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殺しのバンカーショット
西村京太郎
目 次
脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》
ひき逃《に》げ
パーティ
黒いシャフト
グリーンの死角
男と女の仲
心理テスト
ダブルボギー
暗いコース
18番ホール
ギャラリーの死
手がかりなし
バンカーショット
新たな脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》
三人目の犠牲者《ぎせいしや》
64式|小銃《ライフル》
大金の行方《ゆくえ》
結婚調査報告書
灰色の核心《かくしん》へ
ガードバンカー
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脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》
一つの殺人事件を解決し、一息ついたところで、十津川警部は、捜査《そうさ》一課長に呼ばれた。
課長室には、銀ぶちの眼鏡《めがね》をかけた五十歳くらいの男がいた。初めて見る顔である。課長は、十津川警部に向かって、今度の事件のことをねぎらってから、
「こちらは、吉田さんだ」
と、その太った男を紹介《しようかい》した。
吉田と呼ばれた男は、椅子《いす》に腰《こし》を降ろしたまま、軽く会釈をした。柔らかなオーデコロンの香《かお》りが、十津川の鼻孔《びこう》をくすぐった。
「十津川です」
と、会釈を返しながら、彼は、自然に、相手を観察する眼になっていた。長い刑事《けいじ》生活で、自然に、身についてしまった癖《くせ》である。
社会的にかなりの地位にいることは、その物腰や、着ている背広でわかる。それに、ただ太っているだけではなく、顔は、逞《たくま》しく陽焼けしている。一体、何をしている人間なのだろうかと、十津川警部が、首をひねったとき、
「君は、確かスポーツは万能だったな?」
と、捜査《そうさ》一課長が、声をかけた。
「大学時代には、一応、何でもやりましたが」
「ゴルフはどうだ?」
「多少はやったことはありますが、今は、せいぜいテレビで見るくらいです。それが、何か?」
「一寸《ちよつと》、厄介《やつかい》な事件が持ち上がってね」
「殺人事件《ころし》ですか?」
「いや。それなら、かえって、ことは簡単なんだが」
捜査一課長は、言葉を切って、ちらりと吉田を見てから、
「君は、ボンサム≠ニいうアメリカ系資本の飲料会社がスポンサーになって、今度、賞金総額五千万円という大きなゴルフ大会が行われるのを知っているかね?」
「ええ。新聞なんかが大々的に書き立てていますから、いやでも、眼《め》に入っています。確か、アメリカからも、有名なプロ選手が、何人か参加する筈《はず》でしたね」
「その通りです」
と、いったのは、吉田だった。捜査一課長が、傍《そば》から、
「この人は、その大会の実行委員の一人なんだ」
と、補足した。吉田は、ポケットから名刺《めいし》を取り出して、十津川の前に置いた。
〈日本ゴルフ連合会理事 吉田専太郎〉
十津川は、黙《だま》って肯《うなず》いた。相手が陽焼けしているのは、ゴルフ焼けというやつだろう。或《あるい》は、昔《むかし》は、一流プレーヤーで鳴らした人なのかもしれないが、三十四歳の十津川には、記憶《きおく》にない名前だった。
「賞金総額は五千万円ですが、実際には、一億円はかかるでしょう」
と、吉田は、いくらか誇《ほこ》らしげにいったが、すぐ、顔を曇《くも》らせて、
「大会準備の方も、万事順調で、アメリカの一流プロも、昨日来日して、明後日《あさつて》の競技開始を待つばかりになっていたんですが、そこへ、こんなものが、舞《ま》い込《こ》んで来たのです」
二つに折った封筒《ふうとう》を、十津川に見せた。白い平凡《へいぼん》な封筒で、表書きは、〈ボンサム・グランプリ実行委員会御中〉と、下手《へた》くそな字で書かれてあった。わざと下手に書いたと思えないこともない。
「拝見します」
と、断ってから、中の便箋《びんせん》を取り出した。便箋の方も、平凡なもので、同じように、下手な字で、次のように書いてあった。
〈この大会中に、あいつを殺してやる〉
「どう思うね?」
と、捜査《そうさ》一課長がきいた。十津川は、便箋《びんせん》と封筒《ふうとう》をテーブルに置いてから、
「これだけでは、何ともいえませんね」
と、正直にいった。
「単なる悪戯《いたずら》かもしれませんし――」
「実は、私も、最初は単なる悪戯だろうと軽く片付けていたのです」
吉田が、いった。十津川は、え? というように、彼の顔を見た。
「すると、これと、似たものが、前にも来たんですか?」
「そうなんです。今度の大会が正式に決まったのが、一か月前ですが、その時に、これと全く同じものが、実行委員会|宛《あて》に舞《ま》い込《こ》んだんです。その時は、今、あなたがいわれたように、誰《だれ》かの悪戯だろうと思って、屑籠《くずかご》へ放《ほう》り込んでしまったんです。そうしましたら、二週間後に、また同じものが来て、今度のそれが三通目なんです。悪戯にしては、しつっこ過ぎるし、アメリカから、世界的ゴルファーが四人も来ているので、万一|不祥事《ふしようじ》でも起きたら大変だと思って、こうして、ご相談に来たんです」
「二通目も、お持ちですか?」
「ええ。持って来ています」
吉田は、内ポケットから、全く同じ白い封筒を取り出した。書いてある宛名も、差出人の名前のないところも、中の便箋に書かれてある文句も同じだった。筆跡《ひつせき》も似ているし、消印《けしいん》は、両方とも、中央郵便局になっている。
「確かに、悪戯《いたずら》にしては、念が入り過ぎている感じですね。それに、筆跡の方も、わざわざ、右利きの人間が、筆跡をかくすために、左手で書いたのかもしれない」
十津川は、二つの手紙を見比べながら、吉田にいった。
「ですから、何とか、試合が始まるまでに、この犯人を捕《とら》えて頂きたいんですが」
「しかし、そういわれても、この手紙だけでは――」
と、十津川は、苦笑した。どんな名探偵《めいたんてい》でも、あいまいなこの脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》から、犯人を割り出すのはまず難しいだろう。その時、捜査一課長が、助け舟を出すように、
「難しい仕事だが、調べてみてくれんかね? 私も、どうも単なる悪戯とは思えんのだ」
と、横からいった。課長の命令なら、調査するのに、やぶさかではない。
「とにかくやってみましょう」
と、課長にいってから、吉田を促《うなが》して、細かい事情を聞くために、地下にある喫茶室《きつさしつ》に案内した。
十津川は、アイスコーヒーを注文したが、その間も、吉田の方は、なかなか、落ち着けない様子だった。コーヒーが運ばれて来ても、手をつけようとはせず、煙草《たばこ》をせわしく吸っては、「どうしたら、いいでしょうか?」と、十津川にきいた。
「まあ、落ち着いて下さい」
と、十津川は、微笑《びしよう》して見せた。
「しかし、こうしている間にも、犯人は、何か仕出かすかもしれません」
「その心配はないでしょう。犯人は、同じ脅迫状を、すでに三通も送って寄越《よこ》しているのでしょう。その間に、何も起きていないということは、犯人が、試合が始まってから、事を起こそうと考えていると見ていいと思うのです。だから、多分、あと二日間は、何も起こらないとみていい筈《はず》ですよ」
「そうだといいんですが」
「ところで、この手紙の、おれ≠ニかあいつ≠ニいう人間に、心当たりはありますか?」
と、十津川は、落ち着いた声できいた。吉田は蒼《あお》い顔で、手を横にふって、
「とんでもない。全然、わかりません」
「すると、あいつ≠ニいうのは、実行委員会の人々を指すのかも知れないし、ゲームに参加する選手のことかもわからないわけですね」
「ええ。それで、余計、困惑《こんわく》しておるのです」
「参加選手は、何人ですか?」
「アメリカから特別招待した四人を除くと、あと五十四名です」
「賞金が多額な割りに少ないですね。普通、百人以上参加するものでしょう?」
「ええ。実は、同じ時に、九州で、オール九州招待プロが開催されるのですよ。これは、プロゴルフ界の長老で、木崎さんという方がおられるんですが、その方の引退記念をかねているんです。それで、そちらに出場する選手もいますから」
「成程《なるほど》」
「しかし、有名選手は、全部、こちらの大会に出ることになっています。本年度の賞金|獲得《かくとく》ランキングの一位から十位までは、こちらの大会にエントリーしています」
吉田は、十津川も知っている有名プロゴルファーの名前を、次々にあげて見せた。そんな時の彼の顔は、眼が輝《かがや》き、得意気であった。その中の何人かは、木崎プロへの義理から、オール九州招待プロへ参加するというのを、自分の説得で、こちらの大会へ、エントリーさせたのだともいった。
「ところで、この脅迫状のことを、選手は知っていますか?」
「いや。誰にも知らせていません。ご存知のとおり、ゴルフというのは、非常にメンタルなスポーツですから、一寸《ちよつと》した精神の乱れがプレーに影響《えいきよう》して来ます。だから、選手たちにも、一言も話していません」
「すると、この脅迫状を見たのは?」
「競技委員長で、日本ゴルフ連合理事長の野中さんと、私、それに、五人の委員だけです」
十津川は、だまって肯《うなず》いたが、新しい煙草に火をつけてから、難しい顔になっていた。それは、この手紙の主の目的がどこにあるのか、わからなかったからである。
手紙の文句を、そのまま受け取れば、手紙の主は、あいつ≠殺したがっている。だが、何故《なぜ》、事前に三回も、通告して来たのだろうか。これでは、まるで、警察に通報してくれといわんばかりだし、事実、競技委員の吉田が、警察に来た。犯人が、本当に、今度のゲームで誰かを殺したいのなら、黙《だま》っていれば一番やりやすい筈《はず》なのだ。それなのに、わざわざ知らせたのは、何故なのか。そのくせ、犯人は、あいつ≠ニ、もっともらしい、あいまいな書き方をして、狙《ねら》う相手を、ぼかしている。
「試合は、確か、新しく那須《なす》に開かれたカントリー・クラブのコースで行われるんでしたね?」
「そうです。新那須カントリー・クラブのコースで、豪華《ごうか》なホテルも完備しているので、四日間の試合中、選手たちには、そこへ泊《とま》って貰《もら》うことにしています。東京から車を飛ばせば二時間ぐらいの距離《きより》ですが、前にも、車が故障して遅刻《ちこく》し、失格した選手がいたので、多分、みんな、そのニュー那須ホテルに泊ってくれる筈です」
「われわれとしても、その方が、警備しやすいですね」
「警部さんは、やはり、犯人は、選手の誰かを狙っているとお考えですか?」
「やはりというのは?」
「別に意味はありません。われわれ競技委員を殺したって、仕方がないでしょう。われわれは、あくまでも縁《えん》の下の力持ちですからね。何といっても、ゲームで脚光《きやつこう》を浴びるのは選手です。だから、この脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》を見た委員は、みんな、狙われてるのは選手に違《ちが》いないと思ったんです」
「特に有名選手は、個性の強い人が多いようですね。悪くいえば、アクの強い――」
「それは、プロですから仕方がないと思うのです。有名選手は、皆《みな》、一癖《ひとくせ》ありますよ。大げさにいえば、彼等は、ゲームに賭《か》けているんですから」
「ということは、自然に、敵が多くなるということですね?」
「さあ、それは――」
と、吉田が、あいまいに言葉を濁《にご》したのは、競技委員としては、当然の態度だろう。だが十津川は、週刊誌などで、マナーに問題のあるプロのいることも知っていたし、若くて、賞金|獲得額《かくとくがく》の多いプロには、自然に風当たりも強いと聞いていた。
「テレビ放送もあるんでしょうね?」
「ええ。FTSテレビが、四日間全部を、全国中継することになっています」
「ギャラリーの予想は?」
「賞金の多いことと、アメリカから有名な四選手が参加するので、連日一万人は下るまいとみています」
「一万人ですか」
十津川は、思わず、小さな溜息《ためいき》をついた。もし犯人が、その一万人の中にまぎれ込《こ》んでいたら、まず見つけ出すことは不可能である。
「ギャラリーを規制するわけにはいきませんか?」
と、十津川がきくと、吉田は、「とんでもない」と、首を横にふった。
「そんなことをしたら、新聞や週刊誌に叩《たた》かれてしまいます。前に一度、それをやって、めちゃくちゃに叩かれましたからね。そんなことをしたら、スポンサーのボンサム≠ェ、宣伝にならんといって、おりてしまいますよ」
「そうでしょうな。じゃあ、とにかく、明日、新那須カントリー・クラブのコースを見せて貰《もら》えませんか」
と、十津川は、頼《たの》み、吉田がうなずくのを見て、立ち上がった。
吉田とわかれて、捜査《そうさ》一課長室に戻《もど》ると、課長が、待っていたように、「何か、わかったかね?」と、きいた。
「いえ。まだ、依然《いぜん》として、雲をつかむような話です」
「手紙の主の目的は、一体、何なのかな?」
「それがわかれば楽なんですが」
と、いってから、十津川は、自分の考えた犯人の目的と思われるものを並《なら》べてみせた。
@関係者の誰《だれ》かに恨《うら》みを持っていて、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》どおり殺す積りでいる。
A主催者《しゆさいしや》そのものへの遺恨《いこん》。
Bゴルフブームへの反ぱつ。
C殺しそのものが目的でなく、心当たりのプロが、噂《うわさ》を聞いて精神の動揺《どうよう》を来《きた》し、スコアを乱すことを狙《ねら》った。
「まあ、こんなことを考えたんですが、当たっているかどうかわかりません」
「二番目の主催者そのものへの遺恨というのは、スポンサーのボンサム≠ニいうアメリカ系の飲料会社への恨みということかね?」
「それもありますが、吉田さんの話では、同じ時に、九州で、古いプロゴルファーの引退記念ゲームがあるそうなんです。それなのに、賞金の多い、こちらのゲームに有名プロを出場させたことへの恨みがあるかもしれません」
「仁義に外れたというやつか。しかし、こういろいろな理由を考えると、的をしぼるのが大変だな」
「その通りです。ただ、唯一《ゆいいつ》の救いは、相手が、明後日のゲーム開始まで、何もしそうもないことです。それで、明日、新那須カントリー・クラブへ行って来ようと思っているのです。鈴木君も一緒《いつしよ》に連れて行きたいと思います」
と、十津川は、ベテラン刑事の名前を口にした。ゴルフなんかには無縁《むえん》の中年刑事だが、地に足のついた捜査《そうさ》で信用のおける刑事である。
その夜、十津川は、自分の官舎に戻《もど》ると、最近のゴルフ雑誌を枕元《まくらもと》に置いて、読みふけった。今のゴルフブームに、どんな問題点があるか、有名プロのゴシップなどを頭に入れておきたかったからである。
いつの間にか、午前二時を回っていた。そろそろ、明日に備えて、眠ろうかと、枕元の電気スタンドに手を伸ばした時、突然《とつぜん》、電話が鳴った。
受話器をつかんだとたんに、捜査一課長の太い声が、耳に飛び込《こ》んできた。
「十津川君。吉田専太郎さんが死んだぞ」
「今日会った、あの吉田さんがですか?」
十津川は、受話器をつかんだまま、呆然《ぼうぜん》となった。
「それで、死因は何です? 殺されたんですか?」
「それが、今のところ、はっきりせんのだ。パトカーの報告では、家の近くで、車にはねられ、救急車で、病院に運ばれる途中《とちゆう》で死んだらしい。だから、今のところ、単なる事故死なのか、殺人なのかわからんのだ」
「運ばれた病院は、何処《どこ》です?」
「杉並《すぎなみ》にある今井という救急病院だ」
「すぐ行ってみます」
と、十津川はいった。今から行ったところで、死人から何を聞き出すことも出来ないことはわかっていた。が、官舎に、じっといる気にはなれなかった。
夜に入っても、暑かった。熱帯夜というやつだろう。タクシーを拾って、杉並に走らせながら、十津川警部は、唇《くちびる》を噛《か》んでいた。
もし、これが殺人なら、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》の主は、ゲーム開始を待たずに、行動を起こして来たことになる。それを見抜《みぬ》けなかったことに対する後悔《こうかい》だった。
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ひき逃《に》げ
「ここへ来たときは、もう、どうしようもありませんでしたよ」
と、当直の若い医者は、外人のように、手を広げ、肩《かた》をすくめて見せた。その傍《そば》で、ニキビの吹《ふ》き出た二十歳くらいの看護婦が、眠《ねむ》たげに、眼《め》をこすっている。
遺体には、すでに白い布がかぶせてあった。が、十津川の眼は、遺体よりも、その横に腰《こし》を降ろしている若い女に向けられた。
きちんとした和服姿なのに、髪《かみ》が乱れている。髪を整える余裕《よゆう》もなく駈《か》けつけたのだろう。それが、かえって、彼女に妖《あや》しい美しさを与《あた》えていた。
「奥《おく》さんですか」
と、十津川は、医者を、廊下《ろうか》へ呼び出してきいた。
「はっ。そうです。最初は、ずい分、年が違《ちが》って見えたので、妹さんかなと思ったんですが、奥さんで、名前は、康子さんというようです」
確かに、死んだ吉田専太郎が、五十歳代なのに比べて、彼女は、少なくとも二回りは違いそうだ。多分、彼女の年齢《ねんれい》は、二十七、八歳だろう。それに美しい。これが、単なる事故死なら、意味のないことだが、もし、殺人とすれば、或《あるい》は、彼女の若さや、美しさが意味を持ってくるかも知れない。
十津川警部は、わざと、彼女には、何の質問もせず、病院を出ると、事故のあった現場に回ってみた。
まだ、夜半である。さすがに昼間に比べれば、いくらか涼《すず》しい。現場は、大通りから、横道に百メートルほど入った住宅街だった。
現場保存に当たっていた警官が、十津川を見て、緊張《きんちよう》した顔で敬礼をした。部下の鈴木|刑事《けいじ》が来ていて、額の汗《あせ》を拭《ふ》きながら、
「はねた車は、どうやら外車のようです」
と、十津川にいった。
「何か部品でも落ちていたのかね?」
「衝突《しようとつ》した時、はげ落ちた塗料《とりよう》のかけらを、鑑識《かんしき》が持って行ったんですが、さっき、パトカーの無線で問い合わせてみたら、国産車の塗料と少し違うというんです。それから」
と、鈴木刑事は、大通りとは反対側を指さした。
「この先の左手に、一寸《ちよつと》した空地があるんですが、そこに、午後九時|頃《ごろ》から、外車が止まっているのを見た人がいるんです。目撃者《もくげきしや》は、この近くの住人二人ですが、この辺で見たことがない車だったといっています。その中の一人は、車好きのサラリーマンで、アイボリー・ホワイトの七五年型フォード・ムスタングマッハ1だったといっています。現場に落ちていた塗料の破片も、アイボリー・ホワイトですから、その点は一致します」
「その車に、誰《だれ》か乗っていたのか?」
「いや、二人とも、車内灯が消えていたので、誰か乗っていたかどうかわからないといっています」
「この道路は、一方通行だな?」
「そうです。大通りのところが一方通行の出口になっているので、この辺の住人は、夜おそくなってタクシーで帰ると、大通りをあそこで、おりて、あとは、この道を歩くそうです。自家用車なら、大回りして、反対側から入って来ればいいんですが、タクシーは、嫌《いや》がるそうです」
「すると、吉田専太郎も、あそこでタクシーをおりて、この道を、現場まで歩いて来たわけだろう」
「そう思います。彼の家は、事故現場から、更《さら》に、二十メートルばかり先ですから」
「フォード・ムスタングが止まっていた空地は?」
「吉田専太郎の家の五、六メートル先です」
「アメリカ車は、左ハンドルだったかな?」
「そうですが――」
「とすると、その車に乗っていた人間が、吉田を待ち伏《ぶ》せていたことも考えられる。空地は、大通りに向かった右側なんだろう。とすれば、左側に運転席のあるアメリカ車なら、この道を歩いて来る人間を見張っていられた筈《はず》だ」
「もしそうだとすると、犯人は、少なくとも、午後九時から、事故のあった午前|零時《れいじ》過ぎまで、ずっと、辛抱《しんぼう》強く待ち伏せていたことになります」
「どんな状態で、吉田は、はねられたんだ?」
「最初に駈《か》けつけたパトカーの警官によると、吉田は、左手のコンクリート塀《べい》に叩《たた》きつけられたような格好で、倒れていたそうです」
「ブレーキをかけた痕跡《こんせき》は?」
「ありません」
「すると、やはり、殺しの可能性が強いか」
十津川警部は、星のまたたく、夏の夜空を見上げて呟《つぶや》いた。
午前五時三十分過ぎに、現場から四キロばかり離《はな》れた井《い》の頭《かしら》公園近くで、左側のフロントライトのこわれたムスタングマッハ1が発見されたという報告が入った。色も、アイボリー・ホワイトだという。
十津川は、鈴木刑事と一緒《いつしよ》に、パトカーで急行した。
八月の午前五時三十分は、もう明るい。近くで国鉄中央線の電車の走る音が聞こえてくる。
問題の車は、公園の雑木林に、鼻先を突《つ》っ込《こ》むような格好で止まっていた。発見した三鷹《みたか》署のパトカーの乗員から、説明を聞きながら、十津川は、まず車を見回した。
左側のライト部分が、ぐしゃりとつぶれ、衝突《しようとつ》の凄《すご》さを示していた。東京ナンバーの車である。
十津川は、手袋《てぶくろ》をはめ、ドアをあけ、棚《たな》に入っている車検証を取り出した。
〈有藤俊之〉
それが、所有主の名前だった。
(どこかで聞いた名前だな?)
と、首をかしげてから、急に、十津川の顔色が変わった。
有藤俊之。もし、十津川の考え通りなら、この車の持主は、目下、若手ナンバー・ワンといわれているプロゴルファーだ。四年前、野球選手から転向し、そのめぐまれた運動神経と腕力《わんりよく》に物をいわせて、二年間で、プロテストに合格、去年は、賞金|獲得額《かくとくがく》一位を占《し》めた二十六歳のプロである。
ジャイアンツ・有藤。去年のプロゴルフ界は、その名前に明け暮《く》れたといってもいい。ジャイアンツという渾名《あだな》は、一八〇センチを越《こ》す長身と、常に三〇〇ヤード前後のドライバーの飛距離《ひきより》を示すと同時に、九|連覇《れんぱ》を成しとげた巨人軍のように無敵だということからもつけられたのだろう。
「有藤俊之の車だ」
と、十津川がいうと、鈴木刑事も、驚《おどろ》いた顔で、「本当ですか」と、車検証をのぞき込《こ》んだ。鈴木刑事は、ゴルフを知らない男だが、それでも、ジャイアンツ・有藤の名前だけは知っていた。
「まさか、有藤が、計画的に、吉田専太郎を轢《ひ》き殺したんじゃないでしょうな?」
「殺人をやるのに、自分の車を使う馬鹿《ばか》はいないだろう。それに、明日から、新那須カントリー・クラブで、例のボンサム<gーナメントがあるから、有藤は、そっちへ行っている筈《はず》だ」
「すると、何故《なぜ》、彼の車がこっちに?」
「これから、それを調べるんだ」
車検証にあった住所は、足立《あだち》区|竹《たけ》の塚《づか》である。昔《むかし》は、田、畠《はたけ》が広がっていたのだろうが、今は、住宅がひしめいている。有藤俊之の家は、その中に、軍艦《ぐんかん》のようにそびえていた。鉄筋三階建の邸《やしき》で、まわりの家が、やけに小さく見える。
有藤の黄金の腕《うで》が、たった一年で建てたのだ。去年の賞金|獲得額《かくとくがく》は約四千万。それに、マグマ≠ニいう運動具メーカーの専属になり、その専属料が二千万を越《こ》しているとも聞いている。
「プロゴルファーというのは、儲《もう》かるものらしいですね」
と、ベテランの鈴木刑事が感心したようにいった。
「才能があればの話だよ」
と、十津川は、笑ってから、ベルを押《お》した。時間は、午前七時に近くなっていた。
「どなたでしょうか?」
と、インターホーンに、眠《ねむ》たげな若い女の声が聞こえた。十津川が、「警察の者です」と、いうと、相手は、あわてて、入口を開けてくれた。
パジャマの上から、ナイトガウンを羽織《はお》っているところを見ると、眠っていたのだろう。それでも、有藤の妻は、結婚するまで、テレビに端役《はやく》で出ていただけに、美人だった。ただ、病院で見た吉田の妻君に比べて、暗い感じに見えるのは、性格がそのまま出ているのだろうか。
「ご主人の車は、七五年型のフォードのムスタングでしたね?」
「ええ」
と、有藤美佐子は、うなずいてから、一寸当惑《ちよつととうわく》した表情になった。十津川は、目ざとく、その変化に気がついて、
「その車は、盗《ぬす》まれたんじゃありませんか?」
「そうなんです。見つかったんですか?」
「見つかりました。が、実は、盗まれた時の事情をお聞きしたくて伺《うかが》ったのです」
「どうお話ししたらいいんでしょうか?」
「いつもは、ご主人が運転なさるんですか?」
「去年までは、主人が自分で運転していました。でも、神経を使うのはよくないので、あたしが運転|免許《めんきよ》を取って、今年からは、あたしが、運転するようにしています」
「それで?」
「一昨日《おととい》の朝、主人を、あの車で、新那須カントリー・クラブまで送りました。あそこで、明日からトーナメントがありますので」
「それは知っています。あの近くには、ホテルもあるのに、何故《なぜ》、あなただけ、帰京されたんですか?」
「子供が風邪《かぜ》をひいていて、母のところに預けてあったものですから」
「それで、一昨日、帰京なさったわけですね?」
「はい。夕方、車で帰りました。そして、昨日のお昼|頃《ごろ》、母から、子供の風邪が治ったと聞いたので、車で迎《むか》えに行きました。戻《もど》ったのは午後一時頃です。子供が、やたらにハシャグものですから、車のキーをかけたまま、家に入ってしまったんです。そのあと、一時間くらいして、子供が寝《ね》たので、キーを外しに行ったら、車は盗《ぬす》まれてしまっていたのです」
「警察には届けましたか?」
「はい。この近くの交番に」
「ご主人には?」
「知らせませんでした。主人は、明朗で、豪放《ごうほう》に見えますが、本当は神経質なんです。それに、大事な試合の前ですから、こんなことで、心配をかけたくありませんでしたから」
「わかります。ゴルフは、メンタルなスポーツですからね。ところで、吉田専太郎という日本ゴルフ連合会の理事の方を、ご存知ですか?」
うなずいた美佐子の顔に、動揺《どうよう》の色が浮《うか》ばないところをみると、まだ、吉田の死を知らないのだろう。時間的に、無理もないことだと思った。しかし、どうせ、夕刊には出るだろうし、それまでにTVで知るかもわからない。十津川は、そう考え、わざと、吉田の事故死には触《ふ》れず、
「ご主人と、吉田さんの関係は?」
「主人が、野球をやめて、ゴルフに転向した時、いろいろと、お世話になった方ですけど、あの吉田さんが何か?」
「いや。別に。話は変わりますが、ご主人が、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》めいたものを貰《もら》ったことはありませんか?」
「ファンレターは、たいてい、あたしが眼を通すことにしていますけど、お金の無心の手紙があったくらいで、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》のようなものは別に見たことはございませんけど」
「そうですか」
と、十津川がうなずいた時、ドアがあいて、四歳くらいの可愛《かわい》らしい女の児《こ》が応接室に入って来た。美佐子が、あわてて、抱《だ》きあげる。それをしおに、十津川は、鈴木刑事を促《うなが》して、立ち上がった。
外に出ると、ギラつく太陽が、二人の眼を細めさせた。今日も暑い一日になりそうである。
「犯人が殺すといったあいつ≠ニいうのは吉田専太郎のことだったんでしょうか?」
と、歩きながら、鈴木刑事がきいた。
「わからんが、多分、違《ちが》うだろう。昔は有名なプロだったかもしれんが、今は、現役を退いている。そんな男を殺すのに、三回も脅迫状を出したり、ボンサム<gーナメントの直前にやるというのは、大袈裟《おおげさ》過ぎる」
「そうだとすると、警部は事故死だとお考えなんですか?」
「いや。今度の事件は、勿論《もちろん》、殺人だ。ただ、わからないことが多過ぎる」
「例《たと》えば、どんなことですか?」
「死んだ吉田専太郎と僕《ぼく》は、昨日の午後三時頃、警視庁の喫茶室《きつさしつ》で別れた。僕も彼も、狙《ねら》われているのは、今度のトーナメントに出場する選手の誰《だれ》かだろうという点で、考えは一致《いつち》していた。とすれば、彼は、あのあと、すぐ、新那須カントリー・クラブへ行ってなければおかしい。明日から、トーナメントが始まるし、彼は、その実行委員の一人なんだからね。それなのに、彼は、東京にいて、しかも、夜中の零時《れいじ》過ぎに、自宅|附近《ふきん》で、轢《ひ》き殺されている」
「その間に、吉田専太郎が、どこで、何をしていたのかが問題ですな」
「そうだ。誰かと会ったとすれば、それも知りたい。それに、犯人は、何故《なぜ》、ジャイアンツ・有藤の車を凶器《きようき》に使ったかだ。有藤に個人的|恨《うら》みがあったからなのか、それとも、他に意味があったのか。もう一つ、車の乗り捨てられたのが、井の頭公園だというのも引っかかるんだ。あの近くに、国鉄中央線の吉祥寺《きちじようじ》駅がある。歩いても十分とかからんだろう。そして、中央線の始発が、吉祥寺駅を出るのは、午前五時三十九分だ。犯人はそれに乗って、新宿《しんじゆく》、上野《うえの》と出て、上野から東北本線で那須へ向かったのかもしれん」
「もし、そうだとすると、犯人は、いよいよあいつ≠殺すために、新那須カントリー・クラブに行ったことになりますね」
「そうだ。だから、僕も、これから、行ってみる積りだ」
「私は、どうしますか? 同行しますか?」
「いや。他の者と、昨日の吉田専太郎の行動を調べてから、那須へ来てくれ」
「わかりました」
鈴木刑事がうなずき、十津川は、その足で、一人、上野駅に出た。
新那須カントリー・クラブに行くには、東北本線で、黒磯《くろいそ》に出、そこから車を利用するしかない。
十津川は、午前八時三十六分上野発のなすの1号≠ノ乗ることが出来た。黒磯行の列車である。
夏休みの学生や、帰省する客で、列車は、ほぼ満員だった。十津川は、どうにか腰《こし》を降ろすことが出来たが、通路にまで人が立っている。
列車が動き出すと、十津川は、眼を閉じた。
あいつを殺す≠ニいう脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》の文句が、閉じた眼の奥《おく》でちらつく。犯人は、多分、警察が介入《かいにゆう》してくることを承知しているだろう。とすれば、脅迫状は、ボンサム<Oランプリ実行委員会への挑《ちよう》 戦《せん》 状《じよう》であると同時に、警察への挑戦状でもあるのだ。
黒磯に着いたのは、時刻表どおり、午前十一時十一分だった。この列車は、宇都宮《うつのみや》までは急行だが、そのあとは普通《ふつう》になるからである。
黒磯は、那須高原や、那須温泉への起点である。十津川は、駅前の食堂で昼食をとってから、タクシーに乗り、那須高原に作られた新那須カントリー・クラブに向かった。
彼を乗せた車は、那須温泉を通過し、那須|岳《だけ》の山麓《さんろく》に作られた新那須カントリー・クラブに着いた。
深い林に囲まれた景色《けしき》のいいコースだった。近くに、洒落《しやれ》たニュー那須ホテルが見えた。標高が高いせいか、東京から来た十津川には、かなり涼《すず》しく感じられた。
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パーティ
ロビーには、アメリカから招待した選手も二人いた。赭《あか》ら顔で、太った身体をゆするようにしながら、手ぶり身ぶりを混じえて大声で喋《しやべ》っているのは、陽気なメキシカン≠ニ呼ばれるトム・ロッサノのようだ。半袖《はんそで》の真紅《まつか》なシャツに、黒い帽子《ぼうし》をかぶっていたが、その帽子には、彼のトレード・マークのメキシコ人のかぶるソンブレロの刺繍《ししゆう》がしてあった。
ロッサノの相手をしているのは、サム・スコットだった。彼は、正確にいえば、南ア連邦《れんぽう》の人間だが、アメリカで殆《ほとん》どプレーしているので、アメリカのプロとして、招待したのだろう。
ロッサノが、陽気に喋《しやべ》りまくり、時々大きな笑い声を立てているのに対して、スコットの方は、明日に試合を控《ひか》えて、かなり神経質になっているように見えた。ロッサノの冗談《じようだん》に合槌《あいづち》は打っていたが、口元に微笑《びしよう》が浮かぶ程度だった。
他の二人のアメリカ選手が誰《だれ》なのか、十津川は聞いていなかった。姿が見えないところを見ると、コースに出て、練習をしているのだろう。
十津川は、階段をあがって、三階にある実行委員の部屋に入った。
数人の役員がいたが、十津川が警察手帳を示すと、背の高い、白髪《しらが》まじりの六十歳ぐらいの男が、「今度の実行委員会の責任者の野中です」と、自己|紹介《しようかい》してから、真中の椅子《いす》を、十津川にすすめた。
「実は、さっき、吉田君の事故死のことをニュースで聞いて、びっくりしていたところです」
野中は、いくらか、蒼《あお》い顔でいった。
「彼には、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》のことで、警察に行って貰《もら》ったんですが、昨日中に、ここへ来ることになっていたんです」
「選手たちは、吉田専太郎さんの死んだことを知っていますか?」
十津川は、大きなガラス窓の外に眼《め》をやった。このホテルから、間近に、ゴルフコースの一部が見える。
「ホテルのロビーにもテレビがありますから、知っている選手もいるでしょう。しかし、幸い事故死なので、さしたる動揺《どうよう》はないと思っています」
「テレビのニュースは、どんな風に報道していました?」
「簡単でしたよ。一昨日の深夜、自宅|附近《ふきん》で車にはねられて死んだというだけです。何故《なぜ》、ここへ来ないで、自宅へ一度帰ったかわからんのですが」
十津川は、東京に残して来た部下にも、上司にも、今度のボンサム<gーナメントが終るまで、事故死で押《お》し通すように頼《たの》んであった。
「ところで、ロビーで、ロッサノと、スコットの姿を見かけましたが、あとの二人の招待選手は?」
「コースに出て練習している筈《はず》ですよ。最初は、実力派のロッサノとビッグ・スリーのアニー・スミスやボブ・トンプソンなど四人を招待したかったんですが、スミスとトンプソンが、どうしても来られないというので、サム・スコットの他に、アメリカで、若手ナンバー・ワンといわれているジャック・ミラー。それに、トンプソンの大学の後輩《こうはい》で、向こうでは中堅《ちゆうけん》のトム・アボットを呼んであります」
野中は、その二人の輝《かがや》かしい戦歴について、熱心に話してくれたが、十津川は、あまり身を入れて聞いてはいなかった。彼の勘《かん》では、アメリカからの招待選手四人が狙《ねら》われることは、まず、あるまいと思えたからである。
「ジャイアンツ・有藤といわれている有藤俊之選手の姿も、ロビーに見えませんでしたが?」
「彼も、今、練習でコースを回っている筈ですよ。もうじき、ここへ戻《もど》って来る筈です。午後七時に、アメリカの四選手の招待祝いをかねて、パーティを開く筈ですから」
「コースを見せて貰《もら》って構いませんか?」
「ええ。いいですとも。警部さんは、やはり、あの脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》どおり、今度のトーナメント中に、誰かが狙《ねら》われるとお考えですか?」
「まだ何ともいえませんね」
実行委員会が、役員用のブレザーと帽子《ぼうし》を貸してくれたので、十津川は、それを身につけて、ホテルを出、歩いて、五、六分の距離《きより》にある新那須カントリー・クラブへ顔を出してみた。
深い緑を、そのまま利用した、林の多いコースである。それだけに、起伏《きふく》が激《はげ》しくコースとしては難しいだろう。
真夏の太陽が、カッと照りつけていたが、高原に設けられているせいか、風は意外に、ひんやりとさわやかだった。
各コースには、二人ずつ組になって、出場選手たちが、最後の練習に余念がない。そして、ところどころに急造のヤグラが組み立てられ、テレビのカメラが、明日からの放送に備えて、調整をしていた。
今日は、まだ、練習中だが、それでも五、六百人のギャラリーが、有名選手のあとを、ぞろぞろついて歩いている。
パー3の14番には、ホール・イン・ワン賞百万円の馬鹿《ばか》でかい看板が立っていた。勿論《もちろん》その看板には、ボンサム∴料の広告がくっついている。
十津川は、練習中の選手たちの邪魔《じやま》にならないように、コースの端《はし》を、1番ホールから18番ホールまで、ゆっくり歩いて見た。
(ここで、犯人が、選手の一人を狙《ねら》うとすると?)
と考えながら、地形を調べてみたのだが、結論は、絶望に近かった。
第一に、犯人が誰《だれ》を狙うかわからないことである。四人の招待選手を除いても、あと五十四人の選手がいる。役員を加えれば、約六十人である。それに試合が始まれば、選手たちは、二名ずつ一組になって、コースに入ってくる。その全部を同時に監視《かんし》することは、まず不可能である。
第二は、このゴルフ場の広さである。犯人は、この広いコースのどこでも選択《せんたく》できるのだ。例《たと》えば、犯人が、ある選手を、銃《じゆう》で射殺しようと考えているとしよう。林の多いこのゴルフ場では、身体をかくして狙うことは容易だ。それに、グリーンが問題だ。カップの切ってあるグリーンは、たいてい、一段高い場所に設けられている。
ボールがグリーンにのり、選手が、パターでカップを狙う時、グリーン上には、選手しかいない。キャディもいるが、打つ瞬間《しゆんかん》は離《はな》れている。緑のグリーンに、派手な色彩《しきさい》のシャツとズボン姿の選手、しかも、パターの瞬間、選手は身体を動かさない。これ以上、銃で狙い易い標的はないだろう。林の中に巧妙《こうみよう》にかくれ、望遠レンズつきの銃で狙われたら、それを防ぐのは至難のわざだ。
第三は、ギャラリーである。今日のように、練習でも、五、六百人のギャラリーが集まるほどのゴルフブームである。
明日からの四日間、一万人のギャラリーが集まるだろうという主催者《しゆさいしや》側の言葉も、誇張《こちよう》とは思えなくなった。特に、三日目の土曜日と、四日目の日曜日は、確実に、一万人以上のギャラリーが集まるだろう。その中に、犯人がまぎれ込《こ》んで来たら、まず見つけ出すのは不可能だ。犯人の年齢《ねんれい》も、男女の性別さえも、まだわかっていないのだから。勿論《もちろん》、入口のチェックで、銃の持ち込みだけは防げるかもしれない。だが、犯人が、今度に備えて、あらかじめ、この広いゴルフ場のどこかに、銃を埋《う》めておくことだって、考えられるのだ。それに、犯人は、ギャラリーの中にいるかもしれないし、役員の中にいるかもしれないのだ。
「難しい事件だな」
と、呟《つぶや》いたとき、「わあッ」というギャラリーの歓声があがった。
丁度、有藤俊之が、12番ホールで、三〇〇ヤードを越《こ》すドライバー・ショットを放ったところだった。
十津川が、ふり向くと、テレビでよく見る有藤が、満足そうに、自分を取り巻いているギャラリーに笑顔をふり撒《ま》いていた。陽焼けした顔は、なかなかの好男子だし、その上、一八〇センチを越《こ》す長身や、二十五歳という若さが、人気のある理由になっているのだろう。勿論《もちろん》、ジャイアンツと渾名《あだな》される、大きなドライバー・ショットや、去年の好成績も、それに輪をかけているのだろうが、やはり、テレビ時代ともなれば、プロゴルフの世界にも、ルックスが重要な要素を占《し》めるのは、やむを得ない。
一緒《いつしよ》に練習して回っているのは、有藤の好敵手といわれる赤木昇平プロだった。背も、有藤と同じくらいだし、三〇〇ヤードを飛ばす力も持っている。それにまだ二十九歳という若さである。その練習熱心さは有名で、今年は、賞金|獲得額《かくとくがく》でも、とうとう有藤を抜《ぬ》いて、ジャイアンツ・有藤より強いというので、ウルトラマン・赤木と渾名されるようになったが、何となく、人気の面で、有藤に押《お》されている感じだった。
有藤の一寸《ちよつと》した動作や笑顔に、ギャラリーが、どっとわくのに、十津川が見ていると、赤木が、有藤に負けず劣《おと》らずのドライバー・ショットを打っても、ギャラリーは、感嘆《かんたん》はしても、それだけである。陽焼けした真黒な顔も、スポーツカットの髪《かみ》も、有藤|並《な》みの長身も、男らしいのだが、何か、パッとしないのだ。ただ、黙々《もくもく》と打っているという感じで、アメリカ流にいえば、ショーマン・シップに欠けるのだ。
二人が、ギャラリーに囲まれて、グリーンに向かって歩いて行くのを見送りながら、十津川は、東京で会った有藤の妻の、いかにも元テレビタレントらしい派手な顔や、フロントライトのこわれた白いフォード・ムスタングマッハ1の車体のことを思い出していた。有藤は、勿論《もちろん》、まだ、自分の車が、役員の吉田専太郎をはねて殺したことは知るまい。
十津川は、1番ホールから18番ホールまで、ゆっくり歩き、それから、コースを逆に、周囲の地形に気を配り、頭に叩《たた》き込《こ》みながら、1番ホールまで歩いて戻《もど》った。足には自信のある十津川だが、それでも、往復すると可成《かな》り疲《つか》れた。だが、明日になれば、精神的に、もっと疲れることになるだろう。
ホテルに戻ると、実行委員会が、彼のために、ツインの部屋を取っておいてくれた。十津川は、部屋に入ると、ベッドへ横になり、靴《くつ》を脱《ぬ》いで放《ほう》り投げた。
寝転《ねころ》んだまま、疲れた脚《あし》のふくらはぎのあたりをもんでいると、ドアがノックされて、鈴木刑事が入って来た。
「遅《おそ》くなりまして」
と、鈴木刑事は、立ったまま、律義にいった。まだ六時に間があった。「まあ、座れよ」と、十津川は、相手に椅子《いす》をすすめ、自分は、反動をつけるようにして、ベッドの上に起き上がった。
「それで、何かわかったのか?」
「残念ながら、吉田専太郎の当日の行動については、よくわかりません。二つだけわかったことがありますが、それが、事件に関係あるかどうか、判断できないので、東京で引き続き調べさせていますが」
「どんなことだ?」
「第一は、未亡人の証言ですが、あの日の五時半|頃《ごろ》、吉田は自宅に電話して来て、このまま、那須へ行くから、夕食の支度《したく》は要らんといったそうです」
「それなのに、彼は、その日の深夜、自宅|附近《ふきん》で、待ち伏《ぶ》せしていたと思われる車にはね飛ばされて死んだ。何故《なぜ》、急に、那須行を中止して、自宅に一度|戻《もど》る気になったのかな?」
「その点、未亡人の吉田康子に、聞いてみたんですが、彼女も、わけがわからないというのです。それにしても、彼女は、なかなか美人で、その上、若々しいですな。死んだ吉田専太郎とは、二十歳以上|違《ちが》うんじゃないですか」
「それが、事件と関係あるのかね?」
「いえ、そうじゃありませんが」
と、鈴木刑事は、ちょっと顔を赭《あか》くしてから、
「第二の点を申し上げます。吉田が、警部と別れてからの足取りがわからないといいましたが、吉田らしい人間を見たという女性が一人だけ見つかったんです。ただ、この証言は、かなり、あやふやですが」
「どんな女だ?」
「バーのマダムなんですが、ゴルフ好きの女で、吉田専太郎から、三度ほど、コーチを受けたそうで、彼の顔は知っているといっていました。事件の日、彼女が、いつもより遅《おそ》く、午後六時頃、銀座《ぎんざ》の店に行く途中《とちゆう》、東京駅の近くを車で通ったとき、吉田が、もう一人の人間と並《なら》んで歩いているのを見たというのです」
「東京駅附近で、午後六時か」
「彼女は、車を止めて声をかけようと思ったが、店のことがあったので、そのまま走り過ぎたが、あれは、吉田さんに間違《まちが》いなかったといっています。背広の色なんかは一致《いつち》していますが、紺《こん》の夏の背広というのは、ありふれていますから、吉田だという確証にはなりません」
「もう一人|一緒《いつしよ》に歩いていたといったな?」
「彼女は、そういっています。吉田の向こう側にいたんでわからなかったが、背の高い若い男で、きっと、あれもプロゴルファーに違いないといってました」
「プロゴルファーらしい若い男か」
「警部は、バーのマダムの証言を信用なさるんですか?」
「それが、当たっていたらと考えたんだ。このホテルから、東京まで、急行に乗れば、約二時間で行ける。それに、選手は、練習をやったり、自室で休息したり、各自勝手な行動を取っているから、誰《だれ》かが、東京へ行って吉田を殺して戻《もど》って来ても、わかりはしない。往復で、四時間しか、かからないからな。各プロとも個室を与《あた》えられているから、一日いなくてもわからないんだ。各プロとも、試合が迫《せま》っていて、他人のことなんか気にしていないからな。ムスタングで、吉田を轢《ひ》き殺したのが、ここに来ているプロゴルファーの一人だとしても、午前中に帰って来て、素知らぬ顔で、コースに練習に出れば、誰も疑わん」
「確かにそうですな。ところで、コースの様子は、いかがですか?」
「とにかく広過ぎるよ。それに、狙《ねら》われているのが誰かわからんのだから、これは、護衛は、大変なことだぞ」
十津川は、顔をしかめて見せた。
午後の七時から、五階の広間で、パーティが始まり二人も、それに出席した。
今はやりの立喰《たちぐ》いパーティである。最初に実行委員長の野中が挨拶《あいさつ》し、次に、スポンサーのボンサム∴料を代表して、アメリカ人の東京支店長が、ユーモアに満ちた挨拶をして、みんなを笑わせた。
そのあとは、勝手に飲み食いするパーティになったが、さすがに、明日から四日間の試合が控《ひか》えているせいか、アルコールに手を出す選手は少なかった。清涼飲料のボンサム≠、盛《さか》んに飲んでいる選手もいる。これなら、アルコール度ゼロだから、試合には、差しつかえないだろう。
十津川は、会場内のテーブルを回りながら、それとなく、選手たちの様子を窺《うかが》った。陽気に騒《さわ》いでいるゴルファーもいれば、ひどく神経質になっているゴルファーもいる。パーティに色気を添《そ》えるために、近くの芸者が何人か呼ばれていたが、ロッサノなどは、その一人の小柄《こがら》な芸者が気に入ったのか、抱《かか》えるようにして大声で、騒《さわ》いでいた。逆に、サム・スコットの方は、途中《とちゆう》で、そっと、自分の部屋へ引きあげてしまった。
(有藤はどうしているかな?)
と、十津川が、彼の長身を探したとき、にわかに中央テーブル附近《ふきん》がざわめきだした。
十津川は、その傍《そば》に飛んで行き、「どうしたんだ?」ときいた。
芸者が、蒼《あお》い顔で、中央のテーブルに飾《かざ》られた花を指さしている。
大きな花束《はなたば》である。スポンサーのボンサム≠ェ、用意したものだが、その花束に、ハガキ大の大きなカードが、はさんであるのが、十津川の眼に入った。さっきまでは、なかったカードである。そして、カードには、こう書いてあった。
〈あいつを殺してやる!〉
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黒いシャフト
最初、十津川警部は、カードと思ったが、よくみると、このニュー那須《なす》ホテルの白い封筒《ふうとう》だった。各部屋に、二枚ずつ置いてあるもので、ロビーにも、置いてある。普通の細長いものより、やや四角形に近く、小型だったので、カードに見えたのだ。
芸者の声で、近くにいた選手の数人が集まって来たが、十津川は、素早く、その封筒を自分のポケットにしまい込《こ》んでしまった。騒《さわ》ぎを広げたくなかったし、大事な試合を前にして無用な混乱を起こしたくなかったからである。
「君は、ここにいてくれ」
と、鈴木|刑事《けいじ》に小声でいってから、十津川は、自分の部屋に入って、ポケットから封筒を取り出した。
これを書いた犯人は、明らかに、ホテルの封筒を、カード代りに使ったのだ。文字は、ボールペンで書かれたもので、死んだ吉田専太郎が見せてくれた二通の脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》と同じ筆跡《ひつせき》だった。つまり、右利きの者が、わざと左手で書いたような下手《へた》くそな字なのだ。
それに、使用されたボールペンも、ホテルの各室とロビーに用意されているものらしい。
(それにしても、犯人は、何故《なぜ》急に、こんな脅迫カードを、パーティの席で披露《ひろう》する気になったのだろうか?)
それが、十津川にはわからなかった。今まで、犯人は、脅迫状は全《すべ》て、役員|宛《あて》に送っていたからである。
十津川たち刑事が来たことへの犯人の強い意思表示なのか。それとも、他に目的があって、こうした行動に出たのか。
十津川は、立ち上がると、部屋を出て、パーティの行われている広間へ戻《もど》った。選手たちは、明日からの試合に備えてだろう、もうあらかた姿を消し、ボーイや、ウェイトレスたちが、後片付けを始めていた。芸者たちも帰ったらしい。
十津川は、ボーイの一人を呼び、ハンカチに包んだ例の封筒《ふうとう》を渡《わた》し、これを、今からすぐ、黒磯《くろいそ》の警察へ持って行って、指紋《しもん》の検査をして貰《もら》ってくれと頼《たの》んだ。
そのボーイが、広間を出て行くと、十津川は、鈴木刑事の傍《そば》へ行った。
「あれから、パーティの様子は、どうだったね? 選手の間に、何か動揺《どうよう》の色でもなかったかね?」
「いや。幸い、これといった動揺は起きませんでした」
「しかし、あのカードを読んだ選手は、何人かいた筈《はず》だが?」
「ええ。しかし、スポーツマンだけあって、誰《だれ》かが、悪戯《いたずら》にあんなことをやったんだと考えているようで、落ち着いて話していました。彼等は、役員のところに来た脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》のことは知りませんし、東京での吉田専太郎の死も、事故死だと思っていますから」
「それに、明日からの試合で、頭が一杯《いつぱい》ということもあるんだろう。とにかく、混乱が起きなかっただけでも助かる」
「しかし、犯人も、あのカードで、ちょっと尻尾《しつぽ》を出したんじゃありませんか?」
「尻尾?」
「今まで、脅迫状を出した犯人が、男か女かもわからなかったわけですが、これで、今夜のパーティに出席した人間の中に犯人がいることがわかったからです。つまり、今度の試合に参加している五十八名のプロゴルファー、役員、それにこのホテルの従業員の中に、犯人はいることになりますから。接待役に呼んだ芸者は除外していいでしょう」
「僕《ぼく》も、さっきは、そう考えたよ」
「と、いいますと?」
「いいかね。ホテルのロビーとか廊下《ろうか》というのは、道路の延長と考えられていて、出入りは自由だし、誰も咎《とが》めたりはしない。それに、この広間でのパーティも、きちんと席の決まった堅苦《かたくる》しい形式のものではなく、立喰《たちぐ》い式の自由なもので、客は勝手に動き回っていたし、受付が置かれているわけでもなかった。それに、参加した選手にしても、きちんと背広を着ている者もいれば、ロッサノのように、ポロシャツ姿もいるといったように、様々だった」
「わかりました。誰かが、このパーティにまぎれ込《こ》んでいたとしてもわからなかったということですね?」
「そうだ。君は、選手や役員、それに、ホテルの従業員や芸者以外に、誰も、今夜のパーティにまぎれ込まなかったと断言できるかね?」
「そういわれますと、全く自信がありません」
と、鈴木刑事は、頭をかいた。
「第一、私は、ゴルファーの顔を、殆《ほとん》ど知りませんから、全く知らない人間が入って来ても、ゴルファーの一人だと思ったでしょう」
「僕もだ。だから、まだ、犯人は限定できん」
「すると、明日からの試合に押《お》し寄せてくるギャラリーの中に犯人がいるかもしれないわけですね?」
「そうだ。それに、取材に来る記者やカメラマンたちの中にいるかもしれん」
「すると、全然、進歩はなしですか」
「いや。犯人の決意が並々《なみなみ》でないことがわかったじゃないか」
「しかし、犯人は、あのカードを、一体誰に見せようとして、花束《はなたば》にさし込んで置いたんでしょうか?」
「わからんね。自分が殺そうとしている相手か、或《あるい》は、ゴルファー全員にか、さもなければ、われわれに対する挑《ちよう》 戦《せん》 状《じよう》だろう」
「警察に対するですか?」
「そうだよ。犯人は、すでに三通も、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》を送って来ていたんだ。警察が介入《かいにゆう》してくるものと当然、覚悟《かくご》している筈《はず》だ。それに、犯人が、役員か、ゴルファーの中にいるとすれば、われわれ二人が、刑事であることは知っている筈だからね」
「しかし、何故《なぜ》、犯人は、脅迫状を三回も役員たちに送りつけたんでしょうな? 黙《だま》っていて、自分の殺したいやつを殺せば、われわれ警察の介入を招かなくても済んだでしょうに」
「犯罪者には、様々なタイプがある。そっと誰かを殺し、そっと身をひそめるタイプもあれば、殊更《ことさら》に、自分の犯行を誇示《こじ》したがるタイプの犯人もいる。それが激《はげ》しくなると、わざと、犯行を予告し、警察の監視《かんし》の中で人を殺して見せる」
「今度が、それでしょうか?」
「わからんな。他に目的があってやっているのかもしれん」
十津川が、難しい顔でいった時、部屋の電話が鳴り、ホテルの交換手が、黒磯警察からだと告げた。しかし、電話の内容は、送ったカードから指紋《しもん》は検出されなかったというものであった。予想していたところだから、十津川は、別に失望はしなかった。多分、犯人はあのカードの端《はし》を、ハンカチではさむかして、花束《はなたば》に添《そ》えたのだろう。
「君は、早く寝《ね》ろ。明日は、早くから試合が始まるからな」
と、十津川は、部下にいい、自分は、廊下《ろうか》に出て、少し歩いて回ることにした。別に、何かわかるという期待を持ってのことではなかった。
階下のロビーへおりてみると、もうゴルファーの姿はなかったが、バーで、新聞記者の一人が、所在なげに、ウィスキーの水割りを飲んでいたが、十津川を見つけて、「十津川さんじゃありませんか」と、声をかけてきた。今日、集まっていた記者たちは、全部、運動部の連中なので、捜査《そうさ》一課の十津川の顔は知られていなくて、安心していたのだが、バーにいたのは、悪いことに、彼の大学の後輩《こうはい》だった。だから、運動部記者でも、十津川の顔も職業も知っていた。笠井という男である。
十津川は、仕方なしに、笠井の横に腰《こし》を降ろし、水割りを頼《たの》んだ。時間は、九時半に近かった。
「警視庁捜査一課の名警部が、こんなところで、何をしてらっしゃるんです?」
笠井は、首をかしげた。
「丁度、非番で、好きなゴルフを見に来ているのさ」
十津川は、どうせ、相手は信じまいと思いながら、うそをついた。
「ところで、パーティでは、君を見かけなかったが」
「それが、ドジな話で、車を、ここへ来る途中《とちゆう》でぶつけちまったんです。ジャイアンツ・有藤の試合前の談話をとるようにいわれていたんで、着いてすぐ、彼の部屋へ行ってみたんですが、ドント・デスターブ(起こさないで下さい)の札《ふだ》が下がっていて、入れてくれません。それで、ヤケ酒ですわ」
「有藤に、何を取材する積りだったんだ?」
「今、黒いシャフトというのが騒《さわ》がれてるのをご存知ですか?」
「ああ。知っているよ。アメリカで開発されたグラスファイバーのシャフトのことだろう? あれを使うと、距離《きより》が、二、三〇ヤード伸《の》びるそうじゃないか」
「正式な名称は、カーボングラファイトというんですが、選手によって評価は、まちまちです。それに、今のところ、普通《ふつう》のスチールシャフト四本分の値段ですから、二の足をふむプロも多いんです。実は、マグマ≠ェ、アメリカのパサディナ社≠ゥら特許権を買いとって、この黒いシャフトの生産を始めたんです」
「待ってくれよ。マグマ≠ニいえば、確か、有藤のスポンサーになった運動具店だったな」
「そうです。それで、有藤が、果して、今度の試合に黒いシャフトを使うかどうか、聞くのが用事だったんです。練習のときは、使ったり、使わなかったりだったそうですが」
「もし、有藤が、今度の試合で黒いシャフトを使って優勝でもすれば、マグマ≠ニしては、大喜びだろうな?」
「そりゃあ、大変な宣伝になりますからね。年間二千万円で契約《けいやく》したのが、今度の試合だけで、元を取っちゃうんじゃありませんか。ジャイアンツ・有藤は、素人《しろうと》ゴルファーにとって、一種の偶像《ぐうぞう》ですからね。それが今話題の黒いシャフトを使って、優勝賞金一千万円の大試合に勝ったとなれば、われもわれもと、マグマ≠フ黒いシャフトに飛びつくでしょうからね」
「だろうな。ところで、マグマ≠フ他に、コスモ≠ニいう運動具製造会社があったな?」
「ええ。今のところ、日本のゴルフメーカーの大手といえば、そのコスモ≠ニマグマ≠フ二社でしょうね」
「コスモ≠ニ契約《けいやく》しているプロは?」
「それが面白いことに、ジャイアンツ・有藤の好敵手のウルトラマン・赤木なんですよ」
「確かに、面白いな」
と、十津川は、うなずき、煙草《たばこ》に火をつけた。今度の事件に、関係があるかどうかは、まだわからなかったが――。
翌朝は、快晴だった。
午前八時に、第一のパーティがスタートする頃《ころ》には、真夏の強い太陽がコース一杯《いつぱい》に照りつけていたが、高原のせいか、風が涼《すず》しく、選手たちも、気持ち良さそうだった。
十津川と、鈴木刑事は、二時間前の午前六時に起き、役員のブレザーを着て、電気自動車で、コースを二回、回ってみた。特に、林の中などは、車をとめて念入りに調べてみたが、これといった異常は発見できなかったし、妙《みよう》な素ぶりの人間にも出会わなかった。
午前八時には、もう、三千人近いギャラリーが集まり、その数は、どんどん増えていった。主催者《しゆさいしや》がいうように、平日の第一日でも、一万人近いギャラリーになりそうである。そのギャラリー一人一人を監視《かんし》しようとしたら、たとえ、千人の警官を動員しても無理だろう。だから、十津川は、勘《かん》で動くことにした。この広いコースで、いつ、誰《だれ》が狙《ねら》われるかわからないでは、防止計画の立てようがなかったからである。鈴木刑事にも、とにかく動き回っていろと命令した。
ジャイアンツ・有藤は、五番目に、アメリカからの招待選手、ジャック・ミラーと組んでスタートした。役員が有藤とジャック・ミラーを組ませたのは、日米の若手ナンバー・ワン同士ということからだろう。ジャック・ミラーは、一昨年は、アメリカのプロゴルファーの中で賞金|獲得額《かくとくがく》が九位だったが、去年は全米オープンで一躍《いちやく》優勝し、躍《おど》り出て来た若手である。年齢《ねんれい》も二十六歳。そんなところも、有藤に似ている。有藤は、去年、アメリカへ遠征《えんせい》した時、ハンサムだといわれたそうだが、ジャック・ミラーの方も、金髪の好男子で、いかにも女性にもてそうだ。
そのせいか、この二人が1番ホールに姿を現わすと、どっと、大勢のギャラリーが取り囲んだ。
ジャック・ミラーが、オナーになって、まず、ボールをティ・アップした。1番ホールは、四〇五ヤード・パー4で、割りに癖《くせ》がないから、飛ばし屋には、バーディの出やすいホールである。
ミラーは、普通のスチールシャフトのドライバーを取り出した。金髪に、ブルーのポロシャツがよく似合っている。二、三回、素振《すぶ》りをくれてから、ドライバーを一閃《いつせん》させた瞬間《しゆんかん》、囲んでいたギャラリーの間から、「おうッ」という歓声があがった。少しフックがかかっていたが、見事に、三〇〇ヤード以上は飛んだろう。左のラフに近かったが、バーディを狙《ねら》える位置である。
次に、有藤が、ニヤッと笑って、ボールをティ・アップした。飛ばしっこなら絶対に負けるものかというライバル意識が、笑った顔に、むき出しになっていた。そんな態度が、またギャラリーに受けるのだ。
十津川は、そんなギャラリーから少し離《はな》れた場所で有藤が、果して、黒いシャフトを使うだろうかと、眺《なが》めていた。半分は刑事としての興味であり、半分は素人《しろうと》ゴルファーとしての興味だった。
有藤は、ちょっと考えてから、キャディ・バッグから黒いシャフトを取り出した。ギャラリーが、それを見て、小さな歓声をあげた。どうやら、彼等も、今度の試合で、有藤が黒いシャフトを使うかどうかに、関心を持っていたらしい。
この試合のように、去年の太平洋クラシックに、アメリカの一流プロが来たとき、ガイ・ハミルトンが、すでに黒いシャフトを使っていたが、十津川は、眼の前で見るのははじめてだった。
有藤は、無造作《むぞうさ》に足の位置を決めてから、黒いシャフトを振《ふ》りかぶった。ビギナーも一瞬《いつしゆん》、息を殺して見守り、カメラマンも、遠慮《えんりよ》してか、シャッターを切るのをやめている。
有藤は、思いっきり、ボールを引っぱたいた。
その瞬間、人々の期待した快音の代りに、ボキッという変に鈍《にぶ》い音がした。
「あッ」という驚《おどろ》きの声が、周囲に起きた。
有藤の強振《きようしん》した黒いシャフトが、根本からポッキリ折れ、グリップの部分だけが、有藤の手元に残り、黒いシャフト部分から、先が、宙に飛んだ。
あわてて、ギャラリーが避《よ》ける。打ったボールは、三〇ヤードぐらいしか飛んでいない。
「畜生《ちくしよう》!」
と、有藤は、若いだけに、手に残った部分を、地面に叩《たた》きつけた。大勢のギャラリーも、呆然《ぼうぜん》としている。十津川は、折れて飛んだシャフトの部分を拾いに走った。
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グリーンの死角
有藤は、役員に何かいっていた。ドライバーのシャフトが折れたのだから、もう一度、打ち直しをさせてくれと要求しているらしい。
役員が三人集まって相談しているようだったが、有藤に向かって、首を横にふって見せているのを、十津川警部は、有藤が、怒りにまかせて投げ捨てていった折れた黒いシャフトを拾いながら眺《なが》めていた。
十津川は、ゴルフの規則は知らないが、クラブのシャフトが折れただけでは、打ち直しは許されていないのだろう。
ジャイアンツ・有藤は、若いだけに、明らかに、腹を立て、心の動揺《どうよう》を見せていた。
次を五番アイアンで打ったが、バンカーに入れてしまった。グリーンまでは、まだ二、三〇ヤードはある。
同じ若手とはいえ、アメリカの招待プロのジャック・ミラーの方は、去年の全米オープンの優勝が自信になっているとみえ、第二打を、ピタリとグリーンにのせ、バーディチャンスを作った。
ギャラリーが、二人について動いていく中で、「十津川警部」と、呼ばれた。カメラを持った笠井記者だった。
「いい写真が撮《と》れましたよ。有藤の黒いシャフトが、折れて、すっ飛んだところを、バッチリ写しましたからね。マグマ≠ノとっては、製造元だけに、痛いでしょうが、われわれにとっては、特ダネですからね」
「どう書く積りだい?」
「日本製の黒いシャフトは折れやすいぐらいのところかな。もちろん、クエスチョンマークは、つけますがね」
「それは、止《よ》しといた方がいいな」
「何故《なぜ》です?」
「君が、あとで、恥《はじ》をかくといかんからさ」
「しかし、有藤の振《ふ》った黒いシャフトが、グリップのところから折れてギャラリーの中に飛び込《こ》んだのは事実ですよ」
「これだろう」
と、十津川は、拾ったグリップとシャフトから先の部分を、笠井に見せた。
「まあ、写真だけのせて、なるべくおだやかな見出しにしておくんだな」
「だから、何故《なぜ》か教えて下さい」
「君だって、記者だろう? 昨日の練習で、ガンガン打っていて何ともなかったのに、肝心《かんじん》の試合になったとたんにポッキリ折れるのは変じゃないかね? そこを、出来れば、慎重《しんちよう》に考えて、のせるのは写真だけにしておくんだな」
「何か妙《みよう》なことがわかったんですか?」
「いや」
と、十津川は、否定した。笠井は、わけがわからないという顔をしていたが、有藤と、ジャック・ミラーの組が、2番ホールの方へ進んでいく気配なので、十津川を残して、あわてて、そのあとを追って行った。
ジャック・ミラー、ジャイアンツ・有藤のパーティの次は、有藤のライバルといわれるウルトラマン・赤木と、三十歳のトム・アボットの組だった。
ジャック・ミラーも長身だったが、トム・アボットは、それを上回る長身である。赤木も、一八〇センチはあるようだが、アボットは、一九〇センチ近いだろう。体重も八〇キロはありそうである。
赤木が、オナーで、まず、有藤に負けない飛ばし屋という評判どおり、ドライバーで三二〇ヤードぐらいの第一打を見せて、ギャラリーの拍手《はくしゆ》を浴びた。しかも、フェアウェイのどまん中である。
十津川は、トム・アボットも、それに刺激《しげき》されて、飛ばすだろうと思ったが、長身の彼が取り出したのは、ドライバーでなくて、二番アイアンだった。
十津川は、一瞬《いつしゆん》、仕事を忘れて感心した。普通《ふつう》、相手が飛ばすと、それにつられてしまうものだが、この長身の男は、赤木の一打に全く無関心に、自分自身のゴルフをやろうとしている。それは、性格もあるだろうが、今年の全英オープンで優勝し、今、絶好調の自信でもあるのだろう。
二番アイアンで打たれたアボットの第一打は、きれいにフェアウェイのまん中をとらえた。が、ドライバーで打った赤木ほどは飛ばず、二六〇ヤードぐらいである。四〇五ヤード・パー4なら、第一打は、このくらいで十分と読んだのだろう。
赤木たちの次は、陽気なロッサノと、日本でも、ショーマンの呼び声の強い高田省三のパーティが、1番ホールに現われた。次々に、日米の有名選手が現われるので、ギャラリーも、忙《いそが》しそうである。
この組は、どちらも陽気だから、周囲に絶えず、笑いが起きている。ロッサノの英語が、日本人ギャラリーに完全にわかっているとは思えなかったが、それでも、ちょっとした仕草《しぐさ》にユーモアがあって、どっと来るのである。
サム・スコットは、リトル・杉山と呼ばれる杉山高明とパーティを組んでいた。この組み合わせも面白いと、十津川は思った。どちらも、有藤や赤木のような飛ばし屋ではないが、同じように、わざ師という感じだからである。役員の方も、そこを考えて、第一日目の組み合わせを考えたのだろう。
十津川は、そうしたパーティの移動につれて、自分も、プレーヤーやギャラリーたちから、少し離《はな》れた距離《きより》を保ってゆっくりと歩いて行った。
林間コースで、起伏《きふく》に富んでいるだけに、十津川は、歩きながら、絶えず、緊張《きんちよう》と、周囲を見回していなければならなかった。
例《たと》えば、自然の小川をそのまま利用して、木の細い橋が渡してある。プレーヤーが、そんなところをゆっくり渡っている瞬間も、グリーン上と同じで、もし、犯人が狙撃《そげき》しようと思えば、絶好の的になる筈《はず》だった。
周囲の美しい那須の山々や、コース上の林の緑を観賞している余裕《よゆう》は、十津川にはなかった。
十津川も、ゴルフは嫌《きら》いではなかったから、ただ楽しむために見物できたら、日本の有名選手や、招待したアメリカの四選手の妙技《みようぎ》に感心し、時間がたつのも早かったろうが、犯人の眼が、どこにあるかわからず、しかも守るべき人物がわからないでは、時間は、やけにゆっくりしか過ぎてくれなかった。
選手たちは、アウト、インと終ると、明日に備えて、ホテルに戻《もど》ったり、クラブハウスで軽い食事や飲み物をとれるのだが、十津川と鈴木刑事の方は、全部のパーティがあがるまでコース上にいて、しかも、絶えず、歩き回っていなければならなかった。
午前八時に第一のパーティがスタートし、最後のパーティが、ホールアウトしたのは、午後五時を回っていた。
だが、ジャイアンツ・有藤の黒いシャフトが、1番ホールで折れて飛んだ以外、何事も起きなかった。
十津川と鈴木刑事は、疲《つか》れ切り、痛む足を引きずるようにして、ゴルファーたちの戻っているホテルへ、自分たちも引きあげた。
ジャイアンツ・有藤は、1番ホールでの思わぬアクシデントがつまずきになったのか、アウトはメロメロで、バーディはなく、ボギーが多く五オーバーという信じられないような不出来だったが、インに入って持ち直し、さすがに有藤らしく、連続バーディを決めて、終った時には、ワンオーバーで二十八位になっていた。三十六位までが二日目に進めることになっていたから、危なく、予選で落ちるところだった。
第一日目は、堅実にスコアをまとめたトム・アボットが五アンダーでトップ、赤木が、今年の好調をそのままに四アンダーで二位。他の三人の招待選手も、さすがに、十位以内に入っていた。
十津川は、与《あた》えられた部屋に、鈴木刑事と入った。予選で落ちたプロは、早々に荷物をまとめてホテルを出ていく。こういうところは、勝負の世界は非情である。
「何もなくて、よかったですな」
と、鈴木刑事がいうのへ、十津川は、例の折れた黒いシャフトをテーブルへのせて、
「一つだけ事件があったよ」
「しかし、それは、単なるアクシデントじゃなかったんですか?」
「いや、違《ちが》うね。その折れた部分を、よく見たまえ。多分、糸ノコでも使ったんだろうが、前もって、半分以上、切れ込《こ》みが入っていた。だから、ボールに当たった瞬間《しゆんかん》、折れて飛んだのさ」
「誰《だれ》が、何のために?」
「わからん。それで、これから、僕《ぼく》は有藤に会ってくる。その間、君は、東京に電話して、刑事二人を、明日の朝までにここに寄越《よこ》すようにいってくれ」
十津川は、ぶっきら棒にいい、折れた黒いシャフトを持って、部屋を出た。有藤俊之の部屋は、六階だった。
十津川が、ノックをすると、ドアが細目に開き、不機嫌《ふきげん》そうな有藤の顔がのぞいた。が、十津川のブレザーを見て、中へ入れてくれた。
「役員の人にしては、見覚えのない顔だなあ」
と、有藤は、椅子《いす》に腰《こし》を降ろし、長い脚《あし》を組んで、無遠慮《ぶえんりよ》に十津川を見上げた。十津川も、向かい合って腰を降ろしてから、
「吉田専太郎さんが、急に事故死したので、その代りにかり出されてね」
「そうだった。吉田さんの死をテレビで知った時は、ショックだったな」
と、有藤は、暗い表情を作ったが、それほど、深刻になっていないのは、多分、まだ、吉田を殺したのが、盗《ぬす》まれた自分の車だということまでは、知らないのだろう。
「ところでこの黒いシャフトだがね」
十津川は、折れたシャフトを、テーブルの上にのせた。
「君が、放り捨てていってしまったので、僕が拾っておいたよ」
「それはどうも。あの時は、つい、かッとなっちゃって。スタートの時だったんでね。しかし、国産の黒いシャフトが、あんなに弱いとは思わなかったが」
「いや。誰かが、切れ込《こ》みを入れておいたんだ。だからボールを叩《たた》いたショックで折れたんだ。嘘《うそ》だと思うんなら、折れ口をよく見てみたまえ」
「そんな馬鹿《ばか》な!」
と、有藤は、大きな手で、折れたシャフトをわし掴《づか》みにし、しばらく眺《なが》めていたが、その顔が、赧《あか》くなった。
「本当だ。確かに、折れ口に段がついている」
「多分、糸ノコか何かで、やったんだと思うね」
「しかし、昨日、休んだときは、バッグは、この部屋に入れて寝《ね》たんだ。この黒いシャフトも、バッグの中に入っていた。誰も触《ふ》れられなかった筈《はず》だ」
「しかし、黒いシャフトはごく最近、使い始めたんだろう?」
「そう。マグマ≠ナ、国産第一号が出来たこと自体が、ごく最近だからね」
「とすれば、同じものを、誰かが、すぐ折れるように細工しておいて、スタート直前にすりかえても、君が気がつかなかったことも考えられる。いつもの使いなれたクラブだったら、ひとふりしただけで、異常に気がついたかもしれないが」
「そういえば、確かに、すりかえてあっても、黒いシャフトの場合は、わからなかったかもしれないな。使い始めて、日がたっていないから」
「誰かに恨《うら》まれている覚えは?」
「そんなこと、僕にはわからないなあ。若いくせに、生意気だと思われていることは、知ってるよ。何をやっても、僕の場合は、派手に見えるらしいんだ」
「ウルトラマンという渾名《あだな》の赤木君との間は?」
「彼とは、やたらにライバル、ライバルと書きたてられてるけど、試合が終れば、仲がいいよ。もっとも、彼は、まじめすぎて、ちょっと、つき合いにくいけどね」
有藤は、苦笑して見せた。
「ところで、明日も、君は、黒いシャフトを使うべきだな。マグマ≠ヘ、君のスポンサーだろう。それに、折れたのも、誰かの細工だったんだからね。使わないと、国産の黒いシャフトは、折れやすいという悪評が立ってしまうよ」
と、十津川は、笑っていい、有藤の部屋を出た。
自分の部屋に戻《もど》ると、鈴木刑事が、「東京へ連絡《れんらく》しておきました」と、報告した。
「永井刑事と、田中刑事が、今夜の列車で来てくれるそうです」
「そいつはよかった。じゃあ、明日は、君たち三人でコースを見張ってくれ。僕は、明日一日、東京へ帰ってくる。どうしても、調べたいことがあるんでね」
「しかし、もし、明日、犯人が、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》どおり実行したら――」
「まず、その心配はない」
「何故《なぜ》ですか?」
「実は、危ないのは、今日だと思っていたんだ」
十津川は、考える眼になり、セブンスターに火をつけた。
「ゴルフのトーナメントというのは、参加者が五十人いるとすると、最終日まで、五十人でやるものじゃない。第一日、第二日、第三日と、成績の悪い者は、予選でふるい落とされていくんだ」
「そういえば、今日で、三十六位以内に入れなかったプロは、ホテルを出て帰るようですね」
「もし、犯人が、このトーナメントに参加しているプロを狙《ねら》っているとしよう。たとえ、そのプロが、ジャイアンツ・有藤のような有名選手でも、成績が悪ければ、予選で落ちて、明日から姿を消してしまうんだ。
とすれば、全選手がコースに出るのは、初日の今日しかない。だから、今日が一番危ないと思ったんだが、有藤の黒いシャフトに細工されただけだった。となれば、多分、明日も、何も起こらない公算の方が強い」
「しかし、犯人は、殺す≠ニ脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》に書いていますが?」
「そうだ。そこが問題だ。それで、今、二つだけ考えてみた。第一は、犯人が、劇的な効果を狙っているという考えだ。つまり、ギャラリーが一番集まり、テレビが、一番長く放送する最終日の日曜日を、犯行の日に決めているのではないかということだ」
「しかし、警部もいわれたように、殺す相手が、最終日まで残っているかどうか、わからんと思いますが」
「問題はそこだ。犯人は、自分の狙っているプロが、絶対に決勝まで進むと確信しているのかもしれない。そうでなければ、第二の考えになるんだが、犯人が狙っているのは、プロゴルファーでなくて、役員の一人かもしれん。或《あるい》は、優勝者に賞金を渡《わた》すボンサム∴料の代表者かもしれん」
十津川は、煙草をくわえたまま、時刻表を手に取った。
彼の頭の中では、役員吉田専太郎の死と脅迫状は結びついていた。だからこそ、一日でも、東京へ戻《もど》って、調べたいことがあるのだ。
十津川は、その夜、おそく着いた二人の刑事に、警戒の要領を説明してから、翌朝、七時四十一分黒磯発の急行津軽《つがる》2号≠ノ乗った。
上野に着いたのが、午前十時十二分。タクシーを捜査《そうさ》本部へ飛ばすと、課長が、十津川を待ち受けていた。
「死んだ吉田専太郎のことで、妙《みよう》な噂《うわさ》が入って来てるんだ」
と、課長がいった。
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男と女の仲
「吉田の妙な噂というのは、何です?」
十津川は、眼《め》を光らせてきいた。課長は、太った身体《からだ》で、椅子《いす》をきしませてから、
「正確にいえば、殺された吉田専太郎自身の噂というより、未亡人の噂といった方が正確かもしれん」
「未亡人というと、確か、名前は康子でしたね」
十津川は、一度会った吉田康子の若い顔を思い出した。五十歳を過ぎた吉田専太郎には、若過ぎる妻君だという記憶《きおく》が残っている。若くて美人だった。年齢《ねんれい》は二十八だった筈《はず》である。
「彼女にどんな噂があるんです?」
「今、売り出し中のジャイアンツ・有藤だが、彼が、プロゴルファーに転向しようと、郷里の新潟に、妻子を置いて上京したとき、世話をしたのが、死んだ吉田専太郎だ。吉田は、有藤に、技術の指導をしたが、彼が、プロテストに受かるまでの間、生活面の面倒《めんどう》を見ていたわけだ。それから、しばらくして吉田は、アメリカのゴルフ事情視察のため、三か月ほど渡米《とべい》した。その留守《るす》に、有藤と、康子の間に、間違《まちが》いが起きた。どちらも若いから仕方がないといえばいえるが」
「それは、事実ですか?」
「どうやら事実らしい」
「何故《なぜ》、わかったんです?」
「君は、早山克郎という男を知っているかね?」
「いえ」
「プロ野球からの転向組で、第二の有藤を目ざしているプロゴルファーの卵だ。年齢は、二十三歳。面白いことに、この男も、吉田専太郎の指導を受けていたんだが、昨日の夜になって、吉田が、早山と妻君との仲を疑い、私立|探偵《たんてい》に調べさせていたことがわかったんだ。ふた回り近くも若い妻君を持った男の辛《つら》さだな」
「それを調べていく中《うち》に、有藤の名前も浮《う》かんで来たというわけですか?」
「まあ、そうだ」
「調べたのは、どこの探偵社《たんていしや》です?」
「日本第一探偵社だ」
「探偵社としては、大手ですね」
「ああ。噂《うわさ》を聞き込《こ》んだんで、調査報告書を見せてくれるように頼《たの》んだが、最初は、依頼主《いらいぬし》の秘密が守れないとかいって、拒否《きよひ》してきたよ。だが、日本では私立探偵は無免許《むめんきよ》だし、あの探偵社じゃ、去年、恐喝《きようかつ》事件を一件起こしているんだ。そこをついて喰《く》い下がったら、報告書を見せてくれたよ」
課長は、机の引出しから、二通の報告書を取り出して、十津川の前に投げ出した。
私立探偵社の報告書というのは、タイプ印刷された薄《うす》いものである。
一通は、最近のもので、課長のいった早山克郎と吉田康子に関するもので、もう一通は三年半前のもので、プロゴルフ界に登場したばかりの頃《ころ》の有藤と、吉田康子に関するものだった。
早山克郎と康子との調書は、二人が、しばしば、一緒《いつしよ》に食事したり、喫茶店《きつさてん》に入ったことは書いてあったが、関係があったという言葉はなかった。あいまいな表現になっていて、これでは、読んだ吉田は、かえって、いらいらしてしまうだろう。
十津川は、いくらか表紙の汚《よご》れた二通目の報告書に眼を通した。
こちらは、早山克郎の場合のように、あいまいではなかった。
当時、有藤は、吉田専太郎の家の近くのアパートをひとりで借り、食事は、吉田|邸《てい》でしていたらしい。
報告書は、有藤と康子の一週間の行動を追っていたが、一週間の中、二日、康子は、都内のKホテルに行き、ツインの部屋に泊《とま》り、一日は、有藤が、同じ部屋で数時間を過ごし、もう一日は、有藤も同室に泊ったと書いている。その部屋のナンバーと、日時もである。
「これのコピーが、三年半前に、吉田に渡《わた》されたわけですね?」
「そうだ。三年半前といえば、康子は二十四歳。有藤の方は二十二歳だ。若い二人が一緒《いつしよ》にいれば、関係が出来ても仕方がなかったかもしれん」
「しかし、これを読んだ吉田が、康子と別れなかったところをみると、よっぽど惚《ほ》れていたんでしょうな」
「ああ若くて、きれいな妻君は、中年過ぎの男のところへは、めったに来やしないからね。じっと我慢《がまん》したんだろう」
「そして、また、若い早山克郎のことで、同じ心配をして、探偵社《たんていしや》に調査を依頼《いらい》したというわけですね」
「そうらしい。問題は二つある。第一は、この調査が、果して、今度の事件に関係があるかどうかということ。第二は、三年半前に、この調査報告を読んだ吉田が、その後、有藤に対して、どんな気持ちを持っていたかということだ」
「妻の康子は許しても、有藤の方は、心の底で、憎《にく》み続けていたかもしれないということですね」
十津川は、しゃべりながら、もしそうだったら、事件は、意外な方向に発展していくかもしれないなと思った。
「ところで、この早山克郎は、今、どこにいるんですか?」
「それが、面白いことに、新那須カントリー・クラブに行っているらしい」
「本当ですか? しかし、エントリーした選手の中に、早山などという名前は、なかったような気がしますが?」
「勿論《もちろん》だよ。来年プロテストを受けるんだから。勉強のために、有名選手のショットを見学に行ってるんだ」
と、課長は、笑った。
「とにかく、この報告書をお借りします」
と、十津川はいい、二通の報告書を、ポケットにねじ込《こ》んで、部屋を飛び出した。
那須に比べると、東京の街の八月は、ねばりつくような蒸し暑さだった。空気全体が、どろんとしている感じがする。
十津川が、一番会って、調査報告書のことを聞きたかったのは、依頼主《いらいぬし》の吉田専太郎である。だが、彼は、殺されてしまった。
残るのは、被調査人《ひちようさにん》の吉田康子、ジャイアンツ・有藤、それに早山克郎だが、後者の二人は今那須にいる。となると、彼女だけだが、十津川は、その前に、日本第一|探偵社《たんていしや》へ行き、調査を担当した調査員に会ってみることにした。
日本第一探偵社は、品川《しながわ》駅の近くにあった。三階建のビルだが、壁《かべ》など薄汚《うすよご》れていて、あまり立派とはいえない。それでも入口には、全国ネットを誇《ほこ》る私立探偵社≠フ大看板がかかっていた。
早山克郎を調べた調査員は、折よく社にいて会うことが出来た。三十五、六で、インテリヤクザ風の、疲《つか》れた顔をした男だった。
「確かに、その報告書を作ったのは、おれですよ」
と、相手は、脚を組み、煙草《たばこ》をぷかぷかやりながらいった。
「依頼主の吉田専太郎に、渡《わた》したのは?」
「確か、六日前の十九日でしたよ。土曜日だったから間違《まちが》いない筈《はず》です。吉田さんが直接受け取りに来て、この先の喫茶店《きつさてん》で渡したんです」
「しかし、この報告だけじゃ、依頼主は満足しなかったんじゃないかね? 二人の間に、何かあるようでもあるし、ないようにも受け取れるからね」
「それは、おれも知ってましたよ。だが、たった五日間じゃ、そのくらいしかわからんですよ。そうしたら、依頼主は、二十四日から四日間、那須の方へ行っているので、その間の奥《おく》さんの行動をチェックしてくれと、改めて頼《たの》まれましてね。その積りでいたら、肝心《かんじん》の依頼主が、自動車事故で死んだと、新聞に出ていたので、取り止《や》めたところです」
「じゃあ、こっちの有藤報告書は?」
「そっちは、おれじゃないなあ。裏に、小さく、調査員の名前が書いてあるでしょう?」
「江田と書いてある」
「江田さんなら、だいぶ前にやめて、今は、自分で探偵社《たんていしや》をやっていますよ。場所は、確か四谷《よつや》三丁目あたりの筈《はず》です」
「だいぶ前というのは?」
「三年ぐらい前じゃなかったかな」
「君は、ともかく、五日間、吉田康子を尾行《びこう》したわけだろう? 彼女を、どんな女だと思ったね?」
「美人で、一見、貞淑《ていしゆく》そうだが、やはり、夫との年齢差に不満を感じている。ちょっとした素振《そぶ》りに、それが現われているような気がしましたね。夫に対する不満は、多分、セックスの面でしょうね」
「なかなか、うがったことをいうじゃないか」
「今は、こんなヤクザめいた仕事をしていますが、こうみえても、大学時代は、フロイトを研究しましたからね」
と、相手は、ニヤッと笑った。
十津川は、品川から、四谷三丁目に出て、江田という調査員が、独立して開いたという私立|探偵《たんてい》事務所を探した。最初はわからなかったが、新しく出来たビルの一室を借りているのだった。小さな部屋のガラスドアに、金文字で、江田探偵事務所≠ニ書いてあった。
ドアを開けると、眼の前に衝立《ついたて》が立ちはだかっていたが、受付の人間はいず、その奥《おく》に、江田自身が、退屈《たいくつ》そうに、長い足を投げ出すような格好で、椅子《いす》に腰《こし》を降ろしていた。中古のクーラーが、やかましい音を立てていた。
年齢《ねんれい》は四十歳くらいか。細面《ほそおもて》で、眼つきのちょっと鋭《するど》い男である。最初、十津川を見て、ニッコリしたが、客でないとわかると、渋《しぶ》い顔つきになった。
「警察にとやかくいわれるようなことは、やっていませんよ」
「三年半前に、君のやった調査のことで、聞きたいことがあってね」
と、十津川は、例の報告書を、江田の前に投げ出した。江田は、それを、パラパラとめくってから、
「確かに、僕《ぼく》のやったものですね」
「その報告書を読んだときの依頼主《いらいぬし》、吉田専太郎の反応を聞きたいんだが?」
「それは、知りませんね」
「しかし、担当者が渡《わた》して、説明するんだろう?」
「普通《ふつう》はね。だが、これは、郵便で調査|依頼《いらい》があったんですよ。金も、為替《かわせ》で送って来て、報告書も、家の方へ送ってくれということだったから、女の子に頼《たの》んで郵送して貰《もら》ったのを覚えていますよ」
「郵送? 間違《まちが》いないだろうね?」
「嘘《うそ》はつきませんよ。ついても仕方がないでしょう?」
と、江田は、肩《かた》をすくめて見せた。
「手紙での調査依頼も多いのかね?」
「ええ。割りと多かったですよ。特に、地方の両親が、東京に出て来ている息子《むすこ》や娘《むすめ》の素行《そこう》調査なんかは、殆《ほとん》ど、手紙による依頼でしたからね」
「成程《なるほど》な。ところで、ここに書いてあることは事実だろうね? 吉田康子と、有藤が、Kホテルのツインルームに一緒《いつしよ》に入ったというのは?」
「間違いありませんよ。嘘だと思うんなら、当人に聞いてみたらいかがです?」
「そうするのもいいな」
と、十津川は、立ち上がってから、
「君も、ゴルフをやるようだね?」
「え?」
「部屋の隅《すみ》に、ゴルフバッグがあるじゃないか。クラブは、どうやら、マグレガーらしい。私立探偵というのは、儲《もう》かるらしいな」
「――――」
江田が、何か、いいわけがましいことをいったが、十津川は、その時にはもう、事務所を出ていた。
十津川は、杉並の吉田|邸《てい》に回った。玄関《げんかん》には、まだ、忌中《きちゆう》≠フ紙が貼《は》ってある。
(こんな時に会って聞く話ではないのが嫌《いや》だな)
と、思いながら、十津川は、ベルを押《お》した。
家の中で、静かな足音が聞こえ、玄関が開き、黒い和服姿の吉田康子が、ほの白い顔をのぞかせた。改めて、きれいな人だなと思いながら、「上がらせて頂いて構いませんか」と、きいた。
康子は、「どうぞ」と、静かにいい、先に立って、十津川を奥《おく》へ案内した。眼を伏《ふ》せたその姿は、愛する夫の死を心から痛む貞淑《ていしゆく》な未亡人に見える。が、派手な顔立ちと、和服に包まれた腰《こし》の豊かさが、それを裏切っているようでもあった。十津川が、そんな風に感じたのは、三年半前の調査報告書のせいかもしれない。それとも、十津川自身が、まだ独身のせいだろうか。いずれにしろ、康子という女には、男の気を引くような何かがあった。だからこそ、死んだ吉田専太郎は、あんな調査報告書を受け取りながらこんな女と、別れられなかったのだろう。
奥の和室に向かい合って座ってから、十津川は、
「今日は、嫌《いや》なことを聞きに来ました」
と、正直にいった。康子は、大きな眼で、じっと、十津川を見た。
「どんなことでしょうか?」
「ジャイアンツ・有藤は、昔《むかし》、この近くのアパートに住んでいたそうですね?」
「ええ。単身で、新潟から上京して来て、いきなり主人を訪ねて来たんです。どうしてもプロゴルファーになりたいって。身体はいいし、若いし、それに、素質もありそうなので、主人は、まず、アパートを世話し、毎日、自分の車で、この近くにある練習場へ連れて行って、レッスンしたんです」
「食事も、この家でしていたようですね?」
「ええ。亡くなった主人は、面倒《めんどう》を見るとなると、トコトン面倒をみる人でしたから」
「それからしばらくして、ご主人は、三か月間、アメリカへ行きましたね?」
「ええ」
「その間も、有藤は、この家で食事を?」
「ええ」
「では、これを見て下さい。読むのは嫌でしょうが、こちらも仕事ですのでね」
十津川は、相手の前に、例の報告書を置いた。彼女が、手に取ってページをくっている間、十津川は、じっと、相手の表情を注目した。
康子は、黙《だま》って、二回読んだ。一回目のときは、明らかに表情が動いた。が、二回目のときは、平静であった。
「失礼ですが、そこに書いてあることは、正確ですか?」
と、十津川はきいた。康子は、すぐには返事をせず、黙って、報告書を置いた。
「嘘《うそ》ですわ」
「有藤俊之とは、何もなかったというのですか?」
「ええ。何も」
康子は短く答える。だが、十津川には信じられなかった。江田という私立|探偵《たんてい》の言葉を信じるからではない。康子自身が、意識しているかどうかわからないが、彼女には、男を引きつける生《なま》な女らしさがあるからだ。
「この報告書は三年半前に、作られたものです。当然、亡くなられたご主人も、ご覧になった筈《はず》ですが、その時、家庭の中に、波風が立ったんじゃありませんか?」
「そういうことには、答えたくございません」
康子は、突《つ》き放すようにいった。
「では、ご主人の書斎《しよさい》を拝見させて頂けませんか?」
「どうぞ」
康子は、あくまで冷静にいい、二階の洋間に案内してくれた。ゴルフバッグがいくつも並《なら》び、ゴルフ関係の本が、内外にわたって多い。
十津川は、そんな本やゴルフ道具には構わず、机の引出しを調べてみた。一番下の引出しに鍵《かぎ》がかかっていたので、康子に頼《たの》んで、あけて貰《もら》った。様々な書類や手紙類が入っていた。その中に、早山克郎と康子に関する探偵社の写しは入っていたが、三年半前の、有藤に関するものは、いくら探しても見つからなかった。他の場所からも出て来なかった。
江田の方は、郵送したといっているのだから、受け取った吉田専太郎自身が焼き捨ててしまったのか。それとも、康子が処分したのか。他には、これといった書類や手紙は見つからなかった。
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心理テスト
三年半前、まだ無名に近かった有藤と、吉田康子との間に、あやまちがあったとしたら?
十津川は、それから推理されることを、さまざまに考えながら、警視庁に戻《もど》った。
「新那須カントリー・クラブの鈴木|刑事《けいじ》たちから、何か連絡《れんらく》は、ありませんでしたか?」
と、十津川は、腕《うで》時計に眼《め》をやりながら捜査《そうさ》一課長にきいた。午後二時を回ったばかりで、向こうではプロゴルファーたちが、しのぎをけずっている頃《ころ》だろう。
「昼に一度、連絡があったよ。午前中は、まだ、何も起こらんそうだ。有藤の黒いシャフトも、今日は折れたりせず、なかなか快調らしい」
「そうですか」
と、十津川は、ほっとした。が、犯人は、最終日まで、殺人はやるまいと読んで、東京に舞《ま》い戻ったのだが、その読みは、あくまでも、十津川個人の勝手な推理に過ぎない。読みが外れていれば、犯人は、今日でも行動を起こすかもしれないのだ。
十津川は、調べて来たことを、努めて、事務的に課長に報告した。
「なかなか面白いことが、わかったじゃないか」
と、課長は、眼を輝《かがや》かせた。が、十津川は、冷静に、
「確かに、僕《ぼく》も、最初は、面白いと思いました。週刊誌の記者なら、喜んで飛びつくようなネタです。今を時めくプロゴルファー、有藤の昔《むかし》の情事ですからね」
「なんだか、疑いを持ってるような口ぶりだね?」
「最初、日本第一|探偵社《たんていしや》で、三年半前の報告書を見せられた時も、信じました。いや、吉田専太郎の未亡人の康子と会っている時も、信じました。彼女は、妙《みよう》に、男心をそそる肉感的な女でしたからね」
「だが、今は、違《ちが》うのかね?」
「少し、冷静さを取り戻したというところです」
「この三年半前の報告書の、どこに疑問を持ったかね?」
「今も、報告しました通り、この調査を依頼《いらい》した人間は、調査費を郵便で送り、しかも、報告書を直接受け取らず、自宅に送らせているのです。どうも、そこに引っかかるのです」
「しかし、郵便や、電話での調査依頼は、かなりあるということなんだろう?」
「そうですが、それは、たいてい地方に住む人が依頼人の場合です。それに、吉田専太郎は、二度目の早山克郎の場合には、自分で頼《たの》みに行き、自分で、報告書を受け取っています。それなのに、何故《なぜ》、最初の時、そうしなかったのか? それが、どうもわからなくなって来たのです」
「しかし、絶対に、郵便や電話で、調査の依頼をしないということはないわけだろう。何か、仕事の都合で、自分で行く時間がなかったので、そんな依頼の仕方をしたのかもしれんじゃないか」
「依頼の方は構わんのです。問題は、報告書も、自宅へ届けさせたことです。そこが、どうも引っかかるんです。考えてもみて下さい。吉田専太郎は、自分の愛する妻と、弟子《でし》の有藤との仲を疑って、調査を日本第一|探偵社《たんていしや》に依頼したわけです。内容によっては、夫婦の危機を招くかも知れない調査です。その報告書を、自分で受け取りに行かず、自宅に送らせるというのは、いかにも無神経です。封筒《ふうとう》には、ちゃんと、日本第一探偵社の名前が入っているんです。もし、その郵便が届いたとき、康子が家にいて、彼女が受け取ってしまったら、吉田は、どうする気だったのか。そこの無神経さがどうにもわからないのですよ」
十津川は、額に手をやり、難しい顔でいった。
「妻君がいない時に、郵便が着くようになっていたんじゃないのか?」
「日本第一探偵社では、そんなことは聞きませんでした。とにかく、無造作《むぞうさ》に送ったという感じでした。調査を担当した江田という調査員の話といった方が適切ですが」
「君が、おかしいと思うのは、それだけかね?」
「今のところは、それだけです」
「ふくみのあるいい方だね。他にも、言いたいことがあるんじゃないのか?」
課長は、微笑《びしよう》しながらきいた。察しのいい上司である。十津川は、これは、あくまでも、推測の域を出ませんがと、断ってから、
「この報告書は、明らかに、有藤と康子の間に、何かあったように、書かれています。この写しが、吉田家へ送られたとすれば、当然、吉田専太郎も読んだ筈《はず》です。しかし、夫婦は別れなかった」
「それだけ、吉田が、若い妻君に参っていたということじゃないのかね?」
「僕《ぼく》も、一応そう考えました。腹の中は嫉妬《しつと》で、煮《に》えくりかえるようだったが、二《ふた》回り近くも、若く、しかも美人の妻君を手放す気になれなかったのだろうと」
「それのどこが、おかしいのかね?」
「このこと自体は、別におかしくありません。ただ、こんな報告書を受け取ったら、たとえ、妻君の方に未練が残って許せても、有藤の方は、許せなかったと思うのです。いわば、飼犬《かいいぬ》に手をかまれたようなものですからね。ところが、吉田専太郎と有藤の師弟関係がまずくなったという話が聞けないんです。それどころか、有藤は、今のように有名になったのは、吉田先生のおかげだといっているんです。どうも、その辺がよくわからんのです」
「それで、どうする積りだね? 当の吉田専太郎は、すでに死んでしまっているぞ」
「有藤の方は、生きています」
「確かにそうだが、有藤に聞くのかね? 三年半前のことを?」
「聞くというよりも、反応を見たいと思うのです」
「反応というと?」
「ゴルフは、課長もご存知のように、メンタルな要素の大きいスポーツです。有藤には、気の毒ですが、それを利用しようと思うのです」
「心理テストというわけか」
「そうです」
と、十津川は、ちょっと暗い顔になっていた。嫌《いや》な仕事だと、自分でわかっていたからである。
その日の夕方、十津川は、部下の刑事に、江田真という私立|探偵《たんてい》のことを調べておくように頼《たの》んでから、再び、新那須カントリー・クラブに戻《もど》った。
十津川が着いた時、すでに、二日目の試合は終っていた。
ニュー那須ホテルで、十津川を迎《むか》えた鈴木刑事は、ロビーの片隅《かたすみ》で、
「今日は、警部の見込《みこ》みどおり、何も起きませんでした。選手も役員も、ケガ一つせずです」
と、報告した。
「そいつは良かった。ところで、有藤の調子は、どうだったね?」
「さすがは、ジャイアンツ・有藤です。今日は、コースレコードの66を出して、一躍《いちやく》、四位に進出して赤木と並《なら》びましたよ。とくに、12番ホールでのイーグルショットは、素晴らしかったです。六〇ヤードぐらいあったのを、物の見事に放《ほう》り込《こ》みましたからね」
「君も、なかなか、ゴルフ通になったじゃないか」
と、十津川は、微笑《びしよう》してから、
「それで、今、有藤は、どこにいる?」
「夕食をすませて、自分の部屋に引き籠《こも》りましたよ。記者たちが、追いかけ回すんで、へきえきしていましたから」
「じゃあ、僕も、コースレコードおめでとうをいってくるかな」
と、十津川は、ソファから立ち上がった。
有藤の部屋をノックすると、彼は、ドアを細目に開けてから、「あなたですか」と、十津川を、中に入れてくれた。
「確か、吉田さんの代りの臨時の役員の方でしたね」
と、有藤は、彼独特の人なつっこい笑顔を十津川に向けた。今日の成績が良かったことが、有藤を、機嫌《きげん》よくさせているようだった。その、どちらかといえば、童顔に近い顔を見ていると、十津川は、自分が、これからしようとすることが気が重かった。が、東京ですでに殺人事件が起きているのでありこちらでも起きようとしている。それを防ぐのが十津川の仕事である。
「君には不愉快《ふゆかい》かもしれないが、妙《みよう》なものが手に入ったので、ちょっと見て貰《もら》いたいんだ」
十津川は、それだけいって、例の報告書を有藤の前に置いた。
「へえ。何ですか?」
と、有藤は、興味深そうに手に取って、ページをめくり始めた。十津川は、煙草《たばこ》をくわえて、相手の反応がどう出るか見守った。
有藤の顔が、次第に赤くなってきた。眼がきつくなっている。「何ですか? これは」と、有藤は明らかに、怒気《どき》を含《ふく》んだ声でいった。
「君が三年半前、プロテストに合格し、将来性を嘱望《しよくぼう》され始めた頃《ころ》の調査報告書だよ」
「馬鹿《ばか》らしい。全然、でたらめですよ」
「そこに書いてあることは、全く事実無根だというんだね?」
「当然ですよ」
「しかし、吉田康子さんは、若くてなかなか魅力《みりよく》のある女性だが」
「ええ。でもね。よく考えて下さい。あの頃の僕《ぼく》は、新潟に妻子を置いて、プロゴルファーになることに、命がけで上京して来たんです。身体がいいだけで、他に別に取り柄《え》のない男ですから、プロになれなければ、土方でもやるより仕方がないと思っていましたからね。だから必死で、毎日、猛練習《もうれんしゆう》の連続でした。プロテストに合格してからだって同じですよ。この世界は、テストに合格したからって、すぐ喰《く》えるわけじゃないですからね。前よりも、ガンガン練習に精を出しました。だから、一日が終ると、クタクタに疲《つか》れて、女のことなんか、考える余裕《よゆう》なんかありゃしませんよ」
「ここに書いてあることは、嘘《うそ》だというんだね?」
「当たり前ですよ。第一、先生の奥さんじゃないですか。僕《ぼく》が、あの奥さんと、どうとかなんて、考えられませんよ。とにかく、今、いったように、一日の練習が終ったあとは、自分のアパートに帰って、バタン、キューでしたね。確かに、あの奥さんは美人で魅力《みりよく》的でしたが、あの頃《ころ》の僕は、こういうと悪いけど、美味《うま》い食事を作ってくれるおばさんぐらいにしか考えていませんでしたね」
「成程《なるほど》ね。いや、気分の悪いものを見せて悪かった」
と、十津川は、報告書を自分のポケットにねじ込《こ》んだ。
「ところで、今、九州でやっている木崎プロの引退記念トーナメントのことだが、木崎さんも、君の先生だったそうだね?」
「ええ。木崎さんは、パターの名手でしたからね。小技《こわざ》の方は、木崎プロにいろいろと教わりました。僕の他にも、木崎さんから、パターや、ピッチングウェッジの使い方を教わった若手プロは多いですよ。赤木君なんかもそうですよ。それで、みんなで相談して、木崎さんに、引退記念に、純金のパターでも贈《おく》ろうと話し合ったんです。九州オープンに参加できなかったお詫《わ》びにね」
「それはいい。じゃあ、明日、明後日と、がん張ってくれ給《たま》え」
と、十津川は、いい残して、有藤の部屋を出た。廊下《ろうか》を歩きながら、彼は、難しい顔になっていた。
有藤は、調査報告書を、全然でたらめだといった。だが、私立|探偵《たんてい》の江田は、事実だといっている。有藤の若々しい顔を見ていると、彼の言葉の方を信じたくなる。
どちらが、正しいかは、明日の有藤のプレーぶりで、ある程度、判断がつくだろう。ゴルフは、神経をすりへらすスポーツだ。だから、もし、あの報告書が事実なら、明日の有藤は、メロメロになって、スコアを乱すだろう。嘘《うそ》だったら、有藤は、平気でプレーするだろう。もっとも、報告書が嘘だとしても、若い有藤は、怒りにまかせて、スコアを乱すかもしれないが、彼は、数々のトーナメントで、神経のすりへるような試合をしてきているから、多分、大丈夫《だいじようぶ》だろう。だから、明日のスコアが、一種のリトマス試験紙になることになる。
十津川は、すぐには、自分にあてがわれている部屋には戻《もど》らず、役員たちのいる会議室に回ってみた。役員たちは、彼を見ると、
「東京で、何かわかりましたか?」
と、きいた。
「いや。残念ですがまだ、何もわかりません」
「そうですか。こちらの方は、幸い、第一日目に、有藤の黒いシャフトが折れただけで、あとは、何も起こらないので、ほっとしているんですが」
「早山克郎という男を、ご存知ですか?」
「知っています。プロ野球からの転向組で、第二の有藤と騒《さわ》がれている逸材《いつざい》ですからね」
「死んだ吉田専太郎氏について、練習をしていたと聞きましたが?」
「ええ。今年の春、プロ野球をやめてから、吉田さんのところへ通っていましたね。吉田さんは、若手の養成には、定評のある人ですからね。早山君は、来年のプロテストを受けるということですが、多分、合格するでしょう」
「その早山克郎は、こちらに来ているようですね?」
「ええ。吉田さんが、早山君に、プロの本当の試合を見せてやりたいといっていたので、第一日から来て、ギャラリーに混じって見学していますよ。このホテルに泊《とま》っていますが」
「このホテルに?」
「ええ。早山君のお父さんが、R商事の重役でしてね。その点、いくらか過保護気味なのが、早山君の心配な点ですね。すでに、プロ級の技術は持っていますが、精神的に、もろい点があるのではないかというわけです。亡くなった吉田さんも、その点を心配していたようです」
「早山君というのは、どんな顔をしています?」
「丸顔で、甘いマスクをしていますよ。身長は一メートル八〇センチ。プロ顔負けの派手な格好をしていますから、すぐわかりますよ。アメリカ製の緑色のシャツとズボンです。そんなところも苦労知らずという感じで、有藤や、赤木のように、プロゴルフに、生活を賭《か》けているという気迫《きはく》に欠けているといわれるところですな」
と、その役員は、肩《かた》をすくめて見せた。
翌日も、快晴であった。
第一日、第二日で、すでに、選手は二十八名にしぼられている。その中に、アメリカの四選手も、日本の有名プロも、全部残っていた。
それが、人気に更《さら》に拍車《はくしや》をかけたとみえ、土曜日の第三日は、朝早くから、ギャラリーが、新那須カントリー・クラブに、続々と押《お》しかけてきた。どうやら、役員がいったように、一万人は、超《こ》えそうな気配である。
十津川は、有藤に注目した。
有藤は、同じ人気プロの赤木と組んで、コースに現われた。
人気者二人というので、ギャラリーも多い。
有藤の陽焼けした顔には、別に、動揺《どうよう》の色は、うかがえなかった。相変わらず、ニコニコと、キャディに話しかけたりしている。
1番ホール。問題の黒いシャフトを取り出して、第一打を、思い切り飛ばした。白いボールが、グーンと、青空に弧《こ》を描いて飛んでいく。周囲に群がったギャラリーの間から、自然に、「ナイスショット!」の声が飛んだ。有藤は、声のした方向に、軽く手をあげて見せてから、赤木と並《なら》んで、歩き出した。
(有藤のいう通り、あの調査報告書は、全くのでたらめだったのだろうか?)
十津川は、ギャラリーから離《はな》れて歩きながら、嬉《うれ》しいような、期待外れのような、妙《みよう》な気持ちになっていた。が、まだ、1番ホールの第一打を打ったばかりである。本当の反応がわかるのは、少なくとも、アウトを終った時点まで待たなければならないだろう。それに、気持ちの乱れは、ドライバーよりも、パットのような細かい技術に、よりよく表われるものである。
そんなことを考えながら歩いている中に、十津川は、ギャラリーの中に、すらりと背の高い、洒落《しやれ》たスタイルの若い男を見つけた。赤いリボンを巻いた帽子《ぼうし》も、よく似合っている。
(早山克郎だな)
と、直感的に見定めて、十津川は、近づいて、「早山君だね?」と、声をかけた。
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ダブルボギー
その若い男は、立ち止まって十津川を見、彼が役員用のブレザーを着ているのを見て、すなおにうなずいた。
十津川も大男だが、早山の方は、二十代前半だけに、痩《や》せて、現代風の格好よさを持っている。プロテストに合格して、活躍《かつやく》すれば、甘い容貌《ようぼう》の持主でもあるので、人気者になることだろう。
「何か参考になるかね?」
と、十津川は、役員の口調《くちよう》で話しかけた。
「ええ。第一線のプロは違《ちが》いますね。特に、アメリカから来た四選手のプレーには、感心しました」
早山の口から、有藤や赤木の名前が出ないのは、やはり、相手が人気者とはいえ、同年代なので、対抗意識が働くのかもしれない。
「どんなところに感心したのかね?」
「アマチュアだと、シングルプレーヤーでも、まず、第一打に、全力を集中しますよね。まあ、ショートホールなら、第二打のことを考えますが、それでも、せいぜいグリーンに第一打でのせようと考えるくらいでしょう。ところが、アメリカの四選手は、パー5のロングホールなら、最初から、第一打から第五打までを、地形に合わせて、頭の中で組み立ててから、第一打を打つ。それが、よくわかるんですよ。だから、彼等のあの体格から、ドライバーで振《ふ》り回せば、四〇〇ヤード近くは飛ぶでしょう。それなのに日本選手が、三〇〇ヤード飛ばして、ギャラリーの拍手《はくしゆ》を浴びても、平気で、二六〇、七〇ヤードで、第一打をすませてしまう。そのくらいのところが、第二打が一番打ち易いと、頭の中で計算しているからです。だから、なかなか崩《くず》れない」
「有藤のことは、どう思うね?」
と、十津川は、わざと、意地の悪い質問をした。
「君も、亡くなった吉田専太郎さんに師事していたんだから、有藤は、いわば、兄弟子《あにでし》に当たるわけだろう」
「有藤さんは、もうスターですよ。ただ」
「ただ、何だね?」
「好不調の波が激《はげ》しいですね」
早山は、ライバル意識を、ちらりと、のぞかせた。十津川は、苦笑してから、煙草《たばこ》に火をつけた。有藤と赤木のパーティは、もう、3番ホールあたりまで進んでしまい、十津川たちの近くには、他のパーティが動いていた。
「君は、いい家の生れだそうだね?」
「たいしたことはありません」
「しかし、大きな商社の重役だということじゃないか」
「ええ。まあ。しかし、僕《ぼく》がプロでやっていく上に、父親の威光《いこう》なんか、何の足しにもなりませんからね」
「プロテストのことだが、何故《なぜ》、今年受けず、来年にするんだね? 確か、プロテストは、秋に行われるんだろう」
「そうです。十月です」
「君の技術は、既《すで》にプロ級だと聞いたが」
「しかし、吉田さんにいわせると、僕のゴルフには、まだ甘さがあるそうです。それで、今年一杯は、みっちり練習を積んで、来年受けた方がいいといわれているんです。自分は、その甘さというのが、よくわかりませんが」
「その吉田さんが亡くなったとなると、君は、自由なわけだから、今年の秋のプロテストを受けてもいいわけだろう?」
「ええ。今年中に受けてみろといってくれる人も、何人かいるんです」
「だろうね。それで、合格する自信は?」
「まあ、平素の実力が出せれば、合格できるといってくれる人が多いんですが」
早山克郎は、笑いながらいった。なかなかの自信家のようだと十津川は思った。他人の言葉にかこつけて、一見、謙虚《けんきよ》さをよそおっているが、自信満々であることは、言葉の端々《はしばし》にちらついている。殺された吉田専太郎が、甘いと指摘《してき》したのは、早山のこんな点かもしれない。
「ところで、気を悪くされると困るんだが、君について、妙《みよう》なことを聞いたんだよ」
十津川は、並《なら》んで歩きながら、何気ない調子で、吉田康子とのことをきいた。早山は、とたんに、
「彼女のことですか」
と、クスクスと笑い出した。
「僕が、何かおかしいことをいったかね?」
十津川がきくと、早山は、肩《かた》をすくめて、
「二、三の女性週刊誌の記者に、彼女とのことで、しつこく、聞かれたのを思い出したからですよ。彼女は、昔《むかし》、歌手だったことがあるんです。いや、歌手というより、歌手の卵といった方がいいかな」
「それは、しらなかったね」
「だいぶ前の話ですからね。僕だって、話を聞いただけです。歌は駄目《だめ》だったが美人で、スタイルがいいというので、水着ショウとか、TVのドラマに、ちょい役で出ていたということです」
「それで?」
「そんな頃《ころ》、ゴルフ練習場へ行って、吉田さんに会った。吉田さんも、奥《おく》さんを亡くして寂《さび》しい思いをしていたから、コーチをしている中に、好きになったということです。そんな過去のある女性だから、妙《みよう》なお色気がある。それと、プロ野球転向組の僕との組み合わせが面白くて、何とか記事にしようとしたんでしょう」
「それで、君と、康子さんとは、何かあったのかね?」
「何もありませんよ。僕だって、別に女に不自由をしているわけじゃありませんからね」
「だろうな。君なら、女にもてそうだ。大商社の重役の令息で、ハンサムで、ゴルフが上手で、プロの成功も約束《やくそく》されているようなものだからね」
「いやあ。そうでもありませんがね」
早山は、楽しそうに笑った。
早山克郎が、大股《おおまた》に歩き去るのを、十津川が、立ち止まって見送っていると、背後から、肩《かた》を叩《たた》かれた。
記者の笠井だった。
「今、話していたのは、早山克郎でしょう?」
「ああ。そうだ。それから、馬鹿《ばか》でかい声で、警部と呼ぶのは、やめてくれないかね。ここでは、この通り、役員の一人なんだから」
「こりゃあ、どうも。早山とは、何を話してたんです」
「別に。ゴルフの話だよ」
「本当に、それだけですか?」
「彼と話すことといったら、ゴルフのことしかないだろう」
と、十津川は、はぐらかすように笑ってから、
「君は、あの男を、どう思うね? 第二の有藤か赤木になれそうかね?」
「さあ、どうですかね。ゴルフの腕《うで》は優秀なんでしょうが、僕《ぼく》は、金持ちの御曹司《おんぞうし》というやつが嫌《きら》いでしてね。これは、僕が、貧乏人《びんぼうにん》の息子《むすこ》だったひがみかもしれませんが」
「亡くなった吉田さんは、早山克郎には、甘いところがあるといっていたそうだが、君も感じるかね?」
「そうですね。有藤にしても、赤木にしても、プロゴルフに、生命をかけていますからね。あの二人に限りませんよ。杉山プロにしても、高田プロにしても、一つのショットに、家族の生活がかかっているわけですからね。大袈裟《おおげさ》にいえば、ワン・パットに、生活をかけているといってもいい。ところが、早山克郎の場合は違《ちが》います。父親は、大商社の重役、それも、社長の親戚《しんせき》ですからね。ワン・パットに、生活がかかるということがない。だから、僕なんかは、早山は、ずっと、アマチュアで過ごすべきだと思っているんですがね」
十津川は、新しい煙草に火をつけてから、
「有藤は、どんな具合かな?」
「警部、いや、十津川さんも、有藤のファンですか? 彼は、さっきの情報では、5番ホールまで進んだそうですが、昨日に引き続いて、調子はいいようですよ。3ホールをパー。あとの2ホールで、バーディを取っていますから、今のところ、昨日の成績に、二アンダーを加えることになりますね。まだ、首位との間には、差がありますが、有藤の力をもってすれば、もう射程距離《しやていきより》じゃないですか」
「調子がいいのは嬉《うれ》しいね」
と、十津川は、本心からいった。彼は、明るい好青年の有藤に、好意は感じていたが、特別に、好きというわけではなかった。ただ、三年半前の調査報告書のことを、わざと聞かせ、今日の成績を、一つの実験材料にしたことに、職業とはいえ、多少の後めたさを感じていたからである。
もっとも、まだ、アウトの5番ホールだということだから、インに入って、急に崩《くず》れて来ないとも限らない。
「ところで、もう、いい加減に教えて下さってもいいんじゃありませんか?」
記者の笠井は、6番ホールに向かって、並《なら》んで歩き出しながら、十津川の顔をのぞき込《こ》むようにした。
相変わらず、夏の陽差しが強く、那須連山の峯《みね》の上あたりには、大きな入道雲が、もう、かま首をもたげている。東京のようなスモッグがないせいか、紫外線《しがいせん》は強い。十津川は眼をしばたいてから、
「別に、何もないよ。前にもいった通り、非番なんで、有名プロの名人芸を見に来ているだけさ。このブレザーは、役員の人が、見やすいようにと、好意で、貸してくれたのさ」
「そうですかねえ。警視庁|捜査《そうさ》一課の優秀な警部が、もう三日間も、のんびり、プロゴルフを見に来ているとは、思えないんですがねえ」
「どう思おうと、現実に、何も起きていないじゃないか。有藤の黒いシャフトに、誰《だれ》かが、悪戯《いたずら》した事件があったきりだが、あれは捜査一課の仕事じゃないからね」
「それは、そうですが――」
笠井は、どうもわからないというように、首をふった。
6番ホールに来たが、有藤、赤木共に、打ち終っていて、二人とも、7番ホールに向かっていた。二、三千人のギャラリーが、その二人を取り囲んで、ぞろぞろと歩いていく。
7番ホールは、一九五ヤード、パー3のショートホールである。まっすぐなコースだが、グリーンの周囲は、四つのバンカーが取り囲んでいる。風はアゲインストだが、飛ばし屋の二人には、距離《きより》的には問題はないだろう。
赤木がオナーである。五番アイアンで打ったボールは、低い弾道《だんどう》を描《えが》いて、まっすぐ、グリーンに向かって飛んで行き、グリーンに見事にのった。取り囲んでいたギャラリーの間から拍手《はくしゆ》がわいた。グリーンの端《はし》で、カップまでは、十二、三メートルあるが、悪くても、パーは堅《かた》いだろう。
続いて、有藤は、赤木と同じ五番アイアンを取り出した。強い陽差しに、ちょっと、眼を細めるようにして、手をかざして、グリーンを眺《なが》めてから、無造作《むぞうさ》にスタンスをとった。
十津川は、笠井と並《なら》んで、じっと、有藤の横顔を見つめた。別に、何か心に動揺《どうよう》があるようには、見えなかった。昨夜、十津川が話したことなど、頭から消し飛んでしまっているように、無心な表情に見えた。
ギャラリーは、しーんと静まり返って、有藤の第一打を見守っている。背後の立看板には、ボンサム∴料の大きな広告と一緒《いつしよ》に、〈ホール・イン・ワン賞百万円〉と書いてある。確か、このショートホールは、明日の最終日には、ニアピン賞も出る筈《はず》である。
有藤が、軽く打った。
その瞬間《しゆんかん》である。いや、打つ瞬間だったか、打った直後だったか、その微妙《びみよう》なところは、十津川にもわからなかったが、有藤が、「あッ」と、大きな声を出したのである。
十津川は、はッとして、眼を凝《こ》らした。事件は、明日の最終日に起こるだろうという推理は間違《まちが》っていたのか? 銃声《じゆうせい》はしなかったが、犯人は、消音銃を使ったのかもしれない。
そんなことを、十津川は、一瞬の中に考えたのだが、当の有藤は、別に倒《たお》れもせず、立ったまま、しきりに眼をこすっている。ギャラリーも、一瞬、何故《なぜ》、有藤が、声を上げたのかわからないようだったが、その中に、「O・Bじゃないか?」といった声が、起きて来た。
有藤の打ったボールは、とんでもない方向に飛び去ってしまったらしい。五、六分、ボールの行方《ゆくえ》を確かめていたが、やはり、O・Bと決まって、ワン・ペナルティの打ち直しと決まったが、有藤は、ティ・アップしてから、急に打つのを止《や》め、近くにいた大会役員二人に向かって、何かいい始めた。彼の顔が、赤くなっているところをみると、やはり、「あッ」と叫《さけ》んだ時、何かあったらしい。
十津川の横にいた笠井が、取材記者らしく、すぐ飛んで行った。十津川は、動かずに、ギャラリーの様子を眺《なが》めていた。どの顔も、何事だろうという、ポカンとした表情である。
笠井記者は、すぐ戻《もど》って来て、
「O・Bは確かです」
と、十津川にいった。
「有藤の打ったボールは、ほとんど、真横に飛んで行ってしまいましたからね」
「じゃあ、有藤は、役員に何をいっているんだね」
「それが、ちょっと面白いんですが、有藤は、ティ・アップして、打つ瞬間《しゆんかん》、ピカリと、眼に光が飛び込《こ》んだといっているんです。それで思わず、眼を閉じてしまい、ボールは、とんでもない方向に飛んでしまったのだから、ペナルティなしに、打ち直しさせろといっているんです」
「そのピカリと光ったというのは、一体、何だね?」
「どうも、よくわからないんですが、どうやら、鏡の反射か何かじゃないかと、役員はいっています。この強い陽差しですからね」
「しかし、ゴルフは、野球と違《ちが》って、ボールを打つ瞬間は、下を向いているんだから、光が、眼に当たるということは、ないじゃないか?」
「そう思えますが、横顔の眼のところに、打つ瞬間、光が当たれば、プレーヤーは、はッとして、一瞬《いつしゆん》、眼をつぶってしまいますよ」
「かもしれないね。それで、役員は、どう裁定する積りなんだネ」
「それがですねえ。迷っていますよ。というのは、打つ瞬間、光が当たったといっているのは、当人だけで、役員は、見ていませんでしたからね。それに、故意に、誰《だれ》かがやったことなら、ペナルティなしの打ち直しですが、ギャラリーの中には、若い女性も多いですからねえ。化粧《けしよう》直しに、コンパクトを取り出した時、そこに、偶然《ぐうぜん》、太陽の光が当たって、反射した光が、また偶然、第一打を打とうとしていた有藤の横顔に当たったということも考えられますからね。これは、そのギャラリーが、自分から申し出てくれないことには、どうにもなりませんが」
「コンパクトねえ」
十津川は、もう一度、有藤に眼をやった。まだ、役員と話していたが、やがて納得《なつとく》したのか、ティ・アップした。いつも無造作《むぞうさ》に打つ有藤にしては珍《めずら》しく、しばらく間を置いてから、五番アイアンで、第一打を打った。どうやら、グリーンにのったが、カップまでは赤木以上に距離《きより》がある。
「役員は、今日のプレーが全て終ってから、ペナルティをかすかどうか決定するようです」
と、笠井が、また、情報を仕入れて来てくれた。初日、黒いシャフト事件のお礼のつもりかもしれない。
役員たちは、ギャラリーにも、いろいろと聞き合わせたようだったが、満足な答えが得られず、結局、有藤は、ワン・ペナルティをかせられて、6番ホールは、ダブルボギーになった。
プレーのあと、さすがに、有藤は、記者団に向かって、裁定に対して不満をぶちまけたが、その顔には、怒りの色はなかった。もともと、明るい性格だからだろうが、十津川は、それよりも、第三日の今日の有藤の成績に注目した。
アウト、インと回って、ワン・ペナルティをかせられたにも拘《かか》わらず、二アンダーの七〇で回っている。それで、記者会見でも、意外に機嫌《きげん》が良かったのだろう。
これで、第三日を終ったところで、有藤は七アンダーとなり、完全に、優勝|圏内《けんない》に入ったと、記者たちは見た。が、十津川は、それより、例の調査報告が、有藤のプレーに、何の影響《えいきよう》も与《あた》えなかったことを考えていた。
ゴルフは、もっともメンタルなスポーツである。とすれば、吉田康子と関係があったというあの調査報告は、嘘《うそ》だということになる。
(だが、そうなると、その江田という私立|探偵《たんてい》は、何故《なぜ》、嘘の報告書を作ったのか?)
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暗いコース
その夜、明日に備えて、永井、田中の二人の応援《おうえん》の刑事《けいじ》を先に休ませ、十津川は、鈴木刑事と、これまでのことを、再検討してみた。
「警部は、今日の小さな事件を、どう思われますか?」
鈴木刑事は、自分の手帳を開いて、前に置いてから、緊張《きんちよう》した顔できいた。十津川は、いつものように、答える前に、まず、愛用のセブンスターに火をつけてから、
「小さな事件というと、6番ホールで、有藤がO・Bを叩いて、ワン・ペナルティをかせられたことかね?」
「ええ。有藤は、絶対に、誰《だれ》かが、鏡の反射で、自分のショットを邪魔《じやま》したと主張しているようですが」
「多分、有藤の言葉が正しいだろうね。ショートホールで有藤が使ったのは、五番アイアンだ。ドライバーで、三〇〇ヤード、飛ばしてやろうと、力んだショットじゃない。それなのに、彼ほどのプロが、アイアンで軽く打ったのに、あんなに曲がった方向に飛ぶ筈《はず》がない。直角に近い方向だったからね。多分、鏡を使ったのだろう。あのホールでは、有藤は太陽の光を背に受けた形で、打っていたからね。反対側に鏡を構えれば、反射した光が、有藤にぶつけられる」
「では、吉田を殺した犯人がやったと?」
「多分な。だが、ギャラリーの中には、若い女性も多いから、偶然《ぐうぜん》、コンパクトを取り出して、顔を直そうとした時、反射した光が、有藤の眼《め》に当たったと考えている人もいる。これも、考えられないことじゃない」
「女性のコンパクトですか」
「僕《ぼく》としては、犯人がやったと考えたいところだがね」
「もし、犯人がやったことだとすると、何故《なぜ》、犯人は、有藤だけ狙《ねら》って、あんな嫌《いや》がらせをやるんでしょうか? 第一が彼の新車を盗んで、役員の吉田をはね殺し、ここでは、有藤の黒いシャフトに細工し、今日は、今、いったようなことをした。理由は、何でしょう?」
「その前提として、君のいう犯人が、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》の主と同じ人間だという考えが必要だ」
「私は、同じ人間だと思っています」
「それなら、考え方は三つある」
十津川は、ゆっくりといった。鈴木刑事は生真面目《きまじめ》な顔で、手帳を開き、ペンを構えた。
「第一は、犯人の狙《ねら》いが、ジャイアンツ・有藤だということだな。犯人は、何かの理由で非常に、有藤を憎《にく》んでいるとする。今度のトーナメントの最終日のハイライトの瞬間《しゆんかん》に、彼を殺すつもりでいるが、それだけでは物足らないので、殺すまでに、いろいろな手で、有藤に対する嫌《いや》がらせをしているという考えだ」
十津川はそこで言葉を区切ると鈴木刑事の顔を見た。
「第二は、犯人が狙っているのは、全く別な人間だという考えだ。犯人は、脅迫状を、今度のトーナメントの前に、三回も、実行委員会|宛《あて》に出している。当然、われわれ警察が介入《かいにゆう》してくることは予期している筈《はず》だ。そして、人気プロの有藤に対して、小さな事件を引き起こし、あたかも、狙われているのが、有藤のように見せかける」
「つまり、われわれの注意を有藤に引きつけておいて、他のプロか役員を狙うというわけですね」
「そうだ。第三は、有藤が犯人だという考えだ」
「まさか、あの人気プロゴルファーが?」
「僕は、可能性をあげているだけだよ。確かに、今、彼のようなプロが、犯罪に走る可能性は、ちょっと考えられない。だが、あたかも、自分が狙われているように見せておいて、殺人を犯す犯人は、よくいるからね」
十津川は、あくまで冷静な口調《くちよう》でいった。
「ところで、僕が今日、興味があったのは、有藤の成績だ。君にも見せた例の調査報告書を、わざと、昨夜、有藤に見せたのだが、有藤は、二アンダーという、まずまずの成績を残している。6番ホールでワン・ペナルティをかせられながらだ。僕《ぼく》は、ゴルフはメンタルなスポーツということで、有藤には悪かったが、あの報告書の真偽《しんぎ》を確かめるリトマス試験紙代りにしたんだ。結果は、あの調査報告書が嘘《うそ》と出た」
「有藤が、強靭《きようじん》な精神力で、ショックをカバーしたんじゃありませんか?」
「有藤が優秀なスポーツマンで強い意志の持主だとは思う。弱い神経だったら、ここまでの人気プロにはなれなかったろう。だが、それは、あくまでも平常の状態での話だ。僕は、少しはゴルフをやってるんでわかるんだが、ゴルフのトーナメントというやつは、一種の神経戦なんだよ。優秀な新人が、最初の五、六年、各種のトーナメントで勝てないのは、たいてい、途中《とちゆう》で精神的に参ってしまって、ガタガタに崩《くず》れてしまうからなんだ。特に、今度のように大きなトーナメントで、しかも、上位でせり合っていけば、どんなベテランプロでも、想像できないような精神的な圧迫を受けるものだ。有藤は若い。それに、関係したといわれる人妻が、吉田専太郎の奥《おく》さんだ。あの報告書が事実なら、有藤がショックを受けない筈《はず》がない。当然、スコアも乱れる筈だ」
「すると、やはり、江田という私立|探偵《たんてい》が、いい加減な調査報告書を作成したということですな」
「いい加減なのか、或《あるい》は、わざと嘘の報告書を作ったのか、その点はわからん。問題は、この三年半前の調査報告書が、今度の事件に、関係があるかどうかということだ。もっと正確にいえば、江田という私立探偵と、この男が三年半前に作ったインチキな調査報告書が、吉田専太郎の死と、今度のトーナメントへの脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》の一件と、関係しているかどうかということだ。今のところ、匂《にお》うだけのことで、証拠《しようこ》は何もない。ただ、どうも江田真という私立|探偵《たんてい》が、何となく気に喰《く》わん」
「人間的にですか?」
「いや。僕は、そういうことで、判断はせん。事件の場合は、危険だからね。僕が気に喰わないのは、江田の生活ぶりだ。中年の男だが、三年半前、この調査のあと、独立して、新宿四谷三丁目に、一人で事務所を設けた。ビルの一室を使っているだけで、閑散《かんさん》としているのに、外国製のゴルフセットが、事務所の隅《すみ》に、無造作《むぞうさ》に置いてあった。どうも、ああいうところが気に喰わん。あんなに閑散としているのに、一体、どうやって、外国の高級ゴルフセットを使えるような優雅《ゆうが》な生活ができるのか?」
「恐喝《きようかつ》じゃありませんか? 悪質な私立探偵がよくやる手です」
「かもしれん。それで、さっき、東京に電話を入れて、江田真という男を徹底《てつてい》的に洗って貰《もら》うことにした。特に、江田真と、殺された吉田専太郎の関係をね。ついでに、吉田専太郎のことで、その後、わかったことがあったか聞いてみたが、この方は、残念ながら、あまり調査は進んでいないようだ」
「吉田が、何故《なぜ》、深夜に、いったん自宅に戻《もど》ったのかという理由ですか?」
「それもある。実行委員会の人たちは、あの日、僕《ぼく》に脅迫状のことを話したあと、すぐ、ここへ来る予定だったといっているからね。何故、その予定を破り、自宅へ戻ったのか。しかも、犯人が、有藤のムスタングを盗んで自宅|附近《ふきん》に待ち伏《ぶ》せしていたことからみて、犯人は、吉田専太郎が、あの日、帰宅するのを知っていたことになる」
「つまり、警部と会ったあと、役員の吉田専太郎は、どこかで、犯人と会ったことになりますね。それで自宅へ戻る必要に迫《せま》られた――」
「まあ、そう考えるのが順当だろうね。だから、問題になるのは、バーのマダムの、あの日の夕方、東京駅附近で、吉田専太郎と、もう一人の男が並《なら》んで歩いていたという証言だ」
「その男が犯人でしょうか?」
「かもしれんし、犯人でないまでも、事件に関係がある人間の可能性はある。第一、何故、僕と別れたあと、吉田が、東京駅近くを歩いていたのかが問題だ。ここに来るのなら、東京駅でなく、上野駅へ行くのが普通《ふつう》だからね」
「それで、東京の調査の具合は、どうなんですか?」
「それが、今もいったように、はかばかしく進んでいないようだ。例のマダムも、車の中から見たので、吉田専太郎の方は、間違《まちが》いないと証言しているが、並んで歩いていたもう一人の方については、吉田より若くて、背の高い男のようだったというだけで、それ以上のことは、わからないといっているそうだ」
「しかし、それだけでもわかれば――」
「いいかね? 君。殺された吉田専太郎は五十歳を過ぎた男で、その年代の男としては、平均的な身長だ。彼より若い男はいくらでもいるし、今の若者は、たいてい彼より背は高い。だから、この部分のマダムの証言は、殆《ほとん》ど犯人を限定していないんだ」
「その時刻の、東京駅附近の通行人の中から、新しい目撃者《もくげきしや》を見つけることは無理でしょうか?」
「それもやっているが、上手《うま》くいかんらしい。無理もないさ、通行人というのは、いちいち、すれ違《ちが》う人間の顔を覚えているもんじゃないからね」
「江田真という私立|探偵《たんてい》についての調査はいかがでしたか?」
「彼が、日本第一探偵社を退社したのは、三年前とわかった。それ以後、同じ場所に事務所を構えているが、聞き込《こ》みでは、あまり、はやってはいないらしい。ただし、前科はない。彼についてわかったのは、今のところ、それだけらしい。今度の事件との関係については、全く、つかめないそうだ」
十津川は、冷静な口調でいった。明日の最終日に、何かが起きることは確実だと、十津川は考えていた。だから、東京の調査が、もたついていることに、内心、焦燥《しようそう》を感じているのだが、それは、表情に出さなかった。
「どうも、上手くありませんなあ」
と、鈴木刑事が溜息《ためいき》をついたとき、部屋の電話が鳴った。
電話は、東京から、十津川警部|宛《あて》だった。
今日の午後から、私立探偵の江田真が行方《ゆくえ》不明になったというのである。
十津川は、受話器を耳に当てたまま、腕《うで》時計に眼をやった。すでに九時を回っている。
「今でも、所在不明なのか?」
「事務所、アパート、友人宅、その他、行きつけのバーなんかを探しましたが、行方がわかりません。それに、彼は、車を持っているんですが、アパートからなくなっています」
「どんな車だ?」
「中古のカローラで、色は黒。ナンバーは今調べています」
「ありふれた車だね」
「その通りです。問題は、その車で、江田が何処《どこ》へ行ったかということですが――」
「それなら想像がつくよ」
「本当ですか?」
と、驚《おどろ》いた声で、相手がきくのへ、十津川は、構わずに電話を切ってしまい、新しい煙草《たばこ》に火をつけてから、鈴木刑事を見た。
「ひょっとすると、例の私立|探偵《たんてい》が、この新那須カントリー・クラブに来るかもしれん」
「その電話でしたか?」
「江田が車と一緒《いつしよ》に消えたそうだ。行先はわからんといっているが、僕の考えでは、多分、こっちへ向かっていると思う。明日の最終日のギャラリーの中に、あの私立探偵の顔も見られそうだ。これはあくまで、僕の推測だが、もし、彼が別の所へ行ったのなら、彼について心配はいらないからね」
「私は、顔を知りませんが――」
「明日、ギャラリーの中にいたら教えてやるよ。何かやりそうな面構えの中年男だ」
十津川は、相変わらず、冷静な声でいい、江田真の身体的|特徴《とくちよう》を、鈴木刑事に教えた。
「しかし、いまだに、狙《ねら》われているのが誰《だれ》なのかわからない状態では、どうやって、プロゴルファーや役員たちを守ったらいいか、その方法がわかりませんが」
「明日の決勝ラウンドに残ったプロゴルファーは、二十八名だったな?」
「そうです。それでも、大変です。広いですからなあ。ゴルフコースというやつは」
「じゃあ、もう一度、その広いコースを下調べしておこうじゃないか」
と、十津川は、立ち上がった。
二人は、ホテルを出て、夜の新那須カントリー・クラブに向かった。
すでに夜の十時に近い。昼間の、目もくらむような夏の陽差しは消え、東京の夜空では見られなくなった星が、びっしりと、頭上に輝《かがや》いていた。高原のせいで、涼《すず》しい、というよりも、この時間になると、寒いくらいである。
コースの入口には、管理人がいたが、十津川が、警察手帳を示すと、役員から、十津川たちのことは話してあったとみえて、黙《だま》って、コースへ入れてくれた。
夜の、人気《ひとけ》のないゴルフコースは、不気味である。特に、この新那須カントリー・クラブのように自然の川や林を生かしたコースは、尚更《なおさら》だった。
二人は、並《なら》んで、1番ホールから、ゆっくり歩いて行った。
月明りが、グリーンの芝《しば》を、一層、夢幻《むげん》的なものに見せていた。それに、ところどころに黒いシルエットのかたまりを作っている雑木林や、黒く光って流れる小川。
コースをひと回りしたが、何も発見できなかった。が、その代りのように、コースの外の駐《ちゆう》 車《しや》 場《じよう》に、東京ナンバーの車が一台とまっているのが眼に入った。来たときには、なかった車である。
黒塗《くろぬ》りの、中古のカローラだった。
近づいてみると、一人の男が、運転席で窮屈《きゆうくつ》そうに横になり、眼を閉じていた。
「これが、江田真という例の私立|探偵《たんてい》だよ」
と、十津川は、小声で、部下の鈴木刑事に教えてから、車の屋根を軽くノックした。
江田が、うす眼をあけて、十津川と鈴木刑事を見た。
「僕を覚えているかね?」
と、十津川の方から声をかけた。
「覚えていますよ。四谷の事務所に来た警部さんでしょう」
江田は、疲《つか》れたような声でいい、のろのろと、運転席に座り直した。
「何故《なぜ》、こんな時間に、ここへ来たんだね?」
「明日の決勝ラウンドが見たくてですよ。これでも、ゴルフが好きなんでね。だが、ホテルは満員だった。だから、仕方なしに、ここに車を止めて、明日の朝まで、車の中で眠るつもりだったんですよ。別に法律には触《ふ》れんでしょう?」
「まあね。悪いが、トランクを見せて貰《もら》えないか?」
「何故です? 何か事件でもあったんですか?」
「別に。ただ、見たいだけでね」
「いいですよ」
江田は、車から降りて来ると、キーで、後部のトランクを開けてくれた。
十津川は、ポケットから、小型の懐中電灯を取り出して、トランクの中を調べてみた。
スペアタイア、ジャッキ、工具類。入っていたのは、それだけだった。
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18番ホール
その夜、十津川は、思いたって東京の警視庁に電話をかけ、上司の捜査《そうさ》一課長に、携帯《けいたい》無線機を、至急送って欲しいと告げた。
電話をかけたのは、午後十一時を過ぎていたが、一課長は、すぐ手配をしてくれて、若い佐久間|刑事《けいじ》が、五台の強力な携帯用無線機を持って、上野発|仙台《せんだい》行の最終急行あづま2号≠ナやって来た。
佐久間刑事が、黒磯《くろいそ》駅に着いたのは、翌日、つまり、トーナメント最終日の日曜日の午前三時丁度である。
起きているのは、ホテルの守衛とフロント係、それに、十津川たちの部屋だけだった。佐久間刑事が加わったことで、十津川警部以下、鈴木、永井、田中、佐久間と、五人の警備陣《けいびじん》になったわけだが、決して、多い人数とはいえなかった。
だが、十津川は、地元の警察や、県警に応援《おうえん》を求める気持ちはなかった。
たとえ、百人の警官が動員できたとしても、果して誰《だれ》が狙《ねら》われるのかわからず、加えて、今日の最終日は、有名人気プロが残っていることで一万人以上のギャラリーが押《お》しかけてくることは必至である。そして、その一万人以上のギャラリーは、絶えず移動しているのだから、たとえ、百人、二百人の警官を動員できても、警備に穴があくことは避《さ》けられないし、逆に、犯人を警戒させるだけのことにしか役立たないと考えたからである。
もし、完全な警備というのであれば、ギャラリーと同じ人数の警官を動員し、ギャラリー一人を、警官一人が監視《かんし》すれば完璧《かんぺき》だろうが、そんなことは、望むべくもないし、第一、そんなことをしたらギャラリーが気味悪がって怒《おこ》り出し、収拾がつかなくなってしまうだろう。
と、すれば、むしろ、五人くらいの小人数の方が動きやすいし、人数の手薄《てうす》さを、機械力で補った方がいい。運ばれて来た携帯《けいたい》無線機は、かなり大型だが、その代り、電波の到達距離《とうたつきより》は、約五キロ。コース全体をカバーできる筈《はず》であった。
十津川は、新しく加わった佐久間刑事を含めた四人の部下に、最後の状況《じようきよう》 説明と、命令を与《あた》えた。
「今日は、いよいよ、このボンサム<gーナメントの最終日だ。僕《ぼく》の勘《かん》が当たっていれば、犯人は、必ず今日、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》で予告した行動を起こす筈だ」
十津川は、自信を持っていい、部下たちを余り緊張《きんちよう》させないために、ポケットから煙草を取り出して、四人にすすめた。
「今日の最終日には、二十八人のプロが残っている。つまり、今日の決勝は、二十八人によって行われるわけだ。この中には、招待されたアメリカの四選手の他に、日本の有藤、赤木、杉山、高田といった人気プロが全部残っている。従って、日曜日でもあり、ギャラリーが、どっと押《お》しかけて来ることは、眼に見えている。実行委員会の役員の話では、有藤、赤木、それにアメリカの四選手の間で多分、優勝が争われるだろうといっているが、われわれにとって、誰が優勝するかは、問題ではない。問題は、どのプロが狙《ねら》われるかだ」
「アメリカの四人の招待選手は、まず、除外していいんじゃありませんか?」
と、鈴木刑事が、手帳にメモを取りながらきいた。
「まず、その通りだろう。犯人は、日本語で脅迫状を書いているし、四人の招待選手は、アメリカのトーナメントの都合で、一部、変更《へんこう》になっているからな。第一の脅迫状が、実行委員会に届いたのは、その変更の前だから、そのことからも、あの四人は、まず、除外していい」
「やはり、一番、狙われる可能性のあるのは、ジャイアンツ・有藤ですか?」
新しく加わった佐久間刑事がきく。二十六歳の若さだけに、ひどく張り切っている感じだった。
「そのことは君の来る前にも、議論されたんだ。まともに考えれば、今度のトーナメントが始まってから、妙《みよう》なプレーの妨害《ぼうがい》をされたのは、有藤一人だし、東京では、彼の車が盗まれて役員の吉田専太郎が殺されている。そう考えると、犯人の狙いは、有藤プロと考えられるんだが、また、逆にわれわれの注意を有藤に引きつけておいて、他の誰かを狙うつもりかもしれん。だから、今の段階では、彼だけをマークするわけにはいかんのだ」
「今日は、テレビ中継《ちゆうけい》もありますね」
「FTSテレビが十二時から四時まで、ぶっ続けに放送することになっている。第一日目から放送はしていたんだが、全て、一時間のダイジェストだったから、本格的な中継は、今日ということになるだろう」
「有藤、赤木の組は、確か、遅《おそ》いスタートですね」
「そうだ。ラストから二番目のスタートだ。だから、途中《とちゆう》から、ほとんどのプレーが、ブラウン管に映るだろう」
「テレビが撮《と》っているということは、犯人にとって、かなりの牽制《けんせい》になりませんか?」
と、永井刑事がきいた。
「それはなるだろうな。だいぶ、カメラが入っているからね。それに、不幸にして事件が起きた場合には、フィルムが参考資料になるということも考えられる。ただ、僕も、時々、ゴルフの中継をテレビで見るが、カメラが追いかけるのは、ゴルファーの方で、ギャラリーじゃない。これは、当たり前のことだが、われわれの立場から見れば、被害者《ひがいしや》は映すが、犯人は映さないということだ。だからテレビの効果は、あまり期待しない方が賢明《けんめい》だ」
「それで、警備はどうしますか?」
「僕は、一番|狙《ねら》われるだろうと思われる有藤と赤木のパーティについて歩く。君たち四人は、アウトとインに二人ずつわかれて、随時《ずいじ》、動き回って、全体の動きを見張ってくれ。何か起きたり、不審《ふしん》な行動のギャラリーを見つけたら、すぐ、携帯《けいたい》無線機で、僕に連絡《れんらく》する」
「わかりました」
と、ベテランの鈴木刑事は、他の三人を代表する形でうなずいてから、
「駐《ちゆう》 車《しや》 場《じよう》に来ていた私立|探偵《たんてい》の江田真を、どう思われますか」
と、十津川にきいた。
「正直にいってわからんな。彼の言葉どおり、ゴルフが好きだから、ギャラリーとして一番乗りしたのか、それとも、他に何か狙いがあってやって来たのかね。車を調べさせて貰《もら》ったところでは、凶器《きようき》らしきものは、持っていなかったが」
「どうもあの男は、気に入りません。顔つきで、人を判断しちゃいけないのは、わかっているんですが」
「僕だって、あいつは、好きになれそうもないさ」
と、十津川は、笑った。
夜があけると、ホテルの食堂が、急に賑《にぎ》やかになった。
今日は、いよいよ、優勝賞金一千万円のかかった決勝である。他に、副賞に高級乗用車、ホール・イン・ワン賞、ニアピン賞、ベストスコア賞と、賞品や賞金が多い。
平然とした顔で、いつも同じ健啖《けんたん》ぶりを見せているプロもいれば、緊張《きんちよう》した表情で、朝食を軽くすませてしまうプロもいる。同じ食堂で、そうしたプロゴルファーたちのさまざまな性格を眺《なが》めているのも、十津川には、興味があった。小柄《こがら》で細面《ほそおもて》で、いかにも神経質そうなプロが、意外に、悠然《ゆうぜん》と朝食を楽しんでいるかと思うと、逆に、ゴルファーというより、プロレスラーのような巨漢のプロが、落ち着きなく、キョロキョロと、周囲を見回しながら、そそくさと朝食をすませて立ち上がっていく。人間というのは、外見では、わからないなと思った。
有藤と、赤木は、遅《おそ》いスタートということがあってか、他のプロより、ゆっくり食堂に現われた。この食堂は、和食、洋食共、用意しているが、有藤の方は洋食で、赤木は和食だった。十津川と顔見知りの笠井記者たちが、そんな二人のテーブルを、ちらりとのぞいては、何か小声で質問している。有名プロになると、食事の内容まで記事になるのだろう。
午前十時に、第一のパーティがスタートした。
十津川の部下たち四人も、その時間に合わせて、携帯《けいたい》無線機を手に、それぞれの持ち場に散って行った。
三日間、いかにも盛夏《せいか》らしい上天気が続いていたが、今日はいくらか雲が出ていた。それに、風も強い。このコースは、高原にあるせいで、アウトとインでは風が逆になり、今日のような天気では、低い球を打つ、力のある有藤や赤木、それに、アメリカの四選手が有利だろうと噂《うわさ》し合っている。
有藤と赤木のパーティのスタートが遅《おそ》いといっても、それまで、十津川も一緒《いつしよ》にのんびりしているわけにはいかなかった。
部下四人からの無線|連絡《れんらく》も受けなければならないし、有藤が狙《ねら》われるとしても、コースに出てからと決まっているわけではない。ホテルから、新那須カントリー・クラブのクラブハウスへ行く途中《とちゆう》で襲《おそ》われるかもしれないのである。そう考えれば、一刻も、有藤から、眼は離《はな》せなかった。
スタート時間が近づくと、有藤と赤木は、肩《かた》を並《なら》べてホテルを出、カントリークラブの方に向かって歩いて行った。ギャラリーが、その間も、二人を取り巻き、賑《にぎ》やかである。そのあとを、十津川はついて歩きながら、この調子では、警戒が大変だなと、改めて考えさせられた。
曇《くも》りがちの天候にも拘《かか》わらず、実行委員会が予想した通り、ギャラリーが続々と押《お》しかけてきた。その中には、私立|探偵《たんてい》の江田真もいる筈《はず》だったが、海のようなギャラリーの波の中に呑《の》み込《こ》まれてしまって、どこにいるのかわからなくなってしまった。
(刑事の一人を、あの男につけさせておくべきだったかな?)
と、十津川は、ふと考えたが、今からでは、もうどうしようもなかったし、あの私立|探偵《たんてい》が、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》の主だという証拠《しようこ》もない。
もう一人の早山克郎の姿も、ギャラリーの中に消えてしまっていた。
が、来年、プロテストを受ける、一寸《ちよつと》ばかり小生意気なあの男も、今日の決勝を見ているに違《ちが》いなかった。
1番ホール前に立てられた二十八選手の成績|掲示板《けいじばん》によれば、一位と二位を、九アンダー、八アンダーで、それぞれ、招待したアメリカプロが占《し》め、三位に、七アンダーの有藤、そして、同じ三位に、七アンダーの赤木が並《なら》んでいる。心得顔のギャラリーたちは、優勝は、この四人で争われるだろうし、優勝スコアは、今日の強く、時々、方向の変わる風を考えると、一一アンダーくらいだろうと、話し合っている。
確かに、風は強かった。ピンの旗が、ばたばたと、風ではためいているのでもわかる。
だが、力のある有藤も赤木も、その風を別に苦にしているようには見えなかった。
有藤の方は、相変わらず、1番ホールから、スポンサーの売り出した、黒いシャフトを使った。赤木の方は、普通《ふつう》のシャフトのドライバーである。
アメリカから来た招待選手にも、ギャラリーが沢山《たくさん》ついたが、やはり、有藤と赤木のパーティを囲むギャラリーの数が、断然、多かった。
1番、2番、3番ホールとも、二人とも、なかなか好調だった。6番のショートホールまで来たとき、有藤の方は、二つのバーディを取って、一位と並んだし、赤木の方も、二バーディをとったものの、ワン・ボギーを出して八アンダーであった。
6番のパー3のショートホールは、ホール・イン・ワン賞、百万円がかかっていたが、今日まで、その百万円を手にしたプロはいない。
スポンサーのボンサム∴料としては、人気プロの有藤か赤木が、ホール・イン・ワン賞を獲得してくれたら、一番有難いだろう。それだけ、宣伝価値があるからである。二人を取り囲んだギャラリーたちも、同じ期待を持っているに違《ちが》いなかった。
ふいに、十津川の下げていた携帯《けいたい》無線機のブザーが鳴った。
「佐久間です」
と、部下の声が飛び込《こ》んで来た。
「何かあったのか?」
「別に事件というわけではありませんが、どんな小さなことでも、報告しろということでしたので――」
「前置きは、どうでもいい。一体、何があったんだ」
「インの16番ホール附近《ふきん》で、ギャラリーの一人が気持ちが悪くなって、係員にクラブハウスへ運ばれました」
「どんな人間だ?」
「四十五、六の男で、何でも鉄鋼会社の部長ということです。ゴルフ好きで、来たらしいんですが、夏カゼを引いていたらしいんです」
「それだけか?」
「はい」
「じゃあ、関係ないだろう。その男は、無視していい」
と、十津川は、話を打ち切った。
6番ホールは、有藤、赤木とも、ギャラリーの期待したホール・イン・ワンはならず、パーで通過した。
時間が経過していき、ゲームも進行して行くが、一向に、事件の起きる気配はなかった。コース全体に散っている四人の部下からも、その後、何の報告もなかった。有藤、赤木のパーティについて歩きながら、十津川の方から、四人の部下に連絡《れんらく》をとってみても、返ってくるのは「異常ナシ」の返事ばかりだった。
すでに、時間も、午後二時を回り、トーナメントも、いよいよ終盤《しゆうばん》に近づいて来た。FTSテレビは、放送中の筈《はず》であり、全国のゴルフマニアは、家で、このトーナメントを見ているだろうと、十津川は、周囲に気を配りながら、考えたりした。
だが、有藤と、赤木のパーティが、最終の18番ホールに来ても、まだ、何も起きなかった。銃声《じゆうせい》どころか、喧嘩《けんか》ざたさえ起きていないのである。
(勘《かん》が外れたかな?)
と、十津川は、ふと不安に襲《おそ》われたが、試合の方は白熱して、有藤が、18番ホールまでに、首位に並《なら》び、赤木は、一打差で、つけていた。
18番ホールで、有藤がバーディを出せば単独首位、パーなら、招待したアメリカ選手の一人と、同スコアになり、プレー・オフになる。赤木にもチャンスがないわけではない。イーグルを出せば、単独首位だし、バーディなら、プレー・オフに加われる。
18番ホールは、四二五ヤード、パー4のミドルホールである。ギャラリーたちは、すでに、クラブハウスの前に作られたグリーンの周囲を、十重二十重《とえはたえ》に取り囲んで、有藤と赤木の最後のパットを見ようと待ちかまえている。
オナーの有藤は、二打でグリーンにのせた。赤木も同様である。赤木には、イーグルのチャンスはなくなったが、まだ、バーディチャンスは残されている。
有藤のボールは、カップまで約七メートル。これを入れれば、優勝である。赤木も、反対側だが、殆《ほとん》ど、同じくらいの位置につけている。
先に、有藤がパットすることになった。
ツウ・パットでもプレー・オフに持ち込《こ》めるが、ワン・パットなら彼の優勝が決定する。ギャラリーも、しーんと静まりかえって、有藤のパットを見守っていたし、赤木も、遠慮《えんりよ》して、グリーンの外に出て、有藤の一打を見守っていた。
いつも笑顔を絶やさない有藤だが、さすがに、真剣な表情で芝目《しばめ》を読んでいる。優勝賞金は一千万円だが、二位は六百万。この一打が、四百万円に相当するのだから、無理もなかった。
有藤は、パターを取り出して、慎重《しんちよう》に構えた。が、やはり、すぐには、打てなかったのだろう。また、急に、芝の上に屈《かが》んで芝目を見つめた。
その瞬間《しゆんかん》である。十津川は、ピシッというような、空気を切り裂《さ》くひびきと同時に、グリーンを取り囲むギャラリーの一角に、鋭《するど》い悲鳴があがるのを聞いた。
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ギャラリーの死
銃声《じゆうせい》は聞こえなかった。
だが、あの、空気を切り裂《さ》くような音は、絶対に、弾丸《だんがん》が、頭上をかすめた音だと、十津川は、確信した。
十津川警部は、一か月に二回、万一に備えて、拳銃《けんじゆう》の練習をする。だから、あの音には耳なれているのだ。それに、戦時中、中国戦線で死線を越えて帰ることの出来た老刑事《ろうけいじ》から、銃撃戦《じゆうげきせん》の話を、何度となく聞いていた。その老刑事は、すでに退職してしまっているが、彼の話によると、ピューンという頭上を飛び去る弾丸の音に、最初は、あわてて、地面に伏《ふ》せてしまうが、慣れてくると、ピューンという音が聞こえた時は、頭上をかなり離れたところを飛び去った弾丸で、自分が狙《ねら》われていないことが多いから、平気になる。むしろ、怖《こわ》いのは、ピシッ、ピシッと、地面に突《つ》き刺《さ》さる音で、これは、自分が狙われていることを意味していて一番危険だから、あわてて、壕《ごう》に逃《に》げ込《こ》まなければならないという。
この話は、勿論《もちろん》、余談だが、そんな話や、十津川の経験からみて、今、彼の頭上に聞こえたのは、弾丸が飛び去った音に間違《まちが》いなかった。有藤が、パットをする瞬間《しゆんかん》だったため、緊張《きんちよう》と静寂《せいじやく》が、グリーン回りを支配していたので、はっきりと、十津川の耳に聞こえたのだ。
悲鳴をあげたギャラリーのまわりには、すでに、人垣《ひとがき》が出来、鈴木刑事が飛んでいった。女の悲鳴のように聞こえたが、ギャラリーの中の誰《だれ》が、弾丸に当たったのか、十津川にはわからなかった。或《あるい》は、子供にでも当たって、近くにいた女性が悲鳴をあげたのかもしれない。
それに対して、グリーン上の有藤が、ポカンとした表情で、そちらに眼《め》を向けているのが、奇妙《きみよう》な対照を見せていた。
十津川は、狙《ねら》われたのは、明らかに、有藤だと思った。他に考えようはない。ただ、有藤は、このパットが入れば優勝ということで慎重《しんちよう》になり、一度、パターを構えたのだが、また、急に、屈《かが》み込《こ》んで、もう一度、芝目《しばめ》を読んだ。そのため犯人が狙った一弾《いちだん》は、有藤から外れ、その弾丸の飛んだ方向にいたギャラリーに、不幸にも当たってしまったのだ。
有藤には、弾丸の音は聞こえなかったらしい。優勝のかかったパットに、精神の集中をしていたのだから、無理もないだろう。同じように、赤木や、二人についてるキャディも、一瞬《いつしゆん》、何が起きたのかわからないようであった。
十津川は、騒然《そうぜん》としているギャラリーの一角と、丁度、反対側の方向に眼をやった。
そこには、近代的な三階建のクラブハウスがあった。
十津川はその建物に向かって走った。
高床《たかゆか》式で、一階はレストランになっていた。
レストランは、コースに面した部分がガラス張りになっていて、食事をとりながら、18番グリーンやコースがよく見えるようになっている。
レストランの周囲は、幅三メートルぐらいの回廊《かいろう》だった。
十津川は、その廊下に駈《か》け上がって、振《ふ》り向いた。
18番グリーンが、丁度、眼の下によく見える。まだ、騒《さわ》ぎが続いていて、そのため有藤も赤木も、パットをやめて見守っている。
(狙《ねら》ったのは、ここか、二階あたりだな)
と、十津川は思った。いずれの階にしろこのクラブハウス以外には考えられない。
十津川は、レストランの中をのぞき込《こ》んだ。
がらんとして、客の姿がないのは、みんな18番のグリーン回りに集まってしまっているのだろう。ただ一人だけ、中年の男が、奥《おく》の椅子《いす》に腰《こし》を降ろしていた。多分、佐久間刑事がいっていた、気分が悪くなったというギャラリーであろう。
十津川は、ガラス戸を開けて、中へ入って行った。レストランの中は、エア・コンディショニングがよく利いている。ボーイや、ウェイトレスの姿も見えないところをみると、彼等も、熱戦を見に出かけてしまっているのだろう。レストランの奥には、二階へ通じる階段があり、そこを通ってでなければ、二階へ行けないようになっていた。
十津川は、奥のテーブルに腰を降ろしている中年男に近づいた。「失礼ですが」と声をかけると、相手は、いくらか蒼《あお》い顔をあげて、十津川を見た。
「警察の者ですが、ここに、ずっと、いらっしゃったんですか?」
十津川がきくと、男は、びっくりした顔で、
「警察? 何かあったんですか?」
「18番の最終ホールで、ジャイアンツ・有藤が、何者かに狙撃《そげき》されたのです」
「まさか。第一、銃声《じゆうせい》が聞こえませんでしたよ。それとも、ここにいたから聞こえなかったのかな」
「いや。犯人は、多分、消音銃を使ったんでしょう」
「それで、有藤プロは?」
「弾丸《だんがん》は外れましたが、ギャラリーに当たったようです。ところであなたは、ずっと、ここに居られたんですか?」
「ええ。私は、今日の決勝を楽しみに、東京から来たんですが、途中《とちゆう》で、気分が悪くなって、ここで休ませて頂いていたんです。決して、怪《あや》しいものじゃありません。あいにく、名刺《めいし》を切らしていますが、これでも東京の大会社の部長でして――」
「知っています。部下からあなたのことは、報告を受けていますから。ですから別に、あなたを怪しいと思っているわけじゃありません。ここに、他の人が入って来たかどうか知りたいのです」
「誰も入って来ませんでしたよ。これは、間違《まちが》いありません」
「二階へ上がった人間もいませんか?」
「私が、ここへ来てからは、見ませんでしたが――」
男が、蒼《あお》い顔で答えた時、永井刑事と、田中刑事の二人が、飛び込《こ》んで来た。十津川は、その二人に、二階と三階を調べるように頼《たの》んだ。二人が階段を駈《か》け上がって行ったあと、十津川は、男に、
「念のために、会社名と、あなたの名前を書いておいてくれませんか」
と、手帳を差し出した。男は、自分の万年筆で、さらさらと、東京の会社名と、自分の名前を書いた。その動作に、少しのためらいもないところから、十津川は、この男は、十中、八、九、シロだろうと思った。犯人なら、こんなところに、まごまごしていまいし、銃《じゆう》を持っている様子もなかったからである。夏だから、男は、軽装《けいそう》である。銃をかくし持っていたら、慧眼《けいがん》な十津川には、すぐわかった筈《はず》である。
しばらくして、永井と田中の二人の刑事が、首を振《ふ》りながら降りて来た。
「二階、三階にも、誰もいませんし、銃も見つかりませんでした」
と、永井刑事が、肩《かた》をすくめて、十津川にいった。
三人は、レストランを出た。彼等が、クラブハウスを調べている間に、中断されていたゲームが再開され、有藤は、見事に、パットを決めて、優勝したらしく、カメラマンや、記者たち、それに、ギャラリーの祝福を受けていた。
その一方、十津川の耳に、近づいてくる救急車のサイレンの音が聞こえた。有藤の代りに撃《う》たれた形になったギャラリーを、運ぶのだろう。
「あの男は怪《あや》しくありませんか?」
永井刑事が、レストラン内の男のことを、十津川にきいた。
「あの男は、シロだよ。犯人だったら、あんなところにまごまごしていないだろうし、それに、銃を持っていない。念のために、勤務先と名前を聞いておいたから、明日にでも問い合わせてみたらいい」
と、十津川は、手帳のその部分を破いて、永井刑事に渡《わた》した。
「じゃあ、警部は、犯人が、何処《どこ》から、有藤を狙《ねら》ったと思われますか?」
田中刑事がきく。
「そうだな。このクラブハウスであることは間違《まちが》いないと思う。ここからなら、丁度、18番グリーンが見下ろせるからな。他の場所だと、周囲を囲んだギャラリーに邪魔《じやま》されて、狙えない筈だ」
「しかし、このレストランでも、二階、三階でもないとすると――」
「他にも、格好の場所はあるさ」
十津川は、回廊《かいろう》を、端《はし》まで歩いて行った。レストランは、コースに向かう場所はガラス張りだが、側面は、コンクリートの壁《かべ》である。回廊は、そこにもついている。
十津川は、丁度、側面に折れたところで立ち止まった。
「例《たと》えば、こうだ。ここにかくれて、18番グリーンを狙《ねら》えば、レストランの中の男にも見つからないし、他のギャラリーにも見つからん。そして、撃《う》ったあと、この廊下から飛びおり、銃《じゆう》をどこかにかくして、ギャラリーの中に、まぎれ込《こ》んでしまったのかも知れん」
「しかし、ここよりも、レストハウスの二階か三階の方が、狙い易いと思いますが」
「二階と三階には、何があるんだ?」
「二階は、ゴルフ用品の売店などがありますが、三階は事務室になっていて、事務員は、全部、ゲームの見学に出払っていましたから、犯人は、三階の事務室の窓から、悠々《ゆうゆう》、有藤を狙えたと思うんですが――」
「だろうな。或《あるい》は最初、犯人は、君のいう通り、三階の窓から、18番グリーン上の有藤を狙う積りだったのかも知れない。だが、予定外のことが起きた。あの男が、気分が悪くなって、レストランで休んでいたことだ。三階へ行くには、レストランの中を通らなければならん。顔を見られるのを恐《おそ》れて、犯人は予定を変更《へんこう》したのかもしれないな」
十津川は、内ポケットから拳銃《けんじゆう》を取り出し、角になっているコンクリートの壁《かべ》に、銃身を押《お》しつけるようにして、18番グリーンを狙ってみた。
18番グリーンは、斜め下に見える。ここでも、よく狙える位置だし、逃《に》げることを考えたら、むしろ、クラブハウス内より、この方が、位置としてはいいだろう。
18番ホールでは、最終組もパットを終えて、これから、表《ひよう》 彰《しよう》 式《しき》が始まるところだった。
クラブハウス前には、表彰式の準備が、すでに、すんでいたが、いくらか遅《おく》れがちなのは、事件のためのようだった。
鈴木刑事が、大股《おおまた》に、十津川たちのところに上がって来た。
「今、負傷したギャラリーを救急車で運んで行ったところです。黒磯病院へ運ぶといっていましたから、あとで、連絡《れんらく》を取ってみるつもりです」
と、鈴木刑事は、十津川に報告した。十津川は、永井と田中の二人の刑事に、すぐ、このカントリー・クラブの出口をかためて、怪《あや》しい人物が、出て行くようだったら、職務質問するように命じてから、
「それで、撃《う》たれたギャラリーは、助かりそうなのかネ?」
と、鈴木刑事にきいた。
「撃たれたのは、二十七、八の女性ですが、多分、助からんでしょう」
「致命傷《ちめいしよう》か?」
「私が駈《か》けつけた時、すでに虫の息でしたから。真新しい白い服が、まっ赤に、血で染まっていました。とんだそば杖《づえ》を喰《く》って、気の毒な人ですな」
「そうだな。犯人が、有藤を狙《ねら》って外れ、その丁度、向かい側にいたのが、その女性の不運というわけだ」
「それに比べて、有藤は、好運でしたね。ワン・パットで、優勝か、プレー・オフになるということで、一度パットの構えをしてから、念のために、もう一度、屈《かが》んで、芝目《しばめ》を読んだのが偶然《ぐうぜん》の好運だったわけです。あのまま、パットを打っていたら、間違《まちが》いなく、有藤は、射殺されていたんじゃないですか」
「多分な」
十津川は、うなずいて、ようやく始まった表《ひよう》 彰《しよう》 式《しき》に眼をやった。
大きな優勝カップを渡《わた》された有藤が、それを、周囲に集まったギャラリーに向かって、高くかかげて見せている。その笑顔が、有藤には珍しく、硬《かた》く、こわばってみえるのは、狙われたのは、自分だったと、誰かに聞かされたか、自分で気付いたのだろう。
「これから、どうしますか?」
鈴木刑事が、硬い表情できいた。十津川も厳しい眼になっていた。幸運にも、狙われた有藤は無事だった。が、その代り、一人の女性ギャラリーが負傷し、重傷である。
「その負傷した女性だが、有藤を狙った弾《たま》が外れて、命中したのだとしたら、グリーンを囲むギャラリーの一番前にいたことになるな?」
「その通りです。一番前で、腰《こし》を降ろして見ていたようです。場所は、印をつけておきました」
「じゃあ、一度、そこへ、君が腰を降ろしてみてくれ。それから、有藤がパットしようとして立っていた位置に、旗竿《はたざお》を借りて来て、立ててくれ。そうすれば、犯人が、どこから狙ったか、見当がつくかも知れないからな」
「わかりました」
鈴木刑事は、18番グリーンの方へ飛んで行った。旗竿をと、十津川はいったが、そのかわりに、仕事のすんだキャディが協力してくれて、有藤が、最後のパットをしようとした位置に立ってくれた。その向こうの、グリーンのふちに、鈴木刑事が腰を降ろして、十津川に向かって、手をあげて見せた。
キャディと、鈴木刑事を結ぶ線の延長上に、犯人がいた。正確にいえば、犯人の構えた銃口《じゆうこう》があった筈《はず》である。
十津川が想像したとおり、その場所は、クラブハウスの一階、二階、三階ではなく、回り廊下《ろうか》の角のようだった。クラブハウスの方から見て、死角になっている角のうしろにかくれ、壁《かべ》に銃を押《お》しつける形で、安定させて狙撃《そげき》したのだろう。
十津川は、「わかった」というように、鈴木刑事に手をふった。
表《ひよう》 彰《しよう》 式《しき》が終ると、実行委員会の役員たちが、蒼《あお》ざめた顔で、十津川の方へ寄って来た。
「われわれには、どういっていいかわかりません。アメリカ招待選手や、わが国の有名プロに被害がなかったのは喜ぶべきでしょうが、お客様の一人が、その飛ばっちりで重傷を負われたのが、残念でなりません」
委員長の野中が、重い口調でいった。
「犯人は、必ず、捕《つかま》えてみせます」
と、十津川は、約束《やくそく》した。
一万人を超《こ》したギャラリーが、潮が退《ひ》くように帰っていった。一時間ほどして、汗《あせ》びっしょりになって、永井、田中、それに、佐久間の三人の刑事が戻《もど》って来た。
「いやはや、大変な仕事でした」
と、永井刑事が、汗を拭《ふ》きながら、溜息《ためいき》をついた。帰るギャラリーの監視《かんし》と、職務質問といっても、ゴルフ場には、きちんとした塀《へい》があったり、錠《じよう》のかかる門があるわけではない。ゴルフ場は、ホテルと同様、パブリックスペースという考えで作られていて出入りは自由だし、紳士《しんし》のスポーツといわれるだけに、管理も信用システムである。それだけに、永井刑事たちの仕事は、やりにくかったらしい。
「それでも、帰るギャラリーは、押《お》しなべて協力的でした。少なくとも、われわれが行ってから、銃《じゆう》を持ち出した客はいませんでした」
「多分に予想されたことだな。犯人は、使用した銃を、このコースのどっかにかくして逃《に》げたか、狙撃《そげき》と同時に、このゴルフ場の外に逃亡《とうぼう》したかどちらかだろう。とにかく、このコース全体を、もう一度、調べ直してくれ。銃が見つかるかもしれんからな」
だが、すでに陽が落ちかけていた。いかに盛夏《せいか》でも、七時を過ぎると、高原のコースは、薄暗《うすぐら》くなってきていた。そのためコースの捜査《そうさ》は、明日に延ばされ、その代りのように、鈴木刑事が、負傷者の運ばれた黒磯の病院に飛んだ。
その鈴木刑事から、ニュー那須ホテルに残った十津川警部に、電話|連絡《れんらく》が入ったのは、夜の九時を過ぎてからだった。
「残念ながら、撃《う》たれた女性は、息を引き取りました」
電話を伝わってくる鈴木刑事の声は、さすがに重く、硬《かた》かった。
「殺人事件になったな」
「その通りです。弾丸《だんがん》は、ほとんど、心臓に命中していたそうです。くわしいことは、そちらに帰って報告しますが、弾丸は、どうも米軍や自衛隊の使用しているライフル銃のもののようです」
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手がかりなし
鈴木|刑事《けいじ》は、疲《つか》れた表情で、夜十時すぎに、ホテルに戻《もど》って来た。人間の死は、いつでも嫌《いや》なものだ。それに、ギャラリーの死は、不測の事態だったとはいえ、刑事たちが非難されることは、間違《まちが》いなかった。
「死んだ女性の身元はわかったかね?」
と、十津川がきいた。格別に意味があってきいたわけではなかった。死んだギャラリーは、不運な巻き添《ぞ》えで殺されただけだからである。従って、十津川の質問は、あまり熱のないものだった。
「名前は、所持品から、守山道子、二十八歳とわかりました。住所は、東京の渋谷《しぶや》区|笹塚《ささづか》のマンションとなっていますが、職業や家族のことは不明です。黒磯の警察から、この住所に、電報を打つようですが、もし、ひとり住いだと困るなといっていました」
「二十八歳なら、結婚しているかも知れんな。救急病院へ、旦那《だんな》の方は来なかったのか?」
「家族は誰《だれ》も来ませんでした。多分、ひとりでゴルフ見物に来て、あんな災難にあったんでしょう」
「可哀《かわい》そうにな」
「なかなか美人でしたから、余計に、可哀そうな気がしてなりませんでした。人間の運、不運なんか、どこに転がっているかわかりませんな」
鈴木刑事は、いかにも、大正末年生れらしい言い方をした。
「ところで、これからどうしますか、警部」
「二つ考えなければならん。第一は、夜が明けたら、コース全域を調べ直してみることだ。犯人は、銃《じゆう》を、コースのどこかに、捨てて逃《に》げたかもしれないからだ。特に18番グリーンと、クラブハウスの周辺をよく調べてくれ。もし、見つからなければ、犯人は、銃を持って逃亡《とうぼう》したのだろう。射撃《しやげき》が失敗した直後に、逃げたとすれば、君たちが出口をかためる前に逃げられた筈《はず》だからね。第二は、これからの問題だ。犯人は、有藤プロを射殺しようとして失敗した。とすれば、今後も、そのチャンスを狙《ねら》う可能性がある」
「有藤プロの今後のスケジュールが問題になりますね」
「それは、これから、彼に会って聞いてくる」
十津川は、立ち上がると、部屋を出て、有藤の泊《とま》っている部屋のドアをノックした。
有藤は、大きな優勝トロフィーや、赤いチャンピオンブレザーなどをテーブルの上に置いて、ベッドに横になっていた。それが、起き上がって、十津川を迎《むか》えると、
「何もかも、野中さんから聞きましたよ」
と、今度のトーナメントの実行委員長の名前をいった。
「あなたが、警部さんだということもです」
「それなら、かえって話しやすい。君が、18番ホールのグリーン上で、犯人に狙撃《そげき》されたことも、聞いたわけだね?」
「ええ。あの瞬間《しゆんかん》は、正直にいって、何が起きたのかわからなかったんですが、あとで、そのことを聞いて、ぞおーッとしましたよ。弾丸《たま》が当たったギャラリーの方《かた》は、どうなったかわかりませんか?」
「少し前に死んだよ。残念だが」
「そうですか――」
陽焼けした、逞《たくま》しい有藤の顔が、堅《かた》い表情を作った。
「その人は、僕《ぼく》の代りに死んだようなものですね」
「君が、そんな心配する必要はない。犯人と君との線上にいたそのギャラリーが不運だったということだからね」
「それはそうでしょうが、僕としては、そう簡単にすまされませんよ。その人の名前がわかったら、今度の賞金の一部でも、遺族に差し上げたいと思っているんです」
「そうしてやるのもいいだろう。ただ、われわれとしては、もっと心配なことがある」
「何です?」
「君のことだ」
「また、僕が狙《ねら》われるというんですか?」
有藤の顔色が変わった。
「多分ね。犯人は、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》のことや、四日間、君を狙っていて、最終日の18番ホールというギャラリーの一番集まる場所で、いわば、劇的な効果を狙って、狙撃《そげき》したことといい、簡単に、君を狙うのをやめるとは思えないのだ」
「しかし、僕には、誰《だれ》かに狙われるような悪いことは、した覚えがないんだがな」
「人間は、自分が知らないで、人に恨《うら》まれるようなことをしている場合があるからね。これは、小説で読んだんだが、車を走らせていた男が、サイダーを飲んで、何気なく、そのビンを窓から投げ捨てた。ところが、運悪く、そのビンが、崖下《がけした》にいた人間の頭に当たって即死《そくし》してしまった。男の方は、そんなことは忘れてしまったが、死んだ人間の家族は、その男を狙い続けたという話があった」
「僕は、車から、物を投げるようなことはしませんよ」
「たとえ話としていったんだ。それで、狙われた18番グリーンのことなんだが、君は、いつも、パットの時には、一度、パットの構えをしてから、また、芝目《しばめ》を読み直す癖《くせ》があるのかね? あれが、君を救ったわけだが」
「どのホールでもやるわけじゃありませんよ。あの18番だって、優勝の可能性が全くなくなっていたら、簡単に打っていたと思います。しかし、今日のあのパットは、優勝か、プレー・オフかの大事な一打でしたからね。ああいうパットの時には、よく、パットの構えをしてから、もう一度、芝目を読むことが多いんです。慎重《しんちよう》なのは、いくら慎重でもいいと、死んだ吉田さんから教わりましたからね」
「しかし、アメリカの有名選手を四人も破って勝ったんだから、立派なものだ」
「彼等は、日本でやっているということで、いくらか、気分的なゆるみがあったと思いますよ。これが、アメリカでのトーナメントだったら、彼等は、眼《め》の色を変えて、やりますからね。それに、彼等は、高麗芝《こうらいしば》にあまり慣れていないこともありますから、僕の優勝は多分に幸運だったと思いますよね」
と、有藤は、謙虚《けんきよ》にいった。彼のことを、天狗《てんぐ》になっているとか、最近|傲慢《ごうまん》になっているとか批判する人もいるようだが、実際は、気のいい青年なのだと思った。それに、年配者には、いつだって、若者は傲慢に見えるものなのだ。
「それで、これからのスケジュールは?」
「明日、家内が車で迎《むか》えに来てくれるので、それで一応、家に帰りますが、八月三十一日から名古屋《なごや》へ行かなければなりません。名古屋クラシックがありますから」
「今日は八月二十七日だから、あと四日しかないね。プロも楽じゃないな」
「トーナメントの多いのは、僕たちにとっては有難いことですから、ハードスケジュールだと文句はいえませんよ」
有藤は白い歯を見せて笑った。
「名古屋には、いつ行く予定なんだね?」
「一日前には、行っていたいと思っています。新幹線で」
「すると、君が東京にいるのは、二日間か」
「そうなりますね」
「どうしても、人の恨《うら》みを受ける覚えはないかね?」
「野中さんから事件のことを聞いたあと、いろいろ考えたんですが、全然、思い当たりませんね」
「例《たと》えば、君の打ったボールが、たまたま、誰かの頭に命中して、事故を起こしたというようなことはなかったかね。新聞なんかでみると、最近のゴルフブームで、ボールによる事故も多くなっているそうだが?」
十津川がきくと、有藤は、きッとした顔になって、
「警部さん。僕はプロですよ。プロは、そんなことはしません。それがプロというものですよ」
「これは悪かった」
十津川は、素直に謝った。有藤がいうのが本当だろう。それに、十津川のいったような事故が起きていたとすれば、必ず、新聞に報道されていた筈《はず》である。
「木崎プロの引退記念の九州オープンに、君が出場しないということで、君を非難する人もいるんじゃないかね?」
「確かに、そういう人はいると思います。木崎さんは、死んだ吉田さんと同様、僕の師匠《ししよう》ですからね。この間も話しましたが、正直にいって、僕も、向こうのゲームに出たかったんです。しかし、同じ日に二つトーナメントがあっては、両方に出るわけにはいきません。それに、プロである以上、賞金の大きい方に出るのが当然だと思うんです」
「そうだろうね」
「それに、木崎さんの弟子《でし》で、こちらの試合に出たのは、僕だけじゃありません。もし、犯人が、そのことに腹を立てているのなら、僕だけを狙《ねら》うというのは、片手落ちだと思うのです。そうじゃありませんか?」
「それもそうだな」
と、十津川は、肯《うなず》いた。が、有藤の考えに、全面的に賛成したわけではなかった。もし、それが理由だったとしたら、人気者の有藤を、何人かの代表として、狙ったのかもしれないからである。
十津川は、十分に身辺に気をつけること、何か思い出したら、すぐ知らせてくれることを約束《やくそく》させ、彼が出たあと、有藤が、部屋の鍵《かぎ》をかける音を確かめてから、自分の部屋に戻《もど》った。
部下たちは、まだ眠っていなかった。
「さっき、言い忘れましたが、摘出《てきしゆつ》された弾丸《だんがん》は、黒磯警察から、東京の科学警察研究所へ送って貰《もら》うことにしました」
と、鈴木刑事がいった。
十津川は、名古屋クラシックに出るという有藤のスケジュールを、部下たちに聞かせた。
「すると、われわれは、名古屋へも出かけるわけですか?」
「いや。名古屋へは、僕だけが行き、向こうの警察に協力して貰う。君たちは、東京で、吉田専太郎を殺した犯人の割り出しと、今日使われた銃《じゆう》のことを調べてくれ。十中、八、九同一犯人だと思う」
十津川は、自信を持っていった。
翌日になると、各プロは、それぞれに、那須から引き揚《あ》げて行った。そのまま、名古屋へ直行する者もいた。招待したアメリカの四選手の中、一人は、日本のある繊維《せんい》メーカーとC・Mの契約《けいやく》をしたとかで、その会社の車で東京へ向かったが、他の三人は、アメリカでのトーナメントが待ち構えているということで、すぐ、羽田に向かった。
有藤の妻君、美佐子が、車で迎《むか》えに来たのは、午前十時|頃《ごろ》である。例の盗まれて事故(というより殺人と呼ぶべきだろう)を起こしたムスタングだったが、きれいに修理してあり、彼女は、夫に向かって一言も、事故のことに触《ふ》れなかった。
十津川は、万一に備えて、永井刑事を護衛のために、その車に同乗させて帰したあと、鈴木刑事たちと、念入りに、コースを調べ直した。
林の中などで、土の色の変わっている部分は、掘《ほ》り返してもみたが、とうとう銃《じゆう》は、発見できなかった。十津川の予想したとおり、犯人は、狙撃《そげき》に失敗したと同時に、クラブハウスの裏手に回り、このカントリー・クラブの外に逃《に》げ出したのだろう。そして、多分、車で逃走《とうそう》したに違《ちが》いない。
部下の刑事たちは、凶器《きようき》が見つからなかったことに、かなり落胆《らくたん》のようだったが、十津川自身は、格別、動揺《どうよう》の色は見せなかった。
十津川は、部下たちを先に東京に帰し、一人だけで、もう一度、フルコースを歩いてみることにした。
人気《ひとけ》のなくなったコースは、林間コースのせいもあって、ひっそりと静まり返り、昨日までの熱戦や、一万人を残すギャラリーの群が嘘《うそ》のように思える。東京では聞かれなくなった小鳥の声も、時々聞こえて、まだ陽差しは強いが、すでに、この那須高原には、秋の気配が忍《しの》び寄っていることを示していた。
十津川は、手帳を片手に、ときどき、立ち止まっては、各ホールの地形を、記入していった。各グリーンは、だいたい、高い場所に作られているが、そうでないホールもある。周囲が、小高い丘《おか》になっていて、その丘が林になっているのは、9番ホールだった。だから、たいていのプロは、この丘の傾斜《けいしや》にぶつけるようにして打ち、転がりを利用してグリーンにのせていたのを、十津川は思い出した。このホールは、グリーンの前後に、深いバンカーがあるので、そうした打ち方の方が安全だからである。
十津川が、この9番ホールに興味を持ったのは、そうした技術的なことではない。彼は、ゆっくりと、その丘の傾斜を登って行った。丘の向こう側は、道路になっていて、深い林の中に、点々と別荘が建っているのが見えた。低い竹の柵《さく》があったが、大人だったら、ひょいと飛び越《こ》えて、あの深い林の中に逃《に》げ込《こ》めるだろう。
(もし、おれが犯人だったら、クラブハウス前の最後18番グリーンよりも、ここを、狙撃《そげき》の場所に選んだだろうな)
と、十津川は、思った。確かに、18番グリーンで、有藤を射《う》つのは、効果的かもしれない。このパットで、優勝が決まるという瞬間《しゆんかん》、有藤が銃弾《じゆうだん》に倒《たお》れたら、確かに劇的であろう。新聞にも大きく書き立てられるだろう。
だが、十津川が犯人なら、確実に有藤を射殺し、また、逃げることを考えたら、18番ホールよりも、ここの丘《おか》の上で、有藤と赤木のパーティが来るのを待ち受けるだろう。車を、丘の裏の道路に置いておけば、狙撃したあと、混乱の間に、垣根《かきね》を越えて飛び乗って、すぐ逃げられる筈《はず》だ。最終ホールで殺すほどの劇的な効果はないが、はるかに安全だ。何故《なぜ》なら、あのクラブハウスには、待ち伏《ぶ》せている間に、いつ誰が入って来るかわからないからである。
十津川は、難しい顔になって、9番ホールの丘の上からおりた。このホールの他にも、18番ホールより、狙撃《そげき》に格好なホールは、少なくとも二つはあった。
(とすると、犯人は、ただ単に、有藤を殺すだけでは物足らず、劇的に殺そうと考えていたことになるのか)
もし、そうだとすると、犯人の性格は、ある程度、わかってくるのだが、十津川は、早急には、自分の推理に結論を下さなかった。犯人が、全く別の理由で、18番グリーンを選んだかもしれないからである。例《たと》えば、これは、殆《ほとん》ど考えられないことだが、犯人の足が不自由だとしよう。とすれば、犯人は、この広いコースを歩き回るのは大変だろうし、9番ホールの丘に登ることも難しかったろう。この場合には、駐《ちゆう》 車《しや》 場《じよう》に一番近いクラブハウスにいて、18番ホールまで有藤がやってくるのを待ち受けるのが、一番いいことになる。
(わからんな)
と、十津川は、首をふりながらクラブハウスに戻《もど》り、冷たい飲物を頼《たの》んだ。犯人の像が、なかなか、彼の頭の中で、はっきりして来ないのだ。銃《じゆう》による狙撃という手段からみて、犯人は、男と断定してよいような気もするが、それとて、断定はできない。今は、女でも、平気でオートバイを乗り回すし、女性のサッカーチームまで生れている時代なのだ。
犯人が女でも、凶器《きようき》に銃を使わないとは限らない。それに、まだ、犯行の動機もつかめていない。有藤に対する人気への嫉《ねた》みからだとしたら、吉田専太郎まで殺した理由がわからなかった。
(わからないことだらけか――)
十津川は、煙草《たばこ》をくわえて立ち上がると、丁度、黒磯駅へ行くという役員の車に便乗させて貰《もら》った。
東京の捜査《そうさ》本部に戻ったのは、日が落ちてからである。
まず、上司に報告をすませてから、先に帰っていた部下の刑事たちから、何かわかったことはないかと聞いてみた。
被害者《ひがいしや》から摘出《てきしゆつ》された弾丸《だんがん》は、科研の調査によれば、米軍用のライフルのものだという。もっとも、米軍用のライフルは、東南アジアにも、数多く流れている。それに、犯人は、弾丸に合わせて、銃を作ったことも考えられた。だから、銃の種類を限定して考えてしまうことは危険だった。サイレンサーにしても、既製品《きせいひん》を使ったのか、自分で作ったのか、今のところ断定できない。犯人像が、はっきりしないからである。
「他にわかったことはないのか?」
と、十津川が、部下の顔を見回すと、鈴木刑事が、
「事件に関係ないと思いますが、不運な巻き添《ぞ》えを喰《く》った女性の写真が手に入りました」
といい、一枚の写真を見せた。十津川は、興味のない顔で、それを受け取った。偶然《ぐうぜん》に殺された女性ギャラリーだったからだが、急に、彼の眼が光った。
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バンカーショット
(これは、偶然《ぐうぜん》なのだろうか?)
十津川は、じっと、その女性の写真を見すえた。
似ているのだ。
「君は、吉田専太郎の未亡人に会ったことはなかったな?」
十津川は、写真を手に入れて来た鈴木|刑事《けいじ》に眼《め》を向けた。
「ええ。会っていませんが」
「偶然の一致《いつち》だろうが、この写真は、吉田康子という未亡人に、よく似ている」
「吉田康子という人も、こんな美人ですか?」
「ああ。美人だ。だが、美人ということより、似ているということの方が、何となく気になる。それで、職業や家族関係はわかったのか?」
「わかりました。新宿で、ザ・マウンテン≠ニいうバーをやっています。傭《やと》われママではなく、本当の経営者だったそうです。その店を開いたのは、五年前からですが、働いているホステスの話では無類のゴルフ好きで、今度のトーナメントも、土、日の二日間、店を放《ほ》ったらかして出かけたそうです」
「住所は、渋谷の笹塚だったな?」
「そうです。新宿の店から、車で、十分ぐらいの場所です」
「家族は?」
「正式には、ひとり者ということになっていますが、これだけの美人ですから、男がいたろうと思います。しかし、警部は、この女が事件に関係ありと思われるんですか? 私には、犯人が有藤プロを狙《ねら》って、失敗し、そのとばっちりを喰《く》った可哀《かわい》そうな女としか思えませんが」
「確かにそうだ。だから、余計、気になるんだ。妙《みよう》に、すかっとしないところがな」
と、十津川はいった。そういえば、役員の吉田専太郎が殺された日の夕方、彼の姿を東京駅|附近《ふきん》で目撃《もくげき》したという銀座のバーのマダムも、確か、ゴルフ好きだった。これも、偶然《ぐうぜん》の一致《いつち》なのだろうか。
「有藤プロの護衛の方は?」
「佐久間刑事と田中刑事が、交代で、見張っています。それに、あの近くの派出所の警官にも、注意するように連絡《れんらく》しておきましたから、まず大丈夫《だいじようぶ》だと思います」
「有藤夫婦には、小さな子供がいるからな。その点も考慮《こうりよ》するように、いっておいてくれ」
「わかりました」
「おれは、これから、その新宿のバーへ行ってくる」
「しかし、警部」
「わかってる。あの被害者《ひがいしや》は、偶然《ぐうぜん》に殺されたんだといいたいんだろう。わかっているが、念のためだ。君たちは、江田真という私立|探偵《たんてい》を洗ってみてくれ。事件に無関係かもしれないが、トーナメントの最終日に、車で来ていたからな。それから、早山克郎というプロゴルファーの卵だ」
それだけいい残して、十津川は夜の町に出た。
夜の新宿は、相変わらず、若者やサラリーマンたちで、ごったがえしている。歌舞伎町《かぶきちよう》に入っていくと、パチンコのジャラジャラする音や、水商売の女の嬌声《きようせい》や、酔っ払いの唸《うな》り声が、奇妙《きみよう》な、魅力《みりよく》的な音となって、十津川を押《お》し包む。だから、ウィークデイの夜でも、それだけの人間が、どこからともなく集まるのだろう。ところどころに、二、三人かたまって動かずにいる男たちは、明らかに、ヤクザだろうが、今日の十津川は、彼等には用がない。
ザ・マウンテン≠ニいうバーは、ひょっとすると、閉店していると思ったが、女主人が、死んだにも拘《かか》わらず、賑《にぎ》やかに店を開いていた。
五、六|坪《つぼ》の小さな店だが、死んだ女主人がゴルフ好きだったせいか、内装《ないそう》は凝《こ》っていて、有藤や赤木といった有名プロのサイン入りの写真が壁《かべ》にかかっていたり、何かのコンペのものだろう、優勝カップが飾《かざ》ってあったりする。
店内は、かなり混んでいた。十津川は、カウンターに腰《こし》を降ろし、水割りを頼《たの》んでから、
「ママさんが死んだのに、店を開いているんだね?」
と、三十歳くらいのバーテンに話しかけた。相手は、ちょっと当惑《とうわく》した表情になって、
「突然《とつぜん》のことで、どうしようと思ったんですが、お客様のことを考えて、店を開いたんですが、これからどうなるのかみんなわからなくて、困っているんですよ」
「死んだ、ママさんのことで聞きたいんだがね」
と、十津川は、警察手帳を、それとなく相手に見せた。バーテンの顔に、当惑と同時に、好奇心《こうきしん》の芽生えるのがわかった。こういう相手なら話が聞きやすい。
「彼女は、ゴルフが好きだったようだね?」
「ええ。自分でもやってましたからね。銀座や新宿のバーのママさんで作っているゴルフクラブの会長をやってたくらいですから」
「プロゴルファーとも親しかったのかな?」
「時々、プロの方も、お店に見えましたよ」
「有藤プロもかね?」
「ええ。もっとも、彼が来たのは、今みたいに有名になる前でしたがね。今みたいに有名になって、試合に追われていると、こういうところへ来るヒマなんかないんじゃありませんか」
「有藤プロが、よく来たのは、いつ頃《ごろ》かね?」
「はっきり覚えていませんが、三年ぐらい前じゃなかったですかねえ。まだ、プロになりたての頃で、飛ばすことは飛ばすんだが、なかなか試合に勝てない。そんな気持ちのムシャクシャを晴らしに見えたんじゃないですか。もっとも、来たといっても、一月に一回か二回くらいのものですよ。ママさんが、そんな有藤プロを、よく慰《なぐさ》めてましたよ。ママさんは、有名プロも好きですが、むしろ、これから有名になりそうな若いプロの卵が好きな方でしたね。ああいうのは、母性本能というんですかねえ」
「じゃあ、最近は、早山克郎あたりが、よく来てるんじゃないのかね?」
「よくご存知ですね。でも、わたしは、あの人は、あまり好きじゃありませんね。金持ちのドラ息子《むすこ》みたいなところがあるんで――」
「手きびしいな」
と、十津川は、笑ってから、
「吉田康子という名前に聞き覚えはないかね?」
「ヨシダヤスコ?」
と、バーテンは、口の中で呟《つぶや》いてから、
「知りませんねえ。うちのホステスにもいないし――」
「ママさんの名前は、守山道子だったね?」
「ええ。守山の山から、店の名前を、ザ・マウンテンとつけたんだそうですよ」
「本名かね?」
「だと思いますが、はっきりしたことは知りません」
「恋人は?」
「いたようです」
「ようですというのは?」
「はっきり見たことがないからです。うちの子が、一度だけ、店の休みの日の夜、ママさんが、中年の男と手を組んで歩いているのを京王プラザホテルの近くで見たといってましたが、後姿だったから、顔はわからなかったそうです」
「中年の男か。まさか、君じゃあるまいね?」
「とんでもない。こうみえても、わたしには妻子がいますんでね」
「彼女のゴルフの腕《うで》はどうだったんだ?」
「かなり上手《うま》かったらしいですよ。とにかく、バーのママさん連中やホステスが集まってやったコンペで優勝しましたからね。ただ、バンカーショットだけが、上手くいかないと口癖《くちぐせ》のようにいってましたね。ゴルフをやったことのないわたしには、バンカーショットといってもよくわかりませんが、あの、砂の中に入っちゃったボールのことでしょう?」
「ああ。そうだ」
(バンカーショットか)
十津川は、眉《まゆ》を寄せて立ち上がった。守山道子という女を追うのは、バンカーに、ボールを打ち込《こ》んだようなものかもしれないと、ふと思ったからである。彼女の顔が、吉田康子に、酷似《こくじ》していることに、十津川は引っかかるものを感じて、足を運んだのだが、やはり、最初に考えた通り、犯人が有藤を狙《ねら》った弾丸《だんがん》が偶然《ぐうぜん》、ギャラリーの人垣《ひとがき》の中にいた彼女に当たったのかもしれない。そうだとしたら、この線を追うことは、無駄《むだ》な回り道をしていることになるし、ホール・イン・ワンを狙って、バンカーにつかまってしまったようなものだ。
十津川は、店を出た。新宿は、これからが盛《さか》りの時間だった。
翌朝、十津川は、捜査《そうさ》本部の堅《かた》い椅子《いす》の上で眼をさました。なれていても、起きてすぐは、さすがに背中が痛い。
十津川が、洗面所で顔を洗っている中に、他の部下たちも起き出して来た。
「昨日、あれからすぐ、四谷三丁目にある江田|探偵《たんてい》事務所に行ったんですが、閉まっていて会えませんでした。今日、もう一度、訪ねてみます」
と、鈴木刑事が、傍《そば》に来ていった。
「ああ。そうしてくれ。有藤プロの護衛の方は、どうだ?」
「今、田中刑事から電話が入りましたが、異常はないそうです」
「名古屋へ行く段階から、僕《ぼく》が代わるから、それまで大変だろうが、頑張《がんば》るようにいっておいてくれ」
とだけ、十津川はいった。有藤は人気プロである。いろいろと訪問者も多い筈《はず》だ。そんな時、家の周囲に刑事がウロついていたら相手の人気にさわる。だから、こんな時の護衛が、一番気骨が折れることは、十津川警部にもよくわかっていた。が、人員に制限がある以上、頑張ってくれというより仕方がないのだ。
私立|探偵《たんてい》、江田真については、鈴木刑事の調査で、少しだが、輪郭《りんかく》がつかめて来た。
「彼は、あの事務所を、月十五万円で借りています」
調査から帰って来た鈴木刑事が、十津川に報告した。
「それで、収入の方はどうだ?」
「先月の依頼《いらい》件数を、向こうの帳簿から写し取って来ました」
鈴木刑事は、メモを見せた。
それによると、先月は、結婚調査が六件と素行《そこう》調査が二件となっている。
結婚調査が、一件、七万円から九万円になっているのは、その内容の違《ちが》いによるものだろう。素行調査の方は、片方の収入が八万になっていて、片方が二十万になっているのは成功した場合の成功|報酬《ほうしゆう》が入っているからのようですと、鈴木刑事がいった。
この収入が信用できるとすると、江田真の先月の収入は五十六万円となっている。それから、事務所の借り賃を差引けば、儲《もう》けは四十一万。勿論《もちろん》、支出は、その他にもかかるだろうから、二十五、六万というところか。
(案外、儲からないものだな)
と、十津川が考えたのは、あの事務所に行った時、外国製のゴルフ道具を見ていたからである。
「実は、江田について、面白いことがあります」
鈴木刑事がつけ加えた。
「念のために、その近くの銀行を当たってみたんですが、彼は、第三銀行の四谷支店に口座を持っていて、約一千万円の預金があります」
ヒューと、刑事の一人が、口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いた。このインフレ時代でも、一千万円といえば、かなりの大金だ。
「それも、彼が、日本第一|探偵社《たんていしや》をやめて、独立してから貯《た》めたものです」
「確かに面白いな」
十津川は、そこに、恐喝《きようかつ》の匂《にお》いを嗅《か》いだ。悪徳探偵がよくやる手だ。私立探偵は、他人の秘密を探るのが仕事である。当然、ゆすりのネタが手に入る。それをただ相手に報告するだけでは、規定の料金しか取れないが、ゆすりのネタにすれば、そのネタ次第、相手次第で、いくらでも金になる。
「あの男はマークする必要があるな」
と、十津川はいった。
二日間過ぎた。が、捜査《そうさ》は、ほとんど進展しなかった。
八月三十日。有藤プロが、名古屋クラシック出場のために、東京を離《はな》れる日である。
十津川は、彼が、何時のひかり≠ノ乗るかを調べ、その列車の切符《きつぷ》を買った。
夏が終りに近づいていたせいか、新幹線は意外にすいていて、十津川は、車中で、有藤プロの隣《とな》りに席を代えて貰《もら》うことができた。
「名古屋クラシックでも、僕《ぼく》が、また狙《ねら》われると思っているんですか?」
と、有藤は、真剣な表情できいた。
「わかりませんが、警察としては、万全を期す必要がありますのでね」
「それで、僕を狙った犯人について、何かわかりましたか?」
「それを、今、調べているところです。ところで、新宿にあるザ・マウンテン≠ニいうバーを知っていますか?」
「マウンテン? ああ。知っていますよ。昔《むかし》、何度か行ったことがありますからね。あそこのママさんが、ゴルフが好きなんですよ」
「先日、新那須カントリー・クラブで、射殺されたギャラリーが、彼女です」
「本当ですか」
「新聞はお読みにならないんですか?」
「ええ。トーナメントとトーナメントの間が詰《つ》まっていると、とにかく、リラックスして、次の試合に備えたいんで、読むとしても、スポーツ新聞くらいのものです。テレビも殆《ほとん》ど見ません。眼が疲《つか》れますからね。僕の場合は、子供の顔を見ているのが、一番の気晴らしです」
「成程《なるほど》ね」
「あの人が死んだなんて、信じられないなあ。僕がまだ、プロの卵の頃《ころ》、よく、ツケで飲ませてくれたものです。あけっぴろげで、気のいい人でした」
「彼女が、吉田康子さんに、顔がよく似ていたとは思いませんか?」
「そういえば、二人ともよく似ていましたね。だから、最初から、あのママさんに親しみを感じたのかな」
「彼女に、親しい男がいたという噂《うわさ》を聞いたことはありませんか?」
「さあ。何しろ、最近は、全然、あの店に行っていませんでしたから。それが、何か事件と関係があるんですか?」
「さあ。それがわかるといいんですがね。ところで、もう一つ、質問していいですか?」
「ええ。どうぞ。僕でわかることなら、何でも、答えますよ」
「バンカーショットの打ち方を教えてくれませんか?」
「え?」
一寸《ちよつと》、びっくりした顔になって、有藤は、十津川の顔を見た。十津川は、そんな相手に、微笑《びしよう》を返してから、
「僕も少しばかり、ゴルフをやるもんですからね。すぐ、バンカーに入れてしまうんですよ。それで、コツを教えて貰《もら》いたいと思うんですがね」
「そうですねえ。一番いいのは、バンカーに打ち込《こ》まなければいいんですが」
「成程《なるほど》。それは、確かにその通りですな」
と、十津川は、小さく笑った。
「自分でも、コースに出ると、バンカーに入れまいと思うんだが、そう思うと、かえって、バンカーに入ってしまうんですよ。あれは、おかしなものですね」
「コースを設計する方でも、そういう風に、バンカーを作ってありますからね。意識すると、かえって、バンカーに打ち込んでしまうように出来ているんです。僕も、プロになりたての頃は、よく、バンカーに打ち込みました。もっとも、おかげで、バンカーショットは上手《うま》くなりましたがね」
「ボールを、バンカーから出すコツは?」
「そうですねえ。まず、怖《こわ》がらないことですね。バンカーショットは難しいものだ、失敗するかもしれないと考えたら、たいてい失敗しますよ。技術的なことをいえば、平凡なことですが、きちんと振《ふ》り抜《ぬ》くことです。中途半端《ちゆうとはんぱ》に打てば失敗します。クロスバンカーと、ガードバンカーでは、打ち方に違いが生れて来ますが、打つときの心得は同じです。怖がらないこと、しっかりと打つことです。プロでもバンカーに入ると、どうしても消極的になりがちです。そうすると、プロでも失敗しますね。だから、ラフからは慎重《しんちよう》に。バンカーからは大胆《だいたん》にです。だが、下手《へた》な人は、これを反対にやってしまうのです」
「バンカーを恐《おそ》れずにか――」
と、十津川は呟《つぶや》いた。
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新たな脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》
ひかり75号≠ヘ、無事、午後二時三十一分の定刻に、名古屋に着いた。
那須高原には、すでに秋風が立っていたが、この都会には、まだ残暑が居すわっている。冷房《れいぼう》の利いた車内からホームに出ると、むっとする暑い空気が、十津川たちを取り巻いた。
名古屋クラシックは、名古屋市の北にある犬山《いぬやま》ゴルフ・クラブで開催される。名古屋駅から、車で、約三十分の距離《きより》である。
近くには、犬山城天守閣(現存する天守閣では最古といわれる)や、日本ライン、その他明治村などもある景勝の地である。近くを、名神《めいしん》高速道路が通っているので、有藤のように、新幹線で来るゴルファーもいれば、高速道路でやって来て、小牧《こまき》インターチェンジで出るゴルファーもいるだろう。
十津川は、有藤がタクシーに乗るのを見送ってから、まず、協力を頼《たの》むために、愛知県警本部に回った。いかに、警視庁|捜査《そうさ》一課の警部といえども、ここでは、他所者にしか過ぎないのである。
県警本部に行き、十津川が、事情を説明すると、応対に出た向こうの小野田警部が、心良く引き受けてくれた。十津川より十歳くらい年長の実直そうな警部である。
「それで、十津川さんは、今度も、有藤プロが狙《ねら》われると、お考えなわけですな?」
「犯人の目的が、有藤プロを射殺することだったとすれば、新那須カントリー・クラブで失敗したわけですから、今度も狙うでしょう」
「警備は引き受けますが、ゴルフコースは広いですからなあ。前のように、犯人が狙うのは、最終日の18番グリーンとわかっていれば楽なんですが」
小野田警部が、苦笑しながらいう。彼自身にも、犯人が、同じ手を使わないことは、想像がつくからだろう。
「そうですな」
と、十津川も笑った時、近くにあった電話が鳴った。受話器を取った若い刑事が、小野田警部を呼んだ。
ゴマ塩頭の小野田警部は、受話器をつかんで、言葉少なく応答していたが、電話を切ると、笑いを消した顔で、十津川を見た。
「どうやら、あなたの予感は当たったようです。今、今度の名古屋クラシックの実行委員長から電話があったんですが、やはり、あなたのいわれたと同じ脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》が届いたそうです。くわしいことは、電話ではまずいというので、これから、犬山ゴルフ・クラブへ行くつもりですが、十津川さんも、一緒《いつしよ》に行かれるのでしょう?」
「そのつもりで、名古屋へやって来たのですよ」
黒塗《くろぬ》りの覆面《ふくめん》パトカーで、東京と名古屋の二人の警部は、犬山に向かった。
41号線を北上し、犬山市に入る手前で右に折れると、入鹿《いるか》池の近くに、有名な明治村がある。
犬山ゴルフ・クラブは、明治村に続く丘陵《きゆうりよう》の上に広がっていた。
三階建のクラブハウスの二階に、委員会室があった。新那須カントリー・クラブのように、近くにホテルがないので、参加するプロは、犬山市内のホテルに泊《とま》るということだった。
窓から、コースが見え、その向こうに、犬山城の天守閣が見えた。
実行委員長は、この地方のゴルフ界の長老で、大川という老人だった。
「とにかく、ご覧になって下さい」
と、大川は、当惑《とうわく》した表情で、白い封筒《ふうとう》を、十津川たちに見せた。まず、小野田警部が手に取り、中の便箋《びんせん》を抜《ぬ》き出した。
その間に、十津川は、前の事件の時に送りつけられた脅迫状をポケットから出して、テーブルの上に置いた。
二つ並《なら》べると、一目|瞭然《りようぜん》だった。
筆跡《ひつせき》も同じだったし、文句も同じである。
〈おれは、あいつを殺す〉
と、今度の脅迫状にも書いてあった。消印を見て、十津川が、おやッという表情になったのは、名古屋の中央郵便局になっていたからである。日付は、昨日の午前九時になっている。東京で投函《とうかん》したのではないのだ。ということは、犯人は、すでに、名古屋に来ているのか。
「新那須カントリー・クラブでのトーナメントでも、同じことがあったそうですね?」
と、大川は、声をふるわせてきいた。
「その通りです」と、十津川は肯《うなず》いた。
「まあ、そうですが。ところで、今度のトーナメントには、何人のプロが参加するんですか?」
「八十四名です」
「ずい分、多人数ですね」
「このくらいが普通《ふつう》ですよ」
「ゲームは、四日間ですね」
「そうです」
「ギャラリーの予定は、何人ぐらいです?」
「日本の有名プロは、全員参加しますから、やはり、一万人前後は、来るだろうとふんでいます」
大川は、自慢《じまん》そうに話してから、急に、不安気な眼《め》になって、
「また、ギャラリーに、死人が出るようなことはないでしょうな。何といっても、プロにとってギャラリーは、大切ですから」
「そういうことを防ぐために、われわれは、やって来たんですよ」
と、小野田警部は、落ち着いた声でいった。
とにかく、二人で、広いコースを一応、見て回ることにした。
コースのところどころで、すでに、参加プロが、練習をしている。その邪魔《じやま》にならないように、二人は、コースの端《はし》を並《なら》んで歩いた。
「有藤プロが狙《ねら》われる動機は、わかったんですか?」
歩きながら小野田警部がきく。
「まだです。今、東京で、部下が調べている最中ですが」
「私には、どうもよくわからないことがあるんですが」
「どんなことです?」
「さっき、クラブハウスで見た脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》のことですがね」
小野田警部は、ゴマ塩頭に手をやりながらいった。
「誰《だれ》が見ても、同じ筆跡とわかりますね。あれでは」
「そうですね」
「犯人なら、尚更《なおさら》でしょう。それなのに、何故《なぜ》、同じ文句の脅迫状を書いてよこしたのか、そこが、一寸《ちよつと》わからなかったんですがね」
「それが不思議ですか?」
「新那須カントリー・クラブの時、あいつを殺す≠ニいう文句は、一体、誰が狙《ねら》われているのかということで、警察や、実行委員会を迷《まよ》わせるのに役に立ったと思うのです。しかし、犯人は、最後の18番グリーンで、有藤プロを狙って失敗し、ギャラリーを巻き添《ぞ》えにしてしまったわけでしょう」
「その通りです」
「つまり、犯人の狙いが、有藤プロだということは、明らかになったわけです。それなのに、犯人は、まだ、脅迫状に、あいつ≠ネどという、あいまいな言葉を使っている。そこのところが、よくわからないのですよ。有藤プロに対する憎《にく》しみが、強ければ強いほど、犯人の心理として、有藤を殺してやる≠ニ、ズバリと書きたいものだと思うんですがねえ」
十津川は、小野田という警部を見直す眼になった。一見したところ、風采《ふうさい》のあがらない顔をしているが、ポイントはちゃんとつかんでいるのだ。
「小野田さんは、何故だと思いますか?」
と、十津川は、きいてみた。彼には、自分が、東京の本庁の刑事だというエリート意識はない。頭の切れる刑事は尊敬するし、鈍《にぶ》い刑事は嫌《きら》いである。
「そうですなあ」
小野田警部は、小太りのせいで暑さがこたえるのだろう。しきりに、襟首《えりくび》の汗《あせ》をハンカチで拭《ふ》きながら、
「わかりませんなあ。犯人がズボラで、面倒臭《めんどうくさ》くて、同じ文面の脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》にしたのかとも思ったんですが、わざわざ、名古屋まで来て投函《とうかん》していますからね」
「僕《ぼく》も、犯人が、名古屋へ来て投函しているのが、一寸《ちよつと》意外でしたよ。当然、東京で投函するものと思っていましたからね。その理由がよくわからない。おれは、もう名古屋に来ているんだぞという示威《じい》行動なのかもしれませんね」
「私には、もう一つ腑《ふ》に落ちないことがあるんですが」
小野田警部が、遠慮《えんりよ》がちにいった。
「どんなことです?」
「これは、さっきの疑問とも関係してくるんですが、犯人が有藤プロを憎《にく》んでいて、殺そうとしているのなら、何故《なぜ》、脅迫状を、有藤プロ本人に出さないんでしょうか。私が犯人で、何かの理由で、有藤プロを憎んでいるとしたら、実行委員会|宛《あて》にではなく、本人に脅迫状を出しますな。前の失敗で、狙《ねら》っているのは、有藤プロとわかってしまったのだし、ゴルフはやったことがありませんが、メンタルなスポーツと聞いています。実力、人気ともトップクラスの有藤プロでも、命が狙われるとなれば、ナーバスになって、スコアを乱すでしょう。それも、有藤プロに対する復讐《ふくしゆう》の一つのような気がするんですがねえ」
「それは、僕も考えました」
と、十津川は、歩きながら答えた。
「犯人の心理はわかりませんが、僕なりの推測をいえば、二つ理由があるような気がするのです。一つは、犯人が、自己|顕示欲《けんじよく》の強い人間ではないかということです。前の新那須カントリー・クラブでも、最終日の最終18番ホールの、しかも優勝のかかった有藤のパットの時、犯人は狙撃《そげき》しています。そのためには、有藤プロに、最終日まで残っていて貰《もら》いたい。もし、有藤プロ自身に脅迫状を出すと、今、あなたのいわれたように、ナーバスになって、一日、二日の予選の段階で姿を消してしまうかもしれない。それでは、犯人の自己顕示欲が満たされない」
「確かにそうですな。第二の理由は?」
「犯人が、東京にいて、何等かの理由で、最終日にしか名古屋に来られないということです。そうなると、有藤プロには、最終日まで残っていて貰わなければならない。優勝するかしないかは別として、今の有藤プロの実力からみて、心理的な動揺《どうよう》さえなければ、最終日まで残るでしょう。だから、わざと、実行委員会|宛《あて》に出した。実行委員が、それを有藤プロに見せる筈《はず》がありませんからね。犯人は、自己満足と、実質利益の両方が得られるわけです」
「確かに、そういう考え方もありますな」
と、小野田警部は、感心したように肯《うなず》いたが、その言葉を口にした十津川自身、その推理に、かすかな疑問を感じていた。
十津川は、小野田警部とコースの下検分をすませると、警備の方法などは、あくまで、愛知県警に委《まか》せ、自分は、その協力者ということに決めて、いったん、犬山市内のホテルに落ち着いた。
名古屋クラシックに参加する八十四名のプロの中、名古屋在住者は、自宅から通うが、他の六十二名は、犬山市内の二つのホテルに分れて泊《とま》っていた。十津川が、トーナメントの四日間泊ることにしたのは、勿論《もちろん》、有藤プロの泊っている犬山第一ホテルの方だった。
十津川は、自分の部屋へ入ると、すぐ、東京の捜査《そうさ》本部に電話を入れた。時刻は、もう午後六時を回っていて、向こうの捜査本部にも、部下の鈴木刑事たちが、捜査から帰って来ていた。
「何かわかったか?」
と、十津川がきくと、電話口に出た鈴木刑事が、
「三つばかりわかりましたが、それが果して事件を解く鍵《かぎ》になるかどうかわかりません」
「まあ、いいから話してみろ」
「第一は、例の江田真という私立|探偵《たんてい》の経歴ですが、高校卒業したあと、三年間、自衛隊にいたことがわかりました。三年目に女のことで問題を起こし、依願退職の形でやめ、そのあと、いろいろな職業についてから、日本第一探偵社に入社しています」
「自衛隊にいたとすると、銃《じゆう》の射撃《しやげき》には慣れているわけだな」
「自衛隊時代、射撃の腕《うで》は、かなりのものだったようです」
「面白い。ところで、江田は、今日、そっちにいるのか?」
「ええ。事務所にいます。次は殺された守山道子のやっていた新宿のバーザ・マウンテン≠ェ、売られて、名前が代わりました」
「誰が売ったんだ?」
「それが、種村明夫という二十七歳のニヤけた男です。彼女の住んでいたマンションの方も、その男が、売り払《はら》ってしまいました」
「何者なんだそいつは?」
「城東大を中退した男で、結婚サギの前科が一つあります。色の白い背のひょろ高い男で、守山道子のマンションやバーの権利書や実印を持っていたところをみると、内縁《ないえん》の夫といった立場だったのかもしれません。田中刑事が会ったところでは、彼女と熱烈《ねつれつ》に愛し合っていたと、うそぶいていたそうです。まあ、ヒモみたいな存在だったんじゃないですか。店の人間も、彼女に、そんな男がいたとは気がつかなかったといっています」
「マンションと店を売ったとすると、相当の金が、その種村という男に入ったんじゃないのか?」
「約三千万円くらいは入ったと思います。面白いことに、この男は、大学時代、ゴルフ部に所属していました。多分、ゴルフを通じて、守山道子と知り合ったんだと思います」
「第三は?」
「吉田康子未亡人の件ですが、彼女は、夫の喪《も》に服していて、新那須カントリー・クラブには行っていません。これは、証言者がいるので間違《まちが》いありません」
「銃《じゆう》の方は?」
「残念ながら、この方は、全く手掛《てが》かりなしです。米軍にも問い合わせているんですが、なかなか、満足するような回答は来そうもありません。自衛隊の方は、最近、盗まれたライフルはないということです」
「すると、自製の銃ということになるのかな?」
「その線も追っているんですが、さっきも申しあげた通り、まだ、何もつかめていません。拳銃《けんじゆう》なら、モデルガンを、個人でも、割りと簡単に、改造できますが、ライフルとなると、そうもいかないと思うのです」
「だろうな。もう一つ、吉田専太郎を轢《ひ》き殺した人間の方はどうだ? 何かわかった?」
「例のフォード・ムスタングが乗り捨てられていた井《い》の頭《かしら》公園周辺を中心に、聞き込《こ》みをやったのですが、乗り捨てられたと思われるのが、何しろ夜なものですから、これはという目撃者《もくげきしや》は、まだ出て来ません。若いアベックが、黒い人影が、降りるのを見たといっていますが、どうも男のようだったというだけで、はっきりしていません。もっとも、婚約中の男女ですから、自分たちのことで精一杯《せいいつぱい》で、まわりの景色《けしき》なんか、殆《ほとん》ど、眼に入らなかったんでしょうが」
電話の向こうで、鈴木刑事が笑った。
「ところで、警部の方はどうですか?」
「例の脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》が、また実行委員会|宛《あて》に送られて来たよ。筆跡《ひつせき》も、文面も、全く同じだ」
「しつこい犯人ですな」
「ああ、そうだ。また、多分、有藤プロを狙《ねら》うだろう。だから、私立|探偵《たんてい》の江田真やプロの卵の早山克郎なんかの動きに注意していて、こちらに来るようだったら、すぐ連絡してくれ」
「わかりました」
十津川は、電話を置くと、考える眼になって、煙草《たばこ》に火をつけた。
私立探偵の江田真が、昔《むかし》、自衛隊に三年間いたというのは、面白い事実だ。三年間もいれば、ライフル射撃《しやげき》は慣れているだろう。それに、もともと、あの私立探偵には、おかしいところがある。
もう一つは、種村明夫という妙《みよう》な男の出現だ。鈴木刑事は、守山道子のヒモだったんではないかという。今のところ、事件に関係がある人間のようには思えないが、犯人が、有藤プロを狙撃《そげき》して、誤って、ギャラリーの守山道子を射殺してしまった。少なくとも、表面上は、そう考えられる。だが、守山道子が死んで、三千万円もの金を手に入れた男の出現が、十津川には、どうしても気になるのだ。
それに、その種村明夫という男は、大学時代、ゴルフ部にいたという。それも何となく気になるのだが。
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三人目の犠牲者《ぎせいしや》
名古屋クラシックは、ようやく秋風の立ち始めた犬山ゴルフ・クラブで始まった。
ゴマ塩頭の小野田警部は、悠然《ゆうぜん》と、コース内をギャラリーと一緒《いつしよ》になって歩き回っていた。彼の部下たちが、どんな風に配置され、動いているのか十津川は知らなかったし、小野田警部に、聞くこともしなかった。それは、小野田警部の、ぼうようとした風貌《ふうぼう》に似合わない頭の良さを信用していたからでもあったし、ここは、愛知県警の縄張《なわば》りだったからでもあった。
第一日、第二日と何事も起きなかった。
異変らしいことといえば、二日間を通じて、優勝候補の筆頭にあげられていた有藤が、大きくスコアを乱し、それに付き合う格好で、対抗馬《たいこうば》と目されていた赤木まで、二日間を通じて、やっと、パープレーという不調だった。
二人とも、どうにか、三日目からの決勝には残ったものの、首位とは、一〇ストローク引き離《はな》され、優勝は、絶望視されてきたことぐらいだった。
もっとも、この二人の不調に対して、今まで、無名に近かった地元プロの新城が、一〇アンダーで首位を突《つ》っ走り、ギャラリーの人気を独占《どくせん》した。
二日目の夜、ホテルから、東京に電話した十津川は、部下の鈴木刑事から、興味ある報告を受けた。
「どうやら、関係者全員が、そちらへ行くようです」
「全員?」
「まず、私立|探偵《たんてい》の江田真ですが、彼は結婚調査のために大阪へ行くので、その帰りに名古屋へ寄って、最終日の決勝を見物するといって、今日、車で出かけました」
「本当に、大阪の結婚調査があるのか?」
「それはわかりません。とにかく、私が行った時は、彼は、そういっていました」
「他には?」
「例の、守山道子の財産を引き継《つ》いだ種村明夫です」
「君が、彼女のヒモだといった男か」
「そうです。彼も、買ったばかりのスポーツカーで、名古屋クラシックを見に行くそうです。早山克郎は、もう、そっちへ行っているでしょう?」
「今日、ちらっと、彼の姿を見たよ」
「もう一人は、殺された吉田専太郎の未亡人の吉田康子です」
「彼女も、こっちへ来るのか? 何故《なぜ》?」
「彼女の場合は、彼女自身の意思というより、そちらの実行委員会の招待という形です。なんでも、不慮《ふりよ》の死をとげた吉田専太郎氏の生前の功績をたたえる意味で、名古屋クラシックの優勝者に、トロフィーを渡《わた》す役をやって欲しいと、今日、そちらから電話があったそうです。未亡人も、ゴルフ界のために、少しでも役に立つならということで承知したといっていました。ですから、彼女も、最終日には、そちらへ行く筈《はず》です」
「すると、最終日には、全員、ここのコースに勢揃《せいぞろ》いするというわけだな」
「その中に、犯人がいると、面白いんですが」
と、鈴木刑事が、電話の向こうでいった。
東京からの情報は、翌日、コースで、県警の小野田警部に伝えた。
「なかなか、興味がありますな」
小野田警部は、そんないい方をした。二人は、ギャラリーの流れと一緒《いつしよ》に歩きながら、小声で話し合った。
時々、「わあッ」というギャラリーの歓声があがる。勿論《もちろん》、二人は、そんなギャラリーの歓声には無関心だった。
「すると、彼等が全員集まる最終日が、われわれにとっても、勝負になりますな」
小野田警部が落ち着いた声でいう。
「多分、そうなるでしょう」
「新那須カントリー・クラブの時のように、犯人は、劇的効果を狙《ねら》って、最終18番ホールで、有藤プロを殺そうとするかどうか」
「そこが問題です。新那須カントリー・クラブの時は、有藤プロは優勝しています。そして、彼の最終パットに、優勝がかかっていた。その劇的なパットの一瞬《いつしゆん》を狙って、犯人は狙撃《そげき》したのです」
「しかし、今度のトーナメントでは、有藤プロは、全く振《ふ》るわない」
「そうです。彼自身、もう、優勝は諦《あきら》めている節があります」
「今日も、依然《いぜん》として、パットが決まらず、スコアを乱しているようですな」
小野田警部が合づちを打つ。ゴルフのことは、全く知識がないといっていたが、いつの間にか、勉強したらしい。
「このままでいけば、有藤プロの優勝はないでしょう。ということは、犯人は、劇的に、有藤プロを狙えないということです」
「成績が悪いと、最終日のスタートは、早くなるわけでしょう?」
「そうです。三日目までに成績が一番いいプロのパーティが、最終組ということになります。新那須カントリー・クラブの場合は、二人一組のパーティでしたが、今度は、三人が一つのパーティです。有藤や赤木プロが不振《ふしん》といっても、人気者ですから、ギャラリーは多いですが、今、首位を突《つ》っ走っているのが、地元の新城プロですから、彼の入るパーティが、やはり、一番ギャラリーを集めると思います」
「すると、犯人が、自己|顕示欲《けんじよく》が強い人間の場合、劇的な効果を狙《ねら》って、有藤プロを狙撃《そげき》することは、まず、無理になったわけですな」
「その通りです。しかし、僕《ぼく》は、今度のトーナメントで、有藤プロの成績が悪いことを、彼には気の毒ですが、内心、喜んでいるんです」
「何故《なぜ》です?」
と、小野田警部がきく。十津川は、すぐには答えず、煙草に火をつけてから、自分の考えを整理するような調子で、
「新那須カントリー・クラブでの事件は、犯人が、有藤プロを狙撃して、あやまって、ギャラリーの一人を射殺したことになっています。捜査本部全体の考えも、そうです。しかし、僕は、ひょっとすると、犯人は、最初から、ギャラリーの守山道子が、狙いだったのではないか、あれは、誤って、彼女を殺したのではなく、彼女を狙って射《う》ったのではないのかと考えることがあるのですよ」
「人気、実力ともナンバー・ワンの有藤プロを狙っていると見せて、ギャラリーの一人を殺す。誰《だれ》もが、犯人は、有藤を狙ったのが、外れて、不運にもギャラリーの一人が死んだと思う。捜査の方向を誤らせるわけですな」
「ええ。これは、僕だけの考えに過ぎないし、想像の域も出ていないのです」
「わかりました。それで、今度、有藤プロの成績の悪さを、喜んでおられるわけですな。犯人が、どう出るかで、あなたの想像が当たっているかどうか、目安がつくということで」
「まあ、そうですが、犯人が一体どう出てくるか」
十津川は、ひどく難しい顔になっていた。彼の想像が、もし当たっているとすれば、今度のトーナメントで、本当に狙《ねら》われるのは、有藤プロではなく、東京からくる江田たちの中の一人である可能性が強いのだ。
三日目も、依然《いぜん》として、有藤、赤木ともスコアが伸《の》びずに終った。二人とも、バーディのあとに、ボギーを出すという不安定さだった。他の有名プロも、「難しいコースだ」と顔をしかめている。その中で、地元の新城プロだけが、依然として好調を持続し、二位を、三日目で、すでに五ストローク引き離《はな》した。
初めてのクラシック優勝を目ざす新城プロに、地元ということで人気が集まり、有藤や赤木よりギャラリーを集めるという、最近では珍しい現象が生れた。
最終四日目の日曜日は、朝から爽《さわ》やかな秋晴れということもあって、ギャラリーが、続々とつめかけた。
十津川は、その中に、江田の顔を認めたが、すぐ、ギャラリーの波の中に入ってしまってわからなくなった。種村明夫という男も来ているのだろうが、顔を知らない十津川にはわからなかった。
有藤プロと一緒《いつしよ》の三人のパーティは、成績の悪いせいで、早々とスタートし、テレビ放送の始まった午後三時半には、もう最終18番グリーンをあがっていた。有藤は、三バーディ、一ボギーで、二ストローク縮めたものの、その時点で十二位という成績だった。早々に、クラブハウスのレストランに入って、長い足を投げ出すようにして、レモンスカッシュを飲んでいた。
十津川が入っていくと、有藤は、照れたように、お手あげの格好をして見せた。十津川は、彼の傍《そば》に腰《こし》を降ろし、自分も、同じものをウェイトレスに頼《たの》んだ。
「少し調子が悪かったようですね」
と、十津川が声をかけると、
「実力が出ただけのことですよ」
と、有藤は笑い、
「おかげで、新那須カントリー・クラブの時みたいに、誰かに狙《ねら》われずにすみましたがね」
「そうですね」
十津川は、複雑な表情で、考え込《こ》んだ。まだ、コースでは、試合が続行されている。
犯人は、今度の名古屋クラシックに対しても、前の新那須カントリー・クラブの時と同じ脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》を寄越《よこ》した。
ということは、同じように、有藤プロを狙うか、或《あるい》は、有藤プロを狙っていると見せかけて、誰かを狙うと読んでいたのだが、今、すでに有藤プロが、プレーを終ってしまったのに、犯人は、何もしていない。これは、どういうことなのだろうか。
その頃《ころ》、新城プロは、初優勝をめざし、大勢のギャラリーに取り囲まれて、最終18番コースへ、他の二人のパートナーと一緒《いつしよ》に到着《とうちやく》していた。
二位の台湾《タイワン》の選手との間には、17番まで三ストロークの差がついていた。よほどのアクシデントがない限り、新城プロの初優勝は動かないだろう。
ここの18番ホールは、四一五ヤード・パー4のミドルホールである。
第一打は、池|越《ご》えに打つことになる。コースの両側は、雑木林と、低い丘《おか》になっていた。
まず、オナーの新城プロが、ドライバーを打った。
軽く池を越えたが、慎重に打った感じで、二四〇ヤードぐらいの飛距離《ひきより》しか出ていないが、新城プロとしては、この最終ホールを堅実《けんじつ》にパーでまとめれば、優勝は堅《かた》いと計算したのだろう。
他の二人は、オーバードライブしたが、三十一歳の新城プロは、ニコニコ笑っている。地元コースだから、あそこまで飛べば、パーは堅いと確信しているからだろう。
一万人近いギャラリーが、三人を、というより、新城プロを囲むようにして、ゾロゾロと、人の流れを作って、グリーンに向かって移動している。
池の上には、細い木の橋が、かかっていて、新城プロは、ゆっくりその上を渡《わた》って行った。顔見知りらしいギャラリーが、気軽く、彼の肩《かた》を叩《たた》いて、「がんばれよ」と声をかけたりしているのは、やはり地元プロのせいだろう。
だが、事件が起きたのは、その直後だった。
銃声《じゆうせい》は聞こえなかった。が、突然《とつぜん》、新城プロのすぐうしろを歩いていた男が、悲鳴をあげて、木橋から池に転落した。激《はげ》しい水音があがった。
次の瞬間《しゆんかん》、ギャラリーの中に混じっていた県警の刑事の一人が、新城プロに飛びついて、橋上に押《お》し倒《たお》し、自分の身体でかばった。
第二|弾《だん》が、飛んで来たのは、その直後である。それは、橋の手すりに命中し、木片が派手に空中に飛び散った。
他の二人の刑事が、弾丸が飛んで来たと思われる雑木林の向こうにある丘《おか》に向かって駈《か》けあがった。
しかし、すでに犯人の姿はなく、丘の反対側には、低い樹木が並《なら》び、その向こう側の道路には、何事もなかったように、自動車が往来していた。
十津川は、知らせを受けて、18番コースの池に向かって、走った。
試合は、一瞬《いつしゆん》、中断されてしまっていた。
ギャラリーは、池を取り巻いていた。そんな中で、蒼白《そうはく》な顔で立ちつくしている新城プロの姿が印象的だった。他の二人のプロも、ぼうぜんとした顔で、橋の上から、池を見降ろしている。
若い県警の刑事が、服のまま、池に飛び込《こ》んで、橋から落とされた男を引っ張りあげた。が、その男の身体からは、血が流れ出て、顔には、もう生気がなかった。池の水面には、まっ赤な血の流れが広がっていく。
女性のギャラリーの中には、思わず、顔を両手で覆《おお》ってしまう者もいた。
男の脈をみたり、心臓に耳を当てたりしていた刑事は、上司の小野田警部に向かって、首を横にふって見せた。
「駄目《だめ》です。死んでいます」
「すぐ、本部へ連絡《れんらく》しろ」
と、小野田警部は、部下に命令してから、自分の横に来ていた十津川に、
「この男に見覚えが、おありですか? つまり、一昨日、あなたがいわれた東京の関係の一人かどうかということですが」
「僕も、今、同じことを考えていたところです」
十津川は、じっと、足下に横たわっている男の死骸《しがい》を見降ろした。血は、まだ流れ続けている。五十歳くらいの年齢だろう。私立|探偵《たんてい》の江田真でも、早山克郎でもなかった。もう一人の男、種村明夫の顔は、知らないが、鈴木刑事の話では、二十七歳で、なかなかの好男子だというから、この中年男の死体である筈《はず》がなかった。
着ている洋服は、いいものだが、指先は太く節くれだっている。十津川の全く知らない男だった。有藤プロか、東京からやってくる江田たちの一人が狙《ねら》われると予想していたのに、三人目の犠牲者《ぎせいしや》は、全く新しい中年男だったのだ。
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64式|小銃《ライフル》
中年男の遺体が、県警のトラックで運ばれたあと、プレーは再開された。新城プロには、自分が狙《ねら》われたという気持ちがあるせいか、さすがに動揺《どうよう》はかくし切れず、18番でボギーを叩《たた》いてしまったが、それまでの貯金が物を言って、初優勝し、東京から名古屋に来ていた吉田未亡人から、優勝トロフィーと、賞金を受け取った。
そうした表《ひよう》 彰《しよう》 式《しき》の間も、十津川や、県警の小野田警部たちは、現場|附近《ふきん》を調べ回っていた。
犯人が狙撃《そげき》したと思われる丘《おか》の上からは、薬莢《やつきよう》が、二個発見された。新那須カントリー・クラブでは、発見されなかったものである。あの時は、犯人は、一発しか射《う》たなかったので、薬莢を拾って逃《に》げるだけの時間的な余裕《よゆう》があったのだろう。
「どう思います?」
と、小野田警部は、まだ続いている表彰式を、遠くから眺《なが》めながら、十津川の意見をきいた。
「犯人は、新城プロを狙ったのだと思いますか?」
「少なくとも、われわれに、そう思わせたがっているようですな」
と、十津川はいった。
「それは、二発、犯人が射《う》ったからですか?」
「ええ。僕《ぼく》は、犯人がやり過ぎたと思う。あくまでも、優勝した新城プロを狙《ねら》ったように見せかけるために、わざわざ、二発射って、木橋の手すりを吹き飛ばして見せた。僕は、そう見たのです。この推測は、間違《まちが》っているかもしれませんが」
「新城プロは、自分が狙われたと思ったでしょうね」
小野田警部は、白髪まじりの頭に手をやった。それが、この県警の警部の考えるときの癖《くせ》のようだった。
「身をもって、新城プロをかばった形の私の部下も、多分、そう感じたでしょうね。自分の頭の上、すれすれに弾丸《だんがん》が飛び、木橋が飛び散ったんですから」
「じゃあ、あなたは、僕の考えに反対ですか?」
「いや。そうはいっていません。ただ、あなたは、犯人が、有藤プロを狙撃《そげき》すると見せかけて、他の者を狙うとすれば、東京から来ている、第一の事件の関係者の誰《だれ》かの筈《はず》だとおっしゃったものですからね」
小野田は、十津川の痛いところを突《つ》いて来た。十津川は、唇《くちびる》を噛《か》むより仕方がない。確かに、その点で、彼の見込《みこ》みは違ったのだ。しかし、今度の事件にぶつかってみると、優勝プロばかりを狙う変質者とは、どうしても思えなくなってくるのだ。プロテストを何回受けても合格できない人間がいて、プロの優勝者を逆恨《さかうら》みして狙撃《そげき》したということも考えられないわけではない。だが、二度も続けて、失敗するだろうか。しかも、二度とも、ギャラリーが殺されているのだ。
「殺された男の身元は、いつわかります?」
「多分、今夜中には、わかるでしょう。わかり次第、あなたにもお知らせします」
と、小野田警部は、約束《やくそく》した。
その夜、おそく、十津川の泊《とま》っている犬山市内のホテルに、小野田警部が、わざわざ訪ねて来た。時間は、すでに、午前零時に近い頃《ころ》である。
「電話でもと思ったんですが、一寸《ちよつと》、面白いことがわかったので、こんな時間ですが、お邪魔《じやま》する気になったのですよ」
小野田は、椅子《いす》に腰《こし》を降ろし、興奮《こうふん》した口調でいった。
「すると、死んだ男の身元がわかったんですね?」
十津川も、ベッドの端《はし》に座り直した。
「そうです。名前は、津山好一郎。年齢四十八歳。勿論《もちろん》、家族もいます」
と、小野田警部は、手帳を見ながら説明した。
「職業は?」
「現在、名古屋市内で、自転車屋をやっています。最近のバイコロジーブームで、商売の方は上手《うま》くいっていたようです。妻君と子供が一人いて、ゴルフ好きは、近所でも評判だったようです」
「しかし、それだけのことなら、わざわざ、いらっしゃらなかったでしょう? ゴルフ好きの自転車屋の主人では、別に、前の事件とは、何の関係もなさそうだ――」
「その通りです。この津山好一郎は、父親が三か月前に死んだので、それ以来、家業の自転車屋の主人に納まったわけですが、それまで、名古屋市郊外にある三村工業株式会社の工場で、技術課長をやっていたんです」
「三村工業? どこかで聞いたような名前だが――」
「新聞で読まれたんでしょう。前に一度、過激派学生に、デモをかけられたことのある会社ですからね」
「そうだ。確か、自衛隊に納入する銃器《じゆうき》類を製造している会社でしたね」
「そうです。64式|小銃《ライフル》や、機関砲《きかんほう》などを造っている会社です」
「三か月前まで、そこの技術課長だった――」
「一寸《ちよつと》、面白いでしょう?」
「確かに、興味がありますね。いや、大いにあります。技術課長なら、64式|小銃《ライフル》につけるようなサイレンサーだって造れるだろうし、望遠レンズを取りつける装置も造れる筈《はず》ですね。それで、その三村工業では、製造過程で、ライフルが失くなったことがあるんですか?」
「少なくとも、表面上は、聞いたことがありませんね。しかし、ライフルが一丁でも、失くなったとなれば、大事ですからな。そうした事故があっても、社内で、適当に処理してしまったということも、十分に考えられます。それに、死んだ津山好一郎は、工場で、技術課長という責任ある地位にいたわけですから、製造過程で、報告書の数量を誤魔化《ごまか》し、64式小銃一丁を、誰かに売ったということは、考えられないことじゃありませんな」
「表面上は、事故がなかったとすると、津山という男は、普通《ふつう》に会社を辞《や》めているわけですね?」
「退職金もちゃんと貰《もら》っていますよ。会社では、辞めないように慰留《いりゆう》したくらいだから、技術者としてはかなり優秀だったんでしょう。しかし、父親が亡くなって、家業を継《つ》ぐというのでは仕方がないと、渋々《しぶしぶ》、辞表を受け取ったと、会社はいっています」
「会社での評判は、どうだったんですか?」
「問題はそこです。バクチ好きで、金に困っていたというようだと、金のために誰かに64式小銃を工場から持ち出して売り飛ばしたというのもわかるんですが、評判が、すこぶるいいんです。ゴルフが唯一《ゆいいつ》の道楽で、酒、バクチ、女、いずれにも手を出さず、家庭では子煩悩《こぼんのう》で通っていたし、金に困っていた様子もないのですよ。家業は自転車屋ですが、祖父の代から、かなり地所を持っていて、そこを今、駐《ちゆう》 車《しや》 場《じよう》にしていて、そこからだけでも、月に、二十万の収入はありますからね」
「前科はどうです?」
「ありません。それどころか、三村工業で働いていた頃《ころ》、人命救助で、警察に表彰《ひようしよう》されています。駅構内で、線路に転げ落ちた子供を、身を挺《てい》して助けたんです。これは、新聞にも出ましたよ。丁度、電車が入って来るところで、間一髪だったというので、当時評判になったものです」
「ふーむ」
と、十津川は、手をこまねいてしまった。
今日、コースで殺されたギャラリーが、自衛隊向けの64式|小銃《ライフル》を製造していた会社の技術課長をしていたというのは、面白い事実だ。犯人が、彼から、ライフルを手に入れたということは、十分に考えられるし、その場合は、死んだ男が、会社で働いていた頃だろう。ただ、小野田警部の言葉どおりだとすれば、津山好一郎という男が、警察|沙汰《ざた》になるのを覚悟《かくご》で、ライフルを誰かに盗み出して渡《わた》す理由がない。
「その男は、暴力団とは関係がなかったんですか?」
「脅《おど》かされて、止《や》むを得ず、ライフルを盗んで渡したのではないかというわけですな。しかし、今までのところ、暴力団との関係は出ていません」
「明日、家族の人に会ってみたいですね」
「われわれも、もう一度、明日、家族や友人に、事情を聞くつもりですから、その時、一緒《いつしよ》にいかがですか」
と、小野田警部はいった。
十津川は、翌日、小野田警部と一緒《いつしよ》に、殺された津山好一郎の遺族に会い、会社で、同僚《どうりよう》や上司にも会った。
その際、了解《りようかい》を求めて、十津川は、自分の知りたいことを、相手に質問した。
だが、その結果は、思わしいものではなかった。
小野田警部のいった通り、津山好一郎は、家庭的に恵まれていた。店は繁盛《はんじよう》していたし、土地を持ち、そこを駐《ちゆう》 車《しや》 場《じよう》にして、そこだけでも、月々、二十万円の収入があるのも事実だった。
「娘が、二か月前に結婚して、早く、初孫の顔が見たいものだと、それを楽しみにしていたんです」
と、妻君は、涙《なみだ》を流しながらいった。何もかも恵まれた男だったのだ。唯《ただ》一つ、恵まれていなかった点といえば、彼の兄弟が二人とも戦死していた。兄弟運がなかったことくらいだった。
三か月前に辞めた三村工業での評判は良かった。それは、公平に聞いていて、あながち死者に対する礼儀《れいぎ》からのお世辞とばかりは、思えなかった。
「とにかく、真面目《まじめ》で、研究熱心な男でしたよ」
と、直接の上司や、局長クラスまでが、口を揃《そろ》えていった。同僚や部下の受けも良かったようで、辞める頃は、娘の結婚のことばかり、話していたということだった。
十津川が、唯《ただ》一つ、その日の収穫だと思ったのは、三村工業で、最近、ライフルの紛失がなかったかと質問した時の反応だった。局長も、社長も、絶対なかったと断言したが、その表情に、困惑《こんわく》の色が走るのを、見たからである。小野田警部も、それに気付いたとみえて、会社を出たところで、
「どうやら、64式|小銃《ライフル》が、この会社から犯人に渡《わた》ったと考えてよさそうですな」
と、いった。
十津川は、黙《だま》って肯《うなず》いた。が、今の状態では動きが取れないことも感じ取っていた。これは、あくまでも、推測にしか過ぎなかったからである。犯人は、津山好一郎という四十八歳の男から、自衛隊用の64式小銃を手に入れた。望遠レンズと、サイレンサーのついたやつで、多分、弾丸《だんがん》も一緒《いつしよ》だろう。犯人は、そのライフルを使い、新那須カントリー・クラブで、ギャラリーの一人守山道子を射《う》ち殺した。人気プロゴルファーの有藤を狙《ねら》ったと見せかけてである。そして、今度は、地元で初優勝した新城プロを狙ったとみせて、津山を射殺した。多分、彼からライフルを手に入れたのがバレるのを恐《おそ》れてだろう。犯人は、津山が、有藤プロの近くにいる時を狙いたかったに違《ちが》いない。そうすれば、犯人は、有藤プロを殺したがっているのだという印象を与《あた》えられるからだ。だが、有藤は意外な不振《ふしん》で、地元の新城プロに、ギャラリーの多くがついてしまった。津山好一郎もである。だから、犯人は、新城プロを狙ったふりをして、津山を射殺するより仕方がなくなってしまった。疑われるのを恐れた犯人は、津山を射殺したあとも、あたかも、本当の狙いは、新城プロであるかのように見せかけるために、危険を犯し、もう一発射った。その時、犯人は、或《あるい》は、新城プロを射殺する気だったかもしれない。射殺すれば、芝居《しばい》には見えないからだ。が、小野田警部の部下が、素早く、新城プロを押《お》し倒《たお》し、その上に蔽《おお》いかぶさってしまったので、木橋の手すりを吹き飛ばすだけのことしか出来なかった。
十津川にも、ここまでは、推理できる。だが、肝心《かんじん》の証拠《しようこ》が一つもないし、何一つ不足のなかった津山好一郎が、何故《なぜ》、犯人に、ライフルを盗《ぬす》んで渡《わた》したのか、その理由がわからないのでは、話にならなかった。
「よほど、犯人は、津山好一郎にとって、恩義のある人間かもしれませんね」
十津川がいうと、県警の小野田警部も、私も、そう思いますといった。
「ああいう真面目《まじめ》な人間ほど、義理人情に弱いものですからな。私も、その線を調べてみたいと思っているのです。ただ、当人が死んでしまっているので、難しいと思いますが」
「僕《ぼく》は、東京に戻《もど》りますから、結果がわかったら知らせて下さい。事件の根は、やはり、東京にあると思いますので」
「私も、そう考えます」
と、小野田警部も、うなずいた。
その日の夜、十津川は、東京に帰った。
東京の捜査《そうさ》本部は、ほとんど、捜査について、進展を見せていなかった。無理もない面もあった。事件の関係者と思われる者が、全員、名古屋クラシックに出かけてしまっていたからである。
「ところで、彼等は、もう、東京に戻《もど》って来たかね?」
十津川が、きくと、鈴木|刑事《けいじ》が、
「私立|探偵《たんてい》の江田真、プロの卵の早山克郎、それに、吉田未亡人も、帰って来ていますが、守山道子のヒモだった種村明夫だけは、まだ戻っていません。大金が入ったし、新しいスポーツカーを手に入れたんで、ゴルフを見物したあと、遊び回っているんじゃないですか」
「そうかもしれないな。途中《とちゆう》には、箱根《はこね》、熱海《あたみ》、伊豆《いず》と、遊び場所には、不自由しないからな」
「一つ、言い忘れましたが、プロの卵の早山克郎ですが、父親が猟《りよう》が好きなので、彼も、何回か猟に行っていたことがわかりました」
「つまり、銃《じゆう》の扱《あつか》いに慣れているということか」
「そうです。江田も、元自衛隊員で慣れているし、早山も慣れているというわけです」
「その中、種村という男も、クレイ射撃《しやげき》の名手とわかってくるんじゃないのかね」
十津川は、皮肉でなくいった。捜査が進んでいる途中で、こんな時期がよくあるのだ。壁《かべ》にぶつかり、誰《だれ》も彼もが怪《あや》しくなってくる時期である。
死亡した津山好一郎の体内から出た弾丸《だんがん》、それに、ゴルフ場の木橋に命中した弾丸の二つも、東京に送られて来て、すぐ、科学警察研究所に回された。新那須カントリー・クラブで、守山道子を射殺した弾丸と比較《ひかく》するためである。
その結果は、一日おいて、十津川に、報告書の形で届けられたが、そこに書かれてあったのは、彼が予期したように、
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈同一の銃《じゆう》から発射されたもので、その銃は、64式|小銃《ライフル》と推定される〉
[#ここで字下げ終わり]
というものだった。これは、当然、予想されたことで、捜査が、これによって、進展したとはいえなかった。
他の面での捜査は、一向に進展しなかったし、愛知県警の小野田警部からも、津山好一郎について、その後、何の知らせも入って来なかった。恐《おそ》らく、いくら調べても、殺された津山好一郎に、後暗い面が発見できないのだろう。
十津川は、焦躁《しようそう》をかくして、冷静な表情でいた。まだ、殺し足りないでいるのなら、次のトーナメントを利用して、また、殺人を犯すかも知れない。そういえば、被害者《ひがいしや》は、全《すべ》て、ゴルフマニアだった。犯人は、これを利用したともいえる。
名古屋クラシックが終ってから五日目の朝だった。
十津川は、疲《つか》れた眼《め》で、朝刊を広げた。がその眼が、社会面の隅《すみ》に、突然《とつぜん》、釘《くぎ》づけになってしまった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈伊豆西海岸で、スポーツカー転落。運転していた東京|渋谷《しぶや》区××町の種村明夫さん(二十七歳)は、死体となって発見された〉
[#ここで字下げ終わり]
社会面の隅には、間違《まちが》いなく、そう書いてあったからである。
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大金の行方《ゆくえ》
その新聞記事によれば、西伊豆の若松崎《わかまつざき》&豪゚《ふきん》で、海に沈《しず》んでいるスポーツカーが発見され、静岡県警が引き揚《あ》げたところ、車内で死んでいる若い男が見つかり、持っていた名刺《めいし》や車検証から、東京都渋谷区××町の種村明夫さん(二十七歳)であることがわかったとある。
県警では、どうやら、事故の線を出しているらしい。
十津川は、伊豆半島の地図を持って来て、机の上に広げた。若松崎≠ヘ、半島のくびれた部分に近く、沼津《ぬまづ》から、三津浜《みとはま》を経て、大瀬崎《おおせざき》へ行く途中《とちゆう》にあった。
十津川は、まだ大学時代、夏休みにバスで、沼津から大瀬崎へ行き、旅館に三|泊《ぱく》ほどして、釣《つ》りや、泳ぎを楽しんだことがある。もう十年以上も前のことだ。
あの時、バスは、若松崎≠熬ハった筈《はず》だが、どの辺りだったか、はっきりした記憶《きおく》はない。ただ、沼津から大瀬崎へ行く道路は、舗装《ほそう》されているとはいえ、三津浜を過ぎると、片側は海、反対側は山がせまっていて、かなり危険だったことだけは覚えていた。道路は、時々、山の中腹のような高いところを走り、窓の下には、二、三十メートルの崖《がけ》と、その下に海が見えて、若い女性客が悲鳴をあげていた。
だから、事故で、スポーツカーごと海に落ちたことは、十分に考えられる。恐《おそ》らく、名古屋クラシックを見物したあと、種村明夫は、東名高速から抜《ぬ》け出して、西伊豆へ車を走らせたのだろうが、問題は、彼が、何故《なぜ》、そんな所に行ったかだ。
十津川は、すぐ、静岡県警に電話を入れた。詳細《しようさい》を知りたかったからである。向こうの電話に出てくれたのは、捜査《そうさ》一課長だった。
「あの事件なら、事故の可能性が強いですね。場所は、若松崎の近くで、道路が曲がりくねりながら、山の中腹を走っている所ですから。慣れたバスの運転手でも、怖《こわ》がるところです。多分、運転をあやまって、ガードレールを突《つ》き破って、転落したんでしょう。ガードレールが、ひん曲がっていましたから」
「解剖《かいぼう》はしたんですか?」
「静岡大学で、念のために行政解剖をしました。その報告によると、肺にあまり水は入っていないとのことです」
「ということは、殺してから、車ごと海に突き落とした可能性もあるわけですね?」
「その可能性は否定しません。ただ、岩の多い断崖《だんがい》を落下して、車体も、凸凹《でこぼこ》になっている有様ですから、途中《とちゆう》で、すでに死亡し、そのため、肺に殆《ほとん》ど水が入っていないとも考えられます」
「実は、ある理由で、こちらでもマークしていた男なのですよ」
「ほう」
「それで、お聞きするんですが、死んだ種村明夫が、何故《なぜ》、あんな所を、車を走らせていたかわかりましたか?」
「わかりましたよ。別荘を買うためです」
「別荘?」
「ええ。半月ほど前から、大瀬崎の近くで、別荘の建売が、ある不動産会社の手で始まったのです。そこの職員の話では、四日前の午後五時半|頃《ごろ》、被害者《ひがいしや》が現われて、手付金五十万円を払《はら》って帰ったそうです。丁度、夕食どきだったので、夕食をご馳走《ちそう》した。そのあとで帰ったので、少し薄暗《うすぐら》くなっていたといいますから、恐《おそ》らく、その帰りに海に転落したんでしょう。所持金は、四万円少ししか持っていませんでしたから、手付金だけ持って、やって来たんでしょうね」
「彼は、一人で、その別荘を見に来たんですか?」
「一人だったと、不動産会社の社員はいっています」
「その建売別荘の値段はいくらですか?」
「六百万から千五百万円までで、種村明夫さんは、一千万円のものを買うということで、手付金五十万を払《はら》ったそうです。自分の家もない人がいるのに、羨《うらや》ましいもんですな」
「しかし、死んでしまっては、何にもならんでしょう」
といって、十津川が、受話器を置いた時には、部下の刑事たちも、彼のまわりに集まって来ていた。
「どういうことなんでしょう?」
鈴木刑事がきいてきた。
「わからんな。興味があるのは、種村明夫が、別荘を見に行ったのが、四日前だということだ」
「つまり、名古屋のクラシックが終った翌日ということになりますね」
「そうだ。彼が、一度東京に戻《もど》ってから西伊豆へ行ったのか、直接、名古屋から行ったのかわからないが、とにかく、翌日出かけたことに変わりはない。何故《なぜ》、そんなことをしたのかだが」
「高級スポーツカーの次が別荘。急に大金を手にした男のやる普通の段階じゃありませんか」
「簡単にそういえるかな」
十津川は、窓の外に眼《め》をやった。種村明夫は、殺された守山道子のヒモだったという。彼女が殺されると、マンションや、新宿のバーを売り払った。恐らく、三千万か四千万|或《あるい》は、それ以上の大金を手に入れただろう。二十七歳の若さなら、鈴木刑事のいうように、まず、その金でスポーツカーを買い、次に、別荘を手に入れたがるのは、普通《ふつう》のことかもしれない。
(すると、守山道子を殺したのは、種村ということになるのか?)
彼女の財産欲しさに、彼女のゴルフ好きを利用して、あたかも、有藤プロを狙撃《そげき》したふりをして、ギャラリーだった彼女を殺し、次に、名古屋クラシックで、64式|小銃《ライフル》の入手先である津山好一郎をも射殺した。優勝した地元の新城プロを狙《ねら》ったふりをして。
「どうもわからんな」
と、十津川は、声に出して呟《つぶや》いた。もし、種村が犯人なら、全《すべ》てをやりとげたところで、あたかも、天罰《てんばつ》を受けたように、車が海に転落して死んでしまったことになる。事件は終ったのだ。
だが、最初の犠牲者《ぎせいしや》である、吉田専太郎はどうなるのか。種村明夫が犯人なら、何故《なぜ》、吉田専太郎まで殺さなければならなかったのだろうか。
「第一の被害者《ひがいしや》の吉田専太郎の方は、その後、何か進展があったかね?」
十津川は、部下の刑事たちの顔を見回した。
「残念ですが、あまり進展がありません」
と、永井刑事が、申しわけなさそうにいった。
「殺された当日の行動が、なかなかわかりませんし、有藤プロの車を盗《ぬす》んだ犯人の目星もつきません。ただ、例の銀座のバーのマダムのことですが」
「確か、事件当日の午後六時|頃《ごろ》、タクシーの中から、東京駅|附近《ふきん》で、誰《だれ》かと並《なら》んで歩いている吉田専太郎を目撃《もくげき》した女性だったな。名前は、何といったかな?」
「南陽子。三十歳です。その後、彼女が殺された守山道子と一緒《いつしよ》に、バーのマダムやホステスで作っているゴルフクラブのメンバーの一人とわかりました」
「すると、新那須カントリー・クラブのトーナメントや、名古屋クラシックにも、行っていた可能性があるな?」
「そうです。当人は、行きたかったが、店が忙《いそが》しかったので行けなかったといっています。しかし、ホステスに、そっと聞いたところでは、彼女は、どっちのトーナメントの最終日にも、店を休んだということです」
「そいつは面白いな」
「もう一つ、東京駅で見たという、吉田専太郎と一緒にいた人間のことですが、彼女は、どうも二十代の若さの男で、かなり背が高く見えたといっています」
「二十代というと、プロの卵の早山克郎と、西伊豆で事故死した種村明夫が考えられるが」
「それに、どちらも、一八〇センチ近くあって、プロゴルファーとしては背の低い吉田専太郎と並《なら》べば、二人とも大きく見えます」
「二人の写真は、彼女に見せたのか?」
「見せましたが、車の中から見たのだし、吉田専太郎の方に注意していたので、連れの男は、二十代くらいの若さで、背の高いことしか覚えていないといっています」
「それが、種村明夫とすると、何故《なぜ》、吉田専太郎と、そんな時間に会っていたかが問題になるな」
「殺された守山道子は、吉田専太郎からゴルフのレッスンを受けているし、彼女のバーザ・マウンテン≠ヘ、プロゴルファーの溜《たま》り場でもありました。吉田専太郎は、警部と別れたあと、その店か、どこかで、彼女に会ったんじゃないでしょうか。そして、愛人の種村明夫の様子がおかしいことを話した。女の本能で、何となく、自分が殺されるんじゃないかという不安があって、ゴルフの先生である吉田専太郎に相談した。一方、種村明夫は、大学時代、ゴルフ部にいたことがあるので、その関係で、吉田専太郎が彼のことを知っていて、意見をするために、呼びつけたんじゃないでしょうか?」
「種村の方が、それで、吉田専太郎の口を塞《ふさ》ぐために、まず、有藤プロの車を盗《ぬす》み、それを使って、殺したというわけか?」
「そうです。種村は、新那須カントリー・クラブで、財産目当てに、守山道子を射殺する計画を立てていた。それを、役員の吉田専太郎に感付かれたと思って、まず、彼から殺したんじゃないかと思うんです。そうすると、全ての辻褄《つじつま》が合いますが」
「本当に、全ての辻褄が合うかね?」
十津川は、ニコリともしないで、永井刑事を見てから、
「どうも、何か引っかかるな。種村明夫の家には行ったのか?」
「まだです。つい最近引っ越して、場所は、中央沿線の有明荘≠ニいうアパートになっていますが」
「よし。これから、そこへ行ってみようじゃないか」
十津川は、さっさと立ち上がり、部屋を飛び出した。ベテランの鈴木刑事が、あわてて、その後を追った。
有明荘≠ヘ、中央線、中野《なかの》駅から歩いて十二、三分のところにあった。二階建で、モルタル塗《ぬ》りの平凡《へいぼん》なアパートだった。
「大金が手に入った人間が住むにしては粗末《そまつ》なアパートだな。もっと豪華《ごうか》なマンションに住んでいると思ったんだが」
十津川は、薄暗《うすぐら》い入口を入りながら呟《つぶや》いた。このアパートは、どの部屋も、六|畳《じよう》に、トイレと台所がついただけのもので、浴室はない。それでも部屋代は、一か月二万五千円ということだった。
十津川と鈴木刑事は、中年女の管理人の案内で、二階にある種村明夫の部屋に入ってみた。
一応、カラーテレビや冷蔵庫、それに洋服ダンスなどはあったが、電子レンジも、クーラーもない部屋だった。豪華なベッドもなく、押入《おしい》れをあけると、うす汚《よご》れた布団《ふとん》が滑《すべ》り落ちて来た。ゴルフセットだけが、異彩《いさい》を放っているのは、学生時代ゴルフ部にいた名残《なご》りだろうか。
「どうも変な人でしたねえ」
と、赤ん坊《ぼう》を背負った管理人は、背中をゆすりながら、十津川にいった。
「お金もなさそうなのに、ピカピカのスポーツカーを乗り回したりして」
「その車は、何処《どこ》へ置いていたのかね?」
「この先に、貸駐《かしちゆう》 車《しや》 場《じよう》があるんですよ。そこに、月五千円で預けていましたね。一体、何をやって、暮《く》らしてたんですかねえ」
「ここに越《こ》して来たのは?」
「確か十日ほど前ですよ」
守山道子が殺されたあとであることは確かだ。彼女の財産を全部金にかえてから、越して来たということか。
「一寸《ちよつと》、部屋を調べさせて貰《もら》うよ」
十津川は、管理人に断ってから、狭《せま》い六|畳《じよう》の部屋を、鈴木刑事と丹念《たんねん》に調べた。三、四千万、或《あるい》は、それ以上の守山道子の財産を、種村明夫が手に入れたとすると、どこかの銀行に預金したか、金に変えたか、それとも株券にして持っているかのいずれかだろう。十津川は、そう考えて、洋服ダンスの中から、茶筒《ちやづつ》の中身、果ては、週刊誌のページまで繰《く》ってみたが、何も見つからなかった。越して来たばかりのせいか、手紙の類もない。写真もである。
「この近くの銀行を片《かた》っ端《ぱし》から当たって来てくれ。種村が、通帳《つうちよう》を預けているかもしれんからな。殺人事件といえば協力してくれるだろう。それから不動産会社も当たって来てくれ。そっちへ投資したかもしれん」
と、十津川は、鈴木刑事に命令した。鈴木刑事が飛び出して行ったあと、十津川は、
「種村に、誰《だれ》か訪ねて来なかったかね?」
と、管理人にきいた。
「覚えていませんよ。それに、あんまりジロジロ見てると、住んでいる人に嫌《いや》がられるんですよ」
管理人は、そっけなくいった。どうやら、覗《のぞ》き見でもして、嫌味《いやみ》をいわれたことでもあるらしい。
隣室《りんしつ》がサラリーマン夫婦で、妻君の方がいたので、種村のことを聞いてみたが、廊下《ろうか》で会って黙礼《もくれい》を交わした程度で、何も知らないという返事だった。十日前に越《こ》して来たのだから仕方のないことだろう。裏の空地で、ゴルフのクラブを振《ふ》っているのを見たという人がいたが、これは、事件とは関係ありそうもない。今は、ゴルフ好きのサラリーマンが、駅のホームで、傘《かさ》をクラブに振っているぐらいのブームなのだから。
一時間ほどして、鈴木刑事が戻《もど》って来たが、彼は、失望した表情で、「駄目《だめ》でした」といった。
「どこの銀行にも、彼は預金していません。不動産屋も回ってみたんですが、結果は同じでした。投資した形跡《けいせき》なしです」
「おかしいな。少なくとも、三千万の金は手に入った筈《はず》だろう? 種村には」
「少なく見積ってです。或《あるい》は、五千万くらいの大金かもしれません」
「その中、種村が使ったのは、国産のスポーツカーと、五十万円の手付金だけだ。静岡県警の話だと、海から引き揚《あ》げた死体には、四万円の所持金しかなかったそうだ。すると、彼はせいぜい三百万円しか使わなかったことになる。あとは、一体、何処《どこ》に行ったんだ?」
「名の通った大きな不動産会社に投資したか、わざと、遠くの銀行に預けたかしたんじゃないでしょうか?」
「かもしれん。それなら、この部屋に、預金|通帳《つうちよう》なり、土地の登記書なりがある筈だ。ところがどこにもない。第一、種村は二十七歳という若い男だ。それに、スポーツカーを買ったり、別荘を買おうとした、遊び好きの男だ。それが、大金が入ったというのに、何故《なぜ》、こんな安アパートにいたんだ? 女遊びをするにしても、マンション住いの方が、やりやすいだろうにな」
「警部は、何をお考えなんですか?」
「事実を冷静に見ているだけだよ。少なくとも、二千七百万円の金が行方《ゆくえ》不明だ。種村が手に入れた金が五千万円なら、四千七百万円になる。その金が一体、何処《どこ》へ行ったのか? もっと直截《ちよくせつ》にいえば、その金は、一体、誰のふところに入ったのか?」
「すると、警部は、今度の一連の事件の犯人は、種村明夫ではないとお考えなんですか?」
「この部屋に、大金があるか、それとも預金通帳でもあれば、その説に賛成するかもしれんがね。どう考えても、妙《みよう》な話じゃないか。大金が消え失《う》せ、伊豆に、一千万円の別荘を買う人間が、二万五千円のアパートに住んでいる。どう考えても、おかしくはないかね?」
「それは、妙は妙ですが、例の銀座のマダムの証言だと、私には、どうしても、吉田専太郎と一緒《いつしよ》に、東京駅近くを歩いていたのが、種村明夫としか思えないんですが。それに、彼には、守山道子を殺す理由があります。そして、彼女を射殺したのが種村なら、名古屋で、津山好一郎を殺す理由もあるわけです」
「動機は、守山道子の財産というわけだろう。その金が無くなってるんじゃ話にならんじゃないか」
「若い女に貢《みつ》いだのかもしれません」
「違《ちが》うな。貢いで、折角《せつかく》手に入れた財産を無くした男が、どうして、一千万円の別荘を契約《けいやく》するんだ。少なくとも、一千万円は、まだ手元に残っている筈《はず》だろう。だが、この部屋には、一円の金《かね》もないぞ。それにだ。種村は、守山道子のヒモだった男だろう。そういう男が、女に貢ぐというのが、わからんよ」
「すると、犯人は、プロ野球あがりのプロの卵の早山克郎ということになりますか? 南陽子というマダムの証言を信用すれば、吉田専太郎が殺された日、彼と一緒《いつしよ》に、東京駅|附近《ふきん》を歩いていた男は、種村明夫か、早山克郎かのどちらかになります。事件の関係者で、二十代で、背が高いとなると、この二人だけですから。種村明夫でなければ、早山克郎ということになります。しかし、あの男は、金持ちの息子《むすこ》ですから、財産目当てに守山道子を殺したとは考えられなくなりますが」
[#改ページ]
結婚調査報告書
捜査《そうさ》本部の黒板には、今度の一連の事件に関係のあった人間の名前が、並《なら》べて書いてある。
有 藤 俊 之 (26)
同   美佐子 (24)妻、子供あり
吉 田 専太郎 (52)死亡 有藤の師
同   康 子 (28)妻
江 田   真 (35)私立|探偵《たんてい》
早 山 克 郎 (23)プロの卵
種 村 明 夫 (27)死亡 道子のヒモ
守 山 道 子 (28)死亡 バーのマダム
津 山 好一郎 (48)死亡 ライフルに関係
新 城 プ ロ (31)名古屋クラシック優勝
死亡と書かれている人間は、全《すべ》て、殺害されたものと、十津川は考えていた。そして、犯人は、同一人だともである。種村明夫が金目当に三人を殺し、自分も誤って、車ごと西伊豆の海に転落死したとすれば、それで、事件は全て解決だが、それも疑問点が多過ぎる。
「まるで、バンカーに打ち込《こ》んでしまった感じですね」
ゴルフを勉強し始めた鈴木刑事が、小さく溜息《ためいき》をついたが、十津川は、その言葉を引き取って、
「名古屋クラシックへ行く新幹線の中で、有藤プロに、バンカーショットの打ち方を教えて貰《もら》ったことがある。その時、彼は、こういっていたよ。バンカーに打ち込んでしまっても、別に周章《あわ》てる必要はない。普通《ふつう》に打つように、しっかりと打てばいいんだとね。その時、こう考えた。簡単なことだよ。どんなバンカーだろうが、ティ・アップした所からみれば、少しはカップに近づいているんだとね。そう思えば、バンカーに打ち込むことは、別に怖《こわ》いことじゃない。有藤プロのいいたかったことも、それだろうと思う。われわれは、今、壁《かべ》にぶつかってしまったようにみえる。バンカーにボールが入ってしまった感じだ。だが、スタートした時よりも、ずっと、標的に近づいているんだ。つまり犯人にだ」
十津川が、鈴木刑事にとも、他の刑事たちにともなくいった時、若い警官が、一通の手紙を持って入って来て、十津川に渡《わた》した。
愛知県警の小野田警部から、十津川|宛《あて》に届いたものだった。いかにも、あの警部らしく、小さいが、きちんとした読みやすい字で書いた便箋《びんせん》が入っていた。
その後も、着々と事件の核心《かくしん》に近づいておられることと推察|致《いた》します。
当方の捜査は、一向に進展を見せず、お恥《は》ずかしいことです。殺された津山好一郎|及《およ》び、彼の家族について、その後判明したことをお伝え致します。電話でとも考えたのですが、事件に直接関係することと思われないのと、正確を期するために、手紙をしたためました。津山好一郎の娘《むすめ》、恵子(二十三歳)の嫁《とつ》ぎ先について判ったので、お知らせします。
一人娘である彼女の結婚した相手は、東京の青年で、新日本商事の重役、相沢太一郎氏(六十)の一人|息子《むすこ》、相沢誠(二十八)で、同じく、新日本商事で、係長をしているいわば、エリート社員であります。彼女が東京に旅行に行った時、偶然《ぐうぜん》知り合って、交際が始まったそうです。他の件については今のところわかりません。事件の参考にはならないかもしれませんが、念のためにお伝え致します。
[#地付き]小野田晋吉
読み了《おわ》った時、十津川の眼《め》が光った。彼は、その手紙を、部下の刑事たちに回し読みさせてから、
「どう、思うね?」ときいた。
「その手紙から、何か匂《にお》わないか?」
「まさか、警部は、津山好一郎の一人娘や、彼女が結婚した相手の青年まで、今度の事件に関係しているとおっしゃるんじゃないでしょうね?」
「そんなことをいってるんじゃない!」
と、めずらしく十津川は、頭の回転の遅《おそ》い部下の刑事を怒鳴《どな》りつけた。
「愛知県警の小野田という警部は、一見、見栄《みば》えのしない、田舎《いなか》のおやじさんタイプだが、頭の切れる男だ。そんな彼が、事件に全く関係のないことを、わざわざ、手紙に書いてくると思うか」
「しかし、ここに書いてあるのは、殺された男の一人|娘《むすめ》の結婚先のことだけですし、小野田さん自身も、事件に関係ないかもしれないと書いてありますが」
「本当に関係がないと思ったら、書いてくるものか。小野田さんは、われわれの判断に委《まか》せたんだ。津山の娘の結婚先が東京で、われわれの所轄《しよかつ》の仕事だからな。いいか。新日本商事がどんな会社かは知っているだろう?」
「わが国では代表的な商事会社です」
「そうだ。そこの重役の息子《むすこ》で、二十八歳ですでに係長になったエリート社員だ。どんな美人でも、どんないい所の娘とでも結婚できたろう。だが、彼は、偶然《ぐうぜん》知り合った名古屋の自転車屋の娘を愛した。津山好一郎は、三村工業の技術課長といっても、月とスッポンの違《ちが》いがある。津山家の方では、この縁談《えんだん》に乗り気だったかもしれないが、男の家の方では、名古屋から東京に旅行に来た、どこの誰《だれ》ともわからない娘を、家に迎《むか》え入れるのに、すぐ賛成したとは思えん」
「そうでしょうが、今は、当人同士の意思だけで結婚できますからねえ」
「そんな法律論をいっているんじゃない。男の方の相沢家のことを問題にしているんだ。君たちが、男の親として、名古屋の自転車屋の娘というだけで、結婚させるかね?」
「一応、娘のことや、家庭のことを調べるでしょうな」
と、鈴木刑事は、いってから、「あッ」と小さく声をあげた。十津川は、満足そうに、ニッコリした。
「やっと気がついたらしいな。殺された津山好一郎が、何故《なぜ》、犯人に、警察に捕《つか》まる危険を冒《おか》してまで、64式|小銃《ライフル》を渡したのか不思議だったが、これで、その謎《なぞ》が解けるかもしれん。賭《か》けてもいいが、相沢家では、一人息子が好きになった津山恵子のことを、私立|探偵《たんてい》に調べさせた筈《はず》だ。そして、今度の事件の関係者の中に、私立探偵が一人いる」
「江田真ですね」
「十中八、九、相沢家では、彼に頼《たの》んだと思う。これから、すぐ、相沢家へ行って、それを確かめて来てくれ。相手の家への手前、調査したことを隠《かく》そうとするかもしれんが、殺人事件だといえば、話してくれるだろう」
「調査を頼んでいたらどうします?」
「その報告書を借りて来い」
鈴木刑事は、二時間ほどして、眼を輝《かがや》かせて、捜査本部に戻《もど》って来た。
「確かに、相沢家では、津山恵子のことや、その家庭のことを、私立探偵に頼んで調べて貰《もら》っています。それも、警部のお察しの通り江田真の探偵《たんてい》事務所です」
「やっぱりな。報告書は?」
「借りて来ました。絶対に、外部には秘密にしてくれと、念を押《お》されましたよ。特に、津山家には、娘《むすめ》さんのことを調べたことは、知られたくないといっていましたよ」
「そうか――」
十津川は、複雑な表情を作り、鈴木刑事から、封筒《ふうとう》を受け取った。江田探偵事務所≠ニ、大きく印刷してあったが、中身は、邦文《ほうぶん》タイプされた薄《うす》いものだった。探偵社の報告書は、だいたいこんなものだ。
十津川は、煙草《たばこ》をくわえたまま、眼を通した。悪いことは、何も書いてなかった。
――津山恵子は、名古屋市内の短大を卒業した才媛《さいえん》で、茶、生花の素養がある反面、スポーツも好きで、身体も丈夫《じようぶ》である。友人や近所の評判もいい。
また、津山家は、名古屋市内の旧家で、自転車屋としても現在|繁盛《はんじよう》し、その他、貸家も何軒か所有している。父親の津山好一郎は、三村工業の技術課長として、会社の信望が厚く、母親文子は、大人《おとな》しく家庭的で、典型的な日本女性である――
報告書が、無難なものであることは、読む前から十津川にはわかっていた。そうでなければ、相沢家が、一人息子の結婚を許す筈《はず》がないからだ。だから、十津川が、読み取ろうとしたのは、報告書の底に流れているものだった。もっと端的《たんてき》にいえば、この報告書に書かれていない文字だった。
十津川は、報告書を机の上に置き、立ち上がって、窓の外に眼をやった。まだ、西陽が強い。が、この捜査本部の周囲にも、秋の色が立ち始めていた。自然の失くなったこの大都会にも、秋には、秋の色があるのだ。それは、歩いている人々の服装や、店々の飾《かざ》りつけの変化だが。
ふいに、十津川は、あることを思い出し、窓の外に眼を向けたまま、
「愛知県警に電話を入れて、小野田警部を呼び出してくれ!」
と、大声でいった。
電話は、すぐ繋《つな》がり、妙《みよう》になつかしい小野田警部の声が聞こえてきた。
「あなたの手紙は、大いに役に立ちましたよ」
「そりゃあ、よかった。書いた甲斐《かい》がありましたよ」
「津山家のことですが、結婚した一人娘の他に、死んだきょうだいがいた筈でしたね。そのきょうだいのことをくわしく知りたいんですが」
「実は、そのことも、手紙に書こうと思ったんですが、どうにも、書けなくて。私は警官には不向きなのかもしれませんな」
「変死でもしたんですか?」
「一番上の兄は、自動車を運転していて、衝突《しようとつ》事故で死んでいます。次兄は、グレて暴力団に入り、暴力団同士の抗争中に殺されています。他の点では恵まれた家庭ですが、その点では不運ですな。それで、どうも、手紙に書く気になれなかったわけです」
「しかし、話して下さって助かりましたよ」
「そのことが、今度の一連の事件と、どこかで繋《つな》がっていると、考えられるのですか?」
「ええ。事件の全部とは関係していませんが、一部分とは、関係している筈《はず》です」
「何となくわかるような気がしますな」
と、小野田警部は、相変わらず、穏《おだ》やかな調子でいい、「ご健闘《けんとう》を祈《いの》ります」とつけ加えて、電話を切った。
「何かわかったんですか?」
部下の刑事たちが、十津川を見た。
「津山好一郎が、64式|小銃《ライフル》を、犯人に渡《わた》した理由だ。確証はないが、推測だけはついた。津山好一郎としては、一人娘の結婚が一生の大事だった。相手は、新日本商事という大会社の重役の一人息子で、しかもエリート社員でもある。こんないい相手はない。どうしてもこの青年と、結婚させてやりたかった」
「そこへ、江田真が、調査に現われた――」
「そうだ。最初は、江田も、単なる結婚調査として引き受けたんだろう。せいぜい新日本商事とコネがつくぐらいにしか考えていなかった筈《はず》だ。ところが、名古屋に行って調べていく中《うち》に、父親が、自衛隊に納める64式|小銃《ライフル》を造る三村工業の技術課長とわかった。それに、恵子の次兄が暴力団に入っていて、抗争中に死亡した。それがわかれば、娘自身に、何の悪いところがなくても、相沢家が破談にすることは明らかだ」
「江田は、それで脅《おど》かして、64式小銃を、津山好一郎に持ち出させたわけですね」
「他に、津山好一郎が64式小銃を持ち出す理由が見つからないからな。しかも、この調査報告書の日付は四か月前で、まだ、彼が三村工業の技術課長をやっていた頃《ころ》になっている。相沢家では、この報告書を見て、息子と津山恵子との結婚を許可したんだろう」
「その通りです。相沢家と、津山家との間に婚約が成立したのは、この報告書のすぐあとです。すると、私立|探偵《たんてい》の江田真が、今度の一連の殺人事件の犯人というわけですか?」
「多分な。少なくとも、江田真には、津山好一郎の手を通して、64式小銃を手に入れることが出来たことだけは、わかったことになる」
「じゃあ、すぐ、江田真を連行して――」
「早まるなよ」
「何故《なぜ》ですか?」
若い佐久間刑事などが、勢い込《こ》んだ調子できいた。十津川は、慎重《しんちよう》に、
「証拠《しようこ》がないからだ。今、いったことは、全て推測にしか過ぎない。江田を連行して来て訊問《じんもん》したら、彼が、素直に吐《は》くと思うかね。相沢家に頼《たの》まれて、津山家のことを調査したことは認めるだろう。だが、この報告書には、64式|小銃《ライフル》を手に入れたなんてことは、一行だって書いてないし、江田だって、いう筈《はず》がない」
「しかし、この報告書は、明らかに嘘《うそ》を書いていますよ。次兄の件については何もふれていない。私立|探偵《たんてい》なら、すぐわかる筈なのに」
「それだって、彼女が可哀想《かわいそう》で、どうしても書けなかったといわれたら、どうするんだ? 人間味あふれる私立探偵というわけさ。その秘密と64式小銃を交換したと白状すると思うのかね? 唯一《ゆいいつ》の証人の津山好一郎は殺されてしまっているし、未亡人だって、嫁《とつ》いだ娘のためだ。われわれに、ベラベラと、子供のことなどをしゃべると思うか? たとえしゃべってくれたところで、それをかくして報告書を書いてくれた私立探偵の江田真に感謝しているだろうから、彼に不利な証言をする筈がない。君たちだって、証拠《しようこ》のない今の段階で、幸福な若夫婦の愛情をぶちこわすような真似《まね》はしたくないだろう」
「じゃあ、どうすればいいんです? 警部」
「証拠と、動機だ。江田が犯人なら、そうだという証拠と、彼の動機が知りたい。それがなければ、彼を逮捕《たいほ》はできん」
「彼の事務所と住居を家宅捜査したら、64式小銃が出てくるかもしれません」
「出て来なかったら、逆に訴えられるぞ。それに、江田が犯人だったら、凶器《きようき》のライフルを、事務所や住居に置いておくものか。どこかに隠《かく》してあるだろうし、殺すべき人間は、もう全部殺してしまったとすれば、ライフルは、もう海中にでも必ず捨ててしまってあるかもしれん」
「そうなると、また、壁《かべ》にぶつかってしまうことになりますが――」
鈴木刑事が、重い口調でいった。十津川は、黒板に書かれた名前に眼をやって、
「最初から、今度の事件を考え直してみることだ」
「考えることは、もう、たいてい考えつくしてしまいましたが」
「考える角度を変えれば、違《ちが》った結論が出てくるさ。まず、今度の一連の事件の始まりだ」
「それは、役員の吉田専太郎が、警部に、例の脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》のことで相談に来て、その日の夜、自動車事故をよそおって殺された。それが、事件の始まりだと思いますが」
「そうだ。犯人は、有藤プロの車を盗《ぬす》み出して、その車で、吉田専太郎を轢《ひ》き殺した。新那須カントリー・クラブでも、有藤プロを狙撃《そげき》したと見せかけて、ギャラリーの守山道子を殺した。あの時、犯人の本当の狙《ねら》いが、有藤プロでないことを知るべきだったんだ」
「と、いいますと?」
「君たちも、あのコースをよく見たろう。本当に、有藤プロを殺す気なら、18番ホールより、狙いやすくて、しかも逃《に》げやすいホールはいくつかあった。それに、脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》には、あいつを殺す≠ニ書いてあったが、特定のプロの名前はなかった。自己|顕示欲《けんじよく》の強い犯人だから、最終18番ホールで射《う》ったと、われわれは解釈したんだが、それなら、ちゃんと、狙うプロの名前を書く筈《はず》だ。それが出来なかったのは、狙う守山道子が、最終日にしか来ないとわかっていたからだ。特定のプロの名前を書いたとき、そのプロが、一日目か二日目の予選で落ちてしまったら、計画がメチャクチャになってしまうからな。そういう点に、すぐ気付くべきだったんだ。それに、私立|探偵《たんてい》の江田真が犯人だとすれば、事件は、われわれが考える以上に、根深いものだと思わなきゃならん」
「と、いいますと?」
「いいか。最初に殺された吉田専太郎は、三年半前に、日本第一探偵社に、自分の妻君と、当時プロになったばかりの有藤プロとの関係の調査を依頼《いらい》し、それを、江田真が担当して調査したことになっている。そして、そのあと江田は、独立して探偵事務所を四谷三丁目に開いている」
「すると、事件の根は三年半前にあるということですか?」
「多分な。この調査依頼には、妙《みよう》なところがある。だから、当時の有藤プロのことや、江田真のこと、それに吉田専太郎夫婦のことを、もう一度、調べてみるんだ」
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灰色の核心《かくしん》へ
十津川警部は、部下の刑事《けいじ》たちに、次々に命令を下した。
鈴木刑事を、日本第一|探偵社《たんていしや》に行かせ、そこにいた頃《ころ》の江田真のことと、彼が扱《あつか》った吉田康子と有藤プロの関係調査のくわしい内容を調べさせた。
田中刑事には、有藤プロの妻、美佐子のことを調べさせ、永井刑事には、西伊豆で死んだ種村明夫のことを、もう一回洗わせることにした。
そして、十津川自身は、若い佐久間刑事を連れて、江田の探偵事務所を再訪問した。
四谷三丁目にある江田探偵事務所に着いた時、江田は、陽焼けした顔で、パットの練習をしていた。彼は、わざとのように、入って来た十津川を無視して、二、三回、ボールを転がしてから、やっと、眼《め》を向け、
「確か、十津川さんでしたね」
「そう。十津川です」
「今日は何の用です?」
「早速《さつそく》、ブラックシャフトを揃《そろ》えましたね」
十津川は、そんなことから切り出した。江田は、自慢《じまん》そうに、その一本を手に取って、二人の刑事の前で振《ふ》って見せた。
「なかなかいいですよ。二〇ヤードは確実に飛距離《ひきより》が伸《の》びる。但《ただ》し、一本八万円と高いですがね」
「景気が良さそうですね」
「まあまあです」
「ところで、三年半前の事件のことを、もう一度、聞きたいんですが。三年半前、あなたがまだ日本第一|探偵社《たんていしや》にいる頃《ころ》、有藤プロと、吉田康子との関係を調べましたね?」
「それは、前にお話しした筈《はず》ですよ」
江田は警戒するような眼つきになった。
「それを再確認したい。確か、二人は、関係があったという報告書を書かれたんでしたね?」
「ええ、その通りでしたから、事実通りの報告書を書きましたよ」
「しかし、情事関係の調査の場合、証拠《しようこ》写真のようなものが必要なわけでしょう? もし勘違《かんちが》いだったら、大変ですからね」
「ええ、その通りです。だから証拠写真も撮《と》りましたよ」
「ほう。どんな?」
「人の秘密に関することだから詳《くわ》しくはいえませんが、まあ、二人が仲良く抱《だ》き合っている写真とでも思って下さい」
「成程《なるほど》。そのあとで、あなたは、独立してこの事務所を持ったんでしたね?」
「ええ。もともと他人に使われるのは、あまり好きじゃありませんでしたからね」
「独立してからは大変だったでしょう? この仕事は、信用がなければ、人が依頼《いらい》して来ない。よく、今日までやって来ましたね。それに経済的に成功しているようだし――」
「まあ、何とかやって来ましたよ」
「種村明夫という男を知ってますか?」
「いや。何故《なぜ》です?」
「では、守山道子は?」
「名前だけは知っていますよ。新宿のバーのマダムで、この間、有藤プロを狙《ねら》った人間に、間違《まちが》って殺されたと新聞に出ていましたからね」
「彼女の店へ行ったことは?」
「ここで飲みに行くとなると、だいたい新宿に出ますからね。二、三度は行ったかもしれませんが、マダムに関心があったわけじゃないですよ」
「ここだと、銀座にも近いですね?」
「ええ。まあ。ここは、両方に近いですからね。しかし、私は、銀座の高級バーへ行く柄《がら》じゃありませんよ」
あはははと、江田は笑い、また、ブラックシャフトを振《ふ》り回した。
十津川が捜査《そうさ》本部に戻《もど》ってから、他の刑事たちも、次々に帰って来て、調査結果を報告した。
まず、日本第一|探偵社《たんていしや》へ行った鈴木刑事は、メモを見ながら、
「あそこにいた頃から、江田は、しきりに独立したがっていたそうです。これは、当時の同僚《どうりよう》の話ですが、資金があれば、今すぐにでも独立するといっていたそうです」
「問題の有藤プロと吉田康子の調査のことはどうだ?」
「あれは、この前調査したように、手紙で調査|依頼《いらい》があったものです。丁度、その時、江田だけが手が空《あ》いていたので、彼が担当したそうです」
「何故《なぜ》、彼だけ手が空いていたんだ? 偶然《ぐうぜん》か?」
「何でも、その前日まで三日ばかり、江田は、会社を休んでいたそうです。手が空いていたのは、そのためだそうです」
「報告書は、吉田専太郎へ郵送されたことになっていたな?」
「ええ。探偵社《たんていしや》の記録には、郵送の判が押《お》してありました。しかし、三年半前のことですし、庶務《しよむ》係の女の子は退職してしまっていますから、絶対確実とはいえません」
「それは面白いな。もう一つ、最近、吉田専太郎は、妻君と早山克郎の関係調査を頼《たの》んだ筈《はず》だが」
「その方も、もう一度、念を押して聞いてみました。が、この方は、間違《まちが》いなく吉田専太郎自身が、調査の依頼に来て、報告書も、本人が、取りに来たそうです」
「江田真以外にも、日本第一探偵社の人間で、独立して事務所を設けたのはいるのか?」
「何人かいたそうですが、彼以外は、全部、失敗したそうです。あの世界は、信用第一で個人で開業しても、信用がつくまでに資金が切れてしまう。それで、日本第一探偵社に舞《ま》い戻《もど》って来たり、たまにあった調査依頼を恐喝《きようかつ》のタネにして警察に捕《つかま》ったりしているそうです」
「恐喝か。探偵というやつは、他人の秘密を調べる仕事だからな。金《かね》に困れば、恐喝をやるかもしれん」
「そんなわけで、江田の成功を、みんな羨《うらや》ましがっていましたね」
「有藤美佐子の方はどうだ?」
と、十津川は、田中刑事に視線を移した。
「彼女について、悪い噂《うわさ》は全く聞きません。有藤プロが、ゴルフに転向して、二年間、ほとんど無収入だった間、彼を支えたのは、彼女だというのが定評になっています」
「彼女の実家は、資産家なのか?」
「その通りです。新潟では、指折りの資産家の長女です。だからこそ、有藤は、何の心配もなく、家族をおいて単身上京し、二年間、ゴルフの練習に専念できたんでしょう」
「具体的に、どの位の資産家なんだ? 彼女の実家は?」
「父親は大きな不動産会社の社長で、億単位の資産家であることは確かです」
「そこの長女だといったな?」
「はい。五歳年下の次女がいます。両親は、有藤に、最初は、娘《むすめ》と一緒《いつしよ》に不動産会社の仕事をやって貰《もら》いたかったようです。今になってみると、有藤は、プロゴルファーに転向してよかったわけですが」
「それだけ、有藤美佐子の両親は、彼女を可愛《かわい》がっているというわけだな?」
「そうですね。とにかく、二人だけの娘で、長女ですから」
種村明夫の過去を調べて来た永井刑事は、頭をかきながら、
「どうも、あの男は、よくわからん人物です」
「しかし、学生時代ゴルフをやり、サギ罪で一回|捕《つかま》っているのはわかっている筈《はず》だ」
「そうです。その線を深く突《つ》っ込《こ》んでいって、性格や、日頃《ひごろ》の生活ぶりは、だいたいわかりました。大学を中退していますが、卒業していると主張し、両親が亡くなっているのに、財産家の一人|息子《むすこ》だといいふらしていたくらいに、虚栄心《きよえいしん》が、強い男だったようです。移り気で、定職を持ったことがなく、年上の女に食わせて貰《もら》ったり、友人を欺《だま》して金を手に入れたりして、生活していたようです。
一度は、例によって、資産家の一人息子で、ある有名商事会社のエリートサラリーマンだと名乗って、ある玩具《がんぐ》メーカーの娘と結婚しようとして、結婚寸前までいってバレたこともあったようです。まあ、二十七歳まで、いい加減な生活をしてきた男です。係累《けいるい》といったものはありません」
「それだけわかれば上等だ。一体、何がわからないんだ」
「肝心《かんじん》の守山道子との関係と、彼女の遺産の行方《ゆくえ》です。彼女を知っている人物や、種村明夫を知っている人間全部に当たってみたんです。誰《だれ》一人、二人の関係に気付かなかったというのです」
「年上の女のヒモになっていたことがあるというのは?」
「これは、三十歳のヌードダンサーのマネージャーみたいな仕事を、約半年やっていたことがあるんです。彼女にも会って来ましたが、彼女にいわせると種村明夫という男は、プレイボーイを気取っているが、それほどは、女に持てないということでした。守山道子の知人も、一様に、種村は、彼女の好みのタイプじゃないといっています」
「しかし、守山道子は二十八歳の女|盛《ざか》りだったんだ。誰かいた筈《はず》だが」
「特定の男がいただろうということは、たいていの人間が認めています。しかし、種村明夫という名前は、聞いたことがなかったといっています」
「しかし、種村は、彼女の実印や、新宿の店やマンションの権利書を持っていたんだ」
「そうです。それが、どうもわからんのです」
「その辺に、今度の事件の鍵《かぎ》がありそうだな」
「もう一つ、問題は、南陽子の証言じゃありませんか」
と、鈴木刑事が、口をはさむ形で、十津川に話しかけた。
「あの銀座のマダムは、吉田専太郎が、殺された日の夕方六時|頃《ごろ》、背の高い二十代の若い男と一緒《いつしよ》に、東京駅の近くを歩いているのを見たと証言しています。二十代の男となると、事件の関係では死んだ種村か、早山克郎の二人しかいませんが」
「早山克郎は、吉田専太郎の弟子《でし》みたいなものだから関係は大ありだが、種村の方は?」
十津川は、永井刑事を見た。
「その点も調べましたが、わかりませんでした。もっとも、種村は、学生時代にゴルフをやっていますから、その頃、どこかのコースで、二、三回、吉田専太郎からレッスンを受けたかもしれませんが、今は、両者とも死んでいて、確かめようがありません。しかし、最近に関する限り、二人の間に、何かの交渉《こうしよう》があったという証拠《しようこ》は皆無《かいむ》です」
「吉田専太郎が殺された日は、ウィークデイだった」
十津川は、ゆっくりと、黒板の前を行ったり来たりしながら、再確認するように呟《つぶや》いた。
「その通りです。ウィークデイです」
「よし、これから、行ってみよう」
「何処《どこ》へですか?」
「東京駅前だ。今から、車を飛ばせば、丁度夕方の六時頃、東京駅前に着く」
十津川は、鈴木刑事と一緒《いつしよ》に部屋を出ると、黒塗《くろぬ》りの覆面《ふくめん》パトカーに乗り込《こ》み、東京駅にやってくれと、警官にいった。
「南陽子というバーのマダムの証言は、正確にいうと、吉田専太郎が、東京駅前の中央郵便局の前を、連れの男と歩いているのを、走るタクシーの窓から見たんだったな?」
「その通りです」
「果して、どうなるか、実験してみようじゃないか」
二人を乗せた車は高速道路に入り、代官山《だいかんやま》インターチェンジから、東京駅前に出た。
「丁度、午後六時だ」
と、十津川は、腕《うで》時計に眼をやった。
中央郵便局は、東京駅北口(丸の内側)にあり、その前は、バスの停留場になっている。
さまざまなところから、バスが、ひっきりなしに、満員の乗客を運んで来て、そこでおろしていた。丁度、会社や官庁の退《ひ》け時なのだ。
一方では、東京駅から吐《は》き出されて来た勤め人たちが、大きな流れになって、バスの停留場に向かって行く。
「すごい人の波ですな」
と、鈴木刑事が、感嘆《かんたん》した声を出した。
「今、丁度、ラッシュアワーだからな。南陽子の言葉通りとすれば、彼女の乗ったタクシーは、信号が青のとき、東京駅と中央郵便局の間を突《つ》っ切ったことになる。その通り走ってくれ」
運転席の警官は、黙《だま》って肯《うなず》き、左から右へ向かって、大通りを突っ切った。退け時のサラリーマンやOLたちは、東京駅と中央郵便局の間に群がって、信号が変わるのを待っていた。気がせくのか、中には、信号が赤なのに、車の間を駈《か》け抜《ぬ》けて行く若いサラリーマンも多い。ターミナル駅のラッシュ時には、よく見られる風景だった。
通り過ぎて、百メートルほど走ったところで十津川は、車を止めさせた。
「どうだ?」
と、十津川は、隣《とな》りの鈴木刑事にきいた。
「南陽子が、タクシーで銀座の店へ行ったのが本当としたら、今のように走った筈《はず》だ。とすると、車の窓からは、道の両側に、信号の変わるのを待ちかねたサラリーマンやOLが、群がっていて、中央郵便局前を、横に並《なら》んで歩いている人間が見える筈がない。見えたとすれば、信号待ちしている最前列の人たちで、並んで見えた筈だから、もう一人が、吉田専太郎のかげになっていた筈がないんだ」
「とすると、あの銀座のマダムは、嘘《うそ》をついたわけですか?」
鈴木刑事が、眼を光らせた。
「今の実験の結果ではそうなるな。中央郵便局の前は、バスの発着場になっていてタクシーは入れないから、横に並んで歩いている吉田専太郎ともう一人の若い男を見るということは、あり得ないわけだ」
「じゃあ、何のために、彼女は嘘を?」
「誰《だれ》かをかばうためか、頼まれて嘘をついたんだろう」
「江田真ですか?」
「多分な。問題は、彼女の言葉が嘘だとすると、どうなるかだ。タクシーから吉田専太郎を見たが、一緒《いつしよ》にいた人間の顔も見えた筈だから、それが誰だったか。それとも、全くの嘘で、吉田専太郎は、ここにいなかった」
「どちらでしょう?」
「恐《おそ》らく後者だろう。吉田専太郎がここを歩いていたとしたら、一緒にいたのは多分、江田真だ。そんな、バレた時にすぐ困るような嘘はつかないだろうし、つかせないだろう」
「しかし、どちらにしても、あの南陽子というマダムは偽証《ぎしよう》したんですから、連行しますか?」
「それもいいが、あれは、見誤りだったといわれればそれまでだ。問題は、あの日の吉田専太郎の行動だよ。何故《なぜ》、僕と三時に別れたあと、すぐ新那須カントリー・クラブに向かわず、東京中を歩き回り、夜自宅へ帰ろうとしたのか。また、それを犯人がどうして知っていて、有藤プロの車を盗《ぬす》んで待ち構えていたかだ」
「例の三年半前の素行《そこう》調査のことを知って、妻君と有藤プロの関係に疑いを持ったからじゃないでしょうか? だから、問い詰《つ》めに家に帰った?」
「多分そうだろう。だが、そのことを、誰が吉田専太郎に話したかだ。あの手紙による調査|依頼《いらい》は、吉田専太郎本人がやったものじゃない。何故なら、報告を、郵送してくれというのが変だからだ。いやしくも妻君の素行調査だ。自分のいない時に郵便がついて、妻君が見てしまう可能性もあるわけだからな」
「するとやはり、江田真の自作自演ですか」
「彼は独立したがっていたが、金がなかった。それで有藤プロに眼をつけた。有藤プロというより、妻君の実家の資産にだろう。日本第一|探偵社《たんていしや》の機構はどうなっている?」
「管理部と調査部にわかれています。管理部が事件の依頼を受けつける窓口で、それを調査部の探偵にわたすわけです。探偵は歩合制《ぶあいせい》で、二〇パーセントを担当者がもらい、残りが会社に入ります。探偵が勝手に事件を引き受けて全額自分のふところに入れないための仕組みなわけです」
「それで、江田は、わざと三日間休み、自分の手紙|依頼《いらい》が来たとき、丁度、手が空くようにしておいたわけだな」
「しかし、それが江田の細工だとすると、吉田専太郎は、全く、その調査を知らなかったことになりますね。江田が、その結果を元にして、有藤美佐子を恐喝《きようかつ》して金を出させたとして、彼女が吉田専太郎に話す筈《はず》はないし、吉田康子も話さないでしょう。江田は勿論《もちろん》です。証拠《しようこ》写真だって、多分、吉田康子によく似た守山道子をモデルにしたんだと思います。彼女はバーのマダムだから有藤に、ふざけて抱《だ》きつくぐらいのことはしたでしょうから。すると、一体、誰が吉田専太郎に、三年半前のことを知らせたんでしょうか?」
「たった一人、いや、たった一つ、彼がそれを知るチャンスがあったんだ。そして、それが事件の始まりだったんだ」
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ガードバンカー
「日本第一|探偵社《たんていしや》の管理部の人間が、この三年間に辞めたとする。男でも女でもいいが、そいつは、吉田専太郎名前の手紙を見ているわけだから、有藤プロと吉田康子との間の素行《そこう》が調べられたことを知っていた。辞めたときは忘れていたが、今のようなゴルフブームになり、有藤プロが有名になると、このニュースは、金になるかもしれないと思い、週刊誌に持ち込《こ》んだとしてもおかしくはない」
十津川が、自分の推理を話す。
鈴木刑事は、肯《うなず》いた。
「週刊誌としては、当然、事実を確かめようとする。吉田専太郎に会うなり、電話するなりして、三年半前に、有藤プロと妻君との間の関係を日本第一探偵社に調べさせたかどうか、問い合わせたと思う。吉田専太郎にしてみれば、寝耳《ねみみ》に水だ」
「それで、当時、その調査に当たったという江田に会いに行った?」
「そうだよ。その日、吉田専太郎は、三時に僕《ぼく》と脅《きよう》 迫《はく》 状《じよう》のことで話し合ったあと、恐《おそ》らく、四谷三丁目の江田真の事務所に行ったんだ。江田としては、事実が明らかになっては、金蔓《かねづる》を失う。だからその時、吉田を消すことを考えたんだと思う。それで、とにかく調べたら、奥《おく》さんと有藤プロの間に関係があった。もし嘘《うそ》と思ったら、帰って、奥さんに聞いてご覧なさいと、心理的なプレッシャーをかけたんだ。吉田専太郎は迷ったろうと思う。妻を信じたいが、ひょっとするとという疑惑《ぎわく》は消えない。結局、あの日、迷った揚句《あげく》、新那須カントリー・クラブへは行かず、家へ戻《もど》った。江田は、それを読んでいて、吉田専太郎が帰ると、有藤プロの車を盗《ぬす》み出し、あの暗がりで、待ち伏《ぶ》せしていたんだ」
「すると、種村明夫も、江田に踊《おど》らされた人間の一人になりますね?」
「恐らくね。江田は多分、何かの調査の過程で、種村明夫という男を知ったんだろう。種村は、過去をごまかして、有力者の娘《むすめ》と結婚しようとして失敗している。そんな時の調査かもしれん」
「守山道子の本当のヒモは、江田真ということですね」
「彼女の周囲の人間は、種村が、彼女の好みのタイプじゃないと証言している。ということは、種村の逆のタイプ、つまり江田真のような男が好みのタイプということになる。江田は、三年半前から、彼女の男だったんだと思う。そして、彼女が、吉田康子とよく似ているのを利用して、有藤プロと抱《だ》き合っているところを写真に撮《と》った。新人だった当時の有藤にしてみれば、あのバーは、プロゴルファーの溜《たま》り場だったから、そのくらいのことは、別にどうとも考えていなかったことだと思う。ところが、江田は、その写真を、有藤美佐子に見せて脅《おど》した。彼女にしてみれば、大変なことだ。師のゴルファーの妻君と夫との仲が噂《うわさ》になれば、夫のプロの道は閉ざされかねない。だから金《かね》を払《はら》った。そして、三年後、江田は、バレそうになって、まず、吉田専太郎を殺し、次に、マダムの守山道子を、口封《くちふう》じと、彼女の財産目当てに、射殺したんだ。だが、江田が表に出て、彼女の財産を手に入れることは出来ない。犯行がバレるからだ。それで、種村をスポーツカーで釣って、ヒモだと名乗らせ、残りの大部分は、江田が手に入れた」
「その種村明夫も、西伊豆で殺したわけですね?」
「種村は、いかにも軽薄《けいはく》そうで、いつ事実を喋《しやべ》るかわからなかったんだろうな。別荘を買ってやるといって、相手を欺《だま》し、大瀬崎へ行かせ、その帰り道に待ち伏《ぶ》せしていて、多分、いきなり殴《なぐ》りつけ、車と一緒《いつしよ》に海へ突《つ》き落としたんだ。つまり、江田は、種村という軽薄な男を、新車の国産スポーツカーと、別荘の手付金の五十万円、両方でせいぜい二百五、六十万のものだろう、それで買い、要らなくなったんで、簡単に消したんだ」
「ひどいもんですな。東京駅の近くで、当日の午後六時に、吉田専太郎と、若い男が並《なら》んで歩いているのを見たと証言した銀座のマダム、南陽子も、江田真に、金で買収されたのでしょうか?」
「恐らく、金と色気だろう。江田は、守山道子の愛人だった。彼女から、南陽子に乗り換えたのかもしれん。江田自身、事務所から、新宿へも、銀座へも近いといっていたからね。新宿のバーのマダムから、銀座のバーのマダムへの乗り換えといってもいい。女というやつは、惚《ほ》れた男のためなら、どんな偽証《ぎしよう》でもするものだ」
「じゃあ、南陽子を逮捕《たいほ》して、泥《どろ》を吐《は》かせますか?」
「駄目《だめ》だな」
「といいますと?」
「彼女が、江田に惚れていたら、いくら訊問《じんもん》しても、彼の名前は口にしない筈《はず》だ。それに江田に頼《たの》まれて、嘘《うそ》をついたと喋《しやべ》っても、江田真は、用心深い男だ。肝心《かんじん》のことは、何も彼女に話していないだろう。とすると、南陽子が、たとえ、江田に頼まれて、嘘をついたと証言したとしても、吉田専太郎が、轢《ひ》かれたとき、江田が、加害車のフォード・ムスタングを運転していたことも証明できなければ、江田は逮捕できん。彼女が、他の女のことで嫉妬《しつと》して、自分に不利なことを証言したんだといわれれば、それに反論できんぞ」
「しかし、このまま手をこまねいていると、江田真は、吉田専太郎、守山道子、津山好一郎、種村明夫と、次々に口を封《ふう》じていったように、南陽子の口も封じるかもしれません。彼女さえ死んでしまえば、あとは、誰も、彼の犯行を証明する人はいませんからね。ただ一人、有藤プロの妻君がいますが、彼女は、夫の人気に触《ふ》れることですから、口が裂《さ》けても、江田に恐喝《きようかつ》されたとはいわないでしょう」
「恐喝されたと証言してくれても、江田を殺人罪で逮捕はできんよ。有藤美佐子への恐喝が、連続殺人に発展したことを証明するのは難しいからな」
「じゃあ、どうします?」
「今まで、われわれは、江田真に引きずり回されて来た。今度は、そのお返しに、彼を罠《わな》にかけてやろうじゃないか」
「そいつは、面白いですが、どんな罠です?」
「これから捜査《そうさ》本部に引き返し、まず、南陽子を参考人として連れて来るんだ」
「しかし、彼女が偽証《ぎしよう》したと証言しても――」
「そうさ。彼女が参考人として呼ばれても、江田はタカをくくっているだろう。そこがつけめさ」
と、十津川は、小さく笑った。
二人は、捜査本部に戻《もど》ると、まず、銀座のバーから、マダムの南陽子を、任意出頭の形で、連れて来た。店のホステスやバーテンには、彼女が、二、三日、旅行に行ったと、他の者に言わせるように言い含《ふく》めた。江田が連絡《れんらく》を取ってきて、罠を張る前に、逃亡《とうぼう》されたり、警戒されたりするのを防ぐためである。
南陽子は、取調室に入れられ、十津川がひとりで、相手をすることにした。その間、陽動作戦として、ベテランの鈴木刑事が、江田真の住んでいるマンションを訪ね、何となく雑談をしてくることにしていた。それは、罠にかかりやすくするために、前もって、江田に、心理的圧力をかけておくためだった。
「さて、偽証罪《ぎしようざい》が、三年以下の実刑《じつけい》になり得ることを知っているかな?」
と、十津川は、南陽子に向かい合うと、いきなりいった。
「偽証罪って、何のことかしら?」
南陽子は、笑った。が、その笑顔は、こわばっていた。
「つまり、あんたを、三年間、刑務所に入れることが出来るということだよ。女性にとって、三年間の刑務所生活は、応《こた》えると思うね。特に、あんたみたいな美人にはね。一年間で、すっかりシワの増えた女もいる」
「あたしは、何もしてないわ。むしろ、警察に協力して、証言してたのに」
「その証言が嘘《うそ》だとわかったんでね。しかも、あんたが、かばってやった男が悪かったな。すでに、四人の男女を殺している。このままだと、あんたは、殺人の共犯にもなる。となると、一生刑務所から出られんかもしれない。一生刑務所暮らしをするかね?」
「とんでもない。あたしはただ、あの日の午後六時に、東京駅前の中央郵便局あたりで、吉田専太郎と、二十代の若い男が並《なら》んで歩いているところを見たといってくれと頼まれただけよ」
「その謝礼は?」
「外国製の可愛《かわい》らしいスポーツカーよ。オリエンタルレッドのフィアット850クーペ」
「じゃあ、われわれのためにも、協力してくれないかね? スポーツカーはあげられんが、あんたの罪は不問にしてもいい。一生刑務所に入らなければならないことを考えたら、損《そん》な取り引きじゃないと思うがね」
十津川は、やんわりといった。彼女を起訴《きそ》できたとしても、偽証罪《ぎしようざい》だけなことはわかっていた。それも、見誤ったのだと主張されたら、検事が、果して起訴にふみ切るかどうか。だが、十津川の脅《おど》しはきいたようだった。三十歳で、年齢《ねんれい》が気になり出している南陽子には、一年でも刑務所で暮らすのはごめんなのだろう。
「どうすればいいの?」
と、彼女がいった。
十津川は、封筒《ふうとう》と便箋《びんせん》を部下に持って来させた。
「それに、こちらのいう通り書いて貰《もら》えばいい。いいかね。『あんたがやったことは、全部知っている。バーザ・マウンテン≠フマダムを殺して、何千万円もの財産を横取りしたことをね。あの新那須カントリー・クラブの最終日の最終ホールで、偶然《ぐうぜん》、あたしは、あんたが、ライフルを射《う》って、クラブハウスのかげから逃《に》げて行くのを見てしまったのよ。それを警察に言わなかったのは、あんたが、何故《なぜ》、彼女を射ったかわからなかったからだけど、今は、わかったわ。吉田専太郎を、事故に見せかけて殺したのも、きっとお金のためね。それで、あたしに、あんなスポーツカー一台で、警察に嘘《うそ》をつかせるなんて、しみったれ過ぎるわ。あと、少なくとも一千万円は貰《もら》いたいわ。警察に言われたくなければ、今週の金曜日の午後六時、丸子多摩川《まるこたまがわ》の東京側の河原に、一千万円持って来て頂戴《ちようだい》。もし、持って来なければ、その足ですぐ、警察に駈《か》け込んで、新那須カントリー・クラブで見たことを証言してやるわ』以上だ。あんたの文章に直してから、封筒《ふうとう》に入れて、江田真の探偵《たんてい》事務所に送る。親展≠ニ書いた方が、もっともらしくていいな」
「あの人、一千万円、持って来るかしら?」
ペンを止めて、南陽子は、十津川を見た。
「いや。十中八、九、彼は、あんたをライフルで殺すね。一度、金を払《はら》えば、何回も、恐喝《きようかつ》されることは、あの男が一番よく知っている筈《はず》だからだよ。それに、もう四人殺している。あと一人殺すぐらい何でもないだろう」
「嫌《いや》よ。銃《じゆう》に狙《ねら》われるなんて!」
蒼《あお》い顔で、彼女がいった。十津川は笑って、
「あんたを標的になんかしないよ。あんたのスポーツカーを借りるだけだ」
彼女の書いた手紙は、その日のうちに速達で、中央郵便局のポストに放《ほう》り込《こ》まれた。
あとは、江田が、罠《わな》に引っかかるのを待つだけだが、その間、南陽子は、捜査《そうさ》本部にとめておくことにした。指定した金曜日前に、彼女が狙われるのを防ぐためである。
午後六時と、時間を指定したのは、まだ、この季節では、薄明《うすあか》るいからである。
十津川は、江田真に、あの凶器《きようき》のライフルを使わせたかったのだ。
暗くなっては、彼は、他の方法で、殺そうとするだろうし、あまりに明るい時間では、替玉《かえだま》が見破られる危険があったからである。その丁度いい時間が、午後六時なのだ。
綿密に、計画が練られた。
(絶対に、江田は、ライフルで殺しに来る)
それは、十津川の確信であった。
まず、陽動作戦として、署長が、記者会見で、まだ犯人の目星もつかず、困惑《こんわく》していると発表した。
次は、南陽子と背格好の似ている婦警を探し出し、防弾《ぼうだん》チョッキを着せた。後姿が似ていれば、顔は、あまり似ていなくてもよかった。江田は、凶器としてライフルを使うとすれば、獲物《えもの》に対して五、六十メートルの距離《きより》に近づくとは思われなかったからである。自衛隊で、射撃《しやげき》の腕《うで》に自信のあった彼は、少なくとも、二、三百メートル離《はな》れた場所から、望遠レンズで狙《ねら》い、曳金《ひきがね》を引く筈《はず》だ。新那須カントリー・クラブでも、犬山ゴルフ・クラブでも、彼はそうしたし、一発で相手を殺している。
今度も、そうするだろう。とすれば、顔は似ていなくても、後姿さえ似ていれば、彼は、薄暗《うすぐら》い中で、曳金を引く筈だ。
そのために、南陽子から、スポーツカーを借りたのである。オリエンタルレッドのフィアット850クーペだ。しかもこの車は、江田が、彼女を買収するために、贈《おく》った車である。ナンバーも覚えているだろう。
その車を、多摩川の河原に置き、背格好の似た女を、土手に背を向けて、車の横に立たせておけば、江田は、彼女を南陽子以外の人間とは考えまい。
問題は、江田が、どこから狙うかということだった。三か所の地点が考えられた。丸子多摩川|附近《ふきん》は、川をはさんで両側に土手があり、その上が道路になっている。東京都側の土手に車を止め、河原に立っている獲物《えもの》を狙うのが、一番狙い易いし、確率は高い。だが、川の向こう側から狙うかもしれない。距離《きより》は遠くなるが、腕《うで》に自信のある男だから、考慮《こうりよ》の外にするわけにはいかない。もう一つは、ボートに乗って、川の上から狙撃《そげき》することだ。これは流れがあり、足場が不安定だから、確率は少ないが、万全を期すため、無視はしなかった。
指定した日の午後三時半には、十津川たちは、丸子多摩川に到着《とうちやく》していた。刑事の一人が、江田の事務所に張り込《こ》み、彼の行動を、逐一《ちくいち》、無線で十津川に報告していた。
ウィークデイと、何となく薄《うす》ら寒い天気のせいで、河原に人影は、まばらである。それが、十津川には有難かった。江田を罠《わな》にはめて逮捕《たいほ》できても、巻き添《ぞ》えで、無関係の人を怪我《けが》させたくはない。
神奈川県警の了解《りようかい》をとって、対側の土手にも、三人の刑事を張り込ませ、ボート屋のオヤジには、話をつけて、刑事の一人が、なりすますことにした。江田がボートを借りた場合は、土手の上の十津川たちに合図を送ることになっている。
十津川は、鈴木、田中、永井の三人の刑事と一緒《いつしよ》に、一番本命とみられる東京都側の土手に、張り込むことにした。
午後四時、覆面《ふくめん》パトカーの無線に、江田真が、車で、四谷三丁目の事務所を出たという報告が入った。
「来るぞ」
と、十津川は部下たちにいった。赤いフィアット850クーペが、土手から河原に動かされ、南陽子に化けた婦人警官が、車の横に背を向けて立った。
土手の上から見ると、ライフルで狙《ねら》うには、絶好の標的だ。江田の眼にも、多分そう映るだろう。
午後四時三十分。江田の車が、丸子多摩川に向かっていると連絡《れんらく》が入る。十津川だけが車に残り、あとの三人の刑事は、土手の各所にちらばった。
午後五時。
江田真の車が、ゆっくりと、土手の上を近づいて来るのが見えた。
それが、土手の上で止まる。が、しばらくの間、江田は、運転席でハンドルを握《にぎ》ったまま、周囲の様子を窺《うかが》っていた。十津川は、息を殺し、バックミラーで、それを眺《なが》めていた。
やがて、江田は、リアシートから、ライフルを取り出し、窓を開け、窓枠《まどわく》に、銃《じゆう》を押《お》しつけるようにして、構えた。
その瞬間《しゆんかん》、土手のかげから、三人の刑事が一斉《いつせい》に飛び出した。
ぎょっとして、江田が、ライフルを放《ほう》り出し、アクセルを踏《ふ》む。十津川は、その行手を塞ぐように、自分の車を、斜めに突進《とつしん》させた。鈍《にぶ》い衝撃《しようげき》がし、二台の車がぶつかった。
江田が、ドアを開けて、通路に飛び出した。足がもつれて、泳ぐような格好になる。それに向かって、三人の刑事が、いなごのように飛びついて、乾《かわ》いた土手の上にねじ伏《ふ》せた。
十津川が、車からおりた時、江田は手錠《てじよう》をはめられて、引き起こされていた。その顔に、泥《どろ》がつき、ところどころ血がにじんでいた。
「罠《わな》にはめやがったな!」
と、江田が、十津川に向かって怒鳴《どな》った。
十津川は、事件が、終ったときのいつもの、あの奇妙《きみよう》な虚脱感《きよだつかん》を感じながら、低い声でいった。
「前の二回は、見事なショットだったが、今度は、ガードバンカーに打ち込《こ》んでしまったな」
本書は昭和60年2月、日本文華社から出版されたものを文庫化したものです。なおこの作品はフィクションであり、実在の個人・団体等とは一切関係ありません。
[#地付き](編集部)
角川文庫『殺しのバンカーショット』昭和62年5月25日初版発行
平成15年4月10日31版発行