かのこん 3 〜ゆきやまかぞくけいかく〜
西野かつみ
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[#小見出し] 一、かがみもちのおっきいの、ちっさいの[#「一、かがみもちのおっきいの、ちっさいの」は太字]
まぶたを開けると、そこは赤黒い世界だった。
「……ん、んん……」
耕太《こうた》は、寝起きのしょぼしょぼした眼《め》で、ゆっくりとあたりを見回す。
上も下も、前も後ろも左も右も、赤と黒がぐねぐねうねうねと混ざって、どこまでも広がっているばかりだった。口をあんぐりと開けたときに覗《のぞ》ける色あいといおうか、眼の下をぐいと下げたときにあらわになる粘膜の色といおうか、そんな生命を思わせる世界に、耕太はぽっかりと浮かんでいた。
自分の身体を見てみれば――やはりなにも身につけてはいない。
まっぱだかだ。
「またかぁ……」
隠すものなく心もとない状態の股間《こかん》を、耕太は両手で覆った。はあ、とため息をつきながら、命の赤で満たされた空間をへろへろと漂う。
いままでなんども来た世界だった。
最初に来たのは――耕太の頭のなかに、狼《おおかみ》の姿が浮かぶ。
牙《きば》を剥《む》きだしにした、猛々《たけだけ》しい獣の姿。ただの狼じゃあない。鍛えぬかれた人の肉体をレザー・スーツに包んだ、鋭い人の技を振るう、銀毛の狼《おおかみ》だ。
彼は――犹守朔《えぞもりさく》は、人狼《じんろう》だった。
「朔さん……」
かつて耕太は、朔と闘ったことがある。
女を賭《か》けて。
一人の……一匹の? 女性を守りぬくことができるかを賭けて、彼と闘った。
「ぼろぼろにされたなあ……」
はは、と耕太は弱々しく笑った。
なんども打ちのめされ、地面に這《は》いつくばらされた。
それでも耕太は、なんども立ちあがった。
なんの力もない、朔と違って、ただの人間な上、人並みより体格も小さく背も低かった耕太には、彼に勝つ術《すべ》なんかなかった。それでも立った。立ち向かった。
だって……あのひとを守りたかったから。
耕太は空を見あげた。三百六十度赤黒うねうねで、どこが空かはわからなかったが、顔をあげて真上を見た。そうして思う。
耕太の彼女。不思議な彼女。
かつて……四百年近く前、人狼の朔と相棒だった彼女。
とても美しくて、ときにかわいくて、優しくて、世話焼きで、さみしがりやでヤキモチ焼きで、そしてちょっぴり……けっこう? いや、かなり? すごく?
えっちな、妖怪《ようかい》の恋人……。
赤黒い世界で、耕太はひとり、もぞりと腰を動かし、うつむいた。頬《ほお》が熱くなる。
「……ちず」
彼女の名を呼ぼうとしたとき、耕太の耳は、激しくこすれるような音をとらえた。
顔をあげ、遠く眼《め》を凝らす。
赤と黒が混ざりあうかなたに、ひときわ赤いものを見つけた。
激しく燃えあがる、真っ赤な炎だ。長い。連なった長い炎が、くねりながらこちらへと、耕太の元へと近づいてくる。
「また、きみかあ」
耕太はため息をついた。
長々と息をはく耕太の眼前へと、炎は迫っていた。空気をこする音……炎の燃えあがる音が耕太を包みこむ。
炎の先端は裂け、まるで蛇のように顎《あご》を開けた。
いや、蛇というよりは、龍《りゅう》だ。
炎の龍は、燃えあがる口を開け、いまにも耕太を呑《の》みこもうと迫った。ギシャアアアアア。獣の叫びをあげた。
「……どーせ」
耕太は熱さとまぶしさに細めた眼《め》で、龍《りゅう》の口のなかを見つめる。
股間《こかん》を押さえたまま身動きひとつしない耕太の横を、龍はいきおいよくかすめていった。さんざんに耕太をあぶって、そのまま後ろに通りぬけてゆく。
「ほらね」
足をばたつかせて、耕太はぎこちなく振り返った。
炎の龍はぐねぐねと蛇行しながらあたりを飛びまわっている。そのうちまたやってくるだろう。かすめただけなのに、熱さで汗を全身からだらだらと流しながら、耕太は思った。
龍はなんどでも襲ってくる。
しかし、耕太を傷つけることはしない。ただ脅すだけだ。
最初こそ驚き、怖《おそ》れもしたが、いまでは耕太ものんびりと構えていた。あのとき以来……人狼《じんろう》の朔《さく》と闘って以来、何夜も、何十夜もくり返された出来事だったからだ。
朔との闘いのとき、耕太は恋人と合体した。
合体といってもえっちな意味ではない。いくら彼女がえっちでも、闘いの最中にそんなことはしない……たぶん。口づけすることで、妖怪《ようかい》の彼女は耕太にとり憑《つ》くことができた。いわゆる憑依《ひょうい》だ。
憑依合体することで、耕太は彼女の――妖《あやかし》の力を使うことができた。
それで人狼の朔に勝つことができたのだが……あのときの彼女は普段とは違っていた。いつもの妖怪の力のほかに、とてつもなく大きな力に目覚めかけていた。彼女自身でも思うようにならないほど、大きすぎる、強すぎる力に。
耕太が彼女と口づけすれば、普段はすぐに妖怪の姿に変化するのに、朔と闘ったときにかぎって彼女の心のなかに入ってしまったのは、あの強大な力のせいだったのだろうか。
なぜかあのとき、耕太は彼女の心の世界にいた。
いま耕太がいるような、赤と黒がうねる世界に……いまここは、あくまで耕太の心のなかなのだけれど。
あのとき、彼女の心のなかで、赤黒い世界のなかで、耕太は見た。
荒れ狂う力たちを。
赤、青、白、緑、土……赤と黒の世界を走る、さまざまな力の流れを。奔流を。
やがて力はひとつところに集まり、絡みあって複雑な輝きを放つ塊となった。そうして塊は鎌首《かまくび》をもたげた。八本の首を。
――ギシャアアア!
「ひゃっ!」
炎の龍にあぶられ、熱さに耕太は片眼を閉じた。いつのまにか炎に迫られていた。
耕太は遠ざかる炎のしっぽを見据える。
こいつは、いた。
この炎は、たしかにあのとき、彼女のなかにいた。
どうして彼女の力が、耕太の心のなかにまでついてきているのかはわからない。とにかく、眠りにつくたびに、いつも耕太はこうして自分の心のなかの世界に来てしまって、そうして炎の龍《りゅう》に襲われるのだ。おそらくはみんな、炎の龍のしわざなのだろう。
どうやら死ぬことはないらしい。だが、ひどく疲れる。
熱いし……。
耕太は顔をしたたる汗をぬぐった。濡《ぬ》れた手のひらをぴっ、ぴっと払う。
困るのは、なぜか目覚めるといまのことを覚えていないということだった。
炎の龍はもちろん、この赤黒い世界――心の世界のこともまったく覚えていない。じんわりと残る疲れとともに、やたらと寝汗をかいて目覚め、ふとんを重ねすぎたかなあ、と首を傾《かし》げるばかりだった。
それは、人狼《じんろう》との闘いのあと、彼女の世界から戻ったときもおなじだった。
すべての出来事を忘れていた。朔《さく》とどう闘い、最後はどうやって勝利したのか、日中の耕太は覚えていなかった。こうやって夜になって、心の世界に来ると思いだすのだ。
だから、彼女が――源《みなもと》ちずるが、並みの妖怪《ようかい》以上の強大な力に目覚めかけてしまったことを、普段の耕太は知らない。彼女もおなじようだ。会話の端にものぼらなかった。
「ちずるさん……」
いまならみんな、覚えているのに。
おたけびをあげて迫る龍を、耕太は睨《にら》んだ。
どう見たってまがまがしい。凶暴さを剥《む》きだしにしている。
こんな力が、ちずるのなかに八つも潜んでいるのだ。ちずるに対する恐れはない。怖いのは、この力たちが彼女をどうにかしてしまうことだ。
ちずるを失う――。
汗みどろの身体で、耕太は震えあがった。身体のなかがからっぽになったような感覚があった。熱いはずなのに冷えた。凍えた。
覚えてさえいれば……なにか打つ手があるかもしれないのに。
炎にあぶられながら、耕太は彼女の名を叫んだ。
悔しかった。目覚めればなにも覚えていない自分が。目の前の力に対してなにもできない自分が。彼女に対して、なにもしてあげられない自分が。
「うう……ちずるさーん!」
『――耕太くん!』
声は真上からやってきた。
見あげたとたん、空が光る。赤黒いうねりを、白くまばゆい輝きがつらぬいた。
「ちずる……さん?」
『耕太くん! 耕太くん! 耕太くん!』
ちずるの声は、なんどもなんどもくり返された。天の光はそのたびに輝きを増す。
グ……ウォォ……。
龍は苦しんでいた。やたらとうねり、身をよじる。
『耕太くん! 起きて、耕太くん! 早く目を覚まさないと……わたし、耕太くんにいたずらしちゃうんだから! あんなことこんなこと、いっぱいしちゃうんだからー!』
「ふええ?」
耕太も苦しくなってきた。早く起きないと、ぼくの貞操がキケンだ!
グゥオ、オオオオ……!
炎の龍《りゅう》が遠ざかってゆく。弱々しくしっぽを振りながら、降りそそぐ光を避けるように、赤と黒が溶けこむなかへと潜りこんでいった。
「……さよなら」
耕太はしばらく龍が消えた場所を見つめた。……どうせまた会うんだろうけれど。
『――耕太くーん!』
「っと、それどころじゃなかったんだ」
耕太は天の光に向かってバタ足をした。
股間《こかん》を隠した両手も空間を泳ぐのに使おうかと思ったが、ちずるの声が近いところで、明けっぴろげにする気にはちょっとなれない。いろんな意味で。貞操の危機だし。
泣き声混じりとなったちずるの呼びかけに向かって、耕太は懸命に脚を蹴《け》る。
声に近づくたび、視界が白くなっていった。
「ちずるさん……」
『耕太くん? 耕太くん!?』
耕太は自分が光に溶けこむのを感じた。意識が薄れ――いや、はっきりと――。
「ちずる……さ……」
「耕太くん!」
とてもやわらかく、温かいものに耕太は抱きつかれた。
う? うう? まだはっきりしない頭と視界と身体で、耕太はまわりを確かめる。
見たことのない天井だった。木目の浮かぶ、深い色あいの天井板は、耕太の寮の安っぽい天井とも、耕太の田舎の古びた天井とも違っていた。障子やふすまも見える。
どうやら和室で耕太は寝ているようだ。
「ここ……どこ……?」
「耕太くん、耕太くん、耕太くん!」
強く強く、彼女は耕太に抱きついていた。
広がった金色の髪が、耕太の顔にさらさらとかかっている。彼女は耕太の頬《ほお》になんども自分の頬をこすりつけていた。
彼女の頬は濡《ぬ》れていた。耕太の名を連呼する声も、喜びながら、濡れていた。
「ちずるさん……」
耕太はその背に手をまわす。
すべ、すべ。
「……え?」
この熱いながらもしっとりした手触り……いや、肌触りはなんだろう。衣服ごしではとうていありえない感触が、耕太の手にすべすべーっと残っていた。
「あの……ちずるさん? もしかして」
ぱっとちずる――耕太の恋人が顔をあげた。
きらめく長い長い金色の髪のなか、いつもはすこしつりがって、ちょっぴり気が強そうに感じさせる眼《め》を、いまは涙でうるみきらせていた。小高い鼻筋にはかすかに皺《しわ》が入り、唇を噛《か》んだまま、むごもごと動かしている。
いまにも泣きだしそうな表情の上、彼女の頭には――三角形の耳が、にょき、にょきと。
狐《きつね》の耳だ。
髪の毛とおなじ金毛で、先っぽは黒い。ふるふると震えている。ちずるの濡《ぬ》れた金色の瞳《ひとみ》とおなじ、興奮した動きだ。いま耕太の脚に当たっているふさふさした毛触りは、おそらく彼女が尾てい骨のあたりから生やしている、狐のしっぽだろう。
彼女は、源《みなもと》ちずるは、狐の妖怪《ようかい》――化け狐だ。
自称四百年を生きた古妖《こよう》……耕太にとってはおなじ薫風《くんぷう》高校に通う、ひとつ先輩の二年生であり、美しくも優しい……とてもすてきな恋人だ。
「よかった……」
恋人が、泣いている。
目尻《めじり》からぽろぽろと涙をこぼしていた。涙は頬《ほお》をつたい、顎《あご》の先から雫《しずく》となって垂れた。耕太の胸元に落ちる。薄い、剥《む》きだしの胸へと。ぴちゃ、ぴちゃと。
「このまま……目、覚まさないのかなって……わたし」
ずすっと鼻をすすった。
「ちずるさん……」
いつもは凛《りん》としてととのった彼女の顔が、いまは涙に濡れ、目元鼻元口元をゆがませている。耕太は美しいと思った。いつにも増して、ちずるをきれいだと思った。
で、それはそれとして。
ひっくひっくとしゃくりあげる彼女の、首筋はおろか、鎖骨のくぼみまでがあらわになっているのはなぜなのだろうか。それどころか……。
耕太の胸元では、ふたつのかがみもちが並んでいた。
縦に重なっているのではない。横に並んでいるのだ。おまけにつぶれているのだ。ちずるの胸のふくらみが、耕太の裸の胸に押し当てられて、つぶれて、むっちりもちもち、もちむちむにんとかたちを変えているのだ。正につきたてのおもちのごときこの感触……。
「あのう……ちずるさん?」
「ふあい?」
ちずるは両手で涙をぬぐっていた。おかげで体重がかかって、さらにおもちがつぶれる。
「どうして、なんで、ちずるさんと、ぼくは、はだか……」
「――耕太ぁ」
べろん。
ざらりとした感触が、真横から耕太の頬《ほお》を撫《な》でる。濡《ぬ》らされた。
うひぃぃぃ、と耕太は頬を押さえて横を向く。上にちずるが乗っていたため、腕と首しか動かせなかった。
目の前には、銀色の瞳《ひとみ》がある。
相手の鼻の頭に、耕太の鼻の頭がぴとりとくっついていた。あわてて耕太は顎《あご》を引く。それで耕太の頬を舌で舐《な》めた相手が、はっきりとわかった。
瞳とおなじく銀色の髪だ。横に寝ているので、前髪は下に流れ、いつもは肩ぐらいまで伸びている横の髪が、頬にぺっとりと貼《は》りついている。ちずると違って、涙はこぼしていない。だが、めったに感情をおもてにしない彼女が、瞳をうるませていた。
「望《のぞむ》さん……」
犹守《えぞもり》望《のぞむ》。
朔《さく》の――ちずるを賭《か》けて耕太と闘った犹守《えぞもり》朔《さく》の、彼女は妹だ。
望も人狼《じんろう》で、その証拠に彼女のぱさついた銀髪からは、いま狼《おおかみ》の耳が生えていた。ちずるの狐《きつね》の耳とくらべると、やはり狼、毛なみが尖《とが》っている。いま耕太の脚に当たっているざわざわした毛触りは、望《のぞむ》のしっぽだろう。
「耕太、よかった、生きていて」
望は薄い色あいの唇をわずかに曲げて、微笑《ほほえ》んだ。
「あ、はい……ありがと……」
普段は表情をくずさない望の笑みは、耕太の心にじんわりと浸《し》みた。
で、それはそれとして。
なぜに微笑む彼女がふとんから覗《のぞ》かせる肩は、か弱さを感じさせるほどに白い肌を剥《む》きだしにしているのだろうか。なぜに彼女は耕太にそっとしがみつき、胸のふくらみを押し当てているのだろうか。
なぜにそのふくらみは、ちずるほどの量感は望むべくもない、いわば小さなかがみもちながら、小ぶりさゆえのけなげさとはかなさ、いじらしさを持って、耕太の腕に尖《とが》った先端をひっかけ、全体のかたちをよじらせているのだろうか。
と、いうか。
「どうして、ぼくたち、裸ァ!?」
ついにその事実を口にだしてしまった耕太に、大小それぞれのかがみもちを持ったちずると望は、ふたり、目を合わせた。金色と銀色の瞳《ひとみ》が、うん、とうなずく。
「耕太くん、覚えてないの?」
「わたし、ちずる、耕太、ほかいっぱい、みんな、遭難したんだよ」
「遭難? そんなの、いったいどこで…………痛っ!」
身を起こそうとした瞬間、耕太の頭は針でえぐられた。
そう感じるほどに鋭く、冷たい痛みだった。しばらく耕太は頭を押さえてうめく。
「耕太くん、無理しちゃダメ!」
「そうだよ、耕太」
ちずるは耕太の顔を見つめながら、優しくおでこから髪にかけてを撫《な》でていた。望は頬《ほお》をぺろぺろと舐《な》めてくる。その舌が離れた。
「耕太、一瞬だけど、凍りかけたんだよ」
凍りかけた……?
望に舐められた頬が、すうすうと冷えた。
ぴこーん。
耕太の頭のなかにひと筋のひらめきが走った。ぼんやりしていた記憶が、かちかちと整理|整頓《せいとん》されてゆく。
「そうか……ぼくたち」
ちずるはうなずく。
「雪山で、遭難したの」
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[#小見出し] 二、はるばるゆくよ、どこまでも……?[#「二、はるばるゆくよ、どこまでも……?」は太字]
1
放課後の図書室は、静かだ。
おだやかな冬の光が差す室内には、ごうんごうんというヒーターの音のほか、ときおり、窓の向こうに広がる校庭からのクラブ活動の声が混じるばかり。
おまけにいま図書室にいるものは、耕太ただひとり。
落ちついて耕太はページをめくることができた。ぺらぺらぺらり。
「……うん。きっとこれだ」
耕太は本から顔をあげる。腕を組み、椅子《いす》の背もたれにそって背筋を伸ばした。
「ちずるさんの正体は、たぶん……」
見おろした先のページには、やけにかわいらしい狐《きつね》のイラストがあった。
そのしっぽの数は――九本。
子供向けの大きなイラストのとなりには「白面《はくめん》金毛《こんもう》九尾《きゅうび》の狐《きつね》」の文字。ちゃんとルビがふってあった。
横のページに視線をやる。
九尾の狐は、とーっても強い、狐の大|妖怪《ようかい》なんだよ。
何千年も生きるうちに、しっぽが一本ふえ、二本ふえ、とうとう九本になったんだ。
ものすごく悪い妖怪で、インドの王さまのお妃《きさき》さまや、中国の殷《いん》という国のお妃さま、周という国のお姫さまに化けたりして、みんなほろぼしてしまった!
とうとう日本にも来て、玉藻前《たまもまえ》というきれいな女の子に化けて、やっぱり王さまをだまそうとしたんだよ。
だけどあぶないところで、安倍《あべの》泰成《やすなり》という占い師に正体を見やぶられて、やっつけられたんだ。
「インド、殷、周……国を三つ、滅ぼした……日本にも来た……」
耕太は口をへの字口に曲げた。
「ちずるさんが、まさか、そんな……でも」
うーん、とうなる。
耕太は人狼《じんろう》との闘いを思いだしていた。
あれは一ヶ月前、季節は秋の半ば。
耕太は犹守《えぞもり》朔《さく》と名乗る人狼――狼《おおかみ》の妖怪と闘った。ちずるを人質にとられてのことだ。
圧倒的な力を持つ朔の前に、耕太はほとんどなすすべもなく追いつめられていた。そのとき、縛りあげられていたちずるに、ある変化が起きた。
ちずるは化《ば》け狐《ぎつね》だ。普段は人の姿で、妖怪《ようかい》の正体を明かすときには狐の耳としっぽを生やす。金毛のしっぽは、いつもは一本だけだ。
なのに、危機におちいった耕太を前にしたとき、ちずるは一本、また一本と新たなしっぽを生やしていった。最後には元のしっぽとあわせて五本にもなった。
「それで……そして……えっと」
うーん、と耕太はうなる。首をひねる。
そのあとのことを、耕太はなにも覚えていなかった[#「なにも覚えていなかった」に傍点]。ちずるのしっぽがさらに四本増えて、五本になった。そのあと……まったく覚えていない。
「気がついたら病院だったんだよね」
どうやら朔《さく》には勝ったらしいが、どうやって勝ったのかはちっともわからない。
「そもそもさ……」
耕太は口を軽く尖《とが》らせて、前に身体を傾けた。
本の上にべったりと上半身を預ける。手で椅子《いす》をつかみ、体重を支えた。
「こんなこと調べたって……しかたないような、気が」
だって、たかだかちずるのしっぽが五つになっただけなのだから。
彼女は妖怪なのだ。化け狐なのだ。元々しっぽ一本つきなのだ。それが五本に増えたからといって、なにが困るというのだろう。いつもの彼女は人の姿だし、たまに狐の姿になっても、いままでどおり一本だけで、とくに変化はないし。
「だけど……」
耕太はわずかに身を起こし、九尾の狐のイラストを見た。
なぜか気になる。なにか、知っておかなくてはならない、とても大事なことのような気がする。なぜか[#「なぜか」に傍点]――。
「ちずるさん……」
耕太は恋人の名を呼んだ。
「なあに?」
返事は来た。真後ろから。
「うひゃあ!」
耕太は跳ね起きた。
ばにゅよん。
振りむきかけた耕太の横顔が、やわらかいものに当たる。
一瞬の張りと、すぐあとの溶けこむようなソフトさ。触れ覚えのある……顔面を埋め覚えのある感触が、耕太の耳、頬《ほお》、頭を包みこんだ。
「ご、ごめんなさ……」
離れようとした耕太の頭を、細い腕がしっかりと抱えこむ。
ぎゅむ、む、まむっと胸に抱いた。
「……痛かったよ」
ぼそっとちずるは耕太の頭の上で呟《つぶや》いた。
「オンナノコの胸は、とってもデリケートなんだよ、耕太くん。そんな、乱暴に当たったりしちゃ、だめ」
低く落ちついた、胸に染みいる声だった。
「ごめんなさい、ちずるさん。ぼく、びっくりしちゃったから、それで」
「ううん、いいの。痛かったけど……ふふっ、ちょっぴり気持ちよかったから……」
落ちついていたはずの声に、なにやら桃色吐息が混ざってきた。
「き、気持ちよかった?」
「なんだかわたし、耕太くんにされるのなら、もうなんでもいいみたい。電気がびりっと走って……あーあ。ちずる、耕太色にすっかり染めあげられちゃった」
「こ、耕太色……!」
するりと腕は外された。
飛びのくいきおいで耕太は離れる。がたがたと椅子《いす》が鳴り、腰が机に当たった。
「やだ、耕太くん。どうしたの、そんなにあわてて」
ちずるは眼《め》をぱちくりとさせていた。
いまの彼女は人の姿だ。狐《きつね》の姿のときにはきらびやかな金髪は、艶《あで》やかな黒髪に変わり、当然狐の耳もしっぽもなく、愛に満ちたぼん、きゅっ、ぼん、なゴージャスな肉体を、ブレザーの制服にすこしきつそうに納めていた。
「は、はは、いや、なんでも……はは、やだなあ、ちずるさん、冗談がキツいです」
「ううん」
ちずるは首を横に振った。腰まで伸びた黒髪が揺れる。艶《つや》めきが変わる。
「ぜんぶ本気。痛いのが気持ちいいのも、耕太くん相手ならなにをされてもいいのも、わたしが耕太色になったのも、ぜんぶ本気よ?」
にっこりと眼を細めた。
「あ、う」
耕太はうつむく。かあっと頬《ほお》が熱くなってきた。
しっぽのことなんて、けっきょく余計な心配だったなあ、と耕太は思う。いつだって耕太は彼女には、源《みなもと》ちずるにはかなわないのだ。
ちずるとは耕太が転校してきた日――いまから二ヶ月前に出会った。
山奥の村から都会にある薫風《くんぷう》高校にはるばるやってきた耕太を、ちずるは転校初日にいきなり呼びつけて、押し倒して裸に剥《む》いて、ファースト・キッスを奪ったのだった。衝撃に驚く間もなく、ちずるは化け狐の正体をあらわし、彼女の弟が来たと思ったら彼も狐で、じつは転校先の薫風高校は人に混じってひそかに妖怪《ようかい》も通う学校だとわかって、番長の熊田《くまだ》は名前のとおり熊《くま》の妖怪で、なんの因果か彼と闘ったりもした。
いろいろあったなあ……。
いま思えば、ほとんどちずるさんに巻きこまれてるんだなあ……。耕太は力なく笑った。
ふふふっ、とちずるも笑う。
「それにしても耕太くん、こんなところでいったいなにをしていたの? 帰ろうと思って耕太くんの教室にいったら、いないんだもの。探しちゃった」
「あ……いや、その」
耕太はさりげなく手を後ろにまわして、テーブルの上の本を背中に隠した。
「なあに? もしかして……やだあ、それ、えっちな本?」
なぜかうれしそうなちずるの声に、がたがたっと耕太は音をたててしまった。
「ち、ちがいます! そもそも、学校の図書室にそんないかがわしい本があるわけがないじゃないですか!」
「そんなのわからないよ? 医学書とか、たまにモロだって聞いたことが」
「も、もろ……」
「耕太くん、覚悟を決めて、ちゃんと見せなさい! もう、いってくれればいつだって見せるのにぃ。立派なものが、ここに、ここにあるのにぃ!」
ちずるは片手で自分の胸をつかみあげ、もう片手で耕太の本をつかもうとした。
「や、ち、ちずるさん、ちょっと……ああ、あ、あー」
ついに取りあげられた。
「ふん? ふんふん……なに? はくめんこんもーきゅーびのきつね……?」
耕太はちずるの前で縮こまる。
膝《ひざ》に置いていた手を、ぎゅつと握りしめた。
「ちずるさん……あの、怒らないで聞いてくださいね? ちずるさんって、そのう……そ、その本の、すんごく強い妖怪《ようかい》さんなんじゃあ」
「――わたしが?」
耕太はうなずく。
「これ? 九尾の狐《きつね》?」
耕太はうなずく。
「――あはっ」
あはははっ、とちずるは笑いだした。片手でおなかを押さえて、身をよじる。もう片手に持った本を落とさないように、胸元で押さえた。
「あの……ちずる、さん?」
「ごめんごめん、ごめんなさい、耕太くん。だって耕太くん、いきなりとんでもないこといいだすんだもん。わたしが九尾の狐だなんて」
「や、だって、あのとき、たしかにちずるさんのしっぽは五つに」
「違う違う、違います。だって、九尾の狐は……」
なぜかちずるの声は止まった。
口を開けたまま、瞳《ひとみ》をくるりと動かす。んー、と唇に人さし指を当てた。
「ひみつ」
「え」
「そんなことより、耕太くん、ちょっと疲れてるんじゃない? わたしのこと九尾の狐《きつね》だなんていいだすし、こんな……」
本をぱたんと閉じて、表紙をしげしげと眺めた。
「〈十三歳の妖怪《ようかい》図鑑〉……? わざわざ放課後に図書室なんかに来て、こんな本まで調べちゃって。なんだか顔色も悪いし、眼《め》もはれぼったいし」
耕太の眼の下に指先を当てて、にゅいっと押しさげた。
「ほら、充血してる」
「……そうなんですよね」
話をごまかすためのちずるの行動だとはわかっていたが、耕太が疲れているのもまた事実だった。
「どうも最近、寝不足で……いえ、夜はちゃんと眠っているんですけど、なぜかひどく汗をかいて、身体が疲れていて……ふとんが悪いのかなあ」
「なんだったら、わたしと一緒に寝る? わたしがおふとんになって、すっぽりと」
ぶふっ、と耕太は噴きだした。
続けてげふんがふん、と咳《せ》きこむ耕太の背中を、ちずるが優しく撫《な》でる。
「本当、耕太くんったら純情なんだから……。いいかげん耕太くんもわたし色に、ちずる色に染まってくれてもいいのに」
ごふげふがふ。
「あー、ほらほら……だいじょうぶ? じゃあ、耕太くんがゆっくりおやすみできるように……いつもの、する?」
ぴたりと耕太の咳《せき》は止まった。
おそるおそる、顔をあげる。視線をさまよわせて、左右を見た。
「で、でも、ここじゃ……」
「いまさら。耕太くんのお部屋でしてもいいけど、それだとわたしががまんできなくなっちゃうかもしれないし……。それに、いままでだって、おトイレとか化学実験室とか音楽室とか、いろんなところでやってるじゃない。――あまえんぼさん[#「あまえんぼさん」に傍点]を」
「あ……う……」
耕太はがくりとうつむいた。
うふふ、と勝利の笑みをあげて、ちずるが耕太の手をとった。
「ほら、耕太くん……こっちこっち」
耕太はふらふらと立ちあがり、図書室の奥へと連れこまれた。
左右に書架が並ぶ細い通路を進み、部屋の角へたどりつく。窓の日差しの届かない、薄暗い場所だ。天井の蛍光灯は耕太ひとりだったため、つけてなかった。
ぷうん、とほのかにかびの匂《にお》いが漂ってくる。
「ふふ……これならだれにも見られないよ? 照れ屋な耕太くん」
ちずるが本棚を背にして、桃色の唇で微笑《ほほえ》む。
薄闇《うすやみ》のなか、ちずるはブレザーの第一ボタンを外した。ぐいと制服を広げて、なかからワイシャツに包まれた胸のふくらみを、まろんと飛びださせる。ゆやよんと震えた胸の下に腕をまわして、組んだ。上腕で胸をはさんで、ほよほよと動かす。
「はい、どうぞ……」
耕太はぐびりと喉《のど》を鳴らした。
なおも横、後ろを確認してから、ごほん、と咳《せき》払いする。
「そ、それでは」
ん、とちずるが胸を前にだす。
耕太はその、いまにもワイシャツのボタンを引きちぎりそうなふくらみに、おのれの顔を近づけた。眼《め》をぎゅっとつぶり――そっと埋める。
ほゆん、ほやほや……。
張りのあるやわらかさが、耕太を包みこむ。春のひだまりに似たおだやかなぬくもりに、優しく甘いちずるの匂《にお》いが香った。
いつもの感触、いつもの体温、いつもの香り。
「ふふ……。耕太くんは、本当にあまえんぼさん[#「あまえんぼさん」に傍点]だね……。そんな耕太くん、わたしはとっても大好きだよ……」
ぼくも……と耕太は心のなかで答えた。
人狼《じんろう》の朔《さく》との闘いから、ちずるは強引に耕太に迫ってはこなくなった。
それまでは路上でも平気で裸になって耕太を押し倒していたのに。触れあおうとすることまでは止《や》めていない。だがそれも、こんな優しい触れあいのみでとどまっていた。
なにが原因なのかはよくわからない。
いまだに戻らない、空白の朔戦に答えがあるのかもしれない。ただ、ちずるから焦りみたいなものはなくなった。おだやかに、こうやって――耕太を安らがせるようになった。
それがいけなかったのだろうか。
最初はただのひざまくらだった。それがいちどしゃれで「ちちまくらなんて、どう?」なんてやられたのがすべての始まりだ。ぎりぎり限界のえっちさと、無限大の安らぎに、耕太はハマってしまった。ちずるもハマってしまった。
いまでは〈あまえんぼさん〉などという名称をつけてしまうありさま。
ずるずると耕太は〈あまえんぼさん〉におぼれる日々を過ごし、始めのうちは寮の耕太の部屋だけだったのに、いつしか場所を学校にまで移して……。
おじいちゃん、ごめんなさい。
耕太は故郷でひとり、自分を見守ってくれているだろう祖父に謝った。あの純粋だった日々……耕太はもう、こんなに染まってしまいました。ちずるさん色に染まってしまいました……。ちずる色って、ピンクかな、紫かな……。
祖父に謝りながら、耕太はちずるの腰に手をまわす。
「ん……はい」
ちずるが本棚から腰を浮かせた。耕太はするりと腕をまわし、手を組みあわせる。
「耕太くん……冬休みになったら、いっぱいいっぱい遊ぼうね。クリスマス、大晦日《おおみそか》、お正月、いっぱいいっぱい……あまえんぼさんも、いっぱいいっぱいしようね……」
「うん……する……」
しばらく、ヒーターの音と、校庭からの部活の音だけが流れた。
だんだんと耕太の意識はしびれてゆく。いけない、とは思うが、静けさと暖かさとぬくもりと安らぎと、寝不足による疲れによって、身体からじんわりと力がぬけてゆく。
もう……ぼく……。
ちずるの腰の後ろで組みあわされた指先が、するりと外れそうになる。
――と。
ばるばるばるばるばるばるばる!
耕太の顔面は揺さぶられた。
「わ? わわわ?」
揺れていた。
ちずるの胸が揺れていた。
あわてて顔を離すと同時に、ワイシャツの合わせ目、ちょうどボタンとボタンのあいだから、ぶるるるるるる……と小さな長方形の物体が抜けだしてくる。
「こ、これって……」
「ケータイ。ごめんね、ちょっとはさむ力を鍛えようと思って……」
携帯電話? なぜ……どうして、なんのためにはさむ力を? なにをはさむのー?
まばたきもせず見つめる耕太の前で、ちずるは携帯電話をぱかんと開き、画面をしばらく眺めていた。
「……この番号は」
わずかに眉間《みけん》に皺《しわ》を刻んだ。
「ど、どうしたんですか?」
「うん……うん。うん、うん……うーん」
えいっ、とちずるは思いきったそぶりで電話にでた。
「もしもし……」
かっとちずるは眼《め》を見開く。
「やっぱり! やっぱりあなた!」
「ち、ちずるさん?」
「なによ、どうやってこの番号……あー、あなたのところにはあいつらがいたんだっけか、あの恥ずかしい格好した忍者……調べさせたのね」
「に、忍者?」
「なんの用なのよ、いったい。わたしはいま、とーぉってもいそがしいの。年寄りの世間話につきあっている暇は……え? なに? 〈あまえんぼさん〉?」
耕太の胸はどきんと高鳴る。
ちずるは通話口を手で押さえ、ばばっとすばやくあたりを見まわした。電話に戻る。
「なに? な、なんであなたがそれを知ってるのよ! まさか、あの忍者軍団、この学校にまで……ちょっと! 笑ってないで答えてよ!」
耕太の胸の高鳴りはどきどきとまだ収まっていなかった。そっと胸を押さえる。
い、いったいだれなんだろ……?
ぎゃーぎゃーとわめいていたちずるが、ぴたりと固まる。
「……え? 桐山《きりやま》?」
ちずるは携帯電話を左手から右手に持ち替えた。
「ちょ、ちょっと待って、桐山って、あの、かまいたちの桐山? バカのこと?」
耕太も固まる。
桐山とは、耕太のひとつ先輩、桐山《きりやま》臣《おみ》のことだ。
ひと月前に、耕太と闘った人狼《じんろう》の朔《さく》にケンカをふっかけ、完全に敗れた。
彼もかまいたちという風を使う妖怪《ようかい》で、かなり強いはずなのだが……朔のほうがはるかに上だった。
その後、朔に勝つために修行の旅にでて……そのまま桐山は行方不明となった。
なんどか捜索はした。すでに冬だったというのに「山ごもり、する!」といいのこしたため、付近の山を中心に捜した。耕太たちだけではなく、熊田《くまだ》たち――学校の妖怪たちも捜した。
しかし、見つからなかった。
空を飛んで上から捜したり、人狼の鼻で匂《にお》いを追ったりと、妖《あやかし》の術を使いもしたが、どこにもいない。発見できない。いわゆる……死体もでないから、まあどこかで生きているか、雪のなかで凍っているだろうとの判断で、とりあえず春の雪解けを待つことになった。
気の毒なのは、|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》という、桐山と親しい女の子だ。
彼女も妖怪で、半分人間、半分かえるの半妖《はんよう》かえるっ娘《こ》なのだが……おかっぱ頭の、普通でも小学生に間違えられるくらい小柄な、華奢《きゃしゃ》な身体を、心配のあまりさらに痩《や》せてしまっていた。みんなでなぐさめはしたが、あまり効果はなかった。
ちずるの弟、たゆらが吐き捨てた言葉を耕太は思いだす。
「ほんっとにバカだよな、あいつはさ。澪ちゃんをこんな辛《つら》い目にあわせやがってよ」
こればっかりは耕太も返す言葉がなかった。
その桐山が――電話相手のところに、いる?
耕太はちずるの会話を見守った。
「どうしてあいつがあなたの山なんかに……え? そんなのわたしにわかるわけがないでしょうって? そりゃそうだけど……はい? なんでそんなことをわたしが…………う」
う、うう、とちずるは続けてうめいた。
ぶんぶんと手を振る。
「わかった! わかったわよ、いけばいいんでしょ、いけば! わたしたちで桐山《きりやま》を迎えにいけば!」
突然のなりゆきに、耕太は目をぱちくりとさせる。
うー、とちずるは口を真一文字に引き結んでいた。じっと耕太を見つめる。
「ねえ、耕太くん」
「はい」
「耕太くんって……温泉、好き?」
「はい?」
2
力強いエンジンの震えが、耕太の足下から伝わってくる。エンジンの低いうなりは、暖かな空気と、乗客のざわめきとともに、車内に満ちていた。
あの日、ちずるが図書室にて連絡を受けて、三日後。
二学期の終業式を終えた翌日のこと。
耕太はバスに乗っていた。
いや、正確には乗せられていた。
「――うん? なあに、耕太くん」
耕太をバスに乗せた張本人は、となりの席で微笑《ほほえ》んでいた。
車内の熱気でくもりきった窓を背にしたちずるは、制服姿ではない。襟を立てた薄茶色《べージュ》のブルゾンを着て、黒いスカートをはいていた。いつもながら短めのスカートの裾《すそ》からは、黒いストッキングで包みこまれた、豊かな太ももが伸びている。その脚は膝《ひざ》下まであるブーツに収まっていた。
これが彼女なりの防寒具姿、らしい。
ちずるに「あったかい格好、してきてね」といわれた耕太は、赤と黒、二本のマフラーを首に巻き、黒いもこもこのジャンパーを着ていた。車内ではちょっと暑いために下げたファスナーのすきまからは、青いセーターが覗《のぞ》いている。厚手の薄茶色のズボンをもぞりと動かし、防寒具にしては、スカートが短すぎないかなあ、とちずるを見た。
「ふふ……耕太くんの、えっち」
ちずるはやけに大きな動作で、スカートの裾を押さえた。
「い、いや、ちずるさん、あのその」
あわてる耕太に、うんうんとちずるはうなずく。がしっと耕太の両肩に手を置いた。
「わかる、わかるよ。耕太くんのいいたいこと、わたしにはすごくよくわかる」
「ふえ?」
「あなたたち! ――なんでついてきたのよ!」
いきなりちずるは、振り返りながら立ちあがった。
席の後ろに向かって腕を横に振り、ばいんと胸を張る。
車内が静まった。
ぽつ、ぽつとざわめきはよみがってくる。ほぼ満員に近い乗客の話題は、さきほどまではスキーのことや昨日のテレビのこと、お互いのことなど、家族連れやカップルにふさわしいものだったのに、いまは突然の怒声をあげた女性についてへと変わっていた。
真後ろの席から、シャカシャカという音が洩《も》れ聞こえる。
「……なに? ちずる、いま、なんかいった?」
後ろ、通路側の席に座る男は、耳からヘッドホンを外したところだった。ぱさついた長めの髪のために、その耳は見えない。耕太たちとおなじく、フードつきのコートといった防寒具姿の男は、つりあがり気味の眼《め》を、うん? と細めた。
その頬《ほお》がつままれる。
ちずるは座席の背もたれごしに手を伸ばして、男の頬を引っぱっていた。
「なんかいった、じゃなーい! 聞こえるようにいってあげましょうか!」
「いひゃい、いひゃ、いひゃいってば、ひずる」
「なーんーでー、おまえらはついてきたんだー!」
頬をつまんで男の顔を引きよせ、ちずるは耳元で叫んだ。男は飛びのく。
「うるさ! 痛!」
男は耳と頬、両方を押さえた。椅子《いす》でもだえる。
「な、なにするんだよぉ、ちずるぅ」
「どうしてわたしと耕太くんの愛の逃避行の邪魔をするのかって訊《き》いてるのよ、たゆら!」
頬を押さえて涙目になっている男は、たゆらといった。
源《みなもと》たゆら――ちずるの弟。
ちずるとおなじく、化《ば》け狐《ぎつね》の妖怪《ようかい》だ。
「べつに邪魔するつもりはねーって。さっきもいったじゃんか、おれもあのひとから連絡もらったって……」
背もたれから顔を覗《のぞ》かせていた耕太を、じろりと見つめる。
「なんかちずるが……おムコさん連れて帰るっていうからよー……」
「む、ムコ? ぼくがおムコさん?」
「なっ! あいつが耕太くんを連れてこいっていったのよ! それがなんでおムコさんを連れて帰るって話になって……なんでおまえにまで連絡をするのよ!」
「そんなの知らねーって。直接本人に訊いてくれよ」
「いわれなくったって訊く!」
ぐぬぬ……とちずるはバスの天井を見あげた。
その視線が、たゆらのとなり、窓側の席に向かう。
「おまえも! ひとごとみたいな顔してるんじゃなーい!」
びし、と指先を突きつけた。
わう?
突きつけられた相手は、きょとんとした顔で首を傾《かし》げ、銀色の瞳《ひとみ》で指先を見つめた。
「わたしがどうしたの? ちずる」
彼女は上下ともにジャージしか着てなかった。おまけにそのジャージは耕太の通う薫風《くんぷう》高校の学校指定ジャージだ。どう見ても防寒具ではない。私服でもない。
「どうしたのもへったくれもない! なんであなたがここにいるのよ、望《のぞむ》!」
「なんでって」
銀色の瞳、銀色の髪を持つ女の子は、手に持った袋からビーフジャーキーを一本とりだし、はむはむと食べた。
「わたし、オオカミだから」
「まったくもって意味わっかんないんですけど」
「オオカミは、雪、好き……」
「だったらそこいらを走りまわっていればいいでしょ! 好きなだけ、ああ好きなだけ! わざわざわたしと耕太くんのラブラブジャーニーを邪魔しなくたって!」
つぎのビーフジャーキーを食べながら、彼女はちずるから耕太へと視線を移した。
「ねえ耕太。どうしてちずるはこんなに怒っているの?」
「おまえのせいだー! モノを食いながら人の話を聞くなー!」
うーんー?
彼女は、犹守《えぞもり》望《のぞむ》は、首を傾げていた。
望は狼《おおかみ》の妖怪《ようかい》だ。オオカミらしく、袋からビーフジャーキーをがしっとつかみどり、はぐはぐはぐと食べる。
「ううう……」
ちずるはわなわなと震えた。
「あの、ちずるさん、ほら、みなさん見てますから……ね? おとなしく……」
「耕太くんっ」
くいくいと袖《そで》を引っぱった耕太に向かって、ちずるが身を乗りだしてくる。
「ね、ひどいよね、こいつらひどいよねっ ひどすぎるよねっ」
「……ひどいのはそっちだろ、ちずる」
「なにがよっ」
きっ、とちずるはたゆらを睨《にら》みつけた。
「おれたちを邪魔者あつかいするのは、まあいーや。だけどよ……澪《みお》ちゃんにまで黙って、ふたりっきりでいくことはねーだろ。桐山《きりやま》のバカを連れて帰ろうとするのなら、ぜったいに外しちゃいけない相手じゃないの? 澪ちゃんはさ」
う、とちずるは言葉に詰まった。
おずおず、といったしぐさでバスの奥、最後尾を見る。
びくん、と震えた。
「あ……」
バスのいちばん後ろ、真横に長い座席の端に、小柄な少女がちょこんと腰掛けていた。
カラフルな毛糸の帽子からおかっぱ頭を覗《のぞ》かせ、ダッフルコートにゆったりとしたジーンズといった格好でいる。
まるでひと昔前の小学生といったいでたちの彼女は、|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》。
半分かえるの半妖《はんよう》で、こう見えても耕太のひとつ上、ちずるとおなじ学年の二年生だ。
その澪が、睨《にら》んでいる。
膝《ひざ》に手をつき、やや前のめりになって、いつもはたれて、愛くるしさを感じさせる目尻《めじり》をほんのりとつりあげ、じとりとちずるを睨みつけていた。
「………………」
「ちょ、ちょっと、その目はやめてよ。あなたにそんな目つきされると……おかっぱ頭もあって、なんていうの、呪《のろ》いの京人形というか」
うー、と澪は鋭い――あくまで彼女なりに――視線をぶつけるのを止《や》めようとはしなかった。よほど恨みに思っているらしい。
無理もない話ではあった。
ちずるはだれにもいわず、耕太とふたりだけで桐山《きりやま》の元に向かおうとしたのだから。
みんなに知らせようとした耕太を、ちずるはこういって止めた。
「あのね、耕太くん。わたしたちって、更生途中の不良|妖怪《ようかい》なのよ? だから決められた範囲までしか出歩けないし、ましてや市外、県外にでることなんて許されてない。つまりね、桐山《きりやま》のところには、こっそりこそこそといくしかないの。なのに大勢でいったら、すぐにバレちゃうでしょ? だ、か、ら、みんなには……ナイショね」
耕太も納得したのだけど……。
いま考えてみると、なぜかやたらとちずるがうれしがっていたような気が。
澪《みお》のかわいらしい視線に耕太は後ろめたさを感じて、椅子《いす》の背もたれに隠れた。
旅行当日――。
つまり今日、朝早くちずるに連れられて駅に向かってみると、みんながいた。
たゆら、望《のぞむ》、澪、そしてあとひとり……。
がっはっは、という豪快な笑い声がバスを揺るがす。
「悪いことはできんなぁ、源《みなもと》よ」
声は、まだ睨《にら》んでいる澪の横、およそ座席四人分をひとりで占領している大男から発せられていた。
「うるさい、熊《くま》公!」
ちずるにぴしゃりとはねつけられ、大男はまたも豪快に笑う。
無精髭《ぶしょうひげ》をまわりに生やした口を大きく開けて笑う男は、その大きな顔にふさわしい、とても大きなサングラスをかけていた。
黒いグラスの向こう、外からはうかがえない彼の左目に、深い十字の傷跡があることを耕太は知っている。やたらと派手な赤いスキーウェアに包まれた身体にも、無数の傷跡が刻まれているのを知っている。耕太もひとつふたつ、刻んでいるはずだ――かつて耕太は彼と闘ったことがあるのだから。
大男の名は熊田《くまだ》流星《りゅうせい》。
耕太たちの通う薫風《くんぷう》高校の番長であり、妖怪たちをまとめあげる長だ。
薫風高校――通称、薫高。
表向きこそ普通の公立高校だが、その中身は、不良妖怪がひそかに人間の世界を学び、生きてゆく術《すべ》を学ぶための、いわば妖怪の更生施設だ。熊田は、表向きは番長として、裏向きは不良妖怪の長として、表から裏から、学校のまとめ役となっていた。
「なんだってあなたまでついてきたのよ……って、ちょっと、話、聞いてるの!?」
ぬ? ちずるの言葉に、熊田は顔をあげる。
弁当箱から。
すでに足下には六つの空になった弁当箱が積み重なっていた。割《わ》り箸《ばし》の動きを止めた熊田の口元には、無精髭に混じって米粒がこびりついている。
「なんでついてきたと……それは愚問。わたしはいちおう、彼らのまとめ役なのだぞ。桐山めのゆくえがわからなくなって、はや一ヶ月……心配した。じつに心配した。澪ほどではないにせよ、わたしも食事の量が五分の四になるほど心配した。それがようやく発見されたというのだ。それはもう、喜んで迎えにゆくに決まっているではないか。本来ならば仲間たち全員でゆきたいところ、それでは桐山《きりやま》を預かっておられるそなたの知人に迷惑がかかる。ゆえに、わたしと澪《みお》だけで来たのだ」
「ふーん。で、なんであのバカを迎えにゆくのに、そんな格好なわけ?」
「おお、似合うか?」
熊田《くまだ》は真新しいスキーウェアの胸元を引っぱり、見せびらかした。
「ええ、じつによくお似合いで。あまりに似合いすぎて、遊ぶ気まんまんにしか見えないんですけどね?」
ちずるは微笑《ほほえ》む。唇で微笑みながら、眼《め》で睨《にら》みつけていた。
「まあ……せっかくの雪山ではあることだし、な」
「そもそもおれは、あのバカなんてどーでもいーし。スノボスノボ。あと温泉」
呟《つぶや》くたゆらの横で、望《のぞむ》はビーフジャーキーの袋をくしゃくしゃに丸めていた。
「わたし、雪好き……駆けまわりたい」
「………………」
ただひとり、澪だけが黙ってたれ目をつりあげていた。
睨みきれない睨み顔で、熊田、たゆら、望を見つめてゆく。耕太はとてももうしわけない気持ちになった。椅子《いす》の背もたれの陰から、そっと澪に手を合わせる。
「あー、もー、いいかげんにしろ!」
ちずるは背もたれに足をかけた。
「澪以外は全員、いますぐこのバスから降りろ! いや、いい……わたしが窓から蹴《け》り落としてやるぅ!」
飛びかかろうと身を乗りだしたちずるの腰に、耕太はしがみついた。
「ちずるさん……落ちついて、落ちついてください」
「止めないで、耕太くん! わたしたちの愛のランデ・ブーを邪魔するやつらは、全員地獄に堕《お》としてやる……だけじゃもの足りない! 魂まで化かして、地獄を天国と思いこんだまま永遠のときを過ごさせてやるんだから!」
「それって、ある意味幸せなのでは……」
きー、きー、とわめくちずる。
そんな様子を前にしても、たゆらは「ぱんつ見えるぞー」とはやしたて、望はちらりと見あげて「白……似合わないと思う」と呟くだけだ。
「きー!」
さらにちずるは燃えあがり――。
ははははっ。
反比例して凍てついた車内に、ひときわ明るい笑い声があがった。
すこしからかいの色が混じった笑い声に、ん? とちずるの顔が真横を向く。通路をはさんだ向かい側の座席を睨《にら》みつけた。
「なに? ケンカ売ってるの、あなた」
「ち、ちずるさん!」
通路の向こうには、長い足を組んで座る男がいた。
「いや、これは失礼……」
全身真っ黒なスキーウェアに身を包んだ男は、謝りつつも笑いをこらえきれないようだ。手のひらを謝罪のかたちに立てながらも、くっくくっくと全身を震わせていた。
「あまりにあなたたちが楽しそうだったから……思わずつられてしまった。気を悪くしたのなら、謝るよ。ごめん」
男は細長のサングラスをかけていた。
そのためにはっきりとはわからないが、年のころは二十代くらいか。目立つのは髪だ。黒と白、二色のメッシュで、おまけに長い。一部はサングラスと鼻筋にかかって、スキーウェアのぴっちりと閉じた胸元にまで伸びていた。
「い、いえ、こちらこそ、騒がしくしてしまって」
「なによあなた、それが謝る態度ぉ?」
うわあ、と耕太は抱き止めていたちずるを見あげた。
ちずるはちょんちょん、と指先を自分の目元に当てている。
――謝る気があるなら、サングラスを外せ。
「ちずるさん、謝らなきゃならないのは、むしろうるさくしたこちらで」
「いやあ、これはまた失礼……」
男は素直に従って、サングラスを外す。
頭を振って、黒と白の入り混じった髪をぱらつかせた。
「あ」
「うん!?」
透きとおった瞳《ひとみ》があらわになった。
吸いこまれそうな瞳の色……いや、そんなことではなくて。なんだ? なんだろう。耕太はなんともぞわぞわする、不安なような安心なような、奇妙な感覚に襲われていた。
「似てる……」
ちずるが呟《つぶや》く。
「耕太くんに……こいつ、似てる?」
そうか、と耕太は思った。
鏡で見た、または写真で見た、自分の顔。
あどけない、たよりない、我ながら男らしくないと思う、ひよわな顔。もちろん目の前の男は違う。耕太よりもはるかに大人で、たくましく、鋭く、余裕のある、あこがれさえ抱《いだ》いてしまう姿だ。体格だって立派で、おそらくたゆらとおなじく、一八〇センチ近くはあるのではないだろうか。
だけど……それでもやはり、彼は耕太に似ていた。
これって、なんだろう。
耕太は胸の高鳴りを覚えていた。興奮とは違う。なにか、そう、自分と近しいものを、このひとから――。
「うん? どうしたのかな、耕太くん」
男が通路に身を乗りだし、覗《のぞ》きこんでくる。
その瞳《ひとみ》は濡《ぬ》れ光り、きらめいていた。
どくん。
とても無造作な、まるでちずるが不意をついて口づけしてくるときのような近づきかたに、ひときわ大きく耕太の鼓動は跳ねた。
い、いや、そんなことより……。
「ど、どうして、ぼくの名前」
「だってきみの彼女が、さんざん大きな声でいっていたからね。耕太くん、耕太くんって」
「あ……」
黒白の髪の向こうで、男が眼《め》を笑みに細める。
「そちらの彼女がちずるさん。後ろの彼はたゆらくん、となりが望《のぞむ》さんで、バスの後ろの女の子が澪《みお》さん。横の大きな……親御さんかな? が、熊田《くまだ》さん。どうかな、当たっているかな?」
「すみません!」
耕太は頭をさげた。
「ぼくたち、どれほどうるさかったのか」
「いやいや、べつに責めているわけじゃないんだ。さっきぼくは思わず笑ってしまっただろう。それだけゆかいだったってことさ。退屈なバスの道中、きみたちのおかげで楽しむことができた。もしよければ、もっと楽しませてくれるとうれしい」
「は、はは……」
見ると、男のとなりにはだれもいない。彼はひとりきりだった。
「おっといけない。自己紹介がまだだったね」
にこりと笑い、男は手を差しだしてきた。
「ぼくの名前は三珠《みたま》」
「三珠……さん」
「そう。よろしく、耕太くん」
握手しようと通路に身を傾けたとき、耕太は左腕をつかまれた。
ちずるだ。
耕太をじっと見つめていた。わずかに首を横に振っている。
さっきから、いったい……。
「耕太くん」
「あ」
振りむいたときにはすでに、耕太の右手は三珠《みたま》に握られていた。
やけに冷たく、やわらかな手の感触だった。ぴとりと吸いつくような。
「よろしくね……耕太くん」
ふふ、と三珠が笑った。
「へえ、きみたちもあの山に向かうんだ。……うん、あそこはスキーをするにはとてもいいところだよ。あまり有名じゃないからそれほど混まないし、なんといっても雪質がすばらしい。さらさらとして、べたつかなくてね……、ゲレンデとしては穴場なんだ」
「はー、そうなんですか」
耕太は三珠の言葉に、なるほどとうなずく。
とはいえ会話の内容をよく理解しているわけではない。
そもそも耕太は、自分の――というよりちずるの目的地が、本当に三珠のいう山なのか、まったくわからなかった。
朝、ちずるに誘われるまま駅に向かって、そこで熊田《くまだ》たちの待ち伏せにあい、そのまま一緒に始発に乗った。途中で電車を乗り継ぎ、ようやく降りたと思ったらバスに乗って、何時間も乗り物に揺られてここまで来た。
耕太はここがどこなのかもわかっていない。
ここ……どこなんだろ。
ちずるの機嫌がなぜかよくないことを気にしつつ、現在地も気にしつつ、あはは、と耕太は三珠と笑いあった。
「そうそう……」
ふいに三珠の表情が真剣なものとなる。
瞳《ひとみ》を耕太の後ろ側に向けた。
「こんな話を耕太くんは聞いたことがあるかな。いまからぼくたちが向かう山にはね……だいだらぼっちの伝説があるんだ」
「だいだら、ぼっち……?」
耕太は振りむいた。
三珠の視線を追い、耕太の後ろ、くもりきって露がだらだらと水滴になって流れ、涙のような跡を残した窓ガラスを見やる。自然にちずるの姿も目に入った。彼女の不機嫌さはさらに度を増し、三珠に対してあからさまな敵意を浮かべている。
どうしてこんなに怒っているんだろう……。
「ちずるさん……?」
そっと手を伸ばす。頬《ほお》を撫《な》でた。
ぶすっとした顔つきながら、ちずるは耕太の手に寄りかかってくる。
耕太はもう片方の手で、ちずるの後ろのガラスを拭《ふ》いた。きゅっきゅ、きゅっきゅと音をたて、窓の向こうが見えるようにする。
「わあ……」
耕太は息を呑《の》んだ。
濡《ぬ》れたガラスの向こうに、白いカーペットが広がっていた。
雪だ。
見渡すかぎりが雪に覆われていた。雪の下は田んぼだろうか、畑だろうか、すっかり積もっていてよくわからない。ときどき一軒家が真横からあらわれ、ゆっくりと流れてゆく。その屋根にも重そうに雪がのっていた。
故郷の光景によく似ている。耕太はそう感じた。
田んぼや畑ばかりなのも、ぽつぽつとしか家がないのも、冬になるとみな白で覆われてしまうのも、みんなおなじだ。胸のなかにじんわりと暖かな想《おも》いがわく。ちょっぴりだけせつなくなって、耕太は眼《め》を細めた。
「あそこ……ですか?」
耕太は視線を雪景色の奥、ずっと向こう側へと伸ばした。
青白い山脈が横に連なっている。それほど高くはない。山頂部は見事に白い。あの山が三珠《みたま》の、もしかしたら耕太たちの、目的地なのだろうか。
「そう。あそこがぼくたちの目指す山。地元の人からは白玉山《しらたまやま》とか呼ばれてる」
「白玉山……あそこに、だいだら?」
「だいだらぼっち。巨人のことだよ。富士山を造ったなんて伝説もあるんだ」
「聞いたことはあります。おじいちゃんがそういう昔話が好きで……ええと、たしか富士山を造るために土を掘ってできた穴が、琵琶湖《びわこ》になったとか」
「そうそう。……でね、あの山にもだいだらぼっちの、巨人の伝説があるんだ。まあ、そんなにめずらしいことではないんだけど。だいだらぼっちの伝説は日本のいろんな場所にあるしね。ただ……ちょっとここの伝説は変わっていて、だいだらぼっちが眠っているなんて話があってね」
「ね、眠っている……?」
なにやら話がいやな方向に流れてきた。
「どうしたんだい、耕太くん。そんな眉間《みけん》に皺《しわ》なんか寄せたりして。これはあくまで伝説、言い伝えだよ? ええと、どんな話だったかな……。そう、この山、白玉山は本来ならば、富士山よりも大きくて高い、立派な山になるはずだったんだそうだ。それが、だいだらぼっちが土を盛っている最中に睡魔に襲われ、その場に眠ってしまったために、あんな低い、横長の山になってしまったのだと。嘘《うそ》かまことか、あの山は三方からなにかを囲むようにそびえていて、なかの谷は真夏でも雪が絶えないらしい。現地の人間も、決して山奥には立ち入らないんだそうだよ」
ぐび、と耕太は唾《つば》を呑《の》みこむ。
人間が決して立ち入らない……それって、結界が張られているんじゃないだろうか?
耕太はいくつか妖怪《ようかい》の術を知っている。
結界とは、人の意識下にひそかに訴えかける術だ。「ここは危険だ、立ち入るな」と――すると、無意識のうちに人はその場所を避けるようになるらしい。耕太は結界を張られたことがあった。張ったのはちずるで、彼女が耕太を路上で押し倒したときのことだ。たしかに、あのときはだれも来なかった……あぶなく最後までゆくところだった……。
「なんて顔してるのさ、耕太くん。ただの伝説だっていってるだろう? だいだらぼっちなんて、現実にはいるわけがないじゃないか。……ああ、耕太くんって、あれ? 妖怪とか幽霊とか、信じるタイプなの?」
「え……ええ、まあ」
信じるもなにも、現実に存在しているのですが。
さしあたってとなりには化《ば》け狐《ぎつね》が、後ろには人狼《じんろう》が。バスの最後尾にはかえるっ娘《こ》や熊《くま》の妖怪だっていちゃうのですが。
「ふふ……それじゃあ、この話をするともっと心配させちゃうかな」
三珠《みたま》は椅子《いす》の肘《ひじ》かけに頬肘《ほおづえ》をついて、笑っていた。
「な、なんでしょうか」
「だいだらぼっちはね、数百年にいちど、目覚めるそうなんだ」
「め、目覚め……」
「それでね、目覚めるときには、かなり地震が続くらしい」
「は、はあ」
「でね……。最近、このあたりでは地震が多いんだって」
「そ、それって、だいだらぼっちが目覚め……」
ははは!
三珠が笑いだす。
「本当、耕太くんは心配性だなあ。だいじょうぶだよ。おそらくね、だいだらぼっちというのは山の噴火のことなんだ。だから数百年にいちど目覚めて、その前後には地震が続く。まあ、とりあえず心配はしなくてもいいよ。まだ噴火の警報はでていないからね」
「……は、はは」
耕太も三珠にあわせて、どうにか笑う。
いやな予感はぬぐえなかった。だって、妖怪が現実にいるのなら、どうしてだいだらぼっちがいないなんていえるんだろう?
「ふふ、はは……いやあ、耕太くんを見ていると、なんだかぼくも不安になってきたよ。だいだらぼっち、本当に目覚めてしまうのかもしれないなあ。そして大暴れして、ぼくたちはみんな踏みつけられてしまうんだ、きっと」
「そんなことない!」
叫んだのはちずるだった。
「あれは大暴れなんかしない。寝起きが悪くて、ちょっとそこいらを俳徊《はいかい》はするけど……それに、まだ目覚めの時期じゃないから、危険なんてあるわけが――」
「ち、ちずるさん?」
耕太を押しのけんばかりのいきおいで三珠《みたまし》に喋《しゃべ》っていたちずるが、はたと口をつぐむ。
こほん。
小さく咳《せき》払いして、しずしずと自分の席に戻った。
耕太は唇をもごもごさせる。これは……だいだらぼっちは……きっと……。
「ねえねえ、耕太くん」
三珠が通路に身を乗りだして、耕太にささやきかけてきた。
「もしかしてきみの彼女も、妖怪《ようかい》とか幽霊とか、信じるタイプ?」
「あ……ま、まあ」
まさか妖怪そのものなんです、とはいえない。
「ふうん……まさか」
ふふ、と唇を曲げた。三珠はさらに顔を寄せ、耕太の耳元に近づく。
「妖怪そのものだったりして」
耕太の呼吸は一瞬止まる。
ささやきの内容も衝撃だが、笑いかたも、声の調子も、どれもが妙に入りこんでくる……妖《あや》しさとでもいうような雰囲気を持っていた。
そして、なぜか耕太はその妖しさを拒めない。
抵抗なく受け入れてしまうような――いや、そもそも抵抗自体がないような――。
当然、真後ろで騒ぎが起こる。
「……って、おまえ、ちょっと、おい、なにを……いだっ!」
救われた思いで耕太が振りむくと、たゆらの顔がなにものかに踏みつけにされて、ぐきん、と曲がっていた。
望《のぞむ》だ。
窓際の席に座っていた彼女が、通路側の席に座っていたたゆらの顔を踏み台にして、跳んでいる。バスの天井すれすれまで上がり、望は耕太と三珠のあいだへと降りてきた。
空中でジャージに包まれた望の脚が動く。
通路|脇《わき》に折りたたまれていた補助席。そこにスニーカーのつま先がかかり、席を引き倒す。倒しながら、望は身体をひねった。
後ろ足で補助席の背もたれを蹴りあげ、座席を完成させる。
がしゃん。
派手な音をたて、銀髪の少女は耕太と三珠のあいだの補助席に落ちた。正座で。
「の、望さん?」
ぐるるるる……。
正座のまま三珠《みたま》に向き直って、望《のぞむ》はうなった。
耕太の身体は後ろから抱きすくめられる。
「ち、ちずるさん?」
背後からちずるが耕太の肩に顎《あご》を乗せた。その横顔は鋭く、まっすぐに三珠を睨《にら》みつけている。
両者とも、三珠に対して完全な敵意をぶつけていた。
「ど、どうして」
「はい、運転手!」
とまどう耕太を抱きながら、ちずるは手をあげた。
「バスを停《と》めて! わたしたち、ここで降りるから!」
「えええ?」
3
がうん。
わずかに黒い排気ガスを残して、バスは遠ざかってゆく。
耕太はぽつんとその後ろ姿を見送った。
降りたとき、すでにバスは山道に入っていた。アスファルトの坂道は濡《ぬ》れて、端には雪が残っている。左手には山林が続き、右手は崖《がけ》となって、ガードレールが延びていた。
ひゅるりと冷たい風が吹く。
行くにしろ戻るにしろ、どれくらい歩かなければならないんだろう……。白い息をはきながら、耕太は振り返った。
「ちずるさん……。いったいどうしたんです」
焦げ茶色の帽子をちずるはかぶるところだった。
頭を耳当てつきの帽子に深々と納めたとたん、むん、と力む。握り拳《こぶし》を固めて、ぶるぶると震えた。
「ぅぅうぅう――やぁ!」
かけ声とともに、耳当てつきの帽子から伸びる黒髪が、すうっと金色に変わった。黒いスカートの裾《すそ》からは、金毛のふさふさしたしっぽがするりとでてくる。
帽子が震えだした。
頭にちずるの両手が伸びる。びりっと帽子のマジックテープを剥《は》がした。
とたんにふたつの耳が飛びだす。三角形の大きな狐《きつね》の耳が、息苦しさから解放されたかのようにぴんと立った。
「おー、それいいじゃーん。どこで買ったんだ?」
たゆらがしげしげと帽子を覗《のぞ》きこむ。
そんな彼の頭にも、狐の耳が生えていた。毛なみの色は銀。髪の毛も銀色に変わっていた。フードつきのコートの裾《すそ》からは銀毛のしっぽが覗《のぞ》く。
「ちずる……いいな」
離れた場所から指をくわえてちずるの帽子を眺めていた望《のぞむ》の頭にも、耳があった。こちらは狼《おおかみ》の耳だ。ジャージ姿の彼女の背から、狼のしっぽが伸びている。ゆったりと振られていた。
「み、みんな……どうしたの!」
耕太はあたりを見まわす。
「こんなところで変化して……だれか来たら、車でも来たら!」
幸いなことに、ゆるやかな坂の上りも下りも、どちらからも車の排気音は聞こえなかった。もちろん人影もない。
「はやく人の姿に戻って……や?」
耕太はちずるに抱えあげられた。
「や? やや?」
背中と膝《ひざ》の裏に手をまわされる、いわゆるお姫さま抱っこだ。
というか、女性に男がされているわけで、これではむしろ王子さま抱っこだ。落ちないようにちずるにしがみつきながら、耕太は懐かしく思った。前にもいちど、ちずるにこうされたことがある。そのときは爆発炎上する音楽室から逃げたのだけど……。
逃げる?
「ちずるさん、あの、もしかして」
「うん。あいつらが追ってくる前に、ここから消えるの」
「あいつらって……だれ?」
「話はあとあと。ねえ、そっちの準備はいい?」
ちずるがまわりを見やる。
熊田《くまだ》は澪《みお》を肩に抱えあげていた。澪はちょこんと肩に腰かけ、熊田の大きな頭にきゅっとしがみつく。銀狐《ぎんぎつね》姿のたゆらは、自分の荷物のみならず、ちずるの大きな肩がけバッグに、耕太のリュックサックまで背負っていた。たゆらの銀毛よりやわらかく細やかな銀髪の人狼《じんろう》少女、望はなにももたず、ジャージ姿でぴょんぴょんと跳ねている。
「よし、いいみたいね。じゃあ――いきましょう」
耕太を抱えたまま、ちずるは左手側の林へと飛びこんだ。
雪が積もる斜面を駈《か》けあがってゆく。
「わああ!」
猛スピードで木々のあいだを抜ける。耕太はちずるへのしがみつきを強めた。
後ろでは澪を肩に乗せた熊田が、雪を派手に跳ねあげながら猛スピードで走っていた。多くの荷物を抱えたたゆらも、きつそうに顔をしかめつつ、うがー、と吠《ほ》えながら遅れずについてきている。望はひとり、軽快な動きでジグザグに跳んでいた。
「ど、どこまで……」
ゆくんでしょう、と耕太が訊《き》きかけたところで、ちずるは急に立ち止まった。
耕太たちが消えた林の前に、音もなく人が近づいてくる。
速い。走っているのに、彼らの足音はほとんどなかった。姿を見ればスキーウェアで、おじさん、おばさん、若者、子供までいる。
バスの乗客たちだった。
耕太たちが乗っていたバスで、楽しげにスキーの話をしていた彼らが、いまは厳しく引き締まった顔をして、整然と隊列を組んでいる。耕太たちの消えた林の斜面に残る足跡を見て、身振り手振りでサインを送りあった。いっさい会話はない。
数人を残して、彼らは耕太たちの跡を追う。雪も斜面も苦にもせず、つぎつぎと駈《か》けあがっていった。
ぶらりと、遅れてくる男の姿があった。
「――どうだい?」
残っていた数人が、男に深々と礼をする。男は手をあげてそれを制した。
「ふうん? ここから?」
白と黒の入り混じった髪を持つ男は、報告を聞いて斜面を眺めた。
三珠《みたま》さん……!
見知った男の姿に、耕太は息を呑《の》む。
耕太たちは、三珠がいる道路の端、ガードレールの向こうの崖《がけ》に潜んでいた。
最初に飛びこんだ林の斜面に派手に足跡を残してからちずるたちは立ち止まり、こんどは木々の枝を跳んで、元の道路に戻ってきた。そうして男たちが来る前に崖に隠れて、いまこうして覗《のぞ》いている。
先に林に入ったものたちが、戻ってきた。
「どうだった? ふふん? 途中で足跡が消えて……見失ったと。おそらくは木々を跳んで先に進んだのではないかだって? へーえ」
三珠は彼らの報告をいちいちくり返す。
「で? きみたちはどうするつもり? はあ、先まわりして、谷の結界付近で待ち伏せると……ふーん。あの谷は、妖怪《ようかい》たちですらみだりに荒らさない、極力〈彼女〉の機嫌を害さないように心がけている土地だよ? そんな領域に土足で踏みこむわけだ」
皮肉混じりの三珠の口調に、彼らがあわてた。
「そんなつもりはないだって? きみたちにそのつもりがなくったって、そうなるんだよ。ははは……きみたちのおかげで、〈彼女〉と〈葛《くず》の葉《は》〉で全面戦争になるわけだ。まあ、いいんじゃない? 元々仲は悪いんだし……一気にやっちゃっても。こっちがやっつけられるかもしれないけどね。ははははは!」
全員が平伏した。
三珠《みたま》はくすりと笑って、身を屈《かが》め、彼らのひとりの肩をぽんと叩《たた》いた。
「なあに、間違いはだれにだってあるさ……。きみたちにそういうバカをさせないために、ぼくがいるんだ。だから、あとはぼくにまかせて。ぼくたちに、ね」
ひとり三珠は立ちあがる。まわりはまだ平伏したままだ。
ちらりと崖《がけ》を――耕太たちの潜む側を見て、三珠はにやりと笑った。そう耕太には見えた。
「バスの乗客、全員が〈葛《くず》の葉《は》〉のひと……」
「なんだか怪しいとは感じていたけど、まさか〈葛の葉〉だとは思わなかった!」
呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》く耕太の横で、ちずるは普段からつりあがり気味の眼《め》をさらにつりあげていた。狐《きつね》の耳もびんびんに立っている。
耕太たちはいま、山のなかにいた。
三珠たち〈葛の葉〉の一行が姿を消してから、また耕太はちずるにお姫さま抱っこされて、林へと飛びこんだ。こんどは雪の積もる斜面は走らず、最初から木をつぎつぎに跳び移って山を登ってゆく。
そうして雪深い山の奥まで来て、こんどは普通に歩いていた。
雪のせいでよくはわからないが、木々が道幅ほどの間隔をあけて立ちならんでいるところを見ると、普段は小道なのだろう。ざくざくと耕太は雪を踏み進んでいった。
ふ、ふ、ふ……と後ろを行く熊田《くまだ》が笑う。彼はまだ肩に澪《みお》を乗せていた。
「我らは更生途中の不良|妖怪《ようかい》なのだからな。監視の目のひとつやふたつ、ついていてもおかしくはない。考えておくべきだったな」
〈葛《くず》の葉《は》〉とは、耕太たちの通う薫風《くんぷう》高校を陰で運営している組織だ。
陰――つまり、不良妖怪を更生させるという薫風高校の役目は、〈葛の葉〉が行っていた。妖怪たちの監視、育成を果たすため、普通の教師に混じって〈葛の葉〉の人間がいる。砂原《さはら》、八束《やつか》という教師らがそうだ。なかでも砂原は、人間の女性に〈御方《おかた》さま〉と呼ばれる砂使いの妖怪がとり憑《つ》いていて、その力で学校の不良妖怪たちから一目置かれていた。
「あのね、熊田。そういうあなただって、まったく気づいてなかったじゃないの」
「むふ? いやいや、気をつけてはおったぞ。あのバスに乗るまで、なにものかの尾行や視線は感じなかった。それは間違いない」
「そう……なのよね」
歩きながら、ちずるはうーん、と考えこんだ。
「なんにも前触れらしきものはなかった。なのにあれほど大がかりな監視がつくなんて、まるで……わたしたちが来るのが、あらかじめわかっていたみたいな」
「アレじゃねーのか」
ひい、ふうと息を荒げながら、たゆらが会話に入ってくる。
たゆらはまだちずるの大きなバッグを持たされていた。銀狐《ぎんぎつね》の姿でもじつに重そうだ。
「やっぱりさ、大勢でぞろぞろと来ちまったもんだから、砂原の幾《いく》ちゃんにバレちゃったんじゃねーの? あの砂人形さ、どこにでも潜んでいそうじゃん。駅とか」
砂人形とは薫風高校の教師、〈葛の葉〉の砂原に宿った〈御方さま〉が、その砂使いの力で作りあげた手のひらサイズの砂のお人形のことだ。
お人形とはいえ、〈御方さま〉の意志によって砂人形は自在に動く。眼《め》で見たもの、耳で聞いたものはそのまま〈御方さま〉に伝わる。おまけにその数は、耕太が見ただけでも一ダースはあった。実際はどのくらいいるのか……学校のいたるところに潜み、〈御方さま〉に情報を伝えているらしい。
「砂原の幾ちゃんだって〈葛の葉〉なんだからよ、おれたちが県外にでたのを知って、組織にチクったんじゃねーの? それならあの葛の葉バスを準備する時間だってあるだろ」
「と、いうことは、おまえのせいだということね、たゆら」
ちずるは鋭い金色の目つきで睨《にら》んだ。
「な、え、どーしてだよ」
「自分でいったんじゃないの。『大勢でぞろぞろと来たから、砂人形に見つかった』って。わたしと耕太くんのふたりきりなら、バレなかったってことじゃない」
う、とたゆらは口ごもった。
「――なんてね。それはない」
とん、と歩きながらちずるは樹《き》を叩《たた》いた。どさどさと雪が落ちる。
「砂原《さはら》はたしかに〈葛《くず》の葉《は》〉だけど……あいつらとは違う。立場が違う。目的が違う。だからあっちの〈葛の葉〉に与《くみ》することはない」
「あっちの〈葛の葉〉? なんだそりゃ。ふたつあるのか、〈葛の葉〉って」
ちずるは答えない。
耕太は視線を足下に移した。
あっちの〈葛の葉〉……。朔《さく》――かつて耕太と闘った人狼《じんろう》の犹守《えぞもり》朔《さく》も、〈葛の葉〉の一員だった。ちずるを狙《ねら》った〈葛の葉〉、朔。ちずるを守っているらしい〈葛の葉〉、砂原。学校を裏から運営している組織、〈葛の葉〉。
なんだかよくわからない。
〈葛の葉〉のことを砂原や八束《やつか》に訊《き》いてみるも、砂原には「あらあら〜? 小山田《おやまだ》くん、あんまり源《みなもと》さんとえっちなことしちゃダメよ〜?」とごまかされ、八束には「阿呆《あほう》。余計なことを考えとらんで、学生ならば勉強しろ」とお説教された。朔の妹である望《のぞむ》も〈葛の葉〉にはいたのだが、あまりくわしいことはわからないようだ。
ただ……〈葛の葉〉の行動の中心には、いつも、このひとが……。
ちらりと横を見る。
「ねえ、耕太くん」
「は、はい!」
思わず大きな声をあげてしまった耕太に、ちずるはちょっとだけ眉《まゆ》を上げる。
「どうしたの、耕太くん?」
「い、いえ……」
耕太はうつむいた。顔が赤くなっていくのを感じる。
ふうん? とちずるが小さく傾《かし》げるのが横目に見えた。
「あのね、あいつのことなんだけど」
「あいつ……?」
「三珠《みたま》とかいういけ好かないやつのこと。あいつ……どう思う?」
「三珠……さん」
耕太の脳裏に、白黒メッシュの長髪を垂らした、黒いスキーウェア姿の男が浮かんだ。ふふ……と意味ありげに微笑《ほほえ》んでいる。
「あのひとも……〈葛の葉〉なんですよね」
なぜか声が沈んでしまった。
それで気づく。
ぼく……落ちこんでいるのか。
出会ったばかりなのに、耕太は三珠を信じてしまっていた。思えば、耕太は人見知りするたちなのに、三珠《みたま》相手にはすぐにうち解けられた。あれはどうしてなんだろう。
「あいつ、ヘンだったよ」
ぴょん、と望《のぞむ》がとなりに並んできた。ジャージ一丁だけなのにすごく元気だ。
「ヘン?」
ん、と狼《おおかみ》の耳を生やした望はうなずく。
「なんだか、ヘンな匂《にお》いだった。いろんな匂い……いままで嗅《か》いだことがないような匂い。いろんなのが、混ざってた」
「混ざってた……」
「耕太を好きなような、嫌いなような、どっちの匂いもした」
「好き? 嫌い? だから、あんなに……その、警戒してたの?」
三珠に向かって、うー、とうなる望の姿を思いだした。
耕太の問いに、望はちずるを見た。
ちずるも望を見る。
ふたりでしばらく視線を交わしあっていた。
「……あの?」
「あのね、耕太くん。あいつ、まるで、なんだか、耕太くんのことを……」
「ぼくのことを?」
「――ううん、なんでもない」
「耕太のこと、欲しがってた」
首を振るちずるの横で、けろっと望はいいはなった。
「望!」
「ちずるとおなじ。わたしとおなじ。耕太を求める匂い、だしてた。好きだからなのはわかるけど、嫌いでもあるのに、耕太のこと、すごく欲しがってた」
「ほ、欲し……」
耕太は絶句する。
なぜか頭のなかに真紅の薔薇《ばら》が敷きつめられていた。薔薇の海から、なぜか上半身裸の三珠が、なぜか満面の笑顔で、にゅきっとあらわれる。白い歯がきらりと輝いていた。
やあ、耕太くん!
あはははははは、あはははははは。笑い声が頭のなかに響き渡る。
「ええええええ!」
「耕太くん、しっかりして耕太くん! 耕太くーん!」
ちずるは耕太の肩をつかんで、揺すりたてた。がくがくとなる耕太。
「聞いて、耕太くん。あいつの嗜好《しこう》はともかくとして、望があの男に飛びかかって、威嚇したとき――とたんに、車内の気配が変わったの」
「け、気配」
ちずるはうなずく。
「それまではみな、ただの乗客だった。家族連れやカップルだった。それが、望《のぞむ》があいつに殺気をぶつけた瞬間、まわりに殺気が漂った。ほんの一瞬のことだったけど、あれは普通のニンゲンにだせるたぐいのものじゃなかった。だからあいつらの正体に気づけて、どうにか逃げだせたんだけど……」
「うむ。それまでは完璧《かんぺき》に普通の乗客を演じきっておったな。敵ながらあっぱれだ」
「なにを褒めてんのよ、もう」
ちずるが熊田《くまだ》を睨《にら》みつけた。
「ねえ、耕太くん……わかる? 完璧に普通の乗客を演じていたのに、あの男が危機に陥ったとたん、正体を洩《も》らしてしまった。それだけあいつは、三珠《みたま》は、〈葛《くず》の葉《は》〉にとって特別な存在ってことなのよ」
「特別……でも」
耕太はぎゅっと唇を噛《か》んだ。
「そんなに悪い人だとは……思えなかったんですけど」
ちずるがぱちぱちとまばたきをする。
「……キケンだ」
「え」
「禁断の果実? 背徳の楽園? ソドムの都? ああ、ああ……女ならともかく、まさか男相手に嫉妬《しっと》する日が来るなんて!」
ちずるは天を仰ぎ、自分の身体をぎゅっと抱いた。しっぽがまっすぐに伸びる。
「あのー、ちずるさん、それってどーゆー」
「耕太って……オトコも、おっけー?」
望まで首を傾《かし》げて覗《のぞ》きこんでくる。
「……あのね」
「うむうむ、戦国の世は、衆道……つまり男と男のそういった関係は、武士のたしなみであったという。よきかなよきかな」
はっはっは、と熊田は笑った。肩に乗って熊田の頭を抱えている澪《みお》は、顔を真っ赤にしていた。
「く、熊田さんまで!」
はっ、とちずるがなにかに気づいたかのように金色の眼《め》を見開いた。
「まさか……わたしがいままでいくらこのスーパーボディを使って誘惑しても、耕太くんが最後までその気にならなかったのは……まさか!」
「ち……ちずるさん」
「がんばる! わたし負けない! 耕太くんをそっちの道から、こっちの道に戻してみせる! どんな手段を使ってでも!」
「ちずるさぁん!」
「――と、まあ、冗談はここまでにして。さあ、ついたよ、耕太くん」
「ふえ?」
涙目になった耕太に、ちずるは前方、山道《さんどう》の脇《わき》を指さして見せた。
そこには祠《ほこら》がある。
木で組まれた、飾り気のない黒い小さな社《やしろ》だ。
「ついたって……あのう」
「ここからゆくの。本当はね、あのままバスに乗って、スキー場のほうから谷に入ろうと思ったんだけど……〈葛《くず》の葉《は》〉のやつらに邪魔されちゃったからね。だから、ここから」
耕太は祠の前に立った。
かたちとしては神社の建物に似ている。しかし大きさは人ひとりが入れるくらいだ。両開きの扉がしっかりと閉じられていた。
「ここから……ですか?」
ふふ、と微笑《ほほえ》み、ちずるは扉を開いた。
なかには狐《きつね》の石像があった。
それほど大きくはない。耕太の腰ほどの高さしかなかった。
狐のおでこに、ちずるが手を置く。
眼《め》を伏せ、狐の耳としっぽをしゃんと伸ばし、ぶつぶつとなにごとかを呟《つぶや》きだした。
呟きは続き……やがて、ちずるの金色の髪がざわざわと波うち始める。そのうち、耕太はちずるの身体から湯気のようなものが立ちのぼるのが見えた。湯気と違って金色に色づいている。
「これは……」
「いわゆる妖気《ようき》ってやつだな」
小声の耕太に、小声でたゆらが答えた。
「さすがは四百年ものの妖狐《ようこ》、あのひとの術も使えるわけだ」
「あのひと?」
すぅ、とちずるが息を吸いこむ。ブルゾンに包まれた胸がふくらんだ。
「えい!」
気合いをこめた。
とたんに触れていた狐の石像が輝きだした。
金色の光は祠のなかに満ち、ついには扉の外に洩《も》れ始める。
「よし……〈門《もん》〉のできあがりっと」
耕太に向かって、ちずるは微笑んだ。
光をドライアイスの煙のように扉からあふれださせている祠を示す。
「さ、いきましょう耕太くん」
「いきましょうって……あの」
「難しいことなんてないよ。〈門〉なんだから、そのままくぐればいいの。そうすれば、はるか離れた谷へとひとっとび! さあさあ」
耕太の腕に自分の腕を絡めて、ちずるはぐいぐいと引っぱる。
「トンネルを抜けると、そこは雪国であった――〈門〉を抜けると、そこは雪景色だよ。人の入らぬ場所だから、きっときれいなヴァージンスノー……しんしんと雪の積もる、清らかな地……ふふっ、わたしとおんなじ!」
「どこがおんなじなんだか……荒野の間違いじゃねーの?」
げしっ、とたゆらは蹴《け》られた。
銀狐《ぎんぎつね》の男は背負っていた荷物でバランスを崩して、背中から雪に倒れる。
「こんなバカは放っておいて、いきましょ、耕太くんっ」
「あ、あの、心の準備が、まだ――」
ちずるとともに、耕太はあふれだす光のなかへ飛びこんだ。
身体が二重、三重にブレるような、ずれるような感覚に襲われる。視界は利かない。ただひたすらに光に塗りつぶされていた。
ちずるが絡めた腕の感触だけを頼りに、長い長いときをこらえる。
実際はきっと一瞬の出来事なんだろうな、と耕太がむかし読んだSFの話を思いだしたところで、ぬるん、と飛びだした。
ばばばばばっ。
いきなり顔面が細かい粒に襲われた。
「な、なに?」
耕太は顔を手で覆って、薄目を開ける。見渡すと、そこは――。
白い嵐《あらし》。
「……え」
視界は白に覆われていた。顔はおろか、身体中を揺さぶる風。混じる雪。つまり大吹雪。耕太は身を縮めて、奪われてゆく体温に歯を鳴らした。
ヴァージンスノーどころか、大荒れだ。
「――なんで? どうして?」
呆然《ぼうぜん》として金髪を吹雪に乱れるがままにしているちずるを横目で見ながら、耕太はさきほどの「わたしとおんなじ!」という言葉を思いだしていた。
[#改ページ]
[#小見出し] 三、おかーさんが、いもーとが![#「三、おかーさんが、いもーとが!」は太字]
1
耕太《こうた》たちは、大吹雪のなかを進んでいた。
吹きつける大粒の雪は、熊田《くまだ》の巨体の影に入っていても、とうてい避けられるものではなかった。耕太の前から右から左から、斜めから後ろから、縦横無尽という言葉がじつにしっくりくる襲いかたをしてくる。
強風に乗って、びしびしと顔面に当たる雪、雪、雪。
耕太の口元は二本のマフラーで、耳たぶは念のために持ってきた耳当てで覆っているからまだいいが、眼《め》は剥《む》きだしだ。とてもじゃないが、前を向いて歩けなかった。
うつむき、細めた眼で足下を見つめて、耕太はゆっくりと足を動かす。
前をゆく熊田が開けた大きな足跡に、自分の足を差しこんでゆく。ときにはふらつき、膝《ひざ》下まで積もった雪にはまりこんだ。おおっと。
「だいじょうぶ、耕太くん」
ぐいと腕が引っぱられた。
「あ、ありがと、ちずるさん」
耕太はちずるによりかかりながら、体勢を立て直した。
化《ば》け狐《ぎつね》の姿をしたちずるは、全身を炎に包みこんでいる。不思議なことに、この薄い赤色の炎は、ちずるの帽子もブルゾンもスカートも黒いストッキングも、耕太の肌も焼かなかった。ほんのりとした温かさしか伝わってこない。
この炎は狐火《きつねび》。ちずるの術のひとつだ。
だが……。
「ちずるさん。狐火が」
さきほどより、耕太に伝わってくる熱が弱っていた。
「うん……この雪、妖気《ようき》が混じってるの。おかげで、力が奪われちゃって」
「このままじゃあ」
「まずい……かな」
ちずるは前を向いた。
「熊田! あなたはまだだいじょうぶなの!」
壁のような背中が立ち止まった。
ぬ? と壁の上の頭が、振りむき、横顔を覗《のぞ》かせる。顔にもサングラスにも雪がびっしりとこびりつき、なかば凍りかけていた。
にや、と笑う。
氷はびきびきと砕け、剥《は》がれ落ちた。
『まだだいじょうぶか、とはなにかな。まだもなにも、ずっとだいじょうぶぞ。わたしをなんだと思っておるのだ。我はキムンカムイ、熊《くま》のなかの熊、一時は神とまであがめられた身。このていど、ほんのちょっぴり涼しいくらいだ」
がーはっはっは、という豪快な笑い声は、吹雪のなかでもよく通った。
「まったく……こういうときは本当、頼りになる」
微笑《ほほえ》みながら、ちずるは視線を横に向ける。
「望《のぞむ》! あなたは!」
「すっごく楽しいよ?」
なんとまあ、望は上下ともにジャージだけの姿で、雪だるまを作りながら歩いていた。もちろん手は素手のままで、ごろごろと大きな玉を作りあげている。しっぽをぱたぱたと振っていた。
いくら狼《おおかみ》の妖怪《ようかい》だからって……。
唖然《あぜん》となりながら耕太は、犬は喜び庭かけまわり……という歌は、真実なのだと知った。いや、望は犬じゃなくて狼なのだけど。いやでもそれにしても。
「あなたのそういうところは、本当に感心する……そこだけはね」
ちずるが後ろを向く。
「――たゆら!」
「ふぇーい……」
吹雪に消え入りそうな声が返ってきた。
「だめだー……持ちそうにねー……」
たゆらも狐《きつね》の耳としっぽを生やして、銀狐の姿になって、狐火《きつねび》を燃やしていた。
こちらはちずると違い、銀毛のしっぽだけが炎に包まれていたが……吹雪によって一瞬、かき消えたりしている。
「なにを情けないこといってるの! おまえはわたしの弟でしょうが!」
「おれじゃねーよ。こっちが、澪《みお》ちゃんが、もう……」
たゆらは吹雪が吹く向きに応じて、燃えるしっぽの位置を変えていた。
そうやって、脇《わき》に抱き支えている少女を、吹雪から守ろうとしている。
「み、澪さん!」
澪の小柄な身体には、べったりと雪が貼《は》りついていた。
見るからにぐったりとなり、顔も白く、まぶたは伏せ、たゆらになかば引きずられながら、かろうじて歩いている。
かすかに澪が眼《め》を開けた。
「だ、だいじょぶ……です」
どう見ても大丈夫ではない。
「ちずるさん。ぼくはいいですから、澪さんを温めて……」
「――いや、このまま眠ってもらいましょう」
あまりなちずるの言葉に、耕太は言葉を失った。
「そ、そんな、ちずるさん、それは」
「うむ……そのほうがよいな」
「く、熊田《くまだ》さんまで!」
「そうなれば、わたしが澪《みお》を抱えることができる。弟御もそれほど楽ではなさそうだ」
「へっ、まだまだおれは平気だよ」
強がるたゆらの顔は青い。
「ちょっと待ってくださいよ! いったいなにをいってるんですか。こんな状況で眠ったら、澪さん、死んでしまいますよ!」
「だ、だいじょぶ、です……」
澪の表情が夢見るようなものになってきた。
半分凍りついた顔で、えへえへと笑い始める。やばい。とてもやばい。
「ちずるさん!」
「だいじょうぶだってば、耕太くん。澪はなんの化生《けしょう》だと思っているの?」
「な、なんの化生?」
化生とはたしか妖怪《ようかい》のことで、えーと。
「半分、かえるさん……」
「かえるは冬になると、どうなるの?」
「どうなるって……まさか……」
「そう。冬眠するの」
「と、冬眠!?」
「小山田《おやまだ》よ……。澪はな、この季節になると、普段でも動きが鈍くなり、うつらうつらとよく眠るようになるのだ。それがこの寒さ、この吹雪。思わず冬眠したくなってもおかしくはなかろう?」
「つ、つまり、澪さんは」
「冬眠しかけてるのよね」
いわれてみると、澪の眼《め》はしょぼしょぼとなっていた。
ゆっくりとまぶたが降り、あわてた様子でぱっと上がる。それのくり返しだ。だんだんと眼を閉じている時間が長くなってきたようだ。
妖怪も……大変なんだなあ。
――吹雪が向きを変える。
「ぷふっ」
耕太はまともに雪の粒を喰《く》らってしまい、あわてて顔を伏せた。
「だいじょうぶ、耕太くん!」
「うう……ち、ちずるさん。いつもはここって、ヴァージン・スノーなんですよね? しんしんと雪が降る、静かなところなんですよね? それがどうして、こんな」
大吹雪なのか。
耕太一行がこの悪天候にもほどがある地にやってきて、もうかなりの時が経《た》っていた。すくなくとも耕太にはそう感じられた。
「たぶんね……だいだらぼっちが目覚めるからだと思う」
「だ、だいだらぼっち? だいだらぼっちって、あの……」
三珠《みたま》が語っていた、だいだらぼっちだろうか。
山を造った大巨人という……耕太は三珠に対するかすかな痛みとともに思いだした。
「うん。だいだらぼっちが目覚めるから、それを隠すために、こんな大吹雪を起こしているんだと思うの。あのひとのところには雪女軍団がいるから……でも、まだ目覚めの時期じゃあないはずなのに、どうしてこんなおかしな時期に」
「ゆ、雪女軍団? あの、それって」
問いかけようとしたとき、吹雪が一段と強くなった。
いままでにないほどの強さだ。
耕太は身を屈《かが》め、こらえるも、こらえきれず、身体が傾き、片足が浮き――。
「う……わぁあああああ!」
ついには転がってしまう。
なおも嵐《あらし》は強まり、耕太の身体は転がりつつも浮きあがり、飛ばされた。「耕太くーん!」というちずるの声が、どんどん遠ざかってゆく。
「うわ、あわ」
耕太は両手両足をつっぱらせて、どうにか雪原にしがみついた。
しかし吹きすさぶ雪のいきおいは弱まらない。ちずるたちを探そうにも、顔をあげることすらできない。雪の上に伏せているうちに、みるみる身体は冷えていった。
「こ、これって……」
妖気《ようき》が混じった雪だとちずるはいった。
雪女が吹雪《ふぶ》かせているならそれも当然だろう。ちずるですら力を奪われる雪、人間の耕太ではひとたまりもない。いままで耕太がまがりなりにも無事だったのは、きっとちずるがそばにいて、守ってくれていたからなのだ。
うつぶせの身体に、雪がへばりついてゆく。
「ちずる……さん……」
視界が薄暗くなってきた。
ぶんぶんと耕太は首を振る。意識をどうにかはっきりさせた。
「そうだ!」
耕太はマフラーを握った。
首に巻いた二本のマフラーのうち、赤いよれよれのほうだ。
このマフラーは、見た目こそ少々いびつだが、ちずるの毛やらなにやら、いろんなものを混ぜこんだ、ちずる特製マフラーだ。だからこのマフラーを通して、ちずるの力を得て、耕太は狐《きつね》の姿に変化することができる。半妖《はんよう》になれる。
――だが。
「だめか……」
妖気《ようき》混じりの雪――妖雪《ようせつ》のせいだろうか。どう念じても、力は伝わってこなかった。
「も……う……だめ……か……も」
冷え切ってしまった身体は、しびれ、ついに感覚すら無くなってきた。
自然にまぶたが落ちてくる。さきほどの澪《みお》とおなじだ。だが、妖怪《ようかい》ならぬ人間である耕太は、眠ってしまえばもうそのまま、春になっても目覚めることはないだろう。
永遠の眠りにつくのだ。
「ちず……る……」
闇《やみ》に包まれかけた視界に、幾人もの影が浮かぶ。
ひとつが近づいてきた。
なにやら奇妙な格好をしているようだ。着物のようだが、丈がやけに短い。両手両足があらわになっている。いちおう、編み目のようなもので手足が覆われてはいるようだが、この猛吹雪のなか、ありえる格好ではなかった。
なんか……どこかで見たことが、あるよーな……。
ぼーっとなってきた意識で、耕太は思った。
ああ……忍者だ、これ。
それも時代劇で、いつもお風呂《ふろ》に入って、悪代官に覗《のぞ》かれて、忍術でお湯を浴びせて追い払うような、そんなセクシーくのいちの装束によく似ていた。
でも……まさか……。
セクシーくのいちのひとりが、耕太のそばに来て、身を屈《かが》める。
彼女は口元をマフラーで覆い、蒼《あお》い髪はポニーテールのかたちでまとめていた。どちらも吹雪にいきおいよくはためいている。目元は鋭く、冷たい。
「少年。おい、少年……」
それが耕太の最後の記憶だった。
「――で、ようやくわたしたちが見つけだしたときは、耕太くん、もう意識がなくて」
耕太は見知らぬ和室の、ひとつふとんのなかで、ちずるの話を聞き終えた。
「そっか……だから、こんな格好で」
耕太もちずるも望《のぞむ》もすっぱだかで、三人、おなじふとんのなかに入っていたのは、そういうわけだったのだ。
すべては雪山で遭難した耕太を助けるため。
凍死しかけた耕太を、裸で抱きついて温めてくれていたのだ。
「ありがとう、ございます」
耕太はふとんのなか、自分の上に重なっている狐耳《きつねみみ》のちずると、狼耳《おおかみみみ》の望《のぞむ》、ふたりに向かって、ぺこりと頭をさげた。
「もう、耕太くんったら……そんなのいいの。わたしはね、耕太くんのためなら、どんなことだってしてあげられるんだから」
「そうだよ耕太。生ぐさいよ。わたしと耕太のなかだよ」
「それをいうなら水くさいでしょ。バカ」
うん? と望は首を傾《かし》げた。
ちずるは笑う。耕太も笑った。望も笑う。三人で笑いあった。
笑い終えて、ちずると望が抱きついてくる。
目尻《めじり》の涙をそっとぬぐい、耕太の首に腕をまわしてきた。頬《ほお》をすりつけてくる。耕太もそれぞれを抱き返した。腰に手をまわす。
するん、とふたりの肌が、耕太の肌をこすった。背中が手に触れた。
あ……。
そうか、ぼくたち裸だったんだ、といまさらながら耕太は意識した。
意識してしまった。
「あ、あ、あ」
「――あ?」
「……うん?」
手で押さえようとするも、耕太の腕はちずると望、ふたりの腰にまわすために、彼女らの身体の下敷きになってしまっていた。自由にならない。
そしてふたりは、耕太の左右に、均等になって重なっている。
つまり、耕太の真ん中には、ちょうどぴったりと彼女らがくっついているわけで。
ちずるはしっとり。
望はさらさら。
そんな違った感触を味わいながら、ふたりのあいだに割って入ってしまうものがあった。耕太の一部ながら、耕太の意志の利かないもの。思わずびくつき、腰を引いてしまうもの。
ちずると望が、身体を起こす。
振りむいた。ふとんごしに、耕太の腰のあたりを見た。そこは自分たちの腰のあたりでもあった。思いきりふたりではさみつけているところでもあった。
「や、やや、あの、うぃ、これは、そのお」
ふたりの獣の耳が、びびんと立つ。
「……よかった。耕太くん、本当に元気になって」
「うん。ホントに耕太、すっこい元気だね」
うふふふふ……と微笑《ほほえ》まれた。
「あは、あはははは」
「うふふふふ……」
しばらく三人で笑いあった。さきほどの笑いと違う、どこか後ろ暗い笑いだ。
「ホントに耕太、元気で……熱い」
うひゃあ! 耕太はびくびくと震えた。
「ちょっとちょっとちょっと、バカイヌ、いったいなにをやってるのよ!」
「イヌじゃないよ、わたしオオカミだよ……ほら、ちずるも」
「ほらってあなた……わ。本当だ、熱い……」
「硬いよね」
「うん、硬い……」
「大きいよね」
「うん、大きい……」
はっ、とちずるが我に返った。ぱちぱちとまばたきをする。
「こ、これはわたしのなんだから! あなたは触っちゃダメ!」
「ち、ちずるさんも触っちゃダメです!」
「えー、ずるいよ、ちずるばっかり」
「せめてわたしが満足してからにしなさい。さあ、離した離した」
「えー、わたしも触りたい」
「ぼ、ぼぼぼ、ぼくの意見はー!?」
「もう、離せっていってるのに……えーい、こうなったら」
ちずるが身を返した。
ふとんのなかに潜りこむ。狐《きつね》のしっぽが飛びだし、耕太の顔面にぺしっと当たった。
「うひゃ……あ、あの、ちずるさん? ……ひ!」
耕太はのけぞった。
「あおあ? こ、これ……なに? おもち? つきたてのおもち? おもちにぼく、はさまれて……むっちりむにむに? うわあああああ!」
耕太は暴れる。
「だ、だめ! だめですちずるさん! むにむに、だめぇ!」
叫んだ瞬間、部屋のふすまが開く。
「こらこら、あなたたち。耕太さんはまだまだ安静にしてなくてはいけないんですよ。いったいなにを騒いで――」
畳の上に踏みだした白い足袋《たび》が、ぴたりと止まった。
耕太は背をそらしながら、部屋に入ってきた相手を、おそるおそる見あげる。
「あ……」
着物だ。
濃紺の着物を着た女性が、たもとで口元を覆っていた。
腰の高い位置に、淡い橙《だいだい》の帯を締めている。きっちりとあわせられた胸元に、彼女の前髪が降りていた。
首筋は鮮やかに白い。
耕太たちの惨状を見てぱちぱちとまばたきしている眼《め》は、すらりと切れあがっていた。前髪は真ん中で分けられ、驚きにあがった眉《まゆ》にかかりながら、胸元へと垂れてゆく。後ろ髪はまとめて、ひとつのおだんごにしてあるらしい。
いわゆる――旅館の女将《おかみ》さんに見えた。
「あらあらあら、まあまあまあ……」
女将さんが頬《ほお》に手を当て、長々と吐息をついた。
「いくら身体を温めるためとはいえ……ちょっとそれは、やりすぎではないかしら」
「い、いえ、あの、あのう!」
言い訳のしようもないのだが、どうにか説明しようとしたとき、耕太の真上でぷっくりとふくらんでいたふとんが、もこもこと動く。
ふとんが耕太の足下からはねのけられた。金髪と、狐《きつね》の耳があらわれる。
「どうしたの? 耕太くん」
ちずるが身を起こしていた。
耕太のほうを振りむきかけて、横に立つ女性に気づき、見あげる。たわわな胸が、たわわわ〜んと上下に揺れた。むっちりむにむにのつきたておもちが。
「なんだ、母さんじゃない。なあに?」
え。
耕太は口を大きく開けた。声はでない。驚きすぎると、人間、声もでないのだと耕太は知った。
「なんだ母さんか、じゃありません」
ちずるに母と呼ばれた女性は、顔をかすかに背けた。ほんのりと頬が赤い。
「いったいあなたはなにをやって――」
にゅっ、と耕太の横から望《のぞむ》が顔をだした。がう? と首を曲げる。
はあ、とちずるの母がため息をついた。
「あのね、あなたたち。ちずるさんも、狼《おおかみ》のお嬢さんも、そして耕太さんも。若いのだからしかたがないのかもしれないけど、耕太さんは危ないところだったのよ。そういうことはいまは我慢して、おとなしく安静に……するのは、無理かしらねえ」
ちら、とちずるを見た。
正確には、ちずるの下を見た。
「もう、いやだわ」
耕太は、なにやらさきほどから、腰がすーすーすることに気づいた。
「あ……あ……あ……」
自分で隠す前に、ちずるがばたりとふとんごと前に倒れた。
「なに見てるのよ! これはわたしの!」
「あなたが見せつけたんじゃないの。この子ったら、もう」
耕太の顔には血がぎゅっと集まり、続けてさぁーっと引いた。
泣きそうだった。でも男の子だからがまんした。唇を噛《か》んで、鼻の奥がつーんとなるのを懸命にこらえた。あうう。
「――お連れいたしました」
ふすまの向こうから、女性の声が聞こえてきた。低いながらもよく通る声だ。
「どうぞ、雪花《ゆきはな》さん、みなさんに入っていただいて。耕太さんは、もうすっかり元気になってしまったようですから。ね?」
ちずるの母は耕太たちを見おろし、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「では失礼いたします。さあ、みなさん、なかへ」
奥でふすまの開く音がした。ぞろぞろと足音が近づいてくる。
「失礼いたします」
すっと部屋のふすまが開いた。
あらわれたのは、すらりと背の高い、見知らぬ女性だ。
ちずるの母とおなじく着物姿でいた。ただしこちらは、ちずるの母の濃紺の落ちついた雰囲気の着物とは違い、白地に青い花が描かれた、清楚《せいそ》な感じの生地である。彼女のしっとりした蒼《あお》い……青というより蒼い色の髪によくあっていた。
女性の眼《め》はすこし鋭く、すこし冷たい印象を受ける。
あまり化粧気はない。髪もざっとまとめてポニーテールにしているようだ。太めの眉《まゆ》に前髪がかかり、もみあげの部分は太く長かった。
あれ、このひと……?
畳の上を、足袋《たび》を履いた足で音もなく歩く女性に、耕太はなにやら胸がざわめいた。たしかに会ったことはないはずなのに……なぜか知っているような。
ちらりと女性が耕太を見た。
その鋭さと冷たさに、ああ、と耕太は思った。
あれはそう、吹雪のなかで――。
「あの、ぼくのこと助けてくれたのは、もしかして」
女性は黙って会釈する。
ちずるの母の後ろに控えた白い着物姿の女性を、耕太はやっぱり、と見つめる。でもあのときは、たしか、セクシーくのいちの姿で……。あれって、幻覚?
「おー、ようやく起きたかー……って、おまえら、なんだよその格好は」
たゆらが入ってきた。まだ銀狐《ぎんぎつね》の姿のままだ。
なんだよその格好、といわれた耕太は身をすくめる。
耕太、ちずる、望《のぞむ》の三人は、ぴったり寄りそって座った上から、ふとんをまきつけて、そこから顔だけを覗《のぞ》かせていた。狐耳《きつねみみ》、人間、狼耳《おおかみみみ》がふとんから飛びだしている。中身はいまだにすっぽんぽんのぽんだ。
だって、着替えがないんだもん……。
耕太はうつむく。すぐに見あげた。
「たゆらくんこそ、その格好は……?」
たゆらはなにやら紺色のハッピをはおっていた。
お祭りで着るようなハッピだ。胸元には筆書き風の文字で〈玉ノ湯〉と刺繍《ししゅう》されている。
「たゆら。おまえ、どうしてうちのハッピなんか着てるわけ?」
横のちずるが不機嫌そうに睨《にら》みあげていた。
「うちのハッピ……? ということは、ここはちずるさんの家なんですか? でも……ハッピ? 〈玉ノ湯〉って、あの」
「まー、すぐにわかるさ。どーせおまえらも着ることになるんだ」
たゆらは肩を落としていた。狐のしっぽも垂れさがっていた。
「ぼくが? ハッピを?」
「それはどういう意味よ、たゆら」
「――おお、小山田よ、元気になったようだな」
大きな男が姿を見せる。
熊田《くまだ》だ。こちらもまた、特大サイズのハッピを着ていた。
「く、熊田さんまで」
「いったい、あなたたち……」
ぐああああおおおおお。
耕太たちの問いをさえぎるように、熊田は大あくびをした。地鳴りに似た音をあげる。
「い、いきなりなんなのよ、熊《くま》公!」
「む、む……すまん。小山田が無事、意識を取り戻したと聞いてな、安心したせいかな……少々気がゆるんでしまったようだ。ゆるしてくれい」
目元をこすった。
「い、いえ。こちらこそすみません。ご心配、おかけしてしまったみたいで」
「謝らねばならんのはわたしだ……。あの猛吹雪のなか、よもやおぬしを見失ってしまおうとは。あとすこし発見が遅かったら、いったいどうなっておったのか、考えるだに寒気がする。すまん。一生のふ、か、く……」
ぐわあぉあぉあ。
「あのね、熊田」
大あくびしかけた熊田を、ちずるがじとりと睨む。
「――やだ! おれ、いかない!」
ぱたん、と口を閉じた熊田の後ろで、なにやら騒ぎが起こる。
かん高いこの声は……。
「あのバカ、さんざん心配かけやがって、なあ?」
たゆらがにやりと笑った。
「そ、そんなこといわないで、みんな、心配して来てくれたんだから」
「心配、うそ! あいつら、きっと遊びに来たついで!」
その言葉に、たゆらと熊田《くまだ》はぽりぽりと頬《ほお》をかく。ちずるはふん、と鼻で笑って、望《のぞむ》はきょろきょろと室内を見まわしていた。耳をぴこぴこと動かしている。
「き、桐山《きりやま》くん……ね? ね?」
「う……うううううー」
澪《みお》の声に、うなりながら彼は、熊田の陰からあらわれた。
「桐山さん……」
思わず耕太は安堵《あんど》の声を洩《も》らした。
ぴんぴんに尖《とが》らせた茶髪の髪、ぎんぎんに尖った目つき、耕太よりやや大きい程度の体格ながら、発せられるぴりぴりとした雰囲気……まったく変わらない。
なんども耕太たちが捜した相手。
冬に山ごもりして行方不明となった男、桐山だ。
「よかった、無事で。本当、よかったです」
「う……。お、小山田」
なぜか桐山は薄い眉《まゆ》を逆立て、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。不機嫌なのかと思えば、唇はもごもごと動き、こちらは気弱に見える。
「う、うるさい! 小山田、おまえ、おれのこと迎えに来ておいて、遭難する、丸だしバカ! お人好しすぎ! そもそもおれ、子供違う! 戦士! 迎えいらない!」
「き、桐山くん!」
澪がたしなめる。
ふん、とそっぽを向いてしまった桐山を、澪がそれでも諭そうとする。彼女の眼《め》は赤かった。さぞかし泣きはらしたのだろう。だがそれは、いままでの悲しみの涙ではなく、喜びの涙なのだ。
よかった、本当に……。
耕太はしみじみ思った。
しみじみ思って、首を傾《かし》げる。
なぜに……みんな、あんな格好をしているんだろ?
桐山もみなとおなじく、〈玉ノ湯〉のハッピをはおっていた。下はワイシャツでズボンは学校のものなので、おそらくは制服姿のまま山ごもりしたのだろう。
澪にいたっては着物姿だ。
ちずるの母、耕太を助けてくれた女性とおなじく和装だが、澪の場合は薄桃色の、おかっぱ頭によく似合う、かわいらしいものだ。
これではまるで――。
「なんだか……みなさん、旅館の人みたいな格好、してますよね」
思わず口をでた言葉に、ちずるの母が、あら、と声をあげた。
「ちずるさん。あなた、耕太さんになんにも話してないの?」
「べつに」
ぶすっとちずるは答えた。なぜかさっきから不機嫌そうだ。
「べつにじゃないでしょう。なにも知らされなかったら、耕太さんだって驚くに決まってるじゃないの。……あ、驚かせあげたかったの? ふふ、かわいいところあるわねえ」
「驚くどころかこっちが驚いたってば! なんなのよいったい、あの猛吹雪は! あやうく死にかけたじゃないの!」
「……だ、そうですけど。雪花《ゆきはな》さん?」
ちずるの母は、後ろに控えている女性を見た。
雪花と呼ばれた女性が、はい、と返事をする。
「我々は山の表、スキー場にてお待ちしておりましたが、よもや〈門〉でいらっしゃるとは思いませんで……ちずるさま、申し訳ありませんでした」
頭を深々とさげた。蒼《あお》いポニーテールが背中から肩口へと落ちる。
「だ、そうですけど。どうして普通に来なかったの、ちずるさん」
「……いろいろあったのよ、いろいろ」
「いろいろ、ねえ」
ふふ、とちずるの母は微笑《ほほえ》んだ。
「まあ、それはおいおいうかがうとして。じゃあ、耕太さんはなにも知らないのね? わたしのこと、この家のこと、ちずるさんがいま家出していることも」
「い、家出?」
「余計なことはいわなくていいったら!」
がるる、と母親に向かってちずるは鋭い八重歯を覗《のぞ》かせた。
家出中……だから、なんだか機嫌が悪いのだろうか。
「では、まず自己紹介から始めなくてはいけないわね」
すっとちずるの母は正座した。後ろの女性、雪花もそれに従う。
「わたくしはちずるの母、そしてこの温泉旅館〈玉ノ湯〉の女将《おかみ》を務めさせていただいております、玉藻《たまも》ともうします。こちらは雪花」
「雪花です。〈玉ノ湯〉の女中頭を務めさせていただいております」
ふたりそろって、三つ指をついてしずしずと頭をさげた。
「どうぞ、よろしく……」
「こ、こちらこそ、ぼくはちずるさんの、あの、その」
恋人を務めさせていただいておりますぅと、か細い声でつけ加える。
「小山田、耕太ともうしますっ! よろしくお願いいたしますっ!」
頭をさげた。
「きゃっ」
小さな悲鳴があがった。
え? と耕太が見あげると、澪《みお》が顔を両腕のたもとで覆っていた。たゆらはぶふっと吹きだし、桐山《きりやま》は「バカ」と呟《つぶや》く。熊田《くまだ》はまたも大きくあくびしていた。
「あ? え? お?」
ちずるの母、玉藻《たまも》たちに倣《なら》って三つ指をついてしまったため、耕太は身体を覆っていたふとんの合わせ目から、すっかりはみだしていた。肩が、背中が、腰が、もしかしたらお尻《しり》までもが、つるんと剥《む》きだし、生まれたままの姿をさらしている。
「あらあら、まあまあ」
玉藻は頬《ほお》に手を当て、困ったように眉《まゆ》を下げていた。後ろの雪花《ゆきはな》はその涼しげな眼《め》で、涼しーく見つめているばかり。
「あう……」
縮こまった耕太の背に、ふとんが覆いかぶさる。
ちずると望《のぞむ》が、ふとんと一緒に耕太のとなりに伏せていた。
「耕太くんの恋人を務めてる源《みなもと》ちずるよ!」
「耕太のアイジンをがんばってる、犹守《えぞもり》望《のぞむ》……。これからもがんばる、ばり、ます」
「そんなことはがんばるなっ!」
ちずるがきーっ、と耕太ごしに歯を剥《む》いた。
ほほほほ……と玉藻が笑う。
「ちずるさん、べつにあなたまで自己紹介しなくてもいいのよ? まあ、それにしても……人は見かけによらないというけれど、耕太さんはすごいわねえ。その若さで、恋人と愛人の三人連れで、たいしたもめごともなく、うまくいかせてるなんて」
「これのどこがうまくいってるように見えるのよ!」
ちずるが身体を起こしかける。
浮きあがりかけたふとんは、耕太があわててちずるの背を押さえたために、元通り沈む。うー、とちずるはうなっていた。
「え、ええと、玉藻さんに、雪花さんですよね、あのー、そうだ、この吹雪って……」
ん?
耕太は伏せてふとんから頭だけをだした姿勢のままで、首を傾《かし》げた。
「玉藻って……どこかで聞いたような、気が……」
「はくめんこんもーきゅーびのきつね」
となりでちずるが呟いた。
「白面?」
「金毛」
「九尾の……」
「はーい、狐《きつね》でーす」
玉藻《たまも》は両手を斜め上に広げていた。
Yの字になった玉藻が、あら、とまわりを見やる。
「……外しちゃったかしら」
「いえ、ただみなさん、状況が把握できていないだけかと思われます」
雪花《ゆきはな》の冷静な言葉に、耕太は我に返った。
「……白面金毛九尾の狐って、あの……しっぽが」
「はーい、しっぽが九本、生えてまーす」
玉藻は正座した姿勢のまま、腰をひねって耕太に向け、くいくいと動かした。
くいっとお尻《しり》をあげた姿勢のまま、玉藻はあら、と呟《つぶや》く。
「……ちょっとはしたなかったかしら」
「いえ、まだみなさん、状況を把握しきれていないだけかと思われます。はしたなさでいうならば、彼らのほうがよほどひどいわけですし」
雪花の声もほとんど耕太の耳には入ってこなかった。
九尾の狐――。
図書室で読んだ本の内容が、思い起こされる。
九尾の狐は、とーっても強い、狐の大|妖怪《ようかい》なんだよ。
ものすごく悪い妖怪で――みんなほろぼしてしまって――とうとう日本にも来て――玉藻の前というきれいな女の子に化けて――。
「玉藻の、前……」
「あら、なつかしい呼び名」
うふ、と玉藻が微笑《ほほえ》む。
「まさかぁ!」
「その……まさかなのよね」
ちずるがため息をつく。
「こいつは、正真正銘、白面金毛九尾の狐なの。史上最凶最悪の大大大妖怪なの。全米号泣なの。どう、耕太くん。そんなのが母親についてくる恋人って……」
「いや……あの、どうといわれましても」
「あ。ほら、始まった」
ふえ? 耕太はちずるが指さす方向を見る。
玉藻がまぶたを閉じていた。
正座したままで、身じろぎひとつしない。
「えと……」
ぶるり、と横で望《のぞむ》が震える。
望《のぞむ》は眼《め》を大きく見開き、狼《おおかみ》の耳をぴんと立てていた。その毛なみは逆立ち、耕太の肌に触れている彼女の素肌も、ぴりぴりと鳥肌を立てていた。
「の、望さん?」
「ほら、来たよ、耕太くん」
ちずるの声とともに玉藻《たまも》のまわりに、黒いもやが漂いだした。
自分の眼がどうかしたのかと、耕太はなんどもまばたきする。しかし埃《ほこり》のようなもやは晴れず、どんどん色合いを濃くして、玉藻を包みこんでいった。
すっぽりと玉藻がくるまれる。
――しゅるり。
金色のなにかが、黒いもやから顔を覗《のぞ》かせた。一瞬だけだったが、なにやら細く長い。しゅるり、しゅるり。一本、二本、つぎつぎに増え、もやのなかをうごめいているようだ。金色のなにかが姿を見せるたび、黒いもやは広がってゆく。
暗黒のもやに、穴が開いた。
小さな穴だ。わずかなすきまから、玉藻の顔が見えた。
すっと玉藻はまぶたを開く。
その瞳《ひとみ》は――金色。
とたんに黒もやはかき消えた。
まるで朝日に溶ける朝もやのように。あっというまに消えてなくなって、そうして姿を見せたのは、いま耕太のとなりに伏せている恋人とおなじ、狐耳《きつねみみ》の女性だ。黒髪は金色に照り映え、おだんごだった後ろ髪はほどけて散り、背に広がっている。濃紺の着物はいかなる術か、血のような紅《あか》に染まっていた。
背後でうごめくのは、しっぽたち。
ちずるとは違う――九本のしっぽたち。
しん、と耕太は冷えた。
暖かいはずなのに。ふとんに入って、ふたりの女の子が裸でぴとりと寄りそい、耕太を温めてくれているはずなのに、冷えた。心が冷えると、身体まで冷えるのだろうか。ぶるりと震える。望も変わらず鳥肌を立てたまま、耕太にあわせるように震えた。
玉藻が――九尾の狐が微笑《ほほえ》んだ。着物とおなじく、紅い唇で。
「ふふっ……すこし驚かせてしまったかしら……? でもね」
音もなく背を向けた。
腰を浮かす。わさわさとしっぽがうごめくお尻《しり》を見せつけてきた。
「ほらほら、本物よ? どう、これ、すごいでしょ?」
玉藻はふりふりとお尻を振る。
耕太は声もでない。やがてお尻の振り子運動は止まった。
「……ねえ、すごくない?」
「は」
「ほら、よく見て」
「や。あ。は。……えと、はい、すごいです」
「どこが?」
お尻《しり》を突きだしたまま、玉藻《たまも》は首だけを曲げて耕太を見つめている。
「え。う。お。……えと、九本も、その、しっぽが生えていて」
「もう、違うでしょう。わたしは九尾の狐《きつね》なんだから、九本もしっぽが生えているのは当たり前でしょう。ほら、よく見て。このしっぽ、布地をすり抜けているでしょう?」
耕太は目を凝らす。
なるほど。しっぽはたしかに、緋《ひ》色の着物を通りぬけて生えていた。
「ふーんだ」
ちずるが声をあげた。
「そんなの、わたしだってできるもの。布を通りぬけることぐらい、大したことじゃない」
そういうなり、しっぽがふとんを突きぬけてでてきた。
こちらもきちんとふとんを通りぬけている。玉藻のしっぽと比べると、数が違うからだろうか、ちずるのしっぽは太めだ。玉藻は細く、長い。
「あれ? でもちずるさん、狐の姿になるとき、いつもスカートの裾《すそ》からしっぽをだしていて……」
「それはね、耕太さん。わざと露出が多くなるようにしているのよ。わざと下着をずらして、スカートをまくりあげて……あなたに見せつけているの。だってちーちゃんったら、ものすごくいやらしいんですもの」
「な、なに勝手に決めつけてるのよ!」
「あら? 違うの? だったらどうして?」
「う……」
ちずるはもぞもぞとふとんに潜った。
「図星じゃないの、この子ったら」
「う、うるさーい。さっきから垂《た》れ尻《じり》をぷりぷり振って、年を考えなさいよ、このエロエロババアー」
ふとんの奥から声を洩《も》らした。
「へーえ、どの口がそんなことをいうのやら。どれどれ、見てみましょう」
玉藻《たまも》が、ふとんから飛びだしている太い、金毛のしっぽをつかんだ。
引っぱる。
すぽん。
ふとんの厚い生地をすり抜け、ちずるの身体が飛びだした。
ばいーん、ぼいーん。胸が揺れる。わお。
「――やだあ!」
揺れる胸をちずるが手で隠した。ふとんのなかに頭から飛びこむ。しっぽが消えたと思ったら、顔をだした。
「な、なにやってんのよ、バカ!」
「あら、なーにー? いつものあなたなら、裸なんか見られたってどうってことないでしように。前のあなたなら[#「前のあなたなら」に傍点]ね」
「前のわたしとはもう違うのよ! 耕太くんに見られるのは平気だけど、ううん、むしろ見てもらいたいけど……」
真っ赤な顔で、じとりとまわりを見た。
澪《みお》はおなじように真っ赤な顔をたもとで隠し、たゆらは「へえ……」と眼《め》を丸くしている。桐山《きりやま》は「バカ」と呟《つぶや》き、熊田《くまだ》はむにゃむにゃとまぶたを閉じていた。
耕太の眼も、たゆらとおなじく丸くなる。
こんな恥ずかしそうなちずるは、いままで見たことがない!
「ふうん?」
玉藻はにこりと笑みを浮かべた。
「家出娘が、どこをほっつき歩いているのかと思ったら、大切なひとを作って帰ってくるとはね……。四百歳の年増《としま》が、こーんなかわいい坊やを恋人なんて……雪花《ゆきはな》、こういうのってどういうのかしら」
「犯罪、ですか」
「雪花、あなたねえ!」
ちずるは身を乗りだそうとする。耕太はあわててちずるを押さえた。
「ちずるさん、見える、見えちゃいますから」
「うううう〜〜〜〜、このババア! わたしが四百歳で年増《としま》なら、あなたは推定年齢四千歳の大大大年増じゃない! 耕太くんに色目なんか使わないでよ!」
ぬふふふー、と玉藻《たまも》がちずるの前にしゃがみこむ。
「だって耕太さん、こんなにかわいいんですもの、しかたないじゃなーいー?」
「娘の彼氏よ! それでも親!」
「親である前にわたくし、女ですから……」
「うるさいババア! エロババア!」
「ババア、ババアって……あなただって、本当に四百歳かどうかは、わからないんでしょうが〜〜〜〜〜〜〜」
玉藻はちずるの両|頬《ほお》をつまんだ。
横に引っぱる。引っぱる引っぱる引っぱる。
「ひぁいひぁいひぁい」
痛い痛い痛い。
ちずるは手をじたばたと動かす。耕太は、なんとなくちずるが家出した理由がわかったような気がした。
「あ、あの、もうそのへんで」
助け船をだした耕太を、ちらりと玉藻が見る。
玉藻の手は外れた。ちずるの頬を、最後ににゅーっと引っぱってから、だったが。
「いたーい!」
ちずるは頬を押さえて屈《かが》みこんだ。
耕太はちずるの手の上から、頬をさすってやる。狐耳《きつねみみ》がぺたんとつぶれていた。
「へえ……」
玉藻が耕太を覗《のぞ》きこんでくる。耕太は縮こまった。
「かわいい顔して、なかなか勇気があるじゃない。まあ……たしかに、アレはなかなかの暴れん坊だったし、ねえ?」
「あ、う」
耕太はふとんのなかで、ぱっと手を内ももにはさんだ。
「――玉藻さま、少々、品が」
雪花《ゆきはな》の声はあくまで静かだった。
「あらあら、いやだわ。この姿になると、どうもしまりが悪くなってしまって……。おほほほほほほ……」
笑いながら、またも玉藻は黒いもやに包みこまれた。
すっぽりと全身を呑《の》みこませる。はみだしていた九本のしっぽも、しゅるしゅるしゅるとなかに消えていった。
黒もやがかき消えると、そこには元の女将《おかみ》さんがいた。
濃紺の着物で、黒髪を後ろで大きなおだんごにしてまとめている姿に、耕太はほっと息をはく。
「失礼いたしました……」
頭をさげる。雪花《ゆきはな》も一緒に頭をさげていた。
黙って見つめていた耕太の脳裏に、ふとよぎるものがある。
この人が九尾の狐《きつね》。
それじゃあ、その娘であるちずるさんは、やっぱり……。
「あのー、すみません」
「なにかしら、耕太さん。なんでも訊《き》いてくださいな」
「ちずるさんのお母さんである玉藻《たまも》さんが、九尾の狐さんということは、その……。ちずるさんもやっぱり、九尾の狐さん……?」
玉藻はちらりとちずるを見る。
「この子ったら、本当になんにも説明してないのねえ」
「う、うるさい」
ぐすっ、とちずるは鼻をすすった。さきほどのほっぺ引っぱりがよほど効いたらしい。
「だいじょうぶですか、ちずるさん」
「ありがと、耕太くん……」
赤い頬《ほお》で、ちずるはにっこり笑う。
「あのね、このひととわたし……血、つながってないの。拾われたの。四百年前に」
「……え」
「たゆらとわたしの関係と、似たようなものかな。偶然に出会って、なにか惹《ひ》かれるものがあって、気まぐれかなにか、家族になって――たゆらはわたしの弟になったけど、このひととわたしの場合」
「わたしのかわいいかわいい娘になったというわけなんです」
うふふふ……と玉藻は上品に笑う。
はあ、としか耕太にはいえない。
ちずるとたゆらの関係――。
ふたりは姉弟だが、血はつながっていない。たゆらをそっとうかがうと、居心地悪そうに頬をぽりぽりかいていた。なるほど、血のつながってない姉の、さらに血のつながってない母親となれば、どう接すればいいのか難しいのだろう。
「いまでこそこの子はこんな風になってしまったけれど、昔は本当にかわいくてねえ……。なんでもはいはいと素直に話をよく聞いて、優しい子だったんだけど。それがねえ、わたしの子供になって一年後だったかしら、いきなりここを飛びだしていってしまって。それからは癖になったのか、たまにふらりと帰ってきては、またすぐ飛びだすのくり返しで」
「い、一年? 一年って、そんなまだ小さな子供のときにですか」
「小さい? これが?」
狐《きつね》の耳のぴんと立ったちずるの頭を、玉藻《たまも》はぽんぽんと叩《たた》く。
ふみゅ、ふみゅ。ちずるは眼《め》を細めて、狐目になった。
「な、なにすんのよう……ふみゅ」
「あのころもこんな感じよ?」
「え」
「わ、わたしぃ、ふみゅ、ふみゅ、四百年前から、この姿なの」
ふみゅ、ふみゅ。ちずるは玉藻にぽんぽんと叩かれるままになっている。
「ええと、つまり、こういうことですか? ちずるさんが玉藻さんの娘になったときには、すでにこの姿、この年だったと。でも、じゃあ、どうして四百歳だなんて。四百年前に子供になって、そのときにいまの姿だったということは……その、もっと」
ふみゅ。
ん? と玉藻が手を止めて、ちずるをうながす。
「……わたしね、拾われたとき、記憶がなかったの」
ちずるは耕太をじっと見つめた。
「ただ名前だけしか覚えてないまま、ひとり、だだっぴろい草原をあてもなく立ちつくしていたとき、このひとに拾われて……。だからね、生まれた年もわからないから、このひとの娘になった日を誕生日にして……。あ、そうそう! さっきこのひとが、なんでもわたしがハイハイいうこと聞いてたっていってたけど、それはなんにも覚えてなかったからなの! すぐにこのババアの本性に気づいて、逃げだして……」
「そうして不良|狼《おおかみ》に出会って、ふたりで放浪していたのよ」
う、とちずるは黙りこんだ。不良狼……。
「兄《あに》さまだよ、きっと」
望《のぞむ》が耳元でささやいた。耕太はうなずく。望の兄、人狼《じんろう》の犹守《えぞもり》朔《さく》……。
「けっきょくはまたここに戻ってきてねえ」
「すぐにでていったでしょ!」
「そうなのよねえ。でたり入ったり、本当にいそがしい子で……。まったくとんだ放蕩《ほうとう》娘。ねえ、雪花《ゆきはな》さん、いったいどうしてなのかしら」
はい、と雪花は会釈する。
「玉藻さまとちずるさまが、なんといいますか……」
めずらしくいいよどんだ。ちらりとちずるを見る。
「……おそらくは、おふたりが、その、似ているからでは、と」
「だれが! だれがこんな性悪のエロババアと、似ているだなんて……うー!」
んふふふふふ〜〜〜〜と、玉藻が指をわきわきと動かしながら近づいてくる。
「だめですよ、ちずるさん」
ちずるの頬《ほお》に伸ばされた玉藻の手が、動きを止めた。
「お母さんにそんなこといっちゃあ……。ぼくには母親がいませんから、よくはわからないんですけど、たとえ血がつながっていなくたって、ちずるさんと玉藻《たまも》さんはやっぱり親子じゃないですか。だったら、そんな乱暴な口を聞いちゃ、いけないです」
「……だってぇ」
うー……とちずるはうつむいた。
玉藻は眼《め》を細める。
「なるほど、ね」
「なによう」
ちずるが玉藻を睨《にら》みつける。しかしその眼に先ほどまでの棘《とげ》はなかった。
「いえいえ、なんでもありませんよ。さあて、なにはともあれ、ちずるさん、耕太さん、それに狼《おおかみ》のお嬢さんも、あなたたち、そろそろお着替えというか……服をお召しになったらどうかしら」
う、と耕太は固まる。
そうなのだ。いまだ耕太たちはふとん一枚の下、すっぽんぽんのぽんなのだ。
「雪花《ゆきはな》さん」
はい、と雪花が部屋の外にでてゆく。
戻ったとき、その手にはたたんだ服が積み重なっていた。
「……これって」
耕太が着ていた服のほかに、たゆらたちがはおっているのとおなじ、〈玉ノ湯〉の字が書かれた紺色のハッピがあった。ちずると望《のぞむ》の前には、それぞれ薄桃色の着物が置かれている。澪《みお》が着ているのとおなじ柄のようだ。
「適当に見立てましたが、大きさが合わなかったらいってください」
はあ、と耕太はハッピをしげしげと眺めた。
でも、どうして……。
「ちょっと待って。どうしてわたしたちが……こんな、〈玉ノ湯〉の従業員の格好をしなくちゃいけないの?」
ちずるがぽん、と着物を叩《たた》いた。
「決まっているじゃない。あなたたちは、ここ〈玉ノ湯〉で従業員として働くのよ」
耕太は固まった。
ひと足先に硬直の解けたちずるが、ふう、と息をはく。
わなわなと震えだした。
「ど、う、し、て……」
「雪花さん」
「はい」
すばやく雪花はちずるの前に座り、着物の前の合わせ――自分の胸元に手を差し入れ、紙片を取りだした。ぱっと広げる。
「…なによ、これ」
「勘定書です」
耕太も顔を寄せ、紙に書かれた数字を読んでゆく。
いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……。
「十万、百万…………一千万?」
「なーんなのよ、これぇ!」
ちずるは雪花《ゆきはな》から「請求書 一千万円|也《なり》」と書かれた紙をひったくる。
「ですから、勘定書と」
「だから、なんだってこんなバカみたいな金額なのかって訊《き》いてるの!」
「おもに桐山《きりやま》さまの治療費です」
「き、桐山の……?」
見ると、桐山は顔をしかめ、口を真一文字に引き結んでいた。
まわりのたゆら、澪《みお》もおなじく、苦々しい顔つきだ。ただひとり熊田《くまだ》だけは眼《め》をしょぼしょぼさせているが……。すると、すでに彼らはこの話を聞いていたらしい。
「桐山さまはこの谷にて行き倒れになっていました。我々が発見したときにはほとんど凍りつきかけ、心臓は停止し、妖《あやかし》としての力も雪に奪われていました」
桐山の脇《わき》の澪が、ぎゅっと胸の前で手を組むのが見えた。
「特別製の薬を与えることで、どうにか肉体の力と妖としての力、両方を甦《よみがえ》らせることに成功しました。ですが……」
「そのお薬、すっごく高いのよねえ」
はあ、と玉藻《たまも》はため息をつく。
「それもひとつふたつでは足りず……ですので、薬代として九百九十万円です」
「残り十万円は!」
「当〈玉ノ湯〉の宿泊料となっております」
「ちょっと! なんでそんな」
「おそれながら、これでも〈玉ノ湯〉の宿代としてはかなり勉強させていただきました。当〈玉ノ湯〉は妖《あやかし》専用の保養地として、千年の歴史があり……」
「はいはいはい、わかったわかった。それで、これがいちばん重要なんだけど、どうしてこれをわたしたちが払わなくちゃいけないわけ? あのバカに払わせなさいよ!」
ぱんぱんぱん、と勘定書を叩《たた》き、ちずるは桐山を指さした。
「おれ、払ってる」
え、とちずるが声をあげた。
「まずいアレ……薬か? ずっと飲まされて、起きれるようになったと思ったら、こんどはこの格好させられて、ずっと働かされてる。働いて、払ってる。でも……」
ずずっと桐山が鼻をすする。
「ちっとも足りない。払うまでおれ、帰れない。たぶん、ずっと……ずっと……」
「き、桐山《きりやま》くん、だいじょうぶだよ。わ、わたしも、て、て、手伝うから。ね、ね?」
ふるふると震える桐山の袖《そで》を、澪《みお》がつかんでいた。
世間に……いや、貧しさに負けかけているふたりのとなりで、たゆらは腰に手を当て、深々とため息をついている。
「……ちずるさん。これは」
「安心して、耕太くん。隙《すき》を見て、こんなとこからは逃げだしてやるから」
ちずるがウィンクする。
「い、いえ。そーゆーことではなく、ぼくたちも手伝って」
「いくら手伝ったところで、一千万円なんて大金、どうにかなるわけがないもん! だいじょうぶ。わたし、家出することにかけては年期が違うから」
「年期って、あのう」
「残念ですけど、ちずるさん。それは無理よ」
玉藻《たまも》はにこにこと微笑《ほほえ》んでいた。
「ふーんだ。やってみなくちゃわからないもーん」
「雪花《ゆきはな》さん」
すっくと雪花は立ちあがり、たゆらたちが入ってきたのとは向かい側のふすまを開いた。
まずは最初のふすま。部屋と廊下のあいだにある小部屋があらわになる。続けてその奥、二枚目のふすまを開いた。
「あ……」
思わず耕太は声を洩《も》らした。
ふすまの向こうには板敷きの廊下があり、その先には庭が広がっている。緑と石が並ぶ日本庭園に、しんしんと雪が小降りになっていた。
驚くのはその向こう側だ。
なんと空は大荒れ、大吹雪なのだ。
耕太が遭難したときと変わらぬ氷の世界なのに、大粒の雪が強風で舞い狂っているのに、これも妖術《ようじゆつ》なのか、庭を見ると静かに雪が降るばかり。どうやら塀のあたりで吹雪は抑えられているようだ。
「このなかを家出するの? ちずるさん、あなたはともかく、耕太さんはどうなのかしら」
ちずるは口をあんぐりと開けたまま、言葉もない。
「あきらめろよ、ちずる……。やっぱりだいだらぼっちが目覚めかけてるんだってさ。しばらくここから動けねーよ」
たゆらがあきらめきった表情でいった。
「あの、だいだらぼっちが目覚めると、どうしてこんなに悪い天気になるんですか?」
耕太は素朴な疑問をぶつけてみる。
「山主《やまぬし》さまは、非常に寝起きが悪いのです」
雪花が答えた。
「山主《やまぬし》さま……だいだらぼっちさんのことですか」
「はい。山主さまは、目覚めると寝ぼけてどこまでも歩いていってしまい……なんといっても身体の大きさが大きさですので、簡単に人目についてしまいます。いくらこの谷には結界が張ってあるとはいえ、さすがに山主さまの大きすぎるお姿は隠しきれません。ですので、我らが吹雪というかたちで、山主さまのお身体をお隠ししようと」
「我らが吹雪を起こし……雪花《ゆきはな》さんが、ですか」
「はい。わたしは雪女ですから」
「雪女……」
耕太は眼《め》をぱちくりとさせる。
「でも、たしかあのときは、雪女というよりは、忍者さんな格好を」
びくん、と雪花が激しく身を震わせた。
肩を跳ねあげ、しばらくそのままで固まる。ゆるゆると肩のラインがなだらかになるにつれ、代わりに顔が赤く染まっていった。
「……あ、あの」
「――少年。それ以上、口にするな少年」
真っ赤な顔で、雪花は自分の口をぱっと押さえた。
ぶんぶんと首を振る。蒼《あお》いポニーテールがぶるんぶるんと振られた。
「し、失礼いたしました、小山田さま」
顔を赤くしたまま、雪花はうつむく。なんだか、複雑な事情があるらしい。
「――もしかして、わざとじゃないでしょうね」
ちずるの声はやたらと冷たかった。
「わざとだいだらぼっちを目覚めさせたんじゃないでしょうね。わたしたちが桐山《きりやま》を迎えに来ることを見越して、足止めするために、わざと。だってそうじゃない。まだだいだらぼっちの目覚める時期じゃあ、ぜんっぜんないじゃない!」
「ばかねえ、この子ったら。だれのせいで目覚めると思ってるのよ」
「ど、どういう意味よ?」
玉藻《たまも》はただ微笑《ほほえ》むばかりだ。
ぐぬぬ……とちずるは耕太の横で歯がみをする。
「ちずるさん、もうあきらめましょうよ」
「まだ! おい、熊《くま》公!」
いきおいよく熊田《くまだ》のほうを向いた。
「かわいい後輩の借金でしょ! あなた、たしか株やらなにやらで、ちょっとした小金持ちじゃない! ぱっぱっと払っちゃってよ!」
「ちずるさん、一千万円は小金じゃないのでは」
「熊田、聞いてるの熊田! 熊田?」
ちずるの声のトーンが変化した。
おや、と耕太も熊田《くまだ》を見る。
熊田の巨体は、ぐらりぐらりと揺れていた。
ついには後ろに傾き、そのまま仰向けになって派手に倒れた。床を揺らし、畳を波うたせる。ふとんに入ってる耕太の身体も、二度、三度と上下した。
「く、熊田さん!」
桐山《きりやま》と澪《みお》が、仰向けになったまま動かない大男の元へと駆けよった。
たゆらはおっとりと近づいてゆく。耕太は様子を見ようにも、いまだに裸なので、不安な思いで眺めていることしかできなかった。
「熊田さん、熊田さーん!」
大の字になった熊田を、桐山たちが揺する。たゆらは上からしげしげと覗《のぞ》きこんだ。
「んー……こりゃあ」
たゆらが耕太たちを見るのと、熊田がぐがおおお、と声をあげるのが同時だった。
「寝てるわ! 熊田の大将、爆睡だあ!」
熊田のいびきに負けないくらい大きな声で、たゆらは叫んだ。
「ね、寝てる? ちょっと熊田……。いくらお金を払うのが惜しいからって、なにもいきなり寝たふりすることはないでしょうに」
「……あの、ちずるさん。もしかして」
耕太はやたらと眠そうだった熊田の様子を思いだしていた。
おろおろしている澪を見る。
「さっき……ぼくたちが外で遭難していたとき、澪さんは冬眠しかけてましたよね」
「う、うん。だってあの子はかえるだし」
「そう……かえるさんだから、冬眠するのはしかたないんですよね。で、熊田さんは熊《くま》の妖怪《ようかい》で、熊ってたしか……冬眠、しましたよね」
あ。
みなの視線が耕太に集まる。続けて熊田に移った。
「まさか……こ、こんなタイミングで!」
「あらあら、スポンサーさんはお休みしてしまったようね。さあて、どうするの、ちずるさん。働くの? 家出するの?」
玉藻《たまも》はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。う、う、とちずるはうなる。
「なんなのよう。かわいい娘に、そんなお金を払わせるつもりなのぉ? それでも親ぁ?」
涙目でかわいく見あげた。
「それは……そうよねえ」
困ったように玉藻は眉《まゆ》と目尻《めじり》を垂れさせた。
「ちずるさんのいうとおりね。親が子に、こんなお金を請求するなんて、いけないわよね」
「ですが、玉藻さま」
雪花《ゆきはな》が玉藻の元へと駆けよる。
「いまは山主《やまぬし》さまの目覚めによって、お客さまものきなみ宿泊を取りやめられております。ほぼ収入の見こめない、いまの状況で、一千万円もの大金をこちらが肩代わりしては……」
「しかたがないでしょう、雪花《ゆきはな》さん。かわいいかわいい娘のために、千年続いた玉ノ湯がたとえつぶれてしまうとしても、それはしかたのないことだわ」
「そんな! ちずるさまのために?」
「そうよ! ちずるさんのせいで!」
「我ら従業員も解雇され……ちずるさまのおかげで」
「わたしもこの歳《とし》でゆく当てもなく……ちずるさんが原因で」
よ、よ、よ……。
ふたりで着物のたもとに顔を隠し、悲嘆に暮れあった。
「な、なによ……まるでぜんぶわたしが悪いみたいな……。耕太くん、どう思う、どう思う、あれ」
「ちずるさん……しかたありませんよ。もうみなさん、覚悟を決めてるようですし、熊田《くまだ》さんをあのままにもできませんし」
ぐぁおー、ぐぁおー、と熊田は大の字でいびきをかいていた。
「ですから、ぼくたちも」
「納得できなーい!」
ちずるの叫びは熊田のいびきを押しのけ、室内に響き渡った。
2
「働けども働けども我が暮らし、楽にならざり……じっとカードを見るってな」
てい、とハッピ姿のたゆらはトランプのカードを投げ捨てた。
すでに畳に重なっていた数枚のカードの上に、スペードの八、ハートの八と、ひと組みのカードが加わる。
「ぜんぶおまえのせいだ、おまえの。ほれ」
となりの桐山《きりやま》に、自分のカードを示す。
たゆらとおなじく〈玉ノ湯〉の従業員姿の桐山は、うー、とうなりながら、たゆらが扇形に広げているカードの裏を見つめ、指先をさまよわせた。
「おれのせい、違う。おまえの親、守銭奴なせい」
いきおいよく一枚のカードを引きぬいた。
げ、と声を洩《も》らす。
たゆらはけけけ、と笑った。やがて力なく、はあー、とため息をつく。
「あれからもう、一週間だよ……」
その場にいたもの、全員がため息をついた。
桐山も、澪《みお》も、もちろん耕太もちずるもだ。ただひとり望《のぞむ》だけは、耕太の後ろで丸くなり、着物姿のままで、すよすよと眠りこけていた。
ここは耕太たち男性陣用の部屋だ。
男性陣用の部屋兼、従業員の休憩室であった。ふすまで閉めきられたとなりの部屋からは、熊田《くまだ》のいびきが地響きとなって伝わってくる。
ああん、と着物姿のちずるが身を震わした。
「耕太くんとのクリスマスが……ふたりっきりの聖夜があ」
ちずるは薄桃色の着物を着て、長い黒髪は後ろでまとめあげている。人の目はないのだが、ちずるたちは人の姿でいた。ずっと妖怪《ようかい》の姿のままでいるとくせになって、日常生活に戻ったとき、ひょんなことからしっぽや耳をだしてしまいがちになってしまうらしい。
「しかたねーだろ。これが本当のクリスマス上等……。まー、そもそも妖怪があっちの神さまの誕生日を祝うってのもどーかと思うよ? おまえらの場合、聖夜は「聖」なる「夜」というより、「性」行為する「夜」だろうから、冒涜するのもたいがいにしろって話だし」
つまり性夜?
「たゆらくん……それってどういう意味」
「あら耕太くん。わたしはそのつもりだったけど」
「だからどういうつもりですかっ」
けっきょく、クリスマスは仕事をして終わった。
〈玉ノ湯〉で働くことになってから一週間、ずっと耕太たちに休みはない。
猛吹雪のため、お客さんはいないのだが、それならそれで仕事はいくらでもあるらしい。各部屋の拭《ふ》き掃除掃き掃除、廊下、階段、トイレ、露天風呂《ろてんぶろ》、庭、玄関、厨房《ちゅうぼう》の掃除、備品の整頓《せいとん》、洗濯、狐火《きつねび》の乾燥室《かんそうしつ》でふとん干し、ざぶとん干し……本当、いくらでも。
いまはわずかな休憩を味わっているところだ。
「まったく、じょーだん違う! あいつ、あのしっぽオンナ、オニ、アクマ!」
しっぽ女……あの蒼《あお》いポニーテールを指しているのだろう。
ポニーテールのオニアクマ、雪花《ゆきはな》の冷たい口調とまなざしを思いだし、耕太は震える。
「し、しかたないよ。わたしたち、こういうお仕事、し、したこと、ないし」
桐山《きりやま》のカードから、澪《みお》が一枚ぬきとった。
にんまりと笑みを浮かべる桐山。すぐにその笑みは怒り顔に変わった。
「それにしたって、ひどすぎ! 『文句をいう前に、はいと答えなさい。わかりましたか、雪虫たち』って――おれたちのこと、虫あつかい!」
桐山が雪花の口調を真似《まね》した。
ひどく冷たい、厳しい声を。
耕太たちを指導する立場になった女中頭の雪花は、それまでの慇懃《いんぎん》な態度を捨て、怖《おそ》ろしい鬼指導員へと変貌した。
『――幸いなことにといいますか、この天候のため、いま〈玉ノ湯〉にお客さまはひとりもいらっしゃいません。わたしの使命は、いまのうちにあなたがたを一人前の〈玉ノ湯〉の一員にすることです。わたしの指導を無事受け終えることができたなら……完璧《かんぺき》なる笑顔と気配りを持った、博愛の〈玉ノ湯〉従業員となれるでしょう。その日までは、失礼ながらあなたがたは虫です。雪虫です。雪にもなれぬ、はかない虫。おわかりですか、虫』
静かな声でそう宣言されたときには、部屋の温度が五度は下がったように感じられた。
『じっくりかわいがってあげましょう。つねにお客さまの前で、笑顔でいられるように――虫』
耕太は思いだし震えをしながら、澪《みお》のカードをぬいた。
「あ」
ジョーカーだ。
にこりと澪に微笑《ほほえ》まれる。なるほど、雪花《ゆきはな》の教えを見事に活《い》かしていた。
『――これが従業員の笑顔です。さあみなさんも――ふざけているのですか。それでお客さまが癒《いや》せるとでも。心をこめて――だめです。練習しておきなさい』
毎日、耕太は寝る前に練習した。
鏡に向かって、にへらと。
どうもうまくならないんだよなあ……。耕太はちずるに向かってカードを広げる。ちずるは迷うことなく引きぬいた。ジョーカーのカードを。
練習する必要もないほどの完璧な笑顔を見せて、ちずるはたゆらにカードを広げた。
たゆらが指先を迷わせる。
「まあ、人は見かけによらないっつーか、よるっつーか、桐山《きりやま》じゃねーけど、オニだよな、あのひとは……うっ」
たぶん、ジョーカーを引いたのだろう。たゆらの表情が曇った。
たゆらがカードをひとまとめにして、流れるような手つきでシャッフルした。桐山に向かって広げる。
「オニだオニ! あの眼《め》見てると、おれ、震え、止まらない……」
震えながら桐山はカードをぬいた。
「げっ! ま、また! こいつ、いらない!」
「いらないったってしかたねーだろ。ババぬきなんだからよ。ってゆーかな、年の瀬も近いっつーのに、こんなところでババぬきなんかしてるのも、オニに冷たい眼で見つめられるのも、みんなみんな、おまえが悪いんだぞ? なんだってわざわざこの山で修行なんかしたんだよ」
「おれ、こんなところで修行なんかしてない! 気づいたらここ、いた!」
「わけわかんねーっつーの。夢遊病なのかおまえは」
「夢はでっかいのあるけど、ビョウキ違う! おれ、最初は学校の近くの山にいた。こもって、修行しようとした。あのオオカミ男に勝つため、頑張ろう思ったら、いきなりヘンなやつにやられて」
「ヘンなやつ? ヘンなのはおまえだろ?」
びくん、と耕太は身じろぎする。ヘンなやつって、まさか……。
「あ、あの……。もしかして、ヘンなやつって、忍者の姿をした女の人じゃあ……ないですよね?」
「おまえ、なにいってる? おれやられたの、オトコ」
は、はは、と耕太は笑ってごまかす。
そうだよね、まさか、いくらなんでもぼくたちをここで働かせるためだけに、そこまではしないよね……ね?
「なんだよ、またやられたの? なんか毎回やられてねーか、桐山《きりやま》先輩」
「うるさい! おまえ、先輩に対するソンケーの念、ない! あいつ、すごく強かった。オオカミ男とおなじくらい、強くて……ヘンなオトコで、にやにやして、手から黒い光だして……ビーム! あれ、ビーム!」
たゆらが桐山のおでこに手を当てる。
「熱はないみてーだが」
桐山はたゆらの手を振り払った。
「おまえ、バカにしすぎ! あいつは……そう! 頭! あいつの頭、白と黒、混ざったヘンな頭だった!」
「白と黒……?」
はっ、となって、耕太とちずる、たゆらは顔を見あわせた。
「まさか、三珠《みたま》……!」
バスのなかで出会った奇妙な男。
〈葛《くず》の葉《は》〉の一員。耕太にどこか似ていて、耕太を好きで嫌いで、おまけに求めているらしい、男のひと……。
「やっぱりあいつ……そうか、だからバスに〈葛の葉〉が待ち受けることができたのね。桐山を引き取りに、わたしたちが来るってわかっていたから……」
「なんだ? あいつのこと、おまえら、知ってるのか?」
桐山は顔色を変えた耕太たちのことを、きょろきょろと見まわしていた。
「知っているといいますか、その」
「おい、その頭が白黒のヘンな男にやられて、そしてどうなったんだよ」
たゆらが桐山の肩を引っぱった。
「う? やられて、それで気がついたら、学校近くの山から、この山、いた。風、強い。雪、冷たい。おれ、かまいたちだから、風は平気だけど、冷たいの、ダメ。動けなくなって、冷たくなって、しびれてきて、そのうち、なにも感じなくなって……気づいたら、おまえの守銭奴な親と、あのしっぽオニオンナ、いた。まずい薬、飲まされて、動けるようになったら、一千万、払えいわれて……」
がくりとうなだれた。
「あー、あー、わかったわかった。もう思いださなくていい……おい、ちずる、耕太」
耕太とちずるはうなずく。
「〈葛《くず》の葉《は》〉にしてやられたというわけね」
「でも……どうして? なんで三珠《みたま》さんは、わざわざこんなこと?」
「決まってるだろ。おれたちをここに呼び寄せるためだよ」
「呼び寄せて……どうするつもりなんでしょうか」
うん? とたゆらは首を傾《かし》げる。
「それは……だな、借金を背負わせて、働かせるため……とか」
「バカ。〈葛の葉〉がどれだけ先が読めたって、あのひとの無茶すぎる性格まで読めるわけがないでしょ。どこの世界に、娘に一千万円を払えってせまる親がいるってのよ。払えなかったら働けって……ひどすぎるっ!」
どこかその無茶な親に似ているちずるが、着物のためなでやかな肩を怒りに上げた。
血はつながってなくても、種族は違っても、おなじ狐《きつね》の妖怪《ようかい》だからだろうか。着物姿のちずるはいっそう玉藻《たまも》にそっくりな気がする。
「じゃあ、〈葛の葉〉はいったい」
「わからない。わからないけど……もしかすると」
「なんですか?」
ちらりとちずるが耕太を見た。
うふ、と微笑《ほほえ》む。
「ひみつ」
「うあ」
軽く唇を尖《とが》らせてみても、ちずるは微笑むばかりだ。
「あーあ。せめて熊田《くまだ》の大将が起きてくれてればなー。ここから逃げだすことだって」
たゆらが天井を仰いだ。
「なあ、澪《みお》ちゃん。おれたちさ、狐だから冬眠ってしたことなくて、だからわかんないんだけど、どうなの? 途中で起こす方法ってないの?」
アレのこと、とたゆらはとなりの部屋へと続くふすまを親指でさした。
ぐがぁごあぁおぉおああおあ、といびきが返ってくる。
「澪のこと、澪ちゃん呼ばわり、コロス!」
桐山《きりやま》がたゆらにつかみかかった。
やいのやいのと揉《も》めるあいだ、澪はうつむいて考えこむ。
「あ、あの……たぶんですけど、この吹雪が原因なんだと、思います。わたしも、吹雪を浴びたとき、どうにもがまんできなくなっちゃって……」
桐山と互いに髪を引っぱりあっていたたゆらが、ふむ、とうなずく。
「あの雪は妖気《ようき》が混じってるから、それでか? ということは、吹雪が止《や》みさえすれば、大将の目も、醒《さ》める?」
「た、たぶん、ですけど」
「だけどよ、吹雪を止《や》ませるったってよ」
「だいだらぼっちが目覚めるのを待つしかない……わね」
ちずるが口にしたとたん、部屋が揺れた。
地震だ。
しばらく揺れは続く。ようやく静まったとき、ふう、と全員が詰めていた息をはいた。
耕太は埃《ほこり》をぱらぱらと落とした天井を見つめる。
この地震は、巨人、だいだらぼっちが目覚める前触れらしい。耕太たちが〈玉ノ湯〉に来てからも、ほぼ毎日、地震は起きていた。
これって、もしかして寝返りなのだろうか。
寝起きが悪いというし、本当に目覚めたら、いったいどうなることやら……。
耕太はため息をつく。
計ったかのように、みんなもいっせいにため息をついた。
そのとき、ずっと耕太の後ろで寝ていた望《のぞむ》が、すっと身を起こす。
「――来たよ、耕太」
「はいはい、みなさーん。お客さまがいらっしゃいますよー」
玉藻《たまも》の声が続いた。
そう……。
めずらしく休憩があったのは、ついにお客さんが来るため、雪花《ゆきはな》が迎えにでていたからなのだった。
短い休息は終わりを告げた。
へーい、と返事をして、一同、腰をあげる。
耕太たちは、玄関前の廊下に並ぶ。
いわゆる温泉街にある、半分ホテルのような旅館とは違って、〈玉ノ湯〉の玄関はそれほど広くなかった。五、六人も入ればいっぱいになる、ちょっと大きな家といった感じだ。
「さあ、みなさん。練習したとおり、がんばってね」
玉藻の微笑《ほほえ》みに、耕太は強《こわ》ばった笑みを返す。
玄関の戸に人影が浮かんだ。
耕太が背をまっすぐに伸ばしたとき、からからと音を鳴らして、戸は開く。ひゅうと冷たい風が入りこんできた。
「お客さまをお連れいたしました」
雪花の声を聞いたとたん、たゆらや桐山《きりやま》の背もぴしっとなる。
「――いらっしゃいませ!」
いっせいに頭をさげた。深々と。教えのとおりに。
「お客さま、遠路はるばるごくろうさまでした。ようこそ〈玉ノ湯〉へ。わたくし、女将《おかみ》の玉藻《たまも》と申します。さあさ、どうぞ」
玉藻がにこやかに話しかけるなか、耕太はそろそろと頭をあげてみた。
ん? と半分だけ頭をあげた姿勢で、固まる。
お客さまのひとりは、少女だ。
外は猛吹雪なはずなのに、なんとまあ、白い、やたらとふりふりしたドレスで、その小さな身体を着飾っている。手にはくまのぬいぐるみを抱きしめていた。年のころはおかっぱ頭の澪《みお》とおなじくらい――小学生くらいか。澪は本当は高校生なんだけど。
少女のとなりには白髪《はくはつ》の若い女性がよりそっている。
白髪といっても艶《つや》のある、きれいな髪だ。上はニットのセーター、下はジーンズ、靴はスニーカーと、まるでコンビニに買い物をしにゆくような格好をしている。手に持った傘を折りたたんでいた。すると、あの吹雪を折りたたみ傘だけで来たというのだろうか。
もっとも、耕太が固まったのは白髪の女性を見てではない。
ドレス姿の幼い少女に視線を戻す。
彼女は、どこか耕太に似ていた。
顔かたちも近いかもしれない。とくにまなざしがそっくりだ。
だが、そういった外見だけではなくて、なんというか……。
魂が近い。
そうだ、と耕太は思った。この少女も、あのバスで出会った男、三珠《みたま》も、耕太と魂というか、心の底からおなじものを感じてしまうのだ。
まるで肉親のような――。
少女と目があった。
耕太よりやや長いくらいの髪で、そのひと束をリボンで結んでいる彼女は、耕太を見て、大きく眼《め》を見開いた。ついで、笑顔を弾《はじ》けさせる。
「――お兄ちゃん!」
ぴょんと跳ね、耕太に抱きついてきた。脱ぎ捨てた白い靴が、下の玄関に転がる。
「――や」
首筋に強く抱きつき、彼女は頬《ほお》をすりよせてくる。
やわらかい、ぷにぶにしたほっぺの感触が伝わってきた。
「あ、あの、ちょっと……ええ?」
「お兄ちゃん、お兄ちゃんだ! 美乃里《みのり》のお兄ちゃんだ! 美乃里ね、ずっとずっと捜してたんだよ! ちっちゃいときに生き別れたお兄ちゃんを、ずっと捜してたの……。まさか、こんなところで会えるなんて。もう美乃里、お兄ちゃんのこと、離さないよっ!」
ぎゅむむっ。
ぴとりとくっついていた耕太と美乃里の頬のあいだに、手が差しこまれた。
ぐ、ぐ、ぐ……。
「ていっ」
引きはがされた。
美乃里《みのり》は後ろにふっとぶ。白髪の女性が受けとめた。
「なにするのよう!」
「なにするのはこちらのセリフよ」
白髪の女性に抱えられたまま、手足をぱたぱたさせていた美乃里が、耕太から引きはがした相手――ちずるに見据えられて、ぴたりと動きを止めた。
「なにがお兄ちゃんよ。あのね、耕太くんはニンゲンなの! あなたね、ここに来るってことはつまり妖怪《ようかい》でしょ。妖怪の兄がニンゲンなんて、そんなわけないでしょーがっ!」
着物姿のちずるは胸を張った。
耕太はちずるが少女に襲いかかるのを、いつでも抑えられるように腰のあたりに手をまわしつつ、覗《のぞ》きこんだ。
「あの……美乃里さん、ですか。ぼく、ひとりっ子ですから、妹はいませんし、それに、いまちずるさんがいったとおりに、いちおうニンゲンですから、違うと思いますよ」
ぷう、と頬《ほお》をふくらませていた美乃里が、にこりと微笑《ほほえ》み返す。
「愛があれば、ニンゲンと妖怪の差なんて……美乃里、平気だもん! お兄ちゃんはお兄ちゃん、美乃里のお兄ちゃんなんだから。なによ、オバサン、邪魔しないでよ」
「お、オバ……」
ちずるが叫ぼうとした瞬間、片|頬《ほお》がぎゅむっとつままれる。
「お客さまにむかって、なんて口を聞くの。お客さま、まことに失礼いたしました」
玉藻《たまも》は深々と頭をさげた。
頬をつままれたままのちずるも、引っぱられるままに腰を曲げる。曲げつつも、うぬぬ……と涙目で美乃里《みのり》を睨《にら》んでいた。
「雪花《ゆきはな》さん、お客さまをお部屋にご案内して。わたしはこの子と、少々お話を……」
にこにこしながら、玉藻はちずるを引っぱってゆく。
「いひゃいいひゃいいひゃい」
痛い痛い痛いと声を洩《も》らしながら、ちずるは玉藻とともに廊下の向こうに去っていった。その背中に、美乃里はあかんべー、と眼《め》の下をさげて、舌をだした。
耕太の視線に気づいて、えへへー? と笑う。
「お兄ーちゃん、美乃里をご案内、して?」
ぴょんと耕太にしがみつく。
その顔を、望《のぞむ》が覗《のぞ》きこんだ。
「こ、こんどはなあに?」
くんくんと望は鼻をうごめかす。
美乃里に続けて白髪の女性の匂《にお》いも嗅《か》いで、うーん、と首を傾《かし》げた。
「どこかで……かいだような」
「えー? 美乃里、お姉ちゃんと会うのははじめてだよー? ね、鵺《ぬえ》、そうだよね」
鵺と呼ばれた白髪の女性が、ぼそぼそと口を動かす。
……はい……はじめて、です。
うーん、うーん、と望は首を傾げ続けた。
「ではお客さま、お部屋へとご案内いたします」
雪花が廊下を先に進んだ。
耕太はあとをついて歩く。美乃里がしがみついて離れないからだ。
歩きながら、宿泊客ふたりについて考えた。
鵺というのは、たしか妖怪《ようかい》の名前のはずだ。美乃里というのは聞いたことがないけれど……と、少女を見る。
えへ、と美乃里は笑った。
どう見ても幼い子供としか思えない。もっとも、ちずるだって人の姿のままなら、とても狐《きつね》の妖怪だとは、推定年齢四百歳だとは思えないのだが。
〈玉ノ湯〉に宿泊するということは、さっきちずるがいったとおり、妖怪のはずだ。
妖怪なのに、耕太を兄と慕う。耕太も、美乃里に他人以上の、まるで肉親のような近しさを感じている――妖怪なはずなのに。
美乃里が頬をすりよせてきた。
「えへへ……お兄ちゃん!」
3
耕太は薄目を開ける。静かにまわりを見た。
「……また?」
なにやらぐねぐねした赤黒いものがうごめく世界が広がっていた。
すっぱだかで、へろへろと漂いながら、耕太はまた来ちゃったなあ、と思った。
耕太の心のなかの世界に。
来るというか、呼ばれたんだけどね……。
さっそく呼んだ相手が来た。
赤黒い世界のかなたから、炎の龍《りゅう》がやってきた。
威嚇するように吠《ほ》え、燃えあがる炎の龍は耕太に噛《か》みつこうとしてくる。耕太は黙って眺めていた。龍の顎《あご》は耕太をはさみこむ寸前で自分からかわし、ぱちんと閉じる。そのまま龍は耕太の脇《わき》を通りぬけていった。
いつもの儀式が始まった。
なんども龍は耕太に襲いかかり、そのくせ傷つけることもなく、ただ脅すだけで終わるのだ。ただひたすらに熱いだけなのだが、それだけにけっこう疲れる。いま龍がかすめただけでも、耕太はだらだらと汗をかいていた。
はあ、とため息をついて、耕太は龍に向き直る。
なんどもなんども、飽きることなく炎の龍は襲いかかってきた。炎がなにを求めているのか、最近、なんとなく耕太にもわかってきた。
――受け入れろ。
炎はそういっている。
自分を受け入れて、ひとつになれと、そういっている。
わかっていながら、耕太は受け入れずにいた。
なんどこの赤と黒がうねる世界に呼ばれても、なんど脅されても、耕太はただ耐えるだけだ。汗がしたたる。身体が熱っぽくなる。意識がかすんでくる。それでも耕太は、龍を受け入れられずにいる。
受け入れるということは……炎を喰《く》らうということだから。
自分のものにするということだ。自分の一部にするということだ。
「だめだよ……」
染みた汗に片目をぎゅっとつぶりながら、耕太は龍を見つめた。
「きみは……ちずるさんのひとつじゃないか……」
「――ばか、もっとうまくやりなよ。たとえば、オバサンのふりするとかさ」
「う……?」
耕太は眼《め》を開けた。
闇《やみ》のなか、うっすらと天井が見える。見慣れてしまった〈玉ノ湯〉の天井――耕太たち、男性陣が眠る部屋の天井だ。
ほっと耕太は安堵《あんど》の息をはく。
よかった、と思った。なにがよかったのかはよくわからない。ともかく、今日も無事やりすごした、そんな気がしていた。
ふとんから手をだし、汗まみれの顔をぬぐおうとする。
「……ん」
腕が引っかかった。なにかがふとんの上に乗っている。
「なんだろ……重い」
「ひっどーい! 美乃里《みのり》、重くなんかないもん!」
ふとんの上の人物が、はっと口元に手を当てるのが見えた。
寝起きでまだぼんやりしたまま、耕太は眼をぱちくりとさせる。まわりからは熊田《くまだ》のふすまを揺るがすいびきに隠れて、たゆらや桐山《きりやま》の寝息が聞こえた。熊田のいびきがいくらうるさくても、日中、さんざんにこきつかわれた身体には関係がない。すっかり熟睡しているようだ。旅館従業員の夜は遅く、朝は早かった。
「お客さま……あの?」
ふとんの上の人物――美乃里が身を屈《かが》めてくる。
耕太に向かって、しー、と人さし指を唇に当てて見せた。
「お兄ちゃん。お客さまなんて他人行儀ないいかたは美乃里、やだよ。美乃里って呼んで」
「……えと、美乃里さん」
女性に名前で呼ぶことを強制されるのは、すでに耕太はちずるで慣れていた。
そういうものなのだ、と思っていたので、素直に従うことにする。
「どうして、ぼくのふとんの上に……」
「えへっ。美乃里、来ちゃった」
美乃里が笑顔を弾《はじ》けさせた。
「いや、来ちゃったって……どういう」
「お兄ちゃん。美乃里に、子種、ちょーだい」
顔を傾けて、おねだりしてきた。肩口まで伸びた美乃里の髪が、夜闇《よるやみ》のなかで揺れる。
「子種……」
耕太は美乃里の言葉を心のなかでくり返した。
子種……子種……子種……。
げふ、と噴きだす。
「こっここここここ、子種ぇ!?」
「やだぁ、お兄ちゃん、声、おっきい」
美乃里《みのり》に口をふさがれた。小さな両手で耕太の顔の半分が覆われる。
もがもご、もが?
「なあに、耕太お兄ちゃん」
そっと手が外された。
「な……なにを考えてるの。きみはまだ、子供で」
「美乃里、もう子供じゃないもん」
ぷう、と頬《ほお》をふくらませた。そんなそぶり自体が子供っぽいのだが、自分の経験上、子供こそ大人あつかいしなくちゃダメなのだと、耕太は思い直す。
「あ、あのね、ぼくはお客さま……美乃里さんと、今日、初めて会ったばかりで……わかるよね? こういうことは、順を追って、ゆっくりとね」
「初めて会ったその日に、いきなり押し倒すような人だって、いるじゃない」
どきん。
耕太は強《こわ》ばる。初めて会って、押し倒す……いる。たしかにいる。
「き、きみ、どうしてそのこと」
「やだお兄ちゃん、そんな人、ホントにいるの? まさかあ。だってそんなの、ただの痴女だよヘンタイだよ。お兄ちゃん、えっちな本の読みすぎじゃないの? そんなエロ女、いるわけないじゃない」
「い、いや、あのその、えと」
「――美乃里ね、あの女はお兄ちゃんには合わないと思う」
美乃里の眼《め》が細く、糸のようになった。
「え」
「ちずるとかいうオバサンのこと。なにかあると、すぐにお兄ちゃんにくっついて、あのいやらしいウシちちを押しつけて。痴女だよヘンタイだよ。あー、もしかして、初めて会ったのにお兄ちゃんを押し倒したのって、あのメスギツネ?」
「ちょっと」
「お兄ちゃんは人間だよね。あのメスギツネは妖怪《ようかい》でしょ? どうして人間と妖怪がつきあっているの? 騙されているんじゃない? 化《ば》け狐《ぎつね》は人を化かすのがシゴトだもん。きっと耕太お兄ちゃん、化かされているんだよ」
「ちずるさんを悪くいうのは、やめてください」
ぴくん、と美乃里の身体が揺れる。
「お兄ちゃん、怒ったの?」
耕太が黙っているうちに、美乃里は、ふふっと笑った。
「ごめんね、お兄ちゃん……。でもね美乃里、人間には人間の恋人がいちばんいいと思うの。人間と妖怪がつきあって、で、どうするの? いまはいいかもしれないよ。あのメスギツネ、身体だけはいやらしいから、たしかに気持ちいいかもしれない。だけど、そのあとはどうするの? 妖怪《ようかい》とケッコンできる? コドモ作れる? 家庭を築ける? 相手は何百年も生きる妖怪なんだよ。お兄ちゃんのほうが先に死んじゃうんだよ。メスギツネは若いままで、お兄ちゃんはどんどん歳《とし》を取ってゆくんだよ。そうしたら……きっとあのメスギツネだって、お兄ちゃんを捨てるに決まってるよ。だってよぼよぼの年寄りより、ぴちぴちの若い男のほうがいいに決まってるもんね。捨てられてから後悔したって、しかたないんだよ、お兄ちゃん?」
結婚。
子供。
そして、互いの寿命の違い。
いままで耕太が、考えまいと、いや、意識にのぼらせることすらなかったことが、つぎつぎに美乃里《みのり》の口から述べられていった。
耕太のなかに、ぐるぐると渦巻くものがある。
胃の腑《ふ》に、黒く重くたまってゆくものがある。現実という名の重しが――。
「きみだって……妖怪じゃないか」
「人間だよ、美乃里は」
え、と耕太は声を洩《も》らす。
「だって、人間は」
「そう。普通、ここには泊まれない。だから美乃里、ちょっぴり嘘《うそ》ついちゃった」
みんなにはナイショね、と美乃里は笑った。
「きみは……いったい……」
「美乃里はね……」
「あーっ!」
叫びとともに、ばたんとふすまが開く。
おどろき廊下の側を見ると、浴衣姿のちずるがいた。
ちずるはずかずかと室内に踏みこんでくる。途中、だれかを踏みつけた。ぐぇ、という声から判断するに、たゆらだろう。
「いったいなにをやってるのよ、このガキッ!」
耕太と美乃里の前に立って、どすん、と足を踏みならした。
なぜかその足は黒い。
「なによオバサン。ヘンな格好しちゃって」
ふふん、とちずるは笑った。
美乃里にヘンな格好と称された足を、つついっと伸ばす。美乃里の前に、ぴしっと置かれた。耕太の目の先にはつま先があった。
「これはストッキング」
「……なんで浴衣にストッキング?」
美乃里は顔をしかめて、ちずるの黒い足から身体を離した。
「もちろん耕太くんに楽しんでもらうためよ。こう、びりびりーってこいつを引き裂くと、なかから白く輝く内ももがあらわれて、ちらりと白いぱんちーも覗《のぞ》いちゃったりして、耕太くんも思わず息を荒げて、ああ、ああ、ワイルド耕太くんにへーんしん……」
足を伸ばしながら、ちずるは身もだえた。
「……お兄ちゃん。いったいコレのどこがいいの?」
「なによガキ! あなたはまだお子ちゃまだからわからないでしょうけどね、愛している人を喜ばせてあげたいと思うのは自然なことでしょうが! わたしはね、耕太くんが求めるのならば、あんなことだってこんなことだって平気なんだから!」
「あんなこと、こんなこと……どんなことですか?」
耕太の質問には答えず、ちずるは美乃里《みのり》の襟をつかむ。
「で? あなたは耕太くんに馬乗りになって、いったいなにをやっているの?」
「わーん、お兄ちゃん、エロキツネババアが怖いよー」
「そういいながら抱きつくんじゃない!」
やいのやいのと、耕太の上でふたりは揉《も》めだす。
その隙《すき》を狙《ねら》ったのか天然なのか、望《のぞむ》が四つんばいでやってきた。口にくわえていたまくらを、耕太の横にぼとっと落とす。
寝ぼけまなこで、もぞもぞと耕太のふとんに入りこんできた。
「――なにをやってるのよ、このメスオオカミ!」
「わたし、オオカミだよ……あ、正しい」
「わーい、美乃里もお兄ちゃんといっしょにおやすみ、するー!」
「ダメったらダメ! 耕太くんと眠っていいのは、このわたしだけ!」
「ちずる……それ、独占禁止法違反だよ」
「ホント、このオバサン、無茶いいすぎー」
「ふーんだ! ふふ……あなた、耕太くんの内ももにほくろがあること、知ってる? お股《また》のつけ根のところに、三つの星……」
「……どーして、そのことを」
耕太は内ももをもぞりと動かした。
美乃里が、耕太にしがみつきながら、じとっと見つめてくる。
「お兄ちゃん? それホントなの?」
ふんふんふふーん、とちずるは得意げに胸を張っていた。
「耕太……おふろ、おふろ……」
望のまぶたはほとんど閉じかけていた。じつに眠そうだ。
「おふろ? おふろって……あのときの?」
耕太は思いだす。
そういえば、耕太が入っていたお風呂《ふろ》に、ちずると望が乱入してきたことがあった。
「耕太が……鼻血、ぶー、して、失神しちゃった、とき……」
そうなのだ。湯船にて、なにひとつ隠すことなく、くんずほぐれつしたちずると望《のぞむ》のあられもなさすぎる姿に、耕太は鼻血を噴いて気絶してしまったのだ。
「――まさか」
「ごめんね、耕太くん」
ちずるは自分の頬《ほお》に手を当て、なにやら恥じらったそぶりを見せた。
「見ちゃった、ぜんぶ」
「見ちゃったって……えええええー?」
「いいじゃない。だって、耕太くんだってわたしのぜんぶ、見ちゃってるでしょう」
「い、いや、それは……そーでしたっけ?」
むにゃ、と望がまぶたを開ける。
「ちずる……見ただけじゃない……ちょっと……いじってた」
「いじってたって……どこを?」
ちずるがもじもじと身をくねらせる。
「やだぁ。そんなの、いえなーい」
「お兄ちゃん……。ホントのホントに、コレのどこがいいの? このエロババアの」
「だれがババアよ!」
「ちずるさん……エロは否定しないんですか……?」
きーきーきー、とちずると美乃里《みのり》が揉《も》める。望はすっかり眠りこけていた。
「うるせえなあ……」
もぞりと薄闇《うすやみ》の向こうで影が動いた。
「夜ばいならさあ、もうちょっと静かにやってくれない? 眠れないだろ……明日の朝も早いのに……」
ぼりぼりとたゆらは頭をかいていた。
「いま、とりこみ中!」
ぶん、とちずるがまくらを投げた。あわてたそぶりでたゆらは手で弾《はじ》く。まくらはべつの場所に飛んで、ばふ、と音をたてた。
むくりとあらたな影が起きる。
「……いまの、だれ、やった」
影の頭はつんつんと立っていた。
「だれ、やったー!」
つんつん頭の男、桐山《きりやま》はぶんぶんぶんと手当たりしだいに投げつけてきた。まくら、ふとん、敷きふとん……なんでもおかまいなしだ。
「暴れんじゃねーよ、このバカいたち!」
「耕太くんに当たったらどうする気よ!」
たゆらとちずるが投げ返す、投げ返す、投げ返す。
桐山がいたあたりに、小さな山ができた。
山は揺れだす。
「うがーっ、売られたケンカ、おれ、買う! 買いまくりー!」
まくら、ふとんが暴風となって飛びかう。さすがはかまいたちといえた。
「いて! ふとんは反則だろ!」
「わたしはここで育ったのよ? 勝てると思ってるの?」
「わーい、まくら投げ、美乃里《みのり》、楽しーい!」
まくら投げが始まった。
気がつくと白髪の女性、鵺《ぬえ》がいて、美乃里につぎつぎとまくらを手渡している。どこから持ってきたのか、鵺の横にまくらは山となっていた。
熊田《くまだ》のいびきをBGMに、まくら戦争は加熱化してゆく。
耕太は頭を抱えて丸くなった。そのそばで望《のぞむ》は、この騒ぎだというのにすよすよと眠っている。
「いいかげんになさーい!」
室内がまばゆく照らされる。
電気ではない。天井近くに、炎がぽんぽんぽんといくつも燃えあがっていた。その炎の色は桃色――狐火《きつねび》の色だ。
緋《ひ》色の着物姿の女性が、ゆらりと部屋に入ってくる。
「いまいったい何時だと思っているの……。草木も眠る丑三《うしみ》つ時《どき》よ……。夜更かしは、お肌に悪いというのに……」
玉藻《たまも》だ。
狐姿の、しっぽを九つ生やした、九尾な玉藻だ。
金色の髪はざわざわと波うち、狐の耳はびんびんに立ち、眼《め》はつりあがり、瞳《ひとみ》はぎらぎらと輝いている。なにをどう見ても、怒っていた。
「はやく寝なさーい!」
……美乃里さま。
静かな廊下に、鵺の声がかすかに響いた。
「人間だったよ」
美乃里と鵺は音もなく、暗い廊下を歩いていた。明かりもないのに、その足取りはよどみない。
「お兄ちゃんは、ただの人間だった。もしかしたら才能はあるかもしれないけど、まったく鍛えてないんだもん。ただの人間だよ。でも……ね」
……でも。
「深かった。ものすごく深くて、どこまでも広く、なのにからっぽな、広大な空間があった。さすが〈器〉だね。そうそう、なにか妙なやつがお兄ちゃんのなかをちょろちょろともしてたよ。あんまりにもやりかたが下手だったから、アドバイスしてみたけど……あいつ、人の言葉、わかるのかなあ」
いきなり廊下が揺れた。
美乃里《みのり》と鵺《ぬえ》はしばらく立ち止まる。
「うん? だいだらぼっち?」
……いえ。
鵺の言葉に、美乃里は振りむき、廊下の闇《やみ》を見つめた。
「九尾か。まーだやってるんだ。あのひとたちも、元気だねー」
あははは、と無邪気な声で笑った。
真顔になる。
「それにしても……。やっぱりお兄ちゃんには、あのオンナは……」
……ふふ。
鵺が笑う。
「なにがおかしいのさ。お兄ちゃんが好きで、悪い?」
あくまで美乃里は真顔だった。
4
みんな、静かに朝食をとっていた。
本来は宴会場であるらしい大きな部屋で、それぞれの膳《ぜん》を見つめて、ただひたすら黙々と箸《はし》を動かしている。例外は――。
「ほら、お兄ちゃん、あーん」
「わたしこそ、耕太くん、あーん」
耕太の両隣に座る、美乃里とちずるだけだ。
どちらもひな鳥のように口を開けていた。耕太は美乃里、ちずるの順番で、しゃけの切り身を口のなかに入れてゆく。さっきはちずる、美乃里の順番だったからだ。
あむあむと口を動かすふたり。
まわりはこんな耕太たちを、見もしない。
たゆらも、桐山《きりやま》も、澪《みお》も、疲れた顔で黙って食事していた。望《のぞむ》にいたっては、まだ耕太のふとんで眠っているはずだ。
無理もない。
昨日、騒ぎすぎて玉藻《たまも》に怒られてから――夜明け近くまで、耕太たちは一睡もできなかったのだから。耕太はため息をつく。
「耕太くーん」
「お兄ちゃーん」
はいはい。耕太はそれぞれの膳《ぜん》のおかずをつまむ。
すべては怒った玉藻《たまも》に、ちずるが逆ギレしたことから始まった。
親子で互いに文句をいいあううちに、やがて、玉藻がちずるの過去をバラしだした。とくに問題だったのは、記憶喪失で精神まで幼子状態だったちずるが、おねしょしていたことがあるという話だ。
まあ、そりゃ怒るよね……。
耕太はちずるの口に玉子焼きを入れる。むぐむぐ。
ちずるはそれで怒り狂い、玉藻に特大の狐火《きつねび》をぶつけたわけなのだが、さすがは九尾の狐というべきか、まったく平気だった。ただ、前髪がちょっぴりだけこげてしまったらしく、玉藻の顔色が変わった。
とたんに地面が揺れたのだ。
いつものだいだらぼっちの地震かと思いきや、めずらしく雪花《ゆきはな》が焦った顔でやってきて、これは玉藻が激怒している証《あかし》だと説明した。百年前の親子ゲンカでは、玉藻の怒りで旅館が消滅したとか……あわてて耕太たちも止めに入った。
そんな騒動がどうにか収まったのが、今朝のこと。
そりゃあ、目の前でいちゃつかれようがなにされようが、どうする気力もなくなろうというものだ。
「お兄ちゃん」
「耕太くん」
「はいはい……」
どうしてこんなに元気なんだろう……。耕太は口を開けるちずるを見て思った。美乃里《みのり》はいつのまにか姿を消していたから、まだわかるのだが。
大広間のふすまが開く。全員がびくついた。
玉藻だ。
ただし、今回はちゃんと女将《おかみ》さんの姿でいた。
「あらあら。どうしたの、みなさん……。そんなに驚いた顔しちゃって」
あーん、と口を開けたままのちずるの前にやってきた。ぱたんとちずるの口が閉じる。
「なによ」
「そんなに怖い顔しないの。お友達よ」
「お友達? だれよそれ?」
耕太たちはどたばたと廊下を走った。
先頭をきって走っていたたゆらと、その横を四つんばいで駆けていた望《のぞむ》が止まると同時に、玄関の戸が開く。
「朝比奈《あさひな》!」
眼鏡をかけた女の子が、忍者装束の女性ふたりに抱えられて入ってきた。
いつものようにきっちりと分けられ、おでこを剥《む》きだしにした髪型の彼女は、真っ白な顔をして、気を失っている。頭や服には雪がこびりついていた。
「おい、朝比奈! どうした、なにがあったんだよ!」
たゆらが彼女を抱えて、揺すった。
眼鏡の彼女を渡したセクシーくのいち姿の女性ふたりは、耕太たちに一礼すると、玄関から去っていった。きっちりと戸を閉めてゆく。
やっぱり、忍者はいたんだ……。
いまはそれどころではない。耕太はすぐに視線を、たゆらが抱えた女の子に移す。
「朝比奈! 委員長! あかね!」
ぺちぺちとたゆらは彼女の頬《ほお》を叩《たた》いていた。
彼女の名は朝比奈あかね。
耕太のクラスの学級委員長だ。しかしあかねは普通の人間で、ちずるたちが妖怪《ようかい》であることも、薫風《くんぷう》高校の裏の役割も知らない。
つまり、こんなところにいるわけがない。
事実、格好を見れば丈が膝《ひざ》まである赤いコートに、茶色のズボン、スニーカーを履いている。とてもあの猛吹雪を越えられる姿ではない。
「メガネ! でこっぱち! 起きろ、起きろったら――ふげっ」
ずむっ。たゆらの顔面に、握り拳《こぶし》がめりこんでいた。
「だ、だれが、でこっぱち、よ」
殴ったのはあかねだった。
しかしすぐに眼《め》を閉じかける。たゆらを殴りつけた腕も震えていた。うう、とうめく。
「あかね、あかね」
望があかねに取りすがり、その頬をぺろぺろと舐《な》めた。たゆらは鼻血をぬぐおうともせず、あかねを抱えたまま、振り返る。
「よし、話はあとだ! 玉藻《たまも》さん!」
「はいはい、わかってますよ。たゆらさん、あなたは早くお部屋に運んで。雪花《ゆきはな》さんはお薬の準備、耕太さんはおふとんを敷く。ちずるさん、望さんは……わかってるわね? 耕太さんじゃなきゃいやだとはいわせないわよ」
「わかってるわよ。脱げばいいんでしょ、脱げば」
ちずるが帯をゆるめながら足早に歩きだした。
全員が駆けだす。
その様子を眺めていた美乃里《みのり》が、後ろの鵺《ぬえ》を仰ぎ見た。
「……鵺《ぬえ》じゃないよね?」
ふるふると鵺は首を振った。
「だとすると……まさか、あいつらなわけないし……?」
「――わたしにも、よくわからないのよ」
ふとんから身を起こして、あかねはずず、と湯飲みをすすった。
顔をしかめる。なかには桐山《きりやま》の命を救った薬が入っていた。人間用に薄めてあるらしい。
「気がついたら、いきなり猛吹雪で、真っ白で……それまではCDショップにいたのよ」
一同が見守るなか、浴衣姿のあかねは、ふとんの横にたたんである服に手を伸ばした。
赤いコートからCDを取りだす。
たゆらはしげしげと眺めた。
「へえ。おまえ、演歌なんて聴くんだ」
「わたしじゃない。これは田舎のおばあちゃんへのプレゼントよ」
耕太は、そっと目配せをした。
ぶんぶんと桐山はうなずく。澪《みお》もおずおずとうなずく。ちずるはしっかりとうなずいた。
桐山のときと似ている。
おそらく……あかねもだれかにさらわれ、それでこの谷へと連れてこられたのだ。
「ねえ、ここはどこなの?」
あかねが耕太たちを見回した。
「源《みなもと》に、ちずるさんに、望《のぞむ》さんに、小山田くんまでいるし。先輩たちも……おまけにみんな、まるで旅館の従業員みたいな格好しているし。もしかして……バイト?」
きらりんとあかねの眼鏡が光る。くいくいと位置を直した。
「許可なくアルバイトすることは、校則で禁じられています!」
「まーまー、とりあえずいまはいいじゃねーか。おかげで助かったんだしさ。な?」
たしなめたたゆらを、あかねが睨《にら》む。
「――わたし、帰る」
「帰るって……どこにだよ」
「もちろん家に決まってるじゃない」
「いや、家っていわれてもだな」
「――帰るのは無理ですよ」
ふすまが開く。雪花《ゆきはな》が入ってきた。
「……どうしてですか」
雪花は庭へと続くふすまを開いた。
「あ……」
あかねが眼《め》を見開く。
耕太たちは予想された反応に、静かにため息をついた。
「ここをどうやって帰るのですか」
荒れ狂う雪の舞いを背景に、雪花は静かにいった。
「……や、止《や》むまで待って」
「いつになるかわかりません」
あかねは絶句した。
雪花があかねの前に、薄桃色の着物をだす。
「さあ、あなたの着替えです」
「着替えって……これは?」
ちずるが、望が、澪《みお》が着ている、〈玉ノ湯〉女中用の着物だ。耕太たちは、静かに静かにため息をついた。
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[#小見出し] 四、ちょっとぼく、愛されすぎかもしれない[#「四、ちょっとぼく、愛されすぎかもしれない」は太字]
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「なんで、あたしがこんな目にあわなきゃならないのよぅ」
振り絞るようなあかねの声だった。
彼女は〈玉ノ湯〉女中姿ではなく、浴衣姿で漆塗りのお膳《ぜん》の前に座っていた。あぐらのかたちから片|膝《ひざ》を立てた、やさぐれた姿勢だ。
「ねえ、源《みなもと》? あたしがなにをしたっていうの? 田舎のおばあちゃんにさ、プレゼントしようと思ってさ、CD買いにいったらさ、なぜか吹雪のなかにいてさ、死にかけてさ、助かったと思ったらさ、なんでかしんないけど、なんでかしんないけど! 温泉旅館で働くハメになってさ……。冗談じゃないっつーの! どーゆーこと、ねえ、どーゆーこと!」
ぐわしと手を伸ばし、横に控えていたたゆらの首根っこをつかんだ。
エプロン姿のたゆらはぐわんぐわんと振りまわされる。
「お、落ちつけ、朝比奈《あさひな》、落ちつけ」
「答えろぉ、源ぉ! こんな、宴会なんかじゃごまかされないぞぉ!」
あかねの揺さぶりは止まらない。
たゆらの悲鳴はしかし、まわりに流れている歌声にかき消されていた。
歌っているのは浴衣姿の桐山《きりやま》だ。
東京は砂漠だなんだという、ひと昔前のいわゆるムード歌謡を、思いきりがなっていた。じつに気持ちよさそうな桐山の持つマイクは、カラオケセットにつながっている。桐山の前では澪《みお》がひとり、聞き惚《ほ》れていた。
耕太《こうた》たちは、今朝食事をとった大広間にいる。
いまは本来の役目、宴会場として使用していた。
どうしてこんなことになっているのかといえば、いきなり玉藻《たまも》が「お友達もいらしたことだし、たまには楽しくやりましょうか」といいだしたからだ。費用はしっかりこちら持ちだったが、いまさら十万やそこら借金が増えてもおなじだし、とりあえずあかねをなぐさめる必要もあったし、耕太たちはなかばやけになって、宴会を始めた。
「源ぉぉぉぉぉ!」
「ぐ、ぐるじぃぃぃぃ!」
あかねは手を離す。たゆらは激しく咳《せ》きこんだ。
うう……と喉《のど》をさするたゆらの眼前に、杯が突きだされる。陶器でできた、でこぼこしたかたちの、大きな杯だ。
「おかわり」
あかねがぐい、とさらに突きだした。
「あ、あのよ、朝比奈《あさひな》。あまり飲みすぎるのは」
「お、か、わ、り」
ぐいぐいと突きだす。たゆらの頬《ほお》に杯はめりこんだ。
「い、いた、痛いです、朝比奈さん。や、止《や》めて……」
たゆらは涙目になって、大きなとっくりを持った。あかねの杯に注いでゆく。
ぐい、とあかねは一気に飲み干した。ぷはーっ、と口元をぬぐう姿に、あああ……とたゆらが声を洩《も》らす。
「……あれ、いいんですか」
「んー? なにがー?」
耕太はとなりのちずるに問いかけた。
ちずるは岩魚《いわな》の干物を焼いたものをほぐすので一生懸命だった。
耕太たちは、あかねたちとは真向かいの席にいた。
広間にはコの字型に料理の入ったお膳《ぜん》が並べられ、それぞれの前に耕太たちは座っていた。広間の前方にはカラオケセットがあり、ずっと桐山《きりやま》に占領されている。
耕太は真向かいのあかねたちを指さした。
「あれですよ。朝比奈さん、どう見ても酔っぱらってるんですけど」
「はーい、あーん」
ちずるがほぐした岩魚の身を耕太の口元に運んできた。
「あむ、ぼくたち、むぐむぐ、未成年なのに、んぐ、お酒なんて」
「――お酒などでは、ありませんよ」
いきなり背後から声をかけられ、耕太はぐび、と口のなかの岩魚を呑《の》みこんだ。
振りむくと、いつのまにか雪花《ゆきはな》がいた。
たしか玉藻《たまも》たちは、耕太たちが気を使うだろうから、という理由で、この宴席には不参加のはずだったのだが……。
「ご心配なく。わたしは飲み物を持ってきただけで……すぐに帰ります」
見ると、雪花は空のお盆を手に持っていた。
「い、いえ、そんなことは……あの、その、そうだ、お酒じゃないっていいますけど、朝比奈さん、あんなになってしまってるんですけどっ」
真向かいでは顔を真っ赤にしたあかねが、あいかわらずたゆらに絡んでいた。
普段はとてもまじめなひとなのだ。それがいまはあれほどに乱れている。これが酔っているのではなかったら、いったいなんなのだろう。
ふむ、と雪花はあかねを見た。
「明らかに酔っていますね」
「で、でしたら」
「お酒に酔っているのではありません。あれは、〈九尾湯《くびとう》〉に酔っているのです」
「くびとう……?」
「ええ。我が〈玉ノ湯〉裏名物ともされる、ここでしか飲めない秘伝の飲み物です」
「はい、耕太くん、あーん」
「あ、あーん。むぐむぐ……。う、裏名物……」
なんだかすごい響きだ。
「〈九尾湯《くびとう》〉とは、瓶《かめ》のなかに、各種精力剤を漬けこんで作るもので……」
「んぐ、せ、精力剤?」
耕太はあかねを見た。たゆらを押し倒さんばかりのいきおいで揺さぶっている。
まさか……このまま押し倒すなんて、ことは……。
「とはいえ、ご安心ください。ニンゲンに効く精力剤ではなく、あくまで我ら妖怪《ようかい》にのみ効果があるものばかりですから。そこに最後の決め手として……玉藻《たまも》さまの気をこめます」
「玉藻さまの、気ということは……」
九尾の狐《きつね》の気ということだ。
「はい。毒も使いかた次第で薬になるといいますか、玉藻さまのまがまがしい暗黒|妖気《ようき》が、数十年ほど置いておくことで、ほどよく毒気が抜け、妖怪に対しててきめんに効果をあらわす、超強力精力剤の元となるのです」
「超強力精力剤……」
ぐびりと耕太は唾《つば》を呑《の》みこむ。
「あれ? でも、人間には効かないっていいますけど、あれは……」
ぐでんぐでんになっているあかねを見た。
「ニンゲンが飲むと、あのようになりますね」
「あのようにって……やっぱり、お酒なんじゃあ」
「いいえ。アルコールには酔っていません。あれは暗黒妖気に酔っているのです」
なんとも悪酔いしそうだ。
「この〈九尾湯〉によって、玉ノ湯は別名、子宝の湯と呼ばれてもおります。そもそも……我ら妖《あやかし》は、自然な出生をしておりません。木の股《また》から生まれたり、獣が変化したり、わたしなどは人の身に雪の精が宿って生まれました。そのためか、妖怪はなかなか子宝には恵まれないのです。それが、この〈九尾湯〉を用いると、かなり当たるようで」
「あ、当たる……」
耕太はうつむいた。頬《ほお》がかあっと熱くなる。
そ、そっか。そうすれば、ちずるさんとの子供も……。
ぶんぶんと頭を振る。
な、なにをぼくは考えて……て……え? 頭を振っているうちに、くらくらしてきた。そういえば、妙に顔が熱くて……。
「あ、あれれ……?」
ぐるりぐるりと視界が回る。
「ちなみにこの〈九尾湯〉ですが、すでにみなさんには振る舞っています」
いきなりの衝撃発言だった。
「ふえ? な、なにが?」
「料理に混ぜこんであります」
「りょ、料理って……」
「はい、あーん」
鴨《かも》肉の切り身が、箸《はし》でつままれてきた。
「ちずるさん、それはもう、食べちゃ……」
「どうしたの、耕太くぅん」
ぎょ。
ちずるの顔は赤く染まっていた。瞳《ひとみ》はうるみ、肌もしっとりと汗ばんでいた。
「――妖怪《ようかい》が〈九尾湯《くびとう》〉を飲むと、このようになります」
「な、なにを冷静に」
はっ、と耕太はまわりを見た。
そういえばさっきから、いちゃつく耕太たちになぜか望《のぞむ》が割りこんでこない。
「あ」
望はとなりにいた。
手酌でとっくりから杯に注ぎ、ぐいぐいと飲んでいた。ついには直接、とっくりに口をつけて飲みだす。
けぷ。
すでにその顔は真っ赤であった。元は白すぎるほどに白い首筋までが、赤くなっている。
「……耕太」
目が据わっている。
「は、はい」
「……暑い」
いきなり望は脱ぎだした。
「わー! わー! の、望さん、ダメです、こんなところで脱いじゃあ!」
「だって暑いもん。暑い、熱い、暑い熱い暑い」
しゅるしゅると帯がほどかれる。浴衣の前が開き、幼さを残しつつも女性を感じさせる、おだやかでたおやかな胸のふくらみが覗《のぞ》く。下は水色ぱんつであった。
「耕太くぅん、はい、あーん」
「ち、ちずるさん、だからそれを食べちゃ……わお」
目の前に、乳房があった。
正確には胸の谷間があった。寄せてあげて作られた谷間に、なにやらとろりとした液体がたまっている。
うふふ……。ちずるは笑った。
「あーんじゃないよね……。はい、耕太くん、ごくごくして」
にじりよってきた。ゆよん、と乳が揺れ、たゆん、と水面も揺れる。
「あ、あの」
「ふふ、ふふふ……。ちずる特製、ちち見酒……。はい、めしあがれ」
「――ちずるさま」
助かった、と振りむく耕太の前で、雪花《ゆきはな》は静かに告げる。
「ですから、それはお酒ではありません」
「じゃ、じゃなくて!」
「耕太、耕太」
「なんですか、望《のぞむ》さ……うわっ」
すっかり浴衣の前をさらした望が、とっくりを自分の肩口に持っていっていた。
とっくりを傾ける。とろりとした無色の液体が、鎖骨に注がれ、たまり、あふれ、垂れ、胸元へと流れてゆく。
とろとろとろ……。
胸のあまり深くない谷間を、てかてかと照らしながら進み、みぞおち、おへそ、そして水色ぱんつへと辿《たど》りついた。
染みる。
水色の布地は色を濃くし、ぴたりと貼《は》りついた。布地で抑えきれず、太ももへとあふれだした。脚を垂れてゆく。
「……ナイヤガラの滝、もとい、ナイチチアの滝」
ぼそりと望は呟《つぶや》いた。ケタケタと笑いだす。
「耕太、耕太、滝浴び、する?」
畳をとろとろと汚しながら、望はゆっくりと近づいてきた。
耕太は手を後ろにつき、逆四つんばいとなってずりずりさがる。
だゆん。
背中がなにかやわらかいものにぶつかった。
おずおずと振りむくと、ちずるの胸の谷間から、〈九尾湯《くびとう》〉があふれていた。ちずるの浴衣を汚す。耕太にもかかった。
「あーん……。ちち見酒、こぼれちゃったあ」
ぐい、とちずるは片手で胸を寄せて、もう片手でとっくりをつまむ。とる、とる、とる、と注いだ。
「はい、またできあがり……」
「ち、ちずるさん。落ちついて、正気に戻ってですね、その」
「もう、耕太くんったら、遠慮しないで……ほら」
頭の後ろをつかまれた。
「――はぶっ」
顔面からちずるの谷間に飛びこみさせられた。
ばちゃ、というより、めちゃ、といった感触が顔を襲う。わぷ、はぷ、あぷ……どうにか顔をあげた。谷間から肩口に顔面をすべらせて、どうにか逃れる。
「うう……」
胃が、熱い。
激しく燃えあがっていた。口のなかは甘みが……かすかに苦みや辛みの混じった味が、残っている。ほんのちょっと飲んだだけで、こんな、体が……。
「ちずるさまや犹守《えぞもり》さまのお飲みになられている〈九尾湯《くびとう》〉は、あちらのお嬢さまが飲まれているものと比べると、かなり濃いめになっております。これこそが本来の〈九尾湯〉なのですが……ニンゲンである小山田《おやまだ》さまには、ちょっと強いかもしれませんね」
「あ、あう……」
胃の熱さが、身体中に広がっている。
鼓動にあわせて、どくん、どくんと視界が広がったり縮まったり。耕太はいままでお酒を飲んだことがない。
よ、酔うと、こ、こーなるの?
気づいたら、耕太は顎《あご》をちずるの胸の谷間に納めていた。
わかっていながらもなにをどうしようという気持ちが起こらない。うふふ……というちずるの微笑《ほほえ》みも、音が大きくなったり小さくなったり聞こえていた。
「耕太……」
望《のぞむ》がぴとりと背中に身を寄せてきた。
耕太の浴衣の襟元が、ぐいとつかまれる。
いきなり肩幅まで広げられ、そのまま下げられた。あらわとなる耕太の背中、胸、上腕。
「耕太、熱いよ……」
ぬるりとした肌がくっついてくる。なにやら尖《とが》りのあるやわらかいものが、耕太の背中に押し当てられ、つぶれた。
「望……さん……」
背で震える望を感じながらも、耕太はなにもできない。
ただぼーっとして、ちずるのやわらかな胸元に顔をあずけるだけだ。
これは〈あまえんぼさん〉……いわゆるちちまくらの体勢である。耕太はちずるに身をゆだねきっていた。
「耕太くん、かわいい。まるで、おっきな赤んぼうみたい」
けっこううるさいはずなのに、まわりでは桐山《きりやま》がカラオケでがなっているはずなのに、耕太の耳にはちずるの声がよく通った。鼓膜ではなく、脳で直接感じてしまっているような感覚だ。
そっと横目で見てみる。
いつのまにか雪花《ゆきはな》の姿は消えていた。そのことに、耕太はどこかほっとしていた。
うふ、うふふ……。
そっとちずるが、耕太の顔を胸から離す。
やたらぎらぎらしてきた耕太の視界のなかで、ちずるは胸元をくつろげて、九尾湯《くびとう》に濡《ぬ》れ光る左胸をたゆんとこぼした。
あざやかに色づく、ふくらみの頂。
「ほら、耕太くん……おっぱいでちゅよー?」
ダメだ。
それはマズイ。
越えちゃいけないラインだ。
頭のなかで警告が鳴る。鳴り響く。響き渡る。なのに耕太は顔を近づけていった。唇が開く。口を開ける。あーん……。
ダメだヤメろトメろ、イケナイ、ソンナコトハ――。
はむっ。
「あはっ」
ちずるの嬌声《きょうせい》を頭上に感じながら、耕太は自分がいまボーダーラインを越えてしまったことを自覚した。背には望《のぞむ》がしがみついているのに。まわりにはみんないるというのに。
……。
くわえたはいいが、さてどうしよう?
とりあえず――吸ってみる。
「はんっ……ふふっ、いけない赤ちゃん」
そんなこといったってー、赤ちゃんはおっぱいすうのがしごとじゃないですかー。
だから吸う。ちうちうちう。
「んふ、ふふ、ふふっ、あは、あはは……」
ちずるの笑い声を感じながら、なおも耕太は吸う吸う吸う。
だんだん、くわえている先端が尖《とが》りを見せてきた。
「耕太くん……軽く噛《か》んでみると、もっとおっぱいでるかも」
最初っからおっぱいなんかでちゃあいないのだが、耕太は従ってみた。
かぶっ。
「はっ……ん……んん……」
熱い吐息が耕太の耳元にかかる。
あむあむと甘噛みし続ける。尖りが強く、硬くなってきた。あむはむあむ。
「ぅう……あ……ん……く……」
ちずるがぎゅっと耕太の頭を抱きしめてきた。ぶる、と震える。
「――あ、あ、あ」
ちずるの震えが強くなった。ぶるぶるぶるぶる。頭を抱える強さも激しくなる。
かみっ。
「あ」
ぶる――。
振り絞るようなひと震えのあと、ちずるはぴんと硬直し、そして身体から力がぬけた。ぐらりと傾き、そのまま横に倒れる。一緒に耕太も、その背の望《のぞむ》も、倒れた。
はあ、はあ、はあ……。
ちずるの息は荒かった。耕太は唇を離す。唾《つば》が糸を引いた。
うるむ耕太の視界のなかで、ちずるの瞳《ひとみ》もうるみきっていた。つ……っと目尻《めじり》からあふれ、ひと筋流れる。真横――実際には真下の畳に、滲《し》みた。
「ごめん……ごめんね、耕太くん、ごめん」
「……ぼくのほうこそ、こんなこと、しちゃって」
ちずるは首を振った。
「ちがうの。ちがう、ちがう……わたしだけ、こんな」
耕太がなにをいっても、ちずるはちがう、ちがうとくり返すだけだった。
「ね、耕太……」
背の望が、耕太の耳をかぷっと噛《か》んできた。
「熱いよ、とても」
ちずるがずす、と鼻をすすり、微笑《ほほえ》む。
「そうね。うん、こんどは耕太くんも、ついでに望も、一緒に、ね?」
一緒に……なに?
聞き返す間もなく、ちずるの膝《ひざ》が、耕太の両足のあいだを、太ももを割って入ってきた。
「え? ええ?」
ぐりん、と当たる。
耕太は腰を引こうとしたが、後ろからも望が腰を押しつけてくるため、逃れられない。
「ち、ちずるさん……」
「ほら……耕太くんも、わたしの」
ちずるは左胸だけでなく、右胸も広げた浴衣の前からだしていた。ばにょん。
「左のおちちだけじゃ、右のおちちがかわいそう」
「か、かわいそう……そう……そう……そうですね」
ぐりん、ぐりぐりと膝が擦る。
前からの微笑みと、後ろからの熱気に当てられたまま、耕太はかわいそうなおちちを救った。はむっ。
「ん……んん……ん……」
みんな震えだす。ちずるも、望も、そして耕太も。
震えて、震えて、震えて。耕太の腰に迫りあがってきたものが、行き場を求め、暴れ、ついにはこらえきれず――。
あ。
2
耕太はきょろきょろしながら、木製の戸を開けた。
冷ややかな外気が流れこんでくる。ぬらつく肌を滑って、風は乾かし冷やして通り抜けていった。耕太は自分の腕を抱えて、ぶるりと震える。
露天風呂《ろてんぶろ》はもやですっぽりと覆われていた。
普段より寒いせいだろうか。もやもかなり濃いようだ。
いつもなら、湯面にもやがうっすらと漂うだけで、外から見えないように組まれた木の柵も、柵の向こうで荒れ狂う激しい吹雪も、はっきりと見渡せるのだが。
「――はううっ」
また風に吹かれた。耕太は寒さに身をすくめる。
は、早くしなくちゃ……。
このままじゃ凍えてしまう。なにより、だれも来ないうちに、あれ[#「あれ」に傍点]をきれいにしなくては……。耕太はタオルを股間《こかん》に当て、とたたた、と石畳の洗い場を進んだ。
隅に積まれた木の桶《おけ》をとり、白くかすむ湯船に近づく。
屈《かが》みこみ、桶で湯をくんで、身体に浴びせた。
冷えた身体に、湯はしびれるほど熱い。じんじんとしびれている肌に、耕太は何度も浴びせた。手で身体のぬめりを落としてゆく。
このぬめりは〈九尾湯《くびとう》〉だ。
さきほどの宴会というか乱痴気騒ぎで、ちずると望《のぞむ》によって塗りつけられたものだ。ちち見酒、ナイチチアの滝……思いだすだけで耕太の身体は熱くなる。〈九尾湯〉には、飲む以外にもこういった使用法があるらしく……いわゆるローション?
すみずみまで、本当にすみずみまで流してから、耕太はタオルを探った。
ちらちらとまわりを見ながら、タオルに隠しもったものを、つまんで広げる。
トランクスだ。
ぬらぬらと光る自分の下着を、耕太はしばらく見つめた。自然と唇をへの字にしてしまう。への字のまま、湯をくんだ桶につっこんで、じゃぶじゃぶと洗った。
しぼる。ぱんぱんと広げて、丁寧にたたんだ。
への字口でタオルにまた隠す。そのタオルをさらにたたんで、自分の頭にのせた。
「よし……」
耕太はようやく口の力をゆるめた。はあ、と息をはく。
ちらりと湯船を見た。
周囲を見回す。まだだれも来ないよね……?
タオルを頭にのせたまま、耕太はお湯にそろそろと足を差し入れた。
「あち、あち、あち……」
う、う、う……と、うなりながら耕太は腰を沈めた。
「ああ……」
震える吐息をつく。
身体から力がぬける。お湯をすくい、ちゃぶちゃぷと顔に浴びせた。ぷう、と息をはく。
「しあわせしあわせ……」
「ふふふ……喜んでいただいて、なによりです」
あやうく耕太はひっくり返りそうになった。
お湯を跳ね散らかしながら、口元まで沈む。その体勢のまま、耕太は声のしたほうもやの向こう側に目を凝らした。
ねばっこいもやが、だんだんと薄くなってゆく。
「あ……ああ……」
ふたつの影が浮かぶ。
うちひとつの影は、湯面からだした上半身のまわりに、細く長いものを、たくさんうごめかせていた。数えるまでもなく、耕太にはその数が九つだとわかる。
「おこんばんは〜」
玉藻《たまも》が、その紅《あか》い唇をにこりと曲げた。
三角形の狐耳《きつねみみ》、後ろでまとめた金色の髪、そして九つのしっぽ――九尾の狐姿である。そのとなりで湯につかっていた雪花《ゆきはな》が、静かに会釈した。
「あ、あの……」
耕太は立ちあがる。頭のタオルをわしづかみにして、股間《こかん》に当てた。
「ぼく、ぼく……す、すみませんっ!」
背を向けて駆けだした。
「あらあら、なにを遠慮することがあるの。どうぞゆっくりしていきなさいな」
「ふえ? あ……ああ?」
耕太の身体に、金色の濡《ぬ》れた毛なみがざわざわと絡みついてきた。
玉藻のしっぽだ。
しゅるしゅるしゅるしゅると、まるで小魚を捕らえたイソギンチャクの触手のような動きで巻きつき、耕太の身体を宙に浮かす。
ばちゃばちゃと足を動かす耕太を、玉藻たちのそばまで戻していった。
「うふふ?」
「あ……う……」
見つめあう耕太と玉藻。
耕太の身体は宙に浮いて、膝《ひざ》までしかお湯につかっていない。それでもしっぽが巻きついているおかげか、寒さは感じなかった。
「あ、あの、こういうの、いけないと思うんです。だってここ、混浴じゃあ」
「なにをいっているのよ、耕太さん。みんながいる前で、ちずるとあーんなことしていたくせに。ちずるひとりどころか狼《おおかみ》のお嬢さんまでまじえて、あれはなあに? 混浴よりよっぽどひどくない? 男の匂《にお》い、こーんなにぷんぷんさせて」
ぱっきーん、と固まる耕太。
「ど、どうしてそれを」
「ずっと覗《のぞ》いてたもの。天井裏から雪花《ゆきはな》が、こっそりと」
「な」
「それも普通にまぐあうならともかく、あんな凝った……ああいうの、なんていうのかしら、雪花」
「はい、いわゆる赤ちゃんプレイでしょうか」
「そうそう。あんな『はーい、耕太くん。おっぱいでちゅよ〜、よちよち〜』なんてやりかた、倦怠期のカップルだってやらないわよ。ちずるはともかく、耕太さんはまだお若いんでしょうに……ちょっと濃すぎよ。あげく、ここでこっそりあんなもの洗って」
「……ひぅ」
耕太はもう、真っ赤になってうつむくことしかできない。
「ねえ、耕太さん?」
「ふ、ふぁい」
泣き声とともに、耕太は顔をあげた。
「どうしてあなたは、きちんとちずるを抱いてあげないの?」
耕太は引きつる。玉藻《たまも》の金色の瞳《ひとみ》が、きらりときらめいた。
「あなたと普通にできないものだから、ほら、あの子ったらどんどんやりかたがゆがんでしまって……。お尻《しり》ぺんぺんさせたり、赤子のようにおっぱい吸わせてみたり、そんないびつな快楽を求めてしまって、ねえ、それってかえって不純でしょう?」
「す、すみませ――」
ん?
「あの……玉藻さん、どうして、お尻ぺんぺんのこと……。あれ、学校のなかで」
「いやねえ。男が細かいことを、気にしないの」
「い、いや、細かいことでは」
「そんなことより、いまは文字どおり裸のつきあいってやつよ、耕太さん」
いきなり玉藻は立ちあがった。うわあお。
「だからはっきりと訊《き》くわ。ちずるのこと、実際のところはどう思っているの?」
お湯のきらめきが、玉藻の肌を滑り落ちてゆく。
豊かな胸元から、くびれ、そして大きく張りだした腰へと湯は流れた。耕太は思わず目を見開く。鼻の穴もふくれてしまったかもしれない。
「相手が妖怪《ようかい》だから、断りきれず、しかたなくつきあっているの?」
だって大きかった。
玉藻の胸は、ふくらみは、なんとまあ、ちずるをも凌駕《りょうが》する大きさを誇っていた。ちずるが重量級なら、玉藻《たまも》は無差別級である。その豊潤さゆえか、やや重力に負け、すこしばかり下に沈んではいたが――熟れた果実を思わせるふくらみは、かえって耕太に生つばを飲ませまくる。ごきゅごきゅごきゅん。
「さあ、正直におっしゃいな。耕太さん……耕太さん?」
はっ。耕太は我に返る。
同時に玉藻が両腕で胸を隠した。
「ふうん……耕太さんは、おっぱいが好き、と。たしかにあの子も大きいからねえ」
「ち、違います。いえ、たしかに好きですけど、それはその、ちずるさんがいつも押しつけたりあらわにしたり揺らしたりするからで、あまえんぼさんが、いやその、元のぼくはこれほどえっちではなく、いや、そーゆーことじゃなくて!」
ぶるぶるぶるんと耕太は首を横に振った。
「ちずるさんのだから、ぼくは……」
「あらあら、ぜんぶあの子のせい?」
「あ、う」
固まる耕太に、玉藻がにっこりと微笑《ほほえ》んできた。
「そのとおり。それでいいの。あなたぐらいの年の男の子なら、もう朝も昼も晩も夜も、あのことしか考えられなくて普通だわ。風が吹いたって感じちゃう年ごろだもの。だけどあなたは――耕太さんは、それでもあの子を抱こうとはしない。どうして?」
耕太はうつむく。
「ぼ、ぼくは……ちずるさんを大切に思っています」
「ふうん。だから抱かないって?」
「ぼ、ぼくたちまだ、高校生ですし」
「わたくしよくわかりませんけど、いまどきの高校生なら、えっちのひとつやふたつ、していてもおかしくないのではないかしら? 普通の恋人同士ならね」
「……普通とか、そういうの、よくわかりません」
いままでだれかとつきあったことなんかないのだし。
耕太は玉藻を見つめ返す。
「普通とか、当たり前とか、そういうの関係なしに、ぼくはちずるさんのことを……ちずるさんとのあいだのことを、大切にしたいんです。そんな、したいからするなんて、そういうのじゃなくって、もっとこう、なんていうか……」
「ふふ……。なんだか、あのひとのこと、思いだしちゃうわ」
玉藻は微笑んでいた。
「あ」
耕太の身体から、しっぽがしゅるしゅるとほどかれていった。宙に浮いていた足が、そっと湯船に降ろされる。耕太はすかさず肩までお湯につかって、身体を隠した。
「許してくださいましね、耕太さん。親が娘の秘め事に口だしするなど、あさましい真似《まね》を……。子を思うあまりの親のおろかさと、どうかお笑いになってください」
玉藻《たまも》は深々と頭をさげた。
「い、いえ、そんな」
耕太は立ちあがりかけ、裸をさらすわけにもいかないと、またお湯に入った。
腰を曲げたせいで、ぶらぁりと揺れる玉藻のふたなりの果実から、耕太は視線を逸《そ》らす。口元まで湯船に沈んだ。ぶくぶく。
「ふふふっ……それにしても、本当、婿《むこ》どのはあの人によく似ているわ……」
「泰成《やすなり》さまにですか?」
雪花《ゆきはな》の問いに、玉藻はにこりと微笑《ほほえ》んで見せる。
「そう。わたしの旦那《だんな》さま……あの人もね、なんかこう、煮え切らなくって……わたしはほら、こんなたちだから、よくケンカしちゃったりしたんだけど、たいてい悪いのはわたしなのに、あの人から謝ってくるの……。いっつもこんな顔、こーんな子犬みたいな顔して、も〜う、本当、かわいくて……ふふっ」
こーんな子犬みたいな顔、と玉藻に指さされ、耕太はさらに沈む。ぶくぶくぶくぶく。
ぷはっ。
ぼくっていま、どんな顔をしてるんだろう……そんなことを思いながら、耕太は上目づかいで玉藻を見あげた。立ちあがっているせいで丸見えな、玉藻と雪花の腰や、おなかや、たわわな胸はなるべく視界に入れないようにしながら。
「あの、玉藻さんって、ご結婚、なされてたんですか」
「なされてたのよ。昔、むかーしの話ですけどね。もしかしたら、耕太さんも聞き覚えがあるかしら。安倍《あべの》泰成《やすなり》っていうんですけど」
「あべの……やすなり?」
なにやら聞き覚えのある名であった。揺れる湯面を見つめ、頭のなかを探る。
あれは、たしか……。
耕太の脳裏に、学校の図書室で読んだ妖怪《ようかい》図鑑の内容が浮かびあがった。
九尾の狐《きつね》の項目に――。
安倍泰成という占い師に正体を見やぶられて、やっつけられたんだ。
「――安倍泰成!?」
耕太は顔をあげる。
「そ、それって……玉藻さんを、やっつけた……」
ふふっと玉藻は笑った。
「そう。伝承では、わたくし九尾の狐は、陰陽師《おんみょうじ》安倍泰成にやっつけられていることになってるみたいね。うふ、うふふ……あは、見事にやっつけられちゃったわあ」
なぜかうれしそうに身をくねらせた。
「かつて玉藻《たまも》さまは泰成《やすなり》さまと戦われました。白面金毛九尾の狐《きつね》たる玉藻さまと、稀代《きだい》の陰陽師《おんみょうじ》たる安倍《あべの》泰成《やすなり》のおられる都の軍勢――戦いは七日七夜続いたといわれます。その戦いの末、玉藻さまは――」
「泰成のお嫁さんになっちゃったの」
「な、なぜ!」
「玉藻さま、あまりに途中経過をはぶきすぎかと」
「だってしかたないじゃない、好きになっちゃんだもの。七日も戦っているうちにいいかげん飽きてきちゃって、わたし、ひとまずやられた振りしたのね。ただの女に化けて逃げようとしたら……あの人に出会っちゃって」
きゃはっ、と年に似合わぬそぶりを見せる。九本のしっぽがくねりまくっていた。
「あの人ったらかわいくて凛々《りり》しくてかっこよくて、なのにとーっても傷つきやすくて、なんていうの、こう、そばにいて守ってあげたくなっちゃうような……あーん、こんな感じなんだもん」
いきなり抱きついてきた。
玉藻の豊かすぎるふくらみが、耕太の顔をはゆやよんと包んだ。
「ふがふごふがっ!」
「もう、やだ、抱き心地までそっくり……うん?」
はるるるん、と玉藻の胸が離れた。しげしげと耕太の顔を覗《のぞ》きこんでくる。
「あなた……あなたのなかには……」
「な、なんでふか」
「うん――ううん。なんでもないわ」
にっこりと笑い、あらためて抱きしめてきた。
「た、玉藻さん! 困ります、ぼく……」
「もう少しだけ、このままでいさせて」
なにやら声の調子が違う。
抱かれ心地も違っていた。いままでのどぎつい色香がない。ふんわりとした、優しい包みこみかただった。ちずるに〈あまえんぼさん〉されているときに似ている。なんともほっとする感覚だった。
しばらく耕太はそのまま、抱かれたままでいた。玉藻も動かない。
「あの……玉藻さん」
「玉藻さんじゃなくて。そうね――お母さんって呼んでみて」
「――お、おか?」
耕太は玉藻の胸のなかで、目をぱちくりとさせる。
ふふ、ふふふ……。玉藻が笑った。
「冗談よ、冗談。なあに、耕太さん」
「……あの、玉藻さんの旦那《だんな》さまって――安倍泰成さんって、ぼくとおなじ、ニンゲン、だったんですよね」
「ニンゲンですよ。耕太さんから見れば、さぞかし不思議な術を使ったでしょうけどね……心も、身体も、耕太さんとおなじ、ニンゲン」
「玉藻《たまも》さんは、幸せでしたか」
「え?」
「あ、あの、その、ニンゲンの、妻になって……玉藻さんは、幸せでしたか? 辛《つら》いこととか、大変なこと、ありませんでしたか」
「幸せでした」
即答された。
「そりゃあ辛いこと、大変なこと、たくさんあったわよ。妖怪《ようかい》とニンゲンが愛しあったからこそ、妖怪とニンゲンが夫婦になったからこそ産まれた苦しみが、そりゃあたくさんね。だけど、それとおなじくらい、わたしとあの人が愛しあったからこそ、夫婦になったからこそ産まれた喜びも、たくさんあった。そりゃあもう……たっくさんね」
ふふ……と低く笑った。
「もっと訊《き》きたいこと、あるんじゃないの、耕太さん。たとえば……妖怪とニンゲンのあいだに、子供はできるのか、とか」
ぴくん、と耕太は身じろぎする。
「わたしたちの場合……子供だけは恵まれなかった。狐《きつね》の一族は、ニンゲンとのあいだに子を成すことは多いのだけど……わたしの場合は、ね」
きゅっ、と耕太を抱く手に力がこもる。
「もし子を成すことができていたら、もしかしたら、耕太さんみたいな子だったのかしら」
「玉藻、さん……」
「なーんて、朝も昼も晩も夜も、頑張ってみたんだけどね〜。ふふっ、まあ、そんなこともあって、九尾湯《くびとう》なんて作ってもみたのだけど。どうだった、耕太さん。アレ効いた?」
「……て、てきめんに」
「でもアレ、ニンゲンにはお酒のような効果しかでないはずなのだけど」
あう。
耕太はうなだれた。玉藻の胸にさらに深く沈みこむ。
「――まあ、耕太さんの場合は、ヘンなのが潜んでいたから、違った効き方したのかしら」
「はい?」
「いえいえ、なんでもありませんよ。ともかく、九尾湯を飲んで頑張れば、けっこうイケるはずよ。そのためには、まず普通のやりかたでする必要があるけれけど。お尻《しり》ぺんぺんとか、おっぱいちゅうちゅうじゃなくてね」
「す、すみません!」
あはは、と玉藻が笑う。雪花《ゆきはな》も静かに笑った。
「どう? 少しは悩み、解決した?」
耕太は玉藻《たまも》の胸元から顔を離す。玉藻の腕は簡単に外れた。
「はい。少なくとも……玉藻さんは幸せだったことがわかりました。それなら」
「それだけじゃだめよ」
目をぱちくりさせる耕太に、玉藻はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「ちずるだけではなく、あなたも幸せになりなさい。どちらかひとりが不幸では、お互いに愛しあっていれば愛しあっているだけ、もうひとりも不幸になってしまう。愛って、つまりそういうままならないものなのよ」
「ぼくも、幸せに……」
耕太はゆっくりと微笑む。
「わかりました。玉藻さん……」
えー、ごほん、と咳《せき》払いする。
「いろいろありがとうございました。あの、お義母《かあ》さん」
ぺこりと頭をさげた。
「あら、まあ」
玉藻は高い声をあげた。
「おめでとうございます、玉藻さま」
「なにがめでたいのよ、雪花《ゆきはな》」
「めでたくはないのですか?」
玉藻は横目でじっととなりの雪花を見つめた。
「……まあ、めでたい、かしら。でも、本当にめでたいのはこの場合、あの子よね」
うふふ、と笑った。
「お義母さん、だって」
「おめでとうございます」
雪花は小さく拍手をする。
その手が止まった。
玉藻の笑いも止まっている。
「――雪花さん」
「はっ」
いきなり緊迫した雰囲気にきょろきょろする耕太の前で、雪花は身体からうっすらと湯気をあげた。
湯気だと思ったものは見る間に濃くなる。白いもやとなり、たちまちのうちに湯面を滑り広がって、露天風呂《ろてんぶろ》を、そこに立っている三人――耕太、玉藻、雪花の姿を隠した。
「こ、これって……最初にもやがすごかったのは、雪花さんの術?」
しーっ、と玉藻が自分の唇に人さし指を当てる。
「あ。まさか、ぼくが来たから隠れていたんですか? もしかして、いまも――」
耕太は脱衣場からこの露天風呂へとつながっている出入り口を見やった。
すでにもやのおかげで視界はかなり悪い。それでもちらりちらりと入り口が開くのは覗《のぞ》けた。そこから人影が次々と入ってきて――。
「もっ……!?」
耕太の口は覆われた。
しっぽだ。
濡《ぬ》れた金色のしっぽが、耕太の顔に身体に巻きつき、自由と言葉を奪う。耕太は眼《め》でそんなことをする相手――玉藻《たまも》に問いかけた。微笑《ほほえ》みという名の無視をされた。
「耕太くーん。どこー、ここにいるのー?」
ちずるさん!?
その声は金色の毛なみに、もがもごっと吸いこまれた。
「……耕太の匂《にお》い、まだあるよ」
「えー? ちずるさんもぉ、望《のぞむ》もぉ、考えすぎよぉ。だって小山田くんの服なぁんて、どこにもなかったじゃないのぉ。まさか、どこからか覗いているわけじゃ、ないでしょぉー? 小山田くんだってそこまでえっちじゃないわよぉ」
もやの向こうで、望、あかねの声が続いた。まだあかねの酔いは覚めてないようだ。
「……雪花《ゆきはな》さん」
「……はっ」
雪花が指先を向けると、そこのもやがすっと薄れる。
「耕太くん、どこいったんだろ……」
あいかわらず立派なちずるの身体が見えた。
長い黒髪をタオルで包んだ、どん、きゅ、ばうんと波の激しい曲線の前を、こちらは起伏のおだやかな、しなやかな身体が横切る。
銀髪の彼女は、すんすん、と周囲の匂《にお》いを嗅《か》ぎ回っていた。
「たしかに……耕太の匂い、あるのに?」
望《のぞむ》が首を傾《かし》げる。
そのとなりで、望とおなじくらい起伏はひかえめだが、より女性らしい丸い身体つきの女性は、けたけたと笑っていた。
「だーかーらー、もうあがったんでしょってばぁ。あなたたちが小山田くんといっしょに入りたがるのはわかるけどぉ、いないのはしかたないじゃない。ほらぁ、風邪ひいちゃうし……あなたたち、そのべたべたした身体、早く流しなさいよぉ」
あかねだった。
いつもはつるんと剥きだしになっているおでこに、髪留めを抜いておろした前髪がかかっていた。眼鏡も外しているために、声を聞かなければちょっとあかねとわからない。
それにしても――みんな、隠さない。自分の身体を誇っているちずるや、差恥心《しゅうちしん》の薄い望はともかくとして、あかねも、酔っているせいか、それとも女性同士だからか、見事にさらしていた。人によって体型はまったく違う。手足の長さ、腰の細さ、胸の、お尻《しり》の大きさ、肉のつき具合……こうして見ると、望もあかねも決して貧弱ではない。ただ、ちずるが凄《すご》すぎるだけなのだ。
なるほど……。
って、あう。
耕太は目を泳がせた。お、思わず凝視してしまっていた……。
「ふふ……ムコどのも好きねぇ」
玉藻《たまも》がにやにやしている。
「もが! もご!」
「わかってますわかってます。男の子なんだからしかたがない……わたくし、殿方の心理には理解あるつもりですから。でもどう、ムコどの、こうしてこっそりと覗《のぞ》くのも、またいつもと違ったおもむきがあって……いいでしょう?」
「しかし玉藻さま……これではさらに小山田さまのご病気が」
「それもそうねえ。お尻ぺんぺん、おっぱいちゅうちゅう。それ以上の行為に目覚めちゃうのもねえ。孫からどんどん離れてゆく……」
ビョウキ!? ぼく、ビョウキぃ?
「ほが! ほがっご!」
「ああ、ほらほら」
「もほ?」
思わず耕太は玉藻《たまも》が指さす方向を見てしまう。
ちずるたちは湯船のそばにしゃがみこんで、思い思いに湯を浴びていた。ちずるは片|膝《ひざ》をついて肩口から、あかねは両膝をついて胸元から、そして望《のぞむ》といえば頭からじゃっぱーんと桶《おけ》で湯をかぶる。
跳ねた湯がかかり、ぷふっ、と顔をしかめるちずるとあかね。
さらに望は四つんばいになってぷるぷるぷると頭や身体を振った。さらにちずるたちはしぶきを浴びる。
「う……」
あかねはぺたんと洗い場の石畳に座りこんだ。指先で顔の水気をぬぐう。
ちずるはすっくと立ちあがった。
「――だー、もう、なにをやってるのよ、このバカイヌ! いいかげん風呂《ふろ》の入りかたぐらい覚えなさい!」
うん? と四つんばいのままで首を傾《かし》げる望。じーっと下からちずるを見あげた。
「な、なによ」
見られても、ちずるはいっさい隠そうとはしない。逆に胸を張っていた。
「ちずる……すごいもさもさだね」
「――なっ!」
ぱっと隠した。
「なっ……なにがよ!」
「あかねは……ちょばちょば」
「ん……まあね。そういえば、望はないわね」
あかねはまだ顔の水気を指先でぬぐっていた。
「うん。わたし、ここにちょぴっと……うらやましいな」
望は膝立ちになって、下を向いた。手を足のつけ根に添える。にゅい、と伸ばした。
「べつに……生えていたからって偉いわけでもないでしょう。濃いと、水着のときに手入れが大変そうだし……」
「――あの、ちょっと、望?」
「でも、生えているとオトナだって」
「生えればオトナじゃないわ。お酒を飲むから、タバコを吸うから、ちずるさんみたいに淫《みだ》らなことをするからオトナじゃない。オトナっていうのは、自分で責任を取れる人のことをいうのよ」
「ジブンで、セキニン……」
「そう。たとえば校則。ちずるさんはいつでもぶっちぎり、望もたまに違反してるけど。まあね、気持ちはわからないでもないのよ。べつにいいじゃないかって……遅刻しようが、授業サボろうが、ゴミをそこらに捨てようが、人目もはばからずいちゃつこうが、自分の勝手じゃないかって。でもね……それで迷惑する人がたしかにいるのよ」
「――あのー、お話し中、もうしわけないんですけどぉ」
「決まりを破るということは、だれかに迷惑をかけていること。迷惑をかけても平気ということは、責任を取る気がないということ……たかが校則。でも、その「たかが」を守れない人に、それよりも重い決まりが守れるのかしら。だからわたしは守る――オトナに近づくために。そしてみんなにも守ってもらいたい……」
ふふっ、とあかねは笑った。
「やだ。どうしたんだろ、わたし……いつもはこんなこと、絶対にいうわけないのに……なんかちょっぴり、変みたい」
ぺたん、と片手をついた。足を横にして、曲げた膝《ひざ》をすこし伸ばす。望《のぞむ》はにゅいっと足のつけ根を伸ばしたまま、首を傾《かし》げていた。
「――あなたたち、人の話を聞きなさいったら!」
あかねと望が、ひとり立っているちずるを見あげる。
「どうしたの? ちずるさん」
「どうしたの? もさもさちずる」
「それよ! そのもさもさよ!」
ずびしっ、とちずるが望を指さした。
「わたしはそんなに凄《すご》くないです!」
「だって、もっさもさだよ」
「そりゃ望、あなたとくらべればだれだってもっさもさでしょ! ていうかいま、さりげなく小さい「っ」を入れて強調したでしょ! そんな熱帯雨林地帯じゃないもん! ステップ地帯だもん! このツンドラ地帯!」
「んー?」
あかねがぎゅっと目を凝らす。眼鏡が無いからだろう、顔を近づけていった。
「んー……でもちずるさん、水着のとき、剃《そ》るでしょう?」
「剃らない! 普通にちゃんと収まるんだから!」
「え? だって、ちずるさんの水着って、紐《ひも》……」
「わたしのことをなんだと思ってるんだー! 普通のビキニだー!」
興奮のあまり、ちずるの頭を包んでいたタオルがほどける。黒髪がぱさーっと背中に広がった。
「なに? わたしなに? 痴女? ヘンタイ? 色ボケ女?」
こくこくこくとうなずく女性ふたり。
わなわなと震えるちずる。
震えが止まった。くるりと身を返し、しゃがみこんで桶《おけ》を温泉の湯のなかにつっこむ。
ぐん、と身をひねった。
望とあかね、ふたりが白く弾《はじ》ける。
ちずるはふたりにお湯をぶっかけていた。充分な腰のひねりと腕のスナップがくわわった、見事なスイングであった。ふたりに当たって放射状に散ったお湯しぶきが、一瞬、まるでたんぽぽの綿毛のように見えたほどだった。
しばらく、望《のぞむ》とあかねは身じろぎひとつしない。どちらも腕を中途半端に伸ばしたかたちにして、そのうなだれた指先から、水滴をぽたぽたと垂れるがままにしている。べったりとなった髪もあって、まるで幽霊みたいな姿だった。
ちずるは立ちあがって、はあはあと息を荒げ、肩を上下させていた。
「……」
望とあかね、ふたりが無言で動いた。
それぞれ桶《おけ》を取る。そのまま湯船に入った。じゃぶじゃぶと進み、太ももの位置まで湯がつかる位置まで来る。
ふたり同時に動いた。
同時に振りかぶり、同時に振りまわす。ふたりのあいだにあったお湯が爆発した。わたしたちの合体技、ツインお湯ぶっかけシュートがちずるの全身を襲う。
「ぎゃっ! ……うー」
ちずるは腕を幽霊のようなかたちにして、水滴をぽたぽたと垂らす。身体にぺったりと貼《は》りついた長い黒髪もあって、じつに恨みがましかった。
首を振って、すぱん、と髪を背中に回す。
「このわたしとやろうってのね? いいでしょう、受けてたってあげる!」
ざばざばと温泉に入る。
かけあいっこが始まった。
ばっさばっさとあたりに飛びかうお湯しぶき。
「乳もないくせに、この洗濯板ども!」
「そんなの……くっ、邪魔なだけじゃないのよ!」
「そうだよ。ちずっがばごば、あぶらみっごば」
「あぶらみいうな! 色気肉だっていってるでしょ! ちょ、耳入った!」
「い、色気肉? ちずるさんにしてはめずらしくいい言葉だわ……メモメモ」
「でもちずる、この前見たときよりあぶらみ増えて――ごばがばごば」
「失礼なこというなー! って、鼻入った! 痛い!」
「なに望さん。つまり、ちずるさんは太ったってこと?」
「はっきりというなー! そういうあなたはどうなのよ、朝比奈《あさひな》あかね! うりゃうりゃ」
「やだ、つままないでください!」
「ふふん、色気肉とは関係ないところが、ずいぶんとぽよぽよじゃありませんことー?」
「くっ……うわあ、なによこの胸、近くで見るといよいよもって……存在自体が犯罪だわ」
「つまりちずるは、生きてるだけでワイセツなんだね」
「おまえらー!」
だっぱーん。
きゃっきゃきゃっきゃと黄色い声があがる、三人のかけあいっこは続いた。
「……若いっていいわねえ」
玉藻《たまも》がはあ、とため息をつく。
「決して玉藻さまも負けてはいないと思いますが」
「そうはいってもね、あの水を弾《はじ》く肌の張りとか、やっぱりねえ。……もうちょっと若い姿になろうかしら」
「それでは〈玉ノ湯〉の女将《おかみ》としての威厳というものが」
うーん、と玉藻は自分の身体をしげしげと眺める。うにょっと胸を持ちあげてみたりした。雪花《ゆきはな》の突きだした胸をぱいんぱいんと押してみる。
「大きいけど……ちょっと硬いわね」
「鍛えてますので」
「たまには男に揉《も》まれてみたら」
「玉藻さま、それはセクハラです」
「ねえ、ムコどのもそう思うでしょ? どう、ムコどのがひと揉みふた揉み……あら?」
耕太はうなだれていた。
下を向いた鼻から、だらだらと血が垂れる。口元を包むしっぽを紅《あか》く染めていた。
「あらあらあら……刺激が強すぎたかしらねえ」
「……ほがっ、ふがほがっごはっ」
鼻が血で詰まっているのに喋《しゃべ》ろうとしたものだから、耕太はむせた。
もはむはまはっ。
「いけない、いけない」
しゅるしゅるとしっぽが口元から除かれる。耕太は遠慮なく咳《せ》きこんだ。げふ、がは、ごはっほ!
はあはあ……。口元をぬぐう。
「ひ、ひどいですよぅ、玉藻さん……こんな……うん?」
気がつくと耕太の身体からもしっぽの拘束が解かれていた。
それどころか玉藻と雪花の姿がない。
「え? はれ?」
きょろきょろと見回す耕太。
目が合った。
すっかり薄れたもやの向こうで、動きを止めた三人の女性と。
「や、やだ、耕太くん……」
ちずるが手桶《ておけ》を胸元に抱く。
「わたしを見て、そんなに?」
え。
耕太は仁王立ちしていた。
タオルは手のなかにあった。だが耕太は仁王立ちしていたため、手は腰の脇《わき》にあった。つまり耕太は――仁王立ちしていた。
「わあー!」
「耕太……宴会のときとおなじ匂《にお》いさせてる。なんだか、どきどきする匂い……」
すんすん。望《のぞむ》は鼻を動かして、もじもじと身を揺すっていた。
「んー、なに? なんなの? そこに小山田くんがいるの?」
あかねは目を細めて、眼鏡もないのに、ちょうどフレームのある位置で指先をくいくいとさせていた。
「ご、ご、ご……ごめんなさいー!」
耕太は走った。
背中に、ああん、耕太くぅん、いいのにぃ、という声を聞いたが、走った。
一目散に脱衣場に飛びこむ。
脱衣場には、先客がいた。
「――お兄ちゃん?」
美乃里《みのり》と鵺《ぬえ》だ。美乃里が浴衣を脱ぐのを、鵺が少女の背中から手を伸ばして、手伝っていた。ちょうど開けっぴろげになっていた美乃里の前――薄い胸、かすかに肋骨《ろっこつ》の影が浮いた脇腹、くまさんぱんつ。
――そして、胸元、おなか、へそにかけて走る縦一文字の傷跡。
美乃里はあわてた様子で浴衣の前を合わせた。
耕太を見つめる。ぎゅっと唇を噛《か》んでいた。
「あの、すみません!」
頭をさげた。股間《こかん》にタオルを当てたマヌケな格好ではあったが、気にはしていられなかった。
ふふ……とさげた頭に笑い声がかかる。
「いいよ、耕太お兄ちゃんなら」
え、と耕太が頭を上げると、美乃里が目の前に立っていた。
「見て、お兄ちゃん。美乃里の秘密……すべて」
すっと浴衣を開く。
なにかの手術|痕《こん》なのだろうか。傷跡は白く固まり、盛りあがっていた。まわりの皮膚は引きつれ、よじれている。痩《や》せた身体だけに、どうにも痛々しかった。
「ねえ、お兄ちゃん……どう、美乃里の身体……みにくい?」
「そんなこと、ないよ」
「ふふ……うそでもうれしい。やっぱりお兄ちゃんは優しいね……優しすぎるから、いけないんだよね」
「え?」
そのとき、ぱっと美乃里が浴衣を合わせた。
「耕太くーん!」
「耕太っ」
「小山田くん! 覗《のぞ》き行為は犯罪です!」
うわあ。
三者三様の肉体が飛びこんできた。
その後ろから、金色の触手――もとい、しっぽがしゅるしゅると伸びてくる。
「あら?」
「ん」
「きゃっ」
「ま、またこれか……!」
美乃里《みのり》と鵺《ぬえ》は足早に廊下へと脱出していた。耕太はその小さな背中に、少しばかりの痛みを感じる。
耕太の身体がもっていかれる。
「わあ!?」
ばいーん。
なにか張りのあるやわらかさに横からぶつかった。当たり覚えのある感触だった。
「いったーい!」
ちずるである。
彼女の胸のふくらみに、耕太は頬《ほお》からぶつかっていた。涙目のちずるが、耕太を見たとたんに笑顔になり、ぎゅっと抱きしめてきた。
「痛いけど、耕太くんなら平気! んーん、耕太くんと裸のおつきあい……遮るもののない触れあい……幸せ……」
すりすりと耕太の頭に頬をすりよせてくる。
「ち、ちずる、ふぁん」
「きゃっ」
さらに新たなやわらかさが耕太の身体に横から押しつけられた。
「な、なに? なんなの? この身体に巻きついてるのって……え? 小山田くん? なに? わたし……夢でも見てる?」
あかねである。
さらにもうひとつ、横から来た。
「耕太……ちょびちょびは、いいとこどりだと思う。ちずるのもさもさは、オトナすぎだし、ないとコドモだし」
望《のぞむ》だ。
正面にちずる、左右にあかね、望と、耕太は三方から女体に包まれていた。なんでどーしてこんなことになっているのか……耕太はくらくらしてきた。
うう。
女性の身体というのは、感触も、ぬくもりも、匂《にお》いも、それぞれ違うものだ。そんなことを耕太はいままさに実体験していた。
もう……ぼく、だめだ……。
はっきりいって興奮しすぎである。
頭に血が昇って、べつのところにも血が昇って、もうダメである。せめて最後は、あなたの胸のなかで……。
「ちずるさん、ちずるさん、ちずるさん」
三度名を呟《つぶや》いたところで、耕太はこらえきれず、噴きだした。だぶっと。鼻血を。特濃のやつを。ちずるの胸に。
3
「うう……ああ……」
濡《ぬ》れた手ぬぐいを頭にのせた耕太は、ふとんから腕をだした。ぶつぶつと呟きながら、震える手でなにかを押し返そうとする。
その手が、そっと握られた。
「大丈夫よ、耕太くん」
ちずるは耕太の腕をふとんのなかに戻した。
なおもなにかを呟く耕太の口元に、着物姿のちずるが耳を寄せる。
おっぱいが……おっぱいが……。
ちずるの眉《まゆ》は哀《かな》しみの弧を描く。
「ごめんね、耕太くん……いろいろ、ごめんなさい。本当に、いろいろ」
しょぼんとうなだれた。
耕太は一室に寝かされていた。まわりにはちずるのほか、望《のぞむ》と女将《おかみ》姿となった玉藻《たまも》、雪花《ゆきはな》もいる。望はちずるとおなじく、うなだれて小さくなっていた。
「耕太……死ぬ?」
「死ぬわけないでしょ! 縁起でもない……ちょっと鼻血を噴いただけよ」
「はい。小山田さまは少々〈九尾湯《くびとう》〉に悪酔いなされていたようですし……そこに興奮するようなことが重なったため、頭に血が昇ったものと思われます。安静にしていれば回復するかと」
「まあ。湯あたりならぬ、乳あたりといったところかしら」
うふふ、と笑う玉藻《たまも》。黒い着物に着替えていた。
「だれのせいだと思ってるのよ!」
八重歯を剥《む》きだしにしたちずるに、玉藻はしーっ、と唇に人さし指を当てた。ちずるは寝ている耕太を見て、自分の口に手を当てる。ぎろりと玉藻を睨《にら》んだ。
「いったいなにを考えてるの。耕太くんを、こんな……!」
にこやかに細めていた玉藻の眼《め》が、うっすらと開く。瞳《ひこみ》がきらりと光った。
「ちょっとおいでなさいな、ちずるさん」
にっこりと微笑《ほほえ》み、立ちあがった。
「上等ぉ……とことんまでつきあってあげよーじゃないの」
ちずるはたもとを腕まくりして、遠ざかる玉藻の背中を追っていった。
ふすまを開け、ふたりは廊下にでてゆく。
うおっ、という声が廊下であがった。
「おー、なんだ? やっぱり始まるの? 親子ゲンカ」
入れ替わって顔を見せたのはたゆらだ。
「たゆら、たゆらー、あかねは?」
「寝てるよ。桐山《きりやま》のバカと澪《みお》ちゃんと一緒に、グースカピーだ。まだ酔いが覚めてないところに、なにやら衝撃体験しちゃったみたいだからな……朝比奈《あさひな》、すっかり目を回しちまった。おかげで今回のことは、夢でも見たんじゃないかという線で押せるだろーけど……しっかし玉藻さんも、もうちょっと気をつけて欲しいよなあ。おれたち、ニンゲンである朝比奈に正体がバレたら、学校辞めなきゃならねーんだぜ。刑務所行きだぜ」
「申し訳ありません」
正座したまま、雪花《ゆきはな》は深々と頭をさげた。
「ちょっと、雪花さんに謝られても困るよ。……つーか、いまの根に持ったりしないよね? 明日、さらに指導が厳しくならないよね?」
ふっ……と雪花が笑う。
「その心配はご無用かと。明日にはもう……」
うん? とたゆらは首を傾《かし》げる。
「どーゆーこと?」
雪花は黙って、玉藻とちずるが去ったふすまを見つめていた。
「さーて、やりましょうか」
ぐきぐきとちずるは指を鳴らす。凄《すご》みのある笑みを浮かべた。
おほほ……と玉藻《たまも》は静かに微笑《ほほえ》んでいる。黒い着物に、小雪がちらちらと舞い降りていた。
ふたりは旅館の中庭にでていた。
まわりを廊下で囲まれた、四角い、ちょっとした大きさの庭園だ。桜の樹《き》が植えられ、小さな池があり、玉砂利が敷きつめられている。敷石が歩道として並べてあったが、ちずるも玉藻も玉砂利の上に立っていた。ちずるは素足、玉藻は女物の下駄を履いている。
空はあいかわらずの大吹雪だ。
不可視の壁に阻まれて、中庭に影響はない。しかしどんな術なのか、ほんの少しだけ雪を入りこませて、美しい雪景色を作りあげていた。
「やってあげてもいいけど……その前に、ちずる。あなた、わたしに訊《き》きたいことがあるんじゃあないの?」
「べっつにー? だってぜんぶわかっているもの」
ちずるはせせら笑った。
「へえ……なにがわかっているというのかしら」
「ぜんぶよ、ぜんぶ! この茶番がみんな、耕太くんを試すためのものだってね!」
びし、と指さした。ふふっ……と笑う玉藻。
「どうぞ、続けて」
「桐山《きりやま》のバカを連れ去ったのも、だいだらぼっちが目覚めそうなのも、耕太くんを呼び寄せて、足止めして働かせて、ついでにちょっかいだして、わたしの恋人がどんな男なのかを見極めるため……なんのつもりか知らないけど、あかねまでさらってきて! あのバスにいたあいつ! いけすかないヘンタイ男、三珠《みたま》とかいうやつは、あなたの仲間なんでしょ! つまりあなたは――〈葛《くず》の葉《は》〉とつるんでる!」
「おバカ」
にこにこと微笑みながら玉藻は答えた。
「残念だけど、外れよ。ほとんど」
「ほとんどってことは、当たっているところもあるってことじゃない!」
「耕太さんのことを見極めようとしたのは、当たり」
「やっぱり……!」
「話は最後まで聞きなさい。たしかに耕太さんのことをいろいろと試させてはもらったけれど、それはたまたまよ。最初から狙《ねら》ってやったことじゃないわ。だいたいね、わたしと〈葛の葉〉にどんな因縁があるのか、あなただってよく知っているでしょうに。わたしがあいつらとつるむわけがないでしょうが」
きっ、と玉藻が睨《にら》む。
「それは、まあ……そうかも、しれないけど」
「だから三珠《みたま》とかいう男のことは知りません。それに桐山《きりやま》……かまいたちの坊やのことね? あの坊やがどうしてこの山に来たのかも知らない。なにかが山に入りこんだから雪花《ゆきはな》が様子を見にいったら、そこで坊やが凍りかけてた。わたしたちはそれをただ助けただけ。そもそもだいだらぼっちの目覚めについては、かまいたちの坊やが来る直前の話だし……目覚めの原因はあなたなんですし」
「わ、わたし? どーしてわたし?」
ふふ……と玉藻《たまも》は笑う。
「あなた、困っていることがあるんじゃないの?」
「なにがよ」
「さっきもいったでしょう。わたしに訊《き》きたいことがあるんじゃないかって。力の使いかたとか、抑えかたとか、訊きたくないの?」
玉藻の眼《め》が、すっと鋭くなった。
「あなたがここに来たとき――大吹雪で遭難しかけたときね、どうしてあなたは耕太さんにとり憑《つ》かなかったの? 狐《きつね》の姿になれば、あんな、耕太さんが死にかけるようなこともなかったでしょうに。それどころか最近はまったく憑いてないでしょう。あのとき以来……狼《おおかみ》の彼とやりあって以来、ちっとも」
ちっ。ちずるは舌打ちした。
「あいかわらず、雪花たちを使ってデバガメ? 覗《のぞ》き趣味もいいかげんにしてよね。耕太くんにまでその趣味、しこもうとして!」
「わたしはただ、あなたのことが心配なだけ。あなたってばいつだって考えなしに感情だけで動いて、危なっかしいったらないんだから」
「いつまでも子供あつかいしないで!」
「親にとっては、子供はいつまでたっても子供なの。だいたいにして、今回の件はね、そこから始まっているのよ、ちずる。あなたが狼の彼と闘ったところから……あなたが隠された力に目覚めてしまったところから」
「……どういうこと」
「場所が問題だったのよねえ。あなた、狼の彼と神社で闘ったでしょう。そこはね、龍脈《りゅうみゃく》――地を走る、大地の力の流れの、そのちょうど真上だったのよ」
「そんなのべつにめずらしいことじゃないじゃない。神社は霊的に特別な位置に建てられるものだし……だから龍脈の上に建つことはよくあるし。ここだってそうでしょう? この山は龍脈が集まる、大地の気でむんむんな土地で……」
あ。
ちずるは口をOの字に開けた。
「そう……だからよ」
玉藻がにんまりと笑う。
「あの神社であなたが暴走させ、あふれさせた力。荒々しくもまがまがしい妖気《ようき》が、龍脈を通じて、この土地にまでやってきてしまった。そのささくれだった力が、すやすやと眠っていた何の罪もない巨人を、激しく揺さぶってしまった……だから目覚めちゃうのよ、だいだらぼっちは」
「うそぉ!」
玉藻《たまも》はため息をつく。
「このままだと、またおなじようなことが起きるわね。あなたがその、自分でもままならない凶暴な力を振るうたび、まわりを傷つけてしまう。あなた、気づいてた? 耕太さんだってそのせいで苦しんでいるのよ」
ちずるは大股《おおまた》で玉藻に近づく。肩をつかんだ。
「――どういうこと、それ」
「あの力が、耕太さんのなかにまだ残っている。普段は奥深く潜んでいるけれど、きっと耕太さんを苦しめているはずよ。ニンゲンのままでは御しきれない力ですからね。苦しみから解放されるには、力を受け入れ、人ならぬものになるしかない」
「ダメ! 耕太くんがニンゲン以外になっちゃうなんて、そんなの、ダメ!」
がくがくと玉藻を揺さぶるちずる。その手に、玉藻がそっと手を重ねた。
「そんなに怖い? 彼が人ならぬものになってしまうのが」
「当たり前じゃない! 耕太くんだっていやに決まってる!」
「だからずっととり憑《つ》かなかったのね? たとえ耕太さんの身に危険が迫ろうとも、我慢したのね? でもどうして? 耕太さんがニンゲンじゃなくなれば、あなたとつきあうための障害もひとつ無くなるじゃない」
ちずるはうつむく。
「……耕太くんを、耕太くん以外の存在にはしたくない。耕太くんは、耕太くんのままでいてほしい」
玉藻が穏やかに微笑《ほほえ》む。
「その気持ち、忘れちゃダメよ。相手を自分の思いのままにはしない。それさえ忘れなければ、きつとムコどのとも……」
「ちょっと、そのムコどのってのはやめてよ」
「どうして? だっていつかはそのつもりでしょう?」
「まだ耕太くんのお嫁さんになれるかどうか、わからないもの。それなのにムコどのって……耕太くんに〈玉ノ湯〉を継がせるつもり?」
「あらあらあらあら、あなたもその気じゃなかったの? たゆらたちに黙って、ふたりきりでここに来ようとしたのは、家のことわたしのこと、自分自身のことを、耕太さんに明かそうとしたんじゃないの?」
「そのつもりだった!」
ちずるは唾《つば》を飛ばす。
「耕太くんとふたりきり、温泉にでもゆったりつかりながら、じっくりと話そうと思った! 〈玉ノ湯〉のこと、親が九尾の狐《きつね》だということ、わたし自身の過去……。だけど、あなたの横やりでお邪魔虫はついてくるし、いきなり遭難しかけるし、借金を背負わされてさんざんにこきつかわれるし、とてもそんな状態じゃなかったでしょうがっ!」
「あらあら、それは大変だったわねえ」
「ほとんどあなたのせいじゃないの! 耕太くんを試すような真似《まね》して……あんな、宴会だとかいって、料理に〈九尾湯《くびとう》〉混ぜて!」
「あなた、わかっていながら自分から〈九尾湯〉入りの料理、耕太さんに食べさせてたじゃないの。自分でも飲んで……」
ふん、とちずるは鼻で笑う。
「あれはあなたが耕太くんのこと、試してるって気づいたから。だから見せたのよ、ありのままの姿を、ぜんぶ」
「ありのままが……おっぱいちゅー?」
「……悪い?」
ちずるの頬《ほお》はじわじわと赤くなっていった。
「あなたたちの関係が、かなりいびつなのはよくわかったけれど……。おまけに三人でだなんて」
「だって望《のぞむ》も飲んじゃってたんだもん。ほっとくのもかわいそうだし」
うつむき、指先を複雑に絡めあわせた。
ふふ、あははは。玉藻《たまも》が笑いだす。
「冗談よ、冗談。あれだけ大量に〈九尾湯〉を飲んで、よくぞ最後までいかずに我慢したと、むしろ感心したわ」
「……耕太くんがその気じゃないのに、無理にはしないもの」
唇を尖《とが》らせたちずるを、玉藻は抱きよせ、とんとんと背中を叩《たた》く。
「本当に耕太さんを好きになってしまったのね……。あのね、ちずる。あなた、わたしが耕太さんを試してたというけれど、それはちょっと違うのよ」
「……違う?」
「ええ。試したのは、耕太さんと――あなた」
「わたしを……?」
玉藻はちずるを静かなまなざしで見つめる。
「ちずる。あなたと耕太さんのこれからの道のりは、あなたが思うよりもはるかに厳しく、そして辛《つら》いものだわ。それはあなただけでなく、耕太さんにとっても」
「……それは自分の経験から? 母さん」
「それもあるし、それだけでもない。どうする、ちずる。いまならまだ引き返せるわよ。いちど抱かれさえすれば思い残すことがなくなるのなら、ここで一発決めちゃって、それですっぱり別れなさい。それがお互いにとっては一番楽な道よ」
「一発決めろなんて、親のいう言葉?」
「そのためのお膳立《ぜんだ》てなら、してあげる」
玉藻《たまも》は真顔だ。
ちずるも真顔で見つめ返す。
「たとえどんな困難が待っていたって、わたしは耕太くんとずっと一緒にいたい。耕太くんが……そばにいることを許してくれているあいだは、ずっと。だって、だってだって、いちど抱かれるだけじゃがまんできないもの! なんどだってしたいもの!」
「何度だってしたいなんて、娘のいう言葉?」
ぷっ、とふたりは噴きだした。
しばらく笑いあって、そしてちずるは真剣な表情になる。
「耕太くんは、わたしが守る。どんな困難からだって、守りぬいてみせる」
「いまのところ、耕太さんに守られているようですけど」
ちずるは眼《め》を伏せる。
「もう、頼れないから。耕太くんとわたし、ふたりの力を合わせれば、どんなことが相手だって負けないけれど、でも、もう、いまのままでは……あの力をそのままにしては、耕太くんにとり憑《つ》くことはできないし、だから、わたしは……」
深くうなずく。
「あの力を、自分のものにしてみせる。あのしっぽの力を」
「たしかに……使いこなせれば、あのしっぽの力は大きな助けになるでしょうね。ただし、それは使いこなせればの話。ねえ、ちずる。大きな力は助けになっても、大きすぎる力は災いにしかならないのよ。わかってる?」
「わかってる。だから……」
ちずるはもじもじしだした。
指先で太ももの生地をぐにぐにと握る。
「あの……その……えっと……」
ふふ、と玉藻が微笑《ほほえ》む。
「あなた、わたしに訊《き》きたいことがあるんじゃなくて?」
ぶんぶんとちずるはうなずく。
「ある! あります! 力の使いかた、力の抑えかた、知りたい!」
「ようやく本題に入れるわね。いいでしょう。教えてあげましょう。九尾の狐《きつね》が、九尾の狐の娘にね」
「あ、あの、母さん? わたしは、九尾じゃないよ」
玉藻は首を横に振る。
「九尾なの。わたしと種族は違えど、あなたも九つのしっぽを持っている。狐のしっぽ以外に、あと八つのしっぽを。八つの力を」
「ど、どうして母さんは知っているの?」
「それは……ふふ、あなたの親だからよ。母はなんでも知っているのよ」
にこやかに玉藻《たまも》は微笑《ほほえ》んだ。
「……よし、いいよ、母さん」
小雪の降る中庭で、ちずるは化《ば》け狐《ぎつね》の姿に変化していた。
着物姿で、狐の耳を生やし、髪を金色に変え、しっぽを伸ばす。
「じゃあ、例のしっぽをだしてみなさい」
玉藻も九尾の姿に変化していた。着物は緋《ひ》色に、髪は金色に、九つのしっぽを長々とうねらせている。
ちずるはきょとんとする。
「だしてみなさい、といわれても」
「早くなさい」
ひゅんひゅんと、玉藻はしっぽをムチのように振った。
「早くなさいったって……どーしたらいーのか」
ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、ちずるは拳《こぶし》を握った。
中腰になり、うーんうーんと顔を真っ赤にしてうなる。やがてがくりと肩を落とした。はあはあ。荒く息をつく。
「……あなた、遊んでいるの?」
「一生懸命、頑張ってるってば!」
「ならばもっと一生懸命に頑張りなさい。いまのそれは、頑張るというより、ふんばるだわ。そのままきばっても、でるのはおならぐらいなものよ」
「そんなこといったって! やりかた、わからないもん!」
「あのときはどうだったの。しっぽがでたとき――狼《おおかみ》の坊やとやりあったときよ。どうしてでたの、あのしっぽは」
「どうしてって、あのときは……朔《さく》と闘ったときは……」
ちずるは眼《め》を閉じた。肩から力がぬける。
「たしか……耕太くんが……」
「耕太さんが?」
「あのバカオオカミにひどい目にあって……なのにわたしは身動きが取れなくて」
「それで?」
「このままだと……耕太くんが……」
ちずるの眉間《みけん》に皺《しわ》が浮かぶ。どんどん深くなっていった。
「耕太……くん……が……」
ぶわりとちずるの髪が舞いあがる。風も無いのに、金色の髪はざわめき、波うった。
しかしそれ以上の変化は起こらない。しばらく黙って見つめていた玉藻が、唇をにやりと曲げる。
「考えたくないのはわかるけど。だけどこのままなら、間違いなくそうなる[#「そうなる」に傍点]わよ」
ちずるの髪のざわめきが強くなった。
「どう……いう……こと……」
「愛するものを失くすってこと。忘れてはないでしょうけど、耕太さんのなかにはあのしっぽの力が入りこんでいる。いまはまだ命がどうこうなるほどの影響はないけれど、すこしずつ、耕太さんを消耗はさせている……。もしもまた、あなたがあのしっぽの力を暴走させるようなことがあったとしたら。耕太さんのなかに入りこんだ力も、また……」
「そんなこと、させない!」
ちずるの身体から、金色の光があふれだした。
光は紅《あか》くなる。燃えあがり、ちずるの身体を包みこんだ。炎はちずるの腰に集まり、うねり、一本の燃える竜巻となって長々と伸びてゆく。
炎のしっぽとなった。
「ふふ……おひさしぶりねえ」
え? と炎のしっぽを生やしたちずるが我に返った。
「そ、それって、母さ……」
目の前に玉藻《たまも》の姿はない。
「あ、あれ?」
ぺっちーん。
きゃん、と悲鳴をあげて、ちずるは吹っ飛んだ。玉砂利にうずくまる。
ちずるは金毛の狐《きつね》のしっぽと、燃えあがる炎のしっぽを生やしたお尻《しり》を抱え、ぷるぷると震えていた。うずくまったまま足をぱたぱたと動かし、首を後ろに曲げる。
「な、な、なにするのよう!」
玉藻は、ちずるの尻を叩《たた》いた姿のまま――右手を振り抜いた姿のまま、微笑《ほほえ》む。
「あら? あなた、お尻ぺんぺんは嫌いじゃないでしょう?」
「それは耕太くんにされるからいいのであって……って、ちょっと、まさかそんなとこまで雪花《ゆきはな》に覗《のぞ》かせてるわけぇ!?」
「まさか」
おほほほ、と玉藻は笑う。
「そ、そうよね、いくらなんでも薫風《くんぷう》高校にまで入りこめるわけが」
「雪花は忙しいのよ。覗いているのは雪花の手のもの」
「おなじことでしょーが!」
ちずるはお尻を抱えたまま立ちあがった。涙目になっている。
「いま、ちょっとした封印をしたわ。あなたがその力を使いこなせるようになるまで、炎のしっぽは消えないし、ほかのしっぽがでてくることもないはず」
え? とちずるはお尻をさする手を止めた。
ぴょんぴょんと軽く跳ねてみる。尾てい骨のあたりから伸びる炎のしっぽを見おろす。
いきなり炎はくねり、弧を描いた。驚きに眼《め》を見開くちずるの肩ごしに、玉藻《たまも》に襲いかかる。
「――無駄よ」
玉藻の九つのしっぽに阻まれた。
先端を重ねあわせた金毛のしっぽの壁を、炎のしっぽは越えることができなかった。
「八つすべてが揃《そろ》っているならともかく、一本だけじゃあ、わたしに傷ひとつつけることはできないわ。力の一部も、耕太さんのところに置いてあるようだし」
「か、母さん。あのー……母さんは、もしかして……記憶を失う前のわたしのこと、知ってたり……する?」
「あら、どうしてそう思うの?」
「だ、だって、こいつと、このしっぽと顔見知りみたいだし」
身動きとれなくなっている炎のしっぽを、指さした。
ふふふ……玉藻は笑う。
「いつまでもしっぽ呼ばわりするのもなにね。これはね――〈龍《りゅう》〉と呼ぶのよ」
「〈龍〉? 母さん、それは……」
ぐらりと地面が揺れた。
長い。
かなりの時間揺れて、ようやく収まった。
「いよいよお目覚めの時間ね……」
玉藻は吹雪で白くなっている空を見あげ、いった。
「目覚めるって、まさか」
「だいだらぼっちのダイちゃんよ。さあ、ちずる。力を使いこなすための第一歩よ。寝ぼけて暴れているダイちゃんのこと、起こしてきて。その〈龍〉を使って」
「――はい?」
玉藻はにっこりと笑った。
「そうしたら、例の一千万。帳消しにしてあげても、いいわよー?」
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[#小見出し] 五、告白、告白、また告白[#「五、告白、告白、また告白」は太字]
1
「なんでっ、おれたちまでっ、こんなっ」
猛吹雪のなか、たゆらはぶつぶつ呟《つぶや》きながら雪原を歩いていた。
銀毛の髪も、生えた狐《きつね》の耳も、しっぽも、〈玉ノ湯〉のハッピもジーンズも、雪にまみれている。足は雪のなか、膝《ひざ》まで埋まっていた。
「うるさいよ、たゆら。いいかげん覚悟を決めなさい」
前をゆく着物姿のちずるを、たゆらはじっと見つめた。
視線は金毛のしっぽの横から生えた、燃えさかる炎のしっぽに注がれていた。
「そりゃちずるはいーけどな。その〈龍《りゅう》〉とやらを使いこなすために、だいだらぼっちを殴り倒しにいくんだろ? でもよ、それっておれたちには関係ねーじゃねーか」
「殴り倒すんじゃない。叩《たた》き起こしにゆくの。こいつの力を完全に引き出せれば、だいたい起きるのにちょうどいいぐらいの刺激を持った破壊力になるらしいのよ」
「細かいことはどーでもいーけどよ……なあ、なんとかいえよ、おまえらも」
たゆらは振りむく。
後ろには桐山《きりやま》と望《のぞむ》がいた。
桐山はたゆらのすぐ後ろに、やたらもこもこした姿でついてきている。
頭には毛糸の帽子、ハッピのなかにもセーターを着て、おまけにそれぞれ二、三枚ほど重ね着しているようだ。
「なーにいってんのよ。そこのおバカさんは、ただ働くだけでちっとも修行してなかったじゃないの。大巨人が相手なんて、鍛えるにはちょうどいいじゃない」
桐山が答える前に、ちずるが答えていた。
「修行できなかったの、おまえの親のせい……」
「なにー? 聞こえないー!」
吹雪はちずると桐山のあいだにも入りこみ、吹きすさんでいた。
「うう……寒い……ここ、キライ……おまえらも、キライ……」
ずず、と桐山は鼻をすする。鼻水も凍りかけていた。
たゆらは視線を桐山から、その後ろへと移す。
「あっちは元気だよなあ……」
望はあいかわらずのジャージ姿で、無駄にそこいらを飛び回っていた。
「あの子が協力するのは当たり前よ。だって耕太《こうた》くんのためなんだから」
「で、ちずる。おれはどうなのよ」
たゆらは雪に足を取られてよろめき、あわてて手を振ってバランスを取った。
「なにいってるのよ。おまえはわたしの弟じゃないの。弟が美しい姉のために力を尽くすのは、これ当然のことでしょう?」
「都合のいいときばっかり姉弟ヅラするんだからなー」
「心配しなくたって、あなたたちにだいだらぼっちと闘えなんていわない。わたしがこいつを使いこなせるようになるまで、ダイちゃんを引きつけておいてくれればいいのよ」
ちずるは炎のしっぽを振る。めらめら炎が揺らいだ。
「いつ使いこなせるようになるんだよ、そいつは……」
「やってみなきゃわかんないでしょ、そんなこと」
めらめらふりふり。
吹雪のなかでも変わらず燃えあがる炎のしっぽの振られるさまを見て、たゆらはため息をついた。
「あとさ、いつになったら現場にはつくわけ? このままだとダイちゃんにやられる前に、吹雪にやられそうなんだけどなー?」
隊列の先頭には雪花《ゆきはな》がいた。
袖《そで》がなく、丈の短い着物をまとい、露出した手足は鎖かたびらで覆っている。腕には手甲、すねにすね当て。腰には短い刀を差し、首には長いマフラーを巻いていた。
「おーい、雪花さーん! まだー!?」
「もうすぐです」
振り返らずに雪花は答えた。低いながら、吹雪のなかでもよく通る声であった。
「もうすぐってさぁ、ずーっと歩いてんだけどー!」
「ですから、もうすぐです」
ちぇ、とたゆらは舌打ちする。
その瞬間、激しく地面が揺らいだ。
「お? おお?」
揺れはどんどん強くなっていった。五人は立ちつくす。
ぴたりと揺れは止まった。
「いまのは……」
「つきました」
雪花がちずるたちのところまで歩いてきた。
そのまま通りすぎる。
「ちょ、ちょっと、雪花さん! つきましたって、あの……」
ずずん。
揺れた。
ずずずん。
また揺れた。さっきまでとは違う、細かく区切られた揺れだった。ずずん、ずずずん、ずん。
「おい、たゆら、あれ、なんだ?」
着ぶくれしている桐山《きりやま》が、空を指さす。
「なんだって、なにが……わお」
吹雪でかすむ空に、巨大な影が映っていた。
人型である。
二十階建てのマンションほどの高さに、彼の頭はあった。ひょろりと長く高い体つきの黒い影が、ちずるたちに向かって歩いてくる。そのたびに地面は揺れた。
ずずん、ずずずん。
「あ、あれが……まさか……」
近づいてくるたび、揺れは大きく、影は高くなった。
「いくらなんでもでかすぎだろォ! 雪花《ゆきはな》さん、雪花さん……」
たゆらはきょろきょろとあたりを見回した。
「――いねえ!」
いくら見回しても、吹雪の向こうに、なだらかな白い丘陵が広がるばかりであった。足跡ひとつ残っていない。
「あの人だけ逃げたのぉ? ひ、ひでえ……」
「なにをあわててるのよ、たゆら」
ちずるが巨人の影に向かって数歩踏みだした。
「雪花がいようがいまいがなんだろうが、やることはひとつ――こいつをがつんと一発ブチこんで、寝ぼけダイちゃんをしゃっきり目覚めさせるだけよ!」
ぶん、と炎のしっぽを振りまわした。
それに呼応したのか、巨人はちからこぶを作るかたちに両腕を曲げた。
がおおおおおお。
吠《ほ》えた。びりびりと空気が震える。
「待っててね、耕太くん……」
ちずるは不敵に笑った。
「おっぱい……おっぱい……おっぱ……ちずるさん!」
耕太は跳ね起きた。
あ、あれ? とまわりを見る。
自分が部屋のなかで眠っていたことに気づいた。傍らに座っていた玉藻《たまも》と、手ぬぐいをしぼっていた澪《みお》と目が合う。
「あらあら、寝ぼけたのかしら」
玉藻が耕太の跳ねのけたふとんを直した。
「す、すみません」
「いいんですよ。それより、もうすこしお休みなさい。けっこう、大量に血を流してしまったようですし」
「……血?」
耕太はむにむにぽよえ〜んな露天風呂《ろてんぶろ》地獄を思いだした。うつむく。
思いだしすぎて鼻の奥が重くなってきたので、あわてて上を向いた。横目で玉藻《たまも》を見る。
「あ、あの……ちずるさんは?」
玉藻はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「いま、ちょっと席を外しているの。すぐに戻ると思うわ」
「そ……うですか」
耕太はちらりと澪《みお》の様子を見ていた。しぼった手ぬぐいを、ちずるのことを問いかけた瞬間に、ぼちゃんと洗面器のなかに落としてしまったところを。
「それじゃあ、望《のぞむ》さんや、たゆらくん……桐山《きりやま》さんは」
「それぞれ、ちょっとした所用で」
「所用……? みんなで……?」
じっと耕太は玉藻を見つめる。玉藻はうふふ……と微笑むばかりだ。
「――そう。所用だよ、お兄ちゃん。だいだらぼっちを倒すっていうね」
ふすまが開いた。
美乃里《みのり》と鵺《ぬえ》が部屋に入ってくる。
「きみは、美乃里さ……あ」
美乃里はぶかぶかの浴衣姿になっていた。
どうやら男物の浴衣を着ているらしい。後ろに控える鵺は普通の浴衣姿で、美乃里の余っている浴衣の裾《すそ》を持ちあげていた。
「その格好……いや、そんなことより、さっき、ちずるさんがだいだらぼっちを倒すって」
「ちぇ。やっぱりお兄ちゃんは、美乃里よりあの女のほうが気になるんだ」
美乃里は唇を尖《とが》らせた。
あらあら、と玉藻は笑顔のままで眉《まゆ》をひそめる。
「倒しにいったわけではありませんよ。寝ぼけて暴れまわるだいだらぼっちさんを、ぴしっと起こしにいったんです」
「い、いや、起こしにいったって……それならぼくも!」
立ちあがろうとする耕太を、玉藻が手で制する。
「だめですよ、耕太さん。あの子があなたの力を借りずにいったのは、これからも耕太さんのそばにいられるようにするためなんですから」
「ぼ、ぼくのそばに?」
「あなたとひとつになれば、〈龍《りゅう》〉の力をもたやすく意のままにできるでしょう。でもそれでは、いつまでたってもあの子は成長できない。耕太さんが耕太さんのままで、ちずるがちずるのままでいるためには、あの子自身が強くならなくては」
「あ、あの、いったい」
なにがなんだかよくわからない。
「〈龍《りゅう》〉って、なにが……〈龍〉? 〈龍〉……どこかで聞いたような」
「あの子を信じなさい、ムコどの。きっとちずるは、〈龍〉を手に入れて帰ってくるから。だから――」
「それじゃあつまんないよねー」
美乃里《みのり》だ。
なにやらいつもと違う、大人びた口調だった。
「せっかくだいだらぼっちなんて格好の相手がいるんだから、お兄ちゃんとあの女が合体して闘わないと……美乃里、つまんなーい」
「美乃里……さん?」
「ごめんね、お兄ちゃん。今回の件って、だいたい美乃里のしわざなの」
笑みをほころばせながら、とんでもないことを告白する美乃里。
「そ、それって」
「うん。お兄ちゃんの知りあいをこの谷につれてくれば、この九尾の狐《きつね》さんは、それをいいロ実にして、きっとふたりを呼び寄せると思ったんだ。そうなれば、九尾の狐さんの動きで、お兄ちゃんとあのメスギツネの正体がわかるかと思って」
「きみは……いったいなにものなの」
「だからぁ、なんどもいってるじゃない。美乃里はお兄ちゃんの妹だよ」
「ぼくに妹は――」
「いない? 本当に? 両親の顔も知らないのに?」
「ど、どうしてそのことを」
耕太の問いには答えず、美乃里は玉藻《たまも》に笑いかけた。
「美乃里とあなたの企《たくら》みは、おなじだとばかり思っていたんだけどなー」
「あらあら、それは残念だったわね。おなじ〈龍〉の力を目覚めさせるのでも……」
「うん。わたしはお兄ちゃんの力を使って。あなたの場合、ちずるの力を使って。ぜんぜんちがーう」
「なにかお困りかしら?」
「うん。美乃里の計画、狂っちゃう」
「でしたらあとはご自分でなさったら? 相手を利用してばかりじゃなくて……ねえ、〈葛《くず》の葉《は》〉さん」
あは、と美乃里は笑う。
「やっぱり気づいてたんだ? でもさー、相手を利用しているのはそっちもでしょー。九尾の狐さんは、いったいなにを企んでいるの?」
美乃里と玉藻は笑顔で見つめあう。
その眼《め》はふたりとも、まったく笑ってはいなかった。
美乃里《みのり》が大げさにため息をつく。
「あーあ、しかたない。自分でやるかあ」
「最初からその気だったくせに。そんな格好してきて」
ぶかぶかの浴衣姿をした美乃里が、後ろを仰ぎ見る。
「――鵺《ぬえ》」
……はい。
かすかにそんな言葉を洩《も》らして、鵺は腰を屈《かが》めていった。
美乃里の背中から身を乗りだすようにして、顔を寄せる。美乃里は斜め上を向き――ふたりは唇を重ねた。
「あ」
「きゃ」
耕太は声を洩らし、澪《みお》は顔を手で覆った。
キスシーン……耕太はほかのひとのを生で見るのは初めてだった。
自分たちも、まわりからはこんな感じで見られているのだろうか……耕太の顔は赤くなる。赤くなりながら、少女と女性の口づけを見つめ続けていた。
――や?
すっ……と鵺の姿が薄れてゆく。
完全にかき消えた。同時に美乃里《みのり》の髪はざわめきだし、黒かった頭にラインのような白髪が浮かびあがってくる。さらには体つきまでが変化してきた。
どくん、どくん、どくん……。
鼓動のような動きとともに、美乃里の身体は大きくなってゆく。
背が伸び、肩幅が広がり、華奢《きゃしゃ》だった腕に、足に、しなやかな筋肉が浮かんだ。ぶかぶかだった浴衣が、ついにはぴったりとなる。
ふう、と男[#「男」に傍点]は息をはいた。
「やあ、耕太くん……」
「三珠《みたま》、さん……」
自分とよく似た男。バスのなかで出会った男。
耕太だけではなく、澪《みお》も眼《め》を見開き、口元に両手を当てて驚いていた。
「どうしたのかな、耕太くん。そんな顔をして、妖怪《ようかい》がとり憑《つ》いて変化するのは、自分だけだとでも思っていたのかい? ああ……そうか。きみの場合、狐《きつね》に変化するだけだものね。ぼくのように――性別や年齢までは変わらない」
「あ、う」
「狐と鵺《ぬえ》の違いかな?」
ははは、と笑う。
「さてと、耕太くん。いきなり死なないでくれよ」
「――はい?」
三珠と化した美乃里が、腕を伸ばし、耕太に向かって手のひらを広げた。
黒い閃光が放たれる。
「うーりゃうりゃうりゃ、りゃりゃりゃ!」
竜巻をまとった桐山《きりやま》が、空気の刃《やいば》を立て続けに飛ばす。刃は吹雪を切り裂いて、黒い大きな足に向かっていった。
当たって――それだけだった。
巨人はかまわず歩を進めている。足を動かすたびに、地面が揺れる。ずずん、ずずずん。
「ふんっ!」
たゆらも狐火《きつねび》をぶつけるが、巨人の動きは変わらない。
「ダメだ、ダメダメ! ちっとも効いてやしねーよ! それどころか完全無視だ……おーい、ちずる! まだかー!」
「あともうちょっと!」
ちずるは巨人から離れた位置で、うーん、と中腰になって歯を食いしばっていた。両の拳《こぶし》を強く握りしめている。
しかし、ちずるの腰から伸びた炎のしっぽは、うんともすんとも動かない。
「あともうちょっとって……トイレじゃねーんだからさ」
たゆらがちずるの横に視線を向けると、そこでは望《のぞむ》が雪だるまを作っていた。
「あっちは遊んでるしよ……ともかく、足止めだけはしておかなきゃマズイんじゃねーか? このままだと山を越えて、スキー場までいっちまうそ」
たゆらは竜巻のなかの桐山《きりやま》に、おーい、と話しかけた。
「修行してたんだろ! なんかとっておきの必殺技とか、ねーのかよ!」
「ふっふっふ……」
桐山は、着ぶくれした身体を揺すって笑った。
「お? まさかあるのか? 期待してなかっただけに、驚きが強いぜ……」
「おまえみたいなザコ、そこでおとなしく、見てろ!」
桐山は跳んだ。
三度大きくジャンプして、だいだらぼっちの前に廻る。
竜巻のいきおいを強くした。
「うーりゃりゃりゃりゃりゃー!」
「……いまのところはなんとかのひとつ覚えだが」
「ううううう……うりゃー!」
かけ声とともに、桐山は飛んだ。
跳んだではなく、飛んだ。竜巻をまとったまま、回転しながら、身体ごと巨人へとぶつかってゆく。
「――おお!」
たゆらの驚きの声とともに、竜巻は巨人の足に当たった。
巨人の歩みが止まる。
「き、効いた……のか?」
ぐ、が、ご。
巨人は岩と岩とがこすれあったような声をあげ、最後に、があおおおおお、と大音声をあげた。うおっ、と耳を押さえるたゆら。
激しく地面が揺れた。
巨人は飛び跳ねていた。左の膝《ひざ》を抱え、右足でけんけんと跳ねていた。そのたびに激しく揺れる。雪煙があがる。
「き、効くには効いたけどよ……あのバカ!」
たゆらは巨人から走って逃げた。
ちずるはあいかわらず力んでいる。炎のしっぽは動かない。そばで二体目の雪だるまを作っていた望は、ぴん、と狼《おおかみ》の耳を立てた。
ぴくぴく動かし、白い丘の上を見る。
「ねえねえ、ちずる」
「うー」
「ちずるったらあ」
「なによ、いまとりこみ中なの!」
くいくいと着物の袖《そで》を引っぱられ、ちずるは吠《ほ》えた。
「あれあれ」
「いったいなんだっていうのよ……よ?」
眼《め》を細める。
望《のぞむ》が指さした丘から、白い波が落ちてきていた。どんどんといきおいを増し、ちずるたちの目の前にまであっというまに迫ってくる。
雪崩だ。
ちずるは口を大きく開け――叫ぶ前に、雪崩に呑《の》みこまれた。
黒い煙があがっていた。
耕太は咳《せ》きこみながら、煙の下から這《は》いだし、廊下へとでる。
「な、なんで、げふ、こんな、ことに」
ひゅん、と肩口を黒い光が通っていった。
そう耕太が感じた瞬間には、爆発が起きていた。引きちぎられたふすまの破片を浴びながら、耕太はなかば吹き飛ばされる。
「うわあああああ」
四つんばいで廊下を走った。
あはははは。
背中に男の高笑いが聞こえた。耕太の手足の動きは倍に速まる。廊下の角を横滑りしながら駆けぬけた。
「どこにいくのかな、耕太くん。どこにいこうが、いまこの屋敷にあのメスギツネはいない。つまり、余計な邪魔者はいないんだ。さあ、耕太くんの……お兄ちゃんの本当の力、ぞんぶんに見せてよ!」
耕太は角をドリフトしながら四つ足で走り抜ける。
それを待っていたかのように、ぎりぎり後ろ足を黒い光がかすめた。廊下の壁が吹き飛び、耕太の背にかかる。
わざとだ、と耕太は立ちあがり、二本足になりながら思った。
あの黒い光――とりあえず美乃里《みのり》ビームとでもいえばいいのだろうか。あのビームを当てようと思えば、きっと簡単だろう。
だって光ったと思った瞬間には、すでに爆発しているのだから。
耕太がよけるよけないの問題ではない。勝手にあちらのほうから、耕太をよけて飛んでいるのだ。つまり、美乃里《みのり》はわざと当てず、耕太をいたぶっているのだ。
なぜか。
たぶん、耕太の〈本当の力〉を見たいのだろう。
「そ、そんな力――あるわけないじゃないかー!」
今度は真横が爆発した。
耕太は吹っ飛び、反対側のふすまにぶち当たる。へし折り、部屋になかに転がった。うう……とよろめきながら立ちあがる。
傷《いた》めた肩を押さえながら、耕太は廊下に戻り、走った。
「あと……もう、ちょっと」
耕太はある音をとらえた。
身体を震わす重低音……耕太はふすまを開けて、その部屋に飛びこむ。薄闇《うすやみ》のなか、目的のものへととりすがった。
「――さあて。ようやく覚悟を決めたのかな、兄さん」
美乃里が姿を見せた。
耕太を見て、片|眉《まゆ》を曲げる。腰に手を当て、深くため息をついた。
「なーんだ……」
美乃里の視線は、耕太ではなく、その横、大きないびきの洩《も》れ聞こえるふすまにあった。
「熊田《くまだ》流星《りゅうせい》――なるほどね。どこに逃げているのかと思ったら、彼に助けてもらおうとしたわけだ。ちょっとがっかりだな」
「ちょっと待った。ぼくは熊田さんの力を借りるつもりは、ないよ」
耕太は、美乃里に向かって、拳《こぶし》を突きだす。
「借りずに、どうするつもり……うん?」
美乃里が眼《め》を凝らす。
「こうするつもり、です」
耕太の手にはマフラーがあった。
赤いよれよれの、ところどころほつれたちずるのマフラーをつかんでいた。
「はは……。そうかそうか、そうなんだ……うん。まあ、いいんじゃない? さっきよりはおもしろくなりそうだよ。どうぞどうぞ」
耕太はマフラーを首に巻く。
深く息をはいた。
けっきょく……ちずるさんの力を借りるんだけど……。
息を止め、マフラーの端をぎゅっと握った。ちずるさん……ぼくに力を……ふたりの力を……。
耕太は、心を広げる。
めいっぱい広げて、広げて、広げて――息が続かなくなって、ぶは、とはいた。ぜひぜひと息を荒げる。
「あ、あれ?」
なにも引っかかってこなかった。
朔《さく》と闘ったときは、金色に輝くちずるの力に触れさえすれば、あとは勝手につながって、こっちに流れこんで、黒狐《くろぎつね》の姿に変化できたのに。
「どうして……」
はっ、と耕太は顔をあげる。
美乃里《みのり》がにこやかに微笑《ほほえ》んでいた。
「ふふふ……兄さんって、おもしろいねえ」
「はは、はは……」
ふたりでしばらく笑いあう。
笑いながら、美乃里は手のひらを耕太に向けてきた。
笑いながら、耕太はくるりと背を向け、走りだした。
「――おもしろすぎて、笑えないよ、兄さんっ」
ははっ、とひと笑いして、美乃里ビームは放たれた。
ずずん、と地響きがあがった。
折れかけていた天井の梁が、その揺れで完全に折れる。真下の澪《みお》へと落下した。
「――きゃっ!」
澪は頭を抱えて丸くなる。
ぷるぷると震える。震えて、震えて、震えて……そっと見あげた。
「……けろ?」
木の太い柱は、金毛のしっぽによって支えられていた。
「大丈夫? お嬢さん」
しっぽで澪を守った玉藻《たまも》が、静かに微笑んでいる。ひょい、としっぽを動かし、折れた柱を横に転がした。畳の上に落とす。澪はびくついた。
「あ、ありがとう、ご、ございます」
丸くなったまま、澪は深々と頭をさげた。
「怪我《けが》がなくてなにより。それにしても……」
玉藻は天井を見あげる。
「ずいぶんと見晴らしが良くなってしまったわねえ」
吹雪の空が広がっていた。
本来天井があるはずの場所には、ぽっかりと穴が開いている。穴の縁はぶすぶすと焦げ、うっすらと黒い煙をあげていた。
破壊されているのは天井だけではない。
部屋のふすまはのきなみ吹き飛び、壁は砕け、まわりの景色が丸見えになっていた。雪のしんしんとつもる庭が覗《のぞ》く。
いきなり忍者装束の女性があらわれた。
「――玉藻《たまも》さま」
「けろっ!」
澪《みお》は丸くなったまま飛び跳ねる。玉藻にしがみついた。
相手が雪花《ゆきはな》だと知り、はあ、と息をつく。
「ずいぶんと派手にやっていますね」
雪花は、埃《ほこり》と破片と黒煙でぐちゃぐちゃになっている室内を見回した。
「そちらはどう?」
玉藻は太ももにしがみついている澪の背を、やさしく撫《な》でていた。
「ちずるさまが雪崩に呑《の》みこまれたところまでは確認しました」
ふふふ……と玉藻は笑う。
「あの子も苦労しているようねえ。まあ、若いときの苦労は買ってでもしろというし」
「――うわあああああ」
遠く、叫び声が聞こえた。
どんどん近づいてくる。
「こちらも、苦労しているみたいねえ」
「わああああああ!」
耕太は庭を逃げていた。
「――あああ?」
玉藻たちの姿が見えた。どうやらぐるりと庭を一周してきたらしい。玉藻にしがみつく澪の姿を認めて、よかった、無事だったんだと耕太はほっと息をつく。
とたんに真後ろが爆発した。
耕太は吹っ飛び、ごろごろと強制的に前転させられる。無理に体勢を立て直そうとしたのがまずかったのか、頭から雪に突っこんだ。
ずぼ、と頭を抜いて、ぶんぶんと振る。顔についた雪を散らした。
「兄さーん?」
びくん。
身体を震わす耕太。おそるおそる後ろを向き――上空を見あげた。
「いったいどこまで逃げるつもりだい。もしかして、九尾の狐《きつね》の力でも借りる気かな?」
美乃里《みのり》は飛んでいた。
背には黒い羽が生えている。コウモリの羽にそっくりだ。
ゆっくりと羽ばたいて空中に静止しているところを見ると、物理的な力で飛んでいるのではなく、なにか不可思議な力で飛んでいるのだろう。
「いいかげん、本気を出してくれないかなあ、兄さん」
「き、きみは、いったい」
「うん? この姿のこと? だってぼくに憑《つ》いているのは、鵺《ぬえ》だからね。兄さん、知ってる? 鵺ってのは、頭は猿、体は狸《たぬき》、しっぽは蛇で、手足は虎《とら》、おまけに声は鳥の鳴き声なんだってさ。つまりは正体不明の怪物なんだ。ぼくの鵺は、そんな伝説上の鵺とは違う生き物なんだけど、特徴はおなじで、つまり……」
横から伸びてきたものが、美乃里《みのり》の口をふさいだ。
黒い。
触手だった。美乃里の左腕が、黒く変色して三つに分かれていた。それぞれが勝手にうごめく黒い触手の、そのひとつが、美乃里の口を押さえていた。
美乃里は苦笑しながら、変形した左腕を、残った右手でそっとはがす。
「ふふ……そうだね。どうも兄さん相手には、ぼくはおしゃべりだね」
触手と化していた左腕が、ひとつにまとまる。
人間の手のかたちに戻った。
「どうしたんだい、耕太兄さん。こんなバケモノを見るのは初めて? だけどさ、妖怪《ようかい》なんてものは、見た目はどうあれ、中身はみんなこんなものだよ。あのメスギツネも……ちずるだっておんなじさ」
「バケモノだなんて、そんなこと」
「信じられない? ぼくは兄さんに嘘《うそ》はつかないのに」
「う、嘘ばかりじゃないか! バスに乗っていたとき、美乃里じゃなくて、三珠《みたま》って……それに、ぼくの妹だなんて」
「嘘じゃないよ。ぼくの名前は三珠美乃里。姓が三珠で、名が美乃里なんだ」
へえ、という声があがった。
九尾の姿をした玉藻《たまも》が、ふきとんだふすまの向こうから見あげていた。
「あなたは三珠のものだったの。〈三珠〉といったら、〈葛《くず》の葉《は》〉のなかでもかなり上位に属する家よね。ただのネズミじゃないと思ってはいたけど」
「ずいぶんとお詳しい」
美乃里が玉藻に視線を向けた。
「それはもう、わたし、〈葛の葉〉は大嫌いですからね。そのぐらいは調べてますよ」
玉藻は笑った。
「――で? 〈葛の葉〉が嫌いな九尾の狐《きつね》さんは……」
すとん。
呆然《ぼうぜん》としている耕太の前に、なにかが降りてきた。
浴衣を着た男……美乃里だ。
「いったいどうするつもりなのかな?」
耕太に向かって、手のひらをつきつけた。
眼前に突きつけられた美乃里ビームの砲門に、耕太は固まった。逃れようにも、硬直した身体は動かない。
どうして視線ひとつ動かせないのか――心が固まっているからだと知った。
恐怖。
美乃里《みのり》が、薄く笑った。
「――そこまでだ」
びくん、と耕太は身を震わす。
それで動けるようになった。ぎ、ぎ、ぎ……と機械のようにぎこちなく見あげる。
「我らの見ている前で、勝手を許すとでも思うのか」
雪花《ゆきはな》だった。
玉藻《たまも》のそばに控えていたはずの雪花が、いつのまにか美乃里の後ろにまわり、彼の首筋に刀を当てていた。
美乃里が、耕太に突きつけていた腕をおろす。
「ふうん……やる気?」
「そちらがその気ならば」
四方から無数の影が跳んできた。
耕太のまわりに降りたち、構える。その手には刀、身には忍者装束を身につけていた。
その数、十ばかり。
みな女性だ。みな、セクシーくのいちの格好だ。いっせいに耕太を見る。
「やだぁ、近くでみると、さらにかわいい!」
「え?」
きゃいきゃいと黄色い声があがる。
「いいなー、ちずるさまー、いいなー」
「でもこんな顔して、愛人連れよー?」
「おまけに変態よ。学校でスパンキングよスパンキング。高校生のプレイじゃないよねー」
「それはちずるさまに流されてでしょ? しかたないわよ、コドモなんだから」
「なに? なになに? なんかかばっちゃったりして。まさか、耕太さまを?」
「やっだー、ちずるさまから奪ったりなんかしないわよー! あとが怖いしー!」
油断なく美乃里に向かって刀を構えてはいたのだが、会話の中身はほとんど女子高生だ。
「あ、あのー」
「やーん、とまどった顔もかわいー」
「おまえら! いいかげんにしろ!」
「――はっ!」
雪花の怒声に、くのいちたちはいっせいに顔を引き締めた。
「まったく……いくら男っ気がないとはいえ……」
雪花はぶつぶつと呟《つぶや》く。
くっくっく、と美乃里《みのり》は身を震わして笑っていた。
「――なにを笑っている!」
ぐいと刀を押し当てた。
「いや、これは失礼。……で? やるの、やらないの?」
「むろん――」
「やりませんよ?」
玉藻《たまも》の声に、雪花《ゆきはな》の刀がわずかに乱れる。
「……た、玉藻さま?」
「お引きなさい、雪花さん。わかっているでしょう」
「ですが、このままでは」
「雪花さん」
しばらく雪花は身じろぎひとつしなかった。
静かにまぶたを閉じる。
「――許せ、少年」
「え」
「我ら忍びは、主人の命には逆らえんのだ……」
「そうなのよー、この格好もね、玉藻さまの趣味なのー。前はこんなに露出が多くはなかったんだけど、あるとき玉藻さまが時代劇を観《み》ていて、「これでいきましょう、雪花」ってー。おかしらは最後まで嫌がってたんだけどねー」
くのいちのひとりが、ノースリーブミニスカートな忍者装束を指先でつまんで伸ばす。
「おかしらを恨まないでね、耕太さま。耕太さまを従業員として鬼のように鍛えあげたのも、あれは玉藻さまにいわれてしかたなくで、けっこうおかしら、気にしてたから」
「黙らんか、おまえら!」
雪花の怒鳴り声に、はっ、とくのいちたちは片膝《ひざ》をついた。
「余計なことを、ぺちゃぺちゃと……」
耕太と目が合う。
しばらく見つめあった。わずかに雪花の涼しげな目元がゆがむ。
「……なんだ、少年」
「いえ。その……なんだか、人ごとに思えなくて」
雪花は視線を逸《そ》らした。
「……わたしは、べつに主人の命を聞くことを苦労だとは思っていない」
「ぼくも、ちずるさんの勢いに流されるのを苦労だとは思っていません」
「……少年」
「……はい」
「負けるなよ。……お互いに」
「……はい」
雪花《ゆきはな》は玉藻《たまも》の元に戻っていった。くのいちもそれぞれ影となって散る。
「さて……もういいのかな、兄さん」
美乃里《みのり》は腰に手を当て、首を傾ける。白と黒、メッシュの髪が揺れた。
「あまり、よくはないんですけど……」
「わがままはよくないなあ、耕太くん」
美乃里はにやりと笑う。
「知ってるんだよ、兄さん。あなたが、その腐ったようなマフラーを使えば、あの女と……わざわざキスなんかしなくたって、狐《きつね》に変化できるってね。いいかげん、本気を出してくれないかなあ?」
「変化したくてもできないんだ。それに、あ、あなたと、闘う理由がないよ」
「ああ……兄さんは、闘うのに理由がいるんだっけ? 闘わなきゃぼくに殺される。それじゃ理由にならないのかな?」
「どうしてぼくのことを……そんな」
「憎いからね」
美乃里は薄く笑った。
笑いながら、浴衣の前を開く。
耕太の前に、縦に長々と刻まれた傷跡がさらされた。胸元からみぞおち、へそにかけて白く刻まれている。
「こ、これ……」
「そう。ぼくが女のときにも、兄さんには見せたよね。まあ、これはぼくが兄さんを憎む、ひとつの理由でしかないんだけど」
「ひとつの理由でしか――ほ、ほかの理由って?」
美乃里は眼《め》を針のように細めた。
「あえていうならば……兄さんだからかな。小山田《おやまだ》耕太《こうた》が、三珠《みたま》美乃里の兄だから、かな」
「だから、ぼくときみは兄妹《きょうだい》なんかじゃないよ! ぼくはひとりっ子で……」
「もしも今回生きて帰れて、兄さんの祖父にまた会えたなら、訊《き》いてみるといい。はたして真実を答えてくれるかどうかは、わからないけどね」
「おじいちゃんに?」
ふ……。美乃里は静かに笑う。
「さて……また少々おしゃべりがすぎたようだ。鵺《ぬえ》に怒られてしまう……本気でやりなよ、兄さん。ぼくもこれからは本気でやるから」
その言葉とともに、左手が変形し、くぱぁ……と開いた。
こんどはまるでワニの口のように、肩まで裂け、大きく割れる。開いた美乃里の左腕のなかに、たしかに牙《きば》が生えていたのを、耕太は見た。
美乃里はその顎《あご》に右手を差し入れる。
口のなかから、黒い布を引きだした。大きな黒い布は、美乃里の身体を包み、ぐるぐると巻きついてゆく。
布が剥《は》がれたとき、美乃里《みのり》はすっかり着替え終えていた。
浴衣姿だった身体には白い衣をまとっている。その下は黒い着物で、たもとから覗《のぞ》く腕には手甲をつけ、袴《はかま》は太もものあたりですぼまり、脚はすね当てで覆われていた。
胸には白いぽんぽんが四つあり、頭には小さな頭巾がのっていた。
まるで、修験僧のような格好――いや、そのものだ。
「ふふ……これが〈葛《くず》の葉《は》〉の戦闘装束。本気の本気ってやつだよ……兄さん」
ぶわりと黒い羽が広がった。
ゆっくりと羽ばたき、ゆっくりと空に上がってゆく。
美乃里は手のひらを耕太に向けた。
それも両腕を。
耕太は横に飛んだ。
黒い閃光が走り、直前まで耕太がいた場所に、ふたつの黒い火柱があがる。
立て続けに火柱はあがった。
耕太は雪の浅くつもる庭を、ひたすらに走り続ける。首のマフラーを握り、思う。ちずるさん……。
すぐ後ろが燃えあがった。
耕太は黒い光に包まれながら、爆風で宙に吹き飛ばされる。
ちずるさん、ぼく、もうダメかもぉぉぉぉぉ!
だいだらぼっちはひとり、遠くで吠《ほ》えていた。
地響きで揺れる雪原に、ぽこん、と小さな山ができる。
銀色の三角形の耳が出てきた。
ぐいぐいと顔を出す。銀髪の少女――望《のぞむ》はなにかを口にくわえて、雪のなかから抜け出てきた。
ずぼん、とぜんぶ出る。
望の口には、金髪の女性がくわえられていた。そちらもぜんぶ雪のなかから出して、ぱっと口から離す。
「ちずる、ちずる」
狐《きつね》の耳、しっぽ、そして燃える炎のしっぽを生やしたちずるは、雪の上にだらんと横になっていた。ぴくりとも動かない。吹雪は容赦なく雪を吹きつけてゆく。
「ちずる、ちずるったら」
ぺちぺちと望はちずるの頬《ほお》を叩《たた》く。まったくそのまぶたは開かない。
うー?
望はひとうなりして、ちずるの耳元に口を寄せた。
「ちずる、耕太のこと守るっていった。あれ、やっぱり嘘《うそ》? 口だけ?」
ぴく、とちずるの目元は動いた。狐の耳やしっぽもぴくつく。
「起きろ、源《みなもと》ちずる。それでもちずるは、耕太のコイビトなの」
「わ、わたしは……耕太くんの……」
ぶつぶつ呟《つぶや》くも、やはり目覚めない。
望は口をへの字にした。
うん、とうなずく。
「あ。耕太がすっぽんぽんだ」
「どこどこどこ、耕太くんったら、そんなダメ、わたし以外に見せちゃ!」
ちずるは飛び起きた。
吹雪のなか、きょろきょろとあたりを見回す。
「耕太くん……あれ?」
「あれ、じゃないよ、ちずる」
ん? とちずるは身体をひねって、肩ごしに望を見た。
「なんだ、望じゃない」
「なんだじゃないよ、ちずる。そのアチチしっぽ、いうこと聞かすんでしょ」
ちずるの腰から伸びる、炎のしっぽを指さした。
「叩《たた》けばいうこと聞くんじゃない?」
「叩いていうこと聞くんなら、いくらだって叩くけど……そう簡単じゃないのよ、こいつ」
ちずるはぺちん、と自分のお尻《しり》を叩いた。
「動かすぐらいならできるんだけど、力を引きだそうとすると……とたんに黙りこむの。早くしないと、耕太くんが……」
「耕太が? どうしたの?」
「耕太くんが……」
ちずるは人さし指をあご先に当て、視線を浮かした。
「どうしたんだろ?」
「……ちずる、かまいたちになっちゃったの?」
「それはどういう意味よ。あなたもさりげなくヒドイわね。えっとね、なんだか……耕太くんが大変なことになっているような気が……うーん」
望《のぞむ》は吹雪に向かって、鼻をぴくぴくさせた。
しっぽがぴんと立つ。
「……わたしも、なんかそんな気がしてきた」
「望も?」
うなずく望。
「ちずる! はやくアチチしっぽ!」
「よ、よし。頑張ってみる」
ちずるは遠くでうがー、うがー、と吠《ほ》えてるだいだらぼっちの影を見つめた。
まぶたを閉じる。
「いまのでコツを……思いだした」
ぶつぶつと呟《つぶや》きだす。
「耕太くんが……あぶない。あ、転んだ。痛そう。ダメ、泣いちゃダメよ耕太くん……ほら、ふーふーして、痛いの痛いのとんでゆけー」
にまにまと笑いだす。
「……ちずる、かまいたちになっちゃったの?」
「バカにはなってない! ……ダメだ。どうしても、耕太くんを想像のなかでもヒドイ目にはあわせられない……。ねえ望。あなた、耕太くんをヒドイ目にあわせてくれない?」
「そんなヒドイこと、できない」
「この桐山《きりやま》! 実際にしろなんていってないでしょ。ロで適当に喋《しゃべ》ってくれるだけでいいのよ。なんか、聞くだけで耕太くんを助けたくなって、しかたなくなるような話」
うーん? 望は首をひねった。
「ヒドイ話……助けたくなるような話……」
「ほらほら、早く早くー」
ちずるはまぶたを閉じて、とんとんと身体を揺すっている。
「うーん……」
望《のぞむ》は二度、三度と首をひねる。
「耕太が……」
「耕太くんがー?」
「耕太が……」
「なによ」
「耕太が、玉藻《たまも》に押し倒された」
びき、とちずるが固まる。
「裸に剥《む》かれた。おっぱいに押しつぶされた。耕太の○○○が××られた。△△△が口口口されて、さらに……」
「ふざけるな、あのババアーッ!」
炎のしっぽが直立した。
激しく燃えあがり、ぐるぐると弧を描く。
「耕太くんはわたしのものなんだからああああああー!」
しっぽはうねり、ちずるのまわりを旋回する。
全身をすっぽりと包みこんだ。
「う……うう」
ぼこん、と雪のなかから顔を出す男がいる。
銀髪に、狐《きつね》の耳。たゆらだった。
「生きてるのか、おれは……」
「ん。たゆら」
「お、望。おい、ちょっと手を貸してくれよ。凍えちまって、身体に力が入らねえ……」
「すぐに暖かくなるよ」
「おい、冗談はいいから、はやく……」
「ほら、溶けてきた」
「あん? ん……なんかホントに熱くなってきたな」
望に首根っこをつかまれて、たゆらはずぼん、と抜け出た。
「いったいなんで……あああ!?」
振り返った先には、燃えさかる火球があった。
とてつもなく大きい。
三メートルほどの炎の玉が、地面の雪を溶かして、ぽっかりと穴を開けていた。雪が溶けたぶん沈むわけでもなく、宙に浮いている。
「なんだよ……こりゃあ」
「ちずるだよ」
「あん?」
「ちずるが、アチチしっぽを使ってる」
「使ってるって……〈龍《りゅう》〉をか? まさか、ちずる、あのなかに……?」
こくりとうなずく望《のぞむ》。
「おいおいおい! 大丈夫なのかよ……燃えちゃってんじゃねーの?」
うーん? と首を傾《かし》げる望。
「そもそも、ここで燃えてるのはいいけどよ、だいだらぼっちはどーすんのよ。そっちに力をぶつけなきゃ意味ねーんじゃねーの?」
火球は燃えあがったまま動かない。
巨人ははるか遠くで、ずずん、ずずずんときままな歩みを続けていた。
2
「ん……んん……」
耕太はまぶたを開いた。
赤黒いうねりが目に入る。上下左右、三百六十度ぐねぐねとうねっていた。
「まーたーかー!」
はあ、とため息をつきながら、耕太は赤と黒の世界――自分の心の世界を、ゆったりと漂った。いつもとおなじく、すっぱだかだ。
もう、これで何度目なんだろ。玉ノ湯に来てからも、もうすでに七回……八回?
〈玉ノ湯〉で思いだした。
「そうだ! ぼく、いったいどうなったんだろ?」
美乃里《みのり》と名乗る少女が、鵺《ぬえ》という自髪の女性とキスして合体して、なぜか男になって、でもって耕太に襲いかかってきたはずだ。
さんざんに黒い怪光線――美乃里ビームを撃ちまくられ、ちょうど吹き飛んで……、
「死んじゃったのかな、もしかして」
裸で耕太は平泳ぎする。
宙を手足でかいた。こんな動きでも、いちおうゆっくりながら、赤と黒の世界を進むことができた。すいー、すいー、とたいした抵抗もなく手足を動かしながら、耕太はあてもなくゆく。
「いつもなら、もうそろそろでてくるところだけど」
ぴん、と耕太は背後に気配を感じた。
空気……がこの世界にもあるのだろうか、なにやら波のようなものを感じた。えいっ、と耕太は手足を横に扇いで、振り返る。
「――いっ」
耕太は口をまっすぐに引き結んだ。
ぱっと股間《こかん》を両手で隠す。
「な、あ、う」
「こ、こんにちわー……」
胸、腰、お尻《しり》とすばらしい曲線を描いた女性が、そこにいた。
金色の髪をさらさらと身体にまとい、頭からは三角形の耳を生やし、背中からは長く太いしっぽを覗《のぞ》かせている。
「ち、ちずるさん!」
「はい、です」
「い、いつからそこに?」
「……けっこう、前からかな」
「もしかして、ずっと、ぼくを後ろから? ひ、平泳ぎしていたときも、後ろから……」
耕太は股問を押さえていた両手のひとつを、後ろに回した。両側から股《また》を隠す。
「そ、それじゃあ……」
「……ぜんぶ、見ちゃった、はい」
耕太は悲鳴をあげた。
「ひ、ひどいです、ちずるさん! そんな、ぜんぶ、まるごと、前から後ろからなんて」
「ご、ごめんね、耕太くん。でも耕太くんだって、わたしのを見てるじゃない」
「前から後ろからは見てませんl」
「じゃあ見る? ほら、後ろから……」
腰をひねって、ちずるはかえるのように脚を広げ、曲げようとした。
「見ません!」
耕太は目をつぶり、顔をそむけ、両手をはねつけるように伸ばした。
「ちずるさんはいつだってそうやって、恥じらいというものがなくて……じょ、女性なんですから、もうちょっと、こう、隠すところは隠して……いや、べつにおしとやかになれとはいいませんけど、だってそんなのはちずるさんらしくないし、ちょっと強引で、すこしだけえっちなちずるさんは、ぼく、キライじゃないですけど、あとほんのちょっとだけ、いやらしさを抑えてもらえると、ぼく、うれしいかなあって……」
「わかった。これからはいやらしさ、抑えます」
「ちずるさん……」
「だから、わたしとひとつになって?」
微笑《ほほえ》みながら、ちずるは抱きついてきた。
「え?」
「ね、一緒になろう、耕太くん。わたしを、いつものように受け入れて」
唇を寄せてくる。
「受け入れるの。わたしを、耕太くんが、受け入れる。ただそれだけでいいの」
「いや、ちょっと、その、それ、いやらしさを抑えてない」
「受け入れて。ひとつになってぇん」
唇が、耕太の唇に、重なって――。
「させるかーっ!」
目の前でちずるの頭がずれた。
側頭部から素足での蹴りがめりこみ、ぐぎごぎん、という嫌な音を残して、ちずるはすっ飛んでいった。
「な……あ……はー!? ち、ちずるさーん!!」
「なあに?」
耕太は後ろから抱き寄せられた。
抱かれ覚えのある感触だ。当たり覚えの、つぶれ覚えの、押しつけられ覚えのある感触が、背中にあった。
「ち……ちずるさん?」
「はい! 源《みなもと》ちずる、天下無敵の美少女|狐《ぎつね》よ!」
満面の笑顔を見せる、狐耳の金髪女性がいた。
耕太は背中のちずると、回りながら吹っ飛んでゆくちずる、ふたりを交互に見やった。
天下無敵の美少女狐という言葉をくり返す。
「……うん。あなたはたしかにちずるさんだ」
ふふっ、と背中のちずるが笑った。
「じゃあ、あっちのちずるさんは?」
「決まってるじゃない、耕太くん。偽ちずるよ」
回り続けていた偽ちずるが、ぴたりと静止した。耕太たちから見れば逆さまの状態で、ひん曲がっていた首を、両手で元に戻す。
「……あと少しだったのに」
耕太は頭から雪につっこんでいた。
尻《しり》をくいっとあげた体勢で、両手両足はだらんと投げだされている。
まわりでは黒煙があがっていた。雪の積もった庭のところどころに穴が開き、そこから煙が洩《も》れている。
「ふうん?」
美乃里《みのり》は腕を組んで、雪に頭をつっこんだままの耕太を見おろしていた。
その眼《め》が細くなる。
「ようやく来たか、あのメスギツネ。まったく、危ないところだ」
耕太が首に巻いていたマフラーが、輝き始めていた。
埋まった耕太の頭のあたりから、雪の上に赤いよれよれのマフラーは伸びていた。それが金色に輝きだしている。
美乃里は組んでいた腕をほどき、左腕を振りあげる。
振りおろされようとした瞬間、その左腕を、美乃里の右手がつかんだ。
ぐ、ぐぐ……右腕と左腕で押しあいが始まる。
「止《や》めるんだ、鵺《ぬえ》」
押しあいは止まらない。
「――鵺!」
ぴたりと止まった。
右手につかまれるまま、左腕はだらりと下がった。
「あわてるなよ。いよいよ本気のお兄ちゃんが、見られるんじゃないか……ねえ?」
どんどんと輝きを増すマフラーの光に照らされながら、美乃里は薄笑いを浮かべた。
耕太、ちずると、偽ちずるは対峙《たいじ》していた。
本物のちずるは耕太を背中から抱きしめ、偽ちずるは赤黒いうねりを背景に、逆さまになって漂っている。
ふん、と背中のちずるが笑った。
「ごくろうなことね。耕太くんとひとつになるために、そんな真似《まね》してまで」
「どうして……ちずるさんにばけたりなんか」
「あのね、耕太くんとひとつになるためには、耕太くんの許しがなければならないの。ほら、わたしが耕太くんにとり憑《つ》けなくなったこと、あったじゃない」
「……はい」
「あれは耕太くんが心のどこかで、わたしを許してなかったから」
「あのときは、ごめんなさい。ぼく……」
「いいの。あれはわたしが悪かったの。だからね、どんなにこいつが、耕太くんに強引に迫っても、耕太くんが許さなければ、絶対にひとつにはなれない。だからこいつ、わたしにばけたりなんかして……!」
偽ちずるは逆さまのまま、にたりと笑う。
「しかたあるまい……その小山田耕太というもの、いくら脅してもいうことをきかぬ。我を受け入れようとせぬ……」
「当たり前でしょ。耕太くんは、とーっても強いんだから!」
「ただ強情なだけだ……知っておるか、源《みなもと》ちずる、そやつがおぬしを抱かぬわけを。おぬしと結婚するまではな、清い関係でいたいそうだぞ……ふふ……まるで女子よ……」
「なっ! なんでそれを!」
「……それって本当なの、耕太くん」
ちずるが後ろから覗《のぞ》きこんできた。耕太はあう……とうつむく。
「我はおぬしの手伝いをしてやろうというのだ。我とひとつになれば、そやつはおぬしに、妖《あやかし》に近づく……ニンゲンと妖だから悩むのだ。妖と妖ならば、なにを迷うことがあろうか」
ちずるはじっと耕太を見つめている。
耕太も、おずおずと見つめ返した。
「さあ、源ちずる、おぬしも手伝え。我を受け入れさせるのだ。さすれば……」
「うるさい、おまえはちょっと黙れ!」
「なに……?」
「ねえ、耕太くん。わたしと結婚するつもりって……本当なの?」
「……本当です。本気です」
ちずるが眼《め》を細める。
「それって、決して簡単じゃないよ。乗り越えること、たくさんある。きっと、まともな人生、歩めなくなるよ」
「ちずるさんが幸せなら……」
はっ、と耕太は口を閉じた。
あらためて口を開く。
「ちずるさんとぼく、ふたりが幸せなら、まともじゃない人生でも、いいじゃないですか」
「……耕太くん」
「……ちずるさん」
「ふざけるな!」
ごお、と渦巻く音がした。
炎の龍《りゅう》が、大きく顎《あご》をあけて耕太たちに迫る。
「ニンゲンと妖が一緒になって、うまくいくわけがあるか! おぬしたちは……前とおなじあやまちをくり返すつもりなのか!」
龍は耕太たちをかすめていった。
耕太は、そしてちずるも、身じろぎひとつしない。
「きみには関係ない。ぼくたちは、一緒になる」
グオオオオオオ……。
龍《りゅう》は耕太たちのまわりをぐるぐると回った。どこか苦しがっているようにも見えた。
「子供だっていっぱい作る! 幸せな家庭を築く! だから、だからきみは――きみは?」
「わたしのところに帰りなさい! ほら!」
ちずるは腰をくいっとあげた。狐《きつね》のしっぽがSの字を描く。
「必ず後悔するぞ! ニンゲンのままでは妖《あやかし》と結びつけるはずがないのだ! いかな力を持とうとも……神の力を持とうとも! 前もそうだった[#「前もそうだった」に傍点]のだからな!」
そんな叫びを残して、龍は狐のしっぽに吸いこまれた。
ふふん?
ちずるはお尻《しり》をぺちんと叩《たた》いた。
「やっと……わたしのものになったっ」
きゃはっ、と笑う。
笑ってから、じっと耕太を見つめる。
「な、なんですか?」
「耕太くん、あいつが偽ちずるだってことに、まったく気づいてなかったでしょ」
ぎくり。
ちずるはじとっと耕太を見つめた。
「耕太くん、わたしのことなんだと思ってるの? もしかして……もしかしてだけど、耕太くんまでわたしのこと、痴女とかヘンタイとか色ボケ女とか……」
「お、思ってません。まったく、ちっとも、みじんも」
「……本当に?」
こくこくこくとうなずく耕太。
「じゃあ……さっきの、もう一度、いって」
「さっきの……?」
「ちずると一緒になる、子供もたくさん作るって」
げふ、と耕太は咳《せ》きこむ。
耕太の背を撫《な》でながら、ちずるはうっとりとした声をあげた。
「あれってつまり、プロポーズじゃない……。ちずる、プロポーズはしっかり聞きたいなあ。お答えしたいなあ」
「あ、あの」
「いいでしょ。どうせ目覚めたらぜんぶ忘れちゃうんだし、いまのことはさ」
「そりゃ……そうですけど」
「ね、だから。予行演習だと思って」
うー……。
耕太はちずると向かいあった。
ちずるは狐《きつね》の耳やら狐のしっぽやらをせわしなく動かしている。ごほん、と耕太が咳《せき》払いすると、ぴしっとなった。
「ちずるさん」
「はい」
「えー……ぼくと、その……あのー……えーっと」
「もう、男の子なんだから、びしっときてよ」
ええい、もうやけだ。
「ちずるさん、ぼくと結婚してください!」
耕太は叫んだ。
やけっぱちな気持ちで、目を硬くつぶり、叫んでしまった。
あたりは静まりかえっている。
遠く、赤黒い世界がうねる音か、ごごご……という、こすれたような音が聞こえていた。
「ちずる……さん?」
ちずるは泣いていた。
満面の笑顔で、ぼろぼろと宙に涙を散らしていた。
「はい! わたし、あなたと結婚します!」
飛びついてくる。キスの嵐《あらし》が振りそそいだ。
「ち、ちずるさ、もが、ん、んんんんん〜〜〜〜〜〜」
3
雪に頭をつっこんで気絶する耕太。
そのかたわらで、耕太の首から伸びたマフラーの光を見ていた美乃里《みのり》が、うん? と首を傾《かし》げる。
マフラーの光がかき消えていた。
「いったい……どっちだ?」
呟《つぶや》く美乃里の前で、耕太に異変が起きる。
突きあげていたお尻《しり》が、もこもこと膨れあがった。ぐぐぐ……ズボンを突きやぶりそうな小山は、ずぼん、と布を破ることなく、中身を飛びださせる。
しっぽだ。
黒い、しっぽが、びん、と直立した。
「おお……」
美乃里は目の高さにあるしっぽの毛なみを見つめた。
続けて、耕太の両手両足に力が甦《よみがえ》る。
ぱっと雪に手をつき、足をふんばり、首を引っこ抜いた。
あらわになった頭には、黒い三角形の耳が生えていた。頬《ほお》からは髭《ひげ》が左右三本。
「兄さん、ついにやる気に……」
「ああ!」
耕太は頭を抱えた。
「ああ……ああ!」
「……ど、どうしたのさ、兄さん。お兄ちゃん?」
「お」
「お?」
「お、お、お……覚えているじゃないかー!」
耕太は絶叫した。
「目覚めたのに、ぜんぶ、覚えてる! あれもこれもぜんぶ、覚えてるー!」
たゆらと望《のぞむ》は、ふたりで火球のそばに寄り、手のひらをかざしていた。
三メートルほどの大きさの火球は、あいかわらずちずるをなかに納めたまま、めらめらと燃えあがるばかりだった。下の雪は溶け、ぽっかりと穴を開けている。
たゆらたちはその穴の端に立って、暖を取っていた。
「おれたち、いつまでこうしてるんかなあ」
「でも、あたたかいよ」
「いくらあったかいとはいえ……」
たゆらは首を曲げる。
吹雪のなか、だいだらぼっちの巨大な影が見えた。
「あいつもどうにかしなきゃなんねーし……いったん帰ろうったって、ちずるがこの炎のなかにいたんじゃ、そのままにもできねーし。凍えないのだけが救いだよ」
はあ、とため息をつく。
「……お?」
そのとき、火球が揺らいだ。
「すこしは変化が……って、おお?」
炎が膨れあがる。
たゆらはあわてて背を向け、駆けだした。
「な、な、なんだ! いきなり!」
「――ちずる、起きる」
「あん!?」
望は四つんばいで、獣のように雪原を走っていた。二本足のたゆらより速い。
「目覚める……アチチしっぽに」
「目覚めるって……うおおおおおお!」
火球は爆発した。
たゆらたちを呑《の》みこむかと思われた炎の波は、手前でとって返し、火球があった場所の中心部へと吸いこまれていった。
狐耳《きつねみみ》に金髪の女性――ちずるがいた。
金毛のしっぽのとなりに、燃えあがる炎がある。やる気のなさそうだったいままでの燃えかたとは違い、いきおいがあった。激しい。
「ふふ……ふふふ……」
ちずるは両手両足をだらりと垂らした姿勢で、宙に浮かんでいた。
「ふふふ……ははは……あーはっはっは!」
ぱっと顔をあげる。
満面の笑顔であった。
「らーぶらぶ、ふぁいやー!」
背中の炎が、龍《りゅう》となって伸びてゆく。
ちずるも高々と舞いあがった。
吹雪のなかを駆け、遠く、巨人の影へと向かう。
「喰らえ愛のムチ……お目覚めなっさーーーーーい!」
顎《あご》を開けた炎のしっぽが、数百メートルの、まさにムチとなり、巨人の頬《ほお》を打った。
爆発する巨人の頭。
「し、死んだ?」
あわわ、とたゆらは口を手に当てた。望《のぞむ》はちょこんととなりに座って見あげている。
ぐらり。
頭からぶすぶすと煙をあげ、ゆらぐ巨人。
ゆっくりと傾《かし》ぎ、そして倒れた。
激しい地響きが起こり、雪崩が起き、たゆらと望が逃げ回るなか、ちずるは拳《こぶし》を天に突きあげ、高笑いをあげていた。
「愛の勝利――――」
耕太は黒い光線を、ぴょんぴょんと跳んでかわしていた。
光線……美乃里《みのり》ビームが地面に当たるたび、爆発が起き、黒煙をあげる。美乃里は空高く飛びながら、ビームを立て続けに放って、笑う。
「ははっ、やるじゃないか、兄さん!」
ぐすっ、と耕太は袖《そで》で顔をぬぐう。
耕太は涙目だった。
「ううう……あ、あんなかたちでなんて……もっと、きちんと」
「なにがあったかはわからないけど、兄さん! きちんと目の前の敵に集中しないとね!」
耕太はもろに黒い光を浴びた。
全身に衝撃が走る。指先、つま先までもがしびれた。
「あ……ああ……」
耕太は四つんばいになった。全身から煙をあげながら、立ちあがろうとして、よろめく。
「すごいね、兄さん……いまのを喰《く》らって、死なないんだ?」
「殺すつもりなんか、ないくせに」
「――え?」
耕太は髪や狐耳《きつねみみ》など、毛先をさきほどの衝撃で跳ねさせながら、美乃里《みのり》を見あげた。
「きみはぼくを殺す気なんて、ないんだ。だって殺すつもりなら、何度だってチャンスはあったもの。いまのだって、ぼくがこの程度じゃ死なないって、わかっていてやったんだ」
美乃里はゆっくりと背中の羽をはばたかせている。
「なにを企《たくら》んでいるの? 〈葛《くず》の葉《は》〉は……ぼくやちずるさんに、いったいなにをさせたがっているの?」
美乃里は静かに微笑《ほほえ》む。
「〈葛の葉〉といってもね、兄さん……いろいろあるんだ。たとえば兄さんの通う薫風《くんぷう》高校、あそこを治めている、砂原《さはら》……あの人も〈葛の葉〉だ」
「うん、知ってる」
「〈葛の葉〉自体の目的はね、気づいているだろうけど、あの女……ちずるにある。だけど砂原は〈葛の葉〉ながら、ちずるをかばっている。組織に対する裏切り行為だね」
「……きみは?」
耕太と美乃里は視線をぶつけあう。
「ぼくは、兄さんと遊ぶのが楽しくってね。なんていったって妹だもの」
美乃里は両手を天にかざした。
「でも、お遊戯もそろそろ終わりにしようか、兄さん。次の攻撃はね、当たればいまの兄さんでも死ぬよ。そういう強さで黒雷を放つ」
黒雷というのか……いままで美乃里ビームと名付けていたことを耕太は反省した。
「兄さん……最後の質問だ」
「なに?」
「ちずると別れるつもりは、どうしてもない?」
美乃里の口元に、笑みはない。
「あの女とつきあうかぎり、兄さんに幸せはない。いずれ〈葛の葉〉はちずるに気づき、組織をあげて狙《ねら》ってくるだろう。ほかにも……いろんな災いが襲う。兄さんだけじゃない、まわりをも呑《の》みこむ災いが。いいかい。兄さんがあの女と別れさえすれば、それらの災いはみなさけられるんだ。だれも不幸にはならないんだ」
「いや、不幸だよ」
耕太は静かに首を横に振る。
「ぼくとちずるさんは、不幸になる。だってもう、ぼくたち、出会ってしまったんだ」
もうプロポーズしちゃったんだよう……とぶつぶつ呟《つぶや》く。
「そうか……じゃあ、ぼくに出来ることはもう、これだけだね」
美乃里《みのり》が天にかざした両手が、黒く光るのが見えた。
耕太も腕を伸ばし、手のひらを上に広げる。
まぶたを閉じた。
いまなら……。
そう、いまの自分なら、あのときの力が――。
耕太は思いだす。学校の屋上を。あそこで繰り広げられた闘いを。
いまは冬眠している……熊《くま》の王の姿を。
「――お願いだよ、狐火《きつねび》」
轟《ごう》。
激しく燃えあがる音とともに、手のひらがびりびりとしびれた。なにかが腕のなかを昇り、手のひらから飛びだしている。
「……それは」
美乃里の声とともに、耕太は眼《め》を見開く。
耕太のまわりには、狐がいた。
巨大な、炎の狐だ。あのとき――熊田《くまだ》と闘ったとき、ちずると合体した耕太が作りあげた、変形の狐火だ。いまの自分ならば、ちずるの力を借りなくても作れると耕太は思っていた。……大きさは、あのときよりかなり小さいけれど。
「なるほど。それがいまの兄さんの力か」
耕太はうなずいた。
「――じゃあ、勝負だね」
まるでゲームで対戦でもするかのような軽い口調で、美乃里は両の手のひらを耕太に向けた。耕太は指先を、美乃里に向かって振りおろした。
狐の姿をした炎が、天に舞いあがる。
黒い閃光が光った。
狐は爆《は》ぜ、桃色の炎をあたりに飛び散らせる。
「ははは! すごいや兄さん! ここまで強くなったなんて――」
美乃里の笑いが固まった。
爆炎のなかから――耕太は飛びだす。
拳《こぶし》をまっすぐに伸ばした姿勢で、矢のように美乃里に向かった。
「それは――朔《さく》の――」
美乃里のみぞおちに、拳の矢はめりこむ。
その瞬聞、たしかに美乃里は笑みを浮かべた。
揉《も》みあいながら、ふたりは落下する。
――ゆらりと、立ちあがる姿があった。
美乃里《みのり》だ。
「……まさか、人狼《じんろう》の技を使うとはね」
口元の血をぬぐった。ぬぐった拳《こぶし》を見て、顔をしかめる。
「……うう」
耕太は美乃里の前にはいつくばっていた。
さっき――特大|狐火《きつねび》で力を使い果たしかけたところに、朔《さく》の技まで使ったため、完全に動けなくなっていた。そんな状態で落下したため、体を激しく打ちつけてしまっていた。
「さて、兄さん、どうしようか?」
「――玉藻《たまも》さま、いきます!」
美乃里はちらりと視線を横に走らせる。素早く右の手のひらを耕太に向け、横から飛びかかってきた影には、左腕を変形させた。
雪花《ゆきはな》の刃《やいば》は、牙《きば》を剥《む》いた美乃里の左手に阻まれる。
飛び退《の》き、なおも足を踏みだす雪花。
「雪花さん」
「玉藻さま! 勝負はもはやつきました! これ以上は――」
「ええ、たしかに勝負はつきました。あなたには聞こえない? この音が」
ずずん……。
かすかに地面が揺れた。
雪花が天を仰ぐ。
「これは……」
「まったく、騒がしい子」
玉藻は顔をしかめた。
ずん、ずずん、ずずずん、ずん。
どんどん震動が激しくなってきた。もうろうとした意識のなか、耕太は顔をあげる。
「こーおーたぁー……くぅぅぅーん!」
庭の塀の向こう、大吹雪の向こうに、大きな影が見えた。
走って近づいてくる。
人型の巨大なひょろ長い影は、見る間に旅館のそばまでやってきた。大量に雪を巻きあげ、急ブレーキをかける。
「いけ、鉄人! ゆきーのやまーに」
がおー!
巨人は吠《ほ》えた。
耕太はたまらず耳を押さえる。びりびりと肌が震えた。
「あらあら。年がわかるわよ、ちずるさん」
巨人――だいだらぼっちの肩には、人が乗っていた。
頭には三角の耳を生やし、背には金色のしっぽと、炎のしっぽのふたつをはためかせている、着物姿の女性だ。
「ち、ちずるさん!」
「耕太くんから離れろ、そこの男!」
はるか高い巨人の肩の上から、ちずるは美乃里《みのり》を指さした。
「ふふ……はは……」
美乃里は高笑いをあげた。肩をすくめる。
「まいったまいった。ここはぼくの負けだよ。まったく……バカには勝てないな」
「なにー! だれがバカだってー!」
はるか高い上空だというのに、ちずるはしっかり聞きとがめていた。
「バカップルには勝てないっていったのさ!」
美乃里は翼を広げ、大きく羽ばたかす。
ゆっくりと浮いていった。
「それじゃ……また遊ぼうね、兄さん!」
飛びたつ。
吹雪のなかへと、美乃里は消えていった。
「また……遊ぶ……?」
耕太は吹きすさぶ雪を見つめ続けた。
「――ぉぉぉぉた」
「ん?」
「こぉおぉぉたぁ、くぅぅぅん!」
ちずるが落ちてきた。
「うわあああああ!」
耕太はぎゅっと眼《め》をつぶり、体を強《こわ》ばらせる。抱きとめるよう、腕を開いて。
「……?」
おそるおそる、眼を開けた。
ちずるは宙に浮いていた。抱きついてくる。
「耕太くんっ」
「ち、ちずるさ……痛っ、いたた……」
「やだ、耕太くん! どうしたの? ここ? ここが痛い?」
「ちょ、ちょっとちずるさん、どさくさまぎれに、やだ、触らないで、脱がさないで」
「だって脱がさなきゃ傷の具合がわからないじゃない。ほら、早く」
「ひーん、や、やめてぇ」
耕太とちずるは揉《も》みあった。
「……ホント、バカップルだよな」
「……いいな、ちずる」
巨人が胸の位置で広げた手のひらの上に、たゆらと望《のぞむ》はいた。そこから下を覗《のぞ》きこんでいる。
「おれたち、いつになったら降りれるんかなあ」
「……いいなあ、ちずる」
望は揉《も》みあうふたりを見て、指をくわえた。
「――なによ、これ」
大巨人を見あげ、呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》く女の子の姿が、地上にひとり。
あかねだ。ぼろぼろの縁側に立って、眼鏡をくいくいと動かす。
「こ、こんなのって……ありえない! ありえないわ!」
「――雪花《ゆきはな》さん」
玉藻《たまも》の指示とともに音もなく雪花はあかねの背後にまわり、手に持っていたとっくりをあかねの口に差し入れる。強引に中身を飲ませた。
「………ひくっ。ははっ、源《みなもと》ぉ、そんなところでなーにやってんのよお」
真っ赤な顔で、あかねはケタケタと笑いだした。
「あらあら……しかたないわねえ、本当に」
玉藻はぼろぼろになった座敷に正座して、笑っていた。
その膝《ひざ》にしがみついていた澪《みお》は、酔っぱらうあかねを見つめていたが、ふと目をぱちくりとさせる。
「あ、朝比奈《あさひな》さんって、どうして連れてこられたん、だろ」
「ちずるが耕太さんに憑依《ひょうい》するのを抑えようと思ってね。わたしが雪花《ゆきはな》に命じて連れてこさせたんです。あまり意味ありませんでしたけど」
澪《みお》の背を撫《な》でながら、玉藻《たまも》は答えた。
ぴきん、と澪は固まる。ぎこちなく九尾の狐《きつね》を見あげた。
「――ひみつですよ?」
うふふふふ。
澪はがたがたと震えだした。
はっと身を起こす。
「き、き、桐山《きりやま》くんは!」
その声に、揉《も》みあっていた耕太とちずるの動きが止まる。
「……ちずるさん?」
すでに耕太は半裸になっていた。両肩を剥《む》きだしにして、ちずるを見あげる。
「……ねえ、たゆらー!」
上空、だいだらぼっちの手のひらの上にいたたゆらが、望《のぞむ》を肘《ひじ》でつつく。
「……なあ、望」
望ははるか上を見あげる。
「……ダイちゃーん!」
だいだらぼっちは、うがー、と吠《ほ》え、足の裏を確かめだした。
澪がぷるぷると震える。
震えながら、はらはらと涙をこぼした。
「き、き、桐山くんがぁ……ま、また、行方不明に……生死不明にぃ!」
「あらあら、泣かないの。ほら、いまみんなに捜しにゆかせるから……。そうそう、雪花。もうダイちゃんも起きたことだし、吹雪はいいでしょう」
はっ、と雪花は口元に手を添え、天に向かって呼び声をあげた。
ふくろうの鳴き声のような声は吹雪に吸いこまれ、ややあって、おなじ鳴き声が返ってくる。
荒れ狂っていた雪が、だんだん弱まってきた。
完全に止《や》む。
晴天が広がった。
耕太はまばゆさに眼《め》を細める。
「……これが、本当の玉ノ湯の景色よ。ようこそ、耕太くん」
ちずるも眼を細めていた。ふふ、と笑う。耕太も笑い返そうとした、そのとき。
びえーん。
「あらあら、ほら、すぐに見つかるから……ね? 泣かないの。ああ、困ったわ」
澪《みお》の泣き声とともに、めずらしく玉藻《たまも》の困り声が聞こえた。
耕太とちずるは目をかわして、ひそかに笑みを浮かべる。
「あーあ、しかたない……あのバカ、捜しにいきましょうか」
「そうですね」
ちずるの手を借りて、耕太は立ちあがる。
よろめいた。ちずるの肩によりかかる。
「ああ、やっぱり無理しちゃダメよ、耕太くんは」
「ご、ごめん」
「おーい! 早くおろしてくれよー!」
見あげると、だいだらぼっちの手のひらがはるか上にあった。
ふう、とちずるが息を吸いこむ。
「ダイちゃーん、もう……」
「おー? いったいこれはなんなのだ?」
野太い声が後ろから聞こえた。
「いままで見たこともない大巨人……それに、このありさまは」
だいだらぼっちにはさすがに負けるが、なかなかの大きな体つきの男がいた。
熊田《くまだ》だ。
そこいらから黒煙をあげる、ぼろぼろの屋敷や庭を眺め、ふむ、とぼりぼり体をかく。
「さすがは源《みなもと》の実家。なかなかおもしろい趣向だな」
「熊田ー!」
ちずるが吠《ほ》えた。
「あなた、いまごろになって……」
「ぬ? なんなのだ? 目覚めたとたん、なぜに怒られねばならん?」
「うるさい! はやく桐山《きりやま》を捜しにいけ!」
「なにをいっておるのだ。桐山ならここに……ん? あやつ、どこにいった?」
「びえーん! 桐山ぐーん!」
「……おーい、早くおろしてくれよー」
「ぬ? ぬぬ?」
喧噪《けんそう》が続くなか、耕太はちずるにずるずるともたれかかった。
とりあえず……いまは眠ろう。冬眠はすごく気持ちのいいものだ、という澪の言葉が、いまならとてもよくわかる気がした。
「耕太くん……耕太くん?」
「おやすみ……ちずるさん……」
ふふ、という笑い声が聞こえた。
「――おやすみ、ダンナさま」
耕太は一瞬、目を覚ましかけた。でも、まあ……いいか。
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[#小見出し] あとがきはあとに書くからあとがきですか[#「あとがきはあとに書くからあとがきですか」は太字]
『これ以上エロス度アップはしないように』
このお言葉は、編集部に届いたアンケートはがきに書かれていたものです。
はい。いまあなたが手にとられている、ふたりの愛を高らかに歌いあげた純愛小説にも挟《はさ》まっていますよね。切手を貼《は》らなくても、書いてだせば届くようになっている、愛読者アンケートのことです。
つまりこれは、読者さまからのお言葉。
わたしの本を買ってくださった、読んでくださった、おまけにアンケートはがきまで書いてくださったかたからの、ありがたいお言葉なのです!
そんな天からの神託に、わたしは答えます!
ごめんなさい。無理でちた。
ばぶー。ぼくは赤ちゃんだから、よくわかんないでちー。だあだあ。
えーと、本来、今作は「かぞくけいかく」なわけで、テーマは家族なはずなんですけど……どうしてこんなことに……? ぼくたちの失敗。おっぱいを吸うぱい?
えー、暗い話はここまでにして。
今回も絶対無敵イラストレーター、狐印さんの超絶ステキ絵が、桃色純愛小説を美しく彩っております! というか、まがりなりにも「かのこん」がラブコメでありえるのは、狐印さんの、どこか透明感のある美しい絵によるところが大きいと思うんですよね。ホント……わたしだけならどこにゆくのやら……。
はい。
それでも「かのこん」は純愛小説です。男女が恋人同士になる話は多かれど、恋人が愛をはぐくみ、やがて……という物語はけっこうめずらしいんじゃないでしょうか。どこまでゆくのか、ゆけるのか、自分でもよくわかりませんし、おそらく編集部もちょっと困っているんじゃないでしょうか。え? そんなことはない? ホントにー?
まあ、いけるところまで。
いけるところまで……耕太くんとちずるさんの愛は、描けるところまで! いきます、イキます、イカせます! みなさんも、ついていけるところまでついてきてくれると……すごくうれしいです。
では。またお会いできることを祈って。
平成十八年○月って、四十日くらいあるんだっけ?[#地付き]西野かつみ
発行 2006年4月30日(初版第一刷発行)
2008/06/10 作成