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現金強奪計画
ダービーを狙え
西村京太郎
目 次
第一章 男と女
第二章 馬と若者たち
第三章 準備行動
第四章 疑惑と前進
第五章 作戦開始
第六章 悪党たちの報酬
第七章 新しい門出
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第一章 男と女
1
太田涼子は、退屈だった。
朝起きた時から、ブルーな気持で学校に出る気になれず、昼から、安アパートを出て、新宿の盛り場に出てみたが、することといえば、映画を見ることぐらいしかない。
だから、映画を見た。
二本立てで、片方は、「O嬢の物語」。
好きな男のために、鞭打《むちう》たれ、肉体にその男のイニシアルを焼印される女の話だ。
なぜ、そんな映画を見る気になったのか。
多分、気分がブルーだったから、刺激が欲しかったのだろう。
映画を見ている時は、結構、刺激があった。
肌の美しい女主人公《ヒロイン》が、鞭の洗礼を受け、男たちにもてあそばれ、そして、真の愛情に目覚めたあと、自分の肉体に烙印《らくいん》を押す。
自分だったら、好きな男が要求したら、あそこまで献身的になれるだろうか?
男を知らないわけではなかったが、残念ながらいまの涼子には、O嬢のように、身も心も捧げて悔いないような恋人はいなかった。
映画を見て外へ出ると、街には、すでに夕闇が立ちこめていた。
歌舞伎町|界隈《かいわい》は、ネオンが輝き、いつもの通りの雑沓《ざつとう》だった。若い男の中には、ちらりと誘うような眼で、涼子を見て、通り過ぎて行く者もいる。
が、心を惹《ひ》かれるような男は、いなかった。
背も高くて、かっこいい若者もいるのだが、どの男にも怖さがない。この男の誘いに乗ったら、自分がめちゃくちゃになってしまうかも知れぬという、そんな怖さを感じさせる若者が見当たらないのだ。
多分、ちょっとばかり気のきいたところで食事をして、ラブ・ホテルに行って、男の方は、後くされないかばかりを心配して、そそくさとセックスする。やることがわかっていては、スリルがない。
明治通りに出たところへ、洒落《しやれ》た一台の車が、すうっと寄ってきた。
運転していた若い男が、助手席のドアを開けて、
「乗れよ」
と、涼子にいった。
ライトブルーの三つ揃《ぞろ》いを着て、薄いサングラスをかけた二十四、五の男だった。
ふと、涼子が立ち止まって、
「いい車ね」
と、言葉を交わしてしまったのは、その男に、何か説明のつかない危険な体臭を感じたからだった。
この男は、多分、食事からホテルへという平凡なコースは選ばないだろう。そんな気がしたのだ。
「なんて車?」
「ポルシェ911S」
「スピードが出そうね?」
「二〇〇キロは楽に出る。さあ、乗れよ」
「乗ったら、どうなるの?」
「おれの城へ連れて行く」
「嫌だって、いったら?」
「いいたいのかい?」
「そうじゃないけど」
「じゃあ乗るさ」
「いいわ」
涼子は助手席に身体を滑り込ませた。
「あんたって、自信満々ね。それほど、美男子《ハンサム》でもないのに」
涼子は、軽く皮肉をいってみたが、男は、黙って、車をスタートさせた。
どこへ行くのか、男は、おれの城といったが、それがどこにあるのか、教えようとしない。
涼子は、ふと、今見たばかりの映画のファーストシーンを思い出した。
映画では、ヒロインが、車で、奇妙な館へ連れて行かれるところから始まるのだ。
涼子を乗せた車は、新宿の盛り場を離れ、黒々と広がる神宮の森に近づいて行く。ヒーターがついているので、車の中は暖かかった。
車は、十二階建ての豪華なマンションの地下ガレージに滑り込んで止まった。
確かに、そのマンションは、神宮の広い森をバックに、中世の西欧の城のように見えた。
「ここが、おれの城さ」
と、男が、ポルシェ911Sをおりながらいった。
「高そうなマンションね」
「二年前、三千八百万で買った」
「金持の坊ちゃん?」
「いや。株で儲けて買ったのさ」
男は、他人事《ひとごと》みたいにいい、涼子を、エレベーターに誘い、十二階のボタンを押した。
(この男は、いったい、どんな種類の人間なのだろうか?)
涼子は、考えたが、わからなかった。ヤクザにしては礼儀正しい。といって、サラリーマンの几帳面《きちようめん》さは感じられない。
考えているうちに、最上階の十二階に着いた。
3LDKの広い部屋だった。
男は、十六畳くらいある広い居間に入ると、すぐ、ヒーターをつけた。
床には、グリーンの分厚いじゅうたんが敷きつめてある。
「先にバスを使えよ」
男は、ソファーに腰を下ろし、サングラスをとって、涼子にいった。切れ長の強い眼をしていた。
「バスって?」
「風呂へ入ったあとで可愛がってやるよ」
「可愛がってやるって、あたしが、そんな安っぽい女に見えるの?」
涼子が、声をとがらせると、男は、ニヤッと笑った。
「ほう」
「あんたも、ただのつまらない男ね。女が抱きたいのならトルコへでも行ったらいいじゃないの。あたしは帰るわ」
涼子が、ドアに向かって歩き出した時、背後から、いきなり、腕をつかまれた。
「あッ」
と、悲鳴をあげたほど、強い力だった。
ぐるりと、振り向かされた。
燃えるような眼が、涼子を睨《にら》みすえている。怖い眼だった。
思わず、眼を閉じた瞬間、いきなり、男の平手が飛んできた。
「びしッ」
と、鋭い音がした。涼子は、悲鳴をあげて、床に崩れ折れた。
起きあがろうとすると、また殴られた。頬が、焼けるように痛い。両手を床に着き、荒い息を吐いていると、男は、突っ立ったまま、冷たい眼で見下ろしていたが、ゆっくりと、ズボンのベルトを抜き取り、バックルの方を右手でつかんだ。
(打たれる)
と、一瞬感じて、涼子は、身体を縮めて、
「ぶたないでッ」
と、叫んだ。
だが、それより早く、男は、右手に持ったベルトを、涼子の尻めがけて振りおろした。
スカートの上からでも、刺すような痛みが走り、涼子は、
「あッ」
と、叫んで、身体をのけぞらせた。
続いて、第二撃が、背中を襲った。前よりも、一層激しい痛さに、涼子は、子供のように、
「痛いッ――」
と、悲鳴をあげていた。
男は、容赦をしなかった。再び、尻を打たれた。スカートがまくれあがると、剥《む》き出しになった太ももにも、ベルトが振りおろされた。
白い肌に、さあッと、赤いみみずばれが走った。
涼子はいつの間にか、泣き出していた。
「許して――。許して――」
男の足にすがりついて、哀願した。全身の痛みが、悲しいと同時に、どこか甘美な気持にさせていた。まるで、映画の中のO嬢になったような錯覚にさえ、落ち込んでいた。
男の手が伸びて、涙に濡《ぬ》れた涼子の顎《あご》を持ちあげた。
「ご主人様と呼べ」
と、男は命令した。
涼子は、まるで、催眠術にかかったようにうなずいていた。
「はい。ご主人様」
「可愛がってやるから、ベッドに行って、裸になれ」
「はい」
涼子は、従順に、寝室のベッドまで歩いて行き、裸になって、毛布にもぐり込んだ。
何回、革のベルトで打たれたのだろう。
それでも、相手を憎む気になれず、むしろ、甘美な陶酔を覚えているのは、自分には、マゾの血が流れているのだろうか。
眼を閉じている涼子の横に、裸になった男の身体が、入って来た。
ついさっきのサディスティックな行為からは考えられないほど、男の愛撫《あいぶ》は優しかった。
涼子の両乳房を、ゆっくりともみほぐし、片手の指先が、彼女の肌を滑りおりて、草むらをまさぐる。
涼子のそれは、すでに、十分に濡れていて、男の指先は、何の抵抗もなく、埋没した。
「あッ」
と、涼子が、小さく声をあげた。
男の指先は、柔らかく、愛撫をくり返す。あふれ出る愛液が、可愛い音を立て始める。
涼子の身体は、男の指先の愛撫だけで、燃えあがっていった。肉体が、勝手に、小きざみにふるえ出し、あえいでしまうのだ。
涼子が、一度絶頂に達したあと、再び、男の愛撫が始まり、今度は、男自身が、のしかかって来た。
こんな激しい愛撫は、初めてだった。彼女のしなやかな身体は、弓なりになり、恥ずかしいほどの声をあげ、男の身体が離れたあとも、両足を大きく開いた、あられもない格好で、ひくひくと、身体をふるわせていた。
身体のふるえを止めようとしても、止まらないのだ。それを、男に見られているのが恥ずかしくて、涼子は、うつ伏せになって、頭をシーツに押しつけていた。
男は、煙草をくわえると、火をつけた。
「いつも、あんなふうに、女の人をぶつの?」
と、涼子は、男の顔を見ないようにしてきいた。
「好きな女だけだ」
男は、まじめにいった。
「じゃあ、あたしが好きなの?」
「嫌いじゃない」
「でも、まだ、名前も知らないわ」
「おれの名前は、唐木拓郎だ」
「あたしは――」
「知っている」
「え?」
びっくりして、涼子は、顔をあげて、唐木拓郎と名乗った男を見た。
唐木は、「吸うかい?」とダンヒルの煙草を差し出し、火をつけてやってから、
「君の名前は、太田涼子、二十歳、M女子大の英文科の学生だ」
「なぜ、知ってるの?」
「土曜日と日曜日に、君の顔を見ているからさ」
「土曜日と日曜日? ちょっと待ってよ。あたしは、今、土曜日と日曜日は、府中の東京競馬場で、アルバイトで働いているんだけど――」
「ああ。君は、馬券売場で働いている」
「じゃあ、あなたは、馬券を買いに来て、あたしを見たのね?」
「いや、おれも、あそこで働いている。学生アルバイトでね。場内整理員をやっている。年齢二十五歳。S大の四年生だ。株をやっていて、三年留年した」
唐木は、小さく笑った。
涼子は、当惑した顔で、
「でも、こんな豪華なマンションに住んで、車も持ってるのに、なぜ、東京競馬場なんかで、アルバイトしてるの? 貯金だって、あるんでしょう?」
「一千万ぐらいは持っているかな」
「じゃあ、どうしてなの?」
「いけないか?」
「いけなくはないけど、わからないわ――」
「おれは、競馬場というやつが好きなんだ。大いに興味がある」
「馬が好きなの?」
「馬が? 馬も悪くはない。サラブレッドは芸術品だ。だが、おれの興味は、馬じゃない」
「じゃあ、なんなの?」
「ヨーロッパじゃあ、競馬場は、上流階級の社交場だそうだが、日本じゃ違う。どろどろした欲望が渦巻いている場所だ。そして、クラシックレースともなれば、一レースに、百億円を越す大金が乱れ飛ぶ。だから、興味があるのさ」
「でも、他人のお金だわ」
「そりゃあ、そうだ」
唐木は、うなずいてから、何がおかしいのか、急に、クスクス笑い出した。
そんな唐木を、涼子は、不思議そうに見ていたが、そっと、さっき、革ベルトでぶたれた場所に触ってみた。まだ幾筋も、みみずばれが残っていた。
「まだ、腫《は》れてるわ」
「そんなものは、すぐ消えるよ」
「何人ぐらいの女の人に、あたしにしたと同じことをしたの?」
「さあ。五人かな。それとも、六人だったかな」
「――――」
涼子は、黙って、いきなり、唐木の胸を噛んだ。
「おい、どうしたんだ?」
唐木は、笑いながら、涼子の身体を押しのけた。
唐木の胸に、はっきりと、涼子の歯形がついた。
「その五人か六人の女に、焼きもちをやいたの」
と、涼子は、真顔でいった。
「そいつは光栄だね」
唐木は、ベッドを下りると、裸のまま、バス・ルームに入って行った。
やがて、シャワーの音が聞こえてきた。その音を聞きながら、涼子は、ひょっとすると、あたしは、あの男から離れられなくなってしまうかも知れないという予感がした。
バス・ルームから男の声が聞こえた。
「おい。おれが呼んだら、いつでも、ここへ来るんだぞ」
「はい、ご主人様」
今度は、ちょっとおどけて、涼子はいった。
2
一月五日の重賞レース「金杯」の直後だというのに、八日の土曜日の東京競馬場には、ファンがどっと詰めかけた。
正月で、ふところが温かいからなのか、それとも、ふところが寒いから、大穴でも当てようという助平根性なのか。多分、両方のファンだろうし、不況のときほど、ギャンブルは、盛んになる証明かも知れなかった。
ファンの中に、日本髪姿の若い女性がまじっているのも、いかにも正月の競馬場らしかった。
唐木拓郎は、東京競馬場で、場内整理員として働いている。
競馬が開催される土、日だけのアルバイトで、日給は、四千八百円也。
退屈な仕事だ。
ちょっとばかりヤボったいグリーンのユニフォームを着せられて、広い競馬場内のあちこちに立ち、ファンの整理と、案内をする。
競馬場に来るファンというのは、常連が多い。場内のどこが馬券売場で、どこにトイレがあり、どこで食事が出来るかぐらいのことは、たいてい知っていて、唐木たちに聞くような人間は、ほとんどいない。
だから、暇だった。
競馬場というやつは、奇妙な雰囲気を持っている。
この中に入ると、急に、金の価値が軽くなったような気がしてしまう。
どんな小さいレースでも、五、六千万円の金が動く。五大クラシックレースともなれば、一レースで、百億円以上の大金が乱れ飛ぶ。
大穴が当たれば、百円が一万円、二万円になる。一万円なら百万円、二百万円になる。こんな幸運はめったにないのだが、競馬場に入って来て、その異様な雰囲気に包まれると、自分にも、その幸運が舞い込んでくるような気がしてしまうのだ。
冷静に考えれば、ここでだって、一万円を儲けるのは大変なことなのだが、そう思われないものが、ここにはある。
だからだろうか。場内には、何か所もの馬券売場があり、そこでは、札束が馬券にかえられている。ガラス張りだから、どんどん札束が滑っていくのを見ることが出来る。しかも、売場で働いているのは、アルバイトの女性ばかりだ。
それでも、唐木が、働くようになって三か月の間、まだ、馬券売場が襲われたという話を聞いたことはない。
唐木も、馬券売場を襲おうという気はない。
だが、それは、レースで大金が転がり込んで来ると夢想しているからではなかった。第一、唐木は、サラブレッドが走るのを見るのは好きだが、馬券には興味がないし、買ったこともない。
唐木が、馬券売場に興味がないのは、一つの売場に集まる金額が小さいからに過ぎなかった。
競馬場が開く三十分前までに、唐木たちは、通用門から中に入る。
正面に、地下二階、地上五階の建物が、横に広がっている。その向こうに、馬場がある。
建物の各階に、馬券売場が設けられている。
唐木は、ユニフォームに着がえ、整理員の腕章をつけてから、A大の学生と二人で、場内の見廻りに出た。
一階右端の馬券売場で、太田涼子が働いている。
唐木は、そこをのぞいて、手を振った。
涼子の方も、ニコッと笑った。媚《こび》を含んだ笑い方だった。
唐木は馬券売場の奥に眼をやった。
各売場の奥に、地下に通じる階段があり、それをおりて行くと、地下の金庫室にたどり着く筈《はず》だった。
一日の売りあげは、その金庫室にいったん集められたあと、銀行に運ばれる。もちろん、唐木たちアルバイト学生は、立入禁止だ。
「おやすくないね」
と、A大の学生が、唐木をひやかした。
「何が?」
「さっきの女の子さ。なかなか美人じゃないか」
A大の学生が、ニヤッと笑ったとき、出会いがしらの感じで、同じユニフォーム姿の男にぶつかった。
とたんに、相手が、
「気をつけろッ」
と、怒鳴った。
そいつの顔に、唐木は、見覚えがあった。
名前は確か野々村。野球の強いY大の学生だった。
もちろん、名前まで知っていたわけではない。相手が、一八〇センチ、八〇キロはあるだろうと思われる大男だったからである。
「ごめん」
と、A大の学生が、気弱く謝るのへ、野々村は、どこか虫の居所でも悪かったのか、
「蚊とんぼみたいに、ひょろひょろしやがって」
と、いきなり、肩を突き飛ばした。
体重五四キロのA大生は、見事に引っくり返った。
「詰らないまねは、よしたらどうだ」
唐木が、笑いながら、野々村に声をかけた。
その冷たい笑い方が、また、野々村の気に障ったらしい。
「きさまが、相手になろうってのか?」
「相手になってもいい」
と、唐木は微笑し、A大生に、
「先に行ってくれ」
「大丈夫か?」
A大生が、心配そうに、小声できいた。
「ああ、大丈夫だ」
と、唐木は、A大生に笑って見せてから、気負い込んでいる野々村に、
「向こうへ行って話をつけようじゃないか」
と、花壇の方向へ、先に立って歩き出した。
次のレースの馬券を買いに、どっと、馬場から戻って来たファンの群の中を、縫うようにして、二人は、美しく整備された花壇のところまで歩いて行った。
家族連れが、ベンチや、芝生の上に腰を下ろしている。風が無く、一月にしては、暖かい日だった。
唐木は、野々村と向かい合った。
改めて、大きな奴だなと思った。大きくて、頑丈そうだ。ラグビーか、アメリカン・フットボールでもやっているのかも知れない。
「おれは、今日、面白くないことがあって、むしゃくしゃしてるんだ」
と、野々村が、吠えるような声でいった。
「そいつは気の毒にな」
唐木が、落ち着いた声で、いい返した。
「それにだ。きさまも、前から気に食わない野郎だと思っていたんだ」
「なぜ?」
「きさまは、車に乗ってやって来るそうじゃないか。それに、いつもキザな三つ揃いの背広なんか着てやがる」
「学生は、学生らしくしろか? 君みたいに、セーターにジャンパーか、学生服を着てかい?」
「そうだ。だから、今度のことがなくても、いつか、ぶん殴ってやろうと思っていたんだ」
野々村は、丸太のような右腕を、振り回しながらいった。
唐木は、苦笑して、
「ちょっと待て」
「おじけづいたのか?」
「いや。君のために、前もって断わっておくことがあるのを思い出した」
「おれのためだァ?」
「そうさ。君のためだ。おれは、高校を出て、大学に行くまでの一年間プロボクサーだった。ジュニア・ライトの八回戦までいった。成績は、八戦して五勝三敗。勝つ時も、敗ける時も、KOだった。君がどんな運動をしているか知らないが、プロボクサーのパンチは、自分でいうのも変だが、普通の人間が受けたら、確実に一発でダウンする。なるたけ、顔は殴らないつもりだが、腹に当たると、内臓が破裂することもある。だから、覚悟してかかって来いよ。おれがいいたかったのは、これだけだ。さあ、いいぞ」
唐木は、両手を、顔の前で構えた。
両腕を大きく広げて、つかみかかろうとしていた野々村は、びくっとした顔で、両手を再び止めてしまった。
「そいつは、本当なのか?」
と、半信半疑の眼できく。
「嘘か本当か、やってみればわかるさ。さあ、来いよ。カム・オン」
「ちょっと待ってくれ」
「今度は、そっちが何か断わる番かい? 空手をやってても、柔道をやってても、おれの方は構わないぜ」
「おれは、ラグビーのFWをやってる」
「やっぱりな」
「力には自信がある。この身体だって、鍛えてある」
「そりゃ結構だ」
「だがな。今、考えたんだが、お互いに怪我をしても、つまらないじゃないか。もともと、他の奴のことで喧嘩になったんだから」
「そっちが止めたければ、おれの方は、異存はないさ」
唐木は、ニヤッと笑ってから、
「どうだい? 今夜、仲直りに、銀座あたりで飲まないか」
「おれ、残念ながら、そんな金は持ってない」
「おれが、おごるよ」
と、唐木は、相手の肩を叩いた。
一日のレースが終ったあとの競馬場ほど、わびしいものはない。
人気《ひとけ》の無くなった、広い観客席には、外れ馬券が散乱し、ところどころで、小さなつむじ風が起きて、それを舞いあがらせている。
唐木は、帰る時、わざと、観客席を通って行く。今は、ただの紙切れだが、ついさっきまでは、二百円、五百円、千円の価値があったものなのだ。
裏門に出た。野々村の大きな身体を、ポルシェ911Sの助手席に乗せると、まっすぐ銀座に向かった。
「リリオム」というバーに入る。銀座でも、美人のホステスが多いので有名な店だった。
マダムが、ミス・南国だったせいで、いろいろなミスばかりを集めている。ミス・大空、ミス・脚線美、ミス・ビキニ、どのホステスも、それぞれに、個性のある美人だった。野々村は、そんな美人たちに囲まれて、ご機嫌だった。
「君は、こんな高級バーに、よく来るのか?」
と、野々村は羨ましそうにきいた。
「ときどきね。高級かも知れないが、バーはバーだ。この店のどの娘《こ》だって、金さえみせれば自由になるよ」
「本当か?」
「嫌だといったら、札束で、横っ面を張り飛ばしてやればいいのさ。そうすりゃあ、簡単に寝るよ」
「口惜《くや》しいが、おれには、その札束がない。去年の有馬記念に、なけなしの五万円をつぎ込んだんだが、本命が来て、見事に、すっちまった」
「そいつは、気の毒にな。ところでどの娘《こ》が気に入った?」
「さっき、ここへ来た広子さんというのが好きだね。どことなく高貴《ノーブル》で冷たくて、それでいて、コケティッシュで……」
「あの娘《こ》か」
と、唐木は、立ち止まって、カウンターでマダムと話をしている広子の傍へ歩いて行った。
「頼みがある」
唐木は、単刀直入に、広子にいった。野々村のいう通り、どことなくハーフのような感じのする彫りの深い顔立ちの女だった。
唐木は、彼女の手に、二十万円の札束を押しつけた。
「これで、向こうにいる僕の友人にぜいたくの味を教えてやって貰いたいんだ」
「ぜいたくって?」
広子が、首をかしげた。
「今の彼にとって、君が、ぜいたくと、豪華さのシンボルなんだ。だからホテルへでも行って、ぜいたくがどんなに楽しいものか、教えてやって欲しいのさ」
「その言葉が気に入っちゃった」
「金もだろう?」
「うふふふ」
と、広子は、楽しそうに笑い、野々村のいるテーブルに歩いて行った。
3
翌日曜日に、競馬場で顔が合うと野々村の方から寄って来て、
「昨夜のあの女、素晴らしかったぜ」
と、眼を輝かせて、唐木にいった。
唐木にとって、予想どおりの反応だった。
「そいつは、よかったな」
「あれだけの美人が、ホテルに入るなり、真っ裸になって、跪《ひざまず》いて、おしゃぶりのサービスをしてくれたんだ。思わず、全身がふるえちまったよ。おれだって、女を知らないわけじゃない。トルコ遊びだって四、五回はやったし、近くのスーパーの女店員を、ラブ・ホテルに連れ込んだこともある。だが、あんな美人に、献身的なサービスをされたのは、初めてだ」
腕力はありそうだが、口の重そうな野々村が、今日は饒舌だった。それだけ、昨夜が楽しかったということだろう。あの女も、唐木が頼んだことは、やってくれたらしい。
「初めに、なんといったんだ?」
と、野々村が、唐木の顔をのぞき込んで、
「別れしなにきいてみたんだが、笑ってるだけで、教えてくれないんだ」
「札束を渡して、君を楽しませてやってくれと頼んだだけだ」
「やっぱり、金か」
野々村は、大きな身体を縮ませるようにして、溜息をついた。
唐木は、ニヤッと笑って、
「今の世の中は、金さえ出せば、どんな楽しみだって味わえる。それを、君に教えてやりたかったんだ」
「そいつは、十分にわかったよ。だから、こうして、あり金はたいて、今度のレースの馬券を買ったんだ」
野々村は、ポケットに手を突っ込み、千円の特券三枚を取り出して唐木に見せた。
競馬場で働く職員は、唐木のようなアルバイトを含めて、馬券を買ってはいけないことになっていた。しかし、それは建前で、実際には、ヒマを見つけては買っている。
「今度は、堅いレースだから、本命、対抗で、Bを一枚、それにBを頭に、B―A、B―Dと一枚ずつ買っておいたんだ」
野々村が説明するのを、唐木は、ニヤニヤ笑いながら聞いてから、
「Bは、堅いかも知れないが、来たって配当は、せいぜい三百円ぐらいのものだろう?」
「三百二十円だよ」
「たいした違いはない。特券でも三千二百円。それじゃあ、とうてい昨夜の女は抱けないぜ」
「嫌なことをいう奴だな。だけどさ、今のおれに出来る金儲けといやあ、せいぜい、あり金で、堅いレースの馬券を買うことぐらいなんだ」
と、野々村が反発した時、馬場の方で、「わあッ」という大歓声があがった。どどッと馬場の方から、五、六人のファンが、なだれを打つようにして駆け出して来た。二人の前を通り、払戻所の方へ走りながら、
「E―Eの大穴だぞ」
「一万二千円の大穴だッ」
彼等の間から、そんな叫び声が聞こえた。
走りながら、当たり馬券をふりかざしているアンちゃんふうの男もいる。
「畜生ッ」
と、野々村は、手に持った馬券を二つに裂いて、空中に投げ捨てた。
「E―Eのゾロ目なんて、ちょっと買えないもんなあ」
「これか」
唐木は、無造作に、ポケットから、千円の特券をつかみ出した。
野々村は、眼を三角にして、
「これ、E―Eの特券じゃないか」
「ああ。昨日から遊びで、十二頭立て以上のレースには、全部、E―Eのゾロ目を買っていたんだ。その一枚が、たまたま当たっただけのことさ」
「しかし、十二万円だぞ」
野々村の方が、興奮しているのに、唐木は、
「欲しけりゃ、やるよ」
「えッ?」
野々村は、びっくりした顔で、唐木を見た。その手へ、万馬券を押しつけて、
「たかが、十二万円じゃないか。それにくらべて、今のレースに動いた金を考えてみろ。二、三億円は、楽に越している筈だ」
「どういう意味だ?」
相手の質問に、唐木はすぐには答えず、黙って、野々村の眼を見返した。
野々村の顔に、ふっと、狼狽《ろうばい》の色が走って、
「君は、まさか、とんでもないことを考えてるんじゃあるまいな?」
「おれは、まだ、何もいってないぜ」
と、唐木は、笑った。
「しかし、今、君は、このレースに賭けられた全部の金のことを考えてみろといったじゃないか」
「ああ、いったさ。誰だって、考えることだろう? 違うかい? 日本ダービーともなれば、百億円、いや、今年は多分、二百億円近い金が、わずか、三分足らずのレースに賭けられるんだ。それを考えない人間はいない筈だ」
「だが、君のいい方は、少し違っていたぞ」
野々村は、眼を光らせて、唐木を睨んだ。
唐木は、冷静に、
「どう違うんだ?」
「まるで、レースに賭けられた金全部を、かっさらってやりたいような口ぶりだった」
「ふふふ」
「違うか? 金にも女にも不自由してなさそうな君が、競馬場のアルバイトをしているのは、どうも腑《ふ》に落ちなかったんだ。馬を見るのが好きなら、アルバイトの整理員なんかするよりも、ファンとして来て、レースを見ていればいいんだからな」
「もし、そうだとしたら?」
唐木が、きき返すと、野々村の方が、あわてて、周囲《まわり》を見回してから、
「君の考えてるようなことが、うまくいく筈がない」
「なぜ、そう決めつけるんだ?」
「考えてもみろよ。君一人で、何が出来るんだ? ピストルを手に入れて、押し込んだところで、金庫室のドアにさえ辿り着けやしない。いつだって、正規の警備員が見張っているし、重賞レースの日には、特別に府中署から警官が派遣されて来るんだ。絶対に無理だ。何も出来やしないぜ」
「さあ、どうかな。それに、おれ一人じゃない。やる時には、君も仲間だ」
「おれが?」
「そうさ、君も仲間だ。一瞬の危険に、若さを賭ける仲間の一人さ」
「おれは、のんびり生きたいよ」
「細く長くか?」
唐木は、強い眼で、まっすぐに野々村を見つめた。
「君は、いっては悪いが、二流大学の学生だ。そこのラガーだ。一流大学のラガーなら、一流会社に入るパスポートになるかも知れないが、二流大学のラガーじゃあ、なんの役にも立たん。となると、君の将来は、たかが知れている。中小企業の課長が、中年の君の地位だろうな。職場結婚でもして、ときどき、トルコにいって、配当が三百円くらいの馬券を買う。それが人生の全てだ。こんな人生の、どこに夢があるんだ? どこに、男のロマンがあるんだ?」
「ボロくそにいいやがる」
「事実をいってるだけさ。おれは、この退屈な世の中で、戦ってみたいんだ。おれの戦いをさ。おれの人生だって、君のとたいして違いはしないからな。そんな退屈な人生は、ごめんなんだ」
「しかし、君は、今だって、昨日のあの女ぐらいは、いつでもホテルに誘えるぐらいの金は、持っているんだろう?」
「まあね。しかし、それだって、君がBを買って外れたのと、おれのE―Eが、たまたま適中したぐらいの差でしかない。それに、馬券を買うのは、危険でもなんでもない」
「しかし――」
「しかし、なんだい?」
「なぜ、おれを誘うんだ?」
「第一に、君は逞しい。弱々しい奴は、おれの計画に不要だし、おれ個人も嫌いなんだ。第二に、君が怒りっぽいのは、現在に大きな不満を持っているからだ」
「しかしなあ」
「いいさ。まだ、時間はある。ゆっくり考えろよ。それから、君にもわかっていると思うが、おれが、競馬場の金を狙っていると通報しても無駄だよ。おれが否定すれば、それで終りだからな」
「やめてくれ。おれは、そんな人間じゃない。密告なんかしないよ」
「そんなところも、仲間にしたい理由の一つさ」
ポンと、野々村の肩を叩いて別れると、唐木は、馬券売場をのぞき込み、そこで働いている太田涼子に向かって、「今夜、来いよ」と、合図を送った。
唐木の愛撫は、いつも、わがままで一方的だった。
それなのに、涼子の身体はひとりでに濡れてしまうのだ。唐木の手が、触れて来て、愛撫が始まっただけで、もう、どうしようもなくなってしまう。
女の気持は、不思議なものだと、涼子自身が思う。嫌いな男には、指先で触れられただけでも、ぞおッと寒気がしてくるのに、好きな男には、どんなことをされても嬉しいのだ。それだけ、女が、男にくらべて感覚的なのか、それとも、純粋なのだろうか。
今夜も、涼子は、恥ずかしい体位をとらされながら、何度も、声をあげて、絶頂に達してしまった。
そのあと、急に、恥ずかしさがよみがえって来て、涼子が、毛布を裸身に巻きつけて、ベッドの上でうつむいていると、
「君によく似合うものを、買っといてやったよ」
と、唐木は、きれいな包装紙の包みを、どさりと、彼女の前に投げてよこした。
「あたしに?」
思わず、ニッコリして、開けて見ると、中から出て来たのは、驚いたことに、頑丈な犬の首環だった。
「それを首にはめてみろ」
唐木が、命令した。
涼子が、蒼《あお》ざめた顔で、ずっしりと重そうな首環を見つめていると、
「はめるんだッ」
唐木が、いらいらした様子で、怒鳴った。
涼子は、あわてて、首環を手に取り、自分の首筋に押し当てた。
ひやりと冷たい革の感触が伝わったとき、屈辱感と同時に、初めての日に、唐木に鞭打たれた時の、被虐的な喜びが、突きあげて来た。
いつの間にか、涼子は、媚を含んだ眼で、唐木を見つめていた。
「これでいいの?」
「どうだ? 嬉しいか?」
と、ききながら、唐木は、首環にくさりを結びつけ、それを、手許に強く引っ張った。
「あッ」
と、涼子は悲鳴をあげ、ベッドの上で四つん這《ば》いになり、くさりに引かれるままに、唐木の方に這って行った。
身体に巻きつけていた毛布は外れてしまい、生まれたままの裸身に戻っていた。
「嬉しいか?」
もう一度、唐木がきいた。
「はい」
と、答えながら、涼子は、自分が本当に、唐木に可愛がられているメス犬のような気がしてきた。
「どうして、そんな目にあわされて嬉しいんだ?」
唐木は、意地悪くきいた。
「本当にあなたのものになったような気がして……」
と、答えながら、涼子は、ふと、
(この人は、あたしを試しているのかも知れない)
と、思った。思いっきり恥ずかしい目に遭わせて、あたしの愛情を試しているのだ、きっと。
首環を引かれたまま、涼子は、微笑した。
「あたし、嬉しい」
「本当にか?」
「はい、ご主人様」
涼子は、その気持を示すように、這い進み、唐木の足に接吻した。
「別に、おれは、恥ずかしいことをしろとはいっていないぞ」
唐木は、自分の足の指をしゃぶっている涼子を見下ろしていった。
「でも、犬みたいにされて――」
「嫌なら、首環を外してやってもいいんだ」
「いいんです。こんな格好にされてるのが嬉しいんです」
「もし、おれが、人殺しだといったらどうする?」
唐木が、きいた。
(やっぱり、この人は、あたしの気持を試している)
と、涼子は、思いながら、
「あなたを守ってあげる」
「おれに自首させようとは思わないのか?」
「あたしは、そんな女じゃないわ」
「どういう女なんだ?」
「好きな人と、どんなことでも一緒にしたいの。警察が捕まえに来たら、その警官を殺したって、あなたを守ってあげたい。そうすれば、あなたと同じ人殺しになれるんだもの。自首なんて、絶対にすすめない。そんな冷たいこと、あたしには出来ないわ」
「クアイ・シャオチエ」
「えッ?」
「中国語で、可愛い女という意味だよ。君は可愛い女だ」
唐木は、更に、くさりを手許に引いた。自然に、のけぞるように頸《くび》をあげた涼子の唇に、唐木の唇が重なってきた。
涼子は、強く舌を吸われながら、
(この人のためなら、本当に、人殺しだって出来る)
と、胸の中で呟《つぶや》いた。
唐木が、涼子の耳許でいった。
「おれは、ダービーの金を手に入れるつもりだ。百億を越す現金をね」
4
唐木は、汗をしたたらせながら、サンドバッグを殴りつける。
息が弾む。
ドスン、ドスンという鈍い音が、次第に、ビシッ、ビシッという鋭角的な音に変わってくる。それが楽しいのだ。
身体の調子《コンデイシヨン》が悪い時に、いくら叩いても、鋭い音に変わってくれない。そこへいくまでに、身体がへばってしまう。
サンドバッグがすむと、続いて、縄飛び。
唐木は、何も考えずに、身体を酷使する。痛めつける。
やがて、満足して椅子《いす》に腰を下ろし、タオルで、流れる汗を拭く。自分の若さが確認できたことが嬉しいのだ。
そのために、唐木は、週に一回か二回、中野にあるこのボクシングジムに通ってくる。
唐木が、汗を拭き終って、大鏡の前で軽いシャドウ・ボクシングを始めたとき、鏡の中に、堀江卓が入って来るのが映った。
「やあ」
と、唐木は、軽く手をあげて見せた。
堀江も、「やあ」といった。
色の黒い男である。だから、白い歯が、より印象的になる。
堀江が、トレーニング・ウエアに着がえ、サンドバッグを叩き始めると、唐木は、それを押さえてやりながら、
「二人、仲間が出来た」
と、いった。
堀江は、「うッ」「うッ」と、うなり声を発しながら、サンドバッグを叩いていたが、叩き終ってから、
「すると、おれと君を入れて四人か」
「あと三人は欲しい」
「全部で七人か。君も、あんがい、縁起をかつぐんだな。七人だと、ラッキーセブンというわけだろう」
「別に、縁起をかついでいるわけじゃない。計算だ。二人の中、一人は女だから、腕力を必要とする仕事は、まかせられないからな」
「女だって?」
堀江は、タオルで、ごしごし顔をこすった。
「信用できるのか? その女は?」
「大丈夫だ。生半可な男より信用ができる。それに、人選はおれにまかせてくれた筈だ」
「覚えてるさ。君はリーダーだ」
堀江は、白い歯を見せて、ニッと笑った。
唐木は、煙草を取り出して、堀江にもすすめてから、
「今日は、君のヘリに乗せて貰いたいんだ」
「いいよ。ただし、料金は払ってくれよ」
「ああ、わかっている」
二人は、ジムを出ると、唐木のポルシェ911Sで、甲州街道に出て、調布飛行場に向かった。
堀江は、唐木と高校が同期だった。だが、大学に入ってすぐ、せっかく入ったS大を、さっさとやめてしまい、飛行機の操縦を習い、今では、セスナやヘリコプターで、遊覧飛行や、農薬の散布を仕事にしている会社に就職した。
堀江は、そんな男である。
調布飛行場に着くと、唐木は、堀江の操縦するヘリに乗り込んだ。
快晴の冬空に向かって、二人を乗せたベル206Aヘリは、エンジン音をひびかせて、上昇して行った。
たちまち、地上の景色が、立体から平面に変わっていく。
「高度一二〇〇」
と、堀江がいった。
空から見る景色は美しい。小さな汚れは、全て消えてしまうからかも知れない。
「競馬場へ行くんだろう?」
「ああ」
唐木が肯《うなず》くと、堀江は、機首を、府中の東京競馬場へ向けた。
十五、六分で、競馬場上空に到着した。
「ヘリというのは、かなり早いものなんだな」
唐木は、眼下に見える競馬場を見下ろしながら、堀江にいった。
「時速二二九キロ。航続距離六五〇キロ」
と、堀江は、ぶっきら棒にいった。
「もう少し降下してみてくれ」
「ラジャー(了解)」
堀江は、ヘリを急降下させた。みるみる楕円形の馬場が、大きく広がって行く。
今日は、ウィークデーで、観客席は、がらんとしている。
堀江は、どんどんヘリを降下させて行き、地上まで、一〇〇メートルくらいのところで、停止させた。
唐木は、ポケットから小型カメラを取り出して、馬場や、本部の建物などを、撮りまくった。
「OK」
と、唐木は、片手で、丸を作って見せた。
ヘリは、また急上昇した。
「まだ、例の未亡人とつき合ってるのか?」
唐木は、カメラをしまいながら、堀江の横顔を見た。
「ああ。だが、お互いに、プライバシーは尊重するという約束だった筈だ。それに、おれたちの計画は、絶対にあの女にも、他の者にも話さないから安心してくれ」
堀江は、相変わらず、怒ったような声でいった。
堀江が、浜田三千代と知り合ったのは、彼の操縦するセスナの上である。
去年の十月だった。
日もはっきりと覚えている。十月二十一日だった。
三千代は、その日の朝、チャコールグレーのハーフコートを着、花束を持って、調布飛行場へやって来た。
彼女は、相模《さがみ》湾へ飛んで欲しいといった。
堀江が、彼女をヘリに乗せ、相模湾上空まで運んだ。
そこへ行くまでの間、話してくれたのは、ちょうど一年前に、夫が、相模湾でヨットレース中に、突風を受けて転覆、死亡したということだった。
三千代は、ヘリから、身体を乗り出すようにして、青い海面に向かって花束を投じた。
「来年も、花束を持って、ここにいらっしゃるんですか?」
何気なく、堀江がきくと、三千代は、強く頭《かぶり》を振って、「いいえ」といったのだ。
「今日、あの人にさようならをいいに来たんです。明日から、あたしは、あたしの生き方をすると、あの人にいいました」
「それで、亡くなったご主人は、なんて返事をなさったんです?」
「あたしの好きにすればいいと」
三千代は、微笑した。その笑顔が、堀江にはひどく新鮮に見えた。
亡夫にさようならをいいに来たという話も、二十五歳の堀江には、ロマンチックに思えたのだ。
調布飛行場に戻るまでに、堀江は、彼女のマンションの電話番号を聞き出していた。
二日後、堀江は、電話し、新宿京王プラザホテルの三十二階にある日本料理店で、三千代に会った。
その日、どちらが誘ったともなく、ラブ・ホテルへ行ったのである。
あれから、もう二か月半以上になるのだ。
今日も、調布飛行場で、唐木と別れると、堀江は、三千代の住む世田谷のマンションに、中古の車を走らせた。
三千代は、笑顔で堀江を迎え、中に入ると、黙って、三十二歳の熟れた身体をすり寄せてきた。
自然に、唇が合わさっていく。しっとりと濡れた唇だった。シャネル5番の匂いが、堀江を包み込む。
堀江は、三千代によって、初めて、単に年齢的な意味ではない大人の女を知った。
相手の舌を吸い込んだまま、堀江は、強く三千代の身体を抱き寄せた。豊かな乳房が、自分の胸に触れるのが心地良い。三千代は、軽くのけぞった姿勢になった。
三千代は、じっと、眼を閉じて、堀江に身をまかせている。
堀江は、唇を離して、
「君は、睫毛《まつげ》が長いんだね」
「ふふふ」
と、三千代は、眼を閉じたまま笑った。
堀江の片手が、下腹部におりていくと、
「明る過ぎるわ」
と、三千代はいい、堀江の腕の中から、するりと抜け出し、カーテンを引いた。
明るかった部屋が、急に、薄暗くなった。
ソファーに坐った堀江の横に、そっと腰を下ろすと、三千代は、白い腕を、彼のくびに回してきた。
堀江は、キッスしながら、片手を、彼女のスカートの下に滑り込ませた。下着はつけていなかった。
ひんやりと冷たい彼女の肌が、堀江の肌に触れた。
「ふふふ」
と、急に、三千代が、また小さな笑い声を立てた。
「あたしのは、もっと下よ。別の女の人のことを考えてるんじゃないの?」
「そんなことはないさ」
堀江は、むきになっていい、二本の指を、彼女の太ももの奥へ滑らせていった。
堀江は、唐木と違って、女性経験があまりなかったし、扱い方も馴れていない。
三千代が、年下の堀江を、言葉でからかっているのに、むきになって、応じたりしているのも、その証拠だった。
「可愛い人ね」
と、三千代が、堀江の耳許でささやいた。
堀江の指先が、彼女のデルタに触れ、肉のひだに分け入っていく。そこは、すでに、十分に濡れていた。
「濡れてる」
と、堀江は、嬉しそうな声を出した。
三千代は、堀江の指先の動きに合わせて、両足をゆっくり広げながら、
「あなたが好きだから」
と、いい、軽く、堀江の耳朶《じだ》を噛んだ。
上半身裸になった堀江は、その逞しい両腕で三千代を抱きあげ、ベッドへ運んで行った。
ベッドに横たえた三千代の服を、かなり乱暴に脱がした。
「ふふふ」
と、また三千代が笑った。
「笑うなよ。おれは、こういうの苦手なんだ。女を裸にするのがさ。唐木なら上手《うま》いんだろうがね」
「唐木――さん?」
「おれの友だちだよ」
「その人のこと、尊敬してるみたいね?」
「あいつは、いろいろな面で、おれよりはるかに大人だからな」
「あなただって、立派な大人よ」
三千代が、裸の身体を押しつけてきた。その肉体は、十代や、二十代のしなやかさはなかったが、その代わりに、三十代の女のもつ豊満さがあった。
抱き合ったまま、彼女の指先が、巧みに、堀江のズボンや、ブリーフを脱がせていく。
若い堀江の身体は、三千代の裸身を抱きしめただけで、張り切ってしまった。
三千代は、ベッドの上で、身体を下にずらせて行くと、堀江の硬直した男性自身を、口にふくんだ。
「あッ」
と、堀江が小さな声をあげたのは、三千代の舌が、巧みに、彼のものを愛撫しはじめたからだった。
(彼女は、亡くなった夫にも、こんなことをしていたのだろうか?)
堀江は、ふと、そんなことを考えた。
それは、軽い嫉妬《しつと》だったかも知れない。
三千代の舌の愛撫で、若い堀江は、たちまち発射しそうになってしまった。それが、三千代に対して恥ずかしくて、なんとか堪えようとした時、ふと、彼女が、舌をとめて、顔をあげた。
その顔が、赤くほてっていた。顔に、うっすらと汗が浮かび、髪の毛が、へばりついている。ひどくエロチックな感じだった。
「今度は、僕がやってやる」
堀江は、三千代の腰の辺りに、顔を持って行った。
女の大事なところを、舌で愛撫するのは初めてだった。最初は、要領がわからず、恥毛が邪魔になって、うまくいかなかった。やたらに、三千代をくすぐったがらせるだけだったが、指先で、肉の門を押し開き、舌の先を持っていった時、初めて、三千代が「ああッ」と、喘《あえ》いだ。
堀江の額から、汗がしたたり落ちた。
三千代の声が、次第に大きくなっていく。
身体がそり返り、堀江の肩をつかんだ彼女の指先に、力が入ってきた。
それが、若い堀江に、自信を与えてくれた。
男のことをよく知った中年の女を、おれは、舌だけで喜ばせたのだという自信だった。
「は、早く抱いて」
と、三千代が、喘ぎながらいった。
堀江は、彼女の裸身の上にのしかかり、身体を合わせた。
最後は、若いだけに、あっけなく終ってしまったが、堀江は、満足して身体を引き離すと、手を伸ばして、煙草をくわえた。
堀江は、天井に向かって、煙草の煙を吐き出した。
三千代は、シーツに顔を押しつけるようにして、余韻を楽しんでいるようだったが、しばらくして顔をあげると、堀江に向かって、ニッと笑いかけた。
その笑いは、全てを知り合った男と女の間の、なれなれしい笑いだった。
「ねえ」
と、甘え声を出して、
「何を考えてるの?」
「なんにも」
「うそ。怖い顔をして、何か考えていたわ」
と、いわれて、堀江は、どきッとした。
唐木と計画した競馬場襲撃のことを考えていたからだった。
女は、好きな男と一緒にいる時、ほとんど自分と男とのことしか考えないが、男は、好きな女といても、ときどき、全く別のことを考えることがある。
「君のことを考えていたのさ」
と、堀江は嘘をいい、それを三千代に信じさせようとして、もう一度、若い肉体をぶつけていった。
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第二章 馬と若者たち
1
唐木は、久しぶりに、市ケ谷にある学校に出かけた。
学園闘争の嵐《あらし》が吹き荒れた時、唐木の学校でも、バリケードが作られ、学生同士の戦いで、何人かが負傷した。
だが、今は、その騒ぎが嘘《うそ》のように、キャンパスは、静まり返ってしまった。
良い悪いは別にして、あの時、キャンパスに吹き荒れたエネルギーは、どこへ消えてしまったのだろうか。
(みんないい子になっちまいやがった)
と、思いながら、唐木は、学校の裏庭へ向かって、歩いて行った。
そこには小さな池がある。
小牧洋三は、やはりそこにいた。
池のふちに腰を下ろし、ぼんやりと、うす汚れた水面を眺めている。いつもの通りだ。
「やあ」
と、唐木は、声をかけて、小牧の横に腰を下ろした。
「なんだ、プチブルか」
小牧は、つまらなそうにいい、池に向かって小石を投げた。
唐木は、黙ってケントを取り出して、小牧に差し出した。
小牧は左眼が見えない。彼が大学一年の時、機動隊員に警棒で殴られて、視神経をやられてしまったのである。
といって、小牧は、過激派の学生ではない。どちらかといえば、唐木と同じノンポリだった。
ただ、小牧の場合、恋人が過激派の学生だった。森下|朋子《ともこ》という名前で、理知的な、ちょっと冷たい感じのする美しさを持っている。
小牧は、彼女のために、ベトナム戦争反対を叫び、米軍横田基地に押しかけ、正面ゲートから侵入しようとして、機動隊にやられたのである。
小牧は左眼を失い、恋人の森下朋子は、退学処分になった。
あれから、すでに四年になる。
「彼女には、ときどき、会ってるのかい?」
唐木がきくと、小牧は、すぐには答えず、煙草の煙を吐き出してから、
「ああ、ときどき、会っている。だが、会うのが、だんだんつらくなってくるんだ」
「なぜだ?」
「あいつは、今、バーのホステスをやっている。最初は、生活が苦しいから、手っ取り早くお金を儲けるためということだった。だが、会うたびに、水商売が身についていくのがわかるんだ。今じゃあ、どっぷりと、首までつかっちまってるよ。おれに金があれば、やめさせられるんだが、君と違って、スカンピンだし、いや、それどころか、あいつに小遣いを貰ってるんだ」
小牧は、くそッと呟《つぶや》き、また、池に向かって、石を投げた。
「結婚したらどうなんだ?」
「そうしたら、二人とも駄目になっちまうよ。それがわかってるから、おれたちは、結婚もしないし、同棲もしないでいるんだ。一緒になったら、おれは、ホステスのヒモだからな」
「金があれば、なんとかなるんだな?」
「ああ。とにかく、あいつのバー勤めをやめさせたいんだ。最近は、バーテンに貰って、大麻を吸ったりしている。あいつも、いらいらしているんだ」
「どうだ? そんなに行きづまってるのなら、このへんで、一発、でかいことをやってみないか?」
唐木は、微笑しながらいった。
小牧は、池に向かって、吸殻を投げ捨てた。
「どんなことだ?」
「成功すれば、億単位の金が手に入る。君たちは、その金を持って、南米へでも行けばいい。とにかく、現状は打破できるぞ」
「失敗したら?」
「間違いなく、刑務所行きだな」
小牧は、腕を組んで、白い息を吐いた。今年の冬は、去年の暖冬が嘘のようにやけに寒い。
「銀行強盗でもやろうっていうのかい?」
「もうちょっと派手なことだ。君はプラスチック爆弾を作れるか?」
「これでも、理工学部の学生だからね。材料さえ揃えば、作れると思うよ。アメリカのプラスチック爆弾は、コンポジション4、通称C4と呼ばれて、四種類の成分で出来ている。だから、その四つの材料が揃えられれば、何とか作れると思うね。だが、プラスチック爆弾なんか作って、どうするんだ?」
「警察署を爆破するのさ」
「おい、ちょっと待ってくれよ」
と、小牧は、笑って、
「学園闘争は、もう終ったんだぜ。ベトナム戦争もだ。あの頃、ノンポリで何もやらなかった君が、今頃になって、警察署を爆破するのか?」
「ああ、その通り」
「なぜだ?」
「おれは、今、二十五だ」
「おれだって同じさ。三年留年したからな」
「おれの青春は、もうじき終る。おれは、きっと、分別臭い大人になっちまうだろう。それがよくわかるんだ。好きな女と結婚して子供でも作れば、もう何も出来なくなるのは眼に見えている。だから、冒険の出来る今、おれの青春を賭けて、何か大きなことをやりたいんだ」
「だから警察署を爆破するのか?」
「それは、計画の一部でしかない。おれが考えてることは、世間の常識でいえば、悪だ。だが、現代は、悪しか、魅力のある冒険はないからな」
「ヨットでの太平洋横断とか、犬ぞりでの北極圏横断というのはどうだい?」
「よしてくれ」
と、唐木は手を振って、
「おれの柄じゃない。第一、そのための専門知識と、トレーニングが必要だ。間に合わない」
「五、六年トレーニングしたら、何とかなるんじゃないか?」
「現代は、誰も彼もが老いやすくなっているんだ。何もかもスピードアップされているからな。少年はすぐ大人になり、大人はすぐ老人になる。だから、おれは、今すぐ、おれの青春を賭けなければならないんだ」
「――――」
「どうだい? おれと一緒に、青春を賭けてみないか?」
「魅力的な悪にか?」
「そうだ。現代は魅力的な善人なんてありはしないからな。革命は起こりそうもないし、国民自体が革命を望んでいない。小さな善意が、大手を振ってまかり通る世の中に、どうして、魅力的な善が生まれるんだ。こんな、変に安定しちまってる世の中じゃあ、悪にしか魅力はないんだ」
「おれだけを誘ってるのか?」
「いや、彼女にも参加して貰いたいと思っている。今はバーのホステスでも、昔は、学生運動の女闘士だったんだ。頼りになると思っているからな」
「おれたちが、うんといわなければ計画の全貌は教えてくれないわけか?」
「そうだ。ただ、おれたちの退屈な青春を賭けるにふさわしい計画だということだけは保証するよ。OKだったら、すぐ返事をしてくれ」
唐木は、手に持っていたケントの箱を、小牧のポケットにねじ込んで立ち上った。
小牧にとって、朋子との愛は、お互いを傷つけ合っているのに似ていたし、また、どこかで、お互いの傷をなめ合っているようなところもあった。
唐木に会った日の夜、小牧は、三日ぶりに、新大久保の彼女のマンションを訪ねた。
ごちゃごちゃと、ラブ・ホテルが建ち並ぶあたりである。
午前零時近くに行ったのだが、朋子は、まだ帰っていなかった。小牧は、彼女から渡されていたキイで、ドアを開けて部屋に入った。
ひんやりと寒いが、若い女の体臭がしみついている部屋だった。
明りをつけ、ガスストーブを点けて、ベッドに寝転がって、朋子の帰って来るのを待つ。なんとなく、バーのホステスのヒモになったような惨めな気持になるのは、こんな時だった。
朋子は、新宿のバーで働いているのだが、冷たい感じの美貌と、大学中退のホステスということで、なかなか人気があり、月に三十万から四十万は稼ぐ。それがまた、朋子だけでなく、小牧をも駄目にしてしまっているところがあった。
待っているうちに、小牧は、いつの間にか、うとうとしてしまった。
玄関の物音で眼をさまし、腕時計に眼をやると、午前二時に近かった。
ベッドを下りて、玄関に出ると、そこに、泥酔した朋子が、俯伏《うつぶ》せに倒れて、ゲーゲーとやっていた。
アルコールの匂いが鼻につく。
酒の駄目な小牧は、顔をしかめながら、
「おい、しっかりしろ」
と、朋子の身体を抱きあげた。
朋子は、細い眼をあけて、小牧を見たが、
「うッ」
と、唸っただけである。
「仕方がねえな。こんなに酔っ払っちまいやがって」
小牧は小声で呟きながら、正体のない、重い朋子の身体をずるずるとベッドのところまで引きずって行き、仰向きに寝かせた。
朋子は、眼を閉じ、胸を、苦しげに上下させている。
その顔は、二十五歳よりも、五、六歳は老けて見えた。かつては、学園闘争の花といわれ、若々しい美しさを誇っていたのに、今は、まったく、その面影がなくなったみたいだ。
小牧は、水道の水でタオルをしぼってきて、火照《ほて》った朋子の顔を拭いてやった。
朋子が、細く眼を開けた。
「お水、ちょうだい」
「ああ」
小牧が、コップに汲んできてやると、朋子は、美味《うま》そうに、一息で飲みほした。ふうッと、大きく息をついてから、
「来てたのね」
「こんなことを毎晩やってたら、身体をこわしちまうぞ」
「いいじゃないの。あたしの身体なんだから」
朋子の眉が、ぴくりと動いた。この頃、彼女は、やたらに怒りっぽくなっている。
「そりゃあ、そうだが――」
小牧は、気弱くいった。
「それより、煙草ちょうだい」
「ああ」
小牧は唐木に貰ったケントを取り出して、朋子にくわえさせ、火をつけてやった。
朋子は、仰向けに寝たまま、煙草の煙を、天井に向かって吐き出した。
黙って、その煙草を吸い終ると、今度は、寝たまま、ドレスを脱ぎ出した。
思うようにボタンが外れないと、朋子は、いらいらしたように、引きちぎった。二つ、三つと、ボタンがはじけ飛んだ。
小牧は、あっけにとられて、裸になっていく朋子を見守っていた。
ブラジャーを外し、スカートとパンティを一緒に、荒っぽくずり下げた。大きくはないが、格好のいい乳房が、明りの下にむき出しになった。
「抱いていいわよ」
と、朋子は眼を閉じて、いくらか投げやりな調子でいった。
「そのために来たんでしょ?」
「無理するなよ」
小牧はそっと、掌で、むき出しになった朋子の大事な場所を蔽《おお》うようにした。
「何をいうの、別に無理はしてないわ」
「いいんだ。こうしているだけで、気持がいいのさ」
「変な人ね」
「ところで、今日、あの唐木に会ったよ」
小牧は、裸の朋子を抱くようにしていった。
朋子は眼をあけて、
「あのブルジョアに?」
「ああ。唐木は、僕と君に、ある計画に参加しないかと誘ったよ」
「どんな計画?」
「悪いことだとはいった。魅力的な悪だそうだ。そして僕と君には、プラスチック爆弾を作ってくれといっている。それを作って、どこかの警察署を爆破したいらしい」
「プラスチック爆弾?」
今まで、ぼんやりと光のなかった朋子の眼が、その時、急にキラリと光った。
「ああ、プラスチック爆弾だ。おい、どうしたんだ?」
と、小牧が当惑した表情になったのは、朋子が、急に、裸のまま、ベッドの上に立ち上ったからだった。
朋子は、そのまま、ベッドをおりた。
「どこへ行くんだ?」
と、小牧がきくと、
「シャワーを浴びてくるの」
「カゼをひくぞ」
「平気だわ」
朋子が、浴室に入ると、激しいシャワーの音が聞こえた。
十五、六分も、シャワーを浴びていたろうか。タオルを身体に巻きつけて戻って来た朋子は、昔の、あの生き生きした顔に返っていた。
朋子は、小牧の横にすうッと腰を下ろすと、
「唐木クンの計画というのを、くわしく話してくれない?」
「彼の話に乗る気なのかい?」
「ええ」
「しかし、失敗すれば、刑務所行きだと、唐木はいっていたんだ」
「成功すれば?」
「億単位の金が手に入るそうだ」
「面白そうじゃないの」
「面白い?」
「あたしね、八方ふさがりみたいな今の生活から抜け出せるのなら、どんなことでもしたい気持なのよ。それが、悪いことだって、危険なことだって、あたしは構わない。危険なら、かえって楽しいわ」
「なんだか、嬉しそうだね」
「ええ。なんとなく、昔の自分に帰れそうな気がするのよ、そう錯覚できるだけでも嬉しいわ」
朋子は、突然、失ってしまっていた若さを取り戻したような、輝く眼で、小牧を見つめた。
「あんたも、あたしと一緒に、冒険をしてくれるわね?」
2
小牧は、唐木に電話をかけた。
「彼女も承知したよ。君の計画に参加する。ただし、おれたちの青春を賭けるだけの冒険ならばということだけど……」
「その点は、保証するよ」
電話の向こうで、唐木がいった。
「これから、どうしたらいいんだ?」
「競馬場へ来たことがあるかい?」
「いや。マージャン以外の賭け事はやったことがないんだ」
「じゃあ、次の土曜日に、彼女を連れて、東京競馬場へ来いよ。たまには、馬を見るのもいいもんさ。時間は、午前中がいいな。午後になると混むからね」
小牧は、東京競馬場へ行く方法などを聞いてから、電話をきった。
次の土曜日、小牧は、朋子と一緒に、新宿から京王線に乗った。
寒い日だったが、よく晴れていて、冬空には雲ひとつなく、頭上には、青空が広がっていた。
「昼間、どこかへ出かけるなんて、久しぶりだわ」
と、朋子は、子供のように、はしゃいでいる。いつもの彼女は、人生に疲れきっているような顔だったのに、今日は、別人のようだった。いや、別人というより、自信と、希望に満ちていた、昔の彼女に返ったというべきかも知れない。
小牧は、改めて、目的を失った青春のみじめさというものを考えさせられた。
朋子は、大学を退学させられ、バーのホステスになった。だが、彼女をスポイルしたのは、ホステスになったことではない。
彼女の若さを賭けるべき目標が、失われてしまったからなのだ。
その証拠に、今日の朋子は、生き生きしているではないか。たとえ、それが、世の常識で悪と呼ばれるものであれ、目的があれば、若者は、生き生きとするのだ。
急行を東府中駅でおり、ここから府中競馬正門前駅までの一駅だけを走る電車に乗りかえた。
六両連結のこの電車に乗るのは、ほとんど、競馬場へ行く客だろう。まだ午前十一時前だというのに、どの車両も、満員に近かった。
終点の府中競馬正門前駅でおりると、人々は、もう駆け足になっていた。自然に、小牧と朋子だけが、一番あとから改札口を出る格好になった。
小牧もだが、朋子も、競馬場へ来たのは、初めてだった。
駅と競馬場の間を走る道路をまたぐ形で、屋根つきの陸橋が出来ていた。
二人はコンクリートのその橋を渡り、一人二百円の入場券を買って競馬場の中に入った。
小牧は、頭の中で、競馬場というのは、だだっ広いところに、馬の走る馬場と、見物席があるだけのものと、ばくぜんと考えていた。それは多分、テレビが、馬の走るところしか映さないからだろう。
だが、実際の競馬場は、前庭に、小さいながら噴水があったり、花壇があったり、子供用の遊園地があったりした。
正面に、コンクリート肌をむき出しにした建物が見えた。
地下二階、地上五階のその建物は東京駅のように横に広がっていて、その向こうにある馬場をかくしていた。
二人は、その建物に入った。
中は、薄暗く、蛍光灯が青白く光っていた。
まるで、横に長いトンネルといった感じのところに、払戻所や、二百円、五百円、千円の馬券売場の窓口が、何十、何百と並んでいた。
初めて競馬場へ来た小牧と朋子には、異様な光景に見えた。
ちょうどレースが開始されたところらしく、窓口に、人の姿がないので、よけいに異様に見えたのかも知れない。
馬券売場や払戻所が、ずらりと並んでいる。一階だけでも、二、三十はある感じだった。二階、三階にもあると聞かされ、いささか、うんざりしながら、二人は、一つ一つ見ていった。
どの部屋にも、二、三十人のアルバイトの女性が働いていた。唐木は、なかなか見つからなかった。
疲れて、建物の外に出た時、二人は、いきなり、背後から肩を叩かれた。
そこに、グリーンの制服に、グリーンの帽子をかぶった若い場内整理員が立っているのを見て、小牧と朋子は、なんとなく、びくりとしたが、その男は、ニヤッと笑って、
「おれだよ」
と、いった。
よく見れば、帽子をまぶかくかぶったその男が、唐木だった。
「あんたの計画というのは、この競馬場を襲うことじゃないの?」
朋子が、小声できいた。
唐木は、答える代わりに、腕時計に眼をやって、
「ちょうど十二時だ。食事にしないか?」
「それはいいが、君は勤務中なんだろう?」
小牧がきくと、唐木は笑って、
「交替で食事をとることになっているから大丈夫だよ」
といい、二人を、建物の二階へ案内した。
二階の外側には、ずらりと食堂が並んでいた。
その一つに、三人は入った。
ファンが、入れ替わり立ち替わり、食事に来る。誰もが忙しそうだった。予想紙を片手に、カツ丼や、ライスカレーをかき込んでいく人も多い。
食堂の床にも、外れ馬券が散乱していた。
「すごい人出ね」
朋子は、人いきれに、上気した顔でいった。
「これでも、今日は土曜日だから、少ない方だよ」
と、唐木がいった。
「明日の日曜日になれば、正面観客席に入りきれないファンが、馬場の中庭にまで一杯になる」
「ここだけは、世の中の不景気と関係がないみたいだな」
と、小牧は、小さな溜息をついた。
「ねえ」
と、朋子がまっすぐに、唐木を見つめた。
「あんたの計画というのは、ここの売上金を襲うことじゃないの?」
「そうだ」
唐木は、ニヤッと笑って、朋子を見、それから小牧を見た。
「目標は、五月の日本ダービーに置いている。この日は、ダービーの一レースだけで、百億円を越す売上げがある筈だ。もちろん、この中には場外や、他の競馬場での売上げが入っているが、それを引いても、ここだけで、少なくとも二十億から五十億円の売上げがあると睨《にら》んでいる」
「それを狙《ねら》うのね?」
朋子が眼を光らせた。
「そうさ。でかい目標だから、狙い甲斐《がい》があるだろう?」
「しかし、出来るのか? そんなことが」
小牧は、首をかしげて、唐木を見て、
「今日でも、ところどころに、警官や、黒っぽいユニフォームを着た警備員がいたし、ダービーの日は、もっと多くなるんだろう?」
「もちろんだよ。多分、ダービーの時には、二百人近い警官がやって来るだろうな。それに、中央競馬会の警備員が加わる」
「それに対して、僕たち三人が、立ち向かうというのか?」
「いや。今、仲間は、君たちを含めて六人いる。おれの計算では、もう一人必要だから、最終的には、七人になる筈《はず》だ」
「七人だって、たいして違わないじゃないか。とうてい無理だよ。たった七人で、ここの売上金を奪おうなんていうのは……」
「だから面白いんだよ」
唐木は、不敵に笑った。
食事をすませて、三人は、建物の外に出た。
人のいない花壇の方へ歩きながら、唐木は、自信満々に、二人に話した。
「誰もが、ここの売上金を狙っても駄目だと思っている。だから、今まで、競馬場を狙った者はいない。だが、おれは、そこが、かえって狙いどころだと考えたし、困難なら困難なほど、やり甲斐があると、おれは思っている」
「それには、あたしも賛成だわ」
と、朋子が、微笑した。
「敵が強力であればあるほど、あたしは、生き甲斐を感じるわ」
「しかし――」
小牧が、当惑した顔でいいかけるのを、唐木は、「まあ、聞けよ」と、押さえつけた。
「確かに、君のいうように難しいが、われわれに有利な点もある。第一、さっきもいったように、一度も、ここが襲撃されたことがないために、警備陣が油断をしていることだ。ここに入る時、身体検査をされたかい? 所持品検査をされたかい?」
「いや」
「つまり、プラスチック爆弾でも、拳銃でも、持込み自由というわけだよ。第二は、おれたちは若いということだ。他の三人も、おれたちと同じように若い。ただ若いだけでなく、頭も切れるし、冒険心もある。おれは、その若さを信頼しているんだ」
「もう一つ質問していいかい? これ一つでもう止める。これ以上は、何も聞かずに、君の計画に参加するよ」
「何を聞きたいんだ?」
「売上金は、金庫に納められるんだろう?」
「ああ、地下の金庫に一時保管されてから、取引銀行に渡されることになっている」
「どんな金庫か、見たことがあるのか?」
「いや」
と、唐木は、笑って、
「おれみたいなアルバイト学生に、大事な金庫をのぞかせる筈がない」
「じゃあ、計画を実行した時に、どうやって、その金庫を開ける気なんだ? ダイヤル式か、他の型式の金庫かもわからずに」
「あたしたちの作ったプラスチック爆弾で、金庫の扉を、爆破する気じゃないの?」
朋子が、そうでしょうというように、唐木の顔をのぞき込んだが、唐木は首を横にふった。
「プラスチック爆弾も使わないし、ピストルで、相手を脅して開けさせもしない。その方法が見つかったからこそ、競馬場の売上金を狙う計画を立てたともいえるんだ」
「どうやって、金庫を開けさせるんだ?」
「それは、適当な時期になったら話すよ。他の三人は、月末にでも紹介する」
「いいだろう」
小牧は、うなずいた。
朋子は、青空に向かって、大きく息を吸い込んだ。
「いい空気ね。ところで、あたしと小牧クンは、プラスチック爆弾を作ればいいのね?」
「時限装置も、ちゃんとした、正確なやつを作って欲しいね。計画通りに、事態が進展してくれないと困るからだ」
「それで、どこへ仕掛けるの? この間の話だと、警察署を爆破するみたいな話だったけど、それだと、この競馬場と、どんな関係があるの?」
「実際に仕掛ける場所は、四月末になったらはっきりする筈だ」
「なぜ、四月末に?」
「それまでに、いくつかの重賞レースが、ここで行なわれる。その時に、いろいろと、研究して、四月末までに、計画の細部まで決めるつもりだからだよ。ただ、今でもはっきりしているのは、プラスチック爆弾は、すべて時限爆弾で、最低三箇は必要だということだ。もちろん、その前に、出来あがったら、山の中で、爆破実験をしなきゃいけないが」
「その点は大丈夫だ」
と、小牧はいった。
「おれと、彼女にまかせておいて貰いたいな」
「その調子で頼むよ」
と、唐木は、笑って、痩《や》せた小牧の肩を叩いた。
「おれは、そろそろ、仕事に戻らなきゃならないが、君たちは、馬が走るのを見て行ったらいい」
唐木がいなくなってしまうと、小牧と朋子は、歓声の聞こえる馬場の方へ歩いて行った。
正面観覧席は、八分ぐらいの入りだった。それでも、四、五万人の客は入っているだろう。
二人は、観客席の端で、第八レースの発走を見守った。
五頭立てと、出走馬の少ないレースだったが、テレビで見るのと違った逞《たくま》しさと美しさを、眼の前を疾走して行くサラブレッドは、小牧と朋子に感じさせてくれた。
「サラブレッドが、こんなに美しいものだとは知らなかったわ」
朋子は、眼の前を走り去った五頭のサラブレッドの幻影でも追っているような眼をしている。
「サラブレッドは、人間が作りあげた最高の芸術品だというからねえ」
「ああいう馬に、大金を賭けたくなる気持が、わかるような気がする」
朋子は、くるりと、振り返って、観客席を見上げた。
(なんて鮮やかなコントラストだろう)
と、朋子は思った。
きれいに整備された馬場では、最高の芸術品であるサラブレッドが、美しく疾走した。
それと向かい合う観客席には、汚れた外れ馬券が散らばり、人々の欲望が渦巻いているのだ。
そうした人々の欲望を利用して、巧みに儲けている中央競馬会。
(売上金を強奪して、鼻をあかしてやるのも悪くはない)
と、朋子は、自分に向かっていった。大学一年のとき、戦った相手は国家権力だった。強大な国家権力という点では、今度も同じなのだ。
「あたし、やるわよ」
と、朋子は、改めて小牧にいった。
3
日曜日の午前十時半になると、必ず、二台のカメラをぶら下げて、東京競馬場に現われる青年がいた。
二台のカメラには、それぞれ、三〇〇ミリ、五〇〇ミリといった大きな望遠レンズがついている。
日曜日には、馬場の中庭にも観客を入れる。その青年は、地下通路を通って中庭に出ると、コーナーのところに陣取って、疾走するサラブレッドの写真を撮りまくるのである。
唐木は、一月に入ってから、その青年に声をかけた。
青年は、振り向き、場内整理員のユニフォームを着た唐木を見て、ちょっとびっくりした顔で、
「写真を撮っちゃいけなかったかな?」
「いや、かまわないさ。ずいぶん、熱心だね」
唐木は、微笑していい、ケントを取り出して、相手にすすめた。
ジャンパー姿に、毛糸の帽子をかぶった青年は、「悪いな」といって、一本を抜き取り、口にくわえた。
「僕は唐木だ。唐木拓郎。S大の四年だが、年だけはくっている」
唐木は、火をつけてやりながら、自己紹介した。
「じゃあ、アルバイトか?」
「ああ、日当四千八百円。安いもんさ」
「僕は工藤武四郎。売れないカメラマンだ」
と、青年はいい、白い歯を見せて、ニッと笑った。
「日曜日ごとに来てるみたいだが、馬が好きなのかい?」
「好きだね。本当は、馬がというより、動物が好きなんだ。いつか大金が手に入ったら、アフリカへ行って、自然の中の猛獣を撮りまくりたいと思ってる」
「アフリカか。どのくらい行っていたいんだ?」
「僕は凝《こ》り性だからね。行くとなったら、二、三年は、アフリカの奥地にじっくりと腰をすえて、心ゆくまで撮りまくりたいんだ。だから、金がかかる」
「その金を作るあてがあるのか?」
「ないねえ」
工藤は、他人事《ひとごと》みたいにいい、あははは、と愉快そうに笑った。
「今は、何してるんだ? サラブレッドの写真が、金になるのかい?」
「いや、これは、全然、金にならないよ。好きでやってるんだ。今、日本で、馬が全力疾走できるところといったら、競馬場ぐらいしかないからね」
「そりゃあ、そうだ」
「食うために、エロ写真を撮ったりしてる。なんとか食べてはいけるけど、あまり余裕はないな。二〇〇〇ミリの望遠レンズが欲しいんだが、中古でも手が届かない」
「じゃあ、金が欲しいだろう?」
「もちろん。今、手許に一千万円あったら、すぐアフリカにすっ飛んで行くよ。行ける日に備えて、五年間有効のパスポートを取ったんだけど、五年のうちに、果たして、念願のアフリカに行けるかどうか」
「行けるさ」
「君に保証して貰っても仕方がないけど、ありがとう」
工藤は、ニッと笑ってから、またファインダーをのぞき込んだ。
レースが始まり、七頭のサラブレッドが、二人のいる第三コーナーから、直線コースに向かって殺到してくるのが見えた。
工藤が、夢中になって、シャッターを切り続けている。
その間、唐木は、黙っていた。
レースが終った。
「馬券は買うのかい?」
と、唐木がきいた。
「いや。僕は、競馬はよくわからないから、買ったことはない」
工藤は、フィルムを交換しながら笑った。
「そいつはいい。儲かるもんじゃないからね。僕は、ときどき買うけどね」
「ただ、毎日曜日に、ここへ来て、馬の写真を撮っているうちに、いい馬と悪い馬の区別だけは、つくような気がして来たんだ。この間の京成杯のレースね」
「ああ。そのレースで活躍した四歳馬が、今年のダービーでも活躍することになる筈だ」
「あれで着外だったけど、ニシキホースという馬が、素晴らしいと思ったね。今年、ファインダーをのぞいた馬の中じゃあ、一番いいな」
「ほう。ニシキホースは、あまり評判になっていないがね」
「今もいったように、僕は競馬はよくわからないけど、いい馬だと思うんだ。好きな馬だよ」
「じゃあ、次に出た時には、買ってみよう。ところで、君とゆっくり話したかったら、どこへ行けばいいんだい?」
「四谷三丁目に、NJPというスタジオがあるんだ。たいてい、そこで働いているよ」
次の水曜日の午後、唐木は、四谷三丁目のNJPスタジオを訪ねてみた。
小さなスタジオだった。
窓がない面白い建物である。真四角で、全体が黒く塗ってある。写真のスタジオというのは、みんな、こんな感じなのだろうかと思いながら、唐木は、呼鈴《ベル》代わりにぶら下がっている木魚を叩いた。
しばらく待たされてから、ドアが開いて、トックリセーター姿の工藤が、顔をのぞかせた。
「ああ、君か」
と、工藤は、例の人なつこい笑いを口許に浮かべてから、
「よかったら、中へ入って、見ていかないか。今、面白い撮影をやってるから」
「いいのか?」
「かまわないさ。芸術写真を撮ってるわけじゃないんだ」
撮影中のスタジオに入ると、まばゆい明るさに、唐木は、眼をしばたたいた。窓がないのは、余分な太陽光線が入るのを防ぐためなのだろう。
スタジオの中央に、大きなダブルベッドが置かれ、その上に、二十歳《はたち》前後の若い女が二人、完全ヌードで抱き合っていた。
「ねえ。下になってるキミ子ちゃんヨ」
と、あごひげを生やして、カメラを構えた中年の男が、大声でいった。
「気分を出して、もっと大きく足を広げてちょうだいな。これは、お子様雑誌のグラビアじゃあないんだから」
「あたし、レズの経験がないから――」
と、キミ子と呼ばれた女の子が、クスクス笑い、それでも、ちょっと太目の両足を、ゆっくり広げていった。
「はい、キッスして」
あごひげの男が、妙に女性的な声でいった。
二人の女が重なった。
カシャッ、カシャッというシャッターの音が、スタジオにひびく。
「次は、|6《シツクス》 |9《ナイン》のスタイルでいくよ」
「女同士でも、69っていうの?」
上になっていた、やや年上らしく見えるモデルが、顔をあげて、あごひげにきいた。
「そりゃあ、いうんじゃないのかい。時間がないんだ、すぐ始めてヨ」
上のモデルが、身体をぐるりと回して、大きく広げたキミ子ちゃんの大事なとこに、顔をうずめた。
本当に、なめたのか、キミ子ちゃんが、「いやーん」と、甘い悲鳴をあげた。
外はまだ寒いのだが、スタジオの中は暑く、ヌードになっている二人のモデルの肌は、汗でキラキラ光っていた。
「なかなか楽しいじゃないか」
と、唐木が、小声でいうと、工藤は、苦笑して、
「かも知れないが、僕が撮りたいのは、動物の写真なんだ」
「こういうの、雑誌の依頼で撮ってるの?」
「まあね。自分のところに、専属のカメラマンがいないような群小雑誌だけどね。そんな雑誌に限って、注文がうるさいんだ」
「工藤ちゃん」
と、あごひげが呼んだ。このカメラマンは、誰に対しても、ちゃんづけで呼ぶらしい。
「次は、ストーリーがどうなるんだっけ?」
「ええと、強盗が入って来て、レズっていた二人を縛りあげ、無理矢理強姦するんでしたよ」
「そうだった。誰か、縛るロープを持って来てヨ」
撮影助手をやっていた十七、八の少年が、奥からロープの束を持ってきて、どさりと床に置いた。
あごひげは、そのロープをつまみあげてから、
「工藤ちゃん。キミ、強盗になってヨ」
「僕がですか?」
「いいじゃないの。キミに似合いだ」
「弱ったな」
工藤は、頭をかきながら、ベッドの方へ近づいて行った。
工藤がぎこちない手つきで、裸のモデルを、ロープで縛っていくのを、唐木は、微笑しながら眺めていた。
二人のモデルは、大仰に、「痛いワ」と叫んだり、身をよじったりしている。
なかなか楽しそうだし、同時に、どこか寂しい撮影風景だった。
若い女二人の体臭が匂ってくるようで、それが楽しいのだが、どこか寂しく見えるのは、工藤が撮りたい写真を撮っていないからだろうか。
一時間ほどで撮影が終り、唐木と工藤は、スタジオを出た。
冬の、早い夕闇が、街に立ち籠《こ》めていた。気の早いネオンが、もう、またたいている。
唐木は、新宿に出て、工藤を、日本料理屋に誘った。
座敷に通されてから、工藤は、心配そうに、
「こんなところ、高いんだろう?」
「たいしたことはないさ。今日は、僕がおごるから、安心して、なんでも注文してくれ」
「しかし、君だって、競馬場でアルバイトしてるくらいだから、たいして金は持ってないんだろう?」
「ところが、意外に持っているんだ」
と、唐木は、笑い、女中に、ふぐちりを注文した。それから、ビールを工藤に注いでから、
「僕は、ずっと、サラブレッドを撮っている君を観察していた」
「気がつかなかったな」
工藤は、笑って、コップを口に運んだ。
唐木は、煙草をくわえて火をつけた。
「それは、君が、写真に夢中になっていたからさ」
「なぜ、僕を観察していたんだい? 僕が競馬場の売上げを強奪するとでも思ったのかい?」
工藤が、笑いながらきくのへ、唐木も笑って、
「いや。君が、信用のおける人間かどうかを観察していたんだ。僕たちの仲間に入れても大丈夫かどうかのね」
「君たちの仲間?」
「ああ」
「どんな仲間なんだい?」
「みんな若い。僕や君と同じくらいの連中さ。そして、青春を何かに賭けようとしている」
「いいなあ」
「僕たちは、写真の専門家を必要としている。どうしても、われわれの計画にカメラマンが必要なんだ。それで、君を観察していたんだ」
「それで、僕は、君の眼に合格と映ったのかな? それとも、不合格だったのかい?」
「合格だよ。信頼のおける人間だと思ったよ」
「そいつはありがとう」
「問題は――」
と、いいかけた時、女中が、料理を運んで来たので、唐木は、口をつぐんだ。
四十五、六の女中は、「相変わらず寒いですわねえ」などといいながら、ガスをつけ、鍋《なべ》をのせた。
女中が退《さ》がると、唐木は、新しい煙草に火をつけてから、「問題は」と、もう一度いった。
「君が、僕たちの計画に参加してくれるかどうかということだ」
「楽しい計画なら、喜んで参加させて貰うよ」
工藤は、笑顔でいい、煮えてきたふぐや野菜を、小鉢にとって、食べ始めた。
「楽しいかどうかわからないが、はっきりしているのは、危険な仕事だということだ」
と、唐木はいった。
「危険でも、青春を賭けるに値《あたい》する仕事なんだろう? さっき、君は、そういった筈だが……」
「そうだ」
「じゃあ、少々の危険ぐらいは、どうってことないな。今は、いつ車にはねられるかわからない世の中だからね。危険なんて、日常生活の中にだって、ごろごろしている」
「だが、こちらから危険の中に飛び込んでいくのとは、少し違う筈だよ。覚悟が必要だ。そして、失敗すれば、間違いなく刑務所行きになる」
「まさか、銀行強盗でもしようというんじゃないだろうねえ?」
「そうだといったら?」
「えッ?」
工藤の箸《はし》を持っていた手が、宙で止まってしまった。
「まさか――」
「いや、本当だ。僕たちは、競馬場の売上金を狙っている」
「――――」
「この計画には、君の助力が必要だ」
「僕が嫌だといったら?」
「仕方がない。残念だが、諦めるよ」
「僕を殺さないのか?」
「そんな馬鹿な真似はしないさ」
「しかし、僕が、警察へ通報するかも知れないぞ」
「いいさ。ただ、そんなことをすれば、君は一生苦しむことになる」
「そうかも知れないな。だが、返事は少し待ってくれないか。あんまり思いがけない話なんで、即答は出来ないんだ」
「いいよ。次の競馬開催日に、返事をしてくれればいい。さて、食べるかな」
唐木は、ニコッと笑い、箸を取って、ふぐちりをつつき始めた。
4
一月二十三日の日曜日、AJC杯の日は、東京には珍しく、朝から粉雪が舞っていた。
東京競馬場の馬場も、建物の屋根も、開門の頃には、うっすらと雪化粧をしていた。
唐木は、ユニフォームに着替えると、白い息を吐きながら、カメラマンの工藤の姿を探した。
地下道を通って、いつも工藤が三脚を構えている場所へと行ってみたが、彼の姿はなかった。
昼近くになると、雪はやみ、雲の切れ目から陽が差し始めた。馬場はぬかるみ、重馬場になったため、本命が次々に着外に落ち、番狂わせが続出した。
天気が回復すると同時に、ファンの数も増えてきたが、工藤は、なかなか現われなかった。
(病気でもして姿を見せないのか、それとも、おれの提案に答えるのが怖くなって、来ないのか?)
唐木は、前者であって欲しいと思った。あの若いカメラマンは、唐木の計画にとって必要な男だったし、動物が好きで、アフリカで動物の写真を撮るのが夢だという工藤に、好感を持っていたからである。
しかし、最終のレースが終っても、工藤は現われなかった。
病気か、怯《おび》えたのか、唐木は、どちらか確かめる必要に迫られた。
翌日の月曜日の午後、唐木は、先日工藤と会ったスタジオへ、ポルシェ911Sを飛ばした。
スタジオの中では、相変わらず、ポルノ雑誌から頼まれた写真の撮影中だった。
だが、ここにも、工藤の姿はなかった。
ちょうど、撮影を終って、素っ裸の上にガウンをはおって、ベッドからおりて来た女に、
「工藤君に会いたいんだが――」
と、声をかけると、首の細いその女は、
「あたしも会いたいんだけど、ここ四、五日、全然顔を見せないのよ」
「自宅に行けば会えるかな?」
「だめね。アパートにも何回か電話してみたんだけど、彼、いないみたいだから……」
女の「彼」といういい方には、単なるカメラマンとモデル以上の親しさが感じられた。そんな女が、いないというのだから、自宅を訪ねても無駄であろう。
唐木は、スタジオを出て、自分の車に戻ったが、運転席に腰を下ろしたまま、しばらく行く先を考えていた。
工藤が見つからないとすると、太田涼子に会いに行こうか。ここ四、五日、彼女を抱いていない。
(彼女とも久しぶりに……)
そう決めて、吸っていたケントを踏み消した時、さっきの女が、ハーフコートにブーツという格好に着替えて出て来た。
唐木と車を見て、「あら」と声を出し、傍へ寄って来た。
「乗せて貰えない?」
「いいけど、どこへ行くんだい?」
唐木がきくと、女は、返事をする前に、さっさと、助手席に、身体を滑り込ませて来た。
「いい車ね」
「うん」
「あたし、三浦かおり。あんたの名前は?」
美しくマニキュアした指で、煙草を取り出して火をつけ、キラリと光る眼で、唐木を見た。美人というのではないが、表情の豊かな女だった。
「唐木拓郎。どこへ行くんだい?」
「どこへでも」
「どういうことだい?」
「今日は、なんとなくむしゃくしゃするの。だから、どこへでも行ってみたい気分なのよ」
「君のむしゃくしゃにつき合う気はないね」
唐木は、突き放すようないい方をした。
三浦かおりは、ちょっとびっくりしたような眼で、唐木をみた。
「あんたって、変わってるわね」
「そうかね」
「女が、どこへでも連れてってっていえば、普通の男なら、喜んで車をスタートさせるわよ」
「そして、夕食を一緒にして、シャンパンでも飲んで、感じのいいラブ・ホテルへでも行くのかい?」
「そんなところだけど」
「あいにくと、おれは、そういう予定のコースというのが嫌いでね」
「じゃあ、どういうのが好きなの?」
「ハプニング」
「えッ?」
「急に温泉に入りたくなった」
唐木は、車をスタートさせた。第三京浜へ出て、西に向かって走る。
「どこへ行くの?」
と、かおりがきいた。
「もっとも俗っぽい所さ。熱海だ。おりたければ、車を止めるよ」
「いいえ。あたしも、急に温泉へ入りたくなったわ」
夕闇が立ちこめる頃、二人を乗せたポルシェは、熱海に着いた。
沖の初島が、夕闇の中で、黒くシルエットになっていた。
唐木は、温泉旅館の一つに車を止め、かおりの意向も聞かずに、さっさと中へ入って行った。
彼女が帰れば帰ったでいいという気だったが、かおりは、唐木について旅館に入り、部屋へついて来た。
各部屋に温泉が引いてある。
「一緒に入るかい?」
と、唐木は、浴衣《ゆかた》に着替えながら、窓の外を見ているかおりにきいた。
彼女は、何かに心を奪われていたらしく、
「えッ?」
と、きき返した。
二度も、同じことをきくのは、唐木の性に合わないし、面倒くさい。
唐木は、黙って、浴室へ入って行った。
こんこんと湧き出ているお湯というのは、豊かな感じで、唐木は好きだった。
個室の風呂にしては、広い湯船に、唐木は身体を沈めた。
「うーん」と、湯の中で伸びをし、両手でお湯をすくってじゃぶじゃぶ顔を洗った。
浴衣に着替えたかおりが、ガラス戸を開けて、顔をのぞかせた。
「さっき、なんていったの?」
「なんにも」
「そう。背中、流しましょうか?」
「頼もう」
ざあッと、湯を流しながら湯船を出て、桶《おけ》に腰を下ろすと、かおりが、浴衣の裾をまくりあげながら入って来た。
かおりは、ぎこちない手つきで、唐木の逞しい背中を流しはじめたが、浴衣のまま、石鹸のついた唐木の背中にしがみついてきた。
しがみついたまま、唐木の耳許で、熱い吐息をはいた。
「どうしたんだ?」
唐木が、しがみつかれたままきくと、かおりは、彼の背中に、身体を強く押しつけるようにしながら、
「もう駄目」
「――――」
唐木は黙って身体をずらし、かおりを抱きかかえた。
濡れた浴衣が、肩からずり落ちて、やせているわりには豊かな乳房が、顔をのぞかせた。
かおりは、むさぼるように、唐木の唇を求めてきた。
どこか異常だった。
キッスしている間も、かおりの胸や腰が、唐木を求めて、せわしくゆれている。
唐木は、右手で、濡れた彼女の浴衣を引きはがした。浴衣の下には、何もつけていなかった。
唐木の手が、かおりの大事な茂みに触れただけで、彼女は、身体をそらせ、大きく喘《あえ》いだ。
「お願い」
と、かおりは、腰を動かしながら、唐木にいった。その声が、上ずっている。
「あたしをめちゃめちゃにして」
「いいとも」
唐木は、かおりの両太ももを抱えるようにして、自分の膝の上にまたがらせた。
かおりは、唐木の手を待つまでもなく、自分から、大きく両足を広げていった。
むき出しになった割れ目に、唐木が指を滑り込ませてみると、そこは、すでに、愛液があふれ、唐木が指先を動かすと、小さな音をたてた。
もう前戯など必要なかった。唐木は、両手を彼女の腰に回し、引き寄せながら、固く屹立《きつりつ》した自分のものを、荒っぽく当てた。
「あッ」
と、一瞬、かおりは、小さく声をあげたが、顔を、唐木の肩に埋めるようにして、
「入ったわ」
と、かすれた声でいった。そのいい方が、どこか普通の女と違っていた。
かおりは、唐木に強くしがみついて、腰を盛んに動かし始めた。
次第に、かおりの息遣いが荒くなってくる。急に、彼女は、唐木の胸に噛みついた。
かおりは、何度絶頂に達したろう。それでも、彼女は、あくことなく、また、唐木を求めてきた。
流しのタイルの上に、犬のように四つん這《ば》いになり、その格好で犯してくれともいった。なにか、自分から、めちゃくちゃになりたがっているようだった。
二時間近く、二人は、浴室で愛し合った。
さすがに、何回目かの絶頂《アクメ》のあと、かおりは、白い裸身を、長々とタイルの上に横たえて、動かなくなった。
唐木も、疲れた眼で、裸のかおりを見おろした。
「君は、工藤君の恋人じゃなかったのか?」
「――――」
かおりは、のろのろと、身体を起こし、もの憂い眼で、唐木を見た。
「こんな時に、なぜ、そんなことをきくの?」
「気になったからさ」
「あんたが気にしたって仕方がないわ。どうにもならないんだから」
「彼が好きなんだろう?」
「好きよ。大好きだわ」
「それなら、なぜ――」
「こんなところへ、のこのこついて来たかっていうのね」
「ああ」
「どうしようもなかったのよ。気持は、彼のことを考えたって、身体が、男を求めちゃうんだもの」
「工藤君だって、男じゃないか」
と、いってから、唐木は、
(ひょっとすると――)
と、思った。
工藤の顔は、まるで少年のようにすべすべしていた。唐木は、それを思い出しながら、
「彼、駄目なのか?」
「あたし、努力したのよ。がまんしようと思って、自分でマスターベーションしたわ。でも、四日も五日も、何もしないでいると、どうしようもなくなってしまうのよ。彼に申しわけないと、いつも思ってるんだけど」
「身体が男を求めてしまうのか?」
「そうよ、いけないとでもいうの?」
「いや、君みたいに若くて、健康な娘なら、仕方がないさ」
唐木は、工藤が、動物の写真を撮りにアフリカに滞在したいといったのを思い出した。工藤が不能とわかると、そのことと、アフリカの動物の写真のこととが、まったく新しい角度から見直されてきた。
二月に入ると、一時ゆるんだ寒さが、また厳しくなってきた。
二月六日の東京四歳ステークスの日、唐木が、整理員の腕章をつけて、中庭に出てみると、工藤が、あの四コーナーの近くで、三脚を立てていた。
唐木の口許に、自然に微笑が浮かんだ。
「やあ」
と、声をかけた。
工藤も、振り向いて微笑した。
唐木は、工藤に煙草をすすめてから、
「病気だったのかい?」
「いや。ひとりで静かに考えられる所へ行っていたんだ」
「そうか、結論が出たのかい?」
「ああ、考えがまとまったから、また、ここへ来たんだ。久しぶりに見ると、サラブレッドは、やはり美しいな」
「大金が手に入れば、あんな馬だって、自分で持つことが出来るさ。いや、アフリカの動物だって手に入る。今は、金さえあれば、どんなことでも出来る時代だからね」
「いや、アフリカの動物は、アフリカへ行って、撮りたいんだ」
と、工藤は、きっぱりといった。そんないい方に、彼の動物に対する愛情が感じられた。
「わかっている」
と、唐木はいった。
「それで僕たちの計画に参加してくれるのか?」
「ああ、参加させて貰うよ。くわしい話を聞かせてくれないか」
「それは、あとで話そう。それより、君に贈り物がある」
唐木は、急いでアルバイト控室に戻ると、大きな荷物を持って、工藤のところへ引き返した。
それを見て、工藤が、眼を輝かせた。
「二〇〇〇ミリの望遠レンズじゃないか」
「そうだ。君に使って貰いたくてね」
「高かったろう?」
「安くはなかったね」
「もし、僕が、君の計画に参加しないといったら、どうするつもりだったんだ?」
「きっと参加してくれると、確信していたよ」
と、唐木は笑った。
もちろん、工藤が、ノーといっても、二〇〇〇ミリ望遠レンズは、プレゼントする気だった。
彼の恋人を抱いたことへの贖罪《しよくざい》のつもりだった。しかし、工藤が計画に参加してくれるのなら、何もいうことはない。
(これで、七人全員が揃ったぞ)
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第三章 準備行動
1
次の水曜日の夕方、唐木は、全員を自分のマンションに集めた。
太田涼子
野々村明男
堀江卓
小牧洋三
森下朋子
工藤武四郎
そして、唐木の七人である。
唐木は、シャンパンを、みんなに振る舞った。
「これで、全員だ」
と、唐木は、六人の顔を見回していった。
「僕を入れて七人。縁起のいい数だ。みんな若く、頼りになる連中だよ。われわれの若さを持ってすれば、この世に不可能なことなんかあり得ない」
「やはり、狙《ねら》いは、ダービーの売上金かね?」
野々村が、大きな身体を椅子《いす》の上でゆすりながら、唐木を見た。
「その通りだ」
と、唐木はうなずいた。
「僕は、一回しか東京競馬場に行ってないんだが――」
遠慮がちに口をきいたのは、物理学専攻の学生、小牧だった。彼の手を、恋人の森下朋子が、握りしめている。
「何だい?」
唐木が、小牧を見た。
「あの日は、あまり大きなレースのない日だったが、それでも、入口のところに、無線機を持った警官が二、三人立っていたし、他にユニフォーム姿の警備員の姿も眼についた。それでも、たった七人で大丈夫なのかね? 断わっておくけど、僕は、怖《こわ》くなって、こんなことをいってるんじゃないんだ。ただ、出来れば慎重にやりたいと思ってね」
「ダービーの日には、警官はもっと増える。あそこは、府中署の管轄だが、そこから、二百人近い警官がやって来る。それに、中央競馬会の警備員が四、五十名。アルバイトの場内整備員は無視していいだろう。彼等は、おれと同じで、一日四千八百円で働いているんだ。そんな安い日当のアルバイト学生が、命をかけて、売上金を守りはしない」
「しかし、二百人近い警官や警備員を、どうするんだ?」
「そのことは考えてある。君と森下君は、プラスチック爆弾を完成して欲しいんだ。時限装置つきのやつをだ。いつまでに出来る?」
「二週間あれば一つ出来あがるだろう。全部で、三箇だったね?」
「一つは実験用だ。あとの二つを、ダービーの日に使用する。一応、銀行で百万円おろしてきたが、もっと要るようなら、すぐまたおろしてくる。これを一応、渡しておくよ」
唐木は、銀行の封筒に入った百万円を、小牧に渡してから、
「念のためにいっておくが、時限装置用の時計は、まとめて買わないでくれ」
「わかっている」
と、小牧はうなずいた。
唐木は、次にカメラマンの工藤に眼を向けた。一瞬、唐木の脳裡を、三浦かおりの笑顔が通り過ぎた。多分工藤を見るたびに、これからも、ちくりと良心が痛むかも知れない。
唐木は、小さく首を振ってから、
「君には、君の専門の写真を頼みたい」
「何を撮ればいいんだね?」
「競馬場の中に、中央競馬会のお偉方しか入れないところがある。本部事務所だ。その中に入って、写真を撮って来て貰いたい」
「しかし、あそこは、関係者以外立入禁止の札が出ているし、警備員がいて、僕たちは入れないよ」
「そのままではね。だが、これを見てくれ」
唐木は、さまざまなバッジや腕章の写真が出ているパンフレットを、工藤の前に置いた。
「それは、他の人も一応見て欲しいんだ。本部事務所の受付のところに貼《は》ってあったのを失敬して来たんだが、それにのっているバッジなり、腕章をつけた人間は、中へ入れてもいいという印《しるし》なんだ」
唐木のいう通り、バッジや腕章の写真の下に、「馬主章」とか、「報道関係」といった説明がついている。
「その中のどれか、報道関係者のバッジがいいな。それは、中央競馬会から支給されるものだが、同じものを作って、胸につければ、簡単に中に入れる」
「そのバッジは、あたしが作るわ」
と、いったのは、唐木の恋人の太田涼子だった。
「あたしね。彫金なんかのアルバイトをやったことがあるから、上手に作れると思うの」
「じゃあ、君に頼もう」
と、唐木がいうと、涼子の頬《ほお》が赤くなった。どんな小さなことでも、唐木の役に立つことが、涼子には嬉しかったのだ。
「写真を撮らないでくれといわれたらどうしよう?」
工藤がきく。
「たぶん、撮らないでくれというと思う。特に、地下金庫のある場所はね。だから、肩からさげたカメラは、最初から使えないと思った方がいいよ。君は、隠し撮りが得意かい?」
「得意じゃないが、やったことはある。出来れば、優秀なポケットカメラが欲しいな」
「ドイツのミノックスならどうだい?」
「あれなら十分だ」
「買っておいたよ。ミノックスのブラックボディだ。附属品も、だいたい揃えておいた」
唐木は、次に、ヘリコプター操縦士の堀江卓に眼を向けた。
「君にも頼みたいことがある」
「なんだい?」
堀江は、微笑しながらきいた。
「ヘリコプターを飛ばして貰いたいんだ」
「そりゃあ、ご要望があれば、いつでも飛ばすけど、どこへ行くんだ?」
「毎週日曜日、一定の時刻に、競馬場の上空を飛んで欲しいんだ」
「なぜ、そんなことをするんだい?」
「ダービーの日に、ヘリコプターが飛来しても怪しまれないためだよ。毎週日曜日に飛んでいれば、またかと思うからね」
「そりゃあそうだが一時間十万円だよ、借り賃は」
「わかっているさ。今からダービーの五月二十九日まで、毎週日曜日に飛ばしても、せいぜい百五十万円だろう」
「せいぜいとは、豪気だな。それで誰が乗るんだ? 毎日曜日、誰も乗せずに飛んだら、料金は貰っていても、会社は、妙に思うからね」
「おれが乗るよ。十五回も乗れば、操縦|桿《かん》の動かし方ぐらい、何となく覚えるだろう」
「覚えてどうするんだい?」
「万一、君が負傷でもしたとき、おれが、ヘリを動かす」
と、唐木は真面目な顔でいった。
野々村が、大きな身体で、貧乏ゆすりをした。
「おれは、何をしたらいいんだ? ダービーの日まで、何かやらせてくれよ。そうしないと、落ち着かないんだ」
「そうだな」
と、唐木は、ちょっと考えてから、
「君は、車の運転が出来るか?」
「免許は取ってあるが、ペーパードライバーでね」
「じゃあ、君の名前で、ライトバンを買い、運転の練習をしてくれ。操作性のいい中古車で、二〇〇〇CCクラスがいいな。その車と、おれのポルシェの二台を、今度の計画に使うつもりだ」
「金は、当然、君が出してくれるんだろうね。おれは、ご存知のようにカラッケツだからな」
「もちろん、おれが出す。いい車が見つかったら連絡してくれ。それから――」
と、唐木は、小牧に眼をやって、
「プラスチック爆弾が出来あがったら、時限装置ともども実験したいから、適当な実験場所を考えておいてくれ」
「わかったが、君の計画全体は、いつ話してくれるんだ?」
「それは、五月八日に話すよ」
「五月八日?」
「ダービー・トライアルという『NHK杯』レースのある日だ。おれは、自分の計画が万全かどうか確認したいんだ。そのあとで、みんなに話すよ。ヘリコプターをどう使うか、プラスチック爆弾をどこへ仕掛けるかも、その時に話す」
全員が了解して、帰って行ったのは、午前零時に近かった。
太田涼子だけが、ソファーに腰を下ろしたまま動かなかった。
唐木も、帰れとはいわず、黙って、ドアの鍵を下ろした。
「風呂に入るかい?」
と、唐木にいわれて、涼子は、はじかれたように立ち上り、
「ええ、あたしがわかすわ」
と、いって浴室へ入って行った。
唐木は、ソファーに腰を下ろし、ケントをくわえて火をつけた。
七人が集まったとき、唐木は、これはもう遊びではなくなったのだと、自分にいい聞かせた。
唐木一人の仕事なら、途中で放り出しても構わないし、失敗してもいい。だが、六人の男女が、彼の計画に参加してくれた今、途中で止めることは出来ないし、失敗も許されなくなった。
必ず成功させなければならない。
ふいに、足先がくすぐったくなって、現実に引き戻されると、風呂の火をつけて戻って来た涼子が、唐木の足許にひざまずいて、彼の足にキッスしているのだった。
「ごめんなさい。あたし、忘れてしまって」
と、涼子が、唐木を見上げていった。
「何をだい?」
「あなたに貰った首環。だから、ぶって下さい。ご主人様」
「いいんだよ、そんなことは」
唐木は、手を伸ばすと、涼子の顔をはさむようにして、唇を合わせた。
長いキッスのあとで、唇を離すと、涼子は、急にポロポロと涙を流した。
唐木が驚いて、「どうしたんだ?」と、きくと、涼子は、泣きべそをかいたような顔を向けて、
「あたしね。自分では、ずいぶん、勝気だと思ってたんだけど、夜中なんか、フッと、あなたのことを考えたりすると、なぜだか知らないうちに、ポロポロ涙が出て来ちゃって」
それは、彼女らしい愛の表現だった。
唐木は、黙って、涼子の髪をなぜた。涼子が、その手を押しいただくようにして、唇を押し当てた。
小さい浴槽は、二人が一緒に入ると、湯が溢れ出た。
「膝の上に乗っかれよ」
と、唐木は涼子にいった。
涼子はちょっと恥ずかしそうな表情を作ってから、お湯の中で、もぞもぞと身体を動かし、唐木の膝の上に、またがるように坐り、彼の首に両手を回してきた。
唐木は、軽く唇を押し当ててから、
「少し痩《や》せたんじゃないか?」
と、涼子の肩のあたりをなぜながらきいた。
「ちょっと痩せたみたい。あなたが太った方が好きなら、太るわ。うんと食べて」
唐木の逞《たくま》しい身体に、かじりつくようにしながら、涼子がいう。
「今のままでいいさ」
と、唐木は微笑した。
湯船を出ると、唐木は、
「洗ってやろう」
と、涼子にいった。
「いいえ、あたしが、洗ってあげる。背中をこっちに向けて」
「じゃあ、お互いに洗いっこしようじゃないか」
唐木は、子供のような、いたずらっぽい眼となった。
スポンジに石鹸をつけ、向かい合って、お互いの身体を洗い合う。
やわらかいスポンジが、乳房や、腋《わき》の下や、太もものあたりをなぜるたびに、涼子は、くすぐったそうに身体をよじった。
全身に石鹸を塗りたくったあと、唐木は、スポンジを投げ捨てると、
「おいで」
と、涼子を強く抱き寄せた。
石鹸を塗った裸身は、奇妙なものだ。
涼子は、彼女の方からも、唐木の肌に、自分の肌をこすりつけるようにしながら、
「こういうの、トルコ風呂で、泡踊りというんでしょう?」
「なぜ、そんなことを知っているんだい?」
「いろいろ、週刊誌なんかで読んだりしたの」
以前の涼子は、男の気に入られようなどと考えたことはなかった。男女の仲で、奉仕するのは、男の方だと信じていたからである。
それが、唐木を知ってから、がらりと変わってしまった。
今は、ひたすら、唐木に気に入られたいと思う。セックスのとき、どうすれば、男が喜ぶのかと、週刊誌を読んだりもするようになった。
弱い女になってしまったと思いながら、涼子は、そのことを後悔していなかった。むしろ、嬉しかった。
身体をこすり合わせていると、次第に、肉体がうずいてくるのが、涼子にもわかった。唐木のものも、大きく硬直して、彼女の太ももの付け根あたりに触れてきた。
ふいに、硬いものが、涼子の局部に侵入しようとした。
反射的に、涼子は、唐木の胸を噛んだ。
「いいのか?」
と、唐木が、涼子の耳許でささやいた。
「えッ?」
「あれをつけてないぞ」
「え、ええ」
と、涼子は、うなずき、彼女の方から腰を押しつけながら、
「かまわないわ。あたし、あなたの子供が欲しいの」
子供が欲しいという気持になったのも、はじめてだった。
今は唐木のものなら、なんでも欲しい。
2
二月十三日「東京新聞杯」の日は、朝から、抜けるような青空だったが、それだけに、北風が冷たかった。
唐木は、早朝の甲州街道を、調布飛行場へ向かって、ポルシェを飛ばした。
飛行場へ着いたのは、八時少し前だった。
白い息を吐きながら、迎えに出てくれた堀江が、
「ご苦労さんだね、こんなに早く」
と、笑いながらいった。
「競馬場の方を休めないから、こんなに早く飛ぶのかい?」
「それもあるが、問題のダービーの日にも、同じように早く飛んで貰いたいからだ。午前八時三十分に、競馬場の上を飛ぶようにしてくれ」
「OK」
堀江は、唐木と肩を並べて、ヘリコプターに向かって歩いて行った。
操縦席に、並んで腰を下ろした。
「ヘリは、女と同じさ」
堀江は、計器を点検しながら、唐木にいった。
「それも、非常にデリケートな女だ。優しく扱えば、よくいうことを聞くが、乱暴に扱うと、すぐヒスを起こす」
「女といえば、まだ、何とかいう未亡人とつき合っているのか?」
唐木がきくと、堀江は、返事をせずに、エンジンを始動させた。
回転翼が、ゆっくりとまわり始めた。それが、次第に早くなり、機体が振動した。
堀江は、やや乱暴に、ヘリをスタートさせた。
一〇〇メートルほど上昇したところで、堀江は「ああ」と、やっとうなずいた。
「いい女《ひと》さ」
「君がつき合っているんだから、悪い女とは思わないよ」
「じゃあ、いいだろう。彼女には、今度のことは、何も話してないし、おれは、彼女と結婚する気もない。向こうも同じさ。わりきってつき合ってるんだ」
「愛しているのか?」
「わからん」
「彼女の方は?」
「おれを好きだとはいっているよ」
「ふだんなら、おめでとうといいたいがね。今回に限り、要注意だな」
「何だって?」
「おれは、こんなことを考える。神さまは、男に理性を与え、女に直感力を与えたとね」
「新しいお伽話《とぎばなし》かい?」
「女の怖さをいってるんだ。どんな馬鹿な女でも、利口な男より直感力はすぐれている」
「それで?」
「君の未亡人さ。君が何もいわなくても、彼女は直感で、何か気付くかも知れない。もう一つ。女の愛情ってやつは、盲目的で、一直線だ。自分の愛する男のことしか考えない。純粋といえば、これ以上純粋な愛情はないだろうが、君だけを助けるために、他の者を警察に売るかも知れない」
「君は、おれに、彼女と手を切れというのか?」
「おい、あまりゆらさないでくれよ」
と、唐木は、笑ってから、
「おれは、人にあれこれ指図するのは嫌いだし、指図されるのも大嫌いだ。ただ、今度の計画には、七人の将来がかかっている。だから失敗させたくないんだ。それだけさ」
「わかったよ。気をつけよう」
堀江は、機首を東京競馬場に向けた。すぐわかり合えるのが、男同士のいいところだ。
正確に、八時三十分。二人を乗せたヘリコプターは、競馬場の上空に到着した。
開門は、午前十時だから、まだ、観客席も、競馬場も、閑散としている。
だが、競馬場前の駐車場は、すでに混み始めていた。
「OK、もう引き返してくれ。毎日曜日、午前八時三十分に、ヘリコプターが現われることを印象づければいいんだ」
と、唐木はいった。
調布飛行場に引き返すと、唐木はポルシェに飛び移り、フルスピードで、東京競馬場に向かった。
間に合った。
場内整備員のユニフォームに着替えて、馬場の方へ歩きながら、唐木は、大きく深呼吸した。
昼近くなって、ジャンパー姿の工藤が、肩から二台のカメラをぶら下げて、門を入って来た。
胸のところに、報道関係者を示すバッジをつけている。太田涼子が、一日がかりで作ったものだった。
「ピッタリだよ」
と、唐木は、工藤の肩を叩いた。
「誰が見たって、新聞社のカメラマンに見えるよ」
「もともと、カメラマンだからね」
と、工藤は笑ったが、さすがに、その顔は、蒼白《あおじろ》かった。笑いが、顔全体に広がっていかないのだ。
無理もないと思いながら、唐木はその緊張をほぐすように、
「小型カメラは、いったいどこにあるんだい?」
と、歩きながらきいた。
「ジャンパーの内側に取りつけてある。ほら、この胸のところに、小さな穴があいているだろう。ここにレンズがあるんだ。シャッターと、巻きあげは、ジャンパーのポケットの中から操作できるようにした。多少ぶれるかも知れないが、上手《うま》く撮れる筈《はず》だ。試し撮りをしてみたが、成功したよ」
「そいつはいい。ただ、ジャンパーが台無しだ」
「そうでもないさ。動物の隠し撮りをするとき使えるさ」
唐木と話している間に、だいぶリラックスしてきたらしく、工藤は、いつもの彼らしく、柔らかい微笑を口許に浮かべた。
これなら大丈夫だろうと思い、「頼むよ」と、工藤にいった。
工藤は、カメラ二台をぶら下げた肩を、ひとゆすりしてから、本部のドアを押して、中へ入った。
関係者以外立入禁止の場所である。
受付の女の子が、顔を上げて、工藤を見た。
「やあ」
と、工藤は、自分の方から、手をあげて見せた。
エレベーターの前に、黒っぽい制服姿の警備員が二人、立ち話をしていたのが、急に、工藤の方を見た。
工藤の腋《わき》の下から、思わず冷汗が流れた。
「どなたでしょうか?」
と、受付の女の子が、工藤にきいた。
工藤は、胸のバッジを、彼女に見せるようにしながら、
「週刊××の者だけど、今日、広報部長さんに会って、いろいろ聞きたくてね」
「じゃあ、電話して、部長の都合を聞いてみましょうか?」
「いいんだ。昨日、電話でOKをとってあるんだ」
と、工藤はいい、腕時計に眼をやって、
「十二時までに来てくれといわれてたんだ。少し遅れちまったかな。確か二階だったね?」
わざと早口にいった。
女の子は、釣られた格好で、「ええ」とうなずき、「どうぞ」と、エレベーターを指さした。
工藤は、「ありがとう」と、手をあげていい、エレベーターに向かった。
二人の警備員が、また、ちらりと工藤を見た。
「ご苦労さん」
と、工藤の方からいって、エレベーターに乗った。警備員たちは、何もいわなかった。
何よりも見たいのは、地下の金庫だが、今の警備員が、エレベーターの表示ランプを見ている恐れもあった。
そこで、まず、二階のボタンを押し、そこに着いたところで、また、地下二階のボタンを押した。
工藤を乗せたエレベーターが、ゆっくり降下してゆく。
馬場の喧騒《けんそう》も、この箱の中までは聞こえて来ない。
エレベーターが止まり、ドアが開いた。
蛍光灯に照らされた廊下が、長く続いている。
そのところどころに、エレベーターがあるのは、各所の馬券売場から、売上金をおろしてくるエレベーターだろうか。
ふいに、眼の前に、警備員が二人見えた。
その背後に、太い鉄格子のはまった部屋があった。
大きなテーブルが並べられ、数人の職員が、テーブルの上の札束を数えていた。その向こうが、巨大な金庫だった。
「困るね。君ッ」
と、警備員の一人が眉を寄せて、工藤に怒鳴った。
「私は、週刊××の――」
工藤は、しゃべりながら、ジャンパーの内側に取りつけたミノックスカメラのシャッターを、次から次へと切っていった。
「報道関係者も、ここは、立入禁止なんだ」
「でも、ちょっと見せてくれませんか? その鉄格子の中に入らせて貰えないかなあ」
「駄目だ。すぐ帰りたまえ」
二人の警備員が、怖い顔になって、迫ってきた。
工藤は、「わかりましたよ」と、後退しながらも、ミノックスのシャッターを押していた。
その夜、工藤は、自分のアパートの暗室で、写してきたフィルムを現像し、引き伸ばしてみた。
ポケットカメラなので、カメラぶれが一番心配だったが、そう心配したこともなく、かなり上手く撮れている。
粒子の荒れるのを我慢して、全部を四つ切りの大きさまで引き伸ばした。
二人の警備員も、鉄格子のはまった部屋も、その中で働いている職員も、彼等の向こうにある金庫も、ばっちり写っている。
電話が鳴ったので、暗室を出て受話器をとると、唐木からだった。
「どう? 上手く撮れたかい?」
と、唐木がきいた。
「まあまあだよ」
「すぐ見たいな」
「明日、急いで、君のところへ持って行くよ」
と、いって電話を切ったが、また、すぐ鳴った。
今度は、三浦かおりからだった。一番嬉しい相手でもあり、同時に、一番|辛《つら》い相手でもあった。
「今日、一日中、電話してたの」
と、かおりは、かすれた声でいった。
「今日は、競馬場へ行ってたんだ」
「馬の写真を撮りにでしょう?」
「ああ」
「そうだと思ったんだけど、どうしても、工藤さんの声が聞きたくて」
「うん」
「これから、そっちへ行っていい?」
「いいよ」
「ありがとう」
「ありがとうなんておかしいよ」
「でも、嬉しいから――」
電話の向こうのかおりの声が、ふっと、涙声みたいになった。
かおりは、夜の町を、タクシーを飛ばしてやって来た。
彼女は、白い息を吐きながら、工藤の部屋に飛び込んで来ると、いきなり、彼の胸にしがみついた。
「どうしたんだい?」
工藤は、相手の荒々しい行動に戸惑いながらきいた。
「黙って、しっかりあたしを抱いて」
と、かおりはいった。
「わかったよ」
工藤は、腕に力をこめて、かおりを抱きしめた。
どのくらい、そうしていただろうか。やがて、かおりは、服を脱ぎ始めた。
パンティも取って、文字どおり真っ裸になると、布団の中にもぐり込んだ。そして、掛布団から眼だけ出して、
「工藤さんも、裸になって」
と、いった。それだけいうと、恥ずかしそうに、また、もぐりこんでしまった。
工藤も、裸になって、布団の中に入ると、しっかりと、かおりの裸身を抱きしめた。
そのまま、じっと抱き合ったまま、工藤も、かおりも黙っていた。
工藤は、これ以上、自分が何も出来ないことを知っている。
指や、舌で、女を愛撫する方法を知らないではなかった。前戯としてなら、工藤は、喜んでやったろう。
だが、工藤の場合は、それが全てになってしまう。
(ごまかしではないか)
という意識が、工藤に、何もさせないのだ。かおりは、じっと眼を閉じていた。
(あたしは、この人を愛している)
と、かおりは暗闇の中で、自分にいい聞かせた。
こうして、じっと工藤に抱かれていると、幸福だった。自分をいつわっているわけではない。
本当に幸福なのだ。
だが、この幸福が、長く続かないことも、かおりは知っていた。
二十一歳の若い彼女の肉体が、その心を裏切ってしまうのだ。
欲望が高まってくると、かおりは運動に熱中して、それを発散させようとしたこともある。マスターベーションもしてみた。
だが、駄目だった。
この間は、ふらふらと、工藤に会いに来た、唐木という男に抱かれてしまった。
「許してね……」
と、かおりは、眼を閉じたまま、小さい声で呟《つぶや》いた。
「工藤さん、ごめんなさい」
3
唐木は、自分のマンションで、工藤の撮ってきた地下金庫の写真を見た。
リビングルームのグリーンのじゅうたんの上に、まるで、トランプでも並べるように、二十枚近い写真を並べ、一枚ずつ見ていった。
「よく撮れている」
と、唐木は、何度もいった。
「さすがは、プロだよ。たいしたもんだ」
「だけど、こんな写真が役に立つのかね?」
工藤が、首をかしげて、唐木を見た。
「なぜ?」
「確かに、これには、地下金庫が写っている。だが、この写真じゃあ、金庫の開け方だってわからないぜ」
「いいのさ。地下の様子さえわかればいいんだ。あとのことは、おれに考えがある」
「それならいいんだが、警戒は厳重だぜ。他に、僕が五月二十九日までにやることは?」
「もう一つ、頼みたいことがある」
「いいよ、なんだい?」
「五月二十九日のダービーの日に、おれたちは、競馬場の電線も、電話線も切断するつもりだ。だが、あるいは、誰かが一一〇番するかも知れない。その時の警察の反応が知りたいんだ」
「どうやるんだ?」
「あの競馬場へ、警察が駆けつけるとすれば、府中警察署からだろう。そこで、君に、ある時刻に、府中署の前で、監視していて貰いたい。例の二〇〇〇ミリの望遠レンズ付きのカメラを持ってだよ。モータードライブ付きのカメラなら、一分間に何枚もの写真が撮れるだろう?」
「ああ。それに、二〇〇〇ミリを使えば、かなり離れた場所から、目的の写真を撮れるよ。相手に気付かれずにね。それで、いつやるんだ?」
「三月いっぱいは、東京競馬場でのレースがない。だから、二月最後のレースの日にやることにする。午後三時ちょうどに、おれが、競馬場内の赤電話から一一〇番する。強盗に襲われたといってね。君は、その時刻に、府中署の正面に向けて二〇〇〇ミリの望遠レンズを構え、警察がどんな動きを示すか、写真を撮る」
「OK」
「その時には、もう一度、朝に連絡するよ。ところで、君の恋人は、元気かい?」
「かおりなら元気だ。アフリカに行く時は、一緒に行ってくれるといってくれた」
「そいつはいい。出来れば、おれたちの計画の前日くらいに、彼女を、先にアフリカにやっておいた方がいいね。君も、航空券を買っておいて、仕事が終り次第、羽田からアフリカに発っていい。その方が気楽だろう」
「ああ。その方が、僕も有難い」
工藤の眼に、何かが走った。それは喜びの色のようでもあり、苦痛のようでもあった。
(こいつは、三浦かおりと一緒にいる限り、苦しむだろう)
と、唐木は工藤を送り出しながら思った。
(だが、彼女がいなくても苦しむんだ)
二月の十五日になって、小牧洋三と森下朋子の二人から、プラスチック爆弾の最初の一つが出来たと知らせて来た。
「それで、実験をしてみたい」
と、電話の向こうで、小牧がいった。
「おれも、そうして貰いたいよ」
と、唐木はいった。
「車で迎えに行く」
唐木は、落ち合う場所を決めてから、ポルシェを、甲州街道に向かって飛ばした。
暦の上では、立春を過ぎたとはいえ、まだ、底冷えのする日がある。
今日は、からりと晴れて、明るい太陽の光が降りそそいでいたが、それだけに、風が冷たかった。
小牧と朋子の二人は、代田橋近くで、身体を小きざみにゆすりながら、唐木を待っていた。
唐木は、二人を乗せて、車を、西に向けて走らせた。
「時限爆弾も、持って来てくれたかい?」
唐木は、車を走らせながら、二人にきいた。
助手席の小牧が、薄いサングラスの眼を向けて、
「目覚まし時計を利用したものにした。原始的だが、確実だよ」
「威力は?」
「計算上は、一〇トントラックを、一五メートル持ち上げるだけの威力がある」
「よくわからないな」
「実験してみればわかるさ。威力不足だったら、量を増やせばいいんだ。他の連中は、どうしてるんだ?」
「めいめい、与えられた役目を遂行しているよ」
「それならいいんだが……」
小牧は、奥歯に物のはさまったようないい方をした。
唐木は、一瞬、眉を寄せて、
「何か心配なのか?」
「そういうわけじゃないが」
と、小牧は、言葉を濁したが、リア・シートにいた朋子が、
「あたしがいうわ」
と、身を乗り出すようにした。
唐木は、バックミラーの彼女に眼をやった。
「考えていることがあったら、遠慮なくいってくれ」
「仲間は、みんな信用しているわ。みんな頭が良さそうだし、羞恥心《しゆうちしん》にも富んでいるようだから、ただ、そのう」
「ただ、なんだい?」
「一人だけ、どうも信頼がおけない人がいるのよ」
「誰だい?」
「一番身体の大きい人」
「野々村か」
と、唐木は、微笑した。
「あいつは、頭は弱いが、力はある。それに正直だ。おれのいった通り、ちゃんと、中古のライトバンを買って、毎日、運転技術を磨いているよ」
「車は、トヨタのクラウン。色はブルー」
「知っているんなら、別に文句はないだろう?」
「この間、彼が、その車を運転しているのを見たのよ。二人でね」
「それで?」
「助手席に女を乗せていたわ。あれは、どう見たって、バーのホステスか何かね」
「バーのホステスか」
「楽しそうに、ニヤニヤ笑いながら、車を走らせてたわ。女の方は、彼の肩に身体をもたせかけちゃって。あれは、ダービーの日に備えて運転技術を磨いているというより、女といちゃついてるって感じだわ」
「わかった」
と、唐木は、渋い顔でいった。
「今度会ったら、注意しておこう」
「それがいいわ。あたしたちの学生運動が駄目になったんだって、内部崩壊が原因だったんだから」
朋子が、女にしては、硬い声でいった。
唐木は、八王子を通り過ぎた小さな山の麓《ふもと》で、車をとめた。
この辺りには、数日前に降った雪が、まだ、点々と残っている。
人の気配もなく、ひっそりと静かである。ときどき「どかーん」と、空気をふるわせる音が聞こえるのは、近くで、土木工事でもやっているのだろう。
三人は、車をおりた。
小牧と朋子の二人は、プラスチック爆弾の入った鞄《かばん》をぶら下げ、唐木は、車のトランクから、長さ一メートルほどに切断した鉄管三本を取り出して、肩にかついだ。
「なんだい? それは」
と、小牧が、山道を登りながらきいた。
「東京競馬場には、外部から電気が送られている。それが、この鉄管さ。この中を電源が走っているんだ。電話線も同じようにして、外部から伸びている。プラスチック爆弾で、この三本の鉄管がぶちこわせれば、一瞬にして、東京競馬場は、機能を停止するわけだよ」
「なるほどね」
小牧は、唐木のかついでいる鉄管に触れた。
「直径約一〇センチ。厚さ約三ミリか」
「ぶちこわせるか?」
「さあ。やってみないとわからないな」
三人は、頂上近くの、薄暗い林の中に入って行った。
いぜんとして、人の気配はない。
「この辺でいいだろう」
と、唐木は、かついでいた鉄管を、下におろした。
小牧が、鞄をあけて、プラスチック爆弾を取り出した。
唐木は、プラスチック爆弾を見るのは、初めてだった。プラスチックという言葉から、硬質な、キラキラ光る特質を想像していたのだが、小牧が取り出したのは、白っぽい粘土にしか見えなかった。
小牧は、それを、両手でこねて、丸めたり、伸ばしたりして見せた。
「プラスチック爆弾の長所は、どんな形にでもなるということだよ。だから、持ち歩いても、見つかることが少ない」
「そんなことをしていて、爆発しないのか?」
「起爆装置がなければ、これ自体では爆発しないよ」
と、小牧は、笑ってから、雷管や、時計や、コードを取り出した。
また、山の向こうで、「どかーん」と、爆発音が聞こえた。
「あれに合わせて、実験をやろう」
唐木は、腕時計を見た。
土木工事の爆発音は、正確に十分毎に聞こえて来た。
土を掘り、まず、三本の鉄管を、しっかりと埋めた。それにプラスチック爆弾を押しつけ、雷管を取りつける。電池式雷管である。それも小牧が作ったのである。
小牧は、自分の腕を信じて、平然と作業を進めているが、唐木は、知らないうちに、腋《わき》の下に汗が流れていた。作業中に、どかーんといったら、それで全てが終りなのだ。
(ここに、三人の死体と、ぶっこわれた鉄管が転がっていたなら、警察は、どう考えるだろう?)
多分、謎解きに四苦八苦するだろう。そう考えたら、唐木は、落ち着いてきた。
「どかーん」
と、また、爆発音が聞こえた。
小牧が、スイッチを入れた。時限装置を使った目覚まし時計が、鋭い音で、時を刻み始めた。
三人は、林の入口まで後退し、大きな岩のかげにかくれた。
気を鎮めるために、唐木は、煙草に火をつけた。小牧と朋子も、もぞもぞと、煙草を取り出している。
「あと十六分」
と、朋子が、腕時計を見ながら、小さい声でいった。
「あと十五分」
唐木は、小牧と、森下朋子の腕を疑うわけではなかったが、上手《うま》く爆発するだろうかという危惧を感じた。
「あと一分」
「耳をおさえろ!」
と、小牧が怒鳴った。
唐木が、耳をおさえて、地面に身を伏せた。
その瞬間、周囲の空気が、激しく震動した。耳をおさえていても、凄《すさ》まじい爆発音が、耳朶《じだ》を打った。土煙が吹きあがった。
しばらくして、三人は、立ち上った。林の奥では、まだ、土煙が消えていない。
三人は、枯葉をふみしめながら、奥へ歩いて行った。硝煙の臭いが、鼻をついた。直径一二、三センチの樹が五、六本、折れてしまっている。
「すごい破壊力だな」
と、唐木は、いくらか蒼《あお》ざめた顔で呟《つぶや》いた。
「予想どおりさ」
小牧は、満足そうにいった。
針金で束ねて、地中に埋めておいた三本の鉄管は、ひん曲って、数メートル先に転がっていた。
プラスチック爆弾を押し当てた部分には、ぱっくりと亀裂が生じていた。中に入れておいたコードも、ぷっつりと切れて、焦《こ》げている。
「実験は成功だ」
と、唐木は、初めてニッコリ笑い、小牧と朋子の肩を叩いた。
そのあと、二人を、車で自宅まで送り届け、唐木が、自分のマンションに戻ったのは、午後七時に近かった。
ストーブをつけ、ソファーに腰を下ろして、ビールで一人で乾杯した時、電話が鳴った。
受話器を取ると、太い男の声で、
「唐木さんですね?」
と、きいた。
「そうですが――」
「こちらは、府中警察署ですがね」
「府中警察署?」
思わず、唐木は、息を呑んだ。が、すぐ、落ち着きを取り戻した。まだ、何もやってはいないのだ。今日の実験にしても、唐木の仕業とわかる筈はない。
「何の用ですか? 警察が」
と、きくと、
「野々村明男という男を知っていますか?」
「友人です」
「じゃあ、引き取りに来て下さい」
「彼が、何かやったんですか?」
「女のことで、土地の不良と大立回りをしたんですよ。一人が奥歯を二本折って、一人が、全治一週間の打撲傷だ」
「野々村は?」
「顔がはれているだけですよ」
「すぐ行きます」
と、いって、電話を切ってから、唐木は、やれやれと思った。朋子の心配が、はやくも現実になったのである。
だが、唐木は、どうしても、あの図体の大きな野々村が憎めなかった。
おっちょこちょいなのだが、人はいいのだ。多分、七人の中では、一番、好人物だろう。
唐木は、夜の甲州街道を、府中警察署に向かって、白いポルシェをすっ飛ばした。
4
唐木は、緊張した顔で、府中警察署に入って行った。三か月後には、ここの刑事と一戦まじえることになるかも知れないからである。
制服姿の警官が、出たり入ったりしている中を、唐木は、受付と書かれたところに行き、そこにいた中年の警官に、来意を告げた。
「そこで待っていなさい」
と、髪のうすくなった警官は、廊下のベンチを指さした。
唐木は、ベンチに腰を下ろし、煙草に火をつけた。
何気なく、周囲を見回す。警察というところは、がやがやと、うるさい所だ。喧嘩でもしたのか、血だらけの若者が二人、警官に連行されて来た。かと思うと、そば屋が出前を運んで来る。
五、六分待たされて、二階から、警官に付き添われて、野々村が下りて来た。唐木の顔を見ると、野々村は、大きな身体を縮めるようにしながら、
「すまない」
と、いった。堂々たる身体だけに、そんな姿が、いっそう、こっけいに見えた。
唐木は、怒るに怒れなくなって苦笑しながら、「いいさ」と、いった。
二人は、警察を出た。
駐車場に止めてあったポルシェに乗り込んでから、
「美人だったのかい?」
と、唐木がきいた。
野々村は、
「何がだい?」
「何がって、女のために喧嘩したんだろう?」
「ああ、そうなんだ」
野々村は、さっきのしょげた顔が嘘みたいに、ニヤッと笑った。
「以前、君に、銀座のバーで、凄い美人を紹介して貰ったことがあったろう。ちょっと彼女に似た女なんだ」
「なるほどね」
「昨日の夜なんだ。甲州街道を走らせていた。君にいわれた通り、あの車に慣れようと思ってさ。そうしたら、若い女が、手をあげてたんだ」
「それが、すごい美人だったというわけかい?」
「ああ。ちらっと見ただけで、ぞくッときたよ。まあ、こっちも練習中だから、止めて乗せてやったんだ」
「それで、なぜ、彼女のために喧嘩になったんだ?」
「乗せたのは、つつじケ丘あたりだったな。夜おそかったから、京王線が、つつじケ丘止まりしか、もう無かったのかも知れない。東府中まで乗せてくれっていうんだ」
「うん」
「ちょっと酔っててね」
「君がか?」
「よせよ。いくらおれだって、大事を前に、酔っ払い運転はしないさ。酔ってたのは、彼女の方だよ。それで、運転しているおれに、寄りかかって来るんだ」
野々村は、また、ニヤッと、思い出し笑いをした。
「それで、君の方も、妙な気分になったというわけかい?」
「おれも男だからな。車を止めて、キッスしたんだ。誓っていうが、それ以上はしなかったぜ。気がついたら、チンピラが車を取り囲んで、のぞいていやがった。それだけならいいんだが、あの車を蹴飛ばすんだ」
「それで、やったのか?」
「ひと汗かいただけさ。最初は威勢がよかったくせに、おれが、二、三発ぶっ飛ばしたら、ひい、ひい泣き出しやがった。そこへ運悪く、パトカーが通りかかったってわけさ」
「女も捕まったのかい?」
「気がついたら、逃げちまってたよ」
「その他にも、君は、何回か女を乗せてるんじゃないのか?」
唐木がきくと、野々村は、眼をぱちぱちさせた。
「なぜ、そんなことをきくんだ?」
「仲間の一人が、君が女を助手席に乗せて、得意気に車を走らせているのを見たといってたぜ。昨夜のことじゃないから、別の女だろう」
「婆《ばあ》さんさ」
「婆さん?」
「荷物を持って困ってる七十歳近い婆さんだよ。気の毒だから乗せてやったんだ。孫の自慢話をされるんで弱ったよ」
あはははと、野々村は、笑った。照れている証拠に、顔が赤くなっている。
「まあいいだろう」
と、唐木は、落ち着いた声でいった。
「女好きは、別に悪いことじゃないからな。だが、仲間の中には、君のそういう点が信用できないという奴が出てくるかも知れない」
「わかったよ。自重する。女と遊ぶのは、大金が手に入ってからにする」
「そうして欲しいね。乗せるんだったら、本当の婆さんにしてくれ」
唐木は、助手席の野々村の肩を、片手で軽く叩いた。
二月二十日の日曜日は、東京競馬場でレースが行なわれる最後の日だった。このあと、三月いっぱい、東京でレースはない。
今年は、寒波の襲来などあったが、この日は、久しぶりに暖かい上天気ということもあり、東京競馬場は、十万人を越すファンでふくれあがった。
レース結果が出るたびに、観客席に、歓声があがった。
メインレースの「目黒記念」が近づくにつれて、いやが上にも、熱気が立ちのぼってくる。唐木は、サラブレッドも好きだが、この熱気も好きだ。たとえギャンブルでも、熱気があるということは素晴らしい。
「目黒記念」レースが近づいた時、唐木は、地下一階におりて行った。
ここにも、馬券売場がある。湯茶の無料接待の場所では、競馬新聞片手に、お茶を飲んでいる人々がいる。
三時の発走が近づくにつれて、馬券売場は、人でごったがえしたが、窓口が閉まると、レースを見るために、人々は、馬場の方へ移動して行った。馬券売場の周囲は、がらんとして、まるで墓場のようになってしまう。
唐木は、腕時計に眼をやってから、赤電話を取り上げた。
堀江の家のダイヤルを回した。
「おれだ」
と、堀江が待ちかねていたようにいった。
「時間だ。計画どおり、一一〇番してくれ」
「わかった。三時ジャストだな。あと五分ある」
「いいか。一一〇番の場合は、こちらが切っても、つながったままになっている。だから、その電話を使うと危険だ」
「子供じゃないぜ。外に出て、公衆電話を使うさ。競馬場で、強盗事件が起きたといえばいいんだろう?」
「相手は、ダイナマイトを持っているといってくれ。そういえば、警察が、飛んで来る筈だ」
それだけいって、唐木は、電話を切った。
唐木が、直接一一〇番してもいいのだが、競馬場内には、赤電話しか、公衆電話がなかったし、赤電話は、そのままでは、一一〇番できないからである。
唐木は、地下から表へ出て、腕時計に眼をやった。
三時ジャストになっていた。
府中署から二〇〇メートル離れた場所で、工藤武四郎は、二〇〇〇ミリの望遠レンズを構えていた。
午後三時ジャストに、工藤は、最初のシャッターを切り、そのあと、三十秒ごとにシャッターを切っていった。
工藤には、唐木が、東京競馬場で、どんな電話を一一〇番にかけたのかわからない。だが、じっと、ファインダーをのぞいていると、府中署の前が、急にあわただしくなるのが見えた。
中庭から、一台、二台とパトカーが飛び出して来て、けたたましいサイレンの音をひびかせて、東京競馬場の方向へ走り去って行った。それを、工藤のカメラが正確にとらえていく。
東京競馬場では、正面入口のところに、唐木が、腕時計を見ながら、パトカーの到着を待っていた。
(十五、六分はかかるのではないか)
と、唐木は計算していたのだが、彼の腕時計が、三時十二分をさした時、二台のパトカーが、眼の前に滑り込んで来た。
(今日は、日曜日だったな)
と、唐木は、自分にいい聞かせた。日曜日だから、いつもより道路はすいている。それで、パトカーの到着が早かったのだろう。五月二十九日のダービーの日も、今日と同じように、十二分で到着するものと考えた方がいいだろう。
パトカーからおりた、四人の警官は、場内にいた警備員に声をかけてから、正面の建物に向かって、いっせいに駆け出した。
近くにいた人々が、何事かという顔で、それを眺めている。
唐木も、野次馬の一人のような顔をして、警官たちのうしろから駆けて行った。
四人の警官は、地下に向かって、コンクリートの階段を駆けおりて行った。が、そこで、馬場から戻って来たファンの人混みに呑み込まれてしまった。
「どいて下さい!」
と、警官の一人が怒鳴った。
人々が、やっと、小さな道をあけた。四人の警官と、一人の警備員は、その狭い道を突進し、地下の立|喰《ぐ》いそばの売子や、馬券売場の女の子に、大声で、何か事件がなかったかと聞いて回った。
「いたずらか」
と、警官の一人が、大きく舌打ちをした。唐木は、それを眺めながら、微笑した。
その夜、唐木が、自分のマンションに帰ると、涼子が、部屋で待っていた。
彼女には、部屋の鍵《キイ》を渡してあった。二人は、当然のように裸になり、しっかり抱き合って、ベッドにもぐり込んだ。
「今日、パトカーがやって来たわね」
と、涼子は、唐木の逞《たくま》しい胸に、顔を押し当てるようにしながら、小声でいった。
「おれが呼んだんだ」
唐木は、ひんやりと冷たい涼子のお尻をなでるようにしながら答えている。
「準備行動の一つなの?」
「そうだ。ダービー当日、事件を知った警察が、何分で到着するか調べてみた。十二分かかったよ」
「それは、早過ぎるの? それとも、あたしたちにとって、十分な時間なの?」
「十分とはいえないな」
と、唐木は、正直にいった。
「売上金を奪って、われわれ全員が逃亡するのに、最低十五分は必要だ」
「じゃあ、捕まってしまうじゃない?」
「そこを上手くやらなければならないんだ。必要な十五分を、もっと短縮するか、パトカーの到着を遅らせるか、あるいは、まったくパトカーが来られないようにするか。その方法は、おれが考える」
「あなたを信じているわ」
「全員が、君みたいに、おれを信じてくれるといいがね」
「あなたを信じない人がいると思うの?」
涼子は、びっくりしたように、顔をあげて唐木を見た。唐木に、身も心もまかせ切ってしまった涼子には、仲間の中に、彼を信じない人間がいるなどとは考えられなかったし、許せない気持でもあった。
唐木は、笑って、
「おれたち七人は、必ずしも信頼によって結びついているわけじゃあない。世の中が面白くないというだけのことで、今度の計画に参加している奴もいるだろうし、金のために参加している奴もいる。だから、おれは、彼等に全幅の信頼をおいているわけじゃないんだ」
「あたしは?」
「君は、信じている。だが、君を愛しているからじゃない」
「えッ?」
「そんな顔をするなよ」
と、唐木は、また、さめた笑い方をして、
「おれは、どんな愛だって、変わるものだと思っているんだ」
「あたしの愛情は変わらないわ。絶対によ。あなたのためなら、死ねると思うもの。あなたは、こんな愛情の押し売りは嫌いでしょうけど」
「ああ、そうだな」
と、唐木はうなずいた。一瞬、涼子は、悲しそうな顔をしたが、
「でもいいわ。あなたは、あたしを信じてくれているんだから」
と、自分にいい聞かせるようにいった。
「そうさ」
唐木は、強い力で、涼子の乳房をつかんだ。
「痛いッ」
と、涼子は、思わず眉を寄せた。が、止《や》めてくれとはいわなかった。肉体の痛みが、唐木の愛情の強さのような気がするからだった。そう思うと、自然に、彼女の身体は、濡れてくるのだ。
唐木の手が、涼子の下腹部に伸びてくる。指先が、湿った部分に触れる。
「もう濡れてるじゃないか」
と、唐木が、意地悪く、涼子の耳許でささやいた。
涼子は、わけもなく、小さく首をふった。
「おれはね」
と、唐木は、指先で、巧みに、涼子の秘部を愛撫しながら、小声でいった。
「君の身体の反応を信じるんだ。君の言葉よりね」
「愛しているわ」
涼子は、燃えあがった身体を、唐木にぶつけるようにしながら、うわ言のように、何度も、同じ言葉をくり返していた。
「愛しているわ」
翌日の新聞には、唐木たちのやった一一〇番のことが、大きくのった。
〈東京競馬場に強盗と、一一〇番〉
〈悪質ないたずらとみて、警察が捜査中〉
そんな見出しのあとに、次のような記事が出ていた。
〈昨日の午後三時、突然、若い男の声で、東京競馬場に、ダイナマイトを持った強盗が押し入ったという一一〇番があった。府中署の警官がパトカーで駆けつけたところ、場内は、何事も起きてはいず、いたずらとわかった。
警察の調べによると、この電話は、京王線調布駅近くの公衆電話ボックスからかけられており、競馬で大金をすった男の嫌がらせとみている〉
記事を読み終って、唐木は、予想どおりだなと、ほっとした。
多分、競馬ですった人間の嫌がらせと見るだろうと考えていたのが、その通りになったからである。
堀江は、手袋をはめて、一一〇番したから、指紋からばれる筈はない。万一、堀江が一一〇番したとわかったとしても、買った馬券が当たらなかったので、カッとして電話したと主張すれば、それで通る筈だった。
二日あとになると、予想したとおり、新聞もテレビも、そのいたずら事件を報道しなくなった。
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第四章 疑惑と前進
1
三月に入ると、一月から二月にかけての異常低温が嘘《うそ》のように、おだやかで、暖かい日が続いた。
春になったのだ。
三月いっぱい、東京競馬場でのレースはなく、関東では、中山競馬場だけになる。
だが、日曜日になると、唐木は、必ず、早朝、ポルシェを調布飛行場に飛ばした。
一時間十万円の料金を払って、ヘリコプターを借り受け、堀江の操縦で、東京競馬場へ向かって飛ぶ。
「開催していない日に、東京競馬場の上空を飛ぶ必要が、本当にあるのかい?」
堀江は、前方を見つめながら、唐木にきいた。
唐木は、ちらりと腕時計に眼をやった。
「八時三十分ジャストに、東京競馬場の上空に到着してくれよ」
「わかってるさ」
「おれは、完璧《かんぺき》さが欲しいんだ」
と、唐木は、厳粛な顔をして、堀江の横顔を見つめた。
「君は、昔から完全主義者だったからな」
堀江が、賞賛とも皮肉ともつかぬ調子でいう。堀江は、どちらかといえば、昔から皮肉屋で、世の中を斜めに見るようなところがあった。
「ああ、そうさ」
と、唐木はうなずいた。
「おれは、仕事をする以上、どんな小さな点もゆるがせにしない主義なんだ。今度の計画が成功するかどうか、おれにもわからない。すべてが完璧に遂行されても、偶然が邪魔をすることがあるからね。事を図るのは人間だが、事を成すのは天だという言葉がある。ただ、おれは、たとえ失敗したときでも、あそこをもっと注意していたらといった後悔だけはしたくないんだ。だから、おれも完全にやるが、他の連中にも、完全を要求する。野々村にだって、おれは天気の日だけ車を走らせるなといってある。どしゃぶりの雨の中でも練習しろ、パンクしたときも想定して、タイヤを替える練習もしろといってある」
「この飛行も、練習の一つというわけかい?」
「練習というより、一つの既成事実の作成だよ。日曜日の午前八時三十分になると、必ず、東京競馬場上空にヘリコプターが現われるという事実を作っておきたいんだ。確かに、三月中は、東京競馬場でレースは行なわれない。だが、職員はいるし、調教が行なわれることもある。彼等が、今日はヘリコプターが来ないなと思うと困るのだ。レースのあるときだけ飛来すれば、ヘリコプターとレースの間に関係があると考える奴も出てくるかも知れない。それもまずい。レースに関係なく、日曜日の午前八時三十分になると、飛来すると思わせたいのだ。だから、今日も飛ばなければならないんだ」
「OK。そろそろ東京競馬場だ」
眼の下に、見なれた楕円形の馬場が見えてきた。
客のいないがらんとした観客席。だが、馬場では、二、三頭の馬が走っていた。爆音を聞いて、空を見上げている職員の姿も見えた。
二人を乗せたヘリコプターは、いつもの通り、馬場の中央を横断する形で、飛び越えた。
まっすぐ、多摩川に向かう。川面が、陽光を受けてキラキラと光っている。
あっという間に、多摩川を越えた。ヘリコプターでは、一瞬だが、東京警視庁の管轄から、神奈川県警の管轄地区に入ったことになる。それが、唐木の狙《ねら》いでもあった。
更に十五分飛ぶと、眼下にだだっ広い造成地が見えて来た。
ある神奈川県下の不動産業者が、広大な林野を宅地にしようと造成しはじめたのだが、不景気で買手がつかず、だだっ広い平地になったところで、造成を中止してしまったためである。
周囲には、まだ緑が残っているのに、そこだけは、赤土がむき出しになっているのだ。まるで、上から見ると、未完成の飛行場だ。
二人を乗せたヘリコプターは、すさまじい土|埃《ぼこ》りを巻きあげながら、その未完成の造成地に着陸した。
回転翼《ロータリー》が止まっても、まだ土埃りがおさまらない。雨が少ないせいで、土壌が乾き切っているのだ。
その土埃りの中へ、野々村の運転するライトバンが近づいて来た。尻をヘリに向けて急停止する。また、黄色い土埃りが舞いあがった。
「少し近づき過ぎだ!」
と唐木がヘリからおりながら、野々村に向かって怒鳴った。
「これじゃあ、後ろのドアが開けにくいぞ。もう一度、向こうから走って来い!」
夜、堀江は、自分の操縦するヘリコプターが、突然失速して墜落する夢を見て、夢の中で悲鳴をあげ、眼をさましてしまった。
この頃、ヘリが墜落する夢をよく見る。やはり、不安だからだろうか。
眼をさましてから、同じベッドに、三千代がいるのに気付いた。堀江は、ほっとするような、同時に、まずいなという気持にもなった。
嫌な夢を見て、呻《うめ》き声でもあげてしまい、それを三千代に聞かれてしまったのではあるまいかと思ったからである。
三千代は、上体だけ起こして、堀江の顔をのぞき込んだ。
彼より七歳年上で、未亡人の三千代は、ときどき、母親のような眼で、堀江を見ることがある。
今が、それだった。
三千代は、ひんやりする手を、堀江の顔に当てた。
「熱があるんじゃない?」
「なぜだい?」
「とても、うなされていて、苦しそうだったからよ」
「怖《こわ》い夢を見ていたんだ」
「どんな?」
「女のお化けに追いかけられる夢なのさ」
と、堀江がいうと、三千代はクスクス笑い出して、母親のような顔が、生《なま》の女の顔になった。
「その女、あたしに似てたんでしょう?」
「とんでもない、君に似てたら怖がるどころか、大いに歓迎したさ」
「ほんとに?」
「ほんとさ、こんなふうにね」
堀江は、手荒く、三千代を抱きしめた。彼女の胸を蔽《おお》っていた毛布が、床にずり落ちて、柔らかな乳房がむき出しになった。三千代は、その乳房を、意識的に押しつけてくる。
三時間前に、ベッドの上でひと汗流した二人だったが、二十五歳の若い堀江の身体は、もう、十分に可能な状態になっていた。
三千代のもっとも女らしい部分も濡れている。
三千代が上になり、蔽いかぶさるようにして、腰を押しつけてきた。彼女のものは、普通の女のものよりも小さかった。だから、いつも、インサートの瞬間、眉を寄せ、「ああっ」と小さく叫ぶ。それが、堀江には、ひどくエロチックに見えるのだ。
女を喜ばせるには、耳を愛撫すればいいと書いてある本があったが、くすぐったがりやの三千代は、耳に触っただけで、ファックする気分が消えてしまうという。
その代わり、背中をゆっくりさすってやると、喜んだ。身体を重ね、腰を動かしながら、背中を愛撫してやると、三千代は、次第に息が荒くなってくる。
「あたし、変わってるのね」
と、三千代は笑うが、背中で快感を感じる女は多いのではないかと、堀江は思っている。いつか遊んだトルコの女も、そんなことをいったからだ。
三千代は、いつものように満足して、堀江が身体を離しても、とろんとした眼で、裸の身体を投げ出していた。
女は、ほとんど没我の状態で、余韻を楽しめるのに、男にはそれが出来ない。身体は、快《こころよ》い疲労を感じているのに、堀江の頭は、意外に冷静なのだ。
堀江は、手を伸ばして煙草をとり、ベッドに腹|這《ば》いになって、火をつけた。
(おかしなものだ)
と、堀江は、苦笑した。
最初、三千代に対して、愛情はなかった。ただ、彼女の身体が欲しかっただけだった。
だから、七歳年上で、未亡人の三千代を選んだといってもいい。割り切ってつき合おうじゃないかと、口に出していったこともある。
今だって、彼女を本当に愛しているとは思っていない。
それにもかかわらず、彼女を捨てて、他の女に手を出せない。
それは、彼女に対する愛情ではなく、彼の優しさなのだ。
男の優しさなど、嫌いだと、口ではいっているくせに、堀江は、人一倍、男の優しさを持っていた。
女の優しさは、直線的だが、男の優しさは曲線的だ。先回りする。自分が、この女を捨てたとき、彼女はどうなるか。自棄《やけ》をおこして、つまらない男に身を委《まか》せてしまうかも知れない。そして、落ちるところまで落ちてしまうかも知れない。そして――と、先の先まで考えて、捨てられなくなる。それが、男の優しさだ。だから、女の優しさはわかり易いが、男の優しさはわかりにくく、しばしば誤解される。
三千代が、細い眼で堀江を見た。
「手をつかんで」
と、彼女は、いった。
「ああ」
と、堀江は、彼女の左手を握ってやった。
三千代は、安心したように眼を閉じた。
「こうしてると、安心して眠れるの」
こんな時の三千代は、母親どころか、幼児の顔になっている。
同じ夜。
小牧のアパートで、彼と森下朋子は、難しい顔で、二発目のプラスチック爆弾に取りかかっていた。
ヘキソーゲンRDX
九一パーセント
ポリソープチレン
二・一パーセント
モーターオイル(軽油)
〇・一パーセント
その他
六・八パーセント
これが、もっとも新しいプラスチック爆弾と呼ばれる「C4」(コンポジション4)の成分である。
材料は、すでに、あと二発分以上買い揃えてあった。
「この間の爆発のことが、新聞に出てたわね」
と、朋子が手を止めて、小牧を見た。
「ああ、読んだよ。どこかで、爆発音を聞いた奴がいたんだ。だが、新聞の扱いは小さかったし、過激派学生だろうと書いてあったよ。警察が、過激派学生の実験と考えている限り、われわれは、安全さ。まさか彼等が、競馬場を襲撃するとは思うまいからね」
「ねェ」
「何だい?」
「あなたは、他の連中たちを信用できる?」
「唐木は信用してるよ。あいつは、頭も切れるし、リーダーとしての統率力も、実行力もあるからね」
「あたしだって、彼は信用してるわ。でも、他の人たちが、なんとなく頼りないわ」
「喧嘩をして、留置場にぶち込まれた野々村のことかい?」
「彼もそうだけど、あたしが気になるのは太田涼子という女」
「彼女は、唐木のいい女《ひと》だよ」
「わかってるわ。でもね、みんなの集まりで、あんなにデレデレするのは困るわ」
「そうかな。そんなに唐木にべたついてるように見えなかったがな」
「厭よ。彼を見る眼が、もう、どうしようもないくらいベタベタよ」
「なるほどね」
と、うなずいてから、小牧は、急に、ニヤニヤ笑い出した。
「なぜ笑うのよ?」
朋子が、眉を寄せて、小牧を睨《にら》んだ。
「君も愛すべき女だとわかったからさ」
「何のことよ? それ」
「君は理知的で、それに反して、彼女の方は、いかにも女らしい。可憐だ。だから、君は、やきもちをやいてるんだ」
「よしてよ。あたしがいってるのはね――」
朋子の口を、言葉の途中で、小牧が唇でふさいでしまった。
両手で、彼の身体を押しのけながら、なおも、
「違うわよ。あたしがいってるのは――」
と、朋子は甲高い声を出しながら言い張った。
「よせよ」
小牧は、笑いながら、彼女の両手首をつかんで、身体を押し倒し、畳の上に押さえつけた。
もう一度、キッスした。
「頭のいい君より、やきもちをやいたりする君の方が好きさ」
「そんなの男のエゴイズムよ」
「ああ、僕はエゴイストで、封建的な日本の男だよ」
「とうとう、本音が出たわね」
と、いいながらも、朋子の顔は、笑っていた。封建的な男さと変に力んでいったときの小牧が、ひどく子供っぽく見えたからだった。
日本の男が、やたらに、亭主関白ぶったり、それが理想みたいにいうのは、多分、子供っぽさのせいだろう。そんなことを考えながら、朋子は、今度は、自分の方から、唇を近づけていった。
「あんたは、これが成功すると思うの?」
抱かれながら、朋子がきいた。
「わからないな」
と、小牧はいった。
「唐木は、まだ、計画のすべてを話してくれていないしね。だが、僕は別に心配はしていないよ」
「なぜ?」
「僕たちは、もうコミット(参加)しちまったんだ。学生運動に参加したとき、成功するかしないかなんて考えなかったからね」
「今度は、学生運動じゃなくて、強盗よ」
「青春を賭けるという点じゃ、同じことさ」
と、小牧はいった。
もちろん、小牧自身、本心で同じだと思っているわけではない。同じと思いたいのだ。
学生運動が挫折《ざせつ》した今、自分を賭けるものは他になかった。
二人は、黙って、もう一度、唇を強く合わせた。
2
三月中旬の日曜日は、朝から雨であった。
煙雨とでもいうのか、いかにも、春らしい、煙るような雨である。
その雨の中を、唐木が、ポルシェで調布飛行場に着くと、堀江は、呆《あき》れた表情で、
「こんな雨の中を、例によって、ヘリを飛ばすのかい?」
と、唐木の顔をのぞき込んだ。
唐木は、ニコリともしないで、
「ヘリは、雨が降ると飛べないのかい?」
「そんなことはない。ヘリの敵は風だ。風が強いとヘリは危険だ。だがね、今日は、ヘリが東京競馬場の上を飛ばなくても、雨だから飛ばないんだなと、誰もが考えるさ」
「多分な。五月二十九日、ダービーの日が晴天だったら、それでいい。だが、もし雨だったら、ヘリコプターが雨の日に飛ぶのをおかしいと思うかも知れない。この小雨の中で飛ばなかったのにとね」
「少し考え過ぎじゃないかな」
「おれはね――」
「わかってるよ。すべて完璧《かんぺき》を期したいんだろう。OK、行こうじゃないか」
二人は、小雨の中をヘリに乗り込んだ。ヘリは、灰色の雨雲に向かって飛び立った。
だが、ヘリが東京競馬場に向かって飛んでいる間、唐木は、なぜか、黙りこくってしまった。
八時三十分ジャストに、雨の中をヘリは、東京競馬場に到着した。
「どうだ、正確なもんだろう」
堀江が、得意気にいったが、唐木は、ちらりと、雨に煙る馬場に眼をやっただけで、
「ああ、そうだな」
「どうしたんだ? 急に元気がなくなっちまったじゃないか」
堀江は、機首を多摩川に向けながら、唐木にきいた。
唐木は、すぐには答えず、しばらく黙っていたが、
「困ったことが起きた。それを、無視すべきかどうか迷っているんだ。ヘリに乗るまでは、無視することに決めていたんだが、自信がなくなった」
「何が起きたんだ?」
「昨日、一通の手紙が郵便受に入っていた」
唐木は、二つに折った白い封筒を、上衣のポケットから取り出して、堀江に見せた。
封筒の表には、唐木のマンションの住所と、「唐木拓郎様」と、宛名が書いてある。
堀江は、操縦|桿《かん》を握ったまま、その封書に視線を走らせた。
「いやに角張った字だな」
「明らかに、筆跡をかくすために、定規を使って書いたのさ」
「差出人の名前は?」
「ない。消印は東京中央郵便局になっている」
「それで、中には何が入っていたんだ?」
「便箋が一枚だ」
唐木は封筒から、白い便箋を引き出した。
「何か書いてあるのかい?」
「同じように定規を使って書いた字で、こう書いてある。『七人の一人が裏切ろうとしている。用心せよ』とね」
「驚いたな」
堀江の表情が厳しくなった。
「どういうことなんだ?」
「おれにもわからん。だが、この手紙の主は、われわれ七人の中の一人であることだけは確かだ。計画を知っているんだからな」
唐木は、話しながら、一人一人の顔を思い浮かべていた。
「しかし、書いた奴の目的は、いったいなんなのだ?」
堀江が怒ったような声でいう。
「二つ考えられる」
と、唐木は、考えながらいった。堀江に答えるというより、自問自答の感じだった。
「一つは、手紙の主が本当に、われわれの中に裏切者がいて、それを、おれに注意してくれたということだ」
「しかし、それなら、何故、裏切者の名前を書いて来なかったんだろう? 誰が裏切者かわからないんじゃ、警戒のしようがないじゃないか」
「裏切りの証拠がつかめないから、書かなかったのかも知れない」
「もう一つの考えは?」
「この手紙の主自身が、裏切者だということだ。こんな手紙で、みんなの間に疑心暗鬼を起こさせようとしているということも、考えられなくはない」
「なるほどな。それで、裏切りというのは、おれたちの計画を警察に密告するということかな?」
「そうは思わないね。そんなことをしたところで、何の得にもならないからな。むしろ、計画は成功させた上、手に入れた売上金を一人占めにしようと計画しているということだろう。だから、計画実行の邪魔はしないと思っている。この手紙が事実だとしてもだ」
「それで、どうする気だ?」
「さっきもいったように、最初は、無視しようと考えた。だが、わからなくなった。五月二十九日までに、この手紙の主か、この手紙が指摘している人間を見つけ出した方がいいかも知れない、とも考えている」
「じゃあ、今夜、みんなを集めて、反応を見てみたらどうだ?」
「ああ、そうしてみよう」
「ところで、君は、おれは疑ってないだろうな?」
「君は、おれの親友だ」
と、いってから、唐木は、すぐ言葉をついで、
「だが、おれは、君だけを特別扱いにはしないよ。今度の計画に参加する人間は、みんな平等だからな。もちろん、おれも含めてだ」
その夜、唐木は、みんなを、自分のマンションに集めた。
夜になっても、小雨が降り続いていて、その雨の中を、六人の男女がやって来た。
唐木が、例の手紙を見せると、すでに知っている堀江をのぞいた五人は、いちように、驚き、お互いの顔を見た。
「こんなつまらないものを、誰が書いたんだ!」
と、野々村が、大声で怒鳴り、テーブルを叩いた。激しやすい性格が、むき出しになった感じで、まるで、全員が犯人みたいに、一人、一人を睨《にら》みつけた。
「この中の一人かどうか、わからないんじゃないかしら?」
冷静な口調で、反論したのは、森下朋子だった。学生運動で活躍していた朋子は、今度の計画に参加してからも、いつも冷静だった。
野々村には、朋子のような女は、一番苦手だった。当然、嫌いで、眉をしかめると、
「どういうことだ?」
と、朋子にきき返した。
「私たちは、今度の計画を、絶対に他人に口外しないことを誓い合ったわ。その約束を、全員が守っていたら、確かに、その手紙の主は、私たち七人の中にいることになるけど、もし、この中の誰かが、女に甘かったり、酔っ払っていい気になるかして、他の人に喋《しやべ》ってしまっていたなら、手紙の主だって、私たち七人に限られなくなるじゃないの」
朋子の口許に、皮肉な笑いが浮かんだ。
彼女の恋人の小牧も、同調する感じで、
「僕も、限定できないという点で、彼女に同感だな」
「そのだらしない人間というのは、おれのことをいってるのか?」
野々村の顔が、真っ赤になった。彼には、喧嘩で警察に捕まったという弱味がある。だから、自然に、神経がピリピリしてしまうのだ。
野々村がカッとなればなるほど、朋子の方は、冷静になった。
「別に、あなただとはいってないわ。でも、この中じゃあ、あなたが一番危なっかしいかも知れないわね」
「なんだと!」
野々村が、思わず、朋子に向かってつかみかかろうとするのを、唐木が、
「止《や》めろよ」
と低い声でたしなめた。
「しかし、あいつは、おれのことを――」
野々村が、朋子を睨んで、歯がみをする。
唐木は、じろりと、朋子を見て、
「君も、つまらないことをいうな」
「でも、いい出したのは、向こうよ」
「だから、野々村にも、止めろといったんだ」
唐木は、朋子から、他の五人に視線を走らせて、
「おれは、手紙の主が、いったい何の目的で、この手紙をくれたのか、よくわからない。ここで、誰が犯人か糾明したいとも思わない。ただ、この際、確認しておきたいんだ。今度の計画から降りたい奴はいるのか? いたら名乗ってくれ、別に止めないし、何もしない」
「いまさら、降りる気はないよ」
と堀江が、すぐいった。
「おれもだ」
野々村が、人一倍、大きな声でいった。
涼子も、工藤も、小牧も、降りる気はないといった。
「君はどうなんだ?」
と、唐木は、朋子を見つめた。
「私だって、いまさら、降りる気はないわ。他に、戦慄を覚えるような楽しみはないもの」
「それならいい」
と、唐木は、うなずいた。
「みんなの意志が、決行に賛成ならこんな手紙は問題じゃない。手紙の主にいっておくが、もう、こんなつまらない手紙は書くな」
唐木は、灰皿の上に問題の封書をかざして、ライターで火をつけた。
雨は、夜半になってやみ、雲間から青白い月が顔を出した。
その月明りに、黒く光る海岸沿いの道を、唐木は、一八〇キロ近い猛スピードで、ポルシェを走らせた。
左手に黒く、江の島が浮かんでいる。
助手席に坐った涼子はさっきから、じっと眼を閉じて、スピードに身を委せていた。それに、ハンドルを握った唐木は、口をへの字に結び、声をかけるのがはばかられたからでもあった。
唐木は、あの手紙を灰皿の上で燃やし、もうこの手紙のことは忘れろと、みんなにいったけれど、やはり彼は気になり、腹も立っているに違いないと、涼子は思った。
一八〇キロという猛スピードのため、対向車がすれ違うたびに、「ばさッ」というような大きな音が起きる。車高の高い車だったら、きっと、風圧で浮き上ってしまうだろうが、さすが、ポルシェだった。地面にぴたりと吸いつく感じで一八〇キロを出していても、怖さはなかった。
左手に見えていた江の島が、たちまち、視界から消え去った。
茅《ち》ケ崎《さき》が近づいたところで、唐木は、スピードを落とし、ハンドルを切って、海岸の砂浜に、ポルシェを乗り入れた。
人気のない砂浜は、月明りに白く輝いて見えた。
唐木と涼子は、車をおりて、砂浜に腰を下ろした。
眼の前に、黒々と海が広がっている。白い波頭が、二人に向かって押し寄せてくると思う間もなく崩れて、「ざざッ」という激しい音を立てる。それが、あくことなく繰り返される。それは、月の引力によるものとわかっていても、じっと見ていると、海という巨大な生き物の息づかいのように感じられる。
「君はどう思う?」
と、ふいに、唐木がきいた。
「なんのこと?」
「あの手紙だよ。誰が、なんのために書いたと思う?」
やっぱり、唐木は、気になっているのだと思いながら、涼子は、
「あたしの意見を聞きたいの?」
「ああ、聞きたい。君の女らしい直感でもいいよ」
「書いたのは、あたしたち七人の中の一人の筈ね?」
「そうだ」
「じゃあ、あんな手紙をあなたに示せば、他の者にも見せると読んで出したんだわ。そして、あたしたちの間に、お互いに対して、疑心暗鬼を起こさせようというんじゃないかしら? 現に野々村さんと朋子さんが憎み合うようになったわ」
「だが、手紙の主に、どんな利益があるというんだろう?」
唐木にとって、もっとも不可解なのは、その点だった。それさえわかれば、対処の仕方もあるのだが。
「あたしにもわからないわ」
と、涼子は、首を横に振って、
「力になれなくて、ごめんなさい」
「君が謝まることはないさ。やっぱり無視することにしよう。考えてみれば、危険が多いほど面白い」
ニヤッと笑ったとき、唐木の顔はいつもの不敵な眼に戻っていた。
涼子は、ふいに、唐木に腕をつかまれ、荒っぽく砂浜に押し倒された。
髪や腕に砂がついた。彼女の耳許で、砂が押し潰され、流れて音を立てた。砂が、ひんやりと冷たい。
唐木は、乱暴に、涼子のスカートのホックを外し、引きおろした。彼の愛撫は、いつも荒々しかったが、今夜のそれは、もっとも荒々しかったろう。指先の愛撫もなく、唐木の逞しい身体が、のしかかってきた。それは、夜空の下の、荒々しい海の近くでのセックスのためなのか問題の手紙に対する怒りを、涼子にぶっつけてきたためなのか、涼子にもわからなかった。
いつか二人の身体は、砂にまみれていた。
3
「背中を洗ってあげよう」
と小牧が、浴室に入って行くと、森下朋子は、当然のように、背中を向けた。
最初の出会いの時から、そうだった。
朋子は、普通の女性が示すような恥じらいを見せたことがない。学生運動の女性活動家で、ウーマン・リブを唱えていた朋子にとって、女性らしさとか、恥じらいといったことは、男のわがままな要求としか映らないのだ。
どちらかといえば、古いところの残っている小牧は、ときには、そうした朋子の性格に反発したくなることがある。
学生運動に巻き込まれて、片眼を失い、今は、義眼を入れている小牧だが、もともとは、政治にはあまり関心のないノンポリ学生だった。学生運動に参加したのは、朋子に惚《ほ》れてしまったからに過ぎない。
それくらいだから、小牧は、革命的な精神の持主ではなかったし、女は、ときには、恥じらいをもって欲しいと思う。
だが、朋子に、それを面と向かっていうだけの勇気を、小牧は持っていなかった。
朋子の身体は、痩《や》せていたが、しなやかさを持っていた。高校時代に、バドミントンをやっていたせいだろう。乳房も小さい方だが、冷たく理知的な顔とつり合いがとれていた。ボーイッシュな魅力、とでもいうのか。事実、年下の女の子に、朋子が慕《した》われているのを、小牧は知っていた。
「あの手紙のことだけど――」
と、朋子は、気持良さそうに、眼をつぶり、小牧に背中を洗わせながら、思い出したようにいった。
「手紙って、われわれの中に、裏切者がいるっていう、あの手紙のことかい?」
小牧は、湯かげんをみながら、優しく、朋子の背中を流す。
閉め切った浴室に、湯気が立ちこめ、パンツ一枚の小牧の顔に、汗が浮かんでいた。
「あの手紙を書いたのは、誰だと思う?」
「さあね。君は野々村が怪しそうなことをいっていたね。まあ、それよりも、前を洗ってあげよう」
小牧の言葉で、朋子は、風呂の椅子《いす》に腰を下ろしたまま、ゆっくりと、身体の向きを変えた。
若い女は、ある程度親しくなっても、前を洗って貰うことには恥じらいを見せるものである。
だが、朋子は、平気で両足を広げて、小牧に洗わせる。それが、彼女の育ちの良さからくる天衣無縫さなのか、それとも、彼女の性格なのか、小牧にもわからなかった。
朋子は、小牧が知る前から、学生運動に熱中していた。その頃から、「女は自由でなければならない」というのが朋子の主張で、何人もの男の活動家と関係があったことも、小牧は知っている。
もちろん、小牧は、それを承知で、朋子を愛したのだが、こうして彼女の身体を洗ってやっている時などは、彼女の肉体を通り過ぎた男のことを、あれこれ考えることがある。
「私はね。あの手紙を書いたのは、太田涼子だと思うのよ」
朋子が、眼をキラリと光らせていった。
彼女の首筋を洗いながら、別のことを考えていた小牧は、
「えッ?」
と、きき返した。
「太田涼子よ。彼女が、あの手紙の主よ」
朋子は、怒ったような声になった。
「太田涼子? なぜ彼女が――」
小牧は、びっくりした顔で、朋子にきいた。
朋子は笑って、
「別に驚くことじゃないわ。七人の中に、本当は、裏切者なんかいやしないのよ。それなのに、太田涼子が、ある目的を持って、あんな手紙を、唐木君に出したのよ」
「ある目的って?」
「彼女は、あの通り、唐木君にべた惚れだわ。でも、今は、彼の関心が、彼女だけに集まっていない。五月二十九日の東京競馬場襲撃計画に熱中しているし、他の五人の仲間も彼を重要視してるわ。だから、彼女としては、なんとなく面白くないのよ」
「しかし、唐木の彼女への愛情と、仕事への情熱とは、まったく別のものだろう?」
「女は、そう考えないのよ。特に、まだ目覚めてない古い女はね。やたらに男を独占したがるんだわ。サラリーマンの奥さんの中に、いるじゃないの。夫に向かってあたしが大事か、仕事が大事かなんて、馬鹿なことをいうのが……」
「太田涼子が、そういう古い女だということかい?」
「そうよ。彼女は古い型《タイプ》の女ね。日本の男は、ああいう古い女が好きみたいだけど……。あなただって、本当は、私みたいじゃない、古い女が好きなんじゃないの?」
朋子が、皮肉な眼付きになって、小牧の顔をのぞき込んだ。
小牧は、あわてて、首を横に振り、
「そんなことはないさ。僕は、君みたいな新しい女の方が好きだよ。君は頭がいいし、何よりもべたべたしてないところがいい。セックスなんかも、割り切って考えてるしね」
「ふふふ」
と朋子が笑った。
「それでね。太田涼子は、今いったように、唐木君の愛情を独占したいのよ。計画は止めさせられないから、それに加わっている他の人間は、信用できないという印象を、唐木君に持たせようとしたのよ。彼は、誰でも平等に疑うといったけれど、肉体関係のある彼女は疑わないわ。だから結局、唐木君が疑っているのは、太田涼子を除いた他の五人というわけよ。つまり、彼女は、心理的に、唐木君を独占したことになるじゃないの」
朋子は、どうだというように、得意げな顔付きになった。
「そういう考え方があるとは思わなかったな」
小牧は、正直に感心した。
「どう、私の考え?」
「うーん、感心したよ。君は、やっぱり独創的な思考力の持主だよ」
小牧は、石鹸を塗った朋子の乳房に唇を押しつけ、舌で、乳首のあたりを愛撫した。
朋子が、くすぐったそうに身体をよじり、眉を寄せる。
小牧の舌は、朋子の下腹部をなめ回し、次第に、彼女のもっとも敏感な部分に触れていった。
彼女の大きく広げた両脚の間に跪《ひざまず》き、両手で、彼女の腰を抱きかかえるようにして、舌の愛撫をする小牧の姿はまさに、奉仕という言葉にふさわしかった。
小牧の舌が、朋子の花芯を押し開く、ピンク色の美しい肉の部分が、小牧の眼前に顔を見せる。小牧が、下から丘をなめるたびに、朋子は小さく喘《あえ》いだ。
小牧の顔から汗が吹き出してくる。朋子の声が、だんだん高くなっていった。
「おっぱいをもんで!」
と朋子が、命令する調子でいった。
小牧は、舌での奉仕を続けながら、両手の指先で、朋子の尖《とが》った乳首を、柔らかく、もみ始めた。
そうされると、朋子は、一番感じるのだ。
朋子の腰が、ぶるぶると、小刻みにふるえ出した。彼女の手が、小牧の頭を抱え込む。
その姿勢で、二人は、タイルの上に倒れ込んだ。
野々村は、怒っていた。
車を運転しながら、「くそっ」と、何度も舌打ちした。
「小生意気な女だ」
野々村が、怒っているのは、森下朋子のことだった。
唐木のマンションに集まった時、名指しで、裏切者扱いされたからである。
最初から、野々村は、森下朋子という女が気にくわなかった。
美人には違いないが、妙に冷たい感じで、男はみんな馬鹿だというような顔をしている。
(おれは、一番の唐木の親友だと思っているのに、あの女は、まるで、おれを裏切者扱いにしやがった)
あの時、ぶん殴ってやればよかったと思ったりしているうちに、野々村の運転する車は、夜の新宿に近づいていた。
盛り場のネオンを見ると、若い野々村は落ち着かなくなる。
人一倍頑健な野々村は、人一倍性欲が強かった。が、普通の若者のように、恋人をつくることが出来ない。
出来ないというより、面倒くさいのだ。男は、セックスを楽しむとき、それだけを目標にするが、女は違う。そこへ行く過程を楽しむ。女によっては、過程の方だけを楽しむことさえある。
どうせ、最後にやることは決まっているのに、そこへ行くまでに、お茶を飲みながらの会話や、食事や、時には、贈物《プレゼント》という儀式が必要なのだ。むき出しに、やらせろなどといえば、百人の女が百人とも冷たい軽蔑の眼で見すえるに決まっている。
だから、野々村は、恋人を作るのが面倒くさい。不器用なのかも知れない。プレイボーイなら、女を手に入れるために、心にもない会話をしたり、プレゼントをしたりするのに、それが出来ないというのは、ある意味では、正直なのかも知れない。
だが、セックスへの要求は恋人がいなくても強い。
五月二十九日の決行の日が近づくにつれて、神経がピリピリしてきて、それにつれて、女を抱きたいという欲望も高まってくるのだ。それは、仕事や運動で疲れているとき、かえって、セックスをしたくなるのに似ていた。
野々村は車を駐車場にとめると、ネオンの街に向かって歩いた。
野々村は、毎月十万円を、唐木から貰っていた。車の運転技術を磨いているので、東京競馬場のアルバイト以外の仕事が出来ない。だから、それに対する小遣いだった。
野々村は、それを、トルコに使っていた。
今の東京では、一番安全に、一番手っ取り早く遊ぶのは、トルコがいい。少なくとも、野々村は、そう思っている。
「チェリー」という店に入る。入浴料四千円を払う。野々村は、行きつけの店というのを作らないことにしていた。その方が、どんな女にぶつかるかわからないというスリルがあったからだった。
二十五、六の大柄な女が、今夜の相手だった。裾の大きく割れたチャイナドレスで、曲りくねった廊下を歩きながら、野々村を、個室に案内する。
火事にでもなったら、助かりそうもない細い廊下である。トルコというのは、どうしてこう、廊下や階段が狭くて、曲りくねっているのだろうか。
「あんた、学生さん?」
野々村のジャンパーを脱がせながら、女がきいた。
「まあね」
と、野々村は、ちょっと気取って、ニヤッと笑って見せた。が、女の方は、学生だから、どうという感じでもなく、野々村を裸にすると、
「先にお湯に入っていて」
といった。
野々村は、小さい湯船に肩までつかる。その間に、女は、部屋の隅で、チャイナドレスを脱いだ。下はビキニである。その格好で、鏡に向かって、軽く顔を直してから、無造作にビキニを外して、真っ裸になった。
野々村は、湯船の縁《ふち》にあごをのせるようにして、女が裸になっていくのを眺めていた。こういうのも、トルコの楽しみの一つである。
スタイルがいいとはいえなかったが、乳房も腰も大きな女だった。
その腰をゆするように歩いてくると、湯船の横にしゃがみ込んだ。わざと、大きく足を広げてしゃがむので、いやでも、野々村の眼の前に、黒々としたものが、丸見えになる。
「湯かげんはどう?」
「ちょうどいいよ」
と、うなずきながら、手を伸ばして女の乳房をつかむ。ずっしりと、重量感のある乳房だった。女は、笑いながら、つかませていたが、
「あんた、ひょっとすると栃木の生まれじゃない?」
と、きいた。
野々村は、ちょっとびっくりして、
「小学生までは、栃木だったよ」
「やっぱりね」
「おれ、自分じゃあ、標準語のつもりなんだけどな」
「やっぱり訛《なま》りが残ってるわよ。あたしも栃木の生まれだから、ときどきいわれることがあるのよ。栃木のどこ?」
「塩原温泉の近くだよ。田舎者さ」
「じゃあ、あたしんちの近くじゃないの」
女は、急に親しげな顔つきになり、
「いつもは、本番は大一枚なんだけど、八千円でいいわ」
「そいつはありがたいな。名前を教えてくれよ」
「夏江。これ、本名よ。夏に生まれたから夏江なんですって。簡単につけたもんね」
ふふふと、女は、くったくのない笑い声を立てた。
栃木県で生まれた女が、どんな経歴をへて、東京の新宿でトルコ嬢をしているのかはわからなかったが、夏江と名乗った女の顔に、営業用ではない素顔がのぞいたのは、確かだった。
湯船から出ると、マットの上に寝た野々村の身体を、夏江は、舌を使って愛撫する。愛撫というより、くすぐるといった方がいいかも知れない。
それは、トルコの普通のサービスだったが、トルコの女は、なぜか、セックスはしても、キッスはなかなか許さない。それが、夏江は、彼女の方から、野々村に唇を合わせてきた。
「久しぶりに、故郷の人に会えたんで、嬉しくて仕方がないのよ」
と夏江はいった。
「今度、商売とはなれて、あんたに会いたいわ」
ともいった。
野々村も、満更ではなかった。顔もまあまあというところだし、豊満な身体をしている。連れて歩いても、恥ずかしくない。何より、野々村を嬉しがらせたのは、水商売の女に惚れられたということだった。ちょっとしたプレイボーイになった気で、野々村は、その店を出た。
(おれにも、とうとう、特定の女が出来たんだ)
だが、それが、果たして、生き甲斐《がい》になるのか、重荷になるのか、野々村自身にもわかっていなかった。
野々村が、車で自分のアパートに帰ると、一通の手紙が、彼を待ち受けている。
〈裏切リハヤメロ〉
ただ、それだけ書いた手紙が。
4
野々村の顔が、真っ赤になった。
その手紙をポケットにねじ込み、野々村は、唐木のマンションに車を飛ばした。
唐木に会うやいなや、彼の前に、その手紙を放り投げた。
「あいつを、おれにぶん殴らせてくれ!」
と怒鳴った。
唐木は、ニヤニヤ笑いながら、
「何を、そんなにカッカしてるんだい?」
「その手紙だよ。あいつは、おれを裏切者だと書きやがったんだ」
「この手紙かい」
唐木は、面白くもなさそうに、問題の手紙を、ちらりと見てから、
「あいつって、誰のことだい?」
「決まってるじゃないか。森下朋子だよ。あのインテリが、おれを裏切者扱いしやがったんだ」
「なぜ、彼女だと思うんだ? この手紙も、前の手紙と同じように、筆跡を隠すために、定規を使って書いてるのにさ」
「他に考えられるのかい。あの女は、おれが気にくわないんだ。それで、どうにかして、おれを、仲間はずれにしようとしてるんだ。そうに決まってるよ」
「そうともいえないぜ」
「君は、あの女の肩を持つのか?」
野々村の顔色が変わった。
「何だい。君らしくなくすねるじゃないか」
と、唐木は、野々村の肩を、ポンと叩いて、
「まあ、それを見てみろよ」
机の引出しから、数通の封書を取り出して、どさりと、野々村の前に投げ出した。
野々村はその一通を調べてみた。
驚いたことに、中から出てきた便箋には、彼が受け取った手紙と同じ言葉が書いてあった。
〈裏切リハヤメロ〉
野々村はあわてて別の手紙に眼を通した。どれも、これも、同じだった。同じ封筒、同じ便箋に、同じ文句が書きつけてあるのだ。
「どういうことだい? これは」
と、野々村は、眼を丸くして唐木を見た。
唐木は、煙草に火をつけてから、
「見た通りだよ。おれのところにも配達されたし、君がぶん殴りたいという森下朋子のところにも来た。つまり、七人全員が同じ手紙を受け取ったんだ」
「どういうことなんだい?」
「おれにもわからないね。おれたちの中の誰かが、いたずらをして面白がってるんだとしか考えられない」
「誰なんだ、そいつは? ぶん殴ってやる」
野々村は、大きな拳《こぶし》をつくって、眼の前で振り回した。
「わからないな。そいつは、用心深く、自分自身にまで、同じ手紙を書いているからね」
「どうするつもりだ?」
「それもわからん。ただ、有難いことに、そいつも、計画の実行には反対していないらしい。反対なら、警察に知られているだろうからだ。だから、おれたちとしては、今まで通り、計画を実行することだ」
唐木は、七通の手紙をまとめてねじり合わせると、灰皿の上で火をつけた。
それは、すぐ、淡黄色の炎をあげて、燃えあがった。
「車のチューン・アップはすんだかい?」
唐木は、炎を見つめながら、野々村にきいた。
「すませたよ。二二〇キロまで軽く出るようになった。加速もきく。あれならパトカーに追いかけられたって大丈夫さ。おれが振り切ってやるよ」
「それは、あくまで万一の場合だ。一番いいのは、パトカーに追いかけられずに、すべてをすませることだ」
「わかってるよ」
「これで、手紙は全部燃えちまった」
と、唐木は、黒い燃えかすを、灰皿の上に押しつぶして、
「もう裏切者という言葉を忘れるんだ。チームワークが乱れたら、今度の計画は、絶対に成功しないぞ」
野々村が帰ってしまうと、唐木は、ほっとした表情になった。
すでに五月に入り、計画実行の二十九日まで、あと数日しかなかったからである。今、七人の仲間の間に団結が崩れたら、計画実行が、失敗に終ることは、眼に見えている。なんとしてでも、一人の脱落者も出したくなかった。
(それにしても、手紙の主は、しつこい奴だ)
と、思う。
なぜ、七人全員に手紙を出してまで、仲間の間に、不信のタネをまき散らすのか。
唐木には、それがわからないだけに不気味だったが、だからといって計画を中止しようという気は、まったく起きて来なかった。
五月二十九日に、計画は、実行に移さなければならないのだ。なぜなら、唐木にとって、それは、青春の燃焼そのものだからである。
翌日、唐木は、小牧洋三のアパートを訪ねた。
「プラスチック爆弾は出来たかい」
と、唐木がきくと、小牧は、黙って押入れをあけ、ミカン箱に入った二発の爆弾を出して見せた。
「どちらも、この前試したやつの一・五倍の威力がある」
と、小牧は、プラスチック爆弾を作った人間とは思えない、おだやかな口調で説明した。
「時限装置は?」
「出来てるよ。十二時間以内なら、何時間でも、正確にセットできる。ところで、君に、念のためにきいておきたいんだが」
と、小牧が逆に、唐木にきいた。
「なんだい?」
「まさか、この爆弾で人の生命《いのち》を奪うようなことはしないだろうね?」
「それが心配か?」
「ああ、心配だ。今度の計画には賛成だが、いくら、何億円の金のためでも、人間の生命を奪うことには反対だ。一人でも殺すのは嫌だ」
「ヒューマニストなんだな。君は」
「茶化すなよ。どうなんだ? 答えてくれ」
「おれだって、人殺しには反対だ」
と、唐木は、小牧の顔を、まっすぐに見つめていった。
「今度の計画について、おれは一人も殺す気はないし、殺したくもない。前にもいった通り、この二発のプラスチック爆弾は、警察と、東京競馬場の機能を一時的に停止させるためにだけ使用するんだ。それは、約束するよ」
「それを聞いて安心したよ」
「ところで、彼女は?」
唐木は、部屋の中を見回した。若者同士の同棲の匂いのする部屋だった。朋子は、どちらかといえば、男まさりの感じの女だが、それでも、この部屋には、華やかな若い女の匂いがある。
「ちょっと出かけているんだ」
と、小牧はいった。
「じゃあ、帰って来たら、彼女にも伝えておいてくれ。計画が成功したら、金は、七人に等分に分配する。その後の行動は自由だ。外国へ逃げるんなら、早く航空券を用意しておいた方がいいな」
「僕も、朋子も、外国へ逃げる気はないんだ」
「それならそれでいい」
「君自身はどうするんだ?」
小牧に逆にきかれると、唐木は、微笑して、
「おれは、東京にいて、自分たちのやった仕事が、社会にどんな波紋を投じるか、それを見守りたいんだ」
嘘《うそ》ではなかった。そう思っていた。
さらに次の日、唐木は、銀行に行き、預金額全部を引きおろし、ボストンバッグに詰めた札束を持って、カメラマンの工藤武四郎を訪ねた。
「あと三日で、いよいよ五月二十九日だが、気持は、変わっていないだろうね?」
と唐木は、念を押した。
工藤は、やや、蒼白《あおじろ》い顔になって、
「大丈夫さ。意志は変わっていない。それより、五月二十九日に、僕が何をやったらいいのか教えてくれないか」
「それを話しに来たのさ」
唐木は、札束の入ったボストンバッグを、無造作に工藤の前に置き、チャックをあけた。
「中に、一千万円入っている。おれの全財産だ。これを、君に預ける」
「預けるって、どうしたらいいんだい?」
びっくりした顔で、工藤が、唐木を見た。
「五月二十九日のダービーの日に、これを競馬場に運んで来て、ダービーの馬券を買うんだ。太田涼子のいる窓口でな」
「待ってくれよ」
「何だい?」
「僕は、馬が好きで、競馬場にサラブレッドの写真を撮りに行ってたけど、馬券を買ったことは、ほとんどないんだ。僕には、ダービーで、何がくるかわかりゃしないよ」
「それでいいんだ」
と、唐木は、微笑した。
工藤は、首をかしげて、
「意味がよくわからないんだが」
「なんでもいいから、馬券を一千万円買ってくれればいいんだ。そうだね。向こうに強烈な印象を残したいから、G―Gを一千万円買って貰おうか」
「ダービーで、ゾロ目が来たことなんて、ないんじゃないかい。G―Gなんて、はずれに決まっているよ」
「はずれた方がいいんだ」
「えッ?」
「いいかい。馬券ははずれた方がいいんだ。大事なのは、馬券の買い方なんだ。君は、五月二十九日の午前中に、東京競馬場に行き、前売場で、G―Gを一千万円買う。特券で、一万枚だから、少し待ってくれというに決まっている。その時、君は、でたらめの名前をいい、用があるから馬券は、あとで取りに来ますといって、姿を消してしまうんだ」
「なるほどね」
と、工藤は、眼をキラリと光らせた。
「君が何を考えているのか、だんだんわかって来たよ」
「それなら、OKだ」
唐木は、ニッコリ笑ってから、
「君と恋人のモデルは、アフリカへ行くんだったな?」
「ああ。二人ともパスポートは持っている」
「それなら、途中で香港へ寄って行きたまえ」
「なぜ?」
「計画が成功したら、その場で金は分配する。君は、それを持って、日本を脱出すればいいわけだが、アフリカでは、日本円は通用しない。だが、香港でなら通用する」
唐木は、一枚のメモを、工藤に渡した。
「そこに書いてある李文章という中国人は、おれの友人で、信用のおける男だ。君の日本円は、簡単に、アメリカドルに替えてくれる筈だよ」
堀江は、近くの地主から空地を借りて、そこで、中古のライトバンの塗装を始めた。
玩具工場で使っていた国産の大型ライトバンである。
それを三十万円で買って来た。エンジンはしっかりしていて、調子はいい。
横腹に、「××玩具株式会社」と書いてある。堀江は、その車のフロントガラスや横の窓に新聞紙を貼りつけてから、白のラッカーを吹きつけていった。
根気よく、何回も、くり返し吹きつけていく。
ライトブルーだった車体は、パールホワイトに変わり、「××玩具株式会社」の字も、白いラッカーの下にかくれてしまった。
ラッカーが乾くのを待ってから、堀江は、慎重な手つきで、横腹に、文字を書き込んでいった。
〈田中ヘリ運搬株式会社〉
それは、堀江が今働いているヘリコプター会社の名前だった。このライトバンが、五月二十九日には、どうしても、必要になるのだ。
きちんと、電話番号も書き込んだ。
作業をおえて、新聞紙をはがしているところへ、空地を貸してくれた地主のおやじが、やって来た。
「ほう」
と、地主のおやじは、車と堀江を見比べるようにした。
「田中ヘリ運搬株式会社か」
「友だちと、独立して、会社を作ることにしたんですよ」
堀江は、笑いながら、相手を見た。
「しかし、あんたの名前は、堀江じゃなかったのかね?」
「ええ。しかし、友人がスポンサーなもんですからね。彼の名前にしたんです。ヘリでの遊覧飛行が主な仕事です」
「じゃあ、いつかわたしも乗せて貰おうかね」
「いつでもどうぞ。あなたは、特別料金にしておきますよ」
と、堀江は、平気な顔でいったが、地主のおやじが行ってしまうと、ほっとした顔になり、運転席に坐り込んでしまった。
五月二十八日、土曜日の夜を、唐木は、自分のマンションで、恋人の涼子と共に過ごした。
「いよいよ、明日ね」
涼子は、裸の身体をベッドの中で、唐木に押しつけるようにしながら、小さく呟《つぶや》いた。
ほっそりした涼子が小刻みにふるえているような気がして、唐木は、
「怖《こわ》いのか?」
と、きいた。
「少しね。けれど、あなたを信じてるわ」
「正直いえば、おれだって、怖いんだ。また、怖いから面白いともいえるけどね。危険のない計画だったらなんの面白味もない」
「みんな大丈夫なのかしら?」
「大丈夫だよ。みんな子供じゃないんだ。自分のすべきことは、心得ている。君も、明日やることは、覚えているだろうね?」
「覚えてるわ。工藤さんが、一千万円持って来て、あたしの窓口で、G―Gの馬券を買うんでしょう?」
「そうだ。そのあと、やるべきこともわかっているね?」
「大丈夫よ。上手にやってみせるわ。あなたが一緒だと思うと、何もかも上手《うま》くいくような気がするの」
「そいつは有難いね」
「不思議だわ」
「何がだい?」
「何がって――」
涼子は、彼女の乳房を愛撫している唐木の手を取り、その指先に唇を押し当てた。
「あたしね。あなたを知る前は、独りで自由に生きたいと思っていたし、そう出来るつもりだったの。それが、あなたを知ってから、すっかり変わってしまったわ。あなたが、そばにいてくれれば、生きていけるけど、あなたがいないと、生きていけなくなってしまったわ。完全に、あなたの奴隷よ」
「嬉しいことをいってくれるね」
「でも、あなたは違うわね。あなたは、あたしがいなくたって、平気で生きていける人よ」
「おれにだって、君が必要だよ」
「無理をしなくてもいいのよ。ご主人さま」
と、涼子は、笑っていったつもりだったが、それが、途中で、泣き笑いの表情になってしまった。唐木が強い力で、涼子を抱き寄せた。
「このまま、もっと、力いっぱい抱いて……」
といいながら、涼子も裸の身体を唐木にぶっつけた。
ベッドが小さな悲鳴をあげた。
「君は、黙って、おれについてくればいいんだ」
「ええ。わかってるわ」
「キッスしろよ」
「はい」
涼子は唐木の唇に、自分の唇を押し当てた。
不覚にも涙があふれ、それが、口にまで流れてきて、変にしょっぱいキッスになってしまった。
唇を離すと、唐木は、涼子を抱きしめたまま、窓に眼をやった。
(明日は、晴れるだろうか?)
窓ガラスの向こうに、暗い夜空が広がっている。カーテンが閉めてあるので、星が出ているのかどうかわからなかった。
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第五章 作戦開始
1
堀江は、目覚めるとすぐ、窓を開け、空を見上げた。
(晴れている)
自然に、微笑が口許に浮かんでくる。
次に、彼は、人差指に唾《つば》をつけ、窓の外に突き出した。
(風もあまりない)
これなら、ヘリを飛ばすのは楽だ。
出足としては、まずまずだなと、堀江は思った。競馬でいえば、無難なスタートというところだ。
午前七時五十分に、調布飛行場に着くと、堀江は、愛機の傍に歩いて行った。整備士のシンちゃんこと、鈴木|晋吉《しんきち》に、
「どうだい、調子は?」
と声をかけた。
「いい調子だ。この調子なら、天国へだって飛んで行けるよ」
「そいつは有難いね」
堀江は、笑いながら、操縦席に乗り込んだ。
「今日も、例の日曜日ごとの仕事かい?」
シンちゃんが、油で汚れた手を拭きながらきいた。
「ああ、八時になったら飛ぶよ」
「ご苦労さん」
「朝早いのは楽じゃないが、料金を払ってくれているんでね」
堀江は、腕時計に眼をやった。
午前八時。
堀江は、シンちゃんに、合図を送ってから、エンジンを始動させた。たちまち、砂|埃《ぼこ》りが舞いあがり、機体が、ぶるぶる振動する。プラスチックの風防の向こうの景色も、小さくゆれる。
堀江の操縦するヘリは、ふわりと地面を離れた。
エンジンは快調だ。シンちゃんの言葉どおり、天国までだって飛んで行けそうだ。
堀江は、機首を東京競馬場に向けた。正確に、八時三十分に、競馬場の上空に到着しなければならない。
(他の連中も、正確に行動を開始しただろうか?)
そんなことを考えているうちに、視界に、特徴のある楕円形の馬場が入って来た。
緊張感が、堀江を押し包む。今までは、競馬場の上空を定時に飛ぶだけだったが、今日は、決行の日なのである。
鋭い眼でメーター類を監視しながら、エンジンを止める。そして、またかける。それを何度か繰り返す。
エンジンが故障したらしく見せるためだった。わざと、チョークを強く引くと、排気管から黒煙が吹き出した。
案の定、まだ観客のいない競馬場で、五、六人の職員が、頭上で、煙を吹き出したヘリコプターを、びっくりした顔で見上げている。
堀江は、故障したヘリを、馬場の中央の空地に降下させて行った。わざと乱暴に着地させると、エンジンを切って、機体の外へ出た。
近くにいた競馬場の警備員が、ポカンとした顔で、ヘリを見、堀江を見ている。堀江は、機先を制するように、相手に駆け寄って、
「エンジン・トラブルなんだ!」
と、怒鳴った。
「これから、会社に戻って、整備士を呼んで来る。それまで、誰もヘリに近づけないでくれ」
「しかし、今日はダービーだからね。ファンが、中庭まで入ってくるんだが――」
当惑した顔で、中年の警備員がいうのに、堀江は、なおも、押しかぶせるように、
「すぐ、整備士を連れて来ますよ」
と、いい残して、さっさと、地下道に向かって歩き出した。
既成事実を作ってしまえばいいのだ。車と違って、ヘリを動かせる人間はまれだから、あそこに置いておけば、動かされる恐れは、まずあるまい。
薄暗い地下道を歩きながら、堀江は、腕時計を見た。
午前八時五十二分。
まずは、計画通りだ。
午前九時。
唐木は、太田涼子と、職員通用門から、競馬場へ入った。
正門には、『第××回日本ダービー』の大きなアーチが立ち、さすがに、年一回の競馬界のお祭りにふさわしい、華やかなムードだった。
優勝した騎手に与えられる高級乗用車が、飾ってある。
「いよいよね」
と、涼子が、小声で、唐木にささやいた。周囲の濃い緑が映っているせいもあってか、その顔が蒼《あお》い。
唐木は、わざと、ニッコリ笑って見せた。
「大丈夫だよ。上手《うま》くいくよ」
「ええ、あたしは、大丈夫よ」
と、涼子も、微笑した。
本部建物に入ったところで、二人は別れ、唐木は、場内整理員の制服に着替えた。
まだ、観客の入っていない場内は、がらんとしている。だが、やがてすぐ、観客席も、フラワーガーデンも、人で埋まってしまうだろう。
唐木は、地下道を通って、馬場の中央に出てみた。
その一角に、見なれたヘリコプターが、場違いな姿を横たえているのが眼に入った。
(堀江は、計画どおりやってくれたのだ)
まず、ひと安心だと思った。
他の連中も、計画どおり動いてくれているだろうか?
ふと、二度にわたった投書のことが、唐木の頭をかすめた。七人の中に裏切者がいるという、あの手紙だった。
しかし、ここまで来たら、仲間を信じるより仕方がない。
「あのヘリコプターは、何とかならんのかね?」
ふいに、唐木の背後で、いらだたしげな男の声がした。
振り向くと、中央競馬会のお偉方が、警備員と話しているのが眼に入った。
「すぐ、整備士がくるそうです」
と、警備員。
「エンジン・トラブルとかいっていたな?」
「はい。操縦士は、危険だから機体に近づかないでくれ、といっていたようですが――」
「こっちだって、ファンの皆さんに怪我人でも出たら大変なことになる。あのヘリには、近づかないようにしたまえ」
「わかりました」
中年の警備員は、うなずいてから、唐木の存在に気がつくと、
「ちょっと、君」
と、彼を呼んだ。
「何ですか?」
「観客が近づかんように、あのヘリの周囲に、簡単にロープを張るから、手伝ってくれないか」
羽田空港の国際線ロビーは、いつものように、混雑していた。
カメラマンの工藤は、腕時計に眼をやってから、三浦かおりの肩を押すようにした。
「もう行った方がいい、香港《ほんこん》行きの搭乗が始まるよ」
「あなたも、きっと、すぐあとから来てくれるわね?」
かおりが、光る眼で工藤を見つめてきいた。
「必ず行くよ。明日の朝になるが、必ず、飛行機に乗るよ。だから、香港のアストリア・ホテルで待っているんだ。アストリア・ホテルだよ、間違えないでくれよ」
「大丈夫」
かおりが、ニコッと笑って、
「これでも、海外旅行は三回してるのよ。そのホテルには、前にも泊まったことがあるんだもの。それよりも、あなたのことが心配だわ」
「僕のことなら、別に心配はいらないよ」
「何か危ないことをやろうとしてるんじゃないの?」
「そんなことはないよ」
と、工藤は、首をすくめて見せた。
「君とアフリカへ行くといったら、友だちが送別会をしてくれるといっただけさ。それが終り次第、すぐ、君を追いかけるよ」
「それならいいんだけど」
「大丈夫だよ」
と、工藤は、もう一度いった。
「じゃあ」
かおりは、小さく手をあげてから、搭乗口に向かって歩いて行った。
その小柄な背中が、行列の中に消えてしまうと、工藤は、もう一度、腕時計に眼をやった。
午前九時五十分。
そろそろ、計画に従って行動すべき時間だった。
工藤は、送迎デッキで、かおりの飛行機を送るのを諦《あきら》め、ボストンバッグを持って立ち上った。
一千万円の現金《げんなま》の入ったボストンバッグである。
工藤も、今日は、一千万円にふさわしく、三つ揃いの背広を着、うすいサングラスをかけていた。
タクシー乗場に出ると、待っていたタクシーに乗り込んで「東京競馬場」と、運転手にいった。
工藤が、東京競馬場に着いた時、場内は、十数万人を越す観客であふれていた。競馬ファンの誰もが、日本ダービーを待ちかねていて、どっと押しかけて来たのだ。
ダービー・レースそのものは、午後三時三十分出走予定なので、それまでには、まだ四時間ほど、時間があった。
工藤は、太田涼子のいる馬券売場に向かって歩いて行った。
ダービー人気を反映して、馬券売場は、黒山の人だった。みんな、次のレースの馬券を買うのではなく、ダービー・レースの馬券を買う客らしい。
工藤は、涼子のいる窓口に、一千万円入りのボストンバッグを差し出した。
「これで、ダービーのG―Gを買いたいんだがね」
と、工藤がいった。
涼子は、黙って、ボストンバッグを開けてから、中の一千万円を確認すると、横にいる同僚に、
「すごいわ」
と、わざと、声をかけた。同僚にも、一千万円を確認させたかったからである。
「いくら、あるんですか?」
涼子は、ガラスの向こうにいる工藤に声をかけた。
「一千万円ある筈《はず》だ」
と、工藤が答える。
「これを、全部G―Gにですか?」
「そうだ」
「今、ちょっと、数えますから」
三人の同僚が、涼子を手伝って、ボストンバッグの中の札束を数え始めた。しばらくして、
「一千万円ありましたわ」
「じゃあ、それで、G―Gの特券を一万枚」
「時間が、かかりますけれど」
「じゃあ、君にまかせるよ。僕の名前は斉藤だ。二、三時間したら、取りに来る」
工藤は、笑顔でいい、馬券売場を離れた。
建物を出て、花壇のところまで来て、工藤は、大きく息を吐いた。自分では、かなり落ち着いて芝居が出来たつもりだったが、やはり堅くなっていたのだろう。気がつくと、腋《わき》の下に、びっしょり汗をかいていた。
ベンチに腰を下ろして、煙草に火をつけた。
陽差しは、暖かいというより、もう暑いくらいだった。遠くに、陽炎《かげろう》が立って見える。
その陽炎の中から、場内整理員の格好をした唐木が、ゆっくり近づいて来て、工藤の隣りに腰を下ろした。
「馬券は?」
と、唐木が、前を向いたまま、小声できいた。
「太田涼子さんの窓口に、一千万円預けて来たよ。ダービーのG―Gを、特券で一万枚買いたいといってね。名前は、斉藤にしておいた」
「OK」
「他の連中は?」
「ヘリコプターは、すでに、馬場の中庭に着陸している」
「操縦士の堀江は?」
「この観客の中にまぎれ込んでいる筈だよ。君の彼女は、もう飛行機に乗ったのか」
「九時五十分の香港行きに乗せた。これから、僕はどうすればいい?」
「そうだな。地下道を抜けて行って、ヘリコプターを見ておくといい。特に、地下道の出口から、ヘリまで、どのくらいあるか見ておくこと」
「わかった」
工藤は、ベンチから立ち上ると、地下道の入口に向かった。
唐木は、すぐには立ち上らず、わざと、ゆっくりと煙草を取り出して火をつけた。ここまでは、どうやら順調のようだ。
それにしても、この人出はどうだろう。ダービーだけの売上げでも、百億円は突破するに違いない。
もちろん、ここ東京競馬場だけの売上げは、二十から五十億ぐらいだろうが、それでも、狙《ねら》って損のない金額であることに変わりはない。
唐木は、建物の中に入り、地下におりて行って、赤電話に十円玉を入れた。
周囲を見てから、ダイヤルを回した。電話口に出たのは、野々村の緊張した声だった。
「用意は出来てるよ」
と、野々村は、甲高い声でいった。
「落ち着けよ」
唐木は、わざとゆっくりといった。
「君や、小牧たちの出番は午後なんだ。他の者は、今のところ計画どおり行動している。君たちも頼む。それだけだ。落ち着いてやってくれよ」
馬場の方で、歓声があがった。第五レースが始まったのだ。やがて、日本ダービー・第九レースが近づいてくる。
2
午後になると、少し雲が出て来た。が、逆に気温は上って、二十五度を越えるほど、いかにも、初夏の感じになった。
午後二時。野々村は、チューン・アップした車に乗り込み、まず小牧と森下朋子を迎えに、彼等のアパートに向かった。
二人は、すでに、二つのボストンバッグを用意して、野々村を待っていた。
野々村は、ちらりと朋子を睨《にら》んでから、
「おれは、どうしてもあんたを好きになれないが、大事の前だ。一時休戦にしとくよ」
「こちらもね」
と、朋子は、ニコリともしないでいった。
小牧と朋子は、布製のボストンバッグを大事そうに抱えて、車のリア・シートに乗り込んだ。
野々村は、運転席に腰をおろしてから、首をねじ曲げるようにして、
「それに、プラスチック爆弾が入ってるのかい?」
「ああ、そうだ」
と、小牧は答えてから、片方のボストンバッグを開け、かなり大きな熊のぬいぐるみを取り出して、野々村に見せた。
「なんだい? そりゃあ」
野々村は眼を丸くして、うす汚れたぬいぐるみを見つめた。
「汚くて、片手のとれた熊のぬいぐるみじゃないか」
「この中に、プラスチック爆弾を仕掛けてある。もちろん、時限装置付きだ」
「そりゃあ、わかってるよ。ただ、なぜ、ぶっこわれたぬいぐるみにしたかときいてるんだ。もっときれいなぬいぐるみにしたらどうなんだい?」
「あんたは、馬鹿ね」
と、横から、朋子が、軽蔑したような眼で、野々村を見た。
「何が馬鹿なんだ?」
野々村が、むっとした顔で睨み返すのを、小牧が、あわてて間に入って、
「こちらは、府中警察署の近くに仕掛ける奴なんだ。新品のぬいぐるみだったら、子供が持ち帰ってしまう可能性がある。もし、そんなことにでもなったら大変だからね。こういう汚れた、片手のないぬいぐるみなら、誰だって持ち去らないだろう。そう考えて、わざと、新品にしなかったんだ」
「子供が死ぬと困るなんて、意外にヒューマニストなんだな」
「気が弱いのさ」
小牧は、ちらりと、自虐的な笑いを浮かべた。
感受性のあまり濃《こま》やかではない野々村は、そんな小牧の表情には気付かず、ただ、「ふン」と、小さく鼻を鳴らしてから、
「じゃあ、もう一つのボストンバッグには、ダルマでも入ってるのかい?」
と、きいてから、車をスタートさせた。
「いや、こっちは、むき出しのプラスチック爆弾だ」
「むき出しだって?」
「大丈夫だよ。すぐ爆発するわけじゃない。それに、プラスチック爆弾というやつは、粘土状だから、ちょっと見たところ、爆弾には見えないよ」
「ふン」
と、野々村は、また鼻を鳴らした。
三人を乗せた車は、甲州街道を西に向かって突っ走った。
「時間は十分にあるんだから、あんまり飛ばさないでよ」
と、朋子が、眉を寄せていった。
「下手に飛ばして、パトカーに捕まったら、なんにもならなくなるわよ」
「わかってるよ」
と野々村は、うるさそうにいった。
白い、府中警察署の建物が見えてきた。
「どこに止めればいいんだい?」
野々村が、スピードを落としながら、バックミラーの中の小牧にきいた。
「少し先に工場がある。その裏へ回って止めてくれ。確か、M重工の系列の子会社の筈だ」
「今日は日曜日だから、誰もいないだろう」
「だからいいのさ。爆発すれば、大騒ぎになって、府中警察署は、それにかかりきりになる筈だ」
車は、工場の正門の前をゆっくりと通り過ぎた。守衛室に、六十歳ぐらいの老人が一人、退屈そうに、週刊誌を読んでいた。
車は、塀に沿って、工場の裏に回り、人気《ひとけ》のない通路で止まった。
野々村は、小牧をふり返って、
「そのぬいぐるみを、工場の中へ仕掛けるんだろうな?」
「そうだ。機械のかげに置いてくれればいい」
「そういうことは、おれにまかせろよ」
「やってくれるのか?」
「ああ。こういう荒っぽいことは、お前さん向きじゃない」
野々村は、ニヤッと笑うと、小牧から、プラスチック爆弾の入った熊のぬいぐるみを受け取った。
「時限装置は、ちゃんと動いているんだろうな?」
「午後四時三十分に爆発するようにセットしてある」
「OK」
野々村は、ひょいと、車の屋根に飛びあがると、その高さを利用して、工場の塀に飛び移り、その中へと消えた。
十二、三分して、塀の上に、野々村の顔が戻って来た。
野々村は、何事もなかったように、車の運転席に戻った。
「次は、君たちを、競馬場へ送り届ければいいんだな」
東京競馬場は、十数万人を越す大観衆で埋まっていた。その大観衆が各レースごとに、どっと歓声をあげた。
地下道で出られる馬場の内側の広場にも、観衆が入っている。
四階のゴンドラ席では、中央競馬会理事の星野と、東京競馬場の場長である太田黒が話しあっていた。
太田黒は、大学で、星野の後輩だった。
「この分だと、ダービーの売上げは、またレコードだね」
と、星野は、満足そうにいってから、ふと眉をしかめて、
「あの内馬場のヘリコプターは、まだ動かんのかね?」
「エンジンが故障しているそうで、整備士が来るということなんですが、いまだにやって来ません」
「のんきな会社だな、どこのヘリコプターなんだ?」
「調布飛行場のヘリのようです。毎週日曜日の朝、ここの上空を飛んでいたんですが、今朝、急に不時着しまして……」
「あとで、ヘリ会社に、文句をいってやった方がいいな」
「わかりました」
太田黒がうなずくと、星野は、もうそれで、ヘリコプターのことは忘れた顔で、
「今日のダービーに出走する馬で、ホワイトタイガーというのがいるんだがね」
「その馬なら、十分に優勝の可能性がありますよ」
「私の友人の荒井君の持馬でね」
「荒井さんといわれると、保守党代議士の――」
「ああ、前の農商大臣だった荒井君だよ。今日、来るといっていたんだがねえ」
「いらっしゃったら、すぐ、ここへご案内します」
と、太田黒は、いった。
その頃、ダービーの賞品である乗用車が飾られている正門付近を、小牧と朋子が、緊張した顔で歩いていた。
「ものすごい人出ね」
朋子は、眉を寄せて、周囲を見回した。パドックが近くにあるのだが、そこには、巨大な人垣が出来ていて、背伸びをしても、肝心の馬が見えなかった。
「この不景気でも、確実に売上げが伸びているのは、競馬だけみたいだな」
と、小牧がいう。
「資本主義社会の搾取の一つの方法ね。公営ギャンブルは」
朋子は、学生運動の闘士だった女らしいことを口にした。
地上には、これまでに行なわれたレースのはずれ馬券がいっぱいに散乱していて、せわしなく歩き回る人々が、それを踏みつけていく。
ついさっきまで、二百円、五百円、千円の値打ちのあった馬券が、一瞬のうちに、ただの紙切れに変わってしまうのだ。
「ダービーの馬券を買うかい?」
小牧は、片手にボストンバッグを持ち、片手で朋子の肩を抱くようにしてきいた。
「馬券?」
朋子は、びっくりした顔になって、小牧を見た。
「馬券を買って、どうするの?」
「どうするって、別にたいした意味はないよ。ただ、面白いんじゃないかと思っただけさ」
「はずれるに決まってるわよ」
「たぶんね。ただ、僕は、ホワイトタイガーという馬が大好きなんだ。美しい馬なんだな、これが。この馬の馬券を買いたいんだ」
「じゃあ、買っていらっしゃい」
朋子は、面白くなさそうな顔でいった。
朋子には、小牧のこういうロマンチシズムが、よくわからない。馬に惚《ほ》れるという男の心理がわからなかった。
小牧は、ちょっと照れたような顔になってから、建物の中に入って行き、ホワイトタイガーの単勝馬券を特券で二枚買って戻ってきた。
「これは、僕のお守りさ」
と、小牧はいった。
朋子は、サングラスを取り出してかけた。
「冷静に行動すれば、お守りなんか必要ないわ」
二人は、地下道へ入って行った。
壁に沿って、鉄管が何本も走っている。この中に、電線や、電話線が入っているのだ。
小牧は、自分を落ち着かせようと、煙草を取り出して火をつけた。
観客が、二人の横を通り抜けて行く。人出があるうちは、プラスチック爆弾を仕掛けるわけにはいかなかった。
小牧は、腕時計を見た。
ダービーの発走は、三時三十分。それまでに、まだ四十分近くある。
朋子も、さすがに落ち着かないのだろう。
「煙草をちょうだい」
と、小牧にいって、催促した。
その時、内馬場の方から、場内整理員の腕章をつけた唐木が歩いて来た。
「火を貸してくれませんか」
と、唐木は、小牧にいってから、くわえた煙草に火をつけたあと、小声で、
「どうだい?」
と、きいた。
「府中警察署の近くに、爆弾を仕掛けてきたよ」
と、小牧も、小声で答えた。
「ここも頼むよ」
「ああ、わかってるよ」
「深呼吸をしろよ」
「え?」
「声がふるえているからさ」
唐木は、ニッと笑ってから、歩き去った。
ダービー発走三十分前。
馬場では、きらびやかに着飾った鼓笛隊が現われて、賑《にぎ》やかに行進を始めた。レースに出走する二十八頭のサラブレッドが、誇らしげに、その後に続く。
年に一度のサラブレッド、四歳馬の祭典の始まりだった。
観衆の興奮も、じょじょに高まってくる。
うわーッという、何ともいえない声が、馬場全体を蔽《おお》っている。これから展開されるレースへの期待のどよめきなのだ。
しかし、こうしたどよめきの中で、まったく別のことを考えている人間たちがいた。
唐木たちである。
唐木は、レースに夢中の観客席の大群衆の中にいた。が、彼の眼は、スタート地点に集まるサラブレッドを見てはいなかった。
堀江は、地下の湯茶接待所で、タダのお茶を飲んでいた。
工藤は、花壇近くのベンチに腰を下ろして、花を眺めていた。
太田涼子は、計画の成功を祈りながら、馬券を売っていた。
野々村だけが、東京競馬場を離れ、多摩川の向こう側に向かって、車を走らせていた。
小牧と朋子は、じっと、地下道で、チャンスを待っていた。
ファンファーレが高らかに鳴った。ダービー・レースのスタートだ。
地下道を行き来していた人々が、われがちに、レースを見ようとして駆け出して行った。
たちまち、地下道から人影が消えた。
「今だ」
と、小牧が、朋子に声をかけた。
「手が届かないわ」
と、朋子が、当惑した声でいう。
「大丈夫だ。僕が肩車するから、君が、取り付けてくれ」
二人は、ボストンバッグから、粘土状のプラスチック爆弾を取り出した。
小牧が、朋子を担ぎあげた。
朋子は、プラスチック爆弾を引き伸ばし、それを、鉄管の一つに巻きつけ、時限装置をセットした。
「すんだわ」
朋子が、ほっとした顔でいった。
「じゃあ、僕たちも、ダービー・レースを見に行こうじゃないか」
小牧がいい、二人は、地下道を出て、観客席に向かって歩いて行った。
「うわッ――」
という大歓声が、わきあがった。
二十八頭のサラブレッドが、一団となって、第四コーナーを回り、直線コースに入って来たのだ。
3
五頭のサラブレッドが、ほとんど同時に、ゴールに殺到した。
芝の大地を打ち鳴らす蹄《ひづめ》の音が、轟音《ごうおん》となって、人々の耳を打った。
一瞬、着順を確かめようとして、観客席を埋めた大観衆は、息を殺して、電光掲示板を見つめる。
一、二着とも写真判定となって、また、大きな歓声が起こった。
確定のランプがついたのは、七、八分してからだった。
一着は、三番人気のフライングスター。二着は、五番人気のハナシロウだった。連勝はC―Eで、千七百二十円の中穴になった。
レースの結果が決まったとたん、例によって、はずれ馬券が、花|吹雪《ふぶき》のように宙に舞った。
唐木は、観客席の隅で、確定の赤ランプがつくのを眺めていた。
「C―Eか」
と、唐木は、呟《つぶや》いた。その顔が笑っていた。
「G―Gでなくてよかったのかな」
G―Gという、どう考えても、来そうにない連勝馬券を、一千万円も工藤に買わせたのは、それなりの理由があったからだが、もし、G―Gが来ていたらどうなるだろうと、ふと考えた。G―Gは、大穴で、三十六倍のオッズである。
もし、適中していたら、一千万円の金が三億六千万円になる。それならそれでいいのだが、唐木が恐れたのは、他の連中が、三億六千万円の収入に満足して、襲撃計画を放棄しかねないことだった。
人間の気持は、どうしても、易きにつく。だから、唐木は、万が一を心配していたのだが、C―Eが来てその心配は解消された。
唐木は、腕時計に眼をやった。
間もなく四時になる。
馬券売場の一角で、太田涼子は、C―E確定を聞いた。
眼の前の大型ボストンバッグには、G―Gのはずれ馬券一万枚がつまっている。
涼子は、それを、ボストンバッグごと、主任のところへ持って行った。それも、すべて、唐木の計画通りのことだった。
「これ、どうしたらいいんでしょうか?」
と、涼子は、主任の前で、ボストンバッグを開けて見せた。
主任は、中央競馬会の正式な職員だけに、すべてに事なかれ主義なところがある。当惑した顔で、
「それ全部、はずれ馬券かね?」
「そうです。一千万円分、ありますけど」
「買った人は、取りに来ないのかね?」
「はい、まだ見えません。はずれたんで、照れ臭くて取りに来られないんじゃありませんか。どうせ無駄な馬券ですから、捨ててしまいましょうか?」
涼子がいうと、主任は、あわてて、
「馬鹿をいっちゃいけない。たとえはずれ馬券といえども、法的な所有権は、買った人にあるんだよ。もし、捨ててしまったあとで、買主が現われたらどうするのかね」
と、眉をしかめた。
「じゃあ、どうしましょう?」
「どうするって、君、弱ったな、ここに置いておいて、一枚でも紛失して、相手に難くせをつけられたら困る。相手は、一千万円をパーにして頭に来てるだろうからな。なんで絡《から》んでくるかわからんからね。とにかく、場長に聞いてみよう」
主任が、競馬場長に電話している間、涼子は緊張した顔で、結果を待っていた。
いつだったか、北九州の小倉競馬場で、五千万円分の馬券を買った男がいて、その馬券ははずれたのだが、そのはずれ馬券を取りには来なかった。
処置に困った競馬場は、一枚でも失ってはと、そのはずれ馬券五万枚を、地下の金庫に厳重保管した。
東京競馬場でも、同じ処置をとるだろう。そう考えて、唐木は、計画を立てたのである。役所というところは、失敗を一番恐れる。
だから、役人は、ひたすら、前例にならうのだ。中央競馬会も役所の一つであってみれば、同じことがいえる筈だった。
「そうですか、やはり」
と、主任は、うなずいてから、受話器を置いて、涼子に、
「買った人が取りに来るまで、地下金庫に保管することになったよ。面倒臭いが仕方がない。はずれ馬券なので、競馬場が粗末に扱ったなんて書かれたら大変だからな」
「金庫に保管する前に、もう一度数えなくていいでしょうか?」
「一万枚、きちんとあるんだろう?」
「あると思いますけど、なにしろ、数が多いもんですから」
「よし。一枚でも足りなくて、文句をいわれては困るからな。おいッ、手の空いてる者は、ここへ来て、数えてくれ」
と、主任は、大声でいった。
四人の女が、はずれ馬券をボストンバッグから出して、数え始めた。
涼子も、数えていたが、すきをみて、その中の一枚を引き抜き、小さく丸めて、主任の机の横にある屑籠に放り込んだ。
百枚ずつに束ねられ、ゴムで止められた百箇のはずれ馬券は、もう一度、ボストンバッグにおさめられた。涼子が数えた束は、九十九枚しかないのだが、その束を、ボストンバッグに入れる時、涼子は、一番上の馬券を、三角に折っておいた。
一万枚のはずれ馬券を入れたボストンバッグは、係長が持って、エレベーターで地下金庫へ運ばれて行った。それを見送って、涼子は、ほっと溜息をついた。
まだ最終レースがあるというのにダービーが終了すると、場内を埋めた大観衆は、急激に減っていった。
ざわざわと、人々は、帰って行く。帰りの電車が混まないうちにということもあるだろうが、ダービーの馬券だけを買うというファンも多かったからである。
午後四時三十分に、最終レースがスタートする。
小牧と森下朋子は、いい合わせたように、自分の腕時計を見つめていた。
「四時三十分ッ」
と、小牧が、小さく叫んだ。
最終レースのスタートを告げるファンファーレが場内に鳴りひびく。
ちょうど、その時刻。
府中警察署の裏手にある工場の一角が、大音響と共に爆発した。
轟音が空気をふるわせ、激しい地鳴りが、人々を驚かせた。
近くに住む人々は、飛行機でも墜落したのかと、あわてて、外へ飛び出した。
工場の窓ガラスという窓ガラスはすべて、粉々に吹き飛ばされ、火災も発生した。
消防車が駆けつけ、府中署からも当然、刑事たちが、飛び出して行った。
四時四十分。
神奈川県側の予定地に、車を止めていた野々村は、腕時計を見ながら、近くにある公衆電話ボックスに歩いて行った。
やおら、ポケットから手帳を取り出し、有名新聞社のダイヤルを回し、社会部を呼んで貰った。
「われわれは、狼《おおかみ》の子だ」
と、野々村は、低い声でいった。
「何だって?」
「黙って聞け。われわれ狼の子は、たった今、府中署の裏手にあるM重工の子会社を時限爆弾によって爆破した。他の五か所にも、われわれは時限爆弾を仕掛けたから、それを通知する。よく聞けよ。府中銀行、日本自動車府中工場、日本化学府中工場、太陽機器、中央証券府中店だ。わかったかね?」
「なぜ、府中ばかり狙《ねら》うんだ」
「一つの実験だよ、実験。次は、東京全体で実験し、最後には、日本全土を大混乱におとし入れるのが、われわれの目的だ」
「君のいった五か所の時限爆弾は、いつ爆発するんだ?」
「それは教えられないね。だが、間もなくだ」
「まさか、嘘《うそ》じゃあるまいね?」
「嘘だと思うんなら、府中署に連絡して聞いてみるんだね。今頃、M重工の子会社が吹っ飛んで、大騒動になってる筈だ」
野々村は、ニヤッと笑って、電話を切った。
(これで、府中署はてんやわんやだろう)
唐木たちの予想は適中した。
新聞社からの知らせで、府中署は上を下への大騒ぎになった。
確実に、M重工の子会社は、時限爆弾によって爆破され、燃えあがっている。その現実がある以上、他の五か所に時限爆弾が仕掛けられたという新聞社からの知らせを無視するわけにはいかなかった。
「狼の子だとッ」
と、署長は、眉をしかめて怒鳴った。
「いったい、そいつは何者なんだッ」
何者であるにしろ、目下の急務は爆発を未然に防ぐことだった。
「動ける警官を、全部呼び集めろ」
と、署長は、部下に叫んだ。
「集まったら、問題の五か所に急行させ、時限爆弾を見つけ出すんだ。見つからなかったら、付近の人々を避難させろッ」
最終レースは、あまり熱のない状態で、進行していった。
日本ダービーという一大ページェントの熱気が、東京競馬場から消え去ってしまっていたからである。
まるで、附録のような格好の最終レースを、熱っぽく見守っている人たちがいたとすれば、今日の負けを最終レースで取り返そうとする一部のファンだけだった。
そのファンたちも、最終レースの結果が出てしまうと、がっくりと肩を落とし、はずれ馬券をちぎって投げ捨てて、帰り始めた。
人々は、レースの終った競馬場になど、一瞬でもいたくないというように、小走りに帰って行く。
十数万人を越す大群衆で埋まっていた競馬場は、たちまち、はずれ馬券と、読み捨てられた予想紙や、新聞の散乱するだだっ広い場所に変わってしまう。
馬券売場で働く、アルバイトの女性たちも、そそくさと帰り支度を始めた。
太田涼子が働く窓口でも、仲間の女性たちは、どんどん帰って行く。
主任が、「太田君」と、呼んだ。
「例のはずれ馬券の主は、まだ現われないかね?」
「まだです。どうしましょうか? 私が残っていましょうか? 顔はよく覚えていますから」
「ええと、何時かな」
と、主任は、壁の時計に眼をやってから、
「あと七分で五時か。五時まで待って、それでも現われなかったら、君も帰りたまえ」
「はい」
と、涼子は、うなずいた。
その間も、アルバイトの職員は、どんどん帰って行く。
五時ジャストに、涼子の窓口に、工藤が現われた。
「ああ、あなただ」
と、工藤は、わざと大きな声でいった。主任が、その声で、腰を浮かした。
涼子は、主任に向かって、
「あのはずれ馬券の人は、この方です」
といった。
主任はほっとした顔で、椅子《いす》から立ち上って、窓口へ寄って来た。
「あなたですか。G―Gを一千万円も買ったのは」
「ええ」
と、工藤は、ガラスの向こうで頭をかいた。
「一攫《いつかく》千金を狙《ねら》ったんですが、失敗しましたよ。実は、あの金は、おやじに貰ったものでしてね。はずれ馬券を見せないと、一千万円を競馬に使った証明にならないんですよ、それで、その馬券を持って帰りたいんですがね。それと、ボストンバッグも……」
「すぐ持って来ましょう」
「持って来るって、ここにはないんですか?」
「はずれ馬券でも、大事な財産に変わりはありませんからね。あなたがお見えになるまで、地下金庫に大事に保管しておきました」
「それは、どうも。今、いただけますか?」
「ちょっと待って下さい」
主任は、受話器を取ると、地下金庫室に電話をかけた。
「例の一万枚のはずれ馬券の件だがね。買った人が現われたので、これから取りに行くから、金庫から出しておいてくれたまえ」
それだけの連絡をしている間、涼子は、部屋のドアを中から、そっと開けた。
外に待っていた、場内整理員姿の唐木が、するりと、身体を滑り込ませ、すばやく、机のかげに身体をかくした。
電話をかけ終った主任が、
「じゃあ、これから、地下金庫へ行って、はずれ馬券を取って来るから、その間、その方には、待っていただきなさい」
と、涼子にいって、部屋を出ようとしたとき、机のかげから躍り出した唐木が、ポケットから取り出したモデルガンの台尻で、いきなり、主任の後頭部を殴りつけた。
主任の痩《や》せた身体が、へなへなと崩れ折れる。
唐木と涼子は、その身体を、机のかげに引きずって行き、手足を縛り、唐木が用意してきたガムテープを、口に貼《は》りつけた。
「これからが大変だぞ」
と、紅潮した顔で、唐木が、涼子にいった。
「さあ、二人で、地下金庫へ出かけよう」
4
唐木と涼子は、地下金庫に通じるエレベーターの所へ歩いて行った。
エレベーターの前には、トランシーバーを持った警備員がいた。
「君たちは、どこへ行くのかね?」
と、とがめるように聞いた。
「谷口主任さんにいわれて、地下金庫に、一万枚のはずれ馬券を取りに行くのです」
と、涼子が答えた。
「ちょっと待て!」
警備員は、二人を待たせておいて、電話で地下金庫室と連絡を取っていたが、電話が終ると、二人のところに戻って来て、
「はずれ馬券のことは了解しているといっているが、なぜ、谷口さんが自分で来ないのかね?」
「主任さんのところに、急に大事な来客があったんです。それで、はずれ馬券を売ったのはあたしだったので、取りに行ってくれと頼まれたのです」
「君は?」
警備員は、唐木を見た。
「僕は、アルバイトの場内整理員ですよ」
と、唐木が答えると、中年の警備員は、「そんなことはわかっている」と、腹立たしげにいった。
「なぜ、一緒に行くのかときいてるんだ」
「帰ろうと思って、この人の売場の近くを通りかかったら、主任さんに、一緒に行ってやってくれと頼まれたんです。はずれ馬券でも、一万枚となると、大変な量ですからね」
「そうだな」
と、警備員は、ちょっと考えてから、
「いいだろう」
と、いった。
唐木と涼子は、エレベーターに乗った。
ドアが閉まると、唐木は、さすがに、ほっとしたように、吐息をついた。
涼子も、蒼白い顔をしている。
「第一関門は、どうやら通過したな」
と、唐木は、小さい声でいってから、地下二階のボタンを押した。
エレベーターは、ゆっくり降下していく。実際には、あっという間に地下二階へ着いてしまうのだが、唐木と涼子には、やけに時間がかかるような気がした。
エレベーターが止まり、ドアが開く。
(もう後戻りは出来ない)
と、唐木は思った。そう考えると、逆に開き直った気持になり、度胸がついた。
唐木は、軽く涼子の背を叩いてから、先にエレベーターを下りた。
廊下の向こうに、鉄格子があり、その中に大型金庫がある。鉄格子の前には、警備員が二人いた。
鉄格子の中では、八人の事務員が、今日の売上金を計算し、ジュラルミンのケースに詰めている。数え終れば、明日、銀行の車が来るまで、金庫に保管されるのだ。
唐木と涼子は、ゆっくり近づいて行った。
「電話があったと思うんですけど」
と、涼子が、二人の警備員にいった。
片方の警備員が微笑した。その腰に、警察官が使うのと同じ警棒が下がっていたが、拳銃は持っていなかった。
上には、警察官詰所があり、電話一本で駆けつけて来るからだろう。
「これだろう」
と、警備員が、大きなボストンバッグを重そうに持って、二人の前に置いた。
「中身を確かめてもいいですか?」
と、涼子がいった。
「このはずれ馬券を買ったお客さんが、一千万円を損したせいだと思うんですけど、一枚でも無くなっていたら、中央競馬会を訴えると息まいているんです」
「その気持はわかるがね。誰も、はずれ馬券なんか盗《と》りゃせんよ」
と、警備員が、顔を見合わせて笑った。
「ええ、わかってます」
涼子も、ニッコリ笑いながら、ボストンバッグの口を開け、あらかじめ目印をつけておいた、九十九枚しかない馬券の束を取りあげた。
それを、わざと、警備員に見せるようにして、一枚ずつ数えてから、
「おかしいわァ」
と、大きな声を出した。
「どうしたんだい?」
唐木が、声をかける。
「百枚ずつ束にした筈なのに、九十九枚しかないのよ。お客さんは、あんなに息まいてるし、一枚でも足りないとなったら大変だわ」
「本当に一枚足りないのかね?」
警備員の一人が、涼子の手許をのぞき込んだ。
「ええ」
「百一枚の束が、他にあるんじゃないのかね」
「いいえ。さっきは、ちゃんと百枚ずつあったんです。どうしたらいいでしょう? 他の人たちは、もう帰っちゃったし、上には、窓口でお客さんが手ぐすね引いて待っているし」
「そうだな。誰か手伝ってやれる人はいないかね?」
警備員は、鉄格子の中の職員に声をかけた。
札束を数え終った、男の職員が一人、鉄格子の錠《じよう》をあけて、こちら側にやって来て、涼子を手伝い始めた。
一階端の馬券売場に、小牧と森下朋子が、もぐり込んでいた。
外側に、工藤が、見張りの形で立っている間に、朋子は、部屋の中にあるアルバイト職員のユニフォームを、スーツの上から羽織った。
小牧は、床に転がしてある主任の胸についている職員バッジをはずして、自分の背広の胸につけた。
「さあ、行くわよ」
と、朋子の方が、小牧を促した。
二人は、地下金庫へ通じるエレベーターに向かって歩いて行った。
エレベーター前にいた警備員が、眉を寄せて二人を見た。
「なんだい、君たちは?」
「僕たちは、地下金庫にはずれ馬券を取りに行く」
と、小牧は、胸の職員バッジを、警備員に示した。すると、警備員が眼をむいた。
「しかし、はずれ馬券の受け取りには、ついさっき二人が」
「二人? 僕たち以外に、はずれ馬券を取りに行く者はいない筈だよ」
「えッ?」
「その二人は偽者だよ。僕のように、職員バッジをつけていたかね?」
「いや。男の方は、場内整理員の服装をしていたんだが――」
「あんなユニフォームは、いくらでも盗み出せるよ。大変だぞ。職員に化けた奴が、地下金庫にもぐり込んだんだ」
「じゃあ、すぐ電話連絡をして――」
警備員が、蒼い顔で、傍の電話に突進しようとするのを、小牧は、腕をつかんで止めた。
「そんなヒマはないよ。これからすぐ、一緒に地下金庫へ行くんだ」
そのまま、強引に、小牧と朋子は、両側から挟むようにして、警備員と一緒にエレベーターに乗り込んだ。
ドアが閉まる。
その瞬間、朋子は、「あッ」と、唐突に叫び声をあげ、警備員が、彼女に気を取られたすきに、小牧が、かくし持っていた車のスパナを取り出して、警備員の後頭部を殴りつけた。
あっけなく、エレベーターの床に崩れおれた警備員。
朋子が、間髪を入れず、地下一階のボタンを押す。停止するエレベーター。ドアが開こうとするのを、「閉」のボタンを押し、次に一階のボタンを押した。
エレベーターは、元の一階に戻る。そこには、工藤が待っていた。
ドアが開くと、男二人が、気絶している警備員の身体を引きずり出し、五メートルほど先にある化粧室まで引きずって行った。
そこで、警備員の制服を剥ぎ取り、彼に骨格の似ている工藤が、警備員に化ける作業に取りかかった。
一方、いったん競馬場の外に出た堀江は、近くに停めておいたライトバンに乗り込んだ。
色を塗りかえ、車体に、「田中ヘリ運搬株式会社」と書いたライトバンである。
堀江は、それを運転して、もう一度、競馬場へ引き返した。
午後五時半を回り、観衆は、全て帰ってしまっている。
門のところにいた二人の警備員が、止まれの合図をしてから、車に近づいて来た。
「どこへ行く?」
「ここに不時着しているヘリの修理に来たんです」
堀江は、田中ヘリ運搬株式会社の身分証明書と、写真を貼ったライセンスを、警備員に見せた。
「エンジンの部品を持って来たんですよ。取りかえれば、すぐ飛べる筈です」
堀江は、ぺらぺらと、専門用語を並べ立てた。
大きなヘリが、朝から置いてあるのだから、二人の警備員も、すぐ撤去して貰いたいという顔で、
「部品を取りかえれば、すぐ飛び立てるのかね?」
「大丈夫ですよ。ただ、部品は重いものだから、車ごと乗り入れさせてくれませんか。だめなら、また明日にでも来ますが」
「一刻も早く、あのヘリを撤去して貰わなきゃ困るよ」
と、警備員はあわてていい、ゲートを開けてくれた。
堀江は、車を場内に乗り入れた。
ついさっきまで、予想紙を持った人々で押し合いへし合いしていた場内は、閑散としており、手拭いをかぶった掃除のおばさんが、散乱したはずれ馬券を掃いていた。
堀江は、車を、本部事務所のエレベーターの近くに止めた。
ガラス戸の向こうに、警備員に変装を完了した工藤がいて、堀江がおりて行くと、万事OKのサインを送って来た。
地下金庫の前では、警備員二人と、唐木、涼子、それに、手伝いに鉄格子の向こうから出て来てくれた事務員の五人が、一万枚のはずれ馬券を数え直していた。
唐木は、疲れたという顔で、大きく伸びをしながら、内ポケットにかくしている改造モデルガンを、右手でつかんだ。
二人の警備員は、床にしゃがみ込み、はずれ馬券を数えている。まったく無防備な姿勢だ。
攻撃は、素早くやらなければならない。
それに、時間も切迫している。六時までにすべてを完了しなければならない。
なぜなら、地下道にセットしたプラスチック爆弾は、午後六時に爆発するからだ。
唐木は、自分の運動神経に賭けた。
右側の警備員の後頭部を殴りつけた。
うなり声をあげて、その警備員が床にぶっ倒れる。
もう一人が、驚いて顔をあげるところを、唐木が、殴打した。後頭部を殴るつもりだったが、拳銃の台尻は、相手の顔に当たってしまった。
「うわッ」
と、叫んで、その警備員はうつぶせに倒れて、動かなくなった。
唐木は、鉄格子の中に身体を潜り込ませ、呆然としている八人の事務員に、拳銃を突きつけた。
「動くな」
と、怒鳴った。
賭けだった。モデルガンと見破って、飛びかかって来たら、相手は八人、こちらは涼子と二人では、勝ちめはない。
だが、幸いなことに、八人が、すべて中年の男女だったこと、いきなり警備員二人を打ちのめしたことで相手は、ふるえあがっていた。
唐木は、余裕を得て、微笑した。
「よし。全員、壁の所まで退がれ」
「こんなことをしたって、金を持って逃げられやしないぞ」
と、事務員の一人が、声をふるわせていった。
「それはどうかな」
と、唐木が笑ったとき、エレベーターから、小牧と朋子が、おりて、駆けつけて来た。
「上はどうなってる?」
と、拳銃を構えながら、唐木が、小牧にきいた。
「万事|上手《うま》くいっている」
「これに全部、お札が詰まってるのね」
と、朋子は、金庫の前に、ずらりと並んだジュラルミンのケースを指さした。
「一箱、いくらぐらい入っているのかしら?」
「たぶん一億だ」
「じゃあ、二十億円もあるんじゃないの」
「予想したより少ないよ。時間がない。全員を縛りあげるんだ。手早くやれッ」
と、唐木が怒鳴った。
ロープと、ガムテープを使って、次々に、縛りあげ、口にテープを貼《は》っていく。
縛った二人の警備員と、八人の事務員は、床に並べて寝かせた。
唐木は、腕時計に眼を走らせる。
五時四十分。あと二十分だ。
「ハリー・アップッ」
と、彼は叫んだ。
二十箇のケースを、エレベーターまで運ぶ作業が始まった。
三往復が必要だった。唐木と小牧は、両手に下げて運べたが、女二人は、一回に一つしか運べなかったからである。
小さいエレベーターは、二十箇のジュラルミンケースを詰め込むと一人しか乗れなかった。あとの三人は、階段を駆けあがった。
計画どおり、二十億円を持って、脱出できるだろうか?
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第六章 悪党たちの報酬
1
エレベーターの扉が開き、ジュラルミンケースを手に飛び出そうとした唐木は、ギョッとして立ちすくんだ。
警備員に化けた工藤と、警察官が、入口のところで話し込んでいるのだ。その傍に、堀江の運転して来たライトバンが止まっている。
(何を話してやがるんだ?)
唐木は、時間を気にして、舌打ちした。
爆発まで、あと、ほとんど時間がない。
(早く追っ払え!)
と、唐木は胸の中で、工藤に向かって叫んだ。
その声が聞こえたのか、警官は、手をあげ、笑いながら引き上げて行った。
工藤が、蒼《あお》い顔で、エレベーターの方へ飛んで来た。
「退屈だって、話しかけて来て帰らなかったんだッ」
と、工藤が、叫ぶようにいった。
「よし、早く車に積めッ!」
唐木が怒鳴った。
また、時間との競争が始まった。
エレベーターで、地下金庫から運びあげた二十箇のジュラルミンケースを、ライトバンまで運び込むのだ。
誰もが必死だった。誰もが息をはずませていた。
積み込むと、堀江が運転席に飛び込み、唐木が、助手席に身体を滑り込ませる。
他の四人は、その場に残った。ヘリコプターに、六人は乗れないからである。
四人は、プラスチック爆弾が爆発したあと、その混乱に乗じて、正門から逃げ出すことになっていた。
工藤は、警備員のユニフォームを着、小牧は、中央競馬会職員のバッジをつけている。
森下朋子と太田涼子の女二人は、馬券売場の職員のユニフォームを着ている。逃げるとき、疑われることは、まずないだろう。
落ち合う場所は、決めてあった。
堀江が、ライトバンをスタートさせた。
スピードを落とさずに、地下道に車を突っ込んだ。
唐木が腕時計に眼をやる。もう時間がない。
「急げッ!」
と、唐木が、悲鳴に近い声をあげた。
猛烈なスピードでライトバンは地下道を走り抜けた。
瞬間。
地下道で、プラスチック爆弾が爆発した。
轟然《ごうぜん》たる爆発音と爆風が、地下道を走った。
水道管、電線ケーブル、電話線ケーブルの三つが、瞬時に破壊された。
鉄管三本が、飴《あめ》のようにひん曲って、あるいは、破片となって飛び散ってしまった。
東京競馬場の明りが、いっせいに消えてしまった。
破裂した水道管から、どッと水が噴出し、たちまち、地下道が水びたしになっていく。
暗闇に包まれた東京競馬場は、大混乱に落ち込んだ。
受話器を取っても、電話は通じない。仕方なく、警官や、警備員は、電話をかけるために、東京競馬場の外へ駆け出して行った。
他の職員たちは、故障個所を探しに、懐中電灯を持って走り回った。
工藤、小牧、朋子、涼子の四人は、その混乱に乗じて、正門から外へ出ると、ばらばらに別れて、指定された場所に向かった。
一方、堀江と唐木は、ライトバンをヘリコプターの脇に乗りつけると、ジュラルミンケースを、車からヘリに移す作業に取りかかった。
眼の前に見える建物は、爆発と同時に明りがいっせいに消えてしまった。遠く、人々の騒ぐ声が聞こえてくる。あの様子では、ヘリのことなど、誰も問題にしていないだろう。
数分後、ジュラルミンケースは、全部、ヘリの機内に積み込んだ。
「OK、行くぞ」
と、堀江が、操縦席に腰を下ろして、唐木に合図した。
「レッツ・ゴー」
と、唐木が応じる。
回転翼が、うなりをあげて回り始めた。
「まだか?」
唐木が、いらいらした声できく。回転があがってからでなくては、上昇できないのはわかっていながら、怒鳴らずにはいられなかった。
「あわてなさんな」
と、堀江がいう。その声も、甲高くなっている。いつもの堀江の調子ではなかった。
回転があがり、二人と二十億円をのせたヘリコプターは、ふわりと、夜空に舞い上った。
急激に、地上が遠くなっていく。見下ろすと、周囲の家々には明りがついているのに、東京競馬場だけが、真っ暗だった。その対比が、あざやかだった。
今頃、あの暗闇の中で、人々は、大騒ぎをしているだろう。
(いつ、地下金庫のことに、気がつくかだな)
と、唐木は思った。それが、おそければおそいほど、唐木たちは逃げるのが楽になる。
ヘリコプターは、機首を東南に向けて、水平飛行に移った。
みるみるうちに、東京競馬場の暗闇が遠ざかり、前方に、銀色に鈍く光る多摩川の川面が見えてきた。
唐木は、やっと、ほっとした顔になり、煙草をくわえて火をつけ、操縦している堀江にも、くわえさせた。
「やれやれだな」
と、堀江が、煙を吐き出した。
「あの四人が、無事に逃げられて、集合場所に来られるといいんだが」
唐木がいった。
「大丈夫さ。競馬場の職員が、地下金庫の異変に気がついても、電話線が切れているから、警察に連絡するのに時間がかかる。非常線が張られる頃には、競馬場から遠く離れた地点に逃げているさ」
堀江が、楽観的にいった。
唐木も、そのつもりで、プラスチック爆弾で電話ケーブルや送電線を爆破したのだが、すべてが、計画どおりにいくとは限らないことも、彼は知っていた。
暗闇の中で、東京競馬場の場長が怒鳴っていた。
「いったい何があったんだ?」
その声に応じるように、懐中電灯を手にした職員が、報告にやって来た。
「地下道で爆発があって、そのために、電気も消え、電話も通じなくなった模様です。今、外の電話で、電力会社と電話局に連絡し、至急、修理に来て貰うようにいってありますが……」
「暗くてよく見えんのだが、君は誰だね?」
「警備責任者の横田です」
と、男は、懐中電灯で、自分の顔を照らして見せた。
「ああ、君か」
と、場長は、うなずいた。
「爆発事故は、いったいなぜ起こったのかね?」
「まだわかりません。水道管も破裂して、地下道が水びたしになってしまったので、爆発個所を調べられないのです。排水が終ればわかると思いますが……」
「さっき、爆音が聞こえたが?」
「あれは、今朝エンジントラブルで内馬場に不時着していたヘリコプターが、修理を終って、飛び立ったんです」
「そうか、あの邪魔物がいなくなってくれたのか」
と、場長は、ほっとしたような顔になったが、急に、厳しい眼つきになり、
「地下金庫の売上金は大丈夫なのかね?」
「大丈夫――と思いますが」
「なぜ、大丈夫といえるんだ。地下室に電話は通じないんだろうが?」
「爆発が起きる前、地下金庫に異常はありませんでした。何かあれば、警官詰所に連絡が入るからです。ところが、何もありませんでした。爆発があったあと、怪しい人間は、正門から出ていません。売上金は二十億円はありますから、ジュラルミンケースにして二十箇、持ち出せば、すぐわかります」
「そうかも知れんが、心配だ。妙な爆発があったあとだからな。すぐ、地下金庫へ行って調べてみてくれ」
「わかりました」
横田は、懐中電灯を持って、廊下に出た。
停電してしまっているので、エレベーターは動かない。
四階の場長室から地下二階まで、横田は、長い階段を息を切らしながら駆けおりて行った。
やっと、地下金庫室のある地下二階に辿《たど》りついた。
ここは、億単位の金が、保管されている場所である。当然、非常灯がついていなければならないのに、真っ暗だった。しかも、奥から人間の呻《うめ》き声が聞こえてくる。
横田は、はっとして、懐中電灯をその声のする方向に向けた。
鉄格子の向こうに、一人、二人、いや、数人が、縛られ、猿ぐつわをはめられて、床に転がされているのが眼に入った。
五分後に、府中警察署に、東京競馬場の売上金強奪事件の知らせが入った。
電話を受けた捜査一課長の下垣は当惑した。部下のほとんどが、爆弾騒ぎで出動してしまっていたからだった。
だが、二十億円の売上金が強奪されたとなると、放ってもおけなかった。
下垣課長は、わずか二名の部下を連れて、東京競馬場に急行した。
パトカーで到着して、競馬場全体が、真っ暗なのに驚いた。
今日の警備に派遣されていた警官や、競馬場の警備員が、下垣を迎えた。
その中の一人が、警備責任者の横田ですと、下垣課長に挨拶《あいさつ》した。
「まんまとやられました」
と、横田は、パトカーのライトの中で、口惜しそうにいった。
「犯人たちは、実に用意周到に計画し、実行したようです」
「犯人たちというと、何人ですか? 相手は」
「少なくとも五人はいる筈です。いずれも、若い男女です」
「女も混じっていたんですか?」
ちょっとびっくりした顔で、下垣課長がきいた。
「ええ、五人のうち、二人は若い女だったそうです。年齢は、いずれも二十五、六歳だったそうです。現在、地下道で爆発があって、電気が消え、電話も通じなくなっていますが、あの爆発も、どうやら、犯人たちが、時限爆弾を仕掛けたのではないかと思われるのです」
「時限爆弾ですって?」
おうむ返しにいってから、下垣課長の顔が蒼《あお》ざめた。
府中署裏の工場の爆破も、府中市内の犯行などの爆破予告も、すべて東京競馬場襲撃の陽動作戦だったのではないかと考えたからである。もし、そうだったら、警察は、まんまと犯人たちの手にのせられたことになる。
「たぶん、時限爆弾です。犯人たちが、地下金庫室から売上金を奪って逃げた直後に、地下道で爆発が起きましたから」
「それで、犯人たちは、どうやって大金をここから外へ持ち出したんです? 二十億円といえば、大変な量でしょう」
「ジュラルミンのケースで二十箇です」
と、横田はいってから、「あッ」と、小さな声をあげた。
「ヘリコプターです。爆発のあと、ここから出たのは、あのヘリコプターだけです。エンジントラブルを理由に、場内に不時着していたヘリコプターです」
「どんなヘリコプターです?」
「色は確か白だったと思います。調布飛行場のヘリコプターだといっていました」
「売上金が、ヘリで持ち去られたことは間違いありませんか?」
「他に考えられませんよ」
「鈴木君ッ」
下垣課長は、パトカーの中にいた部下の刑事を、大声で呼んだ。
「すぐ、ヘリを手配するんだ。調布飛行場のヘリで、ボディの色は白。売上金強奪の犯人が乗っている可能性がある」
眼下に合図の光が見えた。
野々村が、懐中電灯三つを、三角形の形に地面に置いて、ヘリの唐木たちに合図しているのだ。
堀江は、慎重に、造成地に向かって、ヘリコプターを降下させて行った。
もうもうと、土煙が舞い上った。軽いショックがあって、ヘリコプターは、赤土の地面に着陸した。
回転翼が、次第に回転のスピードをゆるめるのを待ちかねたように、野々村が、大型ライトバンの尻を、ヘリコプターに近づけた
「上手くいったのか?」
野々村が、車から飛びおりて来て唐木にきいた。
「もちろん、成功したさ」
と、唐木は、野々村に向かって、ニヤッと笑って見せた。
「じゃあ、早く札束を拝ませてくれないか」
「札束を拝むのは、集合地点へ着いてからだ。ケースを車に移しかえるんだ」
「そのヘリは、もう手配されたのかい?」
「わからないが、手配されたと考えて行動した方がいい。その方が安全だ」
と、唐木はいった。
三人は、ジュラルミンケースを、また、ヘリからライトバンに移しかえた。
それが終ると、三人を乗せた車は土煙をあげて走り出した。
2
工藤武四郎は、競馬場の外に出ると、公衆便所に入り、警備員のユニフォームを、元の背広に着替えた。
警備員のユニフォームは、丸めて便所の横にあった屑籠へと放り込んだ。
そのあと、工藤は、タクシーを拾った。
「八王子までやってくれ」
と、工藤は、運転手にいった。
「競馬場で、何かあったんですか?」
中年の運転手は、車をスタートさせながら、工藤にきいた。
「なぜだい?」
「なんだか、ガヤガヤと騒がしいじゃありませんか。馬券で損した奴が火でもつけたのかな」
「そうかも知れない」
工藤は、クスッと笑った。ダービー馬券を一千万円買い、全部はずれたといったら、この運転手は、信じるだろうか。
「わたしも、一レースで十万ばかり、すったことがありましてねえ」
話好きらしい運転手は、車を運転しながら話し始めた。
「ほう」
工藤は煙草を取り出して、火をつける。
「あん時は、本当に、競馬場に火をつけてやりたかったですよ。何しろ十万円ですからねえ」
「その後は、競馬には手を出さずかい?」
「それがねえ。次の日曜になると、場外馬券売場へ直行ですよ。われながら情けないと思いましたがねえ」
あははははと、運転手は笑ってから、急に、
「あれ、検問ですよ」
二〇〇メートルほど先に、パトカーが二台止まり、車の検問をやっている。
府中署が、応援を頼んだのだろう。それとも、二十億円という金額に驚いて、近隣の警察全部に非常呼集でもかけたのか。
車が、一台、一台、検問されている。その前には、十二、三台の車がじゅずつなぎになっている。
「どうします?」
と、タクシーの運転手がきいた。
「どうしますって、逃げ出したら疑われるだろう」
「そりゃあ、そうですがね。いったい、なんの事件なのかな?」
運転手は、首をかしげながら、車を、並んだ列の最後尾につけた。
工藤は、吸殻をもみ消し、顔をなぜた。
大丈夫だと思っていても、やはり唇が乾いてくる。
工藤の乗っているタクシーの番になった。
二人の警官が、乱暴に車体を調べる。後部のトランクを開けさせ、座席をのぞき込む。
「いったい、何があったんですか?」
運転手がきいたが、警官は、答えるかわりに、客席の工藤に向かって、
「お名前は?」
と、言葉づかいだけはていねいにきいた。
「工藤です」
「身分証明書を見せてもらえますか?」
「ええ、いいですとも」
工藤は、写真家協会の身分証明書を見せた。
「ほう、プロのカメラマンですか」
「まだ、かけ出しです」
笑ったつもりだったが、顔が引きつって、上手く笑えなかった。
しかし、検問の警官たちは別に不審がらず、通してくれた。どんな人間でも、検問にぶつかれば、多少動揺するものなのかもしれない。
八王子に着くと、工藤は、タクシーをおり、国鉄横浜線に乗った。
太田涼子は競馬場を出ると、一〇〇メートルほど歩き、そこにあった公衆電話ボックスに入った。
その中で、ワンピースの上に羽織っていたユニフォームを脱いで丸めた。
電話ボックスの後ろの暗がりに丸めたユニフォームを捨ててから、涼子は、まっすぐ、京王線の府中競馬正門前駅に歩いて行った。
京王八王子までの切符を買って、改札口を通った。
ホームに入っていた電車に乗り、腰を下ろす。早く出てくれればいいのにと思っても、電車は、なかなか発車してくれなかった。
自然に、眼が、東京競馬場の方へ向いてしまう。
電車の窓から見える競馬場は、まだ、真っ暗なままだった。多分、しばらくの間、大混乱が続くだろう。
それが、誇らしくもあるし、怖くもある。
とうとうやったわ、という若者らしい誇りだった。それも、好きな唐木と一緒にやっただけに、いっそう嬉しいし、誇らしい。明日になればテレビや新聞が、この事件を大きく報道して、涼子の誇りを、更に輝かしいものにしてくれるだろう。
だが、その一方で、不安もある。これからどうなるのかという不安だった。
上手く逃げられるだろうか。
涼子は、小さく折りたたんだ紙片を取り出し、両手でかくすようにして、ひろげた。
一週間前、唐木から全員に配られたものだった。その紙には、計画が成功したあと、ばらばらになって、ある場所に行くようにと書いてあった。
(神奈川県城山町の先――)
と、涼子が、確認するように呟《つぶや》いたとき、ベルが鳴って、電車が滑り出した。
涼子は、ほっとして、大事なメモをしまった。
東府中で、京王八王子行きの急行に乗りかえる。競馬場から離れるにつれて、涼子は、緊張がとけていくのを感じた。
京王八王子に着いたのは、午後七時少し前だった。
昼から、何も食べていなかったが、空腹は感じなかった。一刻も早く、集合場所に着いて、唐木の無事な顔を見たかった。
唐木と、堀江は、ヘリコプターで逃げたが、無事に成功したのだろうか。唐木のことだから、大丈夫だとは思っていても、会うまでは心配だった。
恋することは、楽しく、素晴らしい。ただ一つ、苦しいことがあるとすれば、それは、恋人のことが、やたらに気になることだろう。
デイトのあと、別れて、相手がタクシーに乗れば、そのタクシーが事故にあわないだろうかと心配になり、電車に乗れば、その電車が脱線でもしないかと心配になる。
今度のような場合には、なおさらだった。
あのヘリが事故で墜落するようなことはないだろうか。二十億円の現金《げんなま》のことより、涼子には、唐木のことが気になった。
京王八王子駅から、国鉄の八王子駅まで歩き、横浜線の「橋本」までの切符を買った。
競馬場を出たところで、小牧は、メモを取り出した。
「電車で行くのが、一番安全かな」
と、小牧がいうと、森下朋子は、歩きながら、競馬場のユニフォームを脱いでいたが、
「電車より車がいいわ」
「車? タクシーかい?」
「ただの車よ」
朋子は、脱いだユニフォームを、くるくる丸めて、抱えた。
「ただの車って、まさか、その辺に駐車している車を盗もうってんじゃないだろうね?」
そのくらいのことをやりかねない朋子だったから、きいたのだが、彼女は、
「馬鹿なことをいわないでよ」
と、眉を寄せた。
「そんなことをしたら、たちまち、警察に追われてしまうじゃないの」
「しかし、それならどの車に乗るっていうんだい?」
「そこの白い車」
と、朋子は、駐車場に駐《と》まっている中古の白いカローラを指さした。
「どうしたんだい? その車」
「買って、昨日からそこへ置いておいたのよ。ぼやぼやしないで乗って」
朋子は、キイを取り出し、ドアを開けた。自分は、運転席に腰を下ろした。
小牧も、あわてて、助手席に腰を下ろした。
朋子は、車の窓から、丸めたユニフォームを、ポンと投げ捨て、勢いよくアクセルをふんだ。ライトをつける。
「一週間前に、集合場所を書いた紙を貰ったでしょう」
と、朋子は、ハンドルをあやつりながら、しゃべった。
「あれを見たとき、車が必要だと思ったのよ。歩くにしては遠過ぎるし、電車を乗り継いでいくのも面倒だわ。だから、中古の車を買って、あそこへ置いておいたのよ」
「たいしたものだよ、君は」
「その胸のバッジは、捨ててしまった方がいいわよ」
「えッ?」
「向こうで、車の検問をやってるのよ」
朋子が、小声でいった。
小牧は、あわてて、胸につけていた中央競馬会職員のバッジをはずし、窓から外へ放り投げた。いつものことだが、朋子にリードされている感じがして仕方がない。
別に、そのことを不服に感じているわけではないのだが、朋子の奔放《ほんぽう》さや、わがままさが、小牧は心配だった。彼女には、何をするかわからないようなところがあった。
警官二人が、小牧たちの車の傍へやって来た。
型どおり、運転している朋子に免許証の提示を求め、後ろのトランクを開けさせた。
「どこから来たのかね?」
と、若い警官が、じろじろ二人の顔を見比べるようにしてきいた。
「世田谷区太子堂」
朋子が、ぶっきらぼうに答える。助手席にいた小牧は、もっと警官に愛想よくすればいいのにと、はらはらした。
「それで行先は?」
「相模《さがみ》湖××ホテル」
「ホテル?」
「ラブ・ホテルよ。若い二人が、ラブ・ホテルへ行ったって構わないでしょう?」
明らかに、朋子は、警官をからかっているのだ。
質問していた警官の顔が赤くなった。が、怒りをじっとおさえた顔で、
「もういい」
と、甲高い声でいった。
「ひやっとしたよ」
と、小牧は、車が動き出してから朋子にいった。
彼女は、クスクス笑って、
「あのくらいのことをいった方が、かえっていいのよ。下手にいい訳がましい態度をとると、逆に疑われるわ」
「そりゃあ、きみのいう通りかも知れないが――」
「それより、地図を見てちょうだい。この道でよかったかしら?」
「ああ、これでいいんだ。八王子へ出てから、国道一六号線を南下するようになっているよ」
小牧は、唐木に渡されたメモを見ながら、朋子にいった。
車は八王子市内に入り、国道一六号線に出た。
「ねえ」
と、朋子がいった。
「何だい?」
「これから行く場所に、唐木君が本当に待っていると信じているの?」
「何いってるんだ?」
小牧は驚いて、朋子の冷たい感じの横顔を見た。
朋子は、前方を見つめたまま、皮肉な笑いを口許に浮かべた。
「何しろ二十億円という大金なのよ。唐木君と堀江君の二人が、猫ババしたくなったとしても不思議はないわ」
「まさか、彼等がそんなことをするとは思わないが」
「なぜ?」
「なぜって、唐木は決して模範的な学生じゃないが、自尊心は強い男だよ。堀江は学生じゃないが、同じだと思う」
「つまり誇り高き悪党ってわけ?」
「そうだ」
「でも、悪党は悪党よ」
と、朋子は、断定的にいった。
小牧が黙っていると、朋子は、言葉を続けて、
「今度の計画に使ったヘリコプターの航続距離を調べてみたんだけど、六五〇もあるわ」
「それがどうかしたの?」
「二十億円の札束を積んでいるから少しは航続距離が落ちるとしても、五〇〇キロはあると思うの。そうなると北は仙台、西は京都あたりまで、楽に飛べるのよ」
「唐木たちが、ヘリコプターで、遠くへ逃げたというのかい?」
「あたしは、誰も信用しない主義だから。特に悪党はね」
「しかし、君だって、信じているものがある筈だ」
と、小牧はいった。彼との愛という答えを期待したわけではない。ただ、それも、信じているものの一つだといってほしかったのだが、朋子はただ一言、
「革命」
とだけ、眼を光らせていった。
「今でも、革命が、この日本で起きると信じているのかい?」
「革命が必要だと思ってるわ」
と、朋子はいった。
標高二一三メートルの御殿峠を越え、橋本地区で右折した。
しばらく走ると、近くに津久井湖や、城山ダムなどがある。
相模川を渡り、山道を登って行った。集合地点は、この先の農家になっているのである。
3
山あいに農家が点在している。
最近の過疎現象から、家を捨てる農家が増え、何軒かが、空家になっていた。
その一軒を、唐木が安く買っておいた。他の仲間に、集合場所として知らせておいたのは、その農家だった。
古い農家だけに、部屋数も多いし、隣家が離れているので、大勢が集まって騒いでも、怪しまれない利点がある。
万一に備えて、米と調味料だけは買って、家の台所にしまっておくようにしたから、唐木たちが四、五日、立て籠《こも》っていても大丈夫だった。
この農家に最初に到着したのは、小牧と森下朋子だった。
車を、広い前庭に入れて止めた朋子は、助手席の小牧に向かって、
「おかしいわ」
と、眉を寄せた。
「何がだい?」
「家の中が、真っ暗じゃないの。まだ、誰も来てないんだわ」
「僕たちが、一番乗りということだろう。車を飛ばして来たから、工藤たちより先になっても、別におかしくはないさ。彼や、太田涼子なんかは、電車で来るといってたんだからな」
「彼等のことをいってるんじゃないわよ」
と、朋子は、じっと、家の方を見つめたままで、
「あたしのいってるのは、唐木と堀江の二人のことよ」
「彼等がどうかしたのかい? 家の中で、彼等を待とうじゃないか」
「あの二人が、まだ来てないというのが、おかしいじゃないの。彼等はヘリコプターで脱出したのよ。とっくに、この集合場所に着いてなきゃおかしいわ」
「彼等は、二十億円の現金《げんなま》を持ってるんだ。慎重にやって来るんじゃないのか」
「あたしは、何か嫌な予感がして、仕方がないわ」
「何を考えてるんだ?」
「さっきもいったじゃないの。あの二人、二十億円という大金に眼がくらんだのよ。それとも、最初から、猫ババする計画だったのかも知れないわ。きっと、二十億円積んだヘリコプターで、名古屋あたりまで飛んでるわ」
「僕は、唐木たちが、そんな裏切りをするとは思わないよ」
「甘いわ」
「とにかく、家の中に入ってみようじゃないか。車に乗ってたって、仕方がないだろう」
小牧は、車をおりた。
朋子も、仕方がないという顔つきで、運転席からおりたが、
「まさか、警察が待伏せしてるなんてことはないでしょうね?」
「なぜだい?」
「よくある話じゃないの。金を独占した人間が、仲間を警察に売るっていうのが」
「そこまで考えたら際限《きり》がないよ。それに、僕たちは、金を持ってないんだ。たとえ警察に捕まったって、何とでも、弁明できるさ」
小牧は、笑っていい、さっさと、家の中へ入って行った。
部屋にあがって、電灯をつけ、家の中を見て回った。誰の姿もなかった。
「ほら、唐木たちはまだ来てないが、警察も来てやしないだろう」
小牧が、笑っていうと、朋子は、
「念のために、家の裏も見てくるわ」
と、いい、勝手口から裏庭の方へ出て行った。
「用心ぶかすぎるよ」
小牧は、笑ったが、疲れていて、朋子と一緒に行く気になれず、畳の上に、ごろりと横になった。
十二、三分して、朋子は戻ってくると、畳に、ぺたりと腰を下ろし、足を投げ出した。
「裏にも警官は、張り込んでなかったわ」
「当然だよ。僕たちは、ここで、唐木たちを待ってりゃいいんだ」
と、小牧はいった。
一時間ばかりして、まず、工藤が自転車をこいで到着した。
「城山町で、中古の自転車を買ってね」
と、工藤は、笑いながら、小牧と朋子にいった。
「久しぶりに、自転車に乗ったんで足が疲れたよ。それで、唐木たちは、まだ来ていないのか?」
「まだだ」
と、小牧がいった。
工藤は、畳に坐り込んで、太ももをもみながら、
「少し遅過ぎるんじゃないか。あの二人に、いや、野々村も一緒の筈だから三人か。彼等に何かあったんじゃないかな。警察に捕まるとか……」
「逃げたのよ。二十億円持って」
と、朋子が、自説を繰り返した。
「そんな連中じゃないよ」
「わかりゃしないわ」
「君たち、トランジスターラジオを持ってないか?」
「そんなものより、奥の部屋にテレビがあるよ」
と、小牧がいい、三人は、立ち上って、奥の八畳に入った。
新しいテレビだった。ここに籠《こも》ることになった時のために、食糧と一緒に、唐木が用意しておいたものだった。
八時を数分過ぎたところで、ニュースの時間ではなかったが、小牧がスイッチを入れると、ホーム・ドラマの画面が出て、そこへ、テロップで、臨時ニュースの文字が流れた。
〈今日東京競馬場が数人の強盗に襲われ、ダービーの売上金など二十億円が盗まれました。警察は非常手配で捜査していますが、犯人は、まだ捕まっていません〉
そのテロップが、三回くり返された。
「よかった、唐木たちは捕まってないんだ」
工藤が、笑顔になると、朋子は、舌打ちをして、
「バカね。捕まってなくて、こんなに遅れるってことは、彼等が二十億円を持ち逃げしたってことじゃないの」
「僕は、そうは思いたくないね」
と、工藤がいった。
「甘いのね。いつだったか、あたしたちの中に裏切者がいるって手紙が問題になったけど、問題にした当人が、裏切者だったのよ」
朋子が、そうに決まってるというように、断定するようにいった時、玄関のガラス戸を開く音がした。
三人は一瞬、ぎょっとして、顔を見合わせたが、
「誰か来てるの?」
という太田涼子の声に、ほっとした顔になった。
工藤が、迎えに出て、涼子を、奥の部屋に連れて来た。
涼子は、「疲れちゃった」と坐り込んでから、
「途中まで、ダムのトラックに乗せて貰ったんだけど、後は歩き。五、六キロは歩いたんじゃないかしら」
「唐木たちが、まだ着いてないんだ」
小牧がいうと、涼子は心配気に、額に手をやって、
「捕まったのじゃないといいけど」
「ニュースを聞く限りじゃあ、捕まってはいないようだ」
「だから、二十億円持って逃げたのよ。あたしたちを裏切って」
朋子が、頑固にいい張った。
涼子が顔色を変えて、
「唐木が、あたしたちを裏切る筈がないわ」
「惚《ほ》れてて、男のエゴがわからないのよ。彼は、金のために、平気で友だちを裏切る男なのよ」
女二人が、いい合いを始めた時、工藤が急に、
「静かに!」
と叱るようにいい、テレビのスイッチを切った。
「どうしたのよ?」
朋子が、工藤を睨《にら》んだ。
「車のエンジンの音が聞こえる」
「えッ?」
「車だよ、車が近づいて来る」
「聞こえるわ!」
と、涼子が、叫ぶようにいい、座敷を飛び出して行った。
他の三人も、家の外へ出てみた。
大型のライトバンが、庭に入って来るところだった。
「遅くなって、すまない」
唐木が、車をおりて来て、四人に謝まった。
「途中で、二、三回、検問にぶつかっちまってね。こっちは、二十億円を積んでいるんで、そのたびに、脇道に逃げ込んで大回りをしたんで、こんなに遅れてしまったんだ」
「よかった、捕まったのかと思って、心配したわ」
涼子が、唐木の腕にすがりついた。その眼に涙があふれていた。彼女は、自分でも驚くほど、涙もろくなっていた。
「大丈夫さ、おれは」
唐木は、笑った。
そんな二人の様子を、朋子は、ひややかに見すえて、
「一万円の札束を見せてくれない」
と、唐木にいった。
「いいとも、持って来てくれ」
唐木は、堀江と、野々村にいった。
二人は、ライトバンの後扉を開け、ジュラルミンのケースを一つ持って来て、みんなの前に置いた。
朋子が、かがみ込んで、蓋《ふた》を開けた。
車のフロントライトの中で、ぎっしりと詰まった一万円札が見えた。
朋子は、百万円の束を手に取って、
「全部で、二十億円あるのね」
「ああ」
と、唐木は、うなずいてから、工藤に向かって、
「君は、彼女の後を追って、すぐアフリカに出発するんだろう?」
「明日の朝のパンナムの切符を買ってある」
「じゃあ、すぐここを出て、今夜は空港近くのホテルに泊まった方がいい。乗りおくれたら大変だからな」
「しかし――」
「忠告を聞けよ。金は欲しいだけ持っていくといい」
「外貨は三千ドルが限度だから、九十万円でいい」
「香港に寄って、ドルにして貰えばいいから。もっと持っていけよ」
唐木は、百万円の束を、四つばかり、工藤の上衣のポケットというポケットに押し込んだ。
「あとの金は、君のアフリカでの住所が分かり次第送るよ」
「いいのか?」
「いいさ、すぐ行った方がいい」
「ありがとう」
工藤は、一人一人と握手をした。
「楽しかったよ」
と、彼は、握手しながら笑顔でいった。
「悪いことをして楽しかったのは、今度が初めてさ」
「おれもさ」
と、堀江が、ニヤッと笑っていった。
工藤が、中古の自転車にまたがって、手を振りながら、夜の闇に消えて行った。
「なぜ、彼だけ特別扱いするのよ?」
朋子が、口をとがらせて、唐木を睨《にら》んだ。
彼女は、唐木のやり方が、一から十まで気に入らないようだった。
唐木は笑って、
「何をいらいらしてるんだい?」
「当たり前じゃないの。二十億という大金なのよ」
「それなら、もう大丈夫だ。ちゃんと、ここへ持って来たんだからね。後は、どう分配するかだけだ。とにかく、家に入って、今後のことを相談しようじゃないか」
と、唐木がいった時である。
突然、周囲の闇の中から、
「動くな!」
という鋭い男の声が、飛んできた。
それも、一か所からではなかった。反対側からも、
「動くな! 動くと撃つぞ!」
気が強く、向こうみずな野々村が拳《こぶし》を振り上げて、
「誰だ! 出て来い!」
と、怒鳴った。
「警察じゃないの?」
涼子が蒼《あお》ざめた顔で、唐木に小声できいた。
「警察じゃないな。警察なら、パトカーが来ていた筈だ」
「じゃあ、誰が――?」
「誰かな?」
唐木が、周囲の闇を睨んだとき、その視野の中に、黒い影が、一つ二つと、現われて来た。
全部で、十二、三人はいるだろう。
相変わらず、黒いシルエットになっているので、顔や服装は、よくわからないが、若い人間らしいということだけは、感じ[#「感じ」に傍点]でわかった。
その中の二人が、銃を持ち、他の連中も、鉄棒のような武器を持っていた。
賢明な連中で、明りの中までは入って来ない。
唐木たちを、遠巻きにする形で、一人が、銃口を向けた。
「その車の中にある金は、我々が、ちょうだいする」
変にこもった声でいった。
「この野郎!」
と、野々村が、つかみかかろうとしたとき、相手がいきなり撃ってきた。
4
銃声が闇にとどろいた。
閃光《せんこう》が起こった。
その瞬間、野々村が、悲鳴をあげて、地面に引っくり返った。
傍にいた唐木が、膝をついて、抱き起こした。
左腕の上膊《じようはく》部のあたりから、血が噴き出している。
「大丈夫か?」
「かすっただけだ」
と、野々村はいったが、その顔から血の気が引いている。
唐木は、涼子に、「止血をしてやってくれ」と、頼んでから、眼の前で、猟銃を構えている男を睨《にら》みつけた。
「なぜ、撃ったんだ?」
「彼が、われわれの要求を拒絶したからだ」
「撃つことはなかったろう。彼が傷つくだけじゃない。いくら山の中といっても、銃声を聞かれたかも知れん。そうだとすると、パトカーが、すっ飛んでくるぞ」
「構わんさ。われわれは、金を貰ってすぐ退散するからな。困るのは、お前たちだ」
眼の前の若い男が、クッ、クッとのどを鳴らして笑った。
その時、唐木たちの間から、
「二十億円は、そのライトバンの中よ。それから、こっちにあるジュラルミンのケースにも、一億円ばかり入ってるわ!」
と、甲高い声で、相手に教えた者がいた。
森下朋子だった。
朋子は、素早く、相手方の中へ走り込んだ。
「やっぱり、裏切者は君か」
唐木は、まっすぐに、朋子を見つめて、舌打ちをした。
が、朋子は、眼をそらせるどころか、逆に胸をそらせて、
「裏切者なんていって貰いたくないわね。ここにいるのは、日本の革命を志してるあたしの同志たちよ。あんたたちみたいな、ただの悪党とは違うわ」
「こいつは、ご挨拶《あいさつ》だな」
と堀江が、苦笑しながらいい返した。
「おれたちは、確かに悪党だ。だがその上前《うわまえ》をはねるのは、もっと悪党じゃねえか。革命家気取りが、聞いてあきれるよ」
「われわれの目的は、現在の日本のファッショ的体制から、人民を解放することにある」
「やれやれ」
と、唐木が頭を振ったが、リーダーらしい猟銃の男は、構わずに、演説口調で、
「この二十億円は、もともと、支配者たちが卑劣《ひれつ》な手段によって、人民から収奪したものである」
「じゃあ、人民に返すのかい? 超高層ビルの屋上からでも、ばらまいてさ」
「いや、革命のための、われわれの軍資金とする。圧殺された人民の真の解放のために使うのだ。われわれが私するわけではない」
「物はいいようだな」
と、今度は堀江が文句をつけた。
彼等の中から、二人が、唐木たちの中に割り込んで来て別になっていたジュラルミンケースに手をかけた。
明りの中に入って来た二人は、ヘルメットをかぶり、タオルでマスクをしていたが、眼は若々しかった。ものにとりつかれたような眼だ。
その二人が、ジュラルミンケースを持ちあげたとき、ふたが開いて、一万円札が、ばらばらと、地面に落ち、風に舞った。
二人は、あわててふたを閉め、ライトバンに運び込んだ。
「朋子!」
と、小牧が、悲痛な声を出した。
「こっちへ戻って来いよ。そっちでは、君は利用されるだけだぞ」
その声に、朋子が、ちらりと小牧を見た。
しかし、その眼は、ひどく冷たかった。少なくとも、恋人を見る眼ではなかった。
「さようなら、小牧君」
と朋子は、変に乾いた声でいった。
「あなたとは、思想が違うのよ」
「思想が違うんだとさ、へッ」
と堀江が、唐木の横で舌打ちした。
ヘルメットの集団は、ライトバンを乗っ取ると、近くにかくしてあった車に分乗して、引き上げて行った。
唐木は、野々村を見た。
「大丈夫か?」
「ああ。大丈夫だ。こんなところでやられてたまるかよ」
「その意気だ。おれたちも、ここから引き上げよう。あの銃声を聞かれていると大変だからね」
「僕と朋子が乗って来た、車がある」
と、小牧が、その車を指さした。
「ガソリンは?」
「満タンに近いよ」
「よし、みんなあの車に乗るんだ」
唐木が怒鳴った。
彼が、運転席に腰を下ろし、助手席には涼子が坐った。
リア・シートには、負傷した野々村を真ん中にはさんで、堀江と小牧が乗った。
唐木は、車をスタートさせた。
「すまない」
と、リア・シートから、小牧がいった。
「何がだ?」
と、唐木。
「朋子のことだ。ひょっとすると、彼女が裏切るかも知れないとは考えていたんだ。僕たちの仲間に入りながら、隠れて、昔の革命を夢見る連中とつき合っているのを、僕は知っていたからなんだ。それで、僕は彼女に警告するつもりで、あの匿名《とくめい》の手紙を書いたんだ」
「なるほどな。君が手紙の主だったのか」
「もし、彼女が裏切るつもりでいるとしたら、それを知っている者がいるぞという警告のつもりだった。ああしておけば、彼女は、怖がってわれわれを裏切らないだろうと、読んでいたんだが……」
「もういいさ」
「よくはないよ。朋子が裏切った責任の半分は、この僕にある。どたん場で裏切るかも知れないと感じていながら、結局、それを防ぐことが出来なかったんだからね」
「じゃあ、二十億円を、君が弁償してくれるのかい?」
唐木は、バック・ミラーの中の小牧に向かって、意地の悪い聞き方をした。
小牧の顔が赤くなった。
「そんなことは不可能だ」
「じゃあ、そう責任を感じなさんな」
「しかし、そうはいっても、あれほど綿密な計画を立てて手に入れた二十億円を、僕のせいで、彼等に横取りされてしまったんだからな。僕の責任だ」
「いいんだ。森下朋子にやっていいんだ」
「何だって?」
「堀江、彼によく説明してやってくれよ」
と、唐木が笑いながら、堀江にいった。
堀江は、間に挟んだ野々村の大きな肩越しから、小牧に向かって、
「ヘリコプターから車に積み替えてあの農家に運ぶ間に、おれたち二人で、ちょっと小細工をしたんだ」
「えッ?」
と、小牧が眼をむき、同時に、助手席の涼子も、「えッ?」とリア・シートを振り返った。
「おれたちも、例の匿名《とくめい》の手紙のことを思い出したのさ。あの手紙を誰が書いたにしろ、おれたちの中に、妙な考えを持ってる奴がいることだけは確かだ。多分、そいつは、計画が成功し、大金が入った今、おれたちに何かするだろう。金を横取りするか、警察に売るか、どちらかはわからないが、とにかく大金を持って、集合場所に行くのは危険だということで、意見が一致したんだ。それで、金を別の場所に隠したんだよ。だから、あの農家に行くのが遅れたんだ」
「でも、ジュラルミンケースの中には、一万円札が、ぎっしり詰まっていたわ」
と、涼子が、堀江にきいた。
「それはだな」
と、今度は、唐木が、質問を引き取る格好で、涼子に答えた。
「積みあげたケースの上の箱だけに、一万円札が詰まったままにしておいたのさ」
「じゃあ、あのケースだけに一万円が入ってたわけね?」
「いや、ケース二つに入れておいた。一億ずつ、合計二億円だよ。裏切る人間は、多分一人だろうと、おれは考えたんだ。最後の土壇場で裏切るとしても、そいつだって、おれたちの一員として計画に参加して、おれの指示どおりに動いてくれた奴だ。だから、まあ、七分の一だけの分け前はやろうと思ったのさ。二十億の七分の一ならざっと二億八千万円だが。八千万円は、裏切り分のマイナスだ」
「それに、工藤にやった餞別《せんべつ》の分も彼女は損したわけだ」
堀江が、リア・シートからつけ加えた。
「じゃあ二十億円は無事なのね?」
涼子が、顔を輝かせて、隣りの唐木を見た。やはり、唐木はちょっとぐらいのことでは参ったりしない男なのだ。
「正確にいえば十八億円は無事だということだよ」
「それは、どこにあるんだ?」
リア・シートから小牧がきいた。
「これから、案内するところさ」
と、唐木が、前方を見つめたままいい、片手を伸ばして、カーラジオのスイッチを入れた。
陽気なジャズが流れてきた。
「ニュースをやってる所を見つけてくれ」
唐木が涼子にいう。
涼子は、ダイヤルを回した。
〈――東京競馬場襲撃事件についてお伝えします〉
というアナウンサーの声が飛び込んできた。
「もうちょっと大きくしてくれよ」
と、リア・シートから、野々村がいった。
涼子がボリュームをあげた。
〈今から十分前に、多摩川を越えた造成地で、乗り捨てられていたヘリコプターが発見されました。このヘリコプターは、調布飛行場所属のもので、東京競馬場から、二十億円を強奪し、運び出したものに間違いないことがわかりました。犯人たちは、そこにあらかじめ待たせてあった車に、二十億円を移し替えて、いずれかへ逃亡したものと思われ、そのゆくえは、まだつかめていません――〉
「OK、もういいよ」
と、唐木がいった。
涼子は、ジャズをやっている局に変えた。
車は、山あいの古びた農家に入って行った。暗い母屋《おもや》の前に、唐木は、車を止め、
「ここだ、おりてくれ」
と、いった。
小牧が、真っ先に車をおり、人気《ひとけ》のない庭を見回した。
「ここも、あらかじめ借りておいたのかい?」
と、小牧が、唐木にきいた。
「ああ」
と、唐木が、うなずいた。
「逃げる場合、もぐり込めるアジトを二つ以上用意しておくのは、常識というものさ。裏切者が誰かわからないんで、こっちのアジトの方は、今日まで、誰にも話さなかったんだけどね」
唐木は、先に立って、眼の前の農家に入って行った。
ここも、前の農家と同じように、過疎の村の農家らしく、周囲に灯が見えない。
唐木が部屋の明りをつけた。
「とにかく、住みてが無くて、馬鹿みたいな安さで借りられたんだ。いい場所だろう」
「身を隠すには、絶好だよ」
と堀江は、いいながら、奥の部屋に入り、押入れの襖《ふすま》を引き開けた。
一万円札を、ぎっしり詰め込んだ麻袋が、いくつも、その押入れに押し込んであった。
それを、次々に引きずり出した。
十二畳の部屋の真ん中に、九つの麻袋を積み上げた。
まるで、ドラムかんのようにふくらんだ袋だ。
「一つに二億円入っている」
と、唐木がいった。
「全部で、十八億円だ。おれたちと工藤のものだ」
「一人三億円だぞ!」
と、野々村が、大声でいい、こぶしを作って、麻袋を叩いた。
「これだけあれば、なんでも出来るぜ!」
「おれは、腹がへったよ。何か食いたいな」
と、堀江が、くったくのない声でいった。
「何かあれば、あたしが大急ぎで作るわ」
涼子が、堀江にいった。
「台所に、インスタントラーメンがあるはずだ」
と、唐木がいった。
「ただ、ガスがきてないから、石油コンロを使ってくれ」
「OK」
と、涼子は、弾んだ声を出した。
台所の明りをつけ、石油コンロに火をつけた。
ダンボールには、インスタントラーメンがいっぱい入っている。
何か、子供の頃、遠足にいったときのような楽しい気分に、涼子はなっていた。
野菜や、卵も買ってあった。
台所の窓を開けた。
「雨が降って来たわ」
と、涼子は、大きな声で、唐木たちにいった。大粒の雨足だ。
「じゃんじゃん降ってくれると有難いな。それだけ、警察がおれたちを見つけにくい」
と、堀江がいった。
5
夜が更けるにつれて、土砂降りになった。
「東京競馬場売上金強奪事件」の捜査本部が置かれた府中署では捜査員たちが、雨空を見上げて、溜息をついていた。
犯人たちの足跡が、途中でぱったりと消えてしまったからである。
犯人たちが、二十億円強奪に使用したヘリコプターが、予想外に簡単に発見されたことから、犯人たちの逮捕も時間の問題だという、楽観的な空気が流れたのである。
ヘリコプターから、車に積み替えて、ジュラルミンのケースごと、二十億円が、どこかへ運ばれたということもわかった。
だが、そこで、犯人たちの足跡は消えてしまったのだ。
東京競馬場の金庫室の職員、警備員などの証言から、犯人は少なくとも五名以上と考えられた。
五名から七名というのが、捜査本部の推測だった。
数名の、しかも、女をまじえた犯人たちと、ジュラルミンケース二十箇に詰まった大金が、どこかへ消えてしまったのである。
時間がたつにつれて、当然、犯人は、遠くへ逃げたという推測から、捜査範囲も広がっていく。
東京、神奈川にだけ検問が設けられていたのが、一時間後には、関東全域に拡大され、二時間後には、東北南部から中部地区の県警にまで、協力要請が行なわれた。
だが、どの県警が行なった検問にも、犯人たちは、引っかかって来ないのだ。
すでに、午前二時に近く、ダービー翌日の月曜日になっているのに、犯人らしい人間が見つかったという報告は、入って来ない。
そして、雨だった。
それも、梅雨《つゆ》時のじとじと雨というよりも、梅雨明けのときのような豪雨である。
この豪雨が、犯人たちの足跡をかくしてしまうことも考えられる。
たとえば、タイヤの跡である。めったに車が来ないような場所に、タイヤの跡がついていたとすれば、それが手がかりになるということもあるのだが、この雨で、その跡も消えてしまったろう。
「嫌な雨だ」
と、刑事の一人が窓の外に降りしきる雨足を見上げていった。
「この雨じゃあ、こっちも動きがとれないが、犯人たちも、そうだったというのなら助かるがね」
「夜が明けて、雨がやんでからが勝負だな」
と、別の刑事がいった。
その時、報告が入った。
板橋近くの路上で、乗り捨ててある大型ライトバンが発見されたというものだった。
しかも、車には、東京競馬場から強奪されたジュラルミンケース十八箇が積み込まれていたという。
ただ、中身の一万円札は消えていた。
あと二箇のジュラルミンケースと二十億円は、どこへ消えてしまったのだろうか。
それも問題だったが、捜査本部が戸惑ったのは、車が発見された板橋という場所だった。
ヘリコプターが見つかったのは、多摩川を越えた神奈川県側だった。
そのことから、捜査本部は、犯人たちは、神奈川県側に逃亡したと判断していたのである。
神奈川県から東海道を通って、関西方面へ逃亡するのではないか。それが、捜査本部の大勢を占めた意見だった。
ところが、車が見つかった地点は、反対方向だった。
板橋は、東北、あるいは、北関東への入口である。とすると、犯人たちは、ヘリで神奈川県側へおりたあと、警察の裏をかいて、東京に戻り、北関東か東北へ逃亡してしまったのだろうか。
更に、新しい報告が、捜査本部を混乱させた。
発見された車の内部から、学生運動の闘士として、公安がマークしていた男の指紋が検出されたことだった。
捜査本部は、今度の事件は、奪われた金額は大きくても、動機は単純と見ていた。大金欲しさに、若い男女が集まって、東京競馬場を襲撃したと考えていたのである。
ところが、犯人の中に、学生運動家が参加していたとなると、その見方を変えなければならなくなってしまうのだ。
雨は降り続いている。
唐木と涼子の二人は、他の三人と離れて、農家の離れの布団にもぐった。
二十億円の強奪に成功したことの興奮と、明日からどうなるかという不安が、涼子を異常にたかぶらせていた。
涼子は、心中前の男女のセックスが、凄まじいものだということを聞いたことがあった。
その理由が、今、涼子にわかったような気がした。
明日にも、警察に捕まってしまうかも知れない。刑務所へ入れられたら、唐木とは別れ別れになってしまう。そう思うと、今、現在の二人の関係を確実なものにしたかった。
一時間、二時間、二人は、全裸になり、絡《から》み合い、キッスし、セックスしたが、それでもまだ、涼子は、満足しなかった。
涼子は、唐木の胸を何度も噛んだ。
唐木の胸には、あまり濃くはないが、胸毛が生えている。そこに、彼女の歯形が、くっきりとついていた。
涼子の乳房にも、太ももにも、唐木がつけたキッスマークが赤く滲《にじ》んでいる。
「強く噛んで!」
と、涼子は、唐木の耳許でささやいた。
「血が出るぞ」
唐木は、涼子の乳房をもてあそびながら、いった。
「いいの。血が出るほど、強く噛んで欲しいの」
「ようし、どこを噛んでやろうか?」
「あたしのどこが一番好き?」
「どこも好きさ」
「じゃあ、どこでもいいわ。あなたの刻印《しるし》を、あたしの身体につけて欲しいの」
「いいとも」
唐木は、涼子の両足を押し開き、その付け根に顔をうずめた。
涼子は、太ももに、鋭い痛みを感じた。
真っ白な涼子の皮膚から、血が、一筋、二筋と流れ落ちる。
焼けるような痛みを感じながら、涼子は微笑した。
本当に嬉しかったのだ。この痛みを、傷を思い出すたびに、唐木のことを思い出せるからだった。
「あたしたち、警察に捕まると思う?」
と、涼子は聞いた。
「捕まるものか」
と唐木が、彼女を安心させるように微笑した。
「でも、警察は、必死になって、あたしたちを探してるわ。顔も、競馬場の職員に見られてるし、どうやって逃げるの?」
涼子は、唐木の胸に指先で「LOVE」と描《か》きながらきく。
「工藤は、明日、羽田からアフリカに発《た》つ筈だ。彼はおれたちと違って、競馬場で働いていなかったから、顔も覚えられていないし、第一、札束を持ってないから、税関で引っかかることもない筈だ」
「工藤君が好きなのね?」
「あいつは、おれたちの中で、一番優しい心を持ってる奴だ。だから、幸福《しあわせ》になって貰いたいんだ」
「彼が女だったら、妬《や》けて仕方がないわ」
「ふふ、そうか」
「彼は、上手く日本を脱出できるけど、あたしたちは、どうなるの? こういう山の中の家で、ほとぼりがさめるまで、じっと隠れてるの? あたしは、あなたと一緒ならどんな山の中だって平気だけど」
「そんな馬鹿みたいなことをするものか」
唐木は、布団の上に腹|這《ば》いになると煙草をくわえて、火をつけた。
涼子も、手を伸ばして、彼の煙草をくわえた。
唐木は、ライターで彼女の煙草にも火をつけてから、
「おれたちは若いんだ。せっかく手に入れた金を抱いたまま、仙人みたいに暮らすなんて馬鹿らしいじゃないか」
「でも、あの大金を使えば、すぐマークされてしまうわ」
「ああ、日本の中で使えばね」
「じゃあ、外国へ行くの?」
「そうさ。おれは、日本を脱出する。このコセコセした日本が嫌になってたんだ。みんなで日本を脱け出そうじゃないか」
「上手く脱け出せると思う?」
「出来るさ」
「でも、あんなにたくさんの札束を抱えて空港へ行ったら、たちまち、警察に捕まってしまわないかしら? 警察は、きっと、空港に張り込んでいるに違いないもの」
「飛行機で逃げやしない」
「船で?」
「ああ」
「でも、港にだって、警察は張り込んでるに決まってるわ」
「決まった港からは出て行かないつもりさ」
「じゃあ、どうやって?」
「堀江は、ヘリコプターだけじゃなくて、ヨットの操縦も出来るんだ。おれも、夏に、彼から、ヨットの動かし方を習った」
「じゃあ、ヨットで?」
「ああ、十二、三人は乗れる大型ヨットを買って、それに乗って、日本を脱出するんだ」
「でも、パスポートとか、出国許可とかが必要なんでしょう?」
「正式に出かける時にはね。だが、おれたちは、勝手に日本を脱出するんだ。それに、東南アジアでは、日本の金が、そのまま通用する。気ままに、ヨットで、世界中を歩き回るのはどうだい?」
「それは素敵だけど、そんなヨットが手に入るの?」
「今度の計画を実行する前から、手は打ってあるよ。三九フィートの外洋ヨットを、頭金だけ払って、三浦半島の油壺に繋留《けいりゆう》してあるんだ。名前は『リバティ一世号』だ」
「あたしは、タヒチへ行きたいわ」
「いいさ。南太平洋を、一年ぐらいかけ回ってみるのも、けっこう楽しいからな。どこか小さな無人島を見つけて、そこに住みついたっていいじゃないか。おれたちは、その島で、子供を作って育てるのさ。堀江たちも現地の娘と結婚すればいい。ゴーギャンみたいにね」
「そんな素敵な計画があるんなら、みんなに知らせてあげた方がいいわ」
「今頃、堀江が、他のみんなに話してるさ」
「『リバティ一世号』には、すでに、一か月分の食糧や、日用品を積み込んで貰ってある」
堀江は、話しながら、煙草をくわえた。
野々村と、小牧は、起き上って、堀江の話に聞き入っていた。
堀江は、くわえた煙草に火をつけてから、
「香港《ほんこん》、台湾、あるいは、東南アジアの他の国に寄って、日本円をドルに替える。それをすませてから世界一周だ」
「世界一周か」
野々村は、眼を輝かせて、缶ビールを口に運んだ。
「ハワイ、タヒチ、フィージー。いいなあ」
「僕は、カリブ海へ行ってみたいね」
と、小牧は、眼鏡に手をやった。
「南米の南端を回って、大西洋に出れば、カリブはすぐ行けるよ」
堀江は、事もなげにいった。
野々村は、ニコニコして、
「おれは、タヒチの娘を、バッチリ抱きてえな」
「純粋なタヒチ娘は、もういないというよ。みんなフランス人やアメリカ人との混血になってしまったらしい」
と、小牧。
「混血なら、なお結構じゃないか。混血は肌がきれいで美人だからな。小牧は、なぜ、カリブ海へ行きたいんだ?」
「宝さがしさ」
「えッ?」
「カリブ海には、金銀財宝を積んだ船が、何十隻と沈んでいるといわれている。だから、カリブ海へ行って、海へもぐり、宝さがしをしてみたいと、前から思っていたんだよ」
「じゃあ、カリブ海の財宝と、タヒチ娘に乾杯しようじゃないか」
堀江は、立ち上ると、新しく、缶ビールを三本持って来て、二人に手渡した。
三人とも、今、自分たちが警察から追われていることを忘れてしまっていた。若さの持つ特権なのだろう。将来の夢しか、頭の中になくなってしまうのだ。
「一人三億円というと、百万ドルか」
と、野々村は、頭の中で計算して、
「百万ドルあれば、タヒチじゃあ、大金持だろうな」
「小さな島ぐらい買えるかも知れないぜ。そうなったら、さしずめ、君は、その島の王様だね」
と、堀江は、野々村の分厚い肩を叩いた。
野々村は、嬉しそうにニヤニヤ笑った。
「王様になったら、美人の王妃《おうひ》を迎えなきゃなあ」
野々村は、もう、無人島の王様になって、美人のタヒチ娘と結婚したような気になっていた。
どちらかといえば、冷静な方の小牧さえ、缶ビールをかたむけながら、カリブの海へもぐった時のことを夢見ていた。青く、そして深い海底に眠る古い船。船倉に横たわる金銀財宝。
「おれは、ただ、ヨットに乗って、世界を回っていれば満足さ」
と、堀江は、いってから、立ち上って、廊下へ出た。
雨は、まだ降り続いている。
だが、いつの間にか、夜が明けようとしていた。
「もうじき朝だぞ」
と、堀江は、他の二人にいった。
6
昨夜の豪雨が嘘のように、きれいな五月晴《さつきば》れになっていた。
野々村は、窓を開けて、青空を見上げ、
「まるで、おれたちの出発を祝福してくれてるみたいじゃないか」
と、この男らしい楽天的ないい方をし、「うおッ」と、空に向かって、両手を伸ばした。
小牧が、トランジスターラジオのスイッチを入れた。
軽快な朝の音楽が聞こえ、そのあとでニュースになったが、トップは、やはり、東京競馬場襲撃事件であった。
「やっぱり、おれたちのことで、日本中が持ちきりだぜ」
野々村が、誇らしげにいった。
唐木と涼子も、起きて来て、彼等の仲間になった。
〈犯人たちは、一人も殺しておらず、その点が、例の三億円事件を思わせます〉
と、アナウンサーがいった。
野々村が口笛を吹いた。
「ひょっとすると、おれたちは、現代の英雄になるかも知れないぜ」
「こっちは、二十億円だから、三億円犯人の、七倍も英雄さ」
と、堀江が、ニヤッと笑った。
そのあと、ラジオは、板橋で発見された車が、捜査本部を当惑させていると伝えた。
「あいつらも、二億円分の仕事をしてくれたじゃないか」
と、唐木が笑った。
「反対方向に、車を止めてくれたおかげで、おれたちは、逃げやすくなる」
「これなら、外洋ヨットに乗れるわね」
涼子が、唐木を見ていった。
「ああ、乗れるさ。日本脱出を果たさなきゃ、おれたちの計画が完全に成功したとはいえないからな」
唐木は、自信満々に答えた。彼は自分の計画に自信を持っていた。今までのところ、計画通り進行している。森下朋子の裏切りはあったが、もともと、彼女には、二億円ぐらいはやるつもりだったので、計画が狂ったとは思っていなかった。
「とにかく、これだけの金があれば、なんでも出来るぜ」
野々村は、札束の詰まった麻袋に、背中を持たせかけた。
堀江も、野々村にならって、ふくらんだ麻袋に寄りかかった。
「一人三億円ということは、約百万ドルか。その金で、ぶらぶら、南太平洋を遊び歩いて、おれたちの犯罪が時効になる頃に帰ってくるのも悪くないぜ」
「時効は何年なんだい?」
野々村がきくと、小牧が首をふって、
「国外に逃げていたら、時効は停止しちまうんだ」
「ふーん」
と、野々村は、鼻を鳴らしてから、
「まあいいや。これだけありゃあ、時効なんか、くそくらえだ」
「朝飯を食べて、おれたちのヨットを見に行こうじゃないか」
唐木が、他の四人に、そう声をかけた時だった。
「ごおッ!」
という、地鳴りのような音が聞こえた。
一瞬、五人は顔を見合わせた。
「何なの?」
涼子が、怯《おび》えた声を出した。
地鳴りのような音は、不気味に続いている。しかも、それは、次第に近づいてくる感じだった。
「地震かな?」
と、小牧が、蒼《あお》い顔で呟《つぶや》いた。
ふいに、家全体が、びりびりと音を立てた。
唐木は、理由《わけ》もなく、背筋が冷たくなるのを感じて、
「逃げろッ!」
と、叫んでいた。
野々村が、一万円の詰まった麻袋を抱えて逃げようとした。床がゆれて、野々村は、袋を抱えながら転倒した。
「馬鹿ッ、早く逃げるんだッ」
と、唐木は、野々村を怒鳴りつけた。
「ごおッ!」
という地鳴りは、ますます大きくなってくる。
五人は、その地鳴りに追われるように、家を飛び出した。
頭上に、雲一つない青空が広がっている。
唐木たちは、狐につままれたような顔になったが、ふと、山の方を見た唐木の顔色が変わった。
「土砂崩れだッ」
唐木が、悲鳴に近い声をあげた。
杉木立ちをなぎ倒しながら、多量の土砂が、凄《すさ》まじい勢いで、こちらに向かって、押し寄せてくるのだ。
昨夜の豪雨が引金になって、土砂崩れが起きたのだ。
山肌が、ぱっくりと削りとられ、何千トンという土砂が流れ出したのだ。
直径二〇センチ近い杉の樹が、まるで、マッチ棒のように、折れて倒れていく。
唐木たちは、夢中で、安全地帯に向かって走った。
昨夜の雨で、まだ濡れている地面に足を滑らせて、涼子が倒れた。
唐木が、彼女の手をつかんで、ずるずると引きずって逃げた。
百二、三十メートルも逃げてから、五人が、息をはずませながら振り向いたとき、茶褐色の土砂の流れが、家を呑み込んだ。
「あッ」
と、唐木たちは、いっせいに、叫び声をあげた。
「おれたちの金が――」
野々村が、悲痛な声を出した。
麻袋に詰め込んだ十八億円の金も、家と一緒に、土砂に呑み込まれてしまったのだ。
一瞬の出来事といってよかった。
唐木たちの金と家を呑み込んだ土砂崩れは、三〇〇メートル近く走って、やっと止まった。
押し流された家は、屋根だけが、土の上に浮かんでいる。
五人は、呆然《ぼうぜん》として立ちすくんでいたが、土砂崩れが止むと、やっとわれに返った。
「畜生ッ」
と野々村が、拳《こぶし》を振り回してから、猛然と、家を呑み込んだ土砂の塊りに向かって突進した。
唐木たちも、野々村の後を追った。
「おれたちの金を掘り出すんだッ」
野々村は、大声でわめきながら、手で、土砂を掘り始めた。
唐木も、何か掘るものはないかと、周囲を見回した。が、車も、今の土砂崩れに呑み込まれてしまっていたし、裸足《はだし》で飛び出したくらいだから、何も持ってなかった。
仕方なしに、唐木は、棒切れを見つけて、それで、土砂を掘り起こしにいった。
他の三人も、二人にならって、掘り始めた。
だが、道具もなく、どの辺りに埋没してしまっているかわからなくては、作業は、遅々として進まなかった。
それでも、唐木たちは、必死だった。
やっと手に入れた、十八億円なのだ。土砂崩れなんかで、失ってたまるものかと、五人とも考えていた。
手が痛くなってくる。素手で掘っている野々村は、掌《てのひら》が切れて、血が噴き出した。それでも、野々村は、掘るのを止めようとしなかった。
一時間は、そうしていたろう。
ふいに、野々村が、
「あったぞッ」
と、でかい声を出した。
見覚えのある、緑色の麻袋の一部が、顔をのぞかせたのだ。
他の四人が、野々村の傍に駆け寄った。
「こいつに、間違いないだろう?」
と、野々村は、四人の顔を見回してから、
「他の袋も、この近くに埋まっている筈だよ。まず、これを掘り出そうじゃないか」
「よし、やろう」
唐木たちは、輪を作って、掘り始めた。
札束を詰めた麻袋が、少しずつ、姿を見せてくる。
「もう少しだ」
と、唐木が、みんなをはげましたとき、
「おい、大丈夫か?」
という声が、唐木たちの背後で聞こえた。
別人の声だった。
振り向くと、シャベルを持った消防隊員が、数人、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。
制服姿の警官二人も、歩いて来る。
「君たちの家族が、この下に埋まっているのかね?」
消防隊員の一人が、唐木たちの手許をのぞき込んだ。
唐木たちが黙っていると、
「その麻袋に大事なものが入っているのかね?」
「ここは、われわれにまかせてくれたまえ」
と、いいながら、消防隊員は、わり込んできて、いっせいに、シャベルで掘り始めた。
たちまちのうちに、一つの麻袋が掘り出された。
唐木たちは、自然に後|退《ずさ》りをしていた。
「この中身は、なんだね」
消防隊員の一人がきく。
答える代わりに、唐木たちは、更に後退りした。
「あけるよ」
と、年輩の消防隊員がいい、ナイフを取り出して、麻袋を閉じていた紐《ひも》を切った。
万事休すと、唐木は思った。あの札束について質問されたら答えようがないし、どんな人間でも、昨日の競馬場襲撃事件と結びつけて考えるだろう。
「逃げろッ」
と、唐木は、他の四人に向かって低い声でいい、自分も、一目散に逃げ出した。
消防隊員は、麻袋の中から出て来た莫大《ばくだい》な札束に驚いて、唐木たちを追うのを忘れてしまった。
先に、そのことに気付いたのは、同行してきた二人の警官だった。が、その時には、すでに、唐木たちの姿は消えてしまっていた。
札束の詰まった麻袋は、次々に掘り出された。
泥土の上に並べられた麻袋は、全部で九つ。一つの袋に二億ずつ入っていて、合計十八億円。
押っ取り刀で駆けつけた東京競馬場襲撃事件の捜査員たちは、この十八億円が、奪われた二十億円に違いないと確信した。
下垣課長は、自ら、パトカーを飛ばしてやって来ると、泥だらけになっている消防隊員や、地元の警官から、事情を聞いた。
「丁度、この下に埋まっちまった家から、彼等は、出て来たんですよ」
と、若い消防隊員は、緊張した顔で、下垣に、山崩れの中心部を指さした。
「人数は?」
「五、六人でしたね」
「五人ですよ」
と、もう一人の、年輩の消防隊員が、自信に満ちた声でいった。
下垣は、その消防隊員に眼をやった。
「間違いありませんか?」
「確かですよ。男四人に、女が一人でした」
下垣は、その人数を、頭の中で、考え直してみた。
東京競馬場を襲撃した犯人は、六人ないし七人ということだった。
もっとも多い意見は、男五人に女二人の七人組というものだった。
それが、ここでは、五人に減っている。
あとの二人は、どこへ消えてしまったのだろうか?
板橋で、車と、からのジュラルミンケースが発見されている。
それと、ここで発見された十八億円とは、どんな関係なのだろうか?
板橋の方は、陽動作戦だったのかも知れないなと、下垣は思った。
警察の注意を、板橋方面に引きつけておいて、犯人たちは、反対方向に潜んでいたということなのだ。
「この周辺に、非常線を張るように手配してくれ」
と、下垣は、部下の刑事に指示した。
その刑事が、パトカーの無線で、命令を伝えている間、下垣は、もう一度、消防隊員に話しかけた。
「彼等が出て来た家というのは、農家ですか?」
「そうですよ。長いこと、空家だったんですが、いつの間にかあの男女が入り込んでいたんです」
「どんな連中でした? 一人一人の顔を覚えていますか?」
「みんな二十代の若い連中でしたよ」
「二十五、六歳じゃないかな。全員が」
と、もう一人の消防隊員がいった。
「おい」
と、下垣は、パトカーで、無線連絡をとっている部下の戸田刑事を呼んだ。
「何ですか?」
「ヘリコプター操縦士の堀江の写真は持って来たかね?」
「持って来ました。堀江が働いていた航空会社で借りて来たものです」
戸田刑事が差し出した写真を、下垣は、消防隊員と、派出所の警官に見せた。
「彼等の中に、この男が入っていましたか?」
「いましたよ」
と、派出所の警官がいい、他の男たちも、それに同意した。
「確かにいましたね。眼つきの鋭い男でしたよ」
「ありがとう」
下垣は、ニッコリした。
間違いなく、犯人たちだと、下垣は、思った。
彼等は、うまうまと、日本ダービーの売上げ二十億円を手に入れたが、自然のいたずらに、打ちのめされた。
そう考えると、何となく、おかしくなってくる。が、下垣は笑ってばかりはいられなかった。
二十億円の中、二億円は、まだ行方不明なのと、何よりも、犯人たちを逮捕するという仕事が残されていたからだった。
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第七章 新しい門出
夜の闇が、森を包んでいた。
月が出ているのだが、頭上を蔽《おお》う枝葉が、月光をさえぎってしまい、地上は、うす暗かった。
唐木たちは、そこに、車座になって腰を下ろしていた。
野々村が、煙草をくわえて火をつけると、その瞬間だけ、ぼうッと明るくなった。が、すぐまた、その場所は暗くなり、煙草の赤い火だけが、いやにはっきりと光ってみえた。
「さて、これからどうするかだが」
と、唐木は、他の四人にいった。
「まず、みんなの意見を聞きたいな」
「君がリーダーだ。君が命令すればいい」
堀江がいうと、唐木は、首を横に振った。
「山崩れで、十八億円がふいになった時から、おれは、リーダー失格さ」
「そんなことはないわ」
と、涼子が、力を籠《こ》めていった。
小牧も、すぐ、彼女に賛成した。
「あれは不可抗力だよ。だから、今だって立派なわれわれのリーダーだ」
「そういってくれるのは有難いが、リーダーは、万全の計画を立てなければいけないんだ。あの農家を選ぶ時にも、豪雨が降ったとき、山崩れの危険がないかどうかまで考えてこそ、立派なリーダーといえるのさ。その点からだって、おれは、リーダー失格だよ」
「といって、他の奴に、リーダーがつとまりそうもないな」
堀江は、そういって、あはははと、笑った。その笑いに、日頃の元気がないのも、やむを得ないだろう。
「どうだろう?」
と、野々村は、みんなの顔を見廻して、
「あの十八億円を取りに戻ったらどうかね? 案外、持主がわからずに、おれたちが名乗り出ていくのを待っているかも知れないぜ」
「警察に捕まりたかったら行くんだな」
唐木が、笑った。
「駄目かね?」
「今頃は、あの周囲一体に、非常線が張られていて、近づいただけで、逮捕されちまうさ」
「じゃあ、どうしたらいいんだ? おれたちは、一文無しだぜ」
「それを、みんなに相談してるんだ」
「われわれ五人で、もう一度、競馬場を狙《ねら》ったらどうだろう?」
と、いったのは、小牧だった。
唐木が「え?」と、小牧を見た。
「もう一度?」
「ああ。もう一度さ。もちろん、東京競馬場は無理だろうから、他の競馬場にする。今は、地方の競馬場だって、大きなレースになれば、億単位の売上げがある筈《はず》だ。われわれ五人が協力すれば、また成功すると思うんだがな」
「おれは賛成だ。もう一度やってみようじゃないか」
と、野々村が大きな声を出した。
その声に驚いたのか、近くの木のかげから、小鳥がばたばたと飛び出していった。
「駄目だな」
唐木が、そっけなくいった。
「何故だ?」
と、野々村が、暗い中で、眼をむいた。
「いいかい。第一に、今度の事件で、全国の競馬場に通達がいく筈だ。現金強奪に注意しろとね。第二に、おれたちは、もうアルバイトとして、競馬場にもぐり込めない。第三に、競馬場の売上げを強奪するには、ヘリが必要だが、顔を見られた堀江は、ヘリを手に入れることが不可能だ。第四に、軍資金がない」
「駄目かねえ?」
「駄目だな」
「しかし、――」
と、小牧がいった。
「われわれは、何か一仕事しなければ、どうしようもないぜ」
「確かにそうだ」
と、唐木が肯《うなず》いた。
「じゃあ、何かやるのか? 競馬場の他に、大金が動く場所を狙《ねら》うか?」
「いや」
「じゃあ、何故、賛成したんだ?」
「賛成したわけじゃない。警察も、おれたちが、また何かやらかすと思っているだろうと考えたんだ。もし、そうだとしたら、それを利用してやろうじゃないか」
「利用して、どうするんだ?」
「逃げるのさ」
「何処へ?」
捜査本部では、夜を徹して、会議が開かれ、捜査が続行された。
下垣課長は、疲れた顔を洗面所で洗い、窓の外に眼をやった。
次第に、明るくなってくる。
早くも、事件後二日目を迎えようとしているのだ。
十八億円は、取り返した。が、捜査本部には、ほとんど、喜びの色がなかった。これは、奇遇だったのだし、犯人は、どこかへ消えてしまって、いぜんとして、行方《ゆくえ》がわからないからだった。
「ふうッ」
と、大きな溜息をついたとき、突然、近くで、電話が鳴った。
腕を伸ばして、受話器をつかんだ。
「こちらは、池袋署の小島警部です」
と、相手がいった。
「大竹公三という男を逮捕しました。例のジュラルミンケースが積んであった車に残っていた指紋の男です」
「確か、公安が注意していた男ですね?」
「そうです。年齢二十九歳。過激派に属している男です」
「それで、東京競馬場の襲撃を自供しましたか?」
「いや。否認しています。否認というよりも黙秘ですな。ただ、こちらで調べたところ、大竹には、事件当日のアリバイがあるのですよ」
「そのアリバイは、確実なんですか?」
「関係のない第三者の証言ですから、信用していいと考えています。事件当日、彼が、東京競馬場にいなかったことも確かですが、何故、からのジュラルミンケースを積んだ車を運転して、板橋までやって来たのか、それがわからなくて困っています。奪われた金は、発見されたそうですな?」
「ええ。十八億円だけです。あとの二億円は、行方不明です。ひょっとすると、犯人たちが、大竹という男に二億円渡して、陽動作戦をとらせたのかも知れません。警察の注意を、全く逆の方向に引きつけるためにです」
「なるほど。考えられないことじゃありませんな。そうなると、犯人たちは、折角二十億円という大金を手にしながら、一文なしになってしまったことになる。もちろん、多少の金は持っているんでしょうが、また、何かやらかすかも知れませんね」
「その通りです」
と、下垣は、肯《うなず》いた。
「実は、私も、それを心配しているのです。今度やるとすれば、破れかぶれでしょうし、下手をすれば、殺傷事件になる恐れもありますからね」
電話を切ったあと、下垣は、また、窓の外に眼をやった。
すでに、午前九時を過ぎ、街は、また喧騒に包まれはじめている。
昨日、十八億円が見つかった地点を中心に非常線を張ったのだが、犯人たちを逮捕したという報告は入って来ていない。
土砂の中から、大金の入った袋が発見された時点で、消防隊員たちが興奮してしまい、警察への通報が遅れたのが、命取りになったようである。
五人の男女は、何処へ消えたのか?
七人といわれた残りの二人は、どうなったのか?
十八億円を失った犯人たちは、次に何をやろうとしているのだろうか?
自棄になっている犯人たちを考えるのは、下垣には、恐ろしかった。全員が二十代の若者たちなのだ。何をするかわからない。
また、電話が鳴った。
下垣が取るより先に、戸田刑事が、受話器をつかんだ。
「本当ですか?」
と、戸田が、大声を出すのを聞いて、下垣が、きッとした眼になった。
新しい事件が起きたのだと、下垣は直感した。
「課長」
と、戸田が、受話器をつかんだまま、下垣を見た。
「どうした?」
「東京競馬場の警備責任者からの電話です。三十分前に、脅迫電話があったそうです」
「どんな脅迫電話だ?」
「相手は、男の声で、ダービーの日に、二十億円を頂戴した者だと名乗ったそうです」
「何だと?」
下垣は、眼をむいてから、
「東京競馬場へ行くぞ!」
と、戸田に向かって怒鳴った。
ウィークデーの競馬場は、死んだように眠っている。
ファンの歓声も聞こえなければ、サラブレッドの蹄《ひづめ》の音も聞こえて来ない。
下垣は、ひっそりした建物の一室で、警備責任者の横田に会った。事件の時に会っているので、横田に会うのは、二度目だった。
「くわしく話して下さい」
と、下垣はいった。
「どんな風に、相手は脅迫して来たんですか?」
「若い男の声で、十億円用意しろといって来ました」
横田は、話しながら、ハンカチで、額の汗を拭いている。
「それで?」
「最初は、てっきり、いたずら電話だと思いました。十億円などという馬鹿でかい金額をいって来たからです。ところが、相手は、例の襲撃事件の犯人だというのです」
「払わなければ、どうするといっているんです?」
「襲撃のとき、この競馬場内のどこかに、もう一つ、爆弾を仕掛けておいたといいました。超短波で爆発するようになっている爆弾だから、要求を入れられなければ、爆発させるというのです」
「もう一つの爆弾か」
下垣の眼が険しくなった。
でたらめかも知れない。だが、現に、二発のプラスチック爆弾が爆発しているのだ。
「今、職員を総動員して、場内を探させていますが、まだ、爆弾は見つかっていません。どうしたらいいと思われますか?」
横田は、蒼《あお》ざめた顔で、下垣を見た。
「一応、相手の出方を見ることにしよう」
と、下垣はいった。
「相手は、一人じゃないし、爆弾云々が嘘《うそ》だとしても、何をやるかわからん連中ですからね。すぐ、応援の刑事を寄越しましょう」
刑事三人が、直ちに呼びつけられ、電話には、テープレコーダーが接続された。
一方爆発物処理の専門家が、車で駆けつけ、広い場内を、しらみつぶしに調べることになった。
電話を掛け終った小牧が、森の中で待っている唐木たちのところへ戻って来た。
「向こうは、予想どおり、びっくりしていたよ」
と、小牧は、愉快そうに、四人に報告した。
「相手は、信じたようかい?」
唐木がきいた。
小牧は、町で買い込んで来た菓子パンや、ジュースを、紙袋から取り出して、仲間に分けながら、
「電話に出たのは、警備責任者の横田という男だったけど、信じたと思うね。ダービーの日に、もう一発、爆弾を仕掛けておいたといったとたんに、向こうの声が、一オクターブは高くなったからね」
「それなら、大成功だ。多分、今頃は、刑事たちが、競馬場に詰めかけている筈だ」
と、唐木が、満足そうにいった。
「その間に、おれたちは、バラバラに、ここから脱出する」
「どこへ脱出するんだ?」
堀江が、ジュースをラッパ飲みにしてから、じろりと、唐木を見た。
「それは、各自の自由だ」
「君はどうするんだ?」
「おれは、海へ行く」
「海?」
「ああ。ここから、三浦半島のK岬《みさき》へ出るつもりだ。K岬には、金持の別荘が多いが、今は、まだシーズンじゃないから、使ってない筈だよ。そこへ逃げ込む」
「それから?」
「船で、日本脱出だ」
「船が無かったら?」
「作るさ」
と、唐木は、笑った。
「おれも、同行したいね」
堀江がいうと、涼子も、
「あたしも」
と、顔を紅潮させた。
「同じく」
野々村がぼそッとした声でいった。
唐木は、黙っている小牧を見た。
「君はどうする?」
「僕も一緒に行きたいが、東京競馬場への脅迫を続けるよ。残ってね」
「あれは、おれたちが脱出するための陽動作戦なんだぜ」
「ああ。わかってるよ。しかし、一度電話しただけで、次の電話をしなかったら、相手は、陽動作戦だと気付いてしまうだろう。だから、僕は、続けたいんだ」
「しかし、危険だぞ」
「覚悟の上だよ。だが、僕はやりたいんだ。東京のアパートに戻れば、もう一発、爆弾を作れるぐらいの材料は残っていたと思う。それを使って、一|芝居《しばい》打ってやりたいんだ」
小牧は、熱っぽい調子でいった。
唐木は、じっと、小牧の顔を見つめた。眼鏡をかけた、気弱そうな小牧の顔が、今は、妙に、精悍《せいかん》な感じに見えた。
「OK」
と、唐木は肯《うなず》いた。
「好きにやってみるさ」
全員の持っている金が集められ、等分にわけられた。
一番最初に、小牧が、森を出て行った。
「あいつに、東京競馬場を脅迫するなんてことが出来ると思うのかい?」
と、野々村が、首をひねって、唐木を見た。
「わからんさ。ただ、彼一人では、失敗するだろうな」
「それなのに、何故、行かせたんだ? おれたちにも手伝わせる気かい?」
「いや。おれたちは、三浦半島へ行くんだ。今度は相手も用意している。五人でも無理さ」
「じゃあ、何故?」
野々村が、不思議そうにきいた。
「感傷かな」
「何だって?」
「小牧の奴、おれたちが失敗したのは、自分の責任だと思っているんだ。朋子が裏切るようなゴタゴタがなかったら、山崩れなんかで大金を失うようなことはなかった筈だと思っているのさ。だから、陽動作戦も、自分から買って出たんだ」
「死ぬ気なのか? あいつは」
と、堀江が、眼を光らせた。
「それはわからん。だが、小牧は、おれたちに対して、償《つぐな》いをしたいと思っていることは確かだよ。あいつは、神経の細かい奴だからね。おれが駄目だといったら、余計、傷ついちまうだろう。そう思ったから、やってくれと頼んだんだ。じゃあ、彼の好意を無駄にしないで、おれたちも、そろそろ出かけようじゃないか。落ち合う場所は、さっきいった三浦半島のK岬だ」
と、唐木はいった。
午後二時。
東京競馬場に、二回目の脅迫電話がかかって来た。
横田が、受話器を取ると同時に、テープレコーダーが回転し、一方、逆探知が開始された。
「十億円は、用意できたか?」
と、電話の向こうで、若い男の声が、ぶっきらぼうにきいた。
「まだだ。そんな大金が、簡単に出来る筈がないだろう」
横田が、立っている下垣を、ちらちら見ながら答える。下垣は、電話をなるべく長く延ばしてくれるように、両手を広げて見せた。
「そんな筈はない」
と、男がいった。
「われわれが落して行った大金がある筈だ」
「あの金は、ここにはない。銀行に入れてしまった」
「いくらなら用意できたんだ?」
「せいぜい一千万円だ」
「馬鹿にするな!」
と、男が怒鳴った。
「しかし、一千万円しか用意できない」
「競馬場が吹っ飛んでもいいのか?」
「それは困る」
「じゃあ、十億円用意しろ」
「二千万円なら、今すぐ用意できるが、十億円ともなると、次の土、日曜日まで待って貰わなければ、用意できないよ」
「そんなに待てるものか」
「しかし、今日中ということになると、二千万円がせいぜいだよ」
「課長」
と、部屋の際で、受話器に耳を当てていた刑事が、小声で下垣を呼んだ。
「逆探知できたか?」
下垣が、きいた。
「今、出来ました。新大久保の『平和コーポ』というマンションの五〇六号室です。電話の持主の名前は、森下朋子になっているそうです」
「よし。行ってみよう」
下垣は、勇躍して、部屋を飛び出した。
三台のパトカーが、新大久保に向かって疾走した。
五階建ての『平和コーポ』は、下垣以下八名の刑事によって包囲された。
下垣は、部下に、マンションの出入口を監視させておき、ベテランの戸田と、桜井の二人の刑事を連れて、五階へ上って行った。
五〇六号室に辿《たど》り着いた。
戸田刑事が、ベルを鳴らした。
中で、人の動く気配がした。下垣たちは、拳銃を抜き出して身構えた。
戸田が、ノブを回したが、ドアは、錠がおりていて開かない。
「開けろ! 警察だ」
と、戸田が、怒鳴った。
「近づくな!」
と、中から、男が、甲高い声で叫んだ。
突然、下垣は、自分の背筋を、冷たいものが走るのを感じた。
自分でも、何がともわからぬままに、
「伏せろ!」
と、二人の刑事に向かって、叫んでいた。
部屋の中で、爆発が起きたのは、その直後だった。
五階建てのマンション全体が、びりびりとふるえ、ドアが吹き飛んだ。爆風が、下垣たちの身体を、床に叩きつけた。
小牧が、自ら、プラスチック爆弾を爆発させたのである。
その夜は、満月だった。
三浦半島K岬《みさき》の小さな入江で、四人の男女が、舟を作っていた。
いや、舟というよりも、筏《いかだ》といった方が正確だった。
彼等の乗りたかった「リバティ一世号」は、金がなくて、とうとう手に入らなかった。
だから、彼等は、どこからか、空のドラム缶を、一つ、二つと盗み出して来て、それを海辺に並べ、ロープと針金で、しっかりと、連結していった。
ドラム缶の筏を作る気なのだ。
ドラム缶を連結し終ると、その上に板を張っていく。近くに並ぶ無人の別荘の板塀を引っぱがして来たのである。
誰も彼も、黙々と作業を続けた。
カーテンも盗んできて、それを帆に作りかえた。
ドラム缶の一つには、飲料水を詰め込んだ。
乏しい金を出し合って、食糧と釣竿《つりざお》を購入した。
夜半になって、筏が完成した。
「進水式だ」
と、唐木が叫んだ。
ドラム缶の筏は、満月の中を、四人に押されて、砂浜を滑って行き、海に浮かんだ。
四人は筏の上に乗った。
「あの金さえあれば、今頃、三〇フィートクラスの豪華ヨットの上で、シャンパンで、日本脱出の門出を祝っているところなのにな」
と、野々村が、口惜しそうに舌打ちした。
唐木は、ニヤッと笑って、
「豪華ヨットも、この筏も、たいして違やしないさ」
「そうかも知れん」
と、堀江がいった。
「どっちも、海に浮かんでるし、風が吹けば前に進むからな」
「この筏は、本当に進むかしら?」
涼子が、空を見上げて、小さな声でいった。
「風が吹いてくれば、大丈夫かどうかわかるさ」
と、唐木が笑った。
沖へ出るまで、漕いでいかなければならない。
だが、オールがないので、唐木たちは、筏の上に腹|這《ば》いになり、手で水をかいた。
四人を乗せた小さな筏は、ゆっくりと、入江を出た。
帆《セール》をあげる。
カーテン地の頼りない帆《セール》だったが、風を受けてふくらむと、ドラム缶の筏は、ゆっくりとだが、確実に進み始めた。
誰も、この筏で、どこまで行けるのかわかってはいない。
彼等が夢見る南太平洋の楽園に辿《たど》り着けるかも知れないし、沖へ出たとたんに、ぶくぶく沈んでしまうかも知れない。
だが、そんなことは、構わないではないか。
彼等は、やりたいことをやり、成功と失敗を同時に味わい、今、日本を脱出しようとしているのである。
唐木が、マストにもたれて、口笛を吹きはじめた。
ドラム缶の筏は、やがて、水平線の彼方《かなた》に消えて行った。
本書は、'81年12月集英社文庫より刊行されました。
角川文庫『現金強奪計画』平成4年2月25日初版発行
平成6年4月20日6版発行