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特急「白鳥」十四時間
西村京太郎
目 次
第 一 章 懸賞金一千万円
第 二 章 潜 入
第 三 章 北陸本線
第 四 章 保証小切手
第 五 章 信越本線
第 六 章 女の影
第 七 章 襲 撃
第 八 章 動機を追って
第 九 章 いたずら電話
第 十 章 人 質
第十一章 旅の終り
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第一章 懸賞金一千万円
第一線のベテラン刑事が、全国から集って、意見の交換をし、合せて、親睦《しんぼく》をはかる会議が、今年は、大阪府警本部で、四月十六日に開かれ、東京警視庁からは、捜査一課の亀井刑事が、出席した。
翌十七日は、休養ということになって、亀井は、昼過ぎに、ひとりで、大阪の街へ出た。
家族に、何か、大阪らしい土産品《みやげひん》を買って帰りたいと思った。給料がまだなので、そう高いものは買えないから、苦心する。
日曜日ではなかったが、道頓堀《どうとんぼり》あたりは、東京の新宿、渋谷と同じで、賑《にぎ》やかである。
歩いていると、当然のことだが、通行人の喋《しやべ》る言葉は、ほとんど、大阪弁である。その言葉を聞いていると、大阪にいるのだと思う。
(何を買ったらいいだろうか?)
これは、凶悪犯を追いかけるよりも難しい。
地方の温泉にでもいったのなら、土産物店で買えば簡単なのだが、広い大阪では、何を買っていいのか、戸惑ってしまう。
東京の土産物といわれて、すぐに、特定の品物が頭に浮んで来ないのと同じである。
亀井も、頭に浮んだのは、「たこ焼き」ぐらいである。
心斎橋《しんさいばし》に入って、店のショーウインドウをのぞきながら歩く。
(たこ焼きのセットでも買って帰ることにするか)
多少、面倒くさくなって、そんなことを考えていたとき、ふっと、背後に、何かを感じて、振り向いた。
その眼の中に、小柄な、若い男が、歯をむき出して、飛びついてくるのが見えた。
とっさに、身体《からだ》をひねった。
男の右手に、何か光るものが見えて、次の瞬間、それが、亀井の身体をかすめていった。
近くにいた通行人の若い女が、甲高い悲鳴をあげた。
たたらを踏んだ男は、また、亀井に向き直った。今度は、手に持ったナイフが、はっきりと見えた。
「何をするか!」
亀井は、思いっきり大声で怒鳴った。
その声で、男が、ひるんだように見え、そこへ、亀井は、体当りをくらわせた。
男がよろめいて、ナイフを取り落した。
あわてて逃げようとするのを、亀井は、背後から、えり首を掴《つか》んだ。
男は、むき直って、殴りかかってくる。それを、腰車で、投げ飛ばした。
舗道に叩きつけられた男が、呻《うめ》き声をあげた。
亀井は、押さえつけておいて、
「誰《だれ》か、警察へ電話してくれませんか」
と、通行人に、落着いた声でいった。
連行された男は、口をつぐんで、何も答えようとしなかった。
訊問は、大阪府警の刑事に委せておいて、亀井は、東京の十津川《とつがわ》に、事件を知らせた。
「大阪へ来て、命を狙《ねら》われるとは思っていませんでした」
亀井は、笑いながら、電話でいった。
十津川の方が、心配して、
「大丈夫かね? 怪我でもしてるんじゃないのか?」
「全く怪我はしていません」
「それならいいが。君を襲った男の身元は、わかったのかね?」
「目下、黙秘を続けていて、わかりません。革ジャンパーのポケットに、現金三万円入りの財布がありましたが、身元を証明するようなものは、持っていません」
「指紋でわかるかも知れんね」
「それを期待しているんですが――」
と、亀井は、いった。
その日の夕方になって、警察庁から、指紋照合の結果が、報告されてきた。
前科者カードにのっていたのである。
〈石崎二朗 二十一歳〉
それが、男の名前だった。本籍も、現住所も、東京で、婦女暴行の前科がある。
どうやら、チンピラらしい。
男の訊問をすませた大阪府警の高木刑事が、亀井に向って、
「この名前に、記憶はありませんか?」
「石崎二朗――ですか。覚えがありませんね。私が捕えた人間ですか?」
「いや。そうではないようです。というのは、この婦女暴行は、横浜でやったことですから」
「そうでしょうね。私も、さっきから考えているんですが、あの顔には、見覚えがないんです。ところで、あの男は、何か喋りましたか?」
「指紋で、身元がわかったといったら、今までの黙秘をやめて、すらすらと、石崎二朗であることを認めましたよ」
「それで、なぜ、私を狙ったんですか?」
亀井がきくと、急に、高木は、声を落して、
「亀井さんは、本当に身に覚えはありませんか?」
と、きいた。何かあるらしいと感じながら、亀井は、
「いや、全く、覚えはありませんな。何かあるんですか?」
「いや。あいつが、でたらめをいってるんだと思うんですが、あなたに、賞金がかかっているというんですよ」
「私に賞金?」
「そうです。あなたを殺した者に、一千万円の賞金が支払われることになっていると、あの男は、いってるんです。その賞金欲しさに、東京から、あなたをつけて来て、今日、襲ったというんです」
「一千万円?」
亀井は、眼をむいた。その金額もだが、自分に、その大金がかけられているということに、驚いたのだ。
こんな時には、どんな顔をしたらいいのかと思いながら、
「私に一千万円もの大金をかけたという物好きは、どこの誰なんですか?」
「それが、わからんのです。石崎も知らないといっています」
「しかし、ナイフで、私を刺そうとしたのは事実です。ただの噂《うわさ》で、人殺しはしないと思うのですが」
「私も、そう思います。ああいう手合いは、金にならないような真似はしませんからね。それで、問い詰めてみたんですが、どうも、あいつらの世界では、あなたに、一千万円の賞金がかかっていることは、間違いないようです」
「ふーん」
亀井は、考え込んだ。
別に、怖いとは思わなかった。それより、不思議だった。
亀井は、刑事生活が、すでに二十年である。
いくつもの事件を担当し、何人もの犯人を逮捕した。現在、刑務所に入っている人間もいるし、死刑になった奴もいる。
多分、おれは、何人もの人間に、恨まれているだろうと思う。
三年前、殺人事件の犯人として、逮捕し、刑務所に放り込んだ男の弟から、スパナで殴られたことがある。
しかし、自分に、一千万円の懸賞金がついたというのは、初めての経験だった。
亀井は、東京の十津川に電話して、そのことを話した。
「どうも、眉唾《まゆつば》の話のような気もするんですが」
「とにかく、こちらで調べてみよう。カメさんは、わかるまで、身辺に気をつけてくれ。一千万円の懸賞が、事実だとすると、君を狙う人間が、大阪に行っているかも知れないからね」
「わかりました。プラザホテルの一〇二二号室で、大人しくしています」
亀井は、珍しく、大人しい返事をした。
東京では、十津川は、この事件を重視した。
刑事に、一千万円の懸賞金をかけて、命を狙わせるということは、事実なら容易ならぬ事態だと思ったからである。
もし、成功すれば、真似をする人間が出てくる恐れがある。
十津川は、手のあいている刑事を集めて、一千万円の懸賞が本当なのか、もし、本当なら、誰が、張本人か、突き止めてくるように命じた。
この捜査には、四課の協力を仰いだ。スポンサーは、暴力団かも知れなかったからである。
十津川も、若い日下《くさか》刑事と、夜の盛り場を歩き廻った。
最初の情報は、四課の刑事からもたらされた。
「確かに、暴力団の間に、一千万円の噂は流れているよ」
と、四課の花井警部が、十津川にいった。
「亀井刑事の命の値段かい?」
「そうだ。捜査一課の亀井刑事を殺《や》れば、一千万円が支払われるといわれている。これが、新宿歌舞伎町の『葵《あおい》』というクラブの壁に貼《は》ってあったそうだ」
花井は、一枚のポスターを、十津川に見せた。
亀井の似顔絵が描かれ、「WANTED 1000万円」の文字が、あった。
多分、複写機で、コピーしたものだろう。
「よく似ているよ」
と、十津川はいった。
「他にも、これと同じものが貼りつけてあった店がある。何十枚もコピーしたらしい」
「葵という店の関係者が、このコピーを作ったのかな?」
「いや。どうも違うらしい。店の者の話だと、客の誰かが、いつの間にか、貼って行ったそうだ」
「どうしても、一千万円のスポンサーは、わからずか?」
「まだ、わからん。いろんな人間から情報を集めているんだが、わからないんだ。ただ、亀井刑事を殺せば、誰かが、一千万円払うと、信じられている」
「暴力団が絡んでいるんだろうか?」
「どうも、はっきりしたことはわからないが、暴力団が、組として、金を出しているとは思えないね。組として、亀井刑事を消したいのなら、黙ってやるだろう。一千万円も出して、殺《や》ったら、警察に、その組を根こそぎ、叩きつぶされると思うだろうからね。それに、大きな組織の人間が、一千万円欲しさに、動く気配もない。そんなことをしたら、警察に、組織に手を入れる絶好のチャンスを与えると考えているからだろう。上の方も、組員が、一千万円の誘惑に負けて、警察を敵に廻すようなことはするなと、おさえているようだ。問題は、一匹狼や、チンピラだね。大阪で、亀井刑事を狙ったチンピラみたいにだ」
「そういう連中だが、なぜ、カメさんを殺れば、一千万円が手に入ると、確信しているんだろう? 保証している奴がいるんだろうか?」
「おれも、それが疑問で、いろいろと、聞いて廻ったんだがね。誰が、どう保証したのか知らないが、絶対に、一千万円貰えると、信じている奴がいることは確かだ。多分、大物が、大丈夫といったんだろうね」
「大物というのは、何とか組のボスとかいった?」
「あの世界で、名前が通っていて、一千万や二千万の現金がすぐ用立てられて、それに、信用のある人間ということになるね」
「それが誰かは、わからないのか?」
「調べているんだが、わからないんだ。途中まで、たぐっていくと、壁にぶつかってしまうんだよ」
「何とかして、懸賞金を出している人間がわからないのか? 亀井刑事が、狙われているんだぞ!」
思わず、十津川の声が大きくなった。
花井は、肩をすくめた。
「君の気持は、わからないじゃないが、連中は、口が堅いし、簡単には、話がつかないんだ」
「しかし、カメさんに、一千万の懸賞金を出しそうな奴に、心当りはあるんだろう?」
「それは、そっちの方が、わかるんじゃないか? 亀井刑事が、どんな奴に恨みをかってるか」
「もちろん、それも調べてるよ。だが、こんなことは、初めてなんだ。私だって、刑務所に送り込んだ奴の家族から恨みをかって、命を狙われたこともある。だが、こんなことはなかった。どこか異常だよ。ただ単に、カメさんを恨んでいるというだけじゃない」
「それは、私だって、感じている。だが、わからないものは、わからないんだ」
「一千万円欲しさに、カメさんを殺そうと思う奴は、何人もいるだろう。現に、大阪まで、カメさんを、つけて行った奴さえいる。もし、今、カメさんが東京に帰って来たら、何人の人間に狙われるかわからん」
「そうだな。亀井刑事に、護衛をつけるよりないね」
「カメさんは、そういうことは、させない男なんだ。だから、困っている」
「しかし、今の状態では、どうしようもないよ。肝心のスポンサーが誰なのか、わからないんだから」
「事情を知っていると思われる何人かの大物がいるといったね?」
「ああ。だが、連中の口は堅いよ。それに奴等は、誰が、亀井刑事を殺《や》るか、楽しんで見ているみたいだね」
「その中の一人に会いたい」
「会っても、スポンサーの名前は、教えてくれないぜ。うちの課の連中が、どんなに脅したり、すかしたりしても、知らぬ存ぜぬで、通されてしまったんだ」
「それでも、私は、会ってみたいね」
「じゃあ、幸田圭吾という男を紹介するよ」
「名前は、知っている。S組の相談役をやってる男だろう」
十津川は、花井に案内されて、新橋の「菊乃《きくの》」という料亭に出かけた。
「君は、こういうところは嫌いだろうが、幸田が、ここでなければ、会わないというんでね」
と、花井はいい、仲居さんに案内されて、ずかずかと、奥へ入って行った。何度も、来ているという感じだった。
通されたのは、十六畳くらいはある大きな座敷だった。
テーブルの周囲には、ぼんぼりが灯《とも》り、隅には、辻《つじ》が花《はな》の打掛けが、飾られていた。
幸田は、先に来ていた。
十津川も、顔を知っていた。五十五、六歳の男で、小柄で、一見、見栄えはしないが、関東最大の暴力団であるS組の相談役をしているだけに、頭は切れるという評判だった。
「十津川さん。あなたの名前は、前から、聞いていますよ」
と、幸田は、上機嫌で、二人を迎えた。
十津川と、花井が席に着くと、京都の懐石料理が、運ばれて来た。
春らしく、桜の一枝が、料理に添えられている。
「まあ、一ついかがですか」
幸田が、酒を注ごうとするのを、十津川は、さえぎって、
「今日は、あなたに、ききたいことがあって、こうして、伺ったんです」
「何をいわれようとしているのか、想像はつきますよ。十津川警部は、大変な部下思いだと聞いている。とすれば、亀井刑事のことで来られたとしか思えない。違いますか?」
「その通りです。私は、亀井刑事に、一千万円の賞金をかけた人間が誰《だれ》なのか知りたい。誰なんですか?」
十津川がきくと、幸田は、手を振って、
「私じゃない」
「だが、誰かは、知っておられるんでしょう?」
「いや、私も知りませんな。一千万円の噂は聞いていますがね」
幸田は、小さく笑った。
「いいですか、幸田さん。一人のチンピラが、大阪まで、亀井刑事を追いかけて行って、殺そうとした。一千万円の懸賞金欲しさにですよ。しかし、殺《や》れば一千万円が、必ず貰《もら》えるという保証がなければ、チンピラは動かない。誰かが、必ず、一千万円が貰えると、保証したに違いない。それも、大物がだ。例えば、あなたのようなですよ。あくまでも、金を出す人間は、知らないというんですか?」
「知らんものは、知らんとしか、いいようがありませんな。もし、私が、その人間を知っていたら、詰らんことは止めろと、忠告するでしょうが、知らんのだから、私にも、どうすることも出来ませんね」
「しかし、あなたは、誰かが、亀井刑事を殺せば、間違いなく、その人間に、一千万円が支払われると、確信しているんでしょう?」
「そうですね」
「なぜです? なぜ、そう確信できるんですか?」
「長く生きている私の勘といっておきましょうか」
「私は、あなたに、冗談をいいに来たんじゃない。人間一人の命がかかっているんだ。しかも、その命は、私の大切な部下の命だ。私は、スタンドプレイは嫌いだが、今度、もし、亀井刑事が狙われたら、あなたが、それを指示したと見なして、あなたを逮捕する。今から、宣言しておく」
十津川は、脅かすようにいったが、幸田は、さすがに、その挑発にのろうとせず、ニヤッと笑って、
「あなたが、部下を思う気持はわかるが、私が、懸賞金を出しているわけじゃありません。従って、私に、それを止《と》めることはできませんよ。また、その力もない」
「そんなことはないでしょう。あなたは、S組の相談役だ。力もあるし、情報も入ってくるに違いない。三か月前、関東地区の大同団結が叫ばれたとき、それを計画して、実行したのは、あなただと聞いている。それだけの力があるのなら、今度のような問題は、止められる筈《はず》だ。それが出来ないというのは、力がないのではなく、止める気がないと、思わざるを得ない」
「そういわれても、私の力など、たかが知れたものですよ」
「そういう謙遜《けんそん》は、嫌味だぞ」
と、横から、花井が、眉をひそめて、幸田にいった。
幸田は、花井に向って、肩をすくめた。
「相談役というのは、実力のない肩書きだけのものですよ。買いかぶられたら困りますね」
のらりくらりとして、とらえどころがなかった。
S組の幹部に向って、警察に協力しろというのが、初めから、無理なのかも知れなかった。
「まさか、懸賞金の主は、あなたじゃないでしょうね?」
十津川は、最後に、幸田にきいた。
「私は、あんな馬鹿なまねはしませんよ。警察を敵に廻すのは、愚か者のやることです」
幸田は、神妙に答えたが、今度のことを、面白がっていることは、明らかだった。
出された酒にも、食事にも手をつけず、十津川は、花井と、料亭「菊乃」を出た。
「奴は、今頃、ヤボな刑事だと、苦笑しているだろうな」
花井が、歩きながら、十津川にいった。
「ヤボな刑事で結構だよ」
十津川は、いつになく、ぴりぴりとした感じで、いい返した。
「幸田に会って、何か収穫があったかい?」
「ああ、奴が、賞金をかけた当人じゃないことはわかったよ。あの男は、もっと利口だと思ったね」
「そうだ。奴じゃない。奴は、何よりも、S組の組織を大事にする男だ。刑事を狙って、そのために、組織が危うくなるような真似は絶対にしないと思うね」
「だが、あの男は、誰が、懸賞金の主か知っているね」
「私も、そう思うね。何といっても、奴は、あの世界の大物だ。情報網も持っている。どこの誰が、懸賞金を出したか、わかっている筈だ。だが、警察に知らせる気はないな。そんなことをすれば、あの世界で、つまはじきされることが、わかっているからだ」
「向うは、どう出てくるかな?」
十津川は、じっと考えている。赤信号なのに、横断歩道を渡りかけたのを、花井が、あわてて、止《と》めて、
「ゆっくり考えようじゃないか」
と、近くの喫茶店に、連れて行った。
十津川は、花井が注文してくれたコーヒーを、ブラックで、一口飲んでから、
「懸賞金の主を見つけ出すのに、どのくらいかかるんだ?」
「正直にいって、日時は指定できないね。全力をつくすが、向うから、おれだと名乗っては来ないからね。それに、連中の口は堅いんだ。仲間割れでも起これば、密告があるかも知れないが、幸田が、睨《にら》みを利かせている限り、簡単に、仲間割れは出来ないね」
「どんなことがあっても、カメさんを、殺させるわけにはいかないんだ」
「その気持はわかる。私だって、部下の一人が、懸賞金をつけられて、狙われたら、居ても立ってもいられないだろうと思うよ。しかし、今の段階では、誰が、そんな真似をしたのかつかめないんだ。支払われる段階になれば、わかるかも知れないが」
「馬鹿なことをいうなよ」
と、十津川は、嶮《けわ》しい表情になって、
「カメさんが殺されてから、懸賞金の主がわかったって、どうしようもないんだ!」
「ああ、そうだな。悪かった」
「少くとも、幸田は、懸賞金の主を知っている。それがわかっただけでも、今日は、収穫はあったよ。奴に、圧力をかけて、何とか、懸賞金の主の名前を、聞き出せないか?」
「私も、それを考えてみた。だが、今のところ、幸田も、S組も、大人しくしていて、突ついても、何も出ないんだ。組の人間を小さな罪で、引っ張るぐらいは出来るだろうが、幸田に圧力をかけるまでのことは出来ないよ」
と、花井は、いってから、
「亀井刑事の方から、誰に狙われているかは、わからないのか?」
「その作業もやっているんだが、これといった人物は、浮んで来ないんだよ。前にもいったが、凶悪事件を、何件も扱っているからね」
「しかし、たいていの事件は、チームで解決している筈だ。亀井刑事だけが、特別に恨まれるという事件は、限られているんじゃないのか?」
「それも、考えたよ。君のいう通り、事件はチームで追いかけるが、カメさんが、一人で逮捕した犯人もいないことはない。しかし、カメさんが、拳銃《けんじゆう》で、犯人を射殺したことなんかは、一度もないんだ。第一、彼が、拳銃を射ったのを、私は見たことがない。犯人を、殴りつけることも、めったにない。カメさんは、まじめで、気が優しくて、犯人や、犯人の家族に恨まれることの、もっとも少い刑事だと思っているんだ。それが、なぜ、一千万もの賞金をかけられたのか、まったく、見当がつかないんだ」
「私だって、亀井刑事の人柄は、よく知っているよ」
と、花井は、肯いたが、
「だが、こうなるからには、誰かに、猛烈に恨まれていることは、間違いない。まあ、相手の逆恨みだろうがね」
「それがわからないんだ」
今、日下や、西本刑事たちに、亀井が関係した全ての事件を、調べ直させていた。
大阪にいる亀井にも、問い合せている。だが、これはという事件は、浮んで来ないでいた。
「引き続き、幸田や、他の連中に、圧力をかけてくれ」
と、十津川は、花井に頼んだ。
「ああ、やってみるよ。この懸賞金問題は、警察が、全力をあげているとわかれば、一千万円欲しさに、亀井刑事を狙うはね返りは、少くなるだろうからね。しかし、ゼロには出来ないぞ。百分の一の金額だって、人殺しをしかねない奴が、うろうろしているからな。亀井刑事には、しばらく、休暇をとらせたらどうだ? 懸賞金の主がわかるまで」
「カメさんが、承知するわけがないよ」
十津川が、警視庁捜査一課に戻ると、日下や、西本刑事たちが、
「どうでした?」
と、寄って来た。
「幸田に会って来たが、奴は、今度のことを楽しんでいる。奴は、懸賞金の主を知っているが、いわせるのは難しいな」
「逮捕して、締めあげるわけにはいかないんですか?」
若い日下が、いった。
「無理だな。ああいう幹部連中は、自分では手を汚さんから、逮捕して、締めあげるのは難しいよ」
十津川が、いったとき、制服姿の警官が入って来て、
「郵便が、来ていますよ」
と、大きな茶封筒を、置いて行った。
〈警視庁捜査一課御中〉
と、表に書いてあった。差出人の名前はない。
十津川は、手袋を取り出し、それをはめて、封を切った。
中から、二つに折ったポスターが出て来た。それを広げた。
「くそッ」
と、日下が、舌打ちした。
「何の真似だ!」
西本が、怒鳴る。
大きく、亀井の似顔絵が描いてある。
〈死亡に限り一千万円〉
の文字がある。
クラブの壁に貼ってあったというポスターと同じものだろう。
だが、これは、明らかに、警察に対する、いや、捜査一課に対する挑戦だった。
「これは、われわれを、なめてるんだ!」
と、日下たちが、血相を変えている。
だが、十津川は、冷静な眼で、似顔絵についている説明を読んでいた。
〈警視庁捜査一課亀井刑事。通称カメさん。四十五歳。身長一六二センチ。六三キロ。職務に忠実〉
十津川は、顔をあげ、煙草《たばこ》に火をつけた。
「確かに、これは、われわれに対する挑戦だ」
「われわれを、なめてるんですよ」
「いや。それは違うね」
「どこが違うんですか?」
日下たちが、きいた。
「相手は、本気だということを、われわれに示したかったんだ」
「警察に喧嘩《けんか》を売る気なんですかね?」
「そうだろう。それに、相手は、焦ってもいると思う。こんなことをやるということはね。一千万円もの懸賞金を出したのに、今のところ、一人のチンピラが、カメさんを襲っただけだ。それで、焦っているんだと思う。それがわかっただけでも、少しは、事態がよくなったと思っている」
と、十津川は、いった。
電話が鳴った。
受話器を取った日下刑事が、十津川に向って、
「亀井刑事の奥さんです」
「奥さん?」
十津川は、不吉な予感がして、あわてて、受話器を受け取った。
「十津川です」
「今、変なものが送られて来ました。心配になって、お電話したんですけど」
亀井の妻は、声をふるわせていた。
気丈な女で知られている人が、珍しかった。
「ご主人の似顔絵を描いたものが、送られて来たんですね?」
「はい。主人は、大丈夫でしょうか?」
「もちろん、大丈夫です。今、大阪のプラザホテルにいます。一〇二二号室ですから、電話でお確かめなさい。ただし、これは、誰にもいわないで頂きたいのですよ」
「あのポスターは?」
「嫌がらせです。われわれ警察の人間にとって、宿命みたいなもので、常に、誰かに、恨まれています。今度も、その一つで、すぐ解決しますから、心配なさらないで下さい。犯人も、すぐ見つけ出しますよ」
電話を切ったあと、十津川は、もう一度、机の上のポスターに、眼をやった。
亀井刑事の家族のためにも、この犯人を、一刻も早く見つけ出さなければならない。
大阪の亀井から、電話が、かかってきた。
「家内から連絡がありました。私のポスターが、送りつけられて来たそうです。一千万円の懸賞のやつですよ」
「捜査一課にも、送りつけて来たよ」
「私は、すぐにも、東京へ帰りたいと思います」
「そりゃあ、駄目だ。何人に狙われるかわからないぞ。君を殺《や》って、一千万円を手に入れようとするチンピラが、ごろごろしているようだからね」
「しかし、このまま、姿をかくしていたら、他の人にも迷惑をかけるし、第一、捜査一課の刑事が、逃げ廻っていたら、どうしようもありません」
「今、捜査四課と協力して、これはと思う連中に、圧力をかけている。幸田圭吾という男を知っているだろう?」
「S組の相談役ですね」
「そうだ。あの男なら、何か知っているだろうと思って、今日、花井君と会って来たよ」
「それで、どうでした?」
「奴は、知っているね。少くとも、誰が、金を出そうとしているか、奴には、見当がついていると思うね。だが、われわれに、話す気はないらしい」
「そうでしょうね」
「だが、何とか、奴に圧力をかけて、喋《しやべ》らせるよ。犯人を捕えてしまえば、もう、誰も、カメさんを狙わなくなる。一銭にもならないのに、刑事を狙う馬鹿はいないからな」
「幸田が、われわれに、教えてくれるとは思えませんね。それに、私の顔のついたポスターが出廻っているとすれば、私が、姿をかくしていれば、間違いなく、怖くて、逃げていると思われます。そうなったら、もう、私は、刑事として、働けなくなります」
「しかし、だからといって、君を、むざむざ殺させるわけにはいかん。君が死んだあとで、犯人を捕えたって、何にもならんからね」
「ひょっとすると、相手は、私を殺すこと自体が目的じゃなくて、私を脅して、私を卑怯者《ひきようもの》呼ばわりするのが目的かも知れません。そうだとすると、一日でも、私が、隠れていることは、犯人の思う壺《つぼ》ということになります」
「君の気持もわかるが、あと一日、そこにいてくれ。こちらとしても、何とか、突破口を開きたいと思っているんだ」
「私のために、いろいろと、ご心配をかけて、申しわけありません」
「君が、謝ることはないよ」
「では、明日まで、待ちます」
電話が切れた。
亀井の性格から考えれば、これ以上、隠れているのは、耐えられないだろう。
だが、亀井を殺させるわけにはいかないし、といって、毎日、彼に護衛をつけておくわけにはいかないのだ。
(どうしたらいいだろう?)
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第二章 潜 入
十津川は、刑事になったばかりの若い若林を呼んだ。二十五歳で、まだ、刑事としての仕事は、していない。
「君にやって貰《もら》いたいことがある」
と、十津川は、若林にいった。
眉の濃い、精悍《せいかん》な顔立ちの若林は、勢い込んで、
「どの事件ですか?」
「カメさんが、命を狙われていることは知っているだろう?」
「はい、知っています」
「われわれは、何としてでも、カメさんを守らなければならん。それには、誰が、カメさんに、一千万円の金をかけたか、探り出さなければならない。それを、君にやって貰いたいんだ」
「新米の私に出来ますか?」
「新人の君なら、出来る仕事なんだよ」
「どんなことでしょうか?」
「君は、芝居の経験があるかね?」
「大学時代に、芝居の真似事はしたことがありますが」
若林は、不安気に、十津川を見た。何をいわれるのだろうかと、考えている顔だった。
「今もいったように、カメさんは、一千万円の懸賞金をつけられて狙われている。どうしても、どこの誰が、そんな真似をしているのか知りたいんだ。S組の相談役の幸田という男は、そのスポンサーの名前を知っているらしいが、絶対に教えないといっている」
「幸田を捕えに行くわけですか?」
若林は、眼をきらきらさせた。
十津川は、苦笑して、
「逮捕する理由はないし、連れて来ても、喋らんさ。だから、君には、金を欲しがっているチンピラに化けて、幸田に近づいて貰いたいんだ。他の連中は、顔を知られているから、使えない。だから、君にやって貰いたいんだ。盛り場をうろついて、S組に接触し、金が欲しい、そのためなら、人殺しぐらいやると、いい触らすんだ。クラブやバーには、懸賞金のポスターが出ているから、君は、その誘いにのる恰好《かつこう》で、金の出所を探って貰いたい」
「私に出来ますか?」
「やって貰わなければ困るんだ。それも、素早くやって貰わなければならない。今、カメさんは、大阪にいるが、負けず嫌いの彼のことだから、東京に戻って来たがっている。敵に後を見せるのは嫌だというわけだよ。しかし、今の状況で、カメさんが東京に戻ってくれば、金の欲しいチンピラ連中の恰好の標的になってしまう。それを防がなければならんのだ。だから、君に頼むんだ。何とかして、犯人を見つけ出して欲しい。やり方は、君に委せる」
「わかりました」
若林は、緊張した顔で、肯いた。
「今日から、すぐ、潜入して欲しい」
「やってみます、連絡は、どこへしたらよろしいですか?」
「この電話番号にするようにしてくれ」
十津川は、メモ用紙に、電話番号を書いて若林に渡した。
「これは、どこの電話ですか?」
「名前は、片山由美。四谷三丁目のマンション『コーポ四谷』の二〇五号室だ。君の恋人だから、名前と、電話番号は、暗記するんだ」
「私の恋人ですか?」
「臨時だよ。片山婦警が、姉さんと一緒に住んでいる。彼女には、君のことを話してある。彼女に連絡すれば、こちらに、通じるようになっているし、こちらからの指示も、彼女を通じてやる。万一のためだよ」
「片山婦警を知らないんですが、美人ですか?」
「美人だよ」
十津川は、彼女の写真を、取り出して、若林に渡した。
「それを、持っているといい。恋人の写真だ。それから、言葉使いは気をつけろよ。チンピラが、四角張った言葉を使っちゃおかしいからな」
「気をつけます」
「S組の縄張りは、新宿|界隈《かいわい》だ。まず、新宿歌舞伎町に行ってみたらいいだろう。念を押すこともないだろうが、刑事であることがわかるようなものは、身につけて行くなよ」
「わかっています」
若林は、いったん、アパートに帰ると、革ジャンパーに、Gパンという恰好で、新宿に出かけた。
新宿歌舞伎町は、若者の盛り場である。
東北出身の若林に、新宿は、眩《まばゆ》いほど、魅力的な街だった。
だが、学生時代は、金がなくて、本当は、新宿の夜を楽しむことが出来なかった。
新宿のネオン街は、若者の街であると同時に、金がなければ、楽しめない街でもあった。
サングラスをかけて、煙草をくわえて歩きながら、若林は、そんなことを考えていた。
彼の学生時代よりも、ネオンは、どぎつくなり、一層、刺激的な文句が多くなったような気がする。
若林は、夕食にラーメンを食べてから、雑居ビルの二階にあるクラブにあがって行った。
「ゆき」という名のクラブである。
まだ、早いので、客も、ホステスも、まばらだった。
カウンターに腰を下すと、バーテンの背後の棚に、ポスターが貼ってあるのが見えた。
亀井刑事を殺せば、一千万円が貰えると書かれたポスターである。
「そのポスターは、冗談なんだろう?」
と、若林はバーテンに声をかけた。
バーテンは、水割りを、若林の前に置いてから、
「さあね」
「一千万か。一千万くれれば、人殺しぐらいやる奴って、多いんじゃないかな。おれだって、やるね。金が欲しいんだ」
「しかし、刑事《でか》を殺《や》る勇気はないんじゃないか?」
「刑事《でか》か。刑事《でか》なら、殺し甲斐があるってものさ。おれは、そのポスターが本物なら、狙ってやるぜ」
「よした方がいいな。お前さんみたいな素人《しろうと》には、刑事《でか》は殺せないよ」
二十七、八のバーテンは、そっけなくいった。
バーテンは、「素人の――」といったが、この男は、S組と関係があるのかも知れない。
若林は、ジャンパーのポケットから、買ったばかりのナイフを取り出して、カウンターの上に置いた。
バーテンは、じろりと、そのナイフに眼をやった。
「そんな物騒なものは、しまっておきなよ」
「もう一杯、水割りを貰うよ」
と、若林は、いった。
バーテンが、新しい水割りを作って、若林の前に置いた。
若林は、その手首を、いきなりつかんでねじあげた。
バーテンが、「何をするんだ!」と、怒鳴る。若林は、カウンターの上のナイフを、片手でつかんで、バーテンののどに押しつけた。
「おれのことを、馬鹿にしやがったな」
「やめろ!」
「暴れると、のどを切るぜ。あんたを殺したって、一円にもならないだろうが、おれは、馬鹿にされるのが嫌いなんだ」
「わかった。おれが悪かった」
バーテンが、血の気の失せた顔で、いった。
若林は、ぱちんと音を立てて、ナイフをたたんで、ジャンパーのポケットにおさめた。
「ふうッ」
と、バーテンが、大きな息を吐いた。
「おれは、金が欲しいんだ」
若林は、バーテンを見すえるようにして、いった。
バーテンは、乾いたのどをうるおすように、一息に、ビールを飲んで、
「誰だって、金が欲しいよ」
「まだ、このポスターは、生きてるんだろう? その亀井って奴は、もう殺されちまったのか?」
「いや。まだ生きてるよ。一千万円が、支払われていないし、新聞に、死亡記事は出てないからね」
「じゃあ、おれが殺《や》る。一千万円の獲物は、他の奴に委せられないからな」
「他にも、金が欲しいって奴はいるよ」
「いや。おれがやるよ。問題は、金だ。どこの誰が払ってくれるんだ?」
若林がきくと、バーテンは、ニヤッと笑って、
「それは、わからないよ」
「それじゃあ、殺《や》ったあとで、金が貰えないってこともあるんじゃないか。そんな馬鹿馬鹿しいことを、誰がやるもんか」
若林が、舌打ちして見せると、バーテンは、また、ニヤッと笑って、
「それは、大丈夫だ。保証してくれてる人がいる。その人は、スポンサーじゃないが、大丈夫だといってるんだ」
「ふーん。そいつは、誰だ?」
「この辺に、長くいれば、自然にわかってくるさ。あんたは、あんまり見かけない顔だな?」
「一か月前に、秋田から出て来たんだ」
「そういやあ、訛《なま》りがあるな」
「訛りはないつもりでいるんだが」
「あるよ。おれも、秋田じゃないが、東北の生れだから、よくわかるんだ」
「あんたは、ちゃんとした東京弁だから、羨《うらや》ましいよ」
「おれは、もう十年も、東京にいるからな。田舎《いなか》のことは、忘れちまったよ」
「あんたは、金が欲しくないのか?」
若林がきくと、バーテンは、大きく肩をすくめた。
「そりゃあ欲しいが、おれには、刑事《でか》をやる度胸はねえよ」
「殺《や》っといて、すぐ、アメリカにでも高飛びしちまえばいいじゃないか。一千万円あれば、二、三年は、のんびり暮せるんじゃないのか。パスポートと、飛行機の切符を用意しといて、殺《や》っちまうのさ」
「いうのは、簡単だがね」
「一千万か」
と、若林は、わざと、溜息《ためいき》をついて、
「もう、これだけしか持ってないんだ」
と、財布を取り出し、一万円札一枚と、千円札二枚、それに、ポケットから、百円玉と十円玉を、ばらばらと出して、カウンターの上においた。
「出て来たばかりだから、仕事もねえし、手っ取り早く金が欲しいんだ。まじめな仕事につくのは、もうあきたからな」
若林は、小銭を、元に戻しながら、バーテンに、いった。
「どうして、ナイフを持ってるんだ?」
バーテンがきいた。
「東京に来てすぐ、浅草で、脅されて、有金全部、とられちまったんだ。有金っていっても、二万円ばかりだけどな。相手は、チンピラみたいな二人連れで、ナイフを持ってやがった。素手なら、負けない自信があるんだが、ナイフでやられたんじゃ敵わない。それから、このナイフを持ってるんだ」
若林は、ナイフを、また取り出して、刃を出したり引っ込めたりした。
「護身用ってわけか?」
と、バーテンがきく。
「まあ、そんなところだ。だが、これを使って、金儲《かねもう》けが出来るんなら、悪くないな」
「人を殺したことはあるのか?」
「ないよ。だが、人を殺すやり方は、習ったことがある」
「ふーん。自衛隊にでもいたことがあるのか?」
「ああ。一年間だけ、仕事がなくて、入っていたことがある。優秀だったよ。そこで、銃の射ち方も習ったさ」
「身体は、軽そうだな」
バーテンは、じろじろと、若林を見た。
「ああ、自信があるよ。逃げるのも早いぜ」
と、若林は、笑って見せた。
「今、どこに住んでるのだ?」
「安宿に泊ってるんだが、早く、稼がないと、そこも、追い出される」
若林がいったとき、二人の男が入ってきた。
すぐ、刑事とわかった。どうやら、四課の刑事たちらしかった。
二人は、バーテンに、警察手帳を見せてから、カウンターの中に、ずかずか入って行き、そこにかかっているポスターを引《ひ》き剥《はが》した。
「この店の責任者は誰だ?」
と、刑事の一人が、バーテンにいった。
「ママも、マネージャーも、まだ来てませんよ。九時頃になると、来ると思いますがね」
「じゃあ、来たらいっとくんだ、こんな妙なものを貼ったりすると、店を叩《たた》き潰《つぶ》すとな。どんなことをしてだって、店を閉めさせることぐらい簡単に出来るんだ。それから、ここへは、S組の連中がよく来るんだろう。奴等にもいっとくんだ、こんな、刑事の首に賞金をかけるような馬鹿な真似をしたり、金を出してる奴を知ってて黙ってると、S組が、警察に挑戦してるんだと見なして、容赦しないとな」
「いっときますよ」
「次に来て、また、このポスターが貼ってあったら、店は、潰れると覚悟するんだな」
二人の刑事は、それだけいって、帰って行った。
多分、他の店にも、刑事たちは、出かけているだろう。
(圧力をかけているんだな)
と、若林は、思った。
面白半分に、亀井を狙う連中は、これで、二の足を踏むだろう。本当に、金を欲しい奴と、本当に、殺したい奴が、残ることになる。
「ああいう連中は、時々、来るのかい?」
と、若林は、バーテンに、声をかけた。
「いや。あのポスターのせいで、連中は、カリカリしてるのさ。それで、毎日のように、嫌がらせに来るんだ」
「仲間が狙われてるんだから、無理もないだろう。あんたに頼みがあるんだ」
若林は、水割りのグラスをもてあそびながら、バーテンにいった。
「何だい?」
「少し金を貸してくれる奴はいないかな。刑事《でか》を殺して、ちゃんと、返すよ」
「おれは、持ってないよ」
バーテンが、手を広げて見せたとき、ふいに、若林の背後から、
「あたしが、貸してあげるわ」
と女の声がした。
「あ、ママさん」
と、バーテンが、いった。
和服のよく似合う三十五、六歳の女だった。
目鼻立ちのはっきりした、気の強そうな女に見える。
若林が、黙って見ていると、ママは、
「いくら欲しいの?」
と、きいた。
「なぜ、貸してくれるんだ?」
「そうね。あんたが気に入ったからというところかしら」
「よくわからないな」
「お金欲しいんでしょう?」
「そりゃあ、欲しいさ。今日、ここの払いをすませたら、一万円もなくなるんだからな」
「それなら、四の五のいわずに、持って行きなさい」
ママは、ハンドバッグから、財布を出し、無造作に十万円抜き出して、若林の前に置いた。
「いいのかな?」
「どうぞ」
「返せるかどうか、わからないよ」
「一千万円儲けて、返してくれるんじゃないの?」
ママは、冗談めかしていった。
若林は、すぐには、十万円を手にせず、じっと、ママの顔を見つめた。
「じゃあ、あんたが、スポンサーなのかい?」
「あたしじゃないわ。でも、警察は嫌いなの」
「ふーん」
「あ、いらっしゃいませ」
と、ママは、新しく入って来た客の方へ、飛んで行った。
若林は、バーテンに、
「いいのかな?」
「ママさんは、気っぷのいい人だから、貰っといたらいいさ」
「じゃあ、貰っとくよ」
若林は、十万円の札束を、ジャンパーのポケットに突っ込んだ。
ママは、もう、若林のことなど忘れたみたいに、中年の客を相手に、はしゃいだ声を出している。
「ママさんの名前を教えてくれないか」
と、若林は、バーテンにいった。
「どうするんだ?」
「名前もわからない人から、金を借りるのは嫌なんだ」
「名前は田所ゆきだと思ったね。おれは、いつも、ママさんと呼んでるから、確かじゃない」
「金が出来たんで、今夜、駅近くのビジネスホテルに泊るよ」
「東新宿ホテルか」
「ああ。何か、おれで出来ることがあったら、あそこへ連絡してくれ。ママさんの役に立ちたいんだ」
「いっとくよ」
と、バーテンが、いった。
十津川は、腕時計を見て、午後十一時を過ぎているのを、眼で確かめてから、大阪の亀井に、電話をかけた。
「明日一杯、東京に帰るのを待ってくれないか」
と、十津川は、まず、いった。
「しかし、捜査一課の刑事が、死ぬのが怖くて、逃げているという噂が、流れるんじゃありませんか? 向うが、流すと思いますね」
「そうかも知れないが、こちらも、全力をつくして、犯人を追っている。若林刑事が、新宿の盛り場に潜入して、誰が、馬鹿な金を出しているのかを調べている。明日一日あれば、何か、つかんでくれると、思っているんだがね」
「警部」
「何だい? カメさん」
「警部のご命令ですから、明日一日は、こちらにおりますが、次は、私が動いて、相手を引き出してやりたいと思うのです」
「どうするんだね?」
「相手を引き出すには、こちらも、危険な立場に立たなければならんでしょう。それで、一つ、計画を立ててみたんですが」
「どんな計画だね?」
「東京では、どこの誰が狙ってくるかわからないので、戦いは、どうしても不利をまぬがれません。それで、逃げ場のない場所に、相手を引き入れてやろうと思うのです」
「どうする気だ?」
「実は、私の郷里の青森で、叔母《おば》が、怪我をして、入院しています。たいした傷じゃなくて、二週間ほどで退院できるようですが、それを見舞うということで、ここ大阪から、青森行の特急列車に乗ろうかと思うのです」
「大阪から青森へというと、寝台特急《ブルートレイン》の『日本海』が走っているね」
「いや、寝台列車では、私が襲われたとき、寝ている人たちに迷惑がかかりますし、守りにくいと思います。それで、昼間の特急に、乗ろうと思います」
「特急『白鳥』か?」
「そうです。『白鳥1号』は、福井―青森間なので、『白鳥3号』の方です。この列車は、午前九時五五分に出発し、終着の青森には、二三時五一分です。その間、約十四時間あります」
「十四時間、自分を危険にさらして、犯人を捕えようというのかね?」
「向うも、列車の中に閉じこめられるわけです。生半可《なまはんか》な覚悟では、列車に乗って来られないでしょうから、必ず一千万円を手に出来ると、確信した奴だけが、乗ってくると思うのです。上手《うま》くいけば、一千万円のスポンサー自身が、私を狙って、列車に乗ってくるかも知れません」
「うーん」
と、十津川は、小さく唸《うな》った。
うまくいけばいいが、下手をすれば、亀井の命が危い。犯人も、列車の中に閉じ籠められるだろうが、亀井だって、逃げ場がなくなるのだ。
「十四時間も、君を危険にさらすわけにはいかないよ」
と、十津川は、いった。
「しかし、このままでは、どうしようもありません。一刻も早く、犯人を捕えないと、警察の威信にかかわると思うのです。変なポスターで脅かしただけで、捜査一課の刑事が、逃げ隠れたとなれば、威信は、消えてしまいます」
「それは、わかるんだが――」
「警部。私は、めったなことじゃあ、死にやしませんよ」
「ともかく、明日一日、そこにいてくれ。明日一杯かかっても、一千万円の犯人が見つからない時には、君の計画を検討するよ」
十津川は、そういって、電話を切った。
連絡係の片山婦警から、最初の連絡があったのは、夜半を過ぎてからだった。
どうやら、若林は、最初の段階は、上手くやったらしい。
クラブ「ゆき」のママの田所ゆきも、どうやら、一千万円のスポンサーの名前を知っているらしいという。
夜が明けると、十津川は、日下刑事に、田所ゆきを、徹底的に調べてみるように、いった。
ひょっとすると、亀井を恨んでいる女かも知れない。
一方、他の刑事たちは、亀井の関係した事件を、洗い続けていた。
その一つから、田所ゆきの名前が浮んできたら、彼女を、スポンサーと見てもいいのだが。
日下刑事の調べで、田所ゆきのことが、少しは、わかって来た。
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〈田所ゆき、三十五歳。熊本県出身。
十八歳の時、上京し、喫茶店などに勤めたあと、二十三歳で、水商売に入る。
銀座の「N」「K」などのクラブで働いたあと、新宿に「ゆき」を開店、現在にいたる。
結婚歴一回。二十七歳の時結婚するも、一年で離婚。
男まさりの性格で、敵も多い〉
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「亀井刑事と、田所ゆきが、結びつく線は見つからないかね?」
十津川が、きくと、日下は、
「今のところ、二人の間には、何の関係も見つかりません。それに、田所ゆきには、前科がありませんから、われわれが逮捕したこともない筈です」
「S組の幸田との関係は?」
「あの店には、よく、S組の幹部が、飲みに行っています。当然、相談役の幸田も、行っている筈です」
「そうか。田所ゆきは、幸田と親しいのか」
とすれば、幸田が知っている一千万円の主を、田所ゆきも、知っている可能性がある。
ゆきの写真も、何枚か、手に入った。
捜査一課の全員に、彼女の写真を見せたが、見覚えがあるという者はいなかった。
大阪府警には、写真を電送し、プラザホテルに泊っている亀井に見せて貰った。
その返事は、直接、亀井から、電話で、返ってきた。
「あの写真の女には、見覚えがありません」
と、亀井は、電話でいった。
「そうか。見覚えがないかね」
「うちで、逮捕したことのある女ですか?」
「いや、前科はないんだ」
「じゃあ、見覚えがなくても、不思議はありませんね」
「新宿歌舞伎町の雑居ビルの二階にある『ゆき』というクラブのママだ。カメさんは、最近、その店に飲みに行ったことはないかね?」
「新宿の『ゆき』ですか。全く、記憶がありませんね。この女が、私に、一千万円の金をかけているんですか?」
「いや。彼女本人かどうかわからないんだが、どうも、何か知っているようなんだ。若林君が、接触しているがね」
「私の計画は、検討して頂けましたか?」
「特急『白鳥』のことか。確かに、君を狙う人間を、列車の中に閉じ籠められるが、君自身も、十四時間、列車の中に、閉じ籠められてしまうわけだよ」
「それは、よくわかっています。実は、もう明日の『白鳥3号』の切符は買ったんです。青森までの切符です。S組の相談役の幸田や、この田所ゆきという女が、一千万円の主を知っているのなら、丁度いいと思います。それとなく、私が、明日の『白鳥3号』に、大阪から乗ることを知らせて下さい。当然、二人の口から、一千万円の主に通じるでしょう。それから、相手が、どう出るか、わかりませんが」
「そこが、不安なんだよ」
「しかし、警部。私の計画が成功する可能性もあるんです。明日、私が、青森まで十四時間、列車に乗っているとわかれば、私を殺《や》るチャンスだと思うでしょう。そのチャンスを逃がしてなるものかと思ってくれれば、こちらの思う壺《つぼ》です。一千万円の懸賞金につられて、勇ましいどこかのチンピラが、列車に乗ってくれるのを待っているわけには、いかなくなるからです。自分で、乗り込んで、私を殺《や》るか、殺し屋を傭《やと》って、『白鳥3号』に、乗り込ませるかの二つしかなくなってきます。どちらにしろ、一千万円の主を、捕えるチャンスが出て来ます」
亀井は、熱っぽくいった。
彼の性格から考えて、十津川が、あと一日、何もせずに、大阪のホテルに籠っていろといっても、承知はしないだろう。相手から逃げるのが、亀井には、我慢がならないのだ。
「わかったよ。カメさん」
と、十津川は、いった。
「わかって、頂けましたか」
「明日から三日間、君の休暇届を作っておく。青森の親戚《しんせき》を見舞うためだ」
「ありがとうございます」
「しかし、君を、どうやって守るかは、私の自由にやらせて貰うよ」
と、十津川は、いった。
明日、亀井が、「白鳥3号」に乗って、青森へ旅立つとすれば、捜査一課として、ただ、それを見守っているわけにはいかないだろう。
東京都内では、連日のように、殺人事件が発生しているし、現在、捜査中の事件もある。従って、捜査一課の全力をあげて、亀井を守るわけにはいかないが、十津川としては、どんなことをしてでも、亀井を守らなければならない。
十津川は、本多捜査一課長に、事情を説明した。
「今日中に、一千万円を出す犯人を見つけ出せればいいんですが、駄目でしたら、亀井刑事は、明日、特急『白鳥3号』に乗ると思います。それを守らなければなりません」
「亀井君じゃあ、一度、決めたら止《や》めないだろうねえ」
「そうです。彼は、何よりも、隠れているのが嫌いですから。自分を標的にして、犯人を捕えようとするに決っています」
「君も、特急『白鳥3号』に、乗る気なんだな?」
「はい」
「しかし、何人も乗せるわけにはいかんだろう? 今朝も、豊島《としま》区内で、殺人事件が起きているからね」
「わかっています」
と、十津川は、肯いてから、
「有難いことに、舞台は、列車です」
「しかし、あの列車は、何両も、連結しているんだろう?」
「十二両編成で、自由席三両、指定席七両、グリーン車一両、そして、食堂車一両です」
「その全部を、監視するのは、大変だろう?」
「乗客の中から、犯人を見つけ出そうとすれば、何人投入しても、足りないと思います。それに、どんな人間が、亀井刑事を殺しに来るのかわかりませんから、見つけ出すのは、無理だと思います。しかし、守りに徹したら、意外に小人数で可能と思います。というのは、守る人間は、亀井刑事一人ですし、そう考えれば、舞台は、十二両全部ではなくて、亀井刑事の座っている一両だけになります」
「なるほど。そうなるんだな」
「それに、特急列車ですから、窓は開閉できません。従って、窓から侵入することは、まず考えられません。前後に出入口があるだけですから、二人で、そこを押さえてしまえば、中の犯人は、逃げられません」
「すると、最低限二人ですむということだな?」
「そうです」
「君としては、何人欲しいんだ?」
「もちろん、多いほど、安全ですが、私と日下刑事の二人が、大阪に行き、特急『白鳥3号』に乗り込みます」
「二人だけで、いいのか?」
「今、若い若林刑事を、新宿の盛り場に潜入させていますが、彼には、亀井刑事を殺して、一千万円を貰うと、吹聴させていますから、彼も殺し屋として、特急『白鳥3号』に乗り込むことになります」
「すると、全部で三人ということだね?」
「いえ、これで四人です」
「四人?」
と本多は、きき返してから、「ああ」と笑って、
「亀井刑事も、当然、入っているんだったな」
「そうです。亀井刑事は、単なるおとりではありません。優秀な刑事です」
「ところで、今、記者会見を要求されている。亀井刑事に一千万円の賞金が、かかっていることを、記者たちも、耳にしているんだ。亀井刑事が、今、どこにいるのかとか、これから、どうするつもりかと、質問されるに決っている。どう答えたらいいかな?」
「亀井刑事は、別に逃げているわけではなく、会議で、大阪府警へ行っていることを強調して下さい」
「それは、わかっている。問題は、明日の特急『白鳥3号』に乗ることを、記者さんたちに、話したものかどうかということだ」
「そうですね」
と、十津川は、しばらく考えていたが、
「記者さんたちに、事実をいって下さって、結構です」
「必ず、狙われることになるよ。一千万円の標的が、特急『白鳥3号』に乗ることを、世間に知らせてしまうわけだからな」
「亀井刑事も、それは、覚悟している筈です。それに、当然、警察が、亀井刑事をガードすることは、犯人の方も考えるでしょう。となれば、面白半分に亀井刑事を狙うチンピラは、かえって、いなくなると思っています」
「それは、あるかも知れないな」
「むしろ、私が心配なのは、記者さんたちが、取材で、列車に乗り込んでくることです。下手をすると、怪我をするかも知れないし、邪魔になります」
「その点は、よくいっておくよ」
と、本多は、いってくれた。
陽が落ちてから、若林は、ビジネスホテルを出て、新宿歌舞伎町のクラブ「ゆき」に出かけた。
カウンターに腰を下すと、昨夜のバーテンが、「やあ」と、いい、水割りを出してくれた。
「どうしてる?」
「退屈してるよ。退屈で、死にそうだ」
「彼女はいないのか?」
「いるけどな。おれが、仕事もなくて、ぶらぶらしてるんで、愛想をつかされそうなんだ」
「ふーん」
「といって、今更、会社勤めなんか出来やしない。学歴もないしね。だから、何とかして、一攫千金《いつかくせんきん》を考えてるんだ。大金が入ったら、有無をいわせず、彼女を連れて、ハワイにでも行ってやろうと思ってる」
「それで、一千万か?」
「あのポスターは、もう貼らないのか? やっぱり、警察が怖いのか?」
「別に怖くはないが、昨日の今日だからな」
と、バーテンは笑ってから、
「夕刊を見たか?」
「おれは、新聞はあまり読まないんだ」
「じゃあ、読んでみろよ。駅で、買って来たんだ」
バーテンは、丸めた夕刊を、ぽいと、若林の前に置いた。
若林が、広げると、亀井刑事のことが出ていた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈最近、新宿の盛り場に、現職の刑事を殺せば、一千万円の賞金を出すという奇妙なポスターが出まわっている。このポスターにかかれたK刑事は、実在の人物で、上司の捜査一課長は、次のように強調した。「あんなポスターを貼られて、迷惑している。K刑事は、現在、大阪府警本部に出張しているが、郷里の青森で、家族の一人が病気で倒れたため、休暇を取り、明日の特急『白鳥3号』で、帰省することになった」と〉
[#ここで字下げ終わり]
「あんた、どう思うね?」
バーテンが、若林の顔を、のぞき込むように見た。
「どうって?」
「警察は、狙われてるのを知ってるんだ。それなのに、明日の特急『白鳥3号』に乗ると発表している。なぜなんだ?」
「多分、警察は、面子《メンツ》を考えているんだと思うね」
「面子?」
「ああ。あのポスターの刑事がさ、逃げ廻っていると思われるのは、面子にかかわるんだと思うね。だから、逃げてるんじゃないってことを、示すために、こんな発表をしたんだと思うね」
「なるほどな。面子か」
「そうさ」
「だが、明日の『白鳥3号』に乗るとなったら、あんたは、どうするね? 亀井を殺《や》るのなら、絶好のチャンスだと思うがね」
「ああ。そうだな。向うさんは逃げもかくれもしないんだから、絶好のチャンスだ」
「殺《や》るかい?」
「一千万円が、間違いなく貰えるとわかればね」
若林は、ニヤッと笑って見せた。
「大丈夫だよ。絶対に、支払われるよ」
「警察は、こう発表した以上、列車に、狙われてる刑事をひとりで乗せるわけはない。きっと、ガードがつく。それを知っていて、殺《や》るんだ。だから、絶対の保証をして貰わなきゃ駄目だ。バーテンのあんたが、大丈夫だというだけじゃ、納得《なつとく》できないよ」
「じゃあ、どうすればいい?」
「そうだな。本当のスポンサーが、一千万円の札束を持って来て、見せてくれれば、貰わなくても、納得して、列車に乗るよ」
「刑事が、ガードしているかな?」
「そりゃあ、してるさ。何人の刑事が、ガードするかわからないが、こういう風に発表する以上、万全の準備をしていると思った方がいいぜ。だから、生半可な気持で、殺《や》りに行ったら、たちまち、逮捕されちまうよ」
「そうだろうな」
と、バーテンは、肯いてから、
「それでも、あんたは、殺る気かい?」
「ああ、金が欲しいからな。それに、ガードしてるとわかっているところへ飛び込むってのは、スリルがあっていいや」
「怖くはないのか?」
「ちょっとだけ、武者ぶるいがするだけだよ」
「若いのに度胸があるな」
「だが、一千万円の保証がなけりゃ駄目だ。あんたの保証じゃ駄目だ。あんたから、一千万円を、貰えそうにないからな」
若林がいうと、バーテンは、考えていたが、
「ここのママの保証じゃどうだ? ママさんは、五、六千万の金は、持ってるぜ」
「それならいいが、ママさんの口から、直接いって貰いたいな。そうじゃなけりゃあ、安心して、『白鳥3号』に乗れないからな」
「じゃあ、ちょっと待ってろよ」
バーテンは、店の奥にいるママの田所ゆきのところへ行き、何か小声で話していたが、ゆきが、バーテンと一緒に、カウンターのところへ、歩いて来た。
「あの一千万円が、欲しいんですって?」
と、ゆきは、若林の横に腰をかけ、小声できいた。
「ママさんに借りた金も、返さなきゃなりませんからね」
「あれは、あんたにあげた積りだから、返さなくていいわよ」
「そうはいかない。それに、一千万円あれば好きなことが出来る」
「こいつには、恋人がいるそうですよ」
と、バーテンが、笑いながら、ゆきにいった。
ゆきも、微笑した。
「そうなの。それなら、余計、お金がいるわね」
「ママさんが、保証してくれるんですか?」
「ええ。いいわよ」
「しかし、なぜ、ママさんが、保証してくれるんですか?」
若林がきくと、ゆきは、バーテンの作ったカクテルを一口飲んでから、
「気まぐれかしら」
「一千万円のスポンサーは、ひょっとして、ママさんじゃないんですか?」
「あたしじゃないわ」
「しかし、気まぐれだけで、一千万円も保証はしないでしょう?」
「ねえ。若林さんだったかしら?」
「そうです」
「あんたは、一千万円が、手に入ればいいんでしょう? あたしが、保証してあげるというんだから、あれこれ、詮索《せんさく》することはないじゃないの」
ゆきは、急に、声を荒げた。
若林は、おやッという眼で、彼女を見た。
もともと、気の短い女なのか、それとも、この件で、あれこれいわれるのが嫌なのか、若林には、わからなかった。
「わかった」
と、若林は、いった。
「おれは、金が、ちゃんと手に入れば、いいんだ。誰が関係してるかはどうでもいいさ」
「まさか、あなたは警察の人間で、あたしたちの反応を見に来てるんじゃないでしょうね?」
ゆきは、冗談めかして、きいた。
若林は、わざと、ニヤッと笑って、
「なぜです? おれが、警察の人間に見えますか?」
「見えるわよ」
ゆきが、そっけなくいう。
冗談でいっているのだとわかっていても、若林は、何となく、どきりとして、
「よしてくれよ」
と、顔をしかめた。
「ママさん。こいつが、警察の人間とは思えないよ」
バーテンが、助け舟を出してくれた。
「あんたが、いうのなら、確かだと思うけど」
「おれは、捜査一課とか、四課の刑事の顔は、よく知ってるけど、この顔は、初めてですよ。だから、刑事とは、思えませんね」
バーテンは、若林に向って、あごをしゃくって見せた。
「ありがとう。助かったよ」
「それで、どうするつもりなの?」
ゆきが、若林にきいた。
「金が欲しいですからね。それに、問題の列車に乗るぐらいの金は、ママさんに貰った金の残りがありますからね」
「じゃあ、大阪から乗るのね?」
「さあ。どうしようか考えているんですよ。あの列車は、大阪から青森まで行く。十四時間だ。殺すのは、五、六分ですむ。いや、一瞬でいいんだ。だから、一番いい場所から乗り込んで、殺すよ」
「ナイフで殺すの?」
ゆきが、しつこくきいた。
若林は笑って、
「ママさん。今度は、あんたが警察みたいじゃないか。根掘り葉掘りきいてさ。あんたが、本当のスポンサーで、一千万の半金でもくれるっていうのなら、くわしく説明するがね」
「そうね。悪かったわ」
と、ゆきも、笑った。
「とにかく、おれのやりたいやり方でやるさ。そして、ママさんを通して、一千万円を請求するよ」
「殺《や》ったあとは、どうするんだ?」
バーテンが、きいた。
「彼女と海外旅行でも楽しむよ。ほとぼりがさめるのも待ちたいしな」
「いい考えだ」
「ところで、おれ以外にも、明日の『白鳥3号』に乗り込もうって奴がいるかな? 下手《へた》に邪魔されると困るんだ」
若林は、バーテンを見、ゆきを見た。
「さあね。いるかも知れないし、いないかも知れないな。他の人間のことなんか、気にすることはないじゃないか」
バーテンは、用心深くいった。
十時過ぎまで飲んで、若林は、「ゆき」を出た。
ママのゆきも、バーテンも、ある程度までは、親しそうにするが、肝心のところは、打ちとけて来ない。
ママのゆきは、自分が、金を払ってもいいみたいなことをいったが、だからといって、逮捕は出来ないだろう。どうせ、それは、冗談でいったのだと、とぼけるに決っているからだ。
新宿駅近くのビジネスホテルに戻ると、部屋から、片山由美に電話をかけた。
「由美ですけど」
と、若い片山婦警の声が聞こえた。
若林は、何となく、くすぐったい気持になりながら、
「おれだよ。若林だよ」
すると、あちらも、親しげにいった。
「ああ、あなたね。どんな具合なの?」
「明日の『白鳥3号』に乗ることになったよ」
「お金を貰える当てはついたの?」
「クラブ『ゆき』のママが、保証するといったよ」
「田所ゆきさんね。その言葉は、信用できるのかしら?」
「きいたら怒ったよ。なかなかの剣幕だったね。彼女が、本当のスポンサーかどうかわからないが、多分、スポンサーの名前は、知っていると思うね」
「あなた以外に、明日の『白鳥3号』に乗る人がいるの?」
「それもわからないんだ。きいたが、もちろん、教えてくれなかったよ」
若林が、いったとき、向うの電話に、割り込みが入ったらしく、小さく、ベルが鳴るのが聞こえた。
「ちょっと待っててね」
と、由美は、いってから、彼女の声が聞こえなくなった。
若林は、受話器を持ったまま、待った。
片手で、煙草をくわえ、ライターで火をつけたとき、由美の声が、戻って来た。
「ごめんなさい。パパからの電話だったわ」
「パパは、なんていってた?」
「あなたが、尾行されてるって」
「気がつかなかったな」
「気がつかない方がいいわ。変に、きょろきょろしてたら、向うに、警戒されるわ」
「そうだな。どんな奴が、尾行してたんだろう?」
「名前は、井上という男だそうよ」
「へえ。名前も、わかってるのか」
「S組の構成員だということだわ。年齢二十九歳。傷害の前科あり」
「さすがは、パパだね」
「これで、一千万円の懸賞金と、S組が、関係があることが、はっきりしたと思うわ」
「そうだな」
「パパからの伝言が、もう一つあるわ」
「なんだい?」
「明日、亀井刑事は、自由席の切符を買ってあるそうよ」
「自由席というと、1号車から、3号車までだね」
「そうだわ」
「うちは、誰が乗るんだ? パパは、もちろん乗るだろうけど」
「ええ。パパと、日下さんが、乗る予定だわ」
「二人だけ?」
「あなたを含めれば、三人だわ」
と、由美は、いった。
「そうだな。忘れてたよ」
若林が、笑ったとき、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「誰かお客さんが来たらしい」
「気をつけてね」
「愛してるよ」
若林は、わざと、大きな声で、いってから、電話を切り、煙草をくわえたまま、ドアを開けた。
「ゆき」のバーテンが、立っていた。
「あんたか。入れよ」
と、若林は、いった。
バーテンは、後手に、ドアを閉めてから、部屋の中を見廻した。
「狭い部屋だな」
「安いから仕方がないさ」
若林は、一つだけある椅子《いす》を、バーテンにすすめ、自分は、ベッドに腰を下した。
「何の用だい? おれを見張りに来たのか?」
と、若林は、きいた。
「いや、そんな真似はしないよ」
「しかし、おれは、あとをつけられてるような気がして、仕方がないんだ。あんたが、つけているのかと思ったんだが」
「気のせいだよ。なんで、あんたをつけるんだ?」
バーテンは、肩をすくめて見せた。
「いっておくが、おれは、疑われるのが、我慢がならないんだ。あんたや、ママさんには恩義を感じてるが、それでも、おれを疑ってるとわかったら、容赦しないよ」
「ああ、わかってるさ」
「それで、何の用なんだ?」
若林は、わざと、強気に出て、相手を睨んだ。
「ママさんの言伝てを持って来たんだよ」
「ふーん」
「あんたは、明日、問題の列車に乗るんだろう?」
「ああ」
「どこで乗るにしても、金がいるだろうといって、ママさんは、おれに、これを持って行けといったんだ」
バーテンは、内ポケットから、封筒を取り出して、ベッドの上に置いた。
「金なら、前に、十万円貰ってるよ」
「そうだが、いざとなると、意外にいるのが金だからな。それに、上手くいけば、あんたは、一千万円手にするんだ。それから返せばいいさ」
「失敗したら?」
「その時には、返したくたって、返せないだろうし、ママさんは、請求はしないよ」
「気前がいいんだな」
「うちのママさんは、きっぷがいいんで有名なんだ」
「じゃあ、貰っておくよ」
若林は、中を数えずに、ポケットにしまった。
「じゃあ、おれは帰る」
と、バーテンが、腰をあげた。そのバーテンに向って、
「あんたに、ききたいことがあるんだ」
「なんだ?」
「あんたと、ママさんは、どんな関係なんだ?」
「ただのバーテンと、ママの関係さ」
「そうかねえ」
「なぜ、そんなことをきくんだ?」
「あんなきれいな女と、仲よくなれたらなと、羨ましいからさ」
と、若林は、いった。
バーテンが姿を消すと、若林は、じっと、考え込んだ。
ただ単に、ママに頼まれて、金を持って来たとは、思えなかった。
それにかこつけて、様子を見に来たんだろうと、若林は、思った。
S組の人間が、「ゆき」から、このホテルまで、若林をつけて来たという。多分、今だって、ホテルの外に、誰かが、見張っているに違いない。
(とにかく、明日は、特急「白鳥3号」に乗りに出かけなければならないな)
と、自分に、いい聞かせた。
ベッドに、仰向けに寝転び、バーテンの置いていった封筒を取り出して、中の札束を数えてみた。
二十万円入っていた。
翌朝、テレフォンコールで、眼をさました。
眠い眼をこすって、若林は、ベッドの上に起きあがった。
五時十分である。
カーテンを開けると、まだ、外は、うす暗い。
特急「白鳥3号」に、大阪から乗るためには、東京発午前六時の新幹線に乗らないと、苦しい。
顔を洗い、支度をしてから、部屋を出た。
料金は、昨日のうちに、払っておいた。フロントに、キーを返して、ホテルを出た。
国鉄の新宿駅まで歩き、東京駅行の電車に乗った。
まだ、ラッシュアワーには、かなり時間があるので、車内は、がらがらだった。
誰かに、つけられているかも知れないが、若林は、気を使わないことにした。座席に腰を下し、眼をつむっていた。まだ、眠い。
東京駅に着いたのが、五時四十分である。
新幹線のグリーン車の切符を買って、ホームへ入って行った。
午前六時発の「ひかり21号」の12号車に乗った。
グリーン車内は、三十パーセントほどの乗車率である。
若林は、座席を倒し、眼を閉じた。
あと、三時間十分で、新大阪に着く。
亀井刑事を殺そうと思う人間がいて、大阪から、「白鳥3号」に乗り込む気なら、この「ひかり21号」に乗っているだろう。
あるいは、昨夜の中に、大阪へ行っているかも知れないが、全部で、何人ぐらいいるのだろうか?
そんなことを考えているうちに、列車は、東京駅を離れた。
新横浜を過ぎてから、若林は、食堂車へ、朝食をとりに出かけた。
食堂車は、かなり混んでいた。
五、六分待たされてから、テーブルに着いた。
シチュー定食と、ビールを注文してから、奥に眼をやると、一番奥のテーブルに、十津川警部と、日下刑事が、向い合って、食事をしているのが見えた。
由美の電話で、十津川が来るのはわかっていても、現実に、彼の姿を見ると、やはり、ほっとするものを感じた。
十津川が、傍にいるというだけで、安心するのだ。
(カメさんも、きっと、そう思うだろう)
料理が、運ばれて来た。
若林は、まず、ビールを口に運んだ。
十津川たちの方が、先に、食事をすませて、食堂車を出て行った。
若林に、気付いた筈だが、もちろん、二人とも、素知らぬ顔で、若林のテーブルの横を、通って行った。
若林は、窓の外の景色を楽しみながら、シチュー定食を食べ、コーヒーを飲んだ。
ゆっくり、食事をすませてから、12号車に戻った。
食堂車から、自席に戻るとき、若林は、乗客の顔を見ていったが、クラブ「ゆき」で見た顔には、ぶつからなかった。
もちろん、8号車から12号車までしか見なかったのだから、他の車両に、乗っているかも知れない。
座席に腰を下して、また、眼を閉じた。
革ジャンパーのポケットには、ナイフが、忍ばせてある。
もちろん、このナイフは、亀井刑事を刺すために使うつもりはない。彼を守るために、チャンスがあれば、使うことになるかも知れない。
彼の乗った「ひかり21号」は、定刻の九時一〇分に、新大阪に着いた。
問題の特急「白鳥3号」は、九時五五分に、大阪を出発するが、五分後の一〇時丁度に、新大阪に着く。
従って、この新大阪で、待っていてもいいのだが、やはり、亀井刑事のことが心配で、電車で、大阪駅に向った。
大阪駅着が、九時半だった。
青森までの切符を買い、「白鳥3号」の出発する十一番線ホームに、歩いて行った。
十二両編成の「白鳥3号」は、電車特急としては、日本一長い大阪―青森間一、〇〇〇キロ以上を走る。平均スピードは、時速七七キロ近い。
愛称の「白鳥」は、日本海側に飛来する白鳥からとった名前といわれる。
十四分前になると、十二両編成の「白鳥3号」が、ゆっくりと、入って来た。
先頭車には、白鳥が飛び立つところをデザインしたトレインマークが見える。
ツートン・カラーの、スマートとはいえないが、精悍な感じの車体である。
東海道本線を始めとして、北陸本線、信越本線、羽越本線など、七つの線路を走ることでも有名である。
若林は、ホームのベンチに腰を下し、うすいサングラス越しに、乗ってくる乗客たちを眺めていた。
初春の陽が、ホームに射し込んでいる。が、「白鳥3号」の長い車体が、それをさえぎって、かげを作っている。
若林の視野に、亀井刑事が、現われた。
どうしても、視線が、固定してしまう。
亀井刑事の両側を、十津川と、日下刑事が、ガードするように、歩いている。
三人は、すぐ、先頭の1号車に、乗り込んだ。
大阪出発の時は、1号車が先頭になり、12号車は、最後尾である。
1号車から3号車までが、自由席だが、十津川たちは、端の車両の方が、守りやすいと考えたのだろう。
(しかし、1号車には、確か、禁煙車のステッカーが貼ってあった筈だが)
と、思った。
十津川は、禁煙を誓いながら、なかなか、それが出来ないでいるし、亀井も、確か、煙草を吸う筈だった。若い日下刑事の方が、かえって、煙草を吸わない。
(困るんじゃないかな?)
そんなことを心配しているうちに、発車ベルが、鳴った。
若林は、眼の前の2号車に飛び乗った。
ドアが閉まり、特急「白鳥3号」は、大阪駅を離れた。
車内は、立っている乗客はいないが、それでも、空席は、ほとんどなかった。
2号車のデッキから、車内に入って行くと、真ん中あたりに、亀井たちがいるのが見えた。
思わず、微笑してしまったのは、その三人も、1号車が、禁煙車だったので、あわてて、2号車に移って来たと、思ったからである。
亀井の傍には、十津川と、日下がいる。
(犯人が、乗っているとしても、すぐにはカメさんを狙わないだろう)
と、若林は、思った。
青森まで、十四時間もあるのだ。じっくりと狙う筈である。
若林は、まず、全部の車両を見て歩こうと思った。
若林は、先頭車の方向に歩いて行った。
車内放送が、青森までの停車駅を告げている。
サングラスの奥から、亀井刑事を狙いそうな男はいないかと、通路を歩きながら、見ていった。
五分後に、新大阪に着いた。
ここからも、何人かの乗客が乗って来た。
最後尾の12号車まで歩き、引き返して来たとき、11号車のデッキのところで、突然、腕をつかまれて、引っ張られた。
はっとして、身構えると、相手は、クラブ「ゆき」のバーテンだった。
今日は、ハーフコートをはおり、サングラスをかけていた。
「何をしてるんだ?」
と、バーテンは、声をおさえていった。
「おれの方こそ、ききたいよ。こんなところで、何をしてるんだ?」
若林は、きき返した。
「あんたのことが心配だから、見に来たんだよ。車内を歩き廻って、何をしてるんだ? 亀井のいる車両が、わからないのか?」
「いや。わかってるさ。自由席の2号車だ。先頭から二両目の車両だ」
「じゃあ、なぜ、こんなところを歩いてるんだ?」
バーテンは、険しい眼つきで、若林を睨《にら》んだ。
「いいか。青森まで、十四時間あるんだ。すぐに殺《や》る必要はない。それに、今は、亀井刑事の傍に、刑事らしい男が、べったり、貼りついているんだ。だから、車内を見て歩いている。どの車両に、刑事がいるか、殺ったあと、逃げなきゃならないから、調べているんだ」
「それで、他の車内に、刑事はいたのか?」
「わからん」
「わからん?」
「いちいち、そんなに、とんがりなさんな。今の刑事は、いい恰好しているから、わからないんだ。眼つきの鋭い男は、何人かいたが、刑事かヤクザか、わからなかったよ」
「本当に、殺《や》る気があるのか?」
「あるよ。だが、なぜ、あんたが、それをいわなきゃならないんだ? あんたが、本当のスポンサーなのか?」
若林が、反撥《はんぱつ》して、きき返すと、バーテンは、あわてて、首を横に振った。
「おれには、一千万なんて金はないよ。ただ、心配だから、来てみただけだ」
「何が心配なんだ? おれのことを心配してくれてるのか? それとも、亀井刑事を殺《や》らないんじゃないかと、それが心配なのか?」
「どっちも心配さ」
「スポンサーじゃないんなら、黙って、おれのやることを見ていろよ。前にもいったが、おれは、おれのやり方で、殺《や》るんだ。それが嫌なら、自分で、殺ってみろ!」
若林が、いうと、バーテンは、黙ってしまった。
「あんたこそ、こそこそと、歩き廻らないでくれよ。邪魔だからな」
と、若林は、いってやった。
「おれは、グリーン車に乗っている」
と、バーテンは、いった。
「それで?」
「何かあったら、グリーン車へ来てくれ」
「どこまでの切符を買ったんだ?」
と、若林は、きいてみた。
「一応、青森まで買ってある。だが、途中で、亀井が死んだら、おれは、すぐおりて、東京に帰る」
「そして、スポンサーに、報告するわけか?」
「まあな」
バーテンは、6号グリーン車の方へ戻って行った。
若林は、「ふうッ」と、大きく、吐息をついた。
若林のことが心配で、この列車に乗ったといったが、そんなことは、嘘《うそ》に決っている。
若林のことを、疑っているのだ。
3号車まで戻って、空いている座席に腰を下した。
煙草をくわえて、火をつけた。
小型の時刻表を広げて、「白鳥3号」の停車駅を調べてみた。
あと三十分もすると、京都に着く。
京都を過ぎたあとは、湖西線《こせいせん》に入る。湖西線から、北陸本線へ。
敦賀《つるが》、福井、芦原《あわら》温泉、加賀温泉、金沢と、停って行く。
犯人になった気持で、考えてみた。次の駅に、停車する寸前に、殺《や》って、列車から、飛びおりて逃げるのが、常識だろう。
とすれば、駅に停車する寸前が、危いことになる。
京都 一〇時三二分
敦賀 一一時三五分
福井 一二時一二分
さし当っての停車駅と、停車時刻である。
殺《や》るとすれば、それぞれの、五、六分前に、行動に入るだろう。
しかし、同じことは、十津川警部たちも考えているだろう。
いや、犯人だって、同じことを考える筈だ。
(とすると、犯人は、意表を突くような行動に出るかも知れない)
列車は、京都に近づいていた。
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第三章 北陸本線
捜査一課では、本多捜査一課長が、陣頭指揮で、亀井を狙う人間を、洗い出そうとしていた。
亀井が担当した全ての事件を、検討しなおした。
担当したとしても、グループで、解決したものについては、除外していった。
亀井は、若い刑事とコンビを組んで、事件の捜査に当ることが多い。もし、その二人だけで、犯人を逮捕したケースがあれば、犯人は、亀井に捕まったと思うだろう。
最後に、五人の名前が、残った。
いずれも、凶悪犯である。裁判でも、反省の色を見せず、自分を逮捕した奴に、復讐《ふくしゆう》してやるのだと、息まいていた連中だった。
しかし、五人の中、一人は、まだ、刑務所に入っていた。二人は、出所後、死亡している。
残るのは、二人だった。
後藤正也 四十歳
原 勝一 四十二歳
この二人である。
後藤の方は、新宿で、クラブ「セイント」をやっていた。乱暴な男で、店のホステスを、ラブ・ホテルに連れ込み、いうことをきかないと、殴る蹴《け》るの暴行を加えて、何度か、傷害罪で逮捕された。
そのうちに、店のホステスを殺して、亀井が逮捕した。亀井が手錠をかけたときも、猛烈に抵抗して、そのために、手首が切れて、血が吹き出したほどである。
裁判では、終始、殺人を否定していたが、懲役十年の判決を受けて、刑務所に入った。その後、七年の刑期をつとめて、一か月前に出所している。同房の男の証言によれば、シャバへ出たら、無実のおれを刑務所に送った刑事に、復讐してやるといっていたという。
後藤が服役中、彼の女が、クラブ「セイント」をやっていたが、後藤は、出所後、このクラブに戻っていなかった。
「その男が、一千万円を出したのかも知れないし、違うとしても、亀井刑事を、殺しに行く可能性があるな」
と、本多は、いった。
もう一人の原勝一は、奇妙な男だった。
自ら、詩人と称し、親からゆずられた莫大《ばくだい》な遺産で、生活していた。
世田谷《せたがや》にある大きな邸に、ひとりで、ひっそりと暮し、詩を書いていた。それだけなら、良かったのだが、彼は、手製の拳銃《けんじゆう》や、モリ打ち銃などを、こつこつと、作っていたのである。
五年前、世田谷区内で、夜、帰宅途中のOLが、手製の拳銃や、モリ打ち銃で狙われる事件が、続発した。
死者こそ出なかったが、腕を射たれたり、太ももにモリが突き刺さったりして、大騒ぎになった。
亀井は、若い清水《しみず》刑事と、犯人の原を逮捕したのだが、その時、原は、手製の拳銃で、抵抗した。止むを得ず、亀井も、応射した。
亀井が、拳銃を射ったのは、その時だけである。彼の射った弾丸は、原の左足に命中した。
それから、五年たち、原も、出所している。原は、刑務所の中でも、詩を書いていたが、その詩の中に、自分を射った刑事に対する復讐の思いが、書きつらねてあった。
田中と西本の二人の刑事が、新宿のクラブ「セイント」に、出かけた。
新宿三丁目の裏にある四階建のビルの二階が、「セイント」だった。
昼間なので、店は閉っている。
田中刑事は、構わずに、ドアを叩いた。
三十歳ぐらいの男が、「うるせえな」と、文句をいいながら、ドアを細目に開けて、
「まだやってねえよ」
「いいから、開けろ」
と、田中は警察手帳を見せて、いった。
男は、肩をすくめて、二人を、中に入れたが、
「ママも、マネージャーも、まだ来てませんよ」
「お前さんは?」
田中は、ガランとした店の中を見廻しながら、きいた。
ホステスと客が、酔ってさわぎ、音楽が流れているクラブというのは、何とか恰好がつくものだが、昼間の店内は、妙に、うらさびしい。
「店番を頼まれてるんですよ。これでも、盗まれたら困るものが、置いてありますからね」
「後藤正也が、一か月前に出所して来たのは知ってるな? ママの亭主だ」
「ええ、二、三度、見たことがありますよ」
「今、どこにいる?」
「そんなこと知りませんよ」
「ママの住所は?」
田中がきいている間、西本は、店内を調べて廻った。カウンターの奥、トイレの中、どこにも、後藤は、いなかった。
後藤の女、きくえは、京王線《けいおうせん》の初台《はつだい》近くのマンションに住んでいた。
田中と西本は、パトカーを、飛ばした。
甲州街道《こうしゆうかいどう》に面した、真っ白なマンションである。
その五階に、きくえの部屋があった。
今度は、西本が、ブザーを鳴らした。すぐには、応答がない。なおも、押し続けていると、インターホーンに、
「誰なの? まだ、寝てるのよ」
と、面倒くさそうな女の声が聞こえた。
「警察だ」
西本が、いった。
「警察が、何の用なの?」
「いいから、開けろよ。開けないと、蹴破《けやぶ》るぞ!」
西本が、大声をあげると、やっと、ドアが細目に開いた。が、まだ、チェーンロックは、ついたままだった。
ネグリジェ姿の女が、顔だけ出して、
「本当に、警察なの?」
西本が、その鼻先に、警察手帳を突きつけた。
ドアが開くと、田中が、素早く、踏み込んで、奥のバスルームや、トイレの中を、のぞいてみた。
「何するのよ?」
と、きくえが、怒った。
「後藤は、どこにいるんだ?」
西本が、きいた。
「知らないわよ」
「お前の男だろう? 知らないわけがないじゃないか?」
「知らないものは、知らないわよ。疑うのなら、調べたら、いいじゃないの」
きくえは、ベッドの上に腰を下し、ふてくされた顔でいった。
「どこにもいないな」
と、田中は、いってから、西本に向って、
「だが、これが、落ちてたよ」
と、例の、亀井の似顔絵の描かれたポスターを見せた。
「一枚だけか?」
「ああ、その一枚だけだ」
「すると、後藤は、スポンサーじゃなくて、このポスターにつられた一人ということかも知れないな」
もし、後藤が、亀井刑事を狙っているとすれば、すでに、特急「白鳥3号」に乗っているかも知れない。それとも、途中で、乗り込むつもりでいるのか?
「後藤は、人を殺そうとしている。下手をすると、お前も、共犯になるぞ」
田中が、きくえを脅した。
「冗談じゃないわ」
「いやなら、後藤がどこにいるか教えるんだ」
「本当に、誰かを殺そうとしてるの?」
「しかも、狙ってるのは、刑事だ」
「そんな――」
「今度は、終身刑で、二度と、シャバに出て来られなくなるぞ。お前も、共犯で、ムショ行きだな」
「なぜ、あたしが、共犯になるの?」
「一緒に住んでて、奴が、人殺しするのを放置していれば、共犯だよ。この部屋には、奴の匂《にお》いが一杯じゃないか。男物の服や、靴が何よりの証拠《しようこ》だ」
「本当に、彼が、そんなことをやろうとしてるの?」
「昨日は、奴は、ここに来たんだろう?」
西本が、きいた。
ダイニングルームのテーブルに、コーヒーカップが二つと、ピザの食べ残しがのっている。それに、缶ビールが三つ。
「ええ。来て、泊ってったわ」
「それで、今朝は、何時頃、出て行ったんだ?」
「それが、よくわからないのよ」
「なぜ?」
「あたしが眠ってたら、台所で、ごそごそ音がするのよ。泥棒かなと思ったら、彼が、ひとりで、パンを焼いて食べてるのよ。あれ、五時頃だったんじゃないかな。急用で、出かけるから、お前は寝ていろって、いってくれたから、錠をかけて、また眠っちゃったわ」
「出かけたんだ」
と、西本は、小声で、田中に、いった。
清水と、小林の二人の刑事は、世田谷区内の原勝一の邸に、パトカーを飛ばした。
芦花《ろか》公園の近く、まだ、多少は、武蔵野《むさしの》の面影が残っているところに、原の大きな邸があった。
五百坪ぐらいの敷地だろう。
ただ、門の中の二階建の家は、五年間、主の原がいなかったせいか、ところどころ、屋根瓦《やねがわら》が落ち、壁に、亀裂《きれつ》が入っている。
二人は、門の外で車をおり、中へ入って行った。
「五年前に、来たことがあるんだが、相変らず、薄気味が悪いな」
清水が、文句をいった。
「庭がすごいじゃないか。鳥の声も聞こえるよ」
小林が、裏手に広がる深い木立に眼をやった。
「五年前に来たとき、この庭に、鳥の死骸《しがい》が散乱していた。原が、手製のエア・ピストルで、毎日、射っていたんだ」
清水は、当時を思い出して、顔をしかめながら、玄関に立ち、ベルを押した。
何回、押しても、返事がない。
「廻ってみよう」
二人は、木戸を開けて、裏手に廻ってみた。
家の中は、ひっそりと、静まり返っている。
「おい。これを見ろよ」
小林が、池の傍を指さした。
池の傍に、板で、鳥の餌場《えさば》が作ってあるのだが、その周囲に、五、六羽の雀《すずめ》や、尾長《おなが》の死骸が転がっていた。
「五年前の死骸じゃなさそうだぜ」
小林が、いった。
清水は、尾長の死骸を拾いあげた。首が、吹っ飛んでしまっている。
「こいつは、エア・ピストルじゃないな。もっと大きな銃で射ったんだ」
「人も殺せるようなか?」
「ああ」
二人は、庭に面したガラス戸を、拳銃の台尻《だいじり》でこわし、鍵を開けて、家の中に入った。
「ひどいな。こりゃあ」
小林が、眉をひそめた。
襖《ふすま》も障子も、破れ放題だし、廊下には、埃《ほこ》りが、たまっている。
「地下室があった筈なんだ」
清水が、先に立って、案内した。
書斎の近くから、地下への階段がついている。
清水が先に立って、階段をおりて行った。
家は木造だが、地下室は、鉄筋コンクリートである。
清水が、壁のスイッチを探して、明りをつけた。
家が、埃りにまみれているのに比べて、十二畳ほどの地下室は、整然としていた。
隅に、ベッドと冷蔵庫がある。
だが、地下室のほとんどを占めているのは、工作機械だった。
それに、改造拳銃や、エア・ピストルが何丁も置いてある。
「五年前、工作機械は、全部、処分してしまったんだが、出所してから、また、買い込んだらしい」
「暴力団に流しているということはないのか?」
小林が、改造拳銃を一丁、手に取って、清水に、きいた。
「いや、奴は今だって、大変な金持ちだよ。だから、そんな必要はないんだ。彼一人のひそやかな楽しみで、作って――」
急に、清水が、絶句した。
「どうしたんだ?」
「あれを見ろよ」
清水は、壁の一か所を指さした。
そこに、あのポスターが貼りつけてあった。
それだけではない。
亀井の似顔絵の頭の部分が、穴だらけになっているのだ。
明らかに、原が、改造拳銃で狙い射ちにした痕《あと》だった。
明らかに、後藤と原の二人は、亀井を狙っていると思われる。
捜査一課では、本多が、田中たちの報告を受けて、
「この二人は、一千万円のスポンサーではないかも知れないが、亀井刑事を殺しに特急『白鳥3号』に乗るのは、まず、間違いないだろう」
と、結論を下した。
「しかも、原の方は、改造拳銃を持っている筈です」
清水が、いった。
「その改造拳銃というのは、どの程度の威力があるものなんだ?」
田中が、きいた。
「五年前のとき、奴が作った中で一番威力のあるものは、二〇メートルの距離から発射して、十分に、人を殺せたよ」
と、清水は、いった。
清水と小林が、地下室から押収して来た五丁の改造拳銃が、机の上に並べられた。
「奴は、消音器《サイレンサー》も作ったことがある。もし、奴が、亀井刑事を殺しに行くとすれば、サイレンサー付きの拳銃を持って行くと思うね」
清水は、確信を持って、いった。そのくらいの器用さを持っている男なのだ。
「今、何時だ?」
本多が、きいた。
「十時三十五分です」
と、田中が、壁にかかっている時計を見て、答えた。
「特急『白鳥3号』は、京都駅を出たな」
「後藤と原のことを、カメさんや、十津川警部に知らせてやりたいですね」
清水が、本多を見た。
「清水君と、西本君の二人が、行ってくれ。後藤と、原の顔写真を持ってだ。どこで、『白鳥3号』に乗れるか、研究してだ。一番早く乗れる方法を研究するんだ」
本多の命令で、清水と西本の二人は、時刻表を取り出した。
特急「白鳥3号」は、一〇時三二分に、京都を出ている。
その後の停車駅と、発車時刻は、次の通りだった。
――――――――――――――――――――――――――――
敦賀  11:37
福井  12:13
芦原温泉12:25
加賀温泉12:38
金沢  13:08
高岡  13:38
富山  13:55
糸魚川 14:51
直江津 15:20
柏崎  15:48
長岡  16:16
東三条 16:34
新潟  17:25
――――――――――――――――――――――――――――
この辺りまでで、追い着かなければ、ならないだろう。
まず、考えられるのは、上越《じようえつ》新幹線で、先廻りする方法である。
現在十時三十五分。
上野から、一一時四七分の新幹線リレー号には、ゆっくり乗れるだろう。
これに乗れば、一二時一三分大宮着で、一二時三五分大宮発の「とき309号」に乗れる。
この列車の長岡《ながおか》着が、一四時一五分である。
長岡からなら、ゆっくり、「白鳥3号」に乗れるのだ。
長岡で、待っていてもいいが、長岡発一四時五一分の大阪行L特急「雷鳥32号」で、柏崎《かしわざき》まで戻ってもいい。この列車の柏崎着が、一五時二〇分だから、柏崎からでも、「白鳥3号」には、乗れる。
あとは、飛行機を利用する方法がある。
羽田《はねだ》―富山《とやま》間に、全日空の便がある。
しかし、時刻表を調べて、清水と西本は、がっかりした。
今から乗れるのは、羽田一二時四〇分発の765便だが、この飛行機の富山着が、一三時五〇分だったからである。
特急「白鳥3号」の富山発は、一三時五五分である。
その間、五分しかない。富山空港から、国鉄の富山駅までは、車で二十分かかる。これでは、とうてい間に合わないのだ。
これでは、もっとも早く特急「白鳥3号」に乗れるのは、柏崎からということになる。
「とにかく、出発しよう」
と、清水は、西本にいった。
特急「白鳥3号」は、京都を出て、湖西線に入った。
とたんに、窓の外の景色がよくなった。
湖西の新幹線といわれるように、湖西線は、ほとんどが高架で、踏切りが全くないからである。
しかも、右手には、琵琶湖《びわこ》の青い湖面が、大きく広がっている。
ヨットの白いセールが、点々と浮んでいる。湖面は、春の気配である。
今年の冬は、寒い日が続き、春がおそいといわれていたが、ここへ来て、春が、いっきに開花した感じだった。
「次の停車駅は、敦賀で、一一時三五分着です」
と、日下刑事が、時刻表を見ていった。
「あと、一時間か」
「その間、カメさんが襲われることは、ありませんか?」
「やはり、襲うとすれば、駅の直前になってからだろう。相手だって、逃げる方法も考えるだろうからね」
「すると、今は、一応、安全ということですか?」
「多分ね。しかし、逆を狙う奴がいるかも知れない。非常ブレーキのボタンを押して、この列車を停め、騒ぎにまぎれて、逃げるという手もあるからね」
「そうですね」
若い日下は、緊張している。
十津川は笑って、
「そんなに緊張していたら、青森まで身体が持たないぞ。まだ、一時間たっていないんだ。あと十三時間もある」
「わかっているんですが――」
「運動がてら、他の車両を見て来ないか。京都で、妙な人間が乗って来たかも知れないからな」
「大丈夫ですか?」
「今は、ここは、私一人で大丈夫だ」
と、十津川は、いった。
日下は、立ち上り、大きく、伸びをしてから、4号車の方へ歩いて行った。
この列車は、青森まで、さまざまな路線を走るせいか、乗客のカラーは、一様ではない。
家族連れが乗っているかと思うと、若いカップルも乗っている。老人の顔もある。
怪しいと思うと、ほとんどの乗客が、怪しく見えてくる。
7号車の食堂は、もう営業を開始している。
まだ十一時前のせいか、食堂車は、すいている。日下は、食堂車を抜け、最後尾の12号車まで歩いて行った。
轟音《ごうおん》を立てて、上り列車が、すれ違って行った。どうやら、上りのL特急「雷鳥」らしい。
日下は、ゆっくり、3号車に戻ることにした。
3号車の、十津川の隣りの座席へ戻ると、
「どうだったね?」
と、十津川が、小声で、きいた。
「弱りました。疑いの眼で見ると、赤ん坊を背負ったおかみさんまで、怪しく見えて来ます」
「そんなもんだろうな」
「カメさんは、どうですか?」
「さっき、2号車をのぞいたら、週刊誌を読んでいたよ」
「呑気《のんき》なものですね」
「われわれがいると思うから、カメさんも、安心して、週刊誌を読んでいるのさ」
「それなら、安心ですが」
日下も、微笑した。
いぜんとして、右手の窓には、琵琶湖の湖面が見えている。
列車は、近江舞子《おうみまいこ》駅を通過した。この辺の駅は、ほとんど、高架線ホームである。
トンネルも多い。
三、九一〇メートルの峰山トンネルを通過し、しばらくすると、今度は、五、一七三メートルの新深坂トンネルを通過した。
もう、湖西線から、北陸本線に入っている。
琵琶湖は、もう見えない。が、それだけでなく、窓の外の景色は、気のせいか、北陸の匂いが感じられるようになってくる。
よく晴れていた空が、どんよりとした曇り空になった。
「間もなく、敦賀だ」
十津川は、そっと、座席を立った。
犯人が、敦賀駅で、逃げる気なら、そろそろ、2号車の亀井に近づくだろう。
日下も、ふらりと、立ち上って、通路を歩き、デッキに出た。
2号車のドアの小さな窓から、車内を見た。
亀井も、週刊誌を置いて、片手を、内ポケットに入れている。拳銃を握りしめているのだ。
車内放送が、間もなく、敦賀に着くことを知らせている。
2号車の車内でも、四、五人の乗客が、おりる支度を始めた。その中に、亀井を狙う人間がいるのだろうか。
「反対側へ行っている」
十津川は、日下にいい、2号車へ、入って行った。
通路を歩いて、亀井の脇を通り抜け、反対側のドアのところで、立ち止った。
これで、亀井を襲った人間が、逃げようとしても、日下と、はさみ打ちに出来る。
列車はスピードを落として、敦賀駅の構内に入って行った。
右へ大きくカーブしたホームである。
列車が、停った。
十津川と、日下は、緊張して、亀井の周囲を見つめた。
何人かの客が降り、また、何人かが、乗って来た。
しかし、何も起きなかった。
二分停車で、特急「白鳥3号」は、発車した。
一一時三七分。
十津川は、ほっとして、日下と、3号車に戻った。
列車は、日本で六番目に長い北陸トンネルに入った。延長一三、八七〇メートル、一四キロ近いトンネルである。
列車のエンジン音が、トンネルの壁に反響して、耳が、じーんと痛くなってくる。
トンネルを抜けると、いよいよ、北国らしい景色になって来た。
「お知らせ致します」
と、車内放送が聞こえた。
「東京都新宿区の日下さん。いらっしゃいましたら、6号車の乗務員室までおいで下さい。東京都新宿区の日下さん。――」
「どうも、私のようですが?」
日下が、首をひねって、十津川を見た。
「多分、君だよ」
と、十津川が、いった。
「しかし、私に、何の用でしょうか?」
「一課長からの連絡じゃないかと思うんだ。私を呼び出したのではまずいので、君の名前にしたんじゃないかな」
「とにかく、行って来ます」
日下は、急いで、6号車まで行ってみた。
6号車は、グリーン車で、乗務員室がついている。
ドアをノックして、顔を見せた車掌に、
「東京の日下ですが」
と、いった。
車掌は、妙に緊張した顔になった。
「中へ入って、ドアを閉めて下さい」
と、いった。
日下は、いわれる通りに、後手に、ドアを閉めた。
「警察の方ですか?」
と、車掌が、きく。
「そうです」
「申しわけありませんが、警察手帳を見せてくれませんか」
「いいですよ」
日下は、警察手帳を出して、相手に見せた。
「どうも、ありがとうございます」
と、車掌は、いった。
「実は、敦賀駅で、この封筒を渡されましてね。東京都新宿区の日下という人を、呼び出して、渡して貰いたいが、警官であることを確認してからにするように、強くいわれましたので」
「中身は、何ですか?」
「私も、見ていません」
「恐らく、東京からの連絡でしょう」
日下は、礼をいい、封筒を受け取って、3号車に戻った。
「やっぱり、東京からの連絡だった。この中にそれが、入っているようです」
日下は、そういって、封筒を渡した。
日本国有鉄道の文字の入った封筒に、同じ便箋《びんせん》が入っていた。
十津川は、それを読んだ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈東京警視庁捜査一課の本多課長より連絡がありました。特急「白鳥3号」に乗車している十津川警部、日下刑事に、至急、連絡してくれとのことです。
連絡事項は、次の通り。
亀井刑事に恨みを持つ二人の男が、「白鳥」に乗る可能性がある。クラブ「セイント」の後藤正也と、拳銃マニアの原勝一で、特に、原の方は、手製の拳銃、それもサイレンサー付きを所持している恐れがある。
清水、西本の両刑事が、柏崎から乗る予定で、二人は、後藤、原の顔写真を持っている〉
[#ここで字下げ終わり]
十津川は、読み終ると、日下に渡した。
日下の顔色が変った。
「この二人は、どんな男ですか?」
「二人とも、カメさんが、挙げた犯人だよ。君が、捜査一課に来る前だな」
「原というのは、手製の拳銃を持っていると書いてありますね」
「ああ、ガン・マニアだ。なかなか、精巧な銃を作る奴だ。それを、カメさんに渡して来い」
と、十津川は、いった。
日下が、2号車に入って行ったあと、十津川は、後藤と、原のことを思い出してみた。
後藤は、カッとなると、何をするかわからないところがあった。
腕力も強い。
だが、十津川には、一見、弱々しそうに見える原の方が、うす気味悪かった。何を考えているかわからないからである。
自分の作った手製銃で、OLを射つことに、何の痛みも感じなかったという。その精神構造が怖いのだ。
あの男は、虫を殺すのと同じ感覚で、人間を射つことが出来るのだ。
子供の時には、IQが、異常に高かったともいわれている。
(二人とも、もう、乗っているのだろうか?)
日下が、戻って来ると、今度は、十津川が、車内を見て来ることにした。
通路を、後方の車両に向って、十津川は、歩いて行った。
7号車の食堂車で、後藤を見つけた。
相変らず、いかつい顔をしている。変装のつもりか、ひげをはやしているが、この顔では、すぐわかってしまう。
後藤は、奥のテーブルで、ハムを肴《さかな》に、ビールを飲んでいた。
十津川は、わざと、彼の脇《わき》で立ち止って、顔を見た。
視線が合った。亀井が逮捕したとき、十津川も、訊問に当ったから、向うも、十津川の顔を覚えている筈《はず》である。
後藤は、そっぽを向いて、ビールを飲み続けている。連れがいるようには見えなかったから、ひとりで、乗っているのだろう。
十津川は、後藤の前に腰を下して、ウェイトレスに、ビールと、サンドイッチを二人分頼んだ。
「後藤だな?」
と、小声でいうと、相手は、
「何のことだい?」
「後藤正也。私の顔を忘れたわけじゃないだろう? 警視庁捜査一課の十津川だ」
「知らねえな」
相手は、眼をそらせ、ビールを飲む。そのピッチが、急に早くなった。
「とぼけるなよ。お前さんの特徴のある顔は、ごまかしようがないんだ。一か月前に、刑務所を出て来たんだろう?」
「おれが、何をしようと勝手だろう?」
後藤が、むっとした顔で、突っかかってきた。
十津川は、運ばれて来たビールを、コップに注いで、口に運んだ。
「どうだ。一杯」
と、十津川がいうと、後藤は、あわてて、自分の前のコップを、手で蔽《おお》って、
「いらねえよ」
「なぜ、この列車に乗ってるんだ?」
「おれが、乗っちゃいけないのか?」
「それは、何のために乗ってるかによるな。どこまで行くんだ?」
「青森までだ」
「何しに?」
「何しに行こうと勝手だろう」
後藤が、立ち上ろうとするのを、十津川は、肩のあたりを押さえつけた。
「もう一つ、聞きたいことがあるんだ」
「こんなことをしていいのか? 人権|蹂躙《じゆうりん》で訴えるぞ」
「やってみるか」
十津川が、切り返すと、後藤は、黙ってしまった。
「亀井刑事殺しに、一千万円を約束した人間は誰なんだ?」
と、十津川は、きいた。
「何のことか、わからねえな」
「お前のことは、調べてあるんだ。何のために、この列車に乗ったかもわかっている」
「じゃあ、捕まえたらいいだろう?」
「一千万円の保証主は誰なんだ?」
「そんなことは、知らねえな」
「そうか。知らないんなら、仕方がないな。今、何号車に乗ってる?」
「お前さんに、いう義理はないね」
「いいか。いっておくぞ。この列車の中で、妙な真似をしたら、承知しないぞ。こっちも気が立ってるからな」
十津川は、釘《くぎ》をさしておいてから立ち上り、注文した二人分のサンドイッチを、紙に包んで貰った。
食堂車を通り過ぎて、最後尾の12号車まで行ったが、原の姿はなかった。
特徴のある顔だし、身体つきだから、見逃す筈はないのだが、3号車に引き返しながら、じっくりと見ても、見つからない。
念のために、逆の1号車へも、足を伸してみたが、同じだった。
座席へ戻って、十津川は、サンドイッチと、途中で買ったジュースの缶を渡した。
「食堂車に、後藤がいたよ」
と、サンドイッチを食べながら、十津川は、日下にいった。
「ホステスを殺した奴ですね」
日下も、喋りながら、サンドイッチを、頬張《ほおば》っている。
「そうだ。どうも、奴は、一千万円のスポンサーじゃないらしい」
「この列車で、カメさんを狙うつもりでしょうか?」
「もちろん、そのつもりで乗ったんだろうが、推測では、逮捕できないからね。一応、脅しておいたが、それが、きいたかどうかわからない」
「もう一人の原という男は、乗っていましたか?」
「そちらの方が怖いんで、探してみたんだが、どうしても、見つからなかったよ。乗っていない筈はないんだがね」
「小柄な男だそうですね」
「一見、ひ弱そうに見えるんだが、頭はいいし、一種の性格|破綻者《はたんしや》だから、人を殺すのも平気なんだ。だから、怖い」
「間もなく福井です」
「福井から、金沢まで、こまかく停車するから、用心が必要だ」
と、十津川は、いった。
福井の次は、芦原温泉、加賀温泉と、二つの駅に停車する。
有名な温泉郷だから、乗客の乗り降りも多いだろう。
そのくせ、停車時間は、それぞれ、三十秒、一分と短いから、犯人としては、亀井刑事を襲っておいて、逃げるには、恰好《かつこう》である。ホームに、飛びおりたとたんに、ドアが閉まり、列車は、発車してしまうからである。
2号車をのぞくと、亀井は、車内販売で買った駅弁を、美味そうに食べていた。隣りの座席と、ニコニコと、話もしている。
(リラックスしているな)
と、十津川は、一安心した。
あれなら、襲われても、何とか、対処できるだろう。
列車は、福井駅の構内に入った。
十津川と、日下は、立ち上って、2号車を注目した。
三〇〇メートルの長いホームに、列車は、停車した。
亀井に近づこうとする乗客はいなかった。
ホームでは、北陸の駅らしく、かにめし弁当などを売っているのが見える。
一分停車で、「白鳥3号」は、再び、北へ向って、動き出した。
「何も起きませんでしたね」
ほっとした顔で、日下が、いった。
「まだ、まだ、序の口だよ。青森まで、長いんだ。カメさんを狙う奴には、カメさんが、青森まで乗って行くことがわかっている。だから、じっくりと待って、狙うだろう」
「それに、途中で乗ってくるかも知れませんね」
「原は、それかも知れないな。極端なことをいえば、青森で、カメさんが降りるところを狙ってもいいんだ」
十津川は、厳しい顔でいった。
あと十時間以上、犯人と、我慢比べになるだろう。
相手は、いつでも、仕掛けて来られるのだ。こちらが、油断すれば、それをチャンスに襲いかかって来るだろう。
といって、襲われなくても困るのだ。逮捕して、一千万円のスポンサーを見つけ出さなければならないからだ。
二人は、サンドイッチを食べてしまった。
「弁当を買いませんか?」
日下が、まだ物足りない顔で、十津川にいった。
「やっぱり、サンドイッチだけじゃ、足りないか」
と、十津川は、笑って、丁度、3号車に入って来た車内販売で、八百円のかにめし弁当二つと、お茶を買った。
緊張していても、食欲があれば、大丈夫だろう。
そんな眼で、十津川は、若い日下を見ていた。
福井の市街を出ると、窓の外に、青々とした水田が広がる。
次の芦原温泉駅に、一二時二五分に到着。
この温泉は、水田の中にわき出した温泉である。それだけに、今も、平らなところに、温泉町が出来ている感じである。他の温泉郷のように、山や、峡谷の美しさというものはない。
ここは、三十秒で発車。何も起こらない。
十三分後に、加賀温泉駅に停車。
小さな駅である。昔は、信号所だったという。それが、加賀温泉に近いというので、急行や、特急の停車する駅に昇格した。
もともとは、「作見《さくみ》」という名前だったから、加賀温泉の中にあるわけではない。
窓から見ると、片側は山で、反対側には、水田が広がっている。加賀温泉には、ここからバスかタクシーを利用することになる。
そんな駅だが、さすがに、有名な加賀温泉への入口の駅だけに、かなりの乗客がおりて行った。お年寄りや、家族連れが多い。
また、かなりの乗客が、乗って来た。
ここでも、何も起きずに、「白鳥3号」は、発車した。
(ここで、犯人が、行動を起こさなかったのも、当然かも知れないな)
と、十津川は、動き出した列車の中で、思った。
二つの温泉駅で、ひょっとすると、犯人は、亀井を襲っておいて、逃げるのではないかと考えていたのだが、実際に、駅を見て、その可能性がないことがわかった。
駅が小さいし、温泉が、駅から離れているのが、わかったからである。特に、加賀温泉駅の方は、離れ過ぎている。
ホームで降りて、温泉へ逃げ込もうとしても、バスか、タクシーを利用せざるを得ない。そうなれば、簡単に、顔を見られてしまうからである。
「次の金沢までは、少し時間があるな」
と、十津川は、いい、かにめしを食べにかかった。
かにの形をしたプラスチックの容器に、かにめしが詰っている。
十津川が、箸《はし》をつけたとき、
「警視庁捜査一課の亀井さま、いらっしゃいましたら、急用がありますので、6号車の乗務員室までおいで下さい」
と、車内放送があった。
十津川と、日下は、思わず顔を見合せた。
車内放送が、同じ言葉をくり返している。
「何でしょう?」
日下が、眼を光らせて、十津川に、きいた。
「わからんね」
十津川が、いったとき、3号車のドアが開いて、亀井が、入って来た。
そのまま、通路を、6号車に向って、歩いて行く。
十津川も、すぐ席を立って、亀井のあとに続いた。
「危険だぞ」
と、十津川は、小声で、亀井の背中に向って、話しかけた。
「わかっていますが、こちらも動かないと、どうしようもありません」
「それは、そうだが――」
「大丈夫です、めったなことで、やられやしません」
亀井は、無造作に、3号車を抜け、4号車へ入って行く。
4号車のデッキで、うしろからついて来た日下が、亀井をつかまえて、
「私が、先に行きましょう」
「それじゃあ、物々し過ぎて、折角の犯人が、逃げちまうよ」
と、亀井が、笑った。
「しかし――」
「とにかく、警部たちは、少し離れていて下さい。大丈夫です」
「わかった」
と、十津川は、いい、日下をおさえた。
亀井は、5号車へ進んだ。
何も起きない。
5号車と、6号車の連結のあたりへ来たとき、デッキのドアのところに立って、外の景色を眺めていた男が、急に振り向いた。
(後藤だ!)
と、思った瞬間、相手が、大きな身体を丸めて、飛びかかって来た。
右手に、光るものを持っている。
亀井が、とっさに身体を開いて、第一撃をかわしたとき、十津川と、日下も、デッキに入って来た。
「後藤、止《や》めろ!」
と、十津川が、怒鳴って、相手の身体に飛びついた。
物すごい力で、十津川は、振り飛ばされた。
代って、日下が、後藤に飛びついた。
通りかかった女の乗客が、悲鳴をあげて、引っ込んでしまった。
十津川は、手錠を取り出し、それを、右手に、グローブのようにはめ、それで、後藤の横面を殴りつけた。
がつんという鈍い音がして、後藤の身体が、デッキの床に崩れ落ちた。
後藤の顔から、血が噴き出し、手でおさえて、呻き声をあげている。
傍に、ナイフが、落ちていた。
「すぐ二人で、乗務員室へ行ってくれ。車掌が心配だ」
と、十津川は、亀井と、日下にいった。
二人が、駈《か》け去《さ》ったあと、十津川は、デッキにうずくまっている後藤に、手錠をかけた。
まだ、後藤の顔から、血が流れている。
十津川は、ハンカチを取り出して、拭いてやった。
後藤が、低く呻きながら、「畜生!」と、くり返している。
亀井と、日下が、6号車から戻って来た。
「どうだった?」
と、十津川が、きくと、亀井が、
「やはり、この後藤が、いきなり飛び込んで来て、ナイフで脅したそうです。それで、仕方なく、さっきの放送をしたといっていました」
「脅かされただけか?」
「放送し終ったあと、殴られて、しばらく、気を失っていたそうですが、今は、意識を取り戻しています。ただ、マイクのコードを引きちぎられているので、車内放送が、出来なくなってしまっています」
「そうか」
肯いてから、十津川は、デッキにうずくまっている後藤に眼をやった。
「スポンサーは、誰なんだ?」
「何だって?」
「亀井刑事を殺せば、一千万円くれるという話のことだ。そのスポンサーの名前をいえといってるんだ」
「知らねえな。そんな奴のことは」
「知ってる筈だ」
「知らねえといってるんだ。おれは、ただ、亀井の奴が癪《しやく》に障るから、殺《や》ってやろうと思っただけさ」
「それなら、刑務所を出て、すぐやってる筈だ」
「知らねえな」
「この野郎!」
と、日下が、蹴飛ばそうとするのを、十津川が、止めて、
「所持品を調べてみよう。この男は、何の保証もなしに、カメさんを襲ったりはしない。襲うとしても、もっと、卑怯《ひきよう》な方法をとるさ。だから、前金を貰っているか、他の保証をされて、やって来てるんだ」
「大人しくしていろよ」
日下が、後藤のポケットを調べようとすると、
「やめてくれ!」
と、後手錠で、悲鳴をあげた。
日下は、構わずに、後藤の背広のポケットを、調べていった。
青森までの切符、キーホルダー、煙草、ライターなどが、出て来た。
内ポケットには、財布が入っていた。
「てめえら、泥棒じゃねえか!」
後藤が、毒づいたが、十津川は、構わずに、財布の中身を調べた。
五万八千円の紙幣の他に、二つに折った小切手が見つかった。
「ほう、百万円の保証小切手か」
十津川は、ちらりと、後藤に、眼をやった。
後藤の顔に、狼狽《ろうばい》の色が浮んでいる。
「それは、商売上の取引きで預かったんだ」
「商売? 何の商売だ?」
「おれは、新宿で、セイントという店をやってるんだ」
「知ってるよ。だが、やってるのは、お前の女だ。お前さんは、ヒモだろう」
「拾ったんだ。それは」
「ばかも休み休みいえよ」
と、十津川は、笑って、
「百万円というと、一千万の一割か」
「手付けというわけですかね」
日下が、いった。
「そんなところだろう。失敗しても、百万円あれば、逃げる助けになる。成功したら、あとの九百万を払うことになってるのかも知れないな」
「裏書きしているのは、誰ですか?」
「この小切手には、新宿区大久保の井戸口公平と書いてある」
「井戸口ですか」
「カメさんは、この名前に、聞き覚えがあるかい?」
「いや、ありません」
と、亀井も、いった。
「誰なんだ? この井戸口公平というのは?」
十津川は、後藤に、きいた。
「知らねえよ。拾ったといってるだろう?」
「いつ拾ったんだ?」
「昨日、いや、一昨日《おととい》だったかな。すぐ、警察に届けようと思ったんだが、おれは、警察が、苦手だからな」
「そうか。一昨日あたり、この小切手を送って来たわけか。それには、手紙が入っていて、亀井刑事を殺せば、残りの九百万も払うと書いてあったんだろう? どうなんだ?」
「知らねえな」
「われわれが捜してるのは、一千万円を出すスポンサーなんだ。われわれに協力すれば、お前さんの処分を考えてやってもいい。どうなんだ?」
「どう考えてくれるんだ?」
「このナイフだが、われわれが、見なかったといえば、お前さんは、ただ、亀井刑事に向って、乱暴を働こうとしただけになる。しかし、このナイフを使ったとすれば、殺人未遂だ。そこを考えてやってもいいと、いってるんだ」
「殺人未遂だと、また、刑務所入りだな」
と、横から、日下が、脅した。
亀井を殺そうと飛びかかった時までは、カッとして、怖いものなしだったのだろうが、今は、明らかに、弱気になっている。
「封筒で、送りつけて来たんだ」
と、後藤は、いった。
「どんな風にしてだ?」
「三日前に、届いたのさ。差出人の名前はなかった。中に、手紙と、その小切手が入ってたんだ。亀井刑事を殺せば、一千万円やる。同封した百万円の小切手は、その手付けだと書いてあったんだ」
「本気にしたのか?」
「銀行で、その小切手がインチキかどうか聞いてみたんだ。そうしたら、いつでも現金化できるといった。それで、本ものだとわかったんだ」
「しかし、おれを殺《や》ったあと、どこへ、残りの九百万円を貰いに行くつもりだったんだ?」
亀井が、きいた。
「もし、殺せば、どこにいても、残りは送ると書いてあったよ」
「それを信じたのか?」
「ああ、夜の世界じゃ、一千万円は、保証されているということになっているからな。第一、それが嘘《うそ》なら、百万も、送って来ないだろう。おれが、それを、猫ババするかも知れないんだから」
「その手紙は、今、どこにある」
「燃やしたよ。燃やせと書いてあったからな」
「この小切手は、しばらく預かるぞ」
と、十津川は、いった。
「おれは、すぐ釈放してくれるんだろうな?」
「考えておくよ」
「どういうことだ?」
「この事件が、解決してから、お前さんをどうするか決めるということだ」
と、十津川は、後藤にいってから、
「次の金沢駅で、こいつをおろそう」
と、亀井と、日下に、いった。
[#改ページ]
第四章 保証小切手
金沢駅から、警視庁捜査一課に電話が入ったのは、十三時十二分、午後一時十二分である。
電話して来たのは、新井という助役だった。
「特急『白鳥3号』で乗って来た十津川警部から、伝言を頼まれました。よろしいですか? これから、申しあげますが」
「どうぞ、いって下さい」
本多一課長は、ボールペンを手にした。
「金沢の手前で、亀井刑事を襲った後藤正也を逮捕し、金沢でおろした。亀井刑事は無事。もう一人の原勝一は、車内に姿なし。逮捕した後藤は、K銀行の百万円の保証小切手を持っていたが、これは、例の一千万円の手付けとして、送られて来た可能性がある。小切手の裏書きをしているのは、新宿区大久保に住む井戸口公平となっている。この人物を、至急、調べて欲しい。これだけです」
「どうも、ありがとうございます」
本多は、電話を切ると、田中と、小林の二人の刑事を呼んで、メモを渡した。
「その男のことを、徹底的に調べるんだ。この男が、例のスポンサーか、或いは、スポンサーに関係があるらしい。百万円の保証小切手の裏書きをしている。K銀行の小切手だ」
「わかりました」
二人の刑事は、警視庁を飛び出した。
K銀行に電話すれば、何かわかるかも知れないが、あいにく、今日は土曜日で、もう閉っている。
二人は、パトカーで、新宿区大久保に急行した。
現場に着いてみると、純白な、洒落《しやれ》た大きな邸だった。
門柱に、「井戸口」と、表札が、かかっている。
田中が、ベルを押した。
「何のご用ですか?」
と、インターホーンから、きいてきた。若い女の声だった。
「警視庁のものですが、井戸口公平さんに、至急、おめにかかりたいんですが」
「井戸口は、今休んでおりますが」
「じゃあ、起こして下さい。お願いします」
「と、いわれましても――」
「殺人事件に関係したことなんです」
と、小林が、横から、大声で、いった。
その一言がきいたとみえて、門が開き、
「どうぞ、お入り下さい」と、インターホーンの声が、いった。
二人は、広い応接室に通された。若い女が出て来て、お茶を置いていき、二、三分して、和服姿の男が、顔を出した。
「井戸口です。風邪《かぜ》で寝ていたので、失礼いたしました」
と、丁寧にいった。
田中が、改めて、警察手帳を見せてから、
「捜査一課に、亀井という刑事がいます。優秀な刑事です。彼が、最近、何者かに、命を狙《ねら》われています。誰かが、彼の命に、一千万円の懸賞金を出したからです」
「確か、そんな記事を、新聞で見ましたよ」
「われわれは、誰が、そんな真似をしているのか、調べています」
「なるほど」
「あなたじゃないんですか?」
小林が、性急に、きいた。
井戸口は、「え?」という顔になって、
「どういうことでしょうか?」
「今日、亀井刑事が、後藤という男に、危うく殺されかけました」
「それは、それは――」
「その男が、あなたの裏書きした百万円の保証小切手を持っていたのです。K銀行のものです」
「私の?」
「そうです。後藤という男のところに、手紙が来て、亀井刑事を殺せば、一千万円送るが、その手付けとして、この小切手を送るとして、あなたの裏書きした百万円の小切手が、入っていたんです」
「そんな、あまりにも、ばかばかしいことですよ」
「K銀行に、口座をお持ちですか?」
「ええ。取引銀行ですが」
「百万円の保証小切手を切ったことは?」
「そりゃあ、ありますよ。取引きは、全部、小切手ですからね。百万円も、五百万円も、切りますよ」
「一千万円も?」
「それだけの取引きがあった時にはね」
「失礼ですが、井戸口さんは、どんな仕事をやっておられるんですか?」
「井戸口宝石という宝石店をやっています。店は、銀座と、新宿にあります」
「うまくいっていますか?」
「おかげさまで、ずっと、黒字です。今度、渋谷にも、店を出そうと思っていますが」
「捜査一課の亀井刑事を、ご存知ありませんか?」
「いや、全く知りませんよ。私は、今、五十歳ですが、警察のご厄介になったことはありません。別に、自慢することでもないかも知れませんが」
「後藤正也という男は、どうです?」
「名前は記憶がありませんが、どういう男なんですか?」
「新宿三丁目で、『セイント』というクラブをやっています。店のホステスを殺して、一か月前まで、刑務所にいた男です」
「全く知りませんね」
「新宿に、S組という組があります。相談役の名前は、幸田圭吾です。この名前はどうですか?」
「さあ、知りませんね」
井戸口は、にべもない調子で、いった。
「ご家族は、もちろん、いらっしゃるんでしょうね?」
と、小林が、きいた。
「ええ、家内と、子供がいます。娘は、もう結婚して、アメリカに行っています。息子《むすこ》の方は、まだ独身で、新宿店の責任者をやらせています」
「息子さんのお名前を教えて頂けませんか?」
「井戸口一也です。息子が何かしましたか?」
「おいくつですか?」
「確か、二十六歳だった筈《はず》です」
「息子さんが、小切手を切ることは、あるんですか?」
「いや、まだ、あいつには委せられないので。小切手は、私が切ることにしています」
「新宿のお店は、どこにあるんですか?」
「新宿東口、新宿駅の近くです。七階建のビルの三階ですから、すぐわかりますよ」
二人の刑事は、車で数分のところにある、井戸口宝石の新宿店へ行ってみた。
新宿の駅ビルに向い合う形で立つ七階建の雑居ビルがあり、その三階が、「井戸口宝石新宿店」になっていた。
「おれたちの行くことを、電話で知らせたかも知れないな」
小林が、階段をあがりながら、田中に、いった。
ガラス戸に、金文字で、「井戸口宝石店」と、書いてある。
大きな店だった。さまざまな宝石を並べたガラスケースがあり、その向うに、モデルのようにスタイルのいい女店員が、微笑《ほほえ》んでいた。
その一人に、田中が、警察手帳を見せて、店長の井戸口一也さんに会いたいと告げた。
奥の店長室に案内された。
一也は、背の高い、スマートな青年だった。なかなかの美男子なのだが、どこか、頼りなさみたいなものが、のぞいている。だから、父親が、小切手を切らせないのか。
一也は、最初から、身構えていた。明らかに、電話で、知らされているのだ。
「警察に、何かいわれるようなことはしていませんがね」
と、一也は、挑戦的ないい方をした。
「S組の幸田さんを知っていますか?」
田中が、きいた。
「とんでもない。私のところは、暴力団とは、何の関係もありません」
その否定の仕方が、必要以上に強いような気がした。
「間違いありませんか?」
「もちろん」
「ちょっと、失礼して、トイレを拝借したい」
小林は、そういって、店長室を出ると、女店員の一人に、
「幸田さんに聞いたんだけど、ここは、二、三割まけてくれるんだってね?」
と、声をかけた。
「幸田さまといいますと、どなたでしょうか?」
「幸田圭吾さん。よく、ここへ来るといっていたよ」
小林がいうと、その女店員は、ニッコリ笑って、
「あの幸田さまで、ございますか」
「そうさ。彼は、気前よく買うんじゃないのかい?」
「そうでもありませんけど、店長のお知り合いですから、勉強させて頂いておりますわ。何をお求めでございましょうか?」
「安物のイヤリングでいいんだが。幸田さんは、最近、来た?」
「はい。二、三日前にも、おいでになりましたわ。デザインは、どんなものが、よろしいでしょうか?」
「平凡なデザインのものが、あきなくて、いいんじゃないかな。店長と、幸田さんとは、どんな知り合いなんだろうか?」
「よく存じませんわ。ここにございますのが、だいたい、一万円から二万円のものですが」
女店員は、ケースに入ったいくつかのイヤリングを、小林の前に置いた。
「目移りがするねえ。この次のときに、買うことにするか」
と、小林は、いって、店長室に戻った。
小林は、ソファに腰を下すと、
「もう一度、ききますが、幸田圭吾さんを、本当に知りませんか?」
と、一也に、きいた。
「くどいですね。知らないものは、知らないんです」
「いい加減なことをいわれては、困りますね」
と、小林は、相手を睨《にら》んだ。
一也が、ひるんだように、眼をそらせた。
小林は、押しかぶせるように、
「これは、殺人が絡むかも知れないんです。正直に答えて頂けないと、われわれも、覚悟しなきゃならない」
「私を脅かすんですか?」
「正直にいって下さいといってるんです。店員は、幸田圭吾が、よくやって来て、店長のあなたの知り合いだから、安くしているといってるんです。それでも、知らないというんですか?」
「――――」
「こっちは、一人の人間の命がかかってるんだ!」
突然、小林が、怒鳴った。
一也の顔が、蒼《あお》くなった。
「正直にいわないと、この店ぐらい、叩《たた》き潰《つぶ》してやるぞ!」
小林が、また怒鳴った。
彼の態度に、坊ちゃん育ちの一也は、ふるえあがってしまった。
「どうなんです?」
と、田中が、おだやかに、きいた。
「申しわけありません。幸田圭吾さんは、知っています。ただ、ああいう人と親しいことがわかると、おやじに叱《しか》られますから」
一也は、蒼い顔で、いった。
「幸田圭吾とは、どういう関係ですか?」
「あの人は、新宿のS組の相談役ですからね。新宿で、商売をやっていると、いやでも、顔を合せることになってしまうんです」
「それだけじゃないでしょう?」
「ええ。つい、バクチに誘われましてね。手を出して、負けを作ってしまったんです」
「それで、小切手を渡したんですか?」
「ええ。僕は、小切手を切れませんから、親父《おやじ》のものを、渡したんです」
「百万円の小切手を渡しましたね?」
「ええ」
「他に、何枚ぐらい、幸田に、小切手を渡しました?」
「一枚だけですよ」
「この期《ご》に及んで、嘘《うそ》はつかないで下さいよ。重大な問題ですからね。二枚なら二枚と、正直にいって下さい」
「正直にいっています。考えてみて下さい。おやじをごまかして、小切手を、幸田に廻したんですよ。百万円の取引きがあったと、嘘をいってね。そんなに、何度も、ごまかせる筈がないじゃありませんか。一枚だけですよ」
「じゃあ、幸田に渡したのは、百万円の小切手一枚だけなんですか?」
田中が、念を押した。
「ええ。一枚だけです。僕だって、馬鹿じゃないから、バクチは、すぐやめましたよ。それに、幸田は、あの小切手は、すぐ、現金化したって、いってたんです」
「バクチの負けは、百万だけだったんですか?」
「全部で五百万です」
「じゃあ、あとの四百万は、どうやって、返しているんです? ああいう連中の取立ては厳しいんじゃないかな」
「僕の月給から、少しずつ返していましたよ。おやじから、月々、六十万|貰《もら》っていましたからね。それから、店の品物を、安くして、埋め合せもしましたよ。ただ、どうしても、百万だけは、小切手で、すぐよこせといわれたんで、おやじの小切手を渡したんです」
「幸田は、百万を、現金ですぐよこせといったんじゃないんですか?」
「いや、保証小切手でよこせといいましたよ。そのくせ、すぐ、現金化したというので、おかしなことをするなと思ったんです」
「嘘はないでしょうね?」
「自分の恥になることですからね。嘘はつきませんよ。まだ、全部、返してないんです」
「幸田が、あんたの渡した小切手を、すぐ現金化したというのは、本当ですか?」
「自分で、そういってたし、彼の女が、その金で、指輪を買って貰ったといっていましたからね」
「その指輪も、ここへ買いに来たんですか?」
「ええ。二百万近い指輪を、まけさせられましてね」
「しかし、ずいぶん、面倒くさいことをしたもんですね。あなたに、現金でなく、保証小切手で百万円よこせといい、その小切手を現金化して、自分の女に渡して、指輪を買わせるというのは――」
「僕も、そう思いました」
「幸田の女の名前を、知っていますか?」
「ええ。何回か会いましたからね。名前は、真田杏子《さなだきようこ》。二十五、六歳のすごい美人ですよ。彼女には、彼も、相当、参っているんじゃありませんかね」
「住所は?」
「四谷《よつや》三丁目の高級マンションに住んでいます」
一也は、そのマンションの名前と、附近の地図を、紙に書いて、小林に渡した。
「刑事さん」
「何です?」
「僕は、幸田が怖いんです。こんなことを喋《しやべ》ったとわかると、何をされるかわかりません」
「あなたが喋ったことは、わからないようにするから、安心して下さい」
と、田中が、いった。
地下鉄の四谷三丁目から、歩いて七、八分のところにあるマンションだった。
広い地下駐車場、中庭の空間、ホテルのような一階ロビー、確かに、一也がいうように、高級マンションだった。
居住者の中には、小林や田中の知っている有名なタレントの名前もあった。
真田杏子は、五階の部屋だった。
エレベーターで、あがって行って、ベルを押した。
「だれなの?」
若い女の声がした。
「警察だ。開けるんだ」
と、小林が、わざと高圧的にいった。こうしている間にも、特急「白鳥3号」の中で、亀井が狙《ねら》われていると思うからだった。
ドアが、細目に開き、警察手帳を見せると、やっと、二人は、中へ入れて貰えた。
二十畳くらいのリビングルームである。カーテンから、ソファ、じゅうたんまで、クリーム色で、統一されている。
真田杏子は、純白のドレスを着ていた。確かに、すごい美人だが、金のかかりそうな女だった。
「お酒めしあがる?」
と、杏子は、立ったまま、きいた。
「いや。結構だ」
田中が、少しばかり、堅い表情でいった。田中にしろ、小林にしろ、こういう高級マンションや、彼女のような女は、苦手である。
どうしても、身構えてしまうのだ。
「あたしは、頂くわ」
杏子は、グラスに、ブランデーを注ぎ、それを手にして、ソファに腰を下した。
「それで、何のご用ですの?」
自分の美しさを、十分に意識した眼で、小林を見、田中を見た。
「正直に答えて貰いたい。最近、幸田圭吾から、指輪を買って貰いましたね? 新宿の井戸口宝石店で」
「あなた方、税務署の人?」
「え?」
「あんな指輪の一つぐらいで、贈与税なんかとられたら、かないませんものね」
杏子は、真顔で、いった。
小林は、苦笑しながら、
「そんなことじゃない。話に聞くと、幸田は、小切手を現金にかえて、君に、指輪を買ったそうだが、本当かね?」
「ええ。本当だわ」
「どこで、現金にしたんだ? 銀行でとは思えない。銀行で現金化したのなら、その小切手が、他の人間の手に渡っている筈がないからね。どこの誰に、渡したんだ?」
「知りませんわ」
「しかし、現金にするとき、君は、幸田の傍にいたんだろう?」
「ええ。でも、相手の名前は、知りませんわ」
「じゃあ、相手を見ているんだな? どんな人間か、話してくれ」
「これ、彼が法律に触れることをしたんですか?」
「いや、小切手を現金にしたくらいで、法律には触れないよ」
田中がいうと、杏子は、ほっとした顔で、
「あれは、Tホテルのロビーでしたわ。幸田と一緒に行ったら、女の人が待っていて、――」
「女?」
「ええ。四十歳くらいの女の人。その人が、待っていて、彼と、話を始めたんです。私から、ちょっと離れた場所でだったので、声は聞こえませんでしたわ。そのうちに、女の人が、封筒を取り出し、彼の小切手と取りかえたんですよ。そのあとで、幸田が、指輪を買ってやるといって、新宿へ連れて行ってくれたんです」
「その日は、日曜日じゃなかった?」
「いいえ。火曜日だったわ」
「それ、間違いない?」
「ええ。私の誕生日でしたもの。ちゃんと覚えていますわ」
「相手の名前は、本当にわからない?」
「ええ」
「四十歳くらいという他に、何か特徴はなかったかね?」
「和服がよく似合う美しい人でしたわ。水商売風で」
「新宿のクラブ『ゆき』のママか、ホステスじゃないか」
「クラブ『ゆき』なら知ってますわ。違うわ。銀座のクラブのママだと思ったんですけど」
「なぜ?」
「Tホテルは、銀座と目と鼻ですもの。『ゆき』のママと会うのなら、新宿のホテルのロビーでじゃないかしら?」
「なるほどね。その女は、何か特徴がなかったかな? すぐわかるような」
「そうねえ」
杏子は、グラスを片手に、ソファから立ち上り、気取ったポーズで、ゆっくり、歩いていたが、窓の所で、立ち止って、振り向いた。
「素敵な時計をしていたわ」
「それが、目印になるの?」
「それが、ただの時計じゃないのよ。ちょっと待ってて」
杏子は、二人を残して、奥へ消えると、ブランド製品のカタログを持って、戻って来た。
そのカタログの婦人用腕時計のページを広げて、
「この時計」
と、指さした。
楕円形《だえんけい》の文字盤のまわりに、大きなダイヤがちりばめてある腕時計だった。K18ダイヤ3カラットと書いてある。
小林は、値段のゼロを数えてみた。
「千四百万円!」
「これを欲しくて、よくカタログを見ていたんだけど、Tホテルで会った女の人が、はめていたんで、びっくりしたの。間違いなく、この腕時計でしたわ」
この腕時計の女を捜し出せば、何かわかるだろうか?
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第五章 信越本線
若林は、おそい昼食をとるために、食堂車にいた。
特急「白鳥3号」は、まだ、北陸本線を走っている。
十三時十二分。
ひととき混んでいた食堂車は、この時間になると、ようやく、空いてきた。
若林は、窓際に腰を下し、ビールと、チャーハンで昼食をとりながら、窓の外の景色を眺めた。
金沢の手前で、亀井が襲われたが、どうやら無事で、犯人は、逮捕されたらしい。
(とにかく、無事でよかった)
と、思っていると、眼の前に、人が立った。
若林は、眼をあげた。
「また、あんたか」
「いつ、やる気だ?」
クラブ「ゆき」のバーテンが、きいた。
若林が、黙っていると、相手は、向い側に腰を下して、ウェイトレスに、ビールを、注文した。
「本当は、おじ気づいたんじゃないのか?」
と、しつこくきく。
「チャンスを狙ってたら、変な飛び入りがあって、狂っちまったんだよ」
「ああ、あの馬鹿か。まともに、ぶつかって行くなんて、自分から捕まりに行くようなもんだよ」
バーテンは、嗤《わら》った。
「車内放送で、亀井を呼び出していたね」
「あいつのやれる精一杯の工夫だったのさ。車掌を脅して、呼び出したんだ。だが、この列車には、亀井の仲間が乗ってる。それを考えずにやるなんてのは、馬鹿のやることだ」
「確かに、そうだな」
「もう一度、きくが、あんたは、いつ、どこでやる気なんだ。おれの手助けが要るのなら、前もっていってくれ。一緒になって、亀井を襲うわけにはいかないが、陽動作戦ぐらいなら、やってやれるからな」
「やる気に変りはないが、やっぱり、金のことが気になるね。やったあとで、約束をホゴにされて、一円も貰えなかったら、どうしようもないからね」
「信用できないのか?」
相手の顔が、嶮《けわ》しくなった。
「できないね」
と、若林は、いった。
「それなら、なぜ、この列車に乗ったんだ?」
「そりゃあ、金が欲しいからさ。ここで、まとまった金を手に入れないと、おれは、自殺するより仕方がないんだ」
「それなら、黙ってやるんだ」
「やったはいいが、警察に追われるだけで、金を貰えなかったら、どうなるんだ?」
「うちのママが、保証してるじゃないか、小遣いも貰った筈だ」
「おれは、女は信用しないんだ」
若林は、粘った。
金沢近くで、最初の一人が失敗した。いや、大阪で、チンピラが失敗しているから、二人目になる。
失敗する人間が、出てくればくるほど、強く出られると、若林は、踏んでいた。
「やる気がないみたいに見えるぜ」
バーテンは、苛立《いらだ》ち気味《ぎみ》に、若林を睨んだ。
「金の保証さえしてくれれば、すぐにでも、亀井を殺ってやるさ。この前みたいな口約束じゃ駄目だ。一千万円くれるか、保証するような書類をくれよ」
「書類?」
「そうさ。信用できる人間の書いたものだ」
「それがあれば、すぐやるんだな?」
「ああ、おれだって、何度もいうように、金が欲しいからな」
「しようがない。これをやろう。これで、満足だろう?」
バーテンは、内ポケットから、財布を取り出し、一枚の小切手を、若林の前に置いた。
若林は、手に取った。
「百万円の保証小切手か」
「裏書きしている人物は、資産何十億といわれている。お前さんだって、何度か、名前は、聞いているだろう?」
「井戸口宝石か。聞いたことがあるね」
「銀座と、新宿に、店がある」
「この井戸口という男が、スポンサーなのか?」
「お前さんは、少し質問が多過ぎるな。それは、確実に、現金化できる。お前さんが、亀井を殺せば、間違いなく、あと九百万円は、支払われるんだ」
「おれが、この小切手を持って逃げちまったらどうするんだ?」
「そうしたかったらするさ。だが、今度は、お前さんに、一千万円の賞金がかかることになるかも知れないな」
バーテンは、脅かした。
「なるほどな」
「それは、失敗した時の逃亡資金でもあるんだ。それで、やる気になったろう?」
「何とかな」
「あとは、四の五のいわずに、やるんだ」
バーテンは、それだけいうと、食堂車を出て行った。
ひとり、食堂車に残った若林は、食後のコーヒーを飲みながら、もう一度、小切手を見つめた。
井戸口公平という署名に、何か意味があるのだろうか?
この男が、亀井を恨んでいて、一千万円の懸賞金を出しているのか?
(井戸口公平か)
その名前を、口の中で、呟いてみた。
亀井から、聞いたことがあったろうか?
若林は、刑事になったばかりだから、亀井と話をしたのも、二か月くらいのものである。
その間に、井戸口公平の名前を、聞いたことはなかった。
いずれにしろ、この男は、何かの意味で、一千万円の懸賞に関係しているだろう。
若林は、紙のナプキンを一枚、食卓から取って、それに、ボールペンで、次のように、書いた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈新宿のクラブ「ゆき」のバーテンがくれたものです。これで、亀井刑事を殺れと命令しました。※[#○若]〉
[#ここで字下げ終わり]
小さくたたんだ小切手を、その紙ナプキンでくるんだ。
ポケットに突っ込んで、若林は、料金を払って、食堂車を出た。
十三時三十分を過ぎている。
(間もなく、高岡だな)
と、若林は、デッキで、窓の外を見た。
(どうにかして、ポケットの中の小切手を十津川警部に渡したいが――)
と、思っていると、いきなり、背後から、肩を叩かれた。
若林は、ぎょっとして振り向いた。
前に、S組の井上というチンピラに尾行されているのに気付かなかった。今度も、紙ナプキンに、書いているのを、誰かに、見られていたのかなと、一瞬、思ったからである。
だが、眼の前に、若い女が、笑っているだけだった。
「追いついたわよ。遼《りよう》ちゃん」
と、女がいう。
「え?」
という顔を、若林がすると、女は、身体をすり寄せて来て、小声で、
「恋人を忘れちゃ、困るわ」
「ああ、君か」
若林は、片山由美の名前を思い出した。彼女の写真も、持っているのだ。それなのに、忘れてしまっていたのだ。
他の乗客が、通路を歩いて来た。
由美が、若林の腕に、自分の腕をからめてきた。
「何か面白いことない?」
「君のハンドバッグ見せてくれないか」
「私の?」
「ああ」
「いいわよ」
由美が、差し出したハンドバッグを開けると、若林は、
「女のハンドバッグを見るのは、初めてだよ」
と、いいながら、紙ナプキンに包んだ小切手を、中に入れ、閉めた。
「高岡を過ぎましたね」
日下は、ゆっくりと、流れ去っていく高岡駅のホームを見ながら、確認するように、十津川に、いった。
「ああ、やっと、四時間たったことになる。あと十時間だ」
「次は、富山ですか」
「後藤が失敗したことは、他に犯人が乗っていればわかっているだろう。次の犯人は、すぐには、襲わんだろう」
「早く、スポンサーを見つけ出せるといいですね。スポンサーを逮捕して、もう、一千万円は出ないとなれば、カメさんを襲おうなんて奴も、いなくなるんじゃありませんか」
「この列車が、青森へ着くまでに、見つかるといいがね」
「見つかると――」
列車が、長い鉄橋を渡り始めて、その轟音《ごうおん》で、日下の声が聞こえなくなった。
この近くの礪波《となみ》平野を流れる庄川の鉄橋である。
鉄橋を通過すると、また、日下刑事の声が聞こえていた。車窓から見える山脈のことに変っている。
「あれは、立山《たてやま》連峰ですかね?」
「ああ」
と、十津川が肯く。
車内販売が、やって来たので、十津川は、コーヒーを二つ買った。
神経を、緊張させておきたかったからである。
紙コップに入ったコーヒーを、一つ、日下に渡した。
「原勝一の姿が見えないのが、どうしても、気になるな」
と、十津川は、いった。
猪突《ちよとつ》猛進型の後藤は、最初から怖くなかった。何をするかわからない原の方が、不気味なのだ。
「私が、原の顔を知っていれば、車内を見て廻ってくるんですが」
日下がいったとき、丁度、通りかかった若い女の乗客が、列車の揺れで、十津川の方へ倒れかかって来た。
「ごめんなさい」
と、彼女は、いい、2号車の方へ歩いて行った。
十津川の膝の上に、折りたたんだ紙片が、残った。
日下が、何かいおうとするのを、手で制して、十津川は、その紙片を広げた。
紙ナプキンに書かれた若林の文字と、保証小切手。
十津川は、黙って、二つを、日下に渡した。
「また、井戸口公平ですか」
日下が、緊張した声でいった。
「どうも、思い出せないなあ」
「何がですか?」
「私はね。いつも、カメさんと一緒に、仕事をやって来た。だから、後藤も、原も、知っている。他にも、カメさんが逮捕した犯人の顔は、たいてい覚えているんだが、井戸口公平という名前だけは、どうしても、思い出せないんだ」
「偽名を使っているということは、ありませんか?」
「いや、銀座と新宿に店を出している大きな宝石商なんだ。偽名を使っているとは、思えないよ」
「宝石に関係した事件を、カメさんが扱ったことはなかったですか?」
「そりゃあ、何度かあったさ。宝石は、殺人事件を引き起こすだけの魔力を持っているからね。宝石商殺しもあったし、何千万円もする宝石を身につけた女性が殺された事件もあった。しかし、そのどちらにも、井戸口宝石という名前は、出て来なかったね。被害者の方にも、加害者の方にもなかったし、宝石にも関係はしてなかった筈だ」
「しかし、これで、二枚目の小切手ですよ。単なる偶然とは、思えません」
「ちょっと、車掌のところへ行ってくる。カメさんのことを、頼むぞ」
十津川は、日下にいっておいて、6号車の乗務員室へ急いだ。
後藤に殴られた車掌は、交代せずに、がんばっている。
「また、次の駅で、東京へ連絡して貰いたいのですが」
と、十津川は、車掌にいった。
車掌は、メモ用紙を渡してくれた。十津川は、それに、ボールペンで、
〈もう一枚、井戸口公平が裏書きした百万円の小切手が出て来た。これも、例の一千万円の手付けとして使われている。井戸口公平への疑惑は、拭《ぬぐ》えない。再度の調査を望む〉
と、書いた。宛名は、警視庁捜査一課である。
車掌は、それを、連絡用の袋に入れた。
「次の富山駅で、渡しておきます」
と、車掌は、いった。
十津川は、自分の席に戻った。
窓の外に、高山本線の線路が、ぐっと、近づいて来て、平行して並んだかと思うと、神通川《じんづうがわ》にかかる鉄橋に入った。
轟音が、また、車内を占領した。
神通川を渡り切ると、もう富山である。
一三時五三分、富山着。
ここは、二分停車である。
「いやに静かですね」
日下が、小声でいった。
「何が?」
「金沢の手前で、後藤が襲って来たでしょう。それから、全く、何もありません」
「また、どこかで、始まるさ。若林に、百万円の小切手を渡した男がいるんだ」
「クラブ『ゆき』のバーテンだそうですが、逮捕しますか? この男も、明らかに、今度の件に関係していますよ」
「今は、放っておけよ。そいつは、ただのメッセンジャーかも知れないからな」
何事も起きずに、列車は、富山駅を出発した。
次は、糸魚川《いといがわ》まで、「白鳥3号」は、停車しない。
富山平野が、窓の外に広がった。
富山湾の海岸沿いに走っているのだが、列車から海は見えない。
蜃気楼《しんきろう》と、ホタルイカで有名な魚津駅を、通過する。
近くの席で、母親が、子供に、そのことを教えている。
やがて、左手に、海が見えて来た。右手に、山が迫っている。
崖《がけ》っぷちを走る感じになった。
眼の下を、海沿いに、道路が走っている。親不知、子不知の海岸線を走る国道8号線である。
「白鳥3号」の方は、見晴しの良さは一瞬で、すぐ、親不知トンネルに入ってしまう。
次の小さなトンネルも抜けると、親不知駅を通過する。
そして、また、トンネルに入る。
子不知トンネル、深谷トンネル、勝山トンネルと、トンネルの連続である。
やっと、トンネルが終ったとき、車掌が、蒼《あお》い顔で、3号車に入って来た。
通路に立って、人を捜している。
十津川が、立ち上ると、車掌は、「あッ」という顔で、手まねきした。
「どうしたんです?」
十津川がきくと、車掌は、押し殺したような声で、
「ちょっと、来て下さい」
「富山の駅で、上手《うま》く連絡がとれなかったんですか?」
「とにかく、来て下さい」
車掌は、声をふるわせていった。
その態度に、十津川は、ただならぬものを感じた。
6号グリーン車、7号食堂車を通り抜け、8号車のトイレのところまで来ると、トイレのドアに「故障」と書いた紙がセロテープで貼《は》りつけてあった。
車掌が、ドアを細目に開けた。
「見て下さい」
と、車掌がいう。
十津川は、細目に開いたドアから、中をのぞいた。
瞬間、十津川は、声に出さない呻《うめ》き声《ごえ》をあげていた。
若い女が、身体《からだ》を丸める恰好《かつこう》で、そこに、倒れ、傍に、ハンドバッグが、ふたを開けて、転がっている。中身が、散乱している。
床に、血が流れていた。
顔は見えないが、それでも、誰か、すぐわかった。
婦警の片山由美だった。
手首に触れてみた。
すでに、脈はない。
そっと、抱き起こすと、胸に、ナイフが、突き刺さっていた。
「どうしたら、いいでしょうか?」
車掌が、十津川の背後で、きいた。声が、ふるえている。
十津川は、外へ出ると、トイレのドアを閉めた。
「次の停車駅は、糸魚川でしたね?」
「はい。間もなくです。一分停車ですが、すぐ、警察を呼びますか?」
「いや。ただ、遺体をおろして、駅に、事情を説明しておいて下さい」
「しかし、これは、殺人事件ですよ。それに、犯人は、この列車に乗っています。次の糸魚川で、逃げるかも知れません。警察に連絡して、逮捕して貰わないと」
「犯人は、糸魚川では、降りないと、思っています」
「なぜですか?」
「その事情を、今、説明している時間はありません。遺体は、毛布でくるんで、わからないように、糸魚川で降ろして下さい」
「しかし、あとで、警察に知られると、国鉄は、事件を秘密にしていたのかと、非難されます」
「それなら、私が、県警|宛《あて》に、手紙を書いておきます。それを、駅から、県警に渡して下さればいい。ここは、何県ですか?」
「富山県から、新潟《にいがた》に入ったところです。親不知トンネルに入る直前のところに、県境があるんです」
「では、新潟県警宛に、手紙を書いておきます」
と、十津川は、いった。
車掌が、備付けの毛布を持って来て、十津川と二人で、片山由美の遺体を包んだ。
糸魚川駅に着くと、十津川は、ホームにいた駅員にも手伝って貰って、毛布にくるんだ遺体を降した。
ホームの駅員室に入れると、前もって、車内で書いておいたメモを、そこにいた助役に渡した。
「これを、県警本部に渡して下さい。事情は、それでわかります」
と、十津川は、いった。
助役は、毛布に包まれたものが、死体と知って、びっくりしていたが、十津川の気迫に、押されたように、
「わかりました」
と、いってくれた。
糸魚川は、一分停車なのだが、二分停車にのびてから、発車した。
十津川は、堅い表情で、3号車に戻った。
日下は、十津川の顔色を見て、容易ならないことが起きたと察したらしく、
「若林君に、何か起きたんですか?」
と、きいた。
「いや、彼との連絡に当って貰っていた片山婦警が、殺された」
「本当ですか?」
「本当だ」
「誰が、そんなひどいことを――?」
「間違いなく、カメさんを狙っている奴が、殺したんだ。だから、犯人は、まだ、この列車の中にいて、カメさんを狙っていると思っている」
「なぜ、そいつは、片山婦警を殺したんでしょうか?」
「犯人は、殺したあと、彼女のハンドバッグの中身を、ぶちまけている」
「何を捜したんでしょうか?」
「多分、われわれに渡した若林君のメモと、井戸口公平の保証小切手だろう」
「すると、若林君も、危いですか?」
「いや、両方とも、見つからなかったわけだから、大丈夫だろう」
「畜生! 犯人の奴」
「だから、カメさんを狙っている奴か、そいつと一緒にいる奴かが、片山婦警を殺したんだ。うまくいけば、両方、一度に解決するよ」
と、十津川は、いってから、
「彼女は、可哀《かわい》そうなことをしたよ。今度の連絡係を頼まなければ、殺されることもなかったんだ」
「とにかく、犯人を捕えて、殺してやりたいですよ」
「出来るさ」
と、十津川は、いった。
これで、ただ単に、亀井刑事を守ることから、殺人事件《ころし》の犯人を逮捕することに、変ったのである。
「これから、どうしたらいいでしょうか?」
日下が、きく。
「今、それを考えているんだ」
「じっと、カメさんが狙われるのを待つしかありませんか? 私は、若林君のいうバーテンが、犯人じゃないかと思うんです」
「なぜ?」
「その男は、若林君に、例の小切手を渡しました。その小切手が、若林君から、片山婦警に渡ったのではないかと疑い、彼女を殺して、ハンドバッグを調べたんじゃないでしょうか?」
「その可能性もあるね」
「お願いです。若林君と二人で、そのバーテンを、捕えさせて下さい」
「そうだな」
と、十津川は、なお、考えていたが、
「よし。行って来たまえ」
「ありがとうございます」
日下は、ばね仕掛けのように、立ち上ると、先頭車に向って、通路を急いだ。
4号車で、若林を見つけると、日下は、いきなり、腕をつかんだ。
「もう、芝居は終りだ」
「じゃあ、カメさんを狙う奴が、捕ったんですか?」
「いや」
「それなら、なぜ――?」
「片山婦警が、殺されたんだ」
「えッ」
「君のいっていたバーテンが、犯人の可能性がある」
「あの野郎!」
「どこにいる?」
「グリーン車だと思います」
「よし、行こう」
日下が、先に立って、二人は、6号グリーン車に、急いだ。
グリーン車には、空席が、かなりある。
「どうだ?」
「いません!」
「逃げたのか?」
「いや、糸魚川では降りていません。それに私が、カメさんを殺《や》るのを見届けてから、降りるといっていました」
「じゃあ、どこに行ったんだ?」
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第六章 女の影
片山婦警が、「白鳥3号」の車内で殺されたことは、警視庁の捜査一課に伝えられ、本多一課長たちに、衝撃を与えた。
「何としてでも、亀井刑事に、賞金をかけた奴を、見つけ出すんだ」
と、本多は、改めて、部下の刑事たちを、督励した。
「問題は、Tホテルのロビーで、幸田圭吾から百万円の小切手を買った四十歳くらいの女だ。その女は、なぜ、そんな面倒なことをしたのか? 井戸口一也から、S組の幸田に渡り、それが、更に、四十歳くらいの女に渡っている。その女を見つけ出せれば、今度の事件の裏が、わかるかも知れない」
「しかし、あまりにも、漠然としすぎていますね。四十歳くらいというだけでは」
小林刑事が、いった。
「それでも、何とかして、見つけ出すんだ。その女が、百万円の小切手を送りつけて、亀井刑事を殺そうとしているんだ」
「幸田の奴を引っ張りましょう。奴が、その女を知っているに違いありません。奴が、直接、亀井刑事に、一千万円の賞金をかけてないとしても、女に頼まれて、小切手を集めていたことは、間違いないと思います。井戸口社長の小切手なら、貰《もら》った人間が、信用しますからね」
「それと、真田杏子だ。彼女には、問題の女のモンタージュ写真を作る手伝いをさせるんだ。こうしている間にも、亀井刑事が、危険にさらされていることを考えて、がんばってくれ」
と、本多は、いった。
四人の刑事が、幸田と、真田杏子の連行に向った。
真田杏子は、すぐ、連れて来られて、問題の女のモンタージュ作りが始まったが、幸田圭吾のところに行った小林と田中からは、電話が入って、
「奴の行方がわかりません」
と、小林が、いやに、急込《せきこ》んだ調子で、いった。
「どういうことなんだ?」
「姿をくらましたんです。どうも、こっちの出方を察して、東京から逃げたようです。S組の連中は、みんな、知らないといっています。四課の連中に聞いてみたんですが、S組の幹部にも、黙って、幸田は、姿を消したみたいです」
「誰かが、亀井刑事を殺すまで、姿を消しているつもりだろう」
「どうしますか?」
「幸田は、頭のいい男だ。自分で、亀井刑事を殺すようなことはしないだろう。だから、もう、奴の行方《ゆくえ》を追う必要はない。それより、戻って来て、女を探してくれ」
と、本多は、いった。
問題の女のモンタージュは、出来あがると、すぐ、大量にコピーされた。
「なかなか、美人ですな」
と、小林刑事が、感心したように、いった。
「本当に、こんな顔をしているのか?」
「真田杏子は、そっくりだといっています」
「彼女は、幸田の行先について、どういってる?」
「全く知らないといっていますが、奴の女ですからね」
「いや、幸田は、女にも知らせずに、姿を消したんだろう。安全な場所にかくれて、われわれが、困っているのを、眺めている気だ」
「畜生!」
「まあいい。彼女は、Tホテルのロビーで、このモンタージュの女を見たんだといっていたね?」
「そうです」
「まず、Tホテルへ行って、聞き込みをやってくれ。この女を、フロント係か、ボーイが見ているかも知れないし、ひょっとすると、火曜日には、Tホテルに泊っているかも知れん。もしそうなら、住所と、名前もわかるんじゃないかな」
「すぐ、調べて来ます」
小林と田中の二人が、Tホテルへ向った。
本多は、黒板に、眼をやった。
「白鳥3号」の大阪から青森までの時刻表が、書いてある。
「今、何時だ?」
と、本多は、確認するように、きいた。
「午後三時を過ぎたところです」
と、山本刑事が、いった。
「列車は、糸魚川を出たところだな」
「二つ目の柏崎で、清水刑事と、西本刑事が、乗り込むことになっています」
「それ、大丈夫なのか?」
「さっき、長岡に着いたという連絡がありましたから、大丈夫です」
「この女のモンタージュを、早く、カメさんに見せたいね。当事者のカメさんなら、どこの誰か、知っているかも知れない」
「どうしますか?」
「新潟県警へ、電送しよう。そして、なるべく早く、『白鳥3号』のカメさんに、見せるように、依頼しよう」
「柏崎では無理としても、新潟までの間には、亀井刑事の手に渡ると思います」
山本は、いい、すぐ、新潟県警への電送の手続きを取った。
この女の身元は、わからない。だが、彼女が、井戸口公平の発行した百万円の小切手を手に入れ、それをエサにして、後藤に、亀井刑事殺しをさせようとしたことを考えれば、彼女が、亀井を恨んでいることは、間違いあるまい。
どこかで、彼女と、亀井は、接点を持っているのだ。
小林と田中の二人は、新橋に近いTホテルに着いていた。
まず、フロントに、モンタージュを見せた。
「先週の火曜日に、この女が、このホテルのロビーにいたと思うんだが、誰か、覚えていないかね?」
と、小林が、フロント係に、きいた。
田中は、女の写真の横に、幸田と、真田杏子の写真を並べて、
「この二人と一緒にいたかも知れないんだがね」
「みんなに、きいてみましょう」
フロント係は、ボーイや、ロビーの隅にある喫茶室のウェイトレスを呼んで、写真を見せた。
「この女《ひと》、見たわ」
と、いったのは、喫茶室のウェイトレスだった。
「本当に、見たんだね?」
田中が、念を押した。
「ええ。きれいな女《ひと》なんで、覚えているんです」
「いつだった?」
「先週の火曜日だったと思うわ」
「ロビーのどこで見たのかな?」
「最初は、喫茶室だった。私が、注文をとりに行ったんだから、覚えてるわ」
「彼女は、何を注文したのかね?」
「確か、コーヒーでした」
「それから?」
「十五、六分してから、こちらの写真の男の人と女の人が見えたの。そしたら、女の人は、あわてて、喫茶室を出て、二人の方へ行ったわ」
「彼女のことで、気がついたことはなかったかな? どんな小さなことでもいいんだよ」
小林が、きくと、ウェイトレスは、じっと考えていたが、
「すごくきれいな腕時計をしてたの。本物かどうかわからないけど、その腕時計に、ダイヤが、きらきら光ってるの。素敵だったけど、あれ、きっと、ニセモノだわ」
「千四百万する本物だよ」
と、小林は、いった。
「じゃあ、すごい金持ちなのね」
「ああ、金は、持っているらしい」
「あの女《ひと》、何かしたんですか? 人殺しかなにか」
「今のところは、会って、話を聞きたいだけなんだよ」
田中は、集った人たちを、安心させるようないい方をした。
「ああ、シャネルの黒いハンドバッグを持ってたわ」
と、ウェイトレスが、いった。
自分も、シャネルのハンドバッグが欲しいと思っているので、すぐ、シャネルと、わかったのだと、いった。
「金の鎖がついていて、ショルダーにもなるやつだわ。二十万近くするんじゃないかな」
「その三人のことで、他に、何か覚えてないかね?」
小林がきくと、ウェイトレスは、頭を振って、
「他のお客さんが来たんで、そのあとは、見てないんです」
「このホテルの泊り客じゃなかった?」
小林が、フロント係にきいた。
「いえ。私どものお客様では、ございません。お客様なら、覚えていますから」
三十五、六歳のフロント係は、自信を持って、いった。ホテルマンは、そのくらいのことはあるのだろう。
「この近くには、銀座のクラブが多いんだ。真田杏子は、だから、銀座のクラブのママじゃないかといっていた」
と、小林が、思い出していった。
「しかし、この時間じゃあ、どの店も、閉ってるよ」
と、田中が、いった。
「白鳥3号」は、一一、三五三メートルの頸城《くびき》トンネルを、轟音を立てて、通り抜けた。
この長いトンネルの中に、筒石《つついし》という駅があるのだが、特急「白鳥3号」は、あっという間に、この小さな駅を通過してしまった。
日下と若林は、まだ、新宿のクラブ「ゆき」のバーテンを探していた。
1号車から、12号車まで、二人で歩いてみたのだが、見つからなかった。
「本当に、いなかったか?」
と、日下が、若林に、きいた。
バーテンの顔を知っているのは、若林だけである。
「いませんでした」
若林は、口惜しそうに、首を振った。
トイレも調べてみたが、いなかった。
「しかし、おかしいじゃないか。君の考えでは、そのバーテンは、まだ、この列車から、降りていない筈なんだろう?」
「そうです。私が、亀井刑事を襲うのを見守るために、乗って来たわけですから」
「じゃあ、なぜ、見つからないんだ?」
「わかりません」
「もう一度、グリーン車へ行ってみよう」
日下は、若林を連れて、再び、6号車のグリーンへ戻った。
相変らず、グリーン車は、すいていて、乗客の数は、まばらだ。
「いませんよ」
若林は、通路に立って、見廻して、いった。
まばらな乗客は、眠っていたり、窓の外を見たり、週刊誌を読んだりしている。
「よく見ろよ」
「いくら、見ても、あのバーテンは、いませんよ」
若林は、いった。日下は、なお、じっと車内を見廻していたが、
「あの男は、どうだ?」
と、真ん中あたりの座席で、眠っている男を、指さした。
「あれは、違います。もっと若い男ですよ」
「いや。よく見ろよ」
日下は、大股《おおまた》に、その男の座席へ近づいて行った。
男は、眠っているのか、俯向《うつむ》いている。
日下は、その男の肩に手をおいて、
「もし、もし」
と、呼んだ。
日下が、肩をゆすると、相手の身体も、がくがくと、ゆれた。
手を放した時、男の身体が、床に、崩れ落ちた。
俯伏せになっているのを、日下が、引っ繰り返した。
瞬間、頭から、かつらが、ずれ落ちた。
「あッ」
と、若林が、声をあげる。
「化粧してるんだ」
と、日下が、小声でいった。
なぜかわからないが、死んだその男は、化粧をし、かつらをかぶっていたのだ。
「よく見ろよ。君のいうバーテンじゃないか?」
と、日下が、きいた。
若林の顔色が変った。
「これ、あのバーテンですよ。しかし、男のくせに、化粧して、かつらをかぶっているのは、どういうつもりなんでしょうか?」
「私にも、わからないよ」
日下は、死体を、丁寧に調べてみた。
くび筋に、どす黒い痕跡《こんせき》が見える。
「首を絞められて、殺されたんだな」
と、日下は、いった。
指でなく、細いロープを使ったらしい。
「誰が、この男を、殺したんでしょうか?」
若林が、蒼い顔で、きいた。
「片山婦警を殺した奴が、この男も、殺したんだろう」
「しかし、どういう了見なんですかね。かつらをかぶせたり、顔に化粧したりするというのは」
「死体に、変装させて、発見を遅らせようとしたのかも知れんな。短い五分刈りの男が、かつらで、長髪にしただけで、別人に見えるからね」
「しかし、顔に化粧までするというのは、異常ですよ」
若林は、眉をひそめた。
バーテンは、夜の商売のせいか、色白だった。それを、化粧で、陽焼けした顔にしてあるのだ。
「確かに、異常だね」
「それに、最初から、殺しておいて、かつらをかぶせたり、顔に、化粧してやろうと思って、犯人が、この列車に乗って来たとは思えないんです。今日は、グリーン車が、がら空きですから、こんなことも出来ますが、満席に近かったら、不可能です」
「君のいいたいことはわかるよ。犯人は、そんなつもりはなく、この列車に乗って来たんじゃないかといいたいわけだろう」
「そうです。犯人は、普段から、長髪のかつらや、化粧道具を、持っている人間ということになります」
「女なら、旅行するとき、かつらや、化粧道具を持っていても、おかしくはないね」
「問題は、この長髪のかつらが、男ものなのか、女ものなのかということですが」
若林は、カーリーヘアのかつらを、手に取って、眺めた。
若くて、かつらに縁のない若林には、よくわからない。
それに、ユニセックス時代で、髪形も、男女似ていることが多いから、どちらのかつらか、見当がつかないのだ。
日下が、十津川に知らせに行っている間、若林は、同じグリーン車に乗っていた若い二人連れの女性に、そのかつらを見せた。
「これ、男ものか、女ものか、わかりますか?」
と、照れ臭さをこらえて、若林は、きいてみた。
二人連れの若い女は、大阪のOLで、青森まで遊びに行くのだといった。彼女たちは、二人で、問題のかつらを、自分でかぶったりしていたが、
「女ものだと思いますけど」
「男の人って、こういうかつらは、使わないんじゃないかな。男の人がかぶっても、なかなかいいものだと思いますけど」
と、口々に、いった。
日下が、戻って来た。
「警部に、知らせて来たよ。女ものか、男ものか、わかったかね?」
「若い女性にきいたら、女ものだろうという返事でした。しかし、男が使っても、おかしくはないと」
「それでは、犯人を、男、女のどちらと断定は、出来ないわけか」
「そうです。化粧品を持っているのは、女だと思いますが、女に、片山婦警と、このバーテンの二人を殺せるでしょうか?」
「今の女性は、強いからね」
と、日下は、いった。
十津川警部が、姿を見せ、二人の横から、バーテンの死体を、見下した。
「これで、二人目の犠牲者か」
「今、所持品を調べていたんですが、名前はわかりました」
日下は、死体のポケットに入っていた運転免許証を、十津川に見せた。
〈荒川 裕〉
名前は、そう書いてある。
だが、その名前が、意味を持ってくるのは、事件に、関係があるかどうかに、かかっている。
「この名前を、カメさんにいってみよう。何か、心当りがあるかも知れない」
と、十津川は、いった。
「カメさん、大丈夫ですか?」
心配になって、日下が、きいた。
「大丈夫だよ。今、専務車掌が、彼の隣りに座って、話をしている。それに、犯人は、たて続けに、二人も殺したんだ。すぐ、三人目には、取りかからんだろう」
「この死体は、どうしますか?」
「次の直江津《なおえつ》で、降す」
十津川は、窓の外に眼をやった。
列車は、また、トンネルに入った。
この辺りは、有名な地滑り地帯で、昔の、海沿いの線路は、そのため、事故が多かった。
昭和三十八年の地滑りによる被害が大きかったため、トンネルの多い新線が作られた。
窓の外が、暗くなり、明るくなったと思うと、再び、トンネルに入った。
十津川は、2号車にいる亀井のところへ、歩いて行った。
亀井の隣りに座って、話をしていた専務車掌が、立って、十津川に、席をゆずった。
「また一人、殺された」
と、十津川は、小声で、亀井にいった。
亀井は、溜息をついた。
「私が、この列車に乗ったことが、間違いだったんでしょうか?」
「そんなことを考えたら、敵の思う壺《つぼ》だよ。荒川裕という名前に、記憶はないか。この男だ」
十津川は、運転免許証を見せた。
亀井は、そこにのっている写真に、眼をやった。
「覚えがありませんが、どんな男なんですか?」
「私も、よくは知らないんだ。新宿のクラブ『ゆき』のバーテンをしていた男だということは、わかっている。そして、若林が、君を殺《や》るのを監視するために、この列車に乗って来たんだ」
「すると、いったい、誰が殺したんですか?」
「それが、わからないんだ。奴は、どう考えても、カメさんを狙う側の人間だからね」
「そうですね」
「本当に、その男に、心当りはないか?」
「いろいろと、考えてみるんですが、思い出せません。前科はあるんですか?」
「それも、わからないんだ。直江津で、おろして、県警に調べて貰《もら》おうと思っているがね」
「まさか、若林が――」
「片山婦警の仇討ちかい? 彼は、そんな馬鹿な真似はしないさ。第一、この男が、片山婦警を殺したかどうか、まだ、わからないんだ」
「そうですか」
「カメさん。一度やり始めたんだから、青森まで行ってみようじゃないか。犯人を捕えない限り、東京へ戻っても、また、誰かが、カメさんを狙うからね」
列車は、また、トンネルに入った。
抜けると、やっと、平野になった。
右手から、信越本線の線路が、近づいてくるのが見えた。
間もなく、直江津である。
直江津着、一五時一八分。
糸魚川では、一分おくれたが、取り戻して、定刻に到着した。
荒川裕の死体を降し、あとのことは、新潟県警に委せることにして、十津川たちは、青森まで、行くことにした。
二分停車で、発車した。
機関士と、車掌が、ここで、交代した。ここから先は、信越本線である。
列車が、停車している間に、若林が、ホームの売店で、ジュースを四つ買って来た。
それを、十津川と、日下に渡してから、
「亀井刑事にも、差しあげたいんですが」
「ああ、いいだろう。われわれが、カメさんを守るために乗っていることは、もう、犯人にも、わかっているだろうからね」
「渡して来ます」
若林は、嬉《うれ》しそうにいい、亀井の横へ行って、ジュースを渡して、何か話している。
「奴は、カメさんを、尊敬しているんです」
と、日下が、十津川に、いった。
「そうかい」
十津川は、微笑した。そんなことを聞いたら、亀井のことだから、きっと、あわてるだろう。
「ところで、犯人ですが」
「片山婦警と、荒川裕を殺した犯人か」
「警部も、同一人と思われますか?」
「十中、八九、同一人だろう。手口も似ている」
「かつらと、化粧のことを考えると、女の線も出て来ますが」
「片山婦警は、柔道初段だそうだ。普通の女に、簡単に、殺されるとは、思えないがね」
「それは、そうなんですが――」
「妙な犯人だということは、わかる。その犯人は、まだ、この列車に乗っている筈だ」
「直江津で、降りずにですか?」
「降りるくらいなら、片山婦警や、荒川を殺したりはしないだろう。二人を殺して、今後は、カメさんを狙う気でいると思った方がいい」
「原勝一が、その犯人でしょうか?」
「かも知れないが、奴は、この列車に乗っていないんだ」
「私は、原勝一の顔を知らないんですが――」
「一番よく知っているのは、カメさんだよ。私も、会っているから、当人に会えば、わかる筈だ」
「柏崎から、清水刑事たちが乗ってくれば、彼の顔写真を持ってくるそうですから、よくわかりますね」
「その写真を持って、もう一度、全車両を、見て廻ろう」
「こういう仕事は、神経が疲れますね」
日下は、貰ったジュース缶を窓に置いて、眼をさすった。
「そうだな。カメさんを襲ってくる奴が、どこの誰かわからないし、いつ襲ってくるかもわからないんだからな」
と、十津川は、いってから、
「青森までは、まだ、まだ、九時間近くあるんだ。あんまり緊張していると、本当に、参ってしまうぞ」
「大丈夫です。柏崎からは、清水と、西本の二人も、乗って来てくれますから」
と、日下は、いった。
信越本線に入った「白鳥3号」は、直江津から、新潟まで、海沿いに走る。
この辺りは、有名な豪雪地帯である。四月中旬を過ぎて、さすがに、残雪は、少くなったが、車窓に見える日本海は、まだ、灰色だった。
空も、鉛色である。
波頭だけが、白い。
ふと、外は、寒いだろうなと、十津川は、何の脈絡もなく思った。
国道8号線が、列車の左側を、平行して走っている。
その道路の両側には、残雪がある。
国道の向うに、日本海が、広がっている。
平行して走っていた国道8号線が、列車の右側になった。
とたんに、車窓のすぐ向うが、海になった。波の音が聞こえて来そうな近さである。
砂浜が、傍まで来ている。
亀井も、窓の外の日本海を見ていた。
新潟県警では、「白鳥3号」が、新潟に着いたら、女のモンタージュを、車内の亀井刑事に渡すといった。
もっと早く渡して貰いたいが、そこまで要求することは、無理だろうと、本多は、思った。
「白鳥3号」が、新潟に着くのは、一七時〇八分である。
あと、一時間半はある。その間に、問題の女の身元がわかれば、それも、新潟で、亀井に、知らせることが出来る。
「あと一時間半を、勝負だと、考えて、がんばってくれ」
と、本多は、部下たちを、督励した。
今までは、亀井刑事に一千万円の賞金をかけた人間を探すための作業だった。殺人事件でも、傷害事件でもなかった。
しかし、今、事態は違ってしまった。
二人の人間が殺された殺人事件なのだ。
犯人は、何としてでも、逮捕しなければならないし、その犯人は、どこかで、モンタージュの女につながっているに違いないのだ。
「これは、殺人事件だということも、忘れないで欲しい」
と、本多は、つけ加えた。
刑事も、増員された。
小林と田中の二人の刑事は、銀座周辺の宝石、貴金属店を、歩いて廻ることにした。
問題の女が、千四百万円もする腕時計をしていたと、真田杏子が、証言していたからである。
二人の刑事は、女のモンタージュと、千四百万円の腕時計の写真を持って、一店ずつ、たずねて廻った。
銀座に、宝石貴金属店は多いが、千四百万円もする婦人時計を置いておく店は、限られている。
もし、銀座で、収穫がなければ、東京中を当ってみるつもりだった。
最初の店も、次の店も、反応はなかった。
三つめの明田宝石店で、反応があった。
「その腕時計なら、お売りしたのを覚えていますよ」
と、店の主人の明田は、眼鏡《めがね》の奥のおだやかな眼で、小林に、肯いた。
「この女性に、売ったんじゃありませんか?」
小林が、モンタージュを、明田に見せた。
明田は、ちらりと見ただけで、
「違います」
「違う? よく見て下さいよ」
「私どもで、お売りしたのは、男の方です」
「男? 名前は、わかりますか?」
「ええ、わかりますよ」
明田は、奥に行き、一枚の名刺を持って、戻って来た。
「この方です」
「レストラン『ピノキオ』社長、五十嵐明《いがらしあきら》。本当に、この人ですか?」
「そうです。お得意さまです」
「この千四百万の腕時計ですが、かなり沢山出るんですか?」
「そんなことはありません。一千万円以上の腕時計は、めったに出ませんよ。私どもでも、これと同じものは、他に、売れていませんからね」
「この五十嵐明というのは、どういう人ですか?」
田中が、きいた。
「刑事さんも、『ピノキオ』というレストランを、ご存知ではありませんか?」
「名前だけは知ってるが、高いので有名な店だろう?」
「さようです」
「それなら、われわれには、縁がない。じゃあ、この社長は、相当の資産家でしょうね?」
「ハワイに別荘をお持ちです」
「ますます、われわれとは、縁がない」
と、小林は、苦笑してから、
「いくつぐらいの人ですか?」
「五十七、八だと思いますが」
「すると、この腕時計は、奥さんへのプレゼントですかね?」
田中が、きくと、明田は、含み笑いして、
「さあ、それは、どうでしょうか」
「なるほど、奥さんの他に、彼女がいるというわけですか?」
「それは、何とも、申しあげられません」
「われわれは、殺人事件を追いかけているんです。知っていることがあれば、教えて頂きたいですね」
小林が、強くいうと、明田は、
「私も、どんな女の方か知らないんです。ただ、奥さんへのプレゼントには、五十嵐様は、別の宝石をお買いになりました」
「この腕時計は、いつ買ったんですか?」
「去年の六月七日です」
「すると、六月七日に近い日が、彼女の誕生日ということになりますね?」
「さあ……」
「五十嵐さんから、彼女について、何か聞いていませんか? どんなことでもいいんですがね」
「五十嵐様は、口数の少い方ですからね」
「しかし、何か喋ったでしょう? 彼女のことを」
「さあ」
と、明田は、しばらく考えていたが、
「六月七日に、この腕時計を、お買い頂いたとき、ずいぶん立派なプレゼントをされるんですね、お相手の方も、お喜びでしょうと申しあげたんですよ」
「そうしたら、五十嵐社長は、何といいました?」
「彼女を、なぐさめてあげたいからだよと、おっしゃっていましたね」
「なぐさめる? 誕生日のプレゼントじゃないんですか?」
「変だとは思ったんですが、五十嵐様は、確かに、そうおっしゃったんです」
「他には?」
「それだけですよ。他には、何も知りません」
「このレストランを、訪ねてみよう」
と、小林は、田中に、小声で、いった。
名刺にあった「ピノキオ」は、六本木にある。
小林たちは、地下鉄で、六本木に廻った。
高級フランス料理の店である。いかにも、金がかかったという造りで、ホテルのロビー風の入口には、ユニホーム姿のボーイが、客を待っている。
この店を訪れた内外の有名人の写真が、誇らしげに、飾られていた。
小林が、警察手帳を、マネージャーに見せて、社長に会いたい旨を告げた。
蝶ネクタイ姿のマネージャーは、小林と田中を、ロビーのソファに案内してから、
「只今、社長は、奥さんと、ハワイに行っております。明後日に、帰って参りますが」
「それじゃあ、間に合わないんだ」
田中が、大声でいうと、マネージャーは、急に、怯《おび》えた表情になって、
「うちの社長が、何か、まずいことでも起こしましたか?」
「いや、そうじゃありません」
と、小林は、穏やかに、いった。
「それなら、いいんですが――」
「あなたは、社長の不在中は、この店を委されているわけでしょう?」
「まあ、そうですが」
「それだけ、社長の信任が厚いということになりますね」
小林は、おだてるように、マネージャーを見た。
相手も、賞められて、悪い気はしないらしく、口元をほころばせて、
「まあ、社長には、信頼して貰っています」
「ちょっと、こっちへ来てくれませんか」
と、小林は、マネージャーを、ロビーの隅に連れて行った。
小林は、田中に眼配せして、来ないようにしておいてから、マネージャーには、内緒話をする調子で、
「あなたは、社長のふところ刀みたいな人だから、奥さんより、社長のことは、よく知っているんじゃありませんか?」
「まあ、そういうことも、あるかも知れませんね」
「社長さんは、ハワイに別荘を持っているような金持ちだし、ハンサムだし、気前もいいようだから、女性にもてるんじゃありませんか?」
「そりゃあ、もてますよ。女性には、優しいですからね」
「四十歳ぐらいのすごい美人が、社長の彼女だというのを聞いたことがあるんですがね。知りませんか? 知っていたら、教えてくれませんか。あなたに、ご迷惑はかけませんよ」
「四十歳くらいですか」
マネージャーは、宙に視線を走らせて、考えている。
「何人もいるんですか?」
「商売柄、銀座のクラブなんかにも、よく行かれますからね。何人かのクラブのママと、親しくなさっているんです。ママさんたちは、たいてい四十代ですから」
「たとえば、一千万円以上もする腕時計を、バースデイにプレゼントするような女性は、限られているんじゃありませんか?」
小林が、相手の顔をのぞき込むようにしていうと、マネージャーは、眼を輝かせて、
「じゃあ、『チボリ』のママかな」
「それは、クラブの名前ですか?」
「ええ。そうです。銀座のクラブです。社長が、一番気に入っている感じですからね。多分、彼女だと思いますよ」
「名前は、知っていますか?」
「一度、聞いたことがあるんですがねえ。何と、いったかなあ」
「この女性じゃないですか?」
小林は、例のモンタージュを、相手に見せた。マネージャーは、あっさりと、
「ああ、この女性《ひと》ですよ。実物は、もっと、きれいですよ」
「誰か、名前か、住所を知っている人はいませんかね? 『チボリ』へ行ってもいいんだが、まだ、閉っていると思いますからね」
「社長の運転手が知っている筈ですよ。何回か、ママの家へ、社長を送ったといっていましたから。これは、内緒にしておいて下さい」
マネージャーは、あわてて、付け加えた。
小林と田中は、マネージャーに教えられた住所を訪ねた。
社長の五十嵐夫妻が、ハワイへ行っている間、運転手夫婦は、留守番をかねて、五十嵐家に寝泊りしているということだった。
奥沢《おくさわ》の六百坪近い邸宅だった。
二人の刑事は、運転手の鈴木を、邸の外に呼び出した。
五十六、七の男で、長年、官庁で、局長クラスの車の運転手をやっていたのが、乞《こ》われて、退職し、五十嵐の運転手になったという。それだけに、実直な感じの男だった。
今度は、田中が、頭から、
「今、殺人事件の捜査をしている」
と、脅しておいて、モンタージュを見せた。
「これは、クラブ『チボリ』のママだ。名前と、住所を、教えて貰いたい」
「名前は知りませんが、住所は、知っていますから、車で、ご案内しますよ」
と、鈴木は、いった。
社長のベンツで、二人の刑事を、四谷のマンションまで、案内した。
十二階建の洒落たマンションである。駐車場も完備している。都心で、駐車場があるマンションは、めったにないから、さぞ、高いことだろう。
「ここの八階の六号室ですよ」
と、鈴木が、小声で、教えた。
管理人室前の、ずらりと並んだ郵便受を見ていくと、八〇六号室のところに、「久原」と、あった。
小林が、エレベーターで、八階へあがっていく間に、田中は、管理人に会った。
警察手帳を見せてから、
「八〇六号室の久原という人のことを聞きたいんだ」
「久原さんが、何かしたんですか?」
四十二、三の管理人は、心配そうに、きき返した。
「ただ、ちょっと、会って、話を聞きたくてね。この人だね?」
田中は、モンタージュを、管理人に見せた。
「ええ。この方ですが」
「久原何ていうんだ?」
「久原夏子さんですが」
管理人が、答えていると、小林が、あわただしく、エレベーターで、降りて来た。
「留守だ」
と、短くいった。
「どこへ行ったか、わからないかね?」
田中は、管理人に、きいた。
「そういえば、今朝早く、白いスーツケースを持って、外出されましたよ」
「何時頃?」
「朝の七時頃じゃなかったかと思います。いつも、夕方になって、出かける人が、今日は、やけに早いなと思ったんですよ」
「どこへ行くか、きかなかったのかね?」
「ききましたけど、久原さんは、笑って、返事をしませんでしたよ。それで、これは、お楽しみかなと思ったんですよ。男の人と、どこか、温泉へでも行くんじゃないかと思いましてね」
「久原夏子について、何か知らないかね?」
「何かって、どういうことですか?」
「どんなことでもいいんだ」
「そういわれましてもねえ。住んでいる方のプライバシィには、立ち入らないことにしていますので――」
「部屋を調べてみよう」
と、小林が、田中にささやいた。
「令状がないぜ」
「じゃあ、ちょっと、課長に連絡してみる」
小林は、管理人室の電話を借りて、本多に連絡した。
「女の名前がわかりました。銀座のクラブ『チボリ』のママで、名前は、久原夏子です」
「久原夏子? 知らないな。カメさんと、関係があるのかな。それを、当人に聞いてみてくれ」
「ところが、彼女のマンションに来たら、今朝早く、旅行に出かけてしまっているんです。行先は、わかりません。それで、彼女の部屋を、調べてみたいんですが」
「令状か?」
「そうです。すぐ、とってくれませんか。何とかして、カメさんとの関係を、知りたいんです」
「すぐには、令状は、とれんぞ」
「特急『白鳥3号』が新潟に着くまでに、調べたいんですが」
「そこの電話番号を教えてくれ。令状がとれ次第、連絡する」
「わかりました」
小林は、こちらのナンバーを伝えて、電話を切った。
十五分待った。
本多が、強行に、刑事部長に掛け合ったのだろう。
電話が鳴り、受話器を取った小林に、本多が、
「今、令状がとれたよ。これからすぐ、尾藤刑事に持って行かせる」
「それでは、こちらは、部屋を調べています」
と、小林は、いった。
二人の刑事は、管理人に立ち合せて、八〇六号室を、開けさせた。
ドアを開けたとたんに、白いペルシャ猫が、ドアの隙間から、飛び出そうとした。
小林が、素早く、抱え上げて、中に入った。
2LDKの広さだが、調度品は全て外国製で、居間には、高価なペルシャじゅうたんが敷きつめてあった。
「ひとりで、ここに住んでいるようだな」
明りをつけて、部屋の中を見廻しながら、田中が、呟《つぶや》いた。
管理人が、それが聞こえたとみえて、
「おひとりのようですよ」
と、いった。
ベッドも、大きい、アメリカ製のダブルベッドである。
有名な版画家の額が、二点ほど、壁にかかっている。
「この部屋は、久原夏子が、買ったものだね?」
と、小林が、管理人にきいた。
「ええ。このマンションは、全部、分譲ですから」
「いくらぐらいしたのかな?」
「六千万ぐらいだと聞きましたが」
「なるほどねえ」
小林は、肯きながら、三面鏡についている引出しを開けてみた。
四、五十万はするだろうと思うスイス製の腕時計や、宝石類が、無造作に、放り込んである。千四百万するという腕時計は、見当らなかった。
田中は、洋ダンスの引出しを、片っ端から、調べていった。
何も出て来ない。
「手紙や写真のない家だねえ」
田中が、呆《あき》れたように、いった。
状差しにも、手紙は、入っていない。
「多分、処分したんだ」
と、小林が、いった。
「焼いたということか?」
「そうだ。今度の事件で、警察に、身辺を調べられたら困るからだと思うね」
小林が、いったとき、若い尾藤刑事が、息せき切って、飛び込んで来た。
家宅捜査の令状を、持って来たのだ。
小林は、改めて、その令状を、管理人に見せた。
写真は、一枚だけ残っていた。
寝室の棚の上に、青磁の花びんなどと一緒に並んでいる写真スタンドに、入っていたのである。
和服姿の女と、背広姿の中年の男が、肩を並べている写真だった。
女の方は、久原夏子である。
男は、四十五、六歳という年齢だろう。
田中が、その写真を、地下の駐車場にいる運転手の鈴木に見せた。
「この男は、五十嵐社長じゃないかね?」
田中がきくと、鈴木は、首を横に強く振って、
「違いますよ」
「じゃあ、誰だろう?」
「わかりません。本当です。見たことがない人ですよ」
その言葉に、嘘は、感じられなかった。
田中は、部屋に戻った。
「五十嵐社長じゃないが、何者か、わからないそうだよ」
田中がいうと、小林は、じっと考え込んでいたが、
「カメさんが知っているのは、久原夏子じゃなくて、この男の方じゃないかな?」
「なるほどね。男は、何かで、カメさんに逮捕されて、今、刑務所に入っているとすれば、彼女が、カメさんを殺したいと思う理由もわかる。自分では出来ないから、一千万円の懸賞金を出して、誰かに、カメさんを、狙わせてるんだ」
「何とかして、この男の名前を知りたいね」
「ちょっと待ってくれよ」
田中は、写真の入っている額縁を、外してみた。
写真の裏側を見た。
「やっぱり、書いてあるよ」
と、田中は、いった。
〈十月六日 伊東で、
磯見 茂樹(四六)
夏子(三七)〉
「彼女が、今、四十歳とすると、三年前に撮った写真ということになるね」
小林は、写真を見ながら、いった。
「磯見茂樹、夏子という書き方からみると、夫婦なのかな?」
「それはわからんよ。彼女自身は、夫婦のつもりだったということかも知れない」
「磯見茂樹ねえ」
田中は、その名前を、何度か、呟いてみた。
捜査一課で扱った事件に関係している名前なら、たいていは、覚えているものである。
しかし、田中は、心当りがなかった。
小林も、同じだった。
「とにかく、戻って、調べてみようじゃないか」
と、田中が、いった。
二人は、写真を持って、捜査一課に戻った。
本多も、その写真を見たが、男の名前にも、顔にも、心当りがなかった。
そこで、亀井が担当した事件を、もう一度、洗い直してみることにした。
調書を読み直し、その時々に、亀井とコンビを組んでいた刑事の話を聞いた。
古い事件では、コンビを組んだ刑事がすでに、退職しているケースもあった。その場合は、退職した刑事に、電話をかけて、問い合せることもした。
だが、誰も、磯見茂樹という名前は、心当りがなかったし、久原夏子という名前も、同様だった。
磯見茂樹という男が、今、どこかの刑務所に入っているのではないかということも、調査された。
本多は、上司の三上刑事部長から、問い合せて貰ったのだが、磯見茂樹という男は、現在、全国どこの刑務所にも、入っていなかった。
しかし、この久原夏子という女が、幸田から、井戸口宝石店の百万円の保証小切手を、買い求めたことは、まず、間違いないだろう。
そして、その小切手は、亀井を狙う人間に送られたことも、まず、間違いあるまい。
本多は、二人の写真も、簡単な説明をつけて、新潟県警に電送することにした。
国鉄の新潟駅で、モンタージュを、県警が亀井に渡してくれることになっていたが、その代りに、この写真を、渡して貰うことにした。
狙われている亀井なら、何か、この二人に心当りがあるかも知れない。
そうした作業が終ったあと、本多は、釈然としない顔だ。
「どうも、わからんなあ」
と、呟いた。
「どこがですか?」
小林が、きいた。
「犯人は、一千万円もの大金を投じて、亀井刑事を殺したがっている。並々ならぬ恨みだよ。一千万円を出すらしい人間も見つかった。普通なら、簡単に、亀井刑事とのつながりが、わかりそうなものじゃないか。なぜ、それが、わからないんだろう?」
「そうですね。今までのところ、カメさんが扱った事件から、この二人の名前は、浮んで来ていません」
「事件とは、関係ないのかな」
「と、いいますと?」
「現在までの調べでは、亀井刑事の扱った過去の事件と、どうしても、この二人は、結びつかない。調査が足りないためだと、考えるのが常識だが、ひょっとすると、本当に、無関係なのかも知れん」
「すると、なぜ、久原夏子が、カメさんを狙うのかということになりますが」
「亀井刑事のプライベイトなことで、関係しているんじゃないかと、ふと考えたんだよ。人間は、知らず知らずの中に、他人を傷つけているということも、考えられる」
「しかし、実際問題として、そんなことが、あり得るでしょうか? カメさんは、神経が細かい人ですから、もし、自分の行為が、他人を傷つけたとすれば、すぐ気付いていると思います。今度の事件が起きたとたん、気がついているんじゃないでしょうか?」
「私も、そう思うが、時には、気付かない時もあるよ。確か、アメリカの小説だったと思うが、バスの乗客の一人が、何気なく、飲み干したコーラのびんを、窓の外に投げた。その乗客は、そんなことは忘れてしまっていたが、実は、そのコーラのびんが、崖下《がけした》を歩いていた人間を直撃して、死亡させてしまうんだ」
「それで、どうなったんですか?」
「死んだのは、青年で、彼には、フィアンセがいた。彼女は、崖上を走り去ったバスから、コーラのびんが投げられたのを知るが、七人の乗客の誰が投げたかわからない。それで、七人全部を殺しにかかるんだ」
「その小説なら、読んだような気がします。しかし、カメさんは、窓から、コーラのびんなんか、投げませんよ」
「そんなことは、わかってる」
本多は、不機嫌になっていた。
犯人を見つける作業が、ままならないことに、自分で、腹を立てているのだ。
小林のいう通りかも知れない。
亀井刑事は、よく気のつく男だ。人情もろいところもある。知らずに、他人を傷つけているとは、考えにくい。
久原夏子は、今度の事件とは、無関係なのだろうか?
井戸口宝石店の小切手を、幸田から買い取ったのも、偶然かも知れない。
だが、それなら、なぜ、彼女は、姿を消してしまったのか?
「白鳥3号」の車内で、亀井を殺そうとして逮捕された後藤が、井戸口宝石店の百万円の小切手を持っていたのも、偶然になってしまうではないか?
「何としてでも、久原夏子のことを、知りたいね」
と、本多は、いった。
彼女が、ママをやっている「チボリ」に行けば、何か聞けるかも知れないが、まだ、この時間では、誰も来てはいないだろう。
店が開くのは、午後七時頃の筈だ。それでは、間に合わない。
小林と田中の二人は、もう一度、彼女のマンションに行き、他の居住者から、彼女の話を聞くことにした。
木本と金子の二人の刑事は、新宿区役所に行き、久原夏子の住民票を見せて貰うことにした。
だが、彼女の住所は、あのマンションにはなっていないのだ。
前の住所のまま、あのマンションを購入して、住んでいるらしい。
その前の住所は、新宿区役所ではわからなかった。
木本と金子の二人は、次に、マンションを販売した新宿の不動産会社を訪ねてみた。
東京不動産という大きな会社である。
営業担当の職員が、二人の質問に答えて、
「久原さんのことは、覚えております。一年半前に、あのマンションを、お売りしました」
「その時の契約書の写しがあれば、見せて欲しいんですがね」
と、木本が、頼んだ。
相手は、キャビネットから、古い書類を取り出して、木本たちに見せてくれた。
久原夏子が、今のマンションを購入するときの現住所が、書いてあった。
それによれば、横浜が、住所だった。
「行ってみよう」
と、木本は、金子に、いった。
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第七章 襲 撃
清水と、西本の二人は、国鉄柏崎駅にいた。
柏崎は、石油の町である。
日本三大油田の一つといわれる西山油田とパイプで結ばれている柏崎製油所があるからだ。
また、ここから、越後線が出ている。
信越本線は、柏崎から、海岸線を離れて、内陸部に入って行くが、越後線は、海岸線に沿って、新潟まで行く。
柏崎には、従って、二つのホームがある。
海の方から吹いて来る風は、まだ、冷たい。
二人は、ホームの待合室に入って、「白鳥3号」を、待つことにした。
待合室には、他に、十二、三人の乗客が入っていた。聞こえてくる言葉には、この土地の訛《なま》りがある。
清水は、こういう雰囲気が好きだった。
どちらかというと、清水は、ひとりでいるのが好きな方で、旅にも、ひとりで行くことが多い。
見知らぬ町とか、初めての駅で、じっと、その土地の会話を聞いているのが、好きなのだ。
「まだ、時間があるから、東京へ電話をかけて来る」
と、西本がいい、待合室を出て行った。
清水は、腕時計に眼をやった。
午後三時三十分になったところである。
「白鳥3号」が、到着するのは、一五時四七分。あと、十七分ある。
清水は、煙草《たばこ》に火をつけ、いぜんとして、賑《にぎ》やかな人々の話を聞いていた。
七、八分して、西本が、戻って来た。
「東京で、新しい進展があったよ。今度の事件の黒幕らしい女が、あぶり出されて来た」
西本は、眼を輝かせて、清水に、いった。
「黒幕は、女か」
「名前も、わかった。久原夏子。四十歳くらいで、銀座の『チボリ』というクラブのママらしい」
「カメさんとの関係は?」
「それが、いくら調べてもわからないらしいんだ。女の写真は、新潟県警に電送されるので、国鉄新潟駅で、向うの刑事が、渡してくれることになっている」
「しかし、いくら調べても、カメさんとの関係がわからないというのは、おかしいな。一千万円もの大金を出して、カメさんを殺そうとしているんだから、よほど、恨んでいる筈《はず》だよ。前に、カメさんに逮捕されたことがあるとか、彼女の男が、カメさんに捕まって、刑務所へ入っているとか、ある筈だがねえ」
「みんな、そのつもりで、カメさんが関係した事件を、全部、洗い直したらしい」
「それでも、久原夏子の名前は、出て来ないのか?」
「出て来なかったといっている」
「ふーん」
「まさか、あのカメさんが、女で問題を起こしたとも考えられないんだがね」
西本が、首をかしげて、いった。
「何のことだい?」
「仕事の上での恨みでないとすると、カメさんのプライベイトなことになる。そして、四十歳の女が、出て来たとなると、カメさんの女関係ということになるじゃないか」
「しかし、カメさんだからねえ」
「カメさんだって、艶聞《えんぶん》の一つぐらいはあるかも知れないと思うがねえ」
「カメさんは、優しいから、意外に、女性にもてるのかも知れないよ」
と、清水は、いった。
清水は、時々、亀井とコンビを組んで、仕事をすることがある。
とにかく、仕事熱心な先輩だと思う。もう四十五歳の筈だが、馬力もある。若い清水が、あおられるほどの馬力である。
もう一つ、清水が感じたのは、亀井が、センチメンタルなことだった。ロマンチストなのである。
だから、意外に、女性にもてるかも知れない。特に、中年の女性に。
定刻通りに、「白鳥3号」が、やって来た。
四八五系と呼ばれる列車の正面に、白鳥をデザインしたトレインマークが、午後の陽差しに光っている。
清水と、西本は、1号車に乗り込んだ。
「白鳥3号」は、一分停車で、柏崎を発車した。
2号車の方へ歩いて行くと、デッキのところで、十津川に会った。
「ご苦労さん」
と、十津川が、いった。
「カメさんは、どうですか?」
清水が、2号車の客席の方に、眼をやって、きいた。
「悠々としているさ」
「後藤正也と、原勝一の顔写真を持って来たんですが、後藤は、もう、逮捕されたそうですね」
「ああ、逮捕したよ」
「じゃあ、この写真は、もう必要ありませんか?」
「原勝一は、まだ、見つかっていない。私とカメさんは、原を知っているが、日下君や、若林君は、知らないんだ。だから、二人に、その写真を見せてやってくれ」
「わかりました」
清水が、肯いて、2号車へ入って行ったあと、西本は、
「一千万円の主と思われる人間が、浮んで来たそうです。確証はないそうで、目下、捜査中ですが、四十歳の女で、名前は、久原夏子です」
「女か」
「銀座のクラブ『チボリ』のママだそうですが、妙なことに、カメさんの扱った事件では、彼女の名前が、出て来ないんだそうです」
「カメさんに、きいてみよう」
「そうですね」
「その女の写真はないのか?」
「新潟駅で、県警の刑事が、この列車に持って来てくれるそうです」
「すると、新潟までは、その女が、この列車に乗っていても、わからないんだな」
十津川は、残念そうに、いった。
二人は、2号車に入って行った。
西本は、亀井の傍に腰を下し、「久原夏子」の名前を告げた。
「この女が、一千万円のスポンサーらしいと、本多課長は、考えているらしいんですが、カメさんに、心当りがありますか?」
「久原夏子ねえ」
亀井は、考え込んだ。
「銀座のクラブ『チボリ』のママで、現在、五十嵐というレストランの社長が、パトロンみたいについているということです。やはり、心当りは、ありませんか?」
「今、考えているんだが、久原夏子という名前に、心当りはないな。その名前は、本名なんだろうね?」
「本名です」
「自分が関係した事件のことを、思い出しても、久原夏子という名前に、結びつくようなことは、浮んで来ないね」
「カメさんのプライベイトなことでは、どうですか? 久原夏子という女性と、どこかで会ったことはありませんか?」
「ないと思うねえ。第一、私は、聞き込み以外で、銀座のクラブへなんか、行ったことはないよ」
「住所は、四谷のマンションだそうです」
「どうせ、何千万もするマンションだろう。行ったことはないね」
「そうですか。相手は、一千万円を投げ出してでも、カメさんを、殺したいと思っているようなんですが」
「そう思って、考えてるんだが、全く、心当りがないんだよ」
亀井は、残念そうに、いった。
何とかして、自分を狙っている人間を突き止めたいという気持は、人一倍強く持っている。狙われているのが自分だということもあるが、それ以上に、犯人を探すために、片山婦警を殺してしまっているからである。
「車内を見て来ます」
と、清水が、十津川に、いった。
後藤は、逮捕されたが、原勝一の方は、まだ、見つかっていない。
幸い、原の顔写真は、持って来た。
清水は、若林を連れて、通路を歩いて行った。
列車は、柏崎を出てから、日本海の海岸線を離れ、内陸部に入っている。
窓の外には、米どころの新潟平野が、広がっている。
車内で、元気よくお喋《しやべ》りしているのは、近くの駅から乗って来た人たちで、大阪や、京都あたりからの乗客は、さすがに、疲れて、座席にもたれて眠ったり、黙って、窓の外を眺めている。
清水と、若林は、12号車に向って、ゆっくりと、歩いて行った。
食堂車は、ひと休みという感じで、がらんとしていた。午後五時を過ぎると、また、混んで来るのだろう。
「いませんねえ」
と、12号車へ辿《たど》り着《つ》いたところで、若林が、いった。
「まだ、乗っていないのかも知れないな」
清水は、いった。
清水と、西本も、上越新幹線で、「白鳥3号」を、追いかけて来た。
原も、長岡か、新潟で、この列車を待っていて、乗って来るつもりなのかも知れない。
相手は、どこで、亀井を狙ってもいいのだ。
「清水さんは、男のかつらというのを、見たことがありますか?」
12号車から、戻りながら、若林が、清水にいい、殺されたバーテンが、かつらをつけていたことを話した。
「ふーん」
と、清水は、聞いていたが、
「かつらを用意していた殺人犯人か」
「そうです。妙な犯人だと、日下刑事と話していたんですが、理由が、わかりませんでした。何のために、殺しておいて、かつらをかぶせたり、顔に、陽焼けの化粧をしたのかが、わからないんです」
「それは、死体の発見を遅らせるためだろう?」
「それしか、考えられないんですよ。片山婦警が殺されて、犯人は、あのバーテンに違いないと思って、車内を探しましたからね。かつらをつけて、陽焼けの化粧をしていたので、すぐには、見つからなかったんです。しかし、どうも、納得《なつとく》できません」
「なぜだい?」
「死体が見つかると、犯人は、何が困るのだろうかと思うんです」
「見つからなければ、警察は、バーテンを探し廻り、真犯人がいるとは、思わないからだろう」
「それしか考えられないんですが、われわれは、片山婦警が殺されたことで、緊張していますし、犯人の最終目的が、カメさんを殺すことなら、さして違わないと思うんです。カメさんに近づいて、殺さなきゃならないんですからね。それに、結局、バーテンの死体は見つかったんです」
「ちょっと、待ってくれ」
急に、清水が、若林の言葉を、さえぎった。
「どうされたんですか?」
「かつらと、化粧か。化粧は、うまかったかね?」
「ええ。うまく、化粧してありましたよ」
「試したのかも知れないな」
「試すって、何をです?」
「化粧と、かつらが、どれだけ、有効かだよ」
清水が、いう。それでも、若林は、わからなくて、
「何が有効なんですか?」
「2号車に戻るんだ!」
と、清水は、駈《か》け出していた。
「ちょっと、トイレに行ってくる」
亀井が、立ち上った。
日下と、西本も、同時に立ち上って、
「われわれも、一緒に行きますよ」
と、日下がいった。
亀井は、手を振って、
「連れションなんて、やめてくれよ」
「そうはいきません。一緒に行きます」
「お前さんたちが、ぞろぞろついて来たんじゃ、犯人も、出て来なくなるよ。こちらの目的は、犯人に出て来て貰って、それを逮捕することにあるんだからな」
「わかっています。うまくやりますよ」
日下が、先に立って、通路を歩いて行った。
次に、亀井が歩き、そのあとから、西本が続いた。亀井を、サンドイッチにする形だった。
亀井が、トイレに入る。
日下が、洗面所で、手を洗いながら、周囲をうかがい、西本の方は、少し離れた場所に、トイレが、空くのを待っている恰好《かつこう》で、立っていた。
時々、乗客が、通って行く。
そのたびに、二人の刑事は、鋭い眼つきになった。
だが、何事もない。
用をすませて、亀井が、出て来た。
亀井は、洗面所で、手を洗いながら、
「そんなに心配しなさんな」
と、いった。
中年の女性が、通りかかって、西本に、
「空いてます?」
と、きいた。
西本が肯くと、その女は、トイレに入って、ドアを閉めた。
次の瞬間、トイレの中から、「わあッ」という悲鳴が聞こえた。
「どうしたんです?」
と、西本が、あわててきいた。
だが、応答がない。
西本は、ドアを叩き、
「どうしたんです!」
と、叫んで、ノブに手をかけた。
強引に、ドアを開けた。
中から、女が、ふらふらと、西本に、倒れかかって来た。
「大丈夫ですか?」
と、西本が、きいた時である。
ふいに、西本は、突き飛ばされた。女とは思えぬ強い力だった。
小柄な女は、トイレの前に立ちはだかり、ハンドバッグから取り出した拳銃《けんじゆう》を構えた。
その銃口の先に亀井がいた。日下は、その背後《うしろ》にいる恰好になってしまっている。
トイレや、洗面所のあたりの通路は狭いので、日下は、亀井の前に出ることが出来ない。
西本の方は、女に突き飛ばされたとき、洗面所の壁に後頭部をぶつけて、気を失ってしまっていた。
「亀井さん。命を貰うよ」
と、女は、男の声になっていった。
亀井は、じっと、女の顔を見つめた。
どう見ても、中年の女性だった。小柄で、細っそりとした、どちらかといえば、美しく見える女だった。
「そうか。原勝一だな?」
と、亀井が、いった。
「ああ、そうだ」
「私を殺して、一千万円にありつくのか?」
「金が貰《もら》えなくても、おれは、あんたを殺したいよ」
「じゃあ、なぜ、すぐ、射たない?」
「死に急ぐこともないだろう」
原は、ニヤッと笑い、ちらりと、腕時計に眼をやった。
(そうか)
と、亀井は、思った。
原は、亀井たちを射殺しておいて、次の停車駅、長岡で、逃げる気なのだ。
この列車の長岡着は、一六時一五分の筈である。一分停車で、発車。
あと、五、六分は、長岡まで、かかる筈である。つまり、それまで、原は、亀井たちを射たないだろう。
もちろん、亀井たちが動けば、この男は、容赦なく、射ってくるだろう。亀井の知る限り、原は、冷静で、冷酷だ。
「片山婦警と、クラブ『ゆき』のバーテンを殺したのは、君だな?」
亀井は、原に、話しかけた。
原は、また、腕時計を見た。
「名前は知らないが、邪魔になる二人を殺した」
「なぜ、片山婦警を殺したんだ? 私を殺すのなら、なにも、婦警を殺すことはなかったろう?」
「死んで行く人間に、説明する必要はない」
「殺したバーテンに、なぜ、かつらをかぶせたり、化粧をしたりしたんだ?」
清水は、走っていた。
(犯人が、殺したバーテンに、かつらをかぶせたり、顔に化粧をほどこしたりしたのは、死体をかくすためじゃない。その効果を、試すためだったんだ)
そう考えれば、犯人も、かつらをかぶり、化粧している可能性がある。
原勝一は、小柄で、細面だ。女装したら、本物の女に見えるのではないか。
かつらも、どれが、より女らしく見えるかわからないので、余分に持って来ているに違いない。
その一つを、殺したバーテンにかぶせて、その効果を試したのだ。
片山婦警も、バーテンも、相手が女だと思い込んでいたので、油断して、あっさり殺されてしまったのだ。
犯人は、変装させたバーテンの死体が、なかなか、見つからなかったことで、自信を持ったに違いない。
と、すれば、原は、自信を持って、亀井刑事に近づくかも知れない。
(もう、襲撃しているのではあるまいか?)
清水の顔が、こわばっていた。
若林は、わけがわからないながら、何か、事件の予感を感じて、清水のうしろを、駈けていた。
5号車、4号車と、走り抜けた。
乗客が、あっけにとられて、通路を走って行く清水と、若林を眺めている。
轟音《ごうおん》を立てて、列車が、信濃川の鉄橋を渡った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――間もなく、長岡に停車します。上越新幹線に乗りかえの方は――
[#ここで字下げ終わり]
車内放送が、聞こえた。その声が、清水の不安をかき立てる。
3号車のドアのところまで駈けて、清水は、急に足を止めた。
ドアの窓の向うに、拳銃を構えている女の姿が、見えたからである。
列車は、長岡の街に入った。
間もなく、駅に着くだろう。誰《だれ》が考えても、犯人は、亀井を射っておいて、すかさず、ホームに降り、人混みの中に、姿を消す気だとわかる。
西本刑事が、床に倒れている。
拳銃の向うに、亀井が、立っている。
清水は、内ポケットから、拳銃を取り出し、安全装置を外した。
ドアを、そっと開ける。
身体を低くして、ドアの外に滑り出ながら、
「原ッ。逮捕するぞ!」
と、怒鳴った。
列車は、もう、ホームに入っている。スピードが落ちている。
女装した原が、ぎょっとした顔で、振り向いた。
「拳銃を捨てろ!」
清水が、叫ぶ。
「射て!」
と、誰かが、怒鳴った。
しかし、清水は、射てない。人間を射ったことがなかったからだ。
原が、先に射った。
手製の消音器《サイレンサー》がついているので、ぶすッという鈍い音が聞こえただけだった。
清水の顔を、弾丸が、かすめた。
「清水、射て!」
また、誰かが、叫んだ。
しかし、清水が、引金をひくより先に、亀井が、背後から、原に、飛びかかっていた。
二人が、折り重なって、床に倒れる。
原が、倒れながら、更に、一発、二発と、射った。
弾丸が、床に当って、はね返り、もう一発は、天井にめり込んだ。
亀井が、押さえつけて、手錠をかけた。
「大丈夫ですか?」
清水が、声をかけた。
「大丈夫だ。君のおかげで、助かったよ」
と、亀井が、いった。
長岡の駅は、上越新幹線が、通るようになって、近代的な駅ビルになっている。
「白鳥3号」は、一六時一五分、長岡駅に着いた。
かなりの乗客がおりたのは、上越新幹線に乗るためだろう。
また、乗ってくる客も多い。
十津川と、亀井は、ここでも、駅長に連絡して、逮捕した原勝一を、降ろすことにした。
鉄道公安官が、やって来て、原を引き取った。県警に連絡して、原を、訊問することになるだろう。
三分おくれて、「白鳥3号」は、長岡を、発車した。
「もう、中止してもいいんじゃないかね?」
十津川が、亀井に、いった。
「いや、青森まで、このまま、行きたいと思います」
亀井は、がんこにいった。
「しかし、カメさん。原勝一も、逮捕されたんだ、彼は、片山婦警と、『ゆき』のバーテンを殺したことを認めている。それに、彼も、百万円の小切手を貰っていた。調べることは、もうないんじゃないか。あとは、久原夏子という女を、逮捕するだけだ。それは、この列車に乗っていなくても、出来ることだし」
「そうかも知れませんが、原が、一千万円の主を、本当に知っているかどうかわかりません。それに、私が、途中で止めて、引き返したら、卑怯者と呼ばれかねません。長岡まで行ったが、怖くなって、中止したと思われるのは、絶対に、我慢ができないのです。だから、このまま、青森まで行きたいと思います」
亀井は、きっぱりと、いった。
十津川は、苦笑した。
「君は、がんこだねえ」
「そうです。私は、がんこです」
と、亀井は、笑った。
「あと、青森まで、七時間ですが、カメさんは、その間に、また、誰かが、襲ってくると思っているんですか?」
西本が、頭を押さえながら、きいた。
「頭は、大丈夫か?」
亀井が、心配そうに、きいた。
「もう大丈夫です。一時的な脳震盪《のうしんとう》ですから」
と、西本は、いってから、
「カメさんは、また、襲って来ると思ってるんですか?」
「間違いなく、来ると思うね」
「しかし、原勝一も、後藤正也も、すでに、逮捕されているんです」
「ああ」
「それでも、まだ、やって来ると、思われるんですか?」
西本が、重ねてきくと、亀井は、
「後藤も、原も、個人的に、私を憎んでいたにしても、いわば、一千万円の金に釣られて、襲って来たんだ。もう、傭《やと》われの殺し屋は、現われないだろう。あと残っているのは、一千万円の主と、そいつに近い人間だけだ。一千万円の主は、後藤や、原が失敗したとわかれば、自分で、この列車に乗り込んでくることも、考えられるよ」
「そういえば、その主と思われる久原夏子は、スーツケースを持って、今朝から、自宅のマンションを出ているそうです」
「どうしても、久原夏子という名前に、心当りがないんだが、もし、その女が、私を殺したいほど憎んでいるのなら、最後には、自ら、この列車に乗ってくると思うね」
だが、亀井のいい方には、いつもの断定するような強い調子は、なかった。
いくら考えても、久原夏子という名前を、思い出せないからである。
五十歳近くなって、多少は衰えたといっても、亀井は、記憶力には、自信があった。
自分が捜査した事件のことは、全部、覚えている。逮捕した犯人の名前も、もちろんだが、その家族の名前もである。被害者についてもだった。
そうした関係者の名前の中に、久原夏子の名前は、ない。
西本は、プライベイトなことではないかといった。
事件に関係した人間でないとすれば、西本のいうように、プライベイトな関係かも知れない。
亀井は自分の家庭のことを、考えてみた。
妻と、子供二人の平凡な家庭である。家は、公団住宅である。
同じ棟にいる四十世帯の人たちのことを、全部知っているわけではないが、別に、喧嘩《けんか》をしてはいない。何かの催しがあれば、なるべく、出席するようにしている。
第一、高級マンションに住んでいる女と、問題が起きる筈がないだろう。
酒は、嫌いではないから、飲む時もある。しかし、同僚と一緒に、ビア・ガーデンで飲むことはあるが、あとは、たいてい、家で、晩酌を楽しむくらいのものである。
銀座や、新宿の高いクラブで飲んだことは一度もない。
事件の捜査に、銀座のクラブに、聞き込みに行ったことはあるが、「チボリ」という店へ行ったことはなかった。
それに、聞き込みに行ったくらいで、恨まれたのでは、たまらない。
あとは、知らずに、相手を傷つけてしまっている場合である。
例えば、亀井の車を、誰かが借りて運転し、その時、人身事故を起こす。轢《ひ》かれた人間なり、家族なりは、車の持主である亀井を恨むだろう。
亀井は、とっさに、そんなことを考えたが、あいにく、亀井は、二年前に、車を手放してしまっているし、それまでに、事故を起こしたことはなかったし、他人《ひと》に貸したこともない。
(わからないな)
と、亀井は、思った。
自然に、腹立たしくなってくる。理由《わけ》がわかっていて、生命《いのち》を狙われるのならいいが、何故なのかわからずに狙われるぐらい、腹立たしいことはない。
わからないままに、亀井は、窓の外に眼をやった。
長岡から、平行して走っていた上越新幹線の線路が、次第に離れて行き、視界から消えた。
越後平野の水田が、広がっている。
秋になれば、黄金の波になるのだろうが、今は、水の少い水田が、ただ、広がっているだけである。
陽が落ちかけて、夕暮が近づいていた。
金物の町といわれる東三条に、二分おくれて、一六時三六分に着いた。
ここは、三十秒で発車した。
次は、新潟である。三十分間は、停車しない。
「少し早いですが、食堂車へ行って来ようと思います」
と、亀井は、十津川に、いった。
「大丈夫かな?」
「少し運動をしたいと思います。それに、この時間なら、すいていると思いますから」
「私も、一緒に行こう」
と、十津川も、立ち上った。
「私たちも、行きます」
日下たちも、腰をあげかけたが、亀井はそれを制止して、
「大丈夫だよ。そんなに大勢で、ぞろぞろ歩いたら、出かけたお化けも、引っ込んでしまうじゃないか」
「しかし――」
「少しあとから来てくれ」
と、十津川が、いった。
十津川と、亀井は、並んで、食堂車へ歩いて行った。
まだ五時前なので、亀井のいった通り、食堂車は、空《す》いていた。
二人は、向い合って、腰を下した。
「わがままをいって、申しわけありません」
と、亀井が、いった。
十津川は、メニューを見ながら、
「何が?」
「気分的に、動きたかったものですから」
「わかるよ。何時間も、じっとしていたんでは、身体《からだ》よりも、精神的に、参ってしまうからね」
十津川は、二人分のビールを、まず頼んだ。
あとは、十津川が、シチュー定食を注文し、亀井は、いかの姿焼きを頼んだ。
ビールで、ここまでの無事を祝して、二人で乾杯していると、いつの間にか、入口近くのテーブルに、日下と西本が、身体を小さくして、腰を下していた。
彼等も、2号車に、落着いていられなかったのだろう。
何という川かわからないが、小さな鉄橋を渡った。
相変らず、窓の外には、水田が、広がっている。
「秋になると、素晴らしい景色になるでしょうね」
亀井は、箸《はし》を動かしながら、いった。
「この辺のお米は、コシヒカリだったかね」
十津川が、いったとき、食堂車に、専務車掌が、入って来た。
長岡で、逮捕した原勝一をホームに降ろす時などに、協力して貰ったので、顔見知りになっていた。
相手は、まっすぐ、十津川たちのテーブルに近づいて来て、
「十津川警部に、これを渡してくれと、東三条で頼まれました。2号車へ行ったんですが、おいでになりませんでしたので」
と、白い封筒を渡した。
「東京からの連絡かな?」
「いや、そうじゃないと思います。駅員が、乗客の一人に頼まれたそうですから」
「乗客に?」
十津川は、裏を返してみた。
名前は、書いてなかった。表には、「白鳥3号内十津川警部殿」と、ある。
ボールペンのきれいな字だった。
「東三条の駅員は、そういっておりました。なんでも、午後二時頃、中年の女性に頼まれたそうです。『白鳥3号』に、警視庁の十津川という警部さんが乗っている筈だから、これを、ぜひ、渡して欲しいとです」
それだけいって、専務車掌は、帰って行った。
十津川は、セロテープで閉じている封筒をはがしてみた。
中に、便箋《びんせん》が一枚、入っていた。
〈青森に着くまでに、お前の部下の亀井刑事を、必ず、殺してやる〉
それだけ、書いてあった。
十津川は、黙って、その便箋を、亀井に見せた。
亀井は、読み終ってから、
「犯人は、どういう気なんだろうかね。私だけでなく、警部にまで、こんな挑戦状を寄越すなんて」
と、眉《まゆ》をひそめた。
「わからんね」
「私だけ脅かせばいいのに、どうも、申しわけありません」
「いや、相手は、警察全体が憎いのかも知れないな」
「そうでしょうか」
「人間の命に一千万円の金をかけるというのが、そもそも、異常なんだ。相手は、そのうちに、警視総監にだって、手紙を出して、カメさんを殺すと、いうかも知れないよ」
「手紙の主は、なぜ、警部が、この列車に乗っていることを知っていたんでしょうか?」
亀井が、きいた。
十津川は、笑って、
「君と私のコンビは、有名だからね。カメさんが危いとき、私が、傍にいない筈はないと、相手は、考えたんだろう」
「専務車掌は、中年の女が、手渡したといっていましたね」
「この手紙の字も、明らかに、女のものだよ」
「久原夏子という女でしょうか?」
「多分、そうだろうね」
「しかし、どうしても、その名前に、心当りがないんですよ。どうも、こういうのは、嫌なものです。なぜ、自分が狙われるのか、わかりませんからね。それが、はっきりすれば、戦いの仕方もあるんですが」
「新潟で、久原夏子の写真が、見られるそうだから、写真を見ると、何かわかるかも知れないよ。君の前では、偽名を使っていたのかも知れないからね」
「そうですね」
亀井は、もう一度、手紙に、眼を落とした。
(犯人は、おれを殺すだけでは、あき足らないのだろうか?)
十津川と、亀井は、食堂車を出るとき、日下たちに、手紙を渡して行った。
日下と、西本は、テーブルで、手紙を読んだ。たった二行だから、すぐに読めた。
二人は、すぐ、席を立って、十津川と、亀井を追った。
通路を歩きながら、日下が、
「犯人は、何を考えているんだろう?」
「カメさん一人を狙うんじゃ、満足できなくなって、十津川警部まで、脅かしてるのさ。可愛《かわい》い部下を殺すぞといってね」
「すると、犯人は、カメさんだけを恨んでいるんじゃなくて、警察全体を憎んでいるのかな?」
「その可能性はあるね。だから、カメさんが扱った事件をいくら調べても、久原夏子の名前が、浮んで来ないのかも知れないぜ」
2号車に落ち着くと、日下は、清水と、若林にも、犯人からの手紙を見せた。
手紙を見るまで、日下や、西本たち、いや十津川も、久原夏子という女が、よくわからなかった。狙われている当の亀井もである。
この手紙を見たことで、少しは、わかったといっていい。
とにかく、彼女が、一千万円をかけて、亀井を殺させようとしていることが、ただの遊びではなく、根深い怨恨から出ていることがわかった。実感として、わかったということである。
十津川も、亀井も、改めて、覚悟を決めた。
久原夏子本人が、この列車に乗り込んで来ることも考えられるが、彼女は、金持ちらしいから、金で傭《やと》った殺し屋を、乗せてくるかも知れない。
一千万どころではなく、二千万、三千万も払うと約束してである。
十津川は、そんなことを考えながら、窓の外を見つめた。
暮色が、越後平野を蔽《おお》ってきた。
雨が降るのかも知れない。
東三条から、列車は、再び、海岸に向って、北上する。
一度、別れて行った上越新幹線の線路が、また、近づいて来る。
間もなく、新潟である。
人口四十六万人。日本海側を代表する都市である。
上越新幹線を合せて、巨大な駅ビルになった新潟駅のホームに、「白鳥3号」は、ゆっくりと、入って行った。
一七時〇八分。
新潟到着。定刻通りである。
信越本線の終着駅で、ここから、白新線《はくしんせん》に入り、新発田《しばた》まで行き、羽越《うえつ》本線に入って行く。
新潟から、白新線に入るとき、スイッチバックの形をとるため、「白鳥3号」は、進行方向が、逆になる。
機関士も、ここで、交代する。
乗客も、大半が、ここで降り、また、大勢の乗客が乗って来る。乗客が、入れかわる感じだった。
そのため、「白鳥3号」は、新潟で、十七分間停車する。
ホームの売店に、駅弁を買いに走る乗客もいる。
2号車に、新潟県警の刑事が二人、乗り込んで来た。
「警視庁の十津川警部ですか?」
と、刑事の一人が、きき、十津川が、肯くと、電送されてきた久原夏子と、磯見茂樹の写真を渡した。
「この写真は、彼女のマンションにあったものだそうです」
と、その刑事は、説明した。
「この他に、写真は、なかったのかな?」
と、十津川が、きいた。
「室内をいくら捜しても、これ以外に、写真や、手紙は、一つもなかったということです。多分、処分したのだろうと」
「その他に、伝言は?」
「幸田圭吾も、姿を消したそうです。そういえば、わかるということでした」
「ああ、わかる」
「われわれも、青森まで、同乗して行きましょうか?」
「いや。結構だ。あまり、ガードが固いと、犯人が、顔を出さなくなるからね。それでは、わざわざ、この列車に乗った理由がなくなってしまうよ」
亀井が、笑いながら、いった。
県警の刑事二人は、「お気をつけて」と、いい残して、降りて行った。
なかなか、列車は、発車しない。
ホームに降りて、屈伸運動をしていた若い清水と、若林の二人が、車内に入って来た。
ベルが鳴った。
あわただしく、乗り込んで来る乗客がいる。
「白鳥3号」は、進行方向を逆にして、発車した。
座席の方向を、直している乗客もいる。
十津川たちは、座席を向い合せにして、座った。
「いよいよ、後半の始まりですね」
と、日下が、緊張した声で、いった。
亀井は、県警の刑事が渡した写真を見ていた。
久原夏子と、磯見茂樹という男が、並んで写っている。
なかなか、美人だった。
(この女が、おれの首に、一千万円の賞金をかけているのか?)
もっと、眼つきの鋭い女かと思っていたのだが、写真を見る限り、優しい眼つきをしていると思う。
むしろ、男と並んで、幸福そうな顔をしている。
(この幸福を、おれが、毀《こわ》したとでもいうのだろうか?)
だが、男の方にも、亀井は、心当りがなかった。
磯見茂樹という名前にも、記憶がない。
(この女は、人違いして、おれを狙っているのではないのか?)
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第八章 動機を追って
本多捜査一課長は、腕時計を見た。
今度の事件では、舞台が列車のせいか、やたらに、時計が、気になるのだ。
部屋には、特急「白鳥3号」の時刻表が、書いて、貼《は》ってある。
午後五時四十分になったところだった。
「白鳥3号」の新潟発が、一七時二五分だから、発車して、間もない頃である。
新潟から先の到着時刻と、発車時刻は、次のようになっていた。
――――――――――――――――――――――――――――
新発田  17:49
坂町   18:06(着)
18:08(発)
村上   18:18
あつみ温泉19:01
鶴岡   19:24(着)
19:25(発)
酒田   19:45(着)
19:47(発)
羽後本荘 20:39(着)
20:40(発)
秋田   21:15
――――――――――――――――――――――――――――
最終の青森着は、二三時五一分で、あと、六時間少々である。
全行程の半分以上を、過ぎたことになる。
ここに来るまでに、何度か、亀井が狙《ねら》われた。
その巻き添えの形で、片山婦警が殺された。
クラブのバーテンが殺されたのも、根は、同じだろう。そして、二人の男が、車内で逮捕された。
これで、事件は、終ったとは思えない。一千万円の懸賞金を出すと思われる人間は、まだ、捕っていないからだ。
あの一千万円が、生きていると思えば、亀井を狙う人間は、まだ、現われるだろう。
片山婦警が殺された時点で、本多は、この計画を中止しようと考えた。管理者として、部下の犠牲は、堪えがたいからである。
それに、マスコミは、この計画を、馬鹿げたものと、いうだろうという予測もある。
若い婦人警官を犠牲にしてまで、なぜ、亀井が、特急「白鳥」に乗らなければならないのかと、批判するだろう。
また、その列車に、十津川たちまで乗り込んで、その間に、東京で、別の事件が起きたら、どうするのかという批判も起きるに違いない。
十津川も、やめさせようとしたらしい。
だが、亀井は、拒否して、青森まで、行くと主張した。
亀井は、頑固な男だが、頑固だから、行くと、主張したのではなかったろう。もし、そうなら、亀井が、何といおうと、本多は許可しなかったし、十津川も、同じだったと思う。
警察官は、犯罪者になめられたら、その瞬間、警察官としての存在理由を失ってしまう。そのことを、亀井も、本多も、十津川も、よく知っていたからである。
この三人の中でも、もっとも強く、身体《からだ》で感じているのは、実際に、捜査に当る亀井や、十津川に違いない。
犯罪者からの挑戦は、いかなる時でも、どんな状況でも、受けて立たなければならない。逃げた瞬間、大げさにいえば、刑事は、刑事でなくなってしまう。
今度が、それだった。
今、亀井が逃げ出したら、犯罪者たちは、きっと、警察を小馬鹿にするだろう。懸賞金を出して、命を狙えば、警察はおじけづくと思われたら、警察は、うまく、機能しなくなってしまうに違いない。
だから、亀井は、どんなことがあっても、青森まで行くと、主張したのだ。
青森まで、無事に着くことが出来たら、一千万円の懸賞金を目当てに、亀井を殺そうと考えていた連中は、これは無理だなと思って、諦《あきら》めるだろうし、一千万円を出した奴は、面目を失うことになる。
警察の権威が保たれる。常識では、どんなに馬鹿げて見えようと、警察にとって、このことが、大事なのだ。
権威を失った警察は、もはや、警察ではない。
だから、あと六時間、亀井は、「白鳥3号」に、乗っていなければならないのだ。
東京にいて、本多が、サポート出来ることは、一千万円を出した人間を、見つけ出して、亀井が、なぜ、恨まれているかの理由を解明し、逮捕することである。
こちらは、六時間以内に、解決しなければならない。その時間が、短ければ、短いほど、亀井の危険の度合いは、小さくなるのだ。
「久原夏子という女のことを、徹底的に、調べるんだ。恋人と思われる磯見茂樹という男のこともだ。そして、彼女が、どこで、どうカメさんとつながるのかもだ」
と、本多は、改めて、部下たちに、いった。
木本と金子の二人の刑事は、久原夏子の過去を追って、横浜に来ていた。
夏子は、現在、東京四谷のマンションを住居にしているが、一年半前までは、横浜に住んでいた。
そこで、何かあったのではないか。横浜市内で、事件を起こしたとすると、神奈川県警の仕事だから、こちらで、知らなくても、不思議はない。
横浜の伊勢佐木町《いせざきちよう》といえば、有数の繁華街である。
メモして来た住所は、この一角だろうと思うのだが、なかなか、見つからない。
裏通りへ入って行って、聞き廻ったが、見つからず、更に、その裏へと足を運んで、やっと、突き止めることが出来た。
どこの繁華街にも、必ずある、裏通りの、陽のほとんど射さない、すえた匂《にお》いのする場所だった。
小さな飲み屋とか、ラーメン屋などが、肩を寄せ合うようにして、建ち並んでいるのが眼に入った。
多分、市街地再開発で、そのうちに消えてしまうだろう。
「ああ、ここらしい」
木本が、ラーメン屋の看板を見て、同僚の金子にいった。
「元祖長崎ラーメン」という大きな看板がかかっているが、カウンターだけで、それも五、六人で一杯になりそうな小さな店である。五、六坪しかないだろう。二階建で、二階に住み込んでいる感じだった。
二人の刑事が、意外そうな顔をしたのは、現在の久原夏子のことが、頭にあったからである。
豪華マンションに住み、一千万円を越す時計を持っている夏子である。前に住んでいたところも、大きな邸だろうと思い込んで、横浜に、やって来たのである。
それが、小さなラーメン屋だったというのが、木本たちには、意外だったのである。
二人の刑事は、店に入り、カウンターに腰を下して、ラーメンを注文した。
夫婦者らしい中年の男女が、やっていた。
小柄なかみさんが、水を配り、おやじが、ラーメンを作っている。
三百五十円のラーメンは、味が良かった。
他に一人、先客がいたのだが、木本たちが食べている間に、店を出て行った。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだがね」
木本が、二人分の料金を払ってから、カウンターの向うにいるおやじに、声をかけた。
「何だね?」
「ここに、前に住んでいた人のことを聞きたいんだ。この人だが、知らないかね?」
木本は、久原夏子と、磯見茂樹の二人が並んでいる写真を、おやじに見せた。
「あんた方、誰なんだい?」
おやじは、写真を見ながら、きき返した。
木本は、黙って、警察手帳を見せた。
「ふん」
と、おやじは、鼻を鳴らしてから、
「女の人には、会ったことがあるよ」
「それは、いつだい?」
「ここを買う時さ。前の持主に会ったんだ。それが、この女の人さ」
「名前は、何といっていたかね?」
「ええと、何といったけな?」
おやじが、きくと、かみさんが、
「夏子さんよ。何とか夏子さん」
「ああ、そうだ。夏子さんだ」
「久原夏子?」
「ああ、そうだよ。その夏子さんだ。すごい美人だったね」
「彼女も、ここで、ラーメン屋をやっていたのかね?」
「いや、ここでは、小料理屋をやっていたね」
「ひとりで?」
「ああ、ひとりでやっていたみたいだよ」
おやじがいうと、話好きらしいかみさんの方が、
「あの人、昔《むかし》は、モデルをやっていたんですってねえ」
と、二人の刑事の方へ寄って来た。
「よく知ってるんだねえ」
金子が、微笑した。
かみさんは、ますます、身を乗り出して来た。
「生れも良かったし、美人で、モデルなんかもやっていたから、いい人と、結婚したんですって」
「その人の名前は、知っている?」
「ええ。磯なんとかいう人ですよ。立派なお医者さんだって、聞きましたがねえ」
「じゃあ、その写真の男の人だよ。磯見という人だ」
「この人なんですか」
「その人が、今、どこにいるか、知ってるかね?」
「死んだんですよ。この人」
「本当か?」
「ええ。夏子さんに、聞きましたもの」
「どこで、いつ、亡くなったんだ?」
「東京でだそうですよ。くわしいことは、話してくれませんでしたけどね」
「東京のどこでだろう?」
「東京の高級な住宅地でといってたけど、私は、東京の町は、よく知らないから」
「磯見さんが、亡くなってから、ここへ来たんだろうか?」
「旦那さんでしょう。旦那さんが死んでから、何もかも、うまくいかなくなって、横浜へ来て、小料理屋をやってたといってましたよ」
「そのあとは?」
「また、東京に行くことになったっていってましたよ。お金が入ったといって、この店を安く売ってくれたんですよ。お礼をいわなきゃいけないんだけど、今、どこにいるかわからなくて」
「銀座で、クラブのママをやってるよ」
「へえ。あの人は、似合うかも知れねえな」
おやじが、感心したように、いった。
金が入ったというのは、パトロンのことだろう。
パトロンの五十嵐は、どこで、夏子と、知り合ったのだろうか?
たまたま、横浜に来て、夏子を知ったのか? それとも、前からの知り合いなのだろうか?
「彼女から、五十嵐という名前を聞いたことはないかね? 東京で、ピノキオというフランス料理の店をやっている男なんだが」
木本は、おやじと、かみさんの両方にきいてみた。
二人は、顔を見合せていたが、かみさんの方が、
「五十嵐というのは、聞いたことがないけど、ピノキオという名前は、聞きましたよ」
「どんな風に?」
「夏子さんがね。東京のピノキオって、店を知ってるかって、あたしに、きいたことがあるんですよ。高い店だってことは知ってたから、名前だけは知ってるって、いったんです。そしたら、笑って、あそこの社長を知ってるって、いってましたよ。あれ、本当なんですか?」
「ああ、本当だよ。彼女のことなんだが、ここに来る前、東京のどこに住んでたか、わからないかね?」
「今いったみたいに、高級住宅地ということしか、わかりませんねえ」
「高級住宅地というと、田園調布《でんえんちようふ》、成城学園《せいじようがくえん》、等々力《とどろき》なんかがあるんだけど、そのどこかわからないかね?」
「そうねえ」
と、かみさんは、首をかしげて、ちょっと考えていたが、
「ロマンスカーが走ってる私鉄のことを、話してたわ」
「じゃあ、小田急線だ。そうすると、成城学園かな」
二人は、帰りに、成城学園に寄った。
駅前の派出所で、木本が、そこにいた若い警官に、
「この辺りに、磯見茂樹という医者がいた筈なんだ。知らないかね?」
「それは、いつ頃のことですか?」
警官は、緊張した顔で、きき返した。
「わからん。二年前かも知れないし、三年前かも知れない。もっと前かも知れん」
「調べてみます」
警官は、部厚い住民調査の台帳を何冊も持ち出して来て、調べ始めた。
そのうちに、「ありました」と、眼を輝かせた。
「三年前の台帳にありました。磯見茂樹。奥さんがいますよ。名前は、夏子」
「やっぱり、いたか。君は、三年前から、ここに勤務しているのか?」
「いえ。去年からです。今、警邏《けいら》に出ている吉田巡査は、五年前からと聞いていますが」
「もう一つ。三年前の台帳に、五十嵐明という名前はないかね?」
と、金子が、きいた。
或いはという気持があったからである。
彼の想像は、当っていた。
現在、五十嵐は、奥沢の邸宅に住んでいるが、三年前には、成城学園に、住んでいたことがわかった。しかも、磯見夫婦の家の近くである。
木本と金子は、その番地に行ってみた。
高級住宅が建ち並ぶ辺りで、磯見が、病院をやっていたところには、白井という名前の小児科の看板が出ていた。
二人は、中年の白井医師に、会った。
小児科の医者らしく、ニコニコと、人をそらさない笑顔の白井は、木本の質問に対して、
「この病院は、不動産屋の紹介で買ったんですよ。ですから、前に、ここで、内科病院をやっていた磯見という方には、会ったことがないんですよ」
「どんな人だったかも、聞いていませんか?」
「いや、不動産屋さんから、いろいろと、聞きました。亡くなったということも」
「どういう話を聞いたんですか?」
「お子さんがいて――」
「子供がいたんですか?」
「ええ。三歳になる男の子がいて、その子が車にはねられて、そのうえ、手当てがおくれたので、植物人間みたいになってしまって、大変な治療費が、かかったということですよ」
「その子供は、どうなったんですか?」
「亡くなったと聞きましたね。この先に、多門《たもん》総合病院というのがありますが、そこに入院していたと聞きました」
「磯見さんも、亡くなったというのは、ご存知ですか?」
「ええ。知っています。自殺なさったんですよ」
「自殺?」
「ええ。私は、そう聞きましたが」
「子供をはねた車ですが、警察の車じゃなかったですか?」
金子がきくと、白井は、手を振って、
「それは違いますよ。犯人は捕まったと聞きましたから。なんでも、未成年で、車も、盗難車だったそうです。それで、治療費も、払って貰えなかった。おかげで、この病院も、借金のかたに取られたと聞きましたね。家族の中に、ああいう病人が出たら、たちまち、経済的に、破滅してしまいますね。困ったことです」
「多門病院ですね?」
「そうです。この前の通りを、車で、十二、三分のところにある病院です」
二人の刑事は、その多門病院を訪ねた。
すでに、診療時間は過ぎているので、大きな病院は、ひっそりと、静まり返っている。
木本たちは、院長に会った。
「ああ、磯見さんのお子さんのことなら、覚えていますよ」
と、六十二、三歳に見える白髪《しらが》の院長は、おだやかに、肯いた。
「三歳だったそうですね?」
「そうです。可愛い男の子で、名前は、夏樹といったと覚えています。なんでも、ご主人と奥さんの名前から、一字ずつとってつけたとか」
「植物人間だったと、聞きましたが」
「ええ。一年間、入院していました。あらゆる手段をつくしたんですが、とうとう駄目でした」
「一年間というと、大変な出費だったでしょうね?」
「そうですね。磯見さんは、可能なかぎり、手当てをして欲しいということで、新薬も、いろいろと使いましたからね」
「手おくれだったので、植物人間になってしまったとも、聞いたんですが、本当ですか?」
「そうですね。あと、五、六分早く連れて来てくれていたら、助かったと思いましたね。脳挫傷《のうざしよう》だったんですが、もう少し早ければ、手術が成功したろうと、今でも、残念でならないんです」
「車にはねられたのは、ご存知ですか?」
「ええ。知っています」
「早く運んで来ることも、出来たんでしょうか?」
「そこのところが、よくわからないんですよ。とにかく、救急車で運ばれて来たんですが、その時には、手おくれになっていたんです」
「磯見さん夫婦には、会ったことがありますか?」
「ええ。もちろん」
「磯見さんが、亡くなったことも、知っていますか?」
「ええ。自殺してしまったと聞いて、びっくりしたんです」
「なぜ、自殺したんですかね?」
「そうですねえ。お子さんが、意識の戻らないままに、亡くなってしまった。その上、借金で、病院も手放さなければならなくなった。そういうことが、重なったんじゃないかと思いますがねえ」
「はねたのは、未成年だということですが?」
「ええ。全く、弁償能力のない少年でしてね。ああいう少年に、はねられたら、もう、どうしようもありませんね」
院長は、怒りをこめて、いった。
そのあとで、思い出したように、
「磯見さんが、自殺した理由は、もう一つあったと思いますよ」
「何ですか? それは」
「確か、あの日は、八幡神社のお祭りだったんです。九月二十八日です。磯見さんは、息子《むすこ》さんを連れて、そのお祭りに行って、息子さんが、はねられたんですよ」
「それで、息子さんが、植物人間になったのは、自分の責任だと、思ったということですか?」
「そう思いますよ。磯見さんは、誠実な人で、それだけに、自分を責めたんでしょう」
「奥さんの夏子さんとは、話をなさったことがありますか?」
「ええ。病院に、よく来られていましたからね。きれいな方でしたよ」
「子供が三歳というと、かなりおそく生れたようですね?」
「ええ。高齢者出産でしょうね。それだけに、なおさら、可愛がって、いらっしゃいましたね」
「はねた犯人のことは、恨んでいたでしょうね?」
「ええ。そうでしょうね」
「磯見の奥さんの印象は、いかがでした?」
「きれいな人だというのが、最初の印象でしたね。表面は、優しいが、芯《しん》は強い人だと思いましたよ」
と、院長は、いう。
少しずつ、事情がわかって来た。
問題の久原夏子という女性のことも、わかって来た。
(だが、どこで、亀井刑事と、つながるのだろうか?)
それがわからなくては、どうしようもない。
「磯見さんの自殺は、どんな具合だったんですか? 何か、疑惑があったんじゃありませんか?」
木本がきくと、院長は、首を横に振った。
「実は、警察に頼まれて、私が、死亡診断書を書かせて貰ったんですが、別に、不審な点は、なかったですよ。農薬を飲んで亡くなったんですが、遺書も、ちゃんと、ありましたからね」
「どんな遺書だったんですか?」
「奥さんの夏子さんにあてたもので、申しわけないということが、書いてありましたよ。あのあと、奥さんは、ずいぶん苦労したと思いますねえ。とにかく、莫大《ばくだい》な借金があったみたいですから」
と、院長は、いう。
いぜんとして、亀井刑事の名前は、出て来ない。警察も、出て来ないのだ。
「子供の名前は、夏樹でしたね?」
木本は、もう一度、話を、元に戻した。
「そうです。奥さんに似た可愛らしい顔をしていましたね」
「車にはねられた時の警察の対応が、磯見さんや、奥さんを、怒らせていたということは、ありませんでしたか?」
「どういうことですか?」
「加害者の肩を持ったり、処理の仕方が、もたもたしていたりといったことですが」
「それはなかったと思いますよ。翌日には、犯人の少年を逮捕していますからね。ただ、犯人が未成年で、盗難車なので、子供の治療費が犯人側から出なかったんですが、それは、警察の仕事じゃありませんからね」
「犯人の家庭というのは、どんなだったんですか?」
「父親がいない母子家庭で、少年は、シンナーなんかも、吸っていたようです。治療費を出す余裕なんか、全くありませんよ」
やはり、亀井刑事は、出て来ない。
「亀井という名前を、磯見さんか、奥さんから、聞いたことは、ありませんか?」
と、金子が、きいた。
院長は、「カメイ?」と、口の中で、何回か、呟いていたが、
「聞いたことはありませんねえ」
と、いった。
結局、亀井刑事の名前は、出て来なかった。
木本と金子は、すぐ、警視庁に戻って、本多課長に、報告した。
本多は、満足して、聞いていた。
「久原夏子には、そういう過去があったのか」
「しかし、どうしても、亀井刑事とは、結びついて、来ないのです。その事故を処理したのは、当然、交通課で、捜査一課とは、関係ありませんから」
「五十嵐明と、久原夏子とは、成城学園時代からの知り合いというわけだな?」
「磯見夏子の時にです。五十嵐は、磯見病院に、かかっていたことがあると思いますね。家が近くですから」
「その時に、夏子に惚《ほ》れたのかな?」
「多分、そうだと思います。だが、他人《ひと》の奥さんなので、どうしようもなかった。それが、旦那が自殺して、夏子は、横浜で、小料理店を始めた。五十嵐は、探し歩いて見つけ、自分の二号にしたんだと思います」
「今度の事件の根ということを考えると、やはり、息子の交通事故ということになるんじゃないかね」
と、本多は、考えながら話した。
「この交通事故で、夏子は、最愛の子供を失い、夫まで失うことになったわけだからね」
「そうなんです。もし、この交通事故に、亀井刑事が関係していれば、彼女が、殺したいほど憎んでいたとしても、不思議は、ありません」
「そうだな」
「ところが、今も申しあげた通り、亀井刑事の名前が、浮んで来ないんです。われわれが、関与する事件じゃありませんから。磯見の自殺にしても、遺書があって、間違いなく、自殺なんです」
「うーん」
と、本多は、唸ってから、
「子供がはねられたのは、三年前の九月二十八日だったね?」
「そうです」
「その時に、亀井刑事が、何をしていたか、調べてみようじゃないか。どこかで、関係している筈だよ」
と、本多は、いった。
三年前の九月の二十八日の捜査記録を、調べることになった。
「ありました」
と、木本が、一冊の捜査記録を、本多に見せた。
「あったかね?」
「三年前の九月二十八日に、成城学園の近くで、殺人事件が発生して、亀井刑事が、出向いています」
「しかし、亀井刑事だけが、出かけたわけじゃないだろう?」
「十津川班が、この事件の捜査に当りました。十津川警部、亀井刑事、田中刑事、日下刑事、西本刑事、それに、清水刑事です」
「十津川君が、キャップだったのか。どんな事件だね?」
「連続殺人をやりながら、警察に、挑戦状を突きつけて来た事件です」
「ああ、あれか」
本多は、鮮明に、思い出した。
成城学園の近くにあるスーパーマーケットの幹部二人が、続けて殺された事件だった。
しかも、犯人は、警察と、スーパーに対して、挑戦状を突きつけて来たのだ。
それも、警察を馬鹿にしたような挑戦状だった。ワープロで書いた挑戦状は、警察とマスコミの両方に、合計、六通も、送られたのである。
〈警察の間抜け――〉
といった文章に、温厚な十津川警部も、激怒したものである。
そのスーパーから、金をゆすろうとした暴力団が断わられ、その腹いせの犯行とわかり、三人の暴力団員が逮捕されて、事件は、解決している。
第一の殺人があったのが、九月二十三日、そして、問題の九月二十八日には、二人目のスーパーの幹部が、殺されている。
十津川たちは、必死になって、犯人を追っていた時期である。
その時、たまたま、同じ成城の町で、交通事故が起きた。
しかし、それが、なぜ、亀井刑事に対する恨みに発展したのだろうか?
本多には、それが、わからなかった。
同じ殺人事件なら、片方の捜査が、おろそかになったということも考えられる。
刑事も、人間だから、大きな事件の方に熱が入りやすいし、警察が、挑戦を受けたような場合は、なおさらである。
しかし、その場合だって、別の班が捜査に当るから、片方の事件を犠牲にするようなことは、あり得ない。
まして、交通事故である。
成城署の交通係の刑事が、担当したろうから、捜査一課とは、無関係なのだ。
「わからないな」
本多は、溜息《ためいき》をついた。
やっと、つながりが見つかったと思ったのだが、肝心なところが、ぼやけてしまっている。
本多は、資料室へ行って、当時の新聞が、どんな報道をしているか、見てみた。
三年前の九月の新聞縮刷版を持って来て、九月二十九日の朝刊を開いてみた。
スーパーの幹部殺しが、一面にまで、のっている。
〈またも、「サン・スーパー」の幹部殺害さる。
同時に、不敵な挑戦状!〉
大きな見出しが、踊っている。
犯人の挑戦状というのも、そのまま、のっている。
犯人は、不敵にも、警察や新聞社に丁度、その挑戦状が着く頃を狙って、スーパーの幹部を、殺しているのだ。
〈間抜けな警察よ。
おれたちを捕まえられるものなら、捕まえてみろ!
何もわかっていないくせに、出しゃばってくるな!〉
ワープロで打たれているだけに、余計、挑戦的に、感じられた。
第一の殺人事件が解決されずにいるところへ、第二の事件が起きて、警察は、ずいぶん、マスコミに、批判されたものだった。
〈次は、サン・スーパーの社長を殺してやるぞ!〉
そんな手紙も、警察に届けられ、真剣に、社長の身辺をガードしたこともあった。
本多は、同じ新聞の社会面の隅に、小さく、交通事故のニュースがのっているのを見つけた。
〈成城でひき逃げ〉
小さな記事である。記事の中身は、次のようになっていた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈成城学園に住む内科医、磯見茂樹さんの長男夏樹ちゃん(三歳)が、父親に連れられて、近くの八幡神社の祭礼を見に行った帰り、暴走して来た車にはねられて、重傷を負った。警察では、この車を運転していた人間を捜査中〉
[#ここで字下げ終わり]
翌三十日の新聞には、もう、この事故のことは、出ていない。
一方、「サン・スーパー」の連続殺人の方は、ますます、大きな記事になっている。
本多は、連続殺人事件についての捜査記録を、丹念に読み返してみた。
逮捕された三人の犯人の自供調書もである。
その中に、ひょっとして、磯見茂樹、夏子、そして、一人息子の夏樹の名前が出て来ないだろうかと、思ったからである。
捜査記録を読むと、改めて、この事件が、難しく、刺戟的《しげきてき》だったことを、思い出した。
最初は、犯人の意図が、よくわからなかった。
一人目の幹部が殺されたときは、その幹部への個人的な恨みかと思われたが、続いて、挑戦状が来て、どうやら、スーパーへの恨みとわかった。
社長に、恨みを持っている人間ではないかと考え、社長の生い立ちまで、調べた。
マスコミは、社長一家のことを書き立てて、そのために、プライバシィまで、あばかれて、サン・スーパーは、イメージ・ダウンした。
社長の親戚や、知人にも、捜査の眼を向けたが、結局、暴力団員が、犯人だったのである。
自供調書によれば、三人の犯人は、社長に電話をかけ、無事に商売をしたければ、五千万円出せと要求したところ、冷たくあしらわれたので、事件を起こしたのだと、いっている。
なぜ、社長を狙《ねら》わずに、幹部社員を二人も殺したのかという質問に対して、三人の中のリーダー格の暴力団員は、次のように、答えている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――おれたちは、社長に腹を立てていた。おれたちを、チンピラ扱いしやがったからな。だが、社長を殺しちまったら、金がとれなくなる。それに、あのスーパーが、うまくいってるのは、社長の力というより、いい幹部が、揃《そろ》っているからだ。だから、その幹部を、一人ずつ殺してやれば、一番こたえるだろうと思ったんだ。
[#ここで字下げ終わり]
確かに、犯人たちのやり方は成功して、社長も、弱気になり、彼等の要求を飲みかけていたのである。
犯人たちの逮捕が、あと三日おくれていたら、社長は、警察に内緒で、犯人たちに、五千万円を支払っていたろうといわれる。
だが、いくら調書を読み返しても、磯見茂樹の名前も、夏子の名前も、事故にあった息子の名前も、出て来なかった。
(参ったな)
と、本多は、思った。
やっと、亀井と久原夏子の関係が見つかるかと思ったのに、駄目なのだ。
「横浜では、彼女は、苦しい生活をしていたようだね?」
と、本多は、木本と金子に、きいた。
「そうらしいですね。夫と子供を失い、借金に追われて、横浜へやって来たんですから、完全に参っていたと思いますよ」
木本が、答えた。
「横浜で、小さな小料理屋をやっているときに、亀井刑事と問題を起こしたんじゃないかな?」
「かも知れませんが、亀井刑事がいないので、調べようがありません」
「仕方がない。君たちが調べたことを、文章にして、それを、秋田県警に、ファクシミリで送るんだ」
「秋田ですね?」
「そうだ。特急『白鳥3号』は、秋田駅を通るから、そこで、カメさんに渡して貰う。何か、思い出してくれるかも知れない。横浜で、小料理屋をやっていたことも、ちゃんと、書いておくんだ」
「わかりました」
二人が、すぐ、報告書の作成に取りかかっている間、本多は、もう一度、三年前の事件の調書を、読み直した。
三人の犯人のことが、ふと、気になったからである。
三人とも、暴力団K組の男だった。
K組は、東京の西部を縄張りにしている暴力団だった。
本多は、捜査四課に電話をかけた。
花井警部が、電話口に出た。
「君にききたいんだが、K組と、S組とは、どんな関係なんだ?」
と、本多は、きいた。
「S組というと、例の幸田圭吾ですね」
花井が、先廻りして、いった。
「そうだ。幸田が、相談役をやっているS組だよ」
「K組というのは、何なんですか?」
「こちらでマークしている三年前の事件に関係してるんだ。何かわかったら、そちらにも、知らせるよ」
「そうですか。K組とS組は、同じ関東|任侠《にんきよう》連合に入っています。K組の組長は、相田一成という男ですが、この相田と、S組の組長の原口良仁とは、兄弟分の杯をかわしています」
「つまり、仲がいいというわけか?」
「そうです。前に、S組が、川崎で、関西のY組とぶつかったとき、K組は、助っ人を出して、S組を応援したことがあります」
「三年前に、K組の組員三人が、成城のスーパーマーケットを脅して、幹部二人を殺した事件を、覚えているかね?」
「もちろん、覚えています。この事件では、十津川警部に、協力した筈ですよ」
「あの時、逮捕した三人だがね」
「はい。K組では、除名したといっていましたが、本当かどうかわかりません。あの三人は、サン・スーパーから五千万円を脅し取って、それを、組の資金にするつもりだったという噂《うわさ》も聞いています。最近は、暴力団も、資金繰りに、困っていますからね」
「あの三人と、S組の幸田圭吾との関係は、どうなんだろう?」
「そうですねえ」
と、花井は、しばらく考えているようだったが、
「三人と幸田が、知り合いだということは間違いないと思いますね。ただ、個人的に親しかったかどうかは、わかりません。調べてみますか?」
「至急、調べて欲しい」
「そんなに時間は、かからないと思いますよ」
と、花井は、いってくれた。
花井の言葉は、嘘《うそ》ではなかった。十二、三分すると、花井は、資料を抱えて、捜査一課にやって来た。
「三年前に、逮捕されたK組の三人の名前ですが――」
と、花井は、その名前を書いたメモを、前に置いて、
「このうち、服部五郎《はつとりごろう》というのは、実は、もとS組にいた男なんです」
「ほう」
「S組にいた頃は、幸田圭吾を、兄貴と慕っていたことも、わかっています」
「なるほどね」
「これは、証拠《しようこ》のない噂なんですが、あの三人が逮捕されて、自供したとき、こんな噂が流れたんです。あの三人に、知恵をつけて、スーパーマーケットをゆすらせたのは、幸田圭吾だという噂です」
「そいつは、面白いな」
「私も、幸田に当ってみましたが、もちろん、奴は、頭から否定しました。しかし、あの三人は、よく知っていますが、スーパーをゆするなんて知恵はありません。あのやり方には、どうみても、黒幕がいた筈ですよ」
「その黒幕が、S組の幸田だったというわけか」
「あの男なら、考えると思いますね。K組は、当時、金に困っていた。幹部の三人は、どうしたらいいか、幸田に相談したんでしょう。それで、景気のいいサン・スーパーをゆすってみろと、教えたんだと思いますよ。スーパーのような客商売は、脅しに弱いと、睨《にら》んだんでしょう」
と、花井は、いってから、急に、きらりと眼を光らせた。
「亀井刑事の件ですね?」
「そうだ」
「彼が狙われる理由に、あの事件が、絡んでいるんですか?」
「亀井君は、あの事件の捜査に当った。幸田圭吾が、亀井君を、狙っているとすれば、その理由は、案外、三年前の事件が、根にあるかも知れないと思ってね」
「そうですね。その可能性はありますね。少くとも、幸田圭吾は、亀井刑事が狙われるのを、喜んでいるとは、思いますよ。服部五郎は、幸田の弟分みたいなもので、その服部を、亀井刑事が捕えたとすれば、快くは思っていないでしょうからね?」
「幸田が、直接、亀井君を狙うということは、考えられるかね?」
「そうですねえ。普通では、考えられませんよ。あいつは、自分は裏にいて、画策する方ですからね。それに、自分の損になるようなことは、やらない男です」
「そうらしいね。だが、彼が姿を消してしまっているので、不安なんだよ。幸田も、ひょっとして、亀井君を狙うんじゃないかと思ってね」
「幸田が、自分の手を汚す気になるとしたら、一つのことが、考えられますね」
「どんなことだね?」
「例の噂が、本当だったということです」
「三人組が、サン・スーパーをゆすったのが、幸田の考えだったという噂かね?」
「そうです。幸田は、サン・スーパーの幹部を殺すようなことは計画しなかったと思います。もっと陰湿な方法で、ゆすることを考えていたと思うんです。だが、あの三人組は、荒っぽい連中ですからね。スーパーの幹部を殺せば、社長が、ぶるって、すぐ、金をよこすだろうと考えて、二人も殺してしまった。勝手にやったんだからと、幸田は、三年前には、三人を突き放していたんだろうと思うんです。あの頃、K組も、三人を除名しましたからね。それが、今年になって、何かあったんじゃないですかね。幸田が、黒幕だったことが、わかってしまって、何かしなければならなくなった。そこで、亀井刑事が、一千万円の懸賞金をつけて狙われているのを知って、自分も、今度は、手を汚す気になった。そんなことかも知れません」
「奴は、頭が切れるだろう?」
「ええ、頭はいいですよ。ただのヤクザとは違います」
「もし、幸田が、亀井君を狙うとなると、『白鳥3号』の車内で逮捕した原や、後藤のようにはいかないかも知れないな」
本多の顔が、難しくなった。
幸田が、姿を消したことが、やはり、気になって来た。
単身、「白鳥3号」に乗り込んで来て、ナイフを振り廻すといった行動なら、別に、怖くはない。
亀井のまわりは、十津川を始め、日下や、清水といった刑事たちがかためているから、簡単に、幸田を、捕えられるだろう。
だが、幸田は、そんな単純な男ではない。
鉄橋にダイナマイトを仕掛けて、「白鳥3号」もろとも、亀井を吹っ飛ばすぐらいのことだって、考えかねないだろう。
こちらでも、幸田圭吾のあとを追跡するのは、もちろんとして、列車にいる亀井たちにも、警告しておいた方がいいだろう。
「君たちの方で、幸田の行方を突き止められないかね?」
と、本多は、花井に、いった。
「やって見ましょう。組関係の人間や、彼の愛人にも、当ってみますよ」
花井は、そういって、捜査四課に引き揚げていった。
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第九章 いたずら電話
急に、特急「白鳥3号」が、スピードを落した。
十津川は、窓の外に眼をやったが、駅が近づいている様子はなかった。
新潟を出てから、新潟と新発田《しばた》を結ぶ、白新線を走っている。
まだ、次の停車駅、新発田には、間がある筈だった。
白新線は、二七・三キロ。新潟への通勤者がこの沿線に住むらしく、窓の外に、新しく建ったマンションや、住宅が見える。
列車は、なお、スピードを落して、とうとう、停車してしまった。
午後五時三十分を過ぎている。
「どうしたんですかね?」
と、日下は、心配そうに、きいた。
「さあね。事故でも、あったのかな」
十津川がいうと、日下は、車掌に聞いて来ますといって、席を立って行った。
五、六分して、戻って来ると、
「車掌にも、よくわからないそうです。前方の信号が、赤になっているので、停車したとしか、今のところ、わかりません」
と、十津川に、報告した。
乗客は、別に、騒ぐ気配もなく、のんびりしている。
長距離列車の乗客にとって、一時的な停車など、別に、気に止めることなどないのだろう。
大阪、京都あたりから乗って来た人たちは、ここまで来ると、疲れたとみえて、眼を閉じて、眠ってしまっている。
だが、十津川は、呑気《のんき》には考えられなかった。
ただの事故なら、いくら待ってもいい。どうせ、終着の青森まで行かなければならないからである。
問題なのは、亀井を狙う人間が、何かの目的を持って、この列車を、停めたのではないかということだった。
亀井を狙った二人の男は、逮捕した。が、一千万円を出したと思われる女や、幸田圭吾は、まだ、逮捕されていないし、どこにいるか不明である。
恐らく、逮捕した後藤や、原よりも、手強いだろう。
その彼等が、今、信号にでも細工をして、列車を停めたとすれば、その理由を知りたい。
まさか、駅以外のところで停車させ、乗り込んで来て、亀井を殺そうと考えているわけでもないだろう。
「カメさんを頼むぞ」
と、十津川は、日下にいっておいて、先頭の車両に向って、歩いて行った。
車窓の外は、もう暗い。
通路を歩いて行くと、乗客のほとんどは、眼を閉じている。お喋《しやべ》りを楽しんでいた若い女のグループも、疲れたのか、黙ってしまっていた。
十津川は、先頭車に着くと、頼んで、運転席に入れて貰った。
運転席は、かなり高いところにある。
十津川は、そこに、のぼった。
視界は、いい。
前方の信号が、赤になっているのが、真っ先に眼についた。
前照灯が、前方を照らし出している。
その明りは、意外に、近いところしか、照らしていないことがわかった。多分、それは、その方が運転しやすいのだろう。
「事故でもあったんですかね?」
十津川は、前方を見つめながら、運転士にきいた。
四十二、三歳に見える運転士は、顔を、両手でこすった。
「わかりませんね。今、車掌が、調べてくれている筈ですが」
と、運転士が、いった時、運転席についている車内電話が鳴った。
運転士が、それを取って、二言、三言、話してから、受話器を置いた。
「新発田の駅の構内で、何か事故があったようですよ。事故の中身は、わかりませんが、間もなく、動けると思いますね」
「そうですか」
「別に、心配はありませんよ」
運転士は、十津川が、事故のことを心配していると思ったのか、安心させるように、微笑した。
十津川は、黙って、前方を見つめた。前照灯が届くところは明るいが、その向うは、暗い闇である。
駅のホームに停車している列車や、疾走している列車は、大きく、逞《たくま》しく見えるものだが、こうして、ホームでもない線路上に停ってしまった列車というのは、ひどく頼りなく見えるものだなと、十津川は、思った。
停車中の列車を襲う者もいないだろうが、もし、いるとすれば、無防備そのものだという感じがする。
荒野に、ぽつんと取り残された幌馬車《ほろばしや》のようでもある。
運転士は、間もなくといったが、なかなか、動き出さなかった。
十津川は、運転室を出て、自分の席に戻った。
「新発田駅の構内で、何か事故があったらしい」
と、十津川は、日下にいい、亀井にも話した。
列車が動き出したのは、二十分近くたってからである。
新発田に着いたのは、二十分おくれの一八時〇九分である。
ここは、三十秒停車だが、十津川は、専務車掌に頼んで、事故の理由を、きいて貰った。
専務車掌は、ホームに飛び降りて、助役に何か聞いていたが、あわただしく、乗ってくると、
「どうも、妙なことです」
と、十津川に、いった。
「単なる事故じゃなかったんですか?」
「事故じゃなくて、いたずら電話なんです。新発田駅に、爆弾を仕掛けたという電話があったんだそうです。いたずらかも知れないとは思ったそうですが、もし、列車が入って来た時に爆発したら大変だというので、上り下りとも、列車を停めておいて、爆発物を探したんだといっています」
「だが、見つからなかった?」
「そうです」
と、車掌が肯く。
列車は、もう、新発田のホームを離れて、スピードを増していた。
「電話の声は、男だったんですか? それとも、女ですか?」
「男だったそうです」
「年齢は?」
「そこまでは、聞けませんでした。何しろ、三十秒の停車時間しかありませんでしたから。申しわけありません」
「いや。こちらこそ、忙しい中に、頼みだてをして、申しわけありませんでした」
十津川は、礼をいった。
列車や、駅に、爆弾を仕掛けたといういたずら電話のことは、時々、新聞にのっていることは、十津川も、知っている。
騒ぐのを見て楽しむ愉快犯という奴だ。
今度も、そうだろうか?
(違うな)
と、十津川は、思った。
騒ぎを起こして楽しみたいのなら、もっと、大きな駅を狙うと思ったからである。
新発田も、決して、小さくはないが、それでも、一日の乗降客は七千人である。ここから近い新潟なら、二万八千人である。当然、新潟の方が、大きな騒ぎになる筈だった。
とすると、亀井に関係しているのかも知れない。
久原夏子という女が、誰かに頼んで、電話をかけさせたのか、それとも、姿を消した幸田圭吾が、電話したのか。
新発田の手前で、二十分、列車を遅らせることに、どんな意味があるのだろうか?
ただ単なるいやがらせなのか?
「君は、どう思うね?」
と、十津川は、日下に、きいた。
「警部は、カメさんを狙っている人間が、いたずら電話をかけたと思われるんですか?」
日下が、きき返す。
「そうだとしたら、何のためだろう?」
「そうですね。時間かせぎじゃありませんか?」
「うん」
「例えば、今、東京にいて、このままでは、『白鳥3号』に乗ることが出来ない。ここで、何とかして、列車を遅らせて、青森までの間に、乗り込みたいんじゃありませんか」
「なるほどね」
「時刻表を見て、計算して、やったと思いますね」
「二十分しか遅れなかったが、犯人は、それで、満足したのだろうか?」
「それは、今、犯人が、どこにいるかによると思いますが」
「確かに、その通りだが、二十分で、間に合わなかったら、どうする気なんだろう?」
「その時は、もう一度、この列車を、止めようとするんじゃありませんか」
と、日下は、いった。
いかにも、若い刑事らしい、単純化した推理である。
十津川は、当の亀井にも、話してみた。
亀井は、「なるほど」と、いった。
「あの停車は、いたずら電話のせいだったんですか」
「君を狙っている奴の仕業ということも考えられる。日下刑事は、この列車を、遅らせて、青森までの間に、乗り込むつもりではないかというんだが、君の考えは、どうだね?」
「平凡に考えれば、日下君のいう通りになると思いますね。私が、犯人で、間に合わないとなれば、何とかして、列車を、遅らせようと考えますからね」
「しかし、運転士は、少しでも遅れを取り戻そうと、スピードをあげるよ。例えば、秋田で乗り込もうと考えて、そのためには、列車を、二十分おくらせればいいと犯人は思う。そして、思い通り、いたずら電話で、二十分おくらせたとしても、犯人が乗り込む秋田で、必ず、二十分おくれているとは限らない。今もいったように、運転士は、必死で、おくれを取り戻そうとするからだよ。犯人の計算より早く列車が秋田に着いて、乗れなくなることも、十分に考えられる」
「そうですね」
「そんなあやふやな計算で、いたずら電話の細工をするだろうか?」
十津川は、眉《まゆ》を寄せて、考え込んだ。
「確かに、その点は、私にも、よくわかりませんが、だからといって、犯人が、この列車を遅らせる理由は、他には考えられません。私を狙う奴が、いたずら電話の主としてですが」
亀井が、いった。
十津川も、今のところ、他の理由は、考えられないのだ。
いたずら電話は、一番簡単に、列車を遅らせる手段ではある。
だから、犯人が、いたずら電話をしたのはわかる。ただ、望みの駅に、何分おくれて着くか、計算は出来ない。
犯人は、その点を、どう考えているのだろうか?
「そうだ。新発田で乗ればいいんだ」
十津川が、いった。
「と、いいますと?」
「犯人は、新発田の駅に、爆弾を仕掛けたと電話した。直前まで来ていた『白鳥3号』は、万一に備えて、停車する。二十分おくれたら、新発田では、一、二分しか取り戻せはしない。計算は、成り立つわけだよ」
「すると、新発田で乗って来た乗客が、怪しいということになりますね?」
「この2号車で、乗って来た客がいるかな?」
十津川は、車内を見廻した。亀井と、日下も、さっと、車内に眼を走らせた。
「ドアの傍にいる若い男二人が、新発田から乗って来た客です」
日下が、小声で、十津川にいった。
特急「白鳥3号」は、さまざまな線区を走るために、通勤、通学列車の役目を果たす場合もある。
そのせいか、普通の特急列車に比べて、乗り降りがひんぱんだが、乗車率はいい。
今、車内は、ほとんど空席がなかった。
ドアの近くに、若い男が二人、並んで、腰を下していた。
十津川は、じっと、彼等を観察した。
二人とも、二十七、八歳といったところだろう。
背広姿で、きちんとネクタイをしているが、普通のサラリーマンには見えない。
眼つきが違うのだ。
それに、身体全体から匂《にお》ってくる雰囲気が違う。
髪も短めだし、何よりも、威圧するような雰囲気を持っていた。
向うも、ちらちら、こちらを見ている。
十津川と、視線が合うと、急に、眼をそらせたりする。
「どうも、気になりますね」
日下が、小声で十津川にいった。
「素人《しろうと》じゃないな」
「ヤクザかも知れません」
日下がいった時、3号車の方から入って来た若林が、十津川たちの近くに腰を下して、
「眼つきのおかしい男たちがいますね」
と、十津川に、いった。
「ドアのところの二人だろう」
「気付いて、いらっしゃったんですか?」
「新発田で、乗って来たんだ」
「あの男たちは、さっき、他の車両の通路を歩いていましたよ。誰《だれ》かを探《さが》しているようでした」
「2号車で、探す相手を見つけたというわけかね」
十津川が、いった。
急に、彼等の一人が立ち上って、通路を、こちらに向って歩いて来た。
自然に、十津川たちの表情が、緊張する。
(引きしまった、いい身体をしているな)
と、十津川は、思った。
男は、十津川たちの横を通って、1号車へ歩いて行った。
「拳銃《けんじゆう》は、持っていませんね」
と、亀井がいった。
拳銃を、内ポケットに納めていると、どうしても、独特な歩き方になる。昔の武士が、腰に刀を差していたために、独特の歩き方になったようなものである。
「そうだな」
と、十津川も、肯いた。彼も、同じことを観察していたからである。
2号車に残った男は、ちらり、ちらりと、こちらを見ていたが、十津川が眼を向けると、さっと、視線をそらせてしまった。
「どうも、気に入りませんね」
日下が、いまいましげにいった。
引っかかる男たちだが、だからといって、この列車から、追い出すわけにもいかなかった。
切符を買って乗ってきた以上、立派な乗客だからである。
五、六分すると、さっきの男が、1号車の方から戻って来て、また、ドアの傍に、並んで、腰を下した。
何か、話し合っているが、もちろん、十津川たちには、聞こえない。
「専務車掌に頼んで、すぐ、検札して貰えば、この二人が、どこまでの切符を持っているかわかるかも知れませんよ」
日下が、十津川に、いった。
「そうだね」
「私が、頼んで来ましょう」
若林が、立ち上ったとき、列車は、次の停車駅に、滑り込んだ。
米坂《よねさか》線の分岐点である坂町である。
「ちょっと待て。あの二人が、降りるようだ」
と、十津川が、若林をとめた。
二人の男は、立ち上って、ドアを開け、デッキに出て行った。
「本当に降りるかどうか、見て来ます」
日下がいい、若林と二人で通路を歩いて行った。
列車は、停止した。
一八時二二分。
まだ、十六分おくれている。
ここは、二分間停車である。
十津川も、急いで、ホームに、降りてみた。
さっきの二人の男が、こちらに背を見せて、ホームを歩いて行き、跨線橋《こせんきよう》への階段をあがって行くのが見えた。
十津川は、列車に戻った。
ドアが閉まり、列車は、また、走り出した。
日下と若林も、席に戻って来た。
「本当に降りてしまいましたね」
日下が、ほっとしたような、どこか、がっかりしたような顔付きで、十津川にいった。
「そうだな」
十津川も、妙な気分だった。
あの二人を、怪しいと思ったのは、こちらが、神経過敏になり過ぎているのだろうか。
(素人とは思えなかったのだが――)
地元のヤクザが、たまたま、この列車に乗って来ただけのことなのだろうか。
それとも、ヤクザではなくて、空手でも、やっている人間だったのか。
空手か、ボクシングをやっている男も、自然に、眼つきが鋭くなるし、髪を短くしている男が多い。
(見間違えか)
と、思った。
夜は、どんどん深くなっていく。
スピードは、あがり、特急「白鳥3号」は、快適に走り続けていた。
何かが起きそうな気配はない。
「もう一度、車内を見廻って来ます」
と、日下がいい、若林を連れて、立ち上った。
十分後に、村上着。
温泉のある町だが、三十秒停車で、すぐ、発車した。
突然、車内の明りが消えた。
十津川は、一瞬、身構えたが、すぐ、明りがついた。
「死電《デツド》区間《セクシヨン》です」
と、亀井が、いった。
「ああ、そうか。これが、死電区間か」
と、十津川も、肯いた。
交流区間と、直流区間の接点を、死電《デツド》区間《セクシヨン》と呼ぶ。
その二つの区間を、直接、接続することは出来ないので、電流の通らない区間を作っておく。
その区間が、死電区間と呼ばれるのである。その間に、列車の中でも、スイッチで、切りかえが行われる。
一瞬の間だが、車内の明りが消える。
「カメさんは、よく知っていたね」
十津川が、感心すると、亀井は、頭に手をやって、
「この『白鳥3号』に乗ることに決めてから、いろいろと、調べてみました。自分自身を守らなければなりませんからね。ここまでが、交流六〇ヘルツで、村上の先で、直流に変ることは、知っていました」
「その一瞬に、刺されたりするとは思わなかったかね?」
「それはないと、思っていました。時刻表で見ると、村上の次の停車駅は、あつみ温泉駅ですが、この間、四十三分間、停らないんです。私を刺しても、四十分以上、この列車から逃げられないんです。そんな間抜けなことは、やらんと思いました。もし、『白鳥』の上りなら、デッドセクションを通過して、すぐ、村上駅ですから、私を刺しておいて、さっさと、村上駅で降りてしまえばいいわけです。だから、上り列車なら、用心したと思いますね」
「安心したよ」
「は?」
「カメさんが、落着き払っているからさ」
と、十津川が、笑った。
日下と、若林の二人が、戻って来た。
「食堂車も、のぞいて来ましたが、久原夏子も、幸田圭吾も、乗っていませんね」
と、日下が、報告した。
「すると、一応、次のあつみ温泉駅までの四十分間は、安心ということだな」
と、十津川は、いった。
さっきの村上駅では、2号車に、乗って来た乗客はいない。
日下と若林、それに、途中から乗って来た清水と西本も、いくらか、ほっとした顔になっている。
しかし、終着の青森までは、まだ、長い。
一千万円の懸賞金の主と思われる久原夏子や、S組の幸田圭吾が、このまま、黙っている筈がなかった。
青森まで、あと、停車駅は、九つある。時間にして、あと、五時間三十分。九つの駅のどこかで、乗り込んで来て、亀井を狙うだろう。
そう思っていた方が、いい。
「私とカメさんは、もう夕食をすませてしまったから、君たちも、交代で、食堂車へ行って来い」
十津川は、日下たちにいった。
まず、清水と西本の二人が、食堂車へ、出かけた。
列車は、日本海に沿って、走っている筈なのだが、暗い闇《やみ》にさえぎられて、海は見えない。
時々、通過する駅の明りが、ぱッと、眼に飛び込んで来る。眠れない乗客は、窓のカーテンを下している。
列車の走る音が聞こえているのだが、じっと、窓の外を見つめていると、その轟音《ごうおん》が、ふと消えてしまって、夜の闇だけが、見えてくる。
(ああ、旅に出ているのだな)
と、思う。
あわてて、そんな感傷を、叩き出した。
この旅行には、亀井刑事の生死が、かかっているし、片山婦警が、すでに、殺されている。
二十五、六分して、食堂車から、西本と清水が戻って来た。
代って、日下と若林の二人が、立って行った。
何も起きない。
列車は、快適に、走り続けている。二、三分は、遅れを取り返せるだろう。
「秋田から先が、勝負かも知れませんね」
亀井が、いった時、がくんと、急に、列車のスピードが落ちた。
十津川と、亀井は、顔を見合せた。
あつみ温泉駅まで、何も起きないだろうと考えていたのだが、違うのか。
列車は、闇の中で、停ってしまった。
十津川は、西本たちに、あとを頼んで、専務車掌に、会いに行った。
6号グリーン車についている乗務員室で、専務車掌に会った。
車掌は、乗務員室の窓を開けて、前方を見つめている。
「何かあったんですか?」
十津川が、きいた。
「どうやら、赤信号のようですね」
「何か事故ですかね? それとも、さっきみたいに、いたずら電話でしょうか?」
「さあ。わかりませんが、調べてみます」
車掌は、無線電話を手に取った。
十津川は、身を乗り出すようにして、窓の外を見た。
駅が近くにないらしく、列車の周囲は、暗い。
海沿いに、国道が走っているらしく、時々、車のライトが、さあッと、現われては、消えていくが、それも、かなり離れている。
「山形鉄道管理局に連絡をとったんですが、やはり、電話です」
と、車掌が、いった。
「いたずら電話ですか?」
「と思いますが、あつみ温泉駅に、爆弾を仕掛けた、間もなく爆発するという電話があったというんです」
「どうせ、また、いたずら電話でしょう。この列車を、遅らせようとしているだけです」
「そうかも知れませんが、人命にかかわりますからね。上下線を停めて、調べてみるそうです」
「そうでしょうね」
十津川は、肯かざるを得なかった。
十中、八九、いたずらとわかっても、近づいている列車を停めて、駅の構内を調べなければならない。鉄道が、乗客を扱っている限り、逃げようのない宿命であろう。
十津川は、2号車に戻った。
「やっぱり、いたずら電話ですか」
亀井が、呆《あき》れた顔で、いった。
「こうなると、カメさんを狙う人間の仕業と、考えざるを得ないね」
と、十津川が、いった。
「一度、列車を停めたが、二十分では、間に合わないので、もう一度、同じ手を使って、停めたということでしょうか?」
西本が、十津川に、きく。
「他に、考えようがないね。犯人は、この列車を遅らせて、どこかで、乗るつもりなんだ。小さい駅では目立つから、多分、秋田あたりで、乗り込んでくる気じゃないかね」
「しかし、なぜ、同じいたずら電話なんでしょうか?」
清水が、首をかしげた。
「一番簡単で、確実に、何分間か、列車を停められるからだろうな。ある駅に、爆弾を仕掛けたと電話すれば、とにかく、その駅に近づいている列車は、停められるからね」
と、十津川は、いった。
「やっぱり、二十分ぐらい、かかるでしょうか?」
「駅の隅から隅まで、調べなければならないんだから、小さな駅でも、やはり、二、三十分は、かかる筈《はず》だよ」
十津川は、腕時計を見ていった。
十分、十二分とすぎたが、列車は、停ったまま動かない。
車内放送は、いたずら電話のことには触れず、次のあつみ温泉駅の構内で、事故があった模様ですとだけ、いった。
十津川は、煙草《たばこ》に火をつけた。
二十分近くしてから、やっと、車内放送が、
「お待たせしました。間もなく、発車致します」
と、いい、ゆっくりと、動き出した。
やれやれという空気が、車内に起きた。
五、六分して、あつみ温泉駅に着いた。
昔《むかし》は、温海《あつみ》という字を書いたらしい。片側が海に近く、反対側に山が迫っている静かな駅である。
朝市も、あるという。
十津川たちは、じっと、ホームを監視した。五、六人の乗客が降りたが、乗って来る客は、一人もいなかった。
ここで、「白鳥3号」に乗り込むために、列車を停めたわけではなかったのだ。
「白鳥3号」は、二度の停車で、定刻より三十八分おくれてしまっている。
三十秒停車で、あつみ温泉駅を発車した。
いぜんとして、列車は、日本海沿いを走っている。
国道が、平行して伸びているので、車のヘッドライトが、時々、眼に入って来た。
「何も起きませんね」
食堂車から戻って来た日下が、いった。
「だが、その中《うち》に、忙しくなるさ」
と、十津川は、いった。
彼等は、二度にわたって、いたずら電話で、この列車を遅らせたのだ。青森までの間に、乗り込んで来る気だからこそ、こんなことをしたのだろう。
久原夏子と、幸田圭吾の二人は、必ず、この列車に乗ってくるに違いないと、十津川は、信じている。
鶴岡着。
ここは、出羽三山への玄関口である。昔は、酒井氏の城下町だっただけに、駅舎も立派で、ホームも長い。
ここは、一分間停車である。
十津川は、ホームに降りた。
三〇〇メートル近いホームは、確かに、立派である。
(ひょっとすると、ここから、犯人たちは、乗って来る気だろうか?)
だが、わからないうちに、列車は、発車した。
ふと、十津川は、新発田で乗って来た二人の男のことを、思い出した。
次の駅で、降りてしまったので、今度の事件には関係ないと思ったのだが、やはり、気になる。
どう考えても、組織の人間という感じがしたからである。
幸田圭吾のことを考えると、そういう人間が、何人か動くような気がするのだ。
だが、彼等は、一駅で、降りてしまった。それに、亀井を狙うのなら、わざわざ、同じ2号車に入って来て、こちらの注意を引くようなことはしないだろう。
(思い過ごしかな?)
と、考える。
それでも、気になってくる。
十津川は、自分の疑問を、亀井に、ぶつけてみた。
「しかし、警部。あの二人が、私を殺《や》りたければ、村上駅で、降りたりはしないでしょう。降りると見せて、発車寸前に、乗ったりはしなかったんでしょう?」
「降りたのは、間違いないよ」
「それに、犯人だとすると、目的が、わからないじゃありませんか。ただ、一駅だけ、乗って来ただけです。目的は、何だったんですか?」
「問題は、それだな」
十津川は、立ち上ると、ひとりで、2号車のデッキに出た。
煙草に火をつけ、壁に寄りかかって、考え込んだ。
彼の勘が、あの二人には、何かあると、いっている。
あの二人は、新発田で乗って来た、彼等がしたことは、2号車に入って来て、ドアの近くに座ったことだ。
そうだ。ひとりが、通路を歩いて来て、1号車に消え、また、戻って来た。
亀井の傍を通り過ぎたときは、思わず、身構えたが、何事もなかった。
(亀井を殺《や》ろうとして、失敗したのだろうか?)
そんなことはないと、思う。
亀井のまわりを、十津川たちが、かためていることは、わかっている筈だからである。
十津川たちが、ひと眼で、あの二人が、カタギでないとわかったように、向うも、十津川たちが、刑事だと、気付いた筈である。そういう点は、敏感なのだ。
彼等は、成算のないことを、やりはしない。
目的のないことも、やらないだろう。
彼等は、新発田にいたのだから、この列車が、二十分おくれたことは、知っていた筈である。
それに、亀井が、2号車にいることも、わかったろう。
だが、通路を歩いたのは、何のためだろうか?
それが、わからない。
別に、じろじろと、十津川たちを、見たわけではない。ちらりと、見ただけである。
それに、歩き方も、ゆっくりと、落着いていた。
彼等が、何か目的を持っていたとしたら、その目的は、達したのだ。だからこそ、次の坂町駅で、降りたのだ。
(わからないな)
十津川は、頭《かぶり》を振った。
わからないが、ひょっとすると、重大なことかも知れないという気がしている。だから、いらだってくる。
十津川は、彼等のやったように、動いてみることにした。
デッキから通路に入り、ゆっくりと、1号車に向って、歩いて行く。
亀井たちの座席を通り過ぎ、1号車に行き、また引き返した。
日下たちが、変な顔をして、十津川を見守っている。
十津川が、また、デッキに出て、煙草に火をつけていると、日下が、追いかけて来た。
「どうなさったんですか? 警部」
心配そうな顔で、きいた。
「大丈夫だよ。別に、頭が、おかしくなったわけじゃない」
「何を考えていらっしゃるんですか?」
「考えてるんだ!」
十津川は、いらいらして、思わず、怒鳴った。
日下は、びっくりした顔で、黙ってしまった。
「いや、悪かった」
と、十津川は、あわてて、若い日下に謝った。
(通路を歩くということに、何の意味があるんだろうか?)
そこが、問題だと思った。
彼等がやったことは、それだけだったからである。
(時限爆弾でも、亀井の近くの網棚に、のせて行こうとしたのか?)
しかし、そんな気配はなかったし、あの男は、手に、何も、持っていなかった。
そして、また、いたずら電話で、列車を停めた。
だが、今度は、乗って来なかった。
なぜ、乗って来なかったのだろうか?
その疑問は、最初のいたずら電話のとき、なぜ、あの二人が、乗り込んで来たのかという疑問に戻ってしまう。
十津川は、次第に、自分自身に、腹を立て始めた。
なぜ、頭が働かないのかという腹立たしさである。それに、危機が迫っているという予感が、腹立たしさに、拍車をかけていた。
(前提が、間違っているのではないか?)
と、ふと、思った。
犯人は、どこかで、この「白鳥3号」に乗り込みたい。今のままでは、時間的に間に合わないので、列車を遅らせようとしたのだという前提である。
その前提に立って、十津川は、推理しているのだが、その前提が、間違っているのではあるまいか。
亀井が、「白鳥3号」に乗ったのは、何も、唐突な行動ではなかった。
前もって、宣言してから、乗ったのである。それは、自分を、襲わせるためだった。
しかも、「白鳥3号」の動きは、時刻表を見れば、分きざみで、はっきり書かれているのだ。
久原夏子と、幸田圭吾が、亀井を襲う気なら、冷静に、予定を立てるだろう。あわてて、いたずら電話をかけて、「白鳥3号」を、遅らせるようなことを、するだろうか?
(いたずら電話が、この列車を遅らせるためではないとすると、その目的は、いったい何だったのだろう?)
十津川は、いらだって、何度も、舌打ちした。
なぜ、頭が働かないのだろうか?
彼等のやったことは、はっきりしているのに。
いたずら電話をすれば、「白鳥3号」が、停車することは、わかっていた筈だ。それが目的だったのか?
停車させることだけが目的なら、近くの駅に、爆弾を仕掛けたと脅かすより、この「白鳥3号」自体に、仕掛けたと電話する方が、より効果があるだろう。
列車を停車させて、1号車から12号車まで、調べなければならない。当然、時間がかかる。
だが、奴等は、そうはしなかった。
(なぜだ?)
列車に、仕掛けたと脅かせば、万一を考えて、乗客を全部、降ろしてから、車内を調べるだろう。
(彼等は、それでは、困るのだ)
それに、何度も、同じ手は使えない。
(くそっ)
急に、閃《ひらめ》くものがあった。
十津川の顔から、血の気が引いている。
「カメさん!」
と、十津川は、2号車の車内に戻って、怒鳴った。
「すぐ、列車を停めさせるから、この2号車の乗客を、他の車両に移すんだ!」
「どうしたんですか?」
亀井も、大きな声で、きく。
寝ていた乗客も、眼をさまして、十津川や亀井を見ている。
「この車両に、爆発物が仕掛けられている恐れがあるんだ!」
また、十津川が、怒鳴った。
「しかし、どこにです?」
「多分、床下だ。頼んだぞ!」
十津川は、それだけいうと、グリーン車へ向って、通路を駈《か》けた。
グリーン車の乗務員室に来ると、車掌長に、
「すぐ、列車を停めて下さい!」
「え? なぜです?」
「床下に、爆発物が、仕掛けられた恐れがあるからです」
「しかし――」
「私は、警視庁の十津川です」
「それは、存じています」
「じゃあ、停めて下さい! お願いします。間違いなく、2号車の床下に、仕掛けられてるんです!」
十津川の気迫に押されてか、車掌長は、あわてて、車内電話を取って、運転士に、連絡をとった。
急ブレーキがかかって、「白鳥3号」は、がくんと、スピードを落とした。
十津川は、2号車に、取って返した。
2号車では、亀井や、日下たちが、必死になって、乗客を、他の車両に移動させていた。
乗客たちは、不平たらたらだった。眠っていたところを叩《たた》き起《お》こされた乗客にしてみれば、やみくもに、他の車両に移れといわれたら、怒るのが、当然だろう。
亀井たちが、警察手帳を見せなければ、誰も、いうことをきかなかったかも知れない。
黒い警察手帳と、爆弾という言葉が、どうにか乗客たちを、動かしたのだ。
それに、暗闇の中で、列車が停車してしまったことも、乗客たちに、危機感を与えたようだった。
2号車が、空《から》になった。
「これから、どうしますか?」
亀井が、十津川に、きいた。
「私と一緒に、車両の床下にもぐってみるかね?」
十津川は、努めて、笑顔を見せて、きいた。
「悪くありませんね。子供のとき、よく、家の床下に、もぐったもんです。田舎の家で、床下が、広かったですから」
「じゃあ、二人で、童心に帰ってみるかね」
十津川は、車掌長から、懐中電灯を借りて、列車から、線路上に飛び降りた。亀井が、それに、続く。
車掌や、日下たちも、降りて来た。
「離れているんだ! それから、乗客は、絶対に、降ろさないで下さい!」
と、十津川は、怒鳴った。
「どの辺に、仕掛けられたと思いますか?」
亀井が、緊張した声で、きいた。
「2号車の、カメさんや、われわれが座っていた座席の下だよ」
「しかし、どうやって、その場所だと、わかるんでしょう?」
「新発田で乗って来た二人連れだよ。あの二人は、われわれが、どの辺りに座っているか確かめに、乗って来たんだ。一人が、通路を歩いて来た。あれは、ドアから、何歩のところと、歩幅で、測っていったのさ。第一回のいたずら電話で、約二十分停車することも、彼等には、わかってた筈なんだ。二度目の電話でも、二十分ぐらい停車すると読んで、床下にもぐり込んで、仕掛けたのさ」
「すると、犯人は、この列車に乗っていて、仕掛けたんでしょうか?」
「いや、車だろう。線路に沿って、国道が走っている。犯人たちは、車で、この列車を、追っかけていたんだと思うね」
二人は、2号車の床下に、もぐり込んだ。
十津川が、懐中電灯で、照らした。
「子供の時みたいに、うまくもぐれませんね」
「われわれも大きくなったし、この下も、狭いからな」
余裕があって、そんな会話を交わしているのではなかった。
黙っていると、恐怖にかられて、床下から飛び出したくなるからだった。
十津川は、自分を、勇気のある男だとは思っていない。どちらかといえば、臆病な方だと思っている。
拳銃を持つ犯人に立ち向う時は怖いし、今だって、怖い。それなのに、向って行くのは、刑事としての義務感なのだ。
「ありました!」
亀井が、叫んだ。
油で汚れた機械の中に、一つだけ、妙に、真新しい角張った箱が、取りつけられているのが見えた。
十津川の腋《わき》の下《した》で、脂汗が、にじみ出てきた。
亀井も、同じだろう。
「警部は、時限装置の解体の方法を知っていますか?」
「いや、知らん」
「じゃあ、どうしたらいいんですか?」
「とにかく、取り外して、捨てるより仕方がないだろう。多分、磁石で、取りつけた筈だ」
「取り外したとたんに、爆発するようになっていませんか?」
「それは、わからんよ」
「じゃあ、警部は、向うへ行っていて下さい。死ぬのは、私一人でいいですよ」
「そうはいかないさ。一人でというのなら、私一人でいい」
「警部も、頑固だから」
亀井は、小さく笑い、手を伸ばして、取りつけてある爆発物に触った。
思い切って、つかんで、引っ張った。
二人の息使いだけが、聞こえている。
十津川の思った通り、磁石で、取りつけてあったらしく、箱型のものが、外れて、亀井の手の中に落ちた。
「何かありましたか?」
日下が、声をかけて、近寄って来ようとするのを、十津川が、
「退っていろ!」
と、怒鳴りつけた。
「走りますか?」
亀井が、きく。
「ああ、走ろう」
二人は、車両の床下から出ると、海岸に向って、駈け出した。
土手を駈けおりると、国道が走っている。
海は、その向うである。
国道を横断した。
やたらに、心臓が苦しい。
眼の前に、黒々と、夜の日本海が、広がっている。
崖の上から、亀井が、思い切り、重い箱を投げた。
とたんに、二人とも、虚脱状態に襲われて、その場に、へなへなと、座り込んでしまった。
ぜいぜい、息を吐くだけで、言葉が、口から出ない。
息が苦しい。十津川は、黙って、亀井の肩をつかんで、その場に、伏せた。
少しずつ、息の苦しいのが、治ってくる。
が、爆発は、起きない。
十分、十五分と、過ぎた。
「おかしいな」
十津川が、声を出して、いった。
「あれは、間違いなく、時限装置のついた爆発物ですよ」
亀井が、いう。
背後の国道で、車が一台停り、何も知らないアベックが、のこのこおりて、近づいて来た。
「何かあったんですか?」
男の方が、呑気に、きいた。
「バカッ。退ってろ!」
亀井が、怒鳴った。
それでも、まだ、近づいてくる。
十津川が、男の方へタックルした。
「何をするんだ!」
男が、叫んだ時、爆発が起きた。
崖下《がけした》の水中で起きたのに、水しぶきが、十津川たちのいるところまで、噴きあがってきた。海水が、頭上から、ふりかかってくる。
若い女が、悲鳴をあげた。
ずぶ濡《ぬ》れのまま、十津川は、立ち上った。
ハンカチを取り出して、濡れた頭や、顔を拭いた。
亀井も、立ち上った。
「やれやれだな」
と、十津川は、いった。
若いアベックは、腰が抜けたのか、座り込んだままである。
別に、怪我もしていないようなので、十津川と、亀井は、二人を残して、国道を、横断して行った。
「大丈夫ですか?」
と、日下たちが、駈け寄って来た。
「もう乗客を、2号車へ戻していいよ」
十津川が、疲れた声で、いった。
線路へ降りて来ていた乗客もいて、彼等は、理由を知りたがったが、十津川は、黙っていた。
他の車両に移っていた乗客も、2号車に戻って来た。
十津川たちも、2号車に戻り、「白鳥3号」は、再び、動き出した。
あのまま、2号車の床下で爆発したら、どうなっていたろうか?
新幹線や、雪国専用の車両は、床が、厚い二重構造になっているらしいが、この車両の床は、そう厚くはないだろう。
爆発すれば、確実に、床に大穴があき、爆風で、真上にいた亀井は、吹き飛ばされていた筈である。
亀井だけではない。彼の近くにいた十津川や、他の乗客も、確実に、死亡していたに違いない。
下手をすれば、車両が横倒しになり、大惨事になっていた可能性さえある。
「こんな荒っぽいことを考えるのは、恐らく、S組の幸田圭吾に違いないな」
十津川は、亀井に、いった。
「そうですね。女の久原夏子が考えることじゃありませんよ。恐らく、S組と繋がりのある連中に、幸田が頼んだんでしょう」
「幸田は、S組の相談役だ。一千万円ぐらいの懸賞金に眼がくらんだとは、思えないがねえ」
「理由はわかりませんが、これで、幸田も、私を狙っていることが、はっきりしました」
「もう一度、やるでしょうか?」
若い西本刑事が、きいた。
「一度失敗したことを、繰り返したりはしないよ。奴のプライドが、それを許さないだろうからね。それに、二度も失敗したら、いい物笑いになる。ああいう連中が、一番気にするのは、面子《メンツ》なんだ。だから今度は、きっと、自分の手で、カメさんを、殺そうとすると思っている」
「この列車に乗り込んで来てですか?」
「それは、わからないがね」
「久原夏子のことで、カメさんは、まだ、思い当ることはないかね?」
十津川は、亀井に、きいた。
「思い出せません。彼女の写真を、何回も見ているんですが、会った覚えがないんですよ」
「磯見茂樹という男の名前と、写真は、どうだね?」
「全く、記憶なしです。私は、わりと記憶力がいい方なんですが、覚えがないんです」
「覚えのない女が、一千万円を出して、君の命を狙っているのか」
「人違いじゃないかとも、思うんですが」
と、亀井は、いった。
「人違いで、命を狙われては、かなわないな」
「それも、青森まで行けば、わかると思います」
「久原夏子が、われわれの前に、姿を現わすと、思うかね?」
「思います。全て失敗してしまえば、彼女自ら、私を、殺そうとしてくるに違いありませんから」
「その時が、楽しみだな」
と、十津川がいうと、亀井は、首を振って、
「恐しいですよ」
と、笑った。
列車は、何事もなかったように、走っている。
最上川にかかる鉄橋を渡った。
酒田に着いた時は、一時間近く、遅れていた。
車掌長が、ホームに降りて、助役に、爆発のことを説明している。
あまり大げさに話されると、この列車の運行を、中止されかねない。そうなると、困るなと思い、十津川は、窓から見ていたが、車掌長は、列車に戻り、二分停車で、発車した。
ホームに降りていた日下や、西本たちが、席に戻って来て、
「久原夏子と、幸田の姿は、見かけませんでしたね」
と、十津川に、報告した。
「乗るとすれば、もっと、青森に近くなって、われわれが、ほっとしかけた頃だと思うね」
「私も、そう思います」
と、亀井も、いった。
列車は、必死に、スピードをあげていく。
この列車の平均速度は、七六・八キロだが、九〇キロぐらいは、出ているだろう。
一時間近いおくれを、少しでも、取り戻そうとしているのだ。何か、列車自体が、けなげな感じがしてくる。
相変らず、日本海沿いに、「白鳥3号」は走る。
上浜《かみはま》とか、象潟《きさかた》、金浦《このうら》といった、いかにも、海の傍の駅といった小さな駅を、通過して行く。
象潟など、海の中に作った駅という感じがする。
羽後本荘《うごほんじよう》駅着。
定刻より四十五分遅れている。
少しは、遅れを、取り戻したのである。
ここでも、久原夏子と、幸田圭吾が、乗って来た様子はない。
それでも、念のために、西本たちが、車内を見て廻った。
戻って来て、二人が、乗っていないと、十津川に、報告した。
だんだん、残りの駅の数が、少くなってくる。
秋田、東能代《ひがしのしろ》、鷹《たか》ノ巣《す》、大館《おおだて》、弘前《ひろさき》の五つの駅である。そして、終着の青森に着く。
雄物《おもの》川にかかる鉄橋をわたった。
秋田に着いた。
定刻より四十分おくれの二一時五五分である。
秋田県警の刑事が二人、乗って来て、十津川に、警視庁から電送されたメモを渡した。
三年前、成城で起きた殺人事件と、交通事故のメモである。
十津川も、亀井も、すぐ、成城で起きた二つの殺人事件のことを、思い出した。
鮮烈な印象を残している事件だったからである。
だが、交通事故のことは、十津川も、亀井も、覚えていなかった。
しかし、二つの事件が、同じ日、同じ成城で起きていることに、何かありそうだった。
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第十章 人 質
青森まで、あと二時間半である。
青森から、更に、青函《せいかん》連絡船に乗って、北海道へ渡る乗客は、用意された「青函連絡船旅客名簿」に、住所や名前を記入して、車掌に提出する。
十津川たちのいる車両でも、何人かの乗客が、配られた名簿に、記入している。
やがて、青函連絡船は、廃止される。そうなったら、車内でのこうした光景は、見られなくなるのだろう。
旅の情緒は、どんどんなくなっていくような気がする。
十津川は、そんなことを考えながら、近くで、名簿記入している若いカップルを見ていたが、身体を伸ばすために、席を立って、デッキまで、歩いて行った。
軽い屈伸運動をしてから、煙草に火をつけた。
自然に、三年前の事件のことを思い出していた。
捜査の困難さよりも、マスコミの騒ぎの方が大きかったことが、印象に残っている。
犯人の三人組が、中堅のスーパーを脅して、金を取ろうとした。事件は、単純だったが、犯人側の挑戦的な態度が、マスコミにとって、恰好《かつこう》のニュースになった。
三人の犯人も、妙に顕示欲が強くて、挑戦状を、新聞社に送りつけて、警察や、大衆を挑発した。
そして、スーパーの幹部が、連続して殺されたために、警察は何をしているのだという批判が、十津川たちに、向けられた。
何をしているのだといわれても、特別な捜査方法があるわけではない。犯人が、踊るからといって、こちらも、踊っているわけにはいかないのである。
地道に、犯人を追いつめていくより仕方がないのだが、それでも、あの事件の時は、犯人や、マスコミに、あおられて、捜査員の多くが、ナーバスになってしまっていた。
記者たちと、口論となったこともある。
あの時は、警察庁も、長官が、一刻も早い犯人逮捕を、指示して来たくらいだった。
逮捕された三人とも、K組の連中だった。
その中の一人が、S組の幸田圭吾と親しかったことは、わかっている。
だから、幸田が、亀井を狙うのは、わからなくもない。
三年前の事件の捜査を指揮したのは、十津川である。亀井たち十四人の刑事が、犯人逮捕に活躍した。その中でも、やはり、亀井の働きが一番だったろう。
しかし、磯見夫婦の方は、わからない。
久原夏子という名前は、今度、初めて、聞いたものだったし、彼女が、磯見夏子だったことも、もちろん、知らなかった。
三年前、磯見夫婦の子供が、交通事故で植物人間になり、一年後に死んだことも、知らなかった。
あの時、犯人逮捕に走り廻っていたパトカーが、夫婦の息子をはねて、殺してしまったというのなら、また、そのパトカーに、亀井が乗っていたというのなら、夫まで失った夏子が、亀井を、一千万円の賞金をかけて、殺そうとするのも、わからなくはない。
だが、夫婦の息子をはねたのは、無謀運転をしていた少年だったのである。その少年はすぐ逮捕されている。
それなのに、なぜ、夏子は亀井を狙うのだろうか?
(わからんな)
十津川は、ドアの小さな窓から、外の闇に、眼をやった。
列車は、今、八郎潟《はちろうがた》の近くを走っている筈である。
今が、秋で、昼間なら、黄金の稲穂《いなほ》の波が、車窓に見えることだろう。
だが、今は、黒々とした夜の闇が広がるだけである。
その闇の中に、犯人がいるような感じがして、十津川は、しばらくの間、じっと、見つめていた。
(何故、久原夏子は、亀井刑事を殺そうとするのだろうか?)
疑問は、そこへ戻ってしまう。
その理由がわかれば、対処の仕方が、わかるだろう。
二年前に、夏子は一人息子を失い、続いて、夫も失った。
彼女の恨みは、そこから発生しているに違いない。
その後、彼女が、苦労し、現在は、五十嵐という資産家の二号みたいな立場になっているが、全ての原因は、三年前の事故にあるといっていい。
亀井は、夏子を知らなかった。彼女の夫だった磯見茂樹も、一人息子の夏樹もである。
十津川もである。
唯一の接点といえば、成城で、同じ時に、十津川や亀井が、連続殺人事件の捜査に当ったということだけだった。
だが、その接点が、どう一千万円の懸賞金につながってくるのかわからない。
(全く別の理由なのだろうか?)
亀井の生命《いのち》を狙う人間として、最初に浮んだのは、S組の相談役をしている幸田圭吾だった。
次が、新宿のクラブ「ゆき」のママである。
最初は、彼女が、一千万円の主だと思われていたし、そのクラブのバーテンが、事件に介入して来た。
しかし、「ゆき」のママが、それらしく振る舞ったのは、幸田圭吾に頼まれたからだろうと、十津川は、思っている。
「ゆき」のバーテンが、「白鳥」に乗り込んで来たのは、明らかに、若林の監視のためだろう。
そのバーテンを殺したのは、原に違いない。多分、バーテンは、若林に、あれこれ指図したように、女装して、乗り込んで来た原に向っても、亀井を殺す方法や、時期について、指図したのだ。
一匹狼の原には、それが、かちんと来たのだ。だから、殺したのだろう。
ここまでの推理は、間違っていないと思う。
亀井に一千万円の賞金を掛けたのは、久原夏子で、間違いないだろう。
彼女を好きな幸田圭吾が、三年前の事件の恨みも手伝って、この計画に助力することになった。
幸田は、多分、実行の方を引き受けたのだろう。
自分の知っているクラブ「ゆき」のママを動かし、バーテンを利用して、亀井を襲う人間を、集めた。
自分の知っている暴力団員を使って、「白鳥」に、時限爆弾を仕掛けさせたのも、幸田だろう。
幸田が、亀井を狙う理由はわかるのだが、肝心の久原夏子の動機が、わからない。
いつの間にか、亀井が、デッキに出て来て、
「さすがに、疲れますね」
と、十津川に、声をかけた。
「カメさんでも、疲れるかね」
わざと、からかい気味にいって、笑ったのは、少しでも、亀井を、リラックスさせたかったからだった。もちろん、十津川自身も、リラックスしたいのだ。
「さっきから、久原夏子のことを考えていたんです」
と、亀井は、いい、ポケットから、煙草を取り出して、火をつけた。
「それで、何か、わかったかね?」
「何かあったとすれば、三年前の事件の時しかありません」
「ああ。だが、カメさん。たまたま、彼女の一人息子が、自動車事故にあったとき、われわれが、同じ成城の町で、連続殺人事件の犯人を追いかけていた。それだけのことしかないんじゃないかね?」
「その通りです。われわれの乗っていたパトカーが、彼女の息子をはねたのなら、命を狙われることが納得できるんですが、秋田で渡されたメモによれば、犯人は無謀運転の少年で、交通課が、逮捕しています」
亀井は言葉を続けた。
「この少年に対する刑が軽すぎることに腹を立てたのかなとも考えたんですが、それなら、彼女の怒りの対象は、少年本人か、裁判官に向う筈ですね」
「われわれが、何か見落しているのか、それとも、彼女が、誤解しているのか、どっちかだな」
と、十津川は、いった。
「そのどちらなのか、早く知りたいですよ。理由がわからずに狙われるのは、あまり気持のいいものじゃありませんからね」
亀井は、この男にしては、珍しく、小さな溜息《ためいき》をついた。
それが、十津川には、気になった。
亀井が、弱気になったとは、思わない。この男は、いかに相手が凶悪でも、恐れはしない。十津川が、亀井という部下を信じているのは、彼のその芯《しん》の強さである。
だが、亀井は、同時に、感傷家でもある。涙もろい。
最後には、幸田圭吾と、久原夏子本人が、この「白鳥」に、乗り込んでくるかも知れない。
十津川や、日下たちが、亀井を守ってはいるが、ひょっとして、亀井が、単独で、犯人と、向い合うことも考えられる。
いつもの亀井なら、心配はない。
胆力も据わっているし、拳銃の腕も、確かだ。
問題は、久原夏子だった。
彼女に、なぜ恨まれているのか、わかっていれば、亀井は、彼女と向い合ったとき、何とか、対処するだろう。
言葉で、説得してもいいし、力で、抑え込んでしまってもいい。
だが、理由がわからないままで、彼女と向い合ってしまった時、亀井は、どう対処していいか、迷うのではあるまいか。
しかも、三年前の交通事故が原因で、夏子は、一人息子を失っている。
そのことに、自分が責任があるのではないかと、亀井が、思ったとすると、夏子が、ナイフでも振りかざして、かかって来たとき、亀井は、相手を取りおさえることが出来ないのではあるまいか。
ふと、そんな不安を、覚えたのである。
「久原夏子の息子を殺したのは、われわれじゃない。無謀運転の少年だ。変なことは、考えなさんなよ」
と、十津川は、釘を刺した。
「別に、変なことは、考えていませんが――」
「しかし、ひょっとして、久原夏子の一人息子の死に、自分が関係があるのではないかと、考えているんじゃないのかね?」
「気になりますからね。警部は、まだ、子供をお持ちじゃないから、おわかりにならないと思いますが、私にも、子供が二人います。子供を、思いもよらず、失ってしまった母親の悲しみというのが、尋常一様でないことは、よくわかります。それが、一人子なら、尚更だと思いますね」
「おい、おい」
と、十津川は、やや、あわてた表情になって、
「久原夏子は、君の命を狙っているんだよ。それも、自分が、手を出さずに、一千万円という金を出して、殺し屋をやとっているようなものだ。そんな卑劣な女に、同情するのかね?」
「子供を失うというのは、大変なことだと思うんです」
「それと、今度の事件とは、別だよ」
十津川が、いった時、東能代駅に着いた。
2号車から、故郷へ帰るらしい家族連れが、白い息を吐きながら、夜のホームへ降りて行った。
ドアが開くと、冷たい外気が入ってくる。
東能代は、三十秒停車で、すぐ、発車した。
続いて、鷹ノ巣駅に停車。ここも、三十秒停車である。
十津川と、亀井は、自分の席に戻った。
車内放送が、食堂車が、営業を終了したことを告げた。
次は、大館である。
(幸田たちは、まだ、乗って来ないのだろうか?)
相変らず、車内は、静かである。
車輪が、レールの継ぎ目を拾う音と、モーターの音しか、聞こえて来ない。
あと、大館、弘前と停車して、終着の青森である。
「あと一時間半ぐらいでしょう」
若い日下刑事が、腕時計を見ながらいった。
「何事も、起きませんね」
西本が、首をかしげている。
「まだ、青森へは、着いていないよ。それに、東能代、鷹ノ巣で、彼等が乗り込んで来ているかも知れないよ」
と、十津川が、いった。
この二つの駅で停車した時、十津川は首を伸ばして、ホームを見たのだが、ホームは暗く、幸田か、夏子が、乗ったかどうか、わからなかった。
「白鳥3号」は、十二両編成である。一両の長さが二〇メートルとして、二四〇メートルになる。
それに、三十秒停車では、ホームに降りて、12号車まで、見廻すわけにはいかないから、東能代か、鷹ノ巣で、幸田か、夏子が、12号車あたりに乗ったとしても、わからない。
「乗っていれば、どうせ、この2号車に向って、アクションを、起こして来るさ」
と、十津川は、いった。
亀井が、煙草に火をつけた。
「おかしいな」
と、近くの席で、乗客の一人がいったのは、その時だった。
若いカップルの男の方である。
二人とも、重そうなリュックサックを、網棚に、のせている。
「何がおかしいの?」
若い女の方が、きく。
「青函連絡船の乗客名簿を書いたじゃないか。ちゃんと、記入したのに、車掌は、どうして、取りに来ないんだろう?」
「終点の青森へ着いたら、集めに来るんじゃないの?」
女の方は、呑気にいったが、男は、眉をひそめて、
「それじゃあ、遅過ぎるじゃないか。この名簿を集めて、何人、青函連絡船に乗るか、大館あたりから、前もって、青森駅へ知らせるんだと聞いたことがあるよ」
「でも、車掌さんは、集めに来ないじゃないの」
女は、首を伸ばして、ドアの方を見ている。
(おかしいな)
と、十津川も、思った。
確かに、青函連絡船乗客名簿は、早く集めて、この列車の何人が乗るか、電話で、青森駅に知らせるべきだろう。
それなのに、なぜ、名簿を集めに来ないのだろうか?
「少し妙だぞ」
と、十津川は、小声で、いった。
「そういえば、変ですね」
と、いったのは、亀井だった。
「どこが、おかしいんですか? 名簿なんて、終点に着くまでに、集めるんでしょう?」
日下が、あっさりと、いった。
「いや、私が、青森へ帰るとき、相当、前で集めていたよ。前もって、青森駅に連絡しなければならないからだよ」
「じゃあ、私が、車掌に、聞いて来ますよ」
と、西本が、立ち上ったとき、ふいに、車内放送が始まった。
――2号車に乗っている亀井刑事に伝える。
はっとして、亀井と、十津川は、顔を見合せた。
中年の男の声だった。
どこかで、前に聞いたことのある声である。
「幸田圭吾だ」
と、十津川が、呟《つぶや》いた。間違いなく、あの男の声だった。
(どうなっているんだ?)
と、十津川が思い、若い日下たちが、顔色を変えて、立ち上った。
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――われわれは、グリーン車を占領して、この車両の乗客と、乗務員を、人質にした。
彼等の命を助けたければ、2号車の亀井刑事が、ひとりで、グリーン車へ来い。
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また、男の声の車内放送が、聞こえた。
「失敗《しま》った!」
十津川は、声に出して、いった。
幸田たちは、2号車にやって来て、亀井の命を狙うだろうと、考えていたのである。さもなければ、鶴岡と酒田の間で、犯人たちがやったように、2号車の床下に、時限爆弾を仕掛けるだろうとも、思っていた。
彼等が、一つの車両を占領し、その車両の乗客を人質にとるとは、考えていなかったのである。
「私が、行ってみましょう」
亀井が、いった。
「駄目だよ。そんなことをしたら、君は、殺されてしまう」
と、十津川は、反対した。
脅しているわけではなかった。犯人たちは、亀井を呼びつけて、殺すために、グリーン車を占領したに違いないのだ。
「しかし、このままにしておくわけにはいきませんよ」
「次の大館で停車した時、何とかなるんじゃないかな。いや、何とか、青森まで行って、公安官たちに協力して貰って、グリーン車の犯人たちを、一挙に制圧しようじゃないか」
「そんなことをしたら、乗客の中に、犠牲者が出ますよ。警部」
「だがな、君が殺されるとわかっていて、グリーン車へ行かせるわけにはいかないよ」
十津川が、いう。
若い日下たちは、どうしていいかわからず、ただ、眼を光らせている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――どうしたんだ? 亀井! 刑事のくせに、乗客を犠牲にする気か。
[#ここで字下げ終わり]
車内放送が、皮肉ないい方をした。
明らかに、こちらを、からかっているのだ。
「とにかく、次の大館に着いてから、考えようじゃないか。あと、五、六分だ」
十津川は、必死になって、亀井をおさえた。
大館に着いたら、この列車を、そこで、停めてしまう。
そうなれば、何とかなるだろう。公安官や、警察の助けも期待できる。列車が、停まってしまえば、犯人たちも、逃げようがなくなるのだ。そこで、何とか、取引きに、もっていけるかも知れない。
「日下君」
と、十津川は、呼んだ。
「運転席へ行って、大館で、列車を動かないようにしてくれるように、頼んで来い」
「はい」
と、日下は、立ち上ったが、首を振って、
「駄目です。途中のグリーン車は、占領されているので、先頭車に行けません」
「失敗った」
十津川は、舌打ちした。
今、十津川たちは、2号車にいる。
大阪を出発した時は、1号車が、先頭だった。
だが、その列車は、新潟で、方向転換して、逆編成になったのである。12号車が、先頭になったのである。
十津川は、それを、忘れていたのだ。
グリーン車は、6号車だから、2号車と、先頭の12号車の間にある。
「あッ。大館駅を通過してしまいます!」
日下が、窓の外を見て、叫んだ。
列車は、いくらかスピードをゆるめたものの、二分停車する筈《はず》の大館駅を、通過してしまった。
明るいホームが、眼の前を、流れ去った。
「奴等が、運転士を脅してるに違いありません」
と、西本がいう。
「やはり、私が、グリーン車へ行って、話をつけて来ます」
亀井が、いった。
「それは、駄目だ。君一人は、行かせられないよ」
「しかし――」
「そうだ。1号車に行ってみよう。乗務員室があるから、そこから、犯人たちに、連絡がとれるだろう」
と、十津川は、亀井に、いった。
二人は、最後尾の1号車へ向って、通路を駈《か》けた。
乗務員室では、専務車掌が、車内電話をかけているところだった。
十津川が、警察手帳を見せた。
専務車掌は、受話器を置いてから、
「大変なことになりました」
と、蒼《あお》い顔で、いった。
「やっぱり、運転士は、脅かされているんですか?」
十津川が、きいた。
「よくわからないんですが、大館駅へ停車したら、グリーン車の乗客を一人殺すといわれているみたいです」
「非常ブレーキで、この列車を停めることは出来ませんか?」
「駄目です。それをしたら、やはり、グリーン車の乗客を殺すといっています」
「じゃあ、このまま、青森まで、停車せずに走るわけですか?」
「犯人たちは、どこにも停まらずに走らせろと、要求しているようです。何者なんですか?」
と、専務車掌が、きいた。
十津川は、その質問には、答えず、
「その電話で、グリーン車と、連絡がとれるんですか?」
と、きき返した。
「グリーン車の乗務員室につながります。車掌長が、向うにいます」
「グリーン車の乗客は、何人ですか?」
「二十八人です」
「二十八人もですか」
十津川は、小さく溜息をついた。
一人でも、人質がいれば、助けなければならない。それは、警察官としての任務である。十津川は、無線電話を手に取った。
「車掌長の池田だ」
という声が、聞こえた。
その声は極度に緊張し、ふるえている。
「2号車に乗っている警視庁捜査一課の十津川です」
「ああ、十津川さん」
と、車掌長が、おうむ返しにいったとたん、急に、声が変った。
「十津川さんか?」
「私だ。君かね? グリーン車を占拠した犯人は?」
「おれの他に、何人もいる」
「君は、幸田圭吾だな?」
「ああ、そうだ」
「馬鹿なまねは、すぐ中止するんだ。無抵抗な乗客を人質にとるようなことは、すぐ、止めるんだ」
「やだね。それに、無抵抗でもないぜ。乗客の一人が、いきなり、おれに、殴りかかって来やがった」
「その乗客は、今、どうしてるんだ?」
「まだ、生きてるから、安心しな」
「要求は、何なんだ?」
「わかってる筈だ。亀井刑事の命だ」
「そんな要求には、応じられん」
「じゃあ、グリーン車の二十八人の乗客が、死ぬことになる。それで、いいんだな?」
幸田は、脅迫めいた口調になっていた。
「亀井刑事が、ひとりで、グリーン車へ行けばいいのか?」
「そうだよ」
「彼は、どうなるんだ?」
「さあ、どうなるかな。この列車は、青森まで、停車しないことになった。次の弘前も、通過する。青森に着くまでに、亀井刑事を、ひとりで、このグリーン車に寄こすんだ」
幸田は、決めつけるように、いった。
亀井が、その時、横から、受話器をつかんだ。
「私が、君たちが狙っている亀井刑事だ。私が、グリーン車に行けば、二十八人の乗客は、解放してくれるのか?」
「もちろん、考えるさ。その気なら、すぐ、ひとりで、グリーン車へ来るんだ」
「わかった」
と、亀井は、肯いてから、
「一つだけ、君に、ききたいことがある」
「なんだ?」
「君が、私を狙う理由は、だいたい想像がつく。だが、一千万円の懸賞金を出してまで、私を殺したいという久原夏子の動機がわからん。なぜ、彼女は、私を殺したがっているんだ?」
「そんな女は、知らないね」
「嘘《うそ》をつくなよ。君と、彼女のことは、調べたんだ。君が、他人名義の百万円の小切手を、何枚か用意して、彼女に渡したことは、わかっている。後藤や、原が、その百万円の小切手を貰って、この列車で、私を狙ったんだよ」
「詰らない話なんかしてないで、早く、グリーン車に来たらどうだ。それとも、怖くて、びくついてるのかね? どうしても、来ないんなら、代りに、このグリーン車の乗客を殺すぞ」
「別に、怖くはない。ただ、事実を知ってからにしたいだけだ。殺《や》られるにしても、わけもわからずに殺られるのは、嫌だからな。久原夏子は、なぜ、私を狙うのだ?」
「本当に、わからないのか?」
「わからないね。三年前、成城で、彼女の一人息子が、自動車事故にあい、一年間入院して死んだのは、知っている。夫も、その後、亡くなった。多分、それが理由だとは思うが、彼女の息子をはねたのは、無謀運転の少年で、三年前に、逮捕されている。われわれには、関係ないんだ。だから、理由がわからん。納得できる理由があれば、私も、覚悟を決められるんだ。だから、話してくれないか」
「そうやって、時間稼ぎをするつもりかね?」
「そんな計算はしていない。事実を知りたいだけだ」
「時間がない」
幸田は、面倒くさそうに、いった。
「時間は、あるじゃないか。お互いに、話し合おうじゃないか」
「無駄だよ。そんなのは、逃げ口上だ。あと三十分待ってやる。それが、ぎりぎりだ。もし、三十分たっても、あんたが、グリーン車へ来なかったら、ここの乗客を一人殺す。これは、単なる脅しじゃないぞ。まあ、その乗客にしてみたら、自動車事故にあったようなものだろうな。三十分の間に、覚悟を決めるんだ。ひとりで、グリーン車へやって来るか、それとも、乗客を犠牲にして、自分は、のほほんと、隠れているかをね。民間人を犠牲にするのは、得意だろうがね」
「そんなことは――」
(ない)
と、亀井が、いいかけた時、幸田が、無線電話を、切ってしまった。
専務車掌が、向うを呼び出そうと、必死に努力してくれたが、相手は、出ようとしない。
亀井は、覚悟を決めた顔で、十津川に、
「三十分したら、グリーン車へ行きます。面と向い合えば、説得できるかも知れませんし、久原夏子が、なぜ、私を殺したがっているか、その理由を、話してくれるかも知れません」
と、いった。
「とにかく、われわれも、グリーン車の近くへ移動しよう」
十津川は、日下や、西本たちを連れて、6号グリーン車の隣りの5号車へ移動した。
ひょっとして、幸田たちと、射ち合いになることも予想されるので、専務車掌にも頼んで、5号車の乗客に、4号車へ移って貰った。
「向うは、何人かな?」
十津川は、腕時計を見ながら、自問自答のように、呟いた。
「グリーン車の二十八人の乗客と、車掌長を抑えているんですから、最低二人は、必要でしょう。各車両には、前後に出入口がありますから、そこに一人ずつ必要です。乗務員室の無線電話に、もう一人とすると、三名はおりますね」
「それに、運転席にも、一人、監視役が行ってるんじゃないかね。大館駅を通過してしまったが、ただ単に、無線電話で脅しただけでは、運転士は、停めたと思うからね。犯人の一人が、運転席にいるのは、間違いないだろう」
十津川は、断言した。
「すると、全部で、三人から四人ですか?」
日下が、緊張した顔で、いった。
「多分ね。それに、拳銃ぐらいは、持っていると、みなければ、ならない」
「あと二十分です」
と、西本が、いった。
「この列車を停めよう」
十津川が、みんなの顔を見廻して、いった。
一緒に、5号車へ来ていた専務車掌が、
「どうやって、停めるんですか?」
「それは、専門家のあなたに教えて貰いたいんだが」
「信号が赤なのに、これを無視して走っているのなら、自動停止装置が働きますが、この列車は、現在、二十分ほど遅れていますから、信号が、赤になることは、あり得ません。それに、時速七〇キロで走っていますから、『白鳥』の表定速度七六・八キロより下です」
「しかし、大館には、停車しませんでしたよ」
「そうです。だから、大館駅では、騒いでいるでしょうが、だからといって、自動停止装置は、働きません。運転士が、停めなければ、列車は、停まりません」
「停めるには、どうしたら、いいんですか?」
亀井が、きいた。
「前方の信号を赤にすれば、自動停止装置が働いて、列車は、停止します」
「先の駅に連絡する方法は? 今、車内で起きていることを知らせて、協力を求めたいんですがね」
十津川が、相談する口調で専務車掌にいった。
「駅に停車したとき、連絡するのが普通ですが、犯人たちは、停車させないんですから、それは無理ですね。無線電話も、使えません」
「すると、終点の青森まで、連絡は、とれないというわけですか?」
若い日下刑事が、眼をむいた。
専務車掌は、手を振って、
「非常用の連絡方法があります。連絡文を書いて下さい。それを、通過する駅に、投げ落とします。それに使う丈夫な布袋も、あるんです」
「すぐ、書きましょう」
と、十津川は、いった。
十津川は、手帳に、ボールペンで、グリーン車が、犯人たちによって、占領されたこと、二十八人の乗客と、一人の乗務員が、人質にされていることから、書いていった。
十津川は、手を止めて、専務車掌に眼をやった。
「二十分後に、どこの駅のあたりを通っていますか?」
「二十分後だと、弘前ですね。今のスピードなら、あと二十分で、弘前に着きます」
「じゃあ、その前に通過する駅で、この手紙を落として下さい。弘前駅の信号を、赤にすれば、停車させられるでしょう?」
「出来ますが――」
「どうしたんです? 非常連絡用の袋があると、いっていたじゃありませんか?」
「ついさっき、陣場《じんば》駅を通過したところです」
「弘前までには、まだ、いくつか、通過駅があるでしょう?」
「津軽湯《つがるゆ》の沢《さわ》、|碇ケ関《いかりがせき》、長峰《ながみね》、大鰐《おおわに》、石川、そして、弘前です」
「じゃあ、そのどこかの駅で、この手紙を落として下さい。乗務員室の窓は、開くんでしょう?」
「ええ。開きますが、ただ、この辺りは、無人駅が、続くんじゃなかったかな」
「無人駅?」
「そうです。国鉄の合理化で、無人駅や、民間への委託駅が、多くなっているんです。今、通過した陣場駅も、無人でした。無人だと、折角、連絡用の袋を落としても、誰も、拾ってくれませんからね」
専務車掌が、喋っている間に、列車は、小さな駅を、通過した。
「今の駅は?」
「津軽湯の沢です。確か、一日の乗降客が、二十人もいない筈ですよ。もちろん、無人駅です」
「駅員のいる駅は、弘前までないんですか?」
西本が、食いつくような眼で、専務車掌を見つめた。
「ちょっと、待って下さい」
と、専務車掌はいい、じっと、考え込んでいたが、急に、笑顔を見せて、
「碇ケ関は、駅員が、いた筈です。他の駅は、無人か、民間委託ですね」
「その駅は、あといくつ目ですか?」
「次です。すぐ、1号車へ行きましょう」
十津川は、専務車掌と、通路を、最後尾の1号車に向って、走った。
乗務員室にたどり着くと、すぐ、中へ入った。
専務車掌は、すぐ、非常連絡用のカーキ色をした袋を取り出した。頑丈な布製で、三角形をしている。
それに、十津川は、手紙を入れた。
「事件のことを、信じてくれるようなものを、一緒に入れておいてくれませんか」
と、車掌がいった。
十津川は、自分の警察手帳を出して、袋の中に入れた。それで、手紙の内容を、信じて貰えるという保証はない。
袋には、金具のおもりがついている。
車掌が、窓を開けた。
暖房している車内に、冷たい外気が、吹き込んで来たが、十津川も、車掌も、冷たさを感じなかった。
「間もなくです」
と、車掌が、大声でいう。その声が、風にちぎれてしまう。
ホームの明りが、ぐいぐい近づいてくる。
列車は、スピードをゆるめない。二、三人の駅員が立っているのが見えた。
車掌が、ホームめがけて、袋を投げる。
列車は、轟音を立てて、通過する。十津川と、車掌は、あわてて、振り返ったが、碇ケ関のホームは、あっという間に小さくなり、すぐ、見えなくなってしまった。
駅員が、連絡用の袋を拾ったかどうかを、確認する余裕は、なかった。
「拾ってくれることは、間違いありません」
と、車掌が、いった。
「そのあとは?」
「問題は、そのあとですね。すぐ、中身を見てくれるか、警部さんの手帳を信じて、弘前駅に、電話で連絡してくれるかどうか」
「すぐ、連絡してくれないと困る。弘前まで、あと、何分かね?」
「十五、六分でしょう」
「十五、六分の勝負か」
と、十津川は、呟いた。
5号車へ引き返した。
「上手くいきましたか?」
心配そうに、日下が、きいた。
「一応はね。あとは、あの駅の駅員が、電話連絡して、弘前で、この列車を停めてくれるかどうかだ」
「幸田が、通告して来た三十分に、あと、十五分しかありません」
「丁度、その時刻に、弘前に着く」
「赤信号を無視して、走ったなら、どうなりますか?」
「自動停止装置が働くさ。運転士が手動に切りかえれば、赤信号でも走らせることが出来るだろうが、そんなことはしないだろう。運転士だって、停車させたいだろうからね」
「弘前なら、公安官がいますね?」
「ああ。いる。それに、十三分あれば、警察の人間も、駅に駈けつけてこれる筈だ。そうなれば、幸田たちと、取引きが出来るよ」
十津川は、安心させるように、若い日下刑事に、微笑して見せた。
また、小さな駅を通過した。
長峰駅である。
無人駅だった。
大鰐駅通過。
ここは、民間の委託駅である。
――おい。亀井刑事。そろそろ、時間切れだぞ。
車内放送が、流れた。
亀井が、十津川を見た。
「もう少しだ。カメさん。すぐには、乗客を殺したりはしないさ」
十津川が、小声で、いった。
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――グリーン車の乗客が、死んでもいいのか? これは、脅しじゃないぞ。
[#ここで字下げ終わり]
男の声が、大きくなった。
石川駅を通過。これも、無人駅である。
「次が、弘前です」
と、専務車掌が、いった。
「時間は?」
十津川が、きいた。
「四、五分です」
「もう行きます」
と、亀井が、いった。
「待ってくれよ。カメさんが死ぬところなんか見たくないからな」
十津川が、いう。
「大丈夫です。何とか、時間を稼ぎますよ」
亀井は、さすがに、堅い表情でいい、5号車のデッキに移ると、6号車に向って、
「亀井だ! これから、そっちへ行くぞ!」
と、怒鳴った。
6号車のドアが、開いた。
「ひとりで来るんだ!」
と、若い男が、顔をのぞかせて、いった。
幸田に使われている男だろう。
「わかってる」
「拳銃も、持ってくるな!」
「オーケイ」
亀井は、十津川に、拳銃を渡してから、6号車に向って、ゆっくり、歩いて行った。
亀井を呑《の》み込《こ》むと、6号車のドアは、また、閉められてしまった。
「警部。どうします?」
日下が、蒼《あお》い顔で、十津川を見た。
「弘前駅が、どうなっているか、まず、見るんだ。奴等だって、すぐには、カメさんを殺さないさ。殺せば、逃げられなくなるからな」
「間もなく、弘前です」
と、車掌がいった。
「ホームに停車したら、すぐ、ドアを開けて下さい」
十津川が、いうと、車掌は、1号車の乗務員室へ、飛んで行った。
6号車からは、何の音も聞こえて来ない。
「列車のスピードが、落ちませんよ」
西本が、窓の外を見ながら、甲高い声を出した。
すでに、弘前の街に入っていて、家々の灯や、ネオンなどが、車窓にちらついているのだが、西本のいう通り、列車のスピードはいっこうに落ちない。
(信号が、赤になっているだろうか?)
十津川は、窓ガラスに、顔を押しつけたが、前方の信号は、見えなかった。
「もし、弘前で、停まらなかったらどうしますか?」
日下が、きいた。
「その時には、全員で、6号車に飛び込むさ」
と、十津川がいったとき、突然、急ブレーキが、かかった。
自動停止装置が働いたのだ。
棚から、荷物が落ちた。
十津川は、よろけ、足をふみしめてから、
「やったぞ!」
と、叫んだ。
弘前駅のホームが見えた。
ホームに、乗客の姿はなく、見えるのは、公安官と、警官の姿だけだった。
万一に備えて、乗客を、遠ざけたのだろう。
列車が、停車した。
同時に、ドアが開いた。
5号車にも、公安官が二人、飛び込んできた。
「十津川警部は、どこですか?」
と、公安官の一人が、きいた。
「私だ」
と、十津川は、いってから、
「6号車を、はさみ打ちにしてくれ」
「大丈夫です。7号車は、食堂車ですが、そこにも、公安官と、弘前署の警官が、乗り込みました」
「先頭の運転席は?」
「すぐ、制圧できると思います」
と、公安官の一人は、いってから、トランシーバーで、連絡をとった。
「運転席には、犯人が一人いたそうですが、降伏したそうです」
と、公安官は、いった。
十津川は、ホームに降りてみた。日下や、西本たちも、そのあとに続いた。
運転席の犯人は降伏して、今は、もう、幸田たちの意のままには、列車は、動かなくなった。
6号車は、孤立した。
だが、車内には、二十人を越す人質が、いるのだ。
どの窓も、幸田が命令したのだろう。カーテンがおりているので、中の様子は、わからない。
「弘前署の外村警部です」
と、四十五、六の刑事が、十津川のところへ、駈け寄って来た。
「どうも、ありがとうございます」
十津川は、礼をいった。
外村の部下が、運転席にいた犯人を、連れて来た。
がっしりした身体つきの二十七、八の男である。眼つきの鋭い男で、手錠をかけられても、平然としていた。
「お前たちは、全部で何人だ?」
と、外村が、きいた。
男が、「知らねえな」といって、ニヤッと笑った。
傍にいた日下が、かッとして、男を殴りつけた。
男が、がくッと、膝をついた。
いつもの十津川なら、部下のそんな乱暴は、すぐ、止《と》めるのだが、亀井や、人質になっている乗客たちのことを考えると、その気になれなかった。
日下が、もう一度、殴った。
男の唇が切れ、血が吹き出した。
男の顔色が、変った。
「こんなことをして、いいと思ってるのか?」
と、男が、十津川を見た。
「笑わせるなよ」
と、十津川は、いつもの彼らしくなく、相手を睨みつけた。
「この車内じゃ、何人もの人質が、殺されようとしてるんだ。殴られたぐらいで、文句をいうな」
「もう少し、殴らせて下さい」
と、日下が、いった。
「その前に、もう一度、きくぞ。仲間は、何人だ?」
外村警部が、男の胸倉をつかんで、立たせてから、きいた。
「三人だよ」
と、男が、いった。
「リーダーは、S組の幸田圭吾だな?」
十津川が、きいた。
「ああ」
「久原夏子という女は一緒じゃないのか?」
「女は、いない」
「三人が持ってる武器は?」
「拳銃と、ナイフだ」
「亀井刑事を殺す為か?」
「そんなことは、知らねえよ。おれは、ただ、運転士を脅して、青森まで、列車を停めるなといわれていただけだ」
「もういい」
と、十津川は、男にいってから、
「何とか、犯人たちを、説得したいですね」
と、外村警部にいった。
「やってみましょう」
外村は、部下に、ハンドマイクを持って来させると、6号車に向って、
「中にいる犯人に告げる。この列車は、もう動かん。早く、人質を解放して、降伏したまえ!」
「うるさい!」
車内から、怒鳴り返す声が、聞こえた。
「もう逃げられんぞ!」
外村が、いった。が、車内からは、返事がなかった。
「車内の無線電話で、話してみましょう」
十津川は、外村と、1号車へ行き、乗務員室の無線電話を、取った。
男の声が出た。
「誰だ?」
「十津川だ」
と、いってから、外村に、受話器を渡して、
「多分、リーダーの幸田という男です」
と、いった。
ここは、青森県警の管轄《かんかつ》である。とにかく、外村に、委せるより仕方がない。
「弘前署の外村だ」
と、外村が、いった。
幸田は、黙っている。外村は、小さく咳払《せきばら》いをした。
「すぐ、人質を解放したまえ。逃げられやしないぞ」
「そっちこそ、この駅から消え失せろ! さもないと人質を殺すぞ!」
幸田が、いい返した。
「駄目だ。すぐ、降伏するんだ。今なら、刑は軽い。それを考えろ!」
「笑わせるなよ。おれたちは、覚悟を決めて、グリーン車を占領したんだ。手を引くのは、そっちだ」
「いいか。人質を一人でも殺したら、容赦はしないぞ」
「すぐ、消えないと、人質を一人ずつ殺してやるぞ!」
「一人でも殺せば、その瞬間、われわれは、突入する」
外村は、負けずに、いい返した。
押し問答の形になった。
(これを繰り返しているうちに突破口が、開かれるかも知れないな)
と、十津川は思った。
幸田は、やたらに、人質を殺すと、脅しながら、いっこうに、実力行使に出る気配がないからである。
幸田たちだって、命は、惜しいのだ。
急に、ホームが、騒がしくなった。
他の乗客は、危険なので、このホームには入れてない筈だったのに、どうしたのかと、十津川たちが振り向くと、カメラを片手に、新聞記者や、テレビのレポーターが、事件を聞きつけて、押しかけて来たのだった。
弘前署の外村警部が、顔をしかめて、
「どうしたんだ! 追い返せ!」
と、部下に、怒鳴った。
しかし、記者たちや、ビデオカメラを持ったテレビのレポーターたちは、いっこうに、ホームから、立ち去る気配がなかった。
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――今、弘前駅のホームに来ております。大阪発の「白鳥3号」のグリーン車が、拳銃を持った男たちに占領されております。犯人たちの要求が何なのか、まだ、明らかにされておりません。
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テレビのアナウンサーの甲高い声が、十津川の耳にも、聞こえてくる。
「しょうがないな」
外村が、舌打ちをした。
十津川は、むしろ、彼等の素早い反応の方に、興味を持った。
十津川は、記者の一人をつかまえて、
「どうして、この事件のことが、わかったんだ?」
と、きいてみた。
三十歳くらいの若い記者は、6号車の方を見ながら、
「電話があったんですよ」
「電話? この駅からか?」
「男の声で、今、弘前駅のホームで、下り『白鳥』が、拳銃を持った男たちに、占領されていると、教えてくれたんですよ。それで、駈けつけたわけです」
「他の新聞や、テレビも、そうだろうか?」
「多分、そうでしょう。ねえ、刑事さん。中は、どうなってるんです? 本当に、犯人たちは、銃を持ってるんですか?」
「あんまり、近づかない方がいいね。射たれるよ」
十津川が、いった時、6号車の乗務員室の窓が開いて、突然、拳銃が、発射された。
鋭い銃声が、ホームに、ひびきわたった。
「わッ」
と、記者たちが、悲鳴をあげて、柱のかげに、身体をかくした。
ホームの床に、身を伏せた記者もいる。
犯人が、誰かを狙ったのではなかった。脅しの射撃だった。
「危険だから、退っていて下さい!」
と、弘前署の刑事が、叫んだ。
どどッと、柱や、待合室のかげに退った記者や、カメラマンたちだが、すぐ、また、6号車に近づいてきた。
「退れ!」
と、今度は、6号車の車内から、犯人の一人が、怒鳴った。
また、銃声が、ひびいた。
乗務員室の窓から、射ったのだ。
(まるで、楽しんでるみたいだな)
と、十津川は、思った。
犯人は、明らかに、天に向って、射っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――犯人が、また、射ちました! 犯人は、いきり立っています。6号車の乗客の安否が、気遣われます!
[#ここで字下げ終わり]
テレビのアナウンサーが、叫んでいる。
今度は、続けて、一発、二発と、犯人側が射った。
その一発が、ホームの天井に命中して、「がぁーん」と、大きな音を立てた。
破片が、落ちてくる。
「奴等は、本気で、射っていませんね」
と、外村も、気がついて、十津川に、いった。
「そうですね。射つのを、楽しんでいます。テレビのカメラが、写している前で、射つのを楽しんでいますよ」
「馬鹿にしやがって!」
外村が、怒鳴る。
十津川は、亀井のことが心配だった。が、今の状態では、殺されている感じはなかった。
二十分、三十分と、時間が、経過していく。
犯人たちは、まるで、サービスのように、時々、乗務員室の窓を小さく開けて、そこから、拳銃を射った。
いずれも、宙に向って射つ感じだった。
幸田たちは、何の要求も、突きつけて来ない。
「何を考えてるんでしょうか?」
外村が、十津川にきいた。
「私にも、わかりません。普通なら、逃亡のために、車を用意しろというようなことを、指示しにくる筈ですからね」
「あと五分したら、催涙弾を、車内に射ち込んで、突入しようと思います」
と、外村が、いった。
「いいでしょう」
十津川は、肯いた。
ここでの主導権は、あくまでも、青森県警にある。
「あと、五分以内に、人質を解放しろ! 五分したら、車内に突入するぞ!」
外村が、車内の犯人たちに向って、メガホンで叫んだ。
「勝手にしろ!」
幸田が、怒鳴り返して来た。
また、乗務員室の窓から、犯人の一人が、拳銃を射った。
今度は、天井から吊してある駅名表示板に命中した。
破片が飛び散り、近くにいた記者たちが、悲鳴を上げて、逃げ散った。
「あと三分」
と、外村が、小さくいった。
催涙ガス銃を持った警官たちが、所定の位置についた。
6号車の前後のドアと、ホーム寄りの窓の三方から、一斉に、催涙弾を、射ち込むことになっていた。
警官たちが、記者や、カメラマンたちを、危険だからと、退らせた。
「よし。やれ!」
と、外村が、怒鳴った。
一斉に、催涙ガス銃が、6号車に向って、射ち込まれた。
催涙ガス特有の匂いが、ホームにも、立ち籠めた。
十津川は、日下たちと、一緒に、白煙の中を、6号車に向って、突入した。
乗客たちが、激しく、咳込《せきこ》んでいる。
「カメさん!」
十津川は、身体を低くして、呼んだ。
幸田たちが、射ってくるかも知れないと思ったのだが、一発も射って来なかった。
あっさりと、両手をあげて、降伏してきた。
亀井は、6号車の中央あたりで、床に伏せていた。
「カメさん。大丈夫か?」
と、十津川が、声をかけると、亀井は、ゆっくり起きあがってから、大きく、咳込んだ。
「この催涙ガスというやつはどうしても、好きになれませんよ」
と、亀井が、いった。
ホームに出ると、亀井は、深呼吸した。
ホームの明かりの下に来て、初めて、亀井の顔から、血が、流れているのに気がついた。
「殴られたのか?」
「一発やられましたが、たいしたことはありません」
亀井は、ハンカチを取り出して、血を拭《ふ》き取《と》った。
「どうも、わかりません」
と、亀井が、いった。
「幸田たちが、簡単に、手をあげて降伏したことかい?」
十津川は、ちらりと、ホームの端に並んでいる幸田たちを見た。
全部で三人、手錠をかけられ、盛んに、カメラマンのフラッシュが、たかれている。
「それもありますが、なぜ、私を、殺さなかったのかも、わからないんですよ。乗客を早く解放しろといった時、幸田に、拳銃で殴られましたが、それ以外は、何もしませんでしたよ。どうも、わかりません」
「私も、おかしいと思っているんだ」
と、十津川も、いった。
幸田は、度胸のない男ではない。頭も切れる。
そんな男が、6号車を占領しておきながら、なぜ、簡単に、降伏したのだろうか?
「新聞記者や、テレビが、一杯、来てましたが、これは、誰かが、知らせたんですか?」
「電話があったらしい」
「電話ですか?」
「たまたま、この駅で、事件を目撃していた人が、新聞社や、テレビ局に電話したとも考えられるんだが――」
「ひょっとすると、幸田の仲間が、電話したとも考えられますね」
「そうなんだ、ただ、もし、そうだとすると目的がわからない」
「そうですね。幸田が、目立ちたがり屋で、新聞記者や、テレビの前で、いい恰好をしたかったのかも知れないとも思いますが、幸田は、そんな男じゃありませんから」
「6号車に、久原夏子は、乗っていなかったのか?」
「いませんでした。他の車両に乗っていたのかも知れませんが」
「どうも、納得できないな」
十津川の顔には、当惑の色が、浮んでいた。
亀井も、他の乗客も、無事に救出できたことは嬉しいのだが、解決の仕方が、どうも、納得できないのである。
列車を停め、占領された6号車を包囲し、催涙ガス銃を射ち込んで、犯人たちを逮捕し、人質を解放した。
万事、うまくいったわけだが、うまく、行き過ぎている。
何よりも、十津川を当惑させているのは、幸田の態度なのだ。
第四課の花井警部の話では、幸田は、一筋縄ではいかない男だということだった。あの言葉は、嘘《うそ》だったのだろうか?
6号車を占領したのも、拳銃を射ったのも、全て、遊びだったのか、あまりにも、最後が、あっけなかったので、そんな風にしか、考えられなくなってくる。
「十津川さん、幸田というリーダーを、訊問しますか?」
と、弘前署の外村警部が、きいてくれた。
特急「白鳥3号」は、あと二十分してから、青森に向って、発車するという。
「させて下さい」
と、十津川は、外村に、いった。
ホームの待合室で、手錠をかけられた幸田に会った。
なぜか、幸田は、薄笑いを浮べている。
(計画が失敗したので、照れ笑いをしているのだろうか? それとも――)
「どうだい? 十津川さん」
と、幸田の方から、声をかけて来た。
「可愛い部下が、殺されるんじゃないかと、気が気じゃなかったろう? え?」
「なぜ、亀井刑事を殺さなかったんだ? そのつもりで、6号車の乗客を、人質に取ったんじゃないのか?」
十津川が、きくと、幸田は、ニヤッと笑って、
「殺された方が、良かったのかい?」
幸田は、からかうように、いった。
十津川は、思わず、かッとなりそうになるのを、抑えて、
「久原夏子は、どこにいる?」
「そんな女は、知らないな」
「お前さんが、百万円の小切手を渡した女だよ。成城に住んでいた女だ。お前さんは、彼女に、ご執心だったんじゃないのか?」
「知らないな」
「だらしのない男だな」
十津川は、挑発するように、いってみた。
「何がだ?」
「三人も部下を使って、6号グリーン車を占領しておきながら、たちまち降伏してしまったからさ。もっと、勇敢な男かと思っていたんだが、意気地なしだな。がっかりしたよ。何が、S組の相談役だ」
「――――」
一瞬、幸田は、険しい眼つきになって、十津川を、睨んだが、すぐ、元の顔になって、
「おれを怒らせようとしても無駄だよ。おれは、愉快なんだ」
「何が?」
「名刑事といわれるあんたが、困り果ててるからだよ。おれが、なぜ、亀井刑事を殺さなかったのか、なぜ、簡単に降伏したのか、わからなくて、困っているんだろう? せいぜい、困るんだな」
幸田は、楽しげに、いった。
「警部、間もなく、発車します」
と、日下刑事が、呼びに来た。
十津川は、幸田の訊問を切りあげて、列車に戻った。
「白鳥3号」は、大館に停車しなかった。大館で降りる筈だった乗客十九人は、この弘前から、大館までの臨時列車を出して、送ることになったという。
「白鳥3号」の方は、二十分停車したあと、弘前を発車した。
あとは、青森まで三十一分、停車はしない。
「幸田は、何といっていました?」
と、走り出した車内で、亀井が、十津川にきいた。
「こちらが、当惑しているのを、楽しんでいたよ」
「そうですか」
「カメさんは、どう思った? 幸田は、カメさんを殺す気だったと思うかね?」
「それを、ずっと考えていたんですが、どうも、何が何でも殺すというような殺気は、感じませんでしたね。顔を殴られたときも、殺されるという恐怖は、なかったですよ。それが、どうにも、わからないんです」
「幸田は、最初から、カメさんを殺す気はなかったのかな?」
「しかし、そうだとすると、なぜ、あんな無茶な真似をしたかということになって来ますね」
「奴は、何か企んでいる。だから、私を見て、ニヤニヤ笑っていたんだ」
十津川が、いった時、日下と、西本が、
「車内を見て来ます」
「久原夏子がいるかどうか、それを重点的に調べて来てくれないか」
と、十津川は、注文を出した。
十五、六分して、二人が、十津川たちのいる2号車に戻って来た。
「久原夏子は、どこにもいませんね」
と、日下が、いった。
「トイレに隠れているということはないか?」
亀井が、きいた。
「トイレも、全部、調べましたよ。ふさがっているトイレは、人が出て来るまで待って、確認しましたから、間違いありません。久原夏子は、この列車には、乗っていませんね」
「おかしいな」
と、十津川は、思案顔になった。
一千万円もの懸賞金を出したところをみると、誰よりも、亀井を殺したいと思っているのは、久原夏子の筈である。その久原夏子は、どこにいるのだろうか?
「ねえ、カメさん。幸田が、こんなことをしておきながら、カメさんを、殺さなかった理由を一つだけ、考えてみたんだよ」
と、十津川は、いった。
「どんなことですか?」
亀井が、きき、他の刑事たちも、十津川を注目した。
「カメさんのことを一番憎んでいると思われる久原夏子が、最後の止めは、自分がやると、幸田にいったんじゃないかと思ったのさ。幸田には、カメさんを脅かすだけでいいと、夏子は、いったんじゃないか。幸田が、彼女に惚《ほ》れてるとすれば、彼の行動も、理解できる」
「しかし、警部。幸田は、警察が、弘前で列車を停め、6号車を包囲することまで、読んでいたんでしょうか? 久原夏子は、この列車に乗っていなかったわけですから、あのまま、青森まで突っ走ってしまったら、彼女は、カメさんを、どうすることも出来なくなるんじゃありませんか? いやでも、幸田が、カメさんを殺さなければならなくなってしまいますよ」
「幸田は、利口な男だから、われわれが、列車を、弘前で停めることは、予期していたと思うね。列車の一部が、犯人によって、占領されたとする。解決のためには、誰もが、まず、列車を停め、犯人たちを包囲することを考えるよ。大館を通過していたんだから、列車を停めるのは、弘前駅だ。それは、読んでいたと思うね」
「残るのは、久原夏子だけですね。幸田と、彼の部下が、逮捕されてしまいましたからね。肝心の久原夏子は、どこにいるんでしょうか?」
西本刑事が、きいた。
「二つ考えられるね。最後の青森で、われわれを待ち受けているか、さもなければ、いったん退いて、また、一千万円で、カメさんを殺す人間を募集するかだ」
「警部は、どちらと、思われますか?」
「そうだな。また、一千万円で、人殺しを募集するとは、思えないね。うまくいかないに決っているからだよ。この列車で、カメさんを狙った奴は、全て、逮捕されたからね。それに、われわれは、久原夏子を、徹底的に追いかける。彼女にしてみれば、募集するどころでは、なくなる筈だ」
「では、青森駅で、待ち伏せていると、お考えですか?」
西本は、半信半疑の表情だった。
無理もなかった。
何人もの男たちが、亀井を狙ったが、いずれも、失敗したのである。
それなのに、女が一人で、青森で待ち伏せて、亀井刑事を、殺せると、思っているのだろうか?
夏子が、射撃の名手ででもあって、ライフルを持っているというのなら、わかる。女一人でも、十分に、亀井を狙えるだろう。
だが、彼女が、射撃の名手だという報告はなかった。
平凡な妻で、夫と子供を失って、その後、水商売に入った。今は、金持ちの二号で、クラブのママでもある。だが、射撃をやっていたという報告はない。
そんな平凡な女が、十津川たちに守られた亀井を、青森で、殺せるだろうか?
こちらは、彼女の顔写真を持っているし、十津川、日下、西本、若林など、屈強な男が揃《そろ》っているし、拳銃も持っている。
青森駅で、夏子が、待っていたとしても、彼女が、亀井に、何かする前に、十津川たちが、彼女を押さえつけ、逮捕してしまうだろう。
疑問に、はっきりした答が見つからないまま、「白鳥3号」は、青森に向って、走り続けていた。
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第十一章 旅の終り
津軽平野は、夜の闇に包まれている。
特急「白鳥3号」は、一条の光となって、走っている。
「また、雪が降り始めましたよ」
亀井が、窓の外を見て、いった。
暗闇《くらやみ》の中に、白いものが、ちらついている。
「そうだね」
十津川が、肯いた。日本海沿いに走り続けてきたこの列車は、時々、粉雪に見舞われた。それが、いかにも、白鳥という列車名に、ふさわしい感じがする。
この分では、終着の青森駅のホームも、雪で、白くなっているかも知れない。
「青森に着いたら、地酒で、一杯やりたいですね。あそこは、魚が美味《うま》いんじゃないですか?」
日下が、亀井にきく。
「ああ、魚も、酒も美味いよ」
亀井が、なつかしそうに、いった。
十津川は、また、席を立って、2号車のデッキに出た。
まもなく、終るのだという思いと同時に、青森に着くまでに、考えて、答を見つけておかなければならないことが、いくつもあるという気がしていた。
なぜ、亀井が狙われるのか、それが、いぜんとして、不明なのも、気になる。なぜ、久原夏子は、亀井を殺そうとするのか?
それと、もう一つは、彼女が、今、どこで、何を考えているのかということだった。
彼女自身は、一千万円の懸賞金を出すだけで、実行は、他に委せていたのなら、青森に着いても、問題はない。
だが、夏子が、青森で、亀井を殺そうと考えているとしたら?
女一人で、何が出来ますかと、日下は笑っているが、本当に、彼女は、一人なのだろうか?
(屈強な男を、何人も応援に頼んで来ていたら、どうなるのか?)
夏子は、亀井を殺すために、一千万どころか、二千万でも、三千万でも、出す気になっているかも知れない。そうだとすれば、金目当てに、人殺しをしかねない男が、何人も集って来ているのではないか。拳銃だって、金さえ出せば、手に入る。
(いや、違うな)
と、十津川は、自分の推理を否定した。
何人もの男を集めて、亀井を狙うのなら、何も、青森まで待つことはないのだ。
幸田たちと一緒に、6号グリーン車を占領し、乗客を人質にとり、亀井を呼びつけて、殺せば、良かったのである。その方が、完璧《かんぺき》に、亀井を殺せただろう。
だが、夏子は、そうしなかった。
とすれば、彼女は、ひとりで、青森に待ちうけているか、或いは、もう、諦《あきら》めて、逃げてしまったかのどちらかだろう。
煙草に火をつける。
夏子は、ひとりで、どうするつもりなのか?
大阪を出てから、煙草を何本吸ったろうか。だんだん、煙草が、苦くなって来ていた。
十津川は、窓の外に眼をやった。
雪は、まだ、降り続いている。さっきより、激しくなったようだった。
北国の雪は、風も強いので、粉雪が舞うというより、横に、飛んでいる感じがする。
「間もなく、青森に着きます」
と、通りかかった専務車掌が、声をかけてくれた。
「青森の駅は、どうなっているか、わかりませんか?」
十津川が、きいた。
車掌は、首をかしげて、
「と、いいますと?」
「いや、いいんです」
と、十津川は、いった。専務車掌に聞いても、仕方がないことだったのだ。
窓の外に、灯の数が、次第に増えてきた。
列車が、市内に入ったのだ。
十津川は、2号車に戻った。列車のスピードが、落ちてくる。
車内がざわついて、乗客が、網棚の荷物を下し始めた。
列車は、5番線ホームに、ゆっくりと、入って行った。
十津川は、窓から、ホームに眼をやった。
ホームに、雪が舞っていたが、驚いたことに、人が、一杯あふれている。
テレビ局のカメラも、何台も、集っていた。
新聞記者も集っている。
「こいつは、大歓迎だな」
と、日下が、ニコニコ笑った。
花束を持った女性も、ホームに並んでいた。
「しかし、なぜ、こんな歓迎を受けるのかね?」
亀井が、わからないというように、首を振った。
「そりゃあ、英雄だからですよ。身をもって、警察の権威を守った英雄じゃありませんか」
西本が、大きな声で、いった。
「誰が、知らせたんだろう?」
十津川が、首をかしげると、日下が、
「そんなこと、わかってるじゃありませんか。弘前駅から、知らせたんですよ。身を挺《てい》して、グリーン車の乗客を助けたというので、われわれ全員も、人命救助で、表彰されるんじゃありませんか」
「まさかねえ」
と、日下が、いった。
列車が、完全に停車すると、青森駅の助役が、2号車のドアのところへ来て、
「警視庁の皆さんは、いらっしゃいますか?」
と、大きな声で、呼んだ。
十津川が、進み出て、
「何か、ご用ですか?」
「十津川警部さんですか?」
「そうです」
「亀井刑事さんも、いらっしゃいますか?」
「ああ、いますよ」
と、亀井が、いった。
「では、すぐ、ホームに降りて下さい。これから、このホームで、皆さんの歓迎式を行います」
「いいですよ、そんなことは」
「いや。それは困ります。用意を整えて、皆さんを、お待ちしていたんです。駅長や、市長も、来ているんです。新聞記者や、テレビ局もです」
助役が、そういっている間に、カメラマンたちが、2号車のところへやって来て、十津川や亀井たちに向って、盛んに、フラッシュをたき始めた。
助役に案内されて、十津川たちは、ホームに降りた。
風が冷たく、粉雪が、ホームに吹きつけていたが、眼がくらむようなフラッシュと、集った人たちの熱気で、十津川は、寒さを感じなかった。
駅長が、十津川たちに向って、歓迎のあいさつをした。
「危険をかえりみず、弘前駅で、グリーン車から、乗客を救出し、しかも、一人も負傷者を出さなかったことに対し、国鉄を代表して、まずお礼を申しあげます」
「幸運に恵まれただけです。それに、われわれが原因で、起きた事件ですから」
と、十津川は、恐縮して、いった。
青森市長も、あいさつした。
市長の選挙が、近づいているせいなのか、こちらのあいさつは、やたらに、長く、演説口調だった。
テレビカメラが、それを映している。
三人目に、青森警察署の署長が、あいさつした。
警察の威信を守り、高めたことに対して、敬意を表するといったものだった。
「では、これから、花束を贈呈しますから、皆さん、一列に、お並び下さい」
と、助役が、いった。
十津川たちは、ホームに、一列に並ばされた。
十津川、亀井、日下、それに若林などである。
着物姿の若い女性たちが、大きな花束を、十津川たち、一人一人に渡した。
抱えるのが、大変なほど、大きな花束だった。
5番線ホームには、他の乗客も、何事だろうという感じで、集って来ている。
「駅前の料亭に、席を設けてありますので、そこで、改めて、歓迎の宴を開きたいと思っています」
と、助役がいう。
十津川は、花束を抱えたまま、
「いいですよ。そんなことは、むしろ、われわれが、国鉄や、『白鳥』の乗客に、迷惑をかけたので、それを、お詫びしなければならないくらいです」
「その前に、記者会見を、お願いしますよ!」
と、集った記者の一人が、大声で、いった。
その声が、合図のように、どっと、記者やカメラマンが、十津川たちに、押しかけてきた。
「問題の亀井刑事は、どのかたですか?」
二、三人の記者が、大声で、わめくようにきく。
「私だ」
と、亀井がいうと、どっと、記者が、彼を取り囲んだ。
テレビのカメラが、その間に割り込んでくる。
矢つぎ早に、質問を浴びせかけられる。
「自分の生命《いのち》に、一千万円の賞金をかけられた気分というのは、どんなものなんですか?」
「特急『白鳥』に乗ることは、自分で考えたんですか?」
「無事に、青森まで来られると思っていましたか?」
「若い婦人警官が一人、殺されましたが、そのことについては、どう考えていますか?」
「これで、終ったわけですが、青森では、何をしたいですか?」
その一つ一つに、亀井は、彼らしく、まじめに、答えている。
「カメさん、すっかり、スターですね」
日下が、笑顔で、十津川に、いう。
「これで、ほっとしましたよ。カメさんが、命を狙われていると、こっちも、おちおち、事件を追いかけていられませんからね」
西本も、笑顔になっている。
亀井刑事が、狙われた件については、もう、全てが終ったのだという気分が、ホームに流れていた。
だが、十津川は、ホームに集った人々の中に、久原夏子の顔を探していた。
彼女が、諦めたのならいいが、そうでなければ、この場にいる筈《はず》なのだ。
なかなか、見つからない。
(来てないのだろうか?)
十津川が、思ったとき、突然、亀井を囲んでいた記者たちの間から、
「あッ」
という悲鳴が起きた。
十津川が、はっとして、眼を向けた。
亀井が、まるで、雪の吹きつけたホームに足をすべらせて、転んだように見えた。
亀井は、右手で、左腕を押さえている。そこから、真っ赤な血が、噴き出していた。
「報道」の腕章をつけた小柄な男が、右手に、ナイフを持って、倒れている亀井に、躍りかかって行った。
亀井が、相手のナイフを、左手で、受けた。また、血が、飛んだ。
「カメさん!」
十津川が、小柄な男に向って、飛びついた。
他の記者や、テレビのカメラマンたちは、呆然《ぼうぜん》として、ことの成行きを見つめているだけである。
日下や、西本たちも、あわてて、駈け寄って来た。
十津川に、組みしかれた男が、「畜生!」と、声をあげた。
かすれてはいたが、それは女の声だった。
亀井は、すぐ、救急車で、病院に運ばれ、手術が、行われた。
左腕を二か所切られ、神経も、切断されていた。
手術は、そのため、三時間近くかかった。傷口を縫い合せるだけではなく、切断された神経を、継ぎ合せなければならなかったからである。
「一昔前だったら、一生、左腕は、動かなくなったかも知れませんね」
と、手術を了《お》えた医者が、十津川に、いった。
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。元通りに動くようになりますよ。しばらくは、ぎこちないでしょうがね」
「それは、よかった」
十津川は、朱く、充血した眼でいった。
翌朝になると、亀井は、元気になって、ベッドの上に、起きあがれるようになった。
ただ、左腕は、まだ、動かせない。
「どうも、最後に、どじりまして、申しわけありません」
と、亀井は、十津川に、いった。
「仕方がないさ。新聞記者の一人に化けているとは、思わないからね」
「やはり、久原夏子だったんですか?」
「ああ、髪を短く切って、男装して、待ち構えていたんだ。全てが、彼女や、幸田の筋書き通りだったのさ」
「列車の乗客を人質にとるような大きな事件を起こせば、マスコミが、どっと、押しかけてくると計算していたんですか?」
「カメさんが、自分を標的にして、『白鳥』に乗り、大阪から青森までの旅をしていることは、みんな知っている。途中で、列車を乗っ取った犯人たちを逮捕し、無事に、青森へ着けば、間違いなく、英雄だ。新聞記者や、テレビが、青森駅に押しかけてくることは、間違いない。その時、記者の一人になりすました久原夏子が、カメさんに近づいて、刺すつもりだったんだ。彼女は、どうしても、自分で、カメさんを、刺したかったんだろうね」
「彼女は、なぜ、そんなに、私を憎んでいたんですか? 理由を話しましたか?」
「それがね。ずっと、黙秘を続けているんだ。これから、青森警察署で、もう一度、訊問してみようと思っているんだが」
「私も、早く、自分が狙われた理由を、知りたいですよ」
「わかってるさ。ところで、相手がナイフを出した時、よく、飛びかかっていかなかったね。そんなことをしていたら、今頃、君は、胸か、腹を刺されていたんじゃないかと、医者は、いっていたよ」
十津川が、いうと、亀井は、ニヤッと、笑って、
「実は、ナイフを見たとき、飛びかかろうとしたんです。若い時の無鉄砲さは、まだ、残っていたみたいですよ。ところが、夜中近くで、気温が下っていたでしょう。それで、ホームに、吹きかかっていた雪が凍って、アイスバーンみたいになっていたんです」
「それで、転んでしまったのか?」
「そうです。腕を切られただけですんだのは、凍ったホームのおかげです」
「それだけの悪運がついてれば、カメさんは長生きするよ」
と、十津川は、笑った。
青森警察署で、十津川は、久原夏子に対する二度目の訊問に当った。
相変らず、夏子は、黙りこくっている。
「今、亀井刑事に会って来たよ」
と、十津川は、自分の方から、口を開いた。
「君は、残念かも知れないが、彼は、一週間もすれば、退院できそうだ。その亀井刑事がいっていたんだが、なぜ、君に恨まれているのか知りたいそうだ。彼は、まじめで、優しい男だ。君の名前も知らなかったし、傷つけた覚えもないといっている。君が恨んでいるとしたら、三年前に、君の息子さんが、交通事故にあって一年間入院したのちに死に、それが遠因となって、ご主人も亡くなった。そのことだろうと思うが、亀井刑事に、どんな責任があるのかね? 今度のことは、別にして、もし、彼が、気付かずに、君を傷つけていたとすれば、彼は、君に、謝ると思う」
「亀井刑事には、何の責任もないわ」
「え?」
思わず、十津川は、大きな声を出してしまった。
「彼には、責任がないだって?」
「そうよ。何を驚いてるの。彼には、何の責任もないわ」
「そんな馬鹿な。じゃあ、亀井刑事を、恨んでもいないのかね?」
「ええ。恨んでもいないわ」
「じゃあ、なぜ、彼に一千万円もの賞金をかけて、生命《いのち》を狙わせたりしたんだ。青森駅では、君自身、ナイフで、彼を刺して、殺そうとしたじゃないか?」
「わからないの?」
夏子は、強い眼で、じっと、十津川を見つめた。
十津川は、その眼を、負けずに、見返して、
「こんな理屈に合わないことは、わからないのが、当然だろう。説明したまえ」
「いいわ」
夏子は、肯くと、急に、能弁になって、いっきに、喋《しやべ》り始《はじ》めた。
「あなたのいう通り、三年前のことが、原因だわ。三年前、私は、磯見と結婚していて、子供もいて、幸福だったわ。あの日、車が、息子を、はねるまではね」
「君の息子さんをはねたのは無謀運転の少年だったんだ。亀井刑事じゃない」
「わかってるわ。だから、亀井刑事には、何の恨みもないといってるじゃないの」
「それで?」
「主人はあの時のことを何度も話してくれたわ。――とにかく、すぐ、病院へ運ばなければと思った。丁度、その時、サイレンを鳴らして、パトカーが、走って来た。乗せてくれて、病院へ運んでくれれば、助かるかも知れないと思って、主人は、飛び出して行って、必死に、手を振った。でも、パトカーは、停まってくれなかった。救急車が来たのは、それから、七、八分たってからだった。――その時、パトカーが、停まって運んでくれていても、助かったかどうかわからない。でも、諦《あきら》めがついたと思うの。けれど、停まってくれなかった。子供は、植物人間になって、やがて、死んだわ。手術してくれた医者は、もう少し、早く、手術を受けていれば、助けられたかも知れないといったわ」
「あの時、成城で、連続殺人事件が、起きていたんだ。三人組が、スーパーの幹部を殺して、社長を脅迫した事件だ。君のご主人が見たパトカーは、その事件を、追っていたんだと思う。だから、停まらなかったんだ」
「私にとっては、あの時、あのパトカーが、停まってくれていたらという気持しかないの。そのあとのことは、あなたたちが、調べたでしょうから、よくわかっている筈だわ。主人も、心労のあげく、自殺してしまって、私は、ひとりになってしまった。お金もなくなって、小さな店を始めたわ。生れて初めて、水商売をやってみたのよ。その後、『ピノキオ』の社長が、パトロンになってくれたりして、生活に困らなくなって、そうなったら、三年前のことが、また、思い出されて来たわ」
「あの連続殺人事件の捜査は、私が、指揮したんだ」
「そうよ。あのパトカーは、誰が運転していたのかわからなかったけど、捜査の指揮に当っていたのが、十津川という捜査一課の警部だとわかったわ。私は、その時、決心したの。この男に、復讐《ふくしゆう》してやろうと」
「それなら、なぜ、私を狙わなかったんだ? なぜ私の生命《いのち》に、一千万円の賞金をかけなかったんだ?」
「最初は、そうすることも考えたわ。でもね、あなたは、優秀な刑事で、自分が狙われても、それで、びくつくとは思えなかった。それでは、あなたを、苦しめられないわ。私は、最愛の子供と、主人を失って、ずっと、苦しみ続けたわ。同じ思いを、あなたに味わわせてやりたかった。もし、あなたに子供がいたら、きっと、子供を殺していたでしょうね。でも、あなたに、子供はなかった。奥さんを殺してやろうかと思ったけど、同じ女同士ということで、私は、ためらいがあった。それで、奥さん以外で、十津川という警部が、一番大事にしている人物は誰かと、考えたわ」
「それで、亀井刑事か」
「そうよ。あなたと、亀井刑事のコンビは有名だったわ。亀井刑事が死ねば、あなたが、きっと、苦しむだろうと、思ったわ。しかも、あなたのせいで、殺されたと、あとでわかったら、一生苦しむだろうと、思ったのよ」
「――――」
十津川は、黙って、夏子を見つめた。
磯見茂樹や、夏子の顔写真を見ても、亀井に、心当りがない筈だった。
「それで、亀井刑事の生命《いのち》に、一千万円の賞金をかけたのか?」
「そうよ」
「金目当の男たちが出て来て亀井刑事を殺してくれることを期待したのか?」
十津川がきくと、夏子は、笑って、
「いいえ」
「じゃあ、なぜ、あんな懸賞金を出したんだ?」
「あなたを、心配させて、苦しめたかったからよ。懸賞金の噂《うわさ》が出れば、あなたたちが、必死になって、亀井刑事を守るわ。そんな状況で、一匹《いつぴき》 狼《おおかみ》みたいな連中に、殺せるとは、思わなかったわ。でも、亀井刑事が狙われるたびに、あなたは、怯えて、心配する。それが、最初の狙いだったのよ」
「その狙いは、当ったよ。狙われてる当人の亀井刑事より、私の方が、怯《おび》えたからね。そうか。あの時、君の狙いに、気付くべきだったんだな」
「何のこと?」
「特急『白鳥』が、東三条に着いたとき、そこの駅員が、私に渡してくれと中年の女に頼まれた手紙のことさ。その手紙には、『青森に着くまでに、お前の部下の亀井刑事を、必ず、殺してやる』と書いてあった。狙う当の亀井|宛《あて》にしないで、上司の私宛になっていたときに、君の狙いに、気付くべきだったんだ」
「気付いたかも知れないとは思っていたわ」
「しかし、私は、気付かなかった。君は、東三条で、駅員に、あの手紙を渡したあと、青森に、先廻りしたんだな?」
「そうよ。幸田が、二度、列車をおくらせてくれることになっていたから、ゆっくりと、青森に先廻り出来ると、計算していたわ」
「髪を短くして、男の恰好《かつこう》で、待っていたのか?」
「そうよ」
「幸田が、青森までに、亀井刑事を、殺してしまうとは、思わなかったのか? 幸田は、列車の床下に、時限爆弾を仕掛けさせたこともある。あの時、気付かずに、爆発していたら、間違いなく、亀井刑事は、死んでいたからね」
「ええ。五分五分で、亀井刑事が、殺されるかなと思ったわ。でも、おかしないい方だけど、あなたの才能に賭けたのよ。噂通りの優秀な刑事なら、時限爆弾を見つけ出して、冷汗をかきながら、処理するだろうと思ったわ。簡単に、亀井刑事が、死んでしまっては、困るのよ。私の子は、植物人間になってから、死んだわ。せめて、あなたにも、何時間か、不安に怯え、部下のことを心配し、なぜ、部下が狙われるのかを悩んで貰ったあとで、亀井刑事を殺したかったわ。簡単に殺してしまっては、あなたが、悩まないですんでしまうから」
「だから、幸田には、亀井刑事を、殺させなかったのか?」
「脅すだけ脅して、殺さないでおいてくれと頼んだのよ。列車を占領すれば、大事件だから、終着の青森には、マスコミが押しかけて来て、私が、まぎれ込むのが、楽になるわ。それに、時間を稼いでくれれば、私が、髪を切って、新聞記者に化ける余裕が、出来てくるしね。幸田は、私の希望どおり、やってくれたわ」
「幸田圭吾は、君に惚《ほ》れていたのか?」
夏子は、笑って、
「とにかく、彼は、私を助けてくれたわ。私の指示どおりに動いただけなんだから、刑は軽いんでしょう?」
「どうかな。君は、どんな罪を犯したか、わかっているのかね? 君が、一千万円の賞金をかけたために、何人かの人間が、死んでいる。若い婦人警官が死に、バーテンも殺されたんだ。それが、わかっているのかね?」
「一人息子と、主人が死んだとき、私の人生は、終ったようなものだわ。何も怖いものはないわ」
それだけいうと、夏子は、また、黙りこくってしまった。
亀井が、全快して、退院するまで、十津川は、夏子の自供の内容を、亀井に、話さなかった。
夏子の動機を聞いて、亀井が、どう思うかわからなかったし、それが、左腕の回復に、少しでも、支障になっては、いけないと、思ったからである。
夏子は、黙秘したまま起訴されたと、亀井には、いっておいた。
一週間後、亀井は、退院した。
東京に帰っていた十津川は、四、五日、故郷の青森で、ゆっくりして来たらいいと、電話でいったのだが、律義な亀井は、すぐ、東京へ舞い戻って来た。
「もう、この通り、大丈夫です」
と、亀井は、左腕を、ぐるぐる回して見せた。
「ちょっと、皇居のまわりを、散歩してみないか」
十津川が、誘った。
春も、深まって、お堀端には、草が芽をふき、軽装で、ジョギングしている人の姿も、何人か、見ることが出来た。
並んで、歩きながら、十津川は、夏子の自供したことを、亀井に伝えた。
「カメさんは、私への恨みのとばっちりを受けたようなものなんだ。申しわけないことをしたと思っている」
十津川がいうと、亀井は、
「そうですか」
と、肯き、しばらく黙って、歩いていたが、
「実は、私も、警部に、お話ししなければならないことがあったんです」
「どんなことだ?」
「三年前の事件のことを、いろいろと考えている間に、思い出したんですが、私が乗ったパトカーに向って、中年の男が、手を振っていたことが、ありましたよ。こっちは、殺人犯を追っていたので、無視して、突っ走りましたが、あれが、考えてみれば、磯見だったんですね。だから、彼女は、正当な相手を、殺そうとしたんですよ」
「え?」
思わず、十津川が、立ち止まった。が、亀井は、さっさと、歩いて行き、大きく、伸びをしている。
亀井のいったことは、多分、嘘だろう。
(私の気持を、楽にさせようとして、嘘をついたんじゃないか?)
と、きくのは、野暮というものだろう。
相手の好意を、黙って、受けておく方がいい。
「カメさん」
と、追いついて、
「今夜、カメさんの全快祝いをやりたいね」
と、いった。
本書は昭和五十九年十一月二十五日カドカワ・ノベルズとして出版されたものを文庫化したものです。
なお列車編成については、一部実際とは違う点があります。
角川文庫『特急「白鳥」十四時間』昭和60年11月10日初版発行
平成12年8月20日49版発行