[#表紙(表紙.jpg)]
歪んだ朝
西村京太郎
目 次
歪《ゆが》んだ朝
黒の記憶
蘇《よみが》える過去
夜の密戯
優しい脅迫者
[#改ページ]
歪《ゆが》んだ朝
浅草|山谷《さんや》に近く、立ちん坊で有名になった泪《なみだ》橋から、東へ三百米程の所に、白鬚《しらひげ》橋が、架かっている。隅田《すみだ》川も、此処《ここ》まで来ると、どす黒く濁り、時には、汚臭を放ちさえする。川という言葉の持つ、清冽《せいれつ》な、同時に感傷的な響きは、此処にはない。川岸に住む古老は、隅田川は死んでしまったと嘆くが、あながち、誇張した言葉とは、思えないものがある。確かに、黒く澱《よど》んだ川面《かわも》には、死を思わせる暗さがあった。
田島は、この古老程、深刻に考えた事はないが、それでも、濁った川面を見る度に、胸の奥に、微《かす》かな痛みを感じた。明治四十三年二月、浅草|千束《せんぞく》町に生れ、現在も、浅草署で刑事として働いている田島には、隅田川は、皮膚の一部に近い存在だからである。幼い頃の記憶は、裏通りを、甲高い呼び声で、流して来た物売りの姿と、魚釣りや、水遊びに興じた、隅田川を除外しては、考えられない。ブリキの罐《かん》を叩《たた》きながら、「雨が降っても、カアリカアリ」と流して来た、かみなり焼や、赤い小箱を下げた、まむし売りの姿は、もう見る事は出来ない。物売りだけではない。浅草六区の姿も一変してしまっている。カジノフォーリーも、十二階も、今はない。浅草そのものが変ってしまったのだ。隅田川が、昔日の姿を失ってしまったとしても、仕方のない事かも知れなかった。
戦後、対岸に住む様になった田島は、浅草署への往復に、白鬚橋を渡る。朝の出勤時には、なるたけ、川面を見ない様にしているが、夜更けて、帰宅する時には、橋の途中に佇《たたず》んで、暫《しばら》く、川面を眺める事が多い。夜の闇《やみ》が、汚濁を隠して、暗い川面に、昔の追憶を蘇《よみがえ》らせて呉《く》れるからである。眼触りな浮遊物も、夜が深ければ、見えはしない。
その日も、田島は、帰宅の途中、白鬚橋の上で、立ち止まり、暗い川面に眼をやりながら、煙草に火を点《つ》けた。夜と言うより、夜明けに近い時刻である。六区の興行街で起きた傷害事件が、午前三時を過ぎて、やっと解決し、身体《からだ》の空いたのが、四時に近かった。軽い疲労が、五十二歳の田島の身体を、包んでいる。田島は、橋の欄干に、もたれて、ゆっくりと、煙草を吸った。
田島は、傷害事件の事を考えていた。不思議に、負傷した被害者より、逮捕した、犯人の顔が深く印象に残っている。小さなゴム工場で働く、十七歳の工員だった。若いと言うより、稚《おさな》いと言う言葉がふさわしい顔をしていた。相手に、全治一カ月の重傷を負わせた犯人と言う感じは、何処《どこ》にもなかった。深夜喫茶の片隅で捕えた時、その少年は、怯《おび》え切っていた。彼自身が、まるで、被害者の様に見えた。映画館の中で、肩が触れたと言う、些細《ささい》な事が原因の傷害事件だったが、あの少年を、発作的な犯行に走らせた裏には、抑圧された何かがあったに違いないと思う。貧困、欲求不満、その他、様々な原因が考えられる。そうした、抑圧されていたものが、肩が触れ合った瞬間に、爆発したに違いない。犯人の行為を、狂犬視する前に、それを考えてやる必要が、ありはしまいか。もっとも、そこまで考えるのは、刑事の仕事でなく、判事や、弁護士の仕事かも知れないが――。
田島は、ふと背に、温かい、朝の陽差しを感じた。夏の朝は早い。つい先刻《さつき》まで、周囲を固く閉ざしていた夜の気配は、急速に薄れて行く。岸に並ぶ、倉庫の壁が、朝の光の中で、白く輝き始めるのが見えた。静まり返っていた、橋の上にも、急に、車の響きが、激しくなった。
田島は、何本目かの煙草を、川に投げ棄てた。川面を蔽《おお》っていた、夜のヴェールが、引き剥《は》がされ、薄汚れた川面が、姿を見せ始めていた。そこには、相変らず、木片が流れ、猫や鼠の死骸《しがい》が浮んでいる。岸に近い所は、水の色まで、コールタールの様に黒く染り、流れる気配もない。田島は、眼をそむけて、新しい煙草を咥《くわ》えたが、ふと、気になる物を見た様に、視線を戻した。
浅草側の岸に、古びた和舟が、半ば沈んだままの姿で、放置してあった。二カ月程前、その上で遊んでいた子供が、川に落ちて、危く溺《おぼ》れかけた事がある。その事があってから、舟の持主に、早急に処分する様に、注意してあったが、未《いま》だに、そのままになっている。しかし、田島が、気になったのは、その沈みかけた和舟ではなかった。変色した舷《ふなばた》に、引っ掛っている、赤い布片《ぬのきれ》である。丁度、橋の下を通り過ぎたモーターボートの立てた波で、赤い布片が、上下に、揺れ動いている。
田島は、瞳《め》を凝らした。強い夏の陽光が、川面に反射して、見にくかったが、それでも、赤い布片と見えたものが、どうやら、赤い毛糸で編んだセーターらしいと、判って来た。舟の陰になっていた、頭や、手足も、見える様になった。子供の死体らしいと、思った時、田島は、煙草を捨てて、駈《か》け出していた。
小さな鉄工場の、石炭置場の片隅に、引揚げられた死体は、仰向《あおむ》けに置かれていた。まだ、ほんの子供だった。十歳位だろう。それでも、女の子らしく、短いスカートの下から突き出た脚は、白かった。赤いセーターは、所々に小さな穴があり、その下に、素肌が覗《のぞ》いていた。夏になっても、冬物の古びたセーターを着ている事に、この少女の置かれていた、境遇の貧しさが、端的に、示されていると、田島は思った。
田島は、最初、事故死と考えた。和舟の上で遊んでいる中《うち》に、落ちたのだろうと思ったが、死体を調べてみると、細い首に、扼殺《やくさつ》の跡があった。事故死でなく、これは、殺人事件《ころし》だった。
田島の注意を惹《ひ》いたものが、もう一つあった。少女の唇についていた、口紅である。真赤な口紅が、頬《ほお》の辺りまで、はみ出す様に塗ってあった。少女の稚い顔と、真赤な口紅とは、似合わなかった。
少女の身許《みもと》は、簡単に割れた。山谷のドヤに住む、日傭《ひやとい》労働者、関谷|晋吉《しんきち》(四十歳)の娘、関谷正子(十歳)だった。死体を見に集った弥次馬《やじうま》の中に、関谷と同じドヤに住む男が居て、話して呉れたからである。
田島は、知らせを受けた父親が、すぐ飛んで来るものと思っていたが、少女の死体が、解剖の為に、監察医務院に運ばれる頃になっても、一向に、姿を見せなかった。
田島は、若い安部刑事と、関谷晋吉を、山谷のドヤに、訪れる事にした。行政解剖であっても、一応、父親の了解を得ておく必要があったし、訊《き》きたい事が、あったからである。
現場から、山谷のドヤ街は近い。右手に、巨大なガスタンクの並ぶバス通りを歩きながら、若い安部刑事は、興奮した口調で、今度の事件は、変質者の犯行に違いないと、言った。安部刑事の推測は、当っているかも知れない。二週間前、六歳の女児が、誘拐されると言う事件が、浅草署の管内で、起きているからである。誘拐された女児は、二日後、デパートの屋上で、泣いているところを発見され、親のもとに帰されたが、犯人は、まだ、逮捕されていない。女児の言葉によると、犯人は、三十歳位の小柄な男で、野球帽をかぶっていたと言う。金を要求せず、二日間、引き摺《ず》り廻した末、デパートの遊び場に、置き去りにして姿を消したのだから、変質者としか思えない。
「同じ男だと思うかね?」
歩きながら、田島は、安部刑事を見た。安部は、考える眼になって、
「だと、思いますが」
と、言った。田島は、その言葉に対して、意見らしいものを言わなかった。
山谷のドヤ街は、都電通りを挟んで、山谷二丁目から、泪橋の左右に拡がっている。都電通りには、小綺麗《こぎれい》な商店が並び、夜になれば、呑《の》み屋の提灯《ちようちん》に、赤い灯が点いたりするが、一歩、路地を入ると、山谷らしい光景が眼につく。「一泊百円。入浴ツキ」とか、「男子専用第三ホテル」と言った看板の下った旅館《ドヤ》が、目白押しに並び、饐《す》えた匂《にお》いが、鼻につく。関谷晋吉は、このドヤ街では、上等と言える、一泊二百五十円の個室に、住んでいた。叩《たた》けば、凹《へこ》んでしまいそうな、薄いベニヤ板で仕切られた、三畳である。山谷のドヤは、安いと思われているが、決して、安くはない。カイコ棚に詰めこむ、一泊百円のドヤにしても、月にすれば、三千円である。一泊二百五十円の個室なら、月に七千五百円になる。山谷の住人が、その高さに文句を言わないのは、此処《ここ》には、身許《みもと》の保証だとか、権利金だとか、そうした面倒なものが、ないからである。
田島と、安部刑事が、関谷の部屋に入ると、酒の匂いがした。薄い煎餅蒲団《せんべいぶとん》の上に、関谷は、大の字になって、大きな寝息を立てていた。その汚れた足許に、空になった一升瓶が、転っている。
狭い部屋には、家具らしいものは、何一つなかった。僅《わず》かに、部屋の隅に、ミカン箱が置いてあり、その上に、絵本が載っているのが、眼に入った。恐らく、殺された少女が、机代りに、使用していたものだろう。
「起きろ」
と、安部刑事は、大きな声を出した。娘が殺されたと言うのに、泥酔して、寝込んでいる男に、腹を立てた表情になっていた。関谷は、小突かれて、やっと眼を開けた。
田島が、穏やかに、少女の死を告げたが、この父親は、「へえー」と、間伸びした声を上げただけだった。
「貴方の子供が、殺されたんだ」
田島は、同じ言葉を、今度は、強い調子で言ったが、男の反応は、相変らず、鈍いものだった。
「判りましたよ」
と、関谷は、煩《うるさ》そうに言い、転っている一升瓶を掴《つか》んだが、空だと判ると、軽い舌打ちをした。娘を失った驚きも、悲しみも、そこには、感じられなかった。
「悲しくないのかね? 子供が死んだんだよ」
安部刑事が、相手の態度に、我慢がならないと言った顔で、声を尖《とが》らせた。
「何故、俺《おれ》が、悲しまなきゃいけないんだよ?」
関谷は、濁った眼で、安部刑事を見上げた。
「あいつは、死んだ方が、いいんだ。その方が幸福だろうからね。それに、俺の子かどうかも、判っちゃいない。逃げてった、かかあが、勝手に、こしらえたんだ」
「しかし、父親だろう。あんたは」
「だから、どうだって言うんだ?」
「だから――」
「止めた方がいい」
田島は、苦笑して、安部刑事の腕を押えた。放って置くと、この正義感の強い若者は、相手を、殴りかねなかった。
「とにかく、犯人を逮捕する為には、父親である、貴方の協力が必要だ」
田島は、関谷に言った。
「娘さんが、居なくなったのは、いつの事だね?」
「昨日だよ」
「昨日の何時頃?」
「何時だったかね――」
関谷は、身体《からだ》を、もぞもぞさせた。二日酔いから、醒《さ》め切っていない声で、
「随分、暗くなってたよ。十時頃じゃないかね」
「十時? 確かかね。それは」
「俺が、あいつに、酒を買いにやらせたのが、確か九時半頃だったからね。買って来てから、文句を言いやがったから、俺は、殴ったんだ。そしたら、でけえ声で、わあわあ泣きやがった。喧《やかま》しくてかなわねえから、弄玉《あめだま》でも買えって、十円やって、追い出したんだ」
「それから――?」
「それから? 俺は飲んで寝ちまったよ。後の事は、俺は知らねえ」
嘘《うそ》では、なさそうだった。濁った、どろんとした眼が、それを示していた。田島は、腹立たしいのを押えて、次の質問に移った。呆《あき》れた父親だが、今は、その事に、腹を立てて居る時ではないし、二日酔いの相手に、正義感を、爆発させている時でもない。一刻も早く、犯人を逮捕しなければならない時だった。この男に、父親としての自覚を促すのは、それからでも、遅くはない。
「正子ちゃんは、口紅を持っていたかね?」
田島が訊いた。頬にまで、はみ出す程、塗りたくられていた、口紅の赤さが、強烈な印象となって、田島の脳裡《のうり》に焼きついている。あの口紅は、一体、何を意味しているのだろうか。
関谷は、ぽかんとした顔で、田島を見上げた。咄嗟《とつさ》には、質問の意味が、判らなかったらしい。「口紅だよ」と、田島が、言うと、
「あんな小さい子が、口紅なんぞ、持ってる筈《はず》が、ねえでしょう。それとも、何処《どこ》からか、くすねて来やがったかな」
田島は、部屋の隅の、ミカン箱に、手を掛けた。古ぼけたミカンの空箱と、たった一冊の絵本。僅かな持物だが、小さな、本当に小さな、子供の世界が、そこにあった。殺された少女が、このミカン箱に向って、何を考えていたか、田島には、判らない。しかし、その何かが、あの真赤な口紅に通じているのかも知れなかった。
田島は、ミカン箱を、ひっくり返してみた。少女歌手のブロマイドが一枚出て来たが、肝心の口紅は、見つからなかった。
「あったかね?」
寝転んだまま、関谷晋吉は、がさがさした声を掛けた。安部刑事が、「黙っていろ」と怒鳴った。田島は、難しい顔になって、低い天井を睨《にら》んでいた。
「呆れた男です」
安部刑事は、捜査本部となった、浅草署に戻ってからも、憤懣《ふんまん》を、燃やし続けていた。
「あれじゃあ、殺された子供が、浮ばれませんよ」
「我々で、浮ばせて、やろうじゃないか」
田島が、微笑しながら、言った。その微笑に、安部刑事に対する好意が、籠《こも》っていた。安部刑事に、と言うよりも、彼の持つ、若さにかも知れない。それは、そのまま、田島の、青年時代への郷愁でもあった。昔の田島は、事件が起きる度に、その背後に浮んで来る、人間の醜さや、不合理な社会の仕組みに、腹を立てていた。五十二歳になった今は、社会と言うもの、人間と言うものには、本質的に、暗い影の部分があるのだと、考える様になって来た。それが、進歩と言えるかどうか、田島自身にも判らない。時には、やみくもに、厚い壁にぶつかって行った、若い頃が、懐しくなる。恐らく、安部刑事も、自分と同じ道を辿《たど》るだろうと、田島は思う。下手な忠告は、しない方がいいとも思っていた。あの若い正義感は、不確かだが、貴重なものだ。
少女の唇に塗られてあった、口紅は、捜査本部でも、問題視された。少女自身が、殺される前に塗ったのか、犯人が、殺してから塗ったのか、それが判れば、犯人の外貌《がいぼう》が、浮んで来る事も考えられるからである。本部の意見は、後者に傾いていた。田島も、同意見だった。少女の住んでいた部屋から、口紅が発見されなかった事も、理由の一つだが、犯人が、変質者に違いないと言う断定が、その根拠にもなっていた。変質者なら、死んだ少女の唇に、口紅を塗りたくる事も、しかねない。
解剖結果は、翌日になって、送られて来た。死因は、矢張り、扼殺《やくさつ》による窒息死。隅田川に捨てられた時は、既に、死亡していたと言う事である。死亡推定時刻は、十一時から十二時。父親の証言が正しければ、被害者は家を出て、一時間|乃至《ないし》二時間後に殺された事になる。暴行の形跡は、なかった。
解剖結果から、判った事が、他に二つある。一つは、胃の中から、弄玉の残滓《のこりかす》が、検出された事である。少女は、父親から貰《もら》った十円で、矢張り、弄玉を買った様である。
他の一点は、口紅の分析結果である。「濡《ぬ》れても落ちない」と言う宣伝文句で、最近売り出された口紅で、名前は、「夜のデイト」だった。安物だが、セクシアルと言う事で、売行きは、良いらしい。
田島は、少女の唇に塗られてあった、口紅の赤さを改めて思い出した。あの赤さは、稚《おさな》い少女の顔に、似合っては、いなかった。「夜のデイト」と言う名前もである。その違和感が、田島の気持を、暗いものにした。
聞き込みが、開始された。
田島は、安部刑事と、再び、山谷のドヤ街に足を運んだ。先ず、少女が、弄玉を買った店を探し出す事である。そこから、事件当夜の、少女の足取りが、掴《つか》めるかも知れない。
暑い日だった。おまけに、風がない。普段でも、汗かきの田島は、歩きながら、何度も、流れて来る汗を、手拭《てぬぐ》いで拭《ふ》き取った。道路のアスファルトは、朝から溶け始めていて、車が通過する度に、黒い轍《わだち》の後を残していく。
少女が、よく弄玉を買いに行く駄菓子屋は、すぐ見つかった。路地裏の小さな店で、日陰になっている狭い路地には、仕事にあぶれた男達が、半裸の恰好《かつこう》で、腰を下したり、寝そべったりしていた。田島達が近づくと、どろんとした眼を向けるが、すぐ、詰らなそうに、眼を閉じてしまう。二十代の若い男もいれば、疲れ切った老人の姿も見えた。どの顔にも、一様に、暗い、倦怠《けんたい》の色が、浮き出ている。田島は、山谷のドヤ街に、一万人近い人間が住んでいる事を思い出した。その半数が男だとしても(実際には、男の数の方が多い筈である)、五千人。その多くが、性的な欲求不満を持っていると、或る雑誌に書かれてあった。その記事は、山谷に、売春が無くならないのは、そうした、何千人と言う厖大《ぼうだい》な需要がある為で、もし、売春婦が、一人も居ないとなれば、欲求不満から、暴動に発展しかねないと言う意味のものだった。山谷に対する一つの見方だし、間違ってはいないと田島は、思っている。田島は、路地を歩きながら、その記事を思い出していた。今、眼の前に、無気力な顔で、寝そべっている男達も、その五千人の仲間なのだ。彼等も、欲求不満から、何時《いつ》、野球帽の男の様な、変質者になるかも知れない。もっと単刀直入な言い方をすれば、この男達の中に、少女を殺した犯人が、いるかも知れない。
田島は、駄菓子屋に入って、被害者の事を訊いた。店番をしていた、アッパッパ姿の中年の女は、「正子ちゃんなら、よく弄玉を買いに来ましたよ」と、前置きしてから、
「でも、一昨日《おととい》の夜は、見かけませんでしたね」
と、言った。
「何時まで、店を開いているんですか?」
「夏は、十一時近くまでやってますよ。一昨日は、十二時近くまで、起きてました。暑かったですものねえ」
田島は、失望を感じた。もしかすると、弄玉は、少女が買ったのではなく、犯人が、買い与えたものかも知れない。念の為に、一昨日の夜、大人で、弄玉を買ったものはないかと訊いたが、ないと言う返事だった。
田島は、話題を変えた。
「殺された正子ちゃんの事は、よく知っていますか?」
田島は、狭い店先に並べてある、駄菓子や、ピストルの玩具《おもちや》を見ながら、訊いた。
「知ってますとも。うちは、子供達の溜《たま》り場みたいなもんですからね」
女は、笑いながら言った。確かに、田島や安部刑事が、店にいる間にも、何人かの子供が、押しかけて来て、弄玉や、一本五円のアイスキャンディを買って行った。
「正子ちゃんは、どんな子でした?」
「頭のいい子でしたよ。言う事も、はっきりしてました。学校へも、自分から、行った位ですからね」
「学校――?」
「勿論《もちろん》、父親が、あんなですから、毎日行くってわけにもいかなかった様ですけどね。二年ばかり通ってたし、成績も、良かったらしいですよ。最近は、行ってなかったらしいですけど、この辺で、満足に字が書けるのは、あの子位のものでしたよ」
「正子ちゃんが、口紅をつけているのを、見た事がありますか?」
「いいえ」
相手は、はっきりと、首を横に振った。
「この辺の子は、みんな早熟ですけどね、あの子が、口紅をつけてるのなんか、見た事がありませんよ。第一、口紅を買うお金だって、無かったでしょうからね」
山谷に、駄菓子屋は、一軒だけではない。被害者が、他の店で、弄玉を買った事も、考えられた。田島と、安部刑事は、根気よく、一軒一軒当って行く事にした。
最初は、泪《なみだ》橋と、死体の発見された白鬚《しらひげ》橋を結ぶ線である。最も期待の持てる地区だったし、駄菓子屋が一軒。それに、菓子店が二軒あった。しかし、調べてみると、どの店でも、一昨日の夜、被害者の姿を見たと言う声は、聞けなかった。この三軒の他に、マーケット内にも、菓子店があったが、これは、最初から、問題にならなかった。マーケット自体の閉店時刻が、七時だったからである。
「こりゃあ、犯人が、被害者に弄玉をやったのかも知れませんね」
安部刑事が、言った。その顔に、汗が幾筋も流れている。田島も、そんな気がして来た。犯人が、あらかじめ、弄玉を買っておいて、少女に与えたのだとすると、駄菓子屋や、菓子店を廻っても、収穫は、ゼロに決っている。しかし、調べ終るまでは、早急に結論を出す事は、危険だった。
「とにかく、調べてみる事だ」
田島は、低い声で言って、雲一つない空を見上げた。暑い。とにかく暑い。
南千住から、泪橋を通り、隅田公園に抜ける都電通りにも、菓子店は、何軒かあった。閑散とした店。子供の群がっている店。気をつけて見なければ、見過ごしてしまいそうな小さな駄菓子屋もあれば、今、流行のスーパーマーケットもある。しかし、その一軒一軒を調べて行く度に、失望が、深まって行った。どの店にも、被害者は、立ち寄っていないのである。失望と同時に、暑さから来る疲労も、深まって行く様だった。
最後に、白鬚橋と反対の方角が残った。もっとも期待のかけられない地区だが、無視するわけにはいかなかった。田島は、一息入れてから、安部刑事を促して、バス通りを歩き出した。両側には、大衆食堂や、小さな木材工場などが並んでいる。暫《しばら》く歩いている中に、遠く浅草六区に新しく出来た、新世界ビルが見えた。
菓子店は、なかなか見つからない。十分近く歩いて、やっと、左側に、小さな駄菓子屋が見えた。店番をしていた老婆が、二人を見て、びっくりした様に、顔を上げた。
安部刑事が、他の店でした質問を、老婆に向っても繰り返した。声に熱が籠らないのは、収穫のない答が続いていたからだろう。
「一昨日の夜ですか?」
老婆は、ぼそぼそした声で、言った。
「そう言えば、十歳位の女の子が、弄玉《あめだま》を買いに来ましたよ。十円持って」
「来た?」
田島と、安部刑事は、思わず、顔を見合わせた。
「服装は?」
「暑いのに、赤い毛糸のセーターを着てました。穴だらけの」
殺された関谷正子に、間違いない様だった。田島は、疲労が、身体《からだ》から消えて行くのを感じた。現金なものである。
「その時、女の子に、連れはありませんでしたか?」
「いいえ」
と、老婆が言った。
「一人でしたよ」
「誰か、通りで、待っている気配はありませんでしたか?」
「さあ」
老婆は、首をかしげた。
「誰もいない様でしたけど」
「時間は、何時頃でした?」
「確か十時半頃でした。確かです。十時半ですよ。その子が帰ってから、そろそろ店を閉めようかなと思って、時計を見たんで、憶《おぼ》えているんですよ」
「弄を買ったあと、女の子は、どっちへ行きました?」
「どっちへって――」
老婆は、また首をかしげてしまった。
「判りませんねえ。弄玉を渡すと、すぐ、奥へ引っ込んでしまったんで」
「その子の様子に、何か、変った点は、ありませんでしたか? 何かに、怯《おび》えていると言った様な――」
「あの子が、どうかしたんですか?」
老婆が訊き返した。どうやら、新聞を読まなかったらしい。可成り大きな記事だったから、眼を通していれば、知らない筈《はず》がなかった。田島は、一寸《ちよつと》考えてから、殺された事を話した。老婆は、「へえ」と、大袈裟《おおげさ》な驚き方をした。
「それで、気がついた事があったら、どんな事でも、教えて頂きたいのですが」
田島は、老婆の顔を覗《のぞ》き込んだ。老婆は、一生懸命に考え込んでいたが、
「そう言えば、妙だなと思った事が、一つあるんですよ」
と、言った。
「何です?」
「口紅なんです。子供の癖に、真赤な口紅をつけていたんですよ。可笑《おか》しな子供だと思いましたよ」
「口紅をね」
田島は、もう一度、安部刑事と、顔を見合わせた。あの口紅は、犯人が、殺してから、塗ったものだろうと考えていたのだが、その推測は、老婆の証言で、間違っていた事が判った。しかし、何の為に、口紅が塗られたのか、判らない事は、同じだった。
老婆の知っている事は、他にはなかった。田島と、安部刑事は、礼を述べて、その店を出た。
「十時半に、少女は、此処《ここ》に居た」
田島は、舗道に立って、周囲を見廻した。夏の太陽が、相変らず照りつけている。大型トラックが、砂塵《さじん》を巻き上げて、二人の傍を、通り過ぎて行った。
「問題は、此処で弄玉を買ってから、何処《どこ》へ行ったかと言う事ですね」
安部刑事が、手で庇《ひさし》を作りながら言った。
田島は、煙草を咥《くわ》えて、火を点けた。
「問題は、他にもあるよ。此処に来た時、少女は、一人だったか、それとも、犯人が一緒だったかと言う事だ。駄菓子屋の婆さんは、被害者しか見ていないが、犯人が、居た様な気がするんだがね」
「僕も、そう思います」
安部刑事が、頷《うなず》いて見せた。
「一人だったら、弄玉を買う為に、わざわざ、此処まで来る筈がないと思うのです。被害者の住んでいたドヤの傍に、よく行く駄菓子屋がありましたからね。あの店で、買った筈です」
安部刑事の言う通り、この店は、離れ過ぎている。少女の住んでいたドヤから、二百米は、優にあるだろう。とすれば、少女は、此処まで、犯人に連れて来られた公算が強い。
「犯人が一緒だったとして、此処から、何処へ連れていかれたか」
田島は、照り返しの強い舗道に目をやりながら、独白の調子で言った。駄菓子屋の老婆は、十時半に、少女が、弄玉を買いに来たと証言している。解剖結果によれば、死亡推定時刻は、十一時から十二時までの間だから、少女は、三十分から一時間三十分の間に、殺された事になる。その間に、犯人は、少女を何処へ連れて行ったのか?
「白鬚橋へ逆戻りしたのかな?」
今度は、はっきりと、声に出して言った。時間的には合うが、田島には、犯人が、わざわざ、泪橋から、白鬚橋への道を、逆戻りしたとは思えなかった。此処まで来た理由が判らなくなるからである。
「違う様だな」
と、田島は、自分で、自分の言葉を否定した。
「この近くのドヤに連れ込んだのかも知れん」
「と言う事は、殺されたのは、死体の発見された白鬚橋の近くでは、ないと言う事ですか?」
「どうも、別の所で殺されてから、運ばれた様な気がするんだがね」
「そう言えば、隅田公園なんか、殺す場所としては、絶好かも知れませんね。白鬚橋からは、下流になりますが」
「隅田公園か――」
田島は、考える眼付きになった。隅田公園は、隅田川の川岸に、細長く伸びている。公園の暗がりに連れ込み、そこで扼殺《やくさつ》した事も充分に考えられる。問題は、安部刑事が言った様に、白鬚橋より下流にあると言う事である。そこで殺したのなら、何故《なぜ》、わざわざ上流の白鬚橋まで運んで捨てたかが、疑問になる。しかし、逆に考えれば、隅田公園で殺した事を隠す為に、わざと上流に捨てたとも見られない事はない。少くとも、人に見られ易いドヤよりも、隅田公園の方が、可能性が強かった。
二人は、裏通りを抜けて、都電の隅田公園停留所へ出た。その、すぐ前が、言問《こととい》橋である。橋を中心に、左右に、細長い緑地帯が、拡がっている。公園と言うより、プロムナードの感じである。所々に、氷屋が、店を出して、客を呼んでいた。
田島は、最初に、ボート屋に当ってみた。頭の禿《は》げ上がった主人と、使用人の若者は、新聞で、事件を知っていたが、それらしい少女を見かけた記憶はないと、言った。
「一昨日《おととい》は、暑苦しいんで、十二時近くまで、外で涼んでいたんですがね」
と、派手なアロハシャツ姿の主人が、言った。
「赤いセーターを着た女の子なんて、見ませんでしたね」
他のボート屋の返事も、これと同じだった。公園の隅に、「廃品回収業」の看板を掲げている、人々にも、訊《き》いてみた。が、結果は、同じだった。誰も、一昨日の夜、被害者を見てはいなかった。
田島と、安部刑事は、言問橋を渡って、墨田《すみだ》区へも、足を運んだ。こちら側にも、川に沿って、緑地帯が拡がっている。ボート屋も二軒ばかりあった。その他に、古びた旅館が、軒を並べている。田島と、安部刑事は、手分けして、訊いて廻る事にした。一時間後に、二人は、橋の袂《たもと》で合流したが、どちらの顔にも、同じ失望の色が浮んでいた。
「隅田公園は、どうやら、見当違いだった様ですね」
安部刑事は、がっかりした様子で言った。若いだけに、壁にぶつかると、こたえるらしい。田島は、慰める様に、肩を叩《たた》いてから、一応、現在までの状況を、報告する事にした。
捜査本部に電話をかけると、電話口には、主任の、江馬警部が出た。田島が、駄菓子屋の件を報告し終ると、主任は、
「例の男が、逮捕されたよ」
と、言った。
「例の男と言うと、野球帽の?」
「そうだ。観音裏で、広瀬君が、職務質問して逮捕した。二週間前の誘拐を、自供したよ」
「今度の事件は、どうなんですか?」
「今のところ、否認している。しかし、十一時前後のアリバイが曖昧《あいまい》だからね。本ボシだと見ているんだが」
田島は、受話器を持ったまま、傍の、安部刑事の顔を見た。彼にも、主任の声が、聞こえていたらしい。「戻った方が、良さそうですね」と、田島に、言った。
住所不定、山上六郎(三十二歳)――これが、逮捕された男の名前だった。窃盗の前科が二つと、婦女暴行で、一度起訴されている。小柄な、見栄えのしない男である。ジャイアンツのファンだと言い、野球帽にも、ジャイアンツのマークが入っていたが、帽子を脱ぐと、後頭部に、直径五|糎《センチ》位の大きなハゲがあった。野球帽は、そのハゲ隠しの様だった。
夜に入ってから、田島が、その男の訊問《じんもん》に当った。
薄暗い調室である。中に入ると、むっとする暑さだった。鉄格子の嵌《はま》った小さな窓からは、そよとも、風は入って来ない。油の切れかかった古物の扇風機が、持ち込まれていたが、徒《いたず》らに、調室の中の熱気を、掻《か》き廻す役にしかたっていなかった。
田島は、山上六郎と向い合って腰を下すと、流れて来る汗を拭《ふ》いた。
「どうだね?」
と、田島は、相手を見た。蒼黒《あおぐろ》く、むくんだ様な顔が、そこにあった。怯《おび》えた、疲れ切った眼が、田島を、見上げている。
「俺《おれ》は、何も知りませんよ」
山上は、低い、かすれた声で言った。
「関谷正子とか云う子供の事なんか、俺は知りませんよ」
「しかし、二週間前に、六歳の女の子を誘拐したのは、お前なんだろう?」
「ええ。あんまり可愛《かわい》い顔をしてるんで、一寸《ちよつと》連れて歩いただけですよ。だからって、殺人《ころし》まで、俺がやったなんて、決められちゃかなわないですよ。俺は、殺人《ころし》なんて、やりませんよ」
「関谷正子も、可愛《かわい》いと思って、誘拐したんじゃないのかね? そして、言う事を聞かなかったから、殺した。違うのかね?」
「冗談じゃない」
「こっちも、冗談で、言ってるんじゃない。殺人事件なんだ。冗談で言えるか」
「だから、俺じゃないって、言ってるじゃないですか。信用して下さいよ。確かに、俺は、何度も、悪い事をして来ましたよ。でも、殺人《ころし》だけは、した事がないんですよ。俺には殺人《ころし》をやる程の度胸が、ないんだ。一年前に、女を、あれした時だって、殺せば、証拠が無くなると思っても、どうしても、殺せなかった。それに、俺は、子供が好きなんだ。二週間前だって、あの子を、どうしようなんて気は、一寸もなかったんですよ。ただ、無性に可愛くて、それで、連れて歩いただけなんです。信じて下さいよ」
「そんな言葉が、信用出来ると思うのかね? 今まで、相手を殺さなかったと言うだけで、今度も殺さなかったと言う証拠になると思っているのかね?」
「本当なんですよ。嘘《うそ》じゃないんだ。俺は、関谷正子なんて子は、知らないんですよ」
「それを、証明出来るのかね? ちゃんとしたアリバイがあるのか?」
「だから一昨日の夜は、暑くて寝られなかったから、ドヤを出て、隅田公園へ行ったんですよ。旦那《だんな》なんか知らないでしょうが、ベッドハウスって奴《やつ》はね、暑苦しい上に、ノミや南京虫《ナンキンむし》の巣でね。酒でも呑《の》まなきゃ、寝られるもんじゃないんですよ。一昨日の晩は、生憎《あいにく》、酒もなかった。だから、仕方なしに、隅田公園へ行って、草の上で、暫《しばら》く寝てたんです」
「時間は?」
「良くは憶《おぼ》えてないけど、九時から、二時頃まで、公園に居たかな。とにかく、夜中になってから、ドヤに戻ったんですよ」
「それを証明して呉《く》れる人が、いるかね?」
「そんなものは、居やしませんよ。川っぷちで寝るのに、誰かに、いちいち断ってからにしろって、言うんですか?」
田島は、返事をせずに、黙って、相手の興奮した顔を見詰めた。夏の夜のベッドハウスが、どんなに寝苦しいものか、田島は、知っている。去年の夏、張込みで、山谷のベッドハウスに、二日間、泊り込んだ事が、あるからである。一泊百円のベッドハウスで、マットに浸《し》み込んだ異様な臭気と、風通しの悪い、蒸風呂《むしぶろ》の様な暑さに、音をあげた記憶がある。その上、ベッドに横になると、無数のノミや、南京虫が、襲いかかって来る。南京虫などは、ざわざわと、音を立てて歩き廻るものだから、到底、寝られたものではなかった。張込みが終って、家に帰ってからも、二、三日は、身体《からだ》が、むず掻《がゆ》くて仕方がなかった。その経験に照らして、夏のベッドハウスが、寝られたものじゃないと言う、山上の言葉にも頷《うなず》けるものがある。わざわざ百円の宿泊料を払いながら、夜になると、近くの公園へ行って寝ている山谷の住人の多い事も、田島は知っていた。しかし、だからと言って、それが、そのまま、山上の無実の証明になるとは言えない。むしろ、寝苦しさで、いらいらした気持の時、被害者に会い、その気持が、犯行に走らせたとも考えられるし、そう考える方が、自然ではないだろうか。
「信じて下さいよ。お願いしますよ」
山上は、悲し気な声を出した。が、その声に、オーバーな所があった。何度か、警察の厄介になっている間に、自然に身についてしまった卑屈さなのだろうが、田島は、取り合わなかった。何年も刑事をやっていると、卑屈な相手には、かえって、警戒心が、湧《わ》いてしまう。卑屈さの裏は、傲慢《ごうまん》と、狡智《こうち》の潜んでいる事が、余りにも、多いからである。
田島が、調室から出て、薬罐《やかん》に用意された氷水を飲んでいると、主任の江馬警部が、太った身体を運んで来た。
「どうだったね?」
「本ボシの気がしますが、確信は持てません」
「相変らず否認しているのか?」
「ええ。あれでは、証拠を掴《つか》まないと、自供しそうにありませんね」
「実は、それで弱っているのだ」
江馬警部は、難しい顔をして見せた。
「君の発見した駄菓子屋の附近を、徹底的に調べさせたんだが、山上が、被害者と一緒だったと言う証拠は掴めんのだ。隅田川の周辺も、洗わせているんだが、この方も、二人の姿を見たと言う証人は見付からん。弱ったよ」
「口紅は、どうなんですか? 山上が、口紅を持っていれば、証拠になると思いますが?」
「それも、駄目だった。山上の所持品の中からは、口紅は発見されなかった。同じドヤに寝起きしていた連中に訊いても、山上が、口紅を持っているのを見た事はないと言うんだ」
「すると、証拠は、無しと言う事ですか?」
「今のところ、山上を、クロと断定出来る証拠は、皆無なんだ」
主任の顔は、益々難しいものになった。このまま、山上が否認し続ければ、起訴は難しい情勢だとも言った。
主任の危惧《きぐ》は、当った。翌日になっても、山上六郎を、クロと断定出来る証拠は、集って来ないのである。夏の、焼けつく様な陽差しの中を、歩き廻って、捜査本部に戻って来る、刑事達の顔は、一様に暗かった。どうしても、被害者が、山上と一緒だったと言う証拠は、掴めない。
田島も、安部刑事と組んで、炎天の下を歩き廻った。しかし、掴んだものは、失望と疲労だけである。
「自信が、無くなって来ましたよ」
安部刑事が、疲れた声で言ったが、無為な日が重なるにつれて、この言葉が、捜査本部の空気を、そのまま示す事になった。山上六郎が、逮捕された時、色めき立った本部の空気は、次第に、暗い落胆に変り始めていた。二週間前の、誘拐騒ぎは、山上六郎の逮捕で、ピリオドが打てたが、今度の殺人事件は、再び、白紙に戻りそうである。
事件後五日目。八月四日の午後になると、事態は、一層悪化して来た。山上にとって、有利な証人が出て来たのである。事件当夜、六区で映画を見て、その帰りに、隅田公園を散策したと言う若いアベックである。彼等は十時半頃に、隅田公園で、山上を見たと証言した。しかも、その時、山上は、一人で、連れはなかったと言うのである。
十時半と言う時刻は、被害者の関谷正子が、隅田公園から、二百米以上離れた駄菓子屋で、弄玉《あめだま》を買っていた時刻である。もし、アベックの証言が正しければ、山上の容疑は、ゼロに近くなる。
捜査本部では、アベックが見たのが、果して、山上六郎であったかどうか、十時半と言う時刻が、正確であるかどうかについて、慎重に訊問を繰り返した。刑事達の胸には、アベックの証言が、間違いであってくれと言う願いがあった事は、否定出来なかった。山上六郎に対する未練は、まだ残っていたからである。しかし、アベックの証言には、信憑《しんぴよう》性があった。山上の後頭部のハゲも、ちゃんと見ているし、手に持っていた野球帽には、ジャイアンツのマークがあった事も、確認している。また、時刻については、映画の最終回を見終ってから、隅田公園に行ったのだから十時半に間違いないと主張した。刑事が、六区のS館に飛んだが、最終回は、十時十分で終っている。S館から、隅田公園までは、歩いて、十五分から二十分で行ける。十時半に、山上を見たと言う証言も、正確な様だった。
「山上は、シロかも知れん」
強気で有名な巡査部長まで、気の弱い言い方をする様になった。山上は、シロかも知れない。しかし、だからと言って関谷正子が、殺され、隅田川に捨てられたと言う事実は、消えはしないのである。
事件は、振出しに戻った。と言う事は、刑事達が、また、炎天の中を歩き廻らなければならないと言う事である。同時に、迷宮入りの不安が、刑事達の脳裡《のうり》をかすめた。今度の様な事件の場合、犯人を限定するのが難しい。殺人の動機自体が、はっきり掴めないからである。
「問題は、口紅だね」
田島は、日陰で、足を止めて、安部刑事の顔を見た。相変らず、風の無い日である。
「何故《なぜ》、被害者が口紅をつけていたのか、それを知りたいね。今度の事件で、手掛りらしいものと言えば、口紅と、弄玉しかないんだから」
「その口紅で考えたんですが、犯人は男でなくて、女じゃないでしょうか?」
「女?」
「口紅と結びつくのは、女ですから」
「女ねえ」
田島は、腕を組んだ。被害者が少女であること、しかも、扼殺《やくさつ》と言う死因から、犯人は、男の変質者と言う先入主が出来ていたのだが、口紅の事を考えれば、安部刑事の言う様に、女の線が浮んで来ても、可笑《おか》しくはない。女でも、十歳の少女の細い頸《くび》なら、扼殺出来るだろう。
「少女に、口紅を貸した人間が、問題になりますね」
「しかし、誰が貸したか、それを見つけ出すのが大変だ」
「それが、案外、簡単かも知れないと思うんですが」
「何故だね?」
「あの口紅は安物です。山谷のドヤには、安物の口紅を使う女が、幾人もいます」
確かに、安部刑事の言う通り、山谷のドヤには、安物の口紅をつけた女達が、何人もいる。彼女達には、「夜のデイト」と言う名前が、ぴったりする。老醜を、真赤な口紅と、夜の気配に隠した女。口紅を塗る事が、不幸につながる事を知らない女。会って見る必要があると、田島は、思った。
ドヤ街の、狭い路地に、彼女達は、居た。日陰に出した縁台に、シュミーズ姿の女が三人ばかり、退屈そうに、無駄話をしている。白茶けた皮膚が、たるみを見せ、眼の下には、一様に、黒いくまが出来ている。剥《む》き出しになった腕に、注射の痕《あと》があった。
田島と、顔|馴染《なじ》みの女もいた。何度逮捕されても、山谷に戻って来てしまう女だった。此処に戻る事が、命を縮める事だと言って聞かせても、山谷から抜け出そうとしないし、この商売から、足を洗う気配も見せない。本名かどうか判らないが、ケイ子と言う名前だった。どんな字を書くのか、田島は知らない。本人も、知らないのだろう。
ケイ子は、田島を見て、にやッと笑った。その胸が、ひどく薄かった。
「五日前に、殺された子供の事で、訊《き》きたいんだがね」
田島は、感情を殺した声で言い、三人の女を見廻した。
「あの子の事なら、良く知ってるよ」
一番、年嵩《としかさ》と思われる女が、かすれた声で言い、煙草を、お呉《く》れと言って、手を伸ばした。顔が、蒼黒《あおぐろ》く見えた。ポン中なのだろう。安部刑事が、ポケットから、煙草を取り出して、三人に渡した。
「一寸《ちよつと》、可愛《かわい》い子だったよ」
同じ女が、美味《うま》そうに、煙草の煙を吐き出してから、言った。
「あと五、六年もすりゃあ、いい金を稼ぐと思ってたら、殺されちまってさ」
「君達の中で、あの日、関谷正子に、口紅を貸した人はいないかね? つけてやった人でもいい」
「口紅って?」
「夜のデイトと言う口紅なんだがね」
「それなら、あたしも使ってる」
ケイ子が、剥き出しの脚を、ポリポリ掻《か》きながら言った。
「あの口紅、匂《にお》いがいいからね」
「事件の日に、口紅を貸した女を知らないかね?」
田島は、もう一度、同じ質問を繰り返した。三人の女は、顔を見合わせた。
「知らないよ」
と、年嵩の女が言った。
「第一、あの子は、口紅をつけるのが嫌いだったんだよ。何時《いつ》だったか、あたし達が、口紅をつけてやろうとしたら、嫌がって、泣き出したもの」
「それは、何時の事だね?」
「そうねえ。半月位前だったな。はっきりとは、憶《おぼ》えてないわ。でも、最近よ」
「半月前?」
田島は、眉《まゆ》をしかめた。半月前、口紅をつける事を嫌がって泣いた少女が、何故、口紅をつけて、殺されていたのだろうか。殺してから、犯人が塗りつけたのでない事は、駄菓子屋の老婆の証言で、はっきりしている。少女自身が、塗ったにしろ、犯人に、つけて貰《もら》ったにしろ、少女は、口紅をつける事を望んだのだ。半月の間に、彼女の気持を変えさせる何かがあったとしか考えられない。それが、今度の事件と、何処《どこ》かで、結びつくのではないのか。それとも、子供の気持は、変り易いものだと、単純に考えた方が、いいのだろうか。
田島と、安部刑事は、他の女達にも会った。関谷正子の事を、知っている者もいれば、知らない者もいた。
彼女達は、十人中九人まで、問題の口紅を使っていた。安い事と、セクシーな匂いが、愛用の理由の様だった。しかし、残念ながら、被害者に、「夜のデイト」を貸したと言う女は、発見されなかった。
捜査は、難航していた。
事件当夜、被害者の姿を見たと言う証人は、駄菓子屋の老婆以外、発見されなかった。こうした事件では、目撃者の有無が、重大なポイントになる。その目撃者が、見つからないと言う事が、捜査を難航させている原因でもあった。夜の十時過ぎと言っても、夏の夜である。一人や二人の目撃者が居ても、不思議はない。それが見つからないのは、山谷と言う土地の持つ閉鎖性が、大きな障害になっている様だった。ドヤに住む人々は、絶対と言っていい程、警察に、協力しようとはしない。
「口紅の場合も、同じ事が言えると思う」
と、田島は、安部刑事に言った。
「あの女達の中に、口紅を貸した者が、いる筈《はず》だ。しかし、彼女達は、知っていても、共同戦線を張って、名前を教えようとしない。一種の仲間意識と言う奴《やつ》だね。それに、警察に対する反感もあるんだろう」
「しかし、半月前、被害者が、口紅をつけるのを嫌がったと言うのは、嘘《うそ》じゃないと思うんですが」
「あれは、本当だろうね。嘘を吐いたとは思えない。しかし、理由が判らんよ。口紅を嫌がっていた子が、急につける気になった理由がね」
田島は、その理由を知りたかった。子供の気まぐれでは片付けられない、何かがある様な気がするのである。それが、案外、事件の鍵《かぎ》かも知れないのだ。父親に訊く事も考えたが、あの父親では、期待する答が、得られるとは思えなかった。不快さを重ねる位が、オチに決っている。
田島は、被害者が、二年間だけだが、近くの小学校に通っていた事を、思い出した。担任だった教師が、何かを知っているかも知れない。期待は薄かったが、田島は、会ってみようと思った。
小学校は、丁度、夏休みに入っていた。田島は、三浦清子と言う若い教師を、千束《せんぞく》町の下宿に訪ねた。風通しの悪い四畳半で、三浦清子は、魔法瓶の氷水を、田島に、すすめてくれた。小柄な、清潔な感じのする、若い女教師である。
「正子ちゃんなら憶《おぼ》えています」
三浦清子は、固い声で言った。
「どんな子供でした?」
「それが、今度の事件に、関係があるのでしょうか?」
「判りません。関係があるかも知れないし、ないかも知れません。しかし、知りたいと思って、伺ったのです」
「気の強い子でした。負けず嫌いと言うのでしょうか。そうでなかったら、あの環境で、二年間も、学校に通えた筈がありません」
三浦清子は、山谷だけで、不就学児童が、二百人を超えると、暗い顔で言った。義務教育と言う言葉は、山谷に関する限り、意味のない事は、田島も知っている。第一、ドヤ街には、戸籍さえ持たぬ子が多い。区役所からの就学通知さえ、彼等には届かないのだ。そこには、給食費が払えないとか、運動靴が買えないとか言った経済的問題以前の問題があるのだ。
「事件の前に、関谷正子に会った事がありますか?」
「あります」
「何時です?」
「四日か五日前だったと思います。昼間でした。泪《なみだ》橋の近くで会って、一緒に、アイスクリームを食べました」
「その時、口紅の事を、何か言っていませんでしたか?」
「口紅? いいえ」
「殺された関谷正子が、口紅をつけていた事は、ご存知でしょう?」
「新聞で読みましたから、知っています」
「どう思いました?」
「どうって?」
「関谷正子は、何故《なぜ》、口紅をつけていたのかと言う事です」
「あの子は、口紅をつけたがる様な子ではありません。年の割に、しっかりしている子でした。ですから、口紅をつけて死んでいたと言う記事が、不思議でならなかったんです」
三浦清子の言葉には、山谷の路地裏で聞いた、女達の言葉と、共通したものがあった。表現の仕方は違っても、関谷正子を、しっかりした、口紅など、つけたがらない子供だと見ている。その関谷正子が、口紅をつけて死んだのは、何故なのか。年を取り過ぎたせいか、田島には、十歳の少女の心に起きた変化を、推測する事が出来なかった。
「私には、十歳位の少女の気持が、良く判らないのですが」
田島は、正直に言った。彼には、子供がなかった。
「子供と言うものは、気持の変化の激しいものでしょうね?」
「ええ。育ち盛りの子供には、一日一日が、変化の連続と言っていいかも知れません」
「一週間前に、泣いて、口紅をつけるのを嫌がったのに、一週間後に、つけてみたくなると言う事も、考えられるわけですね?」
「充分考えられますけど、その変化には、理由がある筈ですわ」
「私も、その理由と言う奴を、是非、知りたいのですが」
田島は、相手の顔を見たが、答はなかった。
「もう少し、関谷正子の事を、話して貰《もら》えませんか?」
田島は、言葉を継いだ。そこから、何かの収穫が期待出来るかどうか、田島にも判らないが、無駄と決らない以上、聞く必要があった。被害者の性格を知るだけでも、価値があるだろう。
「関谷正子自身は、山谷の生活を、どう考えていたのでしょうか?」
「それは――」
と、三浦清子は、強い眼になって、田島を見た。
「あの環境を、喜んでいる子供がいるでしょうか。あの子も同じ事です。父親は、酒ばかり呑《の》んでいて、子供を重荷としか考えていないのです。たまに、弄玉《あめだま》を買い与える事で、父親としての義務を果したと考えています。ミカンの空箱が、机代りになっている、あの部屋を、刑事さんも、ご覧になったと思います。人形一つ買って貰えない生活。学校にも行けない生活。そんな生活に、あの子が満足していた筈があるでしょうか」
若い、三浦清子の言葉には、憤《いきどお》りの響きがあった。顔が紅潮している。公憤かも知れない。若い正義感と言ってもいいだろう。
田島は、黙って、頷《うなず》くより仕方がなかった。
10
捜査本部に戻った田島に、朗報が待ち受けていた。関谷正子に、事件当夜、口紅を貸した人間が、見付かったと言うのである。
「君の思った通り、例の女達の一人だったよ」
主任の江馬警部が、笑いながら言った。
「畜生――」
田島は、苦笑して見せた。
「矢張り、知っていて、隠してたんですな。呆《あき》れた女達だ」
「そうとも言えんさ」
「何故です?」
「その女と言うのが、あの日に、新橋駅前で、売春中に逮捕されているんだ。山谷に住んでいる、細川エミ子と言う女なんだがね。だから、彼女達も、知らなかったんだろう」
「すると、その女は、今でも、愛宕《あたご》署ですか?」
「そうだ。だから、新橋へ行って、詳しい事を聞いて来て貰いたい」
「判りました」
田島は、汗を拭《ふ》いて、もう一度、炎天の街へ飛び出した。細川エミ子が、どんな女かは、大体、想像がつく。山谷に住んでいて、新橋や、江東楽天地《こうとうらくてんち》へ、商売に出掛ける女を、何人か知っていたからである。まだ、若くて、顔に自信のある女は、金になる盛り場へ出掛けて行く。
新橋に着いたのは、五時に近い。西陽が相変らず強く、暑さは一向に衰えていなかった。都電を降りると、むッとする熱気が、田島の身体《からだ》を、押し包んだ。
愛宕署では、田島を待っていて、すぐ、細川エミ子に、会わせて呉《く》れた。扁平《へんぺい》な、如何《いか》にも日本的な顔立ちの、若い女だった。まだ身体の線は、崩れていなかった。
田島は、煙草をすすめてから、口紅の事を訊《き》きたいと言った。
「あれは、関谷正子の方から、つけて呉れと頼んだのかね?」
「まあ、そうね」
エミ子は、疲れた声で、言った。
「十時頃だったかしら、遅くなったけど、出掛けるつもりで、外へ出たら、泪橋の所で、あの子に会ったのよ。怒ったみたいな顔をしてたわ。泣いた痕《あと》があるのよ」
「泣いた痕が?」
田島は、あの夜、少女が、酔った父親に、殴られた事を思い出した。涙の痕は、それだろう。
「そうよ」
エミ子は、頷いた。
「顔見知りの子だから、声を掛けてやったのよ」
「それで?」
「うちに帰りたくないって言うのよ。無理もないわ。あの父親じゃあねえ」
「それで?」
「それから、あたしに、一緒に連れてって呉れって言うのよ」
「連れて行く積りだったのか?」
「飛んでもない。コブつきじゃ、商売にならないじゃないの。駄目だって言ったら、今度は、口紅を貸して呉れって言うのよ。貸してやったら、自分で、一生懸命塗ってたわ」
「それで?」
「それだけよ。あとの事は知らないわ。新橋行の電車に乗っちゃったから。念の為に言っとくけど、あたしは、あの子が殺されたのとは、関係ないわよ」
「君が関係しているとは思っていない。ただ、関谷正子が、何故、口紅をつけたのか、その理由が知りたいだけだ」
「そんな事なら、簡単じゃないの」
「判るのか?」
「そんな不思議そうな顔をしなくてもいいじゃないの。口紅を貸したのは、あたしなのよ」
細川エミ子は、田島のシガレットケースから、勝手に煙草を取り出して、火を点《つ》けた。
「その理由と言うのを、聞かせて呉れないか?」
「あの二、三日前だったわ。あの子と、お喋《しやべ》りしたのよ。その時にね、あの子ったら、何故、口紅をつけるのかって訊くのよ。子供って、下らない事を訊くもんね」
「それで、なんて言ったんだ?」
「つけた方が綺麗《きれい》じゃないのって言ったら、口紅なんか、つけない方が、綺麗だって言うのよ」
エミ子は、にやッと笑った。
「仕方がないから、銀座や、新橋の様な、賑《にぎ》やかな所へ行くには、口紅をつけなきゃ行かれないんだって、言ってやったのよ」
「――――」
何かが、判って来た様だった。田島は、真赤に塗られた、少女の唇を思い出した。あの口紅には、十歳の少女の、悲痛な願いが、籠《こ》められていたのでは、なかったろうか。関谷正子は、口紅を塗る事が、山谷から脱け出す唯一の方法だと、信じていたのかも知れない。
「君は、銀座や新橋の事を、あの子に、どんな風に話したんだ?」
「どんなって、山谷に比べたら、何処《どこ》だって素晴らしいわよ。何でも欲しい物があるし、夜になれば、ネオンが素晴らしいし、あたしだって、出来れば、山谷なんか飛び出して、銀座のバーか何かで働きたいんだけど、でもさ――」
「判った」
田島は、相手の言葉を、途中で、遮った。此処《ここ》まで聞けば、充分だった。細川エミ子の身の上話を聞いている閑《ひま》はなかった。まだ、何か話したそうにしている細川エミ子を残して、田島は、調室を出た。
愛宕署を出たのは、七時半に近かった。夏の街にも、夜の帳《とばり》が下り始めていた。夜空には、巨大なネオンが輝き、新橋から、銀座にかけて、光の洪水の感じだった。商店のウィンドオには、豪華な商品が並び、舗道を行く人々の顔には、満ち足りたものがある。細川エミ子が言った様に、山谷に無いものが、凡《すべ》て、此処にはある。華やかさ、明るさ、そして、欲望の充足された生活。少くとも、山谷に住む人々にとって、ネオンの輝く、この街には、夢の凡てがある様に見えるに違いなかった。それは、同時に、関谷正子と言う、十歳の少女にとっての夢でも、あった筈《はず》である。
11
田島は、今までの捜査方法に、一つの欠点のあった事に気付いた。それは、事件当夜の被害者の心理について、考慮が払われていなかった事である。勿論《もちろん》、そこまで立入って考える事は、時には、かえって捜査の妨げになる事もある。しかし、今度の場合には、必要ではなかったろうか。口紅の謎《なぞ》が解けた今になると、田島は、それを感じずには、いられなかった。
あの日、関谷正子は、山谷の、澱《よど》んだ世界から脱け出そうと思っていたに違いない。何処へ、行く積りだったのか? 細川エミ子から聞かされた、銀座や、新橋だったろうか。いや、銀座、新橋と言う特定の場所ではなく、少女の頭の中に描かれていたのは、漠然とした、「山谷とは別の」世界だった筈である。そこには、華やかなネオンが輝き、ウィンドオの中では、豪華な人形や他の玩具《おもちや》が、少女の手の差し伸べられるのを待っているのだ。学校にも、行きたい時に行ける世界。ミカン箱を机の代りにしなくても済む世界。呑んだくれの父親に、殴られなくても済む世界。関谷正子は、そこへ、行こうとしていたのでは、なかったろうか。
田島は、夜更けの舗道を、思い詰めた表情で、歩き続けている、十歳の少女の姿を想像してみる。その少女の唇は、安物の口紅で、真赤に塗られている。彼女にとって、「夜のデイト」と言う安物の口紅は、華やかな、夢の世界へ行く鍵《かぎ》だったに違いなかった。
関谷正子の気持を、より理解する為には、彼女がそうした様に、夜の泪《なみだ》橋に、立ってみる必要があるだろう。今までの様に、真夏の太陽が、さんさんと降り注ぐ、真昼の街を、いくら歩き廻っても、少女の気持を理解出来る筈がない。
田島は、夜が深まるのを待って、安部刑事を連れて、捜査本部を出た。事件の夜、被害者が、とったであろう行動を、自分も、なぞってみようと考えていた。出来ると言う自信が、田島にはあった。あの夜、少女の心を捕えていた悲しみと願いを、田島は、理解し得たと思っていたからである。
十時丁度に、田島は、泪橋の停留所に立っていた。
「此処で、関谷正子は、エミ子に会って、口紅を借りたのだ」
田島は、ネオンの輝きのない、山谷の町を眺めながら、言った。
「それから、山谷から出る為に、歩き出したんだと思う。明るい、夢の世界へ行く為にね」
「すると、その途中で、あの駄菓子屋へ寄ったと言う事ですか?」
「そうだと思う。だから、関谷正子は、犯人に、連れて行かれたのではなくて、自分で、駄菓子屋へ寄ったのだと、思う様になった。つまり、弄玉《あめだま》を買った時、関谷正子は、一人だったと思うんだがね」
「関谷正子が、あの夜、山谷を脱け出したい気持だったのは、判ります。しかし、何故《なぜ》、あの道を選んだんでしょうか? 偶然ですかね? それとも、何か理由が、あったんでしょうか?」
「それを知りたいと思って、夜を選んだんだ。恐らく、あの夜、関谷正子も、此処に立って、何処へ行こうかと迷ったに違いないと思う。そして、あの道を選んだ。何か理由がある筈だよ」
田島は、もう一度、周囲を見廻した。泪橋を中心にして、道路は、四方に分かれている。東へ行けば、死体の発見された白鬚《しらひげ》橋。北なら、百米程で、南千住へ出る。南の都電通りは、隅田公園から、言問《こととい》橋へ通じている。そして、西へ伸びる道は、少女の立ち寄った、駄菓子屋のある道である。関谷正子が、何故、その道を選んだのか?
昼間、輝く太陽の下で、泪橋に立っても、その理由は、判らなかったに違いない。どの道も、一様に、白茶けて見えた筈だからである。しかし、夜の帳の中で見ると、関谷正子が、西へ伸びる道を選んだ理由が、すぐ判った。
先ず、白鬚橋へ通じる道である。そこにはネオンの輝きが無く、巨大なガスタンクだけが、夜空を背景に、物の怪《け》の様な姿を見せていた。山谷から、脱け出そうと考えた少女の気持を、惹《ひ》きつけるものは、そこには何一つ無かった。
隅田公園から、言問橋へ抜ける道にも、同じ事が言えた。暗いのだ。山谷の住人相手の安食堂の黄色い灯や、一杯|呑《の》み屋の赤い灯が、まばらに見えるだけだった。
南千住の方向は、この二つに比べれば、明るさがあった。何よりも、国鉄南千住駅の灯が明るかった。しかし、そこには、人間の郷愁に訴える、物悲しさはあっても、夢はなかった。十歳の少女の心を捕える夢がなかった。
田島は、最後に、西に伸びるバス通りに、眼をやった。暗い舗道が、そこに、伸びている。白鬚橋へ行く道程ではなかったが、南千住への道に比べれば遥《はる》かに暗い。しかし、注意深く見詰めている中に、田島は、少女が、この道を選んだ気持が、判る様な気がして来た。眼を上げると、遠く、浅草の灯が、見えたからである。小さいが、華やかなネオンだった。五重塔に模した、そのネオンは、近景の暗さの為に、かえって、夢に似た美しさを見せていた。あの光の中に、少女は、別の世界を夢見たのではあるまいか。
「とにかく、歩いてみよう。関谷正子も、歩いたに違いないからね」
田島は安部刑事を促して、新世界ビルのネオンに向って、歩き始めた。舗道は、暗い。この暗さの中では、少女の小さな身体《からだ》に、注意する人も少かったかも知れない。
駄菓子屋の前に来て、田島は、もう一度、立ち止まった。腕時計は、十時二十分を指している。
事件の夜、少女が、弄玉を買いに、この店に寄ったのは、十時半だったが、十歳の年齢や、細川エミ子から口紅を借りて、唇につけていた時間を考えれば、十分の時間の差は、かえって、当然かも知れない。
田島は、十時半になるまで、駄菓子屋の前で、待つ事にした。事件の夜と同じ状態で、少女の死を、考えてみたかったからである。
田島と、安部刑事は、煙草を咥《くわ》えて、火を点けた。夜の闇《やみ》の中で、その火が、ひどく赤い。
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腕時計が、十時三十分を指した。
二つの方向があった。浅草の灯に向って、歩き続ける道と、山谷のドヤへ引返す道である。この二つの方向は、事件の夜、関谷正子にも、どちらかを選ばせた筈である。山谷を出る積りで、口紅までつけた少女が、山谷へ引返す筈がなかった。弄玉を買ってから、浅草の灯へ向って、歩いて行った筈である。
「ゆっくり歩く事にしよう」
田島は、煙草を捨てて、安部刑事に、言った。
「十歳の少女の歩調で、歩くんだ」
「ついでに、弄玉も、しゃぶりますか?」
「それも、いいかも知れん」
田島は、笑って見せた。冗談の積りで、返事をしたのだが、安部刑事は、駄菓子屋に入って、三つ十円の、黒い弄玉を買って来た。それが、あの夜、関谷正子の買った弄玉だと言う。田島は、歩きながら、口の中へ放り込んだ。苦い甘さだった。少女は、この弄を、美味《うま》いと思ったのだろうか。それとも、ゆっくり味わう前に、殺されてしまったのだろうか。
夜は、一歩ごとに、深さを増して行く感じだった。車の数も少くなり、人影も、殆《ほとん》ど、見られなくなって来た。関谷正子も、さぞ、この暗さは、心細かったに違いないと思った時、田島は、急に、右手に、突き刺す様な明るさを見た。バス通りから、僅《わず》かに、外れた場所にある、キャバレーのネオンだった。今まで、眼に入らなかったのは、暗いビルの陰になっていたからである。暗い道を歩き続けて来たせいか、その店のネオンが、ひどく眩《まぶ》しかった。青と赤のネオンは、キャバレー『レッドスカイ』と読める。バンドの音が、微《かす》かに舗道に流れていた。店の横は、急造の駐車場になっていて、車が何台か駐車してあったが、この方は、妙に薄暗かった。店の前が、明る過ぎるせいかも知れない。
田島は、立ち止まって、ネオンを眺めた。
「ひどく明るいな」
「砂漠を歩いていて、オアシスに、ぶつかったみたいな感じですね」
「それだよ」
「何がです?」
「関谷正子は、暗い道を、浅草の灯を目当てに歩いて来た。十歳の少女には、この暗い道を歩いて来るのは、ひどく、心細かったに違いない。そこへ、この明るいネオンを見た。きっと、ほっとしたに違いないと思う。君の言う様に、砂漠で、オアシスに、ぶつかった様な気持だったかも知れない」
「しかし、十歳の少女が、キャバレーには入らないでしょう?」
「当り前だよ。しかし、あの明るさには、心を惹かれた筈だ。山谷には、ない華やかさが、あの店にはあるからね」
あの夜、関谷正子が、RED-SKYと書かれたネオンに、心を惹かれたかどうか、田島にも、確信は持てなかった。キャバレーなど、無視して、浅草の灯に向って、歩き続けたかも知れないし、此処《ここ》に来るまでに、犯人の手が、彼女を扼殺《やくさつ》してしまったのかも知れない。しかし、少しでも可能性が、ある限り、キャバレー『レッドスカイ』のネオンを、無視するわけにはいかなかった。それに、田島の腕時計は、十一時に近い。十一時から十二時までの間と言う、死亡推定時刻から考えても、もう何かが起きていなければ、ならない筈である。
店の入口には、光が溢《あふ》れ、白い服を着たボーイが、ドアマンをやっていた。そのドアが開く度に、女給の嬌声《きようせい》に送られて、酔客が出て来る。外に出てからも、女給に抱きついている客もいる。浅草の中心から離れている割に、はやっている店の様だった。
田島は、関谷正子が、此処へ来たとして、一体、どうしたろうかと考えた。今、田島がしている様に、ぼんやりと、女給や、酔客の姿を眺めていただろうか。
田島は、安部刑事を、その場に残して、ドアマンをしているボーイの所へ、足を運んだ。もみ上げを伸ばした、若い男だった。ネオンの下で見るせいか、ひどく蒼《あお》い顔に見える。田島が、警察手帳を見せると、途端に、硬い、こわばった表情になった。
「七月三十日の事で、訊《き》きたいんだがね」
田島は、関谷正子の、殺された日を、言った。
「その日も、君は、こうして、ドアの所に立っていたかね?」
「七月三十日と言うと、一週間前ですね。いたと思いますよ」
ボーイは、ぎごちない声で言った。
「ここ、二週間ばかり、休んでいませんからね」
「七月三十日の夜、十一時頃だと思うんだが、赤いセーターを着た、十歳位の女の子を見かけなかったかね?」
「十一時と言うと、丁度、今時分ですね」
ボーイは、首をかしげた。
「そう言えば――」
「見たのかね?」
「変な女の子が、立っているのを見ましたよ。確か、今頃です。赤いセーターを着てました。それに、口が真赤でしたよ」
「それで、その子は?」
「暫《しばら》く、こっちを眺めてましたがね、丁度、お客さんが来たんで、ドアを開けてる中《うち》に、何処《どこ》かへ消えちまいましたよ」
「消えた? と言うと、この店の前を通っては、いかなかったと、言う事だね?」
「そうですね。僕の前を通れば、気がついた筈《はず》です。横の駐車場の方へ、曲ったんだと思いますが」
ボーイは、薄暗い駐車場を、指差して見せた。小さな少女の事だから、車の陰に入ってしまえば、急に、消えてしまった様に、見えた事も頷《うなず》ける。
田島は、安部刑事の所に戻って、ボーイの話を伝えた。安部刑事の眼が輝いた。
「とうとう、関谷正子に、追いつきましたね」
「しかし、駐車場の方へ曲ったと言うのが、判らないんだよ。こんな薄暗い駐車場に、少女の気を惹《ひ》く様なものが、あるだろうか?」
「それが、あるんですよ」
「ある?」
「今、駐車している車を眺めていたんですが、子供の気を惹きそうなものがあるんです」
「何だね? それは――」
「人形です」
「人形?」
田島は、ぽかんとした顔で、訊き返した。駐車場と人形では、結びつきそうもない。しかし、駐車場に置いてある何台かの車を見ていく中に、安部刑事の言葉の意味が判って来た。多くの車のリヤシートに、虎や犬の縫いぐるみ人形が、飾ってあるからである。いずれも、可成り大きなもので、可愛《かわい》らしい顔を、リヤウィンドオから覗《のぞ》かせていた。眼玉に赤い豆電球が入っていて、方向を変える時や、ブレーキを踏んだ時に、点滅する様になっているらしい。正式な名称を何と言うのか、恐らく、ウィンカー人形とでも言うのだろう。最近、マイカー族の間で、流行している様に見える。
関谷正子は、この人形に、心を惹かれて、駐車場に入ったのだろうか? 考えられない事ではない。殊に、一箇の人形も持たなかった彼女が、可愛らしい動物人形に惹かれたとしても、不思議はないかも知れぬ。
駐車場は、可成りの広さを持っていた。下は、コンクリートでなく、細かい砂利が、敷き詰めてある。
「問題は、関谷正子が、駐車場に入って、どうしたかと言う事だ。此処で犯人と会ったのか、それとも別の所か」
田島は、六二年型フォードの、黒光りする車体を撫《な》でた。
「彼女は、恐らく、車を一台一台覗いて歩いたのかも知れない。車を、と言うよりも、中の人形をね」
「そうしている中に、見てはいけないものを見てしまったのかも知れませんね」
安部刑事が、言った。
「だから、殺された。違うでしょうか?」
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「充分考えられるね」
と、田島が、言った。
「誘拐からの殺人と考えるよりも、その方が現実性がある。すぐ殺した事も、説明がつく。それに、犯人が車を持っているとすれば、死体を隅田川へ運ぶのも、簡単だった筈だ」
しかし、この考えが正しいとして、あの夜、関谷正子は、一体、何を見たのだろうか?
勿論《もちろん》、犯罪の匂《にお》いのする事だったろう。車の中で、麻薬の取引きでもしているのを見たのか。これは、余りにも、空想が過ぎる様だと、田島は、自分の想像を否定した。
田島が、難しい顔で考え込んでいると、駐車場の奥へ入り込んでいた安部刑事が、低い声で、彼を呼んだ。田島が近づくと、安部刑事は、足許《あしもと》の砂利を、ライターの火で、照らして見せた。
「血じゃないでしょうか?」
田島は、白い砂が、一か所だけ、黒ずんでいるのに気付いた。血かも知れないが、乾き切っている。
「昨日や今日のものじゃないね」
「一週間前のものだったら、面白いと思うんですが」
安部刑事は、ハンカチーフを取り出して、黒ずんだ砂利を掬《すく》い取った。
「関谷正子のものだと思うのか?」
田島が訊いた。
「だとしたら、彼女が、此処《ここ》で殺された事は、はっきりすると思うのですが」
「しかし、関谷正子の死因は扼殺だ。外傷は、無かったんじゃないかな」
田島は、解剖結果を、思い出してみたが、報告書に、外傷の記載が、あったかどうか、はっきり憶《おぼ》えてはいなかった。小さな傷が、あったかも知れない。ともかく、この血痕《けつこん》を調べてみれば、判るだろう。
田島は、余り期待しない方がいいだろうと、安部刑事に言った。血痕である事は確かだが、事件の夜に、流されたものかどうか、決ったわけではない。関谷正子の血と言う事になれば、更に、可能性は薄くなる。
安部刑事が、持ち帰った砂利は、すぐ鑑識に廻された。その鑑定結果が出たのは、翌日の午後になってからである。
鑑識の、高山警部補は、それが癖で、長い顎《あご》を撫《な》でながら入って来ると、
「残念ながら、関谷正子の血じゃないよ」
と、言った。
「関谷正子の血液型は、AB型だが、砂利に浸《し》み込んでいたのは、O型だ」
「何時《いつ》頃、流されたものか、判りますか?」
安部刑事が、訊いた。その顔に、失望の色が見えた。関谷正子の血だったらと、ひそかに、期待していたらしい。
「一週間から十日前と、言ったところだね」
「七月三十日と、限定出来ませんか?」
「そりゃあ、無理だよ」
高山警部補は、苦笑して見せた。
「そこまで、科学は進んでいないのでね」
「しかし、一週間から十日前と判ったのは収穫だよ」
田島は、安部刑事に言った。七月三十日は、その中に入るのだ。それに、関谷正子が、事件の夜、キャバレー『レッドスカイ』の駐車場に行った事が判った事も、大きな収穫だった筈である。
「とにかく、あの店を調べてみれば、七月三十日に、傷害事件があったかどうか判るだろう」
と、田島は、つけ加えた。
「もし、あの夜、駐車場で、傷害事件が起きていたら、それと、関谷正子の死が、結びつく可能性も生れてくる」
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キャバレー『レッドスカイ』は、N興業の経営で、同じ名前の店が、浅草の他に、銀座と、新宿にある。女給に、セクシアルなドレスを着せ、ショッキングタッチと称して、名前を売った店だったが、その事が、事件と、関係があるとは思えなかった。
田島と、安部刑事は、『レッドスカイ』を訪ねて、支配人だと言う、中年の男に会った。遣《や》り手の感じの男だったが、田島が、駐車場で発見された血痕の事を言うと、顔色を変えた。
「この店は、二年前に開店したのですが、傷害事件など、一度も起こした事はありませんが」
と、言う。営業停止を心配したのか、真剣な声になっていた。
「そりゃあ、お客さんの誰かが、指を、車のドアにはさまれたかどうかしたんだと思いますが」
「そんな事があったのですか?」
「いえ、そんな事だと、想像しただけです」
「遊びに来る客は、どう言う人が、多いのですか?」
「場所柄、問屋の方や、中小企業の経営者と言う方が、大部分です。それに、うちは、常連のお客様の多い事が、自慢なのです」
「その常連の客の中で、一週間前から、急に、姿を見せなくなったとか、変な噂《うわさ》が立ったとか言う人は、ありませんか?」
「さあ、私は、一寸《ちよつと》、聞いておりませんが」
と、言ってから、念の為にと、古参の女給を、三人程呼んで、田島の質問を、伝えて呉れた。
三人とも、二十五、六歳と言った女給で、支配人の言葉に、顔を見合わせていたが、
「そう言えば、秋子さんが、妙な事を、言ってたわ」
と、背の高い女給が、言った。
「どんな事を?」
と、田島が、訊《き》くと、三人は、もう一度、顔を見合わせた。
「来る度に、秋子さんを指名するお客さんなんですけどね。一週間ばかり前から、急に来なくなったらしいんです」
「その秋子さんと言う人を、呼んで貰《もら》えますか?」
田島は、支配人の顔を見て、言った。
三人の女給が、フロアに戻ると、入れ違いに、丸顔の女給が、支配人室に呼ばれて来た。
『水着ショオ開催中』とかで、三人の女給も、今度、入って来た秋子と言う女給も、水着姿だった。蛍光灯の下で見る水着姿と言うものは、妙に、セクシアルな感じで、若い安部刑事は、身体《からだ》を固くしていた。
「一週間前から、急に、姿を見せなくなった、お客の事で、訊きたいんだが」
と、田島は、秋子と言う女給に、言った。二十歳位の若い女だった。顔立ちは平凡だが、良い身体をしていた。
「名前は?」
「吉牟田《よしむた》さんと言う、上野で、玩具《おもちや》工場をやっている人です」
「この店の常連だったそうだね?」
「ええ、毎日の様に、いらっしゃってたんです。来る度に、あたしを指名して呉れてたんです」
「しかし、一週間位、顔を見せない位で、変だと思ったのは、何故《なぜ》かね?」
「理由が、あるからです」
「その理由と言うのを、聞かせて貰えないかね?」
「ええ。一週間前に来た時、明日は、日曜だから、熱海《あたみ》へでも行こうじゃないか。日曜日の朝、あたしのアパートへ、迎えに来ると、言ったんです。あたしも、行ってもいいなと思ったんです。それで、日曜日に待ってたら、何時になっても来やしない。癪《しやく》に触るから、工場の方へ電話してやったんです。電話しないで呉れって言われてたんですけどね」
「それで?」
「土曜日に、帰っていないって言うんです」
「外泊したと言う事かね?」
「あたしも、最初、そう思いました。あたしに、明日、熱海に行こうなんて、誘っときながら、他の女と、ホテルにでも泊ったんだろうと思って、癪に触ったんです。それで、三日目に、もう一度、電話してやったんです。そしたら、変なんです。まだ、戻ってないと言うんです」
「土曜日と言うと、七月三十日だね?」
「ええ」
「すると、七月三十日に、その客は、ここへ来たまま、家に戻らないと言う事だね?」
「ええ」
「七月三十日に、来た時、何か変った様子はなかったかね?」
「別に。ご機嫌でしたわ。月末の土曜日が集金日で、あの日も、集金が上手《うま》く行ったとかで、あたしに二千円チップを呉れた位です」
「帰ったのは、何時頃?」
「十一時頃だったと思うけど、はっきりした事は、憶えてません」
「その吉牟田と言う人は、車を持っていたかね?」
「ええ。新車のブルーバード。一度、アパートまで、車で、送って貰った事があるんで、知ってるんです」
「その車に、人形が、載せてなかったかね?」
「人形?」
「眼玉の豆電球が、点滅する様になっている、動物の人形なんだがね」
田島は、手を動かしてウィンカー人形の説明をしたが、秋子は、判らないと言う様に、首を横に振って見せただけだった。
「車に乗せて貰った時は、ひどく酔ってたし、それに、あたしって、あんまり、人形に興味が、ないんです」
興味がないから、気をつけて、車の中を見なかったと言う事なのだろう。これ以上の事は、上野の、玩具工場を、訪ねて、直接訊くより仕方がない様だった。
田島と、安部刑事は、『レッドスカイ』を出ると、その足で、上野に向った。
玩具工場は、簡単に見つかった。可成り大きな工場である。夜の七時と言う時間のせいで、機械の音はしていなかったが、事務所の横には、箱詰めの玩具が、山積してあった。
田島が、声を掛けると、和服姿の、中年の女が、顔を覗《のぞ》かせた。その顔が、ひどく蒼《あお》い。事務所の蛍光灯のせいばかりとは、思えなかった。何かありそうだ、と、田島は感じた。
「吉牟田さんに、お会いしたいのですが」
と、田島が言うと、女は、粗い眼になって、
「主人は、居りません」
と、固い声で、言った。
「お出掛けですか?」
「どうして、主人の事を、お訊きになるんです? 主人の、お知り合いの方ですか?」
女の声に、咎《とが》める様な調子があった。田島は、安部刑事と、顔を見合せてから、警察手帳を、見せた。途端に、女の、硬い表情が崩れて、哀願する様な、眼の色になった。
「主人を探して下さい。お願いします」
「ご主人が、どうかしたのですか?」
「行方不明なんです。一週間前からです」
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田島は、強い眼で、相手を見た。
「詳しく、話して貰えませんか?」
「先週の土曜日の事です。集金に行って来るからと、車で出掛けました。ところが、それっきり戻らないんです。時々、無断で、外泊する事もある人ですから、最初の、一日か二日は、別に心配もしませんでした。でも、それが、四日になり、五日になって来ますと――」
「上野署に、届けましたか?」
「まだです。もし誘拐ででもあって、警察に知らせて、殺されでもしたらと思いまして」
「ご主人が乗って行った車も、発見されていないのですか?」
「はい。ブルーバードで、色は、白なんですが――」
田島は、ナンバーを聞いて、手帳に書き止めた。
「それから、車に、人形が、飾ってありませんでしたか?」
「はい。寅年《とらどし》だものですから、虎の縫いぐるみを」
「もう一つ、お訊きしますが、ご主人の血液型は、何型ですか?」
「確か、O型だったと思います。それが、どうかしたのでしょうか?」
暗い不安が、女の頭をかすめたらしい。声が震えている。田島は、周章《あわ》てて、「ただ、参考に、お訊きしただけです」と言ったが、内心では、興奮を感じていた。『レッドスカイ』の駐車場に残っていた血痕《けつこん》も、確か、O型だった筈《はず》である。
「集金の日は、決っていた様ですね?」
今度は安部刑事が、質問した。
「はい。毎月、最後の土曜日と言う事になっています」
「金額は、いくら位ですか?」
「だいたい、八十万から、百万位です」
「現金ですか?」
「現金と、小切手が、半々位です」
「八十万から百万――」
「お願いです。主人を、探し出して下さい。お願いします」
「判りました」
田島と、安部刑事は、相手に、頷《うなず》いて見せた。
最後に、田島が、行方不明になった、吉牟田の写真を借り受けた。今年の二月に写したと言うもので、皮のジャンパーを着た、中年の男が、写真の中で、微笑していた。丸顔の、好人物らしい男だった。
田島達の報告は、捜査本部に、希望を与えた。山上六郎が、シロと決ってから、事件が迷宮入りになるのではあるまいかと言う不安が、主任を始めとして、係員全部の頭に、重苦しく、蔽《おお》いかぶさっていたからである。
勿論《もちろん》、行方不明の玩具《がんぐ》商と、殺された関谷正子が、結びつくと言う、決定的な証拠は、まだ掴《つか》んだとは言えない。しかし、推測は可能だった。その推測が、刑事達を、勇気づけた。
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先ず、吉牟田と言う玩具商を、探し出さねばならない。上野署との連絡の下に、捜査が進められた。最初に判明したのは、七月三十日に、吉牟田が集金した金額であった。現金が、三十六万八千円。小切手が、五枚で、四十万。合計、七十六万八千円である。小切手の取扱銀行は、いずれも、三星銀行上野支店だった。
田島は、すぐ、三星銀行に、飛んだ。予期した通り、五枚の小切手は、既に、現金化されてしまっていた。行員の話では、八月一日、月曜日に、サングラスを掛けた、若い男が、換金に来たと言う。八月一日と言えば、吉牟田が消えた翌々日である。
「サングラスのせいで、顔は、はっきりしませんでしたが、色の白い、二十二、三の男でした。背は、五尺七寸(約一七三センチ)位でしょうか」
と、窓口の銀行員が、言った。
「それから、白い香港《ホンコン》シャツを着ていたのを憶《おぼ》えています」
捜査本部では、幾つかの推測が、生れていた。玩具商は、既に殺されているのではないかと言う考えも、その一つである。監禁説もあったが、この方は、説得力がなかった。子供を誘拐しておくのは、易しいが、中年の男を、監禁しておく事は難しい。それに、身代金《みのしろきん》目当ての誘拐なら、脅迫状が、既に届いていて良い頃である。玩具商が姿を消して、既に、八日になるのである。
犯行の動機についても、様々な推測が生れたが、一番有力だったのは、集金された金が、目当てだったのではないかと言う考え方だった。この推測が正しければ、犯人を、或る程度、限定出来る筈である。吉牟田玩具店の集金日を、知っている人間が、そう多いとは思えなかった。
先ず、吉牟田玩具店の従業員が、一人一人、徹底的に調べられた。調査は、退職者にも向けられたが、これはと思われる人間は、浮んで来ない。殆《ほとん》どの者が、七月三十日のアリバイがあったし、アリバイの不確かな者も、三星銀行の窓口が証言した人相に、合致しなかった。
次の段階は、取引先の店員である。何十人と言う人々が、調査の対象になったが、この段階でも、容疑者は、浮んで来ない。
最後は、キャバレー『レッドスカイ』の従業員だった。玩具商と馴染《なじ》みの、秋子は、勿論だが、他の女給や、ボーイにしても、あの日、吉牟田の懐に、集金した金があったのを知っていたと言う可能性はあった。キャバレーに来て酒が入り、美女に囲まれれば、口が軽くなる筈である。吉牟田が、つい、集金日の事を口にして、それを、憶えていたと言うケースが、ないとは、言えないからである。
『レッドスカイ』の従業員全部が、調べられた。女給の場合には、その男関係までである。楽な仕事ではなかった。単調だし、従業員の多くは、協力的ではなかった。女給の証言は、半ば以上信用が置けなかった。男との交際は無いと主張する女給を調べてみると、立派に、亭主や子供が居たりした。
三日目、事件の起きた日から数えて、十一日目に、やっと、探しているものに、ぶつかった。半月前に、『レッドスカイ』を辞めたボーイである。名前は、北沢順一。二十二歳である。容貌《ようぼう》が、三星銀行に現われた男に似ていたし、事件直後から、行方不明になっていた。
田島は、北沢順一が、住んでいたアパートに、急行した。
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木造の安アパートである。何の連絡もなく、急に姿を消されて、困っていると、愚痴をこぼす管理人に案内されて、田島は、北沢順一の使っていた部屋に入った。四畳半の、がらんとした部屋である。部屋の隅には、机が、ぽつんと置いてあり、壁には、若い男の部屋らしく、派手なアロハと、エキスパンダーが、ぶら下がっている。
「居なくなった、正確な日時が、判りますか?」
田島は、部屋の中を、見廻しながら、管理人に、訊いた。山谷のドヤ程ではないが、この部屋にも、貧しさが、漂っている感じだった。
「確か、八月一日には、部屋に居た様でした」
「すると、八月二日に、姿を消したと言う事ですね?」
「ええ」
八月一日に、小切手が換金されている事を、田島は思い出した。もし、北沢が犯人だとしたら、小切手を現金にしてから、此処《ここ》を引き払った事になる。
田島は、部屋の中を調べてみた。最初が机である。しかし、その引出しからは、北沢順一が、犯人であると言う証拠は、何も発見出来なかった。二十二歳の若い男らしい品物しか入っていなかった。鉛筆、便箋《びんせん》、それに、ヌード写真である。手紙が、何通か、輪ゴムで束ねて入っていたが、その中の一通は、静岡県からで、文面によると、母親からのものだった。田島は、それを、抜き出して、ポケットに納めた。机の下の、薄いボール箱には、素人が写したらしい写真が、何枚か入っていた。若い女と並んで写っている、北沢順一の写真もあった。その写真からは、暗い影は感じられなかった。
田島は、押入れを開けた。汗臭い匂《にお》いが鼻を打つ。襟垢《えりあか》のついた蒲団《ふとん》が、乱暴に放り込んであった。古びた行李《こうり》の中には、洗濯しないままに、下着が、丸め込んである。行李をどかすと、その奥に、新聞紙に包まれたものが出て来た。拡げてみると、派手な柄のオープンシャツである。管理人は、それが、北沢の愛用していたものだと言った。さほど汚れてはない。眼につく様な血痕はなかったが、新聞紙に包まれていた事に、田島は関心を持った。処分しようとして、出来なかったのではあるまいか。田島は、そのオープンシャツを持ち帰って、検査して貰う事にした。稀薄《きはく》な血痕が、検出されるかも知れない。
鑑識は、すぐ検出に、取りかかって呉《く》れた。田島は、その結果を、風通しの悪い部屋で待った。田島だけではない。捜査本部の全員が、検査報告を待っていたし、行方不明の、玩具商吉牟田の血液が、オープンシャツから検出される事を、期待していた。成功すれば、北沢順一の容疑は、決定的なものとなるからである。
鑑識の報告は、仲々届かなかった。若い安部刑事は、落着きを失った表情で、
「時間が、掛りますね」
と、同じ言葉を、何度も繰り返した。若いだけに、待つ事に馴《な》れていないのだ。
「落着けよ」
と、田島は、微笑して見せた。
「念入りに、やって呉れているんだ」
「それにしても――」
「まあ、煙草でも吸ったらどうだ?」
田島が、いこいをすすめた時、ドアが開いて、鑑識の高山警部補が、長い顔を覗《のぞ》かせた。その顔が、微笑しているのを見て、田島は、しめたと思った。どうやら、血痕が、検出されたらしい。
「どうだったね?」
主任の江馬警部が訊《き》くと、部屋に居た刑事達は、二人の周囲《まわり》に集った。
「血痕は?」
「残念ながら、血痕は、検出されなかった」
「駄目か――」
「しかし」
と、田島が、口を挟んだ。高山警部補の微笑は、何の意味なのかと、言いたかったのだが、その疑問に答える様に、
「しかし――」
と、高山警部補が、田島の言葉を引き取って、
「しかし、血痕の代りに、面白いものが、検出された」
「何だね?」
と、主任が訊く。
「弄玉《あめだま》ですよ」
「弄玉?」
「正確に言えば、弄玉の溶けた奴《やつ》ですがね。シャツの袖口《そでぐち》に、かすかに、こびりついていたんですよ。極く僅《わず》かな量だが、附着の仕方から見て、誰かに、こすりつけられたんじゃないかと思いますね。駄菓子屋で、よく売っている、黒い弄玉と同じものですよ」
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田島は、二つの事件が、弄玉によって、結びついたのを感じた。三つ十円の、不味《まず》い弄玉だが、時には、たいした力を発揮するものである。恐らく、殺された時、関谷正子の手は、弄玉で、べとべとしていたに違いない。首を絞められた時、その手で、犯人の袖口を夢中で、掴《つか》んだのだろう。他に考え様はなかった。二十二歳の青年が、駄菓子屋で、三つ十円の弄玉を買う筈がないし、袖口に、べとつかせる筈もない。
その日の中に、北沢順一に対して、指名手配の手続きが、とられた。容疑は、殺人と誘拐だったが、玩具商が、生きている可能性は、殆《ほとん》どゼロに近かったから、誘拐の文字は、或《あるい》は必要なかったかも知れない。
北沢順一は、七十万の金を持って、何処《どこ》へ姿を隠したのか? 都内潜伏説と、高飛び説が生れたが、高飛び説の方が、有力だった。七十万の金と、玩具商の車。それに、北沢の郷里が、静岡と言う三点からである。静岡県警には、特に、詳細な連絡がとられた。
勿論《もちろん》、都内潜伏説も、捨てるわけにはいかない。北沢順一の写真を手にした刑事達は、都内の盛り場や、ドヤ街に、散って行った。
最初の報告が、捜査本部に入ったのは、指名手配の行われた二日後である。それは、都内に散った刑事からでも、静岡県警からでもなかった。
神奈川県|相模《さがみ》湖からである。七月三十一日の朝、相模湖の入口のガソリンスタンドで、手配の車と男が、給油に立ち寄ったと言うのである。
七月三十一日と言う日附が、問題だった。ガソリンスタンドに寄った男が、北沢順一に間違いなければ、彼は、七月三十日の夜、玩具商の車を奪い、関谷正子を扼殺《やくさつ》して、隅田川に捨て、その足で、相模湖まで、車を飛ばした事になる。そして、翌日の八月一日には、小切手を現金化するために、もう一度、都内に戻っている。
何故、相模湖まで、車を飛ばしたのか?
「死体を処理したのかも知れません」
と、田島は、主任に言った。
「玩具商の死体です。関谷正子の死体と同じ場所へ捨てたのでは、二つの事件が、簡単に結びついてしまう。北沢は、それを一番怖れたと思うのです。なるべく、離れた場所に捨てる必要がある。しかし、腐敗の心配のある今頃では、時間を掛けて、場所を探すわけにはいかない。この二つの条件を備えた場所として、北沢は、相模湖を選んだのではないでしょうか。あそこなら、車で、二、三時間で行けます」
「君の考えは、正しい様だ」
主任は、頷《うなず》くと、すぐ、相模湖へ、飛んで欲しいと言った。
田島と、安部刑事の二人が、相模湖へ急行した。派出所の巡査が、二人を待ち受けていて、すぐ、問題のガソリンスタンドへ案内して呉れた。
小さなガソリンスタンドだった。三人の従業員は、手配写真の男に、間違いないと言った。
「白のブルーバードに乗ってました。時間は、七月三十一日の六時頃です。今、考えてみると、妙に落着きのない様子をしていましたよ」
「何か喋《しやべ》りましたか?」
「小田原へ抜ける道を訊いていました」
「小田原?」
「ええ。でも、見ていると、甲州街道を、東京へ引っ返して行きましたよ」
小田原へ出れば、静岡までは、直ぐである。北沢は、相模湖で、死体を処分して、そのまま、静岡へ抜ける積りだったのかも知れない。それを止めて、東京へ戻ったのは、四十万の小切手の為に違いない。
田島と安部刑事は、所轄署の応援を求めて、相模湖の周辺を徹底的に、調べる事にした。湖の周囲《まわり》には、恰好《かつこう》な雑木林が拡がっているし、死体に錘《おもり》をつけて、湖底に沈めた事も考えられる。
二十人近い人員が動員された。湖底を浚《さら》う為に、ボートも用意された。
捜査は、二日間続けられた。が、結果は、田島の確信を打ち砕いてしまった。猫の死骸《しがい》さえ、発見されなかったのである。
田島と安部刑事は、惨めな結果を得て、捜査本部に戻った。
19
玩具商の死体は、何処へ隠されてしまったのだろうか? 念の為に、隅田川の川浚いが、白鬚《しらひげ》橋と、言問《こととい》橋の間で行われたが、この方も、芳《かんば》しい結果は、出て来なかった。
「弱ったな」
と、主任は、難しい顔で、田島を見た。
「北沢が逮捕されても、死体が見つからない限り、犯行を立証出来ないからね。彼が、犯行を否定したら、それまでになる恐れがある」
「玩具商の事件だけでなく、関谷正子殺しの方の立証も、難しくなりますよ」
田島は、暗い眼になって、薄汚れた壁を睨《にら》んだ。北沢順一が、関谷正子を扼殺した犯人だと言う証拠は、オープンシャツの袖口に附着していた弄玉の残滓《のこりかす》と、北沢が、玩具商を殺す現場を見られたから、少女を殺したのだろうと言う動機のためである。従って、玩具商殺しの線が崩れる事は、関谷正子殺害の動機が、立証出来なくなる事を意味している。何としてでも、玩具商の死体を、探し出さなければならないのである。
しかし、一体、何処に、北沢は、死体を隠してしまったのだろうか。真夏なのである。二、三日もすれば、死臭が激しくなって、死体の発見は、容易な筈である。それにもかかわらず、死体が発見されたと言う報告は、何処からも、届かなかった。
指名手配後、四日目。待望の報告が、静岡県警から、捜査本部に届けられた。伊豆《いず》の熱川《あたがわ》温泉で、芸者を呼んで、豪遊中の、北沢順一を逮捕したと言う報告だった。捜査本部の全員が、歓喜したが、微《かす》かな不安も、入り混っていた。玩具商の死体が、まだ発見されていないからである。北沢が、凡《すべ》てを自供して呉《く》れればいいが、否認されたら面倒な事になる。その不安が、田島達の頭をかすめた事は、否定出来なかった。逮捕された時、不敵な顔で、笑っていたと言う報告も、刑事達を、不安にさせた。
北沢順一の身柄は、翌日、東京へ護送されて来た。捜査本部の前には、新聞社のカメラマン達が、カメラの放列を敷いて、待ち構えていたが、そのフラッシュの雨にも、北沢は平気で、顔を伏せようとしなかった。
訊問《じんもん》は、午後から始められた。
北沢は、頑強に、犯行を否定した。
「しかし、吉牟田の車を盗んだのは、お前だろうが? それに金もだ。車は、旅館の駐車場に置いてあった。吉牟田を殺して、金と車を盗み、伊豆へ、飛んだんだろう?」
最初の訊問に立ち会った田島が、声を荒くして、相手を睨《にら》んだが、北沢は、にやッと笑っただけだった。
「確かに、俺《おれ》は、車を盗んだよ。だけど、殺しなんか、しやしないよ。一寸《ちよつと》、伊豆まで、ドライブしてみただけなんだ。それだけだよ」
「金は? 芸者を上げて、大尽遊びをしたそうじゃないか。それに、三星銀行の行員が、お前が、小切手を換金しに来たのを見ているんだ」
「車を失敬したら、上手《うま》い事に、座席に、金の入った鞄《かばん》が置いてあったんですよ。丁度、シケてた時だから、悪いとは思ったが、借りちまったんだ」
「七十万もの大金を、車に置きっぱなしにして、酒を呑《の》む人間が、何処にいるか?」
「だけど、車の中に、置いてあったんだから、仕方がないじゃないか」
北沢の言葉は、嘘《うそ》に決っている。玩具商の吉牟田は、金の入った鞄は、恐らく、クロークに預けてから、遊んだのだろう。しかし、それを立証する事は難しい。クロークの係が、あの夜、吉牟田から、鞄を預かったと証言しても、その証言の正しさを、証明する事は難しい。
田島は、訊問を、関谷正子の件に移した。
「あのオープンシャツに附いていた、弄玉の痕《あと》は、どう説明するんだね?」
「弄玉?」
その言葉を口にした瞬間だけ、北沢の顔に、微かな狼狽《ろうばい》の色が、走ったが、それは、すぐ、消えてしまった。
「そりゃあ、きっと、近くの子供と遊んでる時に、附けられたんだ。手のつけられない餓鬼ばかりですからね」
「違う。お前が、関谷正子と言う十歳の少女の首を絞めて殺した時に、附けられたものだ。そうだろう?」
「冗談じゃない。俺が、どうして、そんな子供を殺さなきゃならないんです?」
「吉牟田を殺して、金と車を盗むところを見られたからさ。だから、十歳の女の子を、お前は、殺したんだ」
「止して下さいよ。俺は、誰も殺しやしないよ。証拠がないのに、犯人呼ばわりされるのは、真平だね。第一、俺が殺したと言う、吉牟田と言う人の死体が見つかってないそうじゃないか。新聞で、読んだよ。死体も無いのに、殺しだとか、犯人だとか騒ぎ立てられるのは、迷惑ですよ。もっとも、車と金を盗んだ事は認めますよ。窃盗なら、長くったって一年で、出て来られるんでしょうね?」
「殺人なら、もっと長い」
田島は、怒鳴りつけたが、北沢は、首をすくめて、にやりと笑っただけだった。
20
「奴《やつ》は、死体の発見されてない事を、知っています」
と、田島は、主任に、言った。
「それに、玩具商の死体が発見されなければ、我々が、どうしようもない事も、知っています」
「しかし、奴は、本ボシだよ」
「だから、余計、癪《しやく》に触るんです。死体を、奴の眼の前に、突きつけて、ぐうの音も出ない様にしてやりたいと思うんですがね」
「死体が、発見されないと言う自信を持ってる様だね。北沢は」
「だから、あんな平気な顔をしているんでしょう。しかし、一体、何処《どこ》へ隠したんでしょうか?」
「最初から、考え直して、みようじゃないか」
江馬警部は、愛用のパイプを、指先で撫《な》でながら、言った。
「死体を、完全に消してしまうなどと言う事は、出来るものじゃない。粉砕機にかけて、細々にして、鶏の餌《えさ》にしてしまうなどと言うのは、小説の中でのみ可能な事だ。実際問題として出来る事じゃないし、北沢には、そんな時間の余裕はなかった筈《はず》だ。だから、何処かへ、死体を隠したに違いない。人間が隠したのなら、我々の力で、探し出せない筈がない」
江馬警部は、机の引出しから、東京近郊の地図を取り出して、田島の前に拡げた。
「北沢は、車を持っていた。しかし、四国や九州まで行けたわけじゃない。それに、八月一日に、小切手を現金化する為に、三星銀行に現われた時には、既に、玩具商の死体は処分してしまってあったと思うんだ。車のトランクにでも入れて置いて、発見されたら、それでお終《しま》いだからね。だから、死体を処分したのは、七月三十日の夜半から、翌日の七月三十一日にかけてだと思う。車を使っても、東京近郊にしか行けなかった筈だ。としたら、この地図の中に、死体を隠した場所が、なけりゃならない」
「そうなると、矢張り、北沢が、事件直後に、相模湖へ行った事が、問題になって来ますね」
田島は、地図を見ながら言った。
「あれは、どうしても、死体を処分する為のドライブとしか考えられません。あのまま、小田原へ抜ける積りだったとしても、相模湖廻りは、訝《おか》しいですよ。死体処分の遠廻りとしか考えられません」
「しかし、相模湖は、君や、安部君に、徹底的に、調べて貰《もら》ったからね。それでも、玩具商の死体は、見つからなかった筈だ」
「その通りです。しかし、相模湖の他にも、死体の隠し場所はあります。北沢は、甲州街道を通って、相模湖へ向った筈ですから、隠したとすれば、甲州街道沿いと言う事になります」
「そう言えば、多摩《たま》川が、あったね」
「それに、南多摩の丘陵地帯もあります」
「調べてみるか? 徹底的に」
「そうするより仕方がないと思います」
翌日から、また、死体を探す作業が始まった。単調で、辛《つら》い仕事だった。特に、夏の太陽に照らされながら、日陰のない河原を歩き廻るのは、汗掻《あせか》きの田島には、辛《つら》かった。
一日が、簡単に終った。しかし、多摩川の水の中からも南多摩の雑木林の木陰からも、玩具商の死体は、発見されなかった。
二日目に、田島は、自分が、間違った事をしている事に気付いた。
田島は、作業を中止すると、急いで、捜査本部に戻った。
「考えが、少し甘かった様です」
田島は、主任に言った。江馬警部は、「何がだね?」と訊《き》いた。
「例えば、相模湖です。東京の近郊で、死体の捨て場所と言えば、誰でも、すぐ、相模湖を考えます。それだけに、犯人にとっては、かえって、危険な場所だと言う事も出来ると思うのです。北沢も、それに気付いていた筈です。だから、相模湖を考えた我々は、少し考えが甘かったと思うのですが」
「多摩川や、南多摩の丘陵にも、それが言えると言うのかね?」
「その通りです。川も、丘陵も、誰でも、死体の隠し場所として考える所です。それだけに、犯人にとっては、かえって危険です。それに――」
「それに?」
「今は夏です。川も丘陵も、ハイキングの若者達で溢《あふ》れています。相模湖にも、同じ事が言えます。あれでは、何処に隠しても、死体は、発見されてしまいます」
「しかし、相模湖も駄目。多摩川も、南多摩の丘陵も駄目となると、他に、何処があるだろう?」
「それを、考えてみたいと思うのです。北沢は、死体は、絶対に見つかるものかと、自信満々です。と言う事は、死体の隠し場所が、普通に考えたのでは判らない所、特別な場所の様な気がするのです」
「そんな場所が、甲州街道沿いにあるだろうか?」
「北沢が、死体を隠した以上、ある筈です。もう一度、地図を見せて貰えませんか?」
主任は、東京近郊の地図を取り出して、田島の前に置いた。二人の眼が、喰《く》い入る様に、地図を睨《にら》む。田島は、そのままの姿勢を崩さずにいたが、ふいに、
「判った様な気がします」
と、低い声で言った。
21
「多磨《たま》墓地です」
と、田島は、言った。
「ポーに、有名な手紙の話があります。あれは、手紙を隠す話ですが、死体の場合にも、同じ事が、言えると思うのです。死体の、もっともいい隠し場所は、墓地ではないでしょうか。確か、あそこには、無縁仏の大きな墓があった筈です。墓石を持ち上げて、遺骨を納めてある穴へ、死体を落してしまえば、誰にも発見されない筈です。しかも、地下の空気は冷えているから、死臭が発見される危険も少い。第一、墓石を持ち上げて、穴の中を覗《のぞ》こうなんて、物好きもいないでしょう。死体の隠し場所としては、絶好です」
「成程。しかし、重い墓石が、一人で、持ち上がるだろうかね?」
「北沢が、車で行った事を忘れないで下さい。車には、ジャッキが、積んであります」
「その通りだ」
主任が、初めて、にやッと笑った。
田島は、安部刑事を連れて、相模湖への途中にある、多磨墓地へ、車を走らせた。
多磨墓地へ着いたのは、八時に近かった。夜の闇《やみ》の中に、墓標が、立ち並ぶのは、気持のいい眺めとは言えなかった。勿論、人の気配はない。恐らく、北沢が、此処《ここ》へ来た時も、同じ様に、静まり返って、いた事だろう。
田島は、管理事務所を訪ねて、事情を話した。当直の係員は、ぽかんとして、田島の話を聞いていたが、事情が呑《の》みこめると、真剣な表情になって、二人を案内して呉《く》れた。
無縁仏の墓は、墓地の、一番奥にあった。長方形の大きな墓である。墓の背後に、厚さ十|糎《センチ》近い、コンクリートの蓋《ふた》があり、その下が、納骨の場所になっているのだと、係員が説明してくれた。
コンクリートの蓋は、可成り重かった。五貫目近い重さだろうか。しかし、ジャッキを使えば、一人でも持ち上がったろう。
田島は、安部刑事と二人で、コンクリートの蓋を持ち上げた。暗い、四角な穴が、ぽっかりと眼の前に現われて、ひんやりした空気が、地下から、吹き上げて来た。
田島は、懐中電灯を点《つ》けた。蒼白《あおじろ》い光芒《こうぼう》が、暗い、穴蔵の底を照らした。最初に、幾つもの骨箱が見え、その陰に、玩具商の死体が横たわっていた。
死体は、やっと、腐敗の徴候を見せ始めていた。
22
田島は、白鬚橋の途中で、立ち止まった。夜が、明け始めていた。川面《かわも》を蔽《おお》っていた朝靄《あさもや》が消え、夏の太陽が、顔を覗かせていた。相変らず、薄汚れた川面が、そこにあった。十何日か前、関谷正子の死体が、黒く澱《よど》んだ川面に浮んでいた様に、今日も、隅田川の水は、汚臭を放っている。何も変っていないのだ。何も変っていない。
田島は、煙草に火を点けた。北沢順一は、自供し、事件は終った。が、彼の心の中に、終らない何かがある。確かに、関谷正子を殺した犯人は、逮捕された。彼は、間違いなく有罪の判決を受けるだろう。しかし、それでも、終らない何かがある。
隅田川の、汚濁が変らない様に、山谷は、少しも変っていない。仕事に、あぶれた男達が、相変らず、路地裏や、公園の隅に寝転んでいるし、口紅をつけた女達は、自分の肉体を、すり減らしている。
そうした空気の中で、学校へ行く事の出来ない子供達が、育っている。その中の何人かは、関谷正子が、やった様に、口紅を真赤に塗って、山谷を脱け出そうとするだろう。北沢順一の様な男は、彼等の前に、現われはしないだろう。しかし、北沢に代って、社会と言う怪物が、彼等を押し潰《つぶ》してしまうに決っている。
田島は、自分の無力を感じた。やり切れない気持なのだ。そこには、一つの事件を解決したと言う快感はなかった。
田島は、煙草を捨てて歩き出した。橋を渡り切った所で、少年が、朝の新聞を売っていた。田島は、一部を買って、歩きながら、拡げてみた。事件の解決を告げる記事が、載っていた。正子ちゃんの霊も、これで安らかに眠れるに違いないと言う感傷的な記事の後に、関谷正子が、小学校へ通っている時に書いたと言う作文が載っていた。題は、『さんや』となっていた。
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〈わたしは、さんやに、すんでいます。でも、どうしても、さんやが、すきになれません。ここには、なんにもありません。あかるいねおんもないし、おにんぎょうを、くれる、さんたくろーすも、やって、きません。だから、わたしは、おおきくなったら、さんやから、ほかのところへ、いきたいと、おもっています。わたしのいきたいところは、きれいなねおんが、あって、ほしい、おにんぎょうが、いっぱい、あるところです。そこには、ぱんぱんや、よっぱらいも、いません。それに、さんたくろーすは、さんやじゃないから、ちゃんと、おみやげをもってきてくれます〉
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田島は、読み終ると、小さな溜息《ためいき》を吐いた。急に、疲労が、深くなった様な気がした。
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黒の記憶
「週刊パピルス」が、『失われた記憶の中から』と題して、精神病院の患者の生態ルポをやったのは、二カ月程前の事である。結果は好評で、賛否取りまぜた多数の投書が寄せられた。
この事件(正しくは、二年前に起きた事件の継続と呼ぶべきであるが)は、編集部の机に山積した投書の一つから派生したのである。
投書の主は、仙台に住む、加地徳三郎と言う人であった。形容詞の過剰な、古風な文面を要約すると、次の様な内容のものであった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
貴誌の特集記事を読んで、この手紙を書く気になった。二年前の七夕《たなばた》の際に、私は迷子になった一人の少年を拾った。一応警察に届けたのだが、家が判らず、しかも、頭脳に欠陥がある様なので、可哀《かわい》そうに思い、育てることにした。育てている中に判った事は、前からの精神障害児ではなく、何か強いショックを受けたために、一時的に脳神経が麻痺《まひ》し、記憶喪失と、言語障害に陥っているらしい事である。画用紙をあてがうと、必ず、同じ恰好《かつこう》の家を描く。どうやら、その家が、少年の住んでいた家らしいのだが、私の考えでは、都会の、しかも東京にある家の様な気がしてならない。貴誌の記事を読み、この少年にも、出来れば、昔の記憶を取り戻させてやりたい。両親が生きているものならば、会わせてやりたいと思う。貴誌の助力を、お借りしたい。少年の名前は不明(一応、よッちゃんと呼んでいる)、年齢十五歳位。身長一五三|糎《センチ》。体重四一|瓩《キログラム》。以上である。同封の写真は、去年の夏、写したものである。
[#ここで字下げ終わり]
封筒の中には、素人が写したらしい、子供の写真が入っていた。ピントは、やや外れていたが、顔形が、判然としない程ではない。眼の大きな、顔立ちの整った少年であったが、何処《どこ》となく痴呆《ちほう》的に見えるところがあった。
編集会議で、この投書を、雑誌に載せるかどうかが議論されたが、その賛否が決まらない中《うち》に、この少年の顔に見憶《みおぼ》えがあると言う声が起きた。一人が、それを言い出すと、二人、三人と同調する者が出た。多数の人間の記憶に残っていると言う事は、少年が何かの事件に関係があったのではないかと言う疑問を抱かせた。そして、手紙の中の、二年前に――という言葉が、その疑問に答えて呉《く》れた。
二年前の五月下旬の事である。S鋼業社長田辺雄作氏の次男誠二君(十三)が、学校からの帰途に誘拐されるという事件が起きた。誘拐の方法が巧妙な事から、田辺家の内情に詳しい者の犯行ではないかと、警察では見ていた様である。誠二君が誘拐されてから二日後に、犯人と思われる男から、二百万の金を要求する電話が掛った。田辺氏は、警察に告げずに、自分で、二百万の金を持って、犯人の指定する場所に出掛けた。後になってから、警察に知らせなかった事が非難されたが、何カ月か前に同様の誘拐事件があり、犯人が、警察の介入を怒って、五歳の幼児を殺してしまった事を考えると、あながち、田辺氏の独断を責める事は出来ない。田辺氏は、他人の使いと称する男に、二百万の金を渡したが、犯人は、約束を破って、誠二君を帰さなかった。警察は、後になってから、金を受け取った男を逮捕したが、二千円を貰《もら》って、背の高い男の為に働いたと言うだけで、それ以外の事を掴《つか》む事は出来なかった。
この時、警察が、有力な容疑者として内偵を進めていたのは、田辺氏の遠縁に当る、深見沢と言う男であった。果実店を営んでいたが、窃盗の前科があり、田辺氏に借金を断わられたと言う事実もあった。それを恨んでの犯行ではないかと考えたのだが、肝腎《かんじん》の証拠を掴む事は出来なかった。事件は迷宮に入り、誘拐された少年の行方も不明のままに、二年が経過した。
その少年に、写真の主が似ていると言うのである。早速、編集会議の席上に、二年前の新聞と雑誌が運ばれて来た。確かに、似ていた、目鼻立ちは、そっくりである。二年前に拾われたと言う事も、符節を合わせている様に思われた。誰もが興奮した。もし、同一人物ならば、特種である事は確かである。しかし不安がないわけでもなかった。顔が似ていると言うだけで、同一人物と速断する事は、危険な様に思えたし、東京で誘拐された少年が、どうして、仙台に居たのかと言う不審もあったからである。
議論が交された後で、少年が描くと言う、家の絵を送って貰《もら》おうではないかと言う事になった。手紙によると、その家は、少年が住んでいた家らしいと言う事である。その絵を田辺邸と比べてみたら、何かヒントを得る事が出来るかも知れぬと考えたからである。早速、仙台に向けて、電報が打たれた。
コド モノカイタエオクレ
二日後に、稚拙な、クレパス画が届けられた。色彩に混乱が感じられるのは、精神的障害の為の様であった。
その絵と、田辺邸の写真が比べられた。結果は、成功とも言えたし、不成功でもあった。門と塀、それに玄関の様子などは、良く似ていたが、全く違う箇所もあった。田辺邸は平屋建だったが、絵に描かれた家には二階があったからである。絵の背景に、赤い塔が描き込まれてあるのは、東京タワーの様であった。写真にも、東京タワーは見える。この点も類似していたが、絵の中にある、高いポプラの木は、田辺邸に無いものであった。
「これじゃ、仕方がないな、結論が出せない」
編集長の田島は、一寸《ちよつと》、がっかりした表情で言った。こうなれば、全てを田辺家に知らせて、仙台に行って貰うより仕方がなかった。ここまで、田辺家に報《しら》せなかったのは、糠喜《ぬかよろこ》びに終った時の打撃を怖れたからである。
田辺夫妻は、驚いて、駈《か》け付けたが、写真だけでは、息子の誠二らしいと言う漠然とした答しか出ない様であった。夫妻と、編集長は、その日、飛行機で、仙台に向った。
少年に会った夫妻は、誠二に違いないと断定したが、その言葉の中に、微《かす》かな、不安が残っている様に思えた。とにかく、少年が一言も喋《しやべ》らず、意思表示らしいものをしないのでは、どうにもならなかった。
夫妻は、東京に連れて帰って、医師に診て貰う積りだと言った。田島も、とにかく、それ以外に方法がないだろうと思った。夫妻は加地氏に多額の礼金を渡して、少年と共に帰京した。
少年は、東大病院精神科に入院した。
『誘拐された少年、二年ぶりに帰る』の、「週刊パピルス」の記事は、誰よりも警察当局を驚かせた。捜査一課では二年前、この事件を扱った三好警部を、東大病院に走らせた。警察にとっては、もし同一少年ならば、事件の鍵《かぎ》を握る証人だからである。
警部は、病院の廊下で、「週刊パピルス」の編集長、田島の姿を見ると、肩を叩《たた》いた。
「田島さん。困りますね」
顔|馴染《なじみ》の気楽さで、顔は笑っていた。
「これは一つの事件ですからね。何よりも先に、我々に知らせて欲しかったですね」
「知らせた筈《はず》ですよ」
「一般読者並みにね」
「我が社のモットーです。公平が――」
「まあ、いいでしょう」
三好警部の顔に苦笑が浮んだ。
「ところで、例の少年は、どうしているのです? 治る見込みはあるのですか?」
「さあ、僕も、精神分析と言う奴《やつ》は苦手でしてね。この方面の権威の、三枝《さえぐさ》教授が診察に当っているから、どうにか治るんじゃないかと思っているんですがね」
「我々としても、治って貰わんと困りますよ。あの少年は、犯人の顔を見たに違いないんだから」
「同感ですね。その点は」
二人は、顔を見合わせて頷《うなず》き合った。
少年の診察に当った、三枝教授は、スイスのチューリッヒ大学で、精神医学を学んで帰国したばかりの、若い学者であった。最初の診察を了《お》えた後、
「治る見込みは、五分五分と言ったところです」
と、慎重に言った。
「又、こうした症状の治療には、時間が掛るのが通例です。早急な治癒は、見込みなしと考えて頂きたいと思います」
田島や、三好警部に対して、釘《くぎ》をさすような言い方をした。
「精神分析の方法には、色々な方法がとられています」
三枝教授は、窓の外で、看護婦と遊んでいる少年の姿を眼で追いながら、田島と、三好警部に説明した。
「催眠法とか、自由連想法と言った様なものです。これらの方法は、全て、人間の行動は過去の事件の中に、心理的な動機を有していると言う、フロイトの学説に基いているのです。これを、心的決定論と呼んでいますが、例えば、少年が、常人と違った行動をとるとします。その行動は、一見説明がつかない様に見えても、過去に、それを説明し得るものがあるのです。それが判れば、あの少年の精神障害や、言語障害は治る筈です」
「原因は、誘拐されたショックでしょう?」
「問題は、それが、どんな形で、少年の心に作用しているかと言う事です」
「まだ、全然、治療の見込みが立っていないのですか?」
「今のところは、少年を観察している状態ですが、一つだけ気付いた事があります」
「どんな事ですか、それは?」
「昨日、少年にミルクを飲ませようとしたのです。ところが、少年は、飲もうとしないのです。嫌いと言うのではなく、ミルクの入ったコップを口元まで持って行くのですが、どうしても飲めないのです。又、少年を催眠状態に導いてからミルクと言う言葉を聞かせると、異常な反応を示すのですよ」
「犯人から飲まされたミルクの中に、毒が入っていたと言う事も考えられますね」
田島は、三好警部と顔を見合わせてから言った。警部の顔が赫《あか》くなった。
「田島さん」
警部は、真剣な表情で、田島を見た。
「もしかすると、これは、犯人を突き止める手掛りになるかも知れない。記事にするのは待って貰いたいのです」
「判りました」
田島は頷いて見せた。
「我々としても確信のないものを、記事にしたくは、ありませんからね」
田島が言い終った時、突然、窓の外で、看護婦が甲高い悲鳴をあげた。三枝教授が窓から顔を出して、どうしたんだと声を掛けた。田島と、三好警部も、教授の背後《うしろ》から、狭い庭を見下ろした。
花壇の傍《そば》に、若い看護婦が真青な顔で突っ立ち、両手で顔を蔽《おお》っていた。その前で、少年が、短い竹棒を手にして、狂気した様に、地面を叩いていた。三人の眼には、最初、少年が、看護婦を殴ろうとしているとしか見えなかった。三人は、部屋から飛び出すと、三好警部が、少年の腕を掴《つか》んで、竹棒を取り上げた。少年は、きょとんとした眼つきで、三人の大人を見上げた。今まで、少年を襲っていた興奮は、嘘《うそ》の様に見えた。
「看護婦さんを、ぶっちゃいけないね」
田島が、少年に声を掛けた時、少年が踏み荒した花壇の跡を眺めていた三枝教授が、
「違いますよ」
と、低い声で言った。
「この子は、看護婦を殴ろうとしていたのじゃありません。下を良く見てごらんなさい」
田島と、三好警部は、教授の指の先を見て、思わず、小さな叫び声をあげた。其処《そこ》に、胡麻《ごま》を撒《ま》き散らした様に累々と横たわっている蟻の死骸《しがい》を発見したからである。少年が狂気の様に叩き続けていたのは、蟻だったのである。
田島は、無数に散らばっている蟻の死骸と、放心した様に、うつろな少年の顔を見比べている中に、何とも言えない、恐ろしい気持に襲われて来た。三好警部も、青い顔をしていた。ただ、三枝教授だけは、冷たい澄んだ眼で、いつまでも、黒々と横たわる蟻の死骸を見つめていた。
田島は、蟻の死骸を、時々夢に見た。それ程、ショックが烈《はげ》しかったと言う事である。あの少年は、何故《なぜ》、蟻を叩き殺したのか? 三枝教授は、その理由を知る事が、少年の精神障害を癒《いや》す道だと言った。判る様な気もするし、理解出来ないところもある。田島には、どうも、精神分析という奴は無縁の存在である。精神分析は即ち、深層心理学だと言われたりすると、愈々《いよいよ》判らなくなる。田島に判っているのは、蟻の死骸を前にした時の、妙に充足した様な、満足感に溢《あふ》れた、少年の表情であった。あの時の少年の顔は、田島には気持が悪かったのを憶《おぼ》えている。この不快さは、難しい心理学とは、無縁の感情だと思った。
「何ですか? その牛乳瓶は?」
若い刑事が、三好警部の持ち込んで来た牛乳瓶を見て声を掛けた。
「蟻だよ」
三好は、ぼそッとした声で言い、手にした牛乳瓶を机の上に置いた。
「蟻ですか――?」
二、三人の刑事が覗《のぞ》き込んだ。確かに蟻であった。牛乳瓶の中には、三分の二程、土砂が詰められ、二十匹近い黒蟻が、せっせと穴を掘っていた。土の上には、餌《えさ》の積りか、キャラメルが一粒、転がっていた。五、六匹の蟻が、そのキャラメルに集っている。
「子供の頃を思い出しますね」
刑事の一人が言った。
「小学校の頃、よく蟻の生態研究をやらされたものですよ」
「子供で、蟻の嫌いなものがいるだろうか?」
三好警部は、周囲の顔を見廻した。
「そりゃあいるでしょう」
「そうかね」
警部は、活発に動き廻っている蟻を眺めながら、少年の事を考えていた。あの時、少年のとった行動は、どう考えても異常である。精神障害があるのだからと考えてみても、やたらに蟻を殺すと言うのは、不審な気がする。田辺夫妻に訊《き》いたところでは、失踪《しつそう》前の誠二には、蟻を殺すようなところはなかった、と言う事だった。寧《むし》ろ、昆虫好きの少年だったと言う。蟻を殺す様になったのは、失踪後の性格の変化だとしか考えられない。何か強烈な印象を、蟻が、少年に与えたに違いないのだ。それも、憎しみを与える様な印象を。
「判らないな」
三好警部は、瓶を眺めながら、小さな吐息をついた。警部にとっても、心理学は苦手である。
「深見沢はどうしている?」
警部は、瓶から眼を離して、刑事に訊いた。二年前の事件の時、誘拐の重要容疑者として、ブラックリストに載せた深見沢の動静は、引き続いて、内偵させてあった。
「これと言った動きはありません」
「そうか?」
三好警部は、一寸《ちよつと》、失望した表情を作った。少年が発見された事で、少しは動揺したに違いないと考えていたからである。警部の頭の中には、今でも、誘拐犯人は、田辺夫妻の遠縁に当る深見沢に違いないと言う確信があった。今度こそ、尻尾《しつぽ》を掴《つか》まえてやるぞと言う気持であった。深見沢は、少年が発見された事で、追い詰められた気分になるのではないかと言う期待があった。それが裏切られそうなのは、深見沢が、少年の精神障害や言語障害が治らぬものと考えている為なのだろうか。
三好警部を失望させる報告は、もう一つあった。少年が描く「家」の絵について、警部は、一つの解釈を下していた。あの絵には、田辺邸に類似しているところと、全く似ていないところがあった。田辺邸に無い二階や、ポプラの木が描かれてある。警部は、絵の中で、二つの家が、二重に重なっているのではあるまいかと考えた。少年の意識の中でも、二つの家が重なっていると言う事である。警部の、この考えには、三枝教授も賛成の様であった。二重像の片方が、少年の育てられた田辺邸だとしたら、もう一つは、恐らく、少年の誘拐に関係する場所、監禁された家なのではあるまいかと、警部は考えた。深見沢の家が、二階建で、高いポプラの木のある構造ならば、犯罪の、一つの裏付けになる筈である。警部は、そう考えて、部下に、深見沢の家を調べさせたのだが、結果は、失望であった。彼の家は、二階建ではあったが、ポプラの木は無かったのである。最近になって、切り倒した形跡もないと言う。
(俺《おれ》は深見沢を諦《あきら》めない)
警部は、動き廻る蟻を眼で追いながら、自分に言い聞かせた。長身に、冷たい美貌《びぼう》の深見沢の姿を、警部は、吐き出す様な気持で、思い浮べていた。あの男の他に犯人の居る筈がない。警部は、その確信を棄てなかった。
少年は、寝台の上に寝ていた。眼は閉じられていたが、意識は、かなり、はっきりしている筈であった。
三枝教授は、少年が催眠状態にあるのを確かめてから、手にした紙片《かみきれ》の文字を、単調な声で読んで行った。何の関連もなく並べられた単語である。
バナナ
キャラメル
タイヨウ
ツクエ
ペン
ポプラ
ホン
デンセン
アリ
トンボ
イエ
エイガ
「ポプラ」の所で、少年の身体《からだ》に取り付けられた電流計の針は、大きく震えた。少年の描く絵に、ポプラが必ず出て来る以上当然の事と考えられたが、不思議だったのは、アリと言う言葉に対して、殆《ほとん》ど反応を示さない事であった。三枝教授は、この表を、何度も読み返してみたが、結果は同じであった。「ポプラ」の言葉に対しては、相変らず鋭い反応を示すが、「アリ」と言う言葉に、殆ど反応を示さないのである。三枝教授は、竹棒を振って、地面の蟻を叩き殺している少年の姿を思い浮べた。少年は、蟻に対して、激しい憎しみを感じている。蟻を殺し終った時の、満足しきった少年の表情を考えてみても、それは明らかである。それにも拘《かかわ》らず、「アリ」と言う言葉に対して、何の反応も示さないのは何故なのだろうか?
(興味のある問題だ)
三枝教授は、少年の顔を見下して呟《つぶや》いた。この謎《なぞ》を解けば、治療の糸口を掴む事が出来るかも知れぬ。教授は、そう考えて、もう一度、自分の作った表の文字を眺めた。
「面白いですね」
田島は、教授の話に合槌《あいづち》を打った。
「面白いことは面白いですが、どうも、私には、わけが判りませんね。催眠状態では、埋れた意識が蘇《よみがえ》って来る筈《はず》でしょう。そうなれば、尚更、アリと言う言葉に反応がなければならない様に思えますが――」
「その疑問が当然なのです。私も、それを期待して、実験をしてみたのですが、結果は、今、申し上げた通りなのです。少年は、アリと言う言葉に対して、何の反応も示さなかったのです」
「何故《なぜ》ですか? 少年が蟻を憎んでいる事は確かな筈ですよ。あの殺し方は、唯事《ただごと》じゃありませんからね。恐らく、誘拐された直後に、蟻に全身を刺されるか、まあ、そんな事が、あったんじゃないかと思いますね、それでなければ、あんなに激しく蟻を憎む筈がありませんよ」
「常識的には、そう考えられますが――」
教授は、眉《まゆ》をしかめ、考え事をする様に、遠くを眺める視線を作った。確かに、田島の言う様に、少年は、蟻を叩《たた》き殺した。しかしそれに対応する様な反応が現われない以上、何処《どこ》かに、断層があるに違いないのである。その断層を、どうしたら発見出来るだろうか。
「他に判った事はありませんか?」
田島が、煙草を取り出しながら訊いた時、ドアが開いて、少年が顔を覗かせた。相変らず、口元の弛《ゆる》んだ、痴呆《ちほう》的な表情だったが、眼だけは、異様に輝いていた。
「どうしたの?」
と、教授が声を掛け、田島も、少年を見つめた。
少年は、右手に、細い竹の棒を持っていた。その竹の先に、何か、黒いものが蠢《うごめ》いている。部屋が薄暗いせいもあって、教授にも田島にも、最初の中《うち》は、それが何であるか判らなかった。眼を凝らしている中に、黒く蠢くものは、はっきりとした形をとって行った。それは、甲虫《かぶとむし》だった。
甲虫は、尖《とが》った竹の先に、腹を下にして、突き刺さっていた。しかも、よく見ると、首がちょん切られている。それでも生きていると見えて、細い六本の足は、呻《うめ》く様に、宙を掻《か》いている。少年の仕業に違いなかった。少年は、二人の視線の中で、手にした竹棒を一振りしてから、庭へ走り去った。
「今度は甲虫ですか」
田島は、少年の残酷さに、うんざりした表情で言った。精神障害者なのだからと考えても、余り良い気持はしなかった。
「蟻に甲虫。まるで判じ物だ」
「これで判りましたよ」
田島の暗い表情とは反対に、三枝教授は、明るい声を出した。
「アリと言う言葉に対して、何の反応も示さなかった理由が、これで判りましたよ。少年は、蟻という特定の昆虫に対して憎悪を抱いていたのではないのです。甲虫でも良かったのです。恐らく、昆虫と言う一般的なものに対しての憎しみなのです。だから、特定のアリと言う言葉に対して、反応を示さなかったのだと思います」
三好警部は、田島から、電話で、その報《しら》せを受けた。礼を述べて、受話器を元に戻した時の警部の顔には、困惑とも苦笑ともつかぬ曖昧《あいまい》な表情が浮んでいた。
(蟻ではなく、今度は昆虫か)
警部は、口の中で、呟いてみた。蟻では考えようがなかったが、昆虫と言う、一般的な言葉ならば、何とか事件と結びつける事が出来そうである。警部は、椅子《いす》にもたれて、腕を組んだ。
数分後に、三好警部が考えついたのは、次の様な事であった。
犯人は誘拐する時に、昆虫標本を餌《えさ》にしたのではないかと言う事だった。失踪《しつそう》前の少年は、昆虫が好きだったと言う事だから、あながち、馬鹿げた空想とも思えない。犯人が深見沢だとしても、この考えは、成立つ。深見沢は、田辺家の遠縁に当ってはいたが、両家の仲は、可成り疎遠だった様である。恐らく、深見沢は少年にも敬遠されていた事だろうと思われる。それを手懐《てなず》ける為に、昆虫の標本を使ったのではあるまいか。少年は、欺《だま》されたと知った。精神障害にかかってから、今度は、昆虫自体が、恐怖と憎悪の対象になったのではあるまいか。考えられない事ではない様な気がする。事件当時、深見沢が、昆虫標本を買った事実が判れば、或る程度、裏付けが出来るわけである。深見沢には、子供がない。昆虫標本の購入は、異常な筈だからである。問題は、二年前と言う事である。果して、それを証拠立てる様なものを、二年後になった今、発見する事が出来るであろうか?
三好警部は、深見沢の知人に当ってみたが、結果は矢張り思わしいものではなかった。或《あ》る人は、黙って頭を振り、或る人は、深見沢と昆虫の組み合わせが可笑《おか》しいと言って笑い出した。昆虫の標本に関する限り、収穫は皆無に近かったが、この線を追っている中に、三好警部は意外な発見をした。
警部が、深見沢の知人関係を洗い終って、同業者の果実店を訊《き》き廻っていた時である。同業者の間での深見沢の評判は、良くも悪くもなかった。同業者組合の仕事については、余り熱心ではなかったらしい。無口で、静かな男と言うのが、大体の印象であった。警部が、この辺りでは二十年からの老舗《しにせ》だと言う、大きな果実店を覗《のぞ》いた時である。此《こ》の店の主人も、深見沢について、当り障りのない言葉しか聞かせてくれなかったが、警部は、店の奥の暗がりに貼《は》ってあるポスターを見て、おやッと思った。薄汚れているところを見ると、可成り古くから其処《そこ》に貼られてあったらしいが、警部が惹《ひ》かれたのは、その古さの為ではなく、ポスターに描かれている絵の為である。紺碧《こんぺき》の空を背景《バツク》に、黄緑色のポプラの木が風に揺れている絵であった。
「あのポスターは?」
警部は、店の奥を指差して訊いた。
「ああ、あれは、随分前に、北海道の果実会社から、宣伝に配って来たものですよ。近頃のポスターじゃ傑作の方ですね。何でも有名な画家に委嘱したらしいですよ。十万使ったとか二十万使ったとか、当時騒がれましてね。稿料の事ですが」
「何時《いつ》頃配られたものか判りますか?」
「判りますよ」
店の主人は、気軽く、ポスターの傍《そば》に近づいて、
「印刷したのが、二年前の四月十二日になっていますね。配られたのも、その頃じゃありませんか」
二年前の四月と言えば、誘拐事件の起きる僅《わず》か一カ月前である。
「果実店には必ず配られたのでしょうね?」
「勿論《もちろん》ですよ。なかには、絵が良いと言って、下の宣伝文の所だけ切り取って、額に入れた人もいたそうですよ」
「額にね――」
警部は、ポプラの鮮やかな美しさを、睨《にら》む様な眼で見つめながら、なん度も頷《うなず》いて見せた。この時、警部の心の中に、少年の絵にあったポプラの木は、実物ではなく、このポスターのものではあるまいかと言う疑惑が起きかけていた。少年が、深見沢の家の二階に監禁されていたとして、その部屋に、このポスターがあったとしたら、少年の絵の中に、ポプラがある理由が、或る程度説明がつくわけである。調べてみようと、警部は思った。
タコ
エンピツ
ホン
ヒコウキ
ナツ
フユ
ヤマ
コンチュウ[#「コンチュウ」に傍点]
三枝教授は、催眠状態にある少年を注視した。反応はなかった。教授の顔に、軽い狼狽《ろうばい》の色が浮んだ。
ムシ[#「ムシ」に傍点]
と言い直してみたが、結果は、同じであった。教授の狼狽の色は、愈々《いよいよ》深くなった。自分の考えと、推測に、自信を失ってしまった表情である。しかし、教授の頭には、少年の行動は、必ず過去の記憶に結びついていると言う確信があった。現在のところ、少年の反応は、彼が考えたものとは違っていたが、根本が間違っているのではなく、何処《どこ》かに、部分的な違いか、観察の不足があるに違いないと思った。そう考えなければ、少年の行動は、全く説明不能になってしまうのである。
少年の健康状態は良好であった。発見された時、やや青白かった顔も、病院生活が続けられる間に、常人と同じ顔色に戻ったが、精神障害と言語障害は続いていて、毎日病院を訪れる田辺夫妻を悲しませていた。従って、少年の意志が伝えられるのは、気が向いた時に描く絵か、日常の行動以外にはなかった。絵は、相変らず、ポプラの木のある家のものだけである。行動は、物静かな時もあれば、蟻を叩き殺した時の様に、ふいに兇暴《きようぼう》に走る事もあった。三枝教授が注目しているのは、勿論、後者であった。
教授が二度目の連想法試験に失敗した直後の事である。花壇の傍で遊んでいる少年を窓越しに見守っていた教授は、一つの小さな発見をした。
少年は、草の上に腰を下して、菊の葉に止っている蜻蛉《とんぼ》を眺めていた。腹の辺りが白い、塩辛《しおから》とんぼと呼ばれている、型の小さな蜻蛉である。教授の立っている場所からも、その蜻蛉の弱っている事が判った。羽の辺りが黄色く汚れているのが、最初は何の為か判らなかったが、眺めている中に、とりもちだと判った。恐らく、子供のもち竿《ざお》から、やっとの事で逃げのびて来たのであろう。飛び立つ元気も、なさそうに見えた。
少年の手が、急に伸びて、蜻蛉を羽を掴《つか》んだ。教授は、少年が蜻蛉の羽をむしり取る光景を想像したが、この予感は、外れた。少年は、指先に唾《つば》をつけて、蜻蛉の羽に附いたとりもちを拭《ぬぐ》い取り始めたからである。この光景は、教授にとって、意外であった。蟻を殺し、甲虫を竹棒の先に突き刺した少年の態度から考えて、どうにも想像の出来ぬ光景だったからである。
とりもちを拭い取った少年は、蜻蛉を、再び、菊の葉の上に載せた。兇暴な様子は、何処にも見られなかった。少年は、元気を回復した蜻蛉が、病院の外に飛び去るまで、じっと見守っていた。
田島は、三枝教授の作ってくれた表を眺めた。上段と下段に、数種の昆虫の名前が書かれてあった。
(画像省略)
「上段に書いてある昆虫は、少年が殺してしまったものです。下段の昆虫は、殺しませんでした。いや、殺さなかったと言うだけでなく、蜻蛉の羽に附いた、とりもちを拭き取ってやるのを見ました。又、きりぎりすは、現在、少年に飼わせていますが、毎日、忘れずに、餌を与えていますよ」
「昆虫について、好き嫌いが烈《はげ》しいと言う事ですね」
「そうも考えられます。しかし、私には、それ以上の事がある様に思えるのです」
三枝教授は、慎重に付け加えた。
「勿論、私の推測にしか過ぎませんが、此処《ここ》に挙げた名前は表面的なもので、この奥にあるものが、重要なのではないかと思うのです。それが何であるか、まだ私には判っていないのですが」
「昆虫の名前に、奥がありますかね?」
田島は、当惑した表情で、手にした表と、三枝教授の顔を見比べた。田島には、どう考えても、その表が、教授の言う程、重大なものとは思えなかった。ただ単に、少年の好き嫌いを示しているとしか思えないのである。
「どうも、私には苦手ですな。こう言う問題は」
最後には、やや投げた調子で、田島が言った。
三好警部は、田島から、昆虫の表の事を聞かされたが、眉《まゆ》をしかめただけで、大きな反応を示さなかった。昆虫標本の推理が失敗してから、警部は、昆虫に、興味を失った感がある。それに、何となく、精神分析とか、異常心理学と言ったものに、期待がかけられないと言った、現実家らしい気持が湧《わ》き上がって来た事も事実であった。今のところ、三好警部には、昆虫の事よりも、ポプラの方に興味があった。
警部は、時折、深見沢と囲碁を楽しむ、同業者のA氏に会ってみた。深見沢とは、可成り親しくしていると言うA氏は、警部の質問に答えて、
「そうですねえ。二年前頃、二階の六畳の部屋で、ポプラの木の額を見た様な気がします。ええ。北海道の果実商から配られたポスターを額に入れたものです」
「それは確かですか?」
「さあ、念を押されると困るのですが、見た様には思います」
「現在は、その絵はありますか?」
「この間、碁に呼ばれた時には、外国の絵が掛っていました。私は絵の方は門外漢なので良く判りませんが、何でもイタリヤの有名な画家のものだと言う事でした。勿論、複製ですが」
警部は、頷いた。収穫は、或る程度、あったと言えよう。確言は得られなかったが、警部の推測は、可能性の高い事が確かめられたわけである。念の為に、他の、深見沢の知人にも当ってみたが、二階の部屋に、ポプラの絵があった様に思うと答える人が、二、三人出た。いずれも、見たと確言するまでには行かない恨みはあっても、警部の確信を、愈々強めた事だけは確かである。
(少年は、ポプラの絵のあった、二階の部屋に監禁されていたに違いない。犯人は、そこで、ミルクに混ぜた毒を呑《の》ませたのか。恐らく、犯人は毒を呑ませる事に失敗したが、少年は、恐怖から精神障害と言語障害に陥《お》ちたのであろう。犯人は、少年の始末を誰かに頼み、その人間は、少年を仙台まで連れて行き、そこで捨てたか、逸《はぐ》れたのかも知れない)
警部は、勿論、犯人と言う言葉の所に、深見沢の名を、当てはめて考えていた。それは推測の域を過ぎて、確信に近かったが、それだけでは、深見沢を逮捕する事は出来ない。たとえ、ポプラの絵が、深見沢の二階にあった事が、はっきりと判ったとしても、矢張り逮捕は難しい。警部にしてみれば、歯がゆい事この上ないが、証拠がない以上、仕方がなかった。
(少年の精神が正常に戻ってくれれば、何もかも解決する)
結局はそれを待つ以外に方法がないと、警部は思った。宮城県警にも依頼して、東京から仙台までの、少年の足取りを洗っているが、この方は、二年前の事でもあり、思う様に調査が進むとは思えなかった。全てが、少年が正常に戻った時の記憶に頼っているわけである。
(少年は、果して、正常に戻るのだろうか?)
三好警部には、それが、危ぶまれてならない。
学者の仕事に危惧《きぐ》を抱くのは、警察官の常だが、三好警部の場合にも、例外ではない。どうも、昆虫の周囲を、うろうろしているのでは、不安である。
警部は、田島から渡された、昆虫の表を眺めた。田島は、ただ単に、少年の好き嫌いを表わしたに過ぎないと言っていたが、警部の眼にも、同じ様にしか見えなかった。
少年は、ぼんやりした眼で、見舞いに訪れた田辺夫妻の顔を眺めている。夫人は、つらそうに眼を伏せた。
「記憶は、全然、戻っていないのでしょうか?」
田辺氏は、眼をそらせて、三枝教授に訊《き》いた。
「残念ながら、戻っていません。しかし、ご子息の場合には、急激に、記憶を取り戻す可能性があります。問題は、精神障害の原因となった鍵《かぎ》を探し当てる事です。何かが、ご子息の精神を狂わせているのです。それを取り除けるかどうかが問題です」
教授は、田島に見せたと同じ、昆虫の名前を夫妻に示した。田辺氏は、不審気に眉をひそめた。
「先日も、蟻の事でお話ししましたが、甲虫《かぶとむし》を嫌いだったと言う記憶はありません。髪切虫の事は憶《おぼ》えていませんが、甲虫に紐《ひも》をつけて石か何かを引っ張らせて遊んでいたのを憶えています」
教授は、黙って頷《うなず》いたが、その顔に失望の色はなかった。もともと、一つ一つの昆虫の名前に意味のない事は判っていたからである。田辺氏の言葉は、それを確かめたに過ぎない。
夫妻が帰った後、少年は、いつもの様に、看護婦に付き添われて庭へ出た。庭には、可成り強い初秋の陽光が降り注いでいた。教授は、椅子《いす》から立ち上がると、少年に続いて庭に降りた。今日は、少年の行動を、綿密に観察してみようと考えたからである。
少年は、裸足《はだし》になると、芝生に上った。裸足の感触が楽しいらしい。無表情だった口元が、微《かす》かに笑っていた。
少年は、菊の花を折って、自分の頭に差した。髪の毛が短いので、直ぐ落ちてしまうのだが、何度も、根気よく繰り返している。花弁が、あらかた落ちてしまってから、少年は、やっと、その作業を止めた。少年は、今度は、芝生の上に腹這《はらば》いになった。教授も、少年の傍に寝転んだ。むっとする様な草いきれが鼻につく。教授は、ふと、子供に返った気持になり、指先で、土を、すくってみた。気が付くと、少年も、教授に倣って、土をいじくっている。二、三分、そんな事を繰り返している中に、ふっと、少年の動作が止った。教授の眼が、少年の顔を見た。その眼が険しくなったのは、少年が動作を止めた理由が判ったからである。
少年の指先から、二十|糎《センチ》離れた所に、小さな穴が見えた。明らかに、蟻の巣である。見ている中に、小さな赤蟻が、二、三匹、這い出して来た。斥候ででもあるのか、細い触角を振り廻して様子を窺《うかが》っている様に見えたが、そのうちに群をなして蟻が出て来た。教授は、反射的に、少年の顔を眺めた。いつかの、竹棒で蟻を叩《たた》き殺した狂態を思い浮べたからである。しかし少年の身体《からだ》は動かなかった。表情も険しくならなかった。むしろ、蟻の動きを眺めている少年の眼は、穏やかさを増している様に見えた。
「非常に興味のある光景でした」
田島と、三好警部を前にして、三枝教授は微笑を口元に浮べて話した。
「何故《なぜ》、少年は、蟻を殺そうとしなかったのですか?」
田島が訊いた。
「赤蟻だったからです。赤蟻の中に、黒い蟻が一匹混っているのを見た少年は、指先で、その蟻を潰《つぶ》してしまったのです。私は、興味を唆《そそ》られました。そして、もう一度、昆虫の表を見直してみました。もうお判りの様に、少年が殺した昆虫は、蟻にしろ、甲虫にしろ、髪切虫にしろ、全て、黒い虫なのです。たまたま、赤蟻を少年が殺さなかったので、この事が判ったのです」
「しかし、それが、一体、何を意味しているのですか?」
三好警部は、余り興味のなさそうな声で訊いた。現実家の警部には、教授の話が、単なる言葉の遊戯の様に思えるらしかった。
教授は、机の引出しから、一枚の紙片《かみきれ》を取り出した。
「実は、昨日、スイスにおける臨床例の中から、非常に興味のある事例を発見したので、此処《ここ》に抜き書きしてみたのです」
教授は、紙片の文字に眼を落した。
「これは、一九二三年に、ジュネーブで発見された事例です。或る日、病院に、一人の少女が、精神障害で治療を受けに来ました。医師は、精神分析を行いましたが、なかなか原因となったものが判りませんでした。その中に、医師は、少女について、或る発見をしました。それは、少女が、きりぎりすを見ると、殺してしまう事だったのです。しかし、他の昆虫は殺そうとしませんでした。きりぎりすだけを殺すのです」
「何だか、似た様な話ですな」
三好警部が、興味を覚えた表情で合槌《あいづち》を打った。
「そうです。似た話です」
「結論は、どんなものだったのですか? その、きりぎりす殺しの少女は?」
「きりぎりすは、緑色をしています。少女にとって、きりぎりすは、緑色の象徴だったのです。他の昆虫を殺さなかったのは、それらが、緑色を示すものではなかったからです。では、何故、少女は、緑色を憎んだのでしょうか。臨床報告によると、こうなっています。少女は、緑色で表わされる、或る人物を憎んでいたのです。その結果、少女の家の近くに住む牧童が、表面に出て来ました。牧童は緑色の服を着ています。少女が『緑色の男』として憎んでいたのは、その牧童だったのです。牧童と少女は、結婚を約束した間柄だったのですが、彼は、少女を捨てて、他の娘と結婚してしまったのです。少女は、落胆の余り、精神障害に陥ちたと言うわけです」
「すると、少年の場合には、黒色で示される人間が、誘拐した犯人だと言う事になりますね」
三好警部の声は、弾んでいた。教授は頷いた。
「催眠状態にある少年に、『クロ』と言う言葉を聞かせたところ、異常な反応がありましたから確かな筈《はず》です」
「黒い人間か――」
三好警部は、深見沢の様子を、色々と思い浮べた。少年が誘拐された時、深見沢は、黒い上衣《うわぎ》を着ていたのだろうか? それとも、ネクタイが、黒だったのだろうか? どうもこの考えは正しくない様である。少年が誘拐されたのは、二年前の五月下旬である。初夏である。その季節に、黒い背広を着たり、黒いネクタイをしているとは、一寸《ちよつと》考えられなかった。一応、調べるだけは調べてみようと思ったが、どうも、期待は、持てそうになかった。深見沢の顔色も考えてみたが、この方は、問題外であった。彼の顔は、黒いと言うよりも、青白いからである。
「何か心当りがありますか?」
田島が、三好警部の顔を覗《のぞ》き込んだ。彼は頭の中で、『黒の男』と言うタイトルを考えていた。それとも『黒の記憶』の方が、読者に受けるだろうか?
「心当りは、あるとも言えるし、ないとも言えますね」
三好警部は、曖昧《あいまい》に言った。警部の頭の中では、黒い色と、深見沢の青白い顔が、重なり合ったり、離れたりしていた。上衣やネクタイの他に、どんなものが考えられるだろうか。黒い靴か。いや、黒い靴は、余りにも一般的過ぎる。犯人の特徴を示すものとは思えない。黒い帽子は、どうだろうか。靴よりも可能性はありそうだが、深見沢が、そんな、殺し屋スタイルをしていただろうか、と言う疑問が湧《わ》いて来る。
「判りませんな」
三好警部は、最後に、そう言った。
ベルが鳴った。三枝教授は、受話器を取りあげた。電話を掛けて来たのは、三好警部である。警部の声は、弾んでいた。
「おかげさまで、犯人を逮捕出来そうです。いつかお話しした、深見沢が、黒い男だと判ったのです」
「黒は、何の意味でした?」
「最初は、上衣とか、帽子と言った外形的なものだけを考えていたのですが、これは失敗でした。深見沢と言う男は、黒色の系統が嫌いだと判ったのです。それで、正直に申し上げると、がっかりしていたわけです。ところが、昨日、田辺夫妻に会った時に、意外な事を耳にしたのです。ご存知の様に、夫妻と深見沢とは遠縁に当るのですが、間柄は親密ではありません。昨日は、その理由を、お訊きしたのですが、夫妻の話では、どうも信用が置けない男だからと言う事でした。ところで、信用の置けない男の事を、普通、どう言うか、ご存知ですか?」
「どうも、判じ物は苦手ですが――」
「腹黒い男ですよ。夫妻の家では、深見沢の事が話題に上ると、『あれは、腹黒いところがあるから』と言う様に、言っていたらしいのです。その言葉が少年の頭に、こびりついていたとしても、そう不思議ではないと思います。そうです。少年にとって、深見沢は『腹黒い男』だったのですよ」
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蘇《よみが》える過去
尾行してくる女
さっきから、野本は、その女が、気になっていた。
電車が、K駅に着いた時、乗ってきた客の一人である。和服を着た二十五、六の女だった。かなり厚化粧をしているから、実際の年齢はもっと若いのかも知れない。最初に見た時から、水商売の女らしいと、見当がついた。
その女は、野本の前に腰を下し、手にした女性週刊誌をひろげて読んでいたが飽きたのか、小さなあくびをして、眼を上げた。その拍子に、野本と視線があったのだが、その時、軽い驚きの色が、女の顔に浮んだ。
(この女は、俺《おれ》を知っているらしい)
と、思ったが、野本の方は、いくら首をひねっても、記憶に浮んで来ない顔であった。
女は、すぐ視線をそらせた。が、いかにも、わざとらしい動作であったし、窓の外を流れる夜景を見ている顔ではなかった。窓に視線を向けてはいたが、明らかに硝子《ガラス》に映っている野本を見ているのだ。
そんな状態が、続くと、野本も、気になってきた。
(何処《どこ》で会った女だろうか)
野本は、妙に取りすました女の横顔に眼をやりながら、考え込んだ。出版社で働いている関係で、バーやキャバレーで酒を飲む機会は、普通のサラリーマンに比べて多い。そんな時、同席したホステスの一人かも知れない。
(こっちは忘れているが、向うで憶《おぼ》えていてくれるのは、悪いものじゃないな)
野本は、多少、くすぐったい気持がしないでもない。相手がもっと美人なら、猶更《なおさら》、嬉《うれ》しいのだが――
女の名前が思い出せないうちに、電車は野本の降りる駅に近づいた。彼が立ち上がると、女は、はじかれたように、窓から、野本に視線を戻した。やはり、夜景を見ていたのではなかったのだ。
電車が止まり、野本が降りると、女も、暫《しばら》く迷ってから、ドアの閉まる寸前、ホームに飛び降りてきた。野本が改札口を出ると、女も、続いて、駅を出た。野本は、先に歩きながら、女の足音が、小走りについてくることを知っていた。
野本は、二十八だが、まだ、結婚はしていない。これから、アパートに帰ったところで、誰が待っているわけでもない。それを考えると、わけあり気な女が、後からついてくることが、彼に、甘酸っぱい期待を抱かせた。
引越したばかりのアパートは、駅から、かなりある。人通りの途絶えたところで、ふいに、女が、声をかけてきた。
「野本さん――ですわね?」
と、女は、遠慮がちに、野本に向って、いった。薄暗い街灯の下なので、女の顔は、妙に、ぼやけて見えた。
「ええ」
と、野本が頷《うなず》くと、女は、重ねて、
「週刊ロマネスクの野本さんですわね?」
と確めるように、訊《き》く。間違ったら大変だとでも思うのか、その声には、真剣なひびきがあった。
「そうです」
「私を、憶えていらっしゃいますわね?」
「ええ。勿論《もちろん》」
と、野本は、嘘《うそ》をついた。軽い気持でついた嘘である。
「貴女《あなた》が電車に乗ってきた時から、見憶えのある人だと、気がついていたんです。名前が、のどのところまで出かかっているんだが、どうしても思い出せない。それで、弱っていたんです。確か、銀座の店で、会ったと思うんだが――」
野本は、銀座で一流といわれるバーの名前を、いくつか、並べてみせた。女の平凡な顔立ちや、安物の着物から見て、そんな店にいるとは思えなかったが、相手の自尊心をくすぐるための嘘であった。野本のつもりでは、罪のない嘘だった。
女は黙って、野本の言葉を聞いていた。肩のあたりが、びくッと動いたようだったが、表情の動きは、わからなかった。
「どうです?」
と、野本は、顔を近づけて、女に、いった。
「この近くに住んでるんですが、一寸《ちよつと》、寄っていきませんか?」
「ええ」
女は、低い声で頷いた。彼女が、身体《からだ》を寄せてくると、甘酸っぱい香水の匂《にお》いがした。安物とわかる香りが、かえって、野本を刺激した。これで、今夜は、自分の膝小僧《ひざこぞう》を抱いて寝ずにすむと思った。どうせ、この女だって、その気があるから、ついて来たのだろう。
野本が、そこまで考えて、にやッと笑った時、ふいに、脇腹《わきばら》に、灼《や》けるような激痛を感じた。
「うッ」
と、思わず呻《うめ》き声をあげて、道路に、しゃがみ込んでしまった。手で押さえると、べたべたしたものに触れた。血だった。
(刺された)
と、気づいた時、眼の前が暗くなった。ぼんやりしてきた意識の中で、野本は、逃げていく女の足音を聞いた。
不明の動機
次の電車で降りた乗客が、倒れている野本を見つけて、あわてて、救急車を呼んだ。病院へ運ばれる間も、出血が続いた。救急病院に着くとすぐ、手術が行われ、十二針も縫って、やっと、傷口が塞《ふさ》がった。あと十分、手術が遅れたら、命はなかったかも知れないと、医者が、いった。
こうしたことは、全て、意識が回復してから、野本の知ったことである。
三日間の絶対安静が解けて、最初に訪ねてきたのは、刑事だった。
痩《や》せた背の高い、どことなく狐を思わせる男で、警察手帳を見せてから、
「刺したのは、どんな奴《やつ》ですか?」
と、きいた。野本が、「若い女です」と答えると、
「ほう」と、眼を大きくした。刺したのは、男という先入主があったらしい。
「女ですか――」
「おかしいですか?」
「いや。貴方《あなた》の知っている女ですか?」
「いや、知らん女です」
「知らない女が、何故《なぜ》、貴方を刺したんですか?」
「それが、僕にも、わからんのです」
「詳しく、話して貰《もら》えませんか。事件当夜のことを」
刑事は、難しい顔になって、野本を見た。野本は、アパートへ誘ったことだけは抜かして、だいたい、ありのままを刑事に話した。
「すると、女の方では、貴方を知っていたわけですね?」
「ええ。僕の名前も知っていたし、週刊ロマネスクで働いていることも、知っていましたからね」
「だが、貴方の方は、その女に、見憶えがなかった?」
「ええ。今も考えていたんですが、どうしても、思い出せないのです」
「水商売の女らしかったと、いいましたね?」
「ええ。間違いないと思います。ですから、何処かのバーか、キャバレーで会った女だと思うんですが、酔っている時には、ホステスの顔なんか、いちいち憶えていませんからね」
「女の特徴は?」
「背は、かなり高い方でした。一六〇センチくらいは、あったと思います。顔立ちは、平凡としか、いいようがなくて――」
「では、何か思い出されたことがあったら、連絡して下さい」
刑事は、「お大事に」と、いい残して帰っていった。
続いて、新聞記者が、押しかけてきた。根掘り葉掘り、女との関係をきくのへ、あたりさわりのない応対をして帰すと、ひどく疲れてしまった。野本も、週刊誌の編集を仕事にしているので、ずい分相手を困らせるようなインタビューをしたことがあるが、図らずも、逆の立場に立たされてしまったわけである。ひとりになると、自然に、苦笑が浮んだ。
夕方になると、週刊ロマネスクで、机を並べている同僚の中根が、見舞いに寄ってくれた。一応は、「大変だったなあ」と、心配顔で、いってくれたが、すぐ、同僚の気安さが出て、にやにや笑い出した。
「刺したのは、若くて、絶世の美人だそうじゃないか。編集長が、野本君は、なかなかサムライじゃないかって、感心していたぜ」
「若い女は本当だが、絶世の美人じゃない」
「それにしても、女に殺されかけるなんざあ、男冥利《おとこみようり》に尽きるんじゃないのか」
「冗談じゃない」
「理由は、何なんだ?」
「それが、俺にも、さっぱりわからないんだ」
「わからずに刺されたのか?」
「うむ」
「女の名前は?」
「それもわからん。どうしても思い出せないんだ。どうせ、バーか、キャバレーで、会った女だと思うんだが」
「酔っ払って、その女と、結婚の約束でもしたんじゃないのか? 君の方は、酔った揚句の出まかせだったが、相手の女は、本気にした。それが、もつれて――」
「俺は、酔っ払っても、そんな無責任なことはいわん。第一、酔った客の言葉を真に受けるような、そんな純情な女が、あの世界にいるものか」
「そりゃあ、わからんぜ」
中根は、相変らず、おどけた調子で、いった。
「君って男は、何となく、相手を信用させる顔つきをしているからな。ご誠実な感じってやつさ」
「よしてくれ」
野本は、苦笑した。笑うと、傷口が痛み、彼は、顔をしかめた。
「ところで、本当に、思い当ることがないのか?」
中根は、笑いを消した顔になって、きいた。野本は、頷いた。
「全然、ない」
「その女は、最初から、君を刺す積りだったのかな?」
「――――」
野本は、白く塗られた天井に眼を向け、あの夜のことを、思いかえしてみた。女が、同じ電車に乗ってきたのは、偶然だったと思う。野本を見て、驚いた顔だった。そのことからも、偶然の出会いだったと考えていいだろう。それに、医者の話では、彼を刺した凶器は、西洋鋏《せいようばさみ》らしいという。最初から、計画的に殺す積りなら、もっと確実性のある凶器を、用意するのが、常識ではあるまいか。たまたま、あの女のハンドバッグに、鋏が入っていたので、それを使った、としか考えられない。だが、何故、刺されたのかという疑問は残る。
「君の名前を知っていたとすると、誰かと間違えたということは、考えられないな」
中根は、ホームズのように、顎《あご》に手を当てて、いった。
「本当に、女を泣かしたことは、ないのか?」
「ないね」
野本は、中根の顔を見て、いった。
「ドン・ファンなんてのは、俺の柄じゃない」
苦笑していうと、また、傷口が痛んだ。
女の行方
翌日、同じ刑事が、また、病室を訪ねてきた。
「何か、思い出されたことが、あるかと思いましてね」
と、刑事は、微笑して見せた。野本は、ないといったが、別に失望したような表情は見せなかった。
「ゆっくり、思い出して下さい」
「警察で、何かわかりましたか?」
「たいしたことは、わかりません。何しろ、貴方《あなた》が気を失っていらっしゃる間が、ブランクになっていますからね。これから、追いついていくと思いますが」
「あの女は、僕を刺してから、駅の方へ逃げたと思うんですが?」
「それは調べました。確かに、あの夜、蒼《あお》い顔をした和服姿の女が、改札口を通ったのを、駅員が目撃しています。買ったのは、終点新宿までの切符ですが、新宿で降りたかどうかは、わかりませんね」
「あの女は、K駅から乗ったんです。K駅の近くにある店で働いている女かも知れませんが?」
「それも調べました。K駅の周辺には、五軒ばかり、店がありますが、該当者なしです。ところで、あの駅は、渋谷《しぶや》から来るS線との接続をするところです。女は、渋谷の店で働いているのかも知れません。また、渋谷には地下鉄が来ている。銀座、新橋、上野、浅草で働いている女も、調べなきゃならんことになります。貴方も、ご存知でしょうが、その数は――」
「わかります」
野本は、笑って見せた。店の数だけでも、何千軒だ。その中から、あの女を探し出すのは容易なことではない。
刑事は、これ以上いても、野本が、何も思い出しそうにないとわかると、そそくさと帰っていった。
次の日も、刑事は訪ねてきた。その次の日も。その度に、柔和な刑事の顔が、次第に難しいものになっていくのを、野本は感じた。捜査は、うまく進んでいないのだなと、思った。その責任が自分にある気がして、野本は、刑事と顔を合わせるのが、苦しかった。刑事がいったように、野本が意識を取り戻し、絶対安静が解けるまでの三日間の空白が、この事件を難しくしてしまったことは、はっきりしていた。それに、肝心の被害者である野本が、刺した女について、貧弱な知識しか与えられないことも、捜査に壁を作っているに違いなかった。
刑事は、野本が、女をかばっているのではないかと、疑ったことも、あったらしい。その誤解は、解けたようだったが、新聞記者の方は、もっと露骨で、
「女をかばいたい気持はわかるけど、もう少し、我々に協力してくれませんかね」
と、いう者もあったし、
「馘《くび》が心配だったら、その点は、伏せて書くから、本当のことを――」
と、野本に同情しているのか、傷つけようとしているのか、わからない言葉を口にする記者もいて、彼を閉口させた。
野本は、ベッドの上で、あの女のことを思い出そうと努めた。向うで、彼の名前を知っている以上、何処《どこ》かで会っている筈《はず》なのだ。だが、一か月すぎ、退院する時が来ても、女の名前を思い出すことは、出来なかった。
五月初旬、野本は、退院した。
事件は、迷宮入りになっていた。
新聞記事
週刊誌の編集という仕事は、やたらに忙しい。とにかく、一週間に、一冊ずつ、雑誌を出さなければならないのである。当り前の話だが、新聞社が発行している週刊誌と違って、全国的な耳や手を持たないだけに、記事にする材料を探すだけでも、大変だった。最近は、かなり慣れてきたが、入社早々は、締切りに追いまくられて、きりきり舞いしたものだった。そのため、無理な取材もした。
今でも、忙しさは同じだった。その忙しさが、事件のことを忘れさせた。といっても、完全に忘れたといったら、嘘《うそ》になる。時々、傷口が、うずくように、あの夜のことを思い出した。刺された時の激痛や、逃げていく女の足音や、女と交わした言葉を。
五月十三日発売の校正が終って、一息ついたのが、五月十一日だった。週刊誌の編集をしていると、日時の感覚がおかしくなってくる。
例によって、編集長を囲んで、簡単な祝杯をあげ、野本が、アパートに帰ったのは、十一時を廻っていた。万年床に横になって、投げ込まれていたその日の夕刊を拡げた。たいした記事もないと、新聞を閉じようとして、手を止めてしまった。何となく、引っかかる記事を見つけたからである。社会面の小さな記事だった。
〈泊り客が自殺〉
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(十和田《とわだ》発) 九日午後一時頃旅館「ミマツ」の女中神田ユキさん(三十)は、昨夜からの泊り客が、なかなか起きて来ないのを不審に思い、部屋を調べたところ、その泊り客が、鴨居《かもい》に首を吊《つ》って死んでいるのを発見して、警察に届け出た。この客は、二十五、六歳の女性で、宿帳には、東京都杉並区××町××番地、長谷川保子とあったが、警察で照会したところ、該当者なしとのことなので、調査を続けている。なお、この女性の所持品は、ハンドバッグと、現金五千六百円、それと、週刊誌Rだけで、身元を明らかにするようなものは、持っていない。
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野本は、週刊誌Rという文字に、引きつけられた。週刊誌の数は、それこそ、文字通り星の数ほどあるし、出たとたんに潰《つぶ》れるものもあるが、イニシアルが、Rなのは、確か、週刊ロマネスクだけの筈である。
(この泊り客は、あの女ではないだろうか?)
この考えは、飛躍し過ぎているかも知れない。持っていた週刊誌や、二十五、六という年齢の一致だけで、あの夜と同一人物と考えるのは、危険だとわかっていたが、野本は、その考えに、こだわった。一度、こだわると、不確かな直感が、次第に、信頼できるような気がするから妙であった。
翌日、出社するとすぐ、野本は、編集長に、十和田へ行かせて貰《もら》えないかと、頼んだ。
「一か月も休んで、その上ですから、心苦しいんですが、どうにも、気になってならないんです」
「十和田で自殺した女が、問題の女だという証拠は、ないんだろう?」
「ありません。しかし、何となく、同じ女のような気がするんです。そう考えると、どうにも落着けなくて」
「同じ女とわかったら、どうする積りだ? まさか。死人を殴るわけにも、いかんだろう?」
「癪《しやく》に触りますが、それより、何故《なぜ》、あの女が、僕を刺したのか、その理由が知りたいんです。このままじゃあ、気持が、もやもやしていて、やり切れません。だから、十和田へ行って、あの女かどうか確めたいし、もし、あの女だったら、何か、わかると思うんですが」
「そうだな」
編集長は、小さく笑って見せた。
「君という人間は行くなといったら、辞表を出しても、行く方だからな。そんなことになったら、わが社にとっても、大きな損失だからね。行って来給え。ただし、一度だけだ。期間は五日間。それでいいね」
「すいません」
野本は、ぺこりと頭を下げた。
十和田行き
その日の夜行で、野本は、十和田へ発《た》った。翌日青森に着くと、すぐ、十和田湖行のバスに乗った。バスには、ガイドがついていて、マイクを使って、周囲の景色を説明してくれたが、野本は、殆《ほとん》ど、聞いていなかった。
車が八甲田《はつこうだ》の山脈《やまなみ》に入ると、道の両側に、残雪が見えた。東京から来たらしい若い男女のグループは、五月に雪が見られたことに興奮して、歓声をあげた。運転手が、気をきかせて、バスを止めると、一斉に、カメラを持って、降りて行った。残雪をバックに、記念撮影でもする積りらしい。
バスには、野本だけが残った。彼は、窓の外に見える景色に、ぼんやりした視線を向けて、自分を、ここまで駆り立てたものは、一体何だったのだろうか、と考えていた。
編集長には、刺された理由が知りたいからと、いった。確かに、その通りだし、自分でも、物ごとを、曖昧《あいまい》なままにしておけない性格だと思う。だから、ここへ来たのだが、それだけでないものが、あったのではないかと、野本は、自分の心を、のぞき込む気持になっていた。
上手《うま》く表現できないが、それは、「恐れ」に近い感情かも知れないと、野本は思う。一か月の病院生活の間、自分を刺した女への怒り、刺された理由を知りたいという欲求を感じ続けたのだが、その他に、ふっと、自分の過去を、ふりかえる瞬間があった。長い治療生活のせいで、気が弱くなっていたせいかも知れない。その理由は、何であるにしろ、その瞬間、野本が感じたのは、「恐れ」であった。
(俺《おれ》は、知らぬうちに、誰かを、傷つけていたのではあるまいか?)
例えば、あの女を。刺されたのは、その結果ではなかったろうか。
バスを降りた乗客が戻ってきて、車は、また、十和田湖へ向って、走り出した。バスが、有名な奥入瀬《おいらせ》に入ると、道に沿って流れる渓流や、ところどころに音を立てている滝に向って、ガイド嬢の説明も熱を帯びてきたが、野本は、眼を閉じた。自分の感情と闘っていた。
山の気象は変り易いのか、バスが十和田湖の休み屋に着いた時は、小雨が降り出していた。バスを降りると、冷やりとする寒さに、野本は、上衣《うわぎ》の襟を立てた。
新聞にあった「ミマツ」という旅館は、すぐわかった。最近、観光ブームを当てこんで建てたものらしく、裏の駐車場は、まだ工事中だった。木の香りの残っている玄関を入ると、女将《おかみ》らしい太った中年の女が、もみ手をしながら、現われた。ひどく愛想が良かったが、部屋に通されてから、
「新聞に出ていた女のことを、訊《き》きたいんだが」
と、野本がいうと、女将は、とたんに、表情を硬くした。
「あのことなら、もう、全部、警察におまかせしてありますけど」
「それは、わかっているんだが、個人的に、どうしても、知りたいことがあってね」
「死んだ方の身寄りで、いらっしゃるんですか?」
「いや、そうじゃないんだが、新聞には、女が、週刊誌を持っていたとあったね?」
「ええ」
「Rとなっていたが、あれは、週刊ロマネスクのことじゃないの?」
「ええ。その本でしたけど、それが何か?」
「僕は、その週刊ロマネスクの人間なんだ。それで、この事件に興味を持ってね」
野本は、社名入りの名刺を取り出して、女将の前に置いた。女将は、「拝見させて頂きます」と、古風ないい方をして、名刺を取り上げて、
「週刊ロマネスク編集部、野本和正――」
と、声に出して読んでいたが、その表情に、軽い驚きの色が走った。
「本当に、お客様は野本和正さまですか?」
と、訊く。
「そうだよ」
と、野本は、笑いながらいい、定期入れに入った身分証明書を、「ほら」と、女将の眼の前に、突き出した。
「僕が、野本和正だったら、どうなるんだね?」
「お客様に、お見せしたいものがあるんです」
と、女将は、ひどく緊張した顔でいった。
女の遺体
女将が持ってきたのは、一枚の名刺だった。二つに破れたのを、セロテープで、継《つな》いであった。渡されて、野本は驚いた。薄汚れていたが、彼の名刺だったからである。
「これが、何処《どこ》に?」
「庭に落ちていたんです」
と、女将は、内緒話でもするように声をひそめて、いった。
「あの女の人の寝た部屋の、丁度、真下のところに、落ちていたんです。二つに破《やぶ》けて」
「何故、警察に見せなかったんです?」
「あの女の人が捨てたものかどうか、わかりませんでしたし、それに、妙なことで、名刺の方に、ご迷惑をおかけしてはと思いましてね」
「助かりました」
と、野本は、正直に、礼をいった。
ひとりになってから、野本は、もう一度、女将に渡された名刺を見た。今、使っているものと同じだろうと、最初は考えたが、よく見ると、社の電話番号が違っていた。
週刊ロマネスク社の電話が変ったのは、確か五年前である。それ以前に作った名刺なのだ。野本は電話番号が変った時、以前作った名刺が残り少くなっていたこともあって、名刺を、新しく作っている。従って、五年以上前でなければ、この古びた名刺は、使わなかった筈《はず》だ。
野本は、ぼんやりと感じていた「恐れ」が、現実のものになってきたと感じた。まだ、この名刺が、自殺した女に結びつくかどうかは、わからないし、その女が、彼を刺した女と同一人物かどうかも、わかってはいないのだが、野本の気持の中では、確信に近いものが、生れてきていた。
野本は、もう一度、女将を呼んで、死んだ女の遺体は、どうなっているのかを、訊いてみた。
「警察が運んでいきましたよ、その時の話では、何でも、念のため解剖するとか、いってましたけど」
と、女将は、当日を思い出すような眼になって、いった。
「ここは、青森の警察だね?」
「ええ。見えたのは、県警の方でしたけど」
「すまないが、電話をかけてくれないか」
「やっぱり、ご存知の方だったんですか?」
「それを知りたいんだ」
野本は、固い声で、いった。
青森県警への電話は、すぐ、つながった。
野本が心配したのは、解剖が終り、遺体が、既に荼毘《だび》に付されてしまったのではないかということだった。そうなっていたら、同じ女かどうかを確かめる術《すべ》がなくなってしまう。
しかし、遺体は、まだ、市内の病院にあるという返事であった。
「見せて頂けますか?」
野本は、受話器に向って、いった。
「勿論《もちろん》、お見せしますが、何か、心当りがあるのですか?」
「あるような気がするのです」
と、野本は、いった。
「これからすぐ、そちらへ、伺います」
受話器を置くと、野本は、すぐ立ち上がった。女将には、一日分の宿泊料を払い、名刺の礼をいって、旅館を出た。再び、バスに乗り、青森へ戻ったのは、夕刻だった。さすがに、バスを降りた時は、疲労を憶《おぼ》えた。
青森県庁の向いにある県警本部では、電話に出た警官が、野本を待っていてくれた。
「あの仏さんの身元がわからんで、困っていたところです」
と、その警官は、野本を、遺体が安置されている病院へ案内しながら、訛《なま》りの強い声で、いった。
病院は、県警から歩いて五分ほどのところにあった。受付で挨拶《あいさつ》をしてから、野本は、警官の後について、薄暗い地下へ降りて行った。白衣《はくい》を着た男が二人を迎え、遺体の置いてある部屋に案内した。強いホルマリンの匂《にお》いが、野本の顔をしかめさせた。
遺体は、白い布に蔽《おお》われていた。男が、顔の部分だけを見せ、同行した警官が、「いかがですか」と、野本の顔を見た。
最初は、全く見知らぬ女の顔に見えた。しかし、暫《しばら》く眺めているうちに、あの夜、野本を刺した女に違いないと、わかってきた。見知らぬ顔に見えたのは、遺体の顔が、化粧の一つもほどこされていない素顔だったからである。眼を閉ざし、すき透るような蒼《あお》さを見せている顔は、意外に、幼く見えた。野本は、その幼さに、遠い記憶があるような気がした。
厚化粧をした、いかにも水商売の女らしく見えたあの夜の女は、野本にとって、記憶にない女だった。しかし、素顔の、幼さの残っているこの女になら、何処かで会った気がするのだ。しかし、何処でだろうか。
「いかがですか?」
と、横から警官が、重ねて訊いた。野本は、遺体から眼をそらせて、
「はっきりわかりません」
と、いった。
「所持品の方も、見せて頂けませんか?」
「いいでしょう」
と、警官は気軽くいい、野本を連れて県警に戻り、風呂敷《ふろしき》に包んだ遺留品を見せてくれた。黒皮のハンドバッグと、女が着ていた和服。ハンドバッグの中身は、新聞にあったように、彼女の身元を示してはくれなかった。週刊ロマネスクもあった。最近号で、二つに折れているのは、駅の売店ででも買って、持ち歩いたからであろう。
「さっきの電話では、貴方は、その雑誌の方だそうですな」
と、警官は思い出したように、いった。野本は黙って頷《うなず》き、週刊ロマネスクの頁を繰って行った。頁の余白に、何か書込みでもないかと、眼を走らせながら、野本は、女が週刊ロマネスクを買った気持を考えていた。
女は、野本を刺す前、「週刊ロマネスクの野本さんですわね?」と、念を押した。女が死んでしまった今では、何故《なぜ》、そんな訊き方をしたのかわからないが、個人としての野本ではなく、週刊ロマネスクの社員である野本を、女は憎かったのかも知れない。
野本の眼が止った。その頁に、鉛筆で、小さな悪戯《いたずら》書きがしてあったからである。
Rain-club. Rain-club. Rain-club.
同じ文字が、いくつも書き散らされている。「これは?」と、野本は、警官に、その頁を見せた。
「調べられたのですか?」
「いや、調べません。どうも、意味がないような気がするので」
本当に、意味がないと思ったのかどうか、わからない。警官の無関心さは、自殺者への無関心さと、野本には受け取れた。これが殺人事件だったら、警察は、この文字を、無視するようなことは、しなかったろう。
コール・ガール
野本は、東京に戻ると、「レイン・クラブ」という名前のバーやキャバレーを探して歩いた。電話帳も調べたが、その名前の店は、見つからなかった。女が、書き散したのは、彼女の働いていた店の名前ではないのかと、野本は考えたのだが、違っていたのだろうか。
野本は、編集長が、その方面に詳しかったことを思い出し、電話をかけてみる気になった。十和田でのことを報告する義務もある。上野駅に近い電話ボックスに入って、社のダイヤルを廻した。出た交換手に、編集長を頼むといってから、待つ間、狭いボックスの中を見廻した。足もとに、例の紙片《かみきれ》が散乱している。「今晩おひまですか?」というやつだ。その一枚には、こう書いてあった。
〈今晩おひまですか?
お電話下されば、美しい淑女が、貴方のお相手をつとめます
[#地付き]Rain-club Tel ――〉
野本は、その名刺を掴《つか》みあげ、電話を切って、ボックスを飛び出していた。あの女は、コール・ガールだったのか。
野本は、もう一度、電話ボックスに入り、名刺にあるダイヤルを廻した。一度、コール・ガールの探訪記事を書いたことがあるので、要領はわかっている。例によって、男が電話口に出て、もう一度、Sという喫茶店から電話して欲しいという。そこで、野本を観察する気だ。野本は、焦燥を押さえながら、指示された喫茶店に入り、やかましい音楽に片耳を塞《ふさ》ぎながら、もう一度、電話をかけた。
「話のわかる年増《としま》がいいね」
と、野本はいった。金を出せば、自殺した女のことを喋《しやべ》ってくれる相手がいい。電話に出た男は、野本の言葉を別の意味にとって、野卑な笑い声を立てた。十分近く待たされてから、三十歳くらいの女が、姿を見せた。確かに、話のわかりそうな年齢だったし、顔付きをしていた。濃い化粧の下に、疲労の色が見えていた。
「規定料金の他に、君が欲しいだけ出そう」
と、野本は、単刀直入に、いった。
「ある女のことを教えて欲しいんだ」
野本は、十和田で死んだ女のことを話した。顔立ち、年齢、所持品のこと。相手の女は、注文したコーヒーを掻き廻しながら、聞いていたが、
「ユキちゃんかも知れないわね」
と、いった。
「ユキちゃん?」
「山田雪子よ。勿論、本名じゃないわ。うちのマスターがつけた名前よ。あたしだって、あの娘の本当の名前は知らないわ。そんなことに興味はなかったもの。あの娘、急にいなくなったと思ってたら、他所《よそ》で働いていたのね」
「何故?」
「あんた、あの娘と遊んだんでしょ?」
「いや、そんなんじゃない。そのユキ子のことで、何か知らないかね? 何処《どこ》の生れとか、前に、何処で働いてたとか」
「そうね。一か月くらい前まで、渋谷のベーゼとかいうバーで働いてたとか、いってたわ。どんな店か知らないけど、きっと、ひどい店だったに違いないわ」
「どうして?」
「あの娘の生活が、なっちゃなかったもの。毎日のように酔っ払ってたもの。あげくの果《はて》に、デートの相手を、ビール瓶で殴って大怪我《おおけが》させてね、警察に捕ったこともあるのよ。理由は知らないけど、女も、ああなったら、おしまいね。あたしは、そんなことは絶対にしないから大丈夫よ。二人で、ゆっくりデートを楽しみましょうよ」
「ベーゼというバーだね?」
「そうだけど?」
野本は、黙って、女の手に何枚かの千円札を押しつけて、立ち上がった。ぽかんとしている女を残して、その店を出た。重苦しいものが、野本の胸につかえている。今の女は、ああなったら女も終りだと、いった。そうさせた原因は、自分にあるのではないか。死んだ女の身元を追っていくことは、野本が、忘れ去っていた苦い過去を、自分の手で、掘り起こすことになりはしないか。
(俺は、自分を苦しめるために、歩き廻っているのか?)
タクシーを止め、「渋谷」と、運転手にいってから、野本は、眼を閉じて、湧《わ》き上がってくる苦いものを呑《の》みこんだ。
夢の海
「ベーゼ」は、道玄坂《どうげんざか》の近くにある、ちっぽけなバーだった。薄暗い階段を降りて行くと、壁の両側に、ヌード写真が、べたべたと貼《は》ってあった。カウンターがあり、ボックスもあるが、何となく、酒を楽しむという雰囲気ではない。安物のネグリジェを着た太った女が、野本の腕を掴《つか》むと、強引に、隅のボックスに連れて行った。
「ご予算は、いくらぐらい?」
女は、野本に身体《からだ》を押しつけるようにして、訊《き》く。
「ご予算?」
「あとで、ごたごたが起きないように、親切心よ。ねえ。いくら持ってるの?」
「いくらあったら、楽しませて貰《もら》えるんだね?」
「最低千円ね」
「じゃあ、これでは?」
野本は、三枚の千円札を、相手の手につかませた。とたんに、女は、にやッと笑った。
「これだけあれば、ここで飲んでることはないわ」
女は、立ち上がると、野本を、カーテンの奥の小部屋に連れていった。三畳ばかりの狭い部屋に、薄っぺらな蒲団《ふとん》や、小さな三面鏡や、華やかな女物のドレスが、乱雑に置いてあった。女は、ネグリジェを脱ぐと、蒲団の上に、ごろりと横になって、
「暑いから、あんたも、上衣《うわぎ》、脱ぎなさいよ」
と、いった。野本は、ころころと太っている女の身体を見下していたが、その眼が、部屋の隅に積み重ねてある週刊誌に、引きつけられた。どれも、週刊ロマネスクだったからである。
「これは?」
「前にいた娘《こ》が、しょっちゅう買ってたのよ。屑屋《くずや》でも来たら売ろうと思うんだけど、来やしない」
「その娘の名前は?」
「みどりよ。本名は知らないわ。一か月くらい前までいたんだけど、あんたの知ってる娘なの?」
「背は一六〇センチくらい。丸顔で、わりに太っている――」
「そうよ」
「その娘も、君と同じことを?」
「お客に、酒を飲ませているだけじゃ、食べてけないもの。それより、早くしてよ」
女は、腰のあたりを、ぺたぺたと、叩《たた》いて見せた。野本は、ひどく幼く見えた遺体の顔を思い出した。
「ここに来る前は、その娘は、何処にいたか知らないか?」
「上板橋《かみいたばし》の中華料理店で働いてたとか、いってたわ」
「名前は?」
「そんなこと、知るもんか。駅前だそうだから、行けばわかるわよ。それより、どうするのよ? 早くしてよ。客は、あんただけじゃないんだから」
「ひとりで楽しむんだな」
野本は、女の顔を見ずに、カーテンの外に出た。街に出ると、十二時に近かった。今から上板橋に行っても、店は、もう閉まっているだろう。野本は、明日訪ねてみることにして、アパートへ帰った。
その夜、眠りについてから、暗い海に向って立っている夢を見た。ただ、暗く、広い海であった。夢の中の彼は、その暗い海に引きずりこまれそうになるのを、必死に堪《こら》えていた。
(これは、一体、何処の海だろうか?)
女の過去
池袋で乗りかえて、上板橋で降りると、駅の前には、ごちゃごちゃと商店街が並んでいた。パチンコ屋の隣に、油でくすんだ「北京《ペキン》料理」の看板が見えた。がらんとして、店には客の姿がない。店の主人らしい頭の禿《は》げた男が、椅子《いす》に腰を下して、退屈そうに新聞を読んでいた。野本は、たいして食べたくもなかったが、ラーメンを頼んでから、
「もと、ここで働いていた娘《こ》のことで、聞きたいんだが」
と、男に、いった。野本が、女の特徴を話すと、店の主人は、暫《しばら》く考えてから、
「あの娘のことじゃないかな」
と、野本を見て、いった。
「しょっちゅう、同じ週刊誌ばかり買ってるのがいたんですがね。その娘かも知れないな」
「週刊ロマネスク?」
「ええ。それですよ。お客さんの知ってる娘だったんですか?」
「名前は?」
「ええとね。確か、石川房子といいましたよ」
「石川房子――?」
野本は、その名前を、何度か口の中で繰りかえした。記憶の何処《どこ》かに、引っかかる名前だ。何処かで聞いた名前だ。だが、何処で?
「うちでは、二年ばかり働いてたんだが、いい娘でしたよ。一寸《ちよつと》、暗いところがありましたがね」
「家族は? 故郷《くに》は?」
「家族のことは、一言も話しませんでしたね。あたしが訊《き》くと、黙っちまいましてね。何か、曰《いわ》くがあったんじゃないですか。愛人の子だとか、何とか」
「故郷《くに》も、わからないのかね?」
「それも、いいませんでしたが、一度だけ、手紙が来たことがありましてね。勿論《もちろん》、中は読みやしませんが、差出人のところに、Nという土地の名前が書いてあったのを、憶《おぼ》えていますよ。そこが、あの娘の生れたところじゃないですかね」
「N――?」
「確か、東北の小さな漁村か何かじゃありませんか?」
「ああ」
と、野本は、薄汚れた壁に眼をやったまま頷《うなず》いた。野本は、Nを知っている。五年前、彼は、Nを訪れたことがあるのだ。
「その手紙が来てすぐ、あの娘は、ぷいと、いなくなっちまったんですがね。お客さんは、ご存知ないんですか?」
主人は、そんな言葉を続けていたが、野本は、五年前のことを考えていた。運ばれてきたラーメンには、申しわけに箸《はし》をつけ、金を払って、店を出た。野本は、Nへ行ってみる積りになっていた。タクシーを止め、上野へ走らせた。
汽車は混んでいた。辛じて取れた座席で、野本は、五年前のことを考えていた。確か、あの日も、今日と同じように、汽車は混んでいたような気がする。二十四歳で、週刊ロマネスクに入社したばかりだった。あれが、編集長に命じられた最初の取材旅行だった。責任感で緊張し、正義感に燃え、同時に功名心に燃えていた二十四歳の時の――
Nに着いた時は、夜になっていた。
小さな駅に降りると、ネオンのない暗い町が、そこにあった。さびれた家並み中に、海の匂《にお》いばかりが、強く伝わってくる。野本は、海に向って歩いて行った。
暗いので、下が砂浜に変ったのは、足の感触でしか、わからなかった。野本は、上衣《うわぎ》の襟を立てて、砂の上に腰を下した。
暗い海が、眼の前に広がっていた。夢で見た海と同じだと思い、野本は、かすかな戦慄《せんりつ》に似たものを感じた。
風が強くなったのか、暗い沖に、白い牙《きば》に似た波頭が見えてきた。波音も高くなった。妥協を許さない厳しさが、暗く、大きな海にはあった。弁解を許さない厳しさといってもいい。この海に向い合っている限り、過去を感傷のヴェールで包むことは、許されそうもなかった。ここには、優しい、箱庭のような海はない。
五年前、野本は、同じ砂浜に立ち、海を見た。しかし、あの時、彼は、この厳しさを感じていただろうか。
翳《かげ》りある記憶
五年前、三十九トン漁船の遭難が話題になっていた。四十トン以上の漁船は、なかなか製造認可が下りない。だから、法規に触れない三十九トン船を造って、それで、遠洋に出かけて行く。小さな船だから、自然に、遭難が多くなる。Nでも、三十九トン船の遭難が続いていた。というより、全国の漁村の中で、Nが、一番多かった。
日本漁業の悲劇が、Nに集約されているのではないか。それが、編集長の考えであり、現地の声をルポしてくることが、野本に与えられた仕事だった。
野本は、一つの構想を持って、Nに乗り込んだ。三十九トン船で遠洋に出なければならない漁民の悲劇。そして、政府の対策の貧困。タイトルは、「追い詰められた日本漁業」とでもしたらいいのではあるまいか。それを、野本は先入感とは思わなかった。それは、彼にとって、一つの正義感だった。しかし、Nに来て、野本は、妙な噂《うわさ》を耳にした。相次ぐ三十九トン船の遭難が、補償金目当ての、作られた事故らしいという噂だった。老朽した漁船を沈め、その補償金で、新しい船を造っているというのだ。その噂を耳にした時、野本の心の中で、正義感が消え、功名心が頭をもたげてきた。
(この噂が本当なら、凄《すご》い特ダネではないか)
新聞も、他の週刊誌も、三十九トン船の悲劇は報道していた。が、どれも、一つの悲劇として扱っている。漁民に同情し、政府の対策を批判していた。それを、ひっくりかえす記事が作れたら、間違いなく、特ダネではないか。
野本は、まず、Nに一軒しかない酒場の女将《おかみ》を買収した。殆《ほとん》どの漁師は、そこで、酒を呑《の》む。酔っ払った相手からなら、真相を訊き出せるかも知れないと考えたからである。この漁村の生れでない、流れ者の女将は、野本の差し出した金を見て、簡単に引き受けた。証拠を取るために、野本は、持参したテープレコーダーを女将に貸して、操作を教えることもした。
第十二N丸という、一か月前に沈んだ漁船の機関士が、野本の罠《わな》に引っかかった。若い男で、その男は、酒場の女将に惚《ほ》れていたのだ。それが、彼の命取りになった。
野本は、その男が、機関室に浸水させ、船を沈めたと告白するテープを、身体《からだ》を、ぞくぞくさせながら聞いた。僚船が、近くにいるのを確かめてから、船を沈めたのだ。悲劇どころか、これは、犯罪ではないか。
そのテープを持って、野本が漁業組合を訪ねた時の相手方の狼狽《ろうばい》ぶりといったらなかった。あの時、野本は、自分が、英雄になったと感じた。社会正義を明らかにする英雄になったと――
そして、意気揚々と、旅館に帰った野本を、あの娘が待っていたのだ。石川房子が。
暗い海辺
相変らず、海は、暗い。野本は、海鳴りを聞きながら、五年前に会った石川房子の顔を思い出そうと努めた。ひどく幼い顔をしていた。そして、蒼《あお》ざめ、つきつめた顔をしていた。あの時、石川房子と交わした言葉を、野本は、ゆっくりと、思い出した。
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〈兄ノコトヲ忘レテ下サイ〉
〈アレハ、君ノ兄サンダッタノカ?〉
〈ハイ。コノママデハ、兄ハ自殺シテシマイマス〉
〈犯罪ニ眼ヲ潰《つぶ》レトイウノカ〉
〈兄ハ、アアスルヨリ仕方ガナカッタンデス。兄ダケジャアリマセン。他ノ人達モ同ジコトデス〉
〈君ハ遭難ニ見セカケテ、補償金ヲ手ニ入レルノガ、イイコトダトイウノカ?〉
〈他ニ、ドウシタライインデスカ? 古クナッタ三十九トン船デ、遠洋ニ出タラ、忽《たちま》チ沈ンデシマイマス。デモ、船主ニハ、船ヲ新シク造ルオ金ガアリマセン。船ヲ遭難サセテ、ソノ補償金デ、新シイ船ヲ造ルヨリ仕方ガナインデス。ソウシナケレバ、兄モ、他ノ人達モ、本当ニ、遭難シテ、死ンデシマイマス〉
〈ソレハ、政治ノ問題デ、私ノ問題ジャナイ。別ノ問題ダヨ。ボクニハ、真実ヲ明ラカニスル義務ガアルシ、読者ハ、ソレヲ知ル権利ガアルカラネ〉
〈何故《なぜ》、真実ヲ明ラカニシナケレバイケナインデスカ?〉
〈ソレガ、ボク達ニ与エラレタ義務ダカラダ〉
〈ソンナ義務ニ何ノ意味ガアルンデス? 理想ノ社会デ、正義ヲ守ルコトガ、ソノママ生活ヲ良クスルコトダッタラ、初メテ、真実ガ意味ヲ持ッテクルンジャアリマセンカ? 今ハ、ソンナ社会ジャアリマセン。真実ヲ明ラカニスルコトガ、アル人ヲ殺スコトニダッテ、ナッテシマウンデス〉
〈君ハ、若イナ〉
[#ここで字下げ終わり]
確かに、石川房子の言葉は、幼なかった。まるで、高校生の議論だった。理想の社会などが、この世にあり得る筈《はず》がないのだ。そんな幻想のために、真実をかくせ、特ダネを逃がせというのは、ナンセンスではないか。
だから、野本は、石川房子の頼みを、拒絶した。ただ拒絶するのも、残酷すぎる気がして、野本は、社名の入った名刺を、彼女に渡した。
「僕は、ただ、面白おかしく、暴露記事を書く積りはない」
と、野本は、その時に、いったのを憶えている。
「真実は真実として報道するけれど、ここの漁民を、そこまで追いつめた政府の無策も批判する積りだし、次の機会には、漁業問題のキャンペーンでもやって、漁民の幸福のために、闘う積りだ」
気障《きざ》な言葉だったと、今は思う。しかし、五年前には、そうは、思わなかった。若かったし、特ダネを掴《つか》んだという意識が、彼を有頂天にさせていたから、出来もしない約束を、照れもせずに、口に出来たのだ。
冷静に考えてみれば、平社員の彼に、週刊ロマネスクの誌面が自由になる筈がないのである。勿論《もちろん》、石川房子に約束したキャンペーンは出来はしなかった。
野本は、寒さを感じて、手をこすり合わせた。心まで、寒くなるような気がした。あの特ダネで、野本は、編集長に讃《ほ》められ一人前の記者になったような気がして、Nのことも、石川房子という名前も忘れてしまったのだ。
だが、彼女は忘れなかったのだ。
石川房子は、上板橋《かみいたばし》の中華料理店でも、バー「ベーゼ」でも、週刊ロマネスクを買っていた。
彼女は野本の言葉を信じて、いつかは、彼が約束を果すと、考えていたのだろうか。
自殺した男
野本は、のろのろと立ち上がった。これ以上、暗い海を見つめていることは、堪えられなかった。
駅に向って歩き出す。
足が重かった。
何故、俺《おれ》は、ここへ来たのだろうか、苦しむのは、わかっていた筈ではなかったか。
知らぬ間に道を間違えていた。気がつくと、酒場の赤い提灯《ちようちん》が眼に入った。あの酒場だった。立ち止まり、暫《しばら》く迷ってから、硝子戸《ガラスど》を開けて、中に入った。
客は一人もいなかった。カウンターの向うに、若い女が一人いて、
「いらっしゃい」
と、いった。買収したあの女将も、いなくなったらしい。
「とにかく、酒をくれ」
と、野本は、いった。女は、コップに酒を注《つ》ぎ、小皿に、ピーナッツを載せてから、
「お客さんは、ここの人じゃないわね」
と、いった。
「東京の人?」
「それを聞いて、どうするんだ?」
「あたしも、この店をたたんで、東京へでも行こうかと思ってるのよ。もう、この町も、お終《しま》いだもの。不景気で、誰も、呑みに来やしない」
「そんなに不景気なのか?」
「ひどいもんよ。この前には、自殺事件まであったし、縁起も悪いわ。ここは」
「自殺?」
「何でも、五年前に、船を自分で沈めて、金を取ろうとした男がね。刑務所に行ってたんだけど、帰って来た途端に、海に飛び込んで、死んじゃったのよ」
あの男だ。中華料理店で働いていた石川房子が、受け取った故郷《くに》からの手紙というのは、兄の自殺を知らせる便りだったのではあるまいか。
野本の胸の中で、苦いものが、重なって行くようだった。
(石川房子の自殺も、彼女の兄の死も、俺には、何の関係もないことだ)
野本は、そう考えようとした。彼は、ただ事実を記事にしただけなのだ。その結果、誰が傷つき、誰が自殺しようが、野本の責任ではない。彼等は、勝手に傷つき、勝手に自殺したまでのことではないか。
野本は、酒を呷《あお》った。
「強いのね。お客さん」
女は、媚《こ》びるように、いった。野本は、その女の腕を掴んだ。
「君に訊《き》きたいことがある」
「何かしら?」
「君は、誰かが、泥棒しているのを見たら、どうする?」
「勿論、警察に知らせるわ」
「どうして?」
「どうしてって、それが、普通でしょう? 違うかしら?」
「その泥棒が、腹を空《す》かしていてだな。パンを食べなければ死んじまうとわかっていても、盗もうとしているパンを取りあげて、警察に突き出すのか?」
「ええ」
「泥棒が死んでも、構わないのか?」
「死にゃしないわよ。映画で見たんだけど、警察じゃ、ちゃんと、ご飯を食べさせてくれるもの。あたしの見た映画じゃ、カツ丼《どん》だったわ。パンなんか食べるより、よっぽど美味《おいし》いわよ」
「バカヤロウ」
と、野本は呶鳴《どな》った。
「何もわからんくせに。気のきいたようなことを、いうな」
「少し、呑《の》みすぎたんじゃないの?」
「うるさいッ」
野本は、円椅子《まるいす》から立ち上がると、バラ銭をカウンターに放り出して、外へ出た。
酒場の女を呶鳴りつけたが、それなら、今の自分に明確に答えられるとでもいうのか。
今、五年前と同じように、石川房子が現われたら、どんな返事が出来るというのか。
野本は、ひどく暗い眼で、夜の空を見上げた。
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夜の密戯
五十七人の男
山代《やましろ》和子は、四国香川県で、四人兄弟の次女として生れた。昭和二十三年のことである。
家は貧しかったが、彼女には貴重な財産があった。美貌《びぼう》という財産である。美しいということは、女を幸福にも不幸にもするが、彼女が殺されたことから考えて、後者だったかも知れない。
和子は、高松市の高校を卒業すると海を渡り、大阪市に出て、四十二年、M化粧品会社の関西販売支社に入社した。
当時の同僚が「評判の美人だった」と口を揃《そろ》えていっていることからみて、彼女の美貌は、社内でも目立ったようである。
その結果、彼女はチャームガールに抜擢《ばつてき》され、各地のデパートなどを、宣伝に廻るようになった。その時、十九歳。
このまま、好青年にでも出会って愛し合い結婚していたら、平凡だが、それなりの幸福もつかみ、多分、殺されることもなかったろう。
だが、和子は、三年三か月、そこに勤めたあと、同僚で、同じ年齢の加藤三津子と一緒に、四十六年一月、K化粧品の大阪支店に移った。
チャームガールという仕事が嫌になったためではない。というのは、K化粧品でも、その美貌を買われてチャームガールの仕事についているからである。
この小さな出来事は、和子に一つのことを教えたに違いない。それは、自分の美しさが金になるということである。これはあくまでも想像に過ぎないが、化粧品会社間の競争は激しいといわれているし、M化粧品会社とK化粧品とは、いわばライバル会社である。美人で評判だった彼女を、Kが引き抜いたということは、十分に考えられるし、待遇もK化粧品の方が良かったに違いない。
それと、もう一つ和子の心を捕えたのは、大阪という大都会の華やかさだった。ここでは、金さえあれば何でも出来るし、自分の美しさは金になる。二十四歳になっていた山代和子は、自分の魅力的な若さと美しさを、もっと高く売りつけることを考え始めたとしても、別に彼女を非難するわけにはいかない。
買い手は、勿論《もちろん》、鼻の下の長い男たちである。そして、一番、手っ取り早いのは、金持ちの二号に納まることである。だが、彼女は、勿論、そんなことは同僚の誰にも話さなかった。
それどころか、K化粧品に入社して一年後に「結婚のために、故郷の四国へ帰りたい」という理由で、退職願を出している。二十四歳の結婚適齢期の娘が、故郷へ帰って結婚するといえば、会社としてもむげに引き止めるわけにはいかない。四十七年五月に、退職願は受理された。
会社の上司も同僚も、当然、彼女が郷里の四国に帰って、幸福な結婚生活に入っているものと信じていた。
確かに、彼女は、大阪市内のアパートを引き払った。が、彼女の行った所は、故郷の四国ではなく、大阪府豊中市の出来たばかりの高級マンションだったのである。
3DK(6・6・4.5畳とダイニングキッチン)のその部屋は、権利金七十万円、家賃四万二千円だったが、それは全部、彼女がチャームガールをしていた時に知り合った四十五歳の会社社長のAが払った。
つまり、二号の生活に入ったわけである。
しかし、ここまでは、今の世の中では、そう珍しいことではない。
若くて、きれいな娘が、たいして面白くないBG生活より、気ままで楽な二号生活を選ぶのは、よくあることだし、テレビに出た若い娘が、二号生活にあこがれて、何年間か金持ちで老人の二号になって金を溜《た》め、二千万円ぐらいになったら、すっぱりと別れて、洒落《しやれ》た自分の店を持ちたいと、得意げに話す時代である。
だから、山代和子がAの二号になったことは、よくある話ともいえよう。
ただ一つ、彼女が他の二号志望の女と違う点があったとすれば、自分の美しさが金になることは知っていても、それを利用して、金を溜めようという意志がなかったことである。
その代りのように、山代和子は男をつくった。
まず、パトロンである。最初は、四十五歳の会社社長A一人だったが、それが、いつの間にか六人に増えた。
六人のパトロンを、上手にさばくだけでも、普通の女には大変なことだろう。
パトロンが老人で、セックスの面で不満を持ち、若い恋人を作る話はよくある。だが、Aの四十五歳が示すように、山代和子の場合、パトロンは働き盛りである。他の五人も老人という年齢ではなかった。
それにも拘《かか》わらず、和子は毎日のように、マンションのある豊中市から、大阪市内まで、タクシーでボーイハントに出かけたのである。
地図を見れば、豊中市から大阪市内まではかなりの距離である。このため、タクシー代だけでも、毎日、四、五千円は必要だった。
二十四歳の若さ、それに評判の美人、そしてM、Kと二つの有名化粧品会社のチャームガールをやっていて身につけた化粧の上手《うま》さとくれば、こんな女に誘われた男が、その誘いにのらなかったとしたらよほどのヘソ曲りであろう。
たちまちのうちに、ボーイフレンドは増えていき、彼女と関係があったとわかった者だけでも、五十一人に達した。六人のパトロンと合わせれば、実に五十七人である。
山代和子は、何故《なぜ》、こんなに沢山の男と関係を持ったのだろうか?
男性百人|斬《ぎ》りでも考えていたのか?
しかし、二つの化粧品会社で彼女と一緒に働いていた同僚は、いずれも美人だったことは認めても「大人しい性格で、あまり目立たない感じだった」と証言している。とうてい、男性百人斬りとか、千人斬りを考えるような性格とは思えない。
とすると、考えられる理由は二つである。
山代和子が、異常なほどセックスに強い女性だったということである。
それを証明することとして、最初のパトロンであるAの奇妙な行動がある。Aは和子に惚《ほ》れて、七十万円もの権利金を払って、彼女を豊中市のマンションに囲ったのだが、しばらくして、友人のBを彼女に紹介し、自分と同じように、彼女のパトロンになってくれと頼んでいるのである。
中年男というのは、独占欲の強いものである。相手が、和子のような若くてピチピチした美人ならなおさらであろう。それを、わざわざ友人のBと共有しようと持ちかけたのには、それだけの理由がなければならない。
金のためではない。Aの事業が行き詰ったということもなかったし、Bと彼女を共有することになってからも、彼女への手当てを減らしてはいないし、手も引いていないからである。
となると、A一人では、和子の激しい性欲を満足させられなかったからとしか考えようがない。
四十五歳は働き盛りだが、同時に、中年男は悲しいものである。家庭サービスはしなければならないし、外では仕事に追いまくられる。当然、疲労する。そうした身体《からだ》では、人一倍セックスの強い和子を満足させられなかったことは十分に考えられる。
そこで、友人のBを引っ張り込み、二人でなら、彼女を何とか満足させられると思ったのだろう。
だが、和子の方はそれでは満足できず、更に四人のパトロンを作り、五十一人のボーイフレンドをこしらえたのである。
これが、金のためでないことは、彼女が殺されたあと、預金通帳にわずか七千九百円しかなかったことでわかる。
第二の理由は、どんな男でも、彼女が声をかければ喜んでついてくることが、楽しかったのだろう。その事実は、彼女の自尊心を十分に満足させたろうし、同時に、旺盛《おうせい》なセックスをも満足させたに違いない。
だからこそ、毎日のように四、五千円ものタクシー代を使ってまで、大阪市内にボーイハントに出かけたのだと思う。
だから、豊中市の「とよなかハイツ」というマンションでの生活は、山代和子にとって、楽しくスリルのある毎日だった筈《はず》である。
六人のパトロンと、五十一人のボーイフレンドに囲まれた生活が、楽しくない筈がない。が、何といっても異常な生き方である。そして、突然、七か月後に悲劇が訪れたのだ。
二〇七号室の惨
四十七年十二月二十二日のことである。
M化粧品会社時代からの同僚だった加藤三津子は、その日の午後二時頃、豊中市の「とよなかハイツ」の二〇七号室に山代和子を訪ねた。
加藤三津子は、前日の二十一日に、急用があって、山代和子に電話をしたが通じなかった。当日の二十二日の午前中にも、三回ばかり電話したが通じなかったので、不審に思って訪ねて来たのである。
ベルを押したが応答がない。留守かと思ったが、ドアのノブを回してみると、鍵《かぎ》がかかってなくてドアが開いた。
いよいよ不審に思った加藤三津子は、中に入ってみたが、奥の六畳に足をふみ入れて呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでしまった。
そこに、俯伏《うつぶ》せになって死んでいる山代和子を発見したからである。
彼女は、驚きながらも、すぐ警察に電話した。
警察がやって来て、遺体を調べた結果、首にはパジャマの紐《ひも》がかたく巻きついていて、山代和子が絞殺されたことは明らかであった。
和子は、毛糸のセーターを着て、ホームごたつの傍《そば》で殺されていた。服装に乱れたところはなく、暴行された形跡もみられなかった。
更に、部屋の中を調べていくと、いろいろなことがわかってきた。
押入れは、荒らされていて、水屋の引出しに入っていたと思われる現金数万円は失くなっていた。
〈強盗の仕業か?〉
と、警察は一度は考えた。が、調べていくと、そうとばかりは考えられない点も出て来た。
彼女の預金通帳には七千九百円しか預金されていなかったが、その通帳は盗まれていなかったし、腕時計、ハンドバッグなどにも、手をつけていなかったからである。
泥棒に入って、彼女を殺したにしては不自然である。第一、彼女には、抵抗したあとが全くない。これも、犯人が強盗にしては不自然である。
では、山代和子は何日、何時頃殺されたのか。
これは、意外に簡単にわかった。
何故なら、彼女は二十一日の午後一時五十分頃、隣室の人|宛《あて》の小包みを隣人が不在のため、配達に来たアルバイトの高校生から預かっているからである。
つまり、二十一日の午後一時五十分には、和子は、生きていたことになる。だが、午後二時に電話すると約束していた知人に、彼女は電話していないし、発見者である加藤三津子が、二十一日の午後九時頃、彼女に電話した時通じなかったことから、その時は、すでに殺されていたのだろう。
警察では和子が小包みを受けとったすぐあと、犯人に殺されたと考えた。殺されていなければ、午後二時に約束の電話を知人にしている筈だと推理したからである。
とすると、犯人は和子が隣室の小包みを預かった午後一時五十分から、午後二時の間に入り込み、彼女を絞殺したのではないかと警察は考えた。
警察の捜査は、まず、現場の状況と被害者の交友関係を洗っていくことから始まった。
だが、警察当局は、被害者のあまりにも多い男関係に当惑してしまった。
その結果、警察の見方は、二つに分れた。
一つは、流しの犯行の線である。この見方を有力視するのは、被害者が発見された「とよなかハイツ」のある場所からきている。
この新築マンションは、国道一七六号線(大阪―福知山間)の桜塚交差点の北東、豊中市役所から北へ約二百メートルのところにあった。豊中市の地形からみれば、豊中市の中心部ということである。
また、同マンションは、千里ニュータウンに通じる府道(豊中―伊丹《いたみ》間)にも面していた。これは、犯人が車を利用したとすれば、逃走が容易だったことを意味している。
それに、この「とよなかハイツ」の附近には、民家やアパートが多く、夜おそくまで人通りがあることも、この見方の根底になっている。つまり、強盗や物盗《ものと》りなどが多い条件を備えている場所だということである。
事実、山代和子の殺された十二月二十一日の十三日前の十二月八日の午後、現場から北西約二キロの場所で、銀行帰りの女性が、つけて来た男に襲われ、百七万円を強奪されるという事件が起きていた。
もう一つ、山代和子の部屋(二〇七号室)が、二階の一番奥にあって人目につきにくいことも、流しの犯行ではないかという根拠の一つになった。
強盗が、マンションやアパートに入る場合、逃げやすいことと人目につかないということで、低い階の一番端の部屋を狙《ねら》うことが多いからである。
流しの犯行と考えた刑事たちは、強盗の前歴者や、近くに住む素行不良の若者を片っ端から洗っていった。
銀行帰りの女性を襲い百七万円を強奪した男もマークされた。一度、女を襲って大金を手に入れたことに味をしめ、女一人で住んでいる山代和子の部屋に押し入ったのではないかと考えた刑事もいたからである。
こうして、前々からブラックリストにのっていた男たちが次々に洗われ、聞き込みも行なわれたが、この線からは、どうしても犯人が浮かびあがって来なかったのである。
そこで、第二の見方が、捜査本部に生れた。
山代和子を殺したのは、流しの犯行ではなく、顔見知りの犯行という線である。もっと具体的にいえば、彼女と関係のあった六人のパトロン、五十一人のボーイフレンドの中に犯人がいるのではないかということだった。
顔見知りの犯行という推理の根拠は、次の点だった。
水屋の中に入っていたと思われる数万円の現金は失くなっていたが、腕時計やハンドバッグはそのままであり、部屋の荒らし方そのものに、刑事の勘からいって、何か不自然な感じがする。顔見知りの者が、流しの犯行に見せるために、わざと部屋の中を荒らしたのではないかということである。
死体に抵抗のあとがない。
死体の発見者である友人の加藤三津子の証言によれば、山代和子は用心深いところがあり、見知らぬ人が来ると、|防犯クサリ《チェーンロック》をかけたまま、ドア越しに応対する習慣があった。この証言どおりならば、顔見知りでない人間が、簡単に中に入れた筈がない。
部屋の内部に、土足の跡がないこと。つまり、犯人は靴を脱いで部屋に入ったということである。流しの強盗が他人の家に忍び込むのに、いちいち、靴を脱ぐとは思われない。土足のまま入り込むだろう。礼儀正しく靴を脱いで押し入っていたら、逃げる時大変である。
もし、この事件が暑い真夏に起きたのなら、素足にゴム草履でも突っかけてきた犯人が、ひょいとそれを脱いで押し入ったということも、全く考えられないことではない。といっても、流しの強盗の場合、まず考えられない。
しかし、この事件は、冬の十二月二十一日に起きているから、このかすかな可能性も消えるわけである。
以上の四点から、捜査本部は、顔見知りの犯行の線を追ってみることにしたのだ。
彼女の最初のパトロンになった四十五歳の会社社長A、Aの友人で二人目のパトロンになったB、それにあと四人のパトロンが一人一人調べられた。
続いて、彼女が、毎日のように、四、五千円のタクシー代を使ってハントした五十一人のボーイフレンドが調べられた。
だが、この五十一人の男の中からも、犯人という確証のある人間は、とうとう発見できなかった。
そして、二十四歳のチャーミングな女性が、高級マンションの一室で殺されてから、すでに、一年近くが過ぎようとしているのであった。
このままでいけば、犯人はあがらず、迷宮入りになってしまう可能性が強まっていった。
では、犯人は一体誰で、何のために、彼女を殺したのだろうか?
三つの鍵《かぎ》の謎《なぞ》
ところで、この事件には、非常に興味を引く一つの小さな物がある。
それは、このマンションの部屋の鍵である。
普通、マンションを借りると、二つか三つの鍵をくれる。
山代和子が住んでいた「とよなかハイツ」の場合は、渡される鍵は、三つだった。
現場である二〇七号室に到着した刑事は、当然、その三つの鍵があるかどうかを調べた。
二つの鍵は、部屋の中から見つかった。が、もう一つの鍵は、どうしても発見できなかった。
そして、どうしても見つからない三つめの鍵は、いつも、被害者が使っていた、魚のマスコットをつけた鍵だった。
アパートや、マンション住いをしたことのある人でなくても、部屋の鍵が三つあれば、全部を持ち歩く筈《はず》がないことはわかる。予備の鍵は、部屋に置いておき、一つだけ持ち歩くのが常識である。殺された山代和子も、勿論《もちろん》、そうしていたに違いない。だからこそ、いつも自分の使っている鍵にだけ、魚のマスコットをつけていたのだろう。
そしてまた、鍵は小さいものだが、なかなか紛失しないものである。男の場合は、ズボンや上衣《うわぎ》のポケットに放り込んで歩き廻っているわけだが、それでも部屋の鍵はめったに失くならない。まして女性の場合は、ハンドバッグという入れ物を持ち歩いているわけだからなおさらであろう。
また、彼女が、自分が持ち歩いている魚のマスコットつきの鍵を何かの拍子に外出中に失くしたとしよう。
その場合、帰宅しても部屋には鍵がおりているから、当然、ドアは開けられない。管理人に頼んで、マスター・キーで開けて貰《もら》うより仕方がないわけである。
こう考えると、山代和子が、魚のマスコットつきの鍵を失くしていたとすれば、当然、管理人がそれを知っていたことになるが、管理人は警察に対して、被害者が鍵を失くし、自分がマスター・キーで部屋を開けてやったことがあるとは、証言していない。
また、友人である加藤三津子も、被害者が、部屋の鍵を失くした話は聞いていなかったと証言している。
とすると、三つの鍵は彼女が殺された時、部屋の中にあった筈だ。
それなのに、警察が現場に到着した時、三つある筈の鍵は二つしかなく、しかも、彼女がいつも持ち歩いていた、魚のマスコットつきの鍵が、失くなっていたのである。
一体、この鍵は、どこへ消えてしまったのだろうか?
被害者は、部屋で死んでいたのだし、死人が、部屋の鍵をかくす筈がない。
では、魚のマスコットつきの鍵を持ち去ったのは、彼女を絞殺した犯人だろうか。
被害者でないのだから、残るのは犯人と考えるのが常識であろう。
だが、犯人が部屋の鍵を持ち去ったのだとしたら、一体、何のためだろうか? 預金通帳にも腕時計にもハンドバッグにも眼もくれなかった犯人が、何故《なぜ》、一円にもならぬ部屋の鍵を盗んだのか?
まさか、犯人が、鍵の収集マニアだったわけではないだろう。鍵は、金さえ出せば(それも、安い金額で)いくらでも収集できるし、マンションの鍵などというものは、たいてい平凡な形をしていて、収集マニアの対象になるような代物ではない。
たった一つだけ、理由らしい理由があるとすれば、犯人が山代和子を殺したあと、二〇七号室のドアに鍵をかけて、死体の発見を遅らせようとしたのではないかということである。
都会の中の孤独という言葉がある。特に、コンクリートで囲まれたマンションの場合、死体が一週間も二週間も発見されなかった例が、よく新聞にのっている。
厚いコンクリートの壁で遮られていると、隣人の顔を、何日も見なくても別に気にかけない。
犯人が、それを狙《ねら》ったということは、考えられないことではない。ドアに鍵がかかっていれば、室内で山代和子が死んでいるとは思わず、訪ねて来た人間は、外出中と考えるだろう。
死体が見つからなければ、警察も動き出さず、犯人は、悠々と逃げる時間を持てるわけである。
そのためには、犯行後、部屋の鍵を持ち出し、外から鍵をかけなければならない。その鍵は、逃げる途中でどこかへ捨ててしまえばいいわけである。
これが、考えられる唯一の可能性だが、死体発見者の加藤三津子は、彼女が来たとき、ドアに鍵はかかっていなかったと証言している。とすると、唯一の可能性も消えてしまった。
魚のマスコットのついた部屋の鍵が、失くなっている理由は、全く考えられないことになる。
しかし、鍵は、失くなっているのである。これは厳然たる事実である。そして、これがこの事件の最大の謎《なぞ》になる。犯人は、何故、部屋の鍵を一つだけ持ち去ったのか?
謎の絞殺手段
消えた鍵ほどではないが、一寸《ちよつと》、気になるのは、山代和子の殺され方である。
被害者は、パジャマの紐《ひも》で、くびを強く絞められて殺されていた。服装の乱れも抵抗の形跡もなく、暴行されてもいなかった。
殺人の方法には、家や飛行機ごと吹き飛ばしてしまうものから、耳かきに入るぐらいの少量の青酸カリで毒殺するものまでさまざまあるが、絞殺は代表的な殺人の方法である。
この絞殺にもいろいろな方法がある。
一番単純なのは、道具を使わずに素手でやる方法だろう。力のある男だったら、素手でも簡単に絞殺できる筈である。
次は道具を使う方法だが、使われるものはさまざまである。なるべく柔らかくて肉に食い込みやすく、しかも丈夫なものがいい。
犯人が男の場合、まず考えられるのはネクタイであろう。事実、ネクタイで絞殺という事件はかなりあるし、推理小説にも使われている。
犯人が男で急に相手に殺意を覚えた場合、とっさに使用する道具としたら、もっとも身近なものが頭に浮かぶから、ネクタイに手が伸びるのだろう。
他に男の場合、ズボンのベルトがあるが、これは固くてあまり実用にならないし、ハンカチは短か過ぎる。だから、男が相手を絞殺する場合、素手かあるいはネクタイを使うわけだが、相手が殆《ほとん》ど無抵抗の場合をのぞいて、この方法はかなり危険を伴う筈である。
第一に、素手で女のくびを絞めた場合、当然、相手は抵抗する。男の手に、爪《つめ》を立てることぐらいは覚悟しなければならない。
そうなると、当然、犯人の手に傷が出来るので、それが警察の疑惑を招くことは必至である。
第二に、男が犯人で自分のネクタイを使った場合、それを女ののどくびに巻きつけたままにして逃げれば、当然、そのネクタイから足がついてしまう。
女が死んだあと、ネクタイを外しとっても、きちんとワイシャツの上から締めて帰らないと、途中で出あった人間に不審がられるだろう。
それにも拘《かか》わらず、男が女を絞殺する場合、ネクタイが多く使われるのは、あらかじめ殺すつもりで会ったのではなく、その場で殺す気になったとき、男の持物の中で絞殺の道具としては、ネクタイが一番適しているからに他ならない。
だが、この事件で山代和子を殺した犯人は、素手で彼女のくびを絞めたのでもなく、ネクタイを使ってもいない。
犯人が使ったのは、パジャマの紐である。だが、上下にわかれているパジャマでは、紐はついていないから、多分、ナイトガウンのようなものだろう。これはかなり興味のある兇器《きようき》である。
ネクタイは、よく使われる兇器であるが、もし、犯人が被害者のものを使って絞殺するとしたら、もっとも一般的なものは、ナイロンストッキングである。これは、軽いうえに丈夫でしまり具合がいいからである。
もっとも、最近は、ナイロンストッキングの代りに、不粋なパンティストッキングに代ってしまっているし、この事件が起きたのが、冬の十二月ということから考えれば、彼女の部屋にあったのは、多分、パンティストッキングの方であろう。
だが、パンティストッキングでも、丈夫で軽くしまりやすいことに変りはないから、女のくびを絞めるには一番適当な兇器であろうし、犯人は、まず、近くにそれがあれば利用した筈である。
他に、和服には紐が一杯あるから、それも恰好《かつこう》の兇器になる。
しかし、犯人は、そのいずれも使わず、パジャマ(ナイトガウン風の)の紐を兇器に使用した。
ここで、問題になるのは、事件が十二月二十一日に起きていることである。
暑い間のパジャマなら布地は薄いし、従って使われている紐も軽く薄いもので、ネタクイと同じように絞殺の兇器としては、適しているだろうが、冬物のパジャマとなると少し変ってくる。
結果的には、それで、山代和子は殺されたのだから、兇器としての役目を果したわけになるが、冬物のパジャマは、厚地であり、その紐もデザイン的にそれに合わせて作ってあるから、厚地でかなりボテボテしているのが普通である。
絞殺に使う兇器としては、あまり適当なものとは、どうしても考えられない。
それに、心理的な不審さもある。犯人が、彼女のパジャマの紐を使ったという心理的な理由である。
普通、女のくびを絞めて殺そうとするとき、パジャマの紐にぱっと考えがいくものだろうか?
これが、夜、ベッドの上の情事のあとで、男が女を絞殺したというのなら、パジャマの紐が、彼女のくびに絡んでいてもおかしくはない。
だが、彼女が殺されたのは午後一時五十分すぎ、つまりまっ昼間だし、彼女は、パジャマ姿ではなくセーターをちゃんと着ていたのである。
そんな時に、普通の人間が兇器としてのパジャマの紐に、すぐ頭が働くだろうか?
〈他に、適当な紐がなかったから、犯人は、それを使ったんだろう〉とも考えられるのだが……。
普通の女性の部屋だったら、昼間、パジャマが、むき出しに放り出されていることは、一寸考えられないが、なにしろ六人のパトロンを持ち、その上、五十一人のボーイフレンドを持っていた彼女である。
パジャマが、その部屋に放り出されていたり、壁にかかっていたりしても、おかしくはない。
だが、一寸考えれば、パジャマの紐の他に、適当な兇器が見つからなかったのではないかという考えが、間違っていることはわかる筈《はず》である。
現場には、絞殺の兇器として、パジャマの紐などより、もっと適切なものがあったからである。
もっと丈夫で、くびに巻きつければ、相手を確実に殺せる紐が、犯人の眼の前にあった。
つまり、それは電気ごたつのコードである。山代和子は、電気ごたつの傍で俯伏《うつぶ》せになって死んでいたのだから、多分、こたつに入っているところを、いきなり背後から絞殺されたのだろう。
犯人も、傍にいたわけだから、当然、電気ごたつのコードは眼に入った筈だ。
あのコードは、丈夫である。なにしろ、中に銅線が入っていて、その上を細い丈夫な糸で幾重にも巻いてあるのだから。
それに、あの太さも絞殺の兇器としては最適である。
コードの長さは、だいたい三メートルぐらいはある。彼女に気付かれないように、そっと、差込口から外し(外しても、すぐ、こたつは冷えはしない)、いきなり、そのコードを彼女のくびに巻きつければいいのである。
或《あるい》は、「ちょっと、こたつの具合が悪いんじゃないか」とでもいって、コードを外し、それを点検するふりをしておいて、ふいに、彼女のくびに巻きつけてもいい。
とにかく、電気ごたつのコードなら、確実に、相手の息の根をとめられるし、いくら強く引っ張っても切れる心配はない。
それに比べると、パジャマの紐というのは、なんとなく、兇器としては頼りない。女性用のパジャマの紐となれば、男物より細く、きゃしゃに出来ているから、あまり強く引っ張ると、切れるのではないかという心配が、犯人の頭をかすめたのではないだろうか。
絞殺するのに、電気ごたつのコードを選ぶほうが自然なのだ。
それなのに、犯人は、彼女のパジャマの紐を使った。
一体、何故《なぜ》だろうか?
浮かぶ犯人像
ここで、犯人の範囲を大きく二つに分けてみよう。流しの犯行か、顔見知りの犯行かである。
捜査本部は、次第に、流しの犯行ではなく、顔見知りの犯行と考えるようになっていた。部屋の荒らされ方が不自然だし、死体に抵抗のあとがないとか、部屋に土足の跡がないといった理由からである。
だが、顔見知りでない人間でも、例えば、土足でなく部屋に入れた可能性は十分ありうる。
まず、隣室の小包みを山代和子に預かってくれといって置いていった、アルバイトの高校生である。
彼は、午後一時五十分頃、山代和子に、隣室の小包みを預けたと警察で証言している。
警察は、多分、その直後に、彼女は殺されたのではないかと考えている。
この犯行推定時刻が正しいとすれば、今のところ、この高校生は生きている山代和子を一番最後にみた人物ということになるから、一応、疑惑の眼を向けるのは、当然のことであろう。
それに、生前の彼女は、異常なほどセックスに関心があり、六人ものパトロンを持ちながら、毎日のように四、五千円のタクシー代を使って、大阪市内にボーイハントに出かけていたほどの女性だったのだ。
それに、この「とよなかハイツ」は、集中暖房でもなく、彼女の部屋もセントラルヒーティングではない。玄関は当然、寒い筈である。
山代和子が、この高校生に対して、「まあ上りなさいよ」と、部屋にあげたということも、十分に考えられるのだ。勿論《もちろん》、この高校生は小包みを預かって貰《もら》っただけと証言しているが。
二十四歳だが、五十七人もの男と関係があって、セックスの面では、経験豊富なベテランになっていた山代和子が、十代後半の高校生に興味を持ったとしてもおかしくはない。
外が寒いので、気の毒になって、一寸、部屋にあげたということもあるだろう。
ハイティーンの年頃というのは、セックスのテクニックは未熟でも、欲望は激しいものである。
今の栄養の行きとどいた高校生なら、欲望はもっと強烈であろう。その上、相手は、評判の美人である。
このマンションには、二十四世帯が入居していたが、その奥さん連中が、生前の彼女を「いかにも水商売の女という感じで、多分二号さんだろう」と噂《うわさ》していたというから、やはり、普通の美人タイプではなく、どこか、崩れた感じがあったのだろう。
性的に未熟な若い男は、こういう女性に、弱いものである。部屋にあげて貰い、一緒に電気ごたつにあたって、世間話をしているうちに、この高校生がムラムラとしてきたとしても、決しておかしくはないし、むしろ、そうなるのが当然であろう。だが、こっぴどくはねつけられて高校生はカッとなり、傍にあった彼女のパジャマの紐でくびを絞めて殺してしまった。
彼女が死んでしまい、あわてた高校生は、いかにも、強盗が部屋を荒らし廻ったように見せようと考え、押入れなどを引っかき回した。だが、少年の悲しさで、腕時計やハンドバッグをそのままにしておいたので、専門家の刑事に、忽《たちま》ち、部屋の物色の仕方の不自然さを気付かれてしまった。
もし、この高校生が犯人だとしたら、こんな具合だったに違いない。
では、彼が犯人なのか? ノーである。
理由はいくつかある。第一に、山代和子の性経験の豊富さである。彼女にとって、ハイティーンの高校生を適当にあしらうことなど苦もないことだったろう。
それに、もし、この高校生が犯人だとしたら、わざわざ、二十一日の午後一時五十分頃、隣室の小包みを彼女に預かって貰ったなどと、自分が疑われるような証言はしないだろう。
ハイティーンなら、そのくらいの知慧《ちえ》は働く筈である。それに、犯人は部屋の中を物色したようにしておいて、流しの犯行に見せかけるだけの知慧を働かせているのだ。
彼が、被害者の山代和子に小包みを届ける筈だったら、嘘《うそ》をつけば、かえって疑われるだろう。だが、問題の小包みは、隣の部屋のものだったのだ。だから、彼が犯人だったら、問題の小包みを持って逃げ出し、傭《やと》い主には、相手が留守だったので、届けられなかったといい、山代和子については、知らぬ存ぜぬで通せばいいのである。
もう一つ失くなった部屋の鍵《かぎ》がある。この高校生が犯人なら、何故、逃げる時に魚のマスコットのついた部屋の鍵を持ち去る必要があったのだろう。
以上の理由で、このアルバイトの高校生はシロである。
第二の容疑者は、加藤三津子である。
発見者が犯人だということは、よくあるケースだから、彼女が女だからといって、容疑者から除外は出来ない。
加藤三津子は、M化粧品会社時代からの同僚で、K化粧品にも一緒に移り、山代和子が二号生活に入ってからもつき合っていた。
五十七人と、男関係の多かった和子が、多分、心を許してつき合っていた唯《ただ》一人の同性だろう。
それだけに、加藤三津子を信頼していただろうから、それを逆手にとって、三津子が、和子を殺そうとすれば、何の抵抗もなく殺せた筈である。
動機は男をめぐってのいざこざが考えられる。和子は、男好きでセックスも強かった。六人のパトロンの中か、五十一人のボーイフレンドの中に、加藤三津子の好きだった男がいたかも知れない。
激しい嫉妬《しつと》から、彼女は友だちの山代和子を殺した。
まさか、唯一人ともいっていい同性の友だちが、自分を殺すとは思っていなかった和子は、パジャマの紐《ひも》が自分のくびに巻きつけられても、まだ、相手がふざけているのだろうぐらいに思ったろうから、女でも加藤三津子なら、和子を殺すのは容易だった筈である。
加藤三津子は、山代和子を二十一日に殺してから、いったん自分の家に帰り、翌二十二日、もう一度、「とよなかハイツ」の二〇七号室に出向き、初めて和子が殺されているのを発見したふりをして、警察に電話する。
そして、刑事の訊問《じんもん》に対して、「昨日も今日も電話したが、通じなかったので、おかしいと思って来てみたらドアが開いていて、奥の部屋で、彼女が殺されていたんで、びっくりしちゃって」と眼を丸くして返事をすればいいわけである。
彼女が犯人の場合は、当然、殺したあとで電話したことになり、これは、一種のアリバイ作りということになるだろう。
加藤三津子が犯人なら、被害者が暴行されていないのは当然だし、女だから、兇器《きようき》として眼の前にある電気ごたつのコードを利用するよりも、パジャマの紐を使ったことも納得がいく。加藤三津子も、夜は、パジャマを身につけていて、すぐその紐のことが頭に浮かんだかも知れないからである。
では、発見者の加藤三津子が、犯人だろうか? アルバイトの高校生と同じくノーである。
加藤三津子は、前の高校生よりも、犯人である確率は高い。パジャマの紐を、何故、兇器に選んだかという謎《なぞ》も、犯人が女なら謎でなくなる。
しかし、鍵の問題が相変らず疑問として残ってしまうのだ。
加藤三津子が、二十一日に山代和子を殺し、翌日まで発見されると困るので、三つの鍵の中の一つで、ドアに鍵をかけて逃げたということは、考えられないことではない。それが、魚のマスコットのついた山代和子の鍵だったということもである。
しかし、翌二十二日に、加藤三津子は、死体の発見者になっているのだから、持ち出した鍵は、翌日、また持って来たことになる。
それなら、当然、その鍵は部屋に置いておくだろう。持っていたら、危険なことはわかる筈だからである。
結局、加藤三津子が犯人でも、失くなった部屋の鍵の謎は解けないのだ。
第三の容疑者は、五十一人のボーイフレンドである。
サラリーマンもいれば、学生もいる。五十一人の中には前科のある男もいたし、人を殺すことなど、何とも思っていないようなヤクザ者もいた。
また、五十一人の中の一人で、我慢しきれなくなって彼女を独占したくなった男がいたかも知れない。そして、どうしても独占できないことがわかった時、彼女を殺した。殺せば、永久に彼女を独占できるからだ。
また、五十一人の中には、山代和子が六人ものパトロンを持っているのを知って、さぞ大金を持っているだろうと考え、金を目的に「とよなかハイツ」二〇七号室に入り、彼女を殺した男がいたかも知れない。
また、五十一人の中に変質者がいて、突然、遊びに来ていて彼女を殺した可能性もある。
五十一人もボーイフレンドがいれば、五十一通りの動機が存在する。
だが、この五十一人の中に、犯人はいない。
理由は二つある。
第一は、例の鍵である。この五十一人の男の中の誰が、どんな動機で彼女を殺したにしても、彼女の魚のマスコットのついた鍵を持ち去る必要はない筈だからだ。まさか、その鍵欲しさに、彼女を殺すような男はいないだろう。
それなら、金さえ出せば山代和子はくれただろう。何しろ三つも持っていたのだから。
第二は、山代和子は、六人のパトロンから金を貰《もら》って生活していたということである。
正確にいえば、六人のパトロンに金を貰って、それで、ボーイハントをしていたというべきだろう。
一度、気楽な生活を味わった彼女が、それを失うような危険を冒すとは考えられないから、ボーイフレンドとは大阪市内で遊び、豊中のマンションには来させなかったろう。
そのくらいの配慮はしていたからこそ、たとえ半年間でも、六人のパトロンと五十一人のボーイフレンドの間を、うまく泳ぎ廻っていられたのだ。
さて、五十一人のボーイフレンドがシロとなると、あと残るのは、六人のパトロンである。
この六人の中に、犯人がいるだろうか?
解決の鍵はこれまで、他の容疑者にとって、シロの理由になっていた鍵である。
犯人には、どう考えても、部屋の鍵を持ち去る理由がない。
だが、一つだけ持ち去る理由が残っていたのである。
それは、犯人が、三つの鍵のうち、一つを常に持っていた場合である。
男でも、女でも、アパートかマンションを借りた場合、二つか三つある部屋の鍵の一つを、恋人に渡しておくことがよくある。それは、二人にとって、愛情の印になるからだ。
山代和子の場合も、そうであった。
六人のパトロンの一人に、三つの鍵の中の一つを与えていた。そのパトロンは、彼女を殺したあと、いつものくせで、二〇七号室の鍵を持って出た。が、あわてていたので、魚のマスコットのついている彼女の鍵をポケットに放り込んでしまった。
これが、犯人が鍵を持って行った、考えられる唯一の理由である。
また、パジャマの紐については、犯人がパトロンの一人なら、兇器にパジャマの紐を使った理由がわかる。
そのパトロンは、山代和子から部屋の鍵を与えられ、「本当に好きなのは、あなた一人だ」といわれた。彼は彼女に、贈り物としてパジャマを贈った。
だが、犯行の日、つまり十二月二十一日に行ったとき、部屋にあったのは自分の贈ったパジャマではなく、別のものだった。別の男の贈り物だった。男はカッとし、自分を欺《だま》した女への復讐《ふくしゆう》として、そのパジャマの紐で彼女を絞殺したのだ。
他に、そばに、電気ごたつのコードという恰好《かつこう》の兇器があるのにパジャマの紐を使った。
ところで、犯人は、六人のパトロンの中の誰だろうか?
第一に考えられるのは、四十五歳のAだ。「とよなかハイツ」の権利金七十万円を払い、最初のパトロンになった人物だからである。当然、三つの鍵の中の一つを、預かっていてもおかしくはない。
だが、Aは、自分の友人のBを彼女に紹介し、彼女を共有することにした人間でもある。自分から、彼女の独占権を放棄したのだ。
と考えてくると、Aが、独占欲や嫉妬から彼女を殺したという可能性はうすれてくる。
その点は、Bも同様である。
すると、残る四人のパトロンの中に、犯人がいる。
そのパトロンは昼間、遊んでいられる仕事についている人間である。
何故《なぜ》なら、彼女が殺された四十七年十二月二十一日はウイークデーで、しかも、午後一時五十分から二時頃にかけて殺されているからである。
それは、和子がその男に鍵を与えていたとすれば、いつでも来ていいという許可を与えたことになる。
それも、他のパトロンとかち合わないようにと彼女が考えたのは、他の五人のパトロンが普通に昼間の仕事を持っているのに、その男だけは、昼間はヒマな仕事の持ち主だったからと考えられるのだ。
十二月二十一日、アルバイトの高校生が、隣室の小包みを持って来た時、犯人はすでに部屋にいたに違いない。そのあと、彼女は電気ごたつに入りウトウトした。その時、犯人はパジャマの紐で、くびを絞めたのだ。
抵抗のあとがなかったのは、彼女が眠っていたか、ウツラウツラしていたからとしか考えられない。
警察の調べでは、午後二時に、彼女が知人に電話することになっていたということだが、女というものは、約束を、時々忘れて、平気でいるものである。だから、犯人の前で、こたつにあたりながら、眠ったとしてもおかしくはない。
だから、犯人は、六人のパトロンのうちの一人で、彼女から、部屋の鍵を与えられており、昼間の勤めの人間ではない。そして、犯行に使われたパジャマの贈り主でもない。
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優しい脅迫者
その男の顔に見覚えがなかったから、はじめての客にちがいなかった。
四十代の終わりか、五十代のはじめくらいの年齢で、肝臓でも悪いのか、妙に蒼黒《あおぐろ》い顔色をしている。あまり感じのいい男ではなかったが、こちらは客商売だし、話し好きの方だから、「いらっしゃい」と、笑顔を向けた。
男は、じろりと晋吉《しんきち》の顔を見てから、黙って鏡の前に腰を下ろした。それから、眠そうに、小さなあくびをした。理髪店に来ると、不思議に眠たくなる客がいるものだから、この男もその口かもしれない。
白いものが混じった堅い髪の毛だった。水で濡《ぬ》らして、ねかしつけながら、
「分けますか?」
と、晋吉は、鏡の中の男の顔に声をかけた。
男は、眼を閉じたまま、「ああ」と、低い声でうなずいた。眼の下がたるんでいる。きっと荒れた生活をしているんだと、詮索《せんさく》好きの晋吉は、想像した。
(この客は、どんな商売をしているんだろう?)
晋吉は、鋏《はさみ》を入れながら、ちらちらと、鏡の中の男の顔を盗み見た。晋吉は、客の商売を、あれこれ想像するのが好きだったし、わりによく当たるのである。だが、この客だけは、なかなか判断がつかなかった。
今日はウイークデーで、二時を回ったばかりだから、普通のサラリーマンなら、まだ仕事をしている時間である。
定年でやめて、ぶらぶらしているといった感じでもない。
商店の主人なら、もう少し実直そうな感じがするだろうし、このあたりの商店主なら、顔なじみである。
(ヤクザ者かな)
と考えたが、それにしては、感じは悪いが、怖いという気はしない。わからないとなると、晋吉は、よけいに、男の商売が、知りたくなった。
「いつまでも暑いんで、いやになりますねえ」
晋吉は、鋏を動かしながら、男に話しかけた。
「そうだね」
男は、相変わらず眼をつぶったままだ。
「あまりお見かけしませんが、この近くにお住いですか?」
「まあね」
男は、ぼそッとした声でいう。が、仕方なしに返事をしているといった感じでもない。話すのが面倒なら、黙っているだろう。
「失礼ですが、お客さんは、何をしていらっしゃるんです?」
「おれの商売かい?」
「ええ」
「何に見えるね?」
「さっきから、いろいろと考えているんですが、どうもわからないんですよ。お客さんの商売を当てるのが得意なんですがね」
「そうかね」
「水商売ですか?」
「いや。そのうちにわかるさ。これから、ときどき来るつもりだからね」
「それは、どうもありがとうございます」
晋吉は、ぺこりと頭を下げた。
洗髪をすませてから、顔|剃《そ》りに入る。蒸しタオルを顔からとり、石鹸《せつけん》をぬっていると、男は、眼を閉じたまま、
「この店は、あんた一人でやっているのかい?」
と、逆に質問をした。そんなことを聞くところをみると、とっつきにくい感じの男だが、根は、案外話し好きなのかもしれない。
「家内と二人でやってるんですが、今日は、子供を連れて、親戚《しんせき》へ行っています」
「おかみさんと二人か」
「まあ、細々とやっているってとこですよ」
晋吉は、肩をすくめて笑って見せてから、剃刀《かみそり》を手にとった。
指先で、軽く顔の皮膚をつまんでみる。荒れた弾力のない皮膚だ。ざらざらしている。こういうのは剃りにくい。
「眉《まゆ》の下も剃りますか」
「ああ」
と、男はうなずいてから、急に、ぽっかりと眼をあけて、晋吉を見上げた。
「あんたの名前は、野村晋吉だね?」
「そうですが――」
晋吉は、きょとんとした顔になってから、
「ああ、表札をご覧になったんですね」
「いや。あんたのことは、前から知ってるんだ」
「へえ。わたしの方は、お客さんを存じあげませんが」
「おれは、あんたのことを、いろいろと知ってるよ」
「そうですか。へえ」
「たとえば三か月前に、あんたの運転していた軽四輪が、幼稚園帰りの女の子をはねたことなんかもね」
「――――」
剃刀を持った晋吉の手が、宙に止まってしまった。顔から、すーッと血の気が引いていく。
眼の下にある男の顔が、急に異様にふくれあがってくるような気がした。
「あの子は死んだよ」
男は、楽しそうに、ゆっくりといった。
「あんたは、事故のあとで、必死で新聞を読んだろうから、死んだことは知っているだろうがね」
「――――」
「目撃者がいなくて、警察は犯人をあげられずにいるようだが、本当は、一人だけ目撃者がいたのさ。おれという目撃者がね。顔色が蒼《あお》いよ」
「――――」
「今さら、警察にいったりしないから、心配しなさんな。それより、早く顔を当たってくれないかね。石鹸をつけられたままじゃかゆくなってくる」
「すいません」
晋吉は、いかにも間の抜けた返事をして、剃刀を男の顔に近づけた。指先が、かすかにふるえている。男は、ニヤッと笑った。
「おい。剃刀で顔を切らないでくれよ」
「――――」
晋吉は、ごくりと唾《つば》をのみ込んだ。そっと、男の頬《ほお》のあたりに剃刀を当てる。ざらざらした皮膚の感じが晋吉の手に伝わってくる。
男は、気持ち良さそうにまた眼をつぶった。
「あの軽四輪は、売り払ってしまったらしいね」
「ええ」
「まあ,その方が安全だな」
「お客さん」
晋吉は、手を止めて、必死な眼で、男の分厚い顔を睨《にら》んだ。
「いったい、何が目的なんです?」
「何のことだい?」
「わたしをゆすりに来たんですか?」
「そんな物騒な話はやめようじゃないか。それより、おれは、床屋に来ると気持ちよくなって眠っちまうくせがあってね。眠ってるから、丁寧にやってくれよ」
それだけいうと、男は、黙ってしまった。
晋吉は、剃刀を研ぎながら、鏡の中の自分の顔を見つめた。まだ、顔色が蒼い。引きつっているように見える。
(落ち着くんだ)
と、晋吉は、自分にいい聞かせた。男は、警察に告げる気はないといったではないか。警察に話す気なら、三カ月も放っておくはずがないから、この言葉は信じてよさそうだ。
男の狙《ねら》いは、ゆすりに決まっている。
晋吉の脳裏に、貯金通帳の数字が浮かんだ。確か、二十六万ばかりあったはずだ。今の店は借りているので、いつかは、自分の店を持ちたい。そのために溜《た》めている金だが、この金額で、男が、あの事故のことを忘れてくれるのなら、全部やってしまってもかまわない。金は、また溜めればいいのだ。
(だが――)
晋吉は、いつか見た犯罪映画のことを思い出した。一度しかゆすりをしない犯人の映画なんて、あったろうか。みんな、一度ゆすりに成功すると、味をしめて、何度でもゆするのだ。この男だって、きっと同じだ。そうだとすると、こっちから金額を口にするのは愚の骨頂というものではないか。
どうにか、顔剃りも、頭髪のアイロンかけも終わった。
「あんたは、なかなか腕がいいな」
男は、満足そうに、鏡の中の自分の顔を眺め、頭に手をやった。眠たげだった眼が、妙に生き生きとしている。
「この仕事は、もう長いんだろうね?」
「十年やってますよ」
「それなら安心だ。心が動揺して、剃刀でグサリなんてことはないだろうからね」
男は、ニヤニヤ笑いながらいう。晋吉は、黙っていた。いきなり男が交通事故のことを口にしたとき、ほんの一瞬だが、手に持った剃刀で、男に切りつけたくなったことがあったからである。
「いい腕だ」
と、男は、また同じ言葉をくり返した。椅子《いす》から降りて、鏡の中の自分の姿を、頭の先から足元まで満足そうに眺めている。
「これからは、いつもあんたにやってもらうことにしよう」
「これから?」
「あんたのような腕のいい職人とは、いつまでもつき合いたいからね」
男は、気取った姿勢で、肩のあたりを指先で軽くはたいてから、
「ところでいくらだね?」
「四百円です」
「腕の良さにしては安いものだ」
男は、内ポケットから、一枚の紙片《かみきれ》を取り出し、それに、「金四百円」と書き込んで、晋吉の前に置いた。
「領収書だよ」
と、男は、また、鏡の中の自分に見とれる姿勢で、晋吉にいった。
「これから、たびたび使うことになりそうだから、印刷しておいたんだ」
男のいうとおりだった。金額を書く欄が空いているだけで「野村理髪店殿」と「五十嵐好三郎《いがらしこうざぶろう》」の二つの名前が上下に印刷してあった。
男の名前は、五十嵐好三郎というらしい。だが、その名前よりも、晋吉は、野村理髪店と印刷された文字に蒼くなった。
印刷されていることに、男の強い意志を、感じたからである。この男は、これからも、何度となく晋吉をゆする気なのだ。空欄に書き込まれる数字は、今日は四百円だが、次は、もっと大きくなるにちがいない。そして、その次は、もっと大きく――。
晋吉は夢にうなされて、眼を覚ました。
あの男が来てからもう五日たつというのに、眠ると、決まって同じ夢にうなされるのである。
何もかも奪われて、親子三人が、物乞《ものご》いして歩く夢であった。
起き上がると、ぐっしょりと寝汗をかいている。時計を見ると、もう十二時に近かった。
夜になると、あれこれと考えて眠れなくなり、うとうとするのが、明方近くで、自然に、起きるのも遅くなってしまう。
職人としたら落第だ。晋吉は、冷たい水で、ごしごし顔を洗うと、白い上っぱりを着た。
店に出ると、近所の子供の調髪をやっていた妻の文子が、
「無理しない方がいいわよ」
と、心配そうにいった。
「無理? おれは病気じゃない」
「でも、このごろ、よく寝汗をかいているじゃないの」
「ご主人、病気なの?」
子供につきそって来た母親が、のぞき込むように晋吉の顔を見る。晋吉は、無理に笑顔を作って、
「ちょっと、鼻カゼをひいちまいましてね」
と、いった。
そのとき、あの男が、のっそりと入って来た。
「いらっしゃあい」
下町育ちの文子が、陽気な声でいう。晋吉は、顔をそむけていた。
男は、空いている椅子に腰を下ろした。晋吉は、仕方なしに、硬い表情で、近づくと、
「まだ、伸びていませんよ」
と、精いっぱいの嫌味をいった。男は、この間のように、眼をつぶると、
「今日は、顔を当たってもらおうと思ってね」
と、ゆっくりとした声でいった。
「自分でも剃《そ》れるんだが、この間のあんたの腕に惚《ほ》れてね。当たってもらいに来たんだ」
「どうもありがとうございます」
何も知らない妻の文子は、ニッコリしている。
男は、眼をあけて、文子を見た。
「こちらが、おかみさんかね」
「ええ」
晋吉は、ぼそッとした声でうなずいてから、椅子を倒した。男は、また、気持ち良さそうに眼をつぶった。
「なかなか美人だねえ。それに働き者だ」
「いやですよ。美人だなんて」
文子は、シナを作っている。この男は、妻まで巻き込むつもりなのか。
「夫婦共稼ぎなら、残ってしようがないだろうね」
男がいう。晋吉は、男のお世辞の底にあるものを、敏感に感じ取って、顔をこわばらせた。夫婦共稼ぎで溜めているのなら、ゆすりがいがあるということなのだろう。
文子の方は、男のお世辞をそのまま受け取って、
「それが、なかなか残らないんですよ」
と、笑っている。
晋吉は、男と妻が話し合うのが気になって、蒸しタオルを、男の顔にかぶせた。このまま、タオルの上から押えつけていたら、男は死ぬだろう。一瞬、そんな考えが脳裏にひらめいたが、晋吉は、のろのろとタオルを取り、無表情に、顔を当たった。
終わると、男は、この前と同じように、鏡の中の自分の顔を、満足そうに眺めてから、また、あの紙片を取り出した。
「顔剃りは、いくらだったかね?」
「二百円です」
「良心的な値段だね」
男は、持ち上げるようにいい、ペンを走らせた。紙片を受け取った晋吉の顔があかくなった。
五千二百円也。
と、書き込んであったからである。
「じゃあ、この先の喫茶店で待っているからね」
男は、晋吉の耳にささやくと、もう一度、気取った表情で鏡を見て、ゆっくりと店を出て行った。
「くそッ」
と、晋吉は、思わず怒鳴った。子供の調髪を終わって、晋吉がパチンコで取ってきたキャラメルを与えていた文子が、びっくりした顔でふり向いた。
「どうしたの? あんた」
「何でもない」
晋吉は、あわてて、くびを横にふった。交通事故のことは、文子にも話してなかった。幼稚園児を死なせたなどと、同じ年ごろの娘の母親でもある文子には話せない。
「かおるは、どうしたんだ?」
「幼稚園が終わるのは、いつも一時じゃありませんか。まだ十二時ちょっと過ぎですよ」
「そうだったな」
晋吉は、苦笑してから、「ちょっと外に出てくる」と、文子にいった。
サンダルを突っかけて、三軒先にある「紫苑《しおん》」という喫茶店に行った。
店は、がらんとしていて、一番奥のテーブルに、あの男が腰を下ろしていた。晋吉に向かって、「やあ」と手を上げてから、彼が、腰を下ろすと、
「この店は感じがいい。これからは、ここを連絡場所に使いたいね」
と、いった。
「連絡場所?」
「おかみさんの前じゃあ、あんたがまずい場合があるだろうからさ。ところで、領収書に書いただけは、持って来てくれたんだろうね?」
「持って来たよ」
晋吉は、ポケットから折りたたんだ五千円札をつかみ出すと、男の前に放り投げた。
男は、ニヤッと笑って、その五千円札を内ポケットにしまった。
「これで、合計、五千六百円、あんたから借りたことになる。ちゃんと帳面につけておくよ」
「返す気もないくせに」
「そう、がみがみいいなさんな」
「あんたは、その五千円が、おれたち夫婦にとって、どんなに大金かわかってるのか? 一日、夫婦共稼ぎで働いたって、五千円にならないことが多いんだ」
「そんなことは、おれとは関係がないね」
男は、そっけなくいった。
「それに、こんな端金《はしたがね》で、交通事故の秘密が守れるんだから安いもんだと、おれは思うがねえ」
「あれは、子供が急に飛び出して来たんで、ブレーキをふんだが、避け切れなかったんだ。いわば、不可抗力なんだ」
「その言葉を、警察が信じてくれるかな?」
「あんたは、目撃者なんだから、よくわかっているはずじゃないか」
「さあ、どうだったかねえ。もし、おれが、警察へ行って、あんたがスピードを出し過ぎていて、おまけに、わき見運転をしていたと証言したら、いったい、どうなるだろう?」
「畜生ッ」
思わず、晋吉は、拳《こぶし》でテーブルを叩《たた》いた。が、男は、相変わらず、ニヤニヤ笑っているだけである。その笑い顔は、お前はいくら怒っても、どうすることもできないのだといっているように見えた。
「さて、失礼するかな」
男は、伝票を持って、のっそりと立ち上がった。
「ここのコーヒー代は、おれが自分で払うよ。おかげで、ふところは温かいし、百円の領収書を書くのは面倒だからね」
それから五日たって、男は、また、蒼黒《あおぐろ》い顔を見せた。顔を当たってくれという。妻の文子は、いい客だと単純に喜んでいる。
そして、今度、男が書いた金額は、一万二百円だった。
このままだと、次に来たときには、倍の二万円を要求するかもしれない。そして、その次には、四万円と増えていったら、たちまち破産して、あの夢のように、親子三人が路頭に迷ってしまうだろう。
(何とかしなければ――)
と、晋吉は、あせった。警察へ行って、五十嵐好三郎という男にゆすられていると訴えることはできない。そんなことをしたら、三カ月前の交通事故のことがばれてしまうし、あの男は、平気で、スピードの出し過ぎだとか、わき見運転だとか証言するだろう。
懲役刑になると思った。自分一人なら刑務所へ放り込まれてもいいが、妻と子供がいる。
晋吉は、考え続けたあと、一つの対抗手段を思いついた。
男は、三か月前の交通事故をタネに、こちらをゆすっている。それなら、こちらも、あの男の弱みをつかんで、相殺《そうさい》するより方法はない。
ゆすりをやるくらいだから、きっと、前科ぐらいはあるにちがいない。後ろ暗いところだってあるだろう。それをつかんでやるのだ。
晋吉は、月曜の定休日に、新聞に広告の出ていた探偵社を神田《かんだ》に訪ねた。
「大東京探偵社」という大袈裟《おおげさ》な社名だったが、実際に足を運んでみると、モルタル三階建ての二階だけを使っている小さな会社だった。がたぴしする急な階段をあがると、薄汚れたガラス戸に、大東京探偵社と金文字で書いてあったが、その金文字も、ところどころ剥《は》げ落ちている。
中には、三十二、三の小柄な男が一人いただけだった。「他の社員は、全部調査に出ています」といったが、本当かどうかわからなかった。
晋吉は、こんな見すぼらしい探偵社で大丈夫だろうかと、あやぶみながら、
「一人の男について、調査してもらいたいんだが」
と、その探偵にいった。
相手は、その机の上にノートを広げて、
「身上調査ですね」
「とにかく、その男に関することは細大もらさず調べてもらいたいんだ」
「相手の名前は?」
「五十嵐好三郎」
「芸能人みたいな名前ですね。住所は?」
「それがわからない」
「住所がわからないでは、ちょっと調べようがありませんよ」
「住所はわからなくても、その来る場所はわかっているんだから、そこから後を追《つ》けてくれたらいい」
晋吉は、五十嵐が店に来たら、電話するから、そうしたら、「紫苑」で待っていてくれと、相手に頼んだ。
「細大もらさずといいましたね。具体的に、どの程度まで調べればいいんですか? たとえば、前科のあるなしまで調べますか?」
探偵がきいた。晋吉は、相手の、前科という言葉にどきりとしたが、すぐ、平静な顔色に戻って、
「とにかく、この男についてのことなら、どんなことでも知らせて欲しいんだ」
と、いった。
晋吉が、探偵社に調査を依頼した翌日、五十嵐好三郎が、また、ふらりと店に入って来た。
「すぐ、不精ひげが生えてしまってね」
と、五十嵐は、顎《あご》のあたりを撫《な》でながら、ゆっくりと空いている椅子《いす》に腰を下ろした。今日は、背広の胸ポケットから、赤いハンカチーフをのぞかせている。晋吉は、虫酸《むしず》の走るのを辛うじて押えながら、相手の顔に蒸しタオルをのせ、その間に、電話のダイヤルを回した。昨日の探偵の声が聞こえた。晋吉は、「頼むよ」と短くいって、受話器を置いた。
晋吉が、戻って、蒸しタオルをとると、五十嵐は、ぽっかりと眼をあけて、
「顔を当たりながら、電話をかけるんじゃ、忙しくて大変だね」
と、いたわりとも皮肉ともつかない調子でいった。
「頼むというのは、意味深な電話だな」
「友だちに借金を頼んでいたんだ。あんたに金を持っていかれるんでね」
「古い手だよ」
「何がだ?」
「おれの同情を引こうとしても無駄だということだよ。それに、おれは、まだ、あんたから一万五千八百円しか借金していない。親子三人で共稼ぎなら、少なくとも二、三十万円の貯金はあるはずだよ。だから、友だちから金を借りるというのは嘘《うそ》だね」
「――――」
晋吉は、返事をせずに、剃刀《かみそり》を研ぎ始めた。わざと、脅かすように、シュッ、シュッと、大きな音を立ててやったが、五十嵐は、気持ち良さそうに眼をつぶったままだ。
電話の相手を友だちではあるまいと見抜いたのは、抜け目のない男だが、私立探偵だとは気がつくまい。これで、男の弱点をつかむことができたら、ぐうの音も出なくしてやる。一万五千八百円も取り返してみせる。
「今日は、おかみさんはどうしたのかね?」
眼を閉じたまま、五十嵐がきく。晋吉は、剃刀を持って近づいてから、
「奥で食事をしている。交替で食事をとるんだ」
「そこが共稼ぎの辛《つら》いところだね」
「いいか。ゆすられるのは、おれ一人でたくさんだ。家内や娘を巻き込んだら、あんたを殺すぞ」
晋吉は、男の眼の上で、剃刀を動かして見せた。五十嵐は、薄眼をあけて、晋吉の顔と、白く光る剃刀を等分に眺めた。
「おれは、ゆすってなんかはいないよ。あんたから、金を借りているだけだ。領収書も、ちゃんと渡してある」
「返す気もないくせに」
晋吉は、吐きすてるようにいったが、五十嵐は、もう、眼をつぶってしまった。
「早くやってもらいたいね」
顔剃りが終わると、五十嵐は、当然のように、例の領収書に、二万二百円と書いて、晋吉に差し出した。
「あの喫茶店で待っていてくれ」
晋吉は、横を向いていった。わざと間を置いてから、晋吉は「紫苑」に出かけて行った。相変わらず、昼間はがらんとしている店だが、入ってすぐのところに、探偵が腰を下ろして、新聞を広げていた。
晋吉は、その横をすり抜けるようにして、奥に腰を下ろしている五十嵐の前へ歩いて行った。
突っ立ったまま、二枚の一万円札を、五十嵐の前に投げ出した。
「それを持って早く消えてくれ。あんたの顔を見ていると、胸がむかついてくるんだ」
「そんなに毛嫌いしないでもらいたいな。これからも、末長くつき合いたいと思っているんだから」
五十嵐は、ニヤッと笑ってから、席を立った。
小柄な探偵は、晋吉に眼で合図してから、五十嵐に続いて、店を出て行った。
探偵社からの報告は、なかなか届かなかった。三日目になって、やっと、電話連絡が入り、「紫苑」で会った。
「五十嵐好三郎について、調べ得る範囲のことは、全部、調べましたよ」
と、探偵は、自信満々な顔でいい、鞄《かばん》から薄っぺらな報告書を取り出して、晋吉の前に置いた。晋吉は受け取ったが、
「口で報告してもらった方が、ありがたいな。五十嵐というのは、いったい何者なんだ?」
「年齢五十三歳。映画俳優。いや、元俳優といった方が正しいでしょうね」
「俳優?」
「テレビにも何回か出たことがあります。だが、映画の場合も、テレビの場合も、端役ばかりです。人相が悪いので、因業な金貸しとか、ゆすり屋とかが多かったようです」
「ゆすり屋か――」
映画やテレビでやっていた役を、今度は、地《じ》でやっているというわけか。
鏡の中の自分の姿を、しげしげと眺めていたのも、それでうなずける。俳優だったときの癖なのだろう。
「演技がどうにも大時代ということで、だんだん、映画でもテレビでも使われなくなって、今では、全然、お呼びがないようです」
「じゃあ、金に困っているね?」
「収入はゼロの上に、他に何かできるという人じゃないようですからね」
「家族は?」
「ひと回り年下の細君と、大学へ入ったばかりの息子が一人います」
「収入がゼロなのに、息子を大学へやっているのか?」
「細君が内職したりして何とかやっているようですが、相当苦しいようですね」
晋吉にとっては、悪い知らせだった。収入がなくて、一人息子を大学へやっているとなれば、いくらでも金が欲しいに決まっている。そうだとすれば、せっかくつかんだ晋吉という金蔓《かねづる》を、あの男は、絶対に手放しはしないだろう。一生食いものにする気かもしれない。
「前科は?」
かすかな期待をかけて聞いたが、探偵は、あっさりと、
「ありません。昔、五十嵐好三郎と一緒に働いていた人に何人か会って聞いてみたんですが、あの男は、悪役専門だったが、根は、どうしようもないくらいの善人で、悪いことなんか全然できない男だったと、異口同音にいっていましたよ」
「そいつらの眼がどうかしてるんだ」
「え?」
「いや、何でもない」
と、晋吉は、不機嫌にくびを横にふって見せた。
(どうしようもないくらいの善人だって)
きっと、猫をかぶっていたのがわからなかったのだろう。それとも、金がなくなったとたん、悪人に豹変《ひようへん》したのか。どちらにしろ、晋吉にとっては、狼にしか見えない。血に飢えた狼だ。前科がないとすると、狼を逆に脅すことができなくなった。
「前科はないとしても、評判の方はどうなんだろう? 悪い噂《うわさ》なんか聞かなかったかね?」
「全然、聞きませんね。映画が好きだったが、才能のなかったのが致命傷だった。それが、唯一の評判らしい言葉でしたよ。ああ、それから――」
「それから何だね?」
「今夜の深夜映画に、五十嵐好三郎が出てますよ。『悪人どもをバラせ』という十年前の映画ですがね」
報告はそれだけだった。それだけで、調査費に一万円とられた。
相手の正体が、ぼんやりとだがわかったのは収穫かもしれない。だが、ゆすりから身を守る方法は、何一つ見つからなかった。あの男が来て、金を要求すれば、今までどおり黙って渡さなければならないのだ。
その日の夜、晋吉は、ひとりで、テレビの深夜映画を見た。
古い映画だった。配役の最後に近いところに、五十嵐好三郎の名前が出てきた。探偵に予告されていたのに、その名前を見ると、やはり、どきりとした。
映画は、典型的な活劇物だった。二枚目のヒーローが、街を支配するヤクザたちを、バッタバッタとなぎ倒して、ヒロインの花売り娘と結ばれるというたわいない話である。
五十嵐の役は、ヒロインをゆする悪徳金貸しだった。借金の証文をちらつかせて、ヒロインに、自分の愛人になれと迫る。いかにも下手くそな演技だった。ヒロイン役の女優の方も下手なので、二人のやりとりはまるで漫画だった。
五十嵐は、そのあと、すぐ、チンピラヤクザに殺されてしまうのだが、晋吉は、そこでテレビを消してしまった。
探偵がいったように下手な俳優だ。映画からも、テレビからも閉め出されるのは無理のない話だと思った。
だが、晋吉をゆするやり方は、下手くそではない。俳優としては落第でも、本物のゆすり屋としては一人前なのだ。
また五日目が来た。
今日、また、五十嵐はやってくるだろう。そして、この間の倍の四万円要求するかもしれない。
晋吉は、覚悟して店に出ていたが、昼をすぎ、夕方になっても、五十嵐は姿を見せなかった。夜が来て、八時に店を閉めたが、そのときになっても、五十嵐の蒼黒《あおぐろ》い、むくんだような顔は現われなかった。
ほッとして、お茶をのみ、夕刊を広げた。
「あッ」と思ったのは、社会面に、五十嵐好三郎の写真を見つけたからだった。
〈幼児を助けようとして、男性負傷〉
それが、見出しだった。記事によると、道路に飛び出した幼児を助けようとして、ちょうど、通りかかった五十嵐好三郎が、車の前に飛び出し、足に負傷したというのである。幼児は助かり、足に包帯した五十嵐に頭を撫《な》でられている写真が、のっている。
「夢中で飛び出したが、子供が助かってよかった。誰でもすることをしたまでですよ」
これが、五十嵐の談話だとしてある。
晋吉には、新聞に出ている五十嵐が、彼をゆすっている男と同一人とは、どうしても思えなかった。
どんな状態だったのか、見ていなかった晋吉にはわからない。だが、車の前に飛び出したというのだから、轢死《れきし》する危険もあったはずである。見ず知らずの幼児を助けるために、死の危険をおかす男と、平然と晋吉をゆする男と、いったい、どこでつながるのだろうか。
だが、写真は、どう見てもあの男だった。同姓異人ではない。それに、事故のあった場所から考えると、五十嵐は、ここへ来る途中だったのだ。ゆすりの途中で、命がけで幼児を助けるというのは、どういう神経なのだろう。晋吉は、五十嵐という男が、ますますわからなくなったが、わからない中に、一縷《いちる》の希望を見つけようとした。
(ひょっとすると、あの男は、突然、善心に立ち返って、幼児を助けたのかもしれない。そうだとすると、ゆすりもやめてくれるかもしれないではないか)
だが、翌々日の午後になって、それが、晋吉の甘いはかない希望にしかすぎないことがわかった。
足を引きずりながら、五十嵐が、いつものように蒼黒い顔で、店に現われたからである。
「一昨日《おととい》の事故で、おれが死ねばよかったと思ってるんじゃないのかね?」
例によって、晋吉に顔を当たらせながら、五十嵐は、小声で皮肉をいった。
「だが、残念ながら、こうしてピンピンしている」
「いつまで、おれにつきまとう気なんだ?」
「一生かな。あんたが気にいったんでね」
「一生だって?」
思わず、大声をあげてしまった。晋吉は、あわてて口をつぐんだ。
隣りで、若い男の調髪をしていた文子が、びっくりしたように、ふり向いたからである。
「何でもないよ」
と、晋吉は、文子にいった。五十嵐は、眼をつぶって、ニヤニヤ笑っている。その顔をぶん殴りたくなってくるのを、晋吉は、辛うじて抑えた。
顔|剃《そ》りが終わると、五十嵐は、手品で鳩《はと》でも取り出すような気取った手つきで、例の領収書を内ポケットから取り出し、「四万二百円也」と当然のように書き込んで、晋吉に差し出した。
「四万?」
倍、倍と来るだろうと覚悟していながら、それでも、晋吉の顔色が変わった。
「そんな金が、ここに置いてあると思うのか?」
文子を気にしながら、晋吉は、抑えた声でいい、五十嵐を睨《にら》んだ。五十嵐は、厚ぼったい眼で時計を見上げた。
「まだ二時だよ」
「それがどうしたんだ?」
「三時まで銀行はあいているということだよ」
五十嵐は、ニヤッと笑い、
「じゃあ、例の喫茶店で待っているからね」
と、店を出て行った。
晋吉は、怒りよりも、絶望を覚えた。ゆすりというのは、一度味をしめるといつまでも続く。それと同時に、ゆすりの金額は、どんどん増えていくことも知った。次はきっと八万円を要求するだろう。人間の欲望というのは際限がないのだ。
文子にかくれて、貯金を下ろし、四万円を五十嵐に渡したものの、晋吉は、もう我慢ができなくなっていた。といって、警察には行けない。となれば、晋吉にとれる手段は一つしかなかった。五十嵐の前から逃げだすのだ。
その夜おそく、晋吉は、理由をいわずに、
「引っ越したい」
と、文子にいった。
文子は、きょとんとした顔になって、
「なぜ? やっと、お得意さんもできてきたのに」
「とにかく、ここが嫌になったんだ。我慢できないんだ」
「かおるのことはどうするの? 幼稚園も代わらなきゃならないし――」
「お前が嫌なら、おれ一人でも、ここから出て行くぞ」
晋吉は、怒鳴った。文子は、蒼ざめた顔になって、
「いいわ」
と、いった。
「他へ移ってもいいわよ。でも、一つだけ聞きたいことがあるわ」
「何だ?」
「今度のことと、あのよく来る五十二、三のお客と、何か関係があるんじゃないの?」
「関係はない」
晋吉は、顔をそむけて、吐きすてる調子でいった。
文子は、それ以上聞かなかった。
親子三人が、次の日、東京の郊外に引っ越した。東京から本当に離れられなかったのは、晋吉も文子も東京の生まれで、帰る故郷を持っていなかったからである。
そこでも、他に手に技術を持っていない晋吉たちは、理髪店の看板を掲げるより仕方がなかった。
どうにか店の格好もつき、文子が、娘のかおるを、新しい幼稚園に連れて行った日、晋吉は、店の椅子《いす》に腰を下ろして、ぐったりしていた。
二十六万円あった貯金も、五十嵐に取られ、今度の引っ越しに使って、ほとんどなくなってしまった。また、こつこつと溜《た》めなければならない。
(いつになったら、貸家ではない自分の家と店を持てることだろう)
みんな五十嵐という男のせいだ。そう思ったとき、入口に人の気配がした。反射的にふり向いて、
「いらっしゃい」
と、笑顔を作ったが、その笑顔は、広がらずに、途中で凍りついてしまった。
あの男だった。五十嵐好三郎だった。
「ずいぶん探したよ」
五十嵐は、狭い店の中を、じろじろ見回しながら、屈託のない声でいった。
晋吉は、ただ、黙って、五十嵐を睨んでいた。怒りで、唇が小きざみにふるえていた。が、五十嵐は、そんな晋吉の気持ちを無視して、もう一つの椅子に腰を下ろし、
「いつものように、顔を当たってもらおうかね」
と、のんびりした調子でいった。
「例の領収書も、ちゃんと持ってきたからね」
「―――――――」
「さあ。早くやってくれないか」
五十嵐の言葉で、晋吉は、反射的に椅子を下り、タオル蒸し器のところへ行った。こわばった顔で、タオルを取り出す。機械的に、五十嵐の座っている椅子を倒し、眼の下に来た蒼黒《あおぐろ》い顔に、熱いタオルをのせた。
タオルをとると、五十嵐は、厚ぼったい眼をあけて、笑いながら晋吉を見上げた。
「顔色が悪いな」
と、からかうようにいう。
「病気だったら、早く治してくれなきゃ困るよ。あんたは、おれにとって大事な人なんだから」
「黙ってくれ」
晋吉は、泣くような声でいった。剃刀《かみそり》を手に持ったが、指先が、かすかにふるえている。
「やっと、また会えたのに、そんなに怒ることはないだろう」
五十嵐は、楽しそうだった。
「喜んでくれないかね。これからも、ずっとつき合って行きたいんだから」
「黙ってくれ」
と、晋吉は、引きつった顔で、同じ言葉を繰り返した。
「どうして、そう愛想が悪いんだい?」
「黙ってくれ。お願いだ」
「笑ったらどうなんだね? お客には、愛想よくするのが、客商売のコツじゃないのかね」
五十嵐は、ニヤニヤ笑い続けている。晋吉の顔が、ますますこわばってくる。腋《わき》の下に、じっとりと汗をかいていた。
「黙ってくれといってるのが、わからないのか」
「そう硬くならずに、気楽にやってくれないかねえ。おれは、あんたが気に入ってるんだよ」
「黙れッ」
「ずいぶん、怖い顔をするんだねえ。ああそうか。今日は、あんたが殺した女の子の命日だったかな。それで、ご機嫌斜めなのか。そうなんだろう? え?」
「――――」
ふいに、晋吉の耳に、五十嵐の声が聞こえなくなった。五十嵐の声だけでなく、周囲《まわり》の物音すべてが聞こえなくなってしまった。
晋吉の眼の下で、五十嵐の口が、ぱくぱくと動いている。蒼黒くたるんだ皮膚が、ぴくぴく動いている。それは、醜悪な軟体動物のように見えた。醜く、薄気味の悪い生き物だ。
晋吉の錯乱した頭が、子供のときにふみ潰《つぶ》した蒼黒い芋虫《いもむし》を連想させた。これは、あの芋虫だ。ふみ潰すと、ジュッと、青い汁の出てくる芋虫だ。
醜い芋虫は、ふみ潰してやるんだ。ナイフで切りきざんでやるんだ。
蒼黒い芋虫は、晋吉の眼の下で、まだ、うごめき続けている。晋吉は、手に持った剃刀をふりあげた。
(さあ、芋虫を殺すんだ。あのフニャフニャした蒼白い腹のところを、ナイフで思いっきり切り裂くんだ)
ふいに「ぎゃッ」という物凄《ものすご》い悲鳴が聞こえ、晋吉の眼の前が、まっ赤になった。
晋吉の幼児の世界が、突然、かき消えて、現実の世界がよみがえった。晋吉の手をはなれた剃刀が、五十嵐の蒼白いのどに、深々とくい込んでいた。まっ赤な血が、ぼこぼこと音を立て、溢《あふ》れ出ていた。
晋吉は、どうしてよいかわからなかった。
「助けてくれッ」
と、晋吉は、かすれた声で叫んだ。そうしている間も、血は流れ続けていた。五十嵐の顔は、もう土色だった。
「うッ――」
と、ふいに、五十嵐がうめき声をあげた。
「お、れ、が、う、ご、い、た、せ、い、だ、と、い、う、ん、だ――」
それだけの言葉が、辛うじて聞き取れた。それが、五十嵐の最期の言葉だった。
晋吉には、その言葉の意味がわからなかった。ゆすり屋の五十嵐が、命がけで幼児を助けたのがわからなかったのと同じようにである。
血は流れ続けていた。が、五十嵐好三郎は、もう死んでいた。
晋吉は、最初、殺人容疑で逮捕された。が、容疑内容は、すぐ業務上重過失致死に変わった。
警察は、殺人の動機を発見できなかったからである。
警察が来るまでの間に、五十嵐のポケットにあった「領収書」は焼き捨ててしまったから、どこから見ても、理髪店主と、よく来る客の関係しか、警察には発見できなかったからである。
「ちょうど、のどを当たっているとき、急に、あのお客さんが身体《からだ》を動かしたもんですから」
と、晋吉はいった。そういいながら、五十嵐の最期の言葉を思い出していた。「おれが動いたせいだというんだ」と、確かにあの男はいった。虫の息で、なぜ、あのゆすり屋はあんな優しい言葉を口にしたのだろうか。
晋吉に対する判決は、懲役一年、執行猶予三年というものだった。晋吉自身、刑の軽さに戸惑いしたくらいである。
もちろん、営業停止だが、晋吉にとっては、その方がありがたかった。もし営業が許されたところで、流れ出る血が眼先にちらついて、剃刀を持てるはずがなかったからである。
「下町に戻って、力仕事でもなんでもやる」
と、晋吉は、妻の文子にいった。文子も、かおるも、下町に戻ることを喜んでくれた。
二度目の引っ越しの最中に、中年の女が訪ねて来た。見知らぬ女だったが、「五十嵐清子です」と、名乗られて、晋吉の顔色が変わった。
「外で、お話をうかがいましょう」
と、晋吉は、相手を、家の外に連れて行った。文子には聞かれたくなかったからである。
晋吉は、蒼白い顔で、和服姿の女を見つめた。
「わたしが、ご主人を殺したとおっしゃりに来たんですか?」
「いいえ」
五十嵐清子は、ゆっくりとくびを横にふった。
「じゃあ、何の用で?」
「主人の身の回りの品物を整理していたら、あなた宛《あて》の遺書が出て来たのです。それでお届けにあがったのです」
「わたし宛の遺書?」
「はい」
五十嵐清子は、分厚い封筒を、晋吉に渡すと、姿を消した。確かに、その封筒には、「野村晋吉様宛遺書」と、書いてあった。晋吉は、その場で封を切った。
〈いつあなたに殺されるかわからないので、この遺書を記しておきます。
私は、駄目な役者でした。端役しかもらえないうえに、どうにもならない大根役者でした。でしたと書いたのは、今の私は、映画からもテレビからも、お呼びのかからない哀れな存在だからです。
五十三歳の私には、役者以外の仕事ができない。その役者の道が絶たれてしまったのでは、どうすることもできなくなりました。
もちろん、私一人なら、自殺すれば、それで万事解決です。だが、私には、妻もいるし、大学に入ったばかりの息子がいるのです。死ぬにしても、まとまった金額を二人に残してやりたいと思うのです。
さいわい、私は五百万円の生命保険に入っています。五百万あれば、妻と子供も何とか生きていけるでしょう。
問題は、自殺では、生命保険がおりないことです。運の悪いことに、私の身体が肝臓が少しいかれているほかは、至極頑健なのです。自然死や病気を待っていたら、親子三人が飢え死にしてしまいます。となると、残るのは事故死か、誰かに殺されるしかありません。
そんなとき、あなたの事故を目撃したのです。覚えていたナンバーから、あなたが理髪店をやっているとわかったとき、私は、あなたを利用することを考えたのです。あなたをゆすって追いつめれば、私を殺してくれるかもしれないと。
それでも、実行に移すまでに三カ月かかりました。
見ず知らずのあなたを、自分のために利用することに気が咎《とが》めたからです。私は、轢《ひ》き逃げをするような悪い奴《やつ》だから、利用してもかまわないと自分にいい聞かせました。もう一つの理由は、自分の演技に自信がなかったからです。私は、いかつい顔なので、映画でもテレビでも、悪役ばかりやらされましたが、演技が下手で、失笑ばかり買っていました。あなたをゆすっても、失笑されるのがオチかもしれない。そう考えて、ためらっていたのです。私は、必死で、ゆすりというものを研究しました。そして、あなたの前で、演技したのです。あなたは、失笑する代わりに顔色を変えてくれました。
考えてみれば、おかしなものです。三十年近い役者生活の間、一度として満足できる演技のできなかった私が、役者でなくなった今、演技で成功したのですから。だが、あなたが悪人ではなく、平凡な、いい人間だとわかってきたとき、私は心苦しくなってきました。幼児を助けるために、車の前に飛び出したのはそのせいなのです。あれは、子供を助けるためというより、自分を死なせるためでした。あれで死ねば、まさか、保険会社は、私が自殺したとは考えないでしょうから。だが、運よく、いや、運悪く、私は死にませんでした。
こうなると、やはり、あなたに頼るしか方法がないのです。私は、あなたをゆすり、金額を、倍にしていきました。そうすれば、あなたの私に対する憎しみも倍加していくだろうと計算したからです。
やがて、あなたは、私を殺すでしょう。あなたの手に持った剃刀が、私の命を絶つとき、私は、満足して死んで行くことができるのです。
一つは、五百万円の金を、今まで私のために苦労してきた妻と息子に残せる満足感です。
もう一つは、最後になって、素晴らしい演技ができたという満足感です。
私を許してください。なお、今まであなたからゆすり取った金を同封しておきます。
金七万六千二百円也(内調髪代千二百円)〉
初 出
歪んだ朝   『オール讀物』   昭和三八年九月
黒の記憶   『宝石』      昭和三六年二月
蘇える過去  『読切文庫』    昭和四一年七月
夜の密戯   『週刊アサヒ芸能』 昭和四八年一一月八日
優しい脅迫者 『読物専科』    昭和四四年一一月
本書に収録された作品は、昭和三、四十年代に発表されたものです。現在の用語表現として不適切な部分がありますが、当時の時代背景を知る上でも作品の雰囲気やリズムを損なわないよう、発表時の表現に従いました。(編集部)
角川文庫『歪んだ朝』平成13年5月25日初版発行