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特急「有明」殺人事件
西村京太郎
目 次
第一章 画家の死
第二章 九州再訪
第三章 西海岸
第四章 容疑者たち
第五章 過去への旅
第六章 罠《わな》を張る
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第一章 画家の死
1
有明《ありあけ》海は、熊本、島原《しまばら》あたりになると、島原湾と、名前が変るが、遠浅の海であることに、変りはない。
熊本から、三角《みすみ》に向けて、国道57号線を走ると、島原湾が、一望に見渡せるが、遠浅を利用した真珠《パール》の養殖などが、行われている。
三角湾近くで、五十代の男の水死体が発見されたのは、三月二十五日の朝である。
熊本県警は、自殺、事故死、殺人の三通りの可能性があると考えて、捜査を開始した。
身元は、すぐわかった。
背広の内ポケットに、運転免許証が、入っていたからである。
それによれば、東京都|世田谷《せたがや》区|駒沢《こまざわ》に住む大田垣信也《おおたがきしんや》という五十八歳の男だった。
なお、財布には、十五万二千円が入っていたし、外ポケットからは、濡《ぬ》れた煙草《たばこ》と一緒に、神社のお守札が、見つかった。
日本の三大|稲荷《いなり》の一つといわれる祐徳《ゆうとく》稲荷神社のお守札である。他《ほか》の稲荷と同様、商売繁盛と、縁結びの神様だった。
祐徳稲荷は、有明海の奥、鹿島《かしま》の近くにある。
死体の見つかった三角までは、六、七十キロはあるから、流されてきたとは、考えにくい。
解剖の結果でも、死亡推定時刻は、二十四日の午後十時から十二時と出ている。有明海は、汐《しお》の流れが激しいといっても、七、八時間に、六、七十キロも、流される筈《はず》がない。
熊本県警が考えたのは、祐徳稲荷に参拝したあと、鉄道か車で、島原半島に行き、フェリーで、三角に渡ろうとした。
そのフェリーから、海に落ちて、溺死《できし》し、三角湾に、流れついたのではないか。
フェリーから、突き落とされたとすれば、殺人だし、誤って落ちたのなら、事故死である。もちろん、自殺のケースだって、あり得る。
家族を呼んで、事情を聞こうと、県警は、電報を打っていたが、いっこうに、返事がなかった。
そこで、世田谷区役所に、電話で問い合わせたところ、大田垣信也は、五年前に、妻を亡くして、現在、独身であることがわかった。
これでは、電報を打っても、何の応答もない筈である。
県警では、至急、大田垣の親族に、連絡をとってくれるように、頼んだ。
その結果、二十七日になって、大田垣信也の一人娘という宏美《ひろみ》が、駈《か》けつけた。東京の美大を卒業したあと、絵の勉強に、パリへ行っていたので、父の死を、知らなかったのだといった。
世田谷区役所が、パリの彼女の住所を調べ、連絡をとってくれたのである。
宏美の話で、亡くなった大田垣も、画家であることが、わかった。
「お父さんが、九州へ行くということは、知っていましたか?」
と、県警の三浦《みうら》刑事が、きいた。
宏美は、「ええ」と、肯《うなず》いた。
「二十三日に、電話したとき、九州に行くといっていました。『アリアケに行く』と、いうんです。九州のアリアケという所へ行くんだなと思って、気をつけてねと、いったのを、覚えていますわ」
「それなら、有明海のことでしょう。お父さんが、自殺することは、考えられませんか?」
「自殺?」
と、宏美は、びっくりした顔になって、
「そんなこと、考えられませんわ。父は、毎年、日展に出品していて、今年も、大作を描くと、張り切っていたんです。九州へ行ったのも、何か、そのモチーフを見つけるためだと、思っていたくらいですわ」
「お金に困っていたということは、ありませんか?」
三浦刑事が、きくと、宏美は、手を振って、
「父は、お金|儲《もう》けは下手《へた》でしたけど、祖父の残した遺産がありましたし、世田谷の土地だって、自分のものです。ですから、悠々と、自分の好きな絵を描いていたんですわ」
「と、すると、自殺をするような動機は、なかったことになりますね」
「ええ、病気もなく、健康でしたし、自殺なんて、全く、考えられません」
宏美は、きっぱりと、いった。
「すると、残るのは、事故死か、他殺ということですが、お父さんは、泳げましたか?」
と、三浦は、きいた。
「ええ、身体《からだ》のためにいいといって、時々、近くの温水プールへ行って、泳いでいました」
「なるほど」
と、三浦は、肯いた。が、だからといって、事故死の可能性がなくなったとは、考えなかった。
プールと、海とでは違うし、いくら泳げるといっても、服を着たままでは、疲れて、溺《おぼ》れたのかも知れない。
それに、今は、三月下旬である。春といっても、海水の温度は、まだ低い。フェリーから、突然、海に落ちれば、海水の冷たさで、思うように、身体は動かなくなるだろう。
三浦は、フェリーを、調べてみることにした。
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三角から島原の間には、九州商船のフェリーが、運航されている。
一時間で、結ばれていて、フェリーだから、もちろん、自動車も、運ばれる。
大田垣が、レンタ・カーを借りて、島原から、三角へのフェリーに乗ったことも考えられると思い、三浦は、フェリー会社に、問い合わせてみた。
もし、大田垣が、車で、有明海沿岸に廻《まわ》り、島原から、三角へのフェリーに乗っていたとすれば、車だけが、残って、大さわぎになっていた筈である。
しかし、会社の回答は、二十四日前後に、そうした車は、一台も無かったというものだった。
大田垣の死亡推定時刻が、二十四日の午後十時から十二時ということから、もし、フェリーから落ちたとしたら、その時刻に近い便であろうと考えた。
島原→三角の最終便は、一八時一〇分→一九時一〇分である。
念のために、逆の三角→島原も、調べてみたが、これは、一八時四〇分→一九時四〇分になっている。
どちらのフェリーに乗っていて、海に落ちたとしても、二時間以上、泳いでから、力つきて、溺死したことになるのだ。しかし、これだけの時間、泳いでいたとすれば、靴を脱いだりして、身体を軽くする努力をしているのではないかという疑問が、わいてくる。
また、二十四日の全《すべ》ての便の船長に会って、話を聞いたが、客の一人が、海に落ちたという記憶も、記録もないという返事だった。
三浦を始めとする熊本県警の刑事たちが、少しばかり、あわてたのは、殺人の可能性が、強くなってきたからである。
もし、殺人事件とすると、捜査の第一歩が、おくれたことになってしまうのだ。
県警は、あわてて、佐賀と、長崎の県警に、協力を求め、大田垣の足跡を、追うことになった。
娘の宏美の話では、大田垣は、電話で、「有明に行く」といっていたという。
有明海の沿岸には、名所、旧跡が多い。
大田垣が、お守りを持っていた祐徳稲荷神社を始めとして、鹿島城跡、柳川《やながわ》などがある。
二十三日に、娘が電話したあと、大田垣は、東京を発《た》ち、多分、柳川→鹿島→祐徳稲荷と見て歩き、島原から、三角に渡ろうとしたのだろう。
その足跡を、知りたかったのである。
大田垣の写真のコピーと、彼の特徴を書いたメモが、佐賀と、長崎の県警に、送られた。
しかし、二つの県警からは、なかなか、大田垣についての回答がなかった。
有明海沿岸のホテル、旅館に、当ってくれたのだが、大田垣が、二十三日から二十四日にかけて、泊ったという証拠は、見つからなかったというのである。
大田垣が、持って出たに違いないというスケッチブックも、見つからなかった。恐らく、大田垣本人と同じように、有明の海に、沈んでしまったのだろうと、三浦は、推理した。
大田垣の足跡がつかめないことが、いよいよ、殺人の可能性を強くしたと、三浦は思った。
宏美は、東京の自宅で、葬儀をするといい、父親の遺体を、そのまま、持ち帰ったが、帰るときも、
「父は、殺されたに違いありません」
と、主張していた。
熊本県警でも、他殺説に傾き、三浦は、東京の警視庁に、死亡した大田垣信也の周辺を調べてくれるように、要請した。
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要請を受けた警視庁では、亀井《かめい》刑事と、清水《しみず》刑事の二人が、大田垣信也と、その周辺を調べることになった。
大田垣は、静けさを感じさせる風景画を描き、一部に、熱狂的なファンを持つ中堅の洋画家である。
世田谷区駒沢にある家は、敷地が二百坪あって、十五年前に、買ったものだった。
銀行に借金はなく、現在、この辺りの土地は、坪五百万はするから、十億円の財産ということになる。資産家だったのだ。
家そのものは、中古で、和風の家だ。大田垣は、愛していたという。庭も、雑草が茂って、自然のままの姿で、それを、風景画の画家である大田垣は、よく、描いていたらしい。
銀行には、一千万以上の現金があり、金に困っていた様子は、ない。
一人娘の宏美が、喪主になっての葬儀には、数多くの画家仲間が、参列した。
亀井と、清水は、彼等から、大田垣という男のことを聞いた。
「彼は、いい男だよ。彼のことを、悪くいう奴《やつ》なんか、いないんじゃないかな」
「奴は、ひとりで、スケッチブックを持って、旅行するのが好きだったね。放浪の画家が、おれの理想だと、よく、いっていたよ」
「自殺? なぜ、彼が自殺しなきゃいけないんだ? 健康にも恵まれていたし、好きな絵を描いていて、自殺する理由なんか、どこにもないよ」
「奥さんが亡くなったのは、ショックだったろうが、もう、何年も前のことだ。その後、ひとりで、悠々と、人生を楽しんでいた。羨《うらや》ましかったよ。経済的な不安もないしね」
「彼の絵? 僕は好きだったね。見る者を、優しい気分にさせるからだよ。あれは、彼の人柄が、絵に出るんだ」
「彼の絵? 画商が喜ぶ絵だよ。つまり、高く売れるということだよ。だから、金に困ってたとは思えないね。六十歳を過ぎたら、タヒチあたりに永住して、好きな絵を描きたいっていってたこともあるよ」
「娘さんが結婚して、孫が出来るのを楽しみにしてるって、聞いたことがあったなあ。宏美さんは、いい娘さんだし、親孝行でね。おれも、あんな娘が欲しいと思ったことがある。理想的な父娘《おやこ》だったんじゃないかね」
大田垣のことを、悪くいう友人は、いなかった。
友人の言葉だからとか、死者へのたむけといったことを割引いても、大田垣が、皆に好かれていることは、よくわかった。
かかりつけの医者にも、亀井は、会って、話を聞いてみた。
友人たちは、健康だったといっているが、ひょっとして、癌《がん》にでもおかされていたのではないか、それが、自殺の原因ではなかったのかと、考えたからである。
しかし、二十年近いつき合いだという医者は、亀井のそんな疑いを、一笑に付して、
「大田垣さんは、健康そのものでしたよ。お酒が好きだったが、肝臓はきれいなもので、百歳までは長生きすると、太鼓判を押していたんですよ」
と、いった。
自殺ということは、まず、あり得ないと、亀井は、思った。
残るのは、事故死か、他殺である。事故死かどうかは、現場にいない亀井たちには、判断のしようがないので、他殺の可能性があるかどうかの方を、調べることにした。
葬儀が、一段落したところで、亀井と清水は、宏美に、家の中を、案内して貰《もら》った。
今どき珍しい平屋建《ひらやだて》で、庭に面した八畳を改造して、アトリエにしてあった。
隣りの六畳が、板の間になっていて、そこに、何枚かの絵が、置いてあった。
ほとんどが、風景画である。
友人の画家たちがいったように、不思議な静けさを感じさせる絵だった。
じっと見ていると、それを描いた画家の優しさが、伝わってくる。
風景画の中に、二枚だけ、人物画が、混っていた。
その一枚は、十代の宏美を描いたもので、彼女の素直さや、負けん気みたいなものが、よく出ている。
モデルの宏美が、その絵について、
「それは、絶対に売らないで、私が、結婚する時、下さいって、父にいってあったんです」
と、いった。
もう一枚には、二十七、八歳の女性が、描かれていた。
和服姿で、じっと、正面を見すえている。その眼《め》が、異様に大きく描かれていた。
亀井は、絵はよくわからないのだが、その絵を見ていると、なぜか、不安になってきた。
他の風景画や、娘を描いた絵とは、別人のものの感じだった。
しかし「OHTAGAKI」の署名がある。ただ、描いた日付が、入っていなかった。
「この絵のモデルになっている女性を、知っていますか?」
と、亀井は、宏美に、きいてみた。
宏美は、眉《まゆ》を寄せて、じっと、見ていたが、
「こんな絵を、父が描いていたなんて、知りませんでした。こんな暗い絵は、父のものじゃありません」
「でも、お父さんのサインがありますよ」
「ええ。だから、父の絵だとは、思うんですけど――」
「モデルにも、心当りはない?」
「ええ。もちろん」
「いつ、描いたものですかね?」
と、亀井が、きくと、宏美は、
「私が、日本を離れたあとだと思いますけど」
「それは、いつですか?」
「去年の四月です」
「お父さんの書斎を、見せて頂けませんか? 出来れば、手紙や、写真の類《たぐい》を、見たいのですが」
と、亀井は、いった。
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奥の四畳半が、書斎になっていた。
大田垣は、几帳面《きちようめん》な性格だったとみえて、手紙は、きちんと、整理して、机の引出しに、しまってあった。
写真は、アルバムが二冊だけである。写真は、あまり好きではなかったらしい。カメラも古いものが二つあるだけだった。
「この手紙とアルバム、それに、あの女の肖像をお借りしていいですか?」
と、亀井は、いった。
亀井と、清水は、それを持って、警視庁に帰り、十津川《とつがわ》警部に、報告した。
「この絵が、やたらに、気になりましてね」
と、亀井が、いった。
十津川は、問題の絵を、立てかけて、離れて、見つめた。
「背景《バツク》も、妙に暗いね」
と、十津川は、いった。濃い緑や、青や、黒が、入り混ったバックである。それが、不安定な感じを与えているのだ。
「他の絵は、全て、穏やかで、見ていると、心が、なごむんですが、この絵だけは、別なんです」
と、亀井が、いった。
「女の前に、花瓶が置いてあるが、生けてあるのは、花じゃないね」
「半開きの扇子《せんす》です。花柄の扇子です」
「なぜ、そんな構図になっているんだろう?」
「わかりません。面白《おもしろ》いと思って、そんなことをしたのか、それとも、何か意味があるのかわかりません」
「娘さんは、このモデルに、心当りはないといっているんだね?」
「そうです」
「あとで、この絵を写真に撮って、画家仲間に見せて、聞いてみてくれ」
と、十津川は、いった。
そのあと、手紙と、アルバムを、見ていった。
アルバムの中に、モデルと思われる女の写真はないかと思ったのだが、残念ながら、見つからなかった。
手紙も、同じだった。
女性からの手紙で、自分を描いて貰ったことへのお礼のものでもあればと、思ったのだが、これも見つからなかった。
脅迫の手紙も、発見できなかった。
「ないね」
と、十津川は、いった。あったのかも知れないが、焼却してしまったのかも知れない。
「敵のない人だったというのが、みんなの意見でしたね」
と、亀井が、いった。
「土地問題のこじれということは、ないんですか?」
若い西本《にしもと》刑事が、亀井に、きいた。
「土地?」
「ええ。今の土地の値上りで、十億円もの価値があるわけでしょう。土地をめぐるごたごたということも、考えられると、思うんですが」
と、西本は、いった。
「もちろん、それも、考えたよ。しかし、相続人は、娘さん一人でね。相続をめぐる争いということは、考えられないんだ」
と、亀井が、いった。
「しかし、土地を狙《ねら》っている人間は、多かったんじゃありませんか?」
「そうね。まわりに、マンションなんかが建って来て、二百坪の土地は、不動産屋にとって、ぜひ、欲しいと思うし、売ってくれという話はずいぶん、あったらしい」
「売る気は、なかったんですか?」
「全く、なかったらしい」
「何とか、欺《だま》し取ろうとしていた連中も、いるんじゃありませんか? 何しろ、十億円の土地ですから」
と、西本は、いった。
「ああ、そういう事件が起きていることも知っているよ。それで、帰りに、あの二百坪の土地のことを調べて来たが、売られた形跡はないね。今後のことは、わからないが」
と、亀井が、いった。
翌日、問題の絵を写真に撮り、それを、何枚か引き伸して、刑事たちが、大田垣の友人の画家たちを廻《まわ》って歩いた。
彼等の反応は、皆、同じだった。
一様に、びっくりして、大田垣が、こんな絵を描いていたとは知らなかったといった。もちろん、モデルになった女も知らないという。
何人かは、絶対に、別の人間が描いたものに違いないといい、わざわざ、警視庁まで絵を見に来た。
十津川は、彼等に、絵を見て貰い、感想を聞いた。
「こんな暗い絵を、彼が描くとは信じられない」
と、一人は、いった。
「だが、この署名《サイン》は、大田垣に間違いないし、よく見れば、彼のタッチだよ」
と、もう一人が、いった。
「花瓶に、花模様の扇子が、さしてありますが、こうした構図は、大田垣さんは、好きだったんですか?」
と、十津川は、聞いてみた。
「そんなことはない。彼は、真面目《まじめ》な男でね。奇をてらうような構図の絵なんか描いたことはないんだ。花瓶には、花を生けるし、扇子は、女に持たせる筈《はず》だよ」
と、一人がいい、他の画家も、肯いた。
「しかし、これを、大田垣さんが描いたことは、間違いないんでしょう?」
「ああ、間違いないね」
「なぜ、こんな暗い絵を描いたんでしょうか?」
と、亀井が、きいた。
「わからないな。何か、この時だけ、心境の変化があったのか、それとも、頼まれて、描いたのか」
「頼まれたというのは、誰《だれ》にですか?」
「時には、こういう絵を描いて欲しいといってくる人がいるんだよ。金持ちで、わがままな人間がね。たいていは、断るんだが、断り切れない相手もいる。ひょっとすると、そんな客に頼まれて描いたものかも知れないと思ってね」
「しかし、それなら、客に渡している筈じゃありませんか?」
「これから渡すところだったかも知れないし、客が、気に入らなくて、そのままになっていたのかも知れない。とにかく、何かなければ、大田垣は、こういう絵は、描かないよ」
と、友人の画家たちは、口を揃《そろ》えて、いった。
「大田垣さんが、九州へ行ったことは、知っていましたか?」
十津川は、そこにいた四人の友人たちに、きいた。
「旅行するとはいっていたが、行先は、知らなかったね。スケッチブックを持って、ふっと旅に出るのが好きだったから、またかと思っていたんだ」
と、一人が、いった。
「九州は、前にも、行ったことがあるんじゃないかな。おれは、彼から、お守りを貰《もら》ったよ。お土産《みやげ》だといってね」
と、もう一人の画家が、いった。
「私も、貰ったよ」
三人目が、いった。
「ちょっと、待って下さい」
と、十津川は、あわてて、口を挟んで、
「そのお守りというのは、どこのものですか?」
「九州のどこかの神社のだよ。確か、縁結びのお守りだった。うちの娘が、年頃《としごろ》なんでね」
「九州の稲荷神社だよ」
と、三人目が、いった。
「祐徳稲荷じゃありませんか?」
「ああ、そんな名前だったよ。日本の三大稲荷とかいっていた。有明海の沿岸の――」
「それは、いつ頃のことですか?」
「去年の九月か、十月だった」
「大田垣さんは、その稲荷神社が、気に入っていたようでしたか?」
と、亀井が、きいた。
「おれは、スケッチを見せて貰った。しかし、京都の伏見《ふしみ》稲荷の方が、面白いといっていたよ」
と、その画家は、いった。
「もう一度、その祐徳稲荷を訪ねるということは、考えられますか?」
と、十津川が、きいた。
「さあ、どうかな。九州に行ったんだから、ついでに、もう一度、寄るということもある」
「また、お守りを買うというのは、どうですか?」
十津川がきくと、相手は、一言の下に、
「それはないね」
「しかし、去年、行った時は、皆さんに、お守りを買って来たんでしょう?」
「ああ、彼は、友だち思いで、おれたちに年頃の娘がいたからね。だが、二度も買うなんてことはしないよ。そういう男さ」
と、相手は、いった。
5
十津川と、亀井は、問題の絵と、手紙類を返しに、大田垣邸へ行った。
広い家に、宏美が、ひとりで、寝起きしていた。
十津川は、礼をいって、絵や、手紙などを返してから、
「この絵について、何かいって来たら、すぐ、連絡して下さい」
と、宏美にいった。
「この絵が、父の死に、関係があるんでしょうか?」
と、宏美が、きいた。
十津川は、「わかりません」と、いった。
「しかし、いくら調べても、あなたのお父さんが殺される理由が見つからないんですよ。誰にも好かれていて、敵はいなかった。と、いって、自殺の理由もない。だから、ほんの少しでも、何かおかしなことがあったら、それが殺しの動機ではないかと思いましてね」
「それが、この気味の悪い絵ですか?」
「そうです。それに、もう一つ」
「何でしょうか?」
「去年の九月か、十月にも、大田垣さんは、九州へ行っていますね?」
「ええ。行っていますわ」
「その時、祐徳稲荷のお守りを、買って来たと思うんですが」
と、十津川は、いった。
「ええ。私が、年頃《としごろ》なんで、父は、これを持ってろといって、送ってくれましたわ。お守りなんか、信じてないくせに」
と、いって、宏美は、微笑した。
「そのお守りは、今でも、持っていますか?」
「ええ。折角、父が買ってくれたものだから、大事に持っていますわ」
と、宏美は、いい、ハンドバッグを持って来て、中から、祐徳稲荷のお守りを、出して見せた。
「お父さんは、今度の九州行で、もう一度、このお守りを買っているんです。お父さんのお友だちは、おかしいと、いっているんですが、どう思います?」
と、亀井が、きいた。
「父らしくないと思いますわ。もともと、お守りなんか、信じていない人ですから」
「自分のために、お守りを買ったりはしない?」
「ええ。しませんわ」
「だが、お父さんは、ポケットに、これと同じお守りを持っていたということです」
「またお土産を買ったのかしら?」
「あなたに?」
「違いますわね。私には、去年、買って来てくれたんだから」
「友人の娘さんにも、買ってあげています。年頃の娘さんを持っている友人にね」
「では、もう、買う必要はなかった筈《はず》ですわ」
「そうです」
「それなのに、なぜ、父はポケットに、お守りを入れていたんでしょう?」
「犯人がいれたのか、それとも、誰かに貰《もら》ったのか?」
「誰かって、誰ですか?」
「そうですね、例えば、あの絵のモデルに関係があるのかも知れません」
と、十津川は、いった。
「私の知らない女性が、父の周囲にいたなんて、信じられませんけど」
と、宏美は、いう。
「お父さんは、旅行に行く折、必ず、スケッチブックを持って行くんでしたね?」
「ええ」
「それを、見せて貰えませんか」
と、十津川は、いった。
宏美は、十津川と、亀井を、書斎に連れて行った。
その戸棚の中に、スケッチブックが、何十冊も、きれいに、並べて、入っていた。
十津川は、亀井と二人で、それを、戸棚から出して、畳の上に、並べた。
どのスケッチブックにも、几帳面《きちようめん》に、行った場所と、日時が、書き込んである。
「殆《ほとん》ど、日本中を、歩いたんですね」
と、十津川は、感心して、いった。
外国のスケッチもあった。アメリカや、中国もある。
だが、去年の九月か十月に行った筈《はず》の九州のスケッチブックは、見つからなかった。
「ありませんね」
と、十津川は、宏美に、いった。
「でも、それで、全部ですわ」
「スケッチブックを、忘れて行くということは、ありませんか?」
と、亀井が、きいた。
「父が、旅行に出かけるのは、そこの景色を、描きたいからなんです。忘れたことはない筈ですわ」
宏美は、きっぱりと、いった。
「しかし、見つかりませんね」
「誰かに、貸したんでしょうか?」
「貸すというのは、どういうことですか?」
「父は、雑誌に頼まれて、時々紀行文を書いていたんです。そんな時、父のスケッチが、文章と一緒にのりますから、雑誌に、スケッチブックを、渡すことがあったと思うんです」
「なるほど。調べてみましょう」
と、十津川は、いった。
警視庁に戻ると、十津川は、出版社に電話をかけて、大田垣のことを聞いてみた。
しかし、どの出版社でも、彼のスケッチブックを、預ってはいないという返事だった。つまり、最初から、スケッチブックはなかったか、それとも、誰かが、持ち去ったことになる。
十津川は、熊本県警の三浦刑事に、電話をかけ、大田垣信也について、今までにわかったことを、告げた。
「すると、祐徳稲荷のお守りは、どういうことになるんですか?」
と、三浦刑事が、きいた。
「これが、殺人なら、犯人が、入れておいたことになりますよ」
と、十津川は、いった。
「警視庁も、殺人と思われるんですか?」
「今まで、大田垣について、こちらで調べた限りでは、殺人と考えるのが、妥当だと思いますね」
十津川が、いうと、三浦は、「ちょっと、お待ち下さい」といい、別の男の声に、代った。
「私は、白木《しらき》といいます。白木警部です」
と、中年の男の声が、いった。
十津川は、改めて、自分の名前を告げてから、
「こちらで、いくら調べても、自殺の可能性は、出て来ません。従って、他殺と考えるのが、妥当だと、思いますね」
「実は、こちらでも、これは、殺人に違いないという説が、有力視されて来ています。間もなく、捜査本部が、設けられる筈です」
と、白木は、いった。
「三浦さんにも、いったんですが、奇妙な点が、二つ見つかりました」
「聞きました。絵の件と、祐徳稲荷のお守りのことですね」
「そうです。もう一つ、うちの若い刑事がいっているんですが、大田垣家の土地があります。東京の住宅地にあるので、十億円は下りません。それも、気になります」
「なるほど。十億円なら、殺人の動機になりますね」
と、白木は、いった。
十津川は、あわてて、
「今のところ、その土地を狙《ねら》っている人間は、見つかっていませんから、断定はしないで下さい」
と、いった。
「わかっています」
「去年の秋に、大田垣は、九州へスケッチ旅行をしていて、その時に、祐徳稲荷のお守りを買っているんですが、その時、どこをスケッチして歩いたかも知りたいですね」
「それも、殺人の動機に考えられるというわけですか?」
「或《ある》いはと、思っているんです」
「その時、どこに廻《まわ》ったのか、正確な日程がわかれば、こちらで、調べられるんですが」
と、白木は、いう。
「何とか、調べてみましょう」
と、十津川は、約束した。
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しかし、これが、なかなか難しかった。
スケッチブックがあれば、そのスケッチを追っていけばいいのだが、そのスケッチブックがないのだ。
娘の宏美も、外国にいたから、正確な月日は、覚えていないというし、スケッチブックも見ていないという。
そこで、十津川たちは、もう一度、大田垣の画家仲間を、聞いて廻《まわ》ることにした。
特に、大田垣が、土産に、祐徳稲荷のお守りを贈った友人に、しつこく聞いた。
その結果、まず、大田垣が、九州へ行った月日が、限定されて来た。
どうやら、去年の九月三十日から、十日間、九州を廻って来たらしいと、わかった。
行先は、有明海沿岸ということだったようである。
だから、柳川にも、足を伸したらしい。友人の画家の一人は、柳川から、電話を貰《もら》ったと、十津川に話した。
「その時、大田垣さんは、どんなことを、あなたに、話したんですか?」
と、十津川が、きいた。
「柳川で、舟遊びをしたり、水路のスケッチをする気だと、いっていたね」
「スケッチをするといったんですね?」
と、十津川は、念を押した。
「いいましたよ。いつものことだから、別に、何とも思いませんでしたね。ああ、そうかというだけだったね」
「そのスケッチを、見た人は、いませんか? この時のスケッチブックだけが、見つからないのですよ」
「私が見たよ」
と、広沢《ひろさわ》という画家が、いった。
「いつ、ごらんになったんですか?」
「あれは、十月の九日か、十日だったね。彼の家に遊びに行ったら、丁度、九州から帰ったばかりの時でね。スケッチブックを、見せて貰ったんだよ」
と、広沢は、いった。
「どんなスケッチでした?」
「どんなって。柳川や、鹿島の風景が、スケッチされていたよ。いつもの、彼らしいデッサンでね」
「何枚ぐらいスケッチしてありましたか?」
「十五、六枚だったかな」
「そのスケッチに、いつもと変ったところは、ありませんでしたか?」
「なかったねえ。相変らず、上手《うま》いデッサンだと思ったよ」
「大田垣さんは、その時の九州旅行の感想めいたものを、いいませんでしたか?」
と、十津川は、きいた。
「別に、感想なんかは、話さなかったよ。淡々と、柳川とか、有明海の印象を、語ってくれただけだった」
と、広沢は、いった。
十津川は、すぐ、熊本県警の白木警部に、電話をかけた。
去年、大田垣が、九州へ旅行したのは、九月三十日から、十日間であり、柳川や、鹿島、それと、祐徳稲荷に寄っていることを、話した。
「佐賀県警や、福岡県警などにも、協力して貰って、調べてみます」
と、白木は、いってから、
「半年前のこの旅行が、今度の事件と、関係があると、お考えですか?」
「正直にいって、わかりませんが、関係している可能性もあると、いったところです。とにかく、殺人の動機の少ない被害者ですから」
と、十津川は、いった。
そのあと、白木が、どう捜査を進めたか、十津川には、わからなかった。
翌日の夕方になって、白木から、電話が入った。
「去年の九月三十日から、十月九日までの大田垣の旅行の日程がわかりました」
と、白木は、いった。
明らかに、有明海沿岸を狙《ねら》って、スケッチ旅行をしたようだという。
「柳川が、気に入ったようで、そこで、四泊しています。あと、鹿島に行き、そのあと、例の祐徳稲荷にも、参拝していますね」
「ずっと、スケッチをして歩いていたわけですかね」
「旅館が、好きだったようで、どこでも、日本旅館に、泊っていますね。そこの従業員の話では、毎日、朝食をすませると、スケッチブックを持って、出かけたということです」
と、白木は、いった。
「この旅行の途中で、何かあったということは、なかったんですかね?」
と、十津川は、きいた。
「それが、よくわからないのですよ。どの旅館も、笑顔で、ご出発なさいましたという返事でしてね」
と、白木は、いう。
「何もなかったとすると、今度の事件の原因では、なかったということになるんですかねえ」
「しかし、この旅行のスケッチブックが、なくなっているわけでしょう?」
「そうです」
「それと、鹿島でも、二泊しているんです。祐徳稲荷は、鹿島の傍《そば》ですからね。スケッチをした筈だと思うのです。そこへ、今年、また、わざわざ行く必要があったかどうか。十津川さんのいわれるように、ポケットにあったお守りは、犯人が、入れておいたような気がして来ましたよ」
と、白木は、いった。
「そうだとして、犯人は、なぜ、そんなことをしたと思いますか?」
と、十津川は、きいた。
「大田垣が、今度も、祐徳稲荷に行ったと、思わせるためじゃありませんかね」
「なるほど」
「もし、そうだとすると、彼は、本当は、どこへ行ったのかということになります」
「どこへ行ったと思いますか?」
「それがわかればいいんですが」
と、白木が、いった時、西本が「警部」と、十津川を呼んだ。
十津川は、送話口を、手で押さえた。
「なんだ?」
「殺人事件発生です」
と、西本が、叫ぶように、いった。
十津川は、電話に向って、
「こちらでも、事件が起きました。行かなければなりません」
「わかりました」
と、白木は、いった。
電話が切れると、十津川は、亀井たちに向って、
「出かけるぞ」
と、声をかけた。
7
現場は、国立《くにたち》駅から、車で十五、六分のところだった。
雑木林があり、小鳥が鳴いている。そんな景色が、一部だが、残っていた。
被害者は、雑木林の傍に、背中を刺されて、死んでいる。
死体の横には、画架が置かれ、カンバスには、雑木林が、描かれていた。
何者かが、背後から忍び寄って、いきなり刺したのだろう。
被害者の身体が、仰向けにされたとき、十津川は、どこかで見た顔だなと、思った。
(どこで会ったんだろう?)
と、考えていると、横から、亀井が、
「大田垣の友人の画家の一人ですよ」
と、小声で、いった。
「そうだった。いろいろと聞いた画家たちの一人だ」
と、十津川も、肯いた。
名前は、確か、後藤《ごとう》といった筈《はず》である。
「ナイフで、三回刺しているね」
と、検死官が、十津川に、いった。
「三回もかい?」
「ああ、その一つが、心臓にまで、達している」
「三回というと、犯人は、倒れたところを、また、刺したということだね?」
「ああ。そうなるね」
「よほど、憎かったのかねえ」
と、十津川は、死体に向って、呟《つぶや》いた。
「被害者の家は、この先のマンションだそうです」
と、亀井が、いった。
二人は、雑木林を、迂回《うかい》するように、歩いて行った。
マンションや、スーパーが、新しく建っていた。多分、その雑木林も、間もなく消えて、家が建つことになるだろう。
マンションの五階に、被害者後藤|功《いさお》の部屋があった。
2LDKの間取りで、窓際の八畳が、アトリエになっている。
「ひとりで、住んでいたのかね?」
と、十津川は、がらんとした部屋の中を、見廻《みまわ》した。
亀井は、西本と、管理人や、隣室の住人に当って、戻って来ると、
「奥さんとは、別居していたようです。娘さんが二人いて、二人とも、結婚しています。次女の方が、二月に、結婚したばかりです」
「大田垣が、例のお守りを、やった娘さんだろう」
「お守りのご利益《りやく》ですかね」
「ただし、安全のお守りではなかったみたいだね」
と、十津川は、いった。
八畳のアトリエには、絵が、いくつか、立てかけてあった。
大田垣と違って、ここには、いろいろな絵があった。人物画もあれば、静物画もある。雪山の景色を描いたものもある。
色彩の美しい画家だった。
年齢は、五十四歳。小柄で、誰かに恨まれるような感じはない。
「だが、殺されたんだ」
と、十津川は、いった。
十津川は、部屋の中にあった手紙を、片っ端から、眼を通してみた。だが、脅迫めいた文面は、一つも、なかった。
別居中の妻、敬子《けいこ》が、駈《か》けつけた。
後藤が、殺されたときの様子を聞くと、敬子は、
「あんないい人を殺すなんて――」
と、かすれた声で、いった。
「いい人でしたか?」
と、十津川が、きいた。
「人が良すぎて、損ばかりしていましたわ」
「例えば、どんなですか?」
「私が、注意しているのに、他人《ひと》の保証人になって、借金を作って、その返済に、苦労したり――」
「あなたは、そんなところが嫌になって、別居をしていたんですか?」
と、十津川は、遠慮なく、きいた。
敬子は、別に、怒りもせず、
「その通りですわ。後藤の性格は好きだったけど、実際の生活では、家族は、疲れてしまいますものね」
「娘さん二人は、もう、結婚されていましたね?」
「ええ。おかげさまで、いい相手と、結ばれましたわ」
「大田垣という画家は、ご存じですか?」
と、亀井が、きいた。
「もちろん、知っていますわ。主人とは、一番の親友でしたから」
「彼が、九州で亡くなったことも、もちろん、ご存じですね?」
「ええ。びっくりしましたわ。本当に」
「ご主人は、大田垣さんの死について、何かいっていませんでしたか?」
「私たちは、別居していましたので、聞いていませんでしたわ。主人の死が、何か、大田垣さんの事件と、関係があるんでしょうか?」
と、敬子は、きいた。
「今は、何ともいえません」
と、十津川は、いってから、
「後藤さんは、よく、外へ出て、絵を描かれていましたか?」
「ええ。好きでしたから」
「旅行へ行くのは、どうでした? スケッチブックを持って、日本中を旅行して歩くというようなことですが」
「大田垣さんのようにですか?」
「ええ。まあ、そうです」
「旅行は、嫌いではなかったと思いますわ。でも、スケッチブックを持って、旅行するということは、ありませんでしたわ。温泉に行って、ゆっくりしているのが、好きでした。おれは、ものぐさだからというのが、主人の口癖でしたわ」
「後藤さんは、どこの生れですか?」
「金沢《かなざわ》ですわ。金沢の自慢を、よくしていました。年齢《とし》をとったら、郷里の金沢へ帰りたいと、いっていたんですけど、とうとう、それが出来ない中《うち》に、死んでしまって――」
と、いって、敬子は、言葉を途切らせた。
「後藤さんに、敵はいましたか?」
と、亀井がきくと、敬子は、肩をすくませて、
「今もいったように、あの人は、お人よしなんです。敵なんかいませんでしたわ」
「では、犯人に心当りは、ないわけですね?」
「ええ。ありませんわ」
と、敬子は、いった。
「最近、後藤さんが、九州へ旅行したということは、ありませんでしたかね?」
と、亀井が、きいた。
「大田垣さんのようにですか?」
「そうです」
「主人が、九州へ行ったというのは、聞いていませんわ。でも、私が、知らないのかも知れません。別居してから、私も、自分の仕事で、忙しかったので」
と、敬子は、自信なげに、いった。
「お嬢さんなら、知っていますかね?」
「次女は、ちゃんと、知っていると思いますわ。嫁いでからも、後藤は、よく、連絡していたようですから」
と、敬子は、いう。
その次女は、翌朝、早く、大阪から、駈《か》けつけた。
丁度、大田垣の娘の宏美と、同じくらいの年齢である。
十津川が、彼女に、九州のことをきくと、
「父は、九州へは、行っていませんわ。九州へ行くのなら、沖縄へ行くといっていたくらいです」
という答えが、返って来た。
「大田垣さんは、去年、九州の祐徳稲荷のお守りを買って来て、お父さんにあげた筈《はず》なんです。縁結びのお守りですから、あなたに、お父さんは、渡したんじゃないかと、思うんですが」
「ええ。貰《もら》いましたわ」
「お父さんから? それとも、直接、大田垣さんからですか?」
「父からですわ。大田垣さんが、私のことを心配して、お土産にくれたんだと、いって」
「大田垣さんのことは、よく知っていますか?」
「私が?」
「ええ」
「時々、お会いしましたけど、それは、父を通してですわ」
「大田垣さんの娘さんとは、どうですか? 丁度、同じ年頃じゃないかと、思うんですが」
「宏美さんとは、何度か、会っていますわ。でも、特別、親しいとか、仲がいいとかいうことは、ありませんわ」
と、いった。
十津川は、首をかしげてしまった。
最初、大田垣が殺されたことと、後藤の死は、何か関係があるのではないかと、思ったのだ。
しかし、それらしい線は、なかなか、見えて来ない。
捜査本部は、国立署に、設けられた。
「カメさんは、どう見るね?」
と、十津川は、きいた。
「九州の三角で起きた事件との関連ですか?」
「そうだ」
「五十代の画家が、殺された。しかも、二人は、親友だった。となれば、二つの事件は、関連があると考えたくなるのは、当然だと思います」
「しかし、二つの事件を結びつけるものが、いっこうに、浮んで来ない」
「そうですねえ、熊本県警は、どういっていますか?」
と、亀井が、きいた。
「すぐ、電話して来たよ。向うも、二つの事件の関連を考えているんだ。被害者が、同じ画家で、親友だったということは、共通点だが、それ以上のものが、見つからない。何か見つかれば、合同捜査ということになるんだがね」
「もし、犯人が、同一人だとすると、なぜ、後藤まで、殺したかということですね。それとも、最初から、二人とも、殺す気だったのか?」
亀井が、九州と、東京の地図を、見比べながら、いった。
十津川は、苦笑して、
「それがわかれば、苦労はしないよ」
「そうですね」
と、亀井も、笑った。
しかし、マスコミの方は、無責任に、二つの事件を、関連づけて、書いた。
〈中堅の画家、続けて殺さる。九州と、東京で〉
〈二人の画家は、親友だった。なぜ、二人が続けて?〉
そんな書き方だった。関連づけて書いた方が面白いからだろう。
その新聞を持って、宏美が、捜査本部を、訪ねて来た。
「これは、本当なんでしょうか? 父の死と、後藤さんの死とは、関係があるんですか?」
と、宏美は、十津川に向って、きくのである。
「可能性はありますが、関係があるという証拠は、何もないんです」
と、十津川は、正直に、いった。
「でも、父が殺されて、すぐ、父の友人の画家が殺されるなんて、普通じゃありませんわ。きっと、何かあるに違いありませんわ」
宏美は、大きな眼で、十津川を見て、いった。
その通りなのだが、肝心の捜査が、進まないのである。
大田垣の時も、他人《ひと》に恨みを買うことのない人間が、殺されている。
今度の後藤も、同じだった。どちらも、動機が、見つからないのである。
事件によっては、やたらと、動機が見つかる場合がある。いつ殺されても不思議はなかったみたいな人間がいるのだ。容疑者は、あとからあとから、出てくる。それはそれで、容疑者が多すぎて困るのだが、今度の事件は容疑者が、少なすぎて、困ってしまう。
「ひょっとして、われわれは、連中に、体《てい》よく欺《だま》されているんじゃないでしょうか」
と、亀井が、突然、いった。
十津川は、「え?」という顔になった。
「連中って、大田垣や、――後藤の友人たちのことかね?」
「そうです。連中は、大田垣や、後藤のことを、全く、敵のいない、他人《ひと》に恨みを買うような人間じゃないと、いっていますが、本当は、全部|嘘《うそ》っぱちで、二人とも、嫌な奴《やつ》だったんじゃありませんかね」
と、亀井は、いった。
「カメさんは、本当に、そう思っているのかね?」
と、十津川は、笑いながら、いった。
亀井は、苦笑してしまい、
「あんまり、動機が見つからないので、ひょっとしてと、思っただけです」
と、いった。
「問題は、大田垣のあの絵だよ」
と、十津川は、いった。
あの絵だけが、大田垣の人間像を、ぶちこわしているのだ。
もし、画家の絵が、彼の心象風景とすれば、あの絵を描いたとき、大田垣の心は、いつもの平静さを失っていたことになる。
十津川は、科研に頼んで、あの絵が、いつ頃描かれたものか、調べて貰《もら》った。
その結果、去年の十月下旬に、描かれたものらしいと判った。九州に旅行して来たあとである。
「主人の部屋を整理していたら、メモ代りに使っていた手帳が見つかりました」
と、後藤敬子から、電話があったのは、その直後だった。
十津川は、すぐ、飛んでいった。
手帳は、三冊だった。ここ三年間のものである。
敬子のいった通り、メモ代りで、簡単な記入しかない。
○友人二人と夕食。そのあと飲む。
○田代《たしろ》が、胃かいようで入院。
○一日中、絵を描く。疲れた。
そんな記述が、続くのである。
十津川は、去年の手帳を、丁寧に見ていった。
特に、十月の部分である。
最初は、別に、どうということもない文字が、並んでいた。
十津川の眼が、急に、止まったのは、十月二十七日のところだった。
○Oが、自殺を図る。助かる。
誰にもいわぬこと。
と、あったからだった。
自殺の文字が、十津川を、驚かせ、緊張させたのだ。
それに、十月二十七日の日付けも、十津川に、注目させた。
問題の絵は、科研の調査で、十月下旬に、描かれたと、判定されている。もちろん、日付けまではわからないが、十月二十七日というと、その下旬の中に、入ってくるのである。
その絵は、異様で、見る人間を、不安にさせる。当然、描いていた大田垣も、不安定な心理状態だったのでは、あるまいか。
その揚句に、突然、自殺を図ったとしても、あの絵を見ていると、不思議では、なくなってくるのだ。
十津川は、カンバスに向って、あの絵を描いている大田垣を、想像してみた。異様に大きな眼をしたモデルを、想像してみた。自殺という言葉が、不自然でなくなってくるのである。
そのあとのページを、繰っていったが、Oのイニシャルが出てくるのは、この日だけだった。
もちろん、このメモだけでは、大田垣と断定は出来ない。手帳の主が、殺されてしまった今となっては、確認の仕様がないのだ。
十津川は、後藤と親しくしていた画家仲間に、一人ずつ、当ってみることにした。
その中に、Oのイニシャルの名前は、三人いた。
緒方《おがた》、大西《おおにし》、折原《おりはら》の三人である。この三人を、調べてみたが、去年の十月二十七日に、自殺を図った形跡は、なかった。
しかし、また、誰に聞いても、大田垣が、自殺を図ったと、証言する者も、いなかった。
誰もが、びっくりした顔になり、信じられないと、いうだけだった。
Oが、大田垣だとすると、後藤だけが、知っていて、友情から、堅く、口を閉ざしていたのかも知れない。
十津川は、消防署に当ってみた。去年の十月二十七日に、救急車が、大田垣の家に、行かなかったかどうかである。
しかし、この記録も、なかった。
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第二章 九州再訪
1
去年の十月二十七日に、大田垣は、自殺を図った。
どうやら、これは、間違いないらしいと、十津川は、思った。もちろん、証拠はないし、ただ単に、親友の後藤の手帳に、「Oが自殺を図る」と、あっただけである。後藤が死んでしまった今となっては、このOが、大田垣かどうかも、不明である。
しかし、十津川は、大田垣だと、確信した。
その理由は、二つある。第一は、その頃描《ころか》いたと思われるあの絵だった。
あの絵から連想されるのは、暗い死である。いや、死の予感といったらいいのか。
もう一つは、後藤の死だった。後藤が、なぜ殺されたのか、今のところ、わからない。しかし、十津川は、大田垣の死とつながっていると、直感していた。
そして、二人の死が、去年十月二十七日から始まっているのではないかと、十津川は、考え始めている。
大田垣が、自殺を図ったとき、救急車を呼んでいない。友人の後藤は、当夜、一一九番しようとしただろう。それを止めたのは、大田垣本人だったに違いないのだ。
ただの自殺ではなかったのではないか。だから、大田垣は、救急車を呼ばないでくれと、友人に、頼んだのではないのか。
それが、尾を引いて、今度の彼の死を引き起こしたのではないのか。
後藤は、多分、去年の大田垣の自殺未遂の理由を知っていたのだろう。知らなかったとしても、親友として、知ろうと、努めただろうということは、想像できる。
そのことが、後藤まで、死に追いやってしまったのではないのか。
と、ここまでは、あくまで、十津川の想像でしかない。
当っているかどうかも、わからない。
ただ、例の絵を見ていると、暗い想像ばかりが、浮んで来るのである。
ひとりで、じっと見ていると、いやでも、死を考えてしまう。そんな絵なのだ。
(大田垣は、なぜ、こんな絵を描いたのだろうか?)
それが、知りたいと、十津川は、思う。それが、わかれば、彼と、彼の親友の後藤が、殺された理由が、わかってくるのではないかと、思うからだった。
「去年の十月二十七日に、というより、その直前の九州旅行で、何があったのか、知りたいね」
と、十津川は、問題の絵から視線をそらせて、亀井に、いった。
「大田垣が、歩いたと同じ道を、歩いてみますか?」
「熊本県警の白木警部や、三浦刑事にも、会ってみたいしね」
と、十津川は、いった。
ただし、有明《ありあけ》海周辺は、熊本県警とは無関係に、勝手に歩くことにした。その殆《ほとん》どが、熊本県以外の他県になっているからだった。
四月五日。十津川と、亀井は、羽田《はねだ》から、福岡空港に飛んだ。
東京は、肌寒かったが、福岡は、さすがに、暖かかった。陽差《ひざ》しも、東京より、はるかに、明るく、強い感じがある。
二人は、まず、柳川《やながわ》に、足を向けた。
大田垣も、ここが気に入ったとみえて、去年の九月三十日から、四日間、滞在しているからである。
西鉄《にしてつ》福岡駅から、特急に乗った。約五十分で、柳川駅に着いた。
駅前で、いくらか遅い昼食をとったあと、十津川と、亀井は、食堂で貰《もら》った観光地図を見ながら、市内を、歩いてみることにした。
大田垣も、この城下町の散策を楽しんだに違いなかったからである。
柳川は、水と柳の町といわれるだけに、いたるところに、水路がある。道路に沿って、水路があるというのか、水路に沿って、道路があるのかわからないが、水路を利用すれば、この町の何処《どこ》にでも行けるのだろう。
駅の近くに、川下りの船着場があって、観光客が、そこから乗り込んで、水郷巡りを、楽しむ。
大田垣も、恐らく、これに乗ったろうと思い、十津川と、亀井も、ドンコ舟と呼ばれる、底の平らな舟に、乗り込んだ。
せいぜい十二、三人しか乗れない小さな舟である。菅笠《すげがさ》をかぶった船頭が、竿《さお》で、ゆっくりと、舟を進めて行く。大人《おとな》千二百円である。
十津川たちが乗った舟は、八人ほどで、出発した。
橋の下をくぐったり、料亭の前を進んだり、水汲《みずく》み場が見えたり、なかなか、楽しい。
そこで、昔は、水を汲み、洗い物もしたのだろうが、今は、子供が、釣りをしているだけだった。
春の陽差《ひざ》しの下、のんびりと、舟遊びを楽しむのもいいものだった。何よりも、エンジン音がしないのが、いい。
道路を歩いている観光客が、珍しそうに、こちらの舟に向って、カメラを向ける。やがて、堀割り沿いに、赤レンガ造りの倉庫が、見えて来た。味噌倉《みそぐら》である。
十津川たちと一緒に乗っている観光客が、その赤レンガに向けて、シャッターを切った。
大田垣は、多分、カメラの代りに、スケッチブックに、鉛筆を、走らせただろう。
一時間余りで、松濤館《しようとうかん》が見えた。今は、ホテル・レストランになっているが、もとは、柳川藩主の別荘だったものである。明治時代の西洋館で、ここでも、みんなが、カメラを向けていた。
この松濤館を過ぎたところが、終点だった。
他の客が降りたあと、十津川は、船頭に、大田垣の写真を見せた。
「去年十月に、やって来て、スケッチブックを広げて、描いていたと思うんだが、覚えていませんかね?」
と、十津川は、きいた。
「ああ、スケッチをしていたお客さんなら、覚えてるよ。確かに、この人だったね」
と、船頭は、肯《うなず》いた。
「ひとりでしたか?」
「よく覚えてないんだが、連れは、なかったような気がするなあ」
あまり自信のない顔で、船頭は、いった。
「彼と、何か話をしましたか?」
と、十津川は、聞いた。
「覚えてないねえ。話はしなかったと思うよ」
船頭は、陽焼《ひや》けした顔で、いった。
(やはり、大田垣は、ここで、舟に乗って、川下りを楽しんだんだ)
と、十津川は、思った。
舟の中で、スケッチしている時は、少なくとも、それを楽しみ、暗い予兆など、感じなかったに違いない。
舟から降りると、二人は、観光地図を見ながら、歩き出した。
歩いて、すぐのところに、北原白秋《きたはらはくしゆう》の生家があった。ナマコ塀と白壁の土蔵造りで、裏に廻《まわ》ると、白秋記念館になっていた。
松濤館に引き返し、北へ向うと、白秋道路になる。この辺りも、水路に沿った道路で、武家屋敷が、続いていた。
老人が、画架を立てて、武家屋敷を描いているのに出会った。のぞくと、なかなかの絵である。
(この辺りも、大田垣は、スケッチしたかも知れないな)
と、十津川は、思った。
大田垣が、柳川で、何という旅館に泊ったかは、その時、友人に出したハガキで、わかっていた。
二人は、柳川駅近くまで、歩いて戻り、柳川苑《やながわえん》という旅館に、入った。
明治時代の民家の面影を残す小さな旅館で、いかにも、画家の好みそうな造りだった。
ひと休みしてから、十津川は、おかみに会って、大田垣のことを聞いてみた。
「ああ、あの絵描きさんのことなら、よく覚えていますよ」
と、おかみは、笑顔で、肯《うなず》いた。
九月三十日の宿帳に、大田垣の名前がのっていて、十月三日まで、泊っていた。
「ここに四泊したんですね?」
「ええ、毎日、スケッチブックを持って、お出かけになっていましたよ。気さくな方で、私も、一枚、描いて貰《もら》いました」
と、おかみはいい、一枚のデッサンを見せてくれた。
軽く描いているが、さすがに、おかみの特徴をとらえていた。
「大田垣さんが、泊っている時、誰《だれ》か、訪ねて来ませんでしたか?」
と、亀井が、きいた。
おかみは、二人に、茶菓子を出してくれてから、
「そういう方は、見えませんでしたよ」
「今年の三月二十日過ぎに、もう一度、大田垣さんは、ここへ来ませんでしたか?」
と、十津川は、きいてみた。
「いいえ」
と、おかみは、首を横に振った。
「去年のことですが、大田垣さんに、何か変ったことは、ありませんでしたか?」
「別に、変ったことなんかありませんでしたけど」
と、いってから、
「あの時、帰りに、もう一度、寄るといっていらっしゃったのに、きっと、何かご用が出来たんでしょうね。そのままになってしまいましたわ」
と、つけ加えた。
「ここから、何処へ行ったか、わかりますか?」
と、十津川は、きいた。
柳川の他に、鹿島《かしま》と、その近くの祐徳《ゆうとく》稲荷《いなり》神社に、大田垣が行ったことは、確認されている。
「祐徳さんへ行ってみると、おっしゃってましたよ。娘さんにいい縁談がありますように、お守りを貰ってくるんだと、笑っておられましたよ。ああ、いいお父さんなんだって、思いましたわ」
と、おかみは、いった。
「祐徳さんというのは、祐徳稲荷のことですね?」
「ええ。そうですよ」
「そして、東京へ帰る前に、もう一度、ここへ戻って来ると、大田垣さんは、いったんですね?」
「ええ。十月四日の午後、おたちになったんですけど、向うに、二日ほどいて、また、ここで一泊したいと、おっしゃったんです。六日に、もう一度、泊るからといって、予約されて、行ったんですけどねえ」
「六日に、戻って来なかった?」
「はい」
「キャンセルの電話は、入りましたか?」
「いいえ」
と、おかみは、いってから、
「それで、ちょっと、嫌な気がしたんですよ。立派な絵描きさんで、優しい方だと思ったのに、平気で、予約をキャンセルして、全然、連絡して来ないんですからね」
「そんな人とは、思わなかった?」
「ええ。でも、そのあとで、お手紙を頂きました。去年の暮に」
「その手紙を、見せて頂けますか」
と、十津川は、頼んだ。
おかみが、見せてくれた手紙は、大田垣が、去年の十二月二十日に、出したものだった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈九月三十日から十月三日まで、そちらでお世話になり、ありがとうございました。おかげ様で、秋の柳川を、十分に楽しむことが出来ました。その節、鹿島の帰りに、もう一度、寄りたいと、予約しておきながら、無断で、東京に帰ってしまいました。秋の行楽シーズンに、申しわけないことをしたと思っております。
くわしい説明は出来ませんが、柳川での楽しい思い出のあと、一身上に、ショッキングなことが起き、あなたのところに、部屋を予約したことを忘れて、東京に帰ってしまったのです。東京に帰っても、しばらくの間、そのショックは続き、最近になって、ようやく、平静さを取り戻した有様で、とにかく、お詫《わ》びせねばと、筆を執った次第です。
またいつか楽しく柳川を旅出来ればと思います。
その時には、もちろんそちらにご厄介になります〉
[#ここで字下げ終わり]
「大田垣さんは、十月二十七日に、東京で、自殺を、図りましてね」
と、十津川は、手紙を、返してから、おかみに、いった。
「この手紙にあるショッキングなことのためにですの?」
「そう思います」
「何があったんでしょうか?」
「それを知りたくて、われわれも、こうして、やって来たのですがね」
と、十津川は、いってから、
「もう一度ききますが、今年の三月ですが、また、こちらに、泊りたいという電話は、ありませんでしたか?」
「ありませんでしたよ。だから、大田垣さんが、九州へ来ていることも、知らなかったんですよ」
「おかしいですね。その手紙だと、もう一度、九州へ行く時は、必ず、寄りたいみたいに、書いてありますがねえ」
と、亀井が、いった。
「そうなんですよ。私も、また、大田垣さんに会えると思って、楽しみにしていたんですよ。何しろ、楽しい、いい絵描きさんでしたもの」
「なぜ、寄らなかったんですかねえ」
「この辺にいらっしゃったのなら、必ず、声だけでも、かけて下さっていると、思いますけどねえ」
と、おかみは、残念そうにいった。
それが、十津川にも、不思議だった。
大田垣の娘、宏美の話では、大田垣は、「有明に行く」と、いっていたという。去年の十月も、大田垣は、有明海沿岸の柳川、鹿島などを、見に行っているのだから、当然、今度も、柳川に来て、この旅館に、泊っていなければ、おかしくはないのか。
(今回、大田垣は、柳川には、来なかったのではないのか?)
と、十津川は、思った。
しかし、有明海沿岸というとき、柳川抜きというのは、考えられないのだが。
2
十津川たちは、柳川苑には、一泊しただけで、次に、鹿島市に、向った。
鳥栖《とす》まで行き、そこから、長崎本線に、乗りかえる。そして、肥前《ひぜん》鹿島駅下車である。
ここは、まだ、佐賀県である。と、いっても、すぐ先が、長崎という県境の城下町でもある。
大田垣は、この鹿島市内には、泊らず、近くの嬉野《うれしの》温泉に泊り、そこから、友人に、ハガキを出していた。
そのハガキを、借りて、持って来ている。
祐徳稲荷神社の簡単なスケッチに添えて、
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈ここは縁結びの神、娘のためお守りを買い、夜は、自分のために、嬉野温泉に二泊の予定。旅館は、「うれしの」です〉
[#ここで字下げ終わり]
と、書いてある。
十津川と、亀井は、タクシーに乗り、祐徳稲荷に寄ってから、嬉野温泉に、廻《まわ》ってくれるように、頼んだ。
祐徳稲荷は、伏見《ふしみ》、豊川《とよかわ》と並ぶ、三大稲荷の一つといわれるだけに、華麗で、大きい。
近くに山が迫り、その山を背景にして立つ神社である。そのため、社殿が、二十メートル近い高さがあり、壮大さを感じさせる。
祐徳さんと、親しまれているそうだが、初めて見た十津川には、威圧感のある稲荷に見えた。
「ここで、大田垣は、自分の娘と、友人の娘のために、お守りを買っていますから、ここへ来たときは、まだ、ショックを受けるようなことには、ぶつかって、いなかったとみていいでしょうね」
と、亀井は、朱塗りの巨大な楼門を見上げながら、いった。
「そうだろうね」
「私も、お守りを、買って行きますよ」
と、亀井が、いった。
「カメさんとこの娘さんは、まだ小学生だろう?」
「そうです。五年生です」
「それに、縁結びのお守りかい?」
「子供は、すぐ、大きくなりますからねえ」
亀井は、親バカでいいと、社務所で、お守りを買って来た。
再び、タクシーに乗って、嬉野温泉に、向った。
山間《やまあい》に入って行くので、ひなびた温泉を想像していたのだが、着いてみると、嬉野川沿いに広がる大きな温泉郷である。
十階を越すホテルも建っていて、歓楽街といってもよかった。
ただ、周囲に、嬉野茶で有名な、茶畑が広がっている。
十津川と、亀井は、その中で、小さな和風の旅館「うれしの」に、入った。
ここは、七十五、六歳の小柄なおかみさんが、采配《さいはい》を振っていた。
ツネ子さんといって、この辺りの名物のおかみさんらしかった。
部屋に入って、窓を開けると、すぐ下を、嬉野川の清流が、流れている。
おかみさんのツネ子が、あいさつに来た。
「去年の十月四日頃、東京の大田垣さんが、泊った筈《はず》なんですがね。絵描きさんです」
と、十津川が、いうと、ツネ子は、お茶を注《つ》いでから、
「ええ、立派な絵描きさんでしたよ」
「それで、何かありませんでしたか?」
と、亀井がきいた。
「何も、ありませんでしたけど――」
と、ツネ子はいったが、その返事が、あまりにも、そっけなくて、十津川の首をかしげさせた。話好きのおかみさんという感じだったからである。
「実は、大田垣さんが、死にましてね。それでこうして、聞いて廻《まわ》っているんですよ」
と、十津川が、いった。ツネ子は、びっくりした顔で、
「本当なんですか?」
「三月末頃、三角《みすみ》で、亡くなりました」
「そうなんですか……」
と、ツネ子は、小さな溜息《ためいき》をついた。
「それで、もう一度、聞きますが、ここで、何かありませんでしたか?」
今度は、十津川がきいた。
「本当は、ちょっとしたことがあったんですよ」
ツネ子は、真顔で、いった。
「それを、ぜひ、話して下さい」
と、十津川は、頼んだ。
「大田垣さんは、確か、十月四日に、おこしになりました。午後の三時頃でしたかね、お着きになったのは。柳川に、四泊して来たとおっしゃっていましたよ」
と、ツネ子は、いった。
「その時、祐徳稲荷には、もう、寄って来たと、いっていましたか?」
「ええ。何でも、お嬢さんが、年頃なので、縁結びのお守りを買って来たと、おっしゃって、見せてくれましたよ。それから、お友達の娘さんの分まで」
「なるほど。着いたときは、明るかったんですね?」
「そうなんですよ。ご機嫌で、夜は、久しぶりに、芸者を、呼んで貰《もら》おうかなと、おっしゃったんです。それで、芸者さんを一人、予約しておいたんですがねえ」
「どうなったんです」
「そのあと、大田垣さんは、スケッチブックを持って、お出かけになったんです。それが、暗くなっても、お戻りにならないんで、心配してますと、八時近くに、お戻りになりましてね。夕食もお食べにならないし、芸者も、もういいといって、お酒をお飲みになって――」
「泥酔ですか?」
「ええ」
「何があったのか、その時、大田垣さんは、いっていましたか?」
と、十津川は、きいた。
「私も、心配になって、お聞きしたんですけどねえ。何も、おっしゃらないんですよ」
「泥酔して、それから、どうなりましたか?」
「前の嬉野川に落ちて、死にそうになったんです」
「死にかけたんですか?」
「ええ。夜明けに、酔いをさまそうと思って外へ出て、足をすべらせて、落ちたと、おっしゃってましたけどねえ。あれは、自殺しようとなさったんじゃないかと、思いましたよ」
と、ツネ子は、いった。
「自殺ですか?」
「ええ。酔っていても、落ちるような場所じゃありませんもの。早く見つかったんで、丸一日、寝ていらっしただけで、すみましたけどね。私は、いったんですよ。縁結びのお守りを貰《もら》うほど、大きな娘さんがいらっしゃるのに、命を粗末にするもんじゃありませんよってね」
「彼は、その時、何かいいましたか?」
「何も。ただ、じっと、考えていらっしゃいましたねえ。三角では、自殺なさったんですか?」
と、今度は、ツネ子が、きいた。
「いや、殺されたんですよ」
「まあ――」
「東京へ帰ったあと、何か、連絡がありましたか?」
と、亀井が、きいた。
「ハガキを頂きましたよ」
と、ツネ子は、いい、そのハガキを見せてくれた。
十月十一日の消印のハガキだった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈過日は、泥酔のあげく、川に落ち、危うく溺死《できし》しかけるという醜態をお目にかけ、誠に汗顔の至りです。
その節、お世話になった皆様に、お礼をいっておいて、下さい。
まずは、お詫びまで。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]大田垣〉
泥酔し、川に落ちた理由は、一言も、書かれていない。
その理由が、解決しないままに、十月二十七日に、また、自殺を図ったのだろう。
「スケッチブックを持って、外出したのは、十月四日の何時頃ですか?」
と、十津川は、ハガキに、眼《め》をやりながら、きいた。
「午後四時頃でしたよ」
と、ツネ子は、いう。
「そして、戻って来たのは、午後八時頃?」
「ええ。もう、暗かったんですよ」
「すると、午後四時から、八時までの間に、何かあったということになりますね」
と、十津川は、いった。
ツネ子は、黙っている。
(スケッチに出かけて、誰かに会ったのか?)
と、十津川は、思う。
とにかく、何かを見て、激しいショックを受けたに違いないのだ。
泥酔し、川に身を投げるほどのショックとは、いったい何なのだろう?
それが、十月二十七日の自殺未遂につながり、そして、今回の死につながっているような気がする。
「大田垣さんは、初めて、この嬉野に、来たと、いっていましたか? それとも、前に、来たことがあると?」
と、十津川が、きいた。
「初めてだと、おっしゃっていましたわ」
と、ツネ子は、いう。
「そうですか――」
十津川は、また、考え込んでしまった。
3
夕食をすませると、十津川と、亀井は、一階にある温泉に、入った。
大きなガラス窓の向うは、嬉野川である。窓を少し開けると、冷たい風と一緒に、川の音が、飛び込んでくる。
「大田垣は、ここで、誰かと会ったということですかね?」
と、亀井は、窓の外の闇《やみ》を見つめながら、十津川に、いう。
「そうだろうね。そして、ショックを受けたんだ」
と、十津川は、いった。
「その人物が、今でも、ここにいるとは限らんでしょうね?」
「相手も、観光に来ていたとすれば、当然、もう、どこかに、帰ってしまっているだろう」
「あの絵のモデルじゃありませんか?」
と、亀井が、いった。
「実は、今、私も、あの気味の悪い絵のことを考えていたんだよ」
と、十津川は、いった。
考えていた、というより、思い出していたという方が、合っているだろう。
改めて、あの絵は、死を予感させると思う。
(しかし、あんな女が、いるのだろうか?)
亀井も、同じことを考えていたのか、
「もし、こんな夜に、いきなり、あの絵のような女に出会ったら、ぎょっとするでしょうね」
と、いった。
「そのぎょっとする女に、去年の十月、大田垣は、ここで、出会ったのかも知れないな」
「しかし、なぜ、彼女を、モデルとして、あの絵を、描いたんでしょうか? 彼女が、押しかけてきて、描いてくれと、大田垣に、迫ったんですかねえ」
「私にも、そこが、わからないんだよ。もし、現われたとして、なぜ、拒否しなかったのかと思ってね」
「大田垣は、その女に対して、ものすごい負債を背負っていたのかも知れませんね」
と、亀井は、いった。
「問題は、そうだとしても、女が、何者で、その負債が、何かってことだよ。それが、わかればねえ」
十津川は、いい、湯舟から、出た。
亀井は、彼のうしろに廻《まわ》って、
「背中を流しましょう」
「悪いな」
「警部は、少し太ったみたいですね」
「典型的な中年太りだよ。家内にも、いわれるんだ」
「私もですよ」
と、亀井は、背中を流しながら、笑った。
「今回、大田垣が、九州へ出かけたのは、みんな、九州が好きで、例のスケッチが目的だろうといっていたが、去年の十月に、そんなことがあったとすると、違うと考えざるを得ないね」
と、十津川は、いった。
「もう一つ、気になることがあります」
と、亀井は、いった。
十津川は、今度は、亀井の背中を、代って、流してやりながら、
「もう一つというのは?」
「今回の九州行です。どうやら、大田垣は、柳川にも行かなかったし、この嬉野温泉にも、来ていないようです。そうだとすると、いったい、何処《どこ》へ、何しに、行ったのか」
と、亀井が、いった。
「しかし、娘の宏美は、父が『有明に行く』と、電話で、いったといってるんだよ」
「それが、また、わからないんですよねえ」
亀井が、溜息《ためいき》をついた。
今回、大田垣は、九州へ行き、殺された。
自分の意志で、行ったのだろうか。それとも、誰かに、呼び出されたのか。それも、わかっていないのだ。
「何か一つでもいいから、わかればいいんだがねえ」
と、十津川は、呟《つぶや》いた。
翌日、嬉野温泉の中を歩き廻った。が、結局、何もつかめなかった。
つかめないのが、当然かも知れない。大田垣が、誰に会い、何を見て、ショックを受けたかわからないからである。
夕方、嬉野を離れ、熊本県警に向った。
夜おそく、県警本部に着き、二人は白木警部と、三浦刑事に、会った。
十津川は、二人に、柳川と、嬉野温泉で知ったことを、詳しく、話した。
「なるほど。そこに、原因があったわけですか」
「それにしても、今年の三月に、本当は、大田垣が、何処へ行ったか、知りたいんですよ。柳川にも、嬉野温泉にも、行っていないんですから」
と、十津川が、いうと、白木は、急に、眼を輝かせて、
「そのこと、なんですが」
「何か、わかったんですか?」
「有明という意味です。十津川さんは、有明海沿岸と、お考えのようですが」
「ええ、大田垣の娘さんが、『有明に行く』と、電話で、父がいっていたと、いうものですからね」
「しかし、柳川にも、嬉野温泉にも、行っていなかったんでしょう?」
「そうなんです。祐徳稲荷へは、行って、お守りを買ったと思っていたんですが。それも、怪しくなって来ましてね」
と、十津川は、いった。
「それで、考えたんですが、有明というのは、有明海のことではなくて、列車の『有明』のことではないかと、思うんですが」
と、白木警部は、眼を光らせて、いった。
「しかし、大田垣の娘が――」
と、亀井がいうのを、十津川は、手で、制して、
「彼女は、電話で、『有明に行く』と、父親がいったといった。国際電話だよ。パリにいて聞いたんだ。だから、大田垣は、『有明に行く』といったのではなく、『有明で行く』といったのかも知れないんだよ」
と、いった。
4
十津川は、東京に帰っている宏美に、電話をかけてみた。
十津川が、有明についての考えを伝えると、宏美は、
「そういわれると、わからなくなってしまうんです。何しろ、パリと東京では、時差があって、多少、おくれて、声が聞こえてくるし、父が、何か、急いでいるようで、早口に、いっていましたから」
と、いった。
「大田垣さんは、急いでいたんですか?」
「ええ。何となく、あわただしく、九州へ行く感じでしたわ」
「お父さんから、嬉野温泉について、去年の暮れから、今年にかけて、何か、聞いたことは、ありませんか?」
「ウレシノ――ですか?」
「そうです。嬉野です」
「別に、聞いていませんけど――」
と、宏美は、いった。
「もう一つ、去年の十月二十七日に、大田垣さんは、自宅で、自殺を図っているんです。それは知っていましたか?」
十津川が、きくと、宏美は、「えっ?」とびっくりしたように声を出した。
「父は、自殺しかけたんですか?」
「そうです。十月二十七日に、自殺を図ったが、未遂に、おわりました」
「なぜ、父は、自殺なんか、しようとしたんでしょう?」
「それが、わからないんですよ。大田垣さんは、その時、救急車も呼ばなかったし、心配する友人に、内緒にしてくれと、頼んでいるんですよ」
「では、そのお友達が、理由を知っているかも知れませんわね」
「そうですが、その友人も、殺されてしまいましてね」
「じゃあ、後藤先生のことですか?」
「そうです。後藤さんが、その時、大田垣さんを、助けたんです」
「後藤先生が殺されたのは、父のせいなんですか?」
と、宏美が、きいた。
「わかりません。それに、大田垣さんを助けたから殺されたということは、ないと思います。それなら、去年の中《うち》に、殺されていた筈《はず》ですからね」
と、十津川は、なぐさめるように、いった。
電話を切ったあと、十津川は、白木に向って、
「特急『有明』だったとすると、どうなりますかね?」
と、きいた。
熊本県警の方が、この列車のことは、くわしく、知っている筈だと、思ったからである。
白木は、黒板に、特急「有明」のいくつかの種類を、書いてみせた。
@ハイパー有明(五両編成)
門司港《もじこう》・博多《はかた》 ←→ 西鹿児島
Aハイパー有明(四両編成)
小倉《こくら》・博多 ←→ 熊本・水前寺《すいぜんじ》
B有明(五両〜七両編成)
門司港・小倉 ←→ 熊本・八代《やつしろ》
博多 ←→ 熊本・西鹿児島・水前寺
C有明(四両編成)
博多 ←→ 熊本
「これは、鹿児島本線を、走っているわけですね?」
と、亀井が、きいた。
「そうです。有明海沿いに走るので、有明の名前がついているわけです。鹿児島本線を走る主力列車です」
「ハイパーというのは、新型車両ですか?」
「そうです」
と、白木はいい、三浦刑事が、新旧二つの「有明」の写真を、見せてくれた。
旧型の車両は、見なれた、485型と呼ばれる、オレンジに、赤のツートンカラーの列車である。
新型の車両は、シルバー一色で、運転席の部分は、白く塗られている。窓も大きく、視界は、広い。
「それに、ハイパー有明の方には、電話がついています」
と、三浦刑事が、説明した。
「本数は、多いんですか?」
「博多からは、三十分から四十分に、一本の割合で、出ています」
「新幹線で、博多まで来て、そのあと、この有明に乗って、熊本や、西鹿児島まで行くということですかね」
と、十津川は、いった。
「そうです。われわれも、よく、この列車を、利用してますよ」
と、白木が、いった。
「殺された大田垣は、新幹線か、飛行機で、福岡まで来て、そのあと、有明に乗ったと思うんですが」
十津川は、黒板に貼《は》られた九州の地図に、眼をやった。
地図には、大田垣の死体が発見された場所が、×印で、示されている。
三角《みすみ》の傍《そば》である。
「もし、大田垣が、博多から、有明に乗っていたとすると、いったい、どこで降りたんでしょうか? 或《ある》いは、降ろされたのか」
と、亀井が、いった。
「一番近いのは、鹿児島本線の宇土《うと》という駅ですが、特急『有明』は、停車しません。だから、熊本で、普通に乗りかえて、宇土へ行くか、熊本で降りて、あとは、車で、三角まで行ったと思いますね」
と、三浦刑事が、地図を見ながら、いった。
「実際に、行ってみたいですね」
と、十津川は、いった。
「私が、ご案内しますよ」
と、三浦がいってくれた。
5
県警が、車を出してくれて、十津川と、亀井は、それに、乗った。
三浦刑事が、運転した。
熊本市内を走り抜け、国道57号線を走る。
やがて、右側に、有明海(この辺りでは、島原《しまばら》湾)が、見えてきた。
宇土半島に入ったのである。
反対側に、単線の線路が、走る。三角線だと、三浦刑事が、教えてくれた。
車は、あまり走っていなくて、こちらの車は、時速五十キロで、走り続けるのだが、右側は、延々と、海が、続くのだ。
道路沿いに、「焼いか有ります」と書いた看板が、出ていたりする。
遠浅の海らしく、底の平らな漁船が見える。
「潮干狩り」の看板が見える。
海の家と書かれた家が多いのも、海沿いだからだろう。
「三角線の電車は、いっこうに、見えませんね」
と、亀井が、いった。
「一時間に、一本ぐらいしか動いていませんから」
と、三浦が、いった。
「この国道は、バスも、走っているんですか?」
と、十津川が、きいた。
「三角の先が、天草五島《あまくさごとう》ですから、定期バスも、観光バスも、走っています」
と、三浦がいったとき、それを証明するように、熊本行と表示したバスが、すれ違って行った。
車が、急に、海沿いから、内陸側に、切れ込み、また、海が見えたと思うと、そこが、三角だった。
三浦が、港の近くで、車をとめた。
島原へ行くフェリーが、とまっているのが見えた。
「あのあたりに、浮んでいたのです」
と、三浦が、港のすぐ近くを指した。
「島原―三角のフェリーのルート近くですね」
と、亀井が、いった。
「それで、フェリーから、飛び込んだか、突き落とされたと、考えてしまったんですよ」
三浦が、いった。
「祐徳稲荷のお守りを持っていたんだし、娘の宏美が、父は、有明へ行ったと証言していたんですから、当然ですよ」
「あれは、犯人が、そう思わせるように、わざと、祐徳稲荷のお守りを、死体のポケットに入れておいたんでしょうね」
と、亀井が、いった。
「つまり、犯人は、そう思わせたかったことになるね」
十津川は、海に眼をやりながら、いった。
「犯人が、大田垣と一緒に、特急『有明』に乗っていたということですかね」
と、三浦が、いう。
「そうだと思います。多分、犯人は、『有明』の中で、大田垣に会い、熊本で降り、この三角まで連れて来て、溺死させたんでしょう。それを知られるのが怖いので、祐徳稲荷のお守りを持たせたりしたんでしょう」
と、十津川は、いった。
「死亡推定時刻は、何時でしたっけね?」
と、亀井が、三浦にきいた。三浦は、手帳に、眼をやって、
「三月二十四日の午後十時から、十二時の間となっています」
「それに合う特急『有明』はありますか?」
これは、十津川が、きいた。
「あります。さっきもいいましたように、この列車は、ほとんど、三十分から四十分おきに、博多を出ていますし、最終は、博多発が、午後十時半過ぎなんです」
と、いい、車から、時刻表を持ち出して来て、十津川たちに見せた。
熊本に、午後十時前後に着く有明は、次の五本だった。
[#ここからゴシック体]
博多 熊本
有明53号 19:50→21:15
有明55号 20:17→21:40
ハイパー
有明57号 21:09→22:32
ハイパー
有明59号 22:05→23:30
ハイパー
有明61号 22:35→22:58
[#ここでゴシック体終わり]
熊本駅から、三角湾まで、車で、一時間二十分ほどである。
もし、列車で熊本まで来て、それから、車で、三角に向ったとすると、ハイパー有明57号までが、時間的に、間に合うことになる。あとの二本は、時間を、オーバーしてしまうからだ。
もちろん、三角で、時間を過ごしてから、殺したとすると、もっと早い有明に、乗った可能性もあるのだが、それを考えると、極端にいえば、いくら早い有明でも、よくなってしまう。
そこで、限定していけば、有明53号、55号、ハイパー有明57号の三本ということになってくる。
「まず、この三本の列車に乗っていたとして、容疑者を、割り出してみますよ」
と、十津川は、三浦に、いった。
「大田垣の周辺に、犯人がいると、お考えですか?」
と、三浦が、きく。
「そう思っています。特に、その後、大田垣の親友の後藤という画家も、殺されました。私は、同一犯人とみています。とすると、犯人は、大田垣と、後藤の周辺にいる人物としか思えないのです」
十津川は、確信を持って、いった。
三人は、白木警部に、あうために、熊本へ引き返し、あいさつしてから、十津川と亀井は、東京に、戻ることにした。
一刻も早く、帰京したかったので、熊本空港から、全日空の最終便に、乗った。
一八時二〇分発で、羽田には、一九時四五分に着く便である。
「大田垣の周辺の人物というと、やはり、画家仲間ということになりますかね?」
帰りの飛行機の中で、亀井が、いった。
「多分ね。だが、限定は、出来ないよ。画商もいるし、画家志望だったが、今は、やめて、サラリーマンとなっている人物もいるだろう。女性の可能性だって、ゼロじゃない。女性とすると、大田垣と関係のあった女ということも、考えられるよ」
と、十津川は、いった。
「大田垣は、五十八歳でしたね?」
「後藤も、同じ年配だよ」
「すると、この二人と関係のあった人間も、大変な数になるでしょうね」
と、亀井は、肩をすくめるようにして、いった。
「その中から、三月二十四日に、例の特急有明三本に、乗った人間を、探すさ」
と、十津川は、いった。
6
帰京すると、十津川は、部下を督励して、大田垣の周辺の人物を、洗わせることにした。
後藤の名前をいわなかったのは、二人の友人、知人関係は、ほとんど、ダブッているからだし、後藤が、殺されたのは、大田垣が殺されたこととつながっていると、思ったからである。
つまり、同一犯人ということで、大田垣の事件が解決すれば、後藤の方も、自然に、解決してしまうのだ。
帰りの飛行機の中で、十津川が、覚悟した通り、五十八歳で死んだ大田垣を、何らかの意味で知っている人間は、数が多かった。
画家仲間だけでも、何十人という人数である。
その一人、一人について三月二十四日のアリバイを調べ、大田垣を殺す動機を持っていないかどうか、調べていく。
調べを進めて、わかったことの一つは、画家のアリバイが、いずれも、あいまいだということだった。
大作にかかると、何日も、アトリエに、籠《こも》ってしまう。家人も、遠慮して、近づかない。それが、アリバイだとすると、証明は難しいが、逆に、そのアリバイを崩すのも、難しいのである。
「参りましたよ」
と、捜査本部に戻って来た西本刑事たちが、十津川に、こぼした。
「一流の画家になるほど、アリバイが、あいまいなんですよ。大きなアトリエを持っていて、そこへ、籠って、絵を描いていたと、いわれると、なかなか、突っ込めませんからね」
と、西本は、いった。
「覚悟されたことじゃないか。もっと、頑張ってくれ」
と、十津川は、励ました。
画商や、一般人の証言の方が、アリバイ調べは簡単だった。
三月二十四日は、平日だから、サラリーマンの証言は、調べるのは、楽だった。休めば、当然、会社に、その記録が、残るからである。
女性関係の方は、画家仲間と同じように、難しかった。
大田垣は、独身だったし、自分のプライバシイを、仲間に話すような性格では、なかったからである。
唯一、話したと思われる親友の後藤は、殺されてしまっている。
十津川と、亀井は、改めて、大田垣と、後藤の自宅を、調べることにした。何か、犯人の手掛りとなるようなものが、見つかるかも知れなかったし、女性からの手紙が、出てくるかも知れないと、思ったからだった。
駒沢《こまざわ》の大田垣の家には、現在、娘の宏美が、ひとりで、住んでいた。
十津川は、宏美に、九州で、わかったことを、話した。別に、隠しておかなければならないことでもなかったし、彼女が、何か、忘れていることを、思い出してくれれば、いいと、思ったからでもある。
宏美は、じっと、眼をすえて、聞いていたが、
「嬉野温泉で、父が、そんなになったなんて、知りませんでした」
と、いった。
「旅館のおかみさんがいっていたんですが、大田垣さんは、泥酔して、嬉野川に落ちたのではなく、自殺を図ったんだと。私も、そんな気がしているんですよ」
「父は、自殺しなければならないようなことを、していたんでしょうか?」
と、宏美が、きく。
「娘のあなたに、心当りは、ありませんか?」
「いいえ、父は、他人《ひと》を傷つけたりしない人ですから、自分を責めて、自殺するなんて、信じられませんわ」
と、宏美は、強く、頭を振った。
「しかし、五十八年も、お父さんは、生きていたんですよ。その間には、自分が望まなくても他人を傷つけてしまったことが、あったんじゃないかな」
「そんなことが、あったんでしょうか?」
「それを、見つけたいと、思っているんですよ」
と、十津川は、いった。が、すぐ、付け加えて、
「もちろん、何もないことを、念じていますが」
と、いった。宏美を、傷つけたくなかったからである。
十津川と、亀井は、宏美に協力して貰《もら》って、家の中を、探した。前に一度、調べているから、殆《ほとん》ど、期待できなかったのだが。
「なかなか、見つかりませんね」
と、亀井が、いった。
それを聞いた、宏美が、
「私だって、何か、手掛りをつかみたいと思って、ずっと、家の中を、探しているんです。でも、何も、見つかりませんでしたわ」
と、いった。
十津川と、亀井は、本棚に並ぶ本を一冊ずつ、ページを、繰ってみた。
ページの中に、何か挟んでないかと、思ったからである。
何十冊目かに、ページの間から、新聞の切り抜きが、落ちた。
三年前の自動車事故の記事だった。
[#改ページ]
第三章 西海岸
1
三年前の夏。
七月二十七日の午後十時頃、大田垣信也は、伊豆《いず》の西海岸を、土肥《とい》から、堂《どう》ケ島《しま》に向って走っていた。
伊豆海岸のスケッチ旅行の途中だった。
途中で、急に、雷雨に見舞われた。宇久須《うぐす》近くまで来た時、突然、前方に人影を見て、急ブレーキを踏んだ。しかし、路面が、雨で濡《ぬ》れていたため、車はスリップし、相手を、はね飛ばしてしまった。
大田垣は、倒れている男を、急いで、堂ケ島の病院へ運んだが、その一時間後に死亡した。
その男の名前は、生方治郎《うぶかたじろう》、三十八歳。東京で、スーパーを経営している男だった。宇久須に、別荘を持ち、なぜか、この時、酔って、道路に飛び出して、大田垣の車に、はねられたものだった。
これが、新聞にあった事故の概要だった。
十津川は、この事故を、くわしく調べてみることにした。
電話で、静岡県警に、照会した。
県警からの回答では、はねられた生方治郎が、この時、泥酔状態であったこと、雷雨で、前方が、よく見えなかったことで、大田垣は、罪に問われていない。
「この生方治郎は、なぜ、泥酔して、雨の中に、飛び出したんですか?」
と、十津川は、きいた。
だが、電話をかけてきた県警の刑事は、
「そこまでは、わかりません。とにかく、あの事故では、被害者にも、ミスがあったということで、刑事事件にはならなかった。警察としては、そこで、捜査は、中止していますから」
と、いった。
確かに、その通りだろうと、十津川は、思った。刑事事件ではないことで、警察は、動く筈《はず》はないからだ。
だが、三年前の事故が、尾をひいて、今度の事件が起きていれば、話は別だった。
十津川は、この生方治郎のことを、調べることにした。
彼は、亀井と、生方が経営していた世田谷区|駒沢《こまざわ》のスーパーに、行くことから始めた。
スーパーは、あった。が、名前が、変っていた。「スーパー第一」が、「スーパーひろた」に、なっている。
経営者の名前は、店名にもなっている広田宗男《ひろたむねお》だった。
十津川と、亀井は、五十歳になるというこの広田に会った。「スーパーひろた」は、関東地方に、五店ある中型のスーパーである。
広田は、物静かだが、眼《め》つきが鋭く、一筋縄ではいかない男に見えた。
「ああ、生方さんのことですか。正直にいって、自動車事故で死んだ生方さんのことは、よく知らんのですよ。私は、ただ、あの店を買収しただけですからね。もちろん、正当な値段で、買いましたよ」
「誰《だれ》から、買ったわけですか?」
「生方さんの叔父《おじ》に当る人です。名前は、崎田《さきた》さんです。正式な書類もありますよ」
「生方治郎の家族は、いなかったんですか?」
「娘さんはいたが、なにしろ、小学生ですからね。それで、叔父に当る崎田さんが、責任者となってあの店を処分したんだと思いますよ」
「母親、いや、生方さんの奥さんは、どうしていたんですか?」
「自殺したと聞きましたが、くわしいことは知りません」
と、広田は、いった。
広田は、店の買収について、疑いを持たれていると勘違いしたらしく、その時の書類も、見せてくれた。
十津川は、そのことには、興味がなかったし、書類は、整ったものだったので、簡単に見て、広田に、返した。
十津川と、亀井は、売買の当事者になっている崎田|実《みのる》に、会ってみることにした。
崎田の家は、三鷹《みたか》にあった。
JR三鷹駅から、車で、七、八分のところにある豪邸だった。
崎田は、四十七、八歳だろうか。新宿で、レストランをやっていた。
十津川が、駒沢の店のことを聞くと、崎田は、眉《まゆ》を寄せて、
「なぜ、今になって、あの店のことを?」
と、いった。
「いや、店の売買そのものより、生方さんのことを、知りたいんですよ」
「どんなことですか?」
「西伊豆で、交通事故にあって、亡くなっていますね」
「そうです」
「夜、泥酔して、道路に飛び出して、車にはねられたということですが、なぜ、酔っていたか、ご存じですか?」
と、十津川が、きくと、崎田は、一層、難しい顔になって、
「いや、よく知りません」
「西伊豆に、別荘を持っていたことは、ご存じでしたか?」
「いや、知りませんでした」
「奥さんの名前は、何というんですか? 生方さんの奥さんです」
「あけみです」
「あけみさんも、亡くなっているんですね?」
「そうです」
「病死ですか?」
「さあ、よく知りません」
「崎田さん」
と、亀井が、急に、口を挟んだ。
「知らん、知らんと、繰り返しているが、あんたは、生方さんとは、叔父、甥《おい》の関係なんでしょう? だから、スーパー店の売買を、あんたがやったんでしょう。それなのに、生方夫婦について、何も知らないのは、おかしいじゃありませんか」
「おかしくても、知らないものは、知らないのですよ」
崎田は、かたくなないい方をした。
「生方さんの娘さんは、今、どうしています?」
と、十津川は、質問を変えた。
「私ども夫婦が、育てています。今、中学一年ですが」
と、崎田は、いった。
「名前を、教えてください」
「名前は、亜矢《あや》ですが、彼女が、何かしたんですか? 何のために、警察が、あれこれ、質問するんですか?」
崎田は、険しい表情で、きく。
十津川は、あわてて、
「亜矢さんが、何かしたということじゃありません」
「それじゃあ、私ですか?」
「いや、違います」
「それなら、いい加減で、帰ってくれませんか。亜矢にしてみれば、父親が、車にはねられて、死んだりして、ショックを受けました。やっと、そのショックから、立ち直ったところなんですよ。それを、ひっかき廻《まわ》されるのは、困るんですがね」
「よくわかりますよ」
「じゃあ、帰ってくれませんか」
と、崎田が、いう。
「では、あと一つだけ、お聞きして、帰ります。生方さんの事故死のことを、どう思われますか? はねた人間に対してです」
と、十津川は、きいた。
崎田は、肩をすくめて、
「もうすんだことだと、思っていますよ」
「事故の直後は、どうでした?」
「それは、腹を立てましたよ。しかし、いろいろと聞いてみると、生方の方も落度があった。泥酔して、飛び出したんですからね」
「生方さんは、なぜ泥酔して、道路に――」
と、十津川が、いいかけると、崎田は、
「それは、もうご返事した筈ですよ。知らないと――」
と、いった。
2
十津川と、亀井は、パトカーに、戻った。
亀井は、腹を立てていた。
「奴《やつ》は、嘘《うそ》をついていますよ。知らないばかりいっていますが、そんな筈はありませんよ」
「私も、そう思うが、忘れたいというのは、本当だと思うよ」
「しかし、このまま、引き退《さが》りますか?」
「これ以上、押しても、知りませんの壁は、破れそうもないがね」
「じゃあ、どうしますか?」
「学校の先生に、会ってみよう」
「中学の教師ですか?」
「いや、三年前、娘が行っていた小学校の教師だよ。駒沢の小学校だ」
と、十津川は、いった。
翌日、二人は、生方亜矢の通っていた小学校を訪ね、担任の新保《しんぼ》けい子という教師に会った。
二十七、八歳の教師である。三年前は、もっと若かったことになる。
「亜矢ちゃんのことなら、よく覚えていますわ。大人《おとな》しくて、頭のいい子でしたわ」
と、新保けい子は、いった。
「頭のいい子ですか」
「特に、算数が、得意でしたわ」
「お父さんの生方治郎さんが、西伊豆で、車にはねられて、亡くなりましたね」
「ええ。亜矢ちゃんが、四年生の時ですわ」
「母親も、亡くなりましたね?」
「ええ。自殺なさったと、聞いていますわ」
と、けい子は、いった。
「自殺の原因は、やはり、生方さんが交通事故で、亡くなったことのショックですかね?」
「そう思いますけど――」
「生方さんを、はねて殺した人間のことを、知っていますか?」
と、十津川は、きいてみた。
「なんでも、絵描《えか》きさんだと聞いていますけど、会ったことは、ありませんわ」
「亜矢という子供ですが、母親が、自殺した時、どんな様子でした?」
「そんなことまで、お話しするんですか?」
「出来ればね」
と、亀井が、いった。
「彼女、一か月くらい、学校を休みましたわ。一種の失語症みたいになってしまって。叔父さんのところに、引き取られて、少しずつ、回復していきましたけど」
「自殺した生方あけみさんというのは、どういう女性でした? 担任の生徒の母親だから、お会いになったことが、あるんじゃありませんか?」
と、十津川が、きいた。
「ええ。二、三度、お会いしていますわ」
「感じは?」
「美しい人でした。感情が繊細で、傷つき易《やす》い女性に見えましたわ。きっと、ご主人の死が、大変なショックだったんだと思います」
「彼女の葬儀には、参列されましたか?」
「いいえ。自殺ということで、葬儀は、ひっそりと、身内だけでということでしたから、私は、参列しなかったんです」
と、けい子は、いった。
彼女と、別れたあと、亀井が、首をかしげて、
「どうも、わからなくなってきましたよ」
と、十津川に、いった。
「何がだね?」
「生方治郎の奥さんのことですよ。なぜ、自殺したのか」
「それは、旦那《だんな》が、突然、はねられて、死んだからだよ。あの先生も、そういってたじゃないか」
「あの先生は、多分、まだ、未婚だと思いますね。それに、警部には、まだ、子供がいない」
「それは、そうだが」
「私には、子供が二人います。小学生です」
「知っているよ。二人とも可愛《かわい》い子だ」
「もし、私が、車にはねられて死んだとしても、家内は、絶対に、自殺はしないと思いますよ。二人の子供を育てていかなければならないからですよ。逆でも同じです。家内が死んでも、私は、子供のことがあるから、死ねません。生方の奥さんの場合も、同じだった筈なんですよ。可愛い小学生の娘がいる。それも、ひとり娘が。これからは、自分ひとりで、育てていかなければならないと思えば、悲しくても、自殺なんか、出来なかったと、思うんですけどねえ」
「なるほどね」
「だから、不思議だったんですよ」
「しかし、自殺した」
「ええ。ですから、夫を失った悲しみ以外に、もっと、他《ほか》の理由もあって、自殺したんじゃないかと、思うんですが」
と、亀井は、いった。
「生方あけみの顔写真が、欲しいね」
と、十津川は、いった。
二人は、パトカーで、もう一度、崎田に、会いに行った。
だが、崎田は、十津川に対して、
「それは、命令ですか?」
と、きいた。
「ただ、写真を、あったら、見せて頂けませんかというだけですが」
「彼女の写真は、一枚もありません」
と、崎田は、いった。
「なぜですか? いくら、自殺したといっても、亜矢さんのお母さんでしょう? なぜ、写真が、一枚も、ないんですか?」
と、亀井が、きいた。
崎田は、一層、険しい表情になって、
「あの娘《こ》にとっては、父親も、母親も、まともな死に方じゃありませんでしたからね。出来れば、忘れさせたいんですよ。だから、写真も、処分しました。もう、掘り返さんでくれませんか。あの娘のために」
と、いった。
「わかりました」
と、十津川も、引き退るより仕方がなかった。
車に戻ると、十津川は、亀井に向って、
「どう思うね? ひとりの父親として」
「母親の写真が、一枚もないというのは、嘘《うそ》だと思いますね」
「しかし、なぜ、われわれに、見せてくれないんだろう? われわれが、亜矢という娘に、見せるとでも、思ったんだろうか?」
「どうですかね。私は、どうしても、ただの自殺とは、思えなくなりましたが」
と、いってから、亀井は、
「しかし、大田垣の事件とは、関係ないかも知れませんね。関係があるのは、夫の生方の方だけですから」
「そうなんだよ。しかしねえ――」
「しかし、何ですか?」
「とにかく、何とかして、生方あけみの写真が、欲しくなったよ」
と、十津川は、いった。
「この調子だと、生方夫婦の親戚《しんせき》からは、見せて貰《もら》えそうもありませんね」
と、亀井が、いう。
「そうだな」
「どこに行けば、写真が、手に入りますかね?」
「彼女の大学時代の友人は、どうかな」
「確か、M女子大出身の筈です。結婚してからも、つき合っている友人がいれば、写真も、持っているかも知れませんし、いろいろと、聞くことが、出来るかも知れません」
「それを、見つけてくれ」
と、十津川は、いった。
亀井が、西本刑事と二人で、当ってくれた結果、生方あけみの大学時代の親友に、中川敬子《なかがわけいこ》という女がいることが、わかった。
彼女は、結婚したが、五年前に離婚して、現在、銀座で、小さいが、革製品の店を出しているという。
十津川は、早速、亀井と、彼女に、会いに出かけた。
「あけみのことですか」
と、敬子は、眉《まゆ》をひそめた。
「思い出したくないことは、わかりますが、ぜひ、彼女の写真が、欲しいんですよ。もし、あったら、貸して頂けませんか」
十津川は、敬子に、頼んだ。
「なぜ、あけみの写真が、いるんですか?」
と、敬子が、きいた。
「ただ、見たいだけです。お願いします」
「探してみますわ」
と、敬子は、やっと、いってくれた。
十津川と、亀井は、並んでいる革のハンドバッグや、財布などを見ながら、待った。
敬子は、五、六分して、戻ってくると、二枚の写真を、二人の前に置いた。
「これしか、ありませんでしたわ。彼女が、結婚する少し前に、独身最後ということで、二人で旅行に行ったんです。その時のものですけど」
と、敬子は、いった。
一枚は浴衣《ゆかた》姿だから、旅館に、泊ったときのものだろう。もう一枚は、どこかの寺の前に立っている写真だった。
色白で、眼の大きな美人だ。
十津川は、じっと、しばらく、見つめていた。
「カメさん。誰かに、似ていないか?」
と、十津川は、亀井に、それを、見せて、きいた。
「誰にですか?」
「あの絵の女だよ。大田垣が、描いた、気味の悪い女の絵だ」
「そういえば、どこか、似ていますが、しかし、あんな異様な顔じゃありませんよ」
「多分、誇張して描いたんだ」
「しかし、なぜですか? 普通なら、より美しく描くんじゃありませんか?」
「あの絵のモデルは、間違いなく、生方あけみだよ」
と、十津川は、いった。
3
捜査本部に戻ると、十津川は、改めて、その奇妙な絵を、見た。
確かに、亀井のいうように、別人の感じがする。写真の女は、眼の大きな、美人だった。それに比べると、カンバスに描かれた女は、眼が、異様に大きく、全体に、病的な感じがする。
(だが、この絵のモデルは、生方あけみなのだ)
と、十津川は、思った。
他に、考えられなかったのだ。
「この絵を描いたのは、去年、大田垣が、九州から、帰って来てからでしょう?」
と、亀井は、いった。
「そうだよ」
「生方あけみは、三年前に、大田垣の車にはねられて死んだ夫のあとを追うようにして、自殺しているわけです。それを、去年つまり、二年後に、描きますかね?」
と、亀井が、きいた。
「ああ、わかっている。しかし、大田垣は、突然、描いた。九州で、何かに、出会ったんだよ」
「まさか、死人の生方あけみに、会ったんじゃないでしょうね?」
「死人の生方あけみか」
と、十津川は、呟《つぶや》いて、じっと、考え込んだ。
「ひょっとすると、カメさんのいうことが、正しいのかもしれないよ」
「何のことです?」
「死人の生方あけみに出会ったということだよ」
「私は、冗談で、いったんですが」
と、亀井が、いう。
「ひょっとすると、本当に、彼は、死人に会ったのかも知れないよ。自殺した生方あけみにだよ」
と、十津川は、いった。
「つまり、彼女によく似た女か、或《ある》いは、姉妹にということですか?」
「それなら、大田垣は、さほど驚かなかったんじゃないかね。理屈が、通るからね。姉妹なら、似ているのが、当然だから、さほど、驚いたりはしないだろう。大田垣が、驚いたのは、九州で出会ったのが、生方あけみ本人だったからだと思うよ。カメさんがいうように、死人に会ったんだ」
「じゃあ、自殺したというのは、嘘《うそ》だったということですか?」
と、亀井はきいてから、
「しかし、警部。大田垣は、自分が、西伊豆で、生方治郎をはねて殺してしまった。この場合は、生方の方にも、泥酔ということがあって、罪にはならなかった。しかし、夫の死を悲観して、自殺した、生方あけみに対しては、大田垣は自責の念を覚えていたと思うんです。その彼女が、生きていたとわかったら、びっくりはするでしょうが、一面、ほっとするんじゃありませんか?」
と、きいた。
「その通りだよ」
「それなら、なぜ、生方あけみが、生きていると、思われるんですか?」
「関係者の証言を、思い返してみたんだよ。彼女について聞くと、みな、一様に、奥歯に物のはさまったようないい方になり、写真も、見せて貰《もら》えなかった。自殺ということがあったにしても、異常だと、思ったのさ。だから、カメさんのいう通り、大田垣は、自殺した生方あけみを見たのではないか。それも、死者のような生方あけみをだよ」
「死者のような――ですか?」
「ああ。恐らく、生方あけみは、首を吊《つ》って、自殺を図ったんだと思う。発見が早く、何とか、一命を取り止めたが、脳に酸素が行かなかったので、全《すべ》ての記憶を失ってしまったんじゃないか。言語も、不明瞭《ふめいりよう》になった。自分が何者かさえ、わからなくなった。そういう人間を、私は、見たことがあるんだ」
「なるほど。それで、親戚《しんせき》などは、表向き、彼女を、死んだことにしてしまった――」
「そうだよ。特に、娘の亜矢には、生ける屍《しかばね》のような母親がいることを、知らせまいとしているんだろう」
「その生方あけみに、大田垣は、九州で、会ったわけですね?」
「と、思うんだがね」
「しかし、なぜ、九州で、出会ったんでしょう?」
「多分、生方家の親戚が、九州で、病院をやっていて、そこに、収容されているんじゃないかな」
と、十津川は、いった。
「しかし、病院に収容されていれば、旅行途中の大田垣に、会うことは、なかったと思います。それに、わからないことが、もう一つ、あります」
と、亀井は、いった。
「何だい?」
「今の話が、当っているとしても、そのことに、大田垣が、ショックを受けて、あんな絵を描くのはわかりますが、彼が、殺された理由が、わかりません。まさか、中学一年の娘が、親の仇《かたき》を討ったわけじゃないと思いますし、今、あの娘を育てている崎田が、大田垣を殺したとも、考えられません」
「確かに、その点は、謎《なぞ》だよ。まず、前提が正しいかどうか、調べてみようじゃないか」
と、十津川は、いった。
生方家の親戚、知人で、九州に住んでいる者はいないかから、調べることにした。
特に、自殺したことになっているあけみの関係からである。
生方あけみは、元の姓を、沢木《さわき》といった。
つまり、沢木家の親戚、知人のことである。
沢木あけみの実家が、九州、それも有明海周辺に住んでいれば、簡単だった。
しかし、沢木あけみの本籍は、九州ではなく、四国の高知だった。
親戚にも、九州に住んでいる者は、見つからなかった。
「高知へ行ってみよう」
と、十津川は、いった。
東京より、高知の方が、少なくとも、九州に近いのだ。そんな理屈をつけて、十津川は、行くことに決めた。
翌日、二人は、高知行の飛行機に乗った。
「果して、高知へ行って、そこから、九州の有明に、辿《たど》りつけるんでしょうか?」
と、飛行機の中で、亀井が、いった。
「わからないが、以前、K大がやった実験のことを、思い出したんだよ」
「どんな実験ですか?」
「九州にAという人間がいる。このAと、全く関係のないBが、北海道にいる。Bが、自分の知り合いに、Aへの伝言を頼む。頼まれたCは、自分の知り合いのDに、また頼む。こうやって、人間の鎖を使うと、何人目に、Aに、辿《たど》りつけるかという実験でね。実験の結果、最高でも、十四、五人、一番少ない場合は、七、八人で、Aに辿りついてしまうというんだよ。全く無関係と思えるAとBの間でも、少なくとも、十四、五人の人間が、介在すれば、つながってしまうんだ」
「すると、高知の沢木家からスタートすれば、必ず、九州の、生方あけみに辿りつける筈《はず》だと、いわれるわけですね?」
「当然だよ。全く関係のない人間をつなぐわけじゃないんだから、七、八人も、間に、必要はないと思うよ」
と、十津川は、自信を持って、いった。
4
高知に着くと、二人は、沢木あけみの本籍の住所を、訪ねてみた。
そこには、現在も、沢木旅館という名前の、旅館はあったが、経営者は、彼女の両親から、遠い親戚《しんせき》に、代っていた。
名前だけは、沢木旅館でも、今の経営者の名前は、前田だった。
「親戚といっても、ほとんど、会ったこともなかったんですよ。ただ、三年前に、この旅館を買って欲しいといわれて、購入しました。沢木旅館の名前も、そろそろ、変えようと、思っていたところです」
と、前田は、いった。
「沢木家の親戚に、九州の人間は、いませんか? 有明海の周辺に、住んでいるんですがね」
と、十津川は、きいた。
「うちの親戚ですか?」
「そうです。ありませんか?」
「ありませんねえ。聞いたことがないですよ」
と、前田は、いう。
十津川は、失望しながら、
「親戚の中で、お医者さんはいませんか? リハビリテイションの専門家だと思うんですがね」
と、いった。
「医者ですか。ちょっと、思い当りませんが、いろいろと、いますから、聞いてみます」
と、前田は、いった。
そのあと、どう調べてくれたのか、この旅館に泊った十津川に、夕食の時、
「一人、いましたよ」
と、いった。
「九州の病院ですか?」
十津川が、先廻《さきまわ》りして、きくと、前田は、首を横に振って、
「いえ。大阪の大きな病院で、働いています。名前は、磯崎《いそざき》といいまして、外科の医者です。まだ、三十代の若い医者ですよ」
「沢木あけみさんとは、どんな関係ですか?」
「確か甥《おい》じゃないかと思いますね。私なんかより、崎田さんの方が、よく知っている筈なんですがねえ」
「東京の崎田さんですか?」
「ええ」
「なぜ、崎田さんが、よく知っているんですか?」
と、亀井が、きいた。
「確か、あの人は、大阪で怪我《けが》をした時、磯崎さんに、診《み》て貰った筈ですよ。それは、腕のいい医者だって、親戚中に、ほめて歩いていたということですから」
「大阪の病院の名前を教えて下さい」
と、十津川は、いった。
「大阪へ行ってみますか?」
亀井が、十津川に、きく。
「とにかく、電話してみよう」
十津川は、自分の部屋から、大阪の病院へ、電話をかけた。
事務局を呼んで貰《もら》い、外科の磯崎先生をと、いうと、
「磯崎先生は、お辞めになりましたが」
と、男の事務員が、いった。
「辞めた? いつです?」
「もう、二、三年になりますが」
「今、どこにいるか、わかりませんか?」
「さあ、私には、わかりませんね」
と、相手は、熱のない声で、いった。時間からみれば、病院は、もう閉っているのだ。それで、無愛想なのだろう。
仕方なく、十津川は、警察の名前を出した。その方が、少しは、効果があると思ったからである。
「誰か、磯崎先生の行先を知りませんか?」
と、改めて、きいた。
警察といったのが、利《き》いたとみえて、
「聞いて来ます」
と、相手は、いった。
五、六分して、電話に、今度は、別の男の声が、出た。
「外科部長の川口ですが、警察が、磯崎君に、何の用ですか?」
と、相手が、きいた。
「磯崎先生の証言を欲しいことがありましてね。ぜひ、お会いしたいと思っているんです。どこへ行かれたか、わかりませんか?」
と、十津川は、きいた。
「行先は、わかりますよ」
「では、教えて下さい」
「しかし、磯崎君に、口止めされていますのでね」
「なぜ、口止めされたんでしょうか?」
「それも、申しあげられませんね。何しろ、しばらくは、内緒にしておいてくれと、頼まれていますから」
と、相手はいう。これでは、堂々めぐりだった。
「もし、間違っていたら、申しわけありませんが、磯崎先生は、親戚の方が、自殺未遂を起こし、そのリハビリのために、病院を、移られたんじゃありませんか?」
と、十津川は、きいてみた。
五、六秒、相手は、無言だった。
「そのことが、何か事件になっているんですか?」
と、かたい語調で、きいてきた。
「いや、そうじゃありません。別の事件を、私たちは、捜査していまして、その遠因になっているのが、当人の自殺未遂と、見られるわけです」
「しかし、あれは、もう、三年も前のことですがね」
と、川口は、いった。
(やはり――)
と、十津川は、思いながら、
「そうです。三年前に、起きたことが、今年になって、新しい事件を、生んでいるわけです」
「よく、わかりませんが――」
「今年になって、大田垣という画家が、殺されました。私たちは、その事件を調べているのですが、彼は、三年前に、西伊豆で、交通事故を起こしましてね。その時、はねて、死亡させたのが、生方治郎という方です。その直後、奥さんの生方あけみさんが、自殺を図りました。周囲の人たちは、彼女が、死んだといっていますが、私は、生きていると、思っているのです。もちろん、そのこと自体は、別に、法律に触れるわけではありません。ただ、われわれとしては、彼女が、生きているという確証を、得たいだけなのですよ」
と、十津川は、いった。
その言葉を、川口が、信じたかどうか、わからなかったが、
「わかりました」
と、いってくれた。
「教えて頂けますか?」
「磯崎君は、親戚の女性が、自殺を図ったが、失敗して、植物人間のようになってしまった。彼女を、入院させ、何とか、リハビリで、治したいと、私に、相談して来たんですよ。しかし、残念ながら、うちの病院には、そうした施設が、ありませんでね。それに、磯崎君は、彼女のことを、秘密にしておきたいというので、困ってしまいましてね」
「他の病院を、紹介したんですね?」
「そうです。いろいろと、当ってみた結果、私の友人がやっている九州の病院、というより、療養所ですが、そこへ、入院させたらどうかと、いったわけです」
「その療養所へ、行ったわけですか?」
「そうです。ただ、そこは、医師が足りないんです。それで、磯崎君も、うちを辞めて、その療養所へ行きました。その時、彼女が、治るまで、内緒にしてくれと、いって、行きました」
「何という療養所ですか?」
と、十津川が、きくと、川口は、
「行かれるんですか?」
「ええ。ぜひ、お会いしたいと思っています」
「入院している女性のことが、公《おおやけ》になることは、ありませんか?」
と、川口がきく。
「それは、絶対に、ありません。約束しますよ」
と、十津川は、いった。
5
翌日、十津川と、亀井は、高知から、直接、九州に向った。
川口が教えてくれたのは、予想どおり、有明海の鹿島近くにある療養所だった。
傍《そば》に、温泉地もあるという場所である。そこから、温泉を引き、それも、リハビリに、利用しているということだった。
小高い山の中腹に、白い建物が見え、それが、問題の療養所だった。
十津川と、亀井は、そこで、磯崎医師に会った。
三十七、八歳だろうか。
明らかに、困惑の表情で、磯崎は、十津川たちを迎えた。
「彼女のことは、内緒にしておきたいんですよ。娘には、亡くなったことにしてあるくらいですからね」
と、磯崎は、いった。
「わかっています」
「それなら、なぜ、今になって、ほじくり返そうとされるんですか?」
「そんな気はありません」
「じゃあ、何のために、来られたんですか?」
と、磯崎は、きく。
「一つだけ、確かめたいことが、ありましてね。大田垣という画家を、ご存じですか?」
と、十津川は、きいた。
「知っています。生方さんを、はねた人でしょう?」
「確か、去年の十月に、生方あけみさんに、この近くで、出会ったと、思われるのですよ」
「出会っている?」
「そうです。ここへ、訪ねて来ませんでしたか? 彼は、その時、祐徳《ゆうとく》稲荷《いなり》へ寄っています。この近くでしょう?」
「そうです。近くですが、大田垣さんが、ここへ、訪ねて来たことは、ありませんよ」
と、磯崎は、いった。
「ここは、病室に、鉄格子をはめているようなことは、ないんでしょう?」
と、亀井がきくと、磯崎は、笑って、
「ここは、刑務所じゃありませんよ」
「とすると、患者が、勝手に、ここを、出てしまうことが、あるんじゃありませんか?」
「それは絶対ないとは、いえませんが――」
「去年の十月に、彼女が、外へ出たということは、ありませんでしたか?」
と、十津川が、きくと、磯崎は、急に、眉《まゆ》を寄せて、黙ってしまった。
「やはり、彼女が、外へ出てしまったことが、あったんですね?」
「ええ。ずいぶん、探しました。行方が、わからなくなって、困ったんです。夜になって、やっと、見つけましたが」
「なぜ、ここから出て行ったんですか?」
「わかりません」
「本当に、わかりませんか?」
と、十津川は、きいてみた。
「そんなことを、聞いて、どうするんですか?」
「今、捜査中の事件に関連があるかも知れません」
「そんなことはないと、思いますがね」
「ここで、生方あけみさんは、和服を着ているんですか?」
「いえ、そんな恰好《かつこう》なんてしませんよ。パジャマを着ていますが――」
「和服姿になることは、ありませんか?」
と、十津川が、きくと、磯崎は、
「彼女は、日本舞踊が、好きでしてね」
「ええ」
「今、全く、記憶を失ってしまっているので、何とか、記憶を取り戻させたくて、時々、和服を着せて――」
「手に、扇子を持たせたんじゃありませんか?」
「そうです」
「外へ出て、探した時、彼女は、そんな恰好をしていたんじゃありませんか?」
と、十津川は、きいた。
「そうです。ひょっとすると、そうした恰好をさせたので、一瞬、記憶がよみがえって、日舞のケイコにでも行く気になって、外へ出て行ったのではないか。そう思いました。それなら、何とか、記憶を回復させられると、希望を、持ったんですがねえ」
と、磯崎は、いった。
「彼女の顔ですが、自殺を図る前と、変りましたか?」
亀井が、きいた。磯崎は、辛《つら》そうな表情になって、
「変りませんと、いいたいんですが、かなり変りましたね」
「眼が、異様に、大きく見える?」
「ええ」
と、磯崎は、肯《うなず》いた。
「これだけお聞きすれば、十分です。ありがとうございました」
と、十津川は、礼をいった。
磯崎は、ちょっと、拍子抜けしたという顔で、
「いいんですか?」
「十分です。謎《なぞ》の一つが解けましたので、これで、十分です。助かりました」
「彼女のことが、公《おおやけ》になるようなことは、ありませんか? 中学に入った彼女の娘は、死んだと、思っていますので」
「絶対に、それはありません。保証します。もう、彼女のことに、触れることは、しません」
と、十津川は、約束した。
十津川と、亀井は、療養所を出て、鹿島の町へ、おりて行った。
「大田垣は、去年十月に、彼女に、会っていたんですね」
と、亀井は、溜息《ためいき》をついた。
「それも、大田垣は、彼女の親戚《しんせき》などから、自殺したと、聞いていたんだと思うね。そう思い込んでいたところへ、突然、出会ったんだ」
「びっくりしたでしょうね」
「ひと目で、異常だと、わかったと思うよ。話しかけても、まともな答は返ってこない。そんな風にしたのは、自分だという自責の念にかられたとしても、おかしくはない」
と、十津川は、いった。
「九州から帰って、描いた絵に、異様な表情の生方あけみがあったのは、そのためでしょうね。和服を着て、花瓶に、扇子が入っていた理由も、わかって来ました。正直にいって、花瓶の意味だけは、わかりませんが」
亀井は、ちょっと、頭をかいた。
「大田垣は、もう一度、九州へ出かけた。もう一度、生方あけみに、会いに行こうとしたのかも知れない」
「しかし、実際には、あの療養所には、行かなかったわけですね。有明違いで、大田垣が、特急『有明』に乗ったとすると、あの療養所には、行かなかったことになります」
と、亀井が、いった。
「そうなるんだねえ」
と、十津川は、難しい顔で、呟《つぶや》いてから、急に、
「もう一度、磯崎医師に、会って来よう」
と、いい、療養所に向って、引き返し始めた。
亀井は、あわてて、その後に続いた。
磯崎は、引き返して来た十津川を、当惑した顔で、迎えて、
「まだ、何かあるんですか?」
と、きいた。
「一つ、聞き忘れたことがありましてね。生方あけみさんは、今、この療養所に、いるんですか?」
「ええ。おりますよ」
「一度も、他に、移ったことは、ありませんか? 特に、三月二十三日から二十五日までの間ですが」
と、十津川は、いった。
磯崎は、「ああ」と、肯いて、
「一週間だけ、八代《やつしろ》へ行ったことがありましたね。八代の病院で、同じような症状の患者が、回復したという話を聞きましてね。その病院の村松《むらまつ》という方に、彼女を診て貰いたくて、一週間、入院させたことがありました。あれが、確か三月二十日から二十七日までの一週間だった筈です」
と、いった。
「そのことを、誰かに知らせましたか?」
「東京の崎田さんには、心配するといけないので、電話しておきましたが」
「外から、電話して来たのに対して、教えたことは?」
「それは、なかったと思いますが――」
と、磯崎は、いったが、
「私が、いない時に、事務局の人間が、教えたということは、あるかも知れません。彼女のことは、内緒にしてくれるように、事務局には、いってあるんですが、親戚のもので、ここにいることは知っていると、いわれると、話してしまったかも知れません」
「それを、確かめたいんですが」
と、十津川は、いった。
「いいですよ。聞いて来ましょう」
と、磯崎は、いい、事務局へ聞きに行ってくれた。
すぐ、戻ってくると、十津川に向って、
「やはり、おっしゃる通りでした。三月十日|頃《ごろ》、彼女の叔父《おじ》だといって、電話をかけて来た人がいたので、二十日から一週間、八代の病院へ行くことを、教えたそうです」
と、いった。
6
「叔父といったのは、大田垣ですかね?」
亀井は、鹿島の町に向って歩きながら、十津川に、話しかけた。
「多分、そうだろうね」
「そして、三月二十三日に、パリにいる娘さんに、電話しておいて、八代に行くことにしたわけですね」
「博多から、特急『有明』に乗ってね」
「それを、犯人は、途中でおろし、三角《みすみ》まで連れて行って、殺し、海に投げ込んだわけですか?」
「そうだな」
「犯人は、大田垣が、この日、博多から、特急『有明』に乗ることを、知っていたことになりますね」
「ああ。大田垣が、八代に行くことを、知っていたんだ」
「すると、犯人は、大田垣と親しかった人間ということになります。限定できますよ」
と、亀井は、いった。
「他にも、限定できることがあるさ」
と、十津川は、いった。
「何ですか?」
「祐徳稲荷のお守りだよ」
「縁結びのお守りですね」
「犯人は、大田垣が、去年の十月と同じように、有明海沿いをスケッチ旅行し、もう一度、祐徳稲荷に寄ったように、見せかけるために、お守りを、大田垣のポケットに入れておいた。去年の十月、大田垣は、仲間の画家たちに、同じお守りを買って帰って、配っている。犯人は、それを知っている人間なんだ」
「すると、画家仲間ということになりますか?」
と、亀井が、きく。
「その可能性が、強いと、思うね」
と、十津川は、いった。
「しかし、警部」
と、亀井は、立ち止って、十津川を見た。
「何だい?」
「わざわざ、大田垣が、祐徳稲荷のお守りを買って帰ったほど、仲がいい画家仲間でしょう? 丁度、年頃の娘さんがいるというので、縁結びのお守りを買った。そんな仲のいい画家仲間が、果して、大田垣を殺すでしょうか?」
「親しかったからこそ、他人にはわからない殺意があったということも、考えられる」
と、十津川は、いった。
「もう一つ、わからないことが、ありますが」
と、亀井が、いう。
「どんなことだね?」
「大田垣が、特急『有明』に、乗って、八代に、行こうとしていたことは、はっきりしていると、思うのです。恐らく、もう一度、生方あけみに会うためでしょう。犯人は、途中で、彼を下ろし、三角で、殺しました。わざわざ、ポケットに、お守りを入れてです。犯人は、なぜ、そんなことをしたんでしょうか? なぜ、『有明』の車内で、殺さなかったんでしょうか?」
と、亀井が、きいた。
「理由は、いくつか考えられるね」
と、十津川は、いった。
「どんな理由ですか?」
「一つは、犯人も、同じ『有明』に、乗っていたので、それを知られたくなかった。だから、犯人は、三角の海で殺し、あたかも、大田垣が、祐徳稲荷に寄り、島原《しまばら》からの連絡船で、三角に来たように、見せかけたということだね」
「他のは、どういう理由ですか?」
「大田垣が、八代の病院へ行き、生方あけみに会うことにしていたことを、犯人は、知られたくなかったということだ」
「どうも、第二の理由は、考えにくいですね」
と、亀井は、いった。
「なぜだい?」
「生方治郎をはねて殺し、それが原因で、妻のあけみが、自殺未遂を起こした。こんなことになったのは、全て、大田垣の個人的な問題でしょう。だから、大田垣が、八代の病院へ行くことになっていたことが、わかっても、犯人は、別に、困らないんじゃありませんか。ですから、犯人も、『有明』に乗っていて、それを知られるのがまずかったからの方が、当っていると、思いますね」
と、亀井は、いった。
「カメさんは、そう思うか?」
「ええ。思います」
と、亀井は、きっぱりと、いった。
「では、東京に戻って、大田垣の画家仲間に、会ってみよう」
と、十津川は、いった。
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第四章 容疑者たち
1
二人は、福岡空港から、最終の便に乗った。
飛行機の中でも、十津川と、亀井は、今度の事件について、話し合った。
もし、大田垣の死が、自殺なら、非常に簡単な事件である。
三年前に、大田垣が、車ではねて、一人の男を死なせた。その妻は、夫の死を悲しみ、自殺を図り、植物人間のようになってしまった。その姿を見た大田垣は、自責の念から、自ら命を絶った。
悲しいストーリイだが、簡単で、はっきりしているストーリイでもある。
だが、大田垣の死は、自殺ではなく、他殺だった。
「どうもわからないのは、犯人の心理ですよ」
と、亀井は、十津川に、いった。
「どんな風に、わからないのかね?」
「大田垣は、自責の念にかられて、再度、九州を訪ねたわけでしょう。特急『有明』に乗って、八代《やつしろ》の病院に、生方あけみを訪ねて行くところだった。大田垣の自責の念は、更に強くなり、自殺するかも知れない。前に、自殺未遂を、やっていますからね。犯人は、それをゆっくり待っていればよかったと思うんです。もし、大田垣が、自殺しなかったら、その時に、初めて、殺せば、いいわけですから」
「カメさんのいう通りだよ」
「しかし、犯人は、わざわざ、大田垣を、九州まで、いや、特急『有明』まで、追いかけて行って、殺しています」
「その理由がわかれば、今度の事件は解決するんじゃないかな」
と、十津川は、いった。
「犯人は、ひょっとして、大田垣が、三年前に起こした自動車事故のことも、死んだ男の妻のことも、知らなかったんじゃありませんかね?」
「カメさん。そんなことは、思っていないんだろう?」
と、十津川は、笑った。
亀井も、苦笑して、
「その通りです。犯人が、知らなかった筈《はず》はないと、思っていますよ」
と、いった。
羽田に着いたのは、最終の便だったせいで、午後十時を回っていた。
そのまま、家には帰らず、二人は、捜査本部の置かれた国立《くにたち》署へ、向った。
本部長の三上《みかみ》刑事部長は、まだ、残っていた。十津川は、彼に、九州でわかったことを、報告した。
「生方あけみが、間違いなく、この絵のモデルです」
と、十津川は、問題の絵を前に置いて、三上に、いった。
「なるほどね」
「多分、大田垣は、三年前の事故のことを、やっと、忘れかけた時、九州の嬉野《うれしの》温泉でスケッチに出かけて、彼女に、出会ったんでしょう。その時の大田垣の驚愕《きようがく》は、想像できます。自殺したとばかり思っていた女が、生きていた。しかも、記憶を失った人間として、生きていたわけですからね」
と、十津川は、いった。
「東京に戻って来て、この絵を描《か》いた理由は、なんだろう?」
三上が、絵から眼《め》をそらせて、きいた。その絵を、というより、モデルの顔を見ているのが、辛《つら》いという表情だった。
「大田垣は、画家ですから、生方あけみの絵を描くことによって、自分の心と、対決していたんじゃないかと思います。或《ある》いは、自分の気持を、整理しようとしていたのかも知れません」
「気持の整理がついて、再度、九州を訪ねたのかな? それとも、整理がつかぬままに、もう一度、生方あけみに会いに行ったのかな?」
「大田垣が死んでしまった今となっては、わかりませんが、とにかく、生真面目《きまじめ》な男だったということは、わかりますね」
「自分の運命と、向い合った男というわけかね?」
「そうです。彼が殺されたのも、或いは、そのせいだったかも知れません」
「それは、どういう意味かね?」
と、三上が、きいた。
「これは、仮定ですが、今度の事件の発端が、三年前の大田垣の交通事故だったとします。その後、大田垣が、殺されそうになったことは、ありませんでした。また、彼の友人が、狙《ねら》われた形跡もありません」
「後藤という画家のことだね?」
「そうです。大田垣が、自殺を図って、助かりましたが、それ以外に、事件が起きた事実はありません。つまり、今度の犯人は、全く、動かなかったわけです。従って、もし、大田垣が、この絵を描いたり、再度、九州を訪ねようとしなければ、犯人は、彼を殺すことは、しなかったのではないかと、ふと、思ったのです。いい方は、おかしいかも知れませんが、大田垣の生真面目さ、繊細さが、犯人を、動かして、犯行に走らせたような気がして、ならないのです」
と、十津川は、いった。
「それで、犯人は、大田垣の画家仲間ということになるのかね?」
「必ずしも、そうと断定は出来ません。大田垣が、最初に、九州へ出かけたとき、祐徳《ゆうとく》稲荷《いなり》のお守りを買って来て、渡した友人ということになりますが、画家仲間だけに、配ったものかどうかが、問題です、他《ほか》にも、友人、知人は、当然、いるでしょうし、その人たちにも、配ったかも知れません」
「大田垣が、いくつお守りを買ったか、わからないのかね?」
「祐徳稲荷の社務所で、聞いてみたんですがわかりませんでした。お守りを、十、二十と、まとめて買って行く人も、かなりいるということで、大田垣だけを、覚えてはいないということでした」
「すると、簡単には行かないかね?」
「明日から当ってみた具合によると、思います」
と、十津川は、慎重に、いった。
2
翌日から、十津川は、部下の刑事たちを督励して、大田垣の友人、知人に、当ることになった。
十津川と、亀井も、その中の何人かに、会った。
十津川が、知りたかったのは、二つだった。
大田垣が、誰《だれ》に、祐徳稲荷のお守りを渡したかと、なぜ、友人の後藤までが、殺されたかということである。
後藤は、大田垣の友人、それも、親しい友人だった。更に、大田垣が死に、それを、警察が調べ始めた時、殺された。どう考えても、二つの事件には、つながりがある筈なのだ。
大田垣の死について、後藤は、何か知っていたに違いない。自分の手帳に、大田垣が、自殺を図ったことを、記していた男である。
それを、大田垣のためを思って、内緒にしていた。
大田垣が、なぜ、自殺を図ったのか、後藤は、知っていたからこそ、内緒にして、自分の胸だけに、おさめていたに違いない。とすれば、大田垣が、なぜ、殺されたかも知っていたと、十津川は、思うし、だからこそ、後藤も、殺されてしまったのだろう。
犯人は、大田垣を、よく知っている人間というだけでなく、後藤のことも、よく知っているのではないか。
何人かの名前が、黒板に、書き出された。
画家 三人
画商 一人
医者 一人
喫茶店経営者 一人
この六人である。
医者は、大田垣とも、後藤とも親しく、大田垣が、自殺を図ったとき、後藤は、一一九番せず、この医者を呼んでいる。
喫茶店経営者は、美校の同窓で、画家としての自分の才能に見切りをつけ、五年前から、荻窪《おぎくぼ》で、喫茶店を始めた男である。
十津川は、亀井と、その店に、足を運んだ。
店の名前は、「グロリア」で、経営者は、広瀬《ひろせ》とおるだった。
再婚で、若い妻と二人で、駅前の店をやっている。
十津川たちは、午後二時に行ったので、店の中は、がらんとしていた。
土地が高騰していて、客が少なくては、喫茶店の経営も、大変だなと、十津川は、思いながら、カウンター越しに、コーヒーをいれている広瀬に、話しかけた。
「大田垣さんと、後藤さんが、次々に、死んだのは、ショックだったでしょうね? あなたは、あの二人と、親しかったそうだから」
「そりゃあ、ショックでしたよ。僕が、この店を始めてからも、親しくつき合っていましたからね。この絵も、開店祝いに、大田垣が、くれたものなんです」
と、広瀬は、壁に掛っている風景画を、指さした。
「いい絵ですね」
「そうでしょう。大田垣も、後藤も、よく、来てくれていたんですがねえ」
「大田垣さんが、九州へ行ったことは、知っていましたか?」
「去年の九月末に行ったのは、知っていましたよ」
と、広瀬は、いった。
「その時、祐徳稲荷のお守りを貰《もら》いましたか?」
十津川は、九州で買って来たお守りを、広瀬に見せた。
「ああ、これなら、大田垣が、買って来てくれましたよ。もっとも、その時、私は、返しました。彼が、ひどく沈んでいるように見えたし、僕には、娘も、息子《むすこ》もいないから、縁結びのお守りは、必要ないと、いってですよ」
「なぜ、大田垣さんは、あなたに、そのお守りを、買って来たんでしょうか? 娘さんや、息子さんのいないことは、大田垣さんは、ご存じだったんでしょう?」
「僕が、再婚したことを、話さずにいたからだと思いますよ。だから、ヤモメ暮しの僕に、早く、嫁さんが来るようにと思って、あのお守りを買って来てくれたんだという気がしましてね。もう再婚しているんだといったら、大田垣は、がっかりしていましたが」
「そして、お守りを、返したんですね?」
十津川は、大事なことなので、念を押した。
「他に、年頃《としごろ》の娘さんのいる奴《やつ》がいるだろうから、そいつに、やってくれと、いったんです」
「それで、大田垣さんは、受け取ったんですか?」
「ええ。それじゃあ、年頃の娘のいる奴を探して、渡すよと、いっていましたね」
「その時、大田垣さんが、暗い表情をしていたといいましたが、その理由を、聞かれましたか?」
と、亀井が、きいた。
「彼が、悩んでいるとは、知りませんでしたから、どこか、具合が悪いんじゃないかと、きいたんです。大田垣は、酒好きですからね、肝臓でも、悪くしたんじゃないかと、思ったんです。われわれの仲間の何人かが、肝臓をやられていますからね。そうしたら、ちょっと疲れただけだといって、帰って行きましたよ。僕も、てっきり、疲れてるんだなと、信じてしまって――」
と、広瀬は、いった。
「三年前に、大田垣さんが、交通事故を起こして、男の人を、死なせてしまっていたことは、知っていましたか?」
と、十津川は、きいた。
「いや、全く、知りませんでした。友人は、知らない方が、多かったんじゃないかな。知っていれば、自然に、口にのぼりますからね」
と、広瀬は、いう。十津川は、それを、そのまま、鵜呑《うの》みには、しなかった。相手が、嘘《うそ》をついている可能性もあるからだ。
祐徳稲荷のお守りのことも、同じだった。
広瀬は、返したといっているが、それが、本当かどうかも、わからない。
だが、十津川は、信じられないという代りに、容疑者の名前を書いたメモを、広瀬に見せた。
緒方哲二《おがたてつじ》 画家
平松《ひらまつ》 貢《みつぐ》 画家
大西広行《おおにしひろゆき》 画家
黒田信夫《くろだのぶお》 画商
山崎浅治《やまざきせんじ》 医者
もちろん、この他に、もう一人は、今、眼の前にいる広瀬なのだが、それは、おくびにも出さず、
「この人たちを、知っていますか?」
と、十津川は、きいた。
「緒方たちは、美校時代からの仲間ですから、よく知っていますよ。画商の黒田さんは、僕が、まだ、夢中になって、絵を描いていた頃、二、三度会ったと思いますが、最近は、全く、会っていませんね。山崎という医者は、ぜんぜん、知りません」
と、広瀬は、いった。
「画家の三人とは、よく会いますか?」
「そうですねえ。時々、店へ来てくれますよ。僕も、連中の個展なんかがあると、努めて、見に行くようにしています」
「この五人は、大田垣さんと、親しかったと思うんですが、後藤さんとは、どうでしたか?」
と、十津川は、きいた。
「それは、当人たちに、聞いた方がいいと思いますよ。同じ美校卒だし、同じ画家仲間だから、親しかったとは思いますが、個性の強い連中ですからね。親しそうに見えても、意外に、仲が悪かったりすることがありますからね」
「広瀬さんは、どうなんですか?」
と、亀井が、きいた。
「僕が? 何のことですか?」
広瀬は、戸惑いの色を見せて、亀井に、きき返した。
「あなたも、個性の強い人だと思うんですが、この三人と、或《ある》いは、大田垣さんや、後藤さんと、ケンカをしたりしたことが、あったんじゃありませんか?」
「なぜ、そんなことを?」
「いや、男同士というものは、仲が良くても、ケンカするものですからね」
と、亀井がいうと、広瀬は、ほっとした表情になって、
「それなら、よく、ケンカもしましたよ。酔っ払って、殴り合ったこともあります。しかし、だからといって、殺したりは、しませんよ」
「それでは、三月二十四日の午後十時から十二時までの間、どこにいたか、話してくれませんか」
と、十津川は、いった。
「僕のアリバイですか?」
「まあ、そうです」
「二十四日は、店は、休みじゃなかったから、自宅マンションで、テレビを見ていたと思いますよ。この店は、八時に閉めますから」
「奥さんと、一緒ですか?」
「いや、家内は、その頃、実家に帰っていましたから、僕は、一人です」
「奥さんの実家というのは、どこですか?」
「名古屋です」
「何日から、何日までか、わかりませんか?」
と、十津川が、きくと、広瀬は、近くにいた妻のゆう子を、呼んで、
「君が、実家に帰っていたのは、いつだったかな?」
と、きいた。
「三月二十三日から、二十五日までですわ」
という返事が、返ってきた。
「これで、いいですか?」
と、広瀬が、逆に、十津川にきいた。
「二十四日の夜、自宅マンションにいた証明はできますか?」
「無理ですよ。ひとりで、テレビを見ていたんですから」
と、広瀬は、肩をすくめるようにして、いった。
3
十津川たちは、国立に廻《まわ》り、山崎医師を訪ねた。
山崎医院は、一応、外科もある総合病院だが、それほど、大きくはない。入院設備があるといっても、ベッドは、せいぜい、二十床ぐらいのものだろう。
だが、それだけに、総合病院の持つ冷たさはなかった。
十津川たちは、院長の山崎に会った。
院長室の壁にも、大田垣の描いた風景画が、かかっていた。
山崎の年齢は、五十九歳。自信に満ちた顔をしている。
「大田垣さんにも、後藤さんにも、昔から、親しくして頂いていたのに、こんなことになって、非常に残念です」
と、山崎は、十津川に、いった。
「去年の十月に、大田垣さんが、自殺未遂を起こしたことは、ご存じですね?」
と、十津川は、きいた。
「ええ、夜中に、後藤さんが、車を飛ばして、大田垣さんを、運んで来たんですよ。もう、大田垣さんは、ぐったりしていましたね」
「大田垣さんが、自殺を図ったんだとわかりましたか?」
「そりゃ、後藤さんの様子や、大田垣さんの症状をみれば、想像はつきましたよ」
「どんな症状だったんですか?」
「睡眠薬で自殺を図ったんです。あとでわかったんですが、九州のスケッチ旅行から帰ったあと、不眠が続き、近くの病院で、睡眠薬を貰《もら》っていた。それをためておいて、自殺を図ったんです」
「なぜ、自殺を図ったのか、先生は、その理由を、聞かれましたか?」
「いや、聞いていません。私は、精神科の医者じゃないし、後藤さんが、何もかも知っているようでしたからね」
と、山崎は、いった。
「後藤さんから、話は聞いたんですか?」
「いや、彼からも、聞いていません。今となると、聞いておけばよかったと思いますがね」
「後藤さんは、なぜ、何もかも、知っていたんでしょうか?」
と、亀井が、きいた。
「それは、多分、大田垣さんの遺書を見たからじゃないかと思いますね」
「なぜ、そう思うんですか?」
「大田垣さんは、一週間、ここに入院していましてね。後藤さんも、その間、ずっと、付き添っておられましたが、時々、枕元《まくらもと》で、手紙を読んでいらっしゃったんですよ。それが、どうも、大田垣さんが、死ぬ気で書いた遺書だったのではないかと、思ったんです」
「自殺を図った理由については、大田垣さんも、後藤さんも、全く、先生に、話さなかったんですか?」
と、十津川は、改めて、きいた。
「そうなんですよ、向うも、話したがらなかったし、私も、聞くのが、はばかられましたからね」
「先生は、祐徳稲荷のお守りを、大田垣さんから、貰いましたか?」
と、十津川が、きくと、山崎は、「ああ」と、ニッコリして、
「頂きましたよ。退院されてから、しばらくして、郵送されて来たんです。お見せしましょう」
と、いい、机の引出しから、お守りと、それに添えてあった手紙を、見せてくれた。手紙の文面は、簡単だった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈先日は、大変にお世話をおかけし、申しわけなく思っております。実は、九州旅行の際、祐徳稲荷のお守りを買って来たのを、失念しておりました。おそくなりましたが、お送り致します。縁起のよいものということですので、お受け取り下さい。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]大田垣〉
「その後、今日まで、大田垣さんや、後藤さんに、お会いになったことはありましたか?」
「何回か、お会いしましたよ。でも、自殺未遂の話は、両方で避けていましたから――」
と、山崎は、いった。
「三月二十四日の夜、先生は、何処《どこ》におられましたか?」
亀井が、いくらか、切口上で、きいた。
山崎は、びっくりした顔で、
「私も、疑われているんですか?」
「大田垣さんと、後藤さんの周辺にいた人たちには、全員に、聞いているんです」
と、十津川は、いった。
「そうですか。ウィークデイだから、病院は休みじゃありませんでしたからね。ただ当直をしていたか、自宅にいたか。ちょっと、待って下さい」
と、山崎は、いい、壁にかかっている勤務表に眼をやった。
「当直じゃありませんね。自宅にいましたよ。テレビを見て、いつもの通り、午前一時頃に寝た筈です」
「ご自宅には、先生の他に、どなたか、いらっしゃるんですか?」
「息子《むすこ》夫婦と、私と、お手伝いです。息子夫婦とは、別棟となっていますから、証人になってくれそうもありませんね」
「お手伝いは、どうですか?」
「彼女も通いですから、夕方には、帰ってしまいます」
「つまり、夜は、先生おひとりでいるわけですか?」
「ひとり暮しもいいもんですよ」
と、山崎は、微笑した。
4
十津川と、亀井は、最後に、画商の黒田に会いに、行った。
新宿駅東口にある小さなビルの中が、黒田の事務所だった。
黒田は、大きな男である。
そこには、大田垣たちの絵も、何枚か、置いてあった。
「惜しいですよ。大田垣君も、後藤君もね。こんなことで、二つの才能が消えてしまうなんてね」
と、黒田は、口惜《くや》しそうに、いった。
黒田は、六十二、三歳だろう。頑健な身体《からだ》つきをしている。
「二人とは、いつからのお知り合いですか?」
と、十津川は、きいた。
「そうですねえ、二人が、まだ、無名の頃からですから、十五、六年にはなるんじゃありませんか。いい絵を、扱わせて頂いたと思って、二人には、感謝していますよ」
「去年の十月に、大田垣さんが、九州に、スケッチ旅行に行ったことは、ご存じでしたか?」
と、亀井が、きいた。
「もちろん、知っていましたよ。行く前に、会って、話を聞きましたから」
「帰って来たあとは?」
「お稲荷さんのお守りを貰《もら》いましたよ。私の娘がまだ、独身なので、それを心配してくれたんだと思いますよ。娘ですか? 今、私の秘書をやって貰っています。海外へ行く時なんかは、通訳なんかもやって貰って、便利にしているんで、自然に、縁遠くなってしまっているんだと思いますよ」
と、黒田は、いった。
「そのあと、大田垣さんが、自殺を図ったのを、知っていますか?」
十津川が、きくと、黒田は、びっくりした顔で、
「本当ですか? 後藤さんも、他の連中も、何も教えてくれませんでしたから、全く、知りませんでした」
「三年前に大田垣さんが、交通事故を起こしたことは、知っていましたか?」
「それは、新聞にも出たので、知っていましたよ。しかし、その事故は、はねられた方が、いきなり飛び出して来たので、大田垣さんは、罪にならなかったんじゃなかったかな? 違いますか?」
「その通りです。しかし、今度、大田垣さんと、後藤さんが、続けて殺されたのは、三年前のこの事故が原因と、考えられているんです」
と、十津川がいうと、黒田は、顔をしかめて、
「信じられませんね。三年前の交通事故ですよ。それに、罪に問われてもいないのに、それがなぜ、三年もたって、殺人に、発展してしまうんですか?」
「それは、われわれも、知りたいんです」
と、十津川は、いってから、
「三月二十四日の夜、午後十時から十二時ですが、どこにおられたか、覚えていますか?」
と、きいた。
「おい。みどり!」
と、黒田は、大声で、秘書をしている娘を、呼んだ。
父親に似て、大柄な二十七、八歳の娘が、顔を出した。
「三月二十四日の私の行動がわかるか? 二十四日だ」
と、黒田が、いうと、娘のみどりは、手帳を、開いて、
「三月二十四日は、香港《ホンコン》にいましたわ」
「香港に。ああ、忘れていた。二十一日から、五日間、香港に、行っていたんです」
「香港には、仕事ですか? それとも、バカンスで?」
「もちろん、仕事です。これを見て下さい」
と、黒田は、額に入った風景画を、二枚、三枚、奥から、運んで来て、十津川と、亀井の前に並べた。
素直な感じの絵である。素朴といってもいい。
「現代中国の油絵ですよ。いいでしょう? 奇をてらったところがなくて、見ていて、楽しいんです。それに、安い。前から、眼をつけていて、香港の画商に、頼んでおいたんですよ。アメリカの画商は、もう、ちゃんと、眼をつけています。日本人も、有名で、バカ高い絵ばかり追いかけないで、こういう絵に、眼をつけた方がいいと、思いますがね」
と、いった。
確かに、いい絵だと、十津川は、思ったが、
「その五日間、失礼ですが、日本に、戻っていたということは、ありませんか?」
と、きいた。
黒田は笑って、
「そんな無駄なことは、しませんよ。五日間ずっと、香港で、走り廻《まわ》っていました」
と、いい、パスポートを見せてくれた。
なるほど、三月二十一日と、二十五日だけに、出入国のスタンプがあった。
「わかりました」
と、十津川は、いって、パスポートを、黒田に返した。
捜査本部に帰ると、西本刑事たちが、三人の画家のところから、戻っていた。
「結果を、聞かせてくれ」
と、十津川は、西本たちに、いった。
「緒方と、平松の二人は、シロですね」
「なぜだ? アリバイが、あったのかね?」
「そうです。この二人は、三月二十四日には韓国《かんこく》にいたことが、確認されました」
「韓国?」
「そうです。前々から、二人は、韓国へ行きたいと思っていたとかで、二十二日から一週間、韓国を、スケッチ旅行して来たということです。そのスケッチも、見せて貰《もら》いましたし、パスポートも、見せて貰いました。間違いなく、二人は、一週間、韓国にいました」
「もう一人の大西は?」
「三月二十四日は、尾道《おのみち》で、絵を描いていたそうです」
「尾道? 九州に近いね」
「そうです。尾道の旅館に泊って、絵を描いていたというので、今、向うの警察で、その旅館を、調べて貰っています」
と、西本は、いった。
「祐徳稲荷のお守りは、どうだった?」
と、亀井がきいた。
「尾道へ行っていた大西は、年頃の娘さんがいるので、貰ったといっていましたが、韓国旅行の二人は、貰っていないということでした。緒方は、男の子一人ですが、今、アメリカにいますし、平松は、娘二人とも、すでに結婚しているそうです」
と、西本刑事がいった。
「二人は、アリバイがあって、一人は、尾道か」
と、亀井が、呟《つぶや》いた。
「少し気になるね。三人も、海外だというのは」
と、十津川が、いった。
「偶然でしょう」
と、亀井が、いった。
「かも知れないが――」
「連中は、画家とか、画商です。それに、二人の画家は、風景画が得意ですから、外国の景色を描きたくなったとしても、不思議は、ありません。二人の絵を、いくつか見ましたが、中国や、アメリカの風景を、描いたものが、沢山ありました」
と、西本がいった。
それに、付け加えるように、日下《くさか》が、
「今、中国の油絵は、本当に、注目されているそうです」
「しかしねえ」
と、十津川は、首をかしげた。
今は、高校生でも、修学旅行に、海外へ行く時代である。画家や、画商が、海外へ行くのも、別に、どうこういうことではあるまい。
実際にも、二人の画家は、韓国の景色を、スケッチしているし、画商は、商売をしている。
だが、三月二十四日という時点で、考えてみた場合は、どうしても、引っかかってしまうのだ。
容疑者が、六人。その中の半分の三人が、問題の日に、日本にいなかったというのは、ただの偶然なのだろうか?
「福岡空港は、国際線も、発着しているだろう」
と、十津川は、いった。
「そうです。福岡空港から、国外のいろいろなところへ、国際便が出ています。バンコク、北京《ペキン》、グアム、香港、釜山《プサン》、ソウル、他にもありますね、アジアが多いですが」
と、亀井が、時刻表を見ながら、いった。
「三人が出かけていたソウルや、香港には、便があったわけだな」
「そうです」
「それに、香港―福岡は、三、四時間だろう?」
「直航便は、三時間、タイペイなどに寄ると四時間ですね」
「ソウル―福岡なら、一時間ちょっとだろう?」
「ええ。そうです」
「福岡空港で降りて、博多から、特急『有明』に乗るのは、簡単だよ。そして、翌日、また、飛行機で、香港なり、ソウルに戻ることは、可能なわけだよ」
と、十津川は、いった。
「三人の中の一人が、それをやったんじゃないかと、いわれるんですか?」
「一人、或《ある》いは、二人でだよ。韓国へ行っていたのは、緒方と、平松の二人だったから、しめし合わせて、口裏を合わせることも、可能だったんじゃないか。一人が、殺人を実行し、もう一人が、アリバイ作りをやると、いったこともね」
「しかし、警部。パスポートを見ると、二十四日に、帰国した形跡はないんですが」
と、西本が、いった。
「黒田についても、パスポートには、三月二十四日の日本帰国は、なかったよ。ただ、福岡空港に、便があって『有明』には、すぐ、乗れることが、気になるんだ」
「偽造パスポートを作って、入国したんでしょうか?」
日下が、きいた。
「その可能性も、否定できないということだよ。偽造パスポートか、或いは、他人のパスポートを使ってということなんだが」
と、十津川は、いった。
「三月二十四日の便を調べてみますか? 香港―福岡、ソウル―福岡です」
「私は、一応、調べておいた方がいいと、思っているよ」
と、十津川は、いった。
十津川は、福岡県警と、協力して、それぞれの便の乗客名簿を、調べることにした。
三月二十四日と、その前後の名簿である。
国際便だから、偽名は、使えない。とすれば、偽造パスポートか、他人のパスポートを使う以外には、ない筈だった。
福岡県警が、乗客名簿のコピーを、送ってくれた。男の乗客分だけである。
その中《うち》、東京の住所のものについて、十津川は調べ、他の府県のものは、それぞれの府警や県警に、頼んだ。
助かったのは、福岡空港を利用する国際便の便数が、少ないことだった。
香港―福岡は、片道六便、往復で十二便だけだし、ソウル―福岡は、片道四便、往復八便だけである。
刑事たちは、一人ずつ、乗客に当っていった。
しかし、結果は、事件の解決に役立つものではなかった。
もちろん、乗客名簿の中に、問題の二人の画家の名前も、画商の名前もなかったし、偽造のパスポートが使われた形跡も、見つからなかったからである。
また、三人の友人、知人が、三月二十四日、及び、その前後に、香港と、ソウルから、帰国した形跡もなかった。
他府県の警察に、捜査を頼んだ分も、同じだった。
三人は、三月二十四日には、香港、韓国に、いたと、結論せざるを得ないのである。
「犯人は、残りの三人の中か」
と、十津川は、黒板に書かれた三人の名前に、眼をやった。
5
画家の大西広行は、三月二十四日には、尾道へ、絵を描きに行っていたといっている。この件について、捜査協力を要請した広島県警からの回答が、ファックスで、送られてきた。
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〈ご照会の件につき、次の通り報告します。
大西広行は、三月二十日より三月三十日まで、尾道市内の旅館「眺海荘」に、滞在していたことが、確認されました。
この旅館は、坂の上にあり、大西は、毎日、近くで、尾道の町と、海の風景を描いてたそうです。三月二十四日も、午前七時に、朝食をすませたあと、旅館の作った弁当を持ち、カンバスなどを持って、外出、午後五時頃、旅館に帰ったそうです。夕食は、六時にとり、そのあとは、不明です。
二十五日に、大西の娘が、遊びに来て、一日泊っていますが、この他に、大西を訪れて来た者はいません。電話は、時々、かけていたようですが、全《すべ》て、東京だったと、旅館では、証言しています。
従業員の話では、大西の様子には、別に、変ったところはなく、絵が上手《うま》く描けたと、礼をいって、三十日の午後、帰ったそうです。
支払いは、現金で行われ、その後、大西から、礼状が届いたといって、それを見せてくれました。そのハガキのコピーを、お送りします。
過日は、十日間もお世話になり、ありがとうございました。おかげさまで、楽しく、仕事が出来ました。絵の仕上げの際に、もう一度、お邪魔するかも知れません。その時には、よろしく。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]大西広行〉
この回答で、大事なのは、三月二十四日のところである。
この日、大西は、尾道市内の旅館で、午後六時に、夕食をとっている。
一方、犯人と、大田垣が、乗ったと思われる列車は、次の三本の中のどれかだと、考えられていた。
有明53号 博多 一九時五〇分発
有明55号 博多 二〇時一七分発
ハイパー有明57号 博多 二一時〇九分発
尾道で、午後六時に夕食をとった大西広行が、果して、この三本のどれかに、乗れるかということなのだ。
尾道―博多間には、山陽本線が走っているが、犯人が大西としても、時間が、かかり過ぎるので、新尾道駅から、新幹線を、利用しただろう。
新尾道一九時〇三分発「ひかり87号」がある。何とか、これには、乗れるのではないか。
しかし、この「ひかり87号」は、広島止まりで、一九時三九分に広島に着く。
この先が、なかなか、列車がない。一九時四四分発博多行の「こだま549号」が、一番早く、広島を出発するが、この列車が、博多に着くのは、二一時二三分である。
「間に合わないな」
と、十津川は、いった。三本の「有明」の中、一番おそい「ハイパー有明57号」にも、乗れないのである。
「大西は、シロですね」
と、亀井も、いった。
残るのは、二人だけになった。医者の山崎と、喫茶店主の広瀬である。
山崎は、三月二十四日は、昼間は、病院に勤め、夜は、自宅に帰り、午前一時頃に、寝たと、証言している。
広瀬は、午後八時に、店を閉め、そのあと、自宅マンションで、テレビを、見ていたという。
しかし、それが、事実かどうかは、まだ、わかっていない。
山崎は、妻は亡くなっていて、息子夫婦とは、別棟に、住んでいるし、広瀬は、妻が、そのとき、実家に、帰っているからである。
十津川は、二人の在宅を、徹底的に、調べてみた。
山崎医院では、小さいが、院長室がある。他の医者や、看護婦は、めったに、院長室には入らないと、聞かされた。
外来患者の診察時間は、午前十時から、午後三時である。そのあと、院長の山崎が、姿を消しても、よほどの緊急事がなければ、誰も、気付かないのではないか。
十津川は、三月二十四日の病院の様子を、調べさせた。
特に、午後三時以後に、急患がなかったか、山崎が、自ら、診察したことがあったかどうかといったことである。
その結果、次のことが、わかった。
二十四日に、山崎医院に、急患は、運ばれて来なかった。
午後三時で、外来の診察が終ってからは、
「静かな一日でしたわ」
と、婦長が、十津川に、いった。
彼女も、他の医者も、院長室には、入らなかった。だから、院長は、いつもの通り、院長室にいると思っていたと証言したが、それは、確認されていないのである。
午後三時に、医院が閉まったあと、山崎が、国立の医院を出たとする。
果して、博多発の三本の「有明」のどれかに乗れたかどうかである。
国立から東京駅まで、中央線で、五十分かかる。待つ時間や、駅までの時間などを加えると、一時間三十分は、必要だろう。
従って、山崎が、東京駅に着けるのは、午後四時三十分(一六時三〇分)である。
それから、新幹線に乗ると、博多に着くのは、午後十時を過ぎてしまうから、間に合わない。
山崎が犯人なら、飛行機を利用したとしか考えられない。
東京―福岡間には、ひんぱんに、飛行便がある。
一六時三〇分→一八時〇〇分
一六時三五分→一八時〇五分
一七時四〇分→一九時一〇分
一八時四〇分→二〇時一〇分
一九時一五分→二〇時四五分
福岡空港から、博多駅まで、バスで、十三分しか、かからない。
数字的には、二〇時四五分に着いても、博多発二一時〇九分のハイパー有明57号に間に合うが、余裕を見て、二〇時一〇分着にしてみよう。
羽田発は、一八時四〇分だから、一八時に着けばいい。午後六時である。
午後三時に、国立を出られるのだから、ゆっくりと、間に合う筈である。
山崎には、アリバイがないのだ。
喫茶店主の広瀬は、どうだろう。
彼は、三月二十四日は、いつもの通り、午後八時まで、店をやっていたと、証言している。
もし、それが事実なら、絶対に、大田垣は殺せないことになる。
荻窪の店を、午後八時(二〇時)に出たのでは、羽田には、いくら車を飛ばしても、二一時以前には、着けないだろう。最終の福岡行の飛行機にも、乗れないのである。
問題は、果して、三月二十四日に、午後八時まで、店を開けていたかどうかだった。
確かに、広瀬の店へ行ったとき、表に、「AM10時―PM8時」と、書いてあった。しかし、二十四日も、そうだったのか?
この喫茶店の右隣りは、果実店だが、経営が、思わしくなくて、二月初めから、店を閉めている。
左隣りは、個人の印刷屋で、年賀状や、名刺の印刷をしていた。
七十歳の老人が、ひとりで、やっている店である。午後九時までやっているが、最近は、ほとんど仕事がなく、たいてい、カーテンを閉めてしまっていた。
つまり、右隣りは、無人で、左隣りは、カーテンが閉まり、老人が、奥で、テレビを見ていたのである。
広瀬が、午後五時或いは、もっと早く、店を閉めてしまっていても、気がつかなかったろう。
山崎医師の場合と同じで、羽田に、午後六時(一八時)に着ければ、彼は、大田垣を殺すことが可能である。
荻窪は、国立より、羽田に近いとみていい。とすれば、一時間で、羽田まで行けるだろう。
従って、午後五時に、店を出ていれば、広瀬は、大田垣を、殺せるのだ。
6
果して、広瀬の店が、彼のいう通り、午後八時まで、やっていたのか。それとも、午後五時までだったのか。それを、証明するのは、意外に、難しかった。
常連が、沢山いて、いつも、午後八時頃まで、いるというのなら、証明は、簡単なのだ。
だが、常連は、大田垣たち、昔の美校の仲間である。
その中、大田垣と、後藤は、死んでしまっているし、緒方と平松は、三月二十四日は、韓国にいたし、大西は、尾道である。つまり、常連は、東京に、いなかったのだ。
他の客は、時たま、コーヒーを飲みに来るだけだし、それも、午後二、三時頃か、或いは、午前中のサービスタイムに来るわけだから、店が、午後五時以降まで、開いていたかどうかは、知らなかった。
「夕食のあとで、あの店の前を通ったら、明りがついていたし、音楽が聞こえていましたよ。時間は、午後七時頃です」
と、証言した男もいた。
しかし、彼は、その時、店に入ったわけではなかった。
広瀬が、店の明りをつけ、音楽を流しておいて、午後五時に、店を出て、羽田に向ったかも知れないのである。
午後五時以降に、店に行ったが、閉っていたという証言が、欲しかった。
「しかし、警部。午後七時に、少なくとも、店に明りがついていて、音楽が聞こえたことだけは、わかったんじゃありませんか?」
と、亀井が、いった。
「その通りだが、私にいわせれば、余計に、偽装工作めいて、見えるんだよ」
と、十津川が、難しい顔で、いった。
聞き込みが、引き続いて、行われた。
しかし、閉店した時間を限定できる証拠は、なかなか、見つからなかった。
ドアは、ガラス扉ではなく、木の一枚ドアだから、店の中は、見えない。
窓には、カーテンが、かかっているから、明りがついていても、中に、客や、オーナーの広瀬が、いたかどうかは、外からでは、わからないのである。
聞き込みは、午後五時以降に、店に入った客がいたかどうかに、しぼられた。
これが、難しかった。どこに行けば、その客に会えるのか、わからなかったからである。
午後五時以降に、明りがつき、音楽が聞こえたと証言する人間が、もう一人、見つかった。
近くのマンションに住む独身のサラリーマンで、二十四時間営業のコンビニエンスストアに行ったが、その途中で、広瀬の店の前を、通ったというのである。
「窓に明りがついていたし、音楽が聞こえましたよ。あれは、FMラジオですね」
と、若いサラリーマンは、十津川に向って、いった。
「それは、何時頃ですか?」
と、十津川が、きいた。
「午後十時近かったですね。九時半は、過ぎていたのは、確かですよ」
「それ、間違いありませんか?」
十津川が、眼を大きくして、きいた。
「間違いありませんよ。テレビの九時のニュースを見てから、コンビニエンスストアへ行ったんです。だから、少なくとも、九時半は、過ぎていますよ」
と、彼は、いった。
「ありがとう。助かりましたよ」
と、十津川は、ニッコリした。
広瀬は、午後八時に、店を閉めたと、証言していた。
店から歩いて、七、八分のところに、広瀬の住んでいるマンションがある。
もし、広瀬の証言が事実なら、彼は午後八時に店を閉め、自宅マンションに、帰った筈である。
店の明りは、消していくだろうし、ラジオのスイッチも、切るのではないか。
「その通りです。警部。明りと、FMラジオがついていたのは、午後八時前に、店を閉めたのを、知られないためでしょう。だが、そのために午後八時以降も、明りがつき、音楽が鳴っていたんです」
と、亀井が、いった。
「つまり、広瀬は、嘘《うそ》をついたということになってくるんだ。午後八時前に、店を閉めた可能性が、強いんだよ」
と、十津川は、いった。
すぐ、広瀬を、呼びつけて、この点を、問いただした。
一瞬、広瀬は、狼狽《ろうばい》の色を見せた。が、すぐ平静さを取り戻して、
「最近は、忘れっぽくなりましてね、三月二十四日も、午後八時に、店を閉めたんですが、店の明りと、ラジオは、消すのを忘れて、自宅に帰ってしまいました。本当ですよ」
と、いった。
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第五章 過去への旅
1
「今のところ、広瀬が、一番、怪しいですね」
亀井は、黒板に書かれた容疑者たちの名前を見ながら、十津川に、いった。
「動機は、嫉妬《しつと》か?」
「そうです。大田垣と、後藤は、広瀬と同じ美大を出て、画家として、成功している。そのことは、絶えず、広瀬の心に、敗北意識として、残っていたんじゃないかと思います。大田垣たちの方は、それに、無頓着《むとんじやく》に、広瀬の店へ行って、賑《にぎ》やかに、喋《しやべ》っていたんじゃないでしょうか。だいたい、成功した人間というのは、敗者の気持が、わからないものです」
と、亀井は、いった。
「それで、広瀬の胸に、鬱屈《うつくつ》したものが、どんどん大きくなっていって、遂に、それが、爆発して、大田垣と、後藤を、殺したか?」
「可能性は、あると思いますね」
「と、すると、三年前の事故は、全く関係がないことに、なるのかね?」
十津川は、疑問を、ぶつけた。
「動機としては、関係ありませんが、利用したことは、考えられます」
「利用ね」
「そうです」
「どんな風にだね?」
「大田垣は、九州で、生方《うぶかた》あけみに出会ったことを、内緒にしていましたが、人間ですから、誰《だれ》かに、話したかったと思うのです。ひょっとすると、広瀬の店に来て、広瀬に、話したかもしれません。広瀬は、もう、画家仲間じゃないから、案外、気楽に喋れたんじゃないでしょうか。もし、大田垣が、喋っていて、もう一度、生方あけみに、会いに行く積りだと、広瀬にいっていたとすると、広瀬は、それを利用して、大田垣を殺そうと、考えたとしても、おかしくはないと思います」
と、亀井は、いった。
「利用するというと?」
「動機隠しに、利用したということです。広瀬は、嫉妬から、大田垣を殺そうとした。だが、その動機を知られたくない。そこへ、生方あけみの話を聞いた。大田垣は、もう一度、彼女に、会いに、九州へ行くという。それなら、九州で殺せば、いやでも、三年前の事故のことが、浮び上がって来て、それと関係のない広瀬は、容疑から外れる。動機が消えますからね。それを狙《ねら》って、広瀬は、わざわざ、同じ特急『有明』に乗って、大田垣を尾行し、三角《みすみ》港に誘い出して、殺したんじゃないでしょうか」
「面白《おもしろ》いね」
「違いますか?」
「後藤の方は、どう説明するんだ?」
と、十津川は、きいた。
「それは、簡単です。あくまでも、広瀬が、犯人としてですが、後藤は、大田垣の親友です。大田垣が、三年前の事故が原因で殺されたとすれば、続いて殺された後藤も、それに、関係して、殺されたと思われます。広瀬は、それを狙ったんじゃないかと、考えたんです。今もいいましたように、広瀬は、三年前の事故とも、生方あけみとも、何の関係もありませんから、動機を三年前の事故と、われわれ警察が考えれば、自然に、広瀬は、除外されてしまうわけです」
「なるほどねえ」
「いけませんか?」
「いや、カメさんのいう通りだよ。広瀬が犯人なら、確かに、動機の点で、われわれは、うまく、欺《だま》されかけている。ただ、犯人が、広瀬でないとすると、どうなるのかが、問題だね」
と、十津川は、慎重ないい方をした。
亀井は、しばらく、黙って、考えていたが、
「警部は、今度の事件が、三年前の事故に関係があると、確信されているわけですか?」
と、きいた。
「カメさんも、同意見だと思っていたんだが、違うのかね?」
「最初は、そうでしたが、今、広瀬が犯人だと考えていて、少しばかり、ぐらついてきました」
と、亀井が、いう。
「カメさんにしては、珍しいじゃないか」
「そうなんですが、三年前の交通事故も、九州での生方あけみとの出会いも、大田垣の個人的な出来事だったんじゃないかと、思いまして」
「それで――?」
と、十津川は、先を促した。
「と、すると、容疑者たちは、いずれも、三年前の事故とも、生方あけみとも、関係がないんじゃないか。そう見るようになったんです。動機は、広瀬のように、大田垣と、後藤に対する嫉妬かどうかは、わかりませんが、今、いったように、三年前の事故とは、無関係だと思います」
「大田垣が、九州の三角で殺されたのは、偶然だということになってくるのかね?」
と、十津川は、きいた。彼は、亀井の意見を聞きながら、自分の推理を、再検討していた。
「偶然か、或いは、広瀬のケースと同じく、利用して、動機を隠そうとしたかの、どちらかだと思います」
と、亀井は、いった。
「そうなると、動機も、問題になってくるね」
「と、いいますと?」
「広瀬は、カメさんのいうように、多分、画家として成功した大田垣、後藤に嫉妬したのだろう。しかしねえ、他の画家仲間や、画商は、どうなんだろう? 殺害の動機は、いったい、何だと思うね?」
「今は、わかりません。画家仲間の嫉妬ということもあると思いますし、画商の場合は、絵の意見をめぐってのいざこざということも、考えられます」
と、亀井は、いった。
「それを、徹底的に、調べてみようじゃないか」
と、十津川は、いった。
2
十津川は、改めて、容疑者たちと、大田垣の関係を、調べることにした。
特に、彼が興味を持ったのは、三人の画家である。
十津川には、芸術家の神経というのは、よくわからない。一般的には、世俗的なことには無頓着で、ひたすら、高尚なことに関心を持つ人たちというイメージだが、そんなものではあるまいということだけは、十津川にも、わかるのだ。
十津川の友人にも、画家がいるのだが、彼に聞くと、画壇という場所での権力争いなども大変らしい。
と、すれば、嫉妬心も、一般の人以上に、強烈かも知れないのだ。
緒方哲二《おがたてつじ》、平松貢《ひらまつみつぐ》、大西広行《おおにしひろゆき》、の三人が、果して、大田垣に、嫉妬していただろうか?
大田垣と、後藤にである。
嫉妬する、それも、殺したいほど、嫉妬するには、さまざまな条件が、必要になってくる。
世間的な人気もあるだろう。具体的にいえば、画家の場合、一号いくらということがある。
画壇での評価も考えられる。絵が高く売れなくても、専門家の間で、高く評価されていれば、満足できるからだ。
十津川は、部下の刑事たちに、そうした点を、詳しく、調べさせた。
その結果は、次のようなものだった。
緒方と、大西の二人の画家は、中堅の画家として、活躍している。絵の価格も、大田垣と、ほとんど同じだった。
従って、この二人が、大田垣や、後藤に対して、嫉妬するということは、考えられないというのが、他の画家や、画商、或いは、評論家の意見である。
平松は、なおさら、大田垣に嫉妬する筈《はず》がないという。なぜなら、平松の父親は、平松|巌《いわお》といい、日本画壇の重鎮であり、今でも、大きな影響力を持っているし、平松貢自身も、その画才は、早くから、認められていた。親の七光ではなく、彼の画才は、独自のものであり、三十代の時に、パリ留学中に描いたものは、海外でも、高く評価されている。絵も、当然、大田垣や、後藤より、高価だということだった。
「どうも、この三人が、嫉妬から、大田垣と、後藤を殺したということは、考えられませんね」
と、亀井は、十津川に、いった。
「すると、三人が犯人なら、動機は、別にあるということだね?」
「その通りです」
「あとは、画商の黒田《くろだ》と、医者の山崎《やまざき》の二人だが、この二人が、大田垣と後藤の二人に、嫉妬していたということは、考えられるかね?」
と、十津川が、きくと、亀井は、
「年齢が違いますし、それぞれ、画商、医者として、成功していますから、大田垣や、後藤の画才に嫉妬するということは、全く、考えられません」
「すると、もし、三人が犯人なら、動機は別にあるということになるね?」
「その通りです。画才に対する嫉妬というのは、今のところ、広瀬だけです。もちろん、広瀬自身は、否定するでしょうが」
と、亀井は、いった。
「しかし、六人とも、大田垣から、前に、祐徳《ゆうとく》稲荷《いなり》のお守りを貰《もら》っている可能性はあるわけだ」
「そうです」
「広瀬以外の五人が犯人だとして、動機が何かが、知りたいね。いや、果して、殺すだけの動機があるかどうかを、知りたいね」
と、十津川は、いった。
「それなんですが、いくら調べても、出て来ないのです。画家三人も、一応成功していますし、画商も、医者も、今の社会では、成功者です。そうした地位を危うくしてまで、殺人に走るとは、思えないのです」
「すると、他《ほか》の理由だな。例えば、女性問題だ」
「大田垣との三角関係ですか?」
「そうだ」
「それは、今、西本《にしもと》刑事たちが、調べています」
と、亀井は、いった。
だが、その結果も、香《かんば》しいものではなかった。
報告したのは、西本刑事である。
「画商の黒田ですが、彼には、若い恋人がいます。二十八歳の女性画家です。まあ、画家の卵といった方がいいと思います。しかし、彼女と、大田垣とは、全く、交流がありません」
「医者の山崎は?」
「彼には、特定の女性はいません。その方面には、淡白な男ですから、女のことで、大田垣や、後藤と、確執があったということはないと思います」
「三人の画家は、どうだね?」
「三人の中で、一番女性にもてるのは、やはり、平松貢です。何しろ、別荘も持っていますし、スポーツ・カーを、乗り廻《まわ》していますから。しかし、女のことで、大田垣や、後藤と、おかしくなったという話は、聞けませんでした。緒方と、大西の二人は、普通のサラリーマンと同じ感じです」
「どういうことだね?」
「ちゃんとした家庭がありますし、それでも、美人を見ると、心が動く。しかし、浮気はしないということです。従って、二人の女性をめぐって、大田垣や、後藤を、殺すということは、あり得ません」
と、西本は、いった。
「女性問題で、大田垣と、後藤を殺すことは、あり得ないということか」
十津川は、難しい顔で、いった。
3
「カメさん。やはり、三年前の事故だよ」
と、十津川は、亀井に、いった。
「そうなりますか?」
亀井は、わからないという顔で、十津川を、見た。
「広瀬は別だ。彼が犯人なら、カメさんのいう通り、動機は、嫉妬だと思う。しかし、他の五人は、嫉妬でも、女性問題でもない。大田垣や、後藤を、殺す理由がないわけだろう。と、すれば、やはり、三年前の事故と、どこかで、つながっているんじゃないかと、考えるんだよ」
「しかし、警部。三年前のは、自動車事故です。それに、事故を起こしたのは、大田垣です。それなのに、三年たった今、なぜ、五人の中の一人が、大田垣を、殺すんでしょうか?」
と、亀井が、きいた。当然の疑問だった。
「大田垣自身、三年たって、事故のことは、忘れかけていたと思うね。それが、たまたま、九州へスケッチ旅行に行って、自殺した筈の生方あけみに出会った。それも、精神障害者の彼女に出会って、ショックを受けたわけだよ。五人の中の一人も、同じように、ショックを受けたんじゃないかね」
と、十津川は、いった。
「しかし、警部。大田垣は、生方あけみのことを、親友の後藤には、喋ったかも知れませんが、他の五人に、喋るでしょうか?」
と、亀井が、きく。
「喋るとしたら、医者の山崎かな」
「大田垣が、自殺を図ったとき、手当てをしたからですか?」
「そうだよ」
「すると、山崎医師が、怪しくなって来ますか?」
「医者というのは、相当の秘密を知り得る立場にあることだけは、確かだよ」
と、十津川は、いった。
「しかし、その場合は、山崎自身は、三年前の事故と、関係はなかったことになりませんか? ただ単に、秘密を知ることが出来たろうというだけで」
と、亀井は、いった。
今度は、十津川の方が、難しい顔になってしまった。
「とにかく、三年前の事故を、もう一度、調べ直してみたいね」
と、十津川は、いった。
亀井は、肯《うなず》いた。が、十津川に、向って、
「警部は、ひょっとして、事故の時、車を運転していたのは、大田垣じゃなかったのではないか、そんなことを、考えられているんじゃありませんか?」
と、きいた。
「ああ、カメさんのいう通りだよ。運転していたのは、大田垣だったとしても、車には、他に誰か乗っていたんじゃないかと、考えてみたんだよ」
「その、もう一人が、容疑者の中の一人ではないかということですね?」
「そうだよ」
「それを、調べてみましょう」
と、亀井は、いった。
犯人も、三年前の事故に関係しているとすれば、このケースしか考えられないと、十津川は、思っていた。
亀井たちが、三年前の事故、特に、生方あけみの夫をはねた車に、大田垣の他に、誰か乗っていたのではないかについて、調べている間に、一つの事実が、わかった。
それは、大田垣が殺された時、尾道《おのみち》にいたと証言していた大西のことだった。
広島県警から、電話があって、大西のアリバイが、成立したという連絡だった。
「三月二十四日の午後九時から十二時頃ですが、大西が、旅館を出て、女のところにいたことがわかりました」
と、広島県警の刑事が、いった。
「女のですか?」
「そうです。旅館の近くに、小さなバーがあるんです。三十五歳の木島《きじま》まゆみという女がやっている店です。大西は、二十日に、尾道に来てから、夜、この店に行って、飲んでいたんですが、二十四日は、このママと、意気投合して、彼女は、午後十時に店を閉めて、大西を、自分のマンションに、連れて行っていることがわかりました」
「その木島まゆみという女が、証言しているんですか?」
と、十津川は、きいた。
「そうです」
「すると、彼女ひとりの証言ですね?」
「いや、彼女のマンションの隣室の女も、午後十時十五分|頃《ごろ》、大西を目撃しています。木島まゆみと一緒に、部屋に入るところをです。従って、間違いないと思います」
と、広島県警の刑事は、いった。
大西広行は、これで、シロが、証明されたのである。
亀井たちは、伊豆《いず》へ行き、三年前の事故について、調査して、帰って来た。
その結果も、十津川を、失望させた。
「事故のとき、車に乗っていたのは、大田垣ひとりだったようです」
と、亀井は、やや疲れた顔で、十津川に、報告した。
「それは、間違いないのかね?」
「この事故を扱った、静岡県警交通係の警官や、ニュースにした地元の新聞記者にも会って、話を聞いて来ました。大田垣は、生方をはねるとすぐ、一一九番して、救急車を呼んでいますし、すぐあとに、現場に来た車をとめて、協力してくれるように、頼んでいるんです。そうした人々が、証言しているんですが、車には、大田垣一人しかいなかったそうです」
と、亀井は、いった。
「同乗者は、いなかったのか」
「私も、同乗者がいたに違いないと思って、調べたんですが、どうも、これは、大田垣一人で、車を走らせていたようです」
「参ったね」
と、十津川は、肩をすくめ、亀井に、大西広行の、アリバイが成立したことを、話した。
「すると、画家三人と、画商の黒田のアリバイが、成立したことになります」
亀井が、ぶぜんとした顔で、いった。
「そうなんだよ」
「残るのは、医者の山崎と、喫茶店オーナーの広瀬の二人だけですか」
「この二人が、犯人と思うかね?」
と、十津川が、亀井に、きいた。
「警部は、反対なんですか?」
亀井が、逆に、きく。
「何となく、違うような気がするんだがねえ。考えようによっては、容疑者が、二人に、しぼられて、助かるんだろうがね」
と、十津川は、いった。
容疑者が、六人いた。多すぎる人数である。その中《うち》、四人のアリバイが成立し、二人になったのだから、喜ぶべきことなのだ。残りの二人の中のどちらかが、犯人の筈だからである。
医者と、喫茶店のオーナー。この二人が、残ったことに、十津川は、引っかかるのだ。
殺された大田垣と、後藤は、画家である。当然、画家仲間の中に、犯人がいると、思った。
それに、三年前の事故と、生方あけみの存在がある。
ところが、結局、そのどちらとも関係のない人間が、容疑者として、残ってしまったのだ。
別に、画家でなくてもいい。だが、もう一つの条件には、合致して、欲しかったのだ。
「どうも、気に食わないね」
と、十津川は、口に出して、いった。冷静で、事実だけを尊重する十津川にしては、珍しいいらだちだった。
「山崎と、広瀬は、犯人とは、思えませんか?」
と、亀井が、きいた。
「そういうわけじゃないんだが――」
「山崎医師は、確かに、犯人らしくは見えませんが、広瀬は、犯人だとしても、おかしくはないと思いますね。画家になろうとしたのに、彼は、失敗したんです。いわば、落伍者《らくごしや》です。鬱積《うつせき》したものがあると思いますよ」
と、亀井は、いう。
「その鬱積したものが、爆発して、大田垣を殺し、後藤を殺したか?」
「そうです。人間は、一番親しい人間に、嫉妬するんじゃないでしょうか。しかも、その親しい大田垣と、後藤が、画家として、成功しているわけですから」
「その気持は、わかるんだがねえ」
と、十津川は、いった。
広瀬が、絵に対して、未練があればあるほど、大田垣や、後藤に対する嫉妬は、強くなっていたことは、わかるのだ。
だが、それだけで、人を殺すだろうか?
「とにかく、山崎医師と、広瀬の二人について、徹底的に、調べ直してみましょう。私は、広瀬が、本命と、見ています」
と、亀井は、いった。
「そうだな。やってみよう」
と、十津川も、いった。
今度は、十津川自身が、亀井と、調べることにした。
十津川は、もう一度、二人に会うことから始めた。
まず、広瀬である。十津川と、亀井は、彼の店に、広瀬を訪ねた。
「もう一度、三月二十四日のことを、話して貰いたいんですよ」
と、十津川は、広瀬が、出してくれたコーヒーの代金を払ってから、いった。
「まだ、僕を疑っているんですか?」
と、広瀬は、嫌な顔をした。
「あなたのアリバイが、はっきりしないからですよ。電気や、ラジオをつけたまま、店を閉めて、帰ってしまったというのも、引っかかるんです」
「本当だから、仕方がないでしょう」
「しかし、それじゃあ、通りませんよ。あなたは、容疑者の一人であることを、自覚して貰わないと、困りますね」
亀井が、厳しい調子で、いった。
広瀬は、顔を赤くして、亀井を見、十津川を見た。
「前にもいいましたが、三月二十四日は、家内が、実家に帰っていたので、ひとりで、家にいたんですよ。ひとりで、過ごしたのを、どうやって、証明できるんですか?」
「とすると、アリバイが無いことになってしまいますよ」
と、十津川が、いった。
「それはそうですがね。僕は、大田垣や後藤を、殺す動機を持っていませんよ。殺す理由がないのに、なぜ、殺さなければ、ならないんですか?」
広瀬は、開き直った調子で、十津川に、きいた。
十津川が、答えるより先に、亀井が、
「動機は、嫉妬だよ。君は、画家として失敗した人間だ。この喫茶店だって、うまくいってるようには見えないじゃないか。それに反して、大田垣と後藤は、今、中堅の画家として、活躍している。二人が、遊びに来ると、君は、友人として、対応しているが、彼等を見ている中に、嫉妬にかられたとしても、おかしくはない。それが、いつの間にか、殺意に変ったんだ。違うかね?」
と、わざと、威圧的に、いった。
「大田垣や、後藤に、嫉妬ですか――?」
「その気持が、なかったとは、いわせないぞ」
と、亀井が、いうと、広瀬が、急に、クスクス笑い出した。
亀井は、顔をしかめて、
「何がおかしいんだ?」
「確かに、僕は、画家として、落伍者かも知れません。画家として活躍している二人を見て、口惜《くや》しい思いもありましたよ。二人にだけじゃありません。他の仲間に対しても、同じ感情を持ちましたよ。だから、僕は、口惜しいから、一度やめた、絵の勉強を、もう一度、始めたんです。恥しいから、家内にも、内緒にです」
「それで?」
と、十津川が、先を促した。
広瀬は、ニッコリして、
「これは、まだ、公表されていませんが、やっと、春のN展に、入選したんです。嘘《うそ》だと思ったら、事務局に、問い合わせてみて下さい。僕も、これで、大田垣たちの仲間入りが出来たんです。それなのに、二人を殺す筈がないじゃありませんか」
4
十津川と、亀井は、ショックを受けて、店を出た。
十津川が、すぐ、N展の事務局に、電話をかけて、確認してみた。
「間違いなく、広瀬さんの『春の囁《ささや》き』が入選しています。新聞などへの発表は、三日後になりますが」
と、相手は、いった。
「入選と決ったのは、いつですか?」
「三月二十日です」
「広瀬さんに、その日の中に、知らせたんですか?」
「はい。いい知らせなので、すぐ、その日に、お知らせしました。審査員のお一人が、激賞されました。その方がわざわざ、ご自分で、広瀬さんに、電話されたんです」
「入選というのは、そんなに、大変なんですか?」
「ただの入選ではありませんから。特選なんですよ。ベテランの画家の方を押さえて、新人の絵が、特選です」
と、事務局の職員は、いった。
十津川は、電話を切ると、亀井に向って、首をすくめて見せた。
「広瀬の動機が、消えましたか?」
と、亀井が、いち早く察して、きいた。
「ああ。消えてしまった。少なくとも、嫉妬の線は、消えたよ」
「どうします?」
「とにかく、次の山崎医師に、会いに行こうじゃないか。残ったのは、彼一人だからね」
と、十津川は、いった。
パトカーで、国立《くにたち》の山崎医院に行く途中、十津川の顔色は、冴《さ》えなかった。
残った山崎医師は、もっとも、動機がうすいと、思っていたからである。
山崎は、間もなく、六十歳、還暦である。もちろん、年齢によって、殺人を犯さないとは、断定できないが、山崎の場合は、その年齢と、総合病院の院長という地位がある。それに、大田垣たちの画才に、嫉妬したとも思えない。容疑者の中で、一番、動機が無いと思われるのだ。
山崎は、戸惑いながらも、笑顔を作って、十津川たちを迎えた。
「まだ、私が、疑われているわけですか?」
と、山崎は、皮肉っぽい眼《め》つきで、十津川を見た。
「何といっても、アリバイが、ありませんのでね」
と、十津川は、いった。
山崎は、肯いてから、
「多分、そうだと思いましたよ。それで、三月二十四日の夜のことを、一生懸命に、思い出してみました。何か、アリバイを証明するものがなかったろうかと思いましてね」
と、いった。
「それで、何か思い出されましたか?」
「あの夜、家の前の通りを、暴走族が走り廻っていたので、一一〇番したのを思い出したんです。午前一時頃だったと思いますね。あれが、記録に残っていれば、アリバイになるんじゃありませんか?」
「間違いありませんか?」
「確かに、三月二十四日だったと思いますね」
「なぜ、急に、思い出されたんですか?」
と、十津川は、きいた。
「実は、私は、思い出さなかったんですが、隣りの安田《やすだ》さんが、覚えていてくれたんですよ。それで、思い出しました。あの夜、安田さんが、電話して来て、外が、うるさくて仕様がないというので、私が、一一〇番したんですよ」
「安田さんというのは、どういう人ですか?」
「銀行の監査役で、私の碁敵《ごがたき》です」
と、山崎は、笑った。
十津川が、その安田に会うことにし、亀井は、一一〇番の総合司令室に行って、山崎の言葉を、確認することにした。
安田は、あっさりと、山崎の言葉を、確認した。
「あの夜は、暴走族が、走り廻っていましてね。あんまりうるさいので、隣りの山崎先生に電話して、どうしたものかと、相談したんです。そうしたら、先生が、すぐ、一一〇番してくれました」
と、いった。
「三月二十四日の夜に、間違いありませんか?」
「ええ。間違いありませんよ。正確にいえば、二十五日の午前一時頃ということになりますがね」
と、安田は、微笑した。
「それで、暴走族は、どうなりました?」
「パトカーが、来てくれて、どこかへ、逃げて行きましたよ」
と、安田は、いった。
亀井の方も、山崎の証言を、確認した。
三月二十五日午前一時五分に、山崎が、一一〇番していることが、記録されていた。テープにとられているので、十津川も聞いてみたが、間違いなく、山崎の声であった。
「これで、全部、消えましたね」
と、亀井が、疲れた顔で、いった。
5
十津川は、捜査本部に戻ると、改めて、黒板に書かれた六人の容疑者の名前に、眼をやった。
この六人の中に犯人がいると確信していたのである。だが、その予想が崩れてしまった。
「全部消して、他を当ってみますか?」
と、亀井が、いった。
「いや、そのままにしておいてくれ」
と、十津川は、いった。
「しかし、アリバイ成立と、動機無しの連中ばかりですね」
「その動機だがね」
「ええ」
「やはり、今度の事件の動機は、三年前の事故だよ」
と、十津川は、いった。
「しかし、警部。三年前の伊豆の自動車事故は、大田垣が、単独に起こしたものですよ。この六人の中に、同乗者がいたのなら、それが動機になったということも考えられますが、その線は、ないんですから」
亀井は、眉《まゆ》をひそめていった。十津川が、なぜ、三年前の事故にこだわるのか、わからないという顔をしている。
「わかってるよ。カメさん」
と、十津川は、笑顔で、いった。
「それなら、他の動機を考えないと――」
「それも、わかってるが、もう一度だけ、三年前の事故を、考え直してみたいんだよ」
と、十津川は、いった。
亀井は、仕方がないという顔で、
「それで、どうしますか?」
「明日、伊豆へ行ってみたいんだよ。とめないで欲しいね」
「ご一緒しますよ」
と、亀井は、いった。
翌日、十津川と亀井は、伊豆の松崎《まつざき》に向った。
松崎は、伊豆西海岸にあり、下田《しもだ》にも近く、海水浴場もあって、最近、ホテル、ペンションも増えてきたリゾート地である。
昼過ぎに、松崎に着いた。
すぐ傍《そば》に、堂《どう》ケ島《しま》の洋ランセンターなどがあるので、海岸沿いの道路には、観光バスや、自家用車が、ひっきりなしに、走っていた。
十津川と、亀井は、松崎警察署に、寄った。
問題の事故を扱った本橋《もとはし》という警官は、十津川たちを、緊張した顔で、迎えた。
「もう、全《すべ》て、お話ししたと思いますが」
と、本橋は、いった。
「事故の時、生方|治郎《じろう》をはねた車には、大田垣一人しか乗っていなかったことは、間違いないんだね?」
と、亀井が、きいた。
「この前もいいましたように、間違いありません」
「現場に、連れて行ってくれないかね」
と、十津川が、頼んだ。
松崎署のパトカーで、本橋が、運転して、現場へ、連れて行ってくれた。
周囲は、なだらかな丘陵になっていて、別荘が、点在していた。
「あれが――」
と、本橋は、車をとめて、白い家を、指さした。
「被害者の別荘で、雨の中に、泥酔して、ここへ飛び出して来たわけです」
「なぜ、深夜に、そんなことをしたか、わかったのかね?」
と、十津川は、生方治郎の別荘に眼を向けたまま、きいた。
「あの時、別荘には、奥さんがいまして、彼女の話では、ちょっとした夫婦ゲンカがあって、怒った生方が、別荘を飛び出したということでした」
本橋は、緊張した声で、いった。
「ちょっとした夫婦ゲンカねえ」
「そうです」
「はねられた時の生方治郎の服装は?」
と、十津川は、きいた。
「背広を着ていました。ネクタイもしめて」
「ネクタイもしめていたわけだね?」
「はい」
「足下《あしもと》は?」
「足下といいますと?」
「靴をはいていたのかね?」
「はい。靴をはいていました」
「はねられたのは、深夜だったね?」
「そうです」
「奥さんは、別荘で、ちょっとした夫婦ゲンカをしていて、夫が、酔って、飛び出して行ったといっていたんだね?」
「そうです」
「別荘の中で、生方は、きちんと背広を着て、酒を呑《の》んでいたのかな?」
「そうなります」
「この辺は、別荘が多いんだね?」
と、急に、十津川が、話題を変えた。
「はい。最近、多くなりました」
「やはり、東京の人が、多いかね?」
「はい。その通りです」
「わかった。帰ろうか」
と、十津川は、急に、いった。
松崎署に戻ると、十津川は、亀井に、
「今日は、ここに泊るよ」
と、いった。
「まだ、調べることが、あるんですね?」
「もう一つだけ、知りたいことがあるんだが、それは、本橋巡査に、頼んでおいた。明日までに、調べてくれる筈だ」
と、十津川はいった。
二人は、海岸近くのホテルに、泊ることになった。
そのレストランで、夕食のとき、亀井が、十津川に向って、
「そろそろ、教えて頂けませんか。警部は、何を調べておられるんですか?」
と、きいた。
「三年前の事故の被害者の方のことを、もっと、知りたいんだよ」
と、十津川は、いった。
「しかし、大田垣は、前から、生方治郎を知っていたわけじゃありません。生方の妻のあけみもです。従って、この事故が、仕組まれたものとは、とても思えませんが」
亀井が、いうと、十津川は、笑って、
「私だって、そんなことは、考えていないよ」
「すると、何を、調べるお積りなんですか?」
「その別荘の中で、生方夫妻は、夫婦ゲンカをした。そして、酔っ払った夫の生方は、怒って、別荘を飛び出し、大田垣の車に、はねられて死んだ」
「そうです」
「そのあと、妻のあけみが、自殺を図った」
「そうです」
「なぜかな?」
「それは、夫の死を、自分の責任と感じたからでしょう」
「そういうことで、何となく、納得していたんだが、考えてみると、少しばかりおかしい。そう思い始めたんだよ」
と、十津川は、いった。
「どこがですか?」
亀井は、わからないという顔で、十津川にきいた。
十津川は、食後のコーヒーを、口に運んでから、
「夫婦ゲンカなんてものは、どちらが悪いかわからないものだよ。夫の生方は、勝手に怒って、飛び出して、車にはねられてしまった。それなのに、妻のあけみは、なぜ、自殺まで図ったのか、それが、わからなくてね」
「理由が、わかりましたか?」
と、亀井が、きく。
「少しずつ、わかってきたような気がするんだ。今日の本橋巡査の話では、生方治郎は、ネクタイに、背広姿で、はねられていたということが、わかったしね」
「それなんですが、なぜ、そんな恰好《かつこう》をしていたのかが、私には、不思議でしたが――」
と、亀井は、いった。
十津川は、また、コーヒーを、口に運んだ。
「明日になれば、少しは、わかってくると思うよ」
と、十津川は、いった。
翌日、十津川と亀井が、朝食をとっているところへ、本橋巡査が、やって来た。
「昨日いわれたことを、調べて参りました」
と、本橋はいい、一枚の地図を、十津川に、示した。
「何ですか?」
と、亀井が、箸《はし》を置いて、のぞき込んだ。
「昨日見た現場周辺の別荘の地図だよ。持主の名前を書いて貰ったんだ」
と、十津川は、いった。
地図には、点在する別荘の場所と、持主の名前が、書き込んであった。
生方の別荘は、赤く塗ってある。
「これが、現在だね?」
と、十津川が、本橋を見た。
「そうです」
「三年前のものを、書いて来てくれたかね?」
「はい。これです」
と、本橋は、もう一枚の地図を、十津川の前に、広げて見せた。
「なるほどね」
と、十津川は、二枚の他図を見比べて、笑顔になった。
「何がわかるんですか?」
と、亀井が、きく。
「カメさんも、よく見てくれ」
と、十津川は、いい、二枚の地図を、亀井に渡した。
亀井は、じっと、見比べていたが、急に、眼を光らせて、
「三年前の地図には、平松という名前が、のっていますね。それが、今はありません。しかも、生方家の近くです。この平松というのは、ひょっとして、画家の平松貢じゃありませんか?」
「どうだね?」
と、十津川は、本橋巡査に、きいた。
「平松貢ではなく、名義は、平松巌になっています」
「父親の方だね」
「はい。しかし、もっぱら利用していたのは、息子《むすこ》さんの方だったそうです」
と、本橋は、いった。
「それで、いつ、平松家は、引っ越したんだね」
と、十津川は、きいた。
「三年前です。例の事故の直後です」
と、本橋が、答えた。
「やっぱりね」
と、十津川は、いった。
礼をいって、本橋を帰らせてから、十津川は、煙草《たばこ》に火をつけた。
「警部は、何を考えておられるんですか?」
と、亀井が、きいた。
「カメさんだって、一つの推理を、考えたんじゃないのかね?」
十津川が、逆に、きいた。
「まあ、想像は、働かせていますが」
「それを、聞きたいね」
「平松貢は、画家としても成功しているし、顔もいい。親の七光もあります。プレイボーイです」
「それで?」
「三年前、平松は、この別荘に来ていて、生方あけみと、知り合った。彼女も、美人ですから、いい仲になったんじゃないでしょうか。夫の生方にかくれて、浮気をしていた。事故の日も、生方あけみが、ひとりでいるところへ、平松が、忍んで来ていた――」
「うん」
「多分、この日は、夫の生方が、別荘にはやって来ないということで、あけみは、安心していたんだと思いますね。ところが、生方は、やって来た。恐らく、友人か何かが、お前の奥さんは、浮気をしているとでも、いったんじゃないでしょうか。生方は、したたか酒を呑んで、深夜に、別荘に乗り込んだ。そこで、浮気の現場を発見した。かっとした生方は、妻のあけみを殴りつけ、雨の中を、飛び出し、道路に出たところで、大田垣の車に、はねられた。こんな風に、考えてみたんですが」
と、亀井は、いった。
「同感だね」
と、十津川は、ニッコリしてから、
「妻のあけみは、自分の浮気のせいで、夫の生方を、死なせてしまったと思い、その自責の念から、自殺を図った。そう考えれば、よく理解できると思うんだよ。それに、あけみと、浮気の相手が、裸で、ベッドに入っていたとすれば、飛び出す生方を止《と》められなかった理由も、納得できるじゃないか」
「相手の平松は、このことが、表沙汰《おもてざた》になるのを恐れて、いち早く、別荘を売り払ってしまったということですね」
「父親が買った別荘といっても、実際には、息子の貢が使っていたんだろうから、処分も、簡単に出来たと思うね。ただ、そうしたあとも、平松は、心配だった筈だよ。人間が一人、はねられて殺され、その妻が、自殺を図る、そんな事件に、有名な画家が関係していたことが、公《おおやけ》になるのは、怖かったと思うね」
「つまり、生方あけみが、全てを、告白するのが、怖かったということですね」
と、亀井が、いった。
「そうだろうね。だから、生方あけみが、自殺したと聞いたときは、平松は、ほっとしたと思うよ」
と、十津川は、いった。
「ところが、その生方あけみが、生きていた。大田垣も、愕然《がくぜん》としたでしょうが、平松も、びっくりしたんじゃありませんかね」
「そう思う。そして、大田垣が、もう一度、生方あけみに、会いに行くと知った。もしかしたら、生方あけみが、記憶を取り戻して、三年前のことを、大田垣に、話すかも知れない。絶対に、二人を会わせてはならない。平松は、そう考えて、九州まで、追って行き、殺したんじゃないだろうか。私は、そう考えたんだ」
と、十津川は、いった。
6
「しかし、平松には、アリバイがありますよ。三月二十四日には、韓国《かんこく》にいたというアリバイです」
と、亀井が、いった。
「わかっているさ。だが、三年前の事故が、今度の事件の動機になっていることは、間違いないと確信したよ」
と、十津川は、いった。
「平松貢の周辺を、調べてみますか?」
「東京に戻ったら、さっそく、調べてみたいね。特に、三年前の彼の行動だよ」
「しかし、三月二十四日については、韓国のことをアリバイとして主張しますよ」
「だが、私はね、平松が、三月二十四日に、日本に戻って、大田垣を殺したと思っているよ」
と、十津川は、いった。
二人は、午前十時には、ホテルを出て、東京に戻った。
国立《くにたち》の捜査本部に帰ると、十津川は、早速、部下の刑事たちを集めて、平松貢のことを、話した。
「彼が、三年前の事を、隠そうとして、大田垣を殺し、続いて、大田垣の親友の後藤も殺したと、私は、確信している。だが、証拠もないし、アリバイを崩すことも、今は出来ない。だから、君たちは、平松の身辺を調べて、彼が、三年前の事故に関係している証拠を、つかんで欲しいんだよ」
と、十津川は、いった。
西本刑事たちは、肯いたが、若い日下《くさか》刑事が、
「もし、警部の推理が当っているとすると、平松は、生方あけみを、殺そうとするんじゃありませんか? 今、彼女は、記憶を失って、九州の病院に入っていますが、記憶を取り戻す恐れがあるわけですから」
と、いった。
十津川は、「その通りだ」と、大きく肯いた。
「君は、すぐ、九州へ行ってくれ」
「生方あけみのガードですね」
「彼女は、また、鹿島《かしま》の病院に戻っていると思う。彼女まで、殺させるわけにはいかないからね」
と、十津川は、いった。
日下は、羽田《はねだ》から、飛行機で、九州へ飛んで、行った。
他の刑事たちは、十津川の指示通りに、平松の身辺を、洗い始めた。特に、三年前の事故の前後の平松の行動である。
その結果、いくつかのことが、わかってきた。
西伊豆の別荘を、よく利用していたのは、やはり、父親ではなく、平松貢だった。平松には、妻がいるが、病身である。三年前、彼女は、療養所に入っていた。それをいいことに、平松は、遊び廻っていたらしい。
三年前の事故の時、平松が、西伊豆の別荘にいたという証拠は、なかなか、つかめなかった。
だが、事故の直後、別荘は、急に、売りに出され、東京の不動産業者が、買い取っていた。
九州に着いた日下からも、電話が入った。
「生方あけみは、間違いなく、鹿島の病院にいました。こちらの警察にも頼んで、彼女をガードします」
と、日下は、勢い込んだいい方をした。
面白いことが、一つ見つかった。見つけたのは、清水《しみず》刑事である。
清水は、三年前のN展のグラビア本を見つけてきた。
それには、N展に出品された絵が、全部、きれいなカラーで、のっていた。清水が、指さしたのは、そこにのっている絵の一枚である。
平松貢が出品した『ある女の肖像』と題した絵だった。
美しい女の絵である。
「なるほど。似ているな」
と、十津川は、微笑した。
生方あけみによく似ているのだ。それは、三年前の時点で、平松貢が、生方あけみを知っている証拠だった。
「プレイボーイにしては、うかつでしたね」
と、亀井が、いった。
「彼女の夫が、車にはねられて死んだり、彼女が自殺を図ることなんか、予想もしてなかったんだろう」
と、十津川は、いった。
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第六章 罠《わな》を張る
1
十津川は、今までの推理を、もう一度、確認してみた。
他《ほか》の推理は、考えられなかった。だが、平松は、当然否定するだろう。
「どうされますか?」
と、亀井が、きいた。
「一度、平松|貢《みつぐ》に会ってみよう。反応を見てみるんだ」
と、十津川は、いった。
「圧力をかけるわけですか?」
「金持ちのプレイボーイだが、お坊ちゃん育ちだ。われわれが、事件の真相に気付いたと知って、動揺を見せるかも知れないよ」
と、十津川は、いった。
二人は、平松邸を訪ねた。豪邸である。奥に通され、お手伝いが、茶菓子を運んでくる。
「今日は、どんなご用ですか?」
と、平松は、微笑しながら、きいた。自分は、容疑圏外にいると、安心している顔だった。
「今度の事件の真相が、わかったので、それを、お知らせに来たんですよ。正確にいうと、われわれが、真相と考えたストーリイと、いうべきでしょうが」
と、十津川は、いった。
「面白《おもしろ》そうですね」
「お聞きになりますか?」
「ぜひ、聞かせて下さい」
と、平松は、いった。
「今回の一連の事件は、三年前に、原因があります」
十津川は、平松の顔を見ながら、いった。
「三年前ですか?」
「そうです。三年前、伊豆《いず》で、大田垣《おおたがき》さんは、夜、車を運転していて、飛び出して来た男を、はねて、死なせました。死んだ男の名前は、生方治郎《うぶかたじろう》です。当時、生方は、妻のあけみと、伊豆の別荘へ来ていて、その夜、夫婦ゲンカとなり、夫の治郎は、カッとして、外に飛び出し、丁度、走って来た大田垣さんの車にはねられてしまったというわけです」
「それなら、大田垣に罪はないでしょう?」
「その通りです。従って、彼は、別に、何の罰も受けていません。ただ、そのあと、生方あけみは、自殺しました。いや、自殺したと、いわれていました。大田垣さんも、そう信じていた筈《はず》です。ところが、その事故のことを、ようやく忘れかけた昨年の十月、九州へスケッチ旅行に行った彼は、鹿島《かしま》で、自殺した筈の生方あけみに、会ってしまったのです。しかも、彼女は、自殺に失敗したとき、記憶を喪失して、鹿島の療養所で、治療を受けていたのです。変り果てた生方あけみを見て、大田垣さんは、強いショックを受けたと思われます。帰京後、自殺を図って、親友の後藤《ごとう》さんに、助けられているからです」
「それと、今度の事件が、関係あるんですか?」
と、平松が、きく。
「まあ、最後まで、聞いて下さい。すぐ、終ります。その時点で、平松さんの感想を伺いたいのですよ」
と、十津川は、いってから、続けて、
「大田垣さんは、そのショックを、絵にして、残しています。今日は、持って来られないので、写真に、撮って来ました」
と、いい、大きく、引き伸したものを、平松の前に置いた。
平松は、ちらっと見ただけで、
「この絵が、どうかしたんですか?」
「そこに描《か》かれている女性が、自殺未遂の生方あけみです。記憶を失った女の顔です。精神病院に近い病院で、治療中の女の顔ですよ。自殺未遂を起こした大田垣さんは、その絵を描くことで、自分を取り戻そうとしたのかも知れません。ところが、今年の三月になって、大田垣さんは、もう一度、九州へ出かけ、三月二十四日の夜、三角《みすみ》港で殺され、海に浮んでいるのを発見されました」
「それは、新聞で読んだから、知っていますよ」
と、平松は、肩をすくめるようにして、いった。
「そうでしたね。では、はしょって、先へ進めましょう。大田垣さんは、最初、有明《ありあけ》海めぐりの途中で、殺されたと思われましたが、その後、特急『有明』に、乗っていたことがわかりました。それで、八代《やつしろ》にある病院で、治療中の生方あけみに、もう一度、会いに行く筈だったと、わかったのです」
「だが、その途中で殺されたとなると、彼女には、会えなかったわけですね?」
と、平松が、きいた。
十津川は、大きく肯《うなず》いて、
「その通りです。犯人は、会わせたくなかったんですよ」
「なぜですか?」
「そこに、今度の事件の真相が、隠されていたわけです」
十津川は、思わせぶりに、いった。
平松は、顔をしかめて、
「今度の事件は、大田垣や、後藤に対する、同じ画家仲間の嫉妬《しつと》が、動機だったんじゃないんですか?」
と、きいた。
2
「最初は、そう思ったんです。だから、平松さんたちを調べました。大田垣さんと、後藤さんの友人、知人の中に、犯人がいるに違いないと、思いましたからね」
と、十津川は、いった。
「しかし、それは、違っていたんですか?」
「動機は、間違っていました。平松さんにしても、他の画家、或《ある》いは、医者の方にしても、別に、大田垣さんに、嫉妬を感じる必要はなかったんです。それぞれに、成功されていますからね」
「それなら、全員、シロじゃありませんか?」
と、平松が、眉《まゆ》をひそめて、十津川を見た。
「それが、別の動機があったことが、わかったんですよ」
「別の動機?」
「そうです。三年前の事故に、関係があったんですよ」
「しかし、警部さん。三年前の事故は、大田垣ひとりが、関係していることでしょう? 他の人間には、無関係のことですよ」
「最初、そう思っていたんです。ところが、調べていくと、違っていたんですよ。われわれは、三年前の事故を、もう一度、考え直してみたわけです。そして、真相に、たどりついたのです」
十津川は、わざと、言葉を切って、じっと、平松を見つめた。
平松は、それに引っかかって、
「真相というのは、どういうことですか?」
と、言って来た。
「三年前の夜、夫婦ゲンカの末、カッとして、生方治郎が、別荘を飛び出し、それを、大田垣さんが、はねたと、考えていたわけです。ところが、よく調べてみると、生方治郎は、背広を着て、ネクタイをしめて、死んでいたんですよ。それは、おかしいと思いませんか? 夜おそくですからね」
「――――」
「それに、妻の生方あけみが、夫の死に責任を感じて、自殺するというのも、考えてみれば、おかしいのですよ」
「なぜですか? それだけ、愛していたということでしょう?」
と、平松が、いった。
「平松さんは、彼女のことを、よく、ご存じなんですか?」
十津川は、意地悪く、きいた。
平松は、あわてた顔で、
「知りませんが、愛し合っている夫婦なら、妻が、夫の後を追うというのは、あり得ることでしょう?」
「そうですか? それなら、夫婦ゲンカの末に、雨の中に、飛び出して行った夫を、なぜ、追いかけていかなかったのかという疑問が、浮んで来ます。もし、追いかけていれば、車にはねられるのを止めていたかも知れないし、はねられたあと、すぐ、彼女が、病院へ運んでいたと思うのですよ。それなのに、病院へ運んだのは、はねた大田垣さんだったんですよ。おかしいとは、思いませんか?」
「と、いわれても、僕には、関係がないから――」
「妻の生方あけみは、すぐには、夫を追っかけていけない状態だったということになるんですよ」
と、十津川は、いった。
「どういうことですか?」
「その時、生方あけみは、浮気をしていたんですよ。他の男が、泊りに来ていた。そこへ、夫の生方治郎が、突然、やって来た。そして、浮気の現場を発見して、カッとして、飛び出し、大田垣さんの車に、はねられた。こう考えると、全《すべ》ての説明がつくんですよ」
「全てのというのは、どういうことですか?」
「夫が、はねられた時、妻のあけみが、傍《そば》にいなかった理由も、説明がつくじゃありませんか。別荘には、男がいた。それを、何とかしなければならなかったから、妻のあけみは、外へ出られなかったんですよ」
「――――」
「つまり、妻の浮気の結果として、夫の生方は、死んでしまったわけです。だから、妻のあけみは、自責の念にかられて、自殺を図ったんです。それなら、納得できるんじゃありませんか」
と、十津川は、いった。
「それで、終りということですか?」
「そう思いますか?」
十津川が、逆にきくと、平松は、狼狽《ろうばい》の色を見せて、
「僕に聞かれても、困りますよ」
と、逃げた。
「確かに、妻のあけみが、自殺して、終りの筈でした。しかし、自殺は失敗しました。それに、この事故の原因を作った、浮気の相手がいます。浮気相手の男ですよ」
「しかし、そんなものは、わからないんじゃありませんか?」
と、平松は、きいた。
「それが、わかったんですよ」
「わかった?」
「ええ。われわれは、別の線から、調べてみました。大田垣さんを殺した犯人の線からですよ。犯人は、小細工をしました。大田垣さんの死体のポケットに、祐徳《ゆうとく》稲荷《いなり》のお守りを入れておいたことです」
「それが、なぜ、小細工なんですか?」
「犯人は、大田垣さんが、『有明』に乗って、八代に行く途中だったことを、知られたくなかったんですよ。八代に行って、もう一度、生方あけみに、会うことにしていたことを、知られたくなかったんです。だから、祐徳稲荷のお守りを入れるという小細工をした。ところが、そのために、犯人は、大田垣さんの周囲の人間に、特定されてしまったんです。去年、大田垣さんが、そのお守りを沢山買って帰って、配った人間の中に、犯人がいるということになってしまったんです。これは、犯人の計算違いだったと、思いますよ」
「しかし、犯人は、捕っていませんね」
と、平松は、いった。
「そうです。われわれが、犯人の動機について、間違った推理をしてしまったからです。動機は、才能に対する嫉妬と、考えてしまったんです。ところが、動機は、三年前の事故のことだった。とすると、どういうことになるのか? 結論は、こういうことになって来ます。三年前の生方あけみの浮気の相手は、小細工をした、大田垣さんの友人、知人の中にいるということになってくるんですよ」
と、十津川は、いった。
「しかし、誰《だれ》と、断定はできないでしょう? 三年前のことだから」
「そうです。しかし、推理は、可能です」
「どんな推理ですか?」
「生方夫婦の別荘は、伊豆にあります。それも、最近になって、建物が多くなった場所です。それで、大田垣さんの友人、知人の中、それも、容疑者になっている人たちの中に、ここに、別荘を持っている人間はいないかを、調べてみたんです。そうすると、一人いました。これが、残念なことに、平松さん、あなたなんですよ」
と、十津川は、いった。
「僕は、僕は、そんなところに、別荘は、持っていませんよ」
「正確にいえば、あなたのお父さんの別荘です」
「それなら、父に話して下さい」
「利用していたのは、もっぱら、息子《むすこ》のあなただということは、もう、わかっているんですよ」
「しかし、だからといって、僕が、浮気の相手とは、限らないでしょう?」
平松は、大げさに、肩をすくめて見せた。
「あなたは、生方あけみを、知らないと、いわれましたね?」
と、十津川は、きいた。
「ぜんぜん、知りませんよ」
「それは、おかしいですね。この絵は、あなたが、描かれたんでしょう?」
十津川は、これも、写真に撮った『ある女の肖像』の絵を、平松に見せた。
とたんに、平松の顔が、ゆがんだ。
「これは、三年前のN展に、あなたが、出品されたものですね?」
「そうですが――」
「このモデルは、生方あけみじゃありませんか?」
と、十津川が、きくと、平松は、激しく、首を横に振って、
「違いますよ。ぜんぜん、別人です」
「おかしいですね。伊豆のあの別荘地区に、別荘を持っている何人かの人に、聞いたんですが、三年前に、あなたが、生方あけみをモデルにして、絵を描いているのを、見たことがあると、証言しているんですよ」
と、十津川は、いった。
平松は、黙ってしまった。黙って、いいわけを考えているようだったが、
「だからといって、僕が、大田垣や、後藤を殺したことにはならんでしょう? 第一、僕は、三月二十四日は、韓国《かんこく》にいたんだ」
と、大声で、いった。
「そうです。確かに、アリバイがあります。だが、あなたは、動機がある。動機がある唯一の人間です」
十津川が、決めつけるようにいうと、平松は、急に、挑戦的な眼《め》つきになって、
「僕が、生方あけみを、モデルにして、この絵を描いたとしても、彼女と、関係があったという証拠は、ないんでしょう? まして、問題の夜、僕が、彼女の別荘にいたなんて証拠は、どこにもない筈ですよ」
「生方あけみが、知っていますよ」
と、十津川は、いった。
「じゃあ、彼女に、聞いたらどうなんですか」
「彼女は、徐々に、よくなっていて、記憶が、戻りつつあるんです。間もなく、三年前の事故の夜のことを、思い出す筈ですよ。当然、あなたのこともです。そうなれば、あなたの動機は、完全なものになりますよ。あなたにとって、三年前のことは、アキレス腱《けん》なんです。あなたの浮気が、一人の人間を死なせ、一人の女性に、自殺を図らせたわけですからね。社会の指弾を浴びかねない。大田垣さんに、それを知られたのではないかと思って、まず、彼の口を封じ、次に、大田垣さんの親友だった後藤さんも、殺した。大田垣さんが、後藤さんにも、話していたんじゃないかと、疑ったからでしょうね」
と、十津川は、いった。
「勝手な想像は、止《や》めてくれませんか」
と、平松は、声をとがらせた。
3
「何回もいいますが、僕には、三月二十四日に、アリバイがあるんですよ。つまり、僕は、大田垣を、殺してないんです。とすれば、当然、後藤も、殺してないことになってくるじゃありませんか」
と、平松は、いった。
十津川は、平松の顔を、見返した。
「あなたのアリバイは、必ず、崩れますよ。これは、予言しておきますがね。それに、間もなく、生方あけみが、全快する筈です。そうなれば、あなたのことも、思い出してくれると思いますよ」
「これは、脅迫じゃありませんか。弁護士に話して、あなたを、告訴しますよ。証拠もなしに、犯人呼ばわりするのは、十分に、告訴の理由になりますからね」
「どうぞ、告訴して下さい。あなたのアリバイが崩れ、生方あけみが、思い出すのと、どっちが早いか、楽しみですよ。早く告訴しないと、手おくれになりますよ」
十津川は、わざと、挑戦的に、いった。
平松は、歯がみをして、
「帰ってくれませんか、すぐ、弁護士を、呼ばなければ、ならないのでね」
と、いった。
十津川と、亀井は、平松邸を出た。亀井が、心配そうに、
「大丈夫ですか?」
「何がだい? カメさん」
「あの男は、必ず、弁護士に、相談しますよ」
「ああ、やるだろうね」
「告訴された時、証拠がつかめないと、まずいことになるんじゃありませんか?」
「カメさんだって、平松が、犯人だと、思うだろう?」
「はい」
「それなら、アリバイは、必ず、崩れるさ」
と、十津川は、楽天的に、いった。
だが、亀井は、まだ心配顔で、
「本当に、大丈夫でしょうか?」
「カメさんらしくもないじゃないか。平松の身になって、考えてみたまえ。彼は、二つのことを、心配しなきゃならないんだ。アリバイが、崩れやしないかという心配と、もう一つは、生方あけみが、記憶を取り戻して、三年前のあの夜、自分と浮気をしていたこと、それが原因で、生方治郎が死んだことを、話すんじゃないかという心配の二つだよ」
と、十津川は、いった。
「平松は、どんな手を打って来るでしょうか?」
「アリバイの方は、平松だって、手をこまねいて、祈るより仕方がないだろう。もう一つの生方あけみの方は、彼女を殺して、口封じをするかも知れない」
「警部は、むしろ、それを期待していらっしゃるんじゃありませんか?」
と、亀井が、きいた。
「正直にいうと、それもある。今、九州に、日下《くさか》刑事が、行っているが、あと、二、三人、行かせておきたいね」
十津川は、いい、すぐ、西本《にしもと》、清水《しみず》の二人の刑事を、急行させた。
二人は、行く前に、平松の周辺を調べた結果を、報告した。
その中に、面白いことが、一つあった。平松自身のことではなく、平松の父のことである。
画家として有名な平松の父親は、若い画家の面倒をよくみていたというのである。
十津川が、注目したのは、特に、眼をかけていた何人かの名前だった。
今をときめく画家もいれば、彫刻家の名前もある。
その中に大西広行《おおにしひろゆき》の名前が、あった。問題の三月二十四日には、尾道《おのみち》にいたという大西である。
「平松の父親、平松|巌《いわお》は、日本画の大家だったね?」
と、十津川は、西本に、きいた。
「その通りです」
「とすると、大西広行は、日本画だったのかね? 私は、洋画だと思っていたんだが」
「最初は、日本画を、勉強していたようです。それが、日本画に物足らなくなって、洋画に、転向しているんです」
「それなのに、よく、平松巌が、援助したね?」
「それなんですが、大西は、平松巌の息子で、友人の平松貢に、一緒に行って貰《もら》って、きちんと、あいさつに行っているんです」
「あいさつ?」
「日本画の時代に使っていた名前は、返上して、新しい名前で、再出発しますと、平松巌の前で、誓ったそうなんです。一種のパフォーマンスでしょうが、平松巌は、それに、コロリと、参ってしまったらしいんです。前よりも一層、大西に、肩入れしたようです」
「ちょっと待ってくれよ。すると、大西というのは、本名じゃないのか?」
「本名は、小林行夫《こばやしゆきお》です。日本画時代は、小林|水果《すいか》という雅号を使っていました。その雅号を平松巌に預けて、大西広行という名前で、以後、絵を描いていったわけです」
それだけ、報告して、西本は、清水と、九州に向ったのである。
十津川は、小林行夫と、黒板に名前を書き、前に調べた飛行便の乗客の名簿を、もう一度、調べてみた。
「カメさん。あったよ、やはり」
と、十津川は、満足気に、亀井に、いった。
十津川の見ている乗客名簿に、小林行夫の名前が、ちゃんと、あるのだ。
亀井も、のぞき込んで、
「ありますね」
「大西は、本名で、パスポートを取っているから、この名前が、乗客名簿にあるんだよ」
「しかし、彼は、三月二十四日には、尾道にいて、目撃者もいますが」
「だから、パスポートだけが、旅行したんだ」
「つまり、自分のパスポートを、誰かに、貸したというわけですね?」
「そうだよ。韓国に行っていた友人の二人のどちらかに、自分のパスポートを貸したんだ。ビザも、一緒にね」
「平松ですか?」
「恐らくね。大西は、平松には、頭があがらなかった。彼の父親には、世話になっているからね。要求されれば、平松に、自分のパスポートを貸したと思うね」
と、十津川は、いった。
ソウル一五時五〇分発の福岡行の日本航空に、小林行夫の名前がある。
そのJL972便が、福岡空港に着くのは、一七時〇〇分になっていた。
これに乗れば、「有明53号」でも、「55号」でも、ゆっくりと、乗れるのである。
「そういえば、大西の顔は、平松の顔に、似ていますね」
と、亀井が、いった。
平松が、大西のパスポートを、そのまま使ったのか、それとも、写真を貼《は》りかえて使ったのかは、わからないが、小林行夫名義のパスポートを使って、三月二十四日に、ソウルから福岡に戻り、特急「有明」に、乗ったことは、まず、間違いないだろう。
「大西に会って来よう」
と、十津川は、亀井に、いった。
三鷹《みたか》にある大西のマンションに行くと、丁度、彼は、旅行に出かけるところだった。
リュックサックを背負い、画架を持っている。
「お出かけですか?」
と、十津川が、声をかけると、大西は、むっとした顔になって、
「旅行に出ちゃいけないんですか?」
「そんなことは、ありませんよ。どこへ行かれるんですか?」
「北海道です。くわしい行先も、いいましょうか?」
「何を、そんなに、興奮しているんです?」
と、亀井が、苦笑しながら、きいた。
「犯人でもないのに、監視されるのは、嫌なだけですよ」
「監視なんかしていません。何処《どこ》へでも行って下さい。ただ、その前に、こちらの質問に答えて下さればいいんです」
十津川は、丁寧に、いった。
大西は、渋々の感じで、十津川と、亀井を、部屋へ入れてから、
「尾道での行動は、全部、話しましたよ」
「あれは、もう、了解しました。三月二十四日のあなたのアリバイは、完全です」
「それなら、何を聞きたいんですか?」
と、大西は、とがった声を出した。
「あなたのパスポートを、見せて頂きたいんですよ」
十津川が、いうと、大西は、一瞬、顔色を変えたが、
「パスポートは、失《な》くしてしまいましたよ」
と、いった。
「いつ、何処でですか?」
「わかりません。わかっていれば、見つけていますよ」
「失くしたのは、韓国でじゃないんですか?」
と、十津川は、きいた。
「韓国へなんか、行ったことは、ありませんよ。僕は、パスポートを貰《もら》ってから、ほとんど、使っていないんです」
「すると、三月二十四日に、ソウルから福岡へのJLに乗っていたのは、誰だったんですかね?」
と、亀井が、意地悪く、きいた。
「そんなもの、知りませんよ。僕は、その日は、尾道にいたんですから」
「すると、パスポートだけが、ひとりで、旅行したのかな? 小林行夫というのは、あなたの本名でしょう? そのパスポートのことを、いってるんですよ」
十津川が、いうと、今度こそ、はっきりと、大西は、狼狽の表情になった。
「僕の本名は、確かに、小林行夫ですが――」
「当然、パスポートも、小林行夫の名前ですね?」
「ええ」
「三月二十四日のソウル→福岡のJL972便に、小林行夫さんが、乗っているんですよ」
「同名異人じゃありませんか。小林行夫なんて、平凡な名前だから」
と、大西は、青い顔で、いった。
「しかし、住所は、三鷹のこのマンションになっているんですよ」
と、十津川は、いった。
「それなら、僕のパスポートを拾った人間が、勝手に、使っているんですよ」
「勝手にねえ」
と、十津川は、おうむ返しに、いってから、
「いいですか、もし、あなたが、誰かにパスポートを貸し、それが、殺人に使われたとなると、殺人の共犯になるんですよ」
と、厳しい調子で、いった。
「何のことか、わかりませんが――」
「いや、よくわかっている筈ですよ。あなたが、平松貢のお父さんに、恩義を感じているとしても、その息子の人殺しに、手を貸すことはない。一生を台無しにしてしまいますよ」
「――――」
大西は、急に、押し黙ってしまった。
「大西さん。よく考えた方がいいね。妙な友情は、捨てることだ」
と、亀井が、いった。
「今日も、平松から、旅行に出かけているように、いわれたんじゃないんですか?」
十津川は、大西のリュックサックに、眼をやって、いった。
それでも、まだ、大西は、黙ったままだった。
「このままだと、あなたも、殺人の共犯として、逮捕することになる。脅しじゃないよ」
と、亀井が、いった。
やっと、大西の重い口が、開いた。
「僕は、ただ、彼が、パスポートを、しばらく貸してくれというんで、貸しただけですよ。それを、何に使うかも、聞いていません」
「しかし、殺人に使われたんですよ。殺人犯のアリバイ作りにね」
と、十津川は、いった。
「大田垣を殺したのは、平松なんですか?」
大西は、信じられないという顔で、十津川にきいた。
「大田垣さんだけじゃありません。後藤さんを殺したのも、平松です」
「なぜ、そんなことをしたんですか? 同じ画家仲間なのに」
「動機は、三年前の自動車事故です」
と、十津川は、いい、くわしく、説明した。
「それ、本当の話ですか?」
「今、平松に電話して、確かめてごらんなさい。彼は、否定するでしょうが、その否定の仕方で、あなたにも、彼が嘘《うそ》をついているかどうかわかる筈ですよ」
と、十津川は、いった。
大西は、のろのろと、電話に手を伸したが、しばらく、ためらっていた。
やっと、受話器を取り、平松の家のナンバーを押したのは、二、三分してからだった。
「大西ですが、平松君いますか?」
と、呼んでいたが、すぐ、電話を切ると、十津川に向って、
「平松は、いませんよ。旅行に出たということです」
「旅行に?」
十津川の表情が、急に、険しくなった。
「そうです。旅行です。僕にも、旅行に行けといっていたんですよ」
「カメさん」
と、十津川は、亀井に、声をかけた。
亀井も、眼を光らせて、
「九州へ行ったんでしょうか?」
「その可能性が、強いね」
4
「どうしたんですか?」
と、大西が、きいた。怯《おび》えた眼になっているのは、十津川と亀井の表情に、ただならぬものがあったからだろう。
「平松が、今話した生方あけみを、殺しに出かけたらしい」
と、十津川は、いった。
「本当ですか?」
「間違いありませんね。あなたも、覚悟をした方がいい。みすみす、殺人の共犯になることはないでしょう」
「あなた方は、どうするんですか?」
「九州へ行きます。新しい殺人を、防ぐためにですよ。われわれが、東京に戻ってくるまでの間に、自分から、全てを、証言して欲しいですがね」
と、十津川は、いった。
十津川と、亀井は、二〇時一〇分|羽田《はねだ》発の最終の飛行機で、福岡に向った。
二一時四〇分に福岡に着くと、タクシーを拾って、鹿島まで、飛ばした。
鹿島の病院の近くに、西本と、清水が、レンタ・カーをとめて、監視に当っていた。
十津川たちが、着いた時は、すでに、夜半を過ぎていた。
「日下刑事は、病院の中に、入っています」
と、西本が、報告した。
「平松は、われわれより先に、鹿島へ着いている筈だ」
と、十津川は、いった。
「いよいよ、生方あけみを、殺しに来ますか」
「すぐには、やらないだろうが、チャンスを窺《うかが》って、必ず、襲うだろう。奴《やつ》も、必死なんだ」
と、十津川は、いった。
西本と、清水の二人に、リア・シートで、眠るようにいい、しばらくは、十津川と、亀井の二人で、病院を、見張ることにした。
山の中腹にある病院である。登って来る道は一本だけだから、監視するには、楽だった。
十津川は、横の窓を開け、煙草《たばこ》に、火をつけた。
「静かですね」
と、亀井が、小声で、いった。
「早く終らせて、ゆっくりしたいな」
と、十津川は、いった。
「平松は、どうする気ですかね。ひとりで、やって来て、生方あけみを、殺せると、思っているんでしょうか?」
「彼は、父親の威光で、甘く育っているから、何でも出来ると、思っているのさ」
と、十津川は、いった。
「しかし、われわれが、警戒していることは、予想しているんじゃありませんか?」
「多分ね」
と、十津川は、いった。
十津川は、いつも、犯人の物わかりの悪さに腹を立てる。自滅するとわかっているのに、犯行に走るからだ。もっとも、それがわかれば、割りに合わない犯罪に、手を染めはしないのだろうが。
その点、犯人は、常に、自信家なのだ。何とかなると、思っている。
夜が明けた。
「交代します」
と、起き出した西本が、いった。
「君は、病院の中の日下刑事と交代してやってくれ。彼も、昨夜は、寝てないだろうからね」
と、十津川は、いった。
西本が、病院の中に入って行ったあと、十津川は、清水に、
「どの程度、病院側に、話してあるんだ?」
と、きいた。
「あまり、不安を与えてはいけないので、簡単にしか話してありません。生方あけみを殺すという噂《うわさ》があるので、警戒したいというだけにしてあります。平松の名前はいっていません。写真もです。もっと、はっきりしておいた方が、いいでしょうか?」
「いや、それだけでいいだろう」
と、十津川は、いった。
西本と、交代した日下が、病院から出て、車に、乗って来た。
「病院の中は、どんな具合だ?」
と、亀井が、きいた。
「何しろ、精神を病んでいる病人たちですからね。気を使います。ちょっとでも、患者たちを、不安がらせないでくれと、いわれていますからね」
と、日下は、いった。
「とにかく、眠ってくれ」
と、十津川は、リア・シートで、日下を、休ませることにした。
「われわれも、交代で、休みましょう」
と、亀井が、十津川に、いった。
先に、十津川が、寝ることにして、リア・シートに移り、清水と、亀井が、見張ることになった。
昼になって、十津川は、眼をさまし、亀井と交代した。日下も、清水と、交代する。
亀井が、買ってくれていたパンと、牛乳で、十津川と、日下は、朝食兼昼食をすませた。
「何も、起きませんね」
と、日下が、不満そうに、いった。
「すぐには、やって来ないよ」
と、十津川は、いった。
「しかし、平松は、様子を見にも来ませんね」
と、日下は、いった。
午後三時過ぎに、病院から、トラックが、出て来た。病院の名前が、入っている。
「あの運転手は、知っています」
と、日下が、いった。
「病院の職員か?」
「そうです。時々、必要なものを、トラックで、買い出しに、出かけるんだと、いっていました」
と、日下は、いった。
そのトラックは、午後七時頃になって、戻って来た。
同じ運転手である。別に、怪しいところはないが、荷台には、大きな幌《ほろ》がかぶせてあるのが、十津川には、何となく、不安だった。
トラックが、病院の中に入ってしまってから、十津川は、気になって、車から降りて、門の方へ、歩いて、行った。
建物の中に入り、事務室で、
「今、トラックで、何を運んで来たんですか?」
と、そこにいた職員に、きいた。
「絵ですよ」
と、中年の職員が、笑顔で、いった。
「絵? 絵が、どうしたんですか?」
「うちのような病院では、優しい音楽と、美しい絵が、ぜひ、必要なんです。特に、いい絵は、患者の気持を、落ち着かせてくれます。ただ、うちには、お金がありません。そこで、何とか、協力して貰えないかと、何人かの画家の方に、手紙を、お出ししておったんです。そうしたら、有難いことに、無料で、二十点近い絵を、寄贈して下さる方が、現われたんです。その中には、日本画の重鎮の平松巌さんの絵も、五点、入っているんです。こんな嬉《うれ》しいことは、ありません。博多《はかた》の駅まで、それを、受け取りに行って来たんですよ」
職員は、嬉しそうに、いった。
十津川の表情が、険しくなった。
「その絵は、病室にも、飾るんですか?」
「小さな絵は、病室に、飾りますよ。患者の眼を楽しませることが出来ますからね」
「絵と一緒に、誰かついて来たんですか?」
「関係者の方が、何人か」
「その中に、平松貢が、いますか?」
「さあ、名前までは、知りま――」
職員が、いいかけるのを聞き流して、十津川は、飛び出すと、大声で、亀井たちを、呼んだ。
亀井と、日下、それと、清水の三人が、飛んで来た。
「平松が、来ている。絵をプレゼントするということで、病院に入ったんだ。すぐ、調べてみてくれ」
と、十津川は、大声で、いった。
十津川たちは、生方あけみの入っている三階に、階段を駈《か》けあがって行った。
白い服を着た男たちが、額に入った絵を運んでいるのにぶつかった。
「おい、そこの二人、顔を見せろ!」
と、若い西本が、怒鳴った。
びっくりした顔で、二人の男が、立ち止まって、こちらを見た。どちらも、平松ではなかった。
十津川たちは、306号室に突進した。
絵を持った二人の男が、ドアを開けようとしていた。
「待て!」
と、亀井が、怒鳴ったとたん、一人が、ドアを開けて、病室に、入り込んだ。
十津川たちは、あわてて、病室に飛び込んだ。
白い服の男が、手に持った絵を放《ほう》り投げ、ベッドに寝ていた生方あけみの、くびを絞めようとしていた。
「平松! 止めろ!」
と、十津川は、大声をあげた。
だが、男は、女の首を絞め続けている。
西本が、男に向って、飛びかかった。
男が、唸《うな》り声をあげた。続いて、日下が、体当りした。
男は弾《はじ》き飛ばされ、仰向《あおむ》けに、床に転がった。その歪《ゆが》んだ顔は、やはり、平松だった。
平松は、起きあがって、逃げようとする。それに、折り重なるようにして、手錠をかけた。
十津川は、ぜいぜい、喘《あえ》いでいる生方あけみに、
「大丈夫ですか?」
と、声をかけた。
あけみは、返事をせず、ただ、咳込《せきこ》んでいる。その背中を、なぜながら、
「誰か、医者を呼んで来てくれ」
と、十津川は、いった。
清水が、それを受けて、医者を呼びに、飛び出して行った。
亀井が、手錠をかけた平松に向って、
「彼女を、殺せると思ったのか?」
と、きいた。
「もう少しだったんだ」
平松が、初めて、声を出して、いった。そんないい方にも、彼の甘えが感じられて、十津川は、怒るよりも、苦笑してしまった。
十津川は、佐賀県警の了解をとって、平松を、すぐ、東京に連行した。
訊問《じんもん》は、東京でやりたかったからである。もちろん、大田垣が殺された事件の捜査は、熊本県警の所管だから、東京での訊問がすみ次第、熊本に、運ばなければ、ならない。
平松は、頑強だった。
それに、父親の平松巌が、早速、有名弁護士を警察に差し向けて来たし、警察の上層部にも、働きかけたようだった。
「取調べは、慎重にやるように」
という注意が、上の方から、十津川にされたのは、その証拠だろう。
平松は、生方あけみを、襲ったことさえ否定した。自分の所蔵していた絵を、あの病院に寄贈したのに、警察が、勝手に誤解して、不当逮捕したと、主張した。父親が傭《やと》った弁護士も、不当逮捕で、告訴すると、いった。
しかし、大西が、出頭して来て、パスポートのことを、証言してくれてから、少しずつ、状況が変って、いった。
大西は、三月十日に、頼まれて、自分のパスポートを、平松に貸し、まだ、返して貰っていないと、証言した。
これに対しても、平松は、否定した。が、少しずつ、元気がなくなっていくのが、十津川には、わかった。
あとは、聞き込みによる目撃者探しだった。
ソウル→福岡のJL便に、三月二十四日、平松が乗っていたという証言は得られなかったが、彼を、福岡空港から、JR博多駅まで乗せたというタクシーの運転手は、見つかった。
平松が、小林行夫のパスポートで、三月二十四日に、福岡に来たとすれば、同じパスポートで、韓国に、戻った筈である。
それを、調べた結果、翌、三月二十五日の一〇時〇〇分福岡発のKE(大韓航空)便で、帰っていることが、わかった。
こちらの便の日本人スチュアーデスが、平松の顔を覚えていてくれた。
彼女は、絵が好きで、平松貢の絵を一枚、持っていたのである。
「間違いなく、平松さんだと思ったのに、小林行夫という名前になっていたので、変だなと、思ったんです」
と、その日本人スチュアーデスは、十津川の電話による問い合わせに、答えてくれた。
令状を取って、平松の自宅の家探しも行ったが、この家探しで、いくつかの証拠を、つかむことも、出来た。
平松は、自信満々だったらしく、普通なら、焼き捨ててしまう証拠品も、部屋に、残していたのである。
小林行夫のパスポートも、平松の部屋から見つかった。警察が動かなかったら、何食わぬ顔で、そのパスポートを、大西に返しておくつもりだったのだろう。平松が、そんなパスポートは、見たこともないと主張していたので、これも、彼を追いつめる武器になった。
逮捕して、五日目に、平松は、急に、弱々しい眼になって、自供を始めた。
平松の自供は、ほとんど、十津川の推理した通りだったが、多少は、違っていた点もあった。
生方あけみのことは、単なる浮気ではなく、本当に、愛していたのだといったが、これは、自分の行動を、少しでも、弁護しようという、嘘かも知れなかった。
「嘘に決っていますよ。本当に愛しているんなら、殺そうとする筈がありませんからね」
と、亀井は、いった。
十津川も、亀井の言葉に、同感だった。平松は、犯行を認めたあとも、自分を甘やかしているのだ。
平松は、大田垣と、後藤を殺した動機について、次のように、自供した。
「僕は、絵が売れるし、人気がある。アンケートをとったら、中堅の画家の中では、僕が一番人気があったんだ。その人気を失いたくなかったんだよ。もし、三年前のことが、公表されてしまったら、人気は、ガタ落ちになってしまう。そんな事態には、耐えられないと、思ったんだ。それなのに、大田垣は、妙な自責の念から、あの事故を、むし返そうとした。自殺したと思っていた生方あけみが、生きていたのも、ショックだった。彼女は、記憶を失っているし、病院に入っているので、差し当って困ることはないが、大田垣には困った。良心的な画家が、一番困るんだ。だから、殺したんだ。そうしたら、今度は、後藤が、調べ始めたんだよ。彼もうるさい存在になったんで殺した。自分を、守るためだよ」
三月二十四日に、平松が、乗ったのは、「有明53号」だといった。
「大田垣に、おれも、生方あけみのことを、多少、知っていると匂《にお》わせておいたんだよ。あいつは、単純だから、三月二十四日の『有明53号』で、八代へ行く。そこの専門病院に、生方あけみが、入っているからだと、教えてくれたんだよ。だから、おれは、三月二十四日、同じ列車に乗り込み、強引に、熊本で降ろして、三角まで連れて行って、殺したんだ。あいつは、生方あけみが、治るまで、ずっと、見守っていくなんて、いうんだ。そうだとすると、いつか、おれの浮気のために、あの事故が起きたことがわかってしまうじゃないか。確かに、殺したのは悪いが、その原因を作ったのは、大田垣自身だったんだ」
と、平松は、いった。
勝手ないい分なのだが、平松の頭の中では、正当な主張なのだろう。
平松は、熊本県警でも、訊問を受けたあと、二つの殺人によって、起訴された。また、佐賀県警は、殺人未遂で、平松を、起訴した。
十津川たちは、一応、祝杯をあげたが、あと味の悪い事件だという感じは、なくならなかった。
「これで、生方あけみが、治ってくれると、少しは、気分がよくなりますがねえ」
と、亀井が、十津川にいった。
本書は、平成二年十一月、カドカワノベルズとして刊行されたものを文庫化したものです。
角川文庫『特急「有明」殺人事件』平成4年9月25日初版発行
平成9年4月30日13版発行