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特急ひだ3号殺人事件
西村京太郎
目 次
特急ひだ3号殺人事件
特急あいづ殺人事件
信濃の死
殺意を運ぶあじさい電車
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特急ひだ3号殺人事件
四月中旬、警視庁捜査一課の北条早苗は、久しぶりに、三日間の休暇を貰って、飛騨高山へのひとり旅に出た。
本当は、大学時代の女友だちと二人で行く筈だったのだが、向うは、現在、大企業のOLで、休みが決っている。早苗の方は、事件が起きれば、日曜でも、狩り出されるので、どうしても、友だちとは、折り合わず、ひとり旅になってしまったのである。
今度も、日曜日には休めず、三日間もウィークデイの休みだった。
ウィークデイだから、すいているだろうと、早苗は、それが楽しみで、新幹線に乗ったのだが、午前八時二四分東京発の岡山行は、ほぼ満席に近かった。春の行楽シーズンということなのだろう。
早苗が、こんな早い列車に乗ったのは、名古屋から、一〇時四九分に出る高山行の特急「ひだ3号」に、乗りたかったからである。
名古屋から、高山には、特急が、何本も出ている。特急「ひだ」にしても、1号から9号まで出ているし、名鉄の特急「北アルプス」もある。
ただ、その中で、「ひだ3号」だけが、新型車両を使っていると、聞いたからだった。週刊誌で、シルバーの車体を見て、飛騨高山に行く時には、ぜひ、乗ってみたいと思っていたのである。
名古屋に着き、東海道本線の下りのホームへ向う。途中の岐阜までは、東海道本線を、走るからである。
お目当ての「ひだ3号」は、早苗が予想した通り、ぴかぴかの新車で、銀色の車体が、輝いて見えた。赤い細いラインも、気がきいている。
先頭車の前面は、斜めにカットされた大きな一枚ガラスで、その両端は、曲線になっている。他の車両の窓も、今までの気動車特急に比べると、ひとまわり大きくなっている。
早苗が、カメラで写真を撮《と》っていると、ホームには、次々に、乗客がやって来た。このぶんでは、自由席は、満員かも知れない。前もって、指定席の切符を買っておいて、よかったと思った。
「ひだ3号」は、五両編成で、高山に向って、先頭の5号車、次の4号車が自由で、早苗の買った指定は、3号車である。次の2号車が、グリーンと、指定の合体で、最後尾の1号車は、指定だった。
古い特急は、ヘッドマークが、フロントの真ん中についていたのだが、この新型は、左下のあたりに、さりげなく、「ひだ」の文字がある。列車も、スタイルを重視する時代になったのだろう。
早苗は、3号車に入り、自分の席を探した。8Cだから、中央あたりと思い、通路を歩いて行く。
もう、半分くらいの座席が、埋っていた。自分の席を見つけ、ブルー系の色の座席に腰を下ろした。嬉しいことに、グリーンではないのに、リクライニングになっている。手を伸ばすと、前の座席の背中から、折畳み式のテーブルが、出てくる。
(なかなか、サービスがいいわ)
と、思った。
発車間際になって、隣りの窓側の席に、五十五、六歳の男が、腰を下ろした。
きちんと、三つ揃いの背広を着て、眼鏡をかけている。少しばかり太り気味で、小さな会社の社長という感じだった。
「ああ、間に合ってよかった」
ひとり言にしては、大きな声でいい、ハンカチを取り出して、顔の汗を拭いている。
早苗が、何となくおかしくて、クスッと笑うと、男は、顔を向けて、
「こりゃあ、きれいなお嬢さんだ」
と、大きな声で、いう。
早苗が、照れて、笑っていると、
「あなたみたいな、若い美人と一緒とは、ついていますよ」
と、男は、まだ、いっている。
早苗は、別に、嫌な気はしなかった。最近になって、父を亡くしているので、同じくらいの年齢の男に、親しさを感じるのだろう。
列車が、走り出した。ハイデッカーなのと、窓が大きいので、通路側に座っていても、景色は、よく見える。
男は、内ポケットを探っていたが、やおら、名刺を出して、早苗に渡した。
「私は、東京で、そんなことやってます。まあ、うまくいってると思っていますよ」
やたらに、気安く、話しかけてきた。
早苗が、名刺に眼をやると、
〈大川ラーメン 社長 大川広志〉
と、あった。
「ラーメンのお店をやってるんですか?」
「チェーン店を出しています。まだ、八店だけですが、今年中に、二十店には、するつもりです。失礼だが、あなたは、どこの方ですかな?」
「東京です」
「それなら、ぜひ、うちの店に来て、ラーメンを食べて下さい。その名刺の裏に、チェーン店の場所が、書き込んでありますから」
「ありがとうございます」
「味には、絶対の自信がありますよ。何しろ、社長の私が、こうやって、全国の、これといった店のラーメンを、自分で食べてみてるんですからね」
大川広志は、自慢げに、いった。
「じゃあ、今度もそうなのですか?」
と、早苗は、少しばかり、興味を感じて、きいてみた。
「そうです。週刊誌に、高山の町に、ものすごく美味《うま》いラーメンを食べさせる店があって、観光客に、大もてだと書いてあったんで、早速行ってみようと思いましてね」
「そんなに、いつも食べていたら、胃を悪くしません?」
と、早苗がきくと、大川は、眉を寄せて、
「実は、それが、悩みのタネでしてね。時々、胃のあたりが、チクチクするんですワ」
と、大川は、胃のところを、手でおさえてみせた。
下呂を過ぎたところで、大川は、電話を掛けてくるといって、立ち上った。
「何しろ、社長ですからね。思い立ったら、どこからでも、各支店に、指示を与えんといかんのですワ」
そういって、通路を、歩いて行った。さっき、早苗も、車内を歩いてみたが、デッキの近くに、電話室や、ジュースなどの自動販売機があったのを覚えている。
五、六分して、コーラが飲みたくなり、早苗も、立ち上った。
デッキの近くの自動販売機のところまで行くと、大川が、電話室の前で、三十歳ぐらいの女性に、名刺を渡しているところだった。
「私は、まあ、東京で、そんなチェーン店の社長をやっています。まあ、成功者の部類でしょうな。今度の高山行も――」
と、大声で、話している。
早苗は、思わず、笑ってしまった。どうやら、これはと思った女性には、みんな名刺を渡し、一席ぶつらしいと、思ったからである。
早苗は、コーラを買い、自分の席に戻った。
窓の外の景色は、次第に、山国のものに、変っていっていた。
早苗が、見とれているところへ、大川が、戻って来た。
早苗が、膝をすぼめて、相手を、通そうとすると、
「失礼」
と、いいながら、大川は、太った身体で、早苗の前を通りかけて、突然、
「ううッ」
と、呻《うめ》き声をあげた。
早苗は、驚いて、相手の顔を見上げた。
大川は、どうしたのか、身体をエビのように曲げて、通路を、二、三歩、よろめき、そのまま、崩れ折れてしまった。
早苗は、一瞬、あっけにとられて、見つめていたが、通路に飛び出して、大川の重い身体を抱き起こした。
「大丈夫ですか?」
と、ゆさぶるようにしたが、反応がない。唇から、血が流れているのは、苦しまぎれに、唇を噛んだのか。
五、六人の乗客が、座席から立ち上って、こっちを見ている。
「車掌さんを、呼んで下さい!」
と、早苗は、大声で、叫んだ。
車掌が、飛んで来た。
「どうしたんです?」
「わかりませんけど、毒を飲んだのかも知れません」
「毒? どうしたらいいんですか?」
「間もなく、高山でしたね?」
「あと六分ほどで着きます」
「着いたらすぐ、医者に診《み》せるとして、今は、毒を吐かせましょう」
「どうすればいいんですか?」
「指を、口の中に、突っ込むんです。うまくいけば、飲んだ毒を、吐き出します」
「それは、私がやりましょう」
と、車掌はいい、大川の口を押しあけ、無理に、二本の指を、突っ込んだ。
だが、大川は、げいげいもやらず、何の反応も、見せなかった。
列車が、高山に着くと、駅員が手伝い、すぐ、駅前の病院に、運ばれた。
だが、手おくれだった。
すでに、大川広志は死亡していたのである。
岐阜県警は殺人事件とみて、高山警察署に、捜査本部を、おいた。
三田という若い警部が、この事件を担当することになった。
東京生れで、国立大学を出て、三十歳で、この警察署の刑事課長になった男である。
目撃者の早苗が、警視庁の現役の刑事と知って驚いていたが、それでも、懐しげに、
「そうですか。東京ですか」
と、いい、
「車内で起きたことを、正確に、話して下さい」
「私は、休みがとれたので、飛騨高山へ行くことにして、今日、名古屋から、『ひだ3号』に、乗りました。その時、隣りに座ったのが、この被害者だったんです。ええ、初めて会ったんですわ」
早苗は、被害者が、やたらに、なれなれしくて、いきなり、名刺をくれたこと、ラーメンのチェーン店をやってると話してくれたこと、高山には、美味いラーメン店の味見に行くのだといっていたことなどを、話した。
「下呂を過ぎてから、電話を掛けてくるといって、席を立ったんです。なんでも、チェーン店に、指示を与えるんだと、いっていましたわ。そのあと、戻って来て、突然、苦しそうになって、通路に倒れてしまったんです」
「被害者の大川広志ですが、車内で、誰かと、親しそうに、話していたということは、なかったですか?」
と、三田が、きいた。
「ひとりで、高山へ行くようなことを、いっていましたけど」
と、早苗は、いったあとで、
「彼が、電話を掛けに行ったあと、私も、コーラが飲みたくなって、席を立ちました。自動販売機が、電話室の傍にあるんです。私が、行ったら、彼が、三十歳くらいの女性と、話をしていましたわ」
「じゃあ、車内に、被害者と親しい人間が、いたことになるじゃありませんか」
三田が、怒ったような声で、いった。なぜ、それを、早くいわないのだという顔だった。
早苗は、首を横に振って、
「その女の人は、大川という人とは、初対面ですね」
「なぜ、そういい切れるんですか?」
「私に対してと同じように、名刺を渡して、同じ自己紹介をしていましたもの。東京で、ラーメンのチェーン店をやっていて、成功者の部類に入るみたいなことをですわ」
早苗は、その時の大川の顔を思い出して、自然に微笑を、浮べた。
「他に、被害者が、接触した人間は、いませんでしたか? 彼は、毒を飲まされて死んだと、思われるんでね。必ず、犯人は、同じ列車の中にいた筈なんだ」
「カプセルを使えば、時間は、調節できますわ」
と、早苗がいうと、三田は、肯《うなず》いたが、
「しかし、あの列車に、乗る前に、飲まされたとは、考えられませんね。被害者は、名古屋から乗ったんでしょう? そして、下呂を過ぎてから死んだ。その間、二時間近くかかっている。そんなにゆっくりと溶けるカプセルなんて、考えられませんね」
「そういえば、そうですけど、あの女性が、犯人とは、思えませんわ」
「その判断は、われわれが、しますよ。だから、その女の顔立ちや、服装を、正確に話して下さい」
と、三田は、いった。
どうやら、三田は、その女性が、怪しいと思ったらしい。
絵の上手《うま》い刑事が呼ばれ、早苗は、その女の似顔絵作りに、協力させられた。
年齢三十歳前後、細面で、うすい色のサングラスをかけていた。
美人だが、華やかな感じではなかった。どちらかといえば、寂しい顔立ちだった。電話室の前には、ひとりでいたが、彼女が、ひとりで乗っていたか、連れがいたかは、わからない。
「それに、どの車両に乗っていたかも、わかりませんわ。電話がついているのは、3号車ですけど、隣りのグリーンから、電話を掛けに、3号車に来ていたのかも知れませんから」
と、早苗は、三田警部に、いった。
「服装は、覚えていませんか?」
と、三田が、きく、
「確か、ライトブルーのワンピースで、首に、きれいなスカーフを巻いていましたわ」
と、早苗は、いってから、
「あの女性は、どうしても、犯人には、思えませんけど」
と、いった。
「繰り返しますが、この事件は、岐阜県警の所管ですから、判断も、われわれが、します」
三田は、ニコリともしないで、いった。
早苗から、電話が掛ったのは、午後五時過ぎだった。
十津川は、受話器を取って、
「一時間ほど前に、岐阜県警の三田警部から、知らせが入ったよ。君も、折角の休暇だったのに、えらい目にあったね」
「殺されたのは、大川広志という男ですが、そのことも、県警から、いって来ましたか?」
「今、西本君たちが、その男のことを、調べているよ。岐阜県警の要請でね。君は、被害者と、話をしたそうだね?」
「はい。名刺も、貰いました」
「君の印象は、どうだったね? どんな男に見えたかね?」
と、十津川は、きいてみた。十津川は、女性の直感力は、神が、男に腕力を与えた代りに、女性に与えたものだと思っていた。男が、どう背伸びしても、直感力に関しては、女に及ばないのである。
「甘いかも知れませんけど、ちょっと厚かましいが、憎めない中小企業の社長さんという印象でしたわ」
と、早苗が、いった。
「他人《ひと》に恨まれるような人間には、見えなかったかね?」
「恨まれることはあったと思いますわ。多分、会社では、ワンマンで、社員を怒鳴りつけていたと思うし、女性関係もルーズだと思いますから。でも殺されるほど、憎まれていたとは、考えられないんです。働き者の中小企業のおやじさんという、よくあるタイプですもの」
「だが、現実に殺されているんだよ」
と、十津川は、いった。
「だから、特殊な事情があるんじゃないかと、思っているんです」
「特殊なねえ。君は、容疑者も見ていて、モンタージュ作りに、協力したと、三田警部に聞いたんだがね」
十津川が、いうと、早苗は、電話の向うで、クスッと、笑った。
「あれは、三田警部の思い込みですわ」
「思い込み?」
「はい。もし、彼女が容疑者なら、私なんか、犯人ですわ。私は、彼女と同じように、被害者から名刺を貰いましたし、席が隣りでしたから、いつでも、毒を飲ませることが可能でしたもの」
と、早苗は、いう。
「今、どこにいるんだ?」
「ついさっき、旅館に入ったところです」
「それでは、今度の件で、何か思い出したことがあったら、私なり、県警の三田警部に、連絡しなさい」
「明日は、どうしたらいいでしょう?」
「折角の休暇なんだ。楽しみたまえ」
と、十津川は、いった。
電話が切れると、亀井刑事が、十津川に向って、
「北条君も、ついていませんね」
「彼女、刑事でよかったよ。彼女が一般人だったら、今頃、重要参考人として、岐阜県警に、連行されているね」
と、十津川は、いった。
夜になって、被害者大川広志のことを調べに行っていた西本と、日下《くさか》の二人の刑事が、戻って来た。
「これは、お土産です。あとで、私が作ってご馳走しますよ」
と、西本が、「大川ラーメン」と書かれた包みを、机の上に置いた。
「貰って来たのかね?」
と、十津川が、きいた。
「ちゃんと、お金は、払って来ましたから、安心して下さい」
「それで、大川広志というのは、どんな男なんだ?」
「年齢五十四歳。大川ラーメンのチェーン店を八店持っています。年収は、二、三千万といったところで、まあ、成功者の部類に入ると思います」
日下が、メモを見ながら、いった。
「経歴は?」
と、亀井が、きいた。
「福島県の生れで、地元の高校を卒業後、東京に、来て、最初、自動車工場に勤めています。その後独立して、修理工場を始めますが、失敗し、保険のセールスマンに転向します。ここでは、かなりの成績を残しましたが、再び、独立を考え、今度は、ラーメン店を始めました。そして、チェーン店八店のオーナーになったというわけです」
これは、西本が、説明した。
「社員の評判は、どうなんだ?」
「三つの支店で、きいてみましたが、悪くはありませんね。親分肌で、面倒見がいいというわけです。怒ることがあっても、それを、根に持つことはなかったそうです。ただ、女にだらしがなく、ケチだったという噂も聞きました。妻子がいますが、そのため、夫婦仲は、あまりよくなかったみたいですし、ケチの方は、かなり有名で、絶対に、グリーン車には、乗らなかったそうです」
「今度も、グリーンでなく、普通指定席に乗っていたのは、そのためか」
と、十津川は、いった。確かに、典型的な中小企業の社長という感じがする。
「今日、高山に行った理由だが、やはり、向うのラーメン店の味見なのかね?」
「これは、三鷹店の店長が、証言しているんですが、昨日、大川から、話を聞いているようです。週刊誌に、高山駅前のラーメン店が、観光客に人気があると書いてあった。東京からも、わざわざ食べに行くとあるから、おれも、どんなものか、食べに行ってくるといったそうです」
と、西本は、いった。
「奥さんは、高山行を、知っていたのかね?」
「知らなかったと、いっていましたね。仕事のことは、話さない男だったようですし、突然、旅に出てしまうのは、しょっちゅうだったそうですから」
「仕事だけの男だったのかね?」
「仕事と女です。その女の中に、奥さんは、入っていなかったようです」
「それでも、奥さんは、怒らなかったのかね?」
「本当はどうかわかりませんが、お金は、ちゃんと入れてくれるし、子供もいるから、もう、主人のことは、気にしないことにしていましたと、奥さんは、いっていましたが」
「奥さんのアリバイは、ちゃんとしているのかね?」
「今日の午後一時に、次女の学校、これは、中学ですが、父兄参観日で、出席しています。担任の教師も、間違いなく、午後一時には、来ていたと、証言しています。三鷹にある中学校です」
「午後一時ね。『ひだ3号』が下呂を出るのが、一二時三四分だから、アリバイは、完全だな」
「私の見たところ、あの奥さんは、夫の女遊びなんかは、もう諦めて、二人の子供に、愛情の全てを注ぎ込んでいるようです」
「それに、社員にも、恨まれていなかったということかね」
「そうです。ただ、よく怒る男だったようで、馘《くび》にした社員も、何人かいるようで、そういう人間は、恨んでいるかも知れません」
「同業者の評判は、どうなんだ?」
「これは、よくありません。大川ラーメンが、近くに進出したので、売上げが減ったという店もありますから」
「それでは、同業者と、大川ラーメンを馘になった人間の線を、もう一度、調べてみてくれ」
と、十津川は、いった。
二人の刑事が出て行ったあと、十津川は、亀井に、
「妙な事件だね」
「なぜですか? 被害者が、あまり憎まれていない人間だからですか?」
「犯人は、わざわざ、『ひだ3号』にまで乗り込んで、毒殺しているんだ。そこがわからないんだよ。毒殺なら、何にまぜても、飲ませることが可能だ。ジュース、コーヒー、ビール、どれでもいいし、カプセルに入れ、薬と欺《だま》して、飲ませることも可能の筈だ。それなら、別に、わざわざ、『ひだ3号』の車内で、殺すことはないんじゃないか? 同じ列車に乗っているわけだから、当然、疑われる。下手《へた》なやり方とは、思わないかね?」
と、十津川は、いった。
亀井は、「それなんですが」と、いった。
「被害者が常用しているビタミン剤みたいなものに、毒を入れておいたんじゃありませんか? たまたま、それを、『ひだ3号』の車内で飲んだから、そこで、死んでしまった。それなら、東京にいた奥さんも、容疑者の中に、入って来ます」
「私も、それを考えて、岐阜県警にきいてみたんだが、所持品の中に、薬びんとか、薬は、全く見つからないと、いうんだよ。となると、犯人は、列車内で、被害者に、飲ませたことになってくるんだ」
と、十津川は、いった。
「そうなると、確かに、警部のいわれる通り、おかしな事件ですね。犯人は、わざわざ、『ひだ3号』の中まで、被害者を、追いかけて行ったことになりますし、なぜ、逃げ場のない車内で殺したのかも、わからなくなって来ます」
と、亀井も、首をかしげた。
早苗は、旅館で眼を覚ましたあと、しばらく、寝床の中で、天井を見つめていた。
昨日の出来事が、一方で、夢のように思えながら、苦痛にゆがんだ大川広志の顔は、鮮明に、思い出すのだ。
旅館の従業員が、朝刊を持って来てくれた。
早苗は、朝食をとりながら、朝刊を広げた。社会面には、昨日の事件が、大きくのっていた。
〈車内に怪しい女が――同乗していた警視庁の婦人警官の証言〉
そんな文字が、早苗の眼に飛び込んできた。
あわてて、記事の内容を、読んでみると、早苗が、3号車の電話室の前で、被害者と、三十歳前後の女が話しているのを目撃し、彼女が怪しいと、証言したことになっていた。
(困るわ)
と、思った。早苗は、むしろ、あの女は、犯人とは思えないと、県警の三田警部に、話したのである。
(迷惑だわ)
少しばかり、腹が立って来た。
気分直しに、高山の町を、見物して来ようと思った。
カメラだけを持って、旅館を出た。
曇っているが、暖かかった。小京都ということで、若い人に人気があるらしく、若い女性の姿が眼についた。
歩いてすぐのところが、川で、赤い欄干《らんかん》の橋が、かかっている。
渡ってすぐが、昔の姿を残した上三之町である。狭い道の両側が、江戸時代そのままの町家になっている。保存のためではなく、実際に、医院だったり、食堂だったりするのである。
時々、立ち止まって、早苗は、写真を撮った。少しずつ、重い気分が、やわらいでくるのを感じた。
旅館で貰った地図を頼りに、早苗は、城山公園の方へ、歩いて行った。
昔は、高山城のあったところだが、今は、礎石だけの公園になっている。
大手門を入った時、反対側から、歩いて来る女を見て、
「あッ」
と、思わず、小さな声をあげた。
「ひだ3号」の中で見た、あの女だったからである。
連れはなく、ひとりだった。向うは、早苗の顔は、覚えていないと見えて、何の挨拶もなく、早苗の横を、すり抜けて行った。
早苗は、立ち止まって、じっと、女の後姿を見つめた。
犯人とは思えない。が、自分の証言で、県警に容疑者視されてしまっていることが、気になって、尾《つ》ける気になった。
女は、ゆっくり、歩いて行く。カメラを持っているのだが、いっこうに、立ち止って、撮る気配はなかった。
福来博士記念館の横を抜け、高山市郷土館の方へ歩いて行くのだが、その中を、見る気はないらしい。
女の足は、上三之町の方へ向いた。
(旅館へ帰るのだろうか?)
と、思った時、女の前に、突然、男が二人、飛び出した。
(あッ。いけない)
と、早苗が思ったのは、二人の男の片方が、三田警部だったからである。
三田が、厳しい顔で、何か、女にいったと思うと、彼女を、二人で、近くにとめてあった車の中に、押し込んでしまった。
覆面パトカーだったらしく、急に、赤色灯をつけ、サイレンを鳴らして、走り出した。
早苗が、旅館に戻ると、おかみさんが、
「今さっき、県警の三田という警部さんから電話がありましたよ」
と、いった。
「すぐ、署まで来てくれというんでしょう?」
「ええ」
(やれやれ)
と思いながら、早苗は、もう一度、旅館を出た。
捜査本部になっている高山署に着くと、やはり、三田が、
「容疑者を見つけたので、顔を見て下さい」
と、早苗に、いった。
取調室に、あの女が、いた。
「どうですか? あなたが、『ひだ3号』の車内で、被害者と話しているのを見た女ですか?」
と、三田が、きいた。
「確かに、彼女ですが、容疑者じゃありませんわ」
と、早苗は、いった。
「それは、これからの訊問の結果によりますよ」
三田は、弾んだ声で、いった。もう、これで決まりみたいな調子だった。
「被害者を、知っていると、いったんですか?」
と、早苗は、きいた。
「車内で、名刺を貰ったことは認めましたがね。その時が、初めてだったといっていますよ」
「それなら、犯人とは、違うじゃありませんか?」
「甘いですよ、そんな見方は。きっと、何か隠していると、私は、睨《にら》んでいるんです。被害者との関係といったものをね」
と、三田は、いった。
「私には、初対面としか、見えませんでしたけど」
と、早苗は、遠慮勝ちに、いった。この事件の捜査は、あくまでも、岐阜県警の仕事だったからである。
「それは、被害者の態度を見てでしょう?」
「ええ」
「被害者は、相手を覚えていなかっただけかも知れませんよ。よくいうじゃないですか。殴った方は、すぐ忘れてしまうが、殴られた方は、いつまでも覚えているものだとね。今度の事件は、そのケースと、睨んでいるんです。被害者は、女好きだった。何人もの女と、関係した。あの女は、その中の一人かも知れませんよ。男の方は、沢山の中の一人だから、忘れてしまっているが、彼女の方は、覚えていた。傷つけられた恨みをです」
三田は、雄弁だった。
「名前は、わかったんですか?」
と、早苗が、きいた。
「わかりましたよ。東京都世田谷区太子堂のマンションに住む女性で、内藤祐子。もちろん、夫もいます」
「奥さん?」
「そうです」
「それでも、ひとり旅なんですか?」
「夫の仕事が忙しいので、ひとりで、高山へ観光に来たと、いっています。夫とうまくいってないんでしょうね」
「それは、勝手な想像じゃありませんの? 今は、結婚していても、奥さんが、ひとりで、旅行に出ることが、多いようですけど」
と、早苗は、いった。この若い警部と話していると、なぜか、反対したくなってくるのである。
「そうかも知れませんが、あの女は、違いますね。夫とうまくいってないもやもやが、殺人に走らせたに違いありませんよ。その夫婦仲の悪さの原因が、殺された被害者じゃないかと、想像しているんですがねえ」
三田は、また、勝手な推理をしてみせた。
早苗は、何もいわなかった。
今日、彼女が、城山公園にいるところを見ているが、幸福そうに見えた。それをいったところで、この警部は、首を振るだけだと思ったからである。
早苗は、旅館に戻ると、東京の十津川に、電話を掛けた。
「今、県警から、犯人を逮捕したと、いって来たよ」
と、十津川は、電話で、いった。
「彼女は、犯人じゃありませんわ」
と、早苗は、いった。自然に、抗議の口調になっていたとみえて、十津川は、笑って、
「君は、シロだと思っているのかね?」
「はい。彼女が被害者を、前から知っているとは、思えません。それに、人を殺した女性とは、とても、考えられないんです」
「そのことは、県警に、いったのかね?」
「三田という警部さんに、いったんですけど、取り合って貰えませんでしたわ」
「その警部が、犯人を逮捕したと、いって来たんだ。内藤祐子というその犯人のことを、調べてくれと、依頼して来ているよ」
と、十津川は、いった。
「調べれば、きっと、シロの証拠が、出てくると思いますわ」
と、早苗は、いった。
十津川と、亀井は、内藤祐子の夫が働いているスーパーに、出かけて行った。
下高井戸にある店で、事務の仕事をしている筈だった。
内藤は、早退の届を出して、これから、高山に行くところだった。
妻の祐子より二歳年下だという内藤は、眉を寄せて、
「今、電話を貰って、これから、高山へ行くところです。これは、何かの間違いですよ」
と、十津川たちに向って、いった。
「それなら、東京駅まで、車で、送りますよ」
と、十津川は、いい、内藤を、パトカーに乗せた。
甲州街道を、新宿に向って、走りながら、十津川は、内藤に、
「奥さんは、どういう人ですか?」
と、きいた。
内藤は、いらだたしげに、煙草を口にくわえたり、また、止《や》めてしまったりしながら、
「優しい女ですよ。僕には、かけがえのない女です」
「奥さんも、働いているんですか?」
「そうです。共働きです」
「奥さんは、何をしているんですか?」
「経理が得意なので、いろいろな会社に、パートで行って、働いています」
「今度は、奥さんひとりで、高山へ旅行していますが、これは、なぜですか?」
と、亀井が、運転しながら、きいた。
「仕事が、二人で、違いますからね。なかなか一緒に、休みがとれないんですよ。それに、僕たちは、お互いに、あまり干渉しないようにして来たんです。ですから、彼女が、今度、ひとりで、飛騨高山へ行くということに、何もいいませんでしたし、むしろ、たまには、旅行する方がいいと、すすめたくらいなんです」
「大川広志という人は、知っていますか?」
「今度、殺された人ですね?」
「そうです」
「確か、近くに、大川ラーメンの店があったと思いますが、個人的に、そこの社長とは、何の面識もありません。家内も、同じだと思いますよ」
と、内藤は、いった。
「大川ラーメンが、近くにあるんですか?」
「ええ。うちのマンションから、歩いて、五、六分のところに、確か、店があった筈です」
「そこへ、食べに行ったことは?」
「僕は、ラーメンは嫌いだから、行ったことはありません」
「奥さんは、どうです?」
「行っていないと思いますが――」
内藤の語尾が、あいまいになった。
「行ったかも知れない?」
「家内は、ラーメンが好きですから。しかし、そこで、食べたからといって、犯人扱いするのは、ひどいですよ。向うに着いたら、抗議するつもりです」
と、内藤は、腹立しげに、いった。
彼を、東京駅に送ったあと、十津川と、亀井は、もう一度、内藤の働いているスーパーに引き返した。そこの森という支店長に、会った。
「実は、あの夫婦の仲人を、私がやらせて貰いましてね」
と、森は、微笑した。
「どんな夫婦ですか?」
と、亀井が、きく。
「二人とも、大人しい、いい夫婦ですよ。もう三年になるがケンカをしたって噂を、聞いたことがありません。たまには、ケンカでもしたらと、いっているんですがね」
「奥さんの方が、年上でしたね?」
「ええ。それで、うまくいっているんじゃありませんか。内藤君の方は、ちょっと、気難しいところがありますからね」
「奥さんの方も、よくご存知なんですか?」
「いや、前から知っていたわけじゃありません。内藤君が、結婚することになって、時々、会うようになったんです。よく出来た、いい女性ですよ。物静かで、優しくて、それに、美人でね」
「三年前というと、奥さんは、二十七歳だったと思うんですが、それまでに、男関係が、全くなかったということは、ないと思うんですが」
「どういう意味ですか?」
森は、ちょっと、気色ばんだ。
「なかなか美しい人ですからね。それまでに、つき合っていた男性がいても、おかしくはないと、思っただけです」
と、十津川は、いい直した。
「それは、あったと思いますよ。しかし、内藤君と結婚してからは、二人だけの生活を、きちんと、守っていますよ」
「奥さんも、働いているんですね」
と、亀井が、いった。
「ええ。簿記が出来ますからね。将来、土地つきの家を持ちたいというので、一生懸命に、共働きをしているんです」
「一種のフリーのアルバイターという形で、働いているわけでしょう?」
「ええ」
「相手は、だいたい、中小企業ですか?」
「まあ、そうでしょうね。大企業は、ちゃんとした経理部門がありますから」
「ラーメンのチェーン店でも、働く機会は、ありましたね?」
と、亀井が、きくと、森は、急に眉をひそめて、
「わかりませんね」
とだけ、いった。
十津川と、亀井が、警視庁に戻ると、先に帰っていた西本と、日下が、
「大川ラーメンの支店長の話ですが、社長が、ひとりで、高山に行ったのは、おかしいと、いうんです」
と、報告した。
「しかし、北条君の話では、大川は、車内ではひとりだったということだよ」
「それをいいましたら、きっと、高山で、落ち合うことになっていたんじゃないかと、いうことでした」
と、大川が、いった。
「或いは、高山へ行く列車の中で、会うことになっていたかも知れませんね」
と、亀井が、いった。
「カメさんは、つまり、内藤祐子という女のことを、いっているのかね?」
「彼女のことが、頭に浮んだのは、事実です」
「しかし、北条君の話だと、被害者は、彼女とは、初対面のようで、名刺を渡していたというがねえ」
「芝居かも知れません」
「芝居?」
「二人が、関係があったとしての話ですが、高山で、会うことにしていた。それが、車内で、ばったり会ってしまった。車内には、他人の眼がありますからね。わざと、初対面のように、芝居をしたのかも知れませんよ」
と、亀井は、いった。
どうやら、亀井は、一つのストーリイを考えているようだった。
女好きの大川が、支店の近くに住む美人の人妻に、眼をつけ、関係が出来た。女の方は、夢中になったが、大川は、あくまで遊びで、少しずつ冷たくなっていった。女は、愛情が、憎しみに変り、一緒に高山に行くことになった時、前もって、青酸か、他の毒物を用意した。そんなストーリイをである。
早苗は、高山に着いて、三日目を迎えた。今日まで、休暇をとっているから、本当なら、観光を楽しみたいのだが、事件のおかげで、そんな気になれなかった。自分の証言で、内藤祐子が、逮捕されてしまったからである。しかも、県警の三田警部は、すっかり、彼女を犯人扱いなのだ。
あれから、どうなったのかと思い、高山署に、足を向けてしまった。
三田警部に会うと、この若い警部は、嬉しそうな顔をして、
「状況証拠は、出て来ましたよ」
「どんな状況証拠なんですか?」
「これは、警視庁が、調べてくれたことなんだが、被害者大川広志のやっていたチェーン店の一つが、内藤祐子の自宅の近くにあることが、わかったんですよ」
「でも、それだけじゃ、証拠には、なりませんわ」
「ラーメンを食べに行って、彼女が、被害者と、知り合った可能性が出て来たんですよ。もう一つ、彼女は、パートで、経理の仕事をやっていましてね。お得意は、もっぱら、中小企業。大川ラーメンも、中小企業なんですよ」
と、三田は、いう。
「大川ラーメンの経理をやっていたという証拠はあるんですか?」
「それは、まだありませんが、その中《うち》に、出てくると思っていますよ」
と、三田は、自信満々にいってから、
「彼女の夫が、昨日の夜おそく、こっちに着いて、今も、ここへ来ていますよ」
「彼は、何といっているんですか?」
「もちろん、妻が、人殺しをする筈がないといっていますが、あなたは、会わない方がいいですよ」
「なぜですか?」
「あなたのおかげで、奥さんが、警察に捕まったと思っているようですからね」
「そんな誤解は、心外ですわ」
と、早苗は、いい、ぜひ、会わせて欲しいと、いった。
応接室で、会ったが、内藤は、三田のいったように、早苗を見るなり、
「ひどい人だ。あなたの証言のおかげで、家内は、殺人犯人にされそうですよ」
と、いって、睨んだ。
「違いますわ。私は、むしろ、違うといったんですよ。被害者とは、初対面に違いないと」
早苗は、一生懸命に、いったのだが、内藤は、カッとしてしまっているらしく、
「あなたが、黙っていてくれたら、こんなことにはならなかったんだ。なぜ、あんなことを、いったんだ?」
「私は、警察の人間です。嘘はつけませんわ」
「しかし、黙っていてくれたって、いいじゃないか。あんたは、いくら、見たままをいったって、ここの警察は、あんたの証言で、家内を、犯人と決めつけたんだよ」
「大丈夫ですわ。無実なら、すぐ、釈放されますわ」
と、早苗は、いった。
「信用できないよ。警察というところは、平気で、犯人を作りあげるからな」
内藤は、そういうと、応接室を、出て行った。
早苗が、重い気分になって、廊下に出ると、若い刑事が、被害者の妻が、来ていると、教えてくれた。
(そうだ。殺された人にも、家族があったんだ)
と、早苗は、改めて、思った。
「それにしても、少し、遅かったみたいですけど」
と、早苗は、いった。相手の刑事は、急に、声をひそめて、
「どうも、夫婦の仲が、うまくいってなかったみたいですよ」
と、いった。
しばらくして、三田警部に会うと、彼も、
「奥さんは、悲しんでいませんねえ」
「原因は、殺された大川さんの女性関係ですか?」
「まあ、はっきりとはいいませんが、そのようですね。犯人が女だといったら、そんなことと思いましたと、肯いていましたからね」
「内藤祐子さんは、犯人じゃありませんわ」
「そうは、思えませんがねえ」
と、三田は、いう。
「でも、今のままだったら、釈放せざるを得ないんじゃありませんか?」
「いや、四十八時間以内に、自供すると、確信していますよ」
と、三田は、いった。
早苗は、旅館に帰ったが、十津川に、電話を掛け、
「もう一日、ここにいさせて下さい」
と、頼んだ。
「内藤祐子のことが、心配なのかね?」
と、十津川が、きく。
「証拠はありませんから、四十八時間すぎれば、釈放されると思っていますが、県警の三田警部がやたらに自信満々なので、不安なんです」
「大丈夫だよ。無理矢理、自白を取るようなことはしないよ」
「そうは思うんですが、彼女が逮捕されてしまったのは、私の証言からなんです。彼女の夫にも、責められました」
「君は、正直に証言したんだから、気にすることはないよ。彼女が、殺してなければ、釈放されるよ」
と、十津川は、いってくれた。
それでも、早苗は、落ち着けなかった。ここが東京なら、内藤祐子のシロの証拠を集めてやりたいと思うのだが、それが出来ないのが、いらだたしいのだ。
翌朝、朝食のあと、早苗は、午前十一時を過ぎるのを待って、もう一度、高山署へ、出かけて行った。
午前十一時で、確か、彼女が逮捕されてから、四十八時間になると、思ったからである。
高山署に、入ると、署内の空気が、おかしかった。
前日、早苗に向って、ニコニコ話しかけて来た若い刑事も、顔をそらして、足早に、すれ違って行く。
何かあったに違いない。
三田警部を探し、早苗が、
「どうしたんですか?」
と、きくと、三田は、これまでの自信に満ちた表情は消えて、ぶぜんとした顔で、
「彼女、死にましたよ」
と、いった。
「死んだ――?」
「留置場で、首を吊って死んだんですよ。服を裂いて、それをより合せ、首にまきつけてね。参りました」
(それで、妙に、あわただしい空気だったのか)
と、早苗は、思いながらも、理由が、わからなくて、
「なぜ、彼女、自殺なんかしたんですか?」
と、きいた。
「もちろん、罪の意識に、責められてですよ」
「証拠でもあるんですか?」
早苗は、抗議するように、三田を見つめた。
「遺書がありますよ」
「遺書?」
「昨夜おそく、彼女が、静かに考えて、自分の気持を書きたいから、書くものが、欲しいと、いったんです。それで、便箋と、ボールペンを与えました。今朝になって、自殺しているのが発見されたんですが、便箋に、遺書が、書きつけてありました。自殺は、非常に残念ですが、彼女が、犯人だったことは、間違いないんです」
「その遺書を、見せて頂けますか?」
と、早苗は、いった。
「いいですよ。あなたも、関係者のひとりですからね」
三田は、その便箋を、取り出して来て、見せてくれた。
便箋一枚に、ボールペンで、
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈すべて、私自身が、招いたことだと思っています。誰も恨みは致しません。亡くなった大川さんや、奥様には、申しわけないことをしたと思っています。お詫び致します。
もう疲れました。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]祐子〉
早苗は、短い文章を、何度も、読み返した。
「宛先は、誰になっているんですか?」
と、早苗は、三田に、きいた。
「宛名は、書いてありませんでしたよ。それだけです」
「それでは、犯人かどうか、わからないじゃありませんか?」
と、早苗は、いった。
「あなたが、そういいたい気持は、わかりますがね。しかし、それに、ちゃんと、被害者と、被害者の奥さんに、詫びると書いてあるんです。犯人じゃなければ、そんなことは、書きませんよ」
と、三田は、いった。
10
内藤祐子が、高山署の留置場で、自殺したという知らせは、十津川のところにも、届けられた。
遺書のこともである。三田警部は、それを、自白と受け取っているようだが、それは、十津川が口を挟むことではなかった。
だが、続いて、内藤祐子の夫が、北条刑事を、告発したという知らせが、十津川の耳に入った。
早苗が、嘘の証言をしたために、妻の祐子が、犯人扱いされ、自殺に追いやられたというのである。
内藤が、岐阜地裁に告発したため、早苗は、帰れなくなってしまった。
「内藤は、どういう気なんですかね?」
と、亀井が、当惑した顔で、十津川に、きいた。
「北条刑事が、『ひだ3号』の車内で、殺された大川と、内藤祐子が、話していたと証言したために、犯人として逮捕され、絶望から、自殺してしまったと、考えているんだろう」
「しかし、北条刑事は、正直に、ありのままを証言しただけですよ」
「そうなんだが、その証言のために、妻は、自殺したと、思い込んでいるんじゃないかな。しかも、嘘の証言をしたと、非難しているんだ」
「どうなるんです?」
「告発を受けて、岐阜地裁は、事実関係を、調べる筈だよ」
と、十津川は、いった。
「北条刑事が、嘘をついていないと、証明できますかね?」
亀井は、不安気に、いった。
「どうも、それが、難しいらしい」
「なぜですか?」
「北条君は、『ひだ3号』の中で、大川が、内藤祐子に、名刺を渡して、自己紹介しているのを見たと、証言している」
「その通りなんでしょう?」
「もちろんさ。だが、内藤祐子の所持品の中に、大川の名刺は、無かったというんだ」
「それは、多分捨ててしまったんですよ。私だって、何の関心もない人間から貰った名刺は、捨ててしまいますからね」
と、亀井は、いった。
「だが、内藤は、それを、北条刑事が、嘘をついた証拠だと、いっているらしい」
「参りましたね」
「それに、内藤祐子の遺書のことがある」
「妙な遺書でしたね」
「あの中に、『誰も恨みは致しません』という言葉があるんだが、内藤にいわせると、あれは、北条刑事のことを、いっているというんだよ。妻は、優しかったから、自分を、嘘の証言で、犯人にした北条刑事も、恨まないと、書いたというわけだよ」
「そんな告発が、まかり通ると思っているんですかね?」
「マスコミは、喜んで、飛びつくかも知れないよ」
「マスコミですか?」
「内藤は、裁判所が、満足できる対応をしてくれなければ、マスコミに、訴えると、いっているらしい」
「マスコミが、取り上げるでしょうか?」
「取り上げるね。第一に、これは、痛ましい事件だし、告発されているのが、現職の刑事で、しかも、女刑事だからね。面白いニュースになると思って、飛びつくよ」
「どうしたら、いいですかね? 若い北条刑事を、マスコミの犠牲にはしたくありませんよ。それに、正直に証言したのに非難されるとなれば、証言する人間が、いなくなるんじゃありませんか」
と、亀井は、いった。
「助けに行くかね? 高山に」
「もちろん、行きますよ」
11
十津川と、亀井は、西本刑事たちに、内藤という男のことを、詳しく調べるように、いい残して、翌朝、高山に向った。
北条刑事や、大川広志、それに、内藤祐子が乗っていた特急「ひだ3号」を、使うことにした。
何か、北条刑事に、有利なことが、わかるかも知れないと、思ったからである。
名古屋から、午前一〇時四九分発の「ひだ3号」に乗る。北条刑事と同じ3号車である。
並んで腰を下ろすと、十津川は、手帳を取り出した。
そこに、例の遺書の文章が、書きつけてある。
「問題は、この遺書だね」
「岐阜県警は、内藤祐子が、犯人だったから、この遺書を残して、自殺したと、いっているわけでしょう?」
「そうだよ。だからまた、死んだ大川広志や、彼の奥さんに、申しわけないことをした、お詫びしますと、書いていると、いっている」
「しかし、亡くなった大川さんと書いていて、殺したとは書いていませんね」
と、亀井が、いった。
「県警の三田警部は、同じことだといっているよ」
「私には、同じとは、思えませんがね。それに、一言も、自分が犯人だとは、書いていませんよ」
「しかし、もし、彼女が無実なら、なぜ、自殺したのかということになる。こんな遺書を書いてだよ」
「そうですね」
「それに、この遺書は、誰に宛てて、書いたものかも、わからない」
「夫の内藤は、どういっているんですか? その点を」
「もちろん、自分に宛てて書いたと、いっている」
「遺書のわからない点は、他にも、ありますよ。最初の、『すべて、私自身が、招いたことだと思っています』という意味も、わかりませんね」
「県警は、よくわかっているらしい」
「どんな風にですか?」
「つまり、こう見ているんだ。人妻の内藤祐子は、大川と関係が出来てしまった。いわゆる不倫さ。それを清算しようとして、『ひだ3号』の車内で、彼に、毒を飲ませた。そのことを、書いているんだと、三田警部は、いっていたよ」
「それで、『すべて、私自身が、招いたこと』ですか?」
「そう考えられないこともないんだがね」
「すると、最後の『もう疲れました』というのも、大川との不倫のことを、指しているんでしょうか?」
「少くとも県警は、そう考えているね」
と、十津川は、いった。
「夫の内藤は、その点は、どう思っているんですかね?」
「わからないが、とにかく、北条刑事の証言のせいで、妻が、死んだと、いっていることは、確かだね」
と、十津川は、いった。
二人は、席を立ち、電話室の前まで、行ってみた。
電話を掛けている人はいなかった。傍に、自動販売機があり、そちらでは、若いカップルが、百円玉を入れて、コーラを買っていた。
「北条刑事の他に、内藤祐子と、大川のやりとりを、見ていた人間がいれば、いいんですがねえ」
と、亀井が、いった。
「北条君の話だと、他に、誰もいなかったというんだ」
「参りましたね」
「もし、いたとしても、今から、探し出すのは、大変だろう」
と、十津川は、いった。
何の収穫もないまま、列車は、定刻の一三時二三分に、高山に着いた。
12
十津川と、亀井は、駅から、まっすぐ、早苗の泊っている旅館に向った。が、着いてみると、彼女は、地裁に呼ばれて、留守だった。
一時間ほどして、早苗は、帰って来たが、顔色が、悪かった。
「大丈夫かね?」
と、十津川が、きくと、早苗は、
「こんなことになって、申しわけありません」
と、頭を下げてから、
「地裁で、内藤さんに会って、人殺しみたいに、いわれました」
「ひどい男だな」
と、亀井が、顔をしかめた。
「でも、結果的に、私の証言で、彼の奥さんが逮捕され、自殺してしまったんですから、怒るのも、無理はないと、思うんです」
「彼女の遺書は、見たかね?」
と、十津川が、きいた。
「はい。高山署で、見せられました」
「それで、君の感想は?」
「私は、彼女が、無実と信じていましたから、なぜ、あんな遺書を書いて、自殺したのか、わかりませんでしたわ。今でも、納得できません」
早苗は、小さく、首を振った。
「念を押すが、君が、電話室の前で、内藤祐子と、大川を見た時、彼が、名刺を渡して、初対面の挨拶をしていたんだね?」
と、十津川は、きいた。
「はい。名刺を渡して、自分は、大川ラーメンのオーナーで、東京に、支店を沢山持っている、成功者だと、自慢していましたわ。私にいったのと、全く同じセリフをいってるんで、おかしかったのを、覚えています」
早苗は、その時のことを、思い出したのか、微笑した。
「その直後に、大川は、死んだんだね?」
「はい。自分の席のところまで歩いて来て、突然、呻《うめ》き出し、通路に、倒れてしまったんです」
「何か、いい残したことは、なかったかね? ダイイング・メッセージというやつだが」
「ありませんでしたわ。突然、苦しみ出したと思ったら、倒れて、動かなくなってしまったんですから」
「では、何でもいい。大川広志のことで、覚えていることは、全部、話してみてくれないか」
と、十津川は、いった。
「何でもですか?」
「まず、当日、君が、『ひだ3号』に、乗った時から、始めるんだ。君が、乗った時、大川は、もう、乗っていたのかね?」
「いえ。彼は、発車間際に、乗って来たんです」
「発車してから、彼の方から、話しかけて来たのかね?」
と、亀井が、きいた。
「発車して、間もなくですわ。いきなり、名刺をくれて、自己紹介を、始めたんです。自分は、大川ラーメンのオーナーで、都内に、八つのチェーン店がある。今年中に、それを、二十店にするつもりだって、威張っていましたわ」
「他には、何かいわなかったかね?」
「どんなことでも、いいですか?」
「いいよ、事件と関係のないことで。大川が喋ったことは、全部、知りたいんだよ」
と、十津川は、いった。
「自分のところのラーメンの自慢をしていましたわ。それに、高山には、観光ではなく、客にうけている店があるというので、そこのラーメンを、実際に、食べてみるんだと、いっていましたわ」
「なるほどね。仕事で、高山へ行くというわけか」
「はい」
「そんなに、いつも、全国を廻って、ラーメンを、食べているのかね?」
「だから、胃を悪くしたと、いっていましたわ」
「他には?」
「下呂を出てから、彼が、電話を掛けに、立ったんです。旅先からでも、思い立ったら、各支店に、電話を掛けるんだと、これも、自慢そうに、いっていましたわ」
「そのあと、君も、席を立ったんだね?」
「はい。コーラが、飲みたくなって、通路に出たんですけど、電話室の前で、彼が、三十歳くらいの女性に、名刺を渡して、自己紹介しているのに、ぶつかったんですわ」
「大川の方は、君に、気がついたようだったかね?」
「いいえ。ぜんぜんですわ。内藤祐子に、夢中で、自分の自慢をしていましたわ」
「内藤祐子は、どうだね? 君を、見たかね?」
「いいえ。見ていなかったと思いますわ」
と、早苗は、いった。
早苗が思い出したのは、そのくらいだった。
「明日も、地裁に、呼ばれているのかね?」
「はい」
「われわれも、あとから行くよ。西本たちに、調べて貰っていることがあるので、その結果を、聞いてからね」
と、十津川は、いった。
13
翌日、十津川と亀井は、西本たちに電話を掛け、彼等が、内藤について調べた結果を聞いたあと、高山署に行き、三田警部に、会った。
電話では、何回も話をしていたが、十津川が、三田に会うのは初めてである。
年齢もだが、考え方も、若いなというのが、第一印象だった。
「これから一緒に、岐阜地裁に、行って貰えませんか」
と、十津川は、頼んだ。
「北条刑事が、内藤に、告発されている件ですか?」
「そうです」
「あれは、われわれの捜査とは、関係ありませんよ。こちらの捜査は、もう、終了しています」
と、三田は、いった。
「本当ですか?」
「ええ。使われた毒は、青酸カリです。犯人は、内藤祐子で、遺書を書いて、自殺。これで、本件は、解決です。留置場で、犯人に、自殺されてしまったのは、残念ですが」
「しかし、あの遺書には、自分が、大川広志を殺したとは、一言も、書いてありませんが」
「申しわけないことをしたと、書いてあります。あれで、十分ですよ」
「あれを、自白と、みたわけですか?」
「そうです」
「宛名も書いてありませんでしたね?」
と、十津川は、いった。
「そうですが、あれは、警察に宛てたものだと、思っていますよ」
「あの遺書の本当の意味を知るために、これから、一緒に、地裁へ行ってくれませんか」
と、十津川は、いった。
「地裁? ああ、あなたの部下が、内藤に訴えられているんでしたね。あれは、われわれには、関係ありませんよ。北条刑事と、内藤の個人的な問題ですからね」
「それが、違うんですよ。今度の殺人事件の本当の姿が、出ているんです」
「そんなことは、考えられませんね」
「いや、一緒に来てくれればわかります。それとも、真実を知るのが、怖いですか?」
十津川が、いうと、三田は、眉を寄せて、
「そんなことは、ありません。警察の仕事は、真実を発見することですからね」
「じゃあ、行きましょう」
と、十津川は、三田を、促した。
十津川、亀井、そして、三田の三人は、岐阜地裁に、向った。
三人が、地裁の建物に着くと、早苗が、丁度、出て来るところだった。
さすがに、疲れた表情になっている。
内藤も、すぐあとから、出て来た。その内藤に向って、十津川は、
「北条刑事への告発を、取り下げる気は、ありませんか?」
と、きいた。
内藤は、眼を光らせて、
「ありませんね。僕は、亡くなった家内のために、とことん、戦うつもりですよ。北条刑事の次は、不当逮捕した岐阜県警も、告発するつもりです。損害賠償も、求めるつもりです」
「しかし、それは、亡くなった奥さんの気持に反するんじゃありませんか?」
「違いますね。告発こそ、祐子の遺志に沿うことだと思っています」
「どうしても、取り下げませんか?」
「いやです」
「困ったな」
十津川は、小さな溜息《ためいき》をついてから、
「あなたが、取り下げるといえば、何もいわないつもりだったんですがね」
「何のことです?」
「われわれは、あなたが考えるほど、バカじゃありませんよ」
と、十津川は、内藤に、いった。
ふと、内藤の顔に、怯《おび》えの表情が走った。が、一層、威丈高《いたけだか》になって、
「あなたたちが、家内を殺したんだ。自殺に追いやったんだ」
「それは、違いますね。奥さんを自殺させたのは、あなたですよ」
「バカな!」
「奥さんの書いた遺書は、奇妙なものでした。もし、真犯人なら、『ひだ3号』の車内で、大川広志を毒殺したのは私ですと書いて自殺した筈です。違うのなら、抗議の文章を残して、自殺したに違いない。しかし、そのどちらでもなかった。なぜだろうと考え、私は、部下の刑事たちに、あなたのことを、徹底的に、調べさせました。その答が、さっき、出たんですよ」
「何が出たというんですか?」
「あなたと、祐子さんは、三年前に結婚した。ケンカなど、殆《ほとん》どしない、仲の良い夫婦と思われていたが、若いあなたは、祐子さんが、物足りなくなっていたんだ」
十津川が、いうと、内藤は、顔を赤くして、
「何をいうんだ!」
「小早川みどりという二十三歳の女性がいますが、彼女とは、いつから、関係が、出来たんですか?」
「そんな女は、知らん。知りませんよ」
と、内藤が、激しい口調で、いった。
十津川は、笑って、
「知らないというのは、おかしいですね。同じスーパーで、同じ事務所で働いている女性ですよ。確か、机が並んでいるんじゃありませんか」
「――――」
「あなたは、若くて、ちょっとエキセントリックな小早川みどりに、魅《ひ》かれていった。違いますか? 奥さんは、それに、全く、気付かなかった。その間にも、あなたの気持は、どんどん、奥さんから離れ、小早川みどりに傾斜していったんだ」
「そんなことは、ない」
「ところが、あなたは、奥さんに向って、離婚してくれと、いい出せるタイプじゃないらしい。別れたいという気持が、どんどん内攻していくタイプだと思うね。それに、もう一つ、あなたには、野心があった。大学を出て、三十歳近くなって、スーパーの事務をやっていることに、いつも、鬱屈したものがあったんじゃありませんか。男なら、自分にふさわしい仕事をしたい。独立して、何かやりたい。そのためには、まとまった金がいる。そこで、あなたは、この二つが、同時に可能な方法はないかと、考えたんですよ。私の部下が調べたところでは、あなたは、奥さんに、五千万円の生命保険を掛けていますね」
「それが、いけないんですか? 私にも、家内が受取人で、五千万円の生命保険が、掛けてありますよ。これも、お互いの愛情の表現じゃありませんか?」
「普通の場合は、そうです。だが、あなたは、その五千万円を、一刻も早く、手に入れようとした。奥さんを殺してね。そうすれば、五千万円が手に入り、同時に、若い小早川みどりと一緒になれる」
「何をバカなことを、いってるんですか」
「まあ、聞きなさい。奥さんが、飛騨高山へ旅行することになった時、あなたは、かねての計画を、実行に、移すことにしたんですよ。奥さんは、普段から、胃の調子が悪かった。あなたは、旅行先で、これを飲みなさいといって、胃腸薬を渡した。多分、カプセル錠のね。その中に、青酸を入れておいたんだ」
「そんなことは、単なる想像じゃありませんか。でたらめをいうと、あなたを名誉毀損で、訴えますよ」
「確かに、想像だが、こう考えると、今度の事件が、はっきりと、わかってくるんですよ。何も知らない奥さんは、その胃腸薬を持って、この高山へ来る『ひだ3号』に、乗った。車内で、これも、何も知らない大川広志が、生来の女好きから、あなたの奥さんに声をかけた。名刺を渡して、自己紹介をしたんですよ。それを、北条刑事は、見ていたが、そのあとのことは、知らなかった」
「そのあと、何があったんですか?」
と、三田警部が、きいた。
「大川も、胃痛に悩まされていました。これは、あまりにも、各地のラーメンを食べすぎたせいです。あなたの奥さんと話をしている中に、突然、胃が痛みだしたんだと思う。それを見て、心優しいあなたの奥さんは、自分が、胃腸薬を持って来たことを思い出し、わざわざ、それを持って来て、大川に飲ませたんですよ。青酸入りとは、知らずにね。カプセルだから、すぐには死なない。多分、大川は、礼をいい、自分の座席に戻った。そこで、カプセルが溶けて、青酸が噴出し、苦しみながら、死んでしまったんです」
「――――」
「奥さんは、そんなこととは知らずに、高山で降りた。ところが、北条刑事の証言で、岐阜県警は、奥さんを犯人と見て、逮捕したわけです」
「自殺したのは、なぜなんですか?」
と、三田が、きいた。
「それは、あの奇妙な遺書に、書いてありますよ。『もう疲れました』という最後の一行です。奥さんは、うすうす、夫の浮気に気付いていたんだと思う。女性は、敏感ですからね。だが、信じまいと、努めた。それなのに、今度のことで、夫の背信がはっきりした。自分を、殺そうとまでしている。それでも、なお、奥さんは、あなたを好きだったんじゃないかな。そんな自分の心のかっとうに、奥さんは、疲れ切ってしまったんですよ。それに、知らなかったとはいえ、自分の渡した薬で、大川広志は、死亡してしまった。それに対する申しわけなさもあったと思いますよ」
「それで、『亡くなった大川さんや、奥様には、申しわけない』と、書いたんですね」
と、三田が、いった。
「そうです。だから、殺したとは、書かなかったんですよ」
「でたらめだ」
と、内藤は、わめくように、いい、
「家内の所持品の中に、胃腸薬なんかなかった。これを、どう説明するんですか?」
「奥さんは、高山に着いた翌朝、テレビか、新聞で、事件を知ったんですよ。死んだ大川さんの顔写真を見て、自分の持っている胃腸薬に、ひょっとして、青酸カリがと、疑った。しかし、あなたを愛していたから、半信半疑だったと、思いますよ。それで問題の胃腸薬を、捨ててしまったに、違いありません。だから、彼女の泊った旅館の周囲や、観光に歩いた道筋を調べれば、見つかると思いますよ」
と、十津川は、いった。
「探しましょう」
と、三田が、飛び出して行った。
十津川は、改めて、内藤を見た。
「奥さんは、あなたのことは、何もいわずに、自殺したんですよ。『誰も恨みは致しません』という言葉を残してね。そのことを、考えるべきじゃないのかね?」
と、十津川は、いった。
[#改ページ]
特急あいづ殺人事件
特急「あいづ」は、昭和四十年から、二十年以上、走り続けている特急列車である。
最初は、気動車特急として、上野−山形間の「やまばと」に、併結して、会津若松まで、走っていたが、四十三年十月に、「あいづ」として独立している。
現在、一往復だけの運転だが、上野から乗りかえなしに、猪苗代や、会津若松へ行けるので、人気がある。
十津川の妻の直子も、友人が、猪苗代湖の湖畔に建てたペンションに、招待されて行くのに、この列車を使うことにした。
猪苗代湖に、一番早く行くには、東北新幹線で、郡山に出て、磐越西線に乗りかえる方法だろう。
最初は、そのルートで、と思ったが、乗りかえるのが、面倒なのと、別に急ぐ旅行でもないので、直子は、直通の「あいづ」にしたのである。
下りの特急「あいづ」は、一四時一五分上野発で、猪苗代着は、一七時二八分である。三時間少しの旅だから、別に、新幹線を、使うこともないだろう。
夫の十津川は、仕事の都合で、送りに来てくれなかったが、すれ違いはしょっちゅうだから、別に苦にならない。上野駅に着くと、「これから行って来ます」と、電話しておいて、改札口に入った。
9番線には、すでに、下りの「あいづ」が、入線していた。
九両編成で、6号車が、グリーン車になっている。旅行する時は、ぜいたくをしたくて、直子は、グリーン車にした。
会津若松へは、逆編成で走るから、6号車といっても、先頭から四番目である。
まだ、三月下旬で、東北の観光シーズンには、間があるせいか、グリーン車は、すいていた。三十パーセントほどの客しかいない。ウィークデイのせいもあるだろう。
旅行する人間としては、列車は、すいている方がいい。直子は、座席を確かめてから腰を下ろし、上野駅の売店で買った東北の観光案内を広げた。
東北には、何回か行っているが、猪苗代湖へ行くのは、初めてである。
福島県のほぼ中央、海抜五一四メートルにある、わが国三位の湖と、書いてある。近くには、野口英世の記念館や、民俗館もあるらしいから、明日は、見物に行ってみようか。それに、白鳥浜というのもある。まだ、白鳥は、いるのだろうか。
そんなことを考えている中《うち》に、列車が、発車していた。車掌が、車内検札に、やって来る。
列車は、大宮、宇都宮と停車する。宇都宮には、二分停車なので、直子も、ホームに降りて、駅弁を買った。
宇都宮は、明治十八年に、ここで売られた梅干入りのにぎり飯が、日本最初の駅弁であるだけに、売られている駅弁の数は多い。
直子は、その中から、とりめし弁当を買った。とりのスープで、炊きあげたご飯の上に、とりそぼろ、ひなどりの照り焼きが、のっている。おかずは、香のものや、枝豆である。
列車が、動き出してから、直子は駅弁のふたを取り、食べ始めた。それほど、お腹はすいていなかったが、旅行に出ると、駅弁を買うのが、楽しみだったからである。
お茶をついで、一口飲んだ時、突然、前方で、悲鳴が、起きた。甲高《かんだか》い、女の悲鳴だった。
はっとして、悲鳴のした方に、眼をやった。
四、五列前の座席から、若い女が、ふらふらと立ち上り、そのまま、通路に崩れ折れた。
胸に、ナイフが突き刺さっているのが見えた。血が、出ている。
近くにいた乗客は、呆然として、見ているだけである。
直子は、駆け寄って、女の身体を、抱き起こした。血が噴き出して止まらない。
「すぐ、車掌さんを、呼んで下さい!」
と、直子が、叫んだ。
乗客の一人が、あわてて、連絡に走って行った。
その時、直子の腕の中で、女が、小さく、口を動かした。
「何なの?」
と、直子は、耳を近づける。
「アキ――」
と、かすかに、聞こえた。
「もう一度、いって!」
と、直子は、大声でいった。が、女は、もう、何かいう気力も、体力もなくなってしまったのか、眼を閉じ、ぐったりとなってしまった。
車掌が、飛んで来た。
「次は、どこで停まるの?」
と、直子がきく。
「西那須野で、あと、五、六分で着きます」
「駅に連絡しておいて、すぐ、救急車で運べるようにして」
と、直子は、いった。
西那須野に着くと、救急車が、待っていて、すぐ病院へ運ばれた。
同時に、警察にも連絡が行ったので、病院には、栃木県警の刑事たちが、パトカーで駈けつけた。
直子は、行きがかりから、救急車に同乗して、那須塩原の病院まで、行った。
胸を刺された若い女は、すぐ、手術を受けたが、その途中で、死亡した。失血死である。
おかげで、直子は、県警の刑事たちから訊問される破目になった。
直子は、突然、悲鳴が聞こえた時、若い女が、通路までよろめいて来て倒れ、胸にナイフが突き刺さっていたこと、そして、自分に向って、「アキ――」と、いったことを話した。
県警の刑事たちは、最後の伝言に鋭く、関心を示した。
「アキ――といったのは、間違いありませんか?」
と、刑事たちの中の、大内という警部が、念を押した。
「間違いありませんわ。アキと、確かにいいました。どういう意味か、わかりませんけど」
「彼女は、胸を刺されて、殺されましたが、グリーン車内で、怪しい人間を見ませんでしたか?」
と、大内警部が、きく。顔の大きな男だなと、直子は、思いながら、
「ともかく、とっさのことだし、一刻も早く、列車からおろして病院にと思っていましたから、他のことまでは、気が廻りませんでした」
と、直子は、正直に、いった。
「被害者は、宇都宮から猪苗代までの切符を持っていましたが、宇都宮で乗って来たのは、知っていましたか?」
「いいえ。私は、宇都宮でホームに降りて駅弁を買うのに夢中でしたから、気がつきませんでしたわ」
と、直子は、いってから、
「じゃあ、宇都宮の人なんですか?」
「いや、運転免許証から見ると、東京の人間ですね。多分、宇都宮で、何か用があって、今は、あの列車で、猪苗代へ行くつもりだったんでしょう。グリーン車の9Dの切符です」
「そうだと思いますわ。私の三、四列前の席にいたんですから」
と、直子は、いった。
彼女がいろいろと、証言したせいか、それとも、警視庁捜査一課の十津川の妻とわかったためか、大内は、被害者の名前を、教えてくれた。
橋口ゆう子、二十七歳。東京都世田谷区松原一丁目ヴィラ「松原」306号。
それが殺された女性の身元だという。
「何をしている人なんですか?」
と、直子がきくと、
「それを、これから調べるんです」
と、大内は、いった。
黒磯警察署まで行き、そこで、直子は、改めて調書をとられた。恐らく、ここに、捜査本部が、置かれるのだろう。
直子は、警察の電話を借りて、猪苗代の友人に、電話をかけ、おくれることを告げた。
「列車の中で、殺人なんて、本当なの?」
と、大学時代からの友人は、疑わしげに、きいた。
「テレビのニュースで、やると思うから見ていて」
「もちろん見るけど、それが、本当だとすると、あなたが、こちらに着くのは、明日になりそうね」
「どうして? まだ、午後の六時前よ」
「きっと、あなたが、事件に興味を持って、そっちで、聞き廻るからよ」
と、友人は、笑った。
彼女の推測は、当っていた。直子は、持ち前の好奇心で、黒磯にとどまり、事件の推移を見守ることになった。
会津若松行の「あいづ」には、栃木県警の刑事が二人、西那須野から乗り込んで、走る車内で、車掌や、他の乗客から事情聴取を始めていた。
その結果も、黒磯署に置かれた捜査本部に、報告されて来た。
直子は、黒磯署に、腰を落ちつけ、その情報を、仕入れようとした。
大内警部は、その中から、教えてくれたこともあれば、教えてくれないこともあった。
「あいづ」の車掌は、被害者が、宇都宮から、一人で乗って来たと証言した。それを、直子にも教えてくれたが、他の乗客の証言は、教えてくれなかった。
また、車内で、被害者橋口ゆう子のものと思われるショルダーバッグが発見されたというが、その中身は、「現在調査中」ということで、教えてくれなかった。
直子は、その夜おそく、猪苗代湖に着いた。
友人、広田みさ子のペンションに入って、すぐ、テレビを見せて貰った。やはり、自分が巻き込まれた事件のことが、気になったからである。
「やっぱり、事件になると、血がさわぐのね」
と、傍から、みさ子が、からかった。
「静かにして」
と、直子は、口に、指を当てた。
みさ子に何といわれても、夢中で、ニュースを見ていた。
午後十一時のニュースでは、殺された橋口ゆう子の職業が、はっきりした。
ショルダーバッグの中身や、東京に問い合せたりして、彼女が、ルポライターだと、わかったとしている。
彼女が、寄稿した雑誌やメモ帳、それに、カメラなどが、バッグの中に、入っていたという。
ただ、直子の聞いたダイイングメッセージについては、何の発表もなかった。どうやら、警察が意識して、おさえたらしい。
「女のルポライターか」
と、直子は、テレビから眼をそらして、呟《つぶや》いた。
そのことと、あの「アキ――」という言葉とは、関係があるのだろうか?
東京の自宅に、電話すると、夫の十津川が出て、
「栃木県警の大内警部に聞いたが、大変だったらしいね」
「そうなの。服に血がついて、なかなか、落ちなかったわ」
「大内警部が、君にいっておいて欲しいといったことがある」
「ダイイングメッセージのことでしょう?」
「そうだ、県警としては、しばらく、伏せておきたいそうだよ。だから了承してくれと、いっていた」
「じゃあ、私は、黙っていた方がいいわね?」
「それがいい。犯人にとって、致命傷になるダイイングメッセージだとすると、君だけが知っていると思えば、君の口を封じようとするかも知れないからね」
と、十津川は、心配した。
「わかったわ。それで、被害者のことを、調べているんでしょうね」
「協力要請があったんでね」
「どんな女性なの?」
と、直子がきくと、十津川は、「おい、おい」と、呆《あき》れた様子で、
「また、首を突っ込もうというんじゃないだろうね?」
「もう、すでに、巻き込まれてしまってるわ」
と、直子は、いってから、
「どんな女性?」
と、もう一度、きいた。
「まだ、表面的にしかわからないが、独身で、筆も立ち、男に伍して、立派に、やっていたらしいよ。それどころか、負けず嫌いだったようだ」
「何の仕事で、あの列車に乗ったのかしら?」
「それが、わからないんだが、彼女がよく仕事をしていた雑誌の編集長の話だと、何か大きな事件を追っていたらしいということだ。期待して、待っていて下さいといって、出かけたそうだよ」
「面白くなって来たわ」
「まさか、君が、彼女に代って、その事件を追いかけようって、いうんじゃないだろうね?」
「それが、何かわかれば、やってみたいけど」
と、直子は、いった。
「あまり、私に、心配させないでくれよ」
「いつもは、あなたが、私を心配させているのよ」
と、直子は、一言いっておいた。
翌朝、十津川は、前夜の戸惑いを引きずったまま、警視庁に、出勤した。
戸惑いは、妻の直子のことである。好奇心が、旺盛すぎるから、とんでもないことをしないとも限らない。それが、心配だった。何といっても、事件、特に、殺人事件に関してはアマチュアなのだし、犯人の方は、だからといって、手心は、加えないからである。
「栃木県警から、リストを送って来ました」
と、亀井が、いった。
「何のリストだい?」
「昨日、『あいづ』のグリーン車に乗っていた乗客のリストです」
「西那須野で、乗り込んで、県警の刑事が作ったやつか」
「そうです。全員で、十六名。その中、東京が、九名です」
「グリーン車の定員が、確か四十八名だから半分以下か」
「かなり、すいていたようです」
「しかし、犯人は、グリーン車で、刺したあと、他の車両に、逃げて行ったかも知れんじゃないか」
「その点を聞きましたら、車掌にも協力して貰って、九両の車両の乗客全員の切符を調べたそうです。それで、グリーン切符の人だけ住所、名前を、メモしたと、いっています」
「それならいいが」
「みんなに、分担して、調べさせます」
と、亀井が、いった。
九名の乗客が、西本刑事たち三人に割り当てられ、彼等が、出かけて行った。
そのあと、日下と、清水刑事の二人が、もう一度、被害者橋口ゆう子のことを調べに、警視庁を出て行った。知りたいのは、彼女が、何を調べようとしていたかである。
「警部の奥さんが聞かれたダイイングメッセージのことは、どう思われますか?」
と、二人だけになってから、亀井が、十津川に、きいた。
「アキ――ねえ。普通に考えれば、犯人の名前だろうね」
「秋本とか、秋山ですか」
「ああ。或いは、明といった姓名の名の方かも知れない」
「私は、ひょっとして、地名かも知れないと思って、調べてみたんですが」
と、亀井が、いう。
「地名ね。アキのつく地名か」
「東北だと、秋田がありますが」
「しかし、被害者は、猪苗代へ行くことになっていたんだろう?」
「そうなんです。猪苗代までの間に、アキのつく地名なり、駅名なりがあるかと思ったんですが」
「あるかね?」
「あの列車が停車する駅にはありません」
「じゃあ、やはり、犯人の名前だろう」
と、十津川は、いった。
「もう一つわからないのは、列車の中で刺されたのに、目撃者がいないことです」
亀井が、首をかしげた。
「それは、グリーン車が、すいていたからだろう。がらがらなら、気付かれずに、刺せるんじゃないかね。手袋をはめていれば、指紋はつかないよ」
「ええ。そうですが――」
「まだ、不満かね?」
「刺した時間も、不審なんですよ」
と、亀井が、いう。
「時間というと?」
「被害者は、宇都宮から乗って来ましたから、もちろん、そのあとでなければ、刺せませんが。だから、宇都宮を出てから刺したのはわかるんですが、刺されたあと、次の停車駅まで五、六分かかっています」
「カメさんのいいたいことは、わかるよ。犯人は、逃げることを考えれば、当然、次の停車駅に着く直前、刺すんじゃないかということだろう?」
「その通りです。刺しておいて、列車が、駅に着いたら、すぐ逃げる。私が犯人なら、そうします」
「私も、そうするよ」
と、十津川は、いった。
「なぜ、今度の犯人は、そうしなかったんでしょうか?」
「なぜかな。絶対に逃げる自信があったのか、それとも、時間的な余裕がなかったのか」
「余裕といいますと?」
「犯人は、もっと、西那須野に近づいてから、殺したかった。或いは、その次の黒磯に近づいてからね。しかし、被害者が、気付いて、騒ぎかけたので、刺してしまった。そういうことさ」
と、十津川は、いった。
「なるほど」
「だが、違うかも知れないね」
と、十津川は、慎重に、いった。
日下と清水の二人が、先に、帰って来た。
「橋口ゆう子ですが、昨日、三月二十八日の午前九時に、自宅マンションを出たことが、わかりました」
と、日下が、報告した。
「すると、宇都宮には、一時的に立ち寄っただけなんだな?」
「そうですね。多分、上野から、新幹線で宇都宮へ行き、何か、用をすませてから、『あいづ』に、乗ったんだと思います。上野に、午前十時に着いたとして、新幹線で、宇都宮まで四十七分です。何か、用事をすませてからでも、下りの『あいづ』に、乗れます」
「誰と会ったかがわかれば、犯人の目星もつくな」
と、十津川はいい、すぐ、栃木県警の大内警部に、知らせた。
西本たちが、帰って来たのは、午後になってからである。
栃木県警から依頼された九人の乗客のことを、調べ終ってである。
「九人とも、住所、氏名とも、事実でした」
と、西本は、メモを見ながら、いった。
「本当のことを、話していたということだね」
「そうです。問題は、殺された橋口ゆう子との関係ですが、九人とも、何の接点もありません」
「当人がなくても、家族に、あるかも知れんよ」
「そう思いましたので、家族のことも、調べました。友人関係もです。しかし、橋口ゆう子という名前は、全く、浮んで来ませんでした」
「動機なしか」
「そうです。この九人の中に、橋口ゆう子を殺す動機の持主は、いませんでした。それから、これは、九人が、昨日、どこへ、何しに行くところだったかを、調べたものです」
と、西本はいい、メモを、十津川に、渡した。
十津川は、その九人と、他に、東京以外の乗客七人の名前を、並べて、じっと見すえた。
「アキ――」に該当する名前は、ないかと思ったからである。
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
秋吉 実(三五歳)東京都練馬区石神井M鉄鋼業務課係長
妻の実家が、会津若松にあり、妻子が先に帰っていて、二十八日に、本人も、休暇をとって帰る途中。
[#ここで字下げ終わり]
この一人だけである。
西本たちの調べたところでは、平凡なサラリーマンで、殺人とは、無縁な人間に見えるし、橋口ゆう子との間に、接点は、見つからないということだった。
「これは、警部にいわれた通り、グリーン車ではなく、他の車両に、犯人がいたんだと思いますね」
と、亀井は、「あいづ」の編成図を見ながらいった。
九両編成の「あいづ」は、6号車が、グリーンだから、会津若松方向に向って、その前方に、三両、後方に、五両の車両が、連結されている。
自由席が三両、指定席が五両である。
ウィークデイで、すいていたといっても、一両に、二十人くらいの乗客は、いたに違いないから、グリーン以外に、百六十人前後の乗客はいたのである。
亀井は、その中に、犯人がいたのではないかという。
「その人間が、グリーン車に入って来て、橋口ゆう子を刺殺し、また、他の車両に、逃げたということかい?」
と、十津川が、きいた。
「そうです。グリーン車の乗客には、犯人がいないようですから、他の車両にいたと考えるのが、妥当だと思いますね」
「橋口ゆう子というのは、売れっ子のライターだったのかな?」
「いえ。新人でしょう。あまり、名前は、聞いていませんから」
「そんな新人が、普通、取材に行くのに、グリーン車を利用するものだろうか? 自由席だって、すいていたんだし、宇都宮から、猪苗代まで、わずか、二時間なのに」
と、十津川が、首をかしげた。
亀井が、「どうなんだ?」と、日下に、きいた。日下が寄って来て、
「彼女と一緒に仕事をした人間の話では、取材では、いつも、自由席で、旅行していたそうです」
と、いった。
「すると、取材の相手に、グリーンの切符を貰ったかな?」
と、十津川が、いった。
「しかし、警部。取材する相手に、そんなものを貰ったら、まずいと思うんじゃありませんかねえ。もし、彼女が取材しようとしていたことが、いろいろと、問題のあることだったとすると、なおさらだと思うんですが」
亀井が、異議を唱えた。
「普通は、そうだがね。彼女が、何を調べようとしていたのか、それがわかれば、グリーン車に乗った理由も、わかってくると思うんだがねえ」
「その点を、もう一度、調べてみてくれ」
と、亀井は、日下と、清水の二人にいった。
二人が、出かけて行ったあとで、電話が入った。
相手は、栃木県警の大内警部だった。
「宇都宮での橋口ゆう子の行動が、わかりましたよ」
「誰かに、会っていたんですか?」
と、十津川は、いった。もし、その相手がわかれば、解決に近づくと思ったのだ。
「誰かに、会うために、宇都宮に来たことは、間違いありません。JRの駅の前から、タクシーに乗っています。二十八日の午前十一時二十分頃、橋口ゆう子と思われる女性が、タクシーに乗っています。どうやら、一一時〇七分着の東北新幹線の『やまびこ105号』に、乗って来たと、思われます」
「タクシーは、どこへ行ったんですか?」
「駅から車で七、八分のところにあるKホテルです」
「そこで、誰かと、会ったんですか?」
「ホテルの話では、彼女は、ロビーに入って来て、まず、周囲を見廻し、それから、腰を下ろして、誰かを、待っているようだったと、いっています。美人なので、フロントは、よく覚えていたといっています」
「そのあとは?」
「二時間近く、ロビーにいたそうです。その時、フロントに近づいて、自分は、橋口ゆう子だが、何か、メッセージは来ていないかと、きいたといっています」
「なるほど」
「フロントが、来ていないというと、そのあとも、しばらく、ロビーにいたが、腕時計を見ながら、出て行ったそうです」
「そのあと、宇都宮から、下りの『あいづ』に、乗ったわけですね?」
「そう考えられます。一時間前に、遺体の解剖がすみましたが、胃の中には、ピザの材料と思われるものが、まだ、完全に消化されずに、残っていたということです」
「つまり、Kホテルを出たあと、『あいづ』に乗るまでに、ピザを食べたということですか?」
「そう考えて、駅周辺の店を、今、洗っています。Kホテルを出たのが、午後一時三十分頃で、下りの『あいづ』の宇都宮発が、一五時三五分(午後三時三十五分)ですから、その間に、食事をしたんだと思います」
と、大内は、いった。
「Kホテルで、誰と会うことになっていたかがわかれば、いいんですがねえ」
「そうなんです。それで、これからも、そちらの調査に、期待しております」
と、大内は、いった。
確かに、その通りだった。問題は、何のために、橋口ゆう子が「あいづ」に乗って、猪苗代へ行こうとしていたかということに、なってくるからである。
日下から、興奮した口調で、電話連絡が入ったのは、その二時間ほど、あとだった。
「橋口ゆう子が、何を調べていたか、わかりましたよ」
「何を調べていたんだ?」
と、十津川が、きいた。
「片岡友子と、建設省事務次官の大田原健一とのスキャンダルです」
「女優のか?」
「そうです。女優の背後に、T不動産がついていて、T不動産の社長は、その次官から、いろいろと、情報を得て、大儲けをした。どうやら、贈収賄事件に発展しそうだという話です」
「それを、調べていたということなのかね?」
「そうです」
「猪苗代には、なぜ、行くことにしていたんだろう?」
「それはわかりませんが、猪苗代湖に、片岡友子の別荘があります。T不動産が、建てたものですが」
「なるほどね。この事件について、誰かが、橋口ゆう子に、情報を渡すといったので、彼女は、出かけたということかね?」
「そうなると、思います」
「では、片岡友子と、T不動産の社長、何といったかな?」
「徳田誠一郎です」
「その二人が、今、どこにいるか、また、二十八日に、どこでどうしていたか、わかっているのかね?」
「それは、まだです。これから、調べてみます」
と、日下は、いった。
「頼むよ」
と、十津川は、励ましてから、すぐ、大内警部に、連絡をとった。
大内も、興奮した口調になって、
「猪苗代湖に、片岡友子の別荘があるかどうか、調べてみます」
と、いった。
「宇都宮のホテルで、会うことになっていたのも、その関係者の一人だと思いますね」
「同感です」
と、大内は、いった。
少し、事件の核心に近づいたなと思った。
そうなると、十津川は、妻の直子のことが、心配になってきて、退庁後に、猪苗代湖のペンションに、電話をかけた。
「何の用なの?」
と、直子は、十津川に、きいた。
「どうしているかと思ってね」
十津川は、当り障りのないいい方をした。
「元気でいるわ。今日も、猪苗代湖のまわりを歩いて来たの。ところどころに、雪が残っているけど、もう、春の息吹きが感じられて楽しかったわ」
直子は、元気な声を出した。そのことに、十津川は、ほっとしながら、
「東北の春を、楽しみたまえ」
と、いった。事件のことを忘れてと、暗に、いいたかったのだ。
「楽しんでるわ。今日、湖畔を歩いていたら、素敵な別荘があったの。お城みたいな感じだったわ。小さなお城。プチ・シャトーね。誰の別荘だと思ったら、女優の片岡友子の別荘なのよ」
「――――」
十津川は、やれやれと、思った。
直子が、事件に首を突っ込むと困るなと思っているのに、どうしても、関係してくるようになってしまうのだろうか。
「あなた。聞いてらっしゃるの?」
と、直子の声がする。
「ああ、聞いてるよ」
「片岡友子って、知ってるでしょう? 美人女優の」
「知ってるよ。会ったことはないがね」
「何いってらっしゃるの? 私だって、女優さんに会ったことなんかないわよ」
と、直子は、電話の向うで、笑った。
「それで、その別荘で、誰かに会ったのかね?」
十津川の方から、今度は、質問した。
「誰かいたら、いろいろと、話を聞こうと思ったんだけど、誰もいなかったみたい。インターホンを鳴らしてみたけど、応答がなかったから」
と、直子は、いう。
「もう、その小さなお城には、近づかない方がいいね」
「なぜ?」
「例の事件だがね」
「ええ。『あいづ』の車内で殺された事件ね。あれと、関係があるの?」
もう、直子の声が、弾《はず》んでしまっている。十津川は、困ったものだと思いながら、
「殺された女性は、どうやら、猪苗代湖で、片岡友子に会いに行く予定だったらしいからだよ」
「本当なの?」
「県警が、その別荘を調べる筈だ。だから、君は、近づかない方がいい」
「でも、見に行くだけなら、構わないでしょう?」
「県警の捜査の邪魔はしないでくれよ」
「大丈夫。私だって、刑事の奥さんだから、ちゃんと、心得てるわ」
と、直子は、いった。
(本当に、心得てくれているといいんだが)
と、十津川は、内心、心配だったが、
「わかった。気をつけてね」
とだけ、いって、電話を切った。
十津川は、自宅マンションに帰ったのだが、深夜になって、亀井から、電話が入った。
「片岡友子が、行方不明です」
と、亀井が、いった。
「どういうことなんだ?」
と、十津川は、きいた。
「日下君たちが、関係者のアリバイを調べに行ったんですが、その時、片岡友子については、居所が不明で、マネージャーに、会ったんです。そのマネージャーから、さっき、電話がありまして、彼女を探しているんだが、見つからない。何かあったかも知れないので、心配だというんです」
「マネージャーは、今、どこにいるんだ?」
「警視庁に来ています。電話して来たので、くわしいことを聞くために、来て貰ったんです」
「私も、すぐ行くよ」
と、十津川は、いった。
十津川は、直子のミニ・クーパーSに乗り、警視庁まで、走らせた。
ひっそりと静まり返った捜査一課の部屋に、若いマネージャーが、不安げな顔で、亀井と、十津川を待っていた。
名前は、井上といい、二年前に大学を出て、プロダクションに入り、去年の十月から、片岡友子のマネージャーになったという。
「昨日から、所在が、つかめないそうです」
と、亀井が、いった。
「猪苗代湖に、別荘がありますね。あそこに、行ってないんですか?」
十津川は、井上を見て、きいた。
「一応電話してみましたが、誰も、出ません。それに、まだ、寒いですから、彼女は、猪苗代には、行かないと思います。あの別荘は、夏に水上スキーを楽しむために行くと、いっていましたから」
と、井上は、いう。
「三月二十八日は、どこにいましたか?」
「久しぶりの休みをとって、ひとりで、過ごしていましたが」
「ひとりでというと、あなたとも別にですか?」
「ええ」
「すると、二十八日から、ずっと、行方不明なんじゃありませんか?」
「それは、違います。二十八日の夕方、電話があって、明日は、午前八時のNテレビの仕事があるから、テレビ局の前で、落ち合いましょうと、いっていたんです」
「しかし、午前八時には、Nテレビに、来なかったんですね?」
「ええ。そうなんです」
「二十八日は、どこにいたか、わかりますか?」
「彼女は、たまに、休みがとれると、一日、自宅で、ぼんやりして過ごすと、いっていましたから、二十八日も、そうしていると、思っていたんです」
「しかし、二十九日、自宅には、いなかった?」
「そうです。原宿のマンションには、いませんでした」
「テレビ局の前で、会うというのは、おかしいんじゃありませんか?」
と、十津川は、いった。
「そうなんです。普通は、朝、僕が、迎えに行くんですが、昨日の朝は、何か、わけがあるのだろうと思ったんです」
「なるほどね。彼女と、T不動産の徳田社長との関係は、もちろん、知っていますね?」
「ええ。週刊誌に、取り上げられたりしていますがね。しかし、警部さん。友子は、別れる気になっていたんです」
と、井上は、いった。
「あなたにも、そう、いったんですか?」
「ええ。いっていました」
「橋口ゆう子という女性を知っていますか?」
「橋口? 列車の中で殺された人じゃありませんか?」
「そうです。ルポライターでね、徳田社長のことや、片岡友子さんのことを、調べていたと思われるんですよ。どうですか? 彼女のことを、片岡友子さんから、何か、聞いていませんか?」
「そういえば――」
「何です?」
「二十五日だったと思いますが、Sテレビで、仕事があった時、二十六、七歳の女性が、友子に会いに来ました。彼女が、確か、橋口とか、いってましたが」
「片岡友子さんは、その時、会ったんですか?」
「ええ。テレビ局の喫茶室で」
「どんな話をしたか、覚えていますか?」
「それが、友子が、二人だけにして欲しいというもので」
「会う約束がしてあったんですかね?」
「わかりません。友子は、あまり、雑誌記者やカメラマンに会うのは、好きじゃないんですがね」
と、井上は、いった。
「最近、徳田社長に会ったことがありますか?」
「いえ、最近は、会っていませんが――」
と、井上は、首を横に振った。
「片岡友子さんが、原宿のマンションにいないことは、間違いないんですね?」
「ええ。キーを預かっているんで、念のために、中に入ってみましたが、誰もいませんでした」
「明日、猪苗代湖へ、私と一緒に、行ってくれませんか?」
と、十津川が、いうと、井上は、びっくりした顔になって、
「しかし、彼女が、あの別荘へ行ってる筈はありませんが」
「とにかく、一緒に、行って下さい」
と、十津川は、いった。
翌三十一日の朝、十津川と、亀井は、井上マネージャーを連れ、上野から、東北新幹線に乗り、猪苗代に向った。
郡山で乗りかえ、猪苗代に着いたのは午前九時半過ぎである。
駅には、福島県警の田宮という警部と、栃木県警の大内警部が、迎えに来ていた。
十津川は、二人に、井上マネージャーを、紹介してから、
「別荘は、どうなっています?」
と、きいた。
「令状がとれたので、これから、中を調べてみようと思っているところです」
と、福島県警の田宮が、いった。
十津川たちは、二台のパトカーに分乗して、猪苗代湖に向った。
直子のいった通り、湖の周囲には、ところどころ、雪が、残っている。
パトカーは、湖岸を走る国道49号線を、会津若松に向って走り、翁島《おきなじま》の見えるあたりで、とまった。
なるほど、小さなお城のような、洒落《しやれ》た別荘の前だった。
玄関のカギをこわし、福島県警の田宮を先頭に、家の中に入った。
若い刑事の一人が、部屋の明りをつけた。
一階の居間は、ひんやりと、寒かった。灯油ストーブが、二つ置かれていたが、二つとも、消えている。
三十畳近い部屋の隅に、ナイトガウン姿の若い女が、倒れていた。
「片岡さん!」
と、井上が叫んで、駈け寄る。
それを、田宮が、制し、屈み込んで、脈を調べていたが、
「死んでいますね」
と、十津川たちに、いった。
「首を絞められていますね」
と、いったのは、大内だった。
田宮が、室内の電話で、鑑識を、呼んでいる。
十津川は、邪魔になっては悪いと考え、亀井と、しばらく、外に出ていることにした。
二人は、春の陽光の中で、湖畔を、歩いた。
「やはり、橋口ゆう子は、ここで、片岡友子に、会うことにしていたんですかね?」
と、亀井が、歩きながら、きいた。
「そうだろうね。少くとも、橋口ゆう子は、そのつもりで、二十八日、宇都宮から、『あいづ』に、乗ったんだろう」
「だが、車内で、何者かに、殺されてしまった。彼女を、片岡友子に会わせたくない人間が、殺したんだと思いますが」
「整理してみよう」
と、十津川は、いった。
二人は、立ち止まり、十津川は、煙草に火をつけた。
「橋口ゆう子は、T不動産と建設省との間の贈収賄事件を、調べていた。そのカギを握る人間として、片岡友子に、会った。二十五日だ」
と、十津川は、いった。
「そこで、何か、約束が、出来たんでしょうか?」
「マネージャーの言葉によると、片岡友子は、T不動産の徳田社長から、離れたがっていたというから、それを、橋口ゆう子の力を借りて、やろうとしたのかも知れない。二十八日は、休みがとれるから、猪苗代湖の別荘に来てくれ。その時に、何もかも話すと約束した」
「片岡友子は、別荘に行って、橋口ゆう子を、待っていたわけですか?」
「そうだろうね」
「すると、『あいづ』のグリーンの切符を送ったのも、片岡友子ということになって来ますね」
「そうだな。それを知って、贈収賄の関係者が、橋口ゆう子を殺し、片岡友子も、消したというのが、今度の事件だろうね」
「関係者というと、建設省の次官と、T不動産の徳田社長ということですね」
「二人のアリバイを、日下刑事たちが、調べているんだろう?」
「そうです。それで、犯人が、わかります」
と、亀井は、いった。が、すぐ、首を振って、
「しかし、一つだけ、わからないことがあります」
「何だい?」
「橋口ゆう子が、宇都宮のKホテルで、誰に会うつもりだったかということです」
「そのことか」
十津川も、考え込んでしまった。
「片岡友子が、猪苗代湖の別荘で、待っているのだとすれば、橋口ゆう子は、別に、宇都宮で、降りる必要は、ないわけです」
「犯人かな?」
と、十津川は、呟いた。
「しかし、橋口ゆう子は、『あいづ』の車内で、殺されたんですが」
「そこが、はっきりしないねえ。犯人は、宇都宮で、殺そうとしたが、何かの理由で、行くことが出来ず、やむを得ず、『あいづ』の車内で、殺したのかな」
と、十津川は、いった。
だが、何となく、しっくり来ない感じがする。
二人は、うまく、推理できないままに、別荘に戻ることにした。
別荘の近くまで戻った時、亀井が、急に、「あれ?」と、声をあげた。
「警部の奥さんがいますよ」
なるほど、別荘の傍に、妻の直子が、友人と二人で、こっちを見ている。十津川は、照れ臭くて、
「家内の友だちが、この近くに、ペンションを建てていて、遊びに来ているんだよ」
「それで、『あいづ』の車内で、事件にぶつかられたわけですか?」
「そんなところだ。とにかく、中に入ろう」
十津川は、亀井にいい、そそくさと、別荘の中に入った。
鑑識は、すでに引き揚げ、死体が、これから担架にのせられて、運び出されるところだった。
「死因は、やはり、首を絞められたことでの窒息死です」
と、福島県警の田宮警部が、十津川に、いった。
「時間は、まだ、わかりませんか?」
「二十八日の夜だろうと、検死官は、いっています」
「橋口ゆう子が殺されたのと同じ日ですか?」
「そうです。同じ犯人だとすると、『あいづ』の車内で、まず、橋口ゆう子を殺し、続けて、この別荘にやって来て、片岡友子を殺したようですね」
と、栃木県警の大内警部も、いった。
「一日に二人ですか」
亀井が、ぶぜんとした顔で、呟いた。
「犯人にしてみれば、危機感を持ったんだろう」
と、十津川は、いった。
「しかし、犯人逮捕は、近いと思いますよ。東京で調べて下さったおかげで、T不動産の徳田社長と、建設省の次官、名前は、大田原健一のどちらかが、犯人だろうと思っています。或いは、二人が、共犯か」
大内が、楽観的に、いう。
「今、私の部下が、二人のアリバイを調べています」
と、十津川は、いった。ただ、十津川は、大内ほど、楽観的には、なれなかった。
徳田にしろ、大田原にしろ、中年の分別盛りだし、頭だって、悪くはないだろう。そんな人間が、すぐ、足がつくようなことを、するだろうかという不安が、あるからだった。
それに、容疑者が、はっきりしているのはいいが、もし、この二人のアリバイが成立してしまうと、あとは、大変だろうとも、思う。
十津川と、亀井は、その日は、別荘近くの旅館に泊ることにした。
午後になって、待っていた日下たちからの電話が入った。
「建設省の次官は、アリバイが成立しました。二十八日は、建設省の次官室で、何人かの来客と、会っていますし、午後八時頃まで、省内で仕事をしていたことが、確認されました」
と、日下は、いった。
「徳田の方は、どうだ?」
「彼は、仕事で、二十七日から秋田へ出かけていて、二十九日の夕方、帰って来たと、いっています」
「秋田だって?」
「はい。秋田では、市内の旭ホテルに泊り、二十八日の昼すぎに、チェック・アウトして、福島に行き、二十八日、二十九日と、福島の吉田旅館に、泊ったと、いっています」
「確認したのかね?」
「一応、二つのホテルと旅館に、電話しました。秋田の旭ホテルでは、間違いなく、二十七日の午後三時に、チェック・インし、翌二十八日の昼の十二時三十分に、チェック・アウトしたそうです」
「しかし、その間に、外出したかどうかは、わからんのだろう?」
「そうですが、二十八日の朝八時に、ルームサービスで、朝食をとっています。サービス係は、徳田が、部屋にいたことは、確認しています」
「すると、『あいづ』の車内で、橋口ゆう子は、殺せないね?」
「殺せません」
「福島の方は、どうなんだ? 間違いなく、徳田は、福島に行ってるのか?」
「市内の吉田旅館に問い合せました。二十八日の夜、間違いなく、泊っていますね」
「夜? 何時頃だ?」
「午後八時頃だそうです。そして、翌二十九日に、東北新幹線で、帰京しています。吉田旅館でも、二十九日の午後、出発したことを、証言してくれました」
「秋田は、仕事か?」
「そうです。材木を見に行ったといっています」
「しかし、彼は、不動産屋で、建設業者じゃないんだろう?」
「なんでも、今度、伊豆に別荘を建てるので、自分で材木を見に行ったんだと、いっています。向うで会った業者の名前をいっているので、今、秋田県警に、問い合せているところです」
「福島には、何の用があったんだ?」
「こちらは、観光だそうです。自分で、そういっています」
と、日下は、いった。
「また、何かわかったら、すぐ、連絡してくれ」
と、十津川は、いって、電話を切ると、会津若松署に置かれた捜査本部に、連絡した。
田宮警部は、礼をいってから、
「夕食後、例の別荘へ行きますので、十津川さんたちも、おいで下さい」
と、いった。
十津川は、亀井を誘って、近くの喫茶店に行き、コーヒーを飲んだ。一日に一度は、コーヒーを飲みたくなる。
窓際のテーブルに腰を下ろすと、猪苗代湖の湖面が、かすんで見えた。
「私は、どうも、気になるんだがねえ」
と、十津川が、コーヒーを楽しみながらいうと、亀井が、すかさず、
「秋田でしょう?」
「ああ、橋口ゆう子のダイイングメッセージは、『アキ――』だ。ところが、二人の容疑者の名前は、徳田と、大田原で、アキはつかない。ただ、徳田は、前日から、秋田に行っていたという。アキ――に該当するのは、この地名だけだからね」
「橋口ゆう子は、徳田が、秋田に行っているのを知っていたんじゃないかな」
と、十津川は、いった。
「あり得ますね。徳田が秋田へ行っている間に、猪苗代で、片岡友子に会おうとしたのかも知れません」
「うん」
「ところが、秋田にいると思っていた徳田が、同じ『あいづ』の車内にいた。だから、彼女は、死ぬ直前、『アキタ――』といおうとした。どうですか?」
「それなんだがねえ」
十津川は、腕を組んで、考え込んだ。
「しかし、徳田は、昼の十二時過ぎに、秋田のホテルを出ているとすると、絶対に、『あいづ』には、乗れませんね」
と、亀井が、いう。
「それもあるが、もし、徳田が、乗っていて、橋口ゆう子を刺したのだとしたら、彼女は、『トクダ――』というのが、普通じゃないかね? なぜ『アキ――』と、いったのだろう?」
「やはり、地名の秋田のことじゃないんでしょうか?」
「わからないな。しっくりしないが、今のところ、秋田しかないからねえ」
と、十津川は、いった。
手掛りが見えたと思ったのだが、それが、果して、手掛りかどうか、わからなくなってしまった感じである。
午後六時に、もう一度、片岡友子の別荘で、会合がもたれた時、十津川は、秋田を問題にしたが、福島県警の田宮も、栃木県警の大内も、首をひねってしまった。
田宮は、東北の地図をテーブルに広げて、
「秋田から、宇都宮まで、五百キロ近くありますよ。その秋田に、十二時までいたのなら、とても、宇都宮発一五時三五分の『あいづ』には、乗れませんね」
と、いった。
それなら、橋口ゆう子のダイイングメッセージは、何の意味だったのだろうか?
「片岡友子の解剖結果を、申し上げます」
と、田宮は、地図から顔をあげて、十津川たちに、いった。
首を絞められたことは、すでに、わかっていたが、問題の死亡推定時刻は、二十八日の午後六時から、八時の間だという。
室内にあった指紋は、被害者の片岡友子のもの以外にも、いくつか検出されたということだった。
ただ、その中に、徳田の指紋があっても、彼が、犯人だという証拠には、ならないだろう。徳田は、彼女のパトロンで、何回か、来ている筈だからである。
「ナイトガウンを着ていたことから考えて、彼女が、誰か、それも親しい人間に、会う気でいたことは、確かだと思います。また、単なる物盗りの犯行なら、カギをかけて逃げないでしょう」
と、田宮は、自分の考えを、いった。
居間の隅には、ホーム・バーが設けられているのだが、グラスなどは、全て、しまわれたままだった。
しかし、田宮は、それが、使われなかったのではなく、使ったあと、犯人が、片付けてしまったのだろうと、いった。
「そう考えた方が、自然だからです。というのは、彼女の胃の中に、アルコール分が、残っていたそうです」
と、田宮は、いった。
「すると、やはり、一番、考えられるのは、徳田ですかね」
大内が、考えながら、いった。
「しかし、橋口ゆう子を殺した犯人と、片岡友子を殺した犯人は、同一人だと思いますよ」
と、田宮が、いった。
「となると、徳田は、橋口ゆう子殺しについて、確実なアリバイがあるから、片岡友子も、殺してないことに、なってしまいますよ」
と、大内が、いう。
田宮が、十津川を見た。
「徳田のアリバイは、間違いないんですか?」
「われわれが、調べた限りでは、今、報告した通りです。徳田が、二十八日の昼の十二時すぎまで、秋田のホテルにいたことは、間違いないと思います」
と、十津川は、いった。
「すると、徳田は、シロになってしまいますね」
と、大内が、いい、田宮は、難しい顔で、
「徳田と、大田原の他に、橋口ゆう子と、片岡友子の二人を殺す動機の持主は、いるんでしょうか?」
と、十津川に、きいた。
「個人的に、橋口ゆう子を憎んでいる人間を、見つけることは出来ると思います。しかし、彼女は、徳田と大田原の間の贈収賄を、調べていたので、そのことで殺されたのだとすると、この二人以外に、犯人がいるとは、ちょっと、考えにくいんですがね」
「大田原の方は、間違いなく、二十八日に、役所に、いたんですか?」
と、きいたのは、田宮だった。
「これも、間違いないと思います。何人かが、建設省の中で、彼に会っていますから」
「じゃあ、犯人は、あの列車に乗っていなかったのに、橋口ゆう子は、殺されてしまったことになるんですか?」
そんな筈はないという顔で、大内が、いった。
10
翌四月一日になって、意外な事実が、JRから、報告された。
問題のグリーン車の9Dの座席の裏側に、何かを取りつけた痕跡が、見つかったというのである。
グリーンの9Dは、橋口ゆう子の座席だった。
十津川たちは、すぐ、郡山駅に停車している「あいづ」を、見に行った。
車掌長が、グリーン車に入り、9Dの座席を持ち上げて、裏側を見せてくれた。
なるほど、べったりと、ガムテープを貼りつけた痕《あと》が、合計、八ヶ所、ついている。
「かなり大きなものを、ガムテープで、しっかりと、取りつけたと思われます」
と、車掌長は、いった。
車内の清掃をしても、座席の一つ一つを、引っ繰り返して見ることはしないので、今日まで、発見が、おくれたのだという。
十津川や、田宮、それに、大内たちは、その座席が、9Dであることに、拘《こだわ》った。
三人が考えたことは、ほぼ、同じだった。
三月二十八日に、この座席の下に、ナイフが、発射されるような装置が、取りつけられていたらということである。
もし、座席を持ち上げると、ナイフが、飛び出すようになっていて、9Dに座った橋口ゆう子が、何かの理由で、自分の座席を持ち上げ、裏側を、のぞき込んだら、どうなるのだろうか?
ナイフは、飛び出して、橋口ゆう子の胸に、突き刺さるのではないか?
ナイフは、二十八日に、仕掛けられたと見るべきだろう。
二十七日の「あいづ」に、仕掛けると、その日、9Dに座った乗客が、何かの拍子に、座席の下に手をやったりして、気付くか、ナイフが飛び出して、その人間を、襲いかねないからである。
下りの「あいづ」は、一四時一五分に、上野を発車する。
JRの話では、その四十五分前に、列車は9番線に入っているという。清掃などの時間はあるが、十分前には、乗客は、乗れる筈である。
その間に、犯人は、9Dの座席の下に、ガムテープで、ナイフが飛び出す装置を、取りつけることも、出来るだろう。
橋口ゆう子は、宇都宮から、乗って来た。とすると、犯人は、上野から宇都宮までの間に、仕掛けたことになる。
上野発一四時一五分で、宇都宮着は、一五時三一分である。
上野駅では、入線から発車までの間には時間があるから、一四時〇五分からと考えればいい。
「駄目だな」
と、十津川は、呟いた。
この時間帯まで広げても、徳田も、大田原も、アリバイが、成立してしまうのだ。
建設省次官の大田原は、この時間帯には、まだ、役所にいたし、徳田は、十二時すぎに、秋田のホテルを、出ている。一五時三一分までに、宇都宮には、行けないだろう。
また、壁にぶつかってしまった感じだった。
猪苗代湖の旅館に、妻の直子から、電話があったのは、その日の夜だった。
「テレビで、見たわ」
と、直子が、いった。
「特急『あいづ』の座席のことかね?」
「ええ。あんなことが出来るの?」
「可能らしい。強いバネさえ用意できればね。それで、最近、そうした材料を買っていた人間を探すことになるんだが、これが、大変でね」
「私が聞いたダイイングメッセージは、どうなったの?」
と、直子が、きいた。
「それが、ぴったりしないんだよ。今度の事件で、君の聞いた『アキ――』に該当するのは、徳田が秋田にいたということだけなんだ。ところが、徳田には、アリバイがある」
「座席の下に、バネ仕掛けで飛び出すナイフを仕掛ける方法なら、『あいづ』に、乗っていなくてもいいんでしょう?」
「しかしねえ。座席の下に取りつけるには、一度は、『あいづ』に、乗らなければいけないんだ。それも、宇都宮に、列車が着くまでにね」
「建設省の次官も、アリバイがあるのね?」
「完全なアリバイがね。大田原が、仕掛けられるチャンスは、『あいづ』が、上野駅に停車している間なんだが、この時間帯は、彼は、次官室で、外来者に会っていることが、確認されたんだ」
「人に頼んで、取りつける方法は?」
と、直子が、きく。
十津川は、苦笑して、
「殺人なんだよ。もし、他人に頼んだのなら、列車の座席の下に、仕掛けることなんかじゃなく、直接、橋口ゆう子を殺してくれと頼むよ。間違えて、他の座席に仕掛けてしまったら、大変だからね」
「じゃあ、片岡友子は?」
「彼女は、被害者だよ」
「私は、そんなに単純じゃないと思うのよ」
「彼女も、事件に一役買っているというのかね?」
「そうよ。彼女は、徳田なり、大田原の共犯だと思うの。橋口ゆう子だって、片岡友子の話だから、信用して、『あいづ』に乗ったんだと思うな。切符を送ったのは、間違いなく、片岡友子よ」
と、直子は、いった。
「座席に、仕掛けたのも、片岡友子だと思うのかね?」
「もちろんよ。橋口ゆう子が、なぜ、宇都宮で降りたかを考えれば、一番よくわかるんじゃないの」
「あれも、片岡友子が、そうさせたと思うのかね?」
「考えてもみてよ。もし、橋口ゆう子が、上野から『あいづ』に乗ってしまったら、座席の下には、仕掛けられなくなってしまうわ。どうしても、途中から、乗って欲しいのよ。だから、片岡友子は、橋口ゆう子に、こういったと思うの。二十八日の午前十一時か、十二時に、宇都宮のKホテルのロビーで会いたい。そこで、全てを話すわってね。もし、何か理由があって、行けなくなったら、『あいづ』で、猪苗代湖の別荘に来てくれと。橋口ゆう子にしてみれば、特ダネが取れるかどうかの瀬戸際だから、嫌《いや》だという筈はないわ」
「それで、宇都宮のKホテルのロビーで、じっと誰かを待っていたわけか」
「そうよ。その間に、片岡友子は、『あいづ』に乗り、グリーン車の9Dの座席の下に、仕掛けをしたんだわ。もちろん、友子は、そのまま、猪苗代まで、乗っていったとは、思わない。列車の中で、見つかってしまう恐れがあるもの。だから、上野駅に停車中に、仕掛けたか、上野から大宮までの間に仕掛けて、降りてしまったと思うの。そして、東北新幹線で、早く、猪苗代に来ていたに違いないわ」
「橋口ゆう子が、座席の下を見たのは、偶然だったとは、思えないがねえ」
「当り前よ。それも、片岡友子が、彼女に、『あいづ』の座席の下に、今度の贈収賄事件を明らかにするような書類なり、テープを、ガムテープで、貼りつけておくから、乗ったら、すぐ、取り出して見てと、いっておいたに違いないわ。それで、橋口ゆう子は、宇都宮で乗ってから、9Dに座り、座席の下を探ると、何かが、取りつけてある。でも、ガムテープで、しっかりつけてあるので、手で引っぱったくらいでは、取り出せない。そこで、座席を起こして、取ろうとしたんだと思うわ」
「それで、ナイフが飛び出して、彼女の胸を刺したか」
「バネを強くすれば、可能だわ」
「しかし、そのあと、あの座席の下に、痕跡は残っていたが、肝心の装置は、取り外されていたんだよ。誰が、外したのかね?」
「それは、多分、徳田だと思うわ。彼は、二十八日に、福島まで来たといっているんでしょう? 福島なら、郡山のすぐ傍だわ。『あいづ』に乗れるチャンスは、あったと思うのよ」
と、直子は、いった。
確かに、彼女のいうことにも、一理あると思った。徳田と、大田原のアリバイだけを調べていたが、殺された片岡友子のアリバイも問題にした方がいいかも知れない。
十津川は、そのことを、福島県警の田宮に話しておいて、亀井と、東京に帰ることにした。
大内も一緒に、東京へということになった。帰京している徳田を、訊問するためだった。
四月二日に、十津川たちは、東京に着き、大内警部と、三人で、すぐ、新宿西口に本社のあるT不動産を、訪ねた。
十津川が、徳田に会うのは、初めてだった。
先入観で、何となく、でっぷり太った、恰幅《かつぷく》のいい男を想像していたのだが、痩《や》せた、背の高い男だった。眼鏡をかけているので、やさしく見えたが、それが、曲者なのかも知れなかった。
「そろそろ、いらっしゃると思っていましたよ」
と、徳田は、三人に向って、笑顔で、いった。
大内は、厳しい表情で、
「特急『あいづ』の車内で、橋口ゆう子が殺され、同じ二十八日に、片岡友子が、猪苗代湖の別荘で、殺されています。もちろん、ご存知と思いますが」
と、いった。
「知っていますよ。ただ、いずれも、東京に帰ってから、知ったんですがね」
「あなたのことは、調べさせて貰いました。二十八日の正午すぎに、秋田のホテルをチェック・アウトしたことは、わかりました」
「その通りです。だから、二つの事件とは無関係ですよ」
と、徳田は、いう。
十津川が、口を挟んで、
「しかし、片岡友子殺しに無関係とは、いい切れないんじゃありませんか?」
「なぜです? 私は、二十八日は、秋田から、福島へ行っているんですよ。『あいづ』にも乗っていないし、猪苗代湖へも行っていませんよ」
「だが、福島の旅館には、夜の八時に入っている。猪苗代湖の別荘で、片岡友子が殺されたのが、二十八日の午後六時から八時の間です。六時すぎに殺し、車を飛ばせば、午後八時に、福島に着けるんじゃありませんかね」
「車を飛ばせばねえ。しかし、刑事さん。警察は、同じ犯人が、橋口ゆう子を殺し、片岡友子を殺したと見ているんじゃないんですか?」
と、徳田は、きき返した。
「そうだったら、何をいいたいんですか?」
「つまり、私には、橋口ゆう子を殺せない。『あいづ』のグリーン席に、仕掛けられない。これは、はっきりしているわけでしょう。そうなると、私は、片岡友子も、殺してないということになるんじゃありませんか」
徳田は、開き直った感じで、十津川を見、大内を見た。
「橋口ゆう子と会ったことは、あるんですか?」
と、亀井が、きいた。
徳田は、肩をすくめて、
「知らないといいたいところですが、二度ばかり会っていますよ。会っているというより、取材だといって、強引に、会いに来たといった方が、いいでしょう。仕方なく会って話をしただけですよ」
「片岡友子との関係は、本当なんですか?」
「週刊誌に書かれたことですか?」
と、徳田は、笑って、
「私は、昔から、書かれやすいというのか、いろいろと、あることないこと、書かれましたよ。女のことでも、金のことでもね。ほとんど、でたらめですがね」
「片岡友子とのことは、どうなんです?」
「私は、彼女のファンでしてね。年甲斐もなく、応援したこともあるし、猪苗代湖の別荘については、紹介もしました。しかし、それだけのことですよ。男と女の関係はありませんでしたよ。私にも、妻子がありますからねえ」
と、徳田は、いった。
11
その日の夜、猪苗代湖に残っている直子から、十津川に電話が、掛った。
「ごめんなさい」
と、直子は、いきなり、いった。
「何のことだい?」
「今度の事件のことよ。私が、間違っていたわ」
「どこが、間違っていたんだ?」
「片岡友子のことなの。二十八日に、彼女が、『あいづ』に乗り込んで、9Dの座席の下に、飛び出すナイフを仕掛けたんじゃないかって、いったでしょう?」
「ああ。他の二人には、不可能だからね」
「それが、駄目なのよ」
「駄目って、どういうことなんだ?」
と、十津川は、きいた。
「お友だちと二人で、猪苗代湖での彼女のことを、調べてみたの。そしたら、片岡友子は、二十七日の午後、別荘に来てることがわかったんだけど、二十八日の朝、彼女が、湖岸を散歩しているのを見た人がいたの。午前八時頃だと、いっていたわ」
「それ、間違いないのかね?」
と、十津川は、念を押した。
「間違いないのよ。見た人は、駐在のお巡りさんだから、嘘をつく筈はないわ」
「しかし、二十八日の午前八時に、猪苗代湖にいたとしても、そのあと、『あいづ』に乗るために、出かけたということは、考えられるんじゃないかね。『あいづ』の上野発は、一四時一五分で、六時間もある。間に合うよ」
「午前八時だったらね」
「他の時間にも、目撃者がいるのか?」
「そうなの。湖畔に、野口記念館と、会津民俗館なんかがあるんだけど、その傍に、清作茶屋という民家風の店があって、山菜料理とか、おでんを食べさせてくれるのよ。私も、お友だちと、二、三回行ったんだけど、ここの従業員が、二十八日のお昼に、片岡友子が、食べに来たと、証言してるの」
「二十八日というのは、間違いないんだろうね?」
「サインをして貰ってるの、色紙にね。それも見せて貰ったわ。三月二十八日と書いてあるし、間違いないわ」
「なるほどね」
「それで――」
「まだあるのか?」
「午後三時頃、別荘近くの酒屋さんが、あの別荘に、缶ビールを一ダース届けているのよ。運んだ店員さんが、本物の片岡友子が出て来たんで、あわてて、店に引き返し、ノートを持って来て、サインして貰ったと、いってるのよ。つまり、午前八時、正午、それに、午後三時の三回も、見られているの。これじゃあ、二十八日は、ずっと、猪苗代にいたと見ていいと思うの」
と、直子は、いう。
「すると、彼女が、『あいづ』のグリーン席に、ナイフを仕掛けることは、出来なかったということになるんだな?」
「そうなの。ごめんなさい」
と、直子は、また、いった。
「参ったよ」
十津川は、正直に、いった。
「前日の二十七日に、仕掛けるというのは、駄目なの? 二十七日の片岡友子なら、出来たと思うけど」
と、直子が、いった。
「駄目だよ。前日では、問題の9Dに、誰が座るかわからないし、機関区に帰ったあと、発見されるおそれがあるから、犯人が、怖がって、やらないだろう」
と、十津川は、いった。
「じゃあ、駄目?」
「駄目だ」
と、十津川は、いった。
片岡友子のアリバイについては、翌日、同じことが、福島県警の田宮警部からも、報告されて来た。
東京に来ている大内も、それを聞いて、落胆の表情を作った。
「これでは、犯人がいなくなってしまいますねえ」
と、大内は、いった。
「しかし、橋口ゆう子を、宇都宮に行かせたのは、片岡友子だと思いますよ」
十津川は、自信を持って、いった。
「そうでしょうか?」
「今度の事件は、多分、徳田と大田原が、相談して、うるさくなった橋口ゆう子を封じようと、考えたことが、出発だと思います。主役は、徳田でしょう」
と、十津川は、考えながら、自分の推理を、大内に、話した。
「それで、どんな計画だったわけですか?」
と、大内が、きく。
「徳田は、片岡友子に、頼んだんです。女優だから、芝居は、上手《うま》いいでしょうし、橋口ゆう子も、彼女が、贈収賄事件のカギを握っていると思っていたでしょうから。彼女が、話したいことがあるといえば、飛びついてくる。徳田は、そう、読んでいたと思いますね。二十八日は、片岡友子が、休みをとれる。それを、起点にして、計画を立てたと思うのです。二十八日に、猪苗代湖の別荘に、来てくれと、いわせる。いや、まず、その前に、宇都宮のKホテルのロビーで、十一時から十二時の間に、会いたいと、告げる。もちろん、その時間、橋口ゆう子を、そこに、釘づけにしておいて、その間に、『あいづ』の9Dの席に、仕掛けておくためです。それでもう一つ、もし、Kホテルで会えない時は、『あいづ』に乗って、猪苗代湖の別荘に来てくれといっておき、宇都宮から、この列車に乗ってくれと、切符を送っておく。この二つの目的のためです。徳田が、いえば、橋口ゆう子は、断ったかも知れないが、徳田から離れたがっている片岡友子ということで、信用したんだと、思いますよ」
十津川は、語調を強めて、いった。ここまでは、正しいのだという自信があった。
だが、この先が、なぜ、間違ってしまったのだろうか? そこが、十津川には、わからなかった。
「もう一つ、橋口ゆう子のダイイングメッセージがありますね」
と、亀井が、いった。
「それが、どうしても、引っ掛ってくるんだよ」
「アキ――がつく人間が、別にいて、その人間が犯人だということは、ありませんか?」
と、大内が、きいた。
「徳田、大田原、片岡友子以外の人間ということですか?」
十津川が、大内を見る。
「ええ。全くの第三者ではなく、徳田の片腕となっている人間といったことです。それなら、徳田のために、橋口ゆう子を殺す可能性があるし、彼女の方でも、相手の名前を、知っていただろうと思いますがねえ。片岡友子のマネージャーでもいいし、大田原次官の兄弟かも知れません」
と、大内は、いった。
「調べてみましょう」
と、十津川は、約束した。
十津川は、西本刑事たちに、三人の友人、知人、兄弟を、徹底的に、調べるように、いった。その中に、「アキ――」に当る名前の人間が、いないかどうかである。
徳田には、信頼している部下がいた。この男も、贈収賄事件に関係しているとみていいのだが、名前は、星野明だった。
片岡友子のマネージャーは、前にも調べたが、名前は、「アキ――」ではない。
大田原の周囲の人間も、全て、洗い出してみた。
秋野という男が一人いた。大田原と大学の同窓で、現在も親しくしている人間である。M銀行の重役になっていたが、当日のアリバイは、はっきりしていた。
「いませんね」
と、亀井は、西本たちの報告メモを見ながら、十津川に、いった。
「そうだろうね」
と、十津川は、肯《うなず》いてから、
「最初から、この線は、あり得なかったんだよ」
「と、いいますと?」
「宇都宮から、『あいづ』に乗った橋口ゆう子は、恐らく、片岡友子から、列車に乗ったら、座席の下を見るように、いわれていたんだと思う」
「その点は、同感ですが」
「橋口ゆう子は、座席を起こして、調べようとして、飛び出したナイフに、胸を刺された」
「はい」
「ただ、すぐには、死ななかった。彼女は、なぜ、こんなことになったか、必死になって、考えたんだと思うね。そして、『アキ――』といったんだよ」
「すると、やはり、犯人を、示したことになりますね」
「その通りだよ。他に考えようはないんだ」
「しかし、それなら、なぜ、犯人の名前を、いわなかったんでしょうか?」
「ただ、犯人の名前に匹敵することを、いったんだ。あの『アキ――』は、秋田だよ」
「つまり、徳田ということですか?」
「ああ。橋口ゆう子は、徳田が、秋田に行っていることを、知っていたんだ。だから、犯人が、徳田であることを示そうとして、『アキタ』と、いおうとしたんだと思うね」
十津川は、決めつけるように、いった。理由は、わからない。だが、確信はあった。
亀井は、首をかしげて、
「それなら、なぜ、『トクダ』と、いわなかったんでしょうか? それに、いきなり、ナイフが、突き刺さったわけでしょう? 座席の下を見るようにいったのが、片岡友子だとすると、とっさに、彼女が犯人と思うんじゃありませんか? 一瞬のことで、犯人がわからなかったとしても、彼女は、猪苗代へ行く『あいづ』に、乗っていたんです。秋田に行く列車じゃありません。とすると、秋田にいる徳田より、猪苗代にいる片岡友子の顔を、思い浮べる筈だと思いますが」
と、いった。
十津川は、「ああ」と、肯いた。
「カメさんのいう通りさ。それなのに、橋口ゆう子は、徳田を意味するアキ――と、叫んだんだ。その疑問の答が見つかれば、今度の事件は、解決できると思うんだがね」
「そのためには、どうしたらいいんですか?」
と、亀井が、きく。
十津川は、じっと考えていたが、
「われわれは、殺された橋口ゆう子のことを、もう少し、調べる必要があるんじゃないかね」
「どんなことをですか?」
と、亀井が、きいた。
「正直にいって、それが、よくわからないんだ。ただ、彼女は、徳田が犯人だということを示すのに、『アキ――』と、いった。その理由がわかる何かが、浮んで来るといいと思うのだよ」
と、十津川は、いった。
12
殺された橋口ゆう子について、もう一度、調べ直すことになった。
彼女の交友関係から、趣味まで、あらゆることをである。
その中の、何が、今度の事件に結びつくかわからない。
西本や、日下たちが、必死になって、橋口ゆう子に関する情報を集めに出た。
彼女の生年月日、血液型、家族構成、出身の高校、大学での評判、友人関係、ルポライターになってからの業績、仲間との関係。どんどん、十津川の手元に、メモが、多くなっていく。
血液型は、A。両親は、まだ健在。兄はすでに結婚し、堅実なサラリーマン。弟は、まだ大学三年生。
大学時代から、同人雑誌をやり、いくつか小説を書いていた。
ルポライターになったのは、高名なライターの、公害についての著作を読んだことが動機である。
仲間のライターは、「女らしくない、力まかせのルポ」と、批評している。力強いが、繊細さに欠けるということらしい。
「なかなか、今度の事件に関係することは、浮んで来ないねえ」
と、十津川は、亀井と、顔を見合せた。
「そうですね。少し、不安になって来ましたよ。この調子で調べていって、果して、事件の解決に、役立つのかと思うと――」
珍しく、亀井が、弱気になっている。
橋口ゆう子の友人たちの話も、聞いてきた。だが、いずれも、事件の解決に、役立つものではなかった。
西本たちは、橋口ゆう子の読書傾向まで、調べた。だが、これも、空振りだった。
橋口ゆう子は、朝食は、牛乳とトースト、昼食は、ラーメン、夕食は、おおむねスキヤキか、ライスカレー。煙草は、一日、マイルドセブンを二十本、アルコールは、ビールだけということも、わかった。
だが、これも、事件解決のヒントにはならなかった。
「もう、彼女について、調べることが、無くなりました」
と、西本が、十津川に、いった。
「もう一度、彼女の友人に、当ってみてくれ」
十津川は、西本たちを、励ますように、いった。
「しかし、あと、何を調べますか?」
「何でもいい。彼女の趣味でも、結婚観でもいいから、聞いて来てくれ」
と、十津川は、いった。
西本たちは、再び、何人かの橋口ゆう子の友人に会って来た。
その中で、日下が、面白い話を、聞いてきた。
「橋口ゆう子は、旅行が好きだったそうです」
と、日下が、十津川に、いった。
「それだけじゃあ、手掛りにはならないな」
「彼女は、いろいろな場所へ旅行していますが、実は、特急『あいづ』にも、前に乗ったことがあったらしいんです」
「本当か?」
「はい。会津若松に行く時、『あいづ』に乗ったと、友人に、話したことがあるそうです」
「間違いないのか?」
「はい。会津若松へ行く直通列車があるのがわかったと、面白そうに、話していたそうですから、間違いないと思います」
と、日下は、いった。
「どう見るね?」
十津川は、亀井を、見た。
「さあ、前に、彼女が、『あいづ』に、乗ったことがあったとしても、それが、今度の事件に、どう関係してくるのか、見当がつきません」
と、亀井は、いう。
「前の時は、彼女は、当然、上野から乗ったんだろうね」
「そう思います。しかし――」
「上野へ行ってみないか」
と、急に、十津川は、いった。
「上野へ行けば、何かわかるでしょうか?」
「どうかな。ワラをも掴《つか》む気持なんだよ。考えてみると、われわれは、まだ、『あいづ』に乗っていないんだよ。郡山で、グリーン車の例の座席は、見せて貰ったが、正式に、乗ったわけじゃないからね」
と、十津川は、いった。
13
二人は、上野駅に向った。
着いたのは、午後一時少し過ぎである。
「少し早かったかな」
と、十津川は、呟いた。
9番線には、まだ、「あいづ」は、入線していなかった。
二人は、ホームで、「あいづ」が、入ってくるのを、待った。
十津川は、煙草に火をつけた。間もなく、「あいづ」が、入線してくるだろう。それに乗ったからといって、今度の事件が、解決できるのだろうか?
「来ましたよ」
と、亀井が、いった。
列車が、ゆっくりと、近づいてくるのが見えた。
「カメさん。違うよ。ヘッドマークを見たまえ。あれは、『つばさ』だよ」
と、十津川は、眼をそらして、いった。
先頭車両のヘッドマークは、山と湖をデザインした「あいづ」ではなく、赤い部分に、白い羽根を描いていて、「つばさ」と、書かれている。
「なるほど。あれは、『つばさ』ですね」
と、亀井は、肯いたが、
「しかし、警部。9番線に入って来ますよ」
と、あわてた声で、いった。
亀井のいう通り、その列車は、ゆっくりと、十津川たちの待っている9番線に、入って来た。
列車は停止し、乗客が降りて来る。
十津川は、あわてて、時計に眼をやった。
一時三十分を、過ぎたところだった。十津川は、近くにいた駅員をつかまえて、この列車のことを聞き、手帳に、書き取って、亀井のところへ戻って来た。
「わかったよ。カメさん」
と、十津川は、興奮した口調で、手帳を見せた。
「特急『あいづ』は、上野―会津若松間を一往復しかしていない。これでは、不経済だというので、他のルートと共用しているんだそうだ。一日の列車の運用は、こうなっている。午前五時三八分L特急『つばさ8号』として、秋田を出発、同日の一三時三〇分上野に着く。今度は、下りの『あいづ』となって一四時一五分に上野を出発し、一七時五三分会津若松着。そのあとは、上りの『あいづ』として、翌朝九時三六分会津若松を出て上野へ、最後は、上野発一五時一五分の『つばさ17号』で、秋田へということになる。これの繰り返しなんだよ」
「大事なのは、秋田発の『つばさ8号』の部分ですね」
と、亀井は、いった。
「そうだ。徳田は、秋田にいて、『あいづ』のグリーン車の9Dの座席に、仕掛けることが、出来たんだ。二十八日の午前八時に、ホテルのルームサービスをとっているが、『つばさ8号』の発車は、午前五時三八分だから、早朝、ホテルを抜け出して、駅へ行き、座席の下に仕掛けることは、簡単だよ。また、東京までの9D席の切符を買っておけば、誰かが座る心配もないわけだからね」
と、十津川は、いった。
「橋口ゆう子は、胸を刺された時、『あいづ』が、秋田から来た『つばさ8号』だということを、思い出したんですね」
「そう思う。それは、徳田が、秋田にいることを思い出したんだろう。その考えが重なって、徳田の仕業と直感したんだろうね。だから、あのダイイングメッセージは、恐らく、『秋田にいる徳田』と、いうものだった筈だ。それが『アキ――』で、終ってしまったんだよ」
十津川は、すぐ、このことを、大内警部に知らせ、福島県警の田宮警部にも、連絡を、とった。
また、秋田県警に依頼して、三月二十八日の早朝のJR駅のことを、調べて貰った。なにしろ、「つばさ8号」の発車は、五時三八分という時刻である。
ホームに、人の姿も少かったに違いないから、不審な動きをする徳田のことを、覚えている駅員がいるかも知れないと、思ったからである。
駅員はいなかったが、「つばさ8号」の車掌が、徳田のことを覚えていた。グリーン車にいて、発車直前に、あわてて、降りて行ったというのである。
妙な客だなと思い、覚えていたということだった。
その証言を得て、栃木県警が、徳田に対して、逮捕令状を出した。
四月四日、事件が発生してから、八日目である。
座席のナイフの発射装置を、いつ、どうやって片付けたのか、また、片岡友子殺害についてもいずれ、自供で明らかになるだろうと、十津川は思った。
十津川の妻の直子は、猪苗代湖が気に入ったらしく、湖畔に、小さな別荘を建てたいといっている。
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信濃の死
珍しく、二日間の休みを貰ったのだが、妻と、二人の子供は、北海道の親戚の家に遊びに行ってしまっている。
警視庁捜査一課の亀井は、二日間の休みを持て余し、考えた末、信州の野沢温泉に行くことにした。
温泉も好きだが、それ以上に、野沢菜が食べたかったからである。
野沢温泉では、伊東旅館に泊ることにして、その旅館の電話番号を、上司の十津川に告げ、
「いつでも、何かあったら、呼び出して下さい」
と、いい残して、九月十日の朝、東京を発った。
「大丈夫だよ。カメさんを呼び戻すようなことはないから、ゆっくり身体を休めて来たまえ」
と、十津川は、いった。
上野発午前七時丁度のL特急「あさま1号」に乗り込む。
秋の旅行シーズンに間があるせいか、列車は、混んではいなかった。
座席に腰を下ろして、すぐ、眼をつぶる。昨日まで、事件に追われていたので、すぐ、眠ってしまった。
眼がさめた時は、もう、長野に近い。あわてて、ボストンバッグを網棚からおろして、降りる支度をした。
たまに、休みがとれると、亀井は、家族サービスに、旅行に出るのだが、そんな時、妻や子供から、よく、「お父さんは、列車の中で、寝てばかりいる」と、文句をいわれる。そんなことを、思い出しながら、亀井は、長野駅に、降りた。
ホームで、野沢菜五目釜めしを買い求め、それを持って、一〇時二五分発の飯山線の列車に乗った。
ブルーと、ホワイトのツートンカラーの、たった一両だけの可愛らしいディーゼルカーである。
正面の貫通扉に、オレンジとイエロー、それにレッドの三色が塗ってあるのは、虹のつもりだろうか。
ディーゼル特有のエンジン音をひびかせて、走り出すと、亀井は、すぐ、五目釜めしを食べ始めた。朝が早かったので、朝食を食べずに家を出ていたのだ。
釜めしには、野沢菜がついていた。それが嬉しかった。
長野から豊野までは、信越本線を走るので、線路も複線だが、豊野からは、単線になって、ローカル線らしくなった。
小さな駅も、一つ一つ拾うように停車して行く。長野から乗って来た学生たちが、一人、二人と、降りて行く。
一一時二九分、戸狩野沢温泉駅に着いた。
亀井と一緒に、三人の男女が降りた。ホームには、木で作った男女の道祖神が、並んで立っていた。
一月には、野沢温泉では、火まつりが行われるのだが、その祭は、道祖神祭とも呼ばれるらしい。これは、亀井が、観光案内のパンフレットで、読んだのだ。
駅から野沢温泉まで、バスがある。亀井は、それに乗った。
古いが、大きな温泉である。山の麓《ふもと》にある温泉なので、周囲には、スキー場が、いくつか作られていた。
亀井は、東北に生れ育ったので、スキーも出来る。
(冬に来て、スキーと温泉の両方を楽しむのもいいな)
と、思ったが、そんな夢は、かないそうもない。
旅館に着くと、亀井は、とりあえず、温泉に入れて貰った。真新しい檜《ひのき》風呂である。湯量も豊かで、亀井は、久しぶりに、のんびりと、温泉にひたることが出来た。
泊り客が少いので、夕食は、一階の食堂で一緒にとってくれといわれて、六時過ぎに、おりて行き、亀井は、賑やかな三人連れに会った。
若い女一人と、男の二人の三人だった。食堂には、他に泊り客がいなかったので、自然に、亀井は、彼等と、口を利くようになった。
女は、なかなかの美人だった。男二人は、若いのと、四十代の中年だが、最初、何者なのか、見当がつかなかった。職業が、わからないのである。
その中《うち》に、二十五、六歳の女は、モデルで、男二人は、若い方がマネージャー、中年の方は、モデルクラブの社長と、わかってきた。
「十日町で、秋の着物ショーがあるので、明日、向うへ行くんですよ」
と、社長が、いった。
彼がくれた名刺には、東京のモデルクラブの住所と、「武田勇」の名前が、刷り込んであった。
若いマネージャーも、名刺をくれた。こちらの名前は、青木徹というらしい。
モデルだという女性は、松浦ゆかりと名乗ったが、名刺は、くれなかった。
亀井も、名刺を渡した。が、とたんに、予期した喚声が、武田の口から洩れた。
「刑事さんですか!」
と、武田は、驚いたような、少しばかり馬鹿にしたようなことを、いった。
「刑事さんも、たまには、温泉にいらっしゃるのね」
と、松浦ゆかりは、珍しいものでも見るように、亀井を見た。
「そりゃあ、人間ですからね。時には、温泉にも来ます」
と、亀井は、苦笑しながら、いった。
「刑事さんなら、いろいろな事件にぶつかるんでしょうね。面白い事件を、何か話してくれませんか」
と、いったのは、青木というマネージャーである。
「正直にいって、面白い事件というものは、ありませんね。みんな血なまぐさくて、怖い事件ですよ。人間の業みたいなものが、むき出しになっています」
と、亀井が、いった。
「人間の業が、むき出しですか」
武田が、妙に感心したように、いう。
「刑事さんは、男の方が怖いと思います? それとも、女?」
と、ゆかりが、きく、
「そうねえ」
と、亀井が、考えていると、社長の武田が、
「女の方が怖いに決ってるじゃないか」
と、いった。
「怖くて、悪かったわ。社長さん」
ゆかりが、肩をすくめるようにして、いった。マネージャーの青木が、困ったなという表情になっている。
亀井は、何となく、気まずくなって、「お先に」と、いって、腰をあげた。
(どうやら、モデルと、社長とは、女と男の関係らしい)
と、思ったからでもある。
翌九月十一日の昼過ぎに、亀井は、旅館を出発することになった。今日中に東京に帰っていないと、明日の勤務に差しつかえるのだ。二日の休みといっても、ゆっくり出来たのは、一日だけである。
亀井が、旅館を出ようとしていると、昨日の三人が、がやがやと、二階からおりて来て、亀井を見ると、
「刑事さん。ご出発ですか?」
と、社長の武田が、声をかけてきた。
「今日中に、東京に帰ろうと思いましてね」
「それなら、タクシーを呼んでいますから、一緒に、駅までどうですか?」
「私は、バスで行きますから」
「バスは、時間待ちでしょう。タクシーに、乗って下さい」
と、武田は、しつこく、いった。
タクシーが、玄関にやって来て、亀井は、すすめられるままに、乗せて貰った。
戸狩野沢温泉駅に着くと、マネージャーが、切符を買って来て、松浦ゆかりと、武田に渡す。
(マネージャーという仕事も大変だな)
と、亀井は、思いながら、眺めていた。
社長の武田は、東京に帰るということで、亀井は、ホームで、一三時〇七分発十日町行の列車に乗る青木と、ゆかりを見送った。
長野方面の列車は、その三分後に発車だった。
「東京まで、ご一緒できますね」
と、武田は、嬉しそうに、亀井にいった。
長野行の列車は、昨日と違って、二両編成だった。必要に応じて、一両にしたり、二両編成にしたりするのだろう。
「社長さんは、一緒に、十日町に行かなくていいんですか?」
と、列車が、動き出してから、亀井が、きいた。
武田は、笑って、
「私が、着物ショーに出るわけじゃありませんからね」
「野沢温泉にいたのは、英気を養うためですか?」
「英気なんて、そんな上等なものじゃありません。彼女のわがままで、今日、来ればいいのに、二日前から、野沢温泉に、来ていたわけです。何としても、温泉に入りたいと、いうもんですからね」
武田は、肩をすくめるようにして、いった。
「しかし、なかなか、きれいなモデルさんじゃありませんか」
と、亀井は、お世辞を、いった。
「まあ、人気はある方ですがね」
「人気はあるが、扱いにくい――ですか?」
「人気のある娘《こ》は、わがままだし、大人しい娘は、人気はないし、世の中、ままならんもんです」
「武田さんの会社には、モデルさんが、何人もいるんですか?」
「全部で十二人。少いですよ。小さい会社ですからね」
「美しい女性ばかりで、羨《うらや》ましいですな」
と、亀井は、いった。彼の働く捜査一課には、北条早苗を含めて、二人の女性の刑事がいるが、それでも、男臭く、色彩の少い職場である。
「まあ、華やかではありますが、女、特に、若い女というのは、大変ですよ。よくいうじゃありませんか。女というやつは、優しくすればつけあがり、怒りゃ泣くってね」
と、武田は、妙に古めかしいことをいって、苦笑した。
武田は、気まぐれで、そんな話をしていたかと思うと、突然、
「千曲川が、きれいだ!」
と、窓の外を見て、歓声をあげたりした。
亀井たちの乗った列車は、一四時三二分に、長野に着いた。
一四時五三分長野発の「白山2号」が、上野行の一番早い列車だったが、武田は、
「これは、金沢発だから、混んでいます。何しろ、金沢−上野直通というのは、『白山』だけですからね。もう少し待って、長野発『あさま』にしませんか。これなら、すいていて、ゆっくり帰れますよ」
と、すすめた。
亀井も、混んでいる列車は、嫌だったし、わずか、二十五分しか違わないので、一五時一八分発の「あさま24号」に乗ることにした。
駅のコンコースにある喫茶店で、時間を潰してから、二人は、一五時一八分発の「あさま24号」に、乗った。
武田のいった通り、長野始発なので、車内は、すいていた。
二人は、4号車の指定席に、並んで腰を下ろした。相変らず、武田は、とりとめのない話を続ける。
走り出して、十五、六分した時、武田は、急に話を止め、
「電話をかけて来ます」
と、立ち上った。電話は、十一両編成の6号車にある。しばらくして、武田は、難しい顔で戻って来ると、
「参りました」
と、亀井に、いった。
「どうされたんですか?」
「今、十日町に行っているマネージャーの青木に電話してみたんですが、彼女が、いなくなって困っているというんです」
「あのモデルさんですか?」
「そうなんですよ。前にも、仕事が面白くないと、いって、すっぽかして、消えてしまったことがありましてね。ひどく迷惑を受けたことがあるんです。とにかく、私も、十日町に行って、探してみます」
と、武田は、興奮した口調で、いった。
亀井にしても、事情がよくわからないので、
「そりゃあ、大変ですねえ」
と、いうより仕方がなかった。
武田は、あわただしく、ボストンバッグを持ち、上田駅で、列車を降りて行った。
亀井が、腕時計を見ると、一五時四三分だった。
(社長さんも、大変だな)
と、亀井は、同情した。美人に囲まれていて、羨ましいと思っていたのだが、武田のいう通り、相手が、わがままだと、苦労するだろう。
(おれには、とても、務まりそうもないな)
列車が動き出したので、ホームに眼をやると、降りた武田が、腕時計を見ている姿が、見えた。
これから、十日町に行くとしても、長野まで戻り、飯山線に乗らなければならないのだから、大変だろう。
飯山線は、列車の本数が少いし、特に、十日町まで行く列車は限られているから、そんなことも考えて、武田は、腕時計を見ていたに違いない。
刑事のくせで、亀井は、そんな心配までしてしまったが、「あさま」が、上野に近づくにつれて、武田のことも、美しいモデルのことも、忘れて行った。
明日から、また、殺人事件の捜査に追いまくられるに違いなかったからである。
翌十二日に、出勤すると、十津川が、
「どうだったね? 野沢は」
と、声をかけてきた。
「よかったですよ。これが、お土産です」
亀井は、野沢で買って来た漬物と、鳩ぐるまを、差し出した。
十津川は、鳩ぐるまを、箱から取り出して、
「これが有名な鳩ぐるまか」
「なかなか、いいものでしょう」
「素朴だが、可愛らしいな。それにしても、たった二日の休みじゃあ、のんびり出来なかっただろう?」
「仕方がありません。刑事の宿命みたいなものですから」
と、亀井が、いった時、十津川の前の電話が、鳴った。
十津川は、受話器を取り、ペンで、メモを取っていたが、急に、亀井に眼をやって、
「野沢温泉ですか?」
と、きき返している。
亀井も、気になって、十津川を見た。
十津川は、なお、ペンを走らせていたが、受話器を置くと、
「野沢温泉で、殺人事件があって、こちらに、長野県警から、協力要請がきたよ」
と、亀井に、いった。
「あんな静かな所でですか?」
「殺されたのは、東京のモデルクラブのモデルらしい」
「ちょっと待って下さいよ」
と、亀井は、いい、
「まさか、松浦ゆかりという名前じゃないでしょうね?」
「なぜ、カメさんが、知ってるんだ?」
「彼女なんですか?」
「そうだよ。松浦ゆかりだ」
「彼女に、野沢温泉の旅館で会ってるんです。十日町で、着物のショーがあるんで、それに出るために、来ていると、いってましたよ。そのモデルクラブの社長と、マネージャーも、一緒でしたがね」
「カメさんが、モデルと知り合いなんですか?」
と、若い西本刑事が、口を挟んだ。
亀井は、苦笑した。
「たまたま、知り合っただけさ」
と、いってから、十津川に、
「野沢温泉で、殺されていたというのは、おかしいですね。十日町に、行っている筈なんです」
亀井は、旅館で、彼女たちに会ったこと、戸狩野沢温泉駅で、十日町に行く彼女と、マネージャーを見送ったことを話した。
「そういえば、武田社長が、帰りの列車の中で、十日町に電話したら、彼女がいなくなったというので、あわてて、引き返しましたが、それにしても、野沢温泉で、殺されていたというのは、わかりませんね」
「まだ、くわしいことは、いって来ていないんだ。とにかく、松浦ゆかりについて、調べてくれということでね」
と、十津川は、いった。
「私と、西本君とで、調べて来ましょう。彼女のことを、少しは、知っていますから」
と、亀井は、いった。
亀井と、西本は、すぐ、警視庁を出て、まず、松浦ゆかりのマンションに、廻ってみた。
長野県警からの電話では、旅館の宿泊名簿に記載された住所が、目白台のマンションになっているということだったからである。
「彼女は、美人でしたか?」
と、パトカーの中で、西本は、興味津々という顔で、亀井に、きく。若いし、独身だからだろう。
「ああ、美人だったよ。だが、社長は、わがままで困るといっていたがね」
「じゃあ、その社長が殺したんですかね?」
「わからんよ。あまり、先入観を持たない方がいいな」
と、亀井は、いった。
問題のマンションは、真新しく、七階建で、一戸が百平方メートル以上の広さだった。買うとしたら、恐らく、五、六億円はするだろう。
入口の重い扉は、居住者が、部屋で、ボタンを押してくれないと開かないようになっている。
亀井は、仕方がないので、管理人を呼んで、開けて貰った。
松浦ゆかりの部屋は、最上階の七階にあった。亀井と西本は、管理人に、案内して貰いながら、
「松浦ゆかりさんは、ここに、ひとりで住んでいたんですか?」
と、亀井が、きいた。
「ええ、そうです」
「しかし、借りるにしても、高いでしょうね?」
「松浦さんの部屋は、ここでは、狭い方ですが、それでも、月五十万ですね」
管理人は、事もなげに、いった。
「彼女は、借りていたんですね?」
「ええ。買えば、今は、数億はしますから」
「部屋を開けて貰えませんかね」
と、亀井が、いった。管理人は、意外にあっさりと、
「いいですよ。スペア・キーを一つ、お預かりしてますから」
と、いった。
七〇五号室に入った亀井は、部屋の中を見まわした。
「松浦ゆかりさんは、いつから、ここに住んでいるんですか?」
と、亀井は、管理人を振り返って、きいた。
「一年半ぐらい前からですよ」
「よく訪ねて来る人は、わかりませんか?」
「マネージャーの方が、車で迎えに来ていましたよ。その他、男の方が、いろいろと、訪ねて来ているようですが、名前は、わかりません」
「いろいろというのは、違った男の人という意味ですか?」
「そうです。ずいぶん、もてる女性でしたからね」
と、管理人は、いった。
「彼女は、なぜ、スペア・キーを一つ、あなたに預けていたんですか?」
と、西本が、きいた。
「みなさん、お預けになっていますよ。失くされた時の用心に」
「われわれの他に、最近、あなたに頼んで、この部屋に入った人間は、いませんか?」
と、亀井が、きいた。
「そんな覚えはありません。松浦さんに黙って、そんなことはしませんよ」
管理人は、心外だという顔で、強く否定した。
「松浦さんは、車を、持っていましたか?」
「ええ。駐車場に、真っ赤なBMWが、あります。しかし、あまり、お乗りになっていないようです。朝は、車でマネージャーさんが迎えに見えますし、帰りは、いつも、男の方が、車で送って来られますから」
「それは、マネージャーじゃないの?」
「マネージャーさんの時もありますが、遅い時は、違うみたいですね。車も違います」
と、管理人は、いった。
亀井たちは、松浦ゆかりの所属していたモデルクラブを訪ねてみることにした。
パトカーで、銀座に向っている最中に、無線電話が入った。十津川からだった。
「カメさん。長野県警に、君のことを話したら、参考人として、来てくれと、いっていたよ」
「わかりました。それで、社長とマネージャーは、何といっているんですか?」
と、亀井は、きいた。
「それなんだがね。青木というマネージャーは、向うで、警察に協力しているんだが、武田という社長は、行方がわからないそうだよ」
「おかしいですねえ。さっきもいいましたように、武田社長は、十日町に行った筈なんです」
「その点でも、県警は、カメさんの協力が欲しいんじゃないかね」
と、十津川は、いった。
銀座五丁目のビルの中にあるクラブだった。
モデルクラブだけに、洒落《しやれ》たデザインの事務所である。何よりも、色彩が、きれいだった。
社長がいないので、女性の副社長に、西本は、会った。
モデル出身という三十五歳の女性である。
名前は、小堀美奈子と、手渡された名刺には、書いてあった。
モデル出身だけに、スタイルがよく、きれいな指をしている。その指先を、小さく動かしながら、
「ゆかりさんが殺されたことには、本当に、びっくりしています。一刻も早く、社長と連絡をとりたいんですけど、出来なくて、困っていますわ」
「マネージャーの青木さんとは、連絡がとれたんですか?」
「はい。とれています。昨日の夕方、十日町で、ゆかりさんが、行方をくらましてしまい、困っていると、青木マネージャーから電話が入ったんです。まさか、殺されているなんて、思っていませんでしたから、また、いつものわがままが始まったなと、思っていたんですけど、こんなことになってしまって――」
と、美奈子は、言葉を切った。
「本当に、社長さんが、何処へ行ったか、わからないんですか?」
どうも、信じられなくて、西本は、重ねて、きいてみた。
「向うの警察から、ゆかりさんが殺された件について、社長に来て貰いたいと、いって来ているんです。それで、一生懸命に探しているのに、ぜんぜん、連絡がなくて、困っているんですよ。とりあえず、青木さんに、顔を出して貰っていますけど、明日になっても、社長の行方がわからなければ、私が、行かなければならないと、思っていますわ」
美奈子は、本当に、困惑した表情で、いった。
「社長さんは、時々、こんなことがあるんですか?」
「気まぐれな方ですけど、今度みたいな大事な時に、連絡がないというのは、異例ですわ」
「殺された松浦ゆかりさんのことを、話してくれませんか」
と、西本は、いった。
美奈子は、きつい眼になって、
「彼女の何を話せばいいんでしょう?」
「何でも構いませんよ。わがままだと聞いたんですが、そうだったんですか?」
「売れっ子のモデルは、みんな、多少とも、わがままですわ。自分を大事にしますから」
「当然、恋人がいたでしょうね?」
「彼女は、特定の男性を持たない主義だったようですわ。その方が、トクだといって」
「しかし、親しかった男は、いたんでしょう?」
と、西本は、食いさがった。
「そりゃあ、噂のあった男は、何人かいましたわ」
「その名前を教えて下さい」
「でも、相手の方の迷惑になりますから」
「これは、殺人事件ですよ」
と、西本は、強い声で、いった。
美奈子は、仕方がないというように、
「写真家の土田さんとか、野球選手の伊東さんとかが、噂になりましたけど――」
と、いい、二人のフルネームを教えてくれた。
土田貢。四十歳。今、第一線で活躍している写真家だった。ただ、土田は、結婚していて、二歳の子供がいるとも、教えてくれた。
伊東進太郎。二十七歳。この方は、二軍の選手だった。期待されて、実業団のエースの肩書きで入団したのだが、ケガなどで、一軍との間を行ったり来たりして、今年は、二軍の筈である。こちらは、独身だった。
西本は、二人の名前を、手帳に書き留めながら、
「ここの武田社長とは、どうだったんですか?」
「社長と?」
「そうですよ。モデルの一人が、着物ショーに出るというのに、わざわざ、社長がついて行った。それで、野沢温泉に泊ったとなれば、誰だって、勘ぐりますからねえ」
「マネージャーの青木さんが一緒だったんですよ」
と、美奈子は、いった。
「関係は、あったんでしょう?」
「それは、社長本人からきいてみて下さい」
美奈子は、そっけなく、いった。
「武田社長は、もちろん、奥さんがいらっしゃいますね?」
「ええ」
「奥さんは、社長の行方不明について、どう思っているんですか?」
「奥さんは、身体の弱い方ですから」
「入院しているんですか?」
「はい。心臓が弱いので、心配をかけてはいけないと思い、社長が行方不明になっていることは、話していません」
「子供は?」
「いらっしゃいません」
これも、そっけないいい方だった。
それを、どう解釈したらいいのかと、西本は、思いながら、
「十日町の着物ショーに、松浦ゆかりさんが出ないとなると、代りのモデルを、派遣したんですか?」
「ええ。主催者の方に、謝罪して、ショーの開演時間を繰下げて貰い、うちの若いモデルを、すぐ、ヘリコプターを手配して、送りましたわ。本当に、大騒動になってしまって……。名前は、麻里あけみさんです。二十歳のモデルさんです」
と、美奈子はいい、そのモデルの写真入り名刺をくれた。
亀井は、その頃、野沢に向っていた。
飯山線で、飯山駅に着いたのは、午後四時半を過ぎていた。
駅には、県警の戸田という警部が、パトカーで、迎えに来てくれていた。
「どうも、わざわざ来て頂いて」
と、戸田がいい、亀井も、
「とんでもない。お役に立てばいいと思っています」
と、いって、儀礼的なあいさつを交わしてから、パトカーで、飯山警察署に向った。
城下町の風情を、色濃く残している町である。
署に着くと、まず、捜査本部長にあいさつしてから、亀井は、戸田警部たちと、細かい話合いを持った。
まず、亀井が、九月十日に、野沢温泉の伊東旅館に泊り、そこで、松浦ゆかりたちに会った時の事情を、説明した。
「翌十一日に、駅まで、タクシーに乗せて貰って、一緒に、行きました。駅には、上り下り両方の列車が入っていたのを覚えていますよ」
「戸狩野沢温泉駅で、上りと下りが、すれ違うんです。飯山線は、単線ですから」
と、若い刑事が、いった。
「十日町に行く列車の方が、先に出るので、私と、社長の武田さんとで、松浦ゆかりと、青木マネージャーを見送りました。そのあと、長野行の列車が出て、私と社長は、長野に向ったんです」
「その時の松浦ゆかりや、武田社長の様子は、どうでした?」
と、戸田が、メモを取りながら、きいた。四十五、六歳の叩きあげの警部で、実直な人柄なのだろう。
「別に、変った様子は、ありませんでしたね。社長は、松浦ゆかりがわがままで困ると、文句をいっていましたよ。もちろん、笑いながらですが」
「そのあと、武田社長は、どうしました?」
「東京に帰るというので一五時一八分長野発の『あさま24号』に、一緒に乗りました。本当は、二十五分前に出た『白山2号』に乗れたんですが、金沢発で、混んでいるので、敬遠したんですよ。『あさま24号』に乗って、十五、六分してから、社長は、十日町に電話を掛けに、電話のある車両に行きました。6号車にです」
「その電話の内容は、わかりますか?」
と、戸田が、きいた。
「社長が、戻って来て、こういいました。十日町のマネージャーに電話したら、松浦ゆかりが、行方をくらましてしまって、主催者が怒っている。これから、私も、十日町に行って来ますといい、上田駅で、あわただしく、降りましたよ」
「上田駅着は、何時だったかな?」
と、戸田が、若い刑事に、きいた。
「特急『あさま24号』の上田着は、一五時四三分です」
と、刑事が、答える。
「それで、私は、社長は、てっきり、十日町へ行ったと、思っていたんです。ところが、社長は行方不明で、松浦ゆかりは、殺されたと聞いて、びっくりしているんです」
と、亀井は、いった。
「社長が、『あさま24号』に乗ったあと、十日町のマネージャーに、車内から電話したのは、間違いありませんか?」
戸田が、改まった口調で、きいた。
「社長は、電話して、松浦ゆかりが消えたのを知ったといっていましたね。それで、あわてて、上田で降りたんですよ」
「しかし、亀井さん。青木マネージャーは、社長から、電話なんか、貰っていないといっているんです。どうしても、社長と連絡がとれないので、東京のクラブに電話して、若いモデルを、急いで、派遣して貰ったと、いっているんですよ」
と、戸田が、いう。
「すると、あの社長が、嘘をついたということですかね」
「それとも、マネージャーの方が、嘘をついているかですよ」
と、戸田は、いった。
亀井は、首をかしげていたが、
「松浦ゆかりが、どんな状況で、殺されていたか、教えて貰えませんか」
と、いった。
「殺されていたのは、野沢温泉の建命寺という寺の近くです。寺の裏手といったらいいですかね」
「その寺なら、知っています。私の泊った伊東旅館の傍でしたから。確か、野沢菜の碑があったはずでしたね?」
と、亀井は、思い出しながら、いった。
「その通りです。その裏で、彼女は、くびを、紐で絞められて、殺されていました。ただ、凶器の紐は、まだ、見つかって、いないんです」
「死亡推定時刻は、わかりましたか?」
と、亀井は、きいた。
「今、長野の大学病院で解剖中なので、間もなく、わかると思います」
「青木マネージャーは、何といっているんですか? 何か、心当りは、ないんでしょうか?」
「全くないといっていますね」
「今、彼は、どこにいるんですか?」
「十日町です」
「松浦ゆかりが、いなくなった時の状況は、わかっているんですか?」
「これは、全て、青木マネージャーの話なんですが」
と、戸田は、断ってから、
「十一日の一四時二八分に、十日町に着いたそうです。着物ショーは、午後六時からなので、青木マネージャーと、松浦ゆかりは、向うの用意してくれたホテルに、チェック・インした。そして、五時になったので、マネージャーが、彼女を迎えに行ったら、いなくなっていたというんです。あわてて探したが、見つからなくて、東京に、連絡をとったと、いっています」
「午後五時に、初めて、失踪を、知ったと、いっているんですか?」
「そうです」
「もし、それが、事実なら、武田社長が、『あさま24号』の車内から電話したのが、一五時四三分(午後三時四十三分)に上田に着く前だから、電話で、失踪を知ったというのは、確かに、嘘ですね」
「そうなるんです」
「しかし、戸田警部。武田社長が、嘘をついているとしたら、なぜ、十日町で、松浦ゆかりがいなくなったのを、知ったんでしょうか?」
「その点は、私も、不思議だと、思っているんです。ひょっとすると、青木マネージャーが、嘘をついているのかも知れません」
と、戸田も、いった。
「十日町のホテルを、いつ、松浦ゆかりが出たか、わからないんですか?」
「それが、わからないんですよ。問題のホテルですが、ロビーを通って外へ出れば、フロントの人間が、目撃していると思います。しかし、地下の名店街を通って、外へ出る出入口があるんです。そこから、外出したとすると、フロントは、目撃できません」
と、戸田は、いった。
「なるほど」
と、亀井は、肯《うなず》いた。どうやら、誰かに、力ずくで、連れ出されたというより、自分の意志で、ホテルを出たとみた方が、良さそうである。
しかし、何のために、彼女は、そんなことをして、野沢温泉で、殺されてしまったのだろう?
「彼女の所持品は、ホテルに、残っていたんですか?」
と、亀井は、きいてみた。
「化粧バッグと、スーツケースは、ホテルの部屋に残っていましたが、ハンドバッグは、なくなっていました。そのハンドバッグは、殺人現場にも、落ちていなかったんですよ。シャネルの黒いハンドバッグだそうですが」
「それなら、覚えていますよ」
と、亀井は、いった。
戸狩野沢温泉駅で、見送った時、青木マネージャーが、彼女の白いスーツケースと、化粧道具の入ったボックスを持ち、彼女は、黒いハンドバッグだけを持っていたのを覚えていた。
(マネージャーも、大変だな)
と、感じたものだった。
「ハンドバッグが見つからなかったとすると、どうして、すぐ、身元が、わかったんですか?」
と、亀井は、きいた。
売れっ子のモデルでも、野沢周辺の人たちが、彼女の顔を知っているとは、限らないからである。
戸田は、微笑して、
「死体の見つかったのが、彼女たちの泊っていた伊東旅館の近くでしたからね。宿泊名簿には、名前も、住所も書いてありましたし、旅館の主人が、名刺も、貰っていたこともあります」
と、いった。
その日、亀井は、飯山署に泊り、翌日、戸田の案内で、松浦ゆかりの死体があった場所に出かけた。
「昨夜、警視庁の十津川警部から、被害者と関係のあった二人の男の名前を、知らせて貰いました」
と、パトカーの中で、戸田が、いった。
「問題は、アリバイですね」
「彼女の死亡推定時刻も、報告がありました。九月十一日の午後五時から六時の間だそうです」
「まだ、暗くなっていませんね」
「そうなんです。だから、他の場所で殺し、暗くなってから、運んだのかも知れません。寺の裏手としても、明るい中に、あそこで、殺すかどうか」
と、戸田は、いった。
「夕食は、とった形跡があるんですか?」
亀井がきいた。
「胃は、ほとんど、空になっていたそうですから、夕食は、食べていませんね」
と、戸田が、いう。
亀井を乗せたパトカーは、二十五、六分で野沢温泉に着いた。
道路に車をとめ、建命寺への坂道を登って行った。
寺の前に、「野沢菜発祥の地」と彫られた碑が立っている。
寺の裏手に廻る。ロープをめぐらせた場所が見えた。
「ここに、俯《うつぶ》せに倒れていました。発見した時、服装は、乱れていませんでした。発見者は、この寺の人間です」
と、戸田が、いった。
現場の保存に当っている野沢温泉の派出所の警官が、遠慮がちに、
「お話があるんですが」
と、戸田に、声をかけてきた。若い警官である。
「何だね?」
「こんなものが、落ちていたと、持って来てくれた人がいるんです」
と、その警官は、ハンカチに包んだバッジを見せた。
「どこで、誰が見つけたんだ?」
「この寺の人が、今朝、寺の境内を掃除していて、見つけたそうです。ここから、十五、六メートルしか離れていません」
「このバッジは――」
「あのモデルクラブのバッジですよ」
と、横から、亀井が、いった。
「青木マネージャーも、つけていましたね」
と、戸田は、いった。
「モデルは、つけていないから、残るのは、武田社長ですか」
と、亀井が、眼を光らせた。
あの武田社長の行動も、今、考えると、おかしいと、亀井は、思った。
「あさま24号」の車内から、十日町のマネージャーに電話をかけ、松浦ゆかりがいなくなったと聞いて、あわてて、列車を降りたが、その電話が、本当だとしても、現地のことは、青木に委《まか》せて、自分は、社長として、代りのモデルを、十日町に向わせることが、大事だったのではないのか。
と、すると、武田は、松浦ゆかりと、しめし合せていたのではないのか。野沢温泉で、落ち合うことをである。
武田は、十日町に電話などしてなかったのではないのか。
野沢温泉で落ち合ったが、そこで、ケンカになり、武田は、かっとして、松浦ゆかりを殺してしまい、姿をかくしたのではあるまいか?
「どうやら、社長が、怪しくなってきましたね」
と、戸田警部も、いった。
タケダモデルクラブには、バッジがある。
モデルを除く社員が、つけているのだが、野沢温泉の現場近くで見つかったのは、ゴールドで、武田社長のものだった。
だが、その武田が、消えてしまったのである。
自宅にも、会社にも、友人宅にも、現われない。
(海外へ逃亡してしまったのではないか?)
と、十津川たちは、思った。
武田は、しばしば、海外へ行っているので、パスポートを持っている。松浦ゆかりを殺したあと、海外へ高飛びした可能性も強かった。
三日が、空しく過ぎた。
亀井は、十日町から帰って来た。青木マネージャーたちも、東京に戻っていた。
事件発生から、一週間目の九月十八日の早朝、晴海埠頭から、一台の車が、海に飛び込むのが、目撃された。
午前四時五十分頃である。
すぐ、警察に連絡され、レンジャー隊員が、駈けつけた。
アクアラングをつけた三人の隊員が、海に飛び込んだ。
白いシルビアは、すぐ見つかった。が、その近くに、ベンツが、沈んでいるのも、見つかった。
まず、シルビアが、吊り上げられた。運転していた若い女性は、死亡していた。
続いて、偶然見つかったベンツの方が、クレーンで、吊り上げられ、埠頭のコンクリートの上に、のせられた。
シルバーメタリックのベンツ500SLである。
運転席には、中年の男が、死んでいた。
背広のポケットに、財布の他に、運転免許証が入っていて、それには、武田勇とあった。
財布には、三十万円近い金と、名刺が、五枚入っていた。名刺は、どれも、武田勇で、肩書きは、「タケダモデルクラブ社長」であった。
三十分後に、十津川たちが、鑑識と一緒に、駈けつけた。
ベンツは、何日間か、汚れた海につかっていたらしく、ところどころ、泥土が、入っていた。
武田勇の遺体は、コンクリートの上に、仰向けに、横たえられていた。
「こんなところで、死んでいたとは思いませんでした」
と、亀井が、溜息《ためいき》まじりに、いった。
「見つからなかった筈だよ」
と、十津川が、いう。
「死因は、溺死ですかね?」
「そこが、問題だな」
と、十津川は、いってから、西本刑事に、
「トランクを開けてみてくれ。何か入っているかも知れん」
と、命令した。
西本が、トランクを、開けた。
中から、ボストンバッグが、出て来た。ルイ・ヴィトンのバッグである。
西本が、開けた。
着がえなどに混じって、鳩ぐるまが、入っていた。
「野沢温泉の鳩ぐるまですよ」
と、亀井が、大きな声を出した。
「カメさんが、お土産に買って来てくれたのと同じだね」
と、十津川も、いった。
籐《とう》であんだ鳩の横腹に、車がついている野沢温泉の名物である。
素朴さが、うけているのだ。
十津川たちは、もう一度、死体に、眼をやった。
バッジのことを、調べるのを忘れていたからである。
背広の襟元を見た。が、会社のバッジはない。
「やはり、野沢温泉に落ちていたゴールドのバッジは、武田社長のものだったようですね」
と、亀井がいった。
「武田は、『あさま24号』を降りたあと、野沢温泉に戻ったのかも知れないな」
と、十津川がいう。
「前もって、野沢温泉で会うことを、松浦ゆかりと、打ち合せしていたんじゃないでしょうか? そして、デイトをしたあと、ケンカになり、武田は、かっとして、松浦ゆかりを、絞め殺してしまった。そんなところかも知れません」
「そのあと、東京に逃げ戻ったが、逃げられぬと思って、自分の車で、晴海で、死のダイビングをしたかな」
十津川は、ちらりと、海に眼をやった。
すでに、陽が高くなり、海面は、それを反射して、ますます、輝いている。
「それにしても、好運だったね。若い女が、車ごと飛び込まなかったら、このベンツも、武田社長の死体も、見つからなかったろうからね」
と、十津川は、いった。
武田勇の死体は毛布にくるんで、運ばれて行った。
「これが自殺とすれば、松浦ゆかりを殺してしまったことが、原因だね」
と、十津川。
「もっと、図太い人間だと思ったんですがねえ」
亀井が、小さく、頭を振った。
「他殺だとすると、どうなるのかな?」
「多分、同一犯人でしょう」
「そして、二人の身近な人間が、犯人ということか」
と、十津川は、呟《つぶや》いた。
十津川は、死んだ武田勇の評判を、集めさせた。
同業者に聞き、彼の経営していたモデルクラブの人間に聞いた。
「どこも、評判は、あまりよくありませんね」
と、西本が、十津川に、報告した。
「どんな風に、よくないんだ?」
「仕事については、やり手だと、誰もがいいますが、その反面、やり方が汚いとか、女にだらしがないとか、平気で友人を裏切るといった悪口が、どこでも、聞かれました」
「自分のところのモデルにも、手をつけていたのかね?」
「野沢温泉で殺された、松浦ゆかりとの関係は、他のモデルたちは、みんな知っていたようです」
「副社長の何といったかな?」
「小堀美奈子ですか」
「彼女も、当然、知っていたんだろうね?」
「立場上、そんなことはないと思うと、いっていますが、もちろん、知っていたと思いますね」
と、西本とコンビを組む日下刑事が、いった。
「それで、武田は、なぜ、死んだといってるんだ?」
「意見は、二つに分れています。武田と松浦ゆかりの関係が、最近、うまくいってなかった。口ゲンカを見たり、聞いたりしている人間は、何人もいます。武田は、今もいいましたように、女にだらしがないし、ケチですし、彼女の方も、わがままですから、それが、野沢で、爆発して、彼が、殺してしまったのではないかというわけです。そのあと、東京に逃げ帰ったが、警察が、自分を探していると知って、追いつめられた気持になり、自殺したということです」
「もう一つの意見は?」
と、十津川が、きくと、今度は、西本が、
「こちらは、逆で、武田と松浦ゆかりは、口ゲンカしながらも、うまくいってたんじゃないかと、いっています。だから、武田が、彼女を殺す筈がない。それに、もし、武田が、殺したとしても、彼自身が自殺するのは、おかしいというのです。金もあるんだから、海外へ逃げるに違いないといっています。その金を持ってです」
「カメさんは、どっちだと思うね? 君は、武田に会っているんだから、わかるんじゃないかね?」
と、十津川は、亀井を見た。
亀井は、遠くを見る眼になった。まだ、武田と別れて間もないのに、何だか、遠い昔のような感じになっていたからであろう。
「一言でいえば、楽しい男でしたよ。私は、彼の仕事の面とか、女性関係は、わかりませんでしたから。しかし、野沢では、松浦ゆかりと、仲良くやっていましたね。それに、武田の死については、どうも、不審な点があるんです」
と、亀井は、いった。
十津川は、西本たちに、くわしい報告書を作るようにいってから、亀井と向い合って、
「その不審な点を、聞かせてくれないか」
「武田は、自分の車のベンツに乗って、死んでいました。ということは、いったん、自宅に帰ったことになります」
「そうだね」
「私が、別れた時、彼は、例のルイ・ヴィトンのボストンバッグを持っていました。なぜ、それを、ベンツのトランクに入れたんですかね? 普通なら、家に置いてから、車に乗ると思うんですよ」
「そうだろうね」
「ところが、武田は、ボストンバッグを、車に入れて、晴海に行き、飛び込んでいます。自殺する時、そんな行動に出るでしょうか? 自分の一番大事なものを持って、死ぬというのならわかりますが、あのボストンバッグの中には、野沢の土産と、着がえが入っていただけです。着がえは、汚れたものですからね」
「確かに、自殺する人間としては、おかしいね」
「そうなんです」
「それを、カメさんは、どう考えるんだね?」
と、十津川は、亀井に、きいた。
「一つ考えられるのは、自宅に帰った武田が、急いで、行かなければならないところがあって、駐車場の車に、ボストンバッグを放り込み、大あわてで、出かけたというケースです。それなら、自分の部屋に入らなくても、おかしくはありません」
「それは、どんなケースだと思うね?」
「警察に追われて、逃げようとしていたとすれば、一応、納得できるんですが、それでも、不自然さは、残ります。パスポートは、持っていませんでしたし、追われていると感づいているのに、わざわざ、自宅に戻って来たということが、不自然です。当然、警察が、張り込んでいると、思うべきですからね」
「それに、まだ、死亡時刻がわからないが、そんなに、追いつめられていたとは、思えないからね。われわれだって、参考人として、意見を聞く気だったが、逮捕は、考えていなかったわけだからね」
と、十津川は、いった。
「そうなんです。武田の死には、おかしな点が、多過ぎます」
「西本君からの報告でも、武田の性格は、簡単に、自殺するようには、思えないしね」
「すると、他殺ですか?」
と、今度は、亀井が、きいた。
「もし、他殺なら、当然、野沢で、松浦ゆかりを殺したのも、武田ではないことになるね」
と、十津川は、いった。
十津川たちが重視した死亡推定時刻がわかったのは、その日の夜である。
死因は、溺死だった。が、後頭部に傷があり、かなり深く、強打されたものだという。
死亡推定時刻は、九月十二日の午後十時から十二時までの間である。
亀井は、十一日の「あさま24号」の車内で、武田とわかれている。時間は、一五時四三分。列車が、上田に着いた時である。
「あれから、武田が、どこへ行ったのか、いろいろ、考えてみたんですが」
と、亀井は、十津川に、いった。
「それで?」
と、十津川が、きく。
「武田は、十日町へ行くといっていました。その言葉を、そのまま受け取れば、長野に引き返し、飯山線に乗りかえて、十日町に行ったことになりますが、青木マネージャーは、電話もなかったし、武田も来なかったと、いっています」
「松浦ゆかりと、しめし合せて、武田が、下手《へた》な芝居を打ったかな?」
「今になると、そう思います。もっともらしく、私に、電話をかけたように見せて、上田駅で降りて、松浦ゆかりに、会いに行ったんだと思います」
と、亀井は、いった。が、十津川は、首をひねって、
「しかしねえ、カメさん。カメさんは、武田にとって、完全な第三者だよ。その第三者に、なぜ、芝居を打つ必要があったんだろう。勝手に、上田で降りてしまえばいいんだし、長野で別れても、よかったんじゃないのかね?」
「確かに、そうですねえ」
亀井も、考え込んでしまった。
「長野で、本当は、もう一つ前の列車に乗れたと、カメさんは、いっていたね?」
と、十津川は、きいた。
「そうです。二十五分前に出る『白山2号』に、乗ることが出来たんですが、武田が、この列車は、金沢発で、混んでいるから、次の『あさま24号』にしましょうと、いったんです。この列車は、長野始発だから、すいているに違いないといいましてね。私も、その日の中《うち》に、東京に着けばいいと思ったので、『あさま24号』にしたんです」
亀井は、その時の武田とのやりとりを思い出しながら、十津川に、いった。
「それで、『白山2号』は、本当に、混んでいたのかね?」
と、十津川は、きいた。
「それが、混んでいるものと思って、コンコースの喫茶店で、武田と、お茶を飲んでいましたから、わからんのです」
「問い合せてみよう」
と、十津川は、いい、電話を取った。
JRにかけて、十一日の「白山2号」の乗車率をきいた。
答は、長野で、七十パーセントほどだったということだった。空席は十分にあったのである。
「どう思う? カメさん」
と、十津川は、受話器を置いて、亀井を見た。
「武田が、どうしても、私を、『白山2号』でなく、『あさま24号』に、乗せたかったということになりますね」
「なぜだろう?」
「時間でしょうか?」
「しかし、二十五分しか、違わないんだろう?」
と、きき返してから、十津川は、時刻表の、列車の編成欄を、開いてみた。
白山2号と、あさま24号の編成が、似ているのか、違うのか、知りたかったからである。
「なるほどね」
と、十津川は、肯《うなず》いた。
「電話だよ、カメさん。『白山2号』には、車内電話がついてないんだ。だから、『白山2号』に乗ってしまうと、電話を十日町にかけて、松浦ゆかりの行方不明を知ったという芝居が、出来なくなるんだよ」
「それで、二十五分後の『あさま24号』に、したんですか?」
「他には、考えられないね」
「しかし、警部。そんな芝居をして、さっきの疑問に戻りますが、武田は、どんなトクがあるんでしょうか?」
「アリバイ作りをしようとしたんじゃないかね?」
と、十津川は、いった。
亀井は、首をかしげて、
「何のアリバイですか? 自分が殺されるためのアリバイというのも、奇妙ですが」
「それは、例えばだが、武田が、松浦ゆかりを殺そうとしていたとすると、彼は、必死になって、アリバイ作りをしたんじゃないのかね? 十日町へ行くふりをして、彼女を野沢温泉で殺してしまう。そんな計画を立てて、そのアリバイに、カメさんを利用しようとしたんじゃないかね?」
「しかし、武田自身、殺されてしまいました」
「そうだよ。もし、こちらの推理が当っているとする。何者かが、武田の計画を知って、その裏をかいて、武田まで、殺してしまったんじゃないかね」
と、十津川は、いった。が、それほど、自信があるわけではなかった。武田以外の人間の動きが、まだ、つかめていないからである。
「すると、松浦ゆかりを殺したのも、武田ではないということになってきますか?」
と、亀井が、きく。
「そこは、まだ、はっきりしないんだ。武田が、彼女を殺す気だと知っている犯人なら、それを待ってから、武田を、自殺に見せかけて、殺すに違いないからね」
「怪しいのは、マネージャーの青木でしょうか?」
「青木?」
「彼は、武田から、電話はなかったといっています。武田が、私の前で、一芝居打ったとすれば、青木の言葉は、当然なんですが、彼が、犯人とすると、彼の証言も、うさん臭くなってくるんです」
と、亀井は、いった。
「しかし、青木は、ずっと、十日町にいたんだろう? 東京に戻っていなければ、武田を、車ごと、海に突き落とせないんじゃないかね?」
と、十津川は、疑問を口にした。
「確かに、そうですが、武田の死亡推定時刻は、夜おそくです。青木は、夜、東京に来ていて、武田を殺し、翌朝、何くわぬ顔をして、十日町に、引き返したのかも知れません」
「時間的に、可能かね?」
と、十津川が、きく。
「その辺は、十日町の着物ショーの時間を、よく調べないと、何とも、いえませんが」
「調べてみよう」
と、十津川は、いった。
十日町での着物ショーは、十一日、十二日、十三日の三日間、行われた。
十一日は、松浦ゆかりがいなくなって、あわてて、新人のモデルを送り込むので、てんやわんやになり、青木が、一歩も、十日町を離れていないことが、確認された。
問題は、十二日である。
県警の報告によると、十二日は、十日町の中で、会場を移し、今度は、昼間に、行われた。午後二時から四時の間である。
タケダモデルクラブの新人、麻里あけみは、午後五時には、ホテルに帰った。マネージャーの青木もである。六時には、ルームサービスで、夕食をすませ、麻里あけみは、疲れたので、すぐ、眠ってしまったという。
青木も、前日からのごたごたで疲労が重なり、翌十三日の昼近くまで、眠っていたといっている。
「どうだい?」
と、十津川は、亀井に、きいた。
亀井は、県警の報告書に、眼を通しながら、
「青木の、十二日午後六時から、翌日の昼近くまでのアリバイは、無いわけです」
と、いった。
「午後六時に、十日町を出て、果して、十時から十二時までの間に、晴海で、武田を殺せるだろうか? 十日町は、野沢より更に、長野から遠いのにだ」
十津川が、いった。
「それが、問題ですが――」
と、亀井は、いい、今度は、時刻表の地図に、眼を移した。
十津川も、同じ地図を、見た。
「なるほどね」
と、十津川が、いい、ほとんど同時に、亀井が、
「面白いですよ、これは」
と、いった。
なるほど、十日町は、飯山線だけを見れば、野沢温泉より、ずっと、長野から遠い。駅にして、十六も先なのだ。
従って、長野へ出ると考えると、遠いのだが、上越新幹線を見ると、野沢温泉より、ずっと、近くに、十日町がある。
「十日町から、車で、越後湯沢に出ればいいんですよ」
と、亀井が、嬉しそうに、いった。
時刻表を見ると、十日町駅から、越後湯沢駅まで、バスが走っていて、所用時間は一時間十二分である。タクシーなら、もっと早く行かれるだろう。
一時間とすれば、午後七時には、越後湯沢駅に着ける。ホテルでの夕食を食べる時間などを考えても、七時半には着けるのではないか。
一九時五二分越後湯沢発の「とき426号」に乗れるから、これに乗れば、二一時一六分に、上野に着く。
午後九時十六分である。
上野から、晴海まで、一時間あれば、ゆっくり、着けるだろう。
十時十六分には、着くのだ。武田の死亡推定時刻は、午後十時から十二時だから、青木は、武田を殺すことは、可能だったのだ。
「この間、青木が、ホテルで、誰かに会ったり、室内にいるのが確認されたりしたら、彼は、シロになってしまうがね」
と、十津川は、いった。
「その点は、向うの県警に委《まか》せて、青木に、動機があったかどうか、調べてみます」
と、亀井は、いった。
亀井と、西本が、その聞き込みに、当った。
その結果、青木徹について、いくつかの情報が、集まった。
青木は、二十九歳。独身である。大学時代、ラグビーをやっていたので、体力はある。
マネージャーとしては、真面目だが、臨機応変の才がないので、よく、社長に、叱られていたという。
「青木は、去年、若いモデルの一人を好きになったんですが、それを知った社長の武田から、こっぴどく叱られたそうです。当の武田が、平気で、自分の会社のモデルに手を出しているのにと、青木が、友人に、こぼしていたのが、わかりました」
と、西本が、十津川に、いった。
「青木が、武田社長を殺す動機は、見つかったということかね?」
「当の青木は、この話を、否定していますが、事実のようです」
「その若いモデルは、急遽《きゆうきよ》、十日町に行った麻里あけみじゃあるまいね?」
「それは、違うようです」
「他に、青木が、社長を恨んでいた形跡は、見つからないのかね?」
「社長が横暴なことや、ケチといったことで、恨んでいたとしても、これは、あの会社の全員の気持だったようで、青木だけのものでは、ありません」
と、西本が、いった。
「しかし、青木の場合は、若いモデルとのことで、恨んでいたとすれば、それは、プラスされるわけだよ」
と、十津川は、いった。
青木が、犯人だろうか?
動機は、見つかった。
武田社長殺しについて、アリバイがない。
だが、彼には、野沢で、松浦ゆかりを殺すことは、出来ないのだ。
松浦ゆかりの死亡推定時刻は、十一日の午後五時から、六時である。
その時間に、青木は、東京の会社に、松浦ゆかりが、いなくなったことを、報告しているからである。
午後五時に、いなくなったと気付き、電話で、知らせていたというのだ。
従って、武田が、松浦ゆかりを殺し、その武田を、自殺に見せて、青木が殺したと考えるより仕方がなくなってくる。
果して、その可能性があるのだろうか?
「可能性は、あると思います」
と、亀井は、いった。
「どんな風にだね?」
「青木は、野沢温泉で、武田、松浦ゆかりと一緒でしたから、二人の内密の話も、聞けたと思うのです。武田が、ゆかりに対して、十日町の仕事をすっぽかして、野沢温泉で、もう一度、会わないかと、持ちかけているのを、青木が聞いたとします。武田が、松浦ゆかりを殺したがっているのを知っていたとすると、これは、彼女を、野沢温泉で殺す気なのだと、ぴんと来たのでは、ないでしょうか?」
「それで、武田が、松浦ゆかりを殺して、東京に引き返したあと、青木は、東京に行き、晴海で、武田を、車ごと、海に沈めたということか?」
「そうです」
「どうも、ぎくしゃくしているねえ」
と、十津川は、いった。
どこか、推理に、無理があるような気がして、仕方がないのだ。
一番不安定なのは、たまたま、青木が、武田の計画を知っていたというところである。
いやしくも、殺人計画である。武田が、それを知られるような、ヘマをするだろうか?
青木を逮捕したとしても、その点をクリアしないと、起訴は出来ないだろう。
亀井も、十津川と一緒に、考え込んでいたが、
「共犯関係にあったと考えたら、どうでしょうか?」
と、ふいに、いった。
「共犯?」
「そうです。いや、共犯というより、武田の命令で動くことになっていたと考えたらいいですかね。武田は、誰でも、自分の力で動くと思い込んでいた。だから、あの日、自分の芝居に、青木が応じてくれる筈だと、信じていたんじゃないでしょうか?」
「青木が、買収されていたということかね?」
「そうです。武田が、私に向って、一芝居打っても、青木が、電話はなかったと否定すれば、それで、何もかも、おわりです。こんな危なっかしい計画を立てたとは、思えません」
「つまり、武田が、電話をしてなくても、青木は、あんたに、証言する筈だったということか?」
「そうです。青木は、金で買収され、指示どおりに、証言することになっていたんだと思います。それなら、納得できます」
と、亀井は、いう。
「ところが、青木は、武田の指示どおりに動かなかったということか?」
「そうです。日頃から、武田を恨んでいたので、いざという時、しっぺ返しを、したわけです」
「なるほどね」
「青木は、こう証言することになっていたんだと思います。十一日の午後三時半頃、武田から、電話があったので、松浦ゆかりが、姿を消してしまい困っているといった。この時刻は、武田が、私と一緒に、『あさま24号』に乗っていて、十日町に電話したという時刻です。そして、武田は、十日町に駈けつけ、二人で松浦ゆかりを探したと、青木が証言すれば、武田のアリバイは、完成します」
「それを、裏切った――か?」
「はい。青木は、そんな電話はなかったし、武田も、十日町に来なかったと証言したわけです」
「武田は、怒るね」
「そうです。それを、何とかなだめて、東京に帰らせておき、十二日の夜、青木は、晴海埠頭で、殺したんじゃないか。そう考えたんですが」
と、亀井は、いった。
前よりは、少し、納得できるようになったと、十津川は、感じた。
だが、どこか、しっくりしない。
「武田の行動が、おかしいね」
と、十津川は、いった。
武田が、青木を買収しておいて、松浦ゆかりを、野沢温泉で殺したとしよう。
当然、そのあと、彼は、十日町に行き、青木と一緒に、松浦ゆかりを探すふりをするだろう。そうでなければ、アリバイ作りは、完全ではないからである。
しかし、武田は、十日町に行っていない。
どこにいたかわからないが、翌十二日の夜、東京で、殺されている。この行動は、不可解としかいいようがない。自ら、疑われるような動きをしているのだ。
「この説明を何とか、出来るといいんだがね」
と、十津川は、いった。
「どうも、野沢が、ガンですね」
亀井が、溜息《ためいき》まじりに、いった。
「それは、松浦ゆかりが、なぜ、野沢温泉で殺されたのかということかね?」
「そうです。野沢温泉と、十日町では、飯山線の沿線です。アリバイを作りにくい場所で、殺したことになってしまいます。私が、武田なら、他の場所で、殺しますね。十日町から、なるべく遠い場所でです」
「例えば?」
「例えば、――そうですねえ」
「東京か?」
と、十津川が、いった。
「そうです。東京です。それなら、武田が、十日町に行かず、東京で殺されていた理由がわかります。多分、彼は、東京で会うことになっていた松浦ゆかりを、探していたんじゃないでしょうか?」
「その頃、松浦ゆかりは、野沢温泉で、殺されていたわけだね?」
「そうです。何者かが、彼女を、野沢温泉に行かせたんです」
「青木か?」
「恐らく」
「しかし、青木には、十一日のアリバイがあるんだろう? 野沢へ行って、松浦ゆかりを殺せないんじゃなかったかね?」
と、十津川が、首をかしげた。
「そうです」
「じゃあ、この考えも、駄目か?」
十津川は、舌打ちした。
松浦ゆかりを、殺したのは、いったい、誰なのか?
青木には、アリバイがある。
武田とすれば、なぜ、野沢で殺したのか、なぜ、十日町に行かなかったのかが、わからない。
「もう一度、やり直しだな」
と、十津川は、眉をしかめて、いった。
再び、亀井たちは、聞き込みに、走った。
武田や、松浦ゆかりの周囲の人間を、一人一人、洗っていった。
その結果、新しく浮んで来たのが、副社長の小堀美奈子である。
三十歳の美奈子は、売れっ子のモデルだった。
それが、二十八歳の時、突然、モデルをやめ、半年後に、クラブの事務をやるようになった。
「その理由なんですが、こんな話をしてくれた人間もいます。武田のことを、よく知っている男なんですが、モデル時代、武田と関係があったというわけです」
と、亀井が、報告した。
「それは、大いにあり得るだろうね。武田社長は、女にだらしなくて、自分の会社のモデルに、手をつけてるんだから」
「そのあとがあるんです。美奈子は、その結果、妊娠したが、武田が、おろせといった。仕方なくおろしたが、身体が弱って、六ヶ月、静養したというのです。復帰したが、もう、モデルをやる気はなくなってしまい、武田も、責任をとって、彼女を、副社長にしたというわけです」
「副社長なら、いいじゃないか」
「ところが、名目だけのポストだそうですよ」
と、亀井は、いった。
「そして、武田の方は、松浦ゆかりと、関係が出来たとなると、小堀美奈子が、彼を恨んでいたとしても、おかしくはないね」
十津川は、亀井の持って来た小堀美奈子の二枚の写真を見て、いった。
一枚は、モデル時代、もう一枚は、現在の写真である。
今でも、美人だが、華やかさが、全く違っていた。この二枚の変化の中で、彼女の気持に、殺意が生れたのだろうか?
「しかし、彼女は、十一日は、松浦ゆかりがいなくなり、新人のモデルを、急遽、十日町に、派遣するので、忙しかったんじゃないかね? 野沢温泉へ行って、殺す時間は、あったんだろうか?」
十津川が、疑問を、口にした。
「麻里あけみに、きいてみましょう」
と、亀井は、いった。
十津川と亀井は、中野のマンションに、あけみを訪ねた。
二十歳の若いモデルだった。彼女は、突然の社長の死や、松浦ゆかりの死に、戸惑っているように、見えた。
「十一日に、あなたは、急遽、十日町に行ったんだが、その準備などをしてくれたのは、誰ですか?」
と、十津川は、あけみに、きいた。
「副社長さんですわ」
と、あけみは、いう。
「ヘリコプターの世話も?」
「ええ」
と、あけみは、肯いた。嘘をいっているようには、見えなかった。
と、すれば、小堀美奈子が、野沢温泉へ行って、松浦ゆかりを殺す時間は、ない。
「小堀さんが、あなたと一緒に、ヘリコプターで、十日町に行ったということは、ありませんか?」
と、亀井が、きくと、あけみは、初めて笑って、
「そんなことは、ありませんわ」
と、いった。
「うまくありませんね」
と、帰りの道で、亀井が、溜息まじりに、いった。
十津川は、黙っていたが、捜査本部に戻ると、すぐ、長野県警の戸田警部に、電話をかけた。
その電話がすむと、十津川は、亀井に向って、
「松浦ゆかりの死体が見つかったのは、十二日の朝、午前六時だそうだよ」
と、いった。
「それが、何か?」
「つまり、野沢温泉で殺されたという確証はないんだ。殺されたのが、十一日の午後五時から六時の間だからね。他で殺されて、車で運ばれた可能性も、あるんだ」
と、十津川がいった。
亀井は、やっと、顔を明るくして、
「東京で殺された可能性もあるわけですね?」
「そうだ。十日町のホテルに入ったあと、松浦ゆかりは、すぐ、ホテルを抜け出して、東京に向った。タクシーで、越後湯沢に出て、上越新幹線で、東京へというコースだろう。午後三時には、ホテルを抜け出せるから、一時間で越後湯沢、そして、一時間三十分で、上野に着く。五時半に、上野へ着いていれば、死亡推定時刻の五時から六時の間に、入ってくる」
「小堀美奈子に、殺せますね」
と、亀井が、いった。
「整理してみよう」
十津川は、黒板に書かれた名前や、時刻を見て、いった。
武田、青木、松浦ゆかり、小堀美奈子といった名前が、並んでいる。
「まず、なぜ、松浦ゆかりが、仕事を放っぽり出して、十日町から、帰ってしまったかということがあるね」
と、十津川は、いった。
「武田としめし合せてという推理は、駄目ですか?」
「その場合は、武田が、彼女を、殺そうとしてという前提が必要だよ。いやしくも、武田は、モデルクラブの社長だ。モデルが仕事を放ったらかすようなことを、すすめる筈がないからね。それに、武田は、松浦ゆかりを、殺してないんじゃないか?」
「そうですね」
「武田が、列車内から十日町に電話したというのは、芝居じゃなくて、本当だったんじゃないかねえ」
と、十津川が、いった時、西本と、日下の二人が戻って来た。
「面白い噂を聞いて来ました」
と、西本が、十津川に、いった。
「どんな噂だ?」
「例の青木マネージャーと、小堀美奈子が、関係があるという噂です」
「本当かね?」
「あのクラブの人間が、一ヶ月前くらいに、夜、彼女のマンションから、二人が出て来るのを見たそうです。タクシーを待つ間、二人は、抱き合っていて、そのあと、青木が、タクシーで帰って行き、彼女が、ずっと、見送っていたそうです」
「青木は、武田に、モデルとの仲を裂かれ、美奈子の方も、武田に傷つけられて、お互いに、同情し合ったのが、愛情に変ったんだろうという人もいます」
と、日下が、いった。
「二人が、共犯の可能性も、出て来ましたね」
と、亀井が、いった。
「彼女に、会いに行こう」
と、十津川が、急に、いった。
10
十津川と、亀井は、銀座のモデルクラブで、美奈子に、会った。
社長の武田が死んでも、クラブの仕事は、続いているらしく、彼女は、忙しく、電話をかけていた。
十津川たちの顔を見ると、彼女は、二人を、奥の社長室に、案内した。
広い部屋である。そして、ぜいたくに、作ってある。
「どんなご用でしょうか?」
と、美奈子は、改めて、十津川に、きいた。
「今度の事件について、いろいろと、考えてみましたが、やっと、一つの結論に、達しましたので、それを、あなたに聞いて頂きたいのですよ」
と、十津川は、いった。
「なぜ、私に?」
「あなたが、武田社長にも、松浦ゆかりさんにも、近い立場にいたからです。聞いて、意見をいって欲しいのです」
「でも、私は、何も知りませんから」
「とにかく、聞いて下さい」
と、十津川は、強引に、話し始めた。
「松浦ゆかりさんは、わがままな性格です。彼女は、社長の武田さんと関係が出来たあと、目白台の豪華マンションを借りて貰い、さまざまなプレゼントを受けていても、まだいろいろと、要求を出していました。十日町の着物ショーに出るのに、その前に、野沢温泉で遊ぶなどというのも、そのわがままの表れだと思いますね。ところが、彼女は、それでも、不満だったのです。彼女は、何かを、社長に要求していましたが、それが、受け入れられないとなって、突然、着物ショーへの出演を拒否して、姿を消してしまいました。武田社長は、帰りの列車の中から、十日町の青木マネージャーに電話して、それを知り、あわてました」
「でも、青木さんは、そんな電話は、なかったと、証言していますけど」
と、美奈子が、口をはさんだ。
「まあ、最後まで、聞いて下さい」
と、十津川は、彼女を制しておいて、
「武田さんは、上田駅で、列車を降りると、すぐ、あなたに、電話をかけました。とにかく、最後まで聞いて下さい。武田さんは、あなたに、こういった筈です。また、松浦ゆかりの奴が、行方をくらませてしまった。あのわがままにも困ったものだ。すぐ、新人のモデルを、代りに、十日町へ派遣してくれ。私も十日町に行くとです」
「そんな電話は、ありませんでしたわ」
「その時、あなたは、社長に、こういったんです。青木さんからの電話では、松浦ゆかりは、東京の社長に会いに、ホテルを抜けだしたらしい。ですから、十日町に行かずに、東京に帰って、彼女を待っていてくれませんかとですよ」
「違いますわ」
「それで、武田さんは、十日町に行かずに、東京に向った。一方、あなたは、新人モデルの麻里あけみさんを、十日町に向わせたあと、車で、松浦ゆかりさんに、会いに出かけたんです」
「野沢温泉になんか、私は、行っていませんわ」
「もちろん、野沢じゃありません。東京都内の上野に近いどこかです」
「なぜ、私が、そんなことを、知っているんですか? 私は、彼女が、野沢で殺されたと、思っていますわ」
「松浦ゆかりは、恐らく、青木マネージャーに、もし、社長から電話があったら、東京のどこそこで待ってると、いって頂戴と、いい残して、十日町を、飛び出したんですよ。青木マネージャーは、それを、あなたに教えたんです」
「なぜ、青木さんが、私に、そんなことを、教えるんですか?」
と、美奈子が、きく。
「それは、お二人が、武田社長を憎み、そして、お互いに、愛し合っているからですよ。あなたは、彼女を殺したあと、車で、野沢温泉に運んで行き、建命寺の裏に捨て、東京に戻ったんです。その時に、死体のそばに、予備の社長のバッジを置いたのです」
「――――」
「東京の自宅で、待っていた武田さんは、いつまでたっても、松浦ゆかりが、現われないので、あなたに、連絡した。だが、あなたもいない。十二日の朝頃、あなたは、社長の家に、行ったのだと思いますね。どうなっているんだときく武田社長を、あなたは、いきなり、背後から、殴りつけ、気絶させた。そして武田さんを縛り上げ、あなたは何食わぬ顔で会社に出て、亀井刑事の質問に答えたりしていたんです。そして夜になってから、再び武田さんの家に行き、晴海埠頭で車ごと、海に、落下させたんですよ。もちろん、バッジを外すことも、忘れなかったんでしょう」
「でたらめですわ」
と、美奈子は、青ざめた顔で、いった。
「どこが、おかしいですか?」
十津川が、相手を見つめて、きいた。
「なぜ、私が、二人も、殺さなければいけませんの?」
「あなたは、社長に裏切られた。だからです」
「でも、松浦ゆかりさんは、関係ありませんわ」
と、美奈子は、いった。
十津川は、落ち着いて、
「彼女は、何かを要求して、着物ショーを、すっぽかしたんです。私は、二つ考えました。社長の奥さんにしろという要求。これは、奥さんは病身ですから、実質的には、彼女は奥さん同様だったと思います。もう一つは、モデルをやめて、社長と一緒に、経営をやりたいということです。つまり、副社長にしろという要求です」
「でも、私の副社長なんか、飾りものですわ」
「しかし、松浦ゆかりさんは、あなたを追い出して、副社長になりたかったんじゃありませんか」
「でたらめは、いいかげんにして下さい。これ以上、私を侮辱なさると、訴えますよ」
美奈子は、声を荒らげ、社長室を、出て行った。
残された二人は、顔を見合せた。
「彼女は、犯人だよ」
と、十津川が、いった。
「私も、そう思いますが、証拠がありません」
と、亀井が、残念そうに、いった。
「証拠ねえ」
十津川は、何ということもなく、社長室を見廻していたが、
「あれ?」
と、壁側にあるサイドボードの傍へ歩いて行った。
ガラスケースの中に、壺などが、飾ってあるのだが、その中に、あの「鳩ぐるま」を、見つけたからだった。
「野沢で、武田は、二つ買ったのかね?」
と、十津川は、亀井に、きいた。
「それは、ありません。一つしか買わなかった筈ですよ。そういっていましたから」
「すると、これは?」
「前に、野沢へ行った時に、買ったものじゃありませんか?」
「そうかな」
十津川は、その鳩ぐるまを、手にとって、いじっていたが、
「平成元年九月謹製と、あるよ」
「すると、これを、買ったんですかね」
「それなら、ベンツのトランクにあった鳩ぐるまは、どうなるんだ?」
と、十津川が、きいた。
二人は、鳩ぐるまを、元に戻し、捜査本部に、帰った。
十津川は、西本刑事に、ベンツのトランクに入っていた鳩ぐるまを、持って来させた。
同じ鳩ぐるまである。
亀井は、それを、手に取って、ゆっくり、見ていたが、
「これは、違いますよ」
と、突然、いった。
「違うって、何がだね? 同じ鳩ぐるまだろう」
「そうですが、これは、籐《とう》で、作ってありますよ」
「鳩ぐるまは、籐で作ってあるんじゃないのかね?」
「そうです。私が買って来たのも、そうです」
「他にもあるのかね?」
「もともとは、アケビの蔓《つる》で編んで作ったものだそうです。野沢には、今でも、その伝統を守っている人がいましてね。武田は、わざわざ、その人を探して、買ったと、自慢していたのを思い出しましたよ」
「社長室にあったのは?」
「あれは、アケビの蔓の本物でしたね」
「すると、どういうことになるんだ?」
と、十津川は、考え込んだ。
「恐らく、武田は、十一日に、東京へ帰ったあと、本物の鳩ぐるまを、あの社長室へ持って行って、サイドボードに、飾ったんですよ」
と、亀井は、いう。
「確かに、そうだろうがね――」
「十一日に、武田は、自宅で、松浦ゆかりから連絡があるのを、待っていたんじゃありませんか。ところが、いっこうに、連絡がない。そこで、夜おそく、車で、会社へ行ってみた。ひょっとして、クラブの方へ行っているかも知れないと思ってです。もちろん、目白台のマンションにも、行ったと思いますよ。その時、鳩ぐるまを、箱から出して、社長室のサイドボードに飾ったんじゃありませんか」
「それを、小堀美奈子は、知らなかった?」
「そうです。十二日の朝、武田社長を縛ったあと、何か、ヘマはしていないかと思い、車のトランクまで、調べた。ボストンバッグはあったが、鳩ぐるまの空箱があるのに、中身がない」
「美奈子は、考え込んだんじゃないかね」
「そう思います。空箱には、鳩ぐるまと、書いてありますからね。とにかく、車が見つかった時、鳩ぐるまがあると、武田社長が、野沢に行った証拠になると、考えたのでしょう。しかし空箱では困る。そこで、急いで、鳩ぐるまを、買いに、走ったと思います」
「しかし、野沢温泉には、行かなかったんじゃないか?」
「そう思います。もう一度、野沢へ行く時間はなかったと思います。ですから、東京で、買ったと思いますね」
と、亀井は、いった。
「武田の買ったものが、アケビの蔓で編んだものと知らず、一般に売られている籐製のものを買ったということだな」
と、十津川は、いった。
十津川は、刑事を動員し、都内で郷土玩具を売っている店を、片っ端から、調べさせた。
武田は、十二日の午後十時から十二時の間に、殺されている。
買ったとすれば、十二日中ということになる。
百店を超える店を調べた結果、やっと、刑事たちは、一つの店を、突き止めた。
日本橋にある店だった。
小堀美奈子が、午前十一時頃、鳩ぐるまを買いに来たことが、わかったのである。
「鳩ぐるまを買う方は、あまりいらっしゃらないので、よく覚えていますよ。車で来られて、あわただしく、買って行かれました。ええ。うちに置いてあるのは、籐で、作ったものです」
と、その店の主人は、いった。
その証言を得て、十津川は、ほっとした顔になって、亀井と、顔を見合せた。
「これで、逮捕令状は、貰えるな」
「武田が、『白山2号』に乗らなかったのは、やはり、混んでいると思ったからだったんですねえ」
「少し考え過ぎたらしいね」
十津川は、苦笑した。
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殺意を運ぶあじさい電車
小田原市内に住む木戸は、強羅《ごうら》にあるホテルのレストランで働いていた。
二十九歳。まだ、独身である。まだ、というより、親戚などから、結婚をすすめられながら、気ままな独身生活を、楽しんでいるといった方が、正確かも知れない。
恋人はいる。
去年の秋、箱根に遊びに来た若い女性だけのグループの一人だった。東京のOLたちで、木戸の勤めるホテルKに、二日間、泊った。その時に知り合い、以後、今日まで、交際は、続いている。
名前は、三浦みゆき。ちょっと小柄で、その明るさに、木戸は、魅力を感じていた。話をしていて、楽しいのだ。
東京と、小田原に離れているので、なかなか会えないが、電話での会話が、楽しい。
みゆきも、あと、二、三年は、結婚はしたくないといっているので、その点でも、気は合っている。少くとも、木戸は、そう考えていた。
木戸は、小田原から、ホテルKのある強羅まで、箱根登山鉄道で、通っている。
二両連結の可愛らしい電車である。小田原駅が、標高二六メートル。それが、終点の強羅駅は、五五三メートルだから、文字通り、登山電車である。
一〇〇〇分の八〇という急勾配もあるし、急なカーブもある。スイッチバックも、三ヶ所に設けられていて、短い距離なのだが、楽しくて、木戸は、この電車を、利用していた。
この電車が、あじさい電車の愛称で呼ばれるのは、梅雨時になると、沿線に、一斉に、あじさいの花が、咲き乱れるからである。
愛称ばやりの現代だから、この他に、箱根登山鉄道では、新しく入れた車両に、スイスの登山鉄道にならって、サン・モリッツ号という名を、つけたりしていた。
木戸は、毎日、午前八時一一分小田原発の電車に乗る。強羅着は、九時〇五分、五十四分の通勤である。
五月に入ると、線路の両側に、あじさいの花が咲く。延々と、あじさいの花が続くのは、壮観である。それも、窓から手を伸ばせば、簡単に、摘み取れるほどの近さなのだ。
五月二十五日も、木戸は、同じ電車に乗って、強羅に向った。
おかしなもので、いつの間にか、座る座席が、決ってしまって、一両目の右側、二列目の座席に、腰を下ろす習慣がついていた。
土、日以外だと、この電車は、すいていて、ゆっくりと、腰を下ろすことが出来る。
小田原を出ると、単線だが、レールは、三本という奇妙な景色が、箱根湯本まで、続く。新宿発の小田急線が、箱根湯本まで行くのだが、登山鉄道よりは軌道の幅が狭い。本来の登山鉄道のレールは使えないので、その内に、もう一本レールを敷いたということである。
従って、箱根湯本から先は、変則的な三本レールは終って、普通の二本レールになる。
勾配も、急になり、ひんぱんに、トンネルが現われる。
塔ノ沢を過ぎて、早川にかかる橋梁を渡り始めた時、木戸の隣りに、中年の男が、腰を下ろした。
別に、知った顔でもないので、窓の外を眺めていると、
「木戸さんですね?」
と、その男が、突然、声をかけて来た。
「ええ」
と、男の顔を見返したが、やはり、記憶がない。
「ホテルKのレストランで、マネージャーをやっておられる木戸さんですね」
男が、微笑した。
(ああ、店に来たことのあるお客か)
と、木戸は、思った。
彼が、マネージャーをやっているレストラン「ウインドミル」では、従業員が、胸に名札をつけている。それで、木戸の名前を知ったのだろう。
「よく、お泊りですか?」
と、木戸は、きいてみた。
「これまで、何回か泊っていますよ」
と、男は、笑顔で、いってから、
「あなたに、折り入って、ご相談したいことがあるのですがね」
「どんな話でしょうか?」
「ゆっくりお話をしたいので、時間を作って貰えませんか? あなたにとっても、プラスになる話だと、思いますがね」
と、男は、思わせぶりに、いった。
木戸は、それにつられた恰好で、
「昼食と、夕食の間なら、いいですよ。三時前位なら、大丈夫と思います」
「それなら、午後三時に、ホテルのロビーで、会いましょう。よかった。あなたと、話の出来るチャンスがあって」
と、男は、嬉しそうにいい、それで、約束は、とりつけたという顔で、急に、窓の外に眼をやった。
「この電車が好きなんですよ。山の中を、かき分けて行く感じでね。ああ、ここが、最初のスイッチバックですね。なるほど、運転手と、車掌が、交代するんだ。のどかなものですねえ。時速は、せいぜい、二十キロぐらいですかねえ」
と、男は、ペラペラと、喋《しやべ》っている。
木戸は、相槌を打つのも面倒くさいので、黙っていた。
二人を乗せた電車は、三つのスイッチバックを経て、箱根山を、登って行く。車両と、レールの、こすれる音が、甲高《かんだか》く聞こえる。ひっきりなしに、ブレーキをかけているからだろう。その摩擦熱を和らげるために、この電車には、水タンクがついている。時々、撒水するのだ。
踏切の近くに、いのししに注意という看板が立っている。
「いのししが、出るんですねえ」
と、男は、感心したように、いった。やたらに、感心する男だなと、木戸は、思った。
箱根登山鉄道は、全線、単線なので、途中の駅や、信号所で、上りと下りが、すれ違う。
男は、そんな光景まで、感心して、眺めていた。
その日の午後三時に、木戸は、男と、ホテルKのロビーで、改めて、会った。
男は、ロビーの隅の喫茶ルームから、コーヒーを運ばせて、木戸にも、すすめてから、
「あなたに、やって貰いたいことがあるんですよ」
と、いった。
電車の中では、ニコニコ笑っていたが、今は、妙に、生まじめな顔になっていた。
「どんなことですか?」
と、木戸も、男の顔を、まっすぐに見て、きいた。
「木戸さんは、毎日、同じ時刻に、あの登山電車に、お乗りになりますね、午前八時一一分小田原発の電車に」
「よく知っていますね」
「実は、あなたのことを、調べさせて貰いました。将来は、東京に住みたいので、コツコツと、貯金しているが、なかなか、東京に住居を構えるほどにはならず、絶望的になっている。東京都内だと、2DKのマンションでも、何千万円としますからねえ」
と、男が、いった。
「なぜ、そんなことまで、知っているんですか?」
「いろいろと、調べたと、いっているじゃありませんか」
と、男は、笑った。
「何のために、僕のことを調べているんですか?」
「あなたに、ぜひ、引き受けて欲しい仕事があるからですよ」
「それを、まず、いって下さい」
と、木戸は、いった。だんだん、男が、薄気味わるくなってきていた。
「お礼は、十分にさせて貰いますよ。そうですね。一千万円くらいは、お支払いしてもよいと、思いますよ」
「一千万?」
「ご不満なら、二千万円でも、構いませんよ。どうですか? これ――」
「ちょっと待って下さい」
と、木戸は、あわてて、相手の言葉を、遮って、
「まさか、僕に、人殺しを頼む気じゃないでしょうね」
「実は、その通りです」
「とんでもない。お断りだ!」
と、木戸が、叫ぶと、男は、クスクス笑い出して、
「木戸さん。まさか、そんなことを、頼む筈がないじゃありませんか」
「じゃあ、何のために、そんな大金を、僕に払うというんですか?」
「下手《へた》をすると、警察につかまるかも知れないことだからですよ。まあ、大丈夫だとは、思っていますがね」
と、男は、いった。
思わせぶりないい方に、木戸は、次第に、いらだってきた。
「ずばりと、いってくれませんかね。僕は、あなたと、言葉の遊びをしている暇はないんですよ。これでも、いろいろと、忙しいんです」
と、木戸は、いった。
「では、この写真を見て下さい」
と、男はいい、三枚の写真を取り出して、木戸の前に並べた。同じ女を撮った三枚の写真である。
年齢は、二十七、八歳だろうか。彫りの深い、なかなか、魅力的な美人だった。何かの記念写真ででもあるのか、緊張した表情でまっすぐ前を見つめているもの、水着姿のもの、そして、三枚目は、和服姿である。
「この女性が、どうかしたんですか?」
と、木戸は、写真を見ながら、男に、きいた。
「私の妹です。両親が早く亡くなったので、いってみれば、二人だけの肉親というわけです。それが、ある日、突然、姿を消してしまいましてね。必死で探しているんですが、見つからないのですよ」
と、男は、真剣な表情で、いった。
「なぜ、そんな話を、僕にするんですか?」
と、木戸は、質問した。
「いろいろな人に、頼みました。見つけて欲しくてね。もちろん、警察にも、頼みましたよ。しかし、真剣に、探してはくれませんでした。そりゃあ、当然かも知れません。立派な大人が、自分の意志で、姿を消しているんだから、犯罪に関係がなければ、警察が、動かないのが、当り前でしてね」
と、男は、いい、小さな溜息《ためいき》をついた。
「まだ、よくわからないんですが、僕に、何か頼みたいわけですか?」
「そうです。木戸さんにも、ぜひ、妹を探して貰いたいのですよ」
「探してくれといわれても、僕は、このホテルのレストランで働いているんです。あなたの妹さんを探している時間は、ありませんよ」
「わかっています」
「じゃあ、どうして?」
木戸は、わけがわからず、眉をひそめて、男に、きいた。
「実は、妹は、箱根登山鉄道が、とても、好きでしてね。よく、あれに乗って、箱根に遊びに行っていたことを、思い出したのですよ。私が、このホテルに来たのも、ひょっとして、登山電車の中で、妹に、会えるのではないかと、思ったからです」
「なるほど」
「しかし、私は、小さいながら、会社をやっていて、毎日、あの電車に乗っているわけにはいきません。そこで、毎日、乗っていらっしゃる木戸さんのことを聞いて、ぜひ、お願いしようと、思ったのです。お願いです。もし、妹を見たら、つかまえて、私に、連絡をくれませんか」
「妹さんの名前は、何ていうんですか?」
「加東ひろみです。実は、妹は、何かの事件で、自分が、警察に追われていると、思い込んでいる節があるのです。ですから、無理しても、つかまえて、逃げないようにして、私に、連絡して欲しいのですよ。今もいいましたように、私にとっては、唯一の肉親ですので、ぜひとも、見つけ出したいのです。お礼は、差しあげます」
と、男はいい、内ポケットから、封筒を出して、木戸の前に置いた。
「取り敢えず、百万円、入っていますから、受け取って下さい。もし、あなたが、妹をつかまえてくれて、私に渡して下されば、一千万でも、二千万でも、差しあげます。いくら払っても、妹が、また、私のところに戻ってくれれば、惜しくないのです。お願いします」
男は、頭を下げた。
「しかし、妹さん、ひろみさんですか、必ず、箱根登山鉄道に、乗ってくるとは、限らないんでしょう?」
「ええ。その通りですが、私は、どんな小さな可能性にでも、賭けてみようと思っているんです。もし、妹が、何かの事件に巻き込まれているのなら、助け出したいのですよ」
と、男は、いった。
「僕が、あなたの妹さんを見つけたとして、どうやって、あなたに、連絡したらいいんですか? ずっと、このホテルに、おられるわけじゃないでしょう?」
「そうなんです。仕事の都合で、明日には、東京に帰らなければなりません。ええと、電話番号をいいますから、メモしておいてくれませんか」
と、男はいい、東京の電話番号を、いった。
男は、翌日、ホテルをチェック・アウトした。宿泊カードに書かれた名前は、加東哲也である。
木戸は、男のくれた百万円を、受け取った。まとまった金が欲しかったからである。これで、加東ひろみを見つけて、あの男に渡すことが出来れば、一千万円は、手に入る。いや、あの男は、二千万だって、払っていいと、いった筈である。
木戸は、東京に出て行きたいと、思っていた。東京に、家が欲しいし、東京で、働きたい。そのためには、どうしても、金がいるのだ。
木戸は、箱根登山鉄道での往復に、車内はもとより、駅に着く度に、ホームを、見つめる癖がついてしまった。
写真で見る限り、加東ひろみは、美人だし、それも、特徴のある美人の顔である。もし、面と向えば、すぐ、わかるだろう。
毎日が、勝負だと、思った。何しろ、成功すれば、一千万、二千万になることなのだ。
「マネージャー。最近、眼付きが悪くなったわ」
と、店のウェイトレスに、からかわれたりもした。
これは、マネージャーとしては、失格だったが、今更、探すのを、止《や》めることも、出来なかった。
六月に入ると、梅雨時らしく、雨の日が、多くなった。沿線のあじさいは、ますます、色鮮やかになったが、加東ひろみは、見つからなかった。
次第に、緊張感が、途切れてくる。疲れている時など、つい、電車の中で、眠ってしまったりするようになった。
六月十一日の朝も、いつもの時間に、強羅行の電車に乗ったが、昨夜、友人と遅くまで飲んだこともあって、つい、座席で、うとうとしてしまった。
梅雨の晴れ間で、初夏の太陽が、車内にも射し込んでいる。
眼を開けたのは、箱根湯本に着いた時である。
(しっかり見ていなければ――)
と、木戸は、自分に、いい聞かせて、眼をこすった。
塔ノ沢を出ると、電車は、最初のスイッチバックに近づいて行く。
早川鉄橋を渡り、小さなトンネルを二つ抜けると、出山信号所である。
ホームはあるが、乗客の乗り降りはない。
運転士と、車掌が、ホームを走って、交代するのが、見える。
そして、電車は、逆方向に、スイッチバックで、登って行く。
次の大平台駅は、もちろん、普通の駅だから、乗客の乗り降りも行われるが、ここも、スイッチバックである。
三つ目は、上大平台信号所で、ここは、出山信号所と同じく、スイッチバックのための駅で、乗客は、乗り降りしない。
向い合ったホームには、下りの電車が入って来て、同じように、スイッチバックで、下って行く。
木戸は、無人のホームに眼をやっていたが、急に、
「あッ」
と、声をあげた。
本来なら、乗客のいない筈のホームに、ひとり、若い女が、立っていて、その顔が、あの写真に、そっくりだったからだった。
木戸は、開いた窓から、
「加東さん! 加東ひろみさん!」
と、大声で、怒鳴った。
女が、はっとしたように、こちらを見た。が、その時には、木戸の乗った電車は、もう、ゆっくりと、走り出していた。
「加東さん! そこにいて下さいよ! すぐ戻って来ますからね」
と、木戸は、大声で、叫び続けた。
気がつくと、まわりの乗客が、びっくりした顔で、木戸を見ている。
次の駅で降りて、戻って、と思ったが、次に停車したのは、仙人台信号所である。ここは、すれ違いのための駅で、乗客は、降りることが出来ない。
下りの電車と、すれ違って、やっと、走り出した。
次が、宮ノ下である。ここで、ホームに降りることが出来たが、下りの電車を待って、乗るのも、どうかと、思った。
上大平台信号所に着いても、ホームに降りられないからである。
幸い、宮ノ下から、上大平台信号所までは、下り道である。木戸は、意を決して、線路脇を、駈け出した。
あじさいの花を、蹴散らすようにして、木戸は、走った。眠気は、どこかへ、吹き飛んでしまっている。
(見つけたぞ。一千万円だ!)
と、走りながら、木戸は、胸の中で、叫び続けた。
仙人台信号所を通り、大平台トンネルを抜けた。
やっと、上大平台信号所が、見えて来た。
急な勾配を、駈けおりた。が、ホームには、誰もいなかった。
ホームにあがり、端から、端まで、見て廻ったが、加東ひろみの姿は、なかった。
宮ノ下から、戻って来る間に、彼女は、姿を消してしまったのだ。
木戸は、彼女が、あのあと、強羅まで行き、ホテルか旅館にチェック・インしたかも知れないと思い、問い合せてみたが、それらしい女が、泊った形跡は、なかった。
木戸は、東京の加東哲也に、電話を入れた。
木戸が、上大平台信号所のホームで、妹さんを見かけたと、電話でいうと、加東は、
「本当ですか?」
と、電話口で、大声を出した。
木戸は、思わず、顔をしかめたが、
「間違いありません。妹さんでした」
「それで、妹は、今、あなたのところに、いるんですね?」
「それが、信号所は、電車のドアが開かないんですよ。あわてて、次の駅で降りて、引き返したんですが、妹さんは、もう、姿を消してしまっていました」
と、木戸が、いうと、加東は、はっきりと、失望の語調になって、
「じゃあ、妹は、そこに、いないんですか」
「そうなんです。妹さんは、箱根登山鉄道が、好きだと、いっておられましたね?」
「ええ」
「それなら、また、妹さんに出会えるかも知れません」
「そう思いますか?」
「期待はしているんです」
と、木戸が、いうと、加東は、ちょっと黙っていたが、
「妹は、カメラを持っていませんでしたか?」
「カメラ?」
「そうです。妹は、カメラの趣味がありましてね。今、あの登山電車の周りは、あじさいの花が、盛りでしょう? ひょっとすると、妹は、あじさいの花や、登山電車の写真を撮りに、現われたのかも知れません」
と、加東は、いう。
「それなら、また、会えるチャンスがあるかも知れませんね。あじさいは、今しばらく、咲いていますから」
と、木戸は、いった。
「そうなってくれると、嬉しいんですが」
「今後も、電車に乗った時は、気を付けて見ています」
「そうして下さい。私も、すぐ、そちらへ行きたいんですが、会社のことがあって、身動きがとれないんです。何とかして、力ずくでも、妹を、つかまえて下さい。お願いします」
と、加東は、いった。必死の気持が、強く伝わってくる喋り方だった。
登山鉄道の沿線のあじさいは、まだ、しばらく、花を咲かせている。加東のいうように、彼女が、それを写真に撮りに来たのなら、また、現われる可能性がある。上大平台信号所の周辺より、もっと、景色の美しい場所が、いくらでもあるからだ。
翌日も、翌々日も、雨だった。
雨に打たれて、あじさいは、一層、美しくなったが、加東ひろみは、雨が嫌いなのか、現われなかった。
三日目の六月十四日になって、やっと、晴れた。
今日は、ひょっとすると、また、彼女に、出会うかも知れないという気がして、電車に乗ってからも、まず、車内を調べ、それから、駅に着く度に、眼をこらした。
最初のスイッチバックの出山信号所に着いた時も、木戸は、ホームの隅から隅まで見渡したのだが、誰の姿も見えなかった。
それが、電車が、動き出す時になって、突然、ホームにあがって来た女がいた。
手にカメラを持っている。
そのカメラで、動き出した、こちらの電車を、写そうとする。
「加東ひろみさん!」
と、木戸は、思わず、怒鳴った。
彼女が、びっくりした顔で、こちらを見た。
「すぐ、戻って来るから、動くんじゃないぞ!」
と、木戸は、大声を出した。
その間にも、電車は、急勾配を、登って行く。
先日と違うのは、次の駅で、降りられることである。大平台駅に着くと、木戸は、飛び降りた。
出山信号所まで、また、走らなければならない。
急な下り坂なので、足が、がくがくしてきた。
やっと、出山信号所に近づいた時、突然、前方で、何か、パーンという乾いた音がした。
それが、何なのか、わからないまま、木戸は、息を切らしながら、駈け続け、出山信号所のホームに、飛びあがった。
向うの端あたりに、人が倒れているのが、見えた。
服装から見て、加東ひろみだった。
木戸は、息を整えてから、ホームを駈け出した。
ひろみの倒れている場所まで来て、木戸は、呆然と、立ちつくした。
仰向けに倒れたひろみの胸のあたり、白い服が、血で、朱《あか》く染まっていたからである。
その傍に、一眼レフのカメラと、ハンドバッグが、転がっている。
彼女は、もう、眼が、うつろになり、ぴくりとも、動かなかった。
何がどうしたのか、木戸には、わけがわからず、しばらくの間、立ちすくんでいた。
次の電車が、ごとごとと、音を立てて、近づいて来て、木戸は、やっと、われに返った。
電車が、ホームに入って来た。
停車すると、車掌が、飛び降りて来て、
「どうしたんですか?」
と、きいた。
車内の乗客が、窓ガラスに、額を押しつけるようにして、木戸の方を見つめている。
「警察、いや、救急車を呼んで下さい」
と、木戸は、かすれた声で、車掌に、いった。
「どうしたんです?」
と、車掌が、また、同じことをきく。
木戸は、いらだって、思わず、
「おれだって、わからないんだ!」
と、怒鳴った。
運転士も、降りて来た。とにかく、信号所にある専用電話で、連絡してくれることになった。
やがて、救急車と、パトカーのサイレンの音が、同時に聞こえた。
救急隊員が、ホームにあがって来た時には、彼女は、すでに、死亡していた。
パトカーから降りて来た警官が、緊張した顔で、死体を調べ、それから、じろりと、木戸を見た。
「あなたは、この仏さんと、どんな関係?」
と、その中年の警官が、きいた。
「別に、関係は、ありませんよ」
「じゃあ、なぜ、射《う》たれた時、傍にいたんですか?」
「この近くまで来た時、銃声が聞こえたんで、来てみたら、女の人が、倒れていたんです。それで、丁度、着いた電車の車掌さんに頼んで、警察や、消防に、連絡して貰った。それだけですよ」
「あなたの名前を、聞かせて貰えませんかね」
警官が、きく。
その間に、もう一人の警官が、パトカーに戻って、連絡したらしく、今度は、車で、刑事たちや、鑑識の腕章を巻いた男たちが、どっと、押しかけて来た。
木戸は、小田原警察署に、連れて行かれた。
中村という刑事が、木戸に向って、
「強羅のホテルKのレストランで、マネージャーを、やっているんだってね?」
と、睨むように、きいた。
「そうです」
「おかしいねえ」
「何がですか?」
「今日だって、レストランは、やっているんだろう?」
「ええ」
「それなのに、君は、あの信号所の近くを、歩いていたら、突然、銃声を聞いたといっている。真っすぐ、強羅に行く筈の君が、なぜ、あんな所を、歩いていたのかね? おかしいじゃないか」
「あじさいが、きれいだったんで、大平台駅で降りて、ぶらぶら、歩いていたんですよ」
「仕事を、さぼってかね?」
と、中村刑事は、しつこく、きいてくる。
「ちょっと、あじさいを、見たかっただけで、仕事を、さぼる気は、ありませんでしたよ」
と、木戸は、いった。
「本当に、あの被害者を、知らないんだね?」
「知りませんよ」
木戸は、面倒に巻き込まれるのが嫌で、嘘をついた。
「彼女は、持っていた運転免許証で、東京の人間で、加東ひろみとわかったんだが、この名前も、知らんのかね?」
と、中村が、きく。
「知りませんよ。知っている筈が、ないじゃありませんか。とにかく、関係ないんだから、早く、帰してくれませんかね」
「まあ、いろいろと、ききたいことがあるから、もう少し、ここにいて欲しいね」
と、中村が、いった。
それから、一時間ほどして、また、中村刑事が、木戸を、個室に、連れて行った。今度は、もう一人の刑事も、一緒だった。
中村の顔が、前より一層、厳しく、険しいものになっていた。
「被害者を、知らない女だと、いっていたね?」
「そうですよ。知らない女です」
「ところが、君は、今日、午前八時一一分小田原発の電車に乗っていて、電車が、出山信号所に来た時、ホームに、彼女がいるのを見て、大声で、叫んだそうじゃないか。すぐ戻って来るから、動くなとね。同じ電車に乗っていた何人もの乗客が、君の声を、聞いているんだよ。その一人、一人を、ここに、呼んで、証言させようかね?」
中村刑事は、睨むように、木戸を見て、いった。
木戸は、肩をすくめて、
「わかりましたよ」
「やはり、君が、殺したんだな?」
と、中村にいわれて、木戸は、眼をむいた。
「冗談じゃない!」
「何が、冗談なんだ?」
「僕は、殺してなんかいませんよ」
「じゃあ、なぜ、嘘をついたんだ?」
「面倒なことに巻き込まれるのが、怖かったからです」
「信じられんな」
「これは、本当なんです。本当のことを話すから聞いて下さい」
「よし。話せ」
と、中村はいい、煙草に火をつけた。
木戸は、加東哲也に、初めて、電車の中で会ったこと、妹の加東ひろみを見つけてくれと、頼まれたことなどを、ゆっくりと、話していった。
「それで、今朝、彼女を見つけて、大声で叫んだんですよ。待っていて欲しくてね。そのあと、大平台で降りて、引き返したんです。出山信号所の近くまで来た時、銃声を、聞いたんです。嘘だと思うのなら、硝煙反応を調べて下さいよ。僕が、射ったのなら、僕の手に、硝煙反応がある筈でしょう?」
「いろいろと、知ってるじゃないか」
と、中村は、皮肉な眼つきで、いった。
「信じないんですか? 硝煙反応を、調べて下さいよ」
「そんなことをしても、仕方がないよ」
「なぜなんですか?」
「君が、犯人で、彼女を射ったあと、きれいに、手を洗って、発見者になりすまして、通報したかも知れないからだよ」
と、中村は、いった。
「そんなことは、していませんよ」
木戸は、顔を朱くして、いった。
「していないという証拠は、ないんだろうが」
と、中村は、そっけなく、いった。
「じゃあ、東京の加東さんに電話して、きいてみて下さいよ。僕の話が、本当だと、わかりますから」
木戸は、必死で、いった。
「まあ、電話してみるか」
と、中村は、いい、取調室を出て行ったが、十二、三分すると、戻って来た。
「電話してみたよ」
と、中村は、不機嫌な顔で、木戸に、いった。
「じゃあ、わかってくれましたね?」
「いや」
「なぜですか?」
「あの電話は、白石興業の社長のものだ」
「白石興業? 何ですか、それは?」
と、木戸が、きいた。
「君の教えてくれた電話だよ。社長が出たが、君なんか知らんと、いってるよ」
中村が、顔をしかめて、いった。
「相手は、加東哲也という人なんです。五月二十三日に、その人が、ホテルKに泊っているから、調べてくれれば、わかりますよ」
「おい。君」
と、中村は、一緒にいる若い刑事に、声をかけた。
その刑事は、肯《うなず》いて、出て行った。
彼は、戻って来ると、中村に、メモを渡した。小声で、話している。
中村は、また、強い眼で、木戸を見つめた。
「確かに、二十三日に、加東哲也という客が、泊っている」
「当り前ですよ。その男に、頼まれたんです」
「君は、四十歳ぐらいで、身長は、一七五センチくらい。がっしりした身体つきで、顔は、眉が太く、俳優のTに、似ていると、いったな?」
「ええ。その通りです」
「ところが、ホテルKのフロント係の話だと、加東哲也という客は、二十五、六歳で、痩《や》せていて、眼鏡をかけている。俳優のTには、全く似ていないと、いってるんだよ」
と、中村は、いった。
木戸は、当惑した。
「そんな筈はないんだ!」
と、叫んだ。
「何がだね?」
「加東哲也というのは、中年の、がっしりした男で、俳優のTに似ているんですよ」
「ホテルのフロントが、嘘をつくと思うのかね?」
中村に、きかれて、木戸は、黙ってしまった。
同じホテルで働いているから、フロント係のことは、よく知っている。もちろん、嘘をつく連中ではないし、人の顔を覚えるのも上手である。
(失敗《しま》った――)
と、木戸は、唇を噛んだ。
あの男が、自分のことを、加東と名乗っていたし、当日の泊り客の中に、加東哲也という名前があったので、何の疑問も持たずに、それを、結びつけてしまったのである。
「そろそろ、何もかも、話してしまわないかね?」
と、中村刑事が、いった。
「何のことですか?」
「君が殺した女のことだよ。どんな関係の女で、なぜ、殺《や》ったんだ? 凶器の銃は、どこへ捨てたんだ?」
中村は、矢継ぎ早に、きいた。
木戸は、激しく、手を振って、
「とんでもない。僕は、殺ってませんよ!」
「強情な男だな」
「僕は、本当のことを、いってるんです。あの男に頼まれて、妹さんを、探していたんです。あの登山電車が好きだから、現われるかも知れないと、いわれてですよ。百万円貰って、引き受けたんです」
「百万円? それも、初耳じゃないか」
中村の顔が、ますます、厳しくなってくる。
「金を貰って、人殺しをしていたと思われるのが嫌で、黙っていたんです」
「その男は、五月二十三日に、初めて会ったんだな?」
「そうです」
「初めて会った人間に、百万円も渡して、人探しを頼むかね? いい加減なことを、いうんじゃないよ」
「本当のことを、いっています。警察に、頼んだが、なかなか、探してくれないので、仕方なく、私立探偵に頼んだり、僕に頼んだりしていると、いっていたんです」
「警察に、頼んだといったんだな?」
「そうですよ」
「加東ひろみという女性のことで、君のいうことが、本当かどうか、調べてみるが、君には、今日は、ここに、泊って貰うよ」
と、中村は、冷たく、いった。
否応もない感じで、その日、木戸は、小田原署に、留置された。
(とにかく、調べて貰えば、わかることだ)
と、木戸は、自分にいいように考えたのだが、翌日の午後、また、取調室に連れて行かれた時も、中村刑事の表情は、変っていなかった。
いや、前日より、むしろ、厳しい表情になっている。
「殺された加東ひろみのことを、東京の警視庁にも頼んで、調べて貰ったよ」
と、中村は、いった。
「それなら、彼女の兄が、必死で、探していることが、わかったでしょうに」
「探す? 何のためにだね?」
「行方不明になっていたからですよ」
と、木戸がいうと、中村は冷笑して、
「東京の自宅マンションに、三年間も住んでいるのに、どうして、行方不明と、いえるのかね?」
「それ、本当なんですか?」
「間違いないよ。世田谷区内のマンションに、三年間、暮らしていた。OLで、勤め先も、変えていない。そんな女を、なぜ、探す必要があるのかね?」
「――――」
「それに、三人姉妹の一番下で、兄はいないんだよ」
「じゃあ、あの男は、嘘ばかり、いっていたんだ。僕は、欺《だま》されたんですよ」
「欺す奴が、百万円も、呉《く》れたというのかね?」
と、中村刑事は、また、笑った。
「しかし、貰ったのは、本当なんですよ。あの男は、妹を見つけて、連れて来てくれたら、一千万でも、二千万でも、払うと、いったんです」
「兄でもない人間が、そんな大金を、何のために、出すのかね?」
「だから、僕は、欺されたんですよ」
「欺された? 自分で、女を殺しておいて、変な作り話をしているくせに、よく、そんなことが、いえるな」
と、中村は、いい、もう一人の刑事は、一冊のアルバムを、木戸の前に置いた。
「このアルバムに、見覚えがあるね?」
と、その若い刑事が、きいた。
「ありますよ。僕のアルバムです」
「そうだ。君のマンションの部屋から、持って来たんだ。ここを見てみたまえ」
刑事は、アルバムの終りの方を開いて、そのページを、木戸に、突きつけた。
木戸は、眼をむいた。
そこに、加東ひろみの写真が、八枚も、はさんであったからである。
水着の写真で、ニッコリ笑っていて、その写真に、「愛しています。ひろみ」と、白インクで、書き込まれているものまで、あった。
「君は、彼女のことは、探してくれと頼まれただけで、全く知らない女だといった筈だぞ。その女の写真が、なぜ、君のアルバムに、入っているのかね?」
中村刑事は、じろじろと、木戸を見た。
「誰かが、彼女の写真を、僕のアルバムに、入れておいたんですよ」
と、木戸は、いった。
「誰が、そんなバカなことをやるのかね?」
「僕を、罠《わな》にはめた奴ですよ。あの男だ」
「誰のことかね?」
「僕には、彼女の兄だといい、加東哲也だといっていた男ですよ。僕に、電話をかけさせて下さい」
「誰に、かけるんだ?」
「あなたに渡した東京の電話番号にですよ。僕は、一回、かけて、男の声を聞いている。聞けば、わかります」
「白石興業の社長のことを、いっているのか?」
「あの電話に出た男が、僕を罠にはめた男です」
「どうするかね?」
中村刑事は、若い刑事に、声をかけた。
「納得させてやったらどうですか? そうすれば、諦めて、何もかも話すんじゃありませんか」
と、若い刑事が、いった。
木戸は、電話のある部屋へ連れて行かれた。
「もし、かけて、自分の間違いがわかったら、何もかも喋るんだ」
と、中村は、受話器を、木戸に渡しながら、いった。
木戸は、メモ通りの番号に、電話をかけた。受話器を、耳に、押し当てた。あの男の声が聞こえる筈なのだ。
「もし、もし、白石だが」
と、男の声が、いった。
全く違った男の声だった。
六月十五日に、木戸は、正式に、加東ひろみ殺害容疑で、逮捕された。
凶器の拳銃は、出山信号所近くの小川から発見された。
改造拳銃である。
木戸は、ナイフと、モデルガンの趣味があり、彼のマンションから、何丁ものモデルガンが、見つかった。警察では、木戸が、モデルガンを改造し、それで、加東ひろみを、射殺したのだろうと、解釈した。
県警から、引き続き、協力要請を受けていた東京の警視庁では、県警からやって来た中村刑事を案内して、殺された加東ひろみのマンションに、出かけた。
案内したのは、捜査一課の亀井刑事である。
世田谷区駒沢のマンションだった。
「木戸という男は、自供したんですか?」
と、亀井は、ひろみの部屋を開けて、中に入ってから、中村刑事に、きいた。
「それが、強情な男で、罠にはめられたの一点張りです」
と、中村は、舌打ちした。
「しかし、彼が、犯人に間違いないんでしょう?」
「そうです。問題は、木戸と、被害者の関係です。彼のアルバムに、彼女の写真が、何枚も、入っていたので、一応、わかったわけですが、彼女のところにも、木戸との関係を示すものがあればと、思ったんです」
「なるほど。何か見つかれば、いいですがね」
と、亀井も、いった。
2DKの部屋を、二人の刑事が、調べ始めた。
「手紙の類は、ありませんね」
と、中村は、いった。
「彼女は、煙草は、吸わないんじゃありませんかね?」
亀井が、いった。
「煙草が、どうかしたんですか?」
「煙草が、どこにもないのに、ライターが、あるからですよ。ジッポーのライターです」
「ジッポー?」
と、中村の声が、大きくなった。
「そうです。ジッポーのオイルライターです」
「木戸は、ナイフと、モデルガンと、それに、ジッポーのライターが好きで、いくつか、集めているんです」
「となると、そのライターは、木戸のものかも知れませんね」
「指紋を、調べてみます」
と、中村はいい、ハンカチで、丁寧に、ジッポーのライターをくるんで、自分のポケットに入れた。
中村刑事は、そのライターを持って、あわただしく、小田原署に、帰って行ったが、夜になって、電話がかかった。
亀井が、出ると、中村は、弾んだ声を出して、
「例のジッポーのライターですが、案の定、木戸の指紋が検出されました。これで、二人の関係が、実証されました。助かりましたよ」
と、いった。
「それは、よかったですが、木戸は、どういっていますか? 参ったと、頭を下げましたか?」
と、亀井は、きいた。
「それが、木戸は、あくまでも、自分は、犯人じゃない。罠にはめられたんだと、いいつのっていますよ。まあ、否認のままでも、送検することになると思いますが」
と、中村刑事は、いった。
亀井が、電話を切ると、上司の十津川警部が、
「まだ、否認しているのかね?」
と、きいた。
「そうらしいです。罠にはめられたんだと、同じことを、繰り返しているようです」
「木戸という男の動機は、何なんだ? 女を殺した動機だが」
と、十津川が、きいた。
「中村刑事の話では、県警は、こう考えているようです。殺された加東ひろみは、箱根と、登山電車が好きで、前にも、時々、来ていた。木戸は、強羅のホテルKで、働いているわけですから、その時、二人は知り合い、関係が出来た。ところが、木戸には、恋人がいる」
「いるのかね?」
「東京のOLで、三浦みゆきという名前だそうです。木戸は、遊びで、加東ひろみに手を出したが、女の方が、熱をあげてしまった。始末に困った木戸は、彼女を、箱根に誘い出し、改造拳銃で、射殺した。これが、県警の考えた動機です」
「三角関係の清算か」
「そんなところです」
「どうも、よくわからないな」
と、十津川が、いった。
「どこがですか? 今の若い男は、簡単に、人を殺しますから」
「そうじゃなくて、木戸のアルバムに、何枚も、加東ひろみの写真が、貼ってあったことさ」
「県警では、二人の関係を示す証拠だと、いっていますが」
「しかし、木戸は、殺したいほど、加東ひろみという女を、持て余していたわけだろう?」
「そうです」
「そんな女の写真を、何枚も、後生大事に、アルバムに、貼っておくものだろうか?」
と、十津川は、いった。
「なるほど。おかしいといえば、おかしいですが、今の若い男の気持は、われわれには、不可解ですから」
と、亀井が、笑った。
若い刑事が、部屋に入って来て、十津川に、
「警部に、面会です」
「誰が?」
「三浦みゆきという若い女性です」
「三浦みゆき?」
十津川は、思わず、亀井と、顔を見合せてから、ともかく、下の応接室に行ってみた。
二十四、五歳の若い女だった。
みゆきは、十津川の顔を見るなり、
「あの人を助けて下さい」
と、いった。
「木戸という男のことですか?」
「彼は、無実です」
「そういうことは、弁護士に頼みなさい」
と、十津川は、いった。
「でも、捜査は、警察がやるんでしょう? その捜査は、間違っていますわ。絶対に」
と、みゆきは、いった。
十津川は、困惑した。
木戸の恋人、三浦みゆきが、無実を叫ぶのは、彼を愛していれば、当然のことだが、だからといって、それを受けて、警視庁が、動くわけにはいかないからである。
木戸は、すでに、神奈川県警が、犯人として逮捕し、否認のまま、送検しようとしている。その捜査に協力したといっても、あくまでも、これは、神奈川県警の事件である。たとえ、疑問があっても、それを、県警に、いうわけには、いかなかった。
「それは、神奈川県警に、いって下さい」
と、十津川が、いい、みゆきが、怒って、帰ってしまった後、亀井は、
「警部は、本当は、どう思われているんですか?」
と、きいた。
「何がだい? カメさん」
「今度の事件です。強羅のホテルの例の男が、犯人だと思われますか?」
「神奈川県警は、犯人だと断定しているよ。それに、他に、容疑者はいないんだ」
「今のところでしょう?」
と、亀井が、いう。
十津川は、苦笑して、
「妙に絡むねえ」
「殺された加東ひろみは、なかなかの美人です。いわゆる男好きのする顔をしています」
「つまり、男が、何人もいたんじゃないか。それなのに、木戸という男だけを、調べて、犯人と決めたのは、おかしいといいたいんだろう?」
「その通りです」
「だがね。木戸は、被害者を、追い廻していたんだ」
「そう思われているだけです」
「木戸の証言を、信じるのかね?」
「そうではありませんが、どうも、木戸を犯人と断定したのが、早すぎる気がして、仕方がないんです」
と、亀井は、いった。
「神奈川県警の批判は、よくないね。向うだって、全力で、捜査したんだし、納得できる結果を得たんだ。われわれが、口を挟むことじゃない」
「それは、わかりますが、三浦みゆきのいうことも、聞いてやりたいと思ったんですよ」
「それも、わかるがね。彼女は、われわれより、弁護士に、頼むべきなんだよ。今のところ、われわれには、自由に動く権限がないんだ」
と、十津川は、いった。
もちろん、亀井にだって、そのくらいのことは、わかっているのだ。わかっていて、口にするのは、三浦みゆきが、可哀そうに、思えたからだろう。
現実問題として、十津川たちは、世田谷区内で起きた通り魔殺人事件に、駆り出されることになった。
殺されたのは、二十三歳のOLで、友人と午後十時近くまで、六本木で飲み、成城のマンションに帰る途中、背後《うしろ》からついて来た犯人に、ナイフで刺されて、死亡したのである。
財布などは、盗まれておらず、また、個人的な怨恨の線もうすいことから、変質者の犯行と、みられていた。
成城警察署に、捜査本部が置かれて、十津川たちは、変質者の洗い出しに、全力をあげた。
木戸が、起訴されたことは、耳にしたが、三浦みゆきが、どうしているのかは、わからなかった。
何人かの変質者の名前が、浮んで来た。
だが、なかなか、証拠がつかめない。夜になると、ひとりで出歩く癖のある男がいても、それだけでは、逮捕できないのだ。
三日目に、第二の事件が、起きた。
若い女が、刺されて、病院に運ばれたという知らせを受けて、十津川と、亀井は、その病院に、急行した。
場所は、第一の現場から、二百メートルと離れていなかった。
被害者は、手術を受けていた。
二時間待たされた。手術は成功したが、意識は、まだ、不明だという。
十津川は、被害者の身元を確かめたくて、ハンドバッグを調べた。中に、運転免許証があったが、それを見て、眼をむいた。
三浦みゆきの名前があったからだった。写真も、彼女のものだった。
「偶然だと思うかね?」
と、十津川は、亀井を見た。
「わかりませんが、もし、三浦みゆきということで、狙われたとすると、考えざるを得ませんね」
と、亀井も、いった。
「医者の話だと、第一の事件と同じく、背中を、ナイフのようなもので刺されているそうだ。一見して、同一犯人の犯行と思われるが、ひょっとすると、そう思わせて、別の人間が、三浦みゆきを、刺したのかも知れない」
「三浦みゆきだから、刺されたということですか?」
「かも知れないと思ってね」
と、十津川は、いった。
「それでは、二つのケースを考えて、捜査を進めましょう。変質者の同一犯人の線と、別の犯人の線との二つです」
亀井は、勢い込んで、いった。
「カメさんは、いやに、張り切ってるね」
「或いは、三浦みゆきを、助けてやれるかも知れなくなったからです」
と、亀井は、いった。
しかし、その三浦みゆきは、いっこうに、意識を回復する気配がなかった。
十津川は、引き続き、現場周辺の変質者を、調べる一方、三浦みゆきの最近の行動を調べることにした。
恋人、木戸のために、三浦みゆきが、何をしていたのかを、調べるためでもある。
何人か浮んでいた変質者の捜査を、西本刑事たちに委《まか》せておいて、十津川は、亀井と、三浦みゆきの周辺を、洗うことにした。
みゆきは、木戸が、逮捕された時に、OL生活をやめていた。
一身上の都合ということで、退職願を、会社に出しているのである。何のために、退職したのかは、想像がつく。
恋人の無実を信じ、彼のために、何とかしたいと、動き廻ったのだろう。
十津川に、会いに来た時、すでに、みゆきは、会社を辞めていたのである。
十津川に、拒否されたあと、みゆきは、どうしたのだろうか?
いくつかのケースが、考えられた。
小田原署に、木戸に会いに行き、彼の無実を、訴える。
弁護士を頼む。
真犯人がいると信じ、殺された加東ひろみのことを調べた。
木戸の弁護は、東京の仁部という弁護士が、担当することになっていた。
十津川と、亀井は、明日、小田原へ行くという仁部弁護士を、法律事務所に、訪ねた。
思っていたより若い弁護士だった。四十歳ぐらいだろう。
「三浦みゆきさんには、二度会っていますよ」
と、仁部は、いった。しかし、弁護を依頼したのは、木戸の母親だということだった。
「その時、どんな話をしたんですか?」
と、十津川は、きいた。
「彼女は、ひたすら、木戸は、人殺しなんか出来る人じゃないと、いっていましたね」
「それで、あなたは、どういったんですか?」
「恋人としては、当然だが、裁判では、何の力にもならない。反証をあげなければ、裁判には、勝てないんだと、いいましたよ」
「彼女の反応は、どうでした?」
「それなら、真犯人を見つければ、いいんですねと、二度目に会った時、いっていましたよ。確かに、そうだが、簡単に見つかるものじゃないことも、いったんですが」
「彼女が、刺されたことは、知っていますか?」
「ええ。新聞で見ましたから。通り魔殺人の犯人に、刺されたと、書いてありましたが」
「二度目の時ですが、彼女は、真犯人を、どうやって、探すと、いっていましたか?」
と、十津川が、きいた。
「被害者の加東ひろみの家族に会ってくると、いっていましたね。だから、会うのはいいが、相手は、木戸が犯人と思い込んでいる筈だから、言葉遣いには、注意するように、いっておきましたが」
「彼女は、それに対して、どんな反応を見せました?」
「黙っていましたよ」
と、仁部は、いった。
加東ひろみの家族のことは、神奈川県警から、協力要請があった時、簡単にだが、調べてあった。
両親は、郷里の石川県に住んでいて、東京には、石神井に、姉夫婦が、住んでいる。
三浦みゆきは、多分、その姉と義兄の夫婦に、会いに行ったに違いないと思い、十津川と、亀井は、訪ねて行った。
佐東信一郎と、冴子の夫婦は、小さな建売住宅に、住んでいる。
夜、訪ねて行ったので、N化学に勤める佐東も、帰宅していた。
佐東は、十津川たちを見ると、眉をひそめた。
「あの事件は、犯人も、もう捕まっている筈ですよ。妹のことで、これ以上、悩まされるのは、ごめんです」
と、佐東は、いった。
「悩まされるというのは、どういうことですか?」
と、十津川が、きいた。
「この間、三浦みゆきとかいう女が、会社にまで訪ねて来ました。まるで、自分の恋人が、警察に捕まったのは、私の責任のように、いうんですよ。私が、本当のことを、警察に話さないから、自分の恋人が、捕まってしまったみたいにです。ああいう女には、警察が、ちゃんと、いってくれないと、困りますよ」
「三浦みゆきは、他に、あなたや奥さんに向って、何かいいましたか?」
と、十津川が、きくと、佐東は、なおさら、不快そうな表情になって、
「警察は、あの女の味方なんですか?」
「彼女が、何者かに刺されましてね。意識不明の重傷です。それで、調べているわけですよ」
亀井がいうと、佐東は、びっくりした顔になって、
「知りませんでした」
「あなた方に、彼女が、何をきいたか、それを知りたいのですよ。多分、亡くなった、あなたの妹さんが、どんな男とつき合っていたかを、きいたんだと、思いますが」
十津川が、きいた。
佐東は、肯《うなず》いて、
「その通りです」
「それで、どんな返事をされたんですか?」
「正直にいうと、私は、よく知らなかったんですよ、妹のことは。家内は実の姉妹だし、女同士ということで、よく、話をしていました。だから、家内が、返事をしていましたよ」
「じゃあ、奥さん。話して頂けませんか」
と、十津川は、佐東冴子に、眼をやった。
冴子は、最初は遠慮がちに、話し出した。
「ひろみとは、よく、話をしましたわ。男性の話も」
「ひろみさんは、あなたに、つき合っている男の人の名前を、いいましたか?」
と、十津川は、きいた。
「それが、多分、男の人から、口止めされていたんだと思うんですけど、とうとう、名前は、聞かせて貰えませんでしたわ」
と、冴子は、いう。
「なぜ、男は、口止めしていたんでしょう? 普通なら、堂々と、あなた方や、ご両親に、ひろみさんと、結婚させて欲しいと、いう筈じゃないですかね?」
十津川が、きいた。
冴子が、返事をためらっていると、佐東が、
「そりゃあ、男が、結婚にふさわしい人間じゃなかったために、決っているじゃありませんか。他に、考えようがありませんよ」
と、腹立たしげに、いった。
「つまり、男に、妻子がいたとか、犯罪者だったとかいうことですね?」
「そうです。多分、相手の男には、妻子があったんだと思いますよ」
「しかし、佐東さん。捕まった木戸には、妻子がありませんよ」
と、亀井が、いうと、佐東は、手を振って、
「恋人がいたじゃありませんか。私たちのところへ押しかけて来た三浦みゆきという恋人ですよ。それなのに、ひろみにも、いい寄っていた。だから、自分の名前をいうなと、妹に、いっていたんです。揚句の果てに、殺してしまったんだ」
「しかし、それなら、三浦みゆきは、刺されなかったと思いますがねえ」
「変質者に襲われたんなら、私どもには、関係なく、襲われるわけでしょう?」
「変質者の犯行とは、思っていないんですよ」
と、十津川は、いった。
「それは、あなたの勝手な解釈でしょう」
と、佐東は、大声でいい、奥の部屋に、入ってしまった。
妻の冴子は、おろおろした顔で、十津川を見たり、亀井を見たりして、
「すいません」
「構いませんよ。佐東さんにしてみれば、今更と思われるのは、当然と思います。しかし、われわれは、刑事として、事実を明らかにしなければなりませんのでね。三浦みゆきに、何を話されたんですか?」
と、十津川は、冴子に、きいた。
「私が?」
「そうです。佐東さんが話したとは、思えない。だから、あなたが、話したと思っているんです」
と、十津川は、いった。
冴子は、しばらく、黙っていたが、
「三浦みゆきさんが、あんまり熱心なので、一つだけ、お話ししたことが、ありましたわ」
「それを、教えて下さい」
「ひろみは、よく、私に、男の人のことを話してくれました。それを、思い出して、三浦みゆきさんに、話したんです」
「どんなことを、話したんですか?」
と、十津川は、きいた。
「ひろみが、話してくれていたことですわ。彼女は、つき合っている男の人のことで、悩んでいて、名前は、いいませんでしたが、いろいろと、私には、話してくれていましたから」
「どんな男性だと、彼女は、いっていたんですか?」
と、十津川は、きいた。
「四十代の男性で、責任のある地位にいる人だと、いっていましたわ」
「他には?」
と、十津川は、メモしながら、きいた。
「自分で、車を運転していて、その車は、確かベンツだといっていました。白いベンツです」
「それ、間違いありませんか?」
「ええ。うちの車が、国産の中古なので、うらやましいわねと、いったのを、覚えていますから」
「車が好きな男性なんですかね?」
「そうらしいですわ。ベンツの他に、ジャガーを、持っていると、いっていましたもの」
「金持ちのようですね?」
「ええ、そうらしいんです」
「他には、何か、聞いていませんか?」
「旅行の好きな男の人だと、いっていましたわ。なんでも、旅の景色とか、列車とかを、写真に撮って、アルバムにしておく人で、ひろみも、一緒に旅行をしたり、頼まれて、写真を撮ったりしていたみたいなんです」
「頼まれて、ひとりで、旅行したりしていたわけですか?」
「ええ。いつだったか、北海道から、突然、電話が、かかって来たんです。それで、彼と一緒なのって、きいたら、一人でいるといいましたわ。なんでも、北海道で、廃止になる鉄道があって、それを、彼に頼まれて、写真を、撮りに来たんだと、いっていましたわ」
と、冴子は、いった。
「他に、どんなことでもいいから、話して下さい」
と、十津川は、頼んだ。
「私は、姉ということで、ひろみのことが、心配で、時々、つき合っている男の人のことを聞いていました。それで、いつだったか、こんな風に、ひろみが、恋人のことを、話してくれたんです。彼は、自分で車を運転して、レースに出る人で、去年の十月に、鈴鹿サーキットで、ストッカー・レースで、三位になったんだと、いっていましたわ。その時、ひろみも、応援に行ったんでしょうと、きいたら、寂しそうに、笑っていたんで、ああ、奥さんのいる男性なんだって、思いましたわ」
と、冴子は、いった。
「そのことを、三浦みゆきに、話しましたか?」
「ええ」
「ありがとう。助かりました」
と、十津川は、礼を、いった。
「木戸じゃありませんね」
と、外に出たところで、亀井が、十津川に、いった。
「ああ、別人だよ」
「それで、三浦みゆきは、問題の男が誰か調べて、近づいたんでしょうね」
「われわれも、調べてみようじゃないか」
と、十津川は、いった。
調べるのは、そう難しくはなかった。
昨年十月、鈴鹿で行われた自動車レースを、調べればいいのだ。
主催者に、電話できいてもいいし、昨年の新聞で、調べることも出来る。
十津川は、捜査本部に戻ってから、主催者団体に、電話をかけてみた。
ストッカー・レースは、上級、中級、初級の三つのレースが行われていた。
十津川は、それぞれのレースの三位の人間の名前や、略歴を、聞いた。
上級レースの三位は、二十五歳の男だった。これは、四十代の男という冴子の話に、合わない。
初級の三位も、若い男だった。
中級のレースの三位は、四十五歳の会社社長である。
名前は、平野一成。インテリア会社の社長だと、教えられた。
多分、三浦みゆきも、簡単に、その名前を知ったと思われる。
問題は、この後、彼女が、どんな行動をしたかである。
どうやって、平野一成という男に近づいたかである。
「直接、その男に、会ってみるかね?」
と、十津川は、亀井に、きいた。
「いくらきいても、三浦みゆきのことは、否定すると、思いますよ」
「わかってるが、どんな男か、まず、見てみようじゃないか」
と、十津川は、いい、翌日、二人は、平野に、会いに出かけた。
三十畳はある広い社長室である。
壁には、ずらりと、パネル写真が、並んでいた。ストッカー・レースの写真、列車の写真、それに、旅の写真だった。
「趣味が、広いですねえ」
と、十津川は、感心したように、いった。
が、平野は、眉を寄せて、
「刑事さんが、何のご用ですか?」
と、きいた。
「今、三浦みゆきという女性が刺された事件を、追っているんですよ」
「そんな女性は、知りませんよ。なぜ、私と結びつけるんですか?」
「彼女が、あなたのことを、調べていたことが、わかったからです」
「なぜ、私のことを、調べていたんですか?」
「そこまでは、まだ、わかりませんがね」
と、十津川は、わざと、いった。
平野は、小さく笑って、
「それで、私を容疑者扱いですか?」
「いや、何とかして、彼女を刺した犯人を見つけたくて、いろいろな人に会って、彼女の足跡を、追っているわけです」
と、十津川が、いうと、平野は、いくらか、余裕のある顔になって、
「協力したいとは思いますが、その女性を、全く知らないんですよ。申しわけないが」
と、いった。
「会ったこともない?」
「名前を聞くのも、初めてですよ」
「では、加東ひろみという女性を、知っていますか?」
十津川は、いきなり、話題を変えた。
平野の顔が、一瞬、ゆがんだように見えた。が、すぐ、立ち直って、
「知りませんね」
と、首を横に振った。
「写真がお好きのようですね」
亀井が、パネルを、見廻して、いった。
「そうですよ。好きですよ」
「奥さんと一緒に、旅行されるんですか?」
「いや、家内は、あまり、旅行は好きじゃないんで、私一人で、行くことにしています」
「なぜ、一緒に行かないんですか? 旅行は嫌いでも、自動車レースは、嫌いじゃないんでしょう?」
「私のプライバシイにまで、立ち入るんですか? 私にも、弁護士は、いますよ」
と、平野は、怒りの声で、いった。
「箱根登山電車に、お乗りになったことがありますか?」
と、十津川が、きいた。
また、平野の顔色が、変った。
「何という電車ですって?」
「箱根登山電車ですよ。列車にくわしいあなたなら、きっと、ご存知と思ったんですがね」
「ああ、名前は知っていますよ」
と、平野は、顔色を戻し、努めて、微笑を見せた。
「乗ったことは?」
「ありませんね。どんな電車かもよく知らないんです。なぜ、そんな電車のことを、おききになるんですか?」
「いや、列車がお好きだというので、どんな列車のことも、ご存知と思いましてね」
「確かに好きですが、何しろ、忙しいので、ほとんど、乗ることが出来ないのですよ」
と、平野は、いった。
「ご自分が行けない時は、誰かに、その列車の写真を、撮って来て貰うわけですか?」
「頼んだことはありますよ」
「誰にですか?」
「ちょっと待って下さい。まるで、私が、訊問されているみたいじゃありませんか」
と、平野は、文句を、いった。
「これは、申しわけない。何しろ、殺人と、殺人未遂の二つの兇悪事件を追っているものですからね」
「私は、関係ありませんよ」
「六月十四日の午前九時頃、どこにおられましたか?」
「弁護士を、呼びますよ」
「何かまずいことでもありますか? ただ、どこにおられたかと、おききしているだけなんですが」
「その時間なら、いつものように、この社長室にいたと思いますよ」
「しかし、この部屋には、あなただけが、おられるんでしょう?」
「当り前でしょう。社長なんだから。とにかく、もう帰ってくれませんかね。本当に、弁護士を呼んで、あなた方を、訴えますよ」
と、平野は、いった。
「平野一成は、クロですよ」
と、亀井が、いった。
十津川は、パトカーの座席から、今、出て来たスーパーに、眼をやった。
「そうだと思うが、どうやって、証明するかね?」
「とにかく、あの男のことを、調べましょう。それと、殺された加東ひろみのことです。二人が関係があったことが、わかれば、突破口にはなりますよ」
「もう一度、彼女のマンションを、調べてみよう」
と、十津川は、いった。
そのまま、二人は、加東ひろみのマンションに、廻った。
木戸の指紋のついたジッポーのライターが見つかったが、あれは、平野が、木戸のところから盗み出して、置いておいたものだろう。平野は、その代りに、彼女の写真を、木戸のアルバムに、入れておいたのだ。
犯人が、それだけのことをした部屋で、何か見つかるとも思えなかったが、二人は、中に入った。
平野に結びつくものを探したが、やはり、見つからない。
「見つかりませんね」
と、亀井が、いった。
「見つかる方が、おかしいのさ」
と、十津川は、いってから、一冊の本を見つけて、手に取った。
「時刻表ですね」
と、亀井が、いう。
「ああ。一冊だけだ、それに、今年の六月号だよ」
と、いって、十津川は、ページを繰っていたが、一枚のメモが、挟んであるのが、見つかった。
そのメモには、次のようなことが、書き込んであった。
(画像省略)
「何ですか? それは」
と、亀井が、のぞき込んで、きいた。
「わからないが、時刻表に挟んであったところをみれば、どこかの線路だろうね」
「ひょっとして、箱根登山電車のじゃありませんか?」
と、亀井が、いった。
「多分、そうだよ」
と、肯きながら、十津川は、じっと、見つめていた。
「もし、箱根登山電車とすると、Gは、ゴールではなくて、強羅のことだろうね」
「Oは、小田原ですか?」
「かも知れない」
「数字は、何ですかね?」
「わからんよ。私も、乗ったことがないんだ」
「どうですか。明日、一緒に、乗ってみませんか」
と、亀井が、いった。
「いいね。そのあとで、出来れば、木戸という男にも、会ってみたいね」
と、十津川は、いった。
翌日、二人は、新宿から、小田急線の特急「はこね」に、乗った。
特急「はこね」は、箱根湯本まで、行く。
そこで、箱根登山鉄道に、乗りかえである。
箱根湯本駅の標高は、一〇八メートルと、知らされて、メモの数字が、全て、標高であることが、わかった。
やはり、箱根登山鉄道の駅だったのである。
「これは、きっと、平野が、書いて、加東ひろみに渡したメモですよ」
と、亀井が、いった。
「あとで、筆跡を、鑑定して貰おう。カメさんのいう通りなら、平野が、写真を撮って来てくれと、加東ひろみに、頼んだことが、証明されるな」
「Sは、多分、スイッチバックですよ。この電車は、三回、スイッチバックがあるそうですから」
「それを、ホームで、撮って来てくれと、頼んだんだな。木戸に、見つけさせ、あとで、射殺するために」
「そう思います」
「それで、二つの駅に、二重丸か。しかし、その真ん中の駅も、スイッチバックをするんだろう? それには、×印がついていて、必要ナシと、書いてあるが、なぜかな?」
「とにかく、行ってみれば、わかりますよ」
と、亀井は、いった。
二人の乗った二両編成の電車は、ゆっくりしたスピードで、次の駅に向って、走り出した。
まだ、梅雨は明けていなくて、空は、どんよりと曇っていたのだが、それだけにかえって、蒸し暑かった。
窓を開けると、湿っぽい空気が、入って来る。
小さなトンネルを、いくつかくぐり抜けて、最初の駅である塔ノ沢に着いた。
五、六人が降りた。が、乗ってくる客は、いなかった。
塔ノ沢を出ると、真新しい鉄橋を渡った。窓の外を見ると、はるか下方に、早川が流れているのが見えた。五、六十メートルの高さはあるだろう。
また、トンネルを抜け、次の駅に着いた。が、行き止まりの駅である。
電車のドアは、開かない。ホームに、乗客もない。よく見れば、スイッチバックのための駅である。いや、駅といわずに、出山信号所というらしい。
ここで、加東ひろみが、射殺されたのだ。
電車は、反対方向に、登って行く。
次の駅も、行き止まりで、スイッチバックで、反対方向に、登って行く。
だが、ここは、大平台駅で、乗客の乗り降りがある。
三つ目のスイッチバックは、第一と同じく、ホームのある駅風だが、ドアは開かず、乗客の乗り降りもない。
「それでか」
と、十津川は、窓の外を見やって、いった。
「平野は、加東ひろみに、この地点のスイッチバックを、写真に、撮って来てくれと頼んだ。その時、第一と、第三の信号所のホームでといい、第二の大平台駅は、必要ないと、いったわけですね」
「第一と第三のスイッチバックは、信号所で、ホームに、乗客がいない。犯人が、加東ひろみを射殺しても、わからない。だが、第二の大平台駅は、ホームに、いつ電車を待つ乗客が入って来るかわからないから、×印をつけておいたんだよ」
と、十津川は、いった。
「最初は、ホームが、逆だからかと、思っていたんです。メモの図を見ると、第二の大平台だけが、反対側のホームが、黒く塗りつぶしてありましたからね」
と、亀井は、いった。
「片方の窓側に座っていて、反対側のホームに、加東ひろみがいても、木戸は気がつかない、それで、ホームが反対になる大平台駅には、行かせなかったというんだろう?」
「そうです」
「しかし、今、三つのスイッチバックを、過ぎてみて、それが、間違いと、わかったじゃないか。スイッチバックを、正確に描くと、こうなるんだ」
十津川は、手帳を取り出して、次のように、描いた。
(画像省略)
「つまり、進行方向に対して、大平台駅のホームは、反対側になるが、スイッチバックだから、乗客に対しては、同じ方向に、ホームがあったことになるんだ」
「なるほど」
「それをメモに描いてみせたのは、犯人の企みだと思うね。加東ひろみが、怪しく思った時、大平台は、強羅方向と反対側に、ホームがくるから、除外してくれと、いう積りだったんだろう。しかし、本当は、乗客の乗り降りする駅だからなんだ。殺すところを、見られたくなかったのさ」
と、十津川は、いった。
10
強羅で降りると、二人は、小田原へ引き返し、まず、捜査本部に、顔を出した。
現在、木戸は、勾留中だが、会うためには、捜査本部の了解を得ておきたかったからである。
捜査本部は、いい顔はしなかった。それが、当然だろうが、十津川が、三浦みゆきのことを話し、説得して、やっと、木戸に会うことを承知してくれた。
十津川が、留置場に行った。
木戸は、突然、警視庁の刑事が訪ねて来たことに、戸惑っているようだったが、
「みゆきは、大丈夫ですか?」
と、きいた。
「まだ、意識不明ですが、助かるようです」
と、十津川は、いったあと、
「これを見て下さい」
と、平野一成の写真を、見せた。
木戸は、じっと見ていたが、顔色を変えた。
「これは、僕に、妹を探してくれと頼んだ男ですよ!」
「やはり、そうですか」
「何者ですか? この男は」
木戸は、眼をすえて、きいた。
「平野一成。地位も、金もある男で、殺された加東ひろみと、関係がありました」
「この男が、犯人なんですか?」
「多分ね。だが、忙しい男だから、どうやって、あなたのことを調べたかがわからない。犯人は、あなたのことを、よく調べていますからね。あなたが、毎日、箱根登山電車でホテルに通っていること、モデルガンを集めていることなど、よく知っていて、罠《わな》にはめたと思われるのでね」
「そうですね」
「共犯がいたのかも知れません」
「共犯?」
「この男が、あなたに、妹を探してくれと頼んだ時、ホテルに、加東という泊り客がいたので、てっきり、本当の兄だと思い込んだそうですね?」
「ええ。加東哲也というお客がいたんです。あとで、全く関係のない人だとわかりましたが」
「いや、偶然というのは、考えにくいな。その男が、共犯かも知れません」
「しかし、二十代の若い男だそうですよ」
「ええ。若い方が、走り廻って貰うにはいいでしょう。平野は、この男が、たまたま加東姓だったので、金を与え、あなたのことを、調べさせたんだと思いますね。毎日、あの電車で通っていることは、ホテルの人は、知っていますか?」
「みんな知っていますよ。何時の電車で、出勤するかもです」
「それなら、簡単だ。モデルガンを集めていることは、内緒でしたか?」
「いや、ガスガンを使って、箱根の仙石原で、サバイバルゲームを、仲間とやったりしていましたから、知っている人間は、多かったと思います。専門雑誌に、仲間と一緒に、のったこともあります」
と、木戸は、いった。
「それなら、調べるのは、楽だったでしょう」
「やっぱり、僕は、あの男に、罠にはめられたんですか?」
「その可能性は、大きいと、思いますよ」
「じゃあ、すぐ、僕を釈放して下さい!」
と、木戸は、大きな声を出した。
「まだ、証拠がありません」
と、十津川は、冷静に、いった。
木戸は、顔を、朱くして、
「しかし、僕は、犯人じゃありません。あなただって、それがわかったから、会いに来てくれたんでしょう?」
「正確にいえば、あなたが、罠にはめられた可能性があるので、会いに来たんです。これから、東京へ戻って、もう一度、調べ直せば、あなたを、釈放できることになるかも知れません」
「助けて下さい。お願いします!」
と、木戸は、叫んだ。
十津川は、留置場を出ると、亀井と、合流し、すぐ、東京に引き返すことにした。
新幹線の中で、十津川は、木戸と会った時のことを、亀井に、話した。
「あの男は、シロだね。問題は、それを証明できるかどうかだが、私は、加東哲也という男が、共犯じゃないかと、思っているんだ」
「平野が、金で、傭《やと》いましたか?」
「別に、殺人をやれといわれたわけじゃないし、木戸のことを調べるだけなら、喜んでやったんじゃないかね」
と、十津川は、いった。
「では、この男から、当ってみますか」
と、亀井も、いった。
東京に帰ったのは、もう、夜である。それでも、十津川と、亀井は、その足で、加東哲也のマンションに、廻ってみた。
確かに、若い男だった。
1LDKのマンションに、一人で、住んでいた。
「強羅のホテルに、最近、泊っていますね?」
と、十津川が、きくと、加東は、眉をひそめた。
「それが、いけないことなんですか?」
と、いった。
十津川は、苦笑しながら、
「別に、いけなくはありませんが、そのホテルのレストランのマネージャーが、殺人容疑で逮捕されましてね。木戸という男です」
「知りませんよ。そんなことは」
「事件を知らないんですか? それとも、木戸という男を知らないということですか?」
「両方とも、知りませんよ。何のことをいってるんですか?」
「平野一成という名前は、知っていますね?」
と、十津川は、きいた。
「知りません」
「どんな男かって、きかないんですか?」
と、亀井が、いうと、加東は、一瞬、狼狽《ろうばい》の表情になって、
「なぜ、そんなことをしなきゃいけないんですか?」
と、食ってかかった。
十津川は、笑って、
「普通は、そうするものだからですよ。われわれは、あなたが、平野一成を、知っていると、思っています。彼に頼まれて、あなたは、木戸のことを、調べ、強羅のホテルにも、泊った。あなたは、別に、悪いこととは思わなかったのかも知れないが、これは、殺人事件です。このままだと、あなたは、殺人の共犯になってしまうのですよ」
「冗談じゃない!」
と、加東は、甲高い声をあげた。
「私だって、冗談なんかいっていませんよ」
と、十津川は、厳しい声で、いった。
「僕は、関係ないんだ」
「警察を見くびっちゃいけませんよ。あなたと、平野の関係なんか、すぐ、調べあげてしまう。その時になったら、われわれは、あなたを、殺人の共犯ということで、逮捕する。五、六年は、刑務所へ行くことになりますよ」
と、十津川は、いった。
「脅かさないで下さいよ。弁護士を、呼びますよ」
「平野の顧問弁護士に頼みなさい」
と、十津川は、いった。
「何とかして、僕を、殺人の共犯にしたいみたいですね」
「したいわけじゃありませんよ。むしろ、あなたを助けたいんだ。まさか、殺人に利用されるとは知らずに、平野一成に利用されたということなら、警察でも、いろいろと、考えますよ」
と、十津川は、いった。
加東は、完全に、黙ってしまった。
11
十津川は、亀井と、マンションを出た。が、すぐ、西本と日下を呼び、加東を見張らせることにした。
「彼が、動くと、思いますか?」
と、亀井が、きいた。
「あの男、若いし、夢を持っていると思う。それが、刑務所へ入れられたら大変だと思っている筈だよ」
「どうすると思いますか?」
「逃げるか、平野に相談するか、われわれに全てを話すかのどれかだろうね」
「平野に話されると、困りますね。平野が、逃げてしまうかも知れません」
「だから、西本と日下の二人には、わざと、わかるように、尾行しろと、いってある。尾行されていては、平野には、会いに行けないだろう」
「しかし、電話で、連絡を取る可能性がありますよ」
「それも、使えないようにするさ。これから、平野に電話して、話し中にしておくんだ」
と、十津川は、笑った。
十津川は、すぐ、それを、実行した。平野一成に電話をかけ、そのあと、彼を、呼び出して、繰り返し、事件のことを、質問した。
三日間、それを続ける一方、加東哲也の周辺を、徹底的に、調べさせた。これも、わざと、加東に、わかるようにである。
もうひとつの問題は、最初に、平野が木戸に教えた、電話番号である。
木戸が加東ひろみを見つけ、その電話番号に、電話をしたときには、すぐに、平野がでてきている。
しかし、その後は、白石興業の社長の電話になっている。
調べてみたが、この電話は、ずっと白石興業のものであった。
この謎をとくために、亀井は、白石興業を訪れた。
そして、木戸が、平野に、電話をかけた、六月十一日は、会社の創立記念日で、休業になっていた事実を、つかんだ。
さらに、平野の会社が、白石興業の社内インテリアを、担当していたことも、判明した。
どうやら平野は、白石興業の社長室の合鍵を作っておいて、その創立記念日に合わせて、加東ひろみを、箱根にいかせ、木戸にその姿を目撃させ、その電話番号に、電話をかけさせたらしい。
平野は、その時間に、無人の白石興業にしのび込み、社長室で、その電話を待っていたというわけだ。
加東を監視し、尾行した西本たちの話では、加東が、次第に、いらだち、ノイローゼ気味になって来たと、いう。
四日目に、突然、加東から、電話が、かかった。降伏したのである。
加東は、平野に頼まれて、木戸のことを調べ、強羅に泊ったことを、認めた。
「平野が、なぜ、僕を傭ったのか、わからないんです」
と、加東は、いった。
「あなたが、加東という名前だったことと、若くて、動き廻ってくれるだろう、また、若いから、金を欲しがるだろうという三点じゃなかったですか」
と、十津川は、いった。
「貰ったのは、百万円だけです」
「やっぱり、金ですか?」
「金は返します。これで、平野は、逮捕できるんでしょう? そうなれば、僕は、警察に協力したということで、大目に見て下さい」
と、加東は、いった。
十津川は苦笑して、
「まあ、何とか考えますが、もう一つだけ、協力して下さい」
「しかし、もう平野は、逮捕できるんでしょう?」
「いや、平野は、否定するから、無理です。それで、あなたに、協力して貰いたいのですよ」
「何をすれば、いいんです?」
「平野に電話して、こういって下さい。木戸のことを調べさせられている中《うち》に、何となく怪しいと思って、箱根登山鉄道の周辺を調べていた。そうしたら、たまたま、あなたが、スイッチバックの出山信号所のホームで、女を射殺するのを見てしまった。それを、今まで黙っていた礼として、一千万円貰いたいと、いって下さい」
「一千万円もですか」
「金額が多くないと、相手は、信用しませんよ。その金を、明日の午後三時に、同じ出山信号所まで持って来いとね」
「あの男は、来ますかね」
「必ず、来ますよ」
と、十津川は、いった。
翌日の午後一時。
加東哲也は、出山信号所のホームの傍にいた。
五、六分して、平野一成が、近づいて来るのが、見えた。
加東が、ホームにあがって待つと、平野も、あがって来た。
「一千万円、持って来てくれましたか?」
と、加東は、声をふるわせて、いった。
「ああ、持って来たよ」
平野は、落ち着いた声でいい、小さなボストンバッグを、加東に渡した。
加東が、中身を見ている中に、平野は、改造拳銃を取り出した。
眼をあげた加東の顔色が、真っ青になった。
「僕まで殺すのか?」
「君が、欲張らなければ、よかったんだよ」
「待ってくれ!」
「駄目だな。次の電車が来るんでね」
と、平野が、いい、拳銃を構えた時、ハンドマイクを使った大きな声が、ひびきわたった。
「平野一成。銃を捨てるんだ。君を逮捕する!」
びっくりして、平野が、周囲を見廻した時、若い二人の刑事が、ホームに、飛びあがって来た。
続いて、ホームにあがった十津川が、加東に向って、
「困りますね。打ち合せた時間を、勝手に、変えられては」
といった。
「わかっていたんですか?」
まだ、青い顔で、加東は、手錠がかけられている平野を見、十津川を見た。
「残念ながら、よくあることなんでね。一千万円という大金のために、警察を裏切るというのはですよ。いったん、三時と、平野にいっておいて、あとで、一時に訂正しておいたんでしょう? われわれは、そんなことも考えて、今朝から、ずっと、張っていたんですよ」
と、十津川は、暗い眼で、加東を見た。
「僕も、逮捕されるんですか?」
「こんなことをして、逮捕されないと思ったのか!」
と、亀井が、叱りつけた。
「でも、僕は、結果的に、平野の逮捕に、協力したじゃありませんか」
加東は、文句を、いった。
「それは、弁護士にいいなさい」
と、十津川は、冷たく、いった。
本書は平成二年七月、実業之日本社よりジョイ・ノベルズとして刊行されたものを文庫化したものです。
角川文庫『特急ひだ3号殺人事件』平成6年9月25日初版発行
平成8年9月10日4版発行