西村京太郎   寝台特急(ブルートレイン)殺人事件
目 次
第一章 下り〈はやぶさ〉
第二章 水死体(三月二十八日)
第三章 時刻表
第四章 運転停車
第五章 アリバイ
第六章 五時間の謎
第七章 逮捕令状
第八章 脅迫者
第九章 臨時停車
第十章 追 跡
(C)Kyotaro Nishimura
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第一章 下り〈はやぶさ〉
青木が、東京駅の十三番線ホームにあがって行くと、彼が乗る予定の寝台特急〈はやぶさ〉の青い車体は、すでにホームに入っていた。
十四両の列車を牽引するEF65形電気機関車は、まだ連結されていなかったが、客車の照明や、冷暖房のための電気を供給する電源車は、すでにディーゼル・エンジンの低い唸り声をあげている。
三月二十七日午後四時。
まだ、午後の陽差しが明るい。が、それでも、夜行列車での旅立ちというのは、新幹線のあわただしい出発とは、どこか違った感傷がある。
ライトブルーの丸みをおびた車体のせいだろうか。それとも、客車の一両一両に書かれている「寝台」という文字のせいだろうか。
青木は、先頭の1号車の方向へ歩いて行った。〈はやぶさ〉は、1号車だけが、個室寝台である。
(いるな)
青木が、自然に笑顔になったのは、ホームの前方に、カメラや録音機や、8ミリ撮影機を持った若者たちが群がっていたからである。大半が、小、中学生の、それも男の子たちだ。
最近、少年たちの間で、ブルートレインの愛称で呼ばれる夜行寝台列車の人気がすさまじいと聞いていたが、それを裏書きするような光景である。
めったやたらに、列車に向かってフラッシュをたいたり、8ミリを回している少年もいる。ブルートレインさえ撮っていれば満足だという顔付きだ。
慎重に三脚をすえ、〈はやぶさ〉の発車を待っている子供もいる。
なかには、数人の大人も混じっていた。
実をいえば、青木自身も、週刊誌の記者で、ブルートレインの取材に来たのである。編集長の命令は、〈はやぶさ〉で、終点の西鹿児島まで乗って行き、今、ブルートレインが人気のある秘密を探って来いというものだった。
個室寝台の切符は、五日前に、貰っていた。切符は一週間前に売り出されるが、最近、ブルートレインの人気が出てから、手に入れるのが難しいらしい。
「乏しいコネを使って、やっと手に入れたんだから、面白い記事を頼むよ」
と、編集長の宮下に念を押されていた。
青木は、ポケットから切符を取り出し、1号車の7号室と再確認してから、個室寝台車に入ってみた。
片側に幅一メートルほどのじゅうたんを敷いた細い通路が伸び、その通路に沿って、十四のコンパートメントが並んでいる。
入口のところに車掌室、通路の突き当たりにトイレが二つと、毛布などをしまってある物置、その向こうは、電源車、荷物車に通じるドアである。
青木のコンパートメントは、ちょうど、真ん中の7号室だった。ドアを開けて、中に入ってみる。
お世辞にも、広いとはいえない。が、必要最小限のものは、すべて揃っていた。
そのままベッドになる縦長の座席の上には、毛布、寝巻、それに、白いシーツにくるまれた枕が、きちんと重ねて置いてある。床には、車体と同じブルーのスリッパ。いやでも、夜行列車の気分になってくる。
窓は、一メートル四方ぐらいの真四角な形をしている。
窓際には、固定したテーブルがあり、蓋を開けると、洗面器が現われた。HとCのマークが、二つの蛇口についている。取材が目的で乗るのだから、Hのほうをひねってみた。ちゃんと熱いお湯が出た。
座席に腰を下ろしてみる。青木は、身長一七〇センチ、六十五キロ。日本人としては標準的な身体だから、横になっても、そう窮屈な感じはないが、足の長い今の若者たちには、少しばかり、狭いかもしれない。
反対側の壁には、大きな鏡がついていて、その下に、電気カミソリ用のAC一〇〇Vの端子がのぞいている。
室内灯、冷暖房などのスイッチは、ドアの近くに、横に並んでいた。一番端のボタンだけ、赤く塗ってあり、「警報」の文字が書いてある。何かあったとき、このボタンを押すと、車掌が駈けつけてくれるのだろうか。ふと、押してみたい誘惑にかられて、青木は、あわてて首を振った。
衣服をかけるフックは、左右の壁に一つずつあり、片方には、いかにも安物といった感じの、ぺしゃんこのエモン掛けがぶら下がっている。
青木は、コートをそれにかけ、カメラを持って、ドアを開けた。とたんに、背の高い男にぶつかりそうになった。
「失礼」
と、青木がいったが、相手は、黙って通路の端まで歩いて行き、1号室に入った。アタッシェケースを持ったエリートサラリーマン風の男である。
(無愛想な男だな)
と、青木は、軽く舌打ちをした。
入口近くの部屋も、客が入っていた。ドアが開いているので、のぞいてみると、二十四、五の若い男が、8ミリ撮影機にフィルムを入れているところだった。
ホームでは、カメラを持った子供たちが、先端に向かって走って行くのが見えた。何だろうと、ホームへおりてみると、この〈はやぶさ〉を牽引する電気機関車が連結されるところだった。その瞬間を写真に撮ろうというのだ。
鈍い音がして、EF65形電気機関車が接続された。
青木は、腕時計を見た。四時三十分。あと十五分で、下り〈はやぶさ〉は出発する。そろそろ、乗客が乗ってくるころだ。
ホームに、けたたましく、ベルが鳴った。反対側の十二番線から、佐世保・長崎行きのブルートレイン〈さくら〉が出発するのだ。
少年たちは、一斉に、出発する〈さくら〉を撮ろうと、反対側へ駈け出して行く。
青木は、そんな子供たちの姿を三枚ばかり写してから、自分の乗る列車に戻った。
通路に入ったところで、「おやッ」という顔になって立ち止まったのは、窓に寄りかかるようにして、ホームを眺めている若い女の横顔が、はッとするほど美しかったからだった。
薄茶のコートの襟を立て、じっとホームに眼をやっているその女は、昼間、銀座の雑踏の中で見たら、あるいは、どこにでもいる平凡な女に見えたかもしれない。
だが、夜行列車の中という特殊な雰囲気の中で見るせいか、女の横顔は、どこか寂しげで、同時に、ひどく新鮮に見えた。
青木は、カメラを構えて、シャッターを押した。
フラッシュの光を浴びて、女は、はッとした顔でこちらを見た。その大きな眼には、明らかに、当惑と非難の色が浮かんでいた。
青木は、如才なく、「ああ、ごめんなさい」と、頭をかきながら、女に話しかけた。
「あなたの姿が、あんまり詩的に見えたものだから、つい、シャッターを押しちまったんですよ。ああ、僕は、こういうもんです」
青木は、「週刊エポック」と雑誌名の入った名刺を差し出した。
女は、名刺を受け取ったものの、まだ、当惑の色を消していない。
青木のほうは、そんな相手の思惑は無視して、
「どこまでいらっしゃるんですか?」
「西鹿児島まで」
と、女は、短くいった。
「じゃあ、終点ですね。いや、夜行列車だから、終着駅といったほうがロマンチックだな。僕も、このブルートレインの取材で、西鹿児島まで行くんです」と、青木は、勝手に喋りまくった。
「あなたは、何号室にお乗りですか?」
「8号室ですけど」
「じゃあ、僕の隣りだ。あなたを、今度の記事の写真に使いたいんだけどな。いいでしょう。そうだ。今度は、あなたが窓から外を見ているところを、ホームのほうから撮らしてください」
青木は、相手の返事を待たずに、ホームに出て行った。「週刊エポック」は、若者向きの週刊誌としては、かなり名の通っているほうである。たいていの相手が、戸惑いながらも、記事のモデルになってくれる。
青木は、そんなふうに、たかをくくって、さっきの窓のところまで歩いて行ったが、女の姿は消えてしまっていた。
青木は、舌打ちをした。が、密閉式の窓だから、ホームから呼んでも、相手には聞こえそうもない。
仕方なしに、ホームの情景を何枚か写してから、列車に戻った。
通路では、さっきの8ミリの若者が、ホームに向かって、撮影機を回している。
女のいった8号室は、ドアが閉まり、小さな窓には内側からカーテンが引かれてしまっていた。
(愛想のない女だ)
と、思いながら、青木は、自分の部屋に入って、ドアを閉め、座席に寝転んだ。
やがて、出発のベルが鳴った。ぴいーッと汽笛がひびき、がくんと、大きくゆれてから、十四両編成の寝台特急下り〈はやぶさ〉は、ゆっくりと、東京駅を滑り出た。
取材ということを離れて、青木は、急に感傷的な気分になった。
(旅立ち)
という言葉が、青木の頭をよぎった。
今まで、取材といえば、新幹線か飛行機だった。どちらも、あわただしい出発で、旅立ちという気分になったことはない。
寝転んだまま、青木は、窓の外を流れていく東京の街を眺めていた。
三月末の午後五時は、まだ明るい。それが、次第に、夕闇に包まれていく。
発車してすぐ検札があった。
個室は、満席だと、車掌が教えてくれた。
青木は、煙草に火をつけ、ブルートレインのことを書いた新聞記事に眼を通した。
その記事によれば、国鉄の正式名称「寝台特別急行」が、ブルートレインと呼ばれるようになったのには、二つの説があるらしい。
一つは、車体の青い色からとったという説であり、もう一つは、フランスの有名な夜行列車「青列車」にならったという説だという。
後者のほうが面白いなと思っているうちに、最初の停車駅である横浜駅に着いた。
ここでも、ホームには、カメラや録音機を持った少年たちがいた。このぶんでは、どこの駅でも、少年たちが待ち構えていそうである。
真鶴あたりからだろうか。列車の行く手に、確実に夜のとばりがおりて、青白い月が、窓の端に浮かんだ。まん丸い月だった。
窓を見つめていると、闇の中を、黄色くにじむ家々の明かりが、後方に飛び去っていく。ふいに、赤い灯が現われる。多分、派出所か救急病院の灯だろう。
眼を閉じると、車輪が、レールの継ぎ目を拾う音が、リズミカルに聞こえてくる。
ときどき、周囲の空気を引き裂くように、汽笛がひびく。
のどが乾いたので、青木は、コンパートメントを出た。洗面器に出てくる水を飲んでもかまわないのだが、通路の端に、飲料水があったのを思い出したからである。
去年の暮れから今年にかけて、全国的に雨が少ない。
異常気象の声が聞かれるほど、雨が降らない。東京は、まだ取水制限の段階だが、特に雨の少ない東海地方では、各都市とも、軒並み時間給水に追い込まれていた。
やたらに、のどが乾くのは、空気が乾燥しているせいに違いない。
通路の突き当たり、トイレのある場所に、飲料水の飲み場がある。青木と同じように、のどが乾くのか、さっきの8ミリの青年が、紙コップで水を飲んでいた。
青木が、水を飲んでいる間に、列車は、二番目の停車駅である静岡に着いた。この町も、時間給水中のはずだった。
腕時計を見ると、七時十三分。定時に着いたということである。
帰りに、何となく、隣りのコンパートメントの女のことが気になって、8号室をのぞいてみた。
8号室は、ドアがわずかに開いていて、女の姿はなかった。
(食堂車へでも行ったらしい)
と、思い、青木も、夕食をとる気になり、食堂車へ歩いて行った。
2号車からあとは、B寝台と呼ばれる上下二段の寝台車ばかりで、通路とは、カーテンで仕切られている。
まだ七時を過ぎたばかりなので、寝ている乗客は、ほとんどなくて、ベッドの上でトランプに興じたり、折詰弁当を食べたり、漫画を読んだりしている。
列車が動き出した。ゆれる通路を、ばたばたと幼児が走り回る。個室寝台のほうが、他人にわずらわされないが、本当の旅の良さは、誰が道連れになるかわからないB寝台のほうにあるかもしれないと、青木は思ったりした。
食堂車は、中間の8号車だった。
ほぼ一杯になっていて、ドアを開けて中に入ると、ウエイトレスが、忙しげに歩き回りながら、「相席をお願いします」と、甲高い声でいった。
青木は、奥のテーブルにいるあの女を見つけ、そのテーブルに歩いて行った。
東京駅に停車中に見たときは、薄茶のコートの襟を立て、それに顔をうずめるようにしていたのだが、今は、あざやかなピンクのワンピース姿になっていた。
青木は、彼女の前に腰を下ろして、
「やあ」
と、気軽く声をかけた。
女は、食事を終えたところらしく、テザートのコーヒーを飲んでいた。
顔をあげて、青木を見たが、相変わらず迷惑げな眼つきをして、黙りこくっている。
(無愛想だな)
と、また思ったが、そう思いながら、青木は、眼の前にいる女の奇妙な魅力に、なにか魅かれるものを感じた。
かげりのある美しさといったらいいだろうか。
整った顔立ちだが、なぜか、薄幸な感じがする。男が、守ってやりたくなるような女だ。かげりの理由も知りたくなってくる。
青木は、メニューにあった関門定食とビールを注文してから、
「失礼だけど、何か、心配ごとがあるんじゃありませんか?」
と、女にきいた。
図星だったのか、コーヒーを口に運びかけていた女の手が、ふいに、宙で止まってしまった。
しかし、女は、カップを置くと、
「いいえ」
と、首を振った。
「それならいいんだけど、若くて美しい女性が、心配そうにしていると、何となく気になりましてね」
「心配なことなんか、何にもありません」
「そうですか」と、青木は、女に笑いかけた。
「よかったら、名前を教えてくれませんか。何をしに、西鹿児島に行かれるんですか?」
「………」
「OLか何かかな?」
「え?」
「あなたがですよ。とにかく、あなたの写真を、雑誌に使いたいんで、名前と住所を教えてくれませんか」
青木は、手帳を取り出して、女を見た。
女は、何かいいかけたが、急に、こわばった眼になってしまった。その眼が、青木の肩越しに、食堂車の入口のほうを見つめているのを知って、青木も、ひょいと振り返った。
三十七、八歳ぐらいの、ダブルの背広を着た男が、入口のところに立って、空いている席を探しているのが眼に入った。
「知り合いですか? あの人」
と、青木が、視線を戻してきいたが、女は、もう椅子から立ち上がっていた。
レジで勘定をすませ、食堂車を出て行く女は、入口のところで男とすれ違った。
男のほうは、何かいって笑いかけた。が、女は、そっぽを向いて、出て行ってしまった。
(妙な具合だな)
と、青木が思ったとき、注文しておいたビールと、料理が運ばれて来た。
関門定食という名前につられて頼んだのだが、何のことはない、幕内弁当である。値段は八百円。
青木が、苦笑しながら、ビールを口に運んでいると、
「失礼しますよ」
と、男が、前の席に腰を下ろした。
さっきのダブルの背広の男だった。
青木は、ウエイトレスに、ビーフシチューを注文している男の顔を、さりげなく観察した。
遠くから見たときは、三十七、八歳に見えたが、眼の前にすると、もっと若いかもしれないと思うようになった。
なかなかの美男子だが、薄い唇が、なんとなく冷酷な感じがする。
(あの女とは、どんな関係なんだろうか?)
それが気になって仕方がない。
男は、ケントの箱を取り出し、プラチナの指輪をした手で、一本抜きとって口にくわえた。
「失礼ですが、どこまでいらっしゃるんですか?」
と、男のほうから話しかけてきた。
「西鹿児島までです」
青木が答えると、男は、ニッコリ笑って、
「それはいい。私も、終点の西鹿児島まで行くんですよ。ご一緒できますね」
「しかし、僕は……」
「1号車の個室寝台にお乗りでしょう?」
「ええ。どうして?」
「1号車の通路で、お見かけしたような気がするからですよ。ブルートレインの愛好者というわけですか?」
「なぜです?」
「カメラを持って、食堂車へ来られているから、そう思ったんですよ」
男は、微笑し、青木がテーブルにのせておいたカメラを眼で示した。
「取材です」
青木は、名刺を差し出した。そうすれば、相手も名刺をくれるだろうと思ったからである。
「ほう。週刊エポックの方ですか」
と、男は、感心したようにいい、自分の内ポケットに手をやった。
「しまった。名刺入れを忘れて来てしまった。私は、弁護士をやっている高田というものです」
「弁護士さんですか」
「東京弁護士会に所属しています」
と、高田はいってから、
「さっき、ここにいた女性は、青木さんのお知り合いですか?」
と、突然、話題を変えてきた。
青木は、「え?」という眼で、高田を見た。
「なぜです?」
「ちらりと見ただけですが、彼女と親しそうにされていたんでね。同じ社の婦人記者か何かですか?」
「いや。全然、知らない女(ひと)ですよ。ブルートレインの記事を書くのに、若い女性の写真を入れたほうが面白いと思って、行く先なんかを聞いてみただけのことですよ」
「それで?」
「どうも僕は、魅力がないらしい。それより、あなたが、彼女の知り合いかと思いましたよ」
「私が?」
高田は、びっくりしたように、眼を大きくした。
「なぜ、そんなことを考えられたんですか?」
「彼女が、さっき、入口のほうを見て、はッとした顔をしたんです。僕もつられて振り向いてみたら、あなたが、入口のところにいた。だからですよ」
「は、ははは」
と、高田は、急に声を出して笑った。
「これは愉快だ」
「僕が、何かおかしいことをいいましたか?」
「いや。彼女は、1号車で、8号室に乗っています」
「それは知っています」
「私は、隣りの9号室でしてね。なかなかの美人なんで、声をかけてみたんですが、あなたと同様、私も魅力に欠けるらしくて、肘鉄を食いましたよ。同じ仲間かと思ったら、おかしくなってしまったんです」
高田は、「は、ははは」と、また、楽しそうに笑った。
青木のほうは、一緒に笑えなかった。何となく、高田という男が好きになれなかったからである。
食事を終えた青木は、「お先に、失礼」といって、立ち上がった。
1号車に戻り、8号室をのぞいてみたが、ドアも、カーテンも閉まっていた。
腕時計を見ると、まだ八時前だった。
自分のコンパートメントに入り、狭いテーブルの上に、手帳を広げた。列車は、いぜんとして、一定のリズムを刻みながら、夜の闇の中を走り続けている。
〈夜行列車には、妙に影のある女が乗っていることがある――〉
と、青木は、手帳に書いてみた。
まあ、悪くない書き出しだろうと思い、こんな感じの記事に、彼女の写真をつければ、編集長も、文句をいうまい。そこまで考えて、青木は、カメラを、食堂車に忘れて来たことに気がついた。
あわてて、食堂車に引き返した。
さっきよりは、すいていて、高田の姿も消えていた。
食事をしたテーブルを探してみたが、カメラは見つからない。青木は、蒼くなった。あのカメラは、会社のものだったからである。そのうえ、新品だから、買って返すとなると、十万円ぐらいの出費になってしまう。
「カメラはなかったですか?」
と、蒼い顔で、ウエイトレスにきくと、
「カメラなら、お預かりしています」
という返事が返ってきた。
とたんに、青木は、すうっと、緊張がとけていくのを覚えた。
ウエイトレスは、レジのうしろから、ブラックボディのニコンを取り出して、
「これですか?」
「ああ、これだ。助かった。ありがとう」
「あのテーブルで食事をなさったお客さまが、届けてくださったんです」
「紺のダブルの背広を着た……?」
「ええ」
あの男だ。何となく好きになれない男と思っていたのだが、意外に好人物なのかもしれない。
今度会ったら、礼をいわなければと思いながら、青木は、1号車に戻った。念のために、高田がいっていた9号室をのぞいてみたが、ドアが開いていて、彼の姿はなかった。
(トイレにでも行っているのか)
青木は、自分のコンパートメントに入り、さっきの続きを書こうと、ペンを取った。
カメラを食堂へ置き忘れたことも、それが届けられていたことも、エピソードとして、記事の中へ入れたら面白いかもしれない。
青木は、ペンを置き、戻ったカメラを手に持って、窓の外に流れる夜景に向かって、シャッターを切った。
(おやッ?)
と、思ったのは、巻上げレバーを動かしたときだった。
やけに軽いのだ。まるで、フィルムが入っていないみたいに、レバーが軽く動く。
巻戻しレバーのほうも空回りしてしまう。
窓ぶたを開けた。
入れたはずのフィルムが、消えてしまっていた。
今日、社を出る前に、三十六枚撮りのカラーフィルムを入れたのを、はっきりと覚えている。だから、誰かが、抜き取ったのだ。
(あいつだ!)
高田という弁護士に決まっている。まさか、カメラを預かった食堂車のウエイトレスが、乗客のカメラから、フィルムを抜き取るまい。
やはり、あの男しか考えられなかった。
だが、なぜ、あの男は、フィルムを抜き取るような真似をしたのだろうか? それがわからない。
青木は、仕方なしに、新しいフィルムを装填しながら考えた。
常識的に考えて、フィルムを抜き取る理由は、二つしかない。
青木が嫌いで、意地悪をしたかったか、フィルムに、あの男にとって都合の悪いものが写っていたかのどちらかだ。
青木は、何となく、あの男が虫が好かない。とすれば、向こうも、同じように思っているかもしれない。だから、意地悪をしたことも十分に考えられるのだ。
しかし、もし、あの男が、青木に意地悪をしたかったのなら、カメラそのものを持ち去るか、列車から投げ捨ててしまうだろう。そのほうが、誰が考えても、青木が困るとわかるからだ。
フィルムを抜き取るのも一つの方法には違いないが、カメラがあれば、フィルムは、また入れられるし、どのくらい青木が困るかわからないのではないか。
とすれば、あの男が、フィルムを抜き取ったのは、第二の理由しか考えられなくなってくる。
あの男にとって、好ましくないものが写っていると考え、抜き取ったのだ。
だが、青木は、あの男を撮った覚えがない。食堂車で、はじめて会った男だからだ。
(とすると、思い当たるのは、8号室の女だけだ)
と、青木は思った。
あの男、高田は、やたらに、彼女のことを気にしていた。このブルートレインで見て、いい女だと思って声をかけたのだといっていたが、あるいは、もっと前からの知り合いかもしれない。
だから、彼女を写したフィルムを盗み取ったのではないのか。
しかし、なぜ、そんなことをしたのかと考えると、わからなくなってしまう。
彼女は、終点の西鹿児島まで行くといっていた。この列車が、西鹿児島に着くのは、明日の午後二時四十二分。現在、七時五十二分だから、あと、十八時間以上ある。その間に、また、彼女の写真を撮れるだろう。つまり、あの男の行為は、無駄になるのだ。それなのに、なぜ、フィルムを抜き取ったのか。
疑問は、堂々めぐりをしてしまう。あの女のことも、高田のことも、よく知らないのだから、無理もなかった。
青木は、考えるのを止めた。とにかく、もう一度、あの女を写し、その写真を使いたいとだけ思った。
高田には腹が立つが、面と向かって問い詰めても、あの男は、知らないと主張するだろう。そうなると、彼がフィルムを抜き取ったという証拠はないのだ。
名古屋には、定刻の九時三十五分に到着した。
ひょっとして、彼女が、通路に出ていたらと思い、青木は、カメラを持って、部屋を出てみた。
彼女の姿はなかったし、8号室は、ドアが閉まっていて、カーテンもおりていた。
8ミリの若者が、ホームへおりて、撮影機を回していたが、列車が動き出すと、今度は、入口の傍らにある小さな窓を開け、そこから、遠ざかって行く名古屋駅の灯を撮っている。
特急の窓は開かないという先入観があったのだが、ブルートレインの場合は違うことを、青木は、初めて知った。
「窓が開くんだねえ」
と、青木が、感心したようにいうと、8ミリを回していた若者は、窓から首を引っ込め、いくらか得意そうに、
「ブルートレインの個室寝台の1号車のこの窓と、車掌室の窓は、開くんだ」
と、いった。
ただし、八十センチ四方ぐらいの四角い小さな窓である。下に引きおろして開けるようになっている。
吹き込んでくる風が冷たい。若者は、その小さな窓を閉めた。風がぴたりと止まる。
「よく、いろいろなことを知っているんだね」
青木が、賞めると、一八○センチ近くありそうな若者は、
「ブルートレインが好きで、いろいろと研究しているからね」
「学生?」
「いや。もう働いてるよ。会社に休暇を貰って、九州まで行ってくるんだ。帰りも、ブルートレインに乗るつもりさ。あんたは?」
「雑誌の仕事なんだ」
「ブルートレインの特集でもやるの?」
「まあね」
「じゃあ、大阪に着いたら、ホームへおりてみるといいよ。あそこは、四分停車だから」
「大阪着は、たしか午前〇時八分だろう。そんな時間に、何があるんだい?」
「名物になっているチビッコ三人組がいるんだ。中学生らしいんだけど、カメラを持って、ブルートレインを待ち構えている」
「午前〇時過ぎに?」
「ああ。だから、名物三人組なのさ」
と、若者は笑い、自分の部屋である14号室に入ってしまった。
青木は、そのあとも、十分近く、通路に粘ってみたが、あの女が、出てくる気配はなかった。
仕方なしに、自分のコンパートメントに戻り、ボストンバッグから、東京駅で買ったウイスキーのポケットびんを取り出した。
旅行するとき、青木は、必ず、この小びんを買い、ちびりちびり飲みながら時間を過ごす。ちょうど、夜半近くなるころ、空になり、そして、うまく眠れるからだ。
二口ほど飲んで、びんを、テーブルの上に置いた。
車内放送があって、これからは、お休みの方もあると思いますので、明朝小郡駅に着くまで、放送を中止します、みなさま、お休みなさい、と車掌がいった。
これで、あの女は、一層、部屋から出なくなるだろうと思った。部屋に鍵をかけて眠ってしまったら、明朝まで、通路には出て来ないだろう。
岐阜  二二時〇二分
京都  二三時三四分
と、定刻どおりに着いた。
次は、大阪である。青木は、若者から聞いたチビッコのことを思い出し、大阪駅が近づくと、カメラを持って、通路へ出た。
通路側の窓は、車掌がシェードを下ろしてしまっていた。シェードの一つをあげて、青木は、近づいて来る大阪駅を見つめた。
あの若者も、8ミリを持って、出て来た。もう一人、10号室から、中年の寝巻姿の男が、ピッカリコニカを手にして通路へ出て来た。何かで、大阪駅のチビッコのことを聞いて、写真を撮りに出て来たらしい。
〈はやぶさ〉が、ホームに入って行くと、この時間では、乗る客もないとみえて、がらんとしていた。
だが、ホームの先端が近づくと、いた、いた。野球帽をかぶった中学生ぐらいの少年が三人、ストロボつきのカメラを持って、待ち構えている。
列車が停まる。青木が、彼らに向かってカメラを構えたとたん、逆に、少年の一人が、こちらに向かってシャッターを切った。フラッシュが閃き、青木は、一瞬眼をつむってしまった。
眼鏡をかけたその少年は、青木に向かって、ペコリと頭を下げてから、機関車を撮るつもりか、前のほうに駈けて行った。
青木は、苦笑しながら、ホームにおりた。
三人組の一人をつかまえてきくと、彼らは、このホームに朝まで粘って、次々に入ってくるブルートレインを写すのだという。ブルートレインばかり、そんなに写してどうするのかときいたが、笑って答えない。スーパーカーブームのときには、何枚も撮って、友だちに売りつけた子供がいたというから、この三人も、同じことをしているのかもしれない。
四分の停車時間が過ぎて、青木が列車に戻ると、通路に出ていた高田が、
「どうです? いい写真が撮れましたか?」
と、話しかけてきた。まだ、寝巻に着かえず、ワイシャツにネクタイ姿だった。
列車が動き出した。
「まあ、何とか」
「あなたが、食堂車にカメラを置き忘れたんで、ウエイトレスに渡しておいたんだが、どうやら、無事に返ったようですね」
「おかげさまで」
と、一応は、礼をいったが、青木は、やはり、一言いわなければ、気持ちがおさまらなかった。
「不思議なことに、入れておいたはずのフィルムが、抜き取られていましてね」
青木は、じっと相手の顔色をうかがったが、高田は、「ほう」と、首をかしげただけだった。
「妙なことがあるものですね。あなたが、入れ忘れたということはないんですか?」
「社を出るとき、三十六枚撮りのフィルムを入れたのを、ちゃんと覚えていますよ」
「とすると、ますます、妙ですねえ。まさか、食堂車のウエイトレスが、抜き取るはずもないし……」
「あなたが、抜き取ったんじゃないんですか?」
「私が……?」
高田は、きき返してから、急に、声に出して笑い出し、
「こいつは愉快だ。私が、あなたのフィルムを抜き取ったって、仕方がないでしょう」
と、いい、笑いながら、9号室に消えてしまった。
青木は、むしゃくしゃした気分で、自分のコンパートメントに入ると、たて続けに、ウイスキーを口に運んだ。
二十四分後に、三ノ宮着。時刻表によれば、次は、三時三十五分の糸崎駅まで停車しない。
そう考えたせいか、それとも、リズミカルな振動のせいか、青木は、急に眠くなってきて、眼を閉じた。
尿意を覚えて、眼がさめた。
列車は、いぜんとして、夜の闇の中を、西に向かって、ひたすら走り続けている。
青木は、起き上がった。頭が痛いのは、二日酔いのせいだろうか。ここ二、三日、風邪気味だから、そのせいもあるかもしれない。
青木は、頭を小さく振りながら、通路に出ると、前端にあるトイレに歩いて行った。
通路を左に折れたところに、二つのトイレが並んでいる。放尿すると、少しは頭がすっきりしてきた。
通路に戻ると、ちょうど、8号室のドアが開いて、乗客が出て来るところだった。
(もう一度、話しかけて、写真を撮らせてもらおう)
と、青木は思い、声をかけかけて、その言葉を途中で呑み込んでしまった。
青木は、呆然とした。
8号室から出て来たのに、あの女とは違う女だったからである。
あの女は、二十二、三歳で、ピンクのワンピースを着、その上に、薄茶のコートを羽おっていた。かげりのある美しい顔をしていた。
ところが、今、通路に出て来たのは、和服姿の三十代に見える小柄な女なのだ。
青木のほうに歩いて来た女は、「ごめんなさい」と、あいさつして、彼の横を抜けて、トイレのほうへ消えて行った。
青木は、その後ろ姿を見送ってから、あわてて、女が出て来たドアの前に駈け寄ってみた。8号室と思ったが、別のコンパートメントから出て来たのかもしれないと考えたからである。
十四の個室(コンパートメント)は、満席になっていると車掌はいったが、青木は、そのうち、五人しか見ていない。あとの八人は、まだ顔を見ていないのだから、その中に、今の和服の女がいたのかもしれないのである。
しかし、和服の女が出て来たのは、やはり、8号室だった。
五、六センチ開いているドアの隙間から、中をのぞき込んでみたが、誰の姿もない。
車内でたまたま出会ったB寝台の友人が、個室に遊びに来ていたわけでもないのだ。
(おかしいな)
青木は、眉をひそめた。
あの魅力的な女は、どこへ消えてしまったのだろう?
通路に突っ立ったまま、青木が考え込んでいると、和服の女が戻って来た。
「ごめんなさい」
と、彼の前を通って、8号室に入ろうとするのを、青木は、反射的に、「ちょっと」と止めた。
「失礼だけど……」
「何でしょうか?」
女は、警戒する眼で、青木を見た。
「この8号室にお乗りですか?」
「ええ」
「確かここには、二十四、五の洋服を着た女性が乗っていたはずなんですがね。あなたは、東京からお乗りですか?」
「ええ。もちろん。西鹿児島まで行くんですけど、それがどうかしまして?」
女は、むッとした顔で、きき返した。
「しかし、この8号室には、別の人がいたんだが……」
「失礼なことをいわないでください」
女の声が、大きくなった。顔の表情も、こわばっている。
青木が、当惑して、黙ってしまったとき、車掌が、通路に入って来た。
「皆さん、もうお休みですから、静かにしてくださいませんか」
と、車掌が、やわらかい口調で注意した。
「でも、この人が、変なことをいうものだから」
女が、口をとがらせた。
「どんなことですか?」
「この8号室は、私が乗っていちゃいけないみたいにおっしゃるんです」
「なぜなんです?」
車掌が、青木にきいた。
「僕は、東京から乗ったんですが、この8号室には、背の高い、ピンクのワンピースを着た女性が乗っていたはずなんですよ。終点の西鹿児島までだといっていたし、食堂車でも一緒になった。写真も撮りましたよ。ところが、今、この人が8号室から出て来たんで、びっくりしているんです」
「私は、ちゃんと、東京駅から乗っています」
と、女は、きッとした顔でいった。
「それなら、切符もお持ちでしょうね」
車掌がいうと、女は、袂から切符を取り出した。
車掌は、それを手に取って見ていたが、
「ああ、間違いありませんね」
と、肯いてから、今度は、青木に向かって、
「あなたの勘違いじゃありませんか?」
「そんなはずはないんだ」
「しかし、この方は、ちゃんとこの8号室の切符をお持ちですし、検札のパンチも入っている。つまり、ずっと、この列車にお乗りになっていたわけですよ」
「じゃあ、この8号室にいた若い女性は、どこへ行ってしまったんです?」
「私にもわかりませんね。その女性というのは、本当にいたんですか?」
「もちろん。あなただって、覚えているんじゃありませんか?」
「いや。この列車を四人の車掌が担当していますから。つまり、一人で三両から四両を担当するわけです。一人一人の乗客の顔までは覚え切れません。現に、あなたの顔も、私は覚えておりませんから」
「そうだ。9号室の乗客が、彼女を見ている。弁護士で高田と名乗っていました。彼に聞けば、僕の話が本当だとわかりますよ」
「しかし、もう眠っておられるでしょう。朝になって、起きられてから、話を聞こうじゃありませんか」
「いや。今、起こして、確かめてください」
「なぜです?」
「心配だからです」
「何がです?」
「いいですか。僕は、8号室に別の女性がいたのを見ているんですよ。ところが、今、別の女性に変わってしまっている。ひょっとすると、彼女の命が危ないのかもしれないじゃありませんか。十分に考えられるじゃありませんか。だから、のんびり、朝までなんか待てないんですよ」
「しかし……」
「早くしてください。一人の人間が、この列車から消えてしまったんですよ。彼女が死んでいたら、どうするつもりです?」
青木の語調に押されたように、車掌は、9号室のドアをノックした。
「だれだい?」
という男の声が、中から聞こえた。
「乗務車掌ですが、ちょっとお聞きしたいことがありまして」
「やっと眠りかけたところなんだよ」
「申しわけありませんが、どうしても、至急、お聞きしたいことがありまして」
「しようがないなあ」
と、ぶつぶつ文句をいいながら、寝巻姿の男が、ドアを開けた。その瞬間、
「あッ」
と、青木が、小さな声をあげてしまった。
違う!
あの弁護士とは、全く違う男が、そこにいた。
頭の禿げた五十歳くらいの男だった。はだけた胸のあたりを、ぼりぼり掻きながら、
「いったい、何事なんだ?」
と、車掌や青木の顔を見た。
「実は……」
車掌がいいかけるのを、青木が、その袖口を引っ張って、
「違う」
と、いった。
「何が違うんです?」
「9号室に乗っていたのは、この人じゃない」
「その人は、何をいっているんだね?」
男が、不快そうに、青木を睨んで、車掌にきいた。
車掌は、当惑した顔で、
「どうも失礼しました」
と、男に詫びてから、青木を、通路の端のほうに引っ張って行った。
「いったい、どうなっているんですか?」
「それは、僕のほうが聞きたいね。今の男は、9号室にいた男じゃないんだ。違うんですよ」
「またですか」
車掌は、うんざりしたように肩をすくめた。
「あの9号室には、紺のダブルを着た、三十代のハンサムな男が乗っていたんです。高田という弁護士ですよ」
「あの人がですか?」
「だから、別人だといっているじゃありませんか」
「ねえ。お客さん」と、車掌は、疲れた顔でいった。
「もうお寝(やす)みになったらいかがですか。きっと、悪い夢をごらんになったんでしょう。それとも、全員を叩き起こしますか?」
「いや。もういい」
青木は、7号室に戻ると、ドアを閉め、座席に腰を下ろした。
煙草をくわえて、考え込んでしまった。
(いったい、どうなっているんだろう?)
あの女は、――いや、彼女だけではない、高田という男も、どこへ消えてしまったのだろうか?
列車が、速度を落とした。
駅が近づいたのだろう。
青木は、窓の外に眼をやった。
列車は、速度をゆるめたまま、人気のない深夜の駅を通過した。
「くらしき」
という駅名が読めた。
「倉敷か」
と、呟いてから、青木は、腕時計に眼をやった。
腕時計は、午前四時二分を指していた。
「もう四時か」
と、思った。
が、次の瞬間、青木は、あわてて、もう一度、腕時計を見ていた。
眼を何度もこする。何度見ても、腕時計の針は、四時過ぎを指している。
青木は、ボストンバッグから、時刻表を引きずり出した。
おかしいのだ。
〈はやぶさ〉の時刻表を、もう一度、調べてみる。
『糸崎』着が、午前三時三十五分。『倉敷』は、その十二手前の駅だ。
だから、今は、少なくとも、午前三時前でなければならないのだ。
それなのに、青木の腕時計は、どう見ても午前四時過ぎを指している。
一カ月前に買ったばかりの水晶時計で、一日に一秒と狂わない時計なのだ。それが、一時間以上も進んでしまうということがあるだろうか?
この列車が、事故で遅れたのだろうか。しかし、それなら、他の乗客が騒いでいるだろうし、さっき、車掌が説明してくれているはずだ。
(ということは……)
青木は、あることを考えて、時刻表に、もう一度、眼を通した。
東京から、山陽、九州方面へ向かう寝台特急は、次の七本である。
(1)さくら 16時30分東京発 長崎・佐世保行き
(2)はやぶさ 16時45分発 西鹿児島行き
(3)みずほ 17時発 熊本・長崎行き
(4)富 士 18時発 西鹿児島行き
(5)あさかぜ1号 18時25分発 博多行き
(6)あさかぜ3号 19時発 下関行き
(7)瀬 戸    19時25分発 宇野行き
このうち、西鹿児島行きは、〈はやぶさ〉と、〈富士〉の二本だけである。
しかも、この二本のブルートレインは、車両編成が全く同じなのだ。
客車の一両目が、個室寝台で、二両目からすべてB寝台車になっている。食堂車の位置まで同じだ。
(もし、この列車が、〈はやぶさ〉でなく、〈富士〉だったら?)
と、青木は考えた。
何もかも、ぴったり合うのだ。
〈はやぶさ〉より一時間十五分遅れて東京駅を発車した〈富士〉ならば、現在の時間が、午前四時過ぎで、ちょうどいい。
顔見知りの乗客が消えてしまっていても、不思議はないのだ。
(ウイスキーだ)
と、思った。
何者かが、ポケットびんのウイスキーに眠り薬を入れたに違いない。
それは、多分、大阪駅で、彼がホームにおりているときだろう。眠り込んでしまった青木を、何者かが、〈はやぶさ〉からおろし、一時間十五分後に来た〈富士〉に乗せたのだ。同じ1号車の7号室に。
青木は、ウイスキーのポケットびんを探した。
(ない!)
三分の二くらい飲んで、びんは、テーブルの上に置いておいたのに、それが消えてしまっていた。床や、棚の上も調べてみたが、どこにも、八百円のポケットびんはなかった。
もし、この列車が、東京で乗ったままの〈はやぶさ〉だったら、なぜ、あのポケットびんが消えてしまうだろう? あとになって、睡眠薬が検出されるのを恐れて、誰かが、捨て去ってしまったのに決まっている。
ふいに、ちくりと左腕に痛みを感じた。気がつくと、左腕の上膊部にポツンと赤い痣がある。注射の痕に見えた。
(酒に混入しただけでなく、睡眠薬を注射されたのだろうか?)
青木は、自分の推理の正しさを証明するために、通路へ飛び出した。
通路に、さっき9号室にいた禿頭の男が、煙草をくわえて立っていた。
「あんたも眠れんのかね?」と、その男が、青木にいった。
「わたしも、あんたや車掌に、寝入りばなを起こされたんで、眠れなくなっちまったよ。あんた、ウイスキーを持ってないかね?」
「ウイスキー?」
「飲むと眠れるかもしれないと思ってね」
「持っていません。ところで、今、何時ですか?」
「ええと」と、男は、腕時計に眼をやった。
「今、午前四時十六分だが、それがどうかしたのかね?」
(ぴったり合っている)
と、青木は思った。
「これは、西鹿児島行きでしたね?」
「ああ。わたしも、西鹿児島まで行くんだ」
「僕も、終点まで行くんですが、西鹿児島へは、午後二時四十二分に着くんでしたね?」
「いや、午後六時二十四分だよ。君のいってるのは、〈はやぶさ〉だろう。去年の暮れは、〈はやぶさ〉に乗ったんだが、確か、二時か三時に着いたからね」
「この列車は、下り〈富士〉でしたね?」
「そうだよ。大丈夫かね?」
男は、変な顔をして、青木を見た。
「やっぱり、〈富士〉でしたか」
「決まってるじゃないか。あんたは、何に乗ったつもりでいたのかね」
男は、また、じろじろと、青木を見ていたが、そのうちに、薄気味悪くなったのか、あわてて、9号室に入って、ドアを閉めてしまった。
自分の乗った列車の名前を覚えていない男を、薄気味悪く思うのは、当然かもしれない。
青木は、通路に一人、取り残された。
この列車が、〈はやぶさ〉ではなく、〈富士〉であることは、もう間違いないと思った。
誰が、何のために、注射までして、彼を眠らせ、〈はやぶさ〉から引きずりおろして、一時間半おくれている〈富士〉に乗せたのか。いくら考えてもわからなかった。
差し当たって困るのは、切符だった。青木が持っているのは、〈はやぶさ〉の切符である。何者かに眠らされて、〈富士〉に乗せられたと説明しても、車掌はわかってはくれまい。とにかく、切符のことを、どうかしなければならないし、青木は、車掌に説明して、何とか理解してもらいたかった。
夜が明けてからとも思ったが、朝になれば、他の乗客も起きてきて、ゆっくりと、話を聞いてもらえなくなる心配がある。
青木は、決心して、通路を車掌室のほうへ歩いて行った。
通路の端にあるドアを開けると、そこに、専務車掌の部屋がある。
車掌も、もう眠っているだろう。青木は、ためらいながら、「乗務員室」と書かれたドアをノックしようとした。
その瞬間、青木は、背後から忍び寄って来た人間によって、後頭部を激しく殴打された。
一瞬、眼の前が暗くなり、青木は、底なしの暗黒の中に、引きずり込まれて行った。
第二章 水死体
(三月二十八日)
多摩川の水が、ようやくぬるみ始めた。
冬の間、空しく岸に引き揚げられて甲羅干しをしていたボートも、きれいにペンキを塗りかえられ、客を待っている。
水温が高くなると、急に、魚の食いがよくなる。
川岸に住む六十八歳の新井老人は、午前十一時近くに、勇躍、釣りに出かけた。
新井は、五十五歳の停年までM工業で働き、その後も、嘱託の身分で勤めていたが、最近の不況で、とうとう、三十年以上つとめた会社を、完全に辞めることになってしまった。
年金も出るし、多少の貯えもある。三人の子供たちもそれぞれ一人立ちしてしまったので、妻の文子と二人だけの生活に困ることはないが、働くことが趣味のような人間だから、時間を持て余した。
それで始めたのが、釣りである。
何事にも凝るほうだから、新井は、釣りにも凝るようになった。もちろん、面白いから凝るようになったのだが。
幸い、多摩川は眼と鼻の先である。そこで、雨でも降らない限り、毎日、釣りに出かけた。
今日も、新井は、六郷鉄橋の下まで歩いて行き、岸辺の草むらに腰を下ろした。昨日、三十センチ近いマブナをあげた場所だった。
煙草をくわえてから、おもむろに、釣りの仕度に取りかかる。エサをつけて、五、六メートル先に投げ込んでから、ゆっくりと川面を見回した。
その視線が、川上の岸辺で止まったのは、そこに、薄茶色のコートが、ぷかぷか浮かんでいたからだった。
(誰かが、捨てたのかな?)
近ごろの人間は、もったいないことをするものだと、老人らしく舌打ちをしたとき、川の中央を、エンジンの音をひびかせて、モーター・ボートが走り過ぎて行った。
激しい勢いで、波が押し寄せてきた。新井は、あわてて、竿を引きあげた。
薄茶のコートも、波を受けて大きく揺れた。とたんに、新井は、「あッ」と、悲鳴に近い声をあげていた。
薄茶のコートと見えたのは、コートを着た若い女の死体だったからである。
パトカーが到着したとき、近くのゴルフ場でプレイしていた連中まで、現場に集まって来ていた。
蒲田署の刑事たちは、膝まで川に浸かりながら、浮かんでいる死体を、水の中から引き揚げ、乾いた地面に仰向けに横たえた。
「若いな」
と、刑事の一人が、重い口調で呟いた。
確かに、若い女だった。二十二、三歳ぐらいにしか見えない。死は、いつだって痛ましいものだが、その人間が若い場合には、なおさらその感が強くなる。
検死官が、慎重に遺体を調べた。
「溺死であることだけは間違いないようだがね。死亡推定時刻は、解剖してみなければ、はっきりしたことはわからないな」
と、検死官は、刑事たちにいった。
死体運搬車がやって来て、死体は、解剖のために、大学病院へ運ばれて行った。
そのあと、刑事たちは、身元を確認できるものはないかと、死体の浮かんでいた岸辺の周囲を、徹底的に調べていった。コートのポケットには、身元を確認できるようなものは、何一つ入っていなかったからである。
三十分ほどして、ハンドバッグが、水深五、六十センチのところに沈んでいるのが発見された。
死体のあったところから、二十メートルほど川上であった。
かなり使い古された感じのハンドバッグだった。果たして、死者のものかどうかも不明だったが、刑事たちは、慎重に中身を調べた。
化粧品や、コンパクト、ハンカチなどが入っていた。財布は、盗まれたのか見当たらない。
その代わりのように、一枚の名刺が、濡れて、ハンドバッグの内側に貼りついているのが発見された。
刑事の一人が、ゆっくり引きはがして、自分の掌の上にのせ、名刺に印刷されている文字を読んだ。
「週刊エポック」編集部 青木康二
名刺には、そう印刷されていた。
一方、大学病院に運ばれた死体は、すぐ解剖に回された。
外傷はなく、肺に、かなりの量の水が入っていることが確認された。明らかに溺死である。
しかし、念のために、肺の中にあった水の水質検査をしたところ、面白いことに、多摩川の水と、その成分比が違うことがわかった。
つまり、女は、別のところで溺死し、何者かによって多摩川へ運ばれ、投げ捨てられた可能性が強くなったのである。それは、他殺の可能性が強くなったということでもあった。
死亡推定時刻は、今日二十八日の午前二時から三時の間と、解剖を受け持った医師は、報告書に書いた。
殺人の疑いが濃厚になった。
蒲田署に捜査本部が設けられたのは午後一時ちょうどだった。
同じ日の午後一時十五分。
警視庁捜査一課の十津川省三警部は、本多一課長に呼ばれた。
頑健な身体をしているくせに、なぜか風邪に弱い十津川は、今日も、鼻をぐずぐずいわせていた。
廊下で立ち止まり、ハンカチで、洟をかんでから、十津川は、課長室のドアをノックした。
本多は、難しい顔で、十津川を迎えた。
「風邪の具合はどうかね?」
と、話しかけてきたが、そんなことで呼んだのでないことは、明らかだった。
「別にどうということはありません」
と、十津川は、笑ってから、
「何か難しい事件でも起きましたか?」
と、彼のほうから、本多にきいた。
本多は、すぐには核心に触れず、どう切り出したものかと、しばらくの間、考えている様子だった。
「多摩川で、若い女が溺死体で発見されたことは知っているだろう?」
と、本多は、静かな口調で、切り出した。
十津川は、椅子に腰を下ろしたまま、あごに手を当てて、
「蒲田署の事件でしょう。話は聞いています」
「まだ身元はわからないんだが、彼女のものと思われるハンドバッグの中から、名刺が出てきた」
「〃週刊エポック〃という週刊誌の記者の名刺でしょう。身元割り出しの手掛かりになるんじゃありませんか?」
「いや」
「手掛かりにならんのですか?」
「それは、まだわからないんだがね。実は、ハンドバッグの中には、もう一枚、名刺が入っていたんだ」
「その話は、全然、聞いていませんが」
「蒲田署に、箝口令が施かれているからだよ」
「それほど問題になる名刺ですか?」
「これがその名刺だ」
本多は、引出しを開け、一枚の名刺を取り出して、十津川の前に置いた。
濡れたのを乾かしたらしく、そり返り、全体に小さなしわが出来ている。
だが、十津川の眼が光ったのは、もちろん、そのことではなかった。
名刺にあった文字が、十津川を興奮させたのだ。
武田 信太郎
文京区本郷東一の一の一
肩書のないあっさりした名刺だった。が、武田信太郎という名前は、現在の運輸大臣と同じものだったからである。
もし、大臣と同名異人の名刺だったら、本多が、問題になる名刺だなどとはいわないだろう。めったなことで、人をかついだりはしない課長だった。
「大臣の名刺……ですか?」
「奥さんにこれを見せたところ、武田大臣のものに間違いないということだった。しかも、普通の名刺交換のときには、肩書つきのものを使うということでね。住所も、公邸のほうになっている。この肩書なしの名刺のほうは、大臣が、ごく親しい人とだけ交わしているということなんだ。ご覧のように、大臣の署名を、そのまま刷り込んだ形になっている。一枚一枚手書きのように見えるが、印刷だよ」
「今、大臣は海外でしたね?」
「そうだ。世界交通会議が、昨日からロンドンで開かれているので、随員と一緒に、出席している。帰途アメリカに寄るので、日本に帰ってくるのは、四月一日だ」
「ちょっと待ってください」
「何だね?」
「この名刺が、武田大臣のものだとしてもですね。それがなぜ、重大なことなのか、そこがわかりません。多摩川で浮かんでいた女と、武田さんが、関係があったという証拠にはならんでしょう? この名刺は、人手から人手に渡り、最後に、死んだ女に渡ったのかもしれませんし、昨日から、ロンドンで会議に出席しているとすれば、武田さんが犯人のはずもない。秘密にしておく必要は、ないんじゃないでしょうか?」
「それは、二つの点で間違っているよ。第一に、多摩川の仏が、大臣と無関係だという証拠は、どこにもない。調査の成行き次第で、妙な関係が出て来ないとも限らん。第二の理由は、もっと重大だ。二年前に、中央銀行の日本橋支店で起きた五億円詐取事件を覚えているかね?」
「あッ」
と、十津川が、声をあげたのは、二年前のその事件を、思い出したからだった。
捜査二課の事件だったから、詳しい内容は知らなかったが、新聞で報じられた程度のことは、知識として持っていた。
二年前の七月二十六日。総選挙が、目前に迫っていたころである。
そのころ、武田信太郎は、保守党の選対委員長だった。
この日の午後二時に、中央銀行・日本橋支店長の野上保之に、保守党幹事長の田島から電話がかかってきた。
選挙資金として、五億円を融資して欲しいという電話だった。担保は、市ヶ谷の保守党会館。田島は、さらに、この交渉は、官房副長官の武田君に委せるからよろしくといった。
野上は、武田と同郷で、何回か会ったことがあった。だから、幹事長の田島が、交渉役として、武田を指定したのだろうと考えた。
午後二時五十分。閉店間際の銀行に、武田の名刺を持った二人の男が、車で乗りつけた。
二人とも、三十代で、紺の背広を着た、いかにも、エリートサラリーマンという感じの男だった。
一人が、武田の秘書の松崎と名乗った。
野上が、その二人を信用したのは、武田信太郎の名刺のせいだった。その名刺は、野上も武田から貰ったことがあったものだし、名刺の裏には、
〈借用証 一金五億円也
保守党選対委員長 武田信太郎〉
と、ペン書きされ、印鑑が押してあった。
その筆跡も、武田のものに間違いないように思われたので、野上は、用意しておいた五億円の金を、二人に渡した。
五つのジュラルミンケースに入った五億円は、その名刺と引きかえに、二人の男が、車に積み込み、走り去った。
そのすべてが、ニセモノだったのだ。幹事長の声も、何者かの声色だったし、名刺の裏の文字も、印鑑も、巧妙に似せたものだった。
いや、武田信太郎の名刺だけは、本物だった。支店長の野上が、まんまと欺されたのも、そのせいだった。
野上は、責任をとって、中央銀行を辞めた。
警視庁捜査二課が、この事件を追及した。
二人の男のモンタージュ写真が作られ、名刺からは、犯人の一人の指紋が検出された。
武田信太郎の名刺は、一カ月前に、二百枚刷られていた。武田は、几帳面な男で、名刺を渡した相手をすべて手帳に書きとめていた。
手帳に書かれていた名前は七十九名。つまり、一カ月間に、七十九名の人間に、この名刺が配られていたことになる。
警察は、この七十九名の一人一人に当たっていった。
三週間で、七十九名全員に当たり終わった。その結果、七十七枚の名刺が回収された。あとの二人だけが、武田信太郎の名刺を失くしていた。
一人は、兼田製薬社長の兼田久志だった。兼田の邸は、六月末に半焼しており、武田の名刺は、そのときに、他の人たちの名刺と一緒に焼失してしまったものだった。それに、毎年、所得番付の上位に名を連ねる六十歳の兼田が、武田の名刺を利用して、五億円を詐取するはずがないと、警察は判断した。
問題は、もう一人のほうだった。
中井良久という青年は、武田と同じ鹿児島県の出身で、三十二歳の若さで、東京都内に十五店のチェーン方式のレストランを持っていた。
彼は、あるパーティで、官房副長官の武田信太郎に会い、同郷の青年実業家ということで、名刺を貰い、一週間後には、武田の自宅を訪ねて、色紙を書いてもらっていた。
中井は、どうして武田の名刺を失くしてしまったのかわからないと主張した。が、警察は、最近、彼のチェーン店の営業成績が悪化しており、六億円近い赤字を出していることを突き止めた。また、中井の顔は、モンタージュ写真の片方によく似ていた。野上支店長も、名刺を差し出したほうではなく、その男の傍らにいた男によく似ていると証言した。
中井は、逮捕され、訊問され、留置された。
ところが、わずかな隙を見て、隠し持っていたガラスの破片で手首を切り、血の海の中で自殺してしまった。
捜査本部の見方は二つに分かれた。中井はシロだったのではないかという見方と、犯人だったからこそ、追いつめられて自殺したのだという見方だった。
警察は、どうしても、後者の考えに傾いていった。
しかし、五億円の札束は発見されなかったし、もう一人の男も見つからず、二年が、正確にいえば、一年八カ月が、経過した。
その間に、総選挙があり、政府の多くの失政にもかかわらず、保守党が勝ち、内閣が二回改造され、武田信太郎は、現在、運輸大臣になっている。
「だから、この名刺が、どんなに重大な意味を持っているかわかるだろう」
本多捜査一課長は、まっすぐ、十津川を見た。
十津川は、肯いた。
「いくつかのことが考えられますね。もし、これが、中井良久の失くしたものだったとすれば、彼は無実だったことになりますね」
「そうだ、そうなんだ」
「となると、犯行に利用された名刺が、誰のものかが問題になりますね。兼田製薬社長が失くした名刺ということになりますか?」
「いや。兼田邸の火事は本当にあったことだし、そのとき、焼失したと考えるのが間違いないところだろう」
「すると、ますます妙なことになってきますね」と、十津川はいった。
「あのとき、行方のわからない名刺は一枚だけということでしたが、実際には、二枚あったことになります」
「そのとおりさ」
「しかし、課長。事件が起きたとき、行方のわからない名刺は、一枚だけだと、捜査二課は、確認したわけでしょう?」
「している」
「とすると、いったいどういうことになるんですか?」
「武田さんが勘違いしていたのかもしれない」
「と、いいますと?」
「事件当時、捜査二課は、問題の名刺をこう確認している。武田さんが手帳に書きとめて渡したもの七十九枚。手持ち百十六枚。残りの五枚は、折れたり、汚れたりしたので、武田さんが破り捨てた。これで合計二百枚になる。武田さんの手元に残っていた百十六枚は、捜査二課が確認している。となると、問題は、武田さんが破り捨てたという五枚だ。大臣が勘違いしていて、その中の何枚かを、手帳に書きとめずに、誰かに渡してしまったのかもしれない」
「なるほど」
「それが悪用されたのだとしたら、武田さんが傷つくかもしれん。武田さんは、酒にも女にも豪傑だと聞いている。酔って、若く美しい女性に名刺をやったことだって、考えられないことじゃない。それが犯行に使われたとしたら、間違いなく、大臣は批判されるだろうね」
「多摩川の仏さんも、なかなか美人のようですね」
「そうらしいな。だから、君に、今度の事件を調べて欲しいのだ。大臣の名刺のことは、あくまで内密にしてだよ。二年前の事件に関係がなければいいが、関係があれば、すぐ、私に報告して欲しい」
「わかりました」
「誰か適当な人間を連れて行きたまえ」
「やはり、亀井刑事を連れて行きます」
と、十津川はいった。
十津川は、部屋に戻ると、亀井に声をかけ、すぐ、車で、蒲田署に向かった。亀井は、勤続二十年のベテランで、十津川が一番信頼している部下だった。
車の中で、事件の説明をした。亀井は、浅黒い顔を十津川に向けて、真剣に聞いていたが、
「仏さんの身元を割り出すのが先決ですね」
と、いった。
「そのとおりさ。カメさん。身元が割れたとき、武田運輸大臣と関係がある女じゃないと助かるがね。僕は、ごたごたするのが嫌いなんだ」
十津川は、笑った。が、内心は、逆の予感を感じていた。ハンドバッグに、武田信太郎の名刺を持っていた以上、何らかの関係がある女のような気がしてくるのだ。
蒲田署に着くと、十津川は、捜査本部長になっている署長の上岡に挨拶した。
「君が来てくれて、ほっとしたよ」
と、上岡は、太った大きな身体で、十津川にいった。柔道五段の猛者だが、甲高い、女性的な声を出す男である。
「武田大臣の名刺については、箝口令が施かれているそうですね」
「記者さんたちには、内密にしてある。あの名刺が、今度の事件と何の関係もないと助かるんだがね」
上岡は、十津川と同じ不安を口にした。
殺人事件に、政治家が絡んでいるとわかっても、事件を担当する捜査員としては、犯人逮捕に全力を尽くすだけのことだが、妙なところから圧力がかかってくるのが、もしそんなことがあればの話だが、うっとうしくてかなわない。
「問題の名刺は、ハンドバッグの中に入っていたそうですね?」
「最初は、雑誌記者の名刺しか見つからなかったんだ。ハンドバッグが、かなり使い古されたものでねえ。内側が切れていて、その切れた隙間に入っていたんだよ」
「それで、被害者の身元は割れたんですか?」
「いや。まだだ。くわしいことは、実際に事件を担当している吹田君に聞いて欲しい」
と、上岡はいった。
吹田警部補は、小柄だが、エネルギッシュな男で、十津川は、三度ほど、一緒に殺人事件の捜査に当たったことがあった。
頭も切れる男だが、三十歳と若いせいか、突っ走り過ぎる欠点がある。
十津川は、吹田に会うと、まず、
「被害者は、どんな女なんだい?」
と、きいた。
「美人ですよ」と吹田は、陽焼けした顔でいった。
「生きているときは、さぞかし、魅力的な女性だったと思いますね」
「タイプとしては、どんなタイプですか? 社長秘書タイプ? それとも、水商売の女の感じですか?」
と、亀井刑事がきいた。
「どちらともいいかねるんだ」と、吹田は、亀井にいってから、次に、十津川に向かって、
「これを、どう思われますか? マギー・ルフ。アンドレア・フィステル。アクアスキュータム。レジャビその他」
「何だい? そりゃあ」
「服装や、靴の有名メーカーの名前ですよ。マギー・ルフはフランスの有名なドレスメーカー、アンドレア・フィステルは、有名な婦人靴のデザイナー、アクアスキュータムはイギリスのコートメーカー、最後のレジャビはフランスの下着メーカーです」
「それと、被害者が、どんな関係があるというのかね?」
「被害者が身につけていたものを調べたところ、ピンクのワンピースは、マギー・ルフのもの、コートはアクアスキュータムのもの、下着はレジャビ、そして、靴はアンドレア・フィステルのものとわかったわけです」
「よく知っていたね?」
「いや、私が知っていたわけじゃありません。私は、せいぜい、ピエール・カルダンぐらいしか知りませんからね。全部、メイド・イン・ジャパンじゃなかったんで、専門家に調べてもらったんです。その結果、わかったことですよ。しかし、被害者は、よほど、おしゃれだったんだと思いますね。資産家に生まれたのか、それとも、派手な職業だったのか、そこが……」
「ちょっと待ってくれよ」
と、十津川は、相手を手で制して、
「ハンドバッグだけは、チグハグなんじゃないか? ずいぶん古びたもので、内側が切れていたということだが」
「そのとおりです。しかも、国産品で、せいぜい、二、三万円のものだということでした」
「となると、被害者のものではない可能性も出てくるんじゃないのかね?」
「それも考えましたが、ハンドバッグの中身に、高価なものがありましたので、やはり、被害者のものだろうということになりました。財布はありませんでしたが、化粧品は、一級品ですし、香水は、フランスのエルメスです。それに、これを見てください」
吹田は、美しい銀製のキー・ホルダーを取り出して見せた。
「これはティファニーで売っているもので、日本で買うと、二万五千円するものです」
「鍵はついていなかったのかね?」
「最初からついていませんでした。被害者が、キー・ホルダーを買ったばかりだったのか、犯人が、持ち去ったのかわかりませんが」
「そりゃあ、恐らく、犯人が、財布や腕時計なんかと一緒に持ち去ったのさ」と、十津川は、あっさりと断定した。
「ところで、名刺の雑誌記者には、連絡してみたのかね?」
「一時間前に、雑誌社のほうへ電話してみました」
「それで?」
「宮下という編集長が出ましてね。青木という記者は、今、ブルートレインの取材で、昨日の午後四時四十五分発の〈はやぶさ〉に乗って、西鹿児島へ出かけたというのです。時刻表を見たところ、〈はやぶさ〉の西鹿児島着は、今日の午後二時四十二分になっています」
「二時四十二分というと、あと七分あるね」
と、十津川は、自分の腕時計を見ていった。
「ブルートレインですか」
亀井が、笑顔になった。
「何だい? カメさん」
「うちの小学五年生になる息子が、今、ブルートレインに夢中でしてね。フラッシュつきのカメラを持って、よく友人と、東京駅に写真を撮りに行っているんです」
「ブルートレインというのは、子供たちの間で、そんなに人気があるのかね?」
独り者の十津川には、子供たちの世界のことは、よくわからない。
「その宮下という編集長に聞いたところ、大変なものらしいです」
と、吹田がいった。
吹田は、東京駅のホームに、カメラや録音機を持った子供たちが群がっているといった話を聞かせてくれたが、十津川は、あまり興味を持たずに聞いていた。
まだ、ブルートレインと、被害者が関係あったかどうかわからなかったからである。ブルートレインに関係があるのは、名刺の主のほうなのだ。
一時間ほどして、「週刊エポック」から電話が入った。
その電話には、吹田が出た。相手は、編集長の宮下ということだった。
「え? 門司の病院?」
と、いきなり、吹田が、大きな声を出した。
二、三分話してから受話器を置くと、吹田は、首を振りながら、
「青木康二という記者は、今、門司の病院にいるそうです」
と、十津川にいった。
「病院? 怪我でもしたのかね? まさか死んだんじゃあるまいね?」
「それがわかりません。週刊エポックのほうに、突然、門司のS病院から電話があって、おたくの青木康二さんを収容しているといってきたというのです。向こうの編集長も、何が何だかわからないが、とにかく、行ってみるということでした」
「妙な具合になって来たな」
十津川は、じっと考え込んだ。
青木という週刊誌記者が門司の病院に収容されたというのは、多摩川に浮かんでいた死体と関係があるのだろうか?
五分間考えて、十津川は、
「僕が、門司へ行って来よう」
と、いった。
「十津川さんがですか?」
吹田が、びっくりした顔を向けるのへ、
「今、僕が一番動きやすい立場にいるからね」
とだけいった。
決断の早いのは、十津川の長所といえるだろう。
十七時の福岡行きの日本航空の券を電話で予約すると、十津川は、すぐ、捜査本部を出た。
福岡空港は、すでに、夜のとばりに包まれていた。
十津川は、空港からタクシーで、博多駅に出ると、ちょうど到着した列車に飛び乗った。
門司に着いたときには、珍しく、小雨が降り出していた。
病院には、まだ、「週刊エポック」の宮下編集長は来ていなかった。
十津川は、まず受付に警察手帳を見せ、青木康二が、ここに収容された事情をきいてみた。
「救急車で、門司駅から運ばれて来たんですよ」
と、受付の若い女事務員が、教えてくれた。
「それは、駅に倒れていたということかな?」
「ホームの待合室に倒れていたそうですわ。最初は、アルコール臭かったので、酔っ払って寝ていると思ったそうなんですけど」
「それで、どんな具合かね?」
「私には、よくわかりませんけど、頭に怪我をしているらしいんです。二階の六号室に入っていますわ。外科の鈴木先生が診ていらっしゃるはずですから、詳しいことは、先生に聞いてみてください」
十津川は、そういわれて階段を二階へあがって行った。
六号室は、二人部屋で、片方のベッドはあいていて、窓側のほうに、若い男が、頭に包帯を巻かれて横になっていた。
部屋にいた鈴木という中年の医師は、十津川に向かって、
「警察の方なら、さっき、事情を聞きに見えましたが?」
と、首をかしげた。
「東京の警視庁から来た十津川です。今、本人から話を聞けますか?」
「ええ。頭の痛みも、だいぶ薄らいだようですから、かまいませんが」
「怪我の程度は?」
「全治一週間というところですかね」
「アルコールの匂いがしますね?」
「誰かが、患者の身体にアルコールをかけたらしいのです。本人は、全く記憶がないといっていますから」
と、鈴木医師は、いってから、何かあったら呼んでくださいといい残して、部屋を出て行った。
ベッドの青木が、じっと、十津川を見上げた。
「東京の刑事さんが、何しに来られたんですか?」
「君に協力してもらいたいことがあってね。話をして大丈夫かね?」
「大丈夫ですよ。しかし、僕は、夜行列車の中でやられたんで、東京は関係ないんじゃないかな」
「煙草は?」
「吸いたいですね」
と、青木は、眼をなごませた。
十津川は、セブンスターを取り出して、青木にくわえさせ、火をつけてやった。
「君はこの名刺を使っているかね?」
十津川は、東京から持って来た青木康二の名刺を、青木の眼の前にかざして見せた。
「ええ。これは、間違いなく、僕の名刺ですよ。現在も使っています」
「今までに、何枚ぐらい使ったかね?」
「去年の十月に作った名刺でしてね。百枚くらいは、ばらまいたでしょうね」
「渡した相手を、全部覚えているかね?」
「そりゃあ無理ですよ」
と、大きな声でいってから、後頭部の傷にひびいたのか、顔をしかめて、
「取材のたびに、どんどん渡しますからね。相手が有名人の場合は、覚えていますが」
「薄茶のコートを着た若い美人はどうかね? 年齢は二十二、三歳。身長約一六〇センチ」
「何のことですか? それは……」
「今朝の十一時ごろ、東京と川崎の境の多摩川大橋のあたりで、若い女の溺死体が発見された。今いったように、年齢は二十二、三歳で、なかなかの美人だ。ピンクのワンピースの上に、薄茶のコートを着ていた。ハンドバッグを調べたところ、君の名刺が入っていた」
「ピンクのワンピースに、薄茶のコートですか?」
「何か心当たりでも?」
「しかし、おかしいな」
「どこがおかしいのかね?」
「僕は、昨日の夕方、西鹿児島行きのブルートレイン〈はやぶさ〉に乗りましてね」
「そのことは、君の上司から聞いている」
「僕は、個室寝台のある1号車に乗ったんですが、同じ1号車に、若くて、美人の女性が乗っていましてね。ピンクのワンピースの上に薄茶のコートを着ていましたよ。西鹿児島まで行くといっていたんですが」
「ふーん」
十津川は、腕を組んで、窓に眼をやった。
窓の外の暗い空間を、細い銀色の雨が斜めに走っている。風が出て来たらしい。
「よく似た女性ですが、向こうは、西へ行く夜行列車に乗っていたし……」
「その女に、名刺を渡したのかね?」
「ええ。いろいろと話を聞こうと思いましたからね」
「それで、彼女の名前や住所を?」
「とんでもない。何となく、影のある女でしてね。こちらが、いくら話しかけても、全く反応なしでした」
青木が笑った。
十津川は、テーブルの灰皿を、相手の傍らに移してやった。
「その女が、途中で急におりたというようなことは、なかったのかな?」
「僕が知っている限りでは、なかったと思いますよ。ただ、三ノ宮駅を通過したあとのことは、わかりませんが」
「それは、眠ってしまったからということ?」
「いや。全く妙なことが、僕の身に起きてしまったからです」
「どんなことだね?」
「信じてもらえるかどうか自信がないんですが、これから話すことは、すべて事実なんです」
青木は、列車が、『三ノ宮』を離れてすぐ、急に眠くなったこと、気がつくと、乗客が変わっていたこと、腕に睡眠薬の注射をされたこと、どうやら、いつの間にか、一時間十五分後に東京を出る〈富士〉に、移されてしまっていたこと、そして、車掌にそれをいいに行こうとして、何者かに後頭部を殴打されたことを、早口でしゃべった。
「気がついたら、門司のホームの待合室に寝ていましたよ」
「妙な話だね」
十津川は、椅子から立ち上がると、ゆっくりと病室の中を歩き始めた。
〈はやぶさ〉の取材に行った男が、何者かに、睡眠薬で眠らされ、別の夜行列車に移しかえられた。
確かに、妙な話だ。
十津川は、立ち止まり、じっと、青木の顔を見つめた。嘘や、冗談をいっている顔には見えない。
「誰が、何のためにそんなことをしたか、見当がつくかね?」
「わかりません。ただ……」
「ただ、何だね?」
「僕のカメラからフィルムを抜き取ったのは、どう考えても、高田という男です。もし、それが、僕が〈富士〉に移されたことと関係があるとすれば、犯人は、同じ男ですよ」
「調べてみよう」
「何をですか?」
「高田という弁護士がいるかどうかをだよ」
「きっと、嘘に決まっていますよ。うさん臭い男でしたからね」
「そのフィルムには、8号室の女が写っていたんだったね?」
「そうです」
「三ノ宮までは、彼女は列車に乗っていたといったね?」
「ええ。絶対とはいえませんが、まず間違いないと思いますよ。三ノ宮着が、午前〇時三十六分ですからね。どう考えても、多摩川で死んでいたのは、別人のような気がするんですが」
「しかし、ブルートレイン〈はやぶさ〉の女も、ピンクのワンピースの上に、薄茶のコートを羽おっていたんだろう?」
「そうです」
「年齢は二十二、三歳。身長約一六〇センチ」
「ええ。そのとおりです」
「しかも、君の名刺を持っていた。偶然にしては、一致点が多過ぎる。君には、退院したら遺体を見てもらうが、君以外に、8号室の女の顔を覚えていそうな人間に心当たりはないかな?」
「さっきいった高田という男が覚えているはずですよ。自分で、くどいたといっていましたから」
「他には?」
「食堂車のウエイトレスも、顔を見ていると思うけど、彼女が食堂車にいたときは、混んでいましたからね。覚えているかどうか」
「とすると、あとは、車掌だね。君がいうような美人なら、車掌が覚えているかもしれない」
「そうですね」
「君は、退院して帰京したら、すぐ、蒲田署へ来てくれたまえ。さっきいったように、遺体を確認してもらいたいからね」
「警部さん」
「何だね?」
「警部さんは、同じ女だと思いますか?」
「可能性はある。今は、それだけしかいえんよ」
十津川は、病院を出ると、また、国鉄で博多駅まで戻り、博多車掌区の責任者に会った。沢村という当直助役である。
「三月二十七日の下り〈はやぶさ〉に乗っていて、個室寝台車の検札をした車掌さんにお会いしたい。〈はやぶさ〉に乗るのは、どこの車掌区の車掌さんですか? ここでわかりますかね」
十津川がきくと、沢村は、微笑して、
「それは、うちの担当です。博多車掌区の人間が、上りの〈はやぶさ〉に乗って行き、東京で一泊してから、下り〈はやぶさ〉に乗務するわけです」
「なるほど。誰が乗務したのか、教えて頂けませんか」
「三月二十七日の3列車ですね?」
「3列車?」
「こちらでは、下り〈はやぶさ〉を列車番号で3列車、上りを4列車と呼んでいるんです」
「なるほど」
「ええと、三月二十七日の3列車に、東京から乗務したのはと……」
沢村は、勤務日誌のページをくってから、
「井本、渡辺、佐藤、山本の四人ですね。そのうち、1号車から3号車までを受けもったのは、井本車掌です」
「今、どこにいます?」
「3列車に乗務した車掌は、翌日、博多でおりて、二日間休みを取ります」
「すると、今は、休暇中ですね」
「ええ」
「どうしても、至急、お話を聞きたいんですがねえ」
「自宅へ電話を入れてみましょう。いてくれるといいんですがね」
と、沢村はいい、すぐ、受話器を取った。
福岡市内のダイヤルを回し、相手が出ると、十津川に向かって、
「いてくれましたよ」
と、笑った。
沢村が、「東京警視庁の刑事さんが、君に聞きたいことがあるそうだ」といってから、受話器を渡してくれた。
「井本さんですね」
と、十津川は、念を押すようにいった。
「そうです。どんなご用でしょうか?」
井本の声は、かなり緊張している。警察が相手では、当然だろう。
「昨日の下り〈はやぶさ〉に乗られましたね?」
「はい。乗務しました。それが何か?」
「個室寝台の1号車の検札をされましたか?」
「ええ」
「8号室に、薄茶のコートを着た、二十二、三歳の美人が乗っていたのを覚えていませんか?」
十津川がきくと、井本車掌は、あっさりと、
「覚えていますよ。西鹿児島まで行かれるお客でした。刑事さんのいわれるように、美人なので覚えています」
「その客ですが、途中でおりてしまったということはありませんでしたか? 終点の西鹿児島まで行かずに」
「そんなことはないと思いますが」
「なぜです?」
「朝の六時五十一分に、『小郡』に着きます。そのころに、私が、お早ようございますと、朝の車内放送を始めるわけです。1号車に行きまして、通路側の窓に下ろしておいたシェードをあげていたところ、8号室のドアが少し開いておりました。何気なくのぞいたら、そのお客が、窓にもたれるようにして、外を見ておられました」
「そうですか」
十津川は、複雑な気持ちになっていた。〈はやぶさ〉の女性客が、無事だったということで、ほっとした気分になりながら、一方で、正直にいって、がっかりした気分にもなっていた。もし、同じ女性だったら、事件の進展が早くなるかもしれなかったからである。
「あなたは、博多で列車をおりたわけだが、そのあと、終点の西鹿児島までは、誰が交代したわけですか?」
「同じ博多車掌区の吉野君です」
「事務引継ぎのようなことをされるわけでしょう?」
「そうです。乗客についても、個室寝台車についていえば、何号室の乗客は、どこまで行くかといったことを伝えておきます」
「8号室の女性については?」
「美人で、西鹿児島までだと伝えておきました。吉野君は、まだ若いですから、へえ、そんなに美人ですかといっていましたね」
「彼女が、西鹿児島でおりたとすれば、当然、向こうに、切符が保管されているわけですね?」
「そうなりますね」
当然の答えが返ってきた。
いったん電話を切ると、十津川は、こちらを見ている沢村に、
「今度は、西鹿児島にいる吉野さんに話を聞きたいんですが、連絡は取れますか?」
「取れますよ。明日の十二時三十六分の4列車に乗務するので、西鹿児島の宿舎にいると思いますから」
沢村は、てきぱきと、西鹿児島駅に電話を入れ、吉野車掌を呼び出してくれた。
若い声が、電話口に聞こえた。十津川の質問に対して、
「その女性客なら、よく覚えていますよ」
と、吉野は、明るい調子でいった。
「井本さんから、個室寝台の8号室に、若い美人が乗っているといわれていましたからね」
「服装は覚えていますか?」
「ええ。ピンク色のワンピースの上に、薄茶色のコートを着ていましたよ。女にしては、大きな人でしたね」
「西鹿児島で降りたのは、確かですか?」
「ええ。ホームで彼女から、港のほうへ行くにはどう行ったらいいか聞かれましてね。バスの乗り場を教えて、改札口を出て行くのを見送りましたから間違いありませんよ。彼女の切符も、駅に保管されているはずです」
吉野のいい方は、明解だった。
「そのときの彼女の様子に、何かおかしいところはありませんでしたか?」
「おかしい? 別にそんなものはありませんでしたねえ。とにかく、美人でしたよ」
若い吉野は、電話の向こうで、屈託のない笑い声を立てた。
「できたら、もう一度会いたいですねえ」
十津川は、礼をいって電話を切ったが、その顔に、当惑の色が浮かんでいた。
沢村が、お茶をいれてくれて、
「何かまずいことでもありましたか?」
と、十津川を見た。
「いや。別にありませんが……」
十津川は、笑顔になり、いれてくれたお茶に手を伸ばした。乾いたのどに、熱いお茶が美味い。
「下り〈はやぶさ〉の乗客が、どうかしたんですか?」
沢村が、きいた。
二人の車掌が、沢村に挨拶して出て行く。
「まだ、はっきりしたことはわからないのです」と、十津川は、慎重ないい方をした。
「今朝、東京で若い女性の溺死体があがりましてね。それが、昨日の夕方、東京発の下り〈はやぶさ〉に乗っていた乗客の可能性があるんです」
「西鹿児島までの乗客ですか?」
「そうです」
「それだとおかしいですね。今日の午後二時四十二分に西鹿児島でおりるはずの乗客が、今日の朝、東京で死体が見つかったというのは」
「そのとおりです。しかし、同じ列車に乗り合わせた週刊誌の記者が、何者かに後頭部を殴られて、門司駅のホームに放り出されていたんです」
「その人のことなら知っていますよ。門司駅の者が、ホームに倒れているあの方を発見して、すぐ、救急車を呼んだそうですが、下り〈はやぶさ〉のお客というのは初耳です。なぜ、そんなことに?」
沢村が、驚いた顔で、十津川にきく。
「当人にもわからないようです。しかし、狂言とは思えないのです」
「そのことと、東京で起きた事件と、関係があるんですか?」
「彼は、〈はやぶさ〉の中で、同じ列車に乗り合わせた美人に、名刺を渡しています。今朝、東京で見つかった溺死体の女は、ハンドバッグに、彼の名刺を入れていましてね」
「なるほど。その記者さんが、列車の中で名刺を渡した美人と同一人の可能性があるわけですね?」
「そうです。しかし、西鹿児島で、問題の女が降りたという証言もありましてね」
「うーん」
と、沢村は、うなり声をあげ、
「どうもわかりませんなあ」
「こちらも同様です」
と、十津川は、笑った。
博多の街は、深い夜の闇に包まれてしまっていた。
すでに十一時を回っている。十津川は、駅近くのビジネスホテルに泊まることにした。部屋に入ると、東京の捜査本部のダイヤルを回し、吹田警部補に、こちらでのことを伝えた。
「それで、十津川さんは、どう思われました? 多摩川の仏さんは、下り〈はやぶさ〉の乗客だと思われますか?」
吹田が、緊張した声できいた。
「正直にいってわからんのだ。その列車の車掌は、8号室の女が終点の西鹿児島で降りたといっているからね」
「誰かが、入れ替わったということも考えられますね」
「もちろんだ。だが、全く別人ということも考えられる」
「青木という週刊誌の記者が、遺体を確認してくれれば、はっきりするんじゃありませんか」
「と思うがね」
と、十津川はいった。
確かに、青木には、遺体を確認してもらわなければならない。
だが、吹田がいうように、それで、果たしてはっきりするだろうかという疑問が、十津川にはあった。
青木は、確かに、列車の中で、その女を見、美人だと思い、写真も撮ったという。だが、女は、コンパートメントに閉じ籠って、なかなか外へ出て来なかったともいっている。
それに、死ぬと人間の顔は変わるものだ。溺死の場合は、なおさらである。たった一日、それも、夜行列車の中で、数回目撃しただけの女の顔を、はっきり覚えていて、水死体の女と同一人かどうか確認できるだろうか。
十津川は、亀井刑事を、電話口に出してもらった。
「大臣の名刺のほうは、どんな具合だね? カメさん」
「今日、その名刺を印刷した文京区の山田印刷に行って来ました。武田信太郎とは、遠い親戚に当たるそうで、その関係で、名刺や、年賀状などの印刷を頼んでいるようです」
「それで、例の名刺については?」
「二年前に、二百枚の武田信太郎の名刺を刷ったことは、伝票もありました。問題は、二百枚以外に、余分に刷ったかどうかですが、社長の山田晋吉は、試し刷りをした分は、悪用されては困るので、焼き捨てたといっていますし、そのことは、二年前の事件のときにも、捜査二課の連中に話したといっています」
「だが、事情が変わった」
「それも伝えました。しかし、答えは変わらんそうです」
「しかし、実際に、名刺を刷ったのは、社長じゃあるまい?」
「そのとおりです。工員は五名います。名刺や賀状などを印刷しているああいう店としては中ぐらいの大きさでしょう。五名の工員ですが、二年前の事件以後、一人やめています。高梨一彦という二十九歳の男です。突然、やめたのが気になります」
「現在、どこにいるかわかったかね?」
「行方不明です。会社へ届けていた住所には、もういませんでした。履歴書と写真は、借りて来ましたので、家族に当たってみようと思っています」
「そうしてくれ。一般からの情報は?」
「二件ありました。新聞に出ていた女は、自分の娘ではないかという老夫婦と、妻に蒸発された若い夫の二件です。しかし、どちらも、遺体を確認させたところ、別人とわかりました」
「残念だな。僕は、明日中に帰る」
電話を切ると、十津川は、ベッドに横になった。
細長い、狭い部屋だ。一泊四千二百円のシングル・ルームだから仕方がないが、両側の壁に圧迫されているようで眠りにくい。
十津川は、眠れないままに、灰皿を枕元に引き寄せ、ベッドに腹這いになって、煙草に火をつけた。
引っかかることが多過ぎる事件だと思う。
二年前の五億円詐取事件と、多摩川の溺死体は関係があるのだろうか?
下り〈はやぶさ〉の女と、多摩川の仏は同一人だろうか?
青木記者の奇妙な体験は、事件と、どう結びつくのだろうか?
疑問はいくらでもあるのに、まだ、一つとして答えが見つからない。
だが、多摩川に若い女の溺死体が浮かんでいたことは事実なのだ。そして、他殺である以上、その犯人を見つけ出さなければならない。
第三章 時刻表
翌日、十津川が、身仕度をしてロビーにおりて行くと、驚いたことに、門司の病院にいるはずの青木が、頭に包帯を巻いて、彼を待っていた。
「東京の警察に電話したら、十津川さんは、ここに泊まっていると聞いたもんですから」
と、青木は、まだいくらか蒼い顔で、十津川にいった。
「身体は大丈夫なのかね?」
「大丈夫です。編集長からも、ハッパをかけられましてね」
「どんなことをいわれたんだね?」
十津川は、青木の横に腰を下ろし、興味を持ってきいた。
「ブルートレインで出会った美人が、東京の多摩川で殺されていたということになれば、恰好のネタですからね。すぐ、帰京して、遺体を確認しろといわれました」
「そうしてもらえば、僕のほうも助かるがね。本当に、身体はもういいのかね?」
「大丈夫です。すぐ行こうじゃありませんか」
と、青木は、ボストンバッグを持って立ち上がった。とたんに、足がふらついた。
十津川は、青木の身体をささえてやりながら、
「記者魂というやつかね」
「いや、臨時ボーナスめあてですよ」
と、青木は、蒼い顔で笑った。
二人は、タクシーで、空港に出ると、キャンセル待ちをし、十時三十分発の全日空ボーイングに乗って、東京に向かった。
気流が悪く、ジェット機は、かなりゆれたが、青木は参らなかった。それだけ、若いのだろう。
羽田に着くと、十津川は、大田区のK大学病院へ直行し、青木に、遺体を確認してもらうことにした。
病院地下の死体置場は、いつものように、湿った空気と、消毒液の匂いで充満していた。いつまでたっても、この強烈な匂いに十津川は、慣れることができない。
解剖の終わった女の死体は、縫い合わされ、白布に包まれている。
係員が、無表情に、その白布をめくる。
「よく見てくれ」
十津川は、傍らから青木にいった。
青木は、五、六分、じっと死体を眺めていた。
「どうかね? ブルートレインで、一緒になった女性かね?」
十津川がきく。
「よく似ている」
といういい方を、青木はした。
「同一人と断定できないのかね?」
「眼にすごく特徴のある女性だったんですよ。大きくて、きれいな眼でね。それが、閉じちゃっているので……」
「顔立ちは?」
「あの女性にそっくりです。ピンクのワンピースに、薄茶のコートを着ていたんなら、彼女だと思いますね」
「だが、問題の列車だが、西鹿児島に着くと、ピンクのワンピースに、薄茶のコートの若くて美しい女が降りている。車掌が、それが8号室の乗客だったと証言しているんだよ」
「本当ですか?」
「本当だ」
「しかし、ここにいるのが、僕の会った女ですよ」
「顔にホクロがあったとか、金歯があったとか、そういう細かい特徴を覚えていないかね?」
「そんな細かいところまでは、覚えていませんよ。あの写真があれば、顔の部分を引き伸ばして、確認できるんですがね」
青木は、口惜しそうに舌打ちした。
「どんなハンドバッグを持っていたか、覚えているかね?」
「ハンドバッグですか。どんなやつだったかなあ。僕は、彼女のハンドバッグを見てないんだ」
「食堂車でもかね?」
「ええ。なぜ、ハンドバッグにこだわるんですか?」
「この仏さんのハンドバッグが、かなり特徴があるんでね。君がブルートレインの中で見たハンドバッグが同じものだったら、同一人の証拠になると思っただけだよ」
「そうですか。しかし、この仏さんは、ブルートレインの女ですよ。そう思いますね」
「多分ね」
と、十津川はいった。
地下の死体置場から地上に出ると、排気ガスで汚れた空気さえ、美味く感じられる。
二人は、病院の前で別れた。
「一つ質問していいですか?」
と、別れ際に、青木が、急にいった。
「何だね?」
「僕は、どうして殺されなかったんでしょう?」
十津川は、捜査本部に戻ると、吹田に、
「高田という弁護士がいるかどうか調べてみてくれ。もしいたら、三月二十七日の下り〈はやぶさ〉に乗ったかどうかを確かめるんだ」
と、頼んでから、署長の上岡の部屋に、報告に行った。
上岡は、肯きながら、十津川の報告を聞いていたが、大きな身体で、回転椅子をきしませると、
「結局、多摩川の仏さんが、ブルートレインの女かどうかは、わからないということになるのかね?」
と、いくらか不機嫌な顔つきをした。
「正直にいって、そのとおりです」
「君自身はどうなんだ?」
「わかりません」
「君がそれじゃあ困るねえ」
上岡は、また、回転椅子をきしませた。
「申しわけありませんが、今の段階では、断定は危険です」
「しかし、青木という記者は、ブルートレインの女だといっているんだろう?」
「彼にしても、断定はしていません」
「君は、頑固な男だな」
と、上岡は、苦笑した。
十津川は、捜査本部の看板のかかった一階の部屋に戻ると、吹田に向かって、
「どうだったね?」
と、きいた。
「高田という弁護士は、東京に三人います。そのうち、二人は現在、事務所にいて、二十七日にブルートレインに乗ったことはないということです」
「三人目の高田は?」
「旅行中です。二十七日から一週間、旅行するといって、家を出たそうです」
「二十七日からか。年齢は?」
「三十七歳で、銀座に事務所を持っています」
「その事務所へ行って、顔写真を借りて来てくれ」
「わかりました」
吹田は、若い伊東刑事を連れて、部屋を飛び出して行った。
ひとりになると、十津川は、部屋の隅にある黒板に眼をやった。
そこには、今度の事件の問題点が、並べて書いてある。
(1)被害者の肺の中の水はどこのものか?
(2)名刺の意味するものは何か?
(3)下り〈はやぶさ〉の女との関係
なかなか上手い字だ。吹田が書いたのだろう。
十津川は、白墨(チョーク)をつまむと、(4)と書き加えた。
(4)青木記者の奇妙な体験が意味するものは何か?
(下手くそな字だ)
と、十津川は、自分で書いておいて、自分で苦笑した。
筆跡で、性格や運勢を占うという名人に、十津川は、他人の筆跡と嘘をついてみてもらったことがある。名人は、いかにも仙人めいた老人だったが、開口一番、
「この人は、才能にめぐまれているが、惜しむらくは、性格にむらがあるから、堅い職業にはむかんな」
と、いったものである。十津川が、性格のむらをなくすにはどうしたらいいかときくと、
「この筆跡に風格が出るようになったら、自然に、人間的にも落ち着いてくる」
といった。
今、黒板の字を見たところ、到底、風格のある字とはいえそうもない。
(堅い職業には向かず……か)
自分は、ひょっとすると警察官には向いていないのではないかと、十津川は思うことがある。別に、筆跡占いの老人の言葉で、そう思い出したわけではない。警察官としては、感傷的すぎると、自己判断したのは、もっと前だ。
(だが、自分が向かないと考えるから、一層努力することもある)
と、十津川は考えることにしていた。今さら、警察をやめる気にはなれない。
黒板に書かれた四つの疑問には、まだ、一つとして答えが見つかっていなかった。
署長がいらだつのも無理はなかった。運輸大臣武田信太郎の名刺が絡んでいるので、なおさら早く解決したいのだろう。
十津川が、黒板と睨めっこをしているうちに、亀井が帰って来た。
「やめた印刷工は見つかったかね?」
十津川がきくと、亀井は、疲れた顔で首を横に振った。
「問題の高梨一彦には、浦和に両親がいます。会って来ましたが、息子の行方は知らないそうです。もともと、二十五歳のときに家を出て以来、ほとんど便りをして来なかったそうですから、両親の話に嘘があるとは思えませんでした」
「その男は、二十九歳だったね?」
「そうです」
「結婚は?」
「していません」
「どんな男なんだ?」
「印刷会社の社長や、同僚の話では、真面目に働いていたが、口数が少なく、協調性に欠けるところがあったといいます。何を考えているかわからないので、薄気味が悪かったという同僚もいます」
亀井は、名刺判の顔写真を貼りつけた履歴書を、十津川に見せた。
「それが、高梨一彦の履歴書です」
「本人が書いたものかね?」
「そうです。何かおかしいことでもいいましたか?」
「君を笑ったわけじゃない。僕の字によく似ているからおかしかったんだ。この男は、多分、性格にむらがあって、堅い職業にはむかんね」
「そうでしょうか?」
「高校を卒業してから、いろいろなところで働いているね」
「山田印刷では、二年働いていたそうです」
「賞罰はなしか」
「前科があるようですが、くわしいことはわかりません」
「二年前に、捜査二課は、この男のことを調査したのかね?」
「調査していません。あのときは、中井良久という有力容疑者がいましたから」
「そうだったな」
十津川は、肯き、履歴書についている写真に眼を移した。
面長の、眼の細い男である。二十九歳にしては若々しく見えるのは、入社当時の写真だからだろう。
「警部は、この男が、多摩川の仏さんと関係があると思いますか?」
亀井がきいた。
「わからんね。目下のところ、わからないことばかりだよ」
十津川は、黒板に近づくと、
(5)山田印刷の元工員高梨一彦は、被害者と関係があるか?
と、書き加えた。
すべてが関係なく、ばらばらに存在している感じだった。
果たして、これらが、ジグソーパズルのように、きちんと、一つの絵に納まるのだろうか?
十津川が、遅い昼食をとっているところへ、吹田が、若い伊東刑事と一緒に帰って来た。
「これが、高田弁護士の写真です」
と、吹田は、三枚の写真を、十津川の前に置いた。
ダブルの背広姿、スポーティなTシャツ姿、そして、和服姿と三種の服装をした三十七、八歳の男の写真だった。
うすい唇を一文字に結んだ自信満々の顔をした男だ。
「まあ、食事をしてくれよ」
と、十津川は、吹田たちにいった。
近くの中華料理店からとった二人分の食事が、机の上にのっている。
吹田は、箸を取り、食事を始めながら、
「名前は、高田悠一。東京弁護士会に所属しています」
「銀座の事務所というのは、大きいのかね?」
「六階建てのビルの一部屋を使っています。弁護士は彼一人だそうですから、さして……」
吹田は、途中で、むせて、咳込んだ。
「ゆっくり答えてくれればいいよ」と、十津川は、笑った。
「この写真を貸してくれたのは?」
「留守番をしていた若い事務員です」
「高田悠一の行く先を知っていたかね?」
「いいえ。高田は、事務員には、行く先を告げずに、旅行に出かけたようです」
吹田は、また、咳込んでから、お茶をがぶがぶ飲んだ。
「警部は、これからどうなさるんです?」
「この写真を、青木記者に見せてくるよ」
十津川は、三枚の写真を、ポケットに投げ込んでから、
「カメさん。一緒に行くかい?」
と、亀井に声をかけた。
「お供しましょう。高梨の行方は、目下のところ、手掛かりがありませんから」
二人は、捜査本部を出ると、「週刊エポック」を出している出版社に向かった。
国電の神田駅でおり、百メートルばかり歩くと、三階建てのビルに、「週刊エポック」という大きな看板が出ているのが眼に入った。
青木には、一階にある応接室で会った。
まだ、頭に白い包帯をした青木は、煙草をくわえて火をつけてから、
「今、ブルートレインの記事を書いていたところです」
「雑誌が出たら拝見しよう」
と、十津川は、微笑してから、青木の前に、持参した三枚の写真を置いた。
「その男かね? ブルートレインで会った高田という弁護士は」
十津川の言葉に、青木は、写真を手に取ったが、すぐ、
「この男ですよ!」
と、大きな声を出した。
「サギ師か何かですか? この男は」
「いや。本物の弁護士だよ」
「本物ですか……」
「意外だったかね?」
「ええ。てっきり偽者だと思っていたんです」
「なぜだね?」
「なぜといわれると困るんですが、何となくですよ。それに、名刺を忘れたなんていっていましたからね。弁護士が名刺を忘れるなんて、ちょっと考えられませんからね」
「この高田という弁護士も、問題の女に関心があるようだったということだったね?」
「ええ。自分で、モーションをかけたが振られたといっていましたよ」
「違うのかね?」
「え?」
「君の顔が、信じてないといっているよ」
「食堂車で、高田を見たときの彼女の様子がおかしかったからですよ。僕には、彼女が、高田を怖がっているように見えました」
「怖がってね」
「だから、ブルートレインで初めて会ったんじゃなく、もっと前からの知り合いのような気がしたんです。警察は、この男をどうするつもりです?」
「見つけて、遺体を確認してもらうつもりだよ。この男も、ブルートレインの女だと証言したら、同一人と断定していいだろう」
「今、どこにいるんですか?」
「法律事務所には、行く先を告げずに旅行に出ている。三月二十七日の下り〈はやぶさ〉に乗っていたとすると、西鹿児島にいるか、東京に戻っているかだがね。ちょっと、電話を借りるよ」
十津川は、応接室の隅にある電話を借り、小声で捜査本部の吹田を呼び出した。
「すぐ、誰かを高田悠一の事務所にやってくれ」
「ブルートレインに乗っていた弁護士というのは、やはり高田悠一だったんですか」
吹田の声が、急に弾んだようだった。
「そうだ。事務所に戻って来たら、病院へ連れて行って、仏さんの確認をさせるんだ。もし、高田も、ブルートレインの女だといえば、そう断定して捜査を進めていいだろう」
「わかりました。すぐ二人やります」
と、吹田がいった。
電話を切ると、十津川は椅子に戻り、煙草をくわえ、「さて」と、青木を見た。
「君に聞いた奇妙な体験のことだがね」
「あれは、事実ですよ。間違いなく、僕は、〈はやぶさ〉からおろされ、一時間十五分おくれの〈富士〉に乗せられたんです」
「別に、君が嘘をついているとは思っていないよ。君が、後頭部を殴られて、門司のホームに転がされていたのは事実だからね」
「それに、ウイスキーをかけられてです。おかげで、酔っ払って寝ていると思われて、しばらくの間、放っておかれましたよ」
そのときのことを思い出したのか、青木は、顔をゆがめ、包帯の巻かれた頭に手をやった。
十津川は、手帳を取り出した。
「事実確認のために、メモを取っておきたい。〈はやぶさ〉で、三ノ宮駅までは、起きていたんだね?」
「そうです。三ノ宮駅を出てから、眠ってしまったんです」
「三ノ宮を出た時刻を覚えているかね?」
「時刻表どおりでしたからね。午前〇時三十六分に着き、一分停車したはずです」
「次に気がついたときは、〈富士〉に乗っていたんだね?」
「そうです」
「〈はやぶさ〉じゃなく、〈富士〉に乗っていると気がついたのは、腕時計を見たためだったね?」
「列車が、『倉敷』を通過したとき、腕時計を見たら、午前四時二分になっていたんです。〈はやぶさ〉が、『糸崎』に着くのが午前三時三十五分の予定なのに、その十二も手前の『倉敷』を午前四時二分に通過したんですから、おかしいと思うのが当然でしょう。それに、個室寝台の乗客も、別人になっている。この二つを考えれば、〈はやぶさ〉から〈富士〉に、いつの間にか移されたと気付きますよ」
「気付いてから、どうしたんだっけね?」
「通路で会った乗客に、念のために確かめたら、〈はやぶさ〉じゃなく、〈富士〉だとわかりました。それで、車掌に相談しに行ったところを、背後から殴られたんです。メモしてどうするんですか?」
「調べてみる。事実であることが確認されたら、多摩川の仏さんが、ブルートレインの女と同一人の可能性が強くなってくるからだよ。何もないのに、君を、〈富士〉に乗せかえたりはしないだろうからね」
「調べるまでもなく事実ですよ」
青木は、怒ったような声でいった。
外へ出たところで、十津川は、
「どう思うね? カメさん」
「嘘をついているようには見えませんでしたが」
「同感だがね。事実としたら、誰が、何のために、こんな奇妙なことをしたのかわからんのだ」
十津川は、神田駅で、大判の時刻表を買い求め、電車に乗ってから、熱心に眼を通した。
「下り〈はやぶさ〉の時刻表を、ご覧になっておられるんですか?」
横から、亀井がのぞき込んだ。
幸い車内が空いていたので、簡単に座って、時刻表を見ることができた。
「ああ、そうだ」
「青木の言葉を信用なさらないわけですか?」
「いや。信用はしているよ。だが、念を入れているのだ。『三ノ宮』は、確かに、午前〇時三十六分着になっているね」
「ブルートレインの取材には〈はやぶさ〉に乗ったんでしょうから、各駅の到着時刻は、ちゃんと覚えていると思いますよ」
東京駅で、どっと乗客が流れ込んで来た。
二人は、立ち上がり、ドアのところに寄りかかった。
「次の停車駅は、『糸崎』で、午前三時三十五分か」
十津川は、口の中で呟いてから、急に眼を光らせて、
「おかしいな」
「何がですか?」
「下り〈はやぶさ〉の時刻表をよく見てみたまえ」
十津川は、時刻表を開いたまま、亀井に押しつけた。
亀井は、吊皮につかまりながら、片手で時刻表を見ていたが、
「どこかおかしいですか?」
「青木が、どういったか覚えているかね。彼は、『三ノ宮』を出たところで、ウイスキーを飲んで眠ってしまったといった。誰かが、ウイスキーのポケットびんの中に、睡眠薬を入れたんだろうといっている。そのうえ、睡眠薬の注射もされたとね。次に眼が覚めたとき、〈富士〉に乗せられていたという」
「そうでした。列車が「倉敷」を通過したとき、腕時計を見たら、午前四時二分を指していたので、今、自分が乗っているのは、〈はやぶさ〉じゃなく、一時間十五分おそい〈富士〉なのだと気がついたといっていましたね」
「そうだ。ところが、時刻表をよく見たまえ。『糸崎』まで、この列車はとまらないんだ」
「そうですね」
亀井は、一瞬、ぽかんとした表情をしたが、すぐ、「あッ」という声を出した。
「青木が、どこでおろされたのかということが問題になりますね」
「そうだよ。青木が、何者かに〈はやぶさ〉からおろされたとすれば、『三ノ宮』の次の『糸崎』しか考えられないが、その時刻は、午前三時三十五分なんだ。ここで青木をおろし、一時間十五分おくれて来る〈富士〉に乗せたとしたら、その時点ですでに五時になってしまう。第一、『糸崎』は『倉敷』の十二も先だ。『倉敷』を通過するのを見たというのが事実なら、その手前で〈富士〉に乗せられたはずだが、〈はやぶさ〉は、『倉敷』の手前では停まらないんだ」
「なるほど」
と、亀井は、肯いたが、ちょっと考えてから、
「誰かが、非常ブレーキの紐を引いて、『三ノ宮』と『倉敷』の間で〈はやぶさ〉を臨時停車させて、青木をおろしたんじゃないでしょうか?」
「臨時停車か」
「そうです。つまり、姫路か岡山で、強引に臨時停車させれば、『倉敷』の前で、青木を〈はやぶさ〉からおろせるはずです」
「残念だが、それは駄目だよ。カメさん」
「なぜですか?〈はやぶさ〉は、あの日、どこにも臨時停車しなかったんですか?」
「それは確かめてないがね。今度は、〈富士〉の時刻表を見てみたまえ。〈富士〉のほうは、名古屋から福山まで停車しないんだ。もちろん、姫路にも、岡山にも停まらない。何者かが、非常ブレーキの紐を引いて、姫路か岡山で、〈はやぶさ〉を停めて青木をおろしたとしても、今度は、〈富士〉には乗せられないんだ。まあ、〈富士〉も臨時停車したとなれば、乗せられるかもしれないが、二つのブルートレインが、一日のうちに、同じ駅で臨時停車したとなれば、当然、ニュースになって、新聞に出るはずだよ。ところが、そんなニュースは、どこにも出ていない」
「すると、青木が嘘をついたことになりますね?」
「少なくとも、彼がいっているのが、でたらめだということだけは確かだよ」
「それに、多摩川の仏さんが、ブルートレインの女だった可能性も、これで消えたんじゃありませんか」と、亀井がいった。
「青木は、『三ノ宮』まで、8号室に異常がなかったといっているわけでしょう。そして、〈はやぶさ〉は、『糸崎』まで停まりません。『糸崎』着は、三時三十五分です。多摩川の仏さんの死亡推定時刻は、確か二十八日の午前二時から三時までの間でしたから、時間が合いません。犯人が、ブルートレインの女を、『糸崎』でおろしてから殺したとすれば、三時三十五分以後になってしまいますから」
「今、どこを走っている?」
「は?」
「この電車だよ。新橋あたりかな?」
「次は、田町らしいです」
「おりよう」
「どこへ行かれるんですか? 神田へ引き返して、もう一度、青木に会われますか?」
「会う前に、東京駅へ行きたいんだ。今、四時九分だ。今から行けば、ホームに入っている下り〈はやぶさ〉が見られるだろうからね」
午後四時四十五分発の下り〈はやぶさ〉は、すでに十三番線ホームに入っていた。
相変わらず、カメラや、録音機を持った少年たちが、ホームにあふれている。中年の男も混じっていた。
「大変なマニアの数ですね」
と、亀井が、笑っている。
「君の子供も、ブルートレインのファンなんだろう?」
「そうなんです。まだ、学校をさぼって、写真を撮りに行くほどじゃないようなんで、安心はしているんですが」
二人は、先頭の個室寝台車まで歩いて行った。
新婚らしいカップルが、青い車体の前で、記念写真を撮っている。この〈はやぶさ〉で、鹿児島へでも行くのだろうか。
車掌長が来たので、十津川のほうから声をかけた。
「警察の者ですが、個室寝台(コンパートメント)を見せてもらえませんか」
「ブルートレインで旅行なさるんですか?」
「そのうちに乗りたいと思っています。今日も、個室寝台は満席ですか?」
「おかげさまで」
「じゃあ、のぞくのは悪いかな」
「2号室のお客は、名古屋からお乗りですから、かまいませんよ」
車掌長が先に立って、1号車の通路へ入って行った。
「さっき、新婚らしいカップルを見ましたが」と、亀井が、歩きながら、車掌長にいった。
「カップルで、ブルートレインに乗ることもあるわけですか?」
「ときどき、そういう方もございますよ」
「しかし、個室寝台の場合、夜は一緒というわけにはいかんでしょう?」
「建前はそうなっていますが」と、車掌長は笑った。
「ときどき、部屋の中で、男と女の話し声が聞こえてくることもございます」
「そんなときは、どうするんですか?」
「気をきかせて、通り過ぎることにしております」
「なるほど」
と、亀井が、微笑した。
2号室を開けてもらい、十津川と亀井は、中に入った。
狭いが、機能的に出来ていると思いながら、十津川は、室内を見回した。
「洗面はどこで?」
と、十津川がきくと、車掌長が、窓際のテーブルの蓋を開けた。
その下が、洗面器になっていて、冷水と温水が出る二つの蛇口がある。栓をして、水を溜めれば、楽に顔を洗える大きさだった。
十津川は、蛇口をひねってみた。勢いよく水が出てきた。
「これだよ」
と、十津川が、亀井を振り返った。
「何がですか?」
「水さ。多摩川の仏さんの肺の中に入っていた水だ」
「そこに、女の顔を、押しつけて殺したということですか?」
「多分ね。走行中の〈はやぶさ〉の中で殺したのなら、犯人がどこでおろそうと、午前二時から三時の間に殺せるはずだよ」
「何か事件でも?」
と、車掌長が、心配した顔できいた。
「この水は、水道の水と同じですか?」
十津川が、逆にきいた。
「東京駅で給水するのは、東京の水道の水です」
「もう一つ。二十七日の下り〈はやぶさ〉と同じ日の下り〈富士〉が、山陽本線を走っているとき、臨時停車したという話を聞いたことはありませんか?」
「いや。そんな話は、聞いていませんよ」
「ありがとう。助かりました」
十津川は、亀井を促して、列車をおりると、
「青木には、僕が会ってくる。君は、すぐ捜査本部に戻ってくれ」
と、亀井にいった。
「被害者の肺に入っていた水と、水道の水の比較検査ですね」
「そうだ。大学病院に頼めばやってくれるだろう」
その日の夜遅くなって、大学病院から、被害者の肺の中にあった水と、水道の水の水質は同じものだという報告が届いた。
十津川の予想したとおりだったのだが、それが、ただちに事件解明のキーになるわけではなかった。
時刻表から、被害者とブルートレインの女は別人という結論が出かかった。それに、待ったをかける効果があっただけのことである。まだ、同一人の可能性は残った。それが、果たして、進展といえるだろうか?
高田法律事務所には、伊東たち二人の刑事が張り込んでいるが、高田が戻って来たという報告は入らない。
被害者の身元は、いぜんとして不明。
元山田印刷の工員、高梨一彦の行方もわからないままである。
「コーヒーをいれましょうか」
と、亀井が、声をかけてきた。
「頼むよ」
十津川は、眼をこすった。
亀井は、インスタントコーヒーを注いでくれてから、
「青木は、何といっていました?」
「顔色を変えて怒り出したよ。何といおうと、自分が、睡眠薬で眠らされ、〈はやぶさ〉から〈富士〉に乗せかえられたのは、事実だというのさ」
「強情な男ですね。砂糖は?」
「ブラックでいいよ」
十津川は、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
これで、少しは眠気がさめてくれるだろう。
かすかに、雨音が聞こえた。午後から、どんよりと重い曇り空になっていたが、とうとう降り出したらしい。久しぶりの雨だった。関東地方は雨でも、渇水で困っている東海地方は、相変わらず、降らないらしい。
十津川は、この雨の中にいる犯人のことを考える。男か女が、老人なのか若者なのかも、まだわからないが、ばくぜんとした一つの黒い形として、十津川の脳裡に浮かんでいる。その黒い影は、ときとして一つであり、また、複数になったりもする。
犯人は、今、どうしているだろう? 一つ確かなことは、新聞やテレビの事件の報道を、一喜一憂しながら見ているだろうということである。まだ、女の身元が割れないことには、ほっとしているだろう。しかし、警察の追及によって、いずれは、身元が確認されることも覚悟していよう。
この雨の中で、逃げることを考えているだろうか。それとも、平然と、日常生活を続けているだろうか。
十津川は、窓のところへ行き、夜の闇に、銀色に光って走る雨足を眺めた。
アパートの狭い部屋で、じめじめと降り続く雨を見ているうちに、自分が嫌になって自首して来た殺人犯がいた。二十歳を出たばかりの若い男で、恋人と詰まらないことで喧嘩し、かッとなって殴り殺したうえ、車で、近郊の山へ埋めたのである。
「カメさんは、今度の事件の犯人を、どんな人間だと思うね?」
十津川は、雨足に眼をやったまま、亀井に話しかけた。
「顔見知りの若い男ではないかと、考えているんですが」
と、亀井が、いった。
「なぜ、そう考えるのかね?」
「ハンドバッグから財布がなくなっていました。それだけなら物盗りの犯行にも見えますが、流しの物盗りなら、ハンドバッグとも持ち去るでしょうし、高価な腕時計をそのままにしてあったのも変です。痴漢が殺したということも考えられません。暴行の形跡も、暴行しようとした気配もありませんからね。第一、被害者は、他の場所で溺死させられ、多摩川まで運ばれています。流しの犯行なら、そんな面倒なことはしないでしょう。運んで捨てるというのは、犯行現場をかくすためか、自分の家の近くに死体を置きたくないという犯人の心理の表われです。したがって、顔見知りの人間の犯行と、私は考えます」
「そこまでは賛成だな。犯人が男だというのは、なぜだい?」
「被害者は若くて、女性としては大柄なほうです。犯人は、多分、水道の水を一杯にした水溜まりか、洗面器に被害者の顔を押しつけて殺したと思いますが、かなり力が強くなければ出来ないことです」
「だから、若い男ということかい?」
「そうです」
「しかし、最近は、家庭の主婦が、美容と健康のために、ウエイト・リフティングをやる時代だからね。女性も力が強くなったよ」
「警部は、犯人が女だと、お考えですか?」
「いや。そうはいっていない。ただ、今度の事件では、どうしても、犯人像がはっきり浮かんで来ないんだ」
十津川は、いぜんとして、窓の外に眼を向けたままの姿勢でいった。もっと降ってくれたらいいのに、雨は、もうあがってしまったようだ。
犯人の憎しみをそのまま示すように、顔や身体を十数カ所も刺された若い男の死体を見たことがある。こんな事件の場合は、はっきりと犯人像が浮かんでくる。
だが、今度の事件の場合、犯人の意志が、どこにあるのか、まだつかめない。したがって、はっきりした犯人像が浮かんで来ないのだ。
ふいに、けたたましいサイレンの音がして、窓の下の道路を、白い救急車が走り抜けて行った。
「僕は、どうしても、下り〈はやぶさ〉のことが気になってね」
「青木記者の証言ですか?」
「そうだ。もし、彼の証言が正しければ、被害者は、ブルートレインの女ということになるからね」
「しかし、警部。被害者がブルートレインの女である可能性は、小さくなったんじゃありませんか。それに、青木の話が不自然なことも」
「確かにそうなんだがねえ。どうしても気になるんだよ」
下り〈はやぶさ〉から、同じ下り〈富士〉に乗りかえさせられたという話がでたらめだとすると、青木は、なぜ、そんな馬鹿馬鹿しい話をしたのだろうか?
殺人事件の捜査に来た警官に対して、あんなとっぴな嘘をついて、青木に、どんな得があるというのか。
といって、もし、青木の話が事実だとすると、今度は、そんなことをした犯人の目的がよくわからなくなる。
女をブルートレインの中で目撃されたことで、青木をそんな目にあわせたのだとしたら、なぜ、殺してしまわなかったのだろうか?
(どうしても、もう一度、青木の話を聞く必要がありそうだな)
と、十津川は思った。
第四章 運転停車
「今夜、もう一度、ブルートレインに乗らせてください」
青木は、翌三十日、出社するなり、編集長の宮下に頼んだ。
宮下は、まだ頭の包帯のとれない青木の顔を、じろりと見上げた。
「記事は書けたのか?」
「記事を書くために、どうしても、もう一度ブルートレインに乗りたいんです」
「そうしないと、記事が書けないとでもいうのかね?」
「いい記事は書けません」
「どういう意味だい? そりゃあ」
「読者が喜ぶような面白い記事が必要なんでしょう?」
「当たり前のことを聞くな」
「当たり障りのないブルートレイン体験記なら、今すぐにでも書けますよ。しかし、僕は、ひょっとすると、殺人事件に巻き込まれたのかもしれないんです」
「君が頭を割られたことかい?」
「僕のことじゃありません。多摩川で見つかった若い女の溺死体のことです。彼女は、僕がブルートレインで知り合った女の可能性があるんです。もし、同じ女だとなれば、面白い記事が書けますよ。何しろ僕は、殺される直前の彼女と言葉を交わしたわけですからね」
「しかし、同じ女だという証拠はあるのかね?」
「それを見つけるために、もう一度、下り〈はやぶさ〉に乗りたいんです」
「乗れば見つかるのかい?」
「必ず見つけてみせますよ。見つけて、警察を出し抜いてやりたいんです」
「警察は、君の話を信じないのかね?」
「ぜんぜん。物理的に不可能だというんです。そんな警察の鼻をあかせてやりたいんです」
青木は、勢い込んでいった。興奮して、顔が赤くなっている。
宮下は、そんな青木の顔を笑いながら見ていたが、
「もし、肝心の証拠が見つからず、面白い記事が書けなかったら、旅費は、君が持つんだ」
「じゃあ、行かせてもらえるんですね」
青木が、眼を輝かせた。
宮下は、ニヤッと笑って、
「駄目だといったら、君は、休みをとって、勝手に行っちまうんだろう?」
「まあ、そうです」
青木も、クスッと笑った。
青木は、さっそく、切符を買いに神田駅に出かけた。
人気のある個室寝台のほうは、本日分は売り切れてしまっていたので、やむを得ず、B寝台の切符を買った。
三日前の三月二十七日と同じように、午後四時に東京駅に着いた。個室寝台(コンパートメント)はとれなかったが、その他は、すべてあの日と同じように行動してみようと考えたのである。
〈はやぶさ〉の青い車体は、あの日と同じように、十三番線ホームに優雅な姿を横たえていた。
相変わらず、カメラや録音機を持った少年たちが、ホームをわが物顔に走り回っている。
あの日と同じような顔がいるのは、常連がいるのだろう。
青木も、彼らの中に入って、ホームの〈はやぶさ〉にカメラを向けた。個室寝台の1号車まで行ってみたが、もちろん、あの女の姿はなかった。
定刻の四時四十五分に、〈はやぶさ〉は、ゆっくりと、東京駅を離れた。
青木は、しばらくの間、1号車の通路に立ち、窓の外に流れて行く景色を眺めていた。
他にも、二人の若者が、窓に顔を寄せて、外を見ている。その一人が、8ミリ撮影機を持っているところをみると、いい景色にぶつかったら、レンズを向ける気でいるのだろう。そういえば、二十七日も、8ミリを持った若者が乗っていた。
静岡を過ぎたところで、あの日と同じように、食堂車へ歩いて行った。
同じテーブルに着き、ビールと関門定食を注文する。どうでもいいことかもしれなかったが、できるだけ、同じように動きたかったのだ。
だが、今、青木の眼の前に座っているのは、ピンクのワンピースを着た若い女ではなく、子供連れの若い夫婦だった。彼が食事を終わるころになっても、紺のダブルを着た弁護士は、食堂車に入って来なかった。
しかし、列車は、あの日と全く同じ几帳面さで、夜の闇を切り裂いて、走り続けている。
岐阜 二二時〇二分
京都 二三時三四分
大阪 〇時〇八分
時刻表どおりに、〈はやぶさ〉は、停車し、また走り出す。
大阪駅には、あの三人組が、また来ていた。相変わらず、野球帽をかぶり、ピッカリコニカを持っている。
青木は、降りて「がんばれよ」と、声をかけたくなった。
〇時三十六分に、『三ノ宮』に着いた。
青木は、6号車の下段寝台で、腕時計を見ていた。
この次は、時刻表によると、三時三十五分の『糸崎」である。その間にある四十四の駅を、この〈はやぶさ〉は、通過してしまう。
しかし、それでは、午前四時五分に、青木が、〈富士〉に乗っていることは不可能なのだ。それだけではない。多摩川の溺死体が、〈はやぶさ〉に乗っていたあの女である可能性も消えてしまう。
上段の寝台に乗っている中年の男は、もう大きないびきを立てている。
いつもなら、ウイスキーのポケットびんを空にしているころだが、今日はその気になれず、寝台からおり、ドアのところまで歩いて行って、煙草に火をつけた。
あの日の体験が夢でなく、現実のものなら、『糸崎』までの間のどこかで、〈はやぶさ〉は停車しなければならない。
青木は、ドアに寄りかかり、小型の時刻表を開いた。昨日から、時刻表に何度、眼を通したろう。だが、何度見直しても同じだった。『三ノ宮』の次は、『糸崎』まで停まらないのだ。その間の駅には、すべて、通過の印である「レ」がついている。
(しかし、この列車は、停車するはずだ)
と、青木は、信じた。そうでなければ、あの奇妙な体験が、夢物語になってしまう。
青木は、時刻表をコートのポケットに突っ込み、じっと、夜の闇に眼をこらした。
午前一時を過ぎて、『姫路』駅を通過した。
だが、列車は、停まらない。
眠気をさますために、青木は、煙草を吸い続けた。
午前二時を過ぎた。〈はやぶさ〉は、眠くなるような単調さで走り続けている。まるで、停車することを拒否しているような走り方だ。
(このまま、『糸崎』まで停車しなかったら、どうなるのだろうか?)
と、青木が考えたとき、急に、列車のスピードが落ちた。
夜の闇の中を、流れ去っていく遠くの明かりが、急に、動かなくなったように見えた。
明らかに、列車が減速したのだ。
(赤信号で停まるのかな?)
と、思っているうちに、駅の明かりが見えて来た。
列車のスピードが、さらに落ちる。
白っぽいホームが、ゆっくりと近づいて来た。がくんとひとゆれして、青木の乗った下り〈はやぶさ〉が停まった。
青木は、ホームに書かれた駅名を凝視した。
『岡山』
と、そこには書いてあった。腕時計を見る。午前二時二十五分を指していた。
青木の眼が輝いた。
時刻表には出ていないが、『岡山』で、下り〈はやぶさ〉は、停まったのだ。
だが、ドアが開かないし、乗客の乗り降りする気配はない。
何か事故で停まったのだろうか?
青木は、ドアのところにいた車掌をつかまえて、
「なぜ、停まったんですか?」
と、きいてみた。
車掌は、窓の外のホームに眼を走らせてから、
「運転停車です」
「何ですか? それは」
「ここで、機関士の交代と、荷物の積みおろし、それに、給水をやります。そのための停車ですから、乗客の方の乗り降りはありません」
「いつも、下り〈はやぶさ〉は、岡山で停車するんですか? つまり、運転停車を」
「ええ、二時二十五分に、停まりますよ」
「ここで、僕をおろしてくれませんか」
「ここで?」
「ええ。ぜひ、おりたいんです」
「しかし、運転停車で、乗客の方の乗り降りはしないことになっていますから……」
「気分が悪いんです」
「え?」
「さっきから、胸がむかつきましてね。お願いだから降ろしてくれませんか? ホームに降りて、しばらく風に当たっていれば、治ると思うんです」
青木は、わざと身体を折るようにして、車掌にいった。
「しかし、午前二時ですよ」
「わかっています。とにかく降ろしてくれませんか。吐きそうなんです」
「わかりました。降りたら、駅員にいって、薬を貰うといいですね」
車掌は、親切にいい、ドアを開けて、青木を降ろしてくれた。
青木は、人の気配のないホームへ降りた。
機関士の交代や、荷物の積み下ろしを終わった、下り〈はやぶさ〉は、青木が降りるとほとんど同時に、動き出した。
(下り〈はやぶさ〉は、岡山に停まるんだ)
青木は、あらためて、自分にいい聞かせながら、列車のテールランプが、闇の中に消えるのを見送った。
青木は、改札口を出ると、終夜開放の待合室に入って、夜明けを待った。
乗客のいない深夜の駅構内は、死んだように静かである。
青木は、黄色い電話機を見つけ、ポケットにある百円玉を全部投げ込んで、東京の捜査本部にかけた。自分が発見したことを、十津川警部に知らせたかったのだ。
「僕が、今、どこにいるかわかりますか?」
と青木は電話口に出た十津川にいった。
十津川がわからないという。
「岡山駅ですよ。下り〈はやぶさ〉は、岡山に停まるんです。多分、僕も、ここで降ろされたんだと思いますね。それは、これから調べてみるつもりですが、これで、多摩川の女と、ブルートレインの女と同一人の可能性が強くなったんじゃありませんか」
青木は、自分のいいたいことだけいって、電話を切った。
受話器を置いてから、あらためて、深夜の駅構内を見回した。
たった一つだけ、窓口が開いていて、そのことが、一見眠っているように見えるこの駅が、実際には、生きていることを示しているように見えた。
待合室には、中年の男が二人、いびきをたてて寝込んでいる。
どんな男たちなのか、青木には見当がつかなかった。
離れて眠っているので、知り合いではないらしい。身なりもきちんとしていて、浮浪者には見えなかった。始発の列車でも待っているのだろうか。
青木は、この駅で、〈はやぶさ〉が停車することを知った。その興奮がまださめず、とうてい眠れる状態ではなかった。
椅子に腰を下ろし、煙草に火をつける。螢光灯の青白い明かりの中を、白い煙が立ちのぼっていく。
何本、煙草を灰にしたろう。トイレにも、何度か行った。
午前四時近くに、〈富士〉が、ホームに停車した。腕時計を見ると、午前三時四十一分である。やはり、〈富士〉も、〈はやぶさ〉と同じく、この岡山駅に運転停車するのだ。
やっと、周囲が明るくなってきた。
サラリーマン風の男たちが、足音を立てて構内に入ってくる。岡山からは、新幹線〈こだま〉の上りと下り両方の始発が出るから、それに乗るのだろうか。
改札係が姿を見せ、閉まっていた改札口を開ける。窓口も、次々に開いていく。
眠っていた駅が、起きて、活動を始めたのだ。待合室で眠りこけていた二人の男は、いつの間にか、姿を消していた。
乗客の姿が、どんどん多くなる。朝のラッシュが始まったのだ。
青木は、駅長に会って名刺を渡し、協力を頼んだ。
小柄で、度の強い眼鏡をかけた駅長は、明らかに、青木の話に興味を示した。
すぐ、二十八日の早朝、下り〈はやぶさ〉から、荷物の積みおろしをした小田という若い駅員を、呼んでくれた。
二十五、六歳の太った男だった。制服が、はちきれそうだ。
「二十八日の午前二時二十五分に、下り〈はやぶさ〉が、ここへ運転停車しましたね」
と、青木は、小田に話しかけた。
「ええ。いつものとおりにね」
小田は、身体に似合わない、やや女性的な声を出した。
「そのとき、列車から乗客が、おりたはずなんだけど、覚えていませんか?」
「ええと……」
と、小田は、ちょっと考えていたが、
「そういえば、二人おりたのを見ましたよ」
「個室寝台のある1号車からでしたか?」
「いや。真ん中あたりの客車だったなあ。だから、6号車ぐらいだと思いますよ」
「その二人というのは、どんな連中でした?」
「僕は、荷物車のところで働いていましたからね。遠くから見たんで、顔立ちまではわからなかったけど、男が二人でしたよ。一人がもう一人を担ぐようにしていましたね。片方は、酔っ払ってたのかな。ぐったりとしていましたよ。列車からおりてくると、ホームのベンチに腰をおろして、動かなかったですね」
「二人の服装は?」
「二人とも、コートを着ていましたよ。今、あなたが着ているみたいなコートです。それから、正体のない男のほうは、帽子をかぶっていましたね」
「帽子?」
「庇の深い帽子です。何というのかなあ、あの帽子は。あれじゃあ、顔はよく見えませんね」
「もう一人のほうは、帽子は、かぶっていましたか?」
「身体を支えているほうは、サングラスをかけていましたね」
「荷物は?」
「元気なほうが、ボストンバッグと、ショルダーを持っていました。片方は、正体のないほうの荷物じゃなかったですかねえ」
「ホームのベンチに腰を下ろしてから、その二人が、どうしたか覚えていませんか?」
「僕は、荷物の積みおろしを終えると、その荷物を、ホームから運び出さなきゃなりませんからね。そのあと、どうしたかは、わかりませんね。ただ、下り〈はやぶさ〉が発車するときには、その二人が、ベンチで休んでいたことだけは確かですよ。可哀そうに、あの二人は、置き去りになっちまったんです。多分、友人が、悪酔いしてしまったんで、もう一人が、ホームへおろしたんじゃないですか」
「元気なほうの身体つきなんかは、覚えていませんか?」
「遠くからだから、はっきりはしないけど、がっちりした体格をしていたような気がするな」
「下り〈富士〉も、ここで運転停車するんですか?」
「同じです。ここで、機関士、機関助手の交代と、荷物の積み下ろし、それに、給水をやります」
と、いったのは、駅長だった。
「小田さんは、〈富士〉が停車したときも、荷物の積み下ろしをなさったわけですね?」
「ええ。それが仕事ですからね」
小田は、肩をすくめるようにしていった。あまり、今の仕事が好きでないのか、それとも、照れているのか、どちらかわからなかった。
「そのとき、例の二人は、ホームにいましたか?」
「さあ。停車時間が短くて、忙しい仕事ですからね。いたかどうか、記憶にないなあ。いたかもしれないけど」
「荷物車というのは、電気機関車の次に連結されているんでしたね?」
「機関車の次が電源車ですが、電源車の後ろ半分が荷物車です」
「すると、ホームの一番前のほうで作業をしていたわけですね?」
「そうなりますね」
「その場合、後部の車両に、例の二人が乗り込んだとしても、気がつかない場合が、あり得るんじゃないですか?」
「そりゃあ、荷物の積み下ろしの仕事をやっていましたからね。他の車両のことや、ホームの後ろのほうのことはわかりませんね。ホームは長いし、客車が十三両、機関車、荷物車なんかを入れれば、十五両編成ですからね。当然でしょう」
小田は怒ったような声を出した。
その答えに青木は、満足した。
間違いなく、自分は、〈富士〉に乗せられたのだ。
倉敷を通過したとき、青木の腕時計は、午前四時二分を指していた。『岡山』が、午前三時四十一分なら、ぴったりと符合する。
なぜ、〈はやぶさ〉からおろし、一時間十五分おくれの〈富士〉に乗せたのか? その理由ははっきりしていると、青木は思った。
青木は、たまたま、ブルートレインの取材で、三月二十七日、下り〈はやぶさ〉に乗り込み、同じ1号車に乗っていたあの女の写真を撮ったり、話しかけたりした。
彼女を殺すつもりで、〈はやぶさ〉に乗っていた犯人がそんな青木が邪魔になった。
そこで、彼の持参したウイスキーびんに睡眠薬を投入し、彼を眠らせておいて、岡山駅でおろした。
犯人は、少なくとも、男女二人はいたはずだと、青木は考えた。
青木を、担ぐようにして、岡山駅でおろした男と、あの女そっくりの服装で、8号室におさまり、いかにも、西鹿児島まで無事で行き、終着駅でおりたと見せかけた女の二人である。
男は、岡山駅でおろした青木を、さらに、下り〈富士〉に乗せた。しかも、〈はやぶさ〉と同じ個室寝台の7号室に放り込んだ。
男が、なぜ、そんな面倒な真似をしたか、その理由も、青木には、わかったような気がした。
眠っている青木を、岡山駅に放り出したままにしておいたのでは、〈はやぶさ〉で、何かあったと勘ぐられてしまう。山の中に放り出しても同じだ。
青木に、何もなかったと思わせる方法は、一つしかない。終着西鹿児島に、無事に着かせ、しかも、〈はやぶさ〉に乗って着いたと思わせるのだ。
だが、本物の〈はやぶさ〉には乗せられない。そこでは、あの女を殺さなければならないのだ。
そこで、青木を、〈富士〉の個室寝台車に乗せたに違いない。
なぜ、〈富士〉に乗せたのか。
理由は二つある。
一つは、〈はやぶさ〉と〈富士〉は、列車編成が全く同じだということだ。
機関車――荷物車――個室寝台車(一両)――B寝台車(六両)――食堂車――B寝台車(五両)
これが、〈はやぶさ〉の列車編成だが、〈富士〉の編成は、これと全く同じである。
第二は、〈はやぶさ〉と〈富士〉の行く先が、同じ西鹿児島だということだ。
東京から九州へ行くブルートレインは、他にも、四列車ある。
〈さくら〉と〈みずほ〉には、個室寝台車がない。
〈あさかぜ1号〉には、個室寝台車があるが、博多までしか行かない。
すべてが同じ列車というのは、〈はやぶさ〉と〈富士〉の二列車しかない。〈はやぶさ〉〈富士〉という愛称は、機関車の前面と、列車の側面と最後尾にしか書かれていなくて、列車に乗っている限り、どちらに乗っているかわからないのだ。
九州に入ってから、〈はやぶさ〉は、鹿児島本線を通り、〈富士〉は、日豊本線を通るが、終着駅は、どちらも西鹿児島駅である。
西鹿児島駅まで、ぐっすりと眠り込み、列車が着いて、あわてておりたとすれば、自分が乗って来た列車が、〈はやぶさ〉か〈富士〉か、すぐには区別がつくまい。酔いが残っていればなおさらだし、時間がたち過ぎていても、眠っている間に、何か事故があって、列車が遅れたのだろうと勝手に解釈するのではないか。
犯人は、そう考えたに違いない。
〈富士〉に乗せたあと、睡眠薬の力で、終着駅、西鹿児島まで起きないと、犯人は計算したと思う。ところが、計算違いで、青木は眼を覚ましてしまった。
それでも、青木は、しばらくの間、自分が〈はやぶさ〉に乗っているものと信じていた。もし、あのとき、通路に出ず、そのまま、寝台に横になっていたら、西鹿児島まで、気がつかなかったかもしれない。〈はやぶさ〉に乗っているのだという先入観は、なかなか、消えはしないからだ。
夜明けとともに、車内放送が始まるが、乗客は、ほとんど、車内放送には関心を示さないものだ。特に、終点まで行く乗客は、車内放送に注意する必要は、あまりないのだから。
だが、通路に出て、彼は、8号室から、中年女が出て来たり、『倉敷』を通過するときに午前四時を過ぎていたりするのを見て、怪しみ出し、自分が、いつの間にか〈富士〉に乗せられているのに気がついた。
それを、車掌に告げようとしたとき、犯人に殴打され、門司駅のホームに放り出されたのだ。
犯人は、自分の計画が失敗したのを知った。青木を欺すことに失敗したことに気がついた。それだけではない。もし、先行する〈はやぶさ〉で、何か事件が起きていると連絡されたら困る。そこで、殴打して、青木を気絶させたのだ。
殴打してしまった以上、西鹿児島まで連れて行く必要はない。だから、門司駅で放り出した。門司駅は九州の入口で、乗降客が多い。ぐったりした青木を、怪しまれずにホームにおろすのが楽だったから、この駅を使ったに違いない。
(犯人は、誰だろうか?)
高田と名乗った弁護士か。それとも、別の人間か。とにかく、犯人が、最初、〈はやぶさ〉に乗っていたことだけは確かだ。
「青木――さん?」
と、駅長に呼ばれて、青木は、われに返った。
駅長と、小田が、いぶかしげに、青木を見つめている。
「どうかされましたか?」
駅長が、青木の顔をのぞき込んだ。青木は、あわてて、首を横に振った。
「いや。大変参考になりました。これで、面白い記事が書けそうです」
銀座の高田法律事務所に張り込んでいた吹田警部補から、捜査本部に連絡が入ったのは、その日の午後になってからだった。
「今、高田弁護士が現われました。ボストンバッグを持っているところをみると、自宅には寄らず、直接ここに帰って来たようです」
吹田が、緊張した声でいう。
「ひとりかね?」
「ひとりです。どうしますか?」
「まず、一緒に病院に行って、被害者の遺体確認をしてもらうんだ。そのあと、こちらへ来てもらってくれ。いいか。丁寧に頼めよ。向こうさんは、れっきとした弁護士さんだし、容疑者じゃないんだからな」
と、十津川はいった。
弁護士の高田が、病院に回ってから、捜査本部に姿を見せたのは、それから約二時間後だった。
十津川は、立って出迎えた。
青木は、高田が紺のダブルを着ていたといっていたが、事務所で着かえたのか、今は、うすいセーターに、カジュアルスーツという軽装だった。
頭の切れる少壮弁護士という感じだった。
(敵に回すと、手強そうだな)
と、十津川は、値ぶみしながら、相手に椅子をすすめた。
「遺体は、どうでした? ブルートレインでお会いになった女性ですか?」
「よく似てはいましたね」
高田は、そんないい方をしてから、十津川に断わって、煙草を取り出した。
「それは、似ているが、違うということですか?」
十津川は、高田の顔を、まっすぐに見てきいた。
高田は、ケントに火をつけ、十津川の質問をはぐらかすように、煙を吐いた。
「どうですか? 別人だと思われるわけですか?」
と、十津川は、重ねてきいた。
高田は、微笑した。
「私は、事実だけを重視する主義でしてね」
「具体的にいってくれませんか」
「私は、三月二十七日に、下り〈はやぶさ〉に乗り、そこで、美人に出会いました。魅力のある女性でしたから、強く印象に残っています。服装も、よく覚えていますよ。〈はやぶさ〉は、西鹿児島が終着駅で、私は、そこでおりたわけですが、西鹿児島で、彼女がおりるのを見ています。それが事実です。したがって、さっき見せられた遺体は、よく似ていますが、別人と考えざるを得ませんね」
「青木という週刊誌の記者のことを、覚えておられますか?」
「青木? ああ、覚えていますよ。名刺を貰ったはずなんだが……」
「彼が食堂車に忘れたカメラを、レジに届けておかれたそうですね?」
「ああ、そんなこともありましたね」
「青木記者は、カメラが戻ったのは嬉しいが、いつの間にか、装填しておいたフィルムが抜き取られていたと憤慨していましたよ」
「まさか、私が、抜き取ったというんじゃありますまいな?」
高田は、面白そうに笑っている。
「青木記者は、あなたを疑っているようですよ」
「困りましたね。私には、そんなことをしなければならない理由がありませんよ」
「彼にいわせると、彼女の写真を撮ったので、そのフィルムを抜き取られたのだということでしたがね」
「私が、ジェラシーから、そんなことをしたというんですか」
高田は、また、面白そうに笑った。
「そうはいっていませんがね。青木記者は、遺体を見て、ブルートレインの女に間違いないと証言しています」
「なるほど」
「なるほどというのは?」
「よく似ているから、無理もないということです。しかし、あの記者さんは、いつの間にかいなくなってしまいましてね。西鹿児島で、もう一度話し合いたいと思って、改札口のところで待っていたんですがね。とうとう現われませんでしたよ。途中でおりてしまったのかな。もし、西鹿児島まで行って、彼女がおりるのを見ていたら、あの遺体が、よく似ているが、別人だとわかったんじゃないですか」
「青木記者は、何者かに睡眠薬を飲まされ、岡山駅で、〈はやぶさ〉からおろされてしまったそうです」
「ほう」
「そのあと、一時間十五分おくれの〈富士〉に乗せられ、門司駅で、ホームに投げ出されていたのです」
「それは、何かの作り話ですか?」
「いや。事実です」
「しかし、刑事さん。誰が、何のために、そんな馬鹿なことをしますか? 一人の雑誌記者を、別の列車に乗せかえたりしたって、仕方がないでしょう?」
「理由は、われわれにもわかりませんが、どうやら、青木記者が、妙な目にあったことだけは事実のようですね。彼は、岡山駅に行って、確認しています」
「ちょっと待ってください」
「何ですか?」
「ブルートレインは、岡山駅には停まらないんじゃなかったですか? そんなふうに記憶していますがね」
「われわれも、時刻表を見て、そう考えましたがね。実際には、停車することを、青木記者が確認しました。運転停車といって、機関士の交代や、荷物の積みおろしのために停車するわけです」
「そうですか。それは新しい発見ですね。私は気がつかなかったな」
「〈はやぶさ〉が停車するのが、午前二時二十五分だから、眠っておられたんでしょう」
「なるほど。そうかもしれませんね」
「西鹿児島へは、休暇で行かれたんですか?」
「たまには、のんびりと、ひとり旅を楽しみたいと思いましてね。昨日まで、ひとりで、南九州を回って来ました」
「泊まったホテルなり旅館なりは、覚えていらっしゃいますか?」
「まさか、私が疑われているんじゃないでしょうね?」
高田は、笑いながらきいたが、十津川のほうは、ニコリともしないで、
「われわれは、多摩川で発見された死体は、ブルートレインの女だと考えています」
「それは、証拠でもあるんですか? 私には、信じられませんがね」
「状況証拠はありますよ」
「どんな状況証拠ですか? 聞かせてもらえませんか? 容疑者扱いされる以上、こちらには、当然、それを聞く権利があると思いますがね」
高田の顔から笑いが消え、挑戦的な表情になった。どちらが、この男の本当の顔なのだろうか、と、十津川は考えながら、
「被害者のハンドバッグに、青木記者の名刺が入っていました。彼は、〈はやぶさ〉の中で、8号室の女にあげたものだと証言しています」
「しかし、彼は、彼女にだけ名刺を渡したわけじゃないでしょう? 現に、私だって、貰っていますからね。だから、それだけじゃあ、同じ人物だと断定はできんでしょう。裁判だったら、証拠能力はゼロに近い」
高田は、また、挑戦的な眼つきをした。
なぜ、この弁護士は、やたらに挑戦的なポーズをとるのだろうか?
「なるほど。あなたの言葉にも一理ありますね」と、十津川は、逆らわずに肯いた。
「それで、九州での泊まり先を教えて頂けませんか」
「あなたは、強情な人だ」
高田は、肩をすくめて、クスクス笑った。
「どこにお泊まりでした?」
「いう必要を認めないね」
「なぜです?」
「多摩川の溺死体が、〈はやぶさ〉の個室寝台車に乗っていた女性だという証拠は、どこにもない。状況証拠すらないと、私は思う。つまり、私が殺人事件に関係しているという証拠は何一つないということですよ。それなのに、アリバイを立証しなければならないというのは、不可思議ですね。それに、もう一つ。個室寝台車には、私を含めて、十四人の乗客がいたし、B寝台の乗客を含めれば、四、五百人の数になる。その中で、私一人だけが、自分の行動について、いろいろと調べられなければならない理由はない。私が間違っていますか? 間違っているなら、私を逮捕なさい」
「いや。もうお帰りになって結構です」
高田が、肩をそびやかすようにして帰ってしまうと、若い吹田警部補が、むッとした顔で、
「いいたい放題をいいやがって」
と、舌打ちした。他の刑事たちも、不快な表情を隠していない。
十津川は、そんな刑事たちを見て、面白そうに微笑した。
「高田弁護士は、正論を述べただけだよ。別に怒ることはない」
「では、彼のいったことを、そのまま、認めるんですか?」
吹田が、噛みつくような顔で、十津川を見た。
「認めざるを得ないんじゃないかね。今のところ、高田のいうとおり、被害者がブルートレインの女だという証拠は、どこにもないんだ」
「しかし、周囲の状況は、同一人であることを示しているんじゃありませんか?」
「それも、高田のいうとおり、断定できる証拠とはいえないんだ」
「警部は、あのインチキ弁護士の意見に賛成なさるんですか?」
吹田が眼をむいた。
「まあ、落ち着けよ」と、十津川がいった。
「高田のいっていることは、理論的には正しいといっているだけのことだよ。だがね。高田が、むきになって、こちらのいうことに反発すればするほど、僕は、逆に、自分の推理に確信を持ったよ。僕には、まるで、彼が、多摩川の仏さんは、ブルートレインの女だと、むきになって主張しているように聞こえたんだ」
「本当ですか?」
「僕はね。高田が、こちらの意見に賛成したら、かえって迷ってしまったと思う。ひょっとしたら同一人かもしれないと高田がいったら、僕は、逆に、別人の可能性もあるんじゃないかと思ったかもしれない。考えてみたまえ。普通の人間なら、自分の乗っていたブルートレインで一緒だった女が、遠く離れた多摩川に溺死体で浮かんでいたという話は、興味を持つはずだ。それが事実だったら面白いだろうと思うのが、人情というものだ。ところが、高田は、最初から最後まで、別人だといい続けている。理屈としては正しくても、人間的に見ておかしいんだ」
十津川は、自信を持っていった。
吹田は、ほっとした顔になって、
「警部が、そう思われているのなら、安心なんですが」
「僕が、高田に丸めこまれたと思ったのかい?」
「あんまり、相手の言葉に肯かれているものですから、だんだん、不安になりまして」
「肯きながら、内心、高田こそ犯人ではないかと考えていたよ。今もいったように、彼の言葉は、論理的ではあるが、人間的ではなかったからさ。だから、高田に話を聞いたことは、非常にプラスだったよ」
十津川は、そんないい方をしてから、あらためて、部下の刑事たちの顔を見回した。
「恐らく、高田は、被害者が何者か知っていると思う。もちろん、正面からきいても、教えてくれはしないだろうがね」
「ということは、彼が犯人だということですか?」
と、きいたのは、吹田だった。
「それはまだわからん。だが、彼が事件に一役買っていることは確かだと思うよ。青木記者のカメラからフィルムを抜き取ったのも高田だろう。彼は、被害者が、ブルートレインの女と同一人だという証拠を消そうとし、同一人ではないと、われわれに信じさせようとした。つまり、それは、高田が、被害者のことを、よく知っている証拠じゃないかな」
「高田の交友関係を洗えば、その中に、多摩川の仏さんがいるとお考えですか?」
「かもしれないし、彼が手がけた事件の中にいるのかもしれない。とにかく、あの弁護士について、あらゆることを調べて欲しい。必ず、被害者が浮かび上がってくるはずだ」
十津川は、確信を持っていった。
吹田を先頭に、刑事たちが、捜査本部を飛び出して行った。
あとに残った亀井に、十津川は、
「武田大臣の名刺の件は、どうなってる? 何かわかったかね?」
と、きいた。
「高梨一彦という元印刷工の行方は、いぜんとして不明です」
と、亀井が答えた。
「その男が行方不明になってから、一年半だったかな? カメさん」
「例の五億円詐取事件の直後からですから、一年七カ月です」
「長いな」
「もう死んでいるのかもしれません。印刷会社の近くに喫茶店があって、そこの若いウエイトレスと仲が良かったのもわかりましたが、彼女にも、全く連絡がないそうです」
「死んだか、国外へ出てしまったということかな」
「高梨が、武田信大郎の名刺をなぜか余分に持っていて、それを悪用したのだとすると、その仲間から消されたという可能性もあるんじゃありませんか?」
「考えられないことじゃないな。問題は、君のいうように、高梨という印刷工が、武田信太郎の名刺を盗み出し、仲間とあの詐取事件を企んだのだとして、多摩川の仏さんが、なぜ、問題の名刺を持っていたかということだな」
「高梨の交友関係を洗ってみましたが、被害者のような美人はいませんでした」
「印刷工のほうからは、被害者の身元は割れずか」
十津川は、別に落胆はしなかった。高田弁護士の周辺を洗っていけば、身元が割れるのではないかという期待があったからである。
「ところで、明後日、武田大臣が、帰国します」
「そうだったな。もう三月も終わりなんだな」
それまでに、この事件を解決しておきたい気がするが、いまだに被害者の身元もわからないのでは、犯人を逮捕する自信は持てない。
「大臣に会われますか?」
と、亀井がきいた。
十津川は、「え?」ときき返してから、
「なぜ、僕が会わなきゃならないんだ? 政治家は苦手だよ」
「私は、当の本人が、あの詐取事件についてどんな感想を持っているか知りたいですね」
「ノーコメント」
「は?」
「当時の新聞を引っくり返してみたら、武田信太郎の談話というのが載っていたんだ。たった一言、ノーコメントとね」
「何とも、そっけないものですな」
「まあ、政治家の発言なんて、そんなものだよ。特に、あのころは、マスコミが、銀行や大会社からの政治献金を攻撃、批判していたからね。下手に喋って、揚げ足を取られるのを恐れたんだろう」
十津川にとって、あまり興味のないことだった。武田が、二年前の詐取事件を、どう考えていようと、今のところ、殺人事件には、何の関係もないだろう。
「これは、事件とは関係がないかもしれませんが」
と、亀井が、思い出したようにいった。
「何だい?」
「高梨ですが、前科があるのがわかりました」
「何をやったんだ?」
「傷害で、三カ月の刑を受けています。山田印刷に勤める一年前です」
「山田印刷では、そのことを知っていたのかね?」
「知っていたようです。社長は、更生保護司の肩書を持っているので、採用は、簡単に決まったようですが、もし、高梨が、詐取事件の犯人の一人だとすると、飼犬に手を噛まれた形になりますね」
「飼犬にか」
クスッと、十津川が笑ったのは、亀井刑事が、妙に古めかしい言葉を口にしたからだった。
青木は、新幹線で、岡山から帰京した。
岡山駅に降りて、青木は、一つの収穫を得た。彼の考えていたことが、事実だと立証されたのだ。少なくとも、青木は、そう考えた。
何者かが、青木に睡眠薬を飲ませ、注射までして、眠らせておき、岡山駅で、〈はやぶさ〉からおろし、一時間半おくれの〈富士〉に乗せかえたのだ。
〃殺人事件に巻き込まれたブルートレインの旅〃
この題で、面白い記事が書けそうだ。
岡山駅の駅長や、荷物の積みおろしをやった小田という若い駅員の談話は、テープレコーダーにとってきた。
あとは下り〈富士〉の車掌の話を聞くことが残っている。相手は、青木が騒いだことは、きっと覚えているだろう。あれだけ騒いだのだから、覚えているはずだ。個室寝台車の乗客の談話をとれればいいが、それは無理だろうと、青木は思っていた。ホテルの客と違って、乗客の住所が控えてあるわけではないからだ。
ブルートレインに乗車する車掌は、日によって、担当が違う。二十七日東京発の下り〈富士〉は、東京車掌区の四名の車掌が乗務したと聞いて、青木は、東京駅に着くと、丸ノ内北口、赤レンガの二階にある東京車掌区を訪れた。
「三月二十七日の下り〈富士〉の1号車に乗っていた車掌さんにお会いしたいんですが」
と、青木は、加藤という助役に頼んだ。
加藤は、「三月二十七日の下り〈富士〉ですか」と、おうむ返しにいい、日誌を取り出して調べていたが、
「1号車の車掌といいましたね?」
「ええ。個室寝台車に乗っていた車掌さんです」
「名前は、北原です」
「会って、お話を伺いたいんですが」
「どんなご用ですか?」
細い眼をした加藤は、なぜか、堅い表情を作った。
「実は三月二十七日の下り〈富士〉に乗って、1号車の車掌さんに、いろいろと親切にされたものですから、そのお礼を申しあげたくて」
「そうですか」
加藤は、また、おだやかな表情に戻った。その表情の変化に、青木は、疑問を感じて、
「何かあったんですか?」
「いや。別に」
「では、その北原さんに会わせて頂けませんか」
「車掌が、乗客の皆さんに親切にするのは当然のことですから。あなたがいらっしゃったことは、伝えておきますよ。ええと……」
「青木です」
彼は、社名の入った名刺を、相手に渡した。
「週刊誌の方ですか」
また、加藤の顔に、警戒の色が浮かんだ。これは、いったい何なんだろうか?
「北原さんは、今、どこにいらっしゃるんですか? また、下り〈富士〉に乗務しているんですか?」
「いや」
「じゃあ、休暇をとって……」
「週刊誌に書かれるわけですか?」
「親切にされたことは、書くつもりですが、いけませんか?」
「それはかまいませんが、北原君のプライバシーに触れることは書かないと約束してくれますか?」
「どういうことかわかりませんが、われわれは、プライバシーを傷つけるようなことは、いつでも記事にはしませんよ。北原さんが、事件でも起こされたんですか?」
「どうせ、わかることだから申し上げましょう。実は、昨夜おそく、北原君は死にました」
「死んだ? 本当ですか?」
「ちょうど、休暇中だったんですが、酔って深夜帰宅途中で、川に落ちて死亡したのです」
「川に落ちたんですか?」
「ええ。彼は向島に住んでいるんですが、酔って、隅田川沿いの高い堤防の上を歩いていたらしいんです。警察では、足を踏みはずして落ちたんだろうといっています。今朝になって、近くに泊まっていた舟に引っかかっているのを発見されましてね。人のいい男だったのに残念でなりません」
聞き終わって、青木は、どういって、よいかわからなくなった。
せっかく、証人になってもらおうと思い、勢い込んで来たのを、はぐらかされたような気もするし、同時に、北原という車掌の死に、何かあるのではないかという疑惑もわいてきた。
「そうすると、事故死ですか?」
「そうです。酒好きで、酔っていたから、堤防の上を歩くような危ないことをしたんだと思います」
「誰かに殺されたというようなことは、ありませんか?」
「そんな馬鹿なことがあるわけがないでしょう」
加藤は、憤然とした表情で、青木を睨んだ。ひどく、ぴりぴりしている感じだった。同僚が不慮の死を遂げたのだから、当然のことかもしれない。
「申しわけありません」
と、青木は、一応、頭を下げたものの、雑誌記者として、北原車掌の死を、そうですかと、ただ見過ごす気にはなれなかった。
(殺されたのではないか?)
という疑問が、自然に、わきあがってくるのを、止めることができない。多分、自分が、事件の渦中にいるからだろう。
「北原さんの住所を教えて頂けませんか?」
「何のためにです? 週刊誌の、ネタにするためにですか?」
「まさか」
「このところ、われわれ国鉄職員は、眼の仇にされていますからね。ストライキばかりしているくせに、サービスが悪いとか、親方日の丸の世界に安住しているとか、批判の矢面に立たされることが多いんです。今度も、酔って川に落ちたのは、たるんでる証拠だとか、こんな車掌に、乗客の生命が委せられるだろうかとか、書かれるに決まっている」
「僕は、そんなことはしませんよ。北原さんにいろいろとお世話になったので、できれば、ご焼香ぐらいしたいと思っただけのことです。実は、〈富士〉の車内で、ちょっと問題を起こしましてね。北原さんに助けて頂いたんです。北原さんの日誌に、そのことが書いてありませんでしたか?」
「いや。下り〈富士〉の乗務日誌には、何も書いてありませんでしたよ。問題といっても、日誌に書くようなものじゃなかったんじゃありませんか」
確かに、そのとおりかもしれなかった。あのとき、青木は、騒ぎ立てたが、他の乗客も、車掌も、あっけにとられた顔をしていただけだし、列車の違っていることに気がついた青木が、車掌にそれを話しに行こうとしたところを、何者かに殴られて気絶してしまったのだから、車掌は、何も知らなかったかもしれないのだ。
「そうかもしれません」
「じゃあ、日誌に書いてなくても、不思議はありませんね」
「あの下り〈富士〉ですが、個室寝台車の7号室は、どうなっていたか、ここでわかりますか?」
「どうなっていたかというと?」
「切符が売れていたか、それとも、あの部屋があいていたかということです」
「それが重要なんですか?」
「多分、重要だと思っています」
「個室寝台は、いつも満席のはずですがね。ここでは、その状況はよくわかりませんね」
「どこへ行けばわかりますか?」
「いいでしょう。こちらから、予約センターに問い合わせてみましょう」
加藤は、奥の電話を使って、しばらく聞き合わせていたが、受話器を置いて戻ってくると、
「五日前に7号室の切符は売れていますね。東京から西鹿児島までの切符です」
「買った人間はわかりませんか?」
と、青木がきくと、加藤は、笑って、
「切符を売るとき、いちいち、住所・氏名を聞いていたら、窓口事務が、停滞してしまいますよ。あなただって、名前を名乗って切符は買わないでしょう」
「そうでしたね」
と、青木も、苦笑した。
だが、7号室の切符を買った人間は、いったいどうしたのだろうか? 青木が、〈富士〉の7号室に入れられている間、本物の7号室の切符を持っていた乗客は、どこにいたのだろうか?
「さっきの質問ですが、どうせ新聞に出るからお教えしましょう。北原君の家は、墨田区向島二丁目です」
と、加藤が、最後に教えてくれた。
第五章 アリバイ
四月一日になると、十津川の手元に、高田弁護士に関する資料が、続々と集まった。
高田が生まれたのは、広島市内だが、広島県警にも問い合わせ、あるいは、小、中学校時代の彼の友人にも、十津川自らが、電話して、高田のことを聞いた。
もちろん、弁護士仲間の話も、大学時代、司法修習生時代の友人たちからも、話を聞いた。
こうして、一つの高田弁護士像が、十津川の頭の中に出来あがっていった。
高田悠一。三十七歳。広島市の中心街にあった菓子店の長男として生まれている。
高田が生まれたころの高田菓子店は、従業員十四人という、和菓子店としてはかなり大きな店だった。
だが、戦争と、罹災。店も灰燼に帰したが、戦後、同じ場所で、菓子店を開いた。ひとりっ子だったため、少年時代は、甘やかされて育ったと、彼自身、語っている。
食糧事情の悪い時代だったが、家が菓子店だったので、砂糖の特別配給などもあり、比較的甘いものには不自由はしなかった。
しかし、だからといって、弱い少年ではなかったらしい。頭のいい、気の強い少年だったと、誰もがいうし、自己顕示欲も相当だったらしい。
中学二年のとき、両親が相ついで死亡した。店も倒産し、高田は、東京の叔父の家に引きとられ、東京の高校へ進んだ。
高校では、一人の少女に恋をした。同じクラスの女生徒である。
「真剣な恋だったと思うね。彼は、本気で彼女を愛していたね」
と、当時の同級生で、現在は、銀行員をしている男が断言した。
しかし、この恋は、彼女の交通事故死によって、実ることなく終わった。
大学は、東京のN大法科。大学三年のころ、彼は、二度目の激しい失恋をしている。そのためか、高田は、アナーキストの仲間に入り、過激な言動に走るようになった。彼がリーダー格だったグループは、公安がマークした。
このままでいったら、高田は、テロ行為で刑務所行きだったろう。現に、同グループの何人かは、過激なテロに走り、逮捕された。
しかし、高田は、ある時期、突然、転向してしまう。過激なグループと手を切り、猛然と勉強に励み、大学四年のとき、司法試験に合格する。
高田が、過去の行動を問われずにすんだのは、大学の先輩である政治家が動いたといわれている。
その後、有名弁護士の事務所で何年か働き、三十四歳のとき、独立して事務所を持った。
一度、先輩の紹介で、五歳年下の女性と結婚した。彼が独立して、法律事務所を構えた年である。しかし、一年後、性格不一致ということで、離婚している。三十五歳のとき、である。
高田の刑事弁護士としての評価は、二つに分かれている。
片方は、若いが法廷技術に優れているというものだった。が、もう一つの見方は、性格的に権力志向が強く、スタンドプレーに走りがちで、そのうえ、金になりそうもない事件には手を出さないというものだった。
「金にならない事件は引き受けないというのは、本当なのかね?」
十津川は、メモを見ながら、吹田にきいた。
「そういう噂もありますが、実際には、何件か、金になりそうもない事件も引き受けています」
吹田は、自分も手帳にメモしたものを見ながらいった。
「すると、この噂は、間違いなのかね?」
「あながち、そうもいえません」
「と、いうのは、どういうことかね?」
「検察官あがりの弁護士には、よく、権力志向型がいるそうですが、最初から弁護士畑を歩いてきた人には、反権力型が多いそうです。そんな中で、高田は、珍しく、権力志向型の男で、周囲の人間にも、金と権力が好きだといっているらしいのです」
「なるほどね。旅行は好きなのかね? この男は」
「好きといえるでしょうね。一年に四、五回は旅行しています。海外旅行も、何回かやっています」
「女性関係だがね。現在、恋人はいないのかね?」
「特定の女はいないようです」
「三十七歳の元気な男がかい?」
「銀座のバーなんかには、よく行くそうです。なかなか、もてるそうです。月収は百万近くあるそうですし、ハンサムだし、何しろ、弁護士ですからね」
「バーで飲むのが好きなのかね?」
「これについても、仲間の弁護士は、二通りの見方をしています」
「面白いな。どんな見方があるんだね?」
「あの雰囲気が好きで行っているという説と、銀座のバーやクラブには、有名人がよく来るので、コネをつけるために行くんだという説があります。確かに、高田は、政財界人の集まるKとかいうクラブに、しばしば顔を出しているようです。友人に、おれは政治家が好きだといったこともあるということです」
「将来は、政治家になるつもりかな」
「かもしれません」
「ところで、肝心の身元確認だが、高田がよく行くという銀座のバーやクラブのママかホステスの一人だったんじゃないのかね? 世界の一流品を身につけているところなんか、何となく、高級バーかクラブの人間という感じだが」
「私も同じように考えまして、片っ端から当たってみましたが……」
「収穫なしか?」
「残念ながら、まだ、手応えはありません。高田が行くバーやクラブのホステスで、最近、急に姿を消した女というのは見当たりません」
「高田が、今までに弁護した人間の中の一人じゃないのかな?」
十津川が、考えながらきくと、吹田は、部下の刑事から、メモを受け取って、
「彼が、自分の法律事務所を持ってから今までに弁護を引き受けた人間は、全部で三十二人にのぼります。この中には、高田一人で弁護したものもあれば、別の弁護士と共同で担当したものもあります。この三十二人のうち、男が二十四人、女が八人です。この八人を全部調べてみましたが、被害者と思われる女性はおりませんでしたし、この八人は、全部、現在も生存しています」
早口で喋った。何か、いらいらした感じの喋り方なのは、現在までのところ、高田の周辺から、被害者らしき人物が浮かび上がって来ないからだろう。若いだけに、すぐ答えが出ないと、いらだってくるのもやむを得まい。
十津川が、黙って、自分がメモしたものを読み返していると、吹田は、堅い表情で、
「被害者が、高田弁護士の顔見知りという線は、弱いんじゃないでしょうか?」
と、疑問を投げかけてきた。
十津川は、柔らかい笑顔で、若い警部補を見上げた。
「なぜだい?」
「高田の周辺は、洗いつくしたと思います。彼の自宅は明大前の高層マンションですが、その近くの喫茶店、レストランから、彼がよく行く理髪店まで調べました。彼は、ときどき、車を運転しますが、自宅と事務所の間にあるガソリンスタンドもです。しかし、被害者は浮かんで来ません」
「もう他に調べるところはないということかね?」
「そうです。被害者が、ブルートレインの女だったとしても、列車の中で、偶然会っただけの関係じゃないでしょうか?」
「それは違うね」と、十津川は、はっきりした口調でいった。
「それだけの女だったら、高田が、あんなにむきになって、被害者とブルートレインの女は違うと主張はしないはずだよ」
「それは、そうかもしれませんが、それなら、なぜ、高田の周辺を洗っても、被害者が浮かんで来ないんでしょうか?」
「理由は一つしか考えられない」
「何ですか?」
「まだ、調べ足りないということだ」
「しかし、警部」
吹田が、顔を突き出すようにした。
「わかってるよ。調べるべきところは、すべて調べつくしたというんだろう?」
「今も申し上げたように、調べられる範囲のことは、すべて調べました。私は、高田弁護士のことなら、足のサイズから、手相まで知っていますよ。易者にいわせれば、高田の手相は、典型的な野心家のもので、自ら好んで火中の栗を拾う性格だそうです。そして、肝臓が悪いだろうと。他に、どこを調べたらいいんですか?」
「かもしれないが、僕は、どこかに、調査もれがあったと思う。もう一度、検討し直してみようじゃないか。まず、高田の家族関係だ」
「遠い親戚まで調べました。該当者なしです」
「間違いないね?」
「ありません。呉の彼の親戚で、最近、女の死亡者が出たというので問い合わせてみましたが、小学校五年生の子供でした」
「次は高田が行く店だ。バー、クラブ、レストラン、すべて当たったといったね?」
「そうです」
「最近、店を辞めた女性も調べたんだろうね?」
「ここ一年間に辞めた者は、全部、調べました。だが、その中に、被害者はいませんでした」
「高田の友人関係は?」
「現在、親しくしている友人は、十二、三人います。弁護士仲間、政治家、財界人などです。しかし、この中に女性はいません」
「最後に、高田が弁護した人間だが」
「さっきも申しあげたとおり、これも全員調べました。そして、該当者なしです」
「やはり、調査洩れがあったよ」
「そんなはずはありませんが……?」
「家族だ」
「高田には、家族はありません。三十七歳で、まだ独身です。別れた細君は、すでに再婚しており、この女性は、元気です」
「高田の家族じゃない。高田の友人の家族、それに、彼が弁護した人間の家族だよ。それを調べても、被害者が浮かんで来なかったら、僕の考えが間違っていたと認めよう」
捜査本部の黒板には、三十二名の名前が書き並べてある。高田が、現在までに弁護した人間たちの名前だった。
女が八人いるが、この中に被害者がいないことは、すでに確認ずみである。
残るのは、彼らの家族だった。もし、それを調べ終わっても、被害者の身元が割れない場合は、捜査方針の再検討が必要だろう。
一人を調べ終わるごとに、その名前を、十津川は、消していった。
八人目の名前が消されたとき、亀井刑事が帰って来た。
「二時間前に、武田運輸大臣が帰国しました」
と、亀井は、十津川に報告した。
「そうだ。今日は、武田大臣の帰国する日だったんだな」
十津川は、あらためて、カレンダーに眼をやった。日時のたつのが、やたらに早い。三十七歳という年齢のせいなのか、それとも、事件に追われているせいだろうか。
「さっそく、空港で、神谷秘書官に会ってきました」
「例の名刺のことを話したのか?」
「一応、話しました」
「それで反応は?」
「もう過ぎたことだからということでした。大臣の考えも同じだろうと」
「いかにも政治家らしい反応だな」
「ところで、神谷秘書官から、面白い話を聞きました」
「どんなことだね?」
「武田さんは、大臣になって、すぐ、今度の国際会議に出席したので、いわゆるお故郷(くに)入りというのをしていないわけです」
「つまり、今度、それをするというわけかね?」
「今は、国会も閉会中ですから、武田さんは、日本を出発前に、お故郷入りの計画を立てていたそうです。私は初耳でしたが、このことは、新聞にのっていたそうです」
「武田さんの故郷は、どこだったかね?」
「それが、面白いことにといっていいのか、それとも、問題があるといったほうがいいのか……」
「鹿児島かい? カメさん」
「そのとおりです」
「まさか、ブルートレインで、お故郷入りというんじゃあるまいね?」
「ところが……」
「ブルートレインを使うのか」
十津川は、何ということもなく、両手で顔をこすった。
「参ったね。そいつは……」
「最初は、飛行機を使う予定だったそうです」
「当然だろうね」
「ところが、赤字に悩む国鉄側から、ぜひ、国鉄を使って欲しいという強い要望が出されたんだそうです。それで、国鉄を使うことに変更されたのだと、神谷秘書官がいっています」
「しかし、国鉄なら、新幹線があるだろう? 鹿児島までは行っていないが、博多まで新幹線で行けばいい」
「神谷秘書官は、飛行機でなければ、新幹線か、車でのお故郷入りをすすめたそうです。それに対して、武田さんは、子供のころ、夜行列車に乗るのが好きだったそうで、ぜひ、現代の夜行列車で、お故郷入りがしたいといい出されたんだそうです。まあ、今人気のあるブルートレインに乗ってみたいという気持ちもあるでしょうし、スタンドプレーのような気もします」
「それは、確定したことなのかい?」
「神谷秘書官は、すでに、手配済みだといっています。それで、国鉄に問い合わせてみたんですが、どうも、はっきり教えてくれないんです。しかし、ブルートレインで、鹿児島入りするのは、間違いないようです」
「鹿児島行きのブルートレインといえば、〈はやぶさ〉と〈富士〉しかないが、そのどちらかに乗るつもりなのかね?」
「神谷秘書官は、四月三日のブルートレインを使うことになっていると、いっていました。それに、最終の列車は混雑するので使いたくないともいっているので、恐らく、〈はやぶさ〉が使われるものと思います」
亀井の言葉に、十津川の表情が、次第に堅く、こわばったものになっていった。
「三日といえば、明後日じゃないか」
十津川が、怒ったような声をだした。
「そうです。明後日です」
「三月二十七日には、もう決まっていたんじゃないのかね? ブルートレインを利用しての武田大臣のお故郷入りは」
「それはわかりませんが、今度の国際会議出席の前に決まっていたことだけは確かなようです。神谷秘書官は、出発前に、国鉄に話しておいたといっていますから」
「三月二十七日には、もう決まっていたんだ」
十津川は、断定した。もしそうだとすると、今度の殺人事件の意味するものが、違って見えてくるのではあるまいか。
(もし、犯人も、それを知っていたら?)
十津川は、それを確認するため、綴じ合わせた三月中の新聞を持って来させ、一枚ずつめくっていった。
やはり、出ていた。
三月二十日の朝刊である。二面の「政界往来」と題された欄に、小さく、武田運輸大臣のお故郷入りのことがのっていた。
〈武田運輸大臣は、来月三日にお故郷入りを計画しているが、どうやら、今人気のあるブルートレインを使って、鹿児島入りする予定である〉
「やはり、高田は知っていたんだよ」
と、十津川は、亀井にいった。
「特別列車を仕立てるんじゃないでしょうか?」
と、亀井がいう。
十津川は、言下に、「そんなことはないよ。カメさん」と、いった。
「今、国鉄は、いろいろな意味で、世論の矢面に立たされている。特に慢性的な赤字の面でね。そんなとき、運輸大臣が、私用に特別列車を出させたりしたら、マスコミと世論の袋叩きに合うに決まっている。それに、武田さんは、庶民性が売り物だ。特別列車を仕立てたら、それが消えてしまう。だから、彼は、普通のブルートレインに乗るさ」
「一般乗客と一緒だと、警備が問題になりますね」
「それも、神谷秘書官にきいたんだろう?」
「ええ。きいてみました」
「それで、秘書官の返事は?」
「大臣が、誰かに狙われるなんてことは考えられない。政敵もいないし、誰からも愛される人柄だからということでした」
「なるほどね。まあ、秘書官としたら、当然の返事だろうな。大臣が、本当に四月三日のブルートレインに乗るのか、乗るとしたら、どの列車の、どの座席を予約しているのか、くわしいことを調べてくれ」
「警部は、何か起きるとお考えですか?」
「わからないね。だから調べたいんだ」
「その何かというのは……」
亀井がいいかけたとき、吹田警部補が、眼をキラキラ光らせて、部屋に飛び込んで来た。
「被害者の身元が割れましたよ! 警部」
十津川は、亀井に、「頼むよ」と、肩を叩いて送り出してから、吹田に向かって、
「誰だったんだ?」
と、きいた。
吹田は、ポケットから、二枚の写真を取り出して、十津川の前に並べた。
「名前は、田久保涼子。年齢二十三歳。身長一六〇センチ。S短期大卒。奄美大島出身。東京の八王子で宝石商をやっていました。小さな店ですが、あの美しさと頭の良さで、商売は繁盛したようです」
「田久保信一の家族かね?」
十津川は、黒板に眼をやった。
田久保信一は、十二番目に書かれた名前だった。
○田久保信一(30)傷害罪(懲役一年二月)死亡
黒板には、そう書いてある。
「彼の細君です。田久保信一が、三月十九日に、突然、自殺したので、東京で生活するのが嫌になり、故郷の奄美大島へ帰る気になったのかもしれません。店を整理していますから」
「田久保信一は、どういう男だったんだね?」
「M大の経済を出て、新宿のAデパートに就職しています。二十五歳のとき、当時十八歳だった涼子と結婚しました。二年後、同じマンションに住むグラフィック・デザイナーが、涼子に言い寄ったのに腹を立て、ナイフで刺して重傷を負わせました」
「そのとき、弁護を引き受けたのが、高田というわけだな」
「そのとおりです。結果は、一年二カ月の判決を受け、宮城刑務所に入れられました。田久保が刑務所入りしたあと、涼子は、自活の道として、宝石店で働くかたわら、鑑定技術の勉強を始め、免許をとると、自分で八王子に小さな店を持ったわけです。実父が、かなりの遺産を残してくれたので、それを資金にしたようです」
「田久保の出所は?」
「一年で出所しています。出所してからは、夫婦で、宝石店をやっていました」
「自殺の原因は、何だったんだろう?」
「それが、全く不明です。遺書もありませんでした。八王子の警察は、妻の涼子に食べさせてもらっている形なのが、男として辛かったのではないかと見ているようです」
「田久保涼子か」
十津川は、もう一度、二枚の写真に眼をやった。
どちらも、カラー写真で、片方は、男と並んで写っている。笑顔は、間違いなく、被害者のものだった。
「この一緒に写っている男が、田久保信一かね?」
「そうです」
「写真は、どこから?」
「近所の商店で借りて来ました。商店街で、水上温泉に行ったときに撮ったものだそうです」
「この写真を持って、高田弁護士に会いに行くことにしようじゃないか」
「逮捕ですか?」
「あわてなさんな」と、十津川は、笑った。
「被害者の身元が割れたからといって、高田の逮捕状はとれないよ」
「しかし、高田に関係のある女です」
「直接の関係はないんだ。高田が犯人として、動機は、何だい?」
「愛情のもつれです。夫の信一が刑務所に入ったあと、田久保涼子と高田は、関係ができた。若くて、美人ですから、高田が手を出したとしても不思議はありません」
「出所後、それを知った田久保信一は、ショックを受けて自殺か?」
「そうです」
「では、高田が、なぜ、涼子を殺したんだ?」
「高田が、休暇でブルートレインに乗ったところ、偶然、同じ個室寝台車に、涼子が乗っていました。彼女に未練のある高田は、強引に口説いたものと思います。ところが、涼子は、がんとしてはねつけました」
「それで、かッとなって殺した……か?」
「そうです。前に十津川さんがいわれたように、個室の洗面器に顔を押し入れてです」
「しかしねえ。吹田君。その死体が、なぜ、多摩川に浮かんでいたんだろう?」
「そこが、私にもわからないんですが」
吹田が、口惜しそうにいった。
十津川は、吹田を連れて、銀座にある高田法律事務所を訪ねた。
高田は、笑顔で二人を迎え、応接室に案内すると、若い女事務員に、コーヒーを持って来るようにいった。
「多摩川の溺死体の身元が、やっと割れましたよ」
十津川は、運ばれてきたコーヒーに、砂糖を入れながら、高田にいった。
「それはよかったですね」
と、高田がいう。その顔に、動揺の色はなかった。
「田久保涼子。二十三歳です」
「ほう」
「ご存じですか?」
「いや」
「では、田久保信一という名前は、ご存じでしょう?」
「タクボ……?」
「ご存じない?」
「ええ」
「おかしいですね。事件を起こし、あなたが弁護した男ですよ」
「ちょっと待ってください。ああ、思い出しましたよ。確か、デパートの店員で、傷害事件を起こしたんだ。あの男です。すると、田久保涼子というのは、彼の奥さんですか?」
「そうです。弁護の依頼は、奥さんがしたんじゃないんですか?」
「そうです。そうです。少しずつ思い出してきましたよ。若くて、美人の奥さんが、相談に見えたんです。彼女が、まさか……」
「あの仏さんですよ。遺体を見たとき、思い出せなかったんですか?」
「ずいぶん、沢山の人を弁護しましたからねえ。確かに、そういえば、彼女によく似ていますね」
「では、なぜ、下り〈はやぶさ〉で初めて会った女だといったんです?」
「ちょっと待ってくださいよ」
「何です?」
「あの遺体が、田久保涼子さんかもしれないということは認めます。そういわれれば、似ていますからね。しかし、下り〈はやぶさ〉に乗っていた女性と同一人とは思いませんよ。ブルートレインの女性は、ちゃんと、終点の西鹿児島駅でおりたのを見ているんですからね」
「つまり、あなたも、西鹿児島まで、行かれたわけですね?」
「前にも、そう申しあげたはずですがね」
「では、どのホテルに泊まったか教えて頂けませんか。前には、その必要はないといわれたが、今度は事情が違う。被害者が、あなたの知り合いだとわかったからです。たとえ、ブルートレインの女と別人だとしても、いや、別人だったら、よけいに、あなたのアリバイが必要になる」
「下り〈はやぶさ〉を途中でおりて東京に引き返し、ええと、何といいましたかね。彼女の名前……」
「田久保涼子」
「そう、彼女を殺したんじゃないかと、お疑いのわけですね?」
高田の眼が、笑っている。
「鹿児島では、どこのホテルへ泊まられました?」
「どこだったかな」
高田は、ポケットから手帳を取り出し、ページを繰っていたが、
「三月二十八日は、西鹿児島駅前にあるホテルに泊まりましたよ。名前は、『セントラル・ホテル』。新しく出来たホテルで、感じが良かったですね。翌日の二十九日は、宮崎へ出て、『宮崎第一ホテル』。三十日は、別府の『ニュー別府ホテル』。どちらも、大きなホテルですよ」
「ひとりで泊まられたんですか?」
「今度の休暇は、純然たる独り旅を楽しむつもりでしたからね。全部、シングルの部屋を取りましたよ」
「泊まっているとき、ホテルで何かありましたか? 記憶に残るような」
「そうですねえ。宮崎の『宮崎第一ホテル』で、ボヤがありましたね。別に怪我人もなく、どうということもありませんでしたが」
「本名で泊まられたんですか?」
「ええ。別に偽名にする必要もありませんからね」
高田は、楽しそうにいった。
十津川は、内心、相手の態度に、軽いいらだちを覚えながら、
「田久保信一が、自殺したことは、ご存じですか?」
「知っていますよ。自分が弁護した人間のことは気になりますからね。告別式にも行って、焼香させてもらいました」
「自殺の原因に心当たりはありますか?」
「いや。わかりませんね。前科があるといっても、罪は償ったんだし、私も、弁護士として、今後の生き方についても、いろいろと相談にのりたいと思っていた矢先でしたからね。どう考えても、自殺する理由は、わかりませんね」
「では、田久保涼子が殺された理由はわかりますか?」
「あなたは、私が犯人だと思っておいでなんでしょう。その私に、彼女が殺された理由をきかれるんですか?」
高田が、皮肉な眼つきをした。
十津川の横にいた若い吹田が、むッとした顔になって、
「後ろ暗いところがないんなら、素直に答えたらどうですか?」
と、噛みついた。
「別に、後ろ暗いところはありませんがね。突然の死で、びっくりしているといったらいいのかな。とにかく、遺体を見ても、すぐには田久保涼子さんとわからなかったくらいですからね」
いい終わってから、高田は、急に笑いを消した不機嫌な顔になった。
「もういいでしょう。私も、いろいろと忙しいんだから、この辺で解放してくれませんか」
「また伺いますよ」
と、十津川はいい、吹田を促して、立ち上がった。
二人が、事務所を出ようとしたとき、高田の言葉を裏書きするように、背の高い、眼鏡をかけた男が、急ぎ足に入って来た。
外に出たところで、吹田が、急に立ち止まった。
「今の男ですが、見覚えがあります」
「誰だい?」
「確か、山本正夫という男です」
「その名前は、黒板に書いてあったんじゃないか。高田が弁護した男の一人だろう?」
「そうです。婦女暴行と、傷害で二度逮捕され、二度とも、高田が弁護しています。最初の婦女暴行のときは執行猶予。二件目の暴行では、一年の懲役です」
「なるほどね」
「そんな男が来るというのは、何かあるんじゃありませんか?」
「だから?」
十津川は、いやに落ち着き払った顔で、吹田にきき返した。
「だから、何とかすべきじゃないかと」
「何をするんだい? え?」
十津川は、笑いながら、車のほうへ歩いて行った。
「高田は弁護士だ。それに、彼自身、自分が弁護した人間のことは、親身になって、面倒をみているといっている。だから、彼の事務所に、そうした男が出入りしても、別に不思議はないじゃないか。前科のある人間が、弁護士の事務所へ出入りしているからといって、弁護士を逮捕できるかい?」
「そりゃあ、そうですが……」
「不服かね?」
「そういうわけじゃありませんが」
「まあ、乗れよ」
十津川は、先にパトカーに乗り込んだ。吹田も、彼の横に腰を下ろし、車は、捜査本部に向かって走り出した。
「今度の事件には、いくつかわからない点がある」
と、十津川は、座席に背中をもたせかけるようにしていった。
「犯人は、高田に間違いありません」
「だが、証拠はない」
「アリバイは、必ず崩れますよ」
吹田は、決めつけるようにいった。
「だといいがね」
「十津川さんは、高田は犯人じゃないとお考えですか?」
「そんな怖い顔をしなさんな」と、十津川はいった。
「僕だって、高田をシロだとは思っていない。だが、彼が犯人だとすると、どうもわからないことが、いくつかある」
「どんなことですか?」
「われわれが、高田をマークするようになったきっかけは何だったか、覚えているかね?」
「青木記者の証言です」
「そのとおりさ。もし、高田が犯人だとしたら、なぜ、彼は、本名を青木に告げたんだろう? しかも、弁護士だと、自分の職業まで明かしている。もし、彼が、青木に名前もいわず、話しかけたりもせずに、姿を消してしまっていたら、多分、われわれは、手掛かりさえつかめずにいたはずだ」
「理由は、二つ考えられるんじゃありませんか」
と、吹田は、血走った眼で、十津川を見つめた。
「聞こうか。その理由というのを」
「第一は、青木記者を、下り〈はやぶさ〉からおろして、殺すつもりだったんじゃないかということです。だから、安心して、高田は、本名も職業も喋った。しかし、何かの手違いで、殺すことができなかったというのはどうですか?」
「二番目は?」
「高田の自信過多です。頭がいいと自分が考えている犯人によくある型です。絶対に大丈夫だという自信があるものだから、平気で、名前をいい、身分を明かしたんだと思いますね」
「悪くはないが、常識的すぎるね」
「他に、どんな理由が考えられますか?」
吹田は、眼を光らせてきく。
「正直にいって、僕にもわからんさ」と、十津川はいった。
「確かに、高田は自信家だ。だが、同時に、冷静に計算して行動しているようなところもある。それに、青木記者は殺されなかったんだよ」
「しかし……」
「まあいい。君は、明日早く、九州に発ってくれ」
「高田のアリバイ調べですね」
「そうだ。しっかりと調べて来て欲しい」
翌二日、吹田は、羽田から九州へ飛んだ。この若い警部補は、野心にあふれ、それだけに、十津川の慎重さが不満だった。高田が犯人に違いないのだ。さっさと逮捕すれば、それで、一件落着ではないか。
吹田は、まず、西鹿児島駅前のセントラル・ホテルを訪ねた。
八階建ての新築ホテルだった。観光に来たらしい外国人のグループが、ちょうど、フロントでチェック・インをしていた。
吹田は、彼らがエレベーターに消えるのを待ってから、フロントに話しかけた。
三月二十八日の宿泊カードを見せてもらった。泊まり客が、自分で書くようになっているカードである。
高田弁護士のカードは、すぐに見つかった。
住所、電話番号とも、実際のものが書いてあった。
宿泊日数は一日で、二十九日出発となっている。
吹田は、ポケットから、高田の手紙を取り出した。彼が、仲間の弁護士宛に書いた暑中見舞いの葉書を、借りてきたものだった。
筆跡は、よく似ている。素人眼にも、同一の筆跡と断定してよさそうだった。
だが、吹田は、これだけでは、高田が二十八日にこのホテルへ来たという証拠にはならないと思った。
なぜなら、三月二十八日以前に、この宿泊カードを手に入れ、それに、高田が記入し、別人かそれを持ってホテルにやって来たことも、十分に考えられたからである。客が立てこめば、フロントは、いちいち、客が宿泊カードに記入するのを見てはいないし、備え付けてあるボールペンは、どこにでも売っているありふれたものだった。
「この高田悠一という客だがね」
と、吹田は、三十二、三歳のフロント係にいった。
「顔を覚えているかな?」
「ええ。覚えています」
「じゃあ、この中にいるかどうか見てくれないかな」
吹田は、用意してきた三枚の写真を、フロントの前に並べた。そのうち二人は、警官だったが、フロントは、簡単に、高田の写真を選び出した。
「二十八日は、客が少なかったのかね?」
「いえ。部屋は八割以上埋まっておりました」
「それなのに、なぜ、この客の顔を覚えているのかね?」
「ちょうど、フランス人の若いご夫婦がお見えになりましてね。このお二人が、英語が駄目なんです。こちらもフランス語が出来ず困っているところへ、高田さんがお見えになったんです。高田さんが通訳してくださったんで助かりました。それでよく覚えているんです」
「何時ごろ、このホテルに来たか覚えているかね?」
「確か、午後七時過ぎでした。私が、夕食をすませて交代した直後でしたから」
「駅からこのホテルまでは?」
「歩いて、せいぜい三、四分です」
(おかしいな)
と、吹田は、頭の中で、ブルートレインの時刻表を思い浮かべた。
下り〈はやぶさ〉が、西鹿児島駅に着くのは、確か、午後二時四十二分のはずである。すぐ、このホテルに入ったとすれば、午後三時前後にチェック・インしていなければならない。それが、午後七時過ぎというのは、どういうことなのだろうか。
列車をおりてから、鹿児島市内をぶらぶらし、夕食をすませてから、ホテルに来たのだろうか。
いや、そうは思えない。東京から十八時間も列車にゆられて来たのだ。何よりも、動かないベッドで一休みしたいと思うだろう。そのほうが自然だ。
(〈はやぶさ〉ではなく、〈富士〉で、到着したとすれば……)
と、吹田は思った。
〈富士〉が、西鹿児島に着くのは、午後六時二十四分である。駅近くで夕食をとり、すぐ、このホテルにチェック・インしたとすれば、ちょうど、フロントのいった午後七時ごろになる。
「週刊エポック」の青木記者は、何者かに、〈はやぶさ〉からおろされ、一時間十五分おくれの〈富士〉に乗せられたという。その何者かが、高田だとすれば、ぴったりと一致するではないか。
吹田は、ニッコリしたが、次には、苦い顔になった。高田が、青木記者を、〈はやぶさ〉からおろし、〈富士〉に乗せて西鹿児島に来たとなると、途中から東京に引き返して、被害者を多摩川に投げ込んだという線が消えてしまうことに気がついたからである。
「この宿泊カードを借りたいんだが」
と、吹田は、フロントに頼み、カードをポケットに入れて、セントラル・ホテルを出た。フロントの話から考えて、ホテルに泊まったのは、高田に間違いないと思われる。筆跡を専門家に鑑定させるのは、念のためであった。
ホテルの近くの食堂で、おそい昼食をとってから、吹田は、西鹿児島駅へ行った。南国鹿児島の表玄関にふさわしく、小さいが、明るい感じの駅である。
駅長に会い、三月二十八日に到着した〈はやぶさ〉と〈富士〉から回収した切符を見せてもらった。
〈はやぶさ〉の個室寝台車の切符を、まず見せてもらう。1号室から14号室までの切符は、青木記者が乗っていた7号室のものを除いて、すべて揃っていた。青木記者は、門司駅に放り出されていたのだから、西鹿児島駅になくても不思議はない。
問題は、8号室の切符だった。誰かが、この切符を持って、西鹿児島駅の改札口を通って行ったのだ。
若くて、美人で、薄茶のコートを着た女だったと、〈はやぶさ〉の車掌もいい、高田弁護士もいっている。だが、多摩川の水死体が、〈はやぶさ〉8号室の女なら、西鹿児島駅でおりた女は、身替わりだし、切符も奪い取ったものなのだ。
次に、下り〈富士〉の個室寝台車の切符を見せてもらう。こちらも、7号室の切符だけがなかった。この切符は、東京から西鹿児島までのものとして、五日前に売られているはずだった。
その切符が、西鹿児島駅にないということは、買った人間が、切符を買ったにもかかわらず、〈富士〉に乗らなかったか、途中下車してしまったかのどちらかだろう。
青木記者は、気がついたら、〈富士〉の7号室にいたという。犯人が、そんなことをするためには、〈富士〉の7号室を開けておかなければならない。犯人は、あらかじめ、〈富士〉の7号室の切符を買っておき、そこを空室にしておいたのではなかろうか。
吹田は、少しずつ、ジグソーパズルが埋まっていくような気がしたが、不思議なのは、そのくせ、いっこうに、事件の核心に近づいている気がしないことだった。
吹田は、午後三時十六分西鹿児島発の急行〈錦江6号〉で、宮崎に向かった。
六時少し前に、宮崎に到着。高田のいっていた宮崎第一ホテルを探した。
こちらは、駅から歩いて十五、六分の場所だったが、やはり、十階建ての大きなホテルである。
フロントで、鹿児島でと同じ質問をした。
宿泊カードには、高田の筆跡で、住所、氏名、電話番号が書き込んである。ここでは、ロビーの隅にあるバーのバーテンが、高田の顔を覚えていた。高田は、二時間ばかりバーにいて、バーテン相手に、弁護士生活についていろいろと喋ったという。
「話の上手いお客さんでした」
と、中年のバーテンはいい、すぐ、高田の写真を選び出した。
吹田は、今日は、このホテルに泊まることにして、シングルの部屋をとってもらい、入るとすぐ、東京の捜査本部に電話をかけた。
「十津川警部ですか。鹿児島と宮崎のホテルには、二十八日と二十九日に、間違いなく高田は宿泊しています」
「やっぱりな」
と、電話の向こうで、十津川が肯いた。
「やっぱりって、わかっておられたんですか?」
吹田は、受話器を持ったまま、顔をしかめた。彼は、高田が犯人である限り、鹿児島や宮崎には、作られたアリバイしかないはずだと考えていたからである。
「高田は、九州での宿泊について話すとき、自信満々だったからね。多分、実際に、二十八日から泊まっているのだろうと思っていたよ」
「それなら、なぜ、私を九州に寄越したんですか?」
「そう怒りなさんな」
「怒ってはいません」
「それならいい。君に確認してもらいたかったんだよ」
「三月二十七日発の下り〈富士〉の個室寝台車ですが、7号室の切符は、東京から西鹿児島まで売れているのに、西鹿児島には、その切符が回収されていません」
「そいつは面白いな」
「これで、青木記者が、何者かに睡眠薬で眠らされ、〈はやぶさ〉からおろされ、〈富士〉の同じ個室寝台7号室に乗せられていた謎も解けたような気がします。〈富士〉の7号室は、空いていたわけですし、犯人が、それを知っていたとすれば、安心して乗せかえられたはずです」
「青木記者は、岡山駅で、〈はやぶさ〉からおろされ、〈富士〉に乗せられたといっている」
「しかし、岡山駅は、運転停車ですから、客車のドアは開かんのでしょう。〈はやぶさ〉からおりるときは、車掌に頼んで開けてもらえばいいわけですが、〈富士〉に乗るときは、どうしたんでしょうか?」
「もちろん、車掌に頼んで開けてもらったんだろう」
「その車掌の証言が欲しいところですね」
「僕も、そう思っているがね。その証言は貰えそうにないよ。問題の〈富士〉の車掌四人の中の一人が、三日前に死んでいるんだ。青木記者から知らせがあったので調べたところ、事実とわかったよ。多分、その車掌が乗せたんだろう」
「殺されたんですか?」
「酔って、夜、隅田川に落ちて溺死だ。殺人の証拠はどこにもない」
「しかし……」
「君のいいたいことはわかるよ。だが、今もいったように、殺人の証拠はないんだ」
「わかりました。別府のホテルはどうしますか? 調べますか?」
「いや。もういいだろう。高田は、泊まったに決まっているからね。それより、博多車掌区で、岡山駅のことを聞いてきてくれ。〈はやぶさ〉の客車のドアを開けて、犯人と青木記者がおりるのを手伝った車掌がいるはずだからね」
「武田大臣の件はどうなりました? やはり、ブルートレインで、九州入りをするんですか? 鹿児島の町には、歓迎のアーチが立っていましたが」
「明日の下り〈はやぶさ〉に乗ることが決まったそうだ。個室寝台車の1号室から5号室までが、大臣と随員で利用される予定だよ」
第六章 五時間の謎
〈さすが、運輸大臣、明日、国鉄(ブルートレイン)を使ってお故郷入り〉
夕刊には、そんな見出しで、武田の鹿児島行きが報じられていた。
夜行列車に乗るのが、子供のときからの夢で、はじめて上京したときも、当時の夜行列車を利用したものだという武田の談話ものっている。
十津川は、新聞をおいて、刑事たちの顔を見回した。
「できれば、明日の午後四時四十五分、つまり、下り〈はやぶさ〉が、東京駅を出るまでに事件を解決したい」
と、十津川はいった。
「また、ブルートレインで何か起きるとお考えですか?」
眼鏡をかけた桜井刑事が、十津川を見た。
「わからないが、心配のタネは、消しておきたいんだ」
確信はない。三月二十七日以後も、毎日、下り〈はやぶさ〉は、午後四時四十五分に東京駅を出発し、西鹿児島に向かっているが、何事も起きていないからだ。いや、三月二十七日発の〈はやぶさ〉だって、何事も起きてはいないことになっているのだ。
だが、やはり気になる。
それに、明日は、そのブルートレインで、運輸大臣が、鹿児島へ行くのだ。
「多摩川の水死体、田久保涼子は、下り〈はやぶさ〉に乗っていたと考えて、推理をすすめて行こう」
と、十津川は、部下の刑事たちにいった。
「問題は、〈はやぶさ〉に乗っていた田久保涼子を、二十八日の午前十一時に、多摩川に浮かばせておくことができるかどうかということですね」
桜井刑事が、眼鏡の奥の眼を光らせた。
「そのとおりだ。青木記者は、『三ノ宮』まで、彼女が8号室にいたと証言している。〈はやぶさ〉が、『三ノ宮』を出るのは、二十八日の午前〇時三十六分だから、田久保涼子は、このあと、列車からおろされ、多摩川に運ばれて、投げ込まれたんだ」
十津川は、黒板に、〈はやぶさ〉の『三ノ宮』以後の時刻表を書いた。
〈はやぶさ〉時刻表
三ノ宮  0:36
(岡 山  2:25)
糸 崎  3:35
広 島  4:41
岩 国  5:19
小 郡  6:51
厚 狭  7:22
下 関  7:54
門 司  8:06
博 多  9:10
鳥 栖  9:37
久留米  9:47
大牟田 10:16
熊 本 10:58
このあと、八代、水俣――と停車するが、午前十一時を過ぎてしまうので、意味はない。
「このうち、『岡山』には、青木記者と男一人がおりただけだから、田久保涼子がおろされたのは、『糸崎』以降だろうね。まず、『糸崎』から考えていこう」
「『糸崎』には、飛行場がありませんから、ここで彼女をおろしたとすると、車で運んだことになりますね」
小柄な日下刑事が、黒板に眼をやっていった。
「糸崎から東京まで、何キロあるね?」
「約八二〇キロです」
「七時間半で、八二〇キロを飛ばせるかね?」
「時速百キロ以上で、七時間半もぶっ飛ばすのは、ちょっと無理でしょうね」
「じゃあ、ここは保留にしよう。次は、広島だ。ここには、飛行場があるな」
「確か、全日空の便があるはずですが」
桜井は、時刻表を取り上げ、ページを繰っていたが、眼をキラリと光らせて、
「ぴったりの便があります。広島から羽田へは、一日六便ありますが、第一便は、午前七時五十分広島発で、十時十分に羽田に到着します」
「それだと、午前四時四十一分に、広島で〈はやぶさ〉をおり、三時間後の七時五十分に全日空に乗る。十時十分に羽田に着き、車で多摩川へ運んで投げ捨てる。羽田から現場まで、車で二、三十分だから、十分に間に合うね」
「しかし、警部」
日下が、首をかしげて十津川を見た。
「何だね?」
「田久保涼子の死亡推定時刻は、二十八日の午前二時から三時までの間じゃなかったんですか?」
「そうだ。恐らく、個室寝台の洗面器を使って、水道の水で溺死させられたんだろう」
「すると、広島では、すでに死亡していたことになります。列車からおろし、改札口を出るときは、夜半過ぎですし、気分が悪くなったことにすれば大丈夫ですが、飛行機の中では、怪しまれるんじゃないでしょうか?」
「その点を含めて、誰か、全日空に問い合わせてみてくれ」
十津川の言葉を受けて、沢木刑事が、すぐ、電話で全日空に問い合わせを始めた。
「次は岩国五時十九分だな」
「岩国から東京まで、約九四〇キロあります」と、桜井がいった。
「しかも、十一時まで、時間が五時間半しかありません。車で運ぶとなると、時速二百キロくらいで飛ばさなければなりません。まず不可能です」
「いや。そうでもないぞ」
と、十津川がいった。
「しかし、車で運ぶとなると……」
「飛行機があるよ」
「岩国には、米軍の基地はありますが、民間機の便はありませんが」
「わかっている。大阪まで車で運んで、大阪から飛行機にすればいいんだ。さっきの『糸崎』も同じじゃないかね」
「そうですね」
桜井は、肯いて、時刻表に眼をやった。
「大阪から東京へは、全日空と日航の便があります。このうち、午前十一時までに羽田に着けるのは、七・二五と九・一〇の日航と、七・四五と九・四五の全日空ですね。それぞれ八・二五、一〇・一〇、八・四五、一〇・四五に、羽田に着きます」
「岩国から大阪までは?」
「約四百キロです」
「とすると、時速百キロで四時間か。岩国着が五時十九分だから、七時四十五分の全日空には間に合わないね。九時四十五分のほうには、何とか間に合うといったところだな。糸崎のほうが、ゆっくり間に合うんじゃないかね。これも、大阪空港を調べる必要がある」
「大阪まで車を飛ばして、間に合うかもしれないのは、岩国までですね」と、桜井がいった。
「次の小郡、下関、門司となると、時間は遅くなるし、大阪までの距離は長くなりますから、とうてい間に合いません。東京まで車を飛ばそうとすれば、さらに時間が、かかります」
「博多はどうかな? ここは福岡空港に近いから、広島と同じように、東京直通の飛行機が利用できるだろう?」
「福岡―東京間には、全日空、日航、東亜国内航空の三社が、便を持っています。〈はやぶさ〉の博多着が、九時十分ですから、それ以後の便ということになりますが……」
と、桜井は、時刻表に、また眼をやってから、
「一番近いのが、日航の一〇・○○福岡発ですね。しかし、この便の羽田着は、一一・三〇で間に合いません」
「すると、博多でおりたのでは、間に合わないわけだな」
「そのとおりです」
「では、大阪空港と、広島空港の二つに的をしぼって調べてくれ」
十津川が、指示したとき、彼の横で、電話が鳴った。
十津川が、受話器を取った。
「おれだよ」
と、鑑識の新田技師がいった。あごひげをはやした新田は、いつも、おれだよと、電話でいう。
「例の多摩川の仏さんだが」
「ああ」
「解剖の結果、死亡推定時刻は、午前二時から三時までの間ということだったね」
「そうだ。だが、われわれとしては、どのくらいの時間、死体が水の中にあったか、その時間を知りたくて、君に頼んだんだ。溺死させられたのは、どうやら、ブルートレインの中らしいんでね。運ばれて、多摩川に投げ込まれたと思う。だから、投げ込まれた時間がわかればと思ってね」
「妙なことを頼まれて、閉口したよ」
新田は、電話の向こうで笑った。ご機嫌がいいところをみると、何かつかんでくれたのだろう。
「わかったらしいな?」
「科研に協力を仰いで何とかね。死体が発見されたとき、衣服は、かなり多量の水を吸い込んでいた。幸い、身体(ボディ)を含めた総重量が測ってあったのでね。完全に衣服が乾いたあと、仏さんを水槽に入れ、同じ重量になるまで、浸けておいた」
「どのくらいの時間がかかったね?」
「そちらは、短いほうがいいのかね? それとも、長いほうがいいのかね?」
「短ければ、短いほどいい」
と、十津川は、正直にいった。被害者の田久保涼子が、下り〈はやぶさ〉に乗っていたとすれば、『三ノ宮』以西で犯人におろされ、多摩川まで運ばれて投げ込まれたのである。当然、多摩川に投げ込まれてすぐ発見されたと考えなければおかしくなる。
「短ければ、それだけ、犯人のアリバイが消えるというわけかね?」
「そうだ。一時間以内でなければおかしいと、僕は思っている」
「そいつは困ったな」
「何だって?」
「実験の結果、最低でも五時間かかることがわかったよ」
「まさか……」
十津川は、絶句した。そんなことは、あり得ないという気がしていたのだ。
「どうしたんだい? おい」
新田が、大きな声できいた。
「その実験は、間違いないんだろうね?」
「ない。五時間という線は、信じていいと思うね」
「五時間か」
五時間といえば、午前六時には、多摩川に投げ込まれていたことになってしまうではないか。
日本の国内で、午前六時以前に飛び立つ飛行機などありはしない。
電話を切ると、十津川は、航空会社や、広島、大阪の空港に問い合わせている刑事たちに、大声で、
「中止だ!」
と、叫んだ。
刑事たちが、びっくりした顔で受話器を置き、十津川を見つめた。
十津川は、もう一度、刑事たちを、呼び集めた。
「鑑識が、科研と協力してやった実験によると、被害者は、少なくとも、午前六時には、水の中に投げ込まれていたことがわかった。もし、午前六時に、多摩川に浮かんでいたとすると、飛行機で運んだという線は、全部消えてしまうんだ。午前六時前に飛ぶ国内線の飛行機はないからね」
「車では、よけい間に合いませんよ。一番早い『糸崎』でおろしても、午前三時三十五分です。午前六時まで二時間二十五分しかありません。糸崎から東京まで八二〇キロを、二時間二十五分で走れる車なんて、どこにもありませんよ」
桜井が、がっくりした顔でいった。
「糸崎以西は、なおさら、不可能ですね」
と、日下が、肩をすくめた。
「鑑識の実験は、間違いないでしょうね?」
桜井が、当然の質問をした。
「向こうは、間違いないといっているよ。しかも、午前六時は、最低の線だそうだ。つまり、午前五時かもしれないんだ」
「すると、どうなるんです?」
桜井は、当惑した顔で、十津川を見た。
「わからんよ。実験の結果は、信用せざるを得ないと思っている」
「田久保涼子は、ブルートレインに乗っていなかったんでしょうか?」
若い日下刑事が、眼をぱちぱちさせながら、十津川にきいた。
「そんなことはない。田久保涼子は、下り〈はやぶさ〉に乗っていたんだ」
十津川は、怒ったような声でいった。彼女が、ブルートレインに乗っていたからこそ、さまざまな事件が起きたのではないか。
「すると、青木記者が、思い違いをしているんでしょうか?」
桜井が、眼鏡を指先でずりあげるようにしながら、十津川を見た。
「どういうことだい?」
「彼は、『三ノ宮』まで、田久保涼子が、〈はやぶさ〉に乗っていたといっていますが、それは、勘違いじゃないかということです」
「もっと前に、彼女は、〈はやぶさ〉からおろされているんじゃないかということかね?」
「そうです。例えば、大阪到着は、〇時〇八分です。ここで、犯人が、彼女をおろしたとすれば、午前六時まで六時間ありますから、東名、名神の高速道路を利用して、車で運べたはずです」
「確かに、そのとおりだ」
と、十津川は、いったん、肯いて見せたが、
「だが、違うな」
「違いますか?」
「『三ノ宮』以前に、犯人が田久保涼子を、〈はやぶさ〉からおろし、東京に向かっていたとすると、そのあと、なぜ、犯人は、青木記者に睡眠薬をのませたり、〈富士〉に乗せかえたり、殴って門司駅のホームに放り出す必要があったのだろう? もう一つ。被害者の死亡推定時刻は、午前二時から三時の間だということを忘れないでくれよ。しかも、彼女は、水道の水で溺死させられているんだ。〈はやぶさ〉の『三ノ宮』着は、〇時三十六分だから、君のいうとおりだと、被害者は、生きて列車からおろされたことになる。そして、高速道路を、車で、東京に運ばれた。その途中で、溺死させられたことになるじゃないか。刺されたとか、絞殺ならわかるが、溺死させたというのを、どう解釈するね? まさか、車の中に、水を入れた洗面器を、用意しておいたわけでもないだろう?」
十津川に逆に質問されて、桜井は、黙ってしまった。
「素朴な質問をしていいですか?」
若い日下が、遠慮がちに、十津川にきいた。
「何だね?」
「犯人は、なぜ、彼女をブルートレインからおろし、わざわざ、多摩川へ運んで投げ込んだんでしょうか?」
「いい質問だよ」
と、十津川は、いった。
日下は、嬉しそうに、眼を輝かせた。若いこの刑事は、十津川から賞められたのが嬉しいのだ。
十津川は、煙草に火をつけた。
「僕も、同じ疑問を持ったし、今も持っている。一番簡単な答えは、犯人も、同じ列車に乗っていたので、列車内で死体が見つかれば、いやでも自分が疑われる。そう考えて、わざわざ、多摩川へ運んで投げ捨てたということだ。そうしておけば、誰も、死体の女が、ブルートレインに乗っていたとは思わないし、したがって、その列車に乗っていた犯人も疑われないからね」
「確かに、そうですね」
「しかしな。日下君。僕は、この解釈に満足していないのだ」
「なぜですか? 私には、十分に納得できる答えだと思いますが」
「第一に、単純すぎる」
「は?」
「犯人は、今度の事件のために、青木記者を眠らせたり、〈はやぶさ〉からおろして、〈富士〉にのせたりした。そのために、わざわざ、〈富士〉の個室寝台車の切符を買い、無駄にした形跡すらある。犯人たちは、田久保涼子そっくりの替玉まで作り、その女に、彼女の切符を持たせて、西鹿児島駅でおりさせてもいる。もっと大きな目的があって、こんな七面倒くさいことをしたと、僕は思うのだ」
「その大きな目的というのは、いったい何でしょうか?」
「それがわかれば、今度の事件に対する取組み方も、変わってくるかもしれんのだがね」
十津川は、首を振った。
だが、壁にぶつかったからといって、手をこまねいているわけにはいかなかった。
「桜井君と日下君は、高田弁護士の周辺を、もう一度、洗ってみてくれ。彼の動きも、監視するんだ」
「やはり、彼が犯人だとお考えですか?」
と、桜井がきいた。
「他に誰が考えられるというんだね?」と、十津川は、強い声でいった。
「被害者は、高田の知り合いなんだ。しかも、高田は最初、それをかくしていた」
「わかりました」
桜井は、日下を促して、部屋を出て行った。
十津川は、次に、「沢木君と、井上君」と別の二人を呼んだ。
「君たちは、水死した〈富士〉の北原という車掌のことを調べてみてくれ。特に、高田と関係があるかどうか、あるとすれば、どんな関係かをだ」
「この車掌も、高田が殺したと、お考えですか?」
「ここまで来たら他に考えられるかね?」
十津川は、また、きき返した。
何もつかめないままに、一日が過ぎてしまった。
四月三日も、朝から上天気だった。今日も、雨が降りそうな気配はない。そして、今日は、武田運輸大臣が、ブルートレインで鹿児島入りする日だ。
桜井と日下の二人の刑事は、いぜんとして、銀座の高田事務所に貼りついたままだが、まだ、高田の動き出す気配がない。
「なぜ、高田は動かないんだ?」
十津川は、いらいらしたように、部屋の中を歩き回った。
「何かご心配ですか?」
と吹田がきいた。
「ああ、心配だ。高田のことがね」
「彼が何かやるとお考えですか?」
「ああ。それが心配なんだ。田久保涼子の件は、いつかは、高田が犯人だとわかるだろう。問題は、その前に、高田が、新しい犯行に走ることだ。いや、すでに、実行に入っているのかもしれない」
「どんな計画ですか?」
「それがわかっていれば、こんな心配はせんで、手を打っているよ」
「ご心配なら、高田を引っ張って来て、もう一度、訊問したらどうですか? 別件で逮捕してもいいんじゃないですか」
「何の容疑で逮捕するんだね?」
「駐車違反でも、何でも、理由をつけられますよ。今のこの世の中で、何の違反もせずに生きてる人間なんていませんからね」
吹田は、平然といった。この男なら、平気で、どんな容疑ででも、高田を引っ張ってくるだろうと思った。この才走った警部補は、日ごろから、そうした捜査方法をとっているのかもしれない。
「感心しないな」
と、十津川は、そっけなくいった。
案の定、吹田は、不満気に口をとがらせた。
「駄目ですか?」
「駄目だよ。僕は、確固とした証拠をつかんでから逮捕したいんだ。姑息な手段は取りたくない」
「別件逮捕を、私は、別に姑息な手段とは思いませんが。何かやりそうな危険な人間は、あらゆる手段を使って、拘束したほうが、社会の安全のためになるんじゃありませんか。それに、別件で逮捕して、叩いているうちに、本筋の事件について、自供することもありますから」
「経験のあるようないい方だな?」
「成功したことはあります」
「いいかね。君。今度の事件を、僕が指揮している限り、今もいったように、別件逮捕などという姑息な手段は取らんのだ」
十津川は、強い声でいった。別に正義漢を気取っているわけではない。小器用なやり方が嫌いなだけだった。
吹田が、なおも、何かいいかけたとき、電話が鳴った。
十津川が、腕を伸ばして、受話器を取った。
「桜井です」
と、電話の向こうで、桜井刑事がいった。
「高田が動き出しました。今、東京駅に来ています」
「東京駅?」
十津川は、腕時計を見た。間もなく午後二時四十分になるところだった。
「ブルートレインが出発するには、まだ早過ぎるな」
「高田は、午後三時発の博多行き〈ひかり11号〉に乗るはずです。彼は、今、十五番線ホームで、列車が入ってくるのを待っています」
「どこまで行く気なんだ?」
「新大阪までのグリーン券を買いました」
「大阪か。何をしに、高田は大阪へ出かけるんだろう?」
「わかりません。どうしますか? 新大阪まで、尾行しますか?」
「そこには、君と誰がいるんだ?」
「日下刑事です」
「よし。君一人で、新大阪へ行ってくれ。日下君は、高田の事務所へ戻って、何の用で彼が大阪へ行ったか、事務所の人間にきくようにいってくれ」
「わかりました」
「高田に、連れはいるのか?」
「今のところ、いるように見えません」
電話を切ると、十津川は、眼を光らせた。
高田が、動き出したのだ。
(だが、何をしに大阪へ出かけたのだろうか?)
銀座の高田法律事務所に回った日下刑事から、電話が入ったのは、三時を回ってからだった。
「事務所の話では、高田は、大阪に住む大学時代の友人から、刑事事件の相談を受けて出かけたということです」
「名前は、確認したかね?」
「はい。名前は、畑中浩一。大阪東区で、宝石店をやっています。電話をしてみましたが、確かに、弟が巻き込まれた傷害事件のことで、高田に相談にのって欲しいと、三日前に電話したといっています」
「そうか。ご苦労さん。帰って来てくれ」
と、十津川はいった。
高田が、畑中という友人に会うというのは、多分、事実だろう。彼は、頭のいい男だ。自分が動けば、警察が調べることは知っているはずだから、すぐばれるような嘘は、事務所に話しておくまい。
だが、そのためだけに、高田が、新幹線に乗ったとは、十津川には思えなかった。
十津川は、高田が田久保涼子を殺したのは、それ自体が本当の目的ではなく、何かの準備行動だと考えていた。
高田は、何かやる気でいる。十津川はそう思っている。
十津川が、今心配しているのは、今日に予定されている、武田運輸大臣の、ブルートレインを使ってのお故郷入りだった。
殺された田久保涼子のハンドバッグの中には、二年前、五億円の詐取事件に利用されたと同じ、武田信太郎の名刺が入っていた。
そして、今日、同じ下り〈はやぶさ〉で、当の武田信太郎が、同じ西鹿児島へ行こうとしている。
これは、偶然だろうか?
十津川は、高田が、今日の下り〈はやぶさ〉に乗るのではないかと警戒していた。だから、桜井刑事から、高田が、東京駅へ来たと電話があったとき、やはり、下り〈はやぶさ〉に乗るのかと思ったのだが、高田が乗ったのは、新幹線のほうだという。
(高田は、下り〈はやぶさ〉に、大阪から乗る気だろうか?)
十津川は、時刻表を広げてみた。
一五・〇〇東京発の〈ひかり11号〉が、新大阪に着くのは、一八・一〇である。
一方、下り〈はやぶさ〉が、大阪に着くのは、〇・〇八で、その間には、六時間の余裕がある。
大阪で、友人の相談に応じたあとでも、ゆっくり、下り〈はやぶさ〉に乗る余裕はあるのだ。
だが、もし、高田が大阪で下り〈はやぶさ〉に乗る気だったとして、その目的は、いったい何なのだろうか?
武田信太郎と、関係があるのだろうか? もし、あるとしたら、高田と、武田信太郎の間には、何の関係があるのか?
「カメさん」
と、十津川は、亀井刑事を呼んだ。
電話をかけていた亀井が、振り向いて、十津川を見た。
「何でしょうか?」
「武田運輸大臣のスケジュールに、変更はないのか?」
「ありません。今、三時八分過ぎですが……」と、亀井は、腕時計を見て、
「私が、彼の秘書官から聞いたスケジュール表によると、そろそろ、本郷の私邸を出るころです。四時に東京駅に到着。四時三十分まで、駅長室で休息。四時三十分に、下り〈はやぶさ〉に乗り込みます」
「護衛は二人だったね?」
「大臣と、秘書官、それに女性の秘書一人、SP(セキュリティ・ポリス)二人の合計五人です」
「記者さんたちも同行するのかな?」
「でしょうが、個室寝台をとれた新聞社はいないんじゃないでしょうか。全部で十四室しかありませんし、一週間前の発売のときに、ほぼ、売り切れてしまうそうですから」
「他の九室の客がどんな人間かわかるといいんだが」
「それは無理です」
「だろうな。大臣と、高田弁護士との間に、何かの関係はないだろうか?」
「今のところ、不明です。しかし、顔見知りということは、十分に考えられます。高田は権力志向型で、政治に興味を持っていますから、何かのパーティで、紹介されて武田信太郎と話をしたということは、あり得ますから」
「武田信太郎が、法務大臣ででもあれば、弁護士の高田と、仕事を通じての関係も考えられるんだがね」
「ちょっと待ってください」
亀井は、急に、手帳を取り出して調べていたが、
「武田さんは、衆議院で、法務委員会の委員だったことがありますね。三年前から、一年半です」
「そいつは面白いな」
「もう一つ、武田さんは、当時、刑法研究会のメンバーにもなっています。これは財団法人で、日本の刑法を研究することを目的とした団体です」
「メンバーの構成は?」
「例の有識者ということになっていますが、個人として、政治家や、財界人、検事、それに弁護士もメンバーになっていたようです」
「なっていたというのは?」
「ここで発表された刑法改正試案が、保守的なものだったために、革新系の代議士に噛みつかれて、この研究会は、消滅しています」
「そのメンバーの中に、高田弁護士がいれば、当然、武田信太郎と面識があることになるな」
「調べてみます」
「至急やってくれ。頼むよ。カメさん」
と、十津川は、強い声でいった。
原稿を書いている青木の前に、編集長の宮下が、ぽんと、列車の切符を置いた。
「それを持って、すぐ、東京駅へ行ってくれ。今から行けば、下り〈はやぶさ〉に十分間に合うからな」
「もういいですよ」と、青木は、うんざりした顔で、手を振った。
「ブルートレインには、二回乗りましたから、十分です。原稿は、もう出したはずですよ。それより、僕は、殺人事件とブルートレインの関係を書きたいんです」
「今日の下り〈はやぶさ〉で、運輸大臣が、鹿児島へお故郷入りするんだ。その取材に行って来いといってるんだよ」
「しかし、ブルートレインの女が、多摩川で死んでいたという殺人事件は、面白い記事になると思うんですが」
「犯人がわからない記事が、どうして面白いんだ?」
宮下は、叱りつけるようにいった。
「犯人は、多分、高田という弁護士ですよ」
「殺人事件の記事を書くのに、多分で、犯人が出せるかい? それに相手は弁護士なんだろう。証拠もなしに、犯人みたいに書いたら、面倒なことになるぞ。それより運輸大臣がお故郷入りの記事を取って来たまえ」
「これ、個室寝台の切符じゃありませんね?」
「今度は、手に入らなかったんだ。B寝台で我慢したまえ」
宮下に、肩を叩かれて、青木は、仕方なく立ち上がった。
大臣のお故郷入りの記事など、面白くないに決まっているが、仕事とあれば、行かざるを得ない。
独身の青木は、いつでも出張できるように、洗面具などを入れたボストンバッグを、会社のロッカーにしまってある。会計で、帰りの飛行機代や、宿泊費を貰ってから、そのボストンバッグをぶら下げて、週刊エポック社を出た。
東京駅に着き、十三番線ホームにあがって行くと、今日も、カメラや8ミリを持った子供たちが一杯だ。しかし、先日と少しばかり違う光景も見られた。ホームのところどころに、公安官の姿があり、それに、明らかに新聞記者とわかる男たちが、個室寝台車のあたりに、かたまって、武田運輸大臣の来るのを待っていることだった。
四時三十分に、隣りの十二番線から、同じブルートレインの〈さくら〉が発車した。
そのあと、駅長に案内されて、武田が、階段をのぼって来た。二人の周囲を、十五、六人の人間が取り巻いている。
ホームに待っていた記者やカメラマンが、武田に向けて、一斉にカメラのシャッターを切る。二、三分の間、シャッター音と、フラッシュの閃光が、ホームを支配した。
青木も、数枚写真を撮ったが、ブルートレインを撮りに来た子供たちは、いったい誰なのだろうという顔で、ぽかんと、武田を見ている。
「噂どおり、子供が一杯来ているねえ」
と、武田は、ニコニコしながら、駅長にとも、自分を取り囲んだ新聞記者にともなくいった。身体も大きいが、声も大きい男である。
「おかげさまで、ブルートレインは、大変な人気です」
駅長が、得意気にいった。
「夜行列車でお故郷入りした大臣は、武田さんが最初だと思うんですが、それほど夜行列車がお好きですか?」
そんな質問が、記者たちの間から出たりした。
テレビカメラも回り、何本ものマイクが、武田の眼の前に突き出されている。これだけでも、ブルートレインで、お故郷入りという武田の演出に、宣伝効果があったということだろう。
武田は、上機嫌だった。
「わたしは、飛行機や新幹線には、何度も乗っているが、ぜひ、一度、このブルートレインに乗ってみたくてね。今度、その願いがかなえられて、浮き浮きしているんだよ」
「個室寝台(コンパートメント)で、一枚、写真を撮らせて頂けませんか」
カメラマンの一人が注文を出すと、武田は、気軽く、個室寝台車に乗り込んだ。
武田のコンパートメントは、3号室だった。
中に入って、「ちょっと狭いかな」と見回していたが、
「なかなか、機能的に出来てるじゃないか」
と、テーブルの蓋を、開けたり、閉めたりした。
「新婚のカップルのために、二人用のコンパートメントを作る気はありませんか?」
記者の一人がきくと、
「国鉄総裁に話しておこう。アベック用のコンパートメントが出来たら、若い人たちが、ハネムーン用に、ブルートレインを利用してくれるかね?」
「そりゃあ、利用すると思いますよ。ホテル代込みで、旅行ができるんだから」
「なるほどね。あははは」
と、武田は、大きな身体をゆすって笑った。豪快な笑い方だったが、外見に似ず神経は細かい男だともいわれていた。
発車のベルが鳴ると、記者やカメラマンたちは、ほとんどがホームに出た。
列車内に残ったのは、十人足らずだった。
武田は、通路に立ち、広い窓から、見送る駅長たちに手をあげた。
下り〈はやぶさ〉は、まだ明るく差し込んでいる午後の陽差しの中を、ゆっくりと、十三番線ホームを離れた。
列車に残った記者やカメラマンたちも、自分の席のあるB寝台のほうへ引き揚げて行った。午後七時になったら、食堂車へ行くと、武田が約束したからである。
青木も、7号車の自分の席に腰を下ろした。
切符によれば、彼は、上の寝台だった。あがるのは大変だが、下よりも、通路を歩く乗客の足音や話し声は聞こえないだろう。
下段には、どんな人間が来るのだろうと考えるのも、二段寝台の一つの楽しみである。
東京駅を出て、五、六分して、自分の切符を見ながら、二十五、六歳の女が、青木の隣りに腰を下ろした。
彼女が、下段の乗客らしい。なかなかの美人で、青木は、急に楽しくなってきた。
「どこまで、おいでですか?」
と、青木は、声をかけてから、三月二十七日に〈はやぶさ〉で、同じように声をかけた女のことを思い出した。その女は、誰が何といおうと、多摩川で水死体で発見された田久保涼子に違いないのだ。
「西鹿児島ですけど」と、女は、微笑した。
「あなたは?」
「僕も、終点の西鹿児島までです」
青木は、名刺を取り出して女に渡した。編集長に、安易に社名入りの名刺を配るなといわれていたが、性格というのは、なかなか直らないものである。
「週刊エポックの方?」
女は、ちょっとびっくりした顔になって、青木を見た。
「ええ。今日はやぼな仕事でしてね」
と、青木は、いくらか得意気にいった。
「仕事といえば、この列車に、偉い人が乗っているみたい。ホームで、盛んにフラッシュが焚かれていたから」
「運輸大臣が、このブルートレインで、鹿児島にお故郷入りするんですよ」
「へえ」
「その取材に、僕も、西鹿児島まで行くんです。あなたの名前も、教えてくれないかな」
「八木美也子です。よろしく」
女は、クスッと笑った。
「何か可笑しいですか?」
「あたしね。一度、出版社に入りたくて、週刊エポックの採用試験を受けたことがあるんです。だから、何となく変な気がして」
「驚いたな。それで、試験はどうだったんです?」
「見事に落第」
「試験官に、人を見る眼がなかったんだな。もし、あなたが受かっていたら、一緒に取材で、この列車に乗っていたかもしれないんだな」
「運輸大臣の取材にいらっしゃったのに、ここにいていいんですか?」
「もう談話は貰いましたからね。あとは、七時に食堂車に行くということだから、そこで写真を撮れば終わりですよ」
「大臣が食堂車に?」
「ポーズですよ」と、青木は笑った。
「大臣というのは、誰も彼も、庶民の味方みたいなポーズを取りたがるものでしてね。食堂車の食事が口に合うはずがないんだ」
「じゃあ、あたしも、七時ごろ、食堂車に行って、大臣のお顔を拝見しようかしら」
「一緒に行こうじゃありませんか」
と、青木は、誘った。大臣の取材なんて、しんき臭いが、この女と一緒に旅行できると考えると、楽しくなってくる。
青木は、ちらりと、女の胸の辺りに眼をやった。白いセーターの胸が、豊かに息づいている。白いパンタロンに包まれた足も、すらりと、きれいな感じだった。
いったい、何をしている女なのだろうか?
新幹線内の桜井刑事から、電話が入った。
「今、名古屋を出たところです」
と、桜井がいった。
ごおッという轟音が、バックに流れたのは、上りの列車とすれ違ったのだろう。しばらく、桜井の声が、聞こえなくなった。
「高田はどうしている?」
「12号車で、眠っているようです。さっきまでは、週刊誌を読んでいましたが」
「事務所の話では、高田は、大阪で宝石商をやっている畑中浩一という大学時代の友人に会いに行ったということだ。この男の弟が関係した傷害事件の相談を受けたらしい」
「本当に会うでしょうか?」
「僕は、会うと思っている。彼は用心深い男だからね。もし、会わなければ、警察が疑うことは承知しているだろう。問題は、その後だ。下り〈はやぶさ〉が、武田運輸大臣を乗せて、十五分前に東京駅を出ている。大阪へ着くのは、午前〇時八分だ。高田は、これに乗るつもりかもしれない」
「乗るとしたら、何のためでしょうか?」
「武田大臣が乗っているためかもしれない。他には、ちょっと考えられないんだ」
「高田と、大臣とは、どんな関係があるんでしょうか?」
「今、それを調べている。間もなくわかるはずだ。だから、君は、高田をぴったりマークして、特に、彼が、下り〈はやぶさ〉に乗るかどうか、それに気をつけてくれ」
それだけ注意して、十津川は、電話を切り、窓の外に眼をやった。
まだ、ぼんやりと明るかった。最初に事件が起きた日から、ずいぶん陽が長くなったと思う。そのことが、十津川を、軽い焦燥にかりたてる。すでに、一週間近くたっているのに、高田が、田久保涼子を殺した証拠をつかめずにいる。それどころか、田久保涼子が、下り〈はやぶさ〉に乗っていたことを証明することさえできないのだ。
三月二十八日午前十一時、多摩川で発見された水死体が、その五時間前から水に浸っていたという時間的な壁が突破できない限り、高田を犯人と断定できないばかりか、多摩川の死体が、ブルートレインの女だという証明もできない。
十津川は、煙草に火をつけた。開けた窓から、煙を吐き出したとき、亀井刑事が飛び込んできた。
「警部!」
という、その甲高い声で、十津川は、よい知らせを持って来たことを知った。
「高田は、やっぱり、問題の刑法研究会のメンバーだったんだな?」
「そのとおりです。この研究会は、約一年半で解散していますが、高田は、創立時からのメンバーです。大半の弁護士は、この研究会が、刑法を改悪するのではないかと考えて、参加に消極的だったんですが、高田だけは、進んで参加したようです。そのため、批判されたこともあるようです。それに、二人は、同じ大学を出ています。もっとも、年齢が離れていますから、大学で顔を合わせたことはないでしょうから、親しくなったのは、刑法研究会でだと思います」
「高田は、武田信太郎と一年半もつき合っていたわけだ。あるいは、その研究会が解散したあとも、交際していたかもしれん」
「しかし、二人が、ただ知り合っていたというだけでは、問題にはならないのではないでしょうか?」
「もちろん、そうさ。だが、ここまでに、こういう図式が出来ている。田久保涼子という女が殺されて、そのハンドバッグの中に、武田信太郎の名刺があった。この田久保涼子は、彼女の自殺した夫を通して、高田と結びつく。高田は、刑法研究会を通して、武田信太郎と結びつく」
「だから、武田信太郎と、殺された田久保涼子も結びつくとお考えですか?」
「そうだ」
「しかし、今のところ、この二人を結びつけるものは、武田信太郎の名刺だけですが」
「だが二年前に、五億円詐取事件に使われたと同じ名刺だよ」
「確かにそうですが……」
「この三人のつながりには、あるいは、もっと別の要素なり、人間なりが介在しているのかもしれない」
「どんな要素、どんな人間ですか?」
「それがわかれば、高田を逮捕できるだろうし、起こるかもしれぬ次の事件を未然に防止できるかもしれん」
「次の事件というのは?」
「それがわかればいいんだがね」
十津川は、いまいましそうに、煙草の吸殻をごりごりと灰皿でもみ消した。
「これからどうします?」
「まず、夕食をとろう。何が起きても大丈夫なように、腹ごしらえをしておこうじゃないか。どうだい? カメさん」
「大丈夫ですか?」
「何がだね?」
「次に起きるかもしれないという事件のことです。夕食をとっている余裕がありますか?」
「これは、僕の勘だがね。午前〇時までは大丈夫のような気がするんだ」
早めの夕食に、近くの食堂から、弁当を運ばせた。
幕内弁当に似たものだった。
新聞を読みながら食べるくせのある亀井は、だれかの置いていった古新聞を広げて、眼を通していたが、急に、
「あッ」と、声を出した。
「どうしたね? カメさん」
十津川が、きいた。
亀井は、その古新聞を、十津川の前に持っていった。
「ここを見てください」
と、亀井が、指したところに、「勝浦沖で、死体が網に」の見出しが見えた。
○本日午前六時ごろ、勝浦沖約三〇キロで、豊水丸(十トン)=船長・鈴木晋吉さん(五二)の網に、男の死体が引っかかった。この死体は、ロープでぐるぐる巻きにされており、重石をつけて沈められていたのが、海水でロープが弱り、浮きあがってきたところを、網に引っかかったものと思われている。警察で調べたところ、死後一年以上経過しており、顔立ちもわからないほど、腐敗している。年齢は三十歳前後で、身長約一七〇センチ。着ていた背広には、「K・T」の刺繍があった。警察は、この死体の身元確認を急ぐと同時に、殺人事件とみて、捜査を開始した。
「元印刷工の高梨一彦は、K・Tだな」
十津川が、呟いた。
「そのとおりです。身長一七〇センチというのも、一致しますし、死後一年以上というのも気になります。高梨が消えたのは、一年七カ月前ですから」
「この新聞は、三月二十一日か。今度の事件が起きる前だな。千葉県警に問い合わせてみてくれないか。身元が割れたのかどうか」
十津川にいわれて、亀井は、受話器を取った。
十津川は、煙草に火をつけて、亀井が、電話の終わるのを待った。
もし、この死体が、高梨一彦だったら、事件は少しは進展するだろう。
十二、三分で、亀井は、電話を終えて、戻って来た。
「残念ながら、まだ、身元は確認できていないそうです」
亀井が、メモを見ながらいった。
「すると、高梨一彦とは断定できずか」
「この死体のことを、熱心に聞きに来た男がいたそうです。ええと、中村朗。三十九歳。勝浦の近くに別荘を持っている青年実業家だといっています。東京都内に、数軒のレストランを持っています。警察には、真っ赤なスポーツ・カーに乗ってやって来たので、よく覚えていると、担当の刑事がいっていました」
「中村朗だって?」
「そうです」
と、亀井は肯いてから、「あッ」と、小さく声をあげた。
「そうだよ。カメさん」
と、十津川は、眼を輝かせて、
「高田が弁護した三十二人の中に、その名前があるんだ。中村朗、三十九歳。傷害の前科あり。フランス料理店『エスカルゴ』を経営。本店の他支店三軒あり。現在、赤いロータス・エスプリを乗り回し、千葉県下に別荘。ぴったりじゃないか」
「間違いなく同一人ですね」
「それで、中村朗は、死体のことを、どういっているんだ?」
「いろいろと質問した揚句、知らない人間だといって、帰ったそうです」
「そいつは嘘だな。死体は、十中八、九、高梨一彦だよ」
「そして、中村朗が、殺して海に沈めたと考えていいんじゃないですか?」
「あるいは、高田がやらせたかだな」
「だとすると、二年前の五億円詐取事件の主犯は、高田弁護士ということになるんじゃありませんか?」
「そのとおりだよ。証拠はないがね」
「これで、高田を逮捕できるんじゃありませんか」
亀井が、勢い込んでいった。
十津川は、苦笑した。
「カメさん。そこまではできないよ。証拠がないんだ。まず、中村朗という男を訊問してみようじゃないか。おい。井上君」
十津川は、部屋に残っていた井上刑事を呼んで、中村朗を見つけて、連れて来るようにいった。
井上刑事が飛び出して行くのを見送ってから、亀井が、
「やはり、二年前の五億円詐取事件に使われた武田の名刺は、山田印刷の高梨が、余分に刷って持ち出したということですか?」
と、十津川にきいた。
「恐らく、そうだろうね」
「犯人は、利用しておいて殺したわけですね?」
「だろうが、問題は、誰がだな」
「高田弁護士……ですか?」
「そうだと有難いがね。今のところ、何の証拠もないよ。勝浦の死体が、高梨一彦というのも、想像でしかない」
「しかし、高田だと考えると、ぴたりと合うんじゃありませんか?」
「何がだね?」
「二年前、高田は、武田信太郎の名前を利用して、大金を詐取することを考えました。そこで、山田印刷の工員である高梨一彦に、武田信太郎の名刺を、何枚か余分に刷らせ、銀行から五億円を欺し取ったわけです。そのあと、事情を知る高梨を殺して海に沈めました。高田が直接手を下したか、あるいは、中村という男にやらせたかはわかりませんが」
「それと、田久保涼子殺しとどう関係してくるのかね?」
「五億円詐取には、何人かの人間が関係しています。銀行に受け取りに来た人間でも二人いるわけですから。その中の一人が、田久保涼子の夫だったんではないでしょうか。五億円を奪うことに成功したあと、仲間割れをした。恐らく、金の配分についてのごたごたじゃないでしょうか。嫌気がさして、彼女の夫は自殺。涼子は、故郷に帰る決心をしましたが、夫を自殺させた高田たちを恨んでいたんだと思います。二年前の事件のときの名刺を持って、故郷へ帰ろうとしたのは、それで高田たちを脅すつもりだったのかもしれません。田久保涼子の夫の自殺にしても、あるいは、自殺に見せかけた他殺かもしれません。とすれば、彼女にとって、武田信太郎の名刺は、自分を守る道具だったのかもしれない。高田は、彼女が危険な存在になるのを恐れて殺してしまったわけです」
「なるほどね」
「いけませんか?」
「いや。なかなか面白いよ。カメさん。だが、問題はいくつかあるね」
「田久保涼子が、ブルートレインの女であることを証明することが難しいということですか?」
「いや。その問題は、そのうちに証明できるはずだ。二年前の五億円詐取事件だがね。そのころ、高田は、自分の法律事務所を持ち、売り出しの最中だったわけだろう。そんなときに、なぜ、詐欺など働いたんだろうか?」
「大金が必要だったんじゃありませんか?」
「そうかな」
十津川は、首をかしげて、亀井を見た。
「五億円もの大金だ。二年前に、彼がそんな大金を手に入れていたとすれば、何か変化があって然るべきだと思うのだが、われわれが調べた限りでは、彼の生活に、大きな変化があった形跡はない」
「じっと、寝かせてあるのかもしれません。大金であるほど、すぐ使えば、疑われますからね」
「今でも、高田がどこかに隠しているというのかね?」
「そうです」
「それは、あの男の性格から考えて、ちょっとおかしいんじゃないかな。高田は、権力志向型で、二年も時機を待つというタイプじゃない。もし彼が、五億円もの大金を持っていたとすれば、それを、すぐ利用しようとしたはずだよ」
「では、警部は、どうお考えですか?」
「二年前、総選挙があって、保守党が勝った。接戦ないし、逆転を覚悟していた保守党は、この選挙に、莫大な選挙資金を使ったといわれている。例によって、公式に発表された金額は、少ないがね。武田信太郎は、このとき、幹事長の下で、資金集めをやっており、その功労で、今度、運輸大臣になったといわれている。いわゆる論功行賞だ」
「それは、新聞にも書かれていて、私も読みました」
「ところで、二年前、武田信太郎自身も、郷里の鹿児島で、選挙を戦っている」
「知っています」
「彼は、党から資金集めを頼まれて、あまり東京を離れられぬうえ、彼の選挙区には、強力な対抗馬が出馬していた。野党が連合して押した新人だ。いわば、二重苦を背負って戦ったわけだよ。僕は覚えているが、新聞の予想も、武田が大苦戦になるだろうというものだった。そのときの武田のセリフが泣かせるんだ。さっき新聞の縮刷版を見たんだが、すぐにでも地元に戻って戦いたいが、私は党全体のために戦うために、東京に残る。私個人が敗れても、党が勝ってくれればいいとね」
「確かに、そいつは、泣かせますね」
と、亀井が笑った。
「こういう選挙ほど、金が要るものだよ。だが、武田自身は、そう金は持っていなかった。家が財産家というわけでもないし、会社をやっているわけでもないからね。彼は、確か、呉服店の長男に生まれ、その呉服店も潰れている。ところで、彼は、法務委員をやっていたわけだが、多分、一番、利権に関係のない委員会じゃないかな。また、大臣候補というわけでもないから、彼個人に、企業が多額の政治献金をしてくれるはずもない」
「すると、五億円事件は、武田が……?」
「考えられないことじゃないだろう? 党が要求すれば、企業は、喜んで多額の金を寄付してくる。武田は、幹事長の下で金集めをしていて、それを感じた。一方、彼は、自分が選挙に勝つために、金が必要だった。それも多額の金だ。苦戦であればあるほど、多額の金が必要になる。四億で落選、五億で当選という言葉が出た選挙だったんだ。武田は、親しくしていた高田弁護士に、自分の計画を打ち明けて、力を貸してくれと頼んだ。恐らく、高田が、政界に入るのを援助するとでも約束したんだろう。選挙資金集めの責任者が計画をたてたんだから、銀行が欺されたとしても不思議はない」
「すると、五億円は、武田が、選挙に使ってしまったということですか?」
「計画に参加した人間に、少しはやったろうが、大部分は、武田が選挙に使ったんだと思う。普通に五億円も使えば、すぐ怪しまれるが、選挙なら、いくら派手に使っても、誰も怪しまん。選挙は金がかかるものと、頭から決めているからね」
「武田は、高田に、約束を果たしたんでしょうか?」
「それは、明日の午後二時四十二分までに、わかるだろう」
「午後二時四十二分といいますと?」
「武田信太郎の乗った下り〈はやぶさ〉が、西鹿児島に着く時間だよ」
「すると、ブルートレインの中で、何か起きるとお考えですか?」
「起きなければいいと思っているがね」
十津川は、腕時計に眼をやった。
午後九時三十分。下り〈はやぶさ〉が、間もなく、名古屋に着く時間だ。
十津川は、自分で、下り〈はやぶさ〉に乗りたかった。だが、責任者の自分が、簡単に、捜査本部を離れるわけにはいかなかった。
それに、高田が、下り〈はやぶさ〉に乗れば、彼を尾行している桜井刑事も乗るだろう。
井上から電話が入った。
「中村朗は、消えました」
と、電話の向こうで、井上がいった。
「消えたというのは、どういうことだい?」
十津川が、大きな声できく。
「中村朗の経営するフランス料理店は、四軒とも、休業の札が下がっています。三月二十七日から当分の間休業しますと書いた札です」
「三月二十七日からだって」
問題の下り〈はやぶさ〉が、東京駅を出発した日ではないか。
「赤坂の本店の裏に、自宅があるんですが、ここにもいません」
「車はどうだ? 赤いロータス・エスプリはどこかに置いてあったかね?」
「いえ。自宅にも、店にも見当たりませんでした。多分、その車に乗って、どこかへ出かけたんだと思います」
問題は、どこへ出かけたかである。
(この男も、下り〈はやぶさ〉に乗ろうとしているのたろうか?)
第七章 逮捕令状
下り〈はやぶさ〉は、定時の二一時四〇分に名古屋を発車。次の停車駅、岐阜に向かって、夜の闇の中を突っ走って行く。
午後七時に食堂車に行き、カメラマンたちのフラッシュを浴びながら、関門定食に、ニコニコ笑いながら箸をつけて見せた武田は、自分のコンパートメントに戻っていた。
秘書官の神谷を呼びつけて、鹿児島入りについて、指示を与える武田の顔は、いつもの尊大で、気難しい表情になっている。
「西鹿児島駅でのわたしの歓迎準備は、ちゃんと手配してあるんだろうね?」
「およそ百人の市民が、ホームで、先生をお迎えする手筈になっております」
神谷は、メモを見ながらいった。
「百人? 少ないな」
「しかし、市長をはじめとして、鉄道管理局長など、有力者が、お迎えに出ている予定です」
「そんなことは当然だろう。君が自慢することはない」
「申しわけありません。先生が卒業されたT高校のブラスバンドも、先生のために、歓迎の演奏を行ないます」
「T高のブラスバンドが来るのか」
武田は、やっと顔をほころばせた。賑やかなことが好きな男なのだ。
「先生は、駅構内で、ミス・鹿児島から花束を受けられ、短い挨拶をされます」
「挨拶の原稿は?」
「ここに用意しました」
神谷は、封筒に入った原稿を、手渡した。
武田は、五枚の原稿を、ぱらぱらめくっていたが、
「君は、まだ、わたしという人間が、よくわかっていないようだね」
「は?」
「わたしは、庶民性が売りものの政治家なんだ。どこにでもいるじいさん、ばあさんに話しかけるような原稿が欲しいんだ。何だね? この書き出しは。鹿児島県における工業生産の伸びは、眼を見はるものがあり……こんな演説を誰が聞いてくれる? すぐ、書き直したまえ」
「わかりました」
「鹿児島のテレビ局での対談の相手も決めたかね?」
「先生の指示どおりの人選になっております」
「記者たちは、どうしている?」
「西鹿児島まで、取材なしということで、話はついています」
「そうか。少しはくつろげるな」
武田は、大きな欠伸をした。
「お疲れですか?」
「肩がこったよ。栗橋君にもんでもらおう。あとで彼女にわたしのコンパートメントに来るようにいってくれ」
桜井刑事は、大阪市東区にいた。
高田は、一時間前に、畑中宝石店に入ったきり、まだ出て来ない。
三階建ての小さなビルで、一階が宝石店、二階、三階が、住居になっているようだった。
桜井は、ちょうど、真向かいにある喫茶店に入り、窓際に腰を下ろして、宝石店を見張った。
店には、絶えず二、三人の客がいて、三人の店員が応対しているのが見える。高田は、奥に入って行ったから、二階に上がったのだろう。
桜井は、腕時計を見た。
間もなく、十時になる。十津川警部のいうとおり、高田が大阪から下り〈はやぶさ〉に乗るものとすれば、あと一時間以内には、出て来るだろうと、桜井は思った。
コーヒーを運んで来たウエイトレスに、この店が、十一時までと聞いてから、煙草の火をつけた。
時間が、ゆっくり過ぎていく。
宝石店の店員が、表に出て来て、タクシーを停めた。高田が頼んだのだろうか、と、桜井は腰を浮かしかけたが、中年の女性客のために停めたのだった。
三十分たった。
いぜんとして、高田は出て来ない。そのうちに、宝石店が、表のシャッターを下ろしはじめた。
桜井は、嫌な予感に襲われ、喫茶店を飛び出すと、道路を渡って、宝石店の前へ行った。
シャッターを下ろしている男の店員に、声をかけた。
「さっき、高田という弁護士が、入ったはずなんだが?」
「社長のお客さんでしょう」
「そうだ。その人は、まだいるのかね? 彼に急用があるんだが」
「もうお帰りになりましたよ」
「帰った? どこからだ?」
「裏口から出て行かれました」
「裏口があるのか?」
「めったに使いませんが、あの方は、怖い男につけられているからといって、裏口から出て行かれたんです」
「行く先はわからないかね?」
「わかりません」
(畜生!)
と、桜井は、歯がみをした。高田は、つけられているのを知っていたのだ。
高田が、逃げたとすれば、ここで、まごまごしてはいられなかった。桜井は、タクシーを拾い、とにかく、大阪駅へ急いだ。
構内の黄色い電話に百円玉を数枚投げ込み、東京の捜査本部のダイヤルを回した。こういう報告は、冷や汗が出てくる。
「高田に、見事にまかれました。申しわけありません」
と、桜井は、十津川に報告した。
「君らしくないじゃないか」
十津川の声は、落ち着いている。
「裏口から出ても、表に回らなければならないはずだと思い込んだのが失敗でした」
「そりゃあ、欺されたんだよ」
「は?」
「君が、聞きに行ったとき、高田は、まだ店内にいたんだと思う。君が、裏口から出たと聞いて、あわてて、大阪駅へ飛んだあと、高田は、悠々と、店を出たんじゃないだろうか」
「畜生!」
桜井は、舌打ちをした。自分の眼を信じればよかったのか。
「まあいいさ」と、電話の向こうで、十津川が、なぐさめるようにいった。
「高田は、どうせ、下り〈はやぶさ〉に乗るはずだ。君も、大阪駅から、同じ列車に乗り込んでくれ」
「もし、彼が、この列車に乗らなかったらどうしましょう?」
「乗らなければ、何も事件は起きないとみていい。君は、九州まで、ブルートレインの旅を楽しんで来たまえ」
「わかりました」
桜井は、受話器を置くと、構内の時計を見上げた。下り〈はやぶさ〉が到着するまでには、まだ一時間以上の余裕がある。窓口で、下り〈はやぶさ〉の乗車券、B寝台券、特急券を買った。
本当に、高田は、このブルートレインに乗るのだろうか?
十時五分。
下り〈はやぶさ〉は、岐阜を出たところだ。
十津川は、黒板に書かれた下り〈はやぶさ〉の時刻表と、壁の電気時計を見比べていた。自分が、この列車に乗っていないのが、何ともまだるっこしくて仕方がない。
高田は、大阪で、この列車に乗り込むだろう。彼の列車内での動きは、桜井刑事がチェックしてくれるとして、問題は、高田の仲間の動きだった。例えば、中村朗は、どこにいるのだろうか。
すでに、中村は、下り〈はやぶさ〉の車内にいて、着々と、何かを進行させているのだろうか。
「警部。コーヒーでも召しあがりませんか」
と、亀井が、自分でいれたコーヒーを運んで来てくれた。
「ありがとう」
「少し休まれたほうがいいですよ。下り〈はやぶさ〉車内のことは、ここで、やきもきしても仕方がないでしょう。それに、桜井君もいます」
「それはわかっているんだがね。ブルートレインに電話がかけられないのは、こういうとき、不便だな」
十津川は、ブラックのまま、コーヒーを口に運んだ。
「警部は、高田が下り〈はやぶさ〉に乗り込むまでは、安心だとおっしゃったじゃありませんか」
「確かにそうなんだが……」
「東海地方の異常渇水は、相変わらずひどいようです」
「なぜ、そんな話をするんだ?」
「十二時過ぎまでは、事件が起こらないとすれば、少しは、事件から離れられたらどうかと思いましてね」
「事件から離れる?」
「ブルートレインの謎が解けないのも、あまりにも事件のことばかり考えて、考え方に柔軟性が失われてしまっているからじゃないかと思うんですが、間違っているでしょうか?」
「君の言はいい。よし。今から十分間だけ、事件のことを忘れよう」
十津川は、ニッコリ笑って、亀井を見て、
「じゃあ、東海地方の異常渇水の話を聞こうか」
「去年の末から、東海地方には、ほとんど雨らしい雨が降っていません。名古屋市内では、先月十五日から、一日六時間の給水制限に踏み切りました。他の都市も同様らしいです」
「大変だな。ここが名古屋だったら、このコーヒーも飲めなかったかもしれないな」
「自衛隊の給水車はもとより、県や市も、給水車の手配をして、必死で、水を運んでいるそうです。こんな話も聞きました。石油を運ぶタンクローリーに、水を入れて運んだりもしていると。東海地方は、よく台風にやられるんですが、今年だけは、早く台風が来てくれないかと祈っているそうです」
「………」
「どうされたんですか?」
「コーヒーをもう一杯欲しいな」
と、十津川はいった。
亀井が、ポットから注いでいる間、十津川は、じっと考え込んでいた。
亀井が、注ぎ終わっても、十津川は、天井を見つめている。
「どうされました? コーヒーはお注ぎしましたが」
亀井が心配して聞くと、十津川は、
「給水車だよ。カメさん」
「ええ。東海地方では、給水車が大活躍だそうです」
「いや。われわれの事件のことだ」
「もう十分たちましたか?」
「いや。君のおかげで、事件の謎の一つが解けそうだということだよ。吹田君」
と、十津川は、若い警部補を呼んで、
「君も一緒に考えてくれ。多摩川の水死体が、五時間も水に浸っていたという謎だがね。あれは、給水車を利用したんじゃないかと思ったんだが、どうだろう?」
「給水車といいますと?」
「タンクローリーの石油を抜いて、代わりに水を入れておく。その中に、田久保涼子の死体を投げ込んで運んだとすれば、その運んでいた時間だけ、水に浸っていたことになるじゃないか」
「なるほど」
吹田が、眼を輝かせた。
「それに、車が、タンクローリーを改造したものなら、『危険』の標識をつけて、突っ走れるし、怪しまれもしない」
「しかし、下り〈はやぶさ〉に乗っていた田久保涼子を、犯人は、どこでおろしたんでしょうか?」
「決まっているよ。もちろん岡山駅だ」
「岡山でおりたのは、高田と、彼に睡眠薬を飲まされた青木記者じゃなかったんですか?」
「いや。違うね。高田は、個室で溺死させた田久保涼子を、岡山駅でおろしたんだ。気分の悪くなった乗客のように見せかけてね。彼女は、女にしては大柄だから、男物のコートを羽おらせ、帽子をかぶせれば、男に見えないこともない」
「しかし、警部。青木は、岡山でおろされ、一時間十五分おくれの〈富士〉に乗せられたといっています。私には、彼が犯人の一味とは思えませんし、嘘をついているようにも思えないんですが」
「もちろん、彼は、犯人の一味じゃないよ。だが、彼が、岡山でおろされ、別のブルートレイン〈富士〉に乗せられたというのは、犯人たちによって、そう思わされているだけのことだ」
「青木の証言を、どう反論されますか? 彼は、気がついたとき、自分が、〈はやぶさ〉ではなく、〈富士〉に乗っているのに気がついたといっています。駅の通過時間がおかしいし、個室寝台車の乗客が変わってしまっていたからです」
「青木は、腕に、睡眠薬の注射をされたので、岡山駅でおろされたのもわからなかったといっているが、あの注射は、睡眠薬の注射ではないと思う」
「では、何の注射だと、お考えですか?」
「犯人は、青木のウイスキーの中に、睡眠薬を入れておき、彼を眠らせた。そして、腕時計を一時間十五分すすませた。つまり〈富士〉の時間にしたのさ。しかし、青木が、眠り続けていたのでは、どうしようもない。そこで、注射をうった。睡眠薬ではなく、逆の覚醒剤じゃないかと思う。その結果、気がついた青木は、窓の外の駅名と、腕時計の針を見て、頭をかしげてしまった。通路に出ると、他のコンパートメントには、違う人間が乗っている。そして、これは、〈富士〉だと教えられる。となれば、誰だって、睡眠薬を飲まされ、注射され、眠っている間に、〈はやぶさ〉からおろされ、〈富士〉に乗せられたのではないかと考え始める。岡山駅に行き、荷物係から、当日、二人の人間が、下り〈はやぶさ〉から降りるのを見たと聞かされて、いよいよ、その考えが正しいと思ってしまった」
「すると、田久保涼子の死体を入れて運んだ給水車は、あらかじめ岡山駅に待たせておいたということになりますね?」
「そうだ。あるいは、大阪なり、名古屋なりに、待たせておいて、岡山からそこまでは、他の車で運んだのかもしれない。例えば、中村朗の持っている例のスポーツ・カーを利用してだ」
「岡山からとしてですが、岡山から東京の多摩川の遺棄現場まで、約七百キロあります。下り〈はやぶさ〉の岡山着が、午前二時二十五分で、一方、老人が、多摩川で田久保涼子の死体を発見したのは午前十一時少し過ぎです。とすると、八時間三十分で、七百キロを走って、死体を運んだことになります」
「単純計算すると、時速約八十三キロで、飛ばしたわけだろう。不可能じゃない。午前二時からといえば、道路が空いている時間だし、恐らく、名神、東名と、高速道路を走ったに違いないからね。ただ、運転する人間は、二人必要だろうね。一人で、八時間も飛ばすのは、大変だ」
「警部」
と、亀井が、口をはさんだ。
「何だい? カメさん」
「給水車を、時速八十キロで、東京までぶっ飛ばすのは、別に難しくはないと思います。大型トラックの運転手なんかは、時速百キロぐらいで、深夜のハイウエイを、ぶっ飛ばしていますから。ただ、私が不思議に思うのは、たった一人の女を殺すのに、わざわざ、給水車まで用意するというのは、少しばかり異常すぎはしないでしょうか?」
「確かにそのとおりだ。君の疑問は、言葉を変えていえば、犯人が、なぜ、ブルートレインにこだわったのだろうかということだろう? 田久保涼子をブルートレインに乗る前にでも殺してしまえば、給水車は必要ないし、わざわざ、岡山から東京まで運ぶ必要もない。そういうことだろう?」
「そのとおりです」
「それについては、僕は、一つの考えを持っている。それは、あとで話すが、犯人が、ブルートレインにこだわったために、もう一つ必要だったことがある」
「何人もの共犯者が必要です」
「同感だね。何人の共犯者が必要か、計算してみようじゃないか」
十津川は、立ち上がり、黒板の傍へ行って、チョークをつまんだ。(1)から(10)までの数字を書き並べ、(1)のところに、まず、高田弁護士と書いた。
「第二の人物は、田久保涼子になりすまして、彼女の切符で、西鹿児島まで行った女ですね」
と、吹田がいった。
十津川が、(2)の下に、「田久保涼子の替玉」と書いた。
「青木は、眼を覚ましたあと、通路に出て、二人の人間に会っています」と、亀井がいった。
「田久保涼子が乗っていたはずの8号室にいた和服姿の女と、高田弁護士がいた9号室から出て来た五十歳ぐらいの男です」
「いや、もう一人いる」
と、十津川がいった。
「誰です?」
「車掌だよ」
「しかし、車掌は?」
「ニセ者かもしれないよ。本物だったら、田久保涼子を覚えていたかもしれない」
「なるほど。すると、和服の女、五十過ぎの男、それにニセ車掌ということになりますね。それを書いてみてくれませんか」
亀井がいい、十津川は、書きかけてから、急に止めてしまった。
「こいつは意味がないな」
「なぜです?」
「考えてみたまえ。個室寝台車には、十四のコンパートメントがあるんだ。もし、青木が通路に出たとき、今の三人以外の乗客が、彼に会ってしまったら、計画は、失敗してしまう」
「すると、全部のコンパートメントに、共犯者が入っていたということですか?」
びっくりした顔で、吹田が、十津川を見た。
「そのとおりだ。犯人たちとしたら、青木の入った7号室にも、共犯者を入れておきたかったろうと、僕は思う。そうしておけば、安心して、田久保涼子を殺せるからね。だが、個室寝台の予約を取ろうとしたら、7号室だけ売れてしまっていた。彼らにとって、この乗客が、面倒な存在になった。そこで、急いで、〈富士〉の7号室の切符を買い、あんな面倒くさい芝居を打ったのだ」
「面白いとは思いますが……」
「反対かい? カメさん」
「さっきと同じ疑問ですが、たった一人の女を殺すために、十三人もの人間が、同じ列車のコンパートメントを買い占めて乗り込む。あまりにも、大げさ過ぎると思うんです。しかも、たまたま、7号室に、青木という雑誌記者が入っていたので、そのために、また一芝居打つ必要ができてしまった。殺し方が複雑になればなるほど、ボロが出るものです。現に、苦心して芝居を打ったにもかかわらず、われわれが、尻尾をつかみかけています」
「続けてくれ。カメさん」
「こんな面倒なことをしなくても、田久保涼子が、ブルートレインに乗る前か、西鹿児島でおりたあと、殺せばいいんじゃないでしょうか?」
「確かに、そのとおりだよ」と、十津川は、肯いた。
「よほどの馬鹿でない限り、たった一人の人間を殺すために、こんな面倒なことはしないだろうね。君のいうとおりだ」
「しかし、そうなると、どういうことになるんですか?」
吹田は、顔をしかめて、十津川にきいた。
「青木が、岡山で、下り〈はやぶさ〉からおろされたというのは間違いだ。おろされたのは、田久保涼子だ。これは間違いない」
十津川は、きっぱりといった。
「すると、下り〈はやぶさ〉の個室寝台車のコンパートメントは、高田と、その仲間に占領されていたことになりますね?」
「そうでなければ、青木に、下り〈富士〉に乗せ替えられたと信じさせることは不可能だからね」
「しかし、それは、田久保涼子を殺すためではなかった……?」
「そうだ。カメさんのいうとおり、彼女一人を殺すためなら、大げさ過ぎる」
「じゃあ、何のためです?」
「多分……」
と、十津川は、宙を睨んだ。
「多分、予行演習のためだ」
「まさか、武田大臣を殺すための予行演習だなんて、おっしゃるんじゃないでしょうね?」
吹田が、こわばった顔できいた。
「他に考えられるかね?」
十津川が、逆にきき返した。吹田は、何かいいかけて黙ってしまった。
「武田信太郎は、運輸大臣に就任した直後から、夜行列車(ブルートレイン)を使って、お故郷入りするといっていた」
「新聞や週刊誌に載っていたようです」
と、亀井がいった。
「高田が、武田大臣を恨んでる、それも、激しく憎んでいたとしたら、大臣の晴れのお故郷入りのときに殺してやろうと考えてもおかしくはない。そして、ブルートレインを、その場所として選んだ。だが、ブルートレイン、特に、武田信太郎が乗る個室寝台車の構造をよく知っておく必要がある。そこで、武田大臣が、国際会議から帰国する前に、予行演習をすることを考えたのだ」
「それが、三月二十七日だったわけですね」
「そうだ。高田は、仲間とすべてのコンパートメントを占領して、自由に予行演習をしたかったろうが、人気のある個室だから、一つだけ、青木記者に切符を買われてしまっていた。しかし、彼らは、そのまま、やるつもりだったと思う。他の日の〈はやぶさ〉の個室寝台が、全部確保できるという保障は、どこにもなかったろうからね」
「田久保涼子の死体を運んだと思われる給水のタンクローリーですが、これも、彼女を殺すためではなく、今日の、大臣殺害計画のために、用意されたのではないかということになりますね」
「そう考えたほうが納得できるよ。予行演習のために用意されていた給水車を、たまたま田久保涼子の死体を運ぶために使用したと考えるのが正解じゃないかな」
「すると、今日、高田たちが、武田大臣を殺そうと企んでいるとして、給水車が、そのために使用されるということになりますね?」
亀井が、じっと、十津川を見た。
「ああ。そうなるかもしれないな」
「いったい、どんなふうに使うつもりなんでしょうか? 大臣も、車内で殺して岡山駅でおろし、給水車で東京へ運んで、多摩川に捨てるつもりでしょうか?」
「それは違うね」と、十津川は、簡単に否定した。
「田久保涼子の死体を、わざわざ、多摩川まで運んで捨てたのは、彼女がブルートレインに乗っていたのを知られたくなかったからだ。西鹿児島行きのブルートレインのコンパートメントで、乗客が殺されたなどということになれば、武田信太郎が、同じブルートレインを利用してのお故郷入りを止めてしまうかもしれないと、高田たちは考えたんだろう。ところで、武田大臣が、今日、ブルートレインの個室寝台に乗っていることは、誰もが知っている。わざわざ、多摩川へ運んでも、何のプラスもないはずだ」
「給水車を、踏切で止め、列車を立ち往生させる計画じゃないでしょうか?」
と、いったのは、吹田だった。
吹田は、その考えに、かなり自信があるらしく、
「新幹線と違って、東海道線には、まだ、かなりの踏切があります。給水車を、故障したように見せかけて踏切に止めれば、列車は、確実に立ち往生しますよ」
「残念ながら、それも違うね」
「なぜですか?」
「踏切で、下り〈はやぶさ〉を立ち往生させるのなら、別に給水車でなくてもいいはずだからだよ。普通のトラックでいいんだ。わざわざ、手に入れにくい給水車にすることはないだろう。もっといえば、発煙筒を焚くだけだって、列車は止められるよ。それに、もし、君のいうとおりだとしたら、三月二十七日の予行演習のときに、どこかの踏切で、下り〈はやぶさ〉が、止められていなければならない。あの列車には、そんなことはなかったからね」
「では、彼らは、給水車を、どう利用するつもりなんでしょうか?」
「わからないな。ブルートレインと、給水車の関係がわからん」
「三月二十七日が、予行演習だとしますと、殺された田久保涼子は、最初、高田たちの仲間だったとは考えられませんか?」
吹田が、考えながらいった。
「そう考えるほうが適当だろうね。二十七日が近づくにつれて、彼女が、自分たちを裏切るかもしれないと、高田は考え、消してしまったに違いない」
「田久保涼子は、なぜ、殺されるかもわからないのに、下り〈はやぶさ〉に乗ったんでしょうか?」
「理由は、二つ考えられるね。一つは、自分が、裏切ろうとしているのを、まだ知られていないと思っていたんじゃないかということ。もう一つは、東京では、仲間の監視が厳しくて、逃げ出すチャンスがなかった。それで、計画に従うと見せて、下り〈はやぶさ〉に乗り、九州へ行ってから姿を消そうと思ったのではないかということだね」
「週刊エポックの青木記者の話によると、田久保涼子は、食堂車で、高田を見かけて顔色を変えたそうです。もし、彼女が高田の仲間で、一応、予行演習のために、下り〈はやぶさ〉に乗ったとすると、なぜ、高田を見て、顔色を変えたりしたんでしょうか?」
吹田が、首をかしげてきいた。
「それだよ!」
と、急に、十津川が、声を大きくした。
吹田が、びっくりした顔になって、
「は?」
「僕も、今、同じことを考えていたんだ。田久保涼子が、高田たちの仲間だったことは間違いない。三月二十七日の下り〈はやぶさ〉に乗るのが、今日のための予行演習だということを知っていることも確かだと思う。だからこそ、1号車の乗客が、仲間ばかりでも、別に逃げ出したりしなかったんだろう。それなのに、高田を見て、なぜ、顔色を変えたのか?」
「最初の計画では、リーダーの高田は、列車に乗らないことになっていたんじゃありませんか?」
亀井が、横からいった。
十津川は、「うん、うん」と、大きく肯いた。
「君のいうとおりだ。他には考えられん。列車に乗らないことになっていた高田が、食堂車に入って来たので、田久保涼子は、自分が逃げ出そうとしているのを知られたのではないかと考えて、顔色を変えたんだ」
「そ、そうだとしますと、警部……」
吹田が、興奮した口調で、いいかけるのへ、十津川は、「君のいいたいことは、わかっているよ」と、いった。
「今日も、高田は、列車に乗らないんじゃないかといいたいんだろう?」
「そうです」
「その可能性が出て来たね。高田が、大阪に行ったというので、僕は、てっきり、大阪から、下り〈はやぶさ〉に乗り込むものと決めていたんだが、桜井刑事の連絡でも、高田は乗り込んだ気配はないらしいと……」
「リーダーが、肝心の列車に乗らないというのは、どういうことでしょうか?」
亀井が、難しい顔でいった。確かにそのとおりだった。
「先回りして、下り〈はやぶさ〉を待ち構え、高田が、1号車に爆弾でも投げるんじゃないでしょうか?」
吹田が、いかにも若い年齢にふさわしいことをいった。が、十津川は、首を振って、
「仲間が乗っている列車に、爆弾を投げつけるとは思えないね。それに、ブルートレインは、時速百キロ近いスピードで夜の闇の中を突っ走っているんだ。爆弾を投げて命中するかどうかわからんよ」
「リーダーとして、外から作戦を指示するということでしょうか」
と、亀井がきく。それに対しても、十津川は、首を横に振った。
「新幹線と違って、ブルートレインの場合は、外から、乗客に電話連絡がとれないからね」
「しかし、リーダーの高田が、列車に乗らないとすると、彼が外にいなければならない理由があるわけでしょう?」
「そうだろうね。その理由を知りたいものだな。リーダーの高田が、列車の外で果たす役割とはいったい何かをね」
今のところ、細かいこともわからず、したがって、高田たちが考えている計画全体もわからない。
「他にもわからないことがありますが」
と、吹田がいった。
「何だね?」
「下り〈富士〉の車掌が、隅田川に落ちて死亡したのも、やはり、殺人と思われますか?」
「他には考えられないよ」
「殺人とすると、なぜ殺したんでしょうか? 青木が、下り〈富士〉に移されなかったとすれば、事件には関係がないわけですから」
「二つ考えられるね。第一は、関係がないからこそ殺されたということだ。〈富士〉も、岡山駅に運転停車することになっているが、誰も乗って来なかったと、証言されたら、真相がわかってしまう。だから殺したのではないかということだ。第二は、死んだ車掌が、何らかの意味で、高田と関係があったという見方だ。今、ブルートレインは、人気がある。二段のB寝台のほうは、切符が手に入るとしても、一列車で、十四のコンパートメントしかない個室寝台車のほうは、なかなか、切符が手に入らないはずだ。ただ、国鉄関係者に知り合いがあれば、楽かもしれない。もし、死んだ〈富士〉の車掌が仲間なら、切符は、手に入れやすかったろうと思うね」
「そういえば、あの日の〈はやぶさ〉は、博多車掌区の受持ちなのに、〈富士〉は、東京車掌区でしたね。東京の車掌なら、高田の知り合いだとしても、不思議はありません」
「もう一つ」と、十津川がつけ加えた。
「その車掌を殺したということは、今日の下り〈はやぶさ〉についても、個室寝台の切符を手に入れられたからかもしれない」
「武田大臣たち五人の他は、すべて、高田たちが、コンパートメントを占領しているんでしょうか?」
吹田が、強い眼で、十津川を見つめた。
「かもしれないな」
「そうだとしたら大変ですよ。すぐ、下り〈はやぶさ〉に連絡すべきです。東京駅の指令室から、列車へ連絡がとれるはずです」
「連絡して、どうするんだね?」
十津川が、さめたいい方をしたので、吹田は、眼をむいた。
「一国の大臣が、危険にさらされているんですよ。警部。何もせずにいるわけにはいかないんじゃありませんか。それとも、このまま放置しておくつもりですか?」
「だから、どうする気だといっているんだ?」
「コンパートメントに乗っている連中を、徹底的に調べさせます。飛行機なら、手荷物の検査は厳重で、凶器の持ち込みは、ほとんど不可能です。その点、列車は、フリーパスで持ち込めます。ですから、まず第一に、徹底的に、コンパートメントを調べさせることが必要です」
「恐らく、何も出て来ないな。そんなヘマをやる相手じゃない」
「第二に、乗客全員の身元調査です。高田の仲間だとすれば、彼が弁護した連中でしょう。それを調べる必要があります」
「そうだとしたら、どうするんだね? 強制的に、列車からおろすのか? 凶器は持っていない。ちゃんと切符も買っている。指名手配の犯人でもない。ただ単に、同じ弁護士に事件の弁護を頼んだというだけで、強制的に列車から引きずり下ろせるかね? 所持品検査だって、多分、不可能だろう。なぜなら、下り〈はやぶさ〉で、事件が起きるかもしれないというのは、あくまでも、われわれの想像であって、脅迫状が舞い込んだり、予告状が届いたりしているわけではないからだ」
「じゃあ、何もしないつもりですか?」
「そう噛みつきなさんな。警告ならできるだろう。ただ、武田信太郎が、それを信じるかどうかだな」
「事情を説明すれば、信じてもらえるんじゃないでしょうか?」
「事情を説明する?」
十津川は、苦笑した。
「武田信太郎に、五億円詐取事件の真犯人はあなただ。高田が、あなたを恨んで狙っているから気をつけなさいとでもいうのかね?」
「じゃあ、警部は、どうされるつもりなんですか?」
吹田は、明らかに怒っていた。
「列車には、二人のSPが乗っている。彼らは拳銃の名手だ。大阪からは、桜井刑事も乗り込む」
「だから安心だというんですか?」
「彼らを信じる」
「それだけですか?」
「問題は、高田たちが、どんな計画を持っているかということだ。彼らも、SPの護衛がつくことは知っているはずだ。他に、二、三人の刑事が乗ってくることだって予期しているかもしれん。それにもかかわらず、高田は、自分の計画が成功すると信じているに違いない。それがどんな計画なのか。それが想像がつけば、桜井刑事に注意させることができる」
十津川は、腕時計を見た。
十時四十六分。下り〈はやぶさ〉が、大阪駅に着くまでは、あと一時間二十二分ある。
その間に、高田たちの計画を見抜くことができるだろうか?
十一時少し前に、井上刑事から二度目の電話が入った。
「例の中村朗の車ですが、今、赤坂署の交通係に聞いたところ、交通事故を起こして、手配されています」
「中村のロータス・エスプリに間違いないのか?」
「間違いありません。事故を起こしたのは、第三京浜を出た横浜駅近くで、扱いは、神奈川県警ですが、中村の自宅のある赤坂署にも、協力の要請があったということです」
「どんな交通事故なんだ?」
「人身事故です。横断中の六十五歳の老婆をはね飛ばして逃走しています。事故を目撃した人が、ナンバーを覚えていたそうです」
「事故があったのは、いつなんだ?」
「昨日の早朝、午前六時ごろだそうです」
「よし。こちらで、神奈川県警に問い合わせて、くわしいことを聞いてみよう」
十津川は、電話を切ると、亀井刑事に向かって、
「中村朗は、ロータス・エスプリで、人身事故を起こしていたよ」
「それが、われわれにとって、何か役に立ちますか?」
亀井が、いささか、不謹慎と思われるいい方をしたのは、遠い所を走っている下り〈はやぶさ〉に対して、現在、何も出来ぬいらだたしさを示していたのかもしれない。
「わからんね。今は、藁をもつかみたい気持ちだよ」
十津川は、わざとおどけた調子でいい、もう一度受話器を取ると、神奈川県警のダイヤルを回し、捜査一課の小松原警部を呼んでもらった。小松原とは、大学が同じだった。
「君のところの交通係の関係なんだが、昨日の早朝、中村朗という男が、ロータス・エスプリという車で、人身事故を起こしたはずだと思うんだがね」
と、十津川が切り出すと、小松原は、
「あの事件は、二時間前に、おれのところの所管になったよ」
「被害者が死んだのかい?」
「ああ。手術が成功したかに見えたんだが、肺炎を併発したのが命取りでね。二時間前に死亡したよ」
「過失致死か?」
「いや。おれは、そう思っていないよ。青信号で、横断歩道を渡っている老婆に、制限速度を三十キロもオーバーして、突っ込んできたんだからな。殺人事件、少なくとも、傷害致死だと、おれは思っているよ」
小松原の声には、明らかに、怒りが籠っていた。
「それで、問題の車は見つかったのか?」
「横浜駅の近くに、乗り捨ててあるのが見つかったよ。右前部が、ぶっこわれていた。ナンバーも一致している中村朗の車だ」
「逮捕状は?」
「轢き逃げの逮捕状を、今、書きかえてもらっているところだ。おれは、どうしても、殺人にしてもらうつもりだよ。無防備の六十五歳の老婆に、信号を無視して突っ込んだんだからな」
「いつ、新しい逮捕状が出る?」
「一時間以内には出るはずだが、そっちにも関係があるのかい?」
「中村朗は、こっちでも追っている男なんだ」
「何の容疑だ?」
「殺人容疑だが、こちらは、あくまでも容疑の段階でね。一時間以内に、新しい逮捕状が出るのは間違いないんだな?」
「ああ、間違いないよ。それが、どうかしたのか?」
「事情は、あとで説明する。とにかく有難う」
十津川は、電話を切ると、ニッコリ笑って、亀井や、吹田を振り返った。
「どうやら、突破口ができたぞ」
「突破口といいますと?」
吹田が、眼を光らせてきく。
「今、われわれは、手をこまねいて、下り〈はやぶさ〉を見守っている。ただ単に、武田運輸大臣が狙われるかもしれないという臆測だけでは、列車の乗客や、個室寝台車のコンパートメントを調査はできないからだ。しかし、六十五歳の老婆を轢き殺した犯人、中村朗が、下り〈はやぶさ〉に逃げ込んでいる疑いがあるとすれば、話は別だ」
「中村が、乗り込んでいる可能性はありますか?」
「彼が、昨日の夕方、車を飛ばしていたのは、どこか途中駅で、下り〈はやぶさ〉に乗り込むつもりだったんじゃないかと思う。車は、横浜駅近くに乗り捨ててあったそうだが、下り〈はやぶさ〉は、横浜駅に停車するんだ」
「なるほど」
「それに、中村朗が、列車に乗っていなくてもかまわん。乗っていると見て、列車内を捜査できることが重要なんだ。とにかく、これで、戦うための武器が一つ手に入ったんだからね」
「中村朗の写真を手に入れて来ましょう」と、亀井が、心得て立ち上がった。
「彼には、前科がありますから、前科者カードを借りて来ますよ」
亀井は、すぐ、中村朗の前科者カードのコピーを持って帰って来た。
「桜井刑事から連絡が入ったら、中村朗の人相や特徴を話してやってくれ」
と、十津川は、亀井に頼んだ。
その桜井から電話が入ったのは、午前〇時八分前だった。
「今、大阪駅ホームの駅員室の電話を借りてかけています」
と、桜井がいった。
「高田の姿は、まだ見えないか?」
「見えません。ホームにいるのは、ブルートレインを撮影しにやって来た子供たちと、あと、数人の乗客だけです」
「高田が現われる現われないにかかわらず、君は下り〈はやぶさ〉に乗ってくれ。中村朗という三十九歳の男がいる。高田の仲間だ。この男が、どうやら、下り〈はやぶさ〉に乗ったらしいんだ。中村は、車で、六十五歳の老婆を殺した容疑で、神奈川県警で逮捕状が出ている。君は、乗車したら、車掌長に、応援を頼んで、列車内に中村がかくれていないか調べるんだ。特に、個室寝台車のコンパートメントに潜んでいる可能性が強いから、ここを、徹底的にやってくれ。その際、高田や、彼の仲間が、コンパートメントにいるかどうかもチェックしろ」
「わかりました。が、私は、中村朗の顔を知りません」
「それは、今、亀井君が、くわしく説明するよ」
十津川は、受話器を亀井に渡した。
第八章 脅迫者
下り〈はやぶさ〉が、あと五分で到着する。
大阪駅のホームの時計が、午前〇時三分を指しているのだが、高田は、いぜんとして姿を現わさなかった。
桜井の顔が、次第に嶮しいものになっていった。高田が、下り〈はやぶさ〉に乗るはずだという十津川の考えは、間違っていたのではあるまいか。
ホームは閑散としている。ここから九州へ行くのなら、明朝になってから、新幹線で博多へ行くか、鹿児島まで行くのなら、飛行機を利用する。わざわざ、夜行列車に、夜中に乗る人間はいないのだろう。
子供が三人、ホームの前方に集まって、下り〈はやぶさ〉の到着を待っている。青木が書いた記事に出ていた三人組らしい。
そのうちに、鉄道公安官が二人、ホームに上がって来て、個室寝台車が着くあたりに立った。武田運輸大臣に対する警護の一つであろう。恐らく、下り〈はやぶさ〉が停車するすべての駅で、同じような警戒が、ひそかに行なわれることだろう。ブルートレインに乗ってお故郷入りする武田自身は、気楽でいいだろうが、周囲は大変なのだ。プライベイトなことだから、気を使わないでくれと、武田は、国鉄にいったそうだが、国鉄側としたら、やはり、何もしないというわけにはいかないようだ。
定刻より二分おくれて、ヘッドマークをつけた下り〈はやぶさ〉が、ホームに滑り込んで来た。
とうとう、高田は、現われなかった。
(乗らないつもりなのか?)
と、首をひねってから、別に、大阪から乗らなくても、京都で乗ることができたはずだと思い直した。京都まで、タクシーを飛ばせば、十分に乗れたはずである。
列車が停止し、ドアが開いた。個室寝台車から降りる客はいなかった。他の車両からも、わずかに、二人の乗客が降りただけだった。
各車両の窓には、シェードがおりている。よほどのブルートレイン・マニアを除いて、大部分の乗客は、もう寝込んでしまっているに違いない。
桜井は、7号車に乗り込んだ。7号車に乗務車掌が乗っていると聞いていたからである。
桜井は、乗車するとすぐ、車掌長に会い、警察手帳を示した。
「私は、東京警視庁の桜井刑事です。ぜひ、あなたに協力して頂きたいのです」
「私は、大西ですが、どんなことでしょうか?」
と、小柄な大西車掌長は、緊張した顔で、桜井を見た。
桜井は、眼鏡を指先で持ち上げるようにしながら、
「それは、これから申し上げますが、ここは停車時間が長いのですね」
「四分間です。給水作業があるから、自然に時間がかかります」
「給水は、ここだけですか?」
「いや、終点西鹿児島までの間で、六回行なわれます」
「六回とも、全車両に給水するわけですか?」
「いや。そんなことをしていたら、時間がかかるので、ここでは、10号車から13号車までの給水を行ないます。岡山で4号車から9号車まで、といった具合にわけてやるわけです」
「東京からここまでの間に、車内で何か不審なことはありませんでしたか?」
「いや、何も起きていません」
大西が、きっぱりといったとき、発車のベルが鳴った。
ドアが閉まる。その間も、高田がこの列車に乗った気配はなかった。
列車が動き出すと、桜井は、あらためて、
「これから、難しいことをお願いしなければなりません」
と、いった。相手は、黙って聞いている。
「実は、この列車に、殺人犯が乗り込んでいるという情報があるのです。名前は中村朗。横浜から乗ったようです」
「殺人犯人ですか。誰を殺したんです?」
「六十五歳の老婆です。車で、轢き殺したんです。それで、あなたに協力して頂いて、この列車の乗客の中に、中村朗が潜んでいないか調べたいのです」
「犯人の写真はありますか?」
「いや、写真は間に合いませんでしたが、中村の特徴はわかっています。いいますからメモしてください。年齢三十九歳。身長一七五センチ。体重七十五キロ。がっしりした身体つきの男です。髪は豊かなほうで、七三に分けています。眉が濃く、鼻が高い、ちょっと政治家のKに似ているそうです。眼鏡はかけていません。唇は厚く、口の右端に、かなり大きなホクロがあり、これが特徴になっています。もう一つ、若いとき、ヤクザ仲間に入っていて、手を切られたことがあり、左手の甲に、長さ五、六センチの傷痕があります」
「それで、具体的には、どうします?」
「あなたに協力して頂いて、犯人を探し出したいのです」
「しかし、今は、午前〇時を過ぎたところです。大部分の乗客が、寝入ってしまっています。一人一人、起こして、質問をするわけにもいかないと思いますが」
「この列車には、何人ぐらいの乗客がいるんですか?」
「約五百人です」
「かなりの人数ですね」
「朝まで待って頂けませんか。六時を過ぎれば、乗客の皆さんが起きて来ますから。今一人一人起こしてゆくと、大混乱になる恐れがあります。特に2号車以下のB寝台の場合は、一人を起こすと、周囲の人間も起きてしまいますから」
「1号車のコンパートメントをまずやりましょう」
「しかし、今日は特別に……」
「知っています。運輸大臣の一行が乗っているんでしょう。だからこそ、コンパートメントをまず調べたい。凶暴な男ですから、何をしでかすかわかりませんからね」
「本当ですか?」
大西車掌長の顔色が変わった。
「可能性はあります。下手をすれば、大臣を人質にしかねません。あるいは、大臣を射殺するかもしれない」
「凶器を持っているんですか?」
「その可能性もあります。だから深夜でも調べたいのです」
「まさか、大臣のコンパートメントまで調べられるんじゃないでしょうね?」
「大臣や秘書官、それに、護衛のSPのコンパートメントは除外します」
「中村朗に対する逮捕状は出ているんですか?」
「出ています」
「じゃあ、やってみましょう。乗客が協力してくれるといいですが」
大西は、先に立って、1号車のほうへ歩き出した。
B寝台のほとんどのベッドは、カーテンが閉まり、いびきが聞こえてくる。なかには、まだ腰をおろして、ウイスキーのポケットびんを、ちびりちびりやっている中年の乗客もいた。
列車は、左右に小さくボディをゆらしながら、暗闇の中を走り続けている。細い通路を歩くには、ちょっとしたコツがいるようだ。さすがに、大西は、上手く身体のバランスをとって、歩いて行く。桜井のほうは、ときどき、つかまりながら歩いた。
「外へ連絡する方法は?」
通路を歩きながら、桜井がきいた。
「無線電話が、綜合指令室と通じていますが――」
「が――?」
「故障していて、通じないんです」
「誰かに、こわされたんですか?」
「いや、最初から調子が悪かったんですが、とうとう、通じなくなってしまいました。しかし、めったに使用することはありませんから」
「すると、走行中は外部と連絡がとれないわけですか?」
桜井が、狼狽すると、大西は、こともなげに、
「そうですが、何とか方法はありますよ」
といった。
1号車に辿り着いた。
入ってすぐのところが、車掌室である。ドアをノックすると、横になって休んでいた車掌が出て来た。
大西が、松下というその車掌に、事情を説明した。
「乗客が協力してくれるといいんですが」
と、松下も、同じことをいった。
車掌室から、コンパートメントの並ぶ1号車の通路に出るには、もう一枚のドアを開けなければならない。
ドアを開け、じゅうたんを敷きつめた通路に入る。十四のコンパートメントは、すべてドアが閉まり、ドアの窓には、内側からカーテンがおりていた。
「奥から手前に向かって、1号室から14号室までです。5号室までは、大臣の一行が使用しています。一番手前の14号室からいきますか」
大西がいい、松下が、14のナンバーのある一番手前のコンパートメントをノックした。
「誰だい?」
という男の声がした。幸い、起きていたらしい。
「車掌です。用がありますので、ドアを開けて頂けませんか」
大西が、丁寧にいった。
ドアについている窓のカーテンが開かれ、寝巻姿の中年の男の顔がのぞいた。眼をこすりながら、通路に立っている車掌の姿を認めると、錠を外し、ドアを開けてくれた。
「何の用です?」
と、きく男に、桜井が、警察手帳を示した。
「この列車に殺人犯が逃げ込んだので、捜査しているのです。名前は中村朗。東京でフランス料理店を経営している男です」
「私は違いますよ」
中年の男は、笑いながら、手を振った。
「では、お名前と住所を教えて頂けませんか?」
「そんなことが必要なんですか?」
「お願いします。残念ながら、中村の写真がありませんので、あなたのお名前と住所を確認しておきたいのです」
「田村一平。四十歳。東京都台東区池之端――番地。平凡なサラリーマンですよ」
相手は、怒ったような声でいった。
「身分証明書はお持ちですか?」
「休暇をもらっての旅行ですからね。持っていません。いけませんか?」
「いや。乗車券は拝見できますか?」
「ああ、どうぞ」
男は、上衣をとり、そのポケットから切符を取り出して、桜井に見せた。西鹿児島までの切符だった。
桜井は、男の肩越しに、コンパートメントの中をのぞき込んだ。誰かがかくれている気配はなかった。
午前○時四十五分。
捜査本部の電話が鳴った。全員の視線が、黒い電話機に集中する。
十津川が受話器を取った。
「こちら三ノ宮駅ですが」
という関西訛りの男の声が聞こえた。
「三ノ宮?」
「東海道本線の三ノ宮駅です。私は、助役の笠原という者です」
「ああ。わかりました。十津川といいます。何のご用ですか?」
「九分前に、下り〈はやぶさ〉が、当駅を出ました」
「あの列車で何かあったんですか?」
十津川の声が、自然に高くなった。彼の周囲にいた刑事たちが、一斉に耳をそばだてた。
「当駅から出て行くときは、何事もありませんでした。ただ、〈はやぶさ〉の車掌長が、連絡用の袋を渡していきまして、その中に、通信文が入っていました。桜井刑事の名前が書いてあります」
「それは、うちの刑事です」
「そちらに連絡してくれと、電話番号が書いてありましたので、お電話したわけです」
「通信文には、どんなことが書いてありますか?」
「今、読みあげます。大阪駅より乗車。高田弁護士が乗った形跡はないが、京都駅より乗車の可能性あり。現在までに、個室寝台車の九人の乗客を調査した。男八人に女一人。この中に、高田弁護士と、中村朗はいない。このあとに、九人の名前と住所が書いてあります」
「読みあげてください」
十津川は、ボールペンを構えた。
相手が早口でいう名前を、十津川は、メモ用紙に書きとめていった。
「こちらから、下り〈はやぶさ〉に連絡する方法はなかったですか?」
十津川が、書き終わってからきいた。
「列車には無線電話がついていて、東京の綜合指令室と連絡できるんですが、あの列車の電話は、故障して使用できないということです」
「じゃあ、連絡のしようがないということですか?」
「次の停車駅で、連絡はできますよ」
「次の停車駅は岡山でしたね」
「午前二時二十五分です。ただし、ここでは乗客をおろしません。運転停車ですから。機関士の交代、荷物の積み下ろし、それに給水が行なわれます」
「わかっています。もし、岡山までの間に、列車の中で何かあったら、どうやって連絡して来るんですか?」
「通過する駅に、通信文を入れた袋を投下することになっています」
「なるほど。三ノ宮から岡山まで、駅はいくつあるんですか?」
「二十九です」
「駅間の距離は?」
「列車で、三分から五分ぐらいですが」
それなら、何か事件が起きても、おそくとも、三分か五分後に、わかるはずだ。もちろん、車掌なり桜井なりが、通信文を出せる状態にいたらということだが。
十津川は、礼をいって、受話器を置いた。
「高田が乗っていないというのは、どういうことなんでしょうか?」
吹田が、眉を寄せて十津川を見た。
「乗っていないと決まったわけじゃない。B寝台のほうに乗っているかもしれない」
「しかし、高田は、犯人たちのリーダーでしょう?」
「そうだ」
「武田運輸大臣に対して何かするとすれば、その舞台は、コンパートメントのある、1号車だと思うんです。リーダーが、そこにいないというのは、腑に落ちないんですが」
「君は、高田が乗っていないと思うのかね?」
「そうです」
「それで、下り〈はやぶさ〉では、何も起きないというわけかね?」
「いえ。高田は、武田大臣を殺す計画を立てていると思います。しかし、われわれに、下り〈はやぶさ〉の車内で何か起きると思わせておいて、別の方法を取るつもりなんじゃないでしょうか?」
「別の方法というと?」
「これです」
吹田は、両手で、銃を討つまねをした。
「狙撃か?」
「そうです。夜の間は駄目ですが、明るくなれば、いくらでも狙撃のチャンスはあります」
「時速百キロ近いスピードで走っている列車をかい?」
「さっき調べてみたんですが、例えば、熊本の近くで、〈はやぶさ〉は、有名な田原坂を越えます。ここは峠越えのため、カーブ勾配の連続です。スピードも落ちます。狙うには絶好です。それに、時間も午前十時を過ぎ、大臣も起きているはずです」
「無理だな」
と、十津川は、あっさりと否定した。
「なぜです?」
「運転手のように、その席から動かない人間を狙うならいい。だが、待ち伏せの位置に列車が来たとき、大臣が、コンパートメントの窓際に腰を下ろしてくれていればいいが、反対側の通路に出ていたらどうするんだね? あるいは、まだ、カーテンを閉めて寝ているかもしれない。そんな確率の悪い方法を取るとは思えないね」
「じゃあ、列車爆破はどうですか? 鉄橋に爆薬を仕掛けて爆破するというのは。これなら、夜間のほうが有効です」
「何百人もの人間が死ぬよ」
「しかし、大臣も殺せるでしょう。目的は達せられるはずです」
「それも違うね」
「なぜです?」
「そんな荒っぽい方法をとるのなら、わざわざ列車に乗り込んで、三月二十七日に予行演習なんかするはずがないよ」
「しかし、それなら、高田たちは、どうやって、大臣を殺すとお考えなんですか?」
吹田が、挑戦的な眼つきで、十津川を見た。
「それがわからないから苦労しているんだよ」
と、十津川は、いってから、
「とにかく、この九名の男女のことを調べてみようじゃないか。この中に、高田が弁護した人間がいるかどうかだ」
と、刑事たちの顔を見回した。
「名前が一致する人間は一人もいませんね」
日下刑事が答えた。
「下り〈はやぶさ〉のほうは、多分、偽名だろう。だから、似かよったものを見つけ出してくれ」
「似ているのが見つかりました」
日下が、二つの名前を書き出した。
山本正夫(38) 東京都杉並区中荻中荻マンション209号
山下一郎(35) 東京都杉並区下荻スカイコーポ902
「山下一郎が、桜井刑事の知らせてきた乗客の名前で、山本正夫のほうが、強盗事件で、高田に弁護してもらった男です。桜井刑事は、山下一郎のところに、身長一八〇センチ近く、やせ型、眼鏡をかけ、頭髪がうすいと書いています。山本正夫の写真を見ると、そっくりです」
「確かに似ているな。住所も似かよっているし、年齢はごまかすとき、人情として本当の年齢より若くいうものだからね」
他にも、似かよっている名前が、二名見つかった。真夜中に、突然起こされて質問されたので、偽名をいったつもりでも、どこか本名に似てしまったのだろう。名前が全く別なのに、住所が同じ者もいた。これは恐らく、とっさに友人の名前をいったものの、友人の住所がわからず、思わず自分の住所をいってしまったのか。
「これで、高田たちが、個室寝台車にもぐり込んでいると考えていいでしょうね」
と、井上がいった。
「問題は、彼らが、どうするつもりかということだな」
十津川は、腕を組んで考え込んだ。
彼は、頭の中で、東京駅で乗ってみた〈はやぶさ〉の個室寝台車の構造を思い出していた。
車掌室が一番端にある。内側のドアを開けると、幅一メートルぐらいの細い片側通路で、コンパートメントが十四並んでいる。突き当たりにドアがあり、その奥にトイレが二つと物置がある。飲料水もそこにあった。
武田信太郎は、二人のSPに守られている。それに、桜井刑事は、夜が明けるまで、個室寝台車で、がんばるだろう。通路を監視するだろう。となると、高田たちは、列車内では手も足も出ないのではあるまいか。
桜井刑事の通信によると、九人の乗客は、武器を持っているようには見えなかったという。たとえ、ピストルぐらい持っていたとしても、桜井も、二名のSPも、自動拳銃を持っているし、SPは、射撃の名手だ。
「わからんな」
と、十津川は、声に出していった。
桜井は、1号車の車掌室の傍らに立ち、ドアについている小さな窓から、ときどき、通路の様子をうかがった。
「他の車両はどうしますか?」
と、大西がきいた。
「夜が明けて、乗客が起き出してからにしましょう」
「そうして頂くと助かります」
大西は、ほっとした表情になった。
「無線電話は、なおりそうにありませんか?」
「残念ですが、まだ使えません」
「そうですか」
桜井の声が重くなる。
「中村という殺人犯は、個室寝台車にはいなかったんでしょう?」
「残念ながら、いませんでした」
「とすると、2号車から14号車までのB寝台に乗っている可能性があるわけですね?」
「そうですね」
「大丈夫でしょうか? 他の客に何もしませんか?」
「われわれが調べたところでは、中村は、金になる相手以外は、脅迫したりはしない男です。この列車で、一番心配なのは、やはり大臣一行です」
「中村が、大臣一行に、何かすると、お思いですか?」
「わかりませんが、一応、用心しておいたほうがいいでしょう。この車両の警戒は、私がやりますから、あなたは、他の車両を見てください。夜が明けたら、2号車からの調査をやりたいと思います」
と、桜井がいい、大西は、肯いて、7号車のほうへ戻って行った。
1号車には、桜井と松下車掌の二人が残った。
「1号車で、何か起こるとお考えですか?」
松下が心配そうにきく。桜井は、それに答える代わりに、
「もう一度、通信筒で連絡を取ってもらえませんか」
「いいですが、どんなことを?」
「捜査本部に、連絡してもらいたいのです。返事をもらいたいことがありましてね」
「岡山駅に運転停車したときに、返事をもらえるようにできるはずですが」
「その前に欲しい」
「岡山までは停車しないから無理ですよ。何も起きないのに、臨時停車はできません。特に、運輸大臣が乗っておられる当列車では無理です」
「停車しなくても、合図はできるでしょう。緊急な用件ですから、ぜひ、国鉄に協力して頂きたいのです」
桜井は、通信用紙を貰うと、次のように書いた。
「東京蒲田署の捜査本部の十津川警部に連絡されたい。
連絡事項は左記の通り。
三ノ宮から連絡した九名の中に、要注意人物がいる場合は、西明石駅からサインを送るよう、国鉄に要請されたい。そのサインは、ホームの先端に、駅員を立たせておく。該当者が一名の場合は、駅員一名、二名の場合は二名とする。
下り〈はやぶさ〉にて桜井」
「どうです? 国鉄は、これに協力してくれるでしょうか?」
桜井は、通信文を松下に見せてきいた。
「西明石駅は、大きな駅で、当直が数人いますから、協力できないことはないでしょうが、コンパートメントの乗客の中に、本当に怪しい人物がいるのですか? 中村とはどんな関係の人間です?」
「中村の仲間です。前の通信で、九人のことを調べてくれるように、依頼した。その答えが欲しい」
「わかりました。次に通過する駅は、兵庫駅ですから、そこで、投下しましょう。兵庫駅から西明石まで、十二、三分ですから、何とか間に合うはずです」
通信文は、投下のために三角形の袋に入れられた。
夜の闇の中に、兵庫駅が近づいて来る。小さく輝く駅の明かりが、急速に大きく、駅としての形をとってくる。
松下車掌は、車掌室横の窓を開けた。夜の冷気が、車内に吹き込んできた。松下は、窓から、首を突き出すようにし、走り過ぎる兵庫駅のホームに、通信文を投げた。
緊張のうちに、時間が過ぎていった。
桜井は、腕時計と、1号車の通路を交互に見ていた。捜査本部からの回答を、西明石駅で見る前に、事件が発生する恐れもあった。それも心配だったが、それ以上の不安は、事件が、どんな形で起きるのか予測がつかないことだった。
犯人が、拳銃かナイフを振りかざして、3号室に休んでいる武田大臣を襲撃するのなら、かえって防ぎやすい。制止すればいいのだし、やむを得なければ、射殺してもいい。
問題は、予測しえないような方法を使って来たときだ。
「間もなく、西明石駅を通過します」
松下が、桜井に声をかけた。
二人は、ホーム側の窓に顔を押しつけるようにして、視野の中に入ってくる西明石駅を見つめた。
信号機が流れ去り、駅の屋根と、人気のない、白っぽいホームが近づいてくる。
果たして、さっきの通信が、捜査本部に伝わり、その回答が示されるだろうか?
もし、ホームに駅員が一人も立っていなくても、九人の乗客の中に、高田の仲間と思われる人物が一人もいないと断定できないところに、問題があった。桜井の通信が、捜査本部に届かなくて、回答が出なかった場合もあるからである。それを確認する方法がない。
「いますよ!」
と、ふいに、松下が大声をあげた。
桜井の眼が光った。
(いた!)
西明石駅のホームが、あっという間に後方に流れ去っていく。が、ホームの前方に、一人、二人、三人、――四人の駅員が、線路に向かって一列に並んでいるのが、眼に入った。
「四人いましたね」
と、松下もいった。
九人のうち、四人が怪しいということは、全員が、高田の仲間の可能性もあるのだと、桜井は思った。そのくらいの覚悟はしておいたほうがいいだろう。
松下車掌の顔色も、四人といったとき、蒼ざめた。
「九人のコンパートメントの客のうち、最低四人も、犯人の仲間がいるんですか?」
「そうです」
「大変なことじゃないですか。彼らは、なぜ、個室寝台車に乗っているんですか?」
「それがわかれば、対策が立てられるんですがね」
「四人を逮捕はできませんか?」
「残念ながら無理ですね。仲間らしいということで証拠はないし、たとえ、友人や知人だったとわかっても、それだけでは逮捕はできませんよ」
「じゃあ、どうします?」
と、松下が、強い眼で、桜井を見つめた。
「これといった方法は思いつきませんね。とにかく、事態を見守るより仕方がないでしょう」
桜井がいったとき、9号室のドアが開いて、寝巻姿の男が、通路に出て来た。背の高い、やせた男である。そのため、寝巻が、つんつるてんに見える。
山下一郎と名乗った男だった。
山下は、ドアを勢いよく閉めてから、何となくといった感じで、通路の周囲を見回した。
ふと、その視線が、ドアの外の桜井と合った。その瞬間、山下が、ニヤッと笑ったように見えたが、それは、あるいは桜井の錯覚だったかもしれない。次の瞬間、山下は、奥のトイレに向かって歩き出していたからである。
桜井は、じっと、山下の痩せた後ろ姿を見守っていた。
3号室は、大臣がいる。何かしようとしたら、ドアを開けて通路に飛び込む気だったが、山下は、そのまま、まっすぐ歩いて行って、トイレに消えた。3号室に眼をやる仕草も見せなかった。
十分近く、彼の姿は、戻って来なかった。
「何かおかしいですか?」
と、松下が、桜井の背後から心配そうにきいた。
「いや。乗客の一人が、トイレに行っただけですが……」
桜井は、そういってから、ふと、大臣に同行している二人のSPは、なぜ、交代で、通路に立たないのだろうかと思った。
SPは、警視庁ではなく、警察庁の所属である。それに、要人警護のために、どんな訓練をしているのかも、桜井は知らない。また、庶民性を売り物にしている武田信太郎である。二人のSPにも、大げさに通路には立たず、各自のコンパートメントで休息してくれといってあるのかもしれない。
山下が、トイレから出て来るのが見えた。
そのまま、9号室に消えた。何もなかったのだ。
五、六分して、今度は、6号室のドアが開き、中年の太った男が、通路に出て来た。
確か、根本と名乗った男で、東京で文具店をやっているといった。もちろん、それが事実かどうか、確かめる手段はない。
根本も、ゆっくりと、トイレに消えた。もっとも、二つのトイレは、ドアの向こう側にあり、通路から消えてしまうので、本当にトイレに入ったかどうかは確かではない。しかし、通路からドアを開けて左に折れたところには、二つのトイレと物置、それに飲料水しかないのだから、トイレに行ったと判断していいはずだ。特に、コンパートメントの場合は、各室で水も飲めるようになっているから、わざわざ、水を飲むだけのために、通路に出て来はしないだろう。
五、六分して、根本は、腕時計を見ながら、通路に出て来た。
そのまま、自分のコンパートメントに入るのかと思っていると、6号室を通り越して、桜井のほうにやって来た。
ドアを開けて、車掌室の傍へ出て来ると、そこにいる桜井を見て、
「やあ、刑事さん。殺人犯人は見つかりましたか?」
と、声をかけて来た。
桜井は、なぜ、相手が、こんな時間に声をかけて来たのかに疑問を持った。彼が高田の仲間で、桜井の牽制をしている間に、他のコンパートメントの仲間が、何か行動を起こすのではあるまいか。そんな危惧を抱いて、桜井は、ドアの窓から、通路のほうに眼をやりながら、
「残念ながら、まだです」
と、根本にいった。
「それで、こんな時間に見張りですか? ご苦労ですな」
根本は、太った身体をゆするようにしながら、桜井にいう。桜井は、この中年男との会話を早く切り上げたくて、
「何のご用ですか?」
と、わざとそっけない調子でいった。
根本は、寝巻のふところから、煙草を取り出して、
「火をお借りしたいんですよ。ライターのガスが、ちょうど、切れてしまいましてね。こういうとき、やたらに、煙草を吸いたくなりましてねえ」
桜井は、黙って、ライターの火を差し出した。
「寝煙草は困りますよ」
と、横から松下車掌がいった。
「わかってますって。室内に書いてありましたからね」
根本は、何のつもりか、車掌室の横で、煙草を吸い始めた。
「コンパートメントにお戻りにならないんですか?」
「戻ると、ベッドに寝転んで、煙草を吸いたくなるもんですからね。火事にでもしたら申しわけないんで、ここで、思い切り吸ってから戻りますよ」
根本は、ニコニコ笑っている。
桜井は、胸の中で舌打ちした。どうしても、根本の存在が、気になってしまうからである。それに、この男は、煙草を吸いながら、やたらに桜井に話しかけてきた。警察官の仕事のこと、轢き逃げ犯人のこと、果ては、プロ野球の話までである。ちょっと、息が酒くさいところをみると、コンパートメントの中で飲んでいたのかもしれない。
桜井は、次第に、いらいらしてきた。いつ事件が起こるかわからないというとき、つまらない話の相手になっているわけにはいかなかったからである。もし、これが、桜井や松下車掌に対する牽制だとしたら、一層早く切りあげる必要がある。
根本が、一本目の煙草を吸い終わって、吸殻を床で踏み潰したとき、桜井は、
「自分の部屋にお帰りになってください」
と、命令するようにいった。
根本は、なお、ぶつぶついっていたが、桜井が相手にならずにいると、仕方がないというように、通路に戻っていった。
桜井は、ほっとした。が、根本は、今度は、自分のコンパートメントのドアを、がちゃがちゃやっている。そのうちに、ドアを足で蹴飛ばし始めた。
真夜中である。列車の規則的な振動音は聞こえてくるが、その他の音は消えていて、静かである。
根本が立てる音は、まるで、目覚時計と同じだった。
他のコンパートメントから、四人の男女が、起き出して、通路に出て来た。
四人とも、寝巻姿である。すぐ、口論が始まった。
「みんな、ぐっすり眠ってるんだ。がたがた音を立てるなよ」
「いったい何をやってるんですか? ドアなんて蹴飛ばして」
「こっちだって、わけがあって、やってるんだ」
と、根本が、いい返す。このままでは、殴り合いにもなりかねなかった。
(芝居だろうか?)
桜井は、心の隅で、そんな疑惑を感じながらも、松下車掌と、通路に入って行った。
「深夜ですよ」と、松下がいった。
「他の乗客の迷惑になるようなことは止めてください」
「この男が、ドアを叩いたり、蹴飛ばしたりするから悪いんだ。私は、おかげで、眠れなくなっちまった。車掌さん、この男を、どうにかしてくださいよ」
五十歳くらいに見える、眼鏡の男が、根本を指さして、松下にいった。
「なぜ、ドアを蹴飛ばしたりなさるんですか?」
松下は、今度は、根本にきいた。
「ドアが開かなくなっちまったんだから、仕方がないだろう」
と、根本は、もう一度、ドアを蹴飛ばした。
桜井が、根本を押しのけるようにして、ドアのノブに手をかけた。
しかし、彼がいくら力をこめて横に引っ張っても、6号室のドアが開かないのだ。中から錠がかかっているらしい。
「開きませんよ」
と、桜井は、松下車掌を見た。
松下は、急に、ニヤッと笑って、
「またですか?」
「またって、何のことです?」
「コンパートメントの錠は、内側から、掛け金をかけるようになっているんです。この掛け金は、半回転上から落ちるわけですが、ちょうど、真上にして、外へ出て、勢いよくドアを閉めると、その勢いで、錠がかかってしまうことがあるんです」
松下は、そういうと、車掌室からマスター・キーを持って来て、簡単にドアを開けた。
「どうもすみません」
と、根本が、ぺこりと、松下に頭を下げた。
通路で見守っていた四人の男女が、ドアが開いたとき、ぱちぱちと拍手した。一見、自然な感情の発露のように見えるこの動作にも、桜井は、神経をとがらせた。この乗客たちが、高田の仲間として、3号室にいる大臣を狙っているのだとしたら、根本は、わざとドアを手荒くしめて、自分の部屋を密室にしてしまったのかもしれないし、他の四人の乗客が拍手したのも、何かの合図かもしれないと、つい警戒してしまうのだ。
「皆さんも、どうぞ、お休みください」
松下が、通路に出ている五人の乗客にいった。
「急に起こされたんで、何となく寝そびれちまったなあ」
と、五人の中の一人がいった。10号室の乗客だった。
(おかしいぞ)
と、桜井が眉を寄せたのは、そのときだった。
10号室は、6号室から四つ離れたコンパートメントである。根本が、ドアのノブをつかんで、がちゃがちゃいわせたり、ドアを蹴飛ばしたりする音が、聞こえて出て来たのだとすると、隣りの5号室にいるSPは、なぜ、起き出して来ないのだろうか?
二人のSPは、4号室と5号室に別れて入っている。大臣の警護のためにつけられた二人なのだから、仮眠をとっていても、神経は張りつめているだろう。あるいは、時間を決めて、交代で眠っているかもしれない。それなのに、あれだけ騒がしかったとき、なぜ、二人とも、起きて、通路に飛び出して来なかったのだろうか。
コンパートメントには、中の乗客に何かあったときに押す赤い警報ボタンがつけられている。それが押されないので、安心しているのだろうか。それにしても、二人のSPのうちの一人は、通路に出て様子を見るべきではないだろうか?
五人の乗客は、通路にひとかたまりになって、お喋りを始めた。通路側の窓に下ろしたシェードをあげて、深夜の景色を眺める者もいた。
桜井は、ひっそりと静まり返っている1号室から5号室までのコンパートメントを見つめた。
なぜ、誰も起きて来ないのだろうか。もちろん、まだ、何も事件が起きていないのだし、大臣襲撃を予想させるようなこともないのだから、武田大臣をはじめとする一行五人が、ゆっくり眠っていたとしても、別に不思議はないのだが、何か不安だった。本当に、このコンパートメントの中で、大臣たち五人が、眠っているのだろうか。ひょっとして、五人は姿を消してしまって、五つのコンパートメントの中には、誰もいないのではあるまいか。そんな妄想さえ生まれて来る。
しかし、だからといって、何の事件も起きていないのに、ドアをノックして、存在と、健在を確認するわけにはいかなかった。警視庁の一刑事にしか過ぎない桜井に、そんなことのできるはずがない。
桜井は、腕時計に眼をやった。まだ、午前一時三十九分になったところだった。
早く夜が明けてくれないかと思った。太陽が昇り、大臣や、SPたちが起きて、通路に出て来てくれれば、少なくともその安全が確認できるのだ。
青木は、眼をさまし、横になったまま、頭上にある車内灯のスイッチを入れてから、腕時計に眼をやった。午前一時四十分を針が指している。
昨夜の午後七時に、武田大臣が食堂車へ行くというので、記者やカメラマンが、食堂車に集まった。さして広くない食堂車が、大騒ぎだった。
庶民性が売りものの武田は、関門定食などを注文して、ご満悦だった。
そんな中で、三、四人の乗客が、護衛役のSP二人に、やたらに酒をすすめていたのを、青木は覚えている。もちろん、SPが、ウイスキーや、ビールを受けるはずはなく、丁重に断わっていた。大臣の護衛が仕事だから、食堂車では、食事も、飲み物も、口にしなかったようだ。
あの乗客たちは、なぜ、SPに酒をすすめたのだろうか? SPと知らずにすすめたのか。真っ赤なネクタイをしているし、雰囲気でわかるだろうにと、青木は思った。それとも、SPと知っていて、ご苦労さんという意味で、すすめたのだろうか?
とにかく、次の取材は、夜が明け、大臣一行が起き出してからでいいだろう。青木が気になっていたのは、むしろ、下段寝台にいる女性のほうだった。正直にいえば、そのせいで、なかなか寝つかれなかったのである。
確か、八木美也子という名前だったなと、思いながら、トイレへ行く恰好で、床へおりてみた。
下の寝台のカーテンに、二、三十センチの隙間が開いていた。何気なく、中をのぞくと、彼女の姿はなかった。起き出して、トイレへでも行ったらしい。
青木は、通路を、トイレのほうへ歩いて行った。
別の車両との連結部分まで行って、煙草に火をつけた。彼女が、トイレから出て来たら、何気ない調子で話しかけようと思ったからである。
下り〈はやぶさ〉は、一定の速度を保って走り続けている。踏切が近づくのか、鋭く、汽笛が鳴った。
一本目の煙草が、灰になっても、八木美也子の姿は現われなかった。寝巻姿の乗客が、眠そうな顔でやって来て、トイレに入っていく。どうやら、彼女は、トイレには入っていないらしい。
(どこへ行ってしまったのだろうか?)
食堂車は、とうに閉まっているし、全車両が、眠りについているのだ。行くところがないはずなのに、どこへ消えてしまったのだろうか?
西鹿児島まで行くといっていたから、青木が眠っている間に、途中でおりたとは思えない。
考えられるのは、この列車の別のところに、友人なり家族なりが乗っていて、そちらへ行ったのだろうということだった。
あるいは、恋人が個室寝台に乗っていて、そちらへ行ったことも考えられる。二人で旅行したかったのに、片方しかコンパートメントがとれず、仕方なしに、彼女のほうが、B寝台に入り、夜半になってから、コンパートメントのほうへ行ったのかもしれない。そうだとしたら、彼女を探すのは、阿呆みたいなものではないか。
(だが……)
青木は、三月二十七日に乗った下り〈はやぶさ〉のことを思い出した。あのとき、コンパートメントから、若い美人が消えたのだが、彼女は、殺されて、多摩川に浮かんでいた。今度の場合だって、同じことが繰り返されないという保障は、どこにもない。
しかし、どこを探したらいいのだろうか?
前の場合は、個室寝台車を探せばいいと思った。が、今度は、この列車のどこに行ったのかわからない。
青木は、また腕時計を見た。あと十五、六分で、午前二時になる。
二時二十五分になれば、岡山駅に運転停車する。多分、そのときには、あのいまわしい思い出がよみがえってくるだろう。警察は、彼の話を否定する方向で捜査をしているらしいが、青木は、まだ、岡山駅でおろされ、下り〈富士〉に乗せられたと信じていた。
(岡山駅に着くまでに、八木美也子が見つかるといいが)
と、青木は思った。岡山に着くころに、また何か、不吉なことが起きるような気がしたからである。
東京丸ノ内にある国鉄の東京綜合指令室に、男の声で電話が掛かったのは午前一時四十五分だった。
この綜合指令室は、東京北、南、西の三つの鉄道管理局内の全線区の運行管理を行なっている。
今のところ、東京を出発したすべての列車は、事故も、遅延もなく、この指令室の管理外を進行中である。これから朝まで、東京を出発する列車はない。
指令室が、一番のんびりする時間だった。
さっきまで、マイクつきのヘッドホンをかけて、各駅との連絡に当たっていた指令員たちの多くが、仮眠をとっている。
そんなときに、外部からかかってきた電話だった。
電話は、指令長の中原が取った。
「重大な用件だから、よく聞きたまえ」
男の声が、いきなりいった。
「あなたは、誰です?」
と、中原は、きいてみたが、相手は、こちらの質問を無視して、
「時間がないから黙って聞きたまえ。下り〈はやぶさ〉の1号車に、爆弾を仕掛けてある。午前二時に爆発する」
「何ですって?」
自然に、中原の声が甲高くなった。何人かの指令員が、驚いた顔を、中原のほうに向けた。
「落ち着いて聞きたまえ。今、下り〈はやぶさ〉は、姫路と岡山の間ぐらいを走っているはずだ。この列車の1号車、個室寝台車には、運輸大臣の一行が乗っている。その1号車に爆弾を仕掛けたといっているんだよ。あと十五分で爆発する。いや、あと十三分になった。すぐ、どうにかしたまえ」
「ここは、東京綜合指令室だ。下り〈はやぶさ〉は、すでに、大阪綜合指令室の運行管理下に入っている」
「そんなことは、おれは知らん!」
と、男が、怒鳴った。
「とにかく、あの列車の1号車に仕掛けた爆弾は、午前二時に爆発するんだ。君たちが、縄張りとか何とかいってると、大臣をはじめ何人もの乗客が死ぬことになるぞ。それでもいいんなら、勝手にしたまえ」
「ちょっと待ってくれ」
中原は、あわてていい、受話器を、にぎり直した。
「それが本当だとして、なぜ知らせる気になったんだ?」
「関係のない第三者を巻き添えにするのが嫌になったからだ」
「まさか、嘘じゃあるまいね?」
「私の名前は、高田悠一だ。警察へ照会してみたまえ。嘘じゃないことがわかるはずだ」
「爆弾を仕掛けたのが本当だとして、それを取り除く方法は?」
「午前二時に爆発するんだ。取り除いている余裕なんかないはずだよ。とにかく、1号車の乗客を避難させるんだ。あと、数分しかないぞ。急ぎたまえ」
男は、それだけいうと、荒っぽく電話を切ってしまった。
中原は、まだ、半信半疑の顔で、受話器を手に持っていた。
列車や、駅に、爆弾を仕掛けたという電話や手紙は、珍しいことではなかった。人命を預かる仕事上、いちいち、列車を停めて点検しているが、実際に爆弾が見つかったというケースはなかった。
しかし、今度の男の話は、妙に現実感がある。「高田」と、自分の名前まで口にした。
中原は、一一〇番してみることにした。こちらの身分をいい、電話のことを告げると、しばらく待たされてから、
「十津川警部です」
という、渋い感じの男の声に代わった。
「高田という男から、下り〈はやぶさ〉爆破の電話があったそうですね?」
「そのとおりです。高田といえば、警察が信じるはずだといっていました。これは、どういうことですか?」
「その説明をしている時間はありません。しかし、高田は、われわれがマークしている人物です」
「じゃあ、1号車に爆弾を仕掛けたという言葉は、事実とみたほうがいいんですか?」
「事実と考えて行動してください。下り〈はやぶさ〉を、すぐ停められますか?」
十津川の声も、切迫したものになっている。
「何とかやってみます」
「では、お願いします。停めたら、すぐ、1号車の乗客を避難させるように」
「わかりました」
中原は、電話を切ると、列車運転ダイヤを取り出した。
顔が蒼ざめていた。下り〈はやぶさ〉の乗客の生命が、自分一人の腕にかかっているような気がしているからだ。しかも、あの列車の無線電話は、故障している。ここから連絡ができないのだ。
現在の時刻は、午前一時五十三分。
問題の列車は、多分、上郡と三石の間を走っているだろう。どちらも、小さな駅である。そのことが、中原の気持ちを重くした。
とにかく、大阪綜合指令室のダイヤルを回し、指令長を呼んでもらった。有難いことに、向こうの指令長の梅田は、学校の同期生だった。
中原は、早口に、電話のことを梅田に伝えた。
「警察の話では、信憑性があるということだ。すぐ、下り〈はやぶさ〉を停めてくれ」
「どこかの駅に停めて、乗客を避難させなきゃならないな」
「そうしてくれ。爆発は午前二時だ」
「よし。やってみよう」
指令長の机の上には、各駅との緊急連絡用の電話が、ずらりと並んでいる。
梅田は、三石駅に通じる電話に手を伸ばした。
「こちら三石駅の運転事務室」
という若い駅員の声が、梅田の耳に飛び込んでくる。
「こちらは、大阪綜合指令室だ。下り〈はやぶさ〉は、もう通過したか?」
「間もなく、当駅を通過するはずです」
「いいか。重大なことだから落ち着いて、しっかり聞くんだ。下り〈はやぶさ〉に、爆弾が仕掛けられた」
「本当ですか?」
「事実らしい。そう思って行動するんだ。爆弾は、1号車に仕掛けられているらしいが、それを探したり、取り外している時間はない。三石駅に停車させて、乗客を避難させるんだ。特に、1号車には、運輸大臣一行が乗っているから、注意しろ」
「わかりました」
「爆発は午前二時だ。すぐかかれ」
「はい」
緊張した若い駅員の声が、電話口から消えた。
小さな三石駅は、てんやわんやになるだろう。
だが、梅田には、どうすることもできない。ただ、祈るだけだった。
第九章 臨時停車
若い女が、2号車から1号車に入って来た。背のすらりと高い、なかなか魅力的な女性だった。
通路へ出るドアのところに立っている桜井と、松下車掌に向かって、ニッコリ笑いながら、
「ちょっと、どいて頂けません」
「どこへ行かれるんです?」
桜井の顔に、自然に警戒の色が浮かんだ。
「どこにって、あたしは、この列車の乗客ですよ。切符だって、ちゃんと持っています。それなのに、列車内を自由に歩いちゃいけないんですか?」
「ええと、お名前は?」
「八木美也子です」
「八木さんは、B寝台の切符でしょう?」
「ええ。7号車ですけど」
「ここは、1号車で、個室寝台車です。入るのは、ご遠慮頂きたいのです」
「あなたは、誰なんです?」
「警察の人間です」
桜井は、警察手帳を、女に示した。
「刑事さんが、なぜ、こんなところにいらっしゃるの?」
「この1号車には、運輸大臣一行が乗っています。その警護のためです」
「あたしは、秘書の栗橋京子さんに用があるんです。嘘だと思うんなら、京子さんに、あたしのことを聞いてみて。2号室のコンパートメントにいると聞いているんです」
「こんな時間に、何の用があるんですか?」
「個人的な用件です。刑事さんにだって、申し上げられません。通路に入っていけないというのなら、彼女をここへ連れて来て頂けません?」
「こんな時間に、ドアをノックしたりしたら、他の部屋の人が迷惑しますよ」
「でも、通路には、何人も、乗客が起きて出て来ているじゃありませんの?」
と、八木美也子は、通路を指さした。
桜井は、肩をすくめて、
「ちょっとしたことがあって、皆さんが起きてしまったんですよ」
「あたしの友だちの栗橋京子さんは?」
「大臣の一行は、眠っています」
「おかしいわ」
「何がです?」
「彼女は、神経質で、旅行に出ると、いつも眠れないで困っているんです。他の乗客が起き出してくるような騒ぎがあったというのに、その彼女が、平気で眠っているなんて、おかしいわ」
八木美也子の言葉は、桜井も、肯かせるものがあった。彼も、大臣一行が、あの騒ぎの最中、一人も起き出して来なかったことに、不審を持っていたからだ。
「あなたのお友だちは、そんなに目ざとい方ですか?」
「ええ。学生時代から神経質だったんです。今だって、変わっていないはずなんですよ」
「確かに、おかしいことはおかしいんだが……」
桜井は、あいまいないい方をした。彼も、できれば、大臣のコンパートメントを調べてみたいのだが、それができないのだ。
この女に、友だちだという秘書のコンパートメントをノックさせてみようか。秘書が起き出してくれれば、大臣のことが聞けるかもしれない。
「どうして、お友だちに会っちゃいけないんです。声をかけるぐらいかまわないでしょう? 彼女が寝ていたら、すぐ引き退がりますから」
八木美也子が、しつこくいった。桜井は、今度は、彼女のその執拗さに疑問を感じた。
「あなたは、どこまで行かれるんですか?」
と、桜井は、きいた。
「西鹿児島までですけど」
「それなら、朝になってからにしたらどうです。大臣一行も、終点の西鹿児島まで行かれるんだから。別に、こんな真夜中じゃなくてもいいんでしょう?」
「でも、大臣が起きてきたら、彼女のプライベイトな時間は消えてしまうわ。今なら、いくらでも時間があるけど」
「それはそうですが……」
こんな時間ですからねと、桜井が、腕時計に眼をやったときだった。
突然、列車に急ブレーキがかかった。
鋼鉄の車輪が、レールと激しく摩擦を起こして、甲高い悲鳴をあげた。火花が走った。
桜井は、よろけて、通路に面したドアに身体を叩きつけられながら、
「どうしたんだ!」
と、叫んでいた。
その眼に、白っぽい駅のホームが、窓の外に見えた。
何か叫んでいる声が聞こえてくる。
「どうしたんだ!」
と、桜井は、もう一度、怒鳴った。
松下車掌が、ただ一つ開く1号車の小さな窓を押し開け、首を突き出し、ホームに向かって、
「何があったんです?」
「爆弾だ!」
と、ホームにいた駅員が、大声で叫んだ。
桜井は、まだ、完全に事態が呑み込めなかった。
(なぜ、急停車したんだ?)
(爆弾という声が聞こえたが、何のことだ?)
その答えが、いっこうに戻って来ないことにいらだちながら、桜井の眼は、自然に、大臣のいるコンパートメントのほうに向けられた。
また、同じ疑問がわきあがってきた。
(大臣一行は、なぜ、起き出して来ないのだろう?)
今の激しい急停車で、眼がさめなかったのだろうか? 現に、他の車両では、乗客の起き出してくる気配がしている。
武田信太郎が、特別に眠りが深いとしても、神谷秘書官や、SPが、飛び出して来ないのが、不自然だ。
(まさか、コンパートメントの中で、死んでいるわけではあるまいが……)
車掌が、ホーム側のドアを開けた。
若い駅員が、1号車に駈けあがって来た。
「すぐ、1号車の乗客を避難させてください!」
と、その駅員が、興奮した調子で叫んだ。
「何があるんだ?」
桜井が、彼の腕をつかんできいた。
「この1号車に、爆弾が仕掛けられているという知らせが入ったんです」
「確かなのか?」
「確実性の高い情報です。何でも、犯人の名前は、高田というそうです」
「高田だって?」
桜井の表情が嶮しくなった。と、同時に、冷たいものが、彼の背筋を貫いた。高田という名前は、危険の代名詞だからだ。
「大臣一行を起こして避難させるんだ!」
と、桜井は、大声で、松下車掌にいった。
狭い通路は、混乱している。寝巻姿で、通路にかたまっていた乗客たちは、「どうしたんだ?」「何があったんだ?」と、騒いでいる。
桜井は、彼らに向かって、「すぐ、この1号車から出てください!」と、怒鳴ってから、大臣がいる3号室のドアを激しくノックした。
「大臣! 起きてください! この列車に、爆弾が仕掛けられているという情報が入りました!」
桜井は、大声で叫んだ。
松下が、SPのコンパートメントを叩いている。八木美也子は、2号室のドアを泣きながら叩いて、「京子さん! 京子さん!」と叫ぶ。
だが、どのコンパートメントからも、返事がなかった。
(どうなってるんだ!)
と、心の中で舌打ちしながら、松下に、
「鍵をあけてください!」
「かまいませんか!」
「非常時です。かまわないから、やってください!」
松下は、ポケットからマスター・キーを取り出したが、あわてているせいか、なかなか、鍵穴に入らない。
「早くしろ!」
と、桜井は、思わず怒鳴りつけていた。どの顔も、血走っている。
やっと、3号室のドアが開いた。桜井が飛び込む。
武田運輸大臣は、背広姿のまま、ベッドの上に横たわっていた。
「死んでいるんですか?」
誰かが、桜井の肩越しにのぞき込みながらきいた。
「大臣!」
と、叫びながら、桜井は、武田の肩に手をかけて、その大きな身体をゆすった。だが、ぐんにゃりと反応がない。
「死んでいるんですか?」
また、背後で、誰かがきいた。
「死んではいない。眠っているんだ」
と、桜井が答えたとき、1号車の端、トイレの方向で、凄まじい爆発音がした。コンパートメントの壁が、びりびりとゆれた。同時に、もうもうたる白煙が、通路にあふれ出て来た。
一刻の猶予もならなかった。桜井は、武田信太郎の重い身体を背負って、コンパートメントから通路へ出た。その通路は、すでに、噴き出した白煙で、一杯だった。
1号室から5号室の他のコンパートメントでも、事態は同じだった。大臣秘書官も、女性秘書も、それに、二人のSPも、昏々と眠っていて、いくらゆり動かしても、眠りからさめる気配がなかった。仕方なく、車掌や、三石駅の駅員が、背負って、もうもうたる白煙の中を、駅のホームに運び出した。
数分後に、二度目の爆発が、1号車のトイレ付近で起きた。また、激しく白煙が噴き出したが、火災にはならなかった。
大臣一行の五人は、三石駅の駅長室に横たえられた。間もなく、県警のパトカー五台と、救急車三台が駈けつけた。武田運輸大臣をはじめとする五人は、そのまま、救急車で、近くの病院に運ばれて行った。
桜井は、駅長室の電話を借りて、東京の捜査本部の十津川に事態を報告した。
「今、県警が、爆発物の処理に当たっているところです」
「大臣は無事なのか?」
十津川の声も、甲高くなっていた。
桜井は、ホームのほうから聞こえてくる物音や、人声を聞きながら、
「近くの病院に、救急車で運ばれました。大臣だけでなく、一行五人が、コンパートメントの中で、昏々と眠りこけていたのです」
「眠っていた?」
「そうです」
「どういうことなんだ? 五人とも、誰かに睡眠薬を飲まされたのか?」
「まだ、見当もつきません。しかし、SPを含めて、五人が、コンパートメントの中で眠り続けていたことだけは間違いありません。爆弾が破裂する前に、小さな騒ぎがあったんですが、そのとき、五人の誰一人、起き出して来ませんでしたから」
「爆発のほうは、どんな具合だ?」
「ちょっと待ってください」
桜井は、片手を伸ばして、窓を開け、ホームのほうに視線を走らせた。
「二度、爆発があったんですが、どうやら、三度目の爆発はないようです。まだ、1号車が、白煙に包まれていますが」
「車両が、破壊されたようなことは?」
「外から見る限り、どこもこわされていません。窓ガラスが、二、三枚割れただけのようです」
「すると、煙だけ激しいのか?」
「そうです。眼も開けていられないような煙でした」
「わからんな。二度も爆発があって、二、三枚、窓ガラスが割れただけというのは」
「爆発は、トイレのほうでありましたので、1号車の端の部分は、破壊されたかもしれません」
「だが、外から見る限り、1号車は、何ともないんだろう?」
「ありません」
「脅かすだけが目的だったのかな?」
「かもしれません」
と、桜井が肯くと、十津川は、「いや違うな」と、電話の向こうで否定した。
「単に、脅かすだけなら、こんな面倒な計画は立てないはずだ。それに、当の武田信太郎が眠ってしまっていては、脅迫にならんじゃないか」
「そういわれれば、そのとおりですが」
「大臣は、眠っていたんだな? まさか、死んでいたんじゃあるまいね?」
「間違いありません。ぐったりしてはいましたが、心臓は動いていましたし、寝息が聞こえました」
「コンパートメントのドアは?」
「内側から、鍵が下りていました」
「密室の中で、眠り続けていたわけかね?」
「形としては、そうですが、ブルートレインのコンパートメントは、通路へ出てから、ドアを勢いよく閉めると、自然に鍵がかかることがあります。現に、コンパートメントの客の一人が、トイレに行くとき、ドアを勢いよく閉めて、鍵がかかってしまい、車掌が、マスター・キーで開けていましたから」
「しかし、大臣一行の五人をだね。一人一人、眠らせて、そのうえ、君がいうように、ドアを上手く閉めて、密室を作るというのは、ほとんど不可能じゃないかな?」
「確かにそのとおりです。ちょっと待ってください」
「どうしたんだ?」
「今、県警の捜査一課長が見えられましたので、電話を代わります」
桜井は、駅長室に入って来た、岡山県警の捜査一課長に、受話器を渡した。
小柄な、その課長は、堅い表情で、
「佐野です」
と、いった。
「警視庁の十津川です」
電話の向こうで、十津川が答える。
佐野は、ちらりと、傍らにいる桜井を見てから、
「今、病院から連絡がありました。武田運輸大臣は、亡くなったそうです」
三石駅のホームは、いぜんとして混乱していた。
下り〈はやぶさ〉は、立ち往生したまま、ホームから動けないでいる。1号車を蔽っていた白煙は、ようやく消えたが、まだ、別の時限爆弾が仕掛けられている恐れがあるため、防護服を着た爆発物処理の専門家が、車内を調べていた。
2号車以下の乗客も、ホームにおりているものが多かった。その間に、1号車だけを切り離す作業も行なわれていた。
やがて、1号車だけが、機関車に引かれて、ホームから百メートルほど離れた線路上に移動した。
桜井は、そんな状況を、十津川に報告した。
「これから、五人が収容された病院へ行って来ます」
「武田大臣の死因を、よく聞いて来てくれ。それから、1号車の他の乗客九人は、どうしているかわかるかね?」
「ホームが混乱しているので、どこに行ったかわかりません」
「彼らは、爆発が起きたとき、各自のコンパートメントの中にではなく、通路にいたんだな?」
「そうです。あるいは、意識的に、コンパートメントに入らず、通路にいたのかもしれません」
「その可能性もあるな。高田弁護士は、見つかったかね?」
「極力探してみたんですが、見つかりません。国鉄に電話して来たのが高田だとすると、彼は、下り〈はやぶさ〉に乗らなかったんじゃなかったんですか?」
「かもしれないが、その電話は、録音してないんだ。本当に高田だったのか、それとも、彼の仲間がかけたのかわからない状態だ。おい! 今、爆発音が聞こえたが、何があったんだ?」
「切り離した1号車で、また、爆発が起きました。ここから、よく見えます」
「大きな爆発か?」
「いや。ここから見る限り、車体は、びくともしていません、水が噴出しています」
「水……?」
「多分、車両の床下についている貯水タンクが、今の爆発で、こわれたんだと思います。では、これから、病院へ行って来ます」
桜井は、電話を切ると、病院へ行くというパトカーに同乗させてもらった。
真新しい三石綜合病院は、駅から三キロほど離れた場所にあった。
まだ、午前三時前だが、病院内は、事件の重要さを示すように、こうこうと明かりがついている。
待合室には、十数人の新聞や雑誌の記者たちが、たむろしていた。武田大臣のお故郷入りの取材で、下り〈はやぶさ〉に同乗していた記者たちだった。彼らのかたまりから、一人だけ離れて、八木美也子が、ぽつんと腰を下ろしていた。友人だという大臣秘書の安否を気づかって、来ているのだろう。
桜井は、県警の佐野捜査一課長と一緒に、二階の病室へ上がって行った。
大臣の遺体は、個室のベッドに横たえられていた。
病院長の串木が、桜井たちに、説明してくれた。
「武田さんの死因は、青酸中毒による窒息死です。手首に注射の痕がありますから、青酸液を、そこから注射されたものと思われます」
串木病院長は、落ち着いて説明してくれたのだが、青酸死という意外な事実に、桜井の顔が、蒼くなった。
「これは、殺人事件だな」
と、佐野が、緊張した顔で呟いた。それも、現職の大臣が殺されたのだ。大騒ぎになるだろう。
(そして、われわれの責任が追及されるだろう)
と、桜井は思った。
高田たちが、武田信太郎を襲撃するかもしれないこと、しかも、ブルートレインの中でやるかもしれないことは、十分に予期していたのだ。それにもかかわらず、阻止できなかったことで、責任を云々されても、文句はいえないだろう。
「他の四人は、どんな具合ですか?」
と、佐野がきいた。
「生命に別状はありません」と、串木病院長がいった。
「強い睡眠薬のせいで、眠り続けていますが、あと、二、三時間で、眠りからさめるものと思われます」
「その睡眠薬ですが、注射でもされた形跡がありますか?」
と、桜井がきいた。青木記者が、前の事件のとき、腕に注射されたといっていたのを思い出したからだったが、串木病院長は、首を横に振って、
「四人の身体を慎重に調べましたが、注射された痕跡は、見つかりませんでしたよ」
「じゃあ、どうやって、睡眠薬が、五人に飲まされたんでしょうか? 自分から睡眠薬を飲んだとは思えないんですが」
「それは、まだわかりません。大臣の遺体を解剖すれば、何か手掛かりがつかめるかもしれませんがね」
「解剖は、いつ始めて頂けるんですか?」
佐野が、ベッドの上の遺体を、じっと見つめたまま、串木にきいた。
「一応、ご家族に知らせてからにしたいので、恐らく、一時間後ぐらいになると思いますね」
「では、朝までに、解剖結果はわかりますね?」
「と思います。どうしても、朝までに、結果が必要ですか?」
「大臣が毒殺されたのです。とすれば、犯人は、あのブルートレインに乗っていたに違いありません。乗客が散ってしまわないうちに、できれば、解剖結果が欲しいのです」
佐野は、強い声でいった。
桜井は、下り〈はやぶさ〉の乗客のことを考えた。
彼らの中に犯人がいるという佐野の考えには、同感だった。恐らく、1号車の乗客の中に、犯人がいるに違いない。
桜井は、正体のない武田信太郎の重い身体を背負って、コンパートメントから運び出した。通路は、爆発のあとの白煙が立ちこめ、混乱していた。あのとき、犯人は、注射器を持って背後から近づき、無防備な武田の手首に青酸液を注射したに決まっている。
だが、桜井は、あのとき、誰が近くにいたか、覚えていなかった。白煙で、一メートル先もよく見えなかったし、何よりも、1号車全体が混乱していた。武田信太郎だけでなく、彼に同行している四人も、同じように、コンパートメントの中で眠ってしまっていたから、彼らを一人一人、背負って、1号車から外へ出さなければならなかった。その作業を誰がしたのかさえ、桜井は知らなかった。
松下車掌と、三石駅の駅員の二人だけでは無理だったろうから、1号車の乗客も手伝ったろう。マークしていた九人が、人助けをしたとなると、皮肉なことになってしまう。あの九人は、武田信太郎殺害の容疑者であると同時に、人命救助で表彰される人間ということになる。となると、よほど決定的な証拠をつかまない限り、逮捕は難しい。
「桜井さん」
と、佐野に呼ばれて、桜井は、自分の推理の世界から、現実に引き戻された。
「これから、どうされますか?」
「とにかく、東京へ報告したいと思います」
「私は、三石駅に戻って、できるだけ、現状を凍結するつもりですよ。大臣と同じ1号車の乗各には、しばらく三石にとどまってもらうつもりです」
「そうしてください。九人の乗客です。松下という車掌が、彼らのことを、よく知っているはずです」
桜井は、高田弁護士と、彼らの仲間のことを、説明した。
聞いている佐野の顔が、興奮のために赤くなってくるのがわかった。
「すると、すべてが、計画的だった可能性があるわけですね」
「多分、そうです」
「そうだとすると、一層、1号車の乗客は、足止めしておかなければならん」
佐野は、ひとりで肯いて、病室を出て行った。
桜井は、串木病院長に頼んで、二階にある電話を借りた。東京の捜査本部のダイヤルを回し、十津川に、武田信太郎の死が、青酸による毒物死だったことを報告した。
「つまり、まんまと、犯人にしてやられたということだな」
と、十津川が、舌打ちするのが聞こえた。
「そのとおりです。すべてが計画的だったと思われます。1号車での最初の騒ぎも、爆発も」
「どうやって、大臣一行が睡眠薬を飲まされたのかわからないのか?」
「残念ながら、まだわかりません。地元の警察は、1号車の九人の乗客を足止めするといっています」
「果たしてできるかな?」
「といいますと?」
「すべてが計画的だったと、君がいったはずだよ。午前二時に、爆発が起こるようにしておき、その混乱に乗じて、武田大臣を殺すことになっていたとすれば、それが、山陽本線のどの駅のあたりかぐらいはわかるだろう。彼らは、あらかじめ、近くに車を用意しておき、混乱にまぎれて、その車で逃げ去ったかもしれないよ」
「その可能性もありますね」
「君は、三石駅に戻って、事態の動きを見守ってくれ。できれば、1号車がどうなっているか調べるんだ。犯行に使われた注射器が落ちているかもしれないからな」
「わかりました」
「夜が明け次第、僕もそちらへ行く。刑事部長も行くことになっている。警察庁からも、誰か行くはずだ。そちらの岡山県警には、当然、特別捜査本部が設けられるだろうから、そちらとも、上手くやってくれ」
「わかりました」
電話を切ると、桜井は、あらためて、事件の重大さを噛みしめた。
武田信太郎が、どんな人物であるにしろ、一国の大臣なのだ。それが殺されたとなれば、間違いなく、新聞は、トップで扱うだろうし、明日になれば、この小さな三石の町は、警官と、新聞記者で一杯になるに違いない。
階段をおりて行くと、待合室でひとり、ぽつんと腰を下ろしていた八木美也子が、「刑事さん」と、声をかけてきた。
「京子さんは、どうなんですか? 助かるんですか?」
「あと、一、二時間で気がつくだろうと、病院長がいっていましたよ」
「じゃあ、助かるんですのね」
美也子の顔に、ほっとした安堵の表情が浮かんだ。
「睡眠薬を飲まされただけですからね」
「よかったわ。本当に。よかった……」
と、呟いている美也子を残して、桜井は、病院を出ると、記者たちが乗ってきたと思われるタクシーをつかまえて、「駅へ行ってくれ」と、運転手にいった。
車が動き出してから、桜井は、
(あの女も、事件のとき、1号車にいたのだ)
と、思い出した。
下り〈はやぶさ〉の1号車は、消火剤の白い泡をかぶって、見るも無残に汚れていた。消火剤の泡が、まだ、ぼたぼたと、音をたてて線路にしたたり落ちている。
先に三石駅に着いていた佐野が、桜井に、
「もう爆発はありませんよ」
と、いった。
「すると、爆弾は、三つ仕掛けられていたわけですか?」
「1号車の物置に一つ、トイレに一つ、最後の爆弾は床下です。いずれも、爆発力は小さなもので、三つが同時に爆発したとしても、1号車の車体が吹き飛ぶようなことはなかったろうということです」
「やはり、白煙を出して、混乱させるのが目的だったわけですね」
「二発目までは、その目的だったと思われます」
「三発目の爆弾は違うんですか?」
「これには、白煙を出す装置はついていなかったそうです」
「じゃあ、何のために、三発目の爆弾が仕掛けられたんでしょうか?」
「わかりません。単なる脅しのためなのか、他に目的があったのか。しかし、乗客の殺傷が目的でなかったことは確かですね。爆発で、床板がめくれあがりましたが、乗客がいたとしても、怪我はなかったと思われます」
「下り〈はやぶさ〉の運行は、どうなるんですか?」
「国鉄側は、事故のあった1号車だけを切り離して、動かすといっていますよ。あと二十分で、動く予定です」
「1号車の乗客は、どうなりました?」
「あなたのいわれた九人の乗客は、駅長室に集まってもらいました」
「よく同意しましたね」
桜井は、驚いた顔になった。あの連中は、逃げなかったのか。
「殺人事件ですからね」
と、佐野は、いくらか得意気にいった。
「それにしても、どさくさの間に姿を消した者が一人もいなかったというのは、予想外でしたね」
「逃げれば、かえって疑いをもたれるからでしょう。それに、全員が寝巻姿で、服や手荷物は、1号車のコンパートメントに置いてありますからね」
「もう一人、三石綜合病院にいる八木美也子という乗客もマークしてください。彼女は、B寝台の客ですが、事件が起きたとき、1号車に来ていましたから。大臣の秘書の友人だといっています」
「なるほど」
「私は、2号車からあとの車両を調べてきます」
「B寝台の乗客も、事件に関係があると思われるんですか?」
「いや。ただ、さっきお話しした高田弁護士が乗っていないかどうか、それを調べたいと思いましてね」
桜井は、列車からおりた乗客で混雑しているホームを歩いて行った。寝巻のままでホームにおりている乗客もいれば、きちんと背広を着ている者もいる。
〃あと約二十分で、下り〈はやぶさ〉は、出発する予定です〃
と、放送があった。
ホームに腰を下ろしていた乗客たちの顔に、ほっとした表情が流れた。列車に戻る乗客もいる。
ホームの乗客の中に、高田の姿は見当たらなかった。
車両に入ってみた。電源車が切り離されてしまったので、明かりが消えてしまっている。ホームの明かりの照り返しで、ぼんやりとしか見えない。
(これでは、人の顔もよくわからないな)
と、桜井は、舌打ちした。
仕方なしに、またホームにおりた。
〃これから、機関車が連結されます。ホームにおいでの方は、危険ですので、白線の内側まで、お退りください〃
頭上のマイクが、同じ言葉を二度、くり返した。
1号車を切り離した電気機関車と電源車が、ゆっくり近づいてくるのが見えた。電源車も、消火剤を浴びて、車体が白く汚れている。
がしゃんと、鈍い音がして、連結が終わった。電源車のディーゼルエンジンが、唸り声をあげ、二、三分して、客車の明かりが一斉についた。
〃あと十五分で、下り〈はやぶさ〉は、発車します〃
と、マイクが伝える。ホームに出ていた乗客たちも、ぞろぞろと、列車に入り始めた。
桜井は、もう一度、列車に乗り込み、狭い通路を、端から端まで歩いてみた。が、高田も、中村朗も見つからなかった。カーテンが閉まっていた寝台もあったし、トイレの中までのぞき込むわけにはいかなかったから、二人がいないと断定はできなかった。
ベルが鳴った。
桜井は、あきらめて、ホームにおりた。
客車を十二両に減らした〈はやぶさ〉は、鋭い汽笛を残して、ゆっくりと、三石駅のホームを滑り出した。
桜井は、夜の闇の中に、下り〈はやぶさ〉の赤いテールランプが消え去るのを見送ってから、待避線に、ぽつんと一台だけ取り残された1号車のほうへ歩いて行った。
車体に近づくと、爆薬と、消火剤の入り混じった異臭が鼻についた。
もちろん、車内の明かりは消えている。そんな暗い車内を、懐中電灯を持った県警の刑事たちが、歩き回っていた。犯行に使われた注射器を探しているのだ。
桜井も、懐中電灯を借りて、車内に入った。爆弾を仕掛けられたトイレと物置は、ドアが吹き飛び、周囲は、黒くすすけている。最後の爆発は、ちょうど、1号室コンパートメントの真下で起きたらしく、このコンパートメントの床が、大きくふくれあがっていた。
犯人は、1号室に大臣が乗るものと思い、最後のとどめを刺すつもりで、三番目の時限爆弾を仕掛けておいたのだろうか?
各コンパートメント、通路、それに、線路上も、丁寧に調べたが、注射器も、その破片も見つからなかった。
県警では、明るくなり次第、もう一度、入念に調べるらしい。
桜井は、駅長室に、足を運んでみた。見覚えのある九人の乗客が、駅員の出してくれた番茶を飲んでいるところだった。
「大事なものを、全部、コンパートメントに置いてきてしまったんですけど、いつになったら、取りに行けますの?」
唯一人の女性客が、当惑した顔で、佐野捜査一課長にきいた。
「もう少しで、車内の調査と点検が終わります。そうすれば、あの車両に入られるのはご自由です」
「つまり、われわれに、運輸大臣殺害の容疑がかかっているから、こうして拘束されているわけなんでしょう?」
背の高い男が、皮肉な眼つきで、佐野を見た。山下一郎と名乗った男である。
佐野の顔色が変わった。武田大臣の死は、まだ内密にされていたからである。
「なぜ、そう思うんです?」
佐野が、嶮しい眼で、相手を見た。
「1号車に、運輸大臣一行が乗っていたことは、ここにいる誰もが知っているんですよ。そして、あの爆発だ。そこへもってきて、1号車のわれわれだけが、こうして拘束されているところをみれば、大臣が死んだとしか考えられないじゃありませんか」
山下は、どうだというように、鼻をうごめかした。
佐野が、当惑した顔で、ちらりと桜井を見た。相手の理詰めのいい方に狼狽している様子だが、桜井は、別の考え方をしていた。ここにいる九人の乗客は、高田の仲間なのだ。彼らが、計画して大臣を殺したのだとすれば、大臣の死を知っているのは、当然ではないか。
「やはりわれわれは、殺人事件の容疑者にされているんだ」
と、山下は、他の八人に向かっていった。
「本当ですか?」
「そんな馬鹿な!」
「殺人容疑者だなんて、とんでもない!」
他の乗客が、騒ぎ出した。
佐野は、仕方なく、大臣が、病院で死亡したことを告げてから、
「別に、あなた方の中に犯人がいると考えているわけじゃありません。ただ、大臣は1号車に乗っていて殺されました。それで、同じ車両に乗っておられた皆さんに、いろいろと、お聞きしたいだけのことです」
「私は、ただ、爆発が起きたんで、正体のなくなっちまっている大臣の一行を、夢中で助け出しただけですよ。別に、人命救助で表彰してくれとはいいませんが、取調べを受ける理由はありませんね」
山下は、不服そうにいった。
「取調べでなくて、事件の解決に協力して頂きたいのです」
「どんなふうに協力したらいいんですの?」
女性客が、きいた。彼女の名前は、確か、新井君子といったはずである。小柄で三十歳くらいの女だった。
「大臣一行五人は、強い睡眠薬を飲まされて、眠っていました」と、佐野は、九人の顔を見回した。
「われわれが知りたいのは、誰が、どうやって、五人に睡眠薬を飲ませたかということです」
「そんなことは、われわれにきくより、当人にきいたらどうなんです? すぐわかるんじゃないかな」
太った身体をゆするようにして、根本がいった。
「そうかもしれませんが、あと一、二時間は、眼がさめないということでしてね」
「私は知りませんよ」
根本が、肩をすくめた。
「われわれより、そこにいる刑事さんにきかれたらどうです? ずっと、1号車を見張ってたんだから」
木村が、桜井を指さした。佐野捜査一課長も、桜井を見た。
「私が、あの列車に乗り込んだのは、大阪駅からです」と、桜井は、佐野にいった。
「その時点では、すでに、大臣一行は、睡眠薬を飲んでいたと思いますね」
「すると、東京から大阪までの間に、五人は睡眠薬を飲まされたということですか?」
「私には、そうとしか思えません」
「ねえ、刑事さん」
と、木村が、口をはさんで、
「どこで、睡眠薬を飲まされたかは知りませんがね。私たち乗客に、そんなことができないことは、ちょっと考えれば、わかるはずですよ。食事を一緒にしたわけじゃないし、飲み物に睡眠薬を入れてすすめたって、五人が飲むはずもないでしょう? 特に、警護の警官が二人いたというんでしょう。彼らが、他人のすすめる飲み物を口にするはずがない。つまり、私たち乗客が、大臣一行に睡眠薬を飲ませるなんてことは、逆立ちしたって無理ですよ」
その言葉には、説得力があった。確かに、ここにいる九人が、大臣一行に睡眠薬を飲ませることは、不可能だろう。武田信太郎と同郷だといい、彼の好きなウイスキーなり、酒なりに睡眠薬を混ぜて、すすめることは、あるいはできるかもしれない。だが、警備のプロである二人のSPが、そんなものを飲むはずがないのだ。だが、現実には、SPも、眠ってしまっていた。
佐野も、言葉に詰まってしまったように、考え込んでいたが、
「では、睡眠薬の件は、被害者の四人が気がつき次第、彼らに聞いてみましょう。次は、爆発のときですが、あなた方の中で、大臣に近づいた人はいませんか?」
「大臣は、その刑事さんと、車掌さんの二人で助け出したはずですよ」と、木村がいった。
「他の人たちは、大臣のお付きの四人を、一緒になって助け出したんです」
「そのとおりですか?」
佐野が、桜井を見た。
「確かに、大臣は、私が背負って、コンパートメントを出ました。しかし、そのとき、誰かが、大臣の手首に、注射器で青酸液を注射したんです」
「それは誰です?」
「わかりません。混乱していたし、通路には、煙が立ちこめていましたからね。ただ、私が、大臣のコンパートメントに飛び込んだとき、背後から、男の声で、『死んでいるんですか?』と、二度きかれましたよ」
「車掌じゃありませんか?」
「かもしれませんが、違うかもしれません。今、大臣は、私と車掌とで助け出したといわれた方があるが、それは違います。車掌は、他の四つのコンパートメントの鍵を開けるのに追われていたはずですからね」
「すると、少なくとも車掌は犯人ではない……?」
「と、思います。彼には、その暇はなかったと思いますね。爆発の直後に、五つのコンパートメントの鍵を開けなければならなかったわけですから。それに、マスター・キーを持っていたのは覚えていますが、注射器を持っていた記憶はありませんからね。もちろん、ケースに入れて、ポケットに忍ばせていたかもしれませんが」
「車掌が除外されると、やはり、残るのは、ここにおられる九人の乗客ということになりますね」
「もう一人、病院に行っている八木美也子という女性がいます」
「ああ、あの女性ですね」
佐野が肯くと、九人の乗客は、また、犯人扱いは不当だと騒ぎ出した。
「第一、私は、西鹿児島へ行く用があって、あの列車に乗っていたんだ。そのほうはどうしてくれるんですか?」
乗客の一人、五十歳近い男が、口をとがらせて、佐野に食ってかかった。
「その点は、国鉄に頼んで、皆さんにご迷惑をかけないように取りはからうつもりです」
と、佐野はいったが、その顔には、苦渋の色が濃かった。この九人の中に、武田信太郎を殺した犯人がいるという確証はない。1号車から注射器でも見つかれば、しばらく拘束できるだろうが、今のままでは、それは無理な話だ。
「皆さんの名前と住所を教えて頂けませんか」
と、佐野は、九人の顔を見回した。
駅長をはじめとする駅員たちが、深夜の三石駅に出勤して来た。
何しろ、運輸大臣が殺され、ブルートレインで爆弾が爆発したという大事件だった。国鉄はじまって以来の事件ということで、国鉄総裁が、夜が明け次第、駈けつけると発表された。官房長官や、二、三の閣僚も、急遽、この町へやって来るだろう。地元の新聞記者たちも、車を飛ばして、やって来た。
問題の九人の乗客は、一時間十五分おくれの下り〈富士〉を、三石駅に臨時停車させ、それに乗ってもらうことにした。警察としては、朝まで拘束したかったのだが、そうするだけの証拠が見つからなかったのである。注射器はとうとう発見できなかったし、彼らが、時限爆弾を仕掛けたという証拠もない。それどころか、九人は、爆弾騒ぎのとき、大臣一行を、コンパートメントから助け出している。人命救助で表彰される人間を、殺人容疑で、拘束はできない。
眠り続けていた四人が、眼をさまし始めたのは、九人が、下り〈富士〉に乗って、三石駅を出発したあとだった。
SPの一人が、まず、眠りからさめたと、病院から連絡を受けて、桜井は、佐野と駈けつけた。
平木功という三十歳の刑事だった。
平木は、自分が護衛していた運輸大臣が殺されたと知って、顔色を変えた。
「私の責任です」
と、平木は、蒼ざめた顔で、短くいった。
「強い睡眠薬を飲まされたと思われるんですが、誰に、どうやって飲まされたか、覚えていますか?」
佐野がきいた。
平木は、ベッドの上で、頭をかきむしった。
「それを思い出そうとしているんですが、まだ、頭がぼんやりしていて、なかなか思い出せないんです」
「ゆっくりで結構ですよ」
佐野は、いたわるようにいった。この実直そのものの感じの刑事は、自殺だってしかねない。
「いや。何とか思い出さないと」
「じゃあ、東京駅を出発したときから少しずつ思い出してください。個室寝台車に乗ってからのことです」
「星野君と二人で、まず車両を点検しました」
「トイレや物置も、調べましたか?」
と、桜井がきいた。
「ええ、もちろん。時限爆弾などが仕掛けられていないかを調べるのは、警護の常識ですから」
「そのときは、何も見つからなかったんですね?」
「見つけていれば、除去しています」
「今度爆発した時限爆弾は、床下、トイレ、物置の三カ所に仕掛けられたと見られています」
「物置とトイレは、私と星野君が、徹底的に調べました。床下は、東京駅のほうで調べたと思います」
「すると、時限爆弾は、東京駅を出てから仕掛けられたことになるんだな」
佐野が、腕を組んで、呟いてから、
「問題の睡眠薬ですが、他の乗客から、飲み物をすすめられた記憶はありますか?」
「食堂車で、他の乗客の方から、しきりに酒をすすめられましたが、断わりました」
「大臣からすすめられたことは?」
と、桜井がきいた。
「酒でも飲んで、早く休みたまえといわれました。しかし、酒は飲みません。もともとアルコールは駄目なほうですから」
「夕食は、何時ごろとられたんですか?」
「交代で適当に食べました」
「眠くなったのは、いつごろですか?」
「はっきりとは覚えていないんですが、名古屋を過ぎて、しばらくしてから、急に眠くなったんです。眠気をさまそうと、水を飲んだり、顔を洗ったりしたんですが、いつの間にか、眠ってしまいました。こんなことは、初めてです」
「コンパートメントの鍵をかけた記憶はありますか?」
「よく覚えていませんが、自分でかけたかもしれません。とにかく、眠くて我慢ができなくなり、ほんの少し仮眠をとろうと思ったとき、眠っているところを見られたくないという気持ちが働きましたから、そのとき、鍵をかけたかもしれません」
他の三人も、次々に、眠りからさめたが、話すことは、平木と同じだった。誰もが、睡眠薬を飲まされた記憶はないと主張した。名古屋を過ぎてから眠くなり、いつの間にか眠ってしまったという点も一致していた。が、その時刻は、ばらばらだった。
下り〈はやぶさ〉が、名古屋を出たのは、午後九時四十分である。十時ごろから眠くなったという者もいたし、十一時過ぎから、どうしても我慢がしきれなくなって眠ってしまったという証言もあった。
共通しているのは、名古屋まで起きていたという点では一致していた。
「犯人が、鍵穴から、睡眠ガスみたいなものを、コンパートメントに、噴出させたということは考えられませんか?」
と、桜井は、四人にきいてみた。
SPの平木が、すぐ否定した。
「そんなことがあれば、噴射される音に気付いたはずです。コンパートメントに入っていても、絶えず通路のほうに気を配っていましたから」
「栗橋さん」
と、桜井は、大臣の女秘書に声をかけた。
「八木美也子という女性をご存じですか?」
「八木さん?」
「彼女は、あなたの友人だといっていましたが」
「大学時代の友だちに、確か、八木さんという方がいましたわ。その方が何か……?」
「同じ列車のB寝台に乗っていて、ここに見舞いに来ていましたよ。あなたが気がついたと知らせて来ましょう」
「え?」
栗橋京子が、あっけにとられているうちに、桜井は、下の待合室におりて行った。八木美也子への好意からではなく、本当に、あの女が、大臣秘書の友人かどうか確認したかったのだ。
待合室では、串木病院長が、記者たちに、四人の身体の状態を説明しているところだった。
桜井は、八木美也子の姿を探して、廊下や、病院の外まで出てみたが、どこにも見当たらなかった。
(どこへ消えてしまったのだろうか?)
と、病院の玄関で、考えているところへ、
「刑事さん」
と、声をかけられた。
最初、そこにいる若い男が、どこの誰だったかわからなかったが、「青木です」といわれて、「週刊エポック」の記者なのを思い出した。
「八木美也子さんを探しているんじゃありませんか?」
と、青木がきいた。
「なぜ、知ってるんです?」
「ここには、われわれ記者の他には、彼女しかいなかったからですよ。彼女は、さっき、用事があるからといって、出て行きましたよ。大臣秘書の栗橋京子さんの友だちとかで、気がつくまでいられなくて、残念だといっていました」
「どこへ行ったかわかりませんか?」
「西鹿児島へ行くといっていましたからね。タクシーで岡山駅へでも行ったんじゃありませんか。夜が明ければ、新幹線の〈ひかり〉がとまりますからね」
(彼女を拘束しておくべきだったか?)
と、思ったが、彼女が、大臣を殺したという証拠がない限り無理だったろう。まだ、彼女と大臣の関係さえわかっていないのだ。
「あなたは、八木美也子さんを、よく知っているんですか?」
桜井がきくと、青木は、ニヤッと笑って、
「B寝台で、隣り合わせていましたからね。彼女に内緒で写真も撮りましたよ」
「写真を撮った?」
「ええ。なかなか魅力のある女性でしたからね」
「その写真を、ぜひ、頂きたいですね」
「まさか、彼女が、大臣を殺したなんていうんじゃないでしょうね?」
「そうはいっていませんよ。ただ、事件の参考人として、もう一度、話を聞きたいだけです」
と、桜井は、青木にいった。
武田運輸大臣の遺体の解剖は、午前四時から行なわれ、約一時間半で終了した。
死因は、やはり、液体青酸(テジロン)による中毒死で、心臓麻痺を起こしていたという。
「胃の中に、多量のフェノバルビタールが検出されました」と、串木病院長が、桜井と佐野に向かっていった。
「吸収された量も、かなりの量と思われます」
「フェノバルビタールというのは、普通の、睡眠薬ですね?」
佐野がきいた。
「一般には、ルミナールと呼ばれているもので、一般に使用される場合は、一回に〇・〇三グラムが常用量です。バルビツール酸系の睡眠薬で、作用がかなり強い薬です」
「作用が強いといいますと?」
「睡眠薬には、用途によって、いろいろなものがあります。催眠作用がすみやかなものは、ブロムワレリル尿素、ヘキソバルビタールなどで、睡眠深度を深くするものは、アモバルビタール、シクロバルビタールなど、さらに、睡眠深度が深く、かつ持続時間の長いものが、フェノバルビタールです」
「問題は、何に混ぜて飲んだかということですが、それはわかりましたか?」
佐野が、勢い込んできいた。が、串木病院長は、首を横に振った。
「残念ながら、わかりませんでした」
「しかし、胃の中の内容物から、推測はつくんじゃありませんか?」
「胃の内容物はわかりましたよ。ちくわ、たくわん、しゃけ、こんぶ、うずら豆など、それにご飯。つまり、幕内弁当ですね。多分、食堂車で召し上がったんでしょう。ワインも飲んでいますね。しかし、ワインに混入されていたかどうかは、判断できません」
「ワインに混入されていた可能性もあるわけですね?」
「可能性としてならあり得ます。しかし、他に、水も飲んだでしょうし、食事のときにはお茶も飲んだに違いない。そのほうに、混入された可能性もあります」
串木病院長は、あくまでも慎重だった。医者としては、当然の態度だろうが、警察としては、これでは捜査が進展しない。
桜井は、考え込んでしまった。こんなとき、十津川が、傍にいてくれたらと思った。
彼は、電話を借りて、もう一度、東京の十津川を呼び出し、今までの経過を報告した。
「わかったのは、この事件が非常に計画的なものだということだけです」
「それは、最初からわかっている」
電話の向こうで、十津川の声がきつくなった。
「彼らは、予行演習までやっているんだ。武田信太郎の殺害が計画的なことは当然だよ」
「申しわけありません。警部から注意するようにいわれながら、犯行を防げませんで」
「向こうさんが、それだけ頭がよかったということだろう。過ぎ去ったことは仕方がない。証拠を見つけて、犯人を逮捕することだ。いや、犯人は、高田と、彼の仲間、彼が弁護した連中だということはわかっている。だから、必要なのは、証拠だ」
「それが、全く見つからんのです。注射器も見つからないし、大臣一行に、どうやって睡眠薬を飲ませたのかもわかりません」
「人間がやったことだ。わからないことがあるものか」
「それはそうですが……」
「夜明けまでに、なるたけ証拠を集めておいてくれ。なるべく早く、僕もそっちへ行く」
十津川は、刑事部長とともに、午前六時四十八分東京発の〈ひかり〉31号に乗った。亀井も一緒である。
岡山着が午前十時五十八分。岡山から三石まで、タクシーを飛ばした。
三石町の町役場に、特別捜査本部が設けられていた。岡山県警本部長や、警察庁長官も来ている。
遺体の安置されている病院には、すでに、官房長官と、三人の閣僚が来ているということだった。岡山空港まで特別機を飛ばし、空港からは、県庁差し回しの車で、やって来たらしい。武田の遺族も同行しているという。
県警捜査一課長の佐野は、十津川に向かって、
「東京では、今度の事件を、予期していたようですな」
と、いった。彼の表情に、非難の色があったわけではなかったが、十津川は、それにもかかわらず、今度の事件を防げなかったことに、後ろめたさを覚えた。
「ある程度、予期していました。しかし、こんな事態までは予期できませんでした。二人もSPがついているので、安心していたといったらいいでしょう。何か、犯行の証拠のようなものが見つかりましたか?」
「残念ながら、何も見つかっていません。注射器は、いぜんとして発見されないし、睡眠薬を飲ませた方法も不明です。何をご覧になりたいですか?」
「まず、事件のあった個室寝台車を見たいですね」
十津川は、亀井、桜井の二人と、待避線にぽつんと置かれてある個室寝台車を見に出かけた。
二人の警官が、ガードしている。十津川たちは、車内に入った。まだ、異臭が、通路にも、コンパートメントにも残っていた。
十津川は、丁寧に、内部を見ていった。爆破によって、こわれたトイレや物置もである。
「犯人は、三つの爆発で、人を殺そうとは考えていなかったようだね」
十津川は、爆発規模の小ささから、そう判断した。
「そのとおりです」と、桜井がいった。
「特に、初めの二回は、白煙を噴き出して、乗客を混乱させるのが目的だったと思います」
「しかし、小さな爆弾でも、乗客がトイレに入っているときに爆発すれば、確実に死にますよ」
亀井が、ひん曲がったトイレのドアを見ながらいった。
「カメさんのいうとおりだ。だが、大臣一行の五人は、眠らされていたし、他の九人の乗客がすべて高田の仲間で、犯人とすれば、爆発は知っていたろうから、トイレに行くはずがない。唯一の例外は、この車両に乗っていた車掌だが、彼が、爆発時にトイレに行く可能性は少ないし、行こうとしたら、通路にいた九人が、引き止めればいいんだ。ところで、桜井刑事がいったように、今度の事件は、非常に計画的に行なわれた。まず、五人に睡眠薬を飲ませて眠らせた」
「その方法は、おわかりですか?」
桜井が、生徒のような眼で、十津川を見た。
「一つだけ考えているが、証明できるかどうかわからん。話を進めよう。次に犯人たちがやったことは、時限爆弾を、トイレや物置に仕掛けることだった。東京駅で、二人のSPが調べたときには、何も発見されなかったんだから、東京を出発したあとに仕掛けられたことは確かだ。君が、大阪で乗り込んでから見たことを話してくれ」
「松下車掌と、この車両の通路を見張りました。その前に、九人の住所と名前を調べて、警部に報告しましたが、午前一時過ぎに、6号室の男と、9号室の男が、トイレに行きました」
「その二人が、多分、トイレと物置に、時限爆弾を仕掛けたんだよ」
と、亀井が、断定した。
「同感だね」
十津川が、肯いた。
「三発目は、床下に仕掛けられていました」と、桜井がいった。
「この車両の中から仕掛けることは不可能だそうです。とすると、どこで、どうやって仕掛けたんでしょうか?」
「方法はわからないが、仕掛けた場所は、恐らく名古屋だろう」
「名古屋ですか?」
桜井は、驚いて、十津川を見た。具体的な地名が、ずばりと十津川の口をついて出たので、びっくりしたのだ。
「なぜ、名古屋なんですか?」
「理由は、後で話すよ。それより話を先へ進めよう。次に起きたことを話してくれ」
「妙なことが起きました。6号室の男、根本と名乗りましたが、彼のコンパートメントのドアが、閉めたとたんに自然に錠がかかってしまい、大騒ぎになりました。コンパートメントのドアは、勢いよく閉めると、簡単に錠がおりてしまうのです」
桜井は、近くのコンパートメントで、それを実証して見せた。掛け金を、真上にくるようにしておいてから、ドアを勢いよく閉めると、掛け金が落ちて、簡単に、鍵がかかってしまう。
「しかし、これが、計画の中に入っていたとは思えないんですが……」
「いや。予行演習までしたんだよ。ミスだとすれば、そんなつまらないことはしないはずだ。だから、計画の一つとして、わざと密室を作ったのさ」
「何のためにです」
「君は、そのために、大騒ぎになったといったじゃないか」
「根本が、ドアが開かなくなってしまったことに腹を立てて、ノブをがちゃがちゃいわせたり、ドアを蹴飛ばしたりしたからです」
「それが目的だったんだと思うね」
「音を立てることがですか?」
「そうさ」
「確かに、他の乗客を、通路に出て来させる口実にはなりましたが」
「目的は、もう一つあったと思うよ。ドアを蹴飛ばしたりして騒ぎ、大臣一行五人が、睡眠薬を飲んで眠ってしまっているかどうか、それを確かめたんだ。起き出して来なければ、計画どおり、眠ったことになるからね」
「そのとおりです。6号室のドアを蹴飛ばしているのに、隣りの5号室にいるSPが、どうして起きて来ないか不思議に思いましたから」
「犯人たちは、そうやって、計画どおり、五人が睡眠薬で眠ったのを確認してから、いよいよ、最後の詰めに入ったのさ。高田と名乗る男が、列車の外で、国鉄に電話する。午前二時に、下り〈はやぶさ〉の1号車に仕掛けた時限爆弾が爆発するとね」
「自ら高田と名乗ったのは、なぜでしょうか?」
「それで、前の事件で謎になっていた部分が解けたよ」
十津川は、ぱちんと指を鳴らした。
「何のことですか?」
「高田のことさ。三月二十七日の下り〈はやぶさ〉に乗っていた田久保涼子を殺した事件で、高田の名前が正面に出てきた。彼は自分の名前を隠しておくこともできたのに、わざわざ、雑誌記者の青木に、自分のほうから名乗ったりしている。その結果、われわれは、高田をマークした。なぜ、頭の切れる高田がそんな馬鹿なことをしたのか、どうしてもわからなかったんだ。その理由が、やっとわかったということだよ。高田は、自分の名前を、われわれにマークさせておきたかったんだ。ただ単に、爆弾を仕掛けたといっても、いたずらだと無視されるが、高田の名前を出せば、事実だと思われ、列車は停車される。警察がマークしていた人間の電話だからね。高田が、前の事件で、わざわざ自分の名前を表面に出したのは、このための布石だったんだ」
「高田の計算が、まんまと成功したわけですね」
「そうだ。今から考えれば、われわれも、高田の計画に一役買ったことになるんだ。国鉄から照会があったとき、高田の名前を聞いて、すぐ列車を停め、1号車の乗客を避難させるよう忠告した。高田の計算に、うまうまとのせられたわけだよ」
「列車が停車してからは、まるで悪夢の連続でした」と、桜井はいった。
「爆発が起き、白煙が通路にあふれ、大臣一行五人のコンパートメントが鍵がかかっていたので、それを開けたり、正体のない大臣たちを運び出したり、誰が何をしているのかもわかりませんでした。申しわけありません」
「君の責任じゃないさ。誰だって、そんな事態に直面すれば、人命救助をまず考えて、犯人どころではなくなってしまうだろう」
「それにしても、細かく計算して、事件を起こしたものですね」と、亀井が、いった。
「列車の停車、第一の爆発、白煙、青酸液の注射、それが、少しずれてしまっても、成功しなかったんじゃないでしょうか」
「だから、1号車の九人の乗客は、すべて高田の仲間だった可能性が強いんだ」
「八木美也子も、仲間だったと思われますか?」
と、桜井がきいた。
「彼女は、ハンドバッグを持っていたかね?」
「寝巻姿じゃありませんでしたから、持っていたと思います」
「それなら、注射器は、彼女が持っていた可能性が強くなる。本物の八木美也子、つまり大臣秘書の友人かどうか調べるんだな。もし、ニセモノだったら、病院へ行ったのは、友人のことを心配してではなく、大臣の死を確認するためだろう」
「調べてみます」
と、桜井は、肯いてから、
「名古屋の件を教えて頂けませんか。なぜ、床下の爆弾が、名古屋で仕掛けられたとお考えですか?」
「私も聞きたいですね」
と、亀井も口を添えた。
十津川は、自分の考えをまとめるときのくせで、煙草を取り出して火をつけた。
「第三の爆発は、何のために行なわれたのかを考えてみたんだ。床が数センチ盛りあがったくらいのものだから、人間殺傷のためではない。また、前の二発と違って白煙を出していないから、混乱させるためのものでもない」
「脅しのためでしょうか?」
「それなら、床下なんかに仕掛けずに、車内に仕掛けたほうが効果があるはずだ。とすると、あの爆発で、何が起きたかが問題になる」
「床下の貯水タンクがこわれて、水が流れ出しました」
「それさ。それが目的だったんだ」
「あれは、偶然だったと思ったんですが……」
「いや。この事件が、恐ろしいほど計画的なことは、わかっているはずだ。偶然に、貯水タンクがこわれたなどということは、ちょっと考えられないよ」
「しかし、貯水タンクをこわして、どうするつもりだったんでしょうか?」
「証拠湮滅さ」
「といいますと?」
「SP二人も、秘書官たちも、睡眠薬を飲まされた記憶がないといっている。特にSPの二人は、用心深く行動していた。大臣から酒をすすめられても飲まなかったろう。それにもかかわらず、睡眠薬を飲まされている。とすると、考えられるのは、たった一つだよ。一般の飲料水の中に、睡眠薬が混入されていたということだ。客車には、一両ずつ、床下に貯水タンクがあり、その水を使っている。それに、睡眠薬が入っていたのさ」
「その証拠を消すために、貯水タンクをこわしたということですか?」
「他に考えられるかね?」
「大臣一行以外の九人の乗客が、何ともなかったのは、飲料水に睡眠薬が混入されているのを知っていたからですか?」
「そうさ。だから、彼らが無事だったということこそ、高田の仲間だという何よりの証拠だと、僕は思う。車掌が、睡眠薬を飲まずにすんだのは、彼の部屋には、他のコンパートメントのように、洗面器が付き、水も飲めるようにはなっていなかったからだと思うね」
「しかし、なぜ名古屋だと思われるんですか?」
「今日、ここに来る前、東京駅で、いろいろ聞いて来たんだ。ブルートレインは、長旅のため、途中で給水する」
「それは、私も知っていますが」
「下り〈はやぶさ〉についていえば、途中の六駅で給水する。名古屋、大阪、岡山、門司、博多、熊本の六カ所だ。名古屋は、単に、最初の給水地点というだけじゃない。ここでは、1号車から7号車までの客車に給水するんだ。大阪では10号車から13号車、岡山では、4号車から9号車までという具合になっている。つまり、1号車の貯水タンクに睡眠薬を入れるチャンスは、名古屋駅しかないんだよ。それに、もう一つある」
「何ですか?」
「東海地方、特に名古屋市内は、現在異常渇水で、水道は時間給水中だ。午前十時から午後四時までの六時間しか水が出ないんだ。列車への給水は水道を使用するし、昔のような給水塔があるわけじゃないから、午後九時三十五分に名古屋に着く下り〈はやぶさ〉への給水には、給水車が必要だ」
「そういえば、最初の事件のとき、田久保涼子の死体を、給水タンク車に入れて運んだんじゃないかといわれましたね」
「その給水タンク車が、名古屋ナンバーの車だったら、下り〈はやぶさ〉に、名古屋駅で給水した可能性は、大いにあるわけだ。そのとき、睡眠薬の入ったカプセルを何個か、1号車の貯水タンクに投げ込み、午前二時に爆発するようにした時限爆弾を仕掛けることも可能だったはずだよ。名古屋の停車時間は、五分間あったからね」
第十章 追 跡
十津川の推理が県警本部長によって取りあげられ、果たして正しいかどうかの追跡捜査が、捜査本部をあげて始まった。
まず、青木記者の撮った八木美也子の写真を、桜井が、栗橋京子に見せた。
京子は、病院で出してくれた濃いめのコーヒーを、ブラックで飲みながら、じっと、写真を見ていたが、
「これは、八木さんじゃありませんわ」
「やっぱりそうですか」
「やっぱりといいますと?」
京子が、不思議そうにきいた。
「ひょっとすると、この写真の女が、大臣を殺したかもしれないのです」
「本当ですの?」
京子は、今度は、眼を丸くして、
「でも、動機は、何ですの? 先生が、他人に恨まれて殺されるなんてこと、考えられないんですけど」
「本当に、そう思われますか?」
「ええ」
「あなたは、どうです?」
桜井は、隣りのベッドにいる神谷秘書官に視線を向けた。
神谷は、まだ、ときどき吐き気がしたりするとかで、蒼い顔色をしていた。
「先生は政治家ですから、敵が多かったのは事実ですが、先生はフェミニストでしたからね。女性に殺されるなんて考えられません」
「動機が、女性問題とは限りませんよ。二年前の五億円詐取事件を覚えていますか?」
「覚えていますが、あれは、先生はむしろ被害者だった事件ですよ。先生の名刺が、詐欺に使われたわけですから」
「そうでないという話も聞いていますが……」
「誰が、そんな馬鹿なことを!」
神谷が、憤然として抗議した。
桜井は、病室を出た。調べなければならないことが、いくらでもあったからである。
このあと、三石の捜査は、県警に委せて、十津川たちは、帰京することにした。事件の根は、やはり東京にあると感じたからだし、三石で、見るべきものは、すべて見たという気持ちもあったからだった。
名古屋で、亀井刑事が降り、十津川と桜井は、東京の捜査本部に戻った。
桜井が、やらなければならないことは、高田が弁護した三十二人の顔写真を、もう一度見ることだった。
三十二人とも、刑事事件で起訴されていて、そのうち、二十五人が有罪判決を受けている。この二十五人の顔写真は、警察に揃っていたし、他の七人についても、顔写真は、集めてあった。
その三十二枚の写真を、桜井は、一枚ずつ丁寧に見ていった。
この中の一人、田久保信一は自殺しているから、正確には、三十一枚の写真である。
下り〈はやぶさ〉の1号車に乗っていた九人の男女の顔は、しっかり覚えている。それとの照合だった。
桜井は、たちまち、九枚の顔写真を選び出した。
「九人とも、全部、この中にありました」
と、桜井は、十津川に報告した。
「面白いことに、この中に、銀行に爆弾を仕掛けて脅迫し、八年の刑を受けた男がいます。今度の三つの時限爆弾は、この男が作ったんじゃないでしょうか?」
「その男の記録を取り寄せておいてくれ」
「わかりましたが……」
「何だい?」
「八木美也子と名乗った女が、三十二人の中にいません」
「見つけ出すんだ」
と、十津川はいった。
田久保涼子の例があるので、桜井は、日下刑事たちと三十一名中の男十九名について、その家族を調べてみた。
だが、彼らの家族の中にも、問題の女はいなかった。
高田とのつながりが、なかなか見つからないのだ。
仕方なしに、本物の八木美也子のことを調べてみることにした。八木美也子の名前をかたった以上、彼女の身近にいる女かもしれないと思ったからである。
八木美也子は、半年前から、札幌に引っ越していた。結婚したためである。したがって、姓も市村に変わっている。
桜井は、問題の女の写真を持って、札幌に飛び、市村美也子に会った。だが、彼女は、写真を見ても、全く記憶がないといった。
桜井は、空しく、東京に戻らなければならなかった。
「これ以上、調べようがありません」と、桜井は、十津川に報告した。
「あとは、本人を捕えて、何者なのか、自供させるしかありません」
「しかし、もし姿を消したのなら、なかなか見つからないぞ」
「そうかもしれませんが……」
「それに、調べるところは、まだあるはずだよ」
「高田の周辺も、本物の八木美也子の周辺も調べましたが」
「もう一つあるはずだ。武田信太郎の周辺だよ」
「個人的に、彼を憎んでいた女という線ですか?」
「そうだ」
「しかし、そういう女と、高田たちが、なぜ、共同戦線を張ったんでしょうか?」
「利害が一致したからだろう」
「ただそれだけで、一緒に殺人を行なえるものでしょうか?」
「もちろん、ただ単に、利害が一致しただけでは無理だろう。しかしね。もし、女が、二年前の五億円詐取事件で、武田信太郎を恨んでいたらどうだね?」
「あの事件は、高田たちが、武田の命令でやったことだと、警部は推理されたはずですが?」
「そのとおりだ。だが、あの事件で、犠牲者が一人出ていたはずだよ」
「あッ」
と、桜井は、声をあげた。すっかり忘れてしまっていたのだ。
「犯人の疑いを受けた中井良久という男が、取調べ中に、手首を切って自殺していましたね」
「その中井良久に家族がいたとする。高田が、真犯人は武田信太郎だと教えたら、喜んで協力するんじゃないかね。武田運輸大臣の殺害計画に」
「そうでした。すぐ調べてみます」
桜井は、疲れを忘れて、飛び出して行った。
名古屋で降りた亀井刑事から電話が入った。
「こちらは、相変わらずの異常渇水で、ホテルも時間給水中です。参りました」
「その割りにご機嫌なのは、わかったんだな。カメさん」
「列車への給水ですが、普通は、線路沿いに施設されている水道管から行なわれます。しかし、今度のような異常渇水で、時間給水中は、夜間に到着する列車に、給水できません。そんな場合は、別の駅で給水します。下り〈はやぶさ〉でいえば、名古屋で給水できない場合は、一つ手前の停車駅である静岡か、一つ先の岐阜で給水するわけですが、今度の異常渇水は、東海地方全域にわたっていて、静岡、岐阜も、時間給水中です。静岡着が七時十三分では、夜間制限中のため給水は不可能ですし、岐阜も同様です。それで、やむなく、名古屋で、給水タンク車を使って給水をしています。午後四時以後に着く長距離列車に対してですが。名古屋市水道局が給水しているわけですが、水道局の給水車だけでは、不足なので、民間の給水車も使用されています。仕事を委託されてです」
「あの日、下り〈はやぶさ〉に給水した給水車は、民間の委託業者のものだったわけだね?」
「そうです。しかも、その業者も、給水車も、姿を消してしまいました。その業者の名前ですが……」
「柳沼良一。四十歳……じゃないかね?」
「なぜ、ご存じなんですか?」
「例の三十二名の名簿の中に、名古屋市内が現住所になっているのが一人いる。それが、柳沼良一、四十歳だからだ。彼には、弟が一人いたはずだが」
「名古屋駅の話では、柳沼は、若い男に運転させ、自分は、助手席に乗ってやって来ていたそうです。もちろん、ずっと、夜行列車の給水を請け負っていたので、信用されていたようです」
「三月二十八日には、この兄弟が、給水車のタンクの中に、田久保涼子の死体を入れて、多摩川まで運んだんだと思うよ。あのときも、下り〈はやぶさ〉に、名古屋駅で給水しているんだろう?」
「その点を調べましたが、三月二十七日の下り〈はやぶさ〉の1号車に給水するのに、この兄弟が働いています。それで、彼らは、二十七日の九時三十五分に名古屋着の下り〈はやぶさ〉に給水したあと、岡山まで車を飛ばし、そこで、田久保涼子の死体を受け取って、多摩川まで運んだんでしょうか?」
「それは違うと思うね。名古屋駅で給水すれば、タンクの中は、からだ。タンクに注水し、さらに、平均時速百キロで走っているブルートレインを岡山駅まで追いかけるのは、大仕事だからね。柳沼兄弟の給水車は、途中で待機し、岡山からそこまでは、別の車、多分、中村朗のスポーツ・カーで、田久保涼子の死体を運んだんだろう」
「すると、柳沼兄弟は、名古屋で待っていたということですか?」
「いや。名古屋じゃないな」
「なぜですか?」
「名古屋市は、時間給水中だから、給水車のタンクに、水を注入するのが大変だろうと思うからだよ。東海地方全体が、異常渇水に悩まされていたわけだから、東海地方以外の場所のはずだ。つまり、大阪か、神戸あたりで注水して、待機していたものと思うね」
「なるほど」
「それで、柳沼兄弟が、1号車の貯水タンクに睡眠薬を投入したり、時限爆弾を仕掛けたりした証拠は見つかったかね?」
「兄弟でやっていた運送会社の事務所を調べてみました。中型トラックはありましたが、肝心の給水車のほうは、車庫から消えています」
「証拠品だからな。どこかへ隠すつもりだろう」
「帳簿や、他の書類なども、焼却してしまったとみえて、事務所は、がらんとしています。こちらの警察に依頼して、柳沼兄弟と、問題の給水車を手配してもらいました。特殊な車ですから、すぐ見つかると考えていますが」
「もう、海の底かもしれないぞ」
「その可能性もあります。ここは、港湾に近いですから。その方面も、探すように頼んであります」
「柳沼は、よく、名古屋駅への給水の仕事をとれたな? 何かコネでもあったのかね?」
「だいぶ金を使ったようです。もともと、この仕事は、渇水のときだけのものだし、委託事業で、あまり儲けの大きい仕事じゃありませんが、それにもかかわらず、柳沼兄弟は、これまでの業者から、大金を出して、仕事をゆずり受けてもらったり、中古ですが、給水タンク車を購入したりしたので、もの好きな男だという評判がたっていたようです」
「その金は、高田から出ているのかもしれんな」
「そう思って、柳沼が取引銀行としていたM銀行に行ってみました。彼が、この仕事を始めたのは、三月一日からですが、二月二十五日に、彼の普通預金口座に、東京から一千五百万円が振り込まれています。しかし、相手は、高田ではありません」
「誰だい?」
「中井裕子となっています。これは、恐らく偽名だと思われますが……」
「いや、本名だと思うよ」
「警部が、ご存じの名前ですか?」
「僕の想像が当たっていれば、彼女は、われわれが知っているはずの人間だよ」
と、十津川はいった。
亀井との電話を切って、五、六分して、桜井から、興奮した声で、電話が、かかってきた。
「警部のいわれたとおりでした。中井良久の未亡人が、八木美也子を名乗っていた女です。彼女の本名ですが……」
「中井裕子……じゃないか?」
「なぜ、ご存じなんです?」
「さっき、名古屋のカメさんが教えてくれたんだよ。彼女は、何か財産を処分していなかったかね?」
「夫の中井良久が自殺したあと、警部のいわれるように、東京の家を処分して、郷里の新潟に帰っています。しかし、現在、新潟にはいないようです」
「田久保涼子が殺されたとき、彼女の身代わりになって、西鹿児島まで、下り〈はやぶさ〉に乗って行ったのも、彼女だろうと思うね。田久保涼子に似て、なかなかの美人のようだからね」
十津川は、満足して受話器を置いた。
武田運輸大臣を、みすみす殺させたのは残念だが、これで、犯人たちの逮捕令状はとれるだろう。
「吹田君。署長に会ってくるよ」
と、十津川が、立ち上がったとき、若い警官が、あたふたと、部屋に入って来た。
「十津川警部にご面会です」
「誰だ?」
「高田弁護士と名乗っています」
「何だと?」
十津川は、半信半疑だった。が、入って来たのは、まぎれもなく、あの高田だった。
高田は、いやに落ち着き払っていた。
「私が、出頭して来たので、驚いているんじゃないのかね?」
高田は、勝手に空いている椅子に腰を下ろし、ニヤッと笑った。
(こいつは、なぜ、笑っているのだろう?)
と、十津川は、いぶかしがりながら、
「意外な気がしたことは確かだな。しかし、どうせ君は、逮捕される。それを見越して、自首して来たんじゃないのかね?」
「私は、自首する必要があったから、こうしてやって来たんだ」
「死刑が無期になると計算したのかね? 自首することで」
「私には、そんなケチな考えはないね」
「じゃあ、必要とは何のことだね?」
「明日になれば、わかるよ。あんたたちにもね」
高田は、謎めいたいい方をして、また、ニヤッと笑った。
「明日になれば、何がわかるんだ?」
「それはいえないね。明日の午後三時になったら、私もすべて話す」
「こちらは、今、話してもらいたいね」
十津川は、わざとゆっくり、煙草をくわえた。
高田は、足を組み直した。
「簡単にいえば、私は、武田信太郎を殺した。今いえるのは、それがすべてだね」
「田久保涼子も殺してるはずだ」
「なるほど。忘れていた。それも認めよう。これでいいかね? 罪を認めたんだから、今日は留置場で、ゆっくり眠らせて欲しいね。明日になったからといって、前言をひるがえしたりはしないよ」
「君の仲間のことも話してもらいたいね」
「私の仲間?」
「とぼけないで欲しいね。少なくとも、十一人の男女が、君に協力して、二つの殺人を計画し、実行したはずだ。それも認めるんだね?」
「今日は、それについては、何もいいたくない。私は、二つの殺人事件について有罪を認めた。それ以上のことは、今日はいえない。それ以上、私にいわせたいのなら、私は帰らせてもらうよ」
それだけいうと、高田は、急に黙ってしまった。
十津川が、どう話しかけても、高田は、口を開こうとしなかった。
仕方なく、十津川は、高田を留置させた。
「君は、どう思うね?」
と、十津川は、吹田の意見をきいてみた。
若い吹田は、したり顔で、
「時間の引き伸ばしだと思いますね」
「それで?」
「思わせぶりな行動をとって、われわれの注意を引きつけておき、その間に、仲間を逃亡させようとしているんじゃありませんか? 私には、他に考えられません」
吹田は、自信満々にいった。
「しかしねえ。高田、中井裕子、中村朗、それに、1号車に乗っていた九人については、殺人で、逮捕状が出て、すぐに、全国に指名手配されるはずだ。また、高田が過去に弁護した残りの人間についても、重要容疑者として、手配されることになっている。高田が、どんなふうに時間かせぎをしても同じことだよ。それに、午後三時というのは、何のタイムリミットだろう?」
「仲間が、国外に逃亡しようとしているんじゃないでしょうか?」
「午後三時に出発する飛行機で、彼の仲間が日本を脱出する予定だというのかね?」
「そうです。それなら、高田が、明日の午後三時にこだわる理由が納得できるんじゃありませんか。仲間が、日本から逃げ出したのを確認してから、すべてを自供する気なんじゃないでしょうか?」
「しかしねえ。吹田君。指名手配は、全国の空港や港湾にも届くんだよ」
「じゃあ、警部は、高田の狙いが何だとお考えなんですか?」
吹田はまた挑戦的な眼をした。若いのだ。十津川は、苦笑した。
「僕にもわからんよ。だから、困っているんだ」
十津川が、正直にいうと、吹田は、一瞬、軽蔑したような眼つきをした。
午後四時に、高田をはじめとする十二人について、逮捕状が出た。
顔写真も、コピーされ、直ちに、全国に指名手配された。特に、全国の空港と港湾には、重点的に警察官が配置された。
七時過ぎに、遅い夕食をとっているところへ、亀井刑事が、名古屋から帰って来た。
「高田が自首して来たそうですね」
と、亀井は、十津川の顔を見るなりいった。
「数時間前に、一人で自首して来たよ。二つの殺人事件について、有罪を認めた。もう一つ、ブルートレインの車掌が死んでいるが、これが、事故死か他殺かも、明日になれば自供するだろう。ただ、明日の午後三時にならなければ、細かいことは、何も喋らないといっているんだ」
「仲間を逃がすための、時間かせぎじゃありませんかね?」
「吹田君も同じことをいったがね。彼の仲間も、全国に指名手配されたから、時間かせぎにはならないんだよ」
「明日の午後三時と、時間を区切ったところをみると、また、どこかに時限爆弾でも仕掛けたんじゃないでしょうか?」
「時限爆弾か」と、十津川は、口の中で呟いた。
「いや違うな。それなら、わざわざ自首して来ずに、どこかに隠れて、結果を見守っているだろう」
結局、判断がつかなかった。
留置された高田は、夕食もきちんと平らげ、九時になると、もう、軽い寝息を立てはじめた。
夜が明けた。
朝食のあとで、高田を、留置場から取調室に連れて来たが、彼は、相変わらず午後三時にならなければ、何も喋りたくないと主張した。
二つの殺人事件について、有罪を自認しているのだから、黙秘は不利になるよと、脅かすこともできない。
仕方なく、また留置場に戻し、午後三時になるのを待って、再び、取調室に連れて来た。
「十五分前に、中井裕子が、新潟で逮捕されたよ」
と、十津川は、高田に向かい合って腰を下ろすなりいった。先制攻撃をかけたのだが、高田は、顔色一つ変えず、
「早く海外に脱出するようにいっておいたのに、馬鹿な女だ」
と、いっただけだった。
「午後三時だ。約束どおり、すべてを話してもらおうかね」
十津川がいうと、高田は、壁にかかっている電気時計を見た。
「その前に、頼みがある」
「何だね?」
「〃週刊エポック〃の今週号が、今日の午後三時に店頭に出るはずだ。それを買って来て欲しい」
「〃週刊エポック〃? 午後三時というのは、そんなことだったのか?」
「何だと思っていたんだね?」
高田は、皮肉な眼つきをした。
「それは……」
と、十津川は、いいかけてから、「カメさん」と、呼んだ。
「どこかで今日出た〃週刊エポック〃を買って来てくれ。そうだな。五部くらい必要だ」
「何が出ているんです?」
「わからん」
亀井は、飛び出して行き、すぐ、息を切らして戻って来た。
「これを見てください」
と、亀井は、表紙に刷られた見出しの文字を指で叩いた。
〃武田運輸大臣殺害の恐るべき真相を真犯人の手記は語る!〃
と、そこには、書いてあった。
十津川は、一冊を、高田の前に投げた。
「君の手記か?」
「昨日、私が持ち込んだ。武田が、どんなに卑劣な人間で、なぜ、殺されなければならなかったかを書いた手記だ。あの男が、どんな奴か、君は知るまいがね」
「二年前の五億円詐取事件の主犯は、武田信太郎だということかね?」
「なぜ知ってるんだ?」
高田が、眼をむいた。
「君たちが武田信太郎を殺す理由は、他に考えられなかったからだよ。それに、武田なら、そのくらいのことはやりかねないと思ったからだ。武田は、自分の選挙資金を手に入れるために、君たちを利用して、手の込んだ詐取事件を計画したんじゃないのか? もちろん、武田が当選し、要職についたときの見返りも約束されていたんだろう。ところが、武田は、大臣の椅子についたが、君たちへの約束を守ろうとしなかった。だから、彼が、ブルートレインでお故郷入りするのを利用して殺した。違うかね?」
「さすがに、警視庁だな。よくわかったね。武田は、あの五億円詐取計画を私に持ち込んで頼んだとき、もし、大臣にでもなったら、私が親しくしている前科者たちに、それ相応のお礼はするし、何かの事業でもするときには、便宜を図ると約束した。彼らは、喜んで、私に協力してくれた。前科があると、今の社会では生きにくい。政治家が味方についてくれれば、こんな心強いことはないからだ。だから、私に協力して、あの詐取事件をやってくれた。武田は、あの金を使って見事に当選し、大臣にまでなった。彼が大臣に就任したときには、彼らは、お祝いを贈ったほどだ」
「ところが、武田は、約束を守らなかったというわけだな」
「それだけなら、殺しはしない」
「というと……」
「二人の男が殺されたんだ。仲間の二人がね」
「誰のことをいっているんだ?」
「一人は田久保信一だ」
「彼は自殺したんじゃないのかね?」
「一応は自殺したことで処理されているが、私は、殺されたと思っている」
「しかし、なぜ、武田が田久保信一を殺すんだ。詐取事件のからくりを知っている人間を消すとなったら、君たち全部を殺さなきゃならないんじゃないのかね?」
「いや。武田に頼まれたという証拠はないんだ。見返りも口約束だった。だが、田久保は例の名刺を持っていた」
「なぜ、田久保が、例の名刺を余分に持っていたんだ?」
「田久保は、山田印刷の社員の高梨一彦と友だちだったからね」
「高梨は、君が、弁護してやったことがあって、それで、詐取事件の片棒をかつがせたんじゃなかったのかね?」
「それは逆だ。田久保の友だちで、彼に頼まれたから、高梨の家族を弁護してやったんだよ」
「それで?」
「高梨が、武田信太郎の名刺を余分に一枚刷っておいて、われわれが、それを利用して、五億円詐取を働いた。もちろん、武田自身の了解の下に行なわれたことだ。しかし、そのとき、高梨は、一枚ではなく、三枚余分に武田の名刺を刷っていたんだ。彼にしてみたら、そんなに力のある名刺なら、何かの役に立てようとでも思ったのかもしれない。高梨は、詐取事件に使わなかった余分の二枚を、友人の田久保と一枚ずつ、分けて持っていたんだ。それを武田が知ったんだと思う。まず、高梨が消された」
「君たちが殺(や)ったんじゃないのか?」
「私は、自分がかつて弁護してやった人間を殺したりはしない」
高田は、きっぱりといった。
「田久保信一も、名刺を持っていたから殺されたというのかね?」
「私は、そう信じている。田久保は、手前勝手なところがあったから、あの名刺をタネに、ひとりで、武田をゆすったのかもしれない。とにかく、田久保は死んでしまった。私は、みんなを集めて、武田を殺すことを相談した。みんな、すぐ賛成してくれたよ」
「中井裕子も、君が誘ったのかね?」
「そうだ。彼女は、自分から、注射器で殺す役を引き受けたんだ。それだけ、夫を愛していたということだろうな」
「だが、田久保涼子ひとりが反対したんだな?」
「最初は賛成したんだが、途中から、おじけづいて、反対するようになった。それどころか、警察に告げそうになったので、仕方なく、殺してしまったのだ。上手くいったのだが、一つだけミスをしたのは、田久保が持っていたはずの武田の名刺を、涼子がハンドバッグに入れて持っていたのに気付かなかったことだ。あのハンドバッグは、結婚記念に田久保から贈られたとかで、ボロボロなのに大事に持っていた。内側が破れていて、その隙間に、例の名刺が入っていたので、気がつかなかったんだ。おかげで、君たち警察に、武田との関係を気付かれてしまった」
「予行演習……か」
「そうだ」
「青木記者は、実際には、〈富士〉には移さなかったんだろう?」
「まあね。あれは詰まらんトリックさ」
「岡山で降ろしたのは、田久保涼子なんだな?」
「前もって男物のコートやズボン、靴を用意しておいて殺してから着せかえて降ろした。コンパートメントだからできたんだろうな。殺すより骨が折れたよ」
「ブルートレインの北原という車掌を事故死に見せかけて殺したね?」
「あの男は、気が弱くて、酒に溺れる人間だった。口が軽くて、武田を殺す前に、すべてが駄目になりそうなので、消したんだ。今ではすまないことをしたと思っているよ。ブルートレインの個室寝台(コンパートメント)の切符を手に入れるのに世話になったからね」
「なぜ、彼が、君に協力したんだ? 金かね?」
「それもある。金を欲しがらない奴なんか、この世にいないからね。その他に、彼の家族のことで、私が、相談にのってやったこともある。恩は売っておくものさ」
「今度の事件で、大臣一行五人全員が、睡眠薬入りの飲み水を飲んで、コンパートメントの中で、眠ってしまった。君たちには、大変都合がよかったわけだが、あんなに上手くいくと思っていたのかね? SPの二人が、水を飲まず、眠らなかったら、どうするつもりだったのかね?」
「もちろん、五人とも眠るなどとは考えなかったよ。特に、護衛に当たる二人のSPは、眠らないのではないかと思った。つまり、一滴も、飲料水を口にしないのではないかとね。一応、彼らに、水を飲ませる努力はするように指示はしておいたがね」
「どんな努力だね?」
「武田信太郎は、食堂車で夕食をとるといっていた。庶民性を宣伝したいためさ。当然、SPも、食堂車にやってくる。そのとき、SPに、酒をすすめるようにいっておいた。それも、しつこくだ」
「SPが飲むはずがないだろう?」
「当たり前だろう」と、高田は、笑った。
「断わるのを前提にして、しつこくすすめたのさ。SPは、常に緊張している。当然、のどが乾く。そこへ、酒をすすめられれば、心理的に、一層、のどが乾くはずだ。だが、食堂車では飲むことができない。当然、自分のコンパートメントに戻ったとき、ほっとして、水を飲むだろう。公共の水は安全だという、おかしな先入観があるからね。まあ、それが成功したわけだが、SPが眠らなくても、別に困りはしなかったはずだよ。なぜなら、舞台が寝台特急だからだ。SPは、武田がコンパートメントで眠っていても、それが、睡眠薬で眠っているのか、普通に眠っているのか確かめる方法がない。爆弾騒ぎになって、はじめて、正体のない大臣を発見して、狼狽するはずなのだ。われわれの仲間は、九人が、1号車に乗っていた。爆弾騒ぎに乗じて、1号車を制圧するには十分な人数だよ。いや、九人プラス一人だから十人だった。SP二人が起きていたとしても、あの狭い通路、爆発、そして白煙の中で、十人の人間を制圧できはしない」
「それも、三月二十七日の下り〈はやぶさ〉で試してみたのかね?」
「もちろんだよ。実際には、五人とも眠ってしまったので、力を使わずにすんでしまったがね。あの狭い通路なら、SPの動きを止めてしまうことは簡単だったと思うよ」
「この君の手記だが、〃週刊エポック〃が、よくのせる気になったね?」
「何といっても、特ダネだからな。それに、私が自首して出れば、手記の内容を信用すると、宮下という編集長が約束した。だから、私は、昨日、ここへ自首したんだ。別に君たちに恐れ入ったわけじゃない。〃週刊エポック〃のほうは、それを確認してから、雑誌を店頭に出すことに踏み切ったんだ。もう一ついわせてもらえば、この手記には、私憤は入っていない。公憤だよ」
「つまり、正義の主張ということかね?」
「そのとおりさ。これは、一人の醜悪な政治家に対する告発の手記だ。それは同時に、腐り切った現在の政界への警告の書でもある。これで十分だろう?」
「いや。不十分だね」
高田が顔をしかめて、十津川を睨んだ。
「何が不十分なのかね?」
「君たちが、武田信太郎を、殺した動機がよくわからない」
「手記に書いてあるとおり、正義の実行だ。われわれを裏切ったこともある」
「僕は、そんなきれいごとは信じないね」
「彼が裏切ったことも、動機の一つだといっているじゃないか」
「そのほうが強いはずだ。武田信太郎が悪人だとしても、君たちは、彼が何をしたかを知っているんだから、脅迫できたんじゃないのかね? 金を出さなければ、手記を書いて、出版社へ売り込むといってだ」
「君は、武田という男を知らんから、そんなことがいえるんだよ」
「じゃあ、どんな男か、私に教えてもらえないかな」
「ずるくて、用心深い男だよ。五億円は、彼のふところに入ったが、その証拠を残すような男じゃない。それに、彼が生きている限り、手記は発表できなかったろうね。彼が出版社に手を回すに決まっているからだ。したがって、正義を通すためには、武田を殺すより仕方がなかったんだ」
「君と武田信太郎の関係は、いったい何だったんだね?」
「私は、彼に夢を求めた。前科者が恵まれた生活を送れるという夢だよ。だが、向こうは、私たちを利用しただけだった」
「君自身も、その醜い政治家に取り入ろうとしていたんじゃないのかね? 政界に入りたくて、武田信太郎のために、五億円詐取を働いたんじゃなかったのかね。それが、上手くいかなかったために、腹を立てた。それだけのことじゃなかったのかね。それにだ。君と武田信太郎の間には、もっと、どろどろとしたものがあったんじゃないのか?」
「何をいってるんだ?」
「君と武田信太郎の腐れ縁だよ。君のことは、いろいろと調べた。その中で、もっとも興味があったのは、君の学生時代のことだ。弁護士になってからの君は、権力志向型だったが、学生時代の君は、面白いことに、アナーキストで、テロ行為に走っていた。四年のとき、君の属していたグループが、M物産の本社コンピューター室に時限爆弾を仕掛けたが、爆破寸前に発見され、グループの四人が逮捕された。ところが、リーダー格の君だけは、逮捕されなかった。それどころか、この事件を機に君は、まじめな学生になり、司法試験を受けて合格している」
「昔のことだ。忘れたな」
「君は、仲間を売ったのさ。この事件のことを、公安の当時の関係者に聞いたら、そのころ、代議士一年生の武田信太郎から情報が入ったのだと教えられたよ。君は、大学の先輩の代議士である武田信太郎に、泣きつき、仲間を裏切る代わりに、自分を無罪にしてもらったのだ。衆院で法務関係の委員をやっていた武田の働きかけで、君は逮捕されず、したがって、前科もつかなかった。もし、ついていれば、弁護士には、なれなかったんじゃないかね?」
「古いことだといったはずだ」
高田は、横を向いてしまった。が、十津川は、言葉を続けた。
「つまり、君は、君のいわば恥部を、武田信太郎に知られていた。弱みを握られていたのだ。だから、武田信太郎が、君を裏切っても、彼をどうすることもできなかった。それで、余計に腹を立て、彼を殺すことを計画したのだ。公憤じゃなく、私憤だよ。明らかに」
「〃週刊エポック〃の手記以外のことは、話したくないね」
「もう一つ疑問なのは、君の仲間が、よく従順に殺人を手伝ったということだ。中井裕子は、愛する夫が、武田信太郎のおかげで自殺させられているから、喜んで、君の計画に参加したろうが、他の者が、なぜ、君に従ったかだ」
「もちろん、私に恩義を感じていたからだよ。私は、弁護士として、常に、被告人に対して愛情を持ち、全力を尽くして弁護した。被告人が貧乏人の場合は、弁護料をとらずに弁護をした。そのせいだろうね」
「君が、弁護士として優秀だったことは知っているよ。だがね。君に恩義を感じたから、全員が、殺人の手伝いまでしたというのは信じられないね。傷害で、一、二年の軽い刑を受けた人間まで、殺しを手伝ったのは、理屈に合わないからだ」
「しかし、全員が私に協力してくれたことは確かだよ。まさか、その事実を認めまいとするんじゃあるまいね」
「考えられることが一つある。弁護士という商売は、いやでも、弁護する人間の秘密を知る立場にいる。被告人は、弁護士だけが頼りで、何でも打ちあけるからだ。もちろん、弁護士は、法廷では、被告人の不利になる秘密は黙っている。だがね。法廷外で、その秘密をタネに、被告人を脅すことは簡単なはずだ。君は、弁護をしながら、被告人の秘密を調べ出し、それを武器に、彼らを従わせたのさ。彼らが逮捕されればわかることだ」
「………」
高田は、黙ってしまった。どうやら、十津川の指摘は、的を射ていたらしい。
しかし、十津川は、快哉を叫ぶよりも、かえって、ぶぜんたる気持ちになって取調室を出た。
そのまま、彼は、亀井刑事を誘って、街へ出た。
「高田は、自分が、武田信太郎と同じ種類の人間だということに気がついていないらしい」
柔らかい午後の陽差しの中を歩きながら、十津川は、吐き捨てるようにいった。
「彼は、なぜ、自首して来たんでしょうか? 〃週刊エポック〃に、自分の手記をのせるためだけでしょうか」
「高田独特の自尊心のためだろう。あの男は、最後まで、自分が英雄でいたいのさ。ただ……」
「ただ、何です?」
「それだけでは、納得できないものも残るんだがね」
「警部」
「何だい? カメさん」
「これは、関係ないかもしれませんが、高田は、留置中、二回、食後に吐いたそうです。自首すると、たいていは、ほッとして食欲がすすむものですが」
「二回も吐いたのか」
「彼は、病気なんじゃないでしょうか?」
「そういえば、彼は、広島の生まれだったな」
被爆体験という言葉が、十津川の頭をよぎった。
しかし、もし、そうだとしても、あの男は、自分の身体がむしばまれていることを、認めはしまい。そのために、自首したと思われたくないに違いないからだ。
駅近くの本屋の前へ来て、亀井が、「おかしいな」と、声を出した。
「〃週刊エポック〃がありませんね」
「君が五冊も買ってしまったからだろう?」
「いえ。私が買ったのは、この店じゃなく、駅の売店です」
次の本屋の店頭にも、「週刊エポック」は、一冊も見当たらなかった。
「これは、おかしいですよ。ちょっと聞いてきます」
亀井は、店の奥へ入って行ったが、二、三分すると、興奮した表情で戻って来た。
「やっぱりでした。この店で出版元に間い合わせてもらったところ、〃週刊エポック〃の今週号は、すべて売り切れたという返事でした」
「売り切れたって、今日発売だろう?」
「そうです。出版社にも一冊も在庫はなく、しかも、増し刷りの予定はなしだそうです」
「つまり、買い占めか?」
「そうです。今日店頭に出たものも、すべて、買い占められてしまったようですね」
「臭いものには、蓋というわけか」
「武田信太郎が、五億円詐取事件の真犯人では困る人間が沢山いるということですな」
「高田が、がっかりするだろうな」
「どうします?」
「決まっている。今度の事件を徹底的に調査して、事実を明らかにするさ。当然、五億円詐取事件の解明もしなけりゃならん。そして、わかったことを、記者会見でどんどん発表する。それを記事にするしないは、マスコミ自身の問題だ」
十津川は、腕時計に眼をやった。
「時間だな」
「何のですか?」
「あと二時間で、中井裕子が、新潟から護送されてくる。これから羽田に迎えに行って、彼女から、事件について話を聞こうじゃないか。事件の解明は、まだ始まったばかりなんだ」
「時刻表」は昭和53年10月号を参考にしました。(著者)
制作/光文社電子書店  1999年 1月25日