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夜の終り
西村京太郎
目 次
人探しゲーム
夜の終り
海の沈黙
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人探しゲーム
1
長く、激《はげ》しい愛撫《あいぶ》が続いたあと、順子《じゆんこ》は、けだるい顔で布団《ふとん》の上に腹這《はらば》いになり、このホテルに来る途中《とちゆう》で買った週刊誌《しゆうかんし》に、手を伸《の》ばした。
小田《おだ》は、仰向《あおむ》けになって、煙草《たばこ》に火をつけた。
二人は、安アパートの六|畳《じよう》で同棲《どうせい》生活をしているのだが、月に二回は、都内のラブホテルで、セックスを楽しむことに決めていた。
そうしなければ、板壁一枚《いたかべいちまい》の六|畳《じよう》で、周囲の物音を気にしながらのセックスで、気持がいじけてしまいそうだったからである。
一番いいのは、高級マンションに住むことだが、今の二人の給料では、何万円という部屋代《へやだい》は払《はら》えない。
「あらッ」
と、突然《とつぜん》、順子が大声をあげたので、小田は、びっくりして、顔をねじ曲げて、彼女《かのじよ》を見た。
「何だよ? 変な声を出しやがって」
「これを見てよ」
と、順子は、週刊誌《しゆうかんし》の広げた頁《ページ》を、指で叩《たた》いた。
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〈この人を見つけて下さい。見つけた方に、百万円を差し上げます〉
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と、大きな活字が、踊《おど》っている。
そして、男の顔写真。
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〈最近、都会の中の孤独《こどく》ということがよくいわれています。東京という大都会の中にもぐり込《こ》んでしまったら、見つけ出すことは不可能《ふかのう》ともいわれています。
そこで、わが『週刊《しゆうかん》ジャパン』では、一つの実験をしてみることにしました。
この頁《ページ》にのっている写真の青年に、さまざまな変装をして貰《もら》って、三週間、都内に潜伏《せんぷく》して貰《もら》います。
読者の中に、この青年を見つけ出した方があったら、すぐ、編集部《へんしゆうぶ》まで連絡《れんらく》して下さい。
もし、本人に間違《まちが》いなければ、百万円の賞金を差しあげます。
青年の名前は伏《ふ》せておきますが、手掛《てがか》りとして、青年の特徴《とくちよう》をいくつかあげておきます。
身長 一七五センチ。
体重 七〇キロ。
年齢《ねんれい》 二八|歳《さい》。
写真でおわかりのように、口元に、かなり大きなホクロがあります。
さあ、あなたの周囲を注意深く見廻《みまわ》して下さい。百万円が、あなたのものになるかも知れませんよ〉
[#ここで字下げ終わり]
「週刊誌《しゆうかんし》も、いろんなことやるもんだな」
「百万円よ」
「しかし、東京には一千万人もの人間が住んでいるんだぜ。それに、変装しているって、書いてあるじゃないか。百万円は欲《ほ》しいけど、まず見つからないよ」
「それが見つかるのよ」
「なぜ?」
「あたし、この写真の人が、今どこにいるか知ってるんだもの」
2
「何だって?」
小田《おだ》は、思わず、順子《じゆんこ》の肩《かた》を強くつかんで、のしかかるような恰好《かつこう》で、もう一度、週刊誌《しゆうかんし》の写真を見た。
「重いわよ」
と、順子は、笑《わら》ってから、
「うちの近くに、十階建てのマンションがあるでしょう?」
「ああ。城北《じようほく》レジデンスってやつだろう。お前が、あんなマンションに住みたいって、いつもいってるやつだ」
「そうなの。この間ね、あの前で、何気《なにげ》なく見上げてたら、五階の窓《まど》から道路を見下ろしている男がいたのよ。その時は、羨《うらや》ましいなぐらいにしか思わなかったんだけど、昨日は、駅前のパチンコ屋で、あんたと待ち合せたでしょう?」
「ああ。昨日は、入らなかったなあ。おれは、千五百円もすっちまった」
「あんたが来る前、あたしがはじいてたら、隣《となり》の台でやってた男の人がいたのよ。どこかで見たような顔だと思ったら、城北レジデンスの五階から外を見ていた男なのよ。それがね。マンションで見た時には、ひげがなかったのに、パチンコ屋では、立派《りつぱ》なひげを生《は》やしてるのよ。つけひげなんかして、変な男だなと、昨日は思ったんだけど、あれは、変相してたのよ。この写真の男だわ」
「間違《まちが》いないのか?」
「間違《まちが》いないわ」
「百万円か」
「それだけあれば、あのマンションが借りられるわ」
「よし」
と、小田は、布団《ふとん》の上に起き上った。
「すぐ、このホテルを出よう。泊《とま》りの料金を払《はら》ってあって、もったいないが、何しろ百万円だからな」
「何時?」
「夜の十時だよ」
「どうする? すぐ、この週刊誌《しゆうかんし》に電話するの?」
「こんな時間に出版社《しゆつぱんしや》に誰《だれ》もいるものか。まず、本当に写真の男かどうか確《たし》かめるのだ。そうしておいて、明日の朝、出版社《しゆつぱんしや》に連絡《れんらく》すればいい」
「確《たし》かめるって、どうやって?」
「これから、その男に会いに行くのさ。これは、ゲームなんだから、当人に聞いたっていいわけだろう。当人に、おれたちが最初の発見者だったことを、認《みと》めて貰《もら》うんだ。早くしないと、他《ほか》の連中に、百万円を取られちゃうかも知れないぜ。この週刊誌《しゆうかんし》を読むやつは多いだろうからな」
「そうね」
二人は、あわてて服を着ると、問題の「週刊《しゆうかん》ジャパン」を持って、ホテルを出た。
雨が降《ふ》り出していたが、二人には、何でもなかった。大通りでタクシーを拾《ひろ》い、城北《じようほく》レジデンスへ急行した。
着いたのが、十時半。普通《ふつう》なら、訪問《ほうもん》は遠慮《えんりよ》する時間だが、百万円が、眼先《めさき》にちらついている。
二人は、マンションに飛び込《こ》み、エレベーターで五階に上った。廊下《ろうか》には明りがつき、扉《とびら》が並《なら》んでいる。
「どこの部屋《へや》だ?」
小田《おだ》がきいた。
順子《じゆんこ》は、昼間、道路のほうから見た部屋《へや》が、どの辺《あた》りだったかを、頭の中で考えながら、廊下《ろうか》を歩いていたが、五〇六号室の前で立ち止まって、
「この部屋《へや》よ」
「間違《まちが》いないか?」
「大丈夫《だいじようぶ》。自信あるわ」
「よし」
と、小田は、思い切って、五〇六号室のベルを押《お》してみた。
部屋《へや》の中で、鳴っているようだが、いっこうに、応答がない。
「誰《だれ》かに見つかったんで、引き払《はら》っちまったんじゃないのかな」
「そんな筈《はず》はないわ。テレビの音が聞こえるじゃないの」
順子のいう通りだった。よく見ると、ドアが、わずかに開いていたし、テレビの音が聞こえるのだ。外国映画をやっているらしい。
(百万円だ)
と、小田は、自分にいい聞かせ、ドアのノブに手をかけて、ドアを開け、中をのぞき込《こ》んだ。
襖《ふすま》が開いているので、奥《おく》の部屋《へや》まで見通しだった。何か、変な匂《にお》いがした。
奥《おく》の匂《にお》いだ。
「変だぞッ」
と、小田が、大きな声を出した。
「どうしたの?」
「奥《おく》に、誰《だれ》か倒《たお》れている」
「怖《こわ》いわ」
「見てみよう。何たって、百万円だからな」
と、小田は、靴《くつ》のまま、中へ入って行った。
順子も、怖《こわ》いもの見たさで、その後に続く。
2LDKの奥《おく》の寝室《しんしつ》に、若い男が、パジャマ姿《すがた》で、俯伏《うつぶ》せに倒《たお》れていた。ベッドのすぐ横だ。
背中《せなか》を刺《さ》されたらしく、流れ出た血は、もう乾《かわ》いてしまっていた。
「死んでいる」
小田が、青い顔でいった。彼の背中《せなか》につかまっている順子が、がたがたふるえ出した。
そんな重苦しい空気の中で、テレビだけが、深夜映画を流している。
「写真の男みたいだな」
小田は、死んでいる男の顔を、首をひねって、のぞき込《こ》んだ。
「どうするの?」
「どうするって、警察《けいさつ》に電話するより仕方《しかた》がないじゃないか。死んでても、百万円は、貰《もら》えるのかな」
3
十津川警部補《とつがわけいぶほ》は、大きなくしゃみをした。
ここ二、三日で、急に寒さが厳《きび》しくなった。他《ほか》はどこといって悪くないのだが、気管支《きかんし》が弱いので、すぐ、カゼを引いてしまう。冬はどうも苦手《にがて》だ。それなのに、冬になると、やたらに、面倒《めんどう》な事件《じけん》が舞《ま》い込《こ》んでくる。
もっとも、今度の事件《じけん》が、面倒《めんどう》なものかどうかは、まだわからなかったが。
「どうやら、この週刊誌《しゆうかんし》の男に間違《まちが》いないようです」
と、部下の小川刑事《おがわけいじ》が、週刊《しゆうかん》ジャパンを差し出した。
十津川は、ざっと記事に眼《め》を通し、それから、写真を撮《と》られている死体に眼《め》をやった。
「百万円の男か」
「そうです。変相用のつけひげも見つかりました」
「室内が、かなり荒《あ》らされているな」
十津川は、寝室《しんしつ》を見廻《みまわ》した。
洋服ダンスの引出しが開けられ、扉《とびら》も開いていて、背広《せびろ》や、ワイシャツ類が、床《ゆか》にぶちまけてある。
「凶器《きようき》はどうだ?」
「見つかりません。犯人《はんにん》が持ち去ったんじゃないでしょうか」
「うむ。身寄《みよ》りの者に、連絡《れんらく》したのか?」
「週刊《しゆうかん》ジャパンの編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》の自宅《じたく》に、電話しました。三田村《みたむら》という名前です。すぐ、車で来るそうです」
「車でね」
十津川は、窓《まど》から下を見下した。
煙草《たばこ》をくわえ、火をつけた時、真白《まつしろ》なアメリカ車が、タイヤをきしませながら、マンションの前に止まり、背《せ》の高い男がおりるのが見えた。車は、フォードのムスタングである。
男は、立ち止まって、細い葉巻《はまき》に火をつけ、気取ったポーズで、五階のこの部屋《へや》を見上げた。
何となく、十津川と視線《しせん》が合った。
(どうやら、三田村という編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》らしいな)
と、思った。
もし、そうだとしたら、十津川の苦手《にがて》なタイプの男である。ちょっとキザで、頭の回転がよくて、自《みずか》らスポーツカーを運転する男。何から何まで、十津川とは反対だからである。
「主任《しゆにん》。三田村編集長です」
と、小川|刑事《けいじ》にいわれて、十津川は、窓《まど》から離《はな》れて、ふり向いた。
やはり、あの男だった。
うす茶の背広《せびろ》だが、長身によく似合《にあ》っている。浅黒い、男性的な顔は、さぞ、若い女にもてるだろうと、十津川は思った。
「どうも、夜おそく、申しわけありません」
と、十津川は、いった。
「殺人事件《さつじんじけん》なら、仕方《しかた》がありませんよ」
三田村は、微笑《びしよう》した。が、死体を見ると、その顔を曇《くも》らせた。
「誰《だれ》が、殺したんですか?」
「週刊《しゆうかん》ジャパンに写真の出ていた人に、間違《まちが》いありませんか?」
「ええ。小笠原《おがさわら》君です」
「どういう人ですか? あなたの部下ですか?」
「いや。将来《しようらい》有望な若手のタレントです。この仕事には、ある程度《ていど》の演技力《えんぎりよく》や、変相なんかも必要なんで、劇団《げきだん》『ペガサス』の小笠原君に頼《たの》んだのです。まさか、こんなことになるとは――」
「百万円の人探《ひとさが》しと、雑誌《ざつし》には出ていますね」
「いい企画《きかく》だと思ったんですがねえ」
「なぜ、こんな企画《きかく》を立てたんですか?」
「それは、雑誌《ざつし》にも書いてありますが、現代の無関心《むかんしん》ということがテーマなんです。都会では、隣《となり》に住む人間のことも、気にかけない。新聞には、連日のように、都会の中の孤独《こどく》な死が出ています。私は、逆《ぎやく》に考えて、一人の男が、どれだけ見つからずに、東京の中で過《す》ごせるかを試《ため》してみたかったのですよ。面白《おもしろ》い企画《きかく》とは思いませんか? 刑事《けいじ》さん」
「そうですなあ」
十津川《とつがわ》は、あいまいな表情を作った。
面白《おもしろ》い企画《きかく》かも知れないが、本音《ほんね》は、販売《はんばい》部数を伸《の》ばすことだろう。写真の男を見つけて、百万円せしめるには、まず、男の特徴《とくちよう》の出ている週刊《しゆうかん》ジャパンを買わなければならないのだから。
少なくとも、死体を発見したアベックには、百万円のことしか頭になかった筈《はず》だ。
「この企画《きかく》は、編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》のあなたが考えたんですか?」
「編集《へんしゆう》会議で決ったというのが正しいでしょうね」
「しかし発案者は、あなたなんでしょう?」
「まあ、そうです」
「被害者《ひがいしや》は、金をいくらぐらい持っていたんですか?」
「三週間|潜伏《せんぷく》する生活|資金《しきん》として、三十万円|渡《わた》してありました。一週間|過《す》ぎていましたから、計画通りなら、あと、二十万ぐらいは、持っていたと思いますが」
「それが、どこを探《さが》しても、所持金は出て来ません」
「じゃあ、強盗《ごうとう》が入って、盗《と》られたというんですか?」
「わかりませんが、その可能性《かのうせい》もありますね」
「そうだとすると、こいつは、おかしいことになる」
三田村《みたむら》は、あはははと、声に出して笑《わら》った。
「何がおかしいのです?」
「だって、そうじゃありませんか、刑事《けいじ》さん。強盗《ごうとう》は、彼《かれ》を殺して、二十万ばかりの金を盗《と》っていった。ところが、彼を殺さずに、私のところに電話するだけで、百万円の大金が手に入ったんですよ」
「なるほど。そうだったね。ところで、このマンションは、どうしたんですか?」
「どうしたって、小笠原《おがさわら》君が、借りたものですよ」
「私のいっているのは、部屋代《へやだい》のことですよ」
「ああ、それは、もちろん、うちの社で出しましたよ。ベッド、応接《おうせつ》セットなどは、リースですが、その費用も、わが社が持ちました。三週間の中《うち》、十日間は、マンション暮《ぐら》しをしてみてくれと、頼《たの》んであったのです。都会人の生活の一つのパターンですからね」
「すると、小笠原さんが、ここにいたことは、ご存知《ぞんじ》だったわけですね?」
「そりゃあ、当然でしょう。僕《ぼく》だけでなく、社の連中は、みんな知ってましたよ。一日一回、社へ連絡《れんらく》してくることになっていましたから」
「今日も、連絡《れんらく》があったのですか?」
「ええ。午前十時にありました。毎日、その時間に、連絡《れんらく》してくることになっていましたからね」
「今日の電話の様子は、いかがでした?」
「そうですね。楽しそうでしたよ。週刊《しゆうかん》ジャパンに、あんな大きな写真が出たのに、なかなか見つからないと、面白《おもしろ》がっていましたね」
「被害者《ひがいしや》が、ここにいることを知っていたのは、出版社《しゆつぱんしや》の方以外に、誰《だれ》かいますか?」
「さあ」
「被害者《ひがいしや》の肉親は?」
「確《たし》か、両親は北海道の筈《はず》です」
「友人に知らせていたという可能性《かのうせい》はどうですか?」
「知らせたかも知れませんが、友人、知人には、連絡しないと、誓約書《せいやくしよ》を出させてあるんですよ」
「ほう」
「小笠原君が、友人に知らせて、百万円を取られてしまったら、都会のジャングルでの人探《ひとさが》しの企画《きかく》が、めちゃくちゃになってしまいますからねえ。もちろん、だからといって、小笠原君が、誰《だれ》にも電話しなかったと、断定《だんてい》はできませんが」
4
一息《ひといき》入れて、三田村《みたむら》は、細長い葉巻《はまき》に火をつけた。
十津川《とつがわ》は、改《あらた》めて、三田村を見た。
三十五、六|歳《さい》だろうか。自信満々に、人生を生きているという感じに見える。頼《たの》もしい男にも見えるが、見方を変えれば、鼻持ちならぬ男と思う人もいるだろう。
「ええと、何といいましたかね。被害者《ひがいしや》の属《ぞく》していた劇団《げきだん》は?」
「ペガサスです。渋谷《しぶや》近くに、事務所《じむしよ》があります」
「あなたが、そこへ行って、小笠原《おがさわら》さんを見つけ出して、使ったわけですか?」
「いや。正確《せいかく》にいうと、彼《かれ》を、前に一度使ったことがあるんです。二年前ですか。うちの雑誌《ざつし》で、都会の二十四時間というフォト・ストーリーを企画《きかく》したことがありましてね。写真のモデルにふさわしい現代的な青年を探《さが》して、いくつかの劇団《げきだん》を歩いて、ペガサスの小笠原君に白羽《しらは》の矢を立てたんです。まあ、その時の印象《いんしよう》が残っていたんで、今度は、すぐ、小笠原君と決めたわけです」
「どんな青年でした?」
「そうですねえ。明るい、元気のいい青年でしたよ。若者らしい野心も持った――」
「野心というのは、俳優《はいゆう》として、大成することですか?」
「そうです。テレビ界に進出したいともいっていましたね。マスクもいいし、演技力《えんぎりよく》もあったから、テレビの世界でも成功したろうと思いますよ」
「賞金の百万円は、どうなります?」
「そうですなあ」
と、三田村は、ちょっと考えてから、
「明日、編集《へんしゆう》会議を開いて決めることになるでしょうね。死体で見つかるなどということは、全《まつた》く予想《よそう》していませんでしたから」
「あなたが、ここへ、被害者《ひがいしや》に会いに来たことはありませんか?」
「ありませんよ。そんな必要はありませんでしたからねえ。何か用があれば、電話ですむことですから」
「被害者《ひがいしや》には、どういわれていたんですか?」
「といいますと?」
「なるたけ、見つからないようにしろといっていたわけですか?」
「それはいいました。つけひげでもつけて、変相しろともいいました。しかし、見つからなければというので、場末《ばすえ》のアパートに閉《と》じ籠《こも》ってしまっても困《こま》るんです。それでは、都会の孤独《こどく》のテーマにふさわしくありませんからね。それで、変相はするが、日常生活《にちじようせいかつ》は、普通《ふつう》にやって貰《もら》いたいといっておいたんですよ。マンションに一日中|閉《と》じ籠《こも》ってないで、映画を見たり、パチンコをやったり、出歩いてくれと」
「なるほど。被害者《ひがいしや》は、明るい青年だといわれましたが、誰《だれ》かに恨《うら》まれているようなことはありませんでしたか?」
「お定《さだ》まりの質問《しつもん》ですな」
「え?」
十津川《とつがわ》は、わざと、とぼけてきき返した。
三田村は、ニヤニヤ笑《わら》って、
「恨《うら》んでいる者はいないか、犯人《はんにん》に心当りはないか。警察《けいさつ》のお定《さだ》まりの質問《しつもん》でしょう? しかし、どちらも、僕《ぼく》は知りませんね。小笠原君のプライバシーは、僕は、知らんのですよ」
と、いってから、
「もう、僕が知っていることは、全部、話しましたよ。帰っても構《かま》いませんか? 明日は編集《へんしゆう》会議で忙《いそが》しいものですから」
「お帰りになって、結構《けつこう》ですよ」
と、十津川は、丁重《ていちよう》にいった。
三田村が、くわえ煙草《たばこ》で帰って行くのを見送っていた小川刑事《おがわけいじ》が、
「ああいう男は、苦手《にがて》ですよ」
と、十津川にいった。
「なぜだい?」
「頭が良《よ》くて、隙《すき》がなくて、自信満々ですからね」
「苦手《にがて》なんて、おだやかないい方をしなくたっていいさ。お前さんは、あの男が嫌《きら》いなんだろう? 違《ちが》うかい?」
十津川は、ニヤニヤ笑《わら》った。
小川刑事は、頭をかいて、
「わかりますか?」
「遠慮《えんりよ》することはないさ。私だって、ああいう男は、好《す》きになれん。あの男のことを、調べてみてくれないか」
「主任《しゆにん》も、怪《あや》しいとお思いですか?」
「さあね。とにかく、被害者がここにいるのを知っていたし、堂々と、部屋《へや》に入れた筈《はず》だからな」
小川刑事が、部屋《へや》を飛び出して行く。今度は亀井《かめい》刑事が、居間《いま》から寝室《しんしつ》に入って来て、
「あの二人は、もう帰していいですか?」
「あの二人って、何だい? カメさん」
「死体の発見者の若いアベックです」
「聞くことは、全部、聞いたんだろう?」
「ええ。全部、聞きました」
「じゃあ、帰していいよ。あの二人が犯人《はんにん》ということは、考えられんのだろう?」
「まず、考えられませんな。三田村《みたむら》という編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》もいっていましたが、金が欲《ほ》しければ、殺したりせずに、週刊《しゆうかん》ジャパンに連絡《れんらく》すればいいんですから」
亀井刑事が、アベックを帰して戻《もど》って来ると、十津川は、改《あらた》めて、寝室《しんしつ》を見廻《みまわ》しながら、
「部屋《へや》の状態《じようたい》からみると、被害者が、寝《ね》る支度《したく》をして、テレビを見ているところへ、犯人《はんにん》が入って来たという感じだな」
そのテレビは、まだ、深夜映画を映《うつ》し続けている。
十津川は、スイッチを切った。
毛布《もうふ》をかぶせた死体が、寝室《しんしつ》から運び出されて行った。
「パジャマを着たまま、被害者が犯人《はんにん》に会ったということは、ごく親しい人間だったことになりますね」
亀井刑事が、首を突《つ》き出すようにしていった。そんな姿勢《しせい》が、どこか亀《かめ》に似《に》ていて、名は体《たい》を表わすとは、よくいったものだと、十津川は思う。ユーモラスな感じだが、決して、無能《むのう》な刑事ではない。
「そう見るのが穏当《おんとう》だがね。被害者が、ベッドに寝《ね》そべってテレビを見ている中《うち》に、寝込《ねこ》んでしまった。そこへ、犯人《はんにん》が忍《しの》び込《こ》んで、背中《せなか》から刺《さ》した。となれば、親しい人間でないこともあり得《う》る」
と、十津川はいった。
容疑者《ようぎしや》の範囲《はんい》を、あまり狭《せま》くするのは、危険《きけん》だと思ったからである。
5
次の日。
三田村編《みたむらへん》 集《しゆう》 長《ちよう》の周辺を洗っていた小川刑事《おがわけいじ》が、彼について、面白《おもしろ》い話を聞き込《こ》んできた。
「三田村と被害者の関係で、ちょっと面白《おもしろ》いことがわかりましたよ」
と、小川刑事が、勢《いきお》い込《こ》んでいった。
十津川《とつがわ》は、いぜんとしてカゼが治《なお》らず、鼻をくすくすいわせながら、
「雑誌《ざつし》の編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》と、ある企画《きかく》のモデルというだけの関係じゃないわけかい?」
「違《ちが》いますね。もっと、どろどろしたものが、この二人には、あるんですよ」
「それを聞かせて貰《もら》おうか」
十津川は、椅子《いす》に座《すわ》り直《なお》して、煙草《たばこ》をくわえた。煙草《たばこ》はカゼに悪いとは知っていても、緊張《きんちよう》してくると、つい、口にくわえてしまうのだ。
小川刑事は、咳払《せきばら》いを一つしてから、
「二年前に、週刊《しゆうかん》ジャパンで、都会の二十四時間というフォト・ストーリーを企画《きかく》したことがありましてね」
「そいつは、三田村に聞いたよ。写真のモデルに、被害者の小笠原《おがさわら》を使ったというんだろう」
「そうですが、三田村がいわなかったことが一つありますよ」
小川刑事は、コートのポケットに突《つ》っ込《こ》んで来た古い週刊《しゆうかん》ジャパンを取り出して、十津川の前に置いた。
頁《ページ》をくってみると、確《たし》かに、フォト・ストーリーが出ていた。若い恋人同士《こいびとどうし》の二十四時間という設定で、ジーパン姿の若い男女の生活が、写真で紹介《しようかい》されている。
男のほうは、まぎれもなく、被害者《ひがいしや》の小笠原だった。
「アベックだったわけだな。三田村は、男のほうしかいわなかったが」
「問題は、その女のほうです。小笠原と同じ、劇団《げきだん》ペガサスの若い団員《だんいん》で、名前は、松井冴子《まついさえこ》。一か月後には、三田村冴子と名前が変っています」
「ほう」
十津川の眼《め》が、大きくなった。
「そいつは、面白《おもしろ》いな」
「この女性は、大変な資産家《しさんか》の一人娘《ひとりむすめ》でしてね。彼女《かのじよ》と結婚《けつこん》してから、三田村は、スポーツカーを乗り廻《まわ》したり、ナイトクラブに出入りしたり、有名なゴルフ場の会員になったりしはじめたそうです」
「いいねえ。いいよ。こいつは」
と、十津川は、楽しそうにいった。「いいねえ」というのは、話に興味《きようみ》を持ちはじめた時の、十津川の口ぐせだった。
「それで、三田村|夫婦《ふうふ》の仲《なか》は、上手《うま》くいっているのかい?」
「一応、上手《うま》くいっているようですが、劇団《げきだん》ペガサスの連中にいわせると、小笠原と冴子との間にも、関係があって、最近まで、続いていたというのですよ」
「三角関係か」
「問題は、三田村《みたむら》が、それを知っていたかどうかだと思います。妻君《さいくん》の浮気《うわき》に気付いていて、今度の企画《きかく》に、小笠原を使ったのだとすると、三田村が犯人《はんにん》だという可能性《かのうせい》も、大いにありうると思うんですが」
「最初から、小笠原を殺すつもりで、使ったということも考えられるな。毎日の行動を、報告《ほうこく》させていたんだから、殺すのも、楽だったろうからね」
「相手が三田村なら、被害者も、パジャマ姿《すがた》で、寝室《しんしつ》に通したと思いますね」
小川刑事《おがわけいじ》は、三田村を犯人《はんにん》と決めつけてしまったようないい方をした。
午後になって、解剖結果《かいぼうけつか》が報告《ほうこく》されてきた。
死因《しいん》は、背中《せなか》の刺傷《さしきず》で、心臓《しんぞう》にまで達する深い傷《きず》だったという。そして、死亡推定時刻《しぼうすいていじこく》は、昨夜の八時から九時までの間ということだった。
まず、三田村について、アリバイを調べてみようと、十津川《とつがわ》は思った。
まだ出版社《しゆつぱんしや》にいる時間だったが、十津川はわざと、彼の自宅《じたく》を訪《たず》ねた。
分譲価格《ぶんじようかかく》最低五千万円で有名になった原宿《はらじゆく》の高級マンションが、三田村の自宅《じたく》だった。
うっそうとした神宮《じんぐう》の森を借景《しやつけい》にした「キャッスル・平和」に着き、エレベーターで六階に上ると、5LDKの大きな部屋《へや》に、「三田村」の表札《ひようさつ》が掛《かか》っていた。
ベルを押《お》すと、ドアのところについたインターホーンに、
「どなた?」
という若い女の声が聞こえた。
「警視庁捜査一課《けいしちようそうさいつか》の者です」
十津川は、ゴホンと咳《せき》をした。今年のカゼは、しつこそうだ。
しばらく待たされてから、ドアが開き、背《せ》のすらりと高い女が顔を出した。
美人だ。が、眼《め》のあたりに険《けん》がある。気の強そうな女だ。
十津川は、警察手帳《けいさつてちよう》を見せた。
「三田村さんのことで、いろいろと伺《うかが》いたいことがありましてね」
「主人なら、社のほうにおりますけど」
「承知《しようち》しています。ただ、あなたからも、聞きたいことがありまして」
「じゃあ、どうぞ」
と、女は、十津川を、居間《いま》に通した。
広い居間《いま》だった。ゆったりとしたソファに、床《ゆか》には、毛皮が敷《し》いてある。
「広いですなあ」
と、十津川は、正直《しようじき》に感心した。
「私は、2DKのアパートに住んでいますが、ベランダを合せても、この一部屋《ひとへや》にかないませんな」
「ご用件《ようけん》というのを、早く、お聞かせ下さいな」
ニコッともしないで、女は、十津川にいった。
十津川は、苦笑《くしよう》してから、
「念のために、お伺《うかが》いしますが、三田村|冴子《さえこ》さんですね?」
「ええ。三田村の家内《かない》です」
「昨日、小笠原孝夫《おがさわらたかお》という青年が殺されました。ご存知《ぞんじ》ですね?」
「いいえ」
「それはおかしいな」
と、十津川は、わざと、煙草《たばこ》を取り出して、ゆっくり火をつけてから、
「小笠原孝夫と、あなたとは、劇団《げきだん》ペガサスの劇団員《げきだんいん》で、顔見知りだった筈《はず》ですがねえ」
「ええ。その小笠原さんなら知っています。でも、あなたのおっしゃる小笠原さんと同じ人かどうか、わかりませんもの」
三田村冴子は、冷たい口調《くちよう》でいった。
思ったとおり、気の強い女のようだ。
「小笠原孝夫は、小さなマンションで殺されました。あなたのご存知《ぞんじ》の小笠原孝夫です。彼《かれ》は、週刊《しゆうかん》ジャパンが企画《きかく》した人探《ひとさが》しのモデルとして、マンションにかくれているところを、殺されたのです。この人探《ひとさが》しゲームを企画《きかく》したのは、週刊《しゆうかん》ジャパンの編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》である三田村《みたむら》さんでしてね」
「あなたは、主人が、殺したとおっしゃるんですか?」
冴子《さえこ》は、きッとした顔で、十津川《とつがわ》を睨《にら》んだ。
十津川は、手をふって、
「断定《だんてい》などはしていませんよ。ただ、ご主人の三田村さんは、小笠原が、そのマンションにいるのを知っていたし、部屋《へや》に出入りするのも自由だったと、考えているだけです。殺せる可能性《かのうせい》のある者は、全部、調べませんとね」
「盗《と》られたものは、ありませんでしたの?」
「持っていたと思われる十万から二十万の金が失《な》くなっています」
「じゃあ、物盗《ものと》りの犯行《はんこう》ということだって、充分《じゆうぶん》に考えられるじゃありませんの」
「もちろん、その線も調べます。しかし、顔見知りの線もありますのでね」
「じゃあ、私《わたくし》も、調べられますのね?」
「ええ。質問《しつもん》にお答えして頂《いただ》くことになるでしょうね」
十津川は、また、小さなくしゃみをしてから、
「ところで、三田村さんは、昨夜の八時から九時までの間、どこにいらっしゃったか、ご存知《ぞんじ》ですか?」
「アリバイ調べですのね?」
「そうです」
「主人にお聞きになったら?」
「ええ。聞きますよ。その前に、奥《おく》さんが、ご存知《ぞんじ》じゃないかと思いましてね」
「八時から九時――」
と、冴子《さえこ》は、考えていたが、
「昨夜のその時間なら、新宿《しんじゆく》の『リオ』というレストランで、二人で食事をしていましたわ」
「間違《まちが》いありませんか?」
「ええ。間違《まちが》いありませんとも。嘘《うそ》だとお思いなら、あの店でお聞きなさい。よく行く店だから、マネージャーが、私たち夫婦《ふうふ》を覚《おぼ》えていると思いますもの」
「行ってみましょう。亡《な》くなった小笠原孝夫《おがさわらたかお》と、あなたは、かなり親しくしていたと聞きましたが?」
「それは、私が、劇団《げきだん》ペガサスにいた頃《ころ》ですわ」
「それが、結婚《けつこん》なすってからも、交際《こうさい》があったという噂《うわさ》を耳にしたんですがねえ」
「そんなことはありません」
「そうですか」
「他《ほか》にご質問《しつもん》がなかったら、私、これから美容院《びよういん》に行きたいんですけれど」
冴子は、切《き》り口上《こうじよう》でいった。
十津川《とつがわ》は、立ち上った。こういう女は、どうも、苦手《にがて》である。
6
新宿《しんじゆく》西口にあるクラブ「リオ」は、いわゆる高級レストランで、食事をしながら、世界のショウをが、宣伝文句《せんでんもんく》の店だった。
十津川が行った時は、まだ開店前で、ずらりと並《なら》んだテーブルを、ボーイたちが、一つずつ、丁寧《ていねい》に拭《ふ》いては、きれいなテーブルクロスをかけていた。
舞台《ぶたい》では、フランスから呼《よ》んだというダンサーたちが、トップレスのスタイルで、ダンスのリハーサルを繰《く》り返している。
十津川は、この店のマネージャーだという五十|歳《さい》くらいの男に会った。タキシード姿《すがた》で、ローションの匂《にお》いをぷんぷんさせている男だった。
「三田村様《みたむらさま》は、よくお見えになります」
と、マネージャーは、いった。
「夫婦《ふうふ》で?」
「はい。ご夫婦で、お見えになります」
「昨日も、見えましたか?」
「はい。確《たし》かに、いらっしゃいました。ご夫婦で」
「来たのは、何時|頃《ごろ》ですか?」
「確《たし》か、七時です。開けてすぐ、お見えになりましたから」
「それで、帰ったのは?」
「九時三十分でございました」
「なぜ、そんな正確《せいかく》に覚《おぼ》えているんです。お客は、多いんでしょう?」
「はい。おかげ様で。でも、三田村様は、お帰りになる時、私に時間を聞かれましてね。自分の腕時計《うでどけい》を見て、九時三十分と、お教えしたので、よく覚《おぼ》えているのですよ」
「三田村さんが、あなたに時間を聞いたのは、どこです」
「入口の近くです」
と、マネージャーは、そこへ、十津川を案内した。
「ここに立ちまして、私は、お客様をお迎《むか》えし、お送りすることにしております」
(おかしい)
と、十津川は、思った。
マネージャーの丁度《ちようど》、頭の上あたりに、電気時計が掛《かか》っていたからである。
三田村が、時間を知りたければ、この時計を見ればよかったのだ。それに、妻君《さいくん》の冴子《さえこ》が一緒《いつしよ》だったのだから、彼女に聞いてもよかった筈《はず》だ。
(とすると、アリバイ作りに、わざと聞いたのか)
「三田村さんは、七時から九時半までの間、一度も、テーブルから離《はな》れませんでしたか?」
十津川《とつがわ》がきくと、マネージャーは、「さあ」と、首をひねって、
「トイレぐらいは、お立ちになったかも知れませんが」
「トイレは、どこですか?」
「廊下《ろうか》の突《つ》き当りですが」
「ちょっと、お借りしますよ」
と、十津川は、赤いじゅうたんを敷《し》きつめた廊下《ろうか》を、突《つ》き当りまで歩いて行った。右がジェントルメン、左がレディズになっている。
十津川は、中に入った。
奥《おく》に、大きな回転窓《かいてんまど》があった。半開きになっていて、人間の一人ぐらい楽に抜《ぬ》けられそうである。
洗面台にのぼって、回転窓《かいてんまど》から、外を見た。
すぐのところに、コンクリート塀《べい》があり、その向う側《がわ》は、確《たし》か、甲州街道《こうしゆうかいどう》の筈《はず》である。
(殺人現場《さつじんげんば》の城北《じようほく》レジデンスまで、ここから、二キロぐらいのものだ)
と、十津川は、頭の中で、地図を思い浮《う》かべた。
それに、三田村は、あのフォード・ムスタングというスポーツカーを持っている。あの車を、塀《へい》の向うに止めて置き、それで往復《おうふく》したとすれば、殺害の時間を入れても、十二、三分あれば充分だろう。八時を過《す》ぎていれば、交通|渋滞《じゆうたい》もなかった筈《はず》である。
十二、三分でも、トイレに行っている時間としては、長過《ながす》ぎると、妻君《さいくん》の冴子は、怪《あや》しんだろうか。
普通《ふつう》の場合だったら、不審《ふしん》に思うだろう。だが、この店は、ショウを見せるレストランだ。そのショウが、特別《とくべつ》楽しいものだったら、十二、三分ぐらいは、あッという間《ま》に過《す》ぎて、長く待たされたという感じはしなかったに違《ちが》いない。
十津川は、クラブ「リオ」を出ると、神田《かんだ》にある週刊《しゆうかん》ジャパン社に廻《まわ》った。
雑然《ざつぜん》とした編集室《へんしゆうしつ》で、大声で、部下の記者たちに、あれこれ指図《さしず》していた三田村は、十津川を見ると、足早に近づいて来て、
「何かご用ですか?」
「昨夜の事件《じけん》のことで、お聞きしたいことがありましてね」
「じゃあ、近くの喫茶店《きつさてん》へ行きましょう」
と、先に立って、外へ出た。
行きつけらしい洒落《しやれ》た喫茶店《きつさてん》に入ると、三田村は、十津川《とつがわ》の注文を聞き、コーヒーを二つ注文してから、
「どんなことですか?」
と、微笑《びしよう》した。
十津川は、また、大きなくしゃみをした。
「カゼですか?」
と、三田村がきく。
「ええ。カゼには弱くて、困《こま》っています。ニンニクを食べたり、夏の間、乾布摩擦《かんぷまさつ》なんかをやっているんですがねえ。生れつきの体質《たいしつ》ですかな」
「いい薬をあげましょう」
と、三田村は、ポケットから小さな薬びんを取り出して、十津川の前に置いた。
「まだ市販《しはん》されていないやつですが、よく効《き》きますよ」
「私は、アレルギー体質《たいしつ》でしてね。ピリン系は、駄目《だめ》なんですが」
「大丈夫《だいじようぶ》です。これは、非《ひ》ピリン系で、副作用《ふくさよう》のないカゼ薬ですよ」
「じゃあ、遠慮《えんりよ》なく頂《いただ》きますが、よく、こんな新薬が手に入りますな」
「その方面に、ちょっとしたコネがありましてね」
と、三田村は、得意《とくい》げに、鼻をうごめかせた。
十津川《とつがわ》は、その薬を、運ばれて来た水で、二|粒《つぶ》のんでから、
「昨日は、新宿《しんじゆく》の『リオ』という店に、奥《おく》さんと、食事に行かれたようですね」
「ええ。誰《だれ》に聞いたんです?」
「ここに来る前に、奥《おく》さんに、お会いしましてね。きれいな方ですね」
「それに、頭もいい。素敵《すてき》な家内《かない》ですよ」
「その奥《おく》さんが、殺された小笠原孝夫《おがさわらたかお》と親しかったようですね」
「昔《むかし》のことです。家内《かない》が、まだ、劇団《げきだん》にいた頃《ころ》の話ですよ」
「結婚《けつこん》してからも、つき合いがあったという噂《うわさ》を聞きましたがね」
「誰《だれ》が、そんなことを」
と、三田村は、眉《まゆ》を寄《よ》せて、
「デマですよ。冴子《さえこ》は、そんな女じゃありません」
「では、そうしておきましょう。クラブ『リオ』に行かれた時ですが、何で行かれました?」
「何でというと?」
「あのフォード・ムスタングで行かれたんですか?」
「いや、タクシーで行きました」
「それは、なぜです?」
「あの店では、食事の他《ほか》に、酒も楽しむんです。家内《かない》も、かなり飲みます。酔《よ》っ払《ぱら》い運転で事故《じこ》でも起こしたら大変ですからねえ。だから、タクシーにしたんです」
(フォード・ムスタングは、あらかじめ、店の外へ止めておいたので、タクシーを拾《ひろ》って店へ行ったのではないだろうか)
と、十津川は、考えた。
「何か、おかしいですか?」
三田村が、きいた。
「いや」と、十津川は、首を横にふってから、
「あの店には、よく行かれるようですね?」
「気に入っていますからね。一週間に一回ぐらいの割《わり》で、食事に行きますよ」
「いつも、奥《おく》さんと一緒《いつしよ》ですか?」
「ええ。もちろん」
「昨夜も、その一週間に一回の口だったわけですか?」
「ええ。そうです」
と、三田村は、うなずいてから、急に、険《けわ》しい眼《め》つきになって、
「刑事《けいじ》さんは、僕《ぼく》が小笠原君を殺したと思ってるんですか?」
「あなたは、動機がありますからね」
十津川は、コーヒーをかき回しながらいった。
「動機? 嫉妬《しつと》ということですか?」
「違《ちが》いますか?」
「とんでもない。僕は、結婚《けつこん》前の家内《かない》の行動に嫉妬《しつと》するほど、心の狭《せま》い人間じゃありませんよ」
「結婚《けつこん》後も、奥《おく》さんと小笠原孝夫がつき合っていたとしたら、話は別でしょう?」
「今もいった通り、そんなことはありませんよ」
「実は、昨夜、クラブ『リオ』の裏《うら》に、あなたのフォード・ムスタングが止まっているのを見たという人がいるんですがねえ」
十津川は、カマをかけてみたが、さすがに、三田村は引っかからず、
「それは、僕のじゃないでしょう。他《ほか》に、あの車を持っている人は、何人もいますからね」
と、笑《わら》いながらいった。
7
小田《おだ》と順子《じゆんこ》は、緊張《きんちよう》した顔で、待っていた。
外から帰って来た三田村が、部下の記者にいわれて、二人のほうを見た。
「僕《ぼく》に用だって?」
と、三田村は、小田と順子を見比《みくら》べるようにした。
「ええ。僕は、小田といいます」
「あたしは、鈴木《すずき》順子」
「どこかで会ったような気がするんだが――」
と、三田村は、首をひねっている。
小田は、吸《す》っていた煙草《たばこ》の吸殻《すいがら》を、靴《くつ》でふみ消してから、
「僕と彼女は、小笠原《おがさわら》さんが死んでるのを見つけて、警察《けいさつ》に電話したんです」
「ああ。あのマンションにいたんだったね。それで?」
「あなたに、大事な用があるんです。それで、なるべくなら、人のいないところで話したいんですが」
「じゃあ、屋上へでも行こうか」
「ええ」
三人は、屋上にあがった。風はなかったが、それでも寒かった。
三田村は、細い葉巻《はまき》をくわえて、火をつけてから、
「君たちの話というのは、賞金の百万円のことだろう? あれは、残念ながら、差しあげられないんだよ。見つかった時、殺されていたんでねえ」
「ゲームの賞金のことじゃありません。そりゃあ、欲《ほ》しいですが、殺人事件《さつじんじけん》じゃあ、仕方《しかた》がありません」
「了解《りようかい》して頂《いただ》いてありがたいが、じゃあ、用というのは、何なんだね?」
「五百万ほど、頂《いただ》きたいんです」
小田がいった。声がふるえたのは、緊張《きんちよう》しすぎていたからだろう。
「五百万?」
と、三田村は、おうむ返しに呟《つぶや》いてから、
「何だね? そりゃあ」
「五百万で、買って頂《いただ》きたいものがあるんです?」
「ふーん。盗《ぬす》んだダイヤでも、僕《ぼく》に売りつけようというんなら、お門違《かどちが》いだよ」
「そんなものじゃありません」
小田は、もそもそと、ポケットに手を入れ、ハンカチに包《つつ》んだものを取り出した。
金《きん》のネクタイピンだった。ダイヤモンドが、はめ込《こ》んである。
とたんに、三田村の顔色が変った。
小田は、ネクタイピンの裏《うら》を見せて、
「ここに、ローマ字で、MITAMURAと彫《ほ》ってあります。実は、僕たちが、死体を見つけたとき、これが、死体の傍《そば》に落ちていたんですよ。そして、あなたの名前は三田村だ。このネクタイピンを、警察《けいさつ》に持って行って、死体の傍《そば》に落ちていたといったら、あなたは、大変なことになるんじゃありませんか?」
と、いって、じろりと、三田村を見た。
自分では、凄味《すごみ》を利《き》かせたつもりだったが、もともと、根っからの悪人ではないから、少しどもった。
順子《じゆんこ》は、その横で、恋人《こいびと》の腕《うで》をしっかりつかんで、息をひそめている。五百万円あれば、二人の希望しているマンションに住めるのだ。もちろん、五百万円では買えないが、頭金《あたまきん》には充分《じゆうぶん》なるし、あとは、二人で、毎月|返済《へんさい》していけばいい。
三田村は、黙《だま》って、じっと、小田の掌《てのひら》の中で光っているネクタイピンを眺《なが》めていたが、
「警察《けいさつ》に話したのかね?」
と乾《かわ》いた声できいた。
「いや、まだ話していませんよ」と、小田は、ニヤッと、三田村に笑《わら》いかけた。
「このネクタイピンは、警察《けいさつ》より、持ち主《ぬし》のあなたに、まず、お見せしたほうがいいと思ったもんですからね」
「これを、五百万で買えというわけだね?」
三田村が、手を伸《の》ばすと、小田は、すッと、ネクタイピンを持つ手を引っ込《こ》めて、
「決して、高くはないと思いますがねえ。たった五百万円で、あなたは、刑務所《けいむしよ》へ行かなくてすむんですからね」
「そうよ。高くはないわ」
と、順子も、横からいった。
宝くじは毎回買っているし、一時、小田は、一攫千金《いつかくせんきん》を夢《ゆめ》見て、競馬《けいば》や競輪《けいりん》にこったこともある。だが、どれも上手《うま》くいかなかった。それが、今度は、上手《うま》くいきそうなのだ。だから、小田も順子も、必死だった。五百万円を手に入れるということは、幸福を手に入れることでもあったからである。
「いっておくが、僕《ぼく》は、犯人《はんにん》じゃない。ちゃんとしたアリバイもある。これは、警察《けいさつ》も知っていることだ」
三田村は、二人に向っていった。が、小田は、
「そんなことは、どうでもいいんだ。昨日、あのマンションで、あんたは、十津川《とつがわ》という刑事《けいじ》に向って、ここに来たことも、小笠原という被害者《ひがいしや》に会ったこともないといっていた。聞きましたよ。それなのに、死体の傍《そば》に、このネクタイピンがあったとなると、あなたは、警察《けいさつ》に、嘘《うそ》をついたことになりますよ。警察の心証《しんしよう》を悪くしますよ」
「五百万だな」
「ええ」
「よし。買おう」
「すいません」
と、思わず、ペコリと頭を下げてしまったのは、小田にしろ、順子にしろ、ひどく嬉《うれ》しかったからだ。本物の脅迫者《きようはくしや》でない証拠《しようこ》かも知れない。
三田村は、新しい葉巻《はまき》に火をつけてから、
「といっても、今は、持ち合せがない」
「でしょうね。いつまでに用意できますか?」
「明日中に用意する。それでいいだろう?」
「じゃあ、こっちも、その時まで、このネクタイピンを預《あず》からせて貰《もら》いますよ」
「金が出来たら、連絡《れんらく》したいが、君たちの住居を教えてくれないかね?」
「駄目《だめ》です。連絡《れんらく》は、こっちからしますよ。夕方の五時に」
「なぜ、教えない?」
「教えて、あなたが変な気を起こし、暴力団《ぼうりよくだん》でもやとって、僕たちを襲《おそ》わせるようなことがあったら、大変ですからね」
「用心のいいことだ」
「弱い人間だから、用心するんです」
8
翌日《よくじつ》の午後九時。十津川《とつがわ》は、捜査本部《そうさほんぶ》の窓《まど》から、夜の町を見下ろしていた。
いまにも、雨が降《ふ》って来そうな暗い空だった。こんな夜は、嫌《いや》な事件《じけん》が起きるものだ。
人間は、誰《だれ》でも、犯罪者《はんざいしや》になる素質《そしつ》を持っていると、十津川は、考えている。別に、性悪説《せいあくせつ》といった大げさなものではない。逆《ぎやく》に考えれば、悪人でも、ちょっとしたきっかけで、善人《ぜんにん》になりうるからだ。
(ちょっとしたきっかけが問題なのだ)
と、十津川は、闇《やみ》を見すえて、考えた。
アルコールが、ちょっと入っただけで、大人《おとな》しい男が、凶暴《きようぼう》になり、意味もなく殺人を犯《おか》すことがある。
隣《となり》の犬が、うるさく吠《ほ》えたというだけで、その飼《か》い主《ぬし》を殺した男もいる。
夏に、暑苦しかったからというだけの理由《りゆう》で、通行人を殺した若者がいた。
だから、こんな、気が滅入《めい》るような夜は、ただそれだけの理由《りゆう》で、ある人間を狂暴《きようぼう》にするかも知れないのだ。
十津川が、席に戻《もど》って、煙草《たばこ》に火をつけた時、街《まち》に出ていた亀井刑事《かめいけいじ》が、コートの肩《かた》のあたりをはたきながら、部屋《へや》に入って来た。
「とうとう、降《ふ》り出しましたよ」
と、亀井刑事は、十津川にいった。
「それで、どうだったね? カメさん」
と、十津川がきく。
「目撃者《もくげきしや》が、やっと一人見つかりましたよ」
と、亀井刑事は、取り出したメモを見ながら、
「ええと、目撃者《もくげきしや》の名前は、坂井雄一郎《さかいゆういちろう》。三十|歳《さい》。自動車のセールスマンです。車に乗って、都内を走っている際《さい》、クラブ『リオ』の裏《うら》に、白いフォード・ムスタング七五年型が止まっているのを見たと証言《しようげん》してくれました。位置は、主任《しゆにん》のいわれた場所で、時間は事件《じけん》の日の午後八時前後だそうです。自動車の専門家ですから、車種を間違《まちが》えることはないでしょう」
「車のナンバーは、どうなんだろう」
「そこが問題なんですが、東京ナンバーだということだけは、覚《おぼ》えているそうですが、ナンバーは、覚《おぼ》えていないといっていました。走りながら、ちらりと見たんだから、仕方《しかた》がないでしょうな」
「フォード・ムスタングは、都内に何台あるんだ?」
「白の七五年型は、三台だそうですから、三田村の車の可能性《かのうせい》は、高いと思いますね」
「やはり、あいつが、犯人《はんにん》か」
「令状《れいじよう》は、貰《もら》えませんか?」
「ちょっと無理《むり》だな」
「しかし、主任《しゆにん》のいった通り、クラブ『リオ』からは、トイレの回転窓《かいてんまど》から抜《ぬ》け出し、裏《うら》に止めておいたフォード・ムスタングで、小笠原《おがさわら》のマンションに行き殺害。帰りも車で、逆《ぎやく》の手順《てじゆん》で、食事中の妻君《さいくん》のところへ、何くわぬ顔で戻《もど》って、アリバイを作ったんだと思いますね。まず、間違《まちが》いありませんよ」
「多分《たぶん》な。だが、証拠《しようこ》がない」
「車の目撃者《もくげきしや》が出ましたよ」
「だがな。ナンバーを覚《おぼ》えていないのは致命傷《ちめいしよう》だよ。三田村の車だという証拠《しようこ》にならん。下手《へた》なことをすると、手ひどい、しっぺ返しを受けるぞ」
「主任《しゆにん》でも、週刊誌《しゆうかんし》の編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》は、怖《こわ》いですか?」
「怖《こわ》いよ。怖いねえ」
と、十津川が、笑《わら》った時、室内の電話が鳴った。
小川刑事《おがわけいじ》が、受話器をつかむ。二言、三言話している中《うち》に、彼の表情《ひようじよう》が険《けわ》しくなった。
受話器を置いて、「主任《しゆにん》」と、小川刑事が甲高《かんだか》い声で呼《よ》んだ。
「事件《じけん》です」
「今度は、誰《だれ》が殺されたんだ? 三田村の妻君《さいくん》か?」
「違《ちが》います。小田雄一郎《おだゆういちろう》と鈴木順子《すずきじゆんこ》の二人が、死体で発見されたんです」
「小田雄一郎と鈴木順子というと、確《たし》か、死体の発見者だったな?」
「その通りです。大事な証人《しようにん》です」
「殺されたのか?」
「それは、まだわかりません。|阿佐ケ谷《あさがや》のアパートの部屋《へや》で、死んでいるのが発見された、どうやら毒死らしいことだけしか、わかりませんから」
「よし。すぐ行ってみよう」
と、十津川《とつがわ》は、立ち上った。
9
青葉荘《あおばそう》というアパートは、国鉄中央線の|阿佐ケ谷《あさがや》駅から、歩いて二、三十分はある場所に、建っていた。
アパートの多い場所である。
木造《もくぞう》二階建てで、1DKに、バス、トイレつきの部屋《へや》だった。
十津川が到着《とうちやく》した時、地元《じもと》の警察署《けいさつしよ》から、刑事《けいじ》や、鑑識《かんしき》が来て、部屋《へや》を調べていた。
部屋《へや》の隅《すみ》で、石油ストーブが、赤く燃えている。
部屋《へや》の中央には、テーブル。その上には、洋酒のびんと、コップが二つ。コップは両方とも、転がっている。
鈴木順子は、台所の近くに俯伏《うつぶ》せに倒《たお》れて死んでおり、小田雄一郎のほうは、受話器をつかんだ姿勢《しせい》で死んでいた。
どちらの顔も、苦しみが、そのまま凍《こお》りついてしまっている。受話器が外《はず》れた状態《じようたい》なので、ビービーと、不快な音を立てていた。
地元署《じもとしよ》の田中《たなか》という初老の刑事が、手袋《てぶくろ》をはめた手で、受話器を戻《もど》してから、十津川に向って、
「こんな状態《じようたい》でしたので、まず、電話局が不審《ふしん》に思い、調査員《ちようさいん》をよこして、死体を発見したわけです」
「どうやら、青酸死《せいさんし》のようだね」
と、十津川はいった。
青酸死特有《せいさんしとくゆう》のアーモンドの匂《にお》いがしていたし、二人の死顔は、淡紅色《たんこうしよく》に染《そ》まっている。
「そのようです。女のほうは、苦しくなって台所へ水を飲みに行ったんでしょうな。のどが焼けるようになるそうですから。男のほうは、電話で、救急車を呼《よ》ぶ筈《はず》だったのかも知れません」
田中刑事が、きちょうめんに、十津川に報告《ほうこく》した。
「主任《しゆにん》」
と、小川刑事が、小声《こごえ》で、十津川に話しかけた。
「何だい?」
「こりゃあ、自殺や、心中《しんじゆう》じゃありませんよ。明らかに他殺です。覚悟《かくご》の死なら、台所に這《は》って行ったり、電話で助けを求めたりする筈《はず》がありませんからね」
「凄《すご》い鼻息だな」
と、十津川は、笑《わら》ってから、
「十中、八、九他殺だろうが、断定《だんてい》するのは、鑑識《かんしき》の報告待《ほうこくま》ちということにしておこうじゃないか」
「殺したとすれば、犯人《はんにん》は、三田村《みたむら》ですな」
「多分《たぶん》ね」
と、十津川は、あくまでも、慎重《しんちよう》だった。
三田村が犯人《はんにん》だとしたら、この二人を殺す動機は、いったい何だろうか?
翌朝《よくあさ》になって、鑑識《かんしき》からの報告《ほうこく》が届《とど》いた。警察医《けいさつい》の所見《しよけん》も、付け加えられている。
テーブルの上にあったウイスキーのびんから、ウイスキーに混入《こんにゆう》された青酸《せいさん》カリが、検出《けんしゆつ》された。
二つのコップからも、青酸反応《せいさんはんのう》が検出《けんしゆつ》されたので、小田雄一郎《おだゆういちろう》と鈴木順子《すずきじゆんこ》の二人は、青酸《せいさん》入りのウイスキーを飲んで毒死したことは明らかである。
ウイスキーのびんからは、二人の指紋《しもん》が、二つのコップからは、それぞれ、小田と順子の指紋《しもん》が検出《けんしゆつ》された。コップの指紋《しもん》に不自然なところはなく、二人の死後、細工《さいく》した指紋とは思われない。
警察医《けいさつい》の所見《しよけん》によれば、二人の死が青酸死《せいさんし》であることは、解剖《かいぼう》を待つまでもなく明らかであり、死亡推定時刻《しぼうすいていじこく》は、午後七時から九時までの間と考えられる。
電話局の故障係《こしようがかり》が、青葉荘《あおばそう》アパートに着いた時、ドアに鍵《かぎ》はかかっていなかったという。ドアのノブを調べたところ、小田、順子二人の指紋《しもん》の他《ほか》には、この故障係《こしようがかり》の指紋が検出《けんしゆつ》されただけである。
この他《ほか》にも、わかったことは、いくつかあった。
室内が、荒《あ》らされた形跡《けいせき》はない。
問題のウイスキーは、一週間前に、小田が、近所の酒屋で買ったものである。量は、角びんに半分ほどしか残っていなかったが、小田も順子も、そうアルコールに強いほうではないので、一週間、ちびちび飲んでいたのであろう。
部屋《へや》の鍵《かぎ》は、二人が一つずつ持っていたが、簡単《かんたん》な錠《じよう》であり、針金《はりがね》を使って、簡単《かんたん》にあけられる代物《しろもの》だった。
遺書《いしよ》は発見されなかったし、二人の勤《つと》め先や、アパートの住人に聞いても、小田と順子が、心中《しんじゆう》した可能性《かのうせい》は、少なかった。
「とにかく、三田村《みたむら》に会ってみようじゃないか」
と、十津川《とつがわ》は、亀井刑事《かめいけいじ》を連れて、週刊《しゆうかん》ジャパン社に出かけた。彼《かれ》が、小田と順子をも殺したとすれば、何らかの反応《はんのう》が、見られるかも知れない。
三田村は、あいにく、次の号のために、財界《ざいかい》のお偉方《えらがた》に会いに行っているとかで、留守《るす》だった。
十津川は、応接室《おうせつしつ》で待つことにした。コーヒーを運んできた女の子に、
「昨日、小田雄一郎と、鈴木順子の二人が、ここに来なかったかね?」
と、きいてみた。
「テレビでいっていた、青酸《せいさん》カリを飲んで死んだアベックですか?」
「ああ、そうだ」
「昨日じゃなく一昨日《おととい》、見えましたよ」
「何時|頃《ごろ》?」
「午後五時|頃《ごろ》だったわ」
「誰《だれ》に会いに来たのかね?」
「三田村|編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》に会いたいって。二人とも、変に真剣《しんけん》な顔をしてたわ」
「それで、三田村さんは、会ったのかね?」
「このビルの屋上へ連れて行って、会ったみたいでしたけど」
「どんな話で来たのか、知らないかね?」
「知りません」
女の子は、小さく首を横にふって、応接室《おうせつしつ》を出て行った。
三田村が、取材から戻《もど》って来たのは、それから一時間ほどしてからだった。テーブルの上のコーヒーは、冷たくなってしまっていた。
「どうも、お待たせして」
と、相変《あいかわ》らず、端正《たんせい》な顔に、微笑《びしよう》を浮《う》かべて、三田村は入って来た。亀井刑事《かめいけいじ》は、よほど、この男が嫌《きら》いとみえて、渋《しぶ》い顔をしている。
「小田雄一郎と鈴木順子の二人が死んだことは、ご存知《ぞんじ》でしょうね?」
と、十津川は、三田村に、話しかけた。
「ええ。知っていますよ。テレビのニュースでやっていましたからね」
三田村は、落ち着いた声でいい、葉巻《はまき》に火をつけた。
「一昨日《おととい》、ここへ来て、あなたに会ったそうですね?」
「ええ。このビルの屋上で会いましたよ。内密《ないみつ》に話したいというもんですからね」
「二人は、何の用で、あなたに会いに来たんですか?」
「例の賞金のことですよ。百万円の賞金です。ともかく、週刊《しゆうかん》ジャパンに出ていた人間を見つけたんだから、百万円の賞金を貰《もら》う権利《けんり》があるといいましてね」
「それで、どう返事をなさったんですか?」
「殺人事件《さつじんじけん》になってしまったので、賞金は払《はら》えないといったんですよ。しかし、今になって考えてみると、払《はら》ってやればよかったと思いますよ」
「なぜです?」
「あの若い二人は生活が、楽じゃないから、ぜひ、百万円の賞金が欲《ほ》しいんだといっていましたからねえ。もし、落胆《らくたん》して、自殺したんだとしたら、僕《ぼく》の責任《せきにん》になりますからねえ」
「いや。あの二人は、自殺じゃありません。無理心中《むりしんじゆう》でもない。殺されたんですよ」
「本当ですか?」
「ええ。まず、間違《まちが》いありませんな」
「なぜ、誰《だれ》が、あの二人を殺したんですか?」
「それを、我々《われわれ》は、調べているんですよ」
と、十津川《とつがわ》は、いってから、急に、語調を変えて、
「おかげで、カゼが治《なお》りましたよ」
「え?」
「あなたに頂《いただ》いた新薬ですよ。あのおかげで、くしゃみが出なくなったし、頭痛《ずつう》も治《なお》りましたよ」
「そりゃあ、良《よ》かったですね」
「あなたは、新薬を簡単《かんたん》に手に入れるコネがあると、おっしゃっていましたね?」
「ええ。あの薬がもっと必要なら、友人に話しておきますよ」
「青酸《せいさん》カリはどうです? コネで、手に入りませんか?」
「青酸《せいさん》カリ?」
と、三田村は、きき返してから、急に顔色を変えて、
「あなたは、僕《ぼく》が、あの二人を殺したと思っているんですか?」
と、十津川を睨《にら》んだ。
十津川は、両手で、つるりと顔を撫《な》ぜた。
「殺しに、青酸《せいさん》カリが使われているので、念のために、お聞きしただけですよ。あなたを犯人《はんにん》と断定《だんてい》しているわけじゃありません」
「しかし、僕を疑《うたが》っている?」
「刑事《けいじ》というのは、因果《いんが》な仕事でしてね。事件《じけん》の関係者は、一応、全部、疑《うたが》うことにしていましてね」
「僕には、あの二人を殺さなきゃならない理由《りゆう》がありませんよ。小笠原《おがさわら》君の死体を彼等《かれら》が見つけるまでは、一度も会ったことがなかったんですからね」
「百万円をやるのが惜《お》しくなって、殺したんじゃないのかね?」
横から、亀井刑事がきいた。
とたんに、三田村は、クスクス笑《わら》い出して、
「賞金の百万円は、僕の金じゃありませんよ。会社の金なんだ。出そうと出すまいと、僕には、関係ないんだ。嘘《うそ》だと思うんなら、社長に聞いて下さい」
「昨夜のあなたの行動を教えてくれませんか」
と、十津川が、話を変えた。
「昨夜って、何時|頃《ごろ》のことですか?」
「七時から九時までで結構《けつこう》です」
「昨日は、猛烈《もうれつ》に忙《いそが》しかったですからね。とにかく、飛び廻《まわ》っていましたよ。仕事ですから、もっぱら原稿《げんこう》集めです。編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》の僕が行かないと、原稿《げんこう》をくれない先生がいますんでね。それに、僕は、今、『現代日本の旗手《きしゆ》たち』という署名《しよめい》記事を連載《れんさい》していましてね。昨日から今日にかけて、財界《ざいかい》のお偉方《えらがた》に、何人も会っています。名前をいいましょうか?」
「ええ。教えて下さい。昨夜、七時以後に会った人だけで結構《けつこう》ですよ」
十津川は、手帳を広げ、もう使い出して八年になる万年筆で、三田村のいう名前を書き止めていった。小さくて、下手《へた》くそな字である。下手だが、風格《ふうかく》のある字だといってくれた人もあるが、これは、もちろん、お世辞《せじ》というものだろう。
10
だが、外へ出ると、十津川は、折角《せつかく》メモした頁《ページ》を破《やぶ》って、丸《まる》めて捨《す》ててしまった。
「どうなさったんですか?」
と、驚《おどろ》く亀井刑事《かめいけいじ》に、十津川は、笑《わら》って、
「君だって、毒殺|事件《じけん》では、死亡推定時刻《しぼうすいていじこく》のアリバイが、何の意味もないことは知っているだろう。現場《げんば》の状況《じようきよう》から考えて、犯人《はんにん》が、被害者の二人と一緒《いつしよ》に飲んでいて、その時、すきを見て、青酸《せいさん》カリを二人に飲ませたとは考えられない。そうだろう?」
「そうです。私も同感です。犯人《はんにん》は、前もって、ウイスキーの角びんに青酸《せいさん》カリを混入《こんにゆう》しておいたに違《ちが》いありません。手袋《てぶくろ》をはめてやれば、指紋《しもん》はつきませんからね。それを知らずに、二人は、毒入りのウイスキーを飲んで死亡《しぼう》。こんな具合だったと思いますね」
「とすればだ。問題なのは、犯人《はんにん》が、いつ、あのウイスキーの角びんに、青酸《せいさん》カリを入れたかということだ。もし、午後七時前に、犯人《はんにん》が混入《こんにゆう》しておいたとしたら、七時以後のアリバイを調べても無意味《むいみ》だからね。だから、メモは捨《す》ててしまったのさ」
「それなら、主任《しゆにん》は、なぜ、三田村《みたむら》のいうことを、熱心にメモされていたんですか?」
「なぜだと思うね?」
「さあ、わかりませんな」
「第一は、三田村を油断《ゆだん》させるためだよ。多分《たぶん》、今頃《いまごろ》は、馬鹿《ばか》な刑事《けいじ》だと思っているだろうね。ああいう、自信満々の男は、こっちが馬鹿《ばか》だと思わせておけば、図《ず》に乗って、ミスを犯《おか》すものだよ」
「他《ほか》の理由《りゆう》もあるわけですか?」
「ある。アリバイ調べをやっていると見せかけたことで、三田村の本音《ほんね》を、少しは聞けると思ったんだ」
「それで、聞けましたか?」
「ああ、ほんの少しだがね」
「私は気がつきませんでしたが、どんなことでしょうか?」
「三田村が、犯人《はんにん》だとしての話だがね」
「彼は、犯人《はんにん》に決っていますよ」
亀井刑事が、むきになっていった。
丁度《ちようど》、喫茶店《きつさてん》の前へ来ていたので、十津川が誘《さそ》って、中へ入った。
外気で冷えていた身体《からだ》が、少しずつ、あたたまってくる。
「続きを聞かせて下さい」
と、亀井刑事がいった。
十津川は、出がらしのような、苦《にが》いだけのコーヒーを一口飲んでから、
「三田村は、私が七時以後のアリバイを聞いたら、喜んで教えてくれた。事件《じけん》の夜、会った有名人の名前を五人もあげてだ。すぐバレるような嘘《うそ》をつく筈《はず》がないから、五人に会って話を聞いたというのは、事実だと思うね。ということは、七時以後には、かなり自信があるということだよ。逆《ぎやく》に考えれば、三田村が犯人《はんにん》としてだが、ウイスキーに青酸《せいさん》カリを入れたのは、午後七時前後だということだ」
「なるほど」
「もう一つある」
「何ですか?」
「一昨日《おととい》、小田と順子が、週刊《しゆうかん》ジャパンを訪《たず》ねた件《けん》だ」
「受付の女の子が証言《しようげん》していますから、二人が訪《たず》ねたのは、本当だと思いますが」
「嘘《うそ》だとはいってないよ。問題は、訪《たず》ねた理由《りゆう》だ」
「三田村は、例の百万円の賞金のことで、駄目《だめ》になったといって、帰って貰《もら》ったと証言《しようげん》しましたね」
「そうだ。あれは、嘘《うそ》だよ」
「なぜ、嘘《うそ》だとわかりますか?」
「いいかね。百万円といえば大金だ。充分《じゆうぶん》に、殺人の動機になり得《う》る金額《きんがく》だよ。二人のほうは、貰《もら》えると思ったのに、三田村は許《ゆる》さなかった。ごたごたがあったと思う。それなのに、三田村は、あっさりと、百万円の賞金のことで来たんだといった。ということは、違《ちが》う用件《ようけん》だったということを裏書《うらが》きしていると思うのだ。大きな危険《きけん》をかくすために、小さな危険《きけん》のほうを、われわれに話したのさ」
「じゃあ、あの二人は、何の用で、週刊《しゆうかん》ジャパンを訪《たず》ねたんでしょう?」
「週刊《しゆうかん》ジャパンを訪《たず》ねたというよりも、三田村に会いに行ったんじゃないかね」
と、十津川がいうと、亀井刑事は、眼《め》を光らせて、
「そうですね。小笠原《おがさわら》を殺した殺人犯《さつじんはん》の三田村を訪《たず》ねて行ったと考えるべきですな」
「問題は、用件《ようけん》だ」
「その用件《ようけん》のために、あの二人は、三田村に毒殺されたということですね」
「そうだ」
「しかし、あの二人が死んでしまった今となっては、調べようがありませんね」
「確《たし》かにね。だが、想像《そうぞう》はできるよ」
十津川は、まずいコーヒーは、脇《わき》へどけ、灰皿《はいざら》を引き寄《よ》せてから、煙草《たばこ》に火をつけた。
「二人は、死体の発見者だ。一一〇番に電話したが、パトカーが駈《か》けつけるまでの間、二人だけで、現場《げんば》にいたわけだよ。多分《たぶん》、彼等《かれら》は、死体の傍《そば》で、何かを発見したんだ。犯人《はんにん》が落としていった何かをだよ」
「つまり、三田村が落としていったものですな」
「そうだ、ネーム入りのライターか、ハンカチか、万年筆か、そんなものだろう。最初から、三田村をゆするつもりで、そんな品物を猫《ねこ》ババしたとは思えない。なぜなら、二人が小笠原の死体を発見した時、死んでいる男の名前も知らなかったろうし、週刊《しゆうかん》ジャパンの編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》の名前も知らなかったに違《ちが》いないからだよ。だから、ちょっと欲《ほ》しくなって、猫《ねこ》ババしたんだと思う。ところが、それがゆすりに使えることに気付いた」
「二人は、いくらくらい三田村に要求したんでしょうか?」
「十万や二十万の金額《きんがく》じゃない筈《はず》だ。そのくらいの額《がく》なら、三田村は、すぐに払《はら》えた筈《はず》だよ。殺すこともなかったろう。だが、フォード・ムスタングを乗り廻《まわ》している三田村にも、簡単《かんたん》には払《はら》えない額《がく》だった。だから、殺したんだ」
「すると、少なくとも、百万単位ということになりますね」
「人探《ひとさが》しゲームの賞金百万円より多かったと思うね。五百万か、一千万か。とにかく、三田村は、殺す他《ほか》にないと考えて、毒殺したんだ」
「主任《しゆにん》のいわれる通りだと思います。しかし――」
「証拠《しようこ》がない――かね?」
「そうです。三田村は、二人が脅迫《きようはく》に使った品物も、奪《うば》い返したろうと思いますし――」
「三田村は、一昨日《おととい》の午後五時に、二人に会っている。殺したのは翌日《よくじつ》だ。この二日間の三田村の動きを、隅《すみ》から隅《すみ》まで調べるんだ。何か変った動きをしているかも知れんからね。もう一つは、目撃者探《もくげきしやさが》しだ。三田村が犯人《はんにん》なら、彼は、ウイスキーの角びんに、青酸《せいさん》カリを混入《こんにゆう》しておくために、あの青葉荘《あおばそう》というアパートに行った筈《はず》だからね、アパートに入るところか出て来るところを見た目撃者《もくげきしや》が欲《ほ》しい。もし目撃者《もくげきしや》がいたら、それだけで、三田村を出頭《しゆつとう》させられるからね。今井《いまい》君と二人で、この二つを調べてくれ」
「わかりました。主任《しゆにん》は、これからどうなさいますか?」
「もう一度、三田村の妻君《さいくん》に当ってみるよ。一番|身近《みぢか》な人間だからね」
11
三田村|冴子《さえこ》は、先日会った時と同じように、美しく、そして傲慢《ごうまん》に見えた。
「マスコミの第一線で活躍《かつやく》しているご主人を持つと、なにかと大変でしょうな」
と、十津川《とつがわ》は、笑顔《えがお》で話しかけた。
冴子は、きれいにマニキュアした指先で、外国|煙草《たばこ》をつまみあげ、口にくわえて火をつけてから、
「別に大変ということはございませんわ。最初から、覚悟《かくご》して一緒《いつしよ》になりましたもの」
「しかし、三田村さんは、毎日、お帰りが遅《おそ》いんじゃありませんか?」
「ええ。少しは休んだらいいと思うのですけど、仕事熱心の人ですから。まさか、仕事をやめて、ハワイへ行こうともいえませんもの」
「仕事のことを、奥《おく》さんに話すほうですか? 三田村さんは」
「ええ。時々、話してくれますわ」
「今度、週刊《しゆうかん》ジャパンでやった人探《ひとさが》しゲームはどうでした? 最初から、あなたに話しましたか?」
「なぜ、そんなことを、お聞きになるんです?」
冴子は、眉《まゆ》を寄《よ》せて、十津川を見た。
こういう眼《め》をする女は、苦手《にがて》である。十津川は、わざと、くしゃみを一つしてから、
「三田村さんは、人探《ひとさが》しゲームに、あなたがよく知っている小笠原《おがさわら》さんを使った。だから、そのことを、あなたに話したんじゃないかと思いましてね」
「ええ。小笠原さんのことは、話してくれましたわ」
「小田雄一郎《おだゆういちろう》と、鈴木順子《すずきじゆんこ》の若いアベックのことはどうですか?」
「ああ。小笠原さんが死んでいるのを発見した人たちでしたわね」
「そうです。そして、二人とも、何者かに毒殺されました。ご存知《ぞんじ》ですか?」
「ええ。ニュースで聞きましたもの。犯人《はんにん》は、まだ見つかりませんの?」
「まだです。この二人のことで、三田村さんは、あなたに、何か話しませんでしたか?」
「と、いいますと、どんなことでしょうか?」
「例《たと》えば、百万円の賞金のことで、ごたごたがあったというようなことをですがね」
「いいえ」
「そうですか。話は戻《もど》りますが、あなたが、ご主人とクラブ『リオ』に食事に行かれたときのことです。七時から九時|頃《ごろ》まで、あのレストランにおられたそうですね?」
「ええ。それが、どうかしまして?」
「その間、三田村さんは、一度も、席を外《はず》しませんでしたか?」
「ええ」
と、肯《うなず》いてから、冴子《さえこ》は、
「一度だけ――」
「一度だけ、どうしたんです?」
「八時に、電話をかけに立ちましたわ」
「誰《だれ》にかけたんです?」
「私の姪《めい》です。実は、姪《めい》が、マスコミで働きたくて、それを、主人に頼《たの》んでくれといわれていたんです。返事をあの日にすることになっていたのを思い出して、私が、電話してくれと、頼《たの》んだんです」
「すぐ、戻《もど》って来ましたか?」
「すぐというのは、どのくらいの時間ですの?」
「五、六分ということですがね」
「それなら、すぐじゃありませんでした」
「どのくらいたってから、戻《もど》って来たんですか?」
「あれは、確《たし》か、十五、六分たってからでしたわ」
「ほう。電話に十五、六分も、掛《かか》ったんですかな?」
「さあ。戻《もど》って来て、友だちに会って、廊下《ろうか》で話し込《こ》んでしまったと、私には、いっていましたけど」
「その友だちの名前は?」
「主人はいいませんし、私も聞きませんでした。どうでもいいことですもの。違《ちが》いまして?」
「かも知れませんね。ところで、姪《めい》ごさんの名前と、電話番号を教えて頂《いただ》けませんか」
「名前は、富田和子《とみたかずこ》です。電話番号は、二八九の――」
その番号を、十津川《とつがわ》は、手帳《てちよう》に書き止めた。
何気《なにげ》ない顔をしていたが、十津川は、内心、緊張《きんちよう》していた。ひょっとすると、これで、小笠原《おがさわら》殺しについて、三田村《みたむら》のアリバイが崩《くず》せると思ったからである。
捜査本部《そうさほんぶ》に戻《もど》ると、まず、冴子《さえこ》の姪《めい》の富田和子に電話をかけてみた。
彼女は、あの日の午後八時|頃《ごろ》、三田村から電話があったことを認《みと》めた。
しかし、内容《ないよう》は、ごく簡単《かんたん》なもので、社長に話をしておくから、一度、社のほうへ来いというものだったという。
「電話していた時間なら、二、三分のものでしたわ」
と、富田和子は、若い声でいった。
次に、十津川《とつがわ》は、三田村に会った。
「この間は、八時|頃《ごろ》、電話で席を立たれたことを、いわれませんでしたね?」
と、十津川がいうと、三田村は、「ああ」と、頭をかいて、
「確《たし》かに家内《かない》に頼《たの》まれて、電話をかけに、席を立ちました。相手は、家内《かない》の姪《めい》です。うちの社で働きたいということなので、その返事をしたのです。この間は、別にどうということでもないと思ったから、話さなかったのですよ」
「そのあと、友人に会ったというのは、事実ですか?」
「ええ。そうです」
「その人の名前は?」
「福井好夫《ふくいよしお》という医者です」
「住所は?」
「なぜ、そんなことを?」
「会って、事実かどうか確《たし》かめなきゃなりませんのでね」
十津川がいうと、三田村は、きっとなって、
「僕《ぼく》が、嘘《うそ》をついているとでもいうんですか?」
「いや。ただ、確認《かくにん》するだけのことですよ。どんな捜査《そうさ》でもやる手続きです」
「六本木《ろつぽんぎ》にある『ニュー・六本木コーポ』というマンションです。病院も、その近くにありますよ。内科の医者です」
「相当長く、福井さんとは、話されていたようですね?」
「ええ。つい、話が長くなりましてね。十二、三分は廊下《ろうか》で立ち話をしていたんじゃないかな」
「どんな話をなさったんですか?」
「いろいろですよ。彼が最近アメリカへ行って来たんで、向うの女の話とか。話し上手《じようず》ですからね。彼は」
「女の話というと、福井さんは、独身《どくしん》ですか?」
「ええ。三十二|歳《さい》だが、まだ独身《どくしん》で、もてる男ですよ」
「奥《おく》さんも、福井さんを、ご存知《ぞんじ》なんですか?」
「ええ。本来は、家内《かない》の友だちなんです」
「なるほど」
「いいですか。刑事《けいじ》さん。僕《ぼく》のことを、いろいろと調べるのはいいけど、僕は無実ですよ。小笠原《おがさわら》君も、あのアベックも殺していませんよ」
「私も、そう願っていますよ」
十津川《とつがわ》は、微笑《びしよう》を返して、三田村《みたむら》と別れた。
その足で、六本木に廻《まわ》った。
三田村のいう通り、ニュー・六本木《ろつぽんぎ》コーポの傍《そば》に、「福井《ふくい》内科」の看板《かんばん》をかけた病院があった。
待合室には、三人の患者《かんじや》がいた。十津川は、辛抱《しんぼう》強く、その三人の診察《しんさつ》が終るのを待ってから、医者の福井好夫に会った。
色白で、なかなかの好男子《こうだんし》だった。
疲《つか》れたというように、自分で肩《かた》を叩《たた》きながら、
「確《たし》かに、その日、クラブ『リオ』で、三田村さんに会いましたよ」
と、十津川に、答えた。
「八時|頃《ごろ》でしたか?」
「正確《せいかく》な時間は覚《おぼ》えていませんが、その頃《ころ》でしょうね」
「その時のことをくわしく話してくれませんか」
「くわしくといわれましてもね。僕《ぼく》が、食事を終って、廊下《ろうか》へ出たら、そこに、三田村さんがいた。それで声をかけた。それだけのことですよ」
「あなたは、帰るところだったんですか?」
「ええ」
「ショウを見ずに?」
「ええ。ちょっと、用があったものですからね」
「なるほど。廊下《ろうか》で、三田村さんを見つけて声をかけた。それからどうしました?」
「それだけですよ。すぐ別れましたよ。彼《かれ》は、奥《おく》さんと一緒《いつしよ》だというし、僕は、用がありましたからね」
「それは、おかしいですな。三田村さんの話では、十二、三分も、あなたと廊下《ろうか》で立ち話をしたというんですがね」
「そいつは変だな。第一、そんなに長く話すことがありませんよ。仕事も違《ちが》いますからねえ」
「あなたが、アメリカに行ったときのことを話してくれたといっていますよ。三田村さんは」
「彼が、勘違《かんちが》いしてるんじゃありませんか。僕《ぼく》がアメリカへ一か月ばかり行ったのは、一年も前ですからね。話したとすれば、もっと前ですよ」
「じゃあ、クラブ『リオ』では、すぐ別れたというのですね?」
「ええ。三分ぐらいのものじゃないかな、話してたのは。とにかく、すぐ別れましたよ。恐《おそ》らく、三田村さんは、他の日と勘違《かんちが》いしてるんでしょう」
「クラブ『リオ』の電話のある廊下《ろうか》というと、確《たし》か、化粧室《けしようしつ》のある廊下とは反対側《はんたいがわ》でしたね?」
「ええ。それが、どうかしましたか?」
「いや。何でもありません」
と、十津川《とつがわ》は、いった。
12
次の日になると、三田村《みたむら》の容疑《ようぎ》は、一層《いつそう》、濃《こ》いものになった。
二つのことがわかったからである。
第一は、小田《おだ》と順子《じゆんこ》の二人が毒殺された日の午後八時半|頃《ごろ》、青葉荘《あおばそう》アパートの近くで、三田村を見た目撃者《もくげきしや》が出たことである。
屋台のおでん屋で、アパートの傍《そば》の空地《あきち》に、夕方から屋台を出す男だった。
彼は、こう証言《しようげん》した。
「八時半|頃《ごろ》でしたよ。通りの向うに、白い大きな車が止まったんです。フォードのムスタングってやつですよ。この辺には、あんな高級車を乗り廻《まわ》す人はいない筈《はず》なんだがと思ってみてたんです。そしたら、若い男の人がおりて来て、青葉荘《あおばそう》へ入って行きましたよ。ええ、この写真の人です。五、六分して、飛び出して来ましたね。そして、車で行っちまいました。そのすぐあとに、パトカーがやって来たんで、びっくりしましたよ。若いアベックが殺されたそうですけど、あの車の男が犯人《はんにん》だったんですか?」
第二は、事件《じけん》の日の午前中に、三田村が、銀行から、五百万円をおろしていることがわかったことである。面白《おもしろ》いことに、翌日《よくじつ》、また、五百万円を預金《よきん》しているのだ。
この疑問《ぎもん》に対して、三田村は、車を買いかえたくて、五百万円おろしたのだが、その気がなくなったのだと証言《しようげん》した。
「どうやら、これで、三田村も終りだな」
と、十津川《とつがわ》は、亀井《かめい》と、小川《おがわ》の二人の刑事《けいじ》にいった。
「第一の事件《じけん》の夜、彼が、クラブ『リオ』で妻君《さいくん》に頼《たの》まれた電話を掛《か》けたあと、化粧室《けしようしつ》から抜《ぬ》け出し、クラブの裏手《うらて》にあらかじめ止めておいた車で、小笠原を殺しに行ったことは、間違《まちが》いないな。三田村は、偶然《ぐうぜん》、妻君《さいくん》の頼《たの》んだ電話を利用したが、もし、これがなかったら、トイレに行くといって、席を外《はず》した筈《はず》だ」
十津川の言葉に、二人の刑事は、肯《うなず》いていたが、亀井刑事が、
「動機は、やはり、三田村の嫉妬《しつと》でしょうか?」
「他《ほか》に考えられんな。美人で、財産家《ざいさんか》の妻君《さいくん》を貰《もら》った男の悲劇《ひげき》だね」
「続いて、小田雄一郎《おだゆういちろう》と鈴木順子《すずきじゆんこ》の毒殺ですが、この間、主任《しゆにん》のいわれたことが、動機ですか?」
「多分《たぶん》ね。あの二人は、小笠原の死体を発見した時、死体の傍《そば》に、犯人《はんにん》が三田村であることを示す品物を見つけたんだろう。ネーム入りの何かだ。だから、それを買えと、二人は、三田村を脅迫《きようはく》した」
「要求した金額《きんがく》は五百万円ですね?」
「その通りだ。買い取らなければ、三田村は間違《まちが》いなく刑務所《けいむしよ》行きといった品物だったんだろうね。だから、三田村は、あわてて銀行へ行って、五百万円おろしたんだ」
「だが、彼は、二人を殺しています」
「理由《りゆう》は二つあったと思う。第一は、小田と順子の二人に、五百万円も取られたことへの怒《いか》りだ。第二は、用心のためだろう。五百万円で、証拠品《しようこひん》を買い取っても、小田と順子という二人の証人《しようにん》は残る。この二人は、三田村にとって危険《きけん》人物だ。二人の証言《しようげん》は、少なくとも、警察《けいさつ》に疑惑《ぎわく》を抱《いだ》かせるだけの力を持っている。証拠品《しようこひん》がなくとも。だから、三田村は、二人を殺したんだ」
「その方法を、どうお考えですか?」
「方法は、こうだと思う。三田村は、二人に五百万|与《あた》える約束をして、場所と時間を決めた。そうしておいて、約束の時間か、或《ある》いは、その少し前に、二人のアパートに出かけたのだ。何時かわからないが、午後七時前であることは、明らかだな。当然、アパートに、二人はいない。簡単《かんたん》な錠《じよう》だから、こじ開けて中に入るのも、楽だったと思うね。三田村は、ポケットに、青酸《せいさん》カリを用意していた。彼は、薬を手に入れる特別《とくべつ》のコネを持っているから、青酸《せいさん》カリでも入手《にゆうしゆ》できたろう。三田村の目的は、唯《ただ》一つだ。二人を毒殺することさ。二人が使うであろう食器、コップ、歯ブラシ、或《ある》いは、買ってある果実《かじつ》に、青酸《せいさん》カリを塗《ぬ》りつけるなり、水に溶《と》かして注射《ちゆうしや》してもいいわけだ。部屋《へや》に入ってみると、テーブルの上に、ウイスキーの角びんがのっていた。減《へ》っていることからみて、二人が飲んでいるものだと思った。順子も、飲むことは、何かの拍子《ひようし》に聞いてあったのだろう。三田村は、手袋《てぶくろ》をはめた手で、角びんに、持って来た青酸《せいさん》カリを溶《と》かし込《こ》んだ。そのあと、例のスポーツカーで、二人と約束した場所に急行した。二人は、三田村が、遅《おく》れたことに怒《おこ》ったかも知れんが、五百万円の札束《さつたば》を見れば、ニッコリしたと思うね。アパートに帰った二人は、テーブルの上のウイスキーで乾杯《かんぱい》したんだろう。そして、死んだ」
「八時半に、三田村は、屋台のおでん屋に目撃《もくげき》されていますが?」
「あの時は、仕掛《しか》けた罠《わな》の効果《こうか》を確《たし》かめに行ったんだ。それと、五百万円を取りかえすためにだよ。ドアは開いていて、彼の思惑《おもわく》どおり、二人は毒死していた。三田村は、五百万円を取り戻《もど》して帰宅《きたく》し、翌日《よくじつ》、また、銀行に預金《よきん》したんだ」
「令状《れいじよう》は、貰《もら》えますな」
「ああ。貰《もら》えるさ」
と、十津川《とつがわ》は、立ち上った。
13
三田村《みたむら》に対する逮捕令状《たいほれいじよう》は、すぐおりた。
十津川は、亀井刑事《かめいけいじ》を連れて、神田《かんだ》の週刊《しゆうかん》ジャパン社へ、車を走らせた。
午後四時。
十津川は、令状《れいじよう》を内《うち》ポケットに、編集室《へんしゆうしつ》に踏《ふ》み込《こ》んだ。
だが、編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》の椅子《いす》に、三田村は、いなかった。
「三田村|編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》は?」
と、十津川は、部屋《へや》にいる社員たちを見廻《みまわ》した。
「編集長は、今日は休みです」
と、三十五、六の社員が答えた。
「休み?」
「ええ。それが、ちょっと変なんですがね」
「というと?」
「無断欠勤《むだんけつきん》なんかしたことがない編集長が、今日に限《かぎ》って、何の連絡《れんらく》もなく休んでいるんです。今日は、追い込《こ》みで、忙《いそが》しい時なんですがねえ」
「自宅《じたく》には、問い合せたのかね?」
「電話してみましたよ」
「それで?」
「奥《おく》さんが出ましてね。いつものように、午前九時に、車で家を出たっていうんです。どうやら、あのタフな編集長も、一日、息抜《いきぬ》きがしたくなったんじゃないかと、思っているんですがね」
社員の言葉に、十津川は、亀井刑事と顔を見合せた。
「逃《に》げたんでしょうか?」
と、亀井刑事が、十津川に、小声《こごえ》できいた。
「とにかく、自宅《じたく》へ行ってみようじゃないか」
と、十津川は、いった。
十津川たちは、車で、原宿《はらじゆく》のマンションに向った。
三田村冴子《みたむらさえこ》は、例によって、硬《かた》い表情《ひようじよう》で、十津川たちを、広い居間《いま》に請《しよう》じ入れた。
「主人に、まだ何かご用がございますの?」
「ご主人に、逮捕状が出ています」
「何のです?」
「殺人のです。もし、かくまうと、あなたも逮捕《たいほ》することになりますよ」
「何かの間違《まちが》いです」
「何がですか?」
「何もかもです。主人が、人を殺す筈《はず》がありません。そんなこと、信じられません。今朝《けさ》も、いつものように、元気で、出社したのですよ」
「だが、出版社《しゆつぱんしや》には出ていない」
「それでは、途中《とちゆう》で、交通|事故《じこ》にでもあって――」
「違《ちが》いますね。今は、もう四時半です。出社の途中《とちゆう》で事故《じこ》にあったのなら、もうニュースになっている筈《はず》ですよ。瀕死《ひんし》の重傷《じゆうしよう》だとしても、免許証《めんきよしよう》は持っている筈だし、車検証《しやけんしよう》もある筈ですからね」
「じゃあ、主人は、どこに?」
「本当に、知らないのですか?」
「知りません」
「ご主人は、フォード・ムスタングで出かけたんですね?」
「ええ」
「お金は、どのくらい持っていますか?」
「わかりません。普段《ふだん》は、二十万円くらい持っていますけど」
「車で遠出する時は、いつも、どこへ行きましたか?」
「決っていませんけど、主人は、北関東の温泉地へ行くのが好《す》きでした。それも、ひなびた温泉地へ」
「すぐ、車の手配をしてくれ。特《とく》に、群馬、栃木の方向をな」
十津川がいい、亀井刑事が、連絡《れんらく》のために飛び出して行った。
冴子《さえこ》は、じっと考え込《こ》んでいたが、
「主人は、本当に、人を殺したんですの?」
と、十津川にきいた。
「お気の毒ですが、間違《まちが》いありませんな」
十津川は、冷静な口調《くちよう》でいった。
「でも、小笠原《おがさわら》さんが殺された時間に、主人は、私と一緒《いつしよ》に、クラブ『リオ』にいた筈《はず》ですけど」
「ええ。しかし、午後八時に、十五、六分、テーブルを離《はな》れています」
「でも、あれは、私が、姪《めい》への電話を頼《たの》んだからで」
「その電話は、二、三分ですんでいるのですよ」
「でも、そのあと、友だちに会って、廊下《ろうか》で立ち話をしたと」
「その友人というのは、あなたもご存知《ぞんじ》の福井《ふくい》さんです」
「そうですの?」
「その福井さんは、ちょっと挨拶《あいさつ》しただけで別れたといっています。どうしても、十二、三分間の空白が出来てしまうのですよ」
「でも、なぜ、主人が、小笠原さんを?」
「嫉妬《しつと》です。あなたと小笠原さんとの間を、嫉妬《しつと》したのですよ」
「そんな。小笠原さんと、私とは、ただのお友だちだったんです。そりゃあ、最近でも、おつき合いはしていました。でも、一緒《いつしよ》にお茶を飲んだり、お食事をしたりで、深いおつき合いじゃなかったんです」
「ご主人は、そうは、思わなかったんですな」
「でも、主人にも、小笠原さんは、ただのお友だちだといってたんですけど」
「男というものは、念を押《お》されると、かえって、疑惑《ぎわく》を持つものですからね」
殺人|犯人《はんにん》でも、同じことだと、十津川は思っている。無実《むじつ》だと声高《こわだか》に叫《さけ》ぶものほど、犯人《はんにん》であることが多い。
三田村も、多分《たぶん》、同じなのだ。妻の冴子《さえこ》が、小笠原のことを、ただの友だちだといえばいうほど、疑惑《ぎわく》と、嫉妬《しつと》を感じたに違《ちが》いない。
それに、冴子と小笠原が、本当にできていたことも考えられる。将来《しようらい》有望な俳優《はいゆう》と、金持ちで、暇《ひま》を持て余《あま》している人妻《ひとづま》。よくある関係だからである。
14
三田村《みたむら》が乗っていると思われる七五年型フォード・ムスタング・マッハ1は、手配された。車体の色、ナンバー、それに、三田村自身の特徴《とくちよう》も添《そ》えられてである。
かなり目立つ車である。十津川《とつがわ》は、そのことに期待をかけた。
だが、その日の深夜になっても、捜査本部《そうさほんぶ》には、三田村も、車も、発見されたという知らせは入って来なかった。
翌日《よくじつ》になると、三田村と、車の写真のコピイが出来てきた。二つのコピイは、直《ただ》ちに、各県の県警本部《けんけいほんぶ》に送られた。
事件《じけん》は、テレビでも放送された。三田村の顔写真も、フォード・ムスタングの写真も、ブラウン管にのった。
結果的《けつかてき》には、テレビの放映が、発見に役立った。
三田村が失踪《しつそう》してから三日目の朝である。
水上《みなかみ》温泉と湯沢《ゆざわ》温泉のほぼ中間、朝日岳《あさひだけ》近くの山岳《さんがく》道路に、一台の白い車が止まっているのを、二人のハイカーが発見した。
今年は、冬が遅《おそ》かったが、それでも、昨日、この地方に初雪が降《ふ》り、朝日岳も、山岳《さんがく》道路も、うっすらと雪化粧《ゆきげしよう》をしていた。
その車も、雪をかぶっていた。
大学三年生の男同士の二人連れは、水上温泉から歩いて来たのだが、温泉旅館にいるとき、テレビのニュースで、三田村と、フォード・ムスタングの写真を見ていた。
今、眼《め》の前に止まっている車は、明らかに、テレビのブラウン管に映《うつ》っていたフォード・ムスタングだった。
ナンバーを全部|覚《おぼ》えていたわけではなかったが、東京ナンバーだったし、二人が覚えていた二ケタまでのナンバーは、一致《いつち》していた。
二人は、すぐ水上温泉に戻《もど》り、そこの警察《けいさつ》に報告《ほうこく》した。
警察は、直《ただ》ちに、警官《けいかん》三人を、ジープで現場《げんば》に急行させた。
改《あらた》めて、その車が、問題のフォード・ムスタング・マッハ1であることが確認《かくにん》された。だが、運転席にも、リアシートにも、三田村の姿《すがた》はなかった。
キーは、差し込《こ》んだままになっていた。トランクもあけられたが、異常《いじよう》は見つからなかった。
三田村は、ここまで、車を運転して来て、それからどうしたのだろうか。
警官たちは、暗い予感に襲《おそ》われながら、急な崖《がけ》を、深い谷底めがけて、そろそろとおりて行った。
警官たちの予感は当っていた。
谷底に、三十|歳《さい》ぐらいの男が、俯伏《うつぶ》せに倒《たお》れて死んでいたのである。その死体にも、雪がかぶっていた。
警官は、上を見上げた。
道路は、二十メートル以上の高さにある。この死体が、他殺、事故《じこ》、自殺のいずれであるにしろ、道路からここへ転落したことだけは確《たし》かだった。
雪をかぶった死体は、仰向《あおむ》けにされた。血のこびりついた顔は、手配写真にあった三田村に間違《まちが》いなかった。
十津川《とつがわ》が、亀井刑事《かめいけいじ》を連れて、現場《げんば》に到着《とうちやく》したのは、その日の午後三時だった。
標高《ひようこう》千メートル以上の場所だけに、吹《ふ》きつける風が、身を切るように冷たい。十津川は、おかげで、治《なお》りかけたカゼを、また、ひき直《なお》してしまった。
「死後、約三日を経過《けいか》しています」
と、地元《じもと》の刑事が、十津川にいった。
三日前に死んだとすれば、三田村は、失踪《しつそう》した日に死んだことになる。彼は、午前九時に、車で家を出た。
多分《たぶん》、そのまま、ここまで、車を走らせたのだ。
「どう思われますか?」
と、亀井刑事は、深い谷を見下ろしながら、十津川にきいた。
十津川は、眉《まゆ》をしかめて、ハンカチで、はなをかんだ。
「気にくわんな」
と、十津川は、不機嫌《ふきげん》にいった。
亀井刑事には、なぜ、十津川が不機嫌《ふきげん》なのかわからなかった。自分たちの手で、逮捕《たいほ》できなかったからか。
「逮捕《たいほ》できなかったのは、私も残念ですが、三田村は、追い詰《つ》められて、ここで自殺したんじゃないでしょうか」
亀井刑事がいうと、十津川は、大きなくしゃみをした。
「違《ちが》いますか?」
「わからんよ。自殺かも知れん。だが、気にくわないね。私は、もっと違《ちが》った結末を考えていたんだ。こんな結末じゃない」
「と、いいますと?」
「彼は、青酸《せいさん》カリで、小田《おだ》と順子《じゆんこ》を殺した。それなら、自殺の時も、多分《たぶん》、青酸《せいさん》カリを使うだろう。それなのに、飛びおり自殺だ。それも、こんな所でだ。ここまで逃《に》げて来たのなら、なぜ、もっと逃げなかったのかね」
「すると、事故死《じこし》か、他殺ということになりますか?」
「わからん。だから、余計《よけい》、いらいらするんだな。他殺なら、いったい誰《だれ》が三田村を殺したのか。それにだ。何か妙《みよう》に心に引っかかるものがあるんだが、それが、何なのかわからん」
三田村の死体は、谷底から、道路まで引きあげられ、水上《みなかみ》温泉まで運ばれた。
そこに、三田村|冴子《さえこ》が、夫の遺体《いたい》を待っていた。
15
三田村の遺体《いたい》は、解剖《かいぼう》に廻《まわ》された。
死体は、頭蓋骨骨折《ずがいこつこつせつ》によるものとわかった。死亡推定時刻《しぼうすいていじこく》は、十一月十六日、つまり、彼が失踪《しつそう》したのは午後二時から五時の間ということだった。
車のハンドルからは、三田村の指紋《しもん》しか発見されなかった。
助手席には、冴子の指紋《しもん》があった。
「しかし、これは、不思議はありませんね」
と、鑑識《かんしき》の報告書《ほうこくしよ》を読んだあと、小川刑事《おがわけいじ》が、十津川にいった。
「夫妻で、よく、あの車に乗って出かけたそうですから、彼女の指紋《しもん》がなければ、かえって不思議《ふしぎ》です。それに、三田村が死んだ日は、一日中、冴子は家にいたことが確認《かくにん》されています。翌日《よくじつ》もです。だから、彼女が、夫の三田村を殺した筈《はず》はありません。そんなわけで、私もカメさんと同意見ですね」
「追いつめられた犯人《はんにん》が、あそこで、自殺したというのだね?」
十津川は、相変《あいかわ》らず、難《むずか》しい顔でいった。水上《みなかみ》から戻《もど》って以来、十津川の硬《かた》い表情《ひようじよう》が崩《くず》れていない。
「他に考えられません」と、小川刑事はいった。
「三田村冴子も、あの辺《あた》りは、新婚《しんこん》の頃《ころ》、二人で行った場所で、思い出がある所だといっています。つまり、あそこで、三田村が自殺する必然性があったというわけですよ」
「なるほどな」
「それでも、主任《しゆにん》は、自殺ということに、疑問《ぎもん》を感じますか?」
小川刑事がきく。
十津川は、返事をせず、急に椅子《いす》から立ち上ると、部屋の中を歩き廻《まわ》りはじめた。時々、鼻をくすくすさせる。
立ち止まって、窓《まど》の外を見た。
だが、その眼《め》は、外の景色《けしき》を見ていなかった。
五、六分、その姿勢《しせい》のままでいたが、くるりと振《ふ》りかえると、口元に微笑《びしよう》を浮《う》かべて、
「やっと、心に引っかかっていたものの正体《しようたい》がわかったよ」
と、二人の部下を見た。
「いったい、何だったんですか?」
と、きく小川刑事に、十津川は、
「それは、今説明するが、わかったのは、君のおかげなんだ」
「私の――ですか?」
「そうだよ。君は、今、三田村の妻君《さいくん》のことを話してくれた。三田村が死んだ日には、ずっと家にいて、アリバイがあるとね。私の引っかかっていたのは、実は、それだったと気がついたんだ」
「それなら、主任《しゆにん》も、三田村自殺説に同意してくれますか?」
「いや。その逆《ぎやく》だ。三田村は、殺されたんだよ」
「しかし、理由《りゆう》は?」
「私はね。三田村が失踪《しつそう》したときから、何か変だなという気がしていたんだが、どこが変なのかわからなかった。三田村の失踪《しつそう》そのものじゃない。私も、君たち同様、三田村が三人を殺したと思っていたから、警察《けいさつ》の調査《ちようさ》が進むのをみて、逃《に》げだしたのだと考えたからだよ。とすれば、引っかかっているのは、何なのか。それが、わかったのさ。妻君《さいくん》の行動なんだ。三田村冴子の行動が、心に引っかかっていたんだよ」
十津川は、言葉を切って、お茶を口に運んでから、
「冴子は、夫の三田村が失踪《しつそう》した日、一日中、家から動こうとしなかった。小川君によれば、次の日もだ。おかしくはないかね? 冴子は、三田村を愛しているといっていたんだ。愛する夫が行方不明《ゆくえふめい》になったというのに、妻が、家から動こうとしない。不自然じゃないか。しかも、水上あたりは、夫婦にとって思い出の地なんだ。彼女自身が、なぜ、まっさきに、あの辺《あた》りを探《さが》そうとしなかったのだろうか? 列車で行ったっていいし、車を飛ばしたっていいんだ。それなのに、冴子《さえこ》は、家にいた」
「なぜでしょうか?」
「理由《りゆう》は、たった一つしか考えられないさ。アリバイ作りだよ。探《さが》し廻《まわ》っていたら、アリバイが作れないと考えたからだ」
16
「冴子は、もう三田村を愛していなかったんだよ。彼女は、他の男を愛し始めていたんだ。だが、三田村は、離婚《りこん》を承知《しようち》しそうにない。もし、したとしても、莫大《ばくだい》な慰謝料《いしやりよう》を要求するに違《ちが》いない。それで、彼女は、好《す》きになった男と、三田村を消す計画を立てたんだな」
「相手の男は、小笠原《おがさわら》ですか?」
「彼《かれ》じゃない。小笠原なら、彼を殺す筈《はず》はないからね」
「しかし、劇団《げきだん》『ペガサス』の連中は、二人の仲《なか》が、最近まで続いていたようだと、いっていましたが」
「多分《たぶん》、それは、冴子が、カムフラージュに小笠原を使っていたんだと思うね。本当の相手を、三田村の眼《め》からも、われわれ警察《けいさつ》の眼からも隠《かく》すための手段《しゆだん》だよ」
「とすると、相手の男というのは、あの医者の――」
「そうだ。福井好夫《ふくいよしお》という医者だよ。われわれは、三田村が、いろいろな薬を手に入れられるということで、青酸《せいさん》カリも手に入るだろうと推測《すいそく》したんだが、医者の福井だって、条件《じようけん》は同じだったわけさ。いや、医者の福井のほうが、青酸《せいさん》カリは、楽に手に入ったんじゃないかね」
「すると、小笠原を殺したのは、福井でしょうか?」
「いや。冴子のほうだろう。三田村は、冴子に惚《ほ》れ込《こ》んでいたんだと思う。結婚《けつこん》してからの三田村に、別の女の匂《にお》いが感じられないからね。だから、仕事の話も、冴子にしていたんだろうと思う。冴子は、人探《ひとさが》しゲームに、夫が、小笠原を使ったのを知って、チャンスだと思ったんだ。夫の三田村を殺せば、疑《うたが》いはすぐ冴子にかかってくるが、小笠原が死ねば、疑《うたが》いは三田村にかかる。そう計算したんだ。冴子は、ナイフを持って、マンションに、小笠原を訪《たず》ねた。小笠原は、パジャマ姿《すがた》で、犯人《はんにん》を、寝室《しんしつ》まで入れている。犯人が親しい人間の証拠《しようこ》だ。犯人が福井だったら、ああはいかないだろう。福井が、小笠原と顔見知りという証拠《しようこ》は、全然、ないからね。犯人は、冴子だ。彼女は、油断《ゆだん》を見すまして、小笠原を刺殺《しさつ》し、死体の傍《そば》に、ネームの入った三田村のライターか、ネクタイピンか、何かを落しておいたんだ」
「それを小田《おだ》と順子《じゆんこ》が見つけて、三田村をゆすったわけですな。五百万円で」
「そうだ」
「その時、三田村は、妻の冴子が犯人ではあるまいかと、疑《うたが》ってみなかったんでしょうか?」
「疑わなかったと思うね。冴子に惚《ほ》れていたこともあるし、クラブ『リオ』のアリバイがあったからだよ。だが、午後八時から十五分間のアリバイが、三田村にないということは、一緒《いつしよ》だった冴子にも、十五分間のアリバイがないということだからね」
「すると、クラブ『リオ』の化粧室《けしようしつ》から抜《ぬ》け出し、裏《うら》に置いておいたフォード・ムスタングで、小笠原を殺しに行ったのは、三田村ではなく、冴子だったわけですね?」
「その通りだよ。午後八時に、冴子は、姪《めい》に電話してくれと、夫の三田村に頼《たの》む。一方、福井好夫《ふくいよしお》は、その時間に、同じ店の廊下《ろうか》で、三田村を待ち受ける。福井は、電話をかけ終った三田村に声をかけ、立ち話で、十五分間、引き止めた。その間に、冴子は、化粧室《けしようしつ》から抜《ぬ》け出して、小笠原を殺しに行ったんだ。こうして、冴子は、自分のアリバイを作ると同時に、三田村のアリバイを消してしまったんだ。だが、三田村は、小田と順子の二人にゆすられてからも、妻の冴子を疑わなかった。ネーム入りの所持品は、どこかで落したのを、たまたま、自分を恨《うら》んでいる者が拾《ひろ》い、自分を殺人犯人に仕立てあげようとしているんだと、考えたんじゃないかと思うね。だから、五百万円を払《はら》う気になったのさ」
「小田と順子の二人を殺したのも、主任《しゆにん》は、冴子だとお考えですか?」
「むろん。今いったように、冴子は、小笠原を殺し、死体の傍《そば》へ、三田村の身《み》の廻《まわ》り品を落しておいた。それが、警察《けいさつ》の手に渡《わた》れば、三田村は、間違《まちが》いなく、殺人犯《さつじんはん》として逮捕《たいほ》される。有罪になれば、それを理由《りゆう》に離婚《りこん》もできるとね。だが、その品物は、小田と順子のアベックの手に渡《わた》り、ゆすりに使われてしまった。計画が失敗したんだが、三田村は、愚《おろ》かにも、ゆすられていることを、冴子に話して、しまったのさ。もちろん、これはあくまで推測《すいそく》だが、そうでないと、辻褄《つじつま》が合わなくなってくるんだ。なぜ、そんなことを、三田村は、妻の冴子に話してしまったのか。彼女に惚《ほ》れていたこともあるだろうが、五百万円という大金を銀行から下ろすのには、冴子の同意が必要だったんじゃないかな。財産家《ざいさんか》の女と、サラリーマンが結婚《けつこん》すれば、ありがちなことだ。小田と順子のことを知った冴子は、三田村を罠《わな》にはめることを、もう一度、考えた。もちろん、福井と相談したんだろう。福井が、青酸《せいさん》カリを用意し、冴子が、それを、夫と二人が五百万円の授受《じゆじゆ》をしている時刻《じこく》に、アパートに忍《しの》び込《こ》み、ウイスキーの角びんに放り込んだんだ、冴子にしてみれば、この計画は、成功しても、失敗してもよかったわけさ。三田村が、二人にゆすられて、五百万円|払《はら》った事実がある限《かぎ》り、疑《うたが》われるのは、彼だからだよ」
「しかし、午後八時半|頃《ごろ》、三田村は、アパートに入っていますよ」
「それは、やはり、五百万円という大金が惜《お》しくなったんだろう。証拠品《しようこひん》を取り返した以上、二人を怖《こわ》がることはないから、腕《うで》ずくでも、五百万円を取り返そうと思って、乗り込んだのかも知れない。そして、部屋《へや》の中に、毒死している二人を発見して、仰天《ぎようてん》した。あわてて、五百万円を持って逃《に》げ出した。それを、おでんの屋台を引く男に、見られたのさ」
「なるほど」
と、亀井刑事《かめいけいじ》は、眼《め》を輝《かがや》かしたが、
「しかし、冴子は、罠《わな》にはめた夫の三田村を、なぜ、殺す気になったんでしょうか?」
「これは、冴子の考えじゃないと思うね。冴子は、夫を、殺人罪《さつじんざい》で刑務所《けいむしよ》へ放り込《こ》むだけで満足だったんじゃないかな。そうしておいて、彼女は、あくまで、三田村に欺《だま》されていた、可哀《かわい》そうな妻のポーズを取り続ける気だったんだろう。そして、泣《な》く泣《な》く離婚《りこん》する。いい役廻《やくまわ》りだからね。ところが、福井《ふくい》のほうは、それだけでは、満足しなかった。三田村を、完全に、この世から消してしまいたかった。男としたら、無理《むり》はないだろうね。冴子と一緒《いつしよ》になったとき、前夫の三田村は、この世にいないほうが、すっきりできるからね。それで、三田村を消す役は、福井が引き受けたんだろうと思うのだ。福井は、冴子に、アリバイを作っておくようにいって、三田村の車で、水上《みなかみ》の先まで行き、谷底に落したんだ」
「三田村を、どうやって、あそこまで誘《さそ》い出したんでしょうか? かなり、難《むずか》しかったろうと思うんですが」
「確《たし》かに、あそこまで連れ出すのは難《むずか》しいが、東京で殴《なぐ》り殺しておいて、死体を、あそこまで、運ぶのは、楽だよ」
「しかし、死亡推定時刻《しぼうすいていじこく》が」
「午後二時から五時までなんだろう? 例《たと》えば、午後三時に殺してから、福井が、車で運んで行く。現場《げんば》に着いたのは、もう夜になっていたろう。そこで、まず、死体の指を、ハンドルに押《お》しつけて、指紋《しもん》をつける。福井は、手袋《てぶくろ》をはめて、あそこまで運転していったろうからね。全部、指紋《しもん》は拭《ふ》き消されてしまっていたから、新しく、三田村の指紋をつけておく必要があった筈《はず》だよ」
「しかし、三田村が、フォード・ムスタングで午前九時に家を出ている筈《はず》では――」
と、小川刑事は、いいかけて、自分で頭をかいて、
「午前九時に、三田村が車で家を出たというのは、冴子の証言《しようげん》でしたね。彼女が犯人《はんにん》だとすれば、この証言《しようげん》は、全《まつた》く、信憑性《しんぴようせい》がなくなるわけですね」
「そうさ。今度の事件《じけん》では、われわれは、全《まつた》く、彼女一人に、引きずり廻《まわ》されてしまっていたんだよ」
女は怖《こわ》いね、という代りに、十津川《とつがわ》は、二人に向って、
「三田村が死んだ日の福井好夫の行動を徹底的《てつていてき》に洗ってみてくれ。福井は、谷底に、三田村の死体を投げ捨《す》てたあと、歩いて、水上《みなかみ》温泉に出たか、或《ある》いは、北に向って、湯沢《ゆざわ》温泉に出たかだろう。その辺をな、男が自供すれば、女のほうも簡単《かんたん》に落ちるさ」
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夜の終り
第一章 女が死んだ
1
春先にしては、朝から薄寒《うすざむ》い日だった。午後になって、小雪《こゆき》がちらつき、夜に入ると、それが、雨に変った。
十一時を廻《まわ》る頃《ころ》になると、浅草六区《あさくさろつく》の映画街《えいががい》も、観客を吐《は》き出して、ひっそりと、静まりかえってしまう。消え残ったネオンだけが、雨に濡《ぬ》れた舗道《ほどう》に、赤青の小さな模様《もよう》を映《うつ》していた。
日映館《にちえいかん》の会計係をしている鈴木晋吉《すずきしんきち》は、観客の消えてしまった、がらんとした映画館の中で、一日の売上げの計算を済《す》ませ、現金を金庫に納《おさ》めると、やれやれというように、小さな伸《の》びをした。
「済《す》んだかね?」
電気ストーヴに、手をかざしていた、支配人《しはいにん》の村田《むらた》が、眠《ねむ》そうな声を掛《か》けた。太《ふと》った男で、小さな椅子《いす》が、毀《こわ》れそうな感じだった。鈴木を含《ふく》めて、 従《じゆう》 業《ぎよう》 員《いん》達は、彼《かれ》のことを、「白豚《しろぶた》」の綽名《あだな》で、呼《よ》んでいた。
「済《す》みました」
と、鈴木《すずき》はいった。
「今日は、久《ひさ》しぶりに、客が入りましたね」
「雨が降《ふ》って助かったよ。天気が良《よ》かったら、客は、郊外《こうがい》に流れてたところだ。雨|様《さま》さまさ」
村田は、のっそりと、椅子《いす》から立ち上って、外国|煙草《たばこ》を口に咥《くわ》えた。火を点《つ》けると、柔《やわ》らかな香《かお》りが、狭《せま》い事務室《じむしつ》に漂《ただよ》った。
「そろそろ、帰るとするか」
村田が、いった。鈴木|晋吉《しんきち》は、金庫の鍵《かぎ》を、村田に渡《わた》してから、部屋《へや》のスイッチを切った。客席にも、廊下《ろうか》にも、まだ、明りが点《つ》いている。それを消していくのも、鈴木の仕事であった。
暖房《だんぼう》を止めた客席は、ひどく寒い。鈴木は、手をこすりながら、一階、二階と、スイッチを消していった。
日映館《にちえいかん》は、古い建物で、三階は、目下改装中《もつかかいそうちゆう》である。二階から三階への階段《かいだん》の途中《とちゆう》には、縄《なわ》が張《は》ってあり、「通行止《つうこうどめ》」の木札《きふだ》が、ぶら下っていた。
鈴木は、暗い三階の辺《あた》りを、一寸《ちよつと》、見上げてから、首をすくめて、階段《かいだん》をおり始めたが、途中《とちゆう》で、立ち止まってしまった。何か、奇妙《きみよう》な物を、見たように、思ったからである。
鈴木は、もう一度、三階に通じる階段《かいだん》を見上げた。明りを点《つ》けてみた。階段《かいだん》の途中《とちゆう》に、黒い物が、落ちている。
鈴木は、瞳《ひとみ》を、こらした。靴《くつ》であった。黒く塗《ぬ》られたハイヒールである。「通行止《つうこうどめ》」の木札《きふだ》の、向う側《がわ》に落ちていることが、鈴木の神経《しんけい》を尖《とが》らせた。
(なぜ、あんな所に、ハイヒールが、落ちているのだろうか?)
鈴木は、縄《なわ》を、くぐって、落ちている靴《くつ》を、拾《ひろ》い上げた。安物《やすもの》だが、ヒール三寸《さんずん》ばかりの真新《まあたら》しい靴《くつ》であった。鈴木は、周囲を、見廻《みまわ》したが、もう片方《かたほう》は、見当らない。
鈴木は、ハイヒールを、片手《かたて》に、ぶら下げたまま、暗く、静まりかえっている、三階を見上げた。
「どうしたんだ?」
下から、村田《むらた》の声がした。戻《もど》って来ないのを、不審《ふしん》に思って、上って来たらしい。
「靴《くつ》が落ちてたんです」
「何だって?」
「靴《くつ》です」
「靴《くつ》?」
村田も近寄《ちかよ》って来て、鈴木が、持っているハイヒールを眺《なが》めた。眉《まゆ》を、しかめたのは、彼《かれ》にも、わけが判《わか》らないということなのだろう。
「誰《だれ》かが、買った靴《くつ》を、包《つつ》みから、落したのじゃないかな」
村田は、曖昧《あいまい》な表情《ひようじよう》で、いったが、その言葉は、自分でも、理屈《りくつ》に合っていないと、気付いているようだった。
「底が、汚《よご》れていますから、履《は》いていたものです」
鈴木は、靴底《くつぞこ》を、村田に見せた。
「それに、通行止《つうこうどめ》の、三階|側《がわ》に落ちていたのが、不思議《ふしぎ》ですよ」
「誰《だれ》かが、改装中《かいそうちゆう》の三階に、上ったということかね?」
「そうかも知れませんが、この靴《くつ》を落した女は、一体《いつたい》、どうしたんですかね? まだ、新しい靴《くつ》なのに」
「靴《くつ》を片方《かたほう》、無《な》くしたという申し出は、今日、なかったようだが」
二人は、黙《だま》って、靴《くつ》を眺《なが》め、それから、もう一度、暗い三階を見上げた。寒さが、急に加わったような気がして、鈴木は、首をすくませた。彼は、一時、この辺《あた》りの愚連隊《ぐれんたい》に仲間入《なかまい》りしていたこともあって、自分では、度胸《どきよう》がある方だと思っていたのだが、静まりかえっている、三階を見上げているうちに、背筋《せすじ》に、何か、寒いものが走るのを感じた。静か過《す》ぎるせいかも知れない。
「上ってみるか」
村田が、ぽつんと、いった。その顔も、何となく、蒼《あお》ざめているように見えた。
「三階へですか――?」
鈴木は、乾《かわ》いた声でいい、意気地《いくじ》なしと、思われるのが嫌《いや》で、先に立って、階段《かいだん》を上って行った。
壁《かべ》についているスイッチを押《お》した。三階には、八十の座席《ざせき》があったが、その半分あまりは、改造《かいぞう》のために、取り払《はら》われていた。椅子《いす》のない客席というものは、妙《みよう》に、がらんとして、間《ま》の抜《ぬ》けて見えるものだ。
鈴木は、入口の所に立って、青白い蛍光灯《けいこうとう》に照らし出された、フロアを眺《なが》め廻《まわ》した。その視線《しせん》が、急に、釘付《くぎづ》けになった。
「あれは――?」
と指さしたのは、柱の陰《かげ》に、人間の足らしいものが、見えたからである。
鈴木晋吉と、村田は、顔を見合せてから、柱の傍《そば》へ、近寄《ちかよ》って行った。改造《かいぞう》されれば、取り払《はら》われることになっている柱だった。
「うッ」
と、村田が、押《お》し殺したような、うめき声を上げた。鈴木も、息を呑《の》んだ。二人の足元に倒《たお》れているのは、まぎれもなく、人間だったからである。若い女だった。白茶《しらちや》けた顔は、苦悶《くもん》に歪《ゆが》み、口からは、糸のように細い血が流れていた。
「死んでいる――」
村田が、震《ふる》える声で、いった。間違《まちが》いなく、女の顔には、死相《しそう》が、現われていた。
「警察《けいさつ》に、電話するんだ」
短い、沈黙《ちんもく》のあとで、村田が、甲高《かんだか》い声でいった。
鈴木は、弾《はじ》かれたように、死体の傍《そば》から離《はな》れたが、その時になって、女の足の片方《かたほう》が、裸足《はだし》なことに気付いた。
階段《かいだん》に転《ころ》がっていたハイヒールは、この女のものだったのだ。
2
連絡《れんらく》を受けた浅草署《あさくさしよ》から、係官《かかりかん》が、現場《げんば》である日映館《にちえいかん》に到着《とうちやく》したのは、十分後である。
客席の中で、刑事《けいじ》と、鑑識課員《かんしきかいん》が、死体を取り囲んだ。補光器《ほこうき》が、取りつけられ、薄暗《うすぐら》かった三階は、真昼《まひる》のような明るさになった。
ベテランの田島刑事《たじまけいじ》は、鑑識課員《かんしきかいん》の背後《はいご》から、黙《だま》って、死体を見おろしていた。女は、厚化粧《あつげしよう》をしていた。アイシャドーまでしている。しかし、その厚化粧《あつげしよう》の下には、意外に稚《おさな》い顔が覗《のぞ》いていた。
(まだ、子供じゃないか――)
と、田島は、思い、妙《みよう》に、いがらっぽいものが、胸《むね》に湧《わ》き上ってくるのを感じた。どうみても、二十歳には、なっていないだろう。十八くらいだろうか。或《ある》いは、もっと、若いかも知れない。この厚化粧《あつげしよう》を落したら、恐《おそ》らく、セーラー服《ふく》が、似合《にあ》うに違《ちが》いない。しかし、女が、身につけているのは、襟《えり》ぐりの大きく開いたセーターと、タイトのスカートだった。
(精一杯《せいいつぱい》、大人《おとな》に見せようとしていた、と、いうところらしい)
田島刑事は、死体から眼《め》をそらせると、蒼《あお》い顔で立っている、映画館の支配人《しはいにん》と、会計係に眼《め》を向けた。死体の発見|状況《じようきよう》については、既《すで》に、聞いていた。
「この女性に、心当りは?」
と、田島が、訊《き》くと、二人は、今日、初めて見たのだと、主張《しゆちよう》した。心当りは、ないという。
「なぜ、改装中《かいそうちゆう》の三階まで、上って来たのか、判《わか》りますか?」
という質問《しつもん》に対しては、支配人《しはいにん》の村田《むらた》の方が、
「若いアベックの中には、二人だけに、なりたくて、わざわざ、人気《ひとけ》のない三階に来るのが、時々、おるのです」
と、苦笑《くしよう》しながら、いった。
「映画を見るのが目的というより、二人だけになりたくて、映画館に入ってくる客も、いますからね。そんな客には、改装中《かいそうちゆう》の三階は、絶好《ぜつこう》の場所と、いうわけです」
「改装《かいそう》工事は、いつ、やるんです?」
「今は、映画の始まる十時半までの間、ぼつぼつ、椅子《いす》の取り払《はら》いをやっていますが、来月からは、本格的《ほんかくてき》にやろうと思っています。そうなれば、一か月くらい、劇場《こや》を、閉《し》めなきゃならないと、思っていますが――」
村田は、暗い顔になって、いった。劇場《げきじよう》の名前に、傷《きず》がつき、その為《ため》に、客足《きやくあし》の減《へ》るのを、心配しているのかも知れない。
田島《たじま》は、もう一度、視線《しせん》を、死体に戻《もど》した。村田の言葉は、当っているだろうと、思った。この女が、ひとりで、改装中《かいそうちゆう》の、三階に上って来た筈《はず》がない。男が、一緒《いつしよ》だったに違《ちが》いない。
(その男が、この女を、殺したのだろうか?)
死体を調べていた、鑑識課員《かんしきかいん》の一人が、立ち上って、田島を見た。
「青酸《せいさん》ですよ」
と、鑑識課員《かんしきかいん》がいった。
「解剖《かいぼう》してみないと、はっきりしたことは、判《わか》りませんが、死亡時刻《しぼうじこく》は、三、四時間前ですね。ジュースか何かに混《ま》ぜて、飲んだらしい――」
鑑識課員《かんしきかいん》は、「飲まされた」とは、いわなかった。田島も、自殺の可能性《かのうせい》も、なくはないと、考えていた。
死者の顔には、青酸死特有《せいさんしとくゆう》の、淡紅色《たんこうしよく》の斑点《はんてん》が、見え始めていた。
鑑識課員《かんしきかいん》に代《かわ》って、若い安部刑事《あべけいじ》が、死体の側《そば》に、屈《かが》み込《こ》んで、所持品を、調べている。黒い、ビニール製《せい》のハンドバッグの中から、若い女の所持品らしい、化粧《けしよう》セットや、ハンカチーフが、出て来たが、女の身許《みもと》を証明するような物は、見つからなかった。
「財布《さいふ》も、見つかりません」
安部刑事は、田島に、いった。
「殺しの可能性《かのうせい》が、強いですね」
「殺した奴《やつ》が、金を奪《うば》って行ったということかね?」
「だと、思うんですが。一銭《いつせん》も持たずに、映画を観《み》に来るというのも、おかしな話ですから」
「最初から、ここで、自殺する積《つも》りなら、映画代だけ持って来ることも、考えられるよ」
「最初からですか?」
「自殺の場所には、ふさわしくないと、いいたいんだろうが、彼女《かのじよ》にとって、ここは、思い出の場所ということも、考えられるからね」
田島は、柔《やわ》らかい調子でいった。安部刑事は、納得《なつとく》が出来ないというような顔で、黙《だま》って、客席を見廻《みまわ》している。若いだけに、自殺で片付《かたづ》いてしまうより、殺人事件《さつじんじけん》であってくれた方が、いいといいたげな眼付《めつ》きになっていた。
田島は、微笑《びしよう》した。彼自身も、殺人の可能性《かのうせい》の方が強いと、考えていたからである。それに、安部刑事ぐらいの若さの時は、事件《じけん》であって欲《ほ》しいと願ったこともある。
「レインコートや、傘《かさ》もないというのは、変ですよ」
安部が、いった。
「今日は、昼過《ひるす》ぎから、雪になり、それが、雨に変った筈《はず》ですからね」
確《たし》かに、安部のいう通りだった。女の服装《ふくそう》は、余《あま》りにも、軽装過《けいそうす》ぎた。この恰好《かつこう》で、雨の中を歩いていたとは考えられない。レインコートは、着ていなかったとしても、傘《かさ》は、なければ、おかしかった。
(やはり殺人ということか)
田島は、黙《だま》って、腕《うで》を組んだ。男が一緒《いつしよ》だったとすれば、相合傘《あいあいがさ》ということも考えられるし、女の傘《かさ》がないことも説明がつく。或《ある》いは、傘《かさ》や、レインコートに、女の名前でも、記入してあったので、犯人《はんにん》は、それを知られたくなくて、持ち去ったのかも知れない。
3
翌日《よくじつ》、解剖《かいぼう》の結果《けつか》が、報告《ほうこく》された。
死因《しいん》は、やはり、青酸中毒《せいさんちゆうどく》によるもので、オレンジ・ジュースと一緒《いつしよ》に、嚥下《えんか》されたと、報告書《ほうこくしよ》には、記入されてあった。死亡時刻《しぼうじこく》は、午後九時から、十時までの間。そして、被害者《ひがいしや》は、妊娠《にんしん》三か月だったという。
刑事《けいじ》達が、まず、やらなければならないことは、被害者《ひがいしや》の身許《みもと》を、明らかに、することであった。
被害者《ひがいしや》の写真を持って、刑事《けいじ》が、四方に、飛んだ。
田島《たじま》は、安部刑事《あべけいじ》と、日映館《にちえいかん》を、もう一度|訪《たず》ねた。
昨日の陰気《いんき》な雨空とは、打って変って、春の陽光が、舗道《ほどう》に、こぼれていた。
日映館に着いたのが、十時。開館までには、まだ、三十分ばかりあったが、切符《きつぷ》売場の前には、十人近い客が、並《なら》んでいた。失業中らしい中年男や、日傭《ひやと》いの仕事に、アブレたらしい、労働者が多いのは、百何十円かで、今日一日を、潰《つぶ》すつもりなのだろう。
田島は、支配人《しはいにん》の村田《むらた》に、会った。ショボショボしたような眼《め》をしているのは、この男にとっても、昨日の事件《じけん》が、ショックだったということなのだろうか。
「やはり、殺人だったのですか?」
村田は、二人を、事務室《じむしつ》に案内してから、訊《き》いた。
「殺人の可能性《かのうせい》が強いと考えて、捜査《そうさ》しているのです」
「それで、身許《みもと》は、判《わか》りましたか?」
「いや。それを知りたくて、伺《うかが》ったのです。従《じゆう》 業《ぎよう》 員《いん》の方に、いろいろと、訊《き》いてみたいのですが」
「どうぞどうぞ」
村田は、ここへ、呼《よ》ぼうかと、いったが、田島は、それを拒《ことわ》って、自分で、切符《きつぷ》売りや、モギリの女に、会った。
写真を見せて、まず、切符《きつぷ》売場の女に、見憶《みおぼ》えが、あるかどうか、訊《き》いてみた。三十|歳《さい》くらいの、小柄《こがら》な女だが、写真を手にとって、長い間、眺《なが》めてから、記憶《きおく》がないという。
「昨日は、お客が、多かったもんですから」
と、済《す》まなそうに、いった。しかし、モギリ嬢《じよう》の方は、見たような記憶《きおく》が、あると、いった。
「この女が、来たのは、何時|頃《ごろ》か、憶《おぼ》えているかね?」
「夕食を済《す》ませて、交代《こうたい》してからだったと思います。だから、七時|頃《ごろ》じゃなかったかと思うんです」
扁平《へんぺい》な顔をした、モギリ嬢《じよう》は、あまり自信のない表情《ひようじよう》で、いった。
「来た時は、独《ひと》りだったかね? それとも、誰《だれ》かと、一緒《いつしよ》だったかね?」
「独《ひと》りだったと思います」
「独《ひと》り?」
田島は、一寸《ちよつと》、意外だというように、眉《まゆ》をしかめて見せた。アベックで来て、男の方が殺したのだろうと、考えていたのだが、この考えは違《ちが》っていたらしい。
(しかし、簡単《かんたん》に、違《ちが》ったと、決めて、いいだろうか。むしろ、最初から、殺す積《つも》りなら、アベックで、映画館に、来る筈《はず》がない。別々に入り、改装中《かいそうちゆう》の三階で、落ち合ったと見る方が、当っているようだ)
田島は、そう考え、被害者《ひがいしや》が、独《ひと》りで、入ったということに、かえって、男の姿《すがた》を感じたような気がした。
「女が、来たときのことを、よく思い出して欲《ほ》しいんだが――」
田島は、薄暗《うすぐら》いフロアに倒れていた、女の姿《すがた》を、思い出しながらいった。
「服装《ふくそう》のことだが、この写真のように、セーター姿《すがた》だったろうか? それとも、この上に、何か羽織《はお》っていたかね?」
「確《たし》か、セーター姿《すがた》だったと思います。随分《ずいぶん》、派手《はで》な恰好《かつこう》をしてるなって、思ったのを、憶《おぼ》えています。確《たし》かですわ、この、胸《むね》の開いたセーターを着てました。緑色の――」
「傘《かさ》は?」
「傘《かさ》――?」
「来たのが、七時|頃《ごろ》だとすれば、雨が一番強く降《ふ》っていた時だ。当然、傘《かさ》を、さしていたと思うんだが、気がつかなかったかね?」
「気がつきませんでした」
「しかし、濡《ぬ》れていなかったんだね?」
「ええ。濡《ぬ》れていれば、憶《おぼ》えていると、思います」
死体にも、雨に濡《ぬ》れた痕《あと》は、なかった。ということは、傘《かさ》を、さしていたに、違《ちが》いないということだろう。しかし、その傘《かさ》が、失《な》くなっていたというのは、どうしたわけだろう?
田島は、モギリ嬢《じよう》の後《あと》に、売店の女に会って、同じことを、訊《き》いてみたが、この方は、女を、憶《おぼ》えていなかった。
「ジュースを、買いに来たことは、なかったかね?」
と、念を押《お》したが、憶《おぼ》えていないという。
田島は、安部刑事《あべけいじ》と、顔を見合せた。解剖《かいぼう》の結果《けつか》では、オレンジ・ジュースに混《ま》ぜた青酸《せいさん》が、嚥下《えんか》されているのである。
「昨日、オレンジ・ジュースは、何本、売れたかね?」
田島が、訊《き》くと、売店の女は、一寸《ちよつと》考えてから、十八本だと、いった。
「その空瓶《あきびん》は?」
「ここにあります」
女は、売店の隅《すみ》に、並《なら》んでいる空瓶《あきびん》を、指さして見せた。確《たし》かに、十八本ある。泥《どろ》で汚《よご》れているのは、客席に捨《す》てられたのを回収《かいしゆう》したからだろう。
「調べて見ますか?」
安部刑事《あべけいじ》が、小声《こごえ》で訊《き》いた。田島は、頷《うなず》いて見せた。この瓶《びん》の中の一本から、或《ある》いは、青酸反応《せいさんはんのう》が、現われるかも知れない。
「この空瓶《あきびん》を、借りて行くよ」
田島は、売店の女に、いった。
捜査本部《そうさほんぶ》に、持ちかえられた、十八本の空瓶《あきびん》は、直《ただ》ちに、鑑識《かんしき》に、廻《まわ》された。
「出るでしょうか?」
安部刑事《あべけいじ》が、興奮《こうふん》した調子で、訊《き》いたが、田島は、
「青酸反応《せいさんはんのう》がでても、事件《じけん》はたいして、進展しない」
と、冷静に、いった。
「その瓶《びん》から、犯人《はんにん》の指紋《しもん》でも、検出《けんしゆつ》されれば、別だがね。それより、被害者《ガイシヤ》の身許《みもと》が、判《わか》らないことには、話にならない」
二時間後に、鑑識《かんしき》から報告《ほうこく》が来た。十八本の中の一本から、青酸反応《せいさんはんのう》が、あったというのである。しかし、田島が、予期したように、その瓶《びん》から、被害者《ひがいしや》の指紋《しもん》しか検出《けんしゆつ》されなかったという。
被害者《ひがいしや》は、青酸《せいさん》入りの、オレンジ・ジュースを、飲んで死んだ。しかし、彼女《かのじよ》は、売店に、ジュースを、買いに来なかった。誰《だれ》かが、売店で買い求め、それに青酸《せいさん》を混《ま》ぜて、被害者《ひがいしや》に、飲ませたのだ。しかも、ジュースの空瓶《あきびん》は、死体の傍《そば》になかった。恐《おそ》らく手袋《てぶくろ》をはめた犯人《はんにん》が、持ち去ったのだろう。
「しかし、何故《なぜ》、犯人《はんにん》は、そんなことを、したんでしょう?」
安部刑事は、眉《まゆ》を寄《よ》せて、田島を見た。
「空瓶《あきびん》を、死体の傍《そば》に置いておいた方が、犯人《はんにん》には、有利だったんじゃないでしょうか? 自殺に見せかけることも、出来たと、思うんですが」
「それは、どうかな」
田島は、首をかしげた。
「オレンジ・ジュースを、買ったのは、被害者《ガイシヤ》じゃない。そのことは、売店の女が、証言《しようげん》している。空瓶《あきびん》を、死体の傍《そば》に捨《す》てておいても、自殺に見せかけることは出来なかったと思うがね」
「そうでしょうか――」
安部刑事は、まだ、納得《なつとく》できかねる表情《ひようじよう》だったが、田島は、もう、別のことを、考えていた。被害者《ひがいしや》の身許《みもと》である。
その日の夜になっても、被害者《ひがいしや》の身許《みもと》は、依然《いぜん》として、不明のままであった。
第二章 過去を追って
1
被害者《ひがいしや》は、一体《いつたい》、どこの誰《だれ》なのか? それが、判《わか》らなければ、捜査《そうさ》は、壁《かべ》に突《つ》き当ってしまう。翌日《よくじつ》も、刑事《けいじ》達は、被害者《ひがいしや》の写真を手にして、身許調査《みもとちようさ》に、散って、行った。
新聞に、写真が出た為《ため》に、捜査本部《そうさほんぶ》への照会《しようかい》も、三|件《けん》ほどあったが、いずれも、人違《ひとちが》いであることが、判《わか》った。
「妙《みよう》だな」
田島《たじま》は、安部刑事《あべけいじ》に、浅草観音《あさくさかんのん》の近くを歩きながら、自分の気持を話しはじめた。
「事件《じけん》が起きた時は、すぐ、身許《みもと》が、割《わ》れると、思ったんだが」
「僕《ぼく》もです」
と、安部刑事も、頷《うなず》いて見せた。事件《じけん》発生以来、既《すで》に、四十時間以上が、経過《けいか》しているのだが、手掛《てがか》りらしいものは、何一つ、掴《つか》めていない。
「セーター姿《すがた》で、映画館に来たんだから、この近くに、住んでいた筈《はず》だと、思うんだが」
田島は、眉《まゆ》をしかめた。刑事《けいじ》達は、浅草六区《あさくさろつく》を中心に、台東《たいとう》区内は勿論《もちろん》、墨田《すみだ》、江東《こうとう》まで、足を延《の》ばして、聞き込《こ》みを続けているのだ。しかも、新聞、テレビは、死者の顔写真を報道《ほうどう》した。それなのに、身許《みもと》が判《わか》らないのは、なぜなのか。
「身寄《みよ》りがいれば、当然、名乗り出ている筈《はず》ですがね」
「まさか、被害者《ガイシヤ》が、天涯孤独《てんがいこどく》だったわけじゃないと思うが」
「或《ある》いは、そうだったのかも知れませんよ」
安部刑事《あべけいじ》は、顔を、曇《くも》らせた。
「今になっても、身許《みもと》の判《わか》らないことが、被害者《ガイシヤ》の置かれていた、暗い境遇《きようぐう》を、示しているような気がするんですが」
「センチメンタルなんだな」
「いけませんか?」
「いけなくはない。或《ある》いは、君の考えている通りかも知れないからね」
田島は、疲《つか》れた声で、いった。
被害者《ひがいしや》の服装《ふくそう》と、厚化粧《あつげしよう》から、彼女《かのじよ》が、水商売に関係しているだろうという考えは、捜査本部《そうさほんぶ》を支配《しはい》している。そのため、田島や、安部達は、バー、キャバレー、特殊浴場と、訪《たず》ね廻《まわ》っているのだが、まだ、期待した答は、出ていなかった。彼等《かれら》の多くが、警察《けいさつ》に対して、非協力的《ひきようりよくてき》なことも、身許確認《みもとかくにん》を、難《むずか》しいものに、していた。
田島は、歩きながら、腕時計《うでどけい》を眺《なが》めた。
七時。
夜は、暗さを増《ま》し、ネオンが、輝《かがや》きを加えていた。被害者《ひがいしや》は、このネオンの下で、生きていたに、違《ちが》いなかった。セクシャルな、服装《ふくそう》と、厚化粧《あつげしよう》をして。そして、妊娠《にんしん》三か月の身体《からだ》でだ。
(一体《いつたい》、彼女は、どこで、働いていたのか?)
「ナイト・トレイン」という、キャバレーの看板《かんばん》が、田島の眼《め》に入った。彼は、安部刑事を促《うなが》して、足を、急がせる。これで、何軒目《なんげんめ》だろうか。どの店でも、迷惑気《めいわくげ》に、二人の刑事を迎《むか》え、そんな女は、うちには、いませんでしたというのだ。おうむが、繰《く》り返すような、素気《そつけ》ない言葉を、田島と、安部刑事は、少なくとも、十度以上、聞かされている。二人だけではない。他《ほか》の刑事達も、今頃《いまごろ》は、同じ言葉を、聞かされているに、違《ちが》いなかった。
田島《たじま》と、安部刑事は、「ナイト・トレイン」と、金文字《きんもじ》で書いたドアを、押《お》して、中へ入った。途端《とたん》に、バンドの狂騒《きようそう》と、女の嬌声《きようせい》が、耳に、飛び込《こ》んでくる。田島は、ボーイに、警察手帳《けいさつてちよう》を見せて、支配人《しはいにん》に、会いたいと、告《つ》げた。
たいした期待は、なかった。二人の前に、姿《すがた》を現わした、中年の支配人《しはいにん》も、これまでに訪《たず》ねた、幾《いく》つかのキャバレーのそれのように、迷惑《めいわく》げな、微苦笑《びくしよう》を、浮《う》かべていた。
「一昨日《おととい》の、日映館《にちえいかん》の事件《じけん》は、ご存《ぞん》じだと思いますが?」
田島は、相手の顔を見て、いった。支配人《しはいにん》は、細面《ほそおもて》の、青白い顔を、頷《うなず》かせた。
「新聞で、読みましたよ」
「死んだ女の身許《みもと》が、まだ、判《わか》らんのです。それで、お伺《うかが》いしたんですが」
「わたしの所で、働いていた人じゃないか、ということですか?」
「違《ちが》いますか?」
田島は、ポケットから、被害者《ひがいしや》の写真を、取り出して、男の前に、置いた。
「うちの娘《こ》じゃ、ありませんねえ」
支配人《しはいにん》は、素気《そつけ》ない調子で、いった。
「うちでは、今、百二十人ばかり働いていますが、行方不明《ゆくえふめい》に、なったって娘《こ》は、いませんよ」
「そうですか」
予期した通り、収穫《しゆうかく》は、なかった。疲労《ひろう》が、強さを増《ま》したような気がした。礼をいって、二人が、帰りかけた時、支配人《しはいにん》が、ふいに、呼《よ》び止めた。
「この女は、関西|訛《なま》りが、ありましたか?」
支配人《しはいにん》が、写真を眺《なが》めながら、訊《き》いた。
「さあ」
田島は、首をかしげた。
「我々《われわれ》は、死体にしか、会っていないのですよ。もし、関西|訛《なま》りだったら、記憶《きおく》が、あるということですか?」
「半年ばかり前に、うちにいた娘《こ》に、一寸《ちよつと》、似《に》ているんですがね。この女だったかどうか、確信《かくしん》は、持てません。髪《かみ》の形も違《ちが》うし、もっと、野暮《やぼ》ったい感じでしたからね」
「しかし、似《に》ているんでしょう?」
田島は、眼《め》を、輝《かがや》かせた。どんな小さな情報《じようほう》でも、今は、欲《ほ》しかった。
「ええ。似《に》ていないことは、ないです」
「その女は、どうしました?」
「すぐ辞《や》めましたよ。働いたのは、一か月ぐらいじゃなかったですかね。大阪弁《おおさかべん》だったんで、憶《おぼ》えているんです」
「名前は?」
「名前は、何と、いったっけ――」
支配人《しはいにん》は、首をかしげた。仲々《なかなか》、思い出せないらしい。暫《しばら》く沈黙《ちんもく》が、続いてから、
「その娘《こ》と、一緒《いつしよ》に、アパートに住んでいたのが、いますから、連れて来ましょう」
といった。
十分ほどして、中国服姿の、小柄《こがら》な女給を連れて来た。女は、田島と、安部刑事《あべけいじ》に、愛想笑《あいそわら》いをしてみせてから、
「あの娘《こ》が、この写真の女かどうか、判《わか》りませんよ。似《に》てるけど」
と、いった。
「大阪弁《おおさかべん》なら、あの娘《こ》だと、思いますけどねえ」
「名前は?」
「西条《さいじよう》 京子《きようこ》と、いってました。本名かどうか知りませんけど」
「一緒に、アパートに、住んでいたとかですね?」
「ええ。マネージャーに頼《たの》まれたから、少しの間だけという条件《じようけん》で、置いてやったんです」
「それで?」
「一か月ばかりしたら、いなくなっちまいましたわ。お店の方も辞《や》めて」
「どこへ行くと、いっていました?」
「なんにも。ただ、もっと、お金が入る仕事がしたいって、口癖《くちぐせ》に、いってましたけど。あの娘《こ》、あんまり、愛嬌《あいきよう》のいい方じゃなかったから、成績《せいせき》が悪かったんですよ」
「一か月の間に、手紙でも、来ましたか」
「いいえ。自分でも、ひとりぼっちなんだっていってました」
「男がいましたか」
「いいえ」
「大阪のことを、何か話しましたか?」
「いいえ。訊《き》いても、何も喋《しやべ》らないんです。喋《しやべ》りたくないらしくて」
「他《ほか》に、何か、気がついたことは、ありませんか? どんな小さいことでも、いいんですが?」
「最近、大阪から、出て来たようなことを、いってましたわ。それから、ここへ来るまで、上野《うえの》の近くの食堂で働いてたとか」
「どこの食堂です?」
「店の名前は、聞きませんでした。食堂になんか、興味《きようみ》が、ないもんですから」
女が、知っていることは、それだけだった。
田島と、安部刑事は、「ナイト・トレイン」を出た。
収穫《しゆうかく》は、あった。しかし、余《あま》りにも貧《まず》しい収穫《しゆうかく》だ。大阪弁《おおさかべん》を使っていた、西条《さいじよう》 京子《きようこ》という女。それと、上野の食堂。それだけしか、判《わか》らないし、その女が、果《はた》して、被害者《ひがいしや》であるかどうかも、まだ、はっきりは、していない。しかし、この線を追う以外に、今のところ、方法は、なさそうだった。
「上野駅周辺の食堂を、片《かた》っ端《ぱし》から、洗ってみよう」
田島《たじま》は、安部刑事《あべけいじ》に、いって、上野駅に向って、歩き出した。
2
東京には、キャバレーや、バーも多いが、食堂も多い。上野《うえの》駅周辺だけに限《かぎ》っても、大変な数だった。上野公園にある有名な、精養軒《せいようけん》も食堂なら、間口《まぐち》二|間足《けんた》らずの、小さなソバ屋も、食堂と呼《よ》べないことは、ない。
田島は、名の通った大食堂は、無視《むし》することにした。そうした店では、大阪から、上京したばかりの、身許保証《みもとほしよう》のない人間を、簡単《かんたん》に、採用《さいよう》する筈《はず》が、ないと思ったからである。
二人は、写真を手に、食堂めぐりを、始めた。馴《な》れてはいるが、単調で、疲《つか》れる仕事である。何軒目《なんげんめ》かに訪《たず》ねたソバ屋で、二人は、遅《おそ》い夕食を摂《と》った。
「西条《さいじよう》 京子《きようこ》というのは、被害者《ガイシヤ》でしょうか?」
安部刑事《あべけいじ》は、ソバを、すすりながら、田島を見た。もし、西条《さいじよう》 京子《きようこ》という女が、被害者《ひがいしや》でなければ、こうして、足を棒《ぼう》にして歩き廻《まわ》っていることが、単なる無駄《むだ》の積《つ》み重《かさ》ねに終ってしまうのだ。
「同一人であって欲《ほ》しいと、思うがね」
田島は、あまり自信のない顔で、いった。「ナイト・トレイン」の支配人《しはいにん》や女給も、同一人だとは、断定《だんてい》していない。しかし、同一人であって欲《ほ》しかった。
「同一人だったとしてですが――」
安部刑事《あべけいじ》は、煙草《たばこ》を咥《くわ》えて、ゆっくりと、火を点《つ》けた。
「西条《さいじよう》 京子《きようこ》というのは、本名でしょうか?」
「仮名《かめい》だろうね。キャバレーなんかで働く女に、本名を名乗る者は、殆《ほとん》どいない。それに、西条京子というのは、大阪と、東京の組み合せのようじゃないか。そう思わないかね?」
「西条が大阪で、京子の京が、東京の京と、いうわけですか」
安部刑事は、苦笑《くしよう》して見せてから、煙草《たばこ》を、もみ消した。
「行こうか」
田島は、箸《はし》を置いて、立ち上った。
最初の反応《はんのう》があったのは、御徒町《おかちまち》に近い、大衆《たいしゆう》 食堂《しよくどう》だった。ガード下の小さな店で、いかにも、田舎《いなか》から、出て来たばかりといった娘《むすめ》が二人、客の出て行ったあとのテーブルを、拭《ふ》いていた。
田島は、不精髭《ぶしようひげ》を生やした、店の主人に当ったが、写真を、ちらッと見ただけで、知りませんよ、といった。面倒臭《めんどうくさ》いと、いいたげな態度《たいど》に、田島が、腹《はら》を立てかけた時、少女に当っていた、安部刑事《あべけいじ》が、
「田島さん」
と、甲高《かんだか》い声で、呼《よ》んだ。
「この娘《こ》が、見憶《みおぼ》えがあるそうです」
田島は、急いで、安部刑事の傍《そば》に、戻《もど》った。丸顔の娘《むすめ》が、ひどく、緊張《きんちよう》した顔で、写真を眺《なが》めていた。
「はっきりしたことは、判《わか》らないのです」
と、娘は、おどおどした声で、いった。
「文《ふみ》ちゃんが、何となく、この写真に、似《に》てるような気がするんです」
「文《ふみ》ちゃん? 西条《さいじよう》 京子《きようこ》という名前じゃなかったかね?」
田島が、訊《き》いた。娘《むすめ》は、ぽかんとした顔になって、
「西条なんて名前、知りません。あたしの知ってるのは、文ちゃんです」
「判《わか》った。その文ちゃんのことを、話してくれないかね?」
「あたしは、一年ばかり前から、ここで働いてるんだけど、同じくらいに、文ちゃんも働くように、なったんです」
「それで?」
「半年ぐらい、働いてました。そいから、もっと、お金の儲《もう》かるところへ、行くんだって、出て行っちまったんです」
「半年前?」
田島は、「ナイト・トレイン」では、西条京子が、働くようになったのが、半年前だといっていたのを、思い出した。とすると、西条京子と、文ちゃんとは、同一人かも知れない。
「その文ちゃんには、関西|訛《なま》りが、なかったかね?」
「ありましたよ」
「あった?」
田島は、安部刑事《あべけいじ》と、顔を見合せた。
「文ちゃんの正確《せいかく》な名前は?」
「確《たし》か、上野文子《うえのふみこ》とか、いってました」
「上野文子?」
田島は、眉《まゆ》をしかめた。また、偽名《ぎめい》の匂《にお》いを感じたからである。上野の食堂で、働いていて、上野文子では、偽名《ぎめい》の公算が、強い。
「今、どうしてるか、知らないかね?」
「知りません」
と、娘《むすめ》は、首を振《ふ》って見せたが、否定《ひてい》の仕方《しかた》に、ぎこちないところがあった。
「何か知っているね?」
田島は、娘《むすめ》の顔を覗《のぞ》き込《こ》んだが、彼女《かのじよ》が、奥《おく》を気にしている様子に気付いて、「一寸《ちよつと》」と、店の外に、連れ出した。
「最近、文《ふみ》ちゃんに、会ったんだね?」
と、外に出てから訊《き》くと、娘《むすめ》は、人通りを気にしながら、頷《うなず》いて見せた。
「何時《いつ》、会ったんだね?」
「会ったわけじゃないんです。歩いているのを、見ただけです」
「どこで?」
「浅草《あさくさ》へ、遊びに行ったときです。国際《こくさい》の前を、ご主人と一緒《いつしよ》に歩いてるのを――」
「ご主人?」
それで、奥《おく》を気にしていたのかと、田島は合点《がてん》が、いった。
「何時頃《いつごろ》だね?」
「お酉様《とりさま》の時です。確《たし》か、二の酉《とり》の時です」
「二の酉《とり》というと、四か月ばかり前だね。その時、彼女は、どんな恰好《かつこう》をしていたね?」
「すごく綺麗《きれい》なオーバーを着てたんで、驚《おどろ》いちゃったんです。それに、髪《かみ》もアップなんかにして、すごく、大人《おとな》っぽくなっちゃって」
娘《むすめ》は、食堂で働いていた頃《ころ》の、上野文子《うえのふみこ》は、女学生みたいだったと、つけ加えた。かつての同僚《どうりよう》の変身ぶりに、驚《おどろ》いている様子だった。
田島は、店の中へ引き返して、奥《おく》にいる主人を掴《つか》まえた。
「もう一度、この写真を見て下さい」
田島は、被害者《ひがいしや》の写真を、相手の鼻先に、突《つ》きつけた。
「半年前まで、ここで働いていた、上野文子という女に、似《に》ている筈《はず》ですがね」
「――――」
「どうなんです?」
「そうです」
観念したというように、主人は、頷《うなず》いた。
「その上野文子に、四か月前、二の酉《とり》の日に、会っていますね?」
「誰《だれ》が、それを?」
食堂の主人は、顔色を変えた。
「会ったのは、事実なんですね?」
田島が、押《お》しかぶせるような調子で、いうと、相手は、渋々《しぶしぶ》、頷《うなず》いて見せた。
「その時のことを、詳《くわ》しく、話して貰《もら》えませんか?」
「浅草《あさくさ》に、用があって、行った時のことなんです――」
「二の酉《とり》の日に?」
「いや、最初に会ったのは、その二、三日前です」
「それで?」
「六区《ろつく》の映画街《えいががい》を歩いていたら、いきなり、後から、肩《かた》を叩《たた》かれたんです。驚《おどろ》いて、振《ふ》り向いたら、あの娘《こ》が、にやにや笑《わら》いながら、立ってるんです。すごく、ぱりっとした恰好《かつこう》をしてるんで、最初は、判《わか》らなかったんですが、大阪弁《おおさかべん》を聞いて、すぐ判《わか》りましたよ。今、どうしているんだって、訊《き》いたら、小さな名刺《めいし》をくれました」
「名刺《めいし》?」
「いや、名刺《めいし》というより、電話番号を刷《す》った、小さな、チラシです。例の――」
主人は、にやッと笑《わら》って見せた。黄色い歯が、剥《む》き出しになった。
「コール・ガール?」
「まあ、そんなもんです。それで、金廻《かねまわ》りのいい理由《りゆう》が、判《わか》ったというわけです」
「それで、二の酉《とり》の日に、電話をしたというわけですか?」
「いえ。電話は、あの娘《こ》の方から、掛《かか》って来たんですよ。閑《ひま》だったら、つきあってくれないかってね。それで、出掛《でか》けたんです」
「それから?」
「あとは、お決りのコースですよ。お酉様《とりさま》を拝《おが》んで、アルコールを入れて、ホテルへ行こうとしたら、あたしのアパートの方が、安あがりだっていうんで、あの娘《こ》のアパートへ行きました。もっとも、安あがりなのは、向うだけで、こっちは、ホテル代まで、ガッチリ巻《ま》き上げられましたがね」
「そのアパートを、憶《おぼ》えていますか?」
「確《たし》か、金杉《かなすぎ》二丁目の、旭荘《あさひそう》というアパートでしたよ」
「二の酉《とり》の日の後に、上野文子に会ったことは?」
「ありませんよ。第一、遊ぶ金が、ありませんよ」
食堂の主人は、首をすくめた。田島《たじま》は、頷《うなず》いて見せたが、相手の言葉を、信じたわけでは、なかった。
第三章 コール・ガール
1
田島と、安部刑事《あべけいじ》は、金杉《かなすぎ》二丁目にある、下谷北署《したやきたしよ》に寄《よ》って、旭荘《あさひそう》というアパートの所在《しよざい》を、訊《き》いた。応対に出た、若い警察官《けいさつかん》は、
「旭荘《あさひそう》、旭荘――」
と、口の中で、呟《つぶや》いていたが、急に、にやッと笑《わら》って、
「そのアパートなら、この裏《うら》にあります」
と、いった。
「そのアパートが、どうかしたんですか?」
「いや、一寸《ちよつと》、調べるだけです」
田島は、曖昧《あいまい》に、いって、下谷北署《したやきたしよ》を出たが、出たところで、安部刑事と顔を見合せてしまった。自然に苦笑《くしよう》が出た。警察署《けいさつしよ》の裏《うら》で、売春《ばいしゆん》が行われていたと、聞いたら、あの若い警察官《けいさつかん》は、どんな顔をするだろうか。
旭荘《あさひそう》は、モルタル塗《ぬ》りの、小綺麗《こぎれい》なアパートだった。門を入って、すぐ右側《みぎがわ》が、管理人室になっている。まだ、十時を過ぎたばかりだというのに、管理人の老婆《ろうば》は、柱にもたれて、うつらうつらしていた。
田島は、老婆《ろうば》を起こしてから、不機嫌《ふきげん》な、その顔に、警察手帳《けいさつてちよう》を見せた。老婆《ろうば》の眼《め》が、途端《とたん》に、大きくなったところをみると、覚醒剤程度《かくせいざいていど》の効果《こうか》は、あったらしい。
「この女が、ここに、部屋《へや》を、借りている筈《はず》なんだがね」
田島が、被害者《ひがいしや》の写真を、出すと、老婆《ろうば》は顔を近づけて、暫《しばら》く眺《なが》めていた。
「こりゃあ、杉町《すぎまち》さんですよ」
「杉町? 西条《さいじよう》 京子《きようこ》じゃないのかね?」
「そんな名前じゃありませんよ。杉町エミ子って女ですよ」
「その女は?」
「二、三日前から留守《るす》ですよ」
「部屋《へや》を調べたいんだが」
「あの女がどうかしたんですか?」
「鍵《かぎ》を貸《か》してください」
「あたしが、開けますよ」
老婆《ろうば》はもぞもぞと立ち上ると、マスターキイを持って、管理人室を出て来た。
杉町エミ子の部屋《へや》は、二階の隅《すみ》にあった。老婆《ろうば》が鍵《かぎ》をあけると、二人は、中に入って、明りを点《つ》けた。
六|畳一間《じようひとま》の部屋《へや》に、僅《わず》かな調度品が、並《なら》んでいた。安物《やすもの》の机《つくえ》が一つ、それに、これも安物《やすもの》らしい鏡台。それだけだった。衣裳戸棚《いしようとだな》はなくて、コートや、スカートが、剥《む》き出しのまま、壁《かべ》に吊《つ》るしてあった。部屋《へや》の隅《すみ》から隅《すみ》へ、斜《なな》めに張《は》られた麻縄《あさなわ》には、ナイロンのストッキングや、パンティが乾《ほ》してある。
「二、三日前から、戻《もど》らないというのは、本当かね?」
田島は、戸口のところに立っている老婆《ろうば》に訊《き》いた。
「本当ですよ。何かあったんですか?」
「あんたは、新聞は見ないのかね?」
「読むのが、面倒臭《めんどうくさ》いもんでねえ」
「田島《たじま》さん」
机《つくえ》の引出しを調べていた安部刑事《あべけいじ》が、呼《よ》んだ。
「女の写真が、ありました」
安部刑事は、手札型《てふだがた》の写真を、田島に見せた。中国服を着て、キャバレーらしい建物の前で、写してある。
「バックは、ナイト・トレインのようだね」
「そうなると、上野文子《うえのふみこ》、西条《さいじよう》 京子《きようこ》、杉町《すぎまち》エミ子というのが、同一人だと、いうことですね」
「それに、どうやら、日映館《にちえいかん》で殺された女が、三つの名前を持った女らしい」
「妙《みよう》な女ですね。三つも名前を、変えるなんて。一体《いつたい》、どれが、本名ですかね?」
「三つとも、偽名《ぎめい》かも知れんよ」
田島は、憮然《ぶぜん》とした表情《ひようじよう》でいうと、引出しの中を、掻《か》き廻《まわ》した。
手紙は、一通もなかった。そのことが、女の、孤独《こどく》の深さを示しているようだった。代りに、名刺大《めいしだい》の、「今晩《こんばん》おひま?」と、印刷したチラシが、何枚《なんまい》か発見された。桃色《ももいろ》の紙に、白百合《しらゆり》クラブの名前と電話番号は、書いてあったが、勿論《もちろん》、場所は書いてない。
もう片方《かたほう》の引出しからは、そのものズバリのエロ写真が、出て来た。何組も、同じ物があるところをみると、彼女が買ったのではなく、客になった男に、売りつけていたのだろう。
貯金通帳もあった。開けると、預金高《よきんだか》は、五万円を越《こ》えていた。
「妙《みよう》な物が、ありますよ」
安部刑事が、壁《かべ》にかかっていた、女優《じよゆう》の写真を、裏返《うらがえ》して、田島に見せた。裏側《うらがわ》に、小さな紙片《しへん》が、入っているのだ。
「学生証《がくせいしよう》だな」
「大阪の、西成《にしなり》中学校と、書いてあります」
「中学一年の身分証明書《みぶんしようめいしよ》じゃないか。随分《ずいぶん》古いものを、大事に納《しま》ってあるんだな」
「古くは、ないですよ。日付を見て下さい。去年の日付です」
田島は、周章《あわ》てて、見直《みなお》した。確《たし》かに、去年の日付になっている。生徒の名前は、「上田悦子《うえだえつこ》」と、書き込んであった。
「上田悦子が、本名じゃないでしょうか?」
安部刑事が、訊《き》いた。
「しかし、中学一年といえば、十三歳の筈《はず》だよ。日映館《にちえいかん》で死んでいた女は、少なくとも、十七、八にはなっている。この中国服の写真でも、そうだ。妹の身分証明書《みぶんしようめいしよ》じゃないかな」
「しかし、妹の身分証明書《みぶんしようめいしよ》を、なぜ、後生《ごしよう》大事に、納《しま》って置くんでしょう? それに、妹がいるのなら、手紙の一本ぐらい、あっても、いいと、思うんですが?」
理屈《りくつ》であった。田島《たじま》は、返事に窮《きゆう》して、腕《うで》を組んでしまった。学生証《がくせいしよう》に、生年月日が書き込《こ》んであれば、判《わか》るのだが、そこは、空欄《くうらん》に、なっている。
「西成《にしなり》中学に、問い合せてみよう」
と、田島は、いった。年齢《ねんれい》が合わないからといって、放置は、出来なかった。
田島は、もう一度、管理人に、視線《しせん》を向けた。
「この部屋《へや》に、男が、来ることが、あったと思うんだが、憶《おぼ》えているかね?」
「随分《ずいぶん》、来ましたよ」
老婆《ろうば》は、へらへら笑《わら》った。
「いろんな男がね。でも、最近は、あんまり来なくなりましたよ。もっとも、裏《うら》の階段《かいだん》を利用すれば、あたしには、判《わか》りませんけどね」
「男の名前は?」
「知りませんよ。いちいち名前を、訊《き》くわけにも、いきませんからね」
老婆《ろうば》は、素気《そつけ》ない調子で、いった。杉町エミ子の番人ではないんだから、といいたいところなのだろう。扱《あつか》いにくい相手である。
田島は、老婆《ろうば》に、訊《き》くことを止《や》めた。調査《ちようさ》を進めていけば、自然に、男の名前が、浮《う》かび上ってくるだろう。それに期待した方が、賢明《けんめい》のようだった。
田島と、安部刑事《あべけいじ》が、捜査本部《そうさほんぶ》に戻《もど》ったのは、十一時に近かった。二人の報告《ほうこく》は、寒々《さむざむ》としていた、本部の空気に、火を点《とも》したような形になった。ともかく、壁《かべ》にぶつかっていた捜査《そうさ》が、一つの進展《しんてん》を見せたのである。
深夜にかかわらず、捜査会議《そうさかいぎ》が開かれた。そして、二つのことが確認《かくにん》された。
一つは、大阪の西成《にしなり》中学に連絡《れんらく》を取って、アパートで発見された、上田悦子《うえだえつこ》の学生証《がくせいしよう》が、被害者《ひがいしや》と、どんな関係なのかを、明らかにすることである。そのために、大阪に電報《でんぽう》が打たれた。
第二は、被害者《ひがいしや》の男関係を洗うことである。被害者《ひがいしや》は、コール・ガール組織《そしき》に属《ぞく》していたと思われるから、男関係は複雑《ふくざつ》だということが、まず考えられる。たった一夜の客まで、探《さが》し出すことが、可能《かのう》かどうかは、判《わか》らないが、彼女《かのじよ》が、妊娠《にんしん》三か月だったことを考えれば、単なる客ではなかった、特定《とくてい》の男が、いた筈《はず》である。その男を探《さが》し出せば、何か判《わか》るかも知れない。
「妊娠《にんしん》したので、面倒《めんどう》になって、殺したのかも、知れん。その匂《にお》いが濃《こ》いと思うがね」
主任《しゆにん》の江馬警部《えまけいぶ》が、断定《だんてい》するような、いい方をした。
反対する者は、なかった。今の段階《だんかい》では、他《ほか》の殺人動機は、思い浮《う》かばなかったからである。
「妊娠《にんしん》が、殺人の動機になるなんて、残酷《ざんこく》すぎると思いませんか?」
捜査会議《そうさかいぎ》の終ったあとで、安部刑事《あべけいじ》が、暗い顔で、田島に、いった。
「妊娠《にんしん》というのは、最も祝福《しゆくふく》さるべきことじゃないですか」
「センチになるなよ」
田島は、若い刑事の肩《かた》を叩《たた》いた。
「人生が、全《すべ》て理想通《りそうどお》りに行ったら、この世に、犯罪《はんざい》など、無《な》くなってしまう。必ずしも、うまく行かないから、我々《われわれ》の仕事があるんだ」
「しかし、妊娠《にんしん》した女を殺すなんて奴《やつ》は、人間の屑《くず》ですよ」
「そうさ。奴《やつ》は、あの女を殺しただけじゃない。もう一つの生命の灯《ひ》も、消したわけだからね」
(しかし、自分では望まずとも、止《や》むをえず、人間の屑《くず》になってしまう人間もいる)
田島は、頭の中で考えたが、安部刑事には、いわなかった。若い安部刑事には、いわなくとも、いつかは、判《わか》ることだと、思ったからである。求めて、感傷的《かんしようてき》にさせる必要はない。
2
翌日《よくじつ》、大阪から、返事の代りに、西成《にしなり》中学の教師《きようし》をしている、落合《おちあい》という男が、蒼《あお》い顔で、上京して来た。電報《でんぽう》を受け取ると、すぐ日航機で、上京したのだという。
田島が、応対に当った。安部刑事と、同じ年ぐらいの若い教師《きようし》だった。
「上田悦子《うえだえつこ》が、見つかったんでしょうか?」
落合は、強い眼《め》で、田島を見上げた。
「見つかったのは、学生証《がくせいしよう》だけです。ただ、その学生証《がくせいしよう》の持ち主《ぬし》は、殺されました。ただ、年齢《ねんれい》が合わない。死んだ女は、どう考えても中学一年には、見えませんでした。だから、関係を知りたくて、電報《でんぽう》を、打ったんですが」
「死んだ女というのは?」
落合の顔色が、変っていた。
「上田悦子《うえだえつこ》じゃないんですか?」
「杉町《すぎまち》エミ子と名乗っていました。しかし、恐《おそ》らく偽名《ぎめい》でしょう。他《ほか》にも、西条《さいじよう》 京子《きようこ》と、いったり、上野|文子《ふみこ》と、名乗ったりしていたようですから」
「それじゃあ、上田悦子である可能性《かのうせい》も、あるわけじゃありませんか?」
「上田悦子さんの写真を、お持ちですか?」
「持って来ました。これです」
落合は、手に持ったコートのポケットから、一枚《いちまい》の写真を取り出して、田島の前に置いた。素人《しろうと》が写したらしく、多少ピンボケだが、一人の少女が、塀《へい》に寄《よ》りかかって、微笑《びしよう》していた。
(似《に》ている――)
と、思ったが、確信《かくしん》は、持てなかった。顔立ちは、似《に》ているがその他《ほか》は、全《まつた》く、違《ちが》っていたからである。写真の少女も、セーターを着ていたが、型のおとなしい、子供っぽいものだった。履物《はきもの》も、真新《まあたら》しいハイヒールではなくて、チビた下駄《げた》だった。髪《かみ》の型も、ポニーテイルというのだろうか、後でまとめて、無造作《むぞうさ》に、紐《ひも》で、結んでいる。
「上田悦子さんに、姉さんが、いますか?」
「いえ」
落合《おちあい》は、簡単《かんたん》に、否定《ひてい》した。
「彼女は、天涯孤独《てんがいこどく》です。どうなんですか? 殺された女は、上田悦子じゃないんですか?」
「似《に》ていますが、何とも、いえません。死体を、見て頂《いただ》けますか?」
「勿論《もちろん》です」
落合は、硬い声で、頷《うなず》いた。
田島は、主任《しゆにん》に、ことわってから、落合を、死体の置いてある警察病院《けいさつびよういん》へ、連れて行った。
薄暗《うすぐら》い、冷えきった、病院の階段《かいだん》を、並《なら》んでおりる間、落合は、一言も、喋《しやべ》ろうとしなかった。暗い予感が、彼を捕《とら》えて、放さないようだった。
医務員《いむいん》が、死体に、掛《か》けられてあった白布をめくった。白茶《しらちや》けた死顔が、現われた。
「どうですか?」
田島が、訊《き》いた。すぐには、返事が、なかった。落合は、じっと、死顔を見詰《みつ》めていたが、視線《しせん》を、田島に戻《もど》すと、
「上田悦子《うえだえつこ》です」
と、ポツンと、いった。
「しかし、学生証《がくせいしよう》には、中学一年とあった筈《はず》です。年齢《ねんれい》が、合わないじゃありませんか?」
田島は、不審《ふしん》そうに、落合の顔を、覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「上田悦子さんは、いくつなんですか?」
「大阪を出たとき、十七の筈《はず》ですから、死なずにいれば、十八|歳《さい》になっていた筈《はず》です」
「十七歳で、中学一年というのは?」
「夜間中学というのを、ご存《ぞん》じですか?」
「新聞で、読んだことが、ありますが」
「上田悦子は、その、夜間中学の一年だったのです」
落合は、再《ふたた》び白布を掛《か》けられ、運び去られていく死体を見送りながら、重い口調《くちよう》でいった。
「今、私が教えている生徒は、十四人ですが、昼間、働いているために、夜、学ばなければ、ならない子供達ばかりです。両親が、満足に揃《そろ》っている子は、一人も、おりません。そして、彼等《かれら》の働きが、一家の生活を支《ささ》えているという状態《じようたい》の子が多いのです。天涯孤独《てんがいこどく》だった、上田悦子は、その中では、恵《めぐ》まれていた方でした」
「孤児《こじ》が恵《めぐ》まれているのですか?」
田島は、驚《おどろ》いて、訊《き》いた。
「ええ」
と、落合《おちあい》は、頷《うなず》いて見せた。
「彼等《かれら》の間だけです。十五|歳《さい》で、病気の母親と、小さい妹を養《やしな》っている少年も、いますからね。自分の生きることだけを考えればよかった彼女《かのじよ》は、恵《めぐ》まれている方だったのです。悲しい恵《めぐ》まれ方ですが」
「しかし、十七|歳《さい》で、中学一年というのは?」
「小学校を卒業してから、あるところで、お手伝いみたいなことをしていたんですが、ひどく虐待《ぎやくたい》されたらしいんです。それで、金を儲《もう》けて、見返してやろうと思った。自分では、立派《りつぱ》な美容師《びようし》になる積《つも》りだと、いっていました。しかし、美容師《びようし》になるためには、最低、中学は卒業していなければなりません」
「それで、十七|歳《さい》の時に、夜間中学へ?」
「ええ。食堂で働きながら、通《かよ》っていました。食堂の主人は、いい顔はしないし、給料も減《へ》らされていたようですが、一年間、頑張《がんば》り抜《ぬ》きましたよ。負けん気の強いこでした」
「それが、なぜ?」
「私にも、判《わか》りません。突然《とつぜん》、失踪《しつそう》してしまったんです。大阪|中《じゆう》、探《さが》し廻《まわ》りました。しかし、見つかりませんでした。そして、一年目に、あの電報《でんぽう》を、受け取ったんです」
「――――」
「恐《おそ》らく、疲《つか》れてしまったんでしょうね。働きながら、学ぶことは、容易《ようい》なことじゃありません。しかも、十七|歳《さい》の孤独《こどく》な少女です。夜間中学を卒業しても、前途《ぜんと》が明るいわけじゃありません。手っ取り早く、金を儲《もう》けて、人並《ひとな》みの生活をしたいと考えたとしても、彼女を責《せ》める気持には、なれませんよ」
「――――」
田島は、黙《だま》って、警察病院《けいさつびよういん》の、白い建物を振《ふ》り返った。あの建物の中に、一人の少女が、眠《ねむ》っている。闘《たたか》おうとして、敗北《はいぼく》した少女が――
「貴方《あなた》は、何時《いつ》まで、東京に、いらっしゃるんです?」
田島は、警察病院《けいさつびよういん》に、眼《め》を向けたまま、訊《き》いた。
「明日は、日曜日ですから、もう一日、東京に、いる積《つも》りです。出来れば、上田悦子の骨を、大阪に、持って帰りたいと、思っているんですが――」
落合は、そのように、お願い出来ないだろうかと、いった。
「主任《しゆにん》に、相談してみましょう」
と、田島は、いった。明日中に、荼毘《だび》に付すことが、出来るかどうか、田島は、判《わか》らなかった。しかし、江馬警部《えまけいぶ》なら、何とか、やってくれるだろう。
「大丈夫《だいじようぶ》だと思いますよ」
と、田島は、力づけるように、いったが、彼には、他《ほか》にも、明日までに、やり遂《と》げたいことがあった。落合という、夜間中学の教師《きようし》が、大阪に帰るまでの間に、犯人《はんにん》をあげて、やりたいということだった。落合のためにも、殺された、上田悦子の為《ため》にもである。
(あと、三十時間以上ある)
田島は、捜査本部《そうさほんぶ》に向って歩きながら、三十時間という長さを、心の中で、計算していた。
第四章 傷のある男
1
コール・ガールの組織《そしき》を、突《つ》き止めることは、難《むずか》しい仕事である。資料《しりよう》は、電話番号を書いた、一枚《いちまい》のチラシだけだし、電話の持ち主《ぬし》も、金を貰《もら》って、電話を貸《か》している場合が多い。
だから、持ち主《ぬし》を捕《とら》えても、肝心《かんじん》の組織《そしき》は、逃《に》げてしまうことが、殆《ほとん》どである。しかも、電話一本で、出来る商売なだけに、危《あぶ》ないとみれば、簡単《かんたん》に、場所を変えることも、出来る。
被害者《ひがいしや》のアパートから発見されたチラシには、(台東《たいとう》)―五八六〇。白百合《しらゆり》クラブとしか、印刷されていなかった。
田島《たじま》は、安部刑事《あべけいじ》と、その電話番号を、追った。
電話局で、調べて貰《もら》うと、現在の所有主《しよゆうぬし》は、台東《たいとう》区|今戸《いまど》町××番地、藤村正子《ふじむらまさこ》となっている。
「この女が、白百合《しらゆり》クラブを、やっているんでしょうか?」
安部刑事が、勢《いきお》い込《こ》んだ調子で、田島を見たが、田島は、首を横に振《ふ》った。
「上田悦子《うえだえつこ》の写真が、新聞に出た途端《とたん》に、どこかに、逃《に》げてしまっているさ。藤村正子《ふじむらまさこ》という女は、その後で、家を買ったか、借りたか、したんだろう」
二人は、今戸《いまど》町まで、歩いた。捜査本部《そうさほんぶ》から四〇〇メートルほどの距離《きより》である。
藤村《ふじむら》と、表札《ひようさつ》の出た家は、隅田《すみだ》公園の近くにあった。
小さな門には、表札《ひようさつ》に並《なら》んで、「生花教授《いけばなきようじゆ》」の看板《かんばん》が、出ていた。
田島が、呼鈴《よびりん》を押《お》した。暫《しばら》くして、奥《おく》で、人の気配《けはい》がして、硝子戸《ガラスど》が開いた。顔を出したのは、渋《しぶ》い和服姿《わふくすがた》の、中年の女だった。
田島は、警察手帳《けいさつてちよう》を見せて、
「藤村《ふじむら》さんですか?」
と、訊《き》いた。
「そうですけど、何か?」
女は、訊《き》き返した。眉《まゆ》を、ひそめているが、狼狽《ろうばい》の色も、怯《おび》えの影《かげ》も、感じられない。コール・ガールとは、関係が、ないようだった。
「ここには、何時《いつ》から、お住みですか?」
田島が、立ったまま訊《き》いた。
「一か月前からですけど――」
「一か月前?」
「ええ。周旋屋《しゆうせんや》の、あっせんで、お借りしたんです」
「白百合《しらゆり》クラブというのを、ご存《ぞん》じですか?」
「知っております」
「知ってる?」
「その、変てこなクラブに、悩《なや》まされているからですわ。電話が掛《かか》って来て、出ると、白百合《しらゆり》クラブかって、訊《き》くんです。この頃《ごろ》は、少なくなりましたけど、越《こ》して来た当座《とうざ》なんか、毎日のように、そんな電話が、ありましたわ」
「成程《なるほど》。前に、住んでいた人のことを、何かご存《ぞん》じですか?」
「いいえ」
「家主《やぬし》は、何という人ですか?」
「小野《おの》さんという方です。この先の××番地で、自動車の修理《しゆうり》工場を、やっている方ですわ」
藤村正子は、不審顔《ふしんがお》で、何かあったのかと、訊《き》いたが、曖昧《あいまい》な返事をして、二人は、その家を出た。
「案《あん》の定《じよう》だ」
と、舗道《ほどう》に出て、田島は、吐《は》き出すように、いった。
眉《まゆ》をしかめたのは、追うことの難《むずか》しさを、考えたからである。
自動車|修理《しゆうり》工場は、すぐ見つかった。工場と、いっても、車が、二、三台、やっと入るくらいの小さな建物である。近づくと、ペンキと油の匂《にお》いがした。
安部刑事《あべけいじ》が、車の凹《へこ》んだ部分を、叩《たた》き出している工員に声をかけた。ご主人に、会いたいというと、慎太郎刈《しんたろうが》りの工員は、奥《おく》に向って「旦那《だんな》ッ」と、怒鳴《どな》った。
奥《おく》から、革ジャンパーを着た、小太《こぶと》りの男が、出て来た。四十五、六といったところで、工場|主《ぬし》というより、土建屋の親方の感じだった。これが、小野という男らしかった。
田島は、警察手帳《けいさつてちよう》を見せてから、
「藤村《ふじむら》さんに、貸《か》してある家のことで、お訊《き》きしたいのですが?」
「藤村さんが、どうかしましたか?」
「いや、あの人の前に、あの家を借りていた人のことを、訊《き》きたいんです」
「前に? やっぱりね」
「何か思い当ることでも、あるのですか?」
「思い当るというほどのことじゃないんですがね。借りに来た時、何となく、うさん臭《くさ》い奴《やつ》だと思ったんです。やっぱり、警察《けいさつ》の、ご厄介《やつかい》になるような人間だったんですか?」
「どんな男でした?」
「いや、男と女です。女の方は、水商売のような感じで、男は、ヤクザっぽい感じでした。借りたのは、女の方です。一寸《ちよつと》待って下さい、その時の、契約書《けいやくしよ》が、ある筈《はず》です」
小野は、奥《おく》へ引き返すと、油の、こびりついた手に、封筒《ふうとう》を持って、戻《もど》って来た。小野は、中から、契約書《けいやくしよ》を取り出した。借受人《かりうけにん》の欄《らん》に、あまりうまくない字で、「大津時枝《おおつときえ》」と、書いてあった。
「年齢《ねんれい》は?」
田島が、契約書《けいやくしよ》に、眼《め》を向けたまま、訊《き》いた。
「そうですな。三十|歳《さい》くらいですね。細面《ほそおもて》で一寸《ちよつと》冷たい感じのする女でした。素人《しろうと》の感じはなかったですよ」
「男の方は?」
「二十五、六ですね。背《せ》の高い、色男《いろおとこ》ですよ。女は、男のことを、マーちゃんと呼《よ》んでました。それから、頬《ほお》に六センチくらいの切傷《きりきず》がありましたよ。それで、ヤクザじゃないかと、思ったんですが」
「マーちゃん?」
田島は、安部刑事《あべけいじ》と、顔を見合せた。記憶《きおく》にある名前なのだ。田島は、浅草《あさくさ》周辺の愚連隊《ぐれんたい》なら、たいていは、知っていた。その中に、マーちゃんという綽名《あだな》で呼ばれている男が、いたような気がする。
田島は、契約書《けいやくしよ》を借り受けると、周章《あわ》てて、修理《しゆうり》工場を、飛び出した。
「マーちゃん。マーちゃん――」
と、田島も、安部刑事も、歩きながら、口の中で、呟《つぶや》いていた。
(頬《ほお》に、切傷《きりきず》か――)
咽喉元《のどもと》まで、出かかっているのに、出ない感じだった。歩きながら、田島は、拳《こぶし》を作って、自分の頭を、叩《たた》いた。
思い出せないままに、捜査本部《そうさほんぶ》に戻《もど》ると、二人は、捜査書類《そうさしよるい》を、片《かた》っ端《ぱし》から、引っくり返してみた。田島の感じでは、その男を、最近、逮捕《たいほ》したような記憶《きおく》が、あったからである。
「ありました」
と、甲高《かんだか》い声で、いったのは、安部刑事の方だった。
「二年前に、傷害事件《しようがいじけん》で、逮捕《たいほ》されています」
安部刑事は、二年前の書類《しよるい》を、田島の前に持って来た。確《たし》かに、そこに、載《の》っていた。
〈吉牟田正吉《よしむたまさきち》(通称マーちゃん)二十三|歳《さい》〉
と、なっている。写真もあった。鼻筋《はなすじ》が通っていて、美男子だが、唇《くちびる》の薄《うす》いのが、冷酷《れいこく》な感じであった。左頬《ひだりほお》の傷《きず》は、写真にも、はっきり出ていた。
「思い出したよ」
と、田島は、いった。
「白猫《しろねこ》というバーのバーテンだった。いわゆる暴力《ぼうりよく》バーでね。料金のことで、客を殴《なぐ》りつけて二か月の重傷《じゆうしよう》を負わせた。それで、逮捕《たいほ》されたんだ。脅迫《きようはく》の前科があったんで三か月の懲役《ちようえき》だったが、出て来てから、コール・ガールの仕事をやっていたわけか」
「今戸《いまど》町の家を借りた大津時枝《おおつときえ》というのは、その時の、バーのマダムじゃないでしょうか?」
「そうかも知れん。腐《くさ》れ縁《えん》て奴《やつ》は、仲々《なかなか》、切れないものだからね」
田島は、捜査報告書《そうさほうこくしよ》を、読んでみたが、「白猫《しろねこ》」のマダムは、林《はやし》アイ子(二九)と、なっていた。写真もない。
「年齢《ねんれい》は、合っているな」
「家を借りる時の、大津時枝《おおつときえ》は、偽名《ぎめい》かも知れませんよ」
「そうだな。二年前の新聞を調べて見よう。新聞には、マダムの写真も、載《の》った筈《はず》だ。その写真を、自動車|修理《しゆうり》工場の主人に、見て貰《もら》えば、同一人かどうか、判《わか》る筈《はず》だ」
「調べて来ます」
安部刑事は、すぐ、資料室《しりようしつ》に、飛んで、行った。
十分ばかりして、安部刑事が、新聞の綴《つづ》りを抱《かか》えて、戻《もど》って来た。
「ありました」
と、安部刑事は、笑顔《えがお》で、いった。「暴力《ぼうりよく》バーで、傷害事件《しようがいじけん》」という、可成《かな》り大きな見出しがついていて、マダム林アイ子の写真と、吉牟田正吉《よしむたまさきち》の写真が、並《なら》んでいた。
「自動車屋の主人の証言《しようげん》と、一致《いつち》していますよ」
横から、安部刑事がいった。
「写真の女も、細面《ほそおもて》で、一寸《ちよつと》冷たい感じがしますから」
「細面《ほそおもて》の女は、沢山《たくさん》いる」
田島は、用心深くいった。
「この写真を見せて、訊《き》いてくれ。別人かも知れないからね」
「僕《ぼく》は、同一人に賭《か》けますね」
安部刑事は、胸《むね》を叩《たた》くようにして見せてから、その新聞を抜《ぬ》き取って、捜査本部《そうさほんぶ》を、飛び出して行った。
2
田島《たじま》は、主任《しゆにん》の江馬警部《えまけいぶ》に、報告《ほうこく》した。警部は、顔を、ほころばせた。
「一歩前進したな」
と、いってから、
「今、佐伯刑事《さえきけいじ》から報告《ほうこく》があったよ。食堂の主人のことで」
「食堂の?」
「被害者《ガイシヤ》が、上京してすぐ、上野文子《うえのふみこ》の名前で、働いていた大衆《たいしゆう》食堂の主人だよ」
「ああ、あの男も、コール・ガールをしていた、被害者《ガイシヤ》の客の一人でしたね。それで、どうだったんですか?」
「一度しか遊ばなかったというのは、嘘《うそ》だったらしい。被害者《ガイシヤ》のアパートへ、押《お》しかけたことが、二度ばかりあるということだ。しかし、彼《かれ》には、事件《じけん》当日のアリバイがあったよ」
田島は、不精髭《ぶしようひげ》を生《は》やした、食堂の主人の顔を思い出した。女に、モテる顔ではなかった。あの男が、被害者《ひがいしや》が、子供を生む気になった、特定《とくてい》の男とは、どうしても考えられない。アリバイがあったと聞かされても、落胆《らくたん》の感じは、なかった。
「被害者《ガイシヤ》が、キャバレーで、働いていた頃《ころ》のことは、どうでした?」
「ナイト・トレインには、石原刑事《いしはらけいじ》が、行ってるんだが、今のところ、収穫《しゆうかく》は、ないらしい。被害者《ガイシヤ》が、ナイト・トレインで働いていたのは、僅《わず》か一か月だからね。それに、そこでは、あまり目立つ存在《そんざい》じゃなかったらしい。馴染《なじ》みの客は、なかったということだ」
「そうなると、やはり、コール・ガールになってからの客の一人ということになりますね」
「そうだね。恐《おそ》らく、客の中の一人に、被害者《ガイシヤ》は、惚《ほ》れたんだろう。だから、その男の子供を生みたくなった。ところが、男の方には、迷惑《めいわく》だった。だから殺したんだろうね。その男が、家庭を持っていたら、被害者《ガイシヤ》を殺して、家庭と、社会的体面を守ったというところかも知れん」
「話は、違《ちが》いますが、火葬《かそう》の件《けん》は、どうなりました?」
「一寸《ちよつと》遠いが、江東《こうとう》の砂町葬儀場《すなまちそうぎじよう》で、明日の午後、火葬《かそう》にして貰《もら》うことに、話をつけたよ」
「そりゃあ、よかったですね」
「落合《おちあい》という先生も、喜んでくれたが、出来れば、彼《かれ》が、大阪に帰るまでに、犯人《はんにん》を、あげたいがね」
「私も、そう思っているんですが――」
田島は、壁《かべ》に掛《かか》っている電気時計に、眼《め》をやった。
四時二十分。あと九時間足らずで、今日が終る。あと、三十三時間。その間に、犯人《はんにん》を逮捕《たいほ》することが、出来るだろうか。
五時|丁度《ちようど》に、安部刑事《あべけいじ》が、戻《もど》って来た。
「やはり、大津時枝《おおつときえ》は、林アイ子の偽名《ぎめい》でしたよ」
「そうか」
「これで、確実《かくじつ》に、一歩前進しましたね」
「確《たし》かに、前進はしたがね――」
田島は、素直《すなお》に、喜べないものを感じた。安部刑事のいうように、捜査《そうさ》は、進展《しんてん》した。白百合《しらゆり》クラブを、経営《けいえい》していたのが、林アイ子と、吉牟田正吉《よしむたまさきち》の二人だったことが、判《わか》ったのは、収穫《しゆうかく》に、違《ちが》いない。二人に、訊《き》けば、被害者《ひがいしや》のコール・ガール時代のことが、判《わか》ってくるだろう。うまくいけば、彼女《かのじよ》が、深く、つき合っていた男の名前が、判《わか》るかも知れない。
しかし、どうやって、林アイ子と、吉牟田正吉を、探《さが》し出せば、いいのか。彼等《かれら》が、まだ、浅草《あさくさ》周辺にいるという保証《ほしよう》は、どこにもない。危険《きけん》を感じて、高飛びしたことも、充分《じゆうぶん》に、考えられるのだ。もし、浅草《あさくさ》を離《はな》れていたら、この広い日本の中から、どうやって、二人を探《さが》し出すことが出来るのか。
(淡《あわ》い期待は、二人が、甘《あま》い汁《しる》を吸《す》ったことに味をしめて、今でも、コール・ガール組織《そしき》を作ってくれていることだが)
田島は、その可能性《かのうせい》を考えたが、期待は、持てそうになかった。二人が、事件《じけん》を報道《ほうどう》した新聞を、読んでいない筈《はず》がなかったからである。警察《けいさつ》が、白百合《しらゆり》クラブを調べることは、二人も、当然、考える筈《はず》である。そんな時に、危険《きけん》な、コール・ガール組織《そしき》に、手をつけるだろうか。可能性《かのうせい》は少ないし、東京に、止《とどま》っている可能性《かのうせい》も少ない。しかし、まだ、高飛びしてはいない、という前提《ぜんてい》に立って、調べてみるより仕方《しかた》が、なかった。
田島は安部刑事《あべけいじ》と、吉牟田正吉《よしむたまさきち》が、つき合っていた、愚連隊仲間《ぐれんたいなかま》に、当ってみることにした。
浅草署《あさくさしよ》に、長い間、勤《つと》めている田島は、浅草周辺の、ヤクザや、愚連隊《ぐれんたい》には、いわゆる「顔が利《き》く」ほうだが、それでも、捜査《そうさ》は、一向《いつこう》に、はかばかしく進展《しんてん》しなかった。パチンコ屋、バー、キャバレー、ストリップ劇場《げきじよう》と、これはと思われる場所に当ってみたが、「知りませんねえ」という、素気《そつけ》ない返事や「アベックを追いかけるなんて、風流なものじゃありませんか」という、皮肉《ひにく》まじりの答しか、戻《もど》って来ないのである。
「奴等《やつら》は、知っていて隠《かく》してますよ」
安部刑事は、腹《はら》を立てた。
「二、三人を、愚連隊防止条例《ぐれんたいぼうしじようれい》かなんかで、引《ひ》っ張《ぱ》って来て、吐《は》かせたら、どうですか」
「益々《ますます》、口が硬くなるだけさ」
田島は、苦笑《くしよう》して見せた。
「彼等《かれら》には、彼等の世界がある。その世界の人間を、かばう気持が強い。下手《へた》にぶつかっていくと、かえって、情報《じようほう》を取るのが難《むずか》しくなる。辛抱《しんぼう》強くなることさ。何人もの人間に、会っているうちに、自然に、あの二人についての情報《じようほう》を掴《つか》めることが、出来るかも知れん」
田島は、落ち着いた表情《ひようじよう》で、いったが、内心では、彼《かれ》も、焦躁《しようそう》を感じていた。主任《しゆにん》も、いったが、落合《おちあい》という教師《きようし》が、大阪に帰るまでに、是非《ぜひ》、事件《じけん》を解決《かいけつ》したかった。時間に、追われているような気がするのだ。一刻《いつこく》も早く解決《かいけつ》したいのは、どの事件の時でも、同じだが、今度の事件だけは、特《とく》に、その気持が、強かった。
(俺《おれ》だって、出来るなら、奴等《やつら》の一人を、引《ひ》っ張《ぱ》って来て、殴《なぐ》りつけてでも、吉牟田正吉《よしむたまさきち》や、林アイ子の消息《しようそく》を知りたいと思っている)
田島は、歩きながら、そう思う。しかし、彼の口を突《つ》いて出た言葉は、反対のものだった。
「ゆっくりすることだよ」
田島は、安部刑事に、いった。
何人もの人間に、会った。景品買いのチンピラ、バーの女給、何々組といった、名の通ったヤクザの幹部《かんぶ》、キャバレーの支配人《しはいにん》。それに、偶然《ぐうぜん》、逮捕《たいほ》された若いコール・ガールにも、会った。しかし、収穫《しゆうかく》は、皆無《かいむ》に近かった。唯一《ゆいいつ》の収穫といえば、(それが、収穫と呼《よ》べればのことだが)吉牟田正吉らしい男を、六区《ろつく》の映画街《えいががい》で、二、三日前に、見たという、景品買いの男の証言《しようげん》だけであった。
「ありゃあ、間違《まちが》いなく、奴《やつ》でしたよ」
派手《はで》なマフラーをした男は、口を尖《とが》らせて見せた。
「声を掛《か》けようとしたら、逃《に》げるように、人混《ひとご》みに、まぎれ込《こ》んじまいましたがね。また、ケチな商売でも、やってるんじゃないですかね」
しかし、その男も、吉牟田正吉が、今、どこで、何をしているかについては、何の知識《ちしき》も、持っては、いなかった。
田島《たじま》と、安部刑事《あべけいじ》が、捜査本部《そうさほんぶ》に戻《もど》ったのは、十二時に近かった。他の刑事達にも、収穫《しゆうかく》と呼《よ》べるものは、ないようだった。
「吉牟田正吉が、まだ、浅草《あさくさ》に、いると判《わか》っただけでも、収穫《しゆうかく》じゃないかね」
と、主任《しゆにん》の江馬警部《えまけいぶ》は、慰《なぐさ》め顔に、いってくれたが、田島も、安部刑事も、硬い、疲《つか》れた表情《ひようじよう》を崩《くず》すことが、出来なかった。
(あと、二十四時間。それなのに、まだ、何も、この手に掴《つか》んでいないのだ。まだ何も――)
田島は、長椅子《ながいす》に、横になると、剥《は》げかかった、捜査本部《そうさほんぶ》の天井《てんじよう》を、睨《にら》んだ。
第五章 最初の容疑者
1
五時二十分。三月の朝は、まだ完全に明け切ってはいない。
田島は、浅い眠《ねむ》りから覚《さ》めると、カーテンを開いて、浅草《あさくさ》の街《まち》を眺《なが》めた。街《まち》は、まだ、眠《ねむ》っているように見えた。この街《まち》のどこかに、吉牟田正吉《よしむたまさきち》と、林《はやし》アイ子が、いるに違《ちが》いない。そして、上田悦子《うえだえつこ》を殺した犯人《はんにん》もである。
冷たい水で、顔を洗ったが、まだ、眼《め》が痛《いた》かった。眠《ねむ》り足りないせいとは、判《わか》っていたが、眠る気になれない。
六時までには、他《ほか》の刑事《けいじ》も、起き出して来た。
誰《だれ》も、同じ気持なのだ。そして、どの刑事《けいじ》の眼《め》も、朱《あか》く充血《じゆうけつ》していた。
「まず、吉牟田正吉《よしむたまさきち》と、林アイ子の二人を、探《さが》し出すことに、全力を尽《つく》して貰《もら》いたい」
と、主任《しゆにん》は、いった。
朝めしを、流し込《こ》むようにして、刑事達は、捜査本部《そうさほんぶ》を出て行った。
田島も、安部刑事《あべけいじ》と、連れ立って、街《まち》へ出た。
陽《ひ》が昇《のぼ》ると、街《まち》は、埃《ほこ》りっぽく見える。食堂や、理髪店《りはつてん》が、やっと、店を開ける準備《じゆんび》を始めていた。
田島と、安部刑事は、一軒一軒《いつけんいつけん》、吉牟田正吉と、林アイ子の写真を見せて、訊《き》いて廻《まわ》った。
二人が、浅草《あさくさ》にいるのなら、理髪店《りはつてん》や、美容院《びよういん》、それに、食堂や喫茶店《きつさてん》に姿《すがた》を見せている筈《はず》なのだ。
殊《こと》に、吉牟田正吉には、頬《ほお》の傷《きず》という大きな目印がある。その顔を見ていれば、記憶《きおく》している筈《はず》であった。
雷門《かみなりもん》前の、理髪店《りはつてん》で、やっと反応《はんのう》があった。
一週間ほど前に、吉牟田正吉らしい男が、散髪《さんぱつ》に来たというのである。
「顔を剃《そ》る時に、傷《きず》があったんで、よく憶《おぼ》えているんです」
と、若い、女の理髪師《りはつし》は、眼《め》を輝《かがや》かせて見せた。
「この写真の人に、間違《まちが》いありませんわ」
「何か話しましたか?」
田島は、硬い声で、訊《き》いた。緊張感《きんちようかん》が、自然に、声を硬くするのだ。
「いいえ」
と、相手は、いった。
「丁度《ちようど》、日曜日だったもんですから、これから、どこかへ、お出かけですかって、お訊《き》きしたんです。そうしたら、黙《だま》って睨《にら》むんです。とても、怖《こわ》い感じでした」
「服装《ふくそう》は、憶《おぼ》えていますか?」
「黒っぽいセーターを着て、それから、サンダルを履《は》いてました」
「サンダル?」
田島は、その言葉に、引《ひ》っ掛《かか》った。サンダル履《ば》きで、この店に来たということは、この近くに、住んでいるという事を、意味してはいないだろうか?
「来たのは、何時|頃《ごろ》ですか?」
「確《たし》か、店が閉《し》まる少し前でしたから、七時半|頃《ごろ》じゃなかったかと、思うんですけど」
「夜の七時半か」
「何だか、匂《にお》いますね」
と、安部刑事《あべけいじ》がいった。
「また、あの仕事を始めてるんじゃないですか。日曜の夜に床屋《とこや》に来るというのは、夜の商売を、暗示《あんじ》しているように、思えますよ」
「一度、甘《あま》い汁《しる》を吸《す》ったのが、忘《わす》れられないと、いうわけか」
田島も、頷《うなず》いて見せた。可能性《かのうせい》は、強そうだった。
田島は、理髪店《りはつてん》を出ると、本部の、江馬警部《えまけいぶ》に、電話を入れた。田島が、電話で、報告《ほうこく》すると、
「今、僕《ぼく》のところにも、それを裏書《うらが》きするような情報《じようほう》が、入った」
と、江馬警部が、いった。
「五分ばかり前に、上野署《うえのしよ》から電話が、入ったんだがね。昨夜|遅《おそ》く、売春容疑《ばいしゆんようぎ》で、女を一人|逮捕《たいほ》したんだが、その女が、黒ばらクラブというコール・ガール組織《そしき》に入っていたというんだ。ところが、どうも、そのクラブの責任者《せきにんしや》が、林《はやし》アイ子と、吉牟田正吉《よしむたまさきち》らしい。勿論《もちろん》、変名を使っているがね」
「場所は、どこです?」
「雷《かみなり》 門《もん》一丁目の、日東《につとう》銀行の裏《うら》だ。何でも、芸能《げいのう》クラブの看板《かんばん》を掛《か》けているらしい。君の話と、場所が、一致《いつち》するじゃないか?」
「その芸能《げいのう》クラブの名前は、判《わか》りませんか?」
「林田《はやしだ》芸能クラブだ。すぐ、当ってみてくれ」
「判《わか》りました」
田島は、電話を切ると、安部刑事の腕《うで》を掴《つか》むようにして、歩き出した。
眠気《ねむけ》が、すっかり、覚《さ》めてしまった感じだった。
「前が、白百合《しらゆり》で、今度は、黒ばらか」
歩きながら、田島は、にやりと、笑《わら》った。
「ふざけた奴《やつ》だ」
「林田芸能クラブという名前も、ふざけていますよ」
安部刑事も、眼《め》を光らせて、いった。
「林アイ子と、吉牟田正吉の名前を、継《つ》ぎ合せたんでしょうね」
日東銀行の裏《うら》は、細い路地《ろじ》になっていて、自動車屋や、駄菓子屋《だがしや》が、ごみごみと、並《なら》んでいた。
林田芸能クラブは、路地《ろじ》の突《つ》き当りにあった。普通《ふつう》の、しもたやで、「林田芸能クラブ」と、金文字《きんもじ》で書いた看板《かんばん》だけが、場違《ばちが》いな感じで、軒下《のきした》にぶら下っていた。
家の中は、ひっそりとしていた。まだ、眠《ねむ》っているらしい。田島は、安部刑事《あべけいじ》を、裏に廻《まわ》してから、硝子戸《ガラスど》を、叩《たた》いた。
「誰《だれ》だい?」
という寝呆《ねぼ》けたような、若い男の声が聞こえた。田島は、構《かま》わずに、硝子戸《ガラスど》を叩《たた》き続けた。
「煩《うる》せえなあ」
と、家の中で、男は怒鳴《どな》ったが、それでも、起き上る気配《けはい》がして、硝子戸《ガラスど》が開いた。寝巻姿《ねまきすがた》の、襟元《えりもと》が、はだけた、若い男の顔が覗《のぞ》いた。蒼白《あおじろ》い頬《ほお》に、斜《なな》めに傷《きず》が走っていた。
田島は、黙《だま》って、男の鼻先に、警察手帳《けいさつてちよう》を突《つ》きつけた。
「裏《うら》にも、刑事《けいじ》が、張《は》り込《こ》んでいるから、逃《に》げるのは、諦《あきら》めた方が、いいね」
田島が、押《お》しかぶせるように、いうと、男は、諦《あきら》めたように、「判《わか》ったよ」と、いった。
「林《はやし》アイ子は?」
と、訊《き》くと、吉牟田正吉《よしむたまさきち》は、黙《だま》って、奥《おく》の方を、顎《あご》でしゃくって見せた。奥の部屋で、人の気配《けはい》がして、ナイトガウン姿の女が、蒼《あお》い顔を出した。はれぼったい顔が、ひどく醜《みにく》く見えた。
「お楽しみのところを、悪かったね」
田島は、皮肉《ひにく》をこめて、いったが、吉牟田正吉も、林アイ子も、返事をしなかった。
2
捜査本部《そうさほんぶ》に連行《れんこう》された二人に対して、直《ただ》ちに、訊問《じんもん》が、開始された。
江馬警部《えまけいぶ》が、林アイ子に当り、田島《たじま》は、別室で、吉牟田正吉《よしむたまさきち》と、向い合った。
「この女を知っているね?」
と、田島は、吉牟田の前に、上田悦子《うえだえつこ》の写真を、押《お》しやった。
「お前と林アイ子が、やっていた、白百合《しらゆり》クラブの、コール・ガールの一人だ。杉町《すぎまち》エミ子という名前で、働いていた筈《はず》だ」
「――――」
「どうなんだ?」
「いましたよ」
「お前が、引《ひ》き摺《ず》り込《こ》んだのか?」
「違《ちが》いますよ」
「じゃあ、林アイ子か?」
「女を集めるのは、アイ子の仕事だったんです」
「どうやって、集めた?」
「簡単《かんたん》ですよ。アイ子の奴《やつ》が、喫茶店《きつさてん》や、デパートなんかで、物欲《ものほ》しそうにしている娘《むすめ》を見つけて、話しかけるんです。相手も、女だから、安心する。あとは、お茶でも奢《おご》って、贅沢《ぜいたく》な生活をしたくないかと誘《さそ》えば、イチコロだってことですよ。今の娘《むすめ》は、ドライですからねえ。金儲《かねもう》けのために、身体《からだ》を売るなんてことは、何とも思ってやしないんですよ」
「杉町エミ子も、その一人だった、というのかね?」
「まあね」
「お前は、何をしていたんだ?」
「マネージャーってとこですよ。チラシを配《くば》ったり、電話番をしたり、いい役目じゃありませんよ」
「杉町エミ子が殺されたことは、知っているね?」
「ええ。新聞で読みましたからね」
「どう思ったね?」
「どうって、別に――」
「心当りは、ないかと、訊《き》いているんだ」
「そんなものは、ありませんよ。あるわけが、ないじゃないですか」
「誰《だれ》か、彼女《かのじよ》に熱心だった客の心当りは?」
「彼女を指名して、何度も、電話して来た客は、二人いましたよ」
「名前は?」
「一人は、彼女が前に働いてた食堂の主人です。名前は、知りません。彼女は、しつこいから、嫌《いや》だと、いってましたがね」
「もう一人は?」
「中年の男です。名前は、知りませんよ。声は、憶《おぼ》えてますがね」
「その男のことを、杉町《すぎまち》エミ子が、何か、話さなかったかね」
「それが、妙《みよう》なんですよ」
「何が妙なんだ?」
「女って奴《やつ》は、口が軽いですからね。客のことを、ああだとか、こうだとか、喋《しやべ》るもんなんですが、その客についてだけは、彼女は、一言も喋《しやべ》ろうとしないんです。それで、ひょっとすると、客に惚《ほ》れやがったかなと、思ってたんですがね」
「その客の事は、何にも、判《わか》らないのか?」
「判ってるのは、電話の声だけですよ」
「今でも、聞けば、判るかね?」
「判りますよ。こんな商売をしていると、客の声を憶《おぼ》えるのが、一つの仕事ですからね」
「もう一つ訊《き》くが、杉町エミ子が持っていたエロ写真は、お前が、売らせていたのか?」
「まあね。女達が、金を欲《ほ》しがるもんですからね、売らせてみたんです。それで、ああいう写真を売りつけると、客の方も、ハッスルして、チップを弾《はず》んでくれるらしいんですよ。旦那《だんな》も、お好《す》きでしたら、安く――」
「馬鹿野郎《ばかやろう》」
田島《たじま》は、相手を、怒鳴《どな》りつけた。
田島が、調べ室を出ると、林《はやし》アイ子の訊問《じんもん》を了《お》えた、江馬警部《えまけいぶ》が、声を掛《か》けた。田島は、吉牟田正吉《よしむたまさきち》のいった、中年の男が、怪《あや》しいのではないかと、主張《しゆちよう》した。
「林アイ子も、被害者《ガイシヤ》に、特定《とくてい》の男が、出来ていたらしいと、いっていた」
と、江馬警部も、頷《うなず》いた。
「しかし、林アイ子と、吉牟田正吉の二人も、アリバイを調べる必要が、あると思うのだ」
「吉牟田正吉と、被害者《ガイシヤ》が、出来ていたということですか?」
「林アイ子の話だと、吉牟田は、ひどく、女に手の早い男らしい。それに、仲々《なかなか》美男子だ。上京して来たばかりの被害者《ガイシヤ》が、奴《やつ》に惚《ほ》れたということも、考えられなくはない。奴《やつ》の方でも、三十女の林アイ子より、十八|歳《さい》の上田悦子《うえだえつこ》に、食指《しよくし》が動いたかも知れん」
「ところが、妊娠《にんしん》したのを知って、足手まといになったから、殺した。ということですか?」
「考えられなくはない。また、林アイ子にしてみれば、若い娘《むすめ》に、男を奪《と》られたことから、被害者《ガイシヤ》を憎《にく》んで、毒殺《どくさつ》したという線も、出てくる」
「確《たし》かに、あの二人にも、動機は、考えられますね」
「あの二人と、声だけが判《わか》っているという、中年の男だ。この三人を徹底的《てつていてき》に、洗う必要がある。まず、あの二人の、事件《じけん》当日のアリバイを調べて見てくれ」
「やってみます」
「頼《たの》むよ」
と、いってから、江馬警部《えまけいぶ》は、腕時計《うでどけい》に眼《め》をやった。既《すで》に、十二時に、近かった。
「これから、北砂《きたすな》町まで、行って来なきゃ、ならん」
江馬警部は、顔を上げて、いった。
「被害者《ガイシヤ》が、荼毘《だび》に付されるんでしたね」
田島も、思い出して、暗い顔になった。
「落合《おちあい》という教師《きようし》だけじゃ、仏《ほとけ》さんも、寂《さび》しいだろうからね。僕《ぼく》も、ついていく積《つも》りだ。三時|頃《ごろ》には、済《す》むと思う。それまでに、見通しがついたら、電話してくれ」
江馬警部は、紙片《しへん》に、砂町葬儀場《すなまちそうぎじよう》の電話番号を書いて、田島に渡《わた》した。
「真先《まつさき》に、仏《ほとけ》さんに、知らせてやりたいんだ」
「委《まか》せて下さい」
田島は、ふっと、感傷的《かんしようてき》な気持になって、胸《むね》を、叩《たた》いて見せた。
江馬警部は、机《つくえ》の引出しに、入っていた、黒い腕章《わんしよう》を取り出すと、それを、腕《うで》にはめて出掛《でか》けて行った。
田島は、調べ室に引き返した。薄暗《うすぐら》い部屋《へや》の中で、吉牟田正吉《よしむたまさきち》は、不貞腐《ふてくさ》れたように、生あくびを繰《く》り返していた。田島の顔を見ると、眉《まゆ》をしかめた。
「もう話すことは、ありませんよ」
「そっちにはなくても、こっちには、訊《き》くことがある」
「いったい、何が訊《き》きたいんです?」
「お前さんのアリバイさ」
「アリバイ?」
吉牟田正吉の顔が、急に、暗く歪《ゆが》んだ。狼狽《ろうばい》というより、恐怖《きようふ》に近い顔になって、
「まさか、俺《おれ》が、殺したなんて、思ってるんじゃないでしょうね?」
「思ってるさ」
「とんでもない。濡衣《ぬれぎぬ》ですよ。濡衣《ぬれぎぬ》だ。俺《おれ》は何にもしていない」
「じゃあ、事件《じけん》当日、何をしていたか、話して貰《もら》おうじゃないか。三月十日の夜だ」
「三月十日?」
「日映館《にちえいかん》の三階で、被害者《ガイシヤ》を殺したんじゃないのかね?」
「冗談《じようだん》じゃない。クラブで、電話の番をしてましたよ」
「黒ばらクラブでか?」
「そうですよ。開店早々で、大忙《おおいそが》しでしたよ。新しいチラシを刷《す》らなくちゃならないし、白百合《しらゆり》クラブ時代の女達にも、連絡《れんらく》をつけなきゃならないしね。そうだ。三月十日といえば、新しいチラシが、刷《す》り上った日ですよ。印刷所の奴《やつ》が、夜|遅《おそ》く届《とど》けに来て、話し込《こ》んでいったんだ。そいつに、訊《き》いて貰《もら》えば、アリバイが、はっきりしますよ」
「印刷所は?」
「田原《たわら》町にある小さな印刷屋ですよ。確《たし》か名前は、後藤《ごとう》印刷と、いった筈《はず》です。そこの主人が、八時半|頃《ごろ》、チラシを持って来て、遅《おそ》くまで、話し込んでったんですよ」
「遅《おそ》くまでと、いうのは、正確《せいかく》に、何時頃のことだね?」
「とにかく遅くですよ。テレビが、終る頃だから、十一時頃じゃなかったかな」
「その時、林アイ子も、一緒《いつしよ》だったのか?」
「一緒《いつしよ》だったかな? いや、彼女《かのじよ》は、俺《おれ》と、印刷屋の、おやじが話している時に戻《もど》って来たんだ」
「何時|頃《ごろ》?」
「十時頃でしたよ」
「それまで、どこへ行っていた?」
「さあ、そりゃあ、彼女に訊《き》いてみたら、どうなんです?」
「訊《き》くさ。ところで、被害者《ガイシヤ》は、殺された時、妊娠《にんしん》していた。相手は、お前だったんじゃないのか?」
「とんでもない」
吉牟田正吉《よしむたまさきち》は、気障《きざ》っぽく、肩《かた》をすくめて見せた。
「商品には、手をつけないのが、俺《おれ》達の仁義《じんぎ》ですからね」
「ふむ。恐《おそ》れ入った仁義《じんぎ》だ」
田島は、吐《は》き出すように、いって、調べ室を出た。
林《はやし》アイ子の方は、ひどく疲《つか》れたような顔付だったが、田島の訊問《じんもん》に対しては、吉牟田正吉と同じように、殺した憶《おぼ》えはないと、主張《しゆちよう》した。
「あの日は、昔《むかし》の仲間《なかま》だった娘《こ》が、新橋《しんばし》に、新しく店を出したんで、お祝《いわ》いに、行ったんですよ。帰ったのは、十時|頃《ごろ》だったかしら。チラシを頼《たの》んどいた、印刷屋が来てましたよ。嘘《うそ》じゃありませんよ」
「新橋の店というのは?」
「烏森《からすもり》の、ハルコっていう、小さなバーですよ。宇谷《うたに》ハルコって娘《こ》が、始めた店です。その娘《こ》に訊《き》いて貰《もら》えば、判《わか》りますよ」
「新橋から、雷門《かみなりもん》に戻《もど》る途中《とちゆう》、どこにも寄《よ》らなかったというんだね?」
「寄りませんよ。寄るような所も、ありませんからねえ」
「帰りは? 車で帰ったのかね? それとも地下鉄かね?」
「酔《よ》っていたから、あの娘《こ》が、タクシーを呼《よ》んでくれましたよ。それに乗って帰ったんです。嘘《うそ》じゃありませんよ」
「本当であって、欲《ほ》しいがね」
田島《たじま》は、訊問《じんもん》を打ち切ると、刑事《けいじ》を集めて、アリバイ調査《ちようさ》を命じ、自分も、安部刑事《あべけいじ》と、田原《たわら》町の、後藤《ごとう》という印刷屋へ向った。
第六章 挫《ざ》 折《せつ》
1
捜査本部《そうさほんぶ》から、田原町まで歩く間、田島は、何度も、腕時計《うでどけい》に、眼《め》を向けた。
「丁度《ちようど》、上田悦子《うえだえつこ》の火葬《かそう》が、始まっている頃《ころ》だ」
田島は、ぼそっとした声で、いった。彼の頭の中に、荒涼《こうりよう》とした火葬場《かそうば》の光景が、浮《う》かんで、消えた。高く突《つ》き出た煙突《えんとつ》から、ゆっくりと、立ち昇《のぼ》っていく煙《けむり》。田島は、歩きながら、唇《くちびる》を噛《か》んだ。コール・ガールは、賞《ほ》められた商売じゃないが、上田悦子は、死ぬには、あまりにも若過《わかす》ぎた感じがする。十八|歳《さい》といえば、これからが、楽しい盛《さか》りではないか。
(犯人《はんにん》を、必ず、この手で捕《とら》えてやる)
田島は、自分の心に、いい聞かせた。それは、吉牟田正吉《よしむたまさきち》のアリバイが、崩《くず》れて欲《ほ》しいという気持にも、つながっていた。彼《かれ》が犯人《はんにん》だったら、上田悦子の遺骨《いこつ》に、はなむけが出来るわけだ。
都電通りの裏《うら》に、「後藤《ごとう》印刷所」は、あった。小さな家で、二人の男が、機械を、動かしていた。閉《し》め切った硝子戸《ガラスど》には、「名刺《めいし》、チラシ類引き受けます」と、書いてある。
二人は、硝子戸《ガラスど》を開けて、中に入り、田島が、警察手帳《けいさつてちよう》を示した。
「ご主人は?」
と、訊《き》くと、度の強い眼鏡《めがね》をかけた、中年の方が、もみ手をするようにして、
「私が、後藤ですが」
と、いった。
「貴方《あなた》のところで、黒ばらクラブのチラシを印刷しましたね? 雷門《かみなりもん》の」
「――――」
主人は、顔色を変えた。そのことを、咎《とが》めに来たと思ったらしい。
「実は、あれは、いろいろと――」
と、しどろもどろの弁明《べんめい》をしようとするのを、田島は、手で制《せい》した。
「今日は、チラシを刷《す》ったことを、どうこういうために、来たんじゃないのです」
「へえ――」
主人は、ほっとした表情《ひようじよう》になったが、疑心暗鬼《ぎしんあんき》の眼《め》で、田島と、安部刑事の顔を、交互《こうご》に、見比《みくら》べていた。
「黒ばらクラブのチラシが、刷《す》り上ったのは、何時《いつ》ですか?」
田島が訊《き》いた。
主人は、壁《かべ》に掛《かか》っているカレンダーに、眼《め》をやった。日付のところに、丸や三角の印《しるし》がついているのは、受注や、納入《のうにゆう》の意味らしかった。
「あれは、随分《ずいぶん》、せかされましてね。三月八日に引き受けて、十日に、納入《のうにゆう》しています」
「三月十日という、日付に、間違《まちが》いは、ありませんか?」
「ええ。雨の降《ふ》る寒い日だったですよ。夜|遅《おそ》く、傘《かさ》をさして届《とど》けに行ったのを憶《おぼ》えています。もっとも、帰る時には、止《や》んでいて、おかげで、傘《かさ》を忘《わす》れちまいましたが」
「三月十日の何時|頃《ごろ》ですか? チラシを届《とど》けたのは?」
「八時に店を閉《し》めてから、出掛《でか》けたんですから、八時半頃じゃなかったですかね」
「八時半――?」
田島の顔に、失望の色が浮《う》かんだ。吉牟田正吉《よしむたまさきち》の主張《しゆちよう》に、一致《いつち》しているからである。吉牟田正吉は、犯人《はんにん》では、ないのだろうか。
「黒ばらクラブには、何時|頃《ごろ》まで、いました?」
「それが――」
と、印刷屋の主人は、笑《わら》って頭を掻《か》いた。
「ああいう所は、珍《めずら》しいもんですからね。つい、話し込《こ》んじまいましてね。マネージャーと話したり、女の子に、話を聞いたり――」
「何時まで、いたんです?」
田島は、いらいらした調子で、訊《き》いた。相手は、驚《おどろ》いたように、首をすくませた。
「確《たし》か、十二時近くまで、話し込んでました。十一時を過ぎてたことは、確《たし》かですよ」
「その間、マネージャーの、吉牟田正吉は、貴方《あなた》と、一緒《いつしよ》に、いましたか? 頬《ほお》に傷《きず》のある、若い男です」
「いましたよ。ずっと――」
「確《たし》かですか?」
「ええ」
「十時|頃《ごろ》に、マダムの林《はやし》アイ子が、帰って来たと、思うんですが、憶《おぼ》えていますか?」
「ええ。名前は、憶《おぼ》えていませんが、社長が、タクシーで、帰って来ましたよ。一寸《ちよつと》、酔《よ》っ払《ぱら》ってましたね。仲々《なかなか》、いい女ですよ」
「十時|頃《ごろ》でしたか?」
「まあ、そんな時間でしたね。あたしの帰る一時間くらい前ですから」
「傘《かさ》は、戻《もど》って来ましたか?」
「傘《かさ》?」
「貴方《あなた》が、三月十日に忘《わす》れた傘《かさ》ですよ」
「ああ。次の日に、マネージャーが届《とど》けてくれましたよ。名前が書いてあったし、男物《おとこもの》の傘《かさ》だから、すぐ気がついたんでしょう。あの傘《かさ》が、どうかしたんですか?」
「いや、何でもありません」
田島《たじま》は、首を横に振《ふ》った。印刷屋の主人が、吉牟田正吉と、口裏《くちうら》を合せているような様子は、見えなかった。
田島は、安部刑事《あべけいじ》の顔を見た。が、彼も、これ以上、訊《き》くことは、ないと、いうように小さく首を横に振《ふ》って見せた。
二人は、印刷屋を出た。田島は、一つの挫折《ざせつ》を感じた。疲労《ひろう》が、急に、深くなったような気がした。
「吉牟田正吉は、シロ臭《くさ》くなって来ましたね」
歩きながら、安部刑事も、元気のない声を出した。
「まだ、シロと、決ったわけじゃない」
と、田島は、いったが、自分の言葉に、力のないのが、彼《かれ》自身にも、判《わか》った。吉牟田正吉のアリバイは、完全だ。恐《おそ》らく、彼は、上田悦子《うえだえつこ》を殺した犯人《はんにん》では、ないだろう。商品には、手をつけないと、いった彼の言葉は、案外、本音《ほんね》だったのかも、知れない。
(吉牟田正吉《よしむたまさきち》が、シロだとなると、林アイ子の方も、シロの可能性《かのうせい》が、強くなって来たな)
田島は、気持が、次第《しだい》に、悲観的《ひかんてき》に、なっていくのを感じた。
二人が、捜査本部《そうさほんぶ》に戻《もど》って、一時間ほどして新橋《しんばし》に林アイ子のアリバイを調べに行っていた刑事《けいじ》達も、戻《もど》って来た。その報告《ほうこく》は、田島の、暗い予感を、裏書《うらが》きするものだった。
「林アイ子のアリバイは、残念ながら、しっかりしています」
と、石原《いしはら》という刑事《けいじ》が、いった。その顔にも、落胆《らくたん》と、疲労《ひろう》の色が、現われていた。
「宇谷《うたに》ハルコというバーのマダムに会って来たんですが、三月十日に、確《たし》かに、林アイ子が、手伝いがてら、来てくれたと、いうんです。帰ったのは、九時半|頃《ごろ》で、酔《よ》っていたので、車を呼《よ》んで、乗せたと、いっています。店の女給も、マダムの証言《しようげん》を裏付《うらづ》けしました。新橋で、タクシーに乗ったのが、九時半とすると、日映館《にちえいかん》に廻《まわ》って、上田悦子を殺すのは、どう考えても、無理です。第一、十時近くになると、映画館の切符《きつぷ》売場は、閉《し》まってしまいますからね」
「吉牟田正吉と、林アイ子の二人が、シロだとすると、残るのは、吉牟田のいっていた、中年の男ということになるね」
「雲を掴《つか》むような話ですよ。声だけしか判《わか》らないというのは」
確《たし》かに、雲を掴《つか》むような話だった。相手は、名前も、住所も、判《わか》らないのだ。どんな仕事をしているのかも判《わか》っては、いない。背《せ》が低い男なのか、それとも、ノッポなのか、太《ふと》っているのか、痩《や》せているのかといった、外見さえ、見当がつかない。
2
刑事《けいじ》達が、東京の地図を眺《なが》めて、溜息《ためいき》を吐《つ》いた時、主任《しゆにん》の江馬警部《えまけいぶ》が、北砂《きたすな》町から戻《もど》って来た。
田島《たじま》は、重い気持で、事件《じけん》の経過《けいか》を説明した。
「電話が掛《かか》って来ないので、苦戦らしいと判《わか》っていた。まあ、いいさ」
江馬警部は、慰《なぐさ》め顔に、田島の肩《かた》を叩《たた》いた。
「ゆっくり、やろうじゃないか」
「落合《おちあい》さんは、どうしました」
「上田悦子の遺骨《いこつ》を持って、旅館へ戻《もど》ったよ。仏《ほとけ》さんも、あんな優しい先生に見守られて、荼毘《だび》に付《ふ》されたんだから、幸福だったと思うね」
「何時の汽車で、大阪へ帰ると、いってました?」
「二二時発の彗星《すいせい》で、帰る積《つも》りだと、いっていたがね」
「二二時ですか――」
田島は、腕時計《うでどけい》に、眼《め》をやった。三時二十分を過《す》ぎたところだった。
「あと、六時間四十分しか、ありませんね」
「あんまり、時間に、こだわるなよ。僕《ぼく》も、あの先生が、東京を離《はな》れるまでに、何とか、事件《じけん》を解決《かいけつ》したいとは、思っているが、無理はしたくない。それに、君達も、疲《つか》れ切っている。少し、休んだ方が、いいんじゃないか? 眼《め》が朱《あか》いぞ」
「大丈夫《だいじようぶ》です」
田島は、無理に、笑《わら》って見せた。確《たし》かに、疲労《ひろう》が、応《こた》えていた。寝不足《ねぶそく》のせいか、眼《め》も痛《いた》い。しかし、事件《じけん》が未解決《みかいけつ》のままで、身体《からだ》を休ませられるものではなかった。それに、何としてでも、落合という教師《きようし》が、東京を離《はな》れるまでに、事件《じけん》を解決《かいけつ》したい気持も、ある。功名心《こうみようしん》というよりも、人情《にんじよう》に近い感情《かんじよう》であった。
(六時間四十分)
田島は、その時間を、心の中で、噛《か》みしめてみた。事件《じけん》を解決《かいけつ》するには、余《あま》りにも、短い時間だった。
田島は、安部刑事《あべけいじ》を呼《よ》ぶと、陽《ひ》の傾《かたむ》きかけた街《まち》へ出た。他《ほか》の刑事達も、新しい情報《じようほう》を求めて、街《まち》へ散って行った。
安部刑事は、余《あま》り元気がなかった。それが、当然かも知れない。吉牟田正吉と林アイ子の二人が、シロと決り、残った一人の容疑者《ようぎしや》は、名前さえ、判《わか》らないのだ。
「犯行現場《はんこうげんば》の、日映館《にちえいかん》へ、もう一度、行ってみよう」
と、田島は、暫《しばら》く考えてから、いった。
「何か、見落していたものが、あるかも知れないからね」
あって欲《ほ》しいとは、思ったが、期待は、持てなかった。そんなものがあれば、事件《じけん》直後の現場検証《げんばけんしよう》の時に、発見されている筈《はず》だった。
日映館の前まで来て、田島も、安部刑事も、「あッ」と、思ったのは、建物全体が、板塀《いたべい》で囲まれてしまっていることだった。その板塀《いたべい》に、紙が貼《は》りつけてあって、次のように書かれてあった。
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〈この度《たび》、改装《かいそう》のため、四月|末日迄《まつじつまで》、休館させて頂《いただ》くことになりました。五月一日より、洋画系|封切館《ふうきりかん》として、新しく出発|致《いた》しますから、その節は、旧《きゆう》に倍する御愛顧《ごあいこ》の程《ほど》をお願い致《いた》します。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]日映館館主〉
「思い出したよ」
と、田島は、安部刑事に、苦笑《くしよう》して見せた。
「支配人《しはいにん》が、近く、映画館を閉《し》めて、本格的《ほんかくてき》な改装《かいそう》をやるといっていたのをね」
「しかし――」
安部刑事は、貼紙《はりがみ》に眼《め》をやったまま、不審気《ふしんげ》に、眉《まゆ》をしかめた。
「はっきり憶《おぼ》えては、いませんが、あの時、村田《むらた》という支配人《しはいにん》は、来月に入ってから、本格的《ほんかくてき》な改装《かいそう》に、取りかかることになっていると、いったと思うんですが――」
「そうだったかね」
田島は、はっきり思い出せなかった。
「そうですよ」
と、安部刑事は、繰《く》り返した。
「確《たし》か、来月からと、いってました。今日はまだ、三月十六日です。半月早く、仕事を始めています」
「都合《つごう》で、仕事が早くなったんだろう。仕事の早くなったことが、事件《じけん》に関係があるとも思えないがね」
「そうだとは思いますが――」
安部刑事は、曖昧《あいまい》な調子で、いった。田島は、苦笑《くしよう》して、
「証拠《しようこ》を消すために、急に、工事を始めたとでも、思っているのかね?」
と、訊《き》いた。
「違《ちが》うでしょうか?」
「もし、そうだとしたら、この映画館の経営者《けいえいしや》が、犯人《はんにん》ということになる。支配人《しはいにん》の村田や、他《ほか》の従業員《じゆうぎよういん》には、工事の日時を変更《へんこう》するような権限《けんげん》は、ないだろう」
「映画館の経営者《けいえいしや》が、中年の男だったら、調べてみる必要が、ありはしませんか?」
「そうだな。調べる必要が、あるかも知れん」
田島は、あまり、気乗りのしない顔付で、いった。経営者《けいえいしや》が、犯人《はんにん》だとしたら、なぜ、自分の映画館を、犯行《はんこう》の現場に、選《えら》んだのかという疑問《ぎもん》が、湧《わ》いたからである。
二人は、くぐり戸のようになっている狭《せま》い入口から、中に入った。上の方で、コンクリートを砕《くだ》いているような音がしていた。黄色いヘルメットをかぶった作業員が、うさん臭《くさ》そうな眼《め》で、二人を睨《にら》んで、上へ、駈《か》け上って行った。入れ代りに、顔を覗《のぞ》かせたのは、痩《や》せた、顔色の悪い男だった。田島は、その男の顔に、見憶《みおぼ》えがあった。確《たし》か、死体の発見者で、会計係をしている、鈴木《すずき》という青年だった筈《はず》である。
向うでも、田島達の顔を、憶《おぼ》えていたとみえて、硬い表情《ひようじよう》になった。
「今日は、何ですか?」
と、訊《き》いた。
「改装《かいそう》工事を始めたんですね?」
「ええ。二日前から、始めています」
「しかし、支配人《しはいにん》の村田さんは、確《たし》か、四月になってから、本格的《ほんかくてき》な工事を始めると、いっていた筈《はず》ですが?」
「そうですか?」
鈴木は、一寸《ちよつと》、驚《おどろ》いたような眼《め》になって、田島を見た。田島と、支配人《しはいにん》の会話を聞いていなかったらしい。
「工事の日時を決《き》めるのは、誰《だれ》ですか?」
「勿論《もちろん》、社長ですよ。社長が、建設会社と話して、決めたんです」
「その社長は、中年ですか?」
「年は知りませんが、写真で見た限《かぎ》りでは、中年ですね」
「名前は?」
「柳下嘉津枝《やなしたかつえ》です」
「柳下嘉津枝?」
田島は、安部刑事《あべけいじ》と、顔を見合せた。
「社長は、女ですか?」
「そうですよ。映画館の他《ほか》に、キャバレーなんかも経営《けいえい》していて、一寸《ちよつと》した女傑《じよけつ》ですね」
社長が、女では、吉牟田正吉《よしむたまさきち》の、いっていた中年の男に、該当《がいとう》する筈《はず》がない。改装《かいそう》工事が、早くなったのは、事件《じけん》とは、関係のない事情《じじよう》によるものと考えざるを得《え》なかった。
「三階の、事件現場《じけんげんば》を、見せて貰《もら》えますか?」
と、訊《き》くと、鈴木は、当惑《とうわく》した顔になって、
「丁度《ちようど》、工事中ですが――」
と、いった。話している間も、ドリルの音や、ハンマーの音が、聞こえて来る。田島は、諦《あきら》めた。見たところで、現場《げんば》は、ぶち毀《こわ》され、見落した証拠《しようこ》があったとしても、姿《すがた》を消してしまっているに違《ちが》いないと、思ったからである。
二人は、外に出た。失望が、深まるのを、田島は感じて、自然に、無口になっていたが、国際劇場《こくさいげきじよう》の前まで来た時、
「やっぱり、引っかかります」
と、安部刑事が、いった。
「工事の早くなったことがです」
「しかし、日映館《にちえいかん》の社長は、女だ。犯人《はんにん》であるわけがないだろう?」
「それは、そうですが、どうしても、気になるんです。電話で、工事の早くなった理由《りゆう》を、訊《き》いてみたいと、思うんですが?」
「無駄《むだ》だと思うが、そんなに、気になるなら、電話して見給《みたま》え」
田島は、笑《わら》いながら、いった。
安部刑事は、近くにあった、煙草屋《たばこや》の赤電話に、飛びついた。
第七章 事件の核心
1
安部刑事《あべけいじ》が、電話を掛《か》けている間、田島《たじま》は、煙草《たばこ》を咥《くわ》えて、六区《ろつく》の映画街《えいががい》を、見やっていた。事件現場《じけんげんば》に、駈《か》けつけた時のことを、思い出していた。三階の、薄暗《うすぐら》い座席《ざせき》の間に、仰向《あおむ》けに倒《たお》れていた死体。精一杯《せいいつぱい》大人《おとな》に見せようとする厚化粧《あつげしよう》と、その下に、覗《のぞ》いていた、意外に稚《おさな》い女の顔。胸《むね》の大きく開いたセーターと、階段《かいだん》に転がっていた、真新《まあたら》しいハイヒール。そんなものが、田島の頭の中で、浮《う》かんでは、消えていった。
「――――」
ふッと、田島は、煙草《たばこ》を持った手を、止めてしまった。妙《みよう》だなと思ったからだが、何が、妙《みよう》なのか、判《わか》らないうちに、電話を掛《か》け終った、安部刑事が、近づいて来た。
「無駄《むだ》でした」
と、安部刑事は、がっかりした顔で、いった。
「社長が、いなかったのかね?」
「いや、電話口まで、出て貰《もら》ったんですが、あの改装《かいそう》工事は、最初から、三月十四日に始めることに、なっていたと、いうんです。建設会社の方へ、問い合せて貰《もら》えば、判《わか》ると、いうんですが、あの口ぶりでは、嘘《うそ》をいってるとは、思えません」
「すると、支配人《しはいにん》の村田が、嘘《うそ》を、いったことになるね?」
「そのことについては、支配人《しはいにん》が、勘違《かんちが》いをしていて、四月からと、答えたんだろうと、いってました。私も、そう思いますね」
「勘違《かんちが》いね――?」
「現場《げんば》にあった証拠《しようこ》を隠すために、工事を早めたんではないかと、考えたんですが、どうも、思い過《す》ごしだったようです」
「そうだろうか?」
「えっ?」
安部刑事は、驚《おどろ》いて、訊《き》き返した。田島は、強い眼《め》で、安部刑事を見詰《みつ》めた。
「案外、君は、事件《じけん》の核心《かくしん》に、触《ふ》れたのかも知れんぞ」
「改装《かいそう》工事について、社長の柳下嘉津枝《やなしたかつえ》が、嘘《うそ》を吐《つ》いているというわけですか?」
「いや、そうは、いわない。第一、工事の期日は、急に変えられるものじゃないと思うからね。僕《ぼく》が、おかしいと思うのは、支配人《しはいにん》が、勘違《かんちが》いしたということだよ。映画館を、あずかっている支配人《しはいにん》が、大事な改装《かいそう》工事の日時を、うっかり間違《まちが》えるものだろうか?」
「わざと、間違《まちが》えて、我々《われわれ》に、いったということですか?」
「断定《だんてい》は出来ないが、妙《みよう》な気がするのだ。それからね――」
田島は、二本目の煙草《たばこ》に火を点《つ》けた。
「君が、電話を掛《か》けている間、事件《じけん》の現場《げんば》の様子を思い出していたんだが、どうも、腑《ふ》に落ちないことにぶつかったんだ」
「どんなことです?」
「靴《くつ》のことだ」
「靴《くつ》ですか?」
「被害者《ガイシヤ》の履《は》いていた靴《くつ》だ。いいかね。鈴木《すずき》という会計係が、明りを消すために、二階へ上って来た。その時、通行止《つうこうどめ》の貼紙《はりがみ》の向う側《がわ》に、ハイヒールが片方《かたほう》落ちているのを発見した。それで、支配人《しはいにん》の村田を呼《よ》んで、三階を調べて見る気になったと、証言《しようげん》している」
「その通りです」
「なぜ、ハイヒールの片方《かたほう》が、階段《かいだん》の途中《とちゆう》に、落ちていたんだろうか?」
「なぜって――」
安部刑事《あべけいじ》は、口籠《くちごも》ってしまった。適当《てきとう》な説明が、思いつかないという顔になっている。
「上田悦子《うえだえつこ》が、三階へ行く途中《とちゆう》で、落したというのも、変ですね」
「考えられるのは、殺人現場《さつじんげんば》が、三階でなくて、別の所だったということだよ」
田島は、考えながら、話を進めた。
「他《ほか》の所で、毒殺して、犯人《はんにん》は、死体を、三階へ運んだ。その途中《とちゆう》で、片方《かたほう》の靴《くつ》を落してしまったということだ。こう考えれば、階段《かいだん》の途中《とちゆう》に、ハイヒールが片方《かたほう》だけ落ちていたことの説明はつく」
「しかし――」
「しかし?」
「途中《とちゆう》で、靴《くつ》を落したことに、犯人《はんにん》が、気付かなかったというのは、どうでしょうか。階段《かいだん》は、コンクリートですから、大きな音がしたと思うんですが?」
「その通りだよ」
「えッ?」
「君のいう通りさ。それに、あの映画館では通行止《つうこうどめ》になっている三階以上に、殺人の場所として、適当《てきとう》な所は、ない筈《はず》だ。だから、死体を運ぶ途中《とちゆう》で、靴《くつ》が落ちたという考えは、間違《まちが》っていると見なければならない。となると、残る考え方は、一つしかない」
「何ですか?」
「犯人《はんにん》が、殺したあとで、あそこに、片方《かたほう》のハイヒールを置いたという考え方だ」
「しかし、それは、あんまり――」
「馬鹿《ばか》げているかね?」
田島は、微笑《びしよう》して見せた。
「確《たし》かに、馬鹿《ばか》げている。三階に死体があるのが判《わか》ったのは、あの靴《くつ》のためだからね。もし、靴《くつ》が、階段《かいだん》の途中《とちゆう》に落ちていなければ、死体は、発見されずに、済《す》んだことになる。と、いうことは、犯人《はんにん》は、死体を発見して貰《もら》いたくて、ハイヒールを、階段《かいだん》の途中《とちゆう》に、置いたということだよ」
「死体を発見して貰《もら》いたい犯人《はんにん》なんて、いるでしょうか?」
「妙《みよう》だとは、僕《ぼく》も思うが、他《ほか》に、辻褄《つじつま》の合う説明が、ないからね」
「しかし――」
「なぜ、犯人《はんにん》が、死体を発見して欲《ほ》しいと願ったか、その説明がつけば、事件解決《じけんかいけつ》の糸口《いとぐち》が、掴《つか》めるかも知れん。犯人が、限定《げんてい》できるからね」
「そんな説明が、つくでしょうか。どんな犯人でも、死体は、遅《おそ》く発見されるのを、望むんじゃないでしょうか?」
「まあ、そうだが」
「第一、改装《かいそう》工事が始まれば、いやでも、死体は発見された筈《はず》です。わざわざ、階段《かいだん》の途中《とちゆう》に、靴《くつ》を置いとく必要は、なかった筈《はず》です。ですから――」
「一寸《ちよつと》、待ってくれ」
田島は、急に、狼狽《ろうばい》した表情《ひようじよう》になって、安部刑事《あべけいじ》の言葉を、途中《とちゆう》で、遮《さえぎ》った。眼付《めつ》きが、変っていた。
「今、君のいったことを、もう一度、繰《く》り返してみてくれ」
「どうせ、改装《かいそう》工事が始まれば、いやでも、死体が発見されてしまうということですか?」
「それだよ」
田島は、大きな声で、いった。
「犯人《はんにん》は、改装《かいそう》工事が始まってから、死体が発見されるのを、好《この》まなかったんだ。鈴木という会計係は、仕事が済《す》んだ後で、明りを消すために、二階に上って行く。階段《かいだん》の途中《とちゆう》に、靴《くつ》を置いておけば、必ず、三階の死体は発見される。犯人《はんにん》は、そう考えたとしか思えない」
「なぜそんなことを?」
「考えられることが、一つある。改装工事が始まってから、死体が発見されたら、最初に疑《うたが》われるのは、映画館の内部の人間だということだよ。我々《われわれ》も、そう考えると思うね。犯人《はんにん》は、それを恐《おそ》れる。だから、改装《かいそう》工事が、始まる前に、死体が発見されて欲《ほ》しかった。がそうかといって、誰《だれ》の眼《め》にもつく場所に放り出して置くのも不自然だ。だから、靴《くつ》を使った。改装《かいそう》工事前に、死体が発見されれば、疑《うたが》いは、当然、その日の観客に向けられる。被害者《ガイシヤ》自身が、観客の一人だったからね」
「すると、犯人《はんにん》は?」
「支配人《しはいにん》の村田《むらた》だよ。彼が犯人《はんにん》だとすれば、改装《かいそう》工事の日時を、違《ちが》って話したことも、説明がつくからね。彼にしてみれば、四、五日あとに、改装《かいそう》工事が始まると、正直《しようじき》にいうと、我々《われわれ》に、自分の意図《いと》が、感づかれてしまうのではあるまいかという恐怖心《きようふしん》が、あったんじゃないかと思う。だから、無意識《むいしき》に、遅《おそ》い日時を口にしたんだと思う。それが、逆《ぎやく》に、君をして疑《うたが》わせる結果《けつか》になってしまったがね」
「村田を逮捕《たいほ》しますか?」
「その前に、もう少し調べてみよう」
「どうします?」
「君は、鈴木という会計係に、もう一度、会ってみてくれ。事件《じけん》があった日は、雨が降《ふ》っていた筈《はず》だから、被害者《ガイシヤ》は、映画館へ来るとき、傘《かさ》をさしていた筈だ。それが、現場《げんば》になかったのは、犯人《はんにん》が隠《かく》したとしか考えようがない。恐《おそ》らく、上田悦子《うえだえつこ》の名前があったからだろう。鈴木に、村田が事件《じけん》直後、女物《おんなもの》の傘《かさ》を持っていなかったかどうか、訊《き》いて貰《もら》いたいんだ」
「判《わか》りました。田島さんは?」
「署《しよ》に戻《もど》って、吉牟田正吉《よしむたまさきち》に、電話を掛《か》けさせてみる。男の声を憶《おぼ》えていると、いっていたからね」
2
田島の報告《ほうこく》は、捜査本部《そうさほんぶ》を、色めき立たせた。江馬警部《えまけいぶ》は、すぐ、吉牟田正吉を、呼《よ》び寄《よ》せた。田島が、彼に、説明すると、吉牟田は、面白《おもしろ》いというように、にやにや笑《わら》い出した。
「しっかり、やってくれ」
と、田島は、念を押《お》した。
「これは、遊びじゃないんだ。それから、もし、村田の声が、お前さんのいう、中年男の声だったら、聞き憶《おぼ》えのあることを、相手に教えてやって欲《ほ》しい」
「一種の脅迫《きようはく》ですね」
吉牟田正吉は、にやッと笑《わら》ってから、ダイヤルを廻《まわ》した。田島は、テープ・レコーダーのスイッチを入れた。江馬警部や他の刑事達も、二人の周囲に集まって、聞き耳を立てた。
「村田さんのお宅《たく》ですか?」
「そうですが――」
と、男の声がした。吉牟田正吉は、田島を見て、頷《うなず》いて見せた。声に、聞き憶《おぼ》えがあるということなのだろう。
「村田さんですね?」
「そうですが――」
「あたしの声が判《わか》りませんか?」
「誰《だれ》なんだね? 君は――」
「貴方《あなた》に、杉町《すぎまち》エミ子を、お世話《せわ》申し上げた、白百合《しらゆり》クラブの者ですよ」
「――――」
「その杉町エミ子が、殺されたのは、ご存《ぞん》じですね?」
「杉町エミ子などという女は、知らん」
「上田悦子《うえだえつこ》という本名なら、ご存《ぞん》じですか?」
「知らん」
「いくら否定《ひてい》なさっても無駄《むだ》ですよ。あたしは、彼女と貴方《あなた》の後をつけて、名前を確《たし》かめたんですからね。あたしが、貴方《あなた》と彼女のことを、警察《けいさつ》に喋《しやべ》ったら、どういうことになるか――」
「喋《しやべ》るつもりか?」
「どうしようか、それを考えてるんですがね」
吉牟田正吉は、刑事《けいじ》の顔を見廻《みまわ》して、にやッと笑《わら》って見せた。
「いくら欲《ほ》しいんだ?」
「さあねえ」
「十万か? それとも二十万か? そのくらいの金なら出してもいい。どうなんだ? 返事をしてくれ」
村田の声は、喘《あえ》ぐように、聞こえた。江馬警部《えまけいぶ》は、もう、いいというように、吉牟田正吉に、手を振《ふ》って見せた。
吉牟田正吉《よしむたまさきち》は、受話器を置くと、「どうですか」と、得意気《とくいげ》に、いったが、田島が、
「脅迫《きようはく》の前科があるだけに、上手《うま》いもんだよ」
と、笑《わら》うと、べそをかいたような顔になって、黙《だま》ってしまった。
吉牟田正吉を、部屋《へや》から出すと、江馬警部は、テープ・レコーダーのスイッチを入れて、もう一度、二人の対話を聞いてみた。
「村田は、クロだな」
聞き終ってから、断定《だんてい》するように、いった。
警部《けいぶ》が、担当検事《たんとうけんじ》に、逮捕状《たいほじよう》を請求《せいきゆう》している間に、安部刑事《あべけいじ》も、戻《もど》って来た。
田島は、電話のことを、聞かせてから、傘《かさ》のことを、訊《き》いた。
「それが、会計係の話では、女物《おんなもの》の傘《かさ》は、見なかったというのです」
「見なかった?」
田島は、一寸《ちよつと》、当てが外《はず》れたという表情《ひようじよう》になった。が、安部刑事は、笑《わら》って見せて、
「ところが、会計係は、面白《おもしろ》いことも、聞かせてくれましたよ」
「どんなことだね?」
「事件《じけん》の日、村田は、朝、傘《かさ》を持たずに、来た筈《はず》なのに、事件《じけん》の後で気付いてみると、傘《かさ》を持っていたというんです。その傘《かさ》は、柄《え》のところに銀で、名前を彫《ほ》り込《こ》んだ、特別製《とくべつせい》だそうです」
「それで?」
「その話を聞いて、田原《たわら》町の、後藤《ごとう》という印刷屋の話を思い出したんです。傘《かさ》を、置き忘《わす》れて、返して貰《もら》ったという話です」
「それで?」
「村田が、アパートに彼女《かのじよ》を訪《たず》ねた時、傘《かさ》を忘《わす》れたんじゃないでしょうか。事件《じけん》の日、彼女は、村田の傘《かさ》をさして、映画館へ来た。だから、死体の傍《そば》へ転がっているべき傘は、女物《おんなもの》ではなくて、男物《おとこもの》の村田の傘だった。女物なら、隠《かく》す必要はないが、村田の傘は、銀で名前が彫《ほ》り込《こ》んである。それが、死体の傍《そば》にあったら、命取りです。だから、隠《かく》した。そう考えたんですが――」
「――――」
「駄目《だめ》ですか?」
「いや、反対だ。恐《おそ》らく、君の推測《すいそく》は、正しいと思う。感心したよ」
田島は、笑《わら》って見せた。
六時三十分に、村田は、自宅《じたく》で、逮捕《たいほ》された。連行《れんこう》されてくる途中《とちゆう》で、何度も、逮捕《たいほ》は不法だといい、上田悦子《うえだえつこ》などという女は、知らないと、わめき続けたが、捜査本部《そうさほんぶ》で、テープ・レコーダーに録音された、自分の声を、聞かされると、真蒼《まつさお》に、なってしまった。
「こりゃあ、ペテンだッ」
と、叫《さけ》んだが、その声には、元気がなかった。
村田が、自供を始めたのは、連行されてから、三十分ほど、後になってである。
「馬鹿《ばか》なことを、したもんです」
と、村田は、かすれた声で、訊問《じんもん》に当った、江馬警部にいった。
「歩いている時に、渡《わた》された、一枚《いちまい》のチラシが、私の運命を、狂《くる》わせてしまったんです。そのチラシを見ているうちに、柄《がら》にもなく、コール・ガールと、遊んでみたいと、思ったんです。丁度《ちようど》、懐《ふところ》に、金があったのも、いけなかったんです。その時、相手になったのが、あの娘《こ》です。ちっとも、あんな商売の女には、見えませんでした。大人《おとな》っぽい口を利《き》いてましたが、気持も身体《からだ》も、子供なんです。それが、かえって、いけなかったんです。あれが、海千山千《うみせんやません》の女だったら、私は、一度で、止《や》めてしまったろうと思います。ところが、相手は、ぴちぴちした若い娘《こ》です。皮膚《ひふ》のたるんだ女房《にようぼう》が、急に、うとましくなりました。それだけ、あの娘《こ》に、参《まい》ってしまったんです。
私は、何とか、金を工面《くめん》しては、あの娘《こ》を呼《よ》びました。しかし、そうそう金の都合《つごう》が、つく筈《はず》がありません。だが、会いたい。それで、私は、あの娘《こ》を欺《だま》したんです。自分は、映画館を、何軒《なんげん》も経営《けいえい》している。先妻に死なれて、適当《てきとう》な女《ひと》がいたら、再婚《さいこん》したい積《つも》りだと、いったのです。あの娘《こ》は、簡単《かんたん》に、欺《だま》されました。社長夫人の魅力《みりよく》が、商売気《しようばいけ》を離《はな》れさせたんです。サービスも献身的《けんしんてき》になったし、金も受け取らなくなりました。私は、しめしめと思いました。ところが、突然《とつぜん》、妊娠《にんしん》したと、聞かされたんです。献身的《けんしんてき》なあまり、私と寝《ね》る時には、避妊《ひにん》の処置《しよち》をとらなかったから、貴方《あなた》の子供に、間違《まちが》いないというのです。そして、結婚《けつこん》を迫《せま》られました。
私は、逃《に》げようとしました。私は、本名を、いっていませんでしたから、逃《に》げられると、思ったんです。ところが、うかつにも、私は、彼女《かのじよ》のアパートに、自分の名を彫《ほ》った傘《かさ》を、忘《わす》れてしまったんです。彼女は、傘《かさ》から、私の住所を、電話帳で調べて、電話して来ました。結婚《けつこん》してくれるか、さもなければ、二百万円|寄越《よこ》せというんです。そんな金が、私に、あるわけがありません。私は、あの娘《こ》を、殺さなければ、自分の破滅《はめつ》だと考えました。
私は、青酸《せいさん》を手に入れてから、映画館に来るように、いいました。あとは、刑事《けいじ》さんの推測《すいそく》された通りです。死体から財布《さいふ》を取りあげたのも私です。青酸《せいさん》を入れたジュースは、前もって用意しておいて、映画館の空瓶《あきびん》と、すりかえました。売店の女に、顔を見られたら、おしまいですからね。本当に、馬鹿《ばか》なことをしたものだと思います。遊ぶ金|惜《お》しさに、あの娘を欺《だま》したのが、私の命取りになったのですからね。自業自得《じごうじとく》かも、知れませんが――」
第八章 大阪からの手紙
四日|経《た》って、大阪から、浅草署宛《あさくさしよあて》に、手紙が、届《とど》いた。差出人《さしだしにん》は、落合《おちあい》という夜間中学の教師《きようし》だった。
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〈前略。
まず、小生《しようせい》が帰阪《きはん》の節、わざわざ、東京駅まで、事件《じけん》の解決《かいけつ》を知らせに、駈《か》けつけて下さった御厚情《ごこうじよう》に、お礼を申し上げます。あの時、これで、上田悦子《うえだえつこ》の霊《れい》も、救われると思いましたが、その気持は、今も、変っておりません。生徒達には、事件《じけん》のことは、まだ、話しておりません。それぞれ、各自が、考えて欲《ほ》しいと思っているからです。ただ、一つだけ、生徒達に、伝えたことが、あります。それは、上田悦子が、死ぬ瞬間《しゆんかん》まで、西成《にしなり》中学の生徒だったと、いうことです。これは、私の感傷《かんしよう》かも知れませんし、コール・ガールまでした娘《むすめ》を、西成中学の生徒と呼《よ》ぶことは、神聖《しんせい》な学制《がくせい》に対する冒涜《ぼうとく》だと、いう人も、いるかも知れません。しかし、一年前の学生証《がくせいしよう》を、肌身離《はだみはな》さず、持っていた彼女《かのじよ》の気持を考えると、最後まで、本校の生徒だったのだと、いってやりたいのです。
上田悦子が、身体《からだ》を売って貯《た》めた五万円の金は、彼女の、墓を建てることに、使うつもりでおります。他《ほか》に、使い道が、考えつきませんし、彼女と机《つくえ》を並《なら》べていた生徒も、お墓を建ててやりたいと、いっております。考えてみますと、彼女は、自分で、自分の運命を切り開こうとして、東京へ行ったのですが、彼女が得たのは、自分の墓標《ぼひよう》を作るお金だけだったということになります。それを考えると、暗澹《あんたん》とした気持にならざるを得《え》ません。更《さら》に、恐《おそ》ろしいことは、私の教えている他《ほか》の、夜間中学生徒にも、いつ、上田悦子のような、恐《おそ》ろしい運命が、襲《おそ》いかかって来るかも知れぬと、いうことなのです。その時、彼等《かれら》は、独《ひと》りで、闘《たたか》わなければなりません。誰《だれ》も、彼等を、助ける者は、ないからです。
愚痴《ぐち》っぽい手紙に、なってしまいました。お礼を申し上げる積《つも》りでしたのに、申しわけございません。お許《ゆる》し下さい。お身体《からだ》お大切に。ご健闘《けんとう》を、お祈《いの》りしております。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]落合 祐一《ゆういち》〉
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海の沈黙
1
私《わたし》が、その事件《じけん》に興味《きようみ》を持ったのは、恐《おそ》らく、私自身、海というものに、強いあこがれを持っていたからだろう。
終戦後、雑誌社《ざつししや》に勤《つと》め、都会の喧騒《けんそう》にもまれて、潮《しお》の香《かお》りをかぐことも、まれになってしまったが、戦時中は、船で、太平洋を走り廻《まわ》ったことがある。二十歳《はたち》の頃《ころ》である。戦争は、暗い記憶《きおく》を、私の胸《むね》に残したが、宏大《こうだい》な海原《うなばら》だけは、さわやかな思い出になっている。
海は素晴《すば》らしい、が、同時に恐《おそ》ろしいことを、私は、その時に知った。美しく優《やさ》しいが、同時に、厳《きび》しく冷酷《れいこく》でもある。もう一度、海の驚異《きようい》に接《せつ》したいという願いが、私の心の何処《どこ》かに残っていた。その願いが、事件《じけん》に、首を突《つ》っ込《こ》ませることになったと、私は思っている。
五月二十六日。月曜日。私は、休暇《きゆうか》を取って、上野《うえの》から、青森行《あおもりゆき》の列車に乗った。四日間の休暇《きゆうか》の間に、駈《か》け足で、東北旅行を楽しんで来ようと思ったのである。四日間は、仕事のことは、完全に忘《わす》れよう。私は、そう自分に、いい聞かせていた。都会の俗塵《ぞくじん》を、洗い流してくる積《つも》りだった。
列車は、十一時二十九分発の夜行《やこう》を選んだ。座席《ざせき》に腰《こし》を下ろしてから、睡魔《すいま》が、私を捕《とら》えてくれるまで、新聞に眼《め》を通した。
見栄《みば》えのしない記事が並《なら》んでいた。政治《せいじ》も社会も、太平《たいへい》ムードの中に、眠《ねむ》っているようだ。私も、眼《め》を閉《と》じるつもりで、新聞をたたみかけたが、妙《みよう》な記事を見つけて、手を止めてしまった。
妙《みよう》な――という形容《けいよう》は、或《ある》いは、当っていないかも知れない。社会面の隅に、何気なく出ていた記事である。私が、その記事に眼《め》を止めたのは、前に記したように、海に対する懐《なつか》しさからだった。
〈南太平洋で、漁船|遭難《そうなん》〉
見出しには、こう書いてあった。戦時中、私の乗った輸送船《ゆそうせん》が、アメリカの潜水艦《せんすいかん》の魚雷攻撃《ぎよらいこうげき》を受けて沈没《ちんぼつ》した。同じ南太平洋である。
『南太平洋』の文字《もじ》を見たとき、私は、必死の思いで、重油《じゆうゆ》の流れる海を泳いだ記憶《きおく》が、蘇《よみがえ》ってきた。
私は、記事に、眼《め》を移《うつ》した。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈田沼《たぬま》水産|所属《しよぞく》の第二|太陽丸《たいようまる》(九九トン)は昨日午後二時|頃《ごろ》、太平洋で時化《しけ》のため沈没《ちんぼつ》した。しかし、乗組員《のりくみいん》十七人は、近くにいた第一太陽丸に、全員救助されたと連絡《れんらく》があった〉
[#ここで字下げ終わり]
記事は、これだけだった。そして、漁船の写真が載《の》っている。
私が妙《みよう》だなと思ったのは、十七人全員が救助されたという箇所《かしよ》だった。
南太平洋は、波が荒《あら》い。しかも、時化《しけ》のため沈没《ちんぼつ》と書いてある。いかに、近くに漁船がいたにしても、十七人全員が救助されるなどという幸運が、あり得《う》るだろうか。時化《しけ》の時の海は、遭難船《そうなんせん》に近づくことさえ、容易《ようい》ではないものだ。
私の乗った輸送船《ゆそうせん》が沈《しず》められた時、海は、あまり荒《あ》れてはいなかった。しかも、近くに味方《みかた》の船がいた。救助活動も、迅速《じんそく》に行われた。それにもかかわらず、乗組員《のりくみいん》の四分の一は、助からなかったのである。
私は、その時の暗い体験と引きくらべて、十七人全員救助の文字《もじ》が、納得《なつとく》できなかった。
しかし、これだけの疑問《ぎもん》では、私も、事件《じけん》に首を突《つ》っ込《こ》みはしなかったろう。全員が救助される奇蹟《きせき》が、あり得《え》ないわけではないのだから。
私は、もう一度、新聞を読み直《なお》した。そうして、第二|太陽丸《たいようまる》という漁船が、東北のNという漁港から、出発したことを知った。青森《あおもり》への途中駅《とちゆうえき》の近くである。
(途中下車《とちゆうげしや》してみようか)
と、思い、その思いが、私を捕《とら》えてしまった。勿論《もちろん》、救助された十七人の乗組員《のりくみいん》は、半月ぐらいしなければ、Nに帰港しないだろうが、私は、漁港と、東北の海を見たくなったのだ。それに、九九トンの漁船も。
2
漁港は、まだ、朝もやの中に、眠《ねむ》っていた。
私《わたし》は、強い潮《しお》の香《かお》りに包《つつ》まれながら、桟橋《さんばし》の見える場所に、立っていた。
意外であった。
私は、活気に満《み》ちた漁港の姿《すがた》を、想像《そうぞう》していたのだ。波を蹴《け》たてて、出港していく漁船の群《むれ》。エンジンの音と、赤銅色《しやくどういろ》に陽焼《ひや》けした漁師《りようし》のドラ声が交錯《こうさく》する漁村。そして、陸揚《りくあ》げされる魚。
私の頭の中にあったNの姿《すがた》は、そうしたものだった。
しかし、眼《め》の前にある、港の姿《すがた》は、その想像《そうぞう》とは、余《あま》りにも、かけはなれている。
港は、眠《ねむ》っている。というより、私には、死んでいるように見えた。
けたたましいエンジンの音は、何処《どこ》からも聞こえて来なかった。赤銅色《しやくどういろ》に陽焼《ひや》けした、逞《たくま》しい漁師《りようし》の姿《すがた》も見当らない。
私は、狐《きつね》につままれたような気持で、桟橋《さんばし》に近づいて行った。
桟橋《さんばし》も、ひっそりと静まりかえっていた。桟橋《さんばし》の先端《せんたん》で、子供が二人、ひっそりと釣糸《つりいと》を垂《た》れているだけである。
(漁船が全部、出かけているからだろうか?)
と、私は考えたが、それも違《ちが》うようであった。
桟橋《さんばし》の反対側《はんたいがわ》に、五、六|隻《せき》の漁船が、つながれているのが見えたからである。私は、時計を見た。
六時になっている。常識《じようしき》からいえば、どの船も出航の準備《じゆんび》に大わらわになっていなければならない時間である。しかし、岸につながれている漁船は、静まりかえっている。
私は、桟橋《さんばし》の先端《せんたん》にいる子供達のところへ、歩いて行った。
バケツを覗《のぞ》き込《こ》むと、色彩《しきさい》のあざやかな魚が三|匹《びき》ばかり入っていた。そのうちの一|匹《ぴき》は、腹《はら》を見せて、死んでいた。何という名前の魚か、私には判《わか》らない。
「あの船は、漁《りよう》に出ないのかい?」
と、私は、子供達に、訊《き》いてみた。丸坊主《まるぼうず》の子供が、
「えッ?」
と、訊《き》き返してから、
「知らねえ」
と、ぶっきらぼうな返事をした。私は、もう一人の子供に眼《め》を向けた。この方は、十五、六だろう。子供というより、少年という言葉の方が適切《てきせつ》だった。
「俺《おれ》も知らねえ」
と、その少年も、いった。怒《おこ》ったような声であった。
私は、第二|太陽丸《たいようまる》の遭難《そうなん》を知っているかどうか、訊《き》いてみた。
子供達は、顔を見合せた。しかし、黙《だま》っている。彼等《かれら》が知らない筈《はず》はなかった。この港から、出て行った船が、遭難したのだ。それに、救助された十七人の漁師《りようし》達の誰《だれ》かが、この二人の子供達の父親か、兄であるかも知れない。
私は、他所者《よそもの》として、警戒《けいかい》されたのだ。
私は、桟橋《さんばし》から、街《まち》へ引き返した。
ゴースト・タウンのように見えた街《まち》にも、ちらほらと、人の姿《すがた》が見え始めたのに、私は気付いた。
二十代くらいの若者の姿《すがた》も見えた。が、彼等《かれら》は、繋留《けいりゆう》されている漁船に向って歩いて行くのではなく、私が降《お》りて来た、東北線の駅に向って歩いて行く。服装《ふくそう》も、漁師《りようし》のそれではなく、サラリーマンや、工員の恰好《かつこう》だった。
Nは、漁港として、さびれつつあるのだと、私にも判《わか》って来た。しかし、そのことと、第二|太陽丸《たいようまる》の遭難《そうなん》は、何処《どこ》かで、つながっているのだろうか。
私は、それを調べてみたいと、思った。雑誌記者《ざつしきしや》の野次馬根性《やじうまこんじよう》である。
3
私は、まず、街《まち》の漁《ぎよ》 業《ぎよう》 組合《くみあい》を訪《たず》ねてみた。
組合長だという五十|歳《さい》くらいの、陽焼《ひや》けした男は、私が名刺《めいし》を出すと、途端《とたん》に、強い警戒《けいかい》の眼《め》の色になった。
「遭難《そうなん》のニュースは、勿論《もちろん》、入っとります」
と、組合長は、いった。
「十七人全員が助かったと聞いて、ほっとしていたところです」
「時化《しけ》にあって、遭難《そうなん》したそうですね?」
「そう、聞いております」
「九九トンというと、あまり大きな船ともいえないし、それに、木造船《もくぞうせん》でしょう。それが太平洋まで行くのは、大変ですね?」
「遠くまで出なきゃ、魚が獲れませんからね」
組合長は、憮然《ぶぜん》とした表情《ひようじよう》で、いった。
「昔《むかし》は、一寸沖《ちよつとおき》へ出りゃあ、わんさと、魚が獲れたもんですがねえ」
「獲れなくなったのは、乱獲《らんかく》のせいですか?」
「さあ、どうでしょうかねえ」
組合長は、曖昧《あいまい》な表情《ひようじよう》をした。
「潮流《ちようりゆう》が変ったせいだという人もいますしね。詳《くわ》しいことは、私にも判《わか》らんです」
本当に判《わか》らないのか、私という外来者への警戒《けいかい》のための言葉なのか、私には、判断《はんだん》がつかなかった。
「漁船が繋《つな》がれたままになっていましたが、あれは、どうしたんですか?」
私が訊《き》く。組合長は、窓《まど》から、港の方へ眼《め》をやった。此処《ここ》からも、漁船の姿《すがた》は、小さく見えた。
「あれは、九九トン船じゃありません」
と、組合長は、いった。
「遠洋漁業には、出ていけん船です」
いけんというのが、行くことが出来ないという意味なのか、法律的《ほうりつてき》に、遠洋へ出ることを禁《きん》じられているという意味なのか、私には判《わか》らなかった。おそらく、両方の意味なのだろう。確《たし》かに、あんな小さな船で、遠い海へ出て行くのは危険《きけん》だ。
「しかし、漁師《りようし》は、どうしているのです? あの船の漁師《りようし》は?」
「おりますよ。むやみに、船を出しても、魚が獲れなければ、赤字が増《ふ》えるだけですからね」
魚群《ぎよぐん》が来たという報告《ほうこく》を待って、出かけることにしているのだが、最近では、そうした喜ばしい報《しら》せは、まれにしかないということだった。
「待っている間の収入《しゆうにゆう》は、どうなんです?」
「船主《ふなぬし》が払《はら》っていますよ。魚が獲れないからといって、放り出すわけにもいきませんからね」
船主《せんしゆ》は、だいたい月に二万から三万くらいの金を払《はら》って、『魚を待っている』漁師《りようし》を、養《やしな》っているのだという。
「しかし、今の若い人達は、魚に見切りをつけて、工員になったり、サラリーマンになったりしていますよ。東京へ出る者も多くなりましたな」
と、組合長は、また、憮然《ぶぜん》とした表情《ひようじよう》になった。私は、先刻《せんこく》見た、若者達の姿《すがた》を思い出した。農村の若者達が、工場|勤《づと》めの月給取りに変っていくように、漁村の若者達も、同じ変貌《へんぼう》を遂《と》げていくのだろう。
「遭難した漁船のことですが」
と、私は、また話を戻《もど》した。どうしても、第二|太陽丸《たいようまる》のことが、気になったからである。
「前にも、ここでは、遭難事故《そうなんじこ》があったのですか?」
「――――」
組合長の顔に、ふいに、暗い影《かげ》のようなものが走るのを、私は見た。
「何故《なぜ》、そんなことを、訊《き》かれるんですか?」
ひどい切り口上《こうじよう》で、組合長は、私を睨《にら》んだ。私の質問《しつもん》は、どうやら、相手の傷口《きずぐち》に触《ふ》れたようだった。しかし、その傷口《きずぐち》が、どんなものなのか、私に判《わか》る筈《はず》がなかった。
私は、何となく興味《きようみ》があるのだと、いった。他《ほか》に、いいようがなかったからだが、この言葉も、組合長には、気にいらなかったらしい。
組合長の口は、貝のように、閉《と》ざされてしまった。
4
第二|太陽丸《たいようまる》の船主《せんしゆ》が、小島《こじま》という老人と聞いて、私《わたし》は、海岸|沿《ぞ》いにあるその家を訪《たず》ねてみた。
木造《もくぞう》二階建ての事務所《じむしよ》があり、『小島 鰹《かつお》 鮪《まぐろ》 船|合資《ごうし》会社』という看板《かんばん》が下《さが》っていた。事務所《じむしよ》には、数人の事務員《じむいん》の姿《すがた》が見えたが、私が顔を出した途端《とたん》に、彼等《かれら》の顔に、一斉《いつせい》に緊張《きんちよう》の色が走った。
(あの組合長が、電話したのだな)
と、思った。多分《たぶん》、妙《みよう》な人間が行くかも知れないから、用心《ようじん》しろとでも、電話したのだろう。
妙《みよう》なもので、警戒《けいかい》されると、何故警戒《なぜけいかい》されるのか、余計《よけい》に、それが知りたくなるものである。それに、記者|根性《こんじよう》もある。私は、迷惑《めいわく》という字が、ぶら下《さが》っているような事務員《じむいん》を掴《つか》まえて、いろいろと、訊《き》いてみた。
「ここに所属《しよぞく》している船の数は?」
という質問《しつもん》に、十|隻《せき》と答えてくれたが、船の名簿《めいぼ》が見たいというと、あっさりと、拒絶《きよぜつ》されてしまった。船員|名簿《めいぼ》も見せられないという。
「あんたに、見せなきゃならない義理《ぎり》は、ありませんからね」
と、若い事務員《じむいん》は、怒《おこ》ったような声で、いった。
そういわれれば、勿論《もちろん》、私には、強《し》いて訊《き》く権利《けんり》はない。
私は、引き下《さが》った。しかし、この警戒《けいかい》の空気には、何かあると、思わざるを得《え》なかった。
私は、街《まち》を歩き廻《まわ》ってみた。若者達が、工場へ出かけてしまった後の街《まち》は、がらんとして活気がなかった。この街《まち》の唯一《ゆいいつ》の娯楽場《ごらくじよう》らしいパチンコ屋にも、人の影《かげ》は、まばらだった。
浜《はま》では、陽焼《ひや》けした漁師《りようし》が、網《あみ》を、つくろっていたが、その顔にも、元気がなかった。
私は、その漁師《りようし》の一人にも、話しかけてみた。
「第二|太陽丸《たいようまる》のことは、知ってるよ」
と、中年の漁師《りようし》は、網《あみ》をつくろう手を休めずに、いった。
「あんな遠くで、時化《しけ》にあっちゃあ、木造船《もくぞうせん》は、ひとたまりもないからね」
「よく十七人全員が助かったと思いませんか?」
「どういう意味だね。それは?」
「十七人全員が助かるなんて、奇蹟《きせき》に近いと思いませんか? 時化《しけ》の海で」
「助け方が、上手《うま》かったんだろうね」
「あんたは、遭難《そうなん》にあったことは?」
「あるよ」
「全員助かりましたか?」
「二人位死んだよ」
「南太平洋で?」
「いや、この一寸沖《ちよつとおき》でさ。昔《むかし》のことだよ」
漁師《りようし》は、遠くを見る眼付《めつ》きになった。きっと、魚が矢鱈《やたら》に取れた頃《ころ》の、良《よ》き時代の出来事《できごと》なのだろう。
私は、遭難《そうなん》が度々《たびたび》あるのか、と訊《き》いた。
漁師《りようし》の遠くを見る眼付《めつ》きが、消えて、また、警戒《けいかい》する表情《ひようじよう》になった。
「何故《なぜ》、そんなことに、興味《きようみ》があるんだね?」
と、漁師《りようし》が訊《き》いた。
また同じ質問《しつもん》だ。まるで、遭難《そうなん》に興味《きようみ》を持ってはいけないといっているように、私には聞こえた。
そして、漁師《りようし》は、組合長や、小島合資《こじまごうし》会社の事務員《じむいん》と同じように、沈黙《ちんもく》してしまった。
私は、漁師《りようし》から離《はな》れて、また歩き出した。
私は、自分のまわりに、沈黙《ちんもく》の壁《かべ》が作られていくのを感じた。
(私が他所者《よそもの》だから、彼等《かれら》は、口を閉《と》ざすのだろうか。それとも、何か秘密《ひみつ》を持っているから、沈黙《ちんもく》が生れるのだろうか)
私は、それが知りたくなった。
5
その夜、私《わたし》は、この街《まち》に一つしかないというホテルに泊《とま》った。ホテルといっても名前だけで、旅館とたいして変りはなかった。部屋《へや》には鍵《かぎ》が掛《かか》らないし、食事も女中が、運んで来てくれた。
若い太《ふと》った女中だった。ひどい大根足《だいこんあし》だったが、それが、醜《みにく》いという感じよりも、健康な美しさに見えたのは、若さのせいかも知れない。
彼女も、第二|太陽丸《たいようまる》の遭難《そうなん》のニュースは、知っていた。
「あたしの従兄《いとこ》も乗ってたんです」
と、彼女は、いった。
「全員助かったって聞いて、ほっとしました」
「遭難《そうなん》は、度々《たびたび》あるのかい?」
私は、組合長や、漁師《りようし》にしたと同じ質問《しつもん》を、彼女《かのじよ》に向って発してみた。また、警戒《けいかい》され、口が閉《と》ざされてしまうかと思ったが、彼女は、素直《すなお》に「うん」と、頷《うなず》いて見せた。
「今年《ことし》になって、もう三度目なんです」
「三度目?」
私は、一寸驚《ちよつとおどろ》いた。まだ五月である。一か月半に一度の割合《わりあい》で、遭難船《そうなんせん》が出ていることになる。遠洋漁業というのは、そんなに危険《きけん》なものなのだろうか。
「詳《くわ》しい話を、聞きたいな」
と、私は、いった。
女中の顔に、軽い警戒《けいかい》の色が現われた。
「お客さんは、新聞の方ですか?」
「いや。ただの客だよ。何故《なぜ》、そんなことを訊《き》くんだね? 新聞記者だと、困《こま》ることでもあるのかね?」
「そういうわけでもないんですけど、妙《みよう》な噂《うわさ》を立てられると、困《こま》りますから」
「どんな噂《うわさ》だね?」
「本当に、新聞の方じゃないんですか?」
「違《ちが》うさ」
「今年《ことし》の三月と四月に、続けて二|隻《せき》、沈《しず》んだんです。太平洋で。そしたら、保険金《ほけんきん》目当てに、わざと船を沈《しず》めたんじゃないかって、書いた新聞があるんです」
そうだったのかと、私は、一切《いつさい》が、判《わか》ったような気がした。漁《ぎよ》 業《ぎよう》 組合長《くみあいちよう》をはじめとして、誰《だれ》にあっても、警戒《けいかい》と、沈黙《ちんもく》で迎《むか》えられたのは、このせいだったのだ。
既《すで》に、妙《みよう》な噂《うわさ》が立っているところへ、今度また第二|太陽丸《たいようまる》が、遭難《そうなん》した。また噂《うわさ》が立つかも知れないと、警戒《けいかい》しているところへ、外来者である私が現われたというわけなのだ。しかも、雑誌社《ざつししや》の名刺《めいし》を出し、遭難《そうなん》のことを、根掘《ねほ》り葉掘《はほ》り訊《き》いたのだから、敬遠《けいえん》されるのが、当然だった。
女中が、部屋《へや》を出て行ったあと、私は、ひとりで、苦笑《くしよう》してしまった。謎《なぞ》が解《と》けてしまうと、なあんだというわけだが、暫《しばら》くするうちに、遭難《そうなん》のことを調べてみたいという気持が、また、湧《わ》き上って来た。
三月と四月に、続けて二|隻沈没《せきちんぼつ》したという。その時のことは調べてみなければ判《わか》らないが、今度の第二|太陽丸《たいようまる》の事件《じけん》は、妙《みよう》な匂《にお》いが感じられなくもない。
(十七人全員救助)
が、妙《みよう》な点だ。これは、作られた『好運《こううん》』ではあるまいか。最初から保険金《ほけんきん》目当てに、船を沈《しず》めたとする。僚船《りようせん》を近くまで呼《よ》び寄《よ》せておき、救助の安全を期してから、船を沈《しず》める。それが、十七人全員救助という数字になって、現われたのではあるまいか。
勿論《もちろん》、速断《そくだん》は、禁物《きんもつ》だった。遭難《そうなん》は、遠い南太平洋で起きたのだ。証人《しようにん》は、十七人の漁船員だし、彼等《かれら》は、まだ、ここに、帰って来ては、いない。
(しかし、興味《きようみ》はある)
と、思った。私は、貴重《きちよう》な三日間の休暇《きゆうか》を、この漁村で潰《つぶ》す気になっていた。
翌日《よくじつ》、ホテルで朝食を済《す》ませると、私は保険会社《ほけんがいしや》を訪《たず》ねてみることにした。
保険会社《ほけんがいしや》というより、漁船保険組合《ぎよせんほけんくみあい》は、S市にあった。私は、再《ふたた》び東北線に乗り、三つ先のS駅まで出掛《でか》けて行った。
S市は、人口十万の都会である。保険組合《ほけんくみあい》は、駅前の五階建てビルの二階にあった。
私は、名刺《めいし》を出した。私の雑誌社《ざつししや》は、可成《かな》り名が知れている。そのせいか、林《はやし》という理事が、会ってくれた。狐《きつね》に似た顔の、抜《ぬ》け目のなさそうな初老の男である。
「妙《みよう》な噂《うわさ》が立ってることは、知っとります」
と、林《はやし》は、低い声でいった。
私は、すすめられた煙草《たばこ》に火を点《つ》けた。
「保険金《ほけんきん》は、払《はら》われたのですか?」
「勿論《もちろん》、払《はら》いましたよ。掛《か》け金《きん》が払《はら》い込《こ》まれてある以上、支払《しはら》いするのが、当然ですからな?」
「金額《きんがく》は、いくらぐらいですか?」
「三月に沈《しず》んだ第六|太陽丸《たいようまる》については、九百五十万円。四月の第三太陽丸に対しては、一千万円が支払《しはら》われています」
「掛《か》け金《きん》の方は?」
「そうですね。二|隻《せき》で、六十万円ほどだと思いますよ」
「今度|遭難《そうなん》した第二太陽丸にも、保険《ほけん》が掛《かか》っているわけですね?」
「勿論《もちろん》です。保険《ほけん》をかけずに、遠洋漁業に出る船はいませんよ」
「金額《きんがく》は?」
「第三太陽丸と同じで、一千万円です」
「払《はら》いますか?」
「ええ。勿論《もちろん》、救助された十七人の漁師《りようし》から事情《じじよう》を聞いてからですが」
「保険金《ほけんきん》目当てという噂《うわさ》について、どう、お考えですか?」
「さあ」
林《はやし》理事は、当惑《とうわく》した表情《ひようじよう》になった。
「私には、何とも申せませんな」
「三月の遭難《そうなん》の時にも、全員が救助されたんですか?」
「いや、あの時には、犠牲者《ぎせいしや》が出ました。五人が死にました」
「四月の第三太陽丸の場合は、いかがですか?」
「この時は、犠牲者《ぎせいしや》が出ていません。十七人全員が救助されました。そのせいで、余計《よけい》、妙《みよう》な噂《うわさ》が流れたのだと思いますな」
「すると、今度も、保険金《ほけんきん》目当てという噂《うわさ》が流れる可能性《かのうせい》がありますね?」
「でしょうな」
林《はやし》は、困《こま》ったことだというように、眉《まゆ》をしかめて見せた。
「私共《わたしども》も迷惑《めいわく》しております」
「今度の遭難《そうなん》に対しても一千万円|払《はら》うとなると、保険組合《ほけんくみあい》も痛《いた》いんじゃありませんか?」
「まあ、痛《いた》くないこともありませんが――」
林《はやし》は、微笑《びしよう》した。
鷹揚《おうよう》だなと思ったが、その理由《りゆう》は、すぐ、呑《の》みこむことが出来た。漁《ぎよ》 業保険組合《ぎようほけんくみあい》というのは、普通《ふつう》の民間保険会社《みんかんほけんがいしや》と、機構が違《ちが》うのである。漁《ぎよ》 業振興《ぎようしんこう》ということから、国家が大幅《おおはば》な援助《えんじよ》を与えている。例《たと》えば、一千万円の保険金《ほけんきん》が支払《しはら》われる場合、保険組合《ほけんくみあい》が払《はら》うのは、百万円で、あとの九百万円は、国庫《こつこ》から支出《ししゆつ》されるのである。
鷹揚《おうよう》なのが、当然だった。
しかし、それだけに、調査《ちようさ》の方法も杜撰《ずさん》であろうと、私は想像《そうぞう》した。
(噂《うわさ》が、本当である可能性《かのうせい》もあるのだ)
それに賭《か》けてみるのも面白《おもしろ》いと、私は思った。
私は、また漁港に戻《もど》った。三月と四月の二か月間に、漁《ぎよ》 業保険組合《ぎようほけんくみあい》は、約二千万円の保険金《ほけんきん》を、支払《しはら》っている。その金が、一体《いつたい》、どういう具合に使われているのか、まず、それを知りたいと思《おも》った。
私は、もう一度、漁業組合の組合長に会った。案《あん》の定《じよう》、組合長は、うんざりした顔で、私を迎《むか》えた。
「一千万や二千万の金を貰《もら》ったところで、船を失った埋《う》め合せにはなりませんよ」
と、組合長は、渋《しぶ》い顔でいった。
「船さえ持っていれば、一航海で、二、三百万円の漁獲《ぎよかく》はあるんですからね。保険金《ほけんきん》目当てに、船を沈《しず》めるなんてことが、あるわけが、ないじゃありませんか」
「九九トン船というのは、いくらぐらいするもんですか?」
「七百万はします。それに、積んでいる漁具が、二百万以上。それだけでも、保険金《ほけんきん》はパアです。それに、救助された船員に手当ても払《はら》わなければならないのですよ。このことから考えても、あの噂《うわさ》が、悪意以外の何物でもないことが判《わか》ると思います。第三|太陽丸《たいようまる》の時は、全員救助されたから訝《おか》しいなどと、いいふらすんですからね。これじゃあ、まるで、誰《だれ》かが死ななきゃいけないみたいじゃありませんか。今度だって、きっと、同じようにいうに違《ちが》いありませんがね」
貴方《あなた》も、そう思っているんじゃありませんか、というように、探《さぐ》るような眼《め》で、組合長は、私を見た。
私は、仕方《しかた》なしに苦笑《くしよう》した。
組合長のいう通りなら、船主《せんしゆ》も、あの街《まち》も、船が沈《しず》んだことで、少しも得《とく》はしなかったことになる。むしろ、船主《せんしゆ》は、大損害《だいそんがい》を受けたことになる筈《はず》だ。
(本当に、そうなのだろうか?)
私には、勿論《もちろん》、判《わか》らない。
この街《まち》の誰《だれ》に訊《き》いても、恐《おそ》らく、組合長と同じ答えしか得《え》られないに違《ちが》いなかった。
この漁村は、漁師《りようし》の街《まち》だ。船主《せんしゆ》や漁師《りようし》に不利な証言《しようげん》をする者がある筈《はず》がなかった。
私は、噂《うわさ》を書き立てたという新聞社を、訪《たず》ねてみることにした。
6
『北国《ほつこく》新聞N支局《しきよく》』と書かれた小さな建物に、私《わたし》は、顔を出した。支局員《しきよくいん》が二人しかいない小さな事務所《じむしよ》だった。
不精髭《ぶしようひげ》を生《は》やした中年の男が、支局長《しきよくちよう》だと自己紹介《じこしようかい》した。名刺《めいし》には、井出徳助《いでとくすけ》と書いてある。いかにも、支局長《しきよくちよう》といった感じの、のんびりした男だった。
私が、組合長の言葉を伝えると、
「組合長にしたら、立場上、そんなふうに、いうより手はないでしょうね」
と、笑《わら》って見せた。
「貴方《あなた》は、違《ちが》うというわけですか?」
「ええ。船主《せんしゆ》が、保険金《ほけんきん》を貰《もら》っても損《そん》をしているなどということは、絶対《ぜつたい》にありませんよ」
「理由《りゆう》は?」
「第一、沈《しず》んだ船が、七百万もしたなんていうのはナンセンスですよ。第六|太陽丸《たいようまる》にしても、第三太陽丸にしても、建造《けんぞう》してから、五年以上|経《た》っている、いわば老朽船《ろうきゆうせん》です。売ったら、二百万くらいのものじゃないですかね。魚にしたって、獲れるかどうか判《わか》らんものを、一航海すれば、二百万、三百万の魚獲《ぎよかく》があると計算するのは、訝《おか》しいですよ。近頃《ちかごろ》はなかなか魚が獲れませんからね。一|隻《せき》について、一千万円の保険《ほけん》を貰《もら》って、損《そん》をしたなんてことは、あり得《え》ませんよ」
「船主《せんしゆ》は、儲《もう》けたというわけですね?」
「儲《もう》けてますよ。その証拠《しようこ》には、船主《せんしゆ》は、最近、新しい乗用車を買い込《こ》んでいるし、新造船《しんぞうせん》の注文もしています」
「新造船《しんぞうせん》?」
「今度は、百二十トンの鋼鉄船《こうてつせん》ですよ。船主《せんしゆ》に聞いたところでは、アフリカの近くにまで安心して出掛《でか》けられる船を造《つく》るのだと、いっていましたよ。そんな大きな船を造《つく》る金が、どこから出たと思います。保険《ほけん》以外に考えられんじゃありませんか」
「しかし、保険金《ほけんきん》目当ての、作られた遭難《そうなん》という証拠《しようこ》は、ないわけでしょう?」
「ありませんね」
支局長《しきよくちよう》は、首をすくめて見せた。
「日本国内で起きた事件《じけん》だって、証拠《しようこ》不十分だとか、デッチ上げだとか、わけの判《わか》らんことが多いじゃありませんか。遠い太平洋上で起きた事件《じけん》の証拠《しようこ》を、集められるわけがありません。唯一《ゆいいつ》の物的証拠《ぶつてきしようこ》は、沈《しず》んだ船ですが、太平洋の海底《かいてい》に沈《しず》んだ船を調べることも出来るわけがありません」
「救助された漁師《りようし》は、知っているわけでしょう?」
「もし彼等《かれら》が、故意《こい》に船を沈《しず》めたとしても、それをいうと思いますか?」
支局長《しきよくちよう》は、逆《ぎやく》に、訊《き》き返して来た。
私に返事のできる筈《はず》がない。
「今度の遭難《そうなん》については、どう思います? 前の二|件《けん》と同じように、不審《ふしん》を持たれていますか?」
私は、質問《しつもん》を変えた。
支局長《しきよくちよう》は、「難《むずか》しい問題ですね」と、いった。
「当然、疑問《ぎもん》は、持ちましたよ。時化《しけ》の海で全員救助されたというのも、訝《おか》しいと思う。しかし、証拠《しようこ》がないし、下手《へた》なことを書けば、人権《じんけん》問題になりますからね」
「もう書かない積《つも》りですか?」
「ええ」
支局長《しきよくちよう》は、また首をすくめた。
「新しい証拠《しようこ》でも掴《つか》めれば、書きますが、恐《おそ》らく、掴《つか》めないでしょうね」
それが、支局長《しきよくちよう》の結論《けつろん》のようだった。
私は、礼をいって、外へ出た。新聞が書くのを止《や》めたのなら、俺《おれ》が調べてやろう。私は歩きながら、そんなことを考えていた。
7
私《わたし》は、一度、東京へ戻《もど》った。救助された第二|太陽丸《たいようまる》の十七人が、Nへ帰って来た頃《ころ》に出掛《でか》けて、彼等《かれら》に話を訊《き》いてみたいと、考えたからである。
半月後の新聞に、私は、彼等《かれら》が帰港したという小さな記事を見た。
私は、翌日《よくじつ》の東北線に乗った。編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》には、素晴《すば》らしいお土産《みやげ》が、持って来られるかも知れませんよと、いっておいた。編《へん》 集《しゆう》 長《ちよう》の返事は、「人権《じんけん》問題を起こすなよ」ということだった。
私が、Nに着いた時、港には、小雨《こさめ》が降《ふ》りしきっていた。しかし、街《まち》には、前に来た時よりも、活気があった。遠洋漁業に出掛《でか》けていた九九トン船が、帰港していたからである。桟橋《さんばし》には前にはなかった漁船が横付けされていて、鈍《にぶ》く光る鮪《まぐろ》が、陸揚《りくあ》げされていた。
陽焼《ひや》けした漁師《りようし》のドラ声がひびき、子供達も、魚を運び手伝いをしていた。死んでいた街《まち》が、やっと、息を吹《ふ》き返したように見えた。
私は、一服《いつぷく》している漁師《りようし》に話しかけてみた。
「救助された第二|太陽丸《たいようまる》の人に、会いたいんだが」
と、私がいうと、漁師《りようし》は、短くなった煙草《たばこ》を、海へはじき飛ばしてから、
「今、漁業組合へ行ってるよ」
と、いった。
「それからの予定は?」
「金を貰《もら》って、命の洗濯《せんたく》だな。若いのが多いから」
「命の洗濯《せんたく》?」
「二か月も、女から離《はな》れていたんだからね。若い奴《やつ》は、血が昇《のぼ》っちゃうさ」
「命の洗濯《せんたく》は、何処《どこ》で?」
「まあ、だいたいS市に行くようだね。ストリップ見て、バーへ行って。だいたいコースは、決っているよ」
「面白《おもしろ》い店があるのかね? Sには」
「まあね。駅の裏通《うらどお》りにある『イタダキ』なんか、よく行く店だな」
「面白《おもしろ》い名前だね」
「金さえ出せば、どうにでもなる女ばかりだよ」
「だから、『イタダキ』か――」
「どっちが、イタダキか、判《わか》んねえがね」
漁師《りようし》は、白い歯を見せて、笑《わら》った。
女に飢《う》えた男達と、それをカモと見て待ちかまえている女達。面白《おもしろ》い見物《みもの》に違《ちが》いなかった。
私は、S市へ行ってみる気になった。酒に酔《よ》った漁師《りようし》からなら、何か聞き出せるかも知れないと、思ったからである。
S市も、二度目だった。
『イタダキ』という店は、すぐ判《わか》った。駅の裏通《うらどお》りに、飲み屋やバーが軒《のき》を並《なら》べていて、その中の一|軒《けん》である。
ドアを押《お》して、中へ入ると、ひどく薄暗《うすぐら》い。酒の匂《にお》いと、安香水《やすこうすい》の匂《にお》いが、私を包《つつ》んだ。
私は、奥《おく》のテーブルに腰《こし》を下ろした。太《ふと》った女が、私の隣《となり》に腰《こし》を下ろした。洗練《せんれん》されたところなど、微塵《みじん》もない女だが、あけっぴろげなサービスぶりで、矢鱈《やたら》に身体《からだ》を押《お》しつけてくる。この辺《あた》りでは、上品なサービスよりも、こうした女の方が、もてるのかも知れなかった。
私は、女に五百円|札《さつ》を掴《つか》ませてから、Nの漁師《りようし》達は、よく来るのかと、訊《き》いた。
「よく来るわよ」
と、女は、いった。
「昨日、漁から帰って来たってことだから、今夜あたり、来る頃《ころ》ね」
「第二|太陽丸《たいようまる》の乗組員《のりくみいん》を知っているかね?」
「第二太陽丸って、今度、沈《しず》んだ船ね?」
「ああ」
「知ってるわよ」
「その中で、特《とく》に酒|好《ず》きの男は?」
「そうねえ。鉄《てつ》ちゃんなんか、酒は好《す》きだし、女も好《す》きだし。若いから無理もないけど」
「鉄ちゃんねえ」
「高木鉄吉《たかぎてつきち》って名前だったわ。確《たし》か」
「詳《くわ》しいんだな。一緒《いつしよ》に寝《ね》たことがあるのか?」
「ふふ」
と、女は笑《わら》った。
「その高木という男が来たら、教えてくれ」
「いいわ」
女が頷《うなず》いた時、入口のあたりが、急に騒《さわ》がしくなった。
十人ばかりの男が、どやどやと、入って来たのだが、私は、彼等《かれら》が運んで来た空気から、漁師《りようし》達だろうと、見当をつけた。
「いるかね?」
と、私は、隣《となり》の女の顔を見た。
「例の、鉄ちゃんという男が――」
「いるわよ」
と、女は、一寸《ちよつと》はしゃいだ声を出した。
「あの背《せ》の高いのが、鉄ちゃんよ」
私は、眼《め》を凝《こ》らした。薄暗《うすぐら》いので顔立ちは、はっきりしないが、頭だけ背《せ》の高い男がいた。
「鉄ちゃあーん」
と、私の隣《となり》の女が、素頓狂《すつとんきよう》な声を出した。
「おうッ」と、大きな返事があって、背《せ》の高い若者が、私のテーブルに近づいて来た。
逞《たくま》しい身体《からだ》つきの若者だが、細い眼《め》が、気弱そうに見えた。性質《せいしつ》は善良《ぜんりよう》らしい。
女は、半《なか》ば強引《ごういん》に、高木鉄吉《たかぎてつきち》を、坐《すわ》らせてしまった。私のために、そうしてくれたのかと思ったが、どうやら、そうではなかったらしい。女にとって、私より、高木鉄吉の方が、金になりそうなカモに見えたせいらしかった。その証拠《しようこ》に、私に対するサービスが、俄然《がぜん》、冷たくなって、高木鉄吉の方に、でれでれし始めた。
「おめでとう」
と、私は、女の肩《かた》を抱《だ》いている高木鉄吉に声をかけた。
「え?」
「全員救助されたことは、新聞で見ましたよ」
「ああ」
あのことか、と、あまり興味《きようみ》のなさそうな顔で、高木は、頷《うなず》いた。
「時化《しけ》に遭《あ》ったそうですね?」
「まあね」
「よく、全員助かりましたね?」
「運が良《よ》かったのさ」
「遭難《そうなん》した時の様子を話してくれませんか」
「あんたは、誰《だれ》だい?」
若者の眼《め》が、険《けわ》しくなった。私は、にやッと笑《わら》って見せた。
「昔《むかし》、海で働いていたことがあるんですよ」
と、私は、いった。
「それに、南太平洋で船が沈《しず》んで、危《あや》うく助かったことがある。それで、あんた達のことが他人事《ひとごと》に思えなかったというわけです」
私は、戦争中の話を、多少尾《たしようお》ひれをつけて喋《しやべ》った。
高木鉄吉《たかぎてつきち》の眼《め》が弛《ゆる》んだようだった。
「今日は、私が奢《おご》りますから、愉快《ゆかい》にやろうじゃありませんか」
私は、女に、ビールを、どんどん運んでくるように、いった。
「悪いな」
と、高木は、照れたような表情《ひようじよう》を作った。
「好《す》きな海を聞かせて頂《いただ》けるんだから、ビールぐらいは、サービスさせて下さいよ」
「そうかねえ」
単純《たんじゆん》な男らしく、高木は、にこにこと笑《わら》って見せた。
ビールが廻《まわ》り出すと、高木の口が軽くなった。
「とにかく運が良《よ》かったんだ」
と、高木は、酔《よ》いの廻《まわ》った口調《くちよう》でいった。
「それに、時化《しけ》といっても、たいしたもんじゃなかった」
「それなのに、沈《しず》んだのは?」
「浸水《しんすい》さ。それに、エンジンも止まっちまってね。運|良《よ》く、傍《そば》に、第一|太陽丸《たいようまる》がいたんで助かったんだ」
話が少し違《ちが》って来たなと思った。新聞の記事では、時化《しけ》にやられたものとしか受けとれないが、この若者の話では、どうやら、本当の原因《げんいん》は、エンジンの故障《こしよう》ということになりそうだ。
(それなら、細工《さいく》できる余地《よち》が、あったということではないか?)
「エンジンが故障《こしよう》することは、度々《たびたび》あるわけ?」
「時たまね。とにかく古い船だったから」
「魚は、獲れてたんですか?」
「それが、全然だった。そのあたりも、魚がいなくなっちまったのかも知れないね」
高木は、首をすくめた。漁獲《ぎよかく》が殆《ほとん》どなかったということは、船を沈《しず》めるチャンスではなかったろうか。勿論《もちろん》、今度の遭難《そうなん》が仕組《しく》まれたものとしての話だが。
高木は、女を口説《くど》き始めた。どうやら、今夜|一緒《いつしよ》にということらしい。
私は、女の手を引っぱって、壁際《かべぎわ》まで連れて行った。
「君に頼《たの》みがある」
と、私はいい、千円|札《さつ》を、彼女《かのじよ》に握《にぎ》らせた。
「どうせ、今夜は、鉄ちゃんとつき合うんだろう?」
「そうなりそうね」
「彼《かれ》は君に惚《ほ》れてる」
「そうかしら」
「そうさ。君が誘《さそ》えば、明日《あす》も飲みに来る。誘《さそ》って欲《ほ》しいね。彼と話したいことが、いろいろあるんだ」
「いいわ」
「せいぜい、彼を柔《やわ》らかくしておいて貰《もら》いたいね。ざっくばらんな話ができるように」
私は、小さく女の肩《かた》を叩《たた》いた。
8
翌日《よくじつ》の夜、私《わたし》は、また、『イタダキ』に出掛《でか》けた。
昼間の中《うち》、漫然《まんぜん》としていたわけではない。高木鉄吉《たかぎてつきち》が、機関の係だったことも調べた。
第二|太陽丸《たいようまる》の場合、機関室の責任者《せきにんしや》は、坂本徳太郎《さかもととくたろう》という五十二|歳《さい》の男で、高木はその下で働いている。もし、エンジン故障《こしよう》が仕組《しく》まれたものなら、高木は、それを知っていた筈《はず》である。
(案外、事件《じけん》の核心《かくしん》に近づいているのかも知れない)
と、思った。
昨夜の女は、私の顔を見ると、にやッと、笑《わら》った。
「どうだった?」
「来る筈《はず》よ」
女は、自信たっぷりに、いった。
「必ず来るって、いってたから」
「鉄ちゃんは、朝帰りかい?」
「十時|頃《ごろ》に、Nへ帰ったわ。漁業組合に用があるとかで。でも、きっと、出てくるわよ。まだ、お金は持ってるんだから」
「昨日は、寝物語《ねものがたり》に、どんな話をしたんだね?」
「馬鹿《ばか》ね」
「いや、船のことでも話さなかったかと思ってね。遭難《そうなん》のことを話さなかったかね」
「話したわよ」
「どんなふうに?」
「面白《おもしろ》かったって」
「面白《おもしろ》かった? 本当に、そういったのかね?」
「そうよ。遭難《そうなん》って、面白《おもしろ》いもんなのかしらね?」
「場合によっては、面白《おもしろ》いこともあるだろう。その他《ほか》には?」
「忘《わす》れたわ」
女は、素気《そつけ》なくいった。私は、腕時計《うでどけい》に眼《め》をやった。
「遅《おそ》いな」
「心配しなくても、来るわよ」
女は、相変《あいかわ》らず、自信たっぷりに、いったが、店の看板《かんばん》近くなっても、高木鉄吉《たかぎてつきち》の姿《すがた》は現われなかった。
「訝《おか》しいわね。きっと来るって、いってたのに」
女は、ぶつぶつ文句《もんく》をいった。私は、外出禁止令《がいしゆつきんしれい》が出たのかも知れぬと思った。
暗い噂《うわさ》が立つのを恐《おそ》れて、箝口令《かんこうれい》を敷《し》いたことも、充分《じゆうぶん》に考えられる。殊《こと》に、高木鉄吉は、私という外来者と喋《しやべ》っていた。そのために、此処《ここ》に来ることを止められているのでは、あるまいか。
店が閉《し》まる時間になっても、高木鉄吉は、とうとう姿《すがた》を見せなかった。
どうやら、私の想像は、当ったらしい。
「どうする?」
女は、私の顔色を窺《うかが》った。
「もうNへ帰るっても大変だから、あんたが、あたしの所へ泊《とま》ってかない?」
「鉄ちゃんの代りか?」
「サービスするわよ」
女は太《ふと》った身体《からだ》を揺《ゆ》すって、小さく笑《わら》った。
9
翌朝《よくあさ》、私《わたし》は、女のアパートで、眼《め》を覚《さ》ました。高木のことで、何か面白《おもしろ》いことが聞けるかと思ったのだが、女は、彼《かれ》が若い男であること以外は、何も知らないようだった。
私は、金を払《はら》って、女のアパートを出た。
陽射《ひざ》しが強く、暑い日になりそうだった。
Nに着いたのは、昼近くなってからである。漁業組合の建物に近づくと、異様《いよう》な気配《けはい》がした。制服《せいふく》の警官《けいかん》の姿《すがた》が見える。人の出入りも、あわただしいようだった。
「何かあったのですか?」
と、私は、警官《けいかん》に訊《き》いた。
若い小柄《こがら》な警官《けいかん》は、私の顔を、じろじろ眺《なが》め廻《まわ》してから、
「高木《たかぎ》という漁師《りようし》が、殺されたんです」
と、いった。
「高木|鉄吉《てつきち》が――?」
私は呆然《ぼうぜん》とした。一体《いつたい》、これは、どういうことなのだろうか。
「ところで、貴方《あなた》は、誰《だれ》ですか? あまり見かけない顔だが」
警官《けいかん》が眉《まゆ》をしかめた時、組合事務所《くみあいじむしよ》から出て来た五、六人の漁師《りようし》が、
「こいつだッ」
と、一斉《いつせい》に、私を指さした。
「昨日、『イタダキ』で、鉄吉に、しつこく話しかけてたのは、この男だよ。駐在《ちゆうざい》さん」
「本当ですか?」
警官《けいかん》は、険《けわ》しい眼付《めつ》きになって、私を見た。まるで、容疑者《ようぎしや》でも見るような眼付《めつ》きになっていた。
私は、名刺《めいし》を出して、遭難《そうなん》のことを、高木鉄吉に訊《き》いていたのだと、いった。
警官《けいかん》は、信用したようには、見えなかった。
「とにかく、来て下さい」
と、私は、駐在《ちゆうざい》の建物まで、連れていかれた。応援《おうえん》に来たらしい、S市の刑事《けいじ》もいた。
そこで、私は、もう一度、同じ説明を繰《く》り返さなければならなかった。疑《うたが》うのなら、東京の雑誌社《ざつししや》へ電話してくれと、いった。
強くいったのが、かえって良《よ》かったらしい。
「お話は、一応、信用しますが」
と、中年の刑事《けいじ》は、曖昧《あいまい》に、いった。
「事件《じけん》が片《かた》づくまで、Nにいて欲《ほ》しいですね。事情《じじよう》によっては、また、お訊《き》きしなければならんことが、出てくるかも知れませんから」
「望むところです」
と、私は、いった。
「私も、今度の事件《じけん》には、大いに、興味《きようみ》がありますから」
「あまり、掻《か》きまわさんで下さい」
刑事《けいじ》は、釘《くぎ》を刺《さ》すように、いった。
私は、解放されると、事件《じけん》の実状《じつじよう》を聞いて廻《まわ》った。
高木鉄吉《たかぎてつきち》の死体が発見されたのは、今朝《けさ》になってからだと、私は知った。朝、桟橋《さんばし》に、釣《つ》りに来た子供が、桟橋《さんばし》の先に浮《う》かんでいる高木鉄吉の水死体を発見したのだ。死体には、頸《くび》を絞《し》められた跡《あと》があった。
私は、桟橋《さんばし》へ歩いて行った。
妙《みよう》な因縁《いんねん》だと思った。初めて、この漁港に来た時、ここで、二人の子供が、釣《つ》りを楽しんでいた。そして、半月後の今、私は、死体の揚《あが》った海面を眺《なが》めている。
ふいに、肩《かた》を叩《たた》かれて、私は、振《ふ》り向いた。
「やってますね」
と、その男は、笑《わら》った。前に会った『北国《ほつこく》新聞N支局《しきよく》』の支局長《しきよくちよう》だった。確《たし》か、名前は、井出徳助《いでとくすけ》といった筈《はず》である。相変《あいかわ》らず顔には、不精髭《ぶしようひげ》が生《は》えていた。
「僕《ぼく》は、貴方《あなた》が追いつめたのかと思いましたよ」
と、井出は、いった。私は驚《おどろ》いた。
「私が?」
「最初の発表は、自殺でしたからね。貴方《あなた》が遭難《そうなん》のことで、あんまり、しつこく訊《き》くので、気の弱い高木鉄吉が、自殺したのかと思いましたよ」
「まさか――」
「実は、僕《ぼく》が、新聞に書いた時にも、漁労長《ぎよろうちよう》が、不徳《ふとく》の致《いた》すところとかいって、自殺しかけたことがあるんです。律義《りちぎ》な人間が多いもんで、すぐ、追いつめられたと、感じてしまうんですね」
「しかし、今度のは他殺なんでしょう?」
「ええ」
「高木鉄吉は、何故《なぜ》、殺されたんですか?」
「判《わか》りませんね。しかし、原因《げんいん》が、今度の遭難《そうなん》にあるとすると、問題は複雑《ふくざつ》になって来ますね」
「口封《くちふう》じに殺したということですか?」
「彼《かれ》は機関士でしたからね。貴方《あなた》も、それだから、彼に関心を持たれたんでしょう? 違《ちが》いますか?」
「まあ、そんなところです」
「エンジン故障《こしよう》が、作為的《さくいてき》なものだったと?」
「はっきりは、いい切れませんが、疑問《ぎもん》を持ったことだけは、事実です。しかし、真相を聞けないうちに、高木鉄吉は、殺されてしまいました。勿論《もちろん》、僕《ぼく》は殺しませんよ」
私は、昨夜、『イタダキ』で、高木を待っていたのだと、いった。
「すると、高木が殺されたので、余計《よけい》、遭難《そうなん》に対する疑惑《ぎわく》を深めたわけですね?」
井出が、いった。私は頷《うなず》いて見せた。
「いけませんか?」
「いや。そう考えるのが当然でしょう。実は僕《ぼく》も、そう考えているのです」
と、井出は、微笑《びしよう》して見せた。
「ただ、無用《むよう》に、人を傷《きず》つけたくないと思っているのです。ここの人達は、善良《ぜんりよう》な人ばかりですからね。それに、貧《まず》しい人ばかりです」
「しかし、犯人《はんにん》を見逃《みの》がすわけには、いかんでしょう?」
私は、強い眼《め》で、相手を見た。井出は、黙《だま》って、小さく頷《うなず》いただけである。
10
警察《けいさつ》の調査《ちようさ》は、遅々《ちち》として進まないように見えた。誰《だれ》も彼《かれ》も、固く口を閉《と》ざしてしまっているからである。漁村の閉鎖性《へいさせい》ということだろうか。自分のところから、縄《なわ》つきを出したくないという古めかしい気質《きしつ》のせいかも知れない。
警察《けいさつ》に対しても、そのくらいだから、私《わたし》に対しては、けんもほろろであった。私は、自分が、人々から憎《にく》まれているらしいと感じた。
私という外来者が現われたために、高木鉄吉《たかぎてつきち》が殺されたと考えているらしかった。つまり、私という男は、不吉《ふきつ》な前兆《ぜんちよう》だったというわけだ。
遭難《そうなん》し救助された、第二|太陽丸《たいようまる》の漁船員の私を見る眼《め》は、さらに、険悪《けんあく》だった。彼等《かれら》は、私が高木鉄吉を殺したと、考えようとしているようだった。考えているだけでなく、私に面と向って、「お前さんが、殺したんだろう?」と、嫌味《いやみ》をいう者もあったし、警察《けいさつ》に、早く私を逮捕《たいほ》しろと、要求したとも、聞いた。
「文字通《もじどお》り、四面楚歌《しめんそか》ですよ」
と、私は、井出《いで》に、いった。
「それだけに、ファイトも湧《わ》いて来ますがね。僕《ぼく》の手で、犯人《はんにん》を見つけ出してやる積《つも》りです」
「誰《だれ》が犯人《はんにん》だと?」
「僕《ぼく》は、第二|太陽丸《たいようまる》の機関長だった、坂本徳太郎《さかもととくたろう》をマークしています」
「つまり、貴方《あなた》は、遭難《そうなん》が仕組《しく》まれたものだと考え、その秘密《ひみつ》を守るために、機関係だった高木鉄吉が殺されたと推測《すいそく》しているわけですね?」
「ええ。エンジン故障《こしよう》が工作《こうさく》だとしたら、証拠《しようこ》を握《にぎ》っているのは、機関長の坂本徳太郎と殺された高木鉄吉の二人です。だから、口の軽い高木が殺されたのだと、僕《ぼく》は、考えているのです」
「あり得《え》ないとは、いいませんが、頭から、そう決めてかかるのは、危険《きけん》じゃないですかね?」
「危険《きけん》は判《わか》っています」
と、私は、いった。
「しかし、僕《ぼく》は、この考えに従《したが》って、調べてみる積《つも》りです」
私は、頑固《がんこ》と思えるいい方をした。
私は、坂本徳太郎《さかもととくたろう》を掴《つか》まえたいと、思った。
私は、坂本徳太郎が、漁業組合から戻《もど》ってくるところを狙《ねら》うことにした。
夜であった。海岸通りで待ち伏《ぶ》せていた私は、小柄《こがら》だが、横幅《よこはば》の広い人影《ひとかげ》を坂本徳太郎と見て、声をかけた。
相手は、ぎょッとした様子で、立ち止まった。
「坂本徳太郎《さかもととくたろう》さんですね?」
と、念を押《お》してから、
「どうしても、貴方《あなた》に、聞いて貰《もら》いたいことがあるのです」
と、高飛車《たかびしや》に出た。その方が、効果《こうか》があると思ったからだが、私の考えは当っていたようだった。引っ返そうとした坂本の足が止まった。
「何の話だね?」
坂本は、低い声で訊《き》いた。
「高木鉄吉《たかぎてつきち》のことです。僕《ぼく》は、誰《だれ》が犯人《はんにん》か、知っているのです」
私は、ハッタリをかけた。坂本の顔が一寸《ちよつと》動いた。
「誰《だれ》だというんだ?」
「聞かれてはまずい話です。桟橋《さんばし》で話しましょう」
私は、先に立って、桟橋《さんばし》を進んだ。坂本はためらっているように見えたが、やがて、のろのろと、桟橋《さんばし》を渡《わた》って来た。
「この辺《あた》りに、高木鉄吉の死体が浮《う》かんでいたそうですね?」
私は、暗い海面を指さして、いった。返事はなかった。坂本が、どんな表情《ひようじよう》を作ったか暗いので、判《わか》らなかったが、私の推測《すいそく》が当っていたら、軽い動揺《どうよう》の色くらいは、見せた筈《はず》である。
私は、賭《か》けてみた。
「貴方《あなた》は、高木鉄吉を殺しましたね」
「――――」
勿論《もちろん》、返事はなかった。しかし、暗闇《くらやみ》の中で、坂本《さかもと》の息遣いが、急に荒《あら》くなったようだった。
「何故《なぜ》、私が、鉄吉を殺さなきゃならないんだね?」
長い沈黙《ちんもく》のあとで、坂本が、いった。
「理由《りゆう》は、第二|太陽丸《たいようまる》の遭難《そうなん》です。あの遭難《そうなん》が、保険金《ほけんきん》目当ての仕組《しく》まれたものだったからです」
「馬鹿《ばか》なッ」
「時化《しけ》が原因《げんいん》だという新聞記事は、嘘《うそ》だと、僕《ぼく》は、知っているのですよ。エンジンが故障《こしよう》したことが、遭難《そうなん》の原因《げんいん》だった。ところが、エンジン故障《こしよう》となると、時化《しけ》と違《ちが》って、人間の力で、どうにでもなる。つまり、貴方《あなた》と、高木鉄吉の二人が共謀《きようぼう》すれば、簡単《かんたん》に、船を沈《しず》められた筈《はず》だ」
「そんなことは、嘘《うそ》っ八《ぱち》だ」
「いや嘘《うそ》じゃない。嘘《うそ》じゃないからこそ、貴方《あなた》は、高木鉄吉を殺したんだ。殺された日、彼《かれ》は、S市の『イタダキ』に、飲みに行く筈《はず》だった。高木は、女と、約束していたのですよ。貴方《あなた》は、酒と女に弱い高木が、妙《みよう》なことを、つまり、遭難《そうなん》の真相を喋《しやべ》ってしまうのを恐《おそ》れた。貴方《あなた》は、行くなと、いった。それで、口論《こうろん》になった。勿論《もちろん》、最初から、貴方《あなた》が、高木を殺す積《つも》りだったとは、思えない。いい争っているうちに、つい、頸《くび》を絞《し》めてしまったのだと思う。そして、事故死《じこし》に見せかけるために、貴方《あなた》は、高木の死体を、桟橋《さんばし》から、海へ投げ込《こ》んだのだ。丁度《ちようど》、この辺《あた》りに」
私は、もう一度、暗い海面を、指さして見せた。
「でたらめだッ」
坂本徳太郎《さかもととくたろう》が怒鳴《どな》った。
「証拠《しようこ》もない癖《くせ》に、詰《つ》まらんことを、いわんでくれ」
「証拠《しようこ》はある」
私は、ハッタリをかけた。
「証拠《しようこ》?」
「高木鉄吉《たかぎてつきち》は、殺される前日、『イタダキ』で、僕《ぼく》と一緒《いつしよ》に酒を飲んだ。このことは、貴方《あなた》も知っている筈《はず》だ。女のアパートにも泊《とま》った。僕《ぼく》が、女に頼《たの》んで、誘《さそ》わせたのですよ。そこで、僕《ぼく》は、あの遭難《そうなん》が、インチキだと、高木から聞くことが出来た」
「鉄吉が、そんなことを、いう筈《はず》がない」
「それが、打ち明けてくれたのですよ。時化《しけ》が原因《げんいん》でなく、エンジン故障《こしよう》が、遭難《そうなん》の原因《げんいん》だった。しかも、それが、仕組《しく》まれた遭難《そうなん》だったこともね。彼は、なかなか面白《おもしろ》かったとも、いっていましたよ」
「嘘《うそ》だッ」
「嘘《うそ》じゃない。女も、僕《ぼく》と一緒《いつしよ》に、聞いている。いつでも証人《しようにん》になると、いっています。このことが新聞に出たら、面白《おもしろ》いことになるでしょうね。誰《だれ》もが、真相をかくすために、高木鉄吉が殺されたと、考えるに、決っている」
「――――」
妙《みよう》に、重苦しい沈黙《ちんもく》が来た。
「お願いだ」
突然《とつぜん》、坂本は、頭を下《さ》げた。
「何も喋《しやべ》らんでくれ。お願いする」
「駄目《だめ》ですよ」
と、私は、いった。
「貴方《あなた》が、高木を殺したと自首しない限《かぎ》り、僕《ぼく》は、真相をぶちまける積《つも》りだ。さぞかし、警察《けいさつ》と、保険組合《ほけんくみあい》が喜ぶでしょうね」
「――――」
坂本が、低い呻《うめ》き声をあげた。次の瞬間《しゆんかん》、彼の身体《からだ》が、けもののように、私に向って飛びかかって来た。
強い力だった。私は、自分の頸《くび》が絞《し》められるのを感じ、夢中《むちゆう》で、相手の腹《はら》を蹴《け》った。しかし、その足は、空《くう》を蹴《け》った。
ふいに、足音が聞こえた。私の頸《くび》を絞《し》めていた坂本の手が弛《ゆる》んだ。
私が、よろけて桟橋《さんばし》の上に倒《たお》れた時、坂本は、転がるように逃《に》げていた。
「大丈夫《だいじようぶ》ですか?」
近寄《ちかよ》って来た人影《ひとかげ》が、私に声をかけた。井出《いで》の声だった。
「あいつを掴《つか》まえてくれ」
と、私は叫《さけ》んだ。いや、叫《さけ》んだ積《つも》りだったが、咽喉《のど》がぜいぜいするだけで、声にならなかった。
11
眼《め》を覚《さ》ました時、陽《ひ》が、枕元《まくらもと》まで、射《さ》し込《こ》んでいた。昨夜、あのあと、井出にホテルまで運ばれたのを、思い出した。
蒲団《ふとん》の上に起き上った時、井出が入って来た。
「どうですか? 気分は――」
と、井出は、低い声で訊《き》いた。その顔が、ひどく疲《つか》れているように見えた。
「僕《ぼく》のことより、坂本徳太郎《さかもととくたろう》は、どうなりました。奴《やつ》は、高木鉄吉《たかぎてつきち》を、口ふさぎに殺した犯人《はんにん》ですよ。警察《けいさつ》に、逮捕《たいほ》するように、話してくれましたか?」
「いや」
「何故《なぜ》です? 奴《やつ》が、僕《ぼく》を襲《おそ》ったことは、貴方《あなた》も知っている筈《はず》だ」
「知っています。しかし、逮捕《たいほ》できません」
「何故《なぜ》?」
「坂本徳太郎は、自殺しましたよ」
「自殺?」
「船を沖《おき》へ漕《こ》ぎ出して、海へ身を沈《しず》めたのです。今朝《けさ》になって、死体が発見されました」
「それで?」
「遺書《いしよ》がありました。女のことで、高木鉄吉を殺したと。これで、事件《じけん》は終りでしょうね」
「インチキだ」
私は呻《うめ》いた。
「今度の事件《じけん》の真相は、第二|太陽丸《たいようまる》の遭難《そうなん》にあるんです。あの遭難《そうなん》に、暗い影《かげ》がある。高木は、女の問題なんかで、殺されたんじゃない。口封《くちふう》じです」
「田島《たじま》さん」
と、井出は、改《あらた》まった口調《くちよう》で、私の名を呼《よ》んだ。
「事件《じけん》は、もう終ったんです」
「何故《なぜ》、そんなことをいうんです。貴方《あなた》だって、遭難《そうなん》には、疑問《ぎもん》を持っていたじゃありませんか?」
「その通りです。今でも持っています」
井出は、暗い声でいった。
「それなら何故《なぜ》、妥協《だきよう》するんです?」
「これ以上、犠牲者《ぎせいしや》を出したくないからですよ。僕《ぼく》も、この漁村に生れた人間ですからね。彼等《かれら》のことは、よく知っています。これで事件《じけん》を終らせなければ、必ずまた、犠牲者《ぎせいしや》が出ます」
「真実は、どうなるんです?」
「真実って、何です?」
井出は、逆《ぎやく》に、訊《き》き返した。
「田島さん。貴方《あなた》のいう通り、遭難《そうなん》はデッチ上げで、坂本徳太郎《さかもととくたろう》は、口封《くちふう》じのために、高木鉄吉《たかぎてつきち》を殺したのかも知れない。しかし、違《ちが》うかも知れません。遭難《そうなん》は、事実であって、高木鉄吉は、詰《つ》まらない女の問題で殺されたのかも知れないのです。証拠《しようこ》は、どこにもないのです。僕《ぼく》も、貴方《あなた》のように、考えていたが、今は、一つだけ、確《たし》かな真実があることに気付いたのです。そしてそれを守らなければならないと、考えるようになりました」
「何ですか? それは」
「漁師《りようし》達が、必死に生きているということです。九九トンの木造船《もくぞうせん》で、南太平洋まで出かけて行くのは、絶《た》えず、死の危険《きけん》にさらされているということです。百トンクラスの鋼鉄船《こうてつせん》が必要です。そうでなければ、この漁村は将来亡《しようらいほろ》びてしまうでしょう。そのためには、保険金《ほけんきん》が必要です。もし、貴方《あなた》や僕《ぼく》が、遭難《そうなん》がインチキだとか、高木鉄吉《たかぎてつきち》は、口封《くちふう》じに殺されたのだと雑誌《ざつし》や新聞に書き立てたら、売れ行きは伸《の》びるかも知れないが、保険金《ほけんきん》は出ず、漁師《りようし》達は、職《しよく》を失ってしまいます」
「しかし――」
「まあ、聞いて下さい。僕《ぼく》の態度《たいど》が、新聞記者として落第なのは知っています。しかし、僕《ぼく》は、彼等《かれら》を助けたいのです。助ける義務《ぎむ》があると思うのです。それに――」
「それに?」
「坂本徳太郎《さかもととくたろう》は、高木鉄吉《たかぎてつきち》を殺した犯人《はんにん》じゃないのかも知れません」
「そんな馬鹿《ばか》な、彼が犯人でないのなら、何故《なぜ》、自殺したんです?」
「漁港を守るためですよ。彼等《かれら》には、船が必要です。だから、自分を犯人《はんにん》にして、事件《じけん》を終らせようとしたのかも知れません。これは想像《そうぞう》ですが――」
「信じられませんね。自殺までして、守るなんてことは――」
「それは、貴方《あなた》が漁師《りようし》ではないからです。勿論《もちろん》、僕《ぼく》にしてもですが」
「しかし、僕《ぼく》は、東京に帰って、書くかも知れませんよ」
「いいでしょう。止める権利《けんり》は、誰《だれ》にもありません」
井出《いで》は、低い声で、いった。
井出が帰ってしまうと、私は、ホテルを出た。
海は凪《な》いでいた。
私は、桟橋《さんばし》に出てみた。私は、突端《とつたん》に立って、海を眺《なが》めた。あの遠い海の果《はて》で、何があったのだろうか?
漁師《りようし》は必死なのだと、井出は、いった。彼等《かれら》にとって、海は、生活の場であって、ロマンスの対象《たいしよう》ではないということなのだろう。私にも、それは、判《わか》る。
(判《わか》るが――)
私は、自分の気持が、次第《しだい》に乱《みだ》れてくるのを感じた。
(俺《おれ》は、一体《いつたい》、何を追い求めていたのだろうか?)
真実だ。しかし、その、輝《かがや》かしい筈《はず》の言葉が、果《はて》しない海を眺《なが》めている間に、次第《しだい》に、色褪《いろあ》せてくるのを感じた。
事件《じけん》は、終ったと、井出《いで》は、いった。しかし、彼が、本当に、いいたかったのは、事件《じけん》は、終らせなければならないということだったに、違《ちが》いない。
私は、海から眼《め》をそらせて、煙草《たばこ》に火を点《つ》けた。
(東京に帰るべきだ)
私は、自分に、いった。そして、東京に帰っても、今度の事件《じけん》を書く気には、なれないに、違《ちが》いない。
角川文庫『夜の終り』昭和61年6月25日初版発行
平成7年6月20日24版発行