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特急「富士」に乗っていた女
西村京太郎
目 次
1 一枚の名刺
2 |衝 撃《シヨツク》
3 女を探せ
4 ゆすり
5 五百万円
6 過去への旅
7 一人の女
8 死への予測
9 窮地《きゆうち》に立つ
10 攻 撃
11 行方《ゆくえ》不明
12 遺 書
[#改ページ]
1 一枚の名刺
後になって考えると、最初の電話は、一か月ほど前だったと、十津川《とつがわ》は思う。
その時、警視庁捜査一課に掛って来た電話は、
「十津川警部という方が、いらっしゃいますか?」という女の声だった。
若い西本《にしもと》刑事から、受話器を受け取って、十津川が、出た。
「十津川ですが」
と、いうと、相手の女は、
「警部さんですか?」
「そうです。私に、何かご用ですか?」
「警部さんの部下に、北条《ほうじよう》 早苗《さなえ》という女の刑事さんが、いらっしゃいますか?」
と、相手が、きく。
(ああ、彼女のことを聞きたいのか)
と、十津川は、思いながら、
「おります。一年前から、こちらに配属になっていますが」
「どんな娘さんでしょうか?」
「ちょっと待って下さい」
十津川は、送話口を手で押さえて、北条刑事の机に眼をやったが、今日は、非番で休みだったのを思い出した。
「彼女のことを、なぜ、調べておられるんですか? 結婚調査か何かですか?」
と、十津川は、きいた。
北条早苗は、確か、今、二十六歳だった筈《はず》である。結婚話があっても不思議は、なかった。
「まあ、そんなところですわ」
と、女は、いった。
「美人で、性格のはっきりした女性ですよ。仕事にも熱心ですしね」
十津川は、結婚話なら、ほめておかなければと思い、あわてて、いった。
「独身であることは、間違いありませんわね?」
「もちろんです」
「北条さんは、眼の大きな、色の白い、背の高さは、百六十センチくらいの女の方ですわね?」
「そうです」
「それを聞いて、安心しましたわ。北条さんには、私が、警部さんに電話したことは、内緒にしておいて頂けませんでしょうか」
と、相手は、いった。
「なぜですか?」
「私どもが、早苗さんを疑っていると思われると、困りますから」
「しかし、私は、そちらの名前も知りませんがね」
「早苗さんに、幸福になって頂きたいと思っている者ですわ」
と、女はいい、電話を切ってしまった。
十津川は、首をかしげながら、亀井《かめい》刑事に、今の電話のことを、話してみた。
「そりゃあ、私立探偵社か、興信所《こうしんじよ》の人間ですよ」
と、亀井は、あっさり、決めつけた。
「そうかねえ」
「北条刑事がつき合っている男の両親が、探偵社か興信所に頼んで、彼女のことを、調べて貰《もら》っているんだと思いますよ。私の親戚《しんせき》でも、そういうことがありましたから」
「電話の主《ぬし》は、女だったがね」
「最近は、女性の調査員が、多いんです。特に、結婚調査の場合は」
と、亀井は、いった。
翌日、北条早苗が、出勤して来たが、十津川は、電話のことは、話さなかった。
その代り、喫茶室に誘って、
「君も、年頃《としごろ》だから、結婚話があるんじゃないのかね?」
と、きいてみた。
早苗は、特徴のある大きな眼を、ぱちぱちさせて、
「今は、仕事のことで、頭が一杯で、結婚のことなんか、考えられませんわ」
と、いった。
その時、十津川は、早苗が、照れ臭くて、否定したのだと、受け取った。
二十六歳の若い女である。つき合っている男がいないのが、おかしいのだ。男の側の両親にしてみれば、相手が刑事ということで、いろいろ考えて、調査を頼むのは、大いにあり得るのだ。
それから十日ほどして、同じ女の声で、電話が、掛った。
その時も、北条刑事は、非番で、休んでいた。
「先日は、早苗さんのことで、いろいろと教えて頂いて、ありがとうございました」
と、相手は、丁寧《ていねい》に、礼をいってから、
「刑事さんは、皆さん、名刺をお持ちなんですか?」
と、きいた。
「名刺?」
「ええ、早苗さんも、名刺を持っておられると思いますけど」
「持っている筈《はず》ですよ」
「警視庁刑事部捜査一課、巡査、北条早苗という名刺でしょうか?」
「肩書きは、そうなっていると思いますね。その名刺が、どうかしたんですか?」
と、十津川は、きいた。
「それなら、よろしいんです。どうも、ありがとうございます」
と、相手はいい、すぐ、電話を切ろうとする。
十津川は、あわてて、
「まだ、そちらの名前を聞いていませんがね。北条刑事の結婚調査だとすれば、どこの探偵社か、興信所か、教えて下さい」
と、強い声で、いった。
しかし、相手は、
「それは、ちょっと申し上げられませんわ」
と、いっただけで、電話を切ってしまった。
十津川は、腹立たしかったが、何といっても、部下の刑事の幸、不幸に関係してくることである。怒《おこ》ってばかりいても、仕方がないと思い直し、翌日、早苗が出勤してきたところで、今度は、電話のことを、話した。
早苗は、笑いながら聞いていたが、次第に、青ざめていって、
「大変な誤解ですわ」
と、十津川に、いった。
「誤解というと?」
「前にも申し上げましたが、今の私は、仕事のことで精一杯で、結婚のことなんか、考えられないんです。第一、そんなつき合いをしている人もいませんわ」
「しかし、全く男性とつき合いがないわけじゃないだろう? 君は、魅力的な女性だから、君が、何とも思っていなくても、相手が、熱をあげて、結婚したいと、考えているかも知れないよ」
「ありがとうございますが、いくら考えても、そんな相手の心当りがないんです」
早苗は、当惑した顔で、いった。
「君の知らないうちに、向うさんが、一目惚《ひとめぼ》れしたというやつかも知れないな」
と、亀井が、口を挟んだ。
「それで、どこの誰《だれ》だろうかと考え、探偵社か、興信所に、調べてくれと頼んだということかね?」
と、十津川が、いった。
「そうです。そういうケースが、考えられますよ」
と、亀井は、いってから、早苗に向って、
「君の住所は、確か|阿佐ケ谷《あさがや》だったね?」
「はい。地下鉄の南阿佐ケ谷近くのマンションです」
「すると、通勤は、地下鉄丸の内線か?」
「はい。南阿佐ケ谷から、|霞ケ関《かすみがせき》に出て、あとは、ここまで、歩いています」
「朝、乗る時間は、だいたい、決っているんだろう?」
「事件がなければ、いつも、ほとんど同じ時間に、乗っていますわ」
「多分、その電車で、君に一目惚《ひとめぼ》れした男がいるのさ。それで、探偵社か興信所に、身元を調べて貰《もら》うことにしたんだな」
「私のことを知りたければ、直接、聞けばいいのに」
と、早苗が、怒《おこ》ったような顔で、いった。
「最近は、気の弱い青年が、増えているようだからね」
と、亀井は、笑った。
「でも、私自身の知らない間に、自分のことが、あれこれ調べられているのは、不愉快ですわ」
早苗は、眉《まゆ》をひそめた。
「女調査員は、君の名刺のことも、いっていたよ。どこかで、手に入れたらしい」
と、十津川が、いうと、早苗は、
「私の名刺ですか?」
「君が、ここへ来てから一年になる。その間に、何枚ぐらいの名刺を、使っているかね」
「事件の関係者に、あとでこちらに連絡してくれるように頼む時に、渡したりしていますけど、せいぜい、五、六十枚だと思いますわ」
「各県警との懇親《こんしん》パーティの時にも、渡しているんじゃないのか?」
「はい。何人かの方と、交換したのは、覚えていますわ」
「調査員は、その中の一枚を、手に入れたらしいよ。名刺の肩書きが正しいかどうか、聞いていたからね」
と、十津川は、いった。
「何だか、気持が悪くて仕方がありませんわ」
早苗は、真剣な顔でいった。が、亀井は、笑いながら、
「君を見そめた相手は、ひょっとすると、とてつもない資産家の息子かも知れんよ。そのうちに、突然、君のマンションに、その両親が、ロールス・ロイスで乗りつけて来て、ぜひ、息子の嫁になってくれと頼むんじゃないかね。警視庁の刑事なら、身元もしっかりしているし、両親としては、安心だろうしね」
「それでも、不愉快ですわ」
早苗は、相変らず、眉をひそめていた。
そのあと、結婚調査の電話も掛らなくなったし、事件が続発したりで、十津川は、この話を忘れてしまった。
早苗も、何もいわなかった。
六月十四日のことである。
珍しく、早苗が、無断欠勤した。
午後五時近くに、彼女から電話があったが、十津川が、席を外していたので、西本《にしもと》刑事が受けた。
「あと、二日間、十五、十六日と、休ませて欲しいと、いうことでした」
と、西本が、いった。
「理由は、何だね?」
と、十津川は、きいた。身体《からだ》が悪いというのでもあれば、心配だからである。
「聞きましたが、いいませんでした。何か、急いでいる様子で、電話を切ってしまいましたが」
と、西本は、いう。
「おかしいね。理由もいわずに休んだりするのは」
十津川は、首をひねった。
病気なら病気というだろうし、友人と旅行するのなら、そういう筈《はず》である。頭もいいし、はっきりと、ものをいう女性なのだ。
気になって、十津川は、早苗の自宅マンションに電話をしてみたが、彼女は、電話口に出て来なかった。外出してしまったらしい。
「私が、帰りに、彼女の家に、寄ってみましょうか?」
と、西本が、十津川に、きいた。十津川が、心配そうな顔をしていたからだろう。
「そうだね。病気でいることはないと思うが、念のためだ。頼むよ」
と、十津川は、いった。
その日、十津川が、自宅で、妻の直子《なおこ》と、夕食中に、西本から、電話が、入った。
「今、北条君のマンションに、寄って来ました」
「どうだったね?」
「留守ですね。管理人に聞いてみたんですが、わかりません。急用が出来て、出かけたのかも知れませんが、行先は、不明です」
「彼女の郷里は、どこだったかね?」
「確か、福井《ふくい》だったと思いますが」
「郷里へ帰ったのかな?」
「それなら、帰って来ますと、いう筈《はず》なんですが」
と、西本は、いった。
「そうだな」
十津川は、よくわからないままに、電話を切った。
「何か、心配ごとですか?」
と、妻の直子が、きいた。
「北条という女性刑事のことでね」
十津川は、早苗のことを、話した。
「しっかりした娘で、理由もいわずに、三日間も、休みを取るのは、おかしいんだ。それで、何かあるんじゃないかと思ってね」
「結婚のお話があるんでしょう?」
「それは、どこの誰《だれ》かわからないが、勝手に、探偵社か興信所を使って、彼女のことを、調べていたんだよ。北条君も、怒《おこ》っていたがねえ」
と、十津川が、いうと、直子は、ニコニコ笑って、
「でも、本気で怒っていたかどうかは、わかりませんよ」
「そうかね」
「年頃《としごろ》の女は、いくつ結婚話があっても、嬉《うれ》しいもんですよ。早苗さんも、内緒《ないしよ》にしていた結婚話が、急に具体化して、相手の方の両親に、会いに行ったんじゃありませんの?」
「そんな目出たい話なら、なぜ、内緒にしているのかな?」
「それは、あなたに、今は仕事のことしか考えていませんと、いってしまった手前があるからじゃないかしら? そのうちに、一身上の都合で、退職したいって、いってくるかも知れませんよ」
直子は、楽しそうに、いった。
確かに、年頃の女性というのは、そんなものかも知れないと、十津川は、半分、直子の言葉に肯《うなず》きながら、半分、納得《なつとく》できずにいた。
十津川も、四十歳である。二十代の若い女性の気持がよくわかるとは、いい難い。しかし、北条刑事が、捜査一課に来て一年が、過ぎている。
いくつかの事件で、一緒に働いて、彼女の性格も、かなりわかっているつもりだった。
結婚調査の話をしたときの彼女の反応は、嬉しさを隠して、照れている感じではなかった。
本当に、戸惑《とまど》い、腹を立てているように、見えたのである。全く、覚えがないという感じだった。
そんな相手と、急に話が進んで、男の両親に会いに行ったりするものだろうか?
「まだ、心配なんですか?」
と、直子が、きいた。
「考え過ぎならば、いいんだがね」
と、十津川は、いった。
この時、六月十四日の午後七時十六分だった。
同じ頃《ころ》、十四両編成の下り寝台特急「富士」は、次の停車駅の熱海《あたみ》に向って、走り続けていた。
A個室寝台一両、ロビー・カー一両、食堂車一両、あとの十一両は、B寝台である。
1号車から6号車までは、宮崎行、残りは、大分行になっていた。
乗車率約五十パーセントで、一八時二〇分に、東京駅を発車した「富士」は、大分《おおいた》に、翌日の一〇時五九分、宮崎には、一四時二九分に着く。
一九時四〇分。熱海。
まだ、誰《だれ》も眠っている者はなく、8号車の食堂車は、乗客で、賑《にぎ》わっていた。食堂車へ行かずに、ベッドに腰を下し、駅弁を食べている乗客もいる。
カメラを持って、車内を歩き廻《まわ》っているのは、鉄道マニアの少年だろう。
若いグループは、トランプをしたり、お互いに、写真を撮り合ったりしている。
缶ビールを飲んでいる中年の男の乗客もいた。
いつもの夜行列車の風景である。
車掌長の保井《やすい》は、ゆっくりと、車内を見て廻りながら、今日も、終点まで、何事もなければいいがと、思っていた。
保井は、国鉄時代から数えて、三十年近く、鉄道で働いて来た。その間、いろいろなことがあった。車内で、爆弾が見つかったこともあるし、発電機が焼けて、大さわぎになったこともある。乗客の一人が、途中で、出産して、手当てに、追われたのは、楽しい思い出だった。その時は、あとから、母親になった乗客から、礼状が、来た。
しかし、一番いいのは、何ごともなく、運行されることである。
沼津  一九時五八分
富士  二〇時一三分
静岡  二〇時四〇分
浜松  二一時三六分
と、列車は、駅を拾って行く。窓の外は、次第に、暗さが深くなっていった。
二二時四六分に名古屋に着いた。ここは、四分停車である。
二二時五〇分に、名古屋を発車すると、あとは、翌日の午前三時五八分に福山に着くまで、「富士」は、停車しない。
実際には、機関士の交代などで、途中で停車するのだが、乗客の乗り降りは出来ない。
(間もなく、最後の車内放送の時間だな)
と、保井が、自分の時計に眼をやった時、乗務員室のドアが、ノックされた。
ドアを開けると、若い女性が、立っていた。
二十五、六で、うすいサングラスをかけている。
「お願いがあります」
と、女は、いってから、
「私は、こういうものです」
と、名刺を、差し出した。
〈警視庁刑事部捜査一課 巡査 北条早苗〉
と、印刷された名刺だった。
「刑事さんですか」
保井は、びっくりして、女の顔を見直した。女刑事か、と思いながら、
「どんなことですか」
「私は、人を探しています。この列車に乗っている筈《はず》なんです」
「そういわれましてもねえ」
「名前は、山野辺宏《やまのべひろし》ですわ」
「そういわれましても、顔立ちや、背格好が、わかりませんとね」
と、保井は、いってから、
「車内放送をしましょうか? まだ、十一時までに、少しありますから」
「車内放送して頂けます?」
女刑事、北条早苗は、ほっとした顔で、きいた。
「やりましょう。山野辺さんというのは、どこの方ですか?」
「東京の世田谷《せたがや》に住んでいる男の人ですわ」
「わかりました。北条さんのところへいくようにいえばいいですか?」
保井は、名刺を見ながら、きいた。
「いえ。私が待っているというと、現われない恐れがあるので、他《ほか》のいい方をして下さい。そうですわね。東京の女性が、待っているといって下さい。場所は、7号車のデッキがいいですわ」
「わかりました。そういいましょう」
と、保井は、いった。
北条早苗が、7号車の方に、戻って行ったあと、保井は、机に向って、座り直してから、マイクに向った。
〈東京世田谷の山野辺さま。東京の女の方が、7号車のデッキで、お待ちになっています。すぐ、連絡して下さい。東京世田谷の――〉
と、保井はマイクに向って、繰り返した。
(山野辺宏というのは、どんな男なのだろう?)
保井は、興味を感じた。
女刑事が、会いたいといっていたから、彼女の恋人だろうか?
いや、恋人なら、自分で、探すのではないか?
それに、刑事であることを隠して、車内放送をしてくれと、いっていた。ひょっとすると、山野辺は、何かの事件の容疑者で、北条早苗という刑事は、彼を追って、この列車に乗って来たのかも知れない。
保井は、そんなことを考えたが、それを、確かめようがない。
それに、そろそろ、午後十一時になっていた。
保井は、もう一度、マイクに向うと、今日最後の車内放送を行った。
〈明朝まで、ゆっくりお休み下さい〉
という言葉で結んで、保井は、マイクのスイッチを、オフにした。
車内の明りも、小さくした。
そのあと、保井は、13号車の乗務員室を出ると、専務車掌の三浦《みうら》と一緒に、車内を、見て廻《まわ》った。
最後尾の14号車から、先頭の1号車に向って、通路を、歩いて行く。
たまに、まだ起きていて、缶ビールを飲んだりしている乗客もいるが、たいていは、もう、カーテンを閉《し》め、軽い寝息をたてていた。
13号車の十四の個室は、全部、ふさがっていたが、どの部屋のカーテンも閉まっているから、寝てしまったのか。
7号車のところまで来ると、女刑事のことを思い出して、保井は、三浦に、その話をした。
「どうなったか、何となく、気になってね」
と、保井は、7号車のデッキに立って、見廻したが、もちろん、もう、誰《だれ》もいなかった。
「呼び出した山野辺というのが、どんな男なのか、興味があるね」
と、三浦が笑顔で、いった。
「犯人を追いかけているという感じでもなかったんだがね」
「婦人警官の、ひそかな恋かな」
「そうだと、楽しいんだがね」
と、保井は、いった。
途中で、もう一人の専務車掌と、一緒になった。
「1号車から5号車まで、異状なし」
と、彼が、いった。
列車は、順調に、走り続けている。
保井は、13号車の乗務員室に、戻った。
(今のところ、何事もなく、すみそうだ)
と、保井は、ほっとした。女刑事の呼び出しも、別に、事件というわけではあるまい。あれが、事件なら、何か、騒ぎが起きている筈《はず》だ。
午前三時五八分、福山。
まだ、外は暗く、ここでは、降りる客もなかった。
三原《みはら》あたりで、ようやく、窓の外が、明るくなってきた。
眠くなってくる頃《ころ》である。保井は、顔を洗って、眠気をさました。
五時二五分、広島着。もう、完全に、夜が明けている。
何人かの乗客が、朝の広島駅のホームに降りて行った。
更に、一時間近く走って、柳井《やない》駅に着く。
この頃になると、どの車両でも、乗客が、起き出して、顔を洗い、服を着がえている。
そんな7号車で、突然、悲鳴が、あがった。
7号車は、二段式のB寝台である。
その端に近い16の下段の寝台で、ワイシャツ姿の男が、死んでいたのである。
駆けつけた車掌長の保井は、白いワイシャツの背中が、血で染っているのを見て、青ざめた。
(落ちつくんだ)
と、自分にいい聞かせ、だらりと、垂れ下っている男の腕をつかみ、脈をみた。
止ってしまっている。
死んでいるのだ。
五、六人の乗客が、のぞき込んでいる。
「次の駅で、連絡をとってくれ」
と、保井は、専務車掌の三浦に、いった。自然と、甲高《かんだか》い声になってしまっている。自分の声とは、思えなかった。
下関《しものせき》駅で、鉄道警察隊と、山口県警の刑事が、乗り込んで来た。
刑事たちは、血まみれの男の身体《からだ》を、引っくり返し、寝台の隅にたたんであった背広を取りあげた。
保井の眼には、冷静というより、冷酷に見える作業だった。きっと、死体など、見なれているのだろう。
刑事の一人は、男の背広のポケットから、運転免許証を見つけ、その写真と、死体の顔を見比べた。
「本人だね」
と、その刑事が、短くいった。
「東京の人間か」
もう一人の刑事が、免許証を、のぞき込んだ。
「東京都世田谷区|成城《せいじよう》だ。名前は、山野辺宏、三十歳」
と、刑事が、読みあげるように、いった。
(山野辺?)
保井は、その名前に、記憶がある。彼が、「あれ?」という表情をしたのを、刑事は、見逃さずに、
「何か、心当りでも?」
と、きいた。
保井は、昨日、女刑事から、呼び出しを頼まれたことを、話し、北条早苗の名刺を、相手に見せた。
「警視庁の刑事がねえ」
と、中年の刑事は、小鼻にしわを寄せてから、
「この女刑事は、まだ、この列車に、乗っているんですか?」
と、保井に、きいた。
「さあ、わかりませんが」
「じゃあ、呼び出してみて下さい」
と、相手は、いった。
下関は、五分停車である。その間に、死体は、担架にのせられて、ホームにおろされ、山口県警下関署の刑事二人が、車内に残った。
列車は、関門《かんもん》トンネルに向って、走り出した。
保井は、マイクに向って、北条刑事に、呼びかけた。
すぐ、7号車に来て下さいという呼びかけである。
だが、なかなか、北条早苗は、現われなかった。
列車は、そうしている間にも、門司《もじ》に着き、次の小倉《こくら》に、停車して行く。
「来ないね」
「もう降りてしまったんじゃないのか」
「第一、この名刺も、インチキかも知れん」
二人の刑事は、そんな会話をしていた。
保井は、彼等に向って、恐る恐る、
「今、思い出したことがあるんですが――」
と、声をかけた。
「何ですか?」
「A個室の1号室に、確か、あの女刑事さんが、いたような気がするんです」
「間違いありませんか?」
「念を押されると困るんですが、確か、1号室の乗客が、あの人だったような気がするんですよ」
「切符は、どこまでです?」
「確か、大分までの切符を、持っていらっしゃったと思いますが」
「それなら、なぜ、呼び出しに応じて、出て来なかったんだろう?」
刑事が、恐《おこ》ったような声を出した。
「とにかく、A個室の1号室に、行ってみようじゃないか」
と、もう一人の刑事が、いった。
二人の刑事と、保井が、13号車の通路に入った。
十四ある個室のうち、半分ほどは、もう、乗客が降りてしまっている。
1号室は、ドアが閉《し》まり、ドアについている窓も、カーテンが、閉まっていて、中は、見えない。
保井が、ドアをノックして、「お客さん」と、呼んだが、返事はなかった。
保井が、マスターキーで、ドアを開けた。
狭い個室の、ベッドの上に、若い女が、横になっているのが、見えた。
白いワンピースのまま、寝ているのだ。床《ゆか》に、サングラスが、転がっている。
刑事が、女の肩の辺《あた》りを、ゆすったが、彼女は、起きる気配《けはい》がない。
「どうしようもないな」
と、もう一人の刑事が、顔をしかめ、洗面台の上に置いてあるハンドバッグを、調べ始めた。
運転免許証や、身分証明書、それに名刺などが、出て来た。
「間違いなく、警視庁捜査一課の北条早苗巡査だよ」
「これは――」
と、片方の刑事が、押し殺した声でいい、床の隅にあった紙袋を拾いあげた。その紙袋に、血がついていたのだ。
中にあったのは、刃の長さが、十二、三センチのナイフだった。
革の鞘《さや》に入っているのを、刑事は、慎重に、抜いてみた。
明らかに、刃の部分に、血がついていた。
「この女に間違いないですか?」
と、刑事は、保井を見た。
「確か、この人でした。この人が、殺したんですか?」
保井は、ふるえる声で、きいた。
「まだ、はっきりしたことは、わかりませんがね」
と、刑事は、いい、溜息《ためいき》をついた。
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2 |衝 撃《シヨツク》
警視庁捜査一課は、激しい衝撃を受けた。
一課の北条早苗《ほうじようさなえ》刑事が、山口県警|下関《しものせき》署で殺人事件の重要参考人になっていると、知らされたからである。
知らせを受けたのが、午前九時五十分。
十時三十分には、十津川《とつがわ》と亀井《かめい》が、警視庁を出て、下関に向っていた。緊急を要したからである。
上層部が、何よりも恐れたのは、マスコミに、どう報道されるかということだった。
現役の刑事が、殺人犯と報道されたら、警察の威信が、地に墜《お》ちてしまう。と、いって、殺人容疑となれば、下関署の捜査に、手ごころをというわけにもいかなかった。
何よりも、まず、真相を知ることが、必要だった。
下関署の電話では、北条刑事は、黙秘を続けているらしい。
二人は、福岡まで、飛行機を使い、博多《はかた》から、新幹線で、下関に戻ることにした。それが、もっとも早く、現地に着けると計算したのである。
羽田を一〇時五〇分発福岡行のJALに乗った。
水平飛行に移ったところで、亀井が、
「北条刑事のことで、最近、何回か、警部に電話があった。あれは、今度の事件に、関係ないでしょうか?」
と、十津川に、きいた。
「私も、あの電話のことを、考えていたんだよ」
「確か、北条刑事の結婚話のことでしたね?」
「そうだ。探偵社か興信所が、北条君のことを、問い合せてきたよ」
「特急『富士』の車内で殺されたという男が、その相手だとすると、北条刑事には、不利ですね」
と、亀井は、心配そうに、いう。
「彼女に限って、相手を殺すようなことは、しない筈《はず》だよ。いや、出来ない筈だ。ひょっとすると、彼女は、何かの罠《わな》にはめられたのかも知れないな」
と、十津川は、いった。
「罠ですか」
と、亀井は、呟《つぶや》いたが、よくわからないという表情になっていた。
十津川だって、罠かも知れないと思っても、具体的に、それが、どんなものか、見当もつかないのだ。
一二時三〇分に、福岡空港に、着く。
空港から、タクシーを飛ばし、一三時〇四分の「こだま542号」に、乗ることが、出来た。
三十分余りで、新下関に着いた。
駅には、下関署の白井《しらい》という警部が、迎えに来てくれていた。
三十代の若い警部である。
「正直にいって、こちらでも、困惑しています。何といっても、現役の刑事が、関係していますので」
と、白井は、いったが、本当に、困惑しているかどうか、わからなかった。この事件を、面白《おもしろ》がっている気配《けはい》も、見えるからである。
「彼女は、どうしていますか?」
十津川が、きくと、白井は、パトカーに案内しながら、
「何も喋《しやべ》りません。それで、こちらとしては、困っています。何か話してくれれば、対策の立てようもあるんですが」
「彼女は、怪我《けが》をしていますか?」
と、十津川は、きいた。
「怪我はしていませんが、睡眠薬を多量に飲んでいて、しばらく、意識が、もうろうとしていました。もう大丈夫ですが」
「殺人を犯して、自殺を図ったと、みているわけですか?」
と、亀井が、きいた。
「いや、われわれは、そうは思っていませんが、新聞は、そう書くでしょうね」
「殺された男と、北条刑事とは、関係があったんですか?」
十津川は、眉《まゆ》を寄せて、きいた。
「その件ですが、向うで、お見せしたいものがあります」
と、白井が、いった。
下関署には、「寝台特急富士殺人事件捜査本部」の貼紙《はりがみ》がしてあった。
白井警部は、引出しから、一通の手紙を取り出して、十津川の前に置いた。
「これは、北条早苗さんのハンドバッグに入っていたものです。封が切ってありましたので、われわれも、中身を、読ませて貰《もら》いました。それを、お読みになれば、被害者と、北条刑事との関係が、わかりますよ」
と、白井は、いう。
十津川は、黙って、封筒を手に取った。
表には、「北条早苗様」と、書かれ、速達になっていた。住所も、間違っていない。
差出人の名前は、「東京都|世田谷《せたがや》区|成城《せいじよう》、山野辺宏《やまのべひろし》」になっていた。
「この男が、被害者ですか?」
と、十津川は、中の手紙を、抜き出しながら、白井に、きいた。
「そうです。所持していた運転免許証から、身元は、わかりました」
と、白井が、いう。
十津川は、手紙に、眼を通した。
〈早苗さん、
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
あなたと知り合って、一か月になりますが、好きだという気持は、強くなるばかりです。
あなたが、警察官だということも、心配ではありますが、僕の愛情のさまたげにはなりません。
結婚については、考えたいと、おっしゃっていましたが、僕としては、一刻も早く、あなたを、自分のものにしたいのです。
決心してくれませんか。絶対に、あなたを幸福にする自信があります。精神的にも、経済的にもです。六月十四日、僕は、寝台特急「富士」で、大分に行きます。前にも話しましたが大分は僕の故郷で、両親の墓があります。十五日が、母の命日なので、できれば、僕と一緒に行ってくれませんか。僕が、どんな所で生れたか見て欲しいのです。
個室寝台の切符を同封しておきます。個室寝台が、一枚しか買えませんでしたので、僕は、B寝台にいます。
列車で、お会い出来るのを楽しみにしています。是非《ぜひ》、来て下さい。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]山野辺 宏
早苗様〉
十津川は、その手紙を、黙って、亀井に渡した。
「それで、二人の関係は、はっきりしたと、思いますが」
と、白井警部が、いう。
確かに、わかったが、それでも、十津川は、慎重に、
「彼女に、話を聞いてみませんとね」
「しかし、列車の専務車掌も、証言しているんです。北条刑事が、乗務員室に来て、車内放送で、山野辺宏という人を、探して下さいと、頼んでいるんです。この列車に、乗っている筈《はず》だからと、いってですよ。自分の名刺も、車掌に渡しています。だから二人が、あの列車で、落ち合うことになっていたのは、間違いありませんよ」
と、白井は、いった。
「もし、彼女が、山野辺という男が殺されているのを知らずに探していたとすれば、彼女が、無実であることの証拠とは、いえませんか?」
十津川は、きいてみた。
「そうも考えられますが、意地悪く見れば、自分で殺しておいて、わざと、探しているように見せかけたということも、あるわけです。新聞は、そう書くと思いますね」
と、白井は、いった。
十津川は、亀井と一緒に、北条早苗に、会った。
まだ、青白い顔だった。白井警部が、出て行って、部屋に、三人だけになると、早苗は、
「申しわけありませんでした」
と、二人に、頭を下げた。
「詫《わ》びる必要はないよ。何があったのかを、話してくれれば、いいんだ」
十津川は、優《やさ》しく、いった。
「列車の中でのことは、よく覚えていないんです。車掌さんに、車内放送のことを頼んで、自分の個室に戻ったんですが、そのあと、缶ジュースを飲んだら、急に、眠くなってしまいました。多分、誰《だれ》かが、睡眠薬を、入れておいたんだと思います」
「その缶ジュースは?」
「東京駅の売店で買ったものですわ。少し飲んで、車掌室へ行ったんです」
「その間に、誰かが、君の部屋に入って、その缶ジュースに、睡眠薬を入れたのか?」
「はい。そう思います」
「その時、ドアのカギは、かけなかったのかね?」
「車内放送の結果、山野辺さんが来るといけないので、ドアは、開けて、缶ジュースを、飲んでいました」
「君と、山野辺宏という男とは、どんな関係なんだ?」
と、亀井が、きいた。
「関係ありません」
早苗は、きっぱり、いった。
「しかし、この手紙が、君のハンドバッグに入っていたし、君は、『富士』の中で、山野辺宏を探していた。それでも、関係ないというのかね?」
と、十津川が、きいた。
「一か月前から、大学時代の友人が、電話で、いよいよ、結婚するみたいねって、いうんです。おかしいなと思っていたら、興信所のようなところから、結婚調査だといって、私のことを、友だちに聞いて廻《まわ》っていることが、わかりました」
と、早苗は、いった。
「私のところにも、君のことを聞く電話があったんだね。丁度、君が、休みをとっていた時だ」
十津川が、いった。
「そうでした」
「てっきり、私としては、君も年頃《としごろ》だから、結婚話が持ち上っているんだと思っていたんだがねえ」
「違うんです。それでも、最初は、私の親戚《しんせき》か友人が、勝手に、私の相手を探してくれているんだと思いました。世話好きの親戚もいますし、お節介《せつかい》な友人もいますから」
「それも、違っていたのかね?」
と、亀井が、きく。
「ええ。突然、夜中に、男の人から、電話が掛って来たんです。早苗さん、今日は悪いことをしてしまった。お詫《わ》びの印に、バラの花を送っておいたといって」
「相手は、自分の名前をいったのかね?」
「私が、どなたですかって聞いたら、ヤマノベだよ。怒《おこ》っているのはわかっている。本当に、今日は、僕が悪かったというんです。いくら、私が、知りません、人違いですといっても、その男の人は、ケンカをしたので、私が、わざと、冷たく振る舞っていると思い込んでいるんです」
「バラの花は、届いたのかね?」
「はい。翌日、帰宅したら、届いていました。『お詫びの印に、山野辺』と書いたメッセージカードがついていましたわ」
「同姓同名の女性が、その山野辺宏とつき合っていて、彼が、彼女と、君を間違えて、電話して来たということかね?」
「そうじゃないかと思いました。でも、そのうちに、また電話して来て、今日は、すっぽかされたが、やっぱり、警視庁の捜査一課にいると、事件が、突発《とつぱつ》して、出られなくなるんだろうねって、いうんです」
と、早苗が、いった。
「すると、どこかの女が、君になりすまして、山野辺という男と、交際しているということになるんだね?」
「そう思いました。変ないい方ですけど、私のニセモノがいるんです。警部に、お話ししようと思ったんですが、私個人のことですし、自分で解決したいと、思いました。そんな時、その手紙が来て、『富士』の切符が、同封されていたんです」
「なるほどね。列車の中で、山野辺宏をつかまえて、自分のニセモノのことを、聞いてやろうと、思ったんだね?」
「はい。それに、ひょっとすると、同じ列車に、私のニセモノも、乗っているかも知れないとも思いました。きっと、私とよく似た顔の女だと思っています。興信所の電話で、そんなことを、いっていたそうですから」
「確かに、私のところへ掛けて来た相手も、北条早苗さんというのは、身長百六十センチくらいでと、君のスタイルそのままを、いっていたから、よく似た女だと思うね」
と、十津川は、いった。
「それで、三日間、休暇を頂いて、『富士』に乗ってみたんですけど、こんなみっともないことになってしまいまして、申しわけありません」
と、早苗は、また、頭を下げた。
「これで、事情が、呑《の》み込めてきたよ」
と、十津川が、いい、亀井は、
「多分、君は、罠《わな》にはめられたんだよ」
と、いった。
「誰《だれ》が、私を、罠にはめたんでしょうか?」
「それは、決ってるさ。山野辺宏という男を、殺したいと思っていた人間だよ」
と、亀井が、いった。
「じゃあ、山野辺宏の周辺を調べていけば、犯人が、浮んで来ますね。それは、私に、やらせて下さい」
早苗が身体《からだ》を乗りだすようにして、いった。
「その気持は、わかるがね。今、君は、重要参考人として、この下関署に、連れて来られているんだ。私や、カメさんは、君が、犯人とは思っていないが、ここの警察は、そうじゃない」
と、十津川が、難しい顔で、いった。
「わかります」
と、早苗が、肯《うなず》く。
「少し、辛抱していたまえ。すぐ、真犯人を捕えて、君の疑いを、晴らしてやる」
亀井が、軽く、早苗の肩を叩《たた》いて、励ました。
だが、十津川と、二人だけになると、
「簡単に、いきそうにありませんね」
と、亀井は、いった。
「そうだね。形の上では、結婚話のもつれで、彼女が、相手を、殺してしまったことになっているからね」
と、十津川も、いった。
二人は、下関署を出ると、近くの食堂で、夕食をとることにした。
食べながら、やはり、事件の話になっていく。
「殺された山野辺宏ですが」
と亀井は、箸《はし》を動かしながら、
「彼は、北条君のニセモノに、会って、恋をしたわけです」
「そうだ」
「そのニセモノは、恐らく、北条君に、よく似ているんだと思いますね。よく似ていて、美人で、魅力のある女の筈《はず》です。だから、山野辺宏は、引っ掛ってしまったんでしょう」
「それに、名刺のことがある。そのニセモノは、山野辺に、名刺を渡したんだ。その名刺の通り、捜査一課には、北条早苗という刑事がいたので、すっかり、信用してしまったんだろう」
「とすると、北条君が、名刺を配った人間の一人が、今度の事件に、関係している可能性もありますね」
と、亀井が、いった。
「或《ある》いは、何かの事情で、彼女の名刺を手に入れた人間がということだな」
と、十津川が、いう。
「北条君が、利用されたのは、偶然でしょうか?」
「そうじゃないと、思うね」
「と、いいますと?」
「北条君によく似た女が、実在する。これは、カメさんもいうように、間違いないんだ。北条君を利用するために、わざわざ、彼女に似た女を探したとは、思えない。大変な作業だからね。だから、逆だったと思うんだよ」
「まず、初めに、よく似た女が、いたということですね?」
「そうさ。犯人の近くに、若くて、魅力的な女がいた。その女が、きっと、何かの時に、北条君に間違われたんだ。そこで、北条刑事というのは、どんな女なのかに、興味を持った。調べてみると、本当に、よく似ている。そこで、犯人は、それを利用して、山野辺宏を、殺すことにしたんだ」
「北条君が、寝台特急『富士』に、乗ってくることは、わかっていたんでしょうか?」
「計算していたと思うね」
と、十津川は、いった。
「どんな風にですか?」
「私が、犯人なら、こうやるね」
と、十津川は、いい、自分の推理を、話した。
北条早苗に似ている女に、北条刑事の名刺を持たせ、山野辺に、接近させる。
魅力的な若い女の方から、声をかけられて、山野辺は、彼女に、参ってしまったのだろう。
その一方で、犯人は、興信所に、結婚調査を依頼する。秘密のうちに、北条刑事を、調べてくれと、頼むのだ。
調査が始まると、いやでも、北条早苗の耳に、入ってくる。もちろん、犯人は、それを、狙《ねら》ったのだ。
早苗は、まさか、殺人計画が、立てられているとは知らないから、自分と同じ名前の女がいて、彼女と間違えられているらしいと、思う。もう一人の北条早苗は、自分によく似ていて、現在、結婚話が、進んでいるようだと思う。
どんな女なのだろうかと、興味を持つのは、自然である。
そんな時、山野辺宏から、ラブ・レターが、早苗に届いた。恐らく、少し前に、ニセモノが、自分の住所といって、早苗の住所を教えたのだろう。
ラブ・レターの中に、一緒に、「富士」に乗ってくれないかと書かれ、個室寝台の切符が入っていたので、早苗は、乗ってみることにした。
乗れば、自分によく似た同姓同名の女性に会えるだろうと、思ってたに違いない。犯人が、仕掛けた罠《わな》とも知らずにである。
「北条君も、やはり、若い女だということですかねえ」
と、亀井が、いった。
「どういうことだい?」
十津川が、亀井の言葉の意味がわからなくて、きいた。
「彼女は、頭のいい女性です。普通なら、当然、疑いを持つ筈《はず》なのに、やすやすと、引っ掛ったのは、結婚話が絡《から》んでいると思ったからでしょう。若い女性だから、自然に、甘くなったんだと、思いましてね」
「なるほどね。北条君も、年頃《としごろ》で、結婚に関心があるので、甘くなったか」
と、十津川は、いい、微笑した。
十津川は、亀井を、下関に置いて、東京に帰ることにした。
殺された山野辺宏のことを、調べる必要があったからである。
しかし、東京に着いて、最初に、十津川が眼にしたのは、今度の事件を報じた新聞の見出しだった。
〈寝台特急「富士」の車内で殺人事件
容疑者は、現職の婦人警官か?〉
早苗の名前こそのっていないものの、大きな見出しだった。
警視庁刑事部捜査一課の刑事と、具体的に書いた新聞もある。
(参ったな)
と、思う一方、
(早く解決しないと、もっと、まずいことになる)
とも、思った。
捜査一課に帰ると、まず、本多《ほんだ》一課長に、報告した。
「すると、北条刑事は、罠にかけられたということか?」
と、本多は、少しは、ほっとした表情になった。
「間違いありません」
「しかし、彼女が『富士』に乗ってしまったのは、軽率だったねえ」
「それは、本人も反省しています。何とかして、真犯人を見つけ出したいと思っているんですが」
「見つかるかね?」
「見つけます」
と、十津川は、いった。
本多への報告をすませた十津川は、西本刑事を連れて、世田谷区成城に出かけた。
殺された山野辺宏は、ここのマンションに住んでいた。
成城という地名から、豪華マンションを、想像していたのだが、実際に来てみると、中古のマンションで、賃貸だという。
「全室2Kで、部屋代は、十万円ですよ」
と、管理人が、いった。
六畳、三畳の二部屋だった。
十津川と、西本は、五階にある山野辺宏の部屋にあがって行った。
あまり、調度品のない部屋だった。
ただ、テレビだけは、二五インチの大きなもので、外国映画のビデオが、並んでいた。ビデオで、映画を見るのが、楽しみだったのか。
「これを、見て下さい」
と、西本が、机の上に飾ってあった写真を、十津川に、見せた。
婦人警官が、写っていた。
制服姿である。なるほど、北条早苗によく似ている。
「これが、ニセモノか」
と、十津川は、呟《つぶや》いた。
「そっくりですよ」
西本が、強調した。
「山野辺さんは、何をしていた人かね?」
と、十津川が、管理人に、きいた。
「どこかの電気会社に勤めていると、聞いたことがありますよ。N電気だったかな。間もなく係長になるんだと、いっていましたね」
「技術かね?」
「いえ、普通のサラリーマンですよ」
と、管理人は、いった。
「家族は?」
西本が、きいた。
「おひとりですよ」
「そうじゃなくて、兄弟とかのことだよ」
「ご両親は、もう、亡くなっていると聞いたことがありますよ。兄弟のことは、知りません」
あまり、関心がないという顔で、管理人が、いった。
どうやら、山野辺宏は、管理人に、好かれていなかったらしい。つき合いが、悪い方だったのかも知れない。
十津川は、部屋の中の電話を使って、N電気に、連絡してみた。
間違いなく、N電気の東京本社、管理部厚生課に、山野辺宏という職員がいるということだった。
上司の青木《あおき》という厚生課長に、電話に出て貰《もら》うと、
「やはり、山野辺君だったんですか」
と、青木は、溜息《ためいき》をついた。
「富士」の車内で殺された男の名前が、課員の山野辺と同じなので、ひょっとしたらと、心配していたのだという。
「これから、下関へ行って来ます」
とも、青木は、いった。
「その前に、警視庁へ寄って頂けませんか」
と、十津川は、頼んだ。
十津川たちが、警視庁に戻ってすぐ、青木課長が、訪ねて来た。
「とにかく、びっくりしました」
と、青木は、眼鏡《めがね》の奥の眼をぱちぱちさせた。
「どんな人でしたか?」
十津川が、きく。
「目立たないが、真面目《まじめ》ないい青年でしたよ。少し出世がおくれていましたが、次の人事異動では、係長になることが、決っていたんです。本人から聞いたところでは、結婚話もあるとかで、めでたいなと、思っていたんですがねえ」
「他人《ひと》に、憎まれるようなことは、なかったですか?」
と、十津川が、きくと、青木は、
「そんな人間なら、もっと早く、係長になっていますよ」
「前に事件を起したことは、ありませんか?」
「聞いていませんね、そういうことは」
「郷里は、大分だということですが――?」
「そうです。今度も、母親の命日ということで、休暇を取ったんです。確か、去年の今頃《いまごろ》、母親が亡くなったと、いっていましたね」
「兄弟は、いないんですか?」
「兄さんがいた筈《はず》ですよ、東京に」
と、青木は、いった。
「他《ほか》には?」
「妹さんもいるが、この人は、結婚して、今、アメリカにいるんじゃなかったかな」
「大分の家は、資産家だったんですかね?」
「さあ、わかりませんが――」
と、青木は、いった。
「山野辺さんは、結婚の話を、どんな風に、青木さんに、話していたんですか?」
「なんでも、通勤の電車の中で、若い女に、足を踏まれて、それが、きっかけで、知り合ったんだって、いってましたねえ。ああ、彼女の写真を見せられましたよ。婦人警官の」
「なるほど」
「美人でしたよ」
と、青木は、いってから、急に、眉《まゆ》をひそめて、
「新聞に出ていましたが、山野辺君を殺したのは、あの婦人警官なんですか?」
「いや、違いますよ」
と、十津川は、いった。
「しかし、新聞には、婦人警官が、犯人だと出ていましたよ」
「まだ、決ったわけじゃありません」
「やはり、身内《みうち》は、可愛《かわい》いですか?」
急に、皮肉な眼になって、青木は、十津川を見た。
十津川は、わざと、わからないという顔をして見せた。
「身内って、何のことですか?」
「仕方がありませんね。私だって、うちの社員に、犯人がいても、隠そうとするでしょうからね」
と、青木は、いった。
「隠しは、しませんよ。ただ、まだ、証拠がないということなんです」
「しかし、警部さん。山野辺君は、他人《ひと》に恨まれるような人間じゃありませんよ。それに、最近は、あの婦人警官に、夢中だったみたいですからねえ。殺されるとしたら、彼女以外には、考えられませんがね」
と、青木は、決めつけるようないい方をした。
彼が、これから、東京駅へ行くといって、帰ったあと、十津川は、下関署にいる亀井に、電話をかけた。N電気の平凡なサラリーマンだと、話すと、
「すると、財産目当ての殺人の線は無さそうですね」
と、亀井は、いってから、
「彼の兄というのが、今日、東京から、駆けつけましたよ」
「どんな兄だね?」
「六本木で、クラブをやっている男で、名前は星野功《ほしのいさお》です」
「姓が、違うのかね?」
「なんでも、兄の方が、星野家の養子にいったということらしいんです。星野というのは、東京の盛り場で、クラブやバーを、何店も持っている男で、その男に、気に入られて、養子になったらしいんですよ」
と、亀井は、いった。
「すると、兄は、金持ちということだね?」
「そうです。兄の方が殺されたのなら、動機は、それだと、思いますね」
「その兄貴は、弟が殺されたことについて、何と、いっているのかね?」
「新聞のニュースを、頭から信じ切っているみたいで、犯人の婦人警官を、早く刑務所に放り込めと、大声で、怒鳴《どな》っていました」
と、亀井は、いった。
「そんな風になると、思っていたんだよ」
と、十津川は、いってから、
「これは、動機を見つけるのが、大変だね」
「被害者を憎んでいた人間は、見つかりそうもありませんか?」
「今のところ、被害者について、聞こえてくるのは、真面目《まじめ》な、いい奴《やつ》という声だけだよ。それに、婦人警官と知り合って、愛していたらしいという話さ」
「ニセモノだといっても、誰《だれ》も、信じてくれませんか?」
「ニセモノの写真は、手に入れた。しかし、よく似ているんだ。私たちは、別人だとわかるが、他《ほか》の人には、わからんかも知れない。それほど、よく似ているんだよ」
と、十津川は、いった。
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3 女を探せ
十津川《とつがわ》は、帰京した亀井《かめい》と、都内の興信所、私立探偵社に、当ってみることにした。
片っ端から、電話をかけ、殺人事件であることを強調した。
その結果、池袋《いけぶくろ》の私立探偵社が、北条早苗《ほうじようさなえ》の調査をやったことが、わかった。
すぐ、十津川と、亀井が、その探偵社に、足を運んだ。
池袋の北口、雑居ビルの二階にある探偵社だった。
所長が、調査を担当した女性を、紹介してくれた。
日野冴子《ひのさえこ》という三十五歳の女性である。その声を聞いて、十津川は、ああと、肯《うなず》いた。電話で聞いた声である。
「調査を、依頼されたのは、この方です」
と、日野冴子は、一枚の名刺を、十津川たちに見せた。
星野功《ほしのいさお》と刷られている。被害者の兄である。
「どんな風に、依頼して来たんですか?」
と、十津川は、きいた。
「よくあるケースと、同じでしたわ。自分の弟が、偶然、知り合った女性が好きになって、結婚したいと、いっている。両親がいないので、自分が親代りだから、相手の女性のことを、調べて、幸福な結婚をさせたいと、おっしゃいましたわ。そして、この名刺をお出しになって、彼女が、本物の刑事かどうか、調べて欲しいと」
冴子は、北条早苗の名刺も、十津川に、見せた。
「それで、私に、電話をかけて来たんですね?」
十津川は、冴子に、きいた。
「ええ。十津川さんが、直接の上司だと、お聞きしたので、お電話しました」
「他《ほか》にも、電話をしたわけですね?」
と、亀井が、きいた。
「ええ。北条早苗さんの大学時代のお友だちなんかにも、彼女の人柄について、聞きましたわ」
「結果は、どうでした?」
「申し分のない方だとわかりましたので、その旨《むね》、星野功様に、ご報告しました」
「寝台特急『富士』の中で、山野辺宏《やまのべひろし》という男が殺されたことは、ご存知ですか?」
「ええ。新聞で、読みましたから、知っていますわ」
「この男が、星野功の弟で、北条早苗刑事と、結婚したがっている人間だということも、知っていますか?」
と、亀井が、きいた。
冴子は、眉《まゆ》を寄せて、
「やっぱり、同じ人だったんですか。同じ名前だなと、心配はしていたんですけれど」
「山野辺宏本人には、会ったんですか?」
「いえ、写真は、拝見しましたけど、依頼主のお兄さんが、本人には内緒で、彼女のことを調べているので、と、おっしゃったので、お会いしませんでした」
「実際は、北条早苗刑事のニセモノだったんですよ。どこの誰《だれ》かわかりませんが、よく顔立ちの似た女が、山野辺宏に近づき、警視庁捜査一課の北条早苗と、名乗ったわけです」
十津川がいうと、冴子は、首をかしげて、
「なぜ、そんなことを、その女の人は、やったんでしょうか? 十分に、美しい方なんでしょう? ニセモノの方も、似ていらっしゃるんだから」
「そうです。美人です」
「わかりませんわ。そんな人が、なぜ、他人の名前を使ったのか」
「われわれも、その理由を知りたいと思っているんですがね」
亀井が、いうと、冴子は、すぐには、次の言葉をいわず、考えていたが、
「前科があって、それが、恋人に知られたくなくて、自分によく似た北条刑事さんの名前を、使ったんでしょうかしら?」
「かも知れませんね」
十津川は、逆らわずに、肯《うなず》いて見せた。
冴子は、自分のいったことに、自分で、「でも――」と、異議を唱えて、
「すぐ、ばれてしまうでしょうにね」
「だから、ニセモノの気持が、わからないのですよ」
と、十津川は、いった。
十津川と、亀井は、次に星野功に会いに、六本木に、廻《まわ》った。
ビルの五階の洒落《しやれ》たクラブで、「スター3号館」と、あるところを見ると、同じようなクラブを、他《ほか》にも、持っているのだろう。
亀井は、星野に、下関《しものせき》署で会っている。
「もう警察に話すことはありませんよ」
と、星野は、亀井に向って、不機嫌に、いった。
その星野に、亀井が、十津川を、紹介した。
「池袋の探偵社に、北条早苗のことを調べてくれるように頼んだのは、あなたですね」
と、十津川は、確認するように、いった。
「そうですが、いけませんか?」
星野は、突っかかるような、いい方をした。
「何を怒《おこ》ってるんですか?」
亀井が、文句をいった。
「怒るのが、当然でしょうが。弟を殺したのは、北条早苗という婦人警官に決っているのに、いまだに、逮捕していない。警察は、身内に甘いと聞いていたが、これほどとはね」
星野は、怒鳴《どな》るようないい方をした。
「それは、違ってますよ。北条刑事は、犯人じゃありません。彼女は、あなたの弟さんを、知らないんだから、動機がありません」
と、十津川は、いった。
「何をいってるんだね。私の弟は、北条早苗という婦人警官に、惚《ほ》れてしまった。そして、一緒に、大分へ向った。その列車の中で、彼女に、刺し殺されてしまったんだ。関係のない者が、なぜ、同じ列車に、乗っていたんだね?」
星野の言葉が、彼の怒《いか》りを示すように、だんだん、乱暴になってきた。
「怒る前に、この写真を見て下さい」
と、十津川は、北条早苗と、ニセモノの二枚の写真を、星野の前に置いた。
「同じ人間じゃないか。どちらも、問題の婦人警官だろうが」
と、星野は、いった。
「よく見て下さい。よく似ていますが、別人です。右は、私の部下の北条早苗刑事ですが、左は、ニセモノです。弟さんに、近づいたのは、ニセモノで、北条早苗と、名乗りました」
「じゃあ、『富士』に乗っていたのは、ニセモノの方かね?」
「いや、あの列車に、乗っていたのは、本物の北条刑事です」
「おかしいじゃないか。うちの弟と、つき合っていたのは、ニセの婦人警官だといっておきながら、弟が殺された時、同じ列車に乗っていたのが、本物だというのは、矛盾しているじゃないか?」
「それは、こういうことです。うちの北条刑事は、自分のニセモノが、何のために、自分の名前を使って、山野辺宏さんに近づいたのか、それを知りたくて、『富士』に乗ったんです。ところが、その車内で、弟さんは、殺されてしまったということなんです」
「それは、詭弁《きべん》だよ」
星野は、吐き捨てるように、いった。
「なぜ、詭弁なんだ?」
と、亀井が、星野に、抗議した。
星野は、じろりと、亀井に、眼を向けて、
「あんたたちは、何とかして、身内の婦人警官を、助けようとしているんだ。だから、ニセモノがいたというストーリイを、でっちあげたんだよ。いいかね。この際、あんた方に、宣言しておくが、あんた方が、北条早苗という女を、殺人で逮捕しなければ、彼女を、殺人で告発してやる。あらゆる手段を使ってだ」
と、いった。
「もう少し、冷静になってくれませんか」
十津川は、星野に向って、いった。
「弟が、殺されたのに、冷静でいられる筈《はず》がないじゃないか」
「もう一度、この二枚の写真を、見て頂きたいのですよ。よく似ていますが、微妙に違います。違う人間であることが、わかって頂けると思いますが」
十津川が、必死でいうと、星野は、面倒くさそうに、手を振って、
「別人だったら、どうだというのかね?」
「つまり、北条刑事のニセモノがいたことの証拠です。しかも、このニセモノの写真は、弟さんのマンションで、見つかったんです」
「信じられんね。警察が、あとから、作ったんじゃないのかね?」
「それは、どういうことだ?」
亀井が、星野を睨《にら》んだ。
「よく、警察は、でっちあげをやるからさ。警視庁の婦人警官が、恋愛関係にある男を、殺してしまった。さあ、大変だというんで、必死になって、考えた。その結論が、その婦人警官のニセモノがいたっていうストーリイを、でっちあげることだったんじゃないのか。その写真だって、インチキなストーリイの小道具なんじゃないのかね?」
星野は、軽蔑《けいべつ》したように、亀井を見、十津川を見た。
「どういう意味なんだ?」
と、亀井が、きいた。
「わかってる筈だよ。北条という刑事に、よく似た女の写真を撮る。それが、その写真さ。そして、こういうニセモノがいて、この女が、本当は、犯人だと、いいふらす。そうなんだろう?」
「この写真は、弟さんのマンションで見つけたんですよ」
と、十津川は、努めて、冷静に、いった。
「証拠はあるのかね?」
「あんたの弟さんの部屋を探して、見つけたんだ」
亀井が、大きな声を出したが、星野は、ひるまずに、
「あんた方が、弟の部屋に置いて、いかにも見つけたようなことにしたのかも知れんじゃないか。警察が、よくやる手だよ」
「いや、弟さんのマンションの机の上に、飾ってあったもので、うちの西本刑事が、見つけたんです。弟さんは、この女を、うちの北条刑事だと、思い込んでいたんですよ」
十津川は、辛抱強くいった。
星野は、皮肉な眼つきになって、
「もし、あんたたちのいうことが本当なら、その写真には、弟の指紋がついている筈だ。そうだろう? 弟が、その写真を眺めていたに違いないからね。どうなんだ? 弟の指紋がついていたのかね?」
と、きいた。
「それは、今、調べているところです」
「調べて欲しいねえ。そして、嘘《うそ》をつかずに、正直に、報告して欲しいねえ」
と、星野は、いった。
十津川と、亀井は、星野のクラブを出た。
すでに、夜の十一時に近いが、この辺《あた》りは、若者で、一杯だった。
「いいたいことを、いいやがって!」
と、亀井が、吐き出すように、いった。
だが、十津川は、難しい顔で、黙っていた。
二人は、パトカーに戻った。
「どうされたんですか?」
と、亀井が、心配そうに、十津川に、きいた。
「写真のことさ」
「ニセモノの写真ですか?」
「そうだよ。恐らく、この写真からは、山野辺宏の指紋は、検出されないよ」
「星野みたいな男の言葉を、信用されるんですか?」
と、亀井が、きいた。
「この件に関しては、あの男が、正しいよ。考えてみたまえ。今度の事件は、北条君が、何者かの罠《わな》にはめられたんだ」
「そう思います」
「犯人は、周到に計画したんだと思うね。そんな犯人が、不用意にニセモノの写真を、残していくと思うかね? その写真に、山野辺宏の指紋がついていれば、彼が、北条刑事だと思っていた女は、別人だったことの証明になる。そんなヘマを、この事件の犯人がやるとは、思えないんだよ」
と、十津川は、いった。
十津川の危惧《きぐ》は、適中した。
問題の写真を調べた鑑識の報告が、十津川を、待っていたのだが、写真には、一つの指紋もついておらず、もちろん、山野辺宏の指紋も検出できなかったという内容だった。
「これでは、もし、北条君が起訴されたとき、戦えんな」
と、十津川は、重い口調《くちよう》で、いった。
星野が、いった通り、北条刑事を助けるために、ニセモノの北条刑事がいるというストーリイを、でっちあげたといわれても、反論できないのだ。
「しかし、警部。この写真の女が、どこかにいることだけは、間違いない事実ですよ」
亀井が、ニセモノの写真を、黒板に、ピンで止めてから、十津川に、いった。
「それは、わかってる。いなければ、山野辺宏が、好きになるわけがないからね。しかし、われわれに、見つけられるだろうか?」
「弱気になられては、困りますよ」
と、亀井が、いった。
「別に、弱気になっているわけじゃないがね。犯人が、自分にとって、危険な存在のこの女を、すぐ見つかるようなところに、置いておくだろうか?」
「もう、殺されているということですか?」
亀井が、青い顔になった。
「北条刑事を、罠にはめた今、犯人は、もう、この女を、必要としていないんだ。いや、危険なだけの存在になっている。だから、殺してしまうか、すぐには見つからない場所に、隠してしまったんじゃないかと、思うんだよ」
と、十津川は、いった。
「すぐには、見つからない場所と、いいますと?」
「海外だよ。われわれの、すぐには、手の届かない場所だ。もし、海外に、逃げてしまっているとすると、いくら国内を探し廻《まわ》っても、見つかりはしない」
「どうでしょう? 新聞に、この写真をのせて貰《もら》うというのは」
と、亀井がいった。
「どういって、頼むんだね?」
「ある事件で、この女性を探している。もし、知っている人がいたら、至急、警察に、連絡して欲しいとです。殺人事件の参考人だといえば、新聞は、協力してくれると、思いますが」
と、亀井が、いった。
「しかし、新聞は、山野辺宏を殺したのが、婦人警官だと、書き立てているんだよ」
「わかっていますが、われわれだけで、この女を探すのは、無理ですよ」
と、亀井が、いった。
捜査本部の中でも、意見は分れた。
反対意見は、次の二点を、心配するものだった。
第一は、記者たちが、果して、協力してくれるかどうかという点だった。
第二は、協力してくれたとしても、警察が、必死になって、ニセモノを探しているとわかれば、犯人は、彼女を急いで、殺してしまうのではないかという点である。
それに対して、亀井が、反論した。
「第一の点については、協力してくれるかどうか、やってみなければ、わかりません。第二点ですが、われわれが、ニセモノを探していることは、犯人は、知っている筈《はず》です。新聞に、出なくとも、殺したければ、殺すに違いありません」
それが、奏功したのかどうかわからないが、三上《みかみ》部長が、やってみることに、決定した。
すぐ、警視庁担当の記者たちとの対話が、もたれた。
ニセモノの写真が、コピーされて、記者たちに、配られた。
「その女は、ある事件の重要参考人なんですが、名前も、住所もわかりません。そこで、新聞で、呼びかけて欲しいんです。本人に、名乗り出て貰《もら》いたいし、この女性を知っている人は、警察まで、連絡してくれということです」
三上は、あいまいないい方で、記者たちに頼んだが、敏感な記者たちに、すぐ、「富士」の事件との関連を、気付かれてしまった。
「この写真は、北条早苗刑事じゃないんですか?」
「本当の話を聞きたいですね」
「何を企《たくら》んでいるんですか?」
「妙なことで、警察の片棒《かたぼう》を担がされるのは嫌《いや》ですよ」
と、いった声が、三上に向って、浴びせられた。
三上は、顔を真っ赤にして、記者たちの顔を、見廻《みまわ》していたが、
「正直にいいましょう。このお願いは、『富士』に、関係したものです。列車内で起きた殺人事件で、うちの北条刑事が、疑われていることは、皆さんも、もう、おわかりのことだと思います」
「しかし、実名を出して、報道してはいませんよ。まだ、確実ではないのでね」
「その点は、感謝しています。それで、その写真ですが、よく似ていますが、北条刑事では、ありません。ニセモノです」
「ニセモノだという証拠は、あるんですか?」
と、記者の一人が、きいた。
「証拠? 北条刑事本人が、自分ではないと、いっているんです」
三上は、怒《おこ》ったような声で、いった。
「それだけでは、ニセモノだという証拠には、なりませんよ。もっと、決定的なものはありませんか? 例えば、顔のどこかに、傷があるとか、ホクロとかです」
「探しているんだが、そうしたものは、見つかっていません。北条刑事は、右眼の上に、ホクロがありますが、このニセモノにもある。恐らく、こちらは、描いたものだと思いますがね」
「本当に、ニセモノがいるんですか?」
と、記者の一人が念を押した。
「いるから、その写真を、新聞にのせてくれるように、頼んでいるんですよ」
「まさか、われわれを利用して、ニセモノがいるかのように、思わせる気じゃないでしょうね?」
「もし、君のいう通りだったら、私が、責任をとって、辞《や》めますよ」
と、三上は、いった。
三上にしてみれば、思い切ったいい方だった。日頃《ひごろ》、事なかれ主義の感じの部長が、責任を取るといったので、記者たちの態度も、急に、変ってきた。
「とにかく、この写真を、のせてみますよ」
と、記者の一人が、いい、他《ほか》の連中も、それにならってくれた。
ニセモノの写真は、各紙にのった。が、その扱いは、小さなものだった。
警察が、殺人事件の参考人として、探しているので、すぐ連絡して欲しい。また、彼女を知っているという方は、警察に知らせて欲しいとだけ、書かれているのが、ほとんどである。
警察の要請に応じたものの、まだ、半信半疑なのだ。警察に利用されるのは困るというためらいが、そのまま、現われていたといってもいい。
「これで、十分ですよ」
と、亀井は、十津川に、いった。
「しかし、この小ささでは、気付かない読者が、多いんじゃないかね」
「私は、犯人が、これを見て、どんな反応を示すか、興味があるんです」
と、亀井が、いう。
「犯人は、この記事に、気付くと思うかね?」
十津川が、きいた。
「犯人は、北条刑事を罠《わな》にかけて、山野辺宏を殺しました。その結果が、どうなったか、毎日、気にしていると思うのです。目算《もくさん》どおり、北条刑事が、犯人として、逮捕、起訴されるのか、知りたい筈《はず》だからです。まさか、警察に電話して、聞くわけにはいきませんから、テレビや、新聞の報道を、細大もらさず、見ているに違いありません。ですから、いくら小さい記事でも、絶対に、見逃しませんよ」
「カメさんの本当の狙《ねら》いは、それだったのかね?」
十津川が、笑いながら、きいた。
「そうです」
と、亀井は、肯《うなず》いてから、
「国民の協力を得るためといわなければ、部長が、賛成してくれないと思ったんです。部長は、国民の協力というのが、好きな方ですから」
「犯人が、絶対に見るというのは、私も、同感だが、その結果、彼女は、消される心配があるよ。前にも、いったが」
「私も、そう思います」
「カメさんは、その恐れも、折り込みずみかね?」
「折り込みずみというより、私は、犯人が、彼女を消そうとしても、簡単には、殺せないだろうと、思っているんです」
と、亀井は、いった。
「それは、なぜだね?」
「今度の事件で、犯人は、北条刑事を、罠《わな》にかけ、犯人に、仕立てあげました。その犯人が、一番、恐れているのは、ニセモノが、見つかってしまうことです。生きて見つかるのが、一番怖いでしょうが、死体で見つかっても、北条刑事によく似た女がいたというだけで、彼女に対する容疑は、うすくなって来て、犯人が、罠にかけた苦労が、失敗する可能性があります」
「顔を潰《つぶ》してしまうか、それとも、死体が見つからないようにして、殺すかも知れんよ」
と、十津川は、いった。
「もちろん、犯人は、殺すとすれば、警部のいわれるようにすると思います。しかし、顔の潰れた女の死体が出たら、私は、徹底的に、調べますよ。指紋を照合し、歯形を調べ、どこの誰《だれ》か、明らかにして見せます」
「すると、死体が見つからないように殺すか? 土に埋めるとか、海に沈めるとかするだろうね」
と、十津川が、いった。
亀井は、肯《うなず》いた。
「だが、それも、そう簡単だとは、私は、思わないんですよ。死体を、土の中に埋めるにしろ、海に沈めるにしろ、大変なエネルギーが必要だと思いますし、時間が、かかります。都心で、殺すわけにもいかないでしょう。土の中に埋めるとすれば、死体を、車で、山の中まで、運ばなければなりません。海に沈めるのは、もっと大変ですよ。ただ、放り込んだのでは、必ず、浮んで来ますからね。重しをつけて沈めても、ロープが切れれば、浮んでしまいます」
「だから、犯人は、殺さないだろうと、カメさんは、見ているのかね?」
と、十津川は、きいた。
「いや、それほど、甘くは、考えていません。私が、犯人なら、あんな新聞記事が出れば、一刻も早く、ニセモノを、消してしまいたいと考えます」
「私も、そう思うよ。それに、人間は、計算して、殺すとは限らない。怯《おび》えから、やみくもに、殺してしまうことが、あるんだ。そのあとで、死体を、持て余すんだが」
「そうなんです。犯人が、ニセモノを、殺すことは、私も、覚悟しています。彼女には、気の毒ですが」
「つまり、殺す、殺さないにしろ、犯人は、あの記事を見て動く。それに、期待しているということだね?」
十津川は、亀井を見た。
「そうです。よく、動かぬ敵は、計《はか》り難しといいます。犯人も同じです。じっと、身をひそめて、動かない犯人を、見つけるのは、難しいですが、動いてくれれば、何とか、見つけることも可能です」
と、亀井は、いった。
「果して、期待どおりに犯人が、動き出してくれるかな?」
十津川は、期待と、不安が、半々の気持で、いった。
十津川たちは、ただ、じっと、犯人が動き出すのを、待っていたわけではなかった。
今のところ、山野辺宏を殺した犯人が誰かは、わからない。
そこで、容疑者と思われる人間に、監視をつけておくことにしたのである。
まず、被害者の兄の星野功だった。星野が、弟を殺す理由はないように見えるが、一番、親しい人間であることも事実なのだ。
十津川は、西本と日下《くさか》の二人の刑事に、星野と、彼の妻を、監視しているように、命じた。
他《ほか》に、これといった容疑者はいないのだが、被害者の働いていた会社の上司と、同僚の二、三人を監視することにした。
新聞に、ニセモノの写真がのってから、一日、二日と、過ぎた。
が、何も、起きなかった。
いや、十津川たちの知らないところで、新しい事件が、進行しているのかもしれないのだが、警察が監視している人々には、これといった動きは、見られなかった。
星野功は、精力的に、仕事をやっているし、妻の方も、邸《やしき》を出るのは、デパートへの買物だけだった。
被害者の会社の方も同じだった。上司も、同僚も、これといった変った動きは、見せない。
警察への情報も、ほとんどなかった。
十津川たちが、受け付けた電話は、三本だけで、いずれも、調べてみると、ニセモノの女には行きつけないものだった。
下関署の方からは、期限を切ってきた。
このままでは、北条早苗を、山野辺宏殺害容疑で、逮捕せざるを得ないというのである。
下関署の白井警部は、厳《きび》しい口調《くちよう》で、電話をかけてきた。
「最近、警察は、いろいろな批判を受けていますのでね。今度の事件では、身内をかばうのかという批判が、ひっきりなしに、こちらに寄せられているんです。地検も、なぜ、送検して来ないんだと、連日、電話してくるんですよ」
「しかし、北条刑事は、無実ですよ」
と、十津川は、いった。
「それは、十津川さんの考えで、説得力がありませんね。これ以上、放っておくと、警察不信を招いてしまいます。こちらの新聞は、キャンペーンを始めると、いっているんです」
と、白井が、いった。
「どんなキャンペーンですか?」
「警察の身内に甘い体質というキャンペーンです。始まれば、今度の事件が、まず、ヤリ玉にあげられる筈《はず》ですよ」
「そのキャンペーンは、いつから始まるんですか?」
と、十津川は、きいた。
「三日後です。だから二日後、明後日《あさつて》までに、逮捕しないと、大変なことになります」
白井は、かたい口調《くちよう》で、いった。
「明後日までですか」
「それまでに、真犯人を見つけられなければ、こちらとしては、北条早苗を、逮捕せざるを得ません」
と、白井は、強い調子で、いった。
亀井は、その電話のことを聞くと、本気で、怒って、
「北条君がシロだということは、わかっている筈じゃありませんか。それなのに、何を考えているんですかね」
と、いった。
「われわれは、わかっているが、下関署に、それを、わかれと要求するのは、無理だよ」
と、十津川は、いった。
あと二日間で、北条早苗のニセモノが見つかる期待は、持てそうになかった。
亀井の言葉にも拘《かかわ》らず、身元不明の若い女の死体が、見つかったという報告は、届いて来なかったし、情報も、いぜんとして、乏しかった。
「新聞にのせて貰《もら》ったのは、失敗だったんでしょうか?」
と、亀井が、気弱になって、十津川に、きいた。
「まだ、わからんよ」
と、十津川は、励ますように、いった。
その日の午後、十津川は、杉並《すぎなみ》区高円寺のマンションで女性が、死んでいるという連絡を受けた。
「仏《ほとけ》さんが、十津川警部の名刺を持っていたので、電話したんですが」
と、若い警官の声が、いった。
「死んだのは、何という女性だね?」
と、十津川は、胸《むな》さわぎを覚えながら、きいた。
自分の名刺を持っているというのは、ちょっとおかしいが、ひょっとして、北条刑事のニセモノではないかと、思ったからである。
「日野冴子という女性です」
「日野?」
「私立探偵社で働いている女性です」
と、いわれて、十津川は、「ああ」と、肯《うなず》いた。
星野功に頼まれて、北条刑事のことを調べていた女性探偵である。
何か、思い出したら、連絡してくれと、十津川は、名刺を渡しておいたのだ。
「殺されたのかね?」
と、十津川は、きいた。
「それが、よくわかりません。自殺かも知れません」
「とにかく、すぐ、そちらへ行く」
と、十津川は、いった。
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4 ゆすり
JR高円寺駅から、二百メートルほどの距離にあるマンションだった。
その五階の507号室が、日野冴子《ひのさえこ》の部屋だった。
2DKの、豪華ではないが、きちんと、整理されていて、被害者のきまじめな性格を反映しているように見えた。
その被害者は、六畳の和室に、仰向《あおむ》けに寝かされていた。
明らかに、中毒死である。多分、青酸死だろう。顔を近づけると、かすかに、青酸中毒特有の甘い匂《にお》いがする。
鑑識が、写真を撮《と》り、テーブルの上に倒れているグラスや、ブランデーのびんを、調べている。
「発見者は?」
十津川《とつがわ》は、電話して来た警官に、きいた。
「連れて来ます」
と、その警官はいい、廊下から四十歳くらいの男を、案内してきた。
男の名前は、三村泰介《みむらたいすけ》だという。二年前に、被害者と別れたのだとも、いった。
「今日、相談したいことがあるから、来てくれというので、久しぶりに来てみたら、死んでいたんですよ」
と、三村は、いった。
「相談したいことというのは、どんなことだったか、わかりますか?」
「さあ、わかりませんね。何の相談だったのかは。生きていれば、聞けるんですが」
三村は、急に、そっけない調子になって、十津川に、いった。
「自殺だと思いますか?」
と、十津川は、三村に、きいた。
「それも、わかりませんね。しっかりした女だから、自殺なんかは、しないと思いますが、わかりませんね」
「彼女が、北条早苗《ほうじようさなえ》という女性の調査をしていたことは、知っていますか?」
「いや、もう別れて二年になりますから、彼女の仕事のことは、全く、知りませんね」
「それなら、なぜ、あなたに、相談を持ちかけたんでしょうか?」
と、十津川は、きいた。
「わかりませんね。他《ほか》に、適当な人がいなかったんじゃありませんか」
「別れてから、時々、お会いになっていたんですか?」
「いや、時たま、電話していただけですよ」
「その時に、今、北条早苗という女性の結婚調査をしているという話は、ありませんでしたか?」
「今もいったように、仕事の話は、聞いていないんですよ」
相変らず、三村は、そっけない返事をする。
「最後に、話をしたのは、相談したいことがあるから、来てくれという電話だったんですね?」
十津川は、念を押した。
「まあ、そうです」
「その電話は、いつあったんですか?」
「昨日《きのう》の夜ですよ」
「その時、どんな相談か、内容は、いわずですか?」
「いいませんでしたね。もう、いいですか? 帰って。仕事がありますので」
「失礼ですが、今、どんな仕事をされているんですか?」
と、十津川は、きいた。
三村は、ポケットから、名刺を取り出して、十津川に、渡した。
「経営コンサルタント」という肩書きのついた名刺だった。
「なるほど。難しい仕事をやっておられるんですね」
「帰りたいんですが」
「ああ、どうぞ」
と、十津川は、肯《うなず》いたが、三村が、エレベーターの方へ、歩いて行くと、西本《にしもと》刑事を呼んで、
「追《つ》けてみてくれ」
と、いった。
「あの男が、怪しいと、思われるんですか?」
亀井が、きいた。
「犯人とは思わないが、妙に、そっけない返事しかしなかったのが、気になったんだよ。被害者が、相談を持ちかけた相手なのに、何も知らないというのは、おかしいと、思ってね」
と、十津川は、いった。
「なぜ、あの男が、そんな態度を、とったんでしょうか?」
「それを知りたくて、西本君に、尾行させたんだがね」
と、十津川は、いってから、亀井と二人、改めて、室内を、調べてみた。
これといったものは、見つからなかったが、三面鏡の引出しに、預金通帳が入っていた。
それを開くと、最近になって、一度に、五百万円の金が、記入されているのが、わかった。
四日前の日付けである。
十津川は、部屋の電話を使い、預金先の銀行にかけてみた。
「その五百万円は、日野様が、現金で、預金されました」
と、その支店の支店長が、いった。
「どこからの収入か、いいませんでしたか?」
「それは、おっしゃいませんでしたが、ニコニコ喜んでいらっしゃいましたね。そのうちに、車を買うんだとも、いっておられましたが」
と、相手は、いった。
十津川は、電話を切ったあと、亀井と、日野冴子の働いていた探偵社に、廻《まわ》ってみた。
社長は、日野冴子が、死んだと聞いて、眼をむいた。
「あの女傑《じよけつ》が自殺なんて、考えられませんよ」
と、古めかしいいい方をした。
「いや、自殺と決ったわけじゃありません。他殺の線もあるんです」
「そりゃあ、他殺ですよ。自殺なんかする人じゃありません」
と、社長は、断言した。
「発見者は、別れたご主人なんですが、彼のことを、ご存知ですか?」
亀井がきくと、社長は、眉《まゆ》を寄せて、
「三村でしょう? よく知っていますよ」
「なぜ、ご存知なんですか?」
「三村は、うちで働いていた男ですからね」
「ほう」
と、十津川は、眼を大きくした。
「調査をやっていたんですか?」
「そうです。主として、信用調査をやっていましてね。中小企業のね。だから日野君とは、職場結婚みたいなもんです」
「どんな男ですか?」
と、亀井が、きいた。
「やり手ですが、ちょっと、ずるいところがありましてね、それで馘《くび》にしたわけですよ」
「どんなことをしたんですか?」
「一言でいえば、ゆすりですよ。調査した相手に、何か、悪い点を見つけると、それをネタに、ゆすりをやっていたんです。依頼主には、報告せずにです」
「なるほど。日野冴子さんが、別れたのも、そのためですかね?」
「と、思いますが、わかりませんね」
「調査では、成功報酬というのがありますね?」
と、十津川は、話題を変えた。
「ええ、ありますよ」
「五百万円の成功報酬というのは、よくある調査ですか?」
「いや、そんなおいしい仕事は、めったにありませんよ」
「最近、日野冴子さんが扱った調査では、どうですか?」
「彼女は、結婚調査が、専門ですからね。成功報酬というのは、無かった筈《はず》です」
と、社長はいった。
すると、あの五百万円は、何だったのだろうか?
「ここのシステムを、説明して頂けませんか?」
と、十津川が、いった。
「システムといいますと?」
「依頼者が来て、調査を頼むとき、調査員の人に、順番に、廻《まわ》していくわけですか?」
「いや、うちでは、担当が、決っていますから、結婚調査なら日野君が、やっていましたね」
「今度の北条早苗についての結婚調査ですが、日野さんが、何かいっていませんでしたか?」
「と、いいますと?」
「難しい調査だとか、依頼主があれこれ、うるさいことをいうとかと、いったことですが」
「それは、全く、ありませんでしたね。普通に調査して、依頼主に報告したんじゃありませんか」
「報告書の写しが、ここに、とってあるわけですね?」
「そうです。調査報告書は、二通作って、一通を、お客に渡し、一通は、保管します。あとで、問題が起きたときに、困りますからね」
と、社長は、いった。
「日野さんが、今度、やった結婚調査の報告書の写しは、どうですか?」
「それが、ないんですよ。途中まで、調査が進んだところで、中止になってしまったからです。なんでも、依頼主の弟さんが、亡くなってしまったのでということでした」
「それは、依頼主が、中止してくれと、いって来たんですか?」
「そうです。星野《ほしの》という方です。弟さんの結婚相手のことを、調べて貰《もら》っていたのだが、肝心《かんじん》の弟さんが、亡くなってしまったので、調査を中止してくれといわれたわけです。ごもっともなので、了承しました」
と、社長は、いった。
「三村さんのことを、もう少し、伺いたいんですが」
と、亀井が、いった。
「彼のことは、あまり話したくないんですがねえ」
「今、経営コンサルタントをやっているといわれたんですが、うまくいっているんですかね?」
「うまくいっている筈がないでしょう? 第一、彼に、コンサルタントの仕事なんか出来る筈がありませんよ。彼に出来るのは、ゆすりぐらいのものです」
と、社長は、いった。
「何だか、きな臭くなって来たねえ」
と、帰り道で、十津川が、いった。
「ゆすりのことですか?」
亀井が、いう。
「三村と、日野冴子は、別れたあとも、つき合っていたんじゃないかね。そんな気がするんだよ」
「似た者同士だったんでしょうか?」
「それは、わからないが、成功報酬のない結婚調査を担当していた日野冴子は、突然、五百万円という大金を手にしている。その上、彼女は、相談があるといって、三村を、呼んでいる」
「その三村が、いやに、そっけない応答をして、そそくさと、帰ってしまいましたね」
と、亀井が、いった。
「だから、西本君を、追《つ》けさせたんだよ。三村は、日野冴子から、何か聞いているんじゃないかと思うんだ。彼は、それを、最初、警察に話してもいいと、思っていたのかも知れない」
「それを、話さなかったということは――」
「金になるんじゃないかと、考えたんだろうね。それで、あわてて、帰ったんじゃないかと、思ったんだよ」
「それは、例の結婚調査の件でしょうね?」
と、亀井が、十津川を見た。
「他《ほか》に、考えられないよ。日野冴子の五百万円も、それに関した金だろうね。ゆすったのか、それとも、秘密を守る御礼に貰《もら》ったのかは、わからないが」
「その相手は、星野|功《いさお》でしょうか?」
と、亀井が、十津川に、きいた。
「今のところは、星野功だけだね」
と、十津川は、答えてから、
「とにかく、日野冴子の死は、他殺の疑いが濃いんだ。捜査本部が出来るだろうから、徹底的に調べてやるぞ」
「不幸中の幸いというわけですね」
「そうだよ。これで、堂々と、北条刑事のために、調査がやれるよ」
十津川は、嬉《うれ》しそうに、いった。
捜査本部が、設けられた。
西本《にしもと》刑事から、電話が入った。
「今、練馬《ねりま》の石神井《しやくじい》にいます。三村のマンションの傍《そば》です」
と、西本は、いった。
「三村は、今、自宅のマンションかね?」
亀井が、きいた。
「そうです。あれからまっすぐ、帰宅して、現在、自分の部屋に入ったままです」
「引き続いて、監視していてくれ。応援をやるよ」
と、亀井が、いった。
すぐ、日下《くさか》刑事に、車で、行くように、命じた。
そのあと、亀井は、十津川に向って、
「自宅に、入ってしまったということは、どういうことでしょうか?」
「考えているんじゃないかな。自分が、日野冴子から得た知識が、金になるかどうかをだよ」
「もし、そうだとすると、三村が、ゆすりに動く可能性が、強いですね」
亀井が、眼を光らせた。
「問題は、その相手が、誰《だれ》かということだね」
と、十津川は、いった。
「楽しみになって来ましたね。三村にゆすられた相手が、北条刑事を、罠《わな》にかけた人間という可能性が強いですからね」
亀井が、弾《はず》んだ声で、いった。
だが、肝心《かんじん》の三村は、なかなか、動かなかった。
日下刑事も、石神井に着いて、西本と二人で、三村の監視に当ることになったのだが、その日下からも、
「全く、動く気配《けはい》がありませんね。さっき、彼の部屋に、明りがつきましたから、いるのは、間違いないんですが」
という連絡しか入らなかった。
「どうしているんですかね?」
と、亀井が、いらだちを見せて、十津川に、きいた。
明日《あす》一日しか、余裕がなかったからである。明後日《あさつて》になれば、北条刑事は、殺人容疑で、送検されてしまう。
「多分、電話で、相手と、交渉しているんだろう」
と、十津川は、いった。
その電話を、盗聴したいが、日本では、たとえ、犯罪捜査のためとはいっても、盗聴は、許されていない。
じっと、監視を続けるより仕方がないのだ。
「星野功も、監視したら、どうでしょうか?」
と、亀井が、いった。
「そうだな。星野と、三村が、同時に動き出したら、星野が、ゆすられているということになるだろうからね」
と、十津川もいい、清水と、三田村の二人を、すぐ、星野の監視に行かせた。
星野は、新宿|歌舞伎町《かぶきちよう》にあるクラブ「スター1号館」にいた。
「ここには、社長室があって、今、彼は、そこにいるようです」
と、清水が、電話で、伝えて来た。
十津川は、腕時計に、眼をやった。
午後八時を回ったところである。新宿歌舞伎町は、これから賑《にぎ》やかになる。
「何をしているか、わからないかね?」
と、十津川は、きいた。
「わかりません。社長室は、独立していますから」
「そのクラブは、何号館まで、あるんだ?」
「店のマネージャーは、5号館まであって、どのクラブにも、星野のために、社長室が、設けてあるといっています」
「5号館か」
「高級クラブですから、たいしたもんだと思いますね」
清水の声は、うらやましそうに聞こえた。無理もない。恐らく、刑事は、事件の捜査以外で、そんな店に、行くことはないだろう。
一時間ほどして、清水から、
「星野が、店を出ます」
と、いって来た。
星野は、白いロールス・ロイスに乗っていて、今夜も、それに乗ってきている。
「尾行します」
と、清水は、いった。あとは、警察無線での連絡になりそうである。
星野が、動き出したのかと思ったが、次に彼が行ったのは、渋谷の「スター2号館」だった。
どうやら、五軒のクラブを、廻《まわ》る積りらしい。
一方、三村の方は、いぜんとして、自宅マンションに籠《こも》ったままだった。
西本が、マンションに入り、三村の部屋の前へ行ってみると、テレビの音が聞こえていると、いう。
「テレビをつけておいて、裏口から出たということはないのかね?」
と、亀井が、念を押した。
「それはありません。裏口のない造りです」
と、西本は、いった。
午後十時。
星野は、「スター4号館」に、いた。
三村の動きはない。
十一時少し前になって、やっと、三村が、動いた。
「三村が、マンションから出て来ました」
と、西本が、緊張した声で、報告して来たが、次の瞬間、やや、あわてた声で、
「奴《やつ》は、バイクに乗りました。こちらも、車で尾行します」
と、いった。
覆面パトカーでバイクを追った場合、細い路地に入られると、こちらは、尾行できなくなってしまう。
西本が、あわてたのは、そのためだろう。
十津川は、すぐ、バイクを一台、向わせることにしたが、間に合うかどうか、わからなかった。
星野は、中野の「スター5号館」に、入ったところだった。
三村の乗ったバイクは、250ccだという知らせが入った。
「今、明治神宮の外苑《がいえん》です。外苑の中を、ぐるぐる廻《まわ》っています」
と、日下が、パトカーの無線電話で、知らせてきた。
「まさか、レーサー気取りで、走り廻ってるわけじゃないだろう?」
と、亀井は、いった。
ところどころ、水銀灯がついているとはいっても、外苑の中は、薄暗い。
三村は、その中を、車体を傾けるようにしながら、バイクで、走っている。
「呆《あき》れた中年暴走族だな」
と、覆面パトカーで、追いかけながら、日下が、文句をいった。
もう、何周したろう。
他に、バイクで、走り廻っている人間がいないので、よく目立つ。それだけに、尾行は楽だった。
その三村が、急に、バイクをとめ、ゆっくりと、おり立った。
「どこかへ行くぞ」
と、日下が、いった。
「トイレだよ」
と、西本が、落ち着いた声で、いった。
なるほど、バイクから降りた三村は、近くの公衆便所の中に入って行った。
「このまま、逃げ出すことはないか?」
日下は、まだ、心配している。トイレに入ると見せかけて、籠抜《かごぬ》けをすることは、よくあるからである。
「トイレの裏は、金網《かなあみ》だよ」
と、西本が、いった時、トイレから、三村が出て来て、再び、バイクにまたがった。
また、外苑の中を、走り出した。一周、二周と、続く。
「いつまで、走り廻る気なんだ?」
西本が、あきれて、呟《つぶや》いた。
十二時は、とっくに過ぎている。
「おかしいぞ」
と、突然、日下が、あわてた声で、いった。
「どうしたんだ?」
「乗り方が、違う。三村は、プロはだしだったが、今、乗ってる奴は、下手《へた》だよ」
と、日下が、いった時、その言葉を、証明するかのように、前を行くバイクが、スピンして、近くの立木に衝突した。
乗っていた人間は、宙を飛び、コンクリートの地面に、叩《たた》きつけられた。
西本が、急ブレーキをかけた。
車が、停ると同時に、二人は、飛び出して、倒れたまま動かない男のところへ、駈《か》け寄った。
「救急車を頼む」
と、西本がいい、男を抱き起こした。
日下は、車に戻り、無線電話で、救急車を手配して、また、西本のところに戻った。
西本は、男の頭から、ヘルメットを、外していた。
「やっぱり、三村じゃないぞ」
と、西本が、いった。
「すぐ、報告しよう」
日下は、また、車に駈け戻り、十津川に、報告した。
「申しわけありません。トイレを利用して、すり替っていました」
「おかしいな」
と、十津川は、いった。
「本当に、すり替っていたんです」
「それは、何時|頃《ごろ》だ?」
「今から、四十分ほど前です」
「星野の方は、今、六本木のクラブで、友人と飲んでいるよ」
と、十津川は、いった。
救急車が来た。
とにかく、動かない男を、西本も手伝って、救急車に乗せた。
近くの大学病院に運ぶ。日下も、覆面パトカーを運転して、そのあとに、続いた。
男は、すぐ手術室に運ばれ、西本と、日下は、待合室で、その結果を、待った。
手術は、一時間以上、かかった。が、手術を了《お》えた医者は、西本たちに向って、首を横に振った。
西本と日下は、男の所持品を、預かることにした。
その中に、運転免許証もあった。
名前は、黒木博之《くろきひろゆき》。三十五歳。住所は、三鷹《みたか》市内のマンションだった。
西本と日下は、いったん、捜査本部に戻って、十津川に、経過を、報告した。
すでに、午前二時に近い。
「星野は、どうしていますか?」
と、西本は、疲れた顔で、きいた。
「六本木で、友人二人と飲んだあと、タクシーで、自宅に帰ったよ。友人二人も一緒だ。そのまま、友人は、泊るらしい。清水君たちが、監視しているが、そのまま、出て来ないからね」
「すると、三村と、星野は、会わない気なんでしょうか?」
「多分ね。三村は、尾行を、予期していたんだろう」
「すると、星野と、三村は、関係なしですか?」
と、日下が、きくと、亀井が、
「それは、わからんよ。今夜は、ゆすられた星野が、三村に、金を渡すだけだったら、別に、彼が、三村に、会う必要はないんだ。例えば、チェーン形式のクラブの一店に、時間を決めて、三村を呼び、支店長に、金を渡すように、指示しておいても、いいわけだからね」
と、いった。
「そうなると、私たちが、三村にまかれたのが、かえすがえすも、まずかったと思います。申しわけありません」
西本が、頭を下げた。
「まあいい」
と、十津川が、微笑して、
「三村と、交代して、バイクを走らせた男が死んだんだろう。それを、テコにして、三村を追い込めるかも知れんよ」
「今から、三鷹のマンションに行って、死んだ男と、三村の関係を、調べて来ます」
と、西本がいい、日下と二人、出かけて行った。
西本と日下の二人は、三鷹駅から、歩いて十五、六分の場所にある中古のマンションの階段をあがって行った。
五階建のこのマンションは、エレベーターが、無かった。
502号室には、名前が出ていなかったが、念のため、西本が、ドアをノックすると、何か室内で物音がして、突然、ドアが、開いた。
顔を出したのは、三十歳前後の女だった。
寝ていたのか、ネグリジェ姿で、不機嫌な顔をしていた。
「何なの? こんなに遅く」
と、女は、西本たちを睨《にら》んだ。
「黒木さんの奥さんですか?」
西本が、警察手帳を示して、きくと、
「あの人が、どうかしたの?」
と、女は、きいた。そんなきき方が、彼女と、男の関係を、示しているようだった。
「死にましたよ」
日下が、いったが、女は、さほど驚いた様子もなく、
「そう。死んだの」
「それで、黒木さんのことを、いろいろと、聞きたいんですがね」
「どうしようもない男よ」
と、女は、いった。
「どういうことですか?」
「ヤクザな男だってこと。誰《だれ》かとケンカして、殺《や》られたの?」
「バイクに乗っていて、木に衝突したんですよ」
「へえ。呆《あき》れた」
と、女は、いった。悲しんでいる気配《けはい》はなかった。
「黒木さんとは、古くからですか?」
と、西本が、きいた。
「くされ縁ね」
と、女は、いってから、
「自分で勝手に死んだのなら、なぜ、警察が調べているの?」
「ある男の身代りで死んだみたいなものなんですよ。三村という男と、つき合っていた筈《はず》なんですが、知りませんか?」
「三村さん? 知らないわ」
「黒木さんは、何をしていたんですか?」
と、日下が、きいた。
「前は、私立探偵なんかやってたみたいだけど、最近は、よくわからないわ、あたしにも、いわなかったから」
「私立探偵ですか?」
と、西本が、呟《つぶや》いた。
それで、三村と、つながっているのだろうか?
日下は、急に、思い立って、ポケットから、ニセの北条早苗の写真を取り出した。
「この女に、見覚えは、ありませんか?」
「――――」
女は、黙って、写真を見ていたが、首を横に振った。
「そうですか? 知りませんか」
「その人、何をしたの?」
「恐らく、殺人に利用されたと思われるので、われわれが、探しているんです。もし、心当りがあったら、すぐ、連絡してくれませんか」
と、日下は、頼んだ。
「いいわ。何かわかったら、連絡するわ」
女は、熱のない調子で、いった。
西本は、彼女の名前を聞いて、引き揚げることにした。
もう午前三時に近かった。
パトカーに戻ったところで、西本は、日下に、
「なぜ、ニセの北条早苗のことを、聞いたんだ? 彼女が、知ってると、思ったのか?」
「北条君と似た女を、誰《だれ》かが見つけて来たに違いないと、思っているんだよ。だから、誰にでも、聞いてみようと考えたのさ」
と、日下は、いった。
「それに、女の方が、見つけ役としては、ふさわしいとも、考えたんだろう?」
「そうなんだ。あの女は、どう見ても、水商売の女だよ、それなら、いろんな女を知っている筈だ。山野辺《やまのべ》を殺《や》った犯人は、あの女に頼んで、北条君に似た女を見つけてくれと、頼んだのかも知れないと、思ってね」
と、日下は、いった。
二人は、捜査本部に戻り、「三田英子《みたえいこ》」という女に会って来たことを、十津川に、報告した。
「彼女の話では、黒木も、三村と同じく、私立探偵の仕事をしていたそうです」
「同業だったわけか」
「そうです。その関係で、今夜の身替りを引き受けたんだと思います」
と、西本は、いってから、
「それで、三村は、どうしています?」
「まだ、自宅に、戻っていないんだ。警察に監視されていると、思っているかも知れないが、もう、午前四時だからね」
十津川は、難しい顔で、いった。
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5 五百万円
十津川《とつがわ》は、不安なまま、夜明けを迎えた。
いぜんとして、三村《みむら》の行方《ゆくえ》は、わからなかった。
星野《ほしの》の監視は、清水《しみず》刑事が、続けていたが、自宅に、友人二人を請じ入れて、朝になると、その友人たちは、帰って行った。
星野は、いぜんとして、自宅である。
三村は、午前七時を過ぎても、自宅マンションに、戻らなかった。
ここまでのところ、三村は、星野と接触していない。
「今回は、何もしない気なのかな?」
と、十津川は、首をひねった。
三村は、自分の替玉《かえだま》まで使って、尾行をまいて、姿をくらませた。
それなのに、何もなかったとは、信じられないのだが。
「今回は、金を渡すだけだったんでしょう」
と、亀井《かめい》が、いった。
「それなら、そろそろ、三村が、大変な金を手に入れて、マンションに帰って来そうなものだがね」
「ひょっとすると、どこかに、姿を消すのが、金を支払う条件かも知れませんよ」
「それがあるな」
十津川の顔に、軽い狼狽《ろうばい》の色が、浮んだ。
三村が、何をネタに、星野をゆすったかは、わからない。
だが、ゆすられた星野が、亀井のいうように、姿を消すことを条件に、一千万、二千万の金を払ったことは、十分に考えられる。
それが、国外脱出だとすると、三村は、すでに、日本を離れてしまっているかも知れないのだ。
「三村が、パスポートを持っているかどうか、至急、調べてくれ。それに、最近、どこかの国のビザをとっているかどうかもだ」
と、十津川は、西本《にしもと》たちに、命じた。
西本と、日下《くさか》が出て行って、一時間もしないうちに、中野警察署から、電話が入った。
「三村という男を、探しておられると聞きましたが」
と、若い警官の声が、いった。
「ああ、そうだ。三村が、見つかったのか?」
と、亀井が、きいた。
「見つかりました。死んでいますが」
「死んでいる? どこでだ?」
亀井の声が、自然に、大きくなった。
「雑居ビルの裏です。一時間前に見つかったんですが、すでに、死んでいました」
と、若い警官は、いう。
「どこの雑居ビルだ?」
「駅から歩いて七、八分のところにあるビルです。スター5号館というクラブも、入っているビルですが」
「スター5号館だって」
亀井は、十津川と、顔を見合せた。
「すぐ行こう」
と、十津川が、立ち上っていた。
また、電話が鳴った。今度は、西本刑事からだった。
「パスポートの件ですが――」
と、いいかけるのへ、
「もういいんだ。それより、君たちも、中野へ来てくれ。中野のスター5号館だ」
と、十津川は、いった。
十津川と亀井は、すぐ、パトカーで、中野に向った。
「やられたね」
と、その車の中で、十津川が、舌打ちした。
亀井は、首を振って、
「しかし、星野は、自宅を出ていません」
「そこが、よく、わからないんだがね」
と、十津川は、いった。
「スター5号館」が入っている雑居ビルは、七階建で、その五階である。
その裏側の狭い空間に、三村の身体《からだ》は、墜落死していると、いう。
電話して来た井上《いのうえ》という警察官が、緊張した顔で、
「発見されたのは、八時二十五分で、すぐ、救急車を呼びましたが、すでに、死亡していました」
と、改めて、十津川に、報告した。
「墜落したのは、間違いないのかね?」
亀井が、きいた。
「救急隊員が、全身打撲と、いっていましたから」
「とにかく、見よう」
と、十津川は、いった。
二人は、案内されて、ビルの裏に廻《まわ》ってみた。
ビルの壁面と、コンクリートの塀との間の隙間《すきま》は、一メートル五十センチもないだろう。
その間の、かたい地面に、三村の死体が、横たわっていた。
激しい衝撃が、三村の身体を襲ったことは、誰《だれ》の眼にも、明らかだった。
その死体の傍《そば》に、封筒が、落ちていた。M銀行の名前の入った封筒である。
十津川が、中身を調べると、中身は、五百万円の札束だった。
「発見者は、誰《だれ》なんだ?」
と、十津川が、きいた。
「連れて来ます」
と、警察官は、いい、制服姿の中年の男を、連れて来た。
その男は、十津川に向って、
「宝《たから》警備保障の沢井《さわい》です」
と、いった。
「死体を発見した時の状況を、話してくれませんか」
「私の会社は、五階のスター5号館と、契約しています。今日の午前四時|頃《ごろ》、何者かが、侵入したという警報が鳴りましたので、同僚と駈《か》けつけました」
「それで?」
「五階のスター5号館にあがると、ドアが開いていて、中に、人の気配《けはい》がしました。それで、同僚と二人で、確かめようと、中に入ったところ、人影が、社長室の窓から、外へ消えたんです。私たちは、窓から、外を見ましたが、この空地《あきち》は、暗くて、何も見えません。うまく逃げられたなと思い、何か盗まれたものはないかと、部屋の中を、調べることにしました。クラブと、その奥の社長室を調べましたが、別に、こわされたものもありませんし、金庫も、開けられていませんでした。しかし、社長の星野さんに、調べて貰《もら》わなければわかりませんので、写真を撮っていたんですが、明るくなってから、裏の空地に、人が倒れているのを見つけました。そこで、すぐ、警察に、連絡したわけです」
沢井は、落ち着いて、説明した。
「警報装置というのは、どんなものですか?」
と、十津川は、きいた。
「赤外線を利用したもので、賊が侵入すると、私たちの本部で、警報が鳴り、場所も明示される装置です」
「利用者は、留守にする時、その装置のスイッチを入れておけばいいわけですね?」
「そうです」
「もう一度、聞きますが、あなた方が、五階に入ったとき、人影が、社長室の窓から、飛び出したんですね?」
「その通りです」
と、沢井は、いった。
十津川と、亀井は、彼を連れて、五階へあがって行った。
入口のドアの錠が、こわされていた。ハンマーかスパナで、叩《たた》きこわされたものらしい。
店があり、その奥が、社長室である。
沢井が、赤外線の警報装置の取りつけてある場所を、説明した。
確かに、沢井のいう通り、クラブにも、社長室にも、荒らされた形跡は見られない。
亀井が、開いた窓の傍《そば》で、スパナを見つけた。
十津川は、窓から、下を見下した。
三村の死体が、横たわっているのが見える。かなりの高さだった。
追いつめられて、三村は、ここから、飛びおりたのか?
九時を過ぎて、星野が、やって来た。
「警備保障から、電話を貰いましてね」
と、星野は、十津川に向って、いった。
「押し入ったと思われる男が、五百万円を持って、死んでいるんですが、M銀行の五百万円の心当りがありますか?」
と、十津川が、きいた。
「それなら、昨日、銀行に頼んで、持って来て貰ったんですよ。買いたいものがありましたのでね」
「金庫には、入れてなかったんですか? 金庫を開けた形跡がありませんが」
十津川が、いうと、星野は、
「そんなことは、ないと思いますが――」
と、いいながら、社長室の金庫を見ていた。
そのあと、急に、「ああ」と、声をあげて、
「思い出しました。つい、うっかり、机の引出しに、しまってしまったんです。金庫に入れておけば、よかったですかねえ」
「いずれにしろ、犯人が死んで、五百万円は、戻りましたから、いいでしょう」
「とにかく、泥棒に入られたのは、初めてですよ」
と、星野は、いった。
「犯人を、知っていますか?」
亀井が、きいた。
「とんでもない。泥棒に知り合いは、ありませんよ」
と、星野は、肩をすくめた。
「三村《みむら》といって、昔、調査の仕事をやっていた男なんですがねえ」
「いや、知りません」
「日野冴子《ひのさえこ》という女性は、知っていますね?」
と、亀井が、続けて、きいた。
「ヒノ?」
「あなたに、弟さんの結婚調査を頼まれた人ですよ」
「私は、探偵社に、頼んだんですがね」
「その探偵社の人間で、実際に、調査を担当した探偵です。三十代の女性探偵です」
「ああ、そうなんですか。しかし、私は、あの事務所に頼んだのであって、個人的に、何という探偵がやったのかは、知らんのです」
と、星野は、いった。
「本当に、個人的に、会ったことは、ありませんか?」
と、亀井が、きく。
「ありません」
「その日野冴子さんは、死んでいます。殺されたんです」
と、十津川が、いった。
「そうですか。それは、お気の毒に」
「あまり、驚きませんね」
「直接、知っているわけじゃありませんからね」
と、星野は、いう。
その顔を、十津川は、じっと、見すえるようにしながら、
「三村という男は、この日野冴子の別れた夫です」
と、いった。
だが、星野は、表情を変えずに、
「そうですか。しかし、私には、関係ありませんね」
「しかし、形はいろいろですが、関係者が二人も、続けて死ぬというのは、異常とは、思いませんか?」
と、十津川は、きいた。
星野は、手を振って、
「どこが、異常なのか、わかりませんよ。その日野という女性も、私の弟のことを調べたから、殺されたのかどうか、わからんのでしょうに、今日死んだ泥棒に到《いた》っては、結婚調査とは、全く、関係ないわけでしょう?」
「いや、関係があるかも知れません」
と、亀井が、いった。
「どこがですか?」
「日野冴子は、あの調査に関して、何かやっていて、それを、三村が、引き継いでいたと思われるのですよ」
「何をやっていたというんですか?」
と、星野が、きいた。
「心当りは、ありませんか?」
亀井が、意地悪く、きいた。
「全くありませんよ。関係のない人ですからねえ」
「実は、二人は、ゆすりを働いていたと思われるんですよ。われわれは、そう睨《にら》んでいます」
「ほう。面白《おもしろ》そうな話ですが、私には、興味は、ありませんよ」
と、星野は、いった。
「失礼ですが、その二人から、ゆすられたことはありませんか?」
十津川が、ずばりと、きいた。
星野は、笑って、
「なぜ、私が、ゆすられなければ、いかんのですか? 悪いことは、何もしていませんよ」
「弟さんの死についてですがね」
と、十津川が、いうと、星野は、口をゆがめて、
「でっちあげは、困りますよ」
「でっちあげ?」
と、亀井が、眼をむいた。
星野は、うすく笑って、
「そうでしょうが。警察は、身内の女刑事を、かばおうとしている。その気持は、わかりますが、小細工《こざいく》は、止《よ》した方が、いいんじゃありませんか」
「小細工って、何のことです?」
亀井が、怒《いか》りをこめて、きいた。
「小細工でしょうが。どうも、おかしいと思っていたんですよ。私の知らん男のことを、妙に、知っている筈《はず》だというのがね。その理由が、わかりましたよ。あの女刑事を助けたくて、無理矢理、事件を、でっちあげようとしているんじゃないんですか?」
「そんなことは、していませんよ」
「しない方が、おとくですよ。ますます、あなた方自身を、まずい立場に追い込むだけですからね。これ以上、妙な事件をでっちあげると、私は、名誉|毀損《きそん》で、あなた方を、訴えますよ」
と、星野は、いった。
十津川は、苦笑した。
これ以上、この男と、話をしても、無駄だろうと、思った。あとは、証拠をつかんで、この男の企《たくら》みを、あばくより仕方がないだろう。
スパナと、五百万円の包みを、押収《おうしゆう》し、十津川たちは、いったん、戻ることにした。
三村の死体は、解剖《かいぼう》に、廻《まわ》されることになった。
「星野が、うまく、三村の口を封じたんだと思いますね」
と、亀井が、いまいましげに、十津川に、いった。
「わかっているよ」
と、十津川が、肯《うなず》いた。
ストーリイは、簡単だと、十津川は、思う。
三村は、電話で、星野をゆすったのだ。そこで、星野は、罠《わな》をかける。
「スター5号館」の社長室の机の引出しに、五百万円を入れておく。入口のドアの錠はかけてないから、忍び込んで、持って行けと、星野は、三村に、いったに違いない。
その電話の話は、星野が、「スター5号館」の社長室にいた時に、あったのだろう。
星野は、机の引出しに、銀行からおろした五百万円を入れておく。
それから、入口のドアの錠は、スパナで、叩《たた》きこわし、そのスパナは、窓の傍《そば》へ置いておいた。
そうしておいて、彼は、アリバイ作りのために、知人と食事をし、銀座で飲み、そして、友人を、自宅に、連れて行った。
ただ、星野は、警備保障会社のことと、社長室に、赤外線の警報装置がついていることを、三村に、いわなかった。
三村は、昔の仲間を使って、警察の尾行をまき、夜半、「スター5号館」に、忍び込んだ。
星野がいった通り、入口のドアは、開いていた。
奥の社長室に入り、机の引出しを開けると、電話でいった通り、五百万円が、あった。
しかし、その時、警備保障会社では、「スター5号館」に、賊が侵入したことを、キャッチし、急行していたのだ。
三村は、突然、飛び込んで来た警備保障会社の人間二人を見て、動揺した。制服を着ているから、警官と、間違えたかも知れない。
三村は、あわてて、社長室の窓を開けた。
すぐ横に、雨水を流すトイが、垂直に伸びている。
それを伝って、逃げようとしたが、手が届かず、落下し、死亡した。
三村が、入口のドアの錠を、スパナで叩きこわして、侵入し、五百万円を奪ったが、逃げようとして、五階から転落死したというわけである。
星野は、自分の手を汚《よご》さずに、三村の口を封じることに、成功したのだ。
もちろん、星野は、否定するに決っている。
十津川たちの推理を証明するものは、何もないのだ。
窓の傍にあったスパナは、もちろん、入念に調べられたが、予想された結果しか出なかった。
スパナは、頭部に、傷があり、これで、入口の錠を、叩きこわしたのであろうことは、想像された。スパナの柄《え》に、三村の指紋はついていない。
これは、三村が、使わなかった証拠ともいえるが、指紋がつかないように、布を巻いて使ったともいえるのだ。そこまで、星野は考えて、スパナを、用意しておいたに違いないのである。
星野が、三村を罠《わな》にかけたという証拠は、どこにもない。
「これで、証人は、二人殺されてしまいましたね」
と、亀井は、口惜《くや》しそうに、いった。
実際に、「北条早苗」の結婚調査をやった日野冴子と、彼女から話を聞いたと思われる三村の二人である。
冴子も、途中で、この調査はおかしいと思い始めたのだろう。
そして、別れた三村に、相談したのだ。
ワルの三村は、とたんに、これは、ゆすりのネタになると、わかったのだろう。日野冴子が、死んだことで、その確信は、ますます、強くなったに違いない。
そして、星野を、ゆすったに、違いない。
日野冴子自身も、星野をゆすったと思われるから、三村は、ゆすりを引き継いだことになるのかも知れない。
「変な話ですが、これで、北条刑事のニセモノがいたことは、確実になりましたね」
と、亀井が、いった。
「確かに、そうだよ。また、星野が、ニセモノを使って、北条君を罠にかけたことも、これで、はっきりしたと思うんだ。北条君の結婚調査が、インチキだったからこそ、その調査を引き受けた日野冴子が、おかしいと気付いて、依頼者の星野を、ゆすったんだと思うからね。しかし、これを、下関《しものせき》署に、納得《なつとく》させるのは難しいよ」
十津川は、重い口調《くちよう》で、いった。
「北条刑事は、やはり、逮捕されてしまいそうですか?」
「日野冴子と、三村が、続けて殺されたことで、何とか、説得してみようと思っているがね。向うの警察が、いうことを聞いてくれるかどうかだな」
と、十津川は、いった。
十津川は、すぐ、下関署に、電話を入れた。
彼は、必死に、説明した。担任の白井《しらい》警部だけでなく、向うの本部長にも、話をした。
だが、十津川の予想したように、白井警部も、本部長も、なかなか、承知してはくれなかった。
日野冴子と、三村が死んだからといって、それが、すぐ、北条早苗の無実と結びつきはしないだろうというのである。
確かに、そういわれれば、その通りなのだ。星野は、二人に、ゆすられていたという確証はないのである。また、たとえ、ゆすられていたことが、証明されたとしても、ニセモノの北条早苗を見つけ出さなければ、向うの県警を、納得させられないだろう。
「十津川さんが、ニセモノを見つけ、彼女が、北条刑事を罠にかけたと自供しない限り、われわれとしては、北条刑事を、逮捕せざるをえませんよ」
と、下関署の白井は、いった。
「わかりますが、北条刑事は、シロです。これは、身びいきで、いっているんじゃありません。もし、このまま、そちらが、北条刑事を逮捕すれば、必ず、問題が、起きることになります」
「われわれを、脅かすんですか?」
白井の声が、甲高《かんだか》くなった。
十津川は、あわてて、
「そんな気はありません。ただ、今度の事件で、続けて、二人の人間が、死んでいることを、考えて欲しいんです。二人とも、殺されたと、私は、考えています。これは、異常だと思いますね。白井さんだって、何かおかしいと、思われる筈《はず》ですよ」
「多少はね」
と、白井は、いった。
「北条刑事を、あと、少しの間、逮捕するのを、待って頂けませんか。それを、お願いしているんですがね」
十津川は、必死で、いった。
「しかし、もう、ずいぶん待ちましたよ。そちらの要求を入れて」
「それは、感謝しています。ただ、二人の人間が死んだことで、少し、事情が、違って来た。そのことを、考慮して貰《もら》いたいということなんです。二人の人間が、殺されたというのは、大変なことですよ」
と、十津川は、いった。
十津川の必死さが、少しは、相手に通じたのか、
「本部長と、相談してみます」
と、白井は、いってくれた。
その結果、あと四十八時間、逮捕しないことを、約束してくれた。
「しかし、北条早苗が、犯人であるという、われわれの確信は、変りませんよ」
と、白井は、念を押した。
とにかく、二日間の猶予《ゆうよ》が、与えられたことになる。
「一人が、一日ということですか」
亀井は、即物的ないい方をした。二人の人間が、殺されたから、二日間と考えれば、亀井のいう通りかも知れなかった。
「まず、見つけたいのは、動機だな」
と、十津川は、いった。
亀井も、肯《うなず》いた。
「どうしてもわからないのは、星野が、こんなことまでして、弟の山野辺宏《やまのべひろし》を、殺さなければならなかった理由ですね。それが、わからないと、今度の事件は、解決できないかも知れません。もちろん、北条刑事のニセモノを見つけ出すことも、大切ですが」
「山野辺宏か」
十津川は、黒板に、眼をやった。
○山野辺宏
N電気の社員、独身。成城の2Kのマンション暮しである。
通勤の電車内で会った女性と親しくなり結婚を考えていた。
「平凡なサラリーマンだがねえ」
と、十津川は、呟《つぶや》いた。
「その通りです」
と、亀井も、肯いた。
「ただ、兄が、資産家の娘と結婚しているというだけだな」
「その兄に、嫉妬《しつと》して、山野辺が、星野を殺したというのなら、わかりますが、逆ですからね。動機が、どうも、よくわかりません」
と、亀井が、いった。
「兄弟の仲が悪かったとしても、殺しはしないだろうからね」
「それに、金が出来て、生活にゆとりが出来ると、人間は、寛大になるものだと思います。兄弟が、憎み合っていても、金持ちの兄の側が殺すことはないと思いますが」
「しかし、星野は、間違いなく、弟の山野辺宏を殺している」
と、十津川は、いった。
だが、それを、証明するのは、難しいと、思う。
星野が、あの日「富士」に乗っていて、山野辺宏を殺す瞬間を目撃されていれば別だが、彼は、ちゃんとしたアリバイを持っている。
星野は、北条刑事のニセモノを使った殺人計画を立て、誰《だれ》かを使って、山野辺宏、つまり、自分の弟を、殺させたに違いないのである。
星野は、自分の手を汚《よご》すような男ではないし、また、自分で殺すくらいなら、こんな面倒な計画は、立てないだろう。
星野は、犯人に、金を与え、また、絶対に、疑われることはないと、説得したのではないか。
彼のいった通り、犯人は、消え、北条刑事が、犯人として、逮捕されようとしている。
「やはり、動機だな」
と、十津川は、いった。
それが、解明されない限り、星野を追いつめることは、難しそうだ。
「どうやりますか?」
と、亀井が、きいた。
「あの兄弟が、生れた時から、追ってみようじゃないか。何か、出てくるかも知れない」
と、十津川は、いった。
十津川は、部下の刑事たちを動員して、山野辺兄弟のことを、徹底的に、調べさせ、それを、年代順に、記録していった。
二人とも、大分市内で、生れている。
兄の功は、大分市内で、旅館を経営する両親の間に、長男として、生れている。
五年後に、弟の宏が、生れた。
二人は、共に、地元の同じ小学校を卒業し、同じ中学校に入っている。
子供の頃《ころ》の二人について、担任の教師や、同窓生の証言は、次のような言葉に、要約された。
兄の功は、その頃から、頭の回転が早く、人気者だった。学校の成績は、中の上といったところだが、小学校の担任は、「リーダー的な素質あり」と、書いている。
弟の宏の方は、誰《だれ》もが、平凡で、あまり、印象になかったと、いう。担任の教師は、さすがに、大人《おとな》しいが、しっかりしていたというが、同窓生たちは、よく覚えていないというところを見ると、いわゆる「目立たない子」だったのだろう。
兄の功は、中学を出ると、東京の高校に入るために、両親に無理をいい、東京の親戚《しんせき》の家に、寝泊りすることにした。
この高校時代、功は、近くの女子高の生徒と、親しくなった。
功は、二人の関係は、プラトニックだったといっているが、事実かどうか、わからない。しかし、二人の関係は、功が、高校三年になった時に、破局を迎えている。
そのあと、功は、突然、猛然と、勉強に身を入れ、見事に、国立大学に、受かってしまう。恐らく、彼女と別れたことが、原因になっているのだろう。
大学を出たあと、功は、一流商社に入っている。
弟の宏の方は、地元の高校を出て、地元の私立大学に入った。いわば、二流の大学である。
宏が、大学を出る頃、父親が亡くなっている。
宏は、何とか、N電気に入社した。
この頃、商社員として、エリートコースを歩いていた兄の功は、商用で利用していた銀行のクラブで、星野|徳一郎《とくいちろう》と、知り合った。
星野は、当時六十五歳。資産家として、有名だった。
星野には、一人娘がいた。星野が四十歳のときに生れた子供だけに、溺愛《できあい》していた。
功は、その後、しばしば、星野の邸《やしき》を訪ねるようになった。
やがて、功は、商社を辞《や》め、星野の娘と結婚した。婿になり、星野功となったのである。
娘の結婚を見届けて安心したのか、星野は、亡くなり、功は、文字通り、星野興業の社長になった。
弟の宏の方は、平凡なサラリーマン生活を送っていたが、大分の母親が亡くなった。
主《あるじ》を失った大分の旅館も、他人手《ひとで》に渡ってしまっている。
これが、兄弟の経歴である。
兄の功の方は、全《すべ》て、上手《うま》くいっているのに、弟の方は、そんな幸運には、恵まれていない。そして、揚句《あげく》、殺されてしまった。
しかし、表面上の経歴の下に、何か、かくされているものが、あるかも知れないし、それが、引金《ひきがね》になって、今度の事件が、起きていることが、十分に考えられた。
十津川は、部下の刑事たちを、督励した。調査を、すすめさせた。
その結果、わかったことが、一つある。
功が、星野徳一郎の一人娘と、つき合い出したとき、彼には、他《ほか》に、恋人がいたことである。
彼女は、功と同じ商社で働くOLで、名前は、安田《やすだ》めぐみである。
二人は、婚約していた。功は、それを破って、星野の娘と、結婚したことになる。
安田めぐみは、自殺していた。
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6 過去への旅
五年前の三月十六日である。
翌日の新聞に、次のような記事が、のっている。
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〈十七日午前六時半|頃《ごろ》、世田谷《せたがや》区松原四丁目の「ヴィラ松原」の裏庭で、ネグリジェ姿の若い女性が死んでいるのを、管理人の山下さん(五六)が見つけて、警察に届け出た。警察が調べたところ、この女性は、602号室に住むOLの安田めぐみさん(二六)と、わかった。めぐみさんは、K商事に勤めるOLで、同僚の話では、結婚話がうまくいかず、悲観していたとのことで、十六日の夜、発作《ほつさ》的に、602号室のベランダから飛び降りたものとみられている〉
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五年前のこの事件が、今度の事件に関係しているのだろうか?
十津川《とつがわ》と亀井は、自信はなかったが、この事件を、調べてみることにした。
二人は、松原署に出かけ、この事件を担当した野田《のだ》刑事に、話を聞いた。
「自殺は間違いないと思いましたが、その理由について、調べました」
と、野田は、当時のメモを引っ張り出して、それを見ながら、説明した。
「それで?」
「彼女が、同じ商事会社の山野辺功《やまのべいさお》と、婚約していたこと、その山野辺功が、星野徳一郎の娘の星野|雅子《まさこ》に、走ったことが、わかりまして、それを悲観しての飛降り自殺ということで、結着しました」
「他殺の線は、全くなかったのかね?」
と、十津川は、きいた。
野田刑事は、びっくりした顔で、
「他殺ですか?」
「そうだよ。誰《だれ》かが、彼女を、六階のベランダから、突き落したということは、考えられなかったのかね?」
「動機がありません。山野辺功は、彼女を捨てたわけですし――」
「602号室の部屋は、調べたのかね?」
と、亀井が、きいた。
「もちろん、調べました。室内は、乱れていませんでしたし、ドアに、錠がおりていました」
「遺書はなかったんだろう?」
「ありません」
「部屋のカギは、ちゃんと、あったのかね?」
「彼女のハンドバッグの中に一つと、机の引出しに一つです。管理人の話では、カギは、二つということでした」
「スペアキーを、別に作っていたかも知れないな」
と、十津川が、いった。
今は、簡単に、スペアが、作れてしまう時代である。
「山野辺功には、話を聞いたかね?」
「一応、会って、話を聞きました。素直な男で、自分が、裏切ったのがいけないんだと、涙を浮べていました」
「彼のアリバイは、あったのかね?」
「安田めぐみの死亡推定時刻は、三月十六日の午後十時から十一時までの一時間ということでした。自殺とは思いましたが、念のために、山野辺功のアリバイも、調べています。この時、山野辺は、弟が、N電気に入ったのを祝って、二人で、飲み、一緒に、自分のマンションで、寝たと証言していまして、弟の山野辺|宏《ひろし》も、その通りだと、証言しました。この日、弟の宏が、N電気の就職が決ったことも事実なので、嘘《うそ》はないと、思いました」
と、野田は、いった。
「しかし、身内の証言だろう?」
亀井が、いった。
「これが、殺人事件なら、疑いの目を向けましたが、自殺と考えていましたので、弟の証言を、信用しました。それに、二人が午後十時まで、新宿のスナックで飲んでいたことは、間違いないんです。店の従業員が、証言しています」
「カメさん。動機は、これかな?」
と、十津川は、亀井を見た。
その時、山野辺功は、安田めぐみを、殺したのではないのか?
そして、アリバイ作りに、弟の宏を、利用した。それが、五年後まで、後《あと》を引いたのではないのか?
野田刑事と別れたあと、十津川と、亀井は、このことで、話し合った。
二人とも、静かな興奮を、感じていた。やっと、手応《てごた》えらしきものを、見つけたからだった。
「功が、安田めぐみという前の恋人を、殺した可能性は、大いにありますよ」
と、亀井は、帰りの車の中で、十津川に、いった。
「恋人同士だったのだから、彼女から、マンションのカギを貰《もら》っていても、おかしくはないな」
「そうです。ひそかに、スペアキーを作っておいて、五年前の三月十六日の夜、彼女を、ベランダから、突き落し、二つのカギは、部屋の中に残し、スペアキーで施錠して、逃げたんじゃないかと、思いますね」
と、亀井は、決めつけるように、いった。
「そして、アリバイを作ったか」
「そう思いますね」
「しかし、証明するのは、難しいぞ。肝心《かんじん》の安田めぐみは、五年前に、死んでしまっている。それだけじゃない。自殺として、処理されてしまっている。それに、アリバイ作りに利用されたと思われる弟の宏は、殺されてしまったしね」
と、十津川は、いった。
「どうしますか?」
亀井が、きいた。
「難しいが、何とかして、証明しなければならない。成功すれば、北条君を助けられるからね」
と、十津川は、いった。
「まず、安田めぐみの周辺を、洗い直してみますか? 彼女が、自殺するような女性じゃなかったことがわかれば、それでも、一歩、前進ですから」
と、亀井が、いう。
「西本君たちと、それを、やってみてくれ」
と、十津川は、いった。
「わかりました」
「私は、もう一度、星野功、いや、山野辺功に、会って来るよ」
十津川が、いうと、亀井は、ニヤッと、笑って、
「宣戦布告ですか?」
「そんな大それたものじゃないよ。ただ、こちらが、いろいろとわかっていることを、告げてやるんだ。少しは、動揺するんじゃないかね」
と、十津川は、いった。
捜査本部に戻ってから、十津川は、改めて、星野功に、会いに出かけた。
彼は、銀座の「スター4号館」の社長室にいた。
「もう、ご用はないと、思っていましたがね」
と、功は、勝ち誇ったような声で、十津川を、迎えた。
「今度は別なことで、あなたに、いろいろと、お聞きしたくなったのですよ」
と、十津川は、努めて、落ち着いた声を出した。
「別のこと? 何ですか?」
功は、用心深い表情になった。
「五年前の事件です。五年前に、安田めぐみという女性が死んでいます。五年前の三月十六日です。この女性のことは、よく、ご存知と、思いますが」
と、十津川は、いった。
功の表情が、変った。しかし、動揺の色というより、怒《いか》りの色だった。
「なるほど」
と、功は、肯《うなず》いて、
「警察も、卑怯《ひきよう》なことをしますねえ」
「卑怯?」
「そうじゃありませんか。あなたが、自分の部下を、かばいたい気持はわかりますよ。しかし私の過去、それも、触れて貰《もら》いたくない過去を持ち出してくるのは、卑怯ですよ。誰《だれ》にだって、秘密にしておきたい過去は、ありますからね。第一、彼女の自殺は、今度の事件とは、何の関係もないでしょう?」
と、功は、十津川を、睨《にら》んだ。
「果して、そうでしょうか?」
「どこに、関係があるというんですか? 今度、殺された私の弟と、安田めぐみとは、何の関係もありませんよ。彼女は、私の恋人だった女ですよ」
「それは、わかっています」
「なら、なぜ、今になって、持ち出すんですか?」
と、功は、きいた。
「五年前のあの事件に、疑いが持たれて来たからですよ」
「疑い? 五年もたってですか?」
「そうです。五年前、自殺として、処理されました。しかし、あれは、自殺でなく、他殺ではないかと、考え始めたんですよ」
と、十津川は、いった。
「それは、ありませんよ。彼女は、自殺したんです。悲しいことですがね。私が、彼女を、自殺に追いやってしまったんです。今でも、申しわけないことをしたと、思っているんです」
と、功は、いった。
「彼女を捨てて、星野雅子さんと結婚した理由は、何だったんですか?」
十津川は、相手が、嫌《いや》な顔をするのを承知で、きいた。
案の定《じよう》、功は、顔をしかめた。
「忘れましたね。もう」
と、功は、いった。
「しかし、女性が一人、死んでいるんですよ。五年前は、自殺として、処理したが、私は、私の責任で、この事件を、もう一度、調べ直してみる心算《つもり》でいます」
十津川も、相手の顔を、見すえるようにして、いった。
「なぜ、そんなことをするんですか? まるで、私に対する嫌がらせとしか思えませんね。事と次第によっては、告発しますよ」
と、功は、いった。
「理由は、簡単です。あの事件に、疑問が出て来たからですよ」
「どんな疑問ですか?」
「あれは、自殺ではなくて、他殺ではないかという疑問です」
「それは、おかしいんじゃありませんか。部屋のドアには、ちゃんと、カギが掛っていたんですよ」
「よく覚えていますね」
十津川は、皮肉を、いった。
功は、ますます、不機嫌な顔つきになった。
「私は、当事者だから、覚えているのは、当然でしょう。私だって、彼女が、ひょっとすると、自殺じゃなくて、殺されたのじゃないか、泥棒に入った奴《やつ》が、居直って、彼女を殺したんじゃないかと、思いましたよ。それで、自分でも、調べてみたんです。だが、今もいったように、ドアには、カギが掛っていたし、部屋も、荒らされていなかった。第一、あの事件を調べた警察の方が、これは、自殺だと、いわれたんですよ。あの警察の方は、誤認《ごにん》したことになるんですか?」
「かも知れませんね」
「それは、警察の不名誉じゃありませんかね?」
「そうであっても、真実に、眼をつぶるわけにはいきませんのでね」
と、十津川は、いった。
「しかし、五年前の彼女の死が、自殺じゃないという理由は、何ですか? それからまず、お聞きしたいですね」
と、功が、いった。
「それは、今度、お会いした時に、申しあげますが、一つだけ、あなたに、いいたいことがあります。もし、あの事件が、他殺だとすれば、一番、動機を持っているのは、あなただということですよ」
「そんなことは、知っていますよ。しかし、私は、関係ない」
「アリバイがあるということですか?」
「そうです。彼女が死んだ時、私は、弟と一緒にいた。これは、みんなが、知っていることだし、松原署の刑事さんも、知っていますよ」
「弟さんが、N電気の入社が決って、二人で、そのお祝いをしたというんでしょう?」
「そうです」
「しかし、あなたと、弟さんが、新宿のスナックにいたのは、午後十時まででしょう? 問題は、そのあとです。あなたは、弟さんと別れて、まっすぐ、松原の彼女のマンションに直行したのかも知れない。死亡推定時刻は、十時から十一時までだから、ゆっくり間に合うんですよ」
十津川が、いうと、功は、顔を、赤くして、
「勝手なことは、いわんで頂きたいな。その日、新宿のスナックで、弟と飲んだあと、彼を連れて、自分のマンションに戻り、朝まで、飲み明かしたんですよ。弟だって、ちゃんと、証言しています」
「弟さんは、あなたのために、偽証したのかも知れない」
「証拠でもあるんですか? 弟が、嘘《うそ》をついたという証拠が」
「ありません。それに、弟さんは、死んでしまっている。あなたにとって、都合のいいことにね」
「不愉快だ。帰ってくれませんか」
功は、十津川を睨《にら》んだ。
十津川は、腰を上げた。が、まっすぐに、功を見つめて、
「今日は、帰りますが、また、来ますよ。その時は、正式に、五年前の事件について、あなたに、話して貰《もら》いますからね。殺人事件の捜査になりますからね」
と、いった。
亀井が、いったように、これは、星野功に対する宣戦布告だった。
功が、あわてるかどうかは、わからない。
安田めぐみが死に、弟の山野辺宏も死んでしまっているから、大丈夫と、タカをくくっているかも知れない。
動かないと困るのだが、少しは、動揺するだろう。
怒って、十津川に、帰れと、怒鳴《どな》ったのが、その証拠だと、思う。
十津川は、捜査本部に戻って、星野功との会話を、思い出してみた。
反応は、あったと思う。
今度の弟殺しについては、功は、安心しているだろうが、五年前の事件は、彼のアキレス腱《けん》に違いないとも思う。
(どうなっていくのか)
十津川は、亀井と、安田めぐみの家族に会うことにした。
星野功の犯罪を証明するにしても、五年前の事件について、くわしく、知ることが、必要だったからである。
安田めぐみは、広島の出身で、福山に親戚《しんせき》がいるが、両親は、すでに亡くなっていた。
ただ、彼女の姉が、結婚して、現在、横浜に住んでいるのがわかって、十津川と亀井は、会いに出かけた。
東京急行の大倉山駅で降りてすぐの商店街である。
この商店街は、活性化のために、全体が、ギリシャ風に、改装したとかで、畳屋や、すし屋までが、ギリシャ風の建物の中におさまっているのは、奇妙な光景だった。
奇妙だが、若者を引き止めるには、こうした改造も、必要なのだろう。
旧姓安田、今は、香西《かさい》になっている和子《かずこ》は、現在三十八歳で、子供が二人いるということだった。
夫婦で、喫茶店「エーゲ海」を、やっていた。
「前は、『さくらんぼ』という名前だったんですけど、この建物では、似合わないんで、変えました」
と、夫の香西は、笑っていったあと、自分がいては、話がしにくいだろうと思ったのか、奥へ姿を消した。
十津川は、残った和子に向って、
「思い出したくないとは思いますが、妹のめぐみさんのことを、話して、頂きたいのです」
と、いった。
「なぜ、五年たった今、急に、警察の方が調べて、いらっしゃるんですか?」
和子は、当然の疑問を、ぶつけてきた。
「めぐみさんの死が、ひょっとすると、自殺ではなくて、他殺かも知れないと、思われるようになってきたからです」
「やっぱり」
と、和子は、肯《うなず》いてから、
「あの時だって、妹が、自殺する筈《はず》がないと思っていましたわ」
「なぜですか?」
と、亀井が、きいた。
「妹は、しっかりした性格で、自殺なら必ず、その理由を書いた遺書を残した筈ですもの」
と、和子は、いう。
「しかし、婚約していた山野辺功が、妹さんから、星野の娘の方に、走ってしまったためということは、わかっていたんじゃありませんか?」
十津川は、和子に、いった。
すると、和子は、意外にも、首を横に振って、
「私は、何も知りませんでしたわ」
「妹さんは、何もいわなかったんですか?」
「ええ。何も。だから、山野辺さんとは、うまくいっているものとばかり、思っていましたわ」
「すると、妹さんが死んでから、星野さんのことを聞いたんですか?」
「ええ。山野辺功さんから、聞いたんです。彼は、ひたすら、申しわけないと、繰り返していましたわ」
「しかし、納得《なつとく》はしなかったんですね?」
「ええ。妹が、遺書を残していて、それに、書いてあれば、納得したかも知れませんけど」
「しかし、現実に、山野辺功は、資産家の星野の一人娘に、走ってしまったわけでしょう?」
と、亀井が、不遠慮に、きいた。
「ええ。それは、わかっていますわ」
「その件については、どう考えているんですか?」
と、十津川が、きいた。
「山野辺さんが、自分を高く売りたくなったんだとは、思いますけど」
と、和子は、いう。
「それは、どういうことですか?」
「あの人は、頭もいいし、一流商社のエリートサラリーマンでしたわ。それに、ハンサムだし、自分を、高く売り込みたかったんだと思うんです。妹は、性格のいい娘《こ》でしたけど、財産はありませんでしたから、彼にしてみれば、自分にふさわしい、財産もある娘が、他《ほか》にいる筈《はず》だと、いつも、思っていたのかも知れませんわ」
「それで、山野辺功は、資産家の娘に走り、めぐみさんは、それを悲観して、自殺したことになっているんですが、それには、納得できないんですか?」
「ええ。納得できませんわ」
「なぜですか?」
「第一に、妹は、強い娘で、一時的に、ショックは、受けるかも知れませんけど、それで、自殺するとは、とても、思えないんです」
「なるほど」
「それに、私に、何の相談もしていないというのが、不思議ですわ。何でも、私には、話してくれていましたのに」
と、和子は、いった。
「しかし、恥《はずか》しいので、相談しなかったんじゃありませんか?」
「山野辺さんは、そういってましたけど、妹は、私を信用していたから、絶対に、打ち明けて、相談していた筈ですわ。あの頃《ころ》、両親とも亡くなっていて、二人だけの姉妹だったんですから」
「じゃあ、なぜ、あなたに、相談しなかったんですかね?」
と、亀井が、きいた。
和子は小さく頭を振って、
「それが、わからないんです。なぜ、妹が、私に、相談してくれなかったのかと」
「死ぬ直前にも、妹さんに、会っておられるんですか?」
と、十津川は、きいた。
「ええ。三日前に、会っていますわ」
「その時の様子は、どうでした?」
「楽しそうにしていましたわ。仕事も楽しいし、彼とも、うまくいっているといっていたんです。警察や、山野辺さんの話だと、あの頃、もう、彼は、星野さんの娘と、深い仲になっていたことになるんですけど、それが、どうしても、信じられないんです」
「妙な話ですね」
「妹のことは、週刊誌にも、のったんです」
「ほう」
「エリート社員との恋に破れて自殺した美人OLという見出しで、書かれました」
「何という週刊誌ですか?」
「『週刊スクープ』ですけど」
「あなたも、取材されましたか?」
「ええ」
「その時も、三角関係のもつれで自殺した筈《はず》はないと、おっしゃったんですか?」
「ええ。そういいましたわ」
「その通りに、週刊誌にのりましたか?」
「いいえ。資産家の娘にのりかえられて、自殺したと、書かれましたわ。山野辺さんが、泣いている写真も、のっていましたけど」
そのいい方に、険《けん》があった。どうやら、山野辺功、今は、星野功に、いい感情は、持っていないらしい。それも、彼が、妹を裏切って、他《ほか》の女に走ったというだけの理由ではなさそうである。
「彼が、妹さんを殺したのではないかと、考えたことは、ありませんか?」
と、亀井が、ずばりと、きいた。
和子は、一瞬、表情を、かたくしたが、
「ありましたわ」
「それは、資産家の娘と一緒になりたくて、邪魔になった妹さんを殺したと、考えたわけですか?」
「いいえ」
と、和子は、いった。
亀井は、十津川と、顔を見合せてから、
「しかし、他に、彼が、妹さんを殺す動機が考えられますか?」
と、きいた。
「妹は、勝ち気なところがあります。男が、自分から離れたとわかったら、未練がましく、追いかけたり、泣きわめいたりしません。彼が妹を殺す必要なんかないんですよ」
「それでも、彼が、殺したのではないかと、考えたんでしょう?」
「ええ」
「他に、どんな理由が、考えられますかねえ」
「私にも、わかりませんわ。でも、妹が、彼に殺されたとしても、今、刑事さんがおっしゃった理由なんかじゃないと、思っているんです」
と、和子は、いった。
十津川は、意外な展開になったなと思いながらも、すぐ、和子の言葉を、信用する気にはなれなかった。
何といっても、三角関係のもつれの方が、説得力が、あったからである。
十津川と、亀井は、和子と別れると、東京に引き返し、「週刊スクープ」を出している出版社に、顔を出した。
神田《かんだ》にある出版社である。
五年前、あの事件を記事にしたという記者に、会った。
田宮《たみや》という中年の記者だった。
「警察が、なんで、五年前の事件を、今頃《いまごろ》、調べてるんですか?」
と、探《さぐ》るような眼で、十津川たちを見てから、
「あれは、よく覚えていますよ。死んだ娘さんが、美人でしたからねえ」
と、いった。
「なぜ、取りあげることになったんですか?」
と、十津川が、きいた。
「電話があったんですよ。有名商社のエリートサラリーマンが、婚約までした女性を裏切って自殺させた。これでいいのかってですよ」
「それは、男の声ですか? それとも、女の声ですか?」
「男の声でしたよ。ちょっと、作ったようなね」
と、田宮は、いった。
「それで、誰《だれ》に、取材したんですか?」
「まず、警察へ行って、調べましたよ。そんな事件が、本当に、あったのかどうか知りたかったですからね」
「そのあと、山野辺功に会ったんですか?」
「ああ、自殺した女の相手ですね。もちろん、会いましたよ」
「それで?」
「素直《すなお》な男でしたね。自分が、他の女を好きになって、それが原因で、自殺させてしまった。申しわけなく思っていると、涙を浮べていましたねえ。確かに、悪い人だが、あの涙を見たら、同情したくもなりましたよ」
「彼の新しい恋人にも、取材しましたか?」
「星野家の一人娘には、会いましたよ。大人《おとな》しい、いい娘さんでしたね」
「男が、そちらに走っても、仕方がないと思いましたか?」
と、十津川は、きいた。
「どちらが、美人かといえば、死んだ安田めぐみの方が、魅力があると思いましたよ。しかし、財産は、星野家の方が、はるかにある。野心家の青年にとっては、財産は、魅力的だと思いますよ」
「山野辺功も、野心のある青年と、思ったわけですか?」
「思いましたね」
「彼が、嘘《うそ》をついているとは、思いませんでしたか?」
十津川が、きくと、田宮は、びっくりしたような表情になって、
「嘘って、何のことですか?」
「三角関係のもつれというのは、嘘とは、思いませんでしたか?」
「そんなことは、考えませんでしたよ。山野辺功が、安田めぐみと、婚約していたのに、資産家の娘に走ってしまい、それで、ショックを受けた彼女が、自宅マンションから、身を投げて、自殺した。他《ほか》に考えようがありませんし、山野辺も、自分が悪かったと、反省していた。それも、記事に書きましたよ。もちろん、仮名《かめい》にしてですがね」
「その後、彼が、資産家の娘と結婚したのは、知っていますか?」
と、十津川は、きいた。
「あとで、知りましたが、別に、どうということもないですよ。安田めぐみが、自殺した時は、ショックだったでしょうが、時間がたてば、ショックは消えますからね」
「安田めぐみのお姉さんには、取材はしましたか?」
「あの記事が出てから、抗議の電話を貰《もら》いましたよ。確か、妹は、自殺する筈《はず》がないということでしたね」
「それについては、どう思いました?」
「まあ、身内が、そう思いたい気持は、わかるとは、考えましたよ。しかし、どう見ても、三角関係からの自殺としか見えませんでしたからね。警察も、そう考えていましたしね」
「あなたのところへ電話して来た男のことですが、誰《だれ》か、わかったんですか?」
「見つかれば面白《おもしろ》いと思ったんですが、結局、わからずです。しかし、どんな男かは、想像がつきましたよ」
「どんな男ですか?」
「自殺した安田めぐみは、美人でしたからね。ひそかに、彼女を好きだった男がいたとしても、おかしくはない。そんな男が、山野辺功に腹を立てて、電話して来たんだと、思っていますよ。社会的な制裁を、加えてやろうと思ってね」
「それで、社会的制裁は、加えられたと思いますか?」
と、亀井がきいた。
「加えられたと思いますよ。本名は、出しませんでしたが、彼は、会社を辞《や》めましたからね。エリート社員の椅子《いす》を、投げ出したわけですから」
と、田宮は、いった。
「ひょっとして、山野辺功自身が、電話して来たとは、考えませんでしたか?」
十津川が、きくと、田宮は、「え?」と、声をあげた。
「あの男が、なぜ、自分の首を絞めるような真似《まね》をするんですか? それは、あり得ませんよ」
「彼が、殺したのではないかという疑いの目を向けられている時、それを、自殺に持って行くためですよ」
と、十津川は、いった。
「では、こっちの取材に対して、泣いて見せたのも、全《すべ》て、芝居だったというわけですか?」
「芝居には、見えませんでしたか?」
「見えませんでしたがねえ。第一、そんな先入主は、持って、取材しませんでしたしね」
「しかし、女を裏切って、自殺させた男という先入主は、持っていたわけでしょう?」
と、十津川が、きく。
「そうです」
「彼が、それを知っていて、芝居をすれば、あなたは、簡単に引っ掛りましたね? 違いますか?」
と、十津川は、きいた。
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7 一人の女
「彼女に、会ってみよう」
と、十津川《とつがわ》が、いった。
「彼女って、誰《だれ》ですか?」
亀井《かめい》が、きいた。
「星野功《ほしのいさお》の奥さんだよ」
と、十津川は、いった。
功が、仕事で、会社に出ていく時間に、二人は、星野の自宅を訪ねた。
「ご主人は、お留守ですけど」
と、いうお手伝いに、十津川は、
「今日は、奥さんに、お会いしたいんです」
と、いった。
しばらく、待たされてから、二人は、奥へ通された。
中庭の見える応接室である。
星野|雅子《まさこ》は、和服姿で、現われた。
青白い顔をしているが、風邪《かぜ》でもひいているのか。
お手伝いが、コーヒーをいれてくれた。
「私に、ご用だそうですけど」
と、雅子は、十津川を見、亀井を見た。
(表情のない顔だな)
と、十津川は、思いながら、
「ご主人と、結婚なさった時のことを、話して頂きたいと、思いましてね」
と、いった。
「もう、五年も前のことですわ」
「わかっています」
「それに、私ごとで、警察の方が、関心をお持ちになるようなことじゃないと思いますけど」
と、雅子は、相変らず、表情を変えずに、いった。
「五年前、一人の女性が死にました。安田《やすだ》めぐみという女性です。ご主人と、結婚することになっていた女性なんですが、もちろん、ご存知と、思います」
十津川が、いうと、雅子は「ええ」と、肯《うなず》いた。
「週刊誌に、いろいろと、出ていましたし、主人からも、聞きましたから」
「その時、ご主人、いや、その時は、まだ、山野辺《やまのべ》功さんですが、何と、いいました?」
「事実だけを、話してくれましたわ。僕が、君を好きになってしまったので、彼女を、自殺させてしまったとですわ」
「それを聞いて、あなたは、何といったんですか?」
と、亀井が、きいた。
「何もいいませんわ」
「本当に、何もいわなかったんですか?」
亀井が、なおも、きくと、雅子は、はじめて、表情を動かした。
「私に、何がいえるでしょう? 彼女が死んで、良かったというんですか? それとも、彼女のために、泣けばいいんですかしら?」
「ご主人との結婚を、やめようとは、思いませんでしたか?」
と、十津川が、きいた。
「いいえ」
「なぜですか?」
「なぜ?」
と、雅子は、きき返してから、
「主人が、参っていましたから、自分が、助けてあげなければと、思いましたわ」
と、雅子は、いった。しかし、あまり、感動のないいい方だった。
「自殺ではないのではないかと、疑ったことはなかったですか?」
「なぜ、そんな疑いを持つ必要があるんでしょうか?」
雅子は、また、無表情に戻って、十津川を見た。何となく、質問のための質問をしているような感じで、本当は、全く別なことを、彼女は、考えているような気が、十津川には、して仕方がなかった。
「ご主人と、初めて会った時のことを、覚えて、いらっしゃいますか?」
と、亀井が、きいた。
「ええ」
「どんな印象でした?」
「頭の切れる、エリートサラリーマンという印象でしたわ。事実、そうでしたけど」
「ご主人が、結婚を申し込まれたのは、いつ頃《ごろ》ですか?」
「さあ、はっきり、覚えていませんわ」
「それは、安田めぐみさんが、死ぬ前ですか? それとも、後ですか?」
「前ですわ」
「その時、ご主人に、婚約している女性のいることは、知っていましたか?」
「いいえ。でも、主人は、自分にも、つき合っていた女がいるが、きちんと、話をつけて来たと、いっていましたわ。ですから、その安田めぐみさんにも、主人は、いったと思うんです。私と、結婚したいと。それで、彼女は、絶望して、自殺したんだと、思いますわ。その点では、私も、責任は感じていますけど、これは、男と女がいる限り、仕方がないことだとも、思っています」
と、雅子は、いった。
「ご主人との間で、彼女のことが、話題になることは、ありませんか?」
と、十津川が、きくと、雅子は、眉《まゆ》を寄せて、
「ありませんわ」
と、強い口調《くちよう》で、いった。
「お子さんは、まだですか?」
十津川は、微笑を浮べて、きいた。
その瞬間、雅子の表情が、激しく動いたような気がした。
「まだですわ」
といったが、その声が、かすかに、ふるえている。
(なぜ、動揺したのだろうか?)
と、十津川は、不審に思いながら、
「こんな広い家に、お二人だけでは、寂しいでしょう。お子さんが欲しいんじゃありませんか?」
「子供を作るか作らないかは、私たちの問題ですわ。警察とは、関係ありませんわ」
雅子は、切り口上《こうじよう》で、いった。
それで、会話が、跡切れてしまった。雅子は、横を向いてしまった。
十津川は、いったん、引き揚げることにした。
二人は、外に出たが、亀井が、
「無表情だった彼女が、子供のことを、警部が、聞いた途端に、興奮しましたね。何でしょうか? あれは」
と、きいた。
「子供のことで、悲しい思い出があるのかも知れないな」
「調べてみます」
と、亀井は、いった。
翌日、亀井は、西本《にしもと》刑事を連れて、都内の産婦人科医を廻《まわ》って、調べていたが、夕方になって、戻ってくると、
「警部のいわれた通りでした」
と、十津川に、いった。
「彼女は、流産でもしていたのかね?」
「そうです。結婚した翌年の十月に、妊娠していることがわかったんですが、五か月の時、流産をしています。新宿の前田《まえだ》産婦人科医が、扱っていました」
「それで、彼女が、子供の話をしたとき、異常に、興奮したのか」
「そうだと思いますが、この前田産婦人科で、面白《おもしろ》い話を聞きました」
「何だい?」
「婦長が話してくれたんですが、緊急入院した星野雅子のことを、よく覚えていました。流産したと、知らせたとき、彼女は、半狂乱になって、『あの子のタタリだ!』と、叫んだというんです」
「タタリ?」
「そうです」
「大時代《おおじだい》ないい方だねえ」
「まったくです。婦長も、びっくりしたと、いっています。それで、よく、彼女のことを、覚えているんだそうですが」
「彼女は、前にも、流産したことがあるのかな? それとも、堕《お》ろしたことがあって、そんなことを、いったのか」
「いや、それは、なさそうです。婦長の話は、初産《ういざん》だったそうですから」
「タタリねえ」
と、十津川は、口の中で、呟《つぶや》いた。
恐らく、雅子の過去に、何かあったに違いない。タタリという以上、誰《だれ》かが、死んでいて、そのタタリということなのだろう。
「彼女が、流産する前に、彼女の周囲で、子供が死んでいないかどうか、調べてみよう」
と、十津川は、いった。
ずいぶん、ばくぜんとした話だが、調べる価値は、あると、十津川は、思ったのである。
そのために、十津川は、刑事全員に、五年前の新聞に、眼を通すように、いった。
各紙の縮刷版が、捜査本部に、持ち込まれ、それを、丹念に、調べた。
一晩かかって、十津川たちは、興味のあるニュースを、一つ、見つけ出した。
五年前の二月七日に、御殿場《ごてんば》近くで起きた轢《ひ》き逃げ事件だった。
死亡したのは、近くの小学校に通う七歳の少女である。
目撃者はなく、犯人は、まだ、逮捕されていない。
十津川が、この事件に、興味を持ったのは、安田めぐみが、墜死する一か月前の事件であることと、箱根に、星野家の別荘があるからだった。
十津川は、すぐ、御殿場署に電話して、この轢き逃げのくわしい話を聞くことにした。
担当の谷口《たにぐち》という交通課の刑事が、電話に出て、説明してくれた。
「五年たった今も、犯人があがらずに、苦労しています」
と、谷口は、いった。
「午後二時半|頃《ごろ》に、起きた事件だそうですね?」
「そうです。死んだのは、宮内《みやうち》ユキという子供なんですが、学校から帰ったあと、遊びに出かけました。三つ年上のお兄さんと一緒だったんですが、途中で、お兄さんの友だちが現われて、ユキちゃん一人が、近くの公園に行ったんです。道路を横切らなければならないんですが、その時、はねられたと思われます。車は、かなりのスピードで走っていたらしく、ユキちゃんは、十二、三メートル、はね飛ばされていました」
「目撃者は、本当に、なかったんですか?」
と、十津川は、きいた。
「必死に捜してみましたが、見つかりませんでした。ただ、車は、あったかも知れません」
「車?」
「そうです。はねた車のすぐあとを走っていた車が、あった可能性があるんです。その車は、急ブレーキをかけて、いったん、停っています。その車の主《ぬし》は、恐らく、はねた車を目撃していると思うのですが、五年たった今も、名乗り出てくれていません」
と、谷口は、いった。
「はねた車の車種は、わかったんですか?」
「破片が見つかっているので、何とか、特定できましたが、白のベンツ1980年製です。ただ、何県の車かわからないので、いまだに、持主が、わかっていません」
と、谷口は、いってから、
「何か、情報があったんですか?」
と、きいた。
「いや、そうじゃありません。わかれば、お知らせしますよ」
と、十津川は、いった。
電話を切って、十津川は、眼を光らせて、亀井を見た。
「これが、本命なら、面白《おもしろ》くなりそうだよ」
「その事件に、星野雅子が、関係している可能性があるわけですか?」
「これは、推理でしかないんだが、五年前の二月七日に、星野雅子は、白のベンツで、箱根の別荘に向っていた。山野辺功が一緒だった。というより、功が、運転していたんじゃないかな」
「そして、七歳の少女をはねて、殺してしまったということですか?」
「そうだよ。はねて、二人は、逃げたんだ」
「それで、雅子は、流産したことを、『タタリだ!』と、叫んだわけですか?」
「そうじゃないかと思うんだがね」
「安田めぐみは、どう関係して来ますか?」
と、亀井が、きいた。
「この先は、大胆な推理になるんだが、この二人を、安田めぐみが、車で、尾行していたんじゃないかな。そんな車がいた筈《はず》だと、地元の警察は、いっているからね」
「安田めぐみは、嫉妬《しつと》から、二人を、尾行していたんでしょうか?」
「多分ね」
「そして、二人の車が、少女を轢《ひ》き殺すのを、目撃したわけですね?」
と、亀井は、いった。が、彼の顔も、次第に、紅潮して来ていた。
「安田めぐみが、轢き逃げの目撃者だったとする。功にとっても、星野雅子にとっても、危険な存在になってしまったわけだよ。めぐみが、二人を脅したかどうかは、わからない。功に、結婚するなら、黙っていると、いったかも知れん。男としてみれば、爆弾を抱えているようなものだ」
「それで、自殺に見せかけて、殺したわけですか?」
「三角関係のもつれで、傷心自殺ということにしたんだ。功は、申しわけないと繰り返し、商社も、辞《や》めて見せた。誰《だれ》もが、功を非難はしたが、この話は、疑わなかった」
「週刊誌に、電話したのも、功の可能性が、強くなって来ましたね」
と、亀井が、身を乗り出して来た。
「功は、怖かったんだよ。真相を知られるのがね。そこで、自分を悪者にして、安田めぐみを、自殺に見せかけて、殺し、口を封じてしまったんだ。女を裏切って、自殺させたエリートサラリーマンといわれても、そんなことは、過失致死で逮捕されるのに比べたら、何ともなかったと思うね」
「星野雅子も、一緒に、車に乗っていたとすれば、共犯みたいなもので、結婚することにしたんでしょうね」
と、亀井が、いった。
「そして、安田めぐみを殺した時、弟に、アリバイを作って貰《もら》ったので、あとで、弟まで、殺さなければならなくなったんじゃないかな」
十津川が、いった。
「やっと、動機が、見つかりましたね」
「しかし、全部、推理だよ。証拠はないんだ」
と、十津川は、慎重に、いった。
「では、まず、五年前に、星野雅子が、白いベンツを持っていたかどうか、調べてみましょう」
と、亀井が、いった。
(これが、突破口になるだろうか?)
星野雅子は、現在、三十歳である。
K大の国文科を卒業している。
当時の同窓生の何人かに、十津川と、亀井は、話を聞いてみた。
その中に、面白《おもしろ》い話があった。
雅子は、在学中に、運転免許をとり、父親に買って貰《もら》った車を、運転していたというのである。
それだけなら、別に、どうということはないのだが、二年前に会った時、彼女は、免許を、持っていなかった。どうしたのかときくと、車に興味がなくなったので、更新しなかったといったらしい。
「彼女らしくなかったわ」
と、その友人は、十津川に、いった。
「なぜ、彼女らしくないんですか?」
と、十津川は、きいた。
「だって、彼女は、カーマニアだったんですよ。それが、急に、車に興味がなくなったっていうんですもの。結婚して、人生観が変ったのかなって、思ったんですけどね」
「運転手を傭《やと》ったからじゃありませんか? 自分が、運転する必要がなくなったから――」
「それなら、彼女の大学時代から、運転手はいましたわ」
「彼女が大学時代に乗っていた車は、どんな車ですか?」
と、亀井が、きいた。
「国産のスポーツ・カーでした」
「彼女には、外国の高級車の方が、よく似合いそうな気がするんですが」
と、亀井がいうと、その友人は、笑って、
「彼女、自分でも、そういっていましたわ。でも、まだ学生だから、国産で、我慢しろと、お父さんにいわれているんだそうで、卒業したら、ベンツか、ポルシェを、買って貰うんだと、いっていました」
「その車に、乗っているのを、見たことがありましたか?」
十津川が、きいた。
「ええ。卒業して、一年半ぐらいして、彼女の家に、遊びに行ったことがあるんです。その時、ドライブに誘われて、彼女の車に、乗せて貰いましたわ」
「その時の車は?」
「白いベンツ」
と、友人は、歌うように、いった。
「楽しそうに運転していましたか?」
「ええ。もちろん」
「それなのに、最近、運転をやめてしまったんですね?」
「ええ。二年前に、私も、車を持っているんで、一緒に、箱根までドライブしないかって、誘ったんですよ。そしたら、もう、運転は、やめてしまったといっていましたわ。びっくりしたんですけどね」
「なぜ、やめたのか、理由を、いいませんでしたか?」
「事故でも起したのかと思って、きいてみたんですが、そんなことじゃないと、いっていましたわ」
「学校を出てから、白いベンツに乗っていたことは、間違いありませんね?」
と、十津川は、念を押した。
「ええ。ベンツの500SELでしたわ。羨《うらや》ましかったのを覚えていますわ」
「白いベンツだったんですね?」
「ええ。彼女は、昔から、白が好きでしたから」
と、その友人は、いった。
十津川と、亀井は、満足した。
星野雅子が、白いベンツを持っていたことが、わかったからである。
「面白《おもしろ》くなって来ましたね」
と、亀井が、嬉《うれ》しそうに、いった。
「あの推理が、どうやら、当っていたみたいだな」
と、十津川も、いった。
五年前の事故の時、問題のベンツを、雅子と、功のどちらが運転していたのかわからないが、一人の少女をはねたのは、間違いないだろう。
「あの夫婦に会ってみますか? どうせ、否定するでしょうが」
と、亀井が、いった。
「そうだな。われわれが、知っていることを、いっておくか」
と、十津川は、微笑した。
とうとう、北条早苗刑事は、下関署に逮捕された。
夜になり、星野夫婦が、在宅しているのを確かめてから、十津川と亀井は、星野邸を、訪ねた。
玄関横の車庫をのぞくと、白いロールス・ロイスが、置かれてあった。これは、恐らく、星野夫婦が、自分で運転はしないのだろう。
広い応接室で、十津川と亀井は、星野夫婦と、向い合って、腰を下した。
「いい車を、お持ちですね」
と、まず、十津川が、口火を切った。
「そうですか。大きな車の方が、安全ですからね」
と、功が、微笑した。
「ご自分では、運転されないんですか?」
「もうやめました。若くは、ありませんのでね」
「前に、白いベンツを、お持ちでしたね? 今は、ガレージに、見当りませんが」
と、亀井が、きく。
「いや、ベンツは、持っていませんよ」
功が、強い声で、否定した。
「おかしいですね。奥さんの運転で、白いベンツに、乗せて貰《もら》ったという人が、いるんですが」
亀井が、ちらりと、雅子に、眼をやった。
雅子は、白い顔で、
「私は、免許を、持っていませんわ。だから、私が、運転してというのは、間違いだと、思いますけど」
「前は、免許を、持っていらっしゃったんでしょう? その人が、乗せて貰ったのは、まだ、奥さんが、独身の時代だそうです。五、六年前だそうですが」
「そんな昔のことは、よく覚えていませんけれど」
と、雅子は、相変らず、青白い顔で、いった。
「大学時代に、免許を取られたんでしょう? あなたが、その頃、国産のスポーツ・カーに、乗っていたのを、覚えている人がいるんですよ」
十津川が、いうと、雅子は、「ああ」と、肯《うなず》いて、
「その頃《ころ》は、若かったですから」
「卒業したあと、白いベンツを、買って貰って、乗っていたという人がいるんですがね。あなたの同窓生の一人なんですが」
と、十津川が、いった。
「それは、何かの間違いですわ」
と、雅子が、いう。
「間違いといいますと?」
「ベンツによく似ていますけど、国産車なんです。国産では、一番大きな車だったから、その人が、ベンツと、間違えたんだと思いますわ」
「国産の何という車ですか?」
「トヨタのクラウンですわ」
「しかし、フロントのデザインが、ずいぶん、違いますよ。なぜ、あなたのお友だちは、ベンツと、いったんでしょう? ベンツ500SELだといっているんですが」
と、十津川は、いった。
「私には、わかりませんわ。私が、前から、ベンツが好きだといっていたので、ベンツと、思い込んだんじゃないかしら」
雅子は、首をかしげるようにして、いった。
「なぜ、好きなベンツにしないで、クラウンを買ったんですか?」
亀井が、食いさがった。
「大学を卒業したといっても、私は、両親に、食べさせて貰っていましたから、申しわけなくて、ベンツを買ってくれとは、いえなかったんです」
「ご主人は、結婚前、そのクラウンに、乗せて貰ったことが、ありますか?」
十津川は、視線を、功に、移した。
功は、一瞬、迷った様子だったが、
「ええ。二、三回、乗せて貰いましたが――」
と、いった。
否定した方がいいかどうか、頭の中で、考えたに、違いない。
「その時は、どちらが、運転されたんですか?」
と、十津川は、続けて、きいた。
「どっちでしたかね。僕が、運転した時も、あったと思いますよ」
功は、あいまいないい方をした。
「箱根に、別荘をお持ちでしたね?」
「ええ。父が、買ったものですわ」
と、雅子が、答えた。
「お二人で、車で、その別荘へ行かれることもあるんじゃありませんか?」
「行きますが、今は、運転手が、運転してくれます」
と、功が、いった。
「結婚前も、お二人で、車で、箱根へ、行かれたことがあるんじゃありませんか?」
「さあ、どうでしたかね」
「五年前の二月頃というと、まだ、お二人は、結婚されていませんね?」
と、十津川は、少しずつ、核心に触れていった。
「ええ。まだでしたよ。それが、どうかしましたか?」
と、功は、用心深く、十津川の顔色を見た。
「五年前の二月七日のことを、覚えていらっしゃいますか?」
十津川は、じっと、功と、雅子の顔を見すえるようにして、きいた。
「五年前ですか?」
功は、おうむ返しに、いったが、そのあと、黙って、雅子と、顔を見合せている。
雅子の方が、むしろ表情を変えず、
「五年前のことなんか、覚えていませんわ」
と、いった。
「実は、この日、箱根の御殿場近くで、轢《ひ》き逃げ事件がありましてね。七歳の少女が、死んでいます」
「なぜ、そんなことを、私たちに?」
雅子は、咎《とが》める眼で、十津川を見た。
「実は、この事件の犯人が、まだ、捕まっていないのですよ。ところが、犯人の車のすぐあとを、もう一台、走っていたと、思われるんです。つまり、二台目の車は、犯人の車を目撃しているのではないかということです」
「僕たちには、関係ない」
と、功が、いった。
「地元の警察は、この二台目の車の人間を探していて、うちにも、協力を要請して来たんですよ。それで、調べたところ、箱根に、別荘を持っている星野雅子さんか、当時、つき合っていた山野辺功さんが、問題の車を、運転していたのではないかと、考えるようになったんですよ」
十津川は、そんないい方をした。
二人の反応を、見たかったのである。
「覚えがありませんね」
と、功が、いい、雅子は、
「私たちとは、違うと思いますわ」
と、いった。
「しかし、二月|頃《ごろ》、お二人で、箱根の別荘へ行かれたことは、あるんでしょう?」
「さあ、どうでしたかね? 二月みたいな寒い時には、行かなかったと、思いますね」
と、功は、いった。
「あの轢《ひ》き逃げ事件は、覚えていますか?」
と、十津川は、きいた。
「いや、僕は、覚えていませんね」
「私もですわ」
と、夫婦は、いった。
「それは、残念ですね。われわれは、てっきり、お二人が、犯人の車を、目撃しているのではないかと、期待して、来たんですがねえ」
と、十津川は、いった。
「残念ですが、お力になれません」
と、功が、いった。
それで、会話が、切れてしまったが、亀井が、雅子に、眼をやって、
「失礼ですが、どこか、お悪いんですか?」
「いいえ」
と、雅子が、首を横に振った。
「顔色が、悪いので、病気かと思ったんですが」
亀井は、首をすくめるようにして、いった。
「そんなことは、ありませんわ。病気なんかじゃありません」
「お子さんは、まだですか?」
「ええ。まだですわ」
と、雅子は、いった。
十津川と、亀井は、ここまでで、切り上げて、星野邸を後にした。
パトカーに戻ったあとで、亀井は、車をスタートさせながら、
「効果は、ありましたかね?」
と、十津川に、きいた。
「あの二人は、五年前の事件の犯人だよ」
十津川は、自信を持って、いった。
「そう思われましたか?」
「もし、犯人でなければ、当然、轢き逃げ事件に、興味を持って、いろいろと、質問した筈《はず》だよ。あの時に見た車じゃないかとか、考えてね。だが、あの二人は、ひたすら、知らないと、いい張った。普通のリアクションじゃないよ」
「しかし、犯人であることを、証明するのは、難しいんじゃありませんか?」
「唯一《ゆいいつ》の方法は、五年前、星野雅子が、白いベンツを持っていたことを、証明することだよ。これは、可能だと思うよ。ベンツの所有者は、そう多くはない筈だからね」
と、十津川は、いった。
「もう一つ、気になったのは、星野雅子のことです。本当に顔色が、悪かったですよ」
亀井は、車を運転しながら、心配そうに、いった。
「実は、私も、気になっていたんだ。ただの風邪《かぜ》か何かならいいがね」
「まさか、星野功が、危い薬を飲ませているんじゃないでしょうね」
と、亀井が、いう。
「彼女の口を封じるためにか?」
「そうです。あの男は、五年前、轢き逃げの目撃者である安田めぐみを、殺して、口を封じました。そして、次は、弟です。残ったのは、奥さんの雅子だけです。彼女の口さえ封じてしまえば、もう、怖いものはない。そこで、薬を飲ませて、病死に見せかけて、殺そうとしているのかも知れません」
「そうだとすると、使っている薬は、砒素《ひそ》あたりだな」
「そう思います」
「しかし、どうやって調べるんだ?」
と、十津川が、亀井に、きいた。
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8 死への予測
砒素《ひそ》は、劇薬である。簡単に、買えるものではない。
功《いさお》が手に入れたとすれば、何か、理由をつけて、薬局から買ったか、持っている友人なり、知人に、わけて貰《もら》ったかだろう。
亀井《かめい》は、友人、知人関係を洗うことを、提案した。
功には、星野《ほしの》興業を通して、多くの友人、知人がいる。その中には、金さえ出せば、砒素ぐらい手に入れてくる人間も、いるだろう。
十津川《とつがわ》は、その人間を探す一方、ベンツの捜査も、進めた。
星野|雅子《まさこ》は、大学時代、卒業したら、ベンツに乗ると、友人に、いっていたという。とすれば、その時期に、ベンツを買ったとみていいだろう。
彼女が、大学を卒業した年の三月、四月、五月の三か月間の東京陸運局の登録台帳を、見せて貰った。
四月二日に、星野雅子の名前で、新車登録がされているのがわかった。
ナンバーも、亀井が、書き写してきた。
一方、東京にあるベンツの輸入元のうち、新宿にある会社が、星野雅子に、白の500SELを、売ったことも、わかった。登録ナンバーは、もちろん、陸運局のものと、一致した。
この時は、あとで、事故を起すことになるとは、思っていなかったろうから、堂々と、購入し、登録している。
問題の事故が、御殿場で起きたのは、この翌々年の二月七日である。
その時に、国産に乗りかえてしまっていれば、十津川たちの推理は、成立しないことになる。
亀井は、新宿の販売店で、くわしく、聞いてみた。
星野雅子名義で、売却されたベンツのその後である。
この車は、二年後の二月十二日に、事故を起して、廃車になっていることが、わかった。
事故があったのは、甲州街道で、深夜である。
事故を処理した上北沢の警察に行ってみて、奇妙なことが、わかった。
午前二時頃の事故で、問題のベンツは、停車中の大型トラックに、追突しているのである。
「運転していたのは、星野雅子という若い女性でしてね。居眠り運転でした」
と、担当した村田《むらた》という警官が、西本《にしもと》刑事に、いった。
「それで、事故の状態は、どんな具合だったの?」
と、西本が、きいた。
「かなり激しくぶつかったのと、相手が、戦車みたいな大型トラックですからね。ベンツの前部が、めちゃめちゃに、こわれていました」
「星野雅子の怪我《けが》は?」
「それが、幸い、軽傷でした。全治二日と、なっています」
「停車中のトラックに、ぶつかったんだね?」
「そうです」
「トラックは、妙な所に停っていたのかね?」
「いや、道路|脇《わき》に停車していました。見通しのいい直線区間です」
「それでは、居眠り運転か?」
「はい。本人も、認めています」
「彼女の様子に、おかしいところは、なかったかね?」
「別にありません。ちゃんと、居眠りを認めていますし、それに、トラックの損傷に対しては、修理費を、払っています」
と、村田は、いった。
この報告を、西本から受けた十津川は、なるほどと、思った。
この年の二月七日は、御殿場で、少女が、轢《ひ》き殺されている。
その時、問題のベンツの前方が、少し、こわれた。小さな破片が、警察の手に渡ってしまった。
そこで、五日後に、雅子が、わざと、ベンツをトラックにぶつけて、廃車にしてしまったのだろう。
ここまでわかっても、十津川は、まだ、慎重だった。
当時、雅子の父親は、まだ健在だった。その父親が、国産のクラウンを持っていて、二月七日は、その車を運転していたと、主張するかも知れなかったからである。
その点を、十津川は、調べることにした。
調べた結果、彼女の父親も、当時、車を持っていたが、ブラウンのジャガーだった。
彼女の父親は、若い時から、ずっと、ジャガーを運転していたといい、その車は、他の者には、運転させなかったということも、わかった。
車の調査に比べて、薬の方は、なかなか、わからなかった。
もともと、功が、砒素《ひそ》を使っているという証拠はないのである。
そこで、十津川は、星野家が、よくかかっているという医者に会って、話を聞くことにした。
愛田《あいだ》という六十歳の医者だった。
「もう、星野家とは、二十年以上のつき合いですよ」
と、愛田は、十津川に、いった。
「雅子さんから、最近、具合が悪いという話は、聞いていませんか?」
「いや、聞いていませんよ。それに、ここ、三か月ほどは、一度も、電話が、かかって来ませんね。別に、どこが、悪いということも、聞いていませんから、元気なのだろうと、思っているんですが、違いますか?」
「先日、会った時、顔色が悪かったので、心配なのです」
と、十津川が、いうと、愛田医師は、首をかしげて、
「少しでも悪ければ、私に、電話してくる筈《はず》ですがねえ。彼女は、小さい時から、あまり、丈夫な方じゃなくて、よく、診察しましたよ。大学にあがる頃《ころ》から、丈夫には、なりましたが」
「一度、彼女の自宅を訪ねて、それとなく、様子を見てくれませんか」
と、十津川は、頼んだ。
「何か、よくないことが、彼女に起きているんですか?」
と、愛田は、きく。
「その可能性があるので、先生に、お願いしているんです。思い切って申し上げると、彼女は、ひょっとして、砒素《ひそ》系の毒物を飲んでいるのではないかという気がするのです」
と、十津川は、いった。
「それは、本当ですか?」
愛田は、びっくりした顔で、十津川を見た。
「その恐れがあるということです」
「自分で、そんなものを飲む筈がないから、誰《だれ》かが、飲ませているということですか?」
「そこは、何とも、申し上げられません」
と、十津川は、いった。
「今夜にでも、星野さんのところへ、行って来ますよ」
と、愛田は、いった。
その結果を、十津川は、待った。
夜の十時過ぎに、愛田医師から、電話が、入った。
「彼女を、診《み》て来ましたよ」
「それで、お医者さんから見て、彼女の健康状態は、どうですか?」
と、十津川は、きいた。
「妙なことが、二つありました。一つは、彼女が、厚化粧をしていたことです。彼女は、いつも、全く化粧をしていないか、していても、ごく、うすい化粧しかしていないんです。それが、今日は、大変な厚化粧で、びっくりしました。恐らく、顔色の悪さをかくすためだったと、思いますね」
「もう一つは、どんなことですか?」
「脈を診《み》たら、乱れているので、精密検査をしないかといったら、ご主人は、反対されましたよ。仲がいいご夫婦と思っていたんですが、違うんですかねえ」
と、愛田は、いった。
「雅子さん本人は、どういっているんですか?」
と、十津川は、きいた。
「彼女も、今は、診て貰《もら》わなくていいと、いっています。しかし、私は、精密検査を、受けるべきだと、思いますがねえ」
「なぜ、反対したんだと思いますか? ご主人の方が」
「わかりませんねえ。普通の夫なら、奥さんが、嫌《いや》だといっても、無理にでも、検査を受けさせるんじゃないですか」
「彼女本人は、どんな表情で、診て貰わなくていいと、いったんですか?」
と、十津川は、きいてみた。
「それが、ほとんど、無表情でしたよ。あんな彼女も、初めて、見ましたね」
と、愛田は、いった。
「何とか、彼女に、精密検査を、受けさせてくれませんか? どうも、心配なんです」
「そうですねえ。星野さんのいない時に、強引《ごういん》に、彼女を、うちの病院に、連れて来ますかね? そうでもしないと、出来ませんね」
「やってみて下さい」
と、十津川は、いった。
時間が、なかった。
下関《しものせき》署に逮捕されている北条《ほうじよう》 早苗《さなえ》刑事は、正式に、起訴されてしまった。
もちろん、殺人容疑である。
新聞が、大きく、「現職刑事の犯罪」を、書き立てている。テレビのニュース番組もである。
十津川は、もちろん、弁護側の証人として出席し、彼女のために、弁護する気だったが、それよりも、真犯人を逮捕することの方が、何よりの弁護になる筈である。
「がんばってくれよ」
と、十津川は、亀井たちに、頼んだ。
愛田医師から、電話があった。
「すぐ、お会いしたいんですが」
と、彼は、いった。
「星野雅子さんのことで、何か、わかったんですか?」
十津川が、きくと、電話の向うの愛田は、声を落して、
「会って、お話ししたいのですよ」
「いいでしょう。どこがいいですか?」
「私のところへ来て頂けませんか」
と、愛田は、いった。
十津川は、ひとりで、愛田医院へ出かけた。
駅前の一等地に建つ、個人病院である。
夜に入っているので、もう、外来患者の姿はなく、ひっそりと、静かだった。
十津川は、愛田と、診察室で、会った。そこに、星野雅子の、これまでのカルテが、あったからである。
「このカルテを、ごらんになれば、わかりますが、彼女は、丈夫な方じゃありませんが、内臓は、とてもきれいです。心臓も、肝臓も、肺も、胃もですよ。去年の十月に、私から、すすめて、ご夫婦の健康診断をしたんですよ。血液も調べましたが、異状なしでした。中性脂肪も少ないし、尿酸なんかも少なかったんです」
愛田は、その時撮ったレントゲン写真も、見せてくれた。
なるほど、肺も、胃も、きれいだし、心臓も、肥大していない。
「それで、私に、何をおっしゃりたいんですか?」
と、十津川は、レントゲン写真を見ながら、きいた。
「今日、警部さんにいわれたので、星野さんのところに、行きましてね。ご主人のいない時を、見はからってです。そして、雅子さんは、嫌《いや》がりましたが、診察させて貰《もら》いました」
「それで?」
「胃をやられていましたね。それに、肝臓も脹《は》れていました。去年の十月に調べたときには、そんなに、きれいだったのにですよ」
「何の病気だと、思われますか?」
と、十津川は、きいた。
「肝臓は、丈夫な器官です。雅子さんは、大酒呑《おおざけの》みでもないし、生活も乱れていません。こんな短期間に、肝臓が、そんなに脹れる筈《はず》がないんですよ。胃が荒れているのも、不思議です」
「普通の病気じゃないということですか?」
「そうです」
「何だと思いますか?」
「恐しいことですが、何か、毒物を、飲んだのではないかと、思うのですよ。それなら急激な、肝臓の脹れも、理解できます」
「例えば、砒素《ひそ》みたいな毒ですか?」
と、十津川は、きいた。
愛田は、青ざめた顔で、
「まあ、そうです」
「そのことは、雅子さんに、いいましたか?」
と、十津川が、きくと、愛田は、首を横に振った。
「いえば、きっと、ショックが、大きいだろうし、あの家で、何が起きているのか、わかりませんでしたからね。まず、警部さんに、相談しようと、思ったんです」
「それで、よかったと、思いますよ」
と、十津川は、いった。
「あの家には、星野夫婦の他《ほか》は、通いの運転手と、お手伝いがいるだけです。とすると、毒物を、雅子さんに飲ませているのは、ご主人ということになりますが――」
愛田は、じっと、十津川を見た。
「あの星野さんを、どう思いますか? ご主人の方ですが」
と、十津川は、逆に、きいた。
「正直にいうと、よくわからないんですよ。雅子さんとの結婚については、ごたごたがあって、週刊誌に書かれたことは、知っています」
「婚約者が、死んだことですか?」
「ええ。それで、彼も、一流商社に働いていたのに、辞《や》めたということも知っています。前に、ご主人と話をしたとき、それだけして、結婚したんだから、僕は、この結婚を、大事にして来たし、これからも、大事にしていくんだと、いっていましたね」
「立派だと、思いましたか?」
「なかなか、いえないことだと思いましたが、それにしては、彼の表情が、不思議でしたね」
と、愛田は、いう。
「どんな風にですか?」
「何か、他人のことでも、話しているみたいな表情だったんです。それに、雅子さんも、暗い表情で、聞いていましたね。ご主人は、この結婚を、一生大事にしていくと、強調しているのに、彼自身も、雅子さんも、その言葉を信じていないんじゃないかと、思いましたね」
と、愛田は、いった。
「なるほど、わかる気がしますね」
「それで、どうしたらいいと、思いますか?」
と、愛田が、きいた。
愛田医師の眼は、真剣だった。
「何とかして、雅子さんを、助けてやりたいんですよ。亡くなったご両親もよく知っていたし、彼女も、子供の時から、知っていますからね」
「精密検査をすれば、砒素《ひそ》か、それに似た毒物を、検出できますか?」
と、十津川が、きいた。
「可能だと思います。毎日のように飲まされているとすれば、体内に、相当量が、残留している筈《はず》です」
「あなたが、彼女を、強制的に、入院させるわけには、いきませんか?」
「私のところには、入院設備はありませんが、知り合いの大病院がありますから、入院させることは、出来ます。しかし、問題は、雅子さん自身にあります。私がいくら、説得しても、なぜか、診察を、拒否していますからね。無理に入院させることが、出来るかどうか、わかりません」
「彼女が、拒否しているのは、まだ、夫の愛情を、信じているからですかね?」
十津川が、きいた。
「私には、わかりません」
「どうしたらいいのか――」
と、十津川は、呟《つぶや》いた。
夫の功のいない時に、雅子を、強引《ごういん》に、連れ出すことは、出来なくはない。
しかし、そのあとが、問題である。彼女自身に、その意思がなければ、夫の功が、誘拐で、訴えてくるだろうし、そうなれば、勝ち目はない。
第一、彼女が、砒素を飲んでいるという確証がなければ、令状が、出ないだろう。
「方法は、二つしかありませんね」
と、考えた末に、十津川が、いった。
「二つもあれば、何とかなりますよ。どんなことをすれば、いいんですか?」
愛田が、勢い込んで、きく。
十津川は、苦笑しながら、
「あるといっても、すぐ、何とか出来るものじゃありません。一つは、砒素を、夫の功が、手に入れたことを、証明できればいいと思うのですが、これが、いまだに、わかっていません。もう一つは、何とか、彼女を、説得して、検査を受けさせることですが、これも、すぐには、出来ないことです」
と、いった。
愛田は、がっかりした顔で、
「それじゃあ、どうにもならないじゃありませんか。今の状況では、早くしないと、雅子さんは、死んでしまいますよ」
「わかっています。しかし、当人に、その意思がないのに、検査を受けさせるのは、難しいですからね」
「何とか、なりませんか?」
と、愛田が、重ねて、きいた。
十津川は、また、考えていたが、
「雅子さんが、ひとりで外出することは、ありませんかね?」
と、愛田にきいた。
「ないことはないでしょうが、身体《からだ》が、弱っているので、買物は、お手伝いに、委《まか》せているようです」
と、愛田が、いう。
「あなたが、電話で、彼女を、外へ呼び出すことは、出来ますか?」
「何のためにです?」
「理由は、何でもいいんです。とにかく、彼女を、あの家から外へ出して貰《もら》えれば、いいんですよ」
と、十津川は、いった。
愛田は、首をかしげながら、
「やはり、力ずくで、雅子さんを、病院へ連れて行くんですか?」
と、きいた。
「それが出来ないことは、わかっていますよ」
「じゃあ、どうするんですか?」
「とにかく、あなたは、彼女を、呼び出して下さい。その先は、知らない方がいい」
と、十津川は、いった。
愛田は、不安そうな表情になった。
「何をするんですか? 教えて下さい。私も、呼び出す以上は、知りたいですよ」
「わかりますが、あとは、警察に委せてくれませんか」
と、十津川は、いった。
「どうも、よくわかりませんが――」
「先生の信用している病院は、どこですか? 入院できる、設備のしっかりした病院ですが」
十津川は、硬い表情で、きいた。
「この近くの山田病院なら、大丈夫と思います。あそこの院長は、私の知り合いで、信用が、おけます」
と、愛田は、いった。
「わかりました。山田病院ですね」
「何をするのか、教えて頂けないんですか?」
と、愛田は、きいた。
「先生は、知らない方が、いいです。それで、いつ、呼び出してくれますか?」
「いつでも、構いませんよ」
「では、明日の午後二時に、呼び出して下さい」
と、十津川は、いった。
「どこへ呼び出せば、いいんですか?」
「場所は、どこでも構いません。とにかく、あの家の外へ出てくれればいいんです。ただ、遠い場所だというと、車を使ってしまうから、近くがいいですね」
と、十津川は、いった。
十津川は、その日、部下の刑事たちを集めて、
「この中で、一番、車の運転の上手《うま》いのは、誰《だれ》かね?」
と、きいた。
西本刑事が、同僚の顔を見廻《みまわ》していたが、
「日下《くさか》君でしょうね」
「自信があるかね?」
と、十津川は、若い日下を見た。
「ラリーに出たことがあります」
「いや、早く走らせる必要はないんだ」
と、十津川が、いうと、日下は、変な顔をして、
「じゃあ、車を、どうするんですか?」
「なるべく、ソフトに、人間に、当てる。相手が倒れるが、怪我《けが》をさせてはならない。せいぜい、転んだ時の擦り傷ぐらいにしたいんだよ」
と、十津川は、いった。
「何のために、そんな面倒なことをするんですか?」
日下が、きいた。
「星野雅子を、病院に入れたいからだ。彼女は、身体《からだ》が、衰弱しているが、頑として、精密検査を、受けようとしない。夫の功は、なおさら、反対だろう。このままでは、衰弱死しかねない。そこで、無理矢理にでも、病院へ運んでしまおうというわけだよ」
と、十津川は、いった。
「それで、車を、ぶつけるわけですか?」
「怪我《けが》をさせたら大変だから、ソフトに、ぶつけて欲しいんだよ。とにかく、病院へ運びたい」
「救急車を呼んで、運ぶわけですか?」
「最初は、それを考えたが、呼んでいるうちに、彼女が、立ち上って、病院行を拒否するかも知れない。そこで、ぶつけた車で、病院へ運んでしまう。病院は、あの家の近くの山田病院だ」
「病院も、もう決めてあるわけですか?」
西本が、びっくりした顔で、十津川を見た。
「もちろん、決めてあるよ。手際《てぎわ》良くやらないと、心配するからね」
と、十津川は、いった。
「ぶつけた車で、運ぶとなると、パトカーでは、まずいですね」
亀井が、いった。
「もちろん、自分の車を、使って貰《もら》うよ」
と、十津川は、いった。
レースではなく、人間にぶつけるというので、日下たちは、一様に、尻込《しりご》みをした。当然かも知れなかった。軽く当てればいいといっても、万一ということが、考えられるからである。
十津川は、日下に向って、
「嫌《いや》な仕事を押しつけて、悪かった。これは、私が、やる。私の方が、経験が豊富で、うまくやれるだろうからね」
と、いった。
日下は、あわてて、「大丈夫です」と、いったが、十津川は、笑って、手を振った。
「いいんだ。最初から、これは、私が、やるべきことだったんだよ。君たちには、他の仕事を、やって貰う。うまく、彼女を、山田病院へ運び、精密検査が出来たら、その時点で、病院から、夫の功に、連絡して貰う。その時、彼が、どんな反応を示すか、君たちで、見張っていて貰いたいんだ」
「すぐ、山田病院へ駈《か》けつけるんじゃありませんか? 仲のいい夫婦を、演じているわけですから」
と、西本が、きいた。
「恐らくね。しかし、あの男は、五年前に、自殺に見せかけて、婚約者を殺し、今度、弟を、殺している。いずれも、証拠はないがね。そして、今、砒素《ひそ》を飲ませて、妻の雅子を、衰弱死させようとしていると、私は、睨《にら》んでいる。そんな男だから、どんな行動に出るか、予測が、つかないんだよ」
と、十津川は、いった。
亀井は、十津川と、二人だけになると、眉《まゆ》を、ひそめて、
「感心しませんね」
と、いった。
「明日《あす》、やることがかい?」
「そうです。いくら、善意から出たことでも、警部が、一般人をはねたという事実は、残りますよ」
「マスコミの恰好《かつこう》のエサになるかな」
と、十津川は、笑った。が、亀井は、相変らず、渋い顔で、
「現職の警部が、人をはねた。それも、捜査中の事件の関係者をはねたと、書き立てますよ」
「わかってるよ」
「もう一度、考え直してくれませんか? 他《ほか》に、方法があるかも知れません」
亀井が、いった。
十津川は、首を横に振った。
「いろいろ考えてみたんだが、ないんだよ。何しろ、星野雅子自身が、精密検査を、拒否しているからね。かかりつけの愛田医師のすすめも、断っている。無理に、病院へ連れて行くことも出来ない。誘拐にされてしまうよ。子供なら、騙《だま》して、連れて行くことも出来るがね。しかし、だからといって、手をこまねいていたら、間違いなく、彼女は、死んでしまう。殺されてしまうんだ。何とかしなければならないんだよ」
「彼女自身、自分が、夫に、砒素を飲まされているのに、気付いていないんでしょうか?」
亀井が、きいた。
「わからないね。気付いているとしたら、彼女は、自分が、死ぬのを知っていて、それを防ごうとしないことになる」
「なぜ、自殺みたいなことを、するんでしょうか?」
「五年前、彼女と、功の乗った車が、御殿場で、少女を、ベンツで、轢《ひ》き殺した。それが、事件の発端《ほつたん》といってもいいんだが、その時、ベンツを運転していたのは、功だったのか、雅子だったのか。雅子だったとすると、その時から、少女を殺したという重荷が、ずっと、彼女の心に、あったことになる。それで、疲れ切って、どうでもよくなっているのかも知れないとは、考えているんだがね」
「すると、彼女は、自分が死ぬのを知っていて、じっと、耐えているわけですか?」
「そうかも知れん」
「功は、それを、知っているんでしょうか?」
「知っているとすれば、なおさら、許せない気がするんだよ」
と、十津川は、いった。
その夜、十津川は、自宅に帰ったが、妻の直子には、何も、話さなかった。
車ではねる計画を話せば、直子が、反対するに、決っていたからである。
ただ、十津川は、車を持っていないから、
「明日《あす》、君の車を借りるよ」
とは、いった。
直子の車は、イギリスのオースチン・ミニである。
直子は、別に、車を必要とする理由を、聞かなかった。こんなところは、有難いと思っている。
十津川は、翌日、真っ赤なオースチン・ミニに乗って、出かけた。
小さい車だが、安全に、人にぶつけるには、この方が、いいだろう。
亀井は、まだ、反対していた。それが、十津川には、嬉《うれ》しかった。十津川のことを、心配してくれているのが、わかっているからである。
十津川は、本多《ほんだ》捜査一課長にも、この計画は、話さなかった。反対されるに、決っているからだった。
午前十一時に、もう一度、愛田医師に、電話をかけた。
「間違いなく、彼女を、午後二時に、呼び出しますが、何をやるのか、教えて貰《もら》えませんか?」
と、愛田が、いった。
恐らく、うすうすは、気付いているのだろうとは、思いながらも、十津川は、
「いえませんが、彼女のためにするのだということは、約束しますよ」
と、いった。
「雅子さんが、死ぬようなことは、ないんでしょうね?」
「そんなことは、絶対に、ありません」
と、十津川は、いった。
十津川は、一時過ぎに、赤いオースチン・ミニに乗って、出かけた。
星野家の近くに着いたのは、午後一時四十六分である。
午後二時に、雅子が、出てくるのを、じっと、待つことになった。
奇妙な気分だった。
故意に、車をぶつけたことは、生れてから、一度もなかった。それを、これから、やろうと、いうのである。
(うまくいくだろうか?)
という不安が、あった。
だが、やらなければ、雅子は、死んでしまうのである。そして、彼女の口は、封じられてしまう。
死んでしまってから、解剖し、体内から砒素《ひそ》が検出されても、功は、彼女が、自分で飲んだのだと、主張するだろう。
そんな真似《まね》をさせてはならないのだ。
午後二時を、少し過ぎた時、雅子が、出て来るのが、見えた。
十津川は、ゆっくり、車をスタートさせた。
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9 窮地《きゆうち》に立つ
眼の前を、星野|雅子《まさこ》が、歩いて行く。全く、無警戒に見える。
(何を考えているのだろうか?)
と、ふと、思った。
自分の夫が、自分を殺そうとしているかも知れないと考えた時、どんな気持になるものだろうか?
十津川《とつがわ》は、そんな気持になるのを振り払って、アクセルに、力を加えた。
オースチン・ミニは、加速し、みるみる、雅子との距離が、縮まった。
軽い衝撃が、走り、眼の前を歩いていた雅子の姿が消えた。
十津川は、ブレーキをかけ、車から飛び降りた。
雅子が、倒れている。
「どうしたんですか?」
と、中年の女が、声をかけてきた。
「ぶつけてしまったんですよ。これから、山田病院に運びます!」
十津川は、大声で、その女にいっておいて、雅子を、抱きあげた。
彼女は、十津川の腕の中で、ぽっかり、眼を開けた。
「何があったんですか?」
と、弱々しい声で、きいた。
「申しわけありません。車をぶつけてしまったんです。これから、病院へ運びます」
「大丈夫ですわ」
「いや、とにかく、心配ですから」
と、十津川は、いい、強引《ごういん》に、彼女を、車に乗せて、山田病院に、運んで行った。
山田病院には、愛田も、待っていてくれた。
診察のために、運ばれて行ったあと、十津川は、愛田医師に向って、
「疲れましたよ」
「これで、検査が出来ます」
と、愛田が、嬉《うれ》しそうに、いった。
「外傷は、与えなかったと思っているんですが――」
「大丈夫ですよ」
と、愛田が、いった時、突然、診察室の方が、騒がしくなった。
看護婦の甲高《かんだか》い声がする。
十津川が、はっとして、現場に向ったとき、診察室から、雅子が、飛び出して来た。
必死の形相《ぎようそう》になっていた。
追いかけてきた看護婦が、押さえようとするのを、雅子は、振り払った。
その手に、何か、握られている。よく見ると、注射器だった。
看護婦が、悲鳴をあげて、両手で、顔を蔽《おお》った。
注射器の針の先で、顔を切ったのだ。
指の間から、血が、流れ出している。
「止りなさい!」
と、十津川は、雅子の前に、立ちふさがった。
「気を落ちつけて」
と、愛田医師も、声をかけた。
しかし、雅子は、手に持った注射器を振り廻《まわ》しながら、出口に向って、突進した。
押さえようとした十津川も、手を切った。
出口でも、悲鳴があがった。
丁度、入ろうとした外来患者が、雅子に、突き飛ばされたのだ。六十代の女性だった。
その患者が、乗って来たタクシーが、病院の前にとまっている。雅子は、それに、走り込んだ。
タクシーが、走り出す。
十津川は、呆然《ぼうぜん》として、それを、見送るより仕方がなかった。
右手の掌《てのひら》から、血が流れ出しているのも、十津川は、忘れていた。
雅子の動きは、まるで、傷ついた野獣だった。どこに、あんな力があったのだろうか?
それよりも、あの形相《ぎようそう》に、十津川は、圧倒されてしまったのだ。
無理に制止したら、舌を噛《か》んで死にそうな感じがしたのである。
一息つくと、十津川は、やっと、右手の傷に気がついた。
そこをおさえて、診察室の方へ歩いて行った。
中に入って行くと、看護婦たちが、室内を片付けているところだった。
中年の医者が、まだ、呆然とした顔をしている。
「顔を切られた看護婦さんは、大丈夫ですか?」
と、十津川は、声をかけた。
医者は、やっと、気を取り直した感じで、
「手当てをしたから、大丈夫です。しかし、驚きましたよ」
と、いった。
「何があったんですか? なぜ、あんなになったんですか?」
「私にも、わかりませんよ。ここに運ばれたときは、ぐったりしていたのに、突然、狂ったように、暴れ出したんです。眼がすわってましたね。そこにあった注射器をつかんで、振り廻したんです」
医者の声は、ふるえていた。
十津川は、右手の手当てをして、いったん、捜査本部に戻った。
その日の夜になって、十津川は、三上《みかみ》刑事部長に、呼ばれた。
三上は、苦《にが》り切った顔をしていた。
「まずいよ。君」
と、三上は、いきなり、十津川に、いった。
もちろん、部長が、何のことをいっているのか、すぐわかったが、十津川は、惚《とぼ》けて、
「何のことでしょうか?」
と、きいた。
「今、星野家の顧問弁護士が、やって来たんだ。君を、告発すると、いっている。マスコミにも、発表すると、息巻いていたぞ」
「そうですか」
「君は、星野雅子を、車で、轢《ひ》き殺そうとしたそうじゃないか」
と、三上は、いった。
「それは、違います」
「どう違うんだ?」
「たまたま、私の運転していた車が、彼女に、接触してしまったので、急いで、近くの病院に運びました。それだけのことです」
「向うは、そうはいってないぞ。警察が、自白を強要し、それに逆らうと、今度は、轢《ひ》き殺されそうになったと、いっている。証人もいると、いっているんだ」
「証人ですか?」
「そうだよ。見ていた人間がいるんだそうだ。君が、故意にはねたことは間違いないと、いっている」
「それは違いますね」
「しかし、君は、星野家の近くで、はねたそうじゃないか?」
「そうです」
「何をしに、行っていたんだ?」
「事件のことで、話を聞きに行っていたんです」
「間違いないのかね?」
「間違いありません」
「はねた車は、赤い小さな車だったといっているんだ。君は、パトカーで行ったんじゃないのかね?」
「自分の車で、行きました」
「なぜ?」
「人間同士の話合いをしたかったからです」
と、十津川は、いった。
「そして、話をする代りに、相手を、はねてしまったのかね?」
「結果的には、その通りです」
「まずいねえ。本当に、まずいよ」
三上は、眉《まゆ》をひそめて、十津川を見た。
「はねたのは、事実ですから、その責任は、とるつもりです」
と、十津川がいっても、三上は、渋い表情を崩さずに、
「それですむことじゃないよ。向うは、マスコミにも、話そうと、いってるんだ」
「私も反論します」
「そんなことをしたら、ますます、まずいことになるんじゃないかね?」
「黙っているわけにもいきません」
と、十津川は、いった。
「とにかく、情勢によっては、君に、謹慎して貰《もら》わなければならんよ」
と、三上は、いった。
十津川が、戻ると、亀井が、心配そうに、寄って来た。
「どんな具合ですか?」
「星野家の顧問弁護士が、私を告発するそうだ。マスコミにも、発表するといっているらしい」
と、十津川は、いった。
「告発するって、どんな風にですか?」
「わからないが、星野雅子を、轢き殺そうとしたということでだろうね」
「警部は、どうされますか?」
「実際に、告発されてから、考えるよ。彼女が、なぜ、そんな行動に出て来たのか、それを考えたいんだよ」
と、十津川は、いった。
「彼女は、なぜ、病院から、逃げ出したんでしょうか?」
亀井が、きいた。
「それは、決ってる。砒素《ひそ》を検出されるのが、怖かったからだよ」
「しかし、自分で飲んでるわけじゃないんでしょう?」
「だが、怖いんだ」
と、十津川は、いった。
そこが、問題でもあるのだ。
星野家の顧問弁護士の言葉は、嘘《うそ》ではなかった。
翌日、新聞記者を集めて、「事件」の報告をしたのである。
現職の捜査一課の警部が、容疑者に自供を迫り、拒否されると、腹を立てて、轢き殺そうとしたといった。
「その容疑だって、ただ単に、十津川警部が、思い込んでいるだけなのです。それなのに、自供しろという。星野雅子さんは、犯人じゃないんだから、当然、拒否した。そうしたら、カッとして、車で、轢き殺そうとした。めちゃくちゃですよ」
と、堀井《ほりい》弁護士は、記者たちに向って、いった。
「本当に、十津川警部が、はねたんですか?」
「証人はいるんですか?」
という質問が、記者たちから出ると、堀井は、証人を、紹介した。
星野家の近くに住む、近藤弓子《こんどうゆみこ》という四十一歳の主婦である。
彼女は、記者たちを前に、興奮した口調《くちよう》で、喋った。
「二時|頃《ごろ》だったと思いますよ。スーパーへ買物に行くんで、家を出たんです。そしたら、星野の奥さんも、家から出て来たところで、声をかけようとしたら、急に、赤い車が、近づいて行ったんですよ。危いなと思っていたら、その車が、星野の奥さんを、はねたんです。いいえ、ブレーキなんか、かけませんでしたよ。星野の奥さんが、ばったり倒れて、私は、死んだのかと思いましたねえ。車から、中年の男が、飛び出して来ました。私が、声をかけたら、これから、山田病院へ連れて行くっていって、車に乗せて、走って行っちゃったんですよ」
「その男は、この人ですか?」
と、記者の一人が、十津川の写真を見せた。
「ええ。この人ですよ」
「なぜ、はねたと思います? 運転を間違えたか、それとも、故意に、はねたかのどちらだと思いますか?」
「そりゃあ、わざとですよ」
「なぜ、そう思うんですか?」
「あそこは、まっ直《す》ぐな道なんですよ。それに、星野の奥さんは、道の端《はし》を歩いていたんです。それなのに、うしろからはねたんだから、わざとに、決っているじゃありませんか」
と、弓子は、いった。
最後に、堀井弁護士が、
「二つ、付け加えておきたい。第一は、十津川警部が、その時、パトカーでなく、赤いオースチン・ミニに乗っていたことです。勤務中なのに、なぜ、自分の車に乗っていたんですかね。私は、不思議で仕方がないのですよ。第二は、十津川警部が、道路に、車を止め、星野雅子さんが出てくるのを、待ち構えていたということです」
「星野さんが、その時、外出したのは、偶然ですか?」
「いや、主治医の愛田医師に、呼び出されたんです。ちょっと話したいことがあるといわれ、あわてて、家を飛び出しました。それを、十津川警部は、家の前で、待ち受けていて、車ではねたんですよ」
と、堀井は、いった。
「このまま、書いていいですか?」
記者の一人が、きいた。さすがに、半信半疑だったのだろう。
「書いて下さい。これは、事実ですから」
と、堀井は、きっぱりと、いった。
この日の夕刊が、大変だった。
一面にこそ出なかったが、社会面を、大きく飾った。
とにかく、捜査一課の警部が、故意に、人をはねた疑いがあるというのである。
ニュース価値は、十分だった。
クエスチョンマークつき、十津川の名前は、イニシャルだったが、それでも、刺戟《しげき》的な文字が、躍った。
〈T警部が、事件の関係者をはねる!〉
〈故意にはねたと、弁護士が、激怒〉
〈なぜか、自家用車で、待ち受けていたT警部〉
〈困惑する警視庁〉
テレビも、もちろん、この事件を、追いかけた。
当然、十津川の釈明を、求めて、記者たちが、殺到した。
「明日、記者会見すると、いっておいて下さい」
と、十津川は、三上刑事部長に、いった。
「釈明できるのかね?」
三上が、心配そうに、きいた。
「わかりませんが、事実を話せば、納得《なつとく》してくれると、思っています」
と、十津川は、いった。
「納得しなかったら、どうするのかね?」
「責任を取る覚悟は、出来ています」
と、十津川は、いった。
十津川に、記者たちを説得する自信があるわけではなかった。が、逃げ廻《まわ》っているわけにも、いかないのである。
恐らく、それは、十津川に対する追及大会になるだろう。
警察が、巨大な権力を持っている限り、その警察を糾弾することは、ニュースバリューがあるし、記者たちも、張り切るのは、自明の理である。
翌日の午後一時に、十津川は、記者会見を行った。
集った記者たちの眼を、一眼見て、彼等が、何を期待しているのか、すぐ、わかった。
十津川の弁明よりも、新たな弾劾《だんがい》の記事の方が、面白《おもしろ》いに、決っているのである。
代表格のN新聞の田辺《たなべ》記者が、まず、手をあげて、「最初に、お願いしておきますが、われわれは、警察の下手《へた》な弁明を聞きたくて、集ったんじゃありません。本当の話を聞きたいんですよ。十津川警部が、自分の車を、事件の捜査中に走らせていて、張り込みをしていたなどという言葉を、信用は、出来ない。絶対にです。それを、まず、いっておきたいと、思います」
と、釘《くぎ》を刺して来た。
十津川は、苦笑した。
「わかりました。あなたの忠告は、頭に入れておきます」
「全《すべ》て、正直に話して下さるんですね?」
田辺記者が念を押した。
「話しますよ。その代り、そちらも、事実を、そのまま、報道して欲しいのですよ。変に、ねじ曲げずにです」
と、今度は、十津川の方から、注文を出した。
「その点は、われわれも、賛成ですよ。事実を報道するのが、新聞の使命ですから。ただし、何が事実かを、判断するのは、警察ではなく、われわれ、マスコミだということも、頭に入れておいてくれないと困ります。われわれは、警察の代弁者じゃないのですから」
「いいでしょう」
と、肯《うなず》いて、十津川は、また、苦笑した。
つまり、田辺のいっていることは、簡単にいえば、事実は、ねじ曲げられることもあり得るということなのだ。
だが、それを、いちいち指摘したら、相手は、ますます、敵対的になって行くだろう。
「事実の確認を、最初にしたいのですが、あなたの運転する車が、午後二時に、星野雅子さんをはねたことは、間違いありませんか?」
記者の一人が、やんわりと、きいた。
「間違いありません」
「その時、警部は、パトカーでなく、自家用車、くわしくいうと、奥さん名義の赤いオースチン・ミニに、乗っていたわけですか?」
「答は、イエスです」
「なぜ、張り込みに、そんな車を使ったんですか? 普通は、覆面パトカーを、使用するんじゃありませんか?」
「そうですが、この場合は、特別でした」
「どう特別なんですか?」
と、相手が、きく。
十津川は、小さく咳払《せきばら》いをしてから、
「私が、極めて個人的な考えで、あることをしようと思ったからです」
「つまり、星野雅子を、車で、轢《ひ》き殺そうと思ったということですか?」
記者の一人が、意地悪く、いい方を、変えて見せた。
十津川は、首を横に振った。
「違います。星野雅子を、助けようと思ったのです」
「驚きましたね。車ではねることが、人助けに、いつからなったんですか?」
「彼女は、今、死にかけています」
「それは、あなたが、車で、はねたからでしょう?」
「いや、違います。彼女は、砒素《ひそ》中毒にかかって、死にかけているんです」
「砒素ですか?」
「何のことです?」
「今度の事件と、砒素が、どんな関係があるんですか?」
記者たちは、突然、十津川の口から飛び出した言葉に戸惑《とまど》い、あわてて、質問を、十津川に、浴びせてきた。
「理由はいえませんが、彼女の身体《からだ》は、砒素によって、徐々に、むしばまれています。彼女の両親の代から、主治医として診《み》て来た医師も、彼女が、明らかに、砒素系の毒のために、衰弱していると、証言しています」
と、十津川は、いった。
「それなら、なぜ、星野雅子は、医者に、診て貰《もら》わないんですか?」
「なぜか、彼女は、診察を、拒《こば》み続けているのです。理由は、いろいろ考えられますが、今は、そんなことを、問題にしてはいられない。彼女は、死にかけているからです。とにかく、私としては、彼女を、助けなければなりません。人道上の問題もあるし、彼女が、われわれの捜査している事件のカギを握っていると思うからです」
「それで、車ではねたんですか?」
「端的ないい方をすれば、その通りです。私としては、無理矢理にでも、医者の診察を受けさせたかったのです。主治医は、あの衰弱は、砒素系《ひそけい》の毒によるものだとみていますが、証拠はない。私も、経験から、同じようにみていますが、証拠がなければ、どうすることも出来ない。そこで、車を当てて、病院に担ぎ込み、強制的に、診察を、受けさせようと思ったわけです」
と、十津川は、いった。
しかし、記者たちの顔は、十津川の言葉を信じようという気配《けはい》はなかった。
あまりにも、唐突に、砒素が、飛び出してきたのと、これは、十津川の悪質な弁解だという思いがあったからだろう。
「信じられないなあ」
と、記者の一人が、呟《つぶや》いた。
「警部も、主治医という人も、星野雅子が、砒素中毒だという証拠は、持っていないんでしょう?」
と、他の記者が、眉《まゆ》をひそめて、十津川を見た。
「持っていません」
「それじゃあ、警部の言葉は、信じられませんよ」
「あなた方の力で、星野雅子を、入院させ、精密検査を受けさせることが出来れば、証明される筈《はず》ですよ」
と、十津川は、いった。
「警部は、彼女が、砒素中毒にかかっているといわれるが、彼女に、砒素を飲ませているのは、誰《だれ》だと思われるんですか?」
「それは、申し上げられません。想像はつきますが、証拠のないことですから」
「あなたは、捜査一課の刑事でしょう? それなら、ちゃんと、調べたらいいじゃありませんか」
と、田辺記者が、いった。
「私は何よりも、まず、星野雅子を、助けたいのです。犯人探しは、そのあとですよ。だから、皆さんから見れば、非常識ともとれる手段をとりました。車を、彼女にぶつけて、病院に運びました。そうすれば、否応《いやおう》なしに、彼女が、精密検査を受け、砒素中毒が、明るみに出ると、期待したからです」
十津川が、答えると、今度は、二十代の若い記者が、挑戦的な口調《くちよう》で、
「それで、砒素中毒が、明るみに出たんですか? 実際には、それどころか、あなたは、殺人未遂で、告発されたわけでしょう?」
と、いった。
十津川は、逆らわずに、「その通りです」と、肯《うなず》いた。
「私は、車を、彼女にぶつけましたが、時速、わずか、二、三キロです。少しでも、傷つけるのが、怖かったからです。とにかく、病院に運んで、精密検査を、受けさせたい。それだけが、願いだったわけです。もし、向うの弁護士がいうように、轢《ひ》き殺す気なら、時速二、三キロというスピードで、ぶつけたりはしませんよ。それに、彼女は、さっさと、病院から抜け出して、自宅に帰ってしまっています。自宅に、医者を呼んだ形跡もありません。もし、怪我《けが》でもしているというのなら、信頼できる病院で、精密検査を受けて下さいといいたい。その時には、外傷の他《ほか》に、内臓の検査も、受け、それを、発表して貰《もら》いたいと思いますね」
「もし、外傷だけがあって、砒素中毒は、見られないとなったら、どうするつもりですか?」
と、K新聞の相川《あいかわ》記者が、きいた。温厚な性格の記者だが、今日は、眼がきつかった。
警察の不正は許さないぞという眼をしている。
十津川は、まっすぐに、相川を見つめた。
「その時には、当然、私は、警察を辞職し、裁判を受けることになるでしょうね。故意に、車を、彼女にぶつけたわけですから、殺人未遂で、告訴されるかも知れない。そのくらいのことは覚悟していますよ」
「それを記事にして、構いませんか? 捜査一課の警部としての言葉として、書いておきたいのです。構いませんね?」
「念を押すこともないよ」
と、十津川は、苦笑した。
「今の発言を、撤回する気はありませんからね。私の願いは、今もいったように、彼女を助けたいということだけです。彼女が、正直に話してくれることで、事件が、解決するからでもあります」
「しかし、警部。今、捜査一課の北条刑事が、殺人容疑で、起訴されていますね」
と、いったのは、田辺記者である。
「あれは、間違いです。北条刑事は、罠《わな》にはめられたんですよ。それを、われわれは、証明するつもりで、捜査を進めています」
「しかし、県警が、逮捕し、送検したわけでしょう? 同じ警察の中だから、余程《よほど》、確証がなければ、逮捕したり、送検したりはしないんじゃありませんか?」
と、田辺は、意地悪く、きく。
「それだけ、巧妙な罠をはめられたということです」
と、十津川は、いった。
「しかし、警部。北条刑事は、すでに、起訴まで、されているんですよ。罠にはめられたとか、無実だといっても、説得力がありませんね」
と、田辺が、食いさがった。
「普通の会社だったら、警察に逮捕された時点で、会社を馘《くび》になっていますよ。北条刑事は、まだ、警察を辞《や》めてはいないんでしょう?」
と、他の記者が、きいた。
「明らかな誤認逮捕ですからね。それに、真犯人も、わかっています」
十津川は、自信を持って、いった。
「では、なぜ、真犯人を逮捕しないんですか? 部下思いの十津川警部らしくないじゃありませんか」
「証拠が見つかり次第、逮捕して、北条刑事の無実を、証明するつもりだよ。それも、間もなくだと、考えています」
「それにしても、前に、現職の刑事が、殺人容疑で逮捕、起訴され、今度、その上司が、殺人未遂で告発されている。これは、大変なことじゃありませんか? 警視庁捜査一課は、犯罪者の集りといわれても、仕方がないんじゃありませんか。どうなんですか?」
「そんな風には、思っていませんよ」
と、十津川は、いった。
質問した古手の記者は、眉《まゆ》を寄せて、
「それは、楽観的すぎると思いますよ。思いあがっているといってもいい。社会に与えた影響も、大きい筈《はず》だ。何しろ、悪人を逮捕すべき女刑事が、列車内で、男を殺して逮捕されたり、優秀な刑事として信頼されていた十津川警部が、殺人未遂で、告発されているわけですからね。人々は、いったい、何を信じたらいいのか、わからなくなりますよ。以前、拾得物を、猫ババして、問題になった警官がいましたが、あんなものと比べようがないくらい、大きな影響を、与えると思いますね。一般市民に対して、あなたとして、どう責任をとろうとしているのか、それを、教えて貰《もら》えませんか?」
と、いった。
十津川は、相手を、強い眼で、見返して、
「ここでは、お騒がせして、申しわけなかったと、頭を下げるべきなんでしょうが、私には、それは、出来ません。一つの事件のために、先に、北条刑事が、無実の罪に問われ、今、星野雅子が、砒素《ひそ》中毒で、死にかけているからです。一つが解決すれば、もう一つも、解決するのです。今もいったように、真犯人も、わかっているのです、それなのに、頭を下げたのでは、かえって、世をあざむくことになります。だから、申しわけないとは、いいません」
「それなら、われわれは、その通り、書きますよ。十津川警部は、傲慢《ごうまん》にも、社会の指弾《しだん》など、平気だ。正しいのは警察だと、大見得を切っていると。それでも、いいんですか?」
「ちょっと、待って下さい」
と、同席していた三上刑事部長が、あわてて、口を挟んだ。
「何ですか?」
と、相手の記者が、三上を、見た。
「十津川警部は、真相を明らかにしたいという熱情のあまり、一般常識からは、外れた手段をとってしまった。そのことについては、反省しているのですよ。われわれも、星野雅子さんには、お詫《わ》びをするつもりでいるんです。その点は、了承して欲しいのですがね」
と、三上は、いった。
「すると、警視庁としては、十津川警部に対して何らかの処分をする方針なんですか?」
相手の記者が、言質《げんち》を取ろうとして、食いさがった。
「まだ、どうなるかは、決めていませんが、とにかく、目的は、何であれ、星野雅子さんを、十津川警部が、はねたことは、事実ですから、その点は、お詫びしたいと思っているわけです。十津川警部は、そのあとということになります」
と、三上は、必死に、いった。
「社会に対しては、申しわけなかったという表明は、するんですか? それとも、頬《ほお》かぶりする気ですか?」
「社会を、お騒がせした点は、申しわけなかったと、思っています」
「しかし、当事者の十津川警部は、全く、思っていないみたいですがねえ」
相手は、じろりと、十津川を、睨《にら》んだ。
「私が、謝って、それで、全《すべ》てが解決するならいくらでも謝りますよ。しかし、そうしている間に、星野雅子は、死んでしまい、事件は、うやむやにされてしまうんですよ」
と、十津川は、大声で、いった。
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10 攻 撃
四面楚歌《しめんそか》に近い状況になった。
十津川《とつがわ》警部は、直ちに、辞職せよと書いた新聞が、三紙もあった。
まさに、楚歌ばかりである。
三上《みかみ》刑事部長は、十津川に、捜査から手を引けとはいわなかった。
いつも、世評を気にする三上にしては、珍しいことだったが、十津川を、強力にバックアップしようということでもなかった。
三上は、意外な事の成り行きに、戸惑《とまど》っているだけなのだろう。
「急ぐ必要がありますね」
と、亀井が、いった。
「それは、わかっているよ」
十津川は、難しい顔で、いった。
問題は、どうやって、突破口を開くかである。
「星野雅子《ほしのまさこ》は、家に閉じ籠《こも》ったまま、出て来ません。電話をしても、留守番電話が応《こた》えるだけです」
と、西本《にしもと》刑事が、いう。
「夫の功《いさお》が、電話に出さないんでしょう」
と、亀井《かめい》が、いった。
「とすると、彼女を、医者に連れて行くのは、ますます、難しくなったと考えざるを得ないね」
十津川は、努めて、冷静に、いった。
「しかし、警部。このままでは、事態は、悪化するばかりですよ。北条刑事だって、助けられません」
若い日下《くさか》刑事が、不安気な表情を見せて、いった。
指揮者が、弱気を見せれば、それは、たちまち、部下に伝染してしまうだろう。
「これから、われわれが、やるべきことは、いくつかある。それに、全力を尽くして欲しい」
と、十津川は、落ち着いて、いった。
「それを、いって下さい。どんなことでも、やりますよ」
亀井が、十津川の顔を見た。
「第一は、北条刑事にそっくりの女を見つけ出すことだが、恐らく、これは、無理だろう。罠《わな》が成功したあと、彼女を、国外へ出してしまったか、殺して、山奥へでも、埋めてしまったろうからだ。とにかく、簡単には、見つけ出せない」
と、十津川は、いった。
「殺された興信所の人間の件は、どうですか?」
と、亀井が、きく。
「日野冴子《ひのさえこ》と、彼女の元の夫の三村泰介《みむらたいすけ》のことか?」
「そうです。二人とも、星野功に殺されたに違いありません。或《ある》いは、雅子も、共犯かも知れません」
「しかし、その件で、あの夫婦を逮捕は出来ません。日野冴子は、三村が殺したのかも知れませんし、その三村は、勝手に、ビルから墜死しています。あれは、明らかに、星野功が、罠にかけたんだと思いますが、彼には、厳然としたアリバイがありますし、罠にかけたことを、証明するのは、難しいですよ」
「わかっている。だが、彼等は、五百万円という、まとまった金を手に入れているんだ。もちろん、その金は、星野功をゆすったものだし、三村は、更に、もっと多くの金を手に入れようとして、功に、殺されたとしか考えられない。三村は、他人に、その話をせずに、功をゆすっていただろうか、日野冴子の方は、どうかな? 女だし、根っからの悪人とは思えない。彼女が、星野功をゆすっていたとしても、多分、三村に、そそのかされたんだろう。従って、彼女が、他人に、その話を、もらしている可能性がある」
と、十津川は、いった。
「彼女の周辺の人間に、当ってみます」
「念のために、三村泰介の関係者にも、当ってみてくれ」
と、十津川は、いった。
西本と、日下の二人が、出かけて行ったあと、十津川は、亀井に向って、
「他《ほか》に、何か出来ることがあったかな?」
と、きいた。
「安田《やすだ》めぐみの件があります。彼女は、失恋し、マンションから、飛び降りて自殺したことになっていますが、実際は、功が、突き落したんでしょう。功のアリバイは、弟の山野辺宏《やまのべひろし》が、証言しましたが、その宏も、殺されてしまいました。しかし、ひょっとすると、安田めぐみが、自殺でなく、殺されたに違いないと考えている人間がいるかも知れません。友人や、知人にです。そうした人間が見つかれば、われわれにとって、プラスになるんじゃないでしょうか?」
と、亀井が、いった。
「清水《しみず》刑事にでも、調べさせるかな」
「私も、彼と一緒に、調べて来ます」
と、亀井は、いい、清水刑事と一緒に、出かけて行った。
十津川が、ひとり残っていると、愛田《あいだ》医師から、電話が、かかった。
「新聞は、見ましたよ。ひどいものですね」
と、愛田は、同情するように、いった。
「覚悟していましたから、別に、どうということもありませんよ」
十津川は、苦笑しながら、いった。
「新聞も、テレビも、彼女が、砒素《ひそ》を飲まされているのを、信じていませんね。私のところにも、記者たちが、聞きに来たので、砒素を飲んでいるのは間違いないといったんですが、新聞を見たら、私の言葉は、のっていませんでしたよ」
「彼女自身が、否定しているから、のせんでしょう」
「そうですね。なぜ、彼女は、自分を助けようとしないんですかねえ。まるで、死を願っているとしか思えません」
「私も、同感ですよ」
と、十津川は、いった。
「ただ、新聞が、これだけ、大きく扱ったとなると、彼女のご主人も、砒素を続けて飲ませることは、怖いから、遠慮するんじゃありませんかね。それだけが、救いなんですが」
と、愛田が、いった。が、十津川は、すぐには、賛成できなかった。
「私も、そうだといいと思いますが、星野功は、すでに、何人もの人間を、殺しています。逆に、追い詰められた気分になって、一刻も早く、妻の雅子を、殺そうと考えるかも知れません」
と、十津川は、いった。
「あり得ますか?」
「残念ながら、あり得ますね。私は、それを心配しているんです」
「どうしたらいいですか? ご主人の方を、逮捕するわけには、いきませんか?」
「そりゃあ、出来れば、逮捕したいと思いますが、それだけの証拠が、見つかっていないのですよ」
十津川は、唇を噛《か》む調子で、いった。
十津川は、亀井たちの力を、信頼している。だからこそ、今日まで、一緒に、仕事をして来られたのである。
今日も、彼等が、何とかしてくれるだろうと期待していた。もちろん、何とかしてくれなくても構わない。自分が、警察を辞《や》めればいいのである。そのあと、殺人未遂で、告発されても構いはしないとも、思っていた。
星野功のほうは、新聞に、十津川|糾弾《きゆうだん》の記事が出たあと、急に、トーン・ダウンしてしまった。
向うの弁護士も、告発すると、いい続けているが、具体的な行動には出て来なかった。
もし、裁判になったとき、星野雅子の精密検査が、怖いのだろう。
そこは、安心なのだが、愛田医師にいったように、功が、いっきに、妻の雅子を殺してしまうのではないか。それが、十津川には、心配だった。
それも、功のことだから、ただ、殺しはしまい。自殺に見せかけて殺し、警察に対する抗議の死のように、発表するかも知れない、そんな風に、もって行かせては、ならないのだ。
西本と、日下から、電話の報告が入った。
「日野冴子の知り合いを、今、当っています。今までに、三人ほど、話を聞きましたが、その一人が、彼女から、大金が手に入ると聞いたことがあるといいましたが、具体的な話はなかったそうです。日野冴子が、星野夫婦か、功一人を、ゆすっていたのは、間違いないと思われますが、はっきりした話が聞けるまで、やってみます」
と、西本が、いった。
その一時間後に、今度は、亀井から、連絡が、あった。
「安田めぐみの友人に、当っています。その中の一人が、彼女が死ぬ前日に会ったそうです。清水刑事が、その女性を、連れて行きますので、直接、話を聞いて下さい。私は、引き続き、安田めぐみの友人たちに、当ってみます」
と、亀井は、いった。
しばらくして、清水刑事が、小柄な女性を、連れて、戻って来た。
現在、離婚して、商事会社に勤めているという宮本由美子《みやもとゆみこ》という女性だった。
めぐみとは、高校、大学と、一緒だったという。
「彼女が死ぬ前の日に、会ったそうですね?」
と、十津川が、きくと、由美子は、大きく肯いて、
「だから、自殺したと聞いて、びっくりしたんです」
「びっくりしたというのは、自殺なんかするとは、思わなかったからですか?」
「ええ」
「しかし、恋人が、他《ほか》の女に走ったのに絶望して、自殺したということになっていますよ。それでも、自殺するとは、思いませんでしたか?」
「そのことも、聞いていましたわ」
「恋人に、他に女がいることをですか?」
「ええ」
「どんな風に、めぐみさんは、話していたんですか?」
と、十津川は、きいた。
由美子は、その頃《ころ》のことを思い出すように、ちょっと、宙に視線を走らせてから、
「その二週間くらい前に、彼女から、悩みをうち明けられていたんです。結婚を約束した人が、他に、女を作ったといって。その女は、金持ちの娘で、別荘も持っているから、彼は、そこに、引かれたのかも知れないとも、いっていましたわ」
「それで、死ぬ前日に会った時は、どうだったんですか?」
「実は、彼女のことが心配で、会いに行ったんです。失恋して、自殺でもするんじゃないかと思って。そしたら、元気なんで、びっくりしたんですよ。それで、彼とは、うまくいったみたいねって、聞きました」
「そしたら、彼女は、何といいました?」
「彼が、女と別れると約束してくれたというんです。やっぱり、彼は、あなたが好きだったわけねって、私は、いいました。そうだと思ったからですわ。そしたら、彼女は、ちょっと違うって、いうんです。なんでも、向うの女の弱味をつかんだから、いつでも、脅かすことが出来る。彼も、それを知ってるから、別れる気になったんだって。彼女、そういったんです」
「向うの女の弱味を、つかんだといったんですね?」
「ええ」
「それが、どんなことか、めぐみさんは、いいましたか?」
「私は、聞きましたけど、彼女は、笑って、教えてくれませんでした。ただ、表沙汰《おもてざた》にすれば、警察に捕《つか》まるようなことだと、いっていましたわ。もし、彼を奪おうとしたら、警察に、連絡してやるつもりでいるのって、彼女、いっていました。怖いような眼をして」
「それで、自殺するのは、おかしいと、思ったんですね?」
「ええ、向うの女の弱味をつかんだというのが、嘘《うそ》とは思えませんでしたから」
「彼女が、相手の女を、脅したので、マンションから突き落されて、殺されたとは、思いませんでしたか?」
と、十津川がきくと、由美子は、びっくりした表情で、
「そうだったんですか?」
「その可能性はあります。ただ、証拠がないんですよ」
「証拠?」
「そうです。めぐみさんは、車の運転が出来ましたか?」
「ええ。免許は、持っていましたわ」
「自分の車も、持っていましたかね?」
「最後に会った日ですけど、最近買ったという車で、送ってくれましたわ。中古車でしたけど、それで、彼とデートするのかと思ったのを、覚えていますわ」
と、由美子は、いった。
「車の中で、どんなことを話したか、覚えていますか?」
「いろいろな話をしましたけど」
「遠出をした話はしませんでしたか?」
「そういえば、箱根へ行ったとか、いってましたわ。とても、スリルがあったって」
と、いって、由美子は、微笑した。
「どんなスリルだったか、めぐみさんは、いいましたか?」
「聞いたけど、彼女は、笑っているだけでしたわ」
「めぐみさんが、恋人の相手の女を、どうやって、脅かす気だったのか、それを、知りたいんですがね」
「私も、くわしく聞いておけばよかったんですけど、本当に、知らないんです。残念ですわ」
と、由美子は、いった。
だが、十津川は、礼をいって、彼女に、帰って貰《もら》った。
やはり、安田めぐみは、事故を、目撃していたのだと、十津川は、思った。
恋人の功と、星野雅子が乗ったベンツを、彼女は、尾行していて、ベンツが、人身事故を起すのを、目撃したのだ。
めぐみは、それをネタにして、星野雅子を脅かし、功から、手を引かせようと、考えていたらしい。死ぬ前日もである。
と、すると、ベンツを運転していたのは、功でなく、雅子だったのかも知れない。
安田めぐみは、これで、恋人の功を、取り戻せると、信じていたのだ。
だが、その彼女を、功は、自殺に見せかけて、殺した。
そこには、功の計算があったのだろう。雅子が、ベンツを運転していたのだとすると、目撃者のめぐみを殺すことで、恩を売ったのだろう。
(だが、これでは、まだ、星野夫婦を、逮捕は出来ない)
とも、十津川は、思った。
どれも、今すぐには、突破口になりそうになかった。
十津川は、やはり、星野夫婦を、直接、攻めることを、考えた。
「なぜ、星野功が、急に、妻の雅子を殺そうと考えたんだろう?」
と、十津川は、亀井の考えを聞いた。
「普通に考えれば、彼女の口封じでしょう。功は、実の弟も昔の恋人も殺しています。残っているのは、妻の雅子だけです。彼女の口を封じれば、もう、怖いものなしと、思ったんでしょう」
「それで、砒素《ひそ》か?」
「そうです。安田めぐみは、自殺に見せかけて殺しました。だから、同じ手は使えない。そこで、徐々に弱らせ、病死に見せかけようとしたんじゃありませんか?」
「しかし、功は、われわれが、捜査を始めているのを知っていて、砒素を使っている。まあ、だから、口封じを急いだということも考えられるのだが、ここまで来て、突然、奥さんが病死すれば、当然、怪しんで、解剖する。それぐらいは、功だって、わかっているんじゃないだろうか?」
「わかっていても、やる気なんです。うまくいくと思っているのかも知れないし、一刻も早く、雅子の口を封じなければ危険と、思っていることも、考えられます」
「しかしねえ。雅子は、砒素を飲んでいることを、頑として、認めようとしないんだよ。それは、多分、箱根で、人身事故を起した時、ベンツを運転していたのが、彼女だったからだと思う。それは、当然、功も知ってるわけだから、今、殺さなくても、彼女が、警察に全《すべ》てを話さないことは、わかっているんじゃないかねえ?」
と、十津川は、疑問を示した。
「そうですね。夫に砒素を飲まされていて、それを、絶対に否定しているのは、愛情だけではなく、彼女自身が、どこかで、一連の事件に関係しているためだと、私も思います」
と、亀井も、いう。
「それなら、こんな時期に、あわてて、雅子を殺さなくてもいいと思うんだがねえ。なぜ、功は、あわてているんだろう? 雅子が、絶対に、自分を裏切らないことは、わかっているだろうにね」
「早く、星野家の財産を、独り占めしたいんでしょうか?」
「財産をね」
と、十津川は、口の中で呟《つぶや》いた。が、
「しかし、功は、今だって、かなりの金を、自由に出来る立場にいるわけだろう? 星野家がやっていた関連会社の社長に、おさまっているわけだからね」
「確かに、その通りですが――」
「功の個人的な借金でもあるのかな? バクチに手を出して、何千万もの借金があり、妻の雅子には、話せない。だから、彼女を殺して、財産を自分の勝手に使いたくなったということかな? 借金の相手が、暴力団なら、一刻も早く払えと、いうだろうからね。雅子に、砒素を飲ませておいて、あと、何日で死ぬから、それまで、借金の返済を、待ってくれと、いっているのかな」
と、十津川が、いうと、亀井は、首をかしげて、
「星野功が、借金をしているという話は、聞いていませんが」
「聞き込みは、やったんだろう?」
「そうです。聞き込みで、出て来ませんでした。同業者は、そういうことには、敏感ですが、聞けませんでしたから」
「すると、理由は、他《ほか》にあるわけだが――」
と、十津川は、考え込んだ。
亀井も、じっと考えているようだったが、ふと、
「ひょっとすると、新しい女が、出来ているんじゃないでしょうか?」
と、いって、十津川を見た。
「女か」
十津川が、眼を光らせた。
「星野雅子は、何となく、暗い感じのする女です。生れつきなのか、事件のせいかわかりませんが、あれでは、夫の功も、面白《おもしろ》くないでしょう。それでなくても、功という男は、女好きだと思いますから、新しい女が出来ていない方が、おかしいですよ」
「そうだな。金も出来たし、社長の肩書きも出来たわけだから、前よりも、女が、寄ってくるだろうしね」
「そうです」
「すぐ調べてみてくれ」
と、十津川は、亀井に、いった。
亀井は、西本や、日下《くさか》たちを連れて、すぐ飛び出して行った。
しかし、すぐには、連絡がなかった。当然かも知れなかった。簡単にわかる相手なら、今までの聞き込みで、浮んできている筈《はず》だからである。
亀井から、電話が入ったのは、五時間以上、たってからだった。
「それらしい女がいました。警部も、来て頂けませんか」
と、亀井が、いった。
十津川は、亀井と、新宿駅で落ち合い、西口にある高級マンションに、向った。
「相手は、二十五歳で、女優だそうです。名前は、小山《こやま》はるか。なかなかの美人だと聞いています」
と、歩きながら、亀井が、いった。
「女優さんか」
「金と地位が出来ると、男は、美人の女優を欲しがるものかも知れませんね。女優の方も、相手が、青年実業家なら、文句はないんじゃありませんか」
亀井が、そんなことを、いった。
「小山はるかという名前は、聞いたことがないんだが」
と、十津川は、正直に、いった。
「私も、初耳でしたが、美人女優として有名だそうです。これから、売れてくるだろうとも、いわれているという話ですよ」
と、亀井が、いった。
「ヴィラ・西新宿」という名前の高層マンションだった。
土地のバカ高い新宿で、駐車場つきのマンションだから、億ションに違いない。
十津川と、亀井は、エレベーターで、十二階へあがって行った。
すでに、深夜に近い時刻である。マンションの中も、ひっそりと、静まり返っている。
二人は、じゅうたんの敷かれた廊下を歩き、1201号室のベルを鳴らした。
「はい」
という返事があったが、警察といっても、なかなか、ドアは、開かなかった。
十五、六分待たされてから、やっと、ドアが開いた。
十津川は、彼女が、星野功に、電話でもしていたのではないかと思ったが、きれいに化粧をされた顔を見て、違うと、わかった。
二人の刑事を待たせて、彼女は、化粧をしていたのである。
確かに、美人だった。大きく見開かれた眼に、十津川は、気の強さのようなものを感じた。
「小山はるかさんですね」
と、十津川は、まず、確認した。
「そうですけど」
と、相手は、肯《うなず》いてから、十津川たちを、中に、請じ入れた。
十六畳ほどの広い居間である。王朝風の椅子《いす》に、腰を下したが、十津川は、どうも、落ち着かなかった。
はるかは、改まった口調《くちよう》で、
「どんなご用でしょうか?」
と、二人を見た。
「星野功さんを、ご存じですね?」
亀井が、まず、きいた。
「いいえ、存じませんわ」
と、はるかは、いう。
「都内に、クラブをいくつも持っている星野功ですがね」
亀井が、厳《きび》しい眼つきで、はるかを見た。
「そんな人を、なぜ、私が知っていなければいけないんでしょう?」
はるかは、あくまで、冷静な口調で、きき返した。
亀井は、眉《まゆ》をひそめて、
「われわれは、何人かの人間から、あなたと、星野功さんの仲を聞いて来ているんですよ。その人たちを、ここへ連れて来ましょうか?」
と、きいた。
その言葉で、はるかの表情が変った。余裕がなくなった感じで、
「警察が、なぜ、私のプライバシーに、興味を持ったりなさるの?」
「われわれは、あなたにというより、星野さんと、奥さんの雅子さんの方に、興味があるんですよ」
と、これは、十津川が、いった。
「どんな興味でしょうか?」
はるかは、探《さぐ》るような眼になって、十津川を見た。
「星野さん夫婦は、殺人事件に関係していると見られているんですよ。それで、関係者から話を聞いているうちに、あなたの名前が、浮んで来たんです。星野功さんの恋人としてですよ」
「その話、本当なんですか?」
はるかは、半信半疑の顔で、十津川に、きいた。
「殺人事件の話は、事実です」
「では、なぜ、逮捕なさらないのかしら?」
と、はるかが、きいた。
「間もなく、逮捕しますよ。これは、誓ってもいい。あなたのような美しい人を、みすみす、その巻添えにはしたくないんですよ」
十津川が、いうと、はるかは、微笑した。が、すぐ、その笑いを消して、
「でも、信じられないわ」
「彼が、殺人事件に関係していることがですか?」
「ええ。もちろん」
「どんな風に、信じられないんですか?」
と、亀井が、きいた。
「彼は、間もなく、奥さんと別れるから、結婚してくれと、私に、いったんですよ。殺人事件に関係している人が、そんな約束をするかしら?」
「やはり、あなたと結婚すると、いったんですね?」
と、十津川が、念を押した。
「ええ」
「いつのことですか?」
「一緒になるといった時? それとも、彼と、最初に会った時のことでしょうか?」
「じゃあ、最初に会った時から話して下さい」
と、十津川は、頼んだ。
「去年の今頃《いまごろ》だったと思います。赤坂のホテルのバーで、飲んでいたら、彼が、お友だちと、入って来たんです。お友だちは、すぐ帰ってしまって、そのあと、彼が、声をかけて来たんですわ」
「なるほど」
「その時、名刺を貰《もら》いました。星野功という名前は、知りませんでしたけど、スター何号館というクラブを、いくつか持っているといわれて、ああと、思いましたわ。確か、スター5号館だったと思いますけど、二、三回、行ったことが、ありましたから」
と、はるかは、いう。
「いわゆる青年実業家だと、思ったわけですか?」
「ええ。まあ」
「その後、彼の方から積極的に、誘って来たんでしょう?」
十津川がきくと、はるかは、急に、得意気な表情になって、
「ずいぶん、贈り物も、貰いました」
「そのうちに、奥さんと別れるから、結婚してくれと、いわれたんですね?」
「ええ」
「あなたは、彼の奥さんに会いに行ったことは、あるんですか?」
「いいえ。そんなこと、私の自尊心が許しませんわ」
と、はるかは、いった。
「はるかさん」
「ええ」
「今もいったように、星野功は、殺人犯人です。これは、間違いありません。その上、もう一人、今、殺そうとしています」
「誰《だれ》を?」
「奥さんをです」
と、十津川がいうと、はるかは、びっくりした顔で、
「私は、そんなことは、頼んでいませんわ。第一、彼は、すぐ、家内と別れると、約束したんですよ。それなのに、なぜ、奥さんを殺すんですか? 奥さんが離婚に同意しないのかしら?」
「それもあるかも知れない。また、一刻も早く、あなたと一緒になりたいからかも知れない。あなたも、彼に、早く、奥さんと別れてくれと、頼んだんじゃありませんか?」
十津川が、きいた。
「最初に、彼が、自分から、いったんですよ。私は、その約束を守って欲しいと、いっただけです。私の誕生日は、今月の二十三日ですけど、それまでに、必ず、きっちりすると、約束したんです」
「つまり、あなたが、二十六歳になるまでに、奥さんと別れて、一緒になると、約束したわけですね?」
「ええ。そうですわ。私は、自分で、決めていたんです。結婚するなら、二十五歳のうちにしたい。二十六になったら、女優に専念して、結婚は、考えないようにするって」
「そのことも、彼に、いってあるんですね?」
「ええ」
「それで、よくわかりました」
と、十津川は、いった。
「何が、わかったんですか?」
「彼は、あなたとの約束を守るために、奥さんを、殺そうとしています。薬を使って、病死らしく殺そうとです」
亀井が、いうと、はるかは、青ざめた顔で、
「何度もいいますけど、私は、奥さんを殺してくれなんて、いっていませんわ」
「わかっています。彼が、勝手に、そうしているだけです」
「電話して、そんなこと、止《や》めて貰いますわ」
と、はるかは、いった。
「それで、あなたに、お願いがあるんですがね」
と、十津川が、いった。
「どんなことでしょうか?」
と、はるかが、きいた。
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11 行方《ゆくえ》不明
小山はるかは、緊張した表情で、じっと、十津川《とつがわ》を、見ている。
そんな彼女に向って、十津川は、
「私は、何としてでも、星野雅子《ほしのまさこ》さんの死を食い止めたいと、思っているのです」
「私が、どうすればいいんでしょう? 私なんか、無力な気がしますけど」
「いや、そんなことはありません。あなたは、星野夫婦に対して、強い影響力を、持っている筈《はず》です」
「でも、何をしたら?」
はるかは、戸惑《とまど》いの色を隠さずに、十津川に、きいた。
「星野の奥さんに、会ったことはないと、いいましたね?」
「はい」
「電話したことや、手紙を書いたことは、どうですか?」
「ありませんわ」
「それでは、電話して貰《もら》えませんか」
と、十津川は、いった。
「何のためにですの?」
「星野雅子に、あなたの存在を知らせるんです。手紙でもいいが、時間がありません」
と、十津川が、いうと、はるかは、首をかしげて、
「星野さんが、私と、結婚したいと思っていることを、奥さんに知らせたら、どうなりますの?」
と、きいた。
「彼女は、今、甘んじて、星野に、殺されようとしています」
「そんな!」
はるかは、びっくりした顔になった。
「理由は、いろいろ、想像されますが、とにかく、今は、彼女を、助けたいんです。夫への不信感が強まれば、夫の所から、逃げ出してくれるかも知れないのです」
「逃げ出したあと、どうなりますの?」
と、はるかが、きいた。
「あの家から逃げ出してくれれば、まず、彼女の生命が助かります。そのあと、星野の犯罪を証言してくれれば、彼を、殺人犯として、逮捕することが、出来ます」
と、十津川は、いった。
「まだ信じられませんわ。彼が、奥さんを殺そうとしているなんて」
はるかは、小さく、首を振った。
十津川に、突然、いわれたのだから、無理もないことだった。
「それは、間違いありません。今月の二十三日までに、星野は、必ず、奥さんを殺します」
「愛情が消えてしまっているのなら、離婚すればいいのに」
と、はるかは、いった。
「彼には、それが、出来ないんですよ」
「私は、財産なんか要《い》りませんわ」
「奥さんは、今もいったように、星野の殺人の証拠を、掴《つか》んでいるんです。ひょっとすると、二人で、ある人間を、殺したかも知れないんですよ。そんな奥さんを、星野は、怖くて、離婚できませんよ。口を封じるより仕方がないんです」
「警察の力で、逮捕できないんですか?」
「残念ながら、証拠がないのですよ。唯一の証人である奥さんは、証言しようとしませんしね。今、その奥さんが、星野に殺されてしまったら、もう、お手上げです」
と、十津川は、正直に、いった。
はるかは、考え込んでいる。十津川の言葉は、どうやら信じてくれたようだが、警察のいう通りに動いていいのかどうか、考えているのだろう。
「警部さんのいうことを、お断りしても、構わないんですか?」
と、はるかが、きいた。
「もちろん、あなたの自由ですよ」
と、十津川は、いった。
「でも、私が断ったら、困るんでしょう?」
「困りますが、強制は出来ません」
「あとで、返事させて下さい」
と、はるかは、いった。
十津川と亀井は、いったん、捜査本部に、帰った。強制するわけにはいかない仕事なのだ。
「あの女は、協力してくれますかねえ」
と、亀井が、不安気に、いった。
「わからないな。女の気持は、もともと、わからんからね」
「彼女は、女優です。その点を、くすぐったらどうでしょうか?」
と、亀井が、提案する。
「くすぐるって、どうするんだ?」
「彼女は、美人ですが、その割りに、売れていません。ここで、警察に協力して、マスコミに、取り上げられれば、人気が出る。そのことを、強調したらどうですかね? 彼女は、その気になるかも知れません」
と、亀井は、いった。
「いい案だとは、思うがねえ。今、われわれは、マスコミに叩《たた》かれているんだ。彼女だって、それは、知ってると思うよ。と、すると、今、警察に協力しない方が、マスコミ受けすると、考えてしまうんじゃないかねえ」
「それも、考えられますね」
「だから、今は、誠意で、訴えるより仕方がないと、思っているんだよ」
と、十津川は、いった。
一時間して、電話が掛ったが、小山はるかからではなくて、彼女の三島《みしま》というマネージャーからだった。
お聞きしたいことがあるので、これから、伺うというのである。
十津川は、彼女が話したのだなと思いながら、「どうぞ」と、いった。
四十二、三歳の眼鏡《めがね》をかけた男が、車で、やって来た。
三島|祐二郎《ゆうじろう》という名刺を差し出してから、
「小山君から話を聞いて、びっくりしました」
と、いった。
「他人には、内緒にと、彼女には、お願いしておいたのですがね」
十津川が、いうと、三島は、「申しわけありません」と、まず、頭を下げた。
「それは、わかっているんですが、彼女は、どうしたらいいか、迷いに迷って、私に、相談したんだと思います」
「彼女が、何を、どんな風に、話したんですか?」
と、亀井が、厳《きび》しい顔で、きいた。
「小山君が、青年実業家とつき合っているのは、知っていましたが、具体的な名前を、聞いたのは、今日が、初めてです」
「彼が、殺人犯だということも、彼女は、いいましたか?」
「警察は、犯人だといっているとは、いいましたよ」
「それは、間違いありません」
「しかし、新聞には、違うと、書いてありましたが」
と、三島は、いう。やはり、あの記事を読んだのだ。
十津川は、苦笑しながら、
「向うは、否定するのが当然です」
「それで、問題は、彼女が、傷つかないかどうかということなんです。彼女は、今、大事なところでしてね。マネージャーの私としては、彼女の名前が、あがればいいが、逆では困るのです。警察に協力したのはいいが、そのために、非難を浴びたのでは、女優生命も、絶たれかねませんのでね」
「そんなことには、させませんよ。名前が、出ないようにというのであれば、絶対に、名前が洩《も》れないようにします」
と、十津川は、約束した。
「本当に、小山君の女優生命には、傷がつきませんか?」
三島が、念を押した。
「大丈夫です」
「しかし、相手は、警察を告発するような人物ですからねえ」
と、三島は、いう。
「怖いのでしたら、やめて下さい」
十津川は、苦笑した。
三島は、あわてて、
「いや、小山君も、警察には、協力したいといっているのです」
「それなら、協力して頂きたいですね。はるかさんとしても、殺人犯と結婚しなくてすんだわけですからね」
と、亀井が、ちょっと、脅かす感じで、
「今度の事件が、解決したあと、殺人犯に欺されて、結婚寸前まで行ったといわれたら、困るんじゃありませんか?」
「それは、困ります」
「それなら、協力して下さい。自分から、星野|功《いさお》の行動に疑問を持って、警察に協力して、悪事をあばいたという方が、いいんじゃありませんか?」
と、亀井が、いった。
「確かに、そうなんですが――」
と、三島は、呟《つぶや》くように、いってから、やっと、決心がついたという顔で、
「具体的に、小山君は、何をすれば、いいんですか?」
と、きいた。
これには、十津川が、
「星野功が、家にいない時に、奥さんの星野雅子に、電話をして貰《もら》いたいんです」
「それで、奥さんに、何をいえば、いいんですか?」
「正直に、話して下さればいいんです。星野が、はるかさんに向って、今月の彼女の誕生日までに、妻と別れて、一緒になると、話していたとです。そこは、女優さんなんだから、うまく話せると、思いますがね」
「それだけで、いいんですね?」
「そうです」
「念を押させて貰いますが、その結果、向うの奥さんが、小山君を、訴えるというようなことは、ないんでしょうね?」
と、三島は、いった。
「大丈夫です。向うも、弱味があるから、絶対に、訴えませんよ」
と、十津川は、いった。
三島は、帰って行った。が、本当に、やってくれるかどうか、まだ、判断がつかなかった。
明らかに、怖がっているからだった。
更に、三時間以上たってから、今度は、小山はるかから、直接、十津川に、電話が入った。
いくらか、甲高《かんだか》い調子で、
「星野の奥さんに、電話しましたわ」
と、いった。
じっと、興奮を抑えているという感じでもあった。
「ありがとうございます。彼女の反応は、どうでした?」
と、十津川が、きいた。
「私のいうことを、ただ、黙って、聞いていらっしゃいましたわ。気持が悪いくらい、静かに」
「星野が、奥さんと別れて、あなたと結婚すると、約束していたことを、話したんですね?」
「ええ」
「それでも、彼女は、怒《おこ》らなかったんですか?」
「私が、話し終ったら、奥さんは、しばらく、黙っていたんです。きっと、言葉が出ないほど、怒っているのだろうと思っていたら、変に、冷静な口調《くちよう》で、『それで、あなたは、彼と一緒になりたいの?』って聞くんです」
「ほう」
「もう、一緒になる気はありませんって、いいました」
と、はるかが、いう。
「そうしたら、彼女は、何といいました?」
「可哀《かわい》そうに――って、小さい声でいって、電話を切ってしまいましたわ」
「可哀そうに、といったんですか?」
「ええ」
「誰《だれ》のことを、いったんでしょうか?」
「わかりませんわ」
と、はるかは、いってから、
「これから、どうなるんでしょうか? 私が、妙なことに、巻き込まれることは、ありませんわね? 私は、それほど心配していませんけど、マネージャーが、心配しているんです」
「大丈夫ですよ。このあとは、われわれが、やります」
と、十津川は、いった。
電話を切ると、十津川は、亀井に向って、
「星野雅子が、どう出るかだがね」
と、いった。
「どう出るでしょうか?」
亀井も、自信がないと見えて、自分の意見はいわずに、きき返した。
「彼女が、腹を立てて、警察に連絡してくれれば、一番いいんだがね。全《すべ》てを話してくれれば」
と、十津川は、いった。
「では、行ってみますか?」
「そうだな。訪ねて行って、彼女の反応を見てみるか」
と、十津川は、いった。
二人は、パトカーで、星野家に向った。
午後四時半に近かった。まだ、星野功は、帰っていないだろう。
十津川は、覆面パトカーを、乗りすてると、亀井と、門についているベルを押した。
返事がなかった。
十津川は、急に、不安に襲われた。
怒って、雅子が、功の殺人を警察に話してくれることを期待して、小山はるかに、電話を頼んだのだが、ひょっとすると、絶望のあまり、自殺してしまったのかも知れない。
十津川は、ベルを押し続けた。が、反応のないのは、同じだった。
「カメさん。中に入ってみよう!」
と、十津川は、青ざめた顔で、亀井に、いった。
亀井も、同じ不安を感じたらしい。黙って、門を開け、玄関に向って、突進した。
玄関の扉は、中から錠がおりていて、びくとも、動かない。
二人は、庭を通り、裏口へ廻《まわ》った。
亀井が、勝手口の錠をこわして、ドアを開けた。
十津川と、亀井は、邸《やしき》の中に入った。
一階の廊下や、居間には、灯《ひ》がついていたが、雅子の姿は、なかった。
十津川は、二階に、駈《か》けあがった。
灯をつけて、部屋を一つ一つ、調べていった。
「どこにも、いないな」
と、十津川は、息をはずませて、亀井に、いった。
「外出したんでしょうか?」
「ただの外出なら、いいんだが」
と、十津川が、呟《つぶや》いた時、車の停る音が、聞こえた。
「早く出よう」
と、十津川は、いささかあわてて、亀井にいい、外へ飛び出した。が、入ってくる星野功と、玄関のところで、ばったり、ぶつかってしまった。
星野の顔が、もう、険《けわ》しくなっている。
「何をしているんです?」
と、星野は、甲高《かんだか》い声を出した。
「奥さんに会いに来たんですが、お留守なので、これから、帰るところです」
十津川は、そう、いった。
「留守? そんな筈《はず》はない!」
星野は、狼狽《ろうばい》の色を見せ、玄関から、家の中へ、駈《か》け込んで行った。
亀井は、そんな星野を、見送ってから、
「いやに、あわててますね」
「おかげで、われわれが、文句をいわれずにすんだよ」
と、十津川は、首をすくめた。
星野が、また、すごい勢いで、飛び出してくると、十津川に向って、
「家内をどうしたんです?」
と、食ってかかった。
「何もしませんよ。会いに来たら、いなかっただけです」
「お手伝いもいないじゃありませんか」
「奥さんと一緒に、外出されたんじゃありませんか」
「そんなことはない!」
と、星野は、大きな声を出した。
十津川は、苦笑して、
「奥さんが外出したくらいで、なぜ、そんなに、騒ぐんですか? すぐ、帰って来ますよ」
「家内は、病気なんだ。どこにも行く筈がない!」
「それは、おかしいんじゃありませんか。われわれが、病院へ行って、精密検査を受けて欲しいといった時、あなたは、病気じゃないから、その必要はないと、主張したじゃありませんか?」
と、十津川は、皮肉を、いった。
星野の顔が、赤くなった。怒《おこ》ったらしい。
「あんたたちが、家内に何かして、それで、家内が家を出たとわかったら、絶対に、許さんぞ!」
「なぜ、そんなに怒るのかわかりませんね。すぐ、奥さんは、戻って来ますよ。買物に行ったのかも知れんじゃありませんか」
十津川は、わざと、冷静に、いった。
「もういい!」
と、星野は叫ぶと、車に乗って、家を、飛び出して行った。
雅子を、探しに行ったに違いない。
「大変な見幕でしたね」
と、亀井が、呆《あき》れたという顔で、いった。
「奴《やつ》も、必死なんだよ」
と、十津川は、いった。
二人は、車に戻った。
「われわれも、星野雅子を、見つけなければなりませんね」
と、亀井が、改まった口調《くちよう》で、いった。
「カメさんのいう通りだよ。一番心配なのは、彼女が、自殺することだし、その可能性は、十分にあるんだ。星野功が、あわてているのも、そのせいだろう」
十津川が、いうと、亀井は、「しかし」と、いった。
「自殺してくれれば、星野は、助かるんじゃありませんか? 砒素《ひそ》を飲ませて、殺そうとしているくらいなんですから」
「ただ自殺してくれればいいだろうが、全《すべ》てを告白した遺書を、書いてから、死ぬかも知れない。星野は、それが怖いんだよ」
「なるほど」
「だから、星野は、自分の監視している中で、雅子に、死んで貰《もら》いたいんだ」
「星野が見つけたら、今度は、邸《やしき》の中に、監禁してしまうかも知れませんね」
「或《ある》いは、外国へ連れ出して、そこで殺すことだって、考えるかも知れない。今は、二人が、外国へ出るのを、止《と》められないからね」
「すると、今度が、われわれにとっても、最後のチャンスということになるかも知れませんね」
亀井も、緊張した顔で、いった。
十津川は、パトカーの無線電話を使って、部下の西本刑事たちに、すぐ、星野雅子の行方《ゆくえ》を追うように命じた。もう一つは、星野功の車の手配だった。彼の動きも、監視しておきたかったからである。
二人は、捜査本部に戻った。
星野雅子が、行きそうな場所は、全《すべ》て、チェックされ、刑事たちが、急行した。
一方、都内を走るパトカーに、星野功の運転するロールス・ロイスのナンバーが知らされ、発見次第、報告するように、指示が、出された。
しかし、どちらも、なかなか、発見されなかった。
雅子の大学時代の友人たち、親戚《しんせき》にも、一人ずつ、当っていった。
箱根の別荘は、神奈川県警に電話して、調べて貰った。
だが、雅子は、どこにも、現われていなかった。
星野のロールス・ロイスの方が、先に見つかった。
箱根の別荘に、着いていたのである。彼も、雅子が、箱根に行っているかも知れないと思ったのだろう。
「多分、星野も、東京へ戻ってくるよ」
と、十津川は、いった。
「戻って来て、彼女の友人のところを、片っ端《ぱし》から、当るんでしょうね」
「彼だって、警察と競争だと思っている筈《はず》だ」
と、十津川は、いった。
十津川の予想どおり、夜半になって、星野のロールス・ロイスは、都内で、発見された。
彼も、雅子の大学時代の友人の家を、一軒ずつ、当り出したのだ。
午前二時を過ぎても、雅子は、見つからなかった。
十津川は、窓の外の暗闇《くらやみ》を見つめて、考え込んだ。
「どうも、友人、知人の家には、行っていないようですね」
と、亀井が、十津川の背中に向って、いった。
「星野雅子の気持になって、考えてみようじゃないか」
と、十津川は、自分の席に戻って、亀井にいった。
「どんな風にですか?」
「彼女は、夫の功に、砒素《ひそ》を飲まされているのに、誰《だれ》にもいわず、じっと、殺されるのを待っていた。そんな女が、友人や、知人のところに、逃げ込むだろうか? そのくらいなら、もう、とっくに、相談に行っているんじゃないかな? どう思うね? カメさん」
と、十津川は、きいた。
「そうですね。彼女の絶望が深ければ深いほど、友人や、知人には、相談しないかも知れませんね」
「そして、どうする?」
「自殺しますか?」
「その心配もある。が、今までのところ、死んだ気配《けはい》はない。どこからも、身元不明の死体は、発見されていないからね」
「すぐ自殺はしないとすると、私だったら、ひとりで、静かに考えたいと思いますね」
と、亀井が、いった。
十津川は、肯《うなず》いて、
「私も、ひとりになりたいと思うね。そのためには、ひっそりと、静かな、ひなびた温泉にでも、行くことを考えるね」
と、いった。
「ただ、ひなびた温泉といっても、全国に散らばっていますから、どこと決めるのは、難しいですよ」
と、亀井が、いった。
「全く初めての場所には行かないだろう」
「そうですね、前に一度行ったことがある場所へ行くと思います」
「もう一度、雅子の友人、知人に、当ってみてくれ。雅子が、前に、行って、気に入った温泉を、聞き出すんだ」
と、十津川は、いった。
西本刑事たちが、夜明けと共に、また、聞き込みに、走り廻《まわ》った。
その結果、一つの温泉の名前が、浮び上って来た。
後生掛《ごしよがけ》温泉である。
大学時代、友人二人と一緒に行き、気に入って、また、行ってみたいといっていたと、いうのである。
八幡平《はちまんたい》にあって、標高千メートル近く、旅館が一軒だけだという。
「カメさん。行ってみよう」
と、十津川は、亀井に、いった。
電話で確かめることはしなかった。どうせ、行っているとしても、偽名で泊っているだろうし、電話を聞かれて、逃げてしまうかも知れなかったからである。
十津川と、亀井は、西本たちに、星野の動きを監視し、彼が、後生掛温泉に向うようだったら、それを阻止するように指示しておいて、東北新幹線に、乗った。
盛岡で降りて、田沢湖線に、乗りかえる。
L特急「たざわ9号」を、田沢湖駅で降りたのは、一三時一二分である。
急ぐので、二人は、ここから、タクシーに乗って、後生掛温泉に向った。
田沢湖の横を通り、ダムの工事現場の、ダムの底に沈む村を通り抜ける。
玉川温泉に着くと、猛烈な硫黄の匂《にお》いが、漂ってきた。
この辺りは、硫黄泉が、多いのだろう。
「だから、この辺を流れる川には、魚がいません」
と、タクシーの運転手が、教えてくれた。
川の水に、硫黄が含まれているからで、そんな川の水が流れ込んでいる田沢湖にも、魚は、すんでいなかったと、いう。
玉川温泉の辺《あた》りから、タクシーは、ゆるい登りの道を、えんえんと、昇って行く。
途中から、雨が降り出した。
寒くなって来た。
「まだ、遠いのかね?」
と、途中で、十津川は、運転手に、きいた。
「なにしろ、この山の頂上だからね」
と、運転手が、いった。
ところどころ、根雪《ねゆき》が残っているのが、眼に入って来た。気温が、急激に下っていくのが、よくわかった。閉《し》めている窓ガラスが、どんどん、曇ってくるからである。
やっと、問題の後生掛温泉に着いた。
なるほど、山の頂上に、温泉旅館が、一軒だけ、建っている。
旅館の裏手の方から、白い湯煙りが、あがっているのが見えた。
十津川と、亀井は、ガラス戸を開けて、旅館に入り、フロントで、用意して来た星野雅子の写真を、見せた。
「この女性が、来ていませんか? 名前は、何といっているか、わかりませんが」
と、十津川は、警察手帳を示して、きいた。
相手は、雅子の写真を見ていたが、丁度、通りかかった女子従業員をつかまえて、
「これ、12号室のお客じゃないかね?」
と、きいた。
近くの農家から、手伝いに来ているという五十歳ぐらいの従業員は、東北|訛《なま》りのいい方で、
「倒れそうになって、ここに着いた人ですよ」
と、いった。
「じゃあ、来てるんですね?」
十津川が、二人の会話に、割り込んだ。
「12号室のお客だと思いますよ。一昨日《おととい》の夕方でしたね。タクシーで着いたんですが、病気みたいでね。着いたとたんに、倒れて、今、寝てますよ」
と、フロント係が、いい、女子従業員の方は、
「さっきは、起きて、歩いていましたよ」
と、いった。
十津川は、その従業員に向って、
「彼女は、あなたに、何かいいませんでしたか?」
「何かって、どんなことですか?」
「身の上話とか、ここで、誰《だれ》を待っているとか」
と、十津川が、いうと、相手は、首を振って、
「何もいわないお客さんですよ。何か、悩みごとがあるみたいだけど、こっちが、いろいろ聞いても、ただ、笑っているだけでねえ」
「いつまで、ここにいると、いっているんですか?」
「一応、一週間ということで、お泊りになっていますがね」
「寝ていたとすると、まだ、温泉には、入っていないんですね?」
「ええ。お入りになると、いいと思っているんですけどねえ」
と、従業員は、残念そうに、いった。
十津川と、亀井は、12号室の近くに、泊ることにした。
もちろん、星野雅子には、内緒にして貰《もら》い、彼女が、変った動きをしたら、知らせてくれるように、頼んだ。
翌日、雅子は、一度だけ、温泉に入った。が、その他は、ほとんど、自分の部屋に、閉じ籠ったままだった。
十津川たちも、温泉に入らず、じっと、部屋に、待機していた。
部屋に、電話がないので、東京に連絡するためには、旅館の外にある公衆電話ボックスを、使わなければならなかった。
十津川は、百円玉を、沢山用意しておいて、東京の西本刑事に、電話をかけた。
「星野功は、どうしている?」
と、きいた。
「相変らず、車で、走り廻《まわ》っていますよ。あわてているのが、よくわかります」
と、西本は、いった。
「まだ、雅子の行先を、つかめていないようか?」
「そう思います」
と、西本は、いった。
十津川が、安心して、部屋に戻ると、亀井が、緊張した顔で、
「今、気になることを聞きました」
と、十津川に、いった。
「何だい?」
「フロントの話ですが、星野雅子が、便箋《びんせん》と封筒、それに、ボールペンが欲しいといって、持って行ったそうです」
と、亀井が、いう。
「便箋をね」
十津川の顔にも、緊張が、走った。
普通の人間なら、ただ、手紙を書くためだろうと思う。だが、相手は、死を覚悟している星野雅子なのだ。
遺書の可能性が、強い。
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12 遺 書
十津川《とつがわ》は、雅子《まさこ》が、どう出るか、見守ることにした。
一番いいのは、彼女が、全《すべ》てを告白する手紙を書いてくれることである。それが手に入れば、星野|功《いさお》を、逮捕できるだろう。
彼女が、そうした手紙を書いた直後に、保護すれば、自殺を防ぐことも可能だ。
翌朝、雅子は、朝食のあと、部屋を出て、散歩をした。
旅館の裏に、この温泉の源泉が、噴出しているところがある。硫黄泉だから、その匂《にお》いは凄《すさま》じいし、壮観である。
近づくと、危険なので、柵《さく》のついた遊歩道が、設けられていた。
雅子が、柵を乗り越えて、自殺する恐れもあるので、亀井《かめい》が、離れた場所から、見張ることになった。
その間に、十津川は、雅子の部屋に、忍び込んだ。
小さなスーツケースが、八畳の部屋の隅に、置いてある。
魔法びんや、お茶の道具が置かれたテーブルの上には、便箋《びんせん》と、封筒が、見えた。
封筒は、束になったままである。枚数を数えると、十枚あった。まだ、どこへも、出していないのだ。
便箋の方も、白紙だったが、屑箱《くずばこ》を見ると、何枚かの便箋が、丸めて、捨てられていた。
書きかけては、丸めて、捨てていたのだ。
十津川は、四枚ある書き捨ての便箋を、一枚ずつ、丁寧《ていねい》に、広げてみた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈今、私は、絶望を通り越して――〉
〈今、私は、後生掛《ごしよがけ》温泉に来て、これを書いています。私は――〉
〈とても静かです。じっとしていると、私は――〉
〈私は、混乱したまま、この温泉に来てしまいました。冷静に――〉
[#ここで字下げ終わり]
どれも、出だしで破ってしまっていた。それ以上、まだ、書く気になれないのだろう。
十津川は、広げた書き捨ての便箋を、もう一度、丸めて、屑箱に捨て、部屋を出た。
三十分ほどして、雅子が、朝の散歩から、帰って来た。
「別に、自殺の気配《けはい》は、ありませんでした」
と、亀井が、十津川に、報告した。
「手紙も、書きかけては、捨てているみたいだよ。まだ、何を書いていいのか、迷っているんだろう」
と、十津川も、いった。
「全てを、告白する気になってくれればいいんですがねえ」
と、亀井は、いった。
雅子は、昼食のあとも、散歩に出かけた。
多分、必死になって、自分の気持を、整理しようとしているのだろう。
十津川は、東京にも、連絡をとってみたが、残して来た西本《にしもと》刑事が、いきなり、
「申しわけありません」
と、叫んだ。
「どうしたんだ?」
「星野功を、見失ってしまいました」
「見失った?」
「そうです。相変らず、彼は、ロールス・ロイスで、都内を走り廻《まわ》っていたので、安心していたんですが、途中で、ロールス・ロイスを捨てて、タクシーに乗りかえました。ロールス・ロイスを見張っていて、見事に、まかれてしまいました」
と、西本が、いう。
「自宅には、帰っていないのか?」
「いません」
「行先も、わからずか?」
「今、必死で、行先を、突き止めているところですが」
と、西本は、いう。
「わかった」
と、十津川は、いった。
自分の部屋に戻って、十津川は、亀井に、星野功を、見失ったことを、告げた。
「警部は、彼が、どこへ行ったと思われますか?」
と、亀井が、きく。
「間違いなく、ここへ来るよ」
「ここへですか?」
「星野が、もし、雅子の行方《ゆくえ》がわからないままだったら、別に、警察をまく必要はないんだ。必死になって、まいたということは、雅子の行方を、つかんだからだと思うよ。だから、必ず、ここへ、やって来るよ」
と、十津川は、いった。
「西本たちは、いつ、星野にまかれたんですか?」
「昼少し前だといっている」
「そのあと、すぐ、上野へ出て、新幹線に乗ったとしても、ここへ着くのは、夕方ですね」
と、亀井は、いった。
「そうだな。暗くなってから、着くだろうね」
「それまでに、雅子が、全《すべ》てを告白した手紙を書いて、警察|宛《あて》に出してくれると、いいんですがねえ」
と、亀井は、いった。
十津川は、時刻表を広げて、計算してみた。
上野発一二時〇〇分の盛岡行の「やまびこ43号」という列車がある。
星野功は、警察の尾行をまいて、タクシーに乗り、急げば、この列車に、乗れる可能性がある。
この「やまびこ43号」の盛岡着は、一五時一九分。
一五時二九分盛岡発のL特急「たざわ15号」に、乗ることが出来る。
これに乗れば、田沢湖着は、一六時一一分になる。
十津川たちと同じく、ここから、タクシーを拾うだろう。
後生掛温泉までは、早くても、一時間半はかかるから、順調にいっても、ここに着くのは、一七時四〇分|頃《ごろ》になる筈《はず》だ。つまり、午後五時四十分である。
「今、一時ですから、あと四時間四十分ですか」
と、亀井は、腕時計に、眼をやった。
「丁度、暗くなる頃だよ」
「星野は、雅子を、殺しに来るんでしょうか?」
「或《ある》いは、連れ戻す気で、くるかも知れん」
と、十津川は、いった。
十津川は、フロントや、女子従業員たちに、星野功の写真を見せ、この男が着いたら、すぐ、知らせてくれるように、頼んだ。
午後四時少し前、雅子が、急に、タクシーを、呼んだ。
十津川は、あわてて、亀井と二人、タクシーを呼んで貰《もら》って、彼女を、尾行することにした。
スーツケースは、部屋においたままなので、出発する気ではないようだった。
外から、彼女に、電話が掛ったこともないので、呼びだされたわけでもない。
十津川たちの乗ったタクシーは、雅子のタクシーより、七、八分も、おくれてしまったが、幸い、無線のついた、同じ会社のものだったので、雅子が、どこへ行こうとしているのか、走りながら、調べて貰うことが出来た。
「八幡平《はちまんたい》に向っているようです」
と、運転手は、教えてくれた。
「八幡平というと、花輪《はなわ》線の?」
「そうです」
「何しに行くのかな?」
「なんでも、一番近い郵便局へ行きたいと、運転手に、いったそうですよ」
「手紙を書いたんだ」
十津川は、眼を光らせて、亀井に、囁《ささや》いた。
「誰宛《だれあて》に、書いたんでしょう?」
「警察宛に出してくれる気なら、一番、有難いんだがね」
「夫の星野功宛だとすると、困りますね」
「そうだな」
「追いついて、その手紙を、強引《ごういん》に、見せて貰いますか?」
と、亀井が、きいた。
「無理だよ。彼女が、嫌《いや》だといったら、力ずくで、見るわけにはいかないからね」
と、十津川は、いった。
それに、タクシーの運転手も、先を行く車に、追いつくのは難しいと、いった。
花輪線の八幡平駅に着いた時、雅子は、すでに、郵便局に、入ってしまっていた。
そこから出て来たとき、彼女は、手に持っていた封書を、ひょいと、郵便局の前に置かれたポストへ、投函《とうかん》してしまった。
十津川と、亀井は、物かげに隠れて見守っていたが、亀井が、思わず、
「あッ」
と、小さく、声をあげた。
彼女は、二人には気がつかず、駅前に停っていたタクシーに、乗り込んだ。
十津川たちも、すぐ、タクシーを拾った。
雅子の乗った車が、走り出す。どうやら、後生掛温泉に、まっすぐ、戻るようだった。
「彼女が、ポストに投函した手紙を、何とかして、見られませんかねえ」
と、走る車の中で、亀井が、いった。
「警察宛なら、すぐ見られるよ。彼女が、郵便局の中に入ったところを見ると、速達にしたんじゃないかと、思うからだ」
と、十津川は、いった。
「友人か、知人宛の手紙だったら、見ることは、出来ませんね。何とかなりませんかね」
亀井は、口惜《くや》しそうに、いった。
午後六時過ぎに、旅館に戻った。
十津川と亀井が、タクシーから降りて、旅館に入って行くと、フロントが、小声で、
「来ていますよ」
と、いった。
「あの男が、来ているのか?」
「そうです。刑事さんが、見せてくれた写真の男です」
「それで、今、何処《どこ》に?」
と、亀井が、きいた。
「ご夫婦だということなので、例の女の方のお部屋に、ご案内しましたけど」
と、フロントは、いった。
雅子は、十津川たちより、先に着いているから、今、顔を合せている筈《はず》である。
「どうしましょう?」
と、亀井が、小声で、十津川に、きいた。
「まさか、この旅館の中で、殺すこともしないだろう。しばらく、様子を見ようじゃないか」
と、十津川は、いった。
その代り、十津川は、女子従業員に、二人の様子を、見に行って貰った。
彼女は、茶菓子を運んで行き、五、六分して、出てくると、十津川に、
「変に静かなご夫婦ですねえ」
といった。
「二人の様子は、どうだね?」
と、十津川が、きいた。
「奥さんは、下を向いて、黙っていて、ご主人は、いらだって、口の中で、何か、ぶつぶつ、いっていましたわ」
「何といっているのか、わからなかったかね?」
「私も、一生懸命、聞こうと思ったんですけど、わかりませんでしたわ。それから、ご主人の方が、泊り客のことを、聞いていましたわ」
と、女子従業員は、いった。
「泊り客のこと?」
「ええ。妙な泊り客はいないかって、気にしていらっしゃいましたけど」
明らかに、警察が来ていないか、それを、気にしているのだろう。
「そんなお客さんは、いらっしゃいませんと、お答えしておきましたわ」
と、彼女は、付け加えた。
「今夜は、徹夜で、見張った方がいいでしょうね」
亀井が、十津川に、いった。
「そうだな。星野のことだから、自分が殺したとわかるような形で、奥さんを殺すとは、思えないがね」
と、十津川は、いった。
夜になっても、十津川と、亀井は、自分の部屋で、起きていた。
廊下をへだてた部屋に、星野夫婦が、いる。
まさか、部屋の中で、星野は、雅子を殺したりはしないだろう。折角、今まで、証拠をつかまれずに、殺人を続けて来たのである。それを、一挙に、ふいにするような、バカな真似《まね》はしまい。
十津川は、そう考えていたが、それでも、やはり、心配で眠れないのである。といって、今の状況で、星野夫婦を、逮捕は、できない。
「星野は、雅子を、連れて帰る気でしょうか?」
亀井は、廊下の気配《けはい》に、気を遣いながら、小声で、十津川に、話しかけた。
「そうだろうね。何よりも、星野が怖いのは、雅子に、事件のことを、喋《しやべ》られることだ。だから、自宅に、監禁しておきたい筈《はず》だよ」
「すると、例の手紙のことが、気になりますね」
と、亀井は、いった。
「星野だって、雅子が、この旅館にいる間に、何をしたか、気になって、仕方がない筈だよ」
「今頃《いまごろ》、それを、問いつめているかも知れませんね」
「星野も、必死だろうからね」
と、十津川は、いった。
午前三時を過ぎた頃だった。
十津川と、亀井は、濃いお茶を飲んで、眠気《ねむけ》と、戦っていた。
突然、廊下の方で、女の悲鳴が聞こえ、十津川と、亀井は、ぎょッとして、腰を浮かした。
二人は、襖《ふすま》を開け、廊下に、飛び出した。
一瞬、十津川は、ためらってから、星野夫婦の泊っている部屋を、強引《ごういん》に、押し開けた。
八畳の部屋の中央に、星野が、呆然《ぼうぜん》と、立っていて、その足元に、妻の雅子が、横たわっていた。
布団は、敷かれていたが、寝た気配はない。
亀井が、雅子の傍《そば》に屈《かが》み込んで、脈をみた。
「どうだ?」
と、十津川が、きく。
亀井は、黙って、首を横に振った。
十津川は、青ざめた顔の星野に、眼をやった。
「君が、殺したんだな?」
「――――」
星野が、黙って、肯《うなず》いた。
「まずいことをやったなあ」
亀井は、憐《あわ》れむように、星野を見た。今までは、殺人をやっても、証拠をつかまれるようなヘマはやらなかったのに、今度ばかりは、弁明の仕様のない殺人なのだ。
「なぜ殺したんだ?」
と、十津川が、きいた。
星野は、へなへなと、その場に座り込んでから、
「こいつが、おれを裏切ったからだ」
と、声をふるわせた。
「裏切った? あんたに黙って、この温泉へ身を隠したことをいっているのかね」
十津川が、きいた。
「それだけなら、おれは、殺したりはしない」
「じゃあ、なぜだね?」
「おれを、警察に売ったんだ」
と、星野は、いった。
「売った? おだやかじゃないな。奥さんが、本当に、そんなことをしたのかね。君に、砒素《ひそ》を飲まされても、われわれに対しては、君をかばい通して来た奥さんだろう?」
十津川が、信じられないという気持で、きいた。
星野は、首を小さく振り、
「そんな話はしたくない。彼女は、警察に、手紙を書いたんだよ。おれのあることないこと書いてだ。もう、あんたは、終りだと、いいやがった。だから、おれは――」
と、いって、絶句した。
「奥さんが、手紙を書いて投函《とうかん》したのは、知っているよ」
「おれだけが、悪いんじゃない。いや、彼女が、最初に、あんなヘマをやらなければ、何もかも、平穏《へいおん》無事だったんだ」
星野は、吐き捨てるように、いった。
十津川は、ポケットの中で、小型のテープレコーダーのスイッチを入れてから、
「御殿場で、子供を、轢《ひ》き殺したとき、車を運転していたのは、奥さんだったんだね?」
と、きいた。
「そうだ。彼女が、はねて、殺してしまったんだ。それだけじゃない」
「わかってるよ。尾行していた安田めぐみに、それを、目撃されてしまったんだろう? 一番、まずい人間に、目撃されてしまったんだ。安田めぐみは、嫉妬《しつと》から、警察に、連絡するかも知れなかったからね」
と、十津川は、いった。
「そうだ。雅子は、何とかしてくれと、おれに、泣きついた」
「だから、自殺に見せかけて、殺したのか?」
「何とかしなければならなかったんだ。だから、安田めぐみを、殺したんだ。仕方がなかったのさ」
「弟に、アリバイ工作をさせたんだな?」
「ああ、そうだ」
「その弟も、あとで、殺すことになったんじゃないのか? 何もかも話したらどうなんだ? 奥さんを殺したんだ。もう、隠すこともないだろう?」
と、十津川は、いった。
「君は、安田めぐみを、殺したことも、認めたじゃないか。往生際《おうじようぎわ》をよくしろよ」
傍《そば》から、亀井が、いい、星野の肩を、軽く叩《たた》いた。
星野は、ちらりと、動かない雅子の死体に眼をやった。
その星野に、追い打ちをかけるように、十津川は、
「奥さんの手紙が、警察に届けば、あんたは、不利になるばかりだよ。全《すべ》て、あんたが悪いと書いてあるかも知れん。その前に、正直に、全てを、話しておいた方が、いいんじゃないのかね?」
「わかったよ」
と、星野は、肯《うなず》いてから、
「兄弟なんか、当てにならないことがわかったんだ。あいつは、昔は、平凡だが、大人《おとな》しい、おれのいうことをよく聞く奴《やつ》だった。ところが、おれが、アリバイを頼んでから、様子が、おかしくなった。欲のない男だったのに、金を欲しがるようになった。それだけじゃない。おれから、大金を貰《もら》うのを、当然に思い始めたんだよ」
「つまり、あんたの弟は、次第に、危険な存在になって来たということだな?」
と、十津川は、確かめるように、きいた。
「そうだ。警察が、弟を、どんな人間に思ったか知らないが、事件のあと、性格が変ったみたいになっていたんだ。人間は、変るんだよ。変えたのは、金さ」
と、星野は、小さく笑ってから、
「おれのいうことを、よく聞く弟が、いつの間にか、うす気味の悪い、得体の知れない人間に、変ってしまったんだ。最初に、金をやったおれが悪かったのかも知れないが、おれは、次第に、弟が怖くなった。あいつが、最初から、ヤクザか何かで、金で、どうにでもなる奴なら、かえって、平気だったかも知れないが、急に、人が変ったみたいになっていたから、怖くなった。どう扱っていいか、わからなかったんだ」
「それで、うちの北条刑事を罠《わな》にかけて、あんたの弟を殺すことにしたのかね?」
「ある日、あいつは、電車の中で、一人の美人と出会って、一目惚《ひとめぼ》れしたと、おれに、いって来た。何とか、その女の名前や、住所を調べてくれともね。おれは、前から知っていた興信所の日野|冴子《さえこ》に、頼んで、調べて貰ったんだが、彼女が、警視庁捜査一課の女刑事と知って、びっくりしたよ。冗談じゃないと思ってね。下手《へた》をしたら、御殿場での轢《ひ》き逃げも、安田めぐみを殺したことも、わかってしまうからだ」
「その北条刑事を、罠にはめようとしたのは、なぜなんだ?」
と、十津川は、きいた。
「日野冴子が、女刑事に、瓜二《うりふた》つの女を知ってるといったんだ。よく似ていて、気味が悪いくらいだとね。それで、おれは、彼女に会ってみた。確かに、よく似ていたよ。多少の違いはあるが、そんなものは、化粧で、修正できる。そう思った時、彼女を使って、弟を殺す計画が、頭に浮んだんだ。北条という女刑事を、犯人にする計画がね」
「彼女の名前は?」
と、亀井が、きいた。
「聞いてどうするんだ? 彼女は、もう、日本にいないよ」
「やはり、海外に、逃がしたのか?」
「金と、海外へ行かせることが、彼女の協力の条件だったからね。彼女には、五百万円やり、海外へも、約束どおり、行かせてやったよ」
「ブルートレイン『富士』の車内で、あんたの弟を殺したのは誰《だれ》なんだ?」
と、十津川は、きいた。
「あの女に、五百万円もやったんだ。それだけでも、誰が殺したかわかるんじゃないか」
と、星野は、いった。
「あんたの弟の出した手紙で、北条刑事が、必ず、『富士』に乗ると、思ったのかね?」
亀井が、きく。
星野は、ニヤッと笑って、
「おれは、刑事というものを、研究したんだ。普通の刑事だろうが、女刑事だろうが、詮索《せんさく》好きは、変らない。謎《なぞ》があれば、猶更《なおさら》だ。北条刑事だって、自分の知らないところで、見合いや、結婚話が、進行しているとなれば、どういうことなんだと、思うのは、当然だ。相手の男が、どんな人間なのか、必ず、知りたいと思う筈《はず》だ。だから、絶対に、『富士』に、乗ってくると、信じたよ」
「あの手紙は、あんたが、弟に書かせたんだな?」
「ああ、そうだ。ああいう手紙を出せば、必ず、北条刑事は、『富士』に乗ってくるといってやったんだよ。夜行列車は、女をくどくには、最適の場所だとも、いったら、弟は、喜んで、おれのいう通りにした。そのあとは、おれの計画通りに進行した」
「刑事を罠《わな》にかけるのが、楽しかったみたいだな?」
と、亀井が、眉《まゆ》をひそめて、きいた。
「刑事が好きな奴《やつ》なんて、いるかね?」
と、星野が、肩をすくめた。
「そのあと、日野冴子と、彼女の元の夫の三村も、殺したんだな?」
亀井が、追及した。
ここまでくると、星野は、覚悟を決めたという感じで、
「わかったよ」
と、ひとりで肯《うなず》いてから、
「あの女探偵も、最初は、こっちの渡した礼金で、満足していたんだ。ところが、ある時点から、急に、欲が深くなった。きっと、元の亭主の三村が、けしかけたんだろうと思ったよ。五百万も、やったのに、もっとくれといい出したんだ。こうなると、際限がない。殺すより、仕方がなくなってくる」
「まず、日野冴子を殺して、次に、三村泰介だな?」
「彼女を殺して、ほっとしていたら、今度は、三村が、電話して来たんだよ。腹が立つよりも、次々に、妙な奴が現われるので、正直、うんざりした。どこまで、続くのだろうかと思ったよ」
と、星野は、いい、小さな溜息《ためいき》をついた。
「犯罪とは、そんなものさ。一人の口を封じると、その犯罪を隠すために、また一人、殺さなければならなくなるんだ」
亀井が、憐《あわ》れむように、星野を見て、いった。
「だから、三村は、おれ自身手を下さずに、息の根を止めてやったんだ。奴は、勝手に死んだようなものだよ。欲に目が眩《くら》んでね」
十津川は、秋田県警に、連絡を取り、事情を、説明した。
星野功は、妻の雅子殺しの容疑で、逮捕され、連行されていった。
十津川は、亀井を、県警本部に同行させておいて、自分は、一足先に、東京に、戻った。
三上刑事部長と、本多捜査一課長に、事件が、終ったことを、報告するためだった。
星野が、自供したテープを、十津川は、コピーして、下関《しものせき》署に、送った。
北条刑事は、現在、殺人容疑で起訴されているから、すぐには、釈放されないだろうが、山口地検の検事は、起訴を、取り下げる可能性もある。
その方向に向って、圧力をかけるため、十津川は、三上部長と一緒に、記者会見を開き、星野の自供の詳細を、発表した。
マスコミも、現金なもので、十津川を厳《きび》しく批判していたのが、急に、警察と十津川を、支持するようになった。
掌《てのひら》を返すとは、こういうことをいうのだろう。だが、十津川は、別に、驚きはしなかった。社会というか、マスコミが、警察を見る眼が、どんなものか、よく知っているからだった。
テレビと、新聞は、今度の事件の「真相」を、派手に報道した。
亀井が、秋田から戻って来た。
「向うでの取調べがすみ次第、星野功の身柄を、こちらに、引き渡してくれるそうです」
と、亀井は、十津川に、報告してから、
「例の手紙は、もう、届いたんじゃありませんか?」
と、きいた。
「例の手紙って?」
「星野雅子が、後生掛温泉から出した手紙のことですよ。警察|宛《あて》に、出した手紙です。実は、秋田県警で、星野に、最後に会ったとき、彼が、その手紙を、ぜひ、見たいといっていたんです」
「手紙は、ここにあるよ」
十津川は、背後のキャビネットを開け、そこから、一通の封書を取り出して、亀井の前に置いた。
亀井は、それを、手に取りながら、
「夫の星野功を告発する内容ですか?」
と、きいた。
十津川は、微笑して、
「まあ、読んでみたまえ」
「警部のいわれた通り、速達になっていますね」
と、いいながら、亀井は、部厚い手紙に、眼を通していった。
便箋《びんせん》九枚に、小さな字で書かれた長い手紙だった。
十津川は、その間、口を挟まず、黙って、見守っていた。
亀井は、読み終ると、当惑した表情になって、
「警部。これは――」
「意外だったかね?」
「最初から、最後まで、雅子は、全《すべ》て、自分がやったことで、夫の功は、無実だと、いっているだけです」
「その通りさ」
「しかし、警部。星野は、妻の雅子が、自分を、裏切ったと思って、殺してしまったんでしょう? この内容を知っていたら、殺さなかったんじゃありませんか?」
と、亀井が、不思議そうに、いった。
「そうだろうね」
「雅子は、なぜ、星野を、刺戟《しげき》するようなことを、いったんでしょうか?」
「彼女は、五年前、自分が運転して、子供を轢《ひ》き殺してしまった。そのあとの殺人は、全て、自分を助けるために、夫が、止《や》むなくやったことだという負い目があったと思うね。だから、最後まで、夫を守る気でいたんだ。ただ、夫が、新しい女を作っていたことを知って、ショックを受けた。それで、あの温泉で、夫に会った時、思わず、一言、脅したくなったんだろうね。その時、星野が謝れば、すぐ、この手紙の本当の中身を、いったろうと思う。それなのに、星野は、カッとして、雅子を、殺してしまったんだ。彼は、常に、いつか、雅子が自分を裏切るのではないかという不安に怯《おび》えていたんじゃないかね」
「砒素《ひそ》を飲まされながら、夫のことをかばっていた雅子なのに、信じられなかったんでしょうか?」
「そこが、人間の弱いところだろうね」
と、十津川は、いった。
亀井は、もう一度、雅子の手紙に、眼を落して、
「これを、星野に見せてやったら、どんな顔をするでしょうかね?」
「星野は、死刑だろう?」
「そう思います。何人も殺していますから」
「死んでいく男に、この手紙を、見せた方がいいと思うかね?」
と、十津川は、きいた。
「残酷すぎますか?」
「かも知れないし、星野は、妻の雅子だけは、最後まで自分を愛してくれていたと知って、ほっとするかも知れない。それで、迷っているんだよ」
と、十津川は、いった。
本書は平成元年二月、カドカワノベルズとして刊行されました。
角川文庫『特急「富士」に乗っていた女』平成3年7月10日初版発行
平成9年4月30日20版発行