西村京太郎
座席急行「津軽」殺人事件
目 次
第一章 出稼ぎ列車
第二章 手掛りを求めて
第三章 第二の殺人
第四章 望 郷
第五章 百万円の代償
第六章 「津軽」で帰る
第一章 出稼ぎ列車
1
東北地方に、今年になって何回目かの雪が降った。
秋田、山形といった豪雪地帯では、初めて除雪車が出動したという。
雪の季節の到来である。
やがて都会から、スキーを楽しみに若者たちがやって来るだろう。
それと交代するように、農閑期《のうかんき》を迎えた東北の農家では、雪のとける来年の春まで、男たちが関東方面に出稼ぎに出て行く。
年々、出稼ぎの人数は減っているといっても、全国で三十万人近い。特に、青森、秋田、山形といった東北の農家の人たちの数が多かった。
特に四、五十代の人たちが多いのは、一家の柱で農閑期も遊んではいられないということもあるが、地元に高年齢者の働ける産業がないこともある。
彼等の仕事のほとんどが、建設関係である。東京の地下鉄工事をやり、新幹線の建設現場でも働いた。
農家の人たちだけに、新幹線を使って上京するようなぜいたくはしない。
青森発、上りの急行「津軽」を利用する人が多い。
一五時五四分に青森を出発した「津軽」は、奥羽本線経由で、翌朝の午前六時丁度に上野に着く。夜行急行である。
そのため、この列車は別名を出稼ぎ列車と呼ばれる。
以前、この急行「津軽」は、出世列車と呼ばれたことがあった。
昭和三十一年に、それまで愛称のなかった上野─秋田─青森間の夜行急行に「津軽」の名前がつけられた。
当時は、もちろん新幹線もなく、この区間を走る特急列車もなかったので、東京で一旗あげた人たちは、この夜行急行「津軽」に乗って郷里に帰った。そのためにつけられたのが、「出世列車」の名前だった。
今はなくなったが、昔、集団就職というものがあり、東北からも中学、高校を卒業した若者たちが、集団で東京に就職した。
彼等が正月やお盆に、この急行「津軽」で故郷に錦を飾ったのだ。その頃は寝台急行だった。
その後、同じ区間に寝台特急「あけぼの」が走るようになり、また東北新幹線も開通して、急行「津軽」は出世列車と呼ばれなくなってしまった。
寝台客車だったのが、今は14系と呼ばれる座席車だけの十両編成で、しかも上り下りの一本ずつである。
しかし14系座席車なので、外観はブルーで白い線が入っており、昔の面影は残している。
この日、十一月十二日も、出稼ぎの最盛期なので、上りの急行「津軽」には、青森から五、六十人の出稼ぎの人たちが乗り込んだ。
青森は、日本でもっとも出稼ぎの多い県だといわれている。
どの顔も武骨で、床屋に行ってきたばかりという顔である。それはその人たちの律義《りちぎ》さを示しているのだろう。
荷物を一杯手に下げているのは、着がえなどもあるのだろうが、東京へ出て行ってしまった息子や娘への土産物らしい。
青森駅を一五時五四分に発車した時には、昨夜一杯降り続いた雪も止んで、青空が見えていたのだが、秋田に入る頃からまた雪になった。
列車が停車すると、たいていの駅のホームに、同じような恰好の人々が、見送りに来た家族と一緒に待っていた。子供も一緒に見送りに来ているのも、いかにも出稼ぎの感じだった。
上りの急行「津軽」は平均速度五三・七キロで走りながら、青森県、秋田県、山形県と、停車する度に何人か、何十人かの出稼ぎの人たちを拾いあげて行く。
十両編成の「津軽」は、1号車から3号車までが指定席、4号車から10号車までの七両が自由席である。
ほとんどの人が、自由席の方に乗って行く。
彼等は無口だった。酒を飲む者もいない。たいていの家で、昨日送別会が開かれて、ご馳走を食べ、酒を飲んだからである。
米沢着が午前〇時二八分。
ここに十六分停車する間に、機関車の交換が行われる。
人々はもう軽い寝息をたてていた。
次の停車駅、福島着が一時三一分。ここから東北本線に入る。ここでもまた、機関車の交換が行われる。
白河を過ぎ、列車が関東地方に入ると、それまで降っていた雪がぴたりと止んで、夜空に青白い月が浮んでいた。
黒磯、宇都宮、小山と停車するが、もう乗って来る客はいない。
大宮着五時三三分。
まだ、窓の外は暗い。
それでも人々は一人、二人と眼をさまし、トイレに行ったり洗面所で顔を洗ったりしはじめた。あと三十分足らずで上野に着くからである。
併走する線路が多くなり、近郊電車が横を走って行く。
上野には午前六時、定刻に着いた。
外はまだ暗くて、列車の着いた14番ホームの明りがやけに眩《まぶ》しい。
出稼ぎの人々は、何人かずつかたまって列車から降りた。
彼等の中には、これから更に働き場所である横浜や千葉の方へ、電車に乗って行く人もいる。
彼等と一緒に青森から乗車して来た専務車掌の片山は、いつもこの季節になると、特別な感情で彼等を見送ることになる。
片山も秋田の農家の生れだった。それも山間部の小さな村で、一つの家が所有する田畠も少かった。地元の産業もないので、村の全部の家で東京への出稼ぎが行われていた。
今でも片山が生れた村では、ほとんどの家の男が出稼ぎに出る。
だから車内で出稼ぎの人たちにぶつかると、無事に春まで働いて欲しいと思う。
片山は、乗客の消えた車内を見て廻ることにした。
ようやく窓の外が明るくなり、ホームにも朝の光が射し込んで来た。
6号車まで来て、おやっと思った。
隅の座席に、中年の男の客が降りるのを忘れて、眠っているからだった。
少くとも、最初は眠っているのだと思った。
四十五、六歳だろう。背広姿だが、ネクタイはしめていない。
(出稼ぎの人かな)
と思ったが、それにしては荷物がないのがおかしかった。
それに出稼ぎの人たちは、村の仲間が何人か、かたまって乗っているものである。
たった一人というのも変だった。
「お客さん」
と片山は声をかけた。返事がないのでもう一度、
「お客さん」
と顔を近づけて呼んだ時、片山はその乗客の異常に気がついた。
顔色が白蝋《はくろう》のように見え、息をしていなかった。
2
とにかく救急車を呼んだ。
だが、救急病院に運ばれた時はすでに死亡していた。
更に、のどに細いロープで締められた痕が見つかった。
客車の座席に腰を下したまま、自分で首を締められる筈がない。座席の周りを調べたが、ロープも見つからなかった。
明らかに殺人だった。
警視庁捜査一課の刑事が二人やって来た。
年長の方が亀井という刑事だった。
片山は彼に事情を説明した。亀井は肯《うなず》きながら聞いていたが、
「青森発の急行『津軽』というと、確か出稼ぎ列車と呼ばれているんじゃなかったですか?」
といった。
「よく、ご存知ですね」
「私も青森で育ちましてね。親戚の農家で、今頃になると出稼ぎに来ているのが、今でもいるんです」
「そうなんですか」
片山は急に、四十五、六歳のこの刑事に親しみを感じた。
「この被害者は、恰好から見ると出稼ぎの人のように見えますね」
と亀井はいった。
「私も、最初はそう思ったんですが」
片山は、自分がおかしいなと思った点を話した。所持品が見当らなかったことと、他の乗客がこの被害者にかまわず、さっさと降りてしまったことの二点である。
「もしこの人が出稼ぎで、今日『津軽』に乗ったとすると、同じ村の仲間が一緒にいた筈だと思うのです。たった一人で出稼ぎ列車に乗るというのは、ちょっと考えられませんからね。とすると、他の仲間が様子のおかしい彼を放っておいて、上野で降りていなくなるということは、どうしても考えられないんですよ。同じ村からやってくるし、同じ出稼ぎということで、団結心が強いですからね」
「その点は、同感ですね」
と亀井刑事は肯いてから、同行した若い刑事と、死体の上衣やズボンのポケットを調べ始めた。
多分、被害者の身元を割り出そうとしているのだろう。
「いいものが見つかりましたよ」
と日下《くさか》という若い刑事が、健康保険証を手にとって亀井に見せた。
出稼ぎでやって来る人たちは、病気をした時に必要なので、健康保険証を持って来ることが多い。
「あなたは、秋田の方でしたね?」
と亀井刑事が片山に聞いた。
「そうです。それがどうかしましたか?」
「どうやらこの被害者も、秋田の人のようですよ。秋田県湯沢市高松となっていますからね。名前は赤木喜一。昭和十八年生れになっているから、四十二歳かな」
「高松というと、土地の人が木地山と呼ぶところです。山間部だから、出稼ぎに来ると思いますね。今日の列車にも、湯沢駅から十七、八人の出稼ぎの人たちが乗って来ましたよ」
「その中に、被害者が入っていましたか?」
「いや、湯沢の人たちは、最後尾の10号車に乗っていました。この被害者が死んでいたのは、6号車の隅でした」
「じゃあ、一人だけ湯沢から乗って来たのかな」
と亀井が首をかしげたとき、若い日下刑事が、
「切符が見つかりました」
といった。
亀井はそれを受け取ってから、片山に向って、
「青森から上野までの乗車券と急行券ですね。だから、青森から乗って来たようですよ」
「青森から上野ですか?」
「そうです。そういう切符になっていますよ」
「ちょっと、見せて下さい」
片山はその乗車券と急行券を手にもった。
「なるほど、わかりました」
と片山は亀井刑事にいった。
「何か不審なことでもありましたか?」
「青森から上野までの切符というので、ちょっとおかしいと思ったんです。青森から終点の上野へ行くのなら、奥羽本線経由より、東北本線経由の方が早いですからね。距離も二十キロくらい東北本線経由の方が短いんです」
「そうだ。私も上京する時は、東北本線を使いましたよ」
と亀井は肯いてから、
「すると、その切符は?」
「やはり東北本線経由でした」
「しかし、そうだと奥羽本線経由の『津軽』には、乗れなかったんじゃありませんか?」
「いや、乗っても構わないんです。自由席ですからね。ただ、列車が奥羽本線を走っている時に、途中下車は出来ません。しかし、私が車内改札はしていませんね、この人は、他の車掌だったと思います。東北本線経由なら、珍しいから覚えている筈ですので」
「じゃあ、他の車掌さんにも聞いて、わかったら、連絡して下さい」
と亀井刑事がいった。
片山は改めて死体を見下した。
同じ秋田の人間なら、他人事《ひとごと》とは思えなかった。
青森から乗ったとすると、出稼ぎに行くのではなかったのかも知れない。だから荷物が何もなかったのか。
(四十二歳か)
と片山は呟《つぶや》いた。
片山は四十五歳。同じ年代である。当然妻子があるだろう。
その妻や子は、まだ死んだことを知らない筈である。
片山は死体の手に触ってみた。ひやっとした冷たさだが、太い頑丈な指だった。山間部で、斜面に作られた田畠を黙々と耕し、豪雪の時は雪と戦っている被害者の姿を想像した。
出稼ぎ家庭では、父親が東京へ行っている間、妻と幼い子供だけで家を守るというケースが多い。そんな家庭にとって、父親の死はどんなにショックだろうか。
片山は上野駅に戻ると、今日の「津軽」で一緒に勤務した二人の車掌に話をした。車掌長の池田と専務車掌の鈴木である。
「ああ、その乗客のことなら思い出したよ」
といったのは専務車掌の鈴木だった。
片山より五歳年上の、五十歳になるベテランである。
「警察に知らせなければならないんで、くわしいことを知りたいんだ」
と片山は鈴木にいった。
「青森を出てすぐ、4号車から6号車までの車内改札をやったんだが、その時6号車にその人がいたのを思い出したよ。切符が東北本線経由だったので、覚えているんだ」
「ひとりでいたの?」
「と、思うね。車内改札の時は、一人だったからね。ただ、そのあとは注意して見なかったから、ずっと一人だったかどうかはわからないな」
「車内改札の時、何か声をかけたかい?」
「福島まで途中下車は出来ませんよと、声をかけたよ」
「そうしたら?」
「黙っていたな。それだけだ。別にあの切符で『津軽』に乗っていけないことには、なっていないからね」
「青森から乗ったことは、間違いないんだね?」
「ああ、間違いない」
「荷物はなかった?」
「それも覚えてないね。車内改札の時に、いちいち乗客の荷物まで確認しないからね」
鈴木は当然のことをいった。
「青森から上野までの切符を持っていたのに、荷物が一つもないというのはおかしいね」
と車掌長の池田が口をはさんだ。
池田は三人の中では一番年長の五十二歳だった。三人とも東北の生れだから、気が合った。
「そうなんだ。警察もおかしいといっている」
片山がいった。
「犯人が持ち去ったということなんだろうね」
鈴木がいった。
「それにしても、この被害者の家族は可哀相だな。一家の柱を失ったわけだからねえ」
池田は他人事《ひとごと》ではないという顔で、溜息をついた。彼にも子供が二人いる。上の男の子は来年大学を卒業するが、下の女の子はまだしばらくは、池田の働きを必要としている。
「家族へ知らせるのは、警察がやるといっていたよ。木地山というのは、一度行ったことがあるんだ。もっとも、おれが行ったのは温泉の方だけどね」
片山はその時のことを思い出しながら、二人にいった。
「木地山というと、木地山こけしで有名だろう」
と鈴木がいい、しばらくは温泉やこけしの話になった。
東北のこけしは有名だが、温泉と結びついている。鳴子こけし、作並こけし、などと呼ばれるが、鳴子も作並も有名な温泉地だ。
木地山こけしも、木地山で作られ、木地山一帯の温泉で売られている。
こけしが温泉と深いつながりを持っているのは、こけしそのものが最初は漆《うるし》器具などを作った余りの材木で作られ、湯治客に売られていたからだろう。
片山はこけしを集めていた。こけしが好きということもあるが、見ていると郷里とのつながりを感じるからでもあった。
木地山こけしの特徴は胴体に当る部分のくびれにあると、片山は思っている。普通のこけしは、胴がまっすぐか末広がりになっているが、木地山こけしはまん中あたりでくびれているのだ。
「木地山というのは、湯沢の駅からかなり遠いんだろう?」
と池田が聞いた。池田自身は福島の生れだった。
「車で一時間はかかるね。有名な豪雪地帯だよ。これからは大変だ」
片山は深い雪に埋れた湯沢周辺の景色を思い出していた。
3
上野警察署に、正式に捜査本部が設けられた。
警視庁捜査一課の十津川が、捜査の指揮をとることになった。
十津川はまず、秋田県警に被害者、赤木喜一のことを調べて貰うこと、合せて、家族に「津軽」の車内で死んでいたことを知らせて欲しいと頼んだ。
亀井は片山車掌から電話で聞いたことを、十津川に報告した。
「つまり、被害者は湯沢の人間なのに、青森から乗ったということか」
と十津川はおうむ返しにいった。
「そうです」
「おかしいね」
「おかしいです。湯沢の人間が青森に出稼ぎに行っていたなんてことは、まず考えられませんからね。青森は日本で一番出稼ぎの多い県なんです。行くのなら東京です」
「何か用があって青森へ行っていたのだろうがね。それに、東北本線経由の切符を持って『津軽』に乗ったというのも、おかしいね。なぜそんなことをしたのかな。東北本線経由の方が、早く上野に着く筈だろう?」
「今、時刻表で調べてみたんですが、東北本線経由で青森から上野まで走る急行列車というと、急行『八甲田』があります。列車の編成は『津軽』と同じ14系の座席車九両と、荷物車一両です。所要時間は、今警部がいわれたように、キロ数が短いことなどもあって、短いですね。『津軽』が上野まで十四時間六分かかるのに対して、『八甲田』は上野まで十時間四十四分です。平均時速では五三・七キロに対して、六六・五キロですから、ずいぶん速くなっていますね」
「すると、被害者は『八甲田』に乗るつもりで、間違えて『津軽』に乗ってしまったということかね? 青森発の時刻はほとんど同じなのかね?」
と十津川が聞いた。
亀井は手帳に眼をやって、
「そうですね。『津軽』の方が先に発車します」
といい、黒板に書きつけた。
「発車時刻が四時間も違うのか」
十津川が首をひねった。そんなに違っていて、間違えるものだろうか?
もちろん、思い違いということもある。津軽の発車時刻を八甲田のものと思い込んでいたら、いくら時間がへだたっていても間違えるだろう。
「列車そのものは、よく似ているといったね?」
「そうです。今もいいましたように、車体がブルーで、白い線の入った14系の座席車が使用されるようになりましたので、外観は全く同じですね。牽引する電気機関車もED75形で同じです」
「ヘッドマークは?」
「両方ともついていません」
「すると、四時間も間があるが、間違えて乗った可能性はないわけじゃないんだな」
「ないですね。一五時と一九時を勘違いしていれば、乗り間違えると思います」
「所持金はあったんだね?」
「四万三千円入りの財布は、盗まれずにそのまま、上衣の内ポケットに入っていました。腕時計もです」
「金はあったが、節約して新幹線は利用せず、急行で上野へ来るつもりだったというわけか」
「出稼ぎの人は、一円でも多く家へ仕送りしたいですからね。彼等は貰った給料のほとんど全部を送金しているんじゃありませんか」
「そんな男が、なぜ殺されたのかな? 財布が盗まれていないところをみれば、誰かに恨《うら》まれて殺されたと思えるからね」
「私は時々、人生って不合理だと思うことがありますよ」
突然、亀井がしんみりした口調になっていった。
「そうかね」
「殺されたのが、今度みたいに出稼ぎの人間だと、それを感じるんですよ。こういう人たちは、もっともっと幸福にならなければいけない人たちですからね。政治家とか、金持ちは今までずっといい思いをして来たんだから、殺されてもそんなに悲しみは感じません。しかし、そういう人たちはなかなか殺されない。皮肉なことに、もっと幸福になって欲しい人ほど、突然殺されてしまったりするんです」
「人生というのは、意外にそういうものじゃないかな。冷静に考えれば、金を持っている人間ほど、自分を守る方法をいくらでも選べるんだ。危険な仕事をしなくてもすむ。金がないとそれが逆になる。この被害者もそうかも知れないよ。一円でも余計に金が欲しくて、危険な仕事に手を出したんじゃないかね」
「私は一刻も早く犯人を捕えて、なぜ殺したのか聞きたいですよ」
4
翌朝早く、秋田県警から電話が入った。
三谷という警部からである。
「被害者、赤木喜一の奥さんに連絡がとれました。今日中にそちらへ行くそうですから、よろしくお願いします」
と三谷がいった。
奥さんは君子という名前で、中学三年の娘が一人いるのだという。
「ご主人が青森から『津軽』に乗ったことについて、奥さんはどういっていました?」
と十津川は聞いた。
「わからないといっていましたね。赤木さんは十一月三日に、同じ村の連中と十人で、湯沢から東京へ出稼ぎに行っているんです。だから、奥さんは何が何だかわからないといっています」
「九日前に湯沢を出ているわけですか」
「それも同じ『津軽』でです」
「どこで働いていたか、わかりますか?」
「ご主人から届いたハガキを探して持って行くといっていました」
「青森に親戚は?」
「ないということです。ですから、なぜ青森にいたのか見当がつかないと」
と三谷はいった。
十津川は、更に謎が深まったのを感じた。
十一月三日に東京に出て来たのなら、今頃は仲間と東京のどこかで、家への仕送りのために働いている筈なのだ。それなのに、なぜ青森なんかにいたのだろう。しかも、家族に連絡もなくである。
午後四時少し前に、赤木君子が到着した。
特急「つばさ」と東北新幹線を、乗りついで来たという。
小柄、色白で眼の大きな女性だった。蒼白い顔だが、十津川に向っては、
「いろいろとお世話をおかけしまして」
と丁寧にいった。
「お疲れになったでしょう」
と十津川はいたわりの言葉をかけてから、
「とにかく、遺体を見て下さい」
遺体は昨日、大学病院で解剖《かいぼう》され、今日の午後、君子に見せるため一時的に、上野署へ戻されていた。
解剖の結果、死亡推定時刻は十一月十三日の午前二時から三時の間ということだった。
やはり、乗客のほとんどが眠っている間に、犯人はロープを使って絞殺したのである。
午前二時から三時の間、急行「津軽」は二時二五分〜二七分まで郡山に停車しているが、それ以外は走り続けている。
十津川は君子に遺体を見せた。
君子はじっと見つめている。その顔に急に微笑が浮んだ。
「違います。この人」
と君子がかすれた声でいった。
亀井刑事も傍に来ていたが、思わず十津川と顔を見合せてしまった。
「違うって、ご主人じゃないということですか?」
と十津川が聞いた。
「ええ。似ていますけど、主人じゃありません」
君子はほっとした顔でいった。
十津川はまだ半信半疑で、
「では、これを見て下さい。これもご主人のものじゃありませんか?」
と被害者のポケットにあった健康保険証を君子に見せた。
君子はまず表紙を見、それから中を開けて見ていたが、
「これは主人が持って行ったものですわ。なぜ、これを知らない人が持っていたんでしょう?」
「本当に見たことのない男ですか?」
「ええ」
「これはどうですか?」
十津川は、被害者が持っていた財布や腕時計を君子に見せた。
一時、笑顔になっていた彼女の表情が、また沈んだものになるのがわかった。
「ご主人のものなんですね?」
と確認するように十津川がいった。
「この財布と、腕時計は見覚えがあるんです。同じものが他にもあるでしょうけど」
君子は蒼い顔でいった。
「とすると、この男がご主人のものを盗んで、持っていたのかも知れませんね」
亀井がちらりと死体に眼をやってから、君子にいった。
「ご主人からのハガキを持って来られましたか?」
十津川が聞いた。
君子はビニールのハンドバッグから一枚のハガキを取り出して、十津川に渡した。
〈無事ついた。
四月までここにいる。正月には帰ろうと思うが、帰れるかどうかわからない。一週間に一度、こちらから電話する。みどりによろしくな。
牛の世話を忘れるなよ〉
ぶっきらぼうな文面だった。
十一月四日の消印になっていた。
表を見ると、世田谷区|給田《きゆうでん》の「K工務店工事事務所内 赤木喜一」と書いてあった。
「ここへ行ってみましょう」
と十津川は君子にいった。
5
パトカーに君子を乗せ、十津川と亀井が同行して、ハガキにあった世田谷区給田に向った。
上野からだと、東京の端から端へ行く感じがした。
その上、ラッシュ・アワーの渋滞に巻き込まれてしまった。
最初は我慢して大人《おとな》しく走っていたのだが、のろのろとしか走れないことにいらだって、赤色灯を点《つ》け、サイレンを鳴らして突っ走ることにした。
新宿から甲州街道に入った。
すでに陽が落ちて暗くなっている。その暗さが君子を一層、不安にさせているようだった。
十津川も黙っていた。
仙川《せんがわ》の手前で、甲州街道を右に折れる。道なりに行けば、三鷹に行き当る。
そのあたりが給田である。
昔は農家ばかりで、ニワトリの鳴き声などが聞こえたものだが、最近はところどころに、工場やマンションが建つようになっていた。
十津川が想像した通り、ハガキにあったのはマンションの建設現場だった。
プレハブの飯場が出来ていて、その入口のところに「K工務店工事事務所」の看板がかかっている。
工事現場には夜間照明がついていたが、もう今日の仕事は終っていた。十津川たちがプレハブの事務所に入っていくと、中にはストーブが赤く燃えている。
十津川は責任者に会って、赤木喜一のことを聞いてみた。
「ああ、秋田から来た人ね」
と五十歳くらいの男は肯いてから、
「急にいなくなっちまって、困ってたんですよ。行先も告げず消えるんだから」
と文句をいった。
「一緒に湯沢から来た人はいませんか?」
君子が横から聞いた。
「ここにはあと二人、同じ村から来たって男がいますよ。呼びましょう」
同じプレハブの二階に寝泊りしているということで、二人の男を呼んでくれた。
どちらも四十代と思われる男たちで、階段をおりて来てそこに君子を見つけると、
「どうしたね? 君子さん」
といった。
「うちの父ちゃん、どこに行ったか知らないかね?」
君子が二人に聞く。
「あれ、うちに帰ったんじゃないのかね?」
二人ともびっくりした顔になった。
亀井が彼等に警察手帳を見せて、
「赤木さんは湯沢の自宅に帰ると、いっていたんですか?」
「いや、それは聞いてないけど、他に考えられないから」
横山という小柄な方が呑気に答えた。
「いつからいなくなったんですか?」
「十一月十日だったと思うね。あの日は昼までの仕事でね、おれたちは寝転んでテレビを見てたんだが、赤木さんは背広に着がえて出かけて行ったんだ。そのまま帰って来なかったが、何か急用が出来て湯沢に帰ったと思っていたんだ」
「おれもそう思ってた」
北川という大きな男も同調した。
「ここには、四日に来たんですね?」
「四日の昼頃に着いたよ」
「初めての職場ですか?」
「そうだ。去年まで上野駅の改築工事で働いていたんだが、あそこが出来あがったんで、今年からここへ世話になることになったんだよ」
「同じ村からは、三人ですか?」
「そう。赤木さんを入れておれたち三人だ」
「赤木さんがどこへ行ったか、わかりませんか?」
亀井が聞くと、二人は当惑した表情になった。
「本当に帰っていないのかね?」
北川が、聞いた。
「ずっと帰ってないのよ」
君子がいった。
「行くところなんか、ない筈なんだけどなあ」
「十一月十日の午後、背広に着がえて出かけたんですね?」
十津川が聞いた。
「そうだよ」
「出かけるところを見たんですか?」
「おれたちがテレビを見ていたら、赤木さんは背広に着がえてた。その中にいなくなったんだ」
と横山がいう。
「奥さん」と亀井が君子にいった。
「東京に着いたら、休みのとき、どこか東京か、近くの親戚に寄ってみるとは、ご主人はいっていませんでしたか?」
「いいえ。東京に親戚はありません」
「じゃあ、去年、世話になった林さんのとこへ行ったのかな」
横山がいった。
「どういう人ですか?」
亀井が聞いた。
「去年まで上野駅の工事で働いたんだが、その時、みんなでよく、浅草の林さんにご馳走になってた。林さんも秋田の生れだということでね」
「電話番号を知っていますか?」
「いや。場所は知ってるけど、電話番号はわからない」
「その場所は?」
「浅草の田原町というところがありますね。そこの林レストランだよ。まえに、みんなで食事に呼ばれたりしていたんだ。林さんというのがいい人でね」
「電話してみます」
と亀井が十津川にいった。
亀井が電話している間、十津川は北川と横山に、その林というレストランの主人のことを聞いた。
上野駅の地下に出来る新幹線駅の工事が行われていた時、林が用があって上野駅に来て、そこで働いていた北川たちに話しかけた。彼等が秋田から毎年冬に出稼ぎに来ているのだというと、なつかしそうに自分も秋田の生れだといったという。
「それから時々、林さんのレストランにみんなで招待されたりしてね。お世話になったよ。本当にいい人でね」
と北川はいった。
亀井がすぐ戻って来た。
「電話番号を調べてかけてみました」
「それで向うは何といってるんだ?」
「赤木さんのことは覚えているといっていました。しかし、十日には会っていないし、何の連絡もなかったといっています」
「結局、行先は不明か」
十津川は溜息をついた。
ここへ来れば何かわかるだろうと思ったのだが、わかったのは肝心の赤木喜一が十日に消えていたことだけである。
「皆さんは健康保険証を持っていますか?」
十津川は北川と横山の二人に聞いた。
「もちろん持っていますよ。病気や怪我をした時、どうしても必要ですからね。ある程度のお金と健康保険証はいつも持っている。身分証明にもなるしね」
横山はポケットから自分の保険証を出して見せた。
「外出する時はいつも持って出るんですか?」
「持っているね。ここにいる時は事務所に預けてる者もいるよ。でも大事なものだから失くすようなことはしない」
「お二人は四日からここで、赤木さんと一緒に働いていたんですね?」
「ああそうだよ」
「その間赤木さんの様子に、何か変ったところはありませんでしたか?」
「変ったって?」
「赤木さんとは、長いつき合いでしょう?」
「子供の時からだよ」
「その赤木さんと、どこか違ったところはなかったかどうかということです。大人しかった赤木さんが、ここへ来てからは怒りっぽかったとか、何かを気にしているようだったとか、そういったことです」
「変ったとこはなかったね。いつもの通りのほがらかな赤木さんだったよ」
「十一月十日に何かあるというようなことは?」
「それも聞いてなかったね。勝手に外出して行ったんだ。わたしたちに何もいわずに」
「いつも赤木さんはあなた方に、黙って出かけてしまうんですか?」
「そういう時もあるし、わたしたちにいってから出かける時もあったよ。わたしだってそうさ。いちいち断ってから外出したりはしないよ。一緒に行く時は別だけどね」
「ここから都心に出るには、どう行くんですか?」
「バスで京王線の仙川駅に行き新宿に出るか、三鷹に出て中央線で新宿、東京駅に出てもいいんです。仙川─三鷹間をバスが走っているし、ここから五十メートルぐらいのところにバス停があります」
事務所の職員が教えてくれた。
「あなたは、十日に赤木さんが外出するのを見ましたか?」
と十津川が聞いた。
「いや、見ていません。別に監視しているわけじゃありませんからね」
職員は肩をすくめた。
君子は、夫の荷物を持って来て貰って見ていた。
十津川もそれを見せて貰った。着がえの下着、洗面道具、カゼ薬やバンソウコウ、それに家族の写真やこけし。
「みんな主人のものです」
と君子がひとりごとのようにいった。
「何か失くなっているものはありませんか?」
十津川が聞く。
君子は一つ一つ手に取って眺めていたが、
「作文がありません」
「作文?」
「娘のみどりが書いた作文です。小学校六年生の時に『私のお父さん』という題で書いた作文なんです。それをいつも持って出稼ぎに行ってたんです」
「お嬢さんは今、確か中学三年でしたね?」
「ええ」
「それでも、小学六年生の時の作文を?」
「中学生になってからは、照れ臭がって、『私のお父さん』なんて作文は書きませんもの」
「どんな作文だったんですか?」
「お父さんが、出稼ぎに行ってしまうと寂しいけれど、そのおかげで生活が出来るのだから有難う、と書いてあります」
「では、その作文は持って外出したことになりますね」
「ええ」
「健康保険証や財布は他の男が持っていた。作文はどうなったんですかね」
「主人は殺されたんでしょうか?」
「そんなことはないと思いますが」
十津川はあいまいにいった。それは十津川の当惑をそのまま示していた。
急行「津軽」の車中で殺された男がいる。
その男は赤木喜一の保険証を持っていた。
常識的に考えれば、彼が十一月十日に工事現場からどこかへ出かけた赤木喜一を襲い、財布や腕時計、それに健康保険証を奪ったことになる。
だが、そうだとすると疑問はいくつもある。
襲われた赤木喜一はどこに消えてしまったのだろうか?
犯人はなぜ、足がつくような保険証を持ち歩いていたのか?
財布も腕時計も安物である。普通の強盗なら、足がつくのを恐れて捨ててしまうだろう。なぜそうしなかったのか?
6
十津川は、北川と横山の二人にも上野署に来て貰い、死体を見せた。ひょっとして知っている男ではないかと思ったからである。
しかし、二人とも見たことのない男だといった。
十津川は死体の指紋を警察庁に照会することにした。
赤木喜一の保険証を持っていたので、単純に本人と思い込み、今まで指紋の照会をしていなかったのである。
結果はすぐわかった。
前科者カードにあったのだ。
名前は杉本正。四十二歳。去年の夏、上野公園内で酔っ払いの財布を盗んで逮捕されている。
十津川は、この事件を担当したスリ係の安藤という刑事に会った。
「その男のことはよく覚えていますよ」
と安藤は笑った。
「どう覚えているんだ?」
「とうとう名前がわからないままに、送検したからです」
「しかし、前科者カードには、杉本正、四十二歳とあったがね」
「その名前は通称です」
「通称?」
「実は、上野駅から上野公園にかけてうろついている浮浪者の一人でしてね。自分で杉本正といっていましたが、本名かどうかわかりません。生年月日も一応聞きましたが、嘘かも知れません」
「それで住所不定となったのか。空白の欄が多かったな」
「そうでしょう。前にも酔っ払いの財布をすったことがありましてね。その時は前科もないし、可哀相だというので起訴しなかったんですがね。二度目のときは相手に怪我もさせたので実刑になって、一年間刑務所に行っていた筈ですよ」
「いつ出て来たんだ?」
「今年の九月じゃなかったですか。奴が何かしたんですか?」
「いや、死体で見つかったんだ。急行『津軽』の中でね」
「じゃあ、あれが奴だったんですか?」
安藤刑事はびっくりした顔になった。
十津川は安藤に死体を見せた。
「君が去年の夏、逮捕した男かね?」
「そうです。この男です」
「どこの出身かもわからなかったのかね?」
「自分では青森の生れだといっていました」
「本当かな?」
「わかりませんね。青森県警に調べて貰いましたが、杉本正という名前で、蒸発している人間はいないという返事でしたから」
「その他、この男について知っていることは?」
「青森生れというのは本当かどうかわかりませんが、言葉に東北の訛《なま》りがありましたね。私は東京の人間なので、あれが東北の何県の訛りかまでは、わかりませんが」
「取調べの時に、何かわかったことはないかね? どんなことでもいいんだが」
「そうですねえ」
と安藤は考えていたが、
「あの辺は浮浪者が沢山いますが、その中じゃあ、こざっぱりしている方でしたね」
「この背広もその頃のものと同じかね?」
「いや、これはかなり上等ですよ。下着だってもっと汚なかったし──」
「浮浪者でスリを働くというのは、珍しいんじゃないのかね? たとえ相手が酔っ払いでも」
「私は浮浪者を専門に観察しているわけじゃありませんが、おっしゃる通り、珍しいと思いますよ。くわしいことは上野駅の公安官が知っていると思いますが」
と安藤はいった。
十津川は上野駅の公安官室に行き、そこの室長に会って事件のことを話した。
「ああ、あの男のことはよく覚えていますよ」
と室長は微笑した。
「本当の名前と出身地はわかりませんか?」
「絶対に連中は本名をいいませんからね。しかし、なぜ殺されたんですかね。浮浪者を殺したって仕方がないでしょうに」
「上野公園で、酔っ払いから財布をすり取って捕まったのはご存知ですか?」
「ええ、スリ係の刑事から聞きました。ちょっとびっくりしましたね。彼がそんなことをするとは思っていませんでしたからね」
「というと?」
「浮浪者というのは、たいてい大人しいんですよ。酔って騒ぐことはありますがね。彼も静かにじっとしている方でしたからね」
「しかし、スリ係は前にも同じことをやったといっていましたよ」
「そんな金を何に使う気だったんですかね」
「浮浪者の生活から抜け出すためには、まとまった金が必要なんじゃありませんか?」
「それは金より、気力の問題ですよ。時々、連中を東京都の施設に収容するんです。そのとき、自立したければ相談に応じるんですが、みんな逃げ出してこの駅の構内や、上野公園に舞い戻ってしまうんですよ。杉本と自称していた男もです」
「東北弁だったそうですね?」
「ええ。あれは津軽の訛りでしたよ」
「津軽というと青森ですか?」
「ええ」
「出所してからのことは知っていますか?」
「いや。刑務所へ入ったことは知っていましたが、いつ出所したかは全く知りませんでした」
「浮浪者でも、親しい仲間はいるわけでしょう?」
「ええ。たいてい同じ仲間で、いますね」
「では、杉本正といつも一緒にいた浮浪者に会わせて貰えませんか」
「探してみますが、彼等は口がかたいですよ」
と室長はいった。
翌日になって見つかったというので、十津川は亀井と公安室に会いに行った。
五十歳ぐらいの男だった。
寒いので、汚れた服を何枚も重ねて着ている。少し酔っていた。
「いつも自動販売機で日本酒を買って飲んでるんですよ」
と室長がいった。
この男も本名はわからず、「鉄ちゃん」の通称で呼ばれているのだという。
「杉本という男のことで聞きたいんだがね」
と十津川がいうと、相手は黙って手を差し出した。
「何だい?」
「二百円くれ」
と鉄ちゃんがいった。
「酒を買う金ですよ」
横から公安室長が教えてくれた。
十津川は百円玉を二枚取り出してから、相手に、
「杉本正のことで教えてくれたら、これをやるよ」
「早くくれ」
「彼の本名を知らないか?」
「杉本だよ」
「それは本名じゃない。本当の名前だ。どこの生れか知らないか?」
「知らないよ。二百円くれ」
「教えてくれたらあげるよ」
「早くくれよ」
「最近、会ったか?」
「この間会ったよ」
「この間? いつだ?」
「知らないよ」
「去年のことか?」
「今年」
「じゃあ、出所してからの彼に会ったのか?」
「二百円くれ」
「どこで会ったんだ?」
「ここ」
「ここって上野駅の中か?」
「そうだよ」
「どこで会ったのか、案内してくれ。そうすれば四百円やる」
十津川は百円玉を二枚、追加して見せた。
鉄ちゃんは立ち上って十津川たちを案内してくれた。歩きながら、
「二百円くれたよ」
「杉本正がか?」
「ああ」
「よかったね」
「ここだよ」
鉄ちゃんが立ち止まったのは、在来線の改札口の前だった。
「いつ会ったんだ?」
亀井が聞いた。が相手はとろんとした眼で、
「わからないよ。早くお金くれ」
というだけだった。
その時の杉本正の様子を聞いても、わからないという。
覚えているのはその時、二百円貰ったことだけなのだ。
改札口を通って行く乗客が、浮浪者と十津川たちをじろじろと眺めていく。
十津川は仕方なく四百円を渡した。鉄ちゃんは自動販売機の方にふらふら歩いて行った。
亀井は苦笑しながら、
「少しはわかりましたね」
と十津川にいった。
「自称杉本正はこの改札口を通って、多分、青森行きの列車に乗ったんだ。そして上野に帰ってくる途中の車内で殺された」
「この改札口を通るとき、すでに赤木喜一の健康保険証や財布を持っていたとすると、十日以後ということになりますね」
「一つ考えたことがあるんだがね」
「どんなことですか?」
「上野は浅草に近い」
「ああ、浅草田原町の林というレストランですか?」
第二章 手掛りを求めて
1
十津川と亀井は、上野駅から田原町へ廻った。
一日ごとに寒さが厳しくなってきていた。菓子店の店頭には、もうクリスマスケーキの予約の札が貼られている。
問題の林レストランは地下鉄田原町駅の近くにあった。
二階建のかなり大きなレストランである。
夕食の時間にはまだだいぶ間があるので、入口のドアには「準備中」の札が下っていた。
十津川たちはベルを鳴らし、姿を見せたボーイにガラスのドア越しに警察手帳を見せた。
二人は二階の社長室に通された。
四十七、八歳の大柄な男が、社長の林だった。一時期プロレスラーだったことがあるとかで、逞《たくま》しい身体つきだった。
その時のパネルが壁にかかっている。
「昨日電話で聞いた赤木さんのことですが」
と亀井が切り出した。
「ああ、あの時の刑事さんですか」
林は柔和《にゆうわ》な眼になってニッコリした。
「赤木さんたちに親切にされていたそうですね」
「同じ秋田だし、私の家も農家だったから、出稼ぎの辛さはよくわかりますのでね」
「浮浪者はどうです?」
「浮浪者?」
「上野の駅やあの周辺によくいるでしょう。彼等にも親切にされるんですか?」
「可哀相だとは思いますがね。働く意欲のない人間に、いくら励ましても仕方がないでしょう。それに秋田の生れとも限らないですからね。なぜそんなことをお聞きになるんですか?」
「上りの急行『津軽』の車内で、男が一人殺された事件を調べているんですが、その男が赤木さんの健康保険証を持っていたんです」
「それなら盗んだんでしょうね。保険証でサラ金から金を借りられるといいますからね」
「それで問題のその男なんですが、上野駅周辺にいた浮浪者の一人とわかったんです」
「なるほど」
「青森の生れで通称杉本正。本名はわかりません」
「私と何か関係があるんですか?」
林は眉《まゆ》をひそめて亀井を見た。
「その浮浪者が、赤木喜一さんから保険証を盗んだとしか考えられないのです。彼は前にも上野公園で酔っ払いから財布を盗んで逮捕されたことがあるくらいですからね」
「それなら、刑事さんのいう通りだと思いますよ」
「しかし、赤木さんの行方がわかりません」
「昨日の電話でお答えしたように、私も知らんのですよ。マンションの建築現場で働いていたことも知らなかったくらいでしてね」
「十日に赤木さんは工事現場の宿舎から外出しています。そして消えてしまった。赤木さんは林さんを訪ねようとしたんじゃないかと思うのです」
「待って下さい。十日にも何にも、私は赤木さんに会っていませんよ」
「会ったとはいいません。世田谷の給田から上野まで来て、去年まで働いていた上野駅を見たくなって電車をおりた。そこで死んだ浮浪者と出会ったんじゃないか。上野駅の構内にいた浮浪者ですからね。そして何かがあって、赤木さんは保険証や財布を盗まれてしまったんじゃないかと、考えているんですが」
「私に聞かれても困りますよ。私は何も知らんのですから」
「林さんは上野駅周辺にくわしいと思うので、お聞きしたんです。何かそんな話をお聞きになっていないかと」
「どんな話です?」
「浮浪者と一般客がケンカしたというような話です」
「それなら私なんかより、駅員か近くの交番のお巡りさんにお聞きになった方がいいですよ」
「よく上野駅へ行かれると聞いたものですからね」
「いや、仕事が忙しいので、めったに行きませんよ」
林は肩をすくめるようにしていった。
2
赤木喜一の行方はいぜんとしてわからなかった。
上京した妻の君子は、上野駅近くの小さな旅館に泊って夫を探すつもりだといった。
上野にしたのは、そこが郷里の湯沢への玄関だからだろう。それに給田の方には仲間の二人がいて、赤木が現われたらすぐ知らせてくれることになっていると、君子はいった。
「何しろ一家の大黒柱ですからね。あの奥さんも必死ですよ」
と亀井はいった。
十津川たちには二つの仕事が課せられたことになる。
第一は、もちろん急行「津軽」の車内で殺された男について犯人を見つけ出し、逮捕することである。
第二は、行方不明の赤木喜一を見つけ出すことである。
そのために、十津川は刑事たちをいろいろな方面に差し向けなければならなくなった。
十一月十日の赤木喜一の行動を追うため、まず工事現場周辺の聞き込みである。
赤木が上野駅近くで浮浪者の杉本正と出会った可能性がある。そのため、上野駅構内、上野公園などの聞き込みが必要だった。
赤木が殺されている可能性もあるので、死体がかくされたと思われる場所の捜査も行った。
十二日の急行「津軽」には、何組かの出稼ぎのグループが乗っていたことは、三人の車掌が証言している。彼等は、或いは殺された杉本正を見ているかも知れないのである。特に、同じ6号車に乗っていたグループなら、杉本が殺されるところは見ていないだろうが、それ以外のことで、例えば杉本が他の男、或いは女と話をしているのを見ている可能性もあった。
そのグループを捜すことだった。
これには、青森から福島までの奥羽本線の各駅に協力を要請した。
十二日の「津軽」(赤湯駅発が〇時一二分で、ここから先は、十三日になってしまうが)に、出稼ぎの人たちが乗り込む時には、各駅で家族が送っている。古手の駅員ならどこの村の人たちかわかるだろう。それがわかれば、その村に問い合せて、現在、どこで働いているかを突き止めることは出来る。
この作業も始めた。
西本と日下が世田谷区給田へ飛んだ。
赤木がどこへ行ったにしろ、バスに乗った筈である。
給田バス停からワンマンバスが、仙川方面と三鷹方面の両方に出ている。
二人の刑事が、ワンマンバスの運転手全員に当ってみた。十一月十日に給田から赤木喜一が乗るのを見なかったかどうかである。
赤木喜一の顔写真を見せての質問だったが、返事は芳《かんば》しいものではなかった。
赤木の顔にはさほど特徴がなかったし、ワンマンバスでは運転手は乗客の一人一人に注意しないからだろう。
仕方なく、西本たちはバスの終点である仙川と三鷹での聞き込みに移った。
京王線の仙川駅の駅員と国鉄三鷹駅の駅員に十日の午後、赤木喜一を見なかったかという質問である。
しかし、切符は自動販売機で買ってしまうし、京王線ではいちいち改札で鋏《はさみ》を入れることもないので、赤木を覚えている駅員はとうとう見つからなかった。
西本と日下は捜査本部に戻って来ると、申しわけなさそうに収穫のなかったことを十津川に報告した。
十津川は別に落胆はしなかった。
赤木は十日に、きちんと背広に着がえて外出しているのだから、都心に出たことはまず間違いないと思っているからである。
上野駅周辺の捜査もはかばかしくなかった。
上野駅の構内で、偶然、赤木喜一と杉本が出会い、杉本が財布や保険証を奪ったとする。
その時、杉本は赤木を殺している可能性が強い。杉本は大人しい浮浪者だというが、刑務所から出て来たばかりだし、赤木が生きていれば、湯沢の自宅か給田の工事事務所に連絡している筈だからである。
死体を隠せるところとなると、どこだろう?
上野駅のトイレ、地下道か。上野公園まで連れて行って殺したとすると、公園内の草むらやトイレなどが考えられる。更に、近くの不忍池《しのばずのいけ》に沈めた可能性もあった。
一般の警察官も動員された。
上野駅構内の捜査には、公安官も協力してくれた。
しかし、赤木喜一の死体は見つからなかった。
3
一番期待してなかった三番目の捜査から、意外に収穫があった。
十一月十二日、青森発の「津軽」には、この日、青森、秋田、山形、福島の各県下から合計九グループの出稼ぎの人たちが乗ったことがわかった。
そのほとんどが、東京と東京周辺で現在、働いていた。
清水たち六人の刑事が、その人たちに聞いて廻った。
その結果、二つのグループがその日、6号車に乗っていたことがわかった。
清水たちはその人たちに、6号車の隅に座っていた杉本正に気がつかなかったかどうか質問した。ほとんどの人たちが、気がつかなかったといった。
無理もなかった。彼等の関心は、これから働くことになる東京の職場のことで頭が一杯だったろうし、すぐ眠ってしまったといっていたからである。
その中で二人だけ、杉本正を見たと証言した。
秋田県内から京浜工業地帯に出稼ぎに来ている人だった。
一人はただ隅の座席に杉本正が乗ってくるのを見たというだけだったが、もう一人、加藤信次という五十歳の男は、杉本と思われる男が女と話をしているのを見たといった。
「女ですか?」
清水刑事は意外な気がして、聞き直した。
品川のM電気で、出来あがった製品の運搬の仕事を来年の春までやるという加藤は、汚れた軍手をはたくようにしながら、
「そうよ。きれいな女の人と話をしてたよ」
「その辺のことをくわしく話して下さい」
「おれたちは新庄から乗ったんだ」
「新庄というと、湯沢の先ですね?」
「そうだ」
「その時すぐ、彼に気がつきましたか?」
「いや。ぜんぜん。おれは隣りに座った吉田さんと話をしていたしね」
「いつ、見たんですか?」
「天童を過ぎてからだから、一一時を廻ってたと思うね。煙草でも吸おうと思って、デッキに行ったんだ。吉田さんが煙草がきらいだからね。そしたら、デッキにその人が若い女と一緒にいたんだ」
「どんな女でした?」
「背の高い、スタイルのいい女だったよ。モデルみたいだったな。そうだ。ミンクのコートを着てた」
「ミンクのコートですか?」
ますます杉本のイメージから離れていくのを感じながら、清水は相手の顔を見た。
ひょっとすると、口から出まかせをいっているのではないかと思ったからである。
「茶色のコートだよ。前に二、三度見たことがあるから、あれは間違いなくミンクだよ」
「その女とこの男が、デッキで話をしていたんですか?」
清水は半信半疑で杉本正の似顔絵を見せた。
「そうだよ」
「何を話していたか、覚えていますか?」
「いや。出入口のドアの方で、小声でこそこそ話してたから、全然聞こえなかった」
「その女性ですが、顔は、どんなでした?」
「サングラスかけてたね。横顔だったし、おれがデッキに出てったら、顔をそむけるようにしたんだ。だからよく見えなかったね」
「しかし、スタイルはよかったんですね?」
「ああ、よかった。一七〇センチ近かったんじゃないかね」
「年齢は何歳ぐらいでした?」
「わからないが、三十歳前後だろうね」
「そのあと、どうしましたか?」
「二人が内緒話してるみたいなんで、おれは悪い気がしてね。煙草を吸うのを止めて、自分の席に戻ったよ」
「そのあと、この男を見たことはありませんか?」
「いや、見てない。忘れちまった。どうかしたのかね?」
「いや、何でもありません」
と清水はいった。
4
その清水刑事は上野署に戻って来て報告したが、最後に、
「どうも、私はいまだに半信半疑なんです」
と十津川に向っていった。
「浮浪者の杉本正と、ミンクのコートを着た女との取り合せがかね?」
「そうです。どう見ても不釣合いです。奇妙です」
「奇妙といえば、浮浪者が命を狙われた理由もよくわからないだろう? それと、彼がなぜ出稼ぎの人の財布や保険証を持っていたのかも、今のところわかっていないんだ。奇妙といえば奇妙だよ」
「すると警部は、女と一緒にいたというのを信じられますか?」
「証言者は嘘をつくような人かね?」
「いえ、素朴な人柄だと思いました」
「それなら、信じようじゃないか。違っていたらまた、その時に考え直せばいい」
十津川はあっさりといった。
或いは杉本正が殺されたことは、そのミンクのコートの女の存在と関係があるのかも知れないのだ。
だが事件の捜査は、またそこでとまってしまった。
殺人事件については相変らず動機がわからないし、赤木喜一の行方はいぜんとして不明だった。
「奥さんも、一日中、探し廻っているようです」
と亀井が十津川にいった。
彼女が泊っている旅館の話だと、朝早く出かけて行き、夜おそく疲れ切って帰ってくるという。
「出稼ぎで現金が手に入るのはいいが、いったんその人が行方不明になったりすると、一家の柱だっただけに、その家庭ががたがたになってしまうんだね」
「ですから、出稼ぎに出なくてもいい状況になればいいんですがね」
と亀井はいった。
東京生れで東京育ちの十津川には、知識ではわかっていても実感としてはわからないことだった。
「しかし、最近は地元にも産業が生れているんだろう? 例えば仙台とか秋田とか、地元の都市で働くというわけにはいかないのかね? わざわざ東京にまで出て来なくても。Uターン現象も出ているんだが」
十津川が聞くと、亀井は、
「新しい産業を地元に、という流れはありますがね。今、出稼ぎに出て来る人たちは、四十代、五十代が圧倒的に多いんです。新しい産業が必要としているのは、若い労働力なんです。四十代、五十代は新しい産業からはじき出されてしまうから、どうしても東京へ出稼ぎに来ることになるんです」
「とすると、今日も明日も出稼ぎ列車はやって来るということか」
「今がピークですからね」
「明日の午前六時にも、何人かの出稼ぎの人を乗せた急行『津軽』が、上野駅の14番線ホームに着くわけだね」
「そうですね」
「明日、早起きをしてみないか」
「いいですよ」
と亀井も応じた。
別にそうすることで捜査が進展するとは思わなかったが、十津川としては、殺人事件のあった出稼ぎ列車の実態といったものを一度、この眼で確かめたかったのだ。
翌朝五時半に、二人は上野署を出て上野駅に向った。
寒かった。
ついこの間まで残暑に悩まされていたと思ったのに、もう肌寒い季節になっている。
「どうも、最近は時間がたつのが早くて困ります」
四十五歳の亀井が白い息を吐きながら、十津川にいった。
四十歳の十津川にしても同じだった。時間が急に早くなったのは、何歳ぐらいからだろう? 三十歳を過ぎてからだったろうか。
定刻の午前六時を二分ほど過ぎて、急行「津軽」が14番線に着いた。
「赤木君子が来ていますよ」
ふと、改札口に眼をやった亀井がいった。
十津川も振り返った。
小柄な赤木君子が改札口のところにいた。
「誰かを迎えに来たみたいだね」
「そうですね」
と二人がいっている間に、「津軽」から乗客が降りて来た。
一般の乗客に混って、明らかに出稼ぎとわかるグループが一組、二組と降りて来た。
陽焼けした顔の、四、五十代の男たちだからすぐわかる。背広を着ていても、ほとんどネクタイはしていない。両手に荷物を持っている。そして物静かだった。
「みんな、ちゃんと働いて帰ってくれるといいがね」
十津川は眼の前を通り過ぎて行く人たちを見送りながらいった。
「そうですね。しかし、中には病気や事故で亡くなる人もいるでしょうし、時には都会の誘惑に負けて、蒸発してしまう人もいるということを聞きましたよ」
と亀井はいってから急に、
「赤木君子は、どうやら娘さんを待っていたようですね」
と改札口の方に視線をやった。
君子は十四、五歳の娘と、改札口の外で話をしているようすだった。
十津川は、赤木には中学三年の娘がいたのを思い出した。どうやらその娘らしかった。小柄な母親より背の高い娘だった。
「まだ学校は休みじゃないんだろう?」
「何か急用があって呼んだんでしょう。お金かも知れませんね」
「そうだね。夫が死んだというので、すぐ上京したわけだからね。東京に腰を落ちつけて探すとなると、お金がいるからね。探すのはわれわれに委《まか》せて、帰ってくれるといいんだが」
「駄目ですよ。私も説得したんですが、あの奥さんはいうことを聞きませんよ。奥さんとしたら当然かも知れませんが」
と亀井はいった。
赤木君子と娘は、構内の食堂に入った。
十津川と亀井は気になって、しばらく近くで二人が出て来るのを待っていた。
上野駅の構内も、朝のラッシュが近づいて来て騒がしくなって来た。
相変らず浮浪者の姿も眼につく。
毎日、駅が眠るとき追い出すということだが、この寒さではどうしても暖かい駅の構内に戻って来てしまうのだろう。
二十分ほどして赤木母娘は食堂を出て来た。
十津川たちは、何となく尾行するような恰好になってしまった。
母娘は切符売場に行き、君子が切符を買って娘に渡している。朝早い時刻には、湯沢まで行く適当な列車がない筈だから、今夜の下りの「津軽」にでも乗せて帰すのだろう。下りの「津軽」なら、湯沢に明日の午前七時二〇分に着くから、今日一日、学校を休むだけですむ。
十津川が考えた通りらしく、母娘は駅を出て行った。夜まで母娘二人で、赤木を捜すのかも知れない。
「あの母娘のためにも、赤木を早く見つけたいですね」
亀井が母娘の後姿を見送りながらいった。
二人が捜査本部に戻るとすぐ、捜査一課長の本多から十津川に電話が入った。
「朝刊を見たかい?」
と本多が聞いた。
十津川は一瞬ぎょっとした。赤木喜一の死体が、どこかで見つかったという記事でも出ていたのかと思ったからである。
「まだ見ていませんが、事件に関係したことが、何か出ていますか?」
「関係があるかどうかはわからないが、社会面に君が興味を持つと思う記事がのっているよ」
本多が電話を切ると、十津川はあわてて朝刊を手に取った。
〈世田谷の建設現場で、出稼ぎの農民が行方不明〉
その文字が、眼に入った。
5
十津川は、眼を通した。
〈世田谷区成城×丁目でマンションの建設に当っているS組の工事事務所から、作業員の丸山茂男さん(四十三歳)が昨夜から戻っていないと届け出があり、成城署で調べている。丸山さんは秋田県雄勝町から出稼ぎに来ている農民で、同じ町からこの建設現場に五人の人が来ていた。今のところ、行方もなぜ消えたかも不明である〉
十津川はその記事に赤線を入れて、亀井に見せた。亀井も黙って読んでいたが、
「似ていますね」
「成城署へ行ってみる価値はあると思うかね?」
「もちろんです」
と亀井はいった。
偶然かも知れない。だが似たケースが続けて二件起きていれば、調べてみるべきだろう。
十津川と亀井は一応電話をしておいてから、パトカーで成城署へ向った。
成城署では、この捜索状況を担当している山川という刑事が二人を迎え、事情を説明してくれた。
「一昨日のことですが、六時に仕事が終ったあと、丸山茂男という作業員がちょっと出かけてくると仲間にいって宿舎を出て行き、そのまま戻って来ないというのです」
山川は丸山茂男の写真を十津川たちに見せた。
平凡な中年の男の顔がそこにあった。
少しばかり白いものが混った頭、がっしりした鼻、顔にはしわも多い。
「秋田からの出稼ぎだそうだね?」
十津川は念を押した。
「そうです。同じ村から全部で五人、あの建設現場で泊っています。東京へ来たのは十一月の三日だそうです」
「その仲間の人に会いたいね」
「今、電話で呼んでいます」
と山川がいった。
五、六分して、その中の一人が来てくれた。同じように陽焼けした五十歳ぐらいの男だった。
「丸山さんは、行先をいわずに出かけたんですか?」
と亀井が聞いた。
「おれが聞いたんだが、何もいわなかったね」
「心配じゃなかったんですか?」
「もう、東京に出稼ぎに来るのは五年目だからね。丸山さんは酒好きだから、飲み屋にでも行ったんだろうと思っていたんだよ」
「どんな恰好で出かけました?」
「背広を着てたよ」
「保険証は持って行きましたか?」
「保険証? さあ、どうかな。事務所に預けてある筈なんだが」
「電話で聞いてみるから、事務所の電話番号を教えて下さい」
亀井はナンバーを聞くと、すぐ電話をかけた。
「ああ、保険証は持って行きましたよ」
と事務所の職員がいった。
「外出する時、持って行かせるんですか?」
亀井がきくと、相手は笑って、
「近くのパチンコ屋や飲み屋に行くのに、わざわざ保険証は持って行きませんよ。落とすと困りますからね」
「すると、一昨日は丸山さんが持って行きたいといったんですね?」
「そうです。事務所で預かっているんですが、一昨日の夕方、外出するので保険証が欲しいというので、渡しました」
「理由を聞きましたか?」
「いや。もともと本人のものですからね。それに、質屋にお金を借りに行くのに、保険証が必要なのかも知れませんからね。いちいち聞くのは悪いとも思ったんですよ」
「その時、丸山さんはどんな様子でした? 思いつめているようだとか、何かを怖がっている感じとかは、ありませんでしたか?」
「いや、普通でしたね」
と相手はいった。
6
十津川は同じ村の高木という男に向って、
「出稼ぎは五年目だといいましたね。去年はどこで働いていたんですか?」
ときいた。
「おれは、横浜の宅地造成で働いたよ」
「丸山さんは?」
「確か、上野駅の改造工事に行ったんだ。去年で終ったんで、おれと一緒にここで働くことになったんだから」
「上野駅ですか」
十津川は考え込んだ。赤木喜一も、去年は上野駅で働いたといっていた。そのことが二人の男の蒸発につながっているのだろうか?
「今、ここであなたの他に、三人働いているんですね?」
「そうだよ」
「その中に、丸山さんと同じに、去年上野駅の工事で働いた人はいませんか?」
「菊地さんがそうだったと思うよ」
と高木が教えてくれた。
十津川と亀井は、車で高木をマンションの建設現場まで送って行き、そこで菊地という男に会った。
ここでの仕事は、もっぱら力仕事である。寒い日だったが、菊地は汗をかいていた。
手拭で吹き出した汗を拭いながら、菊地は、
「おれと丸山さんと、もう一人、去年は上野駅の地下工事で働いたよ」
「林さんという人を知りませんか?」
「林?」
「浅草でレストランをやっている人です」
亀井がいうと、菊地は「ああ」と肯いて、
「知ってるよ。同じ秋田の生れだといって、おれたちにご馳走してくれたことがあったよ。いい人だよ」
「その中に、この人もいたと思うんだが、覚えていませんか? 秋田の湯沢から出稼ぎに来ている人で、去年はあなたと同じように、上野駅で働いた人です」
亀井はそういって、赤木喜一の写真を見せた。
菊地はじっと見ていたが、
「ああ、覚えてるよ。名前は忘れちゃったが、一緒にあそこで働いてたよ」
とニッコリした。
「丸山さんが、特に林さんと親しくしていたということはありませんか?」
「さあねえ。わからないね」
「丸山さんは、林さんに去年世話になったので、お礼に行くということは、いっていませんでしたか?」
「一度、二人で浅草の林さんとこに行ってみようかと、話し合ってはいたんだ」
「まだ行ってないんですね?」
「忙しくてね」
「林さんからここへ連絡はなかったですか? 電話で」
「おれには、なかったね」
「丸山さんには?」
「それは、知らないよ」
「十一月三日に、着いたんでしたね」
「そうだよ」
「どの列車で来たんですか?」
「急行『津軽』だ」
「いつもその列車で来るんですか?」
「ああ、いつも『津軽』に乗ってくるんだ。時間的に丁度いいからね」
「その列車が『出稼ぎ列車』と呼ばれているのは、知っていますか?」
と十津川がきいた。
「ああ、知ってる」
と菊地はいった。いいながらニヤッとしたのは、どんな気持なのか、十津川にはわからなかった。恐らく出稼ぎの人たちは、複雑な思いがあるに違いない。
「もう一度、林レストランに行ってみますか?」
亀井が小声でいった。
7
成城署には、丸山の行方がわかったらすぐ知らせてくれるように頼んでから、十津川と亀井は浅草に廻った。
午後五時を少し廻っていたので、林レストランにはかなりの客が入っていた。
十津川たちが入ると、隅のテーブルに赤木君子と娘がいるのが眼に入った。
社長の林が二階から降りて来たので、社長室へ案内される途中で、
「赤木さんの母娘が来ていますね?」
と十津川は聞いた。
林は二人を社長室へ案内してから、
「私で、何かあの母娘の役に立てればと思っているんですがねえ」
と溜息をついた。
「彼女たちが、ここへ訪ねて来たんですか?」
「そうです。うちのメニューで何か食べて貰って、元気をつけて頂こうと思うんですよ。毎日、東京中を歩いて廻っているとかで、お母さんの方はだいぶ疲れていますからね」
「あなたが赤木さんの消息を知っていないかと思って、来たんでしょうね?」
「そうなんですが、残念ながら私も全く知らないんですよ。事情を聞くと、今日は娘さんに、お金を持って来させたらしい。それなら私に話してくれれば、少しの金なら何とかしたのにといったんですがねえ」
「娘さんはすぐ帰るんでしょう?」
「今夜の急行『津軽』に乗せるといっていましたよ。まだ赤木さんは見つかりませんか?」
逆に林が聞いた。
「まだです。手掛りがないんですよ」
と十津川はいってから、
「丸山茂男さんを知りませんか?」
「丸山──? 誰です?」
「赤木さんと同じように、秋田から出稼ぎに来ている人です。今年は世田谷のマンション建設の現場で働いていますが、去年は上野駅地下工事で働いていたんですよ。林さんにもお世話になったといっていたそうですがね」
「それなら、うちに来ていたかも知れませんね。何しろ去年は、毎日のように何人かは来ていましたから、その中に丸山さんという人がいてもおかしくはありませんよ」
林は、春になって出稼ぎの人たちが郷里へ帰ってから、沢山、お礼の手紙を貰っているといった。
その手紙を十通ほど見せてくれたが、その中に丸山茂男も赤木喜一もなかった。
「私は秋田県人会の役員もさせて貰っています」
と林は自慢そうにいった。
「この手紙をお借りして、構いませんか?」
十津川が聞くと、林は変な顔をして、
「そちらでお捜しになっている丸山さんの手紙は、ありませんよ。それに赤木さんのも」
「わかっています」
と十津川はいった。
十津川と亀井が一階の食堂へおりて行った時には、赤木母娘の姿はもう消えていた。
十津川は上野署に戻ると、借りて来た十通の手紙に眼を通してみた。
出稼ぎに行き、そこで親切にされたのがよほど嬉しかったのだろう。どの手紙も林に対する感謝であふれていた。
別便で土地の名産を送りました、と書いてある手紙もあった。
赤木喜一、丸山茂男と、同じ村から届いた手紙はなかった。偶然か、故意に取り除いて見せたのかは、わからない。
「どう思うね?」
十津川は亀井に意見を求めた。
「気になりますね」
と亀井がいった。
「じゃあ、調べてくれないか。私も林という男がどうも引っかかるんだ。赤木喜一と同じ村から出稼ぎに来ている人間全部に当ってみてくれ。林に礼状を出した者がいないかどうか、いたらその人に来て貰ってくれ」
「わかりました」
「その時には、雇用主に話をして、給料から差し引かれないようにして貰ってくれないかな。捜査に協力のために来て貰うのに、一日分差し引かれては申しわけないからね」
「日給月給だと、難しいかも知れませんよ」
「その時には私がうちの経理に話をつけて、一日分出させるさ」
十津川がいうと、亀井は嬉しそうに笑って、
「助かります」
といった。
8
次の日、亀井は赤木喜一と同じ村の人間で、去年林に礼状を出したという男を見つけて連れて来た。
島田清という四十八歳の男だった。
今年も赤木たちと一緒に、十一月三日の「津軽」に乗り、四日の朝、上野駅に着いたが、現在は横浜で働いているという。
「去年は上野駅の地下工事で、赤木さんたちと一緒でしたよ」
と島田は人の好さそうな眼をぱちぱちさせた。
「林レストランの社長とは、その時知り合ったんですね?」
「そうです」
「それで時々、林レストランヘ食事にも行った?」
「林さんに招待されました」
「礼状を出したのも、そのためですか?」
「いろいろとお世話になりましたからね」
「というと?」
「あの人は本当にいい人で、お金を借りたこともあるんですよ。私は酒好きでね。近くの飲み屋で酔っ払ってしまってね。あれは給料日だったと思うんだが、肝心の給料袋を落としてしまったんですよ。それで、あわてて林さんに相談したら、貸してくれたんです。それで故郷《くに》へ帰ってから、礼状を出しましたよ」
「あなた以外に、林さんからお金を借りた人がいますか?」
「赤木さんも借りてましたよ」
「それ、本当ですか?」
「赤木さんがおれにいいましたよ」
「去年ですか?」
「ええ。去年」
「金額は、わかりませんか?」
「赤木さんは、かみさんに内緒で借りたみたいだから」
「彼女にはいいませんよ」
「それならいいんですがね。五十万借りたっていってましたよ」
「五十万も? なぜ、そんなに借りる必要があったんですか?」
十津川が聞くと、島田は首を振って、
「理由はおれにもわかりません。家のことで、今年はお金がいるみたいなことをいっていましたがね」
「赤木さんは、その五十万円をもう林さんに返したんですかね?」
「返したと思いますよ。今年になってからは、ぜんぜん赤木さんはその話をしませんからね。何とか工面して返したんじゃないですか」
島田は楽観的にいった。
果してそうだろうかという疑問を、十津川は持った。
出稼ぎに来た人たちが、毎月家に送る金額は二十万円前後といわれる。給料のほとんどを送金してこの金額だとすると、五十万円を返済するのは大変なことだろう。
十一月十日に、赤木が背広に着がえて世田谷区給田の宿舎を出て行った先は、林レストランではなかったのか? 用件は五十万円の返済である。分割返済の何回分かを持って行こうとしたのではあるまいか?
それなら、一緒に働いている仲間に何もいわずに出かけた理由も、わかるような気がする。借金の返済というのは、自慢して話すようなことではないからだ。
島田に話したのは、彼も林から借金をしていたからだろう。
「赤木さんは林さんに礼状を書いたと思いますか?」
と十津川は聞いてみた。
「さあ。わかりませんが、書いたんじゃないかな。おれと同じで、赤木さんもずいぶん世話になっていましたからね」
「林さんのことは、どのくらい知っているんですか?」
十津川が聞くと、島田はなぜそんなことを聞かれるのかという感じで戸惑いの色を見せながら、
「いい人ですよ。林さんは」
「他には?」
「秋田の人で、秋田県人会の幹事で、昔プロレスをやっておられたと聞いていますよ」
「なるほど」
「秋田から高校中退で上京して、いろいろな仕事をしたといっていましたね。プロレスラーにもなったし、商売も転々として、とうとう飲食業で成功されたことを、林さんから聞きました。自分が苦労したので、同じ秋田の人間が東京で苦労しているのを見ると、放っておけないんだといっていましたよ」
「それは全部、林さん本人から聞かされた話でしょう?」
「そうです」
「あなたが調べたわけではありませんね?」
十津川が念を押すと、島田はますます当惑した顔になって、
「そういわれても、調べるということは──」
「わかっています。当然のことです。そんなことを、いちいち本当かどうか調べませんからね」
「ええ」
「ところで、あなたが十一月四日に東京に来る前、林さんから電話か手紙はありませんでしたか?」
「一度、電話を貰いました。十月頃でした」
「どんな電話ですか?」
「今年も出稼ぎに来るなら、寄りなさいといって頂きました」
「それだけですか?」
「ええ。ありがたいので、寄らせて頂きますといったんですが、横浜に来てしまったので、なかなか浅草まで行かれませんが」
「借金の件ですが、利息は払ったんですか?」
「おれ自身は払いたいと思いましたが、林さんが受け取ってくれないんですよ。あの人はそういう人なんです。申しわけなかったんで、今年の秋にうちの庭でとれた柿を送らせて貰いました」
「すると赤木さんからも、林さんは利息を取らなかったでしょうね?」
「そう思いますよ。林さんはそういう人です」
「まるで神様みたいな人ですね」
十津川は多少の皮肉をこめていったのだが、島田は真顔で、
「その通りなんです。正直にいうと、おれたちは毎年出稼ぎに東京に来るわけですが、いつでも不安ですよ。田舎者ですからね。そんな時、同じ秋田県人で、成功者で、面倒を見てくれる人が近くにいてくれると、本当に助かるんです」
「去年、上野駅の地下工事で働いていらっしゃった時ですが、構内に何人か浮浪者がいたでしょう? 待合室にもいるし、地下道にもいますが」
「ええ。いましたね」
「話をしたことがありますか?」
十津川が聞くと、島田は変な顔をして、
「なぜです?」
「その浮浪者の中に、東北生れの人がいましてね。多分、青森の人間だと思うんだが。通称、杉本と名乗っていたが、これは本名かどうかわからない。この人なんですがね」
十津川は杉本正の似顔絵を島田に見せた。
どこかで杉本と赤木喜一が接点を持っていた筈である。その出会いが偶然のものだったか、或いは前からのものだったのか、知りたかったのである。
島田は何度も似顔絵を見直していたが、
「見たことありますよ」
「いつですか?」
「去年の一月頃だったと思いますよ。上野駅には刑事さんのいうように、何人も浮浪者がいるでしょう。昼は特に多いんです。その中にこの人いましたよ」
「話をしたことはありますか?」
「ありません。いや、一度だけあったか。それで覚えているんです」
「どんな話をしたんですか?」
「声をかけただけなんです」
「どんな風にですか?」
「一月の初め頃だったですよ。まだ正月気分の頃でした。上野駅の地下工事が深夜までやっていて、夜おそく駅の構内を通ったら、中央改札口のところに浮浪者が一人、じっと出発していく夜行列車を見つめていたんです」
「それがこの男だった?」
「ええ。名前も知らないし、それまではずいぶん浮浪者がいるなと思っていただけなんですよ。何を見ているのかと思ったら、青森へ行く下りの『津軽』が出て行くのを見ていたんです」
「あの列車をですね」
「そうなんです。おれは出稼ぎに来るときも帰るときも、『津軽』に乗ってるんですよ。それでつい声をかけたんです。確か、『あれは津軽だね』っていったと思うんですよ」
「そうしたら、相手はどうしました?」
「すうッとどこかへ行ってしまいましたよ。ああ、ひとりで見ていたかったのかと思って、悪いことをしたなと考えましたね」
「その後、何か接触がありましたか?」
「そんなことがあったんで、気になりましてね。見かけると声をかけようと思うんだけど、その度にすうッと逃げてしまうんですよ」
「なぜだと思いました?」
「わかりませんね。おれが気に食わなかったのかも知れませんよ」
「あなたに、痛いところを見られたからかも知れない」
「何のことですか?」
「浮浪者になる理由はいろいろだと思います。ただ、好きでなった人というのは、あまりいないんじゃないか。わけがあって浮浪者になってしまった人が多いと思うのですよ」
「そうでしょうね」
「彼が浮浪者になった理由はわかりません。しかし、望郷の念があって、時々ふっと中央改札口のところへ来て、自分を故郷へ運んでくれる列車を見ていたんじゃないか。それをあなたに見られたんで、痛かったんじゃないかと思ったんですがね」
「見られたっていいじゃないですかね」
島田はわからないという顔をした。
「それは、あなたが浮浪者じゃないからですよ。浮浪者になったら、また別の感情がわくと思いますね。あなたが見たとき、この男はどんな服装をしていました?」
「意外に小ざっぱりした恰好だったですよ。しかし、やはり傍に行くと臭いましたね。顔も不精ひげだらけで、汚れていたし──」
「じゃあ、これは違いますか?」
十津川は、死んでいた時の背広や靴などの写真を島田に見せた。
島田は言下に、
「こんな立派なものじゃなかったですよ」
「そうでしょうね」
十津川は肯いた。
そんなに高いものではないが、死んだ杉本が身につけていた服や靴は、真新しいものだったからである。
彼は出所して間がなかった。背広や靴を買う金はなかった筈なのだ。
赤木喜一を襲い、保険証、財布、腕時計を奪った。その金で買ったのか?
しかし、赤木の妻、君子の証言によると、財布には五万円だけ入れて、湯沢を出たということなのだ。その財布には四万三千円残っていたから、杉本は赤木から奪った金で背広や靴を買ったわけではない。
すると、誰かが出所して間もない杉本に金を与えて、背広や靴を買わせたのだろう。
当然、浮んでくるのは、林レストランの社長である。
それともあの林は、浮浪者の面倒は見なかったのだろうか?
第三章 第二の殺人
1
赤木喜一の行方は、いぜんとして不明のままだった。
もう一人の丸山茂男も見つからない。
成城署の山川刑事が連絡して来たところによると、夫を探しに妻の幸子が上京して来たが、五カ月の身重だという。
「心配になりましてね。すぐ秋田に帰って静かにしていなさい、旦那さんはわれわれが見つけてあげますといったんですが、帰らないんですよ」
「それで、どうしているんだ? その幸子さんは」
「幸い遠い親戚が赤羽に住んでいるんで、そこに寝泊りして旦那さんを探すといっていました」
「大変だな」
「そうなんです。何しろ、五カ月ですからね。といって強制的に秋田へ送り帰すわけにはいきませんし──」
「丸山茂男の行方は、全くつかめずかね?」
「手掛りなしです。公開で探したいと思うのですが、ポスターをそちらで作って頂けませんか?」
「こちらも赤木喜一が見つからないで困っているので、二人一緒のポスターを作るようにするよ。二人も出稼ぎの人間が消えてしまったというのは、異常だからね。探す価値はある」
「ありがとうございます」
「それで、丸山の奥さんは、何か参考になるようなものを持って来たかね?」
「いや、何もです。奥さんにとっても、突然旦那が消えてしまったのは、わけがわからなかったんだと思いますね」
と山川はいった。
十津川は上司に相談して、赤木と丸山の二人のポスターを作り、それを東京周辺の派出所や交番に貼って貰うことにした。
十津川がそんな作業に追われて、二日、三日と過ごして、十一月十九日を迎えた。
その日の昼。昼食をとりながら何気なくテレビのスイッチを入れた十津川は、画面に赤木君子が出ているのを見つけた。
若い評論家のキャスターが、
「今は出稼ぎの季節でもあります。その出稼ぎの人たちの中から、続けて二人の人が行方不明になるという事件が起きています。ひょっとすると、他にも姿を消してしまった人がいるかも知れません。
どこか犯罪の匂いもして来ます。そこで今日は、行方がわからない二人の方の奥さんに来て頂いて、くわしい事情を伺おうと思います。お二人とも上京して、ご主人の行方を探していらっしゃいますが、丸山幸子さんの方は、五カ月のお子さんがお腹の中にいらっしゃいます」
と説明する。
その声で、亀井や西本たちもテレビの前に集って来た。
赤木君子と丸山幸子が画面で紹介される。
じっとそれを見ていた亀井が、小声で十津川に、
「赤木君子は変りましたね」
「カメさんもそう思うか」
「やつれたのは当然だと思いますが、化粧が濃くなっています」
「テレビに出るので、厚化粧したんじゃないのかな?」
「そうならいいんですが」
「彼女、上京して一週間か」
「一週間あれば、東京の水に染まりますよ」
「そうかね」
十津川は電話に手を伸ばすと、赤木君子が泊っている旅館にかけてみた。
電話口に出たのは、おかみさんだったが、
「赤木君子さんは、昨日出て行かれましたよ」
といった。
「チェック・アウトしたんですか?」
「はい」
「行先は?」
「それはおっしゃいませんでしたけど」
「もちろん、きちんと精算して出て行ったんですね?」
「はい。きちんとお払いになりました。それが何か?」
「いや。いいんです」
十津川は受話器を置くと、またテレビに眼をやった。
画面では、君子がキャスターに行方不明の夫の特徴を話していた。
「旅館を出たんですか?」
と、亀井が小声で聞いた。
「そうらしい」
「なぜですかね?」
「ただ、気分を変えるというだけの理由ならいいんだがね。金が無くなったためだということだと、大変だな」
「しかし、先日娘さんが上京して来て、お金を渡したんじゃないかと思うんですが」
「私もそう思うんだがね」
十津川は首を振った。
まだ、どうといえる段階ではなかった。悪い方向へいかなければいいと思うだけである。
娘が君子に金を渡したというのは、十津川と亀井が勝手に想像したことである。林もそういっていたが、本当のことはわかっていないのだ。娘は金を作れず、それを伝えに来たのかも知れないし、作れても僅かな金額だったとも考えられる。
「この放送はナマだろうね?」
十津川は急に不安になって亀井に聞いた。
「そうだと思いますが」
「カメさんはこのテレビ局へ行って、赤木君子のことを調べて来てくれないか」
「わかりました。私も心配になって来ました」
と亀井はいい、すぐ部屋を飛び出して行った。
テレビでは君子に代って、丸山幸子がキャスターと話をしている。
十津川は煙草に火をつけて、じっと聞くことにした。
二つの行方不明事件が、どこかでつながっているかも知れないと思ったからである。
幸子は腰を下したまま話をしていたが、やはりお腹の大きいことは眼についた。
君子と同じように、家に子供を一人置いて、夫を探しに上京して来たのだという。
「ご主人の失踪《しつそう》について、何か心当りがありませんか?」
とキャスターが型にはまった質問をする。
「ぜんぜんありません」
「東京に着いてから、誰かを訪ねることになっていたということは、ないんですか?」
「何も聞いていませんでした」
もともと色白な顔なのだろうが、幸子は蒼ざめた顔で答えている。
「東京に着いたという電話は、あったんですか?」
「はい。ありました」
「どんな電話でした」
「今着いた、だけです。いつもそうですから、別に不思議に思いませんでした」
「そのあと、何か連絡はありませんでしたか?」
「十三日に電話がありました」
「十三日というと、いなくなる前日ですね?」
「はい」
「どんな電話だったんですか?」
「身体は大丈夫かと私にききました。そのあと正月には帰ることにした、ということだけいっていました」
「その時、声の調子がおかしかったことはなかったですか?」
「いいえ。いつもの通りでした」
「ご主人は毎月、いくらぐらい送金していたんですか?」
「十八万から二十万の間でした」
「失礼なことをお聞きしますが、ご主人を見つけ出したいということで、お答え下さい。ご主人は前にも何回か、出稼ぎに来ていますね?」
「はい、今年で七年目だったと思います」
「その間に、東京に女性を作ったということはありませんか?」
「いいえ」
「しかし、可能性はあるんじゃありませんか?」
「──」
幸子は黙っている。
キャスターは押しかぶせるように、
「どうもご主人は、自分から姿を消したようなのですよ。そうなると、どうも奥さん以外の女性の姿が、ちらちらするような気がするんですがね」
「私にはわかりませんわ。そんなことをするような主人には思えませんけど」
「しかし、東京という大都会の誘惑というのもありますよ。それにご主人は四十三歳で男盛りだ」
とキャスターはいう。
聞いていた若い清水刑事が腹を立てて、
「なんでそっちへ持って行くんだ!」
と文句をいった。
「その方が面白いからさ。今のテレビは本当かどうかより、面白いか面白くないかの方が大事なのさ」
同じ年齢《とし》の西本が、肩をすくめるようにしていった。
「ご主人は、その誘惑に負けたんじゃありませんかね?」
まだキャスターがいっている。
「わかりませんわ」
と幸子はいう。それ以外の返事の仕様がないのだろう。
どうやらキャスターは、話題をそちらの方向へ持って行こうとしているように見える。
その証拠に、なぜか画面が盛り場のネオン街に切り替った。新宿、渋谷のネオンや、吉原のソープランド街が映し出されていき、中年の男の後姿がかぶさって、「二人は何拠へ?」という字が出て終ってしまった。
「何だい? こりゃあ」
思わず十津川は声を出した。
テレビの威力を、十津川は知らないわけではない。赤木君子と丸山幸子がテレビで訴えたことで、警察がしゃかりきになっても見つからなかった二人が、簡単に見つかることもあり得るだろう。
しかし、自分たちの考える方向に結論を持って行こうとするのには腹が立った。
一時間近くたって、亀井から電話が入った。
「今、Nテレビ局にいます。赤木君子に会って話を聞きました」
「それで、旅館を出た理由は何だったんだ?」
「はっきりとはいいませんが、やはり金でしょうね。よく知らない東京の街を一日中動いているわけですから、金もかかると思うのです。旅館に泊って探すということが出来なくなったんでしょう」
「今、どこにいるんだ?」
「それが面白いことに、例の林レストランで働いているんですよ」
「本当かね?」
「林レストランの社員寮が向島にあって、そこに住まわせて貰っているといっています。昼間は夫を探したいといったら、社長の林が、それなら夜だけ働いてくれればいいというので、午後六時から閉店の九時まで働かせて貰っているといっています。化粧が濃くなったのも、そのせいだと思いますね」
「あの社長は、よくやるね」
「そうですね。彼がここに来ていましたよ」
「林社長が?」
「そうです。今度の企画にも、林が一枚かんでいるような気がするんです。林とNテレビの『昼のレポート』のプロデューサーは知り合いらしいですから」
「なるほどね」
「林社長は丸山幸子にも声をかけていましたよ。同じ秋田の人間だから、困ったときには相談にのるといっていました」
「なかなかやるものだね」
「彼女、感激していましたよ」
「そりゃあするだろう。大都会にひとりでやって来て、行方不明の夫を探しているんだからね。その上五カ月の身重ともなれば、余計心細いだろう」
「どうも、私は引っかかるんですが」
「林がだろう?」
「そうです。確かに立派だし、同じ秋田の人間だからというのは、納得も出来るんですが、礼状の件では隠し事をしているわけです」
「林から借りて来た十通の他に、林に礼状を書いた人間がいたわけだからね」
「別に隠す必要がないことを、隠したりするのが引っかかるんですよ」
「林はまだテレビ局にいるのか?」
「いえ。ついさっき、自分の車に赤木君子と丸山幸子を乗せて帰って行きました。都内に秋田の人間がやっている郷土料理の店が何軒かあるので、廻ってみればいなくなった夫たちの消息が聞けるかも知れないといっていましたね。だから今頃、車で廻っているんじゃありませんか」
「なかなかいいところに眼をつけているよ」
十津川が賞めると、亀井はぼそっとした声で、
「そうですかね」
「カメさんだって、私を津軽の郷土料理の店へ連れて行ったことがあったじゃないか。BGMで津軽三味線が鳴っていた」
「そうでしたか」
「この店へ来ると、何となく気持が落ち着くんですと、カメさんはいっていた。だから赤木と丸山の二人も、郷土料理の店へ行く可能性はあるよ。失踪の理由が犯罪に関係したことではなければだがね」
「私はこのテレビ局の細江というプロデューサーに会ってから帰ります」
「林と知り合いだというプロデューサーか?」
「そうです」
2
同じ日の夜、九州博多の町には小雨が降り出していた。
中洲のネオン街も今夜、寒そうに見える。コートの襟を立てた中年の男が、さっきから必死になってタクシーをとめようとしていた。
雨が降り出したので、空のタクシーはなかなかやって来ない。
やっと一台のタクシーが、男の前でとまってくれた。
男は開いたドアからのろのろとリア・シートに乗り込んだ。ひどく身体がだるそうに見えた。
「駅まで」
と男は力のない声でいった。
「博多の駅だね?」
運転手は念を押したが、返事がないのでそのまま走り出した。
雨は次第に激しくなった。
ワイパーの動きがせわしくなってくる。
渋滞がひどいので、若い運転手はいらいらしていた。
普通なら十二、三分で博多駅に着くのに、今夜は三十分以上かかってしまった。
「着きましたよ」
と運転手は室内灯をつけて、客にいった。
だが返事がなかった。
バック・ミラーを見ると、男の姿も消えていた。
運転手は一瞬、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。中洲のクラブの客とホステスが無理心中した事件が三日前にあって、幽霊《ゆうれい》が出るという話を聞いていたからである。
だが、勇気をふるってリア・シートをのぞき込むと、何のことはない、男の客は床に転げ落ちていたのである。
「しようがねえな。酔っ払っちまいやがって」
と運転手は舌打ちした。
大きく身体を乗り出して客の腕をつかみ、引きあげようとした。
その時、客の腹のあたりが真っ赤に染っているのに、初めて気がついた。
血だった。
血は流れ出して、床を赤黒く染めている。
運転手は息を呑んで何秒間か見つめていたが、運転席から飛び出して駅の派出所に向って駆け出した。
3
派出所の警官は問題のタクシーを軒下まで寄せさせてから、後部のドアを開けた。
中年の男は狭い床に仰向けに倒れていた。
血は流れ続けているが、男はぐったりして動かなかった。
二人の警官が男の身体を引きずり出して、コンクリートの上に横たえた。
脈をみ、心臓に耳を当ててみたが、鼓動《こどう》は止まってしまっている。
すぐ県警に連絡がとられた。
パトカーと鑑識の車、それに検死官も到着した。
検死官も男がすでに死亡していることを確認した。
男は腹部を刺されていたが、タクシーの中にはナイフはなかった。運転手の話では、中洲でタクシーに乗って来たのだという。多分、その時すでに刺されていたのだろう。
他殺の疑いが濃厚だった。
福岡県警の戸山という警部が、その事件を担当することになった。
所持品が調べられた。
背広の胸ポケットには、東京行の寝台特急「さくら」の切符が入っていた。
今日の切符である。
12号車の4上段の切符だった。
上りの「さくら」は一九時一五分に博多を発車する。東京着は明日の一一時二八分である。
死んだ男はこの列車に乗るつもりだったのだ。
黒い皮財布には十二万三千円が入っていた。かなりの金額である。
反対側の内ポケットからは、健康保険証が出て来た。
身元を確認する最初の手掛りである。
〈木下勇次〉
それが保険証に書かれていた名前だった。
住所の欄を見て戸山がおやっと思ったのは、東京までの切符を持っていたので、何となく東京の人間だろうと思い込んでいたのに、そこに「秋田県」という字を見たからである。
被害者の家族と思われる写真も見つかった。
多分、妻と娘だろう。三十二、三歳の女と十歳ぐらいの娘が、縁側に並んで腰を下していた。
その娘が書いたらしい作文が折りたたんで、内ポケットに入っていた。
「お父さんの手」という題の作文である。
お父さんの手
五年二組 木下めぐみ
私のお父さんの手は大きくて、ごつごつしています。
だからはたかれると、とても痛いです。でも頭をなぜられると、気持のいい手です。
春から秋にかけて、お父さんは畠仕事をするので、いつも土の匂いがする手になります。
冬はお父さんは、出稼ぎに行きます。でも、東京に行ってしまうので、どんな匂いの手になっているかわかりません。
私の家にとっては、とても大切な手です。
他に被害者のポケットから見つかったのは鍵だった。
番号札のついた鍵である。
明らかに、駅のロッカーの鍵だった。
戸山警部は部下の刑事と、国鉄博多駅のコインロッカーを調べてみた。
同じ番号のコインロッカーと鍵は、ぴったりと合った。
被害者は博多駅に着いたらコインロッカーを開け、何かを持って「さくら」に乗ることにしていたのだろう。
コインロッカーに入っていたのはボストンバッグだった。
戸山は駅の派出所に持って行き、中身を調べてみた。
下着や洗面具、それに週刊誌が詰め込んであった。
(こんなものか)
と戸山はがっかりしたが、念のために全部外に出してみると、二重底になっているのに気がついた。ナイフで切り裂いてみた。
ポリ袋に入った、白く光るものが見えた。きらきら光っている。
(覚醒剤──)
と戸山は直感した。
ただの殺人事件ではないという空気が、県警本部を包んだ。
すぐ博多警察署に捜査本部が設けられた。異常な早さだったのは、韓国ルートの覚醒剤密輸事件が最近|頻発《ひんぱつ》していたからである。
ボストンバッグの二重底の下から見つかったのは、一キロの量だった。
量そのものは、それまでに摘発されたものに比べて多くはない。
県警が今度の事件を重視したのは、殺人が絡《から》んでいるのと、東北の人間がその運び役と思われるからだった。
戸山警部は「木下勇次」について、出身地の秋田県警に照会する一方、タクシー運転手が被害者を乗せた地点での聞き込みを部下に命じた。
ネオン街は警察に対して反感を持っている。特に問題の場所は警察に対して非協力的だった。何人かの刑事がバーやクラブなどの聞き込みに行ったが、返って来たのは冷たい沈黙だけである。
秋田県警からの返事は翌朝早く届いたが、その内容は戸山を当惑させた。
照会のあった秋田県──村の木下勇次は、現在、東京都世田谷区××町の区民会館の建設現場で働いているというのである。家族にハガキも届いているという。
当惑した戸山は、それが本当かどうか、東京警視庁に調べて貰うことにした。
4
「まただよ」
十津川は福岡県警からの電話を切ってから、亀井にいった。
「秋田の人間が、博多で殺された件ですね」
「そうなんだ。持っていた保険証から、木下勇次という名前とわかったんだが、この人物は現在、東京の世田谷で働いているというのさ」
と十津川は肩をすくめて見せてから、
「それが本当かどうか、調べに行ってみようじゃないか」
「また行方不明になっているというんじゃないでしょうね」
二人は上野署を出ると、パトカーで世田谷に向った。
「何か大きな事件になっていきそうですね」
パトカーの中で亀井がいった。
「そうだね。少しずつ事件の全貌が明らかになっていく感じなんだが──」
といって十津川が語尾を濁らせたのは、今度の博多の事件では覚醒剤が出て来ているからだった。
しかもそれに、木下勇次という秋田の人間が関係しているらしいという。
十津川は別に秋田の人間を好きでも嫌いでもなかったが、一家の生活のために出稼ぎに出て来ている人たちである。その人たちの一人が覚醒剤に関係しているとは、考えたくなかった。
亀井は東北の人間だから、なおさらだろう。そのせいか、世田谷の建設現場に着くまで亀井は沈んだ顔をしていた。
区民会館は土台作りの最中だった。
十津川たちは工事の責任者に会って、ここで木下勇次という秋田の人間が働いているかどうか聞いてみた。
「ああ、いますよ」
といわれて十津川はほっとした。
「すぐ呼んで下さい」
と十津川はいった。
工事責任者は四十歳ぐらいの男を連れて来た。
「木下勇次さんかね?」
と亀井が聞いた。
「そうだよ」
男は訛《なま》りのある声でいった。
「秋田から出稼ぎに来ているんだね?」
「ああ、そうだ」
「健康保険証は持っているかね?」
亀井が聞くと、相手は急に困惑した顔になって、
「いや」
「どうしたの?」
「落としてしまったんだ。それで故郷《くに》の家族に連絡して、村役場で再交付して貰ってくれといってあるんだ」
「家族の写真は?」
と十津川が聞いた。
「え?」
「奥さんや娘さんの写真も持っているんじゃないかと思ってね。持っているのなら見せてくれませんか?」
「それも落としてしまったんだ」
「一緒にですか?」
「小さな皮の鞄に入れて、いつも持っていたんだ。おれにとっては保険証も家族の写真も、大事なものだからね。この間、用があって新宿へ行ったとき、その鞄を持っていて、落としてしまったんだよ」
「警察に届けましたか?」
「いや」
「なぜ? 大事なものなんでしょう?」
「そうだが、おれは警察が苦手だし、何となく恥かしかったからね」
「その鞄の中に、他に何が入っていたんですか?」
「いや、それだけだよ」
「娘さんの作文も入っていたんじゃないんですか?」
十津川が聞くと、びっくりした顔になって、
「なぜ、作文のことを知っているのかね?」
「あなたが持っていて、失くしたと思うからですよ」
「そうなんだ。娘の作文も入れておいて、一緒に失くしてしまったよ」
「なぜ、娘さんの作文を持っているんですか?」
「あれを読み直すと、元気が出てくるからね」
やっと相手は白い歯を見せて笑った。
「あなたが木下勇次と、証明してくれる人はいますか?」
「おれは木下だよ」
「しかし、保険証も家族の写真も、持っていないんでしょう?」
「同じ村から一緒に出稼ぎに来ているのがいるからね。あいつに証言して貰うよ」
「いいでしょう。あなたは木下勇次さんだと認めますよ」
「なぜ、こんなことを聞くのかね?」
「あんたの保険証を持って、死んだ男がいるんだよ」
と横から亀井がいった。
木下の顔色が変った。
「本当かね?」
「ああ、本当だ。殺されたんだ。何か思い当ることは?」
「いや、何もない」
「あんたは、浅草でレストランをやっている林という人を知っているかな?」
「いや、知らない」
「去年、上野駅の地下工事で働いていたことは?」
「去年は練馬でマンションの工事に行っていたよ。調べて貰ってもいいよ。T工務店という建設会社だよ」
「すぐ奥さんに電話した方がいいですよ」
と十津川は木下にいった。
「あなたが博多で死んだのではないかと、心配しているでしょうからね」
「そうだね。すぐ電話する。もういいかね?」
「いいよ」
亀井が肯くと、木下は事務所の方へ飛んで行った。
5
このあと十津川は、工事事務所の責任者に木下の勤務ぶりを聞いてみた。
「いやあ、まじめに働いてくれていますよ」
とお世辞という感じではなく、相手は賞めた。
木下に限らず、出稼ぎに来ている人たちは皆、中年で、家に仕送りをしなければならないということがあって、真剣だという。
「十一月二日にここへ来てくれたんですが、今日まで一日だけ休みがあっただけで、毎日休まずに働いてくれています。新宿へ行ったのは、多分、その休みの日だったと思いますね」
「その休みの日ですがね。帰って来てから保険証を失くしたと、いっていませんでしたか?」
「いや、何もいっていませんでしたね。多分照れくさかったんだと思いますよ。落としたというのが」
と相手は笑った。
「電話はこの事務所にあって、木下さんたちに電話があった時は呼びに行くわけですね?」
「そうです」
「林という人から、木下さんに電話がかかったことはありませんか?」
「私が知る限り、外から木下さんに電話のあったことはありませんね。この電話で、彼が秋田の家にかけたことはありますが」
その場合も、いちいち断ってからかけているという。
「皆さん、律義ですからね」
と責任者は微笑した。
十津川と亀井はパトカーに戻った。
十津川は煙草に火をつけた。
「あの木下という男は、本当のことをいっていると思いますか?」
亀井はハンドルに手をかけたが、すぐ車を出さずに十津川にきいた。
「わからないなあ。ああいう人が嘘をついているとは思いたくないが、律義なだけに、義理とか人情にからまれると弱いだろうからね」
「やはり、林の影がちらつきますか?」
「ああ。だが、今の木下勇次と林とがつながっているかどうか、わからないからね」
十津川がいった時、車の無線電話に連絡が入った。
助手席にいた十津川が電話を取った。
「なんだ?」
「浅草の林という人をご存知ですか?」
と聞いた。
「よく知っているよ」
といってから、十津川は思わず亀井と顔を見合せた。今、その林のことが話題になっていたからである。
「林さんから電話があって、至急十津川警部に話したいことがあるというのです。連絡をとってみてくれませんか」
「わかった」
と十津川はいった。
亀井が公衆電話のあるところまでパトカーを走らせ、十津川が車からおりて林レストランに電話をした。
「十津川さんですか?」
林の声が聞こえた。
「何かあったんですか?」
「君子さんがいなくなってしまったんですよ」
「赤木君子さんですか?」
「そうです。赤木喜一さんの奥さんです」
「いなくなったって、あなたの店で働いていたんじゃないんですか? 住居も提供していたんでしょう?」
「そうです。ただ、うちではパートで働いていて、ご主人を探しに相変らず東京の街を、歩き廻っていたんですよ」
「それは知っています」
「昨日もそれで出かけていたんですが、今日になっても帰って来ていないんですよ。秋田へも電話してみたんですが、帰っていないんです」
「どうしたんですか?」
「わかりませんよ。わからないから十津川さんに電話したんです」
「心当たりは全くないんですか?」
「ありません。ただ、あの人は律義な人だから、私の世話になっているのが心苦しくなって、出て行ったのかも知れない。それならいいんですが、交通事故にでもあってどこかの病院へ入っているのではないかと、そんなことも考えてしまいましてね」
林は本当に心配そうにいった。
「もう一人、奥さんがご主人を探しに上京していましたね」
「丸山幸子さんでしょう。彼女にも電話して聞いてみましたが、君子さんのことは知らないといっていましたよ。何とか探してくれませんか。ほとんどお金を持っていない筈なんです。だから余計に心配で」
「わかりました。探してみましょう」
と十津川は約束した。
車に戻ると、亀井に電話の内容を話した。
「きっと彼女は、林の世話になっているのが申しわけなくなって来たんですよ」
亀井はパトカーを走らせながらいった。
「しかし、林のレストランでパートだが働いているんだ。別に申しわけないなんてことはないだろう?」
「そう割り切れる性格ならいいですがね。田舎の人だから、世話になっている意識の方が、強くなっていたのかも知れません」
「しかし、林もいっていたが、ほとんど金を持っていない状態で飛び出してしまって、どうする気なのかな」
「そうですね」
「彼女の写真があったね。あれをコピーして配ることにしよう。自棄《やけ》を起こして自殺でもしたら大変だからね」
「頼みます」
亀井は自分のことのようにいった。
捜査本部に戻ると、すぐ赤木君子の写真を大量コピーして、都内の派出所、交番に配布することにした。
しかし二日、三日とたっても、赤木君子は見つからなかった。
彼女だけではなかった。
夫の赤木喜一ももう一人の丸山茂男も、見つからなかった。
急行「津軽」の車内で起きた殺人事件も未解決である。
全てが壁にぶつかってしまった感じだった。
十一月二十四日の朝だった。
捜査一課の本多課長から十津川に電話が入った。
「新宿二丁目の『羽衣』というラブ・ホテルヘすぐ行ってくれ。そこで女が殺された」
「しかし、私の方は例の事件で手一杯ですが」
「その女が、どうも赤木君子らしいんだ」
6
十津川と亀井は「羽衣」というラブ・ホテルに急行した。
日一日、寒さが加わっていく感じがする。
死体は円形ベッドの上に、全裸で仰向けに横たわっていた。
「違いますよ。別人ですよ」
亀井は、死体を見るなりいった。
「いや、カメさん。よく見ると彼女だよ」
十津川が暗い眼でいった。
十津川も最初に見たとき、これは別人だと思ったのだ。
あまりにも違ってしまっていたからである。
髪型がまず違っている。長い髪だったのが短くなり、ちりちりにパーマをかけている。
しかし何よりも違っているのは化粧だった。林レストランで働くようになって、化粧が濃くなったと思ったのだが、今、ベッドに横たわっている女の顔は、それ以上出来ないというくらい厚化粧をしている。
裸の身体の方は、色白で美しいのに、厚化粧した顔だけが別人のように見える。
「間違いなく赤木君子だよ」
十津川がくり返すと、亀井はむっとした表情で、
「わかっています」
「そうか」
とだけ十津川はいった。
亀井がむきになって別人だといったのは、別人だと思いたい願いも含まれていたのだろう。
赤木君子はくびを締められて殺されていた。
毛布を死体にかぶせてから、一一〇番への通報で最初に現場へ到着した若い警官に話を聞いた。
「どうして赤木君子という名前がわかったのか、それを教えて貰いたいんだよ。被害者が名乗って入ったわけじゃないだろう?」
十津川が聞くと、
「ハンドバッグが開けられていて、これが床に落ちていました」
と小さな紙片を見せた。
現金書留の控えだった。
「取り扱った郵便局の判が押してありましたので、そこへ緊急照会し、赤木君子の名前が判明しました」
と若い警官がいった。
「いや、ありがとう」
十津川は礼をいった。
金額の欄には五万円と書き込んである。
十津川はそれを亀井に渡した。
「多分、秋田の家に送金したんだろうが、もう一度確認してみてくれないか」
「調べてみます」
亀井はすぐ部屋を出て行った。
鑑識が写真を撮り、指紋を採取している。
十津川は指紋採取のすんだハンドバッグを手に取った。
彼女と最初に会った時持っていたのと、同じハンドバッグだった。
だがその時とは、中身はがらりと変ってしまっているような気がした。
小さな箱に入ったスキン。
こんなものはあの時は持っていなかったに違いない。
ピルも入っている。これだって同じだ。
口紅、これも濃くなっているだろう。
三文判の「赤木」という印鑑。これは現金書留を出す時に使ったのか。
あの時と同じものも入っていた。二つに折った夫からのハガキである。
財布は空になっていた。彼女を殺した犯人が、中身を抜き取っていったのかも知れない。
「一緒にいた男の人相はわかるかね?」
十津川はハンドバッグを元の場所に戻してから、従業員に聞いた。
「角張った、眉《まゆ》の太い男の人でした。年齢は四十歳くらいで、皮のジャンパーを着ていました」
といった。
身長は一六五センチくらいだという。
男が一人でやって来て、ここから電話で呼んだということだった。
枕元には夕刊紙が落ちていて、それには「お電話下さい。ホテルヘの出張可」といった広告がずらりと並んでいる。
十津川は片っ端からダイヤルを回してみた。
「花の園」というところで手応えがあった。
「優しい中年美人が、貴方をお慰めします」
と書いてある。
十津川が殺人事件だというと、そのクラブの社長だという男があわてて飛んで来た。
意外に若い男だった。
三十五歳で、井上と名乗った。その男は死体を見るなり、
「うちの人間です」
といった。
「いつから君のところで働いているんだ?」
「五日前からですよ」
「誰かの紹介で来たのかね?」
「そんな女はいませんよ。彼女も新聞を見て、飛び込んで来たんです。お金がいるので、すぐ働かせてくれといってね」
「それで?」
「ちょっと年齢《とし》はくっていましたが、色白だし、素朴な感じなので、お客にいいんじゃないかと思って、働いて貰うことにしたんですよ。思った通り、客受けは良かったですね。素人っぽいところが受けたんだと思いますよ」
「一日いくらぐらい稼いでいたんだね?」
「とにかく一生懸命にお客をとっていましたからね。一日五人から六人で、一人二万ですから十万円ぐらいですか」
「どのくらいピンはねしていたんだ?」
「協力金みたいなものですよ」
「どのくらい店で取っていたんだ?」
「うちは良心的な方で、半額ですよ。その代り、アパートを世話したり、客を世話したり、こちらも大変なんですよ。刑事さんにはわからないかも知れないけど、こういう仕事は──」
「もういい」
と十津川は眉をひそめた。
井上はじろじろと死体を眺めてから、
「犯人は捕まりそうですか?」
「捕まえるさ。昨夜の客は初めての声だったのかね?」
「そうみたいでしたね」
「彼女は財布にいくら入れていたか、知っているかね?」
「そういうのは、プライベイトなことですから、知りませんね」
何がプライベイトかと十津川は腹が立ったが、黙っていた。
亀井が戻って来た。
「やはり家へ送金していたようです。娘さんを呼ばなければなりませんね」
と亀井が沈んだ口調でいった。
「それが辛いな」
「つくづく家というものは、脆《もろ》いものだと思いますね。一家の柱の旦那がいなくなったとたんに、こんなにがたがたになってしまうんですから」
「そんなにお金に困っていたのかね」
「秋田の村役場に聞いてみたんですが、旦那たちが出稼ぎに出て、現金収入があるのを見越して、借金をして家を修繕したり、農機具を買ったりしている家が多いのだそうです。旦那が倒れたとたん、その借金が返せなくなるわけですよ。赤木君子の家もそれだったんじゃありませんか」
「なるほどね」
「この男は?」
亀井はちらりと井上に眼をやった。
「赤木君子の働いていた店の社長さんだ」
「こいつが」
亀井が井上を睨《にら》んだ。
井上は井上で、むっとした顔になって、
「私はただ頼まれたから、うちで働いて貰っていただけですよ。売春をしろなんて、一言もいってないんだ。彼女が勝手にやっていたことですよ」
「うるさいな」
亀井は顔をしかめた。
「ねえ。警部さん、私は証言してくれといわれたから、わざわざ来たんですよ。警察はもう少し一般市民に対して温かい態度で接しないと、誰も協力しなくなりますよ。私は不愉快だ」
井上は吐き捨てるようにして、さっさと出て行ってしまった。
「何ですか、あれは。私だって相手が一般市民なら丁重に応対しますよ」
亀井が文句をいった。
「カメさんが怒るのももっともだよ」
と十津川はいった。
「私は警部、赤木君子にだって腹を立てているんです。苦しかったのはわかりますが、なぜもう少し普通の仕事をやってがんばってくれなかったのかと、腹が立つんですよ。それが出来ない社会なら、その社会に腹が立ちますが」
「最初は赤木が消えてしまったことにあるんじゃないかね」
「そうですね。彼は生きているんでしょうか?」
「もし生きていれば、奥さんが死んだ記事を見れば出てくると思うがね」
「それが唯一の頼りですね」
と亀井は暗い顔でいった。
他にも辛い仕事が残っていた。郷里の秋田にいる赤木君子の娘に知らせる仕事である。
電話は十津川がかけた。
第四章 望 郷
1
中学三年生の赤木みどりは、親戚に当るという叔母に伴われて上京した。
やはり上野駅で見た少女だった。
彼女は母親の遺骨を抱いて秋田へ帰って行ったのだが、ほとんど無言で通し、十津川たちの質問に答えたのはもっぱら叔母の方だった。
赤木君子の死については、新聞が例によってセンセーショナルな書き方をしたので、みどりは全てを知ってしまったに違いない。
彼女の無言は精一杯の抵抗だったのだろう。
十津川は新聞に出たことで、失踪している赤木が名乗り出てくるのではないか、生きていれば出て来るだろうと思っていた。
だが赤木は現われなかった。
「死んでいると考えた方がいいかも知れんな。カメさん」
と十津川はいった。
「そうですね。生きていれば、どんな境遇にいても当然名乗り出てくると思いますよ。一人娘のこともありますからね」
亀井もいった。
その代りのように、二十六日になって電話が入った。
男の声ではなかった。訛りの強い女の声である。最初は訛りと声が低いので、何をいっているのかわからず、十津川は亀井に代って貰った。
亀井は自分も東北弁になってしばらく応対していたが、電話がすむと眼を輝かせて、
「急行『津軽』の車内で殺された男ですが、弘前の女性が、自分の兄らしいのでそれを確かめに上京するといっています」
と十津川にいった。
「弘前の女性か。カメさんの感触としては、本物らしいかね?」
「からかいでないことは確かです」
「彼女が兄だという根拠は何なんだろう?」
「新聞にのった似顔絵と年齢、それに身体つきなどだそうです」
「杉本正という名前はどうなんだろう?」
「彼女の名前は菅原佐代子、兄さんは菅原正だそうです。正というところだけは合っているわけです」
「杉本というのは通称だからね。その妹さんはいつ上京してくるんだ?」
「明朝上野に着くということですから、多分例の急行『津軽』に乗ってくるんだと思います」
翌朝六時に上野に着いた「津軽」で、彼女はやって来た。
捜査本部のある上野署に顔を出したのは、六時半である。
三十二歳で、弘前ではクラブで働いているという菅原佐代子は、洗練された恰好をしていたが、その彼女の口から訛りのある言葉が出てくると、都会育ちの十津川は何か異様な感じを受けた。
亀井は別に違和感を持たないらしく、もっぱら彼が佐代子の応対に当った。
佐代子は兄の写真の貼ってある小さなアルバムを持って来て、それを十津川たちに見せた。
「よく似ているね」
と十津川がいい、亀井も肯いた。
遺体はまだ解剖した病院に保管されている。
亀井が佐代子をその病院へ案内して行った。
十津川は二人が戻って来るまで、彼女が置いていったアルバムを見ていた。
菅原正の子供のときから、大人になるまでの写真が貼ってある。
彼がいなくなってしまってから、妹の佐代子が兄の写真だけを集めて、一冊のアルバムにしたのだろう。
妹の佐代子と一緒に写っているものもある。
農家だということがわかる。
子供の時の菅原正は、田んぼのあぜ道で写っているものが多い。
菅原佐代子も兄と一緒に写っている写真では、農家の娘という感じだった。
一時間半ほどして亀井と菅原佐代子が戻って来た。
「お兄さんに間違いないそうです」
と亀井がいった。
「お兄さんのことを、くわしく話してくれませんか」
十津川はアルバムを見ながら、彼女に話を聞いた。
彼女の家は弘前駅から車で三十分ほどの農家である。いわゆる専業農家だが、それだけではやって行けず、昔から兄妹の父親も冬は東京へ出稼ぎに出ていた。
兄の正も結婚したあと、父がそうしたように、冬場は東京へ出稼ぎに来た。
五年前、正は出稼ぎ先の東京で突然失踪してしまった。
佐代子は義姉と一緒に東京に行き、必死になって兄の行方を探した。
「わかったのは、一カ月分の給料を貰った直後にそれをすられてしまい、兄が途方に暮れていたということだけなんです」
と佐代子は五年前を思い出しながら、沈んだ声でいった。
「それだけの理由で、お兄さんは失踪してしまったんですかね?」
「わかりません。でも兄は気が小さくて、責任感がやたらに強かったし、田舎にはそのお金を待っている家族がいましたから」
「それから五年間、お兄さんの消息は全くつかめなかったんですか?」
亀井が聞いた。
「ええ。ただ突然、義姉《あね》のところに五万、十万というお金が送られて来ることがあったんです。差出人の名前はありませんでしたけど、兄ではないかと思いました」
「それで調べた?」
「調べようがないんです。住所も名前もないんですから。普通の封筒に、むき出しで現金が入っているんです」
「宛名を書いた字は、お兄さんの字でしたか?」
「いいえ。兄だとしたら、わざと誰かに書いて貰って、投函したんだと思います。五、六通届いたんですけど、字が違っていることがありましたから」
「それでお義姉《ねえ》さんは、今どうしているんですか?」
「去年、兄と離婚して、他の人と再婚しました。仕方がありませんわ。五年間も消急なしなんですから」
「兄さんは冬、出稼ぎに行くとき、急行『津軽』に乗って行ったんじゃありませんか?」
「ええ。いつも決っていましたわ。私も義姉《あね》と弘前の駅に送りに行ったし、春に帰って来る時は、弘前の駅に迎えに行きました」
「今年の十一月十二日前後ですが、お兄さんから電話がかかるか、手紙が来るといったことはありませんでしたか?」
十津川が聞いた。
「いいえ」
「お兄さんは十二日の上りの『津軽』に乗っていて殺されたんですが、お兄さんが乗っていることは、知りませんでしたか?」
「もちろん知りませんでした。知っていれば、私も弘前から『津軽』に乗りましたわ」
と佐代子はいった。
「お兄さんは青森に行ったようなんですが、青森に親戚がありますか?」
「青森は義姉《あね》の家があるところですわ」
「ではお義姉さんは今、青森ですか?」
「いいえ。五所川原に住む人と再婚して、そっちにいます」
「青森にはお義姉さんの実家が、今でもあるわけですね?」
「ええ。ご両親が住んでいます」
「その電話番号が、わかりませんか?」
と亀井がいい、佐代子が答えると、すぐ電話をかけてみた。
が菅原正は、十一月十二日にもその前日にも、訪ねてはいなかった。電話もなかったという。
しかし菅原は赤木喜一の保険証を持って、青森へ行っているのである。何のために彼は青森まで行ったのだろうか?
「きっと直接弘前へ来て、私やお義姉さんに会うのが怖くて、青森のお義姉さんの実家の方へ行ったんだと思います」
と佐代子は眼をしばたたいた。
「でも、行ってもいないし、電話をかけてもいないんですよ」
亀井がいった。
「ええ。兄さんは気が弱いから、青森へ行きながら、連絡できなかったんだと思いますわ」
「出来ないままに、東京へ帰ろうとして、上野までの切符を買ったということだね。青森から上野までといえば、当然最短距離の東北本線経由になる。だが菅原さんは、どうしても郷里の弘前を通りたくなって、奥羽本線経由の『津軽』に乗ったんだろうね」
十津川はアルバムに眼をやりながらいった。
アルバムの中の菅原正は、どれも微笑している。決して豊かではなかった生活だろうが、やはり自分の生れ育った場所にいる安心感からだろう。
「誰にとっても、郷里はいいものですよ。人生に疲れたり、失敗したりした時は、郷里に帰りたくなるんです」
亀井が感情を込めていった。
東京に生れ育った十津川には、はっきりした郷土意識というものがない。望郷の念は理屈としてはわかるのだが、なかなか実感にはならない。その点で十津川は、時々亀井を羨ましいと思うことがあった。
「一つ気になることがあるんだがね」
と十津川はアルバムから顔を上げていった。
「菅原さんがなぜ赤木喜一の保険証を持っていたかということですか?」
亀井が聞く。
「もちろんそれもあるが、菅原さんは東北本線で上野へ帰ったら、急行『八甲田』に乗っていたら、殺されずにすんだろうか? 急行『津軽』に乗ったから、殺されたのだろうか?」
「わかりませんね。菅原さんが何をしようとしていたかによりますが。そのことで思い出すのは、博多で──」
亀井がいいかけたのを、十津川は遮《さえぎ》る恰好で佐代子に、
「お兄さんの遺体はどうしますか?」
と聞いた。
「こちらでお骨にして、持って帰りたいと思っています」
と佐代子はいった。
「お兄さんから、林という名前を聞いたことがありませんか? 東京の浅草でレストランをやっている人なんですがね」
「林さん? 聞いたことはありませんけど」
「五年前まで、お兄さんは冬場、東京に出稼ぎに来ていたわけですね?」
「ええ」
「どういうところで働いていたか、わかりますか? 例えば、上野駅の地下工事といったことですがね」
「いろいろな場所で働いていましたけど、上野駅というのは聞いていませんわ」
「そうですか」
十津川は別に失望はしなかった。
佐代子には東京の中の比較的安い旅館を紹介した。
彼女が礼をいって帰ったあと、十津川は亀井に、
「さっきは話の腰を折ってしまって悪かったね」
と詫びた。
亀井は首を振って、
「私も途中でこれはまずいなと、気が付いたんです。私が思い出したのは、博多で殺された男のことなんですが、覚醒剤のことは、妹さんにとっては嫌な話題でしょうからね」
「私もそう思ったのさ。ただし、それは大事なことだよ」
と十津川はいった。
2
二つの事件はよく似ていた。
中年の男が殺されたのだが、どちらも他人の保険証を持っていた。しかもその保険証は、東北から出稼ぎに来ている人間のものだった。
違う点もある。
菅原の方は覚醒剤は持っていなかった。北と南と殺された場所も違う。菅原正が持っていた保険証の相手、赤木喜一は失踪しているが、博多で殺された男が持っていた保険証の主、木下勇次は現在東京で働いていて、失踪はしていない。
そのどちらを重視するかで捜査方針まで変ってしまうだろう。
「私は同じ事件という方に賭けますね」
と亀井はいった。
「同感だが、木下勇次の方は、なぜ失踪せずにいるんだろう、いい方を変えれば、なぜ失踪せずにすんでいるのか、そこが不審なんだよ。木下勇次まで消えていたらこれは全く同じ事件だと思うんだがね」
十津川はそういった。
翌日の午後、雨の中で菅原正の遺体が火葬に付された。
亀井が菅原佐代子に付き添って行った。
十津川も同行したかったが、捜査の進行も気になって動けなかった。
新聞やテレビ、特にテレビが、失踪している赤木喜一に対して、残された娘さんのために名乗り出て欲しいと呼びかけたせいで、テレビ局には沢山の情報が寄せられているらしい。
西本刑事がテレビ局へ行き、その情報を持ち帰って来た。
五十近い情報である。
しかし、残念ながらその中に赤木喜一本人からの連絡は入っていなかった。
赤木喜一らしい中年の男をどこそこで見たといった形の情報ばかりである。
浅草の千束《せんぞく》町を歩いているのを見たというものもあれば、名古屋のRというパチンコ屋で働いている男がそっくりだという話もある。
もう一人の失踪人、丸山茂男の情報も、赤木喜一ほどではないが、テレビ局にもたらされていた。
情報の種類は赤木の場合と似ていた。
本人からの連絡はなく、どこそこで目撃したとか、どこで働いている男が似ているといったものだった。
「丸山茂男の方は、奥さんの幸子さんにも、テレビ局は知らせているそうです。その代り、その情報で見つかった時は、そのテレビ局でご対面の感激シーンをとるという約束をさせられたそうですよ」
「テレビらしいね」
「テレビ局の方でもこの情報に当っているようですが、警察も出来たら、調べて欲しいといっていました」
「そうだな。当ってみよう」
と十津川はいった。
今度の事件では、失踪している二人、特に赤木喜一が見つかれば新しい展望が開けると思ったからである。
夕方になって亀井が帰って来た。
「菅原佐代子は今日の『津軽』で弘前に帰るそうです」
「ご苦労さん」
と十津川はいった。
「彼女、兄さんの遺骨を故郷のお寺に納めたらまた上京するといっていましたね」
「それまでに犯人を逮捕できればいいがね」
「今日、帰りに上野駅に寄ったんですが、相変らず、待合室の隅に浮浪者が何人かいました」
「急に寒くなったからね。やはり東京都の施設に入るのを嫌がっているのかな」
「そうらしいです。金がなくて浮浪者になる人もいるでしょうが、世の中から完全にドロップ・アウトしたくて、浮浪者の仲間入りする者もいるということですから、そういう連中は施設に入れられるのを嫌がるんでしょう。その気持、わかりますよ」
「カメさんにもわかるかね?」
十津川は微笑して亀井を見た。
「わかりますよ。毎日、仕事に追われる。家内がヒステリックになることがある。子供たちの進学のこともある。親戚や近所とのつき合いもある。ある日、失踪してしまって名前を変えて、というより名前を無くして浮浪者の仲間に入れば、どんなに気楽だろうかと思うことがありますね。もちろん私はやりはしませんが、日頃、くそまじめな人間ほど、そういうことを考えるんじゃないですかね。だから浮浪者の中には、大学を出た大会社の部長さんもいるということを聞いたことがありますね」
「菅原正もそうだったのかな」
と十津川がいった。
「菅原正は浮浪者の仲間入りしてからも、故郷のこと、家のことが心配で、いつも上野駅に来ていたんだと思います」
「望郷の念というやつだろうね」
「それは間違いないと思います。菅原が中央改札口のところで、じっと急行『津軽』が出発するのを見ていたという証言がありますからね」
「もう一つは、浮浪者の菅原が何回か置引きというより、酔った人間から現金を強奪していたのは、家に金を送りたかったからだとわかるが、問題はそれで有罪になって、刑務所に入ったことだね。出て来てから、突然普通の服装になって青森へ行き、殺されてしまった。五年間も浮浪者を続けていた男が、突然浮浪者から足を洗ってしまったのはなぜだろう?」
「私もそこが不思議なんです。刑務所に入っている間に、じっと考えたのかも知れませんね。もう一度出直してみようとです」
「それは考えられるね。浮浪者にも仲間がいて、お互に相手の傷口をなめ合うようなところがあったのかも知れない。それでなぐさめ合うので、かえって立ち直る決心がつかずにいたことも考えられる。刑務所に入って自分を見つめ直して、もう一度やり直してみようと思ったのかも知れないね」
「問題は、誰がそれを助けたかですね。服を買うにも、青森へ行くにも、金が必要だった筈です」
「林レストランの社長か」
「そう思いますが、今のところ彼は否定していますからね。彼が世話したという証拠はありません。あの男は自分が秋田県の出稼ぎの人たちを食事に招待したり、金を貸したりしたことを、別に隠してはいません」
「だから、二つ考えられるわけだよ。もし林が菅原正に対して力を貸しているのなら、別に隠しはしないだろうという考えと、隠しているのは何かやましいところがあるからではないかという考えとだ」
「もう一度林に会う必要がありそうですね」
「同感だ」
と十津川も肯いた。
3
二人はもう一度林レストランを訪ねた。
「よかったですよ。来週はちょうど外国へ行って来ようかと思っていたところですから」
と林は十津川たちを迎えて、そんなことをいった。
「どちらへ行かれるんですか?」
十津川が聞いた。
「今度は東南アジアを廻って来ようと思っています」
「それはバカンスですか?」
「いや、仕事です。うちでも、料理のバラエティを豊富にしたいので、今度は向うの料理を見て来ようかと思っているんです。支店を出す計画もあるので、そこには向うから優秀なコックを呼んで来て、フィリピン料理とか、インドネシア料理を出したいとも思っているんですよ。出来ればウェイトレスなんかも、向うの女性を使えば雰囲気が出るんじゃないかと思いましてね」
「よく旅行されるんですか?」
「時々しますよ。最近はレストランのおやじだって、世界の知識を吸収しないとやっていけませんからね」
林は笑った。
「菅原正という男をご存知ですか?」
十津川が相手を現実の問題に引き戻した。
「いや、知りませんね。どういう人物ですか?」
「青森県の弘前から、出稼ぎに来ていた男です」
「また出稼ぎですか。この時期になると、私は自分が上京した頃のことを思い出しますよ」
「その菅原正ですが、一時上野駅で浮浪者になっていましてね。その時に酔っ払いから金を奪って、刑務所に入ったのです」
「可哀相に」
「出所してから彼は突然、それまでの浮浪者生活から足を洗い、服装もきちんとして故郷の青森へ行ったんですが、そこで殺されました」
「立ち直った人を、誰が殺したりするんですかね」
「それでわれわれは、彼が立ち直るのに手助けをした人を探しているんです。ひょっとすると、それが林さんだったんじゃないかと思ったんですがね」
「いや、私じゃありません」
「しかし林さんはこれまでにも、出稼ぎの人たちに援助の手を差しのべておられますのでね。この菅原正さんも浮浪者の前は出稼ぎだったわけです。林さんがそれを知っていて、手助けされたんじゃないかと思いましてね」
「いや。私とは違いますね。その人の身寄りじゃないんですか?」
「彼はずっと杉本正という偽名で押し通していましたからね。刑務所でも本名はいわず、身寄りはないといっていたそうです。家族に迷惑をかけたくなかったからでしょう」
「それでは刑務所の所長さんじゃないですか。世話好きの所長さんなら、立ち直る手助けをしてくれますからね」
「それも考えましたので、所長に聞いてみましたが、世話はしていないということでした」
「では、何とか自分自身で立ち直ったんじゃないですか?」
「それも違うと思うのですよ。出所してすぐ青森へ行っているんです。第一彼自身で立ち直ったのなら、車内で殺されることもなかったと思っているのですよ」
「そうですか。しかし私は関係ありませんよ」
と林はいい、すぐ続けて、
「赤木君子さんが殺された事件は、犯人が見つかりそうですか?」
「今、全力をあげて捜査しているところです」
「娘さんが一人残されたわけでしょう。娘さんのためにも、早く逮捕して下さい」
林は励ますようにいった。
「林さんはよく上野駅へ行かれるそうですね」
亀井がいった。
「ええ。上野駅が好きなんですよ。レールで自分の故郷とつながっていますからね」
「実は私も上野駅は好きなんですよ。理由は同じです。私は青森の人間ですから」
「言葉にまだ訛りがありますよ」
「林さんはほとんどありませんね」
「東京で働くことになって、必死で直しましたからね。今になってみると、あんなに一生懸命に直す必要はなかったのにと思いますがね」
「上野駅には今も浮浪者がいますが、彼等と話をしたことはありませんか?」
「なぜですか?」
「その中に菅原正もいたからです。あなたがたまたま浮浪者の菅原に話しかけて、弘前の生れと知った。同じ東北です。それで立ち直りたいのなら相談にのるといわれた。刑務所を出た時、菅原はその言葉を思い出してあなたを訪ねたのではないか。そう考えたものですからね」
「何回もいいますが、私は菅原正という男は知りません。人助けは好きですが、知らないものは知らないんです」
林は怒ったような声を出した。
「支店は、どこへ出されるんですか?」
十津川が話題を変えた。
林は気分を直した感じで、
「予定しているのは、上野です。それから、池袋にも出したいと思っています」
「すると、儲かっているわけですね?」
「いやいや、大して儲かっていませんよ。何とかやっているだけです。お客様のおかげですよ」
と林は謙遜《けんそん》していった。
4
二人は店を出た。
「何かおかしいですよ。菅原正との関係を否定しすぎますよ」
と歩きながら亀井がいった。
「そうだな。菅原正と結びつけて考えられるのを、怖がっているね」
「そこが不自然だと思うのです。菅原正は、博多で殺された男みたいに、覚醒剤とつながっているわけでもありません。ただの被害者です。それなのに、なぜあれほど必死になって否定するんですかね?」
「林の当日のアリバイは調べたんだろう?」
「調べました。アリバイはちゃんとしています」
「それなのに必死で否定するのは、カメさんのいう通り、何かあるのかも知れないな」
「ただ、関係があるという証拠はありません」
「君は上野周辺の不動産屋に、当ってみてくれないか」
「は?」
「林は上野と池袋に支店を出すつもりだといっている。もう土地の手当ては終っているかも知れない。それを調べて欲しいんだ」
「警部は?」
「私は税務署へ行って、林レストランの経営状況を調べてくる」
と十津川はいった。
十津川は亀井と別れると浅草税務署に行った。
法人係の係員に会って、林レストランのことを聞いてみた。
係員はキャビネットから書類を取り出して見ていたが、
「あの林はずっと赤字ですね」
「本当ですか?」
「赤字で申告しています。ここ四年間五百万から一千万ぐらいの赤字を出していますね」
「それは間違いないんですか?」
「去年、それまで四年間について監査しました。赤字の額は申告ほど大きくありませんでしたね。収支とんとんといったところが実情です。それで修正申告させて徴収しました」
「赤字はないが儲かりもしない?」
「そうです。あの社長自身は、人助けが趣味で、それで金を使ってしまうので儲からないといっていますがね」
「監査の時には彼の財産も調べたわけでしょう?」
「調べました」
「どのくらいありました?」
「あの店は、店も土地も妹さんのものです。しかしあの土地は、銀行の抵当に入っています」
「預金はどうでした?」
「普通預金が監査した時点で、一千二百万ほどありました。定期はゼロでしたね」
「すると財政状況は、あまりよくないということですね?」
「そうですね」
「その林さんが上野と池袋に支店を出すといっているんですが、どう思いますか?」
十津川が聞くと、係員は苦笑して、
「そうですねえ。金はないと思いますが、誰かから借金するんでしょうね」
「あの店の土地は抵当に入っているわけでしょう。もっと借りられますかね?」
「私が銀行なら貸しませんね」
と係員が笑った。
十津川が捜査本部に戻ってすぐ、亀井も帰って来た。
亀井は西本刑事と一緒に調べたといい、
「警部の考えられたことが、当っていました」
「やはり土地は手に入れていたのか?」
「上野の不忍池の前で、現在喫茶店がある土地です。六十坪ありますね。ただ、名義は林じゃありません」
「誰の名義なんだ? 奥さんとは離婚していたんじゃないのかね」
「そうです。寺本亜矢子という女の名前で買っています」
「よくそれが、林に関係があるとわかったね?」
「最初、ここ二、三年の間に表通りで売却された土地を調べてみたんです。十二件ありましたが、林名義のものはありませんでした。そこで西本刑事に手伝って貰って、片っ端から扱った不動産業者と元の持主に、林の写真を見せて廻ったんですよ。そうしたら、今いいました喫茶店の元の持主が、林が女性と一緒に見に来たといったわけです」
「なるほどね。いくらの物件だったんだ?」
「三億円で売買されています」
「三億円か」
「喫茶店は古いですし、取りこわすので、土地だけの値段だそうです」
「どうやって払ったんだ?」
「それが面白いことに現金で払ったそうですよ」
「ほう」
「売った人もびっくりしたといっています」
「寺本亜矢子というのは、どんな女性なのかね?」
「彼女のことは今、西本刑事と日下刑事の二人が調べています」
と亀井はいった。
十津川は亀井に税務署で聞いた話を知らせた。
「普通に考えれば、林は三億円の土地なんか、とうてい買えないんだよ」
「そうですか。ただ、税務署に買ったことを知られたら、また監査を受けることになるでしょうね。それで女の名義にしたんだと思いますが」
「三億円の現金の出所を知りたいね」
と十津川はいった。
5
午後八時近くになって、西本と日下の二人の刑事が帰って来た。
「寺本亜矢子のことを調べて来ました」
と西本はいい、一枚の写真を十津川に見せた。
三十歳ぐらいの彫りの深い顔立ちの女である。美人なのだが、どこか暗い影を感じさせる顔でもある。
「それが寺本亜矢子です。年齢は三十一歳です」
「何をやっている女性なんだ?」
「現在は浅草の国際通りで小さなスナックをやっています。二十歳の時に、準ミス・浅草になったことがあります。そのあと、テレビに二、三本出演しましたがうまくいかず、二十五歳で結婚しました。三年で離婚し、そのあとは水商売です」
「林との関係は?」
「店の人は、月に何回か林が来ていることを認めました。ただ寺本亜矢子自身は、ただのお客だと主張していますがね」
「土地を買ったことについては、どういってるんだ?」
「自分で買ったといっています。林には、ただ土地の良し悪しを見て貰っただけだといっています」
「ミンクの毛皮が似合いそうな女かね?」
「長身ですから、似合うと思いますよ」
「不忍池近くの土地を買ったときの売買契約書を見たいね」
「売った人にもう一度会って、契約書を見せて貰い、コピーをとって来ますよ」
西本は張り切っていい、すぐまた出かけて行った。
今度はすぐ戻って来た。
「やりましたよ。林が保証人になっています」
西本はそのコピーを見せた。
間違いなかった。寺本亜矢子の横に、保証人として林の名前が書いてあった。
少しずつ事件の謎の部分が解明されていくような気が、十津川はした。
林はどこかで犯罪に関係しているのではないか。それによって、いわゆるアングラマネーを手に入れている。
その金で林はひそかに不忍池近くの土地を買い、疑われないように名義をスナックのママ、寺本亜矢子にした。
菅原正は十一月十二日の急行「津軽」の車内で殺された。
菅原を車内で目撃した証人は、その時茶色いミンクのコートを着た女が菅原と話をしていたといっている。
この女は寺本亜矢子ではないのか。もし彼女なら、菅原正の事件と林が寺本亜矢子に関して結びつく可能性が出てくる。
「それ、正解だと思いますよ」
と亀井が眼を光らせて十津川にいった。
「すると菅原正に新しい服を着せ、青森までの旅費と小遣いを与えたのは、やはり林ということになるね」
「そうです」
「しかし、林がなぜそんなことをしたのかな?」
「まだわかりません。それに赤木喜一の保険証などを菅原正に持たせるのも、林ということになると思いますが、その理由もわかりません」
亀井は慎重ないい方をした。
十津川も一つのストーリーは頭の中で考えている。亀井も同様だろう。
しかし、林が事件に関係しているという証拠は、何一つないのである。
林が三億円の土地を買い、それを愛人と思われる女の名義にしたとしても、それだけでは逮捕できない。出来るのは税務署が監査して税金を徴収することだけだ。
夜半になって千葉県警から電話が入った。
船橋市内のスナックで客同士のケンカがあり、相手を殴って一カ月の重傷を負わせた男を逮捕したところ、新宿のラブ・ホテルで女を絞殺したことを自供したというのである。
「荒井史郎という四十歳の男です。どうも殺した相手というのが、例の赤木君子という女性と思われるので、こちらの事情聴取が終り次第、そちらへ連れて行きます」
といってくれた。
6
翌日の昼過ぎに、荒井史郎という男が連行されて来た。
小柄な男だったが、眼が暗く、険《けわ》しかった。
傷害の前科が二つあり、現在は無職だという。
荒井はすらすらと自供した。
ラブ・ホテルに泊り、駅で買った夕刊で三つぐらいの店に電話をかけたこと、優しい女がいいといったところ、赤木君子が来たことである。
「なぜ殺したんだ?」
と十津川は聞いた。
荒井は眉をひそめて、首を振った。
「おれにも、よくわからないんだ」
「わからなくて人間を一人殺したのか!」
一緒に訊問に当っていた亀井が怒鳴った。
荒井はまた首を振った。
「本当にわからないんだよ」
「殺してから、金を奪ったな?」
十津川が聞いた。
「ああ、財布から盗ったよ。たった一万円だけどな」
「たっただと!」
また亀井が怒鳴った。
「この刑事さんは、何をしゃかりきになってるんだ?」
荒井がじろりと亀井を見た。
「人を殺して平然としている奴を見れば、誰だって腹が立つだろうが。私だって腹が立ってるんだ!」
十津川も大きな声を出した。
荒井は怯《おび》えた表情になった。調室の中に刑事二人といて、ひょっとすると殺されるのではないかと思ったのかも知れない。
「本当はどうして殺したのか、わからないんだ」
「ラブ・ホテルで女と遊んだのは、初めてじゃないだろう?」
「ああ、何回も呼んだよ」
「その度に、相手を殺してたわけじゃないだろう?」
「今度が初めてだよ」
「それなら、理由がある筈だ」
「本当にわからないんだよ。ただ──」
「ただ、何だ?」
「終ってから、女と話をしたんだ」
「それで?」
「喋ってる中に、だんだん腹が立って来たんだ」
「どうして?」
「あの女は訛りが強くてさ。東北弁だったよ。それを聞いている中に、おれはだんだん馬鹿にされてるような気がして来たんだ。理屈じゃないんだ。だんだんいらいらして来たんだよ」
「そしてカッとして首を締めたのか?」
「気がついたら、殺してたんだよ」
「ちょっと待て」
と亀井が急に口を挟んで、
「きさまだって東北の訛りがあるじゃないか。どこの生れなんだ?」
「そんなことどうだっていいだろう」
「私は仙台に生れて、青森で育った。東北の人間だ。だから東北の人と話をすると、懐しく楽しくなってくる。人間というのはそういうものだろう。違うのか?」
「わからないんだ。おれは何だか馬鹿にされてるような気がしたんだ。その中にカッとして、気がついたら殺してたんだよ」
荒井は同じことをくり返した。本当にわからないらしかった。
十津川は一層悲しい気分になって来た。
こんなことで、人間が一人殺されてしまったのかという思いだった。
「彼女とはどんな話をしたんだ?」
亀井が気を静めて荒井に聞いた。
「どんなって、あの女は人を探してるっていってたな」
「それで?」
「あれもおれの癇《かん》に障ったんだ。いろいろおれに聞くんだ。東京に人を探してくれる人はいないだろうかとか、もしいるんなら、どのくらい払えばやってくれるのかとかだよ。なぜおれがそんなことに返事をしなければならないんだ。おれは楽しむために彼女を呼んだんだぜ」
「彼女は必死だったんだ」
「そんなこと、おれが知るわけがないだろう?」
「バカヤロウ!」
亀井は怒鳴ると、荒井を殴る代りに空いている椅子を蹴飛ばした。
椅子が宙に飛び、壁にぶつかって大きな音を出した。
「カメさん。上へ行ってろよ」
と十津川はいった。
亀井は黙って調室を出て行った。
荒井は肩をすくめて、
「何だい? あの刑事はヒステリイじゃないのか」
「黙っていろ」
十津川は険しい眼で荒井を見つめて、
「無駄口を叩くと、私も椅子を蹴飛ばすぞ。今度はおまえの腰かけている椅子だ」
「わかったよ。黙ってりゃいいんだろう」
「彼女はお前に人探しのことを話した。その他に彼女と何を話したんだ?」
「金が欲しいっていってたな。まあ、だからあんなことをしてたんだろうがね」
「他には?」
「何かいろいろ喋ってたが、おれの方は今もいったようにだんだんいらついて来たんだよ」
「勝手な男だな。殺すことはなかったろうに」
「もう殺しちまってるんだ。今更お説教されたって、しょうがねえよ」
荒井は面倒くさそうにいった。
何もかも面倒くさいという感じのいい方だった。
赤木君子は確かに、自分の気持を聞いて貰いたかったのだろう。だから客の荒井にも話したのだ。この男の言葉に東北訛りがあったので、聞いてくれると思ったのかも知れない。
だがこの男はそれを面倒くさがり、最後にはいらだって殺してしまったのだ。
「おれみたいな男は、死刑になった方がいいんだよ。覚悟してるよ」
と荒井がいった。
十津川は腹が立った。
「きいた風な口を利くな!」
と十津川は怒鳴りつけた。
7
赤木君子を殺した犯人が見つかった嬉しさよりも、彼女があんな男に、あんなことで殺されてしまったことに、十津川はぶぜんとしていた。
「娘さんに、犯人が捕ったことを知らせますか?」
亀井が聞いた。
「ああ、知らせてくれ。ただ、犯人についてくわしくいわない方がいいな。これ以上あの娘さんを傷つけることはないよ」
「わかっています」
亀井は肯いた。
十津川はもう一つの事件の捜査の方に、頭を切りかえることにした。
メインの事件はまだ壁にぶつかったままである。
失踪している赤木喜一と丸山茂男についての情報は、テレビ局が協力して調べているのだが、どれも本命ではなかった。
確かに似た顔の男にはぶつかったが、赤木喜一でも丸山茂男でもなかった。
林の捜査も途中で壁にぶつかってしまった。
土地のことや寺本亜矢子という女の存在は、林に対する疑惑を深めはしたが、それがすぐ菅原正の殺害や、赤木喜一たちの失踪に結びつくことにはなっていかないのである。
十津川は林の外国旅行について調べてみた。
林にパスポートを見せて貰えば簡単だったが、出入国管理事務所に調べて貰った。
それによれば、林はここ五年間に一カ月に一度の割合いで海外へ出ていた。
圧倒的に韓国や東南アジアが多かった。
時には月に二回も同じ国、例えばフィリピンに旅行したりしている。
十津川はそれを黒板に書き出した。
「驚きましたね」
と亀井は嘆声をあげた。
「林は嘘をついたよ。世界中を廻って、今度は来週東南アジアヘ行くといった。しかしこれを見ると、韓国、東南アジアが圧倒的に多いんだ。ヨーロッパは一度も行っていない。あのレストランはフランス料理がメインなのにね」
「なぜこんなに海外旅行しているんですかね?」
「林に聞けばきっと旅行が好きだというだろうね。一カ月に一度、海外旅行して悪いということはないからね」
「何か匂いますがね」
「しかし、林は税関で一度も捕っていないんだ。身体は大きいし、眼つきも悪いから税関で一番、チェックされ易いタイプだと思うんだがね」
「来週、林はまた東南アジアヘ行くといっていましたね」
「そうなんだ。向うの料理の研究に行くといっていたが、そんなことは嘘に決っている。インドネシア料理のコックを連れて来るとしても、それは何かのカムフラージュだよ」
「うちの誰かを東南アジアまで行かせて、林が向うで何をするか尾行させますか?」
「駄目だよ。林が怪しいという証拠があればいいが、今の段階では許可がおりないよ」
「残念ですね」
「私が新聞記者をやっている友人に頼んでみる。フィリピンにもインドネシアにも支局があるからね」
「林が来週、旅行する前に、彼が事件に関係している証拠をつかんでしまえばいいわけですね」
「その通りさ」
「私は木下勇次に会って来たいと思います」
「博多で殺された男が持っていた保険証の人間か」
「そうです。保険証や子供の作文などを落としたといっていますが、私には信じられません」
「嘘をついていると思うのかね?」
「急行『津軽』の車内で殺された男が出稼ぎに来ている赤木喜一の保険証を持っていた。これだけなら、赤木喜一が落としたものを偶然、拾って持っていたということも考えられます。しかし、次に博多で殺された男がまた出稼ぎの人間の保険証を持っていたとなると、これは偶然とは思えないんです」
「赤木喜一と木下勇次が、自分たちの保険証を殺された男に渡したということかい?」
「或いは、売ったかです。保険証は紛失ということで、再交付を申請できますからね」
「なるほどね。しかし、木下勇次が果して本当のことを喋ってくれるかね?」
「とにかく粘ってみます」
と亀井はいい、若い清水刑事を連れて出かけて行った。
すでに夜になっていた。
彼等が世田谷の建築現場に着いたと思われる頃、電話が入った。
「亀井です」
いつもの亀井らしくない狼狽《ろうばい》した声だった。
「何かあったのか? カメさん」
「木下勇次が消えました」
第五章 百万円の代償
1
「今日の昼休みに駅の方へ歩いて行くのを見たんですが、そのあと帰って来ないんですよ」
工事の責任者は亀井に向っていった。
「どこへ行ったか、わからないんですか?」
亀井は顔をしかめて聞いた。亀井は腹を立てていた。相手に対してではなく、木下勇次が姿を消すかも知れないことを考えなかった自分に対してである。
「全くわからないんです。今に帰って来るだろうと、ずっと待っているんですが」
「木下さんはどんな様子だったんですか?」
「先日、刑事さんが見えて、彼は保険証や家族の写真を落としたことについて質問されたでしょう。それから元気がなかったんですよ。心配そうにしていましたよ」
「誰かが訪ねて来たとか、木下さんに電話がかかったということはありませんか?」
「どちらもありませんね」
「じゃあ、木下さんの方から、どこかへ電話したということはありませんでしたか?」
「事務所から電話したことはありません。しかし、ここから百メートルも歩けば公衆電話ボックスがありますが」
「仲間の人を全部、呼んでくれませんか」
と亀井がいった。
集ってくれた男たちに向かって亀井は、
「木下さんがどこへ行ったのか、誰か知りませんか?」
と聞いた。
誰も返事をしなかった。
「先日私たち刑事が帰ったあと、木下さんは元気がなかったというんですが、そのことで何かいっていませんでしたか? どんなことでもいいんです。私たち刑事の悪口をいっていたでもいいし、他のことでも構いません」
亀井は男たちの顔を見廻した。
しばらく返事がなかった。もともと口数の少ない人たちだろうし、刑事が相手ではなおさら寡黙《かもく》になってしまうらしい。
それでも、一番年輩と見える男が遠慮がちに、
「おれはいつも木下さんの隣りに寝ているんだがね」
といった。
亀井は期待して次の言葉を待った。
「寝ている時、木下さんがこんなことをいったんだよ。おれ、怖いんだって」
「怖いといったんですか?」
「ああ、そうなんだ」
「何が怖かったんだろう?」
「おれも心配になって、それを聞いてみたよ」
「木下さんの返事は?」
「理由《わけ》はいえないっていった。それでもおれはいってみろ、何でも相談にのるって、木下さんにいったよ」
「それで?」
「それでも理由《わけ》はいわなかったね。誰かのことをひどく気にしているみたいだったね」
「それは人間のことですね?」
「そうおれは思ったよ」
「あなたはそれが誰か、見当がつきますか?」
「いや、わからないんだ。こうなってみると、聞いておけば良かったと思うんだ。きっとその人が木下さんの行先を知っているだろうからね」
「林という名前は、木下さんから聞きませんでしたか?」
「いや、聞いてないよ」
といった。
亀井は木下勇次の荷物を見せて貰うことにした。
プレハブの宿舎に全員が泊り込んでいた。貸布団が部屋の隅に積んである。
木下勇次個人の荷物は、ボストンバッグ一つと、大きな紙袋が二つだけだった。
彼だけが少いわけではなく、他の仲間も同じようなものしかなかった。
紙袋の中には、洗濯物とか石鹸や歯ぶらしが入っていた。週刊誌が入っているのは、木下が読んだのだろうか。
亀井はボストンバッグを開いてみた。
そこにも別に大したものは入っていなかった。
こけしが入っているのは、郷里を忘れないためだろうか。
家族から届いた手紙もある。
大学ノートが入っていたので広げてみると、毎日の支出が克明につけてあって、亀井を驚かせた。封筒十枚百円、せんべい二百円、切手六十円といった具合である。
印鑑と朱肉、ボールペンといったものもボストンバッグに入っていた。
亀井が最後に発見したのは現金書留の控えだった。何でも大事にとっておく性格と見えて、封筒にきちんと入っていた。
亀井が注目したのは、その控えの枚数が多かったことである。
六枚もあった。
木下がここへ来てから、給料は一回しか支払われていないから一枚の筈である。
それなのに六枚もある。
一枚はこの近くの郵便局の消印で、金額は十六万円になっていた。
日付は一昨日である。
責任者に聞くと、三日前に第一回の給料を支払ったというから、その翌日、郵便局から送ったのだろう。
しかし、あとの五枚は上野の郵便局になっていた。
一つの金額が二十万円だから、合計で百万円である。一つの封筒に入れられる金額が二十万円までだから、五通に分けたのだろう。
日付もかなり前である。
亀井と清水はその六枚の控えを持って上野署に戻った。
十津川もその中の五枚には、大きな興味を持った。
「この控えの日付けは、木下勇次が東京に着いた二日後になっています」
と亀井はいった。
「その日、仕事は休みだったのかね?」
「いや、夕方の五時までちゃんと働いています」
「それでは、そのあと上野の郵便局に行ったのでは、もう閉まってしまっているんじゃないのか?」
「そうです。面白いのはこの金額を書いた文字です。建設現場の近くの郵便局のものと、他の五枚とは明らかに筆跡が違います」
「十六万円の分は、木下本人が書いたものかね?」
「全員で三時の休みの際に郵便局へ行ったそうですから、本人が書いたものに間違いありません」
「すると他の五枚は誰かが木下勇次に代って送金したものか」
「そうなります。そして控えだけあとで証拠として、木下に渡したんだと思いますね」
「合計百万円か」
「木下は百万円で保険証や家族の写真、それに娘の作文を売ったんじゃありませんか」
と亀井がいった。
「買った人間はそれを何に使ったのだろう? 保険証は身元証明になるから欲しいという人間はいるかも知れないが、家族の写真や娘の作文はどうするのかな? 買った人間にとっては自分の家族でもないし、自分の娘の作文でもないわけだからね」
「そうですね」
「しかし、木下が保険証などを落としたのでないことは、これではっきりしたんじゃないかね。それ以外に彼が百万円もするものを持っていたとは思えないからね」
「金を払ったのは、やはり林だと思いますか?」
「今のところ、他に考えられないね。場所も上野の郵便局で浅草に近いしね」
と十津川はいった。
翌日、亀井は九時になるのを待ちかねて、消印の郵便局に出かけて行った。
亀井は郵便局の控えを一枚貰って来た。
「五枚とも同じなので、一枚だけ借りて来ました」
と亀井はそれを十津川に見せた。
差出人の名前は木下勇次になっていて、受取人は木下里子。これは恐らく妻の名前だろう。
「どんな人間が出しに来たのか、郵便局の人は覚えていたかね?」
「一度に五通、同じ相手に送ったので、窓口の職員がかなりはっきり覚えていてくれました」
「林かね?」
「違います。二十五、六の若い男だったといっています。面白いと思ったのは、その男は濃いサングラスをかけていたんですが、大変に身体が大きかったというのです。身長は楽に一八〇センチを越えていて、がっしりした身体つきだったそうです」
「そういえば、林も大きな身体だったね」
「昔、プロレスをやっていたのが、林の自慢です」
「するとその若い男も、彼のプロレス時代のつながりかも知れないね」
「それをこれから調べてみたいと思います」
と亀井はいった。
亀井はまた清水刑事を連れて、出かけて行った。
十津川は世田谷の建設現場に連絡して木下の家の電話番号を調べ、かけてみた。
妻の里子が電話に出た。
「これから東京へ行こうと思っています」
と里子は小さな声でいった。
「木下さんはそちらに帰っていないんですね?」
「帰っていませんわ。それで心配で仕方がないんです」
「連絡もありませんか?」
「はい」
「ちょっとお聞きしたいんですが、百万円がご主人から臨時に送金されて来ませんでしたか?」
と十津川は聞いた。
「はい。送って貰いました」
「何のお金か、ご主人はいっていましたか?」
「不安なので電話で聞いてみましたわ」
「ご主人は何といっていました?」
「心配のないお金だから、大丈夫だといってくれていましたけど。本当はどうだったんでしょう?」
「それはまたお話ししますが、やはり『津軽』で上京されるんですか?」
「その列車が一番便利ですから」
「ご主人から林という名前を、お聞きになったことはありませんか? 手紙に書いてあったというようなことはどうですか?」
「覚えていませんけど」
「そうですか。わかりました」
と十津川はいい、電話を切った。
これで木下が百万円を送金し、受け取った妻は何の金か心配していたことはわかったわけである。
亀井のいうように、木下は上京してすぐ何かを売ったに違いない。それは多分、保険証や家族写真などだろうが、問題はなぜそれが百万円もの金になったのかということである。
「ちょっと、上野駅に行ってくる」
十津川は近くにいた刑事にいって捜査本部を出た。
十一月も末近くなって、寒さがどんどん厳しくなってきている。
十津川は白い息を吐きながら、上野駅の構内に入って行った。
新幹線の地下駅が出来てから、上野駅も新しくなった。少くとも新幹線ホームに入り、その上のコンコースを歩くと全く別の駅の感じがする。
だが全く変らないところもあった。
地下道はいぜんとしてじめじめと薄暗い。
上野駅を利用する人たちの感じもあまり変っていない。ここでは東北弁が聞かれるのだ。
浮浪者も相変らずあちこちにいる。下町のこの駅がよほど住みつき易いのだろうか。「津軽」の車内で殺された菅原正は、この周辺で五年間浮浪者だったという。
ひょっとすると今も同じように出稼ぎで東京にやって来て、何かの理由で浮浪者になってしまった人間がここにいるかも知れない。
構内は暖かいし、何よりもここにいれば郷里からやって来る列車や郷里に行く列車を見ることが出来る。
そして、郷里から乗って来た人たちの姿を見られるのだ。
待合室をのぞくと、今日も浮浪者がベンチに横になって寝ていた。
五十歳ぐらいに見える男だが、本当はもっと若いのかも知れない。
のっそりと起き上ったので、十津川は声をかけてみた。
相手は十津川を見て何かぶつぶつ呟いているが、はっきり聞こえない。
「どこから来たのか、教えてくれないかな?」
と十津川はいった。
「どこ?」
「東北の人じゃないのかね?」
「東北?」
「うん。秋田の生れじゃないかと思ってね」
「秋田?」
こちらのいうことをただ繰り返している。その中にうるさそうに手を振って、待合室を出て行ってしまった。
十津川は公安室へ行ってみた。ここで浮浪者の実態調査をしていたからである。
十津川は公安室長に話を聞いた。
「実際の人数というのは、なかなか把握できません。増えたり減ったりしますからね。冬に向う今は増えているところです。上野公園などにいた浮浪者が、構内に移って来ますからね」
と室長はいった。
「上野駅ということで、東北から上京して来て、何かの理由で浮浪者の仲間に入ってしまった人もいるんじゃありませんか?」
「それはいますよ。半分くらいはそうじゃないですかね。東北弁だからすぐわかるんです。ただ彼等は、絶対に自分の本名も、どこの出身かもいいませんね。恥かしいということもあるだろうし、家族に迷惑をかけてはいけないと思うからでしょうね。それでいて上野駅にやってくるのは、ここにいると東北の匂いが嗅げるからだと思いますよ。特に十一月の出稼ぎの季節になると、どっと東北から人々がやって来ますからね。時々ね、浮浪者がそういった出稼ぎの一団が列車からおりてくるのを、じっと見ていることがあるんですよ。ああこの男も、何年か前、出稼ぎでやって来て、何かわけがあって故郷へ帰れなくなってしまったんじゃないかと思ったりしますね」
「出稼ぎに来て浮浪者の仲間に入ってしまうケースというのに、どんなのがあるんですかね?」
「さあ、どうですかね。借金をしてしまってどうしようもなくて、というのもあるでしょうね。私が知っているのではこんなのがありましたね。バーで酔ってケンカして、相手に怪我をさせてしまった。よくあることなんだがその男が出稼ぎの農家の人で律義すぎたのか小心すぎたのか、自分が捕ったら家族に迷惑がかかるというので、姿を消してしまったんですよ。何カ月かして、この上野駅の構内で浮浪者の中にいましてね」
「その人はどうなったんですか?」
「家族が探しに来て見つけて、連れて帰りました」
「それは良かった」
「しかしこういう幸運なのは少いですよ。何しろ浮浪者となった人たちは、家族や知人に見つからないように、見つからないようにとしていますし、家族の方でもまさか浮浪者になっているとは思ってもいませんからね」
「そうでしょうね」
「今日は例の菅原正のことで来られたんでしょう?」
と公安室長の方から先にいった。
「そうなんです。浮浪者の頃、誰と会っていたか、それが知りたいのですよ。それと出所後に接触した人間のこともです」
「出所後はここには現われませんでしたね。少くとも浮浪者の仲間には戻って来ませんでしたよ」
と公安室長がいう。
誰かが途中で菅原正を立ち直らせてしまったのだ。
もちろん何かの目的があってのことだろう。
2
その日の夜おそく、亀井は一人で戻って来たが、頭に包帯を巻いていた。
「おそくなって申しわけありません」
「どうしたんだ? カメさん」
十津川はびっくりして亀井を見た。
他の刑事たちも心配して、亀井の周囲に集って来た。
亀井は血のにじんだ包帯を触りながら、
「油断していてやられました。何しろ相手はプロレス崩れで、くそ力があったものですから」
「清水君はどうしたね?」
「可哀相に、肋骨を折られて入院です。命に別条はありませんが」
「それでやった奴は?」
「逮捕して、新宿署に留置しました。プロレスあがりの男が二人です」
「その中に上野の郵便局に行った奴がいるのか?」
「いや、いません。私と清水君は、林が昔NJPプロレスにいたことがあることを知って、まずNJPへ行ってみました」
亀井の説明によれば、次のような経過で災難にあったらしい。
亀井と清水は四谷にあるNJPプロレスの事務所を訪ねた。
ここでわかったことは、林が二十八歳の時、一時NJPに入っていたが、一年半でやめたということだった。
「やめたというより、やめさせられたといった方がいいようです。林は身体は大きいし、力はあったが、練習が嫌いで、その上酒ぐせが悪くて、よく問題を起こしていた。それでやめて貰ったと、NJPの社長はいっていました」
と亀井はいった。
「そのあとレストランをやって、成功したとすると、やめてよかったということになるね」
「それはレストランの成功の理由によりますが」
と亀井はいってから、
「林はレストランを始めてから、時々OB顔でNJPの事務所に顔を出していたようです」
「何のためだろう?」
「自分が昔プロレスをやっていたことが自慢だったんじゃありませんかね」
亀井は笑った。が、そのあとすぐ頭の傷にひびいたのか、顔をしかめた。
NJP側では林が来ても放っておいたらしい。別に練習の邪魔をするわけでもなかったからである。
その中に、林が合田というプロレス崩れの男とつき合っていることがわかって、NJPは門を閉ざしてしまった。
合田はNJPプロレスで、かなりのところまでいった男である。
「それが、人身事故を起こして、プロレス界を追われたんです。人を轢《ひ》き殺しただけでなく、酔って運転していましたからね。合田はそのあと、自棄《やけ》を起こして傷害事件を起こしたりしましたが、暴力団のS組に入ってしまったわけです」
「その合田と、林はつき合っているわけか?」
「そうなんです。それがわかったんで、NJPプロレスは林をシャットアウトしてしまったんです」
「そのあと、林はどうしたんだ?」
「プロレス志願の若者は多いんですが、殆《ほと》んどが激しい練習についていけなくなって、脱落するんだそうです。身体が大きくて、力のある若者がです。ちゃんとまともな職業につく者もいれば、腕力に頼って、暴力団に入ったりクラブなんかの用心棒になる者もいます」
「なるほどね」
「NJPで、新宿のクラブ『美貌』に、若いプロレスあがりの男が用心棒をしていると聞いたんです。ひょっとすると郵便局の男かも知れないと思いまして、清水君と廻ってみました」
「それで、やられたのか?」
「一人だと思って、油断したのがいけませんでした。クラブはプロレス崩れを、二人|傭《やと》っていたんです。一人を訊問していたら、突然もう一人に背後《うしろ》からやられました。油断でした」
「それで、その二人が郵便局の男じゃないとなると、肝心な男はどこにいるのかね?」
「その二人を逮捕して聞いたところ、どうも沼田信という二十五歳の男のように思えるのです。沼田もプロレスをやめて、一時用心棒めいた仕事をしていたんですが、その時、林と親しくしていたと、その二人はいっています」
「現在、どこにいるかわからないのかね?」
「わかりませんが、どこかで同じような仕事をしていると思われます。それから、林に小遣いを貰っているんじゃないかと思いますね」
「沼田信ね」
「どんな男か聞いてきました」
亀井は手帳を取り出すと、メモしてきたことを読んだ。
「身長一八五センチ。体重一〇九キロ。眼がぎょろッとして、特徴があるそうです。それをかくすために、いつもサングラスをかけているそうです。なかなかお洒落で、太い金のブレスレットをつけているということです」
「写真はないのか?」
「NJPで前座をやっていた頃の写真を手に入れましたが、現在は少し変っているようです」
亀井が差し出したのは、タイツ姿でポーズを取っている若いプロレスラーの写真だった。
「力はありそうだな」
と十津川はいった。
「若手の中でも、力はあったそうです」
「中年の男の首を締めて殺すのは、簡単だろうね」
「菅原正ですか」
「そうだ。十一月十三日に、急行『津軽』の車内で菅原正はロープで首を締めて殺されている。普通の男なら大人の、しかも男の首を締めて殺すというのは大変だろう。だが、この写真の男なら、簡単じゃないかね」
「と、思います」
「明日、この写真を上野郵便局の窓口に見せて、確認して貰おう。それから、十二日の『津軽』の車掌が、ひょっとするとこの男が乗っていたことを覚えているかも知れない。それと、あの日、『津軽』で東京にやって来た出稼ぎの人たちに、見て貰うか」
と十津川はいってから、
「ちょっと、出かけてくる」
「どこへ行かれるんですか?」
「清水の入院している病院だ」
3
沼田信の写真がコピーされ、刑事たちに配られた。プロレス時代の名前は「ストライカー・沼田」である。
まず、彼の写真を上野郵便局の窓口に見せた。
三十五、六歳の女性だったが、よく似ているという以上の証言は得られなかった。とにかく大きかったという印象が強すぎて、他のことはあまり覚えていないのである。
十一月十二日の「津軽」に乗っていた出稼ぎの人たちには、彼等が働いている現場に行って写真を見せた。
だが、彼等は沼田信を見ていなかった。
大きな男が乗っているのを見た覚えもないといった。
しかし、「津軽」の車掌は、大きな男が乗っているのを見た記憶があると証言してくれた。
「乗って来たのは、始発の青森です」
と車掌はいった。
「一人で乗って来たんですか?」
車掌に会った西本刑事が聞いた。
「一人だったと思いますね。とにかく他の乗客より、顔が上に出ていましたから、いやでも、ああ大きい人がいるなと思ったんです」
「この男ですか?」
西本は沼田信の写真を見せた。
車掌はじっと見ていたが、
「わかりませんね。正直にいいますとね。相手はサングラスをかけて怖そうだったので、すぐ視線を外してしまったんです。前にからまれたことがあったものですからね」
「乗る時に、その大男を見たわけですね?」
「ええ」
「その他の時に、彼を見た記憶はありませんか?」
「記憶がないんです。だから彼がどこでおりたか覚えていないんですよ」
車掌は申しわけなさそうにいった。
だが、大男が乗っていたことだけは確認できた。
ただ、それが沼田信だという確証はない。郵便局も同様である。
沼田信を見つけて訊問するのが、一番の早道ということになった。
沼田はなかなか見つからなかった。
刑事たちは沼田が行きそうな場所を探して歩いた。
その中に沼田は今、海外へ行っているのではないかという噂が聞こえてきた。
西本が沼田の女といわれるスナックのホステスを見つけ出したのだが、その女の証言である。
二十二歳の遠井はるえという女だった。
新宿歌舞伎町で二年ほどマントルで働いたあと、現在はスナック勤めをしている女である。
「一週間前に会った時、今度仕事で外国へ行って来るっていったわ」
はるえは西本の質問に答えて、そういったのである。
「仕事でといったんだね?」
と西本は聞いた。
「そうなの。だから海外でも用心棒をやるのってきいてみたわ」
はるえは笑った。
「彼は何といったんだね?」
「あの人警察に追われてるの? それで外国へ逃げたの?」
「いや、彼は参考人なんだ。それで彼は何と返事をしたんだね?」
「もっと大きな仕事だって、得意そうにいってたわ」
「くわしい内容は話さなかったのかね?」
「ええ」
「行先は?」
「あたしはアメリカだと思ったのよ」
「なぜ?」
「プロレスをやってた頃、アメリカで修行したっていってたから。でも、今度は東南アジアヘ行くんですってよ。大事な仕事でね。女遊びだろうと思うけど」
「東南アジアには、前にも行ったことがあるんだろうか?」
「それがあるんですって。ちょっと得意そうにいってたわ。向うに友だちもいるって」
「林という人のことを、彼から聞いたことはなかったかな? 浅草でレストランをしていて、昔プロレスをやっていたこともある人なんだがね」
西本が聞くと、はるえははっきりと、
「知ってる」
「沼田から聞いたの?」
「そう。よく面倒をみてくれる人がいるっていってね。一度浅草のそのレストランに連れて行ってくれたことがあったわ。地下鉄の田原町駅の近くでしょう?」
「そうだよ」
「林さんて五十歳ぐらいで、身体の大きな人でしょう?」
「そうだよ」
「それなら彼に連れて行って貰ったレストランのご主人だわ」
「彼とはどのくらい親しそうだったかね?」
「彼はその林さんのことを社長って呼んでたわ。別にあのレストランで働いているわけでもないのにね」
「林の方は?」
「彼を可愛がってたわ。あの時も二十万も小遣いをくれてたもの」
「じゃあ、沼田は林という人の用心棒みたいなものなのかな?」
「いつもは一緒にいないみたいだけど、何かあったら駈けつけるんじゃないかな。あの人には恩義があるっていってたもの」
「沼田の家はどこにあるか知っている?」
「中野のマンションよ」
はるえは西本の差し出した手帳に、そのマンションの名前と場所を書いてくれた。
「ずっと留守よ。海外へ行っているから」
「じゃあ、彼が帰って来た頃、会いに行ってみよう。いつ帰って来るといっていたね?」
「聞いたけど、教えてくれなかったの。自分でもわからないみたいだった」
「いつもの彼は、何をしているんだろう?」
西本が聞くと、はるえは小さく首を振って、
「いろいろやってるわ。クラブの用心棒をやったり、債権の取立てを手伝ったりしてね。お金が欲しいといってるくせに、定職につこうとしないのよ」
「海外へ出て行ってから、何か彼から連絡があったかね?」
「まだないわ」
「もし連絡があったら、どこにいていつ帰って来るのか聞いておいてくれないかね」
と西本は頼んだ。
4
沼田が果して東南アジアヘ行ったかどうか、十津川は成田空港で調べて貰った。
その結果、十一月二十日に日本航空でフィリピンのマニラに行ったことが確かめられた。
「沼田は先に行って、林が来るのを待っているんだと思いますね」
と西本は十津川にいった。
「なぜそう思うんだ?」
「遠井はるえに聞いた話ですが、沼田は彼女がいつ帰って来るのかを質問したとき、わからないと答えたというのです。正確な日はわからなくても、普通は一週間いて帰って来るとか、半月後には帰れるというものです。それをわからないといったのは、自分ではわからないという意味ではないかと思うのですよ」
「つまり後から行く林次第で、日程が変るというわけか?」
「そう思うんです」
「フィリピンというと密輸かな? その沼田という男や林が行く目的は」
「断定は出来ませんが、匂いますね」
と亀井がいった。
「先日もフィリピンから密輸されたピストルが百三十丁も発見されて、問題になりました」
日下刑事がいった。
大阪の貿易商二人がマニラから密輸して発見され、逮捕された事件である。
韓国だと覚醒剤が考えられる。
タイからならヘロインや大麻だろう。
「しかし、林がそうした密輸で逮捕されたこともないし、マークされたこともないんだ。林は毎年のように海外へ出ているが、税関で逮捕されたことはない」
「そうですね。林は刑務所へ入ったことがないんじゃありませんか。若い時傷害事件を起こしてはいますが、示談ですませてしまっています」
「問題はもう一つある」
と十津川がいった。
「出稼ぎの人たちのことですね」
「そうだ。われわれが林をマークしたのは、出稼ぎの人たちが行方不明になってしまっていることと、急行『津軽』の車内で菅原正が殺された事件と、関係があるかも知れないと思ったからだ。そのことと林が沼田と組んで何か密輸しているらしいということと、どうつながるのか、それが知りたいんだがね。もし失踪している赤木喜一や丸山茂男が、フィリピンやバンコクで見つかったら、林によって密輸の片棒を担がされていたとわかるが、彼等はパスポートを持っていないんだから、海外へ出られる筈がない」
「そうですね」
「それに林には沼田という手下がちゃんといるんだ。なにも素人の人たちを使う必要はないだろう」
「失踪した二人、いや木下勇次を入れると三人ですか。彼等の一人でも見つかると謎が解けるんでしょうがね」
亀井が口惜《くや》しそうにいった。
赤木と丸山はテレビで呼びかけたにも拘《かかわ》らず、いぜんとして名乗り出て来ていない。
身重の丸山幸子は今も親戚の家に泊って、夫の行方を探している。
彼女がいつ赤木君子のような悲劇に見舞われないとも限らないのだ。
「林の女は一緒に東南アジアヘ行くのだろうか?」
「調べてみますか?」
亀井が十津川を見た。
「林は容易に尻尾は出さないと思うね。沼田はフィリピンに行ってしまっている。となると、寺本亜矢子が一番の弱点かも知れないな」
「明日はもう一度、寺本亜矢子に会って来ます」
と亀井はいった。
翌日、亀井は西本を連れて寺本亜矢子に会いに出かけたが、その直後世田谷区駒沢の分譲マンションで死体が発見されたという知らせが飛び込んで来た。
しかもその死体はどうやら木下勇次らしいという。
十津川は日下刑事たちと一緒に現場に急行した。
駒沢公園の近くである。
十一階建のマンションが建てられたのだが、あまりに高価すぎて売れ行きが芳しくない。
最高が二億五千万円。最低の2DKでも五千万円では、景気の停滞している現在、なかなか売れないのも無理はなかった。全部で三十五部屋あるのだが、現在までに八部屋が売れただけである。
今朝、販売会社の社員が来て、部屋を一つずつ見ていったところ、三階の部屋のカギがこわれていた。
不審に思って中に入ってみると、奥の六畳の押入れに男の死体が放置されていたという。
間違いなく木下勇次だった。
十津川は彼に会った時のことを思い出した。
木下は保険証や家族の写真は落としたと十津川にいって、眼をそらしていた。
十津川は木下が嘘をついていると思った。
もともとこの男は嘘のつけない性格だったのである。そのせいで殺されてしまったのだろうか。
「首を締められているね」
と検死官が十津川にいった。
「犯人はかなり力のある人間ということかね?」
「だろうね。この仏さんはがっしりした体格だし、ごらんのように首だって太いんだ。ヤワな都会人じゃないね」
「秋田の農家の人だよ」
「そうだろうね。この太い猪首《いくび》を締めて殺したんだから、犯人は相当筋力のある人間だな。ロープを使ってやったんじゃなくて、手で締めたんだ」
「ここで殺したのかね?」
十津川はがらんとした室内を見廻した。
調度品の置かれていない部屋はひどくだだっ広く見える。
「わからないね。多分、この畳の和室で殺されたんだと思うがね」
「死んでからどのくらいたっているんだろう?」
「かなりたっているよ。二十四時間以上たっているだろうと思うね」
「正確な時間がわかったら教えてくれ」
と十津川はいった。
そのあと十津川は、部屋の電灯のスイッチを入れてみた。
明りがついた。
十津川は窓のところまで行き、外を見下した。
引越しのトラックがとまっているのが見えた。
やっと九部屋目が売れたのだろうか。
鑑識が写真を撮り、指紋の検出をしている間、十津川は死体の所持品を調べてみた。
財布も腕時計も失くなっていなかった。死体の身元を隠そうとした気配も見られない。
「また家族が泣くことになりますね」
若い日下刑事が十津川にいった。
「そうだな。木下勇次は百万円送っていたが、本人が殺されてしまったのではどうしようもないだろう」
「林が犯人ですか?」
「沼田は木下勇次が姿を消す前にフィリピンに行ってしまっているから、彼は犯人じゃない。林が自分で殺《や》った可能性が強いね」
「動機は口封じでしょうか?」
「林が犯人だとすれば、そうだろう。被害者と林との関係が知られるのを恐れてということだろうが、証拠が必要だ」
と十津川はいった。
一連の事件ということで、捜査本部は上野署に置かれたままで、十津川たちが捜査することになった。
十津川が上野署に戻ったあとで、亀井が西本と帰って来た。
「木下勇次が殺されたそうですね」
と亀井は自分の報告なんか忘れてしまった顔で十津川にいった。
「ああ残念ながら殺されてしまっていたよ」
「こうなると他の二人もすでに殺されているかも知れませんね」
「その可能性が強いんで参っているんだ。あの二人にも家族がいるからね」
と十津川は溜息をついてから、
「寺本亜矢子はどうだったね? 何か喋ったかね?」
「林との関係は認めましたよ。一緒に不動産も見に行っているし、林が保証人になっていますから、認めざるを得ないでしょう。しかし、不忍池の土地は自分が自分の金で買ったといっていますし、林はたまたま店のお客で、保証人になって貰ったのも、お客の中では一番信用がおけそうな気がしたからだといっていましたね。なかなかしたたかな女ですよ」
「十一月十二日のアリバイはどうだね?」
「十二日は彼女の店は臨時休業をしています。彼女は風邪をひいて寝ていたといっていますが、証拠はありません」
「アリバイはなしか」
「十二日どころか、今までに急行『津軽』に乗ったことはないともいっていましたね」
「沼田との関係は?」
「それも否定していますが、彼女の店の女は大きな男が二人でやって来たことがあるといっていました。それが林と沼田だろうと思うんですが」
「そのホステスに、沼田の写真を見せたのかね?」
「見せました。似ているといっています」
「状況証拠は林も寺本亜矢子もそれに沼田もクロだね」
「これで動機がはっきりすれば何とかなるんじゃありませんか」
亀井がいった時、十津川に面会人だという。
十津川が階下におりて行くと、菅原正の妹の佐代子が来ていた。
前に見た時はいかにも水商売の女という感じだったが、今日はすっかり変っていた。
地味な服装で、化粧もほとんどしていなかった。
「見違えましたよ」
と十津川は椅子をすすめてから彼女にいった。
「ひどい顔をしているでしょう?」
「いや、清潔な感じですよ。これからどうするんですか?」
「兄を殺した犯人は見つかりそうですか?」
佐代子が聞き返した。
「まだですが、間もなく逮捕することはお約束しますよ」
と十津川はいった。
「よろしくお願いします」
「今日はどうされるんですか?」
「兄が五年間過ごした東京を見て廻りますわ」
「そのあとは弘前に帰られるんでしょう?」
十津川が聞くと佐代子は首を小さく横に振った。
「帰っても仕方がないんです。水商売をやっていたので、今更畠仕事は出来ないし、兄のいない弘前にいてもつまりませんしね」
「結婚されたらどうですか?」
「それも気が進まないんです。だから、東京でしばらく生きてみようかと思っているんです」
「何をしてですか?」
「さあ、何をしたらいいのか、まだ決めていないんです。第一、何も出来ないし──」
「私は弘前に帰ることをすすめますがねえ」
十津川の脳裏を一瞬、赤木君子の顔がよぎった。もちろん佐代子が君子と同じだとは限らない。佐代子は彼女一人のことを考えればいいのだから、君子のように切羽つまってはいないだろう。
だが、出来れば弘前に帰って貰いたかった。
亀井がおりて来たので、佐代子を送って行かせた。
明日は殺された木下勇次の家族が上京して来るだろう。
(木下は生命保険をかけていたのだろうか?)
ふと十津川はそんなことを考えた。
十津川自身妻の直子と生命保険をかけ合っているが、保険そのものは好きではなかった。
だが今度の一連の事件に限っていえば、保険に入っていて欲しいと思う。
赤木喜一の場合、行方不明のまま死んでいるのかどうかわからないから、生命保険に入っていても当然支払いはない。金に困った赤木君子はあんなことになってしまった。
だから殺された木下勇次は、せめて生命保険に入っていてくれて、家族にそれが支給されて欲しいのだ。
5
その日の中に木下勇次の死体の解剖が終った。
死亡推定時刻は昨日の午後二時から三時までの一時間ということだった。
木下が姿を消したのが昨日の昼休みということだから、おそくとも三時間以内に殺されたことになる。
死因はもちろん絞殺である。
十津川にとって興味があったのは、殺人現場はあのマンションではなく、他で殺されて運ばれたと思われるという鑑識の報告だった。
当然、犯人がなぜそんな面倒なことをしたのかという疑問がわいた。
入居者がわずか八世帯でほとんどの部屋が空いているとはいっても、わざわざ運び込むには目撃される危険があったろう。
なぜその危険をおかしたのか?
理由はいくつか考えられる。
一つは、そのことによって犯人が得をするということである。
何か理由があって、止むを得ず死体を運び込んだということも考えられる。
だが、どちらも説得力がなかった。他で殺して運び込むだけの理由がどうしても考えられないし、そのことによって犯人が利益を得るとも思えなかったのである。
(わからないな)
と十津川は呟いた。
この空き部屋に押し込んでおけば永久に死体は見つからないというのなら、犯人が苦労して運び込んだ理由も納得がいく。
しかし、不動産会社の社員が一日置きに空き部屋を見て廻っているから、簡単に発見されてしまうだろう。少くとも四、五日すれば、異臭に気付く筈である。
それに、その部屋のドアの錠がこわされていたとなればなおさらである。
十津川は念のために、この高級マンションのことを徹底的に調べさせた。
どこかで林につながっていれば、彼の容疑が一層深くなると思ったからである。
残念ながらその線は出て来なかった。
しかし、他に面白いことがわかった。
マンションは今年の九月に完成したのだが、その工事の時、東北からの出稼ぎの人たちが働いていたというのである。
その中に木下勇次の名前があった。
「面白いね」
と十津川がいうと、調べてきた西本が、
「木下勇次の名前を見つけた時、おやっと思ったんですが、それがこの事件とどう関係してくるのか、わからないのです」
「犯人も、その工事に関係があった人間なのかも知れないよ」
と十津川はいった。
「それなら逆に、あのマンションを避けるんじゃないでしょうか? 犯人につながってしまいますからね」
西本が当然の疑問を口にした。
「確かに、そうだが」
十津川は考え込んだ。
多分、犯人はあのマンションの工事に、木下勇次が他の仲間と働いたことがあるのを知っていたのだ。
偶然とは思えない。
知っていてわざわざ死体を運んだことに、どんな意味があるのだろうか?
「わかりましたよ」
と亀井が急に眼を輝かせた。
「どんな理由だって? カメさん」
「犯人は、失敗したんだと思います」
「失敗というと、どういうことだね?」
「犯人は、どこかで木下勇次を絞殺しました。動機は口封じだと思いますね。博多で殺された男が、木下勇次の保険証や家族の写真を持っていた。木下が百万円で売ったか、貸したかでしょう。木下が一人で勝手に取引きしたとは、思えませんね。誰かが仲介したんです。その名前が木下の口から洩れるのを恐れて、口を封じたんだと思います」
「そこまでは同感だね」
「しかし、殺人となると、警察の捜査が厳しくなって、自分の周辺に迫ってくるかも知れない。その時、近くに木下が前に働いていた工事現場、今、マンションになっているところがあるのに気がついたんだと思いますね。そこで木下が首を吊っていたら、自殺と見なされるかも知れない。保険証なんかのことで悩んでいた木下勇次が、ふとあのマンションの前を通りかかり、ふいに自殺の衝動にかられ、空いている部屋に入って首を吊って死んだ。そういう形に見せたかったんじゃないかと思うのです」
「だが、そうしなかった?」
「そうです。あの部屋に、ロープを張る適当な場所がなかったのと、誰かが来たからじゃないかと思います。それで、あわてて死体を押入れに放り込んで逃げたのではないかと思うのです」
「理由は、後者だと私は思うね」
と十津川がいった。
「あの部屋は、鉄筋のマンションには珍しく、和室の部屋に欄間《らんま》が作ってあった。ロープを引っかけられるんだ。だから適当な場所がなかったからではなく、誰かが来たんだと思うね」
「管理人か、不動産会社の社員ですか?」
「いや、両方とも違うよ。管理人なら空いている部屋の錠がこわれているのを見て、不審に思い、中に入ってみる筈だ。不動産会社の社員も同じだ」
「とすると、誰ですか? あのマンションの住人ですか?」
「それまでにすでに入居している人間なら、あの部屋が空いているのを知っているだろうから、やはり不審に思って、管理人に連絡するね」
「残るのは誰ですか?」
「昨日、あのマンションの同じ階に新しく入居した人か、或いは新聞の勧誘員といった人間だろうね」
「すぐ調べてみます」
と亀井がいった。
十津川の推理が当っていた。
昨日の午後三時半ごろ、同じ三階の部屋に新しい入居者があったとわかった。
若い夫婦と三歳になる女の児の家族である。
この主婦はマンションの前に車がとまっているのを見ていた。
「白いベンツだったそうです。同じマンションの住人のものだと思い、さすがに高級マンションだなと思った、といっています」
「その車のことで、他に何かわからないかね?」
「旦那の方は、今、三台目の車として、ソアラに乗っているんですが、そのくらいなので車に興味があって、問題のベンツもよく見たといっていました。運転席に電話がついていたそうです。もう一つ、面白いアクセサリーを見たともいっています。それを絵に描いて貰って来ました」
亀井は、その絵を十津川に見せた。
なかなか上手《うま》い絵である。
「猫の絵だね」
と十津川はいった。
「そうなんです。座席に白いカバーがかかっていたんですが、それにこの猫の絵が描かれていたというんです。普通は、ベンツならベンツのマークの入った座席カバーがかぶせてあるらしいんですが」
「猫の絵ねえ」
十津川は戸惑いの色を見せた。
彼は犯人を林ではないかと思っていた。
林は確かベンツを持っていた筈である。だからそこまではぴったり合っているのだが、猫の絵の入った座席カバーなんかを使うだろうか?
「林は猫が好きだったかね?」
と十津川は亀井や他の刑事たちの顔を見た。
「私は林の車をのぞいてみたことがあります」
といったのは西本だった。
「その時、座席カバーも見たのかね?」
「猫が描いてあった記憶はありません。平凡な白いレースでした。例のベンツのマークが入ったやつです」
「じやあ、違うのか」
「しかし、私が見たのは一週間ほど前ですから、その後、変っているのかも知れません」
「あまり期待は持てないが見に行ってみるか。カメさん」
十津川は亀井に声をかけた。
二人は覆面パトカーで浅草に向った。
林のレストランは店を閉めるところだった。
店の横には白いベンツがとめてあった。
店を出て来た林が十津川と亀井を見つけて、
「やあ、今日はどんなご用ですか?」
と笑いながら声をかけて来た。
十津川は車から降りてベンツに近づいた。
「お帰りですか?」
「そうです」
「ベンツにお乗りですね」
「いろいろな車に乗りましたが、やはりベンツが一番いいですね。何よりも頑丈で、安全なのがいいですよ」
「ちょっと中を見せて貰っていいですか?」
「十津川さんも、ベンツをお買いになるんですか?」
「残念ながらまだ買えません。自動車電話をつけておられると聞いたので、見せて頂きたいのですよ」
「ああ。どうぞ。なかなか便利なものですよ」
林は運転席のドアを開けて、白い自動車電話を見せてくれた。
十津川はさりげなく座席カバーに眼を走らせた。
白いレースのカバーである。
だが背中のところには、ベンツのマーク代りに猫の絵がぬいつけてあった。
第六章 「津軽」で帰る
1
十津川は興奮を押さえながら、
「猫の絵ですね」
「ああ、それですか」
林は急に照れたような笑い方をした。
(そうか)
と十津川は思った。
林は実利的な人間だ。同じ秋田生れなので、秋田から出稼ぎに来ている人たちの世話をするというのは仮りの姿に過ぎない。
そんな林なら、ベンツのマークの入った座席カバーがふさわしい。
猫の絵は女性の感覚だろう。
(寺本亜矢子のプレゼントに違いない)
「若いきれいな女性からのプレゼントですね? 羨ましい」
と十津川はいった。
「私はあまりこういうのは好きじゃないんですが、私の誕生日に贈ってくれたので」
「失礼ですが、誕生日はいつですか?」
「三日前です。この年齢《とし》になると、誕生日もあまり嬉しくありません。もういいですか?」
「一つだけ質問していいですか?」
「どうぞ」
「昨日、木下勇次という男が、絞殺死体で発見されましてね。見つかったのは駒沢の高級マンションの一室なんです。売れ残った三階の部屋の押し入れからです」
「それはテレビのニュースで見ましたよ。秋田から出稼ぎの一人だというやつでしょう?」
「そうです。林さんは木下勇次という男を前からご存知でしたか?」
「いや、知りません」
「しかし、同じ秋田の人間ですから、林さんの世話になったことがあるのではないかと思ったんですがね」
「本当に知りませんね。全員をお世話は出来ませんよ。秋田県だけでも、出稼ぎに来る人は千人や二千人じゃありませんからね」
「なるほど、ところで、木下勇次が殺されていたマンションは、『駒沢レジデンス』というんです。駒沢公園から歩いて五、六分の近さにあります。ご存知ですか?」
「駒沢には行ったことがありません」
「じゃあ、そのマンションにもですか?」
「もちろん。もういいですか?」
「ええ、結構です」
と十津川はいった。
林はベンツに乗って走り去った。
亀井が眼を光らせて十津川を見た。
「すぐ逮捕しましょう。赤木喜一や丸山茂男の失踪、それに菅原正の殺しに林が関係しているという証拠は、まだつかめていませんが、少くとも木下勇次を殺したのは林です。彼の車がこのマンションの前にあったことは証明されているわけですから」
「わかってる」
「なぜ、すぐ逮捕しないんですか?」
「カメさん。私はね、赤木喜一と丸山茂男がもし生きているのなら、助け出したいんだ。赤木の娘や丸山のお腹の大きい奥さんのためにね」
「それならなおさら、林を逮捕して締めあげたら話すかも知れませんよ」
「いや、そうは思わないね。われわれが証拠を持っていないと思えば、徹底的に否定してくるさ。それに赤木喜一と丸山茂男がどこかに監禁されているとすれば、林を留置している間に、死亡してしまう危険がある」
「しかし木下勇次は殺されていますよ」
「木下の場合は監禁する余裕がなかったのかも知れない」
「どこかに二人が監禁されているとしてですが、どうやって探しますか?」
「カメさんなら、大の男を二人、どんなところへ監禁しておくね?」
「どこか人里離れた一軒家を、まず考えますね」
「私もそうするね。気になるのは来週になると、林は東南アジアヘ出かける。向うで沼田と落ち合うんだろうが、出発に先立って、赤木喜一と丸山茂男の二人を処分してしまう恐れがある。もちろん、あくまでも二人がまだ生きているとして話しているんだが」
「その心配は、私も持ちますね」
「今日から林が出発するまで、四六時中、彼を監視することにしよう。それと、寺本亜矢子もだ」
「わかりました」
「それから、林がどこかに別荘を持っていないか調べてみようじゃないか。もし持っていれば、そこが監禁場所だと思うね」
2
刑事が増員され、十津川は四人ずつで林と林の恋人の寺本亜矢子を監視することにした。
二人ずつのコンビで、交替で二人を監視するのである。
一方、十津川と亀井は、林が別荘を持っているかどうか調べてみた。
林が固定資産税をいくら払っているか、どことどこに不動産を持っているかを、十津川たちは税務署へ行って調べて貰った。
林は浅草の店と向島にある自宅マンションの二つについて税金を払っていたが、他には不動産は持っていなかった。
「別荘は持っていないようですね」
と亀井ががっかりした表情でいった。
「その後、買ったかもしれない。或いは不忍池の傍の土地と同じように別荘を買って、名義を寺本亜矢子にしたことだって考えられるよ」
「どうやって調べますか?」
「別荘を持っていれば、自慢したくもなるだろう。林レストランの従業員や、彼とつき合っている人間から聞き出せるかも知れない」
と十津川はいった。
まず林レストランが閉ったあと、従業員の一人一人を自宅に訪ねて質問してみた。
コックもウェイトレスもレジ係も、林から別荘の話を聞いたことがないといった。
「社長は外国によく行くし、向うの話も聞かせてくれますが、別荘の話はしたことがないし、別荘へ行ったという話も聞いたことがありませんね」
とコック長がいい、他の従業員も同じことをいった。
林とよくゴルフに行くという人間にも、十津川たちは会ってみた。
同じ浅草でパチンコ店を二店持っている、河原豊という四十二歳の男だった。
「別荘は持っていないと思いますね」
と河原は十津川にいった。
「なぜそう思うんですか?」
「私は那須に別荘を持っていて、夏の暑い盛りにはそこへ行くんです。林さんは夏になると、私の那須の別荘を羨しそうにしていましたね。去年も今年も彼の態度には変りはありません。今年の夏もやはり羨しそうにしていましたよ」
河原は笑った。
どうも林は別荘は持っていないらしいと、十津川は思うようになって来た。
しかし、それでは赤木喜一と丸山茂男は監禁されていないことになり、死亡をどうしても考えてしまう。
林と寺本亜矢子を監視し、尾行している刑事たちからも、これはという報告はなかった。
林が東南アジアヘ出発する前日になってしまった。
赤木喜一と丸山茂男はすでに最初から殺されて、どこかへ埋められているのだろうか?
それともどこかに監禁されているのだが、林が電話で監視役の人間に、消すように指示してしまったかも知れない。
十津川は林がひいきにしている理髪店の主人に会うことにした。
人間は理髪に行くと気がゆるむのか、よくお喋りになる。
春木というその理髪店のおやじも、話好きだった。
十津川は顔を当って貰いながら、林のことをあれこれ聞いてみた。
「林さんぐらいになれば、別荘の一つぐらい持っていても不思議はないと思うんだがねえ」
十津川がいうと、春木は剃刀《かみそり》をとめて、
「お客さんは林さんに別荘を売りつけようと思っているのかね?」
「買ってくれたらと思ってるんだがね。林さんはもうどこかに持ってるのかね? 別荘はまだ持っていないと聞いたんで、当っているんだが」
「林さんは別荘を持ってるよ」
春木はあっさりいった。
十津川は閉じていた眼を開け、下から春木を見あげた。
「本当かね? どこに持ってるのかな?」
「どこだったかな。確か長野県だったと思うがね」
「はっきりしたことは、わからないのかね?」
「ちょっと待ってくれよ、お客さん」
春木は急に奥へ消えると、古い週刊誌を一冊持って来た。
「林さんはこれを見ていて、急に買ってみようといい出したんだよ」
「見せてくれ」
十津川は椅子の上に起き上って、その雑誌のページをめくっていた。
〈あなたも別荘を持ちませんか? 三百万円で別荘が持てる方法教えます〉
そんな魅力的な見出しのページがあった。過疎地の村で、人々がいなくなり農家が空家になっているところが日本に何カ所もある。
その農家を買って、改造して住みませんかというのである。
日本各地のそうした農家の写真が、カラーで出ていた。
どれも山奥で、そこに常に住むには不便で仕方がないだろうが、山奥だけに自然には恵まれている。買っておいて、夏の間だけ家族で住むというのは楽しいだろう。
千坪の土地付きで一千万円というのもある。
庭を小川が流れていて魚も釣れるという家もある。
「林さんは、これを見ていて買ったのかね?」
「あとでどうしましたって聞いたら、長野の方の農家を一軒買ったといっていたよ」
「長野のね」
十津川は、そこに出ている家の場所を見ていった。
長野県は三軒あった。
問い合わせ先も書いてある。
「林さんが買ったといったのは、いつ頃かね?」
「今年の秋だから九月の末か、十月の頃だね」
と春木はいった。
3
林にはこのことを話さないようにと釘をさしてから、十津川と亀井は捜査本部に戻った。
十津川はすぐ、週刊誌にあった問い合わせ先に電話をしてみた。
相手が出た。
「警視庁の十津川です」
と最初からこちら側の名前をいってから、
「今年の秋に林という人が、あなたのところの記事で長野の物件を買ったと思うんだがね。浅草でレストランをやっている人だ。調べてみてくれないか」
「ちょっと待って下さい」
と女の声がいい、二、三分して、
「確かに長野の農家を、一千万円でお買いになりました。ナンバー9の物件です」
「間違いないね?」
「はい、何か問題が起きたんでしょうか?」
「いや。有難う」
十津川は礼をいって電話を切った。
「見つけたよ」
と十津川は亀井にいった。
十津川たちは若手の刑事二人を連れ、車で長野に向った。
途中で雨が降り出し、長野県に入った頃からそれがみぞれになった。
国道から脇道に入り、トンネルをいくつも通り抜けると過疎を絵に描いたような村が見えてきた。
周囲を山に囲まれた戸数十二、三の村である。
しかもその大半の家が、空家になっている。
真冬になれば積雪が二メートルにも三メートルにもなって、完全に孤立してしまうだろう。
問題の家はすぐ判った。
その家だけ改築されていたからである。
わらぶきの屋根はそのままだが、窓はアルミサッシに替っている。
ライトバンが一台庭に駐めてあった。
十津川たち四人はパトカーから降りてその農家の庭へ入って行った。
ふいに戸が開いて、大きな男が顔を出した。
「誰だ!」
と怒鳴った。
「警察だ、抵抗すると、射つぞ!」
亀井が拳銃を構えて怒鳴り返した。
男は手にした木刀を振りかぶろうとしてやめてしまった。
日下刑事が大男の手に手錠をかけた。
十津川と亀井はその横を通り抜けて家の中に入った。
いろりがあり、薪が燃えていた。
大きな部屋である。
その奥をのぞくと、うす暗いので最初はわからなかったが、眼がなれると時代劇に出てくるような、座敷牢がほとんどその部屋一杯に作られていた。
人間が二人入っている。
「赤木さんと丸山さんですか?」
と十津川は聞いた。
「そうです。赤木です」
「丸山だけどあんたは?」
と二人がいった。
亀井が錠をこわし、扉を開けた。
「警察だ。早く出なさい」
「本当に警察かね?」
「本当だよ」
亀井が警察手帳を見せてはいると、二人の男は嬉しそうに微笑し、座敷牢から出て来た。
十津川は二人をいろりの傍へ連れて行きお茶を飲ませた。
二人はうまそうにお茶を飲んだ。
「お二人には、聞きたいことが沢山あります。外でどんなことが起きているか、知っていましたか?」
と十津川が聞いた。
「何にも知りません。テレビも新聞も、見せてくれませんからね」
赤木がぼそぼそとした声でいった。
十津川はすぐには奥さんの死んだことはいえなくて、
「赤木さんの保険証を持った男が、上りの急行『津軽』の車内で何者かに殺されました。十一月十二日、青森発の『津軽』です。知っていましたか?」
「いや、知りませんよ。おれはその時にはもう、あの座敷牢に入れられていたからね」
「おれもだ」
と丸山もいった。
「犯人は林ですね? 浅草にある林レストランの社長の」
「そうです。あいつですよ」
赤木が答える。
「具体的に林がどうしたんですか?」
「初めは立派な親切な人だと思っていたんです。よくご馳走になっていたし、相談にものってくれていましたからね。事実お金を借りたこともあります。そんな時でも、さっさと貸してくれるんです」
「それがあなた方に貸しを作る事だったのかも知れませんね。それからどうなったんですか?」
「今度秋田から出稼ぎに来て、すぐ浅草の林さんのところへあいさつに行きました。前に来たときお世話になっていたので、そのお礼に行ったんです。林さんはニコニコ笑いながら迎えてくれましたよ。そのあとで急に、保険証と家族の写真、それから子供の作文でも持っていたら、それを貸して貰えないかというんです」
「貸せといったんですか?」
「ええ。四月に出稼ぎの仕事が終って、秋田に帰るまでの間、貸さないか、その代り百万円の礼を払うというんです。最初はいい話だと思いましたよ」
「百万円ならね」
「でも考えたら、怖くなってね。どう悪用されるかわからないですからね」
「それで断わったんですか?」
「そうです。そしたらこんなところへ連れて来られて、監禁されてしまったんです。その上、保険証も腕時計も、財布も取られてしまったんです」
「急行『津軽』で殺された菅原正が、それを全部身につけて殺されていたんで、最初はあなたが殺されたことになっていたんですよ」
「そうですか」
「娘さんの作文だけが、見当らなかったというんですが」
「それは必死になって隠したんですよ。はいている靴下の底に、小さくたたんでね。娘の作文を身につけていると、何だか助かるような気がしたもんだから」
「丸山さんも同じですか?」
「おれは林さんから、去年出稼ぎに来ていたとき、お金を借りていてね」
「それを返しに行った?」
「内証で借りていたから、今年東京に着くとすぐ浅草に返しに行ったんだ。そしたら保険証なんかを春まで貸さないかといわれた。礼は百万円出すっていうんだ。びっくりしたよ」
「そうでしょうね」
「仲間の中には、百万円貰って、保険証とか家族の写真とかを林さんに貸してる者もいるっていうんだ」
「その通りです。いましたよ」
「おれも、いい取引きだと思って、なぜそんなものがいるのか、聞いてみたんだ」
「説明してくれましたか?」
「いや、理由は聞くな、それから、百万円で保険証なんかを貸したことは誰にも喋るなっていわれたんだ。それで怖くなって断わったんだ。何に使われるかわからないからね。そしたらこうなったんだよ」
「保険証は取られたんですね?」
「持っていたものは全部だよ。家族の写真もね」
「林はそれを何に使う積りだったのか、わかりますか」
「わからないね。何も喋ってくれなかったからね」
丸山茂男は疲れた様子で首を振った。
十津川は二人に休んでくれといい、捕えた大男の方へ歩いて行った。
手錠をかけられた男は不貞くされてあぐらをかいて、天井を見ていた。
「どうだ?」
と十津川が声をかけると、西本が、
「何も喋りません」
「完全黙秘か。名前もいわずにかね?」
「そうです」
「ねえ、君」
と十津川は大男に声をかけた。
男はちらりと十津川を見たが、黙ったままだ。
「今度の事件は三件の殺人、それに誘拐、監禁などの罪がずらりと並ぶんだ。主犯は林だが、林はきっとこういうだろう。君たちが勝手にやったことで、おれは知らんとな。そうなれば君たちが実行犯で死刑はまぬがれない。それでもいいのなら、黙っていたらいいだろう」
「──」
「西本君。その線で調書を作ってくれ。この大男が誘拐、監禁の実行犯だという調書だ。急行『津軽』の車内での殺人、博多の殺人、それに東京での殺人も、それに付け加えておいてくれ。林は計画しただけになってしまうが、証拠がないから仕方がないだろう」
「わかりました。その線で調書を作ります」
「おい。待てよ」
大男はあわてた様子で、十津川に声をかけて来た。
「なんだ?」
「おれは殺しなんかやってない。監禁だって、社長に頼まれて仕方なくやったんだ」
「社長というのは、林だな?」
「ああ。そうだよ」
「何もかも喋るんなら、君の言葉を信じられるが、そうでなければ駄目だな」
「知ってることは全部話すよ」
「まず、林との関係から聞こうか」
「おれは身体が大きいから、プロレスラーになりたかったんだが、なれなくてさ。あの社長の世話になるようになったんだ。小遣いくれたり、飯を食わせてくれたりしたよ」
「沼田を知ってるか?」
「知ってる。あいつは頭がいいし、要領がいいから、社長のお気に入りでさ。よく外国へも旅行に行ってるよ」
「東北から出稼ぎに来た人たちから、百万円で保険証などを借りるというのは、どういうことなんだ?」
「おれもはっきりしたことは知らないんだ。社長は沼田にはなんでも話していたみたいだが、おれにはあまり教えてくれないんだ」
「君の知ってるだけでいい」
「おれの想像も入っているんだが、社長は沼田と東南アジアヘよく行くが、どうもピストルや覚醒剤の密輸をやって、儲けているんだと思う。浅草のあのレストランじゃあ、あんまり儲かりそうもないからね」
「やっぱりね。しかしそれと保険証がどう関係してくるんだ?」
「社長や沼田は自分で危険なものを運んだりはしない。現地の人間に金をやって、日本に送らせたり、向うの旅行者や船員に日本に持って来させるんだ」
「なるほどね」
十津川が肯いてみせると、男はさらに口が滑らかになったらしく、
「問題は日本で受け取る人間だよ。暴力団に頼んだら横取りされてしまう恐れがある。そうかといって、普通のサラリーマンなんかじゃ怖がって引き受けないさ。それに前科のある人間も警察にマークされるから、使えない。それで受取人を作ることにしたんだ」
「少しわかってきたよ。浮浪者だった菅原正もその一人だな?」
「あれは、おれがいろいろやってたからよく覚えてるよ」
大男はニッコリした。
「それで?」
「奴は前科があるが、もともと律義な東北の人間だ。それに、何でもするといった。とにかく金を家へ送りたいというんだ。だが、前科があるから、そのままじゃ使えない。それで名前を別人にするんだよ。それこそ前科のない律義で家族思いの東北の人間にさ」
「それで出稼ぎの人の保険証か」
「ああ」
「家族の写真や子供の作文は、どう使うんだ?」
「社長が自慢してたが、警官というのは地方の出身者が多いんだそうだ、捕ったとき泣き落しの小道具になるんだ。こんな家族へ少しでも沢山仕送りをしてやりたくて、つい誘われて密輸の手伝いをしてしまったとね。それに前科はないから必ず警官は同情してくれる。覚醒剤やピストルを持っているところを捕ったら、これはどうやったって駄目だが、不審訊問ぐらいには一番利き目があるっていってたね。だから社長は、保険証と家族の写真と子供の作文を、警官に疑われないための三種の神器だっていってたよ」
「呆れたものだ」
と十津川は苦笑してから、
「菅原正はなぜ青森へ行ったんだ?」
「奴は金のために社長の仕事を手伝うことを承知したんだ。それであそこにいる赤木の保険証や家族の写真を渡した。作文は見つからなかったがね。そしたら仕事の前に一度、故郷の弘前へ帰りたいっていいやがった。帰って気持の整理をつけたいとさ」
「しかし、行ったのは弘前ではなく青森だったんだろう?」
「家のある弘前へ帰ったら里心がついてしまう、と社長が心配して、東北本線を青森まで行って帰ってくるだけならいいといったんだ。それでも、用心して沼田がついて行ったみたいだ」
「女も一緒だった。それは林の女だろうな」
「そこまではおれは知らねえよ」
「菅原が殺されたのは知ってるね」
「ああ。知ってるよ」
「どう思った?」
「東北本線に乗らずに、奥羽本線のそれも『津軽』に乗ったから奴の気持がわかったと思ったね。望郷の念というやつだよ。こんなに気が弱くなったら、使いものにならない。だから殺されたんだと思ったね」
「博多で殺された男のことは、何か知らないかね?」
「知らないよ。それは社長がよく知ってる筈だよ」
4
十津川は東京の本多捜査一課長に電話で報告してから、林と寺本亜矢子を逮捕してくれるように頼んだ。
赤木喜一と丸山茂男の身体がかなり衰弱しているので、ゆっくり休ませてから帰京したかったからである。
それに赤木には、奥さんが死んだことを話さなければならないこともあった。
翌日、十津川たちはタクシーを呼び、それに赤木と丸山の二人を乗せて東京に帰った。
捜査本部には本多一課長が来ていた。
「あの二人は逮捕したよ」
と本多は十津川にいった。
「林は今日、マニラに飛ぶ筈だったんです」
「そうだね。そっちも大変だったね。しかし、赤木に丸山の二人は助かってよかったよ」
「そうなんですが、赤木喜一の方は、これからうまく立ち直れるかどうか心配です。奥さんがあんな死に方をしていますからね」
「そうだな。全部話したのか?」
「殺されたことだけは話しました。くわしいことはいいませんでしたが、察しはついたようです。いったん秋田へ帰るといっていますから、娘さんが彼を励ましてくれるといいと思うんですが」
「丸山茂男の方は問題ないだろう?」
「奥さんが東京に来ていると話すと、すぐ会いに行きました。ただ、彼の保険証や家族の写真が今どこにあるのか、心配ですが」
「それは林が知ってるだろう」
「訊問はもうしたんですか?」
「いや。君に委せるよ」
と本多はいった。
十津川は調室で林に会った。
「東北の人間が同じ東北の人を食い物にしたらいけないんじゃないかね」
十津川はまずそういった。
林は顔をしかめて、
「私はもう東北の人間じゃないよ。故郷はないんだ」
といった。それがどういう意味なのか、十津川にはわからなかった。
「だいたいのことはわかっているが、細かいことを聞きたいね。密輸を手助けさせるのに何人の人間を用意したんだ?」
と十津川は聞いた。
「十二、三人だな」
「その人間に全部君のいう三種の神器を持たせるのかね?」
「少くとも、保険証と家族の写真は持たせたよ。出稼ぎの連中はこの二つはたいてい持っているからね」
「君が声をかけた人は百万円で喜んでそれを渡したのか?」
「ああ。四月になれば返すんだ。ただ貸すだけで百万円になるんだ。あの二人みたいに飛びつかない方が変り者なのさ」
「博多で殺された男の本当の名前は何というんだ?」
「名前なんかどうだっていいんだ。おれがちゃんとした名前をつけてやるんだからね」
「どこで見つけたんだ?」
「上野公園で拾った。酷《ひど》い恰好をしていたよ。それをきれいにしてやって、名前までつけてやったんだ。本当の名前を聞いたことがあるが忘れてしまったね」
「殺したのは誰なんだ?」
「おれにもわからないね。多分、覚醒剤を密輸している暴力団関係者が、おれたちのルートを邪魔しようと思って刺したんだと思うよ」
「あの時、コインロッカーから見つかった覚醒剤は?」
「あれは、韓国の船員が持ち込んで、博多駅のコインロッカーに入れておく。それをあの男が東京まで持って来ることになっていたんだ」
「菅原正を拾いあげたのは君か?」
「それは出所した直後に菅原の方から電話して来たんだ。なんとか立ち直りたいから助けてくれといってね。それでおれなりに助けてやったんだ。それなのに肝心な時に奴はびくついたんだ」
「だから殺したのか?」
「あれは菅原の方が悪いんだ。死ぬ気で何でもやるといったくせにだよ。殺されて当然なんだ」
と林はうそぶいた。
「殺したのは沼田か?」
「そうだよ」
「一緒にいた女は寺本亜矢子だな?」
「彼女に監視して貰ったが殺してはいないよ」
「木下勇次を殺したのは君だな?」
「調べたんだろ?」
「ああ、君が犯人だという確信は持ってるさ」
「あれは仕方がなかったんだ」
「どう仕方がないんだ?」
「木下は平気でいればいいのに、博多の事件でぶるっちゃってあわてておれのところへ電話してきたんだ。どうしていいかわからないから、会ってくれというんだ。会ったらもう駄目なんだよ。完全に参ってしまっているんだ。それで口封じをするより仕方がないなと思ったのさ。だからあれは向うが悪いんだ」
「絞殺したあと、あのマンションに連れて行って自殺に見せかけようとしたね?」
十津川がいうと林はニヤッと笑って、
「それも知ってるのか?」
「ああ、調べたよ」
十津川は眉をひそめた。林がやたらににやにやするのにむかついていた。
「自分のやったことをどう思ってるんだ? 殺人、誘拐、監禁をやったことだよ。それに密輸に手を染めたこともだよ」
と十津川はいった。
林はまた笑った。
「おれは自分で人助けをしたと思っているよ」
「人助けだって?」
「そうさ。人助けだよ」
「どこが人助けなんだ?」
「おれは仕事のない人間に仕事をやった。ちょっと危険な仕事だがね。それに金が欲しくて、出稼ぎにやって来ている人間に百万円ものボーナスをやったんだ」
「ボーナスか」
「それも保険証と家族の写真、それに子供の作文を買うんじゃないんだ。彼等が故郷へ帰るまでの何カ月か借りるだけで、百万円も払うんだ。こんな気前のいい人間はいないんじゃないかね。おれは嘘はつかない。きちんと四月になればこの三つを返しているんだ。それに失敗するなんてことはめったにないんだ」
「だが、失敗したんだよ」
「あれはおれが失敗したわけじゃない。菅原正の件についていえば、彼自身の意気地のなさが悪いんだ。それに沼田も殺したあと保険証なんかを抜き取るのを忘れてしまった。力が強いくせに考える力のない奴なんだ」
林は肩をすくめた。
5
翌日、丸山茂男が妻の幸子と一緒に秋田に帰るというので、十津川と亀井は上野駅に送りに行った。
赤木喜一は昨日、すでに帰郷してしまっている。
夜の二二時三〇分発の夜行列車「津軽」である。
「あくまで『津軽』なんだね」
と十津川はいった。
「いつもこの列車で出稼ぎに来て、また帰郷するので、安心して乗れるんじゃありませんか」
亀井がいう。
幸子は前に会った時とは別人のように、明るい表情になっていた。
「これで安心して産《う》むことが出来ます」
と幸子はいった。
十津川は丸山に、
「あなたはどうするんですか?」
と聞いた。丸山は眼をしばたたいてから、
「すぐ、また東京に来ますよ。春まではどうしても、働かなきゃならないんでね」
「来る時はやはりこの列車ですか?」
「ええ、この列車に乗ると仲間が乗ってるから」
と丸山はいった。
時間が来て、座席急行「津軽」は発車した。
青い車体が十津川や亀井の前をゆっくりと流れて行き、やがて赤いテールランプを光らせて夜の中に消えていった。
「向うは、今年も豪雪だそうですよ」
亀井がぼそっとした声でいった。
単行本
昭和六十一年七月文藝春秋刊
座席急行「津軽」殺人事件
二〇〇二年九月二十日 第一版
著 者 西村京太郎
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
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