かのこん 2 〜はじまりはじまり〜
西野かつみ
[#小見出し] 一、もう、我慢できないんだからっ![#「一、もう、我慢できないんだからっ!」は太字]
ひゅるりと冷たい北風が、家なみが続く路地を駆けぬけてゆく。
そんな夕暮れも近い住宅街で、耕太《こうた》は、ひゃんっ、と子犬のような悲鳴をあげた。
まるで痴漢に襲われた女の子みたいだ、と自分でも気づいて頬《ほお》を熱くしながら、耕太はなおも抱きついてこようとする相手から逃れて、手のひらを突きだす。
「だ、だめですぅ、ちずるさぁん!」
広げた手のひらに、痴漢な女の子――ちずるは動きを止めた。
長いまつ毛にふちどられたまぶたを、彼女はぱちぱちとまばたきさせる。普段はすこしつりあがって、艶《あで》やかさとともに意志の強さを伝えてくる眼《め》を、大きく丸くした。
「えー、耕太くん、どうしてぇ?」
「どうしてって――」
耕太は手を突きだしたまま、ぐるりとまわりに視線を走らせる。
周囲には家々が建ちならび、その家のブロック塀や生け垣、花壇が、道路の両|脇《わき》にそって、ずーっと連なって伸びていた。
いまのところ道に人影はない。ない、けど――。
「外ですし、まだ明るいですし、ここから学校も近いですし」
この道は学校から五分ほど歩いた、通学路のひとつだった。
「だ、だから、抱きつかれたところ、だれかに見られでもしたら」
「べつにいいじゃない、そんなの。逆に見せつけちゃおうよ――ね?」
ちずるは、同意を求めるように、ほほえみながら首を傾《かし》げた。
「そういう……わけには……」
耕太はちずるをじとりと見つめる。
彼女は耕太とおなじ学校の制服を着ていた。耕太はズボンにネクタイ、ちずるはチェックのスカートに首元にはリボンといった違いはあったが、上着のブレザーは一緒のデザインだ。どちらも胸に、『薫風《くんぷう》高校』のイニシャルが入ったワッペンが貼《は》ってある。
ちずるの、長く豊かな、光沢のある黒髪。
そのひと束が、背から体の前におりて、胸元ヘ――とてもとーってもご立派な胸元へとたれていた。ちずるが両腕を背中で組みあわせて、つんと胸元を張っているがために、その量感あふれるふくらみのかたちが、じつによくわかる。
耕太はそれ[#「それ」に傍点]を知っていた。
重々しいながら決して重力に負けず、つりあがったかたちを、白雪のような色あいを、張りのある肌の内に秘めた、しっとりと包みこんでくるやわらかさを、おだやかでここちよいぬくもりを、抱かれたときに鼻をぬけてゆくちずるの甘い香りを、直《じか》に感じることができる彼女の鼓動を……。
なんども……ぼく……知っちゃって……。
耕太はきゅっ、と唇を引き結んだ。
「ふふっ」
ちずるが笑った。甘い笑い声だった。
右手に鞄《かばん》、左手に黄色いきんちゃく袋――空になった耕太へのお弁当箱が入っている――を持った両の手を動かす。
つい、耕太が凝視してしまっていた、胸のふくらみの両側へと添えた。ふにゅ。
「耕太くんだって、わたしのここが――」
ふやよよん、と揺らす。
「だ、い、す、き、な、く、せ、にぃ」
言葉とともに、ゆやん、ゆよ、ゆやや、よよよよんと揺らめかす。気がついたら耕太の顔も一緒に上下していた。ちずるの胸のワッペンが、揺れて、揺れて、よく見えない。
「あ、ああ、あー……」
ふらふらと耕太は引きよせられる。
視界の両端に、ふっ、と影が浮かんだ。
「――ややややっ」
耕太は後ろに飛びのく。
いまにも頭を捕らえんばかりに、ちずるが両腕を伸ばしていた。
あぶなかった。あやうく捕まって、ブレザーごしに揺れるやわらか〜なふたつのましゅまろ山に顔面からダイブするところだった。
その山でむぎゅむぎゅっとされたら、もう耕太は抵抗できずに、遭難して……。
「そ、そ、その手には乗りませんからっ!」
むー、とちずるは唇をへの字に曲げた。手で両胸を弾《はじ》く。ふるるるん、と震えた。
「どうしちゃったの、耕太くん。もしかして、もう、こっちじゃあ……ちずるのおっぱいじゃあ、もの足りなくなっちゃったの?」
「お、おっぱ……もの足りな……」
「まあ、それならそれで……」
ちずるが眼《め》をにぃ、と細め、唇をにんまりと曲げた。
両手でスカートをつまむ。
「こちら側に……チャレンジ、しちゃう……?」
そろそろと裾《すそ》を持ちあげていった。ただでさえ短い丈がさらに縮まり、じわじわと太ももの曲線をあきらかにしてゆく。白い肌がゆるやかに豊かに張りつめ、ついには太もものつけねが、禁断の白い布地が、ふくらみが、わずかに覗《のぞ》き――。
「だめー! そんなことしちゃ、だめー!」
スカートをつまんでいたちずるの指先を、耕太は手で払った。
ふぁさりとチェックの布が下りて、元どおりちずるの太ももを隠す。耕太は両側からスカートをはっしと押さえつけた。もうめくることができないようにだ。
はあはあと荒く息をつく。
うふふ……、と低い忍び笑いが真上から届いた。耕太はきっ、と睨《にら》みあげる。
「なにを考えてるんですか、こんなところで、こ、こ、こんなこと!」
「ごめんね、耕太くん」
まったく悪びれたそぶりもなく、ちずるはにこっと笑った。
きゅっ、と糸のように細くなった眼に、彼女の前にひざまずいてスカートを押さえていた耕太は、もう視線を合わせていられなくなってしまった。たまらずうつむく。
まったくもう、このひとは……。
耕太は深々とため息をつく。いつもこうなのだ。熱情に満ち満ちた行為と、あどけなさすら感じさせる笑顔の前に、いつだって耕太は負けてしまうのだ。
彼女の名前は源《みなもと》ちずる。
耕太の恋人だ。
県立|薫風《くんぷう》高等学校の二年生。耕太は一年生だから、学年上はひとつ年上となる――あくまで学年上は[#「あくまで学年上は」に傍点]。本当はもっともっと、四百年ほど……げふんげふん。
一ヶ月前、耕太が薫風高校に転校してきたその日に出会って――。
そこでいろいろ……えろ……いろ……あって、それからもいろいろえろえろありつつ、耕太とは恋人の関係だ。
やさしくて、美しくて、愛に満ちた――ちょっと満ちすぎた恋人。
ときどき耕太は思う。はたして彼女が自分を愛してくれるほどに、ぼくはちずるさんを愛せているのだろうか?
これって、たぶんぜいたくな悩みなんだろな……。
そしてもうひとつ。まわりから見れば、とてもぜいたくだろう悩みがあって――。
「はあ……んん」
なまめかしい声が降りそそいできた。耕太の背中のうぶ毛はぞわぞわとけば立つ。
――きた!
ぱっと耕太は顔をあげる。同時に腰を浮かせていた。危険を感じとったからだ。このまま彼女のそばにいたら、捕まって……。
遅かった。
耕太の手の甲に、ちずるの手のひらが重ねられていた。
さっきから耕太は、もうちずるがヘンなことをできないよう、スカートを手で、彼女の太ももへと押さえつけていた。その押さえていた手を、さらに上からちずるの手で押さえつけられてしまう。う、動けない。
「……耕太くんがいけないんだよ」
ちずるの瞳《ひとみ》はうるみきっていた。吐息も熱い。
「ずっとわたしの太もも、触ってるんだもん……へんな気分になっちゃった」
「いや! だってそれは、ちずるさんがスカートでヘンなことしようとするから、しかたなく手で押さえていて、結果として、太ももをさわさわと……」
「どうして? そんなにわたしのぱんつ見たくない? わたしのぱんつってキタナイ?」
「いえ! キレイでした、純白でした! で、で、で、でもぉ!」
これこそが耕太のぜいたくな悩みだった。
あまりにえっちすぎるのだ――彼女は。
一ヶ月前に出会ったときから、すでにこういう人ではあった。
いきなり抱きしめられ、その胸で窒息させられかけ、初めてだった唇を奪われ、押し倒され、服を脱がされ……月光に浮かびあがる彼女の裸身……白い桃……最後はふたり、ひとつになって……あうあうあう。耕太の鼻はむずむずしてきた。鼻血の出る前兆だ。
最初がこうなのだから、あるていど耕太にも覚悟ができていた。
耕太だって年ごろの男の子、そういうことに[#「そういうことに」に傍点]興味がないといったら嘘《うそ》になるし、また、ちずるならば、いつかは……と思っていたりして、えへへ。
が、それはあくまで『いつかは』の話だ。
最近のちずるはちょっと激しすぎる。いまみたいに、学校からの帰り道、どこに人目があるかもわからないというのにいきなり抱きついてきたりして、時と場所と場合をちっとも考えちゃくれない。いつなんどきどこだって、ラブラブ☆モード全開だ。
もしかして……と耕太は思う。
は、発情期、なのかな? かな?
だって彼女は、耕太とおなじ人間じゃあなくて、化けきつ――。
「どうして……なの」
湿り気をおびた声が、すとんと落ちてきた。
彼女の前にしゃがみこみ、うつむいていた耕太は、眼《め》をしばたたかせる。
「ち、ちずるさん……?」
おそるおそる見あげて――息をのんだ。
ちずるは泣いていた。
耕太の目の前で、涙がひと筋、またひと筋と頬《ほお》を伝わってゆく。
「どうしてなの? どうしていけないの? 愛《いと》しい人と、耕太くんとひとつになりたいと願うことが、どうして許されないの? わたし、したいの。耕太くんとしたいの。耕太くんとだからしたいの。ちずるのすべてをあげたいの。耕太くんのすべてが欲しいの。好きなの。好きすぎてしかたがないの。ずっとそばにいたいの。朝も昼も夜も、ずっとずっといっしょでいたいの。我慢できないの。我慢したいけど、だけど、だけど、だけど、だけど、どうしてもだめなの。どうにもならないの……耕太くんが、耕太が欲しいの!」
ぽろぽろと涙がこぼれる。下で見あげている耕太に、ぴちゃぴちゃと降りそそいだ。
「や、やや、や……ちずる、さん、あの」
「もうだめ……もう、もう、我慢できないよう!」
叫ぶなり、ちずるは飛びかかってきた。
「あわ、わ!?」
あっさりと耕太は押し倒される。道路に転がった。冷たいアスファルトを背にしながら、自分に馬乗りになった彼女を見あげる。
ちずるは笑っていた。泣きながら笑っていた。
「ひとつになろうよ、耕太」
ごきゅりと耕太は喉《のど》を鳴らす。
「で、でも、だ、だれか……来ちゃったら」
声が震えてしまった。
ここは外である。まだ夕方である。道である。通学路である。住宅街である。いままでだれも来なかったのが不思議なほどである。道路だけではなくまわりの家からも、そろそろ夕飯のお買い物にでも、だれかでてきてもおかしくはないのである。
暗くなり始めた空を背景にしながら、あは、とちずるは笑った。
「だれも……来なければいいんだよね? 耕太くん」
ざわり。空気が震えた。
「――まさか、ちずるさん?」
見あげている耕太の前で、ちずるが自分の体をぎゅっと抱いた。天を仰ぐ。ぶるりと震えたのが、彼女がまたがっている自分の腰ごしに、耕太にも直《じか》に感じられた。
「いく……よ!」
ぐん、とちずるがさらにのけぞった。
髪がぶわりと舞いあがる。夕刻近く、弱まった晩秋の陽《ひ》でもきらきらと艶《つや》めいている黒髪が、耕太の見ている前で、その色あいを変えていった。
山吹色の輝きが、根本から毛先へと広がってゆく。
完全な黄金色へと髪を転じ終えると、ちずるはがくりと前のめりに倒れた。金髪がしゃらしゃらと耕太の顔に降りてくる。すぐ真横に、ちずるの顔が沈んできた。
はあ、はあ……。
耳元で感じられるちずるの息は荒い。
ふふ、ふふふ、と笑いながら、すっ……と彼女は身を起こした。
満足げにほほえみながら金の髪をかきあげる。金色の頭頂部には、長三角形の耳が生えていた。あきらかに獣な耳が、にょき、にょきと。
狐《きつね》の耳だ。こーん。
そして肩口からは、にゅっ、と大きなしっぽが顔を覗《のぞ》かせる。先端が黒い、山吹色のしっぽ――狐のしっぽだ。けーん。
「じゃーん」
「ち、ち、ちずるさぁん、また……そんなことしてえ!」
どう? と肩をそびやかして見せた狐《きつね》っ娘《こ》お姉さんに、耕太は泣き声をあげる。
彼女は化け狐だった。
齢《よわい》四百年の、いわゆる妖怪変化《ようかいへんげ》である。なんだってそんな江戸をリアルで知っているお姉さんと、耕太が恋人同士なのかというと、まあ、その、いろいろ、えろえろあって。
そ、そんなことよりも。
「そんな姿、だれかに見られでもしたら!」
耕太とちずるの通う薫風《くんぷう》高校は、ほかにも妖怪がひそんでいた。というのも、薫風高校には普通の公立高校という表向きの姿とはべつに、|不良化した《ぐ れ た》妖怪を立ち直らせる、更生施設という裏の顔があったからだ。
あくまでも裏の顔であるからして、みんなにはないしょなわけで。
妖怪の正体をほかの人間に知られれば、彼女は罰を受ける。罰とは――退学、のちに妖怪用の刑務所に入れられてしまうことだ。当然、耕太とは離ればなれとなる。
「平気だよ……」
とろん、とちずるは笑みで顔をとろけさせていた。
「結界を張ったもん。だからこの姿になったの。力を使うために……ね」
「け、結界? 結界って……なに?」
「邪魔者を阻む、見えない壁のこと……。あ、といっても実際に壁を作るんじゃないのよ、相手の意識下にひそかに訴えかけるの。『こっちは危険だぞ』ってね。だから、通行人なら自分でも気づかないうちに道すじを変えるし、まわりの家の住人なら、今日はなんか外に出たくないって気持ちになるし……」
「へ、へえ」
そいつはすごい。さすが妖怪《ようかい》だ。耕太は道路にあおむけに寝そべりながら感心した。 ――じゃなくって。
まずい。これは非常にまずい!
「だから……もう、なにも気にしなくていいんだよ、耕太くん。邪魔者は来ない。だーれも来ない。ここにはいま、ちずると耕太だけ……」
逆光のなか、狐《きつね》姿のシルエットが眼《め》を細めた。唇がにんまりと弧を描く。
は、はは、と耕太は笑った。
「あ、あの、ぼく、用事が……その、ノート買わなくちゃ」
「では、いっただっきまーす」
ちずるがむしゃぶりついてきた。
「わー、わー、わー!」
耕太はもがいた。金色の髪のなか、ぐじゃぐじゃになりながら腕を振りまわす。ちずるの肩らしきものをつかもうとするも、ずるりと滑り、結果としていきおいよく彼女の体はぶつかってきてしまった。
ばよえええん。
これは――お……っぱい!
見知った感触に、耕太の体が一瞬、固まる。その隙《すき》を逃さず、むに、むにょ、むにょえよんと、三段活用でちずるは胸を押し当ててきた。あわわわわわわ。
「ら……らめ! らめれす、ちずるふぁん!」
耕太の鼻は詰まっていた。おそらく鼻血だろう。
「なにがだめなのよう! もう言い訳なんか聞きたくないんだから! 耕太くんだって、わたしのこと好きなんでしょう! 好きなもの同士、求めあうことがどうしていけないのよう! そんなの自然の摂理に反してるんだから!」
「好きです! ぼくはあなたを愛してます! だけど、ですけど……!」
「じゃあ、だったら、それなら!」
がしっ、と耕太の両腕は押さえつけられた。ひい。
ちずるのうるんだ瞳《ひとみ》が、真正面から耕太を見おろしてくる。間近にちずるの顔はあった。ちょっと唇を伸ばせば、キスできそうなほどに。
「どうしてちずるの心だけじゃなく――体も愛してくれないの?」
「あ……えと……その」
耕太は視線をおよがせた。
「ほら、ここだと、みなさんの迷惑じゃないですか。ちずるさんが結界張っちゃってるから、道は通れないし、家からもでてこれないし。もう夕食の時間だから、お買い物しなくちゃいけないのに……だから、ね? ここはひとまず」
「なら、なおさらいそがなくちゃ、ね? はやく通行止めを解除するために」
しまった、逆効果だった!
「ふたり、ひとつになりましょう、耕太くん……」
その言葉で、ぴん、と耕太の頭にひらめくものがあった。ふたり、ひとつになる……そうだ、これなら、きっと……。
耕太はぎゅっとまぶたを閉じた。唇を突きだす。
――えい!
「ふみゅ」
ちずるが声を洩《も》らすと同時に、耕太の唇に、むにゅ、という感触が広がった。
唇と唇を重ねた――耕太はちずるに口づけをした。
耕太はうっすらとまぶたを開けてみる。ちずるは何度もまばたきしていた。眼《め》を喜びのかたちににんまりさせる。それも一瞬で、すぐに大きく見開いた。
(耕太くん、まさか――)
その意識は[#「その意識は」に傍点]、直に耕太に伝わってきた[#「直に耕太に伝わってきた」に傍点]。
すぅ……っとちずるの肌の色が薄くなってゆく。いや、肌だけじゃない、瞳《ひとみ》も、悔しそうな眉《まゆ》もだ。ちずるの姿自体がどんどんと薄れていった。やがては完全に消え去り、耕太の眼には暗い青空だけが映った。
耕太の上に残るのは、ちずるの制服一式と、靴下、靴だけ。
身を起こした。
ふう、と息をついて、体の上に乗っていた薫風《くんぷう》高校の制服を手に取る。
「これで、どうにか助か……おあ? あお?」
うあっ!
うめいて、耕太は身を縮めた。体育座りのかたちで、ちずるの服を強く抱きしめる。
「あ、ああ……うああっ!」
吠《ほ》え終えると、強《こわ》ばっていた体から力をぬいた。はあ、はあ、と肩で息をする。
その頭には、長い耳が生えていた。
ちずるとおなじ、狐《きつね》の耳だ。
ただしその毛なみは黒い。耕太の頭髪も黒いからだろう。
背中からは、にょきにょきと太く長く黒いものが姿を見せる。狐のしっぽだ。なにやら威嚇するかのように毛をびしびしと逆立てていた。
「あの、ちずるさん? もしかして……怒ってます?」
顔をあげた耕太の頬《ほお》には、三本のひげが、びよーんと伸びていた。
こんどは耕太が狐の姿へと変化していた。こちらは黒狐《くろぎつね》だ。
(あったりまえじゃなーい!)
頭のなかに鳴り響いた雷鳴のようなとどろきに、耕太はうわっと身をすくめる。
黒いしっぽがぶんぶんと左右に振りまわされた。
(なんでどーしてなぜゆえにこーなっちゃってるのよう! 愛しあうって、求めあうって、ふたり、ひとつになるって……ふたり、ひとつ……?)
ぴた、としっぽが動きを止めた。
狐《きつね》耳の耕太は、えへ、と笑う。
「これも……ふたり、ひとつでしょ?」
ぷるぷるとしっぽが震えた。
(ちーがーうー! ちがうちがう、これちーがーうー!)
しっぽが、背中から耕太の頭をぺちぺちと叩《たた》く。狐耳をつぶされながら、いた、いた、いた、と耕太は声を洩《も》らした。
ぺちん。
(ちがう……もん)
しっぽは、耕太の頭に乗ったままとなった。
(ふえええええええーん)
耕太のなかで、ちずるは泣いた。わんわん泣いた。
「す、すみません……」
頭にしっぽを乗せたまま、耕太は正座した。しょぼくれる。ちずるの涙は止まらない。
耕太とちずるは、合体していた。
正確には、化け狐のちずるが、人間である耕太にとり憑《つ》いていた。ちずるが憑依《ひょうい》することで、耕太もまた、妖狐《ようこ》の力を、化生《けしょう》の力を得ることができる。かなり強大な力だ――それこそ、学校一強い妖怪《ようかい》とも互角に戦えたほどに。
もっとも今回は、ちずるから逃れるために、ある意味、耕太が悪用したのだけども。
(えっぐ、えっぐ……)
ようやくちずるは泣きやんできた。そのあいだ、ずっと耕太は正座していた。
(もう……いいもん)
うひぃ、と耕太は声をあげた。
耕太の背中から、ずるずるとちずるが抜けだしてくる。
一糸まとわぬ姿――素っ裸で。
しっとりと汗ばんだ肌に金色の髪が貼《は》りついていた。人間の姿に戻った耕太は、正座したまま振りむきかけ、あわてて前に向き直る。膝《ひざ》についた手を、ズボンごと強く握った。
すん、すすん。
背中ごしに、耕太はちずるが鼻をすする音を聞いた。
「ごめんね、ちずるさん……だけど、ぼく」
すとんと背中に気配が落ちてくる。ひゃ、と耕太は飛びあがった。
おずおずと後ろを覗《のぞ》く。
ちずるがこちらに背を向けて座っていた。背を覆う金髪から、なだらかな肩が覗いている。まだ裸のようだ。いそいで視線を戻す。
「……耕太くん、こちらこそごめんなさい」
え、と耕太は振り返った。
ちずるも振り返っていた。胸のふくらみがほゆん、と横揺れする。いぎ、とうめいて、また前を向こうとした耕太の手が、ちずるにつかまれた。両手で握りしめられる。
「耕太くんの気持ちも考えないで、わたし、興奮しすぎちゃって……。そりゃ、嫌だよね。だって、お互い、初めてなのに、こんな、ムードもそっけもない、お夕飯の匂《にお》いがするようなところで……なんて」
いわれてみると、なにやらおみそ汁の匂いが漂ってきていた。耕太は鼻をひくつかせながら、まわりの家々を眺める。ぽつぽつと明かりのついている家もあった。
「え、ええ……まあ」
――違う。
耕太が嫌な理由は、それだけじゃなかった。
「えと、ちずるさんは……その、どうして、そんなにえっち、したい……んですか?」
発情期だからですか? とはさすがに訊《き》けなかった。
うーん、とちずるは人さし指を口元に当てて、しばし考えこむ。
「不安だから……かな」
「え?」
「あ、いや、なんでもない。いまのは忘れて、ね?」
広げた両手を、ぶんぶんと振る。
そのために、ちずるの重みのあるふたつのふくらみが、もろに耕太の瞳《ひとみ》に飛びこんできた。なんど見ても、いや、見れば見るほどにすさまじい破壊力だった。まさにおっぱいミサイル、彼女はミサイル!
つ……と耕太の鼻から、血がたれた。
「……やだぁ、えっちぃ」
にんまりとほほえみながら、ちずるが自分の体を抱いて、胸元を覆い隠した。
「そ、そふなっ! ちずるふぁんが、そふな格好してふから!」
素っ裸のちずるが、うふん、と笑った。
「あー、そっかー、これは気づかなかったー、ごーめーん」
耕太が抱えていた彼女の制服一式を、ちずるはするりと抜きとる。
立ちあがり、くるりと背を向けた。ふわりと髪が舞いあがったせいで、腰のくびれが、太いしっぽのつけねが、いわゆる……お尻《しり》が、つるんとあらわになった。
はぶっ、と耕太は鼻血を噴く。
がくりとうなだれ、両手を地面についた。じんわりと冷たさが手のひらに染みてくる。その地面にはぽたぽたと鮮血が染みていた。
こ、このひとは、本当に……。
「――そういえば」
ぱんつに足を通しながら、ちずるは首を傾《かし》げた。
「耕太くん、さっき……わたしとひとつになったとき、わたしからとり憑く[#「わたしからとり憑く」に傍点]んじゃなくて、耕太くんのほうから、わたしのことをとり憑かせた[#「わたしのことをとり憑かせた」に傍点]よね?」
「ふえ? あ、は、はい……」
いわれてみればそうだった。
いままで合体するときは、ちずるから口づけされて、それで彼女が耕太に憑依《ひょうい》していた。それが今回は、耕太から口づけして、なかば強制的にちずるを自分に憑依させた。
「な、なんとなくできそうな気がして……いけなかったですよね、無理矢理なんて」
「ううん」
ちずるはブラウスのボタンを留め終え、スカートを履いた。裾《すそ》からしっぽが覗《のぞ》く。
「強引な耕太くんも、すてき……。いいんだよ、もっともっと無理矢理でも。ちょっとぐらいなら、痛くてもわたし、平気なのに」
「い、痛く……」
耕太の鼻からの出血量が増えた。ぼたばたぼた。
「でも、もうわたし焦らない。耕太くんがその気になるまで、地道にがんばる!」
靴下を手にとって、ぐっ、と握り拳《こぶし》を作った。
なにを……地道にがんばる……つもりなんだろ……?
四つんばいでうなだれていた耕太は、靴下片手に意気ごむ狐《きつね》姿の女性を、ちらりと見あげた。鼻血が顎《あご》を伝わって、地面にしたたる。
ちずるは、ふあ、ふあ、ふあ……と体をひくつかせていた。片手を口元によせる。
へくちょっ。
かわいくくしゃみをした。
「ちょ、ちょっと冷えてきたね」
すすん、と鼻をすすった。耕太も鼻血をすする。ティッシュで鼻をぬぐった。
「それはちずるさんが、この寒空にすっぽんぽんになっちゃったからでは」
「ほら、ほら、ほら、だって、耕太くんだって、ほら」
靴下に足を通し、靴に爪先《つまさき》を差しこんでから、ちずるは耕太の手をとった。さする。
「冷たいよー、手」
「それはさっきまで、地面に手をついていたからでは」
「ね、ね、欲しい? てぶくろとか」
ちずるは耕太の手をなでさすった。はー、はー、と息をかける。
「……えっと、葉っぱをお金に変える、とか?」
「えー。たしかにそんな童話もあったような気がしますけどぉー」
じと、とつりあがった眼《め》で睨《にら》まれた。
「す、すみません。いや、でも、だいじょうぶです。てぶくろならありますし……あと、学校指定のコートとか、いろいろ」
耕太はここに転校する前は、ずっと田舎の山村で暮らしていた。冬には雪深くなる土地だったため、防寒具はひとそろい持っている。
ちずるはまだ耕太を睨んでいた。
「……ねえ、耕太くん。ほかには? たとえば……そう、長くて、首に巻けて、あったかーいやつとか」
「長くて? 首に巻けて? あったかーい? ……ああ、マフラーですか?」
そうそうそう、と狐《きつね》耳の彼女はうなずいた。
「マフラーは……うーん、持ってないです」
「よーし!」
ちずるは立ちあがった。そのいきおいで、わ、と耕太は地面に尻《しり》もちをつく。
道路に転がっていた鞄《かばん》ときんちゃく袋に向かって、ちずるは駆けよっていった。鞄を拾いあげ、なかをがさごそと探る。
とりだされたのは、一冊の本だ。
高校生向けの女性誌と思わしき本は、よほど読みこまれたのか、かなりページがよれている。びっしりと黄色い付箋《ふせん》が挟みこまれていた。
ぺらぺらとめくりだす。耕太は下からその本の表紙を覗《のぞ》きこんでみた。
『鈍感な彼氏をソノ気にさせる一〇〇の方法』……そんな特集の見出しが、ピンク色の大きな文字で描かれていた。
「うん、うん。千里の道も、一歩から!」
ちずるはぱたんとページを閉じた。鞄《かばん》に本をしまう。
「そうと決まったら、さっそく材料を買いにいかなくちゃ……じゃあね、耕太くん! また明日、迎えにゆくから! ばーい!」
手を振りながら、彼女は走りだした。
狐《きつね》っ娘《こ》の姿のままで――狐耳を立てつつ、狐のしっぽを振りつつ。
「ちずるさーん、頭、しっぽー」
わかってるー、と答えながら、ちずるは髪の色を金から黒へと戻した。狐の耳としっぽが、すぅっとかき消える。ただの女生徒の姿になった。
最後に耕太に投げキッスをして、ちずるはまっすぐに駆けていった。
遠ざかる背中に向かって小さく手を振っていた耕太は、その姿が消えたとたんに、はあ、とため息をつく。
「鈍感な彼氏、かあ……」
かなたの空では、もう夕陽《ゆうひ》が沈みかけていた。
ちずるとつきあって一ヶ月、今日はたまりにたまったものが、いっぺんに噴きだしたような気がする。
「苦労してるんだなあ、ちずるさんも……」
いや、苦労させてるのはぼくか、と耕太は思い直した。
どうしてそんなにぼくといたしたいのか、という耕太の問いかけに、ちずるは「不安だから」と答えた。
不安。
「そんなの、ぼくだって……」
耕太だって不安まみれだった。
はたして自分は、彼女からこれほどまでに愛されるだけの資格があるのだろうか? べつに美男子なわけでもない、背だって高くない、勉強だって運動だってごくごく普通だ。
どうして、ぼくなんか……?
あんなにすてきで、美しくて、やさしい、ひとが、なぜ、どうして。
耕太はため息をつく。
がくりと肩を落とした瞬間――。
まわりの家々のドアが、いっせいに開いた。
「やや、や!?」
買い物袋をさげたお母さんたちが、ぞろぞろと姿を見せる。驚きに身をすくめる耕太の横を、「買い物、買い物」とつぎつぎにすりぬけていった。
「そ、そうか……結界がなくなったから……」
後方から、自転車がチリンチリンとベルを鳴らしながら走りぬけてゆく。
耕太は考えることをあきらめた。人の流れに混じり、まっすぐに歩きだす。
[#改ページ]
[#小見出し] 二、きみの匂《にお》い、もうおぼえたから[#「二、きみの匂《にお》い、もうおぼえたから」は太字]
「やっぱり……しなきゃだめなのかな」
耕太《こうた》はぶつぶつと呟《つぶや》きながら、ひとり、暮れなずむ街を歩いていた。
まわりには商店が軒を連ねている。その看板や店構えが、どことなくくすんで見えるのは、決して夕陽《ゆうひ》の赤い光だけのせいではなかった。
というのも、ひとつ橋を渡った街の中心部には、もっともっと大きな、それこそ屋根つきのアーケード街があるからだ。そちらのほうが新しく広いぶん、店の数も品揃《しなぞろ》えも豊富で、お客さん――とくに若い人たちをたくさん取られてしまったらしい。
すっかりさびれてしまった商店街。
でも耕太はこちらのほうが好みだった。
アーケード街にはちずるに連れられてなんどかいったことがあるが、人通りはすごいし、どこにでもあるスピーカーから音楽やアナウンスはうるさい。ちっとも落ちつかない。
その点、この商店街は静かなものだ。学校からも徒歩十分と近く、人も少なく、スピーカーはない。考えごとをしながら歩くにはじつにちょうどよかった。
たとえばいま、このときのように。
耕太は、うーん、とうなる。
「やっぱり……しなきゃだめだよね」
なにを。
――ちずるさんと、えっちなコト。
そんなことを、耕太は歩きながらずぅーっと考えていた。
いや、いちおうこの商店街にはノートを買いに来ている。ちずるに襲われた際の「ノートを買う用事がある」という言い訳は、じつのところ本当だった。
もっとも、すでに文房具店は通りすぎていたが。
耕太もすぐに気づいたけれど、まあ、あとでいいかな……と歩き続けていた。人通りが少ないのをいいことに、ぶつぶつと咳きつつ、通りを進む。
「うん、べつに――」
えっちなコトを、したくないわけじゃあ、ないんだけど。
「ない、けど……」
恐《こわ》い?
「のかな?」
耕太は歩きながら首をひねった。
なぜなのか、耕太自身にもよくわかっていない。
ちずるのことは好きだ。一緒にいて楽しいし、あのおっきな胸に、耕太だって、触りたいと……思う。それにいまどき高校生で恋人同士といったら、まあ、ねえ? だから実際のところ、なにも問題はないはず、だった。
愛しあうもの同士、求めあうのが普通、なんだろうけれど。
「ゆっくりじゃあ……だめなのかな」
姿のほとんどをビル街の向こうへと沈めた太陽の、やけに赤い残光を見つめながら、耕太はぽつりと呟《つぶや》いた。
ゆっくり、すこしずつ、オトナに――。
「だめ……なんだろーなあ」
ため息をつく。
なんだか今日はため息ばかりついているなあ、そんなことを思いながら、なんとなく耕太は視線を横に向けた。
ふと、四角いものが目にとまる。
小さな自動販売機だ。
薬局の前に備えつけられている、それは――。
「は……はああっ」
耕太は硬直した。両手で鞄《かばん》を持った姿勢で、肩をぴーん、と高く突っばらせる。みるみる顔に血液が集まってきた。こ、これは、こん、こん、こんどー……はっ。わざわざ立ち止まってその自販機を凝視していたことに気づいて、耕太はあわてて歩きだした。
ぎっこんばったん。ぎっこんばったん。
左腕と左足が同時にあがり、続けて右腕と右足も同時にあがる。壊れかけのロボットじみた動きで、ぎこちなく商店街を行進していった。
明るい、家族、計画?
ぶんぶんと耕太は首を横に振った。ぼ、ぼくは、なにを考えて……。
待てよ、と考え直す。立ち止まった。顎《あご》の下に手を当て、悩む。いざとゆーときには、当然アレだって必要になるじゃないか――ア、アレ? なに、アレって!?
「おい、なんだって!?」
「あああ、すみません、ごめんなさい!」
耕太は背をびしっと伸ばした。思わず謝ってしまってから、あ、あれ? とまわりを見渡す。通りはもう薄闇《うすやみ》に沈んでいた。ぽつぽつと街灯がつき、夜の始まりを告げている。あいかわらず人の通りは少なかった。
と、すれば……いまのはだれが?
「これだけ食べておいて、お嬢ちゃん、まさか、肝心のものがないっていうのかい!?」
前だ。斜め前方でなにやらもめている。
近づいてゆくと、ぷうん、と香ばしい匂《にお》いが漂ってきた。肉の、たれの、焼きあがった、ちょっとこげた、おいしそうな匂い……。耕太の口に唾《つば》があふれた。
なんだろ……焼き肉? 焼き鳥?
どうやら売り場が、直接道路に面したタイプのお店らしい。カウンターから洩《も》れている明かりに、店先に立っているお客さんの姿が照らしだされていた。
浮かびあがるその輪郭は、とても細い。
学校の制服を着た――女の子だ。
前髪は短めで、横や襟髪は長い。手になにやら細い棒らしきものを持っていた。口元によせ、顎《あご》をむぐむぐと動かしているのを見ると、どうやら骨つきの肉のようだ。
「ちょっと、聞いてるのかい!? お金だよ、お金。こら、食べてないで話を聞いて!」
怒っているのはお店の人、怒られているのは女の子だ。
話をまとめると、どうやら彼女は無銭飲食しているらしい。
しかし女の子は、お店の人のすごい剣幕にもかまわず、平然と手に持った肉を食べ続けている。もしゃもしゃ。
なんか、すごいや……。
妙な感心をしつつ、耕太は店の構えを眺めた。
掲げられた看板には『お肉屋さん』との文字があった。売り場はふたつ並んでいて、耕太から見て奥側のカウンターでは精肉を、手前の、いまもめているカウンターでは調理した肉を売っている。店先のメニューにはローストビーフ、スペアリブとあった。
「だからお金だってばっ! 日本語わかるかい? マネー、マネーだよ!」
コック帽をかぶったおじさんが、カウンターから真っ赤な顔を突きだす。
その興奮しきった顔を間近にしても、女の子は食べることを止《や》めようとしなかった。じっと相手を見つめたまま、着実に骨つき肉を骨だけにしてゆく。
「あ、あの服は……」
よくよく見ると、彼女の制服は耕太とおなじ、薫風《くんぷう》高校のものだった。
そしてその髪の色は、銀。
「――んん? 銀?」
耕太はあらためて彼女の姿を見た。
まちがいない。てっきり、店の照明に照らされているから、光の加減でそう映ってるのかと思っていたが、たしかに銀髪だ。
白髪とも違う、夜空の月にも似た冷たい色あい――。
ふいに、彼女が横を向いた。
「あ」
凝視していた耕太は、もろに眼《め》を合わせてしまう。
彼女の瞳《ひとみ》は、髪とおなじ銀の色に輝いていた。強さと弱さのあいまった、どこかはかない色――そう耕太が感じてしまったのは、彼女の肌がとてもきれいだったせいもあるかもしれない。なかば青白く見えるほどに、彼女の肌は白い。
最初に耕太を引きつけた銀色の髪自体は、けっこうぱさついていた。
横や襟の髪とくらべて短めだと感じた前髪は、じつは長さ自体はさほど変わらず、横へと流すことでかたちを整えてある。あまりかっちりとセットはされておらず、ぼさぼさ、ばさばさとしていた。手で適当になでつけたようにも見える。
なるほど……。
店員のおじさんが「日本語わかる? マネー、マネー」などと口走った理由が、耕太にもわかった。銀の髪に銀の瞳《ひとみ》、白い肌、たしかに外国の人に見えなくもない。
でも、違う。
耕太は感じていた。おそらく彼女は、ちずるさんとおなじく[#「ちずるさんとおなじく」に傍点]――。
そのとき、彼女が口を開いた。まわりを肉のたれで汚した唇を動かす。
「――コウタ?」
「え」
耕太は固まった。眼《め》をぱちくりとさせる。知らないからだ。耕太は、彼女のことを知らない。まったく見覚えがなかった。なのに――相手は耕太の名前を知っている。
「あなた、小山田《おやまだ》耕太《こうた》、だよね?」
彼女が首を傾《かし》げる。口元には骨だけになったスペアリブを寄せたままだ。
「や、たしかにぼくは耕太、小山田耕太ですが。……あの、どちらさまで?」
「わたしは望《のぞむ》。犹守《えぞもり》望《のぞむ》」
「えぞもり……」
「のぞむ」
犹守望――やっぱり聞いたことがない。
耕太やちずるとおなじ、薫風《くんぷう》高校の制服を着ているということは、彼女もおなじ学校に通っているということだ。胸のワッペンは紺色だから、耕太とおなじ一年生なのだろう。
だが、耕太はいままで一度たりとも望の姿を見た記憶がない。
耕太が転校してきて、まだ一ヶ月しか経《た》っていない。だから全校生徒を見たかといわれれば自信はない。が、この銀髪だ。いやでも目にとまるはずだ。
もういちど耕太は彼女の全身を見つめた。
背丈は耕太とおなじほどで……とにかく線が細い。
ほっそりした脚、締まった腰、そしてなだらかな胸と、ちずるとは正反対だ。ちずるをみずみずしい桃にたとえるとすれば、彼女は山にひっそりと生えた野いちごといったところか。うん、ちずるは桃だ――桃――しっぽの影に、白い桃が……つるりと……。
はっと耕太は我に返った。ぼ、ぼく、いま、なにを考えてたの!? ああ、ああ!
「……きみ、その子の知りあいなの?」
「ふえ?」
己のいやらしさに耕太は頭を抱えていた。そこに店のおじさんが、いぶかしげな視線を向けてくる。
「もしかして彼氏かい? だったら、その子が食べたそれの代金、払っておくれよ」
「いえ、いえ、違います! ぼくはそんなんじゃあ……」
違う、違うと両の手のひらを振りながら、耕太はおじさんが指さした方向を見てみた。
店の売り場の下、望《のぞむ》の足元には――。
骨の山が、てんこもり。
「――わ」
「ひどいだろう? ひどすぎるだろう? おまけにこの子ったら、きみが来るまで、ひとことも喋《しゃべ》ってくれないんだよ。ひたすらに食べるだけで……」
おじさんが熱弁をふるうあいだにも、望は手に持っていた骨をひとつ、山へと落としていた。カン、と硬い音がして、骨の山がまた高くなった。
続けて、望は店のカウンターへと視線を向ける。
ひい、とおじさんの顔がひきつった。
「ちょ、ちょっと、まだ食べる気じゃ……」
あわてておじさんは『スペアリブ』と書かれた金属製のトレイを持ちあげる。すでに骨つき肉はなかに数えるほどしかなかった。
おじさんがトレイを奥に隠そうとした瞬間、望の腕がぶれる[#「ぶれる」に傍点]。
シュッ、と風切り音があがった。
「ああ、ま、また!」
トレイを覗《のぞ》きこみ、おじさんは悲痛な声をあげた。中身が空になっている。
いつのまに奪ったのだろう、三本のスペアリブは、すでに望の手に握られていた。その一本に彼女はかぶりつく。ぷち、ぷち、ぷちと肉が噛《か》みちぎられた。
「あ……ああ……」
はぐはぐ、ごきゅん。望の喉《のど》が動き、おじさんの前で、またたくまに一本が骨だけとなった。下の山へと落下する。かちゃん。
「いいかげんにしてくれ! もう警察だ! ポリスメンをコールだよ!」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「なんだい! なんだってんだい!」
涙目となったおじさんに、耕太はぎろりと睨《にら》まれた。
「えっと……」
横目で望を見る。まったくこちらを気にせず、二本目の肉を食べることに夢中だった。
お金……持ってなさそう……。
このままだと本当に警察|沙汰《ざた》になってしまう。そうなれば普通の生徒だって、なんらかの処分を受けてしまうだろう。まして彼女は――耕太の考えが正しければ、普通の生徒ではないのだ。彼女の処分は、停学などではなく、おそらく……。
「あの、ぼく、払います。払いますから、ここはどうか、穏便に」
「きみが? お金を?」
「はい……」
耕太は財布の中身を思った。どうか代金が三千円以内でありますようにと願う。
とたんにおじさんはにこにこしだした。
「そうかいそうかい。だったらわたしもね、べつにね、うふふ。さあて代金代金と……すまないけど、ボーイフレンドくん、きみね、そこの骨、数えてくれない?」
「ボーイフレンドじゃあ、ないです……」
耕太はしゃがみこみ、ひとつひとつ数えた。ひい、ふう……。
骨は十本もあった。あんなに細い体で、よくもまあこれほど食べたものだ。きれいに骨だけを残し、肉は完全になくなっている。まるで獣の食事のあとだ。
「ふんふん、十本ね。いま彼女が二本持っているから、合わせて十二本と。スペアリブは一本五〇〇円だから……しめて六千円だね」
「ろく、せん、えん!」
口をあんぐりさせる耕太の横で、望《のぞむ》はさらに一本、スペアリブを食べ終えていた。骨が山に積まれる。からーん。残るは一本のみ。
「き、きみもさ、ちょっとは……」
耕太の視線に、望はなあに? と首を傾《かし》げる。指先をぺろぺろと舐《な》めた。
まつたく悪びれない彼女のしぐさに、思わず耕太は笑ってしまった。は、はは……。そういえば、耕太は女性に振りまわされることには慣れているのだった。
ちずるの姿を思いうかべて、それで覚悟が決まる。
「あの、すみません」
とりあえずあり金すべてを置いて、残りはちょっと待ってもらおう。そう頼みこもうとした瞬間、耕太の眼前を、すっとお札が通っていった。店のカウンターへと放《ほう》られる。
五千円が一枚に、千円が一枚。あわせて六千円。
支払ったのは望だ。
すでに彼女は耕太たちに背を向け、歩きだしていた。
呆然《ぼうぜん》となって、耕太は呟《つぶや》く。
「お金、持ってたの……?」
「……あのね、ボウヤ。彼氏ならね、ときにはビシッと叱《しか》ってやらなきゃいけないよ。いまからこんなことじゃあ、彼女は社会に出てから大変な思いをだね」
「ぼく、彼氏じゃありませんから!」
耕太は飛びだした。「最近の子は、まったく!」というおじさんの声を背に、望を追いかける。まわりはだいぶ暗くなっていた。
「ちょっと! きみ、待って!」
「きみじゃない。わたしは、犹守《えぞもり》望《のぞむ》」
振り返るなり、銀髪の少女はそういった。口のまわりをたれで汚しながら。
「あ……えと、犹守、さん」
うん? と望が首を傾げた。とりあえず耕太はティッシュを渡す。
「口のまわり、汚れてるよ」
「ん」
受けとるなり、ぐしぐしと望《のぞむ》は口元を拭《ふ》いた。ぽいと道路に捨てる。耕太は拾って、くずかごを探した。ない。しかたなく、ティッシュの袋に入れて、ポケットにしまった。
「ねえ、だめだよ、あんなことしちゃあ。だってきみは、あ、えと、犹守《えぞもり》さんは、妖《あやかし》――」
はも。
耕太の口には、望が持っていたスペアリブが突っこまれていた。
「これは、お礼」
「おふぇひ?」
眼《め》を丸くする耕太に、望がうなずいた。
「耕太はわたしのことを助けてくれた。うれしかった。だから、これはお礼」
「あ、ありがとう……」
とりあえず耕太は肉にかぶりついた。表面は香ばしく、噛《か》めば柔らかい肉から、じゅわっと肉汁があふれる。その脂が甘辛いたれとからんで、得もいわれぬ美味《うま》さを作りあげていた。おいしい。すごくおいしい。ちょうどおなかが空《す》いていたし。
だけど……。
耕太ははむはむと肉を噛みしめながら、望をじとりと見た。
すでに目の前にはいなかった。街灯の並んだ商店街がまっすぐに伸びるばかりだ。
「あれ?」
すんすん。
「わ」
いつのまにやら、望は耕太の背中へと回っていた。なにやら鼻をうごめかしている。
「あ、あの!?」
「食べて」
引き続いての食事をうながしながら、望はひたすら耕太の匂《にお》いを嗅《か》いでいた。つむじから耳元、首筋へと――後ろからぐるりと前に回りこんでくる。くんくん、くんくん。
「えーと、犹守、さん……」
「いいから、食べて」
しかたなく耕太は肉を食べた。
夜も迫った商店街の往来で、女の子に匂いを嗅がれながらの食事。落ちつかないことこの上ない。なにやらだんだんと味がわからなくなってきた。
「ん、んん」
望が耕太の胸元から顔をあげる。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、口をへの字にしていた。
「耕太、牝《メス》くさいね……」
「め、メス!?」
「すごくいやらしい匂いがする」
「いやらしいー!?」
ほわほわーんと、耕太の脳裏に、ついさきほどのちずるとの痴態が浮かびあがった。
「ほら、食べて」
せかされて、耕太はあわてて口を動かした。
「おいしい?」
「え、ええ、まあ……」
「よかった」
望《のぞむ》がほほえんだ。
いままでほとんど表情を変えなかった――さっきちずるの匂《にお》いを感じたときだけ――そんな望の、ぱっと華やいだ笑顔に、耕太はしばらく見とれた。肉の味は正直、よくわからなかったのだけれど。
「もう食べない?」
「え」
望が、耕太が手に持つ骨を指さしている。ほとんど肉は残っていない。
「う、うん」
答えるが早いか、骨は耕太の手から奪われた。
そのまま望はぱくりとくわえる。
「あー!」
ちゅぷちゅぷとねぶり始めた。
「あ、あ、あ……」
か、間接キッス……。耕太の目に、ちずるのすねた顔が浮かぶ。耕太くんのバカー!
ちゅぽん、と望《のぞむ》が骨を唇から抜いた。きれいに肉がこそげ落とされていた。
「耕太の匂《にお》い、おぼえたから」
「に、におい?」
「ふふ……」
望はぱくりと骨を横ぐわえする。
そして――いきなり、かっと大きく眼《め》を見開いた。
驚く耕太の前で、骨をくわえたまま、眼を見開いたまま、どこか遠くを見つめる。なんか田舎で飼っていたポチみたいだ、と耕太は思ってしまった。柴犬《しばいぬ》が、ほかの犬の遠《とお》吠《ぼ》えを聞く姿によく似ていた。骨も犬みたいにくわえてるし。
「……迎えだ」
迎え? と耕太が問い返す前に、遠く、排気音がとどろいた。
犬の遠吠えのような音は、みるみるうちに近づいてくる。おん、おん、おん……。
最後にがおん、と盛大にうなって、道の先、商店街の出口に、ライトがまばゆく光った。
「バイク……?」
向こう側から照らされているために、まぶしくてよく姿がわからない。ともかく重い排気音だった。音が、どろどろと地を這《は》っている。
「――望!」
光の向こうから、男の声が聞こえた。
「じゃ、またね、耕太」
「ま、また? またって……」
すでに望は走りだしていた。
銀髪の後ろ姿が、光のなかへと消える。まばゆさのなかにとぎれとぎれ見える彼女のシルエットは、どうやらバイクの後ろにまたがっているようだ。
どるん。
排気音が響いた。
ライトが耕太のほうへと近づいてくる。それほどスピードはないものの、どろどろという排気音の重低音さに、耕太は威圧感を覚えた。音圧で体がびりびりと震える。
バイクが横を通りぬけてゆく。
とても太いタイヤに、大きな車体のバイクだった。色は黒い。座席の位置は低く、そこには革のジャケットに革のパンツと、車体とおなじく全身黒ずくめの男がまたがっていた。男の手足は長く、巨大なバイクにもひけはとっていない。
男の髪は、望とおなじ銀髪だった。
髪の長さもおなじくらいか、もっと長い。背中に襟足が長々と伸びていた。ゴーグルをつけていたために、顔のつくりはよくわからない。
その口元が――耕太を見て、にやりと笑った。
バイクのスピードがゆっくりだったため、そんなところまで耕太は観察することができた。後ろには望《のぞむ》が乗り、男の背にしがみついていた。ちゃんと黒いヘルメットをかぶっていて、剥《む》きだしになった顔の部分から、口にくわえた骨を覗《のぞ》かせていた。
赤いテールランプが、重々しい排気音とともに遠ざかってゆく。
ぽつんと耕太はそれを見送っていた。
「……親子、かな」
男はなんだかとても大人に映った。全身、革の衣服で覆われていたからかもしれない。ちょっぴりカッコよかったかも。
だけど、と耕太は思った。
銀髪の彼女は、望は、たぶん……。だとすると、あの男の人も? そういえば、望は「またね」といっていた――。
「うーん、なんだか、とっても嫌な予感が」
首をひねりながら、耕太は来た道を戻っていった。
帰り道、またも耕太は文房具店を通りすぎた。こんどはちっとも気づかなかった。
「おいおい、あまり心配させるなよ! こっちに来て早々、ふらふらと出歩いたかと思えば、なんだなんだ、あのぼうやは? ナンパでもされたか!?」
銀髪の男はにやけながら叫んだ。彼がいま走らせている鋼鉄の乗り物――排気量二〇〇〇cc、ちょっとした乗用車なみのエンジンからの排気音と、風切り音とがすごくて、叫ばなければ会話にならなかった。
「ふぁへ、ほーが」
背中の望は、口に骨をくわえながら答えた。
「あーっ! なんだって!」
彼はアクセルを開く。
加速したバイクが、つぎつぎとテールランプを追い越してゆく。車をかわしていった。
「ふごが、もがほがほーふぁ」
「口からものを外せ! なにをいってるのかちっともわからん!」
ようやく望は口から骨を抜いた。つつ……と伸びた唾液《だえき》は、風圧ですぐにちぎれて飛んでいってしまった。
「あれ、耕太。小山田耕太」
「――なに?」
男が、ゴーグルの下の唇をゆがませた。
すぐに笑みに変える。大きく口を開けた。鋭い犬歯が覗く。
「はーっはっはっはっは! そうかそうか、あのぼうやが耕太くんか! そいつはまったく奇遇だな! はっはっはっ!」
うおんうおんとアクセルをふかした。楽しそうな男の背中で、望《のぞむ》は骨をかきかきとかじっている。
「どんなやつだった――いまのちずるの男[#「ちずるの男」に傍点]は!」
「わたしの正体、気づいてた、みたい」
「ほーう!? 資料じゃあ、ただのニンゲンだってことだったが……組織の調査がまちがってたのか、それとも本人が変化したか――変化してしまったのか」
「あと……おいしかったって……」
「あー!? なに、なんだって?」
「――いいひとだった! とても!」
風圧に激しく銀髪を踊らせる男に向かって、望は叫んだ。
「そうか、そうか、いいやつだったか! たしかに悪いやつには見えなかったな! どちらかというと、悪いことされるタイプだ、アレは!」
にたりと男は口の端を上げる。
「だけどな……いいやつってだけじゃ、惚《ほ》れた女は守れないぜ、耕太くん!」
男が右手をひねる。ぐん、とバイクが加速した。
ふたりを乗せたバイクは、うなりをあげて夜の道を駆けぬけていった。
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[#小見出し] 三、ぼくの知らない彼女を、彼は知っている[#「三、ぼくの知らない彼女を、彼は知っている」は太字]
1
はらはらと、街路樹から黄色い葉が落ちてゆく。
その葉によって、通学路には黄色いカーペットが作りあげられていた。道いっぱいに敷きつめられた枯れ葉の敷物を、まわりの生徒たちは遠慮なく踏みつけて、学校へと向かう。
もちろん耕太《こうた》も踏みつけていた。
からりと晴れた空だった。秋ももう終わり、冬が始まりそうなこの時期、この空はいったいなに晴れといいあらわせばいいのだろうか。秋晴れ? 冬晴れ? そんなことを考えていた耕太のとなりからは、楽しげな鼻歌が聞こえてくる。
歌っているのは、ちずるだ。
あいかわらず美しい黒髪を朝の光にきらめかせながら、無心に歌っていた。背筋をしゃんと張ったきれいな姿勢で、ふん、ふん、ふんふん……。
耕太はふふ、と笑う。
えっちなちずるさんも悪くないけど、こういうかわいいちずるさんのほうが、やっぱりいい。ずっとこうならな……と、横目で見ながらにまにました。
「なあに、耕太くん」
「え」
「にやにやしちゃって……なにかいいことでもあったの?」
「あ、や……まあ」
耕太はうつむいた。頬《ほお》が熱くなる。
あなたが楽しいと、ぼくも楽しいんです……なんてことはとてもいえない。耕太はもじもじして、両手で持っていた鞄《かばん》をぎゅむぎゅむと握ったりした。
「ち、ちずるさんこそ、なんだか楽しそうですよね! なにかいいことあったんですか?」
「え、わたし?」
んー、とちずるが人さし指を唇に当てた。
「どうしよっかなあ……教えちゃおうかなあ……」
耕太を見た。眼《め》を唇を、にんまりと細める。
「まだひみつっ! だ、け、ど……」
いきなり耕太に抱きついてきた。
「ヒントは教えてあげるっ。ほらっ」
ちずるの腕が、耕太の首の裏に回される。ちずる一七ニセンチ、耕太一六五センチという身長差のせいで、自然と耕太の顔面はちずるの胸に埋まることとなった。
ぎゅむむむむ〜〜〜〜。
やわらか〜い、あたたか〜い、いい匂《にお》〜い、だけど息ができな〜い。耕太は苦しさに手をぱたぱたと上下させた。
「あ、いけない。これじゃだめだ」
ぱっとちずるが腕を放す。解放された耕太はぜひぜひと息を吸った。
「ち、ちずるさん、ま、また……ひ、人前じゃこういうことしちゃいけないってぇ、昨日だってぇ」
耕太の両肩はちずるにつかまれる。くるりと後ろを向かされた。
「はえ?」
こんどは背中から抱きつかれる。
首筋に腕が絡まり……背に、ふたつのふくらみが、当ててんのよ、文句ある? といわんばかりにぶち当たっていた。うにうに。
「これならわかるかな? どう? どう?」
「わ、わかるもなにも……」
さきほどよりは首に腕が絡んでいるが……もう耕太にはなにがなんだか。
道行く生徒たちは耕太を見て、くすくすと笑ったり、指さしたり。さほどの驚きもないのは、まあいつもの光景でもあるからだろう。
だめだだめだだめだ!
耕太はぶるぶると首を横に振った。後ろでちずるが「きゃっ」と声をあげる。
これがいつもの光景になってしまってはいけないのだ。どんどんエスカレートしていって、やがて最後には……。
(――どうしてなの? どうしていけないの?)
耕太の脳裏に、昨日の涙を流すちずるの顔が浮かんだ。
……。
かちんこちんとなっていた体から、耕太は力を抜く。首に巻かれているちずるの腕にそっと触れた。きゅっとつかむ。
「……耕太くん?」
耕太は首を曲げた。背中のちずるを見つめる――うるんだ瞳《ひとみ》で。ちずるが息をのんだ。
「ちずるさん、ぼく……」
そうだよな、と耕太は思う。
理由はともあれ、女の子を泣かしちゃあ……。
だから。
「ぼく……」
「あ……」
「ちずるさん……」
「耕太くん……」
「えー、ごほん」
わざとらしい咳《せき》払いが、ふたりの世界を壊した。
「あいかわらずですね、おふたりさん。源《みなもと》さんに……小山田《おやまだ》くん?」
ちずるに抱きつかれたまま、おずおずと耕太は真横を向く。背中のちずるが、うー、とうなり声をあげた。
「いいところだったのにぃー」
「なにがいいところですか! 朝っぱらからこんな、道の往来で……校則違反です!」
咳払いして『いいところ』を邪魔した女の子が、その小柄な体をせいいっぱいに怒らせていた。端をつまんだ眼鏡を、てぶくろした手で、くいくいと動かす。
つるんと剥《む》きだしにしたおでこ、レンズごしの厳格な眼《め》。
「あ、朝比奈《あさひな》さん……おはよう、ございます」
彼女の名は朝比奈あかね。
耕太のクラスメイトであり、クラスの委員長だ。いま耕太の背中の人と睨《にら》みあっているとおり、校内の風紀を守らねば、との強い想《おも》いからか、風紀を破りまくりなちずるとはあまり仲がよろしくない。
そんなちずるあての鋭い視線が、耕太にも向けられた。
「小山田くん、きみもいけない!」
「ぼ、ぼくが、ですか?」
「そう! ちずるさんにいくら注意したってどこ吹く風、ちっとも聞く耳を持っちゃいないんだもの! 万が一、耳を傾けるとしたら……それはズバリ小山田くん、きみの言葉だけ! できるのにしないのは怠慢という名の罪だわ。違う?」
「あー、それはいい線ね。たしかにわたし、耕太の命令なら従っちゃうかも」
耕太に胸を押しつけたまま、ちずるがうんうんとうなずく。
「うそばっかりぃ……」
小声で耕太は呟《つぶや》いた。恥ずかしいから、人前じゃ抱きつかないでくれって何度も何度も何度も頼んでるのに、いま背中に当たっているのはいったいなんなのだろう?
「とーもーかーく! 学生は学生らしく、節度ある交際を!」
「いまどき高校生なら、もっととんでもないことしてるじゃなーい?」
「ほかの学校は知りません。少なくともここ、薫風《くんぷう》高校では、登校途中にいやらしいことするカップルなんかいままでいませんでした! ええ、いませんでした!」
あかねが手を腰に当て、もう一方の手は眼鏡に当て、仁王立ちした。
「そうだよねー、小山田くん、えっちだよねー」
あかねの後ろから、顔にそばかすを浮かせた少女がひょいっと顔を出した。
「しかたないわ、オトコなんてみんなケダモノだもの」
さらに、髪を真ん中分けにして胸元にまで垂らした少女がにゅっと続く。
耕太は彼女たちを知っていた。
あかねと仲のいいクラスメイトだ。耕太はまだ会話したことがない……というより、どうもちずるの件で誤解されているらしく、耕太は非常に女性受けがよくなかった。
「ほら、彼に近づくとニンシンしちゃうわよ。いきましょ!」
真ん中分けの少女が、そばかす少女をうながした。まさにケダモノを見るような目だった。
ほらね、と耕太は落ちこむ。うなだれようとして、首筋にちずるの腕が絡んでいたことに気づいた。これじゃ無理ないかな、とさらに落ちこむ。
うんうん、とそばかす少女がうなずく。
「小山田くんのこと、みんなえっちでスケベで年上三年ゴロシっていってるもんね。ここはあかねちゃんにまかせて……」
ふたりは歩きだした。まわりの生徒たちの流れに乗ろうとする。
「待って」
あかねの言葉に、ふたりがその動きを止めた。
「たしかに小山田くんは、えっちでスケベで年上ゴロシかもしれないけど、だけど、ほかの女性には――手を出してないわ。彼はあくまでちずるさんひと筋なの。だから、そんなに恐れなくても平気。できればもうすこし……ね、普通に接してあげて」
「朝比奈《あさひな》さん……」
なぜか耕太をかばってくれたあかねは、あいかわらず仁王立ちのまま、口をへの字に曲げていた。こころなしか、頬《ほお》が赤いような気がする。
その後ろで、そばかす少女と真ん中分け少女、ふたりが視線を交わしていた。
「たしかに小山田くん、源《みなもと》センパイ以外と歩いているの、見たことないかも」
「ちょっとわたしたち、噂《うわさ》だけで判断しすぎたかも……しれない」
ふたりでうなずきあう。
「ごめんね、小山田くん。いままでエロス大王とか呼んだりして」
そばかす少女が、手を差しだしてきた。
「い、いえ。こちらこそ」
そ、そんな風に呼ばれていたんだ……。なにはともあれ、耕太は握手しようと手を伸ばした。
――その瞬間。
「コウタ」
声は耕太の後ろ、背中のちずるよりさらに後ろから聞こえた。
なにやら聞き覚えのある女の子の声だった。そう、たしかこれは、昨日のスペアリブの……耕太は背中のちずると一緒に後ろを向く。
銀色の髪、白い肌、華奢《きゃしゃ》な身体、そして表情の少ない、どこか醒《さ》めた顔。
昨日の少女がいた。
「きみは――」
ん? と傾けていた首を、彼女はまっすぐにする。口元を笑みのかたちにした。
「ほらね」
ほほえみながら、銀髪の少女、望《のぞむ》は、すっと体を寄せてきた。
「また会えた」
細い腕が耕太の首筋に、すでに絡んでいたちずるの腕の上から回される。望の体は真正面から、ぴたりと耕太にくっついた。
熱い。
背中のちずるの体はやわらかくあたたかく、正面の望はしなやかで熱い。
やっぱり体って、ひとりひとり人によって違うんだなあ……耕太はぼんやりとそんなことを考えていた。
――チョットマテ。
「ちょ、ちょっと、きみ……」
きゃー、と甲高い悲鳴があがる。
「わー、わー、やっぱりやっぱりやっぱりぃ、小山田くんはえっちでスケベで年上ゴロシで、おまけに特上スケコマシだーっ! エロス大王ーっ!」
なぜか、そばかす少女は瞳《ひとみ》を輝かせながらはしゃいでいた。
「……ケダモノ。まさにケダモノの嵐《あらし》だわ! おお、ソドムの都!」
そばかす少女の腕をつかんで、真ん中分けの少女がすたすたと歩き去ってゆく。そばかす少女はわー、きゃーとまだ騒いでいた。
「あ、ああ……」
遠ざかるふたりの背中に、耕太は手を伸ばす。
ご、誤解だあ……。
「――小山田くん」
それは、静かな殺気のこめられた声であった。反射的に耕太は視線をあかねに向ける。
「は、はい」
あかねの眼鏡のレンズは、太陽をぎらぎらと反射していた。
「説明、願えるかしら? 納得のいく……ね」
「あ、あの、それが」
「そうよそうよそうよ! 耕太くん、これはいったいどーゆーことなの! 浮気? 浮気なの? わ、わたしには、ちっともなんにもしてくれないのにー!」
首筋に絡んだ腕を、ちずるが締めつけてくる。ぎゅぎゅぎゅのぎゅ。
「ぐ、ぐが……ぼ、ぼぐにもぢっともざっばりぃ……ね、ねえ、ぎみ、なにがいっだい」
「きみじゃない。わたしは犹守《えぞもり》望《のぞむ》」
「――犹守ですって?」
ちずるの腕の力が抜ける。げふ、げほと耕太はむせた。
「いまあなた、犹守っていった? 犹守って、まさか……」
耕太を挟んで、ちずると望が顔をつきあわせている。ち、ちずるさん……? 耕太は涙目になりながら、そんなふたりを間近に見つめた。
「おーう、毎度毎度、朝っぱらから騒がしいねえ、きみたちぃ」
呑気《のんき》な声が届く。
ふああああ、とあくびをしながら、長身の男が姿をあらわした。
ところどころくせっ毛を跳ね散らかした頭で、服装もノーネクタイにブレザーの前ボタンはとめずと、だらけた格好をしている。開いたワイシャツのなかには、さすがに寒いのか、黒いTシャツを着こんでいた。
彼は源《みなもと》たゆら。
ちずるの弟であり、彼もおなじく妖狐《ようこ》だった。けっこうなシスコンゆえに、耕太には明確な敵意を抱《いだ》いている。
ち、とたゆらは舌打ちをした。
「まーた、ちずると耕太がいちゃついて、それを朝比奈《あさひな》がお説教してんのか? もうそのパターンは飽きましたよ先生……たまには新しいパターンを見せて……お?」
ちずると望にサンドイッチされた耕太を見た。
「……新しいじゃん」
コウタサンドを眺めて、ははっ、とじつに楽しげな声をあげる。
「なんだ、おいおい、浮気かー? いいぞいいぞ、どんどんやれー」
「たゆら、やかましい!」
「源、うるさいわよ!」
ちずるとあかね、両者から怒鳴られた。ひぃ、と大げさにびくつく。
「なんで? どーして? ちずるはともかく、なぜに朝比奈《あさひな》までー? えー?」
「ねえねえ耕太。あれも耕太の牝《メス》なの?」
望《のぞむ》が耕太に抱きついたまま、瞳《ひとみ》だけをあかねに持っていった。
ぶほっ、と耕太は咳《せ》きこむ。な、なんてことを……。
「匂《にお》いは……」
くんくん、と望は首を伸ばし、耕太の肩ごしにちずるの匂いを嗅《か》いだ。
「こっちが昨日の、耕太に染みついてたいやらしい匂い。あっちとは違う……」
「い、い、いやらしいですって……?」
耕太の背中でちずるがわなわなと震えた。胸がゆるんゆるんと揺れる。
「ねえ、あなたは耕太の牝なの?」
望はあかねに、真っ正面からまともに訊《き》いた。うわ、と耕太はあわてる。
「……違うわ」
あかねは眼鏡の位置をくいくいと直しながら、ぼそりと答える。
「わたしは、小山田くんの彼女では、ありません」
「おーい、どうして頬《ほお》が赤いんだー? おおーい?」
横からあかねの顔を覗《のぞ》きこんでいたたゆらの足を、あかねは力強く踏みしめる。たゆらは、けーんとじつに狐《きつね》っぽく鳴いた。
「ちょっと、あなた!」
ちずるが、ずいっと耕太の肩ごしに顔を突きだした。
「さっきから黙って聞いてれば、わたしがエロス女王とか、朝比奈が耕太くんの彼女とか、好き勝手なことを……だいたいにして、どうしてあなた、耕太くんに抱きついてるのよ!」
「だって、ちずるが抱きついてたから」
「わたしが抱きついてたからって、なぜにあなたまで! そもそもあなた、耕太くんとはいったいどういう関係なのよ」
「耕太は昨日、わたしのこと助けてくれた。あと、わたしの名前は犹守《えぞもり》望《のぞむ》」
「昨日? あなたのことを? ねえ、耕太くん、それってどういうこと?」
「あ、えと」
――ちゅぱちゅぱ。ちゅぽん。
思わず耕太は、自分が食べ終えたスペアリブの骨を、望がねぶっている姿を思いだしてしまった。あう……頬がひきつる。
なにかを察したのか、ちずるはこめかみをぴくぴくとひきつらせた。
「――ねえ、耕太くん?」
「いや、その!」
耕太に抱きつきながら、望がなにやらごそごそとポケットを探っている。な、なに? と嫌な予感に怯《おび》える耕太の前に取りだされたのは、細長い骨だった。
「そ、それ、まさか、昨日の……」
「わたしのおやつ」
望《のぞむ》首を傾《かし》げ、ぱくりと骨をくわえた。ちゅぱちゅぱと舐《な》め、かきかきとかじる。
「こ、う、た、くーん? なんなのー? どうしてあせってるのー?」
間接キッスの現行犯にあわてふためく耕太の後ろからは、ドスの利き始めた声が、押し当てられたふくらみから直接、体へと伝わってきた。はうはうはう。
くっ、とちずるが声を洩《も》らす。
「あなた――犹守《えぞもり》望《のぞむ》! なんなのよ、あなた、ドロボウネコ!?」
「ふぁふぁひ、ふぇほふぁふぁい」
「口からものを外せ! なにをいってるのか、ちっともわかんない!」
「わたし、ネコじゃない。オオカミ」
「オ、オオカミ? ……犹守……あなた、やっぱり……」
そのとき、遠く悲鳴があがった。
2
騒ぎは学校の校門前で起こっていた。
耕太たちが駆けつけたときには、すでに野次馬の生徒たちが囲みを作っていた。おかげで背の低い耕太にはなかがよく見えない。
一同――耕太、ちずる、あかね、たゆら、そしてしっかりついてきた望《のぞむ》――のなかで、いちばん背の高いたゆらが、ひょいと上から覗《のぞ》きこむ。
「――お? おお? なんだ、あのバカ。まーたバカやってんなあ」
「源《みなもと》、ひとりで感心してないで、説明しなさい」
あかねがじろりと睨《にら》んだ。
「へいへい。あのバカ、桐《きり》……」
「うー、オマエ、なにものだっ! 答えろ!」
人壁のなかから、ガラの悪い怒鳴り声が聞こえた。
耕太の頭のなかに、自分よりやや背丈が高いぐらいの男の姿が浮かぶ。
眉《まゆ》が薄く、目つきは悪く、赤茶けた髪を威嚇するようにつんつんと上に尖《とが》らせた、見かけどおり気の短い、耕太のひとつ上の先輩……ちずるたちとおなじく妖怪《ようかい》の、先輩。
「これって、桐山《きりやま》……さん?」
耕太の言葉に、たゆらは肩をすくめる。
「ああ、あのバカ桐山が、だれかとケンカしてんだ。相手は……うーん、見たことねーなあ。ゴーグルつけてるから顔はよくわかんねーけど、やたら派手な頭してるから、一度見れば忘れないだろーし……制服着てないし、たぶん学校のもんじゃないな」
「派手な……頭?」
耕太はまさか、と思う。
「ああ、派手だ。白髪っつーか、銀っつーか。なんか長いし、ばさばさしてるし。全身革の、あれは……ライダースジャケットだな。どこかの走り屋がまぎれこんだのか?」
「銀!?」
「おう。ちょうど……」
たゆらの視線が、ちゃっかり耕太のとなりに納まってる望に向いた。
「そこの、おまえの新しい恋人と似た頭してるな。そいつのほうがぜんぜんキレイだけど」
「やっぱり……」
「なにが新しい恋人だっ! たゆら、耕太くんの恋人はわたしひとりだけよっ!」
ちずるは望とは逆のサイドで、ぴたりと耕太に寄りそっていた。さっきから耕太ごしに望に鋭い視線をぶつけている。望は平然として、昨日の骨をかりかりかじっていた。
ちずるが耕太を見る。つりあがっていた目尻《めじり》を、甘えるようにたらした。
「ね……耕太くん? やっぱりって、どういうことなの?」
「あの、昨日……」
野次馬から、わっ、と悲鳴まじりの声があがった。
「うがーっ! よけるな、オマエ!」
桐山《きりやま》の声だ。
「た、たゆらくん?」
状況を知ろうと、耕太はなかを覗《のぞ》きこんでいるたゆらを見あげた。
「……桐山が攻撃した。振りおろしの手刀が三発、下からの蹴《け》りあげが一発。ぜんぶよけられた……っていうか、なんだ? いまの相手の男の動き……?」
たゆらは眼《め》を細めて、眉間《みけん》にぐっと皺《しわ》を刻む。
「動きが、なんか……変だった。なんかの武術か?」
「あー、もー!」
ちずるが叫んだ。耕太の腕に抱きつく。
「こんなところで下手な解説聞いてたってしかたない! はるか遠くの出来事ならともかく、すぐそこで起きてるんだから――実際に見たほうが早いよ、耕太くん」
前方に群れなす野次馬の壁を、ちずるは示した。軽く腕を引っぱる。
「そう……ですね!」
耕太はうなずく。
「そうと決まれば……たゆら!」
「へいへい。どーしておれのまわりには、こう人使いの荒い女しかいないんだろーなー」
ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、たゆらは人の壁に向かった。はーい、どいてどいてどいてー、どけっつってんだろコンニャロウと、なかば強引に囲いを割ってゆく。
たゆらのあとを、耕太たちはぞろぞろとついていった。
耕太はすみません、すみませんと謝り、ちずるはうふふ、とほほえみ倒し、あかねは失礼、と眼鏡の位置を直す。望《のぞむ》といえば、ひたすら骨を口のなかで転がしていた。
最前列までたどりつく。
ぐるりと輪になった野次馬のなかで、ふたりの男が対峙《たいじ》していた。
ひとりは桐山。
もうひとりは、やはり昨日のバイクに乗っていた男だった。
その格好は昨日と変わらない。全身革ずくめの姿で、顔には風防ゴーグルをつけていた。長くばさついた銀髪が、その横長のレンズにもすこしかかっている。口元には自信に満ちた笑みが浮かんでいた。
桐山は前傾姿勢で、いまにも男にとびかかりそうだ。
男は逆に、高い背をまっすぐに伸ばし、両手はだらりと下げた、いわゆる自然体だった。
「やや? あれは……」
耕太は桐山のやや後ろに、知ってる人物を見かけた。
祈るかたちに腕を組みあわせて、彼女は心配そうに桐山を見守っていた。そのおかっぱ頭の少女も、耕太たちに気づく。
「お、小山田くん? ちずるさん、も?」
小柄な……耕太よりもかなり小さな背丈の彼女が、その大きな、若干たれ気味のうるんだ眼《め》を、すがるように向けてきた。
「た、助けて、助けてください! 桐山《きりやま》くんが……」
「澪《みお》、だまれ! そいつらの助けなんかいらない! とくにバカたゆらは、いらない!」
桐山は、振りむかずに怒鳴った。
「おれだっておまえを助けてやろうなんて、そんなボランティア精神はかけらもねーよ。安心してやられちまえ、バカ山」
「がーっ! たゆら、やっぱりオマエ、ムカツク! いつかコロス!」
背を向けたままで、桐山はぶんぶんと両手を振りまわした。けけけ、とたゆらが笑う。
おかっぱ頭の少女は、ああ……と唇をきゅっと噛《か》んだ。
彼女は|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》。
小学生みたいな体格だが、れっきとした高校二年生だ。澪も妖怪《ようかい》で、くわしいことは耕太にもよくわからないが、いつも桐山と一緒にいる。
その正体は、かえるっ娘《こ》なそうな……けろりん。
「……強えな、あいつ」
たゆらがぼそりと呟《つぶや》いた。視線は桐山の向こう、銀髪の男へと注がれている。
「え」
「桐山、ちらともこっちを見なかった。余裕がねーんだ。視線を一瞬でも外せば、やられちまうほどに」
「そりゃそうでしょうよ」
ちずるだ。彼女はずっと耕太の腕に抱きついていた。
「あいつ相手じゃあ、たとえ熊田《くまだ》だって……」
「ちずるさん……? もしかして、あの人のこと、知ってるんですか?」
「耕太くんこそ、どうしてあいつを知ってるの? あのワン公のこと」
「ワ、ワン公?」
そのとき、桐山が動いた。
「りゃーっ!」
銀髪の男に飛びかかってゆく。
そのまま攻撃するのかと思いきや、男に届くすこし手前に降りた。いきおいは殺さず、低く、地を這《は》うようにして男の足元へと潜りこむ。
体をねじって、下から腕を振りあげた。
ひゅん、と斜め上に向かって腕が伸ばされる。その指先はぴしっとそろって、手刀のかたちになっていた。
――にやり。
銀髪の男は口元を曲げていた。ふわりと、ゴーグルにかかっていた前髪が浮く。どうやら男は桐山《きりやま》の攻撃をかわしたようだ。
桐山の動きは止まらない。
「りゃっ、りゃっ、りゃっ、りゃっ、りゃーっ!」
続けざまに攻撃を繰りだす。耕太の目にはもはや映らないほどの素早い動きだった――が、男から、余裕の笑みを消すことはできない。
「ど、どうなってるの?」
耕太には、銀髪の男がただ立っているようにしか見えなかった。わずかに前に出たり、また後ろにさがったりと、なにやら奇妙な動きをしているみたいだが、それもひどくゆっくりとだ。とても激しい攻めをかわせるとは思えない。
だが現実に、桐山の攻撃はひとつも当たってはいなかった。
「これだ。これがさっきの変な動きだ。なーんだか奇妙な……なんだありゃ?」
たゆらは遠くを見るように、両眼のすぐ上に手のひらを当て、じっと凝視していた。
「――たしか、剣術の動きだったかな」
ちずるがぼそりと答えた。
「なんとか流って剣術の、奥義だか奥伝だか……えっと、『逃げ水』とかいったかな? 足運びに秘訣《ひけつ》があったと思った」
「ちずるさん……?」
「おいおい、なんで知ってるんだよ、そんなこと」
「あのワン公とはちょっとした縁があってね……。たゆらも覚えてないかな? たしか昔むかーし、おまえもあの男とは会ったことがあるはずよ」
「おれが? あの銀髪と?」
耕太は、自分の腕に抱きついているちずるの横顔を見つめた。
なぜか……不安な気持ちになってくる。もくもくと胸のうちにわきあがってくる、赤黒い雲……なんだ、これ?
「お」
と、ちずるが唇を開く。あわてて耕太は視線を桐山たちに戻した。
「うう……へ、ヘンなワザ使う、ズルイ……」
桐山は男から離れて、がくりとうなだれていた。肩で息をしている。
「んがーっ!」
がばっと身を起こした。
とたんに桐山のまわりに落ちていた枯れ葉が、かさかさと震えだす。やがて風に吹かれたように、ざざざ、と動きだした。
「――ほう?」
銀髪の男が、ゴーグルの下から覗《のぞ》く口元を、楽しげに曲げた。
桐山のまわりに吹きだした風は、どんどんとそのいきおいを強めている。舞いあがった枯れ葉は、桐山《きりやま》を中心としてぐるぐると回っていた。
「こ、これって、まずいんじゃあ」
耕太は呟《つぶや》いた。
桐山は風使い、かまいたちの化身だ。
いま彼を包んでいる風の輪は、やがて小さな竜巻にまで育つ。そこから放たれる風の刃《やいば》は、建物の鉄骨すらもまっぷたつにする威力があった。
でも――。
「桐山くん! だめえ!」
澪《みお》が悲痛な叫びをあげた。
そう、妖怪《ようかい》はその正体を、人間に知られてはならないのだ。そうなれば、そもそも不良妖怪である彼らは、この学校から追放され、妖怪用の刑務所へと送られる。
これだけの野次馬の前で、竜巻なんか作った日には、もう。
「ねえ、小山田くん。あれってなんか、ちょっと変じゃない? どうして……」
案の定、普通の人間であるあかねが、レンズの向こうの眼《め》をじーっと細めている。まずい。非常にまずい。このままいくと……。
「あーあ、どーしよーもねーなー、あのバカは」
たゆらは頭をがしがしとかきながら、桐山に向かって歩きだした。
「へーえ……源《みなもと》」
あかねが感心した声をあげた。たゆらの歩みは止まる。
「……なんだよ、朝比奈《あさひな》」
「なんだかんだ口ではいいつつ、ちゃんと桐山先輩に加勢してあげるんだ? いつもいつもケンカばかりしている相手なのに……きみもいいところ、あるじゃない」
「いや、あのな」
「でもケンカはだめよ! もう、八束《やつか》先生はどうしたのかな……源、風紀の守護者として、わたしになりかわり、彼らのケンカを止《や》めさせなさい!」
「いわれなくてもそのつもりだけどさ、あのな、委員長、いいか? 風紀の守護者って」
うんうん、と耕太の横ではちずるがうなずいていた。
「さすがはわたしの弟、正義の味方。ほらほら、早くしないと手遅れになっちゃうぞ」
続けて澪が深々と頭をさげる。
「お、お、お願いします、たゆらくん! いえ、た、たゆらさん!」
たゆらはたちつくした。指先をわきわきと動かす。
「ちょ、ちょっとまてよ。おれをそんな、いいひとみたいな目で見るなよ……おい、耕太! こういうのは本来おまえの役目だろーがっ! おまえが助けろ!」
ずびしっ、と指さされた。でも……ちらりとちずるを見る。
「ぼくはひとりだけじゃあ……。ごめんね、たゆらくん。せめて応援するから」
「それでもテメーは学校最強|(《かっこ》 仮《かり》| ) 《かっことじる》――の男か!」
「――心配する必要はない」
低い声――銀髪の、ゴーグル姿の男だった。
「おれはこのぼうやをどうこうしようなんて、思ってやしない」
男は笑みを浮かべたまま、首を傾《かし》げた。
あの子とよく似たしぐさ……はっと耕太は望《のぞむ》を見る。望は耕太のすぐ横で、かじかじと骨をかじっていた。男を見つめるその銀色の瞳《ひとみ》には、なんの感情も浮かんではいない。
「おれ、ボーヤちがう! おれ、桐山《きりやま》臣《おみ》、一人前の戦士!」
桐山をとりまく風が、そのいきおいを増した。
「ははっ、一人前の戦士なら、考えなしにいきなりケンカをふっかけちゃいけないな。それも、転校したばかりで不安にうち震えている、こんなか弱い青年を」
男は、その長い腕を広げてみせた。そうしてみせると、彼の高い身長と長い銀髪が、革のジャケット、革のパンツ、革のブーツなんていう学校のなかでは異様な風貌《ふうぼう》とあいまって、じつに強い威圧感をかもしだしていた。
「ふざける、やめる! オマエ、ただの転校生なわけない!」
そりゃそうだ、と耕太も思った。
というか、あの人……高校生なの? うそ? 保護者じゃなくて?
「だいたいにして、転校生と名のるやつにろくなやつ、いない!」
「ほう……どうやらぼうやの知ってる転校生は、かなりひどいやつだったらしい」
「おう、サイアクだ!」
「そうか、サイアクか!」
「あんなヒドイヤツ、見たことない!」
「はーっはっは、ヒドイヤツか! そいつはいいことだな!」
妙な盛りあがりを見せるふたりを、桐山の知ってる転校生、耕太は複雑な思いで眺めた。
「……うう」
「こらーっ! なにがサイアクよ! サイコーでしょ、耕太くんは!」
ちずるが拳《こぶし》を振りあげる。
「ま、しかたねーよな。おまえが桐山たちの大将、熊田《くまだ》を負かしたのは違いねーし」
「熊田さんを? それってどういうこと?」
たゆらの言葉に、あかねが目つきを鋭くした。眼鏡の位置をくいっと直す。
「そういえばうやむやになったままだったのよね……一ヶ月前、学校の屋上で、いったいなにがあったのよ!」
「もういーだろ、それはよー。細かいこと気にしてると、スタイルよくならねーぞ」
「う、うるさい! わたしはスタイルより、真実を求める!」
どうにかごまかそうとするたゆらと、追及を止《や》めようとしないあかね、ひたすら抗議しているちずるを、耕太は、はは……と苦笑いしながら見つめた。
あれ……?
銀髪の男も、こちらを見て笑みを浮かべていることに気づいた。
そういえば、と耕太は思いだす。彼はちずるの知りあいであり、そして……。耕太は横で骨をくわえてる望《のぞむ》を見る。彼女の知りあいでもあるのだ。
いったい、あの人は……?
「おい! どこ見てる、オマエ! おれとのショーブのサイチュー!」
桐山《きりやま》が両肩をつんと上げて、怒らした。まだ桐山のまわりを吹く風は止《や》んでいない。
「うーん……というかな、もうよさないか? ぼうやとおれがやりあう理由はべつにないだろう? はやくあいさつしたいやつがいるんだよ」
「ふざける……コロス!」
桐山の風が一段といきおいを増した。吹きすさぶ風に、耕太の前髪までが揺れる。
「ちっ、あのバカ!」
舌打ちして、たゆらが飛びだす。
「――兄姉《きょうだい》に笑われるぞ、桐山《きりやま》臣《おみ》」
「ぬ!?」
銀髪の男の言葉に、桐山の風が、一瞬、止んだ。
「な、なぜオマエ、おれのキョーダイのこと、知ってる!?」
「さあて、なぜだろうな? 知りたかったら、ここはおとなしくしてることだ」
「ぬ、ぬ、ぬ……だったら――力ずく!」
突如、風が狂った。
いきなりの突風に、耕太は倒れそうになる。腕を抱いていたちずると、となりからの支えのおかげで、どうにか持ちこたえることができた。まわりの野次馬たちから悲鳴があがる。いったいどうなっているのか、知りたくてもとても顔すら上げてられなかった。
「話せ、あのバカキョーダイのこと!」
「桐山くーん!」
「のはーっ! バカいたちー! バカバカー!」
桐山と澪《みお》とたゆらの悲鳴のすきまに、耕太は銀髪の男の声を聞いた。
「これもいい機会かな――ちゃんとおれの動きを見てろよ、小山田耕太!」
え?
強風のなか、耕太は強引に顔を上げ、薄目を開く。
竜巻に、黒い影が飛びこむのが見えた。
とたんに竜巻は砕ける。
急速に弱まる風のなかで、桐山の体はくの字になっていた。一条の矢と化した銀髪の男が、桐山にその拳《こぶし》を突きたて、足を宙に浮かしていた。
「おイタはいけないな、ぼうや」
「う……うう……」
桐山の顔は苦しみにゆがんでいた。ああ、と倒れていた澪《みお》が、顔を手で覆う。まわりを見ると、桐山《きりやま》の引きおこした風によって、野次馬の生徒たちはのきなみ倒れていた。いたた……と顔をしかめている。たゆらはどこに吹き飛ばされたものか、姿が見えない。
「うう……う……うー!」
くわっ、と桐山が眼《め》を見開いた。
腕を横に一閃《いっせん》させる。桐山の最後の攻撃は、しかし、銀髪の男がひょいっと首をすくめるだけで、あっさりとかわされてしまった。
桐山の腕から放たれた空気の刃《やいば》が、男の後ろへと抜け――ぐるりと弧を描いて、耕太たちのほうへと向かってくる。
うわあお。
耕太は、腕に抱きついていたちずるを思いきり引っぱりながら、横にいた――さっき、突風のときに耕太を支えてくれた相手、望《のぞむ》を押し倒す。
「や」
「きゃ」
風切り音が、耕太の頭上を通りすぎていった。遠のいてゆく。
「あ、あぶなかった……」
耕太は体を起こそうとして、背中の重みと、手のひらの下のふにゅ、という感覚に気づいた。
……ふにゅ?
「耕太……」
下には望《のぞむ》があおむけになっていた。か細い声に目を向けると、耕太の手が、望のつつしみ深い胸を、思いっきりつぶしていた。
「痛い……よ」
「ご、ごめんなさい!」
あわてて手を外す。その手を後ろからつかまれた。
「え?」
ぐいと持っていかれ、耕太は体ごと後ろを向かされた。
「ええ?」
後ろにはすねた顔のちずるが、膝《ひざ》立ちの姿勢でいた。ちずるはつかんでいた耕太の手を、彼女の元気のいい胸へと、思いきりめりこませる。うにょん。
「えええ!」
「おっぱい大好き耕太くん? こっちのほうが豊かですよー? ほらほら!」
「――待って」
またもや後ろから、耕太は抱きつかれた。
ぐいと引きよせられ、ちずるごと耕太は背中から後ろに倒れる。わ。きゃっ。しなやかな肉体にしっかりと受けとめられた。
「耕太、いまわたしのこと、助けてくれたんだよね?」
望が後ろから、耕太の耳元にささやいてくる。熱い息が吹きかかった。
「これで二度目だね……」
「ちょ、ちょっと、あなた。耕太くんになにを」
「だから、いいよ」
「なにが? ねえ、なにが?」
かわりに問いかけているのはちずるだ。
「耕太は、おっぱいが好きなんだよね? だから、望の触ってもいいよ。これはお礼……」
すっ……と静かに背中に押し当ててくる。ちずると違ってじつに控えめだったが、胸は胸、その存在に貴賎《きせん》はなかった。
「あわわわわ、え、犹守《えぞもり》さん?」
「ふざけないでよ、この、ドロボウネコっ!」
「だからわたし、オオカミだよ。犹守《えぞもり》望《のぞむ》だよ」
ちずるが耕太ごしに、下の望に襲いかかろうとする。ぐいぐい体を前にのめらせているため、そのご立派なおっぱいが、ふにょふにゃと耕太の顔面に乗りあげていた。
うあうあうあ。
なぜか耕太はなぞなぞを思いうかべていた。
上は洪水、下は山火事、これなーんだ。答え、お風呂《ふろ》。
上はおっぱい、下もおっぱい、これなーんだ。答え、ちずると望のサンドイッチ、本日二度目のコウタサンド。あは、あは、あはは……。
じゃり、と足音が鳴った。
「た、たゆらくん?」
我に返った耕太は、助けを求めるように、ふたつのおっぱいのあいだから顔を出す。
「いよう」
そこにいたのは、銀髪でゴーグルをかけた、長身の男だった。
「ずいぶんともてもてだな、少年?」
逆光のなか、にたりと口の端を上げる。
「あ、あの……」
「おまえ、こんなところでなにやってんのよ、朔《さく》!」
「兄《あに》さま」
ちずると望《のぞむ》が、同時に言葉を発した。
んん? とちずるが下を向く。耕太ごしに望を見た。
「あ、兄さま? こいつ、あなたの兄なの? 親じゃなく?」
もっともな意見だと、耕太も思った。どうにも彼は、学生というには威圧感がありすぎるというか、殺伐としすぎているというか。
――そんなことより。
「ちずるさん? さっき、この人の名前……」
「朔よ。こいつの名前は犹守《えぞもり》朔《さく》。というかおまえ、この子と年齢差いくつだと思ってんの? 兄さまだって……ずうずうしい!」
「おまえとたゆらのぼうやだって似たようなもんじゃないか。おれのこといえるかよ」
「うるさい。乙女は年をとらないのよ。そんなことより、その眼鏡とりなさいよ。はやくしょぼくれたワン公の顔、見せなさい!」
「おれのことをワン公呼ばわりするやつなんか、おまえぐらいだよ、ちずる……。あとこれは、ゴーグルっていってくれないか? 眼鏡はないだろう、眼鏡は」
銀髪の男、朔はゴーグルを外し、指に引っかけてくるりと回した。
鋭い、切れ長の眼《め》があらわになる。その瞳《ひとみ》の色は、髪の毛とおなじく、また望とおなじく、鈍い銀色だった。
思ったよりもおだやかな瞳を、朔は耕太に向ける。
「昔からこいつはこんなやつなんだ。おまえさんも苦労してるんじゃないか、小山田耕太くん?」
「あ……」
「――朔」
ちずるの声は、さっきまでとはうってかわって、冷たかった。
「どうして耕太くんの名前を知っている?」
「べつに。昨日ちょっと、望が世話になってな。それでだよ」
……違う。
耕太は体を固くする。望《のぞむ》は、最初から、まだこちらから名のる前から、耕太の名前を知っていた。
ちずるが、そんな耕太をちらりと見た。
「嘘《うそ》ね。朔《さく》、おまえは嘘をついてる」
「ふうん? 耕太くんはなにもいってないじゃないか?」
楽しそうに、朔は片方の眉《まゆ》を持ちあげた。
「言葉なんかなくったって、お互いわかりあってるのよ、わたしたちは」
「わかりあってる、ねえ……そいつはそいつは」
腰に手を当てた朔が、くっくっく……と低く笑って、肩を震わせた。
「なにがおかしいのよ。そもそもおまえ、なんでこんなとこにいるの。この妹とかいうドロボウネコ……ドロボウオオカミはなによ。なにを企《たくら》んでいる、朔!」
「転校してきたっていっただろう。学校に来てすることといったら、お勉強に決まってるじゃないか。望の恋愛に関しては、おれは知らん。兄の出る幕じゃなかろう?」
「恋……愛……ですって!」
朔の言葉を肯定するように、背中の望が、きゅっと耕太に抱きついた。
「ちょっと、朔!」
ちずるが起きあがり、朔に手を伸ばす。
「――けが人はいない!? そっちはどう!」
あかねの声が飛んだ。
見ると、髪の毛ぼさぼさ、制服よれよれのあかねが、ようやく衝撃から立ち直った生徒たちに向かって、指示を出していた。
「……ホント、元気だよなあ、委員長はよ」
のそりとたゆらが顔を覗《のぞ》かせた。
「たゆらくん! 無事だったの?」
「朝比奈《あさひな》助けたり、なんだりでよ……桐山《きりやま》もな。ほれ」
立てた親指を横に向ける。桐山は校門の門柱のところに横たわっていた。かたわらには澪《みお》がしゃがみこみ、ハンカチで桐山の顔をぱたぱたとあおいでいる。
「あいにくと、まだ死んじゃいないみてーだが……な」
たゆらは朔に鋭い視線を向ける。両者ともに背が高いため、下から見あげた耕太にとっては迫力満点だ。
「よう、あんた、ちずるの知りあいなんだって?」
「おまえとも会ってるな。何十年前だったか……まだおまえがこんなだったころだ」
と、朔は腰のあたりで手を水平に動かす。
「ずいぶんと大きくなったじゃないか、たゆら」
「そんなこと、ちっとも覚えちゃいねーな。んで? 具体的に、ちずるとはどんな関係だったんだよ、あんた」
「そりゃあ、まあ……」
ちら、と耕太を見た。続けてちずるに向かってにやりと笑う。
「彼の前では……なあ? ちずる?」
「なにを意味深なこといってんのよ! おまえとはただのパートナーだったでしょーが!」
「パートナー……?」
耕太は呟《つぶや》いた。自分でも思いもよらないほど、力のない声になってしまった。
「あ」
ちずるがあわてた様子で手をぶんぶんと振る。
「違う、違うのよ、耕太くん。そういう、恋人とかじゃなくて……」
「恋人……?」
「ああ! だから、違うったら! ただの相棒よ、相棒!」
「相棒……?」
「耕太くーん! しっかりしてえ!」
ふ……っと朔《さく》が笑う。
「いくそ、望《のぞむ》。転校の手続きとやら、しなければならない」
耕太の下から、もぞもぞと望が這《は》いだした。ぱっぱっと制服の土ぼこりを払う。
「じゃ、またね、耕太」
ばい、と手を振った。
「ばい……?」
「もう、耕太くんったらあ!」
がくがくと振られ、ようやく耕太は我を取り戻した。
「あ……」
すでに朔と望は校舎に向かって歩いていた。まわりの生徒はでこぼこな彼らを、遠巻きにしている。
朔の、革のライダースジャケットの背中には、なにやら獣のマークが描かれていた。
牙《きば》を剥《む》いた獣だ。その獣の顔に、男の長い銀の襟足がかかっている。
――狼《おおかみ》、かな。
気づいたとたん、耕太の背中にぞくっと寒気が走った。
「耕太くん?」
ちずるが心配そうに覗《のぞ》きこんでくる。
「ライバル登場だな」
たゆらも朔の背に、鋭い視線を向けていた。
「な、なにいってるのよ、たゆら。わたしとあいつはそんなんじゃ」
「――うん」
耕太はうなずいた。ちずるが眼《め》を丸くする。なにかいおうと口を開いた。
t「ちずる、おまえもだろ」
こんどは耕太があわてる番だった。
「ちょ、ちょっと、ぼくと犹守《えぞもり》さんはそんなんじゃ」
「――うん」
「ちずるさん!?」
「やれやれ、ね」
あかねがやってきた。すでにまわりに生徒はほとんどいない。
「よう。委員長さまは、大変だーね」
「まったく、いまの風はなんだったのかしら……。まさか源《みなもと》、きみのしわざじゃないでしょーね!」
「悪いことはぜんぶおれか!」
「まったく、もう……」
あかねは遠ざかる犹守兄妹を一瞥《いちべつ》した。続けて、耕太をじとっと見つめているちずるに視線をやる。最後に、耕太に向かってため息をついた。
「な、なんですか?」
「また女性問題で苦労するわけだ、小山田くんは……。本当に好きね、きみも」
耕太には返す言葉がなかった。これっぽっちも。
3
校門での騒動を終えたわずか三分後。
朝のホームルームも近いこのとき、耕太とちずるは、教室ではなく、職員室にいた。
「――転校生、犹守《えぞもり》朔《さく》のこと、教えて」
ちずるはふたりの教師を静かに問いつめていた。
「ち、ちずるさん」
耕太はちずるの後ろから、彼女の上着の袖《そで》をくいくいと引っぱる。
縦長に広い職員室には、まだ多くの教師が残っていた。彼らの注目が、室内にただふたりだけいる自分たちに集まっているのを、耕太は肌で感じていた。
「……なんだと?」
ちずるに話しかけられたふたりの教師のうちひとり、黒いスーツ姿の男が、鋭い三角形の眼《め》をさらに鋭くさせた。白髪混じりの髪を後ろになでつけているため、剥《む》きだしになっていたおでこに、深い皺《しわ》が刻まれる。
「今朝の騒ぎのことはもう知ってるんでしょう? あいつとわたしの関係も」
「……ふむ」
彼の名は八束《やつか》といった。
表向きは生徒指導を担当している先生だ。いま八束《やつか》が座っている机には、それを示すように彼愛用の竹刀が立てかけられていた。持ち手の部分が黒ずんだ、年季の入ったものだ。
「ねえ、あいつの、犹守《えぞもり》朔《さく》の資料、あるんでしょう? 見せて」
「阿呆《あほう》。個人の情報を他人に教えられるか。部外秘だ」
「そんなこといってる場合じゃないのよ! あいつは、耕太くんのこと……」
「あらー、源《みなもと》さん、ずいぶんとゴキゲン斜めなのねー?」
椅子《いす》に腰掛ける八束の横には、もうひとりの教師が立っていた。
紺色のスーツに身を包み、丸い眼鏡をかけた女性だ。レンズごしに、にこにこと眼《め》を細めているのがわかった。彼女は豊かな髪を束ねて、ふた房の太い三つ編みをたらしていた。うちひと房、前へと下りてきている毛先に、指先で触れる。ぴん、と弾《はじ》いた。
「あのね、砂原《さはら》、冗談につきあってる余裕は……」
女性教師は、なおもいいつのろうとするちずるの唇に、人さし指を当てた。
「だめよー、源さん。なにがだめって……」
さりげなく視線をまわりに向けた。
――いまだほかの教師たちでざわめく職員室内へと。
「わかるかしらー? ねえ、小山田くん、あなたもそう思うでしょう?」
あくまでにこにこと、しかし有無をいわせない表情で、彼女は耕太にも同意を求めてきた。ねー、ねー、ねー? と迫ってくる。
「あ……はい」
彼女の名は砂原《さはら》幾《いく》。
社会科の教師であり、耕太のクラスの担任でもあった。おだやかなかわいい顔つきで、また言葉づかいもこのとおりのんびりとしていたが、その正体は八束とおなじく、不良|妖怪《ようかい》たちの監視官だった。
一般の生徒が妖怪の存在を知らないのと同様、教師も一部しか、薫風《くんぷう》高校の裏の役割――ここが不良妖怪の更生施設であることを、知らない。みなの前で妖怪の存在について語ろうとするちずるをたしなめるのも、当然のことだった。
「犹守朔……あいつは耕太くんの名を知っていたのよ」
ちずるの言葉に、砂原と八束が一瞬、視線を交わした。
「あいつはわたしたちとおんなじなんかじゃない! きっとなにか企《たくら》んで……」
「いいかげんにしろ、源!」
八束が椅子を鳴らして立ちあがった。竹刀をひっつかむ。
「まったく聞きわけのない……前々からおまえはそうだ。なんどいっても校内の風紀を乱して、顧みることがない! なんだと? 転校生がいい男だから情報を教えろだと? ふざけるな! 小山田、おまえもおまえだ。彼氏なら彼氏らしく、女の浮気は止めんか!」
「ちょっと、八束、あなた……!」
「黙れ」
びし、と竹刀の先をちずるの鼻先に突きつけた。
「いい機会だ……きさまのピンク色の脳みそをびっちりと矯正してくれる。生徒指導室に来い! 小山田、おまえもだ!」
生徒指導室、と表に書かれた部屋へと入った。
先頭は肩をぷりぷりに怒らせたちずる、その後ろをそろそろと耕太、最後に竹刀を持った八束《やつか》が続く。
室内は狭い。部屋の真ん中に机がひとつ、その机で向かいあうように椅子《いす》がふたつ置かれ、あとはなにもなかった。窓にはカーテンが引かれてある。耕太は、テレビドラマなどでよく見る、警察の取調室を連想した。
背後でドアが閉まる。金属製のぶ厚い扉が、重々しい音をたてた。
「――で? 犹守《えぞもり》朔《さく》がどうしたんだ」
静まりかえった部屋に、八束の声が響いた。
「いったでしょう? 耕太くんのこと、あいつは知ってたのよ」
ちずるは椅子を引き、勝手に腰掛ける。もう一脚を耕太に勧めた。
「おまえが話したのではないのか、源《みなもと》? 犹守朔とおまえはかつて一緒に組んでいた。昔の仲間に、いつもの調子でのろけたのではないのか」
「ふざけないで。あいつとは、そう……わたしがたゆらを弟にしたあたりだから、もう五十年近く会ってないんだから。今日ひさしぶりに顔を見たのよ。もちろん、耕太くんのことなんかひとことたりとも話しちゃいない」
ふむ、と八束は三角形の眼《め》――三白眼を細めた。
「それだけじゃない……耕太くん、昨日のこと、話して」
「う、うん」
ちずるに椅子を勧められたはいいものの、八束が立っているのに自分が座るわけにもいかない……ともじもじしていた耕太は、少しほっとしながら、昨日、望《のぞむ》と出会ってからのことを説明した。スペアリブ間接キッスの件はないしょにして、立ったままで。
八束は竹刀で床をこつこつとつつきながら、黙って聞いた。
「つまり小山田、犹守朔の妹である犹守《えぞもり》望《のぞむ》が、なぜかおまえのことを知っていたというんだな。面識はまったくなかったのに」
「はい」
「なるほど……そいつは妙だな」
「でしょ、でしょ、でしょ? あいつらが耕太くんのこと知ってる理由がないじゃない」
「かつての仲間である、源、おまえのいまの恋人を調べたのかもしれない……いや、それでは計算があわんな。犹守|兄妹《きょうだい》がここ、薫風《くんぷう》高校に送られてきたということは、つまりやつらは不良|妖怪《ようかい》で、我らに捕らえられたということだ。捕らえてすぐにここに入学させるわけではない……源《みなもと》、おまえもよく知ってのとおり、二、三ヶ月は素行や適性を調べなくてはならないからな」
あー、とちずるが顔をしかめた。
「くっだらないテスト、何回も受けさせられた」
「阿呆。人の世界で暮らすのだ、妖怪《ようかい》のおまえらはともかく、一般の生徒に被害が及んではならん。検査に念を入れるのは当たり前だろう」
「それはともかく――そうね、テストに二ヶ月としても、わたしと耕太くんが出会ったのは一ヶ月前だし」
「ああ。どう検査期間を少なく見積もったとしても、小山田が源の恋人になったのはそのあいだだ。やつらに小山田の存在を知ることなぞできるはずもない。犹守兄妹《えぞもりきょうだい》は囚人、まさに囚《とら》われの身だったはずなのだからな」
「だけどあいつらは知っていた……それはどうして?」
「そんなこと、おれにわかるわけがないだろう」
八束《やつか》は肩をすくめた。
「役立たず! だったら四の五のいわずに、あいつらの資料、見せなさいよ!」
「阿呆。おまえだって本来ならば囚人なのだぞ。囚人に収容所の資料を見せる監視官がどこにおるか」
「けち! このデコッパチ! いや、デコッけち!」
白髪がメッシュのようになった髪をオールバックにしているため、おでこが剥《む》きだしな八束が、ちずるをじろりと睨《にら》んだ。続けてその視線を耕太に向ける。
「小山田……」
「は、はい!」
「おまえもこの阿呆|狐《きつね》の恋人なら、たまには叱《しか》ってやったらどうだ。ここに源がいるのは、人間社会で生きる術《すべ》を学ぶためなのだぞ。このまま目上のものに対する口の利きかたすら覚えられないようでは、卒業どころか進級すら及ばんぞ。いいのか、それでも」
「え」
「べつにいいもーん。わたしは一年留年して、耕太くんとおなじクラスになるの」
「ド阿呆。このままなら永遠に留年、そのうち刑務所に突っ返すことになるといってるんだ。小山田、あえて嫌われ役をやるのも愛のひとつだぞ。いつまでも尻《しり》にばかり敷かれてないでな」
「敷かれているのは尻といいますか……乳……」
「なに?」
「い、いえ、なんでも」
ごまかしながら、耕太はそういえば、あかねからも似たようなことをいわれたな、と思いだしていた。源さんは小山田くんのいうことしか聞かない……昨日、肉屋のおじさんにもいわれた。彼氏ならビシッと叱ってやらなくちゃ……。耕太はちらっとちずるを見た。
ただひとり椅子《いす》に座っていたちずるが、にこりとほほえみ返す。
「お説教してくれるの? 耕太くんならいいよ、そういうプレイでも」
「どんなプレイですか、それって……」
だめだ、と耕太は思った。
なにをやってもこのひとは快楽に結びつける!
「いいかげんにせんか、大|阿呆《あほう》ども。まったく、どうにもならん!」
「あ、ぼくまで阿呆と呼ばれた」
「わあ、耕太くんと一緒だあ」
きゃっきゃとはしゃぐちずるを、八束《やつか》は苦々しい眼《め》で見つめた。
「たわけたことをぬかすのはそこまでにしておけ。そんなに犹守《えぞもり》朔《さく》のことを知りたいのなら……いっそ本人に直接|訊《き》いてみたらどうだ。昔の仲間なのだろう?」
「訊いて素直に教えるような相手なら、こんなところに来てるもんですか」
ちずるは机に頬杖《ほおづえ》をついた。顔をしかめる。
「なるほど……おまえとおなじくひねくれものというわけか」
「おなじなんかじゃないっ! 白を黒、黒を白というようなやつと一緒にしないで!」
「ますますそっくりじゃないか。しかし、ふむ……おまえのようなやつが二匹となると、ますます校内の風紀が乱れることになるな。まったく頭の痛い話だ」
八束は顎《あご》に手を当て、唇をへの字にした。
「こんの三角マナコ……!」
「あのー」
おそるおそる手を挙げた耕太に、ふたりの視線が集まった。耕太はびくつく。
「え、えと、その……犹守さんたちって、やっぱり、妖怪《ようかい》……なんですよね」
「そうよ。ワン公、あいつは犬の妖怪よ」
わんわん、と吠《ほ》えてみせたちずるを、八束が睨《にら》む。
「平気な顔で嘘《うそ》をつくな。犹守|兄妹《きょうだい》はどちらも狼《おおかみ》の妖怪、人狼《じんろう》だ」
「似たようなもんでしょーが」
「おい、そういうのを白を黒、黒を白というんじゃないのか」
「――まったくだ」
その声は、いきなりドアが開くのと同時に入りこんできた。
「人をワン公呼ばわりしてみたり、ひねくれもの呼ばわりしてみたり……転入早々、ずいぶんとひどいいわれようじゃないか」
姿を見せたのは、銀髪の男――犹守朔だった。
足音を鳴らして部屋のなかに入ってくる。足音? と耕太が朔の足元を見ると、彼は革のブーツを履いたままでいた。
ど、土足……。眼を丸くする耕太の視界に、続けて、痩《や》せた銀髪の少女があらわれた。望《のぞむ》はちゃんと真新しい内履きだったので、耕太はほっとする。
だだん、と生徒指導室の扉は閉まった。
「……盗み聞きしていたのか、きさま」
八束《やつか》は静かな動作で、竹刀を自分の腰元に添えた。まるで侍が、腰に下げた刀をいつでも抜き打ちにできるような姿勢となる。
耕太は息苦しくなってきた。
狭い部屋に五人もいるから――だけではない。殺気ともいえる緊張感に満ちた雰囲気のせいで、なにやら空気が濃く感じられていた。
ふっ……と朔《さく》が唇をゆるやかに曲げる。
「人聞きの悪いことを――いや、獣聞きかな? ともかく、そんなことはいわんでもらいたい。ちょっとばかり迷ってね、なんといっても今日が初めてなんだし――ようやく職員室にたどりついて、いざ転入の手続きをしようと思ったら、なんと担当者が不在だっていうじゃないか。しかたなしに匂《にお》いをたどったら、こんなところまで来てしまったというわけで……生徒指導室なんてあったら、とりあえずなかの様子を探るのが普通だろう? だってなかでまさに指導の真っ最中かもしれないんだしな。そういったわけで……」
「ああ、わかった、わかった」
八束が手をぱたぱたと振った。ちずるを横目で見る。
「なるほど、おまえそっくりだ」
「どーゆー意味よ!」
はーっはっはっは、と似たもの扱いされた朔が高笑いをあげた。
「笑ってるな、バカ犬!」
ちずるは立ちあがった。椅子《いす》が後ろに転がる。
「わたしはもう、嘘《うそ》なんかつかないの! あのとき以来、耕太くんには隠しごとしないって決めたんだから!」
「嘘ならさっきついたばかりだろうが」
八束のつっこみも無視して、ちずるはむん、と決意の握り拳《こぶし》を作っている。
あのとき以来――。
耕太は、かつて自分がちずるに嘘をつかれて、それが原因で彼女を心の奥底で信じられなくなっていたことを思いだした。覚えていてくれたんだ……と、とてもうれしく、少し恥ずかしくなって、きゅっと唇を噛《か》む。
「そんなことよりも、朔!」
ちずるが指先を突きつけた。朔は軽くのけぞる。
「どうして耕太くんのことを知っていた! なにを企《たくら》んでる! ちゃきちゃきっと答えなさい! じゃないと焼くそ!」
「おまえの狐火《きつねび》か……懐かしいな。あのどぎつい焼かれ心地、ひさしぶりに味わってみたい気もするが」
「へえ……。ご期待に応《こた》えてあげましょうか?」
風もないのに、ざわり、とちずるの髪がなびいた。
「おっと。いまは望《のぞむ》もいることだし、遠慮しておくとしよう」
「冗談につきあっていられる精神状態じゃないのよね、いまのわたし」
「わかったわかった。しかし変わったな、ちずる。女は男で変わるという……彼に変えられたのかい、そこのぼうや、小山田耕太くんに」
けわしくつりあがっていたちずるの目尻《めじり》が、とたんに、はにゃーんとたれた。
はっと眼《め》を見開き、ぶるぶると首を振る。
「ご、ごまかされるもんか! おい朔《さく》!」
「いまのでごまかされそうになるか……本気なんだな、ぼうやに」
ちずるは、う、うん、としおらしくうなずいた。あ、と口を開ける。
「ま、また……。うー、耕太くんネタは卑怯《ひきょう》よ!」
「まあ、文字どおり一心同体になったんだ。本気に決まってる……か」
にたりと朔は笑みを浮かべる。
『一心同体』の言葉に、ちずる、八束《やつか》、耕太は素早く視線を交わした。一心同体……過去にちずるが耕太にとり憑《つ》いたことを、彼は知っている[#「彼は知っている」に傍点]!
「朔、おまえ、どうしてそのことを……」
「うん? カマかけてみたんだが、当たったか? 残念だな、望。おまえのお気に入りの耕太くんは、もうちずるとえっちしちゃってるみたいだぞ」
ひっく、と耕太はしゃっくりをして、ちずるはふにゃっ、と奇妙な声をあげた。八束までがぶふっ、と鼻から息を吐きだす。
――そ、そっちの意味か!
「……べつにいいよ。わたし、そういうの平気」
「な、なにが平気なのよっ!」
ちずるは、奪われてなるか、といわんばかりのいきおいで耕太を抱きしめた。望は黙ってじーっと見つめている。
顔半分をおっぱいに埋《うず》めた姿勢で、耕太はみじろぎした。み、見ないで……。
「こちら、転入の書類です」
朔が八束に茶封筒を手渡した。
うー、と望にうなっているちずると、その胸でもじもじしていた耕太を見おろす。
「まあ、昔のよしみだ。企《たくら》みというほどでもないが……おれの目的を教えておこうか」
ん? とちずるが背の高い朔の顔を見あげた。耕太も頬《ほお》でおっぱいを押し返しながら見あげる。ふやん。
「そ、そうだった。おまえの企みを訊《き》くんだった……な、なによ、おまえの目的って」
「ここの――薫風《くんぷう》高校の破壊さ」
な、とちずるが口を大きく開けた。茶封筒の中身をぺらぺらめくっていた八束も、その手を止める。耕太といえば、破壊、といった瞬間、ちらとだけ自分に注がれた朔《さく》の冷たい銀色の瞳《ひとみ》に固まっていた。
なんだろ、いまの? どういう意味が……。
「ふ、ふざけたことぬかしてるんじゃ」
「そんなにふざけてるか? 誇り高き妖怪《ようかい》が、虜囚の憂き目に遭うのみならず、ニンゲンの世界で生きるがために、ニンゲンのガキどもに混じって学ぶなぞ……唾棄《だき》すべき所業だ。こんなところ、存在してはならない。そうは思わんか?」
「……朔《さく》、おまえ、なにをいってるの?」
「もう一度いおうか? 誇り高き妖怪が……」
「そうじゃなくて! おまえ、そんなキャラクターじゃなかったでしょーが!」
「いっただろう、ちずる。女は男で変わるってな。逆に男は女で変わるのさ」
「女って……これ?」
ちずるは銀髪の少女を見た。
「違う、違う。望《のぞむ》はたしかにおれのかわいい妹だが、女ってのは……まあ、それはいい。ともかく、目的は告げたぞ」
「ちょっと、まだ話は終わっていない!」
「――そうじゃそうじゃ、ちと待たんか」
それは、あどけない声色のくせに、妙に老成した口調の声だった。
ドアノブに手をかけていた朔が、振り返る。
「いまのは……ふうん?」
「砂原《さはら》? どこ?」
耕太とちずるはきょろきょろと部屋中を見回す。
「ここじゃここ」
声は八束《やつか》から発せられていた。え? と一同が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せるなかで、八束の背広の胸ポケットが、もごもごと動きだす。
「はろー、じゃ」
にゅ、と胸ポケットから、小さな頭が顔を出した。
おだやかな顔つき、たれた目尻《めじり》……耕太の担任である、砂原先生とおなじ顔をした、しかしサイズはお人形さんな女性が、んしょ、んしょ、とポケットから這《は》い上がっている。
ミニ砂原はするすると八束の肩へと登り、さらに首から耳、頭へとよじ登った。八束は顔をしかめるも、そのままにさせている。
ついにミニ砂原は、八束の白黒オールバックの頭の上に立った。
「待たせたな、みなの衆」
びし、と手であいさつした。腕の下からたもとが伸びている。白い着物姿のようだ。
「……あんたねえ、ずっとそこに入ってたわけ?」
「うむ、話はすべて聞かせてもらった。ところでおぬしら、本当にえっちしおったのか?」
「うるさいな!」
「源《みなもと》、きさま、御方《おかた》さまになんという口の利き方だ!」
ちずる、八束《やつか》、そして八束の頭に乗っかった御方さま、と呼ばれるお人形は、いいあいを始めた。
御方さま、とは、幼いころから砂原《さはら》にとり憑き、半ば同一化している妖怪《ようかい》のことだった。砂使いである彼女は、いま八束の頭で高笑いをあげている女性のような、『砂人形』と呼ばれる、砂で出来た人形を学校中に配置していた。砂人形の眼《め》は御方さまの眼、砂人形の耳は御方さまの耳、らしい。いまの様子を見るに、口も御方さまの口のようだ。
それにしても……と耕太は思う。
まさか八束先生のポケットにまで配置してあるとは。八束先生にプライバシーはあるんだろうか、などと耕太は余計な心配までしてしまう。
「これはこれは。あなたが砂原監視官……のなかにいる、御方さまですか」
朔《さく》が、その高い背をうやうやしく曲げた。
「この体自体はただの依代《よりしろ》じゃがな。しかし、わしのことまで知っておるとはな? 朔というたか、おぬし、本当になにものじゃ」
「ただの狼《おおかみ》、ですよ」
「ただの狼にしては、ちと鼻が利きすぎるような気もするがのー。ま、それはともかく。ここをつぶす、などと聞いて、われらが黙っておると思うのか?」
むん、とミニ砂原は胸を張った。その下の八束も、黙って竹刀を下段に構える。
「ふふ……つぶすといっても、校舎を破壊するとか、まして一般の生徒に手を出すとか、そんな手段をとるつもりはない」
ぬ? と御方《おかた》さまが眉《まゆ》をひそめた。
「じゃあどうするつもりじゃ?」
「学校最強の妖怪《ようかい》を倒す」
「そりゃわしのことじゃが。やる気かの?」
シュッシュとミニ砂原《さはら》はボクサーのように拳《こぶし》を突きだした。八束《やつか》は構えた竹刀を上段に振りかぶる。
「あなたは妖怪は妖怪でも、監視官でしょうが。おれがやるのは生徒側の妖怪ですよ」
「ほ。生徒側ときたか」
「そう。それでこの学校の役割は、すべて終わることとなる」
「学校最強って、熊田《くまだ》のこと……?」
呟《つぶや》きを洩《も》らしたちずるを、朔《さく》がちらりと見る。
「へえ、学校最強のやつは熊田という名前なのか。そいつはいいことを聞いた。ありがとうよ、ちずる」
朔はドアを開いた。すぅ、と廊下から冷たい風が入りこんでくる。
「待て、朔!」
かまわず部屋の外に出ようとした朔の袖《そで》を、小さな手がつかむ。
銀髪の少女――望《のぞむ》だった。
「ん? どうした、望」
「わたしの目的も教えたい」
「目的……?」
朔は静かに望の瞳《ひとみ》を見つめた。やがて、口の端をにやりと曲げる。
「まあ、いいだろう。やってみろ」
望はうなずく。
くるりとちずるのほうを向いた。
「な、なによ」
「兄《あに》さまは、ここを壊すっていった」
「させるもんですかっ!」
叫ぶちずるにはかまわず、望は耕太ににこりとほほえみかけた。
「え」
耕太の鼓動は跳ねあがった。ほとんど表情を変えない相手に、いきなりほほえまれると、こうまで胸に響くものだろうか。
「わたしは……耕太を手に入れる」
すっと抱きついてきた。
ちずるとは違う、触れるか触れないかの、静かな体の寄せかただった。ほのかな髪の香りと、熱い体温が伝わってくる。
ばっ、と耕太はちずるの顔を見る。
あんぐりと口を開けていた。わなわなと震え……わなわなと口を閉じ、また開く。
「さ、さ、さ……」
大きく息を吸った。耕太が、望《のぞむ》が、朔《さく》が、八束《やつか》が御方《おかた》さまが、耳に手をやる。
「させるもんですかーっ!!」
大音声が、びりびりと耕太の肌を震わした。
4
教室はざわめいていた。
教壇では太い三つ編みをした砂原《さはら》先生が、あくまでにこやかな顔で、転入生の紹介をしている。
しかし、席に座る生徒たちの視線は、前には向いていなかった。
前方斜め前、窓側の、耕太の席へと注がれている。
「はーい、みなさん。あたらしいお友達、犹守《えぞもり》望《のぞむ》さんですよ〜。望さん、ご挨拶《あいさつ》して〜」
「犹守望です。よろしく」
簡潔に答えた望は、席に座る耕太に、膝《ひざ》立ちになって横からしがみついていた。
そしてその反対側には――。
「ちゃんとあいさつしなさいよ、こら」
ちずるが、おなじく膝立ちになって、耕太の首に抱きついていた。腕を、望の腕の下に強引にねじこんでいる。両者から挟まれて、本日三度目のコウタサンド状態となった中身の耕太は、眉《まゆ》も眼《め》も口もたれさがった、げんなりした表情だった。
「犹守さんにはお兄さんがいるのよ〜? そのカッコイイお兄さんも一緒に転校してきたの〜。三年生で、背が高い人。顔はあまり似てないかしらー?」
教室のざわめきが強くなる。
話題は、今朝の校門前の出来事だった。桐山《きりやま》と朔《さく》のケンカ、その最中に起こった突然の強風は、直接桐山には結びつけられてはいないものの、『なんかこの人たち恐ろしい』というイメージとなって、強烈に焼きつけられたようだった。
なんか恐ろしい朔の妹である、望《のぞむ》。
その望に惚《ほ》れられているっぽい、耕太。
クラスメイトの話題が、だんだんと耕太へと移ってゆくのが、洩《も》れ聞こえる会話でわかる。エロス大王のつぎは、なにになるのだろうな……もう耕太は哀《かな》しくもならなかった。心が麻痺《まひ》したのかもしれない。
砂原《さはら》はさわぐ生徒たちをまったく気にせず、転校生の紹介を続けていた。
「じゃあみなさん、犹守《えぞもり》さんと仲良くしてあげてねー?」
一同、視線をちらちらと交わす。
仲良くといわれても……といった様子だった。耕太はちらりと、前の席のたゆらを見る。彼はめずらしく寝ていない。しかし背を向けているので、なにを考えているのか、その表情はわからなかった。続けてとなりのあかねに視線を送る。
「――ちょっと犹守さん、いい?」
ちょうどあかねは望に話しかけているところだった。なぜか耕太がびくつく。
「だめよ、ちゃんと自分の席に座らなくては」
「……でも」
「小山田くんは純情|可憐《かれん》な唐変木なんだから、そんなことしたらかえって逆効果だわ。もっとおしとやかに攻めたほうがいいわよ」
……いま、さりげなくひどいことをいわれたような。
んー、と考えこんでいた望が、すっと耕太から体を離した。
「わかった。おしとやかにする」
望があかねに向かって首を傾《かし》げる。
「……あなたの名前は?」
「わたしは朝比奈《あさひな》あかね。クラスの委員長よ。わからないことがあったらなんでも訊《き》いて」
「うん。あかねに訊く」
「さすがは朝比奈さんだわー。頼れるわー。猛獣使いだわー」
うわ、と耕太は驚く。いつのまにか砂原がそばに立っていた。
「で、源《みなもと》さんはいつ自分の教室に戻るのかしらー?」
「……もうちょっとだけ、いる」
なにやらちずるは眉《まゆ》をつりあげていた。望にムキになってるんだな、と気づいた耕太は、彼女の手にそっと触れた。きゅっと指先をつかまれる。
はあ、と耕太はちずるに気づかれぬよう、ひそかに心のなかでため息をついた。
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[#小見出し] 四、がんばるわたし(たち)[#「四、がんばるわたし(たち)」は太字]
1
街の中心部にある、マンションの一室――。
湯気がうっすらとただよう浴室に、ちずるはいた。
頭にタオルを巻いているほかには、一片の布もない。濡《ぬ》れ光る伸びやかな曲線をさらして、洗い場のつるんとした床に、直接丸みのあるお尻《しり》をつけて座っていた。
その尾てい骨からは、狐《きつね》のしっぽが生えている。
金色の毛なみは濡れてべしゃっとなり、床にくるんと巻かれていた。頭のタオルから覗《のぞ》く髪も金色だ。狐の耳が、その黒い先っぽを見せていた。
「まったくもう、あいつ、なにを考えているのか、ちっともわかんない」
ちずるは狐の姿に変化していた。
「妹とかいって、わけのわかんない女までつれてくるし……ったく」
ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、タオルで体をふいていた。たんねんに水気を取る。顔から首筋、肩、腕、脇《わき》の下、胸元、胸の下、腰、背中、へそ……すべてぬぐい終わると、こんどは小型の鏡を床にとん、と置いた。
足を伸ばそうとして壁につっかかり、ん、と顔をしかめる。ずりずりと移動した。青い合成樹脂製の椅子《いす》を、ばさばさのしっぽでぐいと押す。
「もはや一刻の猶予もない……はやく完成させなくては」
ちずるは折りたたみ式のカミソリを取りだした。
冷たい、蒼《あお》い輝きの刃を、じっと見つめる。ふふ、と唇に笑みを浮かべた。
「まっててね、耕太《こうた》くん……」
「なんだろね、これは……」
おなじマンションの一室の、こちらは居間。
Tシャツにジーパンといった格好のたゆらが、縦長の赤い編み物をつまみあげていた。ところどころほつれて、よじれて、ねじれた、奇妙な編み物だった。
「毛糸製のぞうきん……なわけねーよな」
ひっくりかえしたり、伸ばしたりして、しげしげと眺める。
部屋の角に置かれたテレビからは、バラエティー番組が流れていた。笑い声が、広々としたフローリングの居間に広がっている。テレビの前には大きな丸いカーペットが敷かれ、離れて背の低い横長のソファーが伸びていた。
たゆらはテレビに背を向けて、反対側の角にしゃがみこんでいた。
やがて飽きたのか、手の編み物をぽいと捨てる。毛糸の玉と編み棒が入った籠《かご》のなかに、赤いねじれた編み物は落ちた。
「ん……これは」
籠《かご》の横に並べられていた本を手に取る。やたら付箋《ふせん》の挟みこまれた、表紙がよれよれの女性誌だ。
「『鈍感な彼氏をソノ気にさせる一〇〇の方法』……? 苦労してるねえ、あの人も」
ぺらぺらとめくる。
「明日のためにその十二……手編みのマフラーで攻めろ! 古くさいと思われがちですが、その手間はきっと彼の心を動かすでしょう。編み物が下手でもかまいません。むしろ、多少いびつなほうが、あなたの努力が彼に伝わります――なんつうか、姑息《こそく》じゃねー?」
ぴくん、とたゆらの体が動いた。
ばさ、と本を閉じ、素早く元の場所に戻す。視線をわずかに開いた廊下への扉に向けた。
「……まだ風呂《ふろ》からはあがってきてねーよな?」
こんこん。
ん? とたゆらは首を傾《かし》げた。
「なんだ?」
こんこん。こんこん。
そろそろとたゆらは立ちあがり、部屋の出口へと向かった。扉を開け、暗い廊下を進む。
こんこん。こんこん。
どんどんと音は近づいてきた。
やがてたゆらは、玄関のドアの前までたどりつく。
こんこん。
「……どこのバカだ?」
何者かが、ドアをノックしていた。
「チャイムって存在を知らねえのか? だいたいにして、ここはオートロックだっつーのにだな……」
ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、ドアを開けた。
「うるせえな! だれだテメエ!」
お、と口をOの字にする。
銀髪の、痩《や》せた体つきの少女――望《のぞむ》がそこにいた。制服姿のままだった。
「おまえ、朔《さく》とかいうやつの……」
「犹守《えぞもり》望《のぞむ》」
「その望ちゃんがいったいなんの用だ? まさか家をまちがえたとかぬかすなよ」
「耕太の好きなもの、なんなのか教えてもらおうと思って」
「……なぬ?」
たゆらは眼《め》と口を、まっすぐに引き結んだ。
「あかねが、敵を知り、己を知らば、百戦危うべからず、だって」
「あ、あかね? 朝比奈《あさひな》か?」
「それには、ちずるに直接耕太の好きなもの、訊《き》くのがいちばんだって。ちずるが本当のこと教えるか、嘘《うそ》を教えるか、それで敵のことがわかるって」
「ふーむ」
たゆらは腕を組んでうなった。
「朝比奈……敵にまわすと怖《おそ》ろしいやつ……さてこの場合、おれはいったいどうすればよいのだろうか? こいつは朔《さく》の妹だし、朝比奈に味方すればちずるを裏切ることになるし、しかしこいつと耕太がうまくいけば、それはそれでおれにとっては……うむむむむ」
たゆらがうなっているあいだ、望《のぞむ》は黙って立っていた。
「よし……ちょっと待ってろ」
ぱたぱたとたゆらは室内に戻っていった。望は身じろぎもせずに立って待っている。
やがて足音が戻ってきた。
「この本、買え」
メモを突きつけた。
望は首を傾《かし》げる。
「……これは?」
「女性誌のタイトルだ。先週発売されたやつだから、まだ本屋にはあるはずだ。いいか、ちずるはどうやらこれを参考にして行動している。これで敵のことはわかるはずだ」
「ふうん。ありがと」
「どういたしまして! 朝比奈によろしくなー!」
たゆらはドアから体を出して、手を振って望を見送った。
「ねえ、たゆら? さっき、だれか来なかった?」
ちずるはバスタオルでわしわしと頭をふきながら、床の上をぺたぺた歩いてきた。しっぽをふりふり、その裸身からは湯気があがっている。
「さあ? テレビじゃねーの?」
たゆらはソファーにもたれかかって、テレビ相手にげらげらと笑っていた。
「ふーん……」
ちずるは手に持っていた小さなビニールの袋を、そっと部屋の隅の籠《かご》のなかに落とす。袋のなかは、きらきらと輝いていた。
2
学校からの帰り道。
住宅街をひゅるりと吹く北風も、もう耕太は気にならなくなっていた。
右腕には、ちずるが抱きつき、そのやわらかであたたかな体を――。
左腕には、望《のぞむ》が抱きつき、そのしなやかで熱い体を――。
それぞれがぴたりと耕太に密着させていたからだ。両サイドから抱きつかれて、寒いというか、むしろ耕太は暑かった。
ちらりとちずるを横目で見る。彼女は不機嫌そのものの顔で、前方を睨《にら》みつけていた。まあ、機嫌が悪くなる気持ちは、耕太にも非常によくわかる。
だって、ぼくとちずるさんは恋人同士なのであって。そりゃあ、ねえ。
「あのー、犹守《えぞもり》さん……」
望はあいかわらずの、なにを考えているのかわからない表情をしていた。
「犹守はふたりいるよ」
「え」
「犹守は、兄《あに》さまとわたし、ふたりいるよ。どっち?」
「あ、えと、じゃあ、望さん」
望がこちらを向いた。銀色の瞳《ひとみ》が、耕太を正面から捕らえてくる。
「な、なに?」
「さん、はいらない。明日のためにその一、名前で呼ばせろ……人間関係は、まず呼びかたから」
え? と聞き返す耕太のとなりで、いきなりちずるが立ち止まった。抱きつかれていた腕が、ぐい、と引っぱられる。と、と、と、と耕太は転びそうになった。
「ち、ちずるさん?」
「いまのは……あなた、もしかして、あの本を?」
「耕太、『望』に『さん』はいらないよ」
え? ええ? と耕太は顔の向きを左右させる。望を睨むちずる、耕太を見つめる望……とりあえず、自分に関係しているほうを解決することにした。
「さんはいらない……えと、じゃあ、望、ちゃん?」
「なによ、それえ!」
逆サイドが炎上した。
「わたしでさえ、まだちずるさんのままなのに……ずるい! わたしもちずるちゃん!」
「ち、ち、ち……ちずる、ちゃん?」
うーん、と耕太は首をひねった。
「やっぱり、ちずるさんは、さん、のほうがしつくりくるんですが。年上だし」
「どーゆーこと? それってもうわたしが、若くないってこと……?」
哀《かな》しげにちずるの眉《まゆ》と目尻《めじり》はたれる。
「ち、違いますよ、そうじゃなくって……」
じっと見つめられた。なにやら視線を感じて逆側を向くと、望《のぞむ》までじっと耕太を見つめている。立ち止まった状態で、両側から黒に銀とそれぞれ違った色の瞳《ひとみ》をぶつけられ、耕太は頭を抱えたくなった。しかし抱えられない。両腕を抱かれているから。
ああ……、と耕太は立ちつくす。
「そ、そうだ。今日のお弁当、おいしかったなあ。あ、あはは」
両サイドからの視線は変わらない。
それどころか、なにやら強くなったようだ。ちずると望、両者とも、眼《め》をぎゅっと細めている。
「わたしは、おいなりさん」
ちずるがつやつやな桃色の唇を開いた。
「わたしは、ホットドッグだった」
望はその肌とおなじく、薄い色の唇を開いた。
「「どっちが、おいしかった?」」
右と左で声はハモった。
「う、うい?」
耕太はそろりそろりと視線を動かす。どちらもじとりと冷たい、しかし必死さという熱情を奥に秘めた、つまりどう転んでもひどい目に遭いそうな目つきをしていた。
「え、えっと」
昼のことを耕太は思いだす。
耕太の机に置かれた、ふたつのお弁当箱。
かたや、いつものちずるの黄色いきんちゃく袋から取りだされた、いつものタッパー。なかにはふっくらとしたあぶらげでご飯を包んだおいなりさんが、ぎっしり。
かたや、無造作に望が取りだした、青い色の箱。なかにはざっくりと割ったパンのなかに、レタスとソーセージを挟んだホットドッグが、ぎっしり。
ご飯とパン、ふたつのお弁当を出されて、耕太は両|脇《わき》からじっと見つめられた。
終始、無言だった。
なにやら戦いらしきものが始まっているらしい……たゆらがつまみ食いしようと手を伸ばしたときだけ、ちずると望は協力してひっかいていた。
両側からの眼――いま下校時に耕太が浴びている眼とおなじ――に見守られ、考えこむというか、逃げたくなる欲求と戦うこと数分。耕太はようやく行動に移った。
ふたつ同時に手を伸ばす。
右手においなりさん、左手にホットドッグをつかみ、ふたついっぺんに、口のなかへと運んだ。入らないのを無理に詰めこんで、食べる。
はぎゅ、もぎゅ、ごきゅ。
おおおお、とクラスメイトが感嘆とも嘆息ともつかない声をあげた。彼らもこの戦いには注目していたらしい。耕太はまわりどころじゃなかったけれど。
おいなりさんの、甘辛くさっぱりとして、しっとりとした食感。
ホットドッグの、肉汁のうま味にあふれた、ざっくりした食感。
ひとつひとつならさぞかしおいしいだろう味わいが、口のなかで混ざりあってぐちゃぐちゃになって、もうなにがなんだかわからない。はっきりいえば……まずい。
うう、とせつなさに声を洩《も》らしながら、耕太はあかねとたゆらの視線を感じていた。あかねはあきれ顔で、たゆらはにたにたしながら見つめていた――。
あれはキツかったなあ……。
耕太は遠い目をする。ご飯とパンは一緒に食べるものではないと思い知った。
「「ねえ、どっちがおいしかった?」」
住宅街に、またもちずると望《のぞむ》の声はハモった。
本当は仲がいいんじゃないだろうか……そんなことを思いながら、耕太はどう答えるのがいちばん無難なのだろうかと視線をおよがす。
「えーと、どちらがおいしかったといいますか、そもそもご飯とパンでは、くらべようがですね、あの、その」
ええい、どうにでもなっちゃえ、と答えているとき、耕太の背後から、重々しい排気音が伝わってきた。
ゆっくりと近づいてくる。耕太たちは三人一緒に振りむいた。
太いタイヤ、大きな車体、銀色の髪、風防ゴーグル、革ずくめの格好――。
「朔《さく》!」
ちずるが叫んだ。
銀髪の男、朔はゆったりとバイクを動かしている。ずもももも、と地を這《は》う排気音が、閑静な住宅街と、その通りを歩く耕太たちを震わした。
耕太たちを眺めて――朔はにたりと笑う。
右手をひねった。うあん、とバイクの前輪がかすかに持ちあがり、どずんと落ちた。そのまま加速し、耕太たちの横を走り去ってゆく。ちずると望はすぱっと片手でスカートを押さえ、巻き起こった風をやりすごした。
「あいつめ……耕太くん、ごめん」
ちずるの腕が、するりと耕太の腕から外れた。
「待ちなさい、朔!」
鞄《かばん》ときんちゃく袋を片手に、ちずるは駆けだしてゆく。猛スピードで、遠ざかるバイクを追いかけていった。
ざわ、と耕太の心はさざめく。
昨日の朝、学校の校門前で、朔と桐山《きりやま》が戦っていたとき――ちずるが、朔と知りあいなのだとほのめかしたとき――胸のうちにわきあがってきた感情。もくもくと広がった赤黒い雲がなんなのか、いまわかった。
ぼく、嫉妬《しっと》してるのかもしれない。
――嫉妬? でも、どうして……ぼくは、ちずるさんを、信じてないの?
残った望《のぞむ》が、ぎゅっと耕太の腕への抱きつきを強くした。
「ちずるは、耕太と帰るより、兄《あに》さまと帰るほうがいいんだね」
その言葉はやけに耕太の胸に刺さった。なんでこんなに痛いんだ、と耕太が自分自身に対していらついてしまうほどに。
朔《さく》の乗っていたバイクは、街のなかをしばらく走ってから、大きな道路に向かい、そこに建ちならんでいたファミリーレストランの駐車場に入って、止まった。
エンジンを止め、振りむく。
「よう」
後ろには、中腰になったちずるが、膝《ひざ》に手をついた姿勢で立っていた。はー、はー、ぜー、ぜー、と肩で息をしている。
「気づいてたんなら……さっさと止まれ、バカ犬!」
朔は、はっはっは、と笑った。
3
からんからんとファミレスのドアは開く。
ぴんぽーんという音と同時に、店員が近づいてきた。一瞬だけ表情を強《こわ》ばらせるも、すぐににこやかにほほえんだ。
「何名さまですかー? おタバコはお吸いになられますかー?」
「ふたりだ。おタバコは吸わない」
革のジャケット姿の、銀髪で長身の男が答えた。
「……水は、ど、どこ」
ブレザーの制服姿で、長い黒髪の女性が質問した。その息は荒い。
「あ、あちらに……」
すたすたと女――ちずるはドリンクが並べられたコーナーへと向かう。コップに水を注いで、がぶがぶと飲み干した。
「悪く思わないでくれ。ちょっとばかりかわいそうなやつでな、なにがかわいそうって、しばらくお通じがなくってだな、しかたなく水をがぶ飲みすることで強制的にダムを決壊」
「こんのボケ犬!」
飛んできたコップの底が、かっこーん、と男のおでこに命中した。店員の悲鳴が店内に響き渡る。
そうして――。
店のいちばん、奥の席。
そこで銀髪の男、朔《さく》はおでこをさすっていた。
「おまえ、昔より手が早くなってないか? おれと組んでたころは、もっとこう……」
「黙れ」
ちずるは手のひらを突きつけた。
もう片方の手で、空になったコップをテーブルにがん、と置く。
「朔、おまえと昔話をしに来たわけじゃないの。訊《き》きたいことは、ただひとつ」
「ぼうやのことか。いいのか? その大切なぼうやを置いてきてしまって。いま、ぼうやと望《のぞむ》はふたりきりなんじゃないのか?」
う、とちずるがひるみを見せる。
「だ、だいじょうぶよ。耕太くんなら、わかってくれるもの」
「わかってくれる、ねえ……」
朔はメニューを眺めていた。
「なによ。なにかいいたいことでもあるの」
「いろいろあるが……まずはなにか頼もうじゃないか」
朔はテーブルの端に備えつけられていた呼びだしボタンを押す。ぴんぽーん。
「あのねえ!」
すぐに店員はやってきた。あまり店内は混んでいない。
「ご注文、お決まりでしょうかー?」
「血のしたたるようなステーキセット。レアで」
ぬ、ぬ、ぬ……と空のコップを握りしめるちずる。ぴき、とコップにヒビが入った。
「あ、あの、お客さま……?」
「水! おかわり!」
店員に、ヒビの入ったコップを突きつける。
「お客さま、おかわりは、その、セルフサービスとなってまして」
「――お、か、わ、り」
「か、かしこまりました!」
店員は両手でコップを捧《ささ》げ持って、早足で去っていった。
「ひどいことをする」
「うるさい! だれのせいだと思ってるんだ!」
くっくっく、と笑う朔に、ちずるは眼《め》を剥《む》いた。
「おいおい、なんでそんなにおれのことを嫌うんだ。なにかおれ、悪いことでもしたか?」
「さっきからしまくってんじゃないのよ!」
「昔のおまえなら、さらにやり返してきただろう? キツいシャレには、キツいシャレを倍返し……それを期待してたんだがな」
朔《さく》の銀の瞳《ひとみ》に、ちずるはわずかに視線をそらし、眼《め》を伏せた。
「いまは……そんな気分じゃない」
「だろうな。なんといってもぼうや……耕太くんがらみだからな。おまえはあのぼうやが関係すると、とたんにしおらしくなっちまう……いつものおまえなら、いまごろおれのバイクに細工のひとつでもしてるだろう? ブレーキでも利かなくしてるかな」
「……答えて。どうして耕太くんのことを調べていたの」
「耕太くんのことなんか調べてないぜ」
「ふざけるな。だって、耕太くんの名前を……」
「調べていたのは、薫風《くんぷう》高校のことだ」
「え……?」
ちずるの眉間《みけん》に、ゆっくりと皺《しわ》が刻まれてゆく。
「いっただろう、薫風高校を破壊すると。だからいろいろと調査してたのさ。その過程でだよ、ぼうやのことを知ったのは。ちずる、おまえにいま恋人がいると知って……ははっ、どんなやつなのか、色男か、ごついのか、はたまた渋いのか、なんにせよかなりとんでもない男だろうとばかり思っていたら……ふははっ、あんなかわいいぼうやだったとは」
「耕太くんはいい男よ。あんないい人、ほかにはいない」
ちずるは真剣そのものの表情で答えた。
「だろうな。望《のぞむ》もいってた、いいひとだと……。あいつはそういうのを、すぐに見抜くんだ。いいやつなのか、悪いやつなのか、ひと目でな」
「そういえばあの妹、どこで拾ったの? 前には、あんなのいなかったじゃない」
「まあ、ちょっとな」
「いま所属している組織で、かしら?」
ぴく、と朔の眉《まゆ》がわずかに動く。
「おいおい、誇り高き一匹|狼《おおかみ》のおれに、なにを」
「とぼけたって無駄よ。薫風高校を調査したっていうけど、あそこはそんな簡単に調べられるところじゃない。やってることがやってることだからね……情報はとくに厳重に守られているはず。個人で調べられることじゃ、絶対にない」
朔はおだやかに笑みを浮かべるだけだった。
「かといって、そこらへんの組織でも無理。だって薫風高校を陰で運営しているところは、この国でも有数の組織だもの……となれば、ある程度の規模がなければ……」
「ふふ……ちょっとだけ、かつてのおもかげがでてきたか」
「あそこの守りを抜けるなんて……高野《こうや》? 比叡《ひえい》? まさか……外国とか?」
はっはっは、と朔は笑う。
「なんだ、おれがクリスチャンにでもなったと思うのか? そいつは傑作だ」
ちずるは静かに朔を見つめていた。一挙手一投足を見逃さぬように。
「はは、薫風《くんぷう》高校の背後にひそむ、影の組織……『葛《くず》の葉《は》』な。たしかにあそこに勝てるようなところといったら、数はしぼられる」
ちずるの瞳《ひとみ》は揺るがない。
朔《さく》は両手を広げ、肩をすくめた。
「わかったわかった! たしかにおれはいま組織に属してるよ。それも『葛の葉』と同等……ちょうどおなじ力を持った[#「ちょうどおなじ力を持った」に傍点]組織にな」
「やっぱり! いったいどんな組織に――」
「お待たせしましたー。血のしたたるようなステーキのレアに、お水でーす」
店員の声が水を差す。
朔の前にぶ厚い肉とライス、サラダが、ちずるの前にはきらきらしたグラスに氷入りの水がストローつきで置かれた。
さっそく朔はナイフとフォークを手に取る。肉を切り分けだした。
「朔……どこ? どこなのよ?」
店員がいなくなったのを見計らって、ちずるは話しかけた。
「おれのことより、おまえはどうなんだ」
「わたし? なにが?」
「薫風高校には、捕らえられた不良|妖怪《ようかい》が送られてくるんだろう? しかし……おまえがそう簡単に捕まるものかね?」
三等分に大きく切り分けた肉を、朔はひと切れ食べた。はふはふと口を動かす。
「あふ、あひ、あちち……相手は『葛の葉』だ。そりゃ手強《てごわ》いだろうさ。だが、逃げることだけ考えれば、どうにかならんことはないはずだ。なのになんだってあっさり捕まって、おまけにおとなしく学校になんか通ってる? 齢《よわい》四百を経た大妖《たいよう》がよ」
「それは――」
「おっと、耕太くんがいるから、なんていうなよ。あの愛《いと》しのぼうやがやってくるまで、一年半もあったんだ。そのあいだずっとおとなしく……おとなしくもなかったか。音楽室でいたいけなニンゲン相手にいろいろやってたんだっけな?」
「本当になんでも知ってるのね、おまえは!」
ぎり、とちずるは奥歯を噛《か》んだ。ふふん、と朔は鼻で笑う。
「まあ、おまえが学校にいる理由はいいさ。おれとおまえが組んでいたのは、数百年も前……それからもちょくちょく顔はあわせてはいたが、最後はいつだ? 五十年ぐらい前か? そりゃいろいろあるよな、お互いに、隠しごとのひとつやふたつくらい」
ちずるは黙って睨《にら》みつけていたが、いきなりグラスを手に取った。
氷水を、ぐーっと飲み干す。つつ……っと唇の端から水がひと筋、顎《あご》へと流れた。
ぷっはー!
いきおいよくテーブルにグラスを置いた。
「ともかく! おまえの思うとおりには絶対! させないんだから!」
顔をしかめながらいった。こめかみを押さえて、いたた……とうめく。
「そこがわからんのだな。おれの目的はたしかに薫風《くんぷう》高校の破壊だが……」
もぎゅもぎゅと朔《さく》はふた切れ目を食べていた。
「なんでおまえが邪魔をするんだ? あんな学校、なくなろうがどうなろうが、べつにおまえには関係ないじゃないか。耕太くんと一緒にいられればそれでいいんだろう? だったら普通の高校にでも通えばいいじゃないか」
「耕太くんと一緒にいるためよ。そのためには、あそこが必要なの。あの場所が」
ふふ……と朔は笑う。最後の肉を口のなかに放りこんだ。
「なるほどね。普通の学校じゃだめな理由があるわけだ。ふふ、ふふふ」
「うるさい!」
ちずるはグラスを持って振りかぶった。
「耕太くんと一緒にいたいんだったら、おれのことなんかより、ぼうやの心配をするべきなんじゃないか? 気づいてるか、彼が人ならぬ力に目覚めかけていることに」
「な、なに?」
グラスを投げつけようとした格好のまま、ちずるは固まった。
「望《のぞむ》が初めて耕太くんと出会ったときにな、彼は見抜いたそうだぞ。望が化生《けしょう》の存在であることをな」
ちずるは眼《め》を大きく見開いた。
「昨日、おれがかまいたちのぼうやとやりあったときもそうだ。最後のいたちっぺで、かまいたちくんが風の刃《やいば》を飛ばしただろう。わかるか、風の刃だぞ? 人の目には見えないはずの空気の刃だ。それを耕太くんはよけた。ちずる、おまえと望をかばって、風の刃をよけたんだ。不可視の刃をな」
ちずるの体が静かに震えだす。
「おれたちなら風の刃も見えるさ。見るというか、空気の刃を作りあげている妖《あやかし》の気配を『視《み》る』ことができる。だが耕太くんは、彼はニンゲンなんだ。どうして風の刃を『視る』ことができたんだろうな?」
「……そういえば」
ちずるはぽつりと呟《つぶや》く。
「わたしのときも……耕太くんのほうから、わたしを、強制的にとり憑《つ》かせた……耕太くんのほうから、わたしを憑依《ひょうい》させることができた……」
「そっちでも、なにか思い当たることがあったかい?」
にやりと朔は口の端を曲げている。紙ナプキンで口元をぬぐった。
「まあ、おれが思うにだ。ちょっと一心同体になりすぎなんじゃないか、おまえさんがた」
「朔、おまえ、やっぱり……知ってたのね!」
「なにが?」
にやにや笑う朔に、ちずるは立ちあがった。
「朔《さく》、あくまでおまえが薫風《くんぷう》高校を壊すというのなら……おまえはもう、わたしの敵よ」
「宣戦布告ってわけだ」
ちずるは朔に背を向け、歩きだした。そのまま振りむかず、足早に出口へと向かう。食器を片づけていた店員が、ぶつかりそうになって、きゃっと悲鳴をあげた。
朔はにやりと口の端を曲げたまま、ちずるの、黒髪きらめく背中を見送った。
「さて……これからいったい、どう転ぶ?」
4
湯けむりが、広い浴室にもやとなっていた。
一面にタイルが貼《は》られた浴室だ。洗い場の壁には洗面用の鏡が三つ並び、その上にはシャワー、鏡の下にはお湯と水の蛇口が、おなじく三つ並んでいる。
耕太はそんな景色を、湯船につかりながら眺めていた。
「ああ……」
思わず声が洩《も》れた。ふー、と大きく息を吐く。
真正面には、くもりガラスのはめられた出入り口の戸があった。個人用にしては大きすぎる浴室だ。それもそのはずで、ここは耕太の住む寮ではなく、薫風《くんぷう》高校敷地内の、合宿用の宿舎内に備えつけられた、共同浴場だった。
「しあわせしあわせ……」
共同浴場といっても、三人がいっぺんに入れる程度の広さだが、それでも耕太がひとりで使うには充分に余裕のあるお風呂《ふろ》だった。湯船だって足を伸ばせるほどなのだから。
「えへへ……」
両足を上げて、ちゃぱちゃぱとお湯を波うたせてみた。
「でも――なんかもったいないな」
この共同浴場は、学校の寮生に対して開放してある。
しかし、いまのところ寮で暮らしているのは――耕太ただひとり。つまりこの浴室は、ほとんど耕太の貸し切り状態なのだった。
「なんでだろ……」
どうして寮にはぼくしかいないんだろ?
ちゃぽん、と耕太は手をお湯からあげ、頭にのせていたタオルの位置を直す。
「幽霊でも……いたりして」
寮に幽霊のひとりやふたり、出てきてもおかしくはないだろう。だって学校には妖怪《ようかい》だっているんだから……。
ぶるりと耕太は震えた。震えて、すぐに笑った。
「妖怪の彼女までいるのに……」
幽霊なんか、なにを恐れることがあるのやら。耕太は赤ら顔で、ゆっくりと湯船に沈んでいった。顔の半分までお湯につかって、ぶくぶくと息であわを作りだす。
ちずる……さん。
耕太は長い黒髪が艶《つや》めく、つり目の、そして胸の大きな……ひたすら情熱的な彼女の姿を思いうかべた。彼女は満面の笑顔でいる。
ぶくぶく……ぶく?
ちずるの笑顔が崩れた。ぎろりと真横を睨《にら》む。
視線の先に、ぽん、とあらたな女性の姿が浮かんだ。
ぱさついた銀髪の、神秘的な瞳《ひとみ》を持った、こちらは胸のなだらかな……静けさのなかに情熱を秘めた少女が、じっと耕太を見つめてくる。
望《のぞむ》……さん。
ぶくぶくぶくぶく……ぶく。
ぷはっ、とお湯から顔をあげた。はあ、はあ、と息を荒げる。
「どうして……こうなっちゃったんだろうか」
女の子から好かれれば、そりゃ悪い気はしないけど、と耕太はため息をついた。お湯を手ですくい、ぱちゃぱちゃと顔にかける。
「でも、ぼくは……」
波うつお湯をじっと見つめた。
「ちずるさんのことを――」
「はーい」
耕太は顔面からお湯につっこんだ。
「ぶ、ぶえっ!?」
ざば、と耕太は立ちあがる。
正面すぐそこにある出入り口。
そのくもりガラスに、曲線を描いたシルエットが浮かんでいた。
がらがらがら。
戸が開く。
「失礼しまーす」
あらわれたのは、ぼいん、きゅ、ばいん、という見事な体を白いバスタオルでくるんだ、あられもないちずるの姿だった。頭にもタオルを巻き、長い髪をまとめている。
「あ……やだ」
ちずるが口元に手を当てる。顔をわずかにそらした。
「耕太くん、すごい……立派、だけど……いやん」
「へ」
耕太は、自分が思いっきり湯船から立ちあがっていたことに気づいた。
「うああーっ!」
だぶんと首までつかる。
「なななななな、なにをー?」
「えへへ、お背中、お流ししようかなーって思って……スキンシップ、スキンシップ」
ちずるはさきほど耕太が見せつけてしまった衝撃映像のせいか、顔どころか、首筋から胸元、腕に太ももにかけて赤くなっていた。
「け、けけけ、ケッコーです!」
「いいからいいから、遠慮しないで。耕太くんとわたしの仲じゃない」
「いや、だって、その! だ、だれか来たら!」
「いままで、だれか来たことあるの? いまの時間帯は寮生だけでしょ? そして寮生は耕太くんひとりだけでしょ?」
ちずるはバスタオルの前を押さえながら、洗い場の蛇口の前にかがんだ。桶《おけ》にお湯と水を注いでゆく。
「そ、そうです、けどぉ」
「学校に住みついてるやつらとかもここ、使ってるみたいだけど。宿直の八束《やつか》とか、熊田《くまだ》とか、あと妖怪《ようかい》連中ね。でもいまは……耕太くんと、わたしだけ!」
きゃはっ、とちずるは心底うれしそうに笑った。タオルから覗《のぞ》く胸の谷間が、ふゆん、とゆがむ。
耕太は、八束や熊田もこの浴室を利用していると聞いて、そうなんだ……と思いながら、ちずるの肩のラインや、普段は髪をおろしているために見えないうなじ、上腕やふくらはぎのかたち、もちろん胸の谷間や腰のくびれ、お尻《しり》のラインなどに思いっきり釘《くぎ》づけとなっていた。
ちずるの裸なら、耕太はなんども目のあたりにしている。
しかし……バスタオルで隠れているというのは……また違ったおもむきが……。
「まだお風呂《ふろ》からあがらないの? 耕太くん」
ちずるが首を傾《かし》げていた。ほつれた髪のひと筋が、首筋に貼《は》りついている。
「あ……う……」
耕太はぶんぶんぶんと首を縦に振った。ちゃぷちゃぷとお湯が波うつ。
「そう……。じゃあ」
へくちゅん。
なにやら非常にわざとらしく、ちずるはくしゃみをした。
「やだー、風邪ひいちゃうー。しかたないからー、わたしもお風呂《ふろ》につからせてもらっちゃおーかなー」
見事な棒読みだった。
呆然《ぼうぜん》としている耕太の前で、ちずるはざぱーん、ざぱーんと、何度もお湯を体に浴びせかける。
立ちあがった。
濡《ぬ》れたバスタオルが体にぴたりと貼《は》りつき、彼女の輪郭をあらわにする。
お湯をしたたらせながら、湯船に近づいてきた。ひょいと足を上げる。ぴらりとバスタオルがまくれ、鮮やかなまでに白い太ももを充分に見せつけて、浴槽をまたいだ。お湯に足を差し入れる。
おなじようにもう片足も入れ――ついに耕太の前にそびえ立った。
耕太は白いバスタオルを貼りつかせた、陶器のような女体を見あげた。ふたつの大きなふくらみのあいだから、うっすらとほほえみを浮かべたちずるの顔が覗《のぞ》いている。その瞳《ひとみ》はうるみ、その肌はほてったように赤い。
「耕太くん――」
「あ……ぼ、ぼく、じゃあ、その、あ、あがります。だだだ、だってせまいですし」
頭に乗っけていたタオルをひっつかみ、耕太は立ちあがろうとした。
「だーめ」
その両肩を、がしっと押さえられた。
ゆっくりと押し沈められる。
「風邪、ひいちゃうからね」
静かな、しかし有無をいわせない口調だった。
「だ、だめですよぅ、ちずるさん……こんなことぉ」
「どうして? わたしの裸だったら何回も見てるじゃない。いまさら……だよ」
「そ、それはそうなんですがっ!」
――違う。
なんか違う。いつもとはなにかが違う。
いつもより……こう、訴えかけてくるものが……す、素っ裸じゃないから? バスタオル巻いてるから? 濡れタオルだからー!?
今回は、このまま押されたら……もはや……自分自身の歯止めが。
「なにもしないから」
え? と耕太は聞き返す。
「なにもしない……ただ、一緒にお風呂《ふろ》に入るだけ。それだけ……だから」
ちずるは指先を、バスタオルの巻き目にかけた。
「い、いや、その……あの!」
ちずるさんがなにもしなくても――こっちが!
「力を……あいつと戦う力を、ちずるにちょうだい――」
「ふえ?」
くいっとちずるがバスタオルを引っぱる。
眼《め》を剥《む》く耕太の前で、ゆっくりとバスタオルはほどけていった。
豊かな胸のふくらみが、まず片側だけあらわになり、きゅっとしまった腰のくびれに、かすかに浮かぶ肋骨《ろっこつ》の影と、小さなおへそ、そして――。
がらがらがら。
「きゃっ!?」
ばさっとバスタオルは閉じられた。湯船にどぷんとちずるは沈む。
耕太はなにやらほっとしたような、ひじょ〜に残念なような複雑極まる気持ちになりながら、今回の危機を救った人物に目をやった。
八束《やつか》先生……? 熊田《くまだ》さん……?
「うえっ!?」
耕太は目を丸くする。
浴室の戸を開けたのは――銀髪の少女だった。
望《のぞむ》はなにも巻いてなかった。ぱさついた銀髪も、小ぶりな胸も、細い腕も、腰も、脚も――見事なまでにどうどうと、恥ずかしげもなくおしげもなく、さらけだしていた。
「なにも……履いて……つけて……そして生えて……」
あふあいひゃうひゃ。
耕太は意味不明な言葉をわめきつつ、タオルを顔面に押し当てた。見てない、ぼく、なにも見てない!
しかしまぶたの裏側には、望のしなやかな肉体が焼きついて離れない。
すっぽんぽーん。
「ああああああ!」
「あなた、なんて格好してんのよ!」
ちずるがざばりと立ちあがった。お湯しぶきが耕太にかかる。うあ? と見あげると、ちょうどバスタオルがずるりとはがれ落ちるところだった。
重々しいながらも上を向いた胸も、締まった腰も、ぱんと張ったお尻《しり》も、豊かな太ももも――凛々《りり》しいまでにあからさまに、あらわになっていた。
「ちずるさんも……生えて……あれ?」
そうだったっけ?
つ……と耕太の鼻からなにかたれてきた。
見ると、顔に当てたタオルが真っ赤。あー、そりゃ出るよね、鼻血ぐらいね、うはは、と耕太は意味のない薄笑いを浮かべだす。
へぷちっ。
なんだかかわいい、しかしわざとらしいくしゃみが浴室に響いた。
「やだ、風邪ひいちゃう。しかたないから、わたしもお風呂《ふろ》につかろっと」
どこかで聞いたセリフである。
「あなた! それは……鈍感な彼氏をソノ気にさせる一〇〇の方法、その五十五、ときには大胆に一緒にお風呂なんかも! 『風邪をひくから』という大義名分さえあれば、鈍い彼氏を強引に納得させることができる……やはりあなた、あの本を!」
望《のぞむ》はぴょんと跳ね、たっぽーん、と湯船に入った。まともに耕太はお湯をかぶる。
ぐぬぬ……とちずるは望を睨《にら》んだ。
かたやグラマラス。
かたやスレンダー。
どちらも一糸まとわぬ姿で、まばたきもせずに視線をぶつけあっていた。耕太の出血量はただただ増えるばかり。だらだらだら。
「あなたね、体も流さずにお湯に入るなんて正気なの? あーやだやだ、きったなーい」
「わたし、汚くなんかないよ」
くんくん、と望は自分の腕の匂《にお》いを嗅《か》いだ。
「そーゆーことじゃなくってね」
「ちずるのほうがくさい」
なっ、とちずるはのけぞる。重々しい胸が縦揺れをおこした。
「く、くさくなんかないもん! 美少女は匂わないんだもん!」
「なんだか……すごくいやらしい匂いがする」
望は鼻をつまんだ。
「い、いやら……」
ちずるは真っ赤になった。全身が赤く染まる。静かに湯船に沈む。顔の半分まで沈んで、ぶくぶくと泡をたてた。
だっぱーん。
立ちあがる。お湯しぶきのなか、盛大に揺れるおっぱいぱーい。
「しかたないでしょ! この状況じゃ……うう、いやらしくならないほうがおかしいんです! ヒトはね、だって一年中発情期なんだから!」
「だってちずるはケモノでしょ? えーと」
望は首を傾けた。
「……淫獣《いんじゅう》?」
「淫獣!? 淫《みだ》らな獣!? だ、だ、だ、だれがビースト・オブ・エロスだ! あなただってケモノでしょーが、このオオカミ!」
「わたしはまだ、発情期じゃない」
「ホントかどうか、たしかめてやるー!」
うがー、とちずるは組みつく。お湯がじゃばじゃばと波うった。耕太の顔にざばざばとかかった。
「やだちずる、ヘンなところ、触らないで」
「あなただって、ど、どこつかんでるのよ!」
「おっぱいだよ。ちずるのおっぱい、とても大きい……これ、あぶらみ?」
「あぶらみ違う! これは女の子の秘密兵器、すなわち色気肉!」
「お尻《しり》も大きい……あぶらみ?」
「色気肉だっつってんでしょーが! あなたが小さいのよ! このつるぺたきゅー!」
「じゃあ、ここは?」
「ちょ、脇腹《わきばら》をつまもうとしないでよ! や、そこは二の腕!」
じゃばじゃば、ざばざば。
しぶきできらめく視界のなか、くんずほぐれつなふたつの肢体。ぼく、もう……もう……。とめどなく流れる赤い鮮血、遠のいてゆくピンク色の意識。耕太は湯船に、ぶくぶくと沈んでいった。
ぶく……ぶく……もが……がぼ……。
「えーい!」
ちずると望《のぞむ》は互いに離れた。びしっとちずるが望を指さす。
「犹守《えぞもり》望《のぞむ》、おまえはもう――わたしの敵だ!」
「……つまり、宣戦布告?」
ざば、とちずるは体を真横――耕太側に向ける。
「耕太くん! おっぱいは大きいほうがいいよね!」
望も体を耕太側に向けた。こちらは静かなものだった。
「耕太、無駄がないほうが……きっと気持ちいいよ」
ちずると望、どちらもそのまま固まった。
ぷかーり。
耕太は背中から湯船に浮かんでいた。鮮血が湯面にじわじわと広がっている。まるで刺されて浮かんだ水死体のようなありさまであった。
「「こ、こ、こ……」」
ちずると望の声が浴室にハモる。
「「耕太くんー!?」」
最後も見事にハモった。
5
月明かりの照らす、夜道だった。
道の片側には住宅が建ちならび、その反対側には、樹木に囲まれた大きな公園がある。月の静かな蒼《あお》い光と、並んだ街灯のおかげで、さほど暗くはない。
望《のぞむ》は、そんな夜道をひとり、本を読みながら歩いていた。
「お風呂《ふろ》で、らぶらぶすきんしっぷ……本当に効果、あったのかな」
望の銀色の髪は濡《ぬ》れて、ぺたんとなっている。体からはほかほかと湯気があがっていた。
ブレザーの上着に、リボンタイプのネクタイ、チェックのスカートといった、薫風《くんぷう》高校の制服姿でいる。本を持つ両手の、うち左手に、さらに紙袋をさげていた。
「耕太、だいじょうぶだったかな。あんなに、はなぢ……」
本から顔をあげ、夜空を見た。
空にはぽかりと丸い月が浮かんでいる。
「でも、鼻血をだすってことは、興奮したってことだよね。あんなにたくさんでたってことは、たくさん興奮したってことだよね」
うん、うんとうなずいた。
「すごく元気……だったもんね」
視線を本へと戻す。
歩きながら、ぺらぺらとぺージをめくった。
「どうなんだろう……あかねに訊《き》いてみようかな。でも、なんだか、今回のこと話したら、すごく……おこられるような気が、する」
望は首を傾《かし》げる。
やがてその首をまっすぐに戻し、唇を、わずかにほほえみのかたちに曲げた。
「あかね、いいひとだから」
ふふ、と笑う。
「耕太も、いいひと。ちずるも……まあ、いいひと、かな」
ひょこ、と望の頭で、三角形の耳が動いた。
いつのまにか望は、狼《おおかみ》の耳を生やしていた。スカートからは狼のしっぽだ。どちらも銀毛で、その毛なみは硬そうに尖《とが》っている。
うふ、うふふ……。
望が笑い声を洩《も》らすたび、しっぽはぱたぱたと横に振られた。
「――そこの道ゆくお嬢さん。なにやら耳としっぽが出ておりますよ」
低い男の声だった。
望は立ち止まり、真上を見あげる。耳としっぽはしゅるん、と引っこんだ。
夜空へと伸びる電柱の一本。その柱のてっぺんに、男がひとり、銀色の月を背中にして腰掛けていた。
「兄《あに》さま」
朔《さく》だった。
「よう。ごきげんだな」
望《のぞむ》に向かって、静かにほほえみかける。
「兄さまも」
ははっ、と朔は笑った。
「まあな……見ろよ、いい月だ。うずうずと、こう……ひとっ吠《ほ》えしたくならんか?」
「それは近所めーわくだよ、兄さま」
「わかってる。だから、ほれ」
電柱に腰掛けた朔が、望に向かって、大きな入れ物を振ってみせた。ちゃぽちゃぽと鳴る。大小でこぼこな曲線の入れ物……とっくりだった。
「酒でも呑《の》んで、おとなしく我慢、我慢、というわけだ」
「本当に我慢……? かえって楽しそう」
首を傾《かし》げる望に、朔は高笑いをあげた。はっはっは……と笑って、とっくりを口に運ぶ。ぐいと呑んだ。
「でも、どうしたの、兄さま。こんなところで、そんなところで」
ぷはーっ、と朔はうまそうに息を吐いた。口元を袖《そで》でふく。
「おいおい。おまえの帰りがあんまり遅いもんだから、わざわざ心配して迎えにきてやったんじゃないか。そのついでに月見酒としゃれこんだだけで……おい、勘違いするなよ。あくまで望《のぞむ》を心配して、だからな。酒はついで、だからな」
「ねえ、兄《あに》さま」
「ん?」
「首、痛い」
望は首をほとんど九十度に曲げて、すぐそばの電柱を見あげていた。
「おお、すまんすまん」
月影が舞う。
朔《さく》は音もなく望の前に降り立った。
いつもの、革のジャケットに革のパンツ、革のブーツといういでたちだった。ぱさついた銀髪で、首にはゴーグルをぶらさげている。
「兄さま、ぶるんぶるん、は?」
望はハンドルを持つように手を構え、右の手首をひねった。
「ぶるんぶるんじゃない。バイクだ。バイクはおまえ、呑《の》んだら乗るな、乗るなら呑むなだよ。そんなの常識だろ?」
「それはニンゲンの常識……兄さまって、ヘンなところにこだわるよね」
「己のなかの決まりに従ってるだけさ……いいか、望。己の決まりに従うってのはな、ただ自分勝手なことをするというのとは違うんだ。覚悟を持って選んで、経過も結果もそのすべてを、己の背に負って生きてくってことなんだ。わかるか、そういうの」
ううん、と望は首を横に振った。
「わかんない」
「ま、いつかはおまえもわかるときがくるさ。なぜなら、望、おまえは狼《おおかみ》、誇り高きニホンオオカミの化身だからだ。いつかかならず、わかってしまう[#「わかってしまう」に傍点]ときがくる」
「わかってしまう、とき……? 兄さまもそうだったの?」
「おれか? おれの場合は……どうだったかな。生まれたときからこんなもんだったような気がするが……思えば、母狼の乳房を吸うときからすでにこだわっていたな。右乳房の、前から二番目のやつで……まあ、おれはエゾオオカミだから……これは関係ないか?」
「母、狼……」
かすかに望は眼《め》を伏せた。
その肩を朔が叩《たた》く。がくん、と望の体は傾《かし》いだ。
「落ちこむな! おれがいるだろうが、この素晴らしい兄が。なあ?」
肩を押さえてわずかに顔をしかめていた望だったが、朔の満面の笑顔を見て、にこりとほほえみ返した。
「うん。兄さまがいるし……」
はにかみながらうつむく。
「耕太も、あかねもいるし……あと、ちずるも」
「ほう……」
朔《さく》のさわやかだった笑みが、にたりとひと癖あるものへと変わる。
「ちゃんと仲良くしてるようだな……ふむ」
鼻をかすかにひくつかせた。
「なにやらさっきから、ぷんぷんと石けんの匂《にお》いをさせていると思ったが……それか?」
「うん。らぶらぶすきんしっぷ」
「ら、らぶ?」
「らぶ」
「……それは?」
朔が、望《のぞむ》が手に持っている紙袋に向かって、顎《あご》先をしゃくった。
「毛糸と、編み棒。つぎの作戦」
「毛糸? 編み棒? ふーむ……。で、その本は」
望は本の表紙を広げて見せる。朔はしげしげと眺めた。
「なになに……『鈍感な彼氏をソノ気にさせる一〇〇の方法』……? これか? 昨日の夜、おまえが買ってきた本は」
「うん。耕太の攻略本」
はっ! と朔は笑い飛ばした。
「まるでゲームだな。で? 攻略された相手は、いったいどうなった」
「帰った」
「帰った?」
「うん。耕太、頭に血がのぼって、鼻血だらだらで、ぷかーってなったから、わたしとちずるで引っぱりあげて、とりあえず寝せて、そうしたら、ちずるが人工呼吸しなきゃっていうから、わたしもするっていったら、ちずるが怒って、つかんできたから、わたしもつかんだの。ちずるのおっぱい、大きかった」
「……ほほう」
「で、わたしたちがつかみあっているあいだに、耕太、目を覚まして、よかったって思ったら、耕太、わたしたちを見て、また鼻血ぶーって……そのまま、帰っちゃった」
「……どんな格好してたんだ、おまえら」
「はだか」
「……なるほど」
「耕太、あわてて服を着て、まだ半分しか着てないのに、ひいい、っていって、走って帰っちゃった。靴、かたっぽ残ってた」
「それは帰ったというより、逃げたといわないか……? まあ、それはいい。その帰った耕太くんに、おまえはどうしたんだ。ちずるは?」
「ちずるは追いかけた。わたしはお風呂《ふろ》に入った」
朔《さく》は下を向き、とんとんと自分の眉間《みけん》を指先で叩《たた》いた。
「ん〜〜。風呂《ふろ》に入った……なんでだ?」
「耕太はね、ジュンジョーカレンなトーヘンボクだから、おしとやかに攻めたほうがいいんだよ。だから」
「ん〜〜?」
とんとんととんと、朔の眉間を叩く指先の動きが激しくなった。
「わかるような、わからんような……けっきょく、らぶらぶすきんしっぷとはなんだ?」
「兄《あに》さま」
ぶつぶつ呟《つぶや》いていた朔が、あん? と顔をあげた。
「あと、どのくらい?」
ぱちりと朔は眼《め》を見開く。
「そうさな……まだいろいろと調べることがあるが、まあ、それでも思ったほどに警戒は厳重じゃないからな……そう、一週間だな。あと一週間で、すべてが終わるだろう」
「一週間……」
望《のぞむ》がうつむく。
「それしか、いられないんだ」
望は歩きだした。
「帰るのか?」
「うん。兄さまは?」
「おそらくはお客さんが、おれの様子を探りにくるだろうからな……せいぜいからかってやることにしよう」
「お客さん……ちずる? ほどほどにしてあげてね」
振り返らずに、望はいった。
「湯冷めするなよー」
遠ざかる背中を、朔は手を挙げて見送った。
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[#小見出し] 五、愛がぼくを殺すかもしれない、そんな一週間[#「五、愛がぼくを殺すかもしれない、そんな一週間」は太字]
1
〈初日 木曜日、朝〉
「どうしてなの!」
生徒指導室の狭い空間に、ちずるの声が響いた。
「あいつは『葛《くず》の葉《は》』とおなじくらい大きな組織の一員なのよ! ここを本気でつぶそうとしてるわけ! なのにどうしてなにもできないのよ!」
びたーん、と机を叩《たた》いた。
乗っていた卓上ライトががたがたと揺れる。窓にひかれたカーテンのすきまから、朝の光が射しこんでいる。そのまばゆい光を、ライトの金属部分がちかちかと反射した。
「証拠がない」
グレーのスーツ姿の八束《やつか》が、揺れるライトを手で押さえた。
「『葛の葉』と同規模の組織というが、いったいそれはどこなんだ。国内で我らに互する組織といえば、その数は限られるが……いずれも『葛の葉』とは友好的な関係を築いている。となれば国外だが、犹守《えぞもり》朔《さく》、やつがクリスチャンだというのか?」
「あいつとまったくおなじこといいやがった!」
うー、とちずるはうなる。
「……なんかおかしい。学校を破壊するとまでいわれてるのに、熊田《くまだ》を倒すともいってるのに、ただ黙って見ているだけなんて」
「熊田に関してはどうもできん」
八束が口をかすかにへの字に曲げた。
「源《みなもと》、おまえだってよーくわかっているだろう。熊田は強い相手と見ればみさかいがない……いまごろ犹守にケンカを売っているかもしれんぞ。熊田のほうからな」
ぐぐぐ……とちずるは奥歯を噛《か》みしめた。
「だ、だからって」
「ほ」
窓のカーテンごしに、外を覗《のぞ》いていた小さな人形が、声をあげた。
「ちずるよ、おぬしがそれほどまでにここを愛してくれていたとは知らなんだ」
着物姿の砂人形は振りむき、泣きまねをしてみせた。
「感動じゃのー、教育の成果じゃのー、われらの理念はまちがってはおらんかったのー」
「やかましい! そんなんじゃない!」
ミニ御方《おかた》さまに向かって、ちずるは吠《ほ》えた。
「そんなんじゃ……ないったら。あなただってわかってるでしょう。わたしが耕太《こうた》くんと一緒にいるためには、ここに、薫風《くんぷう》高校にいるしかないのよ」
ふむ、とミニ御方《おかた》さま。
「ところで、その愛《いと》しの耕太くんが大変なことになっておるんじゃが」
「はあ?」
ちずるはずかずかと大股《おおまた》で窓に近づく。カーテンのすきま、まばゆい光のなかを覗《のぞ》きこんだ。
じいーっと外を眺めーとたんに目尻《めじり》がつりあがる。
窓から一望にできる学校の敷地。その入り口にちずるの視線は釘《くぎ》づけとなっていた。
耕太がいた。
そして耕太のとなりには、銀髪の少女がいた。
いまにも校門を通りぬけようとする耕太の腕に、望《のぞむ》がしっかりと抱きついている。
「〜〜〜〜〜!」
声にならない声を洩《も》らすちずる。
耕太と望の後ろには、不機嫌そうに眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せるあかねと、うれしそうに笑顔でいるたゆらもいたが、ちずるの視界には入っていなかった。
「ちょっとでも目を離すとっ! 兄妹そろって、あいつらはっ!」
ちずるは風のように飛びだし、風のように去った。ずたたたと遠ざかる足音。
八束《やつか》は開けっ放しのドアを静かに閉める。
「……どういたしますか、御方さま」
「む?」
「朔《さく》ですよ。やはりこのままでは」
「ほうっておけい。こういうときにはの、下手に動かぬほうがいいのじゃ。好きなように調べさせておけばよい。どうぞお好きに、なんにもございませんが、という顔をしてな」
「……御方さま」
八束は鋭い目つきをさらに鋭くして、窓辺の御方さまに近づいた。
「なんじゃ、そんな怖い顔をして。愛の告白なら幾《いく》にせえよ。押し倒すのも幾にせえよ」
「御方さま……教えてはいただけませんか」
「幾の指輪のサイズか? それなら二号じゃが……ついに覚悟を決めたか?」
八束は顔色ひとつ変えない。
「源《みなもと》のことです。いや、小山田《おやまだ》のことといったほうがいいのか……」
ミニ御方さまは、にんまりと笑みを浮かべた。
「……いうてみい」
「源ちずるは『扉』、小山田耕太は『鍵《かぎ》』――違いますか」
沈黙が流れる。
カーテンの向こうから、かすかに登校する生徒たちの楽しげな声が聞こえた。
「ま、当たっておる」
「では――」
「ただし、半分だけじゃ」
意気ごむ八束《やつか》に、御方《おかた》さまは手をぴんと伸ばした。
ちっちゃな手のひらを見つめて、八束は眉《まゆ》をひそめる。
「半分、だけ?」
「いまはここまで。壁に耳あり障子に目あり、ついこのあいだも、思いっきり立ち聞きされてたんじゃろ?」
「あれは不覚でした。あれから結界も張り直し……」
「徹夜での。あまり無理するな、幾《いく》が悲しむ。わしも悲しい」
御方さまは窓のほうを向いた。
「もったいないお言葉です」
八束は御方さまの小さな背に向かって、うやうやしくお辞儀した。
〈同日、昼〉
お弁当の匂《にお》いがただよい始めた、お昼の教室。
耕太の目の前には、ふたつのお弁当が置かれていた。ひとつはおいなりさんで、ひとつはホットドッグ――昨日、ちずると望《のぞむ》が作ってきたお弁当と、種類はおなじだった。
「う……」
しかし、おいなりさんからはエビのしっぽが飛びだし、ホットドッグにはソーセージの替わりにさんまが挟まっていた。
耕太はぐびりと唾《つば》を呑《の》みこむ。
「どう、耕太くん。新しい味にチャレンジしてみたんだけど……これ、中身はピラフなの」
「わたしもチャレンジしてみた。ホットドッグならぬ、ホットサンマ……」
望は、いつものあまり表情の変わらない顔で、じっと見つめてくる。
「は、はあ……」
耕太はちずるの輝く笑顔を見やり、望の静かな表情を見やり、興味のなさそうなあかねを見やり、楽しげなたゆらを見て、最後に、エビピラいなりとホットサンマを見おろした。
やはりなくなってはいない。
「さ、耕太くん、どうぞ」
「耕太、いただきます、して」
ぐびりと耕太は喉《のど》を鳴らした。残念ながらおいしそうだからではない。早く食べたくてしかたがない、といった渇望からくる体の動きではなく、むしろこれは、あれだ、絶望?
覚悟を決め、耕太はゆっくりと両手を伸ばす。
まぶたを閉じ――ふたついっぺんに、あーん。
「うっ」
口のなかに広がる、あぶらげのしょっぱみと甘みと油分とパンの甘みと油分とバターのコクと油分とサンマのうま味と油分とエビフライの油分と……ともかく油分で、なんだかもう耕太の体は、じっとりねっとりこってりぎっとり。
ふぎゃー、と耕太は叫んだ。
〈二日目 金曜日、昼〉
今日のおいなりさんからは、鯛《たい》の赤いしっぽが飛びだし、おまけにそれはまだぴちぴちと動いていた。ホットドッグにはかにが挟みこまれ、またそのハサミも動いていた。ぶくぶくと泡を吹いている。食べてみた。
はぎゃー、と耕太は叫んだ。
〈三日目 土曜日、昼〉
うきゃー、と耕太は叫んだ。
〈四日目 日曜日、昼〉
あひぃー、と耕太は叫んだ。
〈五日目 月曜日、昼〉
耕太はあかねから、「はっきりしない小山田くんが悪いんでしょ」といわれた。
「まずいものはまずい。はっきりとそう告げずに、無理に食べて無理においしいなんていうから、どんどん創作料理が不気味な方向にいくんじゃないの。あれね、小山田くんは優柔不断なのをやさしさと勘違いしているタイプね。本当のやさしさというのは、たとえ一時は相手を傷つけるとわかっていても、本当のことを告げてあげることなのよ。そうすることで、相手はよりよい方向に進むことができる……小山田くん、きみのは偽善です」
「やーいやーい、偽善者!」
と、たゆらからもいわれた。耕太は返す言葉もなかった。
でも、土日もお弁当を食べていたといったら、同情された。
ちなみに今日のおいなりさんは、普通のやつかと思って喜んでいたら、中身がカレーだった。ホットドッグはソーセージの中身が納豆だった。フェイントはひどいと、耕太は思った。
〈六日目 火曜日、昼〉
今日のおいなりさんからは、ソーセージが飛びだしていた。一方、ホットドッグにはソーセージの替わりにご飯が挟まっていた。どうやら、お互いのいいところを奪いあったらしい。なにか大切なことを忘れていると、耕太は思った。
〈最終日 水曜日、昼〉
どん、と耕太の前に、重箱とバスケットケースが置かれた。耕太の机だけでは置ききれず、たゆらとあかねの机もくっつけて並べていた。
ざわざわとなるクラスメイトたち。
すごい気合いだ……との声が、耕太の耳にも届いていた。
ちずると望《のぞむ》が、それぞれの弁当箱を開ける。いつもとは違い、「じゃーん」のかけ声はなかった。
「おお……!」
どよめく教室のなか、耕太も眉《まゆ》をぴくりとあげた。
箱こそ大きいが、中身は普通のおいなりさんに、ホットドッグだった。
だけど……。
耕太は油断しない。これは前にもあった。普通の料理だと思ってはいけないのだ。ちずると望ふたりの、いや、たゆらやあかね、クラスメイトたちの視線をも感じながら、耕太はおいなりさんに手を伸ばした。
口元へ運ぶ。淡々と。
はむ、はむ……。
「うん!?」
耕太の声に、手を重ねあわせて祈っていたちずるが、ぎゅっ、と強くまぶたを閉じた。その姿を横目にしながら、耕太は顎《あご》を動かし続ける。
甘辛いあぶらげ、薄く味のつけられたかやくご飯――。
「お、おいしい……」
ぱちっ、とちずるがまぶたを開ける。
「ホント、耕太くん!」
「は、はい。普通に、おいしいです」
本当に、おいしい……信じられない思いで、耕太は半分になったおいなりさんを、すべて口のなかに放《ほう》りこむ。むぐむぐ……やっぱり、おいしい。
「やったあ!」
「――感謝しろよ、おい」
たゆらがひょいと手を伸ばして、重箱からおいなりさんを取った。食べる。
「普通に作ったほうがいいって、おれがちずるにアドバイスしてやったんだからな。いまおまえが倒れずにすんでるのはつまり、おれのおかげなんだからな」
「それはどういう意味だ!」
ちずるはたゆらの頭に腕を巻きつけ、締めあげた。笑顔だった。
「いた、いた、いた……ちょ、ちょっと、ちずる、マジ痛いって!」
「あはははは」
ぎりぎりぎり。たゆらの顔がだんだんと青ざめてくる。耕太はたゆらの苦しげにばたつかせている手をつかんで、両手で握手したい気持ちだった。
ありがとう、たゆらくん、本当にありがとう!
「――耕太」
望《のぞむ》がじっと見つめていた。
「わたしのも、食べてくれる……?」
「う、うん」
耕太はホットドッグをつかみ、かぶりついた。
パンがざくっ、ソーセージがぷちゅっ、肉のうま味が、ケチャップとマスタードとともに舌の上に広がり……。
「おいしい! こっちも、おいしい!」
「よかった……」
望は笑顔を見せた。
きゅっと眼《め》を細め、唇をやわらかく曲げた、華やかで明るい笑み。ほぅ……と耕太のみならず、クラスメイトまでが息をのんだ。
むー。ちずるは唇を尖《とが》らす。
「ち、ちず……る……苦、し……」
頭を締めつけられていたたゆらの体から、だらりと力が抜けていった。
「ふうん……わたしもひとつ、いいかしら?」
あかねがふたつの弁当箱を指さした。
「そんなに食べたいんなら、どうぞー?」
ちずるはたゆらを締めつけながら答えた。
「うん、食べて、あかね」
望はこくりとうなずく。
「では」
あかねはまず望のホットドッグから食した。
「へえ。普通に作れば、こんなにおいしいんじゃない、犹守《えぞもり》さん」
「あ、ありがと……」
望はうつむいた。
「うれしい……」
小さく呟《つぶや》いた。
続けてあかねはちずるのおいなりさんを食べる。ふーむ、とうなった。
「ちずるさんが、ここまで普通の料理を作れるとは……人は見かけによらないって言葉を、わたしはいま現実のものとして目の当たりにしているわ」
「どうして素直に褒められないのよ、あなたは」
ぎりぎりぎり。もうたゆらはちずるの締めつけに反応をしめさなかった。
「でも、小山田くんも大変よねえ……」
あかねがしみじみと呟いた。
「へ?」
もぐもぐとおいなりさんを食べていた耕太は、あわてて顔をあげる。
「だって、どっちがよりおいしいのか、小山田くんが選ばなくちゃいけないんでしょう?」
「そ、そーだった、耕太くん!」
ぱっとちずるが腕を放す。ぱたりとたゆらは倒れた。ぴくりとも動かない。
「耕太くん、どっち、どっちがおいしかった?」
「や、その……」
「――いい」
え、と耕太は見あげ、へ、とちずるは真横を向く。
望《のぞむ》は、うつむいたままでいた。
「べつに、無理して決めなくていいよ、耕太」
「あー!」
ちずるが叫んだ。あー、あー、あー、と望を指さす。
「いい子のふりして!」
「いい子のふりじゃないよ。ただ、べつに、もう、いいかなって……」
「そーれーがーいい子のふりだっていうんですぅー。まったく、兄妹《きょうだい》そろって気にくわないったら……昨日の夜も、あのバカ犬にはさんざん振りまわされるし!」
ぐぐぐ、とちずるは握り拳《こぶし》を作った。
「えーい、もう、こうなったら、覚悟しなさい!」
望に腕を伸ばす。
「ちょっと、なにしてるんですか、ちずるさん!」
耕太は立ちあがり、前からちずるを抱きしめるようにして、押さえた。
「止めないで、耕太くん! こいつらはね……きー、きー、きー!」
ぶんぶんとちずるは腕を振りまわす。望の顔すれすれを飛びかう手の爪《つめ》は、獲物を狙う猫のようにしっかりと立てられていた。
「落ちついてください、ちずるさん!」
「もう我慢の限界なのー! やらせて、耕太くん!」
「……耕太、またわたしを助けてくれた」
え、と耕太は振りむいた。なに、とちずるの腕の動きも止まる。
望はほほえみながら、首を傾《かし》げた。
「これで、三度目だね」
「え……あ、まあ」
「なんなのよう、そのなんか『いい雰囲気』は!」
ちずるの腕の動きが三割増しになった。ぶんぶんぶんぶんと振りまわされる。
「ち、ちずるさん……」
だんだん耕太は押されてきた。
ま、まずい……。
どうしよう、と耕太は焦る。そのとき、耕太の脳裏にひとつの言葉が甦《よみがえ》った。
(あのね、ボウヤ。彼氏ならね、ときにはビシッと叱《しか》ってやらなきゃいけないよ)
――肉屋のおじさん!
(万が一、耳を傾けるとしたら……それはズバリ小山田くん、きみの言葉だけ!)
――朝比奈《あさひな》さん!
(おまえもこの阿呆狐《あほうきつね》の恋人なら、たまには叱ってやったらどうだ)
――八束《やつか》先生!
コック帽をかぶったおじさんが、眼鏡の位置をくいっと直してる少女が、三角形の鋭い目つきの男が、それぞれ耕太に語りかけてきた。
彼氏なら……彼女を……ぼくが……ちずるさんを!
「ちずるさん!」
大声をあげた。
ちずるの体が固まるのがわかった。すかさず耕太は体を起こし、ちずると真正面から向かいあう。
「い、いいかげんにしないと……お、怒りますうぇっ」
最後、舌を噛《か》んでしまった。あいたた……耕太は口元を手で押さえる。な、慣れないことしたから……。
ちずるが足元をよろめかせた。
「え?」
よろめきながら、二歩、三歩とちずるは耕太から離れてゆく。わなわなと震えて、唇をぎゅっと噛んで、眉《まゆ》はハの字になっていた。
「ええ?」
みるみるちずるの瞳《ひとみ》がうるんでゆく。
「耕太くんが……耕太くんが……耕太くんが!」
手で顔を覆う。
「ううううう〜!」
黒髪が舞う。
ちずるが背を向け、そして走りだしたのだと耕太が気づいたときには、すでに彼女は廊下に飛びだしていた。
「泣かせた……」
「泣かせたよ……」
教室がざわつく。
「えええ?」
耕太は救いを求め、たゆらを見た。
たゆらは机に突っ伏していた。その横顔は真っ白で、口から舌を出している。いまの騒ぎにも、ぴくりとも反応を見せない。
「――小山田くん」
びくん、と耕太は震えた。
おそるおそる後ろに顔を向ける。
あかねが、眼鏡の位置をくい、と直していた。
「なにをやってるの……?」
「ふえ」
だん、とあかねが足を踏みならす。
「はやく追いかけなさい!」
「はいー!」
耕太は転びそうになりながら駆けだした。
「ちずるさん、ちずるさんっ」
耕太は廊下を走っていた。八束《やつか》先生に見られればさぞかし厳しいお説教を喰《く》らうだろうが、気にしてはいられなかった。
ふたつ角を曲がり――。
「ちずるさん!」
そこで、抱きしめられた[#「抱きしめられた」に傍点]。
「あい?」
ちずるは曲がり角のすぐ向こうにいた。そして耕太を正面から抱きしめていた。
自分の体を受けとめる、やわらかい――とくにやわらかいふたつのふくらみを顔の下半分に感じながら、これはいったいどういうことだろう、と耕太が思っているあいだに、ちずるによってすぐそばの教室へと引きずりこまれた。
「え? わわ?」
教室のなかは薄暗かった。
うっすらと、横に長い机が並んでいるのが見える。机の端には水道の蛇口があった。ここは化学実験室で、暗いのはカーテンが閉めきられているからだ……と耕太が気づいたときには、背後でドアが閉じられていた。
ちずるはドアの前に立ち、きらめく瞳《ひとみ》で耕太を見つめている。
「あの……ち、ちずるさん?」
「うれしかった」
「え」
「耕太くんがちずるのこと、叱《しか》ってくれたこと。ちゃんと、追いかけてくれたこと。すっごく、うれしかった」
「な、泣いてたんじゃないんですか?」
「ごめん。あれは、う、そ、な、き」
耕太は口をあんぐりと開ける。
「嘘《うそ》、泣き……ええー?」
「さて、耕太くんはいったいどんなおしおきをしてくれるのかな」
「おし……おき?」
ふふっ、とちずるは低く笑い声を洩《も》らした。
「だって、いけないちずるにお説教してくれるんでしょう? 悪いことしたから、わたしのためを思って、怒ってくれるんでしょう? だったら、もう二度とおなじことしないように、おしおきしなくちゃだめじゃない」
うふふ、ふふ……。
ほほえみながら、ちずるは耕太に近づいてくる。足音がやけに高く響いた。
「あ、あの」
「どんなおしおき? ねえ、なんでもいいんだよ……?」
するりと耕太の首筋に、ちずるの腕がまわされた。唇を寄せ、耳元でささやいてくる。
「痛くしても……恥ずかしくしても……いいのよ……?」
かーっと耕太の頭には血がのぼってきた。くらくらする。
「お、おしおき? おしおきですか? えと、その、あのう」
ぼんやりとかすんできた耕太の頭に、幼いころの映像が浮かぶ。
昔、まだ耕太が小さなころ、祖父の大切にしていた盆栽を壊して、すぐに正直に話せばよかったものを、ごまかして嘘をついたために、ひどく怒られて……。
おじいちゃんに抱えられ、お尻《しり》を、ぺん、ぺん、ぺぺん。
「おしり……ぺんぺん……?」
「きゃはっ」
喜びの声をあげ、ちずるは満面の笑みをみせた。薄暗がりのせいか、その笑顔はやけに、こう、ねっとりと絡みつくように見えた。
「え?」
気がつくと、耕太は化学実験室の丸|椅子《いす》に座らせられていた。
そしてちずるは、そんな耕太の膝《ひざ》に、横からうつぶせとなって乗っていた。耕太の太ももに、ちずるのやわらかいおなかの感触とぬくもりが伝わってくる。
「どうして……こんなことに」
耕太はちずるの背中を見おろす。いつもなら艶《つや》めく黒髪に覆われている背中があらわになっていた。ブレザーとスカートの間から、白いワイシャツが覗《のぞ》いている。
ぼくは……ちずるさんを叱《しか》ったはず……なのに。
ちっとも彼女が反省して見えないのは気のせいだろうか。というかこれなんか違うやっぱりぜったい違うこれ――と悩む耕太の前で、ちずるがスカートのなかに手を差し入れた。
するりと白い布を降ろす。
膝まで布を下げておいて、ぴらりとチェックのスカートをまくりあげた。鮮やかに白い曲線があらわとなる。
「おし……りー!」
耕太は立ちあがろうとした。太ももの上のちずるが邪魔で、腰が浮くだけで終わった。
「な、な、な……なにをやってるんですか!」
「だって、おしりぺんぺんするなら、ぺんぺんするところ、ださなくちゃだめでしょ?」
「そ、そ、そんなこと……」
耕太はまくりあがっていたスカートを降ろした。
「しなくてもけっこーです!」
「だめよ、だめだめぇ」
ぺらんとちずるがめくり直す。やはり白い。
「それじゃおしおきにならないもの。やっぱり痛みは生で味わわなくっちゃ」
「な、生……」
耕太は座っているのに立ちくらみを覚えた。頭を手で押さえる。
「では、耕太くん、どうぞっ」
手足をぴんと伸ばし、ちずるはきゅ、と体を硬くした。つるんとした白い曲線も、きゅっと引き締まる。かすかに盛りあがり、横にくぼみの影ができた。
耕太はぐびりと唾《つば》を呑《の》みこむ。
「いや、どうぞっていわれても、その」
ぷっはー、とちずるが詰めていた息を吐く。お尻《しり》の緊張も弛《ゆる》む。ふるるん。
「もう、耕太くんったら……じらして、そうやって、ちずるをいじめるつもりなのね? いつくるか、いつくるかって……どきどきさせるつもりなのね?」
かじかじとちずるが親指を噛《か》んだ。
「ちがう、ちがいます、ちがう……ちがいます……ちがう……ちがうんだ……」
ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、耕太は首を横に振った。
「はやくしないと、お昼休み終わっちゃうよ? だれか来ちゃうよ? いいの、耕太くん。こんな姿、だれかに見られちゃっても」
「いえ! よくありません!」
「じゃあ、ちゃっちゃとおしおき、すましちゃおうよ。ね? ねね?」
は、はあ。
いまだ納得できないながらも、耕太は右腕を振りあげる。
あげて、あげたままとなった。
……どうしよう。
またもや、ちずるが詰めていた息を吐いた。お尻の張りも弛んだ。ふるりりん。
「もう、耕太くん――」
じとりと細めた眼《め》で耕太を見つめてくる。
「いや、だって、やっぱりぃ」
「あ、だれか来た」
ちずるがドアのほうへと顔を向けた。
たしかにぱたぱたと足音が近づいてきている。みるみるうちに迫る音に、耕太はひい、と声を洩《も》らした。思わず眼《め》をつぶり、思わず振りあげていた手を――いきおいよく打ちおろしてしまう。
ぱっちーん。
「きゃんっ」
甲高い声を洩らしたちずるが、すぐさま口元を押さえる。
廊下をいそぐ人物は、その声には気づかなかったようだ。そのまま足早に歩き去ってゆく。耕太は遠ざかる足音を、自分の手のひらを見つめながら聞いていた。しびれたような感触が残っている――やわらかいように見えて、ぎゅっと詰まっていた――耕太の手のひらを受けとめて、そして弾《はじ》く――。
足音が消えた。ちずるはほっと力を抜く。
「ちょっぴりだけ……あぶなかったかな。ね、耕太くん……耕太くん?」
「え」
ちずるが首を曲げて耕太を見つめていた。
ぼんやりと手のひらを眺めていた耕太に、口元をにんまりとほころばせる。
「いや、違う、違いますよ。これは、その、あの」
「いいのよ、耕太くん。そ、れ、で」
ちずるが前を向いた。
「はい、つぎ、お願いします」
くいっと腰をあげた。ふり、ふり、と振る。
「あ……う……」
ぱしーん。
「ひゃんっ」
ぺちーん。
「きゃうっ」
ぴちーん。
「ひゃはっ」
耕太は、がくりとうなだれ、頭を抱えていた。
「ああ、たっぷり怒られちゃった、叱《しか》られちゃった! うふふっ」
うつろな眼で見あげる耕太の前で、ちずるは全身から喜びを放っていた。スカートの上からお尻《しり》をさすりながら、ぴょこぴょこと爪先《つまさき》立ちになる。
白い布はまだ膝《ひざ》のところにあった。
ちずるは腰をかがめて、白い布をぐいと引きあげる。腰を振りながら履いた。そうして、スカートのなかに両手を差し入れた姿勢のままで、うん? と首を傾《かし》げる。
いきなり脱ぎだした。
片足をちょんと上げて、外し、もう片足も上げて、完全に白い布を脱ぎ去る。
「……?」
その様子を、耕太は口を半開きにして眺めていた。
ちずるはすたすたと歩いて、ゴミ箱の前に立つ。手に持った白い布を、ゴミ箱へと落とした。落ちゆく丸まった布――。
それを耕太はダイビングキャッチした。
ごろごろと転がる。がしゃん、と壁のガラス戸にぶつかった。
驚きの表情を浮かべているちずるを、床から見あげた。
「な、な、なにをしてるんですかっ!」
「だって、汚れちゃったから」
「よ、汚れ……」
耕太は、まるで熱い焼きいもを手のなかで転がすようなしぐさで、丸まった白い布――ちずるのぱんつを手のなかで転がした。
「替えの下着はあるし……だから、いらないかなーって」
「だからって、こんなところに捨てたら、だれに見られるか……見られてしまうか!」
ちずるはにこりと笑う。
「だいじょうぶよ、ほら。耕太くんがちゃんとしてくれるから。ね?」
え?
耕太は笑顔のちずるを見て、手のひらの丸まったぱんつを見た。なんだか……ぼくの動きって、簡単に見透かされている?
「ん〜〜〜」
ぐいっとちずるが背伸びをした。
「最近、ちょっといろいろあって、ね……。こう、いらいらしていたというか、たまっていたというか。耕太くんに叱《しか》られて、だいぶすっきりしちゃった」
「いろいろってもしかして……犹守《えぞもり》さんの、望《のぞむ》さんのお兄さんのことですか」
ふふっ、とちずるはほほえむ。人さし指を耕太の唇に当てた。
「耕太くんは心配しなくてもいいの。守るから。耕太くんのことも、この学校のことも、わたしが守るから」
「ちずるさん……でも」
はぐらかすように、ちずるは耕太に背を向けた。
「じゃ、わたし、いかないと」
「待ってください、ちずるさん。もしも困っているなら、悩んでいるのなら、ぼくにも話してください! だって、最近、いつも」
「だめ」
「ど、どうしてですか?」
「だって、わたし、はやく替えの下着、取りにいかなくちゃいけないんだもん。ほら、このままだと、風邪ひいちゃうから」
ぴらん。
背中を向けたままのちずるが、スカートをめくった。
「ふごっ!」
あわてて耕太は視線を下にそらす。
見た。見てしまった。ほんのりと赤かった――ぼくのせいだ!
サイテーダ、ボクハサイテーニナッテシマッタヨ、オジイチャン……耕太はうつむき、眼《め》をうつろに、口は半開きにする。あは、あはは……と笑った。
「では、耕太くん。わたしはいちおうの満足を得ましたから。耕太くんも、それを使って満足してね」
「満足……?」
ぼんやりと耕太はドアの前のちずるを見あげる。
ちずるは耕太の手のひらの上を指さしていた。そこには、丸まった、白ぱんつが。
「うあああおあ」
あちゃ、あちゃ、あちゃちゃと耕太は丸ぱんつを転がす。
「こ、これ、ち、ちず……持っていって……ちょっ」
「あー、わたし、愛されてるぅ!」
お尻《しり》をなでながら、ちずるは廊下へと出た。ぴしゃんと戸は閉じられる。
薄闇《うすやみ》のなか、耕太は両手で丸ぱんつを持ったまま、床に座りこんだ。
「どうしよう……これ」
耕太の手のなか、丸い布は、やたらと重く感じられた。
しかたがないので、その場にあったビニールにくるんで、ポケットにしまった。
秘密を上着のポケットに隠した耕太は、ため息をつきつき、廊下を歩く。もうそろそろお昼休みも終わりという時間なので、廊下に人影はなかった。
窓の外からはしゃいだ声が聞こえる。
おそらくは校庭でサッカーでもしてるのだろう。そういえば、お昼休みに遊ぶ派には、外でサッカーする派と、体育館でバスケットボールをする派のふたつがあることを、耕太は思いだしていた。耕太は昼はちずると一緒なので、どちらにも所属していない、いわゆる教室でだらだら派なのだが。
どの派にしろ、のんびりとした、健康的な、高校生にふさわしいお昼休みをすごしているのだろう。まさか、薄暗がりのなかでいかがわしい行為になどおよんではいまい。
ああ……耕太はよろめき、廊下の壁にずりずりと体をこすりながら歩いた。
「ぼくは、どんどんだめになっているような」
そんな気がするよ、おじいちゃん……。耕太は田舎の祖父を思った。
なんだか非常に故郷が懐かしかった。うーさーぎーおーいしー、かーのーやーまー……歌ったこともない童謡を、耕太は心のなかで歌った。
「あの、お、小山田……くん」
「うわあ!」
耕太は飛びあがり、あわててもたれかかっていた壁から離れた。
振り返る。
「や?」
後ろでは、おかっぱ頭の小さな女性が、眼《め》を丸くしていた。耕太よりも幼く見えるが、彼女の制服のワッペンは朱色。二年生で、耕太の一年先輩だった。
「み、澪《みお》……さん?」
朔《さく》と闘いを繰り広げた桐山《きりやま》を、後ろでそっと見守っていた人だ。かえるっ娘《こ》だ。けろ。
ぺこりと澪が頭をさげる。
「ご、ごめんなさい、小山田くん……お、驚かしちゃって」
「いえ、こ、こちらこそ、大声だしちゃって」
耕太も頭をさげた。あげると、まだ澪は頭をさげていた。またさげる。澪があげると、こんどは耕太が頭をさげていて、あわててさげる。こんどは耕太が頭をあげ……などというやりとりを、十数回、繰り返した。
「あの、それで、澪《みお》さん、ご用件は」
「あ、あの……」
澪はやわらかくたれた眼《め》のなかの瞳《ひとみ》を、泳がせた。
「え、犹守《えぞもり》、朔《さく》、さんのこと……なの」
耕太は自分の頬《ほお》がぴくっと引きつるのを感じていた。
「桐山《きりやま》くんが、犹守さんと、た、闘ったとき……」
「やられちゃったんですよね、桐山さん」
あう、と澪が泣きそうな顔をした。たれ目がさらにたれる。
耕太はいそいで手を振った。
「あ、あの、桐山さんは? お元気ですか?」
「修行するって……や、山ごもり、してる」
「山ごもり?」
瞳を涙でうるませたまま、澪がうなずいた。
「このままじゃ、か、勝てないからって、その日の、うちに」
は、はは、と耕太は笑った。たしかにあの人ならやりそうだ。
「それで、その……犹守、朔さんのことって……なんでしょうか」
「桐山くんと、犹守さんが、闘ってるとき……え、犹守さんが、桐山くんの、お兄さん、お姉さんのこと、話したって」
耕太は一週間ほど前の、ふたりの闘いを思いだしていた。
(――兄姉《きょうだい》に笑われるぞ、桐山《きりやま》臣《おみ》)
「ああ……いってましたね、たしかに、そんなこと」
「桐山くん、お兄さん、お姉さんのゆくえ、さ、探してるの」
「探してる……生き別れたとか、そういうことですか」
澪がうつむく。
「生き別れたというか、その……す、す、捨てられたというか」
「捨てられた!?」
こくりと澪はうなずいた。
「さんざんひどい目に遭って、裏切られて、す、捨てられたって……だから、桐山くん、あいつら、いつかやっつけてやるって、い、いつも」
「なる、ほど」
耕太は身近の姉弟《きょうだい》、ちずるとたゆらの姿を思いうかべた。いつも互いに悪口をいいあっているが、実際は仲は悪くないだろう。家族といっても、いろいろだ。そんなことを耕太は考えていた。
「それで、ね……」
もじもじしながら、澪《みお》が上目づかいに見あげてきた。
「ち、ちずるさん、が……え、犹守《えぞもり》さんと、お知りあいだって、いうから、あの、なにか……き、訊《き》けないかな、って……」
ちずると、朔《さく》が、お知りあい。
耕太の心はずん、と重くなった。
かつてのパートナー、相棒……恋、人……。
耕太は知らない。ちずると朔の過去を、本当はふたりがどんな関係だったのかを、耕太は知らなかった。考えまいとしていたそのことが、頭のなかをぐるぐると駆けめぐった。
ぼくの知らない、ちずるさんの姿――。
「あの……お、小山田、くん?」
いつのまにか耕太はうつむいていた。はっ、と顔をあげる。
「む、無理なら、その」
「あ、いえ」
耕太は奥歯を強く噛《か》みしめる。拳《こぶし》を強く握る。
「――わかりました。こんど、ちずるさんに、頼んでみます。……犹守さんに、そのこと、訊いてもらうように」
澪がまばたきしながら、うかがってくる。
「ほ、本当に、だ、だいじょうぶ? なんだか、顔色が……あまりよくない、ような」
そっと耕太は自分の頬《ほお》に触れた。たしかに少しひんやりしているような気がする。
「だいじょうぶです」
にこりとほほえんだ。うまく笑えているだろうかと思いながら。
「――知りたいか?」
低い声が、耕太の背中から聞こえた。
耕太は肩をびくつかせる。耕太の正面では、澪が眼《め》を見開き、身をすくませていた。
「あ、ああ……」
澪の声を聞きながら、あえてゆっくりと耕太は振り返る。
「犹守……さん」
銀髪の男が、いつもの革のジャケット、革のパンツ、革のブーツ姿で、近づいてきていた。あいかわらずの土足だった。
「朔でいいさ、耕太くん」
にやりと朔が口の端をあげる。
「おなじ女を愛したもの同士、仲間じゃないか」
「愛……した?」
「知りたいんだろう?」
朔が目の前に立つ。高かった。たゆらとおなじほど――おそらく一八〇センチはあるだろう。一六五センチの耕太は首を曲げて見あげた。
「……はい。桐山《きりやま》さんの、お兄さん、お姉さんについて」
「違うだろ」
「え」
「おれとちずるが、いったいどんな関係なのか、だろう?」
朔《さく》が銀色の瞳《ひとみ》でじっと見おろしてくる。
「あいつはな、毎日おれに会いに来てるぜ。昼はおまえと、夜はおれと……ふふ、忙しいことだよな、ちずるも。寝ている暇なんかないんじゃないか? 昨日だって、ひと晩中おれとデートだったしな」
耕太は黙って朔を見あげていた。彼の着ている革の衣服の、独特の鼻をつく匂《にお》いを嗅《か》ぎながら。
「どんな『コト』してるか……知りたくないか、耕太くん?」
すっ……と耕太は深呼吸をする。
知らず知らずのうちに入っていた体の力を、抜いた。
「――いいえ」
「ほう?」
朔が首を傾《かし》げた。
「知りたいときは、ちずるさんから直接、自分で訊《き》きます」
ふ、ふふふ……。
朔は笑っていた。低い笑い声が、やがて、はっはっは……と高笑いに変わる。
「そうか、はは、なるほどな……耕太、おまえはおもしろいな。じつにおもしろい」
笑いながら耕太の横を通りぬけた。
澪《みお》のおかっぱ頭を、ぽんぽんと叩《たた》く。ふみゅ、と澪が声を洩《も》らした。
「と、いうわけだ。彼を見習って、おまえさんの恋人にも、自分で直接おれに訊きにくるように伝えてくれ」
澪は両手で頭を抱えながら、朔から離れた。
「こ、これは、わ、わた、わたしが勝手に!」
「ははっ、気の強そうなぼうやだったからな……おれから力ずくで聞きだそうなんて考えてるのか? それならそれで、この犹守《えぞもり》朔《さく》、楽しみに待っていると伝えておいてくれ」
朔は窓をがらがらと開ける。
足をその窓の枠にかけた。ぐいと外に身を乗りだす。
「じゃ、またな、耕太くん」
にたりと笑みを見せつけ、朔は廊下の窓から飛びだしていった。
耕太と澪は、地上に降り立ち、そのまま駆けてゆく朔の背中を見送る。
「……ここ、二階なのに」
「ど、どこいくのかな、あ、あのひと」
「さあ」
耕太は朔《さく》がやってきた方向を見た。
「こっちって……階段をずっと上がって、さらに廊下を奥までいくと、澪《みお》さんたちが……熊田《くまだ》さんがたまり場にしている教室がありましたよね」
「あ……まさか」
もういちど、耕太は朔が飛びだした窓を眺めた。眼下には校舎裏が広がっている。すでに朔の姿はどこにもない。
「おなじ女を愛した……毎日会ってる……どんなコトしてたのか……」
「え?」
「い、いえ、なんでもないです」
耕太は笑顔でごまかした。
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[#小見出し] 六、傷つけあわなくちゃ、わからないことがあるらしい[#「六、傷つけあわなくちゃ、わからないことがあるらしい」は太字]
1
神社の境内は、一面、黄色い落ち葉で埋めつくされていた。
薫風《くんぷう》高校からおよそ十五分ほど歩いた、街の外れ。そんな郊外にある、緑に包まれた小さな山の上に、その神社はあった。
ヒビの入った石段、ところどころ朱塗りのはがれた鳥居、蜘蛛《くも》の巣まみれの本堂――日中なのにあたりが薄暗いのは、伸び放題に伸びた樹木が、すっぽりと境内を覆っていたからだ。その木々からの枯れ葉が、しんしんとふりつもってゆく――。
守るもののいない、さびれきった神社だった。
朔《さく》は、その境内の隅にある、小さな祠《ほこら》の前にかがみ、手をあわせていた。
祠のなかには、狐《きつね》の姿をした石像がある。朔は薄目を開け、じっとその狐を見つめ続けていた。
かすかに、朔の鼻が動く。
「――来たか」
朔は祠の扉を閉める。石段のほうを向きながら、立ちあがった。
鳥居の下に、大きな体があった。
顔が、首が、胸が、肩が、腕が、手が、そしてとくに胴回りが、太く、ごつい男だった。規格外の大きさの、しかしたしかに薫風《くんぷう》高校のブレザーを羽織っている。
男の左目は、十字の傷でつぶれていた。
「こんなところまで、はるばるようこそ――熊田《くまだ》流星《りゅうせい》!」
朔《さく》の言葉に、熊田は、むふん、と笑った。
ゆっくりと朔は境内の真ん中へと歩いてゆく。
「どうやら、おれの恋文《ラブレター》は気に入ってもらえたようだな」
むふ、と大きな口を曲げながら、熊田も歩きだす。どす、どす、と足音が響いた。
ふところへと手を差し入れる。
「うむうむ……ひさしぶりに胸が熱くなったぞ。これほどまでに熱い想《おも》いをぶつけられてしまったら、もはや応《こた》えるよりほかあるまい」
折りたたまれた手紙を取りだし、朔の前で広げた。朔は自分が書いた手紙を見あげ、にたりと唇の端を曲げる。
広げた和紙にはただひとこと――。
ぶっ殺す。
とだけ殴り書きされてあった。みみずののたくったような字であった。
朔は笑い声をあげる。熊田も笑った。
「では、さっそくやろうかね?」
「ちょっと待ってくれ」
腕をぐるんとまわす熊田に、朔が手のひらを突きつけた。
「余計な邪魔を入れたくない……おれたちの闘いの気配が外に洩《も》れないよう、結界を張らせてもらう。もちろん、この結界にほかの効果はない。ただ気配を抑えこむだけだ」
熊田は右目をにゅっと細める。
「ふふ……この闘いを知られたくないのは、監視官たちのほうかね? それとも――」
朔は黙って、細長い指を弾《はじ》いた。
落ち葉を巻きあげて、地面から次々と細長い棒が飛びだしてくる。金属製の杭だった。
飛びでた杭たちが、いっせいに光を放つ。
光は線となって伸び、円状に埋めこまれていた杭同士を、それぞれ結びつけていった。やがて完全な円を作りあげる。朔と熊田を囲んで、青白く輝いた。
「むふ? これは我らの技ではないな。妖《あやかし》というよりは、人の技だ」
「……気になるか?」
「いいや、まったく。そんなことより、もうよいのかな? よいのかな?」
熊田は鼻息も荒く、グローブのような指を丸め、固めた。バレーボール大の、しかしかたちは岩石の拳《こぶし》をふたつ作りあげる。がつんがつんと打ち鳴らした。
「ああ。いつでもどうぞ」
「ではさっそく」
いうなり、熊田《くまだ》は拳《こぶし》を振るった。
濡《ぬ》れたぞうきんを思いっきり壁に叩《たた》きつけたような音があがり、朔《さく》はふっとんだ。きりもみしながら飛び、結界に頭からぶちあたる。
ばちばちと青白い火花があがった。
さんざん光り、痙攣《けいれん》したあとで、ようやく朔は結界から離れる。数歩、よろめきながら歩き――落ち葉のなかに前のめりに倒れた。
「……ぬ?」
殴った姿勢のままで、熊田は眉《まゆ》をひそめた。
「さ、さすがに効く――な――」
倒れた朔の銀髪と革のジャケットからは、白い煙がうっすらとあがっていた。
起きあがろうとする。が、震える腕では支えきれず、地面に顔面から突っこんだ。げほ、げは、と咳《せ》きこむ。
「これが、熊田《くまだ》流星《りゅうせい》……これが、あいつの闘った……」
半分落ち葉に埋もれた顔で、にたりと笑った。
「――もしかして、わざと受けおったのか? おぬし」
苦笑しながら無精髭《ぶしょうひげ》を撫《な》でる熊田の前で、朔は生まれたての仔馬のように、がくがくと震えながら立ちあがった。ふらつきながら熊田に近づいてゆく。
「つ、つぎはおれの番、だぜ。いくぞ、おい……い、いくからな、覚悟しろよ」
むふ? と熊田が唇を曲げた瞬間、朔の姿が消えた。
熊田の体が屈《かが》む。
まっすぐに突きだした朔の拳が、熊田のみぞおちにめりこんでいた。
「――どうだい、いまのが見えたか?」
得意げに笑う朔の上で――熊田の顔はさらに得意げに笑った。
巨大なハンマーが落とされる。固く握りしめた熊田の拳だった。熊田のハンマーは朔がいた場所を通りすぎ、地面をぶっ叩いた。
大地は揺らぎ、枯れ葉が浮きあがる。
腰の高さまで上がった葉っぱのなかを、朔はするするすると熊田から離れていった。ゆらゆら揺れながらの、奇妙な足取りだった。
「――どうだい、おれに触れられるか?」
朔はにたりと笑う。熊田もむふん、と笑い返した。
放課後、学校からの帰り道。
いつものように、耕太《こうた》は両サイドをちずると望《のぞむ》、ふたりに挟まれていた。かたやむっちりむによ〜ん、かたやしなやかするり〜んと、違ったタイプの肉体に抱きつかれ、なんともはやなんともはや、耕太はたまらない気持ちになっていた。
いや、いつもならなんとか我慢できるんだけど……。
腰を少し屈《かが》めながら耕太は思った。今日はなんといっても、お昼のアレが……。耕太の手と耳に、ぺちーん、ばちーんという感触と音がよみがえってくる。
まったく、ひどいお昼だった……。
お昼――。
(あいつはな、毎日おれに会いに来てるぜ)
銀髪の男の、にやりとした笑顔が浮かんだ。
「……あの、ちずるさん」
「なあに、耕太くん」
ちずるはにこやかにほほえみかけてきた。昼にストレス解消したせいか、ライバルが一緒だというのに、彼女は上機嫌だ。笑顔がまばゆい。
「あ、や……」
「うん?」
「い、いえ、なんでもないです」
けっきょく、耕太はうつむくことしかできなかった。
んー、とちずるが首を傾《かし》げる。ぱっとその表情が輝いた。耕太に抱きついたまま、自分の鞄《かばん》に手を入れる。
「そうそう。わたし、耕太くんの元気がでるものをね、ようやく編んで……」
「――はい、耕太」
え? と耕太とちずるは同時に声をあげた。
見ると、望《のぞむ》が紙袋を差しだしている。
「ぼ、ぼくに?」
望はうなずく。
耕太はがさごそと袋のなかに手を入れた。なにやらふんわりとした感触があった。
「これは……」
中身は、黒い毛糸のマフラーだった。
脇《わき》から覗《のぞ》きこんでいたちずるが、「うそぉ」と息をのむ。
「わたし、編んだの……つけてみて、耕太」
「う、うん」
うながされるままに、耕太はマフラーを首に巻いた。
よじれもねじれもほつれもなく、きっちりと編み目も均等で、とても素人の手のものとは思えない。ふんわりさらさらとしたほっぺの肌触りが、じつに心地よかった。
「すごいや……手編みのマフラーだなんて、望さん、ありがとう」
耕太のほほえみに、望も、ふふ、とほほえみ返した。
「な、なーによ」
つーん。ちずるは横を向いていた。
「本当にそれって手編み? じつは買ったんじゃないのー? なんだか上手《うま》すぎー」
「編んだよ。昨日、徹夜して」
「徹夜ぐらいなによ。わたしだってあなたのバカ兄貴のせいで、ここ最近、毎日毎日徹夜ばっかりなんだから! あのバカ、狼《おおかみ》のくせしてちっともしっぽをださない――」
「……兄貴? 狼?」
耕太の呟《つぶや》きに、ちずるはしまった、と口元を押さえた。
「ちずるさん、やっぱり朔《さく》さんと、なにかあったんですね?」
「え? いや、あのね」
「ちずるは兄《あに》さまと、昨日の夜も会ってたんだよね」
「ちょ、ちょっと、あなたは黙ってなさいよ!」
「昨日だけじゃなく、その前の夜だって、その前の前の夜だって、その前の前の前の」
「――黙れ!」
ちずるは鞄《かばん》を振りまわした。望《のぞむ》はまばたきもせず、鼻先へと飛んできた鞄の角を片手で受けとめる。耕太はちずるに向き直った。
「――ちずるさん、なんてことするんですか!」
「な、なによ、耕太くん。そいつは人狼《じんろう》なんだから、いまのなんか、簡単に防げるに決まって……じっさい防いだもの!」
「それでも、顔をめがけてなんて」
「なにようなによう。どうして耕太くんはそっちをかばうの。だって、わたしでしょ? わたしが耕太くんの恋人なんでしょ? どうして恋人をかばってくれないの?」
「そうじゃない……そういうことじゃないですよ、ちずるさん」
「そんなのわっかんないもん! 恋人なら……」
「わからない、わからないって……わからないのは、ぼくだって!」
耕太はちずるの腕を、ばっと振りほどいた。
「え? こ、耕太く」
「ちずるさんこそ、毎日あの人と、さ、朔さんと会ってるって! どうしてですか? だって、ちずるさんの恋人はぼくでしょう? なのに、どうして朔さんと――」
あ、と耕太は口を開けたままとなった。
ちずるが眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、眼《め》を見開いていたからだ。耕太に腕を振りほどかれた、中途半端な姿勢のまま、ちずるは固まっていた。
「そ、そっか……耕太くん、そんなこと、思ってたんだ」
何度もまばたきをしながら、ちずるはうつむく。
「そうだよね、しかたないよね、だってわたし、なにも説明しないで……はは」
しばらく下を向いて――顔をあげた。
つりあがった眼で、うるんだ瞳《ひとみ》で、強く耕太を見つめてくる。
「ぜんぶ話すから。耕太くんに余計な心配をさせたくなかったから、いままで黙って――」
ちずるの思いつめたような真剣な表情が、はっ、と変わった。
身をひるがえし、遠くへと視線を向ける。
「朔《さく》が……闘ってる? 相手は、これは、まさか……熊田《くまだ》! あのケンカバカ熊公、バカ犬がなにを企《たくら》んでるのか、まだわかってないってのに……もう!」
駆けだしかけた。
振りむき、耕太と視線を交わす。一瞬、瞳《ひとみ》をおよがせた。
「ごめん、耕太くん――かならず、ぜったい説明するから! いまは、ごめんなさい!」
走りだす。
ぴょんと跳ね、家を囲むブロック塀へと乗った。さらに跳んで、屋根にまで登る。そのまま屋根の上を走っていった。あっというまに見えなくなる。
「――朔、っていってたね」
腕に抱きついたままの望《のぞむ》が、ぽつりと呟《つぶや》いた。
ずきん。
耕太の胸は痛みだす。
「前にもおなじこと、あったよね。兄《あに》さまを見て、追いかけていった」
ずきん、ずきん。
「兄さまとちずる、いったいなにやってたんだろ。真夜中に……」
ずきん、ずきん、ずきん……。
耕太の胸は痛み、きしみ、どうにも止まらなかった。
ずきゃきゃきゃきゃ。
屋根の上を駆けていたちずるが、ふとなにかに気づいて、急ブレーキをかけた。
「な、なんだ、いまのは! 巨大ネズミか、悪質リフォーム業者か!」
家の住人がそんなことを叫んでいるのを無視して、ちずるはひょいっと道路へ音もなく降りたった。
ちずるの目の前には、二階建てのアパート――耕太の寮があった。
「耕太くん……」
ぎゅっ、と唇を噛《か》んで、ちずるは鞄《かばん》のなかに手を差し入れる。
取りだしたのは、ところどころほつれ、ゆがみ、ねじれた、赤いマフラー……らしきものだった。
「わかっていてくれるって……わたし、耕太くんに甘えすぎてたね」
ぽこん、と自分の頭をぶつ。
寮を見あげ、マフラーをぎゅっとつかんだ。
ずずん、と地面が揺れる。
びしびしっと結界の壁にヒビが入った。杭《くい》がびかびかと輝き、地面に描かれた光の円がその色あいを濃くする。すぅ……と結界のヒビが薄れた。
「ふんぬっ」
熊田《くまだ》が拳《こぶし》を振るう。
すでにその顔は細かいあざだらけだった。ブレザーもぼろぼろで、下のワイシャツには血が浸《し》みている。
「ぬおっ、ぬあっ」
ぶんぶんと、両の拳を朔《さく》めがけて振りまわした。
岩くれのような拳は、しかし朔には当たらなかった。当たる直前で、ぬるりと朔の体を滑ってゆく。実際に滑っているわけではない。そういう風に見える動きを、朔はしていた。
「ぬはあっ!」
熊田は正拳《せいけん》で突いた。
まっすぐに伸ばした拳も、やはり朔を捕らえることはできない。朔はするするすると間合いを外して、離れていった。
ぬふん、と熊田がでこぼこの顔で笑った。
「それがあれか、桐山《きりやま》を倒したという、奇妙な動きか。押せば引き、引けば押してくる……どうにも捕らえきれん。ふふ……おもしろい。じつにおもしろいなあ」
朔もにやりと笑う。
その顔には、最初に熊田の一撃を喰《く》らったときのあざ以外、なにも傷はなかった。
「この技をおもしろいといったのはあんたが初めてだよ。たいていのやつは嫌〜な顔、するんだけどな」
ぬっふっふ……。
あざで文字どおり岩石みたいになった熊田が、肩を揺すって笑った。
「その技は、足運びに秘密があるとみたぞ」
ぴくりと朔の眉《まゆ》があがる。
「……やはりすごいな、あんたは。で、足運びに秘密があるとすれば……どうする?」
「こうやれば、話は早い」
熊田は地面に向かって拳を振るう真似《まね》をする。ふたりの闘いの影響で、ほとんどの枯れ葉が飛んで、雑草だらけの地面があらわとなっていた。
「なるほど。地面がなくなれば、足運びなんか意味がなくなるってわけだ」
朔はうなずき、びし、と熊田を指さす。
「正解」
「うむ、ありがとう。……が、それではつまらんよなあ」
熊田は地面に向けていた拳を、朔へと向け直した。むふ、と笑う。朔も、ははっ、と笑った。
「――ぬぅうううううぅぅ」
熊田《くまだ》が全身を力ませる。ごつい体がさらにごつく、いかめしい顔がさらにいかめしくなった。力んだまま、ゆっくりと腰をひねり、右|拳《こぶし》を引く。
「ぅぅおおおおああ……ふんがっ!」
拳を突きだす。
ぱん、と薄紙を突き破るような音があがった。
離れた、まったく拳の届かない場所にいた朔《さく》が、ばちんとふっとぶ。そのまま後ろの結界へと当たった。びしびしと結界にヒビが入り、杭《くい》はびかびかと輝く。ばりりり、と朔の体に青白い気が駆けめぐった。
「うがが、がが――くそっ」
朔は結界から背中を引きはがす。ぱりぱりと放電しながら二歩、三歩とよろめいて、はっと顔をあげ、あわてて横に転がった。
いままで朔がいた場所のちょうど真後ろ側の結界に、一発、二発と衝撃がぶち当たる。結界が揺れ、衝撃の伝わった杭から地面が揺れ、結界を張っている杭たちの輝きはせっぱ詰まったものとなった。
「そ、そんな技、あのときは使わなかったじゃねえかよ、大将」
朔が口元をぬぐった。唇に血の赤が跡を引く。熊田はぬっはっは、と笑っていた。
「これは、とてもとっておく余裕[#「とっておく余裕」に傍点]はなさそう――」
眼《め》を見開く。
鼻をひくつかせて、表情を引き締めた。あっちゃあ、と頭をかく。
「あーあ……。ここまでだ」
「ぬ?」
腰をねじって振りかぶっていた熊田が、十字傷の刻まれた左目の跡をゆがませた。
「できれば最後の最後まで、あんたとはやりあってみたい、が……。そうなると、どうしても奥の手を使わざるを得なくなる。あいにくおれのアレは、一日一回が限度でね」
「ふむ?」
熊田は振りあげた拳をおろした。
「つまり、このあとにも予定があると」
「もうしわけない! あんたほどの雄を相手に、虫のいいことだとは思うんだが……」
ぬふ、ふふ……熊田は笑いながら、ぼりぼりと腹をかく。
「ま、よかろう。わたしとしても、おぬしに奥の手とやらを使われると――」
「自分も奥の手を使わざるをえないし」
互いに顔を見あった。
続いて、互いに高笑いをあげる。
「むふふはは……そうか、そうか、そこまで知っておったか。ところで、あやつとやるとすればいつになるのかね?」
「そうだな……ちょっと予定外のことが起きたんでね、早ければ今日、遅くても明日には、かな。さて、そこで大将、あんたにちょっと訊《き》きたいことがあるんだが」
「むっふっふ……最初から目当てはそれなのだろうが」
にやりと笑って、朔《さく》はぼそぼそとささやく。
熊田《くまだ》もにんまりと笑い、しっかりとうなずいた。やはりぼそぼそとささやき返す。
「では、わたしはおいとまするとしようか。わたしにいられては邪魔だろうし……やつらも待ちかねておるだろうし、な」
熊田は歩きだしかけ、結界を指さした。
「これ、解いてくれんか?」
朔は指を弾《はじ》く。結界の青白い光は、ゆっくりとかき消えていった。
「もうほとんど解けちまってるよ。あんたの攻撃がすごいせいだ」
「いつもそういわれるのだが……しかし、手加減するわけにもいかんしなあ」
ぶつぶつと呟《つぶや》きながら、熊田はただの金属となった杭《くい》をまたいだ。どすどすと石段へと通じる鳥居へ向かう。
鳥居をくぐり、石段に足を踏みだしかけ――熊田は頭上を見あげた。
うっそうと茂った樹木に向かって、ぼそりと呟く。
「――あやつは強いぞ」
どすん、どすん、と大きな背中が階段を降りてゆく。
朔はのんびりと鳥居をくぐり、下を覗《のぞ》いた。
「ほう……」
石段をゆっくりと降りてゆく熊田のまわりには、無数の影がつき従っていた。
いちおう、人の姿はしているが――頭から角を生やしたり、眼《め》が赤く光ったり、糸を使って木からぶらさがったり、熊田以上の巨体だったり、ひらひらと空を滑っていたり、また、おかっぱ頭の少女が「けろ」と鳴いていたり――異形のものたちだった。
「まだこれほどの数の妖怪《ようかい》が、薫風《くんぷう》高校にはひそんでいたのか……」
異形の影たちは、ほぼ全員が朔に向かって敵意に満ちた視線をぶつけてくる。数人は、巨大なブレザーを持って、熊田の着替えを手伝っていた。
ふふ、と笑いながら、朔は境内へと戻ってゆく。
「おれの鼻すらあざむくとはね、まったく大したやつらだ。なるほど、これなら上のやつらが警戒するのもわかる。あの妖怪たちが、もし強大なカを持つ頭《かしら》に率いられでもしたら――たとえ組織の力を持ってしても、つぶすことは容易ではないだろうな」
ぶつぶつ呟きながら歩く。
「強大な力を持つ頭……さて、それは熊田か、砂原《さはら》か、それとも……あいつか」
境内の真ん中で、朔はくるりと振り返った。
「よう、いつまでかくれんぼしているつもりなんだ?」
鳥居の上の樹木を見あげる。がさ、と朔の見つめている木々の葉が揺れた。
影が飛びだしてくる。
「――朔《さく》」
にやりと笑う朔の前に、その豊かな肉体を持つ影は降りたった。
首を振り、長い金髪をブレザーの背中に落ちつかせる。頭の上から狐《きつね》の耳が、スカートからはしっぽが覗《のぞ》いていた。つりあがった眼《め》を、まっすぐ朔に注いでいる。
「いまのはいったい、どういうこと……? 答えてもらうわよ!」
狐の姿と化したちずるの瞳《ひとみ》は、ぎらぎらと金色に燃えあがっていた。
耕太はため息をつきながら、寮の、自分の部屋のドアを開けた。
靴をかかとで脱ぎながら、ちらりと後ろを見る。二階通路の手すり前に、望《のぞむ》がちょこん、と立っていた。遊びにいこう、と誘われたものの……耕太はまたため息をつく。
「ちょっと、待っててね」
静かにドアを閉めた。
ちずるさん……。
なぜか、口に出すことがはばかられた。望がドアの向こうにいるから? 違う――。
薄暗い部屋に入る。鞄《かばん》を置こうとして、机の上になにか置かれていることに気づいた。
「なんだろ……?」
手に取ってみる。
なにやら赤い毛糸でできていた。ところどころほつれ、編み目の位置も大きさもちぐはぐ、よじれているし、ねじれてもいる。なんとも奇妙な物体だった。
その奇妙な編み物の下に、メモを見つけた。
(たぶんわからないと思うけど、マフラーです。下手でごめんね)
流れるような筆の書体は、ちずるの字だ。最後に薄い桃色のキスマークがつけられていることからも、それがわかる。
「これが……マフ、ラー?」
伸ばしてみる。
びよよよよ〜ん、と戻った。あは、と耕太は笑った。
「ははっ、本当に下手だなあ。ちずるさんは、本当、ホン……ト……」
ぐすっ。
耕太の視界はみるみるゆがんでいった。
ちずるが編んだマフラーを、ぎゅっと抱きしめる。涙があふれて、頬《ほお》を伝わってこぼれた。きっと胸のなかのマフラーに染みていることだろう。
耕太は畳の上に膝《ひざ》をついた。
「……ちずる……ざん」
ずずっと鼻水をすすった。すぐにまたたれそうになる。
泣けて泣けてしかたがなかった。
ぼくは馬鹿《ばか》だ。
馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ。
こんなすてきなひとを――ちずるさんを、傷つけてしまった!
マフラーを抱えこんで、耕太は畳に頭をつけた。足の爪先《つまさき》で、ぱたぱたと畳を蹴《け》る。たくさんたくさん、蹴《け》った。
耕太はドアを開けた。
一瞬、ほほえみかけた望《のぞむ》の顔が、すぐに真顔に戻る。銀色の瞳《ひとみ》を、向けていた。
赤と黒のマフラーを二本巻いた、耕太の首筋へと。
「すみません、お待たせしちゃって」
「……ううん」
「お話ししたいことが、あります」
耕太は赤く充血した眼《め》で、いった。
「……うん。わかった」
二本のマフラーから視線を外さずに、望はうなずいた。
2
神社の境内では、朔《さく》と妖狐《ようこ》化したちずるが対峙《たいじ》していた。
「どうした、ちずる……どうしてそんなに怖い顔をする。そんな顔、もし耕太くんに見られでもしたら、百年の恋だって覚めちまうぜ」
朔は肩をすくめた。
「もう、そんな手じゃごまかされない」
ちずるの眼《め》はさらにきつくつりあがった。
「朔……あなたはさっき、熊田《くまだ》との別れぎわ、こう訊《き》いたでしょう? 『小山田《おやまだ》は、ちずるが憑《つ》いた小山田《おやまだ》耕太《こうた》は、あんたよりも強いのか?』って。熊田はその質問に対して――うなずいた。自分より強いと、認めた」
はあ、と朔は頭をかく。
「やっぱり聞いてたのか」
「この耳で、しかとね」
ちずるの狐《きつね》の耳が、ぴく、ぴくと動いた。
「まったく、げに怖《おそろ》しきは女の地獄耳、か。とくにあのぼうやに関することになると、おまえの耳は閻魔大王《えんまだいおう》すらぶっとばすようだ」
「たわごとはそこまでにしろ!」
ちずるは吠《ほ》えた。
「問題はそのあとよ! 熊田は最後にこういった――『やはりおぬしの目当ては、小山田か』って! いったいどういうこと? おまえは学校最強の妖怪《ようかい》を倒すっていってたじゃない! それは熊田のことじゃなかったの?」
はっはっは、と朔は笑う。
「おいおい、その熊田が認めたんじゃないか。学校最強の妖怪は、おまえのかわいいぼうや、小山田耕太くんだと……」
「まさか」
「正解」
びし、と朔はちずるを指さした。
「最初っからおれの狙《ねら》いは耕太くんなのさ。おまえを挑発させておれのそばにまとわりつかせたのも、望《のぞむ》をぼうやに近づけたのも、砂原《さはら》や八束《やつか》の前でわざわざ狙いを明かしたのも、熊田《くまだ》流星《りゅうせい》と闘ったのも――すべては小山田耕太が、どんな存在なのか知るため」
驚きに見開かれていたちずるの眼が、だんだんと据わってくる。
「……そんなこと知って、どうするの」
「さあて、どうしようねえ」
「――朔!」
ぶわりとちずるの金髪は舞いあがった。
「ちずる……おまえと本気でやりあうのは、何百年ぶりだろうな……?」
にたりと朔《さく》は笑う。ゆらゆらと揺れだした。
耕太は望《のぞむ》と連れだって、川べりの土手の上の道路を歩いていた。
すぐ脇《わき》、白線の向こう側を車が駆けぬけてゆく。左手側には道路と土手をへだてるガードレールがあり、その下には広々とした川が流れていた。川の向こう岸にはビルがいくつも建ちならんでいる。この街の中心部だった。
望は、いつもと違って腕に抱きつくこともなく、耕太のやや後ろをついてきていた。
「あの……」
「あっち、いこ」
振りむいた耕太に、望は川の土手へと降りる階段を指さした。耕太の答えも聞かずに降りてゆく。耕太は黙ってあとを追った。
川から吹く風に、土手の草はざわざわとなびいていた。
「あったかそうだね」
吹きすさぶ風に銀髪を乱れるままにしていた望は、おなじく二本のマフラーを踊らせるままにしていた耕太を見つめてくる。
「……あったかいです。すごく」
「そう。わたしは……さむい」
望は眼《め》を伏せる。
すっと身を寄せてきた。
「望さん……ぼくは、もう」
ただただ耕太は、抱きつかれるがままにしていた。望の熱い体温が伝わってくる。
「聞きたくない」
ぐっ、と強く服をつかまれた。
「でも、聞いてもらわなくちゃ」
「聞きたくない、聞きたくない……聞きたく、ない!」
耕太は草むらに押し倒された。
望は耕太の上に四つんばいになってくる。銀色の瞳《ひとみ》で、上から静かに見おろしていた。まわりは足の長い草に覆われ、望の後ろにはくすんだ空が広がっている。
「いま、ちずるは兄《あに》さまと会ってるんだよ」
「……だと、思います」
望の眉間《みけん》に、かすかに皺《しわ》が刻まれた。
「なのに……平気なの」
「平気じゃないです。平気なんかじゃ、なかった」
耕太は薄い笑みを浮かべた。
「ぼく、嫉妬《しっと》してた。ちずるさんが、望《のぞむ》さんのお兄さんと――朔《さく》さんと昔からの知りあいだって聞いたときから、ずっとずっと嫉妬してた。ちずるさんが朔さんと会ってるって知ってしまったとき……くやしくてしかたがなかった。でも、我慢してた」
「我慢……どうして?」
「カッコ悪いから。ただでさえ、ぼく、ちずるさんとはつりあってないのに……嫉妬なんて、そんな、つまらない、くだらない、いやらしい感情を抱《いだ》いてるなんて、ちずるさんには知られたくなかった。だって嫉妬するってことは――ちずるさんを信じてないってことだから。そんなこと、知られたくない」
耕太は眼《め》を伏せ、笑った。
「ちずるさんのためだなんていって、怒ったのも……きっと、ただの八つ当たりで」
「でも、うれしかったよ」
望は自分の胸に手を当て、耕太の言葉をさえぎった。
「ちずるからかばってもらって、わたし、すごく、うれしかったよ。最初に会ったときだって、つぎに会ったときだって、いつだって耕太は、わたしのこと守ってくれて、だから」
「――ぼくは、望さんとはつきあえない」
びく、と望の体は強《こわ》ばった。
「……ちずるのため?」
「うん」
「……ちずるが、好きだから?」
「うん」
「だってちずるは、耕太を平気で傷つけてるのに。いまだって兄《あに》さまと会ってるのに!」
「それでも……ぼくはちずるさんの恋人だから」
がくりと望はうなだれた。銀色の前髪がたれ、顔を覆い隠す。
「……知りたい?」
「え」
「兄さまの企《たくら》み。兄さまが、なにを企んで、ちずるを利用しているのか」
「ちずるさんを……利用?」
「教えてあげてもいいよ。だから」
望は身を寄せてきた。前髪のすきまから、濡《ぬ》れ光る銀色の瞳《ひとみ》が覗《のぞ》く。
「耕太、いちどで、いいから」
薄い色の唇を、そっと突きだしてきた。
「わたしにも、口づけ……」
ふにゅ。
望は眼をぱちくりとさせる。
口元に、手のひらが――耕太の手のひらが当てられていると知って、哀《かな》しげに眉《まゆ》をたれさせた。
「耕太……どうして?」
「だってぼくは、きみの恋人じゃないから」
ふる、と望《のぞむ》の銀の瞳《ひとみ》が揺れた。
じわりと涙が浮いてくる。きゅっ、と鼻筋に皺《しわ》が寄って――。
「――っ」
耕太の胸に突っ伏して、望は身を震わせた。耕太はおそるおそる望の背中に手を伸ばし、さすってやる。見あげた空は、灰色だった。
望はすん、とかわいく鼻をすすった。
「――どうしてわたし、泣いちゃったんだろう」
耕太の上にまたがったまま、自分の胸に手を当てる。
「ここが、きゅー、って痛くなって、すごくさみしくなって、気がついたら……耕太の胸で泣いちゃってた。どうしてだろ」
耕太には理由がわかっていた。あえて答えず、望をうながして、立たせる。
「……ぼくも、さっき泣いたよ」
「耕太も?」
「うん。ぼく、泣き虫だから」
望は首を傾《かし》げる。ふふっとほほえんだ。
「おなじだね、わたしたち」
「うん」
ふふ、うふふ……と望は笑う。
笑って、しゃんと背筋を伸ばした。
「耕太」
「はい」
「――教えてあげる。兄《あに》さまの悪だくみ、ぜんぶ」
「答えろ、朔《さく》!」
ちずるは高々と跳びあがり、空中で一回転して、そのいきおいのまま落下し、片足を突き刺す――いわゆる回転ちずるキックをぶちこんでいた。
朔は片手で受けとめている。
「おいおい……らしくないな。まともにおれとぶつかったら、勝てるわけがないだろ」
「うるさい!」
しっぽを振りまわす。朔はわずかに顔を反らすことでそれをかわした。ひるがえるスカートのなかをちらと覗《のぞ》いて、口笛を吹く。
「白か……それもらしくないな」
「この、エロ犬!」
ぴょんぴょんと跳ねながらちずるは離れて、両の手のひらを上下、互い違いに向けた。右の手のひらを上の樹木へ、左の手のひらを地面の落ち葉へと伸ばす。
「えいっ!」
ずざざざざ、と上下ともに枯れ葉が渦を巻いた。地面の葉っぱだけではなく、まだ枝に残っている葉も剥《は》がれ落ち、巻きこんで、広がってゆく。
神社の境内中を、枯れ葉の嵐《あらし》は呑《の》みこんでいった。
「懐かしい技を……たしか、狐《こ》の葉がくれだったか?」
朔《さく》のまわりは舞い踊る葉によって覆われていた。数歩先もわからない。
「だが……」
朔はまぶたを閉じる。鼻をひくつかせだした。
ぱっと体をひねる。
葉っぱの壁から、淡い色あいの火球が飛びだした。朔のすぐ脇《わき》を通りぬけ、また葉っぱの壁に消える。ややあって、爆発音が響いた。
「おれには通用せんぞ、ちずる! そんなことはおまえだってわかってるだろうが!」
立て続けに、いろいろな方向から火球――狐火《きつねび》が飛んでくる。
そのすべてを、朔は眼《め》を閉じたままでかわした。
「匂《にお》いでわかるというのに。これしか芸がないのならそろそろ終わらせるが、いいか?」
「やれるものなら、やってみろ!」
ちずるの声があがった方向に、朔は一歩、足を踏みだした。
とたんに、声とは逆の側から炎が飛んでくる。
「甘いなあ」
朔はくるりと回りこんで狐火をかわした。そのまま拳《こぶし》を伸ばし、跳ぶ。
一条の矢と化した朔は、舞い踊る葉を散らして、まっすぐに踏みこんだ。ちずるの驚いた顔があらわれ――そのまま拳をみぞおちに突き刺す。
「うん?」
がさ、とちずるの体は葉っぱとなって崩れた。
あとに残ったのは薫風《くんぷう》高校の制服一式だけだ。
「移し身ねえ……。これも懐かしいが」
腕にまとわりつくブレザーやワイシャツを、朔はめんどうくさそうに剥がした。その真後ろから、葉を燃やしながら火球が迫り――。
爆発。
「やった!?」
「やってない」
喜びに表情を輝かせる下着姿のちずるの後ろに、朔《さく》は立っていた。
舌打ちして、ちずるは後ろに肘撃《ひじう》ちをする。その前に朔にはがいじめにされた。
「くっ……」
「弱くなったな、ちずる」
じたばたとちずるはもがいた。しっぽでびしびしと朔を叩《たた》くも、あまり効果はない。
「耕太くんに手を出して、砂原《さはら》や八束《やつか》が黙っていると思うの! 朔、あなたがどの組織にいるか知らないけどね、いまごろは薫風《くんぷう》高校の組織が、『葛《くず》の葉《は》』が圧力をかけて」
「そりゃ無理だ」
「なにが無理なのよ! 『葛の葉』の力の大きさは、あなただってよーく……」
「ああ、知ってる。なんたって自分の所属している組織だからな」
「――なんですって」
ちずるの抵抗は止《や》んだ。
「おれは『葛の葉』に所属しているっていったんだよ。『葛の葉』が『葛の葉』に圧力はかけられまい。まして砂原たちには後ろ暗いところがあるしな」
「な、なにが後ろ暗いのよ」
「ちずる、おまえがそれをいうのか……?」
「朔、あなた、まさか――」
ちずるはまた暴れだした。前よりもその抵抗は激しい。
「やつらは『葛の葉』が永年にわたって追い求めてきたものを隠し、かくまっている。それは『葛の葉』への重大な背信行為であるといわざるをえまい」
「離せ! 離して、朔!」
「『葛の葉』が追い求めたもの――それはちずる、おまえのことさ」
ははっ、と朔は笑った。
「木を隠すには森、おまけに灯台もと暗しってやつだ! まさか『葛の葉』も、おまえが妖怪《ようかい》たちに混じって、自分たちが運営している学校にいるとは思うまい! ははっ、考えたもんだ。だれの案だ? 砂原か? それとも――」
ぎりり、とちずるは葉を食いしばる。
体が燃えだした。
全身が淡い狐火《きつねび》の炎に包まれる――が、朔はちずるから手を離そうとしない。
「無駄だよ、ちずる……」
ぐ、と首に回した腕に、力をこめた。
ちずるの体を包んでいた炎が、だんだんと弱くなる。
「耕太くん……ごめん……ね……」
完全に消えた。
舞い踊っていた枯れ葉が、急速にそのいきおいを失ってゆく。すっかり視界が晴れたとき、境内には、半裸のちずるを後ろから抱きささえる朔の姿があった。
「――耕太くん、ごめんね、か」
朔《さく》の顔には、やけどひとつなかった。口に指を入れ、吹く。指笛が鳴った。
わん! わん! わん!
ぴゅう、と小さな赤褐色の塊が走ってきた。朔の前に座り、わん、と吠《ほ》える。
柴犬《しばいぬ》だった。
「ちょっとばかり使いを頼みたい……報酬はこれでどうだ?」
朔は革のジャケットのポケットから、ビーフジャーキーを三本取りだす。ちっちゃな柴犬は、わん、わん、わん、と三度吠えた。
「それって……どういうこと?」
耕太と望《のぞむ》は、川の土手にあった、横に平べったい、ベンチにするにはちょうどいいかたちの岩に、並んで腰掛けていた。
「も、もういちどお願い。葛《くず》の葉《は》……? 悪の組織……? 学校を支配……?」
「だからね、兄《あに》さまはね、薫風《くんぷう》高校を陰で支配している悪の組織、『葛の葉』というところでアルバイトしているの」
「いや、ちょっと待って。悪の組織というのがよくわからない」
「わたしもよくわからないけど、そっちのほうがカッコイイだろっていってた」
「は、はあ」
「でね……兄さまが悪の組織で働いているのは、わたしのためなの」
「……望さんの?」
「うん。わたし、本当は刑務所に入れられるところだったの」
あっさりといわれて、逆に耕太が驚いた。
「な、なんで!」
「わたし、狼で、ひとりぼっちだったから、放っておいたらすっごく強くて悪い妖怪になっちゃうかもしれないから、だからオトナになるまで、妖怪の刑務所に入れるって」
「そこを……朔さんに?」
えへへ、と望はほほえんだ。
「わたしがオトナになるまで、おれがメンドーみてやるって。だから兄さまは、わたしがオトナになるまで、『葛の葉』にいなくちゃならないの」
「悪い人じゃ……ないんだね」
ううん、と望は首を横に振った。
「兄さまは、おれがやりたいことをやると、なぜかいつも悪人扱いされるんだっていってた。だからもうおれは、悪人でいいって」
は、はは……。
すごい人だな、と耕太は思った。
「で、ね……兄《あに》さまが『葛《くず》の葉《は》』で働いてるのはわたしのためだけど、入ったのは、あるオンナのためなんだって」
「オンナ?」
耕太の心はざわめいた。
「惚《ほ》れたオンナが……ずっとずっとずぅーっと惚れてたオンナがいて、そいつを守るために組織に入ったんだって。それでわたしを妹にして、ぬけられなくなっちゃったの」
「その女の人って、もしかして――」
すんすん。
いきなり望《のぞむ》が鼻をうごめかした。
立ちあがり、後ろを向く。すう、と息を吸いこんだ。
「わん!」
「わん!」
望の声に、土手の上から、鳴き声が返ってきた。
「の、望さん、いきなりなにを」
「あれ、兄さまの仲間」
「え?」
ガードレールの下で、小さな赤褐色のもこもこな犬が、ぴこぴことしっぽを振っている。
「あれ……が?」
土手の斜面を駈《か》けおりてきた。ぴょんと跳びはね、望の手のなかに入る。ハッ、ハッ、ハッ……と舌をだして呼吸し、きゃんきゃん、と吠えた。
子犬の首輪に挟みこまれていた手紙を、望が抜きとる。
「これ、耕太あて」
「ぼ、ぼく?」
耕太はその折りたたまれた紙を受け取り、めくってみた。
――女は預かった。返して欲しくば、ひとりで来るべし。
かろうじて読めるそんな文章とともに、手紙にはリボンが挟みこまれてあった。
望がつまみあげ、くんくんと嗅《か》ぐ。
「このいやらしい匂《にお》い……ちずるのだ」
続けて手紙の文面を覗《のぞ》きこむ。
「このきたない字……兄さまのだ」
くぅ〜〜〜ん、と子犬がぷるぷる震えた。
「場所は、ぼくが案内するって」
望が翻訳してくれた。
「耕太。わたしもいっしょに」
黙って耕太は首を横に振った。子犬にまっすぐ視線を向ける。びく、と子犬が震えた。
「ほんっとうにきみって人は!」
道路|脇《わき》に並んだ街路樹の下を、あかねとたゆらは連れだって歩いていた。あかねは拳《こぶし》をふりあげながら話し、たゆらはへいへい、と腕を頭の後ろで組んだ姿勢で返事していた。
「お昼にちずるさんに締め落とされたまま、ずーっと戻ってこないから、なにか起きたのかと思ったら……いままで寝てたですって? きみは学校になにをしに――」
くわあぁぁぁ、とたゆらはあくびをした。
「源《みなもと》っ!」
ひっく、とたゆらはあくびをのみこむ。
「ホントにホントにきみって人は! きみって人は!」
「――お? ちょっとあれ見ろよ」
「そんな手にごまかされるわたしでは……あれ?」
たゆらが指さした先を見て、あかねは眼《め》を細めた。眼鏡の端をつかみ、位置の微調整をする。
「あれって……小山田くんと、子犬?」
耕太もたゆらたちに気づいた。
となりの柴犬《しばいぬ》が、「くぅ〜〜〜〜ん」と鳴き声を洩《も》らす。
「――小山田くん、なにやってるの?」
「犬の散歩だよ? ごめんね、ちょっといそいでいるんだ」
耕太と柴犬は、あかねの横を通りぬけた。
「おい」
たゆらだった。ぎろりと柴犬を睨《にら》む。赤褐色のもこもこはぷるぷると震えた。
「なんだかよくわからねーが……手ェ、貸すか?」
耕太はじっとたゆらを見つめた。震える柴犬の頭をなでる。
「ううん、だいじょうぶ。でも……ありがとう」
ぺこりと頭をさげ、ふたりから離れた。
「……おかしい、わよね」
「なにが」
遠ざかる耕太の背を眺め、あかねが口を軽くへの字に曲げた。
「首輪もつけずに犬の散歩なんか、する? どちらかというと、小山田くんがあの子犬のあとをついていっているように見えるし」
「散歩ってあいつがいってんだから、散歩なんだろ……たぶん」
たゆらはじろりと細めた眼で、ずっと耕太の背中を見つめていた。首からはためく、赤と黒、二本のマフラーを。
3
「う……ううん」
ちずるはうっすらとまぶたを開けた。まだ焦点のあっていない瞳《ひとみ》を、ぼんやりとさまよわせる。
「起きたか」
「朔《さく》……? ここ、うん……?」
ちずるは板の上に足を伸ばして座っていた。目の前には、板の端に腰掛けている朔の、革のジャケットに包まれた背中がある。その向こうには神社の境内が広がっていた。
「わたし……」
ぶれ[#「ぶれ」に傍点]ていたちずるの瞳が、ぎゅんっと定まる。
身を起こそうとして、ごろりと転がった。ちずるはブラにパンツの下着姿で、手足ともに黒い紐《ひも》で縛りあげられていた。首を後ろに曲げる。いままでちずるがもたれかかっていた賽銭箱《さいせんばこ》があった。
ここは神社の本堂のなかだった。
「――朔!」
もがくも、ちずるは芋虫のように転がることしかできない。
「ほどけ、このエロ犬、へんたーい!」
「エロ犬もなにも、その格好はおまえが自分でしたんじゃないか。覚えてないのか、移し身の術を使ったんだぞ、おまえが」
うー、とちずるはうなる。
金色の髪をざわつかせ、狐《きつね》の耳にしっぽの毛を逆立てた。
「無駄だよ。その縄は特別製でな、なんでも処女の髪の毛を編みこんだ縄に、かなり強力な呪《まじない》いをかけたものだそうだ。たとえおれでも、力ずくじゃあほどけない」
ちずるは聞いてない。
ぎぎぎ……と力をこめたり、しっぽの先で縄の結び目を探ったりした。
やれやれ、と朔は立ちあがり、ちずるの体を起こしてやる。賽銭箱に背中をもたれかけさせてやった。
ふー、ふー、とちずるの鼻息は荒い。
やがて、はあ、と深くため息をついた。後ろの賽銭箱に頭をつけ、天を仰ぐ。
「これでもうおしまいってわけね、ぜんぶ……。ふんだ、さっさとわたしのこと、『葛《くず》の葉《は》』の連中に渡しちゃえばいいでしょ! おまえのこと、とことんのとんまで呪《のろ》ってやるから!」
そばに屈《かが》んでいた朔は、ふ……と笑みを浮かべる。
「おれがおまえを売ると思うのか」
ふん、とちずるは顔をそらした。
「だったらこれはなんなのよ! まさかこういう趣味があるなんていわないでしょうね!」
「ちずる、おまえの存在はまだ『葛《くず》の葉《は》』には知られてはいない。だが、疑念は持たれているんだ。薫風《くんぷう》高校も……あそこを統率する砂原《さはら》もすでに疑われている。いまはまだ反乱の疑いとか、そんな程度だが、いつかはかならず、やつらにもおまえの存在は知れてしまうだろう。問題はそのときだ」
朔《さく》は立ちあがり、ちずるに背を向けた。
「それってどういう……朔?」
「そのとき、おまえを守るだけの力が、はたして彼にあるかどうか」
「彼って――耕太くん?」
ちずるはぐいと身をのりだした。あやうくまた転びそうになる。
「まさか、だからおまえはこんなことをしたの? すべて――耕太くんを試すために?」
朔は答えず、歩きだした。ブーツに板がきしむ。
地面へと降りる木の階段へと続く、ぎりぎり板の端に立った。
「朔、答えて! あなたはどうしてそんなことを知っているの。わたしが『葛の葉』に追われていることだけじゃない。わたしが薫風高校に隠れていたことを、『葛の葉』すら知らなかったことを、どうして」
「ヒントをやろう。小山田耕太には、身内がひとりだけいるそうだな?」
「……おじいちゃんのこと? まさか」
朔は階段を降りだす。ぎし、と鳴った。
「ちょっと、まだ話は途中――」
「すべて教えてやってもいい。おれにすべてを教えたのはだれか、なぜおまえは『葛の葉』に追われるのか、おまえの正体はなにか、そして――源《みなもと》ちずると小山田耕太は、どんな宿縁で結ばれているのか」
「わたしと……耕太くんの宿縁? なにをいってるのよ、わたしと耕太くんの出会いは、たまたま偶然で、わたしがひと目|惚《ぼ》れして」
「ひと目惚れなんてものが、そうそうあると思うのか」
「どういう意味……?」
「これから先は、あいつがおれに勝てたら、教えてやろう」
「あいつが勝てたら……あいつって、まさか!」
「わん!」
境内のはるか奥、石段の下から、甲高い犬の鳴き声が聞こえた。
「わんわん、きゃん!」
「そんな、だって……もう!」
ちずるはずりずりと板を這《は》っていった。
階段へと続くぎりぎりのところで、身を起こす。
「――耕太くーん!」
その声は、耕太にも聞こえていた。
「ちずるさーん!」
耕太は鳥居をくぐるなり、駆けだす。境内の落ち葉を踏みしめ、まっすぐ本堂を目指して――銀髪の男に阻まれた。
くんくん、と朔《さく》は匂《にお》いを嗅《か》いで、耕太をぎろりと睨《にら》んだ。
「本当にひとり、なのか?」
「きゃんっ、きゃんっ」
柴犬《しばいぬ》が答えた。
「……本気か?」
朔は腰に手を当て、くっくっ……と肩を揺すりあげた。
「途中、たゆらとも会ったのに、助けを求めなかっただと? それでおまえは、本気でちずるを助けるつもりなのか? ただのニンゲンのおまえが、この人狼《じんろう》であるおれから」
「助けるって……あなたはいったい、ちずるさんをどうするつもりなんですか?」
逆に耕太は訊《き》いた。
「昔、ちずるさんの相棒だったんでしょう? なのに、どうして――」
耕太は、本堂で身を乗りださんばかりにしているちずるを見た。はち切れんばかりの胸が、腰が、下着一枚でどうにか抑えられている、狐《きつね》っ娘《こ》の姿を。
「どうして、こんなことを」
「仲間だから……さ」
「え」
「問答無用だ」
朔はゆらりと揺れてみせる。耕太は知っている――これは桐山《きりやま》相手に使った動きだ。
「男同士が惚《ほ》れた女を奪いあうのに、言葉がいるか? 必要なのは、その女をどちらがより守りぬくことができるか……どちらがより、強い力を持っているか。だろう?」
「だめ! 耕太くん、逃げて!」
ちずるはいまにも階段から転げ落ちそうなほどに、板間から身を乗りだしていた。
「そのバカ犬、あの熊田《くまだ》とも互角だったんだから! 耕太くん、殺されちゃう!」
いまにも泣きそうな顔をしているちずるを見て、耕太にも覚悟が決まった。
耕太は構える。格闘技の経験なんかまったくないが、とりあえずボクシングをするように、両腕を顔の前に上げた。
「こ、耕太くん!」
ちずるは顔をゆがめ、朔はにやりと笑った。
「やります。闘います。ぼくは――ちずるさんを守ります!」
「第一段階、合格」
びし、と朔《さく》は耕太を指さしてきた。
「え?」
「だが……」
朔の姿が消えた。
「それだけじゃあ、だめだ」
声は真後ろから聞こえた。振りむいたとたん、おでこを稲妻が駆けぬける。
べっちーん。
「ふぎゃっ!」
耕太はおでこを押さえて、うずくまった。
あふれる涙でゆがむ視界を、朔へともってゆく。銀髪の男は、指先をデコピンで弾《はじ》いたままのかたちにしていた。どうやらあれを喰らったらしい。
で、デコピンで、こんな……。
「口だけじゃだめだ。勝たなきゃいけない。たとえどんな手を使っても、勝って、そして守りきらなくちゃだめなんだよ」
うー、と耕太は唇を噛《か》む。おでこがどぎん、どぎんと、鼓動にあわせて、かつてない痛みの悲鳴をあげていた。
「――こぉーおぉーたぁー、くぅーん!」
ちずるが本堂から跳んだ。芋虫のような姿で。
木の階段を転げ落ちる。どん、だん、がん、と跳ねて、どちゃ、と落ちた。うう……と顔をあげたちずるの頬《ほお》には、葉っぱと土がこびりついていた。
「ち、ちずるさん、無茶しないでくださいよ!」
「無茶してるのは耕太くんでしょ……だったらわたしも」
う〜、とちずるはうなり声をあげる。
金色の髪がきらめき、ざわざわと揺れた。
「おいおい、ちずる……だから、いくら頑張ろうが、その縄はほどけないと」
「ふふ……耕太くん」
にんまりとちずるは笑った。
「マフラーつけてくれて――ありがとねっ!」
耕太が巻いていた二本のマフラー、そのうちの赤いよれよれマフラーが、金色に輝きだした。
「あ……ちずる……さん?」
みるみる輝きは増し、まばゆい光を放ち始める。
「……おいちずる。これはいったいなんだ」
ふっふっふ……ちずるは地面に転がりながら笑った。
「わたしが、ただの手編みのマフラーをプレゼントするとでも思った? あれこそはちずる特製護身用マフラー、わたしの愛情がたっぷりこもった、あったか〜い手編みのマフラーのみならず、わたしの毛を……このいまいましい縄とおなじ、処女の毛を!」
ちずるはしっぽの先で、自分を縛《いまし》めている縄を差した。
「その毛を燃やして灰にして、さらにいろいろなちずるエキスを混ぜこんで、とどめにありったけの念を注いでから、マフラーに埋めこんであるんだから!」
「……処女の毛?」
「つっこむのはそこ? なによ、わたしは汚れなき乙女よ」
「いや、まあそれはともかく……毛とはいうが、おまえ、べつに髪形は変わってないし」
「毛なら……いろいろあるじゃない」
「まさか」
じと、と朔《さく》が眼《め》を細めた。ちずるは、いやん、と腰をもじもじさせる。
「……本当に変わったな、おまえ」
顔をしかめた。
足を引き、くるりと耕太の側へと向き直る。
「しかし、そうか。そのマフラーを通して、おまえの力を送りこんでいるのか……」
耕太は変化していた。
頭からは黒い毛の狐《きつね》の耳が、腰からは狐のしっぽが、そしてほっぺからはひげが三本、それぞれ生えていた。代わりにマフラーの光は小さくなっている。
耕太は力を感じていた。これなら……と拳《こぶし》を握る。
「朔さん……ぼくは、べつにあなたに勝ちたいとは、思わない」
ぴく、と朔の眉《まゆ》があがる。
「――ほう?」
「だれかを傷つけるのは、好きじゃないんです……でも」
拳を朔に向かって伸ばした。
「ちずるさんを守るために、あなたと闘います! ちずるさんは……ぼくの恋人だから!」
その言葉に、ちずるはぶるぶると震えた。狐の耳としっぽが、毛を逆立てさせる。
「耕太くぅん……」
ぶるぶる、びくびく。
「いきます!」
耕太は殴りかかった。
跳びあがり、朔の顔面へと拳を伸ばす。
当たった。
「え?」
当たった耕太が驚いていた。
桐山《きりやま》との闘いのときの、あの奇妙な動きを、まったく攻撃が当たらなかった姿を、耕太はしっかりと覚えている。よもや、命中するなんて。
朔《さく》は耕太の拳《こぶし》をめりこませたまま、ぐ、ぐぐ……とのけぞり――。
はじき返した。
「うわ!」
耕太は飛ばされる。朔が、ぺっと唾《つば》を吐いた。血で赤かったのが耕太にもわかった。
「ふん……熊田《くまだ》とやりあったときほどの力はないな? どうやらマフラーを通しての変化じゃ、直接、生でちずると合体するより、だいぶ落ちるらしい」
どき。
耕太の鼓動は高鳴った。たしかに、あのときほどの力は、耕太のなかに湧《わ》いてきていない。だけど、それでも……。
「えーい!」
パンチはぬるりと朔の体を滑った。いや、そう見えた。
「おいおい……わざわざ殴りかかるときに声をあげて、攻撃のタイミングを教えてくれなくてもいいんだぜ」
う、と耕太は詰まった。
「隙《すき》あり」
ばちん、とデコピンされた。うぎゃっ!
「耕太くん、葉っぱ、葉っぱ、葉っぱ使って!」
え……? と耕太はちずるを見る。
「えーい、こうするのっ」
ちずるは眼《め》を閉じた。
ぴきーん、と耕太の頭のなかにぶっとい芯《しん》が通る。
なにやら設計図らしきものが浮かんだ。力の使いかたの書かれた図だ。その図は、耕太の頭から、体のすみずみまで広がり、染み渡っていった。
「あ……ああ、なるほど」
ぷはっ、とちずるが息を吐く。
「わ、わかった? 耕太くん」
「は、はい。やってみます」
ぴょんぴょんと跳ねて、耕太は朔から遠のいた。両手をそれぞれ上と下に向ける。右の手のひらを樹木生い茂る上へ、左の手のひらを枯れ葉の敷きつめられた下へと伸ばした。
えーい!
叫ぶと同時に、ざざざ、ざざ……と弱々しく葉が舞いあがった。どうにもぎこちない。
朔は腰に手を当てて、自分のまわりが葉で覆われるのを眺めていた。
「下手だな。そもそもこの技は……」
おーい、と朔は叫んだ。
「いくらめくらましをやっても、鼻が利くおれには通じないんだぞ! わかってるのか、おい!」
口の横に手を添え、拡声器がわりにしていた朔《さく》の目の前に、ちずるがあらわれる。
「なに!?」
制服姿のちずるは蹴りを飛ばしてきた。
「――なーんてな」
朔はぺしっとその足を払いのける。ばさばさとちずるは葉となって崩れた。あとには制服だけが残る。
「匂《にお》いでわかるといっただろう。もうちょっと芸を細かく……」
また葉っぱのなかからちずるはあらわれた。
こんどは朔の顔色が変わる。鼻をひくつかせ、眼《め》を見開いた。
「なんだと……」
下着姿のちずるがさっきとおなじように飛ばしてきた蹴りを、こんどはあわててかわした。
「服についた匂いじゃない、本物の、生々しい匂い……まさか、あの縄がほどけるわけが」
立て続けの攻撃を、朔は身をひねってよける。
「くっ……うおっ!」
反射的な動きで拳《こぶし》を突きだした。
ちずるの顔面へと伸びた拳は、見事に当たり――そのまま突き抜けた。朔は口をあんぐりとさせる。
ばさばさばさ。こんどのちずるも葉でできていた。
「……なんだと? いや、だが、この匂いは、たしかに」
まわりを踊り狂っていた葉が、そのいきおいを弱める。完全に視界が晴れたとき、耕太は、地面に転がっていたちずるを抱きかかえていた。
「耕太くんっ」
狐《きつね》耳を生やしたちずるが、狐耳を生やした耕太に頬《ほお》ずりする。耕太の頬のひげがくにゃくにゃと曲がった。
朔は目の前の枯れ葉の山に手を入れる。
白い布をつまみあげた。
「……なるほど。ちずるの匂いが、文字どおり染みついてやがる」
ぱんつだった。
「ちずるを守るために、手段を選ばなかったってわけだ」
耕太は朔を見あげた。
「ちずるさんは、返してもらいました」
「で、どうする」
「え?」
「これで終わりじゃない。おれがその気になれば、すぐに取り返せる。わかるよな?」
耕太はじっとちずるを見おろした。
ちずるの肩をつかむ。
「いきましょう、ちずるさん。ぼくたちが力をあわせれば、きっと朔《さく》さんにだって……」
「だめっ」
ちずるは顔をそらした。
「え? ど、どーしてですか」
「だ、だって……これ以上、わたしが耕太くんにとり憑《つ》いたら……耕太くん、戻れなくなっちゃう」
「戻れなくって……なんですか?」
「耕太くん、気づいてないの? 妖怪《ようかい》の気配がわかったり、桐山《きりやま》の空気の刃《やいば》が見えたりしてること……わたしたちの力が、だんだんと使えるようになってきてるのよ? たぶん……いや、きっと、原因はわたしがとり憑いたせい。このまま憑依《ひょうい》し続けたら……耕太くんもわたしとおなじ、妖怪変化になっちゃうよ!」
「ぼくが……妖怪に?」
ごきゅ、と耕太は唾《つば》をのみこんだ。
「だ、だけど、あと一回ぐらいなら」
「だめ! たった四回とり憑いただけでそんなことになっちゃってるのよ!? これ以上は一回だってだめ!」
「さあて、どうする、小山田耕太よ」
ゆっくりと朔は近づいてきていた。
「合体すれば、おれに勝てるかもしれない。だが、おまえはおれたちとおなじ、バケモノになっちまうかもしれない……どうする? いったいどうするつもりだ、小山田耕太」
「ぼくは……」
耕太は、ちずるの艶《あで》やかな桃色の唇を見つめた。
「おまえにも家族がいるんだろう? 妖怪なんぞになっちまったら、いったいどんな顔するんだろうな?」
耕太の目に、厳格な、しかしやさしい祖父の顔が浮かんだ。
「おじいちゃん……」
ぎゅ、とちずるの肩をつかんでいた手に、力をこめる。
「耕太くん……いいから。わたし、自分のことは自分でどうにかするから……ね、逃げて」
「いやです」
耕太はちずるの頭のうしろに手をまわした。ぴくん、とちずるは震える。
「だ、だって、耕太くん」
「もし逃げるとしたら、ちずるさんと一緒です」
「無理よ。速さじゃあいつに勝てない。逃げられない」
足音はだんだんと近づいてくる。
「わかってます。だから――」
耕太は顔を寄せた。
逃げようとするちずるの頭を押さえて、正面を向かせる。
「だ、だめだよ、耕太くん……」
「ぼくは、あなたを守りたい……前のときのように、守られるだけじゃなくて、守れるようになりたい。そのためなら――べつに妖怪《ようかい》になっちゃっても……」
「耕太…く」
唇を重ねた。
ちずるは眼を見開き、うれしげに細めて、閉じた。
「……?」
耕太とちずるは同時にまぶたを開ける。
「どうして――」
「ひとつになれないの!?」
「第二段階、合格」
朔《さく》が背後に立っていた。びし、と指さされる。
「いっただろう、ちずる。その縄は特別製なんだって。それで縛られているかぎり、憑依《ひょうい》などできはしないさ」
「――朔、最初からからかってたの!」
耕太は怒るちずるを裏返して、手首の結び目に指を立てた。固くて、どうしてもほどけない。くっ、くっ、と何度も爪先《つまさき》を立てた。
「そ、そうよ、耕太くん。ほどいて、ほどいて!」
「黙って見ていると思うのかい」
ぶん、と音が聞こえた。
目の前に足の甲が迫る。
がきん、と耕太は蹴《け》りあげられていた。
「――ほう」
朔が感心したような声をあげた。耕太は地面に降り立ち、しびれる腕を振る。どうにか腕で顔への打撃は防いでいた……自分でも信じられない。
「やるもんだ……じゃあ、これは?」
朔の姿が消えて――耕太の息は詰まった。
背中へと衝撃が突き抜ける。朔の拳《こぶし》が、耕太のみぞおちへと埋まっていた。ちかちかと目の前が明滅する。
「あ……か……」
膝《ひざ》をつき、ひゅうっと息を吸いこんだとたん、咳《せ》きこんだ。がはっ、げほっ、ごはっ。腹を抱え、耕太はうずくまる。
あう、うう……と口元をぬぐった。よだれに混じって、血がにじんでいた。
「ち、血……」
「ちずるから聞いて知ってるかな……この動きは、昔おれをぼこぼこにしたニンゲンの剣術家が使っていた技の動きなんだよ。わかるか? 妖怪《ようかい》じゃないそ、ニンゲンだぞ? 『逃げ水』ってな……本来はこう使う技なんだ。瞬時に間合いを詰める動きのことさ。おれがかまいたちのぼうや相手に使ったのは、これの応用でな。間合いを自在に詰められるなら、その逆、自在に間合いを離すこともできるってわけだ。わかるか?」
わかるもなにもない。動きもなにも、耕太にはまったく見えなかったのだから。
「まったく、ニンゲンってのはすばらしいじゃないか。力も速さもはるかに上だったおれを、技術だけで倒しやがったんだから。それ以来、おれはこの技を使っている。それはおれを倒したニンゲンへの尊敬の念なんだ」
するするする、と朔《さく》は這《は》いつくばる耕太の前に立った。瞬時のうちに。
「さて、おまえはどうだ? どうやって、おれを超える?」
この人は強い。
耕太は思った。力だけじゃない、心も強い。ぼくの、何倍も、何十倍も……。
だけど。
耕太は足に、腰に、背中に力を入れた。
立たなきゃ。立って、闘わなきゃ。
歯を食いしばった耕太のなかに――急に力が生まれだした。
「あ……なに……?」
体に力の炎が灯《とも》る。首筋に巻かれているマフラーを見ると、輝きが増していた。あわててちずるへと視線を送る。
地面に転がって、朔を睨《にら》みつけていたちずるの目つきが、あきらかにおかしい。
瞳《ひとみ》が小さく、しかしぎらぎらと輝いている……。
「ち、ちずるさん」
震える腕に力を入れて、どうにか体を起こす。
ぎりぎりと歯を食いしばって、よろめきつつも立ちあがった。
「このままじゃ……だめだ」
嫌な予感を覚えていた。
このままでは、ちずるが――。
「ふふん……」
朔は例の、自信に満ちた笑みを浮かべ、目の前に立っていた。どうする。どうすればいい? どうすれば、この人に勝てる?
ぼくひとりだけの力じゃ……。
情けなさに、涙が出そうだった。泣く替わりに、耕太は拳《こぶし》を握った。
「うああああーっ!」
殴りつける。
ぬるり、とパンチは朔の間合いから外れ、空振りした。
朔《さく》が右|拳《こぶし》を引くのが見えた。来る。耕太は体に力を入れて――。
つぎの瞬間、朔の体が爆発した。
淡い色の炎に包まれて、耕太の真横をふっとんでゆく。
「え? ええ?」
耕太は地面に転がった朔を見つめた。めらめらと燃えている。
「――なーにやってんだよ、おまえはよ」
この、一見乱暴で、じっさい乱暴な声は……。
「たゆらくん!」
「おう」
たゆらはすでに妖狐《ようご》と化していた。銀色の髪に、銀色の狐《きつね》の耳、狐のしっぽを生やして、その腕を狐火《きつねび》で燃えあがらせている。
「ど、どうしてここに?」
「おまえのあとをつけた」
え。
「つ、つけたって、それこそどうして」
「おまえはホンット〜〜〜〜〜〜〜に嘘《うそ》のつけないやつだな。朝比奈《あさひな》にすらバレるような嘘、おれが見抜けないとでも思ってんのかよ。感謝しろよ、朝比奈との大切な憩いの時間をうっちゃってまで、わざわざ助けに来てやったんだからな」
おでこをこつ、こつ、こつ、と人さし指で突かれた。
前に朔から受けたデコピンの傷に直撃して、耕太はうめく。
「こらー! バカたゆら、耕太くんいじめたら、ただじゃおかないんだからねー!」
ちずるが寝転がりながら吠《ほ》えた。
――よかった。
ちずるの様子が元に戻っている。さっきまでの狂気をはらんだ感じが、見事になくなっていた。耕太は深く息を吐く。
「いじめてんじゃねー、助けに来たんだ! そんなこというと、帰るぞ、もう!」
「たゆらくん……」
「あん?」
「ありがとう、本当に」
耕太は深々と頭をさげた。
「な、なんだよ。ま、まー、わかりゃいーんだよ、わかりゃ」
「いや、ホント……たゆらくんのおかげで」
ぼくだけじゃ、とても……。
「いつまでやってんだ、とっとと頭あげろ! 礼だったら――」
たゆらが耕太の頭をつかんで、引きおこした。強引に横を向かせる。
「あの野郎をぶっ倒してからにしろい!」
ゆらり。
すでに朔《さく》が立ちあがっていた。
「……いいぞ。なかなかいまのはよかった」
その言葉とは裏腹に、たゆらの狐火《きつねび》は大した効果をあげてはいないようだった。
ゆらゆらと朔の体は揺れる。
「二対一か……奇襲か……それでいいんだ。あきらかに自分より力が上の相手に対して、正々堂々なんてことを考えるやつは、ただのバカだ」
「まったく余裕だねえ……その余裕が命とりだ、バーカ」
うん? と朔が眉《まゆ》をわずかにあげた。
――その顔面に、真横から蹴《け》りがめりこむ。
朔の体は地面をえぐりながら滑っていった。枯れ葉を巻きあげながら何メートルも横滑りし、三分の一ほど土に埋まって、ようやく止まる。
すとん。
朔に強烈きわまる蹴りを入れ、その場に降りたったのは――銀髪で、痩《や》せた体つきの少女だった。
「望《のぞむ》さん!」
彼女の頭からは、狼の耳、スカートの裾からは、狼のしっぽが覗《のぞ》いていた。
「だいじょうぶ? 耕太」
望が、うん? と首を傾《かし》げていた。
「ど、どうして、ここが……」
望は自分の鼻を指さす。
「わたし、オオカミ。耕太の匂《にお》いをたどったの」
な、なるほど。
「いや、じゃなくて……いま、お兄さんのことを、思いっきり」
「――いい蹴りだった」
ぐきぐきと朔は首を鳴らしていた。
朔の片側三分の一には、土がこびりついている。がしがしと手でこすり、汚れを落とそうとしていた。
「さて、望? これはいったいどういうことかな? 反抗期か? 兄は悲しいぞ」
望は前に出て、耕太を背中にした。
「己のなかの決まりに、従っただけだよ」
その答えに、朔はにやりと唇を曲げる。
「ほう? どんな決まりだ、それは」
「わたしは耕太が好き。わたしは耕太を守りたい。だから、たとえ兄《あに》さまでも、耕太を傷つけるなら、わたしが相手する」
「……おれは守っちゃくれないのか?」
「だって兄《あに》さまは、ひとりでも平気だもん」
くく……朔《さく》は笑う。
「あーあ、そうかそうか。ついにおまえも、おれから独り立ちしてしまうか……。いつか来ることとはいえ、まさかこのタイミングで来るとは思わなかったよ」
「そして、不意打ちしろとアドバイスしたのはこのおれだ!」
たゆらが自分の顔を指さした。
「あ、アドバイス?」
「おうよ。おまえのあとをつけたっていってただろ? だから、おれは最初っからここにいたんだよ。ずーっと隠れて、おまえがぼこぼこにされるのを眺めつつ、奇襲のタイミングを図っていたというわけだ。そうこうしているうちに、妹さんがやってきてな」
うん、と望《のぞむ》がうなずく。
「おれがまず不意打ちするからって。そのあとで、どうせ兄さまはカッコつけるから、そのときに思いきりぶちかませって。……ホントに兄さま、カッコつけてた」
耕太は横目でたゆらを見た。
「……なんだよ、その眼《め》は」
「いや、なんか……ちょっとだけ、卑怯《ひきょう》かなー……って」
「うるせい! 勝てばいいんだよ、勝てば! そして――」
ばっ、とたゆらは手を横にひと振りして、見得を切った。
「この闘い、勝てる!」
「……ほう。その根拠はなんだ」
朔が首を傾《かし》げた。
「こっちには……人質がいる!」
たゆらは、望の首を絞めるようなかたちに腕をまわした。
「おまけにこの人質は、朔、おれたちの仲間となって、あんたにメガトンキックをぶちこむんだぜ? いくらあんたが血も涙もない、かつての相棒を下着姿にして縛りあげるような外道でも、よもや妹をぶん殴れはしまい? ひゃっひゃっひゃっ、完・全・勝・利!」
耕太のみならず、ちずる、望も、たゆらを醒《さ》めた眼で見つめた。
「だからなんだよ、おまえらその眼は! 勝てばいいんだよ、勝てば!」
「――そのとおりだ」
ぱちぱちぱちと朔は拍手をしている。
「たゆら……見事に育ったな。どんな手を使っても、勝たなくちゃならない、守らなくちゃならないものがある……どうも耕太くんは、そのあたりの認識が甘いようだ」
ふー、と息を吐いた。
「しかたないな――耕太、おまえに教えてやろう。絶対的な力というものの、非情さを」
ぴくん、と望が体を震わす。
自分を後ろから押さえつけていたたゆらの顔に、手の甲を当てた。べちっ。
「うぎゃっ!」
たゆらは顔面を押さえた。自由の身になった望《のぞむ》が、耕太に近づいてくる。
「耕太――逃げて」
「え?」
「耕太くん、逃げて! 早く!」
「ええ?」
望も、ちずるも、逃げろといってきた。
耕太は、おそるおそる、朔《さく》を見る。
彼は自分の体を抱き、身を縮めていた。銀髪がびしびしと逆立っている。どくん、どくん、というリズムにあわせて体を大きく震わし、そのたびに――あきらかに肉体が大きくなっていった。
「なーに、気にすることはねえって」
ぽん、とたゆらが耕太の肩に手を置いた。
「さっきおれがいったとおり、こちらは三人、あちらは一人、おまけにこちらにはあいつの妹がいるんだ。妹に手が出せないとなれば、こりゃ勝ったも同然だぜ」
ひゃっひゃっひゃっと笑う。
「バカたゆら! 朔がその奥の手を使ったら――」
「兄《あに》さま、理性とんじゃう」
ちずるの言葉を、望が引き取った。
「……なぬ?」
「つまり、わたしでも平気で殴る。たぶん、みんな殴る」
「なにィー! そりゃヤベエ!」
「だから、早く逃げ――」
「モウ、オソイ……」
ひっ、とたゆらが声をあげた。
耕太も見る。
かつて朔だった生き物は、いまは体をふたまわりも膨れあがらせ、上半身を前に傾けさせていた。そんないまにも飛びかかってきそうな姿勢で、鋭い爪《つめ》を生やした手をだらりと下げ、はっは、はっは、と呼吸を荒げている。
顔は、狼《おおかみ》のそれだった。
口元が変形して、前に突きでて、牙《きば》を剥《む》きだしにしている。肌には銀毛を生やしていた。
唯一おなじといえるのは、銀色の瞳《ひとみ》だけだった。
「ユク、ゾ」
消えた。
耕太の横を、なにかがかすめる。
まるで金属バットを鉄柱に当てたような、がきん、という音があがった。続けて耕太のずっと後ろで、なにかが木々をなぎ倒してゆく音があがる。何十本も倒して、ようやく音は止まった。
おそるおそる、耕太は振りむく。
へし折れた木々で、道ができていた。
道の行き止まりに、人らしき影が、奇妙にねじれて倒れている。
「まさ、か……あれ、たゆらく……」
「耕太」
はっと耕太は我に返った。素早く望《のぞむ》と背中を合わせる。まわりに視線を走らせた。
――ど、どこにいったの?
朔《さく》の姿は見えない。耕太の呼吸は次第に荒くなっていった。
「あの変身、時間が限られてるの」
「時間が?」
「そう。十分ぐらいしか持たないし、一日に一回までしか使えないの。だから、どうにか時間をかせげば――」
あ。
望がそういったとたん、耕太は背中からふっとんだ。
どうにか爪先《つまさき》で地面を蹴《け》って、身をひねり、自分をふっとばした相手を見る。
望が、巨大な狼《おおかみ》に突きをくらっていた。
くの字のかたちに曲がる、望の姿――耕太は、どうやらその『く』で、ふっとばされたらしい。
まともにくらったら、いったい?
どさり、と望がその場に倒れた。
狼は、もう姿を消さない。
ゆっくりと耕太に近づいてくる。
「耕太くん!」
ちずるの声が聞こえる。しかし、耕太は動くことができなかった。
銀色の瞳《ひとみ》に、冷たい瞳に捕らえられて、もう指先ひとつ動かせなかった。蛇に射すくめられた蛙《かえる》の気持ちって、こんななのかな。まるで人ごとのように耕太は思った。
目の前に、狼の巨体がそびえた。
腕を振りあげる。ひどくゆっくりと。
来る。
そう思った瞬間、横に薙《な》がれた。金属音とともに、ふっとぶ。落ち葉を舞いあげながら、耕太は地面を横滑りした。
どか、と木に背中からぶつかる。
「う……」
耕太はどうにか腕を上げて、攻撃を防いでいた。なかば無意識だった。
その腕が、動かない。
「折れ……てる?」
痛みはなかった。ただ、熱だけが感じられた。鼓動とともに、熱もどくん、どくん、と燃えあがる。
横たわったままの耕太の元へ、狼《おおかみ》の姿をした朔《さく》が、妙にゆっくりと近づいてくる。
死ぬの……かな。
不思議と恐怖はなかった。
「ごめんね。ちずる……さん」
まぶたを閉じる。
とたんに、すさまじい力が流れこんできた。ばち、と耕太は眼《め》を見開く。
首筋のマフラーは、もはや輝くというより、金色に燃えあがっていた。
「ちずる……さん」
見ると、ちずるは立ちあがっていた。
両手両足を縛られたままで、どうやったものか立ちあがっている。
うつろな瞳のちずるの背中で、狐のしっぽが踊っている――金色のしっぽに、さらにもう一本、べつのしっぽが加わっていた。
「しっぽが……ふたつ?」
最初から生えている金色の一本とは違って、肉体としてあるものではないようだった。
炎のように噴きあがっている。紅《あか》い、まさに炎のようなしっぽだった。
さらに増える。
こんどは水色だ。氷のように透きとおった、いわば水晶のかたちにでこぼこしたしっぽだった。
ぶつん、とちずるを縛《いまし》めている特別製なはずの縄が、あっけなくちぎれ飛んだ。
ちずるがぎこちない動きで歩きだす。
「耕太……くん」
どろりとした金色の瞳が、巨大な狼へと向かった。
「耕太……くん……いま……助ける……から……」
しっぽはさらにその数を増していた。ばちばちと雷でかたちつくられたしっぽに、渦巻く風で作られたしっぽ。金、火、水、雷、風――あわせて五本のしっぽを、ちずるは生やしていた。ちずるの背から伸びて、触手のようにうごめいている。
どおん、とまわりで音がした。
びくつきながら耕太は見回すと、なにやら金属製の杭《くい》が、何十本も、次々と飛びだしていた。そして次々に砕けてゆく。
「な、なに? なにが起こってるの?」
ぐるる、と狼《おおかみ》の姿の朔《さく》がうなった。
一歩、ちずるに向かって踏みだした。ちずると朔、互いに近づいてゆく。
朔の姿が消えた。
まっすぐにちずるに突っこみ――弾《はじ》き飛ばされた。
ちずるの五本のしっぽが、まさに触手となって、朔を迎撃した。飛ばされた朔は、さきほどのたゆらのように何十本も木々をなぎ倒してゆく。
はるかかなたで、しかし朔は立っていた。
ゆっくり……ゆっくりとだが、またこちらへと歩いてくる。ちずるもまた、まだ生きていた朔に向かって、ゆっくりと歩きだしていた。
「兄《あに》さま……」
倒れていた望《のぞむ》が、朔に向かって手を伸ばした。
「ころ……される……ころ……されちゃうよ」
望の、半分閉じた眼《め》から、ひと筋、涙がこぼれた。
「ちずるさん……」
耕太は折れて動かない腕を抱えて、立ちあがった。
「ちずるさん」
歩きだす。
「ちずるさん!」
喉《のど》を振り絞って、叫ぶ。
「ちずるさん――ぱんつが!」
ぴた、とちずるが立ち止まった。
「……へ」
ゆっくりとちずるが自分の下半身を見おろす。
そこにはなにもなかった。かつてはぱんつだったろう布のかけらが、太もものあいだに挟まれて、ひらひらとおよいでいるばかり。
「そ、そのしっぽの力が強すぎて、さっき、縄と一緒に……吹き飛んでました」
いたた、と耕太はじんわりと痛みだした腕を押さえて、顔をしかめた。
「――や」
どんよりしていたちずるの瞳《ひとみ》に、ぎゅいんと力が戻る。
「やだあ!」
ちずるは手と五本のしっぽで、下半身を隠した。
「え? やだ、なによこれ」
うにょんうにょん動く五色のしっぽを見て、ちずるは眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。やがて金色を除いた四本のしっぽの動きが、どんどんと激しくなってゆく。
しっぽが触れた地面が、燃えたり、凍ったり、放電したり、えぐれたりした。
うう、とちずるは苦しみだす。
「この力……つ、強すぎる!」
ちずるは自分の体を抱いた。
「こ、このしっぽ、すごい、力で……とても押さえきれない! このままだと……暴れだして……みんな……壊してしまう。耕太くん、早く……離れて。みんな連れて、なるべく、遠くまで、逃げて!」
抱いている腕に、ちずるが爪《つめ》を立てる。ぷつっ、と血が噴きだした。
「ああっ! 早く、早く! 耕太くん……お願い!」
グル、ル……。
朔《さく》が、耕太の前までやってきた。狼《おおかみ》の巨体が、いきなり耕太の腕をつかむ。そのまま望《のぞむ》のところにまで持ってきた。耕太を望のそばにぽいと捨てる。
「ニゲ、ロ……」
朔が、どうにかしっぽの暴走を押さえこんでいるちずるへ向かって、拳《こぶし》を伸ばした。
このまま放《ほう》っておけば……と、一瞬だけ耕太は思う。
「――そんなの、だめだ!」
耕太は叫んだ。
「ちずるさん!」
駆けだし、朔を追い越す。
うごめいていたちずるのしっぽの先が、一斉に耕太へと向いた。伸びてくる。
「待て、こら!」
ちずるがぐっと力をこめる。しっぽの動きが止まった。
その隙《すき》に耕太はちずるのふところに飛びこんでいた。ちずるが抱きとめる。金色のしっぽが、守るように耕太の体にくるくると巻きついた。
「耕太くん、逃げてっていったのに!」
「ぼくは、ちずるさんを守るって決めたんです」
「だって、このままじゃみんな、死んでしまう!」
「ひとりじゃ無理でも!」
耕太は自分の顔をちずるの顔に近づけた。
「ふたりなら!」
「ふたり……なら?」
耕太は自分からちずるの唇を奪った。
「……耕太くん、耕太くん」
「ふぁい?」
まぶたを開けると、目の前にちずるの顔があった。頭の後ろには張りのある弾力、ちずるの顔の左右には、見覚えのあるふたつのふくらみ……どうやら耕太は、膝枕《ひざまくら》されていたらしい。んー、と耕太は背伸びする。
「ちずるさん……また、そんな格好で」
生おっぱいのあいだから、ちずるの笑顔は覗《のぞ》いていた。
「耕太くんだって、ほら」
「ふぇ?」
見ると、自分もすっぽんぽんだった。
「うわあ!」
跳びあがる。
「あれ? ここ……」
まわりを見ると、なにやらぐねぐねと赤黒いものがうごめいていた。あたり一面、そんな景色で、空も床もなにもない。よく考えてみれば、どうやって自分は立ちあがっているのだろ?
あわてて手足をばたつかせる耕太を、ちずるががっちりと抱きしめてくれた。
「ここはね、わたしのなか」
「ち、ちずるさんの?」
「そう……。心の世界。もう、耕太くんったら強引なんだから。嫌がるわたしを、無理矢理に」
「そ、そーでしたっけ」
耕太は眼《め》をぱちくりとさせる。
「そ、そうだ。ぼく、ちずるさんとひとつになって……でも、いままでこんなことは?」
「うん。わたしもまだよくわからない世界だからね。でも、見てほしかったの。耕太くんに、わたしのすべて」
ちずるがかなたを指さす。
「見て……」
こう、とプロミネンスのような炎が、赤黒い世界で、やたらと鮮やかに燃えあがっていた。
「あれは?」
思わずちずるに抱きついてしまった耕太を、ちずるはいい子いい子となでなでしてくる。
「あれが、わたしのなかで眠る力。――さっきの、しっぽたち」
狼《おおかみ》姿が解け始めた朔《さく》の前で、耕太とちずるは、五本のしっぽにすっぽりと呑《の》みこまれていた。
「これで、すべてがわかるな……あいつが本物か、どうか」
しっぽが、うねうねと動き始めていた。
「なんとなくだけど、思いだしてきたの」
耕太とちずるは互いに抱きあいながら、ふらふらと赤黒い世界に浮いていた。まわりでは色とりどりの力の奔流が、きままな動きを見せている。
「たぶん、目覚めたらまた忘れると思うけど……たぶん、耕太くんもね」
えへ、とちずるは笑った。
「わたしね、どうやらただの化《ば》け狐《ぎつね》じゃないみたい。普通の狐は、しっぽが五本も生えてないし」
ちずるは耕太のおでこに自分のおでこを当て、見つめてくる。
「いいの? 耕太くん。わたし、もしかしたら……とんでもないバケモノなのかもしれないよ。世界を滅ぼしちゃうくらい」
「いいですよ、べつに」
耕太はさらりと答えた。
世界を滅ぼすといっても、実感がなかったからかもしれない。
「ぼくはもう、覚悟はできました」
ふふ、とちずるがほほえむ。
「ひとりじゃ無理でも?」
「はい。ふたりなら――」
お互いに唇を近づける。
「……でも、しっぽ、たぶん五本どころじゃないよ」
ぼそっと呟《つぶや》かれた。
「え」
強引にキスされる。
五本どころじゃないって……。耕太はちらりと横目でまわりを見た。あいかわらず赤黒い世界を走る、さまざまな色の力の流れが、一カ所に集まるのが見えた。
うねうねとなにやらかたちをとる。
鎌首《かまくび》をもたげたそれは――八つの首を持つ、まるで――。
そのころ、神社の境内では――。
耕太とちずるにうねうねと絡んでいるしっぽたちが、すべて、耕太の体へと呑《の》みこまれていった。ちずるの体も透けてゆく。
あとに残ったのは、黒狐《くろぎつね》姿の耕太、ただひとりだった。
耕太は眼《め》を開ける。
半開きの眼で、まわりを見た。なんだかひどく現実感がない。
「ここは……元の場所」
「いよう。おそかったじゃないか」
「朔《さく》……さん」
元の人の姿に戻った朔が、地べたに腰をおろしていた。その顔には疲れが見える。
「見事おまえさんは、王さまだったってわけだ。最終段階、合格だな」
びし、と朔は指さしてきた。
「……王?」
「なあに、こっちの話さ……。さて、決着つけるとしようか」
朔が立ちあがる。ぐきぐきと首や指を鳴らした。
「無理です。朔さん、もうあなたは、いまのぼくたちには……」
「この姿じゃな」
耕太は首を横に振った。
「あの姿でも、です」
「だろうな……いまのおまえなら、おれなんか一撃で簡単に殺せるだろう。立場逆転というわけだ」
「じゃあ……どうしてまだ闘おうとするんですか」
「耕太、おまえは、勝てないとわかっていたおれに、どうして立ち向かった?」
じっと耕太は朔を見つめる。
「やっぱり……あなたも、ちずるさんを」
にたりと朔《さく》は笑う。
「――わかりました」
耕太は拳《こぶし》をすっ……と朔に向けた。ただそれだけで、まわりの空気がうねった。
「ありがとうよ……耕太」
ぬおっ、と朔が身を縮めた。銀髪がざわめく。
「兄《あに》さま……一日に、二回は」
望の言葉をかえりみることなく、朔は体を筋肉でふくらまし、耳を生やし、顔を狼と変えた。
「耕太……あ、兄《あに》さまを」
「大丈夫……ぼくが……わたしが[#「わたしが」に傍点]、こいつを殺すと思う?」
耕太の体は、望に向かって勝手にウィンクをした。
「ウガオオオォ!」
吠《ほ》えて、朔は飛びかかってきた。
いまの耕太には彼の動きが、スローモーションに見える。わずかにぶれ[#「ぶれ」に傍点]た足さばき……耕太はその動きを正確になぞった。
まっすぐに拳を伸ばし、己を一条の矢だと思って――。
朔のみぞおちに、静かに叩《たた》きこんだ。
[#改ページ]
[#小見出し] 七、はじまり、はじまり[#「七、はじまり、はじまり」は太字]
街路樹の並ぶ通学路。
耕太《こうた》は、一週間ぶりにこの道を歩いて登校していた。全身筋肉痛で、手足はぎっこんばったんとしか動かない。よろめく体を支えているのは、ちずるだった。
「あの、だ、大丈夫ですから」
「だーめ。転んでケガなんかしちゃったら、つまらないじゃない」
あの闘いから、一週問が経《た》っていた。
つまり耕太はあれからずっと寝ていたということだ。骨折していたはずの腕は、いつのまにか治っていた。
――じつは耕太は、あのときの闘いが、どうやって決着したのか、よく覚えていない。
気がついたら病院のベッドの白い天井があって、脇《わき》にはちずるがすよすよと眠っていた。それから四日間ほど、筋肉痛で起きることすらできなかった。見舞いに来てくれた砂原《さはら》や八束《やつか》、そして熊田《くまだ》などは、なにやら知ってそうだったが、教えてはもらえなかった。
……いったい、なにがあったんだろう?
耕太は肩を支えるちずるを見た。
「なあに? 耕太くん」
「い、いえ。なんでも……」
なぜかちずるの顔を見るのが恥ずかしい。好きっていっただけなのに……なにかあったのか? ま、まさか、闘いの最中に、なんて……。
「――おはよう、小山田《おやまだ》くん」
いきなりの呼びかけに、わたわたと耕太は焦った。
「もう体は平気なの?」
横から声をかけてきたのは、あかねだった。
「え、あ、は、はい!」
「そう。よかったわね……大変だったわよね、盲腸だなんて」
「そ、そーですね」
あは、は……と耕太は笑った。そうか、ぼくの入院はそういうことになっているのか。
「ところで犹守《えぞもり》さん、転校したわよ」
耕太の胸に、ちくりと痛みが走った。自分の首に巻いた二本のマフラーを見る。
風になびく銀色の髪――。
「そう……ですか」
「それも急に。せっかく仲良くなれたと思ったのに……どうしてかしらね?」
あかねが、眼鏡のレンズの向こうの眼《め》を、じっと細めてきた。
「……わからないです」
「そうよね。小山田くんが事情を知ってるはずなんか――ないわよね。源《みなもと》は源で、車にはねられたとかで、三日ぐらい入院してたけど」
「たった三日……すごいや」
「あー、エロス大王の小山田くんだー」
以前誤解されてそのままの、クラスメイトのそばかす少女があらわれた。となりにはやはり誤解されたままの、髪を真ん中で分けた少女がいる。
「ごめんねー、小山田くん。てっきりわたし、小山田くんは女と見たら手当たりしだいなエロス大王とばかり思ってたんだけど」
おや? 耕太は首を傾《かし》げる。
「ど、どうしたんですか、いったい」
「望《のぞむ》さんよ」
真ん中分け少女が答えた。
「三日前に転校するとき、望さんが、小山田くんが好きなのはちずるさんだけなんだって、わたしたちに説明していったの」
「望さんが……?」
「そうそう。『耕太が好きなのは、ちずるだけだから』って、あの低い声で、ぼそぼそって。すごく必死だったから、わたしたちも……ねえ」
「だからね、小山田くん」
そばかす少女が頭をさげ、手を差しだしてきた。
「いままで、ごめんなさい!」
「……いえ、わかってさえもらえれば、ぼくは、べつに」
耕太は握り返そうと、手を伸ばした。ぎしぎしと腕の筋肉がきしんだが、仲直りの握手を無視するわけにもいかない。
手のひらが届く寸前――。
だれかが飛びこんできた。耕太に抱きついてくる。
「わ」
「きゃ」
耕太は、体を支えていたちずるごと、倒れた。
「いた、た……な、なにが」
見あげると、銀髪の少女が、銀色の瞳《ひとみ》をまっすぐ耕太に向けてきていた。耕太にまたがるようにして、四つんばいになっている。
「え」
「あなた――」
「の、の、望《のぞむ》さん!」
「うん」
きゅ、と耕太に抱きついてきた。
ちずるがぐい、と望の首根っこをつかむ。
「あなた! 朔《さく》と一緒に転校したんじゃなかったの!」
ちずるにつかまれて、猫のように望はぶらん、とぶらさがった。
「したよ。して、また入学した」
「ど、どういうことですか?」
「兄《あに》さまがね、残りたかったら残れって。おまえはもうオトナだから、自分の決まりに従って、好きなように生きろって。おれはおまえがオトナになったから、組織辞めるって」
耕太とちずるは顔を見あわせる。
「ちょっと、じゃあ朔は? あのバカ犬は?」
「ぶらりひとり旅を楽しむって、ぶるんぶるんに乗っていった」
ぱっとちずるが望の首から手を離す。
「あいつ……耕太くんとわたしの秘密、自分に勝ったら教えるなんていいやがって……逃げやがった!」
望はまたも耕太にすりよってくる。
「兄さまがね、本妻がだめなら、愛人という手があるって」
「あ、愛……」
「ふざけるなー! あのバカ犬、余計な火種だけ残していって……もう!」
「耕太ー、これからもいっしょだね」
ほっぺすりすり。
「わ、わたしなんかずっとずっといっしょだもん!」
ほっぺすりすり。
望《のぞむ》はすべすべ、ちずるはさらさらだった。ほっぺたの感触も、人によってだいぶ違うものだなあ……などと、耕太は両側からほっぺすりすりされながら思った。
「うーん。やっぱり小山田くんはエロス大王なんだなあ……」
「男なんてみんなあんなものよ。ケダモノなのよ」
そばかす少女と、真ん中分け少女が離れてゆく。
また……誤解された。
もう耕太には起きあがる気力もなかった。体中痛かったし。
「耕太」
望がささやいてくる。ちずるは、うー、とうなる。
「なんですか……?」
「兄《あに》さまがね、いままででいちばん効いたって、耕太のパンチ。あと、人の技パクリやがって、大切に使えよ、だって」
「……そういえば、そんなことをやったような……」
「よく覚えてないんだけどね、わたしたちは」
あ、そうだ。耕太は頼まれごとを思いだした。
「あの、望《のぞむ》さん。ほかには聞いてないですか? たとえば、桐山《きりやま》さんのご兄姉《きょうだい》についてとか……って、あれ? そういえば……」
耕太は視線をさまよわせる。
「桐山さんは……? ま……まさか?」
「そ、その、まさかなんです」
え? と一同振りむくと、おかっぱ頭の少女、澪《みお》が立っていた。澪はたれ目をうるませ、ふるふると震えさせていた。
「き、桐山くん……まだ、山ごもりから帰ってきてないんです」
「――えええ?」
耕太は声をあげた。
「だ、だって、桐山さん、朔《さく》さんに勝つために山ごもりして……も、もう朔さんはいないし……えー? 今日でもう……」
ひい、ふう、みい、と耕太は指を折って数える。
「二週間だよ。まあ、順当にいってのたれ死んでんじゃねーか? 冬山だしな」
たゆらだった。
ひ、と澪は凍りつく。うううううー、と泣き崩れた。
たゆらはばつが悪そうに、頭をがしがしとかく。
「で、どーすんだ、おい?」
「……ぼく?」
一同、なぜか耕太をじっと見つめている。
「じゃあ、いきましょうか。桐山さんを捜しに――」
「わあ、耕太くんと初めての旅行は、冬山ね? スキーとか、すごく楽しみー!」
「温泉あるところがいーよな」
「わたし、雪、好き。オオカミだから……」
「あ、あの……き、桐山くんを、一緒に、さ、捜してくれるんです、よね……?」
「学生は、節度あるおつきあいを! 不純異性交際は、校則違反です!」
「かたいこというなよ、朝比奈《あさひな》……そんなに心配なら、ついてくりゃいーじゃん」
「み、源《みなもと》! わたしはその手には……」
「わたし、あかねといきたい」
「え、犹守《えぞもり》さん……ぐ、ぐぐ」
「ロッジから見える、幻想的な雪の景色……これなら耕太くんも……じゅるり」
「み、みなさーん、き、桐山くんを、さ、捜しに……」
「楽しみだね、耕太くんっ!」
耕太は、は、はは……と力なく笑った。ひゅるりと吹いた北風に、二本のマフラーがかすかに震える。マフラーは、しっかりと寒さから耕太を守ってくれた。
[#地付き](おわり)
[#改ページ]
[#小見出し] あとがき[#「あとがき」は太字]
この小説のテーマは、純愛です!
おっぱいとかおしりとかむにに〜んとかぷりり〜んとか書いてあるように見せかけてというか実際に書いてるんですけど、本当は純愛小説なんです!
な、なんだよう。そ、そんな眼《め》で見るなよう。
う……う、うわーん!
(泣きじゃくりながら退場)
……さて、ということらしいんですが。
え? わたし? わたしは作者である西野かつみのダークサイド、いわば西野かつみ2号といったところでしょうか。いえーい、おっぱいがいっぱーいごめんなさーい。
はい、まずはすでに中身を読まれたかたへ。
男の子なら握手しましょう。むにむにつるぺーたー。
女の子なら……すみませんでした。いや! 女の子だって、きれいな裸は好きなはずで、え、えーと……やっぱりごめんなさい。
続いて、一巻は読んだぜ、というかた。
路線はおなじです。ちょっぴりえっちな胸きゅんストーリーが、狐印《こいん》さんのすてき絵とともに楽しめるという極楽絵巻です。狐印さん、いつもすばらしいイラストをありがとうございます!
さらに今回は、えっちさ増量(当社比)!
新しい娘《こ》の登場で、おっぱいの数は、二倍、二倍! かならずやご期待にお応《こた》えできると存じます! ぼよえ〜ん、ないない〜ん。
で、初めて「かのこん」を手にとってみたかたがた……。
はい、えっちです。
認めます。えっちなのはいけないと――ええ、わたしも思います。
だけど、ちょっと考えてみてください。
愛しあっているふたりが求めあう、それのどこが罪だというのですか?
いや、たしかに、ふたりが求めあうというより、ひとりが一方的に求めてるだけかもしれませんが……それはそれ、いやよいやよも好きのうち! えっちなお姉さんは好きですか! えっちな無愛想少女は好きですか! わたしはどちらも好きです! え、純愛? それって食べれるの?
はあはあ。
では、さらさらとお楽しみくださいませ。一巻を読まなくても平気です。読めばもっと楽しいですけどね!
平成十七年書いたら消される月[#地付き]西野かつみ(2号)
発行 2006年1月31日(初版第一刷発行)
2008/06/10 作成