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EF63形機関車の証言
西村京太郎
目 次
EF63形機関車の証言
見知らぬ時刻表
スキー列車殺人事件
江ノ電の中の目撃者
運河の見える駅で
西の終着駅の殺人
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EF63形機関車の証言
秋日和の土曜日だからといって、誰もが、楽しい行楽に出かけるとは限らない。
病気で寝ている人もいるだろうし、中には、銀行強盗を働く人間もいるのだ。
浅草《あさくさ》 雷《かみなり》 門《もん》近くにあるM銀行浅草支店に、その強盗が入って来たのは、十月三十日土曜日の午前十一時二十分|頃《ごろ》である。
店内には、この時、五人の客がいた。
身良一七三センチぐらいで、グレーのコートを着て、眼と鼻、それに、口のところに穴をあけた毛糸の頭巾《ずきん》をすっぽりかぶった男は、店内に入って来るなり、拳銃《けんじゆう》を一発、ぶっ放した。
弾丸は、天井に命中した。
そうやって、十五人の行員と、五人の客を、ふるえあがらせておいてから、男は、窓口の女子行員に向って、
「これに、金を詰めろ!」
と、大きな茶色のボストンバッグを渡した。
男は、落ち着いていた。
支店長の浜田は、客に怪我《けが》をさせてはいけないと考え、女子行員にいって、百万円の札束を五つ、バッグに入れさせた。
男は、「まだだ」と、いった。
「あと五百万ばかり、入れるんだ」
浜田は、仕方なくいわれるままに、五百万円を入れると、男は、ボストンバッグを、抱えて、
「今から、五分間、そのままにしているんだ。さもないと、容赦なく、殺すぞ!」
と、捨てゼリフをはき、さッと、扉の外に抜け出して行った。
若い行員の一人が、あわてて、そのあとを追った。が、銀行の前の通りは、土曜日ということもあって、人通りが多く、男の姿は、その雑踏の中に、消えてしまっていた。
警察に通じる非常ボタンは、男が入って来た時に、支店長が押していたから、二、三分後には、パトカーが駆け付け、すぐ、銀行の周辺に、非常線が張られた。
警視庁捜査一課の十津川警部と、亀井刑事が、到着したのは、さらに、二十分たってからである。
犯人は、まだ、非常線に引っ掛っていなかった。
十津川は、浜田支店長、拳銃を突きつけられて脅かされた女子行員の花井千寿子たちから、犯人の特徴を聞いた。
銃口を、頬《ほお》のあたりに押しつけられたという千寿子は、まだ、蒼《あお》ざめた顔で、声もふるえていた。
「眼や鼻、口しか出ない覆面をしていたんで、顔は、わかりません」
と、彼女は、いった。
「プロレスラーがかぶっているようなものですね?」
「ええ。白い毛糸であんでありました」
「背|恰好《かつこう》を教えて下さい」
「身長は一七〇センチくらいでしたわ。がっちりした体格で、グレーのコートを着てました。声からみて、中年の男の人だと思いましたけど」
「私も、中年だと思いましたよ」
と、浜田支店長が、口を添えた。
「声に、聞き覚えは?」
「ありません」
「ここには、監視カメラが備え付けてありますね」
十津川は、天井や、壁に付いているカメラを見廻《みまわ》した。
「全部で五台付いていますから、犯人も、ちゃんと、写したと思います。二秒ごとに、シャッターが切れることになっています」
浜田は、自慢そうに、いった。
「では、現像が出来次第、われわれに、見せて下さい」
「わかりました」
「犯人は、手袋をはめていましたか?」
亀井が、代ってきくと、千寿子が「はい」と、肯《うなず》いた。
「茶色の革手袋をはめていましたわ」
それでは、指紋から、犯人を割り出すことは、出来そうもない。
一時間経過した。が、犯人が、検問の網に引っ掛ったという報告は、聞けなかった。
非常線が張られる前に、犯人は、近くにとめておいた車で逃走してしまったのかも知れない。
或《ある》いは、銀行から、地下鉄の浅草駅まで歩いて、五、六分の距離ということを考えれば、犯人は、地下鉄で、渋谷、新宿方面に逃走したということも考えられた。
ただ、東武線の浅草駅も、ほとんど同じ近さだから、東武線で、日光方面に、逃亡した可能性もある。
毛糸であんだ覆面と、拳銃《けんじゆう》は、銀行近くの路地で発見された。
拳銃は、改造拳銃だった。
恐らく、犯人は、銀行を出たあと、すぐ、この路地に飛び込み、覆面と、拳銃を捨てたのだろう。
「プロのやり方ですよ。行員の話でも、犯人は、落ち着いていたといいますし、素早く行動しています」
と、亀井は、舌打ちした。
二時間後に、銀行の監視カメラがとらえた犯人の写真が出来てきた。
二秒間に一枚の割り合いで、撮られた写真である。
犯人が、正面から撮られているものが、十枚あった。
十津川は、その十枚を、順番に並べてみた。
覆面をした犯人が、拳銃で、女子行員の花井千寿子を脅しているところ、ボストンバッグを投げているところ、それを抱えて、逃げるところなどが、連続して写っている。
十枚の写真を束ねて、ぱらぱらと、めくってみると、犯人が、ぎくしゃくした動きを見せた。齣数《こまかず》の少ないアニメの感じである。それでも、犯人の動きは、わかる。
十津川と一緒に、見ていた亀井が、急に、眼を光らせた。
「奴《やつ》ですよ。深見次郎ですよ。これは!」
と、大声を出した。
「そうだ。これは、深見だ」
十津川も、大きく肯いた。
顎《あご》を突き出すようなポーズ、右肩が少しあがっている恰好《かつこう》。背恰好も、前科三犯の深見次郎そっくりだと思った。
深見は、前に、郵便局を襲って、五百万円を強奪したことがある。確か、それで、五年間、刑務所に入っていて、最近、出所した筈《はず》だった。
ひょっとすると、長引きそうだと思われた事件だが、犯人が割れれば、簡単に片付くだろう。
深見の住所は、四谷《よつや》三丁目の青葉荘というアパートになっている。
十津川と亀井は、すぐ、パトカーを飛ばした。
青葉荘というアパートは、簡単に見つかった。すでに、夕暮れが近づいていた。
新築のプレハブ二階建のアパートである。
(深見が犯人なら、もう、高飛びしているかも知れない)
と、十津川は、思っていた。それでも、彼が犯人であることを、確認しなければならない。
階下の郵便受けのところに、二〇九号室として、「深見」の名前が書いてあった。
「本名で、部屋を借りていますね」
亀井が、意外そうな顔をした。
二階にあがって行くと、二〇九号室のドアにも、「深見」と、あった。
しかし、その下に、四角い紙が、貼《は》りつけてあって、次の文字が、書いてあった。
〈三日ほど留守にします。新聞は、その間、入れないで下さい。
[#地付き] 深見〉
「逃げたかな?」
と、十津川が、呟《つぶや》いた。
亀井が、階下《した》から、管理人を呼んできた。
五十五、六歳の小柄な男だった。
「深見さんなら、お出かけになっていますよ」
と、管理人は、いった。
「いつ、どこへ出かけたのか、わかりませんか?」
十津川は、丁寧にきいた。
「お出かけになったのは、今朝です。三日ほど、留守にするので、よろしくと、いって。腰の低い、いい方ですよ」
管理人は、ニコニコ笑いながら、いった。
十津川は、苦笑した。
「何時|頃《ごろ》だったか、わかりますか?」
「確か、十時頃でしたよ」
と、管理人はいう。
浅草のM銀行に強盗が入ったのは、午前十一時二十分頃である。
四谷三丁目から地下鉄に乗り、赤坂見附《あかさかみつけ》で乗りかえれば、浅草まで、四十分あれば、着けるだろう。ゆっくり間に合うのだ。
「今日、出かけるとき、どんな服装でした?」
「コートを着て、ボストンバッグを手に下げていましたね」
「ボストンバッグの色は?」
「茶色っぽかったと思いますよ」
それなら、銀行強盗に使われたものと、色は同じだ。
「コートの色はどうです?」
「赤と黒のチェックでしたね」
「グレーじゃなかったんですか?」
亀井が、口をはさんだ。
管理人は、「違いますよ」と、首を横に振った。
「赤と黒のチェックでした。ずいぶん派手なのを着るんだなと思いましたからね。深見さんは、もう四十二、三でしょう?」
「四十三です。行先は、いわなかったんですか?」
「ええ。聞いていません」
「じゃあ、カギを開けてくれませんか」
「深見さんが、どうかしたんですか?」
「いや、今のところ、何にもいえません」
と、十津川は、あいまいにいった。
管理人が、マスター・キーで、ドアを開けてくれた。
十津川と、亀井は、中に入ってみた。
二か月前に、出所したばかりということもあってか、調度品のほとんどない、がらんとした部屋だった。
六畳に三畳、台所とトイレはついているが風呂はない。
奥の六畳に、安物の机と、中古のテレビ、それだけである。
押入れを開けると、布団《ふとん》の類は、ひと通り揃《そろ》っていた。
机の引出しを開けてみたが、ボールペンが一本入っていただけである。
あと、部屋にあったのは、週刊誌が数冊と、古新聞だけだった。
「何もない部屋ですね」
亀井が、感心したようにいった。
「刑務所を出て、二か月では、こんなものだろう」
と、十津川はいい、念のために、管理人にきいてみると、やはり、刑務所を出て、すぐ、このアパートを借りたようだった。
「深見が犯人だとしたら、もう、ここには帰って来ないんじゃありませんか? 一千万円という大金を手に入れたんですから、悠々《ゆうゆう》と温泉めぐりでもする気でいるんじゃないでしょうか」
「そうだな。この部屋のものを、全部合せたって、二、三万円ぐらいだろう。それなら、わざわざ、取りに戻って来る筈《はず》もない」
「警部も、深見を犯人だと思われますか?」
「多分ね。コートは違っているが、これは、恐らく、リバーシブルで、裏、表の両面が使えるやつだと思う」
「同感ですね」
二人の意見は一致した。
深見が犯人なら、この安アパートに戻って来ることは、まずないだろう。
それでも、念のために、日下《くさか》、西本の二人の若い刑事に、張り込ませることにして、十津川たちは、引き揚げた。
事件は、夕刊に、でかでかとのった。
警察は、Fを容疑者と見ていると書いてあったが、もちろん、まだ、深見という名前はのせていない。
深見の両親は、九州の熊本で、まだ、健在である。そちらにも、熊本県警に頼んで、調べて貰うことにした。
二日目になっても、これという収穫はなかった。
深見次郎の行方は、いぜんとしてわからず、熊本の両親のところにも、立ち寄った形跡はなかった。
もちろん、深見次郎以外の人間が犯人だという可能性もあるので、銀行周辺の聞き込みも、続けられた。
ボストンバッグを下げた中年の男が、あわてて、タクシーを拾って、走り去ったという目撃者も現われたり、東武線に乗るのを見たという証言もあったりしたが、いずれも、信頼性の低いものだった。
三日目の夜になって、青葉荘アパートを見張っていた日下刑事から、捜査本部の置かれた浅草署に連絡が入った。
「今、深見次郎が、アパートに帰って来ました」
「本当か?」
十津川は、意外な気がして、確かめた。
深見が犯人だとしたら、二度と、戻っては来ないだろうと、思っていたからである。舞い戻るメリットが、全くないように思えるからだった。
「間違いなく、深見です。今、二階の自分の部屋に入りました。どうしますか?」
「とりあえず、こちらへ連れて来てくれ。逃げるようだったら、手錠《てじよう》をかけても構わん」
と、いった。
亀井も、深見が戻ったと聞いて、信じられないという顔をした。
「わかりませんねえ。わざわざ、捕まりに戻ったようなものですからね」
「カメさんは、深見が、なぜ、戻って来たと思うかね?」
「そうですねえ。無実だから、平気で帰って来たのか、それとも、捕まらないだろうと、タカをくくっているのかのどちらかでしょうが、わかりません」
亀井は、肩をすくめた。
「いずれにしろ、深見に会えば、わかるだろう」
と、十津川は、いった。
一時間ほどして、深見次郎が、連れて来られた。
茶色のボストンバッグを下げ、赤と黒のチェックのコートを着ている。
深見は、十津川に向って、小さく首を振った。
「何の真似《まね》だい? これは」
「ちょっと君に、ききたいことがあって、来て貰ったんだ」
「いったい、何をききたいんだ?」
深見は、用心深い眼になって、十津川を見つめた。
「どこへ行ってたんだ? この三日間」
「長野だよ。善光寺にも、お参りしてきた。それがいけないのかい?」
「君は、十月三十日の土曜日の朝、出かけているね?」
「ああ、そうだ」
「上野から、まっすぐ、長野へ行ったのか?」
「そうだよ」
「あの日、浅草へ行かなかったかね?」
「長野へ行こうとしているのに、浅草でおりたって、仕方がないじゃないか」
深見は、笑った。
「長野では、何という旅館に泊ったんだ?」
と、横から、亀井が、きいた。
「長野市内の大和旅館だ。嘘《うそ》だと思うなら、問い合せてくれてもいい。十月三十日から、今日まで、そこに泊っていた。小ぢんまりした旅館だが、それだけ、サービスも濃やかでね。おれは、気に入ったよ」
「長野へは、上野から、列車かね? それとも、車で行ったのかね?」
十津川が、きくと、深見は、ニヤッと笑った。
「おれが、免許証を持っていないのは、わかっているだろう。上野から、特急で、長野へ行ったんだ」
「何という列車だね?」
「午前一一時上野発の『あさま9号』だ」
「間違いないね?」
「ああ、間違いないとも」
深見は、大きな声を出した。
(本当だろうか?)
もし、それが事実なら、深見は、犯人ではあり得なくなる。
浅草雷門のM銀行が襲われたのは、同じ日の午前十一時二十分頃である。これは、銀行の支店長や、行員たちが証言しているから、間違いないだろう。一方、深見が事実をいっているとしたら、その時刻には、彼は、「あさま」の車中にいるのだから、銀行強盗は、不可能である。
念のために、十津川は、時刻表で「あさま」を、調べてみた。
L特急「あさま」は、一時間に一本の割合で、信越本線を走っている。
「あさま9号」のダイヤは、次の通りである。
(画像省略)
M銀行浅草支店が、襲われたのは、十一時二十分だから、「あさま9号」は、丁度、大宮の手前を走っている時刻である。深見が、その列車に乗っていたとすれば、それは、完全なアリバイ成立である。
「君が、この列車に乗っていたという証拠はあるのかね?」
十津川が、きくと、深見は、当惑した顔をして、
「証拠なんていわれても困るな。切符は、渡しちゃってるし、あとで、乗ったことを証明しなければならないなんて思わずに、乗っているからね」
十津川は、一応、長野の「大和旅館」に電話してみることにした。
向うの電話口に出たのは、大和旅館の女将《おかみ》さんだった。
十津川の質問に対して、十月三十日には、深見次郎という客が泊ったといった。
「おいでになったのは、午後の五時頃でした。ええ、お一人で、いらっしゃいました」
「その男の人相をいってくれませんか?」
「眉毛《まゆげ》の太い、鼻の大きな方だったですわ。背の高さは、一七三センチぐらいでしょうか。赤と黒のチェックのコートを着て、ボストンバッグを下げていらっしゃいました」
「何日泊ったんですか?」
「二日お泊りになって、今日、お帰りになりました。何か、こちらが、不都合なことでも致しましたでしょうか?」
「いや、そういうことじゃありません。ところで、彼は、前もって、予約してあったんですか?」
「ええ。二十九日にお電話を下さいました。何でも、時刻表で見たが、明日、あいているかというおたずねでしたわ。それで、何時頃おいでですかと、おききしましたら、三十日の午後、一人で行くからということでした」
「そちらに泊ってから、何かおかしい様子はありませんでしたか?」
「いいえ。別に」
「三十一日の日曜日は、彼は、どこにいましたか?」
「朝食をめしあがってから、戸隠《とがくし》高原に行かれたようですよ。どう行ったらいいか、お訊《たず》ねでしたから」
「彼のところへ、誰かが訪ねて来たというようなことは、ありませんでしたか?」
「いいえ、ありませんでしたわ」
「そうですか――」
十津川は、軽い失望を感じながら、電話を切った。
深見が、本当に、長野に行っていたことに失望したわけではなかった。
十津川が、考えたのは、奪われた一千万円の行方だった。
深見が犯人だとしたら、一千万円は、どこへ行ったのだろうか?
長野での二泊三日の間に、一千万円を使い切ったとは思えなかった。そんなことをすれば、目立って仕方がないからだ。
深見が、帰京して、アパートに戻ったところを、日下と西本の二人が、捕えて、連行したが、彼の持っていたボストンバッグの中に、一千万円はなかった。入っていたのは、カメラや、下着、洗面道具だけである。アパートの部屋にも、一千万円は、なかった。
そんなことを考えて、十津川は、深見が、長野で、誰かと待ち合せて、一千万円を渡したのではないかと思ったのである。
だが、誰も、旅館には、訪ねて来なかったという。
(彼が、犯人だとすると、一千万円は、どこへかくしたのか?)
「三十日に、君が、長野へ行ったことだけは確認できたよ」
と、十津川は、深見にいった。
「当り前だよ。おれは、あの日、長野へ行ったんだから」
「しかし、『あさま9号』に乗ったという証拠にはならん。この列車が、長野に着くのは、一四時一四分だ。それなのに、旅館に入ったのは、午後五時頃だったと、向うではいっている」
「その間に、善光寺へ行ったんですよ。陽が暮れてからだと嫌なんでね」
「それじゃあ、『あさま9号』に乗ったということにはならんな。いいかね。上野を一二時丁度に発車する『あさま13号』がある。これに乗っても、長野には、一五時一二分に着く。ゆっくり、午後五時には、旅館へ入れるんだ。上野発一二時なら、浅草のM銀行に十一時二十分に強盗に入ってからでも、乗れるからな。浅草から上野まで、地下鉄で五分しかかからないからね」
「おれは、上野一一時丁度に発車した『あさま9号』に乗ったんだ」
「じゃあ、それを、証明して見せろ!」
横から、亀井が、怒鳴った。
深見は、じっと考え込んでいたが、
「おれが撮った写真を、現像してみてくれないか。長野でも撮ったが、上野から乗った『あさま9号』の写真を、何枚か撮っているんだ。それを見てくれたら、何とか、わかるかも知れないよ」
十津川はすぐ、深見のカメラに入っていた三十六枚撮りのフィルムを、現像し、引き伸してみた。
写してあったのは、そのうちの二十五枚である。
確かに、長野での写真が多い。善光寺や、戸隠高原の景色である。
しかし、七枚は、L特急「あさま」を写してあった。
「これを見てくれよ」
と、深見は、上野駅のホームで、写した写真を、十津川に示した。
「あさま」というヘッドマークのついた先頭車の前に、深見が立っている。
「丁度、駅員が来たんで、写して貰ったんだ。右隅のところに、ホームの時計が写っているだろう。ちゃんと、午前十時五十七分を指している。だから、この『あさま』は、一一時発の『あさま9号』なんだよ」
「わかるよ。別に、この写真に写っているのが、『あさま9号』じゃないといっていない」
「それなら、おれのアリバイは、成立したじゃないか。おれは、この『あさま9号』で、長野へ行ったんだ。浅草のM銀行強盗があった時には、おれは、『あさま9号』に乗って、大宮の近くを走っていたんだ」
「簡単には、そういい切れんな」
「なぜなんだ?」
「上野と浅草の間は、地下鉄で、五分しかかからないんだよ。切符を買ったり、階段をあがったりする時間を入れても、十分あれば大丈夫だ。四谷三丁目のアパートを出た君は、まず、上野駅に行った。そこで、『あさま9号』の前で、駅員に写真を撮って貰う。君のいう通り、それが、午前十時五十七分だ。そのあと、また、地下鉄に乗って、浅草に出て、M銀行を襲う。時間的に、ゆっくり間に合うじゃないか。まんまと、一千万円を手に入れたあと、君は、再び、上野駅に出て『あさま13号』に乗ったんだ」
十津川がいうと、深見は、大きく肩をすくめて、
「刑事って奴《やつ》は、どこまで疑ぐり深いんだ!」
「世の中には、悪党が多いからな。とにかく、こんな写真じゃあ、アリバイにはならんよ」
「でも、おれは、三十日に、上野から『あさま9号』に乗って、長野へ行ったんだ」
「証明できなければ、どうにもならんな」
「待ってくれ。この写真が、証明してくれるかも知れない」
深見は、もう一枚の写真を、十津川と亀井に、指さした。
「これは、横川の駅で撮ったんだ。駅弁の釜めしで有名な横川駅だよ。横川と、次の軽井沢の間に、碓氷峠《うすいとうげ》があって、すごい急坂を登らなければならないんだ。それで、横川で、電気機関車を二両連結して、その後押しで登って行く。この写真は、横川で、後押し用の電気機関車の連結作業をしているところを撮ったんだ。面白かったからね」
写真には、「あさま」の先頭部分と、電気機関車が、四メートルほど離れて、写っている。作業服姿の作業員が二人、電気機関車の連結器を調整している。
深見は、そんな作業風景をバックに、ホームに立っているところが、写っていた。
「ホームにいた女の子に、撮って貰ったんだ。この右側に頭の部分だけ写っているのは、『あさま9号』だよ。これで、おれが、『あさま9号』に乗って、横川まで行ったことは証明されたろう? 『あさま9号』の横川着は、一二時四三分だから、銀行強盗は、とうてい、おれには、出来ないんだ」
深見が、勝ち誇ったようにいった。
十津川は、じっと、写真を見ていたが、
「駄目だな」
「どこが、駄目なんだ?」
「確かに、ここに写っているのは、L特急の『あさま』だろう。それに、これは、横川駅での作業だろう。しかし、横川と軽井沢の間は、全ての列車が、電気機関車を連結して、登って行くんだ。だから、この写真の『あさま』が、9号とは限らない。13号かも知れないし、15号かもしれない。この右側に写っているのが、『あさま9号』だという証拠は、どこにもないじゃないか」
「畜生!」
と、深見は、舌打ちして、じっと、写真を見ていたが、急に、「そうだ!」と、大きな声を出した。
「この電気機関車に、ナンバーがついているのが見えるだろう。EF6321だ。横川駅に電話して十月三十日に、このEF6321号車が、『あさま9号』の後押しをして、軽井沢まで行ったかどうか、聞いてみてくれ。そうすれば、おれのいってることが本当だと、わかる筈《はず》だ。頼むよ」
十津川と、亀井は、一応、深見を留置して、横川駅に、問い合せてみることにした。
「往生際の悪い男ですね」
亀井が、舌打ちした。
「深見だって、必死なのさ。前科があるからね」
十津川は、笑いながら、受話器を取った。
問題の写真を前において、横川の駅に電話をかけた。
十津川は、横川の駅におりたことはない。
ただ、有名な駅弁の釜《かま》めしを買ったことはあった。
碓氷峠《うすいとうげ》を越えるために、横川で、電気機関車二両を連結する、その作業のために、この小さな駅に、四分間停車するので、釜めしが買えるのだ。
山田という助役が、出てくれた。
「碓氷峠越えのために、横川で連結する電気機関車のことで、お聞きしたいんです」
と、十津川は、切り出した。
「どういうことでしょうか?」
山田助役の声が、緊張しているのは、こちらが、捜査一課といったからだろう。
「EF63形という電気機関車が、使われているわけですね?」
「そうです。このEF63形というのは、横川―軽井沢間のためにだけ開発された機関車で、横川駅に、二十五両が待機しています」
「そんなに沢山ですか」
十津川が、驚くと、山田助役は、笑って、
「碓氷峠越えをする全ての列車に、重連で、連結しなければなりませんからね。二十五両でも、少ないくらいですよ」
「その電気機関車には、ナンバーがついていますね?」
「ええ」
「十月三十日の下りの『あさま9号』を、後押しした機関車のナンバーを調べてくれませんか」
「ちょっと待って下さい。今、運転日誌を調べますから」
電話の向うで、山田が、何かいっているのが聞こえ、二、三分して、
「ええと、十月三十日の『あさま9号』は、EF6321と、EF6308の二両で、後押ししていますね」
「それ、間違いありませんか?」
「ええ。この日は、EF6321と、EF6308が、セットで、作業しています。この重連が、『あさま9号』を、後押ししていますね」
「このEF6321ですが、『あさま9号』以外の列車の後押しもしたんじゃありませんか? 例えば、『あさま13号』なんかもです」
「ちょっと待って下さいよ。EF6321とEF6308のコンビが、下りで、碓氷峠越えを助けた列車は、午前中二本、午後二本です。それをいいます」
「ゆっくりいって下さい。メモしますから」
十津川は、ボールペンを手にとった。
山田助役が、あげてくれた列車は、次の四本だった。
あさま3号(上野→長野)
白山1号(上野→金沢)
あさま9号(上野→直江津)
白山3号(上野→金沢)
いずれも、L特急である。
「これだけですか?」
「そうです」
「『あさま11号」『13号』『15号』は、後押ししなかったんですか?」
「していません」
「どうも、お手数をおかけしました」
十津川は、礼をいって、電話を切ったが、その顔には、明らかに、戸惑いの色があった。
深見は、午前一一時上野発の「あさま9号」で長野へ行ったというが、彼が、犯人なら、絶対に、あり得ないことである。
もっと後《あと》の「あさま」で、長野へ行ったに違いない。
「あさま9号」の三十分後に、「あさま11号」が上野を出るが、浅草で、銀行強盗を働いてから、上野へ行くまで、十分間の余裕しかなかった。時間的に、ぎりぎりだから、一二時〇〇分と、一三時〇〇分に、上野を出る「あさま13号」か「あさま15号」を使ったと、十津川は、考えた。
しかし、横川での写真では、「あさま9号」になってしまう。
「参ったね」
と、十津川は、亀井に向って、溜息《ためいき》をついた。
「十月三十日ではなくて、前日か、前々日にでも、撮っておいたものじゃありませんか?」
亀井が、疑問を投げかけた。
「それは、違うよ。深見は、刑務所を出たばかりで、横川駅の駅員に、知り合いがいたとも思えない。前もって、この写真をとることは出来るが、十月三十日の『あさま9号』を後押しする電気機関車が、EF6321かどうかわからないんじゃないか? 二十五両もあるというんだから」
「そうですね」
亀井も、当惑した顔になった。
「すると、この写真がある限り、深見は、無罪ということになってしまうわけですか?」
「そうだ。『あさま9号』が、横川駅に停車している時、深見は、その傍にいたわけだからね」
「畜生。彼がシロの筈《はず》がありませんよ」
「私も、そう思うが、この写真は、絶対だよ」
「写真一枚で、奴《やつ》が、シロになるのは、残念ですねえ」
亀井は、その写真を手に取って、じっと、見ていたが、
「警部。ここに写っている列車は、本当に、『あさま9号』でしょうか?」
「違うと思うのか?」
「だいだい色の車体に、赤い線が入っていますから、確かに、特急用の電車だと思います。しかし、斜めうしろの方から撮っているから、『あさま』のヘッドマークは見えません。だから、これは、『あさま』じゃなくて、同じL特急の『白山』かも知れないじゃありませんか。もっといえば、『白山3号』かも知れません。『白山3号』なら、十月三十日にEF6321が、後押しして、碓氷峠を越えたわけで、ぴったり符合しますよ」
「カメさんのいう通りだ」
十津川は、時刻表を見た。
(画像省略)
「長野着が、午後五時を過ぎてしまうな。大和旅館では、五時に、深見が来たといっていたが」
「過ぎるといっても、たったの九分です。大和旅館にしても、五時きっかりに、深見が来たとはいっていないんでしょう? 五時十五、六分に来たのかも知れませんよ」
「それは、あるね。善光寺の写真は、翌日、撮ればいいんだからな」
「そうです」
「問題は、『あさま』と、『白山』が、同じ車両を使っているかどうかだね」
時刻表にのっている列車編成図によれば、「あさま」は、十二両編成で、グリーン車二両がついているが、食堂車はない。「白山」の方は、同じ十二両編成で、グリーン車は一両だけで、その代りに、食堂車がついている。
しかし、時刻表の列車編成図には、車両形式は、書いてない。
それに、深見の撮った写真に写っているのは、列車全体ではなくて、運転台のある先頭車(或《ある》いは、最後尾の車両)だけである。
十津川と、亀井は、国鉄の車両の写真がのっている本や雑誌を買い集めてきた。
それで調べた結果、「あさま」に使われているのは、189系とよばれる特急用車両であり、「白山」の方は、489系特急用車両とわかった。
189系は、非貫通式の一種類しかないが、489系は、ボンネット式、貫通式、非貫通式の三種類がある。
現在、「白山」に使われているのは、一番新しい非貫通式の489系車両である。
十津川と、亀井は、この二つの車両の写真を比べてみた。
「そっくりじゃありませんか」
亀井は、嬉《うれ》しそうにいった。
「確かに、よく似ている」
「角張った前面といい、だいだい色の車体に赤い横の線が入っているところといい、全く同じですよ。だから、深見の写真に写っているのは、『あさま9号』じゃなくて、『白山3号』なんです。深見は、浅草のM銀行を襲ったあと、上野へ逃げ、一四時丁度に発車する『白山3号』で、長野へ向ったんです。それで、奴《やつ》のアリバイが崩れたじゃありませんか」
これで決ったといいたげに、亀井が、ニッコリした。
だが、十津川は、難しい顔で、
「カメさん。確かに189系と489系は、そっくりだが、よく見ると、違っているところもあるよ」
「そうですか?」
「一番違うところは、運転台の屋根のところだ。189系は、何もつけていないが、489系は、前照灯がついている。ところで、深見の写真だが、運転台の屋根に、前照灯はついていないんだ。ということは、189系の電車だということになる。残念ながら、ここに写っているのは、『白山3号』ではなく、『あさま9号』なんだ。彼のアリバイは、これで成立だよ」
深見は、「あさま9号」に乗っていたことになった。
少なくとも、横川で、碓氷峠《うすいとうげ》越えのために、EF63形電気機関車を連結する作業をしている時、深見は、「あさま9号」の傍にいたのだ。
この連結作業のため、列車は、横川に四分間停車する。
「あさま9号」は、一二時四三分から、四分間、横川に停車し、一二時四七分に発車している。
この時刻に、横川にいた深見が、十一時二十分に、浅草のM銀行を襲えたかということになってくる。
上野から、「あさま9号」に乗れないことは、はっきりしている。一一時〇〇分発だからである。
「途中から、『あさま9号』に乗ったに違いありません」
と、亀井は、いった。
深見が犯人だとすると、そう考えるより仕方がないのだ。
午前十一時二十分に、浅草にいた人間が、横川までの間に、「あさま9号」に追いつけるだろうか?
まず、車を利用してということが考えられる。
「あさま9号」のスピードは、平均六十七・九キロである。
しかも、犯人が、浅草のM銀行に押し入る二十分前に、「あさま9号」は、上野を発車している。
上野から、横川まで、百三十一・二キロである。「あさま9号」は、一時間四十三分で走っている。
犯人が、横川で、追い付くためには、この距離を、一時間二十分程で走らなければならない。とすると、時速九十六キロで突っ走らなければならないのだ。
深見は、運転免許も持っていないし、出所後、車を買った形跡もない。
タクシーに乗ったとすると、時速九十六キロで、走らせるのは、まず無理だろう。
車で追ったという線は、まず消えた。
新幹線は、まだ開業していない。
「これで、お手あげだねえ」
十津川は、時刻表を、机の上に投げ出して、両手をあげて見せた。
「しかし、深見以外に、犯人がいるとは思えませんが――」
亀井は、口惜しそうにいった。
「私も、そう思うが、確かなアリバイがある以上、手も、足も出ないよ」
「じゃあ、釈放ですか?」
「仕方がないね。この写真一枚で、彼を起訴しても、勝ち目はないよ」
十津川は、苦い笑い方をして、深見に、帰って貰うことにした。
だが、日下と西本の二人には、しばらくの間、深見を、監視させることにした。どうしても、彼以外に、犯人は、考えられなかったからである。
銀行の監視カメラがとらえた犯人は、どう見ても、深見なのだ。
アリバイは、破れないが、一千万円の線から、深見は、ボロを出すかも知れない。二人の刑事をつけた狙《ねら》いは、その点もあった。
釈放された深見は、自分のアパートに戻ったが、なかなか、動き出さなかった。
一千万円が、アパートの部屋にないことは、はっきりしている。とすれば、誰かに預けたか、或いは、どこかにかくした筈《はず》である。
しかし、いっこうに、一千万円を取りに行く気配は見せなかった。パチンコに出かけるか、喫茶店で、ゆっくり、コーヒーを飲んだりしているだけである。
三日、四日とたったが、深見は、動こうとしない。
マスコミは、警察が、銀行強盗事件を解決できずにいることを、叩《たた》き始めた。
「カメさん。一緒に、旅行してみないかね」
十津川が、突然、いい出したのは、そんな時である。
亀井は、微笑した。
「上野から、『あさま9号』に乗ってですか?」
「ああ。長野の善光寺へお参りしたら、何かいい知恵がさずかるんじゃないかと思ってね」
二人は、浅草署から地下鉄で、上野に出た。
十月三十日、事件が発生してから丁度一週間たっていて、今日も、土曜日である。
午前一一時〇〇分に、十津川と亀井を乗せた「あさま9号」は、長野に向って、出発した。
車内は、八十パーセントぐらいの乗車率である。食堂車はついていないが、その代り、車内販売が、よく廻《まわ》ってくる。
二人は、高崎近くで、コーヒーを買った。
そのコーヒーを飲んでいるうちに、「あさま9号」は、問題の横川駅に着いた。
ここで、四分間停車である。
乗客は、名物の釜《かま》めしを買うために、ホームに降りて行く。
売り子が、釜めしを売っている。飛ぶような売れ行きである。
十津川と亀井は、ホームに降りた。
二人は、最後尾の車両に向って、ホームを歩いて行った。
重連の電気機関車を、最後尾に連結するための作業が、もう始まっていた。
深見が撮った写真と同じである。
二人の作業員が、連結のための準備をしている。
それが、面白いのか、五、六人の少年たちが、ぱちぱちと、カメラのシャッターを切っていた。深見のように、機関車の横に立って、友だちに写して貰っている少年もいる。
今日、「あさま9号」に連結される機関車は、EF6314のナンバーで、6321ではなかった。
二両の電気機関車は、「あさま9号」の最後尾に連結された。
間もなく、発車するだろう。
「われわれも、乗って行こう」
と、十津川はいい、急いで、列車に乗り込んだ。
横川から、次の軽井沢駅までは、わずか、十一・二キロだが、碓氷峠を越えるために、千分の六十六という急勾配《きゆうこうばい》を登らなければならない。高低差は、九四〇メートルである。
昔、この区間には、アプト式ラックレール(歯軌条)が敷かれていた。歯型の切込みのあるレールで、これに、機関車の歯車を噛《か》み合せて登っていく方式である。
急勾配でも、安全に登れたが、この方式では、時速十八キロが、せいぜいである。
昭和三十八年五月に、新しい線路が完成した。EF63形と呼ばれる横川―軽井沢間だけの専用機関車が配属され、この機関車に後押しされて、急勾配を登るようになった。
このため、この区間の時速は、三十キロまで出るようになったといわれている。
二重連の電気機関車のエンジンが、低く唸《うな》り声をあげて、「あさま9号」は、走り始めた。
窓から見ると、前方に、この列車の名前のもとになった浅間山が、女性的な姿を見せている。
登りが急になるにつれて、トンネルが多くなってくる。上りと下りは、別のトンネルである。
全部で、十以上のトンネルをくぐり抜けて、やっと、線路は、平坦《へいたん》になった。山を登り切ったという感じがしたと思ったら、軽井沢の駅であった。
ここで、連結してきたEF63形機関車を切り放し、身軽になって、長野に向うわけである。
切放し作業のために、軽井沢で、「あさま9号」は、三分間停車する。
十津川たちは、長野までの切符を買ってあったが、発車間際になって、十津川が、急に、
「降りよう」
と、いった。
「長野まで行かれるんじゃないんですか?」
亀井が、びっくりして、きく。
だが、十津川は、どんどん、通路を歩き出していた。亀井も、あわてて、そのあとに続いた。
二人が、ホームに飛び降りてすぐ、ドアが閉って、重連の電気機関車を切り放した「あさま9号」は、発車して行った。
三分間停車だったので、軽井沢で降りる乗客は、もう、ホームから消えてしまっている。
ホームには、十津川と亀井の二人だけが、取り残されてしまった。
「どうして、急に、軽井沢で降りられたんですか?」
亀井が、不審そうにきいた。
十津川は、「まあ、座ろうじゃないか」と、ホームのベンチに腰を下ろしてから、
「時刻表を見ていて、気がついたんだ。急勾配《きゆうこうばい》を登ってきた列車は、ここに、三分間停車する。電気機関車を切り放すためだ。普通なら、一分停車だろうからね」
「そうですね」
「ところで、長野方面からやってくる上り列車だがね、時刻表を見ると、軽井沢で、六分停車しているんだよ。例えば、『あさま10号』は、一三時一九分に、軽井沢に着くが、上野に向って、出発するのは、一三時二五分で、その間、六分間あるんだ。『あさま10号』だけじゃない。一二時一九分に着く『白山2号』も、発車は、一二時二五分で、六分停車することになっている。なぜ、六分間も停車しているのか考えたんだが、理由は、一つしか考えられない。それは、軽井沢で、上りの列車にも、EF63形機関車を連結させているからじゃないのかということだ。そのために、六分間の停車が、必要なんだ」
「しかし、警部、下りの列車は、横川から、軽井沢に向って、急勾配《きゆうこうばい》を登るんですから、電気機関車二両を連結して、後押しする必要がありますが、上り列車は、逆に、坂を下って行くわけですよ。なぜ、後押し用の機関車を、連結しなければいけないんですか?」
「理屈としては、そうだが、上り列車は、何もないのなら、六分間の停車時間というのは奇妙だよ」
十津川は、亀井と一緒に、その理由を訊きに、駅舎を訪《たず》ねた。
会ってくれたのは、青木という駅長だった。
「そのことですか」
と、青木は、笑って、
「警部さんのいわれる通り、上りの列車にも、EF63形電気機関車を二両、連結して、横川に向います。六分間というのは、そのための停車時間ということになります」
「しかし、坂を下るのに、なぜ、後押しが必要なんですか?」
亀井が、首をかしげてきくと、青木は、手を振って、
「後押しのためじゃありません。勾配が、急すぎるので、上り列車の前に、EF63形を二両連結して、ブレーキを利かせて、ゆっくり、走って行くわけです。碓氷峠の急勾配では、登りよりも、むしろ、下りの方が、困難でしてね。そのために、あのEF63形電気機関車には、ブレーキ制動が、いくつも備えてあります。名前だけをあげますと、発電ブレーキ、電磁吸着ブレーキ、空気ブレーキ、手動ブレーキなどです。その他に、転動防止装置とか、過速度探知装置といった危険防止のための設備を持っています。一つずつ、詳しく、説明しますか?」
青木駅長が、親切にいってくれた。
十津川は、笑って、手を振った。
「だいたいの意味がわかりましたから結構です。上りの列車が、碓氷峠を下るときには、列車の前部に、登りと同じように、二重連の機関車を連結することがわかれば、それでいいんです」
「それが、事件に関係あるというのが、よくわかりませんが」
駅長は、変な顔をした。
「いや、この信越本線で事件があったわけじゃないのです。東京で強盗事件が起きまして、その容疑者のアリバイが、ここを走る列車に関係しているんですよ。詳しくお話しないと、よくわからないと思いますが」
「何となくわかりますよ」
と、駅長は、さっきの十津川のようなことを、いった。
「問題は、横川から、この軽井沢へ、列車を押して来た二両の電気機関車です。EF63形の基地は、下の横川でしたね?」
十津川がきいた。
「そうです。横川に基地があって、そこに、二十五両のEF63形が待機しているわけです」
「すると、横川で、下りの列車の後尾に連結して、ここまで後押しして来た重連の電気機関車は、この軽井沢には基地がないから、そのまま、次に来る上りの列車に連結して、今度は、横川まで下りて行くことになりますな?」
「そうですね。今、丁度上りの列車が着いたので、これから、EF63形を、前部に連結する作業が行われます」
青木駅長は、窓の外を指さした。
丁度、上りの「あさま10号」が、ホームに入って来た。
一三時一九分軽井沢着である。ここに、六分間停車する。
十津川と亀井が、ホームに出てみると、さっき、「あさま9号」を後押しして来た重連のEF63形電気機関車を、「あさま10号」の前部に連結する作業が始まった。
横川から軽井沢まで、十二両連結の「あさま9号」を後押しして登って来たEF63形が、今度は、ブレーキ役をして、横川まで、急勾配《きゆうこうばい》を、下りて行くのである。
十津川たちが、じっと、その作業を見守っていると、青木駅長が、駅舎から出て来た。
「このEF63形は、どんな形の電車とも連結できるように出来ています。この碓氷峠では、普通も、急行も、特急も、EF63形の厄介になりますからね」
と、駅長が、横からいった。
「なるほど、それだけ、いろいろな機構を持った機関車ということですね」
亀井が、感心したようにいった。が、十津川は、駅長の説明が聞こえなかったみたいに、じっと、連結作業を見つめていた。
連結作業が、終った。
一三時二五分になって、発車を知らせるベルが鳴った時、急に、十津川が、
「乗ろう」
と、いった。
二人は、急いで、上りの「あさま10号」に飛び乗った。
「長野へは、行かれないんですか?」
走り出した列車の中で、亀井が、きいた。
「あとで、行くことになるかも知れないが、今は、深見のアリバイ・トリックを破りたいんだよ。どんなトリックかはわかった。その確認をしたいんだ」
十津川が、微笑して見せた。
「本当にわかったんですか?」
「今、その証明をするよ」
二人は、空いている座席に腰を下ろした。
二両のEF63形電気機関車にガードされた「あさま10号」は、ブレーキをかけながら、碓氷峠を下りて行く。
「深見は、前に、信越本線で、長野方面に行ったことがあるんだと思う。出所して来てから、銀行強盗を思い立ち、そのアリバイに利用することを考えたんだ。もちろん、二、三日前に、一度、実際に乗ってみたろうがね」
十津川は、窓の外の景色に眼をやりながら、亀井にいった。
列車は、いくつかのトンネルをくぐりながら、碓氷峠の急勾配《きゆうこうばい》を下りて行く。
「そのトリックというのは、横川と軽井沢間に使用されているEF63形電気機関車を利用するということですね?」
亀井が、確認するようにきいた。
「そうだ。それに、L特急『あさま』の列車編成だよ。189形の電車が使われている『あさま』は、前後に、運転台のついているクハ189という車両がつく。つまり、前も後も、形が同じということで、それも、深見は利用したんだ。
『あさま』全体を見ると、パンタグラフのある車両が、2号車、4号車、8号車、10号車で、前後が、全く対称的でないが、先頭の車両、それも、半分だけを写したときには、それが、1号車か、12号車かわからない。それを、深見は、利用したのさ」
十津川は、喋《しやべ》りながら、警察手帳を出し、そこに、L特急「あさま」の編成図を書いて見せた。
「まだよく、呑《の》み込めませんが――」
亀井が、すまなそうにいった。
「わかりやすいように、横川に待機している二重連のEF63形を、6301と、6302の二両とする。この二重連が、まず、下り列車の最後尾に連結されて、碓氷峠を登って、軽井沢へ行き、そこで、解放される」
十津川は、その図を書いた。
(画像省略)
「軽井沢で、用をすませた6301と6302は、今度は、上り列車の最前部に連結されて、横川へ下ってくる」
(画像省略)
「ここで、注目したいのは、全体の列車の形が、全く同じだということだ。停《とま》っていたら、それが、上りの列車か、下りの列車か、わからないところに、深見は、眼をつけたんだよ。それから、EF63形の基地が、横川にあることも、深見のつけ目だった。下りの列車を押して行ったEF63形は、軽井沢で待っていて、次に来る上り列車の最前部に連結して、また、横川へ戻って来ることになるからだ」
「少しずつ、わかって来ました」
と、亀井がいう。
十津川は、微笑した。
「次に時刻表を見てみよう。問題の『あさま9号』が、軽井沢に着くのが、一三時〇五分。『あさま9号』を押して来たEF63形を、6301と6302とすると、この二両の電気機関車は、一三時〇五分から、『あさま9号』が軽井沢から発車する一三時〇八分の間に、解放するわけだ。解放された6301と6302は、軽井沢に待機していて、次に到着する上り列車に連結され、横川に戻って行くことになる。時刻表によれば、次に来る上り列車は、一三時一九分軽井沢着の『あさま10号』だ。その前に着く『白山2号』は一二時一九分着だから、6301と6302は、間に合わない。ここが大事なところだよ。『あさま9号』を後押しして行った6301と6302は、同じ189形の『あさま10号』を引っ張って、横川に戻ってくるということだよ。写真にとったとき、『あさま9号』も『あさま10号』も、同じに見えるんだ」
「つまり、逆にいえば、『あさま10号』を引っ張って、というより、ガードして、横川に来た6301と6302は、『あさま9号』を押して行ったEF63形電気機関車だということになるわけですね」
「そうなんだ。カメさん。深見は、そのことを利用して、アリバイを作ったんだよ。深見が、事件の日にやったことは、こういうことだと思う。彼は、『あさま9号』に上野から乗って、長野へ行ったというが、これは嘘《うそ》だ。午前一一時丁度に出る『あさま9号』に乗ったのでは、十一時二十分に、浅草の銀行を襲えない。だから、深見は、朝、四谷三丁目のアパートを出ると、まず、上野へ行き、『あさま9号』の前で、写真を撮った。これが十時五十五分か五十六分頃だろう。それから、地下鉄で、浅草へ向った。十分もあれば着く。十一時二十分に、浅草のM銀行に押入り、一千万円を強奪した。鮮やかな手口だったから、五、六分ですんだと思う。路地に、変装用のマスクと、改造|拳銃《けんじゆう》を捨ててから、地下鉄で、再び、上野へ向った。上野に着いたのは、十一時五十分頃じゃないかと思う。もちろん、『あさま9号』は、とっくに発車してしまっている。深見は、一二時〇〇分上野発の『あさま13号』に乗った。これより遅い列車では、いけないんだ。この『あさま13号』は、横川に、一三時四二分に着く。この時刻が大事なんだ。一方『あさま10号』が、軽井沢から下りて来て、横川に着くのは、一三時四七分で、共に四分間停車する」
十津川は、二つの時刻を、手帳に並べて書いた。
一三時四二分「あさま13号」横川着
一三時四七分「あさま10号」〃
「カメさん。下りの『あさま13号』の方が、先に着くところがミソなんだ。あの日、『あさま13号』に乗った深見は、列車が、横川に着くと、カメラを持って降りた。五分後に、EF63形にガードされて、『あさま10号』が、到着し、解放する作業が始まる。深見は、自分を入れて、その写真を、ホームにいた人に頼んで、撮って貰ったんだ。あの写真は、EF63形を、これから連結しようとしているところではなくて、解放したところの写真なんだ。深見は、電気機関車のナンバープレートを入れるようにして、写真を撮ればよかったんだ。あの日、その電気機関車のナンバーは6321だったが、他のナンバーでもいいんだ。とにかく、上りの『あさま10号』をガードして、横川に着いたEF63形電気機関車は、その日の下りの『あさま9号』を、後押しして行ったEF63形と、同じ車両なんだ。深見は、その写真を、『あさま9号』に乗って行って、横川で、EF63形に連結したときに撮ったといった。われわれは、横川に問い合せた。『十月三十日に、『あさま9号』に連結して、碓氷峠を越えたEF63形電気機関車のナンバーを教えてくれ』とね。当然、写真に写っていたと同じナンバーが、回答されてくる。それで、深見のアリバイは、確立してしまったんだよ。あのとき、『そのEF63形は、上りの列車にも、連結されるんですか?』と聞けば、よかったんだが、それを忘れてしまった」
やがて、二人を乗せた「あさま10号」は、碓氷峠の急勾配《きゆうこうばい》を下りて、横川駅に到着した。
一三時四七分である。下りホームに入っていた「あさま13号」が、EF63形の重連に後押しされて、出発して行った。
ホームに降りた十津川と亀井は、先頭車両の方へ歩いて行った。
ここまで、ガードして来たEF63形電気機関車の解放作業が、始められていた。
カメラを持った少年たちが、列車から降りて来て、それを写真に撮っている。十月三十日に、深見も、同じようにしたのだ。強盗事件のアリバイを作るために。
これで、深見のアリバイは、崩れた。
あとは、一千万円の行方である。
「長野へ行ってみよう」
と、十津川は、亀井に言った。
深見は、「あさま13号」に乗って来て、横川で降り、五分後に到着した「あさま10号」のEF63形電気機関車の解放作業を写真に撮った。
その間に、「あさま13号」は、発車してしまった筈《はず》である。とすれば、深見は、次の列車で、長野へ向ったことになる。
十津川と亀井も、その通りにすることにした。
一四時四二分。「あさま15号」が、横川に到着した。上野一三時〇〇分発、長野行きである。
十津川と亀井は、列車に乗った。四分後に発車した「あさま15号」は、同じように、EF63形電気機関車の重連に後押しされて、碓氷峠を登って行く。
「警部は、深見がどこへ一千万円をかくしたと思われますか?」
亀井が、アリバイ・トリックが解明できたことで、ほっとしながら、十津川にきいた。
「いくつか考えられるね。まず、深見の単独犯で、かくした場合と、共犯がいて、それに渡してしまったということだ」
「共犯がいたとすると、女かも知れませんね」
「そうだな。もう一つは、浅草で一千万円を強奪してから、上野までの間に、かくしてしまったのか、それとも、長野でかくしたのか、或《ある》いは、列車の中で、共犯者に渡したのかということだ」
「上野駅のコインロッカーにかくしたということは、考えられませんか? 列車に乗る前にです」
亀井がいうと、十津川は、首を振った。
「それはないね。駅のコインロッカーは、三日間たつと、あけられてしまうからだ。彼は、三日間、長野にいた。コインロッカーは、使えないよ。もし、使ったとしたら、二日で帰京している筈《はず》だ」
「すると、長野でしょうか?」
「まあ、行けば、何かわかるだろう」
十津川は、呑気《のんき》にいった。アリバイが崩れた以上、深見が犯人であることは確定したから、あわてることはないのだ。
長野着は、一六時一二分だった。
まだ、周囲は、明るい。この明るさなら、善光寺へ行って、写真が撮れる。
深見も、恐らく、善光寺へ行ったのだろうと、十津川は、思った。
長野駅から、善光寺へ行くバスが、頻繁《ひんぱん》に出ているし、歩いても、行ける距離である。
善光寺へ行って写真を撮ってからでも、五時までに、大和旅館に着けるだろう。
駅前から、善光寺に向って、まっすぐ伸びる大通りの両側には、民芸品を売っている店が多い。
その大通りに、善光寺に向って五、六分歩き、左に折れたところに、大和旅館があった。
十津川たちは、旅館の女将《おかみ》に、警察手帳を見せ、電話で問い合せたときのお礼をいった。
亀井が、ポケットから、深見の顔写真を出して見せて、
「確認しますが、十月三十日に、泊りに来た男は、この写真の男ですか?」
と、きいた。
四十歳くらいに見える女将さんは、写真を、じっと見てから、
「この方ですわ。間違いありません」
と、いった。
宿帳にも、深見の名前が書いてあった。住所も、四谷三丁目のアパートになっている。
「二日泊って、三日目に帰ったんですね?」
今度は、十津川が、きいた。
「はい」
「その間、訪ねて来た人も、電話をかけて来た人もいない?」
「ええ。どちらも、ありませんわ」
「しかし、東京に一度、電話をかけたんですね」
「はい」
「ここへ来た日ですか? 十月三十日ですか?」
「いいえ、それは、確か十一月一日でしたが」
「じゃあ、旅館を出る日ですか?」
「ええ。そうですわ。お帰りになる日の午前中でした」
「十月三十一日は、戸隠高原へ行っていたんですね?」
「朝、戸隠へ行く道をおききになりましたから、お行きになったと思いますけど」
恐らく、十月三十一日に、深見は、戸隠高原へ行って、写真を撮って来たのだろう。
十津川と亀井は、まだ、東京へ帰る列車は、何本もあったが、この大和旅館に泊ることにした。それをいい出したのは、十津川である。
夕食をすませたあと、二人は、地下の大浴場に入った。他にも、何人か入っていたが、すぐ、出て行き、十津川たちの貸切りみたいになった。
「どうも、中年太りになってきました」
亀井が、照れ臭そうにいった。
「私もさ」
と、十津川も、笑った。
犯人を追って、毎日のように駆《か》けずり廻《まわ》るので、普通のサラリーマンほど、運動不足ではない筈《はず》だが、それでも、二人とも、最近、お腹が少し出て来ている。
湯舟に、肩までつかりながら、亀井が、
「明日は、戸隠高原ですか?」
と、十津川に、きいた。
「いや」
十津川は、首を振った。
「深見の行ったところを、廻ってみないんですか?」
「最初は、そのつもりだったが、意味がないように思えて来たんだよ。問題は、一千万円の行方だ。戸隠高原のどこかへかくしたとは考えられない。山の中へでも埋めたのでは、本人が、東京へ帰ってから、不安で仕方がないだろう。誰かに、掘り出されやしないかと思ってね。戸隠高原へ行ったのは、長野へ来たことの理由づけだと思う」
「すると、やはり、誰かに預けたということでしょうか?」
「それ以外に考えられないよ。相手は、多分、女だろう。男の共犯者がいたとしたら、銀行強盗のどこかに顔を見せていなければおかしいからだ。銀行の外で、車で待っているとかね。しかし、今度の事件で、そんな共犯者の存在は、匂《にお》って来ない。となれば、深見に女がいて、彼は、奪った一千万円を、彼女に預けたとみた方がいいだろうと思う」
「しかし、どこの、どんな女かもわかりませんよ。四谷三丁目の深見のアパートにも、女の名前や、写真や、手紙なんかは、一つも見つかっていませんから」
亀井は、当惑した顔で、いった。
「そろそろ、出ようじゃないか。あんまり、入っていると、のぼせてしまう」
十津川は、湯舟から出た。
二階の部屋に戻り、窓を開けると、ひんやりした秋風が、吹き込んできた。
「さっきの推理を続けてみよう」
と、十津川は、いった。
「問題は、深見に女がいたとして、彼女に、どこで会い、いつ、一千万円を預けたかということになりますね」
亀井は、お茶をいれながら、十津川にいった。
「その答は、深見が、十一月一日に、東京に電話したところにあるような気がするんだがね」
「しかし、警部、東京にかけたことはわかっていますが、相手のナンバーも、名前もわかっていません」
「そうだ」
「じゃあ、どうやって、相手を見つけ出しますか?」
「深見は、十月三十日に、この旅館へ着いているが、その日も、次の日も、電話をかけていない。彼としては、一刻も早く、連絡をとりたかった筈《はず》なのにだよ。彼には、前科があって、疑われ易《やす》い。だから、強盗事件があって、自分に容疑がかかっているかも知れないことは、わかっていたろうし、その証拠となる一千万円は、少しでも早く、誰かに預けたかったろう。それなのに、なぜ、二日間、連絡しなかったんだろうか?」
「相手が旅行中だったのかも知れませんね。十一月一日になったら、家に帰っているといったので、その日まで待って、連絡をとったということじゃありませんか?」
「いや、それは違うな。もし、女が十一月一日に旅から帰ってくるとしたら、それまで待ってから、銀行に押し込めばいいんだ。『あさま9号』を利用したアリバイ・トリックは、十月三十日でなければ、出来ないわけじゃなくて、その列車が走っている限り、可能だからね」
「じゃあ、なぜ、十一月一日になってから、東京に電話したと思われますか?」
亀井は、じっと、十津川を見た。
「深見は、強盗を働いた十月三十日に、すでに、女に会っていたんだと思うね。そして、一千万円を預けた。金を持った女は、ひと足先に、東京へ帰った。十一月一日の電話は、無事に、東京へ帰ったかどうかを確認したんだと思うね」
「すると、深見は、この長野で、女に会い、一千万円を預けたということになりますね?」
「そう考えれば、深見が、長野へ来た理由もわかるじゃないか」
「しかし、警部。誰も、この旅館へ訪ねて来なかったし、電話もかからなかったと、女将《おかみ》は、証言していますが」
「問題は、そこさ。この長野で、落ち合うことになっていて、しかも、相手が、この旅館に連絡して来なかったということになると、どんなことが、考えられるかね? しかも、当の深見は、別に、あわてた様子はなかったというからね」
「女も、この旅館に来ていたということですか?」
亀井は、眼を輝かせた。
「その通り。そう考えれば、全てが説明がつくんじゃないか。しかも、泊り客の誰か、かなり限定できる。深見が、この旅館を、十月二十九日に予約しているから、その前に、この旅館に泊ってはいないとわかる。恐らく、十月三十日に、ここへ先に来て泊ったんだろう。それから、深見は、十一月一日の午前中に、東京へ電話しているから、その時には、もう、東京に女は、帰っていたんだ。つまり、十月三十日に泊り、翌日、東京へ帰った女が、深見の相棒ということになる」
「調べて来ます」
亀井は、すぐ、階下《した》の帳場へ飛んで行った。
二、三分すると、宿帳を借りて、戻って来た。
「該当する客は、一人だけでした。ここにある田中京子です。住所は、東京の世田谷になっていますが、世田谷区玉川町などというのはありません」
「それから、名前も、偽名だろうな」
十津川は、別に、落胆した様子も見せずにいった。自分の推理が当っているとしても、本名で、泊っていたとは、思っていなかったからである。
十津川は、まず、旅館の女将《おかみ》に頼んで、絵の描ける人間を探して貰った。
その結果、近くに住んでいて、昔は、似顔絵が得意だったという老人が見つかった。
旅館の女将や、従業員などから、田中京子と名乗って、泊っていた女の顔を聞き、その似顔を、老人に、描いて貰った。
多少、古めかしい線だが、老人の腕は、確かなものだった。
女将や、従業員の言葉に従って、似顔絵は、少しずつ、訂正されていった。
一時間近くたったとき、女将が、満足気に、
「この顔だわ!」
と、叫んだ時、絵が出来あがるのを、じっと、見守っていた十津川と亀井も、同時に、
「彼女だ!」
と、声に出していた。
深見が、五年前、郵便局を襲って逮捕された時、彼が同棲《どうせい》していた女が、彼女で、名前は、確か、池田有子といった。
深見は、五年間、刑務所に入っていたのだが、出所すると、すぐ、彼女に連絡したのだろう。
「男も女も、意外に、律義なんだな」
十津川は、苦笑した。
五年間、刑務所に入っていた深見は、出て来たばかりでは、新しい女を作る時間がなかったろうが、女の方は、よく、五年間、他に男を作らなかったものだと、十津川は、感心した。
或いは、五年間、自分を待っていてくれたということで、深見は、池田有子を信用して、強奪した一千万円を、彼女に預けたのかも知れない。
東京に戻った十津川は、すぐ、池田有子を、指名手配した。
二日後、池田有子は、羽田空港で逮捕された。皮肉なことに、有子は、自分より若い男と、深見が預けた一千万円を持って、北海道へ、高飛びするところだった。
やはり、五年間は、女にとって、長過ぎたのかも知れない。
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見知らぬ時刻表
日頃、事件に追われて、家族との対話の少ない捜査一課の亀井刑事は、非番の日は、努めて、妻や子供と、過ごすことにしていた。
その日が、日曜日なら、子供たちを連れて、遊園地や、映画を見に行ったりする。
十二月初旬のその日も、日曜日と非番が重なったので、亀井は、妻や子供たちを連れて、後楽園へ出かけた。
風がない日で、春のような暖かさだった。
小学生の子供二人が、ジェットコースターなどで、遊びに夢中になっているのを、亀井は、妻と二人、ベンチに腰を下ろして、見守った。
こんな時の亀井は、平凡な父親でしかない。
帰りに、国電水道橋駅近くの喫茶店で、ケーキと、コーヒーを注文した。
子供二人は、ケーキとミルクである。
亀井が、コーヒーをブラックで飲んでいると、長男で、小学校六年の健一が、急に、腰をもぞもぞさせ、お尻《しり》の下から、紙を一枚取り出して、テーブルの上にのせた。
「こんなものが、落ちてたよ」
と、健一が、亀井にいった。
細長い紙である。一杯、数字が書いてあった。
「どれ、見せてごらん」
亀井は、テーブルの上から、その紙片をつまみあげた。
数字が、タテに並んでいた。
(画像省略)
ボールペンで書いたもので、どうやら、手帳のページらしい。
(数字ばかりだな)
と、亀井は、呟《つぶや》いた。
妻の君子が、のぞき込んだが、首を振って、
「何でしょうね?」
「何かのメモだろうが、わからん」
別に、事件というわけでもないので、亀井は、深く考えなかったが、丸めて捨てる気にはなれず、小さくたたんで、ポケットに入れた。
翌日、警視庁の捜査一課に出たが、不思議に、事件のない日だった。
昼休みに、亀井は、ポケットの中に、例の紙片が入っているのに気がついて、取り出して、眺《なが》めた。
若い西本と、日下《くさか》の二人の刑事が、寄って来て、
「何ですか? それ」
「まさか、競馬か、競輪の出走表じゃないでしょうね」
「そうかも知れないぞ。カメさんも、すみに置けないから」
二人の若い刑事が、いいたいことをいう。
亀井は、苦笑して、
「私が馬券を買うのは、ダービーの時だけだ。これは、昨日、後楽園へ子供を連れて行った帰りに、コーヒーを飲みに入った喫茶店に落ちていたんだ」
「後楽園なら、やっぱり、競輪ですよ。日曜日なら、競輪をやってますからね」
「すると、あの数字は、時間だというのか?」
「ええ、最初の9001は、何のことかわかりませんが、次の900は、九時のことじゃありませんか。次が、九時七分、九時二十四分。そして、最後が、十六時三十分です。どうです。ぴったりくるじゃありませんか」
西本が、得意そうに、いった。
「なるほどね。確かに、時間のようだ。だが、競輪じゃないよ。競輪の発走というのは、一定の間隔で、行われる筈《はず》だ。これは、ばらばらだ」
「じゃあ、時刻表でしょう。それなら、ばらばらな数字が、わかりますよ。何かの列車の主要駅の発着時刻じゃありませんか?」
「君も、時には、まともなことをいうじゃないか。時刻表を持って来てくれ」
と、亀井は、いった。
西本が、棚から、時刻表を持って来た。
「九時出発で、一六時三〇分着の列車だな」
と、亀井は、呟《つぶや》いた。
「しかし、どこの駅が出発なのか、これじゃあ、わからないね」
「常識的に見れば、水道橋の喫茶店にあったのなら、東京駅じゃありませんか」
日下が、いった。
「それで見てみよう。午前九時丁度に、出発する列車があるかな」
亀井は、時刻表のページをめくっていった。
まず、新幹線の時刻表である。
九時〇〇分東京発の「ひかり23号」というのがあった。しかし、次の停車駅は、名古屋で、これは、一一時〇一分である。ぜんぜん一致しない。
次は、在来線の方だった。
東海道本線にも、九時〇〇分発があった。
L特急の「踊り子3号」である。
九時〇〇分東京発のこの列車は、次の品川は、九時〇七分発になっている。
「ぴったり一致するじゃないか」
亀井は、パズル遊びをしている子供みたいに、嬉《うれ》しそうな顔をした。
日下が、横からのぞき込んだ。
「『踊り子3号』は、その次に、川崎停車で、九時一七分。これは、カメさんのメモには、書いてありませんね。その次は、横浜着九時二四分。これは、ぴったり一致してますよ」
「そうだな。何となく、『踊り子3号』の時刻表に似ているね」
亀井は、紙片の数字と、「踊り子3号」の時刻表を、並べてみた。
熱海までは、よく似ている。違っていても、一分である。
だが、その先が、全く違っていた。
「踊り子3号」の場合は、伊豆急下田一一時四七分で、終ってしまうからである。
次は、上野発の列車を調べてみる。
東北本線は、上野を、九時ジャストに発車する列車がない。
常磐線も、八時〇〇分と、九時一〇分というのはあるが、九時丁度という列車は見つからなかった。
大宮発の東北新幹線と、上越新幹線には、東北新幹線の方に、九時〇〇分発があったが、次の停車駅宇都宮が、九時三一分で、違っている。
「どうも、時刻表とは違うようだぞ。第一、時刻表には、マルカッコや、カギカッコは、ついてないじゃないか」
亀井が、お手上げの恰好《かつこう》でいったとき、事件発生の知らせが入った。
正確にいうと、沼津市内で起きた事件である。
沼津市内で、一人の女が殺された。
名前は、名取かおる。年齢二十五歳。所持していた運転免許証によれば、住所は、東京の練馬区|石神井《しやくじい》である。
静岡県警からの捜査依頼だった。
「被害者は、今日の午前十時三十分に、沼津駅近くのラブホテルで殺された」
と、十津川警部は、メモを見ながら、亀井と、日下に、いった。
「十時三十分というのは、間違いないんですか?」
亀井が、きく。死亡時刻が、はっきりしている事件というのは、少ないからである。
「モーテルの従業員が、発見したとき、まだ、かすかに、息があった。救急車で、病院に運ぶ途中で死亡した。その時刻が、十時三十分だったといっている」
「刺されて、殺されていたんでしたね?」
「そうだ。胸を、ナイフで刺されていたそうだ。指紋はついていなかった。静岡県警は、前日の夜、一緒に泊った男を、犯人と考えている」
「ホテルの従業員は、その男の顔を見ていないんですか?」
若い日下がきくと、十津川は、笑った。
「県警の話では、そのラブホテルは、従業員と、顔を合せずに、部屋に入れるようになっているそうだ。料金を払うと、部屋のキーが出てくるようになっているやつだよ」
「どんなカップルだったんですかね? にわか作りのカップルだとすると、男を見つけ出すのは、骨ですよ」
亀井が、いった。
「それは、わからないが、金や、腕時計を盗まれてはいないそうだ」
「すると、怨恨《えんこん》ですか?」
「その可能性が強いようだ。ただのカップルなら、ナイフを持って、ラブホテルに泊ったりはしないだろう。男は、最初から、殺すつもりで、ラブホテルに入ったのかも知れない。だから、名取かおるというこの被害者の身元を洗って、関係のある男の名前を見つけ出してくれ」
「わかりました」
亀井は、日下を促して、警視庁を出た。
最近、東京でも、ラブホテルの中で、女性が殺される事件が、頻発《ひんぱつ》している。犯人は、なかなか、捕らない。行きずりに出来たカップルということもあるが、一番の問題は、ラブホテルが、従業員に顔を見られずに入れるものが多いことだった。
今度の犯人も、それで、沼津のラブホテルを、利用したのだろう。
亀井は、日下と、石神井に着いた。
名取かおるの家は、マンションの一室だった。
六階建のマンションの五〇二号室である。
管理人に、開けて貰って、中に入った。
2LDKのなかなか、豪華な部屋である。
「名取かおるさんは、何をしていたか、わかりますか?」
と、亀井は、管理人に、きいた。
「銀座のクラブで、働いているということですよ」
管理人が、ニヤッと笑っていった。
「じゃあ、ホステスですか?」
「そうらしいですね。名取さんが、どうかしましたか?」
「殺されました」
「え?」
「店の名前は、知りませんか?」
「二、三度、聞いたことがあるんですよ。ええと――そうだ。『かえで』という名前ですよ」
「カメさん」
と、部屋を調べていた日下が、亀井を呼んだ。
「どうしたんだ?」
「これを見て下さい」
日下は、一枚の写真を、亀井に見せた。
名取かおると、四十歳くらいの男が、仲よさそうに、写っていた。
「他にも、同じ男の写真が、四、五枚ありました。他の男の写真は、ありません」
「恰幅《かつぷく》のいい男だな」
「これが、犯人ですかね?」
「さあね。容疑者一号といったところだろう」
亀井は、その写真を、管理人に見せた。
「この男が、このマンションに、来たことがありますか?」
「いや。見たことは、ありませんよ」
管理人が、首を振った。
亀井は、写真を、ポケットに入れた。
「夕方になったら、銀座へ行ってみよう」
「かえで」という店は、新橋寄りの、雑居ビルの五階にあった。
近くで、夕食をすませてから、亀井と、日下は、その店に行き、ママに会った。
「名取かおるさんは、ここで働いていたんですね?」
亀井が、きくと、和服姿のママは、「ええ」と、肯《うなず》いた。
「でも、あの娘《こ》、昨日《きのう》から休んでますけど」
「実は、沼津で、殺されました」
「え?」
ママは、本当に、びっくりした顔になった。
「本当なんですか?」
「そうです。沼津のラブホテルで、殺されました。胸を刺されてね」
「誰が、そんなことを――?」
「それで、この写真を見て下さい」
亀井は、持って来たカラー写真を、ママに見せた。
「知っていますか?」
「ええ」
ママは、あっさり肯いた。
「名前は、何というのか教えて下さい」
「加藤さんですわ。M商事の部長さんですわ。時々、来て下さいます」
「この店の常連ということですか?」
「ええ。よく、お得意さんを連れて、来て頂いていますわ」
「この写真を見ると、名取かおるさんと、相当仲が良かったようですね」
「それで、心配していたんですよ」
「心配というと?」
「加藤さんは、エリート社員ですよ。四十歳で、M商事という一流会社の部長さんですもの。それに、なかなか美男子で、女性にもてるんです」
「プレイボーイ?」
「ええ」
「だから、心配していたんですか?」
「そうですわ。この娘《こ》は、美人だし、優しいし、人気はありましたけど、やはり、ホステスですわ。加藤さんの方は、エリートだし、将来の重役候補、それに、奥さんだって、いらっしゃるし――」
「なるほど」
「それなのに、彼女は、夢中になってしまったんですよ。加藤さんは、奥さんと離婚して、お前と一緒になるといったって、彼女はいってましたけど、そんな男の約束なんか、当てになりませんわ」
「加藤の方は、もて余していたんですかね?」
「それは、あったと思いますよ。あの娘《こ》は、自分と結婚してくれないのなら、奥さんのところに怒鳴り込むと、加藤さんを、脅していたみたいだし――」
「なるほどね。彼女は、開き直っていたわけですか」
「ええ」
「昨日《きのう》から休んでいるといいましたが、沼津へ行くというようなことは、いっていませんでしたか?」
「それは、聞いていませんわ。でも、他の娘《こ》が、聞いているかも知れませんわね」
ママは、殺された名取かおると、仲が良かったホステス二人を、カウンターに呼んでくれた。
二人とも、名取かおるが、殺されたことを聞くと、一様に、顔色を変えていたが、
「一昨日《おととい》は、彼と一緒に、旅行するんだと、はしゃいでいたんですよ」
と、一人が、いった。
「一昨日にね。彼というのは、加藤のことですか?」
「と、私は、思ってましたけど。でも、確かめたわけじゃありませんわ。彼女は、彼といっただけだから」
「旅行は、どちらの方面に行くといっていました?」
「それも、聞いていませんわ。のろけられるのも馬鹿らしいから、それ以上、きかなかったんです」
「加藤という部長が、最近、ここへ来たのは、いつですか?」
「一昨日じゃなかったかしら?」
「名取かおるさんが、あなたに、彼と旅行するといった日ですね?」
「ええ。そして、昨日から休んでいるんで、ああ、彼と旅行に行ってるんだなと、思っていたんです」
「彼女と、加藤の間は、うまくいっていたんですか? ママは、男の方が、もて余していたんじゃないかといっているんだが」
亀井がきくと、二人のホステスは、顔を見合せていたが、
「そうねえ。最近は、彼女の方が夢中で、どうしても、加藤さんと結婚したいっていってたから、そうかも知れないわ」
と、一人がいった。
「加藤は、結婚する気はなかったのかな?」
「そんな気なんか、あるもんですか」
と、ホステスは、吐き捨てるように、いった。
「加藤という男は、動機ありですね」
外へ出たところで、日下が、いった。
「そうだな。もて余して、殺したということは、十分に考えられるが――」
と、亀井は、言葉を切ってから、
「問題は、今、どこにいるかだ。それに、アリバイだ」
二人は、警視庁に帰ると、十津川に報告してから、静岡県警にも、連絡した。
加藤の写真も、電送された。
翌日、十津川は、東京駅前に本社のあるM商事に電話をかけた。
「そちらに、加藤という部長さんが、いらっしゃいますね?」
と、十津川がいうと、交換手は、
「第二営業部長の加藤でございますか?」
「他に、加藤という部長さんは、いらっしゃいますか?」
「いいえ」
「では、その加藤さんに、つないで下さい」
「ちょっとお待ち下さい」
と、交換手がいい、すぐ、若い男の声に代った。
「こちら、第二営業部ですが」
「部長さんは、いらっしゃいますか?」
「今、部長は、大阪に出張で、行っております」
「いつから、行っているんですか?」
「昨日からです。新大阪ホテルに泊っておりますので、急用でしたら、ホテルの方へ、お電話下さいませんか。今日は、十時になると、大阪鉄工KKの方へ行くことになっております」
と、相手がいう。
十津川は、腕時計を見て、九時十三分であることを確かめてから、新大阪ホテルの方へ、かけた。
M商事の加藤という名前をいうと、ホテルの交換手が、すぐ、つないでくれた。
「加藤ですが」
という、落ち着いた男の声が聞こえた。
「警視庁の十津川といいます」
「警察が、私に、何の用ですか?」
「名取かおるという二十五歳の女性を、ご存知ですね?」
「いや。知りません」
「彼女は、銀座のクラブ『かえで』のホステスです。加藤さんとは、かなり親しくしていたようですがね」
「名取かおる?」
と、加藤は、考えてから、
「ああ、久美のことでしょう。店では、久美と呼ばれていたものですから、そちらの方を覚えてるんです。彼女が、どうかしましたか?」
「死にました。沼津市内のホテルで、殺されました」
「殺された――それで、犯人は、捕まったのですか?」
「そのためにも、あなたの力を貸して頂きたいのです」
「どうすればいいんですか?」
「取りあえず、私の質問に、正直に答えて下さい。昨日の午前十時半頃、どこにいましたか?」
「昨日の十時半ですか。私の家が、成城《せいじよう》にあるんですが、大阪へ行くので、そろそろ、家を出るところじゃなかったかな」
「昨日、大阪へ行かれたわけですか?」
「そうです。午前一一時二四分の『ひかり151号』に乗りましたから、十時半というと、家を出るところぐらいだったと思いますよ」
「奥さんは、その時、家にいらっしゃいましたか?」
「いや、母親が倒れたので、実家へ帰っていましたよ。実家は、福井です」
「では、昨日は、加藤さん一人だったわけですか?」
「そうです。三日前から、やもめ暮しをしておりましたよ」
と、加藤が笑った。
「一一時二四分東京発の『ひかり』に乗られたんでしたね?」
「そうです」
「それを、証明できますか? 昨日、その列車に乗ったということをです」
「証明といわれてもねえ。そうだ。新大阪駅に、大阪支社の者が、二人迎えに来てくれていましたよ。確か、業務部の二宮と、田中君だったと思います。一四時三四分着のひかりに乗ると、電話しておいたので、迎えに来てくれていたんです。あの二人が、『ひかり151号』に乗って来たことを、証言してくれる筈《はず》です」
「二宮さんと、田中さんですね」
と、十津川はメモしてから、
「ところで、名取かおるさんについて、どう思いますか?」
「急にいわれても、困りますね。きれいな女性なので、好きでしたが、それだけですよ」
「ママや、同僚のホステスは、彼女が、あなたに対して、熱をあげ、あなたが、もて余していたと証言していますが、この点は、どうですか」
「まあ、光栄ですが、私が客で、よく、お得意を連れていくので、大事にしてくれていただけですよ。それに、彼女は、誰にでも、惚《ほ》れるタイプですから、私と、特別な関係というのは、間違いですよ。普通の客とホステスの関係ですよ」
「しかし、加藤さん。名取かおるは、一昨日《おととい》、彼と、旅に出ると喜んでいたそうなんです。その彼というのは、あなたのことだと、皆が、いっていましたがね」
「それは、何かの間違いでしょう。今もいったように、私は、昨日、一一時二四分東京発の『ひかり』で、こちらへ来たんです」
「それは、会社へ出ずに、直接、東京駅へ行かれたわけですか?」
「そうです。前日に、大阪支社へ行くことはいってありますからね」
「しかし一一時二四分発というのは、少し遅いんじゃありませんか?」
十津川がきくと、加藤は、電話の向うで、小さく笑った。
「昨日中に、大阪へ着けばいいことになっていたからですよ。それに、支社での会議が午後四時から開かれることになっていましたから、それに間に合うように、行ったわけです。あまり早く行って、支社の中を、うろうろしていては、かえって、気遣いをさせるだけですからね」
「なるほど。わかりました」
「私は、M商事の部長の椅子《いす》にある者です。殺人なんかやりませんよ。下らん」
最後は、吐き捨てるようにいって、加藤は、電話を切ってしまった。
「どうですか? 電話されて、加藤という男の感触は」
亀井が、きいた。
十津川は、すぐには、返事をせず、考えていたが、
「わからないな。自信満々に答えていたよ。それが、シロだからか、逆に、犯人だが、絶対に、捕まらないと思っているからなのか、どちらとも取れる感じだよ。最後に、M商事の部長だから、殺人なんかやらんといったよ」
「人を殺すのは、肩書きでやるもんじゃないでしょう」
と、亀井が、笑った。
十津川は、立ち上って、黒板の前に行くと、加藤がいった昨日の彼の行動を、時間を追って書いて行った。
◎一〇時三〇分頃
成城の家を出る
◎一一時二四分
「ひかり151号」
東京発
◎一四時三四分
新大阪着
支社の二宮、田中が、駅に迎えに来ていた
書いておいてから、十津川は、M商事の大阪支社に電話をかけ、業務部の二宮という社員に出て貰った。
若い男の声が、電話口に出た。
「ええ。確かに、昨日、新大阪へ、加藤さんをお迎えに行きました」
「一四時三四分の『ひかり』で着くと、前もって、連絡があったんですね?」
「はい。一昨日《おととい》、連絡がありましたから」
「どこで、待っていたんですか?」
「ホームでです」
「それで、加藤さんは、ちゃんと、列車からおりて来ましたか?」
「はい。グリーン車から、おりて来ましたが、それが、何か?」
二宮が、きき返した。
「それ、間違いありませんか?」
と、十津川は、構わずに、きいた。
「もちろん、間違いありません。私と、田中君が、ホームで待っていたら、一四時三四分着の『ひかり』が入って来て、グリーン車から、加藤部長が、おりて来たんです。12号車です。それから、車で、ホテルへお送りしました」
「支社の会議に出られたんでしょう?」
「はい。会議は、四時からなので、いったん、ホテルへ入って、それから、部長は、出席したわけです」
「もし、嘘《うそ》をつかれていると、偽証罪になりますよ」
「嘘なんかつきませんよ。なぜ、私が、嘘をつかなければ、ならんのですか」
二宮は、憤然とした口調でいった。
「事実なら、問題は、ありません」
十津川は、そういって、電話を切った。
加藤が、昨日、新幹線で、新大阪へ行き、一四時三四分に着いたことは、まず、間違いないようである。
だが、加藤が犯人だとすれば、新大阪へ着くまでの間に、沼津で、邪魔になる名取かおるを殺したのだ。
問題は、十時三十分に、沼津のラブホテルで、殺人を犯して、午後二時三十四分に新大阪駅に着く「ひかり151号」に乗れるかということである。
十津川と、亀井は、時刻表を見て、大阪方面行の列車を調べてみた。
沼津には、新幹線は、停車しない。
とすれば、沼津からは、在来線に乗って、静岡か名古屋まで行き、新幹線に乗りかえたことになるだろう。
東海道本線のページを開くと、新幹線の改善で、本数が少なくなっていることに気がつく。
十時三十分頃、沼津から西へ行く列車は、次の通りである。
(画像省略)
乗ったとすれば、一〇時五六分沼津発の列車だろう。しかし、名古屋まで、この各駅停車で行ったのでは、絶対に間に合わない。名古屋で、一四時五三分になってしまうからである。
とすれば、この列車で、静岡まで行き、静岡から、名古屋まで「こだま」を使い、名古屋から「ひかり」に乗ったに違いない。
その「ひかり」が、新大阪着一四時三四分の「ひかり151号」なら、彼のアリバイは崩れるのだ。
果して、この列車に、名古屋で乗れるかである。
一一時五四分に、静岡に着けたとすると、何時発の「こだま」に乗れるのだろうか?
一二時〇四分静岡発の「こだま451号」というのがある。
この列車に乗ると、名古屋着が、一三時一八分になる。
一方「ひかり151号」の名古屋発は一三時二七分だから、間に合うのである。
「加藤のアリバイが崩れましたね」
と、亀井が、いった。が、十津川は、首を振って、
「駄目だよ。この『こだま451号』は、季節列車なんだ。運転期日のところを見てみたまえ。十二月三十日と、一月三→五日しか運転しないんだ。事件の起きた十二月七日は、運転していないんだ」
「そうですね。参ったな」
「この列車が駄目だとすると、静岡に停車する次の『こだま』は、一二時一六分発の『こだま233号』だ。この列車は、新大阪行だが、そのまま新大阪まで乗って行くと、一四時五四分に着く。これでは、二十分おそくなってしまう。名古屋でおりて、乗りかえるより仕方がないが、名古屋着は、一三時三〇分だ」
「問題の『ひかり151号』は、名古屋着が一三時二五分。発車が、一三時二七分ですから、乗れませんね」
「そうだ。乗れないんだよ。十時三十分に、沼津で殺人をやったら、『ひかり151号』には、乗れないんだ」
「すると、加藤は、シロということになってしまうわけですか?」
「あとは、列車を使わずに、車を走らせた場合だな。沼津のラブホテルで、名取かおるを殺したあと、車を飛ばして、名古屋で、『ひかり151号』に乗れるかどうかということになる。これは、静岡県警に、調べて貰おう」
と、十津川は、いった。
静岡県警は、沼津署に、捜査本部を置いて、事件を追っていた。
東京警視庁からの連絡で、M商事の加藤部長が、容疑者として、浮びあがってきた。
問題は、沼津駅前のラブホテルで、午前十時三十分に、名取かおるを殺した犯人が、「ひかり151号」に乗って、一四時三四分に、新大阪駅に着けるかということである。
警視庁からの連絡によれば、列車を利用したのでは、不可能だということだった。
車を利用すれば、可能かどうかを、こちらで、調べなければならない。
問題のラブホテルは、国鉄沼津駅の傍にある。歩いて、七、八分のところである。
車で、新大阪に向うとしたら、どんな道順を選ぶだろうか?
国道一号線に近いが、渋滞も考えられるし、信号も多いから、時間が、かかるだろう。
一番早い方法は、東名高速に入ることである。
沼津駅の北に、沼津インターチェンジがある。ラブホテルを出て、車で、沼津インターまで行くのに、三十分かかる。東名高速に入ったあと、新大阪まで走っては、とうてい間に合わない。新幹線は、時速百六十キロぐらいで走っているからである。
名古屋まででも間に合わない。新幹線は、「こだま」でも、百キロを越すスピードで走るからである。
とすれば、沼津と静岡の間を、東名高速で突っ走って、静岡駅から、「こだま」に乗って名古屋へ行き、名古屋から、「ひかり151号」に乗りかえる方法が、一番早い。もし、これで間に合わなければ、加藤のアリバイは、成立してしまう。
静岡県警の二人の刑事が、実際に、車で走ってみた。
ラブホテルから、三十分で、沼津インターチェンジで、東名高速に入った。
静岡に向って、百キロのスピードで、車を飛ばした。
三十分で、静岡インターチェンジに到着。ここから、静岡市内に入り、国鉄静岡駅に向った。
信号待ちや、渋滞があったが、そうしたロスは、無視することにした。加藤が走った時には、スムーズに行ったかも知れないからである。
二十分で、国鉄静岡駅に着く。
車をおり、切符を買わずに、改札口を通る。加藤は、前もって、新幹線のきっぷを買っておいたに違いないからである。
警察手帳を見せて、改札口を抜けた二人の刑事は、新幹線ホームに向けて、階段を駆けあがった。
車をおり、改札口を抜け、ホームに向けて、階段を駆けあがるのが、意外に、時間がかかる。八分かかってしまった。
沼津駅前のラブホテルから、静岡駅の新幹線ホームまでの所要時間は、合計、一時間二十八分ということになった。
十時三十分に、ラブホテルを出たとすると、静岡駅のホームには、十一時五十八分に着くわけである。
「十一時五十八分か」
二人の刑事は、その数字を見て、唸《うな》ってしまった。
静岡を、一一時五二分に出る「こだま229号」があって、この列車に乗れば、名古屋で、「ひかり151号」に乗りかえられるからである。また、この「こだま」は新大阪まで乗って行っても、「ひかり151号」より四分早く着けるのだ。
その差は、わずか六分である。
沼津の現場から、静岡駅の新幹線ホームまでの間に、六分間短縮できれば、加藤は、名取かおるを殺して、「ひかり151号」に乗り、何くわぬ顔で、新大阪駅に行けるのである。
一時間二十八分の中の六分を短縮するのは、絶対に、不可能ではないだろう。
東名高速も、もう少しスピードを出して飛ばすとか、沼津のラブホテルから、沼津インターチェンジまでを、もう少し早く走らせればいいのだ。
そうすれば、ぎりぎりで、間に合う。
「しかしねえ。加藤はエリート社員だろう。部長の地位をかけて、殺人を犯したとしたら、そんな綱渡りみたいな計画を立てるだろうか。鉄道みたいに、九十パーセント、時刻表通りに動く列車を利用する場合なら、一分きざみの計画でもいいが、車の場合は、どこで渋滞に巻き込まれるかわからないからね。二、三十分の余裕は、見ておかなければならないんじゃないか?」
刑事の一人が、思案顔で、いった。
「しかし、警視庁からの話では、国鉄を使ったのでは、加藤は、殺人のあと、一四時三四分に新大阪には着けないんだぜ。となれば、車を利用したとしか考えられないじゃないか」
もう一人が、反論した。
二人の意見の違いは、沼津署へ戻ってからも、続いたが、それを聞いていたベテランの寺西という刑事が、
「そりゃあ、駄目だよ」
と、いった。
「どうしてですか?」
「事件のあった日に、日本平インターチェンジの近くの下り線で、タンクローリーが、横転事故を起こし、下り車線が、一時間にわたって、閉鎖されたんだよ。それは、十時頃だったと思うがね」
「本当ですか」
若い刑事は、あわてて、新聞の綴《つづ》りを持って来た。
なるほど、出ていた。
午前十時五分頃、東名高速の日本平インターチェンジ近くで、大型のタンクローリーが横転し、そのため、下り車線が、一時間にわたって、閉鎖されたとある。片側通行にしたのだが、ここで、十五、六分は、おくれてしまうだろう。
「そんな事故でなくても、小さな事故でも、五、六分は、おくれてしまう。車の正確な到着時間は、計算できないよ。私は、加藤が犯人だとして、車は、使わなかったと思うね」
と、寺西が、いった。
「しかし、鉄道も、駄目なんですよ」
若い刑事の一人が、肩をすくめるようにしていった。
問題は、また、東京に投げ返された感じだった。
静岡県警でも、謎《なぞ》の解明に当るだろうが、警視庁としても、何とかして、加藤のアリバイを崩す必要があった。
「もう一度、時刻表を見てみましょうか?」
日下がいうのに、亀井が、
「何回見ても同じだよ。うまく間に合うような列車がないんだ」
と、いった。
「しかし、加藤が犯人なら、可能だったわけでしょう」
西本が、首をかしげながらいったとき、十津川警部が、入って来た。
「今、静岡県警から、新しい連絡がはいったよ」
「何か、可能な方法が見つかったんですか?」
亀井が、期待してきいた。
「いや、逆なんだ。例のラブホテルを、十時三十分に出発して、実際に、列車で、静岡まで行ってみたというんだ。時刻表では駄目だが、実際には、可能かも知れないというんでね」
「それで、やっぱり、駄目だったんでしょう?」
「そうらしい。ラブホテルは、駅前にあるから、沼津駅まで、五分でつけた。十時三十五分だ。この時間の大阪方面行の下り列車は、一〇時五六分発の普通電車しかないので、それに乗って、静岡へ行き、そこから、『こだま』に乗った。ところが、普通電車の静岡着は、一一時五四分なので、一二時一六分静岡発の『こだま233号』にしか乗れなかった。これでは、名古屋に着いたときには、『ひかり151号』は、三分前に発車していたそうだ」
「われわれが、時刻表で調べた通りですね」
「つまり、これで、加藤のアリバイは、完全なものになったわけだよ」
十津川が、ぶぜんとした顔で、いった。
「しかし、警部。加藤の他に、名取かおるを殺すような人間は、浮んで来ないんですがね」
亀井は、じっと、考え込んだ。
加藤は、犯人ではないのだろうか? アリバイがある限り、犯人ではなくなってしまう。
しかし、加藤は、事件の日に、東京から新大阪へ行っている。事件が起きた沼津は、その間にある町なのだ。
しかも、加藤は、午後二時三十四分という微妙な時刻に、新大阪に着いている。午前十時三十分に、沼津で、名取かおるを殺して、列車を乗りついで行くと、もう少しで間に合う時刻なのだ。
「やっぱり、加藤しか考えられないんだがなあ」
と、亀井は、呟《つぶや》いた。
「その点は、私も、同感だね」
十津川が、肯《うなず》いた。
「しかし、加藤には、殺せないんですよ。十時半に、沼津で、名取かおるを殺していたら、新大阪に、午後二時三十四分には、着けないんです」
亀井は、口惜しそうにいった。
十津川は、もう一度、時刻表を、見直していたが、
「微妙なところで、駄目なんだなあ。逆算していくと、それが、よくわかる。一四時三四分新大阪着の『ひかり151号』に乗るためには、この列車が、名古屋を発車するのが、一三時二七分だから、それに間に合わなければならない。それには、名古屋着一三時〇六分の『こだま229号』に乗らなければならない。この列車は、静岡発が一一時五二分だ。この時刻までに、静岡へいければ、犯行は可能になる。沼津発一〇時五六分の列車はあるが、この列車の静岡着は、一一時五四分で、間に合わないんだ。その差は、わずか二分だ。もちろん、在来線から、新幹線に乗りかえるのには、時間が必要だが、大きな駅じゃないから、七、八分あれば、大丈夫だろう。八分をプラスして、十分間だ。つまり、十分間早く静岡に着ければ、間に合うことになる。ということは、沼津を、十分間早く発車する列車があればいいんだ」
「というと、沼津発一〇時四六分発の列車があればいいということになりますかね?」
「沼津のラブホテルから、駅までは、七、八分だと、静岡県警がいっている。十時三十分に、名取かおるを殺した犯人は、十時三十七、八分には、沼津駅に来られるわけだ。もし一〇時四六分発の下り列車があれば、ゆっくり乗れて、新大阪着一四時三四分の『ひかり151号』に乗れるんだ」
と、いってから、十津川は、自分で、照れたように笑ってしまった。
そんな列車が存在しないことは、十津川自身が、一番よく知っているのだ。
そして、犯人が、幻の列車に乗って、逃亡したわけではない。
「逆に乗ったらどうでしょうか?」
亀井が、十津川を見て、いった。
「逆というと、どういうことだね?」
「沼津から、大阪へ向う方向だけを、考えて来ましたが、沼津から、いったん、東京方向に戻る方法もある筈《はず》です。というのは、三島まで戻れば、新幹線の『こだま』に乗ることが出来ます」
「つまり、三島に戻り、そこから、『こだま』で、大阪に向ったんじゃないかというんだね?」
「そうなんです。沼津から、次の静岡へ行く適当な列車がなかった。しかし、三島に戻る列車はあるかも知れません。沼津から三島まで、五、六分しか、かからないんじゃありませんか。そんなら、戻る時間は、ほとんど、無視できます」
「問題は、適当な列車があるかどうかだね」
「調べてみます」
亀井は、時刻表の東海道本線(上り)のページを繰っていたが、急に、顔を輝かせて、
「ありました。一〇時四七分に沼津発の普通列車で、三島には、一〇時五三分に着きます。『こだま229号』に、ゆっくり乗れますよ」
「よし。加藤は、それに、乗ったんだ」
十津川は、にっこりした。
これで、加藤のアリバイは、崩せたと思ったからである。
しかし、実際に、この普通列車のことを調べた十津川は、がっかりした。
確かに、この列車はあるのだが、問題の日は、沼津を出てすぐ、モーターの故障で、立往生してしまっているのである。
そこで、沼津から三島へ、タクシーに乗ったのかも知れないということになった。
沼津―三島間は、わずか五・五キロだから、タクシーを使ったことも、十分に、考えられたからである。
静岡県警と協力し、沼津駅前のタクシー全てに、当ってみた。が、加藤を乗せたという運転手は、いなかった。
「参ったね」
と、十津川は、いってから、
「名取かおる殺しの犯人は、別にいると考えた方が、良さそうだ。もう一度、彼女の身辺を調べてみてくれ」
と、つけ加えた。
刑事たちは、名取かおるの身辺を、洗い直すことに、全力をあげた。
彼女の部屋へ行き、手紙を、全部、調べ直す。
男名前でも、女名前でも、全部、当ってみた。ラブホテルで泊って、殺されたのだから、一応、男が犯人だろうが、今は、レズのもつれからの殺人だって、起こりかねないからである。
五人の男と、三人の女の身辺が、調査された。
一番怪しかったのは、横井という車のセールスマンだった。
二十八歳で独身。女に手が早いという噂《うわさ》があって、車で、全国を廻《まわ》っている。女を引っかけては、モーテルや、ラブホテルに連れていくということだった。
事件の日、沼津のラブホテルに、名取かおると一緒にいて、彼女を殺したのは、加藤ではなくて、横井かも知れない。
かおるは、加藤に夢中だったが、加藤には妻がいる。それで、独身で、若い横井とも、関係していたのかも知れない。彼女と旅行の男は、案外、横井だったのではないか。
亀井たちは、横井のアリバイを調べてみた。
最初は、供述があいまいなので、亀井たちは、色めき立ったが、捜査をすすめていくと、車を売りに行った先の奥さんと、ラブホテルに行き、関係していたとわかって、がっかりしてしまった。
「やはり、加藤部長ですよ」
と、亀井は、十津川にいった。
「彼以上に、名取かおるを殺したい人間はいないということか?」
「そうです。横井みたいに、女は、プレイの相手でしかない男は、女を殺したりはしません。やはり、加藤ですよ」
「しかし、奴《やつ》には、アリバイがある。逮捕はできないよ」
「彼は、まだ大阪ですか?」
「ああ、あと一日、大阪支社にいるらしい。どうするんだ? カメさん」
「家には、誰もいないんですか?」
「いや、奥さんが、帰って来ている」
「じゃ、ちょっと、会いに行って来ます」
「実家に帰っていたのだから、奥さんは、知らんだろう」
「ええ、藁《わら》をもつかむというやつです」
亀井は、笑っていい、日下刑事を連れて、出かけた。
加藤の家は、低い塀《へい》をめぐらせた、白い二階建の建物である。
建坪は、八十坪くらいだろうか。広い庭もあって、M商事の部長にふさわしい邸宅だった。
加藤の妻の幸子は、怪訝《けげん》な顔をして、二人の刑事を迎え入れた。
「ちょっと、ご主人のことで、お伺いしたいと思いまして」
と、亀井はいい、事件の日、十二月七日のことを、きいてみた。
案の定、幸子は、実家に、母の看病に行っていて、何も知らないという。
「トイレを貸して頂けませんか」
と、話の途中で、亀井はいい、応接室を出ると、幸子の相手を、日下に委せておいて、亀井は、足音を忍ばせて、二階へあがって行った。
加藤の書斎をのぞいて見たかったのだ。
二階の隅の部屋が、書斎だった。
角で、見晴しのいい八畳間である。
大きな机があり、本棚には、商社の社員らしく、外国語の本が多かった。机の上には、何もない。
ぐるりと部屋の中を見廻《みまわ》した亀井の眼が、壁にかかったカレンダーで、止まった。
十二月のカレンダーの右の余白のところに、数字が三つ書いてあった。
(画像省略)
亀井は、すぐ、日下と警視庁に戻った。
彼は、興奮していた。
亀井は、メモして来たその三つの数字を、十津川に見せた。
「びっくりしましたよ。前にも、この数字と同じものを見ていたからです」
亀井は、水道橋の喫茶店で、息子の健一が拾った紙片も、十津川に見せた。
「なるほど、同じ数字が並んでいるね」
「それに、警部が、いわれたことを思い出したんです。もし、沼津発一〇時四六分の下り列車があれば、加藤は、沼津で名取かおるを殺して、一四時三四分に、新大阪に着けるといわれたことです。一〇四五というのが、一〇時四五分で、沼津の発車時刻とすれば、この列車にのれば、いいわけです」
「そして、次の停車駅が、静岡か。そうだとすれば、この時刻表が、加藤のアリバイを崩すことになるんだが、時刻表に、こんな列車はないんだろう? それに、一〇四五が、沼津かどうか、わからないぞ」
「そこが問題なんですが――」
「とにかく、加藤の書斎に、同じ数字が書いてあったのは、引っかかるね。とにかく、専門家に、聞いてみよう」
十津川と、亀井は、国鉄本社を訪ね、顔見知りの総裁秘書北野に会った。
十津川が、亀井の紙片を、見せると、北野は、あっさりと、
「ああ、これは、時刻表ですよ」
と、いい、ボールペンで、数字の横に、駅名を書き込んでいった。
(画像省略)
「これでいいでしょう」
北野は、ペンを置いた。
「しかし、そんな列車は、時刻表には、のっていませんね。調べてみたんですが」
「ええ、時刻表には、のっていません」
「しかし、全く架空の列車というわけでもないでしょう? それなら、あなたが、全部の駅名を、さっさと書く筈《はず》がない」
十津川が、いうと、北野は、笑って、
「実在する列車ですよ」
「しかし、時刻表にのっていないというのは、どんな列車なんですか?」
「国鉄は、ご存知のように、赤字なので、いろいろと、収入を増やすためのイベント列車を走らせています。東京発大阪行の臨時列車も、何度か出しています」
「具体的に、どんな列車なんですか?」
「そうですね。昔の『つばめ』とか、『はと』の名前の列車を、東京と大阪の間に走らせたり、最近作ったサロンカーも、時々、走らせます。その時には、この時刻表に従うことが多いですね。この時刻表だと、他の定時列車の進行に差しつかえなく走らせられますからね」
「一番上の9001というのは、何の番号ですか?」
「これは、列車番号です。下りは、奇数番号です。同じイベント列車で、大阪から東京へ引き返す列車は、9002番になります」
「東京九時発というのは、わかります。あとも、全部、発車の時刻ですね?」
「そうです」
「Hは、九番線ですか?」
「そうです」
「マルカッコと、カギカッコは、何の意味ですか?」
「マルカッコは、通過。カギカッコは、運転停車で、列車は、その駅に停車しますが、乗客の乗り降りはありません」
「何もついてないのは、何ですか?」
「その駅に停車することを示しています」
「つまり、乗客の乗り降りもあるということですね?」
と、十津川は、きいた。
「そうです」
「ところで、十二月七日にも、この臨時列車が、走ったんですか?」
十津川は、その答だけが欲しかった。
北野は、しごく、あっさりと、
「ええ。十二月七日に走っています。昔の『つばめ』を思い出そうというイベント列車としてです。もちろん、この時刻表に従って走りました。確か東京南鉄道管理局が、設定した列車です」
「乗客は、どうやって、選ぶわけですか? 当日、東京駅へ行って、切符を買うわけですか? 私なんかは、こういう列車が、いつ、走るのか、全く知りませんでしたが」
「普通の人は、あまり知らないと思いますが、マニアの方は、よく知っておられますよ。駅なんかのポスターや、時には、新聞広告で、イベント列車の名前や、月日をお知らせするわけです。切符は、窓口で売る場合もありますが、多くは、応募によります。たいてい、すぐ、満席になってしまいますね」
「では、十二月七日のときも、乗客を、募集したわけですね?」
「そうです。客車十二両を、F58形機関車で、牽引《けんいん》しています」
「応募して、切符を手に入れた乗客は、この時刻表を知っているわけですね?」
「ええ。知っていると思いますよ。きかれれば、お教えしますからね」
「このカッコのない駅、例えば、沼津や、静岡ですが、途中から、乗ることは出来るんですか? それに、途中下車はどうなんですか?」
亀井が、きくと、北野は、当惑した顔で、
「こういうイベント列車は、一応、東京から、終点の大阪まで乗るということになっていますがね。まあ、東京と大阪の区間の切符ですから、途中で乗っても、途中下車しても、駄目だとはいえませんが」
「それなら、いいんです」
「何か、十二月七日の『つばめ』が、事件に関係しているんですか?」
「どうやら、臨時列車の時刻表を利用した殺人犯がいたようなのですよ」
亀井が、いった。
10
十津川は、すぐには、加藤を逮捕しなかった。
外堀を埋めて、うむをいわせずと考えたのである。アリバイは崩れたのだから、もう、犯人は、加藤に間違いない。
その自信を持って、刑事たちは、聞き込みを始めた。
最初は、加藤が、この臨時列車を利用しようと思いついた理由である。
鉄道マニアとは思えない加藤が、どうして思いついたのか?
それを調べていくうちに、大学時代の友人で、旅の随筆などを書いている岡本という作家が、浮びあがって来た。
亀井が、この岡本に会いに行った。
「ああ、加藤とは、今でも、つき合っていますよ」
と、岡本は、肯《うなず》いた。
「先生は、国鉄のイベント列車に、お乗りになりますか?」
「ええ。時々ね。好きなんですよ。そういう列車には、旅好きや、鉄道好きが乗っているので、話が合いますからね」
「十二月七日のイベント列車の『つばめ』にも、お乗りになりましたか?」
亀井がきくと、岡本は、笑って、
「ああ、あの列車も、乗りたくて、切符を手に入れたんですが、北海道へ取材に行かなければならなくて、乗れませんでした」
「その切符は、どうされました?」
「加藤にやりましたよ」
「本当ですか?」
「ええ。銀座で会ったときに、この列車のことを話したんですよ。切符が、いらなくなってしまったこともね。そして、翌日、加藤から電話があって、その切符をゆずってくれないかというんです。自分が乗りたいから」
「加藤さんは、イベント列車が好きなんですか?」
「いや、そんな男じゃないんですがね。あの時は、急に、乗りたくなったといっていましたね」
「そして、切符を、ゆずられた?」
「ええ」
「そのとき、時刻表も、渡されましたか? この『つばめ』のです」
「ええ。銀座で会ったとき、メモにして、渡しましたよ」
「その時、停車駅とか、通過駅のことも話されましたか?」
「ええ。途中で、降りられるのかと、彼が、ききましたしね」
「切符を渡されたのは、いつですか?」
「十月二十五日に、銀座で会ったんです。翌日、電話があって、次の日、渡しました。二十七日です」
「加藤さんは、乗ったといっていましたか?」
「昨日、大阪から電話がありましてね。新幹線で行くことになってしまったので、使わなかったといっていましたよ」
と、岡本は、いった。
「どうも、ありがとうございました」
亀井は、礼をいった。が、岡本には、なぜ、亀井が礼をいったか、わからなかったようである。
次に、イベント列車「つばめ」の車掌に会って、話を聞いた。
車掌三人が、亀井の質問に答えてくれた。
「東京駅では、一人欠けただけで、他の方は全員、乗車されました」
と、車掌の一人が、いった。
「途中で、乗って来た人はいませんか?」
「いましたよ。時々、いるんです。東京駅におくれてしまったので、新幹線で、追っかけて来たというような人がです」
「十二月七日に、途中乗車した人は、どこから、乗って来たんですか?」
「沼津です。列車が、停っているとき、乗って来られましてね。切符を持っておられるので、お乗せしました」
「どんな人か覚えていますか?」
「途中から乗って来た方は、一人だったので、よく覚えていますよ。男の方でしたね。中年の」
「この中にいますか?」
亀井が、同じ年齢ぐらいの男の写真五枚を並べると、車掌は、迷わずに、加藤の写真を選んだ。
外堀は、埋め終ったので、十津川は、加藤の逮捕に、踏み切った。
逮捕して、二日後に、加藤は、犯行を自供した。やはり、加藤は、自分の地位を守るために、名取かおるを、殺したのだった。
最後に残ったのは、水道橋の喫茶店で、亀井の息子《むすこ》が拾った紙片のことだった。
事件が解決して、二週間後に、偶然、わかったのだが、鉄道マニアの中学生が、友だちと、クイズごっこをして、一人が、駅名を伏せて、時刻表だけを書き、どんな列車かわかるかという質問を出したときのメモだったのである。
その少年が、メモを落とさなかったら、今度の事件の解決は、おくれていただろう。
「じゃあ、僕が、解決したのと同じだね」
と、健一は、嬉《うれ》しそうにいった。
おかげで、亀井は、健一を、来年の春に走るという「おとぎ列車」に乗せてやることを、約束させられてしまった。
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スキー列車殺人事件
毎年、雪の季節になると、午前七時〇〇分新宿発、南小谷《みなみおたり》行の「あずさ1号」は、スキー列車になる。
スキーのメッカである八方尾根スキー場への起点である白馬《はくば》駅に、午前一一時三〇分に着き、その日の内に、滑れるからだろう。
今年の三月に大学を、卒業し、OL一年生になった牧野由美も、仲間五人と、年末に、この列車で、八方へスキーに行くことにした。
五人とも、同じN大の同期生である。
由美と同じように、社会人一年生になった者もいれば、大学に残った者もいる。
由美を入れて、男女三人ずつだった。
十二月二十九日の朝、由美は、午前六時に、あわただしく食事をすませ、母の「気をつけて滑ってきなさいよ」という言葉に送られて、家を出た。
京王線の下高井戸に住んでいるので、新宿までは、二十分ぐらいで行ける。
家を出た時は、まだ、外は暗かった。
京王線に乗り、新宿に近づくにつれて、少しずつ明るくなってくる。
今日、一緒に行く五人は、大学時代、スキー同好会で、一緒だった連中だった。
派手好きだった井上かおり、眼鏡をかけた文学少女風の相川京子。眼鏡をとると、意外に可愛《かわい》らしい顔をしている。二人とも、今は、由美と同じOLになっていた。
スキーが一番|上手《うま》かったのは、運動万能の沢木だった。大学の落研に入っていた青木は、滑り方も、何となくユーモラスだ。この二人は、社会人になったが、小柄で、文学青年だった原田は、大学院に残っている。
由美は、卒業後も、京子とだけは、時々喫茶店で会ったりしていたが、他の四人とは、ほとんど、会っていなかった。
それでも、京子を通じて、四人の消息を知っていたから、年末から正月にかけて、八方へスキーに行こうと言われた時は、すぐ、賛成した。
列車や、ホテルの手配は、世話好きの青木が、やってくれた。
午前七時〇〇分発の「あずさ1号」に乗ればいいといわれ、指定席の切符は、郵便で、送ってくれていた。
由美は、十五分前に、新宿についた。
九両連結の「あずさ1号」は、すでに、一番ホームに、入線していた。
うすいイエローに、赤い線の入った車体は、何回か、八方へ行くのに乗っているので、由美にとっては、見なれたものだった。
北アルプスの雪を頂いた山脈を図案化した中に、「あずさ」の文字を入れたマークも、なつかしかった。
切符は、5号車の指定席である。
由美が、スキーを担《かつ》いで、ホームを、5号車に向って歩いていると、「由美ッ」
と、大きな声で、呼ばれた。
こんな大きな声で呼ぶのは、京子以外にはない。
振り向くと、やっぱり、京子だった。
「ロシニョールのスキー、買ったよ」
と、京子は、並んで、ホームを歩きながら、得意そうに、いった。
ロシニョールとは、女性に人気のあるスキーである。
「へえ。とうとう買ったの」
「初めて貰ったボーナスで買ったんだ」
京子は、嬉《うれ》しそうに、にこにこ笑っている。
5号車に乗っていくと、三人の男たちは、もう乗っていた。
「やあ、お早よう」
世話役の青木が、眠そうな顔でいった。午前二時頃まで、会社の仲間と、麻雀をしていたのだという。
年末ということもあって、指定席は、満員だった。
昔、この列車は、スキーシーズンになると超満員になったものだが、最近は、車でスキーに行く者が増加したこともあって、さほど、混まなくなっている。
発車間際になっても、井上かおりが、姿を見せなかった。
「昨日、電話したら、彼女、必ず行くっていってたのよ」
京子が、不審げに、いった。
「君は、親しくしていたから、知ってるんじゃないの?」
と、青木が、沢木に、声をかけた。
沢木は、照れ笑いして、
「実は、今朝、一緒に行こうって、電話で、誘ったんだ」
「それで?」
「急用が出来たんで、七時の『あずさ1号』には乗れないが、おくれても、必ず、行くっていってたよ」
「急用って、何なのかしら?」
由美が、きいた。
「いわなかったが、誰か、お客が来るみたいな感じだったなあ」
沢木がいったとき、「あずさ1号」は、ゆっくり、北へ向って、発車した。
発車して、すぐ、若い女のスキー客が、
「そこ、あいてます?」
と、由美たちに、きいてきた。
「ああ、いいですよ」
大学院生の原田が、あいているかおりの席を、彼女に、すすめた。
由美は、素早く、その女性を観察した。
二十六、七歳だろうか。
(わたしより、年上だということは、確かだわ)
と、思い、それで、安心して、京子と、お喋《しやべ》りを始めた。
東京は、晴れていたのだが、甲府を過ぎた辺りから、粉雪が舞い始めた。
「あずさ1号」には、食堂車は、ついていない。
朝食を食べて来なかったという京子が、いなりずしや、のり巻きを取り出し、みんなに、すすめた。
由美も、お菓子や、みかんを出した。
食べて、お喋りをしているうちに、松本に着き、車窓の景色が、雪国らしくなってきた。
徹夜麻雀をしたという青木は、いびきをかいて眠ってしまった。
由美は、かおりの席に座った女性にも、お菓子をすすめたが、向うは、いらないと、いった。
それでも四時間以上も、乗っていると、自然に、自己紹介をしたりするようになった。
彼女の名前は、小田けい子。イラストの仕事をしているのだという。
「八方では、Kホテルに、友人が先に行って待っているんですよ」
とも、いった。
Kホテルといえば、その辺りでは、一番高いといわれているホテルである。
「そりゃあ、凄《すご》いな。僕たちは、『シャルム』というペンションです」
と、沢木がいった。
「今夜でも、よろしければ、Kホテルへいらっしゃったら。十時から、素敵なショーがあるそうだから」
小田けい子が、笑顔で、いった。
由美もKホテルを知っていた。八方では一番古く、一番豪華なホテルである。
改めて、小田けい子を見ると、指に光るダイヤの指輪も、三カラットぐらいはある大きなものだった。
眠りからさめた青木が、
「それじゃあ、今夜は、ホテルに押しかけますよ。でも、あなたの彼に悪いかな?」
「先に行っているのは、女のお友だちだから、変に、気を廻《まわ》さないで」
と、小田けい子は、笑った。
白馬《はくば》駅には、定刻の一一時三〇分に着いた。
ここで、ほとんどの客が降りてしまう。
改札口を出ると、ここも、粉雪が舞っていた。
それでも、なつかしい白馬の町だった。
「おお、なつかしの白馬よ!」
と、青木が、おどけて、いった。
白馬の駅にも、駅前の商店街の屋根にも、二、三十センチの雪が積っている。
駅前広場にも、雪の山が出来ている。その雪の上に、更に、粉雪が舞い落ちている。
(雪国へ来たんだわ)
という実感が、由美の胸に、わいてきた。
今年は、東京も、雪が降ったが、やはり、比べものにならない。
雪の量感が違うのだ。
小田けい子は、ホテルから迎えの車が来ていて、乗って行ってしまった。
由美たちは、後から来るかおりのために、駅の伝言板に、メモを残してから、二台のタクシーに分乗して、ペンション「シャルム」に行くことにした。
構内タクシーは、十五台ぐらいしかないが、由美たちは、十分ぐらい、並んで待って乗ることが出来た。
どのタクシーにも、屋根に、スキーキャリアが取付けてあって、それに、スキーをのせると、1セット百円とられる。
タクシーに乗ると、待っていた間に、こごえてしまった身体が、少しずつ、あたたまってきた。
「かおりは、本当に来るのかしら?」
由美が一緒に乗った沢木にきくと、「僕には、必ず、あとから行くといってたよ」
「わたしも、来ると思うわ」
と、京子も、いった。
「昨日の夜、電話したときは、とても、行くのを楽しみにしてたもの」
「彼女が来ると、賑《にぎ》やかでいいわね」
と、由美は、いってから、沢木に、
「彼女との仲はどうなの? いい線いってるの?」
「いや、彼女には、沢山、ボーイフレンドがいるからね」
と、沢木は、笑った。
外が見えなくなるほど、雪が激しく降ったかと思うと、急に止んで、ぱあっと、陽《ひ》が射してきたりする。
予約していたペンション「シャルム」に着いた時には、雪は、止んでいた。
二つの部屋を予約してあった。男と、女が、三人ずつ、分かれて、泊ることになっていた。
二階建のペンションのまわりも、一メートル近い積雪に覆われている。毎年、来るたびに、ホテルや、ペンションが、多くなっているような気がする。
白い雪景色の中に、色とりどり、スタイルもさまざまなホテルやペンションが建ち並んでいるのを見ると、この辺りは、八方銀座の感じである。
ひと休みしてから、由美たちは、ゲレンデに出かけた。
京子は、自慢のロシニョールのスキーをかついでいる。
若者たちのスキースタイルは、流行に敏感だ。パンツ・ジャケットのセパレーツになったり、ワンピースが流行《はや》ったり、色だって、めまぐるしく変る。
ゴンドラリフトの八方駅の近くの白樺《しらかば》ゲレンデで、しばらく滑ってから、由美たちは、ゴンドラに乗った。
なぜだかわからないが、このゴンドラリフトには、Adamという名前がついている。
八方駅の前には、長い列が出来ていた。
このゴンドラは、全長二〇六四メートル、標高一四〇〇メートルまで、あがることが出来る。
終点の兎《うさぎ》 平《だいら》 駅《えき》でおりると、すばらしい展望が開ける。
ここから、更に、リフトに乗ってあがると、周囲の展望は、一層素晴らしくなる。
兎平駅のあたりは、初級者でも楽しめるが、このリーゼンスラロームコースまで来ると、かなりの技術を持ってないと、無理で、それだけに、人気も八方尾根スキー場の中で、ナンバー・ワンである。
由美と京子、それに、沢木、原田の四人は、そのリーゼンスラロームまで、あがって滑ったが、青木は、
「おれはここで、滑ってるよ」
と、兎平駅の周辺に、とどまっていた。
確かに、青木は由美たちの中で、一番腕が落ちる。
由美たちは、素晴らしい展望を楽しんでいたが、そのうちに原田が、
「あそこを滑っているの、かおりじゃないかな?」
と、下のゲレンデを指した。
由美も、その方を見たが色とりどりの服装のスキーヤーがひしめいていて、よくわからなかった。
「行ってみよう」
沢木がいい、由美たち四人は、一斉に滑りおりていった。この高さに来ると、雪質がいい。
全長約四・五キロのコースを、滑りおりたが、かおりは、見つからなかった。
「まあ、いい。彼女も来てるんだろ、適当に滑ってるよ。われわれも、夕方まで滑って、帰ろうじゃないか」
と、沢木がいった。
沢木は、一級を持っているので、有名な全面コブの通称ピョン平コースを、楽しみ、由美と京子は、お腹《なか》がすいて名木山ゲレンデの食堂に駆け込んだ。
陽《ひ》が落ちるまでに、ばらばらに、ペンション「シャルム」に帰った。
由美は、ペンションの奥さんに、きいてみたが、かおりは、まだ来てないという返事だった。
「でも、お電話がありましたよ」
「かおりから?」
「名前は、おっしゃいませんでしたけど、女の声で、牧野由美さんや、相川京子さんは、もう来ていますかって。いらっしゃってますといいましたら、部屋のナンバーを教えてくれって。それで、お教えしておきましたけど」
「きっと、かおりよ。白馬の駅から、電話してきたんだわ」
と、京子が、いった。
「じゃあ、もう来てるんだよ」
由美が、いった。
由美たちが、自分の部屋をあけてみると、やはり、かおりのスキーバッグと、ディパックが隅に置いてあった。
「来てるんだわ」
と、京子が安心したように、いった。
階下の食堂で夕食が始まっても、かおりは、戻って来なかった。
外は、もう、完全に、暗くなっている。
夕食をとりながら、由美は落ち着かなかった。
名木山ゲレンデや、白樺《しらかば》ゲレンデには、ナイター設備はあるが、かおりが夕食もとらずに滑りまくっているとは、思えなかった。
ペンションの奥さんに、もう一度きいてみると、かおりと思われる女性から電話があったのは、午後二時三十分頃だという。
多分、その時に、白馬駅に着いたのだろう。
タクシーで、このペンション「シャルム」に来て、とにかく早く滑りたくて荷物を置いて、すぐ、ゲレンデに向ったに違いない。
(そうだとすると、無理して滑って、怪我《けが》でもしているのではないだろうか?)
由美は、そんな心配もした。
夕食がすんでも、かおりは戻って来なかった。
ここへ来る「あずさ1号」の中では、夜は、Kホテルへ押しかけて、豪華なショーでも見ようと思っていたのだが、かおりのことが気になって出かけられなかった。
とにかく、ここで待つことにして、ペンションのホームバーで、カクテルでも飲もうということになった。
ジンをベースにしたカクテルが多い。
男たちはチューハイを飲んだりしている。
八時近くなったとき、ペンションの奥さんが顔色を変えて由美たちのところへ駆け寄ってきた。
「井上かおりさんのグループでしたね?」
「彼女に何かあったんですか?」
と、沢木が、きいた。
「怪我でもしたの?」
京子も、横からきく。
ペンションの奥さんは、苦い顔で、つばを呑《の》み込んでから、
「今、連絡があって、白馬シャンツェ近くの白樺林《しらかばばやし》の中で雪に埋まった遺体が見つかったそうなんですよ。その遺体のポケットに、井上かおりさんの運転免許証が入っていたそうなんです」
「えっ」
と、由美たちは、思わず声を発してしまった。
同名異人かもしれないが、とにかく、行ってみようということになった。
ペンションのジープを出して貰い、それに乗って、白馬シャンツェへ行った。
近くの名木山ゲレンデには、あちこちに、ライトがついているが、シャンツェの周囲は、暗い。
スキー場の雪上車が、待っていてくれた。
由美たちは、それに乗りかえて、遺体が見つかったという白樺林まで行くことになった。
警官や、パトロール隊員たちが、七、八人集まり、何本もの懐中電灯が白樺林の一角を照らし出している。
由美たちが、雪上車からおりて近づくと、道をあけてくれた。
雪にまみれ、身体をくの字に曲げた若い女性の遺体が、横たえられていた。
「よく見て下さい」
と、パトロール隊員の一人が、由美たちにいった。
懐中電灯に照らし出された顔は、間違いなく、かおりだった。
由美たちは、声もなく、遺体を見下ろしていた。
「お友だちですか?」
と、念を押されて、由美はやっと、
「ええ」と、肯《うなず》いた。
「どうしてこんなことになったんですか?」
沢木が、きいた。
「それは、わかりませんが、雪の中から、腕だけが出ていたんです。近くにスキーやストックが散乱していました。急いで掘り出したが、もう息はありませんでした」
と、パトロール隊員の一人が、いった。
最初は、事故死ではないかと見られた。
転倒して、雪に身体を埋め、そのまま、窒息死したとも見えたからである。
しかし、遺体を、よく調べてみると、のどに、うっ血の痕《あと》があった。のどを絞められたのである。
犯人は、のどを絞めておいて、事故死に見えるように、スキーやストックを、その場に散乱させ、死体を、雪の中に、突っ込んでおいたらしい。
八方尾根スキー場は、大町警察署の管轄である。
ここ数年、大町警察署の管内では、殺人事件が起きていなかったから、色めきたった。
スキー場で、一番多いのは、スキーの盗難事件である。
早速、大町署に、捜査本部が置かれ、署長が、本部長になった。
直接、捜査の指揮をとるのは、刑事課長の八木警部である。この土地の生まれだから、スキーはうまい。
八木は地元の病院に、司法解剖を依頼したあと、被害者井上かおりの友人たちに会った。
男三人に、女二人である。(毎年、若者のスキーウエアが派手になるな)と、八木は思いながら、五人に向って、「どうも、とんだことでしたね」
と、声をかけた。
「かおりが殺されたというのは、本当なんですか?」
蒼《あお》い顔できいたのは、牧野由美だった。
「くびに、絞められた痕がありましたから、間違いないですね。皆さんは、一緒に、八方へ来たんですね?」
「いや、彼女だけおくれて来たんです」
と、沢木が、いった。
「それは、どういうことですか?」
「僕たちは、午前七時新宿発の『あずさ1号』に乗ることになっていたんですが、彼女だけが、急用があって、おくれて来たんです」
「何時に、こちらに着いたか、わかりますか?」
八木がきくと、由美と相川京子は、顔を見合わせていたが、
「三時頃だったと思います」
と、由美が、答えた。
「その時は、被害者に会ったんですか?」
「滑りつかれて、いったんペンションに帰ったら、彼女のスキーバッグとディパックがあったんです。だから、彼女が来ているなと思ったんです」
「それが、三時|頃《ごろ》?」
「ええ」
「君たちは一緒に滑っていたのかね?」
「最初は、一緒にいましたが、途中から、ばらばらになりましたよ。僕と原田は一緒に、ずっと滑っていました」
と、いったのは沢木である。
「私と彼女も一緒でした」
由美が、京子を指さす。
「すると、君は、ひとりだけで、滑っていたんですか?」
と、八木は青木に、きいた。
青木は、ちょっとおどけて、肩をすくめて答えた。
「僕は、一番|下手《へた》だから、ずっと下のゲレンデで、滑っていたんです」
「君たちは着いてすぐ、滑りに行った?」
「ええ」
「最初に、ペンションに帰ったのは?」
「私と京子です」
と、由美がいった。
「それが、三時頃か。次は?」
「僕です」
と、青木が、手をあげた。
「何時頃ですか?」
「正確にはわかりませんが、まだ、明るかったから、四時頃だと思いますね」
「すると、最後は、君たちですね」
と、八木は、沢木と、原田を見た。
「そうです。一緒にペンションに戻ったんです。もう暗くなりかけてたから、午後五時頃でしょうね」
と、沢木がいった。
「ゲレンデで、被害者を見た人はいませんか?」
「原田が見たんじゃないか」
沢木が原田を見た。
「見たんですか?」
と、八木が、きく。
原田は、あまり自信のなさそうな顔で、
「下のゲレンデで、彼女が、滑っているような気がしたんです。よく似てましたからね」
「確認を、していないんですね?」
「ええ。みんなで、滑って行ったが、見つかりませんでしたからね」
「君はどうですか? ずっと、下のゲレンデで滑っていたということですが、被害者を見ませんでしたか?」
八木は青木にきいてみた。
「見かけませんでしたね。さっきいったように、下手《へた》だから、他所《よそ》を見ている余裕なんかないんですよ」
青木は、また、肩をすくめた。
「殺された井上かおりさんはスキーは、上手《うま》い方でしたか?」
八木は、全員に、きいた。
「女性としては、上手い方でしたよ。パラレルも、軽くこなしていましたからね」
と、答えたのは、原田だった。
二人の女も、井上かおりは上手かったといった。
「皆さんの中で、彼女と一番親しくしていたのは、どなたですか?」
「それは、多分、僕だと思いますが」
と、沢木が遠慮がちに、いった。
八木は、沢木に眼をやった。三人の男の中では、一番ハンサムに見える。現代風な甘い容貌《ようぼう》だから、女にはもてるだろう。
「恋人同士だったんですか?」
と、八木がきくと、沢木は手を振って、
「そこまでは、いってませんでした。時々、会って、映画を見たり、食事をしたりしていた程度です」
「彼女は、急用があって、遅くなったそうですね?」
「ええ。みんなにもいったんですが、彼女は、僕と一緒に誘い合って、新宿に行くことになっていたんです。それで、今朝、念のために電話を入れたら、急用が出来たので、おくれて行くといわれたんです」
「あなたが電話したのは何時頃ですか?」
「確か、六時頃だったと思います」
「その急用というのは、心当たりはないんですか?」
「全くありません」
「電話では、きかなかったんですか?」
「ええ。いちいち聞くような関係じゃありませんし、年頃の女性が、急用といえば、わけありでしょうからね」
「なるほど」
と、八木は肯《うなず》いた。彼等に対する質問は、一応それだけで、終ることにして、ペンションに帰した。
疑問のある事件だという気が、八木はしていた。
第一の疑問は、被害者の井上かおりが、なぜ、この場所にいたかということだった。
近くに、ナイター設備のある名木山ゲレンデなどがあるのに、暗いシャンツェの裏などに、なぜいたのだろうか?
考えられるのは、犯人に誘われたということだろう。そうだとすると、一番親しかったという沢木が、怪しくなってくる。
第二の疑問は、犯人の動機である。
物盗《ものと》りの犯行とは思えない。何もとられているようには、見えないからだった。
と、なると、やはり、怨恨《えんこん》となって、沢木が、一番怪しくなってくるが、なぜ、あんなところで殺したのだろう? 東京で、いくらでも殺すチャンスがあるだろうに。
被害者の行動も、不明なところが多い。由美と、京子の二人は、午後三時頃、ペンション「シャルム」に戻ったら、井上かおりの荷物があったので、彼女が来たんだと思ったといっている。
しかし、ペンションの奥さんにきいたところでは、井上かおりが来たのを見ていないという。
多分、彼女は、おくれたので、一刻も早く、みんなと一緒に滑りたくなり、部屋に、荷物を放り込んで、すぐ、ゲレンデへ行ったのだろう。
ペンションの奥さんは、井上かおりの姿を見ていないが、彼女と思われる女から、電話があったことは、認めている。時間は、二時半頃だという。
時刻表によると、「あずさ7号」が、一四時三〇分に、白馬駅に着く。
恐らく、井上かおりは、この列車で、やって来て、白馬の駅から、ペンションに電話したのだろう。
時間的には、合うのだ。
沢木が、殺したのだろうか? しかし、彼は、原田と一緒に滑っていたという。とすると、一人で滑っていた青木が、殺したのだろうか?
由美たちも、ペンション「シャルム」に戻った。
どの顔も、打ちのめされたように、沈み込んでいた。
由美には、わけがわからない。
こんな筈《はず》ではなかった。六人で、スキーを楽しむ筈だったのである。
「まるでお通夜みたいになっちまったね」
いつも、明るくて冗談ばかりいう青木が、肩をすくめるようにして、いった。
「本当のお通夜だもの。仕方がないわ」
京子がいった。
「でもこれじゃあ、仕様がないよ。おれたちが、いくら沈んでたって、彼女は、生き返らないんだ。わあッと騒ごうじゃないか」
「何をするの?」
「ここへ来る『あずさ1号』の中で会った女性がいたじゃないか。彼女のホテルへ遊びに行ってもいいし、ディスコへ行ってもいいじゃないか」
「何ていったかな? 彼女の名前?」
原田が救われたように、声を出した。井上かおりの死で、打ちのめされていたが、同時に、沈み切った気分は、誰《だれ》もが、やり切れなかったのだ。
「小島さんじゃなかった?」
京子が、いう。
「いえ、小田さんだわ。小田けい子さん」
由美がいうと、沢木が、
「確かに、小田さんだったよ」
「彼女のホテルへ行ってみようじゃないの。十時から、素敵なショーがあるっていっていたぜ」
青木が、いった。
「でも、私たちの友だちが死んだのよ」
由美が、いった。
「しかし、ここにじっとしていたら、気が滅入《めい》って仕方がないよ」
「そうだな。犯人を探すっていっても、僕たちには、どうしていいかわからないからね」
と、沢木もいう。
「僕は、酒が飲みたいよ」
原田がいった。
「いいわ」
と、由美は、腹が立ってきて三人の男たちを見返した。
「小田けい子さんのホテルにでも、ディスコへでも行って来なさいよ。私は、その気になれないから、ここに、残ってるわ」
由美がいうと、京子も、
「私もだわ」
「ねえ。一緒に行かないか。ホテルが堅苦しければ、みんなで、ディスコでもいいんだ。彼女も賑《にぎ》やかなことが好きだった。だから、じめじめと、お通夜をやるより、一緒に、わあッと騒いだ方が、喜ぶと思うよ」
青木が、そんなことを、いった。
「僕は、ただ、ひたすら、飲みたいね」
と、原田がいう。
「ここでだって、飲めるじゃないの?」
京子が、原田を睨《にら》んだ。
「ここで飲んでたら、飲めば飲むほど、陰気になっちまうよ。もっと、楽しく飲みたいんだ」
「近くのパブでもいいよ。美味《うま》いカクテルを飲ませる店があるんだ。そこへ行ってみないか」
と、沢木もいう。
結局、男たち三人が、出かけていった。
二人だけになると、由美と京子は、顔を見合わせた。
「男なんて、いざとなると、信用がおけないわね」
京子は、眉《まゆ》を寄せて、いった。
「そうね。特に、沢木さんには、がっかりしたわ。彼は、かおりと仲が良かったんだから」
と、由美も、腹立たしさを、かくさなかった。
「彼女と、沢木さんは、どの程度の関係だったのかしら?」
「それは、京子の方が、よく知ってるんでしょう? かおりと、時々、会って、話をしてたって、いったじゃないの」
「会社が近かったから、昼休みなんか、近くの喫茶店で会ったりしてたわ」
「その時、沢木さんのことを、彼女が、話してた?」
「好きだとはいってたわ。それで、結婚するつもりかって、きいたら、わからないって」
「ふーん」
「もう一つ、面白いことをきいたことがあったわ」
「どんなこと?」
「原田さんから、プロポーズされたことがあったんですって」
「へえ」
と、由美は、目を大きくして、
「でも、原田さんは、まだ、大学に残ってるんでしょう。結婚して、食べていけるのかしら?」
「彼の家は、大変な財産家ということよ」
「それで、かおりは、どういってたの」
「原田さんには、あまり、異性としての魅力を感じないって、いってたわ」
「ふーん」
由美は、原田の顔を思い出した。
確かに、由美も、彼には、あまり、魅力を感じなかった。
沢木ほど美男子ではないし、と、いって、青木のような面白さもない。まじめな努力家だが、それは男としての魅力にはなりそうもない。
「かおりを殺した犯人のことだけどね」
京子が、急に声をひそめて、由美にいった。
「なに?」
「ひょっとすると、原田さんが、殺したんじゃないかと思ったの」
「プロポーズして、断わられたから?」
「ええ」
「まさか――」
と、由美は、笑ったが、すぐ、その笑いは消えてしまった。
警察も、物盗《ものと》りの犯行ではないと、いっている。とすると、一緒に、白馬へ来た仲間の中に、犯人がいる可能性があるのだ。
十二時近くなって、青木が、ご機嫌で、帰って来た。
「豪華なショーだったぜ」
と、青木は、少し酔った調子で、いった。
有名な歌手が、来ていたという。
「他の二人は、どうしたの?」
京子が、眼鏡越しに、青木を見た。青木は、ベッドに、ごろんと、横になってから、
「ホテルを、一緒に出たんだ。おれと、沢木と二人で、話をしながら歩いていたら、いつの間にか、原田がいないんだ。それで、沢木が、探しに戻ったのさ。二人とも、すぐ帰って来るよ」
「原田さん、どうしたのかしら?」
由美が、きいた。
「あいつ、酒があまり強くないのに、向うのホテルで飲んで、酔っ払っちゃったんじゃないかな」
「ここへ来る途中で、寝ちゃったのかしら?」
「ああ、沢木が探してるから大丈夫さ」
青木は呑気《のんき》な顔で、いった。
三十分ほどして、沢木が戻って来たが、彼は、ひとりだった。
「原田さんは?」
と、京子が、きくと、沢木は、疲れたような顔で、
「ここと、あのホテルの間を、何回も往復して探したんだが、見つからないんだよ。どうしちまったのかな」
「ホテルを出るとき、かなり酔っていたんですって?」
由美が、きいてみた。
「いや、そんなに酔っていたようには、見えなかったよ。だから、一番で来ていると思ったら、原田の姿がなかったんだ」
「雪の中で、寝てるのさ」
と、青木は、ベッドに横になったまま、口をはさんだ。
「酔ってる時って、冷たいと、気持ちがいいからね。酔いがさめれば、帰ってくるよ」
「でも、心配だわ」
と、由美がいった。昼間のかおりのことがあったからである。
「じゃあ、どうするんだ? おれは、疲れてるんだ。みんなで探しに行くなんてごめんだぜ。いい大人なんだから、帰って来るって」
青木が、眠そうな声で、いった。
「あと一時間、待ってみよう」
と、いったのは、沢木だった。
「それでもまだ、帰らなかったら、警察へ知らせて、探して貰おう。井上かおりさんのことがあるから、気になるんだ」
沢木の言葉に同意して、由美たちは、眠らずに、更に一時間、待った。
午前一時半になった。
しかし、原田は、帰って来なかった。
「警察に電話するよ」
沢木は、みんなに断わってから、ペンションの奥さんに頼んで、大町警察署に、電話して貰った。
井上かおりのことがあったので、八木警部と、部下の刑事二人が、パトカーで、駆けつけて来た。
「そいつは、おかしいね」
と、八木は、難しい顔になった。
すぐ、ペンションと、ホテルの間が、徹底的に調べられることになった。
由美たちも、その捜索に加わった。
月が出ていたが、ペンションの周辺は、厳しい寒さだった。
「少し、脇《わき》の方も調べてみよう」
と、八木警部がみんなに、いった。
彼の部下の刑事たちや、沢木や、由美たちは、それぞれ、懐中電灯を手に、道路を外れた雑木林の中や、崖《がけ》の下へ、おりて行った。
ペンションからホテルの間には、さして高くはないが、かなり急な崖になっているところがある。
夜になって、気温が下がると、崖に積った雪が凍って、滑りやすくなった。
「落ちないように、気をつけろよ!」
と沢木が怒鳴った。
そろそろと、その崖をおりかけた青木が、足を滑らせた。悲鳴をあげながら、七、八メートル下へ、滑り落ちて行った。
「大丈夫か!」
と、上から、沢木たちが、暗い崖下に向って、怒鳴った。
八木警部も駆け寄って来た。
「どうしたんです?」
「下へおりようとした友だちが、滑って、落ちちゃったんですよ」
沢木が、崖下へ、懐中電灯の明りを向けた。
暗かったところは、光が届くと、何か、ごそごそと動いているのが見えた。
「青木か?」
と、沢木が、上から声をかけた。
「ああ、そうだよ。左足を、折っちまったらしい」
弱々しい声が返ってきた。
「無茶をしては困りますね」
と、八木は、いってから、部下の刑事に、パトカーからロープを持って来させた。
「今、そこへ行くから、じっとしていなさい!」
八木は下に向って、大声で、いった。
「懐中電灯が見つからないんだ! 暗くて気味が悪いよ」
下から、青木が、本当に、気味悪そうにいう。
「私の懐中電灯を、投げるわ!」
京子が大きな声でいい、自分の持っている懐中電灯を、下に向って投げた。
一瞬、明りが消えたようになり、下の青木が受け取ったかどうかわからなかった。まともに落ちたら、懐中電灯は、こわれてしまっただろうと思っていると、急に、下で、明りがついた。
「ありがとう」
と、青木の声が聞こえた。
「今、おりて行くぞ!」
八木が、声をかけ、ロープを手に、おりて行こうとした時である。
「あっ」
と、崖下《がけした》で、青木が、悲鳴をあげた。
「どうしたんだ?」
「何があったの!」
崖の上から、みんなが、一斉に叫んだ。
下からは返事がない。
八木が、鮮やかにロープを伝わって、おりて行った。
下におりた八木は、懐中電灯で、周囲を照らしているようだったが、その明りが、急に止まった。
「人が、死んでるぞ!」
八木の怒鳴るような声が、聞こえた。
「青木が、死んだんですか?」
と、沢木が両手で、メガフォンを作って、きいた。
「死んでるのは、青木さんじゃない。他の男だ。どうやら、君たちの探している原田さんのようだ」
八木が、上に向って、いった。
上にいた仲間は、暗がりの中で、顔を見合わせた。
「青木は、大丈夫なんですか!」
沢木が怒鳴った。
「大丈夫だ。原田さんの死体を見つけて、気分が悪くなったんだ」
「どうしますか? 僕たちもおりて行きましょうか?」
「いや、その必要はない。おい!」
と、八木は、下から、自分の部下に、声をかけた。
「応援を呼んで来てくれ。青木さんも、足を折って、独力じゃ、うごけないからな」
近くのホテルや、旅館から若い男たちが応援に来てくれた。
ロープも、何本か、用意された。
懐中電灯を、何本も束にして、崖下《がけした》を照らした。
最初に、左足を骨折してしまった青木が、引きあげられた。
崖の上には、担架が用意されていて、青木は、すぐ、それに寝かされ、病院へ運ばれて行った。
続けて、原田の死体が、毛布に包まれて、引きあげられた。
最後に、八木があがって来た。
「原田さんは、どうして、死んだんですか?」
と、京子が、八木にきいた。
八木は、身体についた雪や、泥《どろ》を叩《たた》き落しながら、
「病院で調べて貰わないと、はっきりした死因は、わかりませんね。崖下は大きな石が、むき出しになっているところがあったりするから、落ちて、頭をぶつけたのかも知れません。或いは、井上かおりさんのように、殺されて、投げ落されたのかも知れません」
と、いった。
原田の死体は、毛布に包まれたまま、大町警察署に運ばれることになった。
沢木は、彼と一緒に、ホテルへ行ったというので、参考人として、八木警部に同行して、大町警察署へ向った。
由美と京子は、病院へ、青木を見舞いに行くことにした。
由美たちが、病院へ着くと、青木は、左足に添木を当てられ、包帯をその上から、ぐるぐる巻かれて、ベッドに横になっていた。
だが、意外に元気で、由美たちが、病室へ入って行くと、
「とにかく参ったよ」
と、首をすくめて見せた。
「大丈夫?」
由美がきくと、
「スキーで骨折したと思われるだろうな。だから、カッコは悪くないんだが、これで、当分、スキーは、出来ないよ」
と、とんちんかんな返事をした。
どうやら、自分のことより、原田のことが、気になってるらしく、
「奴《やつ》は、どうなったんだ?」
「駄目だったわ。死んでた」
と京子が、蒼《あお》い顔で、いった。
「やっぱりね。ひょっとすると、気絶してるだけじゃないかと、思ってたんだけど、駄目だったのか」
「ねえ、原田さんは、酔っ払ってたの?」
由美が、きいた。
「ああ。かなり、ご機嫌だったよ。おれも奴も、沢木も、ずいぶん、向うで、飲んだからな。原田は、弱いから、一番、酔ったのかも知れない」
「それで崖下《がけした》へ落ちたのかしら?」
「だろうね」
「崖下には、大きな石が、むき出しになっているんですって?」
「雪が積ってたけど、大きな石は、頭が出ていたね。それに、まともに頭でもぶつけたら、死んじゃうよ」
「でも、あの崖は、垂直じゃなかったわ」
「ああ。だから、おれは、ロープなしで降りられると思ったんだ。そしたら、雪が凍っちゃっていてさ。あっという間に、滑り落ちちゃったよ」
「滑り落ちたんでしょう?」
「そうだよ」
「頭から落ちなかったわ」
「そりゃあ、そうさ。頭から落ちてたら、今頃、足の骨折どころか、死んじまってるよ」
「それじゃあ、なぜ、原田さんは、死んだのかしら?」
「そうだな。酔って、足を踏み外したとしても、おれみたいに、足から落ちるだろうね」
「でも、彼は、足を骨折したんじゃなくて、死んだわ」
「じゃあ、彼も、井上クンみたいに、殺されたのかな?」
「そうかも知れないわ」
由美は、小さな声で、いった。
京子が、眼鏡の奥の眼を、大きく、見開いて、
「でも、どこの誰が、かおりや、原田さんを殺したの? 何のために」
「そうだよ。それが、わからないじゃないか」
青木は、蒼《あお》い顔になって、由美に、いった。
抗議するようないい方だった。
「私にも、わからないわ」
と、由美も、いった。
「この八方スキー場に、恐い殺人鬼が動き廻《まわ》っているのかしら? そして、手当り次第に、殺しているのかしら?」
京子が、そんなことを、いった。
「まさか――」
由美が、思わず、笑ってしまった。が、そんなことでも考えない限り、二人も殺されてしまった理由が、わからなかった。
井上かおりだけなら、何か、動機は、考えられる。
男と女の間の愛憎だ。だが、原田まで、なぜ、殺されなければならないのか、わからなくなってくるのだ。
夜が明けると、八木警部は部下と一緒に、原田の死体が発見された崖下《がけした》を、調べてみた。
大きな石が、ごろごろしている。
深い積雪が、その石の大半を、蔽《おお》いかくしてしまっているが、中には、一部が、雪の上に出ている石もある。
検死官も、死体を慎重に調べたあと、後頭部の裂傷が、直接の原因だろうと、八木にいった。
その他、身体に、何か所も、すり傷があったが、これは崖下《がけした》に落ちた時に、ついたもので、致命傷になるようなものではなかった。
問題は、後頭部の傷が、何によって、作られたかということである。
崖から落ちた時、石にぶつけて出来たものなら、事故死になる。
「見つからないね」
八木が、周囲を見廻《みまわ》しながら、部下の刑事に、いった。
「何がですか?」
「事故死なら、どこかに血痕《けつこん》のついた石がある筈《はず》だ。だが、そんなものは、どこにもないよ。きれいな石ばかりだ」
「すると、事故死の線は、なくなりますか?」
「それに、酔って、足を踏み外したとしても、頭から落ちるというのは、不自然だ。やはり、誰かが、仏さんの後頭部を殴りつけて殺しておいてから、崖下に突き落したんだな」
「これで、二人目ですね」
「そうだよ。しかも、同じグループの中の二人が、殺されてるんだ」
「じゃあ、あのグループの中に、犯人がいるということですか?」
「かも知れないが、断定は、危険だ」
と、八木はいった。
大町警察署に戻ると、八木は、井上かおりの解剖を依頼している病院に、電話をかけた。
解剖に当った大久保という医師が、電話に出た。
「申しわけありませんが、もう一人、解剖をお願いすることになりました」
と、八木は、まず、いった。
「また、殺人ですか?」
「そうです。昨日お願いした井上かおりの解剖結果は、もう出ましたか?」
「出ましたよ。ただ、あなたは、気に入らない結果だと思いますがね」
「私は、事実は、冷静に受け止めるつもりです。死因が、違っていたんですか?」
「いや、死因は絞殺です。窒息死です」
「じゃあ、何が、おかしいんですか?」
「死亡推定時刻です。彼女が死亡したのは、昨日、二十九日の午前六時から九時までの間です。三時間と、幅が広いのは、雪の中に埋っていて、誤差が出る可能性があるからです」
「ちょっと待って下さい」
八木はあわてて、いった。
「だから、あなたの気に入らないだろうと、いったんですよ」
「でも変ですよ。午前九時までに、死んだというのは、間違いありませんか?」
「間違いないですよ。午前六時から八時までの二時間と報告してもよかったんですが、今いった理由で、一時間、余計に幅をもたせたんです」
「しかし、大久保さん。彼女は、昨日の午後三時に八方にやって来て、滑っているんですよ。それなのに、午前中に死んでいたというのは、おかしいですよ」
「だから、あなたのお気に入らないだろうがと、断った筈《はず》ですよ」
「その結果は、間違いないんですか?」
「間違いありませんよ。大げさにいうと、医者としての名誉にかけて、間違いありませんね」
と、大久保は、いった。
何回か、司法解剖を依頼していて、大久保の医者としての腕には、八木は、信頼をよせていた。
大久保が、二十九日の午前六時から九時までの間といえば、それが、事実なのだ。
しかし、午後三時に、彼女が、八方にやって来て、滑っていたという証言はどうなるのだろうか?
八木は、由美たちのいるペンションに出かけて行った。
足を骨折した青木は、まだ、病院にいる。
残った三人は、さすがに、元気がなかった。
「もう一度ききますが、井上かおりさんが殺された件ですが、彼女を、午後三時に、見たというのは、どなたでしたかね?」
八木は、三人の顔を見廻《みまわ》した。
「私たちですわ」
と、由美が、京子と、ちらりと顔を見合わせてから、八木に、いった。
「でも、見たんじゃなくて、三時頃、このペンションに戻ったら、彼女の荷物が、部屋に届いていたので、ああ、彼女が着いたんだな、と思ったんです。それに、ここのママさんが、二時半に、女の人が、電話をかけて来て、私たちの部屋をきいたといってましたから」
「じゃあ、実際に、彼女を見たんじゃないんですね」
「ええ。でも、沢木さんたちは、私たちと別れたあと、ゲレンデで、滑っている彼女を、もう一度見ていますわ」
「そうですか?」
と、八木は、沢木に眼を向けた。沢木は、疲れた顔をあげて、
「ええ。僕と、原田がまた見たんです」
「近くで?」
「いや、僕と原田は、ゴンドラリフトで、上にあがっていて、下におりながら、ゲレンデを見たら、彼女らしい女が滑っているのが見えたんですよ」
「すると、かなり、遠くから見たわけですね?」
「そうですが、僕も原田も、これは、確かに彼女だと思いましたがね。それが、どうかしたんですか?」
沢木は、きき返してきた。
「実は、井上かおりさんは、昨日の午前六時から九時までの間に、殺されていたことが、わかったんです」
「そんな馬鹿な!」
沢木が、いい、由美と、京子も呆然《ぼうぜん》としている。
八木は、解剖の結果を、説明した。
「じゃあ、僕と原田が見たのは、彼女じゃなかったんですね?」
「そうです。別人だったわけです」
「じゃあ、なぜ、彼女は、ゲレンデの雪の中に埋ってたんですか?」
と、由美が、当然の質問をした。
「そこが、不思議なんですよ」
八木も、そういった。
沢木が、急に、笑顔になって、
「じゃあ、僕たちは、全員、シロですね。彼女が、死んだという時刻には、僕たちは全員『あずさ1号』に乗っていたんですからね」
「そうだわ」
と、由美も、肯いた。
「新宿発の『あずさ1号』は、午前七時発でしたね」
八木は、確かめるようにいった。
「ええ、そうですわ」
と、由美が肯く。
「白馬には、午前一一時三〇分に着いたわけですね?」
「ええ」
「死亡推定時刻は、午前六時から九時です。彼女を殺してからでも『あずさ1号』に乗れますよ」
と、八木はいった。
沢木は笑って、
「そうかも知れませんが、彼女の死体は、八方のゲレンデで、見つかったんでしょう。例えば、僕が、彼女を殺してから、『あずさ1号』に乗ったとしましょう。死体は、当然、東京にあるわけでしょう? 僕は、列車に乗り、白馬に来てしまっている。死体は、運べませんよ。それとも、彼女の死体が、ひとりで、白馬まで歩いて来たというんですか? それに、僕は、六時頃、彼女に、電話したんです。そうしたら、彼女は、急用が出来たので、一緒に行けなくなった。あとから追いかけると、いったんです。僕たちのひとりが、彼女を殺してから、『あずさ1号』に乗ったとは、思えませんね」
「それは、間違ってませんか?」
「ええ、間違ってませんよ」
「参ったね」
と、八木は、呟《つぶや》いた。
新宿から、白馬まで、特急で、四時間半かかるのだ。
朝の六時に、東京にいた井上かおりは、九時までに、白馬には、来られない。
と、すると、死体が、白馬にやって来たことになる。
誰かが、わざわざ、死体を運んだのだ。
だが、誰が、なぜ、そんなことをしたのだろうか?
それが、わからなかった。
10
八木警部は、東京警視庁に、今度の事件の関係者について、調査を依頼した。
一応、仲のいい友人たちということで、六人の男女が、白馬にスキーにやって来た。いや、最初の被害者の井上かおりは、同行しなかったわけだから、五人ということになる。
こちらに来てから、もう一人、原田という青年が、殺された。
凍結路で、足を踏み外して、崖下《がけした》に転落死したように見えるが、八木は、殺人だと思っている。
六人の中《うち》、二人も殺されたのだ。
仲のいい友人という言葉は、そのまま、受け取るわけにはいかないのである。
実際に、六人の間は、どうだったのか。それを、東京の警視庁に、調べて貰いたかったのである。
それも、至急に、調査して欲しいと頼んだ。
容疑者と思われる四人の男女が、すぐ、東京に帰りたいと、いっているからだった。
四十八時間は、強制的に、とめておくことも出来るが、彼等の誰が犯人か確定出来ないと、証拠もない以上、帰京させなければならなくなるに、決っていたからだった。
翌三十一日の昼頃になって、東京の警視庁から、電話が入った。
捜査一課の十津川という警部からだった。
「ご照会の件ですが」
と、十津川は、生まじめにいった。
「確実な調査は、すみましたので、わかったことだけ、お知らせします。六人は、N大のクラスメートで、今年の三月に卒業しています。原田だけが、大学に残り、あとの五人は社会人になりました。いわば、社会人一年生というわけです。この中、沢木と、井上かおりは、かなり親しく、肉体関係もあったと思われますね。そのくらいのことは、すでに、ご存知だと思いますが」
「知っています。沢木自身、殺された井上かおりと、親しくしていたことを認めています」
と、八木は、いった。
「二人の仲が、最近、悪くなっていたことも、沢木は、いいましたか」
「いや、それは、初耳です。本当ですか?」
「こちらで調べたところでは、沢木に、別の女が出来て、そのせいで、二人の仲が、うまくいかなくなったようです」
「別の女というのは、どんな女ですか?」
「それが、まだ、よくわからないんですが、一つだけわかったのは、かなり金を持っているということです」
「金ですか」
「沢木は、卒業後も、アパート暮しだったんですが、最近、新築のマンションに引っ越しています。沢木は、友人なんかには、1LDKのそのマンションを、借りているといっていますが、われわれが調べたところ、購入して、彼のものになっています。値段は、二千万円です」
「それを買ったのが、新しい女というわけですか?」
「沢木が、買ったとき、マンションを建てたD不動産に、女と一緒に、現われていますからね。その時、応対したD不動産の社員に、井上かおりの写真を見せましたが、違うといっています。もう少し年輩で、美人だったそうです」
「沢木と、原田の関係はどうですか? 二人の仲が悪かったということはありませんか?」
と、八木は、続けて、きいてみた。
「われわれが調べた限りでは、ありませんね。二人にとって、というより、沢木にとって、原田という友人は、ライバルにならないからでしょうね」
「と、いいますと」
「沢木は、ハンサムで、スポーツが出来て、なかなかのプレイボーイです。もし、原田が似たような男なら、二人はライバルになったでしょう。しかし、原田は、ハンサムでもないし、プレイボーイでもありません。スキーは、うまかったようですが、それでも、沢木ほどではない。つまり、沢木にとって、ライバルにはならない男というわけですよ」
「なるほど」
八木は肯《うなず》き、礼をいって、電話を切った。
やはり、沢木が、井上かおりを殺したのだと、八木は思う。
十津川警部の調査で、動機も、はっきりした。
新しく女が出来て、井上かおりが、邪魔になったのだ。殺さなければならないほど、かおりの方が、沢木に、夢中だったということかも知れない。
沢木たちは、十二月二十九日に白馬に行く計画を立てた。
それは、沢木にとって、同時に、井上かおり殺害計画でもあったのではあるまいか。
やみくもに、彼女を殺せば、どうしても、沢木自身が疑われる。二人の仲は、みんなが知っていたし、十津川警部がいうように、沢木に、新しい女が出来ていたとすれば、なおさらだろう。
だから、自分が安全なように計画を立てたのだ。
沢木たちは、午前七時〇〇分発の「あずさ1号」に乗った。
だから、沢木が、井上かおりを殺したとすれば、午前七時の出発前に、やった筈《はず》である。
沢木は、井上かおりを殺してから、新宿に行き、他の四人と一緒に「あずさ1号」に乗ったのだ。
だが、それでは、確実に、疑いが、沢木自身に行ってしまうだろう。
解剖して、死亡時刻がわかれば、沢木が、列車に乗る前に殺したと、すぐ、判明してしまうからである。
11
(だから、井上かおりの死体が、白馬のスキー場で見つかるように、細工したのか?)
雪の中で、死体が見つかれば、死亡推定時刻が狂い、井上かおりは、あとから一行を追いかけて来て、スキー場で死んだことになると、沢木は、考えたのではないのか?
ここまでは、推理出来る。
問題は、井上かおりの死体を、誰が白馬のスキー場まで、運んだかということである。
沢木は、他の仲間と一緒に「あずさ1号」で、白馬へ来たのだから、運ぶことは出来ない。
(共犯がいたのだろうか?)
すぐ、八木の頭に浮んだのは、沢木の新しい女のことだった。
その女が、井上かおりの死体を、東京から、白馬まで運んだのか?
八木は、沢木たちの泊っているペンションへ出かけた。
今日は十二月三十一日の大晦日《おおみそか》である。
どのペンションでも、泊り客のために、餅《もち》つきをしたり、明日の元旦の飾りつけをしたりしていた。
(もう、大晦日か)
と、八木は一瞬、事件のことを忘れて、そんな感慨にふけったが、沢木たちのペンションでも、庭に臼《うす》を持ち出して、餅つきをしていた。
沢木や由美たちも、杵《きね》を持って、顔に汗しながら、餅をついている。
その沢木を、八木はペンションの裏に呼び出した。
「実は、君と井上かおりさんの間が、うまくいってなかったという話を聞いたんだがね」
と、八木は、いった。
沢木は、平気な顔で、
「そうですか」
「君に別な女が出来て、そのために、井上かおりさんとの間が、うまくいかなくなったというんだ。違うかね」
「僕は別に、彼女一人しかいなかったとはいいませんよ。しかし、彼女とは、結婚を約束していたわけじゃありませんからね。他に女が出来ても、殺したりはしませんよ」
「君が最近移ったマンションは、新しい女に買って貰ったということを聞いたんだが、本当かね?」
「それ、確かな話なんですか?」
沢木は逆襲して来た。
(したたかな男だな)
と、八木は、思ったが、残念ながら、証拠がなくては、それ以上、追及できなかった。
しかし、沢木が犯人だという確信は、ますます強いものになった。
その夜、大町警察署でも、ささやかに、門松を飾ったりしていると、
「東京から、十津川警部が、お見えになりました」
と、部下の刑事が、八木に知らせた。
八木は、あわてて、迎えに出た。
十津川と、顔を合わせるのは、初めてである。
中肉中背の平凡な感じの男だった。
「どうも、突然、お邪魔して申しわけありません」
と、十津川は、丁寧にいった。
「とんでもありません」
八木は恐縮して、十津川を、部屋に通した。
自分で、お茶を入れながら、
「なんで、わざわざ、いらっしゃったんですか?」
と、八木はきいた。
「沢木の新しい女の名前が、わかりましてね」
「本当ですか?」
「ええ」
「そのために、わざわざ――?」
「いや、それを電話でお知らせしようと思ったんですが、その女のことを調べていたら、白馬へ来ているとわかったんです。それに、写真が手に入ったので、お持ちしたわけです」
十津川は、ポケットから、女性の顔写真を示して、机の上に置いた。
「名前は、小田けい子。イラストの仕事をしている女性で、ここのKホテルに泊っているということです」
「ちょっと待って下さい」
八木は、急に眼を輝かせて、十津川警部を、さえぎった。
「その名前に、覚えがありますよ」
「そうですか」
「それに、Kホテルにもです。原田は、Kホテルに行った帰りに、転落に見せかけて、殺されたんです。沢木も、一緒に、行っています」
「それは、面白い」
十津川が、ニッコリした。
しかし、八木は、肩をすくめて、
「面白いですが、まずくもあるんです」
「なぜですか?」
「これは、沢木と一緒にいる由美という同級生に聞いたんですが、十二月二十九日に、こちらへ来る『あずさ1号』の中で、素敵な女性と一緒だったといってるんです」
「それが、小田けい子なんですか?」
「そうです」
「どこが、まずいんですか?」
「井上かおりの死体ですよ。沢木が、午前七時発の『あずさ1号』に乗る前に、殺したことは、間違いなしと、私は思っています」
「なるほど」
「問題は、井上かおりの死体が、ここのゲレンデで見つかったことなんです。死亡推定時刻から考えて、ゲレンデで、死んだのではない。となると、誰かが、井上かおりの死体を、東京から運んで来て、ゲレンデに放り出したんです。ここで死んだように見せかけるためにです。しかし、沢木ではあり得ない。沢木は、他の四人と一緒に『あずさ1号』で、白馬に来ていますからね。それで、私は、十津川さんの知らせてくれた沢木の新しい女が、車で、死体を、東京から運んだんじゃないかと思ったんです。ところが、その女が、小田けい子では、彼女も、死体を運べないんです」
「すると、他に共犯者がいたということになりますか?」
十津川に、きかれて、八木は、難しい顔になった。
「それは、考えられません。沢木にしても、気心のわからないものを、共犯には出来ないでしょう。確実に、白馬へ、死体を運んで貰わなければならないわけですからね」
「そのことなんですが――」
十津川は、ちらりと、窓の外に、眼をやった。
夕方からの粉雪が、まだ降りつづいている。
「一つだけ、死体を運ぶ方法があるような気がするんですがね」
「どんな方法ですか?」
と、八木は、きいた。
「こちらへ来て気がついたんですが、宅配便が、何社も入っていますね。東京からなら短時間でスキー用具を、白馬まで運んでくれると聞きましたが」
「ええ。最近は、過当競争気味です」
「沢木は、二十九日の朝、東京で、井上かおりを殺した。殺してから、スキーウエアを着せるのは難しいですから、着てみてくれといって、着せてから殺したんだと思いますね。殺しておいてから、宅配便を呼んで、白馬へ送ってくれるように、頼んだのかも知れません。もちろん、梱包《こんぽう》してですがね」
「死体をですか――」
「過当競争なら、多少、怪しい荷物でも、引受けるんじゃないでしょうか。届け先は、多分、沢木じゃなくて、Kホテルの小田けい子でしょう」
「調べてみましょう」
八木は、半信半疑で、そういった。
今、白馬には、五、六社が、入り込んで、宅配便が、客の取り合いをしている。
中小の会社もあれば、大資本をバックにした運輸会社もある。
だから、ホテルやペンションには、各社の伝票が置いてあって、それに書き込むだけで、東京あたりまで、スキー用具を、運んでくれる。
八木は、部下の刑事たちと、一緒に、各社に寄ってみた。
十二月二十九日に、東京から、Kホテルの小田けい子宛に、荷物を運ばなかったかどうか、調べた。
松本市内で三社目のS通運で、手応《てごた》えがあった。
ブルーのユニフォーム姿の係員は、メモを見ながら、
「二十九日の朝早く、依頼がありました。東京世田谷区の『コーポ富士』というマンションからです。お名前は、小田けい子様ですね。大きな木箱に入った荷物でした」
「中身は、何だといったんですか?」
「四人分のスキー、ストック、靴などが入っているといわれましたよ。木箱に、まとめて入れるというのは珍しいんですが、今は過当競争ですから、いろいろ、受付けているんです」
「朝、何時頃に、マンションに行ったんですか?」
「実は、一週間ほど前に電話があったんです。どうしても二十九日にならないと荷物がまとまらない。で、二十九日に発送したい。しかも、その日のうちに八方に届けてほしいというんです。宅配便といっても、東京から白馬方面へは二日ぐらいかかるんですよ。そのときはたまたま予約の荷物がたまっていて、臨時の特急便が出ることになっていたので引受けたんです。二十九日の朝、六時に来てくれといわれていたもので、それで、六時に車を廻《まわ》したんです」
「その時、依頼主の小田けい子に会ったんですか」
「ええ。なかなか美人の方でしたね。料金の方も、特別に頂いたので、その日の午後三時頃に、Kホテルに届けたんですが、いけませんでしたか?」
「いや、構いませんよ」
と、八木は、いった。
箱の大きさは、長さが一・八メートルくらいで、かなり重かったという。長さから見て、スキーと考えたらしいが、間違いなく、井上かおりの死体が入っていたに違いない。
八木が、署に舞い戻って、十津川に知らせると、十津川は、
「よかったですね。ただ、小田けい子が、受け取った死体を、どうやって、発見現場のゲレンデまで運んだかが、私には、わかりませんが」
「それは、簡単ですよ」
と、八木は、いった。
「Kホテルに廻ってみたんですが、救急用のスノーボートが置いてありました。あのソリに、死体をのせて、運んだと思いますね。誰だって、滑っていて怪我《けが》をして運ばれているんだと思いますよ。まさか、死体がのせられているとは、思いませんからね」
元旦の朝、八木たちは、まず、Kホテルから、小田けい子を任意同行し、取調べた。
S通運の伝票を、突きつけると、けい子は、観念して、自供を始めた。
井上かおりが、どうしても、別れようとしないので、沢木が、殺すことを決心した。
彼は、二十九日の朝、かおりを、自宅のマンションで殺し、用意しておいた木箱に入れて、小田けい子のところへ、車で、運んだ。
それを、更に、S通運に頼んで、白馬まで運んだのである。
かおりのスキーバッグなども、他の宅配便で、こちらは、ペンション宛に、運ばせた。
午後三時に、けい子は、かおりのふりをして、ペンションに電話をかけて、今、白馬に着いたように細工したのだという。
続いて、八木は、沢木を逮捕した。
沢木は、最初、犯行を否認したが、小田けい子が自供していることを告げると、やっと、井上かおりを殺したことを認め、同時に、原田を殺したことも、認めた。
二十九日に、原田と一緒に滑っていた沢木は、かおりが、生きて、滑っていることを見せるために、彼女に似たスキーヤーを指して、
「彼女が、来てるよ」
と、原田にいった。
いつもなら、簡単に肯《うなず》く原田が、そのときに限って、その女性スキーヤーを追いかけて行き、別人だと確認してしまったのである。
そのあと、かおりの死体が発見され、原田は、何となく、沢木を疑い始めたのだという。
「それで、機先を制して、Kホテルからの帰りに殺したんですよ」
と、沢木はいった。
さほど、後悔しているような様子はなかった。
沢木と、小田けい子は、長野の県警本部に送られた。
白馬に、静けさが、訪れた。
八木たちは、やっと、正月を祝う気分になれた。
「十津川さんも、白馬の正月を楽しんで行って下さいよ」
と、八木は、十津川にいった。
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江ノ電の中の目撃者
最初、十津川は、原口由紀という差出人の名前に、首をかしげてしまった。
(原口由紀?)
と、口の中で、呟《つぶや》いてみても、相手の顔が、浮んで来ない。
目黒区内のマンションが、住所になっているのだが、その住所にも、記憶がなかった。
宛名の方は、警視庁捜査一課内、十津川様となっているから、相手は、自宅を知らないのかも知れない。それとも、妻の直子に、見られたくない内容なのだろうか。
十津川は、とにかく、封を切ってみた。
〈突然、お手紙を差しあげます。
私の母は、湘南《しようなん》の七里ケ浜に住んでいて、名前は、原口夕子、旧姓池島夕子です。こう書くと、思い出して頂けますか。母は、今、刑事事件に巻き込まれて、困っています。助けて頂けませんか。
この手紙が着いた頃、お電話を差しあげますので、相談だけでも、のって下さい。お願いします〉
「ラブレターですか?」
亀井刑事が、声をかけてきた。
「いや、そんな甘いものじゃないよ」
と、十津川は、答えたが、彼の胸には、甘い追憶が、芽生えていた。
二十年前の追憶である。
十津川は、大学生だった。
ヨット部のキャプテンだった十津川は、夏休みに、部員たちと、湘南海岸の家を借りて、二か月間、合宿した。
七里ケ浜の大きな家だった。
そこの離れを借りて、八人の若者が、二か月間、暮したのである。
昔、大庄屋だったという家で、その家が、池島家だった。
五十歳の当主と、色白な奥さんがいて、何よりも、十津川たち、むくつけき若者たちを、わくわくさせたのは、一人娘の夕子の美しさだった。
あの時、二十二、三歳だった筈《はず》である。
一緒に泳いだ時の彼女の水着姿が、やたらに眩《まぶ》しかったのを、十津川は、鮮明に、思い出した。
全員が、彼女に惚《ほ》れていたんじゃないだろうか? もちろん、十津川もである。
しかし、彼女は、その翌年の春に、結婚してしまった。
それから、二十年がたつ。
夕方になって、十津川に、電話がかかった。
「お手紙を差しあげた原口由紀ですけど」
と、若い女の声が、いった。
「ああ、手紙は、受け取りました。二十年前のことを、思い出しましたよ」
「相談にのって頂けますか?」
「いいですよ。今、どこにいるんです?」
「神田です。大学へいっているんです」
「それなら、東京駅八重洲口にあるPという喫茶店で会いましょう。時間は、午後七時。いいですか?」
「ええ。でも、十津川さんの顔が、わからないんですけど」
「あなたは、お母さんに似ていますか?」
「ええ。よく、そっくりだといわれますわ。母の若い時に」
「それなら、私が、あなたを見つけますよ」
と、十津川は、いった。
約束の午後七時より前に、十津川は、喫茶店のPに着き、彼女を待った。
原口由紀が、入って来たとき、十津川にはすぐわかった。
二十年という歳月が、一瞬の中《うち》に、消え去って、突然、自分が、二十歳に戻ったような気がした。
十津川は、手をあげて、彼女を迎えた。
「すぐ、わかりましたよ」
と、彼は、いい、彼女のために、コーヒーを注文してから、
「話を聞かせて下さい」
「母は、二十年前に、結婚しました」
と、原口由紀は、いった。
「それは、知っていましたよ。あの時は、われわれ全員が、失恋したんです」
「父は、不動産会社の社長の息子《むすこ》でした」
「資産家同士の結婚という話は、聞きましたよ」
「お婿さんでもないんですけど、理由があって、七里ケ浜のあの家で、生活していました」
「あの家ですか」
と、十津川は、呟《つぶや》いてから、急に、気がついて、
「あなたは、過去形で話していますが、お父さんは、亡くなったんですか?」
「はい。一週間前に、亡くなりました。殺されたんです」
由紀は、何気ない調子で、いった。大変なことを、表情をほとんど変えずにいうところも、母親に似ているなと、思いながら、十津川は、
「そうですか」
と、いった。
「私は、東京の大学に行っていて、東京に住んでいましたから、あの家には、父と母が、二人だけで、住んでいました」
「すると、お母さんが、疑われているわけですか?」
十津川が、先廻《さきまわ》りしてきくと、由紀は、首を横に振った。
「最初は、疑われていなかったんです」
「くわしく話して下さい」
「父が殺されたのは、三月七日の夜でした。母は、江ノ電で、鎌倉に買い物に行っていて、帰宅したのは、夜の八時半過ぎでした。そして、二階の書斎で、父が殺されているのを発見したんですわ」
「警察に、通報したんですね?」
「ええ、母は、一一〇番しました」
「最初は、疑われなかったといいましたね?」
「ええ。階下《した》の部屋は荒らされていたし、銀行でおろしたばかりの百万円の中、五十万円が、失くなっていたので、警察は、物盗《ものと》りの犯行だと思ったみたいです。七里ケ浜は、冬でも、サーファーが集って来ていて、その中には、怪しげな人もいて、酒を飲んだりすると、近くの家に、空巣に入ったりすることもあります。警察は、そんな人たちが、たまたま、私の家に、空巣に入り、父に見つかって、居直って、殺してしまったと、考えたみたいです」
「それが、なぜ、急に、お母さんが、疑われることになったんですか?」
と、十津川は、きいた。
「目撃者が出たんですわ」
「目撃者? しかし、お父さんが殺されたのは、夜なんでしょう? しかも、家の中で殺されたのに、目撃者が、いたんですか?」
「ええ」
「どこで見ていたんですか?」
「江ノ電の中から見たんです」
「あの電車の中からですか」
十津川は、二十年前に乗った電車のことを思い出した。
鎌倉から藤沢までの間を、海沿いに走る電車である。
鎌倉から、|由比ケ浜《ゆいがはま》、稲村ケ崎、七里ケ浜、江ノ島と通って、藤沢までを走る、単線の、可愛《かわい》らしい電車だったのを、覚えている。
家と家との間を、軒すれすれに走っていた。
「あの電車の中から、私の家が、よく見えるんです」
と、由紀が、いった。
「そうでしたね。思い出しましたよ。よく見えるんだ」
「たまたま、三月七日の夜、八時頃、あの電車の中から、私の家の方を見ていた人がいて、その時、二階の書斎の窓が開いていて、男の人と、女の人が、つかみ合いの喧嘩《けんか》をしているのを見たというんです」
「それが、お母さんだと?」
「はい」
「しかし、その目撃者は、一週間すぎてから、突然、警察に、連絡して来たんでしょう?」
「ええ」
「なぜなんですかね?」
「わかりませんわ。でも、それで、母は、警察に逮捕されてしまったんです。私には、どうしていいか、わからなくなってしまって」
「お母さんは、何といっているんですか?」
「もちろん、父を殺してなんかいないといっていますわ。父が殺されているのを発見したのだって、帰宅してからなんです」
「弁護士はついているんでしょう?」
「はい。青木さんという弁護士さんが、ついてくれていますけど」
「私の名前は、誰に聞かれたんですか?」
「弁護士さんが、母に会って、聞いたんだそうですわ。自分の知っている人の中に、今、警視庁で働いている方がいるといって――」
「そうですか」
十津川の胸を、また、甘い感傷が、よぎっていった。彼女が、自分のことを覚えていてくれたのだという感傷である。
「助けて下さい」
由紀は、じっと、十津川を見つめた。そんな眼の表情も、母親の夕子に、そっくりだった。
「困りました」
十津川は、小さく呟《つぶや》いた。
「駄目なんですか?」
「七里ケ浜で起きた殺人事件は、神奈川県警の管轄です。東京の私が、それに、口を挟《はさ》むことは、出来ないんですよ」
「でも、今のままでしたら、母は、殺人犯にされてしまいますわ。それも、父を殺した犯人にされてしまうんです」
由紀は、急に、顔を伏せて、嗚咽《おえつ》し始めた。
無理もないと思う。この美しい娘は、下手《へた》をすると、殺人犯の子供、それも、自分の父親を、母親が殺すという悲劇の子になってしまうのだ。
近くの客が、こちらを、じろじろ、見ている。
「歩きながら、話しませんか」
と、十津川は、声をかけた。
店を出ると、駅構内の地下通路を抜けて、丸の内側に出た。
二人は、皇居の濠端《ほりばた》を歩いた。
「刑事として、事件に関係することは出来ない。そんなことをしたら、神奈川県警に干渉することになるし、刑事としても、失格ですからね。だが、時間が許せば、あなたの話を聞いてあげることは出来る」
十津川は、歩きながら、いった。
「それでも、いいんです」
「お父さんは、どうやって、殺されたんですか?」
「書斎に、鉄製の灰皿があるんですけど、それで、頭を殴られて、殺されていたんです」
「お父さんは、大きくて、体力のある人ですか?」
「昔は、柔道をやっていたらしいんですけど、五年前に、心臓を悪くして、三か月入院してから、急に、体力がなくなってしまったんです」
「問題の目撃者は、どういう人ですか?」
「二十八歳のOLの人です。一つ先の鎌倉高校前から、品川へ通っている方です」
「あなたは、その人に会いましたか?」
「ええ。弁護士さんと二人で、品川の会社に会いに行きましたわ」
「彼女は、間違いなく、見たといってるんですね?」
「ええ」
「お父さんと、争っていた女性の顔も、見ているんですか?」
「ええ。警察が、母の写真を見せたら、その人は、すぐ、この人ですといったそうです」
「そのOLの名前は?」
「花田麻理さんです」
「お母さんとは、顔見知りなのかな?」
「名前を知らなくても、母は、よく、江ノ電を利用しますし、旅好きだから、どこかで、顔を合せていたと思いますわ。それに、あの家は、よく目立ちますから、母が、そこに住んでいることは、すぐ、わかると思いますわ」
「確かに、目立ちますね」
と、十津川は、肯《うなず》いた。
ひょっとすると、そのために、ねたまれているということが、あるかも知れない。
「きっと、彼女は、嘘《うそ》をいっているんだと思います」
と、由紀が、いう。
「なぜですか?」
「理由は、わかりませんわ。例えば、毎日、彼女は、行き帰りに、江ノ電の中から、私の家を見ていたんだと思います。今もいいましたけど、あの辺で、一番目立つ家ですもの。母の姿も、時々、見ていたんじゃないかしら。母は、朝早く、庭を掃いたり、二階で、布団《ふとん》を乾したりしていますから」
「あなたのいいたいことは、わかりますよ」
と、十津川は、いった。
「花田麻理というOLは、江ノ電の車内から、時々、あの家を見、お母さんを見ていた。だから、三月七日の夜、二階で争っている二人の人間を見たとき、片方は、お父さんで、もう一人は、お母さんだと、頭から、決め込んでしまったということでしょう?」
「そうなんです。警察は、五枚の顔写真の中から、花田さんが、迷わずに、母の写真を指さしたから、間違いなく、犯人は母だといっていますが、花田さんが、母の顔を知っていて、悪い印象を持っていれば、指さすのは、当然ですわ」
「あなたは、お母さんにとって、優秀な弁護士のようですね」
十津川は、微笑した。
由紀は、悲しげな顔になって、
「私のいうことなんか、警察は、全然、取り合ってくれませんわ」
「証人は、午後八時頃、お母さんが、お父さんと、争っているのを見たといってるんですね?」
「ええ」
「お母さんは、八時半に、帰宅したといっている?」
「ええ。帰って、父が死んだのを発見したんです」
「鎌倉から、七里ケ浜まで、江ノ電で何分くらいかかるんですか?」
「十五分くらいだと思いますわ」
「そうだとすると、OLが、八時に、事件を目撃した時、お母さんは、まだ、鎌倉にいたことになりますね。八時に、鎌倉にいたことを証明してくれる人間は、いないんですか?」
「それが、いないんです。母は、ウインドショッピングが好きで、その時間には、鎌倉の商店街を、ぶらぶら、歩いていたといっています」
「夕食は?」
「六時頃、行きつけのうなぎ屋で、母は夕食をとって、それから、ウインドショッピングをしたと、いっています。八時過ぎに江ノ電に乗ったと、母は、いうんです」
「そのうなぎ屋は、どういってるんですか?」
「弁護士さんが、その店のご主人に会ってくれましたわ。母が、六時頃来て、うなぎを注文したことは、証言して下さったんですけど、七時前には、食事をすませて、出て行ったとも、いっているんです」
「その店は、鎌倉の駅に、近いんですか?」
「ええ。うな喜《よ》しという店で、駅の近くなんです。歩いて、三分も、かかりませんわ」
「それでは、県警は、お母さんが、七時には、江ノ電に、乗ったと考えるでしょうね。七時半には、家に帰っているから、八時には、お父さんを殺せると計算しますね」
「ええ。そう思いますわ。でも、母は、無実です」
「私も、そう思いますよ」
「今のままでは、母は、殺人犯にされてしまいますわ。お願いです。母を助けて下さい」
「今もいったように、刑事としては、何も出来ません。明日、休暇がとれるかどうか聞いてみます。もし、とれたら、お母さんのことを私なりに、調べてみますよ」
「お願いします」
「今日、あなたは、七里ケ浜へ帰るんですか?」
「はい。母のことが心配ですから」
「じゃあ、明日、そちらへ連絡しましょう。電話番号を教えて下さい」
と、十津川は、いった。
翌日、十津川は、上司の本多捜査一課長に、休暇願いを出した。二日間の休暇願いである。それ以上の休暇をとることは、難しいと、十津川自身、わかっていた。東京の中で、凶悪事件が、頻発《ひんぱつ》しているからである。
本多は、簡単に、許可してくれた。
去年一年、十津川が、ほとんど、休暇をとっていなかったからだろう。
十津川は、すぐ、由紀に電話をした。
「一時には、横須賀線の鎌倉に着けると思いますよ」
「私、迎えに参ります」
由紀が、嬉《うれ》しそうに、いった。
「その時、弁護士さんにも、会いたいですね」
と、十津川は、いった。
神奈川県警には、わざと、電話で問い合わせずに、警視庁を出た。
夕子が、現在、捜査本部に留置されているところをみれば、県警が、どう考えているか、よくわかるからである。それに、最後には、県警と話し合いをすることになると思ったからでもある。
東京駅から、横須賀線に乗った。
横浜を過ぎ、戸塚、大船と、駅名を見て行くうちに、二十年前の学生時代を思い出してきた。
一時間足らずで、鎌倉に着いた。
あの時、友人たちと、若く、美しい夕子を囲んで、鶴岡八幡宮に、お参りした。
みんな、夕子に惚《ほ》れていて、妙に、ぎこちなかった。
改札口を抜けたところに、由紀が、背の高い、三十五、六歳の男と、待っていた。眼鏡をかけた、怜悧《れいり》な感じの男だった。
貰った名刺を見ると、やはり、青木という弁護士だった。
「警視庁の刑事さんが、われわれの味方をしてくれるとは、驚きですね」
と、青木が、いった。
十津川は、手を振った。
「今日の私は、あくまでも、ただの十津川個人です。それを、覚えておいて下さい」
と、釘《くぎ》を刺した。
「来て頂いて、本当に、感謝しています」
由紀が、頭を下げた。
「とにかく、江ノ電に乗りましょう」
と、十津川は、いった。
国鉄の鎌倉駅の隣に、積木細工のような、江ノ電の鎌倉駅があった。
クリーム色と、グリーンのツートンカラーのスマートな電車だった。
「私が、昔この電車に乗った時は、ちんちん電車でね。パンタグラフじゃなくて、ポールでしたよ」
十津川は、子供みたいに、車内を見廻《みまわ》している。
夏だったから、十津川たちは、海水パンツに、Tシャツという恰好《かつこう》で、乗ったものだった。あの頃の江ノ電は、そんな気安さがあった。
「ずいぶん、変りましたか?」
と、弁護士の青木が、笑いながら、きく。
「私が、この電車に乗ったのは、二十年前ですからね」
「二十年前だと、僕は、まだ小学生ですよ」
と、青木が、いった。
電車が走り出した。
十津川は、また、二十年前に、引き戻された。
電車も、駅もスマートになってしまったが、窓の外の景色は、あまり変っていなかったからである。
もともと、家と家との間を、すり抜けるようにして走っていた単線の電車である。景色の方も、変りようがないのかも知れない。
ビルは、増えた。
だが、車窓すれすれに、家の塀《へい》があったり、神社の参道を、横切って走る。そんな時は、神社の鳥居が、文字どおり、手を伸ばせば、窓から届いてしまう。
「変ってないな」
と、十津川は、ひとりで呟《つぶや》いた。
いや、変っているのかも知れないが、十津川の眼は、変っていない景色だけを、探していたのかも知れない。
江ノ電で、ただ一つの極楽寺《ごくらくじ》トンネルを抜けた。
このトンネルも、昔と変っていなかった。
古びた、小さなトンネルである。
海が、見えてきた。
稲村ケ崎を過ぎ、七里ケ浜に近づくと、あの家が、見えた。
駅に着く直前である。
昔のままの家だった。
低い塀で囲まれた庭の広い家である。母屋の二階も、よく見える。
二十年前の夏休み、江ノ電に乗って、七里ケ浜に近づくと、あの二階から、夕子が、手を振ってくれたりしたものだった。
七里ケ浜駅で降りる。
反対側は、七里ケ浜の海岸である。
道路があり、その向うに、海がある。
まだ、海水は冷たいだろうに、砂浜にも、海にも、サーファーの姿がある。
彼等が乗って来たと思われる車が、ずらりと並んでいる。
「サーファーの中には、砂浜をきちんと掃除していく者もいますが、中には、この辺の家に盗みに入る者もいるんです。一円の金も持たずに、やって来る無鉄砲なサーファーもいますからねえ」
弁護士の青木は、海に眼をやって、十津川に、溜息《ためいき》をついて見せる。
「その無鉄砲なサーファーが、盗みに入って、殺人を犯したと、思うわけですか?」
「そうです。原口さんの邸《やしき》は、この辺りで、一番大きくて、目立ちますからね。前にも、二度ばかり、空巣に入られたことがあるんですよ。その時は、たまたま、ご主人も留守でしたが、今度は、ご主人がいて、空巣が、居直ったのだと思いますね。警察も、最初は、そう考えたんですよ」
青木は、歩きながら、憤慨にたえないという顔で、いった。
十津川たちは、あの家の門をくぐった。
二十年前のままの門であり、敷石だった。
十津川たちが、合宿するのに借りた離れも、そのままだった。
「変っていませんね」
と、十津川は、いった。
「現場の二階を、ごらんになりますか?」
青木が、きいた。
「見ましょう」
と、十津川は、肯《うなず》き、青木や、由紀と一緒に、母屋の二階にあがって行った。
「血痕《けつこん》がありますが、警察が、現状のままにしておけというので、そのままになっています」
青木が、説明した。
なるほど、書斎のじゅうたんの上は、黒いしみがついている。
「凶器の灰皿は、県警にあるわけですね?」
十津川は、青木と、由紀の二人にきいた。
「そうです」
と、青木がいう。
「夕子さんの指紋がついていたんですか?」
「母が犯人でないのに、指紋がつく筈《はず》がありませんわ」
由紀が、激しい口調で、いった。
「指紋は、拭《ふ》きとられていました」
と、青木が、いった。
「問題は、やはり、江ノ電の中から、夕子さんを目撃したというOLの証言ですね」
「十津川さんが、彼女に、直接、会って貰えませんか。私が会いに行くと、彼女は、最初から用心してしまって、何も、話してくれないのですよ」
「お願いします」
と、由紀も、横からいった。
「では、会うだけは、会ってみましょう」
と、十津川は、いった。
十津川は、夕食のあとで、由紀と二人、花田麻理というOLに、会いに出かけた。
海岸を、歩いて行くことにした。
月明りが、波に映えて、美しい。
「お母さんと、夜の浜辺を歩いたことがありましたよ」
と、十津川は、歩きながら、いった。
「十津川さんは、母を好きだったんですか?」
由紀に、直截《ちよくせつ》にきかれて、十津川は、照れながら、
「あの時、お宅の離れにご厄介になった全員が、お母さんに、惚《ほ》れていましたよ」
「でも、母は、一番、十津川さんが好きだったんじゃないかしら。今度のことで、母が、一番最初に、十津川さんのことを、思い出したんですから」
「そうだと、嬉《うれ》しいですがね」
と、十津川は、いった。
花田麻理は、会社から、帰宅していた。
二十八歳で独身というのだ。気の強そうなハイ・ミスを想像していたのだが、会ってみると、なかなかの美人だった。
彼女には、近くの喫茶店で、あった。
麻理は、かたい表情で、コーヒーには、手をつけず、
「何も言うことは、ありませんわ。警察に話した通りなんですから」
と、十津川と由紀に向って、いった。
「わかっています」
と、十津川は、逆らわずに、一応、肯《うなず》いた。
「わかっているのなら、帰って下さいません」
「少しだけでも、話を聞かせて下さい」
と、十津川は、頼んだ。
「何をですの?」
「江ノ電の車内から、事件を目撃したのは、午後八時頃だということですね?」
「ええ。家に着いたのが、八時十五分頃でしたもの」
「会社は、何時に終るんですか?」
「五時ですわ」
「会社は、品川でしたね?」
「ええ」
「それなら、もっと早く帰れるんじゃありませんか?」
「ええ。でも、あの日は、友だちと、会っていたんですわ。だから、遅くなったんです」
「どんな友だちですか? 会社の同僚ですか?」
「そんなこと、誰だっていいじゃありませんか。八時に、事件を見たのは、確かなんですから」
「電車は、混んでいましたか?」
「え?」
「あの日、あなたが乗った電車ですよ。混んでいましたか」
「普通でしたわ」
「普通というのは、どういうことですか? 立っている人もいたということですか?」
「ええ」
「あなたは、立っていて、見た?」
「ええ」
「正確にいうと、あの家の二階で、何が見えたんですか?」
「男の人と、女の人が、争っているのが見えたんです」
「女の人が、灰皿を振りかぶっていたんですか?」
「ええ。ちゃんと見ましたわ」
「顔も、はっきり見たんですか?」
「ええ。見えましたわ。男の人の顔もね」
「すると、女の人が、灰皿を振りあげて、男の人を殴るところを見たというんですね?」
「ええ。見ましたわ」
「さぞ、びっくりされたでしょうね?」
「ええ。もちろん」
「叫ばれましたか?」
「え?」
「女が、男に向って、灰皿を振りあげているところを見て、びっくりすれば、当然、あッとか、わッとか、叫ぶものじゃありませんか?」
「――――」
「それに、あなた以外に、なぜ、車内に、目撃者が、いなかったんでしょうかね?」
「そんなこと、知りませんわ」
「しかしねえ。あなたは、叫び声をあげた筈《はず》ですよ。それなのに、あなた以外に、誰も見ていないというのは、不自然じゃありませんか?」
「電車が、すいていたからですわ」
「さっきは、立っている人もいたと、いった筈ですよ」
十津川がいうと、麻理は、顔を赭《あか》くして、黙ってしまった。
「もう一つ、ききますが、あなたは、二階の窓が開いていたので、男女が争っているのが見えたといっているようですね?」
「ええ、その通りですわ」
「しかし、おかしいですね」
「何がですか?」
麻理は、眉《まゆ》をひそめて、十津川を見返した。
「常識で考えても、わかるんじゃないかな。相手を殺そうとする人間が、わざわざ、窓を開け放っておいて、殺すでしょうかね? しかも、自分の家が、江ノ電から、よく見えることは、知っている人間がですよ。当然、窓を閉めて、誰にも見られないようにしておいて、殺すんじゃありませんか? あなたならどうですか?」
「でも、窓は、開いていたんです」
「こういうことは、考えられませんか。あの二階が、江ノ電から丸見えだということを知っていれば、窓を開けたままで、殺人など絶対にやらない。逆にいえば、犯人は、江ノ電から見えることを知らなかったから、窓を開けたまま、殺すようなことをしたんじゃないかな」
「知りませんわ。犯人の気持なんか」
「しかし、あなたが、犯人だとして、窓を開けたまま、あの二階で、人を殺しますか?」
「それは――見られたら」
と、麻理は、いいよどんだ。
「そうです。頭がおかしな人間でない限り、人に見られるかも知れない状態で、殺人なんか、やりません。原口夕子さんというのは、頭のいい人です。そんな人が窓を開けたまま、夫を殺したりはしないでしょう。それでなくても、一番、疑われ易い立場にいるわけですからね」
「――――」
「それでも、あなたは、窓を開けたあの二階で、原口夕子さんが、夫を殺したと思いますか?」
「――――」
「あなたは、前から、原口夕子さんを知っていましたか?」
「そんなこと、なぜ必要なんですか?」
「あなたが、大事な証人だからですよ。あなたの一言で、一人の女性が、殺人容疑で逮捕されているんだから、あなたには、答える義務がありますよ」
「知っていましたわ」
「あの家の奥さんだということも、知っていましたか?」
「ええ」
「あなたの給料は、いくらですか?」
「え?」
「十二万くらいかな?」
「十一万です」
「失礼ですが、あなたの家も、資産家とはいえませんね。さっき、拝見しましたが」
「ええ。借家ですわ。それが、どうかしたんですか?」
麻理の声が、とがってきた。
十津川は、落ち着いた調子で、
「原口家は、この辺では、大きくて、目立ちますね。しかも、あなたは、毎日、江ノ電の中から眺めている。いつも、羨《うらや》ましいと、思っていたんじゃありませんか?」
「そんな――」
「その羨望《せんぼう》が、ねたみになって、原口夕子さんを犯人と、決め込んでしまったんじゃないんですか?」
「そんなこと、ありません」
麻理の声が、甲高くなった。それは、十津川には、悲鳴のように、聞こえた。
(この女は、嘘《うそ》をついている)
と、十津川は、確信した。
江ノ電の中から、原口家の二階で、殺人が行われるのを目撃したのは、或いは、本当かも知れない。
だが、犯人の顔は、はっきり見ていないのではないか。いつも、大きな家に住み、優雅に暮している原口夕子を、羨《うらや》ましいと思っていた。その気持が、ねたみになって、夕子を犯人だと、決めつけてしまったに違いない。
「あなたは、今、大事な岐路に立っている。それを、よく考えて下さい。あなたの一言で、一人の女性が、殺人罪に問われているんです。あやふやな証言をしていると、あなた自身、偽証罪になりますよ。それに、良心の呵責《かしやく》に悩むことになる。これから一生です。きっと、あなたは、優しい人だと思うんですよ。どうですか。ありのままを、話してくれませんか」
十津川が、優しくいうと、麻理は、急に、肩を落して、深い溜息《ためいき》をついた。
「本当は、犯人の顔は、よく見ていないんです。二人の人影が、もつれ合っているのが、見えただけなんです」
十津川は、翌日、警視庁に出勤した。
本多捜査一課長は、変な顔をして、
「休暇届は、二日間だったんじゃないのかね?」
「用事は、一日ですみましたから」
と、十津川は、いった。
自分の席に戻ると、亀井刑事が、
「どうなさったんですか?」
「用事がすんだから、出て来たんだ」
「そのことじゃなくて、ちょっと、元気がないようなので、心配なんです」
「わかるかね?」
「何か、あったんですか?」
亀井は、心配そうに、きいた。
「そうだな。カメさんに、話を聞いて貰おうか」
十津川は、二十年前のこと、殺人事件のこと、弁護士と、原口由紀という娘に、母を助けてくれと頼まれたことなどを話した。
「私が、目撃者の花田麻理を説得するのを、由紀は、小型のテープレコーダーで、録音していた。彼女が、それを県警に提出し、花田麻理も、証言を変えたので、昨夜の中に、原口夕子は、釈放された」
「それじゃあ、万々歳だったじゃありませんか。原口家では、お祝いで、警部も、二十年ぶりに、昔の恋人に会えたわけですね」
「いや、会わずに、帰って来たんだ」
「なぜですか?」
「引っかかることがあってね。コーヒーでも飲みに行かないか」
十津川は、亀井を誘って、庁内の喫茶室に行った。
コーヒーを、飲みながら、
「私は、目撃者の花田麻理に、いろいろ質問した。彼女の証言の辻褄《つじつま》の合わないところを突いたわけだがね」
「それが、見事に、成功したわけですね」
「まあね。だがね、カメさん、このくらいの反対|訊問《じんもん》は、公判となれば、どんな弁護士だって、やることだよ。青木という弁護士は、評判を聞くと、若いが、頭の切れる男だそうだ。そんな弁護士が、なぜ、私に頼んだかがわからないんだ」
「警部の方が、説得力があると思ったんじゃありませんか?」
「それは、違うよ。私より、弁護士の方が、口はうまいよ」
と、十津川は、苦笑してから、
「今から考えると、あの目撃者も、簡単に、証言を変えたような気がするんだよ」
「仕組まれた感じなんですか?」
「正直にいうとね」
「しかし、警部。それはないと思いますよ」
「なぜだい? カメさん」
「私は、警部から、今、聞いただけですが、夕子さんという人は、最初は、容疑者じゃなかったわけですね?」
「そうだよ。不心得なサーファーの犯行と、県警は見ていたんだ。前にも、マナーの悪いサーファーがいて、近くの家に空巣に入って、逮捕されている」
「とすると、目撃者のOLが、一役買っているということはないんじゃありませんか? 彼女が、黙っていれば、その事件は、サーファーの仕業ということで、すんでしまっているわけですから」
「カメさんのいう通りだよ。だがね。私が、いろいろと質問して、彼女が、間違っていたと反省した。その瞬間は、私は、してやったりと思ったが、今になると、やはり、少し上手《うま》く出来すぎていたような気がするんだよ。まるで、前もって、証言を撤回することが決っていて、私の質問は、その儀式の添えものだったような気がして仕方がないんだよ」
「そのOLが、買収されたということは、考えられませんか? 弁護士は、若手で、やり手なようですから、証人を、買収することは、十分に考えられますよ」
「その仕上げに、私が、利用されたわけか」
「警視庁の敏腕警部が、目撃者を説得したといえば、神奈川県警だって、納得しますからね」
「それに、そのOLは、事件があってから、一週間して、警察に出向いて、証言している。なぜ、すぐ、出頭しなかったのかも、わからないのだよ」
「本人は、どういっているんですか?」
「江ノ電から見たときは、ただの夫婦|喧嘩《げんか》に見えたからだといっているんだが――」
「警部は、信用されていないんですね?」
「原口家は、あの辺りでは、目立つ邸《やしき》で、有名なんだ。そこで、主人の原口氏が殺されたと、テレビや新聞のニュースに出れば、ああ、あの時の争いだと、すぐ気がつく筈《はず》だ。それなのに、一週間も、黙っていた理由が、わからない」
「彼女が、原口夕子という女性を、ゆすったということは、考えられませんか? 一週間たっても、金を払わないので、警察に出頭したんじゃないでしょうか?」
「一理あるがね。あの家は資産家だし、殺人罪になりそうなら、金は、払ったと思うね。あの弁護士がついていれば、なおさらだよ。どうやら、原口家の顧問弁護士らしいから、事前に、上手《うま》く処理すると思うんだ」
「そうなると、妙な事件ということになりますね」
「後味が悪くて仕方がない。もし、私が、利用されたのだとするとね。私は、二十年前の思い出に浸り切って、出かけて行った。それが、事件を、冷静に見る眼を失わせてしまったんだ。正直にいうと、最初から、原口夕子を無実と決めて、七里ケ浜へ行った。だから、釈放された彼女には、会わずに帰って来た。会えば、なおさら、センチメンタルになって、疑問は、消えてしまうのではないかと思ってね」
「すると、警部は、その夕子さんが、犯人だと思っているわけですか?」
「そうは、思いたくないんだよ。だが、どうも、マナーの悪いサーファーが、空巣に入って、居直ったとは、考えにくいんだ。あの家は、階下に、金目のものが置いてあって、二階の書斎には、本ぐらいしか置いてないんだ。空巣が、わざわざ、二階にあがって行って、殺すとは、考えにくいんだよ。空巣が、居直る場合は、誰かが、二階から降りて来て、鉢合《はちあわ》せしてということが多いんだ」
「どうされます」
「もう少し、調べてみるよ。私の責任だからね」
と、十津川は、いった。
その日、十津川は、勤務を終えたあと、再び、横須賀線で鎌倉へ行き、わざと、午後八時少し前の江ノ電に乗った。
花田麻理が乗った時刻に合わせてみたのである。
それほど、混んではいなかったが、座席は満員で、一両に、十二、三人が、立っていた。
七里ケ浜では降りず、次で降りると、花田麻理の噂《うわさ》の聞き込みをやってみた。
その中で、奇妙な噂を耳にした。十津川は、麻理が、大きな邸《やしき》に住む原口夕子を羨《うらや》ましがっていたのではないか、それが、ねたみになって、嘘《うそ》の証言をしたと思ったこともあったのだが、二人は、親しくしていたという噂を聞いたのだ。
もっと、具体的な話も、耳にした。二か月前頃、麻理が、パールの指輪をしていて、それは、原口夕子に貰ったと自慢していたのだという。
「だから、彼女が、原口の奥さんに不利な証言をしたと聞いて、びっくりしていたんですよ」
と、その人は、いった。
十津川も、当惑した。
あのOLが、原口夕子と親しかったというのは、一つの発見だったが、それが、かえって、十津川を、当惑させてしまうのだ。
彼女は、夕子と親しかった。だから、沈黙していたとか、彼女に有利な証言をしたというのならわかる。しかし、麻理は、夕子を犯人だと証言した。
(なぜなのだろうか?)
それがわかれば、なぜ、十津川を利用したのかも、わかるだろう。
東京へ帰る横須賀線の中でも、十津川は、考え続けた。
原口家の当主が、二階で殺された。灰皿で殴られてである。身体が弱っていたから、女でも、殺せるだろう。
江ノ電の車内で、OLの花田麻理が、事件を目撃した。原口夕子が、夫の原口を、灰皿で殴りかかるところを見たという。窓が開いていたから見えたともいった。
窓が開いていた理由は、わかった。
麻理に向って、犯人が、夕子なら、窓を開けておいて、殺人はしないだろうといったが、それが、殺された原口なら、納得できるのではないか。
原口は、逃げようとして、窓を開けたのだ。その時、江ノ電で、花田麻理が、目撃したに違いない。
だが、目撃者の麻理が、なぜ、親しく、パールの指輪まで貰った夕子を、犯人だと、警察にいったのだろうか?
十津川は、考え込んでしまった。
(OLの花田麻理が、なぜ、夕子に不利な証言をしたのか?)
あの夜、彼女は、なぜ、八時に帰ったのかについて、何かいっていたっけ。
友だちに会ったので、帰りが遅くなったといっていたのだ。
(その友だちは、ひょっとすると、麻理と一緒に、江ノ電に乗ったのではないのか)
少し、わかりかけて来た。
その友人が、事件を目撃したとしたら、どうだろうか?
麻理は、夕子と親しいから、沈黙を守ろうとする。しかし、一緒に目撃した友人の方は、警察に行くといって、きかない。麻理は、それを止めさせようと努力した。それが、一週間だろう。
しかし、友人がどうしても警察に出頭するというので、仕方なく、麻理は、自分が、代表して、警察に出頭すると、いったのではないのか。
友人が、じっと見守っているので、嘘《うそ》の証言は出来ない。そこで、目撃したままを、証言せざるを得なかった。
原口夕子は、逮捕された。
だが、麻理は、前もって、夕子に、自分が証言することを、話しておいたのだろうと、思う。
弁護士の青木が、間に立って、知恵をさずけた。計画を立てたと、いってもいい。
いったん、麻理は、事実を証言するが、そのあと、証言を変えるという計画だ。
その役が、十津川に、回ってきたのではないのか。
麻理が証言する前、弁護士の青木、夕子、それに由紀も混えて、計画が練られたのだ。
その時、夕子が、二十年前に、自分に惚《ほ》れていた十津川が、今、警視庁の捜査一課にいると、いった。青木は、そんな十津川を、上手に利用しようと、提案した。
(まんまと、利用されたのか?)
十津川は、怒るよりも、苦笑してしまった。
(青木たちは、さぞ、おれを甘い人間だと、思っていただろう)
十津川は、すぐ、神奈川県警に、連絡した。
原口夕子は、再逮捕された。
花田麻理の自供によって、青木弁護士も、逮捕された。
夕子が、夫を殺した理由は、よくある男女関係のもつれだった。彼女の自供によれば、青木弁護士とは、数年前から肉体関係を持ち、それに気付いた夫との間で、毎日のように口論が絶えなかったという。夫が、暴力を振ったことも度々あった。それが、夕子の殺意につながったのである。
麻理の友人が、同じ江ノ電に乗っていた。事件を目撃したのは、十津川の推理どおりだったが、短大時代のその友人は、今、アメリカにいるということだった。
日本に、彼女が帰る前に、夕子を釈放させてしまおうと、十津川を利用したのである。
〈二人いた目撃者〉
と、新聞は、書いた。
[#改ページ]
運河の見える駅で
「あんまり、金持ってないんだよ」
会うなり、田代が、いった。
若い恋人同士が、デイトの時に使う言葉にしては、情けないが、給料日の三日前だから、仕方がないだろう。
「私もよ」
と、めぐみも、いった。
「おれは、二千円ちょっとだけど、そっちは?」
「同じくらい」
「日曜だし、天気もいいし、ミニトリップぐらいしたいけど、二人で四千円じゃ、無理だな」
「じゃあ、映画でも見る?」
「こんないい天気にかい? それに、日曜だから、どこの映画館も、満員だぜ。昼めしだって、食べなきゃならないしさ」
「お弁当は、作って来たわ」
めぐみが、やっと、ニッコリした。
田代の方は、相変らず、元気のない顔で、
「それでも、二人で四千円じゃなあ」
「どこかの遊園地へ行く?」
「子供で一杯だよ」
「じゃあ、どうするの?」
「そうだなあ」
と、田代は空を見上げて、考えていたが、
「海を見に行こう」
「海?」
「ああ、運河を見て、海を見て、どうだい?」
「日曜日だから、人で一杯じゃないの?」
「それが、日曜だから、がらがらに、すいてるんだ」
「そんな所あるかしら?」
「まあ、おれに任せろよ。素敵な所だから」
田代は、急に、元気のいい声になった。
二人は、国電に乗って、鶴見《つるみ》まで行った。
「トイレに行っとけよ」
と、田代が、小声で、いった。
めぐみが、変な顔をして、
「どうして?」
「これから、鶴見線に乗るんだけど、終点の駅に、トイレがないんだ」
「駅を出て、喫茶店にでも入って、トイレを借りればいいわ」
「駅の外に出られないんだ」
「そんな駅があるの?」
「だから、見に行く値打ちがあるんだよ」
田代が、いった。
めぐみは、わけがわからないままに、トイレに行った。
その間に、田代は、終点の海芝浦《うみしばうら》までの切符を買った。
鶴見線のホームは、鶴見駅の一番端にある。ここだけが、高架になっているので、ホームに立って、他の国電のホームを、見下ろす感じになる。
101系と呼ばれる、黄色く塗られた四両編成の電車に、二人は乗った。
車内は、がらがらだった。
四両全部の乗客を合せても、十二、三人だろう。
「ほんとに、すいてるのね。日曜日なのに」
めぐみが、眼を丸くして、田代にいった。
「日曜だから、すいてるのさ。ここを出発して、工場地帯を走るんだ。だから、そこの工場に通う人しか乗らないのさ」
「日曜日は、工場が休みだから、誰も乗らないのね」
わかったというように、めぐみが、肯《うなず》いた。
四両編成の電車は、鶴見駅を発車した。
めぐみは、身体を斜めにして、窓の外に眼をやった。
電車は、工場地帯に近づいていく。
国道、鶴見小野、弁天橋と小さな駅が続くが、どの駅も、無人駅である。
朝、夕は、工場へ通う通勤客で、満員だが、その他の時間帯と、日曜日は、完全な赤字ローカル線だからだろう。
工場が、密集して来て、煙突が林立している。普段の日なら、吐き出される煙で大変だろうが、今日は、日曜日なので、空はきれいである。
「まだ、海が見えないわ」
めぐみが、文句をいった。
「もうすぐさ」
と、田代がいった。
新芝浦に着くと、海の匂《にお》いがして来た。
「あっ。海!」
めぐみが、声をあげた。
「正確には、運河だよ」
「でも、東京湾に、つながっているんでしょう? それなら、海だわ」
と、めぐみは、いった。
新芝浦から先は、運河沿いに、電車は走って行く。
終点の海芝浦に着いた。
「何だか、どこかの工場の敷地の中みたいね」
と、めぐみが、反対側の窓から、外を見ていった。
「そうなんだ。一つ手前の駅から、電気メーカーの敷地の中を走ってるんだ」
「変な電車ね」
「とにかく、終点だから、降りようじゃないか」
と、田代が、いった。
無人駅なので、ホームで、車掌が切符を受け取った。
他の客は、ここに着くまでに、全部おりてしまって、海芝浦駅に来たのは、田代とめぐみだけである。
ホームの下は、三メートルほどの高さのコンクリートの岸壁になっていて、船が通ると、波が、打ち寄せてくる。
二人は、柵《さく》にもたれて、海を見つめた。
強烈な磯《いそ》の香りは、毎日の生活の中で、忘れてしまっていたものだった。
晴れているので、見晴らしが、よかった。
「向うは、横浜港かしら?」
「ああ。横浜の港だよ」
「白い、きれいな船が見えるわ」
めぐみが、眼を細めて、いったとき、二人の眼の前を、漁船が、乾いたエンジン音を立てて、通り過ぎて行った。
船を動かしている漁師の顔が、はっきり見える近さである。
「発車しますよ」
と、車掌が、二人に声をかけた。
引き返して、鶴見に行くのである。
「いいよ。しばらく海を見ていたいんだ」
田代が、いった。
車掌が、変な顔をしたのは、何もないこの駅にいても、仕方がないだろうと、思ったからだろう。
電車が、出て行ってしまうと、細長いホームには、田代と、めぐみの二人だけが、ぽつんと、取り残された。
電車が、なくなると、この海芝浦駅が、T電機の敷地の中に作られているのが、よくわかる。
新芝浦から、単線になっているのだが、その頼りない一本の線路の向う側は、塀《へい》も、柵もなく、工場の敷地である。
普通の日なら、工場は、活気のある音を立て、駐車場には、従業員の車が並ぶのだろうが、今日は、日曜日なので、工場は、静まり返り、人の気配もない。
ホームを、端まで歩いて行くと、そこに、きれいな建物があって、一見、この海芝浦の駅舎に思えるのだが、近づいてよく見ればそれは、T電機の正門で、守衛室があるところなのだ。
「本当に、駅のトイレもないのね」
めぐみが、その建物のところまで歩いて行って、呆《あき》れたような、感心したような声を出した。
「守衛がいるから、いざとなれば、そこで借りればいいさ」
と、田代はいった。
ここには、T電機しかないので、これでいいのだろう。
「しばらく、電車は、来ないよ」
と、田代は、いった。
日中は、海芝浦まで来る電車は、四十分間隔になっている。
「少し早いけど、お弁当食べる?」
めぐみが、きいた。
「いいね。海を見てたら、腹が減ったよ」
ホームには、屋根のある部分もあったが、二人は、空の見えるところに、週刊誌を敷いて、腰を下ろした。
海を見ながら、食事をしたかったのだ。
田代も、めぐみも、今、アパート暮らしだが、窓からは、他の家の壁しか見えない。
だから、今日は、ずっと、海を見ていたかったのだ。
「サンドイッチは、セブンイレブンで買ったんだけど、おにぎりは、私が作ったのよ」
「うまいよ」
「ここ、夜になったら、向うの方は、ずっと明りがついて、きれいでしょうね」
「ああ、素敵だと思うよ。今度、夏の夜に来てみようか」
「釣りだって、出来るんじゃないの。ホームから、竿《さお》を出せばいいんだから」
「ハゼくらい釣れるかも知れないな」
田代は、立ち上って、眼の下の海を見下ろした。
また、船が眼の前を通り過ぎて行った。
「魚はいそうだよ」
「この海、正式には、何というのかしら?」
「京浜運河だろうけど、まあ、東京湾と同じだね。すぐそこが、運河の出口だから」
「海見たの何か月ぶりかな」
「――――」
田代は、急に、ホームの端に向って、歩き出した。
「どうしたの?」
「おしっこ!」
田代は、背を向けたまま、大きな声で、いった。
ホームの端まで歩いて行ったが鉄柵《てつさく》が邪魔になる。そこで、線路におり、そこから岸壁の上にあがって行った。
小型タンカーが、ゆっくり、眼の前を通り過ぎて行く。
田代は、海に向って、のんびりと、小便をした。
何か、子供にかえったような気がした。
田代が、戻ると、めぐみが羨《うらや》ましそうに、
「男って、いいわね」
と、いった。
翌日から、また、街の中での生活が、戻って来た。
ただ、給料日が来て、寂しかったふところが、あたたかくなった。
田代は、めぐみの勤務先に電話をかけ、夕食を一緒にしようと、誘った。
「この間のお弁当のお礼に、今日は、夕食をおごるよ」
と、田代はいった。
待ち合せの場所は、新宿駅ビルの上にある喫茶店と決めた。
田代の会社の方が、新宿に近いので、いつも先に着くことになる。
この日も、田代が先に来て、めぐみを待つことになった。
陽が落ちて、新宿の商店街や、歌舞伎町《かぶきちよう》のあたりに、ネオンが、輝き始めている。
(そろそろ、結婚するかな)
田代は、ネオンを見ながら、そんなことを考えていた。
今のままの状態の方が、いいような気もするし、この辺で、けじめをつけた方が、いいような気もする。
六時になった。
(おかしいな)
と、思った。約束の時間は、五時半である。めぐみが、三十分もおくれたことは、めったになかった。
(何か事故でも、あったのではないだろうか?)
心配になった。
めぐみ以外にも、つき合った女は、何人かいたが、彼女たちが、おくれた時には、ただ腹が立った。
めぐみの場合は、腹立たしさと同時に、心配にもなる。それだけ、彼女に惚《ほ》れているのだろうと思う。
六時十五分になった。
田代は、電話のところまで行き、もう一度彼女の会社に電話をかけた。ひょっとして、急な仕事が出来て、残業になってしまったのかも知れないと思ったからである。
だが、めぐみは、五時に帰ったという返事だった。
彼女のアパートにも、電話した。が、誰も出ない。
どこを探していいのかわからないので、田代は、二杯目のコーヒーを頼み、もうしばらく、この店で待つことにした。
七時になっても、めぐみは、現われなかった。
仕方なく、田代は自分のアパートに帰って、彼女からの連絡を待った。十五、六分おきに、彼女のアパートに、電話をしてみるのだが、返事がない。
(事故にあったに、違いない)
と、田代は思った。それ以外に、考えられないのだ。
八時を過ぎた時、突然、電話が鳴った。
はっとして、受話器を取った。
「めぐみか!」
「田代さんですね?」
と、妙に冷静な男の声がした。
「ああ、そうですよ」
「すぐ、M外科病院へ来て下さい。四谷から市ケ谷におりる坂の途中にあるんですが、わかりますか?」
「何かあったんですか?」
「香取めぐみさんを、ご存知ですね?」
「ええ、知っていますよ。めぐみが、どうかしたんですか?」
「とにかく、すぐ、来て下さい」
そういって、相手は、電話を切ってしまった。
田代は、青ざめた顔で、部屋を飛び出した。
大通りへ出て、タクシーを拾って、四谷のM外科病院に急いだ。
(重傷に違いない)
と、思った。
軽傷で病院にいるのなら、めぐみ自身が、電話してくる筈《はず》である。彼女が、電話に出られないほど重傷なのか?
M外科病院は、鉄筋三階建のかなり大きな病院だった。
救急車入口と書かれたところに赤いシグナルが点滅している。
田代が、飛び込んで、受付で名前をいうと、すぐ、一階奥の手術室に連れて行かれた。
だが、すぐ、中には入れてはくれず、手術室の外にいた男が、「ちょっと」と、廊下の隅に、田代を、呼んだ。
「君が、田代さんだね?」
と、中年の男は、確認するように、きいた。病院の人間には、見えなかった。
「そうですが、めぐみは、どうしたんですか?」
「君には、気の毒だが、間に合わなかった」
「間に合わないって、どういうことですか?」
「救急車で運ばれたが、間に合わなかったということでね」
「そんなの信じられませんよ。彼女に会わせて下さいよ」
「じゃあ、入りたまえ」
中年の男は、田代を、手術室に入れた。中には、婦長が一人いるだけで、手術台の上の患者には、白布が、かけられていた。
「手術が、間に合わなかったということでね」
と、男が、いう。
婦長が、白布をめくった。
めぐみが、そこにいた。死んでいるようには見えなかった。
ただ、顔が青白いだけで、眠っているように見えた。
「生きてるんでしょう?」
田代は、婦長を見た。
婦長は、小さく首を横に振っただけだった。
「医者を呼んで下さいよ。どうして、ここに、医者が、いないんです?」
田代は、叫んだ。
婦長は、白布を、もう一度、めぐみの顔にかぶせてから、
「もう、亡くなったんですよ」
「くびを絞《し》められている。窒息死だよ。ここの医師は、全力をつくしたんだが、蘇生《そせい》しなかったんだ」
「あなたは、医者ですか?」
「私は、警察の人間でね。殺人の疑いがある以上、捜査しなければならないんだ」
「誰が、彼女を、殺したんですか?」
「それは、これから、調べるんだよ。君にも、協力して欲しいね」
男は、田代に、警察手帳を見せ、捜査一課の亀井だと、いった。
白衣の男が、二人で、めぐみの遺体を、手術室から、地下の霊安室へ運んで行った。
亀井刑事は、田代を、待合室へ連れて行った。
田代に、煙草《たばこ》をすすめ、自分も、煙草に火をつけた。
「なぜ、僕に、連絡があったんですか?」
と、田代は、きいた。
「君の誕生日は、今月だろう?」
「そうです。十八日です。それが、どうかしたんですか?」
「これを、死んだめぐみさんが、持っていた。ハンドバッグに入っていたんだ」
亀井は、白い封筒を、田代に見せた。
田代の宛名と、住所が書いてある。切手も貼《は》ってあった。
中身は、バースデイカードだった。どこかで、投函するつもりだったのだろう。
〈お誕生日おめでとう。
最近、あなたの夢ばかり、見ます。少し、おかしいんです。
愛してます。
本当に、愛してます。
こんなことを書いてしまって、渡すのが恥しいので、郵便で出します。
[#地付き]めぐみ〉
ふいに、涙が、あふれてきて、田代は、手で拭《ふ》いた。
亀井は、田代の感情が落ち着くのを待っていた。
「ハンドバッグの中から、財布が抜きとられていた」
「金欲しさに、めぐみを殺したんですか?」
「一見、そう思えるが、私は、違うと思っている。彼女の会社は、どこだったかね?」
「京橋です」
「それで、今日は、まっすぐ帰ることになっていたのかね?」
「いえ。新宿で、会うことになっていました」
「それなら、地下鉄で、新宿へ行く筈《はず》だ。それなのに、四谷のN大学の運動場に、倒れているのを発見されたんだ。多分、彼女は、車で、あそこまで運ばれたんだと思うね」
「じゃあ、誰かに、恨まれていて、それで、殺されたということなんですか?」
「恨まれていたかな?」
「とんでもない。彼女が、誰かに恨まれていたなんてことは、ありませんよ」
「君は、どうなんだ?」
「僕ですか?」
「君に、他に女性がいて、その女が、嫉妬《しつと》から、殺したのかも知れない」
「僕は、そんなことはしません。彼女だけだったんです。彼女だって、そうですよ」
「そうだとすると、口封じに、殺されたか」
「口封じって、何のことです?」
「彼女が、犯人の何かを目撃したとか、聞いたとかして、それが、洩《も》れるのを恐れて、殺したのではないかということだよ」
「彼女に、もし、そんなことがあったのなら、僕に話してくれている筈ですよ。何もかも、僕に、話してくれていたんですから」
「最近、君か、彼女が、普段と変ったことをしたということはないかね? 二人一緒ででもいいし、彼女ひとりででもいいんだがね」
「変ったことですか」
「倒えば、どこかへ旅行したとか、泥棒に入られたとかだが、どうかな?」
「旅行といえるかどうか、わかりませんが、前の日曜日に、海を見に、二人で行って来ました」
田代は、鶴見線の海芝浦のことを話した。
亀井は、微笑して、
「あの駅には、私も、一度、行ったことがある。面白い駅だ」
「そうなんです。でも、あれが、めぐみの殺される原因になるとは、とても思えませんよ。日曜日で、駅には、僕たちの他《ほか》に、誰もいなかったんです。あそこは、T電機の敷地ですが、工場は休みで、動いていなかったし――」
「本当に、君たち以外に、誰もいなかったのかね?」
「ええ。二人だけでした。ホームで、彼女が作って来た弁当を食べましたよ。それだけです」
「写真は、撮ったかね?」
「ええ。二十四枚撮りで、一本だけですが」
「その写真は?」
「今、現像を、頼んであります」
「ぜひ、見てみたいね」
と、亀井刑事は、いった。
めぐみの両親が、千葉からやって来た。
荼毘《だび》に付されたあと、めぐみは、小さな骨壺《こつつぼ》に入ってしまった。
千葉の郷里に、両親によって運ばれたのを見送ったあと、田代は、出来あがった写真を持って、亀井刑事に、会いに行った。
亀井は、その二十四枚を、机の上に並べた。
彼女が一人で写っているのもあれば、セルフタイマーで、二人を撮ったものもある。
バックは、たいてい海である。
「時々、船が通っているようだね」
亀井が、写真を見ながら、いった。
「ええ。よく通過しましたよ。京浜運河だから、東京湾へ出て行く船もあるし、入って来る船もあるしですからね」
「かなり近くに見えるようだが、乗っていた人間の顔が、はっきり見えたかね?」
「近くを通る船だと、はっきり、人の顔も見えましたね」
「それかな」
「え?」
「船の中で、何かあったのを、君たちに見られた。それで、君と彼女の口を封じにかかった。まず、彼女からというので、犯人は、めぐみさんを殺したか」
「ちょっと待って下さい」
「何だね?」
「僕たちが見ている限りで、船の中で、何か起きていたなんてことは、ありませんでしたよ。何かあれば、僕か、彼女が、気がつく筈《はず》なんです」
「そのことなんだがね。彼女のハンドバッグの中に、これが入っていた」
亀井は、ケースに入った眼鏡を、田代に見せた。
「ああ、彼女、近眼なんです。だから、眼鏡を持ち歩いていましたが、必要な時以外は、かけていませんでした」
「すると、彼女が、気がつかなかったことがあるかも知れないね」
「でも、ずっと、僕が一緒にいたんですよ。彼女が、気がつかなかったとしても、僕が、気がついています。それなら、彼女より、僕が狙《ねら》われるのが、自然じゃありませんか?」
「君は、眼は、どうなんだ?」
「両眼とも、一・五で、乱視でもありません。色盲でもないですよ」
「海芝浦では、ずっと、一緒だったんだね?」
「そうですよ」
「二人が、別にいたことは、全く、なかったのかね?」
「ええ」
と、肯《うなず》いてから、田代は、急に、黙ってしまった。
「どうしたんだ?」
「一度だけ、離れたことがありましたが、五、六分のものです」
「それは、どんな状態で、離れたんだね?」
「いうんですか?」
「いって欲しいね」
「あの駅は、トイレがないんですよ。それで僕は、ホームの端まで歩いて行って、海に向って、小便をしたんです」
「それを図を描いて、説明して貰いたいね」
亀井は、メモ用紙と、ボールペンを持って来て、田代の前に置いた。
田代は、それに、海芝浦のホームを描き、二人が、弁当を食べていた場所、それから、田代が、歩いて行って、岸壁の上から、海に向って、小便したところに、印をつけた。
「この二つの間は、何メートルぐらいかな?」
と、亀井が、きく。
「八十メートルぐらいかな。百メートルは、なかったですよ」
「君は、いったん、ホームから、線路上におりて、また、岸壁にあがったんだね?」
「そうです。ホームの端に、小さなコンクリートの段がついていたんです。そこから、地面におりて、岸壁にあがったんですよ」
「君は、その間が、五、六分といったが、もっと、かかったんじゃないかね?」
「僕は、五、六分と、思ったんですが」
「一度、海芝浦へ行って、試してみよう。ところで、君は、ホームの端へ向って、歩いて行くとき、どこを見ていたね?」
「どこだったかな。海を見たり、前を見たり、T電機の工場を見たりしていたと思いますね」
「ホームから、地面におりた時は、海は、見えなかったんじゃないかね?」
「それは、足元を見ていたから、海を見ていませんよ」
と、田代は、いってから、
「それが、何か、意味があるんですか?」
「実は、日曜日だが、京浜運河を、通っていた船から、船員が一人、海に落ちて、死んでいるんだよ」
「それが、めぐみが殺されたことと、どんな関係があるんですか?」
「この船は、三百トンの小さなタンカーでね。乗組員は、船長以下七人だ。その中の若い船員が、海に転落して、死んでいる。船長も、他の船員も、海に落ちたのを知らずに、航行して、目的地に着いてから知って、あわてて、届けたというんだ」
「それが、怪しいんですか?」
「後頭部に傷があった。だからといって、すぐ、誰かに殴られたと、断定は出来ない。誤って落ちたとき、木材でも流れていて頭をぶつけたことも考えられるからね。君たちが、海芝浦にいたのは、何時から、何時までなんだ?」
「午前十一時頃に着いて、午後一時半頃まで、いたんです」
「ちょっと、待っていてくれ」
急に、亀井は、席を立って、電話のところへ走って行った。
どこかへ電話していたが、それを、すませると、笑顔で、戻って来た。
「もう一度、確認するが、午前十一時から午後一時半まで、海芝浦のホームにいたんだね?」
「十一時ジャストだったかどうかはわかりませんが、そのくらいの時間です」
「それで、君が、小便をしたのは、何時頃なんだ?」
「何時頃だったかな。少し早いけど、と思って、弁当を食い始めたんです。それから、三十分ぐらいしてからだから、十二時前だったと思うな」
「十二時少し前だね?」
「ええ」
「それならいい」
「何が、いいんですか?」
「海に落ちて、死んだ船員だがね。今、死体を解剖してくれるように、頼んだんだ。死亡時刻が、十二時頃ということになれば、彼が、甲板上で殴られ、海に突き落されるのを、めぐみさんが、目撃した可能性が、出てくるんだ。君が眼をそらせている時に起きた事件だから、君は、狙《ねら》われなかった、ということになる」
「しかし、彼女は、近眼だから、船の甲板で、何かがあっても、見えなかったと思いますよ」
「そこが問題なんだよ」と、亀井が、いった。
「彼女には、見えなかった。だから、君には、何もいわなかった。船や、工場などはわかるから、景色を楽しんでいたろうが、甲板上の小さな人間は、見えなかったんだと思う。ところが、相手は、めぐみさんの顔が、自分の方に向いているので、てっきり、見られたと思ったんだろうね。そして、必死になって、めぐみさんの身元を調べたんだ。そして、見つけて、殺したんだよ」
「まだ、僕には、信じられませんが」
「私だって、確証はないんだ。しかし、考えてみたまえ。京浜運河を航行中の小型タンカーから、船員が落ちて死亡した。日曜日にだ。その死因に、疑問がある。一方、同じ日曜日に、若いカップルが、海芝浦駅にいて、海と、そこを通る船を見ていた。そして、その女性が、殺されたとなれば、誰でも、この二つの事件を結びつける。何かあるなと思う。君だって、そうだろう? 違うかね?」
「めぐみは、どうやって、殺されたんですか? 簡単に、連れ出されたとは、思えません。あの時は、僕とデイトの約束があったんですからね」
田代がいうと、亀井は、
「だからこそ、簡単だったと思うね。多分、犯人は、古典的な手を使ったんだ」
「古典的?」
「つまり、犯人は、めぐみさんの会社に行き、君が、怪我《けが》をして、入院したと告げる。すぐ、その病院へ行きましょうといって自分の乗った車に乗せてしまう。君が、怪我で入院したと聞いて、彼女は、動転し、相手が、自分を殺そうとしているなどとは、全く考えずに、乗ってしまう。君が、うわ言に、彼女の名前を呼んでいるとでもいえば、なおさらだろう」
「――――」
「犯人は、めぐみさんを、車に乗せてから、どこか、寂しい場所へ行き、そこで、絞殺したんだ」
「畜生!」
田代は、呻《うめ》き声をあげた。
「あとは、われわれに任せなさい。犯人は、必ず逮捕する。約束してもいいよ」
と、亀井は、いった。
死亡した若い船員の名前は、木戸要である。
年齢二十三歳。十代の時は、オートバイを乗り廻《まわ》して、暴走族の一員だった。
二十歳の時に、母親が亡くなった。父親はその前に亡くなっていたし、兄弟はないから、天涯《てんがい》孤独になった。
そして、船員になった。正式な船員ではなく、助手のような仕事である。
喧嘩《けんか》早く、乱暴なので、乗る船がよく変った。
問題のタンカー「第三洋光丸」に、乗るようになったのは、今年の四月からだった。
翌日、亀井は、若い西本刑事と一緒に、第三洋光丸の所属する洋光海運を訪ねた。
当日、第三洋光丸に乗っていたのは、木戸の他に、六人である。
この六人は、木戸が行方不明になったとして届けた時、全く同じ証言をしていた。
甲板には、その時、木戸が、一人でいた。その中《うち》に、彼の姿が消えてしまい、大さわぎになったという証言である。
亀井は、船長の井崎|遼一郎《りよういちろう》に、会った。五十三歳の小柄な男だった。
陽焼《ひや》けして、しわの多い顔は、年齢《とし》より、はるかに、老《ふ》けて、見せている。
「東京湾から、京浜運河に入ったのは、何時頃でした?」
と、亀井は、井崎に、きいた。
「正確な時間は、わかりませんね。昼前後だったと思いますがね」
井崎は、用心深い答え方をした。
「あそこに、鶴見線の『海芝浦』の駅がありますね。知っていますか?」
「ええ、知っていますよ。あの運河を通るとき、自然に眼に入って来ますからね」
「日曜日ですが、その時も、海芝浦のホームを見ましたか?」
「ええ。見た筈《はず》ですよ」
「ホームに、若い男と女が、弁当を食べながら、海や、眼の前を通っていく船を眺めていたのも知っていますか?」
「さあ、知りませんね。あの駅は、日曜日は、いつも、閑散としていますよ。先日の日曜日も、誰もいなかったと思いますがね」
「ところが、若いカップルが、いたんですよ」
「そうですか。それが、どうかしましたか?」
「木戸要さんの件ですが、海に落ちた時間はわかりませんか?」
「それが、わからないのですよ。あの時間には、私も、木戸君が、てっきり、船内にいて、甲板にいるなどとは、夢にも思っていませんでしたからね。気がついたら、船内にいないので、大さわぎになったんです。従って、正確な時間は、わかりませんね」
「船内で、トラブルは、なかったんですか?」
「トラブル?」
「木戸さんをめぐってのトラブルです。彼と、他の船員との間で、何かあったのではないかと思ったものですからね」
「和気あいあいとやっていましたよ。全員が一つの家族みたいなものですからね」
「彼のことを、調べたんですが、他の船に乗っている時、トラブルを起こしているんです。他の船員と、傷害事件を、起こしたこともあります」
「そうですか。しかし、私の船では、素直でいい船員でしたよ」
「おかしいですね」
「何がです?」
「一週間前に、川崎のバーで、木戸さんと、仁村という人が、大げんかをして、二人とも、一晩、留置されていますが、この仁村というのは、同じ第三洋光丸の乗組員じゃないですか?」
「ええ、まあ、そうですが」
「その時の調書を見ましたがね。仁村さんは、こういっていますよ。『木戸は乱暴で、しばしば他の船員と、トラブルを起こして、迷惑をかけていた。いつか、がつんとやってやらなければならないと思っていたんです』。これをみると、前から、木戸さんは、他の船員と、トラブルを起こしていたんじゃありませんか?」
亀井が、きくと、井崎は、当惑した顔になって、
「小さなトラブルは、どんな船にだって、ありますよ」
「日曜日ですが、それが、爆発して、乗組員の誰かが、甲板で、木戸さんを殴りつけ、海に突き落としたんじゃないんですか?」
「そんなことは、絶対にありませんよ。何をいうんですか。証拠があるんですか?」
井崎は、むっとした顔で、亀井を睨《にら》んだ。
その時、電話が鳴った。
受話器を取った井崎は、すぐ、「あなたにですよ」と、亀井に、いった。
「申しわけありません。こちらに廻《まわ》ることをいっておいたものですから」
と、亀井は、受話器を受け取った。
木戸の解剖結果が、出たというものだった。
「カメさんの睨《にら》んだ通りだったよ」
と、十津川警部が、いった。
「すると、後頭部の傷が、致命傷だったわけですか?」
「そうだよ。死んでから、海に放り込まれたんだ。肺の中の海水も、微量だったそうだ」
「死亡時刻は、どうですか?」
「日曜日の午前十一時から十二時の間だ。それで、いいのかね?」
「ぴったりです」
と、亀井は、いった。
礼をいい、電話を切ると、亀井は、井崎に向って、
「木戸さんは、殺されたあとで、海に投げ込まれたことが、わかりましたよ。後頭部の傷が、致命傷だったんです」
と、いった。
井崎は、一瞬、青ざめて、黙ってしまった。が、また、亀井を睨んで、
「だから、殺されたとは限らんでしょう?」
「どういうことですか?」
亀井は、きき返した。
「甲板にいて、転落した。その時、たまたま、傍に流れていた木材にでも、頭をぶつけたのかも知れないでしょう? 京浜運河では、時々、驚くようなものが、流れていることがあるんです。浮いている木材に船首をぶつけて、破損させたこともありますよ」
「木戸さんの傷は、後頭部ですよ」
「だから、どうだというんですか?」
「足から海に落ちたとすれば流れている木材で、頭を打つことは、ありませんよ」
「まっ逆さまに、落ちたんですよ。頭からね」
「その場合でも、後頭部に、傷が出来るということは、ありませんよ」
「絶対に、あり得ないとはいえんでしょう?」
「九十九パーセント、あり得ませんね」
「一パーセントは、あり得るわけでしょう?」
と、井崎は、いってから、
「他の乗組員に聞いてみて下さいよ。木戸君を殺した人間なんか、いませんよ」
「皆さんのアリバイを、聞きたいですね」
「アリバイ? 全員、船にいましたよ。当り前でしょうが」
「いや、昨日の午後五時から六時までのアリバイですよ」
「昨日の? なぜ、そんなものが、必要なんですか? 今、問題になっているのは、木戸君のことでしょう?」
「そうですが、昨日の夕方、女性が一人殺されましてね。まだ若い娘ですよ。しかも、恋人がいたんです。私はね、その犯罪の方が、許せないんですよ」
「それに、うちの船員が、関係しているというんですか?」
「そうです」
「証拠は、あるんでしょうね?」
「とにかく、皆さんのアリバイを、聞きたいですね」
「昨日の午後五時から、六時までと、いうんですね?」
「そうです」
「ちょっと、待っていて下さい」
井崎は、立ち上ると、部屋を出て行った。
西本が、窓の外を見ていたが、
「第三洋光丸が、いますよ」
と、いった。
亀井も、立ち上って、窓の外を見下ろした。
岸壁に、小型タンカーが、停泊していて、「第三洋光丸」の文字が見えた。
井崎船長は、タラップを昇って行き、甲板で、乗組員に、何か話をしている。
やがて、井崎が、部屋に戻って来た。
「昨日の午後五時から六時までですが、私は、船にいて、日記をつけていましたが、他の五人は、会社の食堂で、夕食をとっていたと、いっていますよ。これで、アリバイは、成立したと思いますが」
と、井崎は、いった。
「車を持っている人は、誰ですか?」
「私は、持っていないが、若い連中は、持っていますよ」
と、井崎がいう。
西本が、部屋を出て行った。
「車を持っている人の名前を、教えて下さい」
と、亀井はいい、井崎は、二人の船員の名前を、いった。
青山透 三十五歳。
井上直治 二十六歳。
この二人の名前だった。
「どんな人たちですか? 性格は?」
と、亀井が、きく。
「二人とも、まじめな、青年ですよ。私は、信頼しています。最近は、若い人たちが、船に乗らないように、なりましたからね」
井崎が、かばうように、いった時、西本が戻って来て、亀井の耳もとで、報告した。
亀井の眼が、光った。
「井崎さん」
と、亀井は、相手を見つめて、
「みんなで、かばい合うのは、止めた方がいいですね。これは、殺人事件の捜査なんですよ」
「何のことですか?」
「今、あなたは、昨日の午後五時から六時までの間、あなた以外の五人は、会社の食堂で、夕食をとっていたといわれましたね?」
「ええ。その通りだから、いいでしょう」
「食堂のおばさんも、買収しておいた方が、よかったですね。今、こちらの西本刑事が、聞きに行ったところ、昨日の夕方、第三洋光丸の乗組員のうち、四人が、午後五時にやって来て、食事を始めた。十五、六分して、船長のあなたが、やって来た。ただ一人、青山透さんが、七時過ぎにやって来て、食べそびれたといって、一人で、食べたといっていますよ。つまり、青山透は、五時から、六時まで、食堂には、いなかったんですよ」
亀井は、まっすぐに、井崎を見つめた。
井崎は、急に、眼をそらせてしまった。
「食堂のおばさんの思い違いじゃないですかね」
「それは、違いますね」と、西本が、いった。
「コックの山代さんも、同じことをいっていましたよ。青山さんだけ、七時過ぎにやって来て、食事をしたとですよ。どうしたんだと、きいたら、青山さんは、彼女に会って来たといって、笑っていたということです。コックの山代さんも、食堂のおばさんも、十二年も、この会社の食堂で働いていて、みんなとは親しいから、間違える筈《はず》はないと、いっていましたね」
「それなら、青山君は、彼女に会って来たんでしょう」
「しかし、さっきは、青山本人も、みんなと一緒に、食事をしていたといっていたんじゃありませんか?」
「それは、本人も、思い違いをして――」
と、井崎が、いいかけた時、窓の外に眼をやっていた西本が、
「船員が一人、逃げ出します!」
と、亀井に、知らせた。
すぐ、自動車のエンジン音が聞こえた。
亀井と、西本は、部屋を飛び出し、階段を駆けおりた。
白い車が、猛烈な勢いで、走り出すのが見えた。
非常線が張られ、車で逃げた青山透は、一時間後に、逮捕された。
彼の自供は、ほぼ亀井の予想した通りだった。
青山と、木戸は、前から仲が悪く、あの日、船が京浜運河に入ったところで、二人は、甲板上で、ケンカを始めた。
かっとした木戸が、バットで、殴りかかって来た。
そのバットは、木戸が、素振りをしていたものだった。
青山が、逆に、それを奪って、木戸の後頭部を殴りつけたのである。その衝撃で、木戸は、海へ転落した。
前から、木戸は、嫌われていたので、全員で、木戸が、誤って海へ落ちたことにすることになった。
しかし、それを、海芝浦のホームで、めぐみに見られたと思ったのである。
だから、必死になって、彼女を見つけ出して、殺した。
「おれは、船からおりると、タクシーで、鶴見駅へ直行したよ」
と青山は、いった。
「多分、鶴見駅へ帰って来るだろうと思っていたら、案の定だった。それから、彼女をつけて、アパートまで行ったよ。そして、チャンスを狙《ねら》って、彼女の口を封じたのさ。その間に、彼女が、警察に喋《しやべ》ったとしたって、肝心の目撃者がいなけりゃ、大丈夫と思ったんだ」
「彼女は、近眼だったから、君が、木戸を殴るところは、見えなかったんだよ」
と、亀井がいうと、青山は、青い顔で、
「おれも、ハンドバッグの中に、眼鏡が入っているのを見つけたとき、あっと、思ったんだ。でも、その時は、もう遅かったよ」
と、いった。
次の日曜日。
田代は、一人で、鶴見線に乗り、海芝浦駅に行った。
今日も、海芝浦でおりたのは、田代一人だった。
彼は、しばらくの間、運河を見つめていた。
前と同じ光景なのに、別の景色のように見えた。陽《ひ》は当っているのに、暗く、重い景色だった。
めぐみは、ここで死んだのではなかったが、田代は、持って来た小さな花束を、海に向って、投げ込んだ。
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西の終着駅の殺人
東京駅の10番線ホームは、帰省客で、あふれていた。
東京警視庁捜査一課の若い清水刑事も、その中にいた。
清水は、南九州の枕崎《まくらざき》の生れである。
八月十三日から二日間、夏祭りが行われるので、東京や大阪へ出ていた人々も、帰って来る。
清水も、両親から、帰省するようにいわれているのだが、去年は、事件に追われて、帰ることが出来なかった。
今年は、三日間の休暇を貰っての帰省である。
午後四時三十五分。あと十五分で、清水の乗るブルートレインの「はやぶさ」は、発車する。
明日の飛行機の利用も考えたが、結局、ブルートレイン「はやぶさ」にしたのは、清水が、初めて、上京した時、この列車を使ったからである。
郷里の枕崎に帰るのは、四年ぶりだろうか。夏祭りに参加するとなると、六年ぶりかも知れない。
子供のように、胸が、わくわくする。子供の時に担いだみこしの思い出が、よみがえってくる。
売店で、駅弁と、煙草《たばこ》を買って、「はやぶさ」に乗り込みながら、清水が、気になったのは、台風が、九州に近づくのではないかということだった。
現在、台風11号は、宮古島《みやこじま》の南にいる。時速十五キロというゆっくりしたスピードで、北上しているが、急に、速度をあげ、下手《へた》をすると、九州へ上陸しかねない。そうなったら、祭りは中止になってしまうだろう。
「はやぶさ」の乗客は、清水のように、九州まで行く人が多いらしく、ホームで、心配そうに新聞の天気予報のところを見ている。
清水は、自分の切符を、見直してから、6号車に乗り込んだ。
6号車の9下段の席である。
普段、ブルートレインは、五十パーセントぐらいの乗車率ということだが、夏の帰省シーズンに当ったせいか、ほぼ、満席になっている。
家族連れが多く、通路に、子供の声がやかましいのも、このシーズンだからだろう。
一六時五〇分。
「はやぶさ」は、東京駅を、発車した。まだ、強い西陽《にしび》が、窓に当っている。
しばらくは、明るいだろうし、眠る気分にはなれまい。
清水は、寝台に横になって、週刊誌を読み始めた。
列車は、横浜、富士、静岡と停車した。
清水は、途中で、駅弁を広げて、食べ始めた。
新幹線での旅行の時には、食堂車を利用するが、他の列車の時には、清水は、なるべく、駅弁を食べることにしていた。特別な理由が、あってのことではないのだが、何となく、そうしているのである。
食事をすませてから、「はやぶさ」に連結してあるロビー・カーに行ってみた。
ソファや、テーブルに、五、六人の乗客がいて、お喋《しやべ》りをしたり、自動販売機で買ったビールを飲んだりしていた。
清水も、缶ビールを買い、空いている席を探した。
車窓に面して並んでいる椅子《いす》の一つが空いていたので、清水は、それに腰を下ろした。
小さなテーブルがついているので、それに缶ビールをのせ、清水は、煙草に火をつけた。
眼の前の窓ガラスには、夜景が、広がっている。
その夜景が、横に流れていく。
「すいません」
と、ふいに、横の椅子にいた若い女が、声をかけて来た。清水が、「え?」という顔を向けると、彼女は、
「台風が、どの辺に来てるか、ご存知だったら、教えて頂けません?」
と、真剣な表情でいった。
年齢は二十五、六歳だろうか。美人だし、着ているものは高そうだが、どこか、暗い、かげを感じさせた。
「夕刊では、まだ、沖縄のずっと、先だということでしたがね」
「九州は、大丈夫かしら?」
女は、窓の外に眼をやって、呟《つぶや》いた。
「あなたも、九州へ行かれるんですか?」
清水は、興味を感じて、女に、きいた。
「終点の西鹿児島まで行くんです。だから、台風のことが、心配で」
「僕も、西鹿児島までです。故郷《くに》が、枕崎でね。だから、余計、心配なんですよ。台風銀座ですからね」
「枕崎なら、子供の時、遊びに行ったことがあるわ」
女は、急に、眼を輝かせ、枕崎で遊んだ時の思い出を、喋り始めた。その中には、小学生の夏休みの時、枕崎へ行って、祭りを見たことも、入っていた。
彼女の話は、具体的で、清水の思い出を、いやがうえにも、かきたててくれた。
「ひょっとすると、子供の頃、枕崎で一緒にいたかも知れないな。僕は、小学生の頃、目立ちたがりで、いつも、お祭りの先頭に立っててね。特に、女の子が見てると、異常に張り切ってね」
清水がいうと、女は、嬉《うれ》しそうに笑って、
「いたわ。そういう男の子が」
「いたろうな。あの頃が、僕にとって、思春期だったのかも知れないな」
「かっこのいい男の子がいたわ」
「それが、僕だといいたいが、違うだろうね。僕は、子供の頃、チビでね。すばしっこかったけど、かっこはよくなかったかも知れないな」
「小さくても、かっこのいい男の子がいたわ。あれ、あなただったかも知れない」
女が、フォローしてくれて、清水は、彼女に、一層、親しみを感じた。
清水が、先に、自分の名前をいうと、女も、新井はるみと、教えてくれた。
「車掌さんは、天気のこと、知ってないかしら?」
と、そのはるみが、いった。
「僕が、聞いてくる」
清水は、立ち上った。
1号車に向って歩いて行く途中で、専務車掌に出会ったので、一番新しい天気予報は、わからないかと、聞いてみた。
五十二、三歳の専務車掌は、笑って、
「ご心配ですか?」
と、きき返したところをみると、清水の他にも、乗客の多くが、専務車掌に、天気のことを、聞いているらしい。
「鹿児島の枕崎に、帰郷するんですが、台風のことが、心配なんですよ。明日、夏祭りなんでね」
「なるほど、名古屋に停車した時、駅員が、最新の台風情報を書いて、渡してくれました」
と、専務車掌はいい、ポケットから、折りたたんだ紙片を取り出して、見せてくれた。
〈午後七時の台風情報〉
と、書かれてあった。
どうやら、名古屋の駅員が、サービスの一つとして、九州方面に行く列車の乗務員に、渡しているもののようだった。
〈台風11号は、午後七時現在、宮古島の南東二百キロにあって、一時間十五キロというゆっくりしたスピードで、北上を続けている。しかし、この時期の台風のクセとして、突然、スピードをあげることがあるので注意が必要である。台風11号が、最悪のコースをとった場合は、九州南部に上陸し、九州を縦断して、本州に達することも、考えられる〉
清水は、それを覚えて、ロビー・カーに戻った。
はるみは、心配そうに、清水を迎えて、
「どうでした?」
「今のところ、この列車が、西鹿児島に着くまでは、大丈夫みたいだよ。台風11号は、のろのろとしか、動いていないみたいだから。急に、スピードを上げると、危ないらしいが」
清水は、安心させようとして、大丈夫の方に、力を入れて、いったのだが、はるみは、眉《まゆ》をひそめて、
「きっと、台風とぶつかってしまうわ」
「なぜ? 今のところ、大丈夫だという予報だよ」
「でも、台風がスピードをあげたら、危ないんでしょう?」
「それは、ひょっとするとだね。大丈夫の確率の方が、高いんだ」
「私は、ずっと、運が悪いの。だから、きっと、台風にぶつかって、この列車が、停《とま》ってしまうわ」
はるみは、肩をすくめた。
清水は、元気づけるように、
「僕はね。ずっと、運がいいんだ。自動車事故の時も、他の奴《やつ》は、怪我《けが》をしたけど、僕だけは、かすり傷もなかった。子供の時から、運が強いんだよ。だから、僕が一緒だから、台風には、ぶつからないよ」
「私は反対なの。私だけが、駄目になるのよ」
「そういう考えは、やめた方がいいな」
清水は、何となく、説教口調になってしまった。
「悪く、悪く考えてると、本当に悪くなってしまうよ」
「ありがとう。でも、本当に、私の人生って、上手《うま》くいかないの」
「そうかな」
清水は、じっと、はるみを、見つめた。
はるみは、くすぐったそうな顔をして、
「何を見てるの?」
「君を見てるんだよ。君は、魅力的な美人だ。これだけだって、君は、幸運じゃないか。それに、着ているものだって、かなりの高級品だと思うね。男の僕には、女の人の服装なんか、よくわからないが、それでも、いいものを着てることだけはわかる。それで、不幸だとか、何をしても、上手《うま》くいかないなんていってるのは、ぜいたくじゃないかな」
清水が、いうと、はるみは、手を振って、
「あなたには、わからないわ」
「そりゃあ、僕は、君のことは、何も知らないさ。今日、初めて会ったんだからね。でも、僕の性格として、君のいい分には、賛成できないんだな」
「変な人ね」
と、はるみは、笑った。
「どうして?」
「他人が、幸福になろうが、不幸になろうが、構わないじゃないの」
「しかし、気になるんだな。まるで、台風にぶつかったら、何もかも、駄目になるみたいないい方をするからだよ」
清水がいうと、はるみは、急に、暗い表情になって、
「本当に、駄目になるんだわ」
と、これは、ひとりごとのように、いった。
「それは、変じゃないかな。万一、台風にぶつかって、この列車が、おくれたって、人生自体が、変るわけじゃないんだからね。僕だって、ちゃんと、定時に西鹿児島に着いてくれないと、枕崎のお祭りに、間に合わなくなるけど、それで、僕の人生そのものが、変るわけじゃない」
清水が、妙に、勢い込んでいったのは、はるみに、それだけ、魅力があるということだろう。魅力的な女の前では、男は、能弁になるというからである。
はるみは、黙って、缶ビールを飲んでから、
「私ね、賭《か》けたのよ」
「賭けたって、何を賭けたの?」
「この列車が無事に、時間通りに西鹿児島に着いたら、私は、助かる。もし、駄目だったら――」
そこまでいって、急に、口をつぐんでしまった。
清水は、気になって、
「駄目だったら、どうなるわけ?」
と、きいた。はるみは、いやいやをするように、首を振って、
「そんなこと、いいじゃないの」
「気になるんだよ。助かるっていうのだって、変ないい方だしね」
「何でもないのよ」
「いいかけたんだから、教えてくれないかな」
「何でもないの。それに、これは、私自身のことで、あなたには、関係ないわ」
「そうかも知れないが、気になるんだ」
「でも、他人のあなたには、どうにもならないわ」
「それはそうだが、折角、同じ列車に乗ったんだし、こうして、ロビー・カーで、お喋《しやべ》りをしたんだしね。何か、気になることや、悩んでいることがあるんなら、話してくれないかな。若いけど、これで、なかなか、頼りになるんだよ」
「牧師さん?」
「いや。違うけど、似たような職業かも知れないな」
「ふーん」
と、はるみは、考えるような眼をしたが、また、肩をすくめるようなゼスチュアをして、
「何でもいいじゃないの。嫌な話は、もう止めましょう。乾杯」
と、缶ビールを手に持った。
清水は、はぐらかされたような気がして、
「君の話を聞きたいんだがなあ」
「いいの、いいの。楽しい話をしましょうよ」
はるみは、はしゃいだ声を出した。そのあと、とりとめのない話を、だらだらとしていたが、それが、五、六分も続いたあと、急に、はるみの表情が、変った。
「私ね。逃げるために、この列車に乗ったのよ」
と、はるみは、真剣な眼で、清水を見た。
清水も、つられて、自然に、真剣な眼になった。
「誰から逃げようとしてるの?」
「それは、いえないけど、このまま、西鹿児島に着いたら、きっと、逃げ切れると、自分に、いい聞かせてるのよ。でも、今までも、ずっと、上手《うま》くいかなかったから、きっと、駄目になるの」
「誰かが、君を捕えに、追いかけて来るというのか?」
「そう」
「なぜ、警察にいわないんだ? 事情を話せば、君を守ってくれると思うけどね」
「警察は駄目、動いてくれる筈《はず》がないのよ。だから、自分で、逃げ出したの」
はるみは、声をひそめて、いった。
「何から逃げてるのか、教えてくれないかな」
と、清水は、同じことをいった。
「でも、あなたが、それを知ったら、今度はあなたが狙《ねら》われることになるわ」
「そんなこと、構わないよ」
「駄目だわ。あなたまで、巻添えには出来ないわ」
「もう、巻添えになってるよ」
と、清水は笑って見せた。
はるみは、そんな清水を見て、
「怖くない?」
「別に、怖いとは思わないね。正直にいうと、殺されるとか、脅かされるといったことには、慣れてるんだよ」
「――――?」
はるみは、考えるような眼になっていたが、
「大変なお金持ちの人がいたの。名前も知られているわ。政治家にも、芸能人にも、沢山知り合いがいて、世間では、名士で通っているわ」
「うん」
「それと、九州の田舎《いなか》から上京して、銀座のデパートで働いていた娘がいたの。ある日、突然、彼女は、その偉い人の秘書になったわ。有名人だし、人格者の秘書ということで、彼女は、有頂天になっていたわ。周囲の人たちも、祝福してくれたわ。ところが、その中《うち》に、彼が、人格者なんかじゃないことが、わかって来たの。それどころか、悪人だったわ。もっと、具体的にいえば、二年前に起きた事件の真犯人だということも、知ったのよ」
「それ、どんな事件だったの?」
と清水は、きいた。
清水が、刑事として、捜査一課に配属されたのは、丁度、二年前である。もし、東京で起きた事件なら、ひょっとして、自分が、関係しているかも知れない。
「猟奇的な事件だったから、新聞が、毎日、かきたてたわ」
「その事件の犯人だったわけ?」
「犯人は、捕って、もう死刑の判決を受けたわ。でも、本当は、違ってたの。それを知って、彼女は、怖くなったわ」
「なぜ、警察に、いわなかったの?」
「証拠がないわ。ただ、彼が、自慢げに、部下の一人に、あの事件の犯人は、自分だというのを聞いただけなのよ」
「なるほどね」
「それから、秘書をやめて、逃げたくなったわ。でも、なかなか、逃げられなかった。怖かったし、正直にいえば、お金のこともあったわ。夢みたいな給料をくれてたの。多分、彼のつもりでは口止め料も、入っていたんじゃないかと思うわ。黙って、何も考えずに働いていれば、ぜいたくが出来るというのも、逃げられない理由の一つだったわ」
「それが、やっと、逃げる決心がついたわけなんだね?」
「ええ。でも、逃げ切れるかどうか、わからないわ。ただ、自分に、いい聞かせてみたの。もし、台風にぶつかりもせずに、無事に、西鹿児島に着けば、逃げられるってね。もしうまく、西鹿児島に着いたら船を一隻買って、九州の海を、ふらふらしてみようかと思ってるの。そのくらいのお金は、貯《た》めたし、海が好きだから」
「証拠があればねえ」
「え?」
「君のいう、いやな男のことさ。二年前の事件の真犯人だという証拠があれば、逮捕できる。そうすれば、君だって、逃げ廻《まわ》る必要はないんだ」
「駄目だわ。証拠がないから、彼は、平気でいるのよ」
と、はるみは、小さく、溜息《ためいき》をついた。
急に、何かを叩《たた》くような音がした。雨滴が、窓ガラスにぶつかり始めたのだ。
はるみの顔が、暗くなった。
「やっぱり、台風が、近づいて来てるんだわ」
「そんなことは、ないよ。こんな雨は、すぐ止むよ」
「そうだと、いいんだけど」
「止むさ」
と、清水は、力をこめて、いった。
しかし、窓に当る雨滴の勢いは、どんどん強くなっていった。
午前一時近くになって、清水は自分の座席に引き揚げた。
はるみも、少し眠ると、いった。
ブルートレイン「はやぶさ」は、雨と風の中を走り続けている。
神戸を通過したあたりである。この列車は、朝の五時〇七分に、岩国に着くまで、停車しない。
もう、ほとんどの乗客は、眠っていた。カーテンの中から、寝息が聞こえてくる。歯ぎしりの音もする。
清水は、ベッドに、もぐり込んだが、なかなか、眠れなかった。
雨と風の音が聞こえるのと、はるみの話が、頭に、こびりついていたからである。
彼女の話が、でたらめとは、思えなかった。
(二年前の猟奇的な事件か)
確かに、そんな事件が、あった。
夏だった。
例年にない熱波が、東京を襲っていた。
そんな暑さの中で、若い女が、次々に、全裸で殺される事件が、起きた。
乳房を、ナイフで切り裂かれ、どの死体も、血まみれだった。そのくせ、なぜか、性交の形跡はないのだ。
不能者か、或《ある》いは、女の犯行と思われた。
四人目の被害者が、出たところで、犯人が、逮捕されたのである。
二十五歳の無職の青年だった。覚醒剤《かくせいざい》をやっており、二十一歳の時、結婚したのだが、不能であることがわかって、離婚していた。
青年は、自供した。が、弁護士は、精神錯乱を理由に、無実を主張した。
あれは、結局、無期懲役の判決を受けたのではなかったろうか。
煙草《たばこ》を、何本か吸い、缶ビールをあけた末、やっと、清水は、眠りにつくことが出来た。
熊本で、うしろの八両が、切り離され、六両だけになって、終着の西鹿児島に向ったのだが、その頃から、一層、風雨が強くなってきた。
はるみの予感が、当ってしまったのだ。
台風11号が急にスピードをあげて、九州南部に、上陸の気配を見せたのである。
急に、「はやぶさ」が、停車した。
同時に、電灯が消えてしまった。昼間なのだが、車内は、いっきにうす暗くなってしまった。
どうやら、この先で、架線が切れてしまったらしい。
雨が、窓を叩き、外を見ると、遠くの木々が、ゆれ動いているのがわかった。
何か、小石でも当ったのか、屋根で、大きな音がした。
あと、何キロかで、終着の西鹿児島なのに、列車は、全く、動かなくなってしまった。
クーラーも、止まって、少しずつ、車内がむし暑くなってきた。
車掌のアナウンスもないので、どんな状態なのか、わからない。
6号車にいた清水は、先頭の1号車に向って、通路を歩いて行った。
「はやぶさ」の1号車は、個室寝台である。その4号室だと、ロビー・カーで別れるとき、はるみが、教えてくれていたからである。
1号車は、片側が、通路になっていて、その通路に面して、十四の個室が、並んでいる。
ここも、クーラーがきかなくなっていて、個室から、通路に出て、涼をとっている乗客の姿が多かった。
清水は、4号室の前に行き、ドアをノックした。
返事がない。
清水は、急に不安になった。昨夜、ロビー・カーで、はるみが、強い不安を、口にしていたからである。
こぶしを作って、ドアを、激しく叩《たた》いたが、相変らず、応答が、なかった。
清水は、1号車のデッキの近くにある乗務員室に行き、専務車掌をつかまえた。
「4号室を、あけてくれませんか」
と、清水は、いった。
「4号室のお客さんですか? 確か、あの部屋は、若い女の人が、おいでの筈《はず》ですが」
専務車掌は眉《まゆ》をひそめて、清水を見た。
「わかってますよ。その女性の様子がおかしいから、見てくれって、いってるんですよ」
「おかしいって、なぜですか? やたらに、開けるというのは、まずいですよ」
と、専務車掌がいう。
清水は、いらいらして来て、
「僕は、捜査一課の刑事だ。早くあけるんだ!」
と、怒鳴った。
その勢いに、驚いて、車掌は、4号室へ行き、ドアのカギを開けてくれた。
清水が先に、中に入った。
ベッドの上で、はるみが寝巻姿で、俯伏《うつぶ》せに横たわっていた。
眠っているのではないことは、すぐわかった。清水が、あんなに強くドアを叩き、中に入っているのに、起き上って来ないからである。
彼女のくびに、紐《ひも》が巻きついているのが見えた。
「おい」
と、清水は、背中を叩いた。
だが、何の反応もない。手首をつかむと、脈がなくなっていた。
「どうしたんですか?」
と、うしろで、専務車掌が、きいた。
「死んでるんだ」
「そんな――」
「のどを絞められて、殺されてるよ」
清水は、乾いた声で、いった。
まだ、身体は、あたたかい。殺されて、間が、ないのだ。
「どうしたらいいんですか?」
車掌が、青い顔で、きいた。
「この列車は、いつになったら、動くんですか?」
「切れた架線が、復旧すれば、動きます。或いは、ディーゼル機関車が来て、引っ張ってくれるかです」
「いつになるか、わからないんですか?」
「わかりませんね。台風が、鹿児島に近づいていますから」
「困ったな」
と、清水は、呟《つぶや》いた。
清水の胸に、はるみの言葉が、よみがえってくる。
私は、不運つづきだという言葉である。殺されてしまったのを見ると、彼女の言葉が、強烈に、思い出されてくるのだ。
清水は、そんなことはないと、励ました。
彼の手で、犯人を捕えてやれば、少しは、はるみの霊も、浮ばれるだろうか。
一時間近くたって、やっと、ディーゼル機関車が、やって来た。
それが、六両編成の「はやぶさ」を、あと押しする恰好《かつこう》で、のろのろと、動き始めた。
終着の西鹿児島に着いたのは、午後五時近かった。
西鹿児島の駅も、鹿児島の町も、停電中だった。
暴風雨の真っただ中に置かれているのだ。
そんな中で、はるみの遺体は、ひとまず、駅舎の隅に運ばれた。
清水は、傍に、つき添っていた。
パトカーがやって来て、頭や、肩をぬらして、刑事たちが、駅舎に入って来た。
鹿児島県警の刑事たちである。
清水は、肩書つきの名刺を渡し、事情を説明した。
「すると、被害者は、殺されるかも知れないと、覚悟していたわけですか?」
木下という中年の刑事が、清水に、きいた。
「そうです」
「犯人は、同じ列車に乗っていたわけですね」
「そう思います。しかし、僕が、死体を発見するまでに、降りてしまっていたかも知れません」
「そうですね。犯人が、いつまでも、列車に残っている筈《はず》がありませんからね」
と、木下刑事は、いってから、
「それにしても、死体のあった個室寝台の4号室は、カギが、かかっていたんでしょう?」
「そうです」
「密室じゃないんですか?」
「そうですが、車掌の話では、内部の差し金を、真上にあげておいて、うまくドアを閉めると、カギが、かかった状態になるんだそうです。従って、犯人は、そうやって、逃げたのかも知れません」
「若くて、美人なのに、可哀《かわい》そうですね」
と、木下刑事は、死体に、眼をやった。
清水は、駅の電話を借りて、東京の十津川警部に、連絡をした。
清水は、列車の中で起きた事件のことを説明した。
十津川は、
「君は、折角休暇をとったんだから、捜査は、鹿児島県警に委せて、枕崎に帰りたまえ」
と、いってくれた。
「その気になれません。どうしても、彼女の仇《かたき》をとってやりたいんです」
「君のせいで、殺されたわけじゃないだろう」
「そうなんですが、気がすみません。二年前のあの事件のことを調べて下さい」
「あの猟奇事件は、もう解決しているよ」
「しかし、彼女は、犯人は、別にいると、いったんです」
「それを、信じるのかね?」
「はい」
「なぜだ?」
「彼女が殺されたのが、その証拠だと思っています。犯人は、わざわざ、東京から、西鹿児島まで追って来て、列車の中で、彼女を殺したんです。口を封じたんです」
「うーん」
と、十津川は、しばらく考えていたが、
「彼女のいった人物を、見つけ出してみよう。金持ちで、有名人で、彼女が秘書をやっていた男だ」
と、いってくれた。
清水が、電話している間も、駅舎は、きしみ、窓ガラスが、不気味に、音を立てていた。
猛烈な勢いで、雨が落ちてくるかと思うと、風の音だけになったりする。風速は、三十メートルを越えているだろう。
はるみの死体の傍では、木下刑事が、彼女の所持品であるルイ・ヴィトンの旅行|鞄《かばん》の中身を調べていた。
「なかなか、ぜいたくなものを、持っていますよ」
と、木下は、清水に、いった。
着がえの服《ドレス》の横に、宝石箱があって、中には、ルビーの指輪や、エメラルドのネックレスなどが入っていた。
「預金通帳の額は、二千万円を越えていますね。まるで、全財産を、持って、旅行していたみたいですね」
「きっと、それで、船を買うつもりだったんでしょう」
と、清水は、いった。
二年前の事件については、木下刑事には、いわなかった。
「高価なものは、いくらでもあるのに、身元を証明するようなものは、何もありませんね。運転免許証も、保険証もないですよ」
「それは、きっと犯人が、持ち去ったんだと思いますね」
と、清水は、いった。
新井はるみと、彼女は、いった。その名前も、偽名かも知れないが、彼女が話してくれたことは、事実だと、清水は、信じていた。もし、でたらめだったら、彼女は、殺されることもなかったろうからである。
急に、嵐が、止まった。
風も、雨も、ぴたりと止み、陽《ひ》が射してきた。台風11号の眼に入ったのだ。
その間に、はるみの死体は、解剖のために、運ばれて行った。
三十分すると、再び、猛烈な嵐が、やってきた。
東京では、十津川が、亀井刑事と、二年前の事件の調書を、読み直していた。
犯人の片岡信、二十五歳は、無期懲役の判決で、すでに、刑務所に入っている。
「確か、この男は、覚醒剤《かくせいざい》の常用者だったね」
と、十津川は、亀井に、いった。
「そうです。自供したんですが、問題はありました。精神状態が、多少、おかしくなっていましたから、刑事の訊問《じんもん》に、向うから、迎合する時がありました」
「清水刑事の会った女が、犯人は、他にいるといっていたというんだ。その女が秘書をしていた男らしい。有名人で、政治家や、芸能人に顔がきく金持ちだそうだ」
「それだけでは、あいまいですね」
「この事件の捜査の過程で、それらしい人物が、浮んで来なかったかね?」
「とにかく、三百人近い人間を、調べましたから」
と、亀井は、いってから、しばらく考えていた。
「一人いたよ」
と、十津川がいうのと、亀井が、
「そういえば――」
と、いうのが、同時だった。二人とも、同じ人物を、思い出したのである。
「大沼安雄」
と、十津川が、いった。
「そうです。彼なら、ぴったり一致します」
「あの男がね」
十津川は、傲慢《ごうまん》な男の顔を思い出した。
大沼は、事件の時四十九歳だったから、今は、五十一歳になっている筈である。
兄は、国務大臣を務めたことのある政治家である。
大沼自身は、大沼興業というビルの管理を行う会社を経営していた。銀座や新宿などに、五十近いビルを所有し、資産は、数百億円といわれている。芸能人が好きで、有名な歌手や、タレントのスポンサーになってもいた。
彼が、容疑者の一人になったのは、殺人現場近くで、二度にわたり、彼のものと思われるジャガーが、目撃されたからである。
しかし、大沼を調べ始めると、猛烈な圧力が、かかってきた。それだけでなく、大沼のアリバイを証言する人間が、ぞろぞろ現われたのである。その中には、有名な歌手もいたりした。
結局、犯人が見つかって、事件は解決したのだが、大沼には、いくつかの不審な点があった。
四人の若い女が殺されたのだが、彼の白いジャガーが、その中の二人が殺された現場近くで、目撃されたことも、その一つだが、他にも、四十九歳の彼が、独身でいることも、不審の一つだった。
もちろん、独身を続けて、悪いことはないのだが、それに伴って、いろいろな噂《うわさ》が流れていたからである。
大沼は、いくらでも女はいるから、別に、結婚はしなくてもいいんだと、いっていた。事実、資産家で、独身の大沼に、女の方から近づくことが、よくあるらしい。ただ、その中の何人かに会ってみると、いずれも、大沼に、暴力を振われて、怖くなったと証言した。
銀座のクラブのホステスが、「大沼さんは、女好きだけど、いざとなると、役に立たない」と、喋《しやべ》ったことがあった。そのホステスは、何者かに、半死半生の目にあわされ、ホステスをやめて、故郷《くに》へ帰ってしまった。
この他にも、大沼については、さまざまな噂があった。
銀座の高級クラブを、毎晩のように飲み歩くのだが、そのわりに、評判が良くないのである。理由は、威張り散らすことと、時々、暴力を振うことにあるらしい。
「あの大沼か」
と、十津川は、呟《つぶや》いた。
「再捜査となると、よほど用心深くやらないと、揚げ足をとられますよ」
「まず、新井はるみという秘書がいたかどうか、調べて来てくれ」
と、十津川は、亀井に、いった。
台風11号が、鹿児島に上陸したので、東京も、風が強くなっていた。
その風の中を、亀井は、若い西本刑事を連れて、出かけて行った。
三時間ほどして、亀井たちが、帰って来た。
「雨も降り出しましたよ」
と、亀井は、十津川に、いってから、
「確かに、新井はるみという秘書がいました。しかし、今日付けで、馘首《かくしゆ》しています」
「ブルートレインの中で、殺されたからかね?」
「違いますね。殺されたことは、まだ、ニュースで、やっていませんよ」
「そうだな。すると、いなくなったので、すぐ、馘首か」
「彼女が、何をいっても、当方には、関係がないという意思表示じゃありませんか」
「なるほどね、社長の大沼は、ずっと、東京にいたのか?」
「いました。大沼も、兄にならって、政界へ出る気らしく、最近、政界の大物といわれる人間に、しきりに、会っています。昨夜も、九時から、保守党の長老のNと、新橋の料亭で、会っています。これは、確認しました。そのあと、『はやぶさ』を追いかけるのは、無理です。飛行機も、新幹線も、もう動いていませんから」
「すると、部下にやらせたかな?」
「大沼が犯人なら、部下がやったんだと思います」
「自分が、手を下してないのだとすると、犯人を逮捕して、大沼の指示だと証明するのは大変だな」
「私も、そう思います。ただ、今もいいましたように、大沼は、政界へ進出したがっています。そのため、小さなスキャンダルでも、怖がっています。臆病《おくびよう》になっています」
「そこが、つけ目か」
「そう思います。秘書だった新井はるみを殺したのも、そのせいだと思いますね」
台風11号は、九州を斜めに進んだあと、山口県をかすめて、日本海に、抜けた。
清水刑事は、空路が回復するのを見て、鹿児島から、東京へ戻って来た。
「枕崎へは、行かなかったのかね?」
と、十津川が、きいた。
「故郷《くに》へは、正月にでも行きます。それより、列車の中で殺された新井はるみの仇《かたき》がとりたいんです。彼女は、ひょっとすると殺されるかも知れないみたいに、いっていたんです。それなのに、守ってやれませんでした。だから、せめて、犯人を見つけてやりたいんです。例の男は、わかりましたか?」
清水は、眼を光らせて、いった。
「わかったよ。大沼興業の社長だ。新井はるみが、秘書をやっていたことも、わかったよ」
「あの男ですか」
「そうだ。君も、うちへ来て、最初に、あの事件に、ぶつかったんだったね」
「そうなんです。だから、よく覚えています。あの大沼のことだったんですか」
「二年前の事件のことで、大沼を逮捕するのは難しい。出来るとすれば、今度の殺人についてだな。ただし、大沼自身は、アリバイがある。部下にやらせたんだろう」
「そうですか」
「君は、新井はるみを殺した犯人は、見ていないんだろう?」
「彼女が殺された時には、不覚にも、寝ていたんです」
「死体の傍に、犯人の遺留品は、なかったのかね?」
と、今度は、亀井が、きいた。
「ありません」
「すると、犯人が、大沼の部下に違いないとしても、見つけるのが、大変だねえ」
「しかし、何とかして、犯人を見つけたいと思います」
「鹿児島県警から、殺された新井はるみについて、捜査を頼むという依頼が来ている。大沼興業に行って、大沼に会ってみるかね?」
と十津川が、亀井にいった。
亀井が、肯《うなず》くと、清水も、
「私も、同行させて下さい」
「しかし、君は、犯人を見ていないんだろう?」
「そうですが、どうしても、大沼の顔を見たいんです」
「妙な真似《まね》はしないだろうね?」
「大丈夫です」
と、清水は、いった。
十津川は、亀井と、清水をつれて、銀座にある大沼興業を、訪ねた。
銀座の一等地にある七階建のビルである。
大沼は、七階にある社長室にいた。その七階の窓から見える銀座の景色が、大沼の自慢だった。
「ブルートレイン『はやぶさ』の車中で、新井はるみさんが、何者かに殺されました。彼女のことで、お聞きしたいことがありましてね」
十津川が、いうと、大沼は、パイプをいじりながら、
「彼女は、解雇したんだ。もう、うちとは関係のない女でね」
「しかし、大沼さんの秘書を長くやっていたわけでしょう。それで、犯人に、心当りはないかと思って、伺ったんです」
「何も知らんね。いろいろと、男関係の噂《うわさ》があった女だから、そっちの線じゃないかな」
「男関係ですか」
「そうだよ」
と、大沼が、肯《うなず》く。
その間にも、時々、電話が鳴り、人が出入りした。十津川の質問は、しばしば、中断された。大沼は、この忙しさが得意気だった。
「彼女は、なぜ、辞めたんですか?」
と、十津川が、きいた。
「辞めたんじゃなく、解雇したんだ」
「理由は、何ですか?」
「信用がおけなくなったからだよ。今もいったように、男関係が激しいし、嘘《うそ》が多いんでね。辞めて貰ったんだ」
「今でも、ジャガーに、乗っておられるんですか?」
と、亀井が、きいた。
「ジャガー?」
「白いジャガーです。二年前に、自分で運転なさっていたでしょう。例の事件の頃です」
亀井がいうと、大沼は、急に、不快な顔になって、
「あの事件は、もう終ったんだ。それから、白いジャガーには、もう乗っていないよ。今は、ベンツだ」
「殺された新井はるみさんですが、友人の一人に、二年前のあの殺人事件の犯人は、うちの社長らしいと、いっていたそうですが、そのことを、どう思われますか?」
十津川は、思い切って、きいてみた。
案の定、大沼の顔が、ゆがんだ。
「だから、あの女は、嘘ばかりつくといったんだ」
「彼女のいったことは、嘘だと?」
「決ってるじゃないか。ごらんのように、忙しいので、もう失礼するよ」
と、大沼はいい、十津川たちを、追い出すように、立ち上った。
十津川たちは、社長室を出た。
エレベーターのところまで歩いてくると、いつの間にか、清水の姿が、消えてしまっていた。
「困った奴《やつ》だな」
と、十津川は、いった。
「まさか、大沼に、何かするということはないと思いますが」
と、亀井が、いっているところへ、清水が戻って来た。
三人で、エレベーターに、乗ってから、
「どこに行ってたんだ?」
咎《とが》めるように、十津川が、きいた。
「トイレです」
「しかし、トイレは、あの階の廊下の突き当りだろう。君は、右の方から出て来たぞ」
「間違えて、そっちへ行ってしまったんです」
「まあ、いい」
と、十津川はいった。
翌日、清水が、無断欠勤した。
「疲れているんだと思います。多分、家で、寝ているんだと思いますね」
と、亀井が、かばった。が、十津川は、笑って、
「今、彼のマンションに電話したが、留守だったよ」
「そうですか。けしからんな」
「カメさんは、本当に、知らないのかね?」
「知りません」
「きっと、新井はるみの犯人を、探しているんだろうが、なぜ、相談しないのかね?」
「彼は、新井はるみを死なせてしまったと、自責の念を強く持っていますから」
「困った奴だ」
と、十津川は、いった。
翌日も、朝は、姿を見せず、昼過ぎになって、やっと、出勤して来た。
疲れ切った顔をしている。どこかを歩き回ったらしく、靴が、汚れていた。
「申しわけありません」
と、清水は、十津川に、頭を下げた。
「どこへ行ってたんだ?」
「ある男の後をつけていました」
「誰だ?」
「名前は、広田功です。年齢は三十歳です」
「何者なんだ?」
「一人で、私立探偵社をやっている男です。主に、大沼に頼まれて、動き回っています」
「それで?」
「実は、警部や、亀井刑事と一緒に、大沼興業へ行った時ですが、社長室を出たら、三十五、六の男と、すれ違ったんです。どこかで見た男だなと思って、その男の後をつけました。トイレへ行ったというのは嘘《うそ》です。申しわけありません」
「その男が、私立探偵の広田功だったわけだね?」
「そうです。あの日、彼は、七階の経理課へ入って行ったので、大沼興業の社員かと思ったんですが、違ってました」
「昨日と、今日の午前中、広田の尾行をしていたのか?」
「そうです」
「なぜ、私に黙って、そんなことをしていたのかね?」
「どこで、あの男を見たのか、どうしても、思い出せなかったからです。もし、事件と何の関係もないことだったら、申しわけないと思ったんです」
「それで、どこで見たか、わかったのかね?」
十津川が、きくと、清水は、やっと、にっこり笑った。
「わかりました。やっと、思い出したんです。あいつを見たのは、ブルートレインの『はやぶさ』の中です」
「問題の日のか?」
「そうです」
「新井はるみと一緒にいるところを見たのかね?」
「いや、そうじゃありません」
「しかし、あの列車には、二百人以上の乗客が、いたんだろう。なぜ、その男のことだけ、覚えていたのかね? そいつを逮捕できたとしても、そのことが問題になるかも知れないよ」
「彼女とは、『はやぶさ』のロビー・カーで、会ったんです。二人とも、終点の西鹿児島へ行くことがわかって、話がはずみました。しかし、最初のうちは、二年前の事件のことは、一言も、話しませんでした。何か、困っているなと思って、いろいろと、探りを入れてみたが、どうしても、話してくれませんでした。ところが、突然、彼女が、喋《しやべ》り始めたんです。二年前の事件のこと、自分が秘書をやっていた社長が犯人だということ、怖くて、逃げ出したことなんかをです。私が、あっけにとられたくらい、彼女は、いっきに、喋ったんです。私は、なぜ、急に、彼女が、喋る気になったのだろうかと、考えました」
「それで、わかったのかね?」
「一つだけ、思い当ることが、ありました。その時、ロビー・カーには、私と彼女を含めて、五、六人の乗客がいたんです。そこへ、新しく、男の乗客が入って来て、隅に腰を下ろした。その直後に、彼女は、急に、喋り出したんですよ」
「その男が、私立探偵の広田か?」
「そうです。広田は、私立探偵といっても、大沼に、個人的に雇われている人間です。当然、彼女は、広田を知っていたと思います。その広田が、同じ列車に乗り込んで来たので、彼女は、殺されるかも知れないと思い、私に、全てを話してくれたんだと思います」
「それなら、広田が、恐らく、新井はるみを殺したんだろうね」
「私も、そう思いますが、証拠が、ありません」
清水は、口惜しそうに、いった。
十津川は、「そうだな」と、小さく呟《つぶや》いてから、じっと、考えていたが、
「こっちも、少しばかり、悪どい手を使ってみるかね」
「逮捕して、脅しますか?」
「そんなことはしないさ。君は、広田の顔をよく知っているわけだろう? 二日間、尾行したんだから」
「彼の写真も手に入れました」
清水は、一枚の写真を、十津川に、見せた。
「写真は、必要ないよ」
「は?」
「列車の中で見た時の広田の服装も覚えているかね?」
「だいたいは、覚えています」
「よし。すぐ、広田のモンタージュを作ろう」
「そんなものを作らなくても、彼の写真が、ありますが」
「いや、写真じゃなくて、モンタージュが、必要なんだよ。そのモンタージュに、列車に乗っていた時の広田の服装や身長などを、書き加えてくれ」
と、十津川は、いった。
絵の上手な刑事が呼ばれ、清水が協力して、広田のモンタージュを作った。
それを、十津川が、どうする気なのか、清水にはわからなかった。
わかったのは、翌日になってからである。
問題の日の「はやぶさ」に同乗していた専務車掌が、「私は、個室寝台の4号室から出てくる犯人を見た」といい、その犯人のモンタージュが、発表されたのである。その男の服装や身長なども、書かれていた。
これは、鹿児島県警から発表され、テレビ、新聞に、一斉に発表された。
「きっと、広田が、逃げ出すぞ」
と、十津川は、亀井や、清水たちに、いった。
十津川の考えは、的中した。
夜になって、広田が、逃げ出したのだ。それだけではない。
自宅マンションから逃げ出した広田を、ブルーのベンツが、はね飛ばそうとしたのだ。
十津川たちが、張り込んでいなければ、広田は殺されていたに違いない。
パトカーが突進して、そのベンツに、体当りをしたので、広田は、軽傷で、すんだ。ベンツを運転していたのは、大沼だった。
十津川たちは、大沼と広田を、逮捕した。
大沼は、ただ、ベンツを運転していただけだと、主張したが、広田の方は、怯《おび》えて、全てを自供した。
自分が、大沼の命令で、新井はるみを追いかけ、「はやぶさ」の個室寝台で、車掌になりすまし、検札です……といって、ドアを開けさせ、殺したことだけではなかった。一度、喋《しやべ》り出すと、とまらなくなる性格らしく、二年前の連続女性殺人事件の犯人は、大沼だということも、べらべら、喋った。
「社長は、病気ですよ。若い女を、次々に殺しても、平気なんてのは、病気ですよ。病気以外の何ものでもありませんよ。それは、わかってたんですが、金はくれるし、反対するのが怖くて、社長のいいなりになってたんですよ」
と、広田は、いった。
本書は昭和61年6月に実業之日本社よりジョイノベルズとして刊行されたものを文庫化したものです。
角川文庫『EF63形機関車の証言』平成元年6月10日初版発行
平成15年4月10日17版発行