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夜が待っている
西村京太郎
目 次
女をさがせ
夜が待っている
赤いハトが死んだ
愛の詩集
死の予告
夜の秘密
[#改ページ]
女をさがせ
一
ドアを開けて、その女が入ってきた時、カウンターに並んでいた客の視線が、いっせいに、彼女に向けられた。
それほど、その女は、美しかった。厚化粧をして、精一杯、美しく見せようとしている、その店のホステスが、束になっても、かなわない美しさだった。美しさの種類が違うのだ。胸にペンダントが光っていた。身につけているのは、そのくらいなもので厚化粧しているわけではなかった。だが、匂《にお》うような美しさだった。生地の美しさというやつだ。
女は一人だった。こんな美しい女が、一人でバーにやってくるというのは、妙だなと、私は、思った。だが、そんなことは、どうでもいい。男がいないのなら、お相手してもいい。そんな気持で、私は女を眺めていた。他の客も、恐らく、私と同じ気持だったに違いない。
女は入口のところに立って、一寸《ちよつと》の間、薄暗い店の中を見廻《みまわ》していた。誰かを探しているような眼になっていたが、そのうちに、私に向って、まっすぐ近づいてきた。
近くで見ると、女の美しさが、なお、はっきりした。二十二、三といったところだろうか。女の美しさが、一番匂う年頃だ。女の顔は一寸《ちよつと》、青ざめていた。心配ごとでもあるのだろうか。だが、悩める美女というやつも、悪くはない。
私の知らない女だった。それなのに、女は、私に近づくと、
「あなた――」
と、いったのである。私の空耳ではなかった。間違いなく、その女は、「あなた」といったのだ。
その上、女は、私に向って微笑して見せた。ちょっとばかり、こわばった顔つきだが、微笑したことは、確かだった。
「お待たせして、ごめんなさい」
「――――」
一瞬、私は、無言で、女の顔をながめていた。どうやら、この女は、私を、誰かと間違えているらしい。「人違いですよ」と、いおうとして、私は、その言葉を呑《の》み込んでしまった。
こんな美人と、知り合いになれるチャンスは、めったにない。正直に、人違いですよなどというのは、ヤボの骨頂であるまいか。
「たいして待たなかったさ」
と、私は、いった。
「何か飲むかい?」
「それより、出ません?」
女は、うながすように、私を見た。
「いいよ」と、私は、いった。
私が、勘定をすませると、女の方から、腕を組んできた。柔らかい感触が、私をくすぐった。悪いものじゃない。恐らく、私の顔は、だらしなくゆるんでいたことだろう。
私が、ドアをあけた。外に出ても、まだ、私の心は、宙に浮いていた。
薄暗い路地に出て、
「どこへ行く?」
と、女の顔を覗《のぞ》き込んだ時だった。私は、いきなり、うしろから、固い鉄の棒みたいなやつで、殴られて、気を失ってしまったのである。
二
八年ばかり前だが、私は、ジュニア・ウエルターの八回戦ボーイだった。六戦四勝二敗。ノックアウト勝ちは二つだった。ノックアウトで敗けたことも一回ある。それだけに、殴られることには、なれていた。普通の人間なら、一時間くらいは、眠っていたろう。私は、すぐ、気がついた。と、いっても、二、三十分は、気を失ったままだったに違いない。
私は、ひどく汚い部屋にねかされていた。ねかされていたといえば聞こえはいいが、ほこりだらけの床に、放り出されていたのだ。
黄色いはだか電球が、一つだけついていた。何もない、がらんとした部屋だった。
起き上がったが、殴られた後頭部が痛かった。
ドアのとってに手をかけて、あけようとしたが、鍵《かぎ》がかかっているとみえて、びくともしない。
私は、反対側の窓をあけた。ガラス戸は、すぐ開いたが、その外側に、がっちりした鉄棒がはまっていて、逃げ出せないようになっていた。
鉄格子ごしに、私は、暗い外の気配に眼をやった。広い庭にコンクリートの塀がぼんやり見えた。どのあたりなのか、さっぱり見当がつかない。耳をすませると、時おり、かすかに、車の音が聞こえてくる。近くに、道路があるのだろう。だが、大声を出したところで、そこまで届くかどうかわからなかった。それに、私を殴ったやつが、駈《か》けつけてきて殺されかねない。
逃げる方法はないかと、考えているうちに足音が聞こえた。
私は、急いで、床に寝て、気を失っているふりをした。
ドアが開いた。私は、薄眼をあけて、気配をうかがった。
どうやら男が二人だ。女はいない。
「まだ、おネンネしてやがる」
片方が、野太い声でいった。もう一人は、返事の代りに、いきなり、私の腰のあたりを、蹴とばした。私は、思わず悲鳴をあげかけて、かろうじて、呑《の》みこんだ。
「ふん」と、私を蹴とばした男が、鼻をならしていた。
「だらしなくねむってやがる。強く殴りすぎたようだな」
「そうらしい。つい、力が入っちまったんだ」
「てめえは、馬鹿力だからな」
「水でもぶっかけたら気がつくかも知れねえな。下から、くんでこよう」
一人が、そういって部屋を出ていった。残ったのは、一人だった。
背のひょろりと高い男だ。ピストルを持っている。男は、口笛を吹き始めた。「誇り高き男」という映画のテーマソングらしい。
私は、チャンスをうかがった。
男が、ふと、背中を見せた。私は床に手をついて、起き上がった。気配に気づいて、男がふりかえる。その腹のあたりを、私は、思いっきり殴りつけた。
クロウトを二人ノックアウトした力は、まだ衰えていなかったようだ。「うッ」と、男は、奇妙な呻《うめ》き声をあげて、身体を折るようにして、床に倒れた。
五、六分は、眠っているだろう。その間に逃げ出さなければならない。私は、男のピストルを拾いあげると、部屋を飛び出した。
薄暗い廊下を突き当ると、階段がある。私は、その階段を駈けおりた。
庭に出た時、背後で、銃声がした。耳もとを、空気を引きさいて弾丸が、飛びさった。
私は、塀に飛びついた。もう一度、銃声がした。が、今度も、当らなかった。夜の暗さが、私を助けてくれたのだ。昼間だったら、間違いなく私は殺されていたはずだ。
私は、道路に飛び下りた。といえば、恰好《かつこう》がいいが、本当は塀から落ちたのだ。だが、そんなことはどうでも良かった。落ちた時に、ピストルを失くしてしまったが、それを探している暇もなかった。
私は、道路を、走った。
どのくらい走ったか、おぼえていない。明りを見て、初めて、私は、足を止めた。
屋台のおでん屋だった。
私が、首を突っこむと、おでん屋のおやじは、びっくりした顔になった。私の形相が、物凄《ものすご》かったからだろう。それに、気がつくと、上衣もズボンも泥でよごれているし、塀を飛びこえる時にケガをしたらしく、手から血が流れていた。
「ちょっと、ころんじまってね」と、私は、いった。屋台のおやじに、事情を説明したところで、無駄だと思ったからだ。
「このあたりに、警察はないかね?」
「少し先に交番がありますよ」と、おやじがいった。
私は、相手に百円玉をにぎらせてから、また歩き出した。
おやじのいった通り、赤いランプが見えた。小さな交番だった。若い警官が一人、眠そうな顔で、柱時計を眺めていた。
私が入っていくと、屋台のおやじみたいに、びっくりした顔をした。
私は、手短かに事情を説明した。が、相手は、てんで、私の話を信用しないのだ。無理もないかも知れない。見知らぬ美人が、いきなり「あなた」と、腕を組んできたり、殴られたり、ピストルを射たれたりする話を、信用しろというのが、無理かも知れない。だが、私は、腹が立った。
「とにかく、私が、監禁されていた家へ案内するから、一緒に来てくれ」
と、私は、いった。引っぱってでも、私は、連れていくつもりだった。
三
不承不承《ふしようぶしよう》だが、若い警官は、懐中電灯をもって、私と一緒に、来てくれた。
うろおぼえだったが、家は見つかった。
「この家だ」
と、私がいうと、警官は、
「この家なら、空屋ですよ」
といい、コンクリート造りの門を、懐中電灯で、照らして見せた。なるほど、表札が取れたままになっている。だが、この家に間違いなかった。
私は、中へ入った。が、どこにも、人の気配がない。私が、監禁されていた部屋にも入ってみたが、そこにも、人の姿はなかった。やつらは、私が逃げるとすぐ、姿を消してしまったのだ。恐らく、車ででも、逃げたのだろう。
だが、そんなことを、警官が、信じてくれる筈《はず》がなかった。落したピストルでも見つかればと思ったが、それも、見つからなかった。
「困った人だ」
と、警官は、顔を真赤にして、怒った。
「何のつもりで、こんなところまで、僕を引っぱって来たんです?」
「私の話を信じてくれないのか?」
「信じられませんな。酔っ払いの話なんか」
警官は、それだけいうと、さっさと、交番へ戻ってしまった。
私は、仕方なしに、さっきの屋台へ、首を突っ込んだ。おやじは、百円玉のせいか、愛想がよかった。
私は、円椅子《まるいす》に腰をかけ、おでんを皿に取って貰《もら》ってから、
「ここは、どこなんだ?」
と、きいた。
「成増《なります》の近くですよ」
「なります?」
「この道をまっすぐいくと、川越《かわごえ》街道に出ます。そこが、成増です」
「池袋《いけぶくろ》まで、遠いのか?」
「車なら、二、三十分で、行きますよ」
それで、だいたいの位置が判った。
私が、女と会ったのは、池袋のバーだった。そこで殴られ、気を失っているうちに、車で、ここまで運ばれたのだろう。
温かいおでんを食べ、酒を飲むと、やっと、気が落ち着いてきた。ハンカチを取り出して、洋服についた泥をはらった。
落ち着いてから、最初に考えたのは、女のことだった。女の美しさと、腕を組んだときの柔らかい感じは、まだ、はっきり、おぼえている。助平根性を出したのが、いけなかったのだ。
恐らく、あの女が、私を連れだして、外で待ち構えていた男が、殴り倒すことに、最初から、段取りができていたのだろう。うまうまと、その罠《わな》にはまったというわけだ。
だが、何のために、そんな七面倒くさいことをしたのか、私には、さっぱりわからない。
今日、初めて会った女だったし、男の方にも、見おぼえはない。もちろん、成増という土地にも、来たことはなかった。私を殺すつもりだったのではあるまい。そのつもりなら、気絶させてわざわざ、こんな所まで運んでくる必要はないわけだ。水をぶっかけて、何をするつもりだったのか、私にもわからない。私から、何かを訊《き》き出すつもりだったのか、それとも、私に何かさせる気だったか、そんなところだろうが、彼らも、とんだ人間を掴《つか》まえようとしたものだ。私みたいなスカンピンを、逆さにしたって、鼻血も出やしない。
私は、誰かに間違われたらしい。
他に考えようはなかったが、だからといって、それで気がすむわけはなかった。私も、血の気の多い方だ。あんなことをされて、黙って引き退《さ》がるわけにはいかない。
殴られたら、倍にして殴りかえせ。これが、ボクシングに勝つ方法だ。警察が手を引いたのなら、自分の手でお礼をしてやるより仕方がない。私流のやり方で。
四
三日目の夜、私は、池袋のネオン街を歩いていた。三日目だけではない。あの日以来、私は、女や男の姿を求めて、夜になると、池袋のネオン街を歩いていたのである。だが、一向に、彼らには、出会えなかった。
三日目の夜も、歩きながら、私の眼は、自然に、通りすぎる人々の顔に走っていた。恐らく、私の眼は、血走っていたろう。
「おやッ」
と、私は、立ち止った。道路の向う側に、立っている背の高い男が、この間の男のように見えたからである。
服装は違っていた。あのときは、背広姿だったが、今日は、革ジャンパーに、白い絹のマフラーという恰好《かつこう》をしている。それに、黒いサングラス。
だが、間違いなく、あの男だ。私が、腹に一発お見舞いしたあの男だ。
私は、物かげに隠れて、男の様子をうかがった。
男は、誰かを探しているらしい。落ち着きのない様子で、眼の前を通りすぎる通行人の顔を、時々、のぞき込んでいたが、そのうちに、急に足早に歩き出した。
私は、あとを追《つ》けた。
腕に小さなイレズミをした兄ちゃん風の男が、すれちがいざまに、男に、軽く会釈をした。どうやら、このあたりでは、ちょっとばかり顔の売れている男らしい。
男は、小さなバーに入った。私は、どうしようかと考えてから、運に委《まか》せて、男に続いて、その店に足をふみ入れた。どうしても、挨拶だけは、しておきたかったからだ。
男は、止り木に腰を下ろして、カクテルを注文したところだった。
私は、黙って、男の隣に腰を下ろした。男はまだ、私に気付いていない。
「何にします?」
と、丸顔のマダムがきいた。
「この人と同じものにしてくれ」
と、私は、いった。その言葉で、男が、私を見た。
狼狽《ろうばい》の色が、男の眼に浮んだ。私を、おぼえていたのだ。まだ三日しかたっていないのだから、当り前の話だろう。
「また会ったね」
と、私は、笑って見せた。
「世間はせまいもんだな」
「何か用かね?」
男は、狼狽から立ち直ると、妙に落ち着いた声を出した。
「三日前のケリをつけたいんだ」
と、私はいった。
「昔から、物事を、あいまいにしておくことのできない性分でね。なぜ、あんな目にあったのか、その説明を、ききたいんだ。それに、君の方にも、俺《おれ》に用があるんじゃないのか?」
「ないね」
男は、いやに冷たい声でいった。
「お前さんに、もう用はない。だから、大人しく出ていくんだな。その方が身のためだ」
「――――」
私は、ちょっと、あてが外れた感じだった。三日前、女まで使って、私をおびき出した以上、まだ、私を狙《ねら》っていると思ったのだ。今夜も、男は、私を探しているのではないかと考えたくらいだったのだが。
人違いだとわかったから、もう、私には用がないというのだろうか。
「そっちに用がなくなっても、こっちにはある」
と、私は、いった。
「どうしても、事情を説明して貰《もら》うぜ」
「嫌だといったら?」
「警察に一緒に来て貰う」
「ふふふふ」
と、男は、低く笑った。
「警察が、お前さんのオトギ話を、信じると思うのか」
確かに、その通りだ。私は、カウンターの下で、拳《こぶし》を作った。
「自分流にやってもいい」
と、私は、いった。
「もう一度、腹を殴られたいのか?」
「――――」
男は、あの時の痛みを思い出したのか、苦い表情になった。
「俺を殴れば、命はないぜ。わかってるのか?」
「君たちのおどかしが利かない人間も、いるってことを、考えるんだな」
私は、右手の拳を、男の脇腹《わきばら》のあたりに押しつけた。
「自慢するわけじゃないが、俺は、プロで、めしを食ったことがある。リングの上で、四人ばかり、のばしたものだ。鍛えてない君なら、あばら骨の二、三本折るくらいは、わけないんだぜ」
男は、私を見た。私が本気で、いっているらしいと知ると、顔色が少し青くなった。どうせピストルぐらいは持っているだろうが、店の中では使えまい。私の方が有利のようだった。
「何が知りたいんだ?」
と、男が、いった。
「全部さ、なぜ、俺が、あんな目にあったか、それを喋《しやべ》って貰いたいね」
と、私は、いった。
五
マダムが、ピンク色のカクテルを運んできて、私たちの前に置いた。女の飲むやつだ。
男は、一口のんでから、
「人違いだったんだ」
と、いった。
「どうせ、そんなことだろうと思っていた」
と、私は、いった。
「そうでなきゃ、逆さにしても鼻血も出ないような、スカンピンの俺を、誘拐する筈がないからな。誰と、間違えたんだ?」
「お前さんに関係のないことだ」
「あの女は、君と、グルなんだな?」
「――――」
「はっきりして貰おうじゃないか」
「ちょっと待ってくれ」
男は、グラスに手を伸ばした。
「のどが渇いたんだ。何もかも話すさ」
「その気になった方がいい」
私も、グラスに手をやった。つい、油断してしまったのだ。男は、ゆっくりと、グラスを口のところへ持っていってから、ふいに、私の顔めがけて、それをぶちまけた。
「あッ」
と、顔をそむけた瞬間、男は、だっとのように、ドアに向って突進していた。
私が、眼をあけた時、男の姿は、もう消えていた。
私は、追うのを諦《あきら》めた。追いつけるはずがないし、今度は、やつも用心している。見つけられても、ピストルで射たれる危険もあった。
私は、ハンカチを取り出して、濡《ぬ》れた顔をふいた。
「どうなさったんです?」
と、マダムが、声をかけた。
「ちょっと、意見が、喰《く》い違ってね」
と、私は、笑って見せた。
「近づきになろうとしたんだが、嫌われたらしい」
「あんな男に近づかない方が、いいですよ」
マダムは、小さい声で、いった。
「なぜ?」
「お客さんは、あの男のことを、知っていらっしゃらないんでしょう?」
「ああ」
「この辺りじゃ、鼻つまみのヤクザですよ」
「こわもてのお兄さんというわけか。名前は?」
「岡田っていうんですよ。前科が、四つか五つあるはずです」
「その割に、やさしいものを飲むじゃないか。ピンクレディなんて」
「ええ。女の子を引っかけるのが得意なやつでしてね。素人のお嬢さんを、誘うときに必ず、ピンクレディを、注文するんですよ」
「バーテンとしめし合せて、アルコールの強いピンクレディを飲ませるってわけだね」
「そんな話も、聞きますよ。もちろん、うちじゃあ、そんなバチ当りなことは、しませんけどね」
「あの男と、一緒にいる小柄で太った男を知らないかね?」
「太った? 鈴木という男が、いつも一緒にいますけど」
「鈴木ね」
私は、その名前を、頭に刻み込んだ。岡田と鈴木。そのうちに、また会うことになるかも知れない。
「二人の住んでいるところを、知らないかな?」
「知りませんよ。この近くらしいんですけどね。お客さんは、警察の方ですか?」
「違うよ」
私は、首を横にふった。
私は刑事なんかじゃない。うだつの上がらない平凡なサラリーマンにしかすぎない。ただ、ちょっとばかり血の気の多い――
六
翌日の新聞を見て、私は驚いた。
あの女の写真が、社会面に、でかでかと載っていたからだ。
〈社長令嬢行方不明〉
という見出しだった。
社長令嬢という文字に、もう一度写真を見直したが、あの女に間違いなかった。
新聞の記事によると、あの女は、田村鉄工という会社の娘で田村有木子という名前らしい。年齢は、二十二歳。
一週間前に、友だちの家へ行くといって家を出たまま帰らなくなった。家人は、内密に探していたが、どうしても見つからないので、警察に届けた。警察は、誘拐の恐れもあると考えて、捜査をすすめている――
私が、この新聞記事を読んだのは、出勤前だった。とたんに、会社へ行く気がしなくなった。どうせ、個人経営のちっぽけな会社だった。くびになったところで、痛くもかゆくもない。
私は、机の上に新聞を置いて、考えた。
私が、あの女に会ったのは、四日前だ。つまり、行方不明になったあとで、私は、彼女に、会ったことになる。
普通なら、警察に知らせなければならないところだ。だが、私は、嫌だった。第一に、私の話を、受け入れてくれなかったあの若い警官への恨みがある。第二は、自分の力で、この女を見つけ出したかった。私は、平凡な毎日に、あきあきして、冒険がしたかったし、それに、金にもなると思ったからだ。
私は、外に出ると、まず、公衆電話に飛びついた。
田村鉄工に電話をかけて、社長の私宅をきいた。田園調布だという返事だった。
高級住宅地の一画に、その家はあった。でかい邸《やしき》だった。車庫には、ぴかぴかに光った外車が二台、でんと腰をすえていた。
この車だけでも、五、六百万はするだろう。
私が、門を入って行くと、女官みたいな、いかめしい顔をした女中が、私を呼び止めた。
私は、ご主人に会いたいと、いった。
「旦那《だんな》さまは、お会いになりません」
女中は、いやに、きんきんした声で、いった。
「会うさ」
と、私は、いった。
「お嬢さんのことで、お会いしたいと伝えてくれ」
とたんに女中の顔色が変った。私は、肩書のない名刺を、彼女の手にのせてやった。
女中は、一度引っ込んでから、五、六分して出てきた。今度は優しい声で、「どうぞ」と、いった。
私が通されたのは、八畳くらいの洋間だった。有名な画家の絵が、壁にかかっていた。骨董《こつとう》が好きとみえて、壺《つぼ》や、ハニワなどが棚に並んでいる。
奥の扉が開いて、小柄な老人が入ってきた。意志の強そうな顎《あご》の張った顔だった。命令することに、慣れてしまった男らしい。
「私が、田村鉄造だ」
と、老人は、いった。
「君は、娘のことを、何か知ってるそうだな」
傲慢《ごうまん》ないい方だったが、私は、そのいい方の奥に、かすかな虚勢を感じた。この老人は、娘の失踪《しつそう》で、かなり参っている。それを、必死に、隠そうとしているのではないか。
「娘を誘拐したのは、君か?」
「とんでもない」
と、私は、いった。
「私は、そんなことのできる人間じゃありません」
「じゃあ、何のために、ここへ来たんだね?」
「ひょっとすると、私なら、お嬢さんを見つけ出して、連れ戻してさしあげられるかも知れないと思ったからです」
「娘の居所を、知ってるのか?」
「知りません。しかし、探し出せる自信はあります」
「金が欲しいというわけか?」
「私を、傭《やと》って貰《もら》いたいのです」
「傭う?」
「そうです。臨時の探偵として、私を傭うつもりはありませんか。探偵という言葉がおいやなら、書生でも構いません。期間は、二週間。その間に、お嬢さんを見つけ出しますが」
「――――」
「一日の日当が二千円。二週間で、二万八千円。それと、成功した場合は、成功報酬として百万」
「百万?」
「安いものですよ。いかがですか?」
「娘は、警察が探してくれている」
「警察には、見つからん場合も、ありますよ」
「――――」
老人は、しばらくの間、強い眼で、私を睨《にら》んでいた。私が、信用できる人間かどうか、考えていたのかも知れない。
「よし」
と老人は、いった。
「君を傭うことにする。必ず、娘を見つけ出すんだぞ」
七
私は、会社に、郵便で辞職届を出した。悔いはない。かえって、さっぱりした気持だった。だいたい、私は、サラリーマンには向いていないのだ。
その日から、私は、前金として貰《もら》った一万四千円をふところにして、盛り場を歩き廻《まわ》ることにした。娘を探しにである。百万円を探しにと、いいかえてもいい。
私は、歩きながら、考えてみる。
岡田という男は、女をひっかけるのが、自慢だという。社長の娘も、あの男に上手《うま》く、ひっかけられたのだろう。何不自由なく育った娘の方が、余計に、ヤクザっぽい男に、ひかれるものなのだ。
問題は、娘が、今でも、岡田や鈴木と一緒にいるだろうかということだった。いるかも知れないし、いないかも知れない。一緒だとすれば、岡田や鈴木は、新聞記事を見て、娘が、金になると、考えたことだろう。
(娘のおやじを、ゆするかも知れない)
もし、そんなことをされたら、困るなと思った。岡田たちがあの老人をゆすり、老人が、金を払って、娘を取りかえしてしまったら、私の百万円が、台無しになってしまう。
そうなる前に、私が、娘を見つける必要があった。
一日目が、無駄に終った。足が棒になるほど歩き廻ったが、娘の姿はおろか、岡田や鈴木も、見つからなかった。
二日目も、見つからない。いくらか、自信がなくなってきたが、岡田たちが、老人をゆすったという情報も、入ってこなかった。
彼らが、金に淡白だとは、どうしても考えられない。金の卵を手にしたら、必ず、ゆするはずだった。それをしないのは、ゆすれない事情があるのか、それとも、娘が、逃げてしまったからに違いない。
私が、百万円を掴《つか》むチャンスは、まだ残っている。
三日目の夜だった。八時頃だったろう。
私は、盛り場の路地から路地と、通り抜けながら、田村有木子の姿を探して歩いた。
盛り場の外れまで来たときである。私は、自分の前を歩いている女に、見おぼえがあるような気がした。
(あの娘に似ている)
と、思ったとたん、私は、駈《か》け出して、その女の肩を掴んでいた。
女が、よろめくような恰好《かつこう》で、ふり向いた。畜生ッと思った。違っていたのだ。やたら厚化粧をした女だった。
「人違いだ」
と、声を出していうと、
「何さ」
と、女は、私を睨《にら》んだ。
「いきなり肩を掴んどいて、人違いだも、ないもんじゃないの。他に、挨拶のしようがないの」
気の強い女だった。バーかキャバレーで働いている女らしい。
「悪かったな」
と、いって、その女から離れようとして、ふと、女が胸に下げているペンダントに、眼が止った。
あの娘が持っていたペンダントだった。それに、女の着ているドレスも、あの娘と同じ色なのだ。だから、後ろ姿で、見違えてしまったのだ。
私は、女の腕を掴んだ。
「そのペンダントは、どうしたんだ?」
「どうしたって、いいじゃないの」
「買ったのか、盗んだのか、それが知りたいんだ」
「なぜ、あんたに、教えなきゃならないのさ?」
「俺にいうのが嫌なら、警察に話してくれてもいいんだぜ。そうするかね?」
「貰ったんだよ」
「誰から?」
「知らない娘からさ」
「知らない娘? 田村有木子という娘からじゃないのか?」
「名前なんか知らないよ。とにかく貰ったのさ。盗んだんじゃないよ」
「その時の話を、お茶でも飲みながら、ゆっくり聞かせて貰おうじゃないか」
私は、女の腕を掴んだまま、いった。女は、また、私を睨んだ。
「あたしは、いそがしいのよ。手を放してくれたら、どうなのさ」
「いそがしいのは、金儲《かねもう》けにいそがしいというわけだろう」
私は、ポケットから千円札を一枚取り出して、女の胸に押し込んだ。とたんに、女の顔がゆるんだ。
私は、近くの喫茶店に、女を誘った。
八
「その娘に会ったのは、一週間ばかり前よ」
と、女はいった。
「ずいぶん、遅い時間だったわ。店が看板になって、帰ろうとしている時に会ったんだから」
「店?」
「小さなバーよ。午前一時に近かったわ。店を出て、アパートに帰るつもりで、タクシーを止めたのよ。そうしたら、あの娘が真青な顔で、車に乗り込んできて、助けてくれって、いったじゃない」
「ふむ」
「びっくりしたわ。おまけに、はだしなのよ。誰かに追われてるんだなと思ったから、あたしのアパートへ、連れてったわ」
「それで――」
「二日ばかり、かくまってやったかしら」
「その間に、何か話したか?」
「何にも。警察に行ったらどうかって、いってやったんだけど、いやだといって」
「それで?」
「三日目に出て行ったわ。このペンダントは、そのお礼に貰《もら》ったのよ」
「服も、取り上げたんじゃないのか?」
「変なことをいわないでよ。とりかえてやったのよ。同じ物を着てたんじゃ、逃げるのが大変だろうって」
「その娘が、どこへ行ったか、わからないか?」
「さあ」
「思い出してくれ」
私は、もう一枚、千円札を取り出して、女の手に掴《つか》ませた。そのせいで、思い出してくれたのかも知れない。
「一つだけ、心当りらしいところは、あるわ」
と、女は、いった。
「どこか働くところはないかって、いうから、あたしの知り合いがやってる喫茶店の名前を、教えといたわ。もしかすると、そこに、行ったかも知れないわ」
「場所と名前は?」
「渋谷《しぶや》のルノアールっていう店よ。渋谷なら、隠れるのに、いいだろうと思ってね。まさか、あんたが、追いかけてる相手じゃないでしょうね?」
「俺は、正義の味方さ。他の者が、お前さんにきいても、喋《しやべ》らない方がいいな。金の代りに、ピストルを、ごちそうされるかも知れないからね」
「おぼえとくわ。ところで、あの娘は、一体何者なの?」
「金の卵さ」
「金の卵?」
ぽかんとして、女が、首をかしげている間に、私は、その店を飛び出すと、タクシーを拾って、渋谷に向った。
ルノアールという店を探すのは、骨が折れた。ごちゃごちゃした路地の奥にあったからだ。
ともかく、その店を見つけて、私は、中へ入った。ルノアールという名前から、シャンソンでもやっているかと思ったが、掛っていたのはジャズのレコードだった。
突っ立ったまま、店の中を、ぐるりと見廻《みまわ》したが、田村有木子の姿は、見えなかった。
私は、傍に来た女の子を掴まえて、有木子の写真を見せた。
「この娘が、来なかったかね?」
「似た娘は、来たわ」
「似た?」
「ええ。よく似てるけど、あの娘は、眼鏡をかけてたから」
「眼鏡をねえ」
「でも、ダテだったかも知れないわ。素通しみたいだったから」
「その娘は、いつ来たんだ?」
「四日前よ。二日だけ働いたけど、辞めちゃったわ」
「どこへ行ったか、わからないかね?」
「わからないわ。他のところで働くっていってたけど。人に見られるのが怖いんですって。そんな人には、喫茶店なんか向かないわね」
それ以上のことは、知らないようだった。
私は、喫茶店を出た。が、ふと、あの娘は、家に戻ったのかも知れないと考えた。
私は、社長の自宅に、電話をかけた。私が名前をいうと、社長が、すぐ電話口に出た。
「娘は、見つかったのか?」
いきなり、どなりつけるような老人の声がした。田村有木子は、まだ、家に帰っていないのだ。なぜ帰らないのだろうか?
「まだ、戻らないんですか?」
「君が、見つけてくるはずじゃないのか?」
「現在、見つけつつあるところです。それで、一つだけききたいんですが、お嬢さんの家出の原因は、何だったんですか?」
「そんなことを、君に、いう必要はない。君は娘を、わしのところへ連れてくればいいんだ」
「どうも、お嬢さんは、厳格過ぎる家庭を嫌って、家を出たようですな。そうだとすると、私が連れ戻しても、また、家を出るかも知れませんよ」
「下らんことは、いわんでよろしい。自分の分限というものをわきまえることだ」
「しかし――」
私が、いいかけた時、老人は、がちゃりと電話を切ってしまった。相当なカンシャク持ちらしい。私は、受話器を置いてから、苦笑した。
九
あの娘は、どこへ、隠れてしまったのだろうか。
顔を見られる職場は嫌だと、いったという。岡田たちに追われているのだし、一方では父親のところに帰りたくないのならこの考えは、当然だろう。とすれば、水商売で、働いているとは、思われない。
大会社に就職するためには、ちゃんとした身元保証人が必要だし、履歴書に嘘《うそ》を書いたところで、ばれてしまうだろう。としたら、あの娘が行った場所は、限られている。
私は、人手が足りなくて困っている小さな会社を、廻《まわ》ってみることにした。
その気になって調べてみると、東京に、中小企業の数の多いのに、驚かされた。そして、やたらに、「女事務員募集」とか「工員募集」の紙が貼《は》ってあるのだ。
まず、渋谷駅の近くを廻ってみたが、見つからなかった。いったん、アパートに戻って、新聞を拡げて、私は、ある記事を読んだ。
あの女が、殺されたという記事だった。私に、田村有木子のことを、教えてくれた女だ。
路地裏に、無残な姿になって、死んでいたという。身体には、殴られた傷が、数か所あったとも、書いてあった。
私には、その傷が、何のためか、わかるような気がした。恐らく、岡田や鈴木に、拷問されたのだ。岡田たちは、私のように、金の力で、田村有木子の行方を、きき出そうとするようなまだるっこしいやり方をしなかったのだ。
彼らが、女を殺したのは、きき出して、彼女が無用になったからに違いない。私は、急ぐ必要があった。
私は、新聞を放り出すと、アパートを出た。
駅に向う途中で、警察に電話をかけた。名前をいわずに、女を殺したのは、池袋で顔が売れている岡田と鈴木の二人だと、伝えた。
それだけいって電話を切った。あとは、警察が、やってくれるだろう。私には、他に、やらなければならないことがある。
私は、もう一度、渋谷に出た。彼女が、そんなに歩き廻ったとは、思えなかったからだ。ルノアールに勤めている間に、安全な、次の働き場所を見つけたのではないか。それが私の直感であった。
私は、渋谷から、玉川線にそって、探してみた。
三時間ばかり歩いて、やっと手がかりらしきものを掴《つか》んだ。あまり名前の売れていない製菓会社の事務所で、田村有木子らしい女の消息を掴むことができたのである。
「二日前から、うちで、帳簿づけの仕事をやって貰《もら》っている娘に、似ていますな」
と、人事係長だという男が、私の示した写真を見て、いった。
「名前は違うし、眼鏡をかけてますが」
「その娘は、どこにいるんです? 辞めたんですか?」
「いや、まだいます」
「どこに?」
「この先に、女子のための寮があるんですが、今日は、風邪《かぜ》をひいたとかで、そこで寝ているはずです」
私は、ほっとした。これで、百万円、手に入ったようなものだと思った。が、人事係長の次の言葉が、私を愕然《がくぜん》とさせた。
「今、さっきも、あの娘のことを、聞きにみえた人がありましたよ」
「誰が?」
「男の方が二人です」
「背の高い男と、小柄で太った男じゃありませんか?」
「そうです。何でも家出をした妹さんに似ているとかで」
「その男たちは、いつ来たんです?」
「十分ほど前です。いや、まだ、五、六分しか、たっていないかも知れませんよ」
「寮の場所を教えたんですね」
「ええ」
「寮には、誰がいるんです?」
「管理人が、一人いますが。女の人です」
そんなものは、何の役にも立たないだろう。やつらは、ピストルを持っているのだ。
私は、寮のある場所を聞くと、夢中で、駈《か》け出した。
寮は、事務所から、二百メートルぐらいしか、離れていなかった。飛び込むと、管理人の部屋で、呻《うめ》き声がした。四十ぐらいの女が縛られたうえに、猿ぐつわをされて床に転がされているのだ。
(遅かったか――)
と、唇をかんだ時、寮の裏で、エンジンの音がした。
私は、寮を飛び出した。丁度、一台の車が、猛スピードで、走り去ろうとしているところだった。後ろの窓から、ちらッと、二人の男の姿が見えた。
(やつらだ)
と、思ったが、あいにく、タクシーが見つからない。
私は、あわてて、まわりを見廻した。二十メートルばかり後ろに、スポーツ・カーが止っていた。
運転席には、いやに派手な服を着た若い男が、煙草をくゆらしていた。
おおかた女の子でも待っているのだろう。
私は、飛んでいって、その車に乗り込んだ。真赤なシャツを着た若い男は、びっくりした顔で、
「何をするんだ?」
と、どなった。
私には、返事をしているひまはない。幸い、キイは、ささっている。
「車を借りるよ」
と、私はいった。
「泥棒するのか?」
「ああ。するのさ」
私は、若者の細い腕を掴むと、車の外へ放り出した。
若者は舗道に転がってから、
「泥棒ッ」
と金切り声をあげた。
私は、構わずに、スタートをかけた。エンジンの回転を一杯にしておいてから、いきなりブレーキを離すと、スポーツ・カーだけあって、矢のように飛び出した。
スピードは、ぐんぐん上がっていく。制限スピードは、五十キロの道路だったが、私は構わずに、七十キロ、八十キロと、あげていった。
やつらの乗った車は、すぐ視界に入ってきた。
が、それと同時に、私の背後でパトカーのけたたましいサイレンも聞こえた。
あの若者が、一一〇番に電話したのか、それとも、私が、スピード違反をしたせいかわからなかったが、私には、この方が、よかった。
警察が、うしろについていれば、ピストルも、怖くはない。
前の車も、急にスピードをあげた。が、スビードでは、私の車の方が、すぐれていた。
たちまち追い越してから、いきなり、前に出て、急ブレーキをかけた。
私は、映画で見たのを、まねたのだが、スピードを出しすぎていたせいか、思ったところで車が止らず、勢いあまって、電柱にぶつけてしまった。
私は、その勢いで、オープンの座席から、外へ放り出されたが、すぐ起き上がった。
ボクシングで、身体を鍛えたのが役立ったのか、百万円が、私をふるい立たせたのか自分にもわからない。
やつらの車も、もちろん、止っていた。
岡田と鈴木は、ピストルを構えて、車から降りて来たが、すぐ、パトカーが、到着するのを見て、あわてて、逃げ出した。
パトカーから降りて来た警官は、最初、私を捕えようとしたが、私が、
「あれが、殺人犯だ」
と、どなると、何となく事情が呑《の》みこめたとみえて、二人を追いかけて行った。
私は、岡田たちが捨てていった車に近寄って、中を覗《のぞ》き込んだ。
後ろの座席に、縛られた田村有木子が、転がっていた。私が、抱き起してやると、彼女は小さな溜息《ためいき》をした。
「僕をおぼえているか?」
と、私は、縄を、ほどいてやりながらきいた。彼女は、うなずいて見せた。
「あんたのおかげで僕は、危くやつらに殺されるところだった」
「ごめんなさい。どうしても、ああしなくてはならなかったもんだから」
「僕を、誰かと人違いしたのか?」
「いいえ」
「じゃあ、なぜ、僕を、やつらの餌食《えじき》にしたんだ?」
「岡田は、私が、金持ちの娘らしいと気付いて、おどかしにかかったのよ。父に電話して、金を持って来させろって」
「それで、電話したのか?」
「いいえ。父に助けて貰うのは死んでも嫌だったわ。だから、岡田を騙《だま》したのよ。私の叔父で、いつも、十万や二十万の現金を持ち歩いている人がいるって。その人は、いつも、定《き》まった時間に、定まった店に飲みに来るから、その叔父から、取ればいいって」
「その店が、あのバーだったんだな」
「ええ。何とかして、逃げる機会を作りたくて、いい加減な嘘を並べ立てたのよ」
「それを、やつらが、本気にしたってわけか?」
「ええ。あの店まで、連れていかれて、その叔父を呼び出して来いって、いわれたの。外で、様子をうかがっているから、逃げようなんてしたら、射ち殺すって、おどかされたわ」
「だんだん、呑みこめてきたよ」
「店に入ったけど、もちろん、叔父が来てるはずなんかないのよ。でも、嘘だったなんていったら、ひどい目にあわされるわ。それで――」
「僕を叔父の代りに、連れ出したっていうわけか」
「ごめんなさい」
「甘い声で、あなたっていえば、でれでれと追《つ》いていくような甘ちゃんに、見えたってわけだな」
「違うわ」
「じゃあ、なぜ、僕を選んだ? あのとき、バーには、他に、客が何人かいたはずだぜ」
「あなたが、一番|逞《たくま》しそうに見えたからなの」
田村有木子は、顔を赧《あか》くした。
「あなたなら、あいつたちと、戦ってくれると思ったの。でも、連れ出したら、いきなり、あなたのことを殴りつけたのよ。そして、ポケットを探したけど、お金がないとわかると、車に乗せて――」
「あの時は、二千円ちょっとしか持っていなかったんだ。それで、僕を痛めつけて、本物の叔父かどうか調べてみるつもりだったというわけか」
「ええ。でも、私が、怖くなって、本当の叔父じゃないから、助けてあげてって、頼んだんだけど――」
「まあいいさ」
と、私はいった。
「君みたいな美人に、見込まれたんだから文句もいえないな。ところで、君は、僕に借りができたわけだ」
「ええ」
「それを返して貰いたいんだ」
「どうすればいいの?」
「取って食おうとはいわない。君に、父親のところへ帰って貰いたいんだ」
「――――」
「嫌になったら、また飛び出せばいい。だが、今度は帰って貰うよ。ごらんのように、君を助けるために、車をぶっこわしちまった。全然、知らない人の車なんだ。修理費がいる。君を父親のところへ送っていって、貰った金で、それを払うつもりでいるんだ。そうしないと、僕が、自動車泥棒に、なっちまうんでね」
「わかったわ」
彼女は、微笑した。
「あなたのために、家に帰るわ」
「助かったよ」
「その代り、私にも、お願いがあるの?」
「どんな?」
「あなたの住所を教えて下さらない」
「知って、どうするんです?」
「今度、家を飛び出したら、どこへ行ったらいいか、わからないんですもの」
「――――」
私は、やられたと思った。しかし、こんなやられ方は、悪くない。
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夜が待っている
一
俺《おれ》は、どういうものか、子供の頃から、昼間の明るさというやつが、嫌いだった。
生れつき、ヤクザな人間なのかも知れない。
十七の時にグレて、二十六の今日まで、グレっぱなしだ。理由なら、いくらでもつけられる。おやじは、酒ばかり呑《の》んでいたし、おふくろは、若い男をつくって、逃げた。俺が十五の時だ。
だが、そんなことを、俺は、いいわけにしようとは思わない。父が悪い、母が悪い、社会のせいだ、政治が悪いせいだといったところで、どうなるものでもないからだ。自分がみじめになるだけだ。それより、こう生れついたのだと考えた方が、気が楽だ。それに、平凡なサラリーマン生活など、俺のガラじゃない。
しかし、自分が、何を持っているかと、考えると、ちょっと、寂しくなることがある。
ヤクザの世界に入ってから、身についたことといえば、酒に強くなったことと、喧嘩《けんか》が上手《うま》くなったことぐらいだ。どっちも、出世と金に縁のないことだから、いつでも、ふところには、からっ風が吹いている。
いや、一つだけ、俺は、大事なものを持っていた。
坂本みどりという女だ。
素晴らしい美人だといいたいところだが、顔の円い平凡な女だ。教養というやつだって、俺と同じことで、丸っきりありゃしない。どこといって、取り柄のない女だが、俺には、彼女が、必要だった。
みどりの、ただ一つの取り柄は、心が優しいということだ。俺のような人間には、そんな女が、必要なんだ。他のことは、どうでもいい。
みどりは、俺に、何も期待していない。俺って人間をよく知っているからだ。知った上で、俺を愛してくれている。俺の方も、そんな彼女が、好きなのだ。あの女のためなら死んでもいい。これは本当のことだ。
競輪で、久しぶりに十万近く儲《もう》けたときも、最初に考えたのは、みどりのことだった。
みどりは、ゆっくり二人だけで、温泉に行きたいと、いっていた。俺は、その言葉を思い出していた。十万あれば、みどりの夢をかなえてやれる。
俺は、十万の金をふところにして、四谷《よつや》の、彼女のアパートに急いだ。
俺の足は躍っていた。
アパートの管理人が、俺の顔を見て、にやっと笑った。
俺は、二階に上がって、みどりの部屋をノックした。が、返事がない。俺は、何となく苦笑した。みどりは、新橋《しんばし》の小さなバーで働いている。夜が遅いせいで、起きるのも遅い。まだ、寝ているのだろう。
俺は、合鍵《あいかぎ》を取り出して、ドアを開けた。
足音を忍ばせて、ベッドに近寄った。みどりはベッドに、眠っていた。俺は、肩を押えて、「わっ」と驚かした。
だが、みどりは、起きなかった。
みどりは死んでいたのだ。
二
みどりは、首を絞められて死んでいた。殺したやつは、死体をベッドに寝かせ、毛布をかぶせて、逃げたのだ。逃げる時、鍵をかけたのは、発見を遅らせるつもりからだろう。
しかし、こんなことを考えたのは、時間が経ってからだ。しばらくの間は、ただ、呆然《ぼうぜん》と、みどりの死顔を眺めていた。
信じられなかった。なぜ、みどりのような罪のない女が殺されなければならないのか。
俺みたいに、ヤクザな人間で、他人に迷惑のかけどおしなら、殺されたって、文句のいえる筋はない。だが、この女は違う。誰にも悪いことなんかしていないのだ。ただ、ひっそりと、小さなしあわせを掴《つか》もうとして、生きてきた女なのだ。
なぜ、殺されなきゃならないのだ。
俺の胸の中で、悲しみと怒りが、物凄《ものすご》い勢いで、湧《わ》き上がってきた。それは、みどりが、俺にとって、どんなに大切な宝だったかを、改めて、思い知らされたからでもある。
俺は、みどりの死体に誓った。
(彼女を殺したやつが、誰だろうと、必ず、この手で殺してやる)
俺は、無理に、自分を落ち着かせた。
警察に委《まか》せる気持は、少しもなかった。警察に知らせたら、俺が、疑われてしまう。そのことは、構わないが、俺の手で、仇《かたき》を討てないのが癪《しやく》だ。
俺は、みどりの死体を、しばらくの間、押入れに隠しておくことにした。二、三日は、見つからずに済むだろう。その間に、俺の手で、犯人を探し出すのだ。
俺は、みどりの身体を押入れに、隠した。
俺は、部屋の中を探した。犯人の遺留品がないかと思ったのだが、見つかったのは、破れた、熱海《あたみ》″sの切符だけだった。
恐らく、犯人は、みどりを、熱海に誘い、それを断られて、殺したのだろう。俺に判ったのは、それだけだった。犯人の名前も、年齢も判りはしない。
俺は、鍵をかけて、みどりの部屋を出た。涙がひとりでに、溢《あふ》れてきた。
俺はみどりの働いていた新橋のバーに、足を運んだ。
顔馴染《かおなじ》みの女が、俺の顔を見るなり、
「お気の毒さま、みどりちゃんは、まだ来てないわよ」
と、いった。いつもなら、俺は、くすぐったくて、にやっとしてしまうのだが、今日は、悲しみが深くなるばかりだった。みどりが、二度と、ここに来ることは、ない。
「どうかしたの? 顔色が悪いわ」
「みどりのことで、訊《き》きたいんだが、俺の他に、男がいただろうか?」
「馬鹿ね。彼女は、あんたに、首ったけじゃないの。変に勘ぐると、みどりちゃんが、泣くわよ」
「いや、みどりの方は、何とも思ってなくても、男の方で、口説《くど》いてたやつが、いたんじゃないか?」
「そりゃあ、彼女は、気が優しいから、好きになってた客もいたらしいわ。でも、彼女が好きなのは、あんただけよ」
「みどりに、熱海へ行こうと誘ってたやつを、知らないか?」
「熱海? 男って、みんな、温泉へ行こうって、誘うもんだけど。そうねえ。ひょっとすると、あの男かも知れないわ」
「誰だ?」
「噛《か》みつきそうな顔ね。名前は、知らないわ。昨日、初めて来た客なのよ。みどりちゃんが、ひどく気に入ったらしくて、隅のテーブルで、さかんに、口説いているようだったわ」
「それで?」
「看板近くまで、ねばってたわ。みどりちゃんに訊いたら、さかんに、温泉へ行ってみないかと、誘ってたらしいわ。彼女の方は行く気は、なかったらしいけど」
その男が、諦《あきら》めきれずに、みどりを待ち伏せ、アパートまで、つけて行ったのかも知れない。だが、温泉行を断られたくらいで、なぜ、殺す必要があったのか。
「その男の特徴は?」
「そうねえ。背は高い方だったわ。一七五センチくらいあったんじゃないかしら。痩《や》せて色の黒い男よ。なんとなく、陰気臭かったわ。なんかこう、いつも、あたりをうかがってるような」
「カタギの人間じゃないということか?」
「判らないわ。でも、きちんと背広を着てたわ。それから、小さな鞄《かばん》を、大事そうに抱えてた」
女は、バーテンや、マダムにも、その男のことを、訊いてみてくれた。その結果、いくつかのことが判った。
男の左の頬《ほお》に、大きなホクロがあった。それに、喋《しやべ》った時、わずかな東北|訛《なま》りがあったという。
マダムは、あの鞄の中は、札束かも知れないといったが、当てにはならなかった。マダムには、昔から妙な空想癖があるからだ。
俺《おれ》は、それだけの収穫を得て、バーを出た。
名前も、どこに住んでいるかも判らない男だ。だが、俺は、必ず、そいつを探し出して、犯人と判ったら、殺してやる。
三
俺は、冷静になる必要があった。
俺は、冷静な猟犬にならなければならない。非情な猟犬になって、犯人を見つけ出すのだ。
男は、強引に、みどりを、熱海に誘った。それは、はっきりとしている。だが、断られて、男は、みどりを殺した。なぜ、殺したのか?
答は、一つしかないような気がした。その男には、後ろ暗いところがあるのだ。何かの拍子に、みどりは、それを知ってしまったのだ。あるいは、男が、誘っているうちに、口を滑らせてしまったのかも知れぬ。だから、みどりは殺されたのだ。
俺の頭の中で、少しずつ、男の姿が、濃くなって行くような気がした。
男は、熱海行の切符を買ったのは二枚のはずだ。その一枚を、みどりは、破り棄てた。残った一枚を男は、どうしたろうか。
棄てたかも知れない。だが、熱海が、どうしても行かなければならない場所だったら、やつは、多少の危険を冒しても、熱海行の列車に乗ったに違いない。
俺は、賭《か》けてみる気になった。
熱海行の列車は、空いていた。だが、楽し気に肩を寄せあっているアベックの姿を見ると、俺の胸は、痛くなった。本当なら、みどりと一緒に、この座席に腰を下ろしているはずなのだ。
改めて、みどりを失ったことの大きさが、骨身にこたえた。それは、同時に、彼女を殺した男への憎しみの強さにもなった。
列車が、熱海へ着くまでの間、俺は、(絶対に、犯人を探し出して、殺してやる)と、自分に、いい続けていた。
熱海に着いた時、夜が深くなっていた。
俺は、駅前のホテルに入り、部屋に案内されるとすぐ、夕刊に眼を通した。
みどりのことは、新聞に出ていなかった。まだ、死体は発見されていないのだ。
みどりを殺《や》った男も、恐らく息をひそめながら、新聞に、眼を向けていることだろう。そして、記事が出ていないことに、ほっとしているだろう。
安心しているがいい。安心して、俺に尻尾《しつぽ》を出せ。そうしたら、俺が、お前を、蠅みたいに、叩《たた》き殺してやる。
俺は、急がなければならなかった。みどりの身体が腐り始めたら、死臭が洩《も》れて、発見されてしまう。俺は、それまでに、犯人を見つけ出す必要があった。警察が、入り込んでくる前に、俺の流儀で、事件の決着をつけるのだ。
俺は、ホテルの支配人に、男の特徴をあげて、調べて欲しいと頼んだ。最初は、あからさまに、嫌な顔をしたが、金を掴《つか》ませると、近くのホテルにも、当ってみましょうと、折れて出た。
俺は、腕時計を見た。十時五分。十二時までには戻ってくると、いい残して、ホテルを出た。少しの時間でも、無駄にはできない。
街には、丹前姿の温泉客が、まだ、歩き回っていた。俺は、歩きながら、自然に、通行人の顔を、覗《のぞ》き込む眼になっていた。普段でも、あまり眼付きのよくない俺だから、覗かれて、あわてて逃げる男もいた。この辺りの愚連隊と間違えられたのかもしれない。
俺は、近くにあったバーに、入ってみた。小さな、嫌に薄暗い店だった。俺は、女給に金を握らせて、男のことを、訊《き》いてみた。
答は、ノウだった。俺は、別に、がっかりはしなかった。人生というやつは、そんなに甘くは、できていないのだから。
二軒目のバーでも、答は同じだった。
三軒目、四軒目も同じだった。そのたびに何枚かの千円札が、俺のふところから消えて行ったが、俺は、惜しいとは感じなかった。みどりのためなら、失って惜しいものは、俺にはない。
五軒目のバーでも、同じ空しい答を掴まされた時、時計は、十二時に近かった。
俺は、ホテルに戻った。ホテルの支配人は、四つばかり近くのホテルに当ってみたが、どこにも、それらしい男は、泊っていないと、知らせてくれた。
俺は、礼をいって、自分の部屋に戻った。
収穫は、ゼロだった。だが、俺は、悲観はしなかった。
満足できる答は、なかったが、俺は、ひそかに、形のない効果を考えていた。もし、やつが、熱海に来ているなら、当然、自分を追ってくる人間に注意しているはずなのだ。
俺が、やつのことを、訊き回っていることは、当然、やつの耳に入るだろう。
俺が狙《ねら》っているのは、それだった。
俺がやつだとして考えてみる。自分を追ってきた人間がいたとして、とるべき行動は二つある。一つは、じっと息をひそめて、隠れていることだ。もう一つは、逆襲に出て、追って来た人間を消してしまうこと。
やつは、どちらを取るだろうか。
俺は、やつの性格を考えてみた。もちろん、俺はやつについて、何も知らない。だが、いきなり、みどりを殺したことから考えて、冷酷で同時に激情的な性格のようだ。俺は、そんな人間を、何人か知っている。
恐らくやつは、息をひそめて、じっと隠れていられる人間じゃないだろう。やつは俺を消してしまおうと考えるに違いない。
俺は、それに、期待を持った。
四
熱海に来て二日目の朝が来た。
俺は、起きるとすぐ、新聞に眼をやった。
みどりのことは、まだ新聞に出ていなかった。俺は、ほっとすると同時に、やつも、今頃は、新聞を見ているだろうと思った。そして、ほっとしていることだろう。だが、ほっとしているのも、もう少しのことだ。俺が、安心できなくさせてやる。永久にだ。
俺は、朝食をすませると、街へ出た。
朝の陽射しが、眩《まぶ》しかった。子供の頃を除いて、俺が、こんなに早く起きたことはない。
熱海の街は、明るい冬の陽射しの下で、白茶けて見えた。この街に、果して、犯人は、いるのだろうか。いると、俺は、信じたかった。そう信じなければ、俺には力が湧《わ》いて来ない。
バーや、酒場は、まだ眠っていた。
俺は、店を開いたばかりの駅前のパチンコ屋に、足を運んだ。百円ばかり玉を買ってから、景品係の女に、俺は、昨夜と同じ質問をした。
女は、好奇心を、剥《む》き出しにした顔で、聞いていた。知らないという返事だったが、俺は、役に立ちそうな気がした。
俺は、女の手に千円札を握らせて、その男を見たら、ホテルの方へ、電話して欲しいと頼んだ。
「あんた、刑事なの?」
女は、眼を大きくしたまま訊《き》いた。俺は、同じようなものだと、いった。
昼には、駅前の食堂で、ビーフステーキを注文し、水を持ってきたウエイトレスに、同じ質問をした。答は、相変らず、ノウだったが、俺は、ビーフステーキを食べながら、かすかな予感に似たものを感じた。
神がかったいい方だが、十年近くも、この世界にいると、危険に対して、何か予感のようなものを感じるようになる。
俺は、自分が、誰かに、監視されているような気がした。
俺は、食堂の中を見回した。十人ぐらいの客がいたが、誰も、俺を見てはいなかった。だが、俺は、自分の直感を疑わなかった。誰かが、俺を、監視しているのだ。この予感が、当っているとしたら、俺の追っかけている男は、ここに、いるのだ。そして、仲間もいるのかも知れない。
俺は、金を払って、食堂を出た。
夕方になって、俺は、一度、ホテルに戻った。ボーイが、俺の顔を見ると、「ついさっき、女の人から、電話がありましたよ」と、にやにや笑いながら、いった。
「女?」
と、訊き返してから、俺は、パチンコ屋の女に、頼んでいたことを思い出した。何か掴《つか》んだのだろうか。
「また、電話するといっていました」
と、ボーイは、いった。俺は、待てなかった。俺は、ホテルを飛び出すと、パチンコ屋に、駈《か》けつけた。
景品係の窓口に行った。が、さっきの女の顔は見えない。別の女が、座っていた。
「ここにいた女は?」
「ゆきちゃんなら、ちょっと、出てるわ」
「どこへ?」
「知らないわ。さっき、電話が掛ってきて、出ていったのよ。すぐ帰ってくるっていったのに、もう二十分にもなる。手が足りないのに、困っちまう」
女は、頬《ほお》をふくらませた。
「電話の相手は?」
「男だったわ。でも、どんな話だったかは、知らないわよ」
俺は、また、暗い予感に襲われた。あの女は、俺に、何かを知らせようとした。だから、呼び出されたのではあるまいか。もし、俺の予感が当っているとすれば、彼女は、消されてしまう可能性がある。
俺は、パチンコ屋を飛び出した。が、地理不案内の熱海では、どこを探したらいいのか判らなかった。
俺は、やみくもに、歩き回った。バーや酒場の並んでいる暗い路地裏にも、顔を突っ込んでみたが、女の姿は発見できなかった。
自動車道路の下にある海上ホテルの傍まで来た時、崖下《がけした》の波打際に、人垣ができているのに、俺は、気付いた。
人垣の中に、警官の姿が混ざり、懐中電灯が、右左に、動いている。
俺《おれ》は人垣の背後から、中を覗《のぞ》き込んだ。
あの女だった。景品係の女が、死体になって、石の上に寝かされていた。
俺は、自分の暗い予感が当ったのを知らされた。
「溺死《できし》だそうですよ」
俺の傍で、丹前姿の男が、囁《ささや》いている。確かに、死体は、びっしょりと、水に濡《ぬ》れている。
だが、俺は、殺されたのだと、信じた。絶対に、この女は、殺されたのだ。この俺のために。
五
女は、俺に何かを知らせようとして、消されたに違いない。敵は、女の口を塞《ふさ》ぐことに成功した。だが、そのために、俺に、尻尾《しつぽ》を見せてくれた。
俺の探している男は、熱海にいるのだ。少なくとも、それだけは、判ったわけだ。
俺は、人垣を離れながら、ひとりでに、周囲を見回していた。あの女が殺された以上、俺の行動も、見張られているに違いないと思ったからである。だが、敵の眼は、見つけられなかった。
俺は、ホテルに向けて、ゆっくり歩いて行った。歩きながら、拳《こぶし》を作っていた。敵に、襲いかかって来て欲しかった。危険だが、その方が、手っ取り早くていい。
だが、ホテルに着くまで、誰も、襲いかかっては来なかった。ほっとするよりも、いらだたしさを感じながら、俺は、自分の部屋に入った。敵が、尻尾を見せて来たので、用意してきた拳銃《けんじゆう》を取りに戻ったのだが、明りをつけた瞬間、いきなり、背後から頭を殴られて、その場に昏倒《こんとう》してしまった。
不覚だった。ホテルに着くまで、襲われなかったことで、心に、隙《すき》ができてしまったのだ。
どのくらい、気を失っていたのか、記憶はない。気がついて、立ち上がったが、足がふらついた。後頭部が、ズキズキ痛む。手を当てると、血が滲《にじ》んでいた。
俺は、部屋の中を見回した。えらく、引っ掻《か》き回されている。俺は、ベッドの下を探った。隠しておいた拳銃は、盗まれていた。
俺は、開いたままになっている窓を見た。恐らく、あの窓から入り込んだのだろう。俺の部屋は二階だが、忍び込めない高さではない。
俺は、階下のバーに下りて、気付け薬代りに、ウイスキーを飲んだ。二杯も飲むと、やっと、気分が治ってきた。
煙草に火をつけてから、俺は頭を働かせた。
(やつは、なぜ、俺を殺さなかったのだろうか?)
最初に起きた疑問は、それだった。人殺しの嫌いな人間とも思えない。やつは、すでに二人の人間を殺しているのだ。
恐らく、俺の正体が掴《つか》めないからに違いない。部屋が、引っ掻き回されていた理由も、それで説明がつく。まさか、一丁の拳銃を盗むために、窓から忍び込み、部屋中を探し回ったわけではあるまい。俺の正体を掴みたかったのだ。なぜ、追いかけて来たのか、警官なのか、ただの素人なのか。そんなことを、やつは、知りたいに違いない。だから、俺を殺さずに、俺の出方を見るつもりなのだろう。
だが、この次は、俺を殺すかも知れない。さっき、殴ったのは警告のつもりかも知れないのだ。
俺は、煙草を捨てて、立ち上がった。ボーイを掴まえて、ホテルを飛び出して行った者はいなかったかを訊《き》いてみたが答は、ノウだった。用心深い相手が、やたらにヘマをするはずがなかった。
俺は、腕時計に眼をやってから、再び、夜の街に出た。十時を過ぎたが、俺は、時間を、無駄にできない。
やつは一体、どこにいるのだろうか? 俺には、見当がつかない。判っているのは、やつがここにいるということだけだ。分の悪い勝負だが、俺にも、有利な点が、ないわけではない。
やつは、まだ、俺の正体が、判らずにいるということだ。だから、俺が、こうして歩き回っている限り、やつは不安を感じないわけには、いかないだろうということだ。
やつは、俺を消そうとするだろう。今度は、殴られるだけではすむまいが、その時が、俺にとってのチャンスでもある。
俺は、人気のない海岸に来ると立ち止って、煙草に火をつけた。風が強く、なかなかつかない。五、六本マッチを無駄にして、やっと、火がついた。俺は、大きく、吸い込んで、白い煙を吐いた。
その瞬間だった。待ち構えていたように、火線が、闇《やみ》を貫いて走った。轟然《ごうぜん》と、爆発音が、俺の耳を打った。
俺は、地面に転がって、身を伏せた。煙草は、火がついたまま二、三メートル先に転がっている。
俺は、身を伏せたまま、周囲を見回した。
周囲は、薄暗い。眼をこらしたが、人の姿は見えなかった。
二発目は、飛んで来ない。波の音だけが、急に、強く聞こえてきた。十分近く、俺は、冷たい地面にうずくまっていた。
俺は、ゆっくりと、身体を起した。相変らず、二発目の弾丸は、飛んで来ない。やつは逃げたのだ。
俺は、弾丸の飛んで来た方向に、歩いて行った。
小さな岩があった。このかげに隠れて、俺を撃ったのだろう。俺は、屈《かが》み込んで、マッチをすった。名刺でも落していればと、思ったのだが、俺が見つけたのは、一本の煙草の吸殻だけだった。
俺は、二本目のマッチをすってから、その吸殻を拾い上げた。どんな煙草を吸っているのか、それだけでも知りたかったからだが、顔に近づけて、「おやッ」と思った。
匂《にお》いを嗅《か》いでみた。間違いなかった。マリファナだ。麻薬入りの煙草だ。
一つの収穫だった。軽いか重いか判らないが、やつは、中毒者だ。これで、みどりが、殺された理由が判ったような気がする。秘密を知られたので、殺したと考えていたのだが、違うかも知れない。やつは、みどりに熱海行を断られた時に、発作的に殺したのかも知れない。中毒者には、よくあることだ。熱海行の切符が、ちぎられたまま残されていたのも、妙だったが、相手が中毒者なら、そんなミスもしかねない。
やつが、必死になって俺の正体を掴もうとするのも、麻薬が、からんでいるからに違いない。そうでなかったら、みどりの死体が、まだ発見されないのに、これほど、あわてるはずがない。やつが、俺を消そうとしたのは、麻薬のためなのだろう。
俺は、吸殻をポケットに納《しま》ってから、岩の傍を離れた。この収穫は、無駄にはできない。
六
俺も、一度だけだが、麻薬に近づいたことがある。みどりを知ることがなかったら、今頃、俺の身体は、麻薬中毒で、腐り切っていたことだろう。
だから、俺は、どうすれば、麻薬《ヤク》が手に入るかを知っている。ここは、東京じゃないが、入手方法は、似たりよったりに違いない。もし、そのルートに、ぶつかることができれば、やつを掴《つか》まえることも、難しくないはずだ。中毒患者が、ルートから、離れられるはずがないからだ。それにやつ自身が、そのルートかも知れなかった。
俺は、昔、赤線地帯だった糸川べりに足を運んだ。小さな飲み屋が並び、女たちが、人待ち顔に、赤提灯《あかぢようちん》の下から顔を突き出していた。
俺は、女たちの顔を、一人ずつ眺めていった。いい女を探すためではない。傷のある女を見つけるためだった。麻薬中毒という傷を。どんなに厚化粧をしても、俺の眼はごまかせない。俺は、何人もそんな女を見てきたし、中毒の女と寝たこともある。
何軒目かの飲み屋で、俺は、目的の女を見つけた。何気ないふりをして、その店に入った。痩《や》せた女だった。ビールを注ぎながらも、やたらに、着物の袖《そで》を押えて、腕を隠そうとしている。注射の痕《あと》を、隠そうとしているのだ。
俺は、千円札を二枚、女に掴ませて、「出られないか」と、誘った。女の眼が輝いた。いい鴨と思ったのかも知れない。
女は、マダムと、何か小声で話し合ってから、俺を追って、店を出てきた。
「いい旅館を知ってるのよ」
と、女が、いった。俺は、そこへ行く前に、海岸へ出て、ちょっと、酔いを醒《さ》ましたいと、いった。
「アルコールが入っていると、あの方が、駄目になるんでね」
と、俺がいうと、女は下品な声で、ゲラゲラ笑った。
俺は、女を人気のない海岸へ連れて行ってから、いきなり、手をねじ上げてやった。剥《む》き出しになった腕には、案の定、注射の痕があった。
女は、痛そうに悲鳴をあげた。
「俺の訊《き》くことに答えるんだ。答えなければ、お前を殺す」
「何のことさ?」
「ヤクを、どこで手に入れてるか、それを教えればいいんだ」
「知らないよ」
「本当にか?」
俺は、女の帯を解くと、それで、縛り上げた。マッチをすって、鼻先に突きつけると、女は、前より一層|甲高《かんだか》い悲鳴をあげた。
「マッチは、まだあるぜ」
俺が二本目のマッチをすると、女は、観念したように、「判ったよ」と、いった。
「高島って男が、持ってるのよ」
「どこに行けば、その男に会える?」
「あんたも、欲しいのかい?」
「男を探してる。痩せて背が高くて、色の黒い男だ。東北|訛《なま》りがあって左の頬《ほお》に大きなホクロがある男だ。その男に、渡すものがあるんだ」
「その男なら高島じゃないの」
「その男が高島なのか?」
「そうよ。渡すものって、何なのさ?」
「金だ」
「ふーん」
「どこに行けば会える?」
「知らないわ」
俺は、三本目のマッチをすった。女は、顔を歪《ゆが》めて、「本当に知らないのよ」と、金切り声を出した。
「あたしも、一度しか会ってないのよ」
「それなら、どうやって、麻薬を手に入れるんだ?」
「使い走りの人間が、持って来てくれるのよ。丁度、切れた頃にね」
「一度会ったっていうのは、どこでだ?」
「二か月前よ。どうしても、沢山欲しかったもんだから、使い走りの婆さんを、つけてみたのよ。そしたら、『ハッピイ』ってバーに入ったのよ。そこの経営者が、高島だったのよ。だけど、翌日になったら、婆さんは死体になって見つかったし、その店も潰《つぶ》れてたわ」
「高島は、どこから、ヤクを持ってくるんだ?」
「知らないわ。横浜や、東京からだっていうけど、本当のことは、知らないのよ」
「やつの仲間は?」
「知らないけど、いないみたいよ」
「最後に一つだけ訊く。やつに近づくには、どうしたらいい? 金を渡したいんだ」
「知らないわ。近づけば殺されるわよ。それより、早く、ほどいて頂戴《ちようだい》よ」
「誰かに、ほどいて貰《もら》うんだな」
「畜生ッ。馬鹿野郎ッ。ロクデナシ」
俺は、女から離れて、また、盛り場に向って歩き出した。
ほんの僅《わず》かだが、俺は、やつを追い詰めたのだ。ヤクの絡んでいることが判り、そして、高島という名前も判った。あとは、高島を探し出すことだ。
七
俺は、一軒のバーに入った。
客は、少かった。俺は、止り木に腰を下ろして、『ハッピイ』というバーを探していると、マダムにいった。
「友だちが、そこで、バーテンをやってたんだが?」
「ハッピイなら、二か月前に潰《つぶ》れたわ」
「ほう」
と、俺は驚いて見せた。
「道理で見つからないはずだ。そこで働いていたバーテンや女たちが、今どうしているか知らないかね?」
俺は、千円札を、マダムの胸に押し込んだ。
「どうしても、友だちを探し出したくてね」
「ちょっと待ってね」
マダムは、傍にいたバーテンや女給たちと小声で話し合ってから、
「バーテンのことは知らないけど、ハッピイにいた娘が、この先の『ニュー・アタミ』って店で働いているそうよ。名前は、京子」
「助かったよ」
「ところで、お友だちの名前は? 貴方《あなた》の探してる――」
「鈴木だ」
俺は、出鱈目《でたらめ》の名前をいって、その店を出た。
『ニュー・アタミ』は、すぐ見つかった。京子という娘も、そこにいた。俺はその娘にも、千円札を握らせた。
「ハッピイなら潰れたのよ」
と、京子は、いった。
「知ってる」
と、俺は、いった。
「その店をやっていた高島という男に会いたいんだ」
「あのマスターが、どうかしたの?」
京子が訊《き》く。この女は高島の本当の商売を知らないようだった。
「どうしても会いたくてね。どこにいるか知らないかね?」
俺は、もう一枚、千円札を、握らせた。その感触が、思い出させたのかも知れない。
「そういえば、この間、変なところで、マスターを見たわ」
「どこで?」
「それが変なのよ。駅の近くに、大きな貴金属店があるのよ。真珠のネックレスなんか売ってる店よ。その前を通ったら、あのマスターが入って行くじゃない。出て来たら、声をかけてみようかなって思ってたら、いつまでたっても出て来ないのよ。変だと思って、今の人はって、店の人に訊いたら、社長ですって」
「貴金属店の社長?」
「そうよ。あの店を閉めるとき、あたしたちには、借金だらけで首が回らなくなったからって、一銭もくれなかったのよ。それなのに、いつのまにか、貴金属店の社長に、納まってるんじゃないの。インチキだわ」
京子は、口を尖《とが》らせた。俺は、胸が躍った。
「その店の名前は?」
「確か、『かねたか』よ。駅前には、一軒しかないから、すぐ判るわ」
「助かったよ」
と、俺は、いった。
俺は、もう一枚、千円札を、相手の手に押しつけた。
「君が、ハッピイをやめた時に貰《もら》えなかった退職金の代りだ」
八
時計はすでに十二時に近かった。さすがに、熱海の駅前も、人影は、まばらだった。
貴金属店『かねたか』は、もう店を閉めていた。鉄筋二階建の立派な店だった。ヤクで儲《もう》けて建てたのだろう。
俺は、二階に、明りがついているのを見つけた。二階が、住居になっているらしい。だとすれば、そこに、高島がいるはずだ。みどりを殺した男がいる。
俺は、裏へ回った。もちろん、裏の戸も閉まっていた。だが、こんなものは、俺には何でもなかった。
塀に飛びついて、それを乗り越えた。幸い、俺の嫌いな犬はいなかった。
俺は、ゆっくり靴を脱いだ。足音を忍ばせて、中に入る。コンクリートの床は、ひどく冷たかった。
息を殺して階段を上がる。
二階の廊下に出ると、奥の部屋から、かすかな、女の呻《うめ》き声が聞こえた。男の忍び笑いも聞こえる。今度は、女の呻き声が、低い、笑いに変った。
(畜生ッ)
と、思った。やつは、女と、お遊びの最中なのだ。
奥は、寝室になっていた。ドアに、鍵は、掛っていなかった。
俺は、僅《わず》かな隙間《すきま》から、中を覗《のぞ》き込んだ。
ベッドの上で、裸の男と、裸の女が、からみ合っていた。青白い蛍光灯の下で、白い肌が、うねっている。
俺は、ゆっくりと、ドアを開けて、身体を滑り込ませた。途端に、むッとする熱さが、俺の身体を包んだ。ガスストーブの熱気だった。
やつらは、まだ気付いていない。俺は、カーテンに身体をかくして、やつらの枕元《まくらもと》に近づいた。
枕元に、小さなテーブルがあった。その上に、拳銃《けんじゆう》が載っていた。
俺の拳銃だった。
やつと女は、まだ、お祭りを続けている。
俺は、そっとカーテンの間から手をのばし、拳銃を掴《つか》んでから、飛び出した。
「お楽しみの最中を、悪いな」
と、俺はいった。
男は、はね起きた。裸の女は、突き飛ばされて、甲高《かんだか》い悲鳴をあげた。
男は、狼狽《ろうばい》していた。が、さすがに、悲鳴だけは、あげなかった。
俺は、拳銃を、やつの胸のあたりに向けた。
「俺を知っているはずだ」
と、俺はいった。
「俺を消そうとしたはずだからな」
「お前は、誰なんだ? なぜ、俺を追いかけてきたんだ?」
「貴様を殺すためだ」
と、俺はいった。
「貴様が殺した女の仇《かたき》を討つためだ」
「女?」
「東京のアパートで、貴様に殺された女だ。なぜ、みどりを殺した? なぜ、あいつを殺したんだ?」
「仕方がなかったんだ」
「仕方がない?」
「警察が眼を光らせ始めたのを知って、俺は女連れの方が安全だと思ったんだ。それに、ヤクも、女に持たせた方がいいと思った。あの女なら、正直そうだから、途中で、猫ババされることもないと思った。俺は、十万やるといったんだ。十万だぜ。それなのに断りやがった。だから殺したんだ。仕方がねえじゃねえか」
「くそッ」
「お前に、十万やる。だから見逃してくれ。いや、二十万でもいい。なんなら三十万。五十万」
やつは、値を上げながら、俺の顔色を窺《うかが》っていたが、いきなり、腕にむしゃぶりついてきた。
俺は、倒れながら、引金を引いた。やつの身体が、ばね仕掛けみたいに、転がった。俺は起き上がると、弾丸がなくなるまで撃った。
やつの胸に血が拡がり、すぐに、動かなくなった。
女は、裸のまま、まだ震えていた。
「お前さんを、殺しやしない」
と、俺はいった。
「俺が出て行ったら、警察に電話するがいい。そして、全部話すんだ、俺のことも話していい」
俺は、拳銃を放り出して、その部屋を出た。
外に出ると、熱海の街は、もう眠っていた。今の銃声を聞いたとみえて、寝巻姿の野次馬が、五、六人、遠まきに、店を眺めていた。
俺は、彼らの傍をすり抜けて、海岸に向って歩いて行った。
俺の前に、夜の闇《やみ》と波の音が、待ち構えていた。やがて、それが、俺の身体を押し包んだ。
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赤いハトが死んだ
一
昭和十四年八月
上海
日本租界は、戦勝気分で、わき立っていた。
前線では、激しい戦争が続けられているのに、銃火の聞こえなくなった、ここでは、戦争は、もう終ってしまったようなのどけさと、歓楽があった。
日本から、金もうけをもくろんで、白粉《おしろい》くさい女たちと、その女たちをかかえた男が押しかけてきた。
「赤玉」だとか、「松の屋」といったキャバレーが、続々と生れ、高級将校の溜《たま》り場になっていった。
どこか狂っていた。兵士たちが、血を流しながら死んでいる時に、偉い将校たちは、女を抱いて、酒におぼれているのである。
今の南ヴェトナムに、似ていないこともない。命令する立場の人間は、歓楽の町で遊び、貧しい兵士たちは、泥水を飲みながら、死んでいくのである。
八月十二日の夜は、むし暑かった。
キャバレー「松の屋」では、相変らず、背広姿の役人や、高級将校が、女たちを相手に、乱ちき騒ぎをくりかえしていた。
天井に取りつけた扇風機が、よどんだ空気を、引っかき回していた。
ステージでは、日本から来た女性歌手が、「支那《しな》の夜」を歌っていた。
酔っぱらった将校が、急に、ドラ声をあげて、詩吟をうなり出した。女たちの媚声《びせい》が、それに重なる。
中国人の若いボーイが、無表情に、テーブルに、酒を運んでいく。彼が、何を考えているのか誰にもわからなかった。自分の祖国が、日本軍に占領され、そして、日本人の店で働いていることを、どう考えているのか、誰にもわからない。
「この戦争は、あと一年で終る」
若い、太った女の腰に手を回して、青白い顔の参謀将校が、甲高《かんだか》い声で、背広姿の男としゃべっている。
「敵さんには、まるっきり戦意というものが、ないんだからね」
中国人のボーイの眼が、その言葉を聞いて、ふいに、光った。が、すぐ、元の無表情に戻った。
「このボーイがいい例さ」
参謀将校は、無遠慮に、中国人のボーイを指さして、いった。
「支那人には、渇しても盗泉の水を呑《の》まずという気概なんか、爪《つめ》の垢《あか》ほども、ありゃせんのだ。金になりさえすれば、敵だろうが味方だろうが、尻尾《しつぽ》を振ってくる――」
彼は、とくとくとして、中国人の弱さについて、しゃべっている。だが、彼は、一度も、中国兵と戦ってはいないのだ。その頃の天津《てんしん》や上海には、こういった軍人が多かった。
ステージでは、「支那の夜」が終り、今度は、芸者姿の女が上がって、日本舞踊を始めた。
その時である。
すさまじい爆発音とともに、閃光《せんこう》が、店内をつらぬいた。
電気が消え、闇《やみ》の中で、悲鳴と、呻《うめ》き声が重なりあった。
気炎をあげていた参謀将校の身体は、吹き飛ばされ、床に叩《たた》きつけられていた。彼の座っていたテーブルは、粉みじんになってしまった。爆発は、そのテーブルで、起きたのである。
一緒にいた背広姿の日本人も、二人の女給も即死だった。
二
再び明りがついた時、店内は、惨憺《さんたん》たる様子を示していた。
爆発のあった辺りは、血の海だった。六人が死に、三十人が負傷した。
そのほとんどが、日本人だった。
上海にいた特務機関の石塚中佐が、この事件の報告を受けたのは、爆発後二時間してからだった。
報告を聞きながら、石塚中佐はまたかと、眉《まゆ》をしかめた。
日本租界での爆発騒ぎは、八月に入ってから、今度で三度目だったからである。
八月二日に、日本人経営のバーが、時限爆弾で、爆破され、日本人五人が死んだ。
八月六日に、日本軍慰問の映画を上映中の映画館で、爆発騒ぎがあり、七人が死に、四十二人が負傷していた。
そして今度の事件である。
爆発のあと、中国人のボーイ一人が、行方をくらませたという。
「恐らく、その男が、犯人だろう」
と、石塚中佐は、部下の赤間少尉に、いった。
「だが、問題は、テロを指導している人間だ」
「今度も宗が関係しているんでしょうか」
「恐らく彼のやらせた仕事だ」
石塚中佐は、苦い顔でいった。
宗士元。四十二歳。
この名前は、もう半年も前から、日本特務機関のブラックリストに載っていた。
でっぷりと太った大きな男である。福建省の生れで、英、仏語にも通じている。
表向きは、東南公司という貿易会社の社長だが、上海で、テロを指揮している黒幕らしいという噂《うわさ》は、前からあった。
問題は、東南公司が、イギリス租界内にあるということである。
租界は、一つの国家である。怪しい人間がいるからといって、どやどやと入り込んでそこの人間を逮捕するというわけにはいかなかった。
もし、そんなことをすれば、重大な国際問題になりかねない。
したがって、宗士元が、イギリス租界から出て来ない限り、彼が怪しいとわかっていても、どうすることもできないのである。
だが、日本の特務機関が、ただ手をこまねいて、見ていたわけではなかった。
二週間前、石塚中佐は特務機関員の一人を、中国人に変装させて、イギリス租界へ潜入させた。
彼に与えられた任務は、ただ一つ、宗士元に近づいて、彼を殺すことだった。胆《きも》のすわった男で、射撃の腕前も確かだったから、成功するかも知れないという期待を持っていたのだが、その作戦は、見事に失敗してしまった。
イギリス租界に潜入して三日目の朝、彼の死体が、揚子江に浮んだのである。
死体は、背中から撃たれていた。恐らく、宗士元の包※[#「金+票」、unicode93e2]《パオビヤオ》に殺されたものであろうと、推測された。包※[#「金+票」、unicode93e2]というのは、用心棒のことである。
石塚中佐が調べたところでは、宗のまわりには、常に、十人近い用心棒がいるらしい。その壁を突き破って、宗を暗殺するのは、容易なことではなさそうだった。
「だが、何としてでも、やつを殺さなければならぬ」
と、石塚中佐は、赤間少尉にいった。
「日本軍の威信にかかわることだからな」
それは同時に、上海にいる特務機関の威信の問題でもあった。
三
あらゆる情報ルートを使って、宗士元のことが、調べられた。
十人の用心棒を除いて、宗の傍に近づける人間は、誰だろうか?
その点に、調査が集中された。
まず、宗の妻がある。名前は、宗九齢といい、なかなかの美人だ。しかし、この女を買収して、宗を殺させることは、不可能だった。
次に、宗の乗る車の運転手がいる。陳という男だが、この男は、ひどく日本人を嫌っている。これも、買収は、むずかしかった。
「残るは、一人だけです」
と、赤間少尉は、いった。
「タイピストです」
「タイピスト?」
「そうです。宗は、東南公司の社長です。社長室に、若いタイピストが一人いるそうです。なかなか美人で、名前は、黄小姐。社長室では、宗とこの女の二人だけになる時があるとのことです」
「その女は、買収できそうか?」
「どうも無理の様です。黄小姐の父親は、日本軍に殺されていますから」
「まずいな。タイピストの他には?」
「ありません」
「――――」
石塚中佐は、だまって、腕を組んだ。昨日の爆破事件で、陸軍の高級参謀が死んだせいで、特務機関は、一体何をしているのかという非難の声が、司令部の方から、あがっていた。
どうしても、黒幕と思われる宗士元を殺さなければならない。
「宗士元は、女に甘いという噂《うわさ》だったな?」
石塚中佐は、赤間少尉を見て、いった。
「その噂は、本当なのか?」
「本当のようです。それが、彼の唯一《ゆいいつ》の欠点だという者もいるくらいですから」
「それなら、やはり、タイピストを、使うことにしよう。他に、宗士元を倒す方法は、ないようだからね」
「しかし、あのタイピストは――」
「もちろん、黄小姐とかいうタイピストでは駄目だ。他のタイピストにやらせるのだ」
「他の?」
「いいかね」
石塚中佐は、声をひそめて、いった。
「現在のタイピストが、急に、姿を消してしまったら、宗は困るだろう?」
「それは、困ると思います」
「彼の欲しいのは、英文タイプだ。この辺りで、英文タイプのできる女は、そう多くはいないはずだ。恐らく、彼は、新聞で、タイピストを募集すると、おれは、思うがね」
「私もそう思います。宗は、新聞を利用するのが好きな男ですから」
「宗が、新聞広告を出したら、我々の息のかかった女を応募させる。タイプが上手《うま》くて美人なら、彼は、採用するだろう。その女に宗を殺させるのだ」
「そんな都合のいい女がおりますか?」
赤間少尉は、半信半疑の顔で上官を見た。
「美人で、タイプが上手くて、我々に協力してくれるような女が……」
「いるのだ」
石塚中佐は、初めて、にやっと笑って見せた。
「天津《てんしん》にいる。おれが天津にいた時、知り合った女だ。名前は金香蘭《きんこうらん》。しかし、これは本名じゃない。本名は、江田章子だ」
「日本人ですか」
赤間少尉は、眼を大きくした。
「そうだよ」と、石塚中佐は、いった。
「日本人だ。だから、彼女に、この仕事を頼むのだ」
四
その時、金香蘭こと江田章子は、天津でひまを持て余していた。
章子は、川島|芳子《よしこ》にあこがれて、単身、中国に渡ってきたのだが、戦争が長期化の様相を見せ始めると同時に、個人プレイは、次第に敬遠されるようになってきていた。戦争から、ロマンチックな面がなくなって、非情になってきたのだ。
天津にあった、北支派遣方面軍の司令部では、彼女を、宣撫員《せんぶいん》の一人として雇ったが、それは、彼女の流暢《りゆうちよう》な中国語を買ったというよりも、冒険好きの彼女に、勝手な行動をとられては困るという配慮からだったようである。
司令部の将校たちは、章子を、持て余していた節がある。
章子の方でも、うすうす、それを感じとっていた。不満であった。中国の大地を飛び回りたいと思ってやってきたのに、与えられた仕事は、重たいマイクを担いで、宣伝に歩くことであった。
面白くないので、時々、頭が痛いといって、仕事を休んだ。が、司令部の方では、何もいわなかった。
(体裁のいい、飼い殺しだ)
と、思った。
そんな毎日を送っている時、章子は、一通の電報を、受け取ったのである。差出人は石塚中佐であった。
章子は、石塚中佐を、おぼえていた。彼が天津にいた時、特務機関で働かせてくれるように、頼んだことがあるからである。特務機関に入れば、川島芳子のように、はなばなしく動き回れると思ったからだったが、石塚中佐は、笑って、取り合ってくれなかった。
その石塚中佐からの電報だった。
章子は、胸を躍らせて、電文を読んだ。が、電文そのものは、ひどく短いもので、ロマンチックなところは、どこにもなかった。
〈シキユウシヤンハイニコラレタシ〉
電文は、それだけであった。しかし、章子は、もう一度、電報の宛名《あてな》に眼を移して、それが、江田章子宛ではなくて、金香蘭宛になっていることに、気づいた。
何やら、そこに、秘密めいた匂《にお》いがあるようであった。そう考えて、読み直すと、電文の短さが、かえって、彼女の心をわくわくさせた。
(きっと、何かあるのだ)
章子は、そう信じた。きっと、上海には、冒険が待っているに違いない。
章子が、その電報を持って、司令部を訪ね、上海行の許可を求めると、すぐ、許可をくれた。むしろ厄介払いができて、ほっとしたような顔をしていた。
翌日、章子は、中国服を着て、金香蘭として汽車に乗った。
五
その日の夕方、章子は、上海に着き、石塚中佐と、再会した。
「いつか君は、特務機関で働きたいと、いったね?」
と石塚中佐は、章子に向って、いった。
「ええ」
「今でも、その気持は変っていないかね?」
「ええ」
「じゃあ君に、働いて貰《もら》おう。特務機関の人間としてね」
「本当ですか?」
章子は、口元を、ほころばせた。やはり、上海には、冒険が待っていたのだ。
「どんな仕事でしょうか?」
「むずかしい、仕事だよ」
と、石塚中佐は、笑いを消した顔で、いった。
「それに、面白い仕事でもない。下手に英雄になろうと思ったり、軽い気持で引き受けたら、必ず失敗する」
「――――」
「君に、ある男に近づいて貰いたい。そして、その男を消して貰いたいのだ」
「消す――ですか」
章子の顔が、ちょっと、青ざめた。が、怖いとは思わなかった。
「この男だ」
石塚中佐は、一枚の写真を取り出して、章子に見せた。でっぷりと太った、中国人だった。
「名前は、宗士元。イギリス租界で、東南公司という貿易会社の社長をやっているが、これは表向きで、実際は、抗日テロの黒幕だ。この男のために、何人もの日本人が殺されている」
「この男に、近づく方法は?」
「君は、英文タイプができたね?」
「ええ」
「君は、東南公司のタイピストになるのだ。あと、二、三日すると、宗は、新聞で、タイピストを募集するはずだ。その時に君は、金香蘭として応募するのだ」
「前にいたタイピストが辞めたからでしょうか?」
「まだ、辞めてはいない。だが、辞めることに、手筈《てはず》が整っている」
石塚中佐は、初めて、にやっと笑って見せた。
翌日の夜、東南公司の英文タイピスト黄小姐は、イギリス租界を出て、自分の家に帰る途中、何者かに、誘拐されてしまった。もちろん、このことを、章子は、知らなかった。
三日後の英字新聞に、「英文タイピストを求む」の小さな広告が出た。その広告を出したのは、東南公司だった。
六
「予定どおりだ」
と、石塚中佐は、その新聞を、章子に見せて、いった。
「君は、すぐ応募するのだ。宗は、女に甘い男だ。君ぐらいの美しさと、タイプの上手《うま》さがあれば、必ず採用されるはずだ」
「採用されたあとは――?」
「任務を果すまで、ここに近づいてはならない。完全な中国人として行動するのだ。君の両親は、日本軍に殺されたことにする。その方が、宗に近づきやすいだろう」
「上手く、宗を消すことができたら、何と報告すれば、いいんでしょう」
「電話で、『赤いハトが死んだ』と、報告すればいい。赤いハトというのが、宗の綽名《あだな》だからね」
「わかりました」
「用心深く行動することだ。そうしないと、宗を消す前に、君が消されてしまうからね。彼のまわりには、用心棒が大勢いるのを忘れないでくれ」
「わかりました」
章子は、同じ言葉を、くりかえした。
金香蘭としての履歴書は、特務機関が作った。
章子は、それを持って、イギリス租界の東南公司を訪ねた。
東南公司は、小さなビルの一階と二階を占領していた。入口で、新聞を見て来たというと、二階に通された。
薄暗い廊下に、粗末な椅子《いす》が並べられていて、二人の若い娘が、腰を下ろしていた。彼女たちも、新聞を見て、応募して来たらしかった。
章子は、並んで腰を下ろすと、二人の娘を観察した。冷静に見て、彼女たちより、自分の方が、男をひきつける顔立ちをしていると思った。章子はいくらか安心した。
試験は、なかなか始まらなかった。
廊下を、社員らしい男たちが、行ったり来たりしている。その中に、時おり、ひどく眼つきの鋭い男が混じっていることに、章子は気がついた。
(石塚中佐のいっていた、宗の用心棒に違いない)
と、思った。胸のあたりが、ふくらんでいるのは、拳銃《けんじゆう》を忍ばせているからだろうか。
一時間近く待たされてから、やっと、試験が始まった。
最初に、タイプを、叩《たた》かされた。これは、まあまあであった。
その後で、一人一人社長室に呼ばれた。面接というわけらしい。
章子は、一番最後に呼ばれた。
重いドアを開けて、その部屋に入る時、章子は、胸の動悸《どうき》が早くなるのを感じた。
壁に、青天白日旗をかかげた部屋に、三人の男が、腰を下ろしていた。
中央に坐《すわ》っている男の顔が、石塚中佐に見せられた写真のそれだった。写真より、小柄な感じだった。この男が、消さなければならない宗士元なのだ。
両側の二人は、宗より若そうだった。眼が鋭かった。面接の審査のために、いるのではなく、万一の用心に、宗を守っているのだろう。
章子は、身体が、こわばるのを感じた。日本人であることを見破られたら、この場で、殺されてしまうだろう。
「そう、堅くならずに」
宗士元が、笑いながら、章子に、いった。
章子は、ぎこちなく微笑した。
「貴女《あなた》の履歴書を拝見しました」
と、宗は、言葉を続けた。
「両親を、日本軍に殺されたようですね」
「ええ」
章子は、うなずいた。なるべく、ひかえ目に行動しようと、決めていた。オーバーに、日本軍に対する憎しみをあらわしたりしたら、かえって、怪しまれると、思ったからである。
「すると、今は、身寄りがないというわけですね」
「ええ」
章子は、眼をまばたいて見せた。
「ですから、ぜひ、ここで、働かせて頂きたいのですけど――」
「なるほど――」
宗は、うなずいてから、急に、違った眼の色になって、章子の身体を眺め回した。それは、男の眼であった。
章子は、「宗は女に甘いから――」といった石塚中佐の言葉を思い出した。
「貴女に決めよう」
と、急に、宗がいった。
「明日から、来て貰《もら》いますよ」
七
最初の一歩は、上手《うま》くいったようだった。
章子は、ほっとして、東南公司を出た。が、租界の境界に向って歩いているうちに、自分が、誰かに、つけられているのを知った。
宗は、男の眼で、章子の身体を眺め回したが、油断はしていなかったのだ。部下に尾行させて、日本軍のスパイでないかどうかを、確かめさせる気なのだろう。
章子は、あらかじめ借りておいた中国人の家に帰った。
夕食をすませて、外に出ると、また、自分が監視されているのを感じた。この調子では、石塚中佐への連絡は、むずかしそうだった。石塚中佐が、任務を果すまで近づくなといったのは、こうした、宗の油断のなさを、見越したからなのだろう。
章子は、監視の眼には気がつかぬふりをしてぶらぶら歩いた。
夜に入っても暑い日だった。河の近くには、夕涼みの人が、集まっていた。この国で、血みどろの戦争が行われているとは思われないような、平和な光景だった。
ふいに、近くで、喚声が上がった。鋭い銃声が一発聞こえた。
夕涼みをしていた人たちが、音のした方向に向って走った。章子も、走ってみた。
高い樹のそばで、二人の日本兵が、若い中国人を、小突き回していた。中国人の右手から、血が流れていた。さっきの銃声で、この中国人が撃たれたものらしい。
大勢の中国人は、遠巻きにして、この光景を眺めていた。
その中国人が、何をしたのか、章子には、わからなかった。とにかく、日本兵を怒らせるようなことをしたのだろう。
日本兵が、中国人の腰のあたりを蹴《け》った。中国人は、低い呻《うめ》き声をあげて、路上に、かがみ込んでしまった。
人垣を作った中国人たちは、ただ、黙って、それを見ていた。暗い、憎しみのこもった眼だった。
章子だけが、その重苦しい空気の中で、違った眼で、眺めていた。
章子は、まだ、自分は監視されているのだろうかと、考えた。恐らく、監視は、続けられているに違いない。とすれば、この小さな事件を、利用した方が良さそうだと、考えた。
章子は、落ちていた小さな石を拾った。人垣の後ろからそれを投げた。
石は、上手く、日本兵の一人に命中した。背中に、石をぶっつけられた日本兵は、釣り上がった眼で石の飛んで来た方向を睨《にら》んだ。
「誰だッ」
と、彼は、甲高《かんだか》い声で、怒鳴《どな》った。彼が、銃を構えると、人垣の一角が崩れた。
章子は、崩れた人波の中に、まぎれ込んだ。
八
翌日、東南公司に出社すると、すぐ、社長室に呼ばれた。
「今日から、この部屋で、仕事をして貰《もら》いますよ」
と、宗士元は、にこやかに笑いながら、いった。
「貴女《あなた》の席は、そこです」
宗は、そばにある机を指さして、いった。そこに、タイプライターが置いてあった。
「貴女は、なかなか勇敢な女性らしい」
宗が、間を置いてから、いった。昨夜のことが、部下の口から、宗の耳に届いたに違いなかった。
(どうやら、昨夜の芝居は、成功したらしい)
と、思ったが、章子は、もちろん、顔色には出さずに、
「何のことでしょうか?」
と、しらばくれて、きいた。
「私は、臆病《おくびよう》な女ですけど――」
「うむ。その謙虚さも、なかなかよろしい。感心なものだ」
宗は、ひどく機嫌よく、いった。その言葉で、ますます、昨夜の芝居が、彼の耳に届いていることを確信した。
宗という男は、用心深いと同時に、冒険好きの面も持っているようだった。その性格に、昨夜の小さな事件が、ぴったり来たのだろう。銃を持った日本兵に、石をぶつけるというような勇ましいことが、この男は好きなのだ。
その日、帰り道で、尾行されているという感じがなくなっていた。宗は、章子を信用したらしい。
(上手《うま》くいった)
と、ほっとしたが、どうしたら、宗を消すことができるか、そのことになると、章子には、まだ、これといった考えが浮ばなかった。
宗は、章子を信用したらしい。が、社長室で、宗が、章子と二人だけでいることは、なかった。必ず、眼つきの鋭い男が、彼のそばにいた。
一番可能性があると思えるのは、毒を呑《の》ませることだった。石塚中佐は、章子に、もしチャンスがあれば使えと、青酸カリを渡していた。もちろん、これは、事がバレた場合には、自決用に使えという含みも、あるらしかった。
だが、どうやって、毒をもったらいいのか、章子には、わからなかった。
宗は、その点で、非常に用心深かった。一日に三度、必ず茶を飲む習慣だったが、決して他人には、やらせなかった。自分で、茶をいれて飲むのだ。
食事にも、ひどく気を使っている。食事や茶の中へ、毒を入れることは、不可能に思えた。
九
章子は、毎日、まじめに、東南公司に通った。
タイプの仕事は、あまり忙しくなかった。これは、東南公司という会社が、表向きの看板である証拠だろう。
毎朝、入口のところで、守衛に身体検査をされるので、ピストルも持ち込むわけにもいかなかった。宗を射殺することも不可能だった。
一週間目に、ちょっと、妙なことがあった。
章子が、出社して、タイプに向っていると、部屋に入って来た宗が、
「今日は、もう帰ってよろしい」
と、いうのである。一瞬、身元がバレたのだろうかと、狼狽《ろうばい》したが、そうではなかった。宗の顔には、いつもの微笑が浮んでいた。何か、社長室で会議が行われるようだった。
章子が部屋を出るのと、入れ違いに、二、三人の男たちが、社長室に入っていった。その中に、見知らぬ顔も混じっていた。
(重慶から来た連絡員だろうか)
と、章子が思ったのは、その男の顔に疲労のかげが見えたからである。
章子は、社長室で何が行われるのか、それを知りたいと思った。それを知るのも、自分に与えられた任務の一つと思ったからである。
だが、社長室のドアの前には、例の用心棒が、がっしりと構えていて、耳を寄せるような、隙間《すきま》はなかった。
章子は、あきらめて、東南公司を出た。
その会議で、何があったのか、章子がそれを知ったのは、夜になってからである。
その夜遅く、日本人の経営するダンスホール「あけぼの」が、投げ込まれた爆弾によって、爆破された。日本人多数が、その爆発で死んだらしい。
(その爆破計画が、社長室で立てられたに違いない)
と、章子は気づいたが、どうしようもなかった。
石塚中佐は、やきもきしているに違いないと思った。途中での連絡は無用といったのは、石塚中佐の方だがそれにしても切歯しているのは、眼に見えるようだった。
章子も、それを思うと、深い焦りを感じた。宗の信用を得ることは、どうやらできたらしいが、それからは、一歩も前進していないのだ。
章子が、東南公司で使っている机の引出しには、小さな鋏《はさみ》が入っている。紙を切るのに使っているものだが、あれで、ひと思いに、宗を刺してやろうかとも考えてみた。使える武器といえば、毒薬の他には、あの小さな鋏ぐらいしか考えられないのだ。
しかし、手の平に入るぐらいの小さな鋏では、宗を殺すことは、難しそうだった。脂肪太りのした厚い宗の皮膚には、鋏が刺さりそうになかった。用心深い宗のことだから、防弾チョッキぐらいは、いつも身につけていると思わなければならなかった。第一、鋏で殺そうとしても、宗に近づく前に、用心棒に射殺されてしまうだろう。
十
二週間が過ぎた。
その間に、二回、日本租界で爆発さわぎがあった。
章子は、あせった。一刻も早く、宗を消さなければならないと思うのだが、その方法が、いぜんとして、見つからないのだ。
十六日目のことである。
章子が、与えられた書類をタイプしていると、ドアが開いて、一人の女が入って来た。三十歳くらいの女で、華やかな柄の中国服を着ていた。
その女は、無遠慮に、ずかずかと部屋に入ってくると、宗の首に手を回して、抱きついた。宗も、にやにや笑いながら、女を抱きあげている。部屋にいた用心棒の男も、苦笑して、見守っていた。
章子は、その女が、宗の夫人である宗九齢かと思ったが、違うらしかった。中国の夫人というのは、意外に、つつましい性格の女が多いからである。
恐らく、第二夫人か、第三夫人だろうと、思った。あるいは単なる愛人かも知れない。
章子は、タイプを打ちながら、二人の様子を盗み見ていた。
女は、宗の首にかじりついたまま、小声で何かいっている。宗がにやにや笑い、女は、時々、甲高《かんだか》い嬌声《きようせい》をあげた。
十分ばかりして、女は帰って行った。女の顔は、赧《あか》く火照《ほて》っていた。章子は、じっと、その女を見送ったが、彼女が、章子のそばを通りすぎた時、甘い香水の匂《にお》いがした。そして、章子は、女の白いうなじに、赤いアザのような口づけの痕《あと》を見た。
その女は、二日後も、社長室にやって来た。その時も、首すじに、赤い口づけの痕をつけて、帰って行った。
宗は、女のうなじに、接吻《せつぷん》するのが、好きらしかった。愛撫《あいぶ》の時のくせなのだろう。章子は、タイプを打っている時、宗が背後に立って、じっと、見下ろしていたことのあったのを思い出した。
あの時も、宗は、章子のうなじを見つめていたのかも知れない。
章子は、そのことから、一つの計画を、思いついた。
十一
その日、章子は、仕事を終って東南公司を出ると、フランス租界に入って、香水を買った。あの女がつけていたのと同じ甘い感じのものであった。
次の日には、その香水をつけて、出勤した。初めのうち、宗士元は、気づいてくれなかったが、昼頃になって、
「おやッ」
と、眼を細めた。
「今日は、香水をつけて来ているんだね?」
「ええ」
と、章子は、微笑して見せた。
「社長さんは、この香水が、お好きなんでしょう?」
「なぜ、そう思うのかね?」
「この間、ここに見えた女の方が、同じ香水をつけていましたもの。だから、私も、つけてみたんです」
章子は、媚《こび》をこめた眼で、宗を見た。彼女の態度と言葉は、宗の自尊心を満足させたようだった。
「可愛《かわい》いことをいう人だな」
宗は、章子の耳元で、ささやくように、いった。
「私のために、その香水をつけたと受け取っていいのかね?」
「――――」
章子は、黙って、うなずいて見せた。宗の眼が細くなった。抗日に燃える眼ではなくて、女を見る男の眼になっていた。
ふいに宗は、部厚い唇を、章子の首すじに押しつけた。ひどく生温かい感触だった。
章子は、身体をかたくして、じっと動かずにいた。二人の用心棒に眼をやると、彼らは、やれやれというように、首をすくめていた。宗の女好きには、手を焼くといった顔つきだった。恐らく、宗士元の女好きは、有名なのだろう。
宗の唇が離れた。
「可愛らしい娘だ」
宗の小さく呟《つぶや》く声を、章子は聞いた。宗が、ゆっくりと、自分の机に戻ったあと、章子は、そっと、彼の唇がふれたあたりに、手をやった。
うっすらと、血がにじんでいるようだった。きっと、あの女と同じように、赤く染まっているに違いなかった。
次の日も、宗は、タイプを打っている章子の首すじに、そっと唇をふれてきた。用心棒は、昨日と同じように、首をすくめて、それを見ていた。
章子は、あせる気持を押えて、その愛の行為が、日常のことになるのを待った。習慣的な行為になれば、自然に、警戒が薄れると、思ったからである。
四日、五日とたつうちに、章子の願う方向に、事態は動いていった。
毎日一度、宗は、唇を、章子の首すじにふれるようになった。それが、挨拶《あいさつ》がわりみたいになってきた。
章子は、もういいだろうと思った。
その日、章子は、出勤する時に、青酸液を、いつも、宗が唇をふれるあたりに、うすく塗った。それを見破られないために、香水を、いつもより強くつけた。
今日も、宗は、部厚い唇を、章子の首すじに押しつけてくるだろう。そうすれば、彼の口に、青酸が流れ込むのだ。間違いなく、彼は死ぬだろう。
口紅も、いつもより濃く塗った。「死化粧」という言葉が、ふと、章子の頭をかすめた。もちろん、死ぬのは、化粧した章子ではなくて、宗士元だが。
さすがに、東南公司に入る時には、身体全体が、こわばっているのを感じた。任務なのだとは、割り切ってはいても、一人の人間を殺すことに、完全に平静では、いられなかった。若い娘としては、当然の感情であろう。ただ、顔色の変っていることから、宗に疑われることが、怖かった。
社長室に入ったが、宗士元の姿は見えなかった。
章子は、自分の机に腰を下ろし、タイプにかけてある蔽《おお》いを取った。やがて、宗が、用心棒に守られて、部屋に入ってくる。そして、いつものように、うなじのあたりに、唇を押しつけてくるだろう。
それで、何もかも終るのだ。
一緒の用心棒も、宗が、突然倒れたことに、最初のうちは、原因がわからずに、ただ、うろたえるだろう。あわてて医者を呼びに行っている間に姿を消してしまえばいいのだ。それで、与えられた任務は終る。
廊下に、足音が聞こえた。宗が来たらしい。
章子は、身体をかたくして、ドアが開くのを待った。
ドアが開いた。が、入って来たのは、宗士元ではなかった。宗と、いつも一緒にいる用心棒の一人だった。名前は、確か、黄克敏《こうこくびん》といったはずである。痩《や》せて、背の高い男だった。
「社長は?」
と、章子は、きいた。黄は、椅子《いす》に腰を下ろして、長い足を投げ出した。
「社長は、急用で、おくれてくる」
「何時頃、いらっしゃるんですか?」
「さあ、わからんね」
黄は、ぶっきら棒に、いってから、光る眼で、章子を見た。
「社長の顔を見ないと、さびしいかね?」
黄は、にやにや笑った。この男は、教養のない田舎者らしいと、章子は思った。腕っぷしの強さだけを見込まれて、宗に雇われているのだろう。
章子が、だまっていると、黄は、ゆらりと立ち上がって、のそのそと、章子のそばへ近づいてきた。
黄は、章子の背後に突っ立って、背中ごしに、彼女の手元を、のぞき込んだ。
「タイプは、むずかしいかね?」
いかにも、田舎者らしい質問だと思った。
「ええ」
と、章子は、短く、うなずいた。黄には、他に、きくこともないらしい。だまってしまった。
章子は、いらいらしてきた。黄のような男の相手はしていられないのだ。
「用がないんなら、離れていてくれない?」
章子は、かたい声で、いった。
「暑っくるしくて、仕事ができないから」
その、怒ったようないい方がいけなかったのかも知れない。かえって、黄の気持を刺戟《しげき》したようだった。
ふいに、黄は、章子の首すじに、唇を押しつけてきた。宗士元のまねをしたらしいが、章子は、思わず、「あッ」と、叫んでしまった。
「いけないッ」
と、身体をよじったが、遅かった。
「うッ」
と、黄は、異様な呻《うめ》き声をあげた。青酸を呑《の》み込んでしまったのだ。
黄は、苦しげに、のどをかきむしりながら、よろよろと、窓のところまで歩いて行った。
黄のかみしめた口元から、血が流れた。彼はふところから拳銃《けんじゆう》を取り出して、構えようとした。が、その前に、身体が、ぐらぐらとゆれ、頭から、床に転がってしまった。
手から落ちた拳銃が、にぶい音を立てた。
十二
しばらくの間、章子は、呆然《ぼうぜん》として、その場に立ちつくしていた。
床に転がった黄は、そのまま動かなかった。死んだらしい。
章子にとっては、思わぬ事態の発展だった。死ぬのは、宗でなければならなかったのだ。その宗士元が死なずに、部下の黄克敏が死んでしまった。
今、宗が入って来たら、どうなるのか。
章子の耳に、近づいてくる足音が聞こえた。
(宗だろうか?)
章子は、青い顔で、閉まっているドアを見た。
今からでは、黄の死体を隠す時間もない。それに、時間があったところで、隠す場所がなかった。
足音は、ますます近づいてくる。するような足音に章子は、聞きおぼえがあった。間違いなく宗士元だ。
章子は、せわしく頭を働かせた。最初に考えたのは、宗士元を消さなければならないという、任務のことだった。黄が死んだことに、あわてふためいている時ではないのだ。宗を殺さなければならないのだ。
青酸はもう使えなかった。自分の部下が死んでいる部屋でいくら宗士元が女好きでも、女に接吻《せつぷん》する気にはならないだろう。
章子は、床に落ちている拳銃に眼をやった。武器に使えるのは、黄が落した拳銃しかない。
章子は、屈《かが》みこむと、その拳銃を拾い上げて、タイプライターの後ろに隠した。
その時、部屋のドアが開いた。
入って来たのは、やはり、宗士元だった。宗は、まず、章子を見て、微笑したが、その視線が、床に倒れている黄克敏に向けられると、
「うッ」
という、低い声を出した。
「一体、どうしたんだ」
宗は、とがめるような眼で、章子を見つめた。
「一体、何があったんだ?」
「私にも、わかりません」
章子は、小さな声でいった。彼女の眼は、タイプライターの後ろに隠した拳銃に向けられていた。
章子は、天津《てんしん》にいる時、将校たちから拳銃を借りて、何度か撃ってみたことがある。だから拳銃の撃ち方は知っていた。が、今、撃って、宗を殺せるかどうか、自信が持てなかった。
最初の一発を外したら、逆に、自分が殺されてしまうだろう。
下手には、撃てなかった。撃ったら、必ず殺す自信を持ってからでなければならない。
「わからないというのは、どういうことなんだ?」
宗は、相変らず、怒ったような声で、きいた。
「くわしく話してくれ」
「黄さんは、部屋に入ってくるなり、急に、苦しみだして、倒れてしまったんです。だから、何がどうなったのか、私にも、わからないんです」
「急に苦しみだして、倒れたというのかね?」
宗は、首をひねってから、死体の傍に屈み込んだ。
「青酸だな」
宗は、死体の様子を見るとすぐ、低い声でいった。
確かに、死んだ黄の死顔には、青酸死特有の反応が見えていた。
「黄は、部屋に入って来てから、急に苦しみ出したと、いったね?」
宗は、屈んだまま章子を見た。その顔に、疑惑の色が浮んでいた。
「ええ」
と、うなずきながら、章子は、タイプライターのかげで、ゆっくりと、手を動かしていた。
その手が、拳銃にふれた。
「おかしいじゃないか」
と、宗が、いった。
「青酸は、効き目の早い毒薬だ。外で呑《の》まされたものなら、ここまで歩いて来られるはずがない」
「――――」
「そう思わないかね?」
「私には、わかりません」
「本当に、わからないのか?」
「ええ」
「黄は用心深い男だ。黄のような男が、だまされて、青酸を呑まされるのも、おかしい話だ」
「――――」
「黄の欠点は、女にだらしないことだった。だまされて、呑まされたとすれば、相手は女ということだが――」
宗は、じっと、章子を見た。
「まさか、君が、黄を殺したんじゃあるまいね?」
「私が――」
章子は、とんでもないというように、大きく首を横にふって見せた。
「もし私が、毒を呑ませたんなら、この部屋に、それに使ったコップか何かがあるはずじゃありませんか。この部屋には、そんなものはどこにもありませんわ」
「そういえば、そうだが――」
宗の言葉が、いくらか、曖昧《あいまい》なものになった。首すじに青酸を塗ったことには、宗も気づかないようだった。
もし、黄の死が、曖昧なままに、始末がついてしまったら、宗を殺すチャンスは、また、めぐってくるかも知れない。章子が、そう考えた時、宗は、手を死体の服の中にさし入れた。
「拳銃が、なくなっている」
宗は、大きな声で、いった。
「君の話は、嘘《うそ》だな」
ふりかえって、宗は、きびしい声で、いった。
「黄という男は、拳銃を、一時も、身から離せない男だった。その男が、拳銃のなくなっているのに気づかずにのこのこと帰ってくるはずがないのだ。拳銃は、どこにあるんだ?」
「ここにあるわ」
章子は、拳銃を構えて、いった。
「私が、黄を殺して、拳銃を取ったのよ。貴方《あなた》にも、死んで貰うわ」
「私を殺す――?」
宗は、驚いた様子も見せずに、いった。
「君が拳銃を撃ったら、その音で、私の部下が駈《か》けつけてくるよ。そうしたら、君も死ぬことになるのだ」
十三
「わかってるわ」
と、章子は、いった。黄が死んだ時に、すでに、生きてかえれる道は、なくなっていたのかも知れないのだ。
章子は、拳銃を構えたまま、用心深く、宗の机のそばまで、動いた。その机に、電話があった。
章子は、左手で、受話器を外し、ダイヤルを回した。なつかしい日本語が、飛び込んで来た。
「私です」
と、章子は、日本語で、いった。
「今、赤いハトが死にます」
「今――?」
石塚中佐がきき返してきた。章子は、
「今です」
と、いって、電話を切った。
「日本の犬だったのか」
宗は、吐き出すように、いった。宗の手が、素早く動いた。
章子は、引金を引いた。凄《すさ》まじい爆発音がした。拳銃を取り出そうとした宗は、肩を撃たれて、壁ぎわまで、はね飛ばされた。
章子は、引金を引き続けた。二発目は宗の顔に命中した。血が、はね飛び、宗の身体が、床に転がった。
廊下に、入り乱れた足音が、聞こえた。ひどくあわてた足音だった。
ドアが、音を立てて、開いた。覚悟した章子は、その方を見ようとしなかった。彼女は、床に転がった宗士元だけを見て、最後の弾丸を、血まみれの彼の身体に、撃ち込んだ。
新しい拳銃の発射音が、ドアのところでした。
章子は、胸に突き刺すような激痛を感じて、床に倒れた。
「赤いハトが――」
章子は、もうろうとする意識の中で、小さく呟《つぶや》いた。
「赤いハトが――」
二発目の弾丸が、章子の背中に撃ち込まれ、「死んだ」という言葉は、声にならなかった。
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愛の詩集
一
私が、会社の用事で青森へ行ったのは、五月の末であった。
市内で用事をすませ、東京へ戻る時になって、十和田湖へ寄ってみる気になった。二日ばかり、日時の余裕があったせいもあるし、途中の八甲田で、今でも雪が見られると、聞いたからである。
私には、昔から、軽はずみなところがある。五月に雪が見られたところで、それほど珍しくもないのに、その時の私には、とてつもなく素晴らしいことのように、思えてしまったのである。
青森駅前の広場の隅に、十和田湖行のバスの待合所があった。
駅の待合室に似た建物で、私が行った時、まだ、バスは来ていなかった。私は、中に入り、肩にかけていたバッグを、ベンチに置いた。
奥が、切符売場になっている。
「十和田へ行きたいんだが」
と、いうと、
「湖を見物なさるんでしたら、遊覧船の切符も、一緒に買って下さい」
と、いわれた。私は、いわれるままに、二枚の切符を買った。
「バスの出るのは、何時ですか」
「二時半です」
私は、腕時計に眼をやった。まだ、三十分近い時間があった。
私は、その間に、見残した市内を歩いて来ようと思った。バッグの中から、カメラだけを取り出して、待合所を出た。
青森は、陸奥湾《むつわん》にそって、横に細長くのびた町である。
私は、港が見たくなった。待合所の裏に廻《まわ》ると、鉄道の線路の向うに、函館行の連絡船の煙突が見えた。岸壁に近づくにつれて、白くぬられた船体も見えてきた。近くにあるものが、小さいせいか、八千何百トンかの連絡船は、私の眼には、ひどく巨大な船に見えた。
倉庫の並ぶ岸壁では、四、五人の旅行者らしい人たちが、カメラを連絡船に向けて、さかんにシャッターを押していた。
私も、カメラをかまえて、何枚か、写真をとったが、そうしているうちに、五、六メートルほど離れた場所に立っている若い女の姿が、妙に気になってきた。
素晴らしい美人だったからではない。顔立ちも、スタイルも、普通の女だった。私が気になったのは、その女の様子だった。
小さなスーツケースを提げているところをみると、旅行者らしかった。が、他の人たちが、カメラで、さかんに連絡船をうつしているのに、彼女だけは、カメラも持たず、ぼんやりと、海に視線を向けていたからである。
「なぜ、旅に出るの?」
「苦しいからさ」
というのは、太宰治の小説の中に出てくるセリフだが、多くの旅行者は、楽しむために旅に出るのである。だが、その女の顔には、それがなかった。まるで、太宰治の小説の中の主人公のように、暗い眼で、海を見つめていた。
(まさか、海へ飛び込む気でもあるまい)
と、私が思った時、彼女は、急に、眼を海からそらせて、歩き出した。
二
駅前の喫茶店でコーヒーをのんでから、私は、待合所に戻った。
十和田湖行のバスは、すでに、待合所の前に止っていて、何人かの客が、車の中で出発を待っていた。
私も、待合所に置いたバッグをとって、バスに乗り込んだ。定員の三分の二ぐらいの乗客だった。
私は、一番後ろの席に腰を下ろした。
東京から来たらしい旅行客に混じって、東北|訛《なま》りで、しゃべっている中年の女のグループもいた。地元の人が、十和田湖に、わざわざバスで行くのだろうかと、ちょっと不思議な気がしたが、話を聞いていると、彼女たちは十和田湖へ行くのではなく、途中の「酸《す》ケ湯」というところで、降りるらしかった。
酸ケ湯には、温泉があり、そこの宿屋には、自炊の設備があるようだった。商店のカミさん連中か、それとも、農家の人たちだろうか。とにかく、楽しげであった。
定刻の二時半になると、待合所のベルが鳴った。運転手が、車掌に声をかけてから、アクセルをふんだ。
車は、ちょっと動いてから、また止ってしまった。運転手が、窓から首を突き出して、何かいっている。どうやら、間際になって、新しい客が来たらしかった。
車掌が、ドアをあけた。若い女が、乗って来た。
あの女だった。
岸壁で、ぼんやり海を眺めていた女だった。
入口のところで、女は、立ち止まって、車内を見廻《みまわ》した。前の方は、空席がない。女は、ゆっくり、私のそばまで来て、私の前の席に腰を下ろした。
女の細いうなじが、私の前にきた。私は、何となく眼をそらせて、窓の外に視線を向けた。
バスは、また動き出した。
二十歳くらいの車掌は、マイクを取り上げると、
「今日は、ようこそ、十和田湖行のバスに、ご乗車下さいました。十和田へ着きますまでの間、私、神戸ユミ子が、みなさまのご案内をさせて頂きます――」
と、始めた。その声で、私は、初めて、このバスが、ガイドつきであることに、気づいたのである。
私は、あまり、バスガイドというのが好きではない。発見する喜びを、奪われてしまうからだ。山の間を走っていて、急に、眼の前が開けると、はっとする喜びも受けるのだが、あと何分で、視界が開けると予告されていたら、その喜びは、半分にへってしまう。
しかし、若いガイドさんは、私の心配にはかまわずに、これからバスが通る道には、どんなに素晴らしい名所があるかを、頬《ほお》を赤くそめながら、しゃべり続けた。
私は、苦笑するより仕方がなかった。バスに乗ってしまえば、運転手と、車掌のいうとおりになるより仕方がないのだ。
乗客のほとんどは、バスガイドの説明に、熱心に耳をかたむけているようだった。だが、私の他に、一人だけ、彼女の説明を聞いていない乗客がいた。
あの女だった。
彼女は、じっと、遠くに見える八甲田の山脈を見つめていた。
三
青森市内を出ると、道の両側には、田植えの終った水田が広がり始めた。道路は、意外によく整備されていた。
三十分ほど走り続けると、急に登り道になった。水田が見えなくなり、道路の両側は、深い雑木林になった。
バスは、登り続けた。山は、ますます深くなった。どうやら、八甲田に近づいたらしい。
「わあッ」
と、前の方の席に、小さな歓声があがった。
窓の下に、深い根雪が、まだ残っているのが見えたからである。地元のカミさん連中は、さすがに、見あきているのか、窓の外を見ようとしなかった。
運転手が、気をきかして(あるいは、止ることに最初から決っていたのかも知れないが)、車を止めた。
「ここで、五分ほど、停車いたします」
車掌が、にこにこ笑いながらいうと、東京から来た乗客は、カメラをぶら下げて、ぞろぞろと、バスから降りて行った。カメラに、五月の雪をおさめるつもりらしい。
私も、カメラを持って、立ち上がった。が、あの女は、ちらっと、窓の外に眼をやっただけで、動こうとしなかった。
私は、もう一度、腰を下ろそうとしてから、思い直して、バスの外に出た。女に気を取られていることに、自分で、何となく反発を感じたからである。
ゆるい傾斜になっている山肌に、まとまった雪があった。雪の表面は、うすく泥をかぶっていて、お世辞にも、美しいとは、いえなかった。だが、手を触れてみると、それは、ひどく冷たく、まぎれもなく(当り前の話だが)雪であった。
私は、雪で小さな団子をこさえて、それを手の上でころがしながら、バスに眼を向けた。
あの女は、相変らず、ひどく暗い横顔を見せていた。
(一体、何を考えているのだろうか?)
私は、手が冷たくなってくるのを忘れて、そんなことを考えた。
五分して、バスは、また山間《やまあい》の道を走り始めた。
三時半頃、酸ケ湯温泉に着いた。大きな木造の建物が二軒並んでいた。それだけであった。旅館という感じではなく、保養所の感じだった。
カミさん連中は、いそいそとバスから降りて、その建物の中へ入って行った。
乗客の少くなったバスは、軽い車体を持てあますようにふるわせながら、十和田湖へ向って急いだ。
道路は、前よりもせまくなった。猿倉、蔦《つた》と、小さな温泉をすぎると、道路の右側に、流れの速い川が見えてきた。
「ここから先を、奥入瀬《おいらせ》といいます」
と、ガイド嬢がいった。この急流は、十和田湖から流れてきているのだという。これから、バスが、流れにそって登って行けば、十和田湖へ着くということである。
流れは、多くの滝を作っていた。眼を楽しませてくれる大きく美しい滝もあったが、中には、お世辞にも滝と呼べないような、小さな、ちょろちょろしたものもあったが、驚いたことに、それにも、立派な名前がついていた。
「あれは、有名な、血すじの滝でございます」
と、ガイド嬢がいった時には、車内に、小さな笑い声が起きた。確かに、血すじとしかいいようのない、細い水の流れだった。車内に生れた笑いは、いい得て妙だという感心と、そんなものまで、名所にしてしまう商魂のたくましさに対する苦笑が、入りまじっていたようである。
あの女は、その笑いにも、加わらなかった。
四
「間もなく、湖が見えてまいります」
ガイド嬢の声に、私は、眼を、窓の外に向けた。
音を立てて流れている急流と、頭の上におおいかぶさるように、枝をはっていた緑が、急に消えたかと思うと、眼の前に、いきなり、巨大な湖があらわれた。
「あッ」
と、乗客の一人が、小さな叫び声をあげたほどだった。
私は、この湖を最初に発見した人のことを考えた。彼は、どんなに、感動しただろうか。八甲田の山を登ってきて、こんな高いところに、大きな湖があろうとは、夢にも思わなかったろう。何の期待もなしに、登ってきて、いきなり、静かで、巨大な水面を見つけた時の驚きと感動。私は、それを考え、予告されて見なければならない自分を、悲しんだ。
その悲しみは、湖岸で、バスが止ったときに、余計に、深くなった。
待ちかまえていた遊覧船に、有無をいわさずに、押しこまれてしまったからである。三十トンばかりの船は、私たちが乗りこむやいなや、岸をはなれた。
湖は、静まりかえっていた。私は、その静けさに、満足したが、驚いたことに、この船にも、ガイド嬢がいた。いや、遊覧船なのだから、ガイドがつくのが当り前かも知れなかったが、ユニフォーム姿の若い女が、運転室からあらわれて、マイクをかまえた時には、私は、いささか、うんざりした。
なお悪いことに、船室がせまく、マイクから出た声は、がんがんひびく。しばらくは、私も、がまんしていたが、その中に、ガイド嬢は、サービスのつもりか、歌を、うたい始めた。
佐藤春夫作詩という、「湖畔の乙女」という歌である。
天くだりしか みなわこりしか
あわれ いみじき
湖畔の乙女
ふたりむかいて 何をか語る
湖畔の乙女というのは、高村光太郎が、十和田湖の岸に作った記念像のことである。上手《うま》い詩らしいが、せまい船室で、ふしをつけて歌われると、私は、頭が痛くなった。
私は、ガイド嬢には悪かったが、船室から甲板に出た。
甲板といっても、四畳半くらいのせまいもので、そこに、長椅子《ながいす》が一つだけ置いてあった。
その長椅子に、あの女が、ひっそりと腰を下ろしていた。甲板に出ると、さすがに、風が冷たかった。そのせいか、彼女の顔は、白茶けて見えた。
私は、椅子に腰を下ろして、煙草に火をつけた。が、自分が、妙に落ち着きを失っているのを感じた。原因は、わかっていた。女のせいだった。
「失礼ですが――」
と、私は女に、声をかけた。かけずにはいられないようなものを、私は感じたのだ。
「東京から、来られたんですか?」
「――――」
女は、黙って、私を見た。感情のこもらない眼で、私を見てから、
「ええ」
と、いった。
「僕も東京からです」
「――――」
「十和田は、初めてですか?」
「ええ」
「寒くありませんか?」
「いいえ」
女は、短い言葉しか、口に出さなかった。私は、言葉を見失って、黙ってしまった。妙に、重苦しい空気が、生れた感じだった。
女は、私から眼をそらせると、水面に視線を向けた。それが、私に、青森港で、初めて彼女を見た時のことを、思い出させた。
「貴女《あなた》を、青森の港で、最初に、お見かけしました」
と、私は、いった。
「岸壁で、海ばかり見ているんで、飛びこむんじゃないかと思いましたよ」
私は、もちろん、冗談めかしていったのだが、ふり向いた女の顔に、ろうばいの色が走るのを、私は見た。
女は、それをかくすように、笑って見せた。彼女が、初めて見せた微笑だった。
「それで、今度は、この湖に、飛びこむんじゃないかと、お思いになりましたのね?」
「別に、そうは思いませんが」
「飛びこんだら、どうなるのかしら?」
女は、ひとり言のように、いった。
「冷たいですよ」
私は、冗談にして、いった。
「そうでしょうね」
「死ぬのは、つまりませんよ」
「――――」
「東京では、何をしていらっしゃるんですか?」
私は、「死」から、遠ざかろうとして、話題をかえた。
「別に――」
「別に――というのは?」
私は、きいた。が、くどくききすぎたようであった。彼女は、黙ってしまった。
五
船は、湖を半周して、反対側の桟橋についた。休屋《やすみや》という場所である。
船から降りた時には、夕闇《ゆうやみ》が、ようやく広がり始めていた。
桟橋の近くには、土産物店や、旅館が並んでいた。
乗客のほとんどは、旅館が予約してあったとみえて、船から降りると、迎えに来ていた番頭と一緒に、散って行った。
私は、取り残された。あの女も、私と同じように、予約してなかったとみえて、ぽつんと、立っていた。
(旅館が、どこも満員だとすると、弱ったことになるな)
と、思った時、半天姿の若い男が、近づいてきた。
「旅館は、お決りですか?」
「いや」
「じゃあ、私のところへ、お泊りになって下さい」
「泊ってもいいが、高いのは困る」
「せいぜい勉強させて頂きます」
「サービス料こみで、千五百円で泊めてくれるかね」
「千五百円ですか――」
男は、ちょっと思案してから、
「いいでしょう」
と、いった。
「あの方は、お連れさんですか?」
私は、女に眼を向けた。彼女は、黙っていた。
「一緒の船だったが、連れというわけじゃない」
私が、いうと、男は、今度は、彼女に声をかけた。
「お嬢さんも、私どもへ、泊って頂けませんか?」
「いいわ」
と、彼女はいった。私は、ちょっと、意外な気がした。私と一緒に泊るのを、断ると思っていたからだ。
男は、私と女を、離れたところに止めてあった乗用車に案内した。
「これに乗って下さい」
「これに?」
私は、驚いた。
「旅館は、ここから、遠いのかね?」
「ちょっと、はなれています」
と、男は、悪びれずに、いった。女は、かまわずに車に乗った。仕方なしに、私も、座席に腰を下ろした。
男は、運転席に腰を下ろすと、乱暴にアクセルをふんだ。私たちを乗せた車は、どんどん湖の岸から、はなれて行く。湖岸の旅館も土産物店も、たちまち見えなくなった。
「本当に、ちょっとなのかね?」
私は、運転している男の背中に、声をかけた。
「すぐですよ」
と、男は、ハンドルを持ったまま、いった。だが、一向に、車の止る気配はない。
雑木林の中の一本道を、十分近く走ってから、車は、やっと止った。
「着きました」
と、男が、いった。
雑木林の中に、ぽつんと、真新しい旅館が建っていた。
「おかみさーん」
と、男は、運転席から首をつき出して、大声で、どなった。
「お客さんを、お連れしましたよ」
私は、やれやれと思いながら、車から降りた。
女は、別に驚いた様子もなく、こぢんまりした旅館を眺めていた。
六
旅館は、静かというより、閑散としていた。女中もいないらしく、玄関に出てきたのは、小太りのおかみさん一人だけであった。
えらいところに、連れて来られたものだと思ったが、いまさら、湖畔まで、引き返すわけにもいかなかった。第一、歩いてもどったら、三十分以上、かかってしまうだろう。
四十年輩のおかみさんは、私と、女の顔を見比べるようにした。
「一緒じゃないんだ」
私は、あわてていった。女は、相変らず、黙って、旅館の中を見廻《みまわ》していた。一体、この女は、何を考えているのだろうか。
私と、女は、二階の部屋に案内された。私が通されたのは、「菊の間」だった。名前だけは、立派だったが、ひどい安普請《やすぶしん》だった。窓をあけようとしたが、がたぴしして、半分くらいしかあかないのだ。
女は、隣の「桜の間」に入った。壁がうすいので、かすかな気配が聞こえてくる。私は、また、自分が落ち着きを失っていくのを感じた。
五分ほどして、おかみさんが、宿帳を持って顔を出した。
「ごめんどうですが、書いて下さい」
と、おかみさんは、すまなそうに、いった。
住所、職業、年齢、それに、旅行目的を書くようになっている。
私は、ペンを取り上げてから、前の頁《ページ》に、女の字が書きこまれているのを見た。
〈東京都大田区××町××番地
原 口 玲《れい》 子《こ》(二五)〉
旅行目的のところに、記入はなかった。
あの女の名前は、原口玲子というらしい。もちろん、本名かどうかは、わからなかったが、たとえ偽名でも名前を知ったことで、私は、何となく、彼女に少し近づいたような気がした。
「ごはんを先になさいますか? それとも、お風呂《ふろ》になさいますか?」
おかみさんが、きいた。私は、少し考えてから、先に、風呂に入りたいと、いった。
丹前に着かえてから、私は、下に降りて行った。
浴室は小さく、それに、わかし湯であった。味気ないが仕方がない。湯舟につかった時、ガラス戸のあく音がした。私は、あわてて、わざと、湯を流す音を立てた。向うでも、それに気づいたらしく、ガラス戸の音がして、足音が消えた。
私が、風呂を出て、休憩室のところまで行くと、女が、丹前姿で、ガラスケースに入っているコケシを眺めていた。
「お風呂を、先に頂きました」
と、私はいった。さっき、浴室に入って来たのが、彼女だと思ったからである。
彼女は、軽く目礼を返しただけだった。
「原口玲子さんというお名前のようですね?」
「宿帳を、ごらんになったのね?」
女は、別に、怒った様子もせずに、いった。
「ええ」
と、私は、うなずいた。
「隣の部屋に、若い女性が泊っているとなれば、どうしても、気になりますからね」
「どういう風に?」
「いろいろとです。ロマンスが生れるんじゃないかという期待もあるし、どんな理由で、ひとりで旅行しているのだろうかという好奇心も働くし――」
「旅行するのが、好きなだけです」
「宿帳の旅行目的のところには、何も書かれませんでしたね?」
「いけません?」
彼女は、強い眼で私を見て、きき返した。
「別に、いけないことはないが、何となく、気になりました。ただ単に、旅が楽しいから旅行しているんじゃないような気がして――」
「自殺のためとでも書いたら、貴方《あなた》は、満足なさったのかしら?」
「怒ったのですか?」
「いいえ」
彼女は、笑って見せた。
「怒っても、仕方がありませんもの」
彼女は、ゆっくりとソファから立ち上がった。
「よかったら、夕食のあとで、僕の部屋へ来ませんか?」
私は、たいした期待も持たずに、いった。
七
夕食は、七時近くなってからだった。十和田は、マスの養殖で有名だが、そのせいか、おかずは、何から何まで、マスであった。
おかみさんが、膳《ぜん》を下げて行って、私が、座椅子《ざいす》にもたれて煙草をくわえた時、
「入って、よろしい?」
という女の声がした。期待していなかっただけに、私は、嬉《うれ》しくなり、立ち上がって、ドアをあけた。
彼女は、ちょっと、はにかんだような顔で、廊下に立っていた。
「どうぞ、どうぞ」
私は、彼女を、部屋に招び入れた。
「退屈で、困っていたところです」
「貴方《あなた》は――?」
「林です。林一郎二十七歳。どこにでもいるサラリーマンです。これは本名です」
「私も本名ですわ」
彼女は、テーブル越しに、微笑した。
「自分では、あまり好きな名前じゃありませんけど」
「原口玲子というのは、素敵な名前じゃありませんか。僕の林一郎に比べたら、はるかに個性的だ」
「――――」
原口玲子は、黙って笑った。
「十和田から、どこへ出られるんですか?」
「わかりません」
「わからない――?」
私は、原口玲子の顔を見た。別に、ふざけて、いっているのではないようだった。
「秋田の方にでも、行ってみようかと、思っているんですけど――」
「うらやましいな」
これは、私の本音だった。私は、東京に仕事が待っている。
「そうでしょうか?」
「そうですよ。うらやましいな。僕みたいなサラリーマンには、ひまも金もない。自由に旅行できるように、なりたくて、仕方がありませんね」
「私も、それほど自由じゃありませんわ」
「しかし、僕より自由だ。それに、時間の余裕もあるらしいし」
「時間――?」
原口玲子の顔が、なぜか、急に暗いものになった。
「私にも、時間は、ありませんわ。たいして――」
「たいして――というのは?」
「別に、どういうわけでも――」
彼女は、答にならないようないい方をした。何か理由がありそうだった。が、私は、きくのを止めた。
沈黙がきた。
原口玲子は、自分の手に、視線を落した。細く、きれいな指であった。丹前のえり元から、白い肌がのぞいていた。
ふいに、彼女が立ち上がった。その立ち方が、あまりに、突然だったので、私も、つられて立ってしまった。
「帰ります」
と、彼女は、いった。
私は、いきなり、彼女の手をつかんだ。なぜ、そうしたのか、私にもわからない。彼女は、大きな眼で、つかまれた自分の手と、私の顔を見比べた。
「私が欲しいの――?」
原口玲子は、低い声で、いった。予期しない言葉に、私は驚き、狼狽《ろうばい》した。いきなり、横面を、なぐられたような気がした。私は、自分の顔が、ほてるのを感じた。私は、狼狽を隠そうとして、
「ああ」
と、いった。騎虎《きこ》の勢いというやつであった。
「ああ、君が欲しいんだ」
「――――」
彼女は、ひどく澄んだ眼で、じっと、私を見た。
私も、彼女を見た。今度こそ、本当に、殴られるかも知れないと思った。だが、彼女は、私を殴るかわりに、
「いいわ」
と、いった。
「私を、あげます」
八
翌朝、私が目覚めた時、枕元《まくらもと》においた腕時計は、すでに十時をさしていた。
起き上がって、カーテンをあけた。どんよりと曇った空が見えた。いまにも降り出しそうな気配であった。
蒲団《ふとん》を片づけ終ったところへ、おかみさんが、朝食を運んできた。
「さっき、お持ちしたんですけど、よくお休みだったようなので」
「悪かったね」
と、私は、いった。
「僕と一緒に来た女の人は?」
「八時頃、湖を見てくるといって、お出かけになりましたよ」
「この天気に?」
「曇っている日の十和田も、いいもんですよ」
「もちろん、車で行ったんだろうね?」
「いいえ」
「歩いて行ったの?」
「ええ。車をお出ししますって、申し上げたんですけど、歩きたいからと、おっしゃって――」
「ふーん」
「何かあるんですか?」
「何かって?」
「あの方のことを、心配なさっていらっしゃるようですから」
「別に、何でもないんだ」
私は、あわてて、いった。
朝食をすませると、私も、歩いて、十和田湖へ行ってみる気になった。
湖に着いた時、雨になった。煙のような細い雨である。
私は、岸にそって歩いた。彼女を探す気だったが、どこにも、彼女の姿は見当らなかった。
一時間近く、湖畔を歩き廻《まわ》ったろうか。私は、あきらめて、旅館に戻った。
「湖は、どうでした?」
と、きくおかみさんに、私は、
「女の人は?」
と、きき返した。
「まだ、お戻りになりませんよ」
「まだ――?」
「向うで、お会いになりませんでした?」
「いや、会わなかった」
「おかしいですわね」
「この辺りで、湖の他に、見物するようなところは?」
「他には、ありませんけど」
「本当にないのかね?」
「ええ」
「――――」
私は、次第に、不安になってきた。まさかとは思っても、彼女の、何となくなげやりに見えた態度が、引っかかってくるのだ。
昼になっても、原口玲子は、旅館に戻って来なかった。旅館のおかみさんも、あわてだした。
「どうしたもんでしょう?」
と、おかみさんが、私にきいた。
「僕に、立ちあって貰《もら》えませんか」
「立ちあうって、どうするんですか」
「彼女の持物を、調べてみたいんです。だから、貴女《あなた》に、立ちあって欲しい」
「そんなことをして、いいんですか?」
「もちろん、いけないことだが、他に方法はないでしょう? 持物を調べれば、どうしたのか、わかるかも知れません」
「調べている時に、戻ってみえたら?」
「その時には、僕が、あやまりますよ」
「本当に、貴方《あなた》が、あやまって下さいますね」
おかみさんは、くどく念を押してから、私を、「桜の間」に、連れて行った。
部屋のすみに、小さなスーツケースが、一つだけ置いてあった。鍵《かぎ》は、かかっていなかった。
私は、しばらく、ためらってから、そのスーツケースをあけた。
化粧道具と、下着が、最初に出てきた。ワニ革の紙入れには、一万円札が、二十枚近く入っていた。だが、そんなものには、私は興味がなかった。
スーツケースの一番下に、大学ノートが入っていた。
私は、取り出して、頁《ページ》を繰ってみた。
詩が、いくつも書いてあった。
「何が、書いてあるんです?」
おかみさんが、きいた。
「まさか、遺書じゃないでしょうね?」
「詩だよ」
「シ――」
「歌さ」
「歌ですか――」
おかみさんは、興味のなさそうな声で、いった。
私は、その中のいくつかの詩を読んでみた。
私には、詩は、よくわからない。そこに書かれてある詩が、上手《うま》いのか下手なのか、私には、わからなかった。
だが、読んでいって、一つだけ、わかったことがあった。
それは、「暗さ」だった。どの詩にも、明るさが、ひとかけらもないのだ。読んでいて、息苦しくなるほど、暗さに、あふれていた。
例えば、「孤独」という題の短い詩は、こんな言葉が並んでいた。
暗い死人のような闇《やみ》が、
耳の傍で、飢えた時間をきざみ
うつろな幻影が、私をかみくだく
他の詩も、同じであった。この暗さは、原口玲子自身の暗さなのだろうか。
私は、最後の頁をあけてみた。そこには、
〈愛〉
という字が、ぽつんと、一つだけ、書いてあった。恐らく、これは、詩の題であろう。だが、「愛」という題で、彼女が、どんな詩を書く積りだったのか、白い頁からは、何の答も見つけられなかった。
九
夕闇《ゆうやみ》が、あたりに立ちこめるようになっても、原口玲子は、戻って来なかった。旅館のおかみさんは、青い顔で、駐在所に、電話をかけた。
私は、その日の中《うち》に、東京へ帰る積りだったが、こうなっては、十和田をはなれるわけにはいかなくなってしまった。
(あの女は、自殺したのだろうか?)
私は、そう思い、駐在の巡査も、同じことを考えたとみえて、ボートを出しての、捜査が始められた。
夜に入ると、かがり火や、懐中電灯を用意して、湖の捜査が続けられたが、なかなか見つからなかった。
夜半になって、雨が強くなった。捜査は、一時中止された。
朝、雨があがり、再び、捜査が続けられた。
私も、ボートに乗って、捜査に加わっていたが、五百メートルほどはなれた岸で、人の騒ぐ声が聞こえたので、私は、急いで、引き返した。
原口玲子は、やはり死んでいた。水から引き上げられた死体には、苦しげな表情は、残っていなかった。
「この人に、間違いありませんか」
という巡査の言葉に、私は、ひどく重い気持で、うなずいた。
旅館のおかみさんは、青い顔で、
「家族に知らせなきゃあね」
と、いった。
私は、その日のうちに、十和田をたった。原口玲子の家族に、顔を合せるのが、辛かったからである。
私は、東京に戻った。が、気持が、落ち着かなかった。原口玲子の顔が、眼の前にちらついて仕方ないのだ。
なぜ、彼女は、自殺したのだろうか。
なぜ、死ぬ前に、私と一夜をともにしたのだろうか。
「愛」という題で、どんな詩を、書くつもりだったのだろうか。
いくつかの疑問が、わき出してきて、余計に、私を、落ち着かなくさせるのである。
東京に戻って五日目に、私は、部厚い封書を受け取った。差出人の名前は、「原口雄策」となっていた。私は、急いで、封を切った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈いきなり、この様なお手紙を差しあげることを、お許し下さい。
私は、十和田で亡くなりました原口玲子の父でございます。玲子は、私どもにとって、たった一人の娘で、ございました。その一人娘が、不治の病といわれる敗血症にかかっていると知ったのは、一年前のことで、ございます。
あと二年の命と知ってから、玲子は、すっかり暗い娘になってしまいました。無理もないのです。それなのに、父親の私には、どうすることもできませんでした。ただ、手をこまねいて、娘が死ぬのを、待っているより仕方がないのです。神さまに、すがったこともありましたが、それも、諦《あきら》めの気持に変りました。ただ、私は、娘が、短い人生の間に、一つでも、女としての喜びを味わってから死んで欲しいと、それだけを願っておりました。
娘に、旅行をすすめたのも、私です。好きな旅行に出れば、一瞬でも、死を忘れる時があるかも知れないと、思ったからでございます。
玲子が死んだという連絡を受けたとき、私は、とうとう来たるべきものが来たという気持でした。ただ、今度の旅行の中で、一つでも、娘が、楽しい思い出を持つことができたろうかと、それだけを考えながら、十和田へ行ったのです。
私は、娘の遺品の中に、詩の書かれたノートを見つけました。貴方《あなた》様も、お読みになったように、ひどく暗い言葉ばかりが並んでいます。私は、読んでいて、胸がつぶれる思いでございました。最後に、『愛』という字にぶつかった時、私は、初めて、ほっとした気持になりました。玲子が、『愛』という題で、どんな詩を書こうとしたのか、私には、わかりません。しかし、『愛』について、考えた瞬間があったのだと知って、私は、救われた気持になりました。旅館のご主人から、貴方様のことを、お聞きしました。娘と貴方様との間に、どんな話が交わされたのか、私には、わかりません。ただ、私は、あの娘の父親として、娘と貴方様との間に、愛に似たものがあったと考えたいのです。勝手な想像と、お叱《しか》りを受けるのは、わかっておりますが、娘の幸福だったことを願う父親のわがままとして、お許し下さいますよう、お願い申し上げます。
玲子が作りました詩は、私が、自費出版してやりたいと思っております。そのことで、貴方様に、お願いがございます。詩集の題名を、何としたらよいか、考えて頂けないでしょうか。
[#地付き]原 口 雄 策
林 一 郎 様〉
[#ここで字下げ終わり]
私は、何度、この手紙を読み返したか、わからない。読んでいる間も、十和田湖の青い水の色と、原口玲子の白い顔が、眼先にちらついて仕方がなかった。
私は、その日の夜、返事を書いた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈何と申し上げてよいか、私には、言葉が見つかりません。ありきたりの慰めの言葉は、貴方の心を傷つけるだけと思い、書くのをひかえます。
私と玲子さんの間に、愛を感じあった瞬間があったことを、私は、今でも信じております。
詩集の題は、『愛の詩集』となさったら、いかがでしょうか。あの詩集は、確かに、暗さに、あふれています。そして、『愛』という言葉は、最後に、たった一つだけ書かれているにすぎません。しかし、私には、あの暗さは、『愛』を求め続けたための暗さとしか思えないのです。
詩集が出版されましたら、ぜひ一部、お送り下さい。〉
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
死の予告
一
最初は、小学校五年の時だった。
ひどく寒かったのを憶《おぼ》えているから、二月頃では、なかったかと思う。私は、学校が焼け落ちる夢を見た。真赤な炎に包まれて、焼け落ちていく校舎の姿に、私は、怯《おび》えて、眼を覚まし、暗い部屋の中で、わあわあ泣いてしまった。
翌日の日曜日、学校が焼けた。浮浪者が、暖をとるために、校庭で、焚火《たきび》をしたのが、折からの強い北風で、火の粉が飛び、まず、職員室に引火し、校舎全体に燃え拡がったのである。半鐘が、けたたましく鳴り響き、丁度、夕食時だった私は、箸《はし》を放り出すと、兄と一緒に、家を飛び出した。
私は、見た。暗い夜空を背景にして、真赤に、燃え上がる炎。胸に応《こた》えるような悲鳴を残して、崩れ落ちて行く校舎。それは、前の夜、私が、夢の中で見た光景そのままであった。私は、怖くなり、周章《あわ》てて、家に走り帰った。
私は、夢のことを、誰にも話さないことに決めた。自分が、火事のことを、前から知っていたことが、何か、恐ろしい罪悪のように思えたからである。しかし私は、まだ、自分に、予言の能力が、あるなどとは考えなかった。偶然の一致なのだと、自分に、いい聞かせた。
このことがあってから、しばらくの間、私は、恐ろしい夢を、見ないで、過した。夢は、毎日のように見たが、お化けに、追いかけられたり、自分の欲しいと思っていた模型飛行機が、買って貰《もら》えたりする。子供っぽい、他愛ない夢だった。私は、いつの間にか、火事のことを忘れてしまっていた。
二
中学三年のとき、二度目の、恐ろしい経験が、私を待ち受けていた。
この時のことは、月日も、ちゃんと、憶《おぼ》えている。二月二十日だった。明日は、卒業前の修学旅行に、京都、大阪に、三泊四日の予定で出かけることになっていた。
私は、母の用意してくれた、旅行カバンや、父の買ってくれた、カメラを、枕元《まくらもと》に置いて、床に就いた。明日からの旅行のことを考えると、なかなか寝つかれない。それでも、十二時の時計の音を聞いてから、眠りに入った。そして、私は、夢を見た。
私たちを乗せた列車が、転覆、脱線する夢であった。場所は、判らない。無残に横倒しになった客車の中では、生徒が、血だらけになって、悲鳴をあげていた。腕を、引きちぎられた子もいたし、客車の下敷になって、必死に、這《は》い出そうとしている子もいた。どこも血の海になっている。
私は、悲鳴を上げ、その悲鳴に驚いて、眼を覚ました。寝汗を、びっしょり、かいていた。胸は、まだ動悸《どうき》を打っている。唇が、カサカサに、乾いていた。私は、台所に行って、コップで水を飲んだ。寒さと、恐ろしさで、私の身体は、ガタガタと震えていた。寝床に入っても、私は、もう眠ることが、できなかった。私は、ふと、小学生時代の、校舎の火事を思い出した。真赤に燃え上がる炎。その、炎の赤さが、今、夢の中で見た、血の赤さに、重なった。
朝になった。私は、修学旅行に、行かないと、いった。父も母も、呆気《あつけ》に取られた顔で、私を見た。
「何が、気に入らないんだ? 欲しいというから、カメラも買ってやったじゃないか」
と、父は、怒り、
「昨夕《ゆうべ》までは、あんなに楽しみにしていたのに、一体、どうしたっていうの?」
と、母は、おろおろした。
私は、理由を、いわなかった。いったところで、理解して貰《もら》えるとは、思えなかったからである。私は、ただ、行きたくないのだと、いい張った。
時間になって、友だちの会田進が、迎えに来たときも、私の気持は、変らなかった。それだけではない。私は、会田進に、修学旅行に行くのは止せと、いった。
「一体、どうしたんだ?」
と、会田進は、笑った。私は、ただ、何となく、行かない方が、いいような気がするのだと、いった。他に、いいようがなかったからだが、そんな言葉が、何の説得力もないことは、私自身が、一番よく知っていることだった。案の定、会田進は、にやにや笑っただけで、旅行に、出かけて行った。
列車脱線を、知ったのは、二日後であった。私は、複雑な気持で、そのニュースを聞いた。私は、夢が、実現しないでくれと念じながら、一方では、きっと、脱線があると、信じたい気持にもなっていた。だから、ニュースを聞いたときも、背筋に冷たいものが走るのを感じながらも、やっぱり、当ったのだという、安堵に近い気持もないではなかった。
死者二十人、重軽傷八十六人。現場は、阿鼻叫喚《あびきようかん》の巷《ちまた》と、新聞は、報じていた。私が、修学旅行に出かけなかったことを、不審がって、怒ってさえもいた父や母は、この知らせに、「お前は、行かなくて、よかった」と、いい、「虫が知らせたんだね」と、何度も、いった。
会田進は、死者の中には、入っていなかった。しかし、この事故で、左腕を失った。一か月の病院生活から、戻ってくると彼は、私の顔を、恐ろしそうに見て、
「君には、判ってたのか?」
と、訊《き》いた。私は、黙って、首を横に振って、否定して見せた。肯定するのが、恐ろしかったからである。
三
高校時代の三年間は、何事もなく、過ぎた。私は、また、忘れかけていた。というより、二つの事件を、偶然の一致なのだと、考えるように、努めたといった方が、当っているかも知れない。一緒に、高校に進んだ、会田も、修学旅行のことを、口にすることはほとんどなかった。片腕を、失った彼にしてみれば、忘れたい思い出に、違いないからだ。
私と、会田は、揃《そろ》って、S大に進んだ。
三度目の事件が、起ったのは、S大二年の時である。
その時、私は、K大との対抗試合で、選手の一人が、投手の球を頭に受けて、死亡する夢を見た。青木という、S大の三塁手であった。ゴジラという綽名《あだな》で、煮ても焼いても、あいつは骨太だから美味《うま》いはずがないと、いわれるような男だった。その男が、私の夢の中で、死んだのである。投手の球が、頭に当った瞬間、ゴジラは、崩れるように倒れて、そのまま、動かなかった。
翌日、K大との試合であった。私は、会田と、応援に、出掛けたが、昨日の夢が、気になって、仕方がなかった。過去に二度、私の夢は、現実に、なっている。今度も、本当に、ゴジラは、頭に死球を、受けて、死ぬのでは、あるまいか。
球場は、伝統の一戦ということで、異様な熱気をはらんでいた。そのことが、私の不安を倍加させた。何か起りそうな予感がするのだ。私は、あまり、野球のことに、詳しくなかった。それで、会田に、死球のことを訊《き》いてみた。
「頭に、ボールが当ったら、死ぬことも、あるのだろう?」
「ないとは、いえないね」
会田は、私の不安を他所《よそ》に、そんなことをいった。
「アメリカじゃ、プロ野球で、何人か、死球で死んでいる。しかし、今は、ほとんど、死ぬなんてことはないね。皆、危険予防のために、ヘルメットを、かぶっているからね。あれを、かぶっていれば、よっぽど、当り所が悪くない限り、死ぬことは、ないよ」
会田は、ヘルメットの構造を、説明してくれた。私は、その言葉で、不安が、いくらか遠のくのを感じた。打席に立つ選手は、会田が、いうように、皆、キラキラ光るヘルメットを、かぶっていた。あれなら、死ぬはずがない。大丈夫だと、私は、自分に、いい聞かせた。
試合は、緊迫した経過を辿《たど》った。二回表に、S大が二点を入れると、その裏、K大は、一点を返し、五回裏に、更に、ホームランで、一点を返して、同点とした。九回まで、青木選手は四回打席に立ったが、何事もなかった。私は、ほっとしたが、試合は、二対二のまま、延長戦に入った。
十一回の表のS大の攻撃は、青木からだった。彼が、打席に立った時、私は、今までの彼と、何となく違うことに、気付いた。ヘルメットが、キラキラ輝いていないのだ。よく見ると帽子の上に、ヘルメットを、かぶっていない。
「ヘルメットが――」
と、私は、会田に、いった。が、会田は、にやにや笑っていた。
「やつは、ヘルメットをかぶるのが、あんまり好きじゃないんだ。負けず嫌いだし、ボールの方が、よけると、思っているんだろう」
「しかし、危険だ」
「大丈夫だよ。やつは、反射神経が鋭いから、ビーンボールを投げられたって、簡単に、よけるよ」
「しかし――」
延長十一回なのだ。身体も、疲れているはずだ。反射神経も、弱っているはずだ。私は、背筋が寒くなり、眼を開けて、試合を見ていられなかった。思わず、眼を閉じた。
一球ごとに、球場内に、喚声が湧《わ》く。かーんという音がした。青木が打ったのだ。助かったと思い、私は、眼を開けたが青木は、まだ、バッターボックスにいた、いまいまし気に、バットで地面を叩《たた》いていた。ファールだったのだ。
私は、また、眼を閉じた。わアッという、どよめき。その喚声が、ふいに、ぴたッと、止んでしまった。その瞬間、私は、何か、鈍い、嫌な音を聞いたような気がした。「あッ」と、隣にいた会田が、声を、あげた。
私は、眼を開いた。そして、私は、見た。バッターボックスの中で、ゴジラと呼ばれた青木三塁手は、俯《うつぶ》せに、倒れていた。動かない彼の身体に向って、何人かの選手が、駈《か》け寄ってくるのを、私は、ぼんやりと、見守っていた。
青木三塁手は、病院に運ばれる途中で、死んだ。
私は、自分が、青木の死を知っていたことを、誰にも、話さなかった。もちろん、会田にもである。私は、この頃から、心霊学に興味を持つようになった。
心霊学では、霊能ということが、問題になる。霊魂と、対話できる能力である。また、物ごとを、予知する能力にも、使われる。心霊学者に、いわせると、世の中には、何万、あるいは何千万に一人という割合で、こうした、霊能の所有者が、いるのだという。私は、もしかすると、その霊能を、持っているのかも、知れない。しかし、その思いは、私を、喜ばせるよりも、暗い気持にさせた。私は、校舎が焼け落ちるのを、知っていた。修学旅行の列車が転覆するのを知っていた。K大との試合で青木三塁手が死球を受けて死ぬのを知っていた。しかし、私は、それを防ぐことが、できなかったのだ。
四
私は、秘密を抱いたまま、S大を卒業し、N鋼管に、入社した。会田進も、私と一緒に、N鋼管の社員になった。二人とも営業課だった。仕事は、いそがしい。その、いそがしさに、まぎれて、私は、次第に、心霊学から、遠ざかって行った。自分でも、いい傾向だと考えていた。予言能力は、私にとっては重荷であった。
何事もなく、一年が過ぎた。私も、会田も、仕事に馴《な》れ、適当に、遊ぶことも、憶《おぼ》えるようになった。どうみても、平凡なサラリーマンであった。私には、それが、嬉《うれ》しかった。
しかし、入社二年目の秋に、あの暗い予感が、再び私を捕えた。しかも、今度は、親友の会田進が、飛行機事故で死ぬ姿を私は、夢に見たのだ。赤い炎をあげて、墜落する飛行機。そこに、校舎を焼いた、真赤な炎や、転覆した客車を染めた、朱《あか》い血潮と、同じ戦慄《せんりつ》を、私は感じた。
私は、単なる夢に過ぎないのだと、考えようとした。そうだ。過去に、二、三回、夢が正夢になったからといって、今度も、夢が、現実になるとは限らないではないか。親友の会田進が、死ぬはずがないではないか。あの、修学旅行の転覆事故のときでも、彼は、助かったのだ。
しかし、私は、自分自身を、誤魔化すことは、出来なかった。校舎が焼けたのは、事実だったのだ。修学旅行の列車が転覆し、二十人の死者を出したことも、夢ではない。死球を頭に受けて死んだ、青木三塁手の姿を、私は、この眼で見ている。私の夢は、必ず実現するのだ。
翌日、会田進が、社長命令で、福岡に出張すると聞かされて私は蒼《あお》くなった。やはり、私の夢は、現実化しようとしているのだ。会田は、必ず死ぬ。私は、どんなことをしてもそれを止めなければならない。私は、会田を呼んで、福岡出張のことを訊《き》いた。旅行好きの彼は、嬉《うれ》しそうに、仕事が早く済んだら、別府に廻《まわ》って来たいと、私に、いった。
「今度の出張は、どうしても、君が行かなければ、いけないのか?」
私が訊くと、会田は、不審そうに、眉《まゆ》をひそめた。
「なぜ、そんなことを訊くんだ?」
「いや、別に、理由は、ないんだが、飛行機は、危いからな」
「あはは――」
と、ふいに、会田は、大きな声で、笑った。
「君らしくもないことを、いうじゃないか」
会田は、微笑して見せた。
「飛行機は、今じゃ、自動車や、汽車より安全なんだぜ」
「しかし、飛行機は、事故が起きたら、それっきりだからね。先月も、フランスで、旅客機が落ちて、七十何人かの乗客が、全員即死している」
「心配性なんだよ。だが、僕は、大丈夫だよ」
「しかし――」
「そんなに心配するなら、教えてあげるが、福岡には、汽車で行くんだ」
「えッ?」
私は、驚いて、会田を見た。自分の、ひとり合点で、私は、彼が、飛行機で、行くものとばかり決めてしまっていたのだ。
「汽車だよ。これなら安全だろ? 君にいわせれば」
「汽車で行くのか――」
私は、ぼんやりした声でいい、それから、急に、愉快になった。私の夢は外れたのだ。ザマアミロと、私は、自分に、いった。今度こそ、私は、予言者でなくて済んだのだ。親友だって失わずに、済むのだ。
「一体、どうしたんだ?」
会田は、急に、にこにこ笑い出した私を、ぽかんとした顔で見つめた。
「いいんだ。いいんだ」
私は、そんな言葉を、何度も繰り返して、会田の肩を叩《たた》いた。これからは、何の不安もなく、夢を見ることができる。前の三度の事件だって、偶然の一致に過ぎなかったのだ。母がいったように、いわゆる、虫が知らせたというやつで、予言能力などというものでは、なかったのだ。その日の夜、私は、珍しく夢も見ずに、ぐっすりと、眠った。
五
翌朝、食事をしながら、私は、新聞に眼を通したが、社会面を開いた途端に、「N航機墜落」の大きな文字が、いきなり、飛び込んで来た。
〈N航機墜落。悲惨、全員即死〉
私は、軽いめまいを感じた。やはり、飛行機事故は、起きたのだ。事故の原因については、目下調査中だが、機体の故障が考えられる他、不審な点もあるという文字を、私は、ぼんやりと、読んだ。しかし、会田進は、この飛行機には、乗らなかったのだ。そう考えることで、私は、かすかな救いを、見出した。それに、N航機の墜落は、私の責任ではない。この事故が予測できていたからといって、私が、責任を負わなければ、ならない理由はないのだ。
私は、自分に、いい聞かせながら、犠牲者の名前に、眼を移した。細かい活字で、アイウエオ順に、書いてある。その活字を、追って行った私は、「あッ」と、小さな叫び声をあげてしまった。あるはずのない、会田進の名前を、そこに、発見したからである。私は、咄嗟《とつさ》に、自分が、見違えたのだろうと、思った。が、何度、読み直しても、会田進としか、読めなかった。
〈会田進(二四歳)N鋼管営業課〉
確かに、そう書いてある。私は、肌寒くなるのを感じながらも、これは、何かの間違いなのだと、考えようとした。会田進は、汽車で出張したはずなのだ。N航機に、乗っているはずがないのだ。
私は、朝食を、途中で止めてしまうと、あたふたと、会社へ出掛けた。営業課のドアを開ける。その瞬間、私は、部屋の中に、異様な、空気を感じた。
いつもなら、十時近くならなければ、出て来ない課長が、すでに顔を見せているのも妙だったし、先に来ていた数人の同僚も、蒼《あお》い顔で、押し黙っているのだ。女の課員の中には、ハンケチを顔に当てている者もいる。
私は、課長を掴《つか》まえて、
「会田は、本当に死んだんですか?」
と、訊《き》いた。嘘《うそ》であってくれと、念じながら。しかし、課長は、私に向って、頷《うなず》いて見せたのだ。
「しかし、会田は、汽車で行くと、いっていたはずですよ」
私は、喘《あえ》ぐように、いった。課長は、眼を、しばたいた。
「確かに、最初の予定では、汽車で行くことになっていたのだ。ところが、昨夜遅くなって、急に、福岡支社に、重要用件が、持ち上がってしまったのだ。それで、社長命令で、飛行機にした。会田君も、飛行機で行かれることを、喜んでいたんだが――」
「馬鹿な――」
私は、他に、いうべき言葉がなかった。しかし、何が馬鹿なのか、私自身にも、判らなかった。
「社長も、今度の事故で、とても、心を痛めておられるようだよ」
と、課長は、私を慰めるようにいった。もちろん、そんな言葉で私の気持が、安まるはずがなかった。どんな言葉も、無駄だったのだ。私は、親友が死ぬのを、知っていたのだ。知っていながら、私は、それを、防ぐことができなかった。このことは、一生、暗い負い目になって、私を苦しめるに、決っている。
(しかし、私に、何ができただろうか)
私は、無力感にさいなまれた。いても立っても、いられない気持だった。会田を殺したのは、私だと、大声で叫び出したい衝動に駈られた。
しかし、私が、そんなことを、叫んだところで、誰も、信じては、くれないのだ。そのことが、また、私を苦しめた。自分にしか判らない苦悩を背負って、私は、生き続けて、いかなければ、ならないのだろうか。
六
二日たって、私は、突然、警察から、出頭命令を受けた。何事かと、不審に思いながら出かけた私は、そこで、背の高い、狐に似た顔付きの刑事から、
「君は、飛行機の墜落を、前日から、知っていたということだね?」
と、訊《き》かれた。営業課の誰かが、私と、会田との会話を、聞いていて、警察に、喋《しやべ》ったらしい。私は、今度の、N航機の事故が、どうやら、仕組まれた爆発事故らしいという、昨夜《ゆうべ》の報道を、思い出した。
私は、どう返事したらいいか、判らなかった。私は、知っていた。が、そのままを答えたら、私は、狂人にされてしまうだろう。
「知ってなんか、いませんでした」
と、私は、いった。
「それなら、なぜ、友人に、飛行機は止せと、しつこく、いったのだね?」
「それは、何となく、虫が知らせたからです」
「しかしだね。友人が、汽車で行くのだと、いったところ、君は、ひどく、ほっとした表情になって、それならいいと、何度も、いった、そうだね。そのときの、君の態度が、不審だったと、証言している者がいるがね」
「――――」
私は、返事に窮して、黙ってしまった。どう答えたらいいのか、判らなくなってしまったのだ。刑事は、そんな私を、疑わし気に、眺め廻《まわ》した。その眼は、明らかに、私のことを、爆破犯人かも知れぬと、疑っているようだった。その証拠に、私はその日、薄暗い留置場に、拘留された。
私が釈放されたのは、翌朝に、なってからだった。その時にも、刑事は、私の容疑が、完全に晴れたわけではないのだといった。
「君を釈放するのは、君に、動機が、ないように、思えるからだ」
と、刑事はいった。もし、私が、会田進を、憎んででもいたら、動機が、見つかったとばかり、起訴しかねない言い方だった。
この事件は、それから、二週間後に、ある爆破狂の犯行と判って、解決したのだが、それまでの間、私は、会社で、ひどく気まずい思いをして、過さなければ、ならなかった。格式を誇るN鋼管では、たとえ、容疑だけであっても、社員が、警察の調べを受けるということは、大問題だったのだ。同僚の社員の中には、本気で、私を、疑った者も、いたようだった。しかし、正直にいって、本当に、私を苦しめたのは、私自身の気持だった。友人の死を予知しながら、それを防ぐことができなかったという自責の念から、私は、逃れられそうになかった。二週間後に、事件が解決してからも、私は、この自責の念からだけは、解放されることがなかった。同僚は、私が、親友を失ったことで、沈んでいるのだろうと、考えてくれたが、もちろん、私の気持は、それだけのものでは、なかった。私に、あの奇妙な、予言能力がある限り、私の苦悩は、続くのだ。私は、いつか、父の死を、夢に見るかも知れない。母の死を、あるいは、兄の死を。それが、病死なら、諦《あきら》めもつく。が、もし、事故死だったら、どうだろう。会田進のときが、そうであったように、私は、親しい者の死を知りながら、それを防ぐことが、できないという事件が、これからも、続くのでは、あるまいか。そのたびに、私は、自分が、彼らを殺したような気持にさせられるのだ。
会田進の死が、あってから、しばらくの間、私は、慢性的な、不眠症の状態が、続いた。眠りにつき、夢を見ることが、怖かったからである。お化けが、出て来たり、子供時代に、帰ったりするような、荒唐無稽《こうとうむけい》な夢なら、恐ろしくはない。怖いのは、親しい人の死を夢見ることだった。そして、死を予告する夢は必ず、現実になるのだ。
私の、ノイローゼ状態は、長く続いた。このままでは、私自身が、駄目になってしまう。私は、その危険を感じた。何とかしなければ、ならない。
何とか、しなければならないのだ――
七
私は、予言者が、登場してくる小説を、いくつか、読んだことがある。キリストだって、釈迦《しやか》だって、予言者といえないことはない。彼らは、一様に、指導者面をして、しかも、颯爽《さつそう》としている。しかし、私は、自分に、多少|歪《ゆが》んだ形ではあるにしろ、その力があると判った時、颯爽とした気持になるどころか、すっかり気が滅入《めい》ってしまったのだ。私は、会田進の死を予測した。しかし救えなかった。私に、彼が救えたら、私の予測は、外れたことになり、私は、予言の力を失ったことになるのだ。キリストや、釈迦は、こうした、自己撞着《じこどうちやく》や、矛盾に、悩まなかったのだろうか。自分の予言が外れることを、望んだことは、なかったのだろうか。
今の私は、自分の予測が、外れて欲しいと思う。そうすれば会田進の死に、自責の念を、感じないで済むのだ。偶然の一致だったと、自分を、納得させることが、できるのだ。
私は、自分の、予言能力と、闘うことを決意した。このままでは、参ってしまうと、思ったからである。夢で、誰かの死を予知したら、どんな手段を、尽くしてでも、その人間を、死から、救い出してやる。その瞬間、私は、いまわしい、予言の世界から、解放されるのだ。
私は、自分に、何度も、いい聞かせて、眠りに、ついた。そして、その夜、悪魔の挑戦のような、夢を見た。
見なれない街角だった。映画館があった。二本立の映画をやっていた。「壁に向って、鉛をぶち込め」という映画の題名が読み取れた。もう一本は、「父の涙」というメロドラマだ。大人百六十円と、切符売場に、書いてある。
街全体に、陽が射していたから、昼間らしい。若いアベックが、切符を買って、映画館に入って行く。二人とも、私の知らない顔だ。車道には、乗用車や、ダンプが、いそがしげに、走り廻《まわ》っている。どこにでも見られる光景だった。危っかしげに歩行者が、車道を、横断していく。それも、ありふれた光景だ。
真赤なセーターを着た、若い女が来た。黒いスカートとの対比が、女を、妖精《ようせい》のように見せている。色が白いので、赤と黒のコントラストが、良く似合っている。
女は、車道を渡り始めた。彼女が、車道の中央辺りまで来たとたん白色のスポーツ・カーが、六十キロ近いスピードで、疾走して来た。そして、ブレーキの悲鳴と、鈍い、衝撃音。女の身体は、ボロ布《きれ》のように、投げ出され、セーターの赤さより、なお赤い血が、舗道に、流れた。赤い血が――
次の日も、私は、同じ夢を見た。私の知らない女だった。見たこともない女だった。しかし、その女が、夢の中で、死んだように、現実に、死ぬことは、確かなのだ。それが、明日であるか、明後日《あさつて》であるかは、判らない。しかし、間もなく、彼女は確実に、死ぬのだ。私には、それが、判っていた。彼女の写真が、「またも、痛ましい交通事故」という記事の下に載るのだ。新聞で、それを発見して、私は、また、無力感に、さいなまれるだろう。そして、自分が、殺したように、苦しまなければ、ならない。
(彼女を、助けよう)
と、私は、思った。夢の中の女を助けることが、できれば、私は、いまわしい、苦しみから、解放されるのだ。だが、どこの誰とも判らない女を、救い出すことが、できるだろうか。
私は、眼を閉じて、二晩続けて見た、事故の光景を、思い出そうと努めた。どこの街か、私には、判らない。判っているのは、二本立、百六十円の映画館があったことと、若い女の着ていた、真赤なセーター、それに、明るい陽射しだけだ。
まず、どこの街なのか、それから考えていかなければ、ならない。東京のどこからしいという想像はついた。夢の中に出て来た人たちの言葉に、地方の訛《なま》りがなかったからだ。映画館で、切符を買っていた若いアベックも、はっきりした、標準語だった。
(東京のどこだろう?)
私は、東京の地図を、買い求めて来て、拡げてみたが、線と円からできているような、無表情な地図からは、主体的な、街の光景は、浮び上がっては、来なかった。
どこの街角か、それが判らなくては、女を救い出すことは、できない。救い出せないのは、女だけではない。私自身も、因果な世界から、脱け出すことができないのだ。
歩道と車道があり、角に、映画館が、ある。ありふれた、街の光景だ。どこかに、特色があればと、思案していた私は、その映画館で、上映していた、映画のことを、思い出した。確か、「壁に向って、鉛をぶち込め」と、「父の涙」の二本立だったはずである。しかも、料金は、百六十円。この組み合せの映画館は、そう多くは、ないはずだ。
私は、会社に、三日間の休暇届を出し、電話帳で都内の映画館を、片っぱしに、当ってみることにした。
八
都内に、映画館の数は、多い。一区五軒としても、二十三区だけで、百十五軒。それに、立川、町田、八王子といった、市も入れなければ、ならない。しかし、いざ、やってみると、案外、簡単だった。百六十円という料金から、名前の通った封切館は、除外できるし、洋画の上映館も、考慮せずに済むからである。それでも、私は、七十近い映画館に、電話を、掛けなければ、ならなかった。そして、次の三館が、問題の映画館として、私のノートに、上がってきた。
蒲田《かまた》映画劇場(品川・蒲田)
大島《おおじま》映画(江東《こうとう》・大島町)
調布演劇(調布市)
三館とも、五日前から、一週間の予定で、「壁に向って、鉛をぶち込め」と「父の涙」を併映している。しかも、料金は、百六十円。
私は、この三館を、地図を頼りに、訪ねてみた。最初の、調布演劇は、甲州街道から、細い路地を入ったところに、あった。違うようだった。狭い路地には、車が入れないようになっていたからである。
次の、蒲田映画劇場でも、私は、失望を、味わった。映画館の、すぐ横を、私鉄が、走っていたからである。夢の中の街では、電車の姿は、見られなかった。
最後に、私は、大島映画を、訪れた。バスを降り、その一角に、足を踏み入れた時、私は、江東が、初めての場所であるのに、前に、何度となく、訪ねたことがあるような、奇妙な錯覚に、捕えられてしまった。あの、夢の中の光景に、そっくりだったからである。
(ここに、間違いない)
と、私は、思った。私は、映画館の前に立って、眼の前を、右から左に走る車道を眺めた。舗装は、かなり良く、車は、流れるように走り過ぎて行く。歩道では、子供連れの母親が、近所の人らしい女と、立話をしている。平和な光景であった。ここで、一人の若い女が、車にはねられて、死亡するなどとは、到底考えられなかった。しかし、必ず、事故は起きるのだ。紅蓮《ぐれん》の炎を上げて燃えた校舎。修学旅行の惨事。青木三塁手の死。そして、会田進を乗せたN航機の墜落。全《すべ》て、夢が現実になったのだ。今度も、実現するに、決っている。間違いなく、ここで、一人の女が死ぬのだ。
(私は、それを、阻止しなければ、ならない)
私は、映画館の看板に、眼を移した。今日を含めて、あと二日で、「壁に向って、鉛をぶち込め」と、「父の涙」の二本立映画は、終る。ということは、今日か明日に、事故が、起ることを、意味している。
(ひょっとすると、事故は、もう、起きてしまっているのではあるまいか?)
私の脳裡《のうり》を、そんな不安が、通り過ぎた。悪魔というやつは、気まぐれで、皮肉屋だ。私が、ここを発見したときには、すでに死の影は、通り過ぎた後かも知れない。私は、周章《あわ》てて、近くの煙草屋に入り、店番をしている、老婆に、最近、この辺りで、交通事故が、なかったかを訊《き》いてみた。
「ありましたよ」
と、老婆がいった。私は、愕然《がくぜん》としたが、
「三日前に、子供が、自転車に、はねられて軽い怪我《けが》をしたんですよ」
という言葉を、聞いて、ほっとした。老婆は、不審そうに、私を見た。子供の事故を聞いて、ほっとした私が、妙な男に見えたのだろう。怪我をした子供には、悪いが、たとえ、その子が死んだと聞かされても、私は、ほっとした顔に、なったに、違いなかった。とにかく、死の予告は、まだ、予告のままで済んでいるのだ。
私は、腕時計を見た。四時を廻《まわ》ったばかりだった。十月末である。秋の陽は、短い。五時を過ぎれば、夕闇《ゆうやみ》が、街を、蔽《おお》うだろう。夢の中では、陽の注ぐ日中に女が死んだのだ。陽が落ちてしまえば、少くとも、今日は、死の予告から、解放される。
私は、歩道に立って、車道を、睨《にら》み続けた。今日ほど、時間の経過を、遅いと、感じたことは、なかった。時間が、ひどくのろのろと、過ぎて行く。まるで、私を嘲笑《ちようしよう》するように、時計の針は、ゆっくりとしか、動こうとしなかった。
しかし、根負けしたように、陽が沈み、夕闇が街を、蔽い始めた。街灯が点《つ》き、映画館のネオンも、またたき始めた。今日の、戦いは、終ったのだ。私は、全身から、一時に、力が、抜けるのを感じた。
九
私は、四谷三丁目のアパートに、帰る気はしなかった。大島六丁目で旅館を探して、そこに泊ることにした。明日一日なのだ。明日一日、何事もなく過ぎてくれたら、私は、死の予告から、解放されるのだ。
女中の敷いてくれた蒲団《ふとん》に、横になっても、私は、なかなか、寝つかれなかった。雨が、降ってくれと、祈りもした。明日、雨が降れば、たとえ、女が一人死んでも、私は、いまわしい予言者では、なくなるのだ。夢の中では、秋の陽が、さんさんと、降り注いでいたのだから。
私は、窓を開けて夜空を眺めた。月が出ていた。蒼《あお》ざめた細い月であった。星も出ていた。雨になりそうな気配は、どこにもなかった。僥倖《ぎようこう》を、頼むことは、できそうもない。私は、自分の力で、一人の女の死を、そして、私自身の運命を、救うより仕方のないことを、改めて、感じた。
その日、どうにか、浅い眠りについたのは、午前二時を過ぎてからだった。そして、奇妙な夢を見た。今までに、見た、どんな夢とも、違っていた。死の予告には、違いなかったが、野球選手の死でもなく、親友の死でもなかった。
私自身の死だったのである。暗い深淵《しんえん》の中に、私は、横たわっていた。それは、まぎれもなく、私であった。蒼ざめ、生命を絶たれた死骸《しがい》では、あったが、私に、間違いなかった。
私は、恐怖で、眼を覚ました。蒲団の上に起き上がると、手を伸ばして、明りを、つけた。備え付けの鏡を覗《のぞ》き込むと、顔がそれこそ、死人のように、蒼ざめている。私は、周章《あわ》てて眼をそむけ、手で、ごしごし顔を、こすった。
なぜ、あんな夢を見たのか、私には、判らなかった。
(私が死ぬ? そんな馬鹿なことがあるか)
私は、天井を睨《にら》んだ。私は、病気らしい病気をしたことがない。今でも、どこも悪くはない。その私が、どうして、死ななければ、ならないのだ? 死のうとしているのは、私の知らない、一人の若い女のはずではないのか?
悪魔は、気まぐれを起して、女の代りに、私を、殺すことにしたのだろうか? それとも、予言者であることを、拒否した私に、悪魔らしい、制裁を加えるつもりなのか? 夢で見た私自身の死は、私の反逆への警告なのだろうか?
(もし、そうだとしても、私は、女の死を、阻止して見せるぞ)
私は、改めて、誓い直した。私も、死は恐ろしい。しかし、明日、女の死を阻止できなければ、私自身は、死を免れたとしても、永久に、罪人のような、自責の念と一緒に、過さなければならないからである。
翌日は、朝から、秋晴れという言葉が、ふさわしい、上天気だった。私は、朝食を済ませると、旅館を出て、大島映画に向った。明るい、秋の陽射しが、舗道に、降り注いでいる。私の影が、長く尾を引いている。その明るさが、『死』の確実性を約束しているように、私には、思えてならなかった。
映画館は、まだ、開館していなかった。若い娘が、流行歌を口ずさみながら、掃除をしていた。私は、切符売場の傍に掛っている時間表に、眼をやった。第一回の始まりが、十一時になっている。私の腕時計は、十時四十分。まだ、二十分の余裕があった。女の死は若いアベックが、切符を買った後に訪れるはずであった。とすれば、少くとも、二十分間の余裕は、あることになる。
私は、煙草に、火を点《つ》けた。今日に、全《すべ》てが、掛っているという思いが、私の顔を、こわばらせていた。一人の女を、助けることによって、私自身が、救われるのだ。逆にいえば、今日女を助けなければ、私は、永久に救われないのだ。
陽は、相変らず、明るかった。血なまぐさい事件が、起きそうには、見えなかった。私は、次第に、楽観的な気持になってきた。一人の女を、死から守ることは、簡単なような気がして来た。あの女が、現われたら、車道を渡らないように、引き止めればいいのだ。それに、一人前の女が、無茶な横断を、するとも、思われなかった。しかし、一方では、私は、昨夜の、奇怪な夢のことも、考えていた。私は、なぜ、死ななければ、ならないのだろう。私が、女を守ろうとして、自分を犠牲にするとでもいうのだろうか。
二十分が、過ぎた。
映画館のベルが、けたたましい音を立てて、鳴った。私は、何本目かの煙草を、歩道に捨てて、足で、踏み消した。戦いが始まったのだ、死の予告との戦いが――
私は、映画館の切符売場に、注目した。夢の中では、若いアベックが、切符を買った後に、事件が、起きているからである。
ウイークデイの、それも、午前中のせいもあって、客足は、遅い。十二時近くなっても、切符売場は、閑散としていた。映画館の入口の、モギリ嬢は、退屈そうに、何度も、欠伸《あくび》をしている。しかし、私は、欠伸どころではなかった。人影が、映画館の前に、現われるたびに、私は、胸の鼓動が、激しくなるのを感じた。緊張の連続が、次第に、私を、疲れさせて、いった。
時計は、十二時を廻《まわ》った。疲労に、空腹が重なったが、もちろん私は、食事に、行くわけには、いかなかった。その間に、「死」が、姿を現わすかも、知れないからである。
(あと、五時間の辛抱だ)
と、私は、自分に、いい聞かせた。五時を過ぎて、夕闇《ゆうやみ》が立ち籠《こ》めれば、全てが、終るのだ。
二時。私は、ふっと、睡魔に襲われ、眠気を覚ますために、煙草を咥《くわ》えて、火を点けた。その時、若いアベックが、切符売場に現われたのを見た。夢の中で見たアベックであった。
私は、背筋に、薄寒いものを感じながら、反射的に、舗道に眼を転じた。
あの女が、歩いてくるのが見えた。真赤なセーターに、黒いスカート。間違いなく、あの女だ。一瞬、私は、死に向って、近づいてくる女を、ぼんやりと、見守っていた。余りにも、死の予告通りに、全てが、展開してくることへの、驚愕《きようがく》のせいかも、知れなかった。しかし、次の瞬間、私は、その女に向って突進していた。
私には、説明している暇は、なかった。説明しても、判って貰《もら》えることでもなかった。貴女《あなた》は、死ぬのだと、いわれて、一体、誰が頷《うなず》くだろう。
私は、女の腕を掴《つか》んだ。女は、甲高《かんだか》い悲鳴を上げた。恐らく私の顔は、恐怖や、焦燥や、その他、いろいろの感情のために醜く歪《ゆが》んでいたに違いない。女は、悲鳴を、あげ続け、私の腕を、振り払おうとする。私も必死だった。一歩でも、彼女を、車道から遠ざけなければならないと思い、掴んだ腕に、力を籠めた。女の顔が、歪んだ。それは、驚愕から、恐怖に、変っていった。
「助けて――」
と、ふいに、女が、叫んだ。その声で、私は、思わず、鼻白み、腕の力を抜いた。女は、私の腕を、振り払うと、私から、逃げる積りで、車道に、飛び出した。私は、周章《あわ》てて、彼女を引き止めようとして、手を伸ばした。その指先が、彼女の、赤いセーターに触れたとき、私の眼に、突進してくる、スポーツ・カーの白い車体が、見えた。
私は、思わず、眼を閉じた。ブレーキの悲鳴。そして、鈍い鉄に肉のぶつかる音。私が、眼を開いた時、女の身体は、車道の中央に、ボロ布《きれ》のように横たわり、真赤な血が、舗道を染めていた。夢の中の光景と、同じように。
十
私は、警察に、逮捕された。容疑は、殺人。私が、女に掴《つか》みかかり、逃げようとする女を、突き飛ばして、殺したというのである。
証人は、何人もいた。欠伸《あくび》を、連発していた、映画館のモギリ嬢まで、異常な熱心さで、私が、女を殺すのを見たと、証言した。
私は、抗弁しなかった。私には、弁明の方法がなかったからだ。死の予告の話をしても、警察は、苦笑するだけに、決っている。あの女は、私が、あんなことをしなくても、死ぬ運命にあったのだと、説明したところで、誰が、信じてくれるだろうか。私は、起訴されるだろう。裁判になれば、有罪は、間違いない。死刑の判決があるかも知れない。しかし、そうなっても私は、抗議も、上告もしないつもりだ。なぜなら、私は、私自身が死ぬことを知っているからである。
不思議に、恐怖は、なかった。もう、二度と、いまわしい死の予告を、夢見ずに、すむからかも知れない。
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夜の秘密
一
藤堂美佐子が、宗方信一と婚約したのは十一月の初旬であった。その時の話で来年四月に挙式ということになった。美佐子も、宗方も異存はなかった。見合であったが、二人の間に芽生えた愛情は本物だった。少くとも、そう信じていた。
美佐子は、自分を、古風な女だと思っている。卑下しているわけではなかったし、自分を弱い女だと思っているわけでもなかった。ある意味では、自信でもあった。
美佐子は、人間には、二通りの生き方があると思う。この考えは、幼い頃、両親から聞かされた話だったかもしれないし、本で読んだことかも知れないが、二十四歳の今では、彼女自身の考えとなっていた。
一つの生き方は、舞台の上で、華やかなフットライトを浴びる生活である。もう一つは、それに拍手を送る観客の生活である。生れつき、フットライトを浴びるように、できている人間もいるし、観客席に座るようにできている人間も、いるのだと、美佐子は考える。もちろん、自分には、後者の生き方しかできない。だが、その、どちらが幸福か、誰にも判らないのだ。ひょっとすると、永久に無名である観客の方が、幸福かもしれない。
美佐子が、自分を古風な女と考えたのは、自分には、無名の人の集まりである観客席に、幸福を見出すことができると、考えたことでもあった。
宗方との見合をすすめたのは、世話好きの叔母であった。「新聞社に勤めている人だけど、派手なところがなくて、堅実な感じの方だよ」と、叔母はいった。叔母が、しきりに、『堅実さ』を強調したのは、彼女の頭の中にも、テレビや映画の影響で、新聞記者という職業が、派手な、一種の有名人に映っていたからだろう。叔母の心算《つもり》では、新聞記者らしからぬ男というわけであった。
宗方の最初の印象は、叔母の言葉通り、平凡で、堅実な青年らしいというものだった。あとになって、宗方に聞くと、彼の美佐子に対する印象も、「どこにでもいる普通の娘」というものだったらしい。二人とも、強い印象を受けなかったわけだが、それが、かえって良かったのかも知れない。肩を張らずに、気楽に交際ができるという安心感が、二人を近づけていった。
デイトの場所も方法も、ありふれたものだった。
「今日は、素晴らしい所へ案内するよ」
といったような気負ったいい方を、宗方がしたことはない。だが、仕事にさしつかえない限り、彼が、約束を破ったことはなかった。
美佐子の方でも「約束の時間に遅れるのは、女性の特権」などという詰らない考えを持ったことはなかった。
夏の終りから交際を始め、三か月後に、二人は婚約した。美佐子は、宗方が信頼できる異性に思えたし、宗方の方でも、彼女に対して、同じ信頼感を抱いたに違いなかった。
その年の暮に、宗方に年賀状を書く時、これが、彼に書く最後の年賀状になると思い、「賀正」と書いたあとに、そのことを、書き加えた。楽しい、小さな茶目っ気のつもりであったが、宗方から届いた年賀状にも、同じことが書いてあった。別に相談したわけでもないのにと、年があけて会ってから、二人は笑ってしまった。
「どうやら似た者夫婦になりそうだ」
と、宗方が、いった。
美佐子も、そう思った。
二
見合から、婚約までの期間は短かったが、美佐子は、彼女なりに、宗方を、理解したつもりであった。新聞記者としての宗方が、優秀かどうか、美佐子には判らない。だが、宗方信一という一人の人間は、判っているつもりだった。宗方も、「君には、隠しだてができない」と、笑いながら、いったことが、あった。
その自信が、ある日、ふいに、ぐらついたのである。
宗方の態度が急に変ったわけではない。約束を破ったわけでもないし、会えば、いつもの通りの宗方だった。彼の誠実さが崩れたわけでもなかった。
だが、どこか違っている。婚約してからは、よく、将来の設計を語り合うのだが、そんな時、ふと、宗方の眼に、空虚な影が走る瞬間があった。前にはなかったことだった。前には、宗方の表情に、空虚な影を見たことはない。
(錯覚だったのではないか)
と、宗方と別れてから、美佐子は考えてみる。だが、錯覚ではない。宗方の気持が、一瞬だが、自分から離れてしまう時が、あるのだ。決して、錯覚ではない。
あの瞬間宗方は、一体、何を考えているのだろうか?
美佐子は、それを知りたいと思った。自分には、それを知る権利があると思った。四月には結婚する。秘密はほしくない。秘密の部分があれば、それだけ二人の結婚生活は、脆《もろ》いものになってしまう。美佐子は、影のある家庭は、持ちたくなかった。
次のデイトの時、美佐子は、努めて、何気なく、宗方に訊《き》いてみた。
「何か、心配事があるんじゃないの?」
「心配事――?」
宗方は、おうむ返しに、いってから、かすかな狼狽《ろうばい》の色を見せた。
「そんなものは、ないよ」
宗方は笑顔を作って、いった。
「全《すべ》て快調だ。仕事も、上手《うま》くいっている。社会部の仕事にも、慣れたからね」
「本当に?」
「本当さ」
宗方は言葉を強めていった。だが、美佐子には、宗方が強い調子でいえばいうほど、逆に、言葉の裏に秘密の匂《にお》いを嗅《か》いでしまう。美佐子の性格は、秘密に眼をつむって、幸福の幻影で、満足できるには、誠実すぎた。言葉をかえていえば、観客の真面目《まじめ》さといえるかも知れない。
「信じてくれないのか?」
宗方が不安気に、いった。美佐子は、信じるといいたかったが、こんな会話は、嫌だった。だが、美佐子には、嘘《うそ》は、いえなかった。
「信じたいけど、自分を誤魔化せないわ」
「自分を誤魔化せとは、いってない」
「それなら正直にいうわ。私は気がついていたのよ」
「何を?」
「こうして二人だけでいる時にも、貴方《あなた》の気持が、ふいに、私から離れてしまう瞬間があることに、気付いていたのよ。それが、仕事の上の心配か何かだったら、構わない。でも、私には、そうは思えないの。私の勝手な想像だけど、それが、とても重大なことのように思えるのよ。そのままにしておいたら、私たちの間を、駄目にしてしまうのじゃないかと、それが心配なの」
すぐには返事がなかった。そのことが、美佐子を不安にする。だが、宗方は、笑って見せた。
「君の気のせいだよ。心配することなんか、何もないんだ」
宗方の言葉は、美佐子に向ってというよりも、宗方自身への言葉のような響きがあった。ふと、美佐子は、自分が、取り残されてしまったような空しさを感じた。
美佐子は言葉を失って、口をつぐんだ。
仕事は順調だという宗方の言葉は、嘘ではなかった。宗方と同じ記者仲間の田島の話でも、宗方の仕事ぶりは、立派だし、最近も、特種《とくだね》をスクープして、局長賞を貰《もら》ったという。
だが、美佐子が感じた、あの暗い影は、決して幻影でも、錯覚でもなかった。錯覚でない限り、美佐子は、それが何かを知りたかった。
三
女のことも考えてみた。
気がすすまなかったが、わざと、宗方の留守にアパートを訪ね、管理人に、宗方を訪ねてきた女のことを、訊《き》くこともした。管理人は、好奇心の強そうな中年の女だったが、美佐子以外の女が、アパートに来たことはないと、いった。嘘《うそ》をついているようには、思えなかった。宗方の部屋にも、女の匂《にお》いは感じられなかった。
街で、宗方を見かけて、声をかけずに、あとを追《つ》けてみたこともあった。だが、そんなある日、ふと鏡を見て、自分の眼が暗くて濁っていることに気付いて、美佐子は愕然《がくぜん》とした。いつの間にか、猜疑《さいぎ》の眼で、宗方を見つめていたのである。
二人の間に、秘密があって欲しくないと、美佐子は思う。だが、その秘密を知ろうとすると、暗い猜疑の虜《とりこ》になってしまう。二人の間に、疑惑と不信が生れたら、愛は消えてしまうだろう。美佐子には、それが恐ろしかった。そのくらいなら、秘密に眼をつむって、愛を持続させた方がよい。宗方が、彼の方から打ちあける気になるまで、待つ方がいい。
問題は、秘密に堪える愛の深さを掴《つか》むことだった。
結婚するまでは、肉体関係を持つまいと考えていた美佐子が、泊る覚悟で、宗方のアパートを訪ねたのは愛の強さを確かめたかったからである。
二月末の寒い日だった。愛を確かめ合うにふさわしい夜だったかどうか、美佐子には判らない。
部屋の隅で、型の古い電気ストーブが赤く燃えていたのを、妙にはっきりと憶《おぼ》えている。男臭い蒲団《ふとん》の中で、美佐子は、彼女から、すすんで宗方に、身体を与えた。性の経験のない美佐子に、歓喜はなかった。短い愛の営みが終った時、美佐子は、まだ、不安定な自分の気持を、持て余していた。宗方の方の技巧は、ぎこちないものだった。そのことが、宗方の潔癖さの証拠のようにも思えた。また、美佐子の直感は、愛の行為の中で、他の女の匂いを、嗅《か》ぎとりもしなかった。
だが、それが終った時、いぜんとして、空虚さが、彼女の心の底に残っている。肉体の交渉を持ったことで前よりも、深く、宗方を知ったという自信は、持てないのだ。どうしても、自分のものにできない何かが、宗方にあるような気がしてならなかった。
「後悔しているんじゃないか?」
と、宗方が、いった。その言葉は、愛の行為のあとで、いうべき言葉ではない。愛し合っている二人に、『後悔』が必要だろうか。だが宗方は、そういった。
美佐子は、強い眼で宗方を見た。
「なぜ、後悔しなきゃいけないの?」
「――――」
宗方の顔に、かすかな狼狽《ろうばい》が浮んだ。いつか美佐子を怯《おび》えさせたと同じ狼狽の色が。
「なぜ?」
美佐子は、同じ言葉を繰り返した。
「そうだな」
宗方は、美佐子の顔を見ないでいった。
「後悔することなんか、何もないんだ」
ふと、美佐子は、今の宗方の言葉が、二人の今後の行為とは、全然、別なことを、いっているような気がした。
(そんなはずはない)
と、美佐子は、あわてて自分にいった。そんなはずはないのだ。二人の会話の中に、第三者が入り込んでくるはずがあるものか。
美佐子は、宗方に見えないところで、唇を噛《か》んだ。どうかしているのだ。私は――
「すぐ結婚しよう」
短い沈黙のあとで、宗方が、ふいにいった。
「四月まで待たずに、すぐ結婚しよう。空いている式場を探し出してきて、明日にでも式をあげるんだ」
「――――」
「不賛成なのか?」
「なぜ、急に――?」
「理由なんかない。ただ、四月まで待つのが嫌になったんだ。君と早く家庭を持ちたいんだ」
「でも四月に――」
「約束なんか構やしないじゃないか。お願いだ。すぐ結婚しよう。いいだろう?」
宗方の言葉は、次第に、強い調子のものになっていった。
「いいだろう? 考えることはないじゃないか」
「――――」
確かに、考えることはないかも知れない。四月に予定した結婚式を、一か月ばかり繰り上げるだけなのだ。だが、美佐子はかすかな躊躇《ちゆうちよ》を感じた。宗方の言葉が愛の高まりの中から出たものではないような、気がしたからである。
「すぐ結婚しよう」
宗方は、同じ言葉を繰り返しながら、激しく、美佐子の身体を抱きしめた。その強さで、愛の強さを、示そうとするかのように。
宗方の手が、乳房に触れた時、美佐子は、眼を閉じて、自分から身体をぶつけていった。もう、何も考えまいと思った。考えることが怖くなった。考えたところで、どうなるのだろう。とにかく、私は、宗方を失いたくないのだ。
前よりも、深い抱擁の中で、美佐子は、宗方の申し出に、頷《うなず》いていた。
三月十日に、二人は結婚式をあげた。共済組合のホールを利用した、ささやかなものだった。
テーブル・スピーチを求められた、宗方の友人の一人は、多少の諧謔《かいぎやく》を交えながら、こんなことを、喋《しやべ》った。
「四月に予定していた結婚式を三月に繰り上げると聞いて、そんなに、美佐子さんに参っているのかと、改めて、お二人の熱度の高さに敬意を表したわけです。願わくば、かかる強烈な愛情を、いつまでも持ち続けて頂きたいものだと思います」
好意のある微笑が、参加者の間に、ひろがっていった。だが美佐子は、笑えなかった。宗方は微笑していたが、その微笑はひどくぎこちないものに見えた。緊張のせいばかりとは見えなかった。宗方自身、結婚式を早めた理由が、愛情の強さとは考えていないのではないか。何かが、彼を追いつめて、結婚式を急がせたのでは、ないだろうか。忘れるつもりだった疑惑が、再び、美佐子の心を捉《とら》えたようだった。
宗方は三日間の休暇しかとれなかった。
新婚旅行は、短い休暇に合せて、鬼怒川《きぬがわ》温泉に決められた。北関東の山々は、まだ深い雪の中に眠っていた。車窓から、清冽な雪景色にふれた時、美佐子は、ここに来て良かったと思った。雪の白さが、心を洗ってくれたような気がしたからである。
二人は、新婚夫婦用に作られたという、離れに泊った。数寄屋造りの建物で、母屋とは独立した形になっていた。
最初の夜、宗方は、美佐子を求めなかった。彼は、「今日は疲れたろうから、ゆっくり休んだ方がいい」といった。美佐子は、それを、素直に、新妻に対するいたわりと、受けとった。他に、どんな受けとり方が、あったろう。
美佐子が、蒲団《ふとん》に入ると、宗方は、思い出したように、「君は、幸福かい?」と、訊《き》いた。美佐子は、頷いて、眼を閉じた。眼を閉じたまま、「貴方《あなた》は?」と、訊きかえすと、宗方はしばらく間を置いてから、「幸福だよ」と、いった。声は大きかったが、口元は歪《ゆが》んでいた。
眼を閉じていた美佐子には、それは見えなかった。美佐子は、声だけを聞き、安心して、眠りについた。
四
疲労が、深い眠りを誘ったのかもしれない。翌朝、美佐子が眼覚めたのは、陽が高くなってからである。
隣に、宗方の姿が見えないのに気付いて、美佐子は、周章《あわ》てて起き上がった。やたらに恥ずかしかった。新婚第一日に、夫より遅れて起きたことが、女として、はしたないことに思えたからである。
手早く身仕度をして、化粧室に立った。がそこにも、宗方の姿は見えなかった。朝の散歩に出かけたのかもしれないと思い、美佐子は、庭下駄を突っかけて、外へ出た。
昨日に比べて、暖かいせいか、淡いモヤが、温泉町を包んでいた。美佐子は、鬼怒川に沿って、半時間ばかり歩いてみたが、宗方には出会えなかった。
急に不安に襲われて、美佐子は、離れに戻ったが、その時になって初めて、テーブルの上の封筒に、気がついた。
その封筒は、旅行先から、親戚《しんせき》知人に手紙を出すために、昨日、鬼怒川についてすぐ、買い求めたものだった。
封筒の表には、ただ、「美佐子様」とだけ書かれてあった。
美佐子は、あわてて封を切った。中から出てきた一枚の便箋《びんせん》には、短い言葉しか、記されて、いなかった。
× ×
〈私には、幸福を掴《つか》む資格はない。
私を、探さないで欲しい。
私を、許して下さい。
宗 方〉
× ×
たったこれだけの短い言葉から、一体何が理解できるのだろう。美佐子に判ったのは、宗方が、彼女の前から、姿を消してしまったということだけだった。
美佐子は呆然《ぼうぜん》として、もちろん、箸《はし》をつける気は、起きなかった。彼女一人だけの室内を、いぶかし気に見廻《みまわ》す女中に、美佐子は、「急用が出来て、東京に戻った」と、乾いた声で、いった。女中は、「新聞社の方って、大変ですのね」と、同情した口ぶりで、いった。
かろうじて、気を取り直すと、美佐子は、東京に戻ることにした。宗方のいない鬼怒川に止《とど》まっていることは、何の意味もなかった。
美佐子は、東京に着くと、万一の希望を抱いて、その足で、新聞社を訪ねたが、やはり、宗方は、戻っていなかった。
友人の田島は、美佐子の話を聞いても、すぐには、信じられないようだった。
「わけが判らないな」
と、田島は、美佐子から見せられた宗方の手紙に、眼をやったまま、いった。
「宗方は、貴女《あなた》との結婚を、あんなに喜んでいたんです。それなのに、新婚旅行先で、消えてしまうなんて、信じられませんね。一体、何があったんです?」
「それを、私も、知りたいんです」
「全然、心当りがないんですか?」
「――――」
美佐子は、黙って頷《うなず》いた。が、一つだけ、心に、引っかかるものがあった。
婚約中、宗方の顔に浮んだ、あの暗い影である。そして、宗方が、急に結婚を早くしたいといい出したことも、あの暗い影との関係があるのではないだろうか。あるいは、今度の宗方の失踪《しつそう》とどこかで、つながりをもっているのかもしれない。だが、どうして、それが証明できるというのか。
「きっと、魔がさしたんですよ」
と、田島は、いった。彼にしてみれば、美佐子を前にして、他に、いいようがなかったのだろう。だが、美佐子は、そうした曖昧《あいまい》な言葉で、自分を誤魔化せはしない。
美佐子は、宗方が姿を消した理由を知りたい。知らなければならないと思う。あるいは、その結果、宗方に対する憎悪が、生れ、それに苦しめられることになるかも知れなかったが、今の空虚な気持に比べれば、どのくらいましか判らないと、思うのだ。
宗方に対する愛情は、まだ、消えていない。そのことも、宗方失踪の理由を知りたい気持を、かき立てるのである。
五
美佐子の両親は、すぐ、実家に戻るように、いった。ハネムーンの旅先で、花嫁を棄てて、姿をくらませるような破廉恥な男のことなど、一刻も早く忘れてしまうことだと、父も母も、いった。両親には、娘を傷ものにされたという怒りがあるようだった。
だが、美佐子は、しばらくの間、宗方の借りていたアパートで過したいと、いいはった。
新婚旅行から戻ったら、新しい家が見つかるまで、その部屋で、二人で過すつもりでいたのである。
アパートの管理人は、ひとりだけで、ハネムーンから戻ってきた美佐子を、いぶかしげに見やった。だが、美佐子が、堪えなければならないのは、この中年女の好奇の眼だけではなかった。どこで聞いてきたのか(恐らく、鬼怒川の女中が喋《しやべ》りでもしたのだろうが)週刊誌の記者が、「新婚旅行で、夫に失踪《しつそう》された女」の記事をとりに、押しかけてきたりした。
実家に戻り、両親の庇護《ひご》の下に入れば、好奇の眼からだけでも、逃げられたかも知れない。しかし、美佐子は、アパートに止《とど》まった。宗方が、長い間住んでいた部屋に止まっていることで、彼がその姿を消した理由が、あるいは、判るかも知れないと考えたからである。
美佐子は、宗方の持物を、丹念に調べてみた。手紙の束、アルバム。そうしたものを、一枚一枚読み返し、見かえしたが、これはというものは、出てこなかった。
宗方の日記もあった。が、不思議に、最近のだけ抜けているのである。
美佐子は、もう一度、田島に会ってみた。彼は、協力を約束してくれた。田島の方でも、宗方の行方を探しているのだが、まだ、手がかりが得られないと、いった。
美佐子は、宗方が、今、どこにいるかということよりも、彼女の前から姿を消した理由を、知りたかった。もし、その理由が判らなければ、宗方を見つけ出せても、また、姿を消してしまうに、違いなかったからである。
美佐子は、宗方の眼に、時おり、浮んだ暗い影のことを、田島に話した。田島は眼を大きくした。
「貴女がそれに気付いたのは、いつ頃からですか?」
「それが、はっきりしないのです。でも、年賀状を、交わした頃は、暗い感じは、少しも感じませんでした。ですから、今年になってからなんです」
「今年に入ってからですね――」
「何かあの人のことで、変ったことに、お気付きになりませんでした?」
「それを考えているんですが――」
田島は、腕を組んで、考え込んだ。難しい顔になっている。場所が、新聞社の地下にある喫茶室なので、けたたましい音響や、呼び出しのアナウンスが、聞こえてくる。考えごとをするのに、ふさわしい場所とは、お世辞にもいえなかった。
田島は難しい表情のまま、腕を解き、煙草を取り出した。が、火はつけずに、そのまま、テーブルに放り出してしまった。
「一つだけ思い出したことがあるんですが、これは、失踪とは、関係がないと思うんですがね」
「どんなことでしょうか?」
「確か一月の中頃でした。どこか、詩集を出版してくれるようなところを知らないかと、宗方に、訊《き》かれたことがあるんです」
「詩集――ですか?」
美佐子の顔に、戸惑いの色が浮んだ。宗方が、詩を書くと、聞いたことはない。詩集を読んでいるのを見たこともない。アパートの、宗方の部屋にも、詩集は一冊もなかったはずである。出版の話も聞いたこともなかった。
「恐らく、友人にでも頼まれたんでしょう」
と、田島もいった。
「彼には、世話好きなところがありますからね」
「それで、田島さんは?」
「大学時代の友人で、出版社で働いているのがいるんで、その男を紹介しましたが、行ったかどうか、僕も、忘れてしまったので」
田島は、ポケットを探って、その友人の名刺を、美佐子に渡して寄こした。
「行ってみるつもりですか?」
「ええ」
と、美佐子は、頷《うなず》いた。恐らく、田島のいう通り、詩集の出版|云々《うんぬん》と、宗方の失踪とは無関係だろう。だが、どんなに無関係に見えることでも、美佐子は、調べてみるつもりであった。
六
代々木《よよぎ》に近いその出版社は、三階建の瀟洒《しようしや》なビルだった。通りに面したウインドウには、最近出版した本や雑誌が、並んでいた。その中に詩集はなかった。
美佐子が、受付の女に、田島から貰《もら》った名刺を見せて、この方にお会いしたいというと、「井上は、出かけております」と事務的な返事が、戻ってきた。
「待たせて頂いて、構いませんか?」
「それは構いませんけど、いつ戻ってくるか判りませんよ」
「いいんです」
美佐子は、近くのソファに腰を下ろした。今のところ、宗方の失踪《しつそう》の手がかりになるようなものは、何もない。アパートに戻っても、無駄であった。ここで、井上という男を、待つより仕方がなかった。
出版社らしく、忙《せわ》しげな足取りで、人が出入りする。そのたびに、外の冷たい風が、吹き込んできて、美佐子を震えさせた。
美佐子は、二時間近く待った。夕方近くなって、小柄な、ベレー帽をかぶった青年が、手をこすりながら入ってくると、受付の女が呼びとめて、美佐子を指さした。彼が、井上という男だった。
井上は、立ったまま、美佐子の顔を不遠慮に見て、
「何でしょうか?」
と、訊《き》いた。
美佐子は、田島の名前をいってから、彼の紹介で、宗方信一という男が、詩集の出版のことで、訪ねて来なかったかと、訊いた。
「宗方信一さんですか?」
井上は、訊き返してから、「あっ」と、いった。
「確か新聞社の人でしたね。名刺を貰ったのを憶《おぼ》えていますよ」
「来たんですね?」
「ええ、見えましたよ。新聞社にも、出版局があるんでしょうといったら、自分の名前を出したくないんだと、いわれましてね」
「それで、その詩集は、出版されたんでしょうか?」
「いや、詩集を出すのは、冒険なんで、お断りしました。有名な詩人のなら、ソロバンが合いますが、持ってこられたのは、全くの無名の人のでしたからね」
「その詩を、お読みになりました?」
「ええ。二、三ね。たいした詩じゃありませんでした。ただ、面白かったのは、その詩が、ペンや鉛筆で、書かれたものじゃなかったことです」
「と、いいますと?」
「よく、誘拐犯人なんかが、筆跡を誤魔化すのに、新聞や雑誌から、印刷された活字を切り抜いて、それを貼《は》り合せて、脅迫状を作るでしょう。あれで詩が書いてあるんです。書いてあるというのは、正確じゃないな。貼って作ってあるというわけです。しかし、印刷してしまえば、その面白味も消えてしまいますからね」
「その詩を書いた人の名を、憶えていらっしゃいますか?」
「さあ、何という名前だったかな。女の名前だったことは、確かですが――」
「女――?」
美佐子の胸を、暗いものが、走り抜けた。婚約中、自分以外に女がいるのではないかという、暗い疑惑に襲われたことが、何度かあった。その度に、自分に向って打ち消していたし、宗方のまわりから女の匂《にお》いをかぐこともなかった。それなのに、宗方が、出版に走り廻《まわ》っていたのは、女の詩集だという。
「宗方は、その人のことを、何か話しませんでしたでしょうか?」
「訊《き》いたんですが、答えてくれませんでした。出版することになっていたら、詳しく話して貰えたんでしょうが。あの詩集が、どうかしたんですか?」
井上は、美佐子の顔を覗《のぞ》き込むようにしたが、彼女に答えられる問題ではなかった。女のことも、詩集のことも、今、初めて耳にすることなのだ。
「わかりません」
と、美佐子は、いった。他に、どんな言葉が、いえただろうか。
井上は、その詩集について、思い出したことがあったら、電話しましょうと、いってくれた。美佐子は、礼を述べて、四谷三丁目のアパートに帰った。
七
美佐子は、部屋にこもって、井上のいった詩の原稿を、探した。井上は、普通の原稿ではなく、雑誌の活字を切り抜いて、貼り合せたものだと、いった。それが本当なら、かなりかさばった原稿のはずであった。しかし、いくら探しても、それらしいものは、発見できなかった。
他の出版社に持ちこんだのだろうか。今の美佐子には、わかりようもなかったが、その詩を書いた女性のことが、彼女の頭から、離れなかった。
どんな女性なのだろうか。私より美しい人なのだろうか。
翌日田島に会ってその話をすると、
「女――ですか?」
と、彼は、驚いた表情になった。
「彼が女流詩人と、つき合いがあったなんて初耳ですよ。彼の口から、貴女《あなた》以外の女性の名前を聞いたことは、ありません。嘘《うそ》ではありません」
嘘ではないだろう。美佐子にも、田島が、彼女に同情して、嘘をついているのだとは、思えない。しかし、だからといって、女性の存在が否定されたわけにはならなかった。むしろ、逆であった。友人にも、知らせなかったということは、かえって、その女性と宗方との間の深いつながりを暗示しているのではあるまいか。
美佐子には、そんな風に考えられて、ならなかった。
「僕の方もいろいろと、調べてみました」
と、田島はいった。
「デスクも、応援してくれましてね。支局にも、宗方の写真を送って、探して貰《もら》っているんですが、まだ、何の報告も、来ていません。ただ、彼の机を調べたら、こんなものが見つかったのです」
田島は、テーブルの上に、一冊の本を、載せた。
その本の表紙には、『歎異抄』と、あった。美佐子が、どう読むのだろうかと、考えていると、
「タンニショウです」
と、田島が、いった。
「親鸞《しんらん》の教えを、弟子の唯円《ゆいえん》が、書きとめたものといわれています」
親鸞の名前は、美佐子も、知っていた。昔、倉田百三の『出家とその弟子』を、読んだことがあり、その記憶が、おぼろげだが、残っていたからである。だが、歎異抄と、宗方との間に、どんな関係があるのだろうか。
宗方が、宗教に興味を持っていたというのは美佐子には、初耳であった。彼が、無宗教的な言葉を口にすることは、聞いたことはあっても、抹香《まつこう》臭い話を耳にしたことはなかった。それを、美佐子が、いうと、田島も、頷《うなず》いた。
「実は、僕も、この本を宗方の机に発見して、意外な気がしたんです。それだけに、彼の悩みが深刻なものだったことが、よく判るような気もしたんですが」
だが、宗方の悩みとは、一体どんなものだったのだろうか。美佐子の知りたいのは、そのことだった。
「何回も読み直したらしく、手ずれのあとがありますが、一か所だけ、赤鉛筆で、傍線を引いたところがあるのです」
田島は、そういって、歎異抄の中ほどを開いて、美佐子に示した。そこにあった文字は、次のようなものだった。
× ×
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんにすなはちころすべし。しかれども一人にてもころすべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにあらず。また害せじと思ふとも百人千人をころすこともあるべしと、おほせのさふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしきと思ひて、本願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせさふらひしなり――
[#ここで字下げ終わり]
× ×
一度読んだだけでは、美佐子には、平仮名の多い、この文章の意味は、よく理解できなかった。だが、「ころす」という言葉の多さが、彼女を、怯《おび》えさせた。
宗方の失踪《しつそう》が、暗い殺人と、どこかで、繋《つな》がりを持っているのだろうか。
「僕も、浄土真宗の教えは、詳しくは、知りません。この本が出てきたんで、あわてて、歎異抄の解説書を買ってきて読んだような状態です。そんな一夜漬の知識ですから、正鵠《せいこく》を得ないかも知れませんが、このところの文章は、こんな風だと、思います」
田島は、あまり自信のない調子で、次のように、説明してくれた。
「これは、歎異抄の十三章目にある言葉の一部分なのです。ここは、親鸞と弟子の唯円の問答の形になっています。親鸞が、唯円に向って、今、私が、千人の人を殺したら、極楽往生できるといったら、お前は、千人の人間を殺せるかといったら、唯円は驚いて、私には、一人の人間も殺せそうにありませんと、答えた。それに対する親鸞の言葉なのです『何事も意のままに行えるならば、往生のために千人殺せといったら、すぐ殺すだろう。しかし、一人でも殺す前に前世の因縁がないから殺害しないのだ。自分の心が善くて殺せないのではない。また殺害すまいと思っても百人千人を殺すこともあるだろうとおっしゃったのは、自分の心が善いのを善いと思って、これで往生ができると考え、また悪いのを自己判断で悪いと断定してしまって弥陀《みだ》が本願の不思議で助けてくださるのを知らないのだ』こんな意味だと思います」
美佐子は、その説明で、言葉の意味が本当に理解できたかどうか、彼女自身にも、わからなかった。さっき、彼女の心を襲った怯えも、消えては、くれなかった。
いや、むしろ、不安が増したといった方が、よかったかも知れない。
(宗方は、誰かを殺したのではないだろうか。もちろん、彼が、自分の利益のために、殺人を犯したとは考えられない。そんなことがあれば、警察が、調査しているはずだから。恐らく誤って、殺したのだろう。宗方には、責任はなかったが、自責の念に苦しめられていたのではないのか。そして、誤って宗方が殺してしまった相手が、あの詩集の女性なのではあるまいか)
こう考えれば、漠然とではあったが、今までのことが納得できそうであった。しかし、美佐子のこの推測は、当っているのだろうか。
八
美佐子は、歎異抄を持って、アパートに戻った。宗方が、その中に心の救いを求めたのであれば、美佐子も、同じものを、その中から得たいと思ったのである。
その夜遅くまで、美佐子は、何度も、歎異抄の言葉を、読みかえした。難解な言葉は、いくら読みかえしても、美佐子には、理解できなかった。親鸞の言葉は、美佐子には、あまりにも逆説に満ちているように思えて、どう受け取ってよいか、わからなかったこともあった。
翌朝、目覚めた時、枕元《まくらもと》には、歎異抄が置かれたままになっていた。起き上がって、手を伸ばした時、廊下で、彼女の名前を呼ぶ管理人の声が聞こえた。電話が、掛って来ているという。
美佐子は、ガウンを羽織って、部屋を出た。階段を降りながら、腕時計を見ると九時を廻《まわ》っていた。が、眼は、まだ、朱《あか》かった。
電話は、出版社の井上からだった。
「詩集の主の名前を、思い出したのです」
と、井上は、いきなり、電話口で、いった。美佐子の顔が、こわばった。女の名前を知りたいが、知るのもまた怖かった。自分の知らなかった女の存在が、具体的になってくるのが恐しい。だが、知らずに済ませても、同じ様に、不安は鬱積《うつせき》してくるに決っているのだ。
「何という名前でしょうか?」
声が震えた。
「かみやです」
「カミヤ――?」
「神様の神に、山とか谷とかという、あの谷です。それで、神谷。名前の方は、確か文子だったと思いますが、この方は、違っているかも知れません」
「神谷文子――」
その名前を、美佐子は、受話器を持ったまま、小さく口で、いってみた。宗方と自分の間に、神谷文子という名前を持った一人の女が、はっきりと姿を見せたのだ。美佐子は、いやでも、神谷文子と、顔を向き合せなければならない。
「何かいいましたか?」
「いいえ」
と、美佐子は、いった。
「有難うございました」
電話を切り、部屋に戻ったが、美佐子は、じっとしていられなかった。神谷文子と、宗方の関係を知らなければ、ならなかった。その結果が、彼女を絶望に追いやるものであっても。
誰に聞いたら、神谷文子のことが、判るのだろうか。最初に考えたのは、詩人の仲間に聞いて廻ることであった。美佐子は、図書館に出かけて、詩人の団体を調べ、その一つ一つを、訪ねてみることにした。
詩作は、金にならないといわれているが、詩のグループは、意外に多かったし、所在も各地に散らばっていた。
美佐子は、電話で済む場合は、電話で問い合せ、電話で話がつかない場合は、そのグループの主宰者の家まで、足を運んだ。
二日間、美佐子は、この仕事を続けた。が結果は、空しいものだった。調べたのは東京だけであったが、神谷文子の名前は、どの作者グループの名簿にも載っていなかった。
市販されている詩の雑誌も、一冊残らず買い求めたが、その中にも、神谷文子の名前は発見できなかった。
二日間のうち、後の日は、雨であった。春には珍しい氷雨だった。その冷たい雨の中を歩き廻ったのが、いけなかったのか、美佐子は、風邪《かぜ》をひいてしまった。
あり合せの薬を飲み、床についていると、夕方になって、田島が、見舞いに、寄ってくれた。
美佐子は、礼をいってから、詩集の作者名が判ったことを知らせた。
「神谷文子――ですか?」
田島は、何度か、その名前を、小さく繰りかえしていたが、
「何となく、引っかかるな」
と、ひとり言のように、いった。
「ご存じですの?」
美佐子も、引きずられて、表情を固くした。
「前に、どこかで、見たような気がするんです。かみやふみこという発音には、引っかからないんですが、神谷という文字の形に、引っかかるんです」
「と、いうことは、前に、新聞か何かで?」
「そうだと思います。これから社へ戻って、資料室で、古新聞を調べてみることにします。何か掴《つか》めたら、知らせに来ますよ」
田島はあわただしくいうと、レインコートを、かつぐようにして、部屋を出ていった。そのコートが、かすかに濡《ぬ》れているのを見て、美佐子は今日も、小雨が降り続いていたのを思いだした。
宗方は、この雨に濡れながら、どこかを、ぼんやりと歩いているのではあるまいか。
宗方が、今、何を考え、何に悩んでいるのか、美佐子は、それを知りたいのだ。
夜に入ると、雨足が、いくらか強くなり、屋根を打つ雨音も、聞こえるようになった。
その、雨の中を、田島は、頭を濡らしながら戻ってくると、「ありましたよ」と、大きな声で、いった。一瞬、美佐子は、自分の顔が、こわばるのを感じた。もし、その名前が、宗方と並んで出ていたとしたら、と、美佐子は、怯《おび》えたのだ。
田島は、新聞の部厚い綴《つづ》りを、美佐子の枕元《まくらもと》に置いた。美佐子も、起き上がると、羽織を肩にかけて、座り直した。何かに対して、身構える姿勢に似ていた。
田島は、綴りの中ほどを開いて、その頁《ページ》の下の方を、指さした。小さな三行記事であった。
× ×
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(横浜発)三月三日午前九時二十分頃、神奈川県××郡A町にある神奈川療養所B棟で、回診に来た看護婦の清水京子さん(二〇)が、患者の神谷文子さん(二八)が、ベッドの中で死んでいるのを見つけて届けでた。文子さんは、日本|剃刀《かみそり》で手首を切っており、厭世観《えんせいかん》からの自殺と見られている。
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九
「この記事を読んだ時、あることを思いだしたんです」
と、田島はいった。
「一月の三日でした。デスクの提案で、いろいろな場所や立場にいる人たちの、初春の感想みたいなものを、スケッチ風に、記事にしてみようということになったんです。宗方は、現在療養中の人たちに当ることになって、確か、この療養所を訪ねたはずなのです」
「その時、宗方は、この人に、会ったのでしょうか?」
「それは、判りません。判らないというのは、取材から帰ってきた宗方が、どうしても、記事にまとまらないからといって、代りに、上野機関区で働く運転手の話を、記事にしたからです」
「なぜ、宗方は、記事に、まとめられなかったんでしょうか?」
「判りません。あの時は、僕なりに、こんな風に考えたんです。宗方は、割合感傷的なところがある男です。だから、加療中の患者の取材は、苦痛だったのではないかと。しかし、今になってみると、それだけの理由で、取材を諦《あきら》めるというのは、ちょっと、訝《いぶか》しいような気もして来たんです。この自殺記事を読むと、余計、そんな気がしてきます」
「明日、この療養所を、訪ねてみます」
「しかし体の方は、――?」
「もう大丈夫です」
美佐子は、まだ熱のある顔で、強く、いった。
次の日、雨は止んでいた。美佐子は、まだ頭に鈍い痛みを感じたが、床から起き上がって、外出の支度をした。
県立神奈川療養所は、電車、バスと乗りついでから、更に、十五分近く歩かなければならない場所にあった。
白く塗られた木造の建物は、静かな雑木林に囲まれていた。春が深まれば、このあたり一帯が、深緑に包まれて、美しく見えるだろうが、美佐子は、寒い早春の日ざしの中で接したせいか、眼の前の林も、白い建物も、一様に、荒涼とした風景に見えた。あるいは、それは、彼女自身の心の反映であったかも知れない。
正直にいって、美佐子は、この療養所に、どんな人たちが収容されているのか、自殺した神谷文子が、どんな病状であったのか、知ってはいなかった。漠然と、結核ではないかと考えていただけである。それは、胸を冒された女という感傷的なイメージが、自殺と、一番簡単に結びついたからである。
建物に、スチームは通っていなかった。美佐子は、底冷えのする薄暗い入口を入り、受付の女事務員に、自分の名前と、用件を伝えた。
「自殺した神谷さんのことですか?」
と、草色の上っぱりを着た女事務員は、訊《き》き返してから、強い眼で、美佐子を見た。その眼に、軽い警戒と、非難めいた色を見たような気がして、美佐子は、眼をそらせた。
「神谷さんのことなら、所長さんに、伺って下さい」
と、彼女はいった。
「廊下をまっすぐ行って、突き当りが所長室です。所長さんには、連絡しておきましたから」
彼女が、受話器を取り上げるのを見て、美佐子は、廊下を歩きだした。
廊下の右側が、ガラス張りの広いサンルームに、なっていた。そこに、車椅子《くるまいす》に乗った五、六人の男女が、読書をしたり、眼を閉じて仮眠しているのを、美佐子は見た。これは、結核患者の収容施設ではなかったのである。
美佐子は、オゾンの匂《にお》いのするサンルームを通りすぎながら、神谷文子も、車椅子から離れられない人だったのだろうかと、考えていた。
「所長室」と書かれた扉の前で、美佐子は立ち止った。一瞬、気弱くなり、このまま帰ることを考えたが、自分を叱《しか》りつけて、扉を叩《たた》いた。
男の声で、返事があった。美佐子は、小さく息を吸い込んでから、扉をあけた。扉をあけたことを、後悔するように、なるだろうか。
所長は五十歳ぐらいの長身の男だった。背広の上から、白衣を羽織り、入って来た美佐子に、笑顔で椅子をすすめた。部屋の隅で、旧式なガスストーブが、炎をあげていた。
「神谷さんのことで、お話があるそうですが、失礼ですが、どんなご関係ですか? 確か、あの人は身寄りがなかったはずですが」
所長は、パイプを、手にとって、美佐子を見た。美佐子は、言葉を探した。ここに着くまでの間、いろいろと、考えては来たのだが、いざとなると、自分と宗方のことを秘密にしておいて、神谷文子のことだけを聞き出すことは、難しいと判った。
美佐子が、宗方の名前をいうと、所長はちょっと考えてから、
「その人のことなら憶《おぼ》えています」
と、いった。
「最初に訪ねて来られたのは、確か、一月の三日頃だったと憶えています」
「最初に?」
と、美佐子は、思わず、声を高くした。
「宗方は、何度も、ここへ来たのでしょうか?」
「そのようです。二度目からは、直接、病棟を訪ねられたようですから、私には、何度こられたのか、判りませんが、看護婦の話では、何回か来られたそうです。それに、手紙も」
「手紙――」
恐らく、それも、神谷文子という女性に宛《あ》てられたものであろう。
「宗方が、最初に参りました時のことを、話して頂けませんか?」
「そうですな」
と、所長は、パイプをテーブルに置いて、ちょっと、考える表情を作った。
「ひどく、勢い込んでやって来られました。若い記者の方というのは、たいてい、あんな風ですがね。私が、お会いすると、すぐ、企画のことを話されました。様々な人たちの新年の感想を記事にするという話でした。そして、どこで聞いてこられたのか、ここに活字を切り抜いて、詩を作っている女の患者がいるそうだから、会わせて欲しいと、いわれるのです」
「その方が、神谷文子さんですのね?」
「そうです。彼女について、何か、知っていらっしゃいますか?」
「いいえ。それを知りたくて参ったのです」
「ここが、どんな人たちを収容しているところか、ご存じでしょうね?」
「サンルームで、車椅子に乗った方を見ましたから――」
「ここは、昔、傷痍《しようい》軍人の療養に使われていたのですが、昭和二十八年から、身体障害者の収容施設になりました。身障者のことは、この間、東京でパラリンピックが、行われたので、いくらかはご存じのはずです。ここには、車椅子に乗れる程度の一般障害者と、車椅子にも乗れない重度障害者が収容されています」
「車椅子にも乗れない」
美佐子は、その言葉の意味するものが、はっきりと、理解できなかった。サンルームで見た車椅子の人たちでさえ美佐子は、正視できなくて、眼をそむけてしまったのだ。あれ以上に重い身体障害者というのは、どんな人たちなのか。
「脊椎《せきつい》損傷者の中には、ベッドから離れられないものもおります。もちろん、排便も、便器を使わなければなりませんし、手が麻痺《まひ》しているものは、食事も自分では、とれません」
所長は、ゆっくりと喋《しやべ》った。そのいい方は、事務的で、むしろ、冷たくさえ、美佐子には聞こえたが、それは、激した声でいわれるよりも、美佐子の心を、打つものがあった。平穏に育った彼女には、考えられない人々が、ここにはいる。宗方が、失踪《しつそう》しなければ、知ることもなかったであろうし、ここに来ることもなかったろう。
「神谷文子さんは、そのどちらの方だったのでしょうか?」
「ここに、収容している人たちの名簿があります」
所長は、机の引出しから、一枚の紙片を取り出した。
「私が自分で作ったものです。神谷文子の名前は、まだ消してありません。神谷文子。出生地神奈川。係累ナシ。昭和十二年生れ。学歴ナシ。病名脳性麻痺。所見下半身完全麻痺、両腕にも軽度の麻痺症状アリ。可成りの言語障害。趣味詩作――」
所長は、読み終ると、胸のポケットから赤鉛筆を取り出してゆっくりと、神谷文子の名前を消した。
「彼女も、もう苦しまずに済むようになりました。いろいろなことから」
「神谷さんが死んだのは、宗方のせいなんでしょうか?」
「私には判りません」
「教えて下さい。私は、知る必要があるんです。話して下さいませんか。最初から、最初に宗方が訪ねてきた時から。その時、宗方は、神谷文子さんに、会ったんですね?」
「私は、会って欲しくなかったのですが」
「何故ですの? 宗方は、新聞記者として、当然の――」
「宗方さんも、そういわれました。新聞記者には、取材の自由がある。それに、身障者の言葉を、新聞に載せれば、世間の、彼らに対する理解も深まるはずだと」
「宗方の、その言葉は、正しいと思いますけど」
「そうでしょうか」
所長は、難しい顔で、いった。
十
「身障者に対する世間の眼は、だいたい二通りあると、私は思っています」
所長は、自分が消した赤鉛筆の痕《あと》に眼をやりながら、いった。
「一つは、できるなら、彼らのことには関係せずにいたい、という人たちです。街で、車椅子《くるまいす》に乗った身障者を見れば、何気ない様子で眼をそむける。自分たちの繊細な神経は、彼らの姿を見るに忍びないというわけです。しかし、眼をそむけても、身障者は、なくなりはしません。もう一つは、文筆業や芸能関係の人に多いのですが、自分たちこそは、身障者の理解者だという勢い込んだ調子で来られる人たちです。救ってやるという気持は、どこかで、高慢さに通じ、かえって、身障者を傷つけてしまいます。彼らは、そうしたことに、非常に敏感ですからね。身障者の治療や、社会復帰は、時間のかかる、根気のいる仕事です。これは、特殊な例かも知れませんが、ある有名歌手が、ワンマンショーを開いて得た利益の中から、五万円を、この療養所へ寄附してくれたことがあります。いくらでも、お金の欲しい時でしたから、私どもとしては、有難く頂戴《ちようだい》して、車椅子の修繕に使わせて頂きました。その後、その歌手が、舞台に立つと、司会者は必ず、寄附金の話をして、心の温かさを宣伝するようになりました。それも、いいと思います。その人たちも商売だし、今は、宣伝の世の中ですからね。問題は一か月くらいあとに、その歌手が、初めて演技者として登場というふれこみでテレビのドラマに出た時のことです。私も、興味があったので、そのドラマを見たのですが、見て呆然《ぼうぜん》としました。明らかに、身障者を、からかっているのです。たとえ、コメディ仕立てであっても私には許せませんでした。この歌手の、温かい心とか、身障者に対する理解というお題目が、完全に、宣伝の道具にしかすぎないと判ったからです。自分の名声を高めるために、身障者を利用するというのは、許せません」
「宗方も、その歌手と同じだったと、おっしゃるのですか?」
「多少は違ったかも知れない。だが、身障者に対する理解の程度は、五十歩百歩だと思いました。神谷文子に会いたいといわれた時も、不自由な身体で、詩を作っている女というロマンチックな考えしか持っていないことを知ったのです。そんな気持で取材されたら、神谷文子さんが、傷つくだけだと思いました。だから、一応、断ったのですがね」
所長は、神谷文子が、傷つくのを恐れたという。神谷文子が、自殺したことを考えれば、所長の危惧《きぐ》は、当っていたのかもしれない。だが、傷ついたのは、神谷文子だけではないのだ。宗方自身も傷ついて、美佐子の前から姿を消してしまった。美佐子が知りたいのは、何故、宗方までが、傷つかねばならなかったのかという、その理由だった。
美佐子は、宗方が神谷文子に出した手紙を見せて欲しいと頼んだが、所長は、素気ない調子で、
「ここにはありません」
と、いった。
「彼女が自殺した翌日、宗方さんが、あわてて飛んで来て持っていかれましたよ。どんな内容の手紙だったか、もちろん、私は、知りません」
「神谷文子さんに、ついていらっしゃった看護婦さんに、会わせて頂けませんか?」
「会って、どうなさるんです?」
「神谷文子さんのことを、お聞きしたいんです」
もちろん、本当に知りたいのは、宗方のことだった。が、それを、明らさまに、いうことはできなかった。
「会われても仕方がないと思いますが、お断りするわけにもいきません」
所長は、気のすすまぬ語調でいった。
「田中君は、今も、同じ病棟を受け持っていますから、そこに行けば、会えるはずです」
「有難うございました」
美佐子が、礼をいって立ち上がった時も所長の眼は、赤鉛筆で消した神谷文子の名前に、止ったまま動こうとはしなかった。
重度身障者は、一室に、三人ずつ、収容されていた。
美佐子が、その部屋に入った時、最初に、眼に映ったのは、窓際に置かれた空のベッドだった。それが、自殺した神谷文子のベッドであることは、すぐ判った。主のないベッドの端のあたりに、誰が載せたのか、黄色い花が一本だけ飾られてあった。
あと二つのベッドでは、女の患者が、眠っていた。その一つについていた看護婦が、入ってきた美佐子を、咎《とが》めるような眼で見た。
美佐子が神谷文子の名前を口にすると、看護婦は難しい顔になって、
「みんなを起すといけませんから、部屋を出て下さい」
と、いった。
薄寒い廊下で、美佐子は、看護婦に、宗方と、神谷文子のことで、知っていることを、話して欲しいと、頼んだ。看護婦の表情は、美佐子が、宗方の名前を口にした途端に、更に、硬いものになった。
「話すことは、何もありませんよ」
と、看護婦は、いった。
「神谷さんは、自殺してしまったんですよ。宗方とかいう新聞記者が、わけも判らないくせに、いきなり飛び込んできて、平穏だった神谷さんの生活を、めちゃめちゃにしてしまったんじゃありませんか。神谷さんを殺したのは、あの新聞記者です」
「宗方は、そんな人じゃないはずですけど――」
「じゃあ、どんな人だというんです? 身障者を、本当に理解していたとでも、いうんですか。新聞記者って、みんな同じです。自分は、何もかも理解していると自惚《うぬぼ》れているんです。本当は、何も判ってやしないのに。ここで、二年ばかり前に、入所したばかりの若い女の人が、自殺しました。取材に来た記者の人たちは、軽度の障害だから、男に捨てられたせいだろうとか、勝手な臆測《おくそく》をしていました」
「本当は、どうして自殺を?」
「麻痺《まひ》というのは、進行していく場合もあるんです。その娘さんの場合が、そうでした。足の麻痺が進行していくのです。ここに来て、どうにか、その進行を喰い止められる希望が出たんですけど、本人には、進行していくという怯《おび》えが、こびりついてしまっていたんです。若い女の人が、足が動かなくなったら、どうなります? その娘さんが、一番怯えたのは、足が動かなくなって、トイレに一人で行けなくなることだったんです。他人に担がれて、トイレまで運ばれていく。もしかすると一生、便器をあてがわれて生きていかなければならなくなるかも知れない。若い娘さんにとって、それがどんなに惨めで、やりきれないことかは、貴女《あなた》にも女だから判るでしょう。だから、その娘さんは、自殺したんです。記者の人たちは、誰一人として判りはしませんでした。宗方さんにしても同じです。判らないのを、どうこういうんじゃありません。判らないのなら、理解者みたいな顔をして、ずかずか入りこんで来ないで頂きたいんです」
「神谷さんは、なぜ自殺したんですか?」
「知りません。一つだけいえるのは、宗方さんが入って来なければ、神谷さんは、死ななかったということだけです。お判りになったら、帰って下さい」
看護婦の言葉は冷たかった。この冷たさは、一体、どこから、来ているのだろうか。
宗方が、神谷文子を、自殺させたと、固く信じているのだろうか。それとも、一般の人たちの、身障者に対する無理解を怒っているのか。
ともかく、これ以上、話しかけることは、無駄のように、美佐子には思われた。
美佐子は陽のかげった、暗い冷たい廊下を、出口に向って歩いて行った。
サンルームにも、もう人影はなかった。ここでは、自分が、異邦の人間のような気がした。
ふと、何の連絡もなく、「石モテ追ワルルゴトク――」という言葉が、美佐子の心に浮んだ。宗方もまた、神谷文子が自殺した時、「石モテ追ワルルゴトキ」気持に、襲われたのではあるまいか。その石は、今でも、宗方を、打ち続けているのでは、ないだろうか。
十一
翌日の午后、田島が訪ねてきた。
「これから、訪ねてみたいところがあるんですが、一緒に、行ってみませんか?」
と、田島はいった。
「宗方に、関係がある場所でしょうか?」
「あると、思います」
田島の言葉は、確信ありげだった。
行先が、どこかを、田島が話してくれたのは、アパートを出てからだった。
「この近くに、天真寺というお寺があるのは、ご存じですか?」
と、田島は、都電の線路に沿って歩きながら、美佐子の顔を見た。
美佐子は、天真寺という名前に、記憶はない。だが、二、三百メートルばかり歩いた所に、小さな寺があることは、知っていた。婚約してから、宗方のところに遊びに来たかえり、その寺の前を歩いたこともある。
「その寺です」
と、田島は、いった。
「その寺に、これから、行こうと思うんです」
「宗方と、どんな関係が、あるんでしょうか?」
「判りません。しかし、天真寺は真宗の寺です。それに、僕の調べたところでは、この寺の住職は、なかなか面白い人間らしい。宗方が、歎異抄を読んでいたことで、考えたことなんです。恐らく、宗方は、自分の苦悩を、歎異抄によって、救いを見出そうとしたんだと思います。だが、親鸞の言葉というのは、逆説が多くて、理解が難しい。歎異抄という言葉自体、親鸞の言葉を、勝手に解釈して、異説をたてるものが多くて、歎《なげ》かわしいという意味のようですからね。宗方も、歎異抄を読み返すうちに、誰かに、教えを受けたくなったのではないかと、考えたのです」
「それが、天真寺というお寺ですの?」
「同じ真宗だし、宗方は、休みの時には、あのあたりを、よく散歩したと、聞いています。案外、住職と、日常の挨拶《あいさつ》ぐらいは、交わしているかも知れない。そう考えるのです。顔見知りだとしたら、自分の悩みを打ち明けて、解答を求めているのかも知れませんよ」
宗方と、寺の雰囲気は、何となく、そぐわないような気が、美佐子にはする。美佐子の知っている宗方という青年は、宗教から、もっとも遠いところに、いる人間に見えていた。だが歎異抄という一冊の本が、その考えを、打ちこわしてしまった。宗方のような人間は、一度深い苦悩にぶつかると、もっとも強く、宗教に近づくのかも知れない。
『天真寺』という額は、長いこと風雨にさらされていると見えて読みにくくなっていた。あまり、流行《はや》らない寺のようだった。
境内に入ると、中年の婦人が、焚火《たきび》をしているのが見えた。近づいて、田島が、「御住職にお会いしたい」と、いうと、その婦人は、
「中におりますから、勝手に、上がって下さい」
と、いった。
二人は、ちょっと顔を見合せてから、靴を脱いで、寺務所の低い階段を上がった。
中は、ひっそりとしていた。が、陽の射し込んでいる縁側に、背を丸めるようにして、爪《つめ》を切っている男の姿が見えた。頭は、五分刈りだが、白い着物を着ているところを見ると、住職のようだった。
田島が声をかけると、ふり向いてから、眼を、ぱちぱちさせた。暗いところに立っている二人の姿が、よく見えなかったらしい。
「どなたか知らんが、ここへ来て、話しなさい」
と、住職は、いった。
「そこにいたんでは、顔はよく見えんし、第一、寒いでしょうが――」
二人は、すすめられて、陽の当る縁側に出た。確かに、そこは、恰好《かつこう》の日溜《ひだま》りになっていた。近くで見ると、住職の顔は、丸く、童顔であった。
住職は、紙の上に溜った爪を、庭に払い落してから、
「ご用は?」
と、二人の顔を見た。
「宗方を、ご存じでしょうか?」
と、美佐子が訊《き》いた。
「宗方信一です。宗方のムナは――」
「知っています」
住職は、美佐子の言葉の途中でいった。
「結婚するということでしたが、どうかしたのですか?」
「それが――」
美佐子は、言葉を切って、しばらく躊躇《ためら》ってから、思い切って、宗方が、失踪《しつそう》した経過を話してみた。
住職は「ほう」と、いったが、格別驚いた様子ではなかった。美佐子の眼には、むしろ、宗方の失踪を、予期していたようにさえ見えた。田島も、同じ感じを受けたらしく、
「姿を消すと、判っておられたんですか?」
と、訊いた。
住職は、「いや」と、いった。
「だが、ひょっとすると、そんな馬鹿なことをするんじゃあるまいか、という危惧《きぐ》はありましたよ。ああいう人間に限って、馬鹿なことをする」
「宗方が、何に苦しんでいたか、御住持さんは、知っていらっしゃるんですか?」
美佐子は、いくらか、青ざめた顔で、訊いた。
「知っています」
と、住職は、先刻と同じように、はっきりしたいい方をした。
「宗方は、何に、悩んでいたんでしょうか? なぜ、姿を消したんでしょうか?」
美佐子が、せき込んだ調子で、訊くと、住職は、「まあ、落ち着きなさい」と、いった。
「わたしが話すより、あの男の日記を、見た方が、早いかも知れん。持って来てあげましょう」
「日記? 宗方の日記が、ここに、あるんですか?」
「日記というより、自己の悩みを、書きつけたノートと、いった方が、いいかも知れん。読んでみると、なかなか面白い。わたしのことを、糞坊主《くそぼうず》と、書いてあったりしてな。いよいよ、結婚するという時、わたしの所に持って来て、預ってくれというのです。その時、預ってはやるが、詰らん悩みは、全部、わたしに預けてしまったつもりで、結婚生活に入れといってやったんだが、やっぱり、さとり切れなかったと見えますな」
住職は、肩をすくめて見せてから一度、奥に入り、一冊のノートを手にして戻ってきた。ありふれた大学ノートであった。
美佐子は、それを、日溜りの中で、開いた。最初の日附は、一月三日であった。
十二
〇一月三日
何か、考えなければならない。単に、記事が取れなかったという敗北感だけでないものが、私につきまとって、離れようとしない。
あの女の眼だ。神谷文子という身体障害者の眼だ。あの、敵意に近い暗い眼が、忘れられない。
確かに、私が悪かった。興味本位で、療養所を訪ねたといわれても、抗弁できない気持が、私にはあった。それは、認めざるを得ない。
デスクが、特集記事の話をした時、私は、いつか、週刊誌で読んだ、神谷文子のことを思いだしたのだ。名前は、記憶していなかったが、新聞や雑誌に印刷された文字を切り貼りして、詩を作っている、身障者の女がいるということだけを思い出した。いろどりとして、そんな女の、年頭の言葉を入れるのも、面白いではないか。私は、軽くそう考えたのだ。世の中には陽の当らない場所にいる人間も存在することを示したいという、感傷的な、正義感が、なかったわけでもない。
だが、本当の神谷文子を見た時、そんな気持は、消し飛んでしまった。私は、彼女に、ロマンチックな幻想を抱いていたのだ。「病んだ身で、詩を作っている娘」――そんな幻想だ。
だが、本物の彼女に、そんなロマンチックな感じはなかった。ベッドから離れられない身体。ベッドに縛りつけられた人生。それに言語障害。印刷文字を切り貼りして詩を作るのも、私が考えたようなロマンチックな遊び心や、奇を衒《てら》う気持からではなかった。マヒした手が、筆を握れないのだ。しかも、ハサミも使えない。だから、彼女は、日本|剃刀《かみそり》を、固く握りしめて、刃を押しつけるようにして、活字を、切り抜くのだ。
そんな彼女の眼に、いきなり飛びこんできて記者証をちらつかせた私が、面白半分に、自分たちのことを書き立てる『敵』に見えたとしても、不思議はない。恐らく私には、最初から、神谷文子を――というより、身障者を取材する資格がなかったのだ。
私は、逃げ出した。文字通り逃げだしたのだ。
取材に失敗したのは、今日が初めてではない。大学を出て、記者になり立ての頃は、むしろ失敗の方が多かったくらいだ。だが、今日みたいに、後味の悪い気持になったことはない。理由は、判っている。
今日、私は、加害者だったのだ。神谷文子の眼には、私が、加害者以外の何者にも見えなかったに違いない。神谷文子にだけではない。同じ室にいた二人の身障者の眼にも、看護婦の眼にも、所長の柔和な眼にも、私は、加害者としか映らなかったに違いないのだ。しかも、ただの加害者ではない。『理解者』の仮面をかぶった加害者。私は、自分の姿に、気付かなかったのだ。
社会の木鐸《ぼくたく》を気取る気持は、私にはない。また、気負える雰囲気もない。だが、自分は、弱い者の味方なのだというプライドのようなものだけは、あった。どんな場合にも、加害者にはならない。その気持だけは、持っていた。
だが、今日、私は、加害者になってしまった。そのつもりはなかったといっても、いいわけにはならない。
いつまでも、今日のことが私を苦しめそうな気がする。あの眼が、忘れられるだろうか。
× ×
〇一月五日
いいわけめいた手紙を、療養所の神谷文子あてに出した。傷つける気や、面白半分に訪ねたのではないことを書き、理解が足りなかったことを詫《わ》びる手紙だ。何か、自分にできることがあれば、伝えて欲しいとも書いた。
本当に、詫びる積りで書いたのか、自分自身を納得させるために書いたのか、私にも判らない。
× ×
〇一月八日
返事ナシ
× ×
〇一月十日
返事ナシ
× ×
〇一月十二日
返事ナシ
私は馬鹿だ。なぜ、あんな女のことに、心をわずらわすのか。身障者のことは、看護婦や、医者や、政府の役人に委《まか》せておけばいい。彼らで、上手《うま》く面倒をみていくだろう。私の出るまくじゃない。私には、もっと大事なことがあるはずだ。新聞記者としての仕事。それに、藤堂美佐子との結婚のことだ。他に、一体何を考える必要がある。
忘れてしまえ。
忘れるのだ。
× ×
〇一月十三日
今日も返事ナシ
私は、何のために、あの手紙を出したのだろうか。私は、一体、何を証明しようとしているのか。自分が、良い子であることを、証明したかったのか。彼らに、自分が、加害者でなく、味方であることを、認めて貰《もら》いたいのか。
だが、認めてくれたら、それで、安心できるだろうか。
× ×
〇一月二十日
神奈川に、基地問題の取材。その帰りに、足が、療養所へ向いてしまった。
行かなければならないような気が、私にはしたのだ。
私は、途中で、花を買った。平和の使節が、白い旗を、彼らのアカシにしたように、私は、自分が、加害者でないことを示すために、花を持っていったのだ。神谷文子や、同室の身障者が、信用してくれたかどうか、私には判らない。
私を迎えた彼らの眼は、一月三日の時と同じように、冷たいものだった。看護婦に、今日は、新聞記者として来たのではないことを告げたが、彼女は、微笑《ほほえ》んではくれなかった。だが、追い払いもしなかった。
持っていった花を、私は、自分で、花瓶に生けた。
神谷文子は一度も私を見ようとしなかった。彼女はただ黙々と、剃刀で、文字を切り抜いていた。私は、言葉をかける機会がなく、帰るまで一時間あまり、壁によりかかって、根気よく続けられる彼女の作業を見守っていた。
私は、許されたのだろうか。
私は何かを証明できたのだろうか。
× ×
〇一月二十一日
高村光太郎の詩集を送る。
自分を納得させるために贈ったのか、同情のためか、救世軍気取りなのか。一体、何なのだ?
× ×
〇一月二十五日
休日。だが、日曜でないため、美佐子と出かけられない。だから(この理由は薄弱だ)――私は、療養所へ行った。
私は、自分のかけた罠《わな》に、はまり込んでいるのではあるまいか。そんな不安が、私を怯《おび》えさせる。
最初の失敗を取り返すために(あるいは、誤魔化すために)私は、手紙を書いた。そして、その手紙に書いたことが、いい加減な嘘《うそ》でないことを証明するために、花を持って療養所を訪ねた。そして、花を運んだことが、単なる思いつきや、一時の気まぐれでないことを証明するために、今日、また、療養所を訪ねた。そして、今度は――。
私は、一体、何が怖いのか?
今日も同じだった。私は、持っていった花を、自分で、花瓶に生けた。田中という看護婦も、口を利こうとはしなかった。が、立っている私に、円椅子《まるいす》を運んで来てくれた。仕方なしに、そうしたのか、和解の徴候か、私には、判らない。
私は、その椅子に腰を下ろして、神谷文子を眺めていた。今日は、落ち着いて、彼女を観察することができた。毛布に蔽《おお》われた身体が、どうなっているのか、私には判らない。だが、剃刀を持った手も、マヒのために、細い。ただ、長い髪の毛だけは、美しかった。
神谷文子は、その髪で、意識して、顔の右半分を蔽うようにしている。顔の右半分にも、マヒがあり、それをかくすためだ。
私は、そこに、彼女自身の美意識があると感じる。私には、それが嬉《うれ》しかった。彼女が、少しでも、美を意識している限り、生きることへの希望を持っているような気がするからだ。
私は、彼女の詩集を、読んだ。彼女は、咎《とが》めなかった。
写真のアルバムに、切り抜かれた文字が、貼りつけてある。私には、詩は判らない。だから、神谷文子の詩が、詩として、秀れたものかどうか、判断がつかない。だが、そんなことは、問題ではあるまい。詩は、彼女にとって、生きることの証明なのだろうから。
しかし、暗い詩が多過ぎる。
一つだけ憶《おぼ》えてきた神谷文子の詩。
× ×
〈平和〉
見すてられた言葉
口に出すのが恐ろしい言葉
死と、闇《やみ》と、悲哀が、
カクテルを作って、
破壊されたネグラの中で、
踊っている
× ×
神谷文子の心の中で、「平和」は、こんなイメージを持っているのだろうか。
いくつかの詩の中に、「見すてられた――」という形容語が、頻発する。
愛の言葉は、発見できなかった。
× ×
〇一月三十日
葉書が来ていた。
裏に、文字が貼りつけてあった。
「詩の本ありがトうございました」
一字だけ片仮名なのは、その字が、見つからなかったからであろう。表書は、きちんとしていた。恐らく、田中という看護婦が、書いたに違いない。
× ×
〇二月一日
手紙を書く。
× ×
〇二月十日
神奈川へ。
途中で、この間と同じ暗い不安が、私を捉《とら》えた。私は、自分でかけた罠に、はまってしまったのではないか。私は、これから、いつまで、自分が、加害者でなく、彼らの理解者であることを、証明しつづけなければ、ならないのか。
怖いのは、一体、誰なのか。神谷文子の眼なのか? それとも、私自身なのか。今の私を縛っているのは、一体、何なのだ? 彼らに、「良い人」と思われたいと願う虚栄心なのか。それとも、私自身の義務感なのか。
花
円椅子
この間と同じだった。
私は、彼女が切り抜いた文字を、アルバムに、貼りつけるのを手伝った。彼女は、何もいわなかった。
その途中で、今まで、勢い良く動いていた、日本剃刀が、急に、動きを止めてしまったのに気付いた。
始めは、探している文字が、雑誌の中に、なかなか見つからないのかと思ったが、そうではなかった。
神谷文子が握った剃刀は、『愛』という文字の上で、止り、ためらっていたのだ。やがて、その文字を、彼女は切り抜き、私は貼りつけた。恐らく、彼女が、初めて切り抜いた『愛』の文字だろう。
それは、詩の題だった。が、次の言葉を、彼女は、とうとう切り抜かずに、終ってしまった。だから、「愛」と題して、彼女が、どんな詩を作るつもりか、私には、判らない。
彼女の詩に、明るさが出れば嬉しい。そう考えて、私は、療養所を出たのだが、途中で愕然《がくぜん》とした。
まさかとは思う。だが、もし、万一、神谷文子が、私に、愛を感じ始めたのだとしたら?
× ×
〇二月十一日
昨日は、眠れなかった。
私は、自分の仕掛けた罠に、はまってしまったのか。
神谷文子が、私を愛し始めたとしても、私に、彼女を、愛せるはずがない。それは、不可能だ。私は、美佐子だけを愛している。彼女と、結婚するのだ。
× ×
〇二月十三日
仕事は、いつも以上に、ばりばりやった。同僚に、さとられたくなかったからだ。だが、今夜会った美佐子は、私の様子が、訝《いぶか》しいと、いった。
美佐子は、私の不安に気付いたのだろうか。
× ×
〇二月十四日
『愛』
恐らく、神谷文子は、窓の外に集まってくる雀たちや、花に対する愛情を、詩にしようとしたに違いない。そうに決っている。
× ×
〇二月十五日
ベッドに寝たっきりの女に、男を愛する資格があるのか?
× ×
〇二月十六日
誰にだって、誰かを愛する権利がある。
だが、それに答えなければならない義務はどうなのか?
× ×
〇二月十七日
溺《おぼ》れかけた人間が、手を差し出した時、傍観している人間は、何の罪になるのだろうか? 殺人罪だろうか? それとも『愛』が不足しているということで、罰せられるのだろうか?
私は、一体、何を考えているんだ?
× ×
〇二月十九日
確かめねばならぬ。
何を?
× ×
〇二月二十三日
療養所を訪ねた。行くのではなかった。
部屋に入るなり私は詩のアルバムを開いた。だが、『愛』と題された詩の箇所は、まだ、空白のままだった。まるで、そこへ、私に、何かを書けと、命じているような空白。
看護婦が部屋を出ていった時、神谷文子が、私に、一枚の封筒を渡した。何も書いてない封筒だ。封を開こうとすると、彼女は、必死の表情で、首を横にふった。あの時の、青ざめた必死の表情を、私は、忘れられそうもない。
私は、アパートに戻ってから、封を開いた。正直にいって、私は、開けるのが、怖かった。私の危惧《きぐ》は当っていた。いや、当りすぎていたといった方がいい。メチャメチャだ。
封筒から取り出した切り貼りの手紙が、今、私の前にある。理解を絶した手紙が。
〈お願いがあります。安らかに死ねる薬を、持って来て頂きたいのです。睡眠薬でも、他の薬でも構いません。今なら、私は、幸福に死ねる気がするのです。お願い致します。貴方《あなた》の手から、その薬を頂かせて下さい。ご迷惑は、絶対に、おかけ致しません。誓います〉
十三
〇二月二十四日
何度、あの忌わしい手紙を、読み返したことだろう。だが、幾度か、眼を通しているうちに、理解を絶したという感じは、次第になくなっていった。
『愛』という文字は、一つも使われてはいないが、これは、まぎれもなく、愛を打ち明けた手紙なのだ。
私の眼に神谷文子の必死の顔が、ちらついて離れない。この手紙に表わされた『死への願い』は、本物に違いない。だから、たまらないのだ。
私に、もちろん、睡眠薬を持って行って、彼女に渡すなどということは、できるはずがない。断じてできない。だが、私が、この手紙に答えなかったら、神谷文子は、どうするだろう?
やはり自殺するかも知れない。しかも、私を恨みながら、死んでいくだろう。睡眠薬を、看護婦が、大量に渡すはずがない。身体の動かない神谷文子の自殺の方法は、限られている。安らかな死に方ができるはずがない。ベッドから、転げ落ちて、床に頭を打ちつけて死ぬかも知れぬ。
いや、あの日本|剃刀《かみそり》だ。あの刃で、手首を切って死ぬのではないか。
真赤な血が、溢《あふ》れ出すだろう。真赤な血が。彼女が死んだら、あの看護婦や、同室の身障者たちは、私が、彼女を死なせたと思うだろう。私は、本物の加害者になってしまう!
私は、罠《わな》にかかったのだ。自分で仕掛けた罠に。私は馬鹿だ。阿呆《あほう》だ。間抜けだ。
× ×
〇二月二十五日
新聞社に、病気の届けを出して、療養所へ行く。
幸い病室に看護婦はいなかった。私は、必死に、神谷文子に、話しかけた。自殺を考えるなんて、馬鹿げている。死ぬ必要はない。生きていれば、そのうちに、素晴らしい特効薬が発明されて、その薬を嚥《の》めば、マヒなんか、立ちどころに直ってしまうかも知れない。それに、君の詩は、素晴らしい。そのうちに、どこかの出版社が、出版することになって、詩人としての名声があがることになる。
他にも、いろいろなことを喋《しやべ》ったはずだ。だが、喋っているうちに、次第に、私は、自分の、いいわけめいた調子が、いやになってきた。どんな美辞麗句で飾り立てようと、責任のがれの言葉でしかないのだ。
私の言葉を、神谷文子が、どんな気持で、聞いていたか、私には判らない。
私が、自分の言葉を、呑《の》み込んで、窓から外を眺めている間、彼女は、いつものように、字を切り抜いていた。だが、詩を作っていたのではなかった。
帰る時、私は、それを知った。私への手紙を作っていたのだ。
〈私には、今、死ぬことが、幸福なのです。今なら、幸福に、安らかに死ねる気がするのです。私は、前にも、何度か死を考えたことがあります。でも、その時は、絶望からでした。自分を、こんな身体に生んだ母を呪《のろ》い、世間を呪いながら、死んでいくつもりでした。しかし、今は違います。今は、安らかに、誰を恨むこともなく、死んでいけます。今でなければいけないのです。今なら、錯覚かも知れないけれど、人の愛というものを信じながら、死んでいける気がするのです。また、元のように、信じられなくなるのが、怖いのです。
お願いできるのは、貴方《あなた》しかありません。ご迷惑は判っています。ただ、私は、安らかに、苦痛なく死にたい。死顔は安らかだといわれたい。人生を呪いながら死んでいったと、いわれたくない。愛を信じながら、死んだに違いないと、いわれたいのです。それには、安らかに死ねる薬が欲しいのです。お願い致します〉
私は、失敗し、ますます深く、はまり込んでしまったらしい。一体、私は、どうしたらいいのだ。
× ×
〇二月二十六日
取材の帰りに銀座の書店で、歎異抄を買った。なぜ、こんな抹香臭い本を買ったのか、自分にも判らない。こんな種類の本は、一番|軽蔑《けいべつ》したはずではなかったか。
宗教は、人間が作ったものだ。なぜ、人間が、自分の作った物の前に、ひざまずかねばならないのか。私は、そう考えてきた。その私が、歎異抄を買ってしまった。ワラをも掴《つか》むという気持だったのかも知れない。
読んだ。が、感動はしなかった。というより、よく判らなかった。救いがあったなどとは、なおさら、いえそうもなかった。当り前の話かも知れぬ。いつもは、屁《へ》もひっかけないでおいて、悩みごとができたからといって、頁を開いて、それですぐ救われるはずがあるものか。
× ×
〇二月二十七日
夕方。落ち着かぬままに、外へ出て、天真寺の前まで来た時、その寺が、親鸞と同じ真宗の寺であることに、気付いた。
ここの住職は、散歩の途中で、挨拶《あいさつ》したこともある。それを思い出して、会ってみる気になった。歎異抄を買った時と同じで、私にも、この時の気持は、説明がつかない。
住職は、私を、奥へ通した。奥さんが、茶を注いでくれた。
最初から、打ちあけて相談する気だったわけではない。だが、住職の顔を見ているうちに、私は、話してみる気になった。
私が話し終っても、住職の表情には、変化がなかった。聞いていたのだろうかと、ふと疑ったくらいだ。
「何を悩んでいるのか、わたしには、判らん」
と、住職は、いった。私は、腹が立った。私は、苦しみを打ちあけて、話したのだ。それなのに、何を悩んでいるのか判らんといういい草があるだろうか。それなら、私は、どうすればいいのかと、きいた。それに対する住職のいい方は、こうだった。
「神谷文子の望むとおりに、薬を与えてやりたければ、そうするもよし、それが嫌なら、神谷文子のことを、忘れて、自分の結婚だけを考えればよい」
「それじゃあ、成り行きに委《まか》せろということで、何の解決にも、ならないじゃありませんか?」
「解決? 他に、どんな道があるというのかね。あんたの前には、二つの道しかない。自分で、そういったはずだ。片方の道が駄目なら、もう一つの道をすすむしかない。そうじゃないかね? それとも、両方を解決する力があるとでも、うぬぼれているのかね?」
「神谷文子の望むままに、薬を与えろというんですか?」
「それもよい」
「殺人ですよ」
「あんたは、罰せられるのが、怖いのかね?」
住職は、皮肉な眼で、私を見た。
「あんたの話だと、愛とか、理念とか、ひどく高尚な悩みのようにいっているが、結局は、自分が傷つくのが、怖いだけじゃないのかね?」
「貴方《あなた》なら、どうするんです?」
「わたしなら、彼女にとって、死ぬことが一番幸福なら、死を与えてやる。だが、あんたみたいに、世間にどう思われるかとか、罰せられやしないだろうかとか、詰らんことは、考えん。お前が殺したといわれれば、甘んじて罰をうける。誰が、それを批判したり、非難したりできるかね。その覚悟さえあれば、悩むことはないはずだ」
「――――」
糞坊主《くそぼうず》めと、思った。他人のことだから、さとりきったみたいなことが、いえるのだ。本当に、私の立場に立たされたら、この坊主だって、どうしてよいか判らなくなるに、決っている。
× ×
〇二月二十八日
初めて、美佐子を抱いた。彼女の方から、求めてきたのだ。唇を合せた時、眼を閉じた彼女の顔に、かすかな怯《おび》えの色のあるのを見た。恐らく、私の顔にも、同じような不安の影があったに違いない。美佐子が、神谷文子のことを、知っているはずがなかった。だが直感で、私と彼女との間に、何かが入り込んで来たことに、気付いたようだった。
私は、結婚式を早くしようと、美佐子にいった。何もかも忘れて、彼女との結婚生活にすすもうと思ったからだ。神谷文子のことは、忘れてしまうことだ。
× ×
〇三月一日
朝早く、美佐子は帰った。駅まで、彼女を送って戻ってくると、境内で焚火《たきび》をしていた天真寺の住職が、呼び止めた。少し、あたっていけといった。
私は、そばに行って、今月、結婚することにしたと、いった。神谷文子のことは、考えないことにしたというと、住職は、短く、「それもよし」といった。私には、そのいい方が、ひどく無責任に聞こえた。私の苦しみは、「それでよし」で、片づけられるものじゃない。
「僕のとった行動は、正しいと、みとめてくれるんですか?」
と、私は、いった。皮肉のつもりであった。
「僕が、幸福な結婚生活に入っても、いや、入ったら、神谷文子は、自殺するかも知れない。僕をうらみながら、それでも、僕の行動も正しいと、みとめるんですか?」
「わたしが、正しくないといったら、結婚を止めるのかね?」
と、住職は、いった。私が、返事に困っていると、住職は笑った。
「そうもいくまい。わたしは、あんたの行動を正しいとか正しくないとか、そんなことはいわんし、いえるもんでもない」
「それじゃあ、解決になりませんよ」
「そうかね。今、あんたは、自分が、大きな問題で悩んでいると思っている。だが、なぜ悩むのか、それを考えない。根本のことを考えていないのじゃないのか」
「何ですか? 根本とは」
「――。神谷文子に薬を与えるのは、人道に反するとか、正義に反するとか、君はいい、そのために、悩んでいるんじゃないのか? 自分だけが幸福になるのは、人間として許されないと考えているんじゃないのかね?」
「いけないのですか? そう考えて、悩むことは?」
「不遜《ふそん》だな」
「不遜?」
「不遜というより、間違いといった方がいい。現実の自分自身を見つめてみたまえ。自分に寄りかかってごらんといっておいて、本当に寄りかかられたら、おたおたしているんじゃないのかね。そんな頼りないあんたが、正義だとか、人間としての責任だとか、いったところで、どうなるというのかね。そんなものは、ひと思いに、捨ててしまったらどうなのかね? 君が、苦しむのは、そうした言葉や考えに縛られているためだろう? 違うかね?」
「僕に、無責任な人間になれというのですか?」
「責任、無責任といっても、仏の大きな眼から見れば、五十歩百歩だよ。第一ある行為が、正義か不正義かさえ、人間の小さな眼で、判断のつかぬものじゃないか? 例えば、神谷文子のことがある。今、自殺させてしまったら、正義に反するとか、人間としての感情が許さないとあんたは思っている。だが、あんたが上手に説得して、生き伸びさせたら、果して彼女は、幸福になるだろうか。幸福になるかも知れんし、もっと不幸になるかも知れん。何年かたってから、彼女が、あの時より不幸になったから、責任をとってくれといったら、あんたは、責任をとれるかね? あんたが、その時も生きていたら、まだ何とかできるだろう。だが、死んでいたら、責任もとれん。だから、そうしたことは、大きな仏の慈悲に委《まか》せてしまうことだ。あんたは、結婚したければ、するがよしだ。神谷文子は自殺するかも知れんし、しないかも知れない。そのどちらでもよいではないか。わたしはキリスト教のことは、よく知らん。だが、キリスト教でいう原罪という言葉は、何となく理解できるような気がするのだ。キリストは十字架にかかることによって、原罪を証明したという。つまり、絶対者だけが背負うことのできる罪があるわけだ。それを人間が、背負おうとしても無理だと、わたしは、いいたいのだ。あんたが、悩んでいる悩んでいるというたびに、あんたが、絶対者を気取っているような滑稽《こつけい》な気がしてならんのだ」
「しかし、僕が神谷文子を見捨てたら、自分の弱さを、証明するようなものじゃありませんか?」
「その通りだね。弱者でいいじゃないか。弱虫と思われるのが何が怖いんだね?」
私には、判らない。私には、何が怖いのか、自分自身にも判らないのだ。社会の非難が怖いのか。それとも自分自身が怖いのか?
× ×
〇三月三日
神谷文子が自殺したと、夕刊に出ていた。彼女は、やはり死んでしまった――
× ×
〇三月四日
療養所へ。
冷たい眼が、私を迎えた。遺書はなかったという。だが、看護婦も、同室の身障者の眼にも、私が、自殺に追いやったとしか、映っていないに決っている。
神谷文子は、私が恐れたように、あの日本剃刀で、手首を切って、自殺していた。私が行った時、死体はすでに片づけられていた。それだけは助かったといっていいかも知れない。見るに堪えられなかったはずだから。
私は、棚に残っていた、詩集を持ち帰った。自分では、せめてもの罪滅ぼしに、出版でもと考えたからだ。誰も、止めなかった。
何も考えたくない。
× ×
〇三月五日
仕事と、詩集の出版のことだけを考える。
× ×
〇三月六日
同じ。
× ×
〇三月七日
同じ。出版のこと、どうにか見通しがたった。
× ×
〇三月八日
私はどうしたらいいのか。
美佐子とは、結婚したい。結婚しなければならぬ。
だが、私に、結婚し、幸福になる資格があるだろうか。
十四
宗方のノートは、ここで終っていた。
美佐子が読み終った時、縁側の陽差しは、いつの間にか、かげっていた。
「私にも、教えて頂きたいことが、あります」
と、美佐子は、住職にいった。
「宗方は戻ってくるでしょうか?」
「さあ、わたしにも判らん」
住職は、温い茶を二人にすすめてから、いった。
「自分に勝つことができたら、戻ってくるだろうが」
宗方なら勝てるはずだ。美佐子は、自分に、いいきかせた。宗方には、戻ってきて欲しい。二人は、礼をいって、寺を出た。
その日から三日後に、一箇の小包が、美佐子のところに届けられた。ある出版社からで、そえられてあった手紙には、次のようにあった。
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〈ご依頼のあった詩集が、できあがりましたので、お送りします。ご受納下さい〉
[#ここで字下げ終わり]
美佐子は、一冊を手にとって、「愛」と題された詩のところを開いてみた。そこは、やはり空白のままであった。その空白を、埋めることができると思った時、宗方は、美佐子のところへ、戻ってくるかも知れない。
本書に収録された作品は、昭和四〇年前後に発表されたものです。現在の用語表現といたしましては、ふさわしくないと思われる部分がありますが、当時の時代背景を知るうえでも作品の雰囲気やリズムを損なわないよう、発表時の表現のまま掲載いたしました。
[#地付き](編集部)
角川文庫『夜が待っている』平成10年1月25日初版発行