[#表紙(表紙.jpg)]
雨の中に死ぬ
西村京太郎
目 次
雨の中に死ぬ
老人の牙
死んで下さい
浮気の果て
殺意の季節
誘拐の季節
[#改ページ]
雨の中に死ぬ
一
雨が降っていた。
冷たい冬の雨である。みぞれに近かった。
夜に入っても、止む気配がない。そのためか、十時をすぎると、盛り場の人影も、急に少くなった。
その男が、片手で腹を押さえ、路地裏からよろめき出て来たときも、雨の中に、人の気配はなかった。
中年の男だった。くたびれた背広は、雨に濡《ぬ》れて、黒ずんでいた。
男は、片手で、電柱に掴《つか》まった。が、急に力つきたように、ずるずると濡れた舗道に、崩れ折れてしまった。
男の腹のあたりから、真赤な血が吹き出している。その血を、雨が流している。
「助けてくれ」
と、男は、いった。が、その低い叫び声は、雨の音に消されてしまった。
水しぶきをあげて、タクシーが通り過ぎた。運転手は、ちらッと、倒れている男に眼をやったが、酔っ払いと思ったのだろう。一寸《ちよつと》スピードを落しただけで、通りすぎてしまった。
男は、顔を上げて、周囲を見回した。人の姿は何処《どこ》にもない。口を開けたが、もう、助けを呼ぶ声も出ないようだった。
血は、まだ、流れ続けている。男の顔は、次第に、血の気を失って行った。
男は、血に染まった指先で、舗道に、何かを書こうとした。だが、降り続く雨がそれを消してしまうのだ。
絶望が、男を捕えたようだった。
男は、何かを知らせたいのだ。だが、人の気配はないし、舗道に書いた文字は、雨に消されてしまう。
また、タクシーが、通りすぎた。が、男には、手をあげて止める力はもう残っていなかった。
男は、うつろな眼で、血に染まった掌を見つめた。指先は、硬直しかけていた。
男は、ゆっくり、左手の小指を、折った。その上に、親指を折って、重ねた。人差指、中指、薬指は、伸ばしたままだ。
「三」
と、男は、小さな声で、呟《つぶや》いた。が、それは、殆《ほとん》ど声になっていなかった。男は、最後の力を、ふりしぼって、左手を伸ばした。誰かに見て貰《もら》いたいとでもいうように。
だが、誰も見てはいなかった。
夜の闇《やみ》があり、雨だけが降り続いていた。
二
朝になって、雨は止んだ。
鈍い陽の光が、雨に濡れた舗道を照らし出した。
朝帰りの女給が、舗道に倒れている男を発見した。彼女も、最初は、酔っ払いが倒れていると、思ったらしい。彼女には、見あきた光景の一つのように、映ったのだ。
一度、通りすぎてから、急に可哀そうになって、声をかけたのだという。屈み込んだ時、彼女は、血の匂《にお》いを嗅《か》いだ。
警察が駈《か》けつけた時、男の身体は、完全に冷え切っていた。
鑑識課員が、男の身体を抱き起こすと、その下に、小さな血の海が出来ていた。激しい雨も、身体の下の血潮だけは、洗い流すことが出来なかったのだ。
男の白茶けた顔が、現われた時、刑事達の口から、一様に、あッという、小さな叫び声が生れた。
「ヤマさんじゃないか」
一人の刑事が、顔を歪《ゆが》めて、いった。
男の名前は、山崎専介、捜査一課の刑事だった。
昨日は、一か月ぶりの休暇をとっていた筈《はず》だった。
「久しぶりに、女房孝行をしてきます」と、嬉《うれ》しそうに、いっていたのだ。それが、何故《なぜ》、こんなところに、背広姿で死んでいるのだろうか。
仲間の刑事達の胸に、最初に浮んだのは、その疑問だった。
山崎刑事は、腹を、ナイフで刺されて死んでいた。山崎刑事は、酒は、嫌いな方である。だから、酔って、チンピラと喧嘩《けんか》したというようなことは、考えられなかった。
同僚の田島刑事は、課長にいわれて、山崎刑事の家に、知らせに走った。いやな役目だったが、誰かが、やらなければならなかったし、妻君にあって、訊《き》かなければならないこともある。
田島は、妻君とも、顔見知りだった。昔から、気丈な人だと思っていたが、山崎刑事の死を知っても、泣きは、しなかった。田島は助かったと思った。
「主人は、夕方、テレビを見ていて、急に出かけたんです」
と、妻君は、蒼《あお》い顔で、いった。
夕食のあと、山崎刑事は、テレビのニュースを見ていて、急に顔色を変え、飛び出して行ったのだという。
「もしかすると、今日は帰れないかもしれないと、いってましたので、警察へは、届け出なかったんですけれど」
「山崎君が見ていたのは、確かに、ニュースですね?」
「はい」
恐らく、画面の中に、何かを発見して、山崎刑事は、出かけたのだろう。田島達に連絡しなかったのは、よく確かめてからと、考えたからに違いない。昔から、慎重な性格だった。
田島は、改めて、悔みを述べ、山崎家を後にした。その時、初めて、低い嗚咽《おえつ》の声を聞いた。
三
田島は、その足で、テレビ局に回った。事情を話して、昨日のニュースを見せて貰《もら》うためである。
薄暗い小さな部屋で、田島は、ビデオを見せて貰った。十五分ほどのニュースだった。「雨にたたられた休日」という字幕が出てきた。田島は、改めて、昨日が、日曜日だったことを思い出した。刑事に、日曜という感覚は、あまりない。
人影のまばらな動物園の写真が出た。次が、盛り場の写真。アナウンサーが、「おかげで、興行街は、どこも満員でした」と、いう。
「おやッ」
と、田島が、眼を光らせたのは、知った顔が、画面を、横切ったような気がしたからである。
「もう一度、映して下さい」
と、田島は、いった。
二度目は、問題の箇所で、フィルムを止めて貰った。
ジャンパーを着た一人の男が、左から右へ、駈《か》け抜けて行く姿が映っている。男は、下駄ばきで、女物の傘をさしていた。
男の顔は、半分近く傘にかくれていた。というより、その男は、傘で、顔をかくすようにして、走っていた。それだけに、かえって余計、眼についたのかも知れない。女物の小さな傘なので、隠した積りの顔も、覗《のぞ》いて見えた。
田島は、その顔に見憶《みおぼ》えがあった。
「あいつだ」
と、思った。確かに、あいつだ。
二年前、東京で、強盗殺人を犯し、全国に指名手配されている村上音吉(三十歳)の顔だった。色白の、女みたいな顔だが、性格は残忍な男だった。生れ故郷の北海道あたりに、潜伏しているのではないかと、考えられていたのだが、いつの間にか、東京に舞い戻っていたのだ。
田島は、バックの景色に、眼を移した。山崎刑事の倒れていたF町だった。
恐らく、山崎刑事は、このフィルムを見、半信半疑で、F町の盛り場に、行ったに違いない。もし、村上音吉に間違いないという確信があったら、一人では出かけずに、田島達に、連絡しただろう。危険な相手なのだ。そして、山崎刑事は、殺されてしまった。村上音吉に。
田島の報告は、「警察官殺人事件」本部を緊張させた。
田島の借りてきたフィルムを見た刑事達も、傘をさした男が村上音吉に間違いないといった。
「犯人は、村上音吉に、間違いないな」
と、主任の木崎警部補は、いった。
F町一帯には、既に、非常線が、張られている。だが、山崎刑事の死体が発見されるのが、余りにも遅すぎた。
検屍官の報告では、死後、すでに、八時間が、経過していたということだった。つまり、犯人には、八時間、逃亡の時間があったということである。昨夜のうちに、東京から逃亡した可能性もある。特に、犯人が、前科者で、指名手配中の村上音吉なら、その可能性は、更に、高いと見なければならないだろう。
村上音吉が、既に高飛びしていれば、非常線は、無意味だが、それが判るまでは、F町一帯を、しらみ潰《つぶ》しに調べなければならなかった。
「問題は、山崎刑事が、我々に、何を知らせたかったかということだな」
主任は、刑事を集めて、いった。
「左手の、三本の指を伸ばして死んでいたことは、君達も、知っているだろう。彼が、村上を追いかけていたとなると、あのサインは重要だからね」
色々な意見が出た。
数字の「三」を意味しているだろうということでは、意見は一致した。
村上音吉の潜伏していたアパートなり、バーなりが、三のつく名前なのかも知れない。
村上音吉の情婦の名前に、三がつくのかも知れない。
村上音吉の現在の偽名が、三神とか、三田とか、三がつくのかも知れない。
村上音吉の仲間が、三人いるということかも知れない。
他にも、意見は、あった。調べてみなければ、どの意見が当っているか判らなかった。
刑事達は、様々な考えを抱いて、F町の盛り場に、もぐり込んで行った。
四
田島は、村上音吉の写真を持って、バーやキャバレーを、回って歩いた。村上は、昔、バーで働いていたことがある。今でも、水商売に関係している可能性があった。
一軒目、二軒目と、何の収穫もなかった。
三軒目のバーの名前は、「三人姉妹」であった。田島は、緊張して、ドアを開けた。だが、この店でも、収穫はなかった。山崎刑事が、知らせたかったのは、この店のことではなかったのだ。
F町には、マンモスキャバレーが、四つあった。その一軒の名前は、「スリー・クイーン」だった。三人の女王とでもいうのか。田島は、その店を調べる時にも、緊張を感じた。が、その店でも、何の聞き込みもなかった。山崎刑事のサインは、その店のことでもなかったのだ。
他の刑事の一人は、F町にある旅館や、アパートを、調べていた。盛り場だけに、旅館といっても、殆《ほとん》どが、連れ込み専門の温泉マークである。
その刑事は、疲れ切った顔で、捜査本部に戻ってくると、
「収穫は、ありませんでした」
と、主任に報告した。
「三喜荘というアパートがあったんで、特に念入りに調べてみたんですが、収穫はありませんでした。村上音吉が住んでいたことも、出入りしていた形跡もありません。山崎刑事のサインは、アパートや、旅館の名前のことではないようです」
夜になって、村上音吉の女関係を洗っていた二人の刑事も本部に戻ってきた。
彼等は、水商売の女の名前を、一人残らず調べていた。
「三のつく名前の女は、全部で、十八名いました。しかし、その中に、村上音吉の女は、いませんでした」
刑事が戻ってくる度に一つ一つ、糸が切れて行く感じであった。
だが、列車の発着駅や、飛行場に、訊《き》き込みに行った刑事達の報告は、明るいものだった。昨夜から、非常線の張られる今朝までの間に、村上音吉と思われる男が、立ち回った形跡はないというのである。
長距離バスや、タクシーの運転手達に当っていた刑事達の報告も同じであった。村上音吉の写真を見せて歩いたが、写真の男を、昨夜から今朝にかけて、乗せた記憶はないという。
「結論を下すのは、一寸《ちよつと》、危険な気もするが――」
と、主任は、前置きして、いった。
「村上音吉は、まだ、東京を出ていないのかも知れん。それもまだ、F町に潜伏している可能性が強いと見ていいような気がする」
「何故、奴《やつ》は、逃げなかったんでしょうか?」
と、刑事の一人が、主任に質問した。
「時間は、充分あった筈《はず》ですが」
「理由は、私にも判らん。誰かが、奴をかくまっていて、そこにいれば、安全だと、考えたかも知れん。我々が、当然、高飛びすると考えると思って、裏をかいた積りかも知れん」
「村上は、負傷しているんじゃないでしょうか」
と、田島は、いった。今日一日、考えていたことだった。
「山崎刑事は、簡単に、相手に殺《や》られる男じゃありません。相手にも、かなりの打撃を与えたと思います。それで、奴は、高飛びを諦《あきら》めたんじゃないでしょうか」
「そうも考えられるな」
と、主任は、いったが、田島の考えを、肯定はしなかった。証拠がなければ、村上が負傷していると考えるのは、甘くて、危険だからだろう。
田島にも、それは、判っていたが、自分の考えは、捨てなかった。それは、同僚の山崎刑事に対する信頼の強さでもあった。彼が、むざむざ殺されるわけがないのだ。大なり小なり、相手に打撃を与えている筈だった。
(それにしても、山崎刑事が、死に際に残したサインは、一体何の意味なのだろうか?)
山崎刑事と、一番親しかったのは、田島だった。年齢が近いせいもあって、気が合った。だから、他の誰よりも、仇《かたき》を取りたいと思う。山崎刑事が、何を知らせたかったかを知りたい。
簡単な夕食をすませてから、田島は、再び、夜の盛り場に、足を運んだ。
五
夜の盛り場は、いつもの通りの賑《にぎ》わいを見せていた。ネオンが、夜空に輝き、酔っ払いが、乱れた足で歩いている。
映画館は、「只今《ただいま》から、割引料金」の看板を、切符売り場に出していた。腕時計を見ると、八時を回っていた。
田島は、立止って、煙草に火をつけた。バーも、キャバレーも調べた。アパートや、旅館は、他の刑事が調べた。が、収穫はなかったのだ。あとは、何処《どこ》を調べたら、いいのか。
田島は、殺された山崎刑事のことを考えた。彼は、どうやって、村上音吉の行方を調べたのだろうか?
山崎刑事は、夕食のあとのテレビニュースで、偶然、村上音吉を見た。六時のニュースだ。それから、F町に駈けつけた。どんなに急いでも、F町に来るまでに、三十分は、かかった筈だ。とすると、六時三十分から、このあたり一帯を調べ始めたことになる。
そして、十時から十一時までの間に死んだ。最大限に見てもその間は、四時間半しかない。
山崎刑事は、四時間半の間に、村上音吉を見つけ出したのだ。バーや、キャバレーを片っ端から探し歩いたのか。旅館やアパートをしらみ潰《つぶ》しに調べたのか。そうとは考えられなかった。山崎刑事は、たった一人だったのだ。一人で、調べられはしない。しかも、四時間半という短い時間に。
(山崎刑事は、何かヒントを掴《つか》んでいたに違いない。だからこそ、短い時間で、村上音吉に近づくことが出来たのかも知れない)
ヒントとは、何だろう。田島は、吸殻を、足で踏み潰して考え続けた。
(山崎刑事が、何か、ヒントを掴んでいたとしても、それは、あのテレビニュースから得たものに、決っている)
だが、そんな大事なものが、あのフィルムに、映っていただろうか。田島には、思い出せなかった。だが、あったのかも知れない。
田島は、あわてて、捜査本部に引き返した。もう一度、フィルムに眼を通した。
ヒントらしきものは、見つからない。村上音吉が、何処かの店からでも出てくるところが映っているのなら、その店を調べればいいのだが、彼は、ただ、左から右へ、画面を横切るだけだ。ジャンパーに下駄ばき姿も、あの近くにいることを暗示してはいるが、それ以上のことは、教えてはくれない。女物の傘をさしていることは、情婦のいることを、暗示しているが、そんなことは、田島も気付いている。
田島は、もう一度、念を入れて、フィルムを見つめた。
(ジャンパーの裾《すそ》から、白いものが、ぶら下っている)
と、田島は、思った。これは、何なのだろうか。手拭《てぬぐい》か、タオルらしいと、考えて、山崎刑事が、有名な風呂《ふろ》好きだったことを思い出した。
(風呂だ!)
と、思った。山崎刑事は、このフィルムを見た瞬間、風呂を考えたのだ。そうに違いない。村上音吉は、銭湯へ行くところか、その帰りなのだ。下駄ばきだから、電車やバスに乗って、銭湯に行ったのでは、あるまい。F町の銭湯へ行ったのだ。あの辺りには、三、四軒の銭湯しかない。山崎刑事は、その銭湯を一軒ずつ、当ってみたのではあるまいか。
田島は、再び、F町に引き返した。
六
F町の周辺には、四軒の銭湯が、あった。
最初は、「あずさ湯」という風呂屋だった。番台の男は、村上音吉の写真を見て、見たことがないといったが、昨日、同じことを、訊きに来た男がいたといった。服装や、顔立ちを聞くと、間違いなく、山崎刑事だった。
田島は、正しい道を見つけたのだ。
だが、二軒目、三軒目と、収穫がないと判ると、田島は、次第に、不安と、焦燥に襲われてきた。
最後の銭湯でも、村上音吉は、見かけなかったという返事しか得られなかった。だが、山崎刑事は、来たという。山崎刑事も、田島と同じように、四軒の銭湯を訪ね回って、収穫は、ゼロだったのだ。
(だが、山崎刑事は、村上音吉を、見つけたのだ)
一体、どうやって、見つけたのか。他に、銭湯は、ない。テレビフィルムから得たヒントは、もう使えないのだ。
(銭湯を考えたのは、間違いだったかも知れない。銭湯には、たいてい、指名手配の犯人の写真が、鏡の前なんかに、貼《は》ってあるものだ。村上音吉が、そんな危険な場所に、行くだろうか)
答は、否定的だった。
田島が、当惑して、立止っていると、サンドイッチマンが、彼の手に広告を渡して、通りすぎて行った。私服だから、盛り場に遊びに来た人間と思ったのだろう。
何気なく見ると、トルコ風呂の案内だった。田島の眼が光った。村上音吉が行ったのは、銭湯でなくて、トルコ風呂だったのかも知れない。何人もの人間に、顔を見られる銭湯より、個室のあるトルコ風呂の方が安全だ。
F町には、トルコ風呂が多い。一つ一つ当ってみようかと考えてから、田島は、その考えを捨ててしまった。トルコ風呂に行くのに、手拭やタオルをぶら下げていく筈がないからである。村上音吉が行ったのは、トルコ風呂ではない。
田島は、案内のチラシを、丸めて捨てた。一つ一つ期待が外れて行くのが、いまいましかった。
足が、自然に重くなった。山崎刑事は一体、銭湯に失望したあと、何処《どこ》を調べたのだろうか。それを知りたかった。だが、手掛りがない。
五階建のビルの前に来た。各階名店街という、雑居ビルだった。最上階は、キャバレーになっている。そのキャバレーは、何時間か前に、田島が、調べていた。残りカスのようなものである。その前を通りすぎようとして、田島は、あるものに、眼を引かれた。
「地下、大衆浴場」という看板だった。「入浴随意、お一人様百二十円」と書いてある。
田島は、固い表情になって、妙に薄暗い階段を、下りて行った。
切符売場では、中年の女が、退屈そうに、週刊誌を読んでいた。中を覗《のぞ》くと、広い浴室は、もうもうたる湯気である。スチームブロというわけなのだろう。これなら、浴客の顔の見分けもつくまい。村上音吉でも、安心して、湯に浸っていられるだろう。顔を見られるとすれば、この切符売場の女しかいない。
田島は、警察手帳を見せてから、村上音吉の写真を、示した。
「この男が、昨日の夕方、来た筈なんだが」
と、訊くと、
「来ましたよ」
と、相手は、あっさり、いった。
「来たんだね?」
「ええ。昨日だけじゃありませんよ。何回も来ますよ。その男が、どうかしたんですか? 昨日も、探しに来た人がいましたけど」
「判ってる。村上音吉は何処に住んでるか知らないかね?」
「その男は、村上音吉なんて名前じゃありませんよ。白井さんですよ。あたしにも、時々チップなんかくれましてね」
「何処に住んでる?」
「よくは知りませんけど、いつだったか、この先の酒屋から、出てくるのを見ましたよ。その二階に、間借りしてるような様子でしたけど」
「酒屋の名前は?」
「確か、『菊屋』と、書いてありましたけど」
それだけ聞くと、田島は、大衆浴場を飛び出していた。
七
「菊屋」は、すぐ見つかった。何の変哲もない酒屋だった。田島が、大衆浴場で聞いて来たことをいうと、店の主人は、
「昨日も、同じことをいって見えた人がありましたよ」
と、いった。山崎刑事は、此処《ここ》へも来たのだ。
「二階を、人に貸しているんですね?」
「二階じゃなく、離れです。娘のために作ったんですが、嫁に行ったので、人に貸すことにしたんです。女の人ですよ」
「女?」
「ええ。白井みどりという。ご存知じゃありませんか。この近くにあるストリップ劇場の踊り子ですよ」
「男も、一緒の筈ですが?」
「ええ。二か月ばかり前から、ご主人というのが、時々、来ますよ。二千円余計に払ってくれるんで、文句はいわなかったんですが」
「この男じゃありませんか?」
田島が、村上音吉の写真を見せると、酒屋の主人は、頷《うなず》いて見せた。
「あの人が、どうかしたんですか? 昨日の人もしつこく訊いてましたが」
「今も、男は離れにいるんですか?」
「いえ」
「女は?」
「劇場ですよ」
田島は、電話を借りて、本部に、今までのことを報告した。主任は、応援の刑事を、そちらに、回そうと、いった。
田島は、ストリップ劇場に、回ってみた。
三百人くらいで、一杯になりそうな小さな劇場だった。警察手帳を見せると、楽屋にある支配人室に通された。
バンドの音や、踊り子の嬌声《きようせい》や、香水の匂《にお》いが、流れてくる。支配人は、三十代の、色の浅黒い男だった。
「白井みどりなら、うちの踊り子ですが、今日は、休みですよ」
と、支配人は、いった。
「写真がありますか?」
と、田島が訊くと、支配人は、机の引出しから、一枚のブロマイドを取り出して、田島に渡した。白井みどりのサインもあった。あまり上手《うま》い字ではない。一枚百円で、売っているのだという。白井みどりは、乳房の大きな、顔の円い女だった。
「年は、二十歳です。気のいい娘で、いつも男のことで、苦労ばかりしているんですよ」
と、支配人は、いった。確かに、その通りだろう。今も、村上音吉という殺人犯に、喰《く》いつかれているのだ。
白井みどりの、立ち回りそうな場所に、心当りはないと、支配人はいった。田島は、酒屋に戻った。応援の刑事も、来ていた。田島は、その協力を得て、白井みどりの部屋を調べてみた。
離れの四畳半である。狭い部屋だが、一応独立していて、トイレや、水道もついている。入ると、さすがに、若い女の匂いがした。
押入れを開けると、男物の汚れたワイシャツが出てきた。恐らく、村上音吉が着ていたものだろう。
金目のものや、現金は、何処からも発見できなかった。恐らく、身につけて、ここを脱け出したのだろう。だが、非常線が張られているのだから、F町は、出られない筈である。一体、何処へ姿を消したのか。
「一寸《ちよつと》、これを見てくれ」
と同僚の刑事が、田島を、呼んだ。
彼は、ゴミ箱をひっくりかえしていたのだが、その中から、丸めた白布を、取り出したのである。汚れた包帯であった。
「血だ」
と、彼が、いった。僅《わず》かな血ではなかった。
「村上は、やっぱり負傷しているんだ」
と、田島はいった。
「遠くへは、いけない筈だ。それに、傷の手当をしなければならない筈だが」
「医者へ行っただろうか?」
「いや。医者へ行くのは、危険だよ。今日の夕刊には、村上音吉の写真が出ている。テレビでも放送した筈だ。奴が出歩けば捕まりに行くようなものだぐらいのことは、判っている筈だ」
「だが、その出血の様子じゃ、かなりの傷だと思う。手当をしなければならないだろう。医者には行かないとしても、薬による手当は、必要だと思うがね」
「恐らく、女が、薬局に回って、薬や、包帯なんかを、買ったと思うんだ。だから、この付近一帯の薬局に当ってみれば、奴等の行動が判るかも知れん」
田島は、念のために、血の付着していた包帯を、同僚に頼んで鑑識へ、送って貰うことにした。血液型検査をして貰うためである。
田島は、同僚とは別れて、近くの薬局を当ってみることにした。彼は、自分の推測が当っているという確信があった。白井みどりという女が、村上のために、薬や包帯を買いに来たことは、確実だと思った。
だが、どうしても判らないことが、二つあった。
一つは、村上音吉が、何処に隠れたかということである。恐らく、奴は、用心深く、前々から、あの離れの他に、隠れ場所を用意していたに違いない。だが、どんなところに、奴は、隠れているのか。潜伏しそうな、温泉マークや、バー、キャバレーなどは、しらみ潰しに調べた筈である。F町一帯で、調べ残した箇所は、あまりない。
もう一つの疑問は、殺された山崎刑事のサインの謎《なぞ》が、まだ解けないことだった。村上音吉の女の名前が、白井みどりであることも、彼女が、ストリップ劇場の踊り子であることも判った。酒屋の離れに潜んでいたことも判った。あとは、追い詰めるだけだというのに、「三」を暗示するようなものには、まだぶつかっていないのである。
女の名前は、三はつかなかったし、酒屋の名前も、「菊屋」で、三とは、無縁だ。一体山崎刑事が、死ぬ間際に、知らせようとしたことは、何なのだろうか。
それが、未だに判らないことが、何となく、田島を不安にさせていた。
確実に、村上音吉を、追い詰めていると、思いながら、心の何処かに、微《かす》かな不安があるのは、そのためかも知れなかった。
八
F町には、薬局が多い。盛り場があり、昔は有名な赤線地帯が、近くにあっただけに、薬局の店頭には、精力剤の広告のぶら下っていることが多かった。
田島は、そうした薬局の一軒一軒を、白井みどりのブロマイドを持って、回って歩いた。
三軒目の薬局は、「ヤマト薬局」という名前であった。
中年の主人は、ストリップ・ファンと見えて、ブロマイドを見ると、
「白井みどりですね」
と、口元を、ほころばせた。
「前に一度、風邪《かぜ》薬を買いに来たことがありますよ。近くで見ると、意外に子供っぽい顔ですな」
「今日は?」
「来ません。来ることになってるんですか?」
「判りません。しかし、来たら、すぐ、警察へ連絡して下さい」
それだけ頼んで、田島が、店を出た時である。すれ違うようにして、店へ入った女がいた。大きなマスクで、顔をかくしていたが、間違いない、白井みどりだった。はッとしてふり向くと、薬局の主人も、気付いたらしく眼を大きくしている。
田島は、外から、落着くようにと、薬局の主人にサインを送った。
白井みどりは、オーバーのポケットから、紙片を取り出した。
恐らく、村上音吉が、必要な薬を、メモして、彼女に渡したのだろう。
彼女は、いろいろな薬を買い求めたようだった。出てくるのを待って、田島は、あとをつけた。
白井みどりは、盛り場とは、反対の方向に向って歩いて行く。肩をすくめ、何となく、暗い後姿であった。
パン屋の前で、立止った。反射的に、田島は、電柱のかげに身体を隠す。白井みどりは、パン屋から出て来た時、大きな紙袋を腕に抱えていた。村上音吉と、二人分の食料を買い求めたに違いない。
彼女が、また歩き出す。後姿は、小さく、幼く見える。田島は、あとをつけながら、「あの娘は、男のことで、苦労ばかりしています」といった、ストリップ劇場の支配人の言葉を思い出していた。
この娘は、どんな気持で、村上音吉に、つくしているのだろうか。幸福だと感じているのだろうか。
田島が、ふと、淡い感傷に捕われた時、白井みどりが、急に立止った。
隠れる物かげも、電柱もなかった。
(気付かれたのか)
と、一瞬、田島は、狼狽《ろうばい》したが、そうではなかった。
立止った白井みどりは、暗い夜空を見上げている。冷たいものが、落ちてきたのだ。田島の顔にも、それは、落ちてきた。本降りになりそうな気配だった。
白井みどりが、また歩き出した。雨足が、強くなり始めた。舗道が、忽《たちま》ち黒ずんでくる。歩いていた通行人が駈け出す。釣られたように、白井みどりも、小走りになった。
田島の足も、自然に大股になった。白井みどりは、暗がりを選ぶようにして、駈けてゆく。それが、かえって、尾行をしやすくしてくれた。だが、連絡も出来ない。もし、このまま村上音吉にぶつかったら、一人で逮捕するより仕方がない。怖くはなかったが、出来れば、万全を期したかった。
いつの間にか、盛り場のネオンとは、反対の、商店街に来ていた。時間が遅いせいか、どのビルも、既に、戸を閉めている。暗い雨空に、灯を消したビルが、立ち並ぶ姿は、何か不気味であった。
(こんなところに、村上音吉が、隠れているのだろうか?)
店が閉まり、店員達が帰ってしまっても、警備員は、残っている筈である。隠れていられる筈がなかった。
白井みどりは、一つのビルの裏で、立止った。新築のビルだった。五階建の窓という窓には、「貸室」の札が、べたべた貼られてあった。
(そうだったのか)
と、田島は、心の中で頷《うなず》くものがあった。最近ビルラッシュで、貸ビルが余り出し、作ったものの、借り手がなくて困っているという話は、田島も聞いたことがある。このビルも、その一つなのだろう。一種の幽霊ビルだ。ここにもぐり込んでいれば、誰にも、判りはしない。品物が置いてないのだから、夜警もいないだろう。
白井みどりは、そのビルの中に消えた。あわてて、田島も、飛び込んだが、途端に甲高い足音を立ててしまった。湿った道路から、乾いたビルの中に入ったせいもあったし、何も置いてない、がらんとしたビルは、物音が、敏感に反響するからである。
薄暗い一階の部屋で、白井みどりが、ふり向くのが見えた。
「だれ?」
と、みどりは、低い声で、訊いた。
「あんたなの?」
「――――」
田島は、黙って近づくと、いきなり、彼女を押さえて、片手で、口を塞《ふさ》いだ。彼女が持っていた袋が落ちて、音を立てた。田島は、耳をすました。村上音吉に、気付かれたに違いないと緊張したが、地下にも、上の階にも、人の動く気配はなかった。奴は、眠っているのだろうか。
「警察の者だ」
と、田島は、低い声でいった。
「村上音吉が、何処にいるか教えてくれればいい、素直に教えるんだ。君には、怪我《けが》をさせたくないからな」
田島は、口を押さえていた手を離した。
「奴は、何処にいるんだ?」
「地下よ」
白井みどりは、案外素直に、いった。
「案内するんだ」
田島は、彼女の身体を押した。みどりは、ふてくされたように、小さく肩をゆすってから、先に立って歩き出した。
真新しい、まだ、ペンキの匂いの残っている階段を、田島はみどりを先に立てて、降りて行った。地下も、広い廊下があり片側に部屋が並んでいる。
「あの部屋よ」
と、みどりは、一つのドアを指さした。
「本当に、あの部屋にいるのか?」
「いるわ」
「君が、ドアを開けさせろ。何気ない様子で声をかけるんだ。君だって、村上音吉を、殺させたくはないだろう。私だって、同じことだ。生きたまま捕えたい」
「――――」
「食料と薬を買って来たから、ドアを開けてくれというんだ」
「判ったわ」
と、白井みどりはいった。
どうやら、観念したらしいと感じて、田島は、微《かす》かに胸を開いた。
みどりは、何回かドアをノックしてから、
「あたしよ」
と、呼びかけた。
「薬と食料を買って来たから、ドアを開けて頂戴」
「今あける」
男の声が、ドアの向うでした。暗かった部屋に灯が点いた。明りが、ゆらめくところを見ると、蝋燭《ろうそく》の灯なのだろう。
ドアが開いた。
「待ってたんだ。早く入ってくれ」
と、男がいった。が、男の姿は見えなかった。負傷している筈だから、椅子《いす》にでも、横になっているのかも知れない。
田島は、拳銃を取り出して、中へ入ろうとした。相手は、安心しきっている筈だから、いきなり拳銃を突きつければ、簡単に逮捕できると思ったのだ。
だが、その瞬間、ある考えが、田島を、捕えた。
死んだ山崎刑事のことである。指を三本出して知らせようとしたサインのことである。今まで、あれが、何を示すのか、判らなかった。それが、この瞬間に、判ったのである。
(白井みどりは、声をかける前に、ドアをノックした。それも三回ノックしたのだ。確かに三回だった)
恐らく、山崎刑事も、昨日、ここへ来たのだ。そして、同じように、白井みどりに、いわせたに違いない。山崎刑事は、そのあと、部屋に飛び込んだが、村上音吉は、刑事が来ていることを知っていて、中で、身構えていたに違いない。だから、あの用心深い山崎刑事が、殺《や》られてしまったのだ。
何故、村上音吉は、知っていたのか。山崎刑事は、死ぬ間際に、考えたに違いない。そして、ノックのことに気付いたのだ。それ以外に、相手にさとられる理由を、思いつかなかったのだろう。
ノック三回が、合図なのだ。刑事が踏み込んでいるという合図に違いない。だから、白井みどりは、いやに、あっさりと、田島のいうことを聞いたのだ。
恐らく、村上は、昨日と同じように、ドアのかげで、ナイフをふりかざして、田島が飛び込んでくるのを待ち構えているに違いない。
田島はドアから離れて、拳銃を構えた。
「出てこいッ」
と、田島は、いった。
「大人しく出てくるんだ。もう逃げられやしないぞ」
「気がついたのよ。こいつは――」
白井みどりが、甲高い声で、怒鳴った。途端に、部屋の中の明りが消えた。何か黒いものが、田島めがけて、飛んで来た。田島が身体を伏せると、それは、彼の背後に落ちて、金属音を立てた。空缶か何かだったらしい。
田島が、身を伏せた瞬間を狙《ねら》って、中から男が、飛び出して来た。左手に巻いた包帯の白さだけが、田島の眼に鮮やかに映った。
「止まれッ」
と、田島は怒鳴った。だが、村上は止まらなかった。彼の足音が、ビルに反響する。田島も、あとを追った。
村上は、ビルを飛び出した。雨は、まだ降り続いていた。夜の雨の中に、村上は、転げながら、逃げて行く。
「止まれッ」
と、もう一度、田島は、怒鳴り、空に向って、威嚇《いかく》射撃をした。
火線が、闇《やみ》を貫いて走ったが、村上は、止まらなかった。
田島は、黒い影に向って、曳金《ひきがね》を引いた。村上音吉は雨の中に倒れ、そのまま動かなくなった。
田島は、近づいた。救急車を呼ぶ必要は、もうなかった。弾丸は、腹に当っていた。血が流れ、村上音吉の息は、もうなかった。
白井みどりが、足を引摺《ひきず》るようにして近づいてきて、田島と並んで、死体を見下した。
雨は、まだ、血を洗い続けている。田島は、白井みどりの顔を、ちらッと見てから、捜査本部に電話をかけるために、雨の中を歩き出した。
[#改ページ]
老人の牙
一
浅草署の安田刑事は、一時間前に起きた強盗事件の捜査に出ようとして、受付の婦人警官と押問答をしている小柄な老人がいるのに気付いた。気に止めずに、そのまま署を出ようとしたが、老人が盛んに彼の名前を口にしているのを聞いて、足を止めた。
「どうしたんだね?」
と、当惑顔の婦人警官に声をかけると、
「この人、安田さんに会わせてくれって、きかないんです。今、捜査で忙しいから、後で、もう一度来て下さいといっても、わかって下さらなくて」
若い婦人警官は、眉《まゆ》をしかめて見せた。安田は、老人に眼をやったが、記憶にない顔だった。古びた洋服を着て、大きな風呂敷《ふろしき》包みを、ぶら下げている。たった今、田舎《いなか》から東京に着いたといった感じの姿だった。陽に焼けた顔からは、土の匂《にお》いがするようだった。
「私が安田ですが、用件は?」
安田が声をかけると、老人の顔は、ぱあっと明るくなった。
「私は、小林徳太郎と申します」
老人は強い訛《なまり》のある声で、いった。徳太郎という名前に記憶はなかったが、小林という姓には、記憶がある。老人が、「小林|明子《あきこ》の父親でございます」というのを聞いて、「ああ」と、頷《うなず》いた。
二日前、近くのアパートで、若い女がガス自殺をした。その女の名前が、小林明子だった。遺書がなかったことから、他殺の可能性もあると考えて、安田が調べたのだが、鍵《かぎ》は内側から掛かっていたし、争った形跡もなかった。アパートの住人にきいても、当夜、女を訪ねて来た客はないということだった。自殺か、さもなければ、事故死としか考えられなかった。
「お嬢さんが、大変なことでしたな」
安田が、慰めると、老人は、思いつめたような眼になって、
「犯人を捕えて下さい。お願い致します」
と、深々と、頭を下げた。
「犯人といっても、お嬢さんは、自殺なさったのですよ。でなければ、過失死です」
「用心深いあの子が、過失で死ぬなんてことは、ございません」
「それなら、自殺でしょうな。いずれにしろ、我々には、どうにも出来ません。第一、自殺に犯人というのは、おかしくはありませんか?」
「私と、あれは、親一人子一人なんです。私を置いてきぼりにして、めったなことで、自殺するような娘《こ》じゃございません」
「それは、わかりますが――」
「あれは、よっぽど強いショックを受けて、それで、自殺したに違いございません。誰かが、あれを、自殺させたんです。そいつが、あれを殺した犯人じゃありませんか。どうか、そいつを見つけ出して、捕えて下さい。お願い致します」
「困りましたな」
安田は、当惑した顔になった。
「これは、刑事事件ではないのです。従って、我々には、どうしようもありません。お嬢さんに男がいて、その男のために自殺したとしてもですな、我々は、その男をどうすることも出来んのです。その男に道義的な責任はあるかも知れないが、刑事上の責任はありませんからな」
「娘を殺したのに、警察は、捕えて下さらんのですか?」
「自殺や、過失死では、警察は動けんのです」
安田は、次第に、いらいらしてくるのを覚えた。老人の気持は、わからなくはないが、他の事件で忙しいのだ。安田は、老人を押しのけるようにして、署を飛び出した。
小柄な、土の匂《にお》いのする老人だけが、ぽつんと、取り残された。
二
二時間後に、老人は、銀座にある日東新聞社の前に来ていた。彼の節くれだった手には、二日前の日東新聞の夕刊が、しっかりと握られていた。その社会面には、老人の娘の死が、小さく載っている筈《はず》だった。
老人は、受付で、四つにたたんだ新聞を示して、
「この記事を書いた記者さんに、会わせて下さい。お願い致します」
と、膝《ひざ》に頭がつくくらい、深いお辞儀をした。受付の事務員は、断った。が、老人は退《ひ》き下らなかった。
「私は、ここに出ている小林明子の父親でございます。どうしても、記者さんに、力になって頂きたいのです。お願い致します」
何度も何度も、老人は、頭を下げた。頼むというより哀願に近かった。事務員は、仕方なく、一応、社会部に連絡してみることにした。勿論《もちろん》、断ってくるに決っている。それを取り次げば、この老人も、諦《あきら》めて帰るかも知れない。そう思ったのだが、電話を入れると、意外に、会ってみようという返事があった。夕刊の締切りがすぎて、ひまが出来ていたのかも知れない。その旨を伝えると、老人の顔が、明るくなった。
五分ほどして、若い男が、右手をぶらぶらさせながら、階段を降りて来た。その指が、インクで、青く汚れていた。
「僕が、あの記事を書いた矢部です」
と、青年は、小柄な老人を、見下すようにしていった。
「それで、用件というのは?」
「私の娘を殺した犯人を見つけ出して頂きたいのです。お願い致します」
「犯人といっても、あれは、自殺ですよ。過失死かも知れないが、苦しんだ様子がなかったから、覚悟の自殺とみるのが、適当だと、僕は思ったんですがね」
「それは、わかっております。だから、あれを自殺させた犯人を、見つけ出して頂きたいのです。東京が初めての私には、どうしてよいのか、見当もつきませんので」
「自殺に、犯人というのは、おかしいな」
矢部は、いくらか、皮肉な調子になって、老人を見た。
「例えば、お嬢さんの自殺の原因が、近頃の物価高からくる生活苦だったとしたら、どうする積りですか?」
「私が、娘の仇《かたき》をとってやります。警察が、何にもしてくれんのですから」
「しかし、相手は、社会全体ですよ」
「相手が誰だって、私は、きっと、娘の仇をとってやります。だから、娘を自殺させた奴《やつ》を探して下さい。お願い致します」
老人は、受付の事務員にしたのと同じように、矢部にも、ぺこぺこと頭を下げた。
矢部は、受付と顔を見合わせて、肩をすくめた。こんな老人を相手にしてはいられないといった眼になっていた。他殺の疑いでも出て来たのかと思って、会ってみたのだが、そうではないという。有名人の自殺なら、追いかける価値があるが、無名の、どこにでもいる二十歳の娘の自殺なのだ。自殺の原因を調べても、ニュースにはならない。
矢部は、「残念ですが」とだけいって、階段を駈け上って行った。老人は、また、取り残された。
三
翌日、矢部が、取材したニュースを、社に戻ってまとめていると、これも取材から帰ってきた同僚の一人が、
「昨日の爺さんが、また、階下《した》に来てるぜ」
と、いった。
「受付が、追い払うのに、ふうふういってた」
「困った爺さんさ」
矢部は、苦笑して見せた。
「さっき知ったんだが、爺さんは、他の社にも行ったらしい。犯人を見つけてくれってね。自殺したのを、殺されたと考える感覚が異常だよ。親一人子一人だったそうだから、気持は、わからなくはないがね」
「自殺に間違いないのか?」
「間違いない。爺さんも、娘は自殺したと認めているんだ」
「どうするんだ?」
「放っとくさ。そのうち、諦《あきら》めて、故郷《くに》へ帰るだろう。故郷へ帰って、娘の墓参りでもするのが、あの爺さんのためにも、一番いいのさ」
矢部は、それが結論のようにいうと、また、机に向った。そのうちに、古いことを調べる必要ができて、立ち上がると、上の資料室へあがって行った。
老人のことは、もう忘れていた。
資料室で、三か月前の新聞|綴《つづ》りを引き出した。必要な記事は、すぐ見つかった。それをメモしてから、何気なく、そのページの他の欄に、眼をやった。三か月前に、どんな記事が載っていたろうかといった、軽《かる》い好奇心からだった。
下の方に、「読者の交換室」というのがある。他の新聞にも、名前は違うが、同じような欄が設けられている。日東新聞では、二年前からだが、係の話では、なかなか好評で、一日三十通近い投書があり、取捨選択《しゆしやせんたく》に迷うということだった。
「譲って下さい」というところには、こんな文章が載っている。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
△中古の乳母車を安く。至急入用です。
投書の主は、新しい乳母車を買えない貧しい母親だろうか。「さがし物」という欄もある。そこには、三つほど投書が載っていたが、二番目のものには、こう書いてあった。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
△ハンドバッグ=私は、洋装店で働く娘ですが、六日の九時頃、新宿から浅草まで乗ったタクシーの中に、黒革のハンドバッグを忘れてしまいました。前日、長年の念願がかなって、やっと、四畳半のアパートが借りられて、その嬉《うれ》しさで忘れてしまったのです。
もし拾得された方がありましたら、お知らせ下さるようお願い致します(台東区浅草|馬道《うまみち》×丁目××番地 青葉荘内 小林明子 電話――)
[#ここで字下げ終わり]
四
矢部は、その新聞綴を持って、部屋に戻ると、デスクに、
「例の老人のことですが、一寸《ちよつと》、調べてみたいんですが」
と、いった。デスクは、興味のない顔で、
「詰らんことはよせ。ニュースにならん」
「かも知れません。ただ、小林明子が、何故自殺したのか、それを調べてみたいんです」
「それが詰らんことだというのだ。何故、君が、そんなことをしなきゃ、ならん? その娘とうちとは、何の関係もないじゃないか」
「それが、少しですが、関係があるんです」
矢部は、資料室から持ってきた新聞綴を、デスクに見せた。
「この小林明子というのは、例の老人の娘です。アパートの名前も同じですから、間違いありません」
「しかしだな」
デスクは、慎重に、いった。
「妙なめぐり合わせという感慨はあっても、それだけのことじゃないか。この投書が、自殺の原因とでもいうのなら、一寸《ちよつと》問題だが」
「僕も、それを考えてみたんですが、ひょっとすると、この投書が、自殺の遠因かも知れないと思うんです」
「何故《なぜ》?」
「小林明子というのは、デザイナーの卵で、なかなか才能がある娘です。それに、洋装店で貰《もら》っている給料も、あの年頃の娘にしては、悪くありません。これは、あの時、僕が調べたんですから、間違いありません。とすると、自殺の原因は、男じゃないかと思うんです」
「若い女が自殺するのは、大半が男のためさ」
「ところで、その投書ですが、妙に感じることはありませんか?」
「どこが」
デスクは、新聞に眼を近づけた。矢部は横から覗《のぞ》きこんで、
「その真中のところです。やっと、四畳半のアパートが、借りられて、その嬉《うれ》しさで、とあるでしょう。それに、洋装店に働く娘ですと自己紹介までしています。普通なら、書く必要のないことだと思うんです。それを、わざわざ書いたということに僕は、ひとりぐらしの娘心みたいなものを感じたんです」
「成程ね」
デスクは、新聞綴を置いて、矢部の顔を見た。
「異性と自由な交際がしたいという気持が、書かせたということか」
「ええ。露骨ないい方をすれば、この投書は、ひとり暮しを広告しているようなものです。僕なんかも、女名前の定期を拾ったりすると、相手が若い美人で、これを機会に知り合えればと思います。小林明子の場合も、同じ気持だったんじゃないでしょうか」
「ハンドバッグを拾ったのが、若いハンサムな青年で、この投書を見て会いに来る。そんなことを夢見たということかね」
「そうです。四畳半とか、洋装店に働く娘というのは、幻の青年に対する無意識の媚《こび》だったんじゃないでしょうか。僕の場合は、いつも夢ですが、小林明子の場合は、ハンドバッグを持って、夢の青年が現われたのかも知れません。その青年と関係が出来て、それがもつれて、自殺したのだとすれば、うちの新聞にも、関係があることになります」
「――――」
「調べさせて貰《もら》えませんか? あの爺さんのためにではなく、投書の行方を追うという形でも構いません」
「――――」
デスクは、黙って、受話器を掴《つか》むと、受付を呼び出した。
「受付? 例の爺さんは、まだ、そこにいるかね? うん。いるんだな。いや追いかえさなくていい。今、うちの矢部君が会いに行くから、待たせておいてくれ」
デスクが、受話器を置かないうちに、矢部は、部屋を飛び出していた。
五
矢部は、老人と一緒に、浅草|馬道《うまみち》の青葉荘アパートへ出かけた。有楽町《ゆうらくちよう》から浅草へ着くまでの間、老人は、矢部に向って、
「有難うございます。本当に助かります」と、いい続け、何度も頭を下げた。矢部は、相手の狂態に近い感謝の仕方に、辟易《へきえき》した。これが続くのでは、やりきれないと思った。
小林明子が自殺した八号室は、まだ、彼女が住んでいた時のままになっていた。
矢部は、この部屋に入るのは、二度目だった。最初の時は、自殺か過失死と聞いて、取材の意欲を失い、いかにも、若い女の部屋らしいと考えただけで、くわしくは調べなかった。しかし、今日は違う。一つだけ、是非とも探し出したいものがあった。投書にあった黒革のハンドバッグである。もし、それが、この部屋にあれば、誰かが、あの「読者の交換室」を読んで、ハンドバッグを届けたことになるのだ。
矢部は、押入れをあけ、洋服ダンスを調べてみた。が、見つからない。棚の上にもなかった。矢部は、失望したが、考えてみれば、黒革のハンドバッグが戻って来なかったら、新しいハンドバッグを、買い求めた筈《はず》である。それもない。若い娘がハンドバッグなしに、毎日を、過ごしていたとは考えられなかった。投書のことは別にして、この部屋に、ハンドバッグがないこと自体、不思議なのだ。
「小林さんは、ここにいて下さい」
と、矢部は、老人に声をかけた。小林徳太郎は、矢部がハンドバッグを探し回っている間、部屋の真中に、ぺたりと坐《すわ》りこんで、机の上に飾ってある娘の写真を、見つめていたのである。
「僕は、これから、お嬢さんの働いていた洋装店へ行って来ます」
「私も行きます。連れて行って下さい」
「僕一人の方がいい、貴方《あなた》は、ここで、休んでいなさい」
「わかったことは、教えて頂けますか?」
「教えます」
矢部は約束して、アパートを出た。
小林明子の働いていた洋装店は、銀座の「ハルミ」という名前だった筈《はず》である。
銀座は、相変らず雑踏していた。矢部は、みゆき通りに近い「ハルミ」に入り、女主人の山名ハルミに会った。彼女は、デザイナーとしては可成り著名で、もう初老に近い年齢だったが、商売柄か、ひどく若作りしていた。
「亡くなった小林明子のハンドバッグが、ここにありませんか?」
矢部は単刀直入にきいた。アパートにないとすれば、ここ以外には、考えられないのだ。山名ハルミは、簡単に、
「ありますよ」といった。
「肉親の方にお渡しする積りで、私が、お預りしていたんですよ」
「父親が、上京して来ています」
「そお。それはよかったわ。貴方が渡して下さいます?」
「ええ」
「一寸《ちよつと》お待ちになって」
山名ハルミは、一度応接室を出ると、ハンドバッグを持って、戻って来た。黒革のハンドバッグだった。
「革ですね」
「ええ。明子さんが、うちへ来て、すぐ買ったものです。私がね。買うんなら、少しくらい高いものをといって、これをすすめたんですよ」
「いつのことですか?」
「二年前」
「その時買ったものに、間違いありませんか?」
「間違いありませんとも。私が一緒に行って買ったんだから、間違う筈《はず》がありませんわ」
「三か月ばかり前に、これを失くしたというのを聞きませんでしたか?」
「ええ。いつかタクシーの中に置き忘れたとかいって、しょげていたことがありましたわ。でも、これが出て来たところをみると、正直な人が、届けてくれたんでしょうね」
「その人のことを、何か、小林明子さんから、聞きませんでしたか?」
「私は、聞きませんわ。でも一緒に働いてる娘《こ》なら、何か聞いてるかも知れませんわね。呼びましょうか?」
「お願いします」
山名ハルミは、また、応接室を出て行き、若い痩《や》せた娘を連れてきた。「小泉玲子さん」と、娘の名前を矢部に教えてから、気を利かせた積りか、ドアを閉めて、出て行った。
矢部は、やや緊張している表情のその娘に、ハンドバッグのことを、きいた。
「そのことなら、知ってますわ」
と、小泉玲子は、かん高い声でいった。
「新聞に投書したら、すぐ連絡があったって、いってました」
「それで?」
「これから、電話をくれた人と会うんだって、にこにこしてたのを憶《おぼ》えてます。三か月ほど前ですけど」
「その相手は、男? それとも女?」
「勿論《もちろん》、男ですわ。それも若い」
「勿論というのは、貴女《あなた》も、会ったんですか?」
「いいえ。でも、あの時、明子さんは、にこにこしていたし、いつもより念入りに化粧していましたもの。相手が同性だったり、お爺さんだったら、あんなに念入りにお化粧する筈《はず》が、ありませんわ」
「その後、その男と、つき合っている様子でしたか?」
「と、思いますけど、詳しいことは、存じません」
「名前は、わかりませんか?」
「ワカミヤって名前だけは、知ってます。どんな字を書くのか、わかりませんけど」
「ワカミヤね」
「二、三度、お店へ電話してきたことがあるんです。私が、取り次いだんですけど、その時、ワカミヤって、いってました。一寸《ちよつと》低くて、男っぽい声でした」
「ワカミヤだけじゃ、漠然《ばくぜん》としすぎているな。他になにかわかりませんか?」
小泉玲子は、首をかしげていたが、
「電話に、いつも同じ音が聞こえてましたわ。きっと、いつも同じ場所から、電話して来たんだと思うんですけど」
「どんな音です?」
「何か、こう、自動車のエンジンの音みたいな感じでしたわ。それに、がやがやと、人の話し声も聞こえてました」
「車のエンジンと、話し声ね」
自動車工場だろうか。いや、工場なら、エンジンの音より工作機械の音が聞こえる筈だ。バス停留所に近い公衆電話だろうか。しかし、必ずエンジンの音がするというのは、変だ。バスがいない時もある筈だし、そうした時を選んで、電話をかけるのが常識ではあるまいか。何も、喧《やかま》しい時に電話する必要はないのだ。
ここまで考えてきて、矢部は、肝心のことを忘れていたことに気がついた。小林明子は、タクシーの中に、ハンドバッグを忘れたのだ。とすれば、一番見つけ易い立場にいるのは、その車の運転手ではないか。
エンジンの音と、話し声の聞こえる所は、タクシーの営業所ではあるまいか。そこなら、絶えず、車が出入りしているだろうし、運転手たちの話し声も聞こえる筈だ。
六
矢部は、ハンドバッグを受け取って、「ハルミ」を出ると、都内のタクシー会社に、片っぱしから当ってみた。幸い、ワカミヤという姓は、そう多くはない。電話で問い合わせた結果、ワカミヤという運転手がいるタクシー会社は、二つだけだった。しかも、そのうちの一人は、五十四歳で、二年前から、ハイヤーの方に移っているというから、こちらは、除外してよさそうだった。
矢部は、残った、中野のSタクシーの営業所を訪ねてみた。名刺を示して、所長に来意を告げると、ワカミヤという運転手は、外に出ているとのことだった。一時間くらいで、帰ってくるというので、矢部は、運転手の詰所で、待たせて貰うことにした。
木造の、がらんとした建物である。テーブルと長椅子が並べてあるだけで、部屋の隅で、二人の運転手が、せんべいを噛《かじ》りながら将棋を指していた。
壁には、運転手の名札が並んでいる。中ほどに、「若宮利夫」という文字が見えた。この男らしい。テーブルの隅《すみ》には、電話が載っていた。銀座の「ハルミ」に掛かってきた電話は、ここからだろうか。木造なので、車のエンジンの音は、容赦なく飛びこんでくる。どうやら、ここらしいと思った。
将棋を指していた二人がそれに飽きたらしいのを見て、矢部は、若宮利夫のことを、きいてみた。
「あいつが、ハンドバッグを拾った話なら、知ってますよ」
と、年嵩《としかさ》の方が、にやにや笑いながら、いった。
「それが縁で、素人《しろうと》の娘を、ものにしたとかいって、自慢してましたからね」
「若宮という人はどんな人ですか」
「どうって、まあ、現代風な青年だね」
と、今度は、若い方がいう。若いといっても、三十は過ぎているだろう。何となく、その声に、若者に対する反感のひびきがあった。
「現代風というと?」
「つまり、やりたいことをやって、後は、知っちゃいないって口だよ。流行の言葉でいえば、無責任ってことかね。俺には、あんな真似《まね》は出来ないね。もっとも、こっちは、かあちゃんと子供がいるけどね」
聞いているうちに、矢部の頭の中で、一つのイメージが出来あがっていくようだった。色の浅黒い、首の太い若者かも知れない。衝動的で、考えることのきらいな享楽的な若者のイメージが。
「噂《うわさ》をすればってやつだな」
と、相手がいい、顎《あご》で窓の外を指して見せた。
「ドンファンのお帰りだ」
「――――」
矢部は、黙って、視線を窓に向けた。黒っぽい上衣を着た青年が、右手で肩のあたりを叩《たた》きながら、詰所へ入ってくるところだった。がっしりした身体《からだ》つきで、首が太く、唇も厚かった。矢部が近づいて、「若宮さんですね?」と、声をかけると、相手は、突立ったまま、「ああ」と、太い声で頷《うなず》いた。
「誰だい? あんたは?」
「日東新聞の者です」
「へえ」
「小林明子さんを、知っていますね?」
「――――」
若宮は、隅で好奇の眼を向けている二人の同僚を、ちらっと見てから、黙って頷いた。
「それなら、彼女が自殺したことも、知っていますね?」
「ああ」
と、若宮は、面倒くさそうに、いった。
「新聞で見たよ」
「どんな気がしました?」
「何故《なぜ》、そんなことを、きくんだい?」
「貴方《あなた》は、彼女とつき合っていたんでしょう? ハンドバッグを届けてやってから」
「そりゃあ、そうだが」
「どの程度のつき合いだったんですか?」
「そんなこと大きなお世話じゃないか」
「それが、そうもいかないのですよ」
矢部は、若宮利夫の顔を見ていった。自分が、次第に、相手に対して反感を持ち始めたのに、軽い当惑を感じながら、
「明子さんの投書が載ったのが、我々の新聞なのです。貴方は、その投書を見て、ハンドバッグを届け、それから、彼女とつき合うようになった。いわば、我々の新聞が、仲立ちをしたようなものです。その投書の主が自殺したとなると、やはり責任を感じます。だから、何故、自殺したのか、それが知りたいわけです」
「俺が、自殺させたとでもいうのか?」
若宮は、眉《まゆ》を寄せて、矢部を睨《にら》んだ。
「そうは、いいません。ただ、貴方なら、自殺した理由を知っているかも知れない。そう思ったから、伺っただけです。時々洋装店の方にも、電話したそうですね?」
「ああ。したよ。だが、それだけのことさ。俺はね。あんな女には、あんまり興味がないんだ。やけに、べたべたしやがる女でね。結婚してくれっていわれたが、断ったんだ」
「本当ですか? 結婚してくれといわれて、断ったというのは」
「ああ」と、若宮は、また面倒くさそうに頷《うなず》いた。
「別に、女に不自由してるわけじゃないからね」
「貴方に、結婚を断られて、自殺したとは思いませんか?」
「知らないね。そんなことは、もし、そうだとしても、俺に、何の責任があるんだ? 勝手に死んだだけじゃないか。そうだろう?」
「――――」
矢部は、黙ってしまった。道義的責任という言葉が、口から出かかったが、止めてしまった。この男に、そんなことをいっても、無駄と感じたからである。
矢部が、詰所を出ようとすると、背後で、
「死ぬほど思われるなんて、お前さんも、相当なサムライだな」
という不遠慮な言葉が聞こえた。若宮利夫の返事は聞こえなかったが、恐らく、にやにや笑っているに違いない。矢部は、苦いものが、こみあげてくるのを覚えた。
七
矢部が、青葉荘に戻ったのは、六時に近かった。既に、夕闇《ゆうやみ》が立ち籠《こ》めていたが、八号室には、明りが点いていなかった。老人は、食事にでも出かけたらしいと思いながら、部屋に入ったが、スイッチを探しているうちに何かにぶつかって、危く、転びそうになった。やっと、スイッチをみつけて明りを点けると、ぶつかったのは、老人であった。矢部が出かけた時と同じ姿勢で、ぽつんと坐っているのだ。眠っていたのではなかった。明りも点けずに、この老人は、一体、何を考えていたのだろうか。
老人は、眼を上げて矢部を見た。
「何か、わかりましたでしょうか?」
「お嬢さんが、交際していた男が、わかりました。それから、これは、お嬢さんのハンドバッグです」
矢部は、預ってきたハンドバッグを老人に渡した。老人は、一寸《ちよつと》見ただけで、すぐ、横に置いてしまった。
「その男の名前を教えて下さい。お願いします」
「知って、どうする積りですか?」
「貴方は、わかったことは、必ず教えて下さると、約束なさったじゃありませんか」
「約束は、しました」
「教えて下さい。お願いします。何という名前の男です?」
「詰らない考えは、起こさないと、約束してくれますか? たとえ、その男のことで、お嬢さんが自殺したとしても、仇《かたき》をとるみたいな物騒なことはいわないと、約束してくれますか?」
「――――」
「一番いいのは、故郷《くに》へ帰って、お嬢さんの冥福《めいふく》を祈ってあげることだと、僕は思いますね。それを約束して下されば、教えます」
「帰ります」
「本当にですね?」
「本当です。だから教えて下さい。お願い致します。私が、納得するだけで、いいのです」
「Sタクシーの若宮という青年です」
「Sタクシー。ワカミヤ――」
老人は、俯向《うつむ》いて、何度も口の中で、二つの名前を、繰り返していた。
「お嬢さんが、そのハンドバッグをタクシーに忘れて、それを届けたことから、交際するようになったようです」
と、矢部は、いった。しかし、それ以外のことは、いわなかった。老人を、あまり刺激しない方がいいと、思ったからである。若宮の名前は、彼が教えなくても、老人が、銀座の洋装店「ハルミ」を訪ねれば、結局、わかってしまうことなのだ。老人は黙っていた。
矢部は、翌日、老人が上野から帰るのを見送った。やはり心配だったし、自分の眼で、老人が故郷へ帰るのを確かめたかったのである。老人を乗せた列車が見えなくなると、矢部は、ほっとした気持になって、ホームを離れた。
八
老人は、故郷《くに》へ帰った。が、娘の葬式をすませると、家も田畠も売り払ってしまった。たった一人の娘が死んでしまった今、何の未練もなかった。代金が入ると、それをふところにして、再び上京した。列車に乗る前、近くの寺に寄って、五万円を納め、「私の墓を作っておいて下さい」と、住職に頼んだ。住職が、呆気《あつけ》に取られているうちに、老人は、寺を出てしまった。
上野に着くと、駅の近くに、宿をとった。老人は、「暫《しばら》く厄介になります」と、いって、十日分の宿泊料を前金で払った。旅館の方では、上客と思ったのか、主人も、女中も、にこにこしていた。「東京をご見物ですか?」という番頭の質問に、老人は、「そんなところです」とだけ、いった。
次の日、老人は、「東京見物」のために、朝早く旅館を出た。老人は、歩道に立って、走りすぎる車の波を眺めた。彼が探しているのは、Sタクシーの車だった。
午後になって、やっと屋根とボディに「Sタクシー」と書いた車が来た。老人は、手を上げ、止った車に乗りこんだ。中年の運転手が、「どちら?」ときく。老人は、一寸《ちよつと》考えてから「新宿《しんじゆく》」といった。行先は、何処《どこ》でも良かったのだ。車が走り出すと、老人は、初めて気がついたように、
「運転手さんは、Sタクシーの方ですね?」
と、声をかけた。
「そうですよ」
「お宅にワカミヤという人がいますか?」
「ええ。いますよ」
「実は、うちの娘が、その人と、つき合っているらしいんですが、どんな人か心配でしてね」
「へえ」
と、運転手は、頓狂《とんきよう》な声をあげて、バックミラーの中の老人の顔を見た。
「お客さんの娘さんがねえ」
「どんな人ですか?」
「そうねえ。面白い男ですよ。それに、若いしね」
「女にもてる方ですか?」
「もてますよ。何しろ、彼のために、女が一人、自殺したくらいですからね。いや、これは冗談ですがね」
「――――」
老人の眼が、暗く、嶮《けわ》しくなった。が、バックミラーから外れていたので、運転手は気付かなかった。車が新宿につくと、老人は黙っておりた。料金を払う時、老人の骨太の指が、かすかに震えていた。
「今日は寒いね」
と、老人は、いい、手をこすり合わせて見せた。運転手は、ぽかんとして、小春日和《こはるびより》の空を見上げた。晩秋にしては、暖い日だったからである。
翌日も、老人は、朝から歩道に立って、タクシーを待った。Sタクシーの車が来ると手を上げて止め、乗るとすぐ、運転席の名札に眼をやった。そこに、「ワカミヤ」の名前がないと、老人は、肩を落した。
三日、四日と、空しく過ぎた。が、勿論《もちろん》、老人は諦《あきら》めなかった。Sタクシーの車が来れば止めて乗り、名札を覗《のぞ》きこむ毎日が続いた。
上京して一週間がすぎた。
七日目は、朝から雨が降っていた。老人は、旅館で傘を借りて、街へ出た。「ご熱心ですな」と、番頭が、送り出しながら、いった。老人は、ただ笑っただけである。
老人は、傘をさして、歩道に立った。Sタクシーの車は、なかなか来ない。他の車が老人のそばへ来て止ったが、乗らないとわかると、運転手は、「ちえッ」と舌打ちをして、走り去って行った。
老人は、二時間近く同じ場所に立っていた。雨のしぶきで、ズボンの裾《すそ》が、びしょびしょに濡《ぬ》れていたが、老人は気付かぬようだった。
Sタクシーの車が見えた。老人は、車体の色だけで、見分けられるようになってしまっていた。車道に乗り出すようにして手をあげる。車が止まり、老人が乗る。傘のしずくを落しながら、運転席を覗きこんだ。とたんに、老人の眼が光った。名札に、「若宮利夫」とあるのを見たからである。
「どこです?」
と、若宮利夫は、乱暴な口調で、きいた。雨の日は、タクシーの運転手にとって、かき入れ時なのだ。ぐずぐずしている客は、あまり有難くない。
「熱海《あたみ》」
と、老人は、いった。窓の外に、「観光熱海」の宣伝ポスターが見えたからである。若宮利夫は、にやっと笑って、アクセルを踏んだ。遠出の客は歓迎である。それに、熱海へ行く客なら、チップが貰《もら》えるかも知れない。
老人を乗せた車は、雨の中を、西に向って疾走《しつそう》した。老人は、黙りこくって、じっと、若宮利夫の肩のあたりを見つめていた。突き刺すような眼だった。
長い沈黙が続いた。車は走り続け、やがて、熱海の町が見えて来た。
「着きましたよ」
と、若宮利夫は、車を止めて、いった。
「何処《どこ》の旅館につければ、いいんです?」
「気がかわりました。東京へ戻ってくれませんか?」
老人は、抑揚を殺した声で、いった。若宮は、妙な顔をして、
「そりゃあ、構わないけど、ここまでの料金は、払ってくれるんでしょうね?」
「勿論、お払いします」
老人は、内ポケットから財布《さいふ》を取り出した。金を払う時、また老人の指先が震えた。
車は、老人を乗せて、再び、東京へ向かった。ハンドルを握りながら、若宮利夫は、時々、首をかしげていた。
東京に着くと、老人は、「千葉へ行って下さい」といって、熱海から、東京までの料金を払った。車は、また走り出す。千葉へ着くと、また、東京へという。走りながら、若宮の首をかしげる回数が、次第に多くなってきた。
街に、夕闇《ゆうやみ》が迫ってきても、まだ、老人は、若宮利夫の車から降りなかった。運転している若宮の顔が、次第に、歪《ゆが》んできた。気味悪くなってきたらしい。
東京駅の近くで、急に車を止めた。
「降りてくれませんか?」
と、若宮利夫は、やや、蒼《あお》ざめた顔で、いった。老人は、無表情に、相手を見た。
「金は払いますよ」
「それは、わかってますがね。食事をしたいんですよ」
「食事なら一緒にどうですか?」
「いや、僕は、ひとりで食べることにしてますから」
「残念ですね。私は、貴方が気に入ったのに」
「とにかく、降りてくれませんか」
「では、また乗せて下さい」
老人は、丁寧にいって、車を降りた。雨は、もう止んでいた。
九
危く、電柱にぶつけそうになって、若宮利夫は、慌てて、ハンドルを切った。自然に、舌打ちが出た。
(あの爺さんのせいだ)
と、思った。何となく、気持が落着かないのだ。水揚げが多いのだから、あの老人に感謝しなければならないのだろうが、そんな気になれなかった。薄気味の悪い老人だったという気持だけが、強く残っている。あの年寄りは、一体、何のために、俺の車に乗ったのだろうか。何のために、走り回ったのだろうか。いくら考えても答は見つからなかった。
中野の営業所に戻っても、頭のもやもやは消えなかった。詰所に入って、椅子に腰を下していると、電話が鳴った。受話器を掴《つか》んだ同僚が、若宮を見て、「お前さんに、電話だよ」と、いった。
若宮は、立ち止って、受話器を手に取った。
「もしもし――」
と、呼んだが、返事がない。二、三度、繰りかえしたが、同じであった。若宮は、手荒く電話を切ると、
「本当に、俺に電話だったのか?」
と、同僚の顔を見た。
「本当さ。確かに、若宮さんを呼んで下さいと、いったぜ。切れちゃったのか?」
「ああ」
若宮は、眉《まゆ》をしかめた。妙なことが続くと思い、気分を変えるために、詰所を出て、自分の車を洗っていると、また、「電話だ」と、呼ぶ声がした。若宮は、もう一度、受話器を取り上げた。が、前と同じように、いくら呼びかけても、返事はなかった。
一日の仕事が終って、アパートへ戻ってからも、奇妙な電話が続いた。疲れて、眠っているところを、「電話ですよ」と、管理人に、叩き起こされたのだ。「急用だそうですよ」といわれると、起きないわけには、いかなかった。
眼をこすりながら、階下《した》に降り、管理人室の受話器を取った。
「もしもし」と、いったが、返事がない。営業所での電話と同じであった。
「本当に、急用だといったの?」
若宮は、管理人にきいた。管理人は寒そうに咳《せ》き込んでから、
「本当ですよ」
「どんな声だった?」
「男の声でしたよ。一寸《ちよつと》、年とった」
あの老人ではないのか、と、若宮利夫は、思った。あの妙な老人に決っている。若宮が自分の部屋に戻ろうとすると、「若宮さん」と、管理人が、不機嫌な顔で、呼び止めた。
「相手の人に、いっといて下さいよ。こんな時間に電話するなって。はた迷惑ですからね」
「わかったよ」
若宮も、管理人に負けない不機嫌な声を出した。
部屋に戻ったが、眠れなかった。眼を閉じると、老人の顔がちらついて離れないのだ。明け方になって、やっと、うつらうつら出来たが、出社時間に起きると、眼《め》が真赤に充血していた。運転は危険だったが、何かに対抗するような気持で、会社に出て、若宮はハンドルを握った。
明るいうちは、どうにか、ぶつけずに運転できたが、夜に入ると、気を張っても、自然に、まぶたが合わさってきた。九時頃、新宿で、浅草へ行く客を乗せて走り出した時、若宮は、どうしようもなくなっていた。知らず知らずのうちに、眠ってしまっていて、客の叫び声に、はっと眼をあけた時は、安全地帯が眼の前に迫っていた。
慌ててブレーキを踏んだ。が、間に合わなかった。スピードが出ていなかったのが、不幸中の幸いだった。パトカーが、すぐ飛んで来た。軽傷を負った客を病院に運んだあと、警官に、散々、油をしぼられた。勿論《もちろん》、免許証は取り上げられ、当分、タクシーは運転できなくなった。
(あのじじいのせいだ)
と、思った。酒を飲まずにはいられなかった。へべれけに酔っ払って、アパートに戻ってくると、街灯の明りの中に、小柄な人影が、じっと、立っている。ぎょっとして、立ち止まり、若宮は、眼を大きくして、相手を見すえた。
あの老人だった。間違いなく、あの老人だった。若宮利夫は、いっぺんに酔いがさめていくのを感じ、同時に、老人に対して、烈しい憎しみを覚えた。駈け寄ると、いきなり相手の腕を掴《つか》んだ。
「何だって、こんなところに、いるんだ?」
と、若宮は、怒鳴《どな》った。が、老人は、平気な顔で小さく笑った。
「ここを歩いては、いけませんか?」
「嘘《うそ》をつけ。俺を、追《つ》け回しているに決っている。そうなんだろ? どうなんだ」
若宮は、力に委せて、老人を小突いたが、老人の顔から、微笑は消えなかった。そのことが、一層、若宮利夫の怒りを掻《か》き立てた。
「いつか、二度と俺の前に現われたら、殺してやるぞ」
「それなら、今、私を殺したら、どうだね。手間がはぶけるよ」
「なに?」
若宮の顔が蒼《あお》ざめた。怒りの中に、ふっと恐怖がよぎった。その怯《おび》えを、相手に覚られまいとして、彼は、いきなり老人を殴りつけた。老人の小柄な身体は、鈍い音を立てて、地面に転がった。
「私を殺すがいい」
と、老人は、ゆっくり起き上りながら、いった。
「今度こそ、お前さんは、殺人罪で警察に捕まるんだ。さあ、殺すがいい」
老人の顔から、血が流れていた。老人が一歩近づくと、若宮は、顔を引きつらせて一歩|退《さが》った。退りながら、迫ってくる恐怖を払いのけるように、手を横にふった。その手が老人に当り、老人は、また倒れた。
若宮利夫は、声にならない悲鳴をあげて、アパートに走り込んだ。
十
矢部は、老人が、病院に運ばれたことを知った。
(あの老人は、東京に戻っていたのだ)
上京した理由は、考えなくても想像がつく。そして、老人が負傷したという記事に不吉なものを感じた。
矢部は、老人が収容されている病院を訪ねてみた。夜になっていた。受付で、老人の病室を二階と聞き、自分で、階段を上った。
「小林徳太郎殿」と書かれた名札を確かめてから、ドアをノックしたが、返事がない。部屋も暗い。もう眠ったのか。念の為に、ドアを開けてみた。ぼんやりした月明りが、病室に射し込んでいる。ベッドが見えた。が、その上にある筈《はず》の老人の姿は見えない。矢部は狼狽《ろうばい》して、スイッチをつけた。事情が、はっきりした。窓が開いていて、白い紐《ひも》が、外に向って垂れているのだ。
老人は、脱け出したのだ。何のためかは、考えずにも判る。娘の仇《かたき》をとるつもりだ。新聞にあった負傷も、若宮利夫と何かあったのではあるまいか。
矢部は、病院を飛び出した。Sタクシーに電話して、若宮利夫の住所をきく。この病院に近いアパートだという。矢部の狼狽が、また深くなった。ここから五百メートルぐらいしかない。矢部は、夢中で駈《か》けた。
そのアパートは、ひっそりと静まりかえっていた。若宮利夫の部屋は、ドアが閉っていた。ノブに手をかけて、開けた。最初に眼に入ったのは、テーブルに寄り掛かるようにして倒れている若宮の姿だった。そばに、ウイスキーの瓶が転がっている。酔いつぶれているのかと思ったが、そのくびに、細い紐が巻きついているのが見えた。恐れていた通り、全てが終ってしまったのだ。矢部は、眼を移した。老人の身体が見えた。抱き起こしたが、息はなかった。外傷がないところをみると、上京の時に用意した農薬でも呑《の》んだのだろう。酔いつぶれている若宮利夫なら、老人にも殺せた筈《はず》である。
矢部は、部屋を出た。とにかく警察に知らせなければと、アパートを出たが、公衆電話の前まで来て、気が変った。
この事件の真相を知っているのは、自分だけなのだ。老人とタクシーの運転手があの部屋で死んでいる理由を知っているのは、自分しかいないのだ。特ダネなのだ。投書が引きおこした悲劇。現代の仇討《あだうち》。狂気の果て――さまざまな見出しの言葉が、矢部の眼の前にちらついた。老人の狂気が乗り移ったみたいに矢部は眼を輝かせていた。二人の死を悼《いた》む気持は消えうせていた。警察へ知らせるのは、後でいい。
矢部は、ダイヤルを回して、デスクを呼び出した。
「デスクですか」と、矢部は、弾んだ声でいった。
「ニュースです。事件が起きたんです。他の社は、まだ誰も知りません」
[#改ページ]
死んで下さい
一
私は、ときどきこんなことを考える。
引ったくりが、眼の前で行われたら、犯人を追いかける勇気が出るだろうか。
車道の真中で、老人か子供が、ひかれそうになっているのを見たら、危険をかえりみず、飛び出していくことが出来るだろうか。
恋人と一緒に夜道を歩いているとき、ふいに強盗が現われたら、逃げ出さずに、恋人を守ることが出来るだろうか。
想像の中では、人間は、いくらでも、勇気がもてるものである。私も、想像の中では、いくらでも英雄になれたが、実際の場合にも、そのとおり動けるかどうか、自信がなかった。
先日も新聞に、アベックが、暗闇《くらやみ》で強盗におそわれたら、男の方が、さっさと逃げだしてしまったという記事がのっていた。その記事を読んだときには、何というだらしのない男かと思ったが、いざとなれば、私だって、恋人を放り出して、逃げださないという保証はない。いまのところ、私には、恋人がないから、この心配だけはないが、前の二つの場合は、心配する必要があった。
私は、あまり勇気のある方ではない。正直にいえば、おくびょうである。それだけに、いざとなると、足がすくんで、動けなくなるのではあるまいかという不安があった。自分が怖いのである。
私は、心ひそかに、そんな場面にぶつかることのないことを祈った。自分を試されるのは、嫌《いや》なものである。
ところが、皮肉なことに、そう願い始めた直後にいざという場面に、ぶつかってしまったのである。
二
三月の末であった。
場所は、環状七号線。横断歩道と信号が少くて、東京では、もっとも、交通事故の多い場所である。
私は、そこで、タクシーを拾おうとしていた。車はいくらでも来るのだが、空のタクシーは、なかなか掴《つか》まらない。
そのとき、私の傍から、六十歳くらいの老婆が、ちょこちょこと、車道に向かって、歩き出したのである。
横断歩道も、信号もないところだった。車は、フルスピートでくるのだから、向う側へ辿《たど》りつくまでに、確実に、はね飛ばされてしまうだろう。
(助けなければならない)
と、咄嗟《とつさ》に思ったが、瞬間的には、足が動いてくれないのである。
その瞬間、私がしたことといえば、自分の周囲を見まわすことだった。誰か勇気のある人間がいて、飛び出してくれれはいいと、心の何処《どこ》かで、思っていたのだろう。心ひそかに、責任転嫁をねがったのだから、情けないものである。
しかし、あいにく、私のまわりには、誰もいなかった。
私以外に、老婆を助けるものは、いないのである。
私は、自分の顔が、こわばってくるのを感じた。追いつめられた気持である。
その間にも、老婆は、進んでいくし、すさまじい、クラクションの音が、私をおどかした。
私は、車道に飛び出した。どたん場に来て、勇気がわいた。といいたいところだが、正直にいえば、私を、ふみ出させたのは、恐怖だった。ここで、老婆が死んだら、私は、見殺しにしたということで、罰せられるかも知れない。罰せられないまでも、新聞に書かれて、男らしくない人間と、叩《たた》かれるかも知れない。
その恐怖が、私を、老婆に向かって、駈《か》け出させたのである。
そのあと、老婆の腕をつかんで、引っぱったことだけは、おぼえている。それと、悲鳴に似た急ブレーキの音。他のことはおぼえていなかった。
ともかく、私は、向う側の歩道に、老婆を助けあげることに成功した。
私が引っぱったとき、老婆は、足を引きずったとみえて、すねのあたりから、血を流していた。
そのうちに、警官が来て、私と老婆は、交番へつれていかれた。老婆は、そこで、傷の手当をうけたのだが、気の強い婆さんとみえて、私に助けられたことに、あまり嬉《うれ》しそうな顔をしなかった。
丁度《ちようど》、交通安全週間だったせいか、新聞記者が来て、私と老婆の写真を、とって行った。
老婆の息子も、あわてて、駈けつけてきた。三十歳くらいの痩《や》せた男である。私に、何度も頭を下げてから、老婆に向かっては、
「だから、いったでしょう」
と、強い声を出した。
「もう年なんだから、信号のないところで、道路をわたるようなことをしちゃいけないって。いいですか。年を考えてくださいよ」
「――――」
老婆は、だまって、息子を睨《にら》んだ。どうやら、息子から、年寄りあつかいされるのが、気に入らないらしかった。
その息子が、老婆をつれて帰ったあとで、若い警官は、私に苦笑して見せた。
「気の強い婆さんですな」
「この近くの人ですかな?」
と、私は、何となくきいた。警官は、うなずいた。
「田中トクという婆さんでしてね。金はあるんだが、うるさがたで、近所では、煙たがられている婆さんです。へそ曲りという奴でしてね。右といえば、左という――」
「助けられても、かえって、しゃくにさわるという口ですね」
私も苦笑した。
三
ここで終れば、何ということもなかった事件である。新聞に出たおかげで、会社での私の評判は、一寸《ちよつと》ばかり良くなったが、一か月もしないうちに、この事件は忘れられて、私は、元の平凡なサラリーマンに、戻ってしまった。
ところが、五月に入ってからの日曜日に、私は、また同じような場面に、ぶつかってしまったのである。ついているというべきなのか、或《あるい》は、ついていないというべきなのか、私には、わからない。
その日、私は、東京の郊外に、釣りに出かけた。
日曜日のためか、河原には、マイカー族の姿も見えた。が、雨の日が、二、三日続いたせいか、川は、水かさが増え、流れも早くなっていた。釣りには、あまりいい状態ではなかった。
私は、竿《さお》をかついだまま、良い場所を探して、川にそって歩いて行った。
川の真中に、中洲《なかす》があり、そこが、良さそうだった。
細い木の橋が、かかっていて、それを渡れば、中洲へ行けるようになっている。だが、大分前にかけた橋らしく、ところどころに、板のなくなっている箇所があり、手すりもない。流れが早いから、落ちたら、助からないかも知れない。
中洲には、五、六人の人影が見えた。上手《うま》く渡れば大丈夫ということらしい。
私は、橋のそばで、暫《しば》し考えていた。危いことは、あまり好きではない方である。それに、運動神経は、あまりよくない。落ちたときのことを考えると、中洲へ行くのが、一寸怖くもあった。
そのとき、いきなり、橋を渡り出した老婆がいたのである。
私は驚いた。若い私でさえ、一寸怖いと思っているのに、無茶な老婆だと思った。
中洲にいる人たちは、向う側を向いて釣りをしていて、老婆に気づかない。
そのうちに、案の定、老婆は、こわれた穴に、足をふみはずし、必死に、しがみついている。
私は、あわてて、助けに飛び出した。前に一度、人助けをしていると、二度目は、案外かんたんに飛び出せるものである。
私は、老婆の腕を掴《つか》んで、橋の上に、引き上げた。
そのときになって、その老婆が、前に助けた田中トクという老婆であることに、気付いて、私は、驚いてしまった。
「また、あんたか」
と、私は、思わず、大きな声で、いってしまった。老婆の方は、あのときと同じようにあまり嬉しそうな顔をしなかった。何とも可愛げのない老婆である。
私が、老婆を、かつぐようにして、中洲へ渡る頃になって、釣りをしていた人達も、気づいたとみえて、集まってきた。その中に、交番で会った老婆の息子の姿も見えた。釣竿を持っているところをみると、彼も、中洲に来て、釣りを楽しんでいたらしい。
彼は、私を見ると、驚いた顔をした。彼の方でも、私の顔をおぼえていたのである。
「二度も、母が助けて頂きまして――」
と、彼は、恐縮して、何度も頭を下げた。
「危いから、母には、こっちへ来るなと、強くいっておいたんですが」
そのあと、彼は、老婆に向かって、くどくどと文句を、いっていた。老婆の方は、あのときと同じように、白い眼で、息子を睨《にら》んでいた。どうも、一か月前と同じで、親子の間は、あまり、しっくり行っていないらしい。
この事件は、新聞ダネには、ならなかった。私も、その方が、ありがたかった。
二度も、同じ老婆を助けるというのは、たしかに、奇縁というのだろう。流石《さすが》に、二、三日は、妙な気持だったが、十日、二十日と過ぎるうちに、はんざつな毎日の仕事に追われて、事件のことも、老婆のことも、次第に忘れていった。
四
六月二日は、私の誕生日であった。親もとを離れて、アパート暮らしをしているので、別に、祝ってくれる人もいない。
ひとりで、さびしく祝杯をあげるつもりで、会社の帰り、ウイスキーの小瓶を買って、アパートへ帰った。
帰ったのは、六時頃である。ドアをあけると、ドアに付いている郵便受けに、きれいな紙で包まれた小包みが入っていた。
誕生日の祝いに、誰かが贈ってくれたらしいとはわかったが、差出人の名前はなかった。
中身は、ウイスキーであった。私は、こうとわかっていれば、小瓶など買ってくるのではなかったと、思った。
贈り物の方は、明日の楽しみにとっておくことにして、私は、買ってきた小瓶をあけた。
ちびりちびりやりながら、贈り主を想像してみた。
どうやら、悪友の佐々木らしいと、見当をつけた。友人の中で、一番酒好きの男だし、匿名で贈り物をするような茶目っけも持っていたからである。部屋の鍵《かぎ》が、牛乳|函《ばこ》の奥にあることを知っていて、留守に上がりこんで、そのまま、ぐうぐういびきをかいていたこともある。
佐々木に違いないと、私は、決めてしまった。
小瓶を空にしてから、私は、近くの銭湯に出かけた。
珍しく空いていて、ゆっくりと、身体を温めることが出来た。銭湯を出てから、パチンコ屋に寄り、煙草の景品を手にして、アパートへ戻ったのは、八時をすぎていた。
二階の自分の部屋の前までくると、消した筈《はず》の電気がついていた。
牛乳函の中を探したが、鍵はない。佐々木でも来たのだろうと思って、ドアをあけると、思ったとおり、佐々木であった。
佐々木は、畳の上に、俯伏《うつぶ》せに転がっていた。
贈り物のウイスキーのふたがあいていて、飲むのに使ったらしく、コップが転がっている。
私を待っているうちに、贈り物のウイスキーを見つけ、佐々木らしい不遠慮さで飲んでいるうちに、酔いつぶれてしまったというところらしい。
私は、苦笑しながら、「おい」と、呼んでみたが、佐々木の起きる気配はなかった。
そのうちに、佐々木の様子が、少しおかしいことに気付き始めた。
ウイスキーは、僅《わず》かしかなくなっていないのである。二、三時間で、角瓶一本くらいは軽くあけるほど、アルコールに強い佐々木が、僅かの量で、酔いつぶれるというのは妙であった。
しかし、それでもまだ、私は、佐々木が、死んでいるとは、考えもしなかった。
「おい。起きろよ」
と、今度は、腹に手をかけて、身体をゆさぶった。
佐々木の死んでいることに気付いたのは、その時である。身体のかげになっていてわからなかったのだが、佐々木は、血を吐いていた。そして、何ともいえない苦悶《くもん》の表情に、私は、思わず、顔をそむけてしまった。
佐々木は、毒死していたのである。
五
警察は、すぐ来てくれた。パトカーと、鑑識の車が到着すると、小さなアパートは、上を下への大騒ぎになった。
背のひょろっと高い刑事は、死体を、一目見るなり、
「青酸だネ」
と、いった。
狭い四畳半の部屋に、フラッシュが、きらめいて、何枚も写真がとられた。いわゆる現場写真というやつらしい。
新聞記者も押しかけてきた。中には、私をゆびさして、
「彼が犯人ですかな?」
と、声をかけるあわて者の記者もいた。
私は、参考人ということで、警察へ連れていかれた。
私は、刑事の前で、ありのままを話した。
刑事は、ふむふむとうなずきながら聞いていたが、私が話し終っても、納得した様子は見せなかった。
(警察は、私が、佐々木を殺したと思っているのだろうか)
私は、不安になってきた。考えてみれば、私は、疑われても仕方のない立場にいるのである。
私が、毒入りの酒を佐々木にすすめたと、考えられないこともないし、形の上では、そうなっているからである。
「貴方《あなた》のいうことが、正しいとするとですね」
と、暫《しばら》くたってから、背の高い刑事がいった。
「誰かが、貴方を殺す目的で、青酸入りのウイスキーを贈った。ところが、貴方が、銭湯へ行っているうちに、被害者が訪ねてきて、それを飲んでしまった。こういうことになりますね」
「そのとおりです」
私は、うなずいた。他に考えようはないのだ。
誰かが、私を殺そうとしたのだ。他に考えようはない。
「心当たりがあるのですか?」
「心当たりというと?」
「誰かに、殺されるような恨みをうけているという心当たりです」
「――――」
私は、考えてみた。が、思い当たることはなかった。
私は、敵を作るような人間じゃない。これは、別に、自慢しているわけではなかった。むしろ、卑下しているのである。
敵を作る人間には、何処《どこ》か、力強い野心家めいたことがあるものだが、私には、そんなものはない。味方らしい味方も作れないし、敵らしい敵も作れない平凡な人間なのだ。
今までのところ、恋愛らしい恋愛もしたことがないので、女のことで、恨まれるおぼえもない。
会社でも、まだ、係長にもなれずにいるのだから、地位や金のことで、恨みを受ける筈《はず》もない。
アパートの部屋代も、きちんと払っているし、夜中に大声を出して、隣りの住人に迷惑をかけたこともない。
いくら考えても、心当たりは、浮かんで来ないのである。
「どうしても、思い出せません」
というと、刑事は、難しい顔になって、
「おかしいじゃありませんか」
と、いった。
「貴方の証言が正しいとすれば、狙《ねら》われたのは、貴方ということになる。とすれば、何か思い当たることがある筈だ」
「――――」
「女のことで問題をおこしたことは?」
「それは考えてみましたが、思い当たることはありません」
「会社関係では?」
「それもありません」
「ぜんぜんですか?」
「ええ」
「妙ですな」
刑事は、難しい顔を、一層、難しくさせた。いくら妙だといわれても、心当たりがないのだから仕方がない。
「被害者が、今日くることは、決まっていたのですか?」
刑事は、質問をかえた。
「いえ。彼は、気まぐれな男ですから、いつ来るかわからないのです。一年ぐらい、ぜんぜん姿を見せない時もあるし、続けて、毎日くることもありました」
「どんな友達ですか?」
「学校友達です」
「貴方との仲は?」
「いい方でした。図々《ずうずう》しいところがありましたが、憎めないところがあって。性格も、さっぱりしていました」
私は、佐々木のことを喋《しやべ》っているうちに、改めて、悲しみと犯人への憎しみが、湧《わ》き上がってくるのを感じた。
佐々木は、数少い私の友人の一人だった。酒好きで、ルーズなところがあって、いわゆる悪友だったが、それだけに、一番、気の許せた相手ともいえた。その佐々木は、いわば、私の身代りになって、死んだのである。もし、今日、彼が遊びに来なかったら、私は、明日、何の疑いもいだかずに、あの贈り物のウイスキーを飲んでいたことだろう。
私は、翌朝になって釈放された。だが、警察が、まだ私を疑っているらしいことは、感じとることが出来た。
六
その日私は、会社を休んだ。
気持が落着かなかったし、いろいろと、いわれるのが嫌だったからである。
と、いって、佐々木の死んだ部屋にも、いられなかった。私は、近くの公園へ出かけた。
人気のないベンチに腰を下して、ゆっくり考えてみようと思ったからである。私は、人に恨みをうけるおぼえはない。だが、あのウイスキーは、明らかに、私を殺そうとして贈られてきたものである。
誰かが、私を殺したいと思っている。そう考えるより仕方がない。犯人は、新聞で、自分の企てが失敗したことを知るだろう。そうしたら、どうするだろうか。また、私を狙うかも知れない。
私は、思わず、ゾッとして、まわりを見廻した。殺されるのは、誰だって嫌だし、わけもわからずに殺されるのは、なお、かなわない。それは、防ぎようがないからだ。
(とにかく、誰が、自分を殺そうとしているのか、それを考え出すことだ)
と、私は思った。それがわからないのでは、対策の立てようがない。
まず、贈り物のウイスキーのことから考えてみた。綺麗《きれい》な紙に包んであったが、郵便局の消印はなかった。恐らく、犯人が、じかに、郵便受けに、投げ込んでいったものだろう。だから、消印から、犯人の住んでいる場所を推測することは出来ない。
また、私のアパートには、表の入口の他に、裏に非常階段がある。犯人は、非常階段を利用したに決まっているから、管理人にきいても、犯人が、わかるとは、思えなかった。
私は、犯人を限定してみようと思った。出来ないことは、ない筈《はず》である。
犯人は、私の住所を知っていたと、考え、これが、犯人を限定できる材料になるだろうかと、思案したが、途中で、この考えが、無駄なことに気付いた。
私の名前も住所も、例の老婆を助けたことで、新聞に載っていたからである。犯人は、あの記事を見たのかも知れない。もし見たとすれば、犯人を、私の親しい人間に、限定することは、できなくなってくるからである。
(犯人は、私の誕生日を知っていた)
この方は、限定する材料になりそうである。新聞記事にも、私の誕生日は、出なかったから、知っている人間は、可成り限定される。
親しい人間でも、相手の誕生日までは、おぼえていないものである。それなのに、犯人は、私の誕生日を知っていて青酸入りのウイスキーを贈ってよこしたのだ。
私は、特に親しくしている人間の顔を、思い出してみた。
私の誕生日まで知っているような知人は、そう多くはない。せいぜい四、五人といったところだが、その一人一人の顔を思い出してみても、私を殺しそうな人間は、思い出せなかった。
(私の誕生日を、知る方法が、あるだろうか)
と考えてみる。もし、あるとすれば、犯人は、私の知人関係に、限定できなくなるのである。
(履歴書だ)
と、思った。会社の人事課には、社員全部の履歴書が保管してある筈である。私が働いている会社の名前も、老婆を助けたときに、新聞に出てしまったのだから、誰でも、私の誕生日を知ることは、可能な筈である。
私は、ベンチから立ち上がると、公園の出口のところにある公衆電話ボックスまで、歩いて行った。
会社へ電話をかけ、人事課を呼び出して貰った。
出たのは、女の子だった。私は、所属の課と、自分の名前をいってから、最近、私の誕生日を知りたいという電話が、なかったかどうかを、きいてみた。
「ありました」
と、女の子は、電話口で、いった。どうやら、私の推測は、当たっていたらしい。
「相手は、男それとも女?」
「男でした。名前は、大久保といってましたけど」
「大久保?」
心当たりはない。犯人だとしたら、勿論、本名は使わない筈である。大久保という名前から、犯人を割り出すことは、出来ないと考えて、良さそうだった。
「お友達だと、おっしゃってましたけど、知らない方なんですか?」一
女の子の声が、驚いたように、甲高くなった。
「まあね」
と、私は、あいまいに、いった。
「そのときの電話の様子を、詳しく知りたいんだが」
「何でも、誕生日に、素晴らしい贈り物をしたいから、教えてほしいっていう電話でした。本人にきくと、遠慮されると嫌だからって、いってましたけど」
「なるほどね」
私は、受話器を持ったまま苦笑せざるを得なかった。確かに素晴らしい贈り物だった。犯人が、私にきいたら、私は、ご遠慮申しあげただろう。あんな物を貰って、喜ぶ人間はいない。
「その時の男の声は、どんなだったか、おぼえているかな」
「低い声でしたけど、今になって考えると、何だか、無理に作っているような声でした」
「その電話があった日が、いつだったか、おぼえていないかな?」
一寸《ちよつと》、無理な質問だろうかと、思ったが、女の子は、あっさりと、
「五月六日でした」
と、いった。
「月曜日ですわ」
「約一か月前だな。いやに、はっきりと、おぼえているんだね」
「あたしの誕生日だったんです。その日が」
と、彼女は、電話口で、くすくすと、笑った。
「自分の誕生日に、誕生日の問い合わせの電話があったんで、よく、おぼえているんです。五月六日に、間違いありませんわ」
私は、ありがとうといって、電話を切った。
これで、いくらか犯人の心当たりが、出来てきたわけである。
第一に、犯人が、男であることが、わかった。
第二に、犯人は、会社に電話して、私の誕生日を知った。
第三に、犯人が、電話したのは、五月六日の月曜日である。約一か月前だ。つまり、一か月前から、私を狙《ねら》っていたことになる。
(執念深い男らしい)
と、私は思い、何となく、うそ寒いものを感じた。
七
私は、夕方になってから、アパートに戻った。
勿論、佐々木の死体は、もう片付けられているし、あのウイスキーも、警察に、運ばれてしまって、殺人を思い出させるようなものは、何一つ部屋には、残っていない。
しかし、ドアをあけて、部屋に入ると、やはり、いやな気持がした。
窓をあけて、路地を見下ろすと、夕闇《ゆうやみ》が立ちこめ始めた路地に、ふと、人の気配が動いた。錯覚ではない。
たしかに、人影が、建物のかげに、かくれたのである。
(犯人が、まだ、私を狙っているのか?)
と私は、恐怖に襲われて、あわてて、警察に電話をかけた。
電話に出たのは、昨日、私を訊問した刑事だった。
刑事は、私の喋《しやべ》るのを、黙って聞いていたが、いやに落着いた声で、
「大丈夫ですよ」
と、いった。
「しかし――」
「大丈夫です。貴方が見たのは、刑事です。犯人が、もう一度、貴方を狙うかも知れない。その恐れがあるので、アパートのまわりに刑事を張り込ませてあるのです」
「なるほど――」
私は、納得して、電話を切った。刑事のいうことは、本当だろう。さっき見たのは、刑事に違いない。しかし、私を守る積りで、張り込んでいるのか、私を、監視しているのかわからなかった。
警察は、まだ、私を疑っている筈だから、監視のために違いないと、私は思った。しかし、いずれにしろ、安心して眠れるのは、嬉しかった。刑事が張り込んでいれば、犯人も、私の命を狙うわけには、いかない筈である。
私は、部屋に戻ると、蒲団《ふとん》の上に横になった。だが、やはり、仲々、眠れるものではなかった。
命を狙われたことは、生まれて初めての経験だった。しかも、親しい友人が、私の身代りに殺されたのである。眠れといっても、眠れるものではなかった。
さまざまなことが、頭に浮かんでくる。しかし、最後は、誰が、私を殺そうとしたのかという疑問だけが、残った。
私は、もう一度、誰かに、恨まれていないだろうかと、考えてみた。
蒲団の上に起き上がり、知人の顔を一人一人思い浮かべてみた。机の中から、今までに貰《もら》った名刺や、手紙を取り出して、調べてもみた。昔、親しかったが、今は、そえんになっている人も何人かいた。その人たちについては、何故、親しさが消えたのかを、考えてみた。だが、憎まれるような心当たりは、思い浮かばなかった。どの人たちも、何ということもなく、そえんになっているのだ。別に、トラブルがあったわけではない。
名刺と手紙からは、手がかりはなかった。
私は、考えを変えるために、煙草に火をつけた。
知らないうちに、私は、誰かの恨みを買うようなことをしたのかも知れない。
例えば、道路を歩いていて、私が、何気なく、バナナの皮でも捨てたとする。ところが、私のあとから同じ道路を歩いてきた人間が、その皮に足をとられて、転んだ。コンクリートの固い道路だったために、その人間は、打ちどころが悪くて、死んでしまった。そんなことも、考えられなくはない。
死んだ人間の家族は、当然、私を恨むだろう。警察に、私を訴えても、過失致死にしかならないから、刑法三十八条で、罪ヲ犯ス意ナキ行為ハ之ヲ罰セスということになる。それでは、がまんならないというので、自分の力で、私を罰しようと、決意したのかも知れない。
他にも、まだ考えられる。例えば、タクシーの奪い合いも、ある場合には、殺意を生むこともありうる。ある人間が乗ろうとして止めたタクシーに、私が、知らずに、乗り込んでしまったことが、あったとする。運転手は、客であればいいのだから、そのまま発車してしまう。ところが、取り残された人間は親が死にかけていて、駈けつけるところだったとしたら、どうだろうか。私のおかげで、親の死にめに会えなかったら、私を恨むだろう。もっと極端な場合には、取り残されたのが、持病の発作を起こしていた人間かも知れない。早く病院に行けば助かったが、私にタクシーを取られてしまったために、手おくれになったということも、考えられなくはない。そして、死んだ人間の家族が、私に、毒入りのウイスキーを贈る。
東京のような、人間の溢《あふ》れている、複雑な都会に住んでいれば、いつ、どんなところで、知らないうちに、他人を傷つけているか、わからない。
私は、煙草を、何本も灰にしながら、あらゆる可能性を考えてみた。だが、どうしても、思い当たらないのだ。
私は、道路に、バナナの皮も、みかんの皮も捨てたことはない。
私は、ここ一年ばかり、タクシーに乗ったこともない。
通勤の電車の中で、人の足をけとばしたこともない。
(わからないな)
と、呟《つぶや》いてから、今日、会社へ電話したときのことを思い出した。
人事課の女の子は、五月六日に、電話があったといった。このことに、何か意味があるのではあるまいか。
八
彼女は、その日が、自分の誕生日だったから、間違いないといった。この点は、信用していいだろう。女の子は、殊に、誕生日の贈り物を期待する年頃の女の子は、自分の誕生日を、間違えたりする筈はない。
五月六日。そして、月曜日だったと、女の子はいっていた。
私は、五月六日という月日より、月曜日ということで、あることを思い出した。
五月に入ってすぐの日曜日に、私は、釣りに行ったからである。私は、蒲団から立ち上がると、壁のカレンダーを、調べてみた。
五月五日(日)のところに、「ツリ」と書き込んであった。
間違いなかった。五月五日に、私は、釣りに行き、あの老婆を助けたのだ。そして、その翌日、犯人は、私の誕生日を調べるために、会社に電話をかけてきた。
翌日ということに、私は、こだわった。何か関係があるのだろうか。関係がありそうにも思えたが、理由がわからない。
私は、老婆を助けたのである。こわれかけた橋から、老婆を突き落とそうとしたのではなく、落ちかけたのを、助けあげたのである。人助けをしたのに、恨まれたのでは、立つ瀬がないし、そんなことが、ありうる筈がないではないか。
私は、この考えを、捨てようとした。どう考えても、今度の事件には、関係がないように思えたからである。だが、無関係だと考えても、心の何処《どこ》かに、引っかかるものが、残ってしまう。五月六日(月)ということが、気になってならない。
次の日私は、自分を納得させるために、五月五日に、釣りに出かけた場所に、もう一度足を運んでみた。
ここ、二週間ばかり、雨がなかったせいか、あのときに比べて、水量も少く、流れも、ゆるやかになっていた。川幅もせまくなっている。
ウイークデーのせいか、人影は少かった。
私は、中洲のあるところまで、歩いて行った。橋は、あの時のままだった。修理はしなかったらしい。
私は、その橋を見ながら、五月五日のことを、思い出した。私が、中洲へ渡ろうかどうしようかと考えているときに、あの老婆が、この危い橋を、渡り出したのだ。危いなと思っているうちに、案の定、穴に足を突込んでしまった。私は、あわてて、老婆を助けあげたのだ。
(それから、どうしたのだろうか?)
中洲で、釣りをしていた人達が、集まってきたのだ。その中に老婆の息子もいた。釣竿を、片手に持っていたっけ。そして、私の顔を見ると、驚いた顔で、恐縮して、頭を下げた。
私は、何となく照れ臭くて、そのまま、帰ってしまったのだが、今になって考えてみると、あの出来事には、どことなく妙なところが、ありはしないだろうか。
あの日、田中トクという老婆は、息子と一緒に、此処《ここ》へ、遊びに来たのだ。なかなかの金持ちということだから、息子が車を運転して、来たのかも知れない。私は、河原に、車が何台も止まっていたのを思い出した。
息子にしてみれば、一寸《ちよつと》した親孝行のつもりだったのだろう。
(しかし、それなら、どうして、あの息子は、母親を放り出して、一人で、中洲で、釣りをしていたのだろうか?)
釣りキチガイということも考えられたが、それだけでは、納得できないものがあった。釣りが好きなら、中洲に渡らずに、こちら側で、母親と一緒に、釣りを楽しむべきではなかろうか。そうしていれば、老婆が、危く、死にかけるということもなかったのだ。
(だが、あの男は、そうしなかった)
私は、自分の心の中で、新しい疑惑が、生まれてくるのを感じた。その疑惑が、正当であるかどうかを、調べるために、最初に、老婆を助けた場所に、行ってみる必要を、感じた。
環状七号線は、あの時と同じように、車の洪水だった。
私は、老婆を助けた場所に立ち、あの時のことを思い出した。車道に飛び出した老婆を、私は、夢中で助けた。そこまではいい。問題は、そのあとに、ありそうだった。
若い警官が、交番へ連れて行って、老婆の傷の手当てをした。それもいい。新聞記者が来て、写真をとり、それから、息子が、駈けつけてきたのだ。息子は、私に礼をいってから、母親を叱《しか》りつけたのだ。
「だから、いったでしょう」
と、息子は、いった。
「もう年なんだから、信号のないところで、道路をわたるようなことをしちゃいけないって。いいですか。年を考えてくださいよ」
間違いなく、こういったのだ。あの時は、しごく当たり前の言葉と受けとったのだが、今になって考えてみると、多少、おかしいところがないでもない。
息子は、母親のことが、心配だった。それなら、何故、自分が一緒に、ついて来てやらなかったのだろうか。その方が、くどくどといい聞かせるよりも、安全ではないか。
(それとも、あの時は、どうしても、母親と一緒に行ってやれない理由が、あの男に、あったのだろうか)
私は、それを調べてみたくなった。
私は、あの時、世話になった交番へ行ってみた。あの時の若い警官がいて、私をおぼえていてくれた。
「今日は、あの時のお婆さんのことではなくて、息子さんのことで、うかがったんです」
と、私は、いった。
「実は、お礼ということで、贈り物を頂いてしまいましてね。こちらでも、何か、お返しをしなくちゃならなくなって――」
「どんなことを、お知りになりたいんです?」
「結婚は、もう、していらっしゃるんでしょうね?」
「いや、まだのようですよ。確か、母親と、二人だけで、住んでいるようです」
「二人だけで?」
「ええ。もう結婚してもいい年でしょうが」
「どんな仕事をなさっているんでしょうか?」
「ええと――」
警官は、一寸《ちよつと》考えてから、
「詳しいことは知りませんが、何処へも、勤めていないんじゃありませんか。ぶらぶらしているのを、時々、見かけますから。金のある人は、うらやましいですな。遊んでいても食べていけるんだから」
若い警官は、本当に、うらやまし気な顔をして見せた。
九
私は、警官から、田中トクの家をきいて、訪ねてみることにした。
警官は、金があるらしいといったが、確かに、大きな家であった。門構えも立派である。土地だけでも、時価で一千万以上はするだろう。
私は、一度、門の前に立ってから、思い直して、近くの煙草屋に、首を突っ込んだ。店番をしていたのは、ありがたいことに、口の軽そうな中年の女だった。
「あの家の息子さんのことで、ききたいんだが」
と、ピースを一箱買ってから、持ちかけると、案の定、べらべらと、喋《しやべ》ってくれた。
「あの人は、養子なんですよ」
「養子?」
これは、新しい発見であった。
「母親とは、あまり上手《うま》くいってないようだね?」
「あそこのお婆さんが、がんこですからねえ。それに、息子の方は息子で、だらしがない男ですからね。家の物を持ち出しちゃあ、それを売り飛ばして、バーやキャバレーの女に入れ上げてるそうですよ」
「家の品物を持ち出さなくたって、女遊びの金ぐらいあるんじゃないかな。金持ちだって話だから」
「そりゃあ、金は、ありますよ。貯金もあるし、株も持ってるそうですからね。それに、アパートも、二つばかり持ってるから、その部屋代だけだって、月に、二十万ぐらいは、入ってくるんじゃないんですか」
「それなら、何故?」
「だから、養子だって、いったじゃありませんか」
「成程ね」
私は、うなずいた。
「家も土地も、全《すべ》て、母親の名義になっていて、一銭も、息子の自由にはならないということだね」
「そうですよ。がんこですからねえ。あそこのお婆さんは」
私は、ぼんやりしていたことが、急に、はっきり見えてきたような気がした。これで、何もかも、はっきりしたと思った。私を、青酸入りのウイスキーで殺そうとしたのは、あの息子に違いない。だが、証拠が、なかった。
私は、田中トクの家の前へ、もう一度、足を運んだ。邸の中は、ひっそりと、静まりかえっている。私は、呼鈴を押そうとして、それを止めて、裏へ廻ってみた。
高い土塀が、ぐるりと、邸を囲んでいる。中を覗《のぞ》くわけにもいかなかった。しかし、歩いているうちに、私は、裏木戸が、僅《わず》かに開いているのに気がついた。
私は、音のしないように、木戸をあけて、中へ入ってみた。
邸の中は、思った以上に、広かった。松や楓《かえで》の木があり、可成り大きな池も作られてあった。手入れの行き届いた芝生も、眼に入った。
その芝生の上に、あの老婆がいた。丁度《ちようど》、軒の下あたりに、椅子《いす》を持ち出して、腰を下している。眼を閉じているところを見ると、眠っているのかも知れない。
のどかな光景だなと、思った時、私は、妙なものを屋根の上に見た。
屋根の上に、太陽熱で、水を温める装置がのっかっている。かなり大きなものである。その黒い箱が、気のせいか、少しずつ、屋根をずり落ちてくるのである。支えが外れてしまったのか、誰かが外したのかわからないが、眼の錯覚ではなかった。
たしかに、少しずつ、ずり落ちているのである。丁度、その下に、老婆が、椅子を持ち出して眠っている。このまま、箱が落ちたら、老婆は、ひとたまりもなく、あの世へ行ってしまうだろう。
そう考えた瞬間、私は、松のかげから、飛び出していた。三度目になると、もう、ひとりでに、足が動いてしまうらしい。私が、老婆の身体を突き飛ばすようにして、駈けぬけた瞬間、すさまじい音を立てて、箱が、落下した。今まで、老婆が腰を下していた椅子は、その下敷になって、ぺしゃんこになっていた。
私は、大きな溜息《ためいき》をついた。そのとき、私の背後で、
「畜生ッ」
という男のどなる声がした。
ふり向くと、老婆の息子が、鈍く光る猟銃を構えて、私をにらんでいた。
十
「やっぱり貴様だな」
と、息子は、いった。
「二度までも、俺の計画を邪魔しやがって。今度こそ、上手《うま》く、ばばあを、あの世へ送れると思ったら、また貴様が、邪魔しやがった」
「だから、私を殺そうとしたのか?」
「そうさ。二度も、邪魔されれば、いい加減頭に来るからな。貴様に、死んで貰いたかったんだ。三度目も、何となく、貴様に邪魔されそうな気がしたんだ。そのためにも、死んで貰わなきゃならないと思ったんだ。案の定だった。やっぱり、三度目も、貴様が、邪魔しやがった」
「毒入りのウイスキーなんか、贈って来なければ、三度目は、成功していたのさ。自分で墓穴を掘ったんだ。ずい分、考えた計画だったろうに、お気の毒だな。一度目も、二度目も、君は母親のがんこさを利用して、完全犯罪を企んだ。年だから、車道をわたるなといえば、がんこで、あまのじゃくなところのある母親は、意地になって、危険な車道に飛び出すことを、君は計算していたんだ。二度目も同じさ。だが、失敗した。それだけなら、未遂ですむが、とうとう君は、人間を一人殺してしまった。私の友人をね」
「ふふふふ」
と、相手は笑った。
「三度までは、失敗したさ。だが、四度目が残っていることを忘れてるな。今度こそ、貴様も、ばばあも、一緒に、あの世へ送ってやる」
「撃つ積りか?」
私は、顔が、こわばってくるのを感じながら、無理に笑って見せた。
「音がすれば、すぐ、人が駈けつけてくるぞ」
「ここでは、殺さねえ」と、息子は、いった。
「貴様と、ばばあを、何処か、深い山奥まで車で運んで行って、そこで死んで貰うのさ。一寸《ちよつと》ばかり、老けすぎてて気の毒だが、アベックで死ぬのも、悪くねえんじゃねえか」
息子は、傍にあった縄を放って、よこした。
「それで、まず、ばばあを縛るんだ」
「自分で縛ったら、どうなんだ? 君の母親だろう?」
「ぐずぐずするな」
相手は、銃口で、私を、小突いた。私は仕方なしに、縄を掴《つか》んだ。
「このバチ当たりめッ」と、老婆は、息子に向かって、ののしった。が、息子の方は、にやッと笑っただけである。
私は、なるたけ、ゆっくり、老婆を縛った。私が、縛っている間、老婆は、ののしり続けていたが、息子の方は、蛙の面に、何とかといった様子で、
「次は、貴様だ」と、先をうながした。
「自分の足を縛るんだ」
息子が、銃を構えたまま、どなった時である。
「銃をすてろッ」
という別の声が聞こえた。声と一緒に、ワイシャツ姿の男が、三人ばかり、息子を取り囲んだ。その中に、私を訊問した刑事の顔も見えた。
息子は、「くそッ」と、どなったが、刑事たちの手に光っている拳銃を見ると、猟銃を放り投げた。
私が、立ち上がると、刑事の一人が、にこりともしないで、
「困りますね」
と、私に、いった。
「犯人が、もう一度、貴方を狙《ねら》うことは、わかっていた筈《はず》でしょう。それなのに、出歩かれてはね。この先の交番で、貴方のことが聞けたから良かったものの、そうでなければ、今頃は、あの世へ行っていたところですよ」
「しかし――」と、私も、一言、いわせて貰うことにした。
「私が、出歩いたおかげで、この婆さんの命が助かったんですよ。それに、私の友人を殺した犯人も見つかったんです。それは、認めて下さいよ」
刑事は、だまって、老婆に眼を向けた。彼女は、もう一人の、刑事に、縄をといて貰って、やっと立ち上がったところだった。
「本当ですか、お婆さん?」
と、刑事が、きいた。老婆は、ちらっと、私を見た。
「今日、助けて貰ったのは、本当ですよ」
と、老婆は、いった。私は、微笑した。が、そのあとが、気にくわなかった。
「でも、前の時も、その前の時も、助けて貰ったなんて思ってませんよ。ちゃんと自分の力で、道路をわたれる筈だったし、あの橋だって、わたれたんですからね」
なんとまあ、がんこな老婆だろうか。私に三度も助けられながら。いや四度もだ。
(人助けも、相手を見てやった方がいいかも知れない)
私は、苦笑しながら、そんなことを考えていた。
[#改ページ]
浮気の果て
一
退屈な映画だった。
そのせいか、「終」のマークが出ないうちに、がたがたと椅子《いす》が鳴って、観客が立ち上がり始めた。
客も少かった。スクリーンに、カーテンが下りた時には、もう、観客席は、がらんとしていた。
薄汚れたユニフォーム姿の掃除婦は、無表情に、館内の掃除を始めた。せんべいの袋や、チョコレートの紙が、ところきらわず捨ててある。そうした紙屑《かみくず》は、簡単に掃《は》き出せるが、床や椅子にこびりついたチューインガムは、始末が悪かった。掃除婦の林トクは、その度に、口の中で、ぶつぶつ文句をいった。
掃除は、いつも、後からやっていくのだが、今夜は、前列まで掃いて来て、彼女を怒らせるものが、また一つ見つかった。椅子にもたれて、寝込んでいる客を見つけたのである。
トクは、眉《まゆ》をしかめた。この映画館は、場末にあるせいか、酒を飲んで入ってくる客が多い。そんな客は、きまって、見ている中《うち》に高いびきで眠ってしまうのだ。暖房が利いているので、恰好《かつこう》の寝床とでも思っているのかも知れない。終りましたよと起こすと、からんできたりするのである。
トクも、二、三度、そんな目にあった。だから、「またか」と思い眉をしかめた。
薄汚いジャンパーを着た、中年の男だった。この近くの労務者だろうか。起こせば、からんできそうな相手だが、放って置くわけにもいかない。
「もしもし」
と、肩に手をかけて、ゆすってみたが、うつ向いた顔がぐらぐらとゆれただけで、一向に起きる気配がない。
「一寸《ちよつと》。起きて下さいよオ」
トクの声が、少しばかり大きくなった。腹が立ってきたのである。もう一度肩をつかんでゆすぶると、男の身体は、前のめりに椅子から転がり落ちた。
にぶい音がした。男は、そのまま動かなかった。ぼんやりした電灯の下で、男の顔は、白茶けて見えた。それは、死人の顔だった。
二
所轄署の橋本刑事が、同僚と一緒に、映画館に駈《か》けつけたのは、十一時すぎである。
暖房を止めた館内は、ひどく寒かった。その中で、鑑識の焚くフラッシュが、時々、明るい光を点滅させていた。
橋本は、死体を注意深く見下した。毒物死であることは、すぐ判った。恐らく、毒は青酸であろう。頬のあたりに、淡紅色の反応が現われている。それは、青酸死に特有のものだ。
自殺とは一寸《ちよつと》考えられなかった。わざわざ、映画館まで来て、自殺する人間がいるだろうか。自殺というのは、人のいない所で、ひっそりと行うものではあるまいか。ただ、この映画館に恨みを持っていて、当てつけに、ここで自殺したということは、考えられなくもない。
橋本は、そばにいた支配人に、眼を向けた。
「この男を、知っていますか?」
橋本は、眼で、死体を示してきいた。小太りの支配人は、とんでもないというように、頭を横にふって見せた。
「知りませんよ」
「本当に、知らない人間ですか?」
「本当です。見たこともない男です」
「――――」
橋本は、黙って、死体のそばに、かがみ込んだ。若い山田刑事が、それにならった。ジャンパーのポケットには、二百円足らずのバラ銭と、この映画館のチケットの半券だけが入っていた。身元を明らかにするようなものは、何も見つからなかった。
「一寸《ちよつと》、妙な仏さんとは思わないか?」
と、橋本が、山田刑事の顔を見ていった。山田刑事が「え?」という顔をするのへ、
「このジャンパーは安物だ。古着屋で、五、六百円で買える代物《しろもの》だよ。しかし、下に着ているワイシャツは、かなり上等なものだ。汚れてもいない。それに、手だ。細くて、労働者の手じゃない。ホワイトカラーの手だ」
「そういえば、顔も、きちんと剃《そ》っていますね。不精髭《ぶしようひげ》一つ生えていない」
「靴も、かなり高級品だ。つまり、この男の持物の中で、ジャンパーだけが、不釣合なんだ」
「それに、こんな場末の映画館も、似合わないんじゃありませんか? 安物のジャンパーを着てるから、いくらか、似合うように見えますが」
「そうさ。そこに、何かありそうだ」
と、橋本はいった。
「恐らく、このジャンパーは、何処《どこ》かの古着屋で買ったものだろう。背広で来ては、目立つと考えてね」
橋本は、立ち上がると、支配人に、モギリの女の子を呼んで貰《もら》った。来たのは、十八歳くらいのニキビの目立つ娘《こ》だった。
「この男を、前に見たことは?」
と、橋本がきくと、娘は、簡単に頭を横にふった。
「初めてのお客さんだと思います」
と、彼女は、いった。
「顔に、見憶《みおぼ》えがありませんから」
「映画館に入った時刻を憶えている?」
「確か、六時頃です。最終回が始まって、すぐ、いらっしゃった筈《はず》ですから」
三本立のこの映画館では、最終回は、だいたい五時半頃に始まる。彼女の言葉には、間違いないようだった。信用は置けそうだと、橋本は思った。
「来たときは、一人それとも、連れがいたかね?」
「おひとりでした」
「ひとりね」
橋本は、一寸《ちよつと》、難しい表情になった。自殺なのだろうか。それとも、誰かと、この映画館で待ち合わせていて、その人間に殺されたのか。
橋本は、館内を見廻した。座席は二百五十くらいだろうか。
「今日は、どのくらいの客が入っていたのかね?」
橋本は、モギリの娘に視線を戻して、きいた。
「三十人くらいです。とても空《す》いていましたから。火曜日は、明日が写真替りだもんですから、いつも、がらがらなんです」
「どうも、映画はいけませんな」
と、支配人が渋い顔で、いった。
「ここも、そのうちに、パチンコ屋か、釣り堀にでも、しようと考えています」
「三十人ねえ」
橋本は、改めて館内を見廻した。三十人くらいの客では、この男が死んだのに、気付く者がいなかったとしても、不思議はないかも知れない。それに、館内は暗かったし、音がしていたのだ。
「橋本さん」
と、山田刑事が呼んだ。
「何だ?」
「これを見て下さい」
山田刑事は、うすいピンク色のハンカチを、橋本に見せた。手に取ると、強い香水の匂《にお》いがした。余り上等でない香水らしい。
「このハンカチが、どうしたんだ?」
「それが、この椅子《いす》の下に、落ちていたんです」
と、山田刑事は、一つの座席を指さした。
「掃除婦の話によると、死んだ男は、その隣の椅子で、死んでいたというんです」
三
死んだ男は、身元が判らぬままに、解剖に廻された。男の指紋は、念のために、警視庁に照会されたが、前科者のカードにはないという返事があった。
翌日の午後になって、解剖結果が、報告されてきた。橋本が想像したとおり、死因は、青酸死だった。死亡時刻は、午後八時前後。丁度《ちようど》、二本目の映画が始まって少したった頃である。胃には、チョコレートが残っていたという。
「青酸入りのチョコレートを食べたということだな」
と、署長は、いった。
「いや、食べさせられたといった方が、いいかも知れん。チョコレートの中に青酸を入れて、わざわざ映画館まで行って、自殺する人間もいないだろうからね」
「私も、そう思います」
と、橋本も、いった。
「自殺とすれば、映画館に対するイヤガラセとしか考えられませんが、そのための自殺なら、何も身元を隠すような真似は、必要ないわけです。それなのに、男のポケットには、身分証明書も、名刺も、何も入っておりません」
「それに、わざわざ、不釣合な安物のジャンパーを着ていたしね。他殺と考えるのが、至当のようだな」
署長が、断定するように、いった。早速、捜査本部が設けられた。看板には、「映画館殺人事件捜査本部」と、書かれた。
問題は、男の身元を明らかにすることだった。新聞には、詳しく、男の身体的特徴が、載った。家族か知人が、それを読んだら、警察に連絡してくるのではあるまいか。橋本たちは、第一に、それに期待を持った。
しかし、ただ、その連絡を待っていただけではない。刑事たちは、映画館附近の聞き込みに走り廻ったが、判ったのは、死んだ男が、あの近くの人間ではないらしいということだけだった。
捜査本部が出来てから二日目に、最初の連絡があった。中年の男が現われて、知っている人間のような気がするというのである。
応対に当った橋本に、男は、「藤井です」といい、名刺を見せた。その名刺には、「松木工業KK営業部長」の肩書きがあった。松木工業の名前は、橋本も知っていた。かなり大きな機械メーカーで、本社は、銀座にあった筈《はず》である。
「それで、似ているというのは?」
「私の下で働いている榊原《さかきばら》君のような気がするのです。この前の人事異動で、課長になった男ですが」
「課長さんですか」
橋本は、死体を初めて見たときのことを思い出した。三十五、六で、課長の地位にあっても、おかしくない顔つきをしていたが、何故《なぜ》、あんな場末の映画館に、安物のジャンパーを着て現われたのか。
「とにかく見て下さい」
と、橋本は、藤井という営業部長を、死体の置いてある警察病院へ連れて行った。ホルマリンの匂《にお》いに満ちている地下室で、藤井は、死体を一目みるなり、「間違いありません」と、いった。
「榊原君です」
「――――」
橋本は、黙って頷《うなず》き、死体に白布をかぶせた。
二人は、病院を出た。
「では、榊原さんのことを、説明して頂けませんか」
橋本は、捜査本部に戻る途中で、藤井にきいた。
「榊原さんが、何故、あの映画館に行ったか、判りますか?」
「いや」
と、藤井は頭を横にふった。
「榊原君というのは、あんな場末の映画館に行くような人間じゃありません。第一、映画そのものが、あまり好きな男じゃありませんでした。家も田園調布ですから、離れすぎています」
「事件の日のことですが、榊原さんは、会社に出ていますか」
「火曜日ですね。確か午前中だけで、午後は早退《はやび》けした筈です。頭痛がひどくてということでした。翌日も出勤して来ないので、心配していたのですが」
「家族の方は?」
「それが――」
と、藤井は、一寸《ちよつと》いい渋ってから、
「今、妻君とは別居中なのですよ。別れる気はないようですが。それで、田園調布のマンションに一人で暮していました」
それで、家族が来ずに、上司に当る営業部長が来たのかと納得できた。
「別居の原因は、どんなことですか?」
「さあ。いろいろ噂《うわさ》はあるようですが、真相のほどは、部外者の私には、判りかねますが」
「榊原さんの会社での評判は、いかがでした?」
「よかったですよ。頭が切れましたからね。切れすぎるので、煙たがられた点が、なくもなかったでしょうが」
「誰かに恨まれていたということは、ありませんか?」
「一寸《ちよつと》、考えつきませんね。三十五で課長というのは、うちの会社では、早い方です。その点で、ねたまれていたかも知れませんが、だからといって、殺すとは考えられません」
だが、誰かが、榊原という男を、恨んでいたのだ。だから、殺されたのではないか。
「榊原さんは、チョコレートが好きでしたか?」
間を置いて、橋本がきくと、藤井は、きょとんとした顔で、
「チョコレートですか?」
と、きき返してから、
「本人にきいたことはありませんが、甘い物よりは、酒だったと思いますね。酒は、かなり強い方でしたから。榊原君が、チョコレートを食べている姿なんかは、一寸《ちよつと》、想像できませんな」
「女性関係は、いかがですか?」
「女にモテる方でしたね。それで、妻君とまずくなった理由も、彼にいい女が出来たからじゃないかという噂《うわさ》も、流れたくらいです。しかし、本当のところは、私にも判りません」
藤井は、曖昧《あいまい》ないい方をした。橋本は、話しながら、映画館で発見された女物のハンカチのことを思い出していた。榊原を殺したのは、女ではあるまいか。そんな考えが、橋本だけではなく、捜査本部全体にあった。その考えが、今の藤井の言葉で裏打ちされるような気がする。
榊原は、毒入りチョコレートを食べて死んだ。そのチョコレートは、犯人が持って来て榊原にすすめたとみるべきだろう。犯人が男だとすると、チョコレートというのが、不似合いである。女なら、ふさわしいし、榊原が、何の警戒もなく食べたのも、相手が女だったからと、考えるのが、至当ではないだろうか。
ともかく、藤井営業部長の証言で、死んだ男の身元は確定した。松木工業KK販売課長榊原哲二(三十五歳)である。捜査本部に、活気が生れた。
四
橋本は、山田刑事を連れて、榊原が住んでいた田園調布のマンションに足を運んだ。五階建の立派なもので、管理人にきくと、三百万から一千万くらいの分譲住宅だという。橋本が、山田刑事と顔を見合わせたのは、その高価さに驚いた為だけではなかった。あの、薄汚れた場末の映画館と、あまりにも、かけ離れたものを感じたからである。どこでこの二つは、結びつくのだろうか。それが判れば案外、この事件は、簡単に解決できるのかも知れない。
二人は、管理人に案内されて、榊原の部屋に入った。四部屋続きの豪華なものだった。
「たいした部屋ですね」
と、山田刑事は、羨《うらや》ましげに、部屋の中を見廻した。恐らく、自分の住んでいる四畳半一間のアパートを思い出したのかも知れない。
橋本は、山田刑事に苦笑して見せてから、部屋の調査にかかった。まず、洋服ダンスを開けてみた。安物の洋服は、一つも見当らなかった。やはり、あのジャンパーは、榊原のものではなかったのだ。
次に、机の引出しを調べてみた。来信は、一つにまとめてあった。が、一つ一つ、山田刑事と二人で丁寧に見ていったが、これはと思う手紙は発見できなかった。勿論《もちろん》、あの映画館への呼び出しの手紙があるなどと、甘い考えを持っていたわけではない。だが、犯罪の匂いぐらいは、嗅《か》げるのではないかと、期待したのだが、それも、どうやら不発に終ったようだった。橋本は、がっかりして、手紙の束を、机に戻した。
寝室も、調べてみた。が、何も出て来なかった。最後に、書斎にあった電話を調べた。受話器のそばに、薄い電話番号簿が置いてある。橋本は、それを見ていった。そこに載っているのは、殆《ほとん》ど、会社関係の電話番号だった。だが、一つだけ、電話番号しか書かれていないものがあった。
「何となく、意味ありげですな」
と、横から、山田刑事が、いった。確かにナンバーだけで、相手の名前が書いていないことに、秘密の匂いが、ありそうであった。
橋本は、受話器を取り上げて、そのナンバーを廻してみた。
電話口に出たのは、中年の女の声だった。
「こちら、平和荘ですけど?」
と、女の声が、いった。どうやら、アパートか何からしい。
「失礼ですが」
と、橋本は、丁寧に、いった。電話を切られては、困ると思ったからである。
「榊原哲二という男を、ご存知ですか?」
「サカキバラ? 知りませんよ。うちには、そんな名前の人は、住んでいませんよ」
「おたくは、アパートですね?」
「ええ」
「場所は?」
「N駅の近くですよ。それが、どうかしたんですか?」
「N駅――?」
一瞬、橋本の眼が光った。あの映画館が、N駅の近くだったからである。何か、今度の事件に関係があるのかも知れない。橋本は、電話を切ると、
「行ってみよう」
と、山田刑事に、いった。
平和荘というアパートは、なかなか見つからなかった。N駅の周囲は、スラム街が近くにあるせいもあって、ごみごみと建て混み、探すのが、容易でないからである。二十分近く歩き廻ってから、やっと、平和荘アパートを、見つけ出すことが、出来た。
どこにでもある、モルタル塗りの簡易アパートだった。壁のモルタルに、ひびが入っていた。
「田園調布のマンションに比べると、たいした違いだな」
と、橋本がいうと、山田刑事は、
「こっちの方が、親しみが持てて、いいです」
と、笑った。管理人室を覗《のぞ》くと、太った女が、週刊誌を読んでいた。どうやら、さっき電話に出た女らしい。声をかけて、橋本が警察手帳を見せると、女は、大きな眼をむいて、二人を見た。
「さっき電話したんだが、榊原哲二という名前に、本当に、聞きおぼえがないかね?」
橋本がきくと、管理人は、首をかしげていたが、
「存じませんねえ」
と、いう。橋本は、ポケットから、榊原哲二の写真を取り出して、相手の前に置いた。マンションの彼の部屋にあったのを管理人に断って、借りて来たのである。
管理人は、じっと、写真を見ていたが、知りませんというように、首を横にふって見せた。
「本当に、見おぼえがないかね?」
「ええ」
「向こうは、このアパートの電話番号を知っていたんだがね」
「そうですか。それなら、ここに住んでいらっしゃる方と、お知り合いなんじゃありませんか?」
「それなんだが、ここには、どんな人が、住んでいるのかね?」
「どんなって、普通の人ですよ。一部屋空いているんで、今は、九部屋に人が入ってます」
管理人は、大学ノートに書きつけた名簿を見せてくれた。独身者は四人で、その中《うち》二人が女だった。橋本は、その女に興味を持った。犯人は、女ではないかという気持があったからである。
「この二人のことを、話してくれないか」
と、橋本は、名簿を指さして、管理人に、いった。
「一人は、食堂に勤めてる人で、もう一人は、洋装店で働いているんですよ」
管理人が、いった。どちらも、まだ、アパートに帰って来ていないという。橋本は、食堂と洋装店の名前を聞いてから、ともかく、当ってみることにした。
橋本と、山田刑事は、アパートの前で、別れた。
五
橋本が、捜査本部に戻ったのは、夜に入ってからである。彼が調べたのは、洋装店に働いている女の方だが、何の疑点も出て来なかった。榊原哲二との関係は、何も出て来なかったし、彼が殺された日のアリバイも、完全であった。
山田刑事は、一時間ほど遅れて戻ってきたが、その顔は、暗いものだった。
「どうやら、駄目だったらしいな」
と、橋本が声をかけると、山田刑事は、苦笑して、
「収穫ゼロです」
と、いった。
「榊原哲二の名前も出て来ませんし、事件の日のアリバイも、あります」
「私の方も、同じだったよ」
橋本は、肩をすくめて見せた。
「しかし、榊原の部屋に、あのアパートの電話番号が書いてあった以上、何かの関係がなければならんと、思うのだがね」
「明日他の人間にも、当ってみます。犯人は、女だと思っていたんですが、案外、男の線が出てくるかも知れませんから」
「そうしてくれ」
と、橋本はいった。
「私は、明日、もう一度、藤井という営業部長に会ってくる」
翌日、橋本は、銀座にある松木工業の本社を訪ねた。五階建の立派なビルである。営業部は、二階であった。橋本が、部長室のドアを叩《たた》いた時、藤井は、書類に眼を通していた。
「やあ、どうも」
と、藤井は、笑顔を見せて、橋本に椅子《いす》をすすめた。
「榊原君を殺した犯人は、見つかりましたか?」
「いや。まだです。それで、もう一度、榊原さんのことで、お伺いしたいのですが」
「どんなことでしょうか? 知っていることは、殆《ほとん》ど、お話しした筈《はず》ですが」
「榊原さんは、確か、奥さんとの間に、別れ話が、持ち上っていたということでしたね」
「ええ。それが、どうかしたんですか?」
「奥さんというのは、どういう人ですか?」
「何故、そんなことを?」
藤井は、警戒するような眼で、橋本の顔を見た。
「まさか、榊原君の奥さんが、事件に関係しているというんじゃないでしょうな?」
「我々は、誰でも一応、疑ってみることにしていますが」
「いや、あの人は、問題になりませんよ。事件に関係している筈がありませんからね」
「何故、そういえるんですか? アリバイでもあるんですか?」
「いや、そうじゃありませんが、あの奥さんは、社長の娘さんですからね。殺人事件なんかに関係があるわけがありません」
「社長の娘さん?」
橋本の眼が、大きくなった。
「何故、昨日、それを話して下さらなかったんですか?」
「別に、話す必要もないと、思ったからですよ。それに、詰まらぬことで、社長に、ご迷惑をかけたくありませんからね」
「社長にね」
橋本は、皮肉な眼になって、相手を見た。これが、サラリーマン精神というやつなのだろう。
「そうすると、榊原さんが、三十五歳で、販売課長になったという理由には、そのことも、いくらか関係があったということですか?」
「さあ。どうでしょうか」
藤井は、曖昧《あいまい》な表情になった。
「私の口からは、何ともいえませんな」
「――――」
橋本は、黙って、にやっと笑った。部長の言葉が、彼の質問に、イエスと答えたのと同じと、受け取ったからである。恐らく、田園調布のマンションも、妻君が、金を出したのではあるまいか。いくら一流会社の課長でも、何百万という金が、簡単に出せる筈《はず》はないのである。
「榊原さんが、結婚なさったのは、いつ頃ですか?」
「何故、そんなことを?」
「参考までに、おききするわけです。別に、事件に結びつけて考えているわけではありません」
「四年前です。確か」
「その時は、もう課長でしたか?」
「いや、係長だった筈《はず》です」
「すると、妻君のおかげで、課長になったという噂《うわさ》も、あったんじゃありませんか?」
「さあ。人の口というのは、無責任なものですからな」
藤井は、苦い顔になって、いった。あまり触れたくない問題なのだろう。或《ある》いは、この男自身、榊原哲二の出世を、苦々しく思っていたのかも知れない。
「榊原さんの奥さんは、今、何処《どこ》におられるんですか?」
「あの人は、犯人じゃありませんよ。榊原君を殺したところで、何の得にもなりませんからね」
「それは判りますが、お会いして、いろいろおききしたいことがあるのです。それとも、何かまずいことでもあるのですか?」
「とんでもない」
藤井は、あわてて、首を横にふった。
「まずいことなんか、一つもありませんよ。ある筈がないじゃありませんか」
「それなら、教えて頂けませんか」
「伊東にある社長の別荘に、いらっしゃる筈です」
と、藤井は、いった。
橋本は、礼をいって、松木工業を出た。途中から捜査本部に電話をかけ、伊東行の説明をしてから、東京駅に急行した。
伊東行の電車は、混んでいた。坐れたのは、小田原を過ぎてからである。腰を下したところで、橋本は煙草に火をつけた。
殺された榊原という男は、なかなか、サラリーマンとしては、やり手だったらしい。社長の娘を手に入れ、その威光もあって、三十五歳の若さで、一流会社の課長になった。その出世に、何か無理があったのではあるまいか。その無理が、彼を死に追いやったのではないだろうか。
勿論《もちろん》、これは、あくまでも、橋本の推測にしかすぎない。だが、何となく、その推測が当っているような気がしてならなかった。
松木社長の別荘は、伊東の駅から、歩いて六分ほどの場所にあった。海に面した、洒落《しやれ》た洋風の建物である。背後は、松林になっていて、静かであった。門に、「MATSUKI」とローマ字で書かれてあるのを確かめてから、橋本は、ベルを押した。
ドアが開いて、若い女が、庭を歩いてくるのが見えた。女中のようであった。橋本が警察手帳を見せると、彼女の顔が、一寸《ちよつと》、こわばった。
「お嬢さんは?」
「いらっしゃいます」
「是非、お会いしたいんだが?」
「どうぞ」
と、女は、いって、先に立った。橋本は、後について歩きながら、
「火曜日に、お嬢さんは、何処《どこ》かへ出かけなかったかね?」
「火曜日ですか」
と、女は、きき返してから、
「確か、ずっと、ここに、いらっしゃった筈ですわ」
「本当に?」
「はい」
女は、振り向いて、真剣な頷《うなず》き方をした。
橋本は、応接室に通され、間もなく、和服姿の女が、顔を見せた。「私が、松木由利子です」と、その女は、いった。
三十歳くらいだろうか。美人だが、そう思って見るせいか、何となく、傲慢《ごうまん》な感じがしないでもなかった。
「この度は、ご主人がとんだことに」
と、橋本が、悔みをいうと、由利子は、「どうも――」と、頭を下げたが、その顔には、これといった悲しみの色は、見られなかった。
「あまり、悲しそうには、見えませんね」
と、橋本が、遠慮のないところを口にすると、由利子は、きつい眼になって、
「いけません?」
と、切り返してきた。
「ご主人を愛していらっしゃらなかったのですか?」
「裏切った相手を愛し続けられるほど、私は我慢強い女じゃありませんから」
「榊原さんは、貴女《あなた》を裏切ったというのですか?」
「――――」
由利子は黙って頷《うなず》いた。
「それは、貴女の他に、女がいたということですか?」
「ええ」
「何故、判ったのです?」
「親切に、私に教えて下さった方が、いますから。その忠告は本当でしたわ」
「誰が、貴女に、そんなことを教えたのか、私が、当ててみましょうか?」
「刑事さんは、八卦見《はつけみ》もなさいますの?」
由利子は、皮肉な眼つきで、橋本を見た。橋本は、笑って見せた。
「簡単なことなら、私のような素人でも判りますよ。その親切な人というのは、営業部長の藤井氏じゃありませんか?」
「――――」
返事はなかった。が、由利子の顔が一寸赧《ちよつとあか》くなった。
「どうやら、当ったようですな」
橋本は、何時間か前に会った藤井の顔を思い出していた。橋本が、松木由利子に会うといった時、藤井は、あわてていた。その理由が、判ったと思った。
あの男は、榊原が、嫌いだったのだ。というより、怖かったのではないだろうか。自分の部下が、社長の娘を手に入れて、出世街道を突き進んで来るのを見て、怯《おび》えていたのでは、ないだろうか。
あり得ることに思えた。いつか、部長としての自分の地位も危くなるのだ。部長の椅子を奪われるかも知れぬという恐怖。彼が凡庸な人間であればあるほど、その恐怖は強かった筈《はず》である。
だから、藤井は、榊原の私生活を、松木由利子に密告した。自分の地位を守るために――
「相手の女が誰か、ご存知ですか?」
「いいえ」
「知らないのに、何故、藤井氏の忠告を信じたのですか?」
「写真がありましたもの。榊原と、若い女が一緒に写っている写真が――」
「その写真は?」
「焼き棄《す》てました。あんな写真、持っていたって仕方がありませんもの」
「その写真も、藤井氏が、貴女に送って来たのですか?」
「ええ」
「親切な男ですな」
橋本は、眉《まゆ》をしかめて、いった。いやな男だと思った。
「軽蔑《けいべつ》したような、おっしゃり方ですわね?」
「貴女は、藤井氏を、立派な人間だと、思っているのですか?」
橋本が、きき返すと、由利子は、口元に、小さな笑いを浮べた。
「立派な人間かどうか、私は興味が、ありません。でも、あの写真は、インチキじゃありませんでしたわ。写真を突きつけたら、榊原は真青になりましたもの」
「それで、別居ですか?」
「ええ私は、ああいうことは、許せないんです」
「しかし、榊原さんには、離婚の意志は、なかったんじゃありませんか?」
「私と別れたら、榊原には、何の力もありませんもの。榊原が私を失いたくなかったのは、私への愛情というより、私を掴《つか》んでいれば、出世できると思っていたからですわ」
そうに決っているといった断定の仕方が、由利子のいい方にはあった。
それも、社長の娘に生れたせいだろうか。
「その写真のことですが――」
橋本は、刑事の気持に戻って、相手を見た。
「どんな女だったか、教えて頂けませんか?」
「いわなければ、いけませんの?」
「教えて頂きたいですね」
「若い女でしたわ」
「他には?」
「よく憶《おぼ》えていませんの。詳しいことを、お知りになりたいんなら、藤井さんに、おききになったら、いかがですの? 写真を送って下さったのは、あの方なんですから」
由利子は、そっけなくいった。それ以上は、何をきいても、答えてくれなかった。
仕方なしに、橋本は、腰を上げた。
六
その日のうちに、橋本は、東京に戻った。東京駅から、銀座の松木工業まで、タクシーを飛ばした。間に合った。営業部長の藤井は、まだ、会社にいた。
「聞きましたよ」
と、橋本は、会うなり、いった。
「貴方《あなた》が、写真を送って、忠告なさったことをね」
「どうも、それは――」
藤井は、狼狽《ろうばい》した顔になって、頭をかいた。
「詰まらんことを、知られたようですな」
「詰まらんこと――ですか」
橋本は、厳しい顔になって、相手を見た。
「その詰まらんことが原因で、今度の事件が起きたのかも知れんのですよ」
「そんな馬鹿な――」
「と、いい切れますか?」
「私はただ、お嬢さんのためを思って、忠告しただけですよ。榊原君には、何の恨みもありません。本当ですよ」
語るに落ちたというやつだな、と橋本は思ったが、そのことには、触れなかった。
「まあ、そのことは、いいでしょう」
と、橋本は、いった。
「それより、貴方が、松木由利子さんに送った写真のことを、教えて頂きたいんですがね」
「何をです?」
「写真には、死んだ榊原さんと、若い女が一緒に写っていたそうですね?」
「ええ」
「誰ですか? その若い女というのは」
「知りませんよ」
「知らない?」
橋本は、眉《まゆ》をしかめた。
「貴方が、写真を送ったのですよ」
「ええ。しかし、私は知らんのです。本当です」
「誰が、写真を撮ったんですか? 貴方じゃないんですか?」
「とんでもない」
藤井は、手を横にふった。
「私は、そんな卑劣な人間じゃありませんよ」
「成程《なるほど》」
「信じて頂けないんですか?」
「信じますよ」
橋本は、苦笑した。
「ところで、貴方でないとしたら、誰が、写真を撮ったんですか?」
「探偵社に頼んだんです」
「何処《どこ》の探偵社です?」
「四谷《よつや》の吉牟田《よしむだ》という探偵社です。まさか、こんなことを、新聞社になんか、喋《しやべ》らんでしょうな?」
「勿論《もちろん》、喋りませんよ」
橋本は、固い声で、いった。
吉牟田探偵事務所は、事務所という名前が恥しいほど、小さな構えだった。
中年の妙にうらぶれた男が一人いて、それが、所長兼社員であった。探偵社には、よくこんなのがある。
橋本が警察手帳を見せると、相手は、露骨に嫌な顔をした。うしろ暗いことでもしているのかも知れない。
「榊原哲二という男のことを、調べたことかあるね?」
と、いうと、男は、
「調査事項は、外部に洩《も》らさんことになっているんですがね」
「殺人事件でもかね?」
「殺人?」
男の顔が、青くなった。
「私は関係ないんでしょうな?」
「正直に答えてくれなけりゃ、無関係かどうか判らんさ」
「用件は、何でしたっけ?」
「榊原哲二という男のことだ」
橋本は、怒った声で、いった。
「その男が、若い女と一緒にいるところを、写真に撮って、藤井という男に渡した筈《はず》だが?」
「写真ですか?」
男は、手を顎《あご》に当てて、暫《しばら》く考えていたが、
「思い出しました」
と、小さく笑った。
「女の名前は?」
「本名は知りませんがね。店では、みどりという名前でしたよ」
「店?」
「新橋のバーの女ですよ。男の方は、妻君の眼をかすめての遊びだったようですが、女の方は、真剣でしたね。調べながら、女に同情しましたよ。柄《がら》にもなく」
「バーの名前は?」
「確か、菊野という名前でしたね。マダムの名前ですよ」
それだけ聞けば、ここには、もう用はない。橋本は、探偵社を出ると、その足で、新橋に向った。
九時を廻っていたが、ネオン街は、まだ宵の口だった。「菊野」というバーは、駅の近くにあった。店に入ると、すぐ、みどりという娘のことを、マダムにきいた。
「あの娘なら、やめましたよ」
と、マダムは、いった。
「やめた? いつだね?」
「いつだったかしら?」
と、マダムが、近くにいたバーテンの顔を見ると、
「確か、火曜日から、来てないんじゃありませんか」
という答が、戻ってきた。橋本の顔が厳しくなった。火曜日なら、事件のあった日だ。
「その女の住所は?」
橋本は、勢い込んできいた。マダムは、一寸《ちよつと》考えてから、
「N駅の近くのアパートですよ。確か。あのアパートは、何という名前だったかしら?」
「平和荘――じゃないかね?」
橋本がきくと、マダムは、大きく頷《うなず》いた。
「そうですよ。平和荘です。知っていらっしゃるんじゃありませんか」
「みどりという女の本名は?」
「広沢文子。でも、あのアパートには、もういませんよ」
「いない?」
「ええ。電話したら、管理人が、何処《どこ》かへ引越したといってましたから」
「――――」
橋本は、黙って頷いた。山田刑事と二人で、平和荘アパートを訪ねた時のことを、思い出したからである。あの時、管理人は、一部屋だけ空いていますといった。それが、広沢文子という女だったに違いない。
他の部屋の住人を、いくら調べたところで、榊原啓二との関係が出て来ない筈《はず》である。
橋本は、その店を出て、捜査本部に戻った。
七
榊原哲二を殺した犯人は、広沢文子に間違いあるまい。捜査本部も、それに同調し、指名手配が行われた。逮補は時間の問題だろうと、橋本は思った。
「女が、榊原を殺す気になったのは、判りますが――」
と、山田刑事が、橋本に、いった。
「何故《なぜ》、あんな場末の映画館で、殺したんですかね?」
「私にも、判らん。だが、想像は出来る。榊原は、出世目当に社長の娘と結婚したが、本当の愛情があったかどうか判らない。だから、課長の椅子に着くと、浮気がしたくなった。ところが、それがバレると、出世しか頭にない男だから、すぐ、女に別れ話を持ち出した。女にしてみれば、榊原の、そんな気持や、社長の娘にも腹が立ったに違いない。だから、榊原のもっともいやがっている恰好《かつこう》で、殺してやりたくなったんだと思う。汚らしい場末の映画館で、安物のジャンパーを着せてさ。別れ話を承知するといえば、榊原が来ることは、判っていたんだろう。榊原にしてみれば、目立つのがいやで、あのジャンパーを、わざわざ古着屋で買ったんだろうが」
「何となく、広沢文子という女が、可哀そうになりますね」
若い山田刑事が、感傷的ないい方をした。橋本は、黙って、今度の事件の本当の犯人は誰なのだろうかと、考えていた。榊原自身かも知れないし、藤井という腹黒い営業部長かも知れない。
そこまで橋本が考えた時、十和田湖で、若い女の投身自殺があったという電話が入った。広沢文子らしいという。
(いやな結末になったな)
と、橋本は、暗い顔になった。
(それとも、これで良かったというべきなのか)
確認に行ってくれという主任の言葉を受けて、橋本は立ち上った。
[#改ページ]
殺意の季節
一
その男が、吉田のやっている探偵事務所へ調査依頼に来たのは、十月末の薄寒い日だった。
男は、「徳永晋作」と刷った名刺を、吉田に渡した。肩書きには、「徳永物産社長」とあった。恰幅《かつぷく》のいい、四十歳くらいの男だった。
「妻の素行を調べて欲しい」
と、徳永晋作は、難しい顔で、いった。声も、こわばっていた。
「妻に、男が出来たらしいのだ」
「成程」
吉田は頷《うなず》いた。よくある事件だった。戦後、女権が拡張されてから、こんな事件が、よく持ち込まれてくる。
「私は、妻を愛している」
と、徳永は、いった。
「どんなことがあっても、妻を手放したくはない。だから、余計、妻のことが、心配になるのだ」
「奥さんを尾行して、欲しいということですね?」
「ああ」
「尾行となると、一日、二千円頂くことになりますが――」
「金は、いくら掛かっても構わん」
「何時《いつ》から始めますか?」
「尾行して欲しい時には、私が電話する」
と、徳永は、いった。
「妻のところへ、時々、若い男から電話が掛かってくるのだ。電話があってから暫《しばら》くすると、妻は外出する。だから、その時に、尾行して貰《もら》いたい」
「電話の相手は、いつも同じ声ですか?」
「私が知っている限りでは、同じ声だ。若いスポーツマンみたいな声だ」
「その男と、奥さんが関係あると――?」
「私は、何でもないと信じている。しかし不安なのだ。だから調べて欲しい」
「判りました」
「これが、妻の絹代だ」
徳永は、内ポケットから、一枚の写真を取り出して、吉田の前に置いた。
若く、美しい女の顔が、微笑していた。年齢は、三十歳くらいだろうか。とにかく美しかった。この男が心配するのも、無理はないと、吉田は、思った。
「美しい」
と、吉田がいうと、徳永も頷いて見せた。
「だから、私は、気がもめてならないのだ。私は、絶対、妻を手放さん」
徳永は、自分に、いい聞かせる調子で、いった。
二
徳永晋作から、電話があったのは、二日後だった。
「私だ。徳永だ」
と、彼は、緊張した声で、いった。
「先刻、例の男から、妻に電話が掛かって来た」
「すぐ、お宅へ行きます。十二、三分で着くと思いますから、それまで、何とか、奥さんを引き止めて置いて下さい」
「いや、此処《ここ》へ来る必要はない。妻は、もう出かけてしまった」
「出かけた?」
吉田は、驚いて訊《き》き返した。
「それじゃあ、尾行が出来ませんよ」
「いや、大丈夫だ。行先は判っている」
「何処《どこ》です?」
「上野の美術館だ。妻は、電話で、美術館の前で、男と会う約束をしていた。約束の時間は十一時だ。君のところから、十一時までに、美術館に行ける筈《はず》だ。どうだね?」
「十一時ですね」
吉田は、腕時計に、眼をやった。十時になるところだった。車を飛ばせば、充分、間に合いそうだ。
「間に合いそうです」
と、吉田は、いった。
「それなら、すぐ行ってくれ」
「奥さんの服装は、判りますか?」
「ドレスの色は白だ。帽子も白だった。白の好きな女なのだ。白といっても、何といったかな、真珠色の――」
「パール・ホワイト?」
「それだ」
「判りました」
「頼むよ」
「判っています」
吉田は、電話を切ると、帽子を掴《つか》んで、部屋を飛び出した。
吉田は、愛用のルノーを、上野に向って走らせた。車が小さいので、狭い路地へ入るのに便利なので愛用しているが、最近、多少、くたびれて来ていた。そのうちに、買いかえる必要がありそうだった。
美術館の前に着いたのは、十一時十五分前だった。
『フランス現代絵画展』の看板が出ていて、切符売場の前には、五、六人の男女が集まっていた。
吉田は、反対側に車を止めて、眼を走らせたが、徳永絹代の姿は見えなかった。
十一時に、あと、二、三分になった頃である。吉田のルノーの傍にタクシーが止まり、写真で見た、徳永絹代が降りて来た。徳永がいったように、頭の先から爪先《つまさき》まで、白一色に統一した服装だった。すらりとした長身が、パール・ホワイトのドレスに、似合っていた。近くにいた男達が、眩《まぶ》しそうに眼を細めて、彼女を見ている。
絹代は、車から降りると、周囲を見廻していたが、やがて、相手を見つけたらしく、微笑して、手を振った。
吉田は、彼女の視線を追った。
切符売場の近くにいた若い男が、彼女に向って、手を上げているのが見えた。
三十歳には、まだなっていないだろう。童顔が、まだ何処かに残っているような若い男だった。
男は、大股《おおまた》に、絹代の傍に近づいて来た。近くで見ると、肩幅の広さが目立った。背広を着ているが、ネクタイは、締めてはいない。吉田は、徳永が、「スポーツマンのような声だった」と、いったのを思い出した。徳永は、ただ、推測でいったのだろうが、その推測は、どうやら当たっていたらしい。ボクシングでもやりそうな男だった。
「やっぱり、来てくれましたね」
と、男がいった。吉田は、ルノーの運転席で、新聞で顔をかくしながら、二人の会話を聞いていた。
「来ずには、いられませんでしたもの」
と、絹代がいう。何とも歯の浮くような会話だが、どうやら二人の仲は、相当なところまで、行っているように見えた。
「とにかく、歩きませんか?」
と、男が誘った。
「ひとに見られると、まずいですから」
「ええ」
と、絹代が頷《うなず》き、二人は、歩き出した。
吉田も、車から降りると、二人のあとについて、歩いて行った。
絹代が目立つ存在なので、尾行は楽だった。つけられているのを、気付いている様子は、何処にもなかった。
ウイークデーなので、人通りは、余りなかった。
二人は、新しく作られた噴水の前で、立ち止まると、男がすすめる恰好《かつこう》で、ベンチに腰を下した。
吉田も、何気ない様子で、背中合せのベンチに腰を下し、ゆっくりと、煙草に火を点けた。
絹代のつけている香水の匂《にお》いが、彼の鼻を擽《くすぐ》った。
二人は、暫《しばら》く黙っていたが、やがて、会話が始まった。
「ご主人は、僕達のことを、気付いているんじゃないでしょうか?」
男が不安そうにいう。
「判らないわ」
と、絹代が、いった。
「でも、たとえ、主人が気付いていても、貴方《あなた》に会わずにはいられないわ。わたくし――」
「僕も、貴女を諦《あきら》めるくらいなら、死んだ方が、ましです」
「本当に、そう思って下さるのね?」
「本当です。もし、貴女が一緒に死んでくれといったら、僕は喜んで、死にますよ」
「ありがとう」
「貴女は、もう、ご主人を愛していないんでしょう?」
「主人に対する愛は、とっくに死んでしまっているわ」
「それなら、何故《なぜ》、ご主人と別れて、僕のところへ――?」
「私も、出来れば、そうしたいのよ。でも、駄目」
「どうして?」
男の声に、焦躁《しようそう》の色が混るのを、吉田は感じた。
絹代の声が低くなった。
「徳永は、絶対に、私を放さないわ。怖い男なのよ。彼は。私を手放すくらいなら、彼は、私を殺すわ」
「まさか――」
「本当のことなのよ。徳永は、そういう男よ。自分の欲しいものは、どんなことをしてでも手に入れるし、手放しもしない」
「ご主人が、貴女を殺すといったら、僕が、彼を殺してやる」
「駄目よ。そんなことをしても、なんの解決にもならないわ」
「じゃあ、どうすれは、いいんです?」
男は、大きな声になった。
「僕は、貴女が、愛してもない男に、毎晩抱かれているのかと思うと、我慢がならないんだ」
「――――」
「僕と一緒に逃げてくれませんか?」
「駄目よ。そんなことをしても、徳永に、きっと見付け出されてしまうわ」
「じゃあ、どうすれば、いいんです?」
「――――」
絹代は、黙って、俯向《うつむ》いていたが、急に、吉田の存在に気付いたように、
「歩きながら、話しましょう」
と、いって、ベンチから立ち上った。
吉田は、煙草を喫い続けた。こんな時、周章《あわ》てて立ち上ったら、簡単に、尾行に気付かれてしまう。
吉田は、吸殻を捨てると、大きく欠伸《あくび》をしてから、ゆっくり、立ち上った。
二人は、百メートルばかり先を、腕を組んで歩いているところだった。
三
翌日、事務所へ、徳永から電話が掛かって来た。
「どうだったね?」
「詳しいことは、報告書に書いて、お渡ししますが、可成り深い仲のような感じでした」
「やっぱり、そうか――」
徳永は、電話の向うで、呻《うめ》き声を上げた。
「男の名前は、判ったかね?」
「今日中には、調べられると思います」
「判ったら、すぐに知らせて欲しい」
「どうする積りです?」
「そんなことは、私にも判らん」
「軽率なことは、なさらんことですね。まだ情事の証拠が掴《つか》めたというわけじゃありませんからね」
「しかし、今、君は、可成り深い仲だと、いった筈《はず》だ」
「想像です。二人が、ホテルへ入るのを見たわけじゃありませんよ。昨日は、上野から、京橋へ出て、シャノアールという喫茶店で、長いこと、話していただけです。
話の内容は客が混んでいたのと、音楽がうるさかったので、よくは、聞き取れませんでしたが、男の方が、奥さんに夢中のことだけは確かです」
「妻の方は、どうなのだ? 男の方は、どうでもいい」
「嫌いなら、会いには行かれんでしょう? 今のところ、それくらいしか、いえませんね」
「私は、妻の本心が知りたい」
「それなら、少くとも、あと、四、五日は、尾行してみる必要がありますね」
「判った。やってくれ。金は、いくらかかっても構わん」
「次は、何時《いつ》、尾行しますか?」
「どうせ、また、男から電話が掛かってくるに決っている。そうしたら知らせる。それから、昨日の報告書は至急送ってくれ」
徳永は、それだけいうと、電話を切った。
吉田は、尾行のメモを整理すると、それをタイピストに渡してから、部屋を出た。
昨日の男の身許を、調べなければ、ならない。
徳永絹代は、男のことを、喫茶店で、「関口さん」と呼んでいた。偽名ではあるまい。あの男は、関口という名前なのだ。それに、夕方二人が別れる時、男は、「これから仕事だから、嫌になる」と、いっていた。夕方から仕事といえば、だいたい水商売と、相場は決っている。
キャバレーのボーイか、バーのバーテンではないのかと、吉田は、当りをつけた。その店は、もしかすると、京橋あたりかも知れない。「シャノアール」という喫茶店での振るまいが、何となく、その土地の者のように感じられたからである。間違っているかも知れないが、当ってみる必要はありそうだった。
吉田の勘は当っていた。シャノアールのウエイトレスの一人が、男の名前を知っていて、彼に教えてくれた。
「この近くにある、カザノバというバーのバーテンよ」
と、彼女は、いった。名前は、矢張り関口というのだという。
「何とかいう映画俳優に似ているとかで、なかなか、女の子に、もてるらしいわ」
「成程ね。性格は、どうなんだ? 真面目な男なのかね?」
「判んないわ。でも、ヤクザ者じゃないらしいわ」
「昨日、関口と一緒に来た女の人を、知っているかね?」
「白いドレスを着てた綺麗《きれい》な女のことね。知らないけど、それがどうかしたの?」
「いや、知らなければ、それで、いいんだ」
吉田は、「有難う」と、いってから、シャノアールを出た。
その日、ネオンが輝き始める頃になって、吉田は、関口という男の働いている「カザノバ」というバーを訪ねてみた。
小さな店だった。
あの男は、カウンターの向う側で、神妙な顔で、シェーカーを振っていた。
吉田は、隅の薄暗い席に腰を下した。背の高い女が隣に坐《すわ》った。吉田は、ハイボールを頼んでから、
「なかなかハンサムなバーテンがいるね」
と、話しかけた。
「何とかいう映画俳優に似ているような気がするんだが――」
「Sでしょう?」
女は、笑って見せた。
「誰もが、Sに似てるっていうわ」
吉田は、Sという俳優を知らなかったが、
「ああ、Sだった」と、頷《うなず》いて見せた。
「あれだけ顔がいいと、女の子にモテるだろうね?」
「店の子で、のぼせてるのもいるわよ」
「それで、バーテンの方は?」
「それが、訝《おか》しいのよ」
女は、秘密めかして、声を低くした。
「前は、矢鱈《やたら》に、女の子に手を出していたんだけど、最近、ぷっつり止めちまってるわ。噂《うわさ》じゃ、何処《どこ》かの奥さんを好きになって、夢中らしいということだけど――」
「ほう――」
「あたしには、信じられないんだけど――」
「何故《なぜ》、信じられない?」
「上手《うま》くはいえないんだけど、一人の女に夢中になるような男に見えないからよ」
「しかし、最近は、変ったと、君も、いった筈《はず》だよ」
「ええ。変ったのは本当なのよ。だから、相手の女が、よっぽど、凄腕《すごうで》の美人だろうと思って、一度、その女の顔を見たいと思っているんだけど」
「見たことはないの?」
「ええ」
「でも、人妻らしいっていう噂は、聞いたんだね?」
「ええ。噂だから、本当かどうか判らないわ」
女は曖昧《あいまい》に、いってから、急に、警戒するような眼になった。
「どうして、こんなことばかり訊《き》くの?」
「別に理由はないよ」
吉田は、周章《あわ》てて、いった。関口に、喋《しやべ》られて、警戒されたのでは、尾行がやりにくくなる。
「自分がモテないもんだから、女に好かれる男を見ると、つい羨《うらや》ましくなってね」
下手な弁解だが、女は、簡単に信じたようだった。
「あんただって、なかなか、いい顔をしているじゃないの」
と、女は、いった。
「何だったら、今夜、つきあってもいいわよ。あんたに、気があるならの話だけど――」
四
男のフルネームは、関口康彦。二十七歳。N大を中退している。吉田の想像した通り、在学中に、ボクシング部に籍があった。どうやら、酒に酔って、喧嘩《けんか》をし、それが、N大中退の理由のようであった。
徳永絹代が、彼に惹《ひ》かれたのは、そうしたインテリヤクザめいた陰影のせいかも知れない。
吉田は、最初の報告書を、徳永あてに、送った。
二回目の尾行依頼の電話があったのは、その翌日だった。
「報告書は見た」
と、徳永は、電話口で、いった。
「君は、なかなか、優秀な探偵のようだ」
「恐縮ですな」
「それで、尾行を頼む」
「関口から、電話があったのですか?」
「あった」
「奥さんは?」
「今、出掛けたところだ。私には、女学校時代の友達に会いに行ってくるといったが、相手は関口という男に決っとる。電話に出た女中が、若い男の声だと、いっていたからな」
「行先は、何処です?」
「判らん」
「判らない?」
「電話が、聞こえなかったからだ。しかし、想像はつく」
「何処です?」
「|千鳥ケ淵《ちどりがふち》公園を知っているかね?」
「知っています。英国大使館の近くです」
「そこに、行ってみてくれ」
「奥さんは、そこへ行かれたんですか?」
「私は、妻の手帳を盗み見たことがある。その時、千鳥ケ淵という名前が、何回も出て来たのだ。その傍に、日附と時間が書き込んであった。恐らく、妻は、千鳥ケ淵を、関口との逢引《あいび》きの場所に使っているんだと思う。だから、行ってみてくれ」
「もし、奥さんも、関口康彦も現われなかったら、どうします?」
「その時は、その時だ。とにかく、早く行って見てくれ」
「判りました」
吉田は、電話を切ると、中古のルノーを、千鳥ケ淵に飛ばした。
英国大使館前の、濠端《ほりばた》の景色も、高速道路の工事で、大きく変ってしまった。お濠の上を、高速道路が、またいでいる。
吉田は、車を止めると、お濠に沿って歩きながら、徳永絹代と、関口康彦の姿を探した。
人影は、少いのだが、二人の姿は、なかなか見つからなかった。絹代は、別のところで、関口に会っているのではないのかと、吉田は考えて、車のところまで、引き揚げかけて、やっと、二人の姿を発見した。
お濠に、何|艘《そう》かのボートが出ている。その一艘に、二人は、乗っていたのである。
吉田は、ボート小屋に行き、一時間分の料金を払って、ボートを借りた。
吉田は、あまり運動神経のある方ではない。漕ぎ出した途端に、オールが水をはね飛ばして、背広が、濡《ぬ》れてしまった。それでも、エッチラオッチラと二人のボートに近づけて行った。
関口は、漕ぐのを止めていた。絹代は、暗い顔で、水面を見詰めている。
吉田は、ゆっくりと、二人のボートの傍を通り抜けながら、関口も徳永絹代も、ひどく深刻な顔をしているなと思った。二人の間に、どんな話が交わされたのか、想像が出来るような気がした。語られたのが、「愛」であることは確かだ。しかし、絶望の愛であったのかも知れない。
二人は、ボートから降りると、三宅坂《みやけざか》に向って、ゆっくりと歩いて行った。その間も、黙っていることが多かった。
三宅坂で、新しく出来た喫茶店に入った。
そこで、二人の間に交わされた会話は、吉田が想像したようなものだった。
絹代が、忘れて欲しいといい、関口は、忘れられないと、激した声でいった。絹代の方も、「本当は、私も、忘れるなんて出来やしない」といい、二人は、そこで黙り込んでしまった。
この二人は、ひょっとすると、心中するかも知れないと、吉田は、そんな不安にまで襲われた。
二人は、注文したコーヒーに、殆《ほとん》ど手をつけずに、その喫茶店を出た。
二人が別れたのは、有楽町の駅前だった。
夕闇《ゆうやみ》が街に忍び寄っていた。
五
三日後の夜半であった。
床についていた吉田は、けたたましい電話の音に、眼を覚ました。
眼をこすりながら、枕元《まくらもと》の明りを点け、時計を見た。午前零時を廻ったところだった。
ひどく眠い。受話器を取ったが自然に不機嫌な声になった。
「もしもし」
「私だ」
「私じゃ判りませんな」
「私だ。徳永だよ。徳永晋作だ」
「ああ。判りました。しかし、何事です? こんな遅く。まさか、今から奥さんを尾行してくれっていうんじゃないでしょうね?」
「絹代が帰らないんだ」
徳永は、甲高い声で、いった。すっかり狼狽《ろうばい》している気配だった。
「帰らない?」
「夕方、美容院へ行くといって、外出した。男から電話もなかったので、安心していたんだが、今になっても、戻らんのだ」
「美容院へは?」
「行かなかったらしい。それから、京橋のカザノバというバーへ電話してみたんだが、関口は、休んでいるということだ。二人で、前々からしめし合わせて、駈け落ちしたのだ」
「駈け落ち――?」
そうかも知れない。しかし、吉田は、もっと悪い事態を想像した。二人は、死ぬ気かも知れない。
「行先についての心当りは?」
「ない」
「奥さんは、どんな服装で、家を出られたんですか?」
「例のパール・ホワイトのドレスの上に、薄緑のコートを羽織っている」
「金は、いくらぐらい持っています?」
「判らんが、五万円くらいは、持っているだろう。いや、十万円くらいかも知れん」
「私に、探せというのですね」
「そうだ。探して欲しい。金は、いくらかかっても構わん。頼む」
「やってみましょう。しかし、全然、心当りがないというのは、痛いですね。何かありませんか。奥さんが、昔行った温泉地といったようなものは――」
「絹代は、よく、伊豆《いず》が好きだと、いっていたことがある」
「伊豆ですか。まず、そこを探してみましょう」
「頼む」
「貴方は?」
「伊豆の他に、行きそうなところが、一つあるのだ、仙台に、絹代の友達がいるんだが、そこに行ったかも知れん。私は、そっちへ行ってみる」
「判りました。伊豆の方は、最初に、東海岸を廻り、次に西海岸を廻ってみます。貴方も仙台が駄目だったら、伊豆へ来て欲しいですね」
「判っている。すぐ、伊豆へ行く」
電話は、そこで切れた。
吉田は、またベッドに、もぐり込んだ。どうせ、今から出発したところで、どうにもならない。朝になってからと思ったのだが、ベッドに入っても、なかなか、眠れなかった。
また、起き上がると、伊豆地方の地図を探し出して来て、ベッドの上で拡げてみた。
熱海《あたみ》、伊東、北川、熱川《あたがわ》と、温泉地だけでも、三十以上ある。二人の人間を探し歩くのも大変だなと思った。
翌朝早く、吉田は、車を伊豆へ向って走らせた。徳永絹代の写真は、持っているが、関口の写真はない。それが痛かったが、止むを得なかった。
最初に、熱海を、探してみた。ここを訪れる観光客は、一日二万を超すといわれている。その中から、二人の人間を探し出すのは、楽ではない。旅館が、約三百軒。吉田は、その旅館を一軒一軒廻って、関口と、徳永絹代の消息を訊《き》いてみた。
丸一日かかったが、二人の消息は、聞かれなかった。
その夜、吉田は、熱海のホテルに泊った。
六
翌日、そのホテルを出発する時、吉田は、フロントに名刺を渡した。後から、徳永晋作という男が訪ねて来たら、これを頼むと、これからの調査予定を書いた紙片を添えた。
吉田は、東海岸を、下田に向って、南下しながら、探して行く積りであった。途中で、徳永が合流するかも知れない。
熱海から、海岸沿いの道を、吉田は、ルノーを走らせた。次の温泉地は、伊東である。
伊東でも収穫はなかった。どの旅館にも、二人は、泊っていない。
伊東で一泊して、翌日は、更に南下して、川奈温泉に辿《たど》り着く。ここでも消息は聞けなかった。吉田は、その夜の中に、北川温泉に向った。
北川は、最近になって開けた温泉である。海岸沿いに、新しく有料道路が出来てから、客が多くなったという。
ここでも、消息なし。
吉田は、熱川、稲取、今井浜と、調査を続けながら、南に下って行った。
下田に辿り着いたのは、五日目の夜である。
ここで、徳永晋作が、追いついて来た。
「仙台には、行っていなかったよ」
と、徳永は、暗い顔で、いった。深い疲労の色が、彼の言葉つきにも、態度にも現われていた。
下田の街は、二人で、探してみたが、矢張り、関口と、絹代の消息は、聞けなかった。
「海岸沿いの温泉ではなさそうですね」
と、ホテルに戻ってから、吉田は、いった。
「二人にとっては、逃避行の筈だから、伊豆の奥にある小さな温泉に向ったのかも知れません。その方が可能性がありますよ」
「まさか――」
「何です?」
「まさか、二人は、心中などは、せんだろうね?」
「――――」
吉田は、返事を渋った。心中の可能性が強いのだ。しかし、そんなことを、今の徳永にいうわけにもいかない。
「とにかく、探してみることです」
吉田は、返事の代りに、そう、いった。
翌日、ホテルを出る時、吉田は、フロントで、
「伊豆で、一番、ひなびた温泉は、何処《どこ》だろうか?」
と、訊いてみた。フロントの男は、一寸《ちよつと》考えていたが、「湯が野でしょうね」と、いった。
吉田は、二人は、そこにいるかも知れないと、思った。徳永に、それをいうと、彼は、「さあね」と、首をかしげただけであった。
「絹代一人なら、ひなびた温泉に行くかも知れんが、相手の関口という男の性格が、判らんからね」
「彼だって、身をかくしたい筈ですよ」
と、吉田は、いった。
湯が野は、下田から、北に向って、十二キロほどのところにある。天城山《あまぎさん》の山麓《さんろく》に開かれた小さな温泉町である。
河津川という小さな川が流れ、その川岸に温泉宿や、共同浴場が並んでいる。
最初に訪ねた旅館で、手応《てごた》えがあった。
旅館の女将《おかみ》が、徳永絹代の写真を見て、この人なら、若い男と一緒に泊ったというのである。女将のいう服装も、一致していた。
吉田も興奮したが、徳永の顔色も変っていた。
吉田は、宿帳を見せて貰《もら》った。
東京都中央区京橋二ノ××
[#地付き]関口康彦
同
[#地付き]絹代
と、あった。
「くそッ。夫婦気取りで――」
と、徳永は、眼を剥《む》いたが、吉田は、そのことより、関口が本名を書いていることに、気を引かれた。絹代の方も、本名といえないことはない。二人とも、徳永が追いかけてくることは、承知の筈である。それなのに、何故、宿帳に本名を書いたのだろうか。
「泊ったのは、何時《いつ》ですか?」
吉田が、訊いた。
「確か六日前です。夜遅く、いらっしゃいました」
「出発したのは?」
「翌日の夕方ですわ。夕食を、おすましになってからですから、七時頃でしたでしょうか?」
「何処へ行くと?」
「下田へ行くと、いっていらっしゃいましたが」
「下田には、行っていない」
「でも変ですわね。あの時間には、下田行のバスしかありませんけど」
「徳永さん」
と、吉田は、改まった声で、徳永に声をかけた。
「二人は、心中したかも知れません。この近くで」
「まさか――?」
「二人とも本名を書いています。逃げる積りなら偽名にする筈です。本名を書いたのは、追いつかれても構わないと考えたからじゃないでしょうか。つまり、心中です。それに、今、聞いたように、下田へ行くといって出発していながら、下田に現われていない。天城山へ登って、そこで――」
「馬鹿な」
と、徳永は、いったが、その顔も蒼《あお》くなっていた。二人の傍で、聞いていた中年の女将も、顔色を変えていた。
「といえば、あのお客様は、様子が変でした。妙に、沈んでいて――」
と、彼女も、いった。
「とにかく、この近くを調べてみようじゃありませんか」
と、吉田は、徳永に、いった。
七
天城山は、深い紅葉に蔽《おお》われていた。昔、御料林だけに、樹林は深い。
吉田と徳永は、旅館の若者の助けを借りて、深い樹林の中を、探して歩いた。
一日が空しく暮れた。
二日目の夕刻である。天城山の中腹を探し歩いていた若者の一人が、甲高い叫び声をあげた。
深い樹林の奥で、重なるようにして倒れている男女の死体を発見したからである。
吉田と徳永は、若者の傍に駈けつけて、そこに倒れている死体が、関口康彦と、徳永絹代であることを確認した。
死体の傍に、ウイスキーの瓶が転がっていた。恐らく、その中に、毒を入れて、二人で飲んだのだろう。
吉田は、矢張り、死んでいたのだなと、思った。
警察に連絡が取られた。駈けつけて来た警官は、死体を見るなり、「心中ですな」と、いった。天城山では、よく心中事件があるのだという。
徳永は、気が抜けたような顔をしていたが、それでも、警察の調べには、死んだのが妻であることを認め、ここまで追って来た事情も、そのまま話していた。
翌日、死体の解剖が行われ、青酸死であること、死後、少くとも五日以上経過していることが確認された、湯が野の旅館を出たその日に、二人は、死んだのだろう。
吉田も、警察から訊問を受けた。こうなっては、正直に全《すべ》てを話してしまう他はなかった。吉田は、徳永から素行調査の依頼を受けた事情から、話した。
「心中するのではないかと恐れていたのですが、その不安が的中しました」
と、吉田は、いった。
新聞は、小さくだが、「天城で邪恋を清算」と書き立てた。邪恋とは、嫌な言葉だなと、吉田は思った。
それで、事件は終った。警察も心中事件として片付けたし、吉田も、そう思った。他に考えようがなかったからである。
吉田と徳永は、東京に戻った。吉田は、徳永から報酬を受け取ったが、後味は、悪いものだった。
八
二週間経ってからである。
吉田は、伊豆の警察から、一通の封書を受け取った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈前略
過日は失礼致しました。亡くなられたお二人の遺品は、あの時、徳永氏にお渡し致しましたが、机を調べたところ、一つだけ、残っていたことを発見致しました。関口康彦の背広の内ポケットに入っていた紙片で、自動車のナンバーらしきものが、記入してあります。それが、今考えますと、貴方が乗って来られたルノーのナンバーだったような気がするのです。紙片を同封しますから照合して下さい。別に、どうということはありませんが、お送りします。
右、お知らせまで〉
[#ここで字下げ終わり]
吉田は、同封されていた紙片に眼をやった。紙片といっても、手帳の一頁を引き裂いたものらしい。小さなものである。それに、鉛筆で、ナンバーが、書き込んである。
〈練5・56・47〉
と、読めた。確かに、それは、吉田の愛用しているルノーの自動車ナンバーだった。
(妙だな)
と思い、考え込んでいるうちに、益々わけが判らなくなって来た。警察の手紙では、この紙片は、死んだ関口康彦が持っていたという。何故、彼が、吉田のルノーのナンバーを知っていたのだろう?
もし、彼が、知っていたのなら、吉田に尾行されていることも、知っていた筈ではないか。
上野の美術館の時も、千鳥ケ淵のボートの時も、関口は、彼と絹代が、探偵に尾行されていることを知っていたのだろうか?
(そんな筈はない)
と、思う。細心の注意を払って、吉田は尾行した積りだった。へまは、やらなかった積りである。その自信もある。
(しかし、関口が、ルノーのナンバーを知っていたことも事実なのだ。この紙片が、彼のポケットに入っていたのだから)
知っていたとしても、もう終ってしまったことだとも、吉田は考えた。が、何か落着かなかった。恐らく、探偵員としての自尊心のせいだろう。尾行を気付かれていたということが、自尊心を傷つけるのだ。
吉田は、その紙片を持って、関口康彦が働いていた、カザノバを訪ねた。関口の筆跡かどうか調べてみたかったからである。カザノバのマダムに、関口が書いたという手紙を見せて貰った。
違うと、すぐ判った。紙片の字は、遥かに達筆であった。念のために、吉田は、知り合いの鑑定家に調べて貰ったが、同じ返事であった。「明らかに別人の筆跡だね」と、鑑定家も、いった。吉田は、困惑し、考え込んでしまった。
誰かが、吉田の車のナンバーを紙片に書いて、それを関口康彦に渡していたのだ。何故、そんなことをしたかは、はっきりしている。関口に、探偵が尾行していると、警告するためだ。
(しかし、誰が、知らせたのだろうか?)
吉田は、尾行のことを、誰にも喋《しやべ》った憶《おぼ》えはない。秘密厳守が、探偵員の商業道徳だからだ。
知っているのは、吉田自身と、それに徳永晋作だけの筈である。徳永なら、事務所へ訪ねて来たのだから、ルノーのナンバーも見た筈である。
(しかし、まさか、徳永晋作が――?)
考えられなかった。尾行を頼んだ人間が、尾行していることを相手に知らせるだろうか? それに、相手は、妻を誘惑した男なのだ。
馬鹿馬鹿しいと、吉田は思う。しかし、徳永晋作の他に、誰が知っていたろうかと考えると、壁に突き当ってしまうのである。尾行のことを知っていたのは、徳永晋作だけなのだ。
吉田は、徳永の筆跡を知りたいと、思った。どうせ違うだろうが、念のためだと、考えたのである。
吉田は、さり気ない調子の手紙を徳永に書いた。妻君を失ったことへの悔みと、報酬を貰ったことへのお礼の言葉を並べた。
返事は、すぐ来た。簡単な、葉書一枚の返事だったが、とにかく、徳永晋作の筆跡は、手に入ったわけである。
吉田は、その葉書を、もう一度、筆跡鑑定家のところへ、持ち込んだ。期待はなかった。似てはいるが違うと思ったのだが、鑑定家の言葉は意外だった。
「九割九分まで、同一人の筆跡と見ていいね」
と、鑑定家は、いった。
「本当ですか?」
「自信を持っていえるね。同一人だよ。同一人だと、まずいのかね?」
「いや」
と、吉田は、首を横に振った。
九
徳永晋作は、吉田に、妻の素行調査を依頼した。尾行して欲しいといった。そうしておいて、妻の情事の相手に、尾行を知らせたのだ。
(何故、そんなことをしたのか?)
判らないが、何かがある筈だった。何か、妙なカラクリがある筈だ。徳永は、妻の情事の相手を知らないといったが、あれも嘘《うそ》だったことになる。何故、嘘を吐《つ》いたのだろうか?
吉田は、関口康彦と、絹代を尾行した時のことを思い出してみた。あの時、あの二人は(少くとも関口の方は)尾行されていることを知っていたのだ。知っていて、きわどい会話を交わしていた。二人で死んで、愛を貫くというような会話を。
(あの会話は、もしかすると、吉田に、聞かせるための会話ではなかったろうか?)
この推測が突飛であることは、吉田にも判っていた。しかし、この突飛な考えから、或る一つの閃《ひらめ》きが、吉田の頭に生れて来た。
全《すべ》てが、仕組まれた芝居だったのでは、あるまいか。そして、最後の二人の死だけが、事実だったのではあるまいか。
芝居だったとしたら、何故、そんな芝居が必要だったのか。それに、吉田に与えられた役目は何だったのだろうか。
吉田は、徳永晋作という人間を、調べてみることにした。どうやら、自分が、道化役をやらされていたらしいことへの反発だった。
徳永は、徳永物産という商事会社の社長だった。さして大きくはない会社だが、吉田が調べたところでは、営業内容は、良好だった。財産も可成りある。しかし、調べていく中に、吉田が心を引かれたのは、その財産の殆《ほとん》どが、先日の妻君の死によって、彼のものになったということだった。つまり、財産の殆どが、妻君の名義になっていたわけである。
徳永は、三年前に結婚した。それまでは、ある商事会社の営業係長にしか過ぎなかった。結婚後、妻君の金で、商事会社を作り、社長に納った。
もう一つ判ったことがある。妻君である絹代の肉親が、いないということだった。財産はあったが、天涯孤独の女だったのだ。彼女が死ねば、その財産は全て、夫である徳永晋作のものになる(それに、彼女が全くの天涯孤独だということは、彼女が死んだ時、その死体が彼女であると確認できるのは、夫である徳永晋作だけだということになる)。
天城山で死んだ女が、替玉だとしても、それを替玉と指摘できる人間は、いないのだ。徳永晋作以外には――
吉田は、頭の中で、一つの仮説を組み立ててみた。奇妙だが、恐しい仮説をである。
十
徳永晋作は、金持ちの女と結婚した。最初から、金が目当ての結婚だ。女が死ねば、財産は、徳永のものになる。
徳永は、妻を殺し、死体を何処かに埋める。そして、妻によく似た女を金で傭《やと》い入れる。それに、関口康彦という男もだ。この二人に情事の芝居をさせ、馬鹿な探偵を傭って、二人を尾行させる。
吉田の役目は、情事の証人というわけだ。徳永の罠《わな》にはまった吉田は、二人が心中するかも知れぬという不安を持ち始める。
そして、仕組まれた失踪《しつそう》事件。二人に、湯が野温泉に行けと命じたのは、徳永自身に決っている。熱海から、伊豆の温泉を調べて行けは、湯が野に辿《たど》りつくには、五、六日かかると、徳永は、ちゃんと計算していたに違いない。徳永は、先廻りして湯が野に行き、二人に毒入りのウイスキーを飲ませて殺し、何喰《なにく》わぬ顔で、下田で、吉田に合流したのだろう。
心中事件として片付き、徳永は財産を手に入れた。もし、警察が疑惑を持っても、吉田という証人がいる。彼は、訊《き》かれれば、これは心中だと証言したろう。あの時は、そう信じていたのだから。
死んだ二人は、金に釣られて、動かされたに違いない。自分が殺されるとも知らずにだ。
(このあとは、間違っているだろうか?)
吉田は、徳永に、ぶつかってみることにした。
徳永晋作は、妻を失った夫の演技を、まだ続けていた。吉田を迎えた彼は、暗い眼をしていた。
「まだ、胸に、大きな空洞が出来ているような気がする」
と、徳永は、いった。
「貴方に、その悲しみを忘れさせてあげられるような、面白い話を、今日は、持ってきたんですが」
と、吉田は、皮肉な眼で、相手を見た。徳永は、戸惑いした表情になり、
「どんな話だね」
「頭のいい青髭《あおひげ》の話です」
吉田は、自分が考えたことを、ゆっくり、話して聞かせた。
聞いている徳永の顔が、次第に青ざめて行った。が、聞き終った時、彼の顔は、笑っていた。
「面白い話だが、証拠があるのかね?」
「ある」
と、吉田は、いった。
「僕の車のナンバーを書いた紙片も、証拠になる筈《はず》だ。それに警察からの手紙では、既に、貴方のアリバイを調べているということだ。二人の死亡時刻に、貴方のアリバイがないとなったら、逮捕は、まぬがれないだろうね」
勿論、でたらめだが、この言葉は、効果があった。徳永の顔から、笑いが消え、歪《ゆが》んだ表情になった。
「警察に話したのだな?」
「勿論だ。警察も、僕の話に興味を持ったよ。あと、一時間もしたら、殺人容疑で、貴方を逮捕しにくる筈だ」
「畜生ッ」
と、徳永は、怒鳴った。
「死体を調べた時、あの紙片に気付いて、抜き取っておけば、完全犯罪だったんだ」
「大きなミスだったね」
吉田は、ほっとして、いった。
十一
徳永は、逮捕されると、あっさり全てを自供した。
本当の徳永絹代は、一か月前に、既に殺されていた。徳永は、彼女を殺すと、死体を隠し、すぐ、転居した。そこで、顔の似た女を金で傭い、芝居をさせた。女中も新しく傭ったので、偽者を、本当の妻君と信じてしまっていたらしい。
関口康彦も金で買われた。自供の途中で、徳永は、「今の人間は、大金さえ掴《つか》ませれば、どんなことでもやりますよ」と、笑ったという。
この皮肉は、吉田を含めていったのかも知れない。吉田も、金で買われて、道化を演じたのだから。もっとも、吉田を余りにも甘く見過ぎたのが徳永の命取りになったわけだが。
本物の徳永絹代の死体は、徳永の自供通り、彼が前に住んでいた家の床下から発見された。その死体は、既に腐り始めていて、偽者の徳永絹代と似ているかどうか比べることは出来なかった。
偽者の徳永絹代は、東北に旅行した際、小さなバーで、見つけたのだと、徳永は、自供した。
警察は、その自供にもとづいて、照会を始めたが、まだ、彼女の肉親は、名乗り出ていない。
[#改ページ]
誘拐《ゆうかい》の季節
失《しつ》 踪《そう》
沢木は、起きると同時に、枕元《まくらもと》の時計に眼をやった。小野由紀子《おのゆきこ》のマネージャーになって以来、それが習慣になってしまっていた。
「もう起きるの?」
隣りで、女が、寝惚《ねぼ》けたような声を出した。昨夜、新宿《しんじゆく》のバーで拾った女だが、名前も覚えていない。
「――――」
沢木は、黙って、ベッドを降りると、浴室に入って、冷たいシャワーを浴びた。眼がチカチカするのは、寝不足のせいだ。毎日が、やたらに忙しく、ひどく疲れる。
タオルで、濡《ぬ》れた身体を拭いているうちに、どうやら、気持がシャッキリしてきた。
鏡に向って、髭《ひげ》をそりながら、小野由紀子の今日のスケジュールを思い浮かべてみる。十時から、S映画の撮影がある。また、眠いとか疲れたとか文句をいうだろうが、なだめすかして、撮影所まで運ばなければならない。
洗面所を出て、外出の支度を始めると、女が、ベッドの上から、
「これから、お姫さまのお守りに行くのね」
と、いった。
昨夜、バーで、どんなことを喋《しやべ》ったか、沢木は覚えていないが、小野由紀子のことを、口にしたらしい。
「それが仕事でね」
と、沢木は、無表情に、女を見た。色の白い、丸顔の女だった。小野由紀子に、眼のあたりが、少し似ていた。
(それで、俺《おれ》は、この女を抱く気になったのか)
ふと、苦笑が浮かんだ。
「帰る時は、鍵《かぎ》を掛けてってくれよ」
と、沢木はいい、部屋を出た。
九月の末だが、外の陽射しは、まだ暑かった。
沢木は、近くにある有料駐車場まで歩き、車に乗った。外国のスポーツカーだが、沢木のものではない。小野由紀子のものである。沢木の給料で買える代物《しろもの》ではなかった。
沢木は、上野毛《かみのげ》の小野由紀子の家まで、車を飛ばした。
着いたのは、九時である。どうやら、間に合いそうだと思い、門をくぐった。大きくはないが、いかにも女優の家らしい洒落《しやれ》た造りになっている。庭にいたペットのセントバーナード犬が、沢木を見て尾を振った。この犬は、誰にでも尾を振るくせがある。二、三日前、空巣が入った時も、尾を振ったらしく、誰も気がつかなかった。
沢木は、庭を横切って、ベランダから、中に声をかけた。女中の宮島時子《みやじまときこ》が、すぐ顔を出した。女優になりたくて、北海道から出てきた娘である。まだ、十七だが、柄《がら》だけは大きい。
「お姫さまは、まだ寝てるのかね?」
沢木は、二階の由紀子の部屋を見上げるようにしてきいた。
「いいえ」
と、時子が、首を横にふった。
「ほう、珍しいこともあるもんだな。今日は起こす手間が、はぶけたわけか」
「でも――」
「でも、どうしたんだ? ご機嫌が悪いのか?」
「いいえ。いらっしゃらないんです」
「いない?」
沢木の声が大きくなった。
「いないって、どういうことなんだ?」
「先生は、一時間前に、お出かけになりました」
「出かけた? 何処《どこ》へ?」
「存じません。行先を、おっしゃらなかったんです」
「弱ったな」
沢木は、苦い顔になった。今日、十時からS映画の仕事があることは、知っている筈《はず》だった。それなのに、一体、何処へ出かけたのか。
小野由紀子のわがままには、慣れている積りなのに、やはり、腹が立つ。二か月ほど前にも、急に姿を消して、沢木を、あわてさせたことがあった。おかげで、沢木は、映画会社や、テレビ局に、頭を下げて廻る破目になったが、由紀子の方は、ケロリとした顔で戻ってきて、友人の家で、寝ていたといった。彼女には、そんなところがある。
「本当に、何処へ行ったのか、判らないのかね」
沢木は、念を押したが、戻ってきた返事は同じだった。
沢木は、腕時計に眼をやった。既に、九時を十分すぎている。
(また、頭を下げて廻るのか)
と、うんざりした。が、ともかく、撮影所へ行ってみることにした。ひょっとして、由紀子も、外出先から、撮影所へ廻ったかも知れないと思ったからである。
「彼女が戻って来たら、すぐ、撮影所へ来るように言ってくれ」
と、沢木は、時子にいって、車に戻った。
撮影所に着いたのは、十時も少し過ぎていた。が、小野由紀子は、まだ、来ていなかった。
昔から、几帳面《きちようめん》で鳴らした古川監督は、すでに、セットに姿を見せていて、沢木の顔を見ると、
「小野君は、どうしたのかね?」
と、不機嫌な声で、きいた。
「最初から、主役が遅れちゃ困るね」
「急用が出来たものですから」
と、沢木は、冷汗をかきながら、弁解した。
「じきに見えると思いますが」
「本当かね」
古川は、信用しない眼で、沢木を見た。
「小野君は、最近、天狗《てんぐ》になって、わがままになっているという噂《うわさ》を聞いたがね」
「そんなことはありません」
沢木は、懸命にいった。
「必ず参ります。昨日も、先生の作品に出られるというので、張り切っておりましたから――」
沢木は、セットを出ると、上野毛の由紀子の家に、電話を掛けてみた。が、まだ、戻っていないという返事だった。
沢木は、手帳を取り出すと、彼女の行きそうな場所に、片っぱしに電話を掛けてみた。テレビ局、女学校時代の友人の家、行きつけの美容院、洋装店――だが、小野由紀子は何処《どこ》にも行っていなかった。
(やれやれ)
思わず、溜息《ためいき》が出た。
(一体、何処へ雲がくれしたのか?)
昼になっても、小野由紀子は、姿を見せなかった。古川は、かんかんになって、途中で撮影を中止してしまい、沢木は、ほうほうの体で、撮影所を飛び出した。
午後には、テレビの仕事がある。沢木は、上野毛に戻って、由紀子が戻るのを待ったが、二時、三時になっても、戻って来なかったし、連絡もなかった。テレビ局からは、どうしたのだという問い合せの電話が殺到し、その度に、沢木は、下手な嘘《うそ》をついて、ごまかさなければならなかった。
夜に入っても、小野由紀子は、家に戻らなかった。
翌日になると、何処で嗅ぎつけたのか、芸能記者の連中が、押しかけてきた。沢木が応接したが、向うは、面白い記事にする積りだから、辛らつな質問の洪水だった。
「もう二十九のハイミスだから、結婚したい男でも出来たんじゃないんですか?」
「今度の映画に不満なことがあって、レジスタンスでもしてるんですかねえ?」
「今度の失踪《しつそう》は、マネージャーである沢木さんの演出じゃないの? 人気取りのさ」
そんな質問に対して、沢木は、どれも考えられないことだと否定した。
小野由紀子は、今度の誕生日が来れば、三十歳になる。女優でなくても、迷いのでる年齢だ。時には、平凡な家庭生活に、あこがれることがあるらしいことも、沢木は知っていたし、人気が、下降線を辿《たど》っていることを苦にしていたことも知っている。だが、だからといって、男と駈落《かけお》ちしたとは考えなかったし、人気取りの失踪とも思わなかった。沢木には、この間のように、一寸《ちよつと》した気まぐれとしか考えられなかった。
どうせ、二、三日したら、ケロリとした顔で現われるだろう。問題は、その間、マスコミをどうやって、なだめすかすかということだった。少くとも、沢木は、小野由紀子については、心配していなかった。
二日過ぎた。が、小野由紀子は、戻って来なかった。
三日目になっても、何の連絡もなかった。
四日目になった。沢木はようやく狼狽《ろうばい》を感じ始めた。
五日目の午後、沢木は、警察に電話を掛けた。これは、単なる気まぐれではなさそうだった。
一時間ほどして、私服の刑事が一人でやってきた。三十五、六の、陽焼けした顔の刑事だった。
「私も、小野由紀子さんのファンの一人ですよ」
と、その刑事は、沢木の顔を見るなり、いった。本当なのかそれとも、仕事をやり易くするために、いったのか、沢木には、判らなかった。
「それで、貴方《あなた》の電話ですと、彼女が失踪《しつそう》したそうですね?」
「もう五日間、姿が見えません」
「何故《なぜ》、五日間も放っておいたのですか?」
「前にも一度、こういうことがあったからです」
沢木は、自然、弁解するような調子になって、いった。
「その時は、友人の家にかくれていたといって、ケロリとした顔で戻って来たのです。ですから、今度も、その伝かと思って」
「ところが、違っていたというわけですね」
「五日間も、連絡がないというのは、気まぐれにしては、変だと思ったのです。それに、一寸《ちよつと》、妙なことを耳にしたのです」
「妙なことというと?」
「お手伝いの宮島時子の話なんですが、いなくなった日に、小野由紀子に電話があったというのです」
「電話があってから、出かけて、そのまま戻らんというわけですか?」
「そうです」
「どんな電話だったのですか?」
「それが判らんのです。小野由紀子がすぐ出たそうですから。判っているのは、男の声だったということだけです」
沢木は、宮島時子を呼んで、刑事に紹介したが、沢木が聞いたことしか、刑事にも喋《しやべ》らなかった。
「しかし、その男の声が、若いか、年寄りか見当はつきませんでしたか?」
刑事は、慎重に、時子にきいた。
「判りません」
と、時子は、青い顔で、いった。
「先生を呼んでくれとしか、いわなかったんですから」
「その電話のあと、すぐ、外出したんですか?」
「はい」
「その時、小野由紀子さんは、どんな様子でした? あわてていたようでしたか? それとも普段と変りありませんでしたか?」
「そういえば、一寸《ちよつと》、あわてていらっしゃったようでしたけれど――」
刑事は、一寸、考えるように、天井を見上げた。
「貴方は、どう考えます?」
刑事は、沢木に眼を移してきいた。
「仕事に不満でもあって、雲がくれしたのだと思いますか?」
「いや」
と、沢木は、首を横に振って見せた。
「最近は、仕事に意欲を見せ始めていました。S映画の仕事もとても乗り気だったのです。ですから、仕事からの逃避ということは一寸考えられません」
「では、何故、姿を消したと?」
「それが判らないから、警察に来て頂いたのです。何となく、電話で誘い出された感じがするのですが――」
「誘拐かも知れないというのですか」
刑事は、厳しい眼になって、沢木を見た。沢木は、黙って頷《うなず》いてから、自分でも、「誘拐」という言葉に、狼狽《ろうばい》していた。
「その可能性はありますね」
刑事は、冷静な口調で、いった。
「もし、誘拐だとしたら、二、三日中に、犯人から連絡があるに違いありません。そうしたら、すぐ、警察に連絡して下さい」
刑事は、内ポケットから、名刺を取り出して、沢木に渡した。それで、沢木は、その刑事の名前が、五十嵐《いがらし》五郎という風変りな名前であることを知った。
新聞に、失踪《しつそう》の記事が出た。「誘拐」かと先走った言葉を並べた新聞もあった。が、それが、単なる先走りでないことが、やがて解った。
沢木|宛《あて》に、脅迫状が舞い込んできたからである。
何処にでも売っている安物の封筒に便箋《びんせん》。その便箋には、下手くそな字で、次のように書いてあった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈小野由紀子は、こちらで、あずかっている。無事に返して欲しければ、すぐ、二百万の金を用意せよ。
誰にも知らせるな。知らせれば、彼女の命はないものと思え。
金が用意できたら、N新聞に、「由紀子スグカエレ」の広告を出せ〉
[#ここで字下げ終わり]
勿論《もちろん》、差出人の名前はなかった。手紙には、何処にも知らせるなとあったが、沢木は、警察へ電話して、五十嵐刑事に、来て貰った。
五十嵐刑事は、すぐ、来てくれた。問題の手紙を見るなり、
「やはり、来ましたね」と、沢木にうなずいて見せた。
「この字は、筆跡をごまかすために、左手で書いたものですね」
「どうしたらいいでしょうか?」
「二百万の金は、用意できますか?」
「僕個人には、そんな大金は集りませんが、彼女の預金が、あります。あなたに立ち会って頂いて、それを下せば、二百万の金は用意できますが」
「それでは、一応、金を用意して、相手の出方を待ちましょう。それから、念を押すまでもないと思いますが、この手紙の来たことは、警察以外には、黙っていて下さい」
「判っています」
と、沢木は、うなずいて見せた。
沢木は、刑事に立ち会って貰って、小野由紀子の部屋に入り、小さな金庫を開けた。貯金通帳と、株券が入っていた。普通預金の通帳には、五百万ほどの預金があった。
五十嵐刑事は、手に取って、通帳を眺めながら、
「最近、百万ばかり、下していますね」
と、何気ない調子で、いった。沢木も覗《のぞ》き込んだ。確かに、一か月ほど前に、百万の金が下されていた。
(一月前に、彼女は、何か、大きな買物をしただろうか)
と、沢木は考えてみたが、思い出せなかった。が、考えてみれば、そんなことは、どうでも良いことだった。今は、小野由紀子を助けることが問題だった。
「私は、すぐ、銀行に行って来ます」
と、沢木は、いった。
沢木は車で銀行に行き、二百万の金を下した。帰宅の途中でN新聞に寄り、犯人が指定してきた広告を依頼したのだが、そんなことをしているうちに、あることを思い浮かべた。
沢木は、急いで帰宅すると、小野由紀子の部屋にあるシナリオを、片っ端から調べてみた。探すものは、すぐ見つかった。考えた通りであった。沢木は、そのシナリオを、五十嵐刑事に見せた。
「これは、三年前に、小野由紀子が、若い母親の役で主演した映画のシナリオです」
と、沢木は、いった。
「誘拐事件をテーマにした映画です」
「この映画なら覚えていますよ」
刑事は、沢木に微笑して見せた。
「私も、見ましたからね。それがどうかしたのですか?」
「実は、脅迫状を読み返しているうちに、前に一度、何処《どこ》かで読んだような気がしてならなかったのです。新聞社に寄っている時に、何処で読んだか、思い出したのです。この、『殺さないで』という映画なんです。これにも脅迫状が出て来ますが、文句が、殆《ほとん》ど同じなんです」
「――――」
五十嵐刑事は、黙って、シナリオのページをめくっていった。その箇所は、すぐ出て来た。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈子供は、こちらで、あずかっている。無事に返して欲しければ、すぐ、二百万の金を用意せよ。
誰にも知らせるな。知らせれば、子供の命はないものと思え。
金が用意できたら、新聞に、「良男スグカエレ」の広告を出せ〉
[#ここで字下げ終わり]
「確かに、同じですね」
五十嵐刑事は、難しい顔で、いった。
「子供という言葉のかわりに、小野由紀子の名前が入っているだけだ」
「偶然の一致でしょうか?」
「いや、そうじゃないでしょう」
と、刑事は、いった。
「恐らく、犯人は、あの映画を見たに違いありません。それも、何度も。ひょっとすると、今度の事件も、あの映画にヒントを得ているのかも知れません」
第一の殺人
五十嵐刑事の他に、二人の刑事が来て、上野毛の小野由紀子の家に、泊り込むことになった。
電話には、テープレコーダーが接続された。
沢木は、刑事たちに協力しながら、ふと、映画でも見ているような気になる瞬間があった。あのシナリオのせいだろう。「殺さないで」という映画は、マネージャーという立場上、沢木は、三回ほど見ている。
あの映画にも、電話に、テープレコーダーを接続する場面があった。そして、映画の中で、恐れおののいていた母親役の小野由紀子が、今度は誘拐された――
今度の事件は、あの映画とどこかで関係しているのだろうか。
五十嵐刑事は、今度の犯人は、あの映画を見ているに違いないといった。脅迫状の文句が同じだったことから考えて、その可能性は強いだろう。
(そうなると、次に打ってくる手も、あの映画と同じだろうか)
沢木は、もう一度、シナリオを読み返してみた。
二百万の金を用意させた犯人は、電話でなく、手紙で、連絡してくるのだ。電話では、録音される恐れがあるためである。手紙なら、男か女かも判らずにすむ。
「犯人は、恐らく、手紙で連絡してくると思いますよ」
と、沢木は、テープレコーダーの調子を調べている五十嵐刑事に、声をかけた。
刑事は、機械から手を放して、沢木を見た。
「映画が、そうだからですか?」
「ええ。犯人が、あの映画にヒントを得たのだとしたら、連絡の方法も、真似をするんじゃないでしょうか。すでに、最初の手紙が、真似をしているんですから」
「その可能性は、大いに考えられますね」
五十嵐刑事は、一応、沢木にうなずいて見せたが、
「だからといって、電話が使われないという保証は、どこにもない。あらゆる場合を考えて、用意しておく必要があります」
と、いった。
誘拐事件の辛さは、相手の出方を、ただ、待たなければならないことである。誘拐された人間の生死が、はっきりするまでこちらから動き出すことはできない。
N新聞に、「由紀子スグカエレ」の広告が載った。
犯人も、見た筈《はず》であった。だが、一日、二日と待っても、電話は鳴らなかった。
四日目に、手紙が来た。
封筒も、便箋《びんせん》も、左手で書いたらしい下手くそな筆跡も、前のものと同じであった。
消印は、新宿局だったが、前の手紙が、上野局だったから、犯人を探す手掛りにはなりそうもなかった。
だが、文面には、沢木や、刑事たちを驚かせるものがあった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈新聞を見た。
九月三十日の午前十時に、一人で二百万持って、上野駅に来い。そこで、次の指示をする。
警官が来たら、女を殺す〉
[#ここで字下げ終わり]
文面は、「殺さないで」という映画の中のそれに、同じであった。
「正確に同じとはいえません」
沢木は、映画のシナリオを、ひっくり返しながら、五十嵐刑事に、いった。
「映画の場合は、上野駅でなくて、東京駅でした」
「そのことは、私も気がついて、考えていたところです」
と、五十嵐刑事も、うなずいた。
「確か、あの映画では、母親役の小野由紀子さんが、二百万を持って、東京駅へ行くんでしたね」
「そうです。彼女は、駅に着いて、犯人の連絡を待ちます。しかし、いつまでたっても、犯人らしい人間は現われない。諦《あきら》めて、帰ろうとした時、偶然、駅の伝言板に眼をやると、そこに犯人からの次の指令が、書いてあるのです」
「そうでしたね」
と、五十嵐刑事は、厳しい眼になって、うなずいた。
「今度の犯人も、同じ手を使う気かも知れない」
「上野駅の伝言板に、次の指令が、書いてあるということですか?」
「恐らく、そうだと思います。今のところ犯人は、映画と同じ手を、使っていますからね」
「上野駅には、私が行きます」
と、沢木は、いった。
「そうして下さい」
と、五十嵐刑事も、いった。
「恐らく犯人の方も、貴方《あなた》が来るものと考えているでしょう」
「あの映画では――」
と、沢木は、シナリオを、繰りながら、言葉を続けた。
「東京駅の伝言板には、伊豆《いず》へ行けと書いてあって、子供は、伊豆の空別荘に監禁《かんきん》されていたことになっていますが」
「それで?」
「今度の犯人は、小野由紀子を監禁するのに、同じ手を使ったのかも知れません」
「空別荘に、連れて行ったというのですか?」
「その可能性があると思うのです」
と、沢木は、いった。
「あの映画は、九月末の出来事になっています。夏の間、賑わっていた伊豆の海も寂《さ》びれ、別荘は閉って、人間は、東京へ帰ってしまいます。誰もいない無人の別荘は、子供をかくす絶好の場所です。そして、今は、あの映画と同じ、九月の末です」
「しかし、映画は、東京駅が指定場所だが、今度は、上野駅を指定しているが」
「伊豆の他にも、別荘地帯はあります。上野から行ける所にも」
「貴方のいうのは、軽井沢のことですか?」
「そうです」
と、沢木は、うなずいた。
「夏が終り、軽井沢には、空いた別荘がいくらもある筈《はず》です。中には、管理人も置いてない別荘もある筈です。彼女は、そこに、監禁されているのかも知れません」
「その考えは、面白いですが……」
五十嵐刑事は、慎重に、いった。
「そこまで、犯人は、映画と同じ手を使うだろうか」
確かに、その疑問は、あった。全部、同じ方法なら、映画で犯人が逮捕されたように、今度も、犯人は逮捕されることになる。犯人は、そんな馬鹿でもあるまい。だが、沢木は、何となく、小野由紀子が連れて行かれたのは、軽井沢あたりの、空別荘のような気がしてならなかった。
(どちらにしろ、上野駅に行ってみれば、判ることだが……)
翌日(九月三十日)、沢木は、二百万の金を鞄に入れて、上野に出かけた。
台風が近づいているせいか、空が、どんよりと曇って、今にも、雨が降って来そうな天気だった。
(天気だけは、映画と違っているな)
と、車を走らせながら、沢木は、思った。映画の中で、母親役の小野由紀子が、東京駅に向う場面は、静かな秋日和《あきびより》になっていて、彼女の影の動きが、心の不安を示すように、作られていた。
沢木には、今度の事件で、もう一つ映画と違って欲しいことがあった。
それは、結末である。
映画では、ラストで、犯人が逮捕される。しかし、その時には、誘拐された子供は、死んでいたのだ。
(小野由紀子は、死なずに、助け出したい)
と、思う。彼女が殺されたら、メシの喰《く》い上げだからということもある。だが、もっと個人的な、男としての感情もあった。
小野由紀子は、欠点の多い女だ。それに、沢木は、女優としての彼女しか知らない。女優になる前の彼女が、どんな女だったかも知らない。
それでも、沢木は、小野由紀子に対して、愛情を感じていた。彼女に向っては、一言も、それらしい言葉を口にしたことはなかったが。
上野駅には、指定された時刻より、十分早く着いた。すぐ、伝言板を調べたいのを我慢して、ともかく、構内で、約束の十時まで、待った。
だが、予期したように、十時をすぎても犯人は、姿を現わさなかった。
沢木は、駅の構内にある伝言板を見て廻った。やはり、あった。
〈由木子の代理人へ。今日中に、中軽井沢へ来い〉
伝言板には、そう書いてあった。由紀子の「紀」の字が違っている以外は、沢木の予期した通りの伝言があった。
沢木は、すぐ、中軽井沢までの切符を買った。
十一時二十分の長野行に乗れば、中軽井沢には、十四時十八分に着く。
沢木は、腕時計に眼をやった。長野行の汽車が出るまでに、まだ、三十分はある。沢木は、五十嵐刑事に連絡しようと考えて、赤電話のそばまで歩いて行ったが、途中で、足を止めてしまった。
監視されているかも知れないと、思ったからである。
自分が戻らなければ、五十嵐刑事も、きっと、伝言板の文字を発見して、軽井沢へ来てくれるだろう。
沢木は、電話連絡を諦《あきら》めると、改札を通って、ホームに入った。
列車が、中軽井沢の駅に着いた時、小雨が降り始めていた。改札口を抜けると、肌寒い空気が、沢木の身体を包んだ。
季節外れのせいか、降りる客も少く、駅も駅前の通りも、ひっそりとしていた。
沢木は、暫《しばら》くの間、駅の前に立って、様子を見た。が、話しかけてくる人間は、誰もいなかった。
駅には、小さな伝言板があった。沢木の眼は、自然に、それに、吸い寄せられた。あの映画と同じように、やはり、その伝言板に、目指す文字があった。
〈由木子の代理人へ。星野リンク前の空別荘〉
それだけの文字が見えた。
(また、由紀子の字が違っている)
そのことが、ひどく緊張しているにも拘《かか》わらず、沢木は、気になった。だが、何故《なぜ》、二度も、犯人が間違えたのかは、判断がつかなかった。恐らく、犯人の方でも、あわてているのだろう。
沢木は、駅から、約一キロ北にある星野リンクまで、歩いていった。星野は、星野温泉で有名なところで、スケートリンクは、星野リンク以外にも、二つほどあり、Sデパートも進出していて、スケートシーズンには賑《にぎ》わう場所である。
しかし、今は、まだ、ひっそりしていて、リンクは、自動車練習場になっていた。
星野リンクの近くには、幾棟かの別荘が見えた。どの建物も住人が東京へ帰ってしまったものと見えて、門は閉ざされ、雨戸も閉って、ひっそりとしている。
沢木は、その一軒に近づいて、裏手へ廻ってみた。
管理人はいないらしく、閉め切った雨戸は汚《よご》れている。試しに、勝手口のドアを押してみると、鍵は掛かっていないらしく、きしんだ音を立てて、内側に開いた。最初から、鍵が掛かっていないとは思えないから、誰かが、鍵をこわしたのである。
(伝言板で、指定したのは、この別荘のことだろうか?)
沢木は、内部の様子を窺《うかが》った。雨戸を閉め切ってあるせいで中は薄暗く、よどんだ空気の匂《にお》いがする。そのままの姿勢で、しばらく待ったが、何の気配もなかった。
沢木は、中に入った。
眼が慣れてくるにつれて、わずかに射し込んでくる陽の光で部屋の中が、おぼろげに見えてきた。
居間に使われていた部屋らしく、大きなテーブルと、ソファが並んでいる。そのテーブルの上に、食べ残したパンや、缶詰が、転がっているのが、眼に入った。
空になったウイスキーの瓶もある。誰かがここにいたのだ。そして、今も、いるかも知れない。
「誰かいるのかな」
沢木は、声に出して、呼んでみた。
だが、返事はない。
沢木は、次の部屋を覗《のぞ》いてみた。寝室だった。ダブルベッドがあるところをみると、若夫婦の別荘だったのか。
沢木は、ベッドに近づいた。その時、ベッドの下に倒れている人間を発見して、ぎょっとなった。
男だった、俯伏《うつぶ》せに倒れている。沢木は、かがみ込んで、男を抱き起した。
(死んでいる……)
年齢は、三十歳くらいだろうか。沢木の知らない顔である。
後頭部を殴られたらしく、乾いた血が、こびりついている。
沢木は、青ざめた顔になって、死体を床に置いて立ち上った。
この男が、小野由紀子の誘拐に、関係しているのかどうかもまだ、判りはしない。二百万円を要求した犯人は、別の空別荘で、沢木の来るのを待っているかも知れないのだから。
沢木は、迷った。勿論、地元の警察へ届けるのが本筋だが、この死体が、誘拐事件と無関係の場合、本当の犯人を、いたずらに警戒させてしまわないだろうか。
沢木が、ベッドに腰を下して、死体を見下しながら腕を組んだ時、背後で、ドアの開く音がした。
沢木は、ぎょっとして振り向いた。
ドアのところに、男が立っていた。が、薄暗いので、顔が、はっきり見えない。
「誰だ」
と、こわばった声を出すと、
「私だ」
という聞き覚えのある声が戻ってきた。五十嵐刑事の声だった。
「ここに死体が」
と沢木がいうと、刑事は、ゆっくり近づいてきて、死体を見下した。
「仲間割れですね」
五十嵐刑事は、簡単に断定した。沢木は、一寸《ちよつと》、疑問になった。
「しかし、この男が、小野由紀子の誘拐に関係していたという証拠はありませんよ。第一ここに、彼女が監禁《かんきん》されていたかどうかもわからない」
「いや、小野さんが監禁されていたのは、この家です」
「何故、そうだと、断定できるんですか?」
「浴室へ行ってみれば、わかりますよ」
と、五十嵐刑事は、いった。
沢木は、寝室を出ると、居間を抜けて、隅にある浴室に入ってみた。最近まで、誰かが使っていたのか、浴槽は、汚れていない。
壁に、何か書いてあるのが、眼に入った。近づいてみると、赤い文字であった。口紅か何かで書いたものらしい。
〈ヌマヅ 由〉
とだけ、書いてあった。見覚えのある字だった。小野由紀子の筆跡だ。
沢木は、寝室に戻った。
「見ました」
と、沢木が、五十嵐刑事にいうと、刑事は、
「小野由紀子さんの字ですか?」
と、きいた。
「間違いありません。彼女の書いたものです、ヌマヅというのは、東海道線の沼津のことでしょうか?」
「恐らく、そうでしょう。小野さんは、自分が連れて行かれる場所を、我々に、書き残したんだと思いますね」
「軽井沢から沼津では、ずい分、離れていますが」
「車を使えば、たいした距離じゃありませんよ」
「犯人は、車を使っていると?」
「勿論です」
と、刑事は、いった。
「大の大人が誘拐されたんです。しかも、顔の知られたスターです。車で運ぶ以外に、どうやって運びます?」
「――――」
沢木は、ぼんやりと、うなずいていたが、心の何処《どこ》かに、何故か、納得できぬものが、残るのを感じた。
確かに、五十嵐刑事のいう通り、小野由紀子の顔は、たいていの人間が知っている。汽車で連れて歩いたら(それも、強制して)すぐ、人目につくだろう。だから、自家用車を使ったというのは、沢木にもわかるのだ。
(だが――)
それなら、何故、犯人は、上野駅や、中軽井沢駅の伝言板を連絡に使ったのだろうか。映画の真似だろうが、あの映画の場合は、誘拐した子供は、列車で運ばれたのだ。
「この男に――」
と、五十嵐刑事に声をかけられて沢木は自分の考えから、現実に引き戻された。
「この男に、見覚えは?」
「ありません」
「ファンとして、小野由紀子さんに会いに来たことも、ないというわけですか?」
「ええ、見覚えのない男です。何か、その男のことで、判ったのですか?」
「いや」
五十嵐刑事は、首を横に振った。
「持物は、一つもないし、上衣のネームも、引きちぎってあります。恐らく、犯人は、この男の身元がバレるのを恐れたんでしょうね」
「これから、どうしたら、いいでしょうか」
「貴方《あなた》は、ひとまず、東京へ帰って下さい」
「しかし、小野由紀子は、沼津へ連れて行かれたんでしょう。それを、東京に戻るのは」
「沼津といっても、広いですよ」
五十嵐刑事は、落着き払って、いった。
「沼津の何処かも、わからんでしょう。それに、貴方が、沼津の町をウロウロしたら、相手に警戒されるだけです。犯人は、仲間割れを起こして、一人が死んでいます。警戒心も、それだけ強くなっている筈《はず》です」
「私は、東京に戻って、何をすればいいんですか」
「犯人から、連絡のあるのを待って下さい」
「犯人が、もう一度、連絡してくると、思うのですか?」
「して来ますよ」
と、五十嵐刑事は、断定するように、いった。
「犯人は、二百万円を、まだ、手に入れていないのですからね」
第二の殺人
沢木は、東京に戻った。
五十嵐刑事も、二日後に、上野毛の家に、顔を見せた。
「貴方は、てっきり、沼津へ行かれたのかと思ってましたが」
と、沢木がいうと、五十嵐刑事は、
「沼津へ行っても、打つ手がありませんからね」
と、苦笑して見せた。
「待つより仕方がないのです」
「そうすると、彼女が、浴室の壁に書き残したことは、何の役にも立たなかったことになりますね」
「いや、役に立ちましたよ」
五十嵐刑事は、強い声を出した。
「少くとも、あれで、小野由紀子さんが、まだ生きていることが、わかりましたからね」
そうだと、沢木も思った。彼女は、まだ生きている。だが、無事に、連れ戻せるだろうか。
ふと、不吉なものが、沢木の胸をよぎった。二百万円を手に入れても、犯人は、自分の顔を覚えた小野由紀子を、おとなしく帰すだろうか、帰しはすまい。
沢木は、その不吉な想像から、逃がれるように、五十嵐刑事に、話しかけた。
「軽井沢で殺された男の身元は、わかったのですか?」
「指紋を照会《しようかい》して、名前だけは、わかりましたよ。前科があったのでね。井上照夫《いのうえてるお》という二十九歳の男です。名前に、聞き覚えは?」
「いや、ありません。何をしていた男ですか?」
「新宿のアカネというバーで働いていたようです。詳しいことは、今、調べていますから、そのうちにわかるでしょう」
「井上照夫――」
沢木は、その名前を、何度も、呟《つぶや》いてみた。が、どうしても記憶に浮かんで来なかった。
また、ただ、待つだけの毎日が始まった。
犯人は、仲間割れの結果、用心深くなったらしく、二日、三日と過ぎても、連絡は来なかった。
その間、警察は、中軽井沢の空別荘で殺されていた男の身元を、追っていた。その結果を、沢木は、五十嵐刑事から聞いた。
「井上照夫のことですが――」
と、五十嵐刑事は、沢木と一緒に、犯人からの連絡を待ちながら、話しかけた。
「以前は、池袋附近にたむろしていたチンピラだったことが、わかりました。その頃、窃盗や傷害事件を起こしています」
「その男の仲間のことは、わからないのですか?」
「大体のところは、わかっています」
五十嵐刑事は、手帳を取り出して、眼をやった。
「池袋時代の仲間が、三人います」
「その三人の名前は、わかっているのですか?」
「わかっています」
五十嵐刑事は、その三人の名前を、メモ用紙に書き写して、沢木に見せた。
木田五郎(二十八歳)
中尾与一(二十七歳)
渡辺雄吉(二十七歳)
メモ用紙には、そう書いてあった。
「この三人の名前に、聞き覚えはありませんか」
五十嵐刑事は、強い眼で、沢木を見た。
「小野由紀子さんが、何かの拍子に、この中の誰かの名前を、口にしたことは、ありませんでしたか?」
「彼女と、関係があった男たちと、警察は、考えているのですか?」
沢木は、やや嶮《けわ》しい眼になって、五十嵐刑事を見た。犯人と、小野由紀子が、前からの知り合いのように考えている刑事の様子が、気に喰《く》わなかったからである。
「断定しているわけではありません」
五十嵐刑事は、慎重ないい方をした。
「単に、女優としての小野由紀子さんを知っていて、スターなら、金になるだろうと考えて、誘拐したのかも知れませんからね」
「何故、そう考えないのですか」
「小野さんは、電話で、誘い出されています。単なるファンの電話に、仕事を放り出して出かけるでしょうか?」
「――――」
沢木は、黙ってしまった。確かに、刑事の言葉は当っている。
沢木は、別のことに、話題を移した。
「それで、この三人の行方は、調べているのですか?」
「勿論、調べています」
と、五十嵐刑事は、いった。
「しかし、三人とも、行方が知れません。ということは、死んだ井上照夫を含めて四人で、小野由紀子さんを誘拐し、逃げていると考えるのが、妥当のようです」
「そして、今、沼津にいる可能性が、あるわけでしょう」
「ええ。だから、三人の写真を、沼津の警察に送って、それとなく調べさせています」
五十嵐刑事が、そこまでいった時、若い刑事が、あわただしく居間に入ってきて、一通の手紙を差し出した。
「待っていたものが、来ましたよ」
一目で、問題の手紙とわかった。下手くそな字に、見覚えがあったからである。消印は、沼津だった。
五十嵐刑事が、封を開いた。中からは、便箋《びんせん》が一枚、そして左手で書いたらしく下手くそな字。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈この間は、ごたごたがあって失敗した。だが、二百万は、あきらめていない。
彼女を殺したくなければ、マネージャーが一人で、二百万円を持って沼津に来い。
十月十日に、沼津に来て、駅前の旭ホテルに泊ること。それから、次の指示を与える。
下手に動いたり、沼津の町を探し歩いたりしたら女を殺す〉
[#ここで字下げ終わり]
「あの映画は、どうなっていましたかね?」
五十嵐刑事が、沢木に、きく。沢木は、便箋《びんせん》の文字に眼をやりながら、
「映画は、別荘で終っています」
「すると、この手紙からあとは、犯人の創作ということになるのか――」
五十嵐刑事は、語尾を、ひとり言のようにいった。
「沼津には、私一人で行きます」
と、沢木は、いった。
「犯人は、一人でと、いって来ていますからね。それから、沼津の警察には、捜査を止めるように、いってくれませんか」
「内密に調査をするように、いってあるのですがね」
「私は、彼女の命が心配なのです。仲間を殺すような人間なら危くなれば、簡単に、彼女を殺します」
「よろしい。沼津の警察に連絡しましょう」
「それから、行く前に、さっきの三人の写真を見ておきたいのです」
「写真なら、ここにありますよ」
五十嵐刑事は、ポケットから、三枚の写真を取り出して、沢木の前に置いた。
三枚とも、あまり鮮明な写真ではなかった。だが、男たちの顔を覚えるには、充分に役に立ちそうだった。
沢木は、写真を、内ポケットに納めた。
十月十日の午後、沢木は、沼津に着いた。
沢木は、戦時中、一度だけ沼津に来たことがあった。が、二十何年ぶりに来てみると、その発展ぶりに驚かされた。
旭ホテルは、すぐわかった。五階建の大きなホテルだった。
沢木は、三階に部屋を取った。二百万円の入った鞄は、フロントに預けた。
宿帳には、ちゃんと本名を書いた。これで、万事、相手の指図通りに動いたわけである。あとは、犯人の出方を待つより仕方がない。
沢木は、夕食をとるために、食堂に降りた時、それとなく、食堂に集った泊り客の顔を見渡した。
季節外れのせいか、泊り客の数は少かった。その少い泊り客の中に、三人の男の顔を発見することは、できなかった。
(犯人は、このホテルに、来ていないのだろうか?)
それが、当然のことのようにも、不自然のようにも思えた。
夕食をすませると、沢木は、自分の部屋に戻って、沼津周辺の地図を広げた。
小野由紀子は、沼津市内の何処かに、監禁《かんきん》されているのだろうか。犯人が、沼津を指定し、軽井沢で、彼女が、「ヌマヅ」と口紅で書き残したことから考えて、その可能性は強い。
だが、沼津からは、伊豆《いず》の西海岸の港に、船が通っているし、海岸に沿って、道路も走っている。金を受け取る人間だけが、沼津へ残っていて、小野由紀子は、西伊豆の何処かに運ばれている可能性もあるのだ。
(どちらの可能性が強いだろうか?)
考えたが、判断がつかなかった。
その日は、犯人から、何の連絡もないままに、終った。
翌日、沢木は、電話の音に、眼を覚ました。部屋の中は、もう明るかった。枕元《まくらもと》の時計は、十時に近い。
(犯人からだろうか)
沢木は、手を伸ばして、受話器を、わし掴《づか》みにした。が、耳に聞こえたのは、間伸びした男の声だった。
「こちらは、フロントですが」
と、男の声だった。
「沢木さまですね?」
「そうだが」
「貴方《あなた》さまに、お手紙が来ております」
「手紙? すぐ行く」
沢木は、受話器を置くと、手早く服を着て、部屋を飛び出した。階段を駈《か》け降りて、フロントに行くと、
「これで、ございます」
と、一通の封書を、手渡された。前の二通と同じ白封筒だが、「旭ホテル、沢木様」と書かれた文字は、違っていた。
(小野由紀子の字だ)
と、思った。
封筒には、消印がない。
「これを、誰が?」
と、きくと、フロントの男は、
「子供です」
と、いった。
「子供が持って来て、置いて行ったのです」
「その子供は」
「もう帰りましたよ」
「何処の、何という子供かわからないかね?」
「さあ」
と、フロントの男は、首をひねってしまった。
「五歳ぐらいの男の子でしたがね。一寸《ちよつと》、わかりませんね」
「それならいい」
沢木は、あきらめて、封筒を開いた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
〈私は、無事です。
でも、お金が手に入らないと、私を殺すといっています。だから、二百万円を、渡してやって下さい。
警察には、絶対に知らせないで。私が殺されてしまいます。今夜、十時に、二百万円を持って、岸壁に来て下さい。
私を助けて〉
[#ここで字下げ終わり]
間違いなく、小野由紀子の筆跡であった。沢木は、封筒をポケットに入れて、部屋に戻ったが、どうすべきかに、迷った。
手紙には、警察に知らせないでくれと、書いてある。だが、そうした方が、彼女を助けることになるだろうか。かえって、犯人たちの思う壺にはまることではないのか。
夜の十時なら、今から東京に電話をかけて、五十嵐刑事を呼ぶことも出来る。冷静に考えれば、そうするのが、一番正しい方法だろう。
沢木は、テーブルの上の電話に、手を伸ばしかけて、途中で止めてしまった。どうしても、手紙の文句に、引っかかってしまうのだ。警察は、上手く立ち廻ってくれるだろうが、やはり万一ということがある。捜査一課の刑事が、沼津に来たことがわかれば、小野由紀子は、殺されるだろう。
沢木は、電話を掛けることを、断念した。
沢木は、九時過ぎに部屋を出た。万一のことを考え、手紙とホテルに来てからのことを書いたメモを、電話の下に挟んで置いた。自分が殺されることがあっても、警察が、これを見つけてくれるだろう。
ホテルの前で、車を拾った。
車が、市の中心地を離れると、急に、周囲が暗くなった。戦後、発展したといっても、やはり、東京に比べれば、はるかに小さな町だった。
二十分ほど走って、車が止った。近くに、松林が見え、波の音が聞こえた。
「待ちましょうか?」
と、運転手がいうのへ、沢木は、首を横にふって見せた。
車が走り去ってしまうと、沢木は暗闇《くらやみ》の中に、ぽつんと一人取り残された。
まばらに人家があるのだが、どの家も、もう明りを消してしまっていた。
沢木は、金の入った鞄を、しっかりと抱えて、波の音のする方に向って、歩き出した。
風が強かった。大きな倉庫を廻って、岸壁に出ると、身体が飛ばされそうな風だった。
船の姿も、人影もなかった。
(本当に、犯人は、現われるのか?)
沢木がすかすようにして、周囲を見廻した時、倉庫のかげから、人影が現われた。男のようだった。ゆっくりと近づいて来て、沢木の前で止った。
痩《や》せた、背の高い男だった。その顔に、沢木は、見覚えがあった。あの写真の中の一人だ。名前は、確か、木田五郎――
「沢木さんかね?」
と、男がいった。
「そうだ」
「金は、持って来たろうね」
「その前に、彼女は、無事かどうかききたい」
「ぴんぴんしてるさ」
男は――木田五郎は、にやっと笑った。
「金を渡して貰おうか」
「彼女と引きかえにして欲しい」
「金を渡せば、彼女は、ちゃんと帰すよ」
「信用できるという証拠は?」
「俺たちを、信用すればいいのさ」
「金は、彼女と引きかえだ」
沢木は、相手を睨《にら》みつけるようにして、いった。が、その瞬間、不覚にも、相手が一人でないことを、忘れてしまった。
いきなり、後から、殴りつけられた。
眼の前が暗くなり、沢木の身体は、ゆっくりと前へ崩れ折れた。
気絶していた時間の、正確な記憶はない。
眼を開いた時、沢木に見えたのは、白い天井と、自分を見下している幾つかの顔だった。その中に、五十嵐刑事の顔もあった。
「気がついたようですね?」
刑事が、いった。
「此処《ここ》は?」
「沼津市内の病院です。私は、十時頃、沼津に着いたんだが、旭ホテルで、貴方《あなた》のメモを見たのです。それで、岸壁へ行ってみたら、貴方が倒れていたのです」
「不覚でした」
「相手を見ましたか?」
「ええ。一人は。そいつと話しているうちに、もう一人に、後から殴られたんです」
「貴方に喋《しやべ》った人間は、あの三人のうちの一人でしたか?」
「ええ。確か、木田五郎という男です。間違いありません」
「その木田とは、どんな話を?」
「どうも、こうもありません」
沢木は、眉《まゆ》をしかめて見せた。
「彼女は、無事だから安心しろとか、金と引きかえにとか押問答をしているうちに、いきなり殴られたんですから。捜査のヒントになるようなことは、一つも、聞けませんでした」
「失敗でしたな」
五十嵐刑事は、難しい顔で、いった。
「あの手紙を受け取ったとき、我々に、知らせて下さるべきでしたね」
「わかっています」
と、沢木は、いった。
「一度は、貴方に電話することを考えたんです。しかし、彼女が殺されたらと、それが不安で、とうとう連絡できなかったのです」
「お気持は、わかりますが、失敗は失敗です」
五十嵐刑事は、冷酷ないい方をした。
「これで、いよいよ、小野由紀子さんが、危険になりましたね」
「彼女を殺すというのですか?」
「犯人は、二百万の金を手に入れました。あとは、足手まといの彼女を殺すだけですからね」
「しかし――」
「貴方はまさか、金を渡せば、大人しく相手が、彼女を帰すと思っているわけではないでしょうね?」
五十嵐刑事は、皮肉な眼付きになって、沢木を見下した。沢木は顔を赧《あか》くした。
「それは、そうですが、相手が、味をしめて、もう一度、金を要求してくることも、考えられると思いますが――」
「考えられなくはありませんが」
五十嵐刑事は、冷たい口調で、いった。
「可能性は、殆《ほとん》どないでしょうね。二度も危険を冒すほど、馬鹿とは思えませんからね」
「これから、どうするのです?」
「公開捜査に踏み切ります」
「公開捜査?」
沢木は、思わず、ベッドの上に、起き上ってしまった。
「そんなことをしたら、彼女に、死刑の宣告をするようなものです」
「金を渡した瞬間から、死刑の宣告は、下されているのですよ」
と、刑事は、いった。
「小野由紀子誘拐さる」の記事が出たのは、翌日の夕刊だった。
沢木が、暗い顔で、その記事を読んでいると、病室のドアが開いて、五十嵐刑事が、入ってきた。
「歩けますか?」
と、刑事は、入ってくるなり、いった。
沢木は、うなずいて見せた。
「じゃあ、私と一緒に来て下さい」
と、五十嵐刑事がいう。
「貴方に、見て頂きたいものがあるのです」
「何ですか?」
「死体です」
「死体?」
一瞬、沢木の顔が、蒼白《そうはく》になった。
「まさか。まさか、小野由紀子が、殺されたんじゃないでしょうね?」
「違います」
「――――」
沢木は、ほっとして、ベッドをおりた。支度をして、外へ出ると、病院の前に、沼津市警のジープが待っていた。
二人が乗ると、ジープは、夕闇《ゆうやみ》の立ち始めた街中を、南に向って、走り出した。
「死体は、男です」
五十嵐刑事は、走るジープの中で、説明した。
「一時間ほど前、水死体が発見されたのです。殴られてから、水に落された形跡があるのです」
「今度の事件に、関係のある男ですか?」
「そうです。木田五郎です」
「木田五郎が――」
「ですから、貴方にも、念のために、死体を見て頂きたいのです」
ジープは、岸壁の近くで止った。岸壁の隅に小さな人垣が出来ていた。そこだけが、明るく照明されていた。
沢木は、五十嵐刑事の後について、その人垣の中に入った。
死体には、すでに、ムシロが、かぶせてあった。五十嵐刑事が、そのムシロを上にあげて、沢木を見た。
蒼白《あおじろ》く濡《ぬ》れた男の顔が、そこにあった。
「間違いありません」
と、沢木は、こわばった声で、いった。
「私が昨日会ったのは、この男です」
第三の殺人
今度も、犯人の仲間割れが、起きたのだろうか。
「他に、考えようはありませんね」
と、五十嵐刑事は、沢木に向っていった。
「ある意味では、いい傾向です」
「と、いうのは?」
「犯人が、自滅する可能性があるからです」
「小野由紀子はどうなるんです?」
「これは、私の個人的意見ですが――」
五十嵐刑事は、相変らず、慎重ないい方をした。
「彼等の仲間割れの原因は、金の他に、小野由紀子さんにあるのかも知れません」
「――――」
「軽井沢では、まだ、金が手に入らないのに、仲間割れを起こしています。あの場合は、彼女以外に、一寸《ちよつと》、理由が考えられません」
「彼女を、自分のものにしようとしてですか?」
「そうです。彼等にしてみれば、高嶺《たかね》の花だったスターが、自分の傍らにいるわけですからね。ですから、この想像が当っていれば、彼女は、まだ無事だと思います。それに、彼女が、上手《うま》く立ち廻ってくれれば、無事に助け出せるチャンスもあります」
「――――」
沢木の頭に、ふと、映画の一シーンが浮び上ってきた。よくあるシーンだった。美しい女が、悪者に捕まる。悪人たちは、その女を独占しようとして仲間割れを起こし、一人一人死んでゆくのだ。そして、最後は、美女は救われて、ハッピーエンドになる。だが、それは、映画の上のことだ。現実の事件ではそんな風に、上手《うま》くは、いくまい。
「彼女を助け出せる自信は、あるのですか?」
と、沢木は、五十嵐刑事に、噛《か》みついた。
「警察は、どんな調査を進めているんです?」
「全力を尽くしています」
五十嵐刑事は、静かな調子で、いった。
「その結果に期待して頂くより仕方がありませんね」
「具体的に、どんな調査を?」
「沼津周辺に、非常線が張られています」
「しかし、奴等《やつら》はもう、沼津にいないかも知れませんよ。いやいない可能性の方が強い」
「勿論、その方の手配もしてあります。沼津から、彼等が行く可能性のある場所の調査もです」
「沼津にいないとしたら、何処に行ったと思うんです?」
「恐らく――」
と、五十嵐刑事は、沢木の顔を見て、いった。
「伊豆《いず》でしょう」
五十嵐刑事の推測が当っていたことが、三日後の十月十五日になって、判明した。
伊豆の西海岸で、男の死体が発見されたという報告が、沼津市警に入ったからである。
場所は、波勝崎《はがちざき》の近くで、中尾与一らしいという。
波勝は、伊豆半島の先端に近い景勝の地である。
沢木は、五十嵐刑事と一緒に、沼津市警のジープに乗せて貰って、現場に急行した。
西海岸の道は、整備が悪く、狭い。現場に着いた時には、沢木は、ゆられすぎて、身体が痛くなっていた。
波勝崎近くは、断崖《だんがい》が続き、「波勝の赤壁」の名前がある。岩肌が、赤褐色だからである。美しい景色だが、死体があったとなると、この景色も、妙に、暗く見えた。
死体は、断崖の上に、引き揚げられていた。地元の巡査が、五十嵐刑事たちを迎えて、死体が発見された時の事情を説明した。
発見者は、地元の漁師で、断崖の下に、転がっていたという。
沢木は、五十嵐刑事の横から、死体を覗《のぞ》き込んだ。確かに、写真で見た中尾与一に違いなかった。顔が傷だらけのところを見ると、崖の上から、突き落されたのかも知れない。
「これで、残ったのは渡辺雄吉一人か」
五十嵐刑事が、ぼそっとした声で、いった。
「その男が、彼女と、二百万の金を、独り占めにしたわけですね」
沢木が、横からいった。
「そして、その男は、この伊豆半島にいる」
「そうだと、いいですがね」
五十嵐刑事は、考える顔で、いった。
第四の殺人
沢木たちが、波勝崎で、中尾与一の死体を調べ終り、ジープに乗り込んだ時、地元の巡査が、あたふたと駈《か》けてきて、五十嵐刑事を呼び止めた。
「駐在所に、沼津から、電話が、掛かっておりますが」
と、告げた。
五十嵐刑事は、ジープを降りて、巡査を追って行った。十分ほどして戻ってきたが、その顔は、ひどく緊張していた。
「伊豆スカイラインコースというのが、あるそうですね?」
五十嵐刑事は、せかせかした口調で、沼津市警の巡査に、きいた。相手は、うなずいた。
「天城山《あまぎさん》、大宮山《おおみやさん》を通って、熱海《あたみ》峠から、箱根へ抜ける有料道路ですが、それが、どうかしたのですか?」
「渡辺雄吉と、小野由紀子を乗せた車が、そのコースを通ったというのです」
「本当ですか?」
沼津市警の巡査が眼をむき、沢木も、思わず、嶮《けわ》しい眼を、五十嵐刑事に向けた。
「本当です。車は、下田の方向から、途中のインターチェンジに入り、熱海方面に向かったということです」
「行ってみましょう!」
沼津市警の巡査が、甲高い声で、いった。
ジープは、猛烈な勢いで、走り出した。
ジープは、湯が島に出て、そこから、インターチェンジに向った。
そこで、車を止めると、五十嵐刑事が、係員に、声をかけた。
「警察に電話して下さったのは?」
「僕です」
と、若い係員は、紅潮した顔で、うなずいて見せた。
「二人を見たのですね?」
「ええ。最初は、誰だか、わかりませんでした。二人とも、サングラスをかけていましたからね」
「気がついたのは?」
「これです」
「係員は、料金箱の横に、一枚だけ別にしてあった千円札を、手にとって、五十嵐刑事に渡した。
「料金は、女の人が払ったんですが、その千円札を、何気なく見たら、そこに、字が書いてあって――」
五十嵐刑事は、その千円札を、沢木に見せた。
千円札の裏に、エンピツで、次の言葉が、走り書きしてあった。
〈助けてください。小野由紀子〉
「彼女の筆跡ですか?」
「間違いありません」
沢木が、うなずいて見せると、五十嵐刑事は、係員に視線を戻して、
「この文字を見つけて、警察に、電話してくれたのですね?」
「ええ。それから、この先のインターチェンジにも、電話しました。車の型式や、二人の様子をいって、もし通ったら、連絡してくれと、電話したんです」
「それで?」
「まだ、連絡がありません」
「ない」
五十嵐刑事は、首をかしげた。
「ここを、二人が通ったのは、どの位前ですか?」
「もう、五、六時間前になります」
「それなのに、次のインターチェンジから、連絡がないのは、おかしくありませんか?」
「ええ。おかしいと思いました。普通に走れば、四十分くらいで、次のインターチェンジに着く筈《はず》ですから、それで、ついさっき、もう一度、電話してみたんですが、まだ、そんな車は、通らないと、いうんです」
「見落すということは、考えられませんか?」
「そんなことは、ないと思いますが――」
係員が、いった時、近くで、電話が鳴った。青年は、受話器をつかんだ。
「え? 車が――?」
係員は、甲高い声をあげた。受話器を置いて、五十嵐刑事や沢木の方を向いた係員の顔は、興奮していた。
「天城の先で、車が見つかったそうです。崖から落ちて、めちゃめちゃだそうです」
「それで、乗っていた二人は?」
沢木が、急《せ》き込んで、口を挟んだ。係員は、首をふった。
「乗っていた人のことは、いってませんでした」
「とにかく、行ってみましょう」
五十嵐刑事が、いった。
ジープは、有料道路を、八十キロ近いスピードで、天城山に向った。
天城|連峯《れんぽう》の尾根を走るスカイラインコースは、左右に、素晴しい展望が開ける。が、沢木には、その風景を楽しむ余裕はなかった。五十嵐刑事にしても、同じ気持だったに違いない。
「あそこらしい」
と、五十嵐刑事が、ふいに、前方を指差して、いった。
車が、四台ほど、一か所に集っていた。小さな人垣も出来ている。
ジープが、そばに寄って止まると、沢木は、五十嵐刑事に続いて、飛び降りた。
十メートル近い崖下《がけした》に、めちゃめちゃにこわれた車が、転がっていた。まだ、くすぶっている。
「乗っていた人間は?」
五十嵐刑事は、そこにいた人々の顔を、見廻した。
「誰か知りませんか?」
「病院に運んで行きましたよ」
と、小型トラックのそばにいた、ジャンパー姿の男が、いった。
「あの女の人、女優の小野由紀子じゃなかったかしら――」
若い女が、ひとり言みたいにいい、誰かが「そうだ、小野由紀子だ」と、大きな声で、いった。
「それで――」
と、五十嵐刑事は、もう一度、人々の顔を見廻した。
「二人の様子はどうでした?」
「男は、もう駄目だったんじゃないかな」
一人が、いった。
「医者が、首をふってたから」
「女の方は、どうでした?」
沢木が、相手の眼を見て、きいた。
「女の方は、助かりそうですよ」
と、相手がいう。
「担架で運ばれるとき、元気に喋《しやべ》ってましたからね」
「運ばれた病院は、どこか、わかりませんか?」
「伊東の病院へ運ぶとか、いってましたがね」
その言葉で、沢木たちは、また、ジープに乗った。現場には巡査を一人だけ置いて、ジープは、伊東に向った。
伊東に着いた時、すでに夕暮に近かった。
救急病院は、すぐわかった。ジープを横付けにすると、五十嵐刑事と沢木は、大股《おおまた》に、病院に入った。
五十嵐刑事が、受付に、警察手帳を見せると、すぐ、医者を呼んでくれた。初老に近い年齢の医者である。
「二人は?」
と、五十嵐刑事がきくと、医者は、冷静な口調で、
「男は、死にました」
と、いった。
「発見された時、すでに死んでいたといってもいいでしょう」
「女は?」
「女の方は、助かります。左腕を骨折していますが、全治一か月といったところですかね。ただ、非常に興奮しているので、鎮静剤を与えて、今は、眠っています」
「病室は?」
と、沢木がきいた。
「二階の二一号室ですが、今いったように、眠っていますから――」
「だが、一寸、顔を見たいだけです」
沢木は、いった。五十嵐刑事は、医者に、
「私は、死んだ男の方を、見せて頂きましょうか」
と、いった。
病室に、明りはついていなかった。沢木は、薄暗いベッドの上に、眠っている小野由紀子を見た。
久しぶりに見る由紀子の顔は、心労のためか、続いた恐怖のためか、頬《ほお》がこけて、別人のように見えた。
毛布の外に出ている左手は、部厚くホウタイが巻かれている。
(こんな彼女を見るのは、初めてだな)
と、思った。いつもは、傲慢《ごうまん》に近い、スターとしての小野由紀子しか見ていない。スターでない時の彼女が、どんな顔をしているのか、見たこともないし、また、知りたいと思ったこともなかった。
それが、今、小野由紀子は、化粧が落ちた、疲れ切った、一人の女の顔で、眠っている。
(本当の彼女は、一体、どんな女なのだろうか?)
ふと、そんなことを、沢木は考えた。彼女が助け出されて、ほっとしたせいかも知れない。それとも、今の沢木は、マネージャーとしての眼ではなしに、小野由紀子を見ているせいだろうか。
病室のドアが開いて、五十嵐刑事が、入ってきた。
「どうです?」
と、横に立ってきく。
「まだ、眠っています。男の方は、どうでした? やはり、渡辺雄吉でした?」
「ええ」
と、五十嵐刑事は、うなずいた。
「渡辺雄吉です。顔が、焼けただれていましたが、彼は、間違いありません」
「焼けただれて?」
「そうです」
「しかし、彼女の方は、ヤケドをしていませんが?」
「それは、こういうことだと思うのです。車が、崖《がけ》から転がり落ちた時、助手席にいた小野由紀子さんは、飛び出したので、左腕骨折ですんだ。だが、渡辺雄吉の方は、最後までハンドルにしがみついていたので、死んだ」
「何故、そんなことを?」
「恐らく、二百万のためでしょうな」
五十嵐刑事が、苦笑した。
「医者の話では、二人の所持品はなかったということですから、二百万は、車と一緒に燃えてしまったのだと思います」
「二百万円が灰に?」
「小野由紀子さんぐらいのスターなら、すぐ、また、稼ぎ出せるでしょう」
五十嵐刑事は、軽い皮肉をこめて、いった。
「刑事の私には、逆立ちしても、無理な大金ですがね」
「――――」
沢木は、黙って、小野由紀子に、眼を向けた。
これで、ともかく終ったのだと思った。四人目の男が死んで誘拐事件は、終ったのだと――
過去を追う
事件は終った。と思ったが、マスコミにとっては、それから事件が始まったのだといってもよかった。
翌日になると、伊東の病院に、新聞、週刊誌の記者を始め、テレビの報道陣までが、大挙して、押しかけてきた。
有名スターの誘拐事件なのだ。マスコミが放っておく筈《はず》はないと沢木にもわかってはいたが、それでも、凄《すさ》まじい取材ぶりに、沢木はうんざりした。
小野由紀子は、ベッドの上で応対したのだが、女優であったせいか、割に落ちついて、誘拐されてからの経過を話した。
あの四人は、全然、知らない男で、向うは、彼女の主演した映画「殺さないで」を見て、誘拐を企んだ。
事件の朝、若い男から電話が掛かってきて、池袋に住む母が、交通事故を起こしたので、すぐ病院へ来てくれといった。あわてて、家を飛び出すと、路地に止っていた車から、急に二人の男が降りて来て、彼女の腕を取って、車に押し込んだ。
その車に、四人の男がいた。それから、中軽井沢の空別荘へ連れていかれた。
そこで、四人の計画を知ったのだが、彼女のことで仲間割れして、一人が、殺されてしまった。
彼女は、軽井沢から、沼津へ移された。軽井沢の空別荘を出る時、スキを見て、浴室の壁に、口紅で、「ヌマヅ」と書いた。
沼津では、市外の空家に閉じこめられていた。そこで、旭ホテルの沢木宛に手紙を書かされた。一人が、彼女の監視に残り、他の二人が、金を受け取るために、岸壁に行ったが、帰ってきた時は、一人だった。もう一人は、足をふみ滑らせて、海に落ちたと、帰ってきた男が、いったが、由紀子は、信用しなかった。二百万の分け前のことで、殺したのだと思った。
彼女の監視のために、空家に残っていた男も、彼女と同じように考えたらしい。残った二人の男、渡辺雄吉と、中尾与一の間に、険悪な空気が生れた。
その空気が、伊豆へ逃げる途中で、爆発し、渡辺雄吉は、中尾与一を、波勝の近くで、崖から、突き落して、殺した。
残った渡辺雄吉は、東京に舞い戻ろうと、彼女を連れて、伊豆スカイラインへ入った。由紀子は、千円札の裏に「助けて」と書いて、インターチェンジで渡した。
そのことが、途中で、渡辺雄吉に、わかってしまった。渡辺は、危険を感じたとみえて、スピードを上げた。そして、ガードレールを飛び越えて、崖下に転落した。
由紀子は、夢中で飛び出したが、渡辺は、車を燃やしては、二百万が灰になることを心配したのか、最後まで、ハンドルを放さなかった。
小野由紀子が話したのは、大体、そんなことだった。
新聞も、週刊誌も「スター誘拐事件」として、大々的に、扱った。女性週刊誌の中には、彼女が、誘拐されている間、果して、身体を奪われたかどうかと、そればかりを、しつこくきく記者もあったが、由紀子は、その質問には、返事をしなかった。
S映画では、早速、彼女を主役に、この誘拐事件を、映画化すると発表した。
彼女はスターだったが、この事件で、人気が倍増した感じだった。二百万の金も、宣伝費と考えれば、失っても、惜しくはないかも知れない。
事件から、半月ほどたって、凄《すさ》まじいマスコミ攻勢も一段落して、沢木の周囲も、静かになった。
沢木は、そんな時、伊東の病院で見た、小野由紀子の顔を思い出した。スターでない、素顔の彼女を、知りたいと思った。
沢木は、彼女が、スターになってから、マネージャーになった。だから、スターになる前の彼女は知らなかったし、彼女も過去を話したがらなかった。
沢木が、知っているのは、簡単な彼女の略歴だけである。
昭和十一年十月六日生れ
池袋第三高校卒業
昭和三十年S映画入社
こんなところである。長い大部屋生活があったことは知っているが、その他のことは、殆《ほとん》ど、知らなかった。
小野由紀子が退院して、東京の自宅に戻り、沢木も、東京に帰った時、彼女の知らなかった部分を、急に知りたくなった。
沢木は、池袋第三高校を訪ねてみた。
小野由紀子は、いまや、この学校の「誇らしき卒業生」であるらしい。校長は、にこにこと笑いながら、沢木を迎えてくれた。
「学校時代から、花形でしたよ」
と、校長は、いった。
「男子生徒の憧《あこが》れの的でしたな」
沢木にも、わかる気がする。彼の高校時代にも、そんな女生徒がいたものだった。
校長は、卒業生のアルバムを取り出してきて、沢木に見せた。
小野由紀子の顔は、すぐわかった。やはり、目立つ顔立ちをしている。
写真の横に、一人一人名前が書いてある。彼女のところには「小野由木子」とあった。
沢木は、妙な気がした。芸能欄には、「小野由紀子。本名も同じ」と書かれているからである。彼女自身も、沢木に、本名を、そのまま芸名にしたといっていたのだ。
確かに、本名も同じだが、「紀」が「木」になっている。
「この木の字は、これで、いいんですか?」
沢木がきくと、校長は、うなずいた。
「確かに、それでいいんですよ。そういえば、今の芸名は、紀になっていましたね。あの字の方が、スターらしいですね」
「――――」
沢木の頭に、別な考えが浮かんでいた。
上野と、中軽井沢の伝言板にあった文字のことである。
あれには、確か、「由紀子」ではなく、「由木子」とあった。
あれは、犯人が、偶然、間違えたのだろうか?
それとも――
学校を出てからも、同じ疑問が、沢木を捕えて放さなかった。
由紀子を、由木子と間違えて書くことは、あり得るかも知れない。だが、問題は、書き違えた理由である。何気なく書き違えたのなら、問題はない。だが、彼女の本名を知っていて、書き違えたのだとしたら――
犯人は、彼女と親しかったことにならないか。芸能欄には、「本名も同じ」としか書いてないのだから、由木子と知っているのは、余程、親しいと思わなければならない。
(もし、犯人が、彼女と親しい関係にあったとしたら)
明らかに、彼女は、嘘をついたことになる。犯人たちには、初めて会ったと、いったのだから。
沢木は、足を止めて、周囲を見廻した。陽が落ちて、ネオンが輝き始めていた。沢木は、犯人の一人、井上照夫が、新宿のバーで働いていたことを思い出した。店の名前は、確か「アカネ」だった。
沢木は、タクシーをとめて、新宿に走らせた。
バー「アカネ」は、三越の裏にあった。中に入って、沢木が井上照夫の名前をいうと、暇を持て余していたらしいホステスが三人ほど、彼のまわりに寄ってきた。あの事件のことが、ここでも話題になっていたからだろう。
「井上照夫のことを、詳しく話して貰《もら》いたいのだ」
と、沢木は、いった。
「前から、小野由紀子のことを、何かいっていたかね」
「そうねえ」
二人のホステスが思案顔になったが、他の一人が、
「あたしは、一寸《ちよつと》、聞いたことがあるわ」
と、いった。沢木は、そのホステスに視線を向けた。
「聞いたというのは、何を?」
「小野由紀子のことよ。あたしが、ファンだって、いったら、会わせてやろうかって。スターになる前の彼女を、知ってるような口ぶりだったわ」
「それだけ?」
「ええ」
その店で、聞き出せたのは、それだけだった。
沢木は、外へ出た。が、疑問は深まりこそすれ、消えてはくれなかった。
井上照夫が、スターになる前の小野由紀子を知っていたとしたら、他の三人も、同じだったのではあるまいか。あの四人はチンピラ時代から、仲間だったというのだから。
沢木は、二人目の木田五郎のことを、調べたくなった。
沢木は、翌日、警視庁に、五十嵐刑事を訪ねて、木田五郎や中尾与一たちの経歴をきいた。
五十嵐刑事は、手帳にメモしたものを、見せてくれてから、
「何故《なぜ》、そんなことを調べるんですか?」
と、妙な顔で、きいた。
「あの事件は、もう、終ったのですよ」
「それは、そうですが――」
沢木は、あいまいに、誤魔化した。
「映画化するのに、資料になると思いましてね」
木田五郎は、渋谷のトルコ風呂《ぶろ》で、支配人をしていたという。沢木は、太陽トルコというその店を訪れてみた。
木田と親しかったという、二十五、六のトルコ嬢が、沢木に会ってくれた。
「木田が、スターになる前の小野由紀子を知っていたなんて話聞いたことがないわ」
と、女は、眼を丸くして、いった。
「それ、本当なの?」
「いや、噂《うわさ》を聞いたんで、聞きに来たのさ」
沢木は、あわてて、いった。
「聞いてなければ、それで、いいんだ」
「でも、誘拐なんて、大それたことをやったものね。死んだからいうわけじゃないけど、あんな大悪党とは思ってなかったわ。小悪党だとは、思ってたけど」
「小野由紀子を誘拐するという話を、木田から聞いたことは?」
「ないわ」
「彼とは、親しかったんじゃないの?」
「そりゃあね。一緒に暮したこともあるわ。だけど、誘拐の話なんて、全然――」
「金儲《かねもう》けの話は? 近く、大金が入るというような話をしたことは、なかった」
「金儲けねえ――一度だけ、そんな話をしたことがあったわ。もう、二か月近く前のことだけど」
「二か月前?」
「ええ」
「それで?」
「あたしを、儲かったからって、北海道へ連れてってくれたわ」
「儲かった? それじゃ、今度のことじゃないんだな」
「そうよ。二、三日いなくなったかと思ってたら、得意気な顔で帰ってきて、あたしに、札束を見せてね。世の中なんか甘いもんだなんて、いってたわ。話の様子じゃ、誰かを脅かして、巻き上げたらしいけど」
「誰を?」
「わかんないわ。教えてくれなかったもの」
「二か月前か――」
沢木の頭に、ふと、ある記憶が浮かび上ってきた。
小野由紀子が、以前に、失踪《しつそう》した時のことだった。あの時、彼女は、二、三日して、ケロリとした顔で現われて、友達の家にいたのだといった。あれは、確か、今から、二か月ほど前だった。
それに、同じ頃、百万円の金が、預金通帳から、下されている。
(これは、偶然の一致なのか?)
中尾与一と、渡辺雄吉は、事件当時、定職を持っていなかった。
だが、渡辺雄吉の方は、バーに勤める女と、同棲《どうせい》していた。
沢木は、山下サチ子というその女を、郊外のアパートに訪ねてみた。
背の高い、きつい顔をした女だった。
最初は、「何も話すことなんかないわ」と、ぴしゃりと、ドアを閉められてしまった。
が、二度、三度と、ドアをノックすると、渋々、部屋に入れてくれた。
「死んだ渡辺雄吉のことで、ききたいことがあってね」
と、沢木は、いった。
「よかったら、話して欲しい」
「渡辺の何を知りたいの?」
山下サチ子は、怒った声できいた。
「あたしと渡辺の関係?」
「そのことなら、知っている。私の知りたいのは、渡辺と、小野由紀子の関係だ。彼は、前から、彼女のことを、知っていたんだろうか?」
「それをきいて、どうするの?」
「どうするって――」
「ただ、きくだけなら、答えたくないわ」
「それは、何の意味だね?」
「面白半分の質問には、答えたくないってことよ」
「私は、別に、面白半分に、きいてるわけじゃない。それなら、わざわざこんなところまで、君に会いには来ない」
「信じられないわ」
「信じて欲しいね」
「それなら、あたしのいうことを、信じてくれるの?」
「何を?」
「あたしが、渡辺は、小野由紀子を誘拐したりなんかしないといったら、それを、信じる?」
「――――」
「やっぱりね。だから、あたしは、誰にも、話したくないのよ」
「信じるといったら、話してくれるのか?」
「本当に、信じてくれるのなら」
「正直にいう。いきなり、渡辺は誘拐したんじゃないといわれても、信じられない。だが、信じられるだけの証拠があれば、君の言葉を信じる」
山下サチ子は、暫《しばら》くの間、黙って、沢木を見つめていたが、「いいわ」と、ふいに、いった。
沢木を信用したというより、誰かに話したいことが、心の底にあったからだろう。
「今もいったように渡辺は、小野由紀子を、誘拐したりなんかしないわ」
「しかし、事実は、誘拐している」
「だから、あれは、何か、カラクリがあるのよ」
「君は、何故《なぜ》、誘拐じゃないと思うんだ?」
「その必要がないからよ」
「必要がない?」
「そうよ」
「意味がわからんね。金には困ってた筈《はず》だろう? 仕事がなかったんだから」
「でも、金が入る手づるはあったのよ」
「どんな?」
「小野由紀子よ」
「じゃあ、やはり、誘拐したんじゃないか」
「違うわ。誘拐みたいな危険なことをしなくても、金は、手に入ったのよ」
「小野由紀子を、脅迫するのか?」
「何故、知ってるの?」
「当て推量で、いっただけさ。本当に、彼女を脅迫したのか?」
「そうよ。現に、渡辺は、小野由紀子から、二か月前に、大金を巻きあげてるのよ。井上や、木田なんかと一緒に」
「巻きあげた金は、百万?」
「ええ、どうして、知ってるの?」
「私は、小野由紀子のマネージャーだからね」
「それなら、今度の事件に、何かカラクリがありそうなことくらい、わかりそうなもんじゃないの」
「さあね」
「いいこと」
山下サチ子は、膝《ひざ》を乗り出した。
彼女が、熱心になればなるほど、沢木の心は、暗く、重くなっていった。
だが、ここまで来て、引き返すことも出来なかった。
「いいこと――」
サチ子は、同じ言葉を繰りかえした。
「渡辺や、木田たちにとって、小野由紀子は、金の生る木だったのよ。ゆすれば、相手はいくらでも、金を出すっていってたわ。それなのに、何故、誘拐したりする必要があるの。そんなことをしたら警察に追われるだけじゃないの」
「小野由紀子は、何故、渡辺や木田たちに、金をやらなければならなかったんだ? どんな弱味を握られていたんだ」
「昔のことよ」
「昔というと?」
「渡辺たちが、池袋で与太っていた頃、小野由紀子も、仲間に入っていたのよ」
「本当か?」
「渡辺は、そういってたわ。グループの女王みたいな存在だったそうよ。一緒に、窃盗みたいなことや、ゆすりめいたこともしたそうよ」
「それが、脅迫のタネか?」
「そうよ」
と、山下サチ子は、いった。
「その頃の彼女は、まだ、スターの小野由紀子じゃなくて、ズベ公の小野由木子だったらしいけど」
暗い結末
小野由紀子は、あの事件以来、人気も高まり、一層、スターらしい貫禄がついたように見える。
問題の映画がクランク・インした日、彼女は、一通の手紙を受け取った。沢木は、その手紙を読む彼女の顔が、青ざめていくのを見た。
「一寸《ちよつと》、出かけてくるわ」
小野由紀子は、青ざめた顔のまま、沢木を見た。
「先生には、上手《うま》くいっといて頂戴」
「ええ」
とだけ、沢木は、いった。
小野由紀子は、外に出ると、タクシーを拾った。沢木も、その後を追った。
彼女を乗せた車は、多摩川の上流に向かった。
人気のない土手で止まり、車を降りた彼女は、ゆっくりと、河原へ進んだ。
沢木も、同じ場所で、タクシーを降りると、車を返してから河原に向かって、歩いて行った。
小野由紀子は、足音に驚いたように、振り向いた。が、沢木を見て、眉《まゆ》をしかめた。
「何故《なぜ》、追ってきたの」
「追ってきたわけじゃない」
と、沢木は、いった。
「約束の場所へ、来ただけのことですよ」
「約束?」
小野由紀子の顔から、血の気が退いていった。
「まさか、あんたが、あの手紙を?」
「私ですよ」
と、沢木は、乾いた声でいった。
「私が出したんです。貴女《あなた》の真似をして、左手で書いたから、私と、気がつかなかったようですが」
「あたしの真似って、何のこと?」
「もう、嘘《うそ》をつくのは、止めなさい」
沢木は、叱《しか》るようにいったが、気持は、重かった。
「貴女は、昔のことで、四人からゆすられていた。あの日の朝の電話も、恐らく、金が欲しいという電話だったに違いない。貴女は、ゆすられ続けるのが、嫌になった。だが、過去は消すことが出来ない。だから、四人を消すことにした」
「――――」
「そのために、誘拐されたように見せかけた。四人の男は、一人ずつ、呼び出したんじゃないのか。それとも、一人一人に、軽井沢、沼津、伊豆と、会う場所を指定したのかも知れない。金と、貴女の美しさで釣れば、彼等は、貴女の指定した場所で大人しく待つに違いないからね。貴女は、まず、中軽井沢へ行って、井上照夫を殺した。そのあと、誘拐を本物らしく見せるために、浴室に、口紅でヌマヅと書いた。ただ、駅の伝言板には、貴女は、うっかり、本名の由木子と書いてしまった。あのことがなかったら、私は、貴女を疑わなかったかも知れない」
「――――」
「沼津には、木田五郎を、貴女は待たせておいた。木田には、マネージャーが、二百万の金を持ってくるから、それを受け取るようにいう。木田は、私から、岸壁で二百万を受け取った。あの時、後から私を殴ったのは、貴女に違いない。そして、油断を見すまして、木田も殴り、海に落した」
「貴女は、その足で、伊豆の波勝崎に行き、そこに待たせておいた中尾与一に会う。二百万の金を見せ安心させておけば、崖下《がけした》に突き落すのも楽だった筈《はず》だ」
「――――」
「最後の渡辺には、何処《どこ》で会ったのか、私には、わからない、恐らく、下田あたりに、待たせておいて――」
「湯が野よ」
と、由紀子が、低い声でいった。
「彼等は、金が欲しいものだから、あたしのいう通りに動いてくれたわ」
「だから、殺し易かったというわけですね。だが、いくら人間を消しても、過去は消えませんよ。それに、殺人という行為もね」
「私は、捕まらないわ」
小野由紀子は、ハンドバッグをあけると、中からピストルを取り出して、沢木に向けた。
「お止めなさい」
と、沢木は、暗い声で、いった。
「私は、警察にも、連絡しておいたのです。もうすぐ、刑事がここに来る。私を殺しても、逃げられはしない。だから――」
小野由紀子は、急に、がっくりと肩を落した。ピストルが、石の上に落ちて、鈍い音を立てた。
沢木は、ゆっくりと、後を、ふり向いた。
土手の上に、パトカーが止まり、刑事が降りてくるのが見えた。
先頭にいるのは、どうやら、五十嵐刑事のようだった。
(これで終ったな)
と、沢木は思った。
その思いは、彼の心を、ほっとさせるよりも、暗く、重いものにした。
沢木は、二つのものを、同時に失ったのだ。
マネージャーの仕事と、小野由紀子という女を。
本書に収録された作品は、昭和四十年前後に発表されたものです。現在の用語表現としてはふさわしくないとみられる部分がありますが、当時の時代背景を知る上でも作品の雰囲気やリズムを損なわないよう、発表時の表現のまま掲載いたしました。
[#地付き](編集部)
角川文庫『雨の中に死ぬ』平成7年3月25日初版発行
平成11年3月20日9版発行