずるたちはいっせいに逃げだした。耕太は苦笑しながら、みんなのあとを追いかけてゆく。
胸の不安を、振り払うように――。
★
耕太たちが消え、あとは桐山と澪が残るだけとなった用具室。
その平べったい屋根に、張りつく少女の姿があった。
少女の数はふたり。
どちらも薫風《くんぷう》高校の制服であるブレザーに、チェックのスカートを身につけていた。幼い身体つきだが、細い手足はしなやかな筋肉に包まれ、鍛えぬかれたものであるとわかる。
校舎へ向かう耕太たちを見るためか、少女たちはわずかに顔をあげた。
おなじ顔つきが、あらわれる。
前髪のかかった太めの眉《まゆ》も、眠たげになかばまで閉じたまぶたも、ちょっと低めの鼻も、まっすぐに引き結んだ唇も、すべての造りがおなじだった。
ただひとつ違うのは、春の風に揺れる髪の房だけ。
栗《くり》色のくせっ毛を、彼女たちは片側だけのおさげにしてひとまとめにしていた。その位置が、ひとりは左だけ、もうひとりは右だけなのである。
耕太とちずるを見つめ、ふたりは気だるげな眼《め》をぎゅっと細めた。
「あれが……源《みなもと》ちずる」
「九尾《きゅうび》を持つ、妖狐《ようこ》……」
声まで彼女たちはおなじだった。
「それにしても……」
「うん、えっちだったな」
頬《ほお》を、ぽっ、と赤く染めた。
両手両足を伸ばして、屋根の上でぱたぱたとさせだす。ぱたぱた、ぱたぱた。
「……で、それはそれとして」
「うん」
どうじに動きを止めた。
「話どおり、強い。手こずりそうだ」
「妖狐に人狼《じんろう》……あのかまいたちもなかなか手強《てごわ》そうだった」
「しかたない。ここはあの子供……美乃里《みのり》の策に従うか」
「うん……失敗しても、どうせあいつのせいだし」
見あって、こっくりとうなずきあう。
「ゆこう、蓮《れん》」
「ゆこう、藍《あい》」
少女たちは、音もなく用具室の屋根から飛びおりた。
おさげが左にあるのが蓮、右にあるのが藍。彼女たちはお互いをそう呼びあっていた。
蓮と藍が姿を消したあとで――まだ桐山《きりやま》は用具室で澪《みお》を揺すっていた。
「澪ー! 正気になれー!」
がくがく。
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[#小見出し] 二、悪だくむひとびと[#「二、悪だくむひとびと」は太字]
ここで時は、二ヶ月ほどさかのぼる。
二月。ちょうど耕太《こうた》とちずるが、バレンタインデーにてそのバカップルぶりをまわりにアピールしたおしていたころ――。
先ほどの少女、蓮《れん》と藍《あい》は激しく打ちあっていた。
「鋭《えい》!」
「応《おう》!」
鬱蒼《うっそう》とした森に、鋭いかけ声が響く。
ちらちらと雪の舞うなか、ふたりは樹木のあいだを駆けまわり、お互い、遠間からの攻撃をくり返していた。
彼女たちが腕を振るうたび、白銀にも似た光が、まっすぐに走りぬける。
鎖だ。
蓮と藍は鎖を操り、それで闘っていた。
三合、四合、なんども鎖を放つ。
ふたりは、黒い衣に紅の帯を締めていた。走り、鎖を放ち、かわし、跳び、転がる。そのたびに、片側だけのおさげ髪と、紅の帯が踊った。
その細い両腕には、武器である鎖が巻きついている。
かすかに腕を動かす、それだけで鎖はほどけた。腕を振るえば、まるで生き物のように相手へと襲いかかった。腕を引けばすぐさま戻り、また巻きつく。相手の鎖による一撃を、腕に巻いた鎖で受けるときもあった。
八合、九合、闘いは続く。
「哉《やあ》!」
蓮の放った鎖が、藍をかすめた。
後ろにあった大木へ、鎖の先端が吸いこまれる。
木は爆《は》ぜた。
派手に散った木っ端のなか、えぐられた木が白っぽい中身をさらけだしていた。すでに鎖は蓮の元に戻っている。宙を蛇のようにくねりながら走り、元通り腕に巻きついた。
反撃しようと、藍が鎖を振りあげる。
放つ寸前で、鎖から力がぬけた。ちゃらちゃらと地面にのたくる。
「……なにか用か」
藍は樹木の奥へと声をかけた。すでに蓮も構えを解き、藍とおなじく樹木の奥を向いている。ふたりの口からは、白い吐息が細かく洩《も》れていた。
「――ご修行中、申し訳ございません。蓮さま、藍さま」
木陰から姿をあらわしたのは、彼女たちと同様、黒い衣をまとった男だ。
「当主がお呼びしております」
男の言葉に、蓮《れん》と藍《あい》は汗のうっすら浮いた顔をしかめた。
「父上が?」
「どうせまた、酒のお酌をしろというのだろう。いませんでしたっていっておけ」
「いえ……お客さまがいらしてまして」
「客? だれだ?」
「三珠《みたま》家よりの使いだと……三珠|美乃里《みのり》と名乗る、まだ幼い子供です」
★
「父上」
「蓮、藍、ただいままいりまし……た?」
部屋に入ったとたん、ふたりの眉間《みけん》に、ずびしっと深い皺《しわ》が刻みこまれる。
暑い。そして酒臭い。
部屋の真ん中に置かれた大きな火鉢のなかで、炭が赤々と輝いていた。その上には金網が置かれ、湯の入った鍋《なべ》のなか、とっくりが温められている。鍋の横で、あぶられたスルメイカがすこしずつ背中を反らしていた。
「はーい、おじさまー」
そういいながらお酌しているのは、白いふりふりドレスを着た幼い少女だ。
顎髭《あごひげ》に白いものの混じった初老の男が、おーっとっとっと……ととっくりからの酒をおちょこで受ける。
ぐいーっと飲み干し、ぷっはー、と息をはく。
「うーん、たまらん! あー、ほんっと美乃里ちゃんはいい子だねえ。うちのガキどもなんざ、最近どんどん生意気になって、親を親とも思っとらん。酌もしてくれんし、一緒に風呂《ふろ》にも入ってくれんし……やっぱり片親なのがいかんのかなあ」
「んー、美乃里よくわかんないけど、それって反抗期じゃないの?」
「きた! 反抗期ついにきた! もう蓮も藍も高校生だもんなあ……そりゃ反抗期もくるわなあ……ああ、年が経《た》つのは早い。昔はこんな小さくて、ちちうえー、ちちうえーっていつも抱っこをせがんできたというのになあ。ああ、ああ、年はとりたくない」
「オトナになってるってことだから、いーじゃない、おじさま」
「そうなんだがのー、美乃里ちゃん。わしが年とってからの子だからのー、かわいくてしかたなくてのー……なーんか、すっごくおじさま、さみしくてのー」
「もー、おじさま? いまからそんなことじゃ、彼氏とかできたらどーするの?」
「彼氏! うっわー、美乃里ちゃん、それ聞きたくなかったなー。それ、おじさまずーっと考えまいとしてきたんだよ? ショックだー、ショックだー」
およよ、と美乃里の膝《ひざ》にすがりつく。
美乃里《みのり》はよしよしとその大きな背を撫《な》でた。そんな親子ほどの差があるふたりの横には、妙齢ながらすっかり白髪の女性が正座している。ずず……とお茶をすすっていた。
「……おい、父上」
ぴきぴきと頬《ほお》を強《こわ》ばらせながら、左おさげの少女、蓮《れん》が声をかけた。
「ひーん、蓮も藍《あい》も嫁になんかやらんのじゃー!」
まったく男は聞いちゃいない。
「……おい、じじい」
ぴくぴくとまぶたをけいれんさせながら、右おさげの少女、藍が声を震わした。
「彼氏なんざ連れてきたら、我が家の総力をあげて抹殺じゃー! わしが蓮と藍のおしめをとりかえたんじゃー! あの姿をほかの男になんぞ見せるかー!」
「ファッキンアル中ジジイ、五体引きちぎるぞ!」
蓮と藍はそれぞれの腕に巻きついた鎖をほどいた。しやらしゃらと床に落ち、硬い金属音をあげる。
「……お? なんだ、きとったんか、おまえら」
むくりと男は身体を起こす。
ジジイ……とぴくぴくするふたりの娘の前で、よっこいしょ、とあぐらをかいた。
「お客さまの前でなんだ、その構えは。ちゃんとせえ、ちゃんと」
ぶすっとした顔で、蓮と藍は鎖をつかんだ手をくるりとひねる。
とたんに鎖は跳ねあがり、腕に巻きついた。
「わー、すっごーい、お姉ちゃんたちー!」
美乃里が拍手しても、蓮と藍はまぶたをうっすらと閉じた仏頂面のまま、返事もしない。
「蓮、藍。こちらは三珠《みたま》家よりの使者でな、名を三珠美乃里どのという。となりは護衛役の妖怪《ようかい》、鵺《ぬえ》だ」
「はーい、美乃里でーす。お姉ちゃんたち、よろしくねー」
美乃里は手をあげ、鵺は湯飲みちゃわんを持ったまま小さく頭をさげる。
蓮と藍はまじまじとふたりを眺めた。
「子供が、使者……?」
「妖怪が、護衛……?」
「こらこら、いったいなにを呆《ほう》けておる。きちんと挨拶《あいさつ》せんか」
「……七々《なな》尾《お》蓮です。よろしく」
「……七々尾藍です。よろしく」
「申し訳ありませんな、美乃里どの。どうにも礼儀を知らぬものどもでして……まったくだれに似たんだか」
ぴくく、と蓮と藍の頬は引きつった。ジジイ、てめえにだよ、と呟《つぶや》く。
「さて、おまえらを呼んだのはほかでもない。〈葛《くず》の葉《は》〉執行部から命が下った」
その言葉に、蓮と藍の背筋はしゃんとなった。
「――妖怪《ようかい》の殲滅《せんめつ》ですか」
「――裏切り者の討伐ですか」
「うんにゃ。高校に入学してもらう」
「「はあ?」」
どうじに調子っぱずれな声をあげたふたりに、男はにやりと口を曲げてみせる。
「ただの高校ではないぞ……薫風《くんぷう》高校だ」
蓮《れん》と藍《あい》は表情をびしっと引き締めた。
「薫風高校……」
「我ら〈葛《くず》の葉《は》〉が捕らえた妖怪のうち、更正可能なものを秘密裏に通わせ、立ち直る術《すべ》を学ばせる施設……」
「そうだ。そして、かの砂原《さよら》家が管轄する場所でもある。どうだ、ビビッたか?」
「べつに」
「ビビりません」
ぶすっと目を据わらせたふたりに、赤ら顔の男はくっくっく、と低く笑う。
「あー、ダメだよ、おじさま。そーゆー態度だからお姉ちゃんたちに嫌われちゃうんだよ」
「え? そ、そうかな、そうなのかな、美乃里《みのり》ちゃん」
「うん。子供扱いするのはぜったいダメ。すっごくバカにされているように感じちゃうもん。いまはオトナになろうとがんばっているときなんだから、そこを尊重して、自分と対等の存在として扱わなくちゃ」
「なるほど……べ、勉強になるなあ」
男は自分の着物の襟に手を差しいれ、束ねた和紙をとりだす。筆でメモをとり始めた。
「それに……」
と、美乃里《みのり》がにやりと笑う。幼い顔に似あわぬ表情だった。
「砂原《さはら》幾《いく》はいま、薫風《くんぷう》高校にはいないんだから……怖がらせちゃダメだよ」
「なに?」
「砂原が……〈御方《おかた》さま〉がいない? なぜ?」
蓮《れん》と藍《あい》の問いに、美乃里はうふふー、と声をあげた。
「いま砂原家の当主さんはね、〈葛《くず》の葉《は》〉執行部に呼びだされて、問いただされてるとこなの。あのね、半年ぐらい前にね、薫風高校の音楽室と校舎の屋上が破壊される事件があったんだけど。まー、そのときは事故ってことで処理されてたんだけど、本当は妖怪《ようかい》が暴れたんじゃないの? ――って、三珠《みたま》家でねちねちとしつっこく責めてるんだー。それ以外にもいろいろあるから、たぶん一ヶ月近くは戻れないんじゃないかなあ」
「……砂原不在の薫風高校で、我らになにをさせるつもりだ?」
鵺《ぬえ》、と美乃里は白髪の女性に声をかけた。鵺はうなずき、双子の元に数枚の写真をもってゆく。ちなみに、当主の男はまだメモをとっていた。
「これは……」
鵺が渡した写真の一枚目には、着物姿の女性が写っていた。
髪を後ろでひとまとめにし、薄桃色の着物をまとったその姿は、まるでどこかの温泉旅館の従業員に見える。事実、写真のなかの彼女は部屋のふとんをあげていた。
「それはね、源《みなもと》ちずるっていうんだ。外見はお姉ちゃんたちよりすこしばかり上って感じの女だけど、その正体は自称四百歳の妖怪、化《ば》け狐《ぎつね》……」
二枚目の写真は、ちずるが妖狐《ようこ》と化した姿だった。
髪は黒髪から金髪へと転じ、背でなびいている。頭頂部からは狐の耳が、腰からはしっぽが生えていた。一枚目とおなじ着物姿のまま、なにものかと対峙《たいじ》しているのだろうか、むん、とその豊かすぎる胸を突きだしている。
「それが正体をあらわした姿。すっごく下品でしょ? でも、それだけじゃないんだなー」
三枚目の写真に、蓮と藍の眠そうだった眼《め》が、ぱっちり開いた。
「む、む、むむ?」
ちずるの姿自体は、二枚目と変わらない。
金毛のしっぽのほかにもう一本、紅《あか》く燃えあがる炎のしっぽを生やしている以外には――。しっぽは、まるで龍《りゅう》のようにくねり、カメラに向かって大きく顎《あご》を開いていた。
「こ、こいつは、なんだ……?」
「な、なんとまがまがしい……」
「ねえ、お姉ちゃんたち。おかしいとは思わない? そのバケモノ、砂原幾が管轄する薫風高校に、更生可能な妖怪《ようかい》として通っているんだよ?」
「これが?」
「薫風《くんぷう》高校に?」
写真から顔を跳ねあげたふたりに、美乃里《みのり》は薄い笑みを浮かべた。
「そう……ヘンだよね? それのどこが更生可能な妖怪? 見ただけで邪悪だって丸わかりじゃない。おまけに薫風高校って、ごくごく普通な、ただの人間も生徒としているんだよ。そんなとんでもないバケモノ、いていいわけがないじゃん。九尾《きゅうび》の狐《きつね》なんか……ね」
「九尾の狐!?」
「二体目がいたのか!?」
「確証があるわけじゃないんだけどね。でもね、写真こそないんだけど、しっぽが五本まで生えたという報告はあるの。三珠《みたま》家で薫風高校に潜入させた調査員から……ね」
かすかに美乃里は眼《め》を伏せた。
すぐににっこりと笑う。
「このことを砂原幾《さはらいく》が、なかの〈御方《おかた》さま〉が知らないわけがないでしょ? あれだけの力を持つ〈御方さま〉なんだもん。もし、源《みなもと》ちずるが九尾の狐なんて大妖《たいよう》だと知っていたのだとすれば……それはつまり、薫風高校を源ちずるの隠れみのにしていたってことだよね? それって〈葛《くず》の葉《は》〉的には、ちょっと見逃せない裏切り行為だよねー」
「なるほど」
「わかったぞ」
ぽん、と蓮《れん》と藍《あい》は手を打つ。
「砂原幾……〈御方さま〉不在のうちに、我らは薫風高校に潜入し――」
「邪魔の入らぬうちに、この九尾の狐を討つと! この鎖で!」
「我が娘ながら、どこまでおまえらは阿呆《あほう》なのだ? ん?」
メモをとり終えた男が、スルメイカを足から噛《か》み噛《か》み、いった。
「この妖狐《ようこ》が真に九尾の狐だとしたら、おまえらごときがかなう相手か。〈葛の葉〉八家、すべての力をもって当たらねばならん。それがわからんのか、まったく」
ぶー、とふたりはふくれっ面になる。
「もー、おーじーさーまー?」
「あ! わし、また子供扱いしちゃった!?」
男は口からぽろりとスルメの足を落とした。わたわたとあわてだす。
「あのね、だいじょうぶだよ、お姉ちゃんたち。九尾の狐っていっても、まだ源ちずるは目覚めかけだから。それでもそこそこ強いし、まわりの妖怪たちも邪魔すると思うから、やっぱり正面からはぶつからないほうがいいかなー」
「だったら……」
「我らはなにをすればよいのだ」
「鵺《ぬえ》。お姉ちゃんたちに、あれを」
美乃里《みのり》に指示され、鵺《ぬえ》はまだ頬《ほお》をふくらましたままのふたりに、白い粉の入った、小さな半透明の袋を渡した。
「それはね、一見、病院でもらえる風邪薬に見えるでしょ。え? 病院にいったことはないし、風邪をひいたこともない? すごいね、お姉ちゃんたち……うんうん、おじさまの子育ても立派立派。で、話を戻すと、それって薬に見えるけど、じつは特殊な金属を細かくして、ある法術をこめたものなんだ……それを妖怪《ようかい》に飲ませると、力をすべて封じて、仮死状態にすることができるの」
ほう? とふたりは粉末をしげしげと眺めた。
「蓮お姉ちゃんと藍お姉ちゃんにはね、その粉末を、飲み物にでもまぜて、源《みなもと》ちずるに飲ませてほしいんだ。そうなればあとはかーんたん! 〈御方《おかた》さま〉不在の薫風《くんぷう》高校には、仮死状態となったちずるを治療できるものなんかいないから、どーしたって〈葛《くず》の葉《は》〉本隊に頼らなくちゃいけない……ふふ、ふふふ、ははっ、わたしたち三珠《みたま》家の手で、じっくりとあいつを調べてあげるよ――解剖でもなんでもしてね! あはははは!」
狂気のにじんだ笑い声をあげる美乃里を、赤ら顔の男は真顔でちらっと横目に見た。
一瞬浮かんだ感情を隠すように、すぐさま一緒に笑いだす。
「がーはははは、美乃里ちゃん、怖いなー、おじさまチビっちゃうなー」
「やだあ、おじさま、それは年とったからだよー、あはははは!」
「――ひとつ、訊《き》きたいことがある」
蓮は粉末入りの小袋をひょいと放り、それを藍が横に払うようにして捕った。
「どうして我ら、七々《なな》尾《お》なんだ?」
「七々尾家は、〈葛の葉〉八家のなかでも、武に秀でた家。というより、それ以外の術を知らない、いわば戦闘バカだ。おまけに当主はアル中だ」
「おい、さりげなく親の悪口をいうな」
「こういった諜報《ちょうほう》活動なら、法術の得意な土門《つちかど》家か、陰働き専門の悪良《あくら》家が向いているはず。なんならおまえたち三珠家で直にやってもいいはずだ」
ふ……と美乃里は唇をゆがめ笑う。
「土門、悪良、そのあたりは砂原《さはら》家の目が光ってるんだ……もちろん、三珠家にもね。〈葛の葉〉を裏から司る砂原家は――いや、〈御方さま〉は、〈葛の葉〉全体の動きを、その砂の目でもっておおよそ把握してるの。まあ、それはわたしたち、表を司る三珠家だっておなじことで、だからお互い、ヘタには動けないんだけど」
「だったら、なおのこと……」
「だからなの、お姉ちゃんたち。さしもの〈御方さま〉も、まさか八束《やつか》家とならぶ武門の家、七々尾家がこんな小賢《こざか》しい真似《まね》をするとは思いはしない。おまけにいまは〈御方さま〉本人が不在……ぜったいにうまくいくよ」
「わしもな……わしも、成功する公算は高いとみる。戦闘バカのおまえらだからこそ、九尾《きゅうび》の狐《きつね》とも闘おうとするおまえらだからこそ、そしてそのことを〈御方さま〉がよく知るからこそ、きっと成功するだろう」
蓮と藍は、当主たる自分たちの父親を見た。
「父上」
「まったく褒められている気がしません」
「褒めとらんわい。しかし美乃里《みのり》どの、問題がひとつありますぞ。どうやってこいつらに、相手に粉末を飲ませることができるほど近づかせるつもりです? 自慢じゃありませんが、我が娘は戦闘バカですぞ。腹芸なんぞできませんぞ」
蓮と藍はこくこくとうなずいている。
「だーいじょうぶ。源《みなもと》ちずるはね……というか、ちずるが惚《ほ》れてる人間の男はね、とびっきりのおひとよしだから。いたいけな少女がバケモノに襲われていたら、かならず助けてくれるよ。それをきっかけにして仲良しになればいい。仲良くなれば、あとは……ね」
「バケモノとは……?」
「これだよ、これ……」
すっ……と美乃里は人さし指を一本立てた。
どこからか入りこんだのか、二月だというのに、あざやかな紋様を持つ蝶《ちょう》――いや、蛾《が》がひらひらとやってきて、美乃里の指にとまった。
「――蟲《むし》さ」
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[#小見出し] 三、失くしたものの大きさは[#「三、失くしたものの大きさは」は太字]
1
耕太《こうた》は、座ったまま手を後ろについて背を反らし、ほけーっと空を見あげていた。
春の空はなんとも淡い。薄い色あいの青空を背景に、かすれた白い雲が長々と伸び、ゆるゆる広がっている。
昼食後でけだるい身体に、おだやかな春風がここちよい。
校庭では昼休みの時間を利用して、サッカーを楽しむ生徒たちの姿があった。ボールの弾む音、はしゃぐ声が、遠く、耕太の耳に届く。
耕太は屋上にいた。
正確には、屋上にある貯水槽の上にいた。半年前、ちずるとともに当時の番長、熊田《くまだ》流星《りゅうせい》と闘ったさいに壊してしまい、交換して真新しくした円筒形の大きなタンクの上に、耕太は足を投げだして座り、ぬぼーっとしている。
「ね、耕太くん……」
声はすぐ下から聞こえた。
ちずるは、耕太の太ももの上に頭をのせ、うっすらと微笑《ほほえ》んでいた。
耕太はちずるをひざまくらしていた。いつもと逆だ。もっとも、最近の耕太はひざまくらよりも、ちちまくらされることのほうが多かったのだけど。ぱいぱいぷー、だ。
「なんですか、ちずるさん」
尋ねたとたん、ちずるは口元に手を当て、あくびをしだす。
耕太もつられてあくびをした。くわああああ……はふん。ふたりどうじにあくびを終える。見あって、互いにまばたきをした。
自然に笑いがこぼれだす。
「ふ、ふふ、ふふふ……ごめんね、耕太くん」
「あ、あは、あはは……いえ、ぼくこそ」
うふふ、あはは。笑いあって、あー、とちずるは目尻《めじり》に浮かんだ涙を拭《ぬぐ》った。
「わたし……しあわせだよ、耕太くん。すっごくしあわせ。ずっと、ずーっと……こんな日が続けばいいのにね」
「本当に……そうですよね」
耕太はまた空を仰ぐ。
春の日ざしは、どこまでも耕太たちにやさしかった。
「ね、耕太くん、だいじょうぶ? そろそろ太もも、重くない?」
「まだまだ平気です」
耕太は太ももの上のちずるに笑いかける。
「たまにはこうやって、ぼくのほうからちずるさんになにかをしてあげるのって、すごくいいですよね。ほら、ずっとぼく、ちずるさんにしてもらうばかりでしたから。毎日お弁当作ってきてもらったり、ときどき晩ごはんも作ってもらったり、ほかにも、いろいろ」
「いろいろ……|ちちまくら《あまえんぼさん》とか?」
ちずるはあおむけとなって、その上向きになってもほとんどかたちの変わらない、張りつめた胸のふくらみを、自分で横から持ち、揺すった。たるるるーん。
「ちずるさん……また、そういうことを」
せっかくののどかな雰囲気が、みごとなまでに台無しである。
「嫌い? 耕太くん、これ、嫌い?」
ふにゅん、ふにょんとちずるは自分でふくらみを変形させた。
「き……嫌いじゃありません、けど、ですけど、ぼく、二年生の目標が……しっかりするって目標が、流されないって目標が」
「嫌いじゃなかったら、好き? これ、好き?」
両側から、ほわほわほわーんと小刻みに揺すりたてた。
「す、好き。大好き」
うなずいてしまっていた。
ふふ……と笑いながら、ちずるは下から耕太に向かって腕を伸ばしてくる。
「はい、つぎは耕太くんがお昼寝するばんだよ。ほら……ふかふかのまくらがこーんなところにあって、いまはお昼休みなんだから、シエスタしなきゃダメじゃない」
「シ、シエスタ、しますた……」
耕太はちずるに引きずりこまれるように、身を屈《かが》め、頬《ほお》からちずるのまくらに沈んだ。うなーん。さらにうながされて、身体のほうもちずるにのせる。やわらかなおなかには耕太の胸元が、太ももには耕太の胴が当たった。うなうなーん。
頭をよいこよいことなでなでされ、耕太の意識はゆったり沈む。
やわらかなふくらみのなか、眼《め》を閉じると、ほやほやとした感触と、ぽかぽかの日ざし、甘い匂《にお》い、そしてちずるの鼓動だけしか、世界には存在しなくなった。
まどろみのなか、耕太は思う。
いいなあ。やっぱりこれ[#「これ」に傍点]、いいなあ。ちずるさん……いいなあ。
すごく……おっぱ……。
……ぐぅ。
「わー」
「きゃー」
悲鳴があがった。
いまいち緊迫感のない声だったが、たしかに悲鳴だった。おまけに場所は近い。すぐ下からだ。耕太はちずるおふとんから跳ね起きる。
這《は》って貯水槽の端までいき、下を覗《のぞ》きこむ。
「……え?」
眼を疑った。
コンクリート敷きの屋上を、ふたりの少女がぱたぱたと走りまわっている。
栗《くり》色の髪の、制服を着た小柄な少女だ。ふたりはバンザイする格好で、それぞれべつべつに追っ手から逃げまわっていた。それはいい。それはいいのだが――。
追いかけているのが、二匹の昆虫。
かたち自体は、カブトムシとクワガタムシのそれだ。
ただし、その身体はとてつもなく大きい。大人ひとりが上にのれるほどに大きい、そんな巨大な虫が、少女ふたりを追いかけまわしていた。
「……な、なんだろ、これは」
「うっわー、なにあれ、グローい……」
となりにきたちずるが、気味悪げな声をあげる。
たしかにグロテスクだった。カブトムシもクワガタムシも、耕太はよく見知っている。都会だとデパートでしか手に入らないような昆虫も、自然の豊富な田舎で育った耕太にとっては、そこいらの林で捕れる存在だった。幼いころ、クヌギやコナラの樹にへばりつき、樹液を吸っているカブトやクワガタを、なんども自分の手で捕まえたことがある。
そんな、幼心に耕太をときめかせた黒い宝石たち。
それがサイズが大きくなったとたん、これほどまでに不気味かつ奇っ怪になるとは。巨大な黒褐色のボディーから生えた、細い六本の足がうごめく姿に、耕太は鳥肌がたった。
「わー」
「きゃー」
また少女たちは悲鳴をあげた。のんびりした声に感じるのは……気のせいか。
バンザイしたまま走っているせいか、少女ふたりの動きはあまり速くない。逆に、巨大カブト&クワガタは意外なまでにすばやかった。怖《おそろ》しや。
「……っと、み、見ているばあいじゃない! 助けないと!」
貯水槽の端から覗《のぞ》きこんでいた耕太は、身体を起こし、彼女たちの元に降りようと、足を踏みだした。
「ダーメ!」
ちずるが腰に抱きついてきた。
耕太は引きずり戻され、ふたり、貯水槽の上に転がる。いたた……とうめいた。
「なにを考えてるの耕太くん! あんなの相手にしたら、耕太くん、食べられちゃうよ!」
「だ、だいじょうぶですよ。ぼく、カブトムシ飼ってたからわかるんです。カブトは人間は食べません。カブトが食べるのは、スイカです」
「あんなバカでかいのは、耕太くんだって飼ったことないでしょーが!」
「で、ですけど、このままじゃあの子たちが」
「――わたしがいく」
ちずるは身を起こすなり、髪の色を瞬時に変化させた。
艶《つや》やかな黒髪が、根本から毛先にかけて、流れるようななめらかさで金色に染まる。そのいきおいで、髪はちずるの背中をぶわりと舞った。
頭からは耳が、腰からはしっぽが生える。
金色がかったかすみは、またたく間に狐《きつね》の耳、しっぽとなった。
「よーし、美少女|妖狐《ようこ》、源《みなもと》ちずる登場! 稲荷《いなり》神社に代わっておしおきよ!」
狐の姿となったちずるはポーズを決める。とう、と跳ぼうとした。
「だだだ、ダメですー!」
こんどは耕太がちずるの腰に抱きつく。
引きずり戻し、また貯水槽の上に、ふたり倒れた。あてて……とうめく。
「ど、どうしたの、耕太くん? 心配しなくても平気よ。この化け狐の状態なら、たかが大きな虫ぐらい、ぱぱぱぱーって簡単にやっつけちゃうから」
「そうじゃなくて……その姿をあの子たちに見られたら、ちずるさんが妖怪《ようかい》だってバレちゃうじゃないですか! マズいんですよね? 一般の、ごく普通のなにも知らない生徒に正体がバレたら、ちずるさん、退学なんですよね?」
耕太にしがみつかれたまま、ちずるは変化《へんげ》して金色に転じた眼《め》をぱちくりさせる。
「あ……そ、そうね」
ここ、薫風《くんぷう》高校にはたしかに妖怪がいる。生徒に混じって学校に通っている。
しかし、その存在は一般の生徒には秘密だった。もし正体がバレれば、その妖怪《ようかい》は退学。知った生徒にもなんらかの処理がなされる。退学になった妖怪は、元々〈葛《くず》の葉《は》〉に捕らえられたいわば犯罪者なので、そのまま妖怪用の刑務所送りとなった。
元々は耕太も一般の生徒で――いまもそのつもりだけど――かつて妖怪であるちずるの正体を知ってしまい、ひと騒動起こしたことがあった。
だからその大変さは身に染みてよくわかっているつもりだ。
「ちずるさん、ここはぼくにまかせてください。なんとか女の子を逃がして……」
「無理よ耕太くん。たしかに耕太くんは、いままでいろんな妖怪と闘ってきた。妖熊《ようゆう》も人狼《じんろう》も退けてきた。でもそれは、わたしの力があったからよ。わたしが耕太くんにとり憑《つ》いて、妖狐《ようこ》の力を与えたからこそ、妖怪とも互角だったの。ニンゲンのままの耕太くんじゃ、あの昆虫相手は危険すぎる……だったらわたしは、自分が退学になることを選びます」
「ぼくだって、ちずるさんが退学になるくらいなら、自分が危険なほうを選びます!」
逃さぬように、耕太はちずるの腰をしっかりと捕まえながらいった。
背中からつかまれながら、ちずるがきゅーんと身を引き締める。
「あ、ああ……しあわせ……耕太くんの愛の言葉……こ、腰のあたりに、ずーんと……」
するりと身を返した。耕太と向きあう。
逆に耕太は、ちずるに上から押さえつけられる格好となった。
「い……いけないですよ、ちずるさん。いまはそんなときでは……エロス禁止……」
「あのね、耕太くん。よく聞いて」
瞳《ひとみ》こそうるんでいるものの、ちずるは真顔だった。
「もし、下にいる子たちが、あのバカデカ昆虫にやられてしまったら……ここは、薫風《くんぷう》高校はなくなってしまうの」
「……え?」
「おそらく、あのバカデカ昆虫は、蟲《むし》使いの妖怪のしわざよ」
「む、蟲使い?」
「そう……かすかに妖気《ようき》を感じるもの。きっと蟲《むし》使いの力で異常成長させたのね。まあ、蟲使いが今年の新入生のなかにいるのか、すでに生徒だったのか、学校の外にいるのか、場所まではわからないんだけど。とにかく、妖怪のしわざである可能性は非常に高い」
金色の瞳が、まっすぐに耕太を見つめている。
「妖怪のしわざである以上、あの昆虫が下の子たちを傷つけるということは、妖怪がニンゲンを傷つけるということなの。これがなにを意味するか、わかる?」
「え、えっと」
「ここは罪を犯した妖怪が、更生するために管理の上、ニンゲンに混じって生活するところ。この管理の上ってのが重要ね。そりゃ元々犯罪者なんだもん。いきなり暴れだすかもわからないんだから。ちゃんと目を光らせて、一般の生徒を、ニンゲンたちを守らないといけない。でもそれが、できなかったとしたら……? ちょうどいまのように」
「妖怪《ようかい》を管理することが……で、できないってことに?」
「そのとおりよ、耕太くん。ただでさえ犯罪者がうようよで危険なのに、そいつらを管理できない、ニンゲンを守れないのだとしたら、そんなとこ……閉鎖するに決まってるよね」
ごく、と耕太はつばを呑《の》みこんだ。
「へ、閉鎖したら……どうなるんです、ちずるさんたちは」
「そりゃわたしたちは〈葛《くず》の葉《は》〉特製の刑務所行きでしょうね。管理官の砂原《さはら》たちも当然、クビでしょーし……耕太くんはどうなるのかな。ここ、普通の高校にするのかも」
「そんな! そんなの嫌です、ちずるさんと離ればなれなんて!」
耕太は下からちずるをつかみ、揺すりたてる。金髪がぱらぱらと上から落ちてきた。
「わかってる。わたしだって耕太くんと離ればなれになるなんて、死んでも嫌。でもね耕太くん。耕太くんが思うより、いまのわたしたちの生活って、危ういものなのよ」
その言葉はじくりと耕太の胸に刺さった。
そして思いだす。
『わたし……しあわせだよ、耕太くん。すっごくしあわせ。ずっと、ずーっと……こんな日が続けばいいのにね』
ついさっき、ちずるが耕太の太ももの上で語った言葉だ。
重い。いまならこの言葉の重さが耕太にもわかる。ちずるがどんな想《おも》いでいったのかがわかる。それなのにあのときの耕太は、ただ気軽に「そうですね」と答えた。
なにも知らずに、気軽に、簡単に、ぼくは……。
耕太は鼻をすする。
「も、もしもここがなくなったら、ぼ、ぼくら手と手をとりあっての、逃亡生活ですね」
耕太は笑った。鼻声だったけど、なんとか笑った。
「泣かないの、耕太……」
ちずるはやさしく微笑《ほほえ》み、耕太の目元にキスをした。最初は左、つぎに右。
「だいじょうぶ! まだまだわたしたち、学生生活を満喫してないもん。体育祭だって文化祭だってあるし、修学旅行だっていかなきゃならないし。こんなとこで学生生活を終わらせたりなんかするもんですか! だから待ってて、耕太くん。ちゃんとあの子たちにはバレないようにして、ちゃちゃっとあの虫ども、片づけてくるから!」
最後に唇にキスして、ちずるは立ちあがった。
耕太に背を向け、駆けだす。
その腕に耕太は飛びつき、ひっつかんだ。
「耕太く――」
引っぱり、抱きよせ、そしてキスをする。
眼《め》を大きく見開くちずるに、唇を重ねたまま話しかけた――心のなかで。
ひとりでは、いかせません――。
ばか、とちずるは答えた。その声は直接耕太の心に響いた。
(わかってるの、耕太くん。わたしが耕太くんにとり憑《つ》くたび、狐《きつね》憑《つ》くたび、耕太くんはどんどんニンゲン離れしちゃうんだよ? 普通のニンゲンだった耕太くんが、わずか四回わたしが憑依《ひょうい》しただけで、妖気《ようき》を感じることも、視《み》ることもできるようになっちゃったんだから。これ以上とり憑いたりしたら、いったいどうなっちゃうか……)
それでも、と耕太は答えた。
ちずるさんだけ、危険な目にはあわせられません、と。
(ばか、ばか、ばか! わたしが耕太くんに憑依したら、わたしの姿は消えて、耕太くんだけが妖狐《ようこ》の姿になるでしょ。そうなったら、あの子たちに見られて危険なのはただひとり、耕太くんだけになるじゃない!)
すぅ……とちずるの姿は薄れてゆく。
耕太がそうしたからだ。耕太は自分の意志で、ちずるをおのれにとり憑かせることができる。背後の景色が見えるまでに薄れたとき、耕太はちずるに話しかけた。
だいじょうぶです――。
ぼくとちずるさんがひとつになった状態ならば……ぼくはひとの目にはとまらぬ速さで動くことができますから……。
(……ばか!)
消える寸前、ちずるに睨まれた。涙目だった。
完全に姿はなくなり、あとはちずるの着ていた服が残るだけ。風にひらめく制服を、耕太は靴下や下着もふくめ、ぜんぶまとめた。飛ばされぬよう、とりあえずちずるの上履きを重しとして上にのせる。
そのあいだにも、耕太の身体には変化が起きていた。
どん、どん、どん、とまるでエンジンのピストンのように、身体のなかで力が連続して爆発している。怖いくらいの力だが、耕太にはわかっていた。がまんすれば、力はやがて大きくふくれあがり、おのれの身体を変化させるのだと。
――ほら、きた。
すさまじい力がふくれあがり、こらえきれず身体の外へと噴きだした。頭の上と、尾てい骨から、ぶわっと。あとはほっぺのあたりからちょっぴり、ひげ三本ぶんくらい。
耕太は妖狐と化した。
触るまでもなくわかる。ちずるの妖狐姿と同様、頭からは狐の耳が、腰からはしっぽが生えているはず。なぜか頬《ほお》からはひげが左右ともに三本ずつ伸びているのだ。一応、しっぽを動かして確認してみると……お? うん? あれ?
「なんだか重いよーな……うわ!?」
なんと、しっぽが五本も生えていた。
いつもは一本だけなはずの、黒い、ふさふさした毛なみが、どーんと孔雀《くじゃく》の羽根のように広がっていた。くねくね動いた。これじゃ重いはずだ。
(ほらー! だからいったじゃないー!)
頭のなかに、ガン! とちずるの声が響く。
(わたしの力だって前よりパワーアップしちゃってるんだからー! どうするのよう、こんなにしっぽ生えちゃって! 狐《きつね》の力はしっぽでわかるの。五本も生えたらアナタ、ちょっとした街、滅ぼせちゃうよ? そんなすごい状態じゃ、耕太くんにもどんな影響が起きるか……うわーん、どうしよう、耕太くんが妖怪《ようかい》人間になっちゃったらー! ベムー!)
「ま、まあ、その話はあとにしまして……まずはあの子たちを、早く助けないと……」
耕太は走った。
ごまかすために口にだしたことだが、たしかに女の子たちは心配だ。
考えてみれば、こうして助けにいくまで、けっこう時間が経《た》ってしまったような気がしないでもないし……さっきから、あの気のぬけたような悲鳴が聞こえないし。
「よし、いま助け――え?」
小柄な女の子ふたりは、無事だった。
走り疲れたのか、膝《ひざ》に手をついてうなだれ、はーはー、と息を切らしてる。あの巨大カブト&クワガタも、追うことに疲れたのか、止まったままびくともしない。
「……あ、あいつらは、いつ助けにくる」
「……人でなし、薄情者、鬼のようだ」
「……まったく、なにをして……あ」
「……いっそこっちから……あ」
ふたりが貯水槽のほうを見あげた。
耕太はあわてて隠れる。み、見られた?
(……ねえ耕太くん? いま、思いっきり見つかってなかった?)
「い、いや、まだです。まだわからない! 勝負はこれからです!」
胸を突き破りそうなどきどきに耐え、耕太は待った。
「……わー」
「……きゃー」
やる気のない悲鳴と、ぱたぱたという足音が復活した。耕太はほっと息をつく。ああ、よかった、気づかれてない……。
「よ、よし! 助けましょう!」
(……なーんか引っかかるものがあるんだけど)
てい、と耕太は飛びだした。
屋上のコンクリートに降りたつなり、巨大カブトムシめがけて飛《と》び蹴《げ》りを入れる。さすがは五本しっぽ状態というべきか、身体は尋常じゃなく軽かった。
蹴りを入れるつもりが、気づいたら頭からぶつかっていたほどに。
ちょっとした熊《くま》ぐらいのサイズのカブトムシが、まるでサッカーボールのようにぽーんと飛んでいった。
雲がたなびく空に、カブトムシは消える。
「はあ……」
すごい。
すごすぎる。たしかに……五本しっぽの力はとんでもない!
(耕太くん、ぼけっとしないで、早く、つぎの虫よ)
飛んでいったカブトムシを立って見送っていた耕太は、あわてて身を返す。こんどはあまり難しいことを考えず、最初から頭で当たった。
立派な二本の角が生えたクワガタムシが、ブーメランのように回転しながら飛んでゆく。
カーブしながら、こんどはかなたの山へと消えた。
よし、と耕太は膝《ひざ》を屈《かが》め、ジャンプするための、ためを作る。
はやくこの場を去ろう――。
跳ぼうとした瞬間、がき、とつかまれ、バランスを崩した。わたわた手を振る。
え? と耕太が振りむくと、なんと、五本しっぽが各一本ずつ、少女ふたりにつかまれていた。見あげてくるふたりに、耕太はあわてて自分の顔を、広げた手のひらで隠した。
「き、きみた――キミタチ?」
声もできそこないのロボットのような声に変える。
「助けてください」
「怖いです。虫、すごく怖いです」
少女ふたりは、すっかりしっぽを自分の身体に抱えこんでいた。
(耕太くん……目にもとまらぬ速さで動けるんじゃなかったの?)
う、動いたつもりなんですが……と耕太はちずるに言い訳した。
あれ、と気づく。
しっぽを両手と両の太ももで抱きかかえている少女ふたりは、まったくおなじ顔をしていた。さっきまで走っていたからだろう、荒い息を洩《も》らす唇も、のんきな悲鳴だった理由がなんとなくわかる、眠たげにまぶたをなかばまで閉じた眼《め》も、栗《くり》色の髪も、うりふたつ。
ただ、髪型だけが違う。
といっても、髪をまとめて片側だけのおさげにまとめているのはおなじだ。違うのはそのおさげの位置で、ひとりは左だけ、もうひとりは右だけにあった。
「ふ……双子?」
「蓮《れん》です。左のおさげがチャームポイントです」
「藍《あい》です。右のおさげがチャームポイントです」
ぺこり、と頭をさげた。でもしっぽは離してくれなかった。どうしよう、と耕太はひたすらおろおろする。そのうちに、ちずるが緊迫した声をかけてきた。
(……まずいよ、耕太くん)
憑依《ひょうい》合体して聴力の高まっている耕太にもわかった。
だれかが、屋上にくる。
校舎内の階段をのぼり、目の前にある屋上の扉へと近づいていた。足音の数は……三。その三人がくるのは、もう、すぐだ。
どうする、どうする、どうする、ぼく。
「こうなったら……」
とりあえずふたりの少女ごと屋上から離れようと、身をバネのようにたわめた。
跳ぶ直前で、耕太はのけぞる。
「おはっ!?」
双子が、しっぽのつけ根をつまんでいた。
「そ、そこは……ダメ!」
(わ、わたしもダメ!)
ちずるとふたりでもだえているうちに、屋上の扉が開いた。
「……まったく、小山田《おやまだ》くんもちずるさんも、ご飯を食べたらすぐにいなくなるんだから。きっとふたりっきりでいかがわしいことをしてるに違いないわ」
あかねがあらわれた。
後ろにはたゆら、望《のぞむ》の姿も見える。
「望、本当にここなの? 屋上なんか……で……え……?」
あかねと、思いっきり目があってしまった。
眼鏡のレンズごしに、彼女がぱちぱちとまばたきをするのが見える。
「きみ……まさか……小山田く……」
「わーわーわー! おれ、だーれだ!」
あかねの眼《め》は、眼鏡ごと、たゆらの手にふさがれた。
「ちょ、ちょっと! なにふざけてるのよ、源《みなもと》! 離しなさい、こら!」
「うーん、おれはだれなのかなー、これは難しいぞー。ヒントいちー、ハンサムでー、ヒントにー、手足もすらりと長くー、ヒントさんー、バレンタインのチョコの数は三十八ー」
もがくあかねの視界をふさぎ続けながら、たゆらは「早く憑依《ひょうい》を解け、早く」と顎《あご》をくいくい動かし、うながしてくる。
(しかたない……)
ずるん、と耕太の背中からなにかがぬけだした。
ちずるだ。狐憑《きつねつ》きを解いたちずるが、ぞびぞびぞび、と魂がぬけるような感覚を耕太に与えながら、姿をあらわす。
耕太の後ろに降りたった彼女は、狐耳、しっぽを生やしたままで、おまけに裸だった。
汗ばんだ肌にきらめく金髪を張りつかせたちずるは、くるんとしっぽで弧を描くなり、高々と跳ぶ。服のある貯水槽へとあがったのだろう。
「いいかげんに……しろ!」
鈍い音とともに、たゆらがうめく。
あかねの肘《ひじ》が、みごとにたゆらのみぞおちに入っていた。糸の切れたマリオネットのごとく、たゆらはくたくたと倒れる。横にいた望《のぞむ》がぱちぱちと拍手をした。
「あー、もう! レンズが手の脂でべったべた! なにを考えて……あら?」
眼鏡を外して汚れぐあいを確かめていたあかねが、また眼鏡をかける。じっと耕太を覗《のぞ》きこんできた。
「小山田くん……よね?」
「は、はい」
「……さっき、きみ、耳としっぽ、生えてなかった?」
「い、いえ」
「正直に答えて。なんだろう、あれ……黒くてふさふさで……ああ、そうそう。ほっぺたから、ひげもちょんちょんちょんって生えてたわ」
「さ、さあ」
んじっ、と睨《にら》むように細めた眼で見られた。耕太はたまらず眼をそらす。
「ふーん……ねえ望。望も見たわよね。小山田くん、ヘンだったよね」
「ううん。耕太はヘンじゃないよ」
ふるふると望は首を横に振る。
「いや、そうじゃなくて……」
なんどあかねが尋ねても、ふるふる。ふるふる。望は首を振るばかりだ。
「ああ、そう! じゃあ、そこの子たち。あなたたちは見たわよね。だってあなたたち、耕太くんのしっぽにつかまってたもんね。ねえ?」
あかねは片側おさげの双子に、にこやかな顔を向けた。
「いいえ」
「つかまってません」
しかし、蓮《れん》、藍《あい》はきっぱりと否定した。
え、と耕太のほうがびっくりして声を洩《も》らしてしまう。
「ちょ、ちょっと。いいのよ、嘘《うそ》なんかつかなくて。えーと、草色のワッペンってことは、あなたたちは一年生よね。たしかにこのひとたち、上級生だし、ちょっと変わってるから怖いかもしれないけど、ほらほら、この男なんか、わたしより弱いんだから」
この男、と亀《かめ》になってうずくまったままのたゆらを指さした。
「いいえ」
「嘘はついてません。……我らもそいつより強いし」
え? と聞きかえしたあかねに、なんでもありません、と双子は手を振る。
「だ、だって……たしかにわたし見たもの! 小山田くんが、耳、しっぽ、ひげで! どうしてみんな嘘をつくのよ! そんなのおかしいわよ!」
「お、おれも見てねーぞー……」
「源《みなもと》には聞いてない! いちばんあやしいくせに、眼《め》を隠したくせに!」
へたったままのたゆらに怒鳴った。たゆらはうなる。うー。
「こらこら、あかね。いいかげんになさいな」
ちずるが屋上の扉があるでっばりの、裏からやってきた。そこには貯水槽へと続く、金属製のはしごがある。最初に耕太とちずるがのぼるとき、利用したはしごだ。
「ち、ちずるさん! いったいどこに!?」
「上よ、上。貯水槽にあがって、ちょっとばかりお昼寝してたってわけ。あんまりあなたの声がうるさいから、起きちゃった……」
くわああああ、とあくびをする。
「……ち、ちずるさんは、小山田くんの、耳、しっぽ、ひげ」
「ああ、聞いた聞いた。耕太くんが動物になってたんだって? ふふ、ふふふ……堅物な委員長にしては、なかなかいい妄想じゃない。ああん、その耕太くん、かわいい」
「も、妄想! わたしが、妄想!」
「そうじゃなかったら……うーん、熱はないみたいね」
ちずるがあかねのおでこに、自分のおでこをぴとりとくっつける。眼前に迫ったちずるの顔に、あかねは眼を大きく見開いた。
「な、なにをするんですか!」
飛びのくあかね。みるみる顔が赤くなっていった。
「あ、もしかして眼鏡の度、あってないんじゃない? わ、脂でべたべた、汚ーい」
ちずるに眼鏡をとりあげられ、あかねはメガネ、メガネ……と眼《め》をしょぼつかせたまま、手探りであたりをさまよった。
ていっ、とちずるの手から奪いとる。
「なにをさせるんですか! あとレンズが汚いのはおたくの弟さんのしわざです!」
「え? もしかしてそーゆープレイ? ……って、どんなプレイ? メガネプレイ?」
「知ーりーまーせーんー!」
あかねはのどちんこが見えそうなほど口を開いて、叫んだ。
その叫びを、チャイムが破る。
昼休みの終了を告げる合図だった。
ちずるは息を荒くするあかねの肩をつかみ、真後ろを向かせる。そこにはあかねたちがやってきた屋上の出入り口があった。
「さ、授業が始まっちゃうから、いきましょ。勉学は学生の本分……でしょう?」
背中を押されて、あかねはぶつぶつ呟《つぶや》きながらも屋上の扉をくぐる。ようやく復活したたゆらも、よろめきながら続き。望《のぞむ》はぴょん、と跳ねた。
「さて、と……」
ちずるは片手を腰に当て、後ろにいる双子の少女、蓮《れん》と藍《あい》に向き直った。
「名前が、えーと?」
「蓮です」
「藍です」
「よし。お姉さん、蓮ちゃん、藍ちゃんに訊《き》きたいことがあるわあ。たっぷり……ね」
やさしげな表情ながら、その眼はまったく笑っていなかった。
★
「……美乃里《みのり》さま。どうやらうまくいきましたな」
薫風《くんぷう》高校より五キロほど離れた場所に、街の中心部であるビル街がある。
そのひときわ高いビルの屋上に、彼らはいた。
「美乃里さま……美乃里さま?」
声をあげたのは、バッタだ。
もとい、バッタ男だ。顔はあきらかにバッタで、緑な肌の色あいもバッタなのだが、手足、胴は大人の人間のそれだった。すこし猫背で、背にはバッタの羽を背負っている。
双眼鏡をハチの巣状の黒い複眼にあてがい、ぎざぎざの口で流暢《りゅうちょう》に言葉を話していた。
バッタ男の後ろには、美乃里と鵺《ぬえ》がいる。
微妙にデザインが違うながら、いつものように白いふりふりのドレス姿の美乃里は、フードつきのウインドブレーカーに身を包んだ鵺に肩を揉《も》まれながら、グチっていた。
「もう、耕太お兄ちゃんの、バカバカバカ! あの女ギツネといちゃいちゃいちゃいちゃしまくっちゃってー! なによなによ、なんなのよう! そんなに大きいおっぱいがいいの!? あーんなウシチチがいいの!? あれ、すぐに垂れるんだから。いや、もう垂れてるんだから! 見たことなんかないけど、ぜったい垂れてるーっだ! たるたるー!」
ぶんぶんと振りまわした手を、自分の胸元に当てた。
「美乃里には未来があるんだもん……輝く未来があるんだもん。ね、鵺《ぬえ》! あるよね!」
涙目で美乃里は背中の鵺を振り仰ぐ。
視線を、顔の半分に艶《つや》やかな白髪を流している鵺の顔から、その胸元へと移した。
「……鵺は、そこそこあるよね、胸」
とゆん、と下からウインドブレーカーのふくらみを手で撫《な》であげた。
そうしておいて、いきなり美乃里は鵺の胸に顔を埋める。鵺はなすがままだ。
「オトコのひとって、やっぱり大きいほうがいいのかな……こうして耕太お兄ちゃんの真似《まね》してみても、美乃里、あんまりよくわかんないや……」
鵺は美乃里を抱いて、その小さな背を撫でさすっていた。
「あのー、美乃里さま?」
「……なに?」
美乃里はバッタ男に背を向けたまま返事した。
「いえ、あの双子、うまくやりましたな、と……」
ふん……と美乃里が背を返す。ようやくバッタ男の側を向いた。
「うまくやったどころか、最高の働きをしてくれたよ。戦闘バカの七々尾《ななお》家の、さらに戦闘バカ娘だもん。正直、捨《す》て駒《ごま》扱いするつもりだったんだけど……まさか、耕太お兄ちゃんとあの女ギツネを憑依《ひょうい》合体させるなんてね。偶然にしても、ホント大金星だよ」
はあ、とバッタ男は首――胴体とほとんど一体化していたが――を曲げる。
「源《みなもと》ちずるを小山田耕太に憑依させると……なにかよいことでもあるのですか?」
「余計なことは気にしなくていいの。そんなことより、虫のほうはだいじょうぶなの、蟲《むし》使いさん? これからのあの双子の動きしだいではあるけれど、場合によっては……いろいろと忙しくなるかもしれないよ」
「おまかせください」
バッタ男は自分の胸をどん、と叩《たた》いた。
「その気になれば、薫風《くんぷう》高校を墜《お》とすことだってできますよ。我らの力があればね」
自信満々の蟲使いの姿に、美乃里は薄く笑う。鵺がどこからかだした湯気たつ湯飲みちゃわんを受けとり、ずず……とすすった。
美乃里たちのまわりを、あの綺麗《きれい》な紋様をもった蛾《が》が、ひらひらと飛んでいる。
2
その日の放課後。
耕太たちは、学校からほど遠い場所にあるファミレスにいた。
まだ夕食の時間にはかなりあるからだろう、お客さんの数はすくない。がらがらの店内の、奥、隅にあるテーブルに、耕太たちは座った。
L字型の席に、端から望《のぞむ》、耕太、ちずるとならぶ。
ちずるのとなりにはあの双子の一年生がいた。彼女たちを挟んで、たゆらが腰かけ、逃さぬように行く手をふさいでいる。
「ったく……なにを考えてるんだよ、おまえらは。おい、耕太、ちずる」
端の席のたゆらが、組んだ腕の指先をこつこつと鳴らしながら、耕太とちずるを睨《にら》んだ。
「よりによって、ニンゲンに正体を知られるだと……ああん?」
耕太はひたすら小さくなるばかりだ。
横のちずるといえば、まったくたゆらには見向きもせず、にこやかな顔で少女ふたりの前にメニューを広げている。
「蓮《れん》ちゃん、藍《あい》ちゃん、どれが食べたいー? いいのよ、どれでも好きなの頼んで」
「……ど、どれでも?」
「……す、好きなのを?」
蓮と藍はこちらに聞こえるほどに喉《のど》を鳴らして、カラフルなメニューをまじまじと眺めた。ひとつずつ料理を指さし、小声で説明を読みだす。
もしかして、この子たちはファミレスに入ったことがないのだろうか?
耕太は自分の経験を振り返って、そう思った。ファミレスどころかコンビニすらない田舎で育った耕太は、めずらしさから、やっぱりメニューを熟読したものだ。
「おい、ちずる。おれの話をだな……」
「ねーねー、ちずるー。わたしは、わたしはー? 肉はー、肉はー、肉はー?」
「あなたも好きなの頼みなさいな、望。……ぜんぶこいつのおごりだから」
目線で鋭く指され、たゆらはたじろぐ。
「な! なんでおれが!」
「おまえ、耕太くんとわたしの校内デートを邪魔した用具室の件、もう忘れたの? その罰よ。どうせあの子に貢ぐために、小銭|貯《た》めこんでるんでしょーが」
ぐ、とたゆらは言葉につまった。
「……も、問題はそのおれが貢ぐ相手だろーが」
たゆらが腕を広げ、メニュー相手に興奮の色を隠しきれない双子を示す。
「こいつらはまだいいよ。この双子はついこのあいだ入ったばかりの一年生だ。なんとでもごまかせるだろーよ。でもあいつは……朝比奈《あさひな》はどうするんだよ! 思いっきり見られてんじゃねーか、バレてんじゃねーか! おまえらスクールアウトじゃねーか!」
そうだ……と耕太はうなだれる。
あかねに、憑依《ひょうい》され妖狐《ようこ》となった自分の姿を、完全に目撃されてしまった。
その場はなんとかちずるがしのいだものの、やはりあかねは忘れておらず、あとで執念深く追及してきた。それをどうにか振りきって、耕太たちはこのファミレスに双子を連れこんだのだ。明日からどうしよう……。や、やっぱり退学なのかなあ。
ん? と耕太は顔をあげた。
「たゆらくんって、朝比奈《あさひな》さんに貢いでるの? というか……ミツグってなに?」
「うるへー! いまはそれどころじゃねー! もしもおまえらが退学にでもなってみろ、おれだって学校にいることはできねーんだからな。そうなったらおれの対朝比奈あかね攻略大作戦だって、台無しのポンなんだよ! ポポンがポン!」
「え? 攻略大作戦って……闘うの?」
「このポン、ポン、ポポン! ポン太郎! スポーン!」
「……あのー、お客さま」
店員が、慇懃《いんぎん》な笑顔をたたえながらやってきた。
「ほかのお客さまのご迷惑になりますので、もうすこしお静かに……」
「ポン! ほとんどいねーじゃねーかよ、客なフガポンッ!」
たゆらの頭には、かかとがめりこんでいた。
ちずるがテーブルに手をついて前転し、投げだした足を、思いっきり叩《たた》きこんだのだ。
「おお……」
「みごとなかかと落とし……」
蓮《れん》と藍《あい》がメニューから顔をあげ、感心の声をあげた。
「ごめんなさい店員さん。二度とこのバカには騒がしくさせませんから。あ、蓮ちゃん、藍ちゃん、注文するの、決まった? 望《のぞむ》は? 耕太くんはどうする、なにか食べる?」
「あ、いえ、ぼくは、いいです……」
ちずるはテーブルの上に片|膝《ひざ》をついたまま、店員にそれぞれの注文を告げた。引きつった顔で店員は去ってゆく。
「な、なにを……ずるんだ……ぢずる……」
たゆらは頭を抱え、うめき声まじりにいった。
「おまえがバカ丸だしだからよ。わざわざ学校から離れたファミレスまできたのに、目立ってどうするの。おまえにとって攻略不能キャラのあかねはともかく、学校の管理官たちの目だってあるんだからね。とりあえず砂原《さはら》が学校にいなくて本当、よかった」
「こ、攻略不能、違うもん! 朝比奈はちゃんと攻略できるもん!」
「だまれ、やかましい。あのね、たゆら。あのくそまじめなあかねをごまかすのなんか、簡単なの。あんな常識人の堅物、わたしたちの正体なんか、自分の眼《め》で見たって信用しやしないんだから。あとでわたしがテキトーなことふきこんでおくから、余計な心配しないで、ほら、みんなのぶん、ジュース持ってきなさい」
と、ちずるはセルフサービスのドリンクコーナーを指さした。
「……ほ、ホントだぞ。ぜったいだぞ。頼んだからな……ポン」
みなの注文を訊《き》き、たゆらは頭をさすりながらドリンクコーナーへ向かう。
空いた席には、ちずるの目線に従って望《のぞむ》が座った。ぴょんっ、とテーブルを跳びこえ席につき、双子の逃げ口をまたふさぐ。
「さてと……ひとつ、教えてもらってもいいかしら」
ちずるは眼を笑顔に細め、瞳《ひとみ》の光を消した上で、双子に問いかけた。
「はい」
「なんでしょう」
「どうしてあのとき……屋上で眼鏡の子に尋ねられたとき、正直に答えなかったのかしら。耕太くんと、わたしのことを」
蓮《れん》と藍《あい》が、ちら、と互いを横目で見あう。
「だって」
「秘密なんでしょう?」
「……どうして? どうして秘密と思ったの?」
あくまでちずるはにこやかだ。そこに耕太はぞくぞくするものを感じた。
「「だって、正義の味方ですから」」
ふたりがハモった。
「……はい?」
「正義の味方は」
「正体は秘密」
「これ、もはや常識」
「センパイたちは、ふたりで合体」
「「へーんしん!」」
「合体超人、フォックス仮面となって」
「日夜、街の平和を守っているんですよね」
口をぽかんと開け、あっけにとられていたちずるの前で、蓮と藍は寝ぼけたまなざしはそのままに、「へーんしん!」ではどうじにポーズを決めたりなんかして、じつにノリよく答えてくれた。
「フォックス仮面……ですってよ、耕太くん」
ちずるに流し目で見られ、ははは……と耕太は乾いた笑い声をあげた。ある意味、まちがってはいない。
「あ……でも、フォックス仮面のこと、いったいどこで聞いたんですか?」
耕太の問いに、双子は眼をどうじにぱちぱちとしばたたかせた。
「……ね、ネットです。インターネット」
「そ、そうです。ネットの世界は広大なのです」
「ああ、なるほど。インターネットかあ……」
耕太は腕を頭の後ろで組み、背筋を伸ばす。
すごいなあ、と感心していた。耕太はパソコンを持っていないし、学校の授業以外では触ったこともない。携帯電話だってない。それにしても、彼女たちはファミレスもめずらしそうだったのに、インターネット……へええ。まったくすごい。
「おーい、持ってきたぜー、ドリンクー」
たゆらがさまざまな色あいのグラスを抱えて戻ってきた。
「えーと、ちずるがアイスコーヒーで、耕太がメロンソーダ、望《のぞむ》が黒酢リンゴジュース、んでもってお嬢ちゃんたちが……」
「カルピスです」
「初恋の味です」
ストローを差したグラスを両手で持って、ちゅーと飲みだす。
「おい……どうだったんだ。話、終わったのか」
望が双子のとなりに移動したために、空いた耕太のとなりへと、たゆらはコーラ片手に座った。耕太はうなずく。
「うん……たぶん、だいじょうぶだと思う」
「わたしたちがフォックス仮面だってことは、バレちゃったけど。ね、耕太くん」
「ふぉ、フォックス? なんでおまえらが?」
フォックス仮面リーダー、フォックスレッドは飲みかけていたコーラを噴きだした。
「あのね、たゆらくん。じつは……」
「――あの!」
「――わたしたち、はばかりに!」
蓮《れん》と藍《あい》が、一緒に立ちあがった。
「は、はばかり?」
トイレのことよ、とちずるがささやく。なるほど、と納得した耕太が見ると、双子のカルピスはすでに空っぽになっていた。早い。
蓮と藍が、ソファーとテーブルの狭いすきまを、横になって歩きだす。
が、なぜだろう、ちずるの側へきた。
ちずるの側は、ちずる、耕太、たゆらと三人の足をのりこえなければならない。いっぽう、逆側は望ただひとりだけである。あきらかに望のほうが楽なのに、なぜ?
「あ」
あんのじょうというかなんというか、左おさげの少女、蓮はちずるの足でこけた。
右おさげの藍も続き、ふたりでちずるの上にバンザイしながらのる。少女ふたりぶんの体重を受けとめ、ちずるは眼《め》をぱちくりとさせた。
「す、すみませんですセンパイ」
「許してくださいですセンパイ」
「いや、べつにいいけど……うん? あなたたち……けっこういい身体してるのね」
さわさわと少女ふたりの背中、腕、腰を撫《な》でまわした。
「「ひゃ、ひゃひゃ……」」
双子はちずるにいじくられ、その幼い身体をくねらせる。
「ち、ちずるさん……いくらなんでも、それは」
「え? あ、か、勘違いしないでね、耕太くん。わたし、もうそっちの気はないんだから。とっくにその道は卒業したの。ただ、けっこう鍛えられてるなあって……」
卒業したということは、以前はその道に在学したことが……?
遠い目となった耕太の前を、ふたりの少女が通る。うんしょ、うんしょとこちら向きになってうつむき、足元を見つめながら歩きぬけていった。
「耕太くん、耕太くん? もう、やだ……いまはわたし、耕太くんひと筋なんだよ?」
うふふー、と笑いかけてから、ちずるはアイスコーヒーのグラスをつかんだ。
「あーあ、緊張してたから、喉《のど》かわいちゃった」
ストローはつかわず、ミルクもシロップも入れず、ぐいっと飲みだす。ぐー……っとグラスを傾け、氷だけを残した。
テーブルにグラスを置き――おや? と首を傾《かし》げる。
「……なんかおいしくない、これ」
「うん? ファミレスのコーヒーなんか、そんなもんじゃねーの?」
「そうかもしれないけど……」
くんくん、とグラスの匂《にお》いを嗅《か》いだ。
「たゆら、おまえ……なんかヘンなものでも混ぜた? タバスコとか」
「おいおいおい、冗談はよしてくれよ。そんなことしたらあとでどんな目にあうのか、このおれがいちばんよーくわかってんだからさ」
「そうよね。まだ死にたくはないでしょうし……気のせいか」
「気のせい、気のせい……」
たゆらはコーラを一気飲みした。
「なんだったらもう一回、持ってこようか? それでわかるだろ、ここのアイスコーヒーがどれだけクソマズイのか。ん?」
「バカ。まずいコーヒーはもういい。そうね……耕太くんとおなじ、メロンソーダを」
へいへい、とたゆらはちずるのグラスを持って立ちあがった。
たゆらがドリンクコーナーへ向かったあとも、ちずるはかすかに目元をゆがめたまま、怪訝《けげん》な表情を崩さない。しきりに首を傾《かし》げている。
「ちずるさん……口直しに、飲みます? これ」
耕太は半分ほどまで減った緑色の液体を差しだした。
「ふふふ……ありがと、耕太くん。耕太くんは本当、やさしいね……」
じゃ、口直しに、とちずるは耕太を胸元に抱きしめた。
やわらかく、ふよふよで、なのにむっちりもちもちで、しっとり吸いつき、あたたかく、いい匂《にお》いで……と、耕太はついつい身をまかせてしまった。こりゃうっかり。
「い、いけないですよ、ちずるさん。まわりのお客さんの目が……望《のぞむ》さんもいるし……それに、蓮《れん》さん、藍《あい》さんも」
「お客さんはぜんぜんいないし、望は頼んだお肉が楽しみでそれどころじゃないし、あの子たちはまだ戻ってこないし、まったくもって問題なしよ」
横目で望を見ると、なるほど、ちずるの胸のふくらみで三分の二ほど覆われた視界の向こうで、ナイフとフォークを手に持ったまま、「ニク、ニク、ニク……」と呟《つぶや》いていた。
「耕太くんをこうしてると、嫌なこと、忘れちゃう……」
抱きしめたまま、ちずるが耕太の頭に頬《ほお》をすりよせてきた。すりすり、すりすり。
その動きが、突然止まる。
「……ちずるさん?」
問いかけに、ちずるは「くっ……」といううめき声で答えた。
耕太を抱く手に力がこもる。震えながら、苦しみの声をあげながら、ちずるはぐいぐいとのけぞっていった。
なんだ、なんだ? なにが起きた? なにがどうしたっていうんだ?
「ちずるさん!? ちずるさん!」
「あ、あ、あ……あああ!」
痛いぐらいに抱きしめられて、耕太は気づいた。
……なんか、減ってる?
気のせいじゃない。いままでなんども見て、触れたところだ。じかに舌で味わったことすらある場所だ。ある意味ちずる以上によーくわかっている部位だ。
その、ゆやゆよーん、が。
ついには、ゆよ、に。
激しい鼓動がすぐそばで聞こえるくらいになって、ようやくちずるは力をぬいた。
「……ちずるさん」
「ご、ごめんなさい、耕太くん。ど、どうしたのかな、わたし……急に、身体が」
ちずるの息は荒い。
激しく上下する胸元から、耕太はようやく顔を外した。
「ちずる、さん」
「なんだろう……やっぱり、お昼のときの憑依《ひょうい》かな……力の発露? 覚醒《かくせい》? 発作?」
「ちずるさん!」
びく、とちずるは震えた。
「な、なに、耕太くん。どうしたの?」
無言で耕太はちずるの胸元を指さす。
え? とちずるが自分の身体を見おろした。
「お、おい! なんの騒ぎだよ、いったい!」
「ニクニクー! 血のしたたるようなステーキセット、レアー!」
気がついたら、たゆらと望《のぞむ》が心配そうに覗《のぞ》きこんでいた。たゆらは手にメロンソーダを、望はナイフとフォークを持ったままだった。
「こ、これって……うそ、どうして、なんで」
ちずるはぺたぺたと自分の胸元を触っている。その動きはどんどん激しくなっていった。
「なにやってんだ? ちずる……おい、おいってば」
「これって……これって……これって……これって!!」
あ……とひと声残し、ちずるは崩れ落ちた。自分の胸をわしつかんだまま、くなくなと耕太にしなだれかかる。
「な、なんだ、なんなんだ? ちずる、ちずる! おい耕太。なにが起きたんだよ」
「ちずるさんの……胸、が」
「ああん? 胸がどうしたって? はっきりしろー、おい!」
失神したちずるを抱きささえる耕太を、たゆらががくがくと揺さぶってくる。
「ニクー!」
そのたゆらに望がフォークを突き刺した。ブッチャー! とたゆらは手を離す。
襟元を解放された耕太は、ちずるの頭を、身体を、強く抱きしめた。どうにも腕が震える。身体も震える。奥歯はがちがち鳴る。とても信じられない――が、いまじかに触れている部分が、これが現実なのだと、強く、激しく、耕太に物語っていた。
「ちずるさんの、胸が……」
だらだらと流血するたゆらの顔を見あげ、耕太は声を振り絞った。
「胸が、胸が、なくなっちゃったよう!」
「……ああん?」
「……ニクー?」
★
「……なんだ、あれは」
蓮《れん》と藍《あい》は、トイレからでてすぐの場所にある観葉植物の陰から、騒ぐ耕太たちを眺めていた。
「力をすべて封じて、仮死状態にするのではなかったのか」
空となった半透明の袋を、ぷらぷらとさせる。
「仮死状態どころか……胸がなくなっただと?」
ふたりは互いに顔を見あわせた。
「なんじゃ」
「そりゃあ」
3
薫風《くんぷう》高校、理事長室。
いつもは使われることがない部屋だ。
というのも、表向き薫風高校の理事長となっている人物は、あくまでもかたちだけであって、実際に権力を持っているのは、まったくべつの人物だったからである。
真の理事長は、とある事情で現在[#「とある事情で現在」に傍点]、不在中[#「不在中」に傍点]。
掃除だけは一週間に一度なされているので、室内はきれいなままだ。
その鈍い輝きを放つ黒革の来客用ソファーに、いま、ひと組の男女が向かいあって腰かけている。
ひとりは八束《やつか》。
薫風高校の生徒指導担当の教師であり、その正体は〈葛《くず》の葉《は》〉の一員として校内の妖怪《ようかい》を監視する管理官だ。白髪混じりのオールバックに、鷹《たか》のような鋭い眼《め》、鼻、口をそなえたスーツ姿の男は、前のテーブルに置かれたカップラーメンを、じーっと見つめていた。
「……では、失礼して」
といいつつ、ラーメンのふたを剥《は》がす。くわえた割りばしを手で引っぱって、割った。
「お気になさらず、どうぞ。お食事のときに訪れたわたしが悪いのですから」
答えたのは妙齢の女性で、彼女はその成熟した身体を、黒地に白の細かいストライプが入ったスーツにズボンで包んでいた。いわゆるパンツルックだ。
髪の色は蒼《あお》い。頭の後ろで束ね、ポニーテールにしていた。
細長い眼鏡ごしに、鋭い視線を書類の束に走らせている。八束《やつか》がずぞぞぞぞー、とラーメンをすする音を背に、ぺらぺらと書類をめくり、すばやく目を通していった。
「――なるほど、よくわかりました。ちずるさまと小山田さまは、まだ最後の一線は越えていないということですね」
「非常にあやういところですが、ね」
とんとん、と女性は書類の束を縦にテーブルに当ててそろえ、ずずずー、と八束はスープを飲み干す。
女性は眼鏡を外しながら、八束が空にしたカップを見やった。
「いつも……そんな食事を?」
「男ひとりですからね。まあ、だいたいこんなものですよ」
「大変ですね……砂原《さはら》さまご不在で」
ぴく、と八束の眉《まゆ》が動く。
「……なにか誤解なされているようですが、わたしと砂原はそのような関係では」
「いえ。わたしは〈御方《おかた》さま〉ご不在で、校内の仕事が大変ですね、と申し上げたつもりなのですが」
八束の眼《め》が細く、鋭くなる。
その眼を伏せ、眉間《みけん》に指先を当てた。ふ……と小さく笑う。
「あなたの主人に似て、なかなか食えませんな……雪花《ゆきはな》どの」
ふふ、と女性は笑った。
「玉藻《たまも》さまには日頃《ひごろ》、鍛えられておりますので」
彼女の名は雪花。
ちずるの育ての母である九尾《きゅうび》の狐《きつね》、玉藻に仕える雪女の忍びであった。
「その玉藻さまのお言葉ですが……よく小山田さまはがまんできると。あれだけちずるさまに迫られて耐えることができるのは、よほど相手を大切に思っているか、ひそかに男色家か、もしくは……そちらでなにか、封印でもほどこしているのでは、と」
「封印……やつらが一線を越えぬように、小山田の身体にですか」
八束は口元をゆがめながら笑う。
「正直な話、それはいい考えだと思いますがね。砂原が……〈御方さま〉がうんとはいわんでしょう。〈御方さま〉がいうには、なにをしようが源《みなもと》と小山田が愛しあうことは止められない。早いか遅いかの違いでしかない。ならば我々にできることはただひとつ。最良のかたちでその愛を成就させることのみ――だそうで」
「その口ぶりですと、八束さま自身はおふたりの仲に反対のようですが」
「反対です。やつらが愛しあえばあうほど……心を重ねあえばあうほど、かのものが覚醒《かくせい》してゆくのは間違いないのですからな。これで最後までいたしてしまったらどうなることか……まったく、考えたくもない」
仏頂面の八束《やつか》に、雪花《ゆきはな》が笑みをこぼす。
「それでも、〈御方《おかた》さま〉には最後まで従うのでしょう?」
「お互い、仕える相手には苦労しますな」
ふたりは低い声で笑いあった。
「ところで……心を重ねあわせるといえば、憑依《ひょうい》合体なのですが……」
ぐ、と雪花が前に身をのりだす。八束と雪花は、互いに探りあうように見つめあった。
やがて、あきらめたように八束が小さくため息をつく。
「気づいていましたか……たしかに今日の昼、やつらは憑依合体をおこないました。しかし、源《みなもと》と小山田の力は、幾重にも張り巡らした結界によって、外はおろか、校内にすら洩《も》れてはいないはずですが。いったいどうやって……?」
「忍びの術がございます……それよりも」
「ええ。憑依はある意味、一線を越えるより悪い。とり憑《つ》くということは、まさに精神と精神を重ねあわせるということ。以前ならともかく、目覚めかけたあやつには……」
「なにがあったのでしょう? ちずるさまも小山田さまも、憑依による影響については気づいていたはず。それでも合体しなければならなかった、そのわけとは?」
「現在調査中です。が、いかんせん〈御方さま〉不在が痛い。砂人形がない以上、校内のすべてに目を配ることができません。ただ……おそらくは害虫のしわざかと」
「害虫[#「害虫」に傍点]? それは――」
問いかけようとした雪花の表情が、急に引き締まる。
視線をさまよわせ、耳をすますしぐさをした。八束と視線を交わし、互いにうなずく。
「ではわたしは……御免」
雪花は、ソファーから瞬時に姿を消した。
どうじに理事長室のドアが音をたてる。ドアノブがまわされ、がちゃがちゃと閉まっていた鍵《かぎ》を鳴らした。続けてドアが叩《たた》かれ、鈍く響く。
「まったく、いつもながらやかましいやつらだ……」
苦笑しながら八束は立ちあがり、ドアへと向かう。
きりりと顔を引き締めてから、鍵を外した。ぶ厚い扉を開く。
「阿呆《あほう》どもめ、静かにせんか! いくらもう遅いとはいえ、まだ校内には生徒が残っているかもわからんのだぞ。そもそも、どうしておれがこの理事長室にいるとわかった!」
一気にまくしたてた。
扉の向こう側にいた来訪者たちが、一瞬、たじろぐ。
「――そ、それどころじゃねーんだよ、八束! ちずるが、ちずるが大変なんだ!」
「なに……? 源が……?」
叫んだたゆらの後ろを、八束は覗《のぞ》きこむ。
例の少年、小山田耕太の姿があった。背に、例の少女、源ちずるを背負っている。さらに後ろでは銀髪の少女、望《のぞむ》が、なぜかステーキ皿を持って立っていた。
「ふん……まず、入れ」
全員を理事長室に入れる。ドアを閉めると、室内が耕太たちの荒い呼吸音で満ちた。
「なにがあった。まさか、憑依《ひょうい》した状態のおまえらが虫ごときにやられはすまい」
え、とちずるをソファーに座らせていた耕太が、びくつく。
「……八束《やつか》先生、まさか、ぜんぶ知ってたり、なんて……ことは」
「知られちゃまずいようなことでもやらかしたのか? 昼、屋上で、巨大な虫相手に」
八束が言葉を発するたび、耕太とたゆらはびくん、びくんと震えた。ちずるはぐったりしたままで、望といえばひたすら肉をほおばり、はぐはぐと顎《あご》を動かしている。
うなだれた耕太たちの前で、八束はかすかに笑みを浮かべた。
「まあ、その話はあとで聞こう。源《みなもと》がどうしたというんだ?」
「そ、それです、それなんです、八束先生。ちずるさんの、胸が……胸が……」
「胸? 胸を怪我《けが》したのか」
「違います! 胸がなくなっちゃったんです! おっぱいが……ぺたんこに!」
「……………はあ?」
八束が反応を返すまでに、たっぷり十秒かかった。
天井裏に忍者らしく潜んでいた雪花《ゆきはな》も、覗《のぞ》きこむために開けた天井板のすきまから、蒼《あお》いポニーテールの先っぽを、ずるる、と落とす。
4
ちずるが、泣いていた。
八束の元を退き、耕太の部屋にきてからずっと、夜の闇《やみ》のなか、うえーん、びえーん、ぐえーんと、立ったまま、涙も拭《ぬぐ》わずに、まるで子供のように泣きまくっていた。
「ちずるさん……」
耕太といえば、ひたすらおろおろするばかりだ。
ぼろぼろと涙をあふれさせるちずるをそっと抱きしめこそしたが、気のきいた言葉のひとつもいえないまま、ただただ背中を撫《な》でさするだけ。たったそれだけだ。
ああ、と耕太はうなだれる。
ぼくは、女の子の涙ひとつ、止めることができない。
情けなかった。ただの女の子ではないのだ。自分が愛する恋人なのだ。自分を愛してくれる恋人なのだ。いつもいつも、あふれんばかりの愛情で耕太を包んでくれる恋人なのだ。
どうして――逆のことができない?
彼女を――愛情で包んでやることができない?
包む……。
その言葉でもくもくと浮かぶのが、ちずるのあの、手のひらでつかんで容易にあまりまくるふたつの果実なのが、我ながらどうしようもない。
果実はもう、失われたのだ。
耕太は視線を正面に向ける。
いつもならやわらかしっとりうっとりと耕太を包む、ちずるのふくらみ。
それがいまは、見る影もない。
窓から差しこむ青白い月明かりによって、ちずるの胸元には陰影が生まれていた。その、影の落ちた山があきらかに低い。ぺたんこだ。しかも制服は、下からずっとどーんとつきあげられていたために、以前の胸の型がかすかに残ってしまっている。
つぶれて盆地となった型が、哀《かな》しい。
「ちずるさーん!」
耕太はちずるを強く抱いた。
抱いて、せめて制服の型を消そうとした。抱かれたちずるは、ひたすら、ふええーんと泣いた――。
ちずるの身に異変が起きて、すぐ、耕太たちは八束《やつか》の元へと向かった。
妖怪《ようかい》の管理官ならば、妖怪の身体にもくわしいだろうと考えたからだ。蓮《れん》と藍《あい》には申し訳なかったが、たゆらが食事代だけ残して、耕太たちは学校へと走った。
ところが、八束は職員室にも宿直室にもいない。
人狼《じんろう》である望《のぞむ》が匂《にお》いをたどることで、ようやく理事長室にいる八束を見つけだした。
が、しかし……。
『おれにはどうにもできんな。〈御方《おかた》さま〉ならば、あるいは治せるかもしれんが』
そんな回答しか得られなかった。
八束が手をかざしたりして調べた結果――服を脱いだり触れられたりするのはちずるが『エロガッパ!』と拒否した――によると、どうやらちずるの妖気《ようき》は、数十分の一にまで減少しているらしい。ほとんど人間なみ、とのことだった。
ただし、それが胸の縮んだ理由かどうかは、不明。
妖気が減った原因についても、不明。
もしかしたら、昼に耕太と憑依《ひょうい》合体したことがなんらかの影響をおよぼした可能性はあるかもしれない……が、やっぱり不明。
ならば治療方法を知る〈御方さま〉の行方はといえば、それも不明。
〈御方さま〉を宿した砂原《さはら》は、いま〈葛《くず》の葉《は》〉の仕事で出張中だという。居場所も、戻る時間も不明。
結局のところ、不明、不明、不明の不明づくし。
最後には、どうして憑依したのかと逆に問いつめられ、巨大昆虫に襲われたから倒してやったんだこの役立たずとちずるがぶちギレて、耕太たちは八束の元を飛びだした。
もちろん双子のことは八束には秘密だった。バレたら退学だし。
なんの情報も得られぬまま、耕太たちは夕闇《ゆうやみ》に沈んだ道をとぼとぼと帰った。
耕太の住居である、薫風《くんぷう》高校の学生寮までやってきたとき、たゆらが耕太の肩を叩《たた》く。
『ちずるのこと……姉さんのこと、頼むわ』
帰り道、ずっと無言だったちずるを置いて、たゆらは『今日だけだぞー』といい残し、去っていった。望《のぞむ》も空のステーキ皿を抱え、猛スピードで走ってゆく。
耕太は、ちずるとともに自分の部屋に入り――。
すぐさま、ちずるは泣いた。
もうこらえきれない、といった感じだった。玄関口でみるみる顔をゆがませ、固く眼《め》を閉じ、唇を噛《か》み、それでも涙は流れ、あふれ、こぼれ、ついには口から声をあげ、泣く。
あーんあんあん……。
耕太は泣くちずるの靴を『はい片足あげてー。はいつぎこっちー』と脱がせ、肩を抱いて暗い部屋のなかへと導いた。
あとはただ、抱きしめたまま、おろおろするばかり。
明かりをつけようかとは考えたが、ちずるが自分の姿にあらためてショックを受けるのではないかと思ったら、できなかった。
なぐさめの言葉すら、でてこなかった。
だって、なんていえばいいのだろう。
だいじょうぶですよ――なにが? どうにかなりますよ――どうして? いつか治りますよ――いつ? どれもこれもがうわすべりする言葉ばかりだ。
でも。それでも。
ぼくは……たゆらくんに頼まれた。
オトコとして、やり遂げなければならない。そもそも、惚《ほ》れたオンナをなぐさめることすらできなくてなにがオトコか。そうだ。そうなのだ。
よし、と耕太は覚悟を決める。真上で涙をこぼすちずるの顔を見あげた。
「あの、ちずるさん……ちずるさん」
呼びかけに、うあーんというちずるの泣き声は、ひぐ、えぐとしゃくりあげるものへと変わった。ずす、とちずるは鼻をすすりあげる。
「な、なに、耕太くん……ぐすっ」
「ちずるさんが悲しいの……ぼく、わかります。あれだけ立派ですてきだった胸が、こんなに……なってしまって、すごく悲しいし、辛《つら》いと思います。いや、ぼくは男ですから、女性であるちずるさんの悲しみを本当の意味で理解してるかといえば、やっぱりできてないとは思うんですけど、それでも……あの、ぼくになにかできることあれば、教えてください。泣きたいのなら、ぼく、いつまでだってつきあいますから」
その言葉に、えぐ、あぐと肩を揺すりあげていたちずるは――。
「うわああああーん!」
大・爆・発。
耕太はまごつく。え? ええ?
「ち、ちずる、さん? もしもし? もしもし?」
「こ、耕太くんは、耕太くんは、やっぱり、おき、おぱ、好き……ふあーん!」
いくら問いかけようが、揺すろうが、ちずるはひたすらに泣きわめくばかりだった。こぼれた涙が、耕太の頬《ほお》にもぴちゃぴちゃと当たる。
ぼ、ぼく、なにかまずいこと、いっちゃった?
耕太は途方に暮れる。暮れまくる。ちずるは泣く。泣きまくる。ぐええええーん。
「ち、ちずるさ……」
「ちーずーるー!」
部屋のドアが、けたたましい音をたてて開いた。
耕太はびくつき、ちずるですら一瞬、固まる。
青ざめた月光のなか、玄関に立っていたのは、銀髪の少女――望《のぞむ》だった。
望は靴を蹴《け》り脱ぎ、すたすたと部屋のなかに入ってくる。
呆然《ぼうぜん》としたままの耕太の横を素通りし、ちずるの前に立った。
おもむろに手を振りあげる。
「の、望さん?」
思わず耕太は声をあげ、ちずるも、ひっ、と両腕を構え、身を縮めた。
振りおろされた望の手は、ちずるの頬――では、なく。
ぐわしっと胸をわしつかんでいた。
「や!? やあああ? やめ! だめ! ちょっと……な、なにするのよう!」
さらにもう片手をくわえ、両手で激しく揉《も》みしだく。ちずるがいくら身をくねらせても、望は揉むのを止《や》めようとはしなかった。
「や……止めてったら!」
突きとばされ、ようやく望は両手をちずるの胸から剥《は》がす。
両腕で胸元を隠し、涙目ではあはあと荒く息をつくちずるの前で、望はつかんだかたちのままの手を、自分の胸に当てた。
ふっふっふ……と得意げな笑いをあげる。
「わたしの勝ち」
びきーん、とちずるが表情を引きつらせた。よろめき、二歩、三歩とさがる。
「あ、あああ、ああ……ま、負け、わたし、負け……乳で負け……」
「望さん、そ、それはあまりにも!」
「ちずるが泣き虫なの、胸がちっちゃくなったからじゃないでしょ」
望は胸に手を当てたまま、ズバリといった。ちずるが眼《め》を剥《む》く。
「耕太に嫌われるのが、怖いんでしょ」
……え?
とまどう耕太の前で、ちずるの顔はみるみるゆがんでいった。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、唇をへの字にし、目元をぷるぷる震わす。涙のダムはもう決壊する寸前だ。
「ぼ……ぼくが、嫌う……?」
「だ……だって」
ひくっ、ひくっとひくつきながら、ちずるは涙にあふれた眼《め》を耕太へと向けた。
「お……おっぱいなくなっちゃったら……ど、どうやって耕太くんを悦《よろこ》ばせればいいのか、あ、愛せばいいのか、わ、わ、わからないんだもん!」
「ぼ、ぼく、べつにおっぱいがなくったって」
「嘘《うそ》! 嘘、嘘、嘘! わたし知ってるんだもん。耕太くん、大きいおっぱい大好きなんだもん! グレイトブレストジャンキー、略してG・B・Jなんだもん!」
「耕太がその、じーびーじぇーになったのは、だれのせいなの、ちずる」
望《のぞむ》の言葉に、ちずるは、ひぐ、あぐっ、としゃくりあげる。
「わた……わたしよ、わたしなのよ……わたしが、いろんなテクニックを駆使して、耕太くんをおっぱい狂にしてしまったのよ……うええーん、自業自得ー!」
身も世もなく泣きまくるちずるに、耕太はそうか、と思った。
さっき、わかったような振りをして、『あれだけ立派ですてきだった胸がなくなって、悲しいのはわかります』なんて自分がいってしまったのは、ダメダメのダメだったのだ。
なぜならちずるは、耕太がどう感じているのかをいちばん気にしていたのだから。
そこに『立派ですてきな胸』などとぬかしたら、やっぱり耕太は大きなおっぱいが大好きなのだと思いこまれてもしかたがない。いやまあ、たしかに、大きなおっぱいが嫌いなのかと問われれば、それは嘘になるのだけれども。
「だいじょうぶだよ、ちずる……」
暗い天井に向かってうえええーん、と泣くちずるの肩に、望は手を置いた。
「な、なにがなのよう、望……」
「たしかに耕太は、大きいおっぱい大好き病の末期患者で、もう治る見こみはないよ。ちずるの胸も、いまのところ元通りになる見こみはないよ」
「だ、だったらダメなんじゃない! もうおしまいなんじゃない!」
「あのー、ぼく、末期患者って……」
ふ……っと望が笑う。
「パンがないなら、ケーキを食べればいいんだよ、ちずる」
「ふえ?」
「おっぱいがないなら……」
「な、ないなら……?」
「知りたい?」
ぶんぶんぶんとちずるは首を縦に振る。
「だったら……」
望が、ちずるから耕太へと視線を移した。
自分の首の後ろに手をまわし、つけてあった黒いチョーカーを外す。
「はい」
と、耕太の前に広げた。月光に、銀の狼《おおかみ》の飾りがきらめく。
「……もしかして、首輪、ですか?」
にかっ、と望《のぞむ》は両|頬《ほお》をつりあげる。歯と犬歯が、夜のなか、笑顔のかたちに白かった。
★
望のほっそりとしたうなじに、黒い紐《ひも》の両端をしっかりと留める。
「はい、できたよ……望さん」
耕太が指先を銀色のフックから外しても、望はしばらくそのままでいた。うつむいたまま、両手を首筋近くまでもっていった姿勢で、動かない。
「ほら、望……」
ちずるが望に手鏡を向ける。
そこには、銀の狼があしらわれたチョーカーを首につけた、銀髪の少女の姿が映っていた。
望は、二度、三度とまばたきをする。
ぎゅっとまぶたを閉じた。唇も噛《か》み、上向きとなってふるふる震える。喜びが体中を駆け巡ってしかたない、そんな感じだ。
「これでわたし……ミもココロも耕太のものなんだね……!」
こらえきれぬように、腕を折りたたんだかたちで、肩をリズミカルに揺すりたてる。その動きはやがて、喜びのダンスへと変わっていった。
「……本当にこれで、よかったんでしょうか、ちずるさん」
くるくると畳の上でまわる狼少女を前に、耕太はちら、とちずるを横目で見る。
「状況が状況だし……耕太くんだって、望のこと、嫌いじゃあないでしょ?」
じと、と横目で見返された。
「そ、それは!」
じとととと、と見つめられ、耕太はうつむく。
「……たしかに、望さんはすごくかわいいし、けなげだし、そんな子に好かれて、ぼくも悪い気はしません。でも、ぼくが好きなのはあくまでちずるさんであって」
「わたしも望のこと、嫌いじゃあないんだ」
「え?」
「このバカオオカミのこと、嫌いにはなれない……だってこいつ、わたしとおなじで、耕太くんのためなら命だって投げだすもの。そういう意味では、同志っていうのかな……」
「ちずるさん……」
「ま、同志とどうじに、宿敵でもあるんだけどね! ほらほら望、いつまで踊ってんのよ。はやくケーキの話、わたしに教えなさい!」
いつのまにか阿波踊《あわおど》りを始めていた望を、ちずるがぱんぱんと手を叩《たた》いてうながす。
「じゃ、まずはゲンジョーのカクニンから」
阿波踊《あわおど》りのかたちのまま、望《のぞむ》はちずるを指さした。
指先は、「現状の確認?」と首を傾《かし》げたちずるの、胸元へと突きつけられている。
★
「ど、どうしても、やらなきゃ、ダメ……?」
「ダメだよ、ちずる。ケーキを作る前に、ゲンジョーのカクニンしなきゃ」
気弱な声をあげたちずるを、腰に手を当てた望がせかす。
望に首輪の儀をおこなった時点で、すでに部屋の明かりはついていた。天井の蛍光灯から降りそそぐ乳白色の光の下、ブレザーを脱がされたちずるのワイシャツ姿がまばゆい。
そして望といえば、すでにスカート一枚だけ。
腰に手を当てているために、その透けるような白い肌と、つん、と尖《とが》ったか弱い胸のふくらみが、まさに輝かんばかりだった。その姿は、いやらしいというより美しい。
「わ、わかった……ぬ、脱ぐ……」
ちら、と耕太を見てから、ちずるがワイシャツのボタンに指先をかけた。
ぷち、ぷち、ぷち……と外れ、空いたすきまからは、だるーん、と垂れたブラが覗《のぞ》く。
「……あう」
ちずるもだるーん、とうなだれた。
悲しい。たしかに悲しい。がばがばのブラは、あまりに悲しすぎる。
「ほらほら、ちずる。泣き虫ダメだよ」
ぐす、ずすっと鼻をすすりながら、ちずるはワイシャツを脱いだ。だるーん、なブラは引きちぎるように外し、「こんなもの!」と床の畳に叩《たた》きつける。
「これでいいんでしょ、これで!」
ぎゅっと眼《め》を閉じ、やけくそのように胸を張った。
その光景に、耕太は、ああ……と感動とも失望ともつかぬため息をこぼしてしまう。
美しかった。
望《のぞむ》ほどではないにせよ、ちずるも肌は白い。
儚《はかな》げな望と違う、健康的な色つやの、おだやかな……本当におだやかな隆起。薄桃色に息づく、その頂点。なんと幻想的な姿なのだろうか。
しかし……当然ながら、かつての圧倒的なまでの量感は、存在しない。
実際に眼で確かめることで、耕太は思い知った。源《みなもと》ちずるの胸は――消失したのだ。
「や……やっぱり、耕太くん……」
気がついたら、ちずるが上目づかいで耕太を見つめていた。
「さ、淋《さび》しいって顔、してる……これじゃもの足りないって……う、うう、ご、ごめんなさい……おっぱいなくして、ごめんなさああい……」
瞳《ひとみ》を揺らがせ、血がでそうなほどに唇を噛《か》む。
「あ、ち、違うんです、ちずるさん。ぼく、きれいだなあって、美しいなあって思って、それで、ぼーっとしちゃって……だから、そんな、違うんです、誤解です!」
ううううー、とちずるはまぶたを閉じ、天井を見あげた。
その頭をつかんで、望が正面を向かす。
「逃げちゃダメだよ、ちずる」
「だ、だって、だあってぇ」
「耕太。やってみて」
「え」
「いつものように、ぐわーって、どわーって、ちずるのおっぱい、いぢめてみて」
「い、いぢめる……」
あくまで望の顔は真剣だ。ちずるもすがるような目つきを向けてくる。
「で、では……」
耕太は両手を伸ばす。
とはいえ、考えてみれば普段はべつにぐわーっともどわーっともやっていないのだ。ただ、胸に顔を埋《うず》める|ちちまくら《あまえんぼさん》だけ……。
とりあえず、指先で頂点をつっついてみる。
ちょん。
「ひゃっ!?」
ちずるが身を強《こわ》ばらせた。
たて続けにつついてみる。ちょん、ちょん、ちょちょん。ちずるはびくびくと震えた。身を引こうとするも、望《のぞむ》に押さえられていてできない。
「あ、ああ、耕太くん、だめっ、だめえ、つんつん、だめえ」
つつくうち、だんだん頂点は硬く、その姿をはっきりとさせだした。
薄桃色だった色あいも、あざやかに色づいてゆく。まわりの肌も火照ってきたようだ。
「ああ、ああああ、耕太くん、つんつん、耕太く…………ひゃんっ!?」
一気に揉《も》んでみた。
以前は耕太の手のひらになどとうてい収まらないほどの器の大きさだったが、いまはほどよく、すっぽりと包みこめる。
これはこれで……うん、悪くないぞ。悪くない。耕太は鼻息を荒くした。ふんがっ。
「こ……耕太くん……そ、そんな……や、やは、は、激し、やんっ!」
いきおいにのってしまった耕太は、やわやわとやさしげだった揉みあんばいを、がん、がん、ががんとシフトチェンジする。ぐにぐにぐにん、ぐにぐにん。
服の上からだとぺたんこだと感じた胸は、その姿をさらしたとき、きちんと乳房としてそのかたちを成していた。ない、と思ってしまったのは、かつての隆盛がすごすぎたせいだろう。ある。ちゃんとある。普通にある。おっぱいぱーい。ぐにん。
耕太はちらりと、ちずるを脇から押さえる望の胸元へ視線を走らせる。
望本人は勝利宣言をしたが、その大きさはちずるとおなじくらい……そう耕太には感じられた。おもしろいのは、大きさがほとんどおなじであっても、そのかたちが違うことである。ちずるが水平なら、望は上向きであった。耕太の鼻息は、ぶししーっ。
「あ、ああ……はあ……」
もはやちずるは抵抗するそぶりも見せず、揉まれるがままとなっていた。呼吸は乱れきり、望の支えがなければ、きっと崩れ落ちてしまっていることだろう。
よし、と耕太は揉んでいた手を、押しあてるようにしてこすりあげる。
手のなかでは、ふくらみの頂が精一杯に背を伸ばしていた。それが、手のひらによって、ぐぐりん、と身をよじる。つぶれる。こすれる。
「――いあ……あ!?」
ちずるは眼《め》を大きく見開き、背をのけぞらせて、びくん、びくんとけいれんした。あ、あ、あ……と声を洩《も》らし、がくんと力をぬく。
望に抱かれたまま、うなだれ、荒く息をついた。
「……どう、ちずる」
「す……すごかった……お、おっぱいが小さくなると、なんだろう、神経がそのぶん集まるからかしら……前より……し、しびれた……」
気だるげに望を見あげていたちずるは、でも、とうつむく。
「耕太くんに愛されるのは、このおっぱいでも充分だけど……愛することはこれじゃとても無理よ……だって、こんなちっちゃいと、あまえんぼさん、できないし……」
「いや、あのですね、べつにぼく、あまえんぼさんがなくても」
うーん、と望《のぞむ》が考えこみだす。
「やっぱり耕太、このパンだけじゃ足りないか……じゃ、ケーキだね」
「だからその……ケーキっていったいなんのことなの? どういう意味?」
望はちずるの肩をつかんで、いきなり後ろを向かせた。
ぱっ、とちずるから手を離す。
ずるずるとちずるは床にへたりこんだ。もはや腰が立たないらしい。
四つんばいとなってつぶれたままのちずるの腰を、望が持ちあげる。ちずるは頬《ほお》をべちゃっと畳につけたまま、お尻《しり》だけを突きだす格好となった。
「ほい」
望が、ちずるのスカートをまくりあげる。純白ぱんちー丸だしとなった。
「な! なな、なにやってんのよ、バカイヌ!」
つぶれたまま、ちずるはスカートを元通りにさげる。
望はまたあげる。ちずるはさげる。望がまたまたあげて、ちずるがさげてと、なんどもくり返した。そのたびに白い布地は見え隠れ、まさにぱんちら無限運動。
「ダメだよちずる……耕太に愛されたくないの?」
その言葉に、ちずるの抵抗は止まった。
「そ……そうよね。わかってた。わたし、ケーキがなんなのか、本当はわかってた。耕太くんを愛せる場所は、もうここしか残ってないって、わかってた……。うん……初めてはもっとロマンチックなのがよかったけど、いずれは耕太くんに捧《ささ》げるところだし……」
ぐ、と腰を真後ろにいる耕太へと突きだす。
「は、はい、耕太くん。ケーキ……食べて? で、でも、わたし、どうやら責められるのはすごく弱いみたいだから、その……やさしく……ね?」
ずっきゅーん。
耕太はよろめいた。
頭を床につけ、腰だけを突きだしているちずる。それを真後ろから眺めている耕太。かつて耕太は、こんな体勢のちずるを、こんな位置から見たことはなかった。
ちずるのお尻は、丸くて大きい。
その張りつめた肉を、白い布地が、頼りなげにぴっちりと包みこんでいる。
布地の一部分は……あからさまなほどの湿度、粘度をもってぴたりと張りつき、そのはざまをあらわにしようと企《たくら》んでいた。
見ちゃダメだ。
見ちゃイケナイ。
わかっている。わかってはいたが、耕太は眼《め》を離すことができなかった。
初めてだったのだ。
いままで、ちずるに襲われたことなら幾度でもある。
が、逆に襲う側になったことはほとんど初めてといっていい。手のなかに、さきほどのちずるの肉体の感覚が、まだ、生々しく残っていた。
たぎる、獣性。
獣の本能に突き動かされるまま、耕太は一歩、足を進めた。
じゃり、という畳のすれる音に、ちずるがびくっと腰を震わせる。
二歩、三歩。もうすぐそこだ。手を伸ばせば、そこに、ちずるの、がる、がるる――。
「はい、耕太」
望《のぞむ》がちずるのぱんつに手をかけ、ぺろんとさげた。
お尻《しり》のなかばぐらいまで。
「……ちょっと、望? その作業はやっぱり耕太くんのお仕事だと思うし、それに……なんか中途半端じゃない? これじゃあお尻しか――って、まさかあなた、ケーキってそっち!? そ、それは……だって、前もまだなのに、後ろからなんて……も、もちろん、耕太くんが求めるなら、わたしは初めてがそっちでもオッケーだけど……で、でもお」
「……がる?」
なんの話なのだか、耕太にはさっぱりわからない。
どうやら望もおなじようで、うん? と首を傾《かし》げている。
「前とか後ろってナニ? ケーキは、ここだよ?」
望が指さしたのは――。
お尻の深い谷間の、ずいっと上。
ぽつんとふくらむ、それは尾《び》てい骨だった。
「……はあ?」
「ここ。しっぽのつけ根。きっとおいしいよ、耕太」
「な、なにをあなたは……あ、わかった! ぴんときた! 望、あなた一回、先に帰ったよね。たゆらと一緒にいなくなったよね。それ、自分の家に戻ってたんでしょ。そこで本を読んで、勉強してから戻ってきたんでしょ! 耕太くん攻略のための本……あなた、最近どんな本読んでるの? 首輪の件といい、とてもまともなものとは思えないんだけど」
「んー、なんとかスナイパーって」
「それ、頭にSMがつくだろ! 男も知らないくせに先鋭化しすぎだ! あなた、情欲もろくにないくせに、余計な知識ばっかり増やして、どこまでフェチれば……」
「ほら、耕太。しっぽだよ、しっぽあとだよ」
「ちょ、ちょっと耕太くん! さすがにそれは!」
「ごめんね、ちずるさん……ぼく……もう……がう、がるる、がうー!」
とめどなく高まり続けるリビドーに、言語中枢すらやられてしまった耕太は、がきっ、と半分|剥《む》きだしのお尻をつかんだ。
しっぽのつけ根にむしゃぶりつく。
「ひああああああ!」
ちずるは両腕を伸ばして畳に爪《つめ》をたて、どうにか逃れようとするが、例によって例のことく望《のぞむ》が押さえつけているため、どうにもなりゃしない。
「いくらなんでも耕太くん、これはあまりにも! ごむたいな! いっそマトモにやって、マトモに食べて、マトモにいぢめてええ!」
んろろろろろろ。
びくびくびくとちずるの腰が、暴れ馬のごとく跳ねあがった。
「だめえええええ!」
★
室内に、ちずるのすすり泣きが響く。
「ひどい……ひどいよ、耕太くん……やめてって、やめてって、なんどもいったのに……あ、あんなところ……吸って、舐《な》めて、軽く噛《か》んだりして! 尾《び》てい骨はねえ、ちくびじゃないんだから! ミルクなんかでないんだから! バカ! ヘンタイ!」
「すみません、ちずるさん、すみません!」
畳の上に身を横たえ、丸くなって涙を流していたちずるに、耕太は土下座をくり返す。ちずるはぺろんとお尻《しり》をだしたまま、直す気力すらないようだった。
「いいじゃない、ちずる。気持ちよかったんでしょ」
ただひとり立っていた望の言葉に、ちずるが顔を跳ねあげる。
「だから嫌なのよ! あ、あんなとこで……尾てい骨なんかで、わたし、なんども……ううう、わたしも耕太くんも、どっちもヘンタイさんになっちゃったよう!」
「すみません、ちずるさん、すみません!」
「うう……こうなったら、望……おまえも地獄に堕《お》ちろ!」
ちずるは身体を跳ね起こし、望の背中に飛びついた。
うつぶせに押し倒すなり、スカートをまくりあげる。あらわとなった望の青い下着を、思いっきり引きさげた。いきおいあまって膝裏《ひざうら》までさげた。
引き締まった小ぶりなお尻が、蛍光灯の下、青ざめたような清楚《せいそ》さの輝きを放つ。
「さあ、耕太くん! このオオカミ娘もわたしとおなじ地獄へと! 吸って舐めてかじって、地獄の門をくぐらせてやって! 尾てい骨で感じるもの、一切の清楚を捨てよ!」
「ちずるー、なにするのおー」
「シャラップ! あなた、耕太くんのアイジンなんでしょ、ミもココロも捧《ささ》げたんでしょ、首輪をつけてもらったんでしょ! だったら従いなさい!」
うつぶせのまま手足をぱたぱたさせていた望が、ぴた、とその動きを止めた。
「さあさあさあ、耕太くん! ご決断を……ごケツ断を!」
「あ……う……うう?」
土下座の途中で顔をあげたまま固まる耕太の前で、望《のぞむ》の清楚《せいそ》な山が、くにん、と動いた。
★
望の肉はちずるのそれより引き締まり、そのためか尾てい骨もくっきりしており、耕太が吸いつき舐《な》めあげかじりつき、ちずるも悪のりして背中や耳たぶなんかを舐めたりしているうち、声をこらえていた望は絞りあげるような「くぅぅぅぅん」という声をあげ、三人の身体は甘酸っぱく匂《にお》いたってむんむんむむん、最後は遠吠《とおぼ》え、わおーん。
★
「どうだ、思い知ったか」
ちずるは腰に手を当て胸を張り、床に転がる望を見おろしていた。
望はうつぶせのまま手足を投げだし、ひたすら呼吸を荒くしている。膝《ひさ》までずりさがった下着をあげることも、スカートでお尻《しり》を隠すこともせず、ぐったりしていた。
「思い知ったのなら、わんと鳴きなさい、望」
「……わん」
望の敗北宣言に、ちずるは高笑いをあげた。
部屋中に響き渡る笑い声を聞きながら、耕太は床にへたりこんだまま、お尻丸だしな望の姿を眺める。
ちずるとくらべれば浅い切れ目の上にある、尖《とが》り気味の骨。
そのまわりは、耕太とちずるの唾液《だえき》でぴちゃぴちゃに濡《ぬ》れていた。唾液に光る尾てい骨に、耕太は自分の濡れた口元をぐしぐしと拭《ぬぐ》う。
横で得意げな笑みを浮かべるちずるを、見あげた。
「でも、よかったです」
「え? な、なにが、耕太くん? まさか……尾てい骨いぢめ、ハマっちゃった?」
「そーじゃなくて! ……ちずるさん、なんだか元気になったみたいだから」
ちずるは上半身裸のまま、スカートだけの姿で、胸を隠すどころか、腰に手を当てて突きだしてすらいた。
はにゅにゅーとしたふくらみが、つつん、と頂を尖《とが》らせている。
いま気づいたように、ちずるはあわてて胸元を両手で覆い隠した。くす、と笑い、左手は元通り腰に、右手は斜め下に伸ばす。手のひらを耕太のほうに向けた。
「まあ……耕太くんと望に、あれだけ好き勝手やられれば、ねえ? わたし、気持ちよくなった回数の自己新記録、達成だもの。嫌だと泣きわめくいたいけなわたしを、耕太くんは強引に、なんどもなんども……ああ……激しく……」
「そ、その節は申し訳ありませんでした」
深々と頭をさげた耕太の前に、ちずるが片|膝《ひざ》をつく。
「耕太くん……これでもいいの? こんな、情けないおっぱいでも、いいの?」
ちずるは片手で、くにん、とたおやかなふくらみのかたちを変えた。
「情けなくなんかありません! ぼく、それはそれでいいと思います! あの……前の大きさのときは、包みこまれるようなやさしさがあったんですけど、いまの大きさは……こう、逆に包みこんであげられるというか、そう、今日、屋上でぼくがひざまくらしたときのように、こちらから愛しているという実感があるというか……」
「ふふ……耕太くん、大きなおっぱい大好き病だけじゃなくて、小さなおっぱい大好き病にもなっちゃったみたいね。うん、これは重症」
あう……。耕太はうつむく。
つまりぼく、エニシングおっぱい大好き病?
「でもそれだと、これから望《のぞむ》も範囲に入ってきちゃうなあ……おまけに、こんなとこまで大好きになっちゃったみたいだし」
ちずるが後ろを向き、スカートをまくりあげた。
いまだ白いぱんちーは半分脱げたままであった。むちりん。
わん、と望も鳴き、もろだしのお尻《しり》を小さくあげる。こぶりん。
耕太は深くうなだれた。
肉厚の花を咲かすちずる、わずかにつぼみをほころばす望。ふたつの好対照な存在が、あまりにもまぶしすぎて、とても見ていられなかったのだ。
あと、もうひとつ。
唇に、舌に、あのときの感触が瞬時によみがえってもいた。耕太がねぶるたびに、ちずるの成熟した身体が、望のまだ青い身体が、激しく身をくねらせ、汗ばみ……。
――ああ、ぼくってやつは! ぼくってやつは!
耕太は、深くうなだれた頭を、床にぐじりぐじりとこすりつけた。
「あ、そうそう、望。今回のことはひとにいっちゃダメよ? 尾てい骨をお互いに舐《な》めあうなんて、はたから見たらヘンタイ行為以外のなにものでもないんだから……こんなこと、万が一あかねでも知ってみなさい。あのマジメモンスター、いったいなにをしでかすかわからない。貞操帯とか、本気で導入するかもよ」
「わん。……だけどちずるー。ひとつまちがってるよー」
うつぶせたままで望は答えた。
「まちがってるって? なにが? ヘンタイってことが?」
「ううん。わたしたちみんなヘンタイだけど、でも、尾てい骨をお互いに舐めあったのは、まちがいだよ」
「なにをいってるのよ。ついさっき、わたしとあなたがナメナメ……あ、そうか」
ちずるはぽんと手を打って、耕太を見おろした。
望《のぞむ》もむくりと身体を起こし、耕太を見た。
「……え?」
嫌な予感に、耕太は床にこすりつけていた頭をあげる。
「うん、たしかにそうだ。まだひとり、残ってたんだ」
「ひとりだけ仲間はずれ、かわいそうだよ」
「い、いえ、ぼくはべつに」
じり、じりとふたりは迫ってきた。ずり、ずりと耕太は尻餅《しりもち》をついたままさがる。
「耕太くんも一緒に地獄にいこう。ねー? ねー?」
「耕太のしっぽ、ぺろぺろする……」
ひい、と耕太は身を返した。
立ちあがりかけるも、後ろからあっさりつぶされる。
「た、助け……ひあ! ズボン脱がさないで! へあ! ぱんつさげないでえ!」
「んっふっふっふ、やっぱりわたしは責められるのより、責めるほうが性にあってるのよねえ……あーん、耕太くんのお尻《しり》、とってもキュートで、すてきぃ」
「耕太のしっぽ、耕太のしっぽ、耕太のしっぽ……」
んちゅー、と吸いつかれた。
「おほおおおおお!?」
ちゅっぱ、ちゅっぱ、と交互にキスされる。舐《な》められる。かじかじされる。ひいいい、ぼく、尾てい骨で、尾てい骨で、もう、もう――。
「……ねえ、いいかげん、こっちに気づいてくれない?」
はえ?
ねぶられたまま、耕太は顔を真横に向ける。
「き、きみは……」
台所の板間に、ふたりの女性が座っていた。
ひとりは白いふりふりドレスを着たまだ幼い少女、もうひとりはフードつきのウインドブレーカーに身を包んだ、しっとりとした白髪の女性……。
「あ、あなたは、み、美乃里《みのり》!」
耕太のお尻の真上から、ちずるの声があがった。
かつて耕太と死闘をくり広げた少女、三珠《みたま》美乃里は、曲げた膝《ひさ》を抱える、いわば体育座りの姿勢で、はあ……と深くため息をつく。
「お兄ちゃん……あのときから、三ヶ月だっけ? しばらく見ないあいだに、ずいぶんとヘンタイさんになっちゃったんだね……。あーあ。ホント、あーあって感じ」
「あ……」
お尻の上が、濡《ぬ》れてひんやりとしていた。
あわてて耕太は起きあがり、足首までさげられていたぱんつとズボンを一緒にあげる。
「み、美乃里さん、きみは、どこから、いったい?」
「フツーに玄関から入ったよ……。ちょうど耕太お兄ちゃんが、ちずるのデカシリに迫るところだったかな……ちーっとも気づかないんだもん。鵺《ぬえ》がお湯わかしても、お茶を飲んでも、ひたすらお尻《しり》をナメナメしてるんだもん! ヘンタイだよ、マニアだよ!」
美乃里《みのり》の横で、白髪の女性、鵺は、湯飲みちゃわんを手に正座をしている。たしかに彼女の真後ろにあるガスコンロの上には、やかんがのっかっていた。
「す、すみませ……」
「あやまることなんかないよ、耕太くん! えーい、このデバガメオトコオンナ! あなた、いったいなにが目的なの? この街には、砂原《さはら》や八束《やつか》の手によって、何重にも結界が張られてある……気づかれずに侵入するにはかなりの苦労をしたはずよ。そこまでの危険を冒して、まさか、わたしたちを覗《のぞ》きにきただけじゃあ、ないでしょう?」
しょぼんと正座してうなだれた耕太の代わりに、ちずるが問いつめる。
ふふん、と美乃里はせせら笑いを返した。
「女ギツネさん……ずいぶんと淋《さび》しい胸になっちゃったみたいだねえ?」
なっ! とちずるは両腕で胸元を抱き隠す。
「う、うるさい! こ、これにはいろいろと複雑な事情が……って、まさか……。あなたなの? わたしの胸がなくなってしまったのは、美乃里、あなたのしわざなの!?」
「さーあ? 昼にお兄ちゃんと合体したせいじゃなーいの?」
「そんなことまで知って……もしかして、あのバカデカ昆虫も」
「あ、それは正解。あれは美乃里のしわざだよ? 耕太お兄ちゃんのいまの力を調べたくて、ちょっとしたバケモノをぶつけてみたんだ……けど、お兄ちゃん、あのちずるのくさそーなマフラー、いまは持って歩いてなかったんだね」
「あ……もう春なので、さすがにマフラーは暑くて」
「ちょっとちょっと耕太くん。『くさそう』の部分は否定しようよ。ねえ」
「ホントーにくさいんだからしょーがないじゃん、ちずる。だってあれって、ヘンな毛とか汁とか混じってる、ちずる特製毒々マフラーなんでしょ? おえー、だよね」
「くさくない! ひとの手作りマフラーをなんだと思ってんのよ、バカガキ!」
マフラーとは、以前、ちずるにプレゼントされた赤い手編みのマフラーのことだ。
美乃里の言葉のとおり、ちずるの体毛ほか、さまざまなエキスが混ぜこんである……らしい。そのちずる特製愛情マフラーを身につけることで、耕太はちずると直接合体しなくても妖力《ようりょく》を得て、妖狐《ようこ》の姿に変化《へんげ》することができた。昼、巨大昆虫と遭遇したときも持っていればよかったのだが、春先にマフラーは厳しい。ちなみにくさくはなかった。
「美乃里さん……」
呼びかけに、ちずるといいあらそっていた美乃里が、耕太のほうを向く。
「なに、お兄ちゃん。もしかして、美乃里のお尻もナメナメしたくなっちゃった?」
「違う。さっき……ぼくとちずるさんが合体したから、ぼくにちずるさんがとり憑《つ》いたから、ちずるさんの胸が、その……ちっちゃくなっちゃったって」
「なーんだ、そのことか。美乃里《みのり》、お兄ちゃんだったら、いつでもナメナメオッケーだったのになあ……」
美乃里は膝立《ひざだ》ちとなって、耕太に後ろを向け、するすると白いドレスの裾《すそ》を持ちあげていった。かぼちゃぱんつが覗《のぞ》く。
「美乃里さん」
「ちぇー。やっぱり美乃里じゃ女ギツネのどぎついエロ気には勝てないかあ。くすん……でも、美乃里には未来がある。明るい未来がきっと待ってる……負けないもん」
すとんとドレスの裾を落とし、立ちあがった。
「もう、帰ろっか、鵺《ぬえ》。お兄ちゃんは冷たいし、この部屋はメスくさいし」
「待って、美乃里さん! もしかしてきみは……ちずるさんの胸を元に戻す方法を、なにか知っているんじゃあないの? だったら教えてほしい。お願いだよ!」
玄関に向かって歩きだしていた美乃里が、立ち止まる。
「……嫌だといったら、どうするの? 耕太お兄ちゃん」
肩ごしに見せたその眼《め》は、ぞっとするほど冷たい。
「そ、それは……」
「もちろん、力づくで話してもらうに決まってるでしょ!」
ちずるが立ちあがった。ともに望《のぞむ》も立ちあがり、膝《ひざ》までさがっていたぱんつを、んしょんしょとあげる。
「ふふん……わかってるんだよ、ちずる。いまのあなたは妖力《ようりょく》が激減してるってこと……。ほとんど普通の人間レベルの力しか、いまはないでしょ? まあ、オオカミのお姉ちゃんがそのぶん強いとして……さて、お兄ちゃんはどうするのかな?」
まだ正座したままの耕太に、美乃里が眼を向けてきた。
「ぼくは……」
「あのくさいマフラーを使う? それとも……ちずると合体する? あの五本しっぽが生えた状態なら、たとえ鵺と合体した美乃里が五人いたって、お兄ちゃん、ラクショーだよ。うん、それがいいね。そうしちゃいなよ、耕太お兄ちゃん」
くすくすと笑う。
「な、なめたことを……べつに合体なんかしなくたって、あなたぐらい……」
「――美乃里さん!」
耕太は正座した状態で、両手を前につき、頭を床にこすりつける。
土下座だ。耕太は美乃里に土下座をした。
「お願いします、ちずるさんの胸を元に戻す方法を、教えてください!」
ちずるが、望が、そして美乃里が息を呑む。
「こ、耕太くん! やだ、頭をあげて! こんなやつに土下座なんて、そんなの……」
「ぼくは……ちずるさんを元に戻してあげたいんです。胸をなくしたときの、ちずるさんのあの悲しみ……あの涙、泣き顔、泣き声、ぼく、忘れてません。だから、だから」
「ふーん……つまり耕太お兄ちゃんは、やっぱりグレイト・ブレスト・ジャンキー、と」
「え?」
顔をあげると、美乃里《みのり》が醒《さ》めた顔で覗《のぞ》きこんでいた。
美乃里は肩をすくめて、はふー、とため息をつく。
「お兄ちゃんがどれほど大きいおっぱい大好きなのか、よーくわかったよ……いいよ。どうすればちずるのデカチチが復活するのか、教えてあげる」
「ぼくはべつにおっぱいのために……い、いや、ありがとう、美乃里さん」
「あのね、おっぱいを元に戻すためにはね」
「う、うん」
「――お兄ちゃんとちずるが、また合体すればいいの! そうすれば元に戻るよ!」
きゃはは、と美乃里は笑った。
「……へ?」
「美乃里! あなた、ふざけたことを……」
「ふざけてないってば。胸がなくなったのは、ちずるの妖力《ようりょく》がなくなったのと無関係じゃないの。ほら、妖怪《ようかい》の肉体というのは、妖力で変化するでしょ。妖狐《ようこ》なんか妖力が増えればしっぽが増えるじゃない。それとおなじで、妖力が減れば妖怪の身体は小さく、弱々しくなる……だからちずるのおっぱいも、弱々しくなったんだよ、たぶん」
「あなたね、ひとのおっぱいを妖力タンクみたいに」
「だってホントのことじゃない。で、どうしてちずるの妖力がなくなったのかといえば……やっぱり、昼の憑依合体の影響だろうね[#「憑依合体の影響だろうね」に傍点]。きっとあのときの五本しっぽでちずるは妖力のバランスを崩したんだよ。だからもう一回合体して、バランスを直せば、妖力は復活、胸もデカチチ、タレチチ……ってわけ。わかった、耕太お兄ちゃ――」
微笑《ほほえ》みかけた美乃里が、その顔をすばやく後ろに引く。
寸前まで顔があった位置を、爪《つめ》をたてた手が空気を切り裂きながら通りぬけていった。
攻撃したのは――望《のぞむ》だ。
ふっ、と美乃里が笑う。
「なに、オオカミのお姉ちゃん。美乃里、なにか悪いこといった?」
「おまえ……耕太に土下座させた。耕太に恥かかせた。耕太に辛《つら》い思いさせた。耕太の痛み、わたしの痛み。だからおまえ、痛くする」
「あららー、まいったなー。オオカミお姉ちゃんを敵にまわすつもりはなかったんだけど……どーしようかな?」
答えを待たず、望は襲いかかった。
殴りかけるも、すぐさま後ろにとびのく。
美乃里の横あいから、巨大な口があらわれたからだ。
耕太の部屋の、天井から床までも開いた、大きな口……上下にぎざぎざと、まるでのこぎりのような歯が、大小ふぞろいにずらりとならんでいる。
がぷんと望《のぞむ》に噛《か》みつきかけ、口はしゅるしゅると縮んだ。
口は、白髪の女性、鵺《ぬえ》の左腕が変形したものだった。
鵺は美乃里《みのり》の前に立ち、耕太たちと向かいあう。半分を白髪が流れる顔は無表情のまま、左腕を突きだした。
そのすきに、美乃里が玄関から外に飛びだしてゆく。すぐさま鵺もあとに続いた。
「じゃあね、耕太お兄ちゃん、ちずる、そしてオオカミお姉ちゃん。また……いずれ!」
「――待ちなさい、美乃里!」
耕太たちもあとを追う。
しかし、玄関の外、寮の二階の通路にはすでにだれの姿もない。手すりごしに広がるまわりの景色にも、夜に沈んだ住宅街以外、なにもなかった。
「まったく、逃げ足の速い……」
「ちずるさん」
上半身裸のまま、二階通路の手すりから身体を伸ばしていたちずるの背に、耕太は声をかけた。
「あ、そうね。なにか着ないと。いやん」
「いえ、それもそうなんですけど、さっきの美乃里さんの言葉……合体すればって」
「だめ」
びしっ、とちずるは耕太の目の前に手のひらを突きだしてきた。
「あいつのいうことなんか、なにひとつ信用できないよ、耕太くん。美乃里と初めて出会ったときのこと、もう忘れた? あいつ、姿どころか性別までわたしたちに偽ってたんだから……そんなやつ、ぜったい信用できない」
「でも……いちど試してみるくらいなら」
「ダメったらダメ!」
意外なまでの剣幕に、耕太はたじろぐ。
ちずるは自分のいきおいに気づいたのか、あ……と声を洩《も》らした。ごまかすように笑う。
「と……とにかく、どうやらわたしのおっぱいがこんな貧困の時代を迎えてしまったのは、あいつの、三珠《みたま》美乃里のしわざみたい……。耕太くんもやっぱり大きなおっぱい大好きみたいだし、こうなった以上、かならずあの栄光の時代をとり戻してみせるんだから!」
夜空に向かって拳《こぶし》を突きあげた。
「未来はぼくらの手のなか、栄光はわたしの胸のなか!」
おっぱい剥《む》きだしのまま決意するちずるに、とりあえず耕太は拍手をした。望は自分の胸に手を当て、「ヒンコンのジダイ……?」と呟《つぶや》く。
★
「ふふん……」
美乃里《みのり》は耕太たちがいる学生寮の、はるか上空で笑っていた。
その細い腰には、背後から鵺《ぬえ》の腕が伸びて、がっちりとつかんでいる。
美乃里を抱えた鵺の背からは――コウモリの羽を大きくしたものが生え、夜風のなかでゆっくりと羽ばたいていた。
「仮死状態にならずに、胸がなくなったなんていう双子の報告を聞いたときには、どうせあいつらが失敗したんだろうと思ったけど……なるほど、ちゃんと封印は飲ませたみたいだ。……え? なに?」
背中の鵺が、美乃里の耳元でなにやらささやいていた。
「ああ、じゃあどうして封印に失敗したのかって? それはね……封印よりも、ちずるの妖力《ようりょく》のほうが上だったからだよ。今回の封印は、封じる妖力の量をあらかじめ決めてあったんだ。だって、ちずるを仮死状態にするのが目的だったからね。必要以上に封じたら、仮死どころか死んでしまう……ま、美乃里はそれでもいいんだけど」
くすくすと、楽しげに笑う。
「つまり、ちずるの力はこちらが思っていたよりも、上だった……いや、上になっていた。パワーアップしていた。ねえ、鵺。どうしてちずるがパワーアップしたか、わかる?」
ぼそぼそ、ぼそ。
「うん、正解っ! ホント、おもしろくなってきた!」
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[#小見出し] 四、愛(という名のふくらみ)をとりもどせ!![#「四、愛(という名のふくらみ)をとりもどせ!!」は太字]
1
「さて――それではみなさん、第一回、〜愛はちずるの胸を救う〜、おっぱい復活検討会議を始めます」
と、ちずるがおごそかに会議の始まりを告げた。
告げながら、眼鏡の位置をくいくいっと直す。なぜかちずるは、細長い知的な眼鏡をかけ、さらには制服の上に白衣をはおっていた。
それは、ちずるだけではない。
耕太《こうた》たちは朝早く学校に忍びこんで、勝手に会議室を使っていた。
その会議室のなかにいる、ちずる、たゆら、望《のぞむ》……耕太をのぞく全員が、眼鏡に白衣という姿だった。望だけはコントに使うようなヒゲつきのおもちゃメガネだったが。
「あのー……すみません」
「はい、耕太くん!」
おそるおそる手をあげた耕太を、黒板前に立っていたちずるが、持っていた細長い指示棒でぴしっ、と指す。
「どうして、みんな……メガネに白衣……なんでしょうか?」
「バカだなあ、おまえ。このほうが頭良さそーに見えるからだよ」
たゆらが、くいくいっと眼鏡の位置を直しながら答えた。
ちなみに眼鏡の位置の直しかたは、ちずるがフレームの真ん中を中指で押さえるやりかたで、たゆらはフレームの端を持って動かす、いわばあかねとおなじ方法だった。
「そうよ、耕太くん。健全な肉体に、健全な精神は宿る……ならば、知的な肉体に、知的な精神だって宿るというもの。あのおっぱいをとり戻すためならば、どんな手だてだってわたしは使う……インテリメガネに白衣で知力アップするなら、ありがたいものよ」
「は、はあ」
「ほらほら、耕太。おぼれるものはワラビー食べる、だよ」
ヒゲメガネの望《のぞむ》が、眼鏡から伸びる紐《ひも》を引っぱって、ヒゲをぴこぴこさせた。
「それをいうなら、おぼれるものはわらをもつかむでしょーが! せっかく高まった知的レベルをさげないでくださいます、望さん! それとワラビーは食べるな!」
「えー。ワラビー、おいしそうなのに」
望がヒゲをぴこぴこ。ちずるは眼鏡をくいくい。
「ふんだ、こんなバカ話で会議を踊らせている場合じゃありませんことよ。さあさあみなさん、意見をばしばしだして、会議のお尻《しり》を蹴《け》っ飛《と》ばしてちょーだい!」
ちずるが、すぱーん、と指示棒で後ろの黒板をひっぱたいた。
「はい、議長! 某国の牛乳はバストアップに効果ありと聞いたことがあります! なんでも、乳の量を増やすために乳牛に与えた薬剤が、そのまま牛乳に溶けこんでいて……けっこうデンジャーらしいですけど!」
「多少のリスクは考慮のうちよ! よし、たゆら、現地に飛びなさい!」
「うす、ラジャー!」
「ぎちょー、ぎちょー。ほうきょーたいそーというのがあるんだけど」
「豊胸体操? なんだか効きそうなネーミングね。よし、望《のぞむ》、あとで教えなさい!」
「議長、議長! 某国には食べるだけでバストアップするイモがあるそうです!」
「よしよし、イモを持ってくるついでに、ムエタイも覚えてきなさい!」
「うす、ゲッソンリットー!」
「ぎちょー、ぎちょー。マッサージすると、おっぱい大きくなるんだって」
「うん、それはわたしも聞いたことあるし、なにより気持ちよさそうなところがすばらしい……じゃ、耕太くん。もみもみ、お願いね?」
「え? ぼ、ぼくが?」
「議長、議長、議長! 某国は四千年も歴史があるんだから、バストアップ効果のある漢方薬のひとつやふたつ、あると思います!」
「よしよしよし、じゃあ探しだしてきなさい、たゆら!」
「うす、イーアルカンフー!」
「ぎちょー、ぎちょー、ここにね、おっぱい大きくなるって機械が……」
「望あなた、まーたヘンな本を読んで……なになに……ポンプで吸ってバスト増量? こんなの効くと思う? わたしは思わないけどまあいいや、採用! 注文しなさい!」
「議長、議長、議長、議長! 考えてみると、おれひとりで三ヶ国を旅行するのはさすがに大変です! みんなで役割を分担して……」
「あ、それは却下」
「え? えええー! どーしてだよ、ちずる!」
「だって望がパスポート持ってるわけないし、耕太くんにそんな大変なことはさせられないし、え? わたし? どうしてわたしがそんな面倒なことしなくちゃならないのよ」
「ちょ、ちょっと。あなたの胸の話でしょーが」
「そうよ? そして姉の苦労は弟の苦労、弟の苦労は弟の苦労でしょ。つまりわたしのおっぱいの話は、たゆら、おまえのおっぱいの話でもあるのよ!」
「いや、それはおかしい。なんかジャイアン入ってるし」
「はいはーい、ほかに意見はー?」
「おーい! 話を流すな!」
「あ……いいですか」
「はーい、耕太くん。どうぞ」
「えーと、妖力《ようりょく》がなくなったから胸が小さくなったという説もありますので……だれかに妖力《ようりょく》を与えてもらう、というのは」
「ふーむ……それはおもしろそうなアプローチね。さっすが耕太くん。ご褒美にちゅーしてあげる、ちゅー」
「あー、わたしもちゅーするー、ちゅー」
「こらー、いちゃついてないで、人の話を……」
「あ、そうそう、たゆら。いまからちょっとした買い物、お願いね」
「へ?」
★
会議を終えて、数時間後。
白々とした景色がくっきりと色づき、登校してきた生徒たちによって校内はざわめく。
それでもまだ、耕太たちは会議室のなかにいた。
カーテンを閉めきった室内で、ちずるが呟《つぶや》く。
「あいつ……いったいなにやってんのよ、もう」
ちずるは腕を胸の前で組んで、いらいらとあたりを歩きまわっていた。まだ眼鏡と白衣はそのままで、ひらひらと白い裾《すそ》を揺らしている。
その様子を、耕太はパイプ椅子《いす》にちょこんと座りながら、眺めていた。
ちずるが腕を組んでいる、胸元。
やはりそこは、ぺたんこであった。
かつては威風あたりを払い、腕を組むときは、突きだしたふくらみの上にのせるか、下を通すかしかなかった場所。それがいまは、なんの障害もなく、たやすく組めてしまう。
ふ……。
胸を去来した感情に、耕太は静かに笑みを浮かべた。
訪れ去ったのは、淋《さび》しさ。どうしてぼくは、淋しいのに笑ったのだろう……耕太は自分がひとつオトナになったような気持ちになりながら、腕を下に伸ばす。
耕太の足元では、望《のぞむ》が白衣にまみれて丸くなっていた。
すよすよと寝息をたてる彼女の鼻には、あのヒゲメガネがずれたかたちでのっかったままとなっている。耕太は指先でつまみ、そっと眼鏡を外してやった。
むにゃ……と望は呟き、むにむにと唇を噛《か》みあわせる。
くす、と耕太は笑った。身体を起こし、ヒゲメガネをテーブルの上に置く。
「ちずるさん……だいじょうぶですよ。たゆらくんなら、きっとやりとげてくれます」
「でも耕太くん、もう時間が……」
そういったとたん、ちずるは素早く、教室のドアの横の壁に背中を貼《は》りつけていた。
静まりかえった室内に、外からのノックの音が響く。
「……おーい。おれだ。開けてくれよ」
ちずるはすぱっとロックを外した。
「遅い!」
入ってきたたゆらに、開口いちばん、そう怒鳴る。
「しょーがねーだろ、こんなもん、いままで買ったことねーんだからよ……どこに売ってるのかもわかんねーし、そもそもこんな朝早くじゃ、普通の店は開いてねーし。しかたねーから、郊外にある二十四時間営業のあの店までいったんだぜ? まったく、ぜったい店員に誤解されたぞ。おれが女装趣味だってよ……」
「あーもー、男のくせに、がたがたうるさいったら……」
ぶつぶつ文句をいい続けるたゆらから、ちずるは紙袋を奪いとった。
「へー、これが……」
袋のなかからとりだしたのは、三つの、おなじ横長の箱だ。
ちずるはものめずらしそうにくるくるとまわして、箱を上から下から眺めていた。が、やがて封を開け、中身をだす。
透明なケースに、クリーム色をしたおわん型のものが、ふたつならんでいた。
ちずるが指でつまみあげると、おわんは、とるん、と垂れる。
「元のちずるの大きさがどのくらいかわかんなかったけどよ、売ってるサイズがCカップまでしかなかったからさ。とりあえず余裕をもって、三つ買ってきたぜ」
それは胸パッドであった。
ナマチチならともかく、ニセチチを見るのは耕太も初めてだ。なんかプリンみたいだなあ……と思いながら、ちずるが手のひらにのせてぷるぷるさせている物体を見つめる。
「よし……じゃあさっそく」
ちずるが白衣を肩からすべり落とした。
ブレザーも脱ぎ、リボン、ワイシャツも床に落としてゆく。
薄い胸には、薄桃色のブラがぶかぶかな状態でぶらさがっていた。そのカップに、胸パッドを入れこむ。一枚、二枚と重ねていった。
よいしょ、と下着をつけようとしたところで、耕太の視線に気づく。
「やだ……女の子のこんなところ、見ちゃいけないのよ、耕太くん」
「――す、すみません!」
恥じらうちずるの姿に、耕太はあわてて椅子《いす》に座ったまま、後ろを向いた。
「そこのおまえも、見るなバカ!」
「いて! な、なんだよ……いーじゃねーかよ、ちずるの胸はおれの胸なんだろ……」
なにか軽いものが当たる音とともに、たゆらも後ろを向いていた。おそらくは胸パッドの空箱を、ちずるが投げつけたのだろう。
「えーと……こうやって……んー、これは二枚でも足りないかな……」
耕太の背に、ちずるの呟《つぶや》きと、ごそごそ動かす音が届く。
Cカップの胸パッドが、二枚あっても足りない……。耕太は膝《ひざ》に手をのせ、深く、静かにうなだれた。ぽくぽくぽく、ちーん。
「はい、できあがり! いいよ、こっち向いて」
「――おお……」
振り返るなり、耕太はたゆらとともに声をあげていた。
すでに制服姿となっていたちずるが、腰に手を当て、ぐっと胸を突きだしている。
そのふくらみは、かつての偉大な姿そのままであった。大きさ、重さ、厚み……寸分変わらぬ黄金の豊穣《ほうじょう》さをとり戻している。
「じゃーん。どう? なかなかいい感じでしょ?」
「すげえな……すっかり元通りじゃねーか。つーかこれ、ある意味では詐欺だよな」
「ふふふ……これならうまくまわりの目をごまかせる。まさかぺたんこなまま学校にいくわけにもいかないからね。だってニンゲンはおっぱいはいきなり縮んだりしないもの、あやしまれてしまう……って、耕太くん? 耕太くん?」
「や」
ああ、わずか一日見なかっただけで、なんと懐かしいそのお姿か……と、あまりの感慨に、気がついたら耕太は椅子《しす》から立ちあがっていた。
ふー、とちずるが両手を腰に当てたまま、ため息をつく。
その口元には笑みが浮かんでいた。
「おいで、耕太くん」
「あ、や」
「いいから、ほら。懐かしいでしょ」
両手を広げられ、耕太はふらふらと近づいてゆく。
はむぎゅっ。
抱きしめられた。
「どう? 感触のほうは」
まっとでいもん、なふくらみにはぐはぐされ、耕太は思い知った。
自分はまだまだコドモなのだ――。
ずり、と顔をあげ、まだ眼鏡をかけたままのちずると見あう。
「ちずるさん、やっぱり……」
「ホンモノのほうが、いいんだ?」
うなずいた。胸に顔面を押しつけながらなので、ふにゅ、となった。
「ぜったいとり戻しましょうね、おっぱい」
ふにゅん、と力強くうなずいた。
「よーし、がんばるぞ! じゃあ、いきましょうか、学校に……っていうか、教室に。もうこんな時間だし、遅刻しちゃう! ほらほら、望《のぞむ》、はやく起きた起きた」
耕太をふくらみから解放し、ちずるはぱんぱんと手を叩《たた》く。
うにゃ? と望は起きた。白衣がだらん、となった袖《そで》で、目元をごしごしこする。くあああ、とあくびをした。
「白衣を保健室に置いてこねーと……あとちずる、眼鏡も外したほうがいいんじゃねーか」
「あ、そうだった。伊達《だて》眼鏡だからわかんないのよねー……」
ちずるが細長い眼鏡に両指をかける。
その冷たい知的さが失われるのを、耕太はすこしもったいなく感じた。しかし、完全に眼鏡を外して戻った元の凛《りん》とした美しさも、それはそれでぐっとくるのであった。
つまりちずるさんなら、どんな格好もよく似あうってことだよなあ……。
しみじみ思いながら、三人ぶんの白衣を抱えたたゆらが、会議室のドアを開けるのを見つめる。
ドアの向こうには、あかねがいた。
しかめっ面で、片手は眼鏡のフレームの横に、もう片手は腰に当て、鋭くこちらを睨《にら》みつけ――ぴしゃん、とたゆらがドアを閉めた。
「……いま……なにか、幻覚を見たような……おれ、疲れてんのかな……」
うつむき、目頭のあたりを揉《も》みだす。
「幻覚じゃないわよ、源《みなもと》」
ドアの向こうから返ってきた声に、たゆらは耕太たちへ、頬《ほお》の引きつった顔を向けた。
「ど、ど、どうしよお!」
「どうしようったって、見つかったものはしかたないでしょ。開けなさい、たゆら」
「だ、だってよお」
「いいから。このままじゃ遅刻しちゃうでしょ」
うう、とうめきながら、たゆらがドアを開ける。
さきほどとおなじしかめっ面のまま、あかねはそこに立っていた。
ドアをくぐり、眼鏡の位置をくいくいっと直す。さすが本家、堂にいった動きだった。
「……みなさん、こんなところで、いったいなにをしてたんですか?」
「べつになにも。残念だけど、いかがわしいことはなーんにもしてないわよ」
「――それを信用しろと?」
「んー、そうしてくれると助かるけど……。そうだ、ひとつ質問していい?」
「なんですか」
「どうして、わたしたちがここにいるとわかったの?」
ちずるの質問に、あかねは鋭い眼《め》をたゆらに向けた。向けられたたゆらはびくつき、抱え持っていた白衣を落とす。
「……源《みなもと》が、どこかで買い物したらしき紙袋を持って、登校するのを見たんです。わたしが挨拶《あいさつ》しても源はどこか上の空で……。あまりに挙動不審だったから」
「なるほど。それでこいつのあとをつけたと」
「ええ。源は、教室には向かわず、外れの会議室まできて……あたりに注意を払ってから、ノックして、人目を忍ぶように部屋のなかに入りました」
「ふんふん……ということは、おまえのせいじゃないのよ、バカ」
ちずるは白衣を拾い集めていたたゆらの尻《しり》を蹴《け》った。けーん、とたゆらは鳴く。
「んー……でも、どうしてあかね、あなたは部屋のなかに入ってこなかったの? わたしたちがでてくるの、外で待ってたりなんかしちゃって」
「源《みなもと》がなかに入ってすぐ、ドアに鍵《かぎ》がかけられたからです」
「そうじゃなくて……」
ちずるはあかねにやわらかな笑みを見せた。
「いつものあなたなら、がんがんにドアを蹴っとばしてでも、あやしいと思ったら入ってきたでしょう。そうやって自分の正義をどこまでも貫いたでしょ? なのにどうして、今回はドアの前でこそこそと聞き耳をたてたりなんかしたの。らしくない」
「こ、こそこそと聞き耳なんか」
「たててない? 本当にー?」
ちずるに上から詰めよられ、あかねは唇を噛《か》む。
「わ、わたしは……!」
「ちずる」
うん? とちずるが振りむくと、望《のぞむ》がくいくい、と服の裾《すそ》を引っぱっていた。
「あんまりあかねをいじめちゃ、ダメ……」
「の、望!」
上目づかいでちずるを見あげ、唇を尖《とが》らす望に、あかねは言葉を詰まらせた。
「えー、わたしがいじめっこなの? あー、はいはい、わかりました。どうせわたしはSですよ……ほら、もうホームルームの時間だから。みんな、早くいきましょ」
立ちつくすあかねの脇をぬけ、ちずるは廊下へとでた。
たゆらも、望も、耕太もあとに続く。
「朝比奈《あさひな》さん……ぼくたち、本当に、いけないことはしてませんから」
うつむいたまま、あかねから返事はない。
後ろ髪を引かれながらも、耕太はちずるの背を追う。前をゆくたゆらも、望も、歩きながらちらちらと後ろを見やっていた。
「ま、待ってください!」
声をあげながら、あかねが会議室から飛びだしてくる。
「いったい……なにをわたしに隠しているんですか? いや、あの、昨日の、小山田《おやまだ》くんの耳、しっぽ、ひげの件もそうですけど……なにか、なにかがおかしくて」
耕太たちの視線を受けてすこしたじろぎながらも、あかねは眼鏡の奥の瞳《ひとみ》を、まっすぐにちずるに向けていた。
見つめられたちずるは、ふふ……とやさしげに微笑《ほほえ》む。
「なるほどなるほど……そーかそーか」
振り返り、あかねの元へと戻ってゆく。あかねはたじろいだ。
「な、なんですか、ちずるさん」
「あかね、あなたは本当にかわいい子なのねえ」
ちゅっ……と、いきなりおでこにキスをした。
「なっ!」
おでこを押さえて、あかねはずざざざざっとさがる。みるみる顔を赤くしていった。
「い、いきなり、なにを、なにをするんですか! こんな、こんな……」
んふふー、と笑いながら、ちずるは、呆然《ぼうぜん》としていた耕太のところまで駆けよってくる。
腕を組み、ぐいぐいと引っぱりだした。
「さ、いこ、耕太くん!」
「ち……ちずるさん。いまのは?」
引っぱられながら耕太は問いかけた。横からたゆらも口をだす。
「そ、そうだぜ、ちずる。あのデコちゅーはなんなんだよ。うらやまし……っと、まさかおまえ、また昔の悪いくせがでたのか!? だ、ダメだぞ! あれに手をだすのはダメー!」
「たゆら……おまえはわたしをなんだと思ってるのよ」
「そりゃもちろん、男も女も、なんでもありのヴァーリトゥーダー……」
「ロシアンフック!」
「ボブチャンチンッ!」
弧を描いたパンチを喰《く》らい、たゆらは廊下に転がった。
「な……なふだよ……」
すぐさま立ちあがり、頬《ほお》を押さえながら耕太たちに追いつく。
「そんなことだから、おまえは本当に欲しいものが手に入らないのよ。女の子の気持ち……ひとの気持ちってやつがわかってない」
「ど、どーゆーこと! 聞き捨てならないぞ、それ!」
「つまり……」
「つまり?」
「――あかねは本当にかわいい子ってことよ」
「そんなのわかってんよ! 見りゃわかるだろーが!」
はー、とちずるはため息をついた。
「あとは本人にでも聞きなさい、ボンクラ。さ、いそぎましょ! 遅れちゃう!」
★
お昼、いつものように、ちずるは耕太の教室へとやってきた。
耕太、望《のぞむ》、たゆら、あかねの四人の席は、一年生のときと変わらず、教室前方、窓際に固まっている。おそらくは問題児をひとまとめにして、委員長の監視下に置くためだろう。
その問題児三人、委員長一人の席を向かいあわせて、大きなテーブルを作る。
そうしてできたダイニングテーブルに、ちずるは普段どおり、耕太のとなりへと腰かけたわけなのだが……彼女の前に広げられた食事が、ちょっとすごかった。
牛乳、一リットルパック、一本。野菜ジュース、一リットルボトル、一本。
バター、チーズ、それぞれ一口サイズのものが六個ずつ。
レバ刺し、三人前。鶏《とり》のささみを焼いたもの、二人前。
とうふ、三丁。めかぶ、三パック。ごま、梅干し、煮干し、適量。
これだけのものが、ちずるの前にはずらりとあった。
というか、学校でレバ刺しって?
「ちずるさん……それ……」
「これはね、みんなバストアップに効果があるっていわれてる食べ物なの。良質なタンパク質にカルシウム、ミネラル、ビタミン……レバーは女性ホルモンを分泌させるっていうし、大豆のイソフラボンもおっぱい増量には効くそうだし」
耕太のささやきに、ちずるは笑顔でささやき返してきた。
「な、なるほど。でも、これだけの量を……ひとりで?」
「だって大望のためですもの、がんばらなくっちゃ。じゃ、いただきまーす」
さっそくちずるは箸《はし》で赤いレバーをひとさらい、口のなかに放りこむ。
むぐむぐと食べるその姿に、耕太は感嘆の声を洩《も》らした。
「す、すごいや……」
「センパイ、本当にすごいです」
「お弁当に生レバーなんて、見たことないです」
感嘆の声は、真横、望《のぞむ》の席側からもあがっていた。
あげたのはあの双子――蓮《れん》と藍《あい》だ。
彼女たちは、昨日、屋上にて巨大昆虫から助けられたのと、その後のファミレスでの食事で、どうやらちずるになついてしまったらしい。いきなり昼に耕太の教室にやってきて、一緒に昼食が食べたいと申しでてきた。
正直にいうと、いまだ疑いの目を捨てきれてないらしいあかねと、妖狐《ようこ》化の目撃者である彼女たちを一緒にさせるのはちょっとばかり抵抗があったのだが……。
当のあかねに、なんだか元気がない。
ちずるの異様な食事に目を向けることすらなく、あかねは、うつむきかげんで、ただ、野菜サンドをぱくつくだけだった。そんなあかねを、となりの席のたゆらが、焼きそばパンを食べつつ、ちらちらとうかがっている。
もちろん、耕太もあかねのことは心配していた。
あかねは、朝の会議室の一件以来、ずっとなにか考えこんでいるようだった。ちずるはなにか気づいている様子だが、耕太には見当すらつかない。
ぼくも、女の子の気持ちなんてわからない男だもんなあ……。
耕太まで落ちこみかけたそのとき、真横からステレオで拍手が届く。ぱちぱちぱち。
「わー、センパイ、牛乳一気のみ」
「わー、野菜ジュースも一気のみ」
双子の声につられてとなりを見ると、ちずるが野菜ジュースの入っていた空ボトルを、口元を拭《ぬぐ》いながら机に置くところだった。
「ちずるさん、あんまり無茶しないでくださいよ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ……ひと口ごとに未来が近づくかと思えば、なんてことはないもん。さーて、おつぎはと……うーん、梅干し、すっぱーい!」
「ああ、いちどにそんなたくさん、梅干し食べちゃ……」
と、いいかけたところで、耕太はあることに気づいた。
横の、望《のぞむ》の席にいる双子、蓮《れん》と藍《あい》。
黙々とホットドッグを食べる望の奥で、彼女たちが広げているのが、笹《ささ》の葉にくるんであったふたつの大きなおにぎりと、たくあんの漬け物だけだということに。
「きみたち……ご飯、それだけ?」
耕太の問いに、双子はどうじにうなずく。
「わたしたち、ふたりで暮らしてますので」
「親がふがいないのであまりぜいたくできませんし、料理、ほかに知りませんし」
のりを巻いたいびつなかたちのおにぎりを両手で持って、蓮と藍は小さな口でもぐもぐと食べていた。唇の横に、おこめつぶをつけている。
「でもそれだけじゃ、栄養のバランスがかたよっちゃうよ? ちずるさん、望さん、いいですか? すこしお弁当のおかず、わけてあげても」
耕太の弁当は、ちずると望、ふたりそれぞれの手作りだ。
昨日はいろいろと大変だったのに、耕太へお弁当を作ることは忘れない……ふたりの気持ちに感謝しながら、耕太は許可を求めた。
「ふふ、やっぱり耕太くんってやーさしーんだ。オッケーよ、もちろん。あなたたち、なんだったらこれも食べる?」
ちずるは箸《はし》で真っ赤なレバーをつまみあげる。
望も口にホットドッグをくわえながら、残っていたホットドッグを、双子に渡した。
「あ……ありがとう、ございます」
「い……いただきます、センパイたち」
笹の葉にのせられた玉子焼き、スペアリブ、生レバー、チーズ、ホットドッグを前に、蓮と藍はすこし眼《め》をうるませているようだった。
指でつまんで、おずおずと食べる。
「どう? ちずるさんも望さんも、けっこう料理、おいしいと思うんだけど」
「……おいしいです」
「……すごく」
蓮と藍は、またたくまにすべてを平らげた。
感動の面もちで指先をぺろぺろするふたりとともに、ちずるも、あれだけの量を完食している。「……もうちょっといけるかな」という呟《つぶや》きを、耕太はたしかに聞いた。
★
昼食後。耕太はちずるに連れられ、屋上へとあがっていた。
春の空は、今日もかすかに白っぽい。ぽかぽかとした日ざしが、食事を終えたばかりの耕太に眠気をもよおさせる。
あくびをかみ殺しつつ、耕太は思った。
なにをするつもりなんだろ……?
屋上の真ん中には、ちずる、望《のぞむ》、ついてきた蓮《れん》と藍《あい》のほか、ふたりの女生徒がいた。
「あのー……源《みなもと》センパイ」
ふたりの女生徒のうちひとりは、春風に長い髪をそよがせながら、くっきりとした眉《まゆ》を困惑気味に垂れさせている。
「これは……いったいどういうことです?」
彼女は、高菜《たかな》キリコ。
耕太とはおなじクラスだ。もっとも、耕太はエロス大王とのレッテルを貼《は》られて、避けられてしまっているのだが……どういうわけか、彼女は望とは仲が良かった。
ちずるはその、キリコと友達関係である望を指さす。
「なにか文句があるなら、こいつにいってね。望が……例の体操のやりかたを、あなたがよく知ってるっていうものだから」
ちずる、望、蓮と藍は、キリコとは向かいあうかたちで、横一線にならんでいた。どうやら『例の体操』とやらを彼女から習うつもりらしい。
「いえ、あの体操のやりかたを教えることはべつにかまわないんですが……どうして源センパイが? だってセンパイは、もう十二分に、魔乳……」
キリコが、ちずるのどうん、と突きだした胸に視線をやった。
「もう、わかってないなあ、きーちゃんは!」
口を挟んだのは、くせのついた短髪に、うっすらとそばかすを浮かせた女性だ。
彼女は、ちずるとは離れた位置で、なぜかビデオカメラを構えている。本人談によると、パパに買ってもらった、ハードディスク内蔵の最新型なそうな。
こちらの彼女は、佐々森《ささもり》ユウキ。
やはり耕太のクラスメイトで、キリコとはいつも一緒にいる。彼女も望とは仲が良い……というか、よくそのビデオカメラで、望のことを撮影していた。
「あのね、きーちゃん! 源センパイと小山田くんは、そのただでさえ大きなおっぱい、いわゆる魔乳をさらにパワーアップさせて、つぎなるステージにあがろうとしてるんだよ! 魔乳から神乳へ、神をも恐れぬハルマゲドンプレイ! 神か悪魔か魔乳ガーZ!」
カメラを構えながら、ユウキは熱く語った。
「……なるほど。Zね」
納得したのか、うんうんとキリコがうなずく。
耕太はどんよりとうなだれていた。魔乳……神乳……ハルマゲドンプレイ……Z。
「――では、いまからあの体操をやります。とはいっても、そんな、教えるほどのことはとくにないんですけど……」
そういって、キリコは両の手のひらを、まるで拝むように胸の前であわせた。
「こうして……ぐっと手のひらを左右、両側から押しつけてゆきます。注意してほしいのは、このとき息を止めてはいけません。ゆっくり、ゆっくりとはきだしながら……ふー」
ふー。
ちずるが、望《のぞむ》が、蓮《れん》が藍《あい》が、おなじ体勢になって、力をこめだした。
実際にこの眼《め》で見てみても、耕太には彼女たちがなにをやっているのか、よくわからない。わからないなりに自分でもやってみた。ふー。
なぜかキリコに「小山田くんはそんなにおっぱいが欲しいの!?」と叱《しか》られた。
★
屋上で奇妙な体操を続けるちずるたちを眺めるものが、ほかにふたりいた。
たゆらと、そしてあかねである。
ふたりは、校舎から屋上へとでる扉の、そのすきまから覗《のぞ》きこんでいた。あかねはしゃがみこみ、たゆらは立ってと、顔を縦にならべている。
「……なあ。なかに入っていかねーの?」
「それはどういう意味!」
くわっ、と睨《にら》みつけられ、たゆらはたじろいだ。
「い、いや、いつもだったらよ、ずかずかとなかに……」
「なによ、どうせわたしのは小さいわよ。ちずるさんみたいにオトナじゃないわよ。どうせどうせ、背も低いしお尻《しり》もちっちゃいし、お子さまボディーよっ!」
「な、なんの話だ?」
「あの体操の話でしょー」
「あの体操って……あれがなんの体操なのか、朝比奈《あさひな》は知ってるのか?」
「……もしかして源《みなもと》、知らないの?」
たゆらがうなずいたとたん、あかねは顔をみるみる赤くしてゆく。顔の向きを、真上のたゆらから真正面の扉へ、すとん、と落とした。
「なあ、なんなんだ、あの体操って。なんの効果があるんだ?」
「し、知らないわよ、わたしだって」
「いやいや、ホントは知ってるんだろ? 知ってるリアクションだったじゃねーか」
「知らないったら知らない! しつこい!」
「なあ、朝比奈《あさひな》……」
「……」
「おーい、朝比奈さーん。委員長さまー」
「……」
「あかねちゃーん」
「……」
たゆらにつむじを向けたまま、あかねは答えない。
「おれさあ、しばらく旅にでなきゃならねーんだ」
その言葉に、ようやくあかねが顔をあげた。
「……た、旅? どこに?」
「んー、ちょっと遠いとこ。ぶっちゃけ、外国」
「どうして……いきなり」
「いろいろあるんだよ、いろいろと。たぶん、しばらくは帰ってこられない」
「そ、そう」
「だからさ……いまのうちに教えてくれないか。どうしたんだ、朝比奈。なんかヘンだぜ」
小指で耳をほじりながら、たゆらは軽い調子で尋ねた。
「……べつにわたし、ヘンじゃないわ」
またあかねは視線を正面に落とす。
「そーかね」
「そうよ」
「そうか……わかった」
ふたり、しばらく無言で、屋上を眺め続けた。
ちずるたちの体操は、すでに三セット目に突入している。
「……だって、気になるんだもん」
ぽつり、とあかねがこぼした。
たゆらを見あげる。
「ねえ、源《みなもと》。わたしたちは友達よね?」
「お、おう。当たり前だろ」
その真剣なまなざしに、たゆらは気圧《けお》されたかのようにうなずいた。
「わたしはね……源だけじゃなくて、望《のぞむ》も、小山田くんも、そしてちずるさんも……みんな、友達だって思ってる。もしかしたらあっちは違うのかもしれないけど」
「思ってるさ。ちずるはともかくだけど、耕太も望も、朝比奈《あさひな》を友達だって思ってるよ」
「だったら……どうしてみんな、わたしに隠しごとをするの? たしかにわたし、すごく口うるさいけど……昨日の小山田くんのことといい、今朝の会議室のことといい……なんだか、わたしだけ仲間はずれにされてるみたいな……気が、して」
しょぼん、とあかねはうなだれた。
「そうか……そういうことか……」
たゆらは天を向いて固く眼《め》を閉じ、震えながら、ん〜、と感に堪えない声を洩《も》らす。
「まったく、まったく……まったく、あかねは本当にかわいい子だなあ!」
がしがしとあかねの頭を撫《な》でた。撫でまくった。
「な! ちょ、なにを……や、やめ、やめなさ……この、やめろォ!」
どむ、と鈍い音があがる。
あかねの突きあげた拳《こぶし》によって、たゆらの身体はくの字となっていた。
「か……は……な、ないすボディー!」
床に転がり落ちる。
みぞおちを押さえながらのたうちまわり、たゆらは床に唾液《だえき》のあとを残した。
「いったいなんなのよ、あなたは……もう!」
あかねは立ちあがり、ぐじゃぐじゃにされた髪を手で撫でつける。
「お、教えてやるよ……」
「え?」
「あのとき……き、昨日、屋上で、耕太がなにをやっていたのか」
「だ、だって……いいの?」
「耕太はな……」
あかねは髪を整える手を止め、あおむけになったたゆらを見つめた。
「コスプレ……してたんだよ」
「……はい?」
「知らないか、コスチューム・プレイ……衣装着たり、メイクしたりして、仮装すること……ほれ、ナースの服着たり、バニースーツ着たり、アニメキャラクターの格好したり」
「え? ええ? 小山田くんが……こ、コスプレ?」
「ああ……あいつら、朝比奈《あさひな》の指導むなしく、もうそんな領域にまでいきついちまったんだ。倦怠期《けんたいき》というか……変態期? キツネの耳にしっぽをつけて、こんこんここん、こんここんと、あぶらげまみれのおキツネプレイ、こんここん……」
「そういえば……あの小山田くん、たしかにすっごくかわいかった……」
頬《ほお》に手を当て薄く笑うあかねを、たゆらは地べたからじとっ、と見あげた。
「……ふーん。ああいうの、朝比奈、好きなんだ」
「ふえ!? な、ななな……誤解しないでよね! あんなヘンタイ行為……エロス禁止!」
「ま、いいけど。そうそう、朝の件もそうだぜ。おれが白衣を抱えてたの、朝比奈も見てただろう? あれはいわゆる女医プレイでな」
「……ねえ、源《みなもと》。もしかして、あの一年生の双子の子たちも、まさか」
「へ? あー、そうそう、もちろんそうだよ? じつはあいつらは筋金入りのアニメマニアでな、アニメのコスプレが大好きで……レイヤーってやつ?」
「そうだったんだ……なるほど、それですべて謎《なぞ》は解けたわ!」
きらーん、とあかねの眼鏡は光を反射した。
「だ、だからさ、ちずると耕太はともかく、あの双子はそっとしてやれよ? ひとの趣味はさまざまなんだからさ。な? な?」
「わかってるわよ、源……あなた、わたしのことすこし誤解しているようだけど、公序良俗に反しないかぎりは、それなりに理解はあるつもりなのよ」
ふ、ふふ……たゆらは床にあおむけになったまま、笑った。
「どうしたの」
「いや、元の朝比奈あかねに戻ったみたいだからさ……これで心おきなく旅だてるってもんだ……と、そうだ。朝比奈はさ、おれのセンチメンタルジャーニーについては思い悩んでくれねーの? 源……わたしをおいていかないで……とか、なんとか」
「べつに? あ、わたし、おみやげはいらないから」
「……へえ、そうなんだ」
たゆらはうつぶせとなった。
しくしくと泣きだす。
「なによ、もう。どうせ訊《き》いたって、教えてはくれないくせに……」
微笑《ほほえ》んだあかねの後ろで、屋上への扉が開く。
「あー、やったやった。うん、これはなんだか効きそうな気がするぞ……あら? あなたたち、こんなところでなにやってるの? たゆらも、そんなとこで寝たら風邪ひくよ?」
ちずるが、ひと仕事終えた顔であらわれた。
あかねは振り返り、自信に満ちた笑みで出迎える。
「ちずるさん……わたし、これからもびしびしいかせてもらいますから!」
ふうん? とちずるはあかねをしげしげ眺めていたが、やがて、床でうつぶせになったままのたゆらを見おろした。
「……やるじゃないの、我が弟よ」
「うす」
うつぶせたまま、たゆらはピースサインを返した。
「そ、それはどういう意味ですか、ちずるさん。わたしはべつに」
「あー、はいはい、わかりましたわかりました」
「わかってないでしょう、ちずるさん。ちょっと、耳をふさがないで、ひとの話を、ねえ」
耳を手でふさいだまま、ちずるは階段をおりてゆく。あかねはそれを追った。
そのあとを、ビデオカメラを構えたユウキと、それをたしなめるキリコ、蓮《れん》に藍《あい》、そして耕太が続く。
「――望《のぞむ》」
むくりと起きあがったたゆらが、最後尾にいた望を手招きする。
「なに? たゆら」
「いいから、ちょっとこい」
素直に望はたゆらのそばに、ちょこん、と両|膝《ひざ》をつく。
「あのな、飛行機のチケット次第ではあるけどな、たぶん、おれは明日から外国行きで、ここにはいれねえ」
「いってらつしゃい。おみやげは肉ね」
「バカ、肉は日本のがいちばんおいしいんだよ……って、そーじゃなくてだな。おれの代わりに、おまえに頼みたいことがあるんだよ。いまのちずるはほとんど力を失ってるし、そんな状態じゃ、たぶん耕太もマフラーで変化《へんげ》することはできねえ。だからな」
たゆらは望にささやく。
こくこくとうなずく望。
ふたりの視線は一瞬、階段の踊り場へとおりた双子、蓮の藍の背中へと注がれていた。
★
「は、はい……こ、これ、どうぞ……」
おかっぱ頭のちっちゃなセンパイ、澪《みお》が、ちずるに小さな瓶を渡す。
ちずるは瓶を自分の目の前にもちあげて、逆さにした。なかに入っていた無色透明の粘液が、どろりと動く。
「ふうん……これが、澪《みお》のあぶ――」
「わー、だ、だめです、ち、ちち、ちずるさんっ」
澪は精一杯に両腕を伸ばして、ちずるの口をふさいだ。
しー、しー、と黙らせようとする。
いま耕太たちがいるのは、三年生の教室の前だった。
すでに放課後のため、多くの生徒たちが廊下へとでている。その彼らが、なんだ、なんだと視線を送ってきた。たちまちに澪は真っ赤となり、うつむく。
うー、と涙目でちずるを見あげた。
「ごめん、ごめん……でも、いまのは澪、あなたが騒ぐから……」
「う、うう、う……わ、わた、わたし、自分で、あう」
「あー、わかったわかった、わたしが悪い、ぜんぶ悪い! だから泣かないの! ほらほら、鼻、ちーんして」
ちずるが当てたティッシュで、澪は鼻をちーん、する。
ぐす、と鼻をすすりあげた。
「で、でも……ちずるさん、わたしの、そ、そそ、それ……な、なにに使うの?」
「これ? もちろん治療のためよ。だってほら、澪のあぶ――もとい、がまの油って、やけど、ひび、あかぎれ、切り傷と、肌についてはなんでもござれじゃない。ね?」
ちずるが澪からもらったもの、それは澪の油といわれる薬だった。
かえるの半妖《はんよう》――半分|妖怪《ようかい》、半分人間である澪は、力のひとつとして、薬剤効果のある汗を流すことができる。まえにいちど、耕太も、スクール水着を着た澪が金だらいに入って、だらだらとぬめる汗をかくのを見たことがあった。
がまの油にかけて、澪の油と称しているのだが……澪本人は嫌がっているようだ。
「ち、治療って……ち、ちずるさん、どこか怪我《けが》したの! だったらわたし、もっと油作るから、たくさん作るから……」
「いやいや、だいじょうぶ、だいじょうぶよ。澪に心配かけるほど大変なことじゃないから。ほら、お料理するとき、よく包丁で指切ったり、やけどしたりするでしょ。それで」
わたわたとその場で服を脱こうとする澪を、あわててちずるは止めた。
「あ……よ、よかった、わたし……し、しし、心配しちゃった」
「――おい、澪」
えへ、と笑った澪に、すこしかん高い声がかかる。
「あまり、そいつらと仲良くするな……いつかおれ、勝負つけなきゃならない相手だぞ」
教室からあらわれたのは、つんつん頭の小柄なセンパイ、桐山《きりやま》だった。
桐山は――大怪我をしていた。
昨日の、おでこ、手の包帯、頬《ほお》の絆創膏《ばんそうこう》のほかに、さらに左腕を首からさげた三角布でつりあげ、右腕の脇には松葉杖《まつばづえ》を挟んでいる。右足はギブスで覆われていた。
「き、き……桐山さん! どうしたんですか、いったい!」
思わず大声をあげてしまった耕太に、桐山《きりやま》はうざったそうに顔をしかめる。
「うるさいぞ。べつにこんなの、たいしたことない」
「いや、たいしたことありすぎだろ、おまえ」
たゆらはにやにやと笑っていた。
「どーした? 新入りの一年坊にやられたのか? ずいぶんとボロボロみてーだが」
「相手はもっとボロボロだぞ。両手両足、切ってやったからな」
ひゅ〜、とたゆらは口笛を吹く。
「さっすが番長さま……しかし、昨日の相手はなかなか強かったみてーだな。おまえがそこまでやられるたあ、なかなか新入りもやる……」
「ち、違うんです」
横から澪《みお》が入りこむ。彼女の眼《め》は、涙でうるんでいた。
「き、桐山くん、めんどくさいからって、一日に、何人とも闘うんです。昨日は、三人どうじに闘って、こ、こっちは桐山くんひとりだけで……だから桐山くん、ボ、ボロボロに」
「澪、だまれ」
「だ、だ、だだ、だって……えぐ、うぐ」
「澪……そんなことよりおまえ、服、ちゃんと着ろ」
「――けろ?」
澪の服は、さっき脱ぎかけたせいで、ブレザーは前のボタンがぜんぶ外れ、なかのワイシャツはよじれておなかが覗《のぞ》け、スカートはくしゃくしゃになっていた。
「ひゃうううう!」
ぱたぱたと澪は走りまわり、ちずるの背中に隠れる。たゆら、望《のぞむ》、耕太で、背中をならべて囲み、簡易更衣室を作ってやった。
「こら、桐山……あなたね、あんまり澪に心配かけるんじゃないの。女の子のひとりもしあわせにできないで、なにが番長よ。へそがコーヒー沸かすわ」
ちずるが腕を胸の前で組み、桐山を睨《にら》みつける。
「やかましいそ。おまえは自分のこと心配しろ」
「うん? なにがよ」
「こら、ちずる……おまえ、あんまり小山田に心配かけるんじゃない。オトコのひとりもしあわせにできないで、なにがコイビトだ。へそがインスタントラーメン作るぞ」
ちずるが、たゆらが、もちろん耕太も、桐山の言葉に、眼を丸くした。
「あ、あなた……本当に桐山? あのバカいたちが、こんなうまいことをいうわけが」
「ふん……聞いたぞ。おまえ、タイヘンなことになってるだろ」
ぱっとちずるはパッド三枚重ねの胸を押さえる。
「聞いた? だれから……まさか!」
「ち、違う! おれじゃない! こいつとはいま会ったばかり、えん罪だ!」
ちずるに鋭い視線をぶつけられ、たゆらはぶんぶんと顔を横に振った。
「そうだ。そいつ違う。おれ聞いたのは八束《やつか》」
「八束が……? どうしてあなたに」
「おれ、番長だぞ。学校の問題、耳に入る、当たり前」
「……なんだか、いま、あなたが本当に番長なんだって、ようやく実感できたわ」
呆然《ぼうぜん》としたちずるの言葉に、耕太もうなずいた。たゆらはぶんぶんとうなずいていた。
「とりあえず、蟲《むし》使い、おれたちの仲間にはいない。新入りの一年のなかにも、いまのところ、いない。ま、見つけたらおまえらにも、教えてやる」
「あ……ありがと」
「それと、ちずる、おまえのことは……だれにもいってない。おれの胸のなか、ひとつ」
そういいのこして、桐山《きりやま》は歩きだした。
「ま、まま、待って、き、桐山くん!」
衣服を整え終えた澪《みお》が、耕太たちの簡易更衣室から飛びだしてゆく。
松葉杖《まつばづえ》をぴょこたん、ぴょこたん、と使う桐山と、横にならぶ澪を、耕太たちは黙って見送った。桐山の小さな背が、なんだか大きく感じるのは、はたして気のせいだろうか。
「うむ……大きくなったな、やつも」
背後の頭上高くから聞こえた野太い声に、耕太たちはびくつく。
「な、なんなのよ、いきなり……この熊公《くまこう》!」
ちずるの罵声《ばせい》とともに振り返ると、視界は彼の巨体で覆われた。
岩石のような男だった。身体はごつごつとして、首も腕も足も太く、手はグローブのように大きい。天井近くにある顔は、ぼさぼさの短髪で、やはり鼻も耳も口も、造りがごつかった。とくに印象的なのは眼《め》で、左眼に、十字の深い傷が刻まれている。
男は熊田《くまだ》彗星《すいせい》。
熊の妖怪《ようかい》であり、元、妖怪たちの番長だった。かつては耕太たちと闘ったこともある。いちど卒業したのだが、また入学して、そのおり、名を熊田《くまだ》流星《りゅうせい》から彗星へと改めた。再入学した理由は、まったくもって不明である。
「みよ、桐山のあの自信に満ちた背中を……ひとは地位によって成長する。うむ、うむ。あやつに番長をまかせたのは、正解であった」
「なにをいってるの? 番長をまかせたのは卒業した熊田流星さんであって、おたく、新入生の熊田彗星くんではないでしょう?」
いじわるなちずるの眼に、熊田は高笑いをあげた。
「がっはっはっ……そうであったな。うむ、まったくだ」
「で、こんなところでなにやってるのよ、熊公。あなた一年生なんだから、三年生の教室をふらふらしてちゃダメでしょーが」
「いや、桐山の様子を見にきたのだがな……まあ、これなら心配はあるまい」
「はん、それはおやさしいことで……っと、そうだ。熊公、あなた、ヒマならちょっとつきあいなさいよ」
「ぬ?」
★
「むんぬぬぬぬぬ!」
「もっと! もっとよ!」
「ふんががががが!」
「なによ、キムンカムイの力はそんなものなの! もっと……もっと!」
無人の教室の一角で、熊田《くまだ》はちずるの胸の前に両手を突きだし、気合いをこめていた。
「ほんぐぐぐぐぐ!」
「よし、いい感じ! きた、きたきた、妖力《ようりょく》きた! 胸にきた!」
「ぎんごごごごご!」
「ああ、上等よ、上等。エトセトラ上等よぉぉ!」
★
「熊田さん、だいじょうぶでしょうか。なんだかすごく消耗していたような……」
「だいじょうぶよ、耕太くん。あいつったら、普段から力がありあまってるんだから。ちょっとやそっとぬいたぐらいじや、どうってことない」
「いや、ちょっとだけというか……根こそぎというか」
「さーて、どうなったかなー。わたしのぱいぱい、すこしは大きくなったかなー?」
ちずるはワイシャツを脱ぎ去り、桃色のブラ姿となった。
ためらいなくブラも外す。
ぼとぼとっと胸パッドが落ちて、肌色と桃色のおだやかなふくらみがあらわとなった。ちずるは手を当て、ぐにぐにと揉《も》みだす。
「……望《のぞむ》!」
すでに上半身裸となっていた望が、巻き尺片手にちずるの背後にまわった。
ちずるの胸囲に巻き尺をまわし、目盛りを読む。
「んー……七六・五」
「ぬう! ま、まったく成長していない!」
「ち、ちずるさん! まだ一日だけですから! これからです、これから!」
がっくりうなだれたちずるを、耕太は励ます。
耕太、ちずる、望の三人は、寮の耕太の部屋にいた。
夕刻というにはまだ早い時間だ。室内はこれからかげりゆく日ざしで、少々薄暗い。早めではあったが、耕太は明かりをつけた。
「そ、そうね、耕太くん……まだあわてる時間じゃない……! よし、じゃあさっそく、つぎの手だてを!」
「はい!」
耕太は折りたたみのテーブルを広げ、その上にバスタオルと、あの澪《みお》の油が入った小瓶を置く。
ちずるが、耕太に背を向けて、足を外側にたたんだ女の子座りをした。
その姿に、ついつい耕太は昨日の『パンがなければケーキを食べればいいじゃない、おつばいがなければ……』騒ぎを思いだして、ごく、と生つばを呑《の》んでしまう。
首を振って妄想を払い、澪の油の小瓶を開けた。
手のひらを下にして傾けるも……なかなか中身が降りてこない。しばらく待って、ようやく、とるるぅ……と垂れてきた。
「わあ……」
少量なのだが、すごく伸びる。かつて飲んだり塗ったりした、催淫効果のある酒、九尾湯《くびとう》を思いだした。あのときはひどいことになったが……。
両の手のひらにしっかり塗りこめる。
「では、ちずるさん……」
「はいっ、お願い!」
ぴん、と張ったちずるの背から、耕太は前へと手をもってゆく。
ふくらみに、ぬち、と触れた。
とたんにちずるはびくびくと震え、背を丸める。
「だいじょうぶですか、ちずるさん!」
「だ、だいじょうぶ、よ……刺激が強いってことは、つまりそれだけ効くってことだから……マッサージ、引き続き、お願い」
「それでは……」
弱めに、ぬら、ぬり、ぬる、ぬれ、ぬろ、と、ラ行五段活用で揉《も》んだ。
びく、びく、とちずるはかすかに震える。だが、これならまだがまんできるようだ。
では、と耕太はぬるぬるを活かして、手のひらを押しつけるかたちで円を描く。澪の油をすりこむたび、ちずるはびくびくとなった。
手のひらでよじれた小さな頂が、たちまちに尖《こが》ってゆく。
刺激が強いということは……それだけ効くということ、だから……。
耕太は、尖《とんが》りを指先でつまんでみた。
くりくり。
びきき、っとちずるが跳びあがる。
「だ、ダメ! それはダメ! か、感じすぎちゃうからあ……」
「す、すみません」
さすがに尖りをくりくりはやりすぎたか……耕太はマジメなマッサージに戻った。
そう、これはマジメな、じつにマジメな医療行為なのである……ちずるが「あっ、んんっ」と甘やかな声を洩《も》らし、耕太自身が息を荒げても、あくまで医療行為なのだ。
やわやわやわやわ。ぬわぬわぬわぬわ。
すりすりすりすり。くりくりくりくり。
「や、やぁん! だ、だからちくびつまんじゃダメだってばあ、耕太くうん!」
「す、すみません!」
い、いけない、調子にのりすぎた。
医療行為、これは医療行為……すぴーすぴー。鼻息がこんな音をたてるのは、きっとマッサージが大変だからだろう。耕太はそう思った。
いやあ、医療行為は大変だなあ! すぴーすぴー。すぴーすぴー!
「ねーねー、ちずる、ちずるー」
すぐ横で正座していた望《のぞむ》が、待ちきれない、といった様子で身体を揺する。
「耕太におっぱい揉《も》み揉《も》み、わたしもしてもらいたいよぅ」
ぐはっ。
望の言葉に、耕太、ちずるはがくん、とうなだれた。
「……な、なにをいってるのよ、望。これはね、純然たる医療行為なんだから……失われた聖地をとり戻すための、いわば聖なる行為……ある意味、聖戦なのよ? あなたは元からぺたんこなんじゃない」
「そ、そうですよ、望さん。おっぱい揉み揉みなんて、そんな生々しい言葉……」
「揉み揉み、揉み揉みー! わたしのおっぱいも、揉み揉みー! ねえ、耕太ぁ」
望は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、唇をぎゅっと噛《か》んだ、いまにも泣きそうな顔になっていた。
耕太とちずるは顔を見あわせる。
「……まあ、しかたないか。わたしたち、一緒に尾てい骨を舐《な》めあった仲だしね」
「ち、ちずるさん、それも生々しい」
「でも、あともうすこし待つのよ、望? 本来はわたしのおっぱいを元に戻すためのマッサージであって、快感は二のつぎなんだから」
「うん、待つ。わたし、待つ!」
「はい、それじゃあ耕太くん、ふたりは疲れるかもしれないけど……お願いね? 終わったら、こんどはわたしたちでマッサージしてあげるから」
「うえ? マ、マッサージって……どこを、ですか?」
「やだ、わかってるくせに……耕太くんもいま以上に大きくなっちゃうかも……ふふ」
耕太は首を横に振る。
わからない、ぼくわからないよう!
うなだれつつ、耕太はおっぱい揉み揉み……もとい、医療行為を再開した。
「耕太くん……やさしくなら、ちくびくりくり、してもいいよ?」
ささやきに、ふがが、と耕太は鼻息を鳴らしてしまった。鼻が、痛い。
★
純然たる医療行為に没頭し続ける、耕太、ちずる、そして望《のぞむ》。
その清らかなるありさまを、窓の外から眺める少女たちの姿があった。
「……うわあ」
「……はああ」
「あ。相手が変わった」
「な!? ふ、ふたりがかりで!?」
「あ、ああ……人狼《じんろう》が、た、たいへんなことに」
「ひ、ひどい、ひどすぎる」
「い、いや、待て、藍《あい》。これは……まさか」
「よ、悦《よろこ》んでいる!? まさか!?」
蓮《れん》と藍のふたりは、どこからか持ちこんだのか、大きな脚立に両側から登って、寮の二階にある耕太の部屋を覗《のぞ》きこんでいた。
その姿は制服のままで、いつしか腰をもじもじさせだす。
「あ! あああ! 藍! いよいよ、男が……」
「うああ! 蓮、ぬ、脱がされているっ! いああ、あんなことを!?」
とめどなく文句をいい、顔を手のひらで覆いながらも、ふたりは視線を窓から離さない。
ついには自分たちが登っている脚立の、そのはしごの部分に、もじもじ、と腰を押しつけていった。もじもじ、もじもじ。
★
すべてが終わったあと、耕太は、さめざめと泣いた。しくしく。
★
「いやー、ホント大変だった! おまえたちにも見せたかったぜ、恐怖の人食いバッファローとの一戦をよ!」
旅だってから五日目のこと、たゆらは戦利品を手に、一時帰国していた。
「インタビューされてるヴァンパイアともケンカになるしさあ……」
「はいはい、たゆら。もうわかったから」
ちずるがその戦利品の牛乳パックを開けながら、興味なさそうに返事した。
時刻は夕方である。
以前、蓮と藍の口止めに使ったファミレスに、耕太たちはやってきていた。
前とおなじく、店の奥にある席に、耕太、ちずる、望、たゆら、そして蓮と藍とならぶ。みな、思い思いにメニューを広げ、なにを頼むか悩んでいた。
「あ、なにそれ、その態度! おれの武勇伝をだな……」
すでにちずるは、ぐ、ぐ、ぐ……と牛乳パックを飲みだしている。『お客さま、店内への持ちこみは、ご遠慮させて……』という店員の声は、すでにひと睨《にら》みで消していた。
「あ、蓮《れん》さん、藍《あい》さん。好きなの食べてね。ぼくたちがおごるから」
耕太の声に、ふたりはぱっとメニューから顔をあげる。
「い、いいんですか」
「で、でも……どうして?」
ふたりの問いに、牛乳を飲み終えたちずるが、ふー、と声を洩《も》らしながら口元を拭《ぬぐ》う。
「だってあなたたち、ふだん、おにぎりに漬け物ばっかりで、ロクなもの食べてないでしょ? そこらへん、正義の味方としては見てられないってわけよ。ね、耕太くん」
「う、うん。ぼくたち、きみたちのセンパイでもあるし……たまにはね」
耕太とちずるの言葉に、蓮と藍は顔を見あわせた。
メニューとにらめっこのあげく、ふたりが選んだものは、さほど高くもないハンバーグセットだけだった。前回、たゆらのおごりのときはいちばん高いものを、しかも数品頼んだのにだ。ちなみに望《のぞむ》は今回も血のしたたるようなステーキセット、レアーだった。
「いいの? もっと高くても、たくさんでも、いいんだよ?」
耕太もそれほど裕福なわけではない。
が、どうもこの双子は面倒をみてあげたくなるのだった。彼女たちも田舎育ちらしく、どこか行動がズレていた。そんなところに親近感を抱くのかもしれない。
もしかして、ぼくに妹がいたら……こんな感じなのかな?
そんなことを考えつつ、耕太はメニューを指さした。
「ほら、これなんか春の限定メニューとかで、すごくおいしそうだよ」
しかし蓮と藍は、ゆっくりと首を振る。
「いえ……」
「だいじょうぶです」
「そ、そう?」
二本目の牛乳パックを飲み終えたちずるも、双子に声をかける。
「遠慮しなくていいのよー、あなたたち。どうせお金は……」
「あ! まさか、またおれの金を当てにしてるんじゃねーだろーな! 旅帰りで体力がすっからかんだというのに、さらに財布までもすっからかんにしようと……」
「バカ。おまえの食事代ふくめて、わたしがおごったげるったら」
興奮したたゆらをなだめるちずるの姿に、蓮と藍はくすくす笑った。
「本当に……だいじょうぶです」
「でも、ありがとうございます、センパイ……」
なぜだろう、耕太にはその笑顔は、哀《かな》しげに見えた。
2
そんなこんなで、なにごともなく、時は過ぎた。
たゆらがあれから二回外国にいって、そのたびに苦労したらしいこと。
その苦労話は、やっぱりだれも本気にしなかったこと。
たゆらが持ち帰ったイモやお茶を、たくさんちずるが食べ、飲んだこと。
望《のぞむ》が頼んだ通信販売の豊胸ポンプは、痛いだけでやっぱり効果がなかったこと。
昼の体操は毎日続き、いつしかあかねも参加していたこと。
夕方のマッサージも毎日続き、すぐに澪《みお》の油がなくなって、当の澪にあやしまれたこと。
熊田《くまだ》の妖力《ようりょく》放出も毎日続き、だんだんあの熊田が痩《や》せてきたこと。
桐山《きりやま》の怪我《けが》もどんどん増えていったこと。
蓮《れん》と藍《あい》とはなんどかファミレスで食事して、そのたびに彼女たちは哀《かな》しげになったこと。
そんなささいな事件は起きたが、おおむね、なにごともなかったといっていい。
そう、なにごとも……あの巨大昆虫があらわれることも、砂原《さはら》が戻ってくることもなく。
ちずるの胸囲が、七六・五センチ以上になることも、ないまま。
そして――ついに。
★
「――もう、ダメ!」
ついに、ちずるは爆発した。
望が背中から当てていた巻き尺を、手で払う。
裸の胸を押さえて、畳に突っ伏した。
「ダメ、もうダメなんだっ。わたしの胸……このまま戻ること、ないんだっ!」
肩を震わし、くぐもった泣き声をあげだす。
タオルを用意していた耕太と、巻き尺を払いのけられた上半身裸の望は、顔を見あわせた。
薄暗くなり始めた耕太の部屋に、ただただ、ちずるの泣き声が響く。
「……ちずる」
望が立ちあがり、服を着だした。
「今日は、耕太、ひとりじめにさせてあげる……どうやら、邪魔ものもいなくなったし」
ちら、とだけ窓に目をやってから、ブレザーを羽織り、玄関へと向かう。
ドアが開き、閉まった。
耕太は持っていたタオルをテーブルの上に置き、ちずるの元へ屈《かが》みこむ。手を伸ばして、剥《む》きだしの肩に触れた。
「ちずるさん……合体しましょう」
ぴた、と泣き声が止《や》む。
「ちずるさんが、美乃里《みのり》さんのこと、信用できないのはわかりますけど。でも、たしかに、ぼくたちが憑依《ひょうい》合体してから、ちずるさんの身体に異変が起きたのはまちがいありませんし。もう……それしかないですよ」
「だ、だめだよ、耕太くん。だって、いままで、わたしがとり憑《つ》くたびに、耕太くんはどんどんおかしくなっていってるんだよ? 妖怪《ようかい》の気配を感じとれるようになって、妖気《ようき》が視《み》えるようにもなって……前のときなんか、わたしのしっぽの力の一部が、耕太くんに残ったままで……それで耕太くん、すごくひどい目にあったの、もう忘れたの?」
「でも、今回の合体では、ぼく、なんにもおかしいこと、起きてませんし」
「え? ……本当に?」
ちずるが顔をあげ、濡《ぬ》れた頬《ほお》を見せる。
「ええ、まったく。ぜんぜん変わりないです」
「耕太くんには……なにも起きていない? それじゃあ……だけ?」
「はい?」
「うん? ううん、なんでもない」
ちずるは身体を起こし、えへへ、と笑った。
ぐしぐしと手のひらで涙をこすり、笑顔のまま、鼻をすする。
「そっか……耕太くんは、だいじょうぶなんだ」
「え、ええ。ですから」
「でもダメ。合体はダメ。ぜったいにダメ」
「ど、どうしてですか? もしかして、美乃里さんが信用できないという以外に、なにか……理由があるんですか?」
「ううん? なにもないよ?」
ぶんぶんとちずるは首を横に振る。ばさばさと長い黒髪が振られた。
「いや、だって、それじゃ……ちょっとおかしいじゃ」
「もう……うるさいぞ、耕太くんっ」
猫のように、ちずるが飛びかかってきた。
わわわ、と耕太は押し倒される。
「せっかく、ひさしぶりでふたりきりになれたというのに……もっとほかにすること、ないの?」
「す……することって?」
んふふー、と笑って、ちずるは耕太の腰の上に、スカートに包まれた自分の腰をのっけた。ぐりん、と動かされ、耕太はうめく。
「ち、ちずるさん……」
「いつもわたしが耕太くんにマッサージされてるから、今日はわたしがしてあげる」
「い、いえ、いつも最後にはちずるさんと望《のぞむ》さん、おふたりから、激しく」
「ふふ……今日はね、そのいつものやつとはちょっと趣向を変えて……」
くい、とちずるが腰を浮かせた。
裾《すそ》からスカートのなかに手を入れ、なにかをしゅるん、とさげる。
続けて、立ちあがった。
耕太がまばたきも忘れて見つめる前で、白い布地をスカートのなかから一気に足首までおろし、まずは片足、つぎにもう片足ととり去った。
脱いだものを、指先でくるくるまわす。
えーい、と部屋の隅に投げた。
きれいな放物線を描いて飛んだのは――純白のぱんちー。
「な、なにをする気なんですか、ちずるさん!?」
「こうしまーす」
小ぶりな両のふくらみを、もう沈み始めとはいえ、お天道さまの元にさらけだしていたちずるが、耕太の腰の上に、その……なまなまな腰をおろした。
耕太の上にふわりと広がったスカートの裾から、またもなかに手を差しいれる。
もう、脱ぐものなんかなにもないはずなのに……と耕太が見守るなか、かちゃかちゃと金属音が鳴った。
耕太の腰の上に広がっている、ちずるのスカート。
そのなかで、耕太のズボンのベルトが、外されていた。
「おわあ、ちょっと、ちずるさん、ま、まさか……」
耕太は腰を跳ねあげ、逃れようとした。
が、その前にちずるに覆いかぶさられる。
「ごめんなさい、耕太くん……いまはこのまま、お願い」
「え?」
耳元でちずるがささやく。
「わたし、もしかしたら本当に一生、このまま……胸がぺたんこなままなのかもしれない。だから……たとえぺたんこでも、だいじょうぶだって、安心したいの」
「あ、安心って」
「ぺたんこでも、耕太くんはわたしのこと……愛してくれるんだって」
「ぼくはちずるさんのことを愛してますよ! そんな、たかがおっぱいぐらいで……」
「わかってる。わかってるけど……それでも恐《こわ》いの。わたし、自分がこんなに弱いなんて知らなかった。不安で不安でしょうがなくて、いつも、夜になると、泣く……」
「ち、ちずるさん」
「たかがおっぱいのこと……そう思いたいけど、思いきれないの。だから……いつもは望《のぞむ》と一緒だから、今日は、いまだけは、わたしひとりで……耕太くん、最後まで……」
かぷ、と耳たぶを噛《か》まれ、耕太は息を詰まらせる。
「くっ……だ、ダメですよ、最後まで……なんて」
「だいじょうぶ。これはね……望の持っていた本で勉強したの。本当にえっちしなくても……そういう感じでできる方法」
「え、えっちしなくても……?」
「こうして……」
ぬちっ。
なにか熱いものに、耕太は挟まれた。やたらやわらかく、ぬらぬらする、なにか唇のように吸いつく、これは……。
「こ、これって、まさか……」
ちずるがうなずく。
「耕太くんの……上から、わたしの……が、のっかってるの。こうして……」
にゅる……。
ちずるが腰を前後させた。
とたんにぬまぬました感覚に撫《な》でられ、耕太はのけぞる。
「かっ……あっ……うっ……」
きれぎれに息をはきだし、ばた、と両手を畳に投げだした。荒く息をつく。
「けっこう……すごいでしょ……わたしも……すごい……」
「ち、ちずるさんっ……」
「愛して……わたしのこと、いっぱい、いっぱい愛して……たくさん……強く……激しく……ああ……ああ」
ちずるがゆるやかな律動を再開した。
やがて、耕太はぐっ、と奥歯を噛《か》みしめ、ちずるが硬直し、熱く、激しく――。
★
耕太はあおむけになったまま、両腕を目元で交差させて、呼吸を激しくした。
「ち……ちずるさん。これで、これで、ぼくが……ちずるさんを愛してるってこと、わかってもらえましたか?」
「うん。最初っからわかってたよ、そんなこと」
「ふえ?」
「耕太くんはわたしのことを愛してる……わかってる。いつも、ちゃんと感じてる」
「だ、だったら、どうしてこんな」
耕太は顔を覆っていた腕を外し、見あげる。
「あはっ、耕太くん、こんなに汚しちゃって……ふふ、わたし、しあわせっ」
耕太にまたがったまま、ちずるはスカートの裏をめくりあげていた。
つまり、あますことなくさらけだされていたわけで……あわわ、と耕太は横を向く。
「ご、ごめんなさいっ」
「いいのよ、耕太くんなら、ぜんぶ見ても……。あら、耕太くん、また……」
にゅるり。
ひややっ!? と耕太は身体を震わす。震わしながら、気づいた。
「ち、ちずるさん、まさか、最初に泣いたのって」
「……てへっ?」
「てへっ、じゃあなーいっ!」
ひさしぶりに耕太は怒った。
怒りながらも、思う。
あの涙が……嘘《うそ》……? とてもそうは……思えなかったけど……。
ちなみに耕太は怒ったせいで、ひさしぶりにちずるをおしりぺんぺんしなくてはならない羽目になるのだが――それはまた、べつのお話。
★
耕太とちずるがお互いの愛を確かめあっていたころ、寮の外にある脚立は、ひとりむなしく、夕方の風に吹かれていた。
脚立は、ちずるが泣きだした時点で、ひとりぼっちとなっていた。
3
蓮《れん》と藍《あい》は、薄暗くなりかけた住宅街のなかを、とぼとぼと歩いていた。
左右にならぶ家々からは、ぷうん、と夕食を準備する匂《にお》いがただよってくる。ふたりはそれに反応することもなく、前に伸びる自分たちの影を見つめていた。
「……やつらの監視はいいのか、藍」
「……そちらこそ、蓮」
立ち止まり、ふたり、顔を見あわす。
どちらも、いつもは眠たげになかばまでまぶたの閉じたその眼《め》を、哀《かな》しげに細めていた。
「あいつら……あまりにお人好しすぎる。我らを疑うことすらせず、毎日、やさしく」
「ああ。かえってつらい……な」
「それにだ。あの源《みなもと》ちずるが……あんな風に泣くなんて」
「うん……胸のことなんか、べつに気になどしていないと……ただ、えっちなことをする理由にしているのだと、そう思いこんでいたよ」
「我らは……ひどいな、藍」
「……封印を飲ませたこと、後悔してるのか、蓮」
「おまえはどうなんだ、藍」
蓮にきつく睨《にら》まれ、藍は視線をそらした。
「……わかってるだろ、双子なんだから」
遠く、犬が吠《ほ》えた。
ふたりはまた、とぼとぼと歩きだす。
「いっそ、〈葛《くず》の葉《は》〉の命など投げ捨て、真実をすべてやつらに」
「〈葛の葉〉執行部の命などはたてまえ……本当は、三珠家が砂原家を追い落とすための作戦なのだからな」
互いに立ち止まり、口元をにやりとゆがめあった。
そして――どうじにため息をつく。
「それができたら、苦労はないか……」
「しょせん、我ら七々尾《ななお》家は武門のみの家。つまりは刀のようなもの」
「刀は、使われねば意味がない。使われねば、錆《さ》びつき、やがては滅ぶだけ」
「使うもの……三珠家には逆らえぬ」
「それに……手のかかるアル中ジジイもいることだし」
「うん。産まれる親は、選べないしな……」
互いに、深々とうなだれた。
そこに――ひらひらと、色あざやかな羽を持つ蛾《が》があらわれる。ふたりの頭上を舞った。羽から散った鱗粉《りんぷん》が、宙空になにか文字を描く。
「これは」
「やつからの……手紙?」
★
二十分後、蓮《れん》と藍《あい》は、古びた神社の境内にいた。
街の外れにある、小さな山の上……深く茂った樹木のトンネルのなかを、ぼろぼろの石段を踏みしめながら登ると、やがて朱の剥《は》がれた鳥居へと辿《たど》りつく。
ここは忘れられた神社。
かつて……耕太とちずるが、人狼《じんろう》、犹守《えぞもり》朔《さく》と闘った場所でもあった。
「――おまえはだれだ」
「――美乃里《みのり》はどうした」
蓮と藍が見あげた先には、ひとりの男がいる。
彼は朽ちかけた神社の屋根に、黒い着物に白い衣、手《て》っ甲《こう》に脚絆《きゃはん》といった、まるで修験僧のような格好で、腰かけていた。
風に長い髪を踊らせ、その背にはコウモリのような羽を生やしている。
「美乃里だよ……ぼくは三珠美乃里」
うっすらと笑いながら、男は答えた。
「ふざけるな」
「美乃里《みのり》はオンナで、しかもまだガキだ」
「ま……そんなことはどうでもいいさ。ぼくは三珠《みたま》家からの使者だ。蟲《むし》の手紙がその証拠……だろう?」
鋭く眼《め》を尖《とが》らせていた蓮《れん》と藍《あい》は、やがてうなずく。
「……よし、いいだろう」
「……用件を話せ」
しかし、その腕には鞄《かばん》からとりだした鎖が、しっかりと巻きつけてあった。
「どうだい……学生生活は楽しかったかい?」
男の言葉に、蓮と藍の鎖は、ちゃきっ、と音を鳴らす。
「なんだと……?」
「それはどういう意味だ?」
「ずっと彼らと……源《みなもと》ちずると小山田耕太と、ともにいたのだろう? やさしくしてもらったのだろう? お弁当のおかずをわけてもらったり、登下校を一緒にしたり、たまに放課後、遊ぶこともあった……小山田耕太に、アクセサリーを買ってもらったこともあるだろう?」
男の視線は、蓮と藍の鞄についた、小さな銀のチェーンに注がれていた。
「路上でアクセサリーを売る店……そこで、きみたちはそのチェーンにかぶりつきになった。見かねた小山田耕太が、バンダナを巻いた女から、買ってやった……」
「まさか……きさま……」
「我らを監視していたというのか!?」
蓮《れん》と藍《あい》は、腕の鎖をほどいた。土の上に広がり、硬い音をあげる。
「おっと、勘違いはしないでくれ。源《みなもと》ちずるを監視する以上、一緒にいるきみたちの動きも目に入ってしまうのはしかたがないことなんだよ。だろう?」
だが、ふたりが構えを解くことはなかった。
「これは褒めたつもりだったんだけどね。よくぞここまで親しくなった……これならば、かならずやきみたちを助けるため、彼らはまた憑依《ひょうい》合体してくれることだろう」
「……なに?」
「きみたちには苦労をかけた。封印が不完全だったために、源ちずるを仮死状態にできず、しかたもなく、経過観察などというくだらない仕事をさせてしまった。申し訳なく思う」
男は頭をさげる。
「だが、それもこれで終わりだ。ようやくこちらでも封印が不完全だった原因が判明してね……どうやら封印の設定が強すぎたため、思ったよりも妖力《ようりょく》の弱かった源ちずるには、効果が発揮しきれなかったらしい。そこであの、五本のしっぽが生えた憑依合体だ。あれだけ強力な妖力なら、まちがいなく封印は本来の力を発揮する。確実に仮死状態にできる」
蓮と藍は、眼《め》を見開いたまま、身動きひとつしない。
「か、仮死状態……?」
「か、確実に……?」
ふ……と男は笑った。
「どうしたのかな……? まさか、源ちずるを仮死状態にするのに……抵抗があるなんてことは」
「――そんなわけ、あるか!」
「――我らが〈葛《くず》の葉《は》〉の命に逆らうとでも!?」
眼を剥《む》くふたりに、男はくっくつく……と肩を揺すって笑った。
「冗談だよ、冗談……では、ひとつ策があるのだが……壁に耳あり、障子に目あり……と」
ふわり、と男はコウモリの羽をはばたかせ、蓮と藍の元へと降りてきた。
ふたりの耳元に、なにごとか、ささやく。
「……ああ、わかった」
「……明日、だな」
うつむきかげんのふたりに、男はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「では、よろしく。……おお、もうこんな時間だ。夜道はあぶない、送ろうか?」
すでに夜のとばりはおりかけていた。星のまたたき始めた群青色の空を見あげ、男は声をあげる。
顔をおろしたときには、すでに蓮と藍の姿はなかった。
ひゅるるるる……と風の吹く無人の境内で、男は頬《ほお》をぽりぽりとかく。
「まいったな……ねえ、女性に大人気の源《みなもと》たゆらくん、どうすれば女の子に好かれるようになるのか、ぼくに教えてはくれないか?」
地面に落ちた自分の色濃い影に向かって、そう語りかけた。
「ちっ……気づいてたのかよ」
舌打ちとともに、影から銀毛を生やした狐《きつね》姿の男があらわれた。
ぬるり、と影のなかからぬけだし、銀色の髪と、おなじく銀色の狐の耳、しっぽを風になびかせる。
妖狐《ようこ》姿のたゆらは、男――美乃里《みのり》に向かって顎《あご》をそびやかした。
「聞いたぜ、てめえの悪だくみは……ぜんぶな!」
「ふふ……いつから気づいていたんだい? あのふたりが、蓮《れん》と藍《あい》があやしいと」
「最初っからだよ。おれは超絶お人好しな耕太や、エロボケしてるちずるとは違う……っつーか、まともに考えればすぐにわかるだろ。あいつらがきたとたん、ちずるの身に異常が起きたんだからよ!」
「ははっ、まあ、それはそうだ」
「笑ってんじゃねー! てめえ、なにを企《たくら》んでやがる? 知ってんだぞ、おまえ、ちちくりあってるちずるたちのところにあらわれて、ちずると耕太が憑依《ひょうい》合体すればぜんぶ解決するっていったらしーじゃねーか」
「ああ……いったよ。合体すれば胸は元通りになる。それがなにか?」
「それがなにか? じゃあねえっつーんだよ! てめえ、いまあのふたりには、合体すればちずるが仮死状態になるとかいってたじゃねーか! どーいうこった、おい!」
すっ……と美乃里が、眼《め》を針のように細めた。
たゆらは一瞬だけびくつく。
「な、なんだよ……こ、怖くねーぞ、そんな顔してもぉ!」
「ぼくはね……兄さんに嘘《うそ》はつかない」
「あ? と、いうことは……あいつらに……蓮と藍に、嘘を?」
美乃里は答えず、たゆらにコウモリの羽が生えた背を向けた。
「たゆら……きみたちは、ずっとぼくたち〈葛《くず》の葉《は》〉に追われていたよね。正確にはちずるだけがめあてだったのだけど……どうして追われていたのか、理由は知っているか?」
「ああん? そんなの、おれたちが妖怪《ようかい》だからだろ」
「違う。ある目的のために追っていたんだ」
「も、目的?」
「そうだ。〈葛の葉〉には目的がある。その目的をかなえるためだけに〈葛の葉〉は創られ、ある存在を数千年も探し求めた……源ちずるをね」
「おいおい、ちずるは四百歳だぜ。数千年っておまえな、ホラにしたって……」
「それはあくまで自称、だろう? 実際の年は本人もわからない。年だけではなく……自分の正体もね」
「――ちずるは化《ば》け狐《ぎつね》だ! ただの妖狐《ようこ》だ! それ以外のなにものでもねえ!」
叫んだたゆらを、美乃里《みのり》は肩ごしに、薄く微笑《ほほえ》みながら見やった。
「たゆら、きみも本当は気づいているんだろう? ちずるが生やす、狐のしっぽ以外の、燃えあがるしっぽ……龍《りゅう》と呼ばれるしっぽたち。荒ぶる意志を持ち、木、火、土、金、水、五行の特性を自在に操る、畏《おそ》るべき力……ただの妖狐があんな力を持つはずがない」
「て、てめえ! いいかげんに……」
たゆらはつかみかかろうと、身体を前にのめらせる。
が、どうしても手を伸ばしきれない。
「ふ、ふふ……どうした、源《みなもと》たゆら」
笑いながら、美乃里は振り返った。
硬直し、ただ身体を震わすだけのたゆらに向かって、近づいてゆく。
「お、おまえ、なにを……」
「影を封じた。影を封じれば、その本人の動きも封じることができる……まあ、よくある技だよ。自分より強い相手には、通用しなかったりするんだけどね」
耳元でささやかれるほどに近づかれても、たゆらは動けなかった。
「さて、話の続きだ……ちずるは〈葛《くず》の葉《は》〉に捕らえられた。つまり、〈葛の葉〉は永年探し求めてきた存在をついに手に入れたことになる……が、〈葛の葉〉の上部にその話が届くことはなかった」
「あ、あん?」
「源ちずるを捕らえ、調べたものが、そう判断した。ただの妖狐だと……そうして、薫風《くんぷう》高校に入学させた。ああ、たゆら、きみはそれがだれか知らないのか。ちずるはおとりになって、きみを〈葛の葉〉の手から逃したのだものね。きみが捕まったのはその一年後だ」
「そ、そうだ。捕まったと思ったら学校に入れられて……そこにちずるがいてよ」
「ふふ……だれだと思う、ちずるを捕らえ、調べたものは」
「知るか!」
たゆらがつばを吐きかけるも、あっさりと美乃里は避《よ》けた。
「きみもよく知る人物なんだけどね」
「おれのよく知る? よく知るってえと……まさか」
「そう……砂原《さはら》幾《いく》だよ。その身に強大な妖怪《ようかい》である〈御方《おかた》さま〉を宿し、薫風高校を管理し、〈葛の葉〉内でも強い発言力を持つ彼女が、ちずるの存在を〈葛の葉〉から隠したんだ。隠しておいて、自分のふところ――薫風高校にしまいこんだ」
「ど……どういうことだよ。つまり、砂原が〈葛の葉〉を裏切ってるってことか?」
「それはないな」
がくん、とたゆらはこけようとして、固まってるため首だけを動かす。
「ど、どーしてだよ!」
「砂原幾に宿る〈御方さま〉は、〈葛の葉〉創成者のひとりだからだよ。自分で創った組織を、どうして自分で裏切らなければならない?」
「じゃ、じゃあ……なんで」
「それを、ぼくは知りたいんだよ」
美乃里《みのり》はとろけるような笑みを浮かべた。
「なあ、たゆら、きみは知りたくないか? 自分を育ててくれた愛《いと》しい姉が、いったいなにものなのか……。ただの化《ば》け狐《ぎつね》では、妖狐《ようこ》では、ぜったいにない。ならばなんだ? あのしっぽの龍《りゅう》は? いったい何本まで増える? ぼくは知りたい。それを知ることで、きっと砂原《さはら》の……いや、〈御方《おかた》さま〉の、真の目的が見えてくるはずだ」
「だから……憑依《ひょうい》合体、なのかよ」
にいっ、と美乃里は唇の両端をつりあげる。
「そのとおり……ちずるが耕太兄さんに憑依すれば、あの五本しっぽが生えた、すさまじい力を持つ状態となるだろう。それを引き金に、きっとちずるは新たな力に目覚める……」
「ねえな。それはねえ」
きっぱりとたゆらはいいきった。
「なぜって、ちずるはただの妖狐だからな! いくらニンゲンにとり憑《つ》いて、そこで強い力を得たって……元に戻ったとき、妖狐本人がパワーアップすることはねえ!」
「ただの妖狐ならば……だろ?」
たゆらと美乃里はお互いの視線をぶつけあう。
視線を外したのは、美乃里が先だった。
「まあいい……どうせきみがいま得た情報が、兄さんやちずるに届くことはない……」
美乃里の伸ばした左腕が、ゆっくりと変形してゆく。
するすると細く、弧を描きながら腕は尖《とが》り、やがて、黒色の鋭い刃《やいば》と化した。
刃を、ぴたりとたゆらの首筋に当てる。
「て、てめえ、最初っから、おれのことを……あー! 道理でぺらぺら喋《しゃべ》ると思ったよ!」
「それが遺言?」
たゆらはどうにか逃れようと、ふん、ふん、と力をこめる。しかし身体はぴくりとも動かず、刃の当たった首筋からは血が垂れだした。
「ゆ、遺言ならあるぞ! まずひとつ! 朝比奈《あさひな》、おまえとデートがしたかった! ふたつ、朝比奈、おまえのおでこに、おれもちゅーがしたかった! ちゅー、ちゅー!」
「……まだあるの?」
「まだ……えっと、その……あー、望《のぞむ》ー! とっとと助けろー!」
その叫びとどうじに、美乃里は身をひるがえした。
突っこんできた銀色の影を、左腕の刃で横なぎに払う。
しかし、すでに望は美乃里の足元に入りこんでいた。屈《かが》めた身体を、拳《こぶし》ごと突きあげる。
「たーっ!」
美しい直線を描いた、望のうるふあっぱー(自称)。
残念ながら、その拳《こぶし》は空を切っていた。
目標としていた美乃里《みのり》の顎は、彼の背から生えたコウモリの羽のはばたきとともに、高々と飛びあがっている。
「遅いよ、望《のぞむ》さん! 見ろ、ほれ、血、血ィ!」
空中に浮かぶ美乃里をへの字口で睨《にら》む望に、たゆらは自分の首筋を見せた。
ふっ……と空の美乃里が小さく笑う。
「またオオカミのお姉ちゃんか……どうもぼくは、女性には好かれないらしい」
「けっ、ざまーみろ!」
たゆらは美乃里に向かって拳を突きあげた。
「望にはな、あらかじめあの双子……蓮《れん》と藍《あい》をマークするように頼んでおいたんだよ! だから、双子がここにきた以上、尾行していた望もここにいるってわけだ!」
「べつに、尾行はしてなかったよ」
「……あ?」
「ここにきたのはたまたま。耕太とちずる、ふたりきりにしてあげたから……なんとなく、兄さまとの思い出の場所に」
「思い出って、アニキの朔《さく》にてめーはここでボコられたんじゃねーか! っていうか、えー? じゃあおれ、助かったの、たまたまなのー? えー?」
たゆらは血がたらたらと垂れる首筋を押さえる。
空で、美乃里が笑う。
「はははは! なかなか悪運が強いね、たゆらくん。ここできみたちふたりを片づけることも、できなくはないけれど……たゆら、きみはともかく、望相手は苦労しそうだ。長びけば八束《やつか》たちがでてこないとも限らない……というわけで、おさらば」
ゆっくりとはばたき、すこしずつ高度をあげてゆく。
「そうそう……最後にたゆら、きみに〈葛《くず》の葉《は》〉の目的を教えてあげよう」
「んあ?」
「それは……神の復活」
そういいのこして、美乃里は飛び去った。
美乃里が消えたあとも、しばらくたゆらと望は、すっかり星空となった天を眺めていた。やがて、たゆらはすぅ、と息を吸いこむ。
「――うっそくせー!」
その叫びは、境内中に響き渡った。
「神の復活だあ? それじゃあ……〈葛の葉〉は、神さまをよみがえらせるためにちずるを探してたってことじゃねえか」
「つまり、ちずる、神さま?」
望は両手をあわせ、なむなむと拝みだす。
「バッカおまえ、そんなわけ……」
はた、とたゆらは口を閉じる。
「龍《りゅう》……? まさか、あのしっぽが、もしかして……?」
うんにゃっ、と激しく顔を横に振った。首筋から血がまわりに飛ぶ。
「そんなわけが……そんなわけがあるもんか。ちずるはただの妖狐《ようこ》だ!」
「ねえ、たゆら。美乃里《みのり》のことはどーするの? 耕太とちずる、あと八束《やつか》に、チクる?」
はっ、とたゆらは息を呑《の》んだ。
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、なにごとか考えこむしぐさをする。
「……ちょっと、待ってくれねーか」
「待つ? どーして?」
「知りたいことがある。おれを育ててくれた姉さんは……神さまなんかじゃねえって、おれとおなじ、ただの化《ば》け狐《ぎつね》、妖狐なんだって、あとすこし待てば……それが証明されるはずなんだ。あいつが、美乃里が証明してくれるはずなんだ」
「ふーん?」
首を傾《かし》げる望《のぞむ》の横で、たゆらはぶつぶつと呟《つぶや》いていた。
「そうさ……そうにきまってる……ちずるは……ただの妖狐に決まってる……神なんかじゃ……あるはずがない……」
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[#小見出し] 五、すべての答えを[#「五、すべての答えを」は太字]
1
耕太《こうた》とちずるは、手紙を手に、屋上へと向かっていた。
すでに時間は放課後である。廊下や階段は、帰宅する生徒や部活動に向かう生徒、ただだべっているだけの生徒などで、とてもにぎやかだった。
「あの子たち、いったいなんのようなんだろーね、耕太くん」
「さあ……これには、ただ、ふたりだけできてくださいって」
屋上へと向かう階段をのぼりながら、耕太は手に持った手紙をちずるに示す。
この手紙は、いつ入れたものか、耕太の机のなかにあったものだ。
和紙を丁寧に折りたたんだこの手紙を、耕太は帰る直前、机のなかの教科書、ノートを鞄《かばん》に移すとき、見つけた。
手紙にはとても流暢《りゅうちょう》な文字で、こう書かれてある。
学校の屋上にて、お話があります。
源《みなもと》先輩と小山田《おやまだ》先輩、
お二人だけでいらしてください。
蓮《れん》 藍《あい》
蓮と藍、どちらの手によるものかはわからないが、じつに達筆だった。耕太には読めなかったので、ちずるに頼んだくらいだ。あまりに上手な草書は、崩してあるがために、素人にはみみずがのたくったようにしか見えない。
「まさか、あの子たち……」
ちずるがその眼《め》をきつくする。
「耕太くんに告白する気なんじゃ」
「まさか」
耕太が笑うと、こんどは身をくねくねしだした。
「ああん、じゃあもしかして、わたしのほうに? いやん……昔ならいざしらず、いまのわたしには耕太くんという立派なダンナさまが……」
薬指の指輪が、きらきらと光を反射する。
「ちずるさん……」
「やだ、冗談よ、冗談」
「あの……前から訊《き》きたかったんですけど、ちずるさんの昔って、いったいどんな」
「ほらほら耕太くん、はやくいきましょ」
たたた、とちずるが階段を駈《か》けあがってゆく。
思いっきりはぐらかされながらも、耕太はため息ひとつついて、あとを追いかけた。
やがて、屋上へとつく。
すっかり晴れた青空の下、蓮と藍は、校庭が正面に覗《のぞ》けるフェンスの前に、耕太たちのほうを向き、鞄《かばん》を持ってならんで立って待っていた。
「蓮さん、藍さん」
近づくと、なにやらふたりの表情は暗い。
左右の違うおさげを春風にそよがせながら、いつもの眠たげな眼を重たく伏せていた。
「センパイ……」
声までが暗い。
耕太とちずるは顔を見あわせた。
「どうしたの、蓮さん、藍さん」
「なにか相談でもあるの? あ、もしかして……クラスメイトにいじめられてるとか?」
「そ、そうなの? ふたりとも」
耕太の問いに、蓮と藍はうつむいていた顔をぱっとあげる。
「あ……」
「い、いえ。べつに」
「本当に? いいのよ、正直にいって」
「そうだよ。ぼくたちで力になれるのなら、どうにか……」
ぶんぶん、とふたりはどうじに手を振った。
「本当に違います。いじめられてなんか、いません」
「そうです。いじめもなにも、そもそもわたしたち、自分たちのクラスのひとたちとは、会話すらしません」
また耕太とちずるは顔を見あわせる。
それは、無視という名のいじめじゃあ……?
「そっか……考えてみればあなたたち、いっつもわたしたちと一緒だものね。朝、学校にくるときも、お昼休みも、放課後、帰るときも……うーん、これは問題ありね」
「問題?」
「なにがです?」
蓮《れん》と藍《あい》は首を傾《かし》げる。心底、不思議そうな顔だった。
「問題だよ、蓮さん、藍さん。だってきみたち、つまりぼくたち以外に友達がいないってことでしょう?」
「……友達?」
「……センパイたちが?」
「友達だよ! ぼくたちときみたちは、友達!」
耕太の言葉に、ふたりはゆっくりとうつむく。目元は泣きそうなのに、口元は笑みを浮かべた、うれしそうな、悲しそうな、とても奇妙な表情になった。
「……友達」
「……センパイとわたしたちは、友達」
「そうだよ。友達だよ。でも……ちずるさんはあと一年で、ぼくもあと二年でここを卒業して、いなくなっちゃうんだから。だから自分のクラスの子とも仲良くならなくちゃ。だってクラスメイトとは、三年間一緒なんだからさ」
「あら? わたし、卒業するときは耕太くんと一緒よ?」
しれっ、とちずるがとんでもないことをいった。
「え? だ、だって……ちずるさんは今年三年生であって……だから、今度、卒業……」
「世の中にはね、留年というシステムがあるのよ、耕太くん」
「だ、ダメですよ、そんなの! ちゃんと卒業しなきゃ!」
「いやよう。わたし、耕太くんとクラスメイトになってみたいんだもん」
いやん、いやん、と恥じらう。
どうにかちずるの考えを改めさせようと、耕太が説得の口を開いた、そのとき。
「……三年間、一緒か」
「……それは、ないな」
ぼそっと蓮と藍が呟《つぶや》きを洩《も》らした。
「……いま、蓮さん、藍さん、なにかいった?」
「自分のクラスのひととは、三年間一緒にはいない……そういったのです」
顔をあげたふたりは、妙に晴れ晴れとした表情になっていた。
「それって……どういうこと?」
「こういう」
「ことです」
蓮《れん》と藍《あい》は、どうじに自分の鞄《かばん》のなかに手をつっこんだ。
銀色がきらめき――。
ふたりは、鎖を耕太たちに向かって投げつけた。
「――耕太くん!」
ちずるが耕太を突きとばそうとするも、すでに遅い。
鎖の先は、うなりをあげておどりかかり――耕太の顔の横を通りぬけ、背後へと伸びていった。
後ろでなにか、トマトがつぶれるような音が、あがる。
振り返ると……。
やたら細長い虫がいた。
前にこの屋上で見た巨大カブトムシとおなじく、体長は長い。二メートルほどはあるだろうか。見あげたその先では、蓮と藍が飛ばした鎖によって、頭が吹き飛ばされていた。
頭の下の細い身体が、ぼんやりと緑色に色づいてゆく。
細長い手足は、透明だった。いや、背景の青空、コンクリートとおなじ色だった。胴が緑色に色づくに従って、手足も緑色に変化する。
擬態する、細長い虫……ナナフシ?
耕太がおぼろげな知識を思いだしているうちに、頭をつぶされた虫は倒れた。
「蓮さん、藍さん……」
「あなたたち……いったい?」
耕太とちずるは振り返り、鎖を戻すふたりへと向き直った。
蓮と藍は、ぐっ、と唇を噛《か》む。
「わたしたちは……」
「〈葛《くず》の葉《は》〉の……」
「――やはり、裏切るのかね」
その声に、蓮、藍、そして耕太とちずるも身構えた。
声の主は、かつて耕太とちずるがいちゃついた場所、貯水槽の上にいる。
「お……おお?」
思わず耕太は声をあげてしまった。
貯水槽に立つ男が、バッタだったからだ。
いや、この場合、バッタ男と称するのが正しいのだろうか。顔は完全にバッタ、緑色でぽつぽつと黒点のある肌もバッタなのだが、体つき自体は人間そのものである。ちゃんと手には指もあるようだった。
「美乃里《みのり》さまのいったとおりだな……蓮《れん》、藍《あい》、おまえたちはくだらん情にほだされ、我らを……〈葛《くず》の葉《は》〉を裏切った」
黒い複眼のバッタ男は、バッタの口で普通に話していた。
「だまれ!」
「裏切ったのはおまえたちが先だろう!」
蓮と藍が鎖をいつでも投げつけられるよう、腕を引いた。
「なぜ、さっきの虫は我らではなく、センパイたちを襲った!」
「作戦では、我らだけを襲うはずだ! それでセンパイたちを憑依《ひょうい》合体させると……」
「なあに……ちょっとしたアレンジですよ。いかに源《みなもと》ちずると小山田耕太がお人好しのバカであったとしても、おまえたちのために、リスクのある憑依合体をしてくれるだろうか……? いや、ニンゲンは、他のニンゲンのためにはそうやすやすと動かない。動くのは常におのれ自身のためだ……だから、源ちずると小山田耕太を襲わせた。おのれの身が危険となれば、喜んで憑依合体してくれるだろう……。いわば、作戦の成功率を高めるため」
「「くたばれ!」」
蓮と藍の放った鎖は、しかし空を切った。
バッタ男は高々と跳び――空中ですぅ……っと姿をかき消す。
「ふふふ……わたしは彼ら、蟲《むし》たちの長……配下の能力もわたしのもの……」
眼《め》を剥《む》いた耕太たちに、擬態したバッタ男は得意げに語った。
「……蓮、藍。おまえたちの裏切りとともに、作戦は第二期へと進む」
「第二期だと!?」
「それはなんだ!」
くっくっく……と、バッタ男の笑いが四方から届いてくる。
声のするほうへ、蓮と藍はやみくもに鎖を飛ばした。鎖は屋上を囲むフェンスへと当たって、つぎつぎに穴を空けてゆく。
「……ターゲット、源ちずるの拉致《らち》が不可能となったいま……目的は、源ちずるを護《まも》るものを、消滅させることへと移った」
「ち、ちずるさんを護るもの?」
耕太はちずるを背中にかばっていた。
いまの妖力《ようりょく》をほとんどなくしたちずるは、人間とさほど変わりがない。となれば、男である自分が守るのは当然というものだ。
「源ちずるを護るもの、すなわち――ここ、薫風《くんぷう》高校のことだよ、小山田耕太」
それを最後に、はた、と声が止《や》む。
しばらく待ってみても、あたりには校庭からあがる、クラブ活動の声しか聞こえなかった。耕太たちはきょろきょろと左右を見まわす。
「い……いなくなっちゃった……のかな?」
「たぶん、どこかに身を潜めてる……なんかしつっこそうな声だったもん。ぜったいあのバッタ、性格悪いよ。粘着質」
苦々しそうな顔をするちずるに、蓮《れん》と藍《あい》がうなずいた。
「センパイたち」
「油断しないで」
「……あなたたち、〈葛《くず》の葉《は》〉……というか、美乃里《みのり》の手先だったのね?」
ちずるの問いかけに、蓮と藍はかすかにうつむく。
「……はい」
「ちずるセンパイをさらうため、わたしたちはやってきました」
「その……ちずるセンパイの、胸がなくなったのも……」
「わたしたちの……せいです」
耕太とちずるは、一瞬、息を呑《の》む。
「……マジで?」
「マジです」
「妖怪《ようかい》を仮死状態にするという粉がありまして」
「あの、最初にふぁみりーれすとらんに一緒にいったとき」
「ちずるセンパイのアイスコーヒーに、それを入れました」
「あー! 道理であれ、すっごくマズイと思った! あれからわたし、ファミレスでアイスコーヒー、飲めなくなったんだからね!」
「ちずるさん、ちずるさん、怒るところがズレてます」
蓮と藍は、唇を真一文字に引き結んでいた。
「……ごめんなさい」
「……お叱《しか》りは、のちほど、いくらでも」
ふたりの、いまにも泣きだしそうに震えた声に、ちずるは、はー、と息をはく。
「まあ、それはそれとして……ということは、あなたたち、わたしのデリシャスだったおっぱいをとり戻す方法、わかるの?」
「それは……」
「実家に戻って〈葛の葉〉の上層部に当たれば、おそらく……」
「って、蓮、藍。あなたたち、いまさら〈葛の葉〉に戻れるの? 思いっきり裏切っちゃてるんじゃない。処刑されちゃうんじゃないの?」
「――すべて」
「――覚悟の上です」
ふたりの眼《め》は、まったく揺らぐことがなかった。
「ふう……まったく」
ぽん、とちずるが耕太の肩に手を置く。
「ねえ、耕太くん。この子たちのこと、どうする? ゆるしてあげる?」
「ぼくは、ちずるさんさえよければ」
「そうねえ……」
ちら、ちら、と蓮《れん》と藍《あい》がこちらをうかがっていた。
「じゃあ――」
と、ちずるが声をあげたとき。
にわかにあたりが暗くなった。
え? と耕太は空を見あげる。さっきまで、目の覚めるような晴天だったはずなのに。
「あ……れ?」
曇っていた。
空一面、急にあらわれた雲に覆われ――。
「いや……違う」
黒い。
たくさんの黒いつぶが、あつまっていた。
「これは……これは……」
虫。
たくさんの虫があつまり、空一面を覆っているのだ。
ぅん……ぅん……ぅん……という低いうなりが、耕太たちに降りかかってくる。
これは羽音だ。
何十、何百、何千の、おそらくは巨大であろう虫たちのあげる羽音が、学校全体に、シャワーのように降りそそいでいた。
遠く、悲鳴があがる。
校庭からだ。部活動に励んでいた生徒たちが、空を覆う虫の屋根に気づいたのだろう。見ると、すでにパニックを起こしかけているようだ。生徒の群れが、わっ、と校庭の外側へと散ってゆく。何人かが転び、何人かが倒され、踏まれ、さらに悲鳴が……。
「こ、こんな……こんなことって」
唐突に、耕太の脳裏にさきほどのバッタ男の声がよみがえった。
『源《みなもと》ちずるを護《まも》るもの、すなわち――ここ、薫風《くんぷう》高校のことだよ、小山田耕太』
バッタ男は、ちずるを護るものを消滅させるといった……つまり、それは。
「まさか……これは、さっきのバッタ男が」
「正解でございます」
声に振りむくと、そこにはバッタ男がおり、すでに彼は指先を手刀のかたちにそろえた腕を、高々と振りあげていて……。
チョップが、耕太めがけて振りおろされた。
「――っ!」
耕太は突きとばされていた。
ちずるに、どんと。
当のちずるは。
手刀がかすめて。
鮮血があがり。
「ちっ……ちずるさぁん!」
肩を押さえてうめくちずるの元に、耕太は這《は》いずった。視界の片隅で、バッタ男が蓮と藍《あい》に鎖を投げつけられ、また姿をかき消していたが、知ったことではなかった。
「ちずるさん、ちずるさん、ちずるさん!」
叫びに、ちずるが薄目を開ける。
「だ……だいじょうぶよ、耕太くん。かすり傷……だから」
微笑《ほほえ》むも、顔に脂汗が浮いていては説得力のかけらもない。
震える手で、耕太はちずるを抱きかかえた。
「ちずるさん……」
耕太が震えるのは、恐怖のためではない。悲痛のためでもない。苦悶《くもん》のためでも、悔恨のためでもなかった。
あるのは――ただただ、怒り。
身体中を駆け巡る激昂《げっこう》が、耕太を激しく震わしていた。
「力を……力を、ぼくにください」
「……え?」
「み、みなを守れる力を。ここを、薫風《くんぷう》高校を、ぼくたちの居場所を、守れる力を、ぼくに……ぼくに、ください」
万が一、妖怪《ようかい》の手によって生徒が傷つけられたら、薫風高校は閉鎖される。
その万が一は、すぐそこまでやってきていた。
空を覆う虫たちが作りあげる羽音のうねりは、どんどんとその音量を増し、校庭からあがる悲鳴は、切実なものへと変わりだす。
「ちずるさんを守る力を、ぼくに……」
すべてを壊す力を――。
やつらを滅す力を――。
「ぼくに、ください!」
「……耕太くん」
耕太の叫びに、ちずるは眼《め》を閉じた。
「……わかった。耕太くんに、すべてあげる……わたしの力を」
耕太はちずるの唇に、唇を重ねた。
ふたり、ひとつに。
2
生徒たちが逃げまどう校庭。
その中心部から、突如、砂が噴きあがった。
間欠泉のような砂の噴水は、大きく、校庭を覆うほどに広がり、混乱する生徒たちを一気に呑《の》みこんでゆく。
校舎のまわりからも、砂は噴きあがっていた。
建物をふちどって、壁のように噴きだし、校舎をすっぽりと包みこむ。噴きあがった砂は、屋上へと降りつもった。
そうして、校庭と校舎は、それぞれ砂の山と化した。
★
「よもや……〈御方《おかた》さま〉不在時に、砂防幕を使う羽目になろうとは」
砂に包まれ、暗闇《くらやみ》となった校舎のなかを、八束《やつか》は駆けていた。
眼《め》は鋭く尖《とが》り、手には木刀をさげている。
不思議と、あたりに悲鳴や助けを求める声はなかった。静まりかえった校舎内に、八束が階段をのぼる音だけが響く。
屋上の入り口へとついた。
ためらいもなく、八束は扉を蹴《け》り開く。
ざざざざざ……と校舎のなかへ砂が入りこむなか、木刀を先にしてかきわけ、屋上へとでた。
目の前に、巨大なカマキリがあらわれる。
八束はくりくりしたカマキリの頭を、無造作に木刀でかち割った。カマを振りあげたまま、カマキリの巨体は倒れる。砂ぼこりがあがった。
「源《みなもと》、小山田! 無事かァ!」
叫んだとたん、八束は眼を剥《む》く。
視線の先には耕太がいた。
黒い、狐《きつね》の耳に、しっぽ……そして、頬《ほお》にひげを三本生やした姿だ。その脇には、腕に鎖を巻きつけた双子の少女たちもいたが、八束は気にするそぶりもなかった。
八束が視線を注いでいるのは、耕太のしっぽ。
しっぽの数は――五本から、六本に増えていた。
「お……小山田?」
ゆっくりと耕太は振りむく。
「ああ……八束先生……ですか」
耕太に見つめられた瞬間、八束はその身を強《こわ》ばらせた。
すぐさま我に返り、手に持っていた木刀を横に薙《な》ぐ。迫っていた巨大スズメバチが激しく身体を打たれ、透明な羽を粉々に散らした。
「きさま……本当に小山田……か?」
屋上には無数の巨大昆虫がいた。
その種類はさまざまだ。カブトムシ、クワガタムシ、バッタ、コオロギ、カマキリ、クモ、ハチ、ナナフシ、さらには毛虫までがのたくっていた。
空にもまだ多くが控え、校庭側の砂の山にも、どんどん昆虫たちは降りたっている。
しかし、耕太には一匹も襲いかかろうとはしなかった。
耕太と蓮《れん》、藍《あい》を遠巻きに囲むだけだ。
そのぶん、新たに登場した八束《やつか》に、つぎつぎと迫ってゆく。二匹、三匹、四匹と立て続けに八束は殴り斬《き》った。
「と、とにかくだ! いま、校内の守備を終えしだい、桐山《きりやま》たちがくる。連携して、こいつら害虫どもを……」
「必要ありません」
冷たく耕太は答えた。
「な、なんだと?」
「だれの助けも、いらないんです」
八束は木刀の柄でカブトムシの角を叩《たた》き折った。
「小山田、なにをいっている!」
「だって、ぼくひとりで片づけますから」
「このド阿呆《あほう》が! いくら源《みなもと》と合体したおまえの力が強かろうとも、ひとりでこれだけの数を相手にできるわけが……」
「できますよ……ほら」
耕太は軽く、しっぽに力をこめた。
六本のしっぽが、揺らぐ。
たちまちにしっぽは激しく燃えあがった。
炎と化し、伸びあがり、ぐねぐねとうなりながら太く、大きくなってゆく。やがて、屋上の端から端まで届くほどに育ちきった。
炎の先端が、くぱぁ……と顎《あご》を開く。
空想上の、〈龍《りゅう》〉と呼ばれるものによく似た姿となった。
六本の灼熱《しゃくねつ》の龍は、鎌首《かまくび》をもたげ……続けてまわりの昆虫たちにおどりかかる。
闘いは、きわめて一方的だった。
龍たちはひたすらに昆虫たちを喰《く》らい、呑《の》みこみ、灰と化す。ただ焦げ臭い匂《にお》いだけを残して、すべて喰らい尽くすだけ。
始まりから、終わりまで、約十秒。
「……ね?」
耕太は微笑《ほほえ》みかけた。
つもりだったが、なぜか八束《やつか》は顔を引きつらせた。
「きさま……本当に小山田……なのか?」
なんだか、前に聞いたようなセリフをいった。
見ると、蓮《れん》と藍《あい》まで、なぜか怯《おび》えたように顔を強《こわ》ばらせていた。わずかに身体を震わしてもいるようだ。
ふ……と耕太は静かに笑う。
ちょっぴり様子がおかしいけれど、理由を調べている暇はない。
餌《えさ》はまだ、ほかにもたくさんいるのだ。空にも、校庭の砂山にも、そうそう……ぼくのちずるさんを傷つけた、あのバッタ男も……。
「バッタ男はどこにいるのかなァ。あいつ、姿、消すんだ。まるでカメレオンみたく」
(どこでもいいさ……べつに)
耕太の言葉に、だれかが答えた。
「よくはないよ。ちずるさんの仇《かたき》だもの。かならず見つけだして……仕返ししなきゃ」
(見つけだす必要なんかない)
(すべてを喰《く》らえばいい)
(すべての餌を喰らいつくせば……)
(いつかはバッタ男も喰らっている)
「そうか……そうだよねえ。そうさ……そうだ……すべて、喰《く》らえば……」
(そうだ。すべて餌《えさ》だ)
(すべて、我らの餌だ)
(喰らえ)
(喰らえ)
(喰らえ)
(喰らえ……)
声は、六人ぶん、あった。全員、憎悪に満ちていた。怒り狂っていた。その感覚は、いまの耕太にはなんともここちよかった。
「ああ……」
びっしりと虫たちで覆われた、空を見あげる。
あれをすべて喰らったら……きっとすごく気持ちいいだろうなあ。
「――よし、いけ」
耕太の命令に、背中にいる六本のしっぽたちは喜びに身を震わせた。
飛びあがる。
六本の炎柱が、黒々とした空へまっすぐに伸びあがり――真っ赤な爆発とともに、どん、という低い音をあげた。
爆発は立て続けにあがる。
どん、どん、どどん、と花火のような音をあげ、黒い空は紅《あか》く切り裂かれていった。みるみるうちに黒は消え去り、青空がとり戻されてゆく。
「は、あは、あはは、あはははは……」
気がついたら、耕太は笑っていた。
自然にこぼれだした、という感じだ。だっておかしいんだもの、しかたがない。
「はははは――は?」
空で暴れていた炎のしっぽのうち、二本が、校庭へと向かう。
砂山をヘビのように這《は》い、たかっていた昆虫たちを喰らいだした。
「なんだ……つまみぐいなの? 本当、いやしんぼだなあ……はは、あはは!」
もはや身を守るための闘いでも、敵を倒すための闘いでもなかった。
ただの捕食だ。
虫たちは餌で、自分はただそれを喰らうのみ。
(当たり前じゃないか)
また、声が語りかける。
(こいつらは、おまえとちずるの居場所を奪おうとしたんだ)
(こいつらは、おまえのちずるを傷つけたんだ)
「そうだ……ぼくのちずるさんを……こいつらは傷つけたんだ……」
ぐにゅう、と六本のしっぽの先端が、上から下から横から、耕太を覗《のぞ》きこむ。どうやら、すべての昆虫を食べ尽くしてしまったらしい。
見あげた空は――ああ、青空。
(もっと……喰《く》らいたくはないか)
「……だって、もう」
(喰らえるぞ。力があれば、喰らえるぞ)
(呼べ。我らの仲間を呼べ)
(あと三体……ちずるにとりこまれた一体と、あともう二体の龍《りゅう》を)
(そうすれば……すべてを……この世界、すべてを……)
「すべて……世界のすべてを……喰らう……」
だれかが、まわりで叫んでいた。
八束《やつか》が、蓮《れん》が藍《あい》が、いつのまにきたのか、たゆらや望《のぞむ》もいて、みんな、なにごとか叫んでいた――が、とても遠い。聞こえない。視界が紅《あか》くゆがんで、姿も見えもしない。
「世界を……ぼくが……喰らう……」
(――そんなの、ダメッ!)
その声に、耕太はがつん、と頭を叩《たた》かれ、のけぞった。
「……こ、この、声は?」
(邪魔をするな)
(こやつは、世界を喰らいたいのだ)
(それが、こやつの意志なのだ)
(邪魔を……)
(――やかましいっ! なにが耕太くんの意志よ! おまえたちの、しっぽたちの意志でしょーがっ! うちの耕太くんに……いけないことを教えないでちょーだいっ!)
がつん、がつん、がつん。
耕太の頭は、声があがるたびに、上に、下に、後ろに、ぶっ叩かれた。もはや耕太はノックアウト寸前である。
「ち、ちず……」
(――耕太くんもよ! あんまりおいたすると……もう、あまえんぼさん、してあげないんだからね!)
「あ、あああ……ご、ごめんなさーい!」
耕太の魂の叫びとともに、しっぽの炎は消え去った。元のふさふさした黒い毛に戻る。
「……あれ?」
耕太は眼《め》をしばたたかせた。
八束が、蓮が藍が、たゆらが、ぽかーんと口を開けている。
そして望は……。
「耕太ァ!」
抱きついてきた。
「耕太、耕太、耕太! あ〜ん、耕太ぁ、元に、元に戻ったよう! ああああ〜ん」
首筋にしがみつき、声をあげて泣きじゃくる。よしよし、と耕太は銀髪の少女の、小さな背を撫《な》でてやった。
「えーっと、あの、ぼく……」
おつぎは二発連続でげんこつを落とされた。
一発目は八束《やつか》、二発目はたゆらだ。
「このド、ド、ド、超ドレッドノート級の阿呆《あほう》が! 世界を喰《く》らうだと? きさま、なにを調子にのっている! そんなたわごとは高校を卒業してからほざかんか!」
「バカ、バカ、おバカ! マジでどーにかなるかと思っちゃったじゃねーか! まさか、おれのせいで世界が終わるなんてこたあ……あー、もー、バカちーん!」
「す、すみませええん」
耕太は頭を押さえ、涙目であやまった。
「せ、センパイ……」
「わ、わたしたち……」
蓮《れん》と藍《あい》も、眼《め》にいっぱいに涙をためこんでいた。
「ご、こごご」
「ごめんなさあい」
ふたり、ひし、と耕太に抱きついてくる。望《のぞむ》と一緒に、三人、盛大な泣き声をあげた。しかたなく、耕太は両腕を大きく広げて、三人の肩に手を置く。
(もう……みんなして、わたしの耕太くんにくっついて)
こつん、と声に叩《たた》かれ、耕太は首を斜めにした。
「ご……ごめんなさい、ちずるさん」
(ホントだよ、耕太くん。耕太くんがあんなあぶない子だなんて、わたし、知らなかったな。ひとは見かけによらないというか……)
なんだか耕太は、自分も思いっきり泣きたくなってきた。
「――おう、おまえら。おれ、助けにきたぞー」
かん高い声に首をまわすと、桐山《きりやま》が砂で埋もれた屋上の入り口から、ぐいぐいと身体をだすところだった。
「……うん? 虫たち……どうした?」
桐山は砂まみれの身体を払いながら、あたりを見まわす。
「もう……ぜんぶ、終わっちまったよ」
「終わった? だって、さっき虫ども、やってきたばかり……おれ、仲間に校内の守り指示して、それからすぐ、ここにきたんだぞ?」
元気いっぱいな桐山は、疲れた顔でその場にへたりこむたゆらに、眼を丸くした。
「たゆらのいうとおりだ、桐山……とにかく、ごくろうだったな」
八束まで、木刀を杖《つえ》代わりにして身体を支えている。どっと老けたようだ。
「な、なにが起こった? おれ、ちっともわからな……ん?」
桐山《きりやま》が、眼《め》を鋭く細めた。
視線が、左から右へと、ゆっくり動く。
「てやっ」
手刀を縦に一閃《いっせん》させた。
なにもなかったはずの空間に、ぼんやりと色が浮かびだす。
緑色の輪郭は、大人の男ほどの大きさ、かたちだった。やがて輪郭は、バッタの顔を覗《のぞ》かせる。
「そ……ん……な……」
バッタ男は、身体の真ん中から青い液体を噴出しながら、倒れた。
「……このひと、こんなところに、いたんだ」
「お、おまえ、よくわかったな」
「うん? おれ、かまいたち。風を使うから、空気の揺らぎ、よくわかる。見た目だけ隠れても、ムダ」
呆然《ぼうぜん》としていた耕太とたゆらに、桐山はなんでもないことのようにいった。
バッタ男の身体は、炎のしっぽに喰われかけたものだろうか、ところどころが黒く焦げている。ぴくく、とけいれんし、砂に青い血を染みこませた。
★
「あーあ……みんな、やられちゃった」
砂に呑《の》みこまれた、薫風《くんぷう》高校。
その様子を、遠く離れたビルの屋上から、少女状態の美乃里《みのり》が双眼鏡ごしに見つめていた。となりには白髪の女性、鵺《ぬえ》がいる。
鵺が、美乃里の耳元にささやきかけた。
「え? これからどうするって? ……ふふ、べつにどうもしないよ? とにかく、いまの美乃里に課せられた使命は、ちずるの正体を知ることだもん。そりゃあ、三珠《みたま》家の上のひとたちとかは、砂原《さはら》家がめざわりでしかたなくて、失脚させるために、薫風高校にちょっかいだそうとしてたみたいだけど……そんなこと、美乃里知らなーい」
きゃははは、と笑う。
「あとは、ちずるの身体に、なにか異変が起きていれば……クロ。ま、これはないだろーけど、万が一なにもなければ……シロってわけ」
それにしても……と、双眼鏡を覗きこむ。
「耕太お兄ちゃん……かっこよかったなあ……ああ、美乃里、抱かれたーい!」
はしゃぐ美乃里の横で、鵺は巨大な口と化した左腕のなかから、ポットと急須《きゅうす》、お茶っ葉の入った缶をとりだしていた。
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[#小見出し] 六、とりもどしてしまった、モノ[#「六、とりもどしてしまった、モノ」は太字]
耕太《こうた》は、みごと復活をとげたちずるの胸に、深く埋《うず》まっていた。
時刻はすでに午後。
場所は大学病院、個室のベッドの上。
病衣姿の耕太は、ベッドで身体を起こした状態で、横から飛びついた制服姿のちずるに、思いっきり抱きしめられているのだった。
昨日、巨大昆虫を退けて、ちずるとの合体を解いた直後、耕太は死んだように眠った。
眠り自体はめずらしいことではない。ちずると憑依《ひょうい》合体した状態でとても大きな力を使うと、その反動だろうか、よく眠りこけたり、ひどい筋肉痛になったりする。
もっとも今回は、あれだけ莫大《ばくだい》な力を振るったわりには、半日眠っただけで目覚めた。
身体に異常もない。目覚めてすぐ、耕太は、徹夜で看病していたらしいちずるに、おかしいところはないかとなんどもなんども訊《き》かれた。
筋肉痛ですらなく、とても快適な目覚めです、と答えたとたん……。
『よかったぁ!』
と、抱きつかれて、そのまま、あまえんぼさん。
すでにちずるが耕太を抱く強さは、感激の大きさが伝わる激しいものから、愛情の深さが伝わるやさしいものへと変わっていた。
「どう、耕太くん……わたしのおっぱい……やっぱり、最高でしょう……?」
「極上です……!!」
胸に抱かれているため、つむじのあたりにかかったちずるの熱い吐息に、耕太は熱く答えた。声は胸の谷間に吸いこまれて、ほがほがふー、にしかならなかったが。
たしかに極上であった。
ふかふかと顔を包みこむちずるのやわらかさ、じんわりと伝わるちずるのぬくもり、むわむわと鼻をぬけるちずるの甘い匂《にお》い……すべてが耕太の脳髄をとろかし、思考を奪い去ってゆく。
いいなあ。やっぱりこれ[#「これ」に傍点]、いいなあ。ちずるさん……いいなあ。
「あ……そうだ」
すっ、とちずるが耕太を胸元から離す。
「え……ち、ちずるさぁん?」
なんだかエデンの園から追放された男女の気持ちがひどくわかった気がして、思わず耕太は情けない声をあげてしまった。
「もう、そんな泣きそうな顔しないの、耕太くんったら……。ほら、やっぱり……」
ぐすっ、と鼻をすすりあげる耕太の前で、ちずるはブレザーのボタンに指先をかけた。
そのしなやかな指先が、ブレザーのボタンをすべて外し、首もとのリボンをほどき、なかのワイシャツのボタンへと移るにつれて、耕太は自分の唇が自然に笑みへと変わってゆくのを止められなかった。
「ああ……ち、ちずるさぁん!」
ついにちずるが純白のブラを外すにいたって、耕太は歓喜の声をあげた。
まろん。
ワイシャツのあわせ目から、栄光に向かって走る列車が飛びだした。
「やっぱり、生のほうがいいでしょ? ね……耕太くん」
無言で、耕太は列車に乗りこんだ。
きゃはっ、と声をあげ、ちずるが後頭部を抱きしめてくる。
生ゆえの感触が、耕太をほやほやと包みこみ、ついにはぬまっと呑《の》みこもうとした。わずかに汗ばんだ肌はちずるの熱き血潮を伝え、衣服という余計なフィルターを通さぬその香りは、ちずるの女性を高らかに歌いあげる。
いまだけは、と耕太は思った。
いまだけは、思う存分、甘えさせてくれ。明日からは……いや、このあとは、しっかりするから……まじめになるから……だから、いまだけ……ぱいぱいぷー。
「耕太くん……ちずるの生のおっぱいは……どう……?」
「至高と究極が、ラン・デ・ブーです……!!」
耕太は生のちずる谷に答えた。服がないため、意外とまともな音声になった。それで耕太はひとつ、尋ねてみる。
「あの、ちずるさん……。どうしてここ、元に戻ったんですか……?」
「それが……よくわかんないの」
原因、不明?
八束《やつか》の説によると、憑依《ひょうい》合体したときの、あのとんでもない力で、ちずるの体内にあった封印がその限界を超えてしまい、結果、消滅したのではないか……とのことらしい。
「ま、いいじゃない。こうして耕太くんを、またあまえんぼさんできるんだから……」
はい、どーでもいいです。
すべてが……もはや、どうでも……耕太はまぶたを閉じ、すべてをちずるにゆだねる。
「ねーねー、ちずるー。耕太ー、元気になったー?」
病室の扉が開いた。
乳房ごしに見ると、望《のぞむ》だった。
望はしばらく立ちつくし、二、三度まばたきをしていたが、やがてドアを閉める。
耕太とちずるがあまえんぼさんなベッドへときて、おもむろに服を脱ぎだした。ぱさ、ぱさ、と乾いた音をたて、ベッドの上に服が脱ぎ捨てられる。
上半身裸、下半身スカートという格好になった。
「……ちずるぅ」
ふふ、とちずるが笑う。
「わかった、わかった……はい、耕太くん、ちょっとベッドの上、ずれてくれる?」
「ふあい?」
気がつくと、耕太はベッドの上で、望《のぞむ》を後ろから抱いていた。
上半身をなだらかに起こした耕太に、望が背中をもたれさせてくる。
その状態で耕太は前に腕をまわし、望の胸の、儚《はかな》げに引き締まったふくらみを、完全に手中に収めていた。
そしてちずるは、そんな耕太を後ろから抱いている。
壁に背をつけて座り、耕太の後頭部を、その偉大なるふくらみに沈めていた。まさにちちまくら。圧倒的なまでのボリュームがなければ、とうていなしえない偉業であった。
「ん……」
望が震える。
その幼いふくらみを、耕太が揉《も》んじゃったからでは、決してない。
耕太の手の上に、さらに自分の手を伸ばして重ねたちずるが、揉んじゃったからである。
「ちずるさん……」
「なあに、耕太くん……」
なおもやわやわと刺激をくわえられ、望は汗ばみ、くぐもった声をあげる。そんな銀髪の少女の甘やかな声をBGMに、耕太は眼《め》を閉じた。
「こんな日が……ずっと続けばいいですよね……」
ぴた、とちずるの手の動きは止まった。
「……本当だね、耕太くん」
ちずるは後ろから、望、耕太といっぺんにぎゅっと抱きしめてくる。
さきほどの行為で軽く乱れた望の呼吸を聞きながら、いつしか耕太の意識は、わたがしのようなまったりとした眠りのなかへと、ここちよく沈んでいった。
……ぐう。
……すう。
……くー。
薄ぼんやりと、三者三様の寝息を聞いた――ような気が、した。
また、意識は、沈、み……。
「……な、な、な、な、な……なにをやってるんですかーっ!」
叫びに耕太は跳ね起きた。
ちずるも、望も、おなじ動きで跳ね起きて、三人どうじに、横を向く。
「ふ、ふえ?」
あかねがいた。
数珠つなぎの耕太たちの姿に、その眼鏡ごしの眼を、鋭くさせている。
「が、学校のなかだけではあきたらず、ひとの生死をとり扱う、厳粛たる病院のなかでも、あ、あ、あ……あなたたちは! 不潔ですぅ! 邪悪ですぅ! 害毒ですぅ!」
興奮のあまりか、あかねはだだっ子のように両手をぱたぱたさせていた。
そんな委員長に、耕太たちは……。
「くわぁ……」
「はわぁ……」
「ふわぁ……」
あくびで答えてしまった。
三人のジェットストリームあくびに、あかねが眼《め》を剥《む》く。
「あ、あ、あ、あなたたち、ひとの話を――」
「……朝比奈《あさひな》センパイ」
「……病院では、お静かに」
絶叫寸前のあかねを、止めるふたつの声があった。
まったくおなじ顔の、眠たげな眼をした双子――蓮《れん》と藍《あい》である。
見舞い用だろう、手に花束を持っていた彼女たちの前にあかねは立って、ぶんぶんと手を振った。
「だ、ダメよあなたたち! まだ一年生なのに、こ、こんなものを見たら、眼が汚れるわ! 精神が薄汚れるわ!」
「……朝比奈センパイは」
「……かわいい子ですね」
ぱきーん、と固まったあかねの両脇を通りぬけ、蓮《れん》と藍《あい》は耕太たちの元へとやってきた。
持っていた花束を、耕太の前にだす。
「これ、お見舞いです」
「お金がないので、野草ですが」
いわれてみると、花束の包装紙はスポーツ新聞だった。
「蓮さん……藍さん……きみたちは……」
耕太の代わりに望《のぞむ》が花束を受けとると、蓮と藍は、それぞれベッドの左側、右側にまわり、両サイドから上にのってきた。
「センパイ」
「お話が」
耕太がまくらにしていたふくらみに、横から顔を入れてくる。ぽにゅん、とまくらは揺れた。
あかねは絶句し、ちずるは、んー、と声をあげる。
「あなたたち……やっぱりそっちだったの?」
「そっちがどっちかは」
「よくわかりませんけど」
蓮と藍はステレオで、あかねに届かぬほどの小声でささやいてきた。
「――わたしたち」
「――ここに残ることにしました」
「え? ほ、ホントに?」
「「はい」」
と、耕太に向かってどうじに答えた。
「どうせ家に帰っても、処刑されるだけですから」
「酔っぱらいジジイも、〈葛《くず》の葉《は》〉も、ムシです、ムシ」
は、ははは、ははは……と耕太は笑う。
ちずるも背中で笑っていた。望はもらった花束の匂《にお》いを嗅《か》いでいた。
「まあ、よかったじゃない。ふふ、じゃあ、なにかお祝いでもしましょうか?」
ちずるの言葉に、蓮と藍はもじもじしだす。
「あ、あの……」
「よ、よかったら、ですけど……」
「ん? なに? ファミレス? それとも欲しいものでもあるの? いってみなさいよ」
耕太の両脇で、蓮と藍はちずるにすがるような眼《め》を向けた。
「――こ、これ」
「――す、吸ってもいいですか」
耕太は眼を丸くした。
ちずるも「へ?」と声をあげ、あかねは「ふあーっ!?」と奇妙な叫びをあげた。
「あなたたち、やっぱりそっちの……? まあ、いいけどね」
「い、いいわけないでしょう!」
あかねの突っこみもなんのその、ちずるは耕太の左まくら、右まくらを自分でつかみ、すこし角度を広げる。
ああ……というステレオのため息とともに、かぷん、とふくらみがステレオで揺れた。
ちうちうちう。
「ん、んー、女の子は……ひさしぶりねー……」
「……ちずるさん、やっぱり」
耕太の疑念の声を、あ、あははー、とちずるは笑ってごまかした。
そのときだ。
「……ああ、母さまあ」
「……母さま、母さまあ」
蓮《れん》と藍《あい》が、せつなげな声を洩《も》らしたのは。
「あなたたち……なるほど、そっちじゃなくて、あっちだったわけね……。うーん、でもわたし、まだこんなに大きな子供は……ねえ、耕太くん。どうする?」
「え? ぼ、ぼくですか?」
真上のちずるを見あげた耕太に、左右の蓮と藍は、どうじにふくらみから唇を外す。
「……パパぁ」
「……耕太パパぁ」
「いーけーまーせーんーっ!」
あかねの絶叫が、とりあえず耕太を救った。
「もう、どこから注意すればいいのか、わたし、まったくもってわからない! なんなの? コスプレするひとたちって、つまりそういう倫理観なの?」
「へ? こ、こすぷれ?」
耕太の質問にも、あかねは「わからない……わからない……」と首を振るばかりだ。
ちずるが、そのあかねの背後にある、病室の入り口へと手を伸ばす。
半開きの扉に向かって、手招きをした。
「たゆらー? 怒らないから、いらっしゃーい? どうせあかねに捕まったおまえが、この子たちをここまで連れてきたんでしょう」
「……ははは、はははー」
手に、お見舞い用の果物がたくさん入ったかごを持って、たゆらは入ってきた。
「いやー、どう、お元気ー? はっはっは、元気なのは見ればわかるか。まったくおさかんなことで……うらやましいでゲスな。はっはっは」
「……ママ。始末しますか?」
「勝負は一瞬です」
蓮と藍が、鞄《かばん》のなかに手をつっこむ。
「ダメよ、いちおうはわたしの弟、あなたたちの叔父さんなんだから……お年玉をもらう相手が減っちゃうのよ?」
ぱっ、と双子は鞄《かばん》から手を戻した。
「いまのわたしは、とてもやさしい気持ちなの……ようやく、すべてをとり戻したんだもの……ようやく……」
しみじみとした声に、なぜだろう、耕太は泣きたくなった。
「あ、あのよ……お姉さま、ちょっと訊《き》きたいことがあるんだけど」
「なーに、たゆら」
「お姉さまは……ちずるは、身体に異常はねえよな?」
「え……たゆら、どうしてそのことを知ってるの?」
その言葉に、たゆらのみならず、耕太もあわてた。
「な……ちずるさん、あのときの合体で、どこかおかしく!?」
「マジか……ちずる……そ、そうなのか……? やっぱりそうだったのかっ!」
「なに!? 小山田《おやまだ》くん、いまの『合体』って単語、どういう意味!?」
耕太は問いかけ、たゆらは呆然《ぼうぜん》とし、あかねは騒ぐ。
そしてちずるは、んふー? と微笑《ほほえ》んだ。
「ずっとわたし、胸が大きくなることやってきたでしょう……そのせいかなあ、ちょっぴり……さらに大きく……なっちゃったっ」
へ、と耕太、たゆら、あかねの三人はまぬけな声をあげた。
「え……?」
耕太は身を返し、あらためて前からちずるの胸元に飛びこんでみた。
ふにふにん。
「……なるほど」
ゆやゆよーん、が。
ゆやゆやよーん、に。
「ああ……どうしてぼく、さっき気づかなかったんだろう……。ちずるさん、ごめんなさい。ぼく、こんなことじゃ、とてもちずるさんを愛してるなんて」
「なにをいってるの、耕太くん。ひさしぶりなんだからしかたないじゃない」
「いったいなんなんですか、その愛情の測りかたは!」
あかねの声は、だんだん悲痛さをおびてきた。
「もう……小山田くんは、過労で入院したんでしょう? なのに、どうしてさらに疲れるような真似《まね》をするの? そもそもなんで過労したの? 過労するようなことをしたの?」
「え? 過労って……」
そういえば、と耕太は気づいた。
そもそも、昨日のあの騒ぎは……巨大昆虫来襲から、砂に呑《の》みこまれたことまで、すべて、学校の生徒たちはどう思っているのだろう?
「……パパ」
「……昨日の件なのですが」
蓮《れん》と藍《あい》が、耳元に口を寄せ、耕太の疑問に答えてくれる。
彼女たちの話によると、押しよせる巨大昆虫から学校を守るため、砂の防護壁をだした時点で、生徒たちには〈眠りの砂〉と呼ばれる、いわば睡眠薬がまかれたらしい。そのため、闘いが終わるまで、全校生徒はほとんど仮死に近い状態だったそうだ。
死骸《しがい》や砂など、すべての痕跡《こんせき》を消したあとで、生徒たちは目覚めたらしいが……。
〈眠りの砂〉の効果か、ほとんどが当時のことをおぼろげにしか覚えておらず、すぐに夢だと思いこんでしまったとのことだ。ひとは信じたいことしか信じないもの、らしい。
「……おそるべきは砂原《さはら》幾《いく》。いや、〈御方《おかた》さま〉……」
「不在であっても、これほどの準備を残していようとは」
はあ……。耕太はため息しかつけない。
「その砂原が……」
「戻ってきています」
★
薫風《くんぷう》高校、理事長室のなか――。
ブラインドの閉めきられた窓を背に置かれた、理事長用の重厚な机。
その重々しく大きな黒い机に、砂原の姿はあった。
生徒たちとくらべても小柄な身体を、似つかわしくない大きな椅子《いす》に深く沈め、眼鏡の丸いレンズごしの眼《め》を、片手で持った資料の紙に走らせている。
彼女の髪型は、いつもの太い三つ編みではなかった。
ほどいて、くせのついた波うつ髪を、白いブラウスの肩に散らしたもの――そう、いまの彼女は砂原ではなく、彼女に宿る大妖《たいよう》、〈御方さま〉であった。
「なるほど……わしがおらんあいだに、よくもまあ、好き勝手やってくれたものよの……」
〈御方さま〉は苦々しく笑う。
机の前に控えていた八束《やつか》は、はっ、と短く答え、深く頭をさげた。
「申し訳ありません。わたしがいながら、数々の防衛機構まで使うていたらく……ろくに留守も守れぬおのれを、ただただ恥じるよりほかにございません」
「よいよい。とりあえず、生徒に傷を負うものはおらぬかったのじゃろ?」
「ですが……それも、小山田のあの力がなければ、はたしてどうなっていたことか。おそらく退けることはできたでしょうが、砂の内の生徒たちの安全、周囲の住宅街への影響などを考えると……まったく、憎むべきはあの害虫……三珠《みたま》美乃里《みのり》め! いったいどこまで感づいている!」
〈御方さま〉は手の書類を机の上に放り、背もたれにさらに深く沈んだ。足を組む。
「よい実戦演習になったではないか……いずれ、現時点での問題は、その力じゃの」
「はい……じつに、じつにすさまじい〈龍《りゅう》〉の力……あれが……あれこそが?」
うかがう八束《やつか》に、〈御方《おかた》さま〉は眼《め》を伏せ、なにか考えこむ。
「……わしも、実際にこの眼で見てみねばわからぬ、が……小山田めに関しては、いまのところはさほど気にすることはないと思う。問題は」
「問題は……?」
〈御方さま〉は椅子《いす》ごと後ろを向いた。ブラインドを睨《にら》む。
「……ふむ。これはちと、手が足りぬかもしれんな」
「は?」
「手を借りるかの……九尾《きゅうび》のおババめに、の」
★
ちずるは、ひとり病院のトイレにいた。
手洗いの蛇口からだした水のなかで、泡だつ手の指先をこすっている。
「――覚悟は、できた」
手に弾かれる水流のしぶきを見つめながら、呟《つぶや》きを洩《も》らした。
「世界を喰《く》らうですって……? させるもんですか、そんなこと。べつに世界なんてどうでもいい……ただ、耕太くんをまきぞえにすることだけはゆるさない」
蛇口を閉め、ペーパータオルで手の水気を拭《ぬぐ》う。
「わたしは、ぜったいに飼いならしてみせる……あなたたちをね」
丸めたペーパータオルを、ごみ箱に投げ捨てた。
床に鋭い視線を落とす。
ちずるの足元から伸びた影には――六本のしっぽが生えていた。
影は、ざわざわと不気味にうごめいている。
「おとなしくしてろ、バカ」
ちずるの言葉に、影は動きを止め、未練がましくゆっくりとその姿を消した。
完全に消えるまで見届けてから、ちずるはトイレの外へでる。
「……ママ」
蓮《れん》と藍《あい》が、前の廊下で待っていた。耕太も、望《のぞむ》も、たゆら、あかねもだ。
「ごめんねー、待たせちゃって」
ちずるは彼女たちに微笑《ほほえ》みかける。『なんだよ、待たせやがって……大きいやつか?』とのたまったたゆらにはげんこつをくれてやって、耕太に手を伸ばした。
「さ、耕太くん……おうちに帰ろ?」
その微笑みは、じつにやわらかなものだった。
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[#小見出し] 『あとがき』が『あがき』に見えました。はい、重症です[#「『あとがき』が『あがき』に見えました。はい、重症です」は太字]
あー……今回はすっごく大変だった……。
いや、いつも大変なんですけどね。毎回毎回、関係各所にはご迷惑をおかけしております。あいだに挟まれるかたちの担当編集者さんは、さぞかし胃が痛いことでしょう。それもひとえに、わたしの執筆速度&話の内容がアレもんでコレもんだからなのですが……。
でもぼくちん、悪くないもん。
悪いのはかのこんの登場人物です。作者の手を離れ、勝手に動きまわるあいつらです! だってさー、主人公なはずの耕太《こうた》くんはまわりに流されっぱなしだしさー、ちずるさんは自分にふりかかった災難で手一杯だしさー、望《のぞむ》はなに考えているのかさっぱりだしさー、もうこんなやつら、ぼくの手には負えないよ!
えー、よくあるじゃないですか。
漫画家さんや小説家さんのインタビューなどで、『作品に登場するキャラクターたちが、頭のなかで勝手に動きだすことがあるんです』とかなんとか。あれです、あれ。
わたくし、今作で小説も五冊目なのですが。
今回ほど登場人物たちが『勝手に動きまくった』ことはございません。
もうね……隙《すき》あらばいちゃつきますね、彼らは。
まあ、べつにラブラブすること自体はかまわないんです。愛しあってるんだから、好きなだけラブラブしまくればよろしい。ただ……ただね。ラブラブされちゃうと……。
ちっとも話が進まないんですよっ!
耕太たちがラブすれば、ストーリーが進まず。ストーリーを進めれば、ラブできず。ほうっておけばエロスはイキすぎまくるし。本当、わたし、どうしたらいいのやら。
結局どうしたのかは……読んでのお楽しみ、でーす。
読まれたかたならもうおわかりですよね。そうです、ぼくちん、ちっとも悪くない。悪いのは……望? ○てい○っておまえさん。まさかそんな世界があろうとは……。
さて、5巻においても、狐印《こいん》さんの描かれた絵は絶対領域なすてきさです。
どれだけすてきかといえば、今巻に登場するあの双子は、狐印さんからあがってきたラフ絵があまりにすばらしかったため、ついつい活躍の場が増えてしまったくらい。
当初はもっとヘボイ役回りだったんですよ。それが、ああ、あまりにかわいすぎる蓮《れん》と藍《あい》……おかげで、頭のなかで『勝手に動きまくって』……まったく、罪な絵ですよ!
えー、純愛小説、かのこん。
純愛ゆえに、家族も増えました。え? 不純だから増えたんだろうって? ノンノンノン……愛は地球も救っちゃうし、家族だって増やしちゃうんデスよ。ラーブ&ピース!
平成十八年九月 愛はある、ここにある、だからだいじょうぶ[#地付き]西野かつみ
発行 2006年10月31日(初版第一刷発行)
2008/06/10 作成