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悪女の舞踏会
西村京太郎
目 次
悪女の舞踏会
女に気をつけろ
女が消えた
女とダイヤモンド
拾った女
女と逃げろ
[#改ページ]
悪女の舞踏会
その招待状がきたとき、宗方哲二《むなかたてつじ》は、昼寝の最中だった。
妹が、彼を起こし、「女の人から手紙よ」と、笑って見せた。宗方も、にやッと笑って、その手紙を受けとったが、差出人の名前を見て、急に、こわばった表情になった。
〈柚木淑子《ゆきとしこ》〉
と、手紙には、見事な筆跡で、書いてあったからである。
宗方は、その名前に、苦い思い出がある。
三年前に、宗方は初めて彼女に会い、その美しさに、心を奪われた。
外見の美しさのように、心も美しいと錯覚したのだ。宗方は、柚木淑子に溺《おぼ》れた。二十三歳から二十五歳までの三年間は、彼女のために、費やされたといってもいい。
彼女の歓心を買うために、宗方は、どんなことでもやった。父の遺してくれた財産の殆《ほとん》ど半分近くを、彼女に捧《ささ》げた。いや、そうした金銭的なものは宗方にとって、どうでもよかった。問題は、精神的なものである。
三年間の献身は、それが報われなかったものだけに、宗方の心に暗い傷となって、残ってしまった。
宗方は、柚木淑子に弄《もてあそ》ばれ、そして捨てられたのだ。
しかし、それで、淑子のことが、忘れられたら、まだ幸いだったが、因果なことに、裏切られたと判《わか》ってからも、宗方は、淑子のことを忘れかねていた。
(あんな女のことは忘れるのだ)
と、自分にいい聞かせ、彼女との交際を知っている友人には、「もう忘れたよ」と、いっていたが、それが嘘《うそ》であったことは、今、彼女からの手紙を見て、動悸《どうき》が高まったことで、はっきりしている。
情けない――と思いながら、彼女の名前を見ているうちに、その艶然《えんぜん》とした笑顔が、頭に浮んでくるのだ。
宗方は、自分を情けないと思う。封を切らないまま、破り棄《す》てたいと思う。しかし、彼には、それができない。一度だけ、それも、お情けで抱かせて貰《もら》った淑子の白い裸身が眼にちらつくのだ。
この手紙を破り棄ててしまったら、二度と柚木淑子に会えなくなる。その思いが、彼をためらわせるのだ。彼女を憎む気持と、彼女に、もう一度会いたいという気持が、心の中で交錯している。
宗方は、結局、自分に負けて、封を切った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈その後、いかがお過しかしら?
私のことなんか、お忘れになってしまったでしょうね
私は、貴方《あなた》が忘れられない
だから、このお手紙を書きました
次の日曜日は、私の誕生日。ささやかな宴を張りたいと思います。是非、いらっしゃって下さいな
お待ちしています
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]貴方の淑子
宗方哲二さま〉
まるで、キャバレーのホステスの招待状ではないかと、笑うことはできた。しかし、宗方は、笑うより先に、淑子の顔を思い出してしまう。抵抗しがたい魅力を持った女の顔をである。
(俺《おれ》は、結局、のこのこと、あの女のところへ行くことになるだろう)
宗方は、そう思いながら、もう一度、手紙に眼を落した。
吉田|勝彦《かつひこ》は、招待状から眼を上げた。暗い眼になっていた。
「どなたからの、お手紙?」
と、妻は、台所で、ねぎをきざみながら、訊《き》いた。
「昔の友達だ」
とだけ、吉田は、いった。
柚木淑子の名前を、吉田は、忘れたことがなかった。忘れようと努めながら、どうしても忘れられなかったと、いった方がいい。結婚すれば忘れられるかも知れないと思い、半年前に、今の妻を貰《もら》った。しかし、無駄だった。
吉田は、甘い言葉で綴《つづ》られている招待状に、もう一度、眼をやった。
誕生日だから、きてくれという。誕生日。その言葉が、苦い追憶に、吉田を誘う。
三年前だ。吉田は、淑子の歓心を買うために、当時働いていた役所で、公金をゴマ化して、高価な指輪を、誕生日に贈った。
淑子を得るためなら、どんなことでもする気になっていたのだ。それほど、吉田は、彼女に夢中だった。
百万円のダイヤの指輪。それを指にはめた時、淑子は、こぼれるような微笑を浮べて、吉田を見た。これで、彼女は俺のものだと、吉田は思った。
しかし、それは、吉田の甘い錯覚だった。成程、その夜、吉田は、彼女を抱くことができた。だが、それだけだった。淑子は、それで取引きは終ったと考えたのだ。
「私は、金のかかる女なのよ」
と淑子は、平然とした顔でいった。
金のなくなった吉田を、淑子は、あっさりと捨てた。
吉田は、不正がバレて、役所を懲戒免職になった。それまでは、その役所で出世コースに乗っていると、周囲の人々から、羨望《せんぼう》されていた吉田だったのだ。
吉田は、自暴自棄になった。幾つかの職についたが、何処《どこ》も長続きしなかった。酒が原因だったり、上役との喧嘩《けんか》が原因だったりした。しかし、本当の原因は、柚木淑子にあった。
最後に、ビルの清掃人の仕事についた。そして、妻を貰《もら》った。
吉田は、手紙から眼を上げて、部屋の中を見回す。
三年前まで、高級官僚を目指して、出世欲に燃えていた人間の、これが生活だろうか。
吉田の顔に、自然に自嘲《じちよう》の笑いが浮んでくる。部屋代四万円の小さな部屋。調度品らしいものはほとんどありはしない。
妻の文子も、何の魅力もない女だった。背の低い、大根足の女だ。頭もよくはない。井戸端会議に、生き甲斐《がい》を感じているような女だった。
大学を卒業した時の理想は、何処へ消えてしまったのだろうか?
スポーツ・カーはどこへ消えてしまったのか? 美しい妻は、何故《なぜ》、自分のそばにいないのか?
(みんな、あの女のせいだ)
と吉田は思う。
柚木淑子に会いさえしなければ、今|頃《ごろ》、役所で、係長の椅子《いす》についていた筈《はず》だ。いや、課長補佐ぐらいにはなっていたろうか。そして、有力者の令嬢と、結婚していた筈なのだ。
芝生のある家と、自家用車。それも、手に入っていたかもしれないのだ。あの女に会いさえしなければ――
磯村時枝《いそむらときえ》は、こわばった顔で、自分あてに送られてきた柚木淑子の手紙を読みおえた。
誕生日にきて欲しいという。
(何という女なのだろう)
と、時枝は、腹が立った。
時枝は、柚木淑子と高校時代からの友達だった。
淑子は、その頃《ころ》から美しかった。美少女という言葉が、ぴったりする生徒だった。
頭は悪くはなかったが、勉強は余りしなかった。
時枝の方は、「才女」という綽名《あだな》で、友達から呼ばれていた。今になって考えてみると、この綽名には、尊敬と同時に、軽い皮肉も籠《こ》められていたのだと、判《わか》る。
淑子は、時枝に甘えていた。一種のS関係が、二人の間に生まれていたのである。淑子は妹のように、ふるまい、時枝は姉のように、ふるまった。
学校を卒業し、社会人になってからも、この関係は、続いているように見えた。淑子は、相変らず、何かというと、時枝に相談を持ちかけ、彼女に甘えているように見えたからだ。
しかし、淑子の態度に、微妙な変化の生まれていることに、時枝は、気付かなかった。
その頃から、淑子は、内心で、時枝を軽蔑《けいべつ》し始めていたのだ。頭は切れるが、女としての魅力に乏しい時枝を軽蔑するようになっていたのである。
時枝が、それに気付いたのは、一年前に、あの事件が起きた時だった。
時枝は、恋をした。自分にも、恋愛ができるのだと思い、それだけに、時枝は相手の男に夢中になった。
見栄えのする青年ではなかった。平凡な顔立ちの、背の低い青年だった。電子工学が専門なのに、下手くそな詩をつくって楽しんでいるような青年だった。名前は、山田一雄。
その二人の間に、淑子が、ずかずかと、はいりこんできたのだ。淑子がどんな風に、山田一雄を誘惑したのか、時枝は知らない。しかし、恋愛技巧には、子供みたいな時枝より、巧妙だったことだけは、はっきりしている。
山田は、淑子に夢中になってしまった。時枝は、淑子に負けたのだ。惨めな敗北感だった。が、それだけのことなら、まだ、時枝には、淑子を許すことができただろう。愛には選択の権利があるのだから。
時枝が許せなかったのは、淑子が、気を持たせておいてから、山田一雄を棄《す》てたことだった。
山田は、自殺した。精神的にも不器用な青年だったから。
淑子は、時枝に向って、「山田さんが好きだったのだけれど、貴女《あなた》という人がいると知って、諦《あきら》めたの。それを山田さんが誤解して――」と、いったが、時枝は、そんな言葉は信じなかった。
淑子は、自分の魅力を、一寸《ちよつと》、試したかっただけなのだ。山田一雄は(ということは、時枝がということであるが)そのモルモットに選ばれただけのことなのだろう。実験が成功すれば、モルモットに、用はなくなる。
この事件から、時枝は、淑子に会っていない。
淑子のことを忘れたわけではない。忘れたいと思いながら、憎しみが、心の底に燻《くす》ぶり続けて、忘れさせてくれないのだ。
時枝は、もう一度、招待状の文面に眼をやった。
昔のように、甘えた言葉が並んでいる。しかし、その言葉に、もう、時枝は欺《だま》されはしない。淑子は、恐らく、もう一度、時枝を軽蔑《けいべつ》するつもりで、招待状を寄越したのだろう。逆ないい方をすれば、自分自身の魅力を、もう一度確かめたくて――
見えすいていると、時枝は思う。時枝も、昔の時枝ではない。
(欺されたふりをして、淑子に復讐《ふくしゆう》してやるのも悪くはない)
と、時枝は、ふと、考えた。
宗方哲二は、門の前で、タクシーから降りた。
門柱に、眼をやった。招待状に書いてあった番地に、間違いはない。
広壮な邸《やしき》であった。
門へ入ると、暫《しばら》く細い道が続いている。東京にいることを忘れさせる静けさが、周囲を支配している。柚木淑子という女が、ますます、自分から離れた存在になってしまったような感じだった。
白塗りの洋館の前に立って、ベルを押す。
暫くして、重い扉が開いて、若いお手伝いが顔を出した。
無表情な顔で、「どなた様でしょうか?」と、訊《き》く。宗方は黙って、招待状を見せた。
「どうぞ」
と、お手伝いがいった。
「奥様が、お待ちかねでございます」
「奥様?」
と宗方は、訊き返してから門柱に、「峰岸」とあったことを思い出した。
柚木淑子は招待状には、何も書いてなかったが、峰岸という男と結婚したのだろう。
(しかし、結婚した女が、誕生日に、昔、関係のあった男を呼ぶというのは、どういう神経なのだろうか?)
長い廊下を、お手伝いについて歩きながら、宗方には、それが判《わか》らなかった。
宗方は、豪華なシャンデリアの輝く広間に通された。
その部屋には、既に、男女二人の客がいた。
すき透るような、黒のドレスを着た柚木淑子が、満面に笑みを浮べて、宗方を迎えた。細い頸《くび》に、真珠が光り、差出した指先には、ダイヤがきらめいていた。
淑子は、昔の美しさを失っては、いなかった。というより、更に、美しさを増したように見えた。それは、抵抗しがたい、甘美な美しさであった。
「やっぱり、きて下さったのね」
と淑子は、いった。
「本当に、嬉《うれ》しいわ」
「素晴らしい邸《やしき》ですね」
と、宗方は、いった。軽い皮肉を籠《こ》めたつもりであったが、淑子には、通じないようだった。
「ありがとう」
と、淑子は、満足そうに、笑っただけだった。
淑子は、宗方を、先客の男女のところに連れていった。
「ご紹介しますわ」
と、淑子は、落着いた声で、いった。
「吉田勝彦さんに、磯村時枝さん。お二人とも、私の親しいお友達――」
三人は、黙って、挨拶《あいさつ》を交わしたが、宗方は、淑子が「親しいお友達――」と、いった時、二人の顔に現れた、苦い表情を、見逃がさなかった。
この二人も、きっと自分と同じように、柚木淑子に、傷つけられた思い出を持っているに違いなかった。傷つけられながら、まだ柚木淑子という女の魅力から逃がれられないのだろうか。自分と同じように。
「どうぞ、お掛けになって」
淑子は、相変らず、笑いをふり撒《ま》きながら、三人に、椅子《いす》をすすめた。
宗方が最初に腰を下し、吉田勝彦と、磯村時枝も、それに、ならった。
「ご主人は?」
と、宗方が、訊《き》いた。
「今、参りますわ」
淑子は、いい、お手伝いに、「お呼びして」と命じた。
五分ほど待たされた。広間のドアが開き、車椅子に乗った老人が、姿を見せた。その車を押しているのは、先刻のお手伝いだった。
「主人ですわ」
と、淑子がいった。車椅子の老人は、三人に向って、弱々しい微笑を浮べて見せた。
吉田勝彦は、その老人の顔に見憶《みおぼ》えがあった。と、いっても、前に、何処《どこ》かで会って、話しあったということではない。
週刊誌で、見た顔なのだ。
確か、「現代の英雄」というタイトルだったような気がする。二、三年前の週刊誌だった。
峰岸徳太郎。それが、英雄の名前だった。
水呑《みずのみ》百姓の一人息子に生まれ、十歳の時に、両親に死別する。単身上京、そば屋の小僧、土工、呉服の行商と、職業を変え、その間に貯えた金で、二十歳の時に、小さな町工場を始めた。
戦争が、彼の町工場を、ふくれあがらせた。
現在では、個人資産五十億といわれている。二十五歳の時結婚した妻とは、二年前に死別し、孤独の生活を送っているが、事業欲は未《いま》だに旺盛《おうせい》である。
これが、吉田の知っている「現代の英雄」の姿だった。
この老人が、峰岸徳太郎であることは、間違いない。そして柚木淑子は、いつの間にか、峰岸夫人の椅子《いす》におさまっている。
淑子が、この老人に、愛情を感じたとは、信じられなかった。淑子は、そんな女ではない。
五十億の資産が、目当てに決っている。他に考えようがなかった。淑子にしてみれば、彼女の若さと美しさで、五十億の資産を買ったつもりなのだろう。
吉田は、運ばれてきたシャンペンに、口をつけながら、車椅子の老人に目をやっていた。
二、三年前の週刊誌は、この老人を、「現代の英雄」の名で、呼んだ。しかし、今、眼の前にいる老人には、そんな言葉は、ふさわしくなかった。
平凡な、弱々しい老人だ。病気が、彼を弱々しくさせてしまったのだろうか。それとも、淑子の若さが、老人の体に残っていた力を吸い取ってしまったのだろうか。
「本当は、もっと盛大に、淑子の誕生日を祝いたかったのですが――」
と、峰岸徳太郎は、誰《だれ》にともなく、いった。
「淑子が、親しい人達だけで、祝いたいというものですから、あなた達に、きて頂いたわけです」
「そのかわり――」
と、淑子が、微笑しながら、いった。
「あなたの誕生日は、知り合いの方全部にきて頂くつもりよ」
甘えた声であった。
吉田は、老人の顔がだらしなく崩れるのを見た。
(この老人は、淑子に夢中だ)
と、吉田は、思った。恐らく、峰岸徳太郎は、残り少い人生を、淑子との甘い生活に賭《か》けているのだろう。淑子の、どんな我儘《わがまま》も、許すに違いない。
(しかし、この老人は、今日招待された三人を、どう思っているのだろうか?)
吉田には、それが判《わか》らなかった。淑子と、昔、なんらかの関係があったと、知っているだろうか?
吉田は、視線を老人から、淑子に移した。
淑子は、老人のために、甲斐甲斐《かいがい》しく、料理を口に運んでやっていた。
(峰岸徳太郎の気持は判らないが、淑子の気持も判らない)
と、吉田は、思う。
淑子は、なぜ、自分達を呼んだのだろうか? 彼女が、まだ独身ならば、考えようもある。自分の魅力を再確認したくて、昔、関係のあった男を呼んだ。そう考えることもできる。
しかし、柚木淑子は結婚し、峰岸淑子と名前が変っていた。大金持の椅子に坐《すわ》ったことを、吉田達に誇示したくて、招待状をよこしたのだろうか。それとも、ただ単に昔の友達が、懐しかったのか。
吉田には、想像がつかない。
時枝は、昔、「年寄りは、不潔だから嫌いだわ」と、いった淑子の言葉を、思い出していた。
昔といっても、数年前のことだ。その淑子が、平然と、老人に寄りそっている。二人を結びつけたものが、愛情でないことは、はっきりしている。老人の方は、淑子に愛を感じたかも知れないが、淑子が、愛情を持って、この老人に近づいたとは、思えなかった。
打算だと、時枝は、思う。他に、考えようがない。淑子が、打算以外に、こんな老人に近づく理由が、考えられるだろうか。
(しかし、なぜ、あたしを、誕生日に、呼んだのだろうか?)
時枝は、シャンペンを口に運びながら考える。
(自分が、資産家の夫人になったことを見せつけるためだろうか)
そんなところだろうと、時枝は思う。彼女には、他に考えられなかった。柚木淑子という女は、自分が幸福であっても、それで満足しない。誰《だれ》かを犠牲にして、幸福感を倍加させようとする女なのだ。
奇妙な祝宴であった。
主賓の淑子だけが、楽しげに喋《しやべ》り、甲高《かんだか》い笑い声を立てた。
峰岸は、低い声で妻の冗舌に、時々|合槌《あいづち》を打っている。弱々しい声であり、微笑にも、力がなかった。余程、身体《からだ》が衰弱しているのかも知れない。しかし、時折、ふっと、妻を見る眼に、時枝は、若く美しい妻を失いたくないという、執念に似たものを見るような気がした。老人の執念とでもいうのだろうか。この身体では、若い淑子との間に夫婦の営みも、ままならないだろう。また、それだけに、失いたくないという欲望も強くなるのかも知れない。
「主人は、素晴らしいお金持なのよ」
と、淑子は誇らしげに喋っている。何とかいう会社の重役、何処何処《どこどこ》の観光事業に出資しているというようなことを、並べ立てているのだ。
淑子のお喋りは、仲々、止《や》みそうもない。
今度は峰岸の買ってくれたスポーツ・カーの話になった。
日本には、まだ数台しかない車だという。
「結婚した時、主人が買ってくれたのよ」
と淑子は甘えた声で、いった。車|椅子《いす》の老人はただ、笑っただけだった。
時枝は、別に羨《うらや》ましいとは思わないが、羨ましがらせようとする淑子の態度に腹が立った。
客の三人は、時枝を含めて、だまりこくって、シャンペンを口に運んでいる。喋り続けている淑子とは、奇妙な対照であった。
時枝には、二人の男の客の素姓は、判《わか》らない。しかし、時折り見せる苦い表情から、淑子との過去の関係を推測することができた。この二人の男も、淑子を憎みながら、彼女の魅力に負けて、今度の奇妙な招待を受けた形になったのだろう。
先刻のお手伝いに、もう一人のお手伝いが加わって、客達に、酒を注《つ》いで回った。
時枝は酒に強い方ではない。好きというわけでもない。しかし、感情の高ぶりが、彼女に、グラスを重ねさせた。二人の男の客も、同じように、グラスを口に運んでいる。
淑子が、急に立ち上って、部屋の隅にあるステレオ装置の蓋《ふた》をあけた。
柔らかい音楽が、部屋に流れた。淑子は、テーブルに戻ってくると、
「踊って頂けません?」
と、宗方哲二に、声をかけた。
宗方は、その曲に、記憶があった。
彼の好きな曲である。その曲に合せて、淑子と、何度か踊ったことがある。淑子の思い出は、その曲に、からみついているといってもよかった。
淑子が、彼から離れてしまった後では、その曲は、苦い思い出になった。耳にすることが、苦痛であった。
淑子は、そのレコードをかけ、宗方を誘っている。
宗方の顔に当惑の色が浮んだ。相手の気持が判《わか》らないのだ。
淑子は、手をのばして、宗方を、誘った。白く細い指先が、宗方の肩に触れた。甘美な戦慄《せんりつ》が、彼の身を走り抜け、それに誘われたように、宗方は、椅子《いす》から、立ち上った。
うす衣に包まれた淑子の身体《からだ》を抱くと、宗方の胸に、昔の思い出が、蘇《よみがえ》ってきた。
「私を憎んでいて?」
踊りながら、淑子は、小声で囁《ささや》くようにいった。
宗方は、眼の前で、微笑している淑子の顔を眺めた。
「私を憎んでいて?」
「判らない」
宗方は、低い声で、いった。自分でも判らなかった。まだ、彼女を愛しているのかも知れないし、憎んでいるかも知れない。こうして踊っていても、次の瞬間には、淑子の頸《くび》を絞めてやりたい衝動にかられるかも知れないのだ。
「私は悪い女なのね」
淑子が、生真面目《きまじめ》な表情を作って、いう。
「自分でも判らないうちに、相手の人を不幸にしてしまうのよ。貴方《あなた》だって、知らないうちに傷つけてしまった――」
「――――」
「貴方は、私にとって、立派すぎたわ。だから、私は、辛《つら》かったけど、貴方から離れることにしたの」
「――――」
「貴方も傷ついたでしょうけど、私も傷ついたのよ。それは判って頂きたいわ」
「――――」
宗方は、黙って、淑子の言葉を聞いていた。本心かどうか、宗方には判らない。恐らく嘘《うそ》だろう。しかし、嘘だと判っていても、淑子の言葉は、宗方の耳に、ふと甘く響いた。
踊りながら、淑子は、二人のお手伝いに、退《さ》がるように、いった。
「私達だけで、楽しくやりましょうよ」
と淑子は、宗方にいい、テーブルにいる三人にも、いった。
その曲が終ると、淑子は、レコードを変え、今度は、吉田を誘った。
吉田勝彦は、ダンスは、余り上手《うま》くなかった。しかし、淑子に誘われると、つられたように立ち上って、彼女の身体《からだ》を抱いた。
「相変らず、ダンスは下手《へた》なのね」
淑子は、顔をすり寄せるようにして、いった。
甘い香水の匂《にお》いが、吉田には、くすぐったかった。
世帯やつれした、平凡な妻のことが思い出された。そして、四畳半の狭い部屋が。
(何という違いだろうか?)
と、思い、その思いが、吉田の口許《くちもと》を歪《ゆが》めさせた。
「何を考えていらっしゃるの?」
淑子が耳許で囁《ささや》いた。
「私を殺してやりたいと、思っていらっしゃるんじゃないの?」
「え?」
吉田は、驚いて、淑子の顔を見た。確かに殺してやりたいと思ったこともある。今でも、彼女に対する憎しみが消えたとは、いい切れない。
「いいのよ」
と、淑子が、小さな溜息《ためいき》をついてみせた。
「私は、殺されたって、仕方がない女ですものね」
「――――」
「私は、悪い女だわ。本当に――」
「――――」
吉田は、ぼんやりした眼で、淑子を眺めた。これは、芝居だろうか? 芝居に決っている。懺悔《ざんげ》という言葉ほど、この女に不釣合な言葉はない。
そう思いながらも、吉田は、心の奥に、この女を、もう一度抱きしめたいという欲望が、湧《わ》き上ってくるのを感じた。
「君は、あの老人で、満足しているのか?」
吉田が、訊《き》いた。
「何が?」
淑子は、下から、見上げるようにして、首をかしげて見せた。
「君が、あんな老人に満足しているとは思えない」
「私は、峰岸を愛しているわ」
「彼の財産をだろう?」
「さあ――」
淑子は、あいまいに笑って見せた。
「君の若い身体《からだ》が、満足できる筈《はず》がない」
「私が、満足していないといったら、あなたは、どうするつもり?」
「――――」
「峰岸を殺して、私を奪い取るぐらいの勇気が、おありかしら?」
「――――」
吉田は、呆然《ぼうぜん》として、淑子の顔を見直した。思わずステップを違えて、彼女の足を踏んでしまった。
淑子が、小さな笑い声を立てた。
「ご安心なさい。冗談にいったのよ」
「――――」
「峰岸は、いい人よ」
淑子が、いった。吉田は、自分が翻弄されているのを感じた。
テーブルに戻ると、淑子は、峰岸に、
「時間よ」
と、いった。峰岸は、手に持っていたシャンペンのグラスをテーブルに置くと、腕時計に、眼をやった。
峰岸は、三人の客に、
「一寸《ちよつと》、失礼させて頂きます」
といった。
磯村時枝は、淑子が、車|椅子《いす》を押して、峰岸を、部屋の隅の電話のところまで運んで行くのを見ていた。
峰岸は、テーブルに背を向けて、受話器を取り上げた。
淑子は、テーブルに戻ってくると、
「仕事のことなのよ」
と、三人にいった。
「毎日決った時間に、事務所に電話することになってるの」
電話だけで、何百万、何千万という金を右から左に動かすこともあると、淑子は、多少、自慢そうに、いった。
新しいレコードが掛けられた。
淑子は、もう一度、宗方を誘って、踊り始めた。
「時枝さんも、吉田さんと踊ったら?」
と、淑子が、いった。
時枝は、吉田勝彦と顔を見合せたが、踊る気にはなれなかった。
淑子のいう通りに動くのも癪《しやく》だったし、その頃《ころ》になって、急に酔いが回ってきたこともあった。
「ごめんなさい」
と、時枝は、吉田にいって、椅子から立ち上ると、窓際まで歩いて行った。
窓を開けて、夜気を吸いこんだ。初冬の冷たい空気だったが、酔いに、ほてった肌には、かえって心地よかった。
時枝は、窓にもたれて、暫《しばら》くの間、夜の庭に眼を向けていた。草木が深い。
その間、淑子は、パートナーを変えて、踊り続けているようだった。
(奇妙な祝宴だな)
と、時枝は思った。
(一体、誰《だれ》が、本心から、この祝宴を喜んでいるだろう?)
と、考えた。宗方と吉田という二人の男が、心から喜んでいるとは、思えない。むしろ、憎んでいるのではあるまいか。
峰岸というあの老人にしても、にこにこと笑っていても、心から楽しんでいるとは、考えられなかった。きっと、若い妻の行動を、苦々しく感じているに違いない。
時枝自身も、淑子に対する憎悪が消えてはいない。もし、淑子と二人だけだったら、思い切り、相手を、罵倒《ばとう》したい気がする。いや、頸《くび》だって絞めかねない。
本当に喜んでいるのは、淑子一人だけだと思った。あの女は、他人を馬鹿にすることで、幸福感を味わっているのだ。
時枝は、暫くしてから、テーブルに、戻った。
峰岸は、相変らず、背を見せて、電話をかけていた。
淑子は、吉田勝彦と踊っていた。
宗方は、ぶすッとした顔で、煙草を口に咥《くわ》えていた。
「時枝さん」
と、淑子が踊りながら、声をかけた。
「すいませんけど、峰岸に、シャンペンを持っていってやって下さらない」
「いいわ」
と、時枝は頷《うなず》いた。
時枝は、峰岸のグラスを持とうとして、それが、空になっていることに気付いた。時枝が、瓶を持って、注《つ》ごうとすると、淑子が、
「私のを、持っていってあげて――」
と、いった。
「私のは口紅がついてるけど、その方が喜ぶのよ」
時枝は、勝手にしろと、思った。
時枝は、淑子のグラスを、電話をかけている峰岸のところまで、運んでいった。
「こりゃあ、どうも――」
と、峰岸は、受話器を持ったまま、恐縮した顔でいった。
「淑子は、どうもわがままな女で、貴女にこんなことまで頼んで――」
時枝は、黙ってグラスを、峰岸の傍《そば》に置いた。
時枝は、テーブルに戻ると、
「もう帰らせて頂くわ」
と、踊っている淑子に、いった。
淑子は、踊りを止《や》めて、
「まだ、いいじゃないの」
といった。
「まだ、九時になったばかりよ。私は、泊っていって頂くつもりでいるのに」
「用があるのよ」
時枝は、かたくなな調子で、いった。
「だから、帰らせて貰《もら》うわ」
「それなら、お手伝いに、車を呼ばせるわ」
「結構よ。ひとりで、車を探すわ」
時枝は、切口上にいって、ドアに向って歩きだした。帰った方がいい。
その時、彼女の背後で、低い呻《うめ》き声が起きた。
時枝は、立ち止って、ふり向いた。
彼女の眼の前で、峰岸徳太郎の身体《からだ》がゆっくりと車椅子から転げ落ちていった。
シャンペンの入ったグラスが、床に落ちて、割れた。
警察のパトロール・カーが、現場である峰岸邸に到着したのは、十時十五分過ぎであった。
矢部警部補は、広間に入ると、床に倒れている老人の身体に、眼をやった。
確めるまでもなかった。老人は、死んでいた。
同行した警察医が、死体を覗《のぞ》きこみ、死体の傍《そば》に散乱しているグラスの破片を調べてから、
「青酸死らしいですな」
と、いった。
矢部は、グラスの破片の一つを手に取って、匂《にお》いをかいでみた。青酸特有の甘酸っぱい匂いがした。
矢部は、部屋の隅で、呆然《ぼうぜん》としている四人の男女に、眼を向けた。だいたいの事情は、一一〇番を受けた係員から、聞いている。
「電話をかけてこられた峰岸淑子さんは?」
と、矢部が声をかけると、蒼白《あおじろ》い顔をして、
「私です」
と、いった。
矢部は、美人だなと思い、何となく、死んだ老人と比べる眼になっていた。年齢が違いすぎるようだった。
矢部は、淑子だけを、部屋の隅に呼んだ。
「詳しい話を聞かせて貰《もら》えませんか」
「私にも、何が何だか判《わか》らないんです」
淑子は、声を震わせていた。
「時枝さんに、頼んで、シャンペンを、峰岸のところへ持って行って貰ったんです。そしたら、それを飲んで、峰岸が――」
「なぜ、貴女《あなた》が持っていかなかったんです?」
「私は、吉田さんと、踊っていましたから」
「成程ね。ところで、先刻、グラスの破片を見たんですが、口紅がついていましたが、あれは?」
「私のグラスだからですわ」
「貴女の?」
矢部の眼が光った。
「ええ。峰岸のグラスが、丁度空だったんで、私のを持っていって貰ったんです」
「すると、貴女《あなた》が、そのまま飲んでいたら、貴女が死んだことになる」
「私が?」
「そうです。誰かが、貴女を殺そうとした。それが、偶然のいたずらで、ご主人が死ぬことになってしまったのかも知れません」
「そんな恐ろしいことが――」
「恐ろしいことが起きているのですよ。それとも、ご主人には、自殺するような徴候があったのですか?」
「いいえ」
「あの三人は?」
矢部は、三人の男女を顎《あご》で示した。
「昔のお友達ですわ。私の誕生日に、お呼びしたんです」
「ご主人の友達ですか? 年齢は違うようですが――」
「私のです」
「三人のうちの誰《だれ》かが、貴女か、ご主人を恨んでいるようなことは?」
「判《わか》りません」
「判らないということは、いいづらいということですか?」
「私は、昔のことは、水に流したつもりでした。そのつもりで、今日、お呼びしたんです。でも、それは、私のひとり合点だったかも知れませんわ」
「どうやら、複雑なお友達のようですな」
矢部は、難しい顔で、いった。
十一
一応の訊問《じんもん》が終ったのが、十二時近かった。
「妙な事件だ」
と、矢部は、メモを見ながら、杉原という若い刑事にいった。
「誰にも動機があるし、チャンスもあった」
「誰にもというと、客として呼ばれた三人全部にですか?」
「三人と、峰岸淑子の四人さ」
「峰岸淑子もですか?」
「淑子は、死んだ峰岸を愛していたといっているが本心かどうか判《わか》らん。財産目当ての結婚だったら、峰岸が早く死んでくれた方が、遺産が早く手に入る。五十億の遺産だ。充分、殺人の動機にはなるよ」
「五十億ですか――」
若い杉原刑事は、眼を丸くした。
矢部は、苦笑した。
「あんまり羨《うらや》ましそうな顔はするなよ。お前さんの金じゃない」
「判ってます」
「シャンペンを運んだ磯村時枝だが、彼女が一番、青酸を入れ易い立場にいたことだけは、確かだ」
「しかし、彼女が犯人で、運ぶ途中で、青酸を入れたのなら、なぜ、淑子でなく、峰岸を殺《や》ったんですか。恨みがあるのは、淑子のわけでしょう?」
「それは、こう考えられる。磯村時枝は、淑子のおかげで、恋人を失っている。だから、そのお返しに、淑子の夫を殺したのかも知れん。お手伝いの話では、淑子は、夫のことを盛んに自慢していたそうだから、それを聞いた時枝は、余計、自慢の夫を殺してやろうと考えたともいえるからね」
「宗方哲二と、吉田勝彦の動機も、淑子への憎しみということですか?」
「そんなところだ。それに、二人とも、青酸を入れるチャンスは、あった筈《はず》だ。死んだ峰岸は、背中を見せて、電話をかけていたんだし、磯村時枝は、酔いを醒《さ》ますために、窓を開けて、外を見ていた。そして、淑子は、残った二人と、かわるがわる踊ったわけだから、テーブルに残っていた宗方なり吉田なりが、淑子のグラスに、青酸を流しこむチャンスは、充分に、あったわけだ」
「四人が四人とも、容疑が濃いとなると、面倒ですね」
「じっくり調べてみるさ」
矢部は、杉原刑事に、微笑して見せた。とにかく、容疑者は限られているのだ。焦《あせ》ることはない。
矢部は、四人の所持品と衣服を調べさせた。
青酸加里を、裸で持っていたとは、思われない。恐らく、紙に包んで、用意していたのだろう。そうだとすれば、青酸の付着した紙片が、発見できるかも知れないと思ったからである。
しかし、矢部は、この調査に、あまり、期待はかけていなかった。四人のうちの誰が犯人であるにしろ、証拠になるようなものを、今|頃《ごろ》まで、身につけている筈《はず》がないからである。警察がくるまでの間に、始末してしまったに違いないと、矢部は思っている。
調査の終ったのが、翌朝であった。
「見つかりました」
と、興奮した声で、杉原刑事が、飛びこんできた。
「見つかった?」
矢部は、一寸、意外な気がした。犯人は、始末する時間がなかったのだろうか。
「誰が持っていた?」
「吉田勝彦です。彼の上衣《うわぎ》のポケットから、小さく丸めた紙片が見つかったのです。鑑識で調べて貰《もら》ったところ、強い青酸反応があったそうです」
「吉田勝彦がね」
矢部は、杉原刑事の言葉に頷《うなず》きながら、人生の敗北者然とした吉田の顔を、思い出していた。
十二
吉田は逮捕された。
訊問《じんもん》に当った矢部警部補が、最初に聞かされたのは、激しい否定の言葉であった。
「僕じゃありませんよ」
と、吉田は、甲高《かんだか》い声で、いった。
「僕があんな年寄りを殺す筈《はず》がないじゃありませんか。車|椅子《いす》の病気の年寄りを――」
「確かに、君には、峰岸徳太郎を殺す動機は、ないかも知れない。しかし、峰岸淑子を殺す動機は、充分にあった筈だ。君と彼女との関係は、調べてあるからね」
「僕が、淑子を殺すつもりで、グラスに青酸加里を入れたというんですか?」
「違うのかね」
「違いますよ。僕じゃない」
「それなら、なぜ、この紙片が、君のポケットに入っていたのかね?」
矢部は、相手の眼の前に、青酸反応の検出された紙片を、突きつけた。
「この紙片からは、青酸反応が検出されたんだよ」
「そんなことは、僕の知ったことじゃない」
「ひどく無責任な答だね」
矢部は、硬い表情で、相手を見詰めた。
「そんな返事では、なぜ、これが、君のポケットに入っていたかの説明にはならんよ」
「誰《だれ》かが、僕をおとし入れるために、そんな物を、僕のポケットに投げこんだんだ」
「誰がだね?」
「そんなことは、知りませんよ」
「それが本当だとして、そんなチャンスは、あったかね?」
「ありましたよ」
吉田は蒼い顔でいった。
「淑子は、僕をダンスに誘った。踊っている時に、僕のポケットに、入れることはできた筈ですよ」
「成程ね。他の客は?」
「彼等にだって、チャンスは、あった筈ですよ。みんな、相当、酔っ払ってましたからね。丸めて放りこむぐらいわけはないでしょう」
「すると、君は、青酸加里など用意して行かなかったというのだね?」
「当り前ですよ。僕は、彼女の誕生日のお祝いに招待されたんですよ。そんなめでたい席に、誰が、そんな物騒な物を持って行くというんです? 冗談じゃありませんよ」
「そうかね」
矢部は、にこりともしないで、いった。
「君には、青酸加里を贈物にしたいような感情が、あったんじゃないかと、思ったんだがね」
「そんな風に考えられるのは迷惑ですよ」
吉田は、口許《くちもと》を歪《ゆが》めて見せた。
「確かに、僕は、淑子を憎んでいたかも知れません。しかし、昔のことです。今では、もう妻を貰《もら》って、平和な生活を送っているんです。淑子を殺す気なんか、ありませんでした」
「しかし、彼女の証言によると、君は、彼女に向って、しつこく、今のご主人で満足しているのかと、訊《き》いたそうじゃないか? 昔のことを忘れたというのなら、なぜ、そんなことを訊いたのかね?」
「それは――」
吉田は、急に、狼狽《ろうばい》した表情になった。矢部は、冷たい眼で、吉田を見た。
「君にとって、淑子から受けた傷は、まだ、癒《いや》されていなかったんじゃないのかね? だから、招待状を貰うと、彼女を殺すつもりで、青酸加里を手に入れて――」
「僕じゃない。僕が殺《や》ったんじゃない」
「それは、調べれば、判《わか》ることだ」
矢部は、席を立つと、刑事の一人を呼び寄せた。
「吉田が、招待状を受け取ってから、どんな行動を取ったか、それを、徹底的に、調べてくれ。もし、彼が、青酸加里を手に入れたとすれば、その後の筈《はず》だからね」
「判りました」
刑事は頷《うなず》いて、部屋を飛び出して行った。
十三
「吉田勝彦が犯人でしょうか?」
杉原刑事が、矢部に訊《き》いた。
「判《わか》らん」
と、矢部はむずかしい顔で、いった。
「吉田かも知れないし、彼がいうように、誰《だれ》かが、彼に罪をかぶせるために、この紙片を丸めて、彼のポケットに投げこんだのかも知れない」
「考えてみれば、誰にも動機はありますからね。どうして、峰岸淑子は、あの三人を客に呼んだんでしょう? 彼女を恨んでいる人間ばかりじゃありませんか」
「僕にも、あの女の気持は、判らん。彼女自身は、和解したかったといっているが、彼女を殺しかねない連中ばかりだよ。求めて危険を冒した恰好《かつこう》だ。案外、あの女は、そのスリルを楽しもうとしたのかも知れないがね」
「スリルをですか?」
「ああ、世の中は、そんな人間も、いるものさ。あの女は、美人だが、仲々らしいからね」
矢部が苦笑して見せた時、捜査に飛び出していた刑事が戻ってきた。
「証拠を掴《つか》みましたよ」
と、その刑事は、勢い込んだ調子で、矢部にいった。
「青酸の入手経路が判《わか》ったのか?」
「そうです。吉田は、淑子から招待状を受け取った翌日、昔の知り合いで、現在、鍍金《めつき》工場で働いている男を訪ねています」
「鍍金工場?」
矢部の顔が、明るくなった。
「鍍金工場というと、工業用の青酸加里があるな」
「その通りです」
刑事が頷《うなず》いた。
「その男を掴《つか》まえて、訊《き》いてみたんです。最初は否定していましたが、十万円の謝礼を受けとって、工業用の青酸加里を渡したことを自供しました。共犯の疑いで、逮捕しました。中尾進次という男です」
「これで、吉田も、お陀仏《だぶつ》だな」
矢部はにやっと笑った。
「中尾進次という名前を聞いて、奴《やつ》が、どんな顔をするか楽しみだよ」
確かに、矢部の言葉通りだった。
中尾進次の名前を聞かされた時の、吉田の狼狽《ろうばい》ぶりは、滑稽《こつけい》なほどだった。しかし、吉田は、「参りました」とはいわなかった。
「僕じゃありません」
と、先刻と同じ言葉を繰り返すばかりだった。
「往生際は、もう少し良くしたらどうかね」
矢部は、いらいらした表情になって、いった。
「証拠は、揃《そろ》っているんだよ。青酸加里を、君が入手したことは、判ってるんだよ」
「確かに、青酸加里は手に入れました」
「それを、持って、出かけたんだろう? 淑子を殺すつもりで」
「――――」
「どうなんだね?」
「ええ。淑子を殺してやろうと思って紙に包んで、持って行きました。しかし、使いませんでした」
「使わなかった?」
「本当です。信じて下さい」
「それなら、その青酸加里は、どこにあるのかね?」
「捨てました。峰岸さんが、あんな死にかたをしたんで、持っていては、自分が疑われると思って、捨てたんです」
「どこへだね?」
「あの部屋の窓から、庭の茂みへです。嘘《うそ》じゃありません」
「その青酸加里を包んだ紙に、何か特徴は?」
「大学ノートを破いて包んだんです」
吉田は、必死な表情で、いった。
十四
矢部は、杉原刑事を連れて、もう一度、峰岸邸を訪ねた。
吉田の言葉を信じたわけではない。念のためにという気持だった。夜になっていた。峰岸淑子に断って、二人は、庭に入った。
深い茂みになっていて、蒼白《あおじろ》い水銀灯が、点《つ》いていた。
矢部と杉原刑事は、懐中電灯で深い茂みを、探し回った。
なかなか見つからない。
「出鱈目《でたらめ》じゃないですかね」
杉原刑事が、いった。
「一時の、いい逃がれに、いったような気がするんですが――」
「あれを見ろ」
と、ふいに、矢部が、強い声で、いった。
「あの大きな葉の下に、紙片のような物が見えないか?」
「見えます」
杉原刑事は四つん這《ば》いになると、右手を伸ばして、その紙片を拾い上げた。四角く折りたたんであり、何か入っているらしく、ふくらんでいた。
「大学ノートの紙のようだな」
矢部はひとり言のようにいってから、杉原刑事の持つ懐中電灯の下で、その紙片を拡《ひろ》げてみた。中から出てきたのは、白い結晶体の粉末だった。
「青酸加里ですか?」
杉原刑事が訊《き》いた。矢部は、頷《うなず》いて見せた。
「そうだ。これは、間違いなく、青酸加里だよ」
矢部は、紙包みをポケットにしまうと、もう一度、それが落ちていた辺りを、懐中電灯で、照らしてみた。
「おやッ」
と、杉原刑事が声をたてたのは、その時である。
「主任。こっちを見て下さい」
杉原刑事は、別の箇所を、懐中電灯で、照らして見せた。
「ここにも、同じような紙包みが、落ちていますよ」
「同じものが?」
矢部は、驚いて、杉原刑事が指さす辺りに眼をやった。確かに、同じような紙包みが、眼に止った。しかも二つである。
矢部は、その二つの紙包みを拾い上げた。一つは、薄茶の折り紙をたたんだ物、もう一つは、便箋《びんせん》の用紙だった。
「まさか、その中にも、青酸加里が入っているなんてことは、ないでしょうね」
杉原刑事が、笑いながら、いった。しかし、二つの紙包みを拡《ひろ》げた時、矢部の顔に、驚愕《きようがく》とも、当惑ともつかぬ表情が浮んでいた。
「どうやら奇跡が起きたらしいよ」
と、矢部は、乾いた声で、いった。
「どちらにも、青酸加里が入っている。これは間違いなく青酸加里だよ」
十五
捜査本部に戻った矢部は、机の上に、三つの紙包みを並べた。
「今度は、証拠が、多すぎるというわけですね」
と、杉原刑事が、いった。
「証拠がないのも困りものですが、こうゾロゾロ出てくると、持て余しますね」
「いや、これでいいんだ」
矢部は、腕を組んだまま、いった。
「一つしか発見されなかったら、今度の事件は、解決できずに終ったかも知れん」
「よく判《わか》りませんが――」
「すぐ判るさ。それより調べなきゃならんことがある」
矢部は、刑事達を呼び寄せた。
「今度は、宗方哲二と、磯村時枝の二人を、調べて欲しい」
と、矢部は、いった。
「二人が、峰岸淑子から招待状を受け取ってから、どんな行動を取ったかをだ。恐らく、吉田勝彦と同じように、淑子を殺すつもりで、青酸加里を入手した筈《はず》だからね」
刑事達は頷《うなず》いて、捜査本部を出ていった。
調査は、矢部の推測通りの報告をもたらした。
宗方哲二と、磯村時枝の二人ともが、申し合せたように、淑子の招待状を受けとった後、青酸加里を入手するために、奔走《ほんそう》しているのである。
「驚きましたよ」
と、捜査から戻ってきた刑事の一人が、矢部に向って、肩をすくめて見せた。
「青酸加里を用意して、招待に応ずる客なんて、ありますかね。しかも、二人が二人ともです」
「二人じゃない三人だよ」
矢部が、落着いた声で、訂正した。
「淑子から招待された三人が、三人とも、青酸加里を用意して、あの邸《やしき》へ出掛けたわけさ」
「物騒な客ですな」
「物騒な客だったおかげで、今度の事件が解決できそうだ」
「峰岸徳太郎を殺《や》ったのは、吉田勝彦ではないということですか?」
「その通りさ」
矢部は、机の上に並べた、三つの紙包みを見て、いった。
「この中の一つは、吉田勝彦のもので、他の二つは、恐らく、宗方哲二と、磯村時枝が、青酸加里を包んで、祝宴に持っていったものだと思う。紙に特徴があるから、調べれば判《わか》る。つまり、吉田、宗方、それに磯村時枝の三人は、憎い淑子を殺してやりたいと思い、各自、青酸加里を用意して、邸に出かけたわけだ。ところが、自分達が、その薬を使わないうちに、峰岸が毒死してしまった。疑われることを恐れた三人は、周章《あわ》てて、青酸の包みを、窓から庭に投げ棄てたのだ。それが、これだ」
「犯人が三人の中にいないとなると、淑子しか残りませんね」
「その通りさ。残るのは、淑子しかいない。恐らく、彼女は、夫を殺して遺産を手に入れることを考えて、今度の計画を立てたんだと思う。自分を憎んでいる三人を呼び、その席で、夫が死に、三人の中の一人のポケットから、青酸を包んだ紙片が発見されれば、その人間に、疑いがかかると、考えたのだ」
「峰岸は、毎日決った時間に、電話をかけることになっていたそうですから、計画は、立てやすかったわけですね」
「丁度、夫のグラスが空になった時に、電話に向わせれば、自分のグラスを与えることも簡単だよ。ダンスをしながら、相手のポケットに、紙片を投げこむことも、わけはない。殊に、昔を思い出させるような会話を交しながらね」
「もう少しで、その計画が成功するところでしたね」
「ああ」
と、矢部は頷《うなず》いた。
「淑子は、一つだけミスをした。それが命取りになったわけさ」
「一つのミスって、何のことです?」
「淑子は、三人に、自分が憎まれていることを知っていた。だから、三人のうちの一人を、誰《だれ》でも構わず、犯人に仕立て上げようと考えた。しかし、三人が三人とも、青酸加里を用意してくるほど、自分を憎んでいるとは、考えなかったことだよ。自分が相手に与えた心の傷の深さを、正確に見透せなかったのさ。だから、失敗したんだ」
矢部は、一寸、暗い顔になって、いった。
淑子という女は、悪女だが、別な見方をすれば、心のどこかに、未熟な部分が、あったのでは、ないだろうか。
その日の午後遅く、宗方哲二と磯村時枝が、青酸加里を入手したこと、峰岸徳太郎が死んだあと、周章《あわ》てて、用意して行った青酸加里を、窓から庭に投げ棄てたことを、自供した。吉田勝彦も含めて、三人とも、今まで、自分だけが、青酸加里を用意して、出かけたと考えていたらしい。
恐ろしいが、同時に滑稽《こつけい》でもあった。
「これで、決ったな」
矢部は椅子《いす》から腰を上げて、刑事達に、いった。
「そろそろ、峰岸淑子に会いに出かけようじゃないか。悪女退治にね」
「あの三人は、どうなりますか」
部屋を出ながら、杉原刑事が訊《き》いた。
「あの三人か――」
矢部は、首をかしげた。
「難しいことをいえば、殺人未遂だが、そうもいかんだろうね。老練な弁護士にかかったら、三人は、自殺のために、青酸加里を持っていたことになってしまうだろうからね。自殺未遂では、逮捕状は貰《もら》えんよ」
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女に気をつけろ
歩き出すと、また、指が痛み出した。左手の人差指に巻いた包帯に、血がにじんで来ていた。
おれは、眉《まゆ》をしかめた。今日は、朝からついていない。日曜日だというのに、誘う女の子もいない。まあ、女に縁がないのは、今に始ったことじゃないから、我慢するとして、起きたとたんに、指をドアにはさんでしまった。
外出を止《や》めて、テレビでも見ようとしたら、今度は、停電だときやがる。ひとり家にこもって読書をするなんてのは、おれのガラじゃない。しかたなしに、おれは、指の痛いのを我慢して、外へ出た。
陽差《ひざ》しは、強かったが、風があるので、暑さは、それほど感じなかった。まあまあの行楽日和というやつだろう。やたらに、アベックが目について、おれをムカムカさせた。
楽あれば苦ありという諺《ことわざ》がある。苦は楽のタネということもある。朝っぱらから、嫌なことが続いたから、ひょっとすると、今日の後半は、いいことがあるかも知れない。おれは、そんな子供っぽい考えを抱きながら、電車に乗った。
新宿で降りた。何処《どこ》へ行くというあてもない。新宿で、ボーリングをやるか、それでなければ、冷房完備の映画館へでも入るか、おれには、そんなことぐらいしか思いつかなかった。
新宿駅の前は、待合せの男女が一杯だった。
おれは、何となく立ち止って、そいつらの顔を見廻《みまわ》した。勿論《もちろん》、その中に、おれを待ってくれている女がいるわけじゃない。
(どいつもこいつも、馬鹿面していやがる)
と、おれは、頭の中で考えた。勿論、こんなのは、おれの負けおしみだ。おれは、本心では、馬鹿面をしている彼等が、うらやましくてならなかった。
その中にすごい美人がいた。長いこと待たされているのか、悲しそうな顔をして、時々、壁の電気時計に眼をやっている。
おれは、こんな美人を待たせている男に、何となく腹を立てた。妙ないい方だが、殴ってやりたいくらいだった。おれだったら、絶対に待たせはしない。絶対にだ。
おれは、その女を、眺めすぎたらしい。女の方でも、驚いたような顔で、おれを見た。
おれは、女が、眉《まゆ》をしかめて、ぷいと、そっぽを向くだろうと思った。見知らぬ男から、じろじろ見つめられたら、どんな女でも、嫌な顔をするのが、当然だからだ。
ところが、女は、おれに向って、ぴょこんと頭を下げたのだ。おれは、あわてて、まわりを見廻した。女が、挨拶《あいさつ》したのは、おれに対してではなく、待合せの相手が来たからだと思ったからだ。だが、何処《どこ》にも、それらしい男の姿は見えなかった。
女は、ゆっくり、おれの傍《そば》へ近づいて来て、もう一度、頭を下げた。
今度は、間違いなかった。女は、おれに向って、挨拶したのだ。
若い女だった。といっても、お尻《しり》の青い小娘というわけじゃない。二十五、六だろう。肩の線が、なだらかな丸みを見せている成熟した女だった。胸も厚い。近くで見ると、おれは、何となく、圧迫を感じた。
おれの知らない女だった。おれの知ってる数少い女の中には、こんな美人はいない。
「どうも――」
と、女が、いった。「どうも――」というのは、返事に困る言葉だ。仕方がないから、おれも、
「どうも――」
と、いった。他に、いい方があるだろうか。女は、人違いしたのかも知れないが、こんな美人を前にして、「人違いしてますよ」なんて、ヤボなことは、いえるもんじゃない。女は、まわりを見廻《みまわ》してから、
「歩きません?」
と、いった。
「歩きましょう」
と、おれもいった。
おれは、女と並んで、駅から出た。甘い匂《にお》いがしたのは、女の胸にさした赤い花のせいだった。純白のドレスに、赤い花が、よく似合っていた。どうやら、造花ではないらしい。
通りすぎる男たちが、うらやましげな眼つきで、おれを見た。女が、きれいすぎるからだろう。中には、露骨に、「お前には、もったいない女だ」と、顔つきで、おれに示すやつもいた。おれは、いい気持だった。どうやら、朝のうちのケチの連続が、福にかわってきたらしい。
「何処《どこ》へ行きます?」
おれは、女の顔を、のぞき込むようにして、きいた。
「何処でも――」
と、女が、低い声で、いった。
「何処でも?」
「ええ。覚悟は、して来ています」
「覚悟?」
おれは、驚いて、女の顔を見直してしまった。女の方でも、立ち止って、おれを見た。ひどく、真剣な表情をしていた。
「ええ」
と、女は、おれに向って、うなずいて見せた。
「何処へでも、お供します」
「――――」
おれは、だまって、女の顔を見ていた。おれも、男だから、女の言葉が、どんな意味を持っているか、すぐわかった。露骨ないい方をすれば、女は、おれに身をまかせてもいいと、いっているのだ。
おれは、身体《からだ》が、ぞくぞくして来た。何故《なぜ》、こんな具合になったのか、おれには、わからない。だが、今、おれの眼の前に、素晴らしい美人が立っていることだけは、事実なのだ。しかも、この美人は、おれに抱かれてもいいといっているのだ。事情なんか、どうでも構わないではないか。
(据膳《すえぜん》くわぬは男の恥)
と、おれは、自分に、いい聞かせた。
おれは、タクシーを止めた。女を先に乗せてから、
「|千駄ケ谷《せんだがや》へやってくれ」
と、運転手にいった。女は、身体を硬くして、だまっていた。
連れ込みホテルへ入る時には、さすがに、女は、ためらいの色を見せた。だが、おれが、先に入ると、だまって、ついて来た。
部屋に入った。狭くて、ベッドばかりが、やたらに眼につく部屋だった。女は、立ちすくんだみたいに、身体を硬くしていた。こんなところには、初めて来たらしい。その感じが、余計に、おれの心をゆさぶった。
「覚悟はしている筈《はず》じゃないのかい?」
と、おれは、わざと、意地の悪いいい方をした。
女の顔が、赧《あか》くなった。
「ええ」
と、女が、いった。おれは、ベッドに腰をおろした。
「ここまで来て、さっきいったことは、嘘《うそ》でしたじゃ、いやだぜ」
「わかってます」
「まるで問答でもしてるみたいだな。もう少し、気分を出せないのかね?」
「――――」
女は、だまった。そして、ゆっくりと、服を脱ぎ始めた。白いドレスが、すべり落ちるのを、おれは、生つばを、のみ込みながら、眺めていた。どうやら、女も、本当に、おれと一緒に楽しむ気になったらしい。
シュミーズも、白かった。その恰好《かつこう》で、おれの傍《そば》に来ると、女は、じっと、おれを見た。
「約束は守って頂けますわね」
女が、きいた。約束といわれても、おれには、何のことかわからない。だが、知らないといって、眼の前の宝を失うのも馬鹿げている。
「守るさ」
と、おれは、いった。わからないんだから気楽なものだ。
「本当に、守って頂けますわね?」
「ああ。守るさ」
おれは、手を伸ばして、女の身体《からだ》を抱きよせながら、大きな声で、いった。
「いくらでも、約束は守る。だから、二人で大いに楽しもうじゃないか」
おれが、強く引き寄せると、重量感のある女の身体が、腕の中に倒れて来た。女が、低い呻《うめ》き声をあげた。おれは、構わずに、女の身体を、ベッドの上に押し倒した。
女は、最初、義務的に、おれの愛撫《あいぶ》に応《こた》えていたが、そのうちに、彼女自身も声をあげはじめた。
おれは、満足した。
終ると、女は、裸のまま、隣の浴室へ入って行った。やがて、シャワーの音が聞こえてきた。
おれは、ベッドの上に起き上って、煙草に火をつけた。自然に、笑いが、こみあげて来た。犬も歩けば棒にあたるというが、今日は、たいした上玉にぶつかったものだ。おれは、指の痛みなんか、完全に忘れてしまっていた。
おれが、煙草の煙を吐き出した時、ドアをノックする音がした。気のきかないお手伝いがいたものだ。返事をしないでいると、いつまでもノックしている。仕方なしに、おれは、ベッドから降りて、ドアに近づいた。
ドアをあけた。とたんに、何やら棍棒《こんぼう》みたいなものが、飛びかかって来た。
よけるひまも、余裕もなかった。頭が、びーんとしたとたんに、おれは、だらしなく気を失ってしまった。さっきまでは、苦は楽のタネだったが、今度は、楽あれば苦ありの口らしい。
何時間たったのか、おれは、おぼえていない。
水の音に、おれは、気づいた。おれは、ベッドの傍《そば》に倒れていた。ドアは、閉っていた。頭は、まだ、ずきずきと痛む。手で頭を押さえるようにして、おれは、立ち上った。
水の音が、まだ聞こえる。浴室のシャワーの音だった。あの女が、まだシャワーを浴びているのだろうか。もし、そうなら、気絶してから、まだ、時間は、わずかしか、たっていないことになる。
おれは、ふらふらする足を、ふみしめるようにして、浴室に近づくと、ガラス戸に手をかけた。内から、鍵《かぎ》が掛っていると思ったのだが、浴室のドアは、簡単にあいた。
シャワーが、タイルの床に、降り注いでいた。そして、その床には、素裸のあの女が、俯伏《うつぶ》せに倒れていた。
おれは、あわてて、シャワーを止めてから、女を抱き起こした。女の顔には、もう生気がなかった。顔全体が、苦痛に歪《ゆが》んでいた。細いくびに、アザみたいに、手で絞めた痕《あと》が残っていた。
誰《だれ》かが、この部屋に入って来て、女を絞め殺したのだ。
おれの背筋を、冷たいものが走った。おれは、死体となってしまった女の身体を、タイルの上に放り出した。
おれは、ベッドの傍に引返すと、あわてて、服を身につけた。このままでは、自分が、あの女を殺した犯人にされてしまう。その不安が、おれを怯《おび》えさせた。
ドアをあけて、廊下に出た。足音を忍ばせて、階下へ降りた。が、そこで、お手伝いに見つかってしまった。
「もう、お帰りですか?」
と、中年のお手伝いは、からかうような眼で、おれを見て、いった。仕方なしに、おれは、
「ああ」
と、いった。
「お連れさまは?」
「もう少ししたら、帰るといっていた。一緒に出るところを見られると、まずいんでね」
「――――」
お手伝いは、わかっていますというように、にやッと笑って見せた。
おれは、駈《か》け出すようにして、その安ホテルを出た。
どうやって、アパートに戻ったか、おれは、よく憶《おぼ》えていない。とにかく、アパートの自分の部屋に入ると、おれは、疲れ切って、万年床の上に、転がってしまった。
夜のニュースの時間になったので、おれはトランジスターラジオのスイッチを入れてみた。いきなり、アナウンサーの声が飛び込んで来た。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈今日四時二十分|頃《ごろ》、新宿区千駄ケ谷××番地のホテル平和荘のお手伝い田中アイ子さんが、二階の一二号室に入ったところ、浴室で二十五、六歳の女性が、裸で殺されているのを発見し、すぐ、所轄署へとどけました。調べによると、この女性は、二時頃、若い男と一緒に来た客で、今のところは、身元は、まだわかっていません。当局は、身元の確認を急ぐと同時に、女性と一緒に来て、先に帰った男を犯人と見て、行方を追っています。お手伝いの田中アイ子さんの証言によると、この男は、年齢二十七、八歳で――〉
[#ここで字下げ終わり]
その後に続く言葉は、おれの顔や身体《からだ》の特徴を示すものばかりだった。ホテルのお手伝いだけあって、おれのことを、よく憶えている。
おれは、ラジオを聞いているうちに、次第に深い絶望に追い込まれて行った。警察も、あのお手伝いも、おれが、あの女を殺したと信じている。もし、逮捕されたら、いやおうなしに、犯人にされてしまうだろう。
女を殺したのは、おれを、棍棒《こんぼう》みたいなもので、殴ったやつだ。しかし、こんなことは警察は、信じてはくれないだろう。おれの、いいのがれにすぎないと、決めつけるに決っていた。
そのうちに、おれは、ライターを、あのホテルに忘れて来てしまったことを、思い出した。あのライターには、おれの名前のイニシアルが、刻んである。勿論《もちろん》M・Kというイニシアルの名前の人間は多いから、それだけでは、おれの名前が、バレることはあるまい。だが、逮捕されたら、あのライターが、決定的な証拠になりそうだった。
まずいことになったと、おれは思った。どうしたらいいのか、わからなかった。逃げるにしても、金がなかったし、何処《どこ》に逃げればいいのかも、おれには、わからなかった。
どうしてよいかわからないままに、おれは、すすけた天井を眺めていたが、そのうちに、パトカーのサイレンが聞こえて来た。いつもなら、何となく聞きのがしてしまうのだが、時が時だけに、おれは、ぎょっとして、蒲団《ふとん》の上に起き上った。
気のせいか、サイレンの音は、だんだん近づいてくるようだ。まさかとは思うが、ひょっとすると、おれを逮捕しに来たのかも知れない。
車の止る音がした。このアパートのすぐ近くだ。サイレンの音だけが、鳴り続けている。
おれは、あわてて、上衣《うわぎ》を引っつかむと、部屋を飛び出した。玄関の方で、人声がする。おれは、廊下を逆に走った。非常口には、まだ、警察の姿がない。おれは、がたぴしする階段を、駈《か》け降りた。
おれは、何処へ行くあてもなく歩いた。明らかに、おれを逮捕しに、パトカーは来たのだ。恐らく、おれを気絶させ、女を殺した犯人が、おれのことを、警察に密告したに違いない。おれは、運転免許証を持っているから、犯人は、それを見たのだろう。やつは、うまく、おれを、犯人に仕立てあげることに、成功したというわけだ。
おれは、歩きながら、上衣《うわぎ》のポケットをさぐった。二万円しか入っていなかった。おれは、三千五百円で、安物のサングラスを買って、とにかく顔をかくすことにした。うまく変装できたかどうかわからないが、それで少しは、気が休まった。
腹がへったので、おれは、薄暗い食堂に入った。こわれかけたテレビが、ニュースをやっていた。その画面に、いきなり、おれの写真が出てきて、おれを、ぎょっとさせた。しかも、アナウンサーが、こういうのだ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈ホテル平和荘の殺人事件の重要容疑者が浮びあがってきました。この男は、加藤|正利《まさとし》二十八歳で、犯人が、殺人現場に残していったライターのイニシアルとも一致しており、写真を見たホテルの従業員も、被害者と一緒だった男が、加藤正利に間違いないと証言しました。パトカーが、加藤の住むアパートに急行した時に、加藤は裏口から逃走し、当局は、必死に、その行方を追及しています。なお、身元のわからなかった被害者は、その後の調べで、銀座のバー「みどり」のマダムで、高見京子さん二十六歳とわかりました――〉
[#ここで字下げ終わり]
おれの胸を、前よりも深い絶望が襲った。名前と写真が出てしまったのでは、もう逃げ場はない。だが、自分が殺しもしない女のことで、犯人にされるのは、真平《まつぴら》だった。だが、どうしたらいいのか。
かつ丼《どん》を持って来た小女《こおんな》が、じろじろと、おれの顔を、のぞき込んだ。気づかれたのかと、ぎょっとしたが、どうやら、そうではなかった。夜の九時をすぎたのに、サングラスをかけているので、妙な男だと思っただけのことらしかった。
まずいかつ丼だった。たとえ美味《うま》くても、あのテレビを見たあとでは、食欲のわく筈《はず》がなかった。おれは、半分も食えなかった。五百円をテーブルの上に置いて、おれは、外へ出た。
警察は、必死になって、おれを探しているに決っている。それを考えると、映画のセリフではないが、「広い世界に、身の置きどころがなくなった」気持だった。
だが、このままでは、捕るのを待っているようなものだった。一万六千円しかなくては、遠くへ逃げるわけにもいかない。一体、どうしたらいいのか。
(おれの手で、本当の犯人を捕えるより仕方がない)
他に逃げ道はなかったが、どうすれば、そんなことが出来るのか、おれには、見当もつかなかった。
おれは、疲れたので、公園のベンチに腰を下した。
何故《なぜ》、こんなことになってしまったのか、それから考えてみることにした。
今日は、最初から、ついていなかった。その思いが、最初に頭に浮んだ。朝の停電がなければ、一日中テレビを見ていたのだ。そうしていれば、変な事件に巻き込まれることもなかったのだ。
つい女を見て、助平根性を出したのも、よくなかった。あの時、じろじろ女を見なければよかったのだ。
(だが、あの女は、何だって、おれに、挨拶《あいさつ》したり、ホテルへ行くことを承知したんだろうか?)
それが、おれにはわからなかったし、今度の事件の謎《なぞ》があるような気がする。
おれは、女に一目ぼれされるほど、いい男じゃない。そんなことは、おれ自身が、一番良く心得ている。おれの取柄《とりえ》といえば、身体《からだ》が、がんじょうなことくらいだが、今時、そんなのは、たいした魅力にはならない。
第一、あの女は、銀座のバーのマダムだというではないか。男を見る眼は肥えている筈《はず》だ。そんな女が、おれみたいな男に、一目ぼれする筈がない。
おれを、誰《だれ》かと間違えたに違いない。他に考えようはなかった。おれは、女とのやりとりを思い出してみた。女は、覚悟は出来ていますといった。約束は守って欲しいといった。この言葉から、何が想像できるだろうか? 女は、誰かに、脅迫されていたのかも知れない。おれは、「約束」というのは、結婚のことかも知れないと考えていたが、これは、間違っていたようだ。結婚と、覚悟していますという言葉では、全然、つり合いがとれない。
あの女は、誰かに、秘密をにぎられ、脅迫されていたのだ。その秘密を取りかえす代償として、女は、自分の身体《からだ》を、相手に与える覚悟で、待合せの場所に来ていた。或《あるい》は、金も用意して来ていたのかも知れない。そんなところだろう。
そして、このおれを、女は、脅迫者と間違えてしまった。そいつの顔に、おれが似ていたのかも知れない。だから、おれのいうままに、安ホテルへ同行した。本物の脅迫者も、あの時、新宿へ来ていたに違いない。そして、女が、おれと一緒にホテルへ入るのを見て、自分を裏切ったと思ったのだ。怒った脅迫者は、女を殺し、おれを、その犯人に仕立てあげた。
他に考えようはないと、おれは思った。だが、どうしたら、その脅迫者を、見つけ出すことが出来るのだろうか。
女のくびを絞めたところから見て、犯人は男らしい。今、おれにわかっているのは、それだけだった。
警官の姿が見えたので、おれは、ベンチから立ち上って歩き出した。とにかく、何とかしなければならない。
おれは、銀座へ出た。
十時を廻《まわ》っていたが、銀座は、まだ宵の口だった。人が歩道にあふれている。その人波の中にもぐり込むと、おれは、やっと、安心することが出来た。
あの女が働いていたという「みどり」というバーは、みゆき通りの近くにあった。だが、近づいてみて、おれは、入ることを諦《あきら》めた。一万六千円足らずのハシタ金では、入れそうもない高級な店だったし、店の前に、刑事らしい男が立っていたからだ。
しかし、犯人を見つけ出すには、このバーしか、手掛りを与えてくれるところはない。おれは、しばらく迷ったあと、店の終るのを待つことにした。
十一時をすぎると、最後の客が吐き出されて来て、急に、静かになった。刑事らしい男も、何処《どこ》かに消えた。やがて、帰り仕度をしたホステスが五、六人姿を現した。
おれは、その中の一番古かぶらしい女を、つけることにした。マダムの高見京子が、何故《なぜ》、あんなことになったか、その理由がきけるかも知れないと思ったからである。
三十歳ぐらいの和服を着た女だった。女は表通りに出ると、手をあげてタクシーを呼んだ。おれも、あわてて、他の車を止めた。
おれは、車に乗ると、「前の車をつけてくれ」と、運転手にいった。運転手は、何のつもりか、にやッと笑ってから、アクセルをふんだ。大方、おれと、前の車に乗っている女との間に、いろごとがあると考えたのだろう。つまらない勘ぐりは止《や》めろと、いってやりたかったが、おれは、だまって、前の車を睨《にら》んでいた。今は、小さなことに腹を立てている時ではなかった。
前の車は、四谷《よつや》から、信濃町《しなのまち》の方向へ曲り、三階建のマンションの前で止った。おれは、五 米《メートル》ばかり手前で、車を止めさせた。料金を払い、おれが、マンションの入口に駈《か》けつけた時、女は、階段をのぼろうとしていた。
管理人が、じろじろとおれの顔を見た。おれは、わざと、そしらぬ顔をして、通りすぎた。何かいわれたら、今の女の友人だというつもりだったが、管理人は何もいわなかった。
女は、二階に上ると、一番奥の部屋のドアをあけた。そこが、女の部屋らしい。彼女が、部屋に入ろうとした時おれは素早く近づいて強引に、閉めかけたドアを、手でつかんだ。
「何するのよッ」
と、女が、おれの顔を見て怒鳴《どな》った。おれは、片方の手で女の口を押さえた。
「静かにするんだ」
と、おれは、いった。
「静かにしていれば、殺さない。だが、騒いだら殺す」
おれは、本当に殺しかねないほど、追いつめられた気持になっていた。女にも、それがわかったようだった。女は、おびえた眼で、うなずいて見せた。
おれは、ドアに鍵《かぎ》をかけてから、女を、椅子《いす》に座らせた。女の顔は、青ざめていたが、いくらか、落着いたように見えた。
「お金なら、たいして持ってないわよ」
女は、かわいた声で、いった。
「金は、欲しくない」
「じゃあ、何が欲しいの?」
「お前さんに、教えて貰《もら》いたいことがあって、来たんだ」
「教えて貰いたい――?」
女は、おうむ返しにいってから、急に、「ああ」と、うなずいて見せた。
「あんたね」
と、女がいった。
「ママさんを殺したのは、あんたね。テレビで見たわよ。あんたの顔――」
「殺したのは、おれじゃない」
「――――」
「おれじゃないんだ」
「警察は、あんただって、いってたわ」
「わかってる」
と、おれはいった。
「だが、おれじゃない。だから、本当の犯人を見つけ出さなきゃならないんだ。お前さんに助けて貰いたい」
「あたしは、何にも知らないわよ」
「マダムを殺したいと思ってたやつは?」
「知らないわ」
「思い出すんだ」
「知らないって、いってるじゃないの」
おれは、手を上げて、女の横面を、引っぱたいた。びしッという嫌な音がした。女の身体《からだ》が、ぐらりとゆれ、低い悲鳴をあげた。
「殺すかも知れないと、いった筈《はず》だ」
と、おれは、いった。
「鼻の下の長い男を相手にしてると思ったら、大間違いだぜ」
「わかったわよ」
「わかったら、返事をするんだ。マダムを殺したいと思ってたのは誰《だれ》だ?」
「いたかも知れないけど、本当に知らないのよ。本当よ」
「マダムが、誰かに脅迫されていたのを知らないか?」
「脅迫?」
「マダムは、誰かに脅迫されていた筈だ。それがこじれて殺されたんだ。知らないのか?」
「知らないわ。本当よ。ママさんの個人的なことなんか興味がないもの」
「マダムの男は?」
「パトロンが一人いたわ」
「どんな男だ?」
「薬を作ってる会社の社長よ」
「年齢は?」
「四十八歳よ。確か――」
「四十八か――」
その年なら、まだ男盛りだ。女のくびを絞める力はあるだろう。
「その男は、何処《どこ》に住んでる?」
「家は田園調布よ。だけど、今は、日本にいないわ」
「日本にいない?」
「二日前に、アメリカに行ったからよ。一週間たたなければ帰って来ないわ」
「他に男は?」
「いるかも知れないけど、あたしは知らないわ」
「何故《なぜ》、薬屋の社長のことは、くわしく知ってるんだ?」
「――――」
女の顔に、軽い狼狽《ろうばい》の色が浮んだ。何かあるらしい。だが、おれには、あまり興味がなかった。おれが知りたいのは、高見京子という女を殺したやつのことだけだ。
「高見京子は、いつから、あの店のマダムになってるんだ?」
「二年前からよ」
「その前は?」
「あたしと同じ、ただのホステス」
女の眼が意地悪く光った。この女は、高見京子が殺されたことを、少しも悲しんではいない。むしろ、死んだことを喜んでいるのだ。
「それが、上手《うま》くパトロンをつかんで、マダムにのし上ったというわけか?」
「そうよ」
「お前さんは、高見京子を、軽蔑《けいべつ》してたみたいだな?」
「――――」
「どうなんだ?」
「マダムなんかには、ふさわしくない女だったからよ」
「マダムにふさわしくないっていうのは、どういうことなんだ? あの女に、前科でもあったのか?」
「――――」
「知ってるんなら話すんだ」
と、おれは、女を睨《にら》んだ。
「話したくなるように、してやってもいいんだぜ」
「あの女は、人を殺したことがあるのよ」
女は、吐きすてるように、いった。おれは、驚いて、相手の顔を見た。
「本当なのか?」
「本当よ。表向きは過失ということですんでしまった事件らしいけど、本当は、あの女が、相手を殺して過失に見せかけたのよ。五年も前の事件だけど」
「何故《なぜ》、そんなことを、お前さんが、知ってるんだ?」
「そんなこと、どうだっていいじゃないの」
「よくはないね」
おれは、女を見ていった。
「高見京子は、誰《だれ》かに脅迫されていた。恐らく、脅迫のタネは、今、お前さんが話した一件だと、おれは思う。そして、あの女は、脅迫していた人間に殺されたんだ。犯人は、何処《どこ》から、その秘密を手に入れたのか――」
「あたしじゃないわ」
女は、青い顔でいった。
「あたしは、ママさんを、殺したりなんかしないわよ」
「だが、お前さんには、殺す動機がある」
おれは、女の顔を睨んだ。
「お前さんは、どうやら、高見京子を憎んでいたらしい。彼女のパトロンの薬屋の社長のことを、いやにくわしく知ってるところをみると、前は、お前さんのパトロンだったのを、高見京子が横取りしたって寸法かも知れないな。だから、お前さんは彼女を憎んだ」
「――――」
「何とかして、彼女をマダムの地位から引きずり下してやりたいと思う。パトロンとの仲を、さいてやりたいと思う。それで、彼女の過去を調べてみた。私立探偵にでも、調べさせたんじゃないのか。そうしたら、うまい具合に、彼女の古傷が見つかった。そうじゃないのか?」
「――――」
「勿論《もちろん》、お前さんが、殺したとは思わない。男だ。だから、お前さんが、誰《だれ》かに頼んで、やらせたんだ。そうなんだろう?」
「――――」
「どうなんだ?」
おれは、女の両腕をつかんで、ゆすぶった。
「痛い目を見ないうちに、話したらどうなんだ?」
「また殴る積り?」
「それ以上のことをするかも知れん。このまま警察に捕れば、おれは間違いなく犯人にされる。それを逃がれるためならおれは、どんなことでもする。例えば、お前さんのその顔を、めちゃめちゃにするようなこともな」
「やめて頂戴《ちようだい》」
女は、悲鳴をあげた。やはり、顔が傷つけられるのは、いやらしい。
「じゃあ、話してくれ。誰に頼んで、彼女を脅迫させたんだ?」
「それは――」
と、いいかけて、ふいに、女は、にやッと笑った。おれは、ぎょっとした。一体、どうなったのか。何が起きたのか。
「馬鹿ね」
と、女がいった。女の眼が動いた。おれは反射的に、後をふり返った。
ドアの所に、若い男が立っていた。不覚にも、おれは、ドアのあく音に気づかなかったのだ。おれは、その男の手に、拳銃《けんじゆう》が光っているのを見た。どう見ても、オモチャではない。
「あんたは馬鹿よ!」
と、女が、同じことをいった。
「何処《どこ》かへ逃げればよかったのに、真犯人を探そうなんて、妙な考えを起こすから、こんなことになるのよ」
「しかし、おれの考えてたことは、当っていたんだ」
「だいたいはね。あの女が憎らしいから、古傷を探し出してやったのは、本当よ。そして、彼に脅迫させたのよ。とにかく、あの女を、駄目にしてくれればいいって頼んだのに、殺しちまったりして――」
「仕方がなかったんだ」
男は、拳銃を構えたまま、首をすくめて見せた。背の高い、色の白い男だった。おれに顔は似ていなかった。
「電話で、その女を呼び出したんだが、新宿に行ってみたら、こいつが、割り込んで来やがったんだ」
「割り込んだわけじゃない。間違えられたんだ」
「何故《なぜ》、間違えたのかしら?」
と、女が、いった。
「あんたと、この男とは、顔なんか全然似てないじゃないの?」
「こいつが、指に巻いてる包帯さ」
男は、いまいましげに、いった。
「あの女は、おれの顔を知らない。だから、目印に、左手の人差指に白い包帯を巻いて行くと、いってやったんだ」
「――――」
そうだったのかと、おれは思った。だから、高見京子は、おれを、脅迫者と間違えたのだ。いまいましい包帯だ。朝、指を怪我しなければ、こんな目にあわずにすんだのだ。
「だが、こいつが飛び出して来てくれたおかげで、あの女を殺しても、犯人を、でっち上げられることになったんだぜ」
男は、女に向って、にやッと笑って見せた。
「そう考えれば、こいつに感謝しなけりゃならねえよ。お前だって、あの女が、姿を消しちまってくれるのが、一番いいんだろう?」
「そりゃあ、そうだけど」
「おれを、どうするつもりだ?」
おれは、男の顔と、拳銃《けんじゆう》とを等分に見比べながら、きいた。
「おれを、殺すつもりか?」
「そうしてもいいな」
「おれを殺せば、犯人がいなくなって、今度は、警察が、お前たちを追いかけることになるぞ」
「そんな心配は、して貰《もら》わなくてもいい」
男は、ひどく冷たい笑い方をした。
「お前さんは自殺するんだ。この拳銃でね。そうすれば、今度の事件は、犯人の自殺をもって終るというわけだ」
「ここで殺せば、銃声で、みんなが飛び出してくるぞ」
「勿論《もちろん》、ここでは殺さんさ。第一、床が汚れるからな。外に、車が置いてある。その車で、自殺にふさわしい、さびしい場所まで、ドライブするんだ。静かなところで、あの世へ送ってやるよ。さあ、出かけようじゃないか」
男は、拳銃で、おれの横腹を突ついた。
「あの世へ直行できるドライブなんて、面白いとは思わないかね?」
おれは、男に押されて、部屋を出た。階段を降りると、管理人が、さっきと同じように、じろじろと、おれの顔を見た。
「やあ」
と、おれは、管理人に声をかけた。一か八か、賭《か》けてみる気になったのだ。
「テレビは、何か面白いものを、やってるかね?」
「――――?」
管理人は、きょとんとした顔で、おれを見ていた。
男は、「余計なことをしやがるな」と、低い声で、いった。
「わかったよ」
と、おれはいった。
マンションの横に、赤く塗られたスポーツ・カーが止っていた。
「お前さんが、運転するんだ」
と、男がいった。おれは、命ぜられるままに、ハンドルをにぎった。おれは、日頃《ひごろ》から、スポーツ・カーを運転してみたいと思っていたのだが、こんな運転は、一向にありがたくなかった。
深夜の道を、車は、すべるように走った。
「甲州街道へ出てから、西に走るんだ」
と、男は、いった。
「奥多摩《おくたま》なら、お前さんが自殺しても、おかしくはないからな」
「――――」
おれは、だまって、ハンドルを、にぎっていた。
管理人は、果して、思い出してくれるだろうか。もし、おれの言葉で、テレビに出たおれの顔写真を思い出してくれたらと思う。おれが、警察に追われている殺人容疑者であることを、思い出してくれたら、あの管理人は、あわてて、一一〇番に電話するだろう。殺人犯人が、赤いスポーツ・カーに乗って、逃げたと――
「少し、ゆっくり走らせていいだろう?」
と、おれは、男にいった。
「二度と見られない景色なんだから」
「いいだろう」
男は、余裕を見せていった。
「だが、変な気は起こすなよ」
「わかっているさ」
おれは、うなずいて、アクセルをふむ足から、力をぬいた。車のスピードが落ちた。おれは、必死の思いで、バックミラーを見つめた。男が、口笛を吹き始めた。いやな男だ。「止《や》めてくれ」と、思わず、怒鳴《どな》りかけて、おれは、耳をそばだてた。
男の口笛に混った、パトカーのサイレンの音を、聞いたような気がしたからだ。おれは、バックミラーを睨《にら》んだ。やがて、その中に、小さな光の点が見え、それは、次第に大きくなって行った。そしてかすかだったサイレンの音も、次第に大きくなり、男の口笛は、サイレンの音に、かき消されるようになっていった。おれは、アクセルから足を離して、ブレーキをふむ用意をした。
[#改ページ]
女が消えた
その土手のところまで来た時、とうとう私の「みにくいあひる《アグリイダック》号」は、エンコしてしまった。
もう、押しても引いても動こうとしない。無理もなかった。ここまで走ってきたこと自体、奇跡に近いのである。
十万円で買った軽四輪のポンコツだった。それで、日本一周旅行を計画したのだから、無理は最初から、承知の上である。
私は、車体の下にもぐり込んだ。驚いたことに、シャフトがひん曲っている。さっき、石の多い道を走っていた時、がくんと、車体が飛び上ったが、あの時、曲ってしまったらしい。これでは、私には、直せそうもなかった。
「わかったの?」
助手席にいた京子が、心配そうに、声をかけた。
「駄目だな」
と、私は、いった。
「修理屋を呼ばなきゃ駄目だ」
「修理屋ったって――」
京子は、車から降りて、まわりを見た。家らしいものは、何処《どこ》にもない。
土手と川と、雑木林と、山しか眼に入って来ない。
「何処なの、ここは?」
「東北のS県だということだけは、確かなんだがな」
と、私は、いった。そんな、あいまいなことしかいえないのは、昨日の夜から走り続けて来たのだが、どうやら、道を間違えてしまったらしいからである。
眼の下を流れている川も、何という川なのか判《わか》らない。多分N川だと思うのだが、自信はなかった。
私は手についた埃《ほこり》をはたいた。六月の初めだが、ひどく暑い。それに、昨夜から、ハンドルを握りづめなので、身体《からだ》もだるかった。
「おなかもすいたわ」
京子も、情けなさそうな顔になった。私は時計を見た。たしかに、十二時に近い。
私は、地図を持ち出してきて、ひろげてみた。眼の下の川がN川なら、ここから一|粁《キロ》ほど北に行くと、小さな町がある筈《はず》だった。
地図には、ガソリンスタンドのマークがついている。修理屋もあるだろう。そこまで歩いて行って、修理屋を連れてくるより仕方がないようだ。
「俺が、町まで行って来よう」
と、私はいった。
「町へ行って修理屋を連れてくる。ついでに、食物も買ってくるよ。君は、此処《ここ》で待っていろよ」
私は、そういって歩き出そうとしたが、急に、眼がくらくらとして、しゃがみ込んでしまった。夜の運転が、急にこたえてきたのだ。
「町へは、あたしが行くわ」
と、京子がいってくれた。
「あんたは、休んでたらいいわ」
京子が行ってしまったあと、私は、土手を降り、川岸に腰を下して、素足を水につけてみた。それで、少しは気分が良くなったようだった。
私は、草むらに横になって、眼を閉じた。京子が、修理屋を連れて戻ってくるには、三十分は、かかるだろう。その間でも身体《からだ》を休めておきたかった。まだ、日本一周は、始ったばかりなのである。
私は、眠った。
眼を覚ました時、陽《ひ》は、まだ、頭の上にあった。京子は、もう戻って来ただろうかと、土手の上に眼をやったが、彼女の姿も、修理屋の姿も見えなかった。
私は、腕時計に眼を移した。京子が出かけてから、既に一時間たっていた。
(少し遅いな)
と、思ったが、不安は感じなかった。地図の上では、次の町まで一|粁《キロ》になっているが、現在位置が正確に判《わか》らないのだからその一粁は、あまり、あてにならない。実際には、もっと遠いかも知れない。京子が遅れているのは、そのためかも知れなかったからである。
また、修理屋が見つからずに探していることも考えられた。いずれにしろ、そのうち、京子は戻ってくるだろう。
(それより、腹がへったな)
と、思った。車の中を探すと、食べ残しのアンパンが見つかった。私は、座席に腰を下して、それを食べた。
また一時間たった。
だが、京子は戻って来ない。私は、少しずつ不安になって来た。
彼女は、運動神経の発達している方だが、車にゆられていたので、私同様、疲れているはずだった。まさか、車にはねられたとも思えないが、心配だった。
更に一時間すぎた。
だが、セーターに、スラックスという恰好《かつこう》の京子は、姿を見せない。
既に三時間ちかくたった。私は、じっとしていられなくなった。何かあったに違いない。そう考えるより仕方がないようだった。
私は、座席から出ると、京子の行った方向に向って歩き出した。
人気のない道が、暫《しばら》く続いた。小鳥の声が聞こえるだけだった。その、のどかさが、いくらか、私を安心させてくれた。事故が起きるような空気ではなかった。ここは、東京とは違うのだ。と、私は、自分にいい聞かせた。京子が、車にはねられる筈《はず》がないのだ。
一粁ばかり歩くと、家並が見えてきた。どうやら、私の地図の見方は、間違っていなかったらしい。
私は、小さな町に入った。
その町は、何処《どこ》にでもある、人口二万ぐらいの小さな町だった。商店街があり、旅館があり、町の中を、車や自転車が走っていた。
京子も、この町に、来た筈であった。あの、土手にそった道を真直ぐ来れば、この町にぶつかるのだから。
私は、三十分足らずで、ここまで歩いて来た。それなのに、京子は、三時間も、何をしているのか。
町の中ほどに、ガソリンスタンドがあった。
私は、そこで働いている青年を掴《つか》まえて、京子のことを訊《き》いてみた。
「白いスラックスに、緑色のセーターを着た娘なんだ」
と、私は、彼女の恰好《かつこう》を説明した。
「身長は一六〇センチくらいで、丸顔なんだが、ここに来なかったろうか?」
「来ないね」
と、青年は、ぶっきら棒にいった。
私は、そこで働いているもう一人の男にも、同じ質問をしてみたが、結果は同じであった。京子は、ここに現れなかったという。
(直接、修理屋を訪ねたのだろうか?)
私は、そう思い、この町に、自動車の修理屋があるかどうかきいた。
「あるよ」
と、前の青年が、相変らず、ぶっきら棒な調子でいった。
「この道を右へ曲って六軒目が、修理屋だ」
「ありがとう」
と、私はいい、青年のいった通りに、右へ曲った。
確かに、修理屋があった。頭の禿《は》げた中年の男が、車のへこんだところを、内側から、叩《たた》き出していた。この男が、店の主人らしい。その傍《そば》では、十七、八の少年が、作業服を着て、オートバイの修理をしていた。
私は中年の男に、声をかけた。一度では聞こえなかったらしく二度目に、大声を出すと、やっと、手を止めて、私を見た。
「人を探しているんです」
と、私はいった。
「白いスラックスに、緑色のセーターを着た娘が、来ませんでしたか? 車の修理のことで」
「知らないね」
と、修理屋は、いった。
「今日は、そんな娘は見なかったよ」
「本当ですか?」
「本当さ。嘘《うそ》をついたって、仕方がないだろう」
修理屋は、一寸《ちよつと》、怒ったような声でいった。そういわれてみれば、その通りだった。京子のことで、嘘をついても、この男には、何の得にもならないのだ。
「この町には、自動車を修理する店は、他にもありますか?」
「うちだけだよ」
と、男はいった。
「この町で、車の修理が出来るのは、うちだけさ」
「――――」
私は、首をひねってしまった。修理屋が、この店だけだとしたら、京子は、何故《なぜ》、ここに姿を見せなかったのだろうか。
(京子は、一体|何処《どこ》へ行ったのだろうか?)
私は、彼女が、お腹を空《す》かしていたことを、思い出した。もしかすると、京子は、修理屋を訪ねる前に、まず、腹ごしらえをしたのかも知れない。
(その店で、何か食べつけぬものを食べて、腹痛でも起こして病院にでも、担ぎ込まれたのではあるまいか?)
京子の、一寸《ちよつと》男の子みたいな性格から考えて、ありえないことではなかった。
私は、もう一度、町の入口に引返した。彼女は、腹がすいていたのだから、最初に眼についた食堂に、飛び込んだに違いなかった。
町に入って、最初に眼につくのは、そば屋だった。京子は、めん類が好きだから、この店に入ったかも知れない。
私は、埃《ほこり》に汚れたノレンを分けて、店に入った。客の姿はなかった。週刊誌を読んでいた女が顔を上げて「いらっしゃい」と、なまりのある声でいった。
私自身も、腹がすいていた。きつねそばを頼んでから、修理店でしたのと同じ質問を、女にした。白いスラックスと、緑のセーターを着た――
「そんなお客さんは、来ませんでしたよ」
と、女は、ぼそぼそした声でいった。
京子は、ここにも来なかったのだ。どこへ雲がくれしてしまったのだろうか。
私は、念のために、この町の病院に、電話してみることにした。電話帳を見ると、大きな病院は二つである。
私は受話器を取り、その二つの病院に電話をかけた。若い女の怪我人か、病人が、担ぎこまれなかったかをきいてみたが、答は、ノウであった。
私は落胆したような、安心したような、妙な気持で、受話器を置いた。京子は、この町で、車にはねられたのでも、腹痛を起こしたのでもないらしい。
私は、きつねそばを食べ終ると、もう一度、さっきの修理屋を訪ねた。京子が、何処《どこ》へ消えてしまったのか判《わか》らないが、車を、あのままにしておくわけにもいかなかった。
私は、修理屋に事情を話し、車を出して貰《もら》った。
修理道具を積んだ車に、私も同乗してアグリイダック号がエンコしている場所まで、引返した。もしかすると、すれ違いに京子が戻っているのではないかとも考えたが、車の傍《そば》には彼女の姿は見あたらなかった。
修理屋は、車の下にもぐり込んでから、
「これは時間がかかるね」
と、いった。
私は、土手に腰を下して、煙草をくわえた。
(京子は、何処へ消えてしまったのだろうか?)
いくら考えてもわからない。しかし、もう一度、あの町を探してみるより仕方がなかった。
三時間ばかりして、修理が済んだ。私は、再び、いうことをきくようになった、アグリイダック号を運転して町へ向った。
町は、さっき訪ねた時と同じように、静かで、のんびりしているように見えた。
「この町は、いい町ですよ」
と、修理屋が、自慢するようにいった。
「誰《だれ》も彼も、信心深い人達ばかりですからね」
「信心深い――?」
「清心教というのを、知っていますか?」
「いや」
「貴方も信心した方がいい。今までの宗教にはなかった、ありがたい神さまですよ。この町の者は全員、清心教に入っています」
「そうですか」
私は、ぼんやりした声でいった。新興宗教には関心はない。というより、宗教自身には、私は、興味がなかった。それに、清心教などというのは、今まで、聞いたこともなかった。
私には、それより、消えてしまった京子のことの方が問題だった。
(だが、何処《どこ》を探したらいいのか?)
京子は、ガソリンスタンドにも、修理屋にも、現れていない。そば屋の女も、京子が食事に寄らなかったと、いった。二つの病院にも、担ぎ込まれた様子はなかった。
あとは、何処に、行きそうなところがあるだろうか?
私には判《わか》らなかった。まさか、町へ着くやいなや、美容院へ飛び込んで、えんえん三時間もかかって、髪をセットしているわけでもないだろう。
私は、警察に相談してみることにした。
警察は、ガソリンスタンドの裏にあった。二階建の木造の建物である。警察官は、みんな退屈そうな顔をしていた。この町の人達は信心深いそうだから、それで、犯罪が少いのか。
私は、受付で、自分の名前をいい、一緒にいた女の子が、消えてしまったことを話した。
「妙な話ですな」
と、受付の巡査は、首をかしげて見せた。
「それは、本当の話でしょうな?」
「嘘《うそ》じゃありませんよ」
私は、いらいらしながら、大きな声を出した。
「すぐ、探して下さい。お願いします。京子を探して下さい」
「まあ、落着いて下さい」
巡査は、のんびりした顔でいった。
「もう少し詳しく、事情を話して貰《もら》わないと、やたらと探し回るわけには、いきませんよ」
「もう話しましたよ。京子は、この町へ行くといって、出かけたまま、消えてしまったんです」
「ここへ来たというのは、確かなんですか?」
「車がエンコしたところから、この町へは一本道ですよ。他に行くところは、ありませんよ」
「しかし、貴方《あなた》のさっきの話だと、この町へは、来ていないようじゃありませんか? 誰《だれ》も、京子さんという女性を見ていないんでしょう?」
「修理屋や、ガソリンスタンドの人達は、彼女が来なかったといいましたが」
「それに、そば屋もと、貴方は、いいましたよ」
と、巡査は、いった。
「こうなると、どうも、この町へは、来なかったと思わざるを得ませんな。来ていれば、当然、町の人間に、見られている筈《はず》ですからね。スラックスをはいた娘なんていうものは、この町では珍しいですからね」
「じゃあ、京子は、何処《どこ》へ行ったというんですか?」
「私にも判《わか》りませんが――」
巡査は、あいまいに、いった。
「土手の上を歩いて来られたそうだから、誤って、川へ落ちたということも考えられますな」
「馬鹿な」
と、私は、いった。
「彼女は子供じゃありませんよ。もう二十三ですよ。それに、学生時代は水泳の選手だったんです。万一、川に落ちたところで、死ぬ筈がありません。今|頃《ごろ》は、笑いながら、戻ってきていますよ」
「東京へ帰られたんじゃありませんか?」
「僕に黙ってですか?」
私は、だんだん腹が立ってきた。京子は、現代風なチャカチャカした娘だが、私を置いてきぼりにして、勝手に東京へ帰ってしまう筈がなかった。帰りたくなれば、ちゃんと、いう娘だ。この巡査は、探すのが面倒くさいので、いろいろと、難くせをつけているのではあるまいか。
「探してくれないんですか?」
私は、いった。巡査は、私の見幕に驚いたみたいに、眼をパチパチさせた。
「どうしても、探して貰《もら》いたいというのであれば探しますよ」
「僕は、さっきから、そうお願いしているじゃありませんか」
「じゃあ、届けを書いて下さい」
「何でも書きますよ」
と、私は、いった。
私は、捜索願の用紙に、京子の服装や顔立ちを書き込み、丁度持っていた写真をそえて、巡査に渡した。
「すぐ判りますよ」
と、巡査は、京子の写真を見ながら、いった。
「小さな町ですからね。今日中には、京子さんという女性が、ここへ来たかどうか判りますよ」
その日、私は安い旅館を探して、この町に泊ることにした。京子が見つからないのに、旅行を続けるわけには、いかなかった。
一泊二食付きで、四千円という旅館が、見つかった。小さくて、汚い旅館だが、四千円では、我慢しなければならないだろう。
私は、車を、その前に止めて、旅館に入った。素朴な感じのお手伝いが、私を、二階の部屋に案内してくれた。
「君も、清心教とかいうのに、入っているのかね?」
と、私は、お手伝いにきいてみた。お手伝いは、「はい」と、うなずいた。
「この町の人は、全部、清心教の信者です」
お手伝いの話によると、教祖のくれる水を飲むと、病気が治るのだという。私は、馬鹿らしくなった。そんなことで病気が治るんなら、何故《なぜ》、二つも病院があるのか。
しかし、お手伝いは、完全に、清心教を信じているようだった。
「お客さんも、悩みごとがあったら、信心なさることですよ。信心なされば、きっと、悩みごとは、解決しますから」
「その気になったらね」
と、私は、いった。勿論《もちろん》、そんな下らないインチキ宗教は、信じる気には、なれなかった。
夕食をすませて、籐椅子《とういす》に腰を下していると、さっきの巡査が、汗をふきふき、部屋に入ってきた。
「どうも、京子さんという人は、この町には来られなかったようですな」
と、巡査がいった。
「行きそうな場所は、全部当ってみましたが、何処《どこ》にも、現れた形跡はありませんね」
「全部というのは、何処と何処を当ってくれたんですか?」
「旅行者が、行くと思われる場所は全部ということです。旅館、土産物《みやげもの》店、食堂などを調べた結果、ここには、立ち寄らなかったに違いないという結論に、到達したわけです」
「この町に来なかったというのなら、京子は、何処へ行ったというんですか?」
「そういわれても困りますな」
巡査は、顔をしかめた。
「何処に行かれたか、私には判《わか》りませんよ」
「しかし、京子は、この町に行くといって、あの一本道を歩いて行ったんですよ。それに、修理屋に寄って、頼んでくるともいったんです」
「そういわれても、この町に現れた形跡がないんですから」
巡査は、首をすくめた。
「他を探すより仕方がありませんな」
巡査は、それだけいうと、さっさと帰ってしまった。
私は、呆然《ぼうぜん》として、二階の窓から、夕闇《ゆうやみ》の迫り始めた町の景色を見下した。京子は、この町に来なかったのだろうか?
私は、籐椅子《とういす》から降りると、テーブルの上に地図を拡《ひろ》げた。何度見直しても、車がエンコした場所から、北へ向って歩けばこの町にぶつかるのだ。そして、京子は確かに、北に向って歩いて行ったのである。
勿論《もちろん》、道路を外れて、歩くことが出来ないわけではない。雑木林に入り、山へ上ることも出来る。だが、京子が、そんなことをしたとは思えなかった。彼女は、腹がへっていた筈《はず》なんだし、修理屋を呼んでくる仕事があったのだ。それなのに、どうして、わざわざ雑木林に入ったり、山にのぼったりする必要があるだろう。
京子は、どう考えても、この町に来たのだ。他に、考えようがなかった。だが、彼女は消えた。その理由を、見つけ出さなければならない。
警察は、頼りになりそうもなかった。あの巡査は、町中を調べ回ったといったが、本当かどうか判《わか》ったものではないと思った。私が、やかましくいったので、仕方なしに、二、三軒の旅館か食堂に当ったぐらいのところだろう。役人のすることは、何処《どこ》でも、そんなものだ。
自分で調べるより仕方がない。
翌日、私は、もう一度、町中を歩き回った。
食堂、旅館、その他、彼女が行きそうな場所は、全部当ってみた。私は、くたくたになった。が、京子の消息は、何処でも聞くことが出来なかった。
私は、次第に、自信がなくなってきた。ひょっとすると、あの巡査がいったように、京子は、この町に来なかったかも知れない。わけが判らないことだが、京子は、この町へ来る途中で、急に横へそれて、山へのぼってしまったらしい。ここへ来なかったのなら、山へのぼったとしか考えられないのだ。
京子は、気が変になってしまったのだろうか?
私は、周囲の山を探してみようかと思った。だが、まわりは山だらけなのだ。どの山を探したらいいのだろうか。
私は、疲れ切って、旅館に戻った。夕食を食べてから、畳の上に横になっていると、いきなり障子が開いて、小さい影が飛び込んできた。
子供だった。七歳か八歳ぐらいの女の子だった。この旅館の子供らしかった。入って来てから、私の顔を見て、びっくりした表情で立ちすくんだ。部屋に誰《だれ》もいないと思って、飛び込んで来たらしい。
可愛《かわい》い顔をした女の子だった。私は、自然に、笑顔になったが、その子の胸に下がっているペンダントを見て、「あッ」と思った。京子が身につけていたものと、同じだったからである。
私が、一年前、彼女の誕生日に贈ったものだった。が、もし京子のものなら、裏に、イニシアルのK・Kが、彫ってある筈《はず》だった。
私は、努めて、笑顔を作りながら、子供に近づいた。少女は身体《からだ》を硬くしていた。
私は、そっと、ペンダントにふれて、裏側を覗《のぞ》いてみた。やはり、私の思った通りだった。椿の花を型どった銀のペンダントには、K・Kのイニシアルが、彫り込んであった。
「このペンダント、どうしたの?」
と、私は、少女にきいた。少女は、泣きべそをかいたような顔になって、黙っている。私が、真剣な顔になりすぎたので、おびえてしまったらしい。
私は、百円玉を取り出して、彼女の手に、にぎらせてから、もう一度、同じことを、きいた。
「拾ったの」
と、ひどく低い声で、少女が、いった。
「何処《どこ》で?」
「ガソリンスタンドの傍《そば》よ」
「ガソリンスタンド?」
私は、眼をむいた。
「本当に、ガソリンスタンドの傍で拾ったのかい?」
「そうよ」
と、少女は、少し大きな声になっていった。
「あの傍のドブの中に落ちてたのよ」
「――――」
私は、難しい顔で少女が部屋を出て行くのを見守っていた。
やはり、京子は、この町へ来ていたのだ。まさか、ペンダントだけがここへ歩いてくるわけがないのだ。
(だが、どうして、あのペンダントが、ドブの中に落ちていたのだろうか?――)
判《わか》らないが、私は、不吉なものを感じた。彼女が、ペンダントを自分でドブに捨てる筈《はず》がなかった。彼女の身に、何かあったに違いない。
私は、はね起きると、部屋を飛び出した。
私は、もう一度、警察を訪ねた。あの巡査は受付にいた。が、私の顔を見ると、うんざりした表情になって、首をすくめた。
「まだ、いたんですか?」
と、巡査がいった。
「京子さんとかいう女性は、この町には来なかったんですよ。来ていれば、誰《だれ》かが見てる筈ですからね」
「彼女が来たという証拠が、見つかったんです」
と、私はいった。私が、ペンダントの話をすると、巡査も、顔の表情を硬くした。
「調べてみる必要がありそうですな」
と、巡査がいった。
私は、巡査をつれて、旅館に戻った。まず、彼に、問題のペンダントを見せ、詳しいことを少女からきいて貰《もら》うためだった。
私は旅館に入ると、少女の姿を探した。が、見当らない。巡査が、旅館の主人を呼んでくれた。五十歳くらいの女だった。
「お宅に、お嬢さんがいますな」
と、巡査がいった。
「そのお嬢さんに一寸《ちよつと》、ききたいことがあるんだが」
「あの子なら、今、おりません」
「いない?」
私は、驚いて、女主人の顔を見た。
「二十分ばかり前に、僕は見たんですよ。七歳か八歳ぐらいの赤いセーターを着た――」
「それなら、娘の美津子ですけど、今はおりません。S町の親戚《しんせき》のところへ、遊びに行きました」
「いつですか?」
「学校から帰って来てすぐですから、一時頃でした」
「そんなことがあるものか」
と、私は怒鳴《どな》った。今はもう夕方の六時をすぎているのだ。あの子が、一時に親戚の家へ行ったのなら、何故《なぜ》、さっき、部屋に入って来たのか。
「S町へ行ったというのは、本当ですか?」
と、巡査がきいた。女主人は「ええ」といった。
「明日が日曜日で、学校が休みなもんですから、泊りがけで、遊びに行かせたんです」
「しかし、僕は、二十分ほど前に、その子に会っているんだ」
「おかしいですわね」
女主人は、妙に落着いた声でいった。
「あの子が、そんな時間に、ここにいる筈《はず》がありませんわ。とうの昔に、親戚《しんせき》の家に着いてる筈ですもの」
「しかし、僕は、この眼で見たんだ。あの子も、ペンダントも」
「そう興奮しないで」
巡査が、私の肩を叩《たた》いた。
「どうも、貴方《あなた》の言葉も、信用できなくなったようですな」
「僕は見たんですよ」
「しかし、ここの主人は、娘さんは、親戚に行っている筈だといっていますからね」
「僕は、本当のことを、いってるんですよ」
「私も嘘《うそ》はいってませんよ」
旅館の女主人も、甲高《かんだか》い声でいった。
彼女は、嘘《うそ》をついている。それは、はっきりしている。あの子を、私の前から、かくしてしまったのだ。私が、警察へ行っている間に、S町にあるという、親戚へ行かせてしまったのだろう。
何故《なぜ》、そんな細工をしたのか? 考えられるのはペンダントのことしかなかった。子供をかくしたのではなく、ペンダントをかくしてしまったのだ。だが、それを証明することは出来そうもないし、何故、そんなことをしたのかも判断がつかない。
巡査は、私の言葉より、旅館の女主人の言葉を信用したようだった。無理もないことだった。私は、この町にとっては外来者にすぎないし、旅館の女主人の方は、この町の人間なのだから。
巡査が帰ってしまうと、私は、二階の部屋に入って、頭をかかえてしまった。あのペンダントは、きっと、何処《どこ》かへ埋められるかされて、処分されてしまっているだろう。だから、S町へ出かけて、少女を見つけ出しても、どうにもなるまい。
(だが、どうして、この旅館の女主人は、嘘をついたり、少女をかくしてしまったりしたのだろうか?)
その疑問に頭を悩ましているうちに、嘘《うそ》をついているのは、彼女一人ではないことに、気がついた。
少女は、ガソリンスタンドの傍《そば》のドブで、ペンダントを拾ったといった。ということは、京子が、ガソリンスタンドへ行ったということではないのか。ところが、ガソリンスタンドの従業員は二人とも、京子を見ないといった。彼等も、嘘をついているのではあるまいか。
いや、嘘をついているのは、他にもいるかも知れない。私はだんだんこの町の人間が信用できなくなって来た。修理屋の、頭の禿《は》げた主人だって、信用がおけないのだ。彼は、京子が来なかったといったが、あれも、嘘かもしれない。そば屋の女もあやしい。京子は、あのそば屋で、何か食べたかもしれないのだ。
私は、巡査まで、信用できなくなってきた。
(何という町だろう)
と、私は思った。修理屋の主人は、この町の人間は、信心深くて、いい人間ばかりだといったが、とんだ嘘っ八だ。インチキな人間ばかりじゃないのか。
翌日、旅館の二階で眼を覚ますと、外が騒がしかった。
腕時計を見ると、まだ七時になったばかりだった。一体何が始ったのだろうか。私は、蒲団《ふとん》から起き上って、窓を開けてみた。
白鉢巻をした若い男が、十人ばかり、一かたまりになって、歩いていく。何かお祭でも始るようであった。子供たちも着飾って歩いている。町中が、何となく、ざわついている感じだった。
私は、見ているうちに、また腹が立ってきた。京子が消えてしまって、いらいらしているのに、この町の人間たちは、お祭さわぎでいる。
朝食を運んできたお手伝いも、今日は、晴着を着ていた。
「今日は、清心教のお祭なんです」
と、お手伝いはいった。
「正午になると、教祖様が、お出ましになって、ごあいさつをして下さるんです」
「ふむ」
と、私は、鼻を鳴らした。お手伝いの話によると、教祖は、六十過ぎの老婆だということだった。一体、そんな老婆の何処《どこ》が有難いのか。
お手伝いは、その老婆がさわったら病気が治ったといったことを、くどくどと喋《しやべ》った。彼女はそう信じているだけで、見てはいないのだ。見なくても信じられるというのは、どういう神経なのだろうか。或《あるい》は見たことでなく、言葉で教えられたことだから、信じているのかも知れない。
「貴方《あなた》も、教祖様を、おがんだ方がいいですよ」
と、お手伝いは、忠告するようにいった。
「悩みごとが、たちどころに解決されますから」
「行方不明の人間も見つかるかね?」
「そんなことなら、すぐ見つかりますとも」
お手伝いは、本当に、そう信じている顔で、いった。
私は馬鹿らしくなった。
十時|頃《ごろ》になり、陽《ひ》が高くなると、外のさわぎは、ますますひどくなった。ハッピを着た若者が、大きな掛け声をかけながら、通りをねり歩き始めた。ハッピには、大きな字で、「清心」と書いてある。
うるさくて、部屋に閉じこもってもいられないし、このさわぎでは、京子を探し歩くわけにもいかなかった。
私は旅館を出た。町の目抜き通りは交通止めになっていた。町中の人間が、おかしくなっていた。阿波踊《あわおど》りみたいに、通りを踊り歩いている人達もいた。清心教というのは踊る宗教なのだろうか?
正午になると、今まで、さわぎ回っていた人達が、急に、しーんと、静まりかえってしまった。踊り歩いていた人達も、踊りを止《や》めて、通りの両側に分れてしまった。
妙に重苦しい静けさであった。人々は、大通りの両側にかたまって、通りには、人の姿も車の姿も見えなくなった。
私は、「正午になると、教祖様が、お出ましになる」というお手伝いの言葉を思い出した。これから、いよいよ教祖のお出ましということなのだろう。
私は、人びとの後から、のび上るようにして、人気のなくなった大通りを眺めていた。
やがて、馬鹿でかい太鼓の音が聞こえてきた。それにつれて一台のオープンカーが、しずしずと進んでくるのが見えた。車のまわりは、白鉢巻をした若者と、晴着をきた若い女たちが、百人ぐらい取り巻いている。まるで、昔の殿様の行列だった。
車は、ぴかぴかの外車だった。後の座席に、ひどく小さい老婆が、ちょこんと腰かけている。あれが、教祖なのだろうか。
見物している老人や老婆の中には、感動したのか、路上に、ぺたりとしゃがみ込んで、拝んでいる姿も見えた。私の眼には狂気としか映らなかった。
「あら、教祖様の車、新しいわね」
と、私の傍《そば》にいた若い娘が、いった。
「いつも乗ってるのと違うわ」
「あれは、フォードの最新型さ」
と、連れの青年が、得意気にいった。
「日本には、三台しかない車なんだ」
「でも、昨日見たのと違うわ」
と、女がいった。
「昨日、お忍びで、走っていらっしゃるのを見たんだけど、違う車だったわ」
「ふーん」
と、青年は、鼻を鳴らした。
「それなら、昨日、取り寄せたんじゃないのか。新しいのを」
「昨日乗ってらしった車も、ぴかぴかしてたわ」
「そんなことはいいじゃないか。教祖様がいらっしゃったぜ」
若い男女のカップルは、車の上の教祖に向って頭を下げた。
私は、じっと、教祖の車を睨《にら》んでいた。今、若い女は、教祖が、昨日と違う車に乗っているといった。私は、そのことに、疑惑を感じたのだ。教祖の車が、昨日、事故を起こして、周章《あわ》てて、新しい車を用意したのではあるまいか。
「一寸《ちよつと》――」
と、私は、さっきの娘に声をかけた。
「教祖様が、昨日乗っていた車というのはどんな車ですか?」
「銀色の大きな車でしたけど。どうかしましたか?」
「いや」
と、私はいった。修理屋の主人が、直していた車も、確か銀色だった。あの車は、教祖のではないのか。
私は、人ごみを離れると、警察に向って走っていった。
「またですか」
と、あの巡査は、げんなりした顔でいった。私は、そんな相手の様子を無視した。
「貴方は、清心教の信者ですか?」
と、私は訊《き》いた。
巡査は、首を横にふった。
「私は、どうも、ああいうものに興味がなくて」
「助かりました」
と、私はいった。
「教祖の車が、昨日、京子をはねたんです」
「まさか――」
「他に、考えようはありません。昨日、教祖が乗っていた車は修理屋にあります。事故を起こしたからです」
「事故の届けは、来てませんよ」
「問題は、そこです。恐らく、ガソリンスタンドの前で、教祖の車が、京子を、はね飛ばしたんだと思います。だから、彼女がつけていたペンダントが、ドブに落ちていたんです。そして、京子は、死んだと思います。表ざたになれば、教祖の名声に傷がつく。だから、事故のことも、京子のことも、秘密にされてしまったんです。恐らく、事故を目撃していた人間は、全部、清心教の信者だったに違いありません。教祖が、黙っていろといえば、一心に、教祖のために秘密を守る人達なんだ。ガソリンスタンドの従業員も、修理屋の主人も、旅館の女主人も、いやこの町の人間全部がね。狂信者ばかりだから、一人の娘の死なんか、信心のためには、犠牲にしたって何とも考えていない」
「いや、私は違うよ」
と、巡査はいった。
「私は警官だ。相手が、教祖でも、手心は加えないつもりだ」
「本当に、調べてくれるんでしょうね?」
「本当です。やってみますよ」
と、巡査は生真面目《きまじめ》にいった。
「だが、貴方《あなた》は、この町を、すぐ離れた方がいい」
「何故《なぜ》です?」
「私が教祖を調べれば、きっと、信者達は怒り出す。貴方に乱暴するに決っている。貴方がいった通り、信者は、或《あ》る場合には狂信者になりますからね。車で、この町を出た方がいい。調査結果は、手紙で知らせます」
「――――」
私は、暫《しばら》く考えた。私は教祖を拝む群衆の姿を思い出した。どうやら、この町を出た方がよさそうだ。私は車の置いてある場所へ引返し、アグリイダック号に乗って町を出た。
巡査からの手紙を受け取ったのは、一週間後、私が、東京に戻ってからだった。巡査の手紙にはこう書いてあった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈拝啓。その後の調査の結果、京子嬢の死体が、教祖邸の裏山から発見されました。死因は、頭部骨折で、明らかに車にはねられて死んだものです。警察は、教祖の車の運転者を重過失致死で逮捕し、教祖も召喚しました。
私の予測通り、信者は、法難と称して警察に押しかけたりして、大分、困惑致しましたが、昨日、教祖が、信者から巻き上げた金を不当に隠匿《いんとく》していたことが判明し、以後、急激に教祖の人気が下落しつつあります。二か月後の公判の時までには、この町も、昔通りの穏やかな所になると信じております。
京子嬢の遺体は、この町の古い寺で、丁重に回向《えこう》致しました。以上、お知らせまで〉
[#ここで字下げ終わり]
私は、読み終ると、もう一度、あの町を訪ねてみようと思った。京子の墓に、参拝するためと、町の変り方を見るために――
[#改ページ]
女とダイヤモンド
俺《おれ》は、ドアをあけて、店の中を見廻《みまわ》した。店をあけたばかりの時間なので、客の姿はなかった。
女が三人いた。年増《としま》が二人に、若い女が一人だ。若いといっても、二十五にはなっているだろう。俺は、その女の顔を、しばらく眺めていた。
どうやら、この女らしいと思った。そうでなければ困るのだ。この店に来るまで、二、三十軒のバーやキャバレーを探し歩いた。もう、探し歩くのは、あきあきしている。
俺は、薄汚れたカウンターに腰を下した。いい具合に、その女が、横に坐《すわ》った。
近くで見ると、なかなかきれいな顔をしている。眼の下に、黒いくまができているのは、疲れているのか。
「ビールをくれ」
と、俺はいった。こんな店じゃあ、ビールが一番無難だし、ふところの金も、心細かったからだ。
女は、黙って、ビールをコップに注《つ》いだ。どうやら、俺を警戒しているらしい。俺の方も、知らず知らずのうちに、探るような眼付きで、女を見ていたんだろう。だから、警戒されてしまったのか。
「なかなかきれいな顔をしてるじゃないか」
と、俺はいった。女の口元に、一寸《ちよつと》だけ笑いが浮んだが、それは、すぐ消えてしまった。
俺は、煙草をくわえて、火をつけた。女にもすすめたが、彼女は、首を横にふった。
「田中文子さんだね?」
と、俺は、ずばりと、いってやった。
女の顔が、それとわかるほど、青くなった。だが、口から出た言葉は、
「違うわ」
だった。
「あたしの名前は、角川トミ子よ」
「ふん」
と、俺は鼻を鳴らした。角川トミ子か。偽名をつけるんだったら、もっと、マシな名前にしたらいいのだ。いっそ、映画女優の名前でもつけたらいい。
「お前さんは、田中文子さ」
と、俺は、いった。
「ずい分、探したよ」
「人違いよ」
と、女が、またいった。その顔が歪《ゆが》んでいる。俺は、だんだん、いらいらしてきた。この店に来るまでにも、相当、気持が疲れていた。疲れているというより、荒れていたといった方がいい。
俺は、いきなり女の腕をつかんだ。静脈の浮き出ている細い腕だ。女は、低い悲鳴をあげたが、俺は耳をかさなかった。
女の身体《からだ》をカウンターに押しつけて、背中のチャックを、腰のあたりまで、引き下げた。
「何するのさッ」
と、女が叫んだ。他の二人の女が、近寄ってきたが、俺が睨《にら》みつけると、怯《おび》えた顔で止ってしまった。
俺は、口のあいたドレスの間から手を入れて、押しひろげた。女の裸の肩のあたりが、むき出しになった。
左の肩に、小さなボタンの文身《いれずみ》があった。可愛《かわい》らしい文身だ。
「こんなものは、消しとくことだな」
と、俺は、手を放してからいった。
「田中文子だという証拠になるぜ」
「――――」
女は、身体を起こすと、黙って、俺を睨んだ。ドレスは、まだ、はだけたままだった。空色のブラジャーが覗《のぞ》いている。女は、のろのろと、ドレスを直した。
「あんたは、誰《だれ》なの?」
女が、低い声できいた。
「誰でもいいさ」
と、俺はいった。
「俺は、お前さんを、吉牟田《きむた》の所へ連れていけばいいんだ」
「あいつに頼まれたのね?」
女は――田中文子は、軽蔑《けいべつ》したような眼で、俺を見た。
「ああ」
と、俺は、うなずいた。
「お前さんを連れていけば、金になるんだ。嫌でも、一緒に来て貰《もら》うよ」
「嫌だといったら?」
女が、ふてくされた顔でいった。俺は眉《まゆ》をしかめた。
「俺《おれ》を怒らせるんじゃないぜ。それに、お前さんだって、後暗いところがある筈《はず》だ」
「わかったわよ」
と、田中文子は、いった。
「何故《なぜ》、吉牟田が自分で来ないの?」
「病気なんだ」
「鬼のカクランてとこね」
文子は肩をすくめた。
「いい気味だわ」
「吉牟田の悪口を聞きに来たんじゃない」
と、俺はいった。
「俺は、ただ、お前さんを吉牟田のところまで連れていけばいいんだ。すぐ行こうじゃないか?」
「まだ、店があいたばかりよ」
「早退《はやび》けするさ」
俺は、ビール代をカウンターの上に置いた。
「さあ、行こうか?」
「この恰好《かつこう》で?」
文子はドレスの裾《すそ》をつまんで見せた。さっきまでの青ざめていた顔に、赤味がさし、落着いた口調になっていた。
「着がえたらいい」
と、俺はいった。
「その位の時間なら待ってやるぜ」
「お店の裏にアパートがあるのよ。そこへ一度、帰らないと――」
「一緒に行ってやる」
「逃げると思ってるのね?」
「思ってるさ」
と、俺はいった。
俺は、文子について店を出た。彼女のいう通り、店の裏に、「青葉荘」というアパートがあった。
文子の部屋は、その二階だった。六畳一間の部屋だ。俺は、部屋に入ると、窓際に腰を下して、煙草をくわえた。
部屋がせまいだけに、余計に、女の匂《にお》いが鼻をくすぐる。部屋の隅に、ベッドがある。俺は、何となく、それに眼をやった。
「一寸《ちよつと》、チャック外してくれない?」
と、文子が、俺に背を向けて、いった。
「さっきは、無理矢理外したんだから、着がえも、手伝ってくれるのが、当然でしょ?」
「妙な理屈だな」
と、俺は苦笑したが、立ち上ると、ドレスのチャックを下してやった。文子は、くるっと、器用に、ちゃらちゃらしたドレスを脱いだ。下にシュミーズは着ていない。空色のブラジャーと、ナイロンのパンティだけだ。
文子は、そんな恰好《かつこう》で、俺を見た。わざと足を大きく開いて立っている。俺の眼が、何処《どこ》へ行くかを、計算しているのだ。
ナイロンの下から、黒いものが、スケて見えている。俺は、何となく、子供の時、「軍艦」の意味がわからなくて悩んだことを思い出した。こんな詰らないことが、頭に浮んだのは、俺の気持が、少しばかり、もやもやして来たせいかも知れない。
「暑いわね」
と、文子がいった。
「汗をかくと、あとが、さっぱりするんだけど」
「何のことだ」
「わかってるくせに」
と、文子が笑った。
「まさか、女が嫌いってわけじゃないんでしょ?」
「俺を買収するつもりか?」
「されてみない?」
文子は、誘うような笑い方をすると、ゆっくりとブラジャーのボタンを外した。ブラジャーが畳に落ちる。俺の眼は、自然に、剥《む》き出しになった乳房に走った。身体《からだ》が痩《や》せているわりには、大きな乳房だった。恰好《かつこう》も悪くない。
文子の手が、パンティに掛った。俺は、それが、ずり下げられ、小さく丸められて、投げすてられるのを眺めていた。
「どう?」
と、文子は、もう一度、誘うように俺を見た。浅黒い身体が、俺の前にある。ほんの少しだが、崩れた感じだ。それが、余計に、俺を刺激した。
「見てるだけじゃ、味はわからないわよ」
と、彼女が、からかうようにいった。俺は、女の頬っぺたのあたりを、引っぱたいた。文子は、不様な恰好で、ベッドの上に、引っくりかえった。両足が開き、身体全体で、あえいでいるみたいだ。俺は、煙草をすてると、ゆっくりベッドに近づいていった。
女を抱いたのは、一週間ぶりか。いやもっとかも知れないが、そんなことは、どうでもいい。
俺《おれ》は、からみついている女の腕を離した。
「そろそろ行こうじゃないか」
と、俺はいった。
「吉牟田が待ってるからな」
「まだ、あたしを連れてく気なの?」
「金が欲しいからね」
「金なら、あたしがあげるわよ」
「ふーん」
俺は、ベッドに横になったまま、部屋の中を見廻《みまわ》した。
「金があるのか?」
「――――」
女は、黙って、にやっと笑った。気になる笑い方だ。俺は、文子の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「持っているのか?」
「あんた、吉牟田に、いくら貰《もら》ったのさ」
「二十万だ。だが半分しか貰っていない。後の半分は、お前さんを連れて行ってから貰うことになってる」
「あたしは、その倍払うわ。どう?」
「倍だって?」
俺は、きき返した。
「お前さんは、そんなに値打ちのある女なのか?」
「吉牟田に、何も聞いていないの?」
「ああ。ただ、探して、連れて来いと頼まれただけさ」
「あんたと吉牟田とは、どんな関係なのさ」
「昔、刑務所で一緒だったことがある。それだけのことさ」
「ふーん」
と、今度は、文子が鼻を鳴らした。
「吉牟田は悪党よ」
「そんなことは知ってる」
と、俺は、いった。
「お前さんだって、似たようなものだろう。それでなけりゃ、吉牟田が、お前さんを探させる筈《はず》がないからな」
「どうなの? あたしを助けてくれないの?」
「話によってはだな」
「金はあげるわ」
「金は貰う」
「それだけじゃ不足なの?」
「不足だな」
と、俺はいった。
「お前さんを助けるとなれば、吉牟田を敵に廻《まわ》すことになる。奴《やつ》には、何人か子分がいる。俺が裏切ったとわかったら、俺を殺すだろう。金だけじゃあ、合わないな」
「あたしを抱かせてやったじゃないの」
「笑わせないでくれ」
と、俺はいった。
「俺が頼んで、抱かせて貰ったわけじゃないぜ。俺が知りたいのは、何故《なぜ》、吉牟田が、二十万もの金を払って、お前さんを探させたかということだ」
「あたしに、未練があるからよ」
「信じられないな」
俺は、笑った。
「吉牟田は、そんな男じゃない。女より金に未練がある型の男だ。本当のことをいったらどうだ?」
「――――」
「支度をしろッ」
と、俺は、怒鳴《どな》った。
「一緒に、吉牟田のところへ行くんだ」
「いうわよ」
と、文子がいった。
「その代り、本当に、あたしを助けてくれるわね?」
「話によってだ。信じられる話なら、相談に乗ってもいい」
「煙草を頂戴《ちようだい》」
文子は、ベッドの上に起き上ると、俺にいった。俺が、煙草をくわえさせてやると、ライターで、火をつけた。ぷーと、天井に向って、煙を吐き出してから、
「ダイヤモンドよ」
と、文子は、いった。
「ダイヤ?」
「本当に知らなかったのね?」
「そういった筈《はず》だ」
俺は、少し不機嫌になっていった。甘く見られるのは、余り好きじゃない。
「ダイヤがどうしたんだ?」
「――――」
「お前さんが、吉牟田から、ダイヤを盗んだということか?」
「まあ、そうね」
「それなら、何故《なぜ》、吉牟田は警察に訴えないんだ?」
「訴えたくても、出来ないのよ」
「成程」
と、俺はいった。だんだん呑《の》みこめてきた感じだ。盗品のダイヤを、この女が、また盗んだということか。
俺は、もう一度、狭い部屋の中を見廻《みまわ》した。
「そのダイヤは、何処《どこ》にあるんだ?」
「ここにはないわ」
文子は、平然とした声でいった。どうやら嘘《うそ》ではないらしい。
「もう始末したのか?」
「始末できてれば、こんなところで、まごまごしてないわ。ハワイにでもいって、のんびりしているわ。二、三年は、ゆっくり遊べるもの」
「ハワイで二、三年か。可成りの上物というわけだな」
と、俺がいうと、文子は、あわてて、口を押さえるような恰好《かつこう》をした。その手を下すと、仕方がないというように、首をすくめた。
「一年前の太陽堂の事件を知ってるでしょ?」
「五千万円とかの宝石が、盗まれた奴《やつ》か」
「あの時の宝石よ」
「ふむ」
と、俺はうなった。五千万円なら大物だ。吉牟田が、眼の色を変えて、この女を探させた筈《はず》だ。だが、二十万円で、俺を働かせたとは――俺は、腹が立ってきた。
「吉牟田が盗んだのか?」
「そうよ」
と、文子はうなずいた。
「あたしが、警察にいえば、あいつは、すぐ捕るわ」
「何故《なぜ》、そうしない?」
「わかってるじゃないの。わたしだって、お金は欲しいもの」
「しかし、五千万もするダイヤじゃ、なかなか、さばけないだろう?」
「そうなのよ」
文子は、小さな溜息《ためいき》をついて見せた。
「有名なダイヤだから、売れば、すぐ足が着いちゃうし、盗品を買ってくれる人間も知らないし――」
「知っていても危いな」
と、俺はいった。
「吉牟田が、手を廻《まわ》しているに決っている。奴は、あの方の顔だからな」
「わかってるわ」
文子は、また首をすくめた。そのあとで、俺の顔を、じっと見た。
「あんたなら、あのダイヤモンドを、さばくことが出来る?」
「俺と腕を組むつもりか?」
「どうなのさ。さばけるの?」
「一人だけ、買いそうな男を知っている」
と、俺はいった。
「だが、大阪の人間だ。ダイヤをさばく気なら、そこまで運ばなきゃならない」
「その話は本当なの?」
文子は、疑わし気に、俺の顔を覗《のぞ》き込んだ。俺は、うなずいた。
「信用しないんならそれでいい。ただし、一銭も手に入らなくなるぜ。お前さんには、そんな大物のダイヤは、さばける筈がないし、俺が見逃がしてやっても、いつか、吉牟田がお前さんを見つけ出すからな」
「いいわ。あんたを信用するわ」
と、文子は、いった。
「あたしの力になってよ。ダイヤモンドがさばけたら、二割あげるわ」
「半分の山分けだ。それが嫌なら、お前さんを吉牟田のところへ連れていく」
「三割」
「駄目だ」
「いいわよ」
文子は、怒ったような声で、いった。
「山分けでいいわ」
文子が、着がえをしている間、俺は、窓の外に眼を向けていた。夜が深くなっている。
時計は、十時に近い。今から東京駅にかけつけて、夜行に乗れば、明日の早朝には、大阪に着く、そこで、上手《うま》くダイヤがさばければ、大金が手に入るのだ。勿論《もちろん》、上手くさばければの話だが――
「さあ、行きましょう」
と、着がえをすませた文子がいった。手に持っているのは、ハンドバッグだけだった。
「ダイヤは?」
と、俺はきいた。
「ハンドバッグの中か?」
「大阪に行って、その人間に会わせてくれたら、何処《どこ》にあるか教えるわ」
「俺が信用できないというわけだな」
「五千万円のダイヤなのよ」
文子は、乾いた声で、いった。
「まあいいだろう」
と、俺は、いった。この女は、俺の大事な金づるになったのだ。金が手に入るまでは、大事にしておいてやることだ。
俺と、文子は、アパートの前でタクシーを拾った。東京駅に向って、車を走らせながら、ふと、上手く大阪まで行けるだろうかという不安が、俺を怯《おび》えさせた。吉牟田も馬鹿じゃない。俺が裏切ることだって、充分、計算している筈《はず》だ。ひょっとすると、子分に、俺をつけさせていたかも知れない。
俺は、車の後の窓から、外を見つめてたが、追ってくる車は見えなかった。
東京駅には、無事に着いた。大阪行の列車の寝台券は、売り切れていた。俺たちは、仕方なしに、坐《すわ》っていくことにした。
二一時発の急行「瀬戸」に乗った。時刻表通りに走ってくれれば、大阪には、明朝の七時二四分に着く筈だ。
列車は混んでいた。どうにか、腰を下すことは出来たが、足を伸ばすどころではなかった。
品川のあたりで、俺は、うとうととした。眼がさめたのは、浜松を過ぎるあたりだ。前の座席の文子は、顔にハンカチを当てて、軽い寝息を立てている。
俺は、そっと、彼女の膝《ひざ》から、ハンドバッグを取り上げた。音のしないように気を遣って、蓋《ふた》をあけた。どの女のハンドバッグでも同じことだ。財布に、化粧道具に、ハンカチに――そんなものが、雑然と入っていたが、肝心のダイヤは見当らなかった。
「ふふ」
という小さな笑い声が聞こえた。俺は、ぎょっとして、眼を上げた。いつの間にか、文子が眼をあけて、にやにや笑っているのだ。
俺は、ハンドバッグを、相手の膝に投げ返すと、座席から立ち上って、トイレまで歩いて行った。
用をすませて、手を洗いながら、俺は、ダイヤは何処《どこ》にあるのだろうかと考えた。彼女が身につけていることは間違いない。だが、ハンドバッグにはなかった。
考えたが、わからなかった。
俺は、煙草に火をつけてから、洗面所を出た。が、そこで、びくッとして、立ち止ってしまった。知った顔が、隣の車両から出て来たからだ。俺は、あわてて、また洗面所に入って、鍵《かぎ》をしめた。
吉牟田の子分で、永山という男だった。年は、俺と同じ位で三十二、三といったところだ。気が荒いので有名な男だが、その永山が、何故《なぜ》、この列車に乗っているのか、俺にはわからなかった。
つけられていたのかも知れない。
俺は、五分ほどして、洗面所のドアをあけた。永山の姿は、消えていた。俺は、ゆっくりと、自分の席に戻った。文子は、前と同じように、ハンカチを顔にかぶせて、軽い寝息を立てていた。
列車が、大津を過ぎたところで、俺《おれ》は、文子を起こした。
「京都で、降りるんだ」
と、俺はいった。文子は、眉《まゆ》をしかめて見せた。
「何故、京都で降りるのよ?」
「この列車に、永山が乗ってる」
「永山が――?」
と、文子は、顔をこわばらせた。この女も、あの男の怖さには、憶《おぼ》えがあるのだろう。
「何故、永山が、この列車に――?」
「そんなこと知るもんか」
俺は、突き放すように、いった。俺たちをつけて来たのかも知れないし、偶然、同じ列車に乗り合せていたのかも知れない。とにかく、奴《やつ》を撒《ま》いてしまうことだ。
京都駅が近づいて来たところで、俺たちは立ち上って、出口へ急いだ。列車が止る。俺は、ゆっくりとドアをあけた。が、そのドアを、あわてて、閉めてしまった。
「どうしたのよ?」
と、文子がきく。俺は、「駄目だ」と、いった。
「ホームに永山がいる」
「見張ってるの?」
「わからないが、今は降りられない」
俺は、窓越しに、ホームを眺めた。ホームの真中で、永山が、煙草をくわえている。今、降りたら、まともに、顔を合せてしまうだろう。
「どうするの?」
「発車寸前に飛び降りれば、奴《やつ》を撒けるかも知れない」
他に方法はなさそうだった。
京都駅の停車時間は、三分間だ。その時間が、俺には、いやに長く感じられた。
ベルが鳴った。永山は、煙草を足で踏み消すと、列車に乗り込んだ。「今だ」と、俺は文子にいい、ドアを開けた。
列車が動き出すと同時に、俺は、ホームに飛び降りた。続いて、文子も飛び降りる。
「あッ」
という悲鳴が、背後でしたので、ふりかえると、文子が、ハイヒールの片方を、線路に落してしまったのだ。
「靴なんか、放っておけ。町へ出てから買えばいい」
と、俺はいったが、文子は、「冗談じゃないわ」と、顔色を変えて、喰《く》ってかかって来た。
幸い、永山が、俺たちに気づかず、列車から飛び降りなかったから、いいようなものの、奴が降りていたら、俺は、文子を殴りつけていたろう。ハイヒールと命を引きかえにしたくないからだ。
文子は、線路へ飛び降りた。女という奴はこれだからいやになる。五千万のダイヤを売り飛ばそうというのに、安物のハイヒールに目の色を変えているのだ。
文子は、ハイヒールを拾い上げると、安心したというように、ホームに、這《は》い上ってきた。俺は、仕方なしに、手を貸してやった。
俺たちは、京都駅を出た。陽《ひ》が、昇り始めたばかりだった。駅前に、タクシーが並んでいる。その一台に乗り込んでから、
「大阪へやってくれ」と、俺は、いった。
三十分ほどで、車は、大阪へ入った。
大阪を見るのは、俺にとって、二年ぶりだった。だが、初めて来たような緊張を感じた。大きな取引きを、しなければならないという緊張感だろう。
「本当に、大阪で、さばけるの?」
と、車の中で、文子は、何度も俺に念を押した。
「俺に委《まか》せておけ」
と、俺は、いった。
「それより、本当に、ダイヤを持っているんだろうな? いざという時になって、持っていませんじゃ、困るぜ」
「大丈夫よ」
と、文子は笑った。
「ちゃんと持ってるわ」
だが、俺には、まだ、彼女が何処《どこ》にダイヤをかくしているのかわからなかった。
大阪梅田駅の傍《そば》で、タクシーを降りると、まず、俺《おれ》たちは、ホテルを取ることにした。
「サンライズホテル」という、名前だけは立派な安ホテルに、俺たちは入った。有名ホテルよりも、永山たちに、見つかる恐れがないと思ったからである。
文子は、別の部屋をとった。「一緒の部屋にいると、あんたを、本当に好きになってしまいそうで怖いのよ」といったが、誰が、そんな大嘘《おおうそ》を信じるものか。俺に、ダイヤを盗まれるのが怖いからに、決っていた。
俺は、部屋に入ると、お手伝いに、電話|帖《ちよう》を持って来て貰《もら》った。二年前、あの男は、「石原商事」という看板を下げて、あやしげな商売をしていたのだが、電話帖を開いてみると、「石原商事」という名前は、まだあった。
俺は、ダイヤルを廻《まわ》した。つながる音と一緒に、あの男の声が、受話器に飛び込んできた。
俺が、自分の名前をいうと、「へえ」と、石原は、とんきょうな声を出した。
「いつ、大阪に来たんや?」
「今朝だ」
と、いってから、俺は、五千万のダイヤのことを話した。とたんに、石原の声が、甲高《かんだか》くなった。金儲《かねもう》けに眼のない男だから、飛びついてくるのが当り前だ。
「買わせて貰いまっせ」
と、石原は、電話口で、勢い込んだ。
「ほんまの話だっしゃろな?」
「本当の話だ」
と、俺はいい、一時間たったら、女を連れて行くと約束して、電話を切った。
俺は、隣の部屋をノックした。文子が、待ちかまえていたようにドアをあけて、
「どうだった?」
と、きいた。
「買うそうだ」
「そう」
文子は、顔を輝かせた。
「いくらぐらいに売れるかしら?」
「まあ、良くて、四割だな」
「四割? 四割だったら、二千万にしかならないじゃないの。五千万のダイヤモンドなのよ」
「盗品だということを忘れないことだな」
と、俺は苦笑した。
「四割でさばければいい方だ。それとも止《や》めるかね?」
「仕方がないわ」
と、文子は、首をすくめた。
俺たちは、ホテルを出た。文子は、相変らず、ハンドバッグしか持っていない。一体、ダイヤを、何処《どこ》にかくしているのか。まさか妙なところに入れているのではないだろう。
大阪の街へ出てから、俺たちは、朝食をとった。俺も文子も、腹が空《す》いている筈《はず》なのに、いざとなると、食べ残してしまった。矢張り、緊張のためだろう。
石原のやっている店は、二年前と同じ千日前《せんにちまえ》にあった。小さな店で、ガラス戸に、金文字で、「石原商事」と書いてあるが、一体、何をやっているのか、外から見たのではわからない。
「こんな小さな店で、大丈夫?」
と、前まで来て、文子は、不安そうに、俺を見た。
「店は小さいが、金は持ってる男だ」
と、俺は、いった。
俺たちは、店に入った。石原が、待ちかねていたように、にこにこ笑いながら、俺たちに、椅子《いす》をすすめてくれた。二年前と、ちっとも変っていない。小柄で、狸《たぬき》に似ていて、抜け目がなくて。
「まず、現物を見せて貰《もら》えまへんか?」
と、石原は、俺と、文子を見比べるようにして、いった。
「お金はあるの?」
文子が、狭い店の中を見廻《みまわ》すようにしてきく。石原は、にやッと笑った。背後の棚にあった手下げ金庫を掴《つか》むと、俺たちの眼の前で、蓋《ふた》をあけて見せた。
部厚い札束が出て来た。
「ここに、五百万ほどあります。ダイヤが本物とわかったら、残りも、すぐ作りますわ。まず、現物を見せて貰わな、しょうがありまへんな」
俺は、文子を見た。文子は、立ち上ると、
「奥の部屋を貸して貰えません?」
と、石原にいった。
「何しなはる?」
「ダイヤを、何処にかくしているか見られたくないのさ」
と、俺がいうと、石原は、「なるほど――」と、また笑った。
文子は、ハンドバッグを持って、隣の部屋に姿を消した。俺は、のぞきたいのを我慢した。
十分ほどして、文子が、やや上気した顔で出て来た。丸めたハンカチを、テーブルの上に置いた。
中に、二つのダイヤが入っていた。俺は、問題のダイヤが、対《つい》になっていたことを思い出した。
確かに素晴らしいダイヤだった。にやにや笑っていた石原も、厳しい顔になって、ダイヤを眺めている。
「拝見させて貰《もら》いまっさ」
と、石原はいい、机の引出しから取り出した片眼鏡を、馴《な》れた手つきで、右の目にはめこんだ。
明るい部屋だったが、石原は、スタンドの明りをつけ、片方のダイヤをのぞいた。明りがダイヤに反射して、青白い透明なきらめきを見せた。
石原は、俺が、うんざりするほど、長い時間、ダイヤを見つめていた。そのあとで、やっと、眼鏡を外した。その顔は、満足したというように、微笑していた。
「間違いおまへん」
と、石原は、いった。
「いくらで買ってくれるの?」
文子が、喰《く》いつくような眼で、石原を見た。石原は、指を、ぱちんと鳴らしてから、
「ぎりぎりで、二千万でんな。それ以上は、出せまへん」
「まあ、いいところだな」
と、俺もいった。文子は、仕方がないというように、うなずいた。
「ほな、今日中に、残りの金を、用意しときまっさ。明日、もう一度、来とくんなはれ」
と、石原が、いった。それで、商談が成立した。
文子は、また、隣の部屋に入って、ダイヤを、何処《どこ》かにかくした。用心深い女だ。
その日一日、俺《おれ》は、なるべく、サンライズホテルから出ないようにして過した。大阪の街を歩いていて、永山にでもぶつかったら、折角転がり込んでくる筈《はず》の大金が、ふいになると思ったからだ。
文子も、部屋に自重していたらしい。それも当然だろう。
翌日、俺は、眼を覚ますとすぐ、隣の部屋をノックした。無駄な心配かも知れないが、文子が、夜の中に消えてしまったのではないかと、そんなことも考えたからだ。
文子は、部屋にいた。俺は、ほっとした。彼女は、まだ、ネグリジェ姿だった。俺が
「一寸《ちよつと》心配になってね」というと、文子は、意地の悪い眼つきになって、
「あたしより、ダイヤモンドが、心配なんでしょ」
と、笑った。
それでも、部屋に入れてくれた。
「着がえるから、一寸、うしろ向いてて」
と、文子がいった。俺は、男のエチケットとして、相手の言葉に従った。が、それが甘過ぎたのだ。
何気なく、うしろを向いた瞬間、俺は、いきなり殴られた。眼の前が暗くなり、俺は、だらしなく、床に倒れてしまった。
どの位、気絶していたのか。俺には、わからない。とにかく、俺が気付いた時、文子の姿は、何処《どこ》にもなかった。おまけに、俺は、手足を縛られてしまっている。
文子の考えていることは、すぐわかった。ダイヤの買手が見つかったので、俺が要らなくなったというわけだ。俺がいなければ、二千万の金が、丸々、あの女の手に入る。俺が彼女の立場でも、同じことをしたかも知れない。油断しすぎたのだ。
頭は、まだ痛む。が、それを気にしているわけにはいかなかった。
歯を使って、足の紐《ひも》を切ることにした。十分ほどして、口中が血だらけになったあげく、足の方だけは、自由になった。俺は、手は縛られたまま廊下に飛び出した。下の帳場まで降り、あっけに取られているお手伝いに、手の紐を解いて貰《もら》った。
俺は、時計を見た。気を失ってから、三十分以上、たっている。間に合わないかも知れないが、俺は、タクシーを拾って、石原商事へ急いだ。
店の中は、静かだった。遅かったか――と、唇をかみながら、俺は、ガラス戸を開けた。中には、石原だけがいた。
「あの女が来たろう?」
と、いうと、石原は、
「いや」
と、首を横にふった。
「嘘《うそ》をつくなッ」
「本当でんがな。ちゃんと金を用意して待ってるのに、来やはらしまへん」
「本当なのか?」
「本当です」
石原は、札束の詰った金庫をあけて見せた。俺は、狐《きつね》につままれたような気持になった。文子は、何処《どこ》へ行ってしまったのか。
「どないになりましてん?」
石原が、眉《まゆ》をしかめて、俺を見た。
「まさか、話が駄目になったのと、違いまっしゃろな?」
「一寸《ちよつと》、待ってくれ」
と、俺は、いった。
文子が俺を殴ったのは、二千万の金を、ひとり占めにしたかったからに決っている。当然、ここへ来ていなければならないのだ。彼女が、他に、ダイヤの買手を知っている筈《はず》がなかったし、もし、そんな者がいるのなら、俺が彼女を見つけるまでに、ダイヤを処分してしまっている筈だ。
文子は、ここ以外に、ダイヤを処分する場所はない筈だ。だが、来ていないと、石原はいう。
俺は、石原の顔を見た。この男が、嘘《うそ》をついているとは思えなかった。抜け目のない男だが、嘘をつく男ではない。とすれば、考えられることは、一つしかなかった。
何か事故があったのだ。俺は、列車に乗っていた、永山の冷酷な顔を思い出した。奴《やつ》に捕ったのではないか。
「探してくる」
と、俺は、石原に言って、また、街に飛び出した。
文子が、何処《どこ》に連れていかれたか、俺にはわからない。それに、広い大阪中を探し廻《まわ》るわけにもいかない。
(駄目かな)
と、思った。ダイヤは、永山から吉牟田の手に渡り、田中文子は、何処かの川か海岸で、水死体で発見されることになるかも知れない。
だが、一つだけ、淡い希望があった。俺も、彼女が何処にダイヤをかくしているか、わからなかった。永山にもわからないのではないか。それに、文子は、いくら責められても、ダイヤのかくし場所をいわないだろう。いったら、その時が最後と知っているからだ。
永山は、文子の身体《からだ》を探って見つからないと、あのホテルを探すかも知れない。
俺は、サンライズホテルに、引返した。
帳場にいたお手伝いにきくと、文子が、五、六分前に戻って来たという。
「でも、えろう眼のきつい男の人が、一緒でしたわ」
永山だと、すぐわかった。考えていた通りというわけだ。
俺は、足音を殺して、二階に上った。彼女の部屋の前まで行ったが、中は、しーんと静まりかえっている。
俺は、ドアの把手《とつて》に手をかけた。意外に、鍵《かぎ》はかかっていない。俺は、そっと、ドアをあけてみた。
最初に、縛られて、転がっている文子の姿が眼に入った。ドレスが引きさかれ、ハイヒールが、脱げて、転がっている。むき出しになった肩に、例の、ボタンの文身《いれずみ》がのぞいていた。ひどい恰好《かつこう》だった。相当、いじめられたらしい。
永山の姿は見えなかった。俺は、部屋に入ると、文子の身体を抱き起こした。
「しっかりしろ」
と、俺が、声をかけた時、人の気配が動いた。俺は、かがんだまま、眼を上げた。いつの間にか、窓際に、永山が、突立っていた。カーテンの後にかくれていたのだ。
奴《やつ》は、にぶく光るピストルを構えていた。どう見ても、オモチャではないようだ。
「いい時に、戻って来てくれたな」
と、永山は、いった。
「ダイヤを、何処《どこ》にかくしたか、教えて貰《もら》おうじゃねえか」
どうやら、永山は、まだ、ダイヤを見つけていないらしい。
「俺が持ってると思うのか?」
「思うね」
と、永山がいった。
「この女が持ってなきゃ、お前だ。大人しく出した方が、身のためだぜ」
「俺も知らないんだ。俺も、この女が持っているとばかり――」
俺は、喋《しやべ》りながら、文子の身体《からだ》にかくれたところで、手を、そろそろと動かしていた。指先が、彼女のハイヒールにふれた。
俺は、永山の立っている場所までの距離を、考えた。三|米《メートル》ぐらいのものだ。ハイヒールを投げて、上手《うま》く、奴《やつ》にぶつかれば、何とかなるかも知れない。
「ベッドの下に、かくしてあるのかも知れないぜ」
と、俺は、いった。だが、奴は、動こうとしなかった。口元を歪《ゆが》めさせただけだ。
「ベッドは調べたよ。この部屋は、全部調べた。残っているのは、お前だけだ。死にたくなかったら、早く出すことだな」
「仕方がねえ。今、出すよ」
と、俺はいった。永山の顔に、一寸《ちよつと》したゆるみが見えた。
(今だ)
と、思った。俺は、手に掴《つか》んだハイヒールを、思い切り、奴の顔をめがけて、投げつけた。奴が、身体をかわしたので、ハイヒールは、窓ガラスに当った。大きな音がして、ガラスが割れ、ハイヒールは、窓の外に消えた。
「野郎ッ」
と、永山が、吠《ほ》えた。俺は、もう片方のハイヒールを投げつけた。これも外れて、窓の外に消えたが、かわしたはずみに、永山の姿勢が崩れた。
俺は、奴の身体に飛びついた。永山は、倒れながら、引金を引いたが、弾は、あたらなかった。馬鹿でかい音と、きな臭い匂《にお》いが、部屋に充満しただけだ。
俺は、思いきり、奴の顔を殴りつけた。奴は、ピストルを放した。俺は、それを拾うと、もう一度、その台尻《だいじり》で、殴った。嫌な音がして、永山は、動かなくなった。俺は、立ち上ると、文子の傍《そば》に近寄った。紐《ひも》を解いてやってから、もう一度、
「しっかりしろ」
と、声をかけると、やっと、薄眼をあけた。
「あいつは?」
と、文子がきいた。俺は、顎《あご》で、倒れている永山を指した。
「そこに、寝ているさ。それより、ダイヤは何処《どこ》にあるんだ?」
「――――」
文子は、黙って、のろのろと起き上った。その顔が、急に青ざめた。
「あたしのハイヒールは?」
「俺は、ハイヒールのことじゃなくて、ダイヤのことをきいているんだぜ」
「そのダイヤが、ハイヒールの中にかくしてあるのよ」
「えッ?」
「かかとが、空洞になってて、両方に、一つずつ入れてあるのよ」
「そうか――」
と、俺は、うなずいた。京都の駅で、文子が、むきになって、線路に飛び降りた理由が、やっとわかったのだ。うかつだった。あの時に、気づくべきだったのだ。
「ハイヒールは、ちゃんとあるさ」
と、俺は、いった。立ち上って、窓の所まで歩いて行った。
そして、俺は、下を見た。俺は、呆然《ぼうぜん》とした。こんなことって、あるのだろうか。窓の下に、大阪特有のクリークが流れているのだ。あのハイヒールは、何処にも見えなかった。クリークに沈んで、流れて行ってしまったのだ。クリークを、上から下まで、さらうなんてことは、とうてい出来っこない。それに、忽《たちま》ち人だかりがしてしまう。俺は、ふり向いて、文子にいった。
「ダイヤは、諦《あきら》めるんだな。あとのことは、警察に委せた方が、良さそうだ」
[#改ページ]
拾った女
その日は、朝からひどくついていた様に見えた。見えたというのは、あとになってみると、私にとって、実際には最大の厄日だったからである。
はっきり憶《おぼ》えているのは、寒い日だったという事だ。失業中で、空《す》きっ腹を抱えていた私にはその日の北風は、文字通り、身体《からだ》に浸《し》み通った。部屋代が溜《たま》って、アパートを追い出されかかっていたし、食事代もなかった。最後に残った安物の腕時計を質に入れて、どうやら、昼飯だけは済ませたが、困った事に、アパートに帰る事が出来ない。管理人に顔を合せれば、部屋代の催促をされるに決っているからである。アパートには暗くなってから帰る事にして、私は仕方なしに、公園を散歩する事にした。恋人と手を取っての散策なら楽しみもあるが、チビた下駄を履き、薄汚れたジャンパー姿で、ただ、時間|潰《つぶ》しに歩くのは、余り愉快なものではない。懐中に、四千円足らずの金しかないとなれば猶更《なおさら》である。
二月下旬の、しかもウィークデイとあって、公園は人気もなく、寒々としていた。私は、風の来ない陽溜《ひだま》りを探して、ぶらぶら歩いていた。
私は、ふと、足を止めた。二、三 米《メートル》 先に、黒いものが落ちているのが眼に入ったからである。良く見ると、黒革の財布だった。私は屈《かが》み込んで、拾い上げたが、その時は、まだ猫ばばする気持などは、なかった。警察に届ける気持も十分あったのだが、中に手の切れる様な一万円札が、五枚ばかり入っているのを見た時、私の気は、変ってしまった。警察の事よりも、これだけあれば、半月位はどうにか食べていけると、その方に考えが走ってしまった。失業中で、四千円が全財産と言う境遇でなかったら、いくら私でも、こんなさもしい気持にはならなかったろう。
私は、ついていると思った。五万円の金が懐に入ると、可笑《おか》しなもので、寒さも気にならなくなった。
しかし、良心という厄介なものが、私にもあった。何となく、後めたい気がするのだ。財布を、懐中にして、歩き出してからも、誰《だれ》かに見られてはいないかという不安が、絶えず、私を脅かした。
元来、私は、余り度胸のある方ではない。それに良心という奴《やつ》は、私の、もっとも苦手とする相手だった。公園を出たところで、煙草を買った時も、私は、拾った金を出すのが気がひけて、ポケットの中の四千円から払った。
暗くなって一杯|呑《の》み屋に飛び込んだ時も、とうとう拾得した五万円には手をつけず、小銭《こぜに》で払い切れる量で我慢してしまった。
アパートへ戻ったのは、九時頃だったろうか。陽《ひ》に焼けた畳に、腰を下したものの、何となく、物足らない気がしてならなかった。懐には、五万円が眠っているのだ。それなのに、寒い部屋で、縮こまっている手はない。呑み足りないせいもあって、私は、また夜の町に飛び出した。
良心など、糞喰《くそくら》えだ。どうせ拾った金だ。景気良く、使ってしまえと思った。
夜の町は、相変らず寒かったが、金があると、盛り場のネオンが、ひどく温く見えた。私が、ネオンに向って歩いていた時、ふいに、私の前に、現れた女が居る。私は、一瞬、ぎょッとして、立ち止った。後暗いところがあると、誰もが警官に見えてしまう。
若い女だった。素晴らしい、ミンクのオーバーを着ていた(後になって、贋物《にせもの》と判《わか》った)が、私が驚いたのは、豪華な装身具よりも、彼女の美しさだった。色が抜ける程白い上に、眼が大きい。彼女は、その眼で、じっと、私を見詰めてから、にっこりと笑いかけた。柔らかい香水の匂《にお》いが、私の周囲を取り巻いた。どうやら、婦人警官では、なさそうだと思った。警官がウィンクする筈《はず》がない。
「私に、つき合って頂けません?」
と、女が言った。勿論《もちろん》、私に異存がある筈《はず》がない。二年前に失業して以来、女の肌にも触れていないし、今日は、拾ったものであるにしろ、金はある。
私は女の腕を掴《つか》んだ。オーバーの上からでも、女の腕の柔らかさが判《わか》った。私は、つきが続いているのを感じた。公園で、五万円入りの財布を拾った上に、今度は、素敵な美人を拾い上げてしまったのだ。
私は、彼女を、小さなバーへ連れて行った。薄暗い店に入って、私と女がテーブルに腰を下すと、中年のバーテンが、妙な顔をして私達を見た。恐らく、彼女の美しさと、ジャンパー姿の私が、似合いのカップルには、どうしても見えなかったからだろう。
私は、ウィスキーを頼み、女は、マティーニを注文した。私は、彼女を傍《そば》近くで見て、改めて、その美しさに驚いた。バーテンが、妙な顔をするのも無理はない。私は、酒に強い方だが女も可成り強かった。が、私は、適当なところで、そのバーから出る事にした。金は、五万円しかないのだ。有効に使わなければならない。彼女は、そのバーの雰囲気が気に入った様だ。だが私が、腰を上げると、仕方がないという様に、彼女も、立ち上った。私は、拾った一万円札で、その店の勘定を払った。女は、私が払うのを、じっと見ている。私は、それを意識して、まだ金のある事を、それとなく、暗示してやった。バーの勘定を払っても、まだ、四万円近く残っていた。この女と、安ホテルにしけ込む事は、出来るだろう。私は、バーを出ると、女を、ホテルに誘った。金のある事は、それとなく知らせてある。一も二もなく追《つ》いて来ると思ったのだが、意外に、彼女は、躊躇《ちゆうちよ》の色を見せた。「もう少し呑《の》みましょうよ」と、女が言った。私は、嫌だと言ってやった。女の魂胆は、見えすいている。呑み潰《つぶ》して、金を巻き上げる気なのだ。私は、強引に、ホテルへ誘った。呑むだけなら、独りの方が、倍呑めるというものだ。
最後に、女は、ホテル行を承諾した。私は、彼女を、二、三度行った事のある、ホテルへ連れて行った。此処《ここ》でも、お手伝いが私達を妙な眼で見た。仕方がない。下駄履の私と、颯爽《さつそう》としたハイヒール姿の彼女とでは、釣り合いが取れるとは、私自身にも思えなかった。
彼女は、いい身体《からだ》をしていた。街中で、声を掛けて来る様な女だから、肌が荒れているだろうと思ったのに、染《しみ》一つない、素晴らしい肌だった。乳房も、娘らしい張りを持っていた。女に飢えていた私は、夢中で、彼女の裸身を抱きしめた。抱き応《ごた》えのある身体だった。
私が快い眠りから覚めた時、彼女の姿は、ベッドから消えていた。周章《あわ》てて起き上って、ジャンパーのポケットを探ると、案の定、財布ごとなくなっている。しかし、私は、格別、やられたという気はしなかった。ホテル代《だい》七千五百円は前払いしてあるから、財布には、三万円位の金しか残っていない筈《はず》である。あれだけの女なら、一夜の歓楽に、三万円も高くはない。それに、もともと拾った金なのだ。警察に届けた事を考えれば、酒を呑《の》み、女を抱けただけでも、儲《もう》けものだと思わなければならない。私は、そう考えて、ホテルを出た。
私は、また、無一文になってしまったわけだが、つきだけは続いていたと見えて、アパートに帰ってみると、友人から手紙が来ていて頼んでおいた就職口のあった事が書いてあった。或《あ》る自動車会社のセールスの仕事だったが、金のない時には、文句も言えない。友人から借りた背広を着て、私は、その会社へ通う事になった。
三か月ばかりが、あっという間に過ぎた。私も、どうにかセールスの仕事に慣れ、車も売れる様になった。そんな、或る日私は、得意客のお供をして、赤坂のナイト・クラブへ行った。
私は、そこで、あの女に、めぐり逢《あ》ったのである。私達のテーブルに来たホステスが、あの女だった。女の方は、私を憶《おぼ》えていなかった。無理もなかった。あの時の私は、薄汚れたジャンパー姿に、チビた下駄を履いた恰好《かつこう》だったのだから。しかし私の方は、時々女の顔や、抱いた時の、柔らかな肌の感触を思い出していた。間違いなく、あの女だった。
私は、女と、二人だけになった時、「君とは、前に一度、会った事がある」と、言った。女も、「私も、一度、何処《どこ》かで、お会いした様な」と、笑って見せたが、これは、勿論《もちろん》、営業笑いだった。その証拠には、私が、三か月前の、奇妙な夜の事を話しだした途端に、女の顔が、蒼《あお》くなった。
「人違いですわ」
と、女は、ひどく冷たい声を出した。営業笑いは、何処《どこ》かに消し飛んでしまって、怯《おび》えた眼になっている。
「君には、どうやら、思い出したくない事の様だが、僕だって別に、強いて、思い出すつもりはない。ただ、もう一度、君に、つき合って貰《もら》いたいと思うんだが」
「とにかく、人違いですわ。私には、憶《おぼ》えのない事です」
女は、知らないと、言い張った。丁度、得意客が帰ると言い出したので、私も、そのまま、クラブを出たが、私の記憶に、間違いがあるとは、思えなかった。確かに、あの女だ。
三日程して、今度は、一人で、そのクラブへ出かけた。どうしても、あの女を、もう一度、抱いて見たかったからだ。注文を訊《き》きに来たボーイに、あの女を呼んで貰いたいと言った。
「百合子《ゆりこ》さんでございますか?」
と、ボーイは、源氏名《げんじな》を言ってから、
「百合子さんなら、もう此処《ここ》には居りませんが」
「居ない?」
私は、驚いた。
「三日前に来た時には、居た筈《はず》だが」
「二日前に、辞《や》めてしまいました」
二日前といえば、私が来た翌日ではないか。私は、何となく彼女が、店を辞めた原因が、私にある様な気がした。ボーイに辞めた理由を訊《き》いたが、知らないと言う。この店に居ないと判《わか》ると、私は、一層、彼女に、もう一度、会ってみたい気持に駈《か》られた。私は、ボーイに頼んで、彼女と親しくしていたホステスを呼んで貰《もら》った。
「百合子の何が訊きたいの?」
年輩の女は、にやにや笑いながら、私の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「知ってる事は、何でも話して呉れないか」
「随分、ご執心なのね」
「ああ、ご執心だとも」
私は、笑い返した。
「彼女の住所を知っていたら、教えて欲しいんだが」
「四谷《よつや》三丁目の、青風荘というアパートよ。あたしも、一度だけ遊びに行った事があるわ」
「このクラブへは、何時《いつ》頃から勤めていたの?」
「そうね。もう半年位になるんじゃなかったかしら」
「半年?」
私は、妙な気がした。女の言う事が本当なら、三か月前私が百合子と、奇妙な一夜を共にした時、彼女は、既に、このクラブに勤めていた事になる。ナイト・クラブとしては二流だが、それでも、可成りの高給を取っていたに違いない。何故《なぜ》、その女が、あんな、夜の女の様な真似《まね》をしたのだろうか。
「半年前からというのは、間違いないだろうね?」
私は、念を押したが、女は、間違いないと言った。
「男は?」
「居たと思うわ。若くて、あんなに綺麗《きれい》な顔をしていたもの、居なけりゃ、かえって、怪しいわ。でも、あたしは知らない、訊《き》いてみた事もないわ」
それだけ聞けば、私には、充分だった。私は、クラブを出ると、その足で、四谷に向った。青風荘というアパートは、直ぐ判《わか》った。鉄筋の、豪華なアパートだった。安サラリーマンの私には、到底、住めそうもない感じだった。私は、眠そうな顔をしている管理人に、来意を告げた。
「その方なら、田中|冴子《さえこ》さんの事でしょう」
と、管理人は、言った。私は、彼女の本名が、田中冴子である事を知った。
「会いたいんだが」
と、私は、言った。
「部屋を教えて貰《もら》えませんか?」
「お気の毒ですが」
と、管理人は、のろのろした声で言った。
「二日前に、引越されましたよ」
私は、唖然《あぜん》とした。引越先を聞いても、管理人は、知らないと言う。私が、そこで聞き得たのは、彼女に、時々、男から電話が掛って来たという事だけだった。
田中冴子は、何故《なぜ》、急に、クラブを辞《や》め、四谷のアパートから消えてしまったのだろうか。勿論《もちろん》、私に、本当の理由が判《わか》ろう筈《はず》がないが、ただ、何となく、私の事が原因の様な気がしてならなかった。私が、三か月前の事を口にした時、彼女は、顔色を変えたし、私に会った翌日に、姿を消している。しかし、私が原因なら、何故《なにゆえ》、姿を消す必要があったのだろうか。それが、私には、判らなかった。あの夜の事を種に、私が、強請《ゆすり》でも、すると、考えたのだろうか。考えられるのは、その位の事だが、私には、理由にならない様に思えた。知らないで通してしまえば済む事なのである。証拠のない事だから、強請りたくても、私には出来ないではないか。
私は、納得のいかぬままに、アパートを出た。田中冴子と、私を結ぶ糸は、ぷっつりと切れてしまった。警察なら、他に追及の方法も見付け出すだろうが、それ程、大騒ぎする事でもない。私は、これ以上、彼女を探すのは、やめる事にした。
一週間たった。私にとって、平穏無事な毎日が、過ぎて行った。世の中は、相変らずの交通事故や、にせ札事件で騒がしかったが、私自身は、サラリーマン生活が、どうやら身について、アパートの部屋代も、溜《た》めなくて済んでいた。しかし、田中冴子の事を忘れたわけでは、なかった。もう一度、彼女に会ってみたい気持は、いつでも、私の心の底にあった。
梅雨に入った。鬱陶《うつとう》しい日だった。朝早く私は、車を得意先へ届ける為《ため》に、自分で、ハンドルを握り、三原橋の辺りを走らせていた。雨のせいか、普段の倍以上の混み様で、交叉点《こうさてん》では、三回位、信号待ちしなければ、渡れなかった。
信号が赤になり、私が、煙草に火を点《つ》けた時だった。何気なく、並んで止っているタクシーに眼を向けると、あの女が居た。ひどく疲れた顔で、眼を閉じて、頭を座席に、もたせかけている。ミンクのコートこそ着ていなかったが、あの女に間違いはなかった。私は運転席の窓を開けて、声を掛けようとしたが、その時、信号《しんごう》が青に変った。彼女を乗せたタクシーは、猛然と走り出す。私も、周章《あわ》ててその後を追った。この鬼ごっこは、余り楽ではなかった。相手は、悪名を世界に響かせた、神風タクシーである。私の方は、客に届けなければならない新車を運転している。何度か、見失いかけたが、どうにか、こうにか、追いつく事が出来た。
彼女を乗せたタクシーは、郊外に建てられた、ホテルの前で止った。彼女のレインコート姿が、ホテルに吸い込まれるのを見てから、私は、車を降りて、そのホテルに近づいて行った。受付で、彼女の事を口にすると、「吉田さんでしたら、四一五号でございます」と、教えてくれた。此処《ここ》には、吉田という名前で、泊っているらしい。名前は違っていても、あの女に間違いないという確信が私にはあった。
私は、エレベーターで四階に上った。四一五号室は、道路に面した部屋だった。私は、小さく息をしてから、ドアをノックした。返事がない。私は、もう一度ノックしてから、ノブを押してみた。鍵は、かかっていなかった。ドアは簡単に開いた。私は、中に入ってみた。
彼女は、そこに居た。しかし、居たという表現が適切であるかどうか、私には、判《わか》らない。彼女は、死んでいたのだから。
彼女は、レインコートを着たままの姿で、絨氈《じゆうたん》の上に、俯伏《うつぶ》せに倒れていた。後頭部を鈍器で殴られたらしく、血が、こびりついている。私は、屈《かが》み込んで、抱き起こしたが、既に、息はなかった。
私は、唖然《あぜん》として、部屋の中を見廻《みまわ》した。驚愕《きようがく》と、恐怖が、ゆっくりと、襲いかかって来た。最初に考えた事は、このままでは、女殺しの犯人に、され兼ねないという事だった。とにかく、此処《ここ》から逃げる事だ。それも、一刻も早く。私は、部屋を逃げ出した。ドアに付いた指紋を、ハンカチで拭《ぬぐ》い消してからエレベーターに乗ったが、思い直して、再び、廊下に出た。受付を通るのが躊躇《ちゆうちよ》されたからである。私は、逆に屋上に上ってみた。考えた通り、裏口へ出る非常階段がある。私は、足音を殺して、鉄製の非常階段を降り始めたが、あの女を殺した犯人も、この階段を利用したに違いないと思った。私が、非常階段を降り切った時、ホテルの中で、非常ベルの鳴る音がした。誰《だれ》かが、女の死体を発見したに違いなかった。私は、周章《あわ》てて表口に置いてある車に駈《か》け寄ると、ドアを開けて飛び乗った。
私が車をスタートさせた時、凄《すさ》まじい勢で、パトロール・カーが、突込んで来るのが見えた。私は、危かったと思った。もう少し遅かったら、私は、警察に掴《つか》まっていたかも知れない。
しかし、結局、逃げるには遅かった事が、翌日になって判《わか》った。刑事が二人、会社に、私を訪ねて来たからである。誰《だれ》かが周章《あわ》てて車で立去った私を見ていたに違いなかった。私は、一応、参考人という事で、警察へ連れていかれた。名前は参考人だが、半ば、犯人扱いされている事は、私にも判った。そうでなければ、フライ級の私を連行するのに、屈強な刑事が、二人も来る事はないだろう。
「あのホテルへ、田中冴子《たなかさえこ》を訪ねて行った事を認めるね?」
訊問《じんもん》に立合った、矢部《やべ》という警部補が、のっけから、抑えつける様な訊き方をした。私は、頷《うなず》くより仕方がなかった。ホテルで顔を見られているのだから、仕方がない。
「君は、あの女の後を追い廻《まわ》していたそうじゃないか? ナイト・クラブのホステスや、青風荘アパートの管理人が、証言しているよ」
「もう一度、会いたいと思ったからです」
「そして、会って、殺したというわけかね?」
「とんでもない。僕には、人は殺せませんよ。僕が行った時、彼女は、殺されていたんです」
「あの日、ホテルへ、その女を訪ねて来たのは、君一人だったと、受付のボーイが証言しているがね」
「そんな事はありませんよ。犯人が居る筈《はず》です。非常階段を上れば、受付を通らずに、四階へ行ける」
「君が逃げる時に、利用した様にかね」
警部補は、皮肉な眼付きで、私を見た。
「とにかく、君と、被害者の関係を説明して貰《もら》おうかね」
私は、三か月前の、奇妙な夜の出逢《であ》いの事から、話さなければならなかった。警部補は黙って聞いていたが、私の話を、信じたかどうか、顔付きからは、判断出来なかった。
「その話が本当だとしても――」
と、警部補は言った。
「君の立場を、少しも有利には、しないね」
確かに、その通りだった。むしろ、強請《ゆすり》を働いたかも知れぬという事で、私の立場を不利に、しかねない。
その日、私は、警察に留置された。参考人の立場から、容疑者に転落した事を、私は、否応《いやおう》なしに覚《さと》らざるを得なかった。このまま、起訴されてしまうのではあるまいかという不安が、私を捕え始めた。裁判にでもなったら、私は、自分の潔白を証明出来るものは何も、持っていない。弱った事になったと考えて、留置場で一夜を明かしたが、翌日になると、意外に、釈放を申し渡された。私には、わけが判《わか》らなかった。一夜の中に、私に有利な証拠が発見されたとも思えなかった。何かあるに違いなかったが、矢部という警部補は、一言も、釈放の理由を喋《しやべ》ってはくれなかった。しかし、とにかく釈放されたのだ。嬉《うれ》しくないと言えば嘘《うそ》になる。私は、喜んで、釈放して貰《もら》った。
雨は止《や》んでいた。雲の切れ間から、初夏の陽射《ひざ》しが洩《も》れて、雨に濡《ぬ》れた舗道に照りつけていた。私は、眩《まぶ》しさに、眼をしばたいた。横断歩道に来て、私は、ぼんやりと、足を踏み出した。釈放された事で、私は、気が弛《ゆる》んでいたらしい。それに、昨夜《ゆうべ》は、留置場で、良く眠れなかった。睡眠不足も手伝っていた。左手から突込んで来る車に気が付かなかったのだ。黒い影を感じて、咄嗟《とつさ》に身体《からだ》をひねったが、左半身に鈍い衝撃を感じると同時に、舗道に、跳ね飛ばされていた。
気が付いた時、私は、病院のベッドに寝かされていた。左手が刺す様に痛い。医者が入って来て、左腕が骨折していると言った。
「まあ、運が、いい方だな」
と、医者は言った。
「腕の骨折位で済んだんだから」
何が、運がいいものか。私は、医者の言い方に腹が立った。
「僕を轢《ひ》いた車は見付かったんですか?」
「見付かったよ」
と、医者は言った。
「しかし、盗難にあった車だったという事だ。だから、車は見付かったが、君を跳ねた犯人は、見付かっていない」
「盗んだ車か――」
私は、その言葉が、何か意味を持っている様な気がした。それに、事故の直前に、私は、ブレーキの音を聞いていない。私は、三か月ばかり、トラックの運転をやっていた事があるが、人影が見えると、無意識に、足が、ブレーキを踏んでしまうものである。それでもスピードがついていれば、ブレーキを踏んでも間に合わないが、あの時には、確かに、ブレーキの音を聞いていない。
それを考え合せると、最初から、私を、轢《ひ》き殺す目的ではなかったかと思えて来るのだ。
医者が出て行った後、私は、薄汚れた天井を眺めながら、その考えを、ひねくり廻《まわ》していた。
(誰かが、私を殺そうとした)
と、思う。しかし、私には、自分が狙《ねら》われる理由が判《わか》らなかった。たった一つ考えられる事は、あの女の事である。あの女が、私が追いかけた為《ため》に殺されたとしたら、逆に、私が狙われるのは、あの女を追いかけたからだろう。とすれば、犯人は、同じ人間だという事になる。しかし、何故《なにゆえ》、犯人は、私を殺す必要があるのだろうか? 私は、あの女を殺したのが、男か女かさえ判っていないのだ。それなのに、誰かが、私を殺そうとした。
(何故《なぜ》だろうか?)
私は、天井を睨《にら》んだが、そこから、答を見付け出す事は、出来そうもなかった。
私は、最初から、考え直してみる事にした。三か月前からである。時計を質に入れて作った、四千円足らずの金しか懐になかった、寒い日の事からである。あの日は、今になって考えてみても、ひどく、ついていたと思う。公園で、五万円入りの財布を拾った上に、田中冴子の身体《からだ》を抱く事が出来たのだから。私は、誘いかける様な彼女の笑顔を思い出した。私は、あの笑いに誘われたのだ。そして、バーに行った。バーテンが、私と彼女を見て、妙な顔をしていたっけ。無理もない。私と彼女では釣り合わなかった。彼女は、パリッとした恰好《かつこう》をしているのに、私ときたら、薄汚れたジャンパーに、チビた下駄を履いていたのだから。
(薄汚れたジャンパーに、チビた下駄を)
私は、妙な気がして来た。そんな、貧乏たらしい恰好をしていた私を、何故《なにゆえ》、彼女が誘ったのだろうか? 私は、一度も、それを奇妙に思わなかったのだが、考えてみれば、妙だと思わざるを得ない。金が欲しかったのなら、私なんかより、自家用車族を狙《ねら》えばいいのだ。彼女程の美貌《びぼう》なら、どんな男でも、誘いに乗った筈《はず》である。それなら、金が目的でなく、私個人に魅力を感じたのか? 私自身としては、そう考えたいところだがそこまで、自惚《うぬぼ》れるわけにはいかない。私は、身体は、貧弱だし、ご面相《めんそう》の方も、たいして、良い方じゃない。
(それなら、何故、私を誘ったのか?)
その辺に、事件の謎《なぞ》が、かくされている様な気がしたが、それが、何であるかという事になると、皆目、見当がつかないのだ。
(あの、拾った財布が、原因だろうか?)
と、ふと、思った。私は、財布と、田中冴子を結び付けて考えた事は、一度もなかったのだが、彼女が、私を誘った理由を見付けるとなると、それしか考えられなかった。彼女が、私の懐に、金のある事を知っていたと考えれば、誘った理由も、どうにか、説明のつかぬ事はない。しかし、それでも、彼女が殺され、私が、狙《ねら》われる理由には、なりそうもない。
私は、一歩考えを進めてみた。あの財布に、何か秘密があった。だから、財布を取り返す為《ため》に、彼女が、私に近づいた。こう考えれば、奇妙な出来事の連続に、説明がつく様な気がしたが、この考えにも、欠点があった。財布を拾った時、私は、可成り仔細《しさい》に、点検してみたが別に秘密らしいものはなかった。一万円札五枚の他《ほか》には、名刺も、紙片も入ってはいなかった。それに、あの財布を奪い取るのが目的なら、色仕掛けの様な面倒な事をせずに、私を殴り倒して、奪い取れば、簡単だった筈《はず》ではないか。それなのに、あの金で、私に、バーで呑《の》ませ、ホテルで女を抱かせてから、おもむろに奪い取っている。
結論の出ぬままに、私が、小さな溜息《ためいき》を吐《つ》いた時、友人の野沢が、病室に入って来た。
「新聞を見て、驚いて、飛んで来たんだ」
と、野沢は、私の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「驚いたって、どっちにだ?」
と、私は言った。
「殺人事件の容疑者にされた事にかい? それとも、車にはねられた事にかい?」
「両方さ。特に、事故の方は、重態だったって出ていたもんだからびっくりしたが、たいした事は、なさそうじゃないか?」
「重態だって?」
私の方が驚いてしまった。野沢は、持って来た新聞を拡《ひろ》げて見せてくれた。確かに、私の事が「病院に運ばれたが、重態」と、書いてある。新聞も、いい加減な事を書くものだと思いながら、私は、社会面の、他の記事に眼を移した。相変らず、同じ様な記事が氾濫《はんらん》している。交通事故に、殺人。それに麻薬。贋札《にせさつ》犯人は、まだ捕っていない。読み進んでいく中に、私は、「あッ」と思った。突飛な空想だが、その空想が正しいとすれば全《すべ》てが、説明がつくのだ。警察が、急に、私を釈放してくれた理由も、どうにか納得がいく。
「新聞は、もういい」
と、私は、野沢に言った。
「それより、君に調べて貰《もら》いたい事がある」
「どんな事だ?」
私は、小声で、彼に、自分の考えを話した。野沢は、信じられないという様な眼で、私を見たが、それでも、調べて来ようと言って、病室を飛び出して行った。
野沢が戻って来たのは、夕方になってからだった。彼は、微《かす》かに興奮していた。
「君の言った通り、三か月前からだった」
と、野沢が言った。矢張り、私の想像は当っていたのだ。そうなると、病院で、無駄な時間を費やしているわけにはいかなかった。
「もう一つ、君に頼みがある」
「言って見給え。今度は、何を調べれば、いいんだ?」
「調べるんじゃない。此処《ここ》から脱け出すのを、手伝って貰いたいんだ」
「脱け出す?」
「そうさ。愚図愚図してるわけにはいかないんだ。どうしてもあの女を殺した犯人を捕えなきゃならないんだ」
野沢は、流石《さすが》に躊躇《ちゆうちよ》した。が、矢張り、友情に、ほだされたと見えて、私が、病院から脱け出すのを手伝ってくれた。たいして、難しい事ではなかった。病院という奴《やつ》は、昔から、人の出入りが、ルーズに出来ているらしい。
病院を出ると、私と野沢は、田中冴子が泊っていたホテルに直行した。受付のボーイは、私の顔を見ると、顔色を変えた。私が、不利な証言をした仕返しに来たとでも思ったらしい。それだけに、かえって、訊《き》き易かった。怯《おび》えていると、何でも、喋《しやべ》ってしまうものだ。彼は、田中冴子が、殺される一週間前から、このホテルに、宿泊していたと言った。とすると、四谷《よつや》のアパートを引き払って、直ぐ、ホテルに来た事になる。
「彼女の所へ、誰《だれ》か訪ねて来た事は、なかったかい?」
「ありません。でも、二度程、電話が掛って来た事があります、関西|訛《なま》りのある男の人からでした」
男から電話があったといえば、青風荘アパートの管理人も、同じ様な事を言っていた筈《はず》である。その男が、犯人かも知れない。しかし、関西訛りのある男というだけでは、あまりにも、漠然と、しすぎている。
「彼女は、外出する事が、あったかね?」
「毎日の様に、外出していましたよ」
「その時には、ハイヤーでも呼んだかね?」
「いいえ。一度、ハイヤーを、お呼びしましょうかと言ったんですが、自分で車を拾うから、いいと申されたので」
用心していたのだと、私は思った。
「帰って来るのは、遅かったかね?」
「そうですね。いつも十時頃出掛けられて、夜遅く、帰られていましたが」
それ以上の事は、ボーイからは、訊《き》き出せなかった。私は、野沢を促して、ホテルを出た。収穫といえる様なものは、関西訛りの男が浮び上って来ただけである。しかし、とにかく、それだけでも、収穫は収穫だ。
街には夕暮が近づいていた。私は、野沢に、もう一度、田中冴子の働いていたナイト・クラブに当ってみてくれる様に頼んだ。
「君はどうする?」
野沢が心配そうに訊いた。
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫だ」
と、私は言った。骨折した箇所は痛むが、我慢出来ぬ程ではない。
野沢と別れて、私は、タクシー会社に足を運んだ。ホテルへ田中冴子を運んだタクシーのナンバーは、憶《おぼ》えていた。北東タクシーという会社だった。その時の運転手は、直ぐ判《わか》った。殺人事件があっただけに、田中冴子の事が、強く印象に残っていた様だった。
「あの、お客さんの事なら、良く憶えていますよ」
と、中年の運転手は、はっきりした語調で言った。
「乗せたのは、|千駄ケ谷《せんだがや》の、旅館の多い所ですよ」
「温泉マークの?」
「ええ」
「車に乗った時、誰か傍《そば》に居なかったかね?」
「いませんでしたよ。しかし、時間からみて、朝帰りって、とこでしたね。男の方は、先に帰ったんじゃありませんか」
私も、同じ事を考えていた。ホテルで、彼女が殺されたのは午前十時|頃《ごろ》だったから、千駄ケ谷を出たのは、八時から九時の間だったと思われる。温泉マークの多い場所から車を拾ったとすれば、運転手の様に、朝帰りと考えるのが、一番、穏当ではあるまいか。先に帰った男が、途中で急用を思いついて、ホテルへ、先廻りしている。そこへ女が戻って来る。男は、女が、私に追いかけられているのを知って、危険を感じて殺した。考えられない筋書きではない。
私は、運転手から、女を乗せた場所を聞いて、其処《そこ》へ、車を飛ばした。タクシーを降りてみて、運転手の言葉に間違いのないのを知った。周囲は、いわゆる温泉マークの旅館ばかりである。朝帰りと考えるのも無理はない。ともかく、私は、一軒一軒、当ってみる事にした。どの旅館でも、私が泊り客ではなくしかも、刑事でないと判《わか》ると、剣もほろろの態度に出た。しかし、五軒目の旅館で、私は、相手の態度に、微《かす》かな反応を見つけた様な気がした。私が、殺された田中冴子の新聞写真を見せた時、そこの女将《おかみ》の顔に、暗い影が走ったからである。私は一万円札を取り出して、相手に掴《つか》ませた。
「この女が、誰と、来たか、それを教えて貰《もら》いたいんだ」
「勿論《もちろん》、男の方とでしたが」
女将《おかみ》は、躊躇《ためらい》がちながら、どうにか喋《しやべ》る姿勢になってくれた。
「三十五、六の、背《せい》の高い、痩《や》せぎすな男の方でしたよ」
「顔に特徴は?」
「色の白い、一寸《ちよつと》した二枚目タイプでしたけどね。そのくせ何か冷たい感じがしたのを憶《おぼ》えてますよ。普通のサラリーマンタイプじゃなくて、芸術家といった感じで――」
「芸術家?」
私は、苦い笑いが、心に広がるのを感じた。芸術家か。確かに芸術家かも知れない。
「その客に、関西訛りはなかったかね?」
「ありましたよ」
と、女将《おかみ》は頷《うなず》いて見せた。
「他に、何か気が付いた事があったら、教えて貰《もら》いたいんだが」
「金払いのとても、いい方でしたよ。お手伝いにも、たくさん、チップをくれて――」
「手の切れる様な一万円札をくれたんじゃないのか?」
「ええ。良くご存知ですわね」
「その金は?」
「もう右から左へ使っちまいましたよ。うちの台所も、楽じゃありませんからね。あのお金が、どうかしたんですか?」
「いや、何でもない」
私は、周章《あわ》てて首を横に振った。
私が、アパートに帰ると、野沢は、既に戻って来ていた。彼の方は、たいした収穫はなかった様だが、私は、別に悲観しなかった。
「僕の考えが正しかった事が判《わか》って来たよ」
と、私は、言った。私は、もう一度、最初から、考えを、まとめ直してみた。
「この事件は、三か月前から始っている。僕が、五万円入りの財布を拾った時からだ。あれは、偶然に落ちていたものではなくて、僕に拾わせる様に、落されていたものだった。何故《なにゆえ》、そんな事をしたのか? 理由は簡単だ。あの金が、贋札《にせさつ》だったからだ。贋札を作った犯人がいる。関西|訛《なま》りのある男だ。彼は自分の作った贋札が果して、疑われずに使えるかどうか不安だった。自分が使って、捕ったのでは、何にもならない。だから僕を利用した。あの財布を拾った後、誰かに追いかけられている様な気がしたのを憶《おぼ》えている。僕はそれを、良心の怯《おび》えのせいだと思ったが、今から考えると、本当に追いかけていたのだ。誰かが僕が、あの金を使う様子を、監視していたのだ。ところが、僕は、仲々、あの金を使わない。痺《しび》れを切らして、女が、僕に近づいて来た。警察にでも、届けられたら、大変だと思ったのかも知れない。奴等《やつら》の考えた色仕掛けは、上手《うま》く行った。僕は、あの金で、酒を呑《の》み、ホテルの料金を払った。彼等は、自分達の作った贋札《にせさつ》が、立派に通用するのを知った。
「君に調べて貰《もら》って判《わか》った様に、その直後から、贋札が、各所で発見され始めている。僕という試験台が成功したものだから彼等は、大っぴらに使い始めたのだ。ところが、三か月後に、僕は、あの女を見つけて追いかけた。僕は、ただ、あの女を、もう一度、抱きたいと思って、追いかけたのだが、奴等は、そうは思わなかった。贋札の事に気付いたと思ったに違いない。だから、喋《しやべ》る怖れのある女を殺してしまった。警察が、突然、僕を釈放した事も、贋札と結び付けて考えれば、説明がつく。警察は、まだ僕が白とは思っていない筈《はず》だ。それを釈放したのは、何処《どこ》からか、贋札の事を耳にして、僕を泳がせておけば、収穫があると考えたからに決っている」
「しかし――」
と、野沢は、言葉を挟んだ。
「相手は、まだ、関西訛りの、色の白い男としか判っていないのだろう」
「三十五、六で、芸術家タイプという事も判っているさ」
と、私は、言った。
「それに、そいつは、僕という人間を買被《かいかぶ》っている。だから僕を殺そうとした。僕が動き廻《まわ》れば、もう一度、殺そうとするに決っている。そこが、こちらのつけ目さ」
「危険じゃないか?」
「僕は、たいして危険だとは思っていない。警察が僕を疑っている以上、必ず尾行をつけている筈《はず》だ。だから、危険は、あまりないと思うのだ」
「警察が、尾行をつけてなかったら?」
「それは、考えない事にしているんだ」
私は、笑って見せたが、ひやッとしたものを感じたのは、確かだった。
翌日、私は、独りで、青風荘アパートへ出掛けた。収穫を期待してではなかった。私が動き廻る事で、犯人を怯《おび》えさせるのが目的だった。怯えた犯人が、何等かの手を打って来るに違いない。それが、私の狙《ねら》いだった。
アパートでは、案の定、殆《ほとん》ど、新しい事実は聞けなかった。が、私は、せいぜい、素晴らしい聞き込みがあった様な顔をして、表へ出た。犯人が、何処《どこ》かで見ているかも知れなかったからである。しかし、何も起きなかった。犯人は、用心している様だ。この分では、また野沢の助けを借りなければならないと思い、彼に電話する為《ため》に、公衆電話のボックスに入った。十円玉を入れて、ダイヤルを廻《まわ》そうとした時だった。ふいに、背後に人の気配を感じて、振り返った。背の高い男と感じた瞬間、私は、その場に、殴り倒されていた。
気が付いた時、私は車に乗せられていた。私の身体《からだ》は、二人の男に、サンドウィッチの様に挟まれている。右側の男は、痩《や》せた色の白い二枚目だった。左側は、やけに太った男だ。そして若い男が、車を運転している。
「警察《サツ》に、何を知らせるつもりだったんや?」
右側の男が、私を、小突いた。
「警察?」
「電話の事や。何を喋《しやべ》るつもりだったんや?」
私は、思わず、にやにやしてしまった。滑稽《こつけい》な間違いだが、こんな勘違いも、時には悪くはない。
「気持の悪い奴《やつ》だ」
左側の男が、低い声で言った。
「笑うのは勝手だが、もうじき、笑えなくなるぜ」
「僕を殺すつもりか?」
「俺達《おれたち》がパーティにでも誘ったと思っているのか」
今度は、相手が、小さな笑い声を立てた。私は、急に、暗い不安に襲われて来た。刑事の尾行が唯一の頼りだったのだが、野沢が言った様に、もし尾行していなかったら、それこそ一巻の終りではないか。
私は、バックミラーに眼をやった。車が二台ばかり、後に追《つ》いているのが見えたが、その車に、刑事が乗っているという保証は、何処《どこ》にもない。
「贋札《にせさつ》は、どの位、作ったんだ?」
私は訊いた。喋《しやべ》っていた方が、不安が深まらずに済む。
「そんな事は、お前さんの知った事じゃない」
「仲間は、三人だけか? この中の誰《だれ》が、あの女を殺したんだ」
「今、すぐ死にたくなかったら、黙るんだな」
左側の男が、拳銃《けんじゆう》で、私の横腹を小突いた。私は黙るより仕方がなかった。拳銃を相手に、喋るわけにはいかない。
車は、雑木林の中に滑り込んだ。車が止り、私は、挟まれた恰好《かつこう》のまま、車から降された。そこから、百 米《メートル》ばかり、歩かされた。浅い谷間の所まで来て、「此処《ここ》でいいだろう」と、太った男が言った。どうやら、この男が、ボスらしい。とすると、関西|訛《なま》りが印刷を受持ち、このボスが、金を出したのかも知れない。
「僕を殺しても無駄だ」
と、私は、関西訛りの男に言ってやった。
「君は、旅館の女将《おかみ》に顔を憶《おぼ》えられている。警察は、印刷屋仲間から、君を探し出すに決っている」
「下手な時間稼ぎは止《や》めるんだな」
太った男は、冷酷な言い方をして、拳銃を構えた。私は観念した。自分の推理が当っていた事が、唯一の慰めだが、それも死んでしまっては、何にもならないが。
私が眼を閉じた時、凄《すさ》まじい、発射音が聞こえた。が不思議に、身体《からだ》に痛みがない。私は、眼を開いた。驚いた事に、三人の男の姿が、眼の前から消えてしまっている。私は、慌てて周囲を見廻《みまわ》した。三人が、谷を這《は》い上って行くのが見えた。その後を、数人の男が追いかけている。
誰《だれ》かが、私の肩を叩《たた》いた。振り向くと、見憶《みおぼ》えのある顔が笑っている。矢部《やべ》とかいう警部補だった。
「どんな気分だね。死に損った気持は?」
呆《とぼ》けた顔で、彼が訊《き》いた。
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女と逃げろ
バーであった女
店の中は、紫煙で、煙っていた。
黒いドレスを着た女達は、泳ぐように、カウンターとテーブルの間を、往《い》ったり来たりしていた。
時折、客の猥雑《わいざつ》な言葉と、女達の華やかな笑い声が、生まれた。
バーは賑《にぎ》わっている。その中で、下瀬信雄《しもせのぶお》だけは、一番奥のテーブルに腰をおろして、陰気な顔で、一点を見つめていた。
女達も、金のなさそうな下瀬のところには、寄って来ない。
下瀬は、先刻から、一人の客が、気になってならなかった。
彼の視線の先に、一人の女が、白い横顔を見せて、ビールを口にしていた。気になるのは、その女だった。
最近では、バーに来る女客も珍しくはないと、下瀬も知ってはいる。しかし、その女の様子は、何となく、奇妙であった。ビールが飲みたくて、飲んでいるという様子はない。
そうかといって、カモを探しに来た水商売の女にも見えない。酔った男の客が、誘っても、素気なく断っているからだ。
(俺《おれ》を、見張っているのではないか?)
ふと、その疑惑が、下瀬を捕えて、離さないのだ。
その気になって見ると、女は、時々、横眼で、彼の様子を窺《うかが》っているような気がしてくる。
(刑事だろうか)
と、考えて、その考えは、自分で否定した。女警官というのは、聞いたことがあるが、女刑事というのは、余り聞いたことがなかったからである。それに、警察の人間なら、いきなり、警察手帳を、突きつける筈《はず》だ。
(判《わか》らないな)
下瀬は、考えこむ。不安が、彼を押し包む。
下瀬は、素通しの眼鏡に、手を触れた。自分では、変装したつもりだが、簡単に、見破られたのだろうか。どうも、女の様子は、彼を、下瀬信雄と、見破っているような気配が感じられてならない。
下瀬は、殺人犯として追われている。罠《わな》にかけられたのだが、それを証明する手段を、今の下瀬は、持っていなかった。
彼を罠にかけたのは、昔の運転手仲間の、篠崎千吉《しのざきせんきち》と、見当をつけていた。だが、篠崎を、まだ、見つけ出せずにいる。
警察に捕る前に、篠崎を見つけ出して、自分の無実を証明しなければならない。だから逃げた。
警察は、下瀬を指名手配した。全国に、彼の写真が、配られている。
下瀬は、素通しの眼鏡をかけ、髪の恰好《かつこう》を変えて、東京から仙台まで、逃げてきた。
仙台へ来たのは、北の方が安全と考えたことの他に、篠崎の生まれた場所が、仙台付近と聞いていたからである。
下瀬は、また女の様子を窺《うかが》った。女は、バーテンの方を眺めている。テーブルの上のグラスは空になっているが、別に、注文する気配もない。
急に、女が立ち上った。
女は、ゆっくりと、下瀬の方に歩いてくる。下瀬は、思わず身体《からだ》を固くし、テーブルの下で、拳《こぶし》を作った。
もし、女が、警察の人間だったら、殴り倒して、逃げるつもりだった。非常口が、近くにあることも、この店に入った時から見定めていた。
女は、下瀬の前に立った。
女は、蒼《あお》い、ひどく真剣な顔をしている。
「下瀬さん」
と、女は、いった。
「早く逃げなきゃ駄目。マダムが、今、警察に電話している」
下瀬は、反射的に、カウンターに、眼をやった。
女の動きに、眼を奪われていて、店のマダムのことを忘れていたのだ。
マダムは、女のいう通り、電話をかけている。あの電話は、警察にかけているのか?
「早く逃げなさい」
と、女は、低い、が、強い声で、いった。
下瀬は、迷った。
この女の言葉の方が、罠《わな》かも知れないからだ。マダムの電話も、下瀬に関係のない電話かも知れない。
マダムが、電話機を掴《つか》んだまま、下瀬を見た。視線が合った瞬間、マダムは、ふッと、顔をそらせてしまった。
「早く」
と、また女が、いった。
下瀬の気持が決った。逃げなければならない。マダムの顔色は、下瀬を意識している。
手配写真を見て、下瀬と、知ったのだ。
下瀬は、トイレに行くふりをして、ゆっくり、テーブルを離れた。次の瞬間、非常口めがけて、突進した。
体当りすると、非常口は、わけなく開いた。背後で、マダムらしい声が、何やら叫んだが、下瀬は、かまわず、路地に飛び出した。
路地は、暗い。その暗い路地を、下瀬は、ドブ鼠《ねずみ》のように、駈《か》けた。
バーとは、反対方向に路地を抜けて、大通りへ出た。
仙台の駅前である。歩道の人混みに、もぐり込んでから、下瀬は、やっとゆるい歩調になった。
両側には、ネオンがまたたき、駅前の広場に立てられた二本の塔の上の、鳩《はと》の木像が、今の下瀬には、皮肉にしか見えなかった。
歩道の人波は、仙台駅に向って、流れていた。
下瀬は、歩きながら、駅の正面にかかっている時計を眺めた。針は、八時十分を指していた。
まだ、上り下りとも、列車はある。仙台を離れた方が、安全なことは確かだ。あのバーのマダムが、警察に知らせたのだとしたら(それは、殆《ほとん》ど間違いないが)、仙台にいることは、危険だ。
(仙台を離れようか)
だが、仙台を離れたら、益々、篠崎を捕えるチャンスは、少くなる。自分の無実を証明できるチャンスは、少くなる。仙台にいるよりは、安全かも知れないが、ただ、逃げ回るだけの生活が続くのだ。
(危険を冒しても、仙台に止るべきだろうか)
決断のつかぬままに、下瀬は、交叉点《こうさてん》まで来ていた。
それを渡れば、そこが、仙台駅だ。
信号が青になり、人々が、渡り始めた時、下瀬は、決心がついた。
下瀬は、人波に逆らって、左へ折れた。
暫《しばら》く歩くと、人の姿が少くなった。仙台は東北一の都会だが、東京と違って、市の中心を少し離れると急に寂しくなる。
寒かった。孤独が、よけい、寒さを感じさせるのかも知れない。
下瀬は、背後を、ふり返る。追って来る人間は、いなかった。
ほっとして、歩調をゆるめた時、下瀬は、自分の傍《そば》に、ぴったり、くっつくようにして走ってくる車に気付いた。
赤く塗られたスポーツ・カーだった。オープンの運転席にはバーで、彼に警告してくれた女が、ハンドルを握っていた。
女は、下瀬の歩調に合せて、ゆっくり車を走らせながら、黙って、下瀬を見ていた。
下瀬が足を止めると、女も、車を止めた。
「お乗りなさい」
と、女は、ハンドルを握ったまま、いった。語調も、命令的なところがあった。が、それは、下瀬が、そう感じただけだったのかも知れない。
「お乗りなさい」
と、女が、また、いった。
下瀬は、自分の運命が、その女に、握られているような気がした。少くとも、今は、女に送られることは、不利だった。しかし、女が、クラクションを鳴らして、警察を呼んだら、下瀬は、忽《たちま》ち捕ってしまうだろう。
下瀬は、歩道から下りて、車に手をかけた。彼が、助手席に腰を下すと、女は、手を伸ばして、車に幌《ほろ》をかぶせヒーターのスイッチを入れた。
急に、女の匂《にお》いが、強くなったような感じだった。
女は、車をスタートさせた。
「汽車に乗らなくて、良かったわ」
と、女が、いった。
「駅には、もう刑事が、張り込んでいたわ。汽車に乗る前に、あんたは、逮捕されてたわ」
「君は、誰《だれ》だ?」
「名前は、白石葉子」
「名前を聞いているんじゃない。何故《なぜ》、俺を助けるのか、それが知りたいんだ」
「あんたが、可哀《かわい》そうだったからよ」
「馬鹿な」
下瀬は、苦笑した。
「俺は、殺人罪で、指名手配されている人間だ。助けたり、かくまったりすれば、罪になるんだ。可哀そうだから、助けたで俺が信用すると思うのか」
「追われていると、疑い深くなるのね」
女が、笑った。
「あたしが、いってるんだから、そのまま、信じたら、どうなの。それに、あたしは、これから、あんたを、かくまってあげるつもりでいるのよ」
「俺を、かくまう?」
「そうよ。ドブ鼠《ねずみ》みたいに、知らない町を逃げ回ってたら、すぐ捕ってしまうわ。マダムの電話で、仙台の警官が、あんたを探し回っている筈《はず》だから」
女は脅かすように、いった。
女のいうことは、当っている。警戒網を張られた仙台の町を、逃げ回るのは、容易ではない。
下瀬が、考え込んでいる間にも、彼を乗せたスポーツ・カーは、夜の仙台の町を、走り続けていた。
車が、止った。
「ここが、あたしの住んでいるところよ」
女が、車のエンジンを止めてから、いった。
下瀬の眼の前に、三階建の高級アパートが見えた。
仙台の地理に不案内な下瀬には、ここが、仙台のどの辺りなのか、判断がつかなかった。判《わか》ったのは、かなり郊外まで、来ているということだった。
下瀬は、運を天に――というより女に委《まか》せてみることにした。女が、下瀬を警察に売る気なら、いくらでも、チャンスがあった筈である。女の意図は判らないが、さしあたり危険はないように見えた。
車を降り、女について、下瀬は三階の彼女の部屋に入った。
ドアの前で、女が鍵《かぎ》を取り出している間に、下瀬は、ドアの横にある小さな表札を見た。
「白石葉子」とある。女がおしえた名前は、本名だったらしい。
三間続きの部屋は若い女のそれらしく、華やかに、飾りつけてあった。
「お酒は、棚にあるわ」
女は、コートを脱ぎながら、下瀬に、いった。
下瀬は、グラスをあけてから、改めて、女の顔を見た。
明るいところで見ると、最初に感じたよりも、老けて見えた。二十七、八といったところだろうか。
しろうとの女でないことは、部屋の様子や、化粧の仕方を見て判《わか》る。だが、そんなことは、どうでも良いことだった。
問題は、何故《なぜ》、下瀬を助けたかである。
「何故、俺《おれ》を助けた?」
下瀬は、同じ言葉を、繰り返して、相手に投げつけてみた。しかし、返ってきた答は、車の中で聞かされたものと、同じだった。
「あんたが、可哀そうだったからよ」
と、女は、微笑しながらいう。
「それで、いいでしょう」
「判らないな」
下瀬は、ソファに腰を下し、しわくちゃになった煙草を取り出しながら、ひとり言のように、いった。
「何が判らないの?」
「俺みたいな人間に、利用価値があるとは思えないが」
「まだ、そんなことをいっているの?」
女は、にやにや笑いながら、着換えたガウンの裾《すそ》をひるがえすようにして、下瀬の傍《そば》に腰を下した。
「考えることないわ。あんたは、逃げ回ってる人間。あたしはそれを助けて、かくまった。それだけでいいじゃないの。警察に追いかけられてる人間を助けるのが、あたしの趣味なのよ」
「妙な趣味だな」
「自分でも、妙だと思ってるのよ」
女が、いった時、奥の部屋で、ふいに、電話のベルが、鳴った。
下瀬が、反射的に、身構える姿勢になるのへ、女は、
「心配することないわ」
と、笑って見せた。
「どうせ、お友達からの電話よ」
女は、そういって、ソファを立った。
下瀬は、電話の声に、耳をすませた。だが、相手の声は、聞こえない。ただ、女が、
「いいわ」
と、いったのを聞いただけである。
ひどく短い電話であった。戻ってくると、女は、
「つまらない電話――」
と、吐き棄《す》てるように、いった。だが、そういいながら、女が、テーブルの置時計に、素早く視線を送ったのに、下瀬は、気付かなかった。
一つの罠《わな》
先刻から、下瀬の鼻を擽《くすぐ》るものがある。
女が身体《からだ》につけている香水の匂《にお》いだったかも知れないし、女自身の匂いであったかも知れない。
女が身につけているガウンは、薄い絹で、まるで、ネグリジエのように、見えた。
(妙な気持になりそうだ)
と、ふと、思った。逃げている間、女には近づくまいと、下瀬は、思っていた。是が非でも、篠崎を見つけ出して、無実を証明するという気力のくじけるのが怖《こわ》かったし、警察に追われている自分に近づいてくるような女には、何か下心があるに決っていると、考えたからである。
しかし、こうして、女と二人だけでいると、その決心が鈍ってくる。下瀬にしても、二十八歳の若さだし、女に対する欲望も人並みに、持っているのだ。
女は、誘うように、じっと、下瀬を見つめている。
確かに、誘っている。と、下瀬は、思った。
疑惑が、ふと、下瀬を捕える。が、目覚めた欲望が、その疑惑を押し流してしまいそうであった。
女の指先が伸びて来て、下瀬の手に触れた。
下瀬は、その指先を掴《つか》んで、女の身体を引き寄せた。
女の身体が崩れてきた。脂粉の香りが、下瀬を押し包んだ。むせるようであった。
唇が合されると、下瀬の警戒心は、完全に消えた。女の身体を、ソファに押し倒した。
女が小さな呻《うめ》き声をあげた。が、下瀬には、それも、女の誘いとしか聞こえなかった。
下瀬は、ドアがゆっくりと開き、誰《だれ》かが、部屋に入って来たのに、気付かなかった。
「この野郎ッ」
という男の怒声を聞いて、下瀬は、はね起きた。
ひどく背の高い、頑丈な身体つきの男が、仁王立《におうだ》ちになって、二人を睨《にら》みつけていた。
年齢は四十歳くらい。右側の頬《ほお》に、創《きず》があった。
女も、乱れた恰好《かつこう》で起きあがると、
「あッ。あんた」
と、甲高《かんだか》い声で、男に向って、いった。
「この人は、何にも――」
「いいわけは、聞かねえ」
男は、押さえつけるような声でいうと、いきなり、女の頬を殴りつけた。
ひどく派手な音がした。女は、悲鳴をあげると、床に転がった。
男は、ペッと、床に唾《つば》を吐いてから、下瀬に、眼を向けた。
「お前さん。よくも、俺の女に、手を出してくれたな。礼をさして貰《もら》うぜ」
「俺は、何も――」
「いいわけは、聞かねえ。俺は、いいわけってやつが、昔から嫌《きれ》えなんだ」
男は、革ジャンパーのポケットから、黒光りのするピストルを取り出して、下瀬の鼻先に突きつけた。
下瀬は、背筋に、冷たいものが走るのを感じた。このピストルは、玩具《おもちや》ではない。
「俺も、一寸《ちよつと》知られた人間なんでね。女を寝取られて、指をくわえては、いられねえんだ。俺の顔が、潰《つぶ》れるんでな」
「――――」
下瀬は、助けを求めるように、女を見た。
女は、倒れた恰好《かつこう》のまま、殴られた頬《ほお》に、手を当てている。
「殺《や》る前に、名前だけは、聞いといてやる。念仏ぐらい唱えてやるぜ。何ていう名前なんだ」
男が、訊《き》いた時である。
下瀬は、俯向《うつむ》いている女の身体《からだ》が、少しも震えていないことに気付いた。
女の頬が歪《ゆが》んでいる。泣いているのかと思ったが、そうではなかった。
(笑いを堪《こら》えているのだ――)
下瀬は、くそッと思った。
「つまらない芝居は、止《や》めにしてくれ」
と、下瀬は、青い顔のまま、男に、いった。
「女が、笑いたいのを我慢してるぜ」
「え?」
男は、びっくりした顔で、女を見、それから、急に、言葉の調子を変えて、
「姐《ねえ》さん、こまりますよ。打合せた通りに、本気でやってくれなきゃあ」
「お前が、へたくそなんだよ」
女が、顔を上げて、いった。口元に苦笑が浮んでいた。
「お前が、あんまり大時代なセリフをいうもんだから、笑いたくなっちまったんだよ」
女は、男の手からピストルを取ると、その筒先を、下瀬に向けた。
「今のは、確かにお芝居だったけど、このピストルは、玩具じゃないわよ」
「判《わか》ってる」
と、下瀬は、いった。
「何故《なぜ》、こんな手のこんだことをやったんだ?」
「あんたを、のっぴきならない立場に立たせた上で、たのみたいことがあったからよ」
「警察に追われている人間に、何が出来ると、いうんだ?」
下瀬が、自嘲《じちよう》をこめて訊《き》くと、女が、にやりと笑った。
「そんな人間だから、好都合なのよ」
「判《わか》らないな」
「あんたがやったことを、もう一回やって貰《もら》いたいだけのことよ」
「俺《おれ》がやったこと?」
「殺しよ」
「俺は、殺《や》ってない。俺は無実なんだ」
「そんなことは、あたしの知ったことじゃないわ」
女は、冷たく、いった。
「あんたが、殺人犯として、警察に追われている人間だってことが、あたしには、大事なのよ。逃げ場のないドブ鼠《ねずみ》だってことがね」
「――――」
「あたしは、あんたみたいな人間を探してた。あのバーで、手配写真にあったあんたを見つけて、小躍りしたわ。役に立つドブ鼠が見つかったと思ってね」
「――――」
「二重に縛りつけて、いうことを聞かせてやろうと思ったんだけど、この男が芝居が下手《へた》なもんだから、一つだけになっちまったけど、それだけでも充分だってことを忘れないことね」
「俺が、いうことを、聞かなかったら?」
「警察に突き出すか、撃ち殺すかよ。あんたは、殺人犯なんだからね。あたしが、撃ち殺しても、正当防衛が、通るわ。証人が作れるってことを忘れないでね」
「この男を、正当防衛の証人にするのか?」
「あたしのいう通りに動く人間は、他にもいるわ」
「――――」
「あんたに殺して貰いたい人間がいるのよ。方法は、何でもいい。殺《や》ってくれれば、あんたを、仙台から、逃がしてあげる」
「――――」
「悪い取引きじゃない筈《はず》よ。いいこと、あんたと、殺される人間との間には、何の関係もない。つまり、動機がないんだから、あんたが犯人とは思わないわ。そして、あんたは仙台から逃げられる」
「何故《なぜ》、自分達で、殺《や》らないんだ?」
「馬鹿なことをいわないでよ。その人間と、あたし達が憎みあってることは、警察だって知ってるわ。殺れば、すぐ疑われてしまうじゃないの。だから、あんたに殺って貰《もら》うのよ。あんたみたいな人間が、一番安全な殺し屋だからね」
「――――」
「どうなの? 引きうけても引きうけなくても、あんたは、殺人犯として、警察に追われるのよ。安全に、仙台から、逃げ出したくないの?」
下瀬は、女とピストルを見比べた。拒否すれば、本当に、引金をひくかもしれない。
警察に電話するかも知れない。
いずれにしろ、一巻の終りであることに変りはない。
「引きうけたら、俺の頼みを、聞いてくれるのか?」
「仙台から、逃がしてやることは、約束した筈よ」
「他のことだ」
「どんなこと?」
「篠崎千吉という男を見付けて貰いたいんだ」
「人間の探し物?」
「生まれたのは、仙台としか判《わか》っていない。仙台に帰ってきているらしいのだ。東京では、トラックの運転手をしていた。だから、仙台でも、同じ仕事をしていると思うんだ」
「その男を、どうするつもりなんだい?」
「ただ、探し出してくれるだけで、いいんだ。篠崎が、今、何処《どこ》で何をしているか、それを調べてくれたら、いう通りにしてもいい」
女は、傍《そば》に突立っている男と、顔を見合せてから、
「いいわ。探してやるわ」
と、いった。
下瀬は、背の高い男に、近くの古ぼけた倉庫に、連れて行かれた。
女が、男のことを、「信次」と、呼んでいたから、そういう名前なのだろう。字は、違っているかも知れない。が、そんなことは、下瀬には、どうでも良いことだった。
「白石建設倉庫」と、看板が出ているところを見ると、下瀬を罠《わな》にはめた、白石葉子という女と、何かの関係があるのかも知れない。勿論《もちろん》、「建設」という名前があったとしても、表看板だけのことだろうが。
下瀬は、倉庫の地下にある小さな部屋に、押しこめられた。
「暫《しばら》く、ここに、じっとしていて貰うよ」
と、信次という男は、薄笑いしながら、いった。
「出て行きたきゃ、行ってもいいが、すぐ、警察に捕る。警察に捕らなくても、俺達《おれたち》の仲間が、お前さんを、探し出して警察に突き出す。俺達の力を、甘く見ないことだね。お前さんは、ここで、大人しくしているのが、一番安全なんだ。食物は運んで来てやるし、警察からも守ってやる」
「篠崎千吉を、本当に、探し出してくれるのか?」
「俺達は、約束を守る。だから、お前さんにも、約束を守らせるぜ」
「判《わか》った」
「いい子だ」
信次は、にやッと笑うと、部屋を出て行った。
下瀬は、硬い丸椅子《まるいす》に腰を下して、周囲を見回した。倉庫番が、使っていたのか、土間に続いて、三畳ばかりの畳が敷いてあり、汚れた蒲団《ふとん》が、隅に、積み重ねてあった。
一応、人間が、寝泊り出来るようになっているようだった。
地上に出るには、狭く急な階段を上って行かなければならないが、出口に、四、五人の若者が、たむろしていることは、連れてこられた時に、見ている。
いずれも、十八、九の若者ばかりだった。
下瀬が、信次に、連れて来られた時、その若者達は、殆《ほとん》ど、無表情に、二人を迎えた。
下瀬のような客が、珍しくないのだろう。と、いうことは、そうした客を、扱いなれているということにもなる。
(うかつには、出られない)
と、下瀬は、思う。一人前のヤクザより、ああしたチンピラの方が、危険なのだ。
下瀬は、椅子から立ち上ると、畳の上に、ごろりと、寝転がった。
煤《すす》けた天井から、黄色い裸電球が、ぶらさがっている。
下瀬は、腕時計に眼をやったが、いつの間にか、止っていた。バーに入った時間から、頭の中で考えてみて、ひとまず十一時に針を合せてから、ねじを巻いた。
(妙なことになったものだ)
と、下瀬は、思った。
下瀬を捕えているのは、恐怖よりも、当惑だった。恐怖は、恐らく、約束を迫られた時に、湧《わ》いてくるだろう。
(奴等《やつら》は、篠崎千吉を、見つけ出せるだろうか?)
下瀬にとって、今、一番の関心は、そのことだった。
信次は、「約束は守る」と、いった。恐らく、探し出せる自信があるのだろう。篠崎のような、後暗いところのある人間を探し出すのは、こうした組織の人間の方がうまいに違いない。
(もし、奴等が、篠崎千吉を、見付け出してくれたら――)
そのことだけに限っていえば、下瀬は、仙台まで、逃亡の旅を続けて来た甲斐《かい》があったし、白石葉子達のかけた罠《わな》にかかって、かえって良かったことになる。勿論《もちろん》、そのことだけに限ってという但し書きをつけてのことだ。
もし、下瀬一人だけの力だったら、約五十万人といわれる仙台の人間の中から、一人の篠崎千吉を見つけ出すことは、余程の奇跡が起きない限り難しいだろう。見つけ出す前に、警察に捕ってしまうに、決っている。
(その点では、奴等に感謝すべきかも知れない)
だが、彼等が、篠崎千吉を見つけ出した時、下瀬にとってものっぴきならぬ事態が、来ることを、意味している。
篠崎を見つけて貰《もら》って、はいサヨウナラというわけにはいく筈《はず》がない。約束の履行を迫られるだろう。
誰か判《わか》らないが、一人の人間を殺せと、彼等は、いった。勿論、冗談である筈がない。その時に、一体、どうしたらいいのか。
判らなかった。一つだけ判っているのは、彼等の命令通りに動いたら、今度こそ、本物の殺人犯になってしまうということだけである。
二発の弾丸
信次が、いった通り、食事だけは、きちんと、運んで来てくれた。運び役は、猿に似た顔の若者だった。信次に、いい含められているらしく、一言も、喋《しやべ》らず、ただ、機械的に、食事を運んでくるだけであった。下瀬は、何とか話しかけようとしたが、途中で、諦《あきら》めてしまった。
下瀬は、四日間、倉庫の地下で過した。
その間、白石葉子も、信次も、顔を見せなかった。外の様子が、どうなっているのか、篠崎千吉を、見つけ出せるメドがついたのかどうか、そうしたことは、一切|判《わか》らず、下瀬は、四日間を、不安と焦燥の中で、過した。
五日目の朝になって、信次が、白石葉子と一緒に、降りてきた。
「篠崎千吉は、見つかったわ」
と、葉子は、いった。下瀬の顔に、複雑な表情が浮んだ。
「やっぱり、仙台に、いたのか」
「市内にある運送会社で、働いている」
と、信次が、いった。
「これで、お前さんとの約束は果したわけだ。だから、今度は、我々の命令を実行して貰《もら》う」
「篠崎は、仙台の何処《どこ》の、何という運送会社で、働いているのか、それを、教えてくれ」
「駄目だ」
「駄目? それじゃあ、約束が違うじゃないか?」
「約束――?」
葉子が、くすくす笑った。
「探してあげるとは、いったけど、教えてあげるとは、いわなかったわ」
「しかし――」
「勿論《もちろん》、あんたが、あたし達との約束を実行してくれたら、喜んで教えてあげる。それまでは、駄目ね」
「篠崎を見つけたというのは、嘘《うそ》じゃないのか?」
「疑り深い野郎だな」
信次が、眉《まゆ》を寄せていい、上衣《うわぎ》のポケットから、一枚の写真を取り出して、下瀬の鼻先に、突きつけた。
そこに、確かに、篠崎千吉の顔が、写っていた。革ジャンパー姿の篠崎が、小型トラックの運転席に、乗り込もうとしている写真であった。
下瀬が、なお、よく見ようと、眼を近づけると、信次は、邪険に写真を取り上げて、ポケットに、しまい込んでしまった。
しかし、下瀬は、トラックの横腹に、「三」という字が、書いてあったのを、読み取った。写真には、車の半分位しか、写っていなかったから、「三」の次に、何かの字があるのだろう。「三」何とか運送会社で、篠崎は働いているのだ。だが、それだけの知識が、何の役に立つだろうか。
「さて、約束を実行して頂きましょうかね」
葉子がいった。妙に、切り口上ないい方だった。
「誰《だれ》をやるんだ?」
「仙台の駅前に、カスバというバーがあるわ。そこの支配人を殺《や》って貰《もら》いたいのよ。名前は吉川|慎吉《しんきち》。ここに写真があるからよく見とくのね」
葉子は、写真を取り出して、下瀬に渡した。
顔の大きな男であった。眼も大きい。一度見たら忘れられない顔という奴《やつ》だ。
「たいてい、カウンターの後ろで、客に、愛想をふりまいている」
信次が、傍《そば》から補足した。
「あの店で、一番|身体《からだ》の大きな男だから、間違うことはない。店も薄暗い。殺《や》るのは、簡単な筈《はず》だ」
「それなら、何故《なぜ》、あんた達が、殺らないんだ?」
「理由は、前にもいった。奴が死ねば、必ず警察《サツ》は俺達を疑う。だから奴も、平気で店に顔を出しているんだ。お前さんならいい。カスバは十一時に閉るから、それまでに殺って貰う」
「その間、あんた達は、完全なアリバイを、作っているというわけか?」
「仲々、頭がいいじゃないか」
信次が笑った。
「ところで、方法だが、何で殺るね? ピストルでもナイフでも、貸してやるぜ」
「ピストルがいい」
「それが、一番いいだろうな。素人でも殺《や》れる」
信次は、若者を呼んで、ピストルを持って来させた。丸い、瘤《こぶ》に似た消音装置をもっていた。信次は、使い方を説明してから、
「弾丸《たま》は、二発だけやる。一発|外《そ》れても、もう一発で殺れる筈《はず》だ。二発だけなら、妙な気も起こさんだろうからな」
と、笑った。
下瀬は、渡されたピストルを、手に取った。ずっしりした重さが、掌《てのひら》に、伝わってくる。下瀬の顔は、蒼《あお》ざめていた。
「十一時を過ぎても、あんたが約束を果さなかったら、容赦なく、警察《サツ》に、電話するからね」
白石葉子が、釘《くぎ》をさすように、いった。
夜になって、下瀬は、倉庫から、外へ出された。時計は、六時三十分を指していた。
(あと、四時間半)
と、下瀬は、頭の中で、時間を考えてみた。
(それまでの間に、決着をつけなければならない)
下瀬には、吉川慎吉という男を殺す気はない。彼等は、下瀬を、殺人犯と信じている。だから、身の安全のために、二度目の殺人も引受けるだろうと、考えたに違いない。だが、無実の下瀬には、人は、殺せない。
(だが、逃げられるだろうか?)
自信はない。それも、篠崎をつれて、仙台を脱け出すのでなければ、意味はないのだ。
篠崎を掴《つか》まえて、彼を連れて、東京へ戻り、ゆっくりと、篠崎千吉に、自白させるのだ。そうしなければ、自分の無実を、証明することは、出来ない。
篠崎を掴まえても、仙台を出られなければ、白石葉子や信次達に、殺されるのは、眼に見えている。こうして、ピストルを持たせて、放り出したのを見ても、彼等の組織が、仙台で、どれほど強大なものなのか、それに、自信を、持っているからではあるまいか。
下瀬は、夜の冷気の中で、周囲を見回した。彼等の眼が、下瀬の行動を、監視しているかも知れなかったからである。しかし、下瀬の眼には、師走《しわす》の街を歩く人々のどれが、彼等の身内なのか、判《わか》る筈《はず》がなかった。
下瀬は、仙台の駅前に、足を向けた。彼等が、監視しているとすれば、最初は、指図通りに動いているように、見せかけたほうがいいと、考えたからである。
カスバというバーは、すぐ判った。可成り大きな店で、赤いネオンが、夜空に、「カスバ」の文字を、きらめかせていた。
下瀬は、ドアを押して、店の中に入った。
活気はあるが、薄暗い店であった。下瀬は、一番奥の椅子《いす》に腰を下して、店内を見回した。
カウンターの後に、吉川慎吉の姿は、見えなかった。が、十分ほどして、写真で見た特異な顔が、現れた。
彼は、知り合いの客に向って、笑顔で挨拶《あいさつ》をし、バーテンの真似《まね》を始めた。シェーカーのふり方は、本職に近かった。
下瀬は、吉川慎吉の顔を見ていた。彼は、自分の命を狙《ねら》っている人間が、ここにいることを知らないだろう。下瀬のポケットに、二発の弾丸《たま》が装填《そうてん》された消音ピストルが、入っていることを、知りはしまい。
下瀬は、吉川慎吉の顔から、他の客に、視線を移した。この客の中に、奴等《やつら》が、入り込んで、下瀬の行動を、監視しているだろうか?
判《わか》らないが、いないだろうと、下瀬は、見当をつけた。下瀬が、吉川慎吉を殺《や》った時、傍《そば》にいたのでは、アリバイが作れなくなるに違いないからである。吉川慎吉からは、離れた場所にいるのではないかと、下瀬は考えた。この考えが当っているとしたら、吉川がいるこの店の中だけが、下瀬にとって、安全地帯ということになる。もっとも、警察という別の敵がいることは、警戒しなければならないが。
下瀬は、腕時計に、眼をやった。すでに、先刻から、三十分が、過ぎていた。
(あと、四時間)
篠崎千吉を掴《つか》まえるなら、その四時間のうちに、しなければならない。
下瀬は、カウンターの傍へ行き、「電話をかけさせて欲しい」と、頼んだ。
吉川慎吉の傍で、厚い電話帳を、繰ってみた。「三」が頭につく運送店の名前を探した。
三喜運送店
三橋運送店
と、二つあった。
下瀬は、その二つの運送店に電話をかけて、篠崎千吉という男が働いているかどうかを訊《き》いてみた。偽名は、使っていない筈《はず》だった。運転手として働くには、住所・氏名を記した運転免許証が必要だからだ。
果して、「三喜運送店」の方で、篠崎という運転手がいるという返事があった。
下瀬は、興奮した表情になって、受話器を置いた。
電話帳には、「姉歯横丁《あねはよこちよう》」と、運送店の住所が、書いてあった。地理不案内の下瀬には、姉歯横丁が、何処《どこ》にあるのか見当がつかない。
下瀬は、ホステスの一人を掴まえて、姉歯横丁の場所を、訊《き》いてみた。
「市電に乗って、五つ目の愛宕橋《あたごばし》で降りればいいわ」
と、そのホステスは、いった。
「広瀬川の近くよ。車で行けば、十五分ぐらいじゃないかしら」
「十五分――」
その近さが、下瀬に、勇気を与えた。うまくすれば、篠崎千吉を掴《つか》まえられるかも知れない。
下瀬は、料金を払ってから、何となく、ポケットの中のピストルに、手を触れた。
たった二発の弾丸《たま》が、果して、自分を守ってくれるかどうか、下瀬には、判《わか》らない。警察に捕ったら、ピストルを持っていることは、むしろ、心証を悪くするだけの役にしか立たないだろう。
しかし、捨てることも出来ない。白石葉子や信次達とは、二本の腕だけで戦うことは、難しいからである。二発の弾丸が、完全に自分を守ってくれるとは、思えないが、精神的な支えには、なってくれそうだった。
下瀬は、トイレに入った。バー「カスバ」の周囲には、奴等《やつら》が、監視の眼を光らせていることは、間違いない。表から出たら、簡単に、発見され、裏切りを知られてしまうに、決っている。
出来るだけ、裏切りを、隠し抜くことだ。それには、この店を出るところを、見られてはならない。
下瀬は、化粧室の小さな窓から、抜け出すことにした。逃亡の旅を続けている中に、いつの間にか、身についてしまった技術であった。
下瀬は、暗い路地に出た。幸い、人影は見えない。
下瀬は、密集したバーやキャバレーの壁添いに、ゆっくり歩いて行った。歩きながら、白石葉子のいった「ドブ鼠《ねずみ》」という言葉を思い出し、ひとりでに、苦笑が浮んだ。確かに、ドブ鼠だ。
大通りに出るところで、下瀬は立ち止った。
師走《しわす》の通りは、普段の通り、人波が溢《あふ》れ、ネオンが輝いていた。しかし、その中に、危険が、かくされているかも知れない。
下瀬は、空のタクシーが止っているのを見た。幸い、乗る人もいないらしい。下瀬は、車までの距離を、目測した。十 米《メートル》ぐらいだろうか。その間を駈《か》け抜けて、あの車に飛び乗れば、発見されずに、済むかも知れない。
下瀬は、呼吸を計って、路地を飛び出した。背を丸め、通行人を、かいくぐるようにして、タクシーに近づくと、ドアを開けて、飛びこんだ。
「姉歯横丁へ、やってくれ」
と、下瀬は、かすれた声でいった。
車が走り出すと、下瀬は、後の窓から街を見回した。奴等に発見されたかどうか、下瀬にも判《わか》らなかった。
青葉城址《あおばじようし》
「姉歯横丁の何処《どこ》です?」
運転手が訊《き》く。
「愛宕橋の近くにある三喜運送店に行きたいんだが――」
「その店なら知ってますよ」
と、運転手はいった。昔、三喜運送店で働いていたことがあるのだという。
(少しついているな)
と、下瀬は思った。このツキが、続いてくれれば助かるのだが。
三喜運送店の横で、タクシーを降り、下瀬は、店の様子を窺《うかが》った。もう、篠崎は、仕事を終って、帰ってしまっているだろうか。
店には、若い女事務員が、ひとりで帳簿を繰っているだけだった。
下瀬は、客のふりをして、店に入った。
何気ない様子で、女事務員に、料金のことなどを訊《たず》ねてから、
「ところで、この店に、友達が働いていると聞いたんだが」
「誰《だれ》のことかしら?」
「名前は、篠崎千吉というんだが」
「篠崎さんならいます。今、一寸《ちよつと》、出かけてますけど」
「出かけてる?」
「ええ。帰ろうとしたら、急に仕事があったんです。それで行って貰《もら》ったんです」
「一人で?」
「ええ」
「場所は?」
「西公園の傍《そば》の、田中っていう雑貨屋へ、荷物を運んで行ったんですけど」
「今から行ったら、そこで会えるかな?」
「ええ。出かけたばかりですから」
女事務員は、腕時計を見て、いった。
下瀬は、店を出た。
タクシーを掴《つか》まえようとして、大通りに眼を向けた時、通りの向う側を、人影が走るのを見た。
下瀬の顔色が変った。彼が監禁されていた倉庫で見た、若者の一人に似ていたからである。
下瀬は、自分の迂闊《うかつ》さに腹が立った。彼等が、三喜運送店を見張っていたのは、当り前のことだったのだ。下瀬が、吉川慎吉を殺《や》る前に、篠崎千吉を訪ねたら、それは、裏切りを意味しているからだ。そして、今、下瀬は、裏切りを知られてしまったのだ。
人影は、もう見えなかった。おそらく、電話で下瀬が裏切ったことを、白石葉子や信次に知らせているのだろう。
時計は、まだ、八時になったばかりだった。予定の十一時より三時間も早く、彼等に知られてしまったことになる。
(急がなければならない)
下瀬は、自分にいい聞かせ、必死な眼でタクシーを探した。
仙台は、東京に比べて、タクシーが拾い易い筈《はず》なのに、こんな時に限って、空のタクシーが見つからないのだ。
下瀬は、いつの間にか、西公園の方向に向って、駈《か》けていた。駈けながら、途中で、やっと、タクシーを拾うことが出来た。
「西公園へ、やってくれ」
下瀬は、喘《あえ》ぎながら、いった。
「急いでくれ」
西公園は、広瀬川を挟んで、青葉城址と向い合っている。さして広くはないが、広瀬川越しに見る青葉城址の景色は美しく、近くに、天文台や、公会堂もある。
しかし、今の下瀬には、そうした景色は眼に入らなかった。
下瀬は、タクシーを降りると、「田中雑貨店」を探した。
店は、すぐ見つかった。三喜運送店の小型トラックが、店の前に止っていて、積荷を降ろしている。作業服姿の篠崎千吉も、雑貨店の店員と一緒に働いていた。
下瀬は、暗闇《くらやみ》を伝わるようにして、車に近づくと、運転席にもぐり込んだ。
背をかがめた恰好《かつこう》で、ポケットからピストルを取り出した。
やがて、荷物の積降ろしが終ったらしく、「ご苦労さん」という声がしてから、運転台のドアが開き、篠崎が、乗り込んで来た。
下瀬は、その鼻先に、消音ピストルの筒先を、突きつけた。
「声を立てるな」
と、下瀬は、低い声で、いった。
「ゆっくり、乗るんだ」
篠崎の顔は、真青だった。
「俺をどうする気だ?」
「東京へ連れて行ってから、ゆっくり反省して貰《もら》う。お前のしたことをね」
「俺は東京へ行かん」
「いや、行くさ」
下瀬は、篠崎の脇腹《わきばら》へ、ピストルを押しつけた。
「先《ま》ず、暗い、静かな場所まで、車を転がして貰う」
篠崎は、こわばった顔で、アクセルを踏んだ。
二人を乗せた小型トラックは、広瀬川を渡って、青葉城址に近づいた。この辺りは、旧兵舎や、沼などがあり、夜の暗さが支配している。
下瀬は、トラックを、横道に入れさせてから、ライトを消させた。
周囲が暗くなると、広瀬川の向うに拡《ひろ》がる仙台市内の灯だけが、ひどく明るく見えた。
「何故《なぜ》、とめさせたんだ?」
篠崎が、皮肉な調子で、訊《き》いた。
「警察が怖いのか? 警察に捕っても、俺は、お前の無実を証明してやらねえぞ」
「だろうな。だが、東京へ連れていけば、お前も、気持が変る筈《はず》だ。東京の現場へ連れて行けばな」
「東京まで、俺を、無事に連れて行く自信があるのか?」
「連れて行くさ」
だが、自信はない。すでに、非常線が張られている筈だし、白石葉子達も、下瀬を探している筈だった。
「青葉城址の裏を回って山形県の方へ抜ける道はないのか?」
「――――」
「黙っているところをみると、あるんだな」
下瀬は、一層強く、ピストルを、篠崎に押しつけた。
「行って貰《もら》おうか」
篠崎は、ライトをつけ、アクセルを踏んだ。車は、松並木の道を、標高一六七 米《メートル》の城址《じようし》に向って、上って行った。よく舗装されているが、急勾配《きゆうこうばい》の道である。
やがて、ライトの中に、こけむした石垣が見えてきた。
「止めろ」
と、下瀬は、急に、いった。頂上付近に、パトロール・カーの赤い灯を見たからである。
間違いなく、パトロール・カーが止っているのだ。山形県側に抜ける道は、塞《ふさ》がれている。
「引返すんだ。早くしろッ」
下瀬は、怒鳴《どな》った。
車は、危く石垣にぶつかるようにバックし、方向を変えた。
「どうやら、逃げ道は、塞がれたようだな」
篠崎は、皮肉な声で、いった。
下瀬は、麓《ふもと》の暗がりで、また車を止めさせた。
「白石建設というのを、知っているか?」
下瀬が訊《き》いた。
「知ってる。仙台では、可成り大きなヤクザだ。お前は、あいつらにも狙《ねら》われてるのか?」
「無駄口を叩《たた》くな。白石組の人数は?」
「さあね。少くても、五、六十人は、いる筈《はず》だ。警察《サツ》の他に、白石組に狙われたんじゃ、とうてい逃げ切れないぜ。諦《あきら》めて、俺《おれ》を、放したら、どうなんだ?」
「うるさい。今度、無駄口を叩《たた》いたら、引金をひくぞ」
「――――」
篠崎は、黙った。だが、眼には、冷笑が浮んでいる。どうせ、逃げられるものかと、思っているのだ。
(くそッ)
と、思った。
(死んでも、こいつを連れて、東京まで、行ってやるぞ)
下瀬は、手を伸ばして、ラジオのスイッチを入れた。
暫《しばら》く、音楽が続いてから、ニュースになった。
〈指名手配の殺人犯人が、市内に潜入している模様です〉
と、アナウンサーは、いった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈三か月前、東京都|田無《たなし》町で、運送店の主人を殺害して逃亡中の下瀬信雄(二八)が、仙台市内に現れたという報告があり、警察は、非常線を張って、捜査をしております。なお、下瀬の昔の同僚で、現在、市内姉歯横丁にある三喜運送店で働いている篠崎千吉さんが、仕事に出たまま行方《ゆくえ》が判《わか》りませんので、下瀬は、篠崎さんを脅迫して、仙台から脱出を図っているものと、思われます。篠崎さんが、運転していた車は、六四年型のトヨエースで、色は、緑色。横腹に、三喜運送店の名前が入っています。ナンバーは、××××。見かけた方はすぐ警察へ連絡して下さるようお願いします〉
[#ここで字下げ終わり]
下瀬は、ラジオを消した。予期していたことだが、絶望感に似たものが、胸をしめつける。警察に知らせたのは、どうせ、白石組の連中だろう。
「どうやら、袋の鼠《ねずみ》だな」
篠崎が、薄ら笑いを浮べて、いった。
「俺《おれ》を連れて、逃げられやしねえぜ」
「やってみるさ。車から降りるんだ」
「東京まで、歩いて行くつもりか」
「黙れ」
下瀬は、ピストルで、篠崎を小突いた。
二人は、車を降りた。下瀬は、荷台にあったロープで、篠崎の腰を縛り、もう一つの端を、自分の身体《からだ》に結びつけた。
「こんなことをしたって、どうにもならないぜ」
「黙って歩くんだ」
「何処《どこ》へ?」
「とにかく、広瀬川を渡って、市内に入るんだ」
「みすみす捕りに行くのか?」
「歩くんだ」
「判《わか》ったよ」
篠崎は、ふてくされたように、歩き出した。下瀬は、ぴったりと、篠崎に寄り添って、歩いた。
広瀬川を渡ってから、下瀬は、わざと、東京とは逆の方向に向って、歩いた。その方が、警戒が薄いと思ったからだが、大通りに出ると、警戒中の警官が、やたらに眼についた。
薄暗い路地しか歩けない。暗がりばかりを選んで歩いている中に、方向が判らなくなった。
「どの辺りだ?」
と、訊《き》くと、
「北四番丁のあたりだ」
「北四番丁?」
「仙台駅の北だ。この調子じゃ、駄目だな。諦《あきら》めるんだな」
「黙れ」
と、下瀬が、いった時である。
近くで、いきなり銃声が起きた。
「あッ」
と、篠崎が、悲鳴をあげて、ひっくり返った。ロープで繋《つな》がれた下瀬も、引かれて転がった。
冷たい舗道に腹這《はらば》いになり、下瀬は、ピストルを構えて、暗い周囲の闇《やみ》をすかして見た。
人の気配はない。撃った人間は、姿を消したらしい。
(白石組の奴《やつ》だ)
と、思った。奴等は、俺《おれ》を殺す気だ。姿を消したのは、下瀬がピストルを持っているからに違いない。だが、必ず、また狙《ねら》うだろう。
「大丈夫か?」
下瀬は、うずくまっている篠崎を見た。
「足をやられた」
と、篠崎は、苦し気な声で、いった。
「何故《なぜ》、俺を撃ったんだ?」
「撃ったのは、白石組の連中だ。あいつらは俺を殺す気だ。お前も、その道連れにするぐらい何とも思わない連中だ。そう判《わか》ったら、少しは、俺と一緒に逃げる気が起きて来たろう? お前は、俺と一蓮托生《いちれんたくしよう》なんだ」
下瀬は、僅《わず》かな光の中で、篠崎の足を見た。右足の、ふくらはぎのあたりから、血が流れていた。
「かすっただけだ」
と、下瀬は、邪険に、いった。
「すぐ包帯《ほうたい》しろ。人が集って来ないうちに、逃げるんだ」
虎穴《こけつ》に入る
篠崎を担ぐようにして、下瀬は走った。途中で、パトロール・カーのサイレンを聞いた。銃声を聞いた人間が、警察に知らせたのだろう。
これで、ますます、市内の警戒は、厳重になるに違いない。
(袋の鼠《ねずみ》だな)
暗い絶望感が、否応《いやおう》なしに、下瀬を捕える。だが、逃げなければならない。
下瀬は、ただ、暗い方へ暗い方へと、歩いた。
暫《しばら》くして立止まる。十二月の夜なのに、腋《わき》の下に、汗を掻《か》いていた。篠崎の息遣いも荒くなっていた。血は止ったようだが、顔色は、蒼《あお》ざめている。
下瀬は、周囲を見回した。遠くにネオンが光って見えた。あの辺りが、仙台駅前の繁華街だろうか。
背後に眼をやった時、見憶《みおぼ》えのある建物が眼に入った。
(白石葉子の住んでいるアパートではないか)
間違いなかった。
ふと、或《あ》る考えが、下瀬を捕えた。このままでは、負傷した篠崎を連れて、仙台を脱出することは、難しい。
(イチかバチか、やってみるより仕方がない)
「あの建物まで歩くんだ」
下瀬は、アパートを指さして、篠崎に、いった。
「何処《どこ》へ?」
「白石組の白石葉子のアパートだ」
「馬鹿な。殺されるぞ」
「かも知れん。だが、上手《うま》くいくかも知れん。賭《か》けてみるんだ」
「子分がいるぞ」
「いや。いないと思う。俺《おれ》を殺すために、仙台中に、散らばっている筈《はず》だ。それに、警察も、俺と白石組の関係を知らないだろうから、張り込みはしていない筈だ」
「しかし、子分がいたら?」
「俺もお前も殺されるだろうな。狙《ねら》われてるのは俺だが、向うさんは、俺もお前も区別しやしない。さっきの様にね」
「助けてくれ」
「助かりたかったら、俺のいう通り動くんだ」
下瀬は、篠崎を引摺《ひきず》るようにして、アパートの裏へ回った。
三階の白石葉子の部屋には、明りが点《つ》いていた。彼女は、部屋にいるのだ。
下瀬は、篠崎を先に立てて、非常階段を昇った。
三階の廊下に出た。が、誰《だれ》の姿も見えない。下瀬の考えた通り、白石葉子の周囲は、警戒していないのだ。逃げ回るだけのドブ鼠《ねずみ》には、窮鼠猫《きゆうそねこ》を噛《か》む勇気はあるまいと甘く見たのだろう。
下瀬は、ロープを解いてから、篠崎に、白石葉子の部屋をノックさせた。
「だれ?」
咎《とが》めるような葉子の声がした。
「信次です」
と、下瀬は、いった。
「信次?」
「ええ、急用です。あけて下さい」
「入っていいわ。ドアは、あいてるから」
下瀬は、篠崎に、ドアを開けさせた。とたんに、部屋の明りが消えた。
下瀬は、咄嗟《とつさ》に、篠崎の身体《からだ》を、部屋の中に突き飛ばした。
篠崎が、悲鳴をあげる。そのすきに、下瀬は、内側に開いたドアのかげに、体を滑りこませた。
また明りが点《つ》いた。壁のスイッチのところで、ナイトガウン姿の葉子が、床に倒れた篠崎に向って、ピストルを構えていた。
「信次のふりをしたって、あたしは、欺《だま》されやしないよ」
葉子は、冷たい声でいい、篠崎に近寄った。
「殺さないでくれ」
と、篠崎が悲鳴をあげた時、下瀬は、ドアのかげから出て、葉子の背中に、消音ピストルを押しつけた。
葉子の身体《からだ》が、びくッと震えた。
「ピストルを貰《もら》おうか」
「畜生」
と、葉子が、蒼《あお》い顔で、下瀬を睨《にら》んだ。
下瀬は、彼女の手からピストルを取り上げ、ドアを閉めて錠を下した。
「逃げられやしないよ」
葉子が、いった。
「判《わか》ってる」
と、下瀬は、頷《うなず》いた。
「警察が非常線を張ってるし、あんたの子分が、血眼《ちまなこ》で、探してるからね。だから、あんたの助けを借りたいのさ」
「あたしの?」
「あんたを人質にしておけば、白石組の方だけは、俺を狙《ねら》えない筈《はず》だ」
「だけど、仙台からは、逃げられないわよ」
「判らんさ。車は?」
「車?」
「まがりなりにも、建設会社を名のってるんだから、車の一台や二台は、ある筈だ」
「スポーツ・カーなら、下にあるわよ」
「あれは駄目だ。欲しいのは、普通の乗用車だ」
「――――」
「俺が死ぬ気だってことを、忘れないでくれよ」
下瀬が、葉子の胸に、ピストルを押しつけると、彼女は、顔をしかめた。
「あるわ。去年買ったのが」
「何処《どこ》に?」
「この先の事務所によ」
「そこに、誰《だれ》かいるのか?」
「二、三人ね」
葉子が答えた時、ふいに、電話が鳴った。
下瀬の顔が緊張する。
「出ろ」
と、葉子に、いった。
葉子が受話器を取ると、下瀬は、耳をそば立てた。相手は男の声だった。どうやら、信次という男のようだった。
「姐《ねえ》さん。こっちの事務所の方にも、今のところ、何の連絡もありません」
と、電話の声が、いった。
「奴《やつ》を見たんで、五郎が、一発撃ったそうですが、どうも、外したらしい」
「――――」
「姐さん。どうかしたんですかな」
男の声が訊《き》く。その瞬間、ある考えが、下瀬の頭にひらめいた。
下瀬は、いきなり、受話器を持った葉子の顔を殴りつけた。
葉子が、悲鳴をあげて、床に倒れ、受話器が、テーブルにぶつかった。大きな音を立てた。相手にも、その音や悲鳴は、聞こえた筈《はず》である。それが、下瀬の狙《ねら》いだった。
下瀬は、受話器を掴《つか》むと、わざと、荒っぽく、切ってしまった。
「何するんだよッ」
葉子が、赤く染まった頬《ほお》を押さえて、下瀬を睨《にら》んだ。
「いきなり殴りやがって」
「悪かった」
と、下瀬は、いった。「ふん」と、葉子が鼻を鳴らした。
「お前さんも馬鹿だよ。これで、信次達が押しかけてくる。そうなれば、お前さんも、終りだ」
「それが狙いさ」
「何だって?」
「いいから、外出の支度をするんだ」
下瀬は、葉子をせき立てた。
「ぐずぐずすると、もう一度殴りつけるぞ」
「判《わか》ったわよ」
葉子は、ふてくされた顔で、立ち上ると、戸棚をあけて、着換えを始めた。
「事務所から此処《ここ》まで、車で、どの位かかる?」
「十分もあれば来るわ。早く逃げたらどうなの?」
「逃げるさ。だがあんたや篠崎と一緒にね」
下瀬は、時計を見ていた。危険な賭《か》けだが、他に、どうしようもない。
五分たった。
下瀬は、篠崎と葉子を、せき立てるようにして部屋を出た。
階下に降りて、物かげに身体《からだ》をかくす。
やがて、車の音がして、四、五人の若い男を乗せた乗用車が滑り込んで来た。アパートの前で、急停車すると、ばらばらと男達が降りた。その中に、信次の姿も見えた。
男達は、アパートに駈《か》け込んだ。幸い、車に、見張りはついていない。
下瀬は、一呼吸おいてから、篠崎と葉子を先に立てて、車に近づいた。
スターター・キイも、差込んだままになっている。
「あんたに、運転して貰《もら》う」
下瀬は、運転席に、葉子を押し込むと、後の座席に、篠崎と乗り込んだ。
「人気のない方向に走らせるんだ」
ピストルを葉子の項《うなじ》のあたりに押しつけていった。
車が走り出し、アパートが遠ざかると、下瀬は、急に、疲労を感じた。
乗用車を手に入れることは出来たが、果して、逃げ切れるだろうか?
小さな神社の境内で、下瀬は、車を止めさせた。
「お前には、暫《しばら》く、窮屈な思いをして貰わなきゃならない」
と、下瀬は、篠崎に、いった。
「俺《おれ》を殺すのか?」
「殺すものか。お前には、俺の無実を証明して貰わなきゃならないんだからな。東京に着くまで、トランクルームに入っていて貰うだけだ」
下瀬は、葉子に手伝わせて、篠崎を縛り上げると、猿ぐつわを噛《か》ませて、後のトランクルームに押し込んだ。念入りに、身体《からだ》の上から、シートをかぶせて、鍵《かぎ》をかけた。
「あんたは、運転をして貰う」
下瀬は、葉子に、いった。
「逃げられると、思ってるの?」
「判《わか》らないな。だが、やってみるより仕方がない」
下瀬は、助手席に腰を下して、葉子にピストルを向けた。
「とにかく、走らせるんだ」
葉子が、アクセルを踏んだ。
車は、ネオンの街に飛び出した。
下瀬は、車を、南に向けさせた。東京に行くのだ。とにかく東京へ。
だが、市外への出口まで来ると、厳重な警戒線が敷かれていた。パトロール・カーが三台並び、車は、一台ずつ、調べられている。
予期していたことながら、その厳重さに、下瀬は、顔色を変えた。下瀬は、周章《あわ》てて、脇道《わきみち》に、車を入れさせた。
「どうしたのさ?」
ハンドルを握ったまま、葉子が、笑った。
「急に、おじけづいたのかい?」
「黙って、車を走らせるんだ」
下瀬は、不機嫌に、いった。後の座席にかくれても、すぐ発見されてしまうだろう。一体、どうやったら、あの警戒線を突破できるのか。
下瀬は、血走った眼を、窓の外に向けた。狭い道の両側に、ぽつんぽつんと、商店が並んでいる。ペンキ屋の看板が、眼に入った時、下瀬は、急に、車を止めさせた。
「降りて、白ペンキと、ハケを買ってくるんだ。それから、空缶を十個。それと、丈夫な紐《ひも》だ。車の中から、ピストルで狙《ねら》ってるからな。下手《へた》な真似《まね》はするなよ」
下瀬は、葉子に向っていった。
脱 出
物かげで、もう一度、下瀬は、車を止めさせた。
「あんたにも、手伝って貰《もら》う」
「この白ペンキで、車の色を塗りかえろとでもいうの?」
「馬鹿な。そんな時間はない。あんたにやって貰うのは、空缶を、一つ一つ、紐で縛って貰うことだ」
「そんなことをして、どうするのさ?」
「黙ってやればいい」
下瀬は、乾いた声でいい、自分は、白ペンキの缶をあけるとハケを握った。
先《ま》ず、横腹に、大きな字で、「新婚旅行中」と、書いた。
反対側にも、同じ文字を書き、「青森→仙台→東京」と、入れた。
後のトランクルームの上には、「JUST MARRIED」と、書いた。
最後に、葉子が、紐《ひも》で結んだ空缶を、車の後にぶら下げた。
「これでいい」
と、下瀬は、いった。
「東京まで、あんたと、新婚旅行だ」
「こんなことをして、逃げられるつもりなの? かえって、目立つだけじゃないのさ」
「そこが狙《ねら》いさ。わざと目立つ恰好《かつこう》をすれば、かえって、怪しまれずに済むかも知れない。俺《おれ》は、それに、賭《か》けてみるんだ。それから、警戒線に近づいたら、俺は、寝たふりをする。あんたは、俺が披露宴で、酒を飲まされ、酔い潰《つぶ》れたというんだ。ピストルが、いつも狙ってることを忘れずにな」
「判《わか》ったわよ」
車が走り出すと、引きずられた空缶が、やかましい音を立てた。
通行人がふりかえり、並んで走る車から、運転手が、にやにや笑いながら、覗《のぞ》き込んだ。
大通りに出た。警戒線が近づくと、下瀬は助手席で横になり頭を葉子の膝《ひざ》に押しつけた。ポケットの中では、ピストルを握りしめる。
果して、上手《うま》くいくだろうか。
車が止った。ライトを持った警官が、中を覗《のぞ》き込んだ。が、その顔は、笑っていた。空缶の音が、警官の心を、なごませているのだ。
「新婚旅行ですか」
と、警官がいう。下瀬は、顔を横に向け、眠ったふりをして、警官と葉子のやりとりを、聞いていた。
警官は、葉子の免許証を見てから、
「ご主人は、眠っているようですね?」
「披露宴で、お酒を飲みすぎて――」
「成程」
警官が、微笑した。それで、終りだった。トランクルームを開けて見ようともしなかった。「JUST MARRIED」の文字の効果だったかも知れない。
車が走り出し、仙台から離れ始めて、やっと、下瀬は、座席に起き上った。
深い溜息《ためいき》が出た。
いつの間にか、びっしょりと、汗をかいているのだ。
「上手《うま》くいったらしいわね」
葉子が、いった。
「あんたも、仲々、やるじゃないの」
「運が良かったんだ」
「運がねえ」
確かに、運が良かった。このまま、運が続けば、東京まで、突走ることが出来るだろう。
車は、夜の街道を、東京に向って、走り続けている。
下瀬は、腕時計に眼をやった。針は、十時を指している。ひどく、長い時間だったようだが、篠崎を掴《つか》まえてから、まだ、二時間しか経《た》っていないのだ。
下瀬が、顔をあげた時、一台のダンプカーが物凄《ものすご》い勢いで、追い越して行った。その赤い尾灯は、すぐ前方の闇《やみ》に消えた。
ふいに、冷たいものが、下瀬のほおを流れた。
「止めろ」
と、下瀬は、周章《あわ》てて、怒鳴《どな》った。
「止めるんだ」
「どうしたのさ?」
「今、追い越して行ったダンプは、あんたの会社の車」
「違うわよ」
「白ばくれるんじゃない。横に、白石建設と書いてあった。先回りして、待伏せするつもりだ。あんたを、人質にとってなけりゃ、体当りされてたところだ」
「――――」
「引返すんだ」
下瀬がいった時、葉子は、いきなりドアを開けると、車から飛び降りた。下瀬も、続いて、車から降りた。葉子は、車のライトの中を転がるように、逃げて行く。下瀬は、ピストルを構えた。葉子が石につまずいたらしく、ライトの中で、転がった。恐怖に歪《ゆが》んだ顔が、下瀬をふりかえった。
今、撃てば、確実に、白石葉子は、死ぬだろう。だが、下瀬には、撃てなかった。葉子を殺せば、本当に、殺人犯になってしまうし、下瀬の心は人を殺せるようには、出来てはいない。
下瀬は、ピストルをしまうと、車に戻った。
下瀬は、アクセルを踏み続けた。
車は、仙台に向って、逆戻りしている。このまま走り続けたら、再び、警察の非常線の中に、飛び込んでしまう。
下瀬は、途中で、ハンドルを左に切った。
何処《どこ》へ行く道か判《わか》らなかったが、進むことも退くことも出来ないとしたら、脇道《わきみち》へ走るより仕方がなかった。
荒れた道を、三十分近く走るうちに、ガソリンが切れてしまった。
下瀬は、車を降りた。暗い空から、氷雨が降り始めた。
車の後に回って、トランクルームを開けると、篠崎千吉は、ぐったりとなっている。縄を解き、猿ぐつわを外しても、篠崎の蒼《あお》ざめた顔は、そのままだった。
「助けてくれ」
と、篠崎は、喘《あえ》ぐようにいった。反抗する気力も失せてしまったらしい。
「助けてやるから、歩くんだ」
「何処へ?」
「何処でもいい。じっとしていたら、白石組の連中に追いつかれて、二人とも殺されてしまうからな」
「俺《おれ》は、もう歩けない」
「歩くんだ、死にたくなかったらな」
下瀬は、篠崎の身体《からだ》を引摺《ひきず》るようにして、歩き出した。
道路を外れると、雑木林になっている。下瀬は、そこへ入って行った。雨は、次第に激しくなっていくようだった。寒さも、身体に応《こた》えて来た。足もとも、滑る。
「もう歩けない――」
篠崎は、射たれた足を、かかえるようにして、うずくまってしまった。
「死にたいのか?」
「――――」
「こんなところにいたら、凍死するぞ」
「助けてくれ」
「俺の無実を証明してくれるか?」
「する――」
篠崎は、か細い声で、いった。
「だから、助けてくれ」
「よし。肩につかまれ」
下瀬は、篠崎千吉の身体を、肩に担いで、雑木林の中を歩き出した。助けてやるといったが、助けられるかどうか自信がなかった。白石組の連中に追いつかれたら、彼等は、容赦なく、二人を射殺するだろう。それでなくても、道に迷って、凍死するかも知れない。
いくら歩いても、人家らしいものは見えなかった。いつの間にか、深い山に、踏み込んでしまっていた。
疲労が重なってくると、僅《わず》かの重さも身体に応《こた》えてくる。ピストルも、谷に棄《す》てた。これで、白石組に襲われたら、戦う武器は無くなったわけである。ピストルを持っていたところで、一人の力では、戦っても勝目はない。
寒さは、更に加わって来た。下瀬は、疲れ切った。このまま、こんなところで、寒さのために死ぬのだろうかと、思った時、前方に、明りがきらめくのを見つけた。
その明りは、谷底の低地に、細長く作られた停車場であった。下瀬は、貨物列車が止り、荷物の積降ろしが行われているのを見た。
(助かるかも知れない)
下瀬は、微《かす》かな希望が湧《わ》いてくるのを感じ、篠崎千吉を担ぎ上げて、山を降りて行った。何度も滑ったために、顔も、服も、泥にまみれていた。
どうにか、線路のところまで降りて、貨車に近づくと、行先は、「上野」になっていた。
下瀬は、戸の開いている貨車を見つけ、先《ま》ず、篠崎の身体《からだ》を押し込んでから、自分も乗り込んだ。
貨車の中には、箱詰めにされた魚が、積みこまれていた。生臭い匂《にお》いが、充満していた。
駅員は、仲々、貨車の戸を閉めに来なかった。まだ、積むものがあるのだろうか。それとも、発車時刻が来ないのだろうか。
篠崎千吉は、積み重ねた箱に寄りかかって、低い呻《うめ》き声をあげている。下瀬は、依然として、雨の降り続いている外の気配に眼をやった。
何か、雨の中に見えたような気がして、下瀬は瞳《ひとみ》を凝らした。
「あッ」
と、思わず、小さな叫び声をあげたのは、数人の黒い人影が貨車に近づいてくるのを見たからである。
白石組の連中に間違いなかった。もう逃げ場はなかった。
怒鳴《どな》るような声も聞こえてくる。下瀬は、呻き声をあげ続けている篠崎の口を押さえた。だが、誰《だれ》かが、この貨車に首を突込んだら、簡単に、見つかって、しまうだろう。
下瀬は、息を殺した。
ほの白い顔が、覗《のぞ》き込んだ。白石葉子だった。
下瀬は、身体を固くしたが、眼が合ってしまった。
(見つかった)
と、感じた。が、意外にも、白石葉子の顔が消え、
「ここには、いないよ」
という、彼女の声が聞こえた。
(逃がしてくれるのか――)
不思議な気がした。恐らく、彼女が、車から逃げ出した時、撃たなかったことへの恩返しのつもりなのだろうが、白石葉子のような女に、そんな古風な気持があったとは意外であった。
また、足音が近づいてきた。が、白石組の人間ではなかった。
駅員は、無造作に、戸を閉めると、鍵《かぎ》を下した。
汽笛が鳴り、下瀬と篠崎千吉を乗せた貨物列車は、ゆっくりと、東京に向って走り出した。
[#地付き](「脱出」改題)
本書は昭和三十八年から四十年にかけて雑誌に発表された作品なので、現在の状況と異なっている場合があります。
[#地付き](編集部)
角川文庫『悪女の舞踏会』平成2年2月25日初版発行
平成10年2月10日16版発行