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夏は、愛と殺人の季節
西村京太郎
目 次
第一章 城崎温泉
第二章 婚約者
第三章 ダイイングメッセージ
第四章 疑問の中で
第五章 誘拐への旅
第六章 惨殺
第七章 金と力
第八章 終局の旅
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第一章 城崎温泉
「どんなことでも、お願い出来ますの?」
と、その女は、きいた。
年齢は、四十五、六歳だろうか。うすいグリーンの絽《ろ》の着物姿が、よく似合っている。まだ、名前は、聞いていなかった。
「犯罪に関係したことでなければ、たいていのことを引き受けますよ」
と、橋本《はしもと》は、いった。
「娘の手紙を、ある方に、届けて欲しいんです」
「それなら、娘さんが、直接、相手に渡すか、郵便で、お出しになったら、いかがですか?」
「娘は、今、入院していますし、相手の方は、居所が、わかりませんの」
と、女は、いう。
「なるほど。それならわかります」
「お願い出来ますか?」
「人探しは、私立探偵の主な仕事ですから、喜んで、お引き受けしますよ」
と、橋本は、いった。
幸か不幸か、今、仕事はない。どんな依頼でも引き受ける気でいたのだから、人探しなら、二つ返事で、やりたい仕事だった。
「どんな相手なんですか?」
と、橋本は、きいてみた。
「名前は、河西弘《かわにしひろし》という三十歳の方です。正直にいいまして、私は、よく知りませんの。娘が、去年の夏、沖縄で知り合って、それ以来、おつき合いしていたようなんですけど、私は、知りませんでした。その娘が、一ケ月前に、急性肺炎で入院してしまいまして」
「その河西という青年は、見舞いに来ないんですか?」
「娘に、電話番号を聞いて、かけてみたんですけど、河西さんは、もう、引っ越してしまったとかで、通じませんでしたわ」
といい、女は、小さな溜息《ためいき》をついた。
「引越先も、わからないんですか?」
「ええ」
「三十歳の男なら、当然、何か仕事をしている筈《はず》ですが、どんなことをしている男性ですか?」
「娘の話では、カメラマンということですわ。フリーのカメラマンで、まだ、決った仕事はないので、大変だと、いうことでした」
「なぜ、急に、姿を消してしまったのか、娘さんには、わかっているんですか?」
「いえ。娘も、わからなくて、心配しております。だから、余計に、何処《どこ》に行ったのか、知りたいと、いうものですから」
「どの辺にいるのかという見当もつきませんか?」
「城崎《きのさき》の生れだということは、娘は、聞いたことがあると、いっておりますけど」
あまり、自信のない感じで、女は、いった。
「山陰の城崎ですね?」
「ええ」
「彼の写真がありますか」
「ええ。去年の夏に撮った写真ですけど」
と、女は、三枚の写真を、ハンドバッグから取り出した。
水着姿の若いカップルの写真だった。
「女性の方は、娘さんですか?」
「はい」
「沖縄で、撮られたんですね?」
「ええ」
(真夏の恋か)
と、橋本は思った。一年たった今年の夏、男は、姿を消してしまった――
「今のところ、城崎にいるのではないかということですね」
と、橋本は、きいた。
「ええ」
「もし見つかったら、連れて帰るんですか?」
「そうして下されば、一番、娘が喜ぶと思いますけど。この手紙を、渡して頂きたいのです」
と、女は、部厚い封書を、橋本に渡した。
表には、「河西弘様」とだけあり、裏には、「長谷部《はせべ》かおり」とあった。
「娘さんの名前は、かおりさんですか?」
と、橋本は、きいた。
「ええ。ひとり娘なので、何とか、河西さんに、この手紙を届けてやりたいんです。お願いしますわ」
と、女は、頭を下げた。
「わかりました。とにかく、城崎に行って、探してみますよ」
と、橋本は、いった。
河西弘という男を見つけ出せたときに、成功報酬を貰《もら》うことにして、橋本は、翌日、新幹線で、京都に向った。
列車の食堂で、ビールを飲みながら、橋本は、三枚の写真を、一枚ずつ、見ていった。
河西という男は、背が高く、なかなか、美男子だが、口元が酷薄な感じがする。
(簡単なことなのかも知れないな)
と、思った。
男は、プレイボーイで、去年の夏、ちょっと可愛《かわい》い女の子に、声をかけた。男は、遊びのつもりだったのに、女の方は、真剣に愛してしまった。
よくある話だ。男は、次第に、持て余し、ひょいと、姿を消してしまった。
そうだとすれば、男を見つけても、どうしようもない。
(まあ、こっちは、仕事だから、手紙を渡して、成功報酬を貰えばいいさ)
と、橋本は、自分にいい聞かせた。そのあと、女が、より悲しみに暮《く》れようと、知ったことではない。
そう考えてみるのだが、うまく割り切れないのは、橋本の人の好《よ》さだろう。
橋本は、預ってきた部厚い封書を取り出した。中は見ないで下さいと、母親にいわれているし、読む気もないが、恐らく、姿を消してしまった男への思いが、綴《つづ》られているに違いない。
あまり楽しくない旅になりそうだなと、思った。
女のことを愛していれば、男は、突然、姿を消したりはしないだろうし、止《や》むを得ぬ事情があったとしても、手紙なり、電話なりで、何とか、連絡を取ろうとする筈である。それがないのは、男が、女にあきたのだ。
急に、ビールが、不味《まず》くなってきて、橋本は、食堂車を出て、自分の席に引き返した。
京都に着いたのは、一二時三四分である。ここから、城崎へは、山陰本線に乗ることになる。
一三時丁度に出る特急があったので、それに乗ることにした。特急「あさしお5号」である。
梅雨《つゆ》が明けたところで、やたらに暑かった。新幹線の中は、冷房が利き過ぎているくらいだったが、ホームに降りると、どっと、熱い空気に取り囲まれた。
跨線橋《こせんきよう》を渡り、3番ホームを歩いていると、たちまち、汗が吹き出てくる。売店で、缶ビールを買い込み、列車に乗り込むと、早速、飲み始めた。
列車は、ディーゼルのエンジンをひびかせて、城崎に向って、走り出した。
缶ビールを、三本ばかり飲むと、眠くなって、橋本は、眼《め》を閉じた。
福知山《ふくちやま》を過ぎたところで、眼をさまし、橋本は、降りる支度を始めた。
橋本が、城崎へ行くのは、初めてだった。彼の城崎の知識といえば、山陰の入口の温泉だということと、志賀直哉《しがなおや》に、この温泉郷を舞台にした小説があることぐらいである。
定刻の一六時〇三分に、着いた。まず、町役場に、足を向けた。
戸籍係で、河西弘の名前を、探してくれるように、頼んだ。
「番地も、わからないんですか?」
と、戸籍係は、当惑した顔で、橋本にきいた。
「わかりません。この城崎で生れた筈なんですがね」
と、橋本は、いった。
「何もわからないんですか?」
「ええ」
「それじゃあ、探しようがありませんよ」
と、戸籍係は、そっけなかった。
向うにしてみれば、当然の対応なのだろうが、気短かの橋本は、町役場は、相手にならないと、腹を立てた。外に出ると、公衆電話ボックスにあった電話帳で、河西という姓を、書き出していった。
五名の名前が、のっている。
その五人の河西姓の家に、橋本は、片っ端から電話をかけ、そちらに、河西弘という三十歳前後の男性はいないかと、聞いてみた。
どの家でも、弘という男性は、いないと、いった。
(城崎ではないのか?)
と、思ったが、考え直して、橋本は、大谿《おおたに》川沿いに並ぶ旅館の一つに、泊ることにした。相手が、正直に答えているとは限らないと、思ったからである。
「やなぎ屋」という旅館だった。大谿川沿いの両側に、柳並木が続くのだが、その真ん中あたりの旅館だった。
五つの河西家の返事を、橋本は、半ば信じ、半ば、信じなかった。
その中の四軒は、本当のことをいったが、一軒は嘘《うそ》をついたかも知れないのだ。もし、河西弘という男が、その家の持て余し者だったら、電話に対して、そんな男はいないというに違いないからである。
(ゆっくり調べよう)
と、橋本は、考えた。
どうせ、必要経費は、客が出してくれるのだし、何といっても、ここは、温泉である。まさか、芸者を呼ぶわけにはいかないが、骨休めにはなるだろう。
夜になってから、橋本は、旅館の下駄《げた》をはき、浴衣《ゆかた》姿で、散歩に出た。
風が涼しいせいか、川沿いの道を、泊り客が、だらだら歩いていた。盛装した芸者と出会ったりしながら、橋本は、ゆっくりと、柳並木の下を歩いた。
歩きながら、煙草《たばこ》に火をつける。なかなか、煙草がやめられない。警視庁捜査一課の刑事の頃、やめかけたことがある。あとあと、刑務所に行く破目になり、出所して、私立探偵になった。刑務所では、吸えなかったが、出所してからは、煙草が、やめられなくなってしまった。
酔った客も、歩いて来る。男の三人連れだ。すれ違う時、男の一人が、「あっ」と、小さな声をあげた。
「どうしたんだ?」
と、連れが、きく。
「おれの手に、煙草の火が」
「失礼。あやまりますよ」
と、橋本は、三人に、頭を下げた。彼の手に持っていた煙草の火が、すれ違う時、男の一人の腕に触れたらしい。
「あやまって、すむんか!」
と、男が、怒鳴り始めた。虫の居所が悪かったのか、仲間の二人に、強いところを見せたかったのか。どちらかわからないが、いきなり、殴りかかってきた。
「やめなさいよ」
と、橋本は、相手の拳《こぶし》をさけながらいった。
「やれ、やれ、やっつけろ!」
と、連れの男たちが、仲間をけしかけた。
橋本は、その男の浴衣の襟《えり》をつかんで、
「おれが、大人しく謝ってるのは、もう一度|刑務所《むしよ》暮しが嫌だからだ。だが、これ以上怒らせると、何をするかわからなくなるぞ」
と、低い声で、いった。
半分嘘で、半分、本当だった。軽く殴ったくらいでは、また、刑務所入りはないだろうが、怪我《けが》でもさせたら、どうなるかわからない。
男たちの顔が、とたんに青ざめて、物もいわずに、逃げ出した。
橋本は、苦笑して、見送った。多分、連中は、サラリーマンででもあるのだろう。酔って、少しばかり、気が大きくなっていたに違いない。
橋本は、旅館に戻り、ビールを飲んで寝た。
翌日、五人の河西姓の家の住所を書いたメモを持って、もう一度、町役場に出かけた。昨日の戸籍係のところに、そのメモを見せた。
「この五軒の家族の中に、河西弘という名前があるかどうか、教えてくれませんか」
と、橋本は、いった。
「何に使うんですか? 住民票は、見せられないことになったんですよ」
と、若い戸籍係は、冷たい声で言う。
「東京からわざわざ来たんですよ。僕の妹が、河西弘という男に欺《だま》されて、自殺したんだ。その男は、城崎の生れだといっていた。だから、教えて貰いたいんだよ」
と、橋本は、いった。
かなりの大声だったから、隣りの印鑑証明の係の女が、びっくりした顔で、橋本を見上げている。
戸籍係は、仕方がないというように、席を立って、調べ出したが、席に戻ってくると、
「妹さんが欺されて、自殺したのは、いつですか?」
と、きく。
「今年の正月だ」
「河西弘とつき合っていたのは?」
「去年一年間の間だよ」
「それでは、この城崎町の人間じゃありませんね。他を探して下さい」
「河西弘が、いないのか?」
「一人いますがね。二年前に、死亡しているんですよ」
と、戸籍係は、いった。
「死んでる?」
「そうですよ。二年前の十月八日に死亡して、戸籍から、抹消されています」
「見せてくれ」
「駄目です」
「見せてくれないんなら、妹を自殺させた奴は、この城崎の生れだと、触れて歩いてやるぞ!」
と、橋本は、怒鳴った。
戸籍係は、困惑した顔で、その戸籍簿を見せてくれた。
なるほど、河西弘という名前があり、二年前の十月八日死亡により抹消と、記入されていた。
両親の名前は、河西|周一郎《しゆういちろう》と、ふみで、弘は、二十九歳で亡くなっている。
橋本は、この両親に会ってみることにした。城崎町の地図を買って調べると、この河西家は、JRの駅近くである。
橋本は、この家を訪ねてみた。木造の和菓子の店だった。
河西周一郎は、出かけていて、橋本は、ふみに、会った。五十七、八歳の元気のいい女性である。
「わざわざ、東京から、おいで下さったんですか」
と、ふみはいい、橋本を、座敷にあげて、お茶と、自分の店の和菓子を、出してくれた。
「今日は、亡くなった息子《むすこ》さんのことで、伺ったんです」
と、橋本は、いった。
「じゃあ、弘のお友だちですか?」
「正確には、友だちの友だちといったところです」
と、橋本は、いってから、預って来た写真を、相手に見せて、
「そこに写っている男の人が、息子さんですか?」
と、きいてみた。
ふみは、眼鏡《めがね》を取り出してかけ、三枚の写真を一枚ずつ、丁寧に見ていたが、
「違いますよ。うちの息子じゃありません」
と、はっきり、いった。
「そうでしょうね」
と、橋本は、肯《うなず》いた。二年前に死亡しているのだから、去年の夏、沖縄で、カメラに写っている筈がないのである。
「息子さんではないとして、その男の顔に、見覚えはありませんか?」
と、橋本は、改めて、きいた。
「さあ、知らないお方ですけど。どなたさんですか?」
と、逆に、ふみが、きいた。
「正直にいうと、僕にも、わからないのです」
と、橋本は、いってから、
「息子さんは、病死ですか?」
「いいえ。それが、交通事故なんです。それだけに、残念でたまりませんよ」
と、ふみは、口惜《くや》しそうにいった。
「交通事故って、何処でですか?」
「三鷹《みたか》の近くですわ。弘は、東京の大学を出て、東京の会社で働いていたんですよ。いい人が見つかったので、今度、一緒に連れて帰ると、電話して来てたのに」
「どんな交通事故だったんですか? スピードの出し過ぎですか?」
「いいえ。夜、歩いているところを、トラックにはねられたんですよ。運転手は、すぐ捕まりましたけど、居眠り運転とかで――」
「ひどいな」
と、橋本は、呟《つぶや》いた。
ふみは、小さな溜息をついて、
「もう、すんだことですから」
「息子さんの勤めていた会社を、教えてくれませんか?」
と、橋本は、いった。
「ちょっと、待って下さいね。息子から来た手紙があって、それに、書いてあった筈ですから」
と、ふみは、いった。
事故に遭う一ケ月前に、両親|宛《あて》に出した手紙だった。
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〈僕の勤めているのは、M銀行|中野《なかの》支店です。今支店長代理で、かなり、威張っていますよ。前に書いたように、来月帰る時には、彼女を、連れて行って、紹介します。可愛い人だから、父さんや、母さんも、きっと、気に入ると思います。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]弘〉
封筒の中には、ポラロイド写真が、一枚入っていた。
二十七、八歳の男が、机に向い、電話を取って、ニッコリ笑っている。M銀行中野支店で、仕事をしているところを、友人に、ポラロイドで、撮って貰ったのだろう。
彼の背後の壁に、「M銀行のハート預金」という大きな字が、書かれている。両親に、どんなところで、仕事をしているか、見て貰いたくて、撮った写真なのだろう。
確かに、探してくれと頼まれた河西弘とは、似ていなかった。
何よりも、橋本が、引かれたのは、彼が、希望に満ちた顔をしていることだった。M銀行のエリートコースを歩いていたのだろうし、恋人も出来ていたのだから、顔が輝いていたとしても、おかしくはないのだ。
それが、一ケ月後、一瞬にして、トラックに、はねられて死んでしまったのか。
橋本は、手紙に書かれていた住所を、自分の手帳に、書き写した。
だが、そのあとで、こんなことをして、何になるのだろうかと、思い始めた。
探してくれといわれた河西弘は、城崎には、いなかった。
同名異人がいたが、その男は、すでに、二年前に死亡していた。そのことを、依頼主に報告して全《すべ》て、終りの筈である。死亡した同名異人のことを、調べても、仕方がないではないか。
だが、何となく、死んだ「河西弘」のことを、よく知りたくなっているのは、元刑事の気分が、まだ、残っているのだろうか?
旅館に戻ると、橋本は、取りあえず、わかったことを、依頼主に、電話で、知らせることにした。
長谷部かおりの母親、徳子《とくこ》に、電話をかけた。
「城崎に、河西弘という人は、実在しましたが、二年前に、亡くなっていました」
と、橋本が、いうと、
「もう、いいんです」
と、徳子は、いきなり、いった。
一瞬、意味がわからなくて、橋本は、
「え?」
「城崎の人じゃなかったんです。娘が、思い違いしていまして、北海道の人でした。昨日、本人から、電話がありましたので、もういいんです」
と、徳子は、いう。
「それ、本当ですか?」
「ええ。本当に、ありがとうございました。料金はお支払い致します。それに、成功報酬も、橋本さんの口座に、振り込ませて頂きますわ」
「人違いだったんですから、成功報酬は、必要ありませんよ」
「そんなことは、ありませんわ。わざわざ、城崎まで行って、調べて頂いたんですから。お支払い致します。明日の午前中に、銀行で、振り込んでおきます。本当に、ありがとうございました」
と、徳子は、いった。
電話は、向うから、切ってしまった。
橋本は、拍子抜けしていた。てっきり、依頼主が、がっかりするだろうと思ったのに、北海道だったという。本人から、電話が来たと、いわれたからである。
(まあ、温泉に入れたし、成功報酬までくれるというんだから、儲《もう》けたというべきかな)
と、橋本は、思った。
橋本は、もう一日、城崎温泉で過ごし、翌日、帰京した。
銀行に、電話してみると、間違いなく、長谷部徳子から、百三十万円が、振り込まれているということだった。
久しぶりに、まとまった金が、手に入り、すごく、豊かな気分になった。
今、中古のミニ・クーパーに乗っているのだが、百三十万の中から、現金を出して、新車に、乗り替えようかと、考えてきて、長谷部徳子に、返さなければならないものがあることを思い出した。
かおりが、河西弘宛に書いた手紙と、写真三枚である。
その夜、橋本は、誘惑に負けて、封書の中を、読んでしまった。
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〈この手紙を、あなたに読んで貰えるのでしょうか?〉
[#ここで字下げ終わり]
という言葉で、始まっていた。
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〈あなたが、私の前から姿を消して以来、一日も、ゆっくりやすんだことがありません。
なぜ、何もいって下さらないのですか? なぜ、連絡して下さらないのですか?
眼を閉じると、あなたに、初めて会った日のことが思い出されます。眩《まぶ》しい夏でした。
南の海で、初めて、あなたを見た瞬間、あなたの虜《とりこ》になってしまったのです。――〉
[#ここで字下げ終わり]
このあと、延々と、姿を消した恋人への思いを書きつらねている。
橋本は、翌日、その手紙と、三枚の写真を持って、ミニ・クーパーに乗り、杉並《すぎなみ》区|下高井戸《しもたかいど》に、依頼主に、会いに出かけた。
下高井戸のマンションの筈だった。
すぐ、マンションは見つかったが、302号室にあがり、ベルを鳴らしてみたが、返事はなかった。
一階に行き、管理人に聞くと、
「長谷部さんは、旅行に出られましたよ」
という返事が、返ってきた。
「娘さんも、一緒ですか?」
「ええ。ご一緒でしたよ。なんでも、北海道へ行くとか、おっしゃっていましたがね」
と、管理人は、いう。
「いつ、帰京するか、わかりますか?」
「それは、わかりませんね」
と、管理人は、いった。
橋本は、もう一度、三階に上がり、ドアについた郵便受けに、手紙と、写真を、投げ込んだ。
普通は、報告書も作って、渡すのだが、今回は、依頼主の長谷部徳子が、要らないといっているので、これで、全て、終りである。
そのまま、帰りかけた時、五、六歳の女の子が、階段をおりてきて、管理人に、
「かおりちゃん、いないんだけど、何処へ行ったか知らない?」
と、きいた。
「かおりちゃんなあ、旅行に行ったんだよ」
と、管理人が、答えている。
「ふーん」
と、鼻を鳴らして、出て行った。
橋本は、びっくりした。
「今のかおりちゃんというのは、302号室の?」
と、管理人に、きいた。
「ええ、そうですよ」
「じゃあ、長谷部さんの娘さんというのは、五、六歳の女の子ですか?」
「そうですよ。確か、六歳だったと思いますね」
「長谷部さんには、他に、娘さんはいませんか? 年頃の娘さんが」
「そんな人はいませんよ。小さな女の子、ひとりだけですよ」
と、管理人は、いった。
(これは、いったい、何なのだろう?)
橋本は、わけが、わからなくなった。
「長谷部徳子さんというのは、どういう人なんですか?」
と、橋本は、きいた。
「どんなって、中年の、きれいな女性ですよ」
「ご主人は?」
「いらっしゃらないみたいですねえ。見たことがありませんから」
「じゃあ、どうやって、食べてるんですか?」
「さあ、最近、越して来られた方なんでねえ。よく知らないんですよ。パトロンがいるのかも知れませんね。かなり、いい暮しをしていらっしゃいますからねえ」
と、管理人は、いった。
「それじゃ男の人を、見たことがあるんですか?」
「そうじゃありませんが、若造りだし、ちょっと色っぽいところがある人ですからねえ」
と、管理人が、笑った。
もし、そうだとしても、いぜんとして、なぜ、長谷部徳子が、あんなことを、百三十万円も使って、橋本に頼んだのか、それが、わからなかった。
何か企《たくら》んでいるのかも知れないが、今のところ、誰も、傷ついてはいないのである。城崎の河西弘は、二年前に、交通事故で死んでしまっているから、影響はない筈だし、橋本を罠《わな》に陥そうとしたわけでもないらしい。
(どうも、わからないな)
と、橋本は、首をかしげてしまった。
帰りの車の中でも、橋本は、結末が伏せられた小説を読んだような気分になっていた。
出だしは、まともなストーリイの小説だったのである。
去年の夏、沖縄で出会った男と女がいた。愛し合った二人だったが、男の方が、突然、姿を消してしまった。その上、女は、入院してしまい、男に、会いたがっている。心配した女の母親が、悲しむ娘のために、私立探偵に、男を探してくれと、頼んだ。
ここまでは、よくある話だが、辻褄《つじつま》は、合っている。
そのあとのストーリイは、普通は、二つしか考えられない。一つは、男が見つかって、女の入院している病院に駈《か》けつけて、ハッピイエンドになるか、男が、別の女と暮らしているのがわかって、悲しい結末になるかの二つである。
橋本は、後者を想像していたのだが、どちらでもなくなってしまった。探している男が、どうも、本名を名乗っていなかったらしいということに加えて、依頼主まで、嘘をついていたのだ。
それでは、結論の出しようがないではないか。
橋本は、銀行に行き、振り込まれていた百三十万円全部をおろした。
今は、夏である。それも、お盆の民族の大移動には、間があるから、まだ、列車も、旅館も、さほど、混んではいまい。
一週間ほど、何処かで、のんびり、過ごしてきたいと、思ったのである。
沖縄もいいし、逆に、北の北海道も悪くない。金もある。
考えてから、北海道へ行くことにした。
飛行機は、嫌いだし、乗りかえも面倒なので、札幌《さつぽろ》行のブルートレイン北斗星《ほくとせい》を、利用することにした。
一七時一七分上野発の北斗星3号である。
ふところが、温かいので、豪華な個室寝台、ロイヤル・デュエットを利用したかったのだが、もう、全て、売り切れてしまっていた。
仕方なく、安い、B寝台個室「ロイヤル・ソロ」で、我慢した。
七月二十五日。橋本は、北斗星3号に乗った。
捜査一課の刑事だった頃は、二、三日の旅行を楽しむのも、大変だった。いつ、事件が起きるかわからなかったからである。
その点、今は、何日、旅へ行こうと、誰にも、批判はされないのだ。
狭い個室にいるのが嫌で、上野を出るとすぐ、6号車のロビー・カーに、行った。
ソファに腰を下し、缶ビールを空けながら、窓の外に流れる景色を眺めた。
今日も、昼間から暑かったのだが、列車の中は、ほどよく、冷房が利いている。柔らかなソファに身体《からだ》を沈め、ビールを片手に、暮れていく景色を眺めているのは、豊かで、素晴らしい。
(これが、幸福というやつかな?)
と、思ったりしたのだが、夕食もすみ、外も暗くなってしまうと、橋本は、生来の貧乏性が、また、頭をもたげてきた。
パジャマに着がえて、しばらく、自分の寝台に、横になっていたが、ロビー・カーに行き、そこについている電話を、取りあげた。
自分の事務所の、留守番電話にかけた。仕事の依頼が、吹き込んであるかも知れない。
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〈私だ。亀井《かめい》だ。元気でやってるかね? もし、これを聞いたら、すぐ、連絡してくれ。急用だ〉
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それが、吹き込まれてあった最初の伝言だった。
橋本には、なつかしい声だった。
無視して、北海道へ行ってしまおうかと、一瞬思った。が、亀井のなつかしい声には、逆らえなかった。
改めて、警視庁捜査一課に電話をかけた。
橋本が自分の名前をいうと、亀井刑事の声に代った。
「よくかけてくれたね。今、事務所か?」
「いや、列車の中です」
「列車?」
「ええ。仕事が一つ片付いたんで、息抜きに、北海道へ行こうと思いましてね。今、札幌行のブルートレインの中なんです」
と、橋本は、いった。
「それは、悪かったな」
「急用だということですが?」
「長谷部徳子という女を知ってるかね? 中年の美人だ」
「彼女が、どうかしたんですか?」
「今日の夕方、死体で発見されたんだ。首を絞められてね。その彼女のハンドバッグの中に、君の名刺が入っていた」
「場所は、何処ですか?」
「自宅マンションだよ」
「おかしいな。旅行に出かけた筈なんですがね」
「ああ。管理人も、そういってたよ。留守の筈なのに、電気がついていた。それで、泥棒でも入ったのかと思って、開けたところ、床で、死んでいたというんだ」
「子供はいませんでしたか?」
「子供?」
「ええ。六歳の女の子です」
「子供はいなかったよ」
「今、何時ですか?」
「八時三十六分だが――」
「それなら、間に合いますから、これから、東京に戻ります」
「旅行を中止させちゃ悪いよ。知ってることを、電話で話してくれたらいいんだ」
「ちょっと複雑で、電話では話せません」
と、橋本は、いった。
北斗星3号は、二〇時四一分に、福島に着いた。
ホームに着くと同時に、飛び降りて、東北新幹線のホームに向って、駈け出した。
何とか、二〇時五一分発のやまびこ56号に間に合った。
息を整えてから、もう一度、亀井に電話をかけ、やまびこ56号に乗ったことを、伝えた。
「東京駅へ、迎えに行くよ」
と、亀井は、いった。
二二時三二分に、東京駅に着くと、ホームに、亀井の姿があった。
「お久しぶりです」
と、橋本の方から、声をかけると、亀井は、
「悪かったね。いつか、この埋め合せをしなくちゃならんな」
と、いった。
二人は、丸の内側に出た。亀井が、そこに、パトカーを、待たせておいてくれた。
運転席にいた若い男を、亀井は、
「今度、捜査本部に来た三田村《みたむら》刑事だ」
と、橋本に、紹介した。
二人が、リア・シートに乗ると、三田村が、スタートさせた。
「彼は、私のことを知っているんですか?」
と、橋本は、小声で、亀井にきいた。
「話してあるよ。いけなかったかね?」
「いや。その方が、気が楽です」
と、橋本は、いった。
パトカーは、高井戸署に設けられた捜査本部に、直行した。
そこで、かつての上司の十津川《とつがわ》警部にも、会った。
「北海道旅行を、中止させてしまったそうで、申しわけないね」
と、十津川も、いった。
「私も、毎日、浮気の調査とか、結婚調査とかで、いいかげん、げんなりしてたんで、殺人事件に、接すると、楽しくなります」
と、橋本は、いった。
十津川は、微笑して、
「じゃあ、まず、仏さんを見て貰おうかね。マンションの管理人は、長谷部徳子だといったが、君の知っている長谷部徳子かどうか、確認してくれ」
と、いい、霊安室に、連れて行った。
死体は、白い布に蔽《おお》われている。十津川が、その白布をどけると、白茶けた女の顔が現われた。
「間違いありません。私に、調査を頼みに来た女ですよ」
と、橋本は、いった。
「すぐ、解剖に廻《まわ》してくれ」
と、十津川は、若い刑事に、指示しておいてから、橋本に、
「それでは、君の知っている長谷部徳子のことを話してくれないか」
と、いった。
亀井が、コーヒーをいれてくれた。
「カメさんのコーヒーの味は、変りませんね」
と、橋本が、いうと、亀井は、笑って、
「同じ会社のインスタントコーヒーだからな。進歩してないのは、私の腕じゃなくて、この会社なんだよ」
と、いった。
コーヒーを飲みながら、橋本は、自分の事務所に、初めて、長谷部徳子が、現われた時のこと、依頼の内容、そして、彼女から、手紙と、写真三枚を預って、城崎へ行ったこと、しかも、肝心の河西弘は二年前に死んでいて、それを伝えると、長谷部徳子に、急に、調査を止めてくれといわれたことなどを、話した。
十津川は、封筒と、写真三枚を、橋本に見せた。
「君のいう手紙と、写真は、これかね?」
「そうです。これです」
「仏さんの部屋を探したら、ドアの郵便受けに入っていたんだ」
「私が、返しておいたんです。だから、私の指紋が、一杯ついていますよ」
と、橋本は、いった。
「この写真の男と、城崎の河西弘とは、全く別人だったんだね?」
と、亀井が、きいた。
「そうです。母親に写真を見て貰いましたが、二年前に、交通事故で亡くなった河西弘とは、別人だといいました」
「二年前の交通事故か」
「亡くなった河西弘は、東京の大学を出て、M銀行の中野支店で、働いていました」
「事故を調べてみよう」
と、十津川は、いった。
「はねたのは、居眠り運転のトラックで、運転手は、すぐ、逮捕されたそうです」
「事故が、起きた場所が、わかるかね?」
「母親は、三鷹の近くだといっていました。そこにあるマンションに、住んでいたようです」
と、橋本は、いった。
早速、三鷹署に、連絡がとられた。
すでに、十二時近かったが、三鷹署に残っていた刑事が、二年前の交通事故の調書を持って、飛んで来た。
現場の写真が、何枚も入った調書である。
事故は、二年前の十月八日に、起きている。
午後十一時四十分頃、河西弘は、友人と飲んでの帰りだった。
信号が青になったので、自宅マンション近くの大通りを渡りかけた。そこへ、十一トン積みのトラックが、時速六十キロで、突っ込み、河西弘をはねた。ほとんど、即死だった。
トラックを運転していたのは、二十五歳、K運送の山崎健一《やまざきけんいち》で、ブレーキ跡がなかったので、問いつめると、居眠り運転だったことが、わかったとある。
山崎健一の顔写真も、添付されていた。
パンチパーマの、細面の男である。暗い表情なのは、逮捕されたあと、撮られた写真だからだろう。
亡くなった河西弘については、簡単な略歴が、記入されている。
兵庫県城崎町で、菓子店を営む両親の下で生れ、地元の高校を卒業後、東京の大学に入り、卒業後、M銀行に入社した。
事故の時は、中野支店で、支店長代理、貸付担当だった。当時二十九歳である。
得意先の太陽《たいよう》工業のOL、高梨《たかなし》ゆみ(二十五歳)と、交際中で、将来、結婚を、約束していたという。
この事故を担当した交通課の刑事は、ひょっとして、山崎健一が、事故に見せかけて、河西弘を殺したのかも知れないと思い、二人の関係を、調べてもいた。
高梨ゆみをはさんでの三角関係のもつれということも、考えたのだろう。
しかし、いくら調べても、山崎健一と、河西弘、また、山崎と高梨ゆみとも、関係はなく、結論として、居眠り運転による事故と、断定していた。
「君に、調査を依頼した長谷部徳子だがね。探して欲しい河西弘を、城崎の生れと、いったんだね?」
と、十津川が、念を押した。
「そうです。河西が、そういっていたということでした」
「それで、城崎町の河西弘は、一人だけだったんだね?」
「はい、町役場で聞くと、二年前に亡くなった河西弘一人です」
「長谷部徳子のいう写真の男だがね、去年の夏、沖縄で、娘に会ったといっているんだね?」
「そうです」
「とすると、別人であることは、明らかなわけだな」
と、十津川は、いった。
「それどころか、長谷部徳子の娘のかおりは、六歳の子供だったんです」
と、橋本は、いった。
「すると、男と一緒に写っている女や、この部厚いラブレターは、ニセモノということになるね」
と、十津川が、いった。
「問題が、いくつかありますね」
と、いったのは、亀井だった。
「それを、いってくれ」
十津川は、黒板に向い、チョークを手にして、亀井を、促した。
「第一は、二年前の事故と、今度の殺人事件が、どこかで、つながっているかどうか?」
と、亀井がいい、それを、十津川が、黒板に、書きつけた。
「第二は、ニセモノの河西弘が、なぜ、その名前を、使っていたのか?」
「第三は?」
「なぜ、長谷部徳子は、娘の恋人と嘘をついて、ニセの河西弘のことを、調べようとしたのか?」
「他には?」
「今のところ、この三点です」
と、亀井は、いった。
十津川は、黒板から離れて、自分が書いた文字を見つめていたが、
「第一の疑問は、すぐには、解答が出そうもないな。第二の疑問から、考えて行こうか。この三枚の写真に写っている男と女が、実在することは、間違いないんだよ」
と、いった。
若いカップルの三枚の写真も、黒板に、ピンで、止められた。
「男は、河西弘、女は、長谷部かおりということだったんです」
と、橋本が、いった。
「この写真を、殺された長谷部徳子が持っていたということは、彼女の知り合いだったということになりますね」
亀井が、いった。
「つまり、この男女が見つかれば、長谷部徳子が、なぜ殺されたのか、その理由も、わかってくると思うよ」
と、十津川が、いった。
「彼女の部屋から、何か見つかりませんでしたか?」
橋本は、十津川に、きいた。
十津川に代って、亀井が、
「ずいぶん探したがね、何も見つからなかったんだ。手紙や、写真の類《たぐい》が、一つもなかったのは、長谷部徳子自身が、始末してしまったのか、或《ある》いは、彼女を殺した犯人が、持ち去ったかのどちらかだろうね」
と、いった。
「この手紙と、写真は、私が、持っていたので、助かったというわけですね」
「そうだが、ラブレターの方は、でたらめなわけだろう?」
と、亀井が、きく。
「多分、そう思います。私に、調査させるために、誰かが作った作文の可能性もあります」
と、橋本は、いった。
問題は、ニセモノの男が、なぜ、河西弘を名乗っていたかである。
偶然、同じ河西弘という名前だったことも考えられるが、それなら、城崎の生れという嘘はつかなかったろう。
と、すれば、フリーのカメラマンを自称していたその男は、理由があって、河西弘を名乗っていたことになる。
もし、そうなら、交通事故で亡くなった河西弘のことを、よく知っていた人間ということが、考えられる。
河西弘は、二年前、二十九歳で、死んだ。写真の男も、だいたい、三十歳前後に見える。
高校、大学の同窓生ということが、まず、考えられた。
三枚の写真を、コピーし、翌日、それを持って、刑事たちが、河西弘が卒業したR大学に、出かけて行った。
河西弘の同窓生の中に、写真の男が、いないかどうか、調べるためだった。
結果は、すぐ出た。四百名を越すその年の卒業生の中に、写真の男は、いなかった。
次に、十津川は、兵庫県警に、男の写真を送り、河西弘の卒業した高校の同窓生を調べて貰うことにした。
こちらは、回答が来るまで、五、六時間が、必要だった。しかし、その回答は、写真の男は、同窓生の中にはいないというものだった。
学校関係には、いなかったのである。
次に、十津川が、考えたのは、男が、フリーのカメラマンを自称していることだった。
もし、これが、本当なら、カメラマンの中に、この男を知っている人間がいるかも知れないと、考えたのである。
日本には、カメラマンの団体がいくつかある。また、どの団体にも属さない、文字通りのフリーのカメラマンもいるだろう。
若い西本《にしもと》刑事たちが、男の写真を持って、いくつかある団体を廻った。しかし、手応《てごた》えはなかった。カメラマンの団体に、写真の男は、属していなかったのだ。
十津川が、最後にやったことは、都内の写真技術学校に問い合せることだった。男は、自己流で、カメラを使い、フリーカメラマンを自称しているのかも知れないが、写真学校へ通ったことがあるのかも知れない。
十津川は、後者の可能性に賭《か》けて、いくつかある写真技術学校に、写真を持ち込んだ。
その最後に訪ねたN写真専門学校で、やっと、手応えがあった。
六年前の卒業生の中に、よく似た顔の生徒がいたというのである。
その写真を、西本が、預ってきた。
なるほど、よく似ている。その生徒の名前は、田代彰一《たしろしよういち》である。
「教えた先生の話では、この田代彰一は、いわゆる社会派の写真家になりたいと、日頃、いっていたそうですが、その消息を知っている人間は、いないそうです」
と、西本刑事は、十津川に、いった。
「同窓生も、知らないのかね?」
「そうです。同窓生の中には、新進のカメラマンとして、活躍している者もいるのだが、彼等《かれら》も、田代彰一の消息については、全く、聞いたことがないといっているらしい」
「田代が、河西弘と名乗って、生活していたとすれば、消息がわからなくても、不思議はないな」
と、十津川は、いった。
「そうだとして、なぜ、田代が、そんなことをしていたかが、問題ですね」
亀井が、いった。
「私は、何を調べましょうか?」
と、遠慮がちに、橋本が、口を挟んだ。
十津川が、橋本を見て、
「君は、もう、民間人だし、警察に協力しても、金にはならないよ」
「それでも、構いませんよ。それに、民間人でなければ出来ない仕事もあると、思いますが」
と、橋本は、いった。
ここに来ていると、刑事の時に戻ったような気がして、嬉《うれ》しいのだ。
「彼にも、何かやって貰いましょう。この事件ではもう、部外者じゃありませんから」
と、亀井が、十津川に、いってくれた。
「それでは、二年前に死んだ河西弘の恋人だった女性を、探して貰おうかな」
「高梨ゆみですね」
「そうだ。彼女が、ひょっとすると、何かを知っているかも知れないのでね。どうかな?」
「やらして下さい」
と、橋本は、勢い込んで、いった。
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第二章 婚約者
橋本《はしもと》は、中野にある太陽工業を、訪ねた。
カメラの大手メーカーの子会社で、ここでは、カメラのボディ部分を製造している。
人事課と看板の出ている部屋を、のぞき込んで、
「高梨《たかなし》ゆみさんに、会いたいんですが」
と、声をかけた。
ドアの近くの机に座っていた若い男が、眉《まゆ》をひそめて、
「あんたは?」
と、きいた。
こんな時、昔なら、警察手帳を見せると、あとは、何でも話してくれたのだが、今は、難しい。私立探偵だといえば、警戒されて、何も話してくれなくなってしまうのだ。
「高梨さん、いませんか?」
橋本は、構わずに、きいた。押しを強くした方が、相手が、折れるものなのだ。
「高梨さんは、やめましたよ」
「やめた? いつです?」
「あんたは、誰なの?」
と、また、相手が、きいた。今度は、前よりも、不機嫌な顔付きになっている。
「高梨さんと、同じ高校の卒業生なんですが、同窓会をやることになりましてね。彼女に世話役をやって貰《もら》おうと思って、頼みに来たんです。本当に、やめたんですか?」
橋本は、口から出まかせを、いった。
相手が、それを、信じたかどうかわからないが、
「もう、やめて、二年近くになりますよ」
と、答えてくれた。
「じゃあ、彼女に会って、頼みたいので、住所を教えてくれませんか」
「住所? どこだったかなあ」
と、男は、考えていたが、隣りの女子社員に、きいて、同じ中野区内の所番地を、教えてくれた。やたらに、しかめ面をしていたが、根は、気のいい青年だったらしい。
橋本は、愛車のミニ・クーパーを、教えられた場所へ走らせた。中古で、故障がちの車だから、いざという時以外は、あまり、スピードを出さないことにしている。
着いてみると、商店街の中の酒屋だった。「高梨酒店」という看板が出ている。一階が、店で、二階三階が住居になっている造りだった。
この商店街は、アーケイドも、真新しく、どの店も、最近、改造したらしい。きれいな商店街だった。
高梨酒店も、二階建だったのを、三階に改造した感じで、一階の店の中も、きれいになっていた。
店番をしている五十代の女性を、高梨ゆみの母親と見て、
「ゆみさん、いらっしゃいますか?」
と、橋本は、声をかけた。
「娘は、おりますけど、あなたは、どなたさんですか?」
と、相手が、きく。
「太陽工業の者なんですが、ゆみさんに、ちょっと、お話がありまして」
と、橋本は、また、嘘《うそ》をついた。
「あの会社は、もう、二年前に、やめておりますけど」
「わかっています。仕事の引き継ぎのことで、お聞きしたいだけなんですよ。簡単にすみます」
「ゆみちゃん」
と、相手は、二階に向って、呼んでくれた。
足音がして、長身の娘が、顔を出した。二年前に、二十五歳だったから、今は、二十七歳かと、橋本は、思いながら、
「すいません。隣りの喫茶店ででも、お話を伺いたいんですが」
「母さん、ちょっと行ってくるわ」
と、ゆみは、サンダルを突っかけて、出て来てくれた。
隣りの喫茶店ということで、安心したのだろう。その店に入ると、店の主人が、「ゆみちゃん、いらっしゃい」と、笑顔を見せたから、彼女は、よく来ているのかも知れない。
橋本は、コーヒーを注文してから、
「正直にいいましょう。僕は太陽工業の人間じゃありません。実は、二年前に亡くなった河西弘《かわにしひろし》さんのことを、調べています」
と、打ち明けた。
ゆみは、「え?」という表情になってから、
「警察の方ですか?」
「警視庁捜査一課と一緒に調べています」
「でも、河西さんは、交通事故で、亡くなったんです。今更、何を調べるんですか?」
ゆみは、運ばれて来たコーヒーに、手をつけかけ、それを止《や》めて、非難するように、橋本を見た。
「確かに、もう、事故から二年たちましたが、実は、河西弘さんのニセモノがいるんですよ」
と、橋本は、いった。
ゆみは、拍子抜けしたような顔になって、
「ニセモノって、どういうことなんでしょうか? 同じ名前の人なら、何人もいると、思いますけど」
「その通りですがね。その男は、城崎《きのさき》出身の河西弘と名乗っているんです。城崎へ行って調べたんですが、あの町の出身で、河西弘というと、二年前に亡くなった河西さんしかいないんですよ」
と、橋本は、いった。
ゆみは、眉をひそめて、
「よくわかりませんけど。その人は、河西弘と名乗って、何のトクがあるのかしら?」
と、当然の疑問を、口にした。
「そうなんですよ。何のトクもないと思いますね。だが、名乗っている。この写真を見て下さい」
橋本は、例の三枚の写真のコピーを、ゆみに見せた。
沖縄と思われる海で、写っている男女の写真である。
「その男の方が、ニセの河西弘と、思われるんです。見覚えがありませんか?」
と、橋本が、きいた。
ゆみは、じっと、三枚の写真を見ていたが、
「一緒に写っている女の人は、誰なんですか?」
と、きいた。
「わかりません。長谷部《はせべ》かおりという名前だといった人がいるんですが、どうやら、嘘のようです。男の方は、見覚えは、ありませんか?」
「なぜ、私が、知っているかも知れないと、思うんですか?」
と、ゆみは、抗議するようないい方をした。
「ニセモノですが、どうも、亡くなった河西弘さんの友人ではなかったかと、思われる節があるんです。それで、ひょっとして、あなたが、会ったことがあるのではないかと、思いましてね」
「見たことのない人ですわ」
ゆみは、妙に、そっけないいい方をした。
「では、田代彰一《たしろしよういち》という名前は、いかがですか?」
と、橋本は、手帳に、ボールペンで、その名前を書いて、ゆみに、見せた。
「この人は、どういう方なんですか?」
と、ゆみが、首をかしげて、きく。
「その写真の男ではないかと、思われるんですが、はっきりしません。どうですか? 河西さんがつき合っていた友人の中に、田代彰一という名前の人は、いませんでしたか?」
「いいえ」
と、ゆみは、はっきり否定してから、
「私、もう、二年前のことは、忘れたいんです。やっと、河西さんのことを忘れることが出来て、今度、ある男の方と、婚約したんです」
と、いった。
「そうですか。おめでとうございます」
「冷たい女だと、思わないで下さい。河西さんが、亡くなった時は、生きていることが嫌になって、会社を辞めて、ぼんやりとしていました。今年になって、やっと、立ち直ることが出来て、他の男の人を、愛せるようになったんです」
「わかります。あなたが、苦しんだことは――」
と、橋本は、いった。
「それで、その人のためにも、二年前のことや、河西さんのことは、なるべく、忘れようと、思っているんです」
「わかりました。嫌なことを、お聞きして、ごめんなさい」
と、橋本は、詫《わ》びた。
「この写真の人は、私は、知りません。もういいでしょうか?」
と、ゆみは、きき、橋本が、肯《うなず》くと、店を出て行った。
橋本は、三枚の写真を、ポケットにしまいながら、彼女が、コーヒーに、口をつけていないことに、気付いた。
(よほど、引っかかることを、聞いてしまったみたいだな)
と、橋本は、思った。
橋本は、ミニ・クーパーで、捜査本部の置かれた高井戸《たかいど》署に、寄ることにした。
ほとんど、収穫はなかったが、高梨ゆみに会った結果を、十津川《とつがわ》に、報告するためだった。
橋本は、警視庁を懲戒免職になった男である。十津川や、亀井《かめい》は、構わないというが、橋本は、署内に入るのが、はばかられて、外から電話をかけ、十津川に、出て来て貰った。
二人は、高井戸署近くの喫茶店に入った。
「今日は、喫茶店のハシゴです」
と、橋本は、笑ってから、高梨ゆみに、会ったことを、告げた。
「彼女、婚約したそうで、二年前の事故のことも、亡くなった河西弘のことも、忘れたいと、いっていました」
と、橋本が、いうと、十津川は、肯いて、
「もう二年もたっていれば、他の男を好きになっても、当然だろうね」
「それで、突っ込んだ質問が出来なくなってしまったんですが、とにかく、三枚の写真を見せました」
「それで、彼女の返事は?」
「男は、見たことがないといいましたが、妙なことに、彼女、写真の女の方に、興味を持ったみたいでした」
と、橋本は、いった。
「面白いね」
「こうやって、写真を見せて、その男が、ニセの河西弘だが、知らないかと、聞いたんですが、彼女は、いきなり、この女の人は、誰なんですかと、逆に、聞いてきたんです」
「なるほどね」
「長谷部かおりということになっているが、違ったと、答えておきました」
「それで、君は、どう思ったんだ?」
と、十津川が、きく。
「ひょっとすると、高梨ゆみは、写真の女を、知っているんじゃないかと、思いました」
と、橋本は、いった。
「ふーん」
と、十津川は、鼻を鳴らしてから、
「どうして、そう思ったのかね?」
「わかりません。そんな感じがしただけです」
「君は、刑事時代、勘が良かった」
「昔のことです」
「だから、君のいうことは、当っているかも知れないな」
と、十津川は、いった。
「しかし、高梨ゆみは、教えてくれないと思います。何しろ、新しい婚約者を、大事にしたいみたいですからね。昔のことは、喋《しやべ》りたがらない筈《はず》ですよ」
「どんな婚約者なんだろう?」
「調べましょうか?」
「一応、知っておきたいね。もし、その婚約者が、警察に好意的だったら、高梨ゆみに、知っていることを話すように、説得してくれるかも知れないからね」
と、十津川は、いった。
「わかりました。調べてみます。長谷部|徳子《とくこ》のことは、何かわかりましたか?」
今度は、橋本が、きいた。
「解剖の結果が、出たよ。死因は、頸部《けいぶ》圧迫による窒息死だ。死亡推定時刻は、七月二十五日の午後六時から七時の間となっている」
「昨日の夕方ですか」
「管理人の話だと、昨日、子供を連れて、旅行へ行くといっていたので、てっきり、出かけたと、思っていたらしいんだよ。つまり、出かけようとしていたら、誰かが、やって来て、彼女を殺したということなんじゃないかね」
「六歳の子供のことが、心配ですね」
「まあ。何とか、見つけたいと、思っているんだがね」
と、十津川は、いう。
「それで、長谷部徳子を殺した人間について、手掛りは、見つかったんですか?」
「正直にいって、今のところ、ゼロだよ。唯一の手掛りといえば、君に、妙な依頼をしたことなんだ」
「それで、殺されたと思われるんですか?」
「君が、城崎から電話した時、彼女の様子が、変だったんだろう?」
「そうなんです。急に、調査を止めてくれというし、写真の男のことがわからないのに、成功報酬もくれるというし、妙でしたね」
「そして、あわてて、子供を連れて、旅行に出ようとした。揚句に、出かける前に、殺されてしまった。君に頼んだことが原因と考えるのが、妥当なところじゃないかね」
と、十津川は、いった。
「写真の男が、怪しいということになりますか?」
「そうなってくるんだがねえ」
と、十津川は、言葉を切ってから、
「しかし、偽名を使っていたのがバレたことくらいで、人を殺すかな? それに、娘の恋人だといっていた長谷部徳子の話も、嘘だったんだろう?」
「そうです。本当の娘は、六歳ですから」
「妙な話だねえ。河西弘のニセモノがいて、その男のことを調べてくれと頼んだ女も、娘のことで、嘘をついていた。嘘の大安売りだねえ」
と、十津川は、苦笑した。
「問題は、やはり、写真の男女でしょう。見つかれば、何か聞けると思いますよ」
「今、カメさんたちが、田代彰一というカメラマンの行方を追っているよ。もし、写真の男が田代彰一なら、いいんだがね」
と、十津川は、いった。
「私は、高梨ゆみの新しい婚約者を、調べてみます」
と、橋本がいうと、十津川は、
「本件に関係のない人だろうから、相手を傷つけないように調べてくれ」
と、いった。
高梨ゆみに、直接聞けば、すぐわかるのだろうが、さっきのことで、自分を警戒するに違いないと、橋本は、思った。
橋本は、彼女と話をした喫茶店に、引き返した。店の主人と、彼女が、親しげに見えたからである。
橋本は、店に入ると、カウンターに腰を下し、店の主人に、
「さっきは、どうも」
と、あいさつした。
四十五、六歳の主人は、じろりと、橋本を見て、
「ゆみちゃんに、いろいろと、何か聞いてたねえ」
「僕は、私立探偵なんですよ」
と、橋本はいい、名刺を、相手に渡した。
「私立探偵が、ゆみちゃんの何を調べているんです?」
と、主人は、きく。こちらの身元がわかったら、言葉遣いが、丁寧になった。
「ある人から、結婚について、調べてくれと頼まれたんですよ」
「ゆみちゃんの?」
「ええ。名前はいえないんですが、ある男性が、偶然、彼女を見て、好きになってしまいましてね、母親が、僕の事務所へ、彼女のことを調べてくれと、いってきたんです」
「なるほどね。だが、駄目ですよ」
「なぜですか? 相手の男性は、資産もあるし、大会社のエリートサラリーマンなんですがね」
「ゆみちゃんには、もう婚約者がいるんですよ」
と、店の主人は、いった。
橋本は、初めて知ったように、
「本当ですか?」
「彼女が、さっき、いわなかったんですか?」
「それらしいことは、いいましたがね。僕の持って来た話を、断わる口実だろうと、思ったんですよ」
「いや、本当に、婚約者がいるんですよ。資産家の長男ですよ。国立大学も出ていて、立派な人です」
と、店の主人は、いう。
「そんな人がいるんじゃあ、僕に調査を頼んだ方は、諦《あきら》めた方がいいかな」
「それがいいですよ」
「その婚約者の話を、くわしく、してくれませんか」
「なぜです?」
「話して、依頼主を、納得させたいんですよ」
と、橋本は、いった。
店の主人は、コーヒーを、橋本の前に置いてから、
「名前は、広田圭一郎《ひろたけいいちろう》だったと思いますね。太陽工業の社長の一人|息子《むすこ》さんですよ」
と、いった。
「ちょっと待って下さいよ。太陽工業といったら、彼女が、勤めていた会社じゃありませんか」
橋本が、眼を大きくしていうと、店の主人は、何をびっくりしているんだという顔で、
「そうですよ。多分、彼女は、女子社員の中では、ピカイチだったんじゃないかな。あの通りの美人ですからね。それで、社長の息子さんが、惚《ほ》れたんだと思いますよ」
「しかし、二年前には、彼女には、恋人がいた筈ですよ。河西弘という」
「知っていますよ。M銀行の行員のね。その人が、交通事故で死んで、ゆみちゃんは、ぼんやりしてたんですよ。会社も、やめてしまって。それを、社長の息子さんが、なぐさめてたんじゃないかな。そんな話を聞いたことがありましたからね」
「そして、二人は、婚約ですか」
橋本は、コーヒーを、口に運んだ。
「あそこの両親も、喜んでいます。探偵さんにお願いだが、ゆみちゃんの幸せを、こわさないように、してほしいなあ」
と、店の主人が、いった。
「わかりました。依頼主の方を、諦めさせましょう」
「そうして下さい」
「広田圭一郎という人に、会ったことがありますか?」
「ゆみちゃんと一緒に、うちに、コーヒーを飲みに来たことがありましたよ。年齢は、三十五、六かな。若いけど、さすがに、どっしりと、落ち着いた感じでしたねえ。いずれ、社長になる人だから」
「今は、何をしているんですか?」
「大手町《おおてまち》に本社のある商事会社に、サラリーマンとして、働いているみたいですよ。父親にいわせれば、苦労して来いといった感じなんでしょうがね」
と、店の主人は、いった。
橋本は、念のためにと思い、例の写真三枚を、相手に見せた。
「この男の人が、広田圭一郎さんですか?」
と、きいたのは、さっき会った高梨ゆみが、写真の女の方を、気にしていたからである。
だが、店の主人は、あっさりと、
「ぜんぜん違いますよ。もっと、どっしりした感じの男性ですよ」
と、いった。
橋本は、写真を引っ込めてから、
「高梨ゆみさんには、僕が、婚約者のことを、いろいろ聞いたことは、黙っていて下さい。気を悪くすると、困りますからね」
と、いった。
十津川は、フリーのカメラマン田代彰一の行方を追った。
N写真専門学校に在学中の住所は、すぐ、わかった。京王《けいおう》線の上北沢《かみきたざわ》のマンションだった。
だが、西本《にしもと》と日下《くさか》の二人の刑事が、行ってみると、マンションは、あったが、田代は、とっくに引越してしまっている。引越したのは、三年前だった。
区役所へ行き、西本たちが、住民票を見せて貰った。
三年前に、引越した筈なのに、現住所は、動かされていなかった。従って、現在、何処《どこ》に住んでいるか、不明なのだ。
ただ、本籍地は、わかった。
四国の高知市だった。
十津川は、すぐ、高知県警に、協力を要請した。その本籍地が、どうなっているのか、調べて貰うことにした。
回答は、ファックスで、送られてきた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈田代彰一の件について、回答いたします。
田代彰一は、昭和××年六月七日、高知市K町で、田代|徳太郎《とくたろう》、弓枝《ゆみえ》夫婦の間に、長男として、生れました。
その後、地元の小、中学校を卒業、高知S高に入学、ここを卒業後、上京しております。
上京後の行動については、当方では、不明であります。
田代徳太郎、弓枝の間には、彰一の他に、香子《きようこ》(現在二十七歳)が、生れており、香子は二十三歳の時、徳島市のサラリーマンと結婚し、徳島市内に、住んでおります。
田代徳太郎、弓枝夫婦は現在も、同じ高知市K町に住んでおり、夫、徳太郎は、昔も、今も、雑貨屋を営んでおります。田代夫婦に、彰一のことについて聞いたところ、二年ほど前から音信不通で、現在、何処に住んでいるか、知らないということであります。
徳島市内にいる妹の香子にも、電話で問い合せましたが、同様の返事を得たことを、報告いたします〉
[#ここで字下げ終わり]
十津川は、この回答を、注意深く、読んだ。
高知の両親や、徳島にいる妹に、ここ二年ほど、音信がないというのが、本当だとしたら、異常と、いわなければならない。
手紙を書くのは、面倒くさくても、電話ぐらいは、するのが、普通だし、一年に一回、例えば、正月くらいは、故郷に帰ろうと思うのではあるまいか。
それがないというのは、どういうことなのか。
高知の両親や、結婚した妹と、何かあったからとは思えない。恐らく、東京にいる田代彰一の方に、何かが、起きたのだろう。
高知県警からの回答を、十津川は、亀井にも、見せた。
亀井は、二度、三度と、読み返していたが、
「ここのところが、気になりますね。両親が、ここ二年ほど、息子の彰一とは、音信不通だという箇所です。二年というと、河西弘が、交通事故で亡くなった時です。偶然かも、知れませんが」
と、いった。
十津川は、微笑した。
「私も、カメさんに同じだね。その二年前からというのが、気になったんだ。カメさんは、例の交通事故の時といったが、もし、田代彰一が、河西弘の死んだことを知って、河西弘を名乗り始めたとすると、両親や、妹と、音信が、途絶えたことが、納得できるんじゃないかね」
「田代彰一は、自分をこの世から消して、河西弘に、なりすましたということですか?」
「そうだ」
「しかし、なぜ、そんなことをする必要があるんでしょうか?」
「例えば、田代彰一が、二年前に、何か事件を起こして、警察に追われていたとする。そうでなくても、暴力団に追われていたりすれば、他人になりすまして、逃げようとするんじゃないかね」
と、十津川は、いった。
「なるほど。たまたま、河西弘が、交通事故で死んだのを知った。年齢も同じだし、顔立ちも、何となく似ている。それで、河西弘に、なりすますことにした。城崎生れというのも、河西弘になりすますために、田代が、調べたということですかね」
「多分ね」
「三鷹《みたか》市役所へ行ってきます。田代彰一が、河西弘になりすまそうとしたのなら、きっと河西の住民票を、取ったと思いますから」
と、亀井は、いった。
亀井は、すぐ、出かけて行き、電話で、十津川に知らせてきた。
「やっぱりでした。二年前の十月二十五日に、河西弘の住民票を見たいといってきた男が、いたそうです。戸籍係が、もう亡くなっていると告げると、それでは、本籍地を教えてくれと、いったそうで、恐らく、これが、田代彰一だったのではないかと、思います」
「戸籍係は、教えたんだね?」
「その男が、亡くなった河西弘の友人で、お墓参りをしたいというので、教えたといっています」
「戸籍係は、その男の顔を、覚えているのかな?」
「それなんですが、何しろ、二年前なので、よく覚えていないといっています。ただ、亡くなった人の住民票を見たいといわれたので、そのひとを、覚えていたと、いっています」
「十月二十五日というと、交通事故で、河西弘が亡くなったすぐあとだね?」
「そうです。事故は、十月八日に起きていますから、十七日しかたっていません。多分、その頃から、田代彰一は、死んだ河西弘になりすまそうと考えたんだと思いますね。そのためには、河西の本籍地も、知っておいた方がいいと、思ったんじゃありませんかね」
と、亀井は、電話で、いった。
これで、辻褄《つじつま》が、合ってくる。だが、電話を切ったあと、十津川は、考え込んでしまった。
田代彰一が、なぜ、そんなことをしたかが、わからないからだった。
十津川は、亀井と、その理由について、話し合った。警察や、暴力団に追われているので、他人になりすます必要があったのではないかと、その時、十津川は、いった。
他に、理由が、考えつかなかったからである。
過去に、十津川が扱った事件でも、十数年間、他人になりすましていたという男がいた。この男も、人を殺してしまい、警察の追及を逃れるために、他人になりすましたのである。
しかし、田代の場合は、どうなのだろうか?
疑問になるのは、なりすます男の河西弘のことである。
河西は、交通事故で死亡し、そのことは、新聞にものっている。また、両親も、城崎で健在なのだ。年齢は同じでも、顔はそれほど似ていない。多少は、似ているが、よく見れば、別人と、すぐわかるのだ。
なりすます相手としては、適当ではないような気がしてならない。
十数年間、他人になりすましていた男の場合は、両親も死亡し、友人も少なく、その上、身元不明で亡くなった男に、なりすましたのである。そのため、十数年間、バレることがなかったのだ。顔も、よく似ていた。
他人に、なりすますのなら、そういう人間を選ぶべきだろう。
だが、田代彰一が、選んだ相手は、どう考えても、不適当な男である。その証拠に、調べたら、すぐ、別人と、わかってしまっている。
(わからんなあ)
と、十津川が、首をかしげた時、電話が入った。亀井からかと思ったが、橋本からである。
高梨ゆみの新しい婚約者が、わかったという。
「じゃあ、また、あの喫茶店で、会おうじゃないか」
と、十津川は、いった。
「しかし、それじゃあ、申しわけありません」
「構わないよ。私は、やたらに、コーヒーを、飲みたくなるんだよ」
といい、高井戸署を出かけたところで、戻って来た亀井に会うと、彼も誘って、喫茶店に歩いて行った。
待っているところに、橋本が、飛び込んで来た。
「おくれて、すみません」
と、いってから、橋本は、高梨ゆみの新しい婚約者が、太陽工業の一人息子であることを、話した。
「正直にいって、ちょっと、びっくりしました」
と、橋本は、いった。
「私だって、驚いたよ。俗ないい方をすると、玉の輿《こし》にのったわけだね」
十津川は、そんないい方をした。
「結果的に、そうなりましたね。太陽工業は、有名カメラメーカーの子会社ですが、広い土地を所有していますし、会社も、経営状態がいいですから、あの辺りでは、資産家として、有名です」
「これは、偶然なのかね?」
「と、いいますと……」
橋本が、きき返した。
「誰もが、考えることだろうが、高梨ゆみは、太陽工業のOLで、二年前の十月八日に、交通事故で、恋人を失っている。その彼女が、二年後に婚約した相手が、太陽工業の社長の息子だったというのは、出来すぎている感じだからね」
「それはわかります」
「いつ頃から、社長の息子は、彼女に、眼をつけていたのかね?」
と、亀井が、興味津々という顔で、きいた。
「それを、知りたかったんですが、わかりません。直接、本人に聞くわけにもいきませんし、聞いたとしても、本当のことを答えてくれるかどうか、わからないので」
「まさか、社長の息子が高梨ゆみを手に入れるために、人を使って、交通事故に見せかけて、河西弘を、殺したんじゃあるまいね?」
亀井が、続けて、きいた。
「それも、わかりません」
と、橋本が、いう。十津川は、
「二年前の事故は、確か、運送会社の運転手が起こしたんだったね?」
「K運送の山崎健一《やまざきけんいち》という二十五歳の運転手です」
と、亀井が、手帳を見て、いった。
「この事故について、事故を扱った三鷹署が、殺人の可能性もあると考えて、調べたんだった」
「そうです。山崎健一と、河西弘の関係、また、山崎と、高梨ゆみの関係も調べたが、何にも出て来なかったと、いうことでした」
と、亀井が、答える。
「ひょっとすると、調査の仕方が、違っていたのかも知れないね」
十津川がいうと、亀井が肯いて、
「山崎と、太陽工業の社長か、社長の息子との関係を、調べるべきだったのかも知れませんね」
と、いった。
「山崎は、どうなっているんだったかね?」
「聞いてみます」
と、亀井は、いい、店の電話を使って、三鷹署に問い合せていたが、戻って来ると、
「山崎健一は、一年間、交通刑務所に入って、その後、出所したということです。現在、大塚《おおつか》のS運送で、働いているそうです」
「また、運転をやっているのか?」
「いえ。助手として、トラックに乗り込み、荷物の積み下しをやっている、といっていました」
「会いに、行ってみよう」
と、十津川は、亀井に、いった。
「私は、何をやりましょうか?」
橋本が、十津川を、見た。
「君に、河西弘の調査を依頼した長谷部徳子については、われわれが、調べているからいいが、太陽工業の社長と、息子については、何も、調べていない。それを、頼むかな」
と、十津川は、いった。
「わかりました」
「しかし、調査費は、払えんよ」
「そんなこと、問題じゃありません」
と、いって、橋本は、店を飛び出して、行った。
そのあと、十津川と、亀井は、パトカーで、大塚へ向った。
S運送は、JR大塚駅から、二百メートルほど離れた場所にあって、十二台のトラックを、持っていた。
十津川が、山崎健一のことを聞くと、今、仕事に出ているという。四十分ほど待たされて、山崎は、大型トラックの助手席に乗って、戻って来た。
十津川たちは、会社の事務室で、山崎から、話を聞くことにした。
「二年前の事故のことを、聞きたいんだ」
と、十津川が、いうと、山崎は、露骨に、嫌な顔をして、
「あのことは、忘れたいんだよ」
「ところが、そうはいかないんだ。どうも、あの事故は、尾を引いているようでな」
と、亀井が、いった。
「そんなこと、おれの知ったことじやないよ。おれは、ちゃんと、交通刑務所で勤めて来たんだ」
「居眠り運転だったね?」
と、十津川が、きく。
「ああ、おれが、悪かったのさ」
「太陽工業って、知ってるか?」
「太陽――? 知らないな」
「広田圭一郎という名前は、どうだね?」
「広田? 誰なんだ?」
「太陽工業の社長の息子だよ」
「そんなお偉いさんとは、馴染《なじ》みはないよ」
「その広田圭一郎に頼まれて、交通事故に見せかけて、河西弘を、殺したんじゃないのか?」
と、亀井が、山崎の顔を、のぞき込むようにして、きいた。
山崎の顔が、赤くなった。
「難癖をつけて、おれを、もう一度、刑務所に送り込もうっていうのか」
「いや、われわれは、真相を知りたいだけだよ」
十津川は、落ち着いた口調で、いった。
「真相は、おれの居眠り運転で、他に、何もないさ」
と、山崎は、面倒臭そうに、いった。
「今、何処に住んでるんだ?」
亀井が、きいた。
「この会社の寮にいるよ、会社の裏だ。どこに住もうと、おれの勝手だろうが」
と、山崎は、いった。
「もう帰ろう」
と、急に、十津川が、亀井に、声をかけた。
「しかし――」
「いいんだ。カメさん。彼は、正直に話してくれてるよ」
と、十津川は、いっておいて、亀井の腕をつかんで、連れ出した。
パトカーのところに戻ると、亀井は、腹立たしげに、
「あの男、信頼できませんよ」
と、いった。
「わかってるよ。安心させておいて、西本刑事たちに、尾行させる。何か、わかるかも知れない」
と、十津川は、いった。
翌日から、西本と、日下の二人の刑事が、山崎健一の監視に、当ることになった。
山崎は、S運送の寮に住んでいるのだが、八畳間に、十九歳の若い男と一緒だった。
部屋代は、タダで、食費を払えば、三食が出る。
しかし、運転手ではなく、助手なので、給料は、安い。日給月給で、月に、だいたい十二、三万だと、会社は、話してくれた。
朝、寮で、朝食をとって、トラックの助手席に乗り込み、夕方まで、働く。時には夜まで、仕事が、続くことがある。
寮に戻ると、疲れるのか、外出もせず、すぐ眠ってしまう。
ガールフレンドが、いるようには、見えなかったし、寮の責任者の話でも、女性が、山崎を訪ねて、来たことはないという。
毎日、同じことの繰り返しだった。
「別に、怪しいところは、ありませんね」
と、三日目に、西本が、十津川に、報告した。
「もし、山崎が、金を貰って、河西弘を殺したのだとすれば、まとまった金の筈だ。下手をすれば、殺人罪だからね。河西をはねて、すぐ、逮捕されているんだから、その金は、まだ、残っていると思うんだが、それらしい様子はないかね?」
と、十津川は、きいた。
「ありませんね。一年間、刑務所にいたんだから、出てくれば、遊びたい筈なのに、遊んだ様子は、ありません。S運送には、出所して、すぐ勤めたようですし、ぜいたくはしていません」
西本が、電話で、いった。
「誰かに頼まれて、と、考えたのは、われわれの思い過ごしだったのかな」
「引き続いて、監視しますか?」
「そうだな。あと一週間、続けてみてくれ」
と、十津川は、いった。
長谷部徳子の調査の方は、かなり、進展した。
徳子の娘、六歳になるかおりが、練馬《ねりま》区内の親戚《しんせき》の家に預けられていることが、わかったからである。
清水《しみず》と、三田村《みたむら》の二人の刑事が、徳子にとって、叔父に当る坂口《さかぐち》を訪ねて、話を聞くことにした。
坂口は、練馬区|石神井《しやくじい》で、日本そばの店を出していた。
「徳子とは、あまり、親しく、つき合ってはいなかったんです。それが、突然、娘を、四、五日、預かってくれと、いって、連れて来たんですよ」
と、坂口は、大きな身体をゆするようにして、いった。
「その理由を、いいましたか?」
と、清水が、きいた。
「旅行に行ってくると、いいましたね。それなら、娘を一緒に連れて行ったらどうだと、いったんですよ。そうしたら、子供を連れてはいけない旅なんだと、いっていましたね」
「旅先を、いいましたか?」
「いや、何も。だから、殺されたと知って、びっくりしてるんです。娘にも、どう話したらいいかわからないですしね」
坂口は、本当に、困惑している様子だった。
「徳子さんとご主人とは、死別ですか? それとも、問題があって、別れたんですか?」
と、三田村が、きいた。
「性格の不一致ということで、別れたようです。今もいったように、あまり親しかったわけではないので、くわしいことは、知らんのです」
「徳子さんは、河西弘という男のことを、調べていたようですが、その名前を、彼女から聞かれたことは、ありませんか?」
と、清水が、きいた。
「ありませんね」
「徳子さんの両親や、きょうだいは、いないんですか?」
「彼女の両親は、早くに死にましたし、きょうだいもいません。だから、私のところに、娘を預けに来たんですよ」
「預けて、帰る時ですが、何かいっていませんでしたか? 自分が、危険なところにいるとか、誰かに、脅《おど》かされているとかですが」
と、清水が、きいた。
「いや、何も、いっていませんでしたよ」
と、坂口は、いう。
「徳子さんは、どういう人だったんですか? 漠然とした質問で、申しわけないんですが」
三田村が、きいた。
「そうですねえ。二十歳前後の頃は、評判の美人でしたよ。それに、頭も良かったので、親戚の中では、きっと、大金持の奥さんにおさまるんじゃないかと、いわれていたんですがねえ。こんなことになるなんて――」
と、坂口は、溜息《ためいき》をついた。
「別れたご主人は、今、何処にいるんでしょう?」
「わかりませんが、アメリカにいるという噂《うわさ》を、聞いたことがあります。別れたのは、三年ぐらい前じゃなかったかな」
と、坂口は、いった。
「最近、年下の男性と、再婚の話があったということは、ありませんか?」
と、清水が、きく。
坂口は、びっくりした顔になって、
「そんな話があったんですか?」
「いや、ただ、お聞きしただけです」
と、清水は、いった。
こうした報告を受けて、十津川は、多少、落胆した。
どこかで、河西弘と、つながりがあるのではないかと思ったのだが、それが、わからなかったからである。
(長谷部徳子は、本物の河西弘とも、ニセモノの河西弘とも、無関係なのだろうか?)
しかし、それなら、なぜ、河西弘のことを、橋本に調べさせたのか? 少なくとも、河西弘という名前を知っていたのだし、田代彰一と、彼の恋人の写真を、持っていたことだけは、間違いないのだ。
「やはり、田代彰一を見つけることが、必要ですね」
と、亀井が、いった。
そうすれば、いくつかのことが、わかって来そうな気が、十津川もする。
長谷部徳子が、なぜ、殺されたか、その理由が、わかるかも知れない。いや、田代が、その知人だという可能性だってある。
だが、田代の行方も、一緒に写っている女の行方も、つかめなかった。
西本と、日下が、山崎健一を、監視し、尾行して、五日目は、朝から小雨だった。
山崎は、いつものように、十一トントラックに、助手として、乗り込み、仕事に、出発して行った。
西本と、日下が、覆面パトカーで、そのトラックを、尾行した。
トラックの尾行ということではなく、山崎の行動を、見張るためである。
午前中は、中央魚市場から、魚を、小売店や、料亭に、運ぶ仕事だった。
午後は、埼玉から、電気部品を、都内の工場まで運ぶ。
山崎は、黙々として、働き、誰かに、会った様子はなかった。
夕方、大森の電気メーカーから、製品を積み込んで、その会社の集配センターまで、運ぶ仕事になった。
大宮にある集配センターである。
いぜんとして、小雨が降り続いていた。山崎は、トラックの上に乗って、まじめに、部品の入ったダンボール箱を、動かしていた。
突然、鈍い銃声が、聞こえて、山崎の身体がトラックの荷台から、地面に、転落した。
西本が、駈け寄り、日下は、あわてて、周囲を見廻《みまわ》した。
内ポケットの拳銃を抜いて、身構えた。が、何処から、射《う》ったのか、わからなかった。
「山崎は、助かるか?」
と、日下は、拳銃を構えたまま、西本に、きいた。
「わからん。救急車を呼ぶ!」
と、西本が、怒鳴るように、いった。
救急車が、呼ばれ、山崎は、近くの救急病院に運ばれた。
その一時間後、山崎が、死んだ。
「なぜなんだ?」
というのが、山崎の最後の言葉だった。
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第三章 ダイイングメッセージ
〈なぜなんだ?〉
それが、山崎健一《やまざきけんいち》の、いわば、ダイイングメッセージになった。
この言葉は、いろいろに、解釈される。
第一は、山崎が、自分を射《う》った犯人を知らない場合である。このケースなら、このダイイングメッセージの意味は、次のようになるだろう。
〈誰が、なぜ、おれを射ったりしたんだ?〉
第二は、山崎が、自分を射った犯人に、心当りがある場合である。その場合なら、当然、意味は、変ってくる。
〈あいつが、なぜ、おれを射ったんだ?〉
どちらが正しいか、今の段階では、わからない。
だが、十津川《とつがわ》は、第二のケースとして、捜査を、進めることに決めた。
確率は、半々だと、思っている。第一のケースなら、山崎は、今度の一連の事件には無関係だし、彼が射たれたのも、別の事件ということである。それなら、山崎健一のことを、追及するのは、無意味だろう。彼が、河西弘《かわにしひろし》をはねたのも、単なる過失だからである。
だが、第二のケースなら、山崎の死も、山崎自身のことも、追及しなければ、ならない。
刑事なら、万一、無駄骨になっても、第二のケースと考えて、行動すべきだろう。
「山崎は、自分を射った犯人を、知っていたと、私は、考える」
と、十津川は、亀井《かめい》たちに、いった。彼は、続けて、
「従って、このダイイングメッセージは、自分は、絶対に、殺されないと、信じていたのに、射たれてしまったことへの驚きだったと、考えていいと思うのだ」
「つまり、山崎は、誰かに頼まれて、二年前、河西弘を、トラックではねて殺した。しかし、山崎は、その依頼主から、自分が、口封じに殺されることはないと、信じていた。だが、依頼主は、山崎が喋《しやべ》るのではないかと不安になってきて、殺した。そういうことですか?」
と、亀井が、念を押した。
「その通りだよ」
と、十津川は、いう。
「犯人は、広田圭一郎《ひろたけいいちろう》ですか?」
若い西本《にしもと》刑事が、性急に、結論をきいた。
十津川は、苦笑して、
「そうかも知れないし、違うかも知れない」
「しかし、今までの捜査では、他に、考えられませんよ。前々から、広田が、美人の高梨《たかなし》ゆみに眼をつけていたとすれば、彼女の恋人の河西弘を、山崎を使って、交通事故に見せかけて殺した。そして、二年後に、首尾よく、彼女と婚約。そういうことじゃありませんか?」
西本が、食いついてくる。
「そうかも知れない」
と、十津川は、なおも、同じいい方をしてから、まだ、首をかしげている西本に向って、
「違うかも知れないといったのは、広田は、資産家の息子《むすこ》だ。かなりの金が、自由に出来る筈《はず》だよ。それなのに、なぜ、金で山崎を、黙らせなかったのか。それが、わからない」
「それは、こう考えられませんか。今まで、金で、河西を殺させたし、その後も、金を与えていた。しかし、警察が、山崎を調べ始めたので、あわてて、彼の口を封じたということに――」
「なるほどね。それならわかるが――」
十津川が、語尾を濁したのは、広田のような資産家の息子が、自分で、人間を射殺したりするものだろうかと、思ったからだが、若い西本が、真剣にいうことに、これ以上、水をかけるのは、どうかなとも思った。
とにかく、調べていけば、わかることなのだ。
山崎の解剖の結果も、出た。
死亡時刻も、射たれた時刻も、わかっている。知らなかったのは、使用された銃のことだった。
弾丸は、山崎の胸部に命中していて、摘出されたものは、七・七ミリの口径のライフルから、発射されたと考えられた。
十津川は、何処《どこ》から射たれたかを調べた。現場周辺を、徹底的に調べた結果、斜め前の五階建のマンションの屋上に、空の薬莢《やつきよう》が落ちているのが、発見された。
そこから見ると、現場が、よく見通せるし、トラックの上で作業している人間を狙《ねら》うには、絶好だろう。
犯人は、そこで、辛抱強く、山崎を乗せたトラックが、来るのを待ち受け、ライフルスコープで狙って、射ったに違いない。
距離は、五十五、六メートル。かなり射撃に自信のある人間だろうと、十津川は思った。
「広田に、射撃の腕があるかどうか、調べてくれ」
と、十津川は、部下の刑事たちに、いった。
結果は、すぐ出た。
広田は、クレー射撃の愛好家グループに入っていて、月に、三、四回は、仲間と、射撃場へ行って、楽しんでいるというのである。
「東京地区の大会で、優勝したことがあるそうです」
と、西本が、眼を輝かせて、報告した。これで、犯人は、広田に違いないといいたげな表情だった。
だが、十津川は、あくまでも、慎重だった。一応、広田には、動機もあるし、山崎を殺すことも出来た。だが、動機は、あくまでも、想像にすぎないし、クレー射撃の腕は、確かだとしても、犯行に使用された銃を持っているかどうかは、不明だからである。
十津川は、山崎の過去、特に、ここ二年間のことを、徹底的に、調べることにした。
二年前、山崎が、広田に頼まれて、河西をはねて殺したとすれば、その時、かなりの金を貰《もら》っている筈である。何の報酬もなしに、殺人を引き受けるとは、思えないからだ。
亀井たちは、山崎の預金を調べた。亡くなった時、山崎は、運送会社の寮に入っていた。が、彼が、遺《のこ》した唯一の所持品であるボストンバッグを調べたところ、M銀行|中野《なかの》支店の貸金庫のキーが、見つかった。印鑑もである。
その貸金庫を開けて貰い、中身を調べると、案の定、預金通帳があり、残高は、一千三百万余りになっていた。
その金額と同時に、興味を引くのは、最初に一千万円が入金された月日だった。
二年前の十月九日である。河西弘が、はねられて亡くなったのが、十月八日だから、その翌日ということになる。
十津川は、この交通事故の調書を、もう一度、読み直した。
それによれば、河西弘が、死亡したのは、十月八日の午後十一時四十分頃だが、山崎が逮捕されたのは、十月十日だった。二日後に、山崎が、逃げ切れないと考えて、自首して来て、逮捕されたのである。
つまり、十月九日に、預金する時間は、あったことになる。
M銀行中野支店の窓口係は、この預金について、はっきり覚えていた。パンチパーマの若い男が、現金で、一千万円を持って来たからだった。
「やはり、山崎は、一千万円で、殺人を請け負ったんですよ。広田から」
と、西本が、いう。
「しかし、まだ、広田と、山崎の結びつきが、わからんよ。なぜ、広田が、山崎を知っていたかということになる」
と、十津川は、あくまでも、慎重だった。
「それは、当時、山崎が、K運送の運転手だったことが、キーになると思いますね。例えば、広田が、引越しをした時、山崎が、その荷物を運んだとも考えられます。その時、言葉を交していれば、山崎が、金さえ払えば、どんなことでもする男と、広田は、思ったのかも知れません。名刺を貰っていれば、電話をかけて呼び出して、一千万払うから、河西を殺してくれと、頼んだんじゃありませんか?」
「その時、ライフルで、射殺しなかった理由は?」
と、亀井が、西本に、きいた。
「それは、交通事故に見せかけて殺せば、警察が乗り出して来ないと、読んだからでしょう」
西本が、あっさりと、いった。
「それでは、君のいうような関係が、広田と山崎の間にあったかどうか、調べてみてくれないか。山崎が、広田と出会うチャンスがあったかどうかだ」
と、十津川は、いった。
西本と、日下《くさか》の二人が、まず、K運送へ出かけて行った。
二年前の十月八日以前に、山崎が、広田の依頼で、トラックを動かしたかどうかである。
全《すべ》ての運転手の毎日の配送記録を、見せて貰った。しかし、この記録は、三年前までしか、保存されていなかった。
それでも、三年前の一月一日から、二年前の十月八日までの配送記録を、西本と、日下は、丁寧に調べていった。
だが、二度、調べ直しても、山崎の運転するトラックは、広田の家にも、太陽工業にも、行っていなかった。
カラ振りだったのだ。
「しかし、私は、諦《あきら》めません」
と、捜査本部に戻って、西本は、十津川に、いった。
直接、二人の間に、関係がなかったとしても、誰かを介して、広田が、山崎に、一千万円で、河西弘殺しを、頼んだかも知れないというのだ。
「例えば、広田は、信頼している秘書にでも、金を欲しがっているトラックの運転手はいないかと、頼んだかも知れません」
と、西本は、いった。
十津川は、肯《うなず》いて、
「むしろ、その可能性の方が強いと思うね」
「広田の周辺の人間を調べてみます。秘書、友人、或《ある》いは、会社の顧問弁護士、運転手など全てです」
西本は、張り切って、いう。
「慎重に、やって欲しいね。何しろ、太陽工業は、有名なカメラメーカーの子会社だし、広田は、その会社の社長の一人息子だからね」
と、亀井が、釘《くぎ》を刺した。
「大丈夫です。きっと、殺人を命じた証拠をつかんで見せますよ」
西本は、元気よく、いった。
捜査本部は、広田にだけ、的を絞っているわけではなかった。
河西弘のニセモノの田代彰一《たしろしよういち》の行方も、追っていたし、殺された長谷部徳子《はせべとくこ》のことで、練馬《ねりま》の叔父《おじ》の家に、今度は、女刑事の北条早苗《ほうじようさなえ》を向わせた。六歳のかおりから話を聞くには、男より、女の方が、適していると、考えたからである。
早苗は、ひとりで、練馬の坂口《さかぐち》家に、出かけて行った。
坂口は、かおりを、刑事の早苗に、会わせるのを拒否した。母親を失って、悲しみに沈んでいる六歳の子に、あれこれ、質問するのは、残酷だというのである。
早苗は、坂口を説得するのを諦め、いったん、坂口と別れたあと、直接、かおりに、当ることにした。
かおりは、近くの小学校に通っていた。その帰りを、待ち伏せて、会ったのである。
実際に、会ってみると、かおりは、意外に明るく、早苗のきくことに、はきはきと、答えてくれた。
子供というのは、母親を失ったことのショックも、大きかったろうが、また、立ち直るのも早いのだろう。
早苗は、公園に腰を下して、かおりと、話をした。
まず、早苗は、田代彰一の写真を、かおりに見せた。
「この人、知ってる?」
と、きくと、かおりは、丸い眼で、じっと写真を見てから、
「知ってる」
「どうして知ってるの? 会ったことがあるの?」
「会ったことがある」
「ママに会いに来たの?」
「うん」
「何回ぐらい、ママに会いに来たのかな?」
「五回か、六回」
「何しに来たんだろう?」
「ママに会いに来たの」
「それは、わかってるの。ママと、何を話してたか、わかる?」
「知らない」
「この人、かおりちゃんの家に、泊っていった?」
「ううん」
「じゃあ、すぐ帰ったのかな?」
「ううん」
「ということは、泊らなかったけど、何時間もいたのね?」
「うん」
「ママは、この人のことを、何と呼んでいたか、覚えてる」
「カワニシさん」
「最初から、カワニシさんと、呼んでたの?」
「わからない」
「最初に、このカワニシさんが、来たのは、いつかな? 今年? 去年? もっと前?」
「わからない」
「ずいぶん前? それとも、最近になって?」
「ずいぶん前じゃない」
「じゃあ、最近なんだ。かおりちゃんの誕生日は、いつ?」
「二月十日」
「じゃあ、二月十日で、六歳になったのね?」
「うん」
「かおりちゃんが、六歳になってから、このカワニシさんは、ママに会いに来るようになったの? それとも、もっと前?」
と、早苗は、きき直した。
「六歳になってから」
と、かおりは、いった。
それなら、今年の二月十日以後に、河西は、長谷部徳子を訪ねて行き、今までに、五回か、六回顔を出したことになる。
問題は、何をしに、徳子に会いに行ったかである。だが、六歳のかおりは、知らないと、いった。
「じゃあ、他のことを聞くわね。ママは、このカワニシさんが来ると、嬉《うれ》しそうだった?」
と、早苗は、きいた。
「ううん」
「じゃあ、嫌がっていた?」
「うん」
「それでも、時々、カワニシさんは、来てたのね?」
「うん」
「カワニシさんは、来る時、何か持って来てた?」
「おみやげくれた」
「どんなおみやげ?」
「カニ」
と、かおりは、いう。
カニという言葉から、連想されるのは、北の海である。その中には、山陰も入ってくるし、当然、河西弘の故郷である城崎《きのさき》もである。
早苗は、最後に、田代が、他の女性と写っている海岸の写真を、かおりに見せた。沖縄で撮ったと思われる写真である。
「かおりちゃんは、この写真、見たことがある?」
と、早苗は、きいた。
かおりは、つまらなそうに、頭を横に振ってから、
「もう、帰っていい?」
と、きいた。
田代彰一の行方を追う刑事たちは、北条早苗ほど、簡単には、いかなかった。
刑事たちは、田代と少しでも関係があると思われる人たち全部に、会った。が、田代は、どこにも、現われていないのである。
田代を探す目的は、達せられなかったが、田代についての知識が、確実に、増えていった。
田代の少年時代、青年時代と、何人もの証言が、得られた。
そうした証言によって、出来あがってくる田代彰一像に、十津川は、注目した。なぜ、田代が、河西弘と名乗るようになったか、その謎《なぞ》を解明できるかも知れないと、思ったからである。
田代の小学生時代は、身体《からだ》が弱いこともあって、いじめられっ子だったという人が、多かった。
クラスの中に、ボスが二人いて、田代は、そのどっちについていた方がトクか、顔色を見ている子だったと、当時のクラスメイトは、いった。
ただ、十津川が、興味を持ったのは、六年生の時のエピソードだった。
ボスの子が、田代を、よくいじめていた。田代が、何をされても、「よせよ」と泣き顔でいうだけで、大人しくしているので、相手は、ますます、図にのってきたのだ。丁度、田代のうしろに、机があったので、授業中でも、彼の背中を、エンピツで、突ついたりしていた。それが、次第に、悪のりして、ナイフの先で、突つくようになった。いつもなら、田代は、もう一人のボスに、いいつけて、助けて貰うのだが、そのボスの子が、病気で、ずっと、休んでいた。相手は、ますます、図にのってくる。
こんな状態が、三日ほど続いたあと、昼休みの時間に、田代は、青い顔で、校庭の隅にあった大きな石を持って、突然、そのいじめっ子に近づき、いきなり、頭を石で、殴りつけたのである。それも、何回も、何回もだった。
「あの時、先生が気がついて、止めなかったら、殺されてたかも知れませんわ」
と、当時のクラスメイトで、今は、結婚している今川《いまがわ》とし子という女性は、証言した。
「その後は、どうなったんですか?」
「田代クンは、ずっと、いじめられっ子だったんだけど、あのあとは、誰も、彼のことを、いじめなくなりましたよ。田代クンというのは、いつもは、大人しくて、どっちかというと、何を考えているのかわからない子だと思ってたんだけど、あの事件から、思い切ったことをするんだなって、思いましたわ。中学は、違う学校だったんで、どうなったか知りません」
と、彼女は、いった。
六年間の小学校生活の中で、田代は、たった一回だけ、思い切った行動に出たのである。
中学校でも、同じだったことが、同窓生の証言でわかった。
中学でも、三年間のほとんどを、目立たない、大人しい生徒という印象で過ごしているのだが、一度、体育の教師に反抗したことがあったという。
その教師は、柔道三段の大男で、生徒を殴ったり、投げ飛ばすのが、愛情だと思っているような男だったらしい。
運動神経の鈍い田代は、いつも、この体育教師の恰好《かつこう》の的にされて、何かというと、しごきという暴力を振われていた。ある日、突然、田代は、学校にナイフを持って来て、この教師を、刺したのだ。
「あの時、大男の体育教師が、真っ青になりましたよ。本当に、殺されると思ったんじゃないかな」
と、当時のクラスメイトは、笑いながら、証言した。
田代は、三ケ月の停学処分を受けたという。
「あの時から、何をするかわからない奴だなと、思うようになりましたよ」
「最近、田代彰一に、会いましたか?」
「いや、会ってません」
「少しは大人になっていると、思いますか?」
「そうですねえ。わからないけど、あの頃と同じように、いつもは、目立たないが、突然、思い切ったことをやって、他人を驚かすような人間でいるんじゃありませんか」
と、彼は、いった。
その他、何人もの証言から、田代の性格が、次第に、浮き彫りになってきた。
いつもは、自分の意見をいわないが、一度、主張すると、相手を、刺してでも、その主張を通そうとするところがある。
思考経路が、普通と違うと感じられるところがある。
屈折しているが、根は、正義漢である。
小心さと、大胆さが、同居している。いや、大胆さというより、ある瞬間、自分を抑えられないのだろう。
女性に対しては、臆病《おくびよう》だったが、カメラを持つようになってからは、むしろ、大胆になった。カメラマンに、共通するのかも知れないが、田代も、カメラを持つと、大胆になれるのだろう。
特定の恋人はいなかったと、思われる。
十津川は、二年前まで、田代とつき合っていた福田《ふくだ》というカメラマンに、会った。
福田も、まだ、新人で、あまり売れていないカメラマンである。
「突然、彼は、僕の前から、いなくなってしまったんですよ」
「二年前の十月八日からですか?」
と、十津川は、きいた。
「正確な日付けまでは、覚えていませんが、二年前の年末に近かったことだけは、間違いありません。探したけれど、見つかりませんでした」
と、福田は、いう。
「田代さんは、交通事故のことで、何かいっていませんでしたか? 彼が、いなくなる直前にですが」
「いや、聞いていません。ただ、彼は、社会派のカメラマンが目標でしたから、急増する交通事故にも、興味を持っていたと思いますがね」
「彼のことを、屈折した正義漢だという人がいるんですが、福田さんは、どう思いますか?」
と、十津川は、きいた。
「屈折した――ですか」
と、福田は、いい、苦笑していたが、すぐ、笑いを消して、
「彼を見ていると、何か、危っかしい感じはしていましたよ。個人では、どうにもならないことって、あるでしょう。そんなことにも、彼は、ひょっとして、ぶつかっていくかも知れないと、思っていたからです。何かのことで、妙に、常識外れの考えをする奴でしたからね」
と、いった。
「田代さんが、ある日、他人の名前を使うようになったとしたら、あなたは、どう思われますか?」
「他人になりすますんですか?」
「そうです。交通事故で亡くなったサラリーマンの名前を、使うようになったとしたらです。本籍地まで、その人間のものを使うようになった。二年前にね」
「それで、僕の前から、消えてしまったわけですか?」
「多分、そうだと思います。河西弘というサラリーマンになってしまったんですが」
「その河西弘という人は、田代の知り合いですか?」
「今のところ、関係は、見つかりません」
「大変なお金持ちですか?」
「いや、普通のサラリーマンで、土地も、持っていません」
「それなら、なぜ、そのサラリーマンになりすます必要があったんですかね? 意味がないでしょう?」
「そうなんです。今のところ、田代さんにとっては、何のトクにもならないと思います」
「それでも、田代は、その河西という名前を使っていたんですか?」
「そうです。今日まで、二年間」
「二年間もですか」
「その間、河西弘として、沖縄へ行ったりもしているようなのです。なぜ、そんなことをしたのか、福田さんには、わかりませんか?」
と、十津川が、きくと、福田は、肩をすくめて、
「僕は、二年間、つき合っていないわけですから、その間に、彼にどんなことがあったのか、何を考えていたのか全くわかりませんが、こういうことだけは、いえますね。普通の人間なら、そんなバカなことをする筈はないと思いますが、田代なら、ひょっとすると、どんなバカげたことでも、やるんじゃないかと、思えてくるんです」
と、いった。
十津川は、田代が、河西弘として、二年間、どんな生活をし、どんな人間とつき合っていたかを知りたいと、思った。
長谷部徳子と、娘のかおりは、間違いなく、河西弘と名乗る田代と、つき合いがあった。
だが、徳子は、殺されてしまったし、六歳のかおりの証言では、肝心のことが、はっきりしない。
北条早苗刑事が、かおりと、話をして来て、少しは、わかったこともある。河西が、訪ねて来たのは、今年になってからだということ、それから、五、六回徳子に会いに行き、彼女の方は、会うのを嫌がっていたらしいことは、わかった。しかし、なぜ、河西を名乗る田代が、今年、突然、長谷部徳子に会いに行ったのか、彼女が、なぜ、嫌がっていたのかという肝心のことが、不明なのである。
十津川は、橋本に、会った。
「君に、沖縄へ行って貰いたいんだ。私が行きたいんだが、他に、東京でやらなければならないことが、あってね」
と、十津川は、橋本に、いった。
「何処へでも行きますが、沖縄で、何をやればいいんですか?」
と、橋本が、きく。
「河西弘こと、田代が、沖縄で撮った写真だよ」
「ああ、女と一緒に笑っているやつですね」
「向うで、彼は、ホテルか、ペンションに泊ったと思う。そのホテルなりペンションなりを見つけて、どんな様子だったか、調べて貰いたいんだ」
「出来れば、写真の女の身元もですね?」
「それがわかれば、一番、嬉しいがね」
「全力をつくしますよ。明日、東京を発《た》ちます」
と、橋本は、いった。
十津川は、ポケットから、二十万入りの封筒を取り出して、
「私立探偵の君を傭《やと》うんだから、これが、旅費と滞在費だ。少ないかも知れないが、使って欲しい」
「ありがたく頂きます。余ったら、お返しします」
「そんなことは、考えないでいい。足らなかったら、請求してくれ」
と、十津川は、いった。
翌朝早く、橋本は、沖縄に向った。
午前八時四〇分の全日空機に乗ると、一一時一〇分に、那覇に着く。
飛行機は、満席だった。席を取れたのが、奇跡《きせき》みたいなものである。
もちろん、ホテルの予約は、とっていないが、予約をしようとしても、八月二日では、どこでも、断わられただろう。
それでも、着いてしまえば、何とかなると思っていた。若いし、頑健である。野宿してもいいのだ。
東京も暑かったが、沖縄の暑さは、特別だった。多分、太陽の光の強さが、違うのだ。
橋本は、まず、観光協会へ行き、問題の写真を見せた。
「この写真の場所が、沖縄の何処か、知りたいんですよ」
と、橋本は、いった。
協会の人たちは、廻《まわ》して、写真を見ていたが、
「こりゃあ、本島じゃなくて、石垣《いしがき》だねえ。石垣の川平《かびら》湾だと思いますよ」
と、いう。
橋本は、やれやれと、思いながら、
「石垣ですか」
「ええ。石垣です。間違いありません」
と、いうのだ。
橋本は、仕方なく那覇から、石垣行の飛行機に、乗ることにした。
石垣行の飛行機の便は、沢山でていたが、それでも、キャンセル待ちをしなければならなかった。
一六時二五分の南西航空の便に、やっと、乗ることが出来て、石垣に、向った。子供連れの観光客で、満席である。
一七時二〇分に、石垣空港に着いた。那覇より、更に、太陽の光が、強くなった感じがする。
橋本は、タクシーを拾うと、写真を見せて、
「ここへ行ってくれ」
と、いった。
「川平湾ですね?」
「ああ、そうだ」
と、橋本が、肯くと、運転手は、川平湾の美しさについて、喋り出した。
橋本は、それを聞き流しながら、窓の外の景色を、見つめていた。
道の両側に、赤いハイビスカスの花が、咲き乱れている。家々の塀の外にまで、花が、こぼれ出ているのだ。
川平で、車をおりて、海岸へおりて行くと、なるほど、写真のバックと同じ景色だった。
白い浜は、サンゴの小さな粒子で出来ているのだろう。
夕暮れが近いせいか、猛烈な蝉《せみ》しぐれである。
橋本は、川平湾にあるホテルや、ペンションを、一軒ずつ、廻って、歩くことにした。
フロントで、写真を見せ、この男女が、来たことがないか、聞いて歩くのである。
川平湾周辺に、そう多くのホテルや、ペンションが、あるわけではない。
すぐ、反応があった。
Tホテルのフロントが、写真の男が、去年の夏、泊ったと、いってくれたのである。
「女性は、一緒じゃなかったんですか?」
と、橋本は、きいた。
「いえ。男の方が、ひとりで、泊られたんです」
と、フロント係は、いい、その時の宿泊カードを見せてくれた。
〈河西 弘〉
の名前があった。
七月三日から五日にかけて、泊っている。本土は、まだ、梅雨《つゆ》の真っ盛りの時期である。だから、部屋も、あいていたのだろう。
「かなり前から、予約していたんですか?」
と、橋本は、きいてみた。
「いや、六月三十日に、電話で、問い合せがあって、予約されたんです」
「チェック・インしてからの様子は、どうでした? 何か、普通と変った様子は、ありませんでしたか?」
「別に、そんな感じはありませんでしたね。カメラを持って、外出なさっていましたよ」
「この女性は、ここに、泊ってはいなかったんですね?」
と、橋本は、念を押した。
「違いますね。この女性には、見覚えがありませんから」
と、フロント係は、いった。
とすると、河西こと、田代彰一が、この川平湾へ来てから、ハントした女なのか。
橋本は、今度は、写真の女について、ホテル、ペンションを、聞いて廻ることにした。
こちらの方は、川平湾周辺で、一番大きな、川平グランドホテルで、反応があった。
「この方なら、去年の七月一日から、七月二十日まで、家族でお泊りになっていらっしゃった方ですよ」
「二十日間も?」
「ええ。うちの最上のお部屋を、二部屋、お使い頂きました」
「家族というと、何人で、来ていたんですか?」
「ご両親と、そのお嬢さんの三人です。一部屋を、ご両親がお使いになって、もう一部屋を、お嬢さんが、お使いでした」
「その人たちの宿泊カードを見せて貰えませんか?」
と、橋本が、いうと、フロント係は、
「そういうものを、お見せして、いいものかどうか」
と、渋った。
仕方なしに、橋本は、私立探偵の名刺を見せて、
「実は、この写真の青年が、去年の夏、このお嬢さんに会って、いっぺんに、好きになってしまいましてね。ところが、うかつなことに、名前と住所を聞かずに、別れてしまったんです。それで、私の事務所に、何とかして、調べて欲しいと、いって来たんです。真面目《まじめ》な男性なので、ぜひ、教えてやりたいと思っているんですよ。もちろん、そのあとは、本人同士の問題になりますがね」
「お教えして、このお嬢さんに、迷惑がかかるというようなことは、ありませんか?」
「大丈夫です。この写真でもわかるように、二人は、いい関係に見えるじゃありませんか」
と、橋本は、いった。
フロント係は、やっと、宿泊カードを見せてくれた。
〈東京都世田谷区成城六丁目××番地
[#地付き]宮原《みやはら》 猛《たけし》他二名〉
と、書かれてあった。
「娘さんの名前は、わかりませんかね?」
と、橋本がきいた。
フロント係は、首をひねっていたが、ルーム係が、覚えているかも知れないといって、呼んでくれた。
中年の女性のルーム係は、橋本の質問に、
「確か、ご両親は、ミホさんと、呼んでいらっしゃいましたよ。どんな字を書くんだろうなって、考えたんで、覚えているんです」
と、答えた。
美保か、美穂か、或いは、違う字を書くのか。そんなことを、橋本は、考えながら、
「この宮原さんというのは、何をやっている方か、わかりませんか?」
「よくは、わかりませんが、政治家の方じゃないかと思いますね。その関係の方から、よく、電話が入っていて、二十日まで、いらっしゃったんですが、宮原さんは、時々、東京に、帰っていらっしゃいましたから」
と、フロント係は、いった。
橋本は、ホテルのロビーの公衆電話を使って、東京の十津川に、今までに、わかったことを、報告した。
「宮原猛」
と、十津川は、おうむ返しに、いってから、
「それなら、通商省の事務次官から、政界に進出した宮原代議士のことかな」
と、いった。
「こちらに、泊っている間にも、政界の人から、よく電話が、かかったと、いっています」
「なるほどね」
と、十津川は、肯いてから、
「田代は、ただ、宮原の娘に惚《ほ》れて、近づいたのかね? それとも、宮原猛の娘だから、近づいたのかね。その辺を、知りたいね」
と、いった。
「何とか、調べてみます」
と、橋本は、いった。
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第四章 疑問の中で
橋本《はしもと》に、調べてくれと頼んだのだが、宮原《みやはら》代議士は、今、東京にいる筈《はず》である。
十津川《とつがわ》は、亀井《かめい》を連れて、宮原邸を訪ねてみることにした。
改めて、石垣《いしがき》島にいる橋本に電話をかけ、ゆっくり遊んで来るようにいっておいて、亀井と、パトカーを、成城《せいじよう》に走らせた。
宮原邸は、三百坪近い広さで、それが、宮原の持つ財力を、誇示しているように思われた。
十津川が、前もって、電話で、お嬢さんにお会いしたいと告げておいたので、父親の秘書をしている娘の美保《みほ》は、自宅にいた。
写真の女性に間違いないと、確認してから、十津川は、美保に向って、まず、
「お忙しいところを、申しわけありません」
と、いった。美保は、微笑して、
「忙しがっているのは、私だけで、父は、迷惑に思っているかも知れませんわ」
「宮原さんは、現在、どの委員会に属しておられるんですか?」
「法務委員会です。父としては、通商省時代の経験を生かしたかったんでしょうけど、法務委員会しか、アキがなくて。もちろん、熱心にやっておりますけど」
「法務委員会というと、われわれのお目付役みたいなものですね」
「そんな偉くはありませんわ。いろいろと、協力して頂くことがあるかも知れませんので、よろしくお願いします」
と、美保は、如才なく、いった。
「こちらこそ」
と、十津川は、応《こた》えてから、例の写真を、美保に見せた。
「これに写っているのは、美保さんですね?」
「ええ。確か、去年の夏に、石垣で写したものですわ」
と、美保は、認めた。
「一緒に写っている男性ですが、名前を覚えていらっしゃいますか?」
「河西《かわにし》さんと、おっしゃったと思います。名刺を貰《もら》ったんですけど、今、何処《どこ》にあるのか、わからなくて」
「前からの知り合いですか? それとも、去年の夏に、知り合ったんですか?」
と、十津川が、きいた。
「去年の夏に、初めて、お会いしたんです」
「きっかけは、どんなことでした?」
と、亀井が、横から、きいた。
「きっかけといわれても――」
と、美保は、当惑した顔になって、
「丁度、父が、いない日だったんです。確か、東京に帰っていたんだと思いますわ。私が、泊っているホテルのロビーにいたら、この方が、入って来て、宮原美保さんですかって、きくんです」
「なるほど」
「はいといいましたら、自分は、宮原先生に、いろいろと、お世話になった者ですと、いいました。父のことを、よく知っているんで、安心して、一緒に、泳いだりしましたわ。この写真も、撮りました。それで、父に話したら、そんな男なんか知らんと、叱《しか》られましたけど」
と、いって、美保は、笑った。
「お父さんのどんなことを、この男は、知っていたんですか?」
と、十津川は、きいてみた。
「父のゴルフ好きとか、カラオケでよく唄《うた》う歌のタイトルとか、選挙に出た時のスローガンとかですわ」
「そういうことは、雑誌なんかに、出ていますね」
「ええ。父も、そういっていましたわ」
「この男は、自分のことを、どういっていました?」
「カメラマンをしていると、いって、いましたわ。社会派のカメラマンだと」
「その他には?」
「今、一番、関心を持っているのは、交通問題だとも、いって、いましたわ。特に、交通事故死の悲惨さに、関心があると」
「交通事故死ですか」
「この方、何かしたんですか?」
「他人の名前を、使っていました」
と、十津川が、いうと、美保は、眉《まゆ》をひそめて、
「では、河西というのは、偽名なんですか?」
「そうです。二年前に、交通事故で亡くなった男の名前を、勝手に使っているんです」
「でも、なぜ、そんなことを、なさっているのかしら? 何か、それで、トクすることが、あったんでしょうか?」
美保が、きいた。
「われわれも、そこが、わからないのですよ。本名は、田代彰一《たしろしよういち》というんですが、別に、刑事事件も起こしていないし、莫大《ばくだい》な借金があって、逃げ廻《まわ》っていたわけでもないんです。他人になりすまさなければならない理由が、見つからないのですよ」
「他人の名前を使っているので、警察は、彼のことを調べているんですか?」
美保は、じっと、十津川を見た。興味を感じたという表情だった。
「それだけで、捜査一課は、動きません。彼に関係して、殺人事件が起きたので、調べているわけです」
「彼が、犯人なんですか?」
美保は、眼を大きくして、きいた。
「それも、わかりませんが、彼が原因だということは、間違いないと思います。それで、彼が河西|弘《ひろし》の名前を使うようになってからのことを、調べているんです」
「その中に、私も、出て来たというわけですのね?」
「そうです」
「何か、理由があって、彼は、私に近づいて来たんでしょうか?」
と、美保が、きく。
「去年の夏、あなたが、ご両親と、石垣で、過ごすことは、何か、マスコミにのりましたか?」
と、亀井が、きいた。
「ええ。週刊誌にのりましたわ。父が、家族と一緒に、石垣のホテルで、過ごすことにしたと」
「いつ頃ですか?」
「確か、六月の中旬頃の週刊誌ですわ」
「七月一日から二十日までという期間もですか?」
「ええ」
「河西こと、田代彰一は、それを見て、あわてて、石垣へ行ったのかも知れませんね」
十津川が、いうと、美保は、眉をひそめて、
「じゃあ、彼が用があったのは、私でなく、父だったんでしょうか?」
「宮原さんは、去年も、法務委員でしたか?」
「ええ」
「彼は、法務委員の宮原さんに、用があったのかも知れませんね。直接、会うのは難しいと思って、まず、お嬢さんのあなたに、アタックしたんじゃないのかな」
「しかし、その後、アタックはして来ませんでしたわ」
「そうですか?」
「ええ」
「おかしいな。そのあと、直接、宮原さんに、会いに行ったりしたのかな?」
「父に、聞いてみますわ。彼が、会いに来なかったかどうか」
「お願いします」
と、十津川は、いった。
その返事が、翌日、電話で、あった。
「宮原美保です」
と、明るい声がして、
「あれから、父に聞いてみたんですけど、父は一度も会ってないといっていましたわ。ただ、妙なことが、わかりました」
「どんなことですか?」
「父には、私の他に、何人か、秘書がいるんですけど、その秘書の方々に、何回か男の声で電話があって、私の予定を聞いていたそうですわ。若い男の声だったんで、私のボーイフレンドの一人だろうと思って、気にかけなかったということなんです」
「それが、田代彰一だと?」
「そこまでは、わかりませんけど、同じ声だったといっていますし――」
「今年になっても、同じ電話は、あったんですか?」
「ええ。先月も、一度、あったということですわ」
「それで、あなたは、彼に、一度も会っていないんですか?」
「ええ。石垣の時以外は、会っていませんわ」
「しかし、何回も、あなたの予定を、電話で、聞いてきていたんでしょう?」
「ええ」
「だが、彼は、現われなかった?」
「ええ。ただ、私は、ずっと、父の秘書をしていますから、父と一緒のことが多くて、彼は、声をかけられなかったのかも知れませんわ」
「なるほど」
「それに、一度か、二度、父と一緒の時でしたけど、誰かに見られているような気がしたことが、ありましたわ」
と、美保が、いう。
「それは、今年ですか? それとも、去年?」
「どちらも、今年になってからですわ」
「その時にも、田代は、いなかった?」
「私は、探しませんでしたから」
「わかりました。ありがとう」
十津川は、礼をいって、受話器を置いた。
亀井に、その話をすると、
「おかしいですね。父親の宮原の予定を聞くのならわかりますが、なぜ、娘の予定を、聞いていたんでしょうか?」
と、きいてきた。
十津川は、肯《うなず》いて、
「私も、それが、不思議だったんだよ。てっきり、宮原代議士に用があって、まず、娘に接触したと、思っていたんだがねえ」
「本当に、その電話は、田代だったんでしょうか?」
「宮原美保は、彼だと思うと、いっているよ。彼女のボーイフレンドの中には、そんなに度々、予定を聞いてくる者は、いないからだろうね」
「もし、その電話が、田代だとすると、どういうことになるんでしょうか? 本気で、宮原美保が好きになってしまって、何とか、彼女に接触しようと、考えたんでしょうか?」
と、亀井が、きく。
「それなら、彼女に、直接、電話するなり、手紙を書いたりするんじゃないかね? 田代は、石垣では、いきなり、彼女に話しかけ、一緒に写真を撮ったりしているんだ。電話する勇気がなかったとは、考えられないね」
「すると、どういうことに?」
「一つ考えられるのは、彼女が、父親の秘書をしているから、彼女の予定を聞けば、宮原代議士の予定もわかると、思ったということだね」
と、十津川は、いった。
「つまり、用があったのは、やはり、父親の宮原代議士の方だったということですか?」
「そうだよ。宮原代議士の予定を聞きたいのだが、そうすると、自分の名前を聞かれると困ると思ったんじゃないかな。そんな男は知らないといわれるだろうし、警戒もされるからね」
「他にも、理由が、考えられますか?」
と、亀井が、きく。
「もう一つは、田代が知りたかったのは、あくまで、宮原美保の予定だったということだよ」
「しかし、理由は何でしょう? つき合いたいのではないだろうと、警部は、いわれましたが」
「ああ、そうだ」
「すると、なぜ、知りたがったんでしょう?」
「とっぴかも知れないが、誘拐だ」
と、十津川は、いった。
亀井は、びっくりした表情になって、
「誘拐――ですか?」
「そうだ」
「確かに、宮原家は、資産家でしょうし、彼女は、ひとり娘だから、身代金は、沢山とれると、思いますが」
「おかしいかね?」
「石垣では、わざわざ、顔を見せてしまっていますしね。第一、宮原美保は、大人ですよ。一番、誘拐しにくい相手じゃありませんか? 簡単に出来るのは、幼児の筈ですが」
と、亀井は、いうのだ。
確かに、その通りだった。人質が、成人だと、顔を覚えられて、殺さなければならなくなってしまう。
「それに、彼女の父親は、法務委員ですよ。普通の父親なら、警察にいうなと、脅すことも出来ますが、法務委員では、いくら脅しても、警察に話してしまいますよ。そう考えると、もっとも、誘拐しにくい相手なんじゃありませんか」
と、亀井が、いった。
「それかも知れんな」
と、十津川は、急に、眼を光らせた。
亀井は、戸惑いの色を見せて、
「どういうことですか?」
「誘拐の理由さ。彼女の父親が、法務委員だったから、誘拐しようと思ったのかも知れない」
「しかし、それは、誘拐しにくい理由になるんじゃありませんか?」
「金が、目的ならね」
「では、他の目的で、宮原美保を、誘拐しようと、考えていたということですか?」
と、亀井が、きいた。
「そうだよ。法務委員の宮原に圧力をかけるために、その娘を、誘拐しようと、考えていたんじゃないかね」
「何のためにです?」
「わからん」
と、十津川は、あっさり、いってから、
「ホンモノの河西弘は、交通事故で、亡くなっている」
「そうです。はねたのは、トラックを運転していた山崎健一《やまざきけんいち》で、彼は、射殺されました」
「そして、田代彰一は、河西弘になりすまして、歩き廻っている」
「そうです」
「河西弘の死が、単なる交通事故でなく、殺人だとしよう」
「山崎が射殺されたので、その可能性は、強くなっています」
と、亀井が、いった。
「山崎が、はねたとしても、彼に、依頼した犯人がいることになる」
「はい」
「死んだ河西弘の名前を名乗って、うろうろしている男がいたら、犯人は、落ち着かないんじゃないかね?」
「それは、落ち着かないと思いますね。その男が、何者なのか、どこまで、真相を知っているのか、気になりますからね」
「それを狙《ねら》って、田代が、河西弘に、なりすましたとしたら、どうなるか」
と、いって、十津川は、考え込んだ。
「そうか」
と、亀井が、大きな声を出した。同時に、十津川も、
「そうだよ。田代は、宮原美保を誘拐し、父親で、法務委員の宮原代議士に圧力をかけ、二年前の河西弘の事故死を、もう一度、調べさせようと思ったのかも知れないな」
と、いった。
「警察が、交通事故で、片付けてしまっていることに、不満を、持ってですか?」
「そうなるねえ」
「そうだとしてですが、いろいろと、疑問も、出て来ますよ」
と、亀井が、いった。
「その疑問を、書いてみようじゃないか」
と、十津川は、いい、チョークを持って、黒板の前に、立った。
十津川と、亀井が、話し合いながら、黒板に、書いていった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
○田代彰一が、なぜ、そんなことをする気になったのか? 田代と、河西弘の間には、どんな関係があるのか?
○長谷部徳子《はせべとくこ》の死は、それと、どんな関係があるのか? 河西弘を名乗った田代は、なぜ、彼女に、近づいたのか?
○山崎健一は、誰に頼まれて、河西弘を、はねて、殺したのか?
彼や、長谷部徳子を殺したのは、いったい誰なのか?
[#ここで字下げ終わり]
「最初の疑問から、考えてみようか」
と、十津川は、チョークを置いて、黒板に、眼をやった。
「田代彰一と、河西弘の間に、何の関係もないことは、はっきりしています」
亀井が、きっぱりと、いった。
「そうだったな。いくら調べても、二人の間に、接点は、見つからなかったんだ」
「年齢も、出身校も、生れ育った場所も違います。多少、顔立ちは似ていますが、人が間違えるほど、似ているわけじゃありません」
と、亀井は、いった。
十津川は、苦笑して、
「第一歩で、つまずきか」
「もちろん、われわれの気付かない接点があるのかも知れませんが」
と、亀井が、なぐさめるように、いう。
「いや、カメさんたちの調べで、何も出て来なかったとすれば、二人の間には、何の関係もなかったんだよ」
と、十津川は、いった。
「他の疑問に、いってみましょう」
「そうだな。長谷部徳子にいこう」
「これは、二つのケースが、考えられるんじゃありませんか。彼女と、ホンモノの河西弘と関係があったか、彼女と、田代彰一と関係があったか、の二つです」
と、亀井が、いった。
「北条《ほうじよう》刑事が、彼女の娘に会って、聞いたところでは、田代は、この春、初めて、訪ねてくるまで、知らなかったといっている。従って、前からの知り合いとは、考えられないね」
十津川が、いうと、亀井も、肯いて、
「私も、そう思いますね。前から知っている人間なら、橋本君に頼んで、調べさせなかったと思いますから」
と、いった。
「多分、こういうことだと思うね。長谷部徳子は、どんな形でかはわからないが、ホンモノの河西弘のことを知っていた。その河西が亡くなった。ところが、突然、亡くなった河西弘と名乗る男が現われ、しつこく、つきまとい始めた。気持悪くなった長谷部徳子は、男の正体を知ろうと思い、橋本君に頼んで、調べさせた。そんなところじゃないかね」
「それなのに、急に、調査をやめてくれと、彼女が橋本君にいったのは、なぜなんでしょうか?」
「恐らく、田代彰一が、調べているのを知って、彼女を脅したんじゃないかね。それとも、彼女が、ニセの河西弘の正体がわかったので、調査を打ち切ろうとしたか」
と、十津川は、いった。
「それが、第三の疑問にもつながってくるんですが、彼女を殺したのは、田代彰一ですかね?」
「自分の正体が、わかりかけたからかね?」
「そうです」
「わかったとして、田代は、どんな罪に問われるんだろう?」
「氏名詐称ですかね」
「それだけのために、殺人をやるかね?」
「やりませんね」
亀井が、あっさり、いった。
「田代彰一が、刑事事件を起こしていて、それから逃れるために、河西弘になりすましていたとすれば、それを、あばこうとする長谷部徳子を殺したとしても、おかしくはないがね」
「その通りですが、田代彰一本人の経歴を調べましたところ、河西弘になって、トクすることは、何もないんじゃありませんか」
と、亀井は、いう。
「だが、田代は、執拗《しつよう》に、河西弘になりすまそうとしていたように、思うんだがね。もちろん、河西と代って、銀行勤めをすることは出来なくて、本来のカメラマンとして生活していたようだが、河西という名前は、ずっと、使っているみたいだからね」
十津川には、その理由が、わからないのだ。
「ホンモノの河西弘が、亡くなったのが、二年前で、その直後からですから、今日まで、二年間、田代は、河西弘を名乗っているわけです」
「生れたところも、ホンモノの河西と同じ城崎《きのさき》と、いっていたわけだ。だから、長谷部徳子は、橋本君に、城崎へ行って、調べてくれと、頼んでいる」
「結局、田代が、なぜそんなことをしたのかという疑問に、戻ってしまいますね」
と、亀井が、いう。
「そこが、問題なんだが――」
と、十津川も、呟《つぶや》き、考え込んでいたが、急に、顔をあげて、
「二年前の事故を扱ったのは、三鷹《みたか》署だったね?」
と、亀井に、確かめた。
「そうですが」
「電話して、事故のあと、この事故について、投書みたいなものがなかったかどうか、聞いてみてくれ」
と、十津川は、亀井に、いった。
「あったら、どうしますか?」
「ファクシミリで、送って貰いたいね」
と、十津川は、いった。
亀井は、すぐ、三鷹署に電話していたが、受話器を置くと、
「やはり、あったそうで、今、送って来ます」
「どんな投書だったのかな?」
「何だか、妙な投書だったと、いっています」
二、三分して、ファクシミリで、その投書が、送られてきた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈十月八日の夜、車にはねられて亡くなった河西弘のことで、警察の注意を喚起したい。犯人として、トラック運転手の山崎健一という男が逮捕されたが、あの男は、犯人ではない。犯人は別にいる。これは間違いない事実である。
警察は、もっと現場周辺の聞き込みをやり、真相を究明すべきである。
[#地付き]このままでは浮ばれぬ男
[#地付き]河西 弘
十一月十三日〉
[#ここで字下げ終わり]
「なるほど、妙な投書だね」
と、十津川は、苦笑した。
「これを出したのも、田代彰一だと、お考えですか?」
亀井は、ボールペンで書いたと思われる手紙を見ながら、十津川に、きいた。
「もちろん、そう思っているよ。田代は、河西弘を名乗って、動き廻っていた。多分、二年前の事故死に、疑問を持っているからだろう。そうだとすれば、この事故を扱った三鷹署にも、何か、働きかけをしているに違いないと、思ったんだよ」
と、十津川は、いった。
「しかし、こんな投書では、ふざけているとしか、受け取られませんよ。説得力がありませんね。田代が、この事故に疑問を持ったのなら、なぜ、もっと真面目《まじめ》で、説得力のある手紙を出さないんですかね。それが、不可解ですね」
亀井は、腹立たしげに、いった。
十津川は、その疑問には、直接、応えず、
「日付が、十一月十三日になってるね」
「ええ」
「山崎健一は、自首して来たんだったね?」
「二日後に、自首したと聞いていますから、十月十日ですね」
「すると、少なくとも、十一日には、新聞に出たわけだ」
「はい」
「それから、一ケ月以上たってから、この投書が、書かれたことになる」
「そうです」
「少し、時間が、あき過ぎているね」
と、十津川は、いった。
「そうでしょうか?」
「ひょっとすると、田代は、この交通事故の目撃者じゃないんだろうかと、思うことがあるんだよ」
と、十津川は、いった。
「目撃者ですか?」
「田代と、河西弘の間には、何の接点もない。それなのに、河西に対して、関心を持っている理由となると、交通事故の目撃者だったからじゃないかと考えたんだよ。だが、何か理由があって、名乗り出ることが出来なかった」
「事の真相を知っていたのに、ですね?」
「ああ。トラック運転手の山崎が、犯人じゃないことを知っていたんじゃないか。だが、本名で投書して、あれこれ、警察に聞かれると困る。そこで、河西弘と、被害者の名前を書いた」
「あり得ますね」
と、亀井が、肯く。
「だが、時間が、あきすぎているのが、引っかかるんだ。山崎健一を犯人と、マスコミが報道したのが、十月十一日だ。普通なら、すぐ、投書をする筈だろう。それなのに、一ケ月もたってから、投書したというのは、時間が、あき過ぎているんじゃないかね」
「そういえば、確かに、あき過ぎていますね」
「その間に、何があったのかな?」
「警部は、今、何か理由があって、目撃者として、名乗り出られなかったんじゃないかと、いわれましたね?」
「ああ」
「その理由が、大きなものだったので、この投書をしようと決意するまでに、時間がかかったんじゃありませんかね」
「例えば、どんな理由が、考えられるね?」
「何か、小説にありましたね。情事の帰りだったので、証言できないとか――」
と、亀井が、いった。
十津川は、笑って、
「管理職のサラリーマンが、不倫をして、その途中、殺人事件に関係した人間と出会ったが、不倫がばれるのを恐れて、出会ったことを証言せず、無実の人間を、犯人にしてしまうというストーリイだろう?」
「そうです」
「だが、田代は、管理職のサラリーマンでもないし、妻帯者でもないよ」
「そうなんですが、他に、理由らしいものが、浮んで来ません。強いてあげれば、問題の十月八日の夜、田代自身も、何か、犯罪に絡んだ事件を、現場附近で、起こしているんじゃないか。そんなことぐらいしか、考えられませんね」
と、亀井は、いう。
「犯罪をね」
「事故は、三鷹で起きています。それも、深夜です。その頃、例えば、田代が、近くの宝石店とか、金融会社に、盗みに忍び込んでいたとすると、事故について、証言したいが、その夜の行動について、あれこれ聞かれると困る。そういうことかも知れませんね」
「それを、調べてみよう」
と、十津川は、いった。
「二年前の十月八日夜に、三鷹で、何か事件が起きていないかということですね?」
「そうだ。現場近くでね。犯人が捕まっていない事件だ」
と、十津川は、いった。
二年前の十月八日から、翌九日にかけての事件が、調べられた。
この二日間は、都内で、殺人が二件、強盗三件、傷害一件、盗難二件、それに交通事故が六件起きていた。
しかし、三鷹周辺では、例の交通事故しか起きていなかった。
「残念だったね、カメさん」
と、十津川は、なぐさめるように、いった。
亀井も、ちょっと、がっかりした表情で、
「他に、理由は、ないような気がしたんですがねえ」
と、いった。
「いや。もう一つ、理由と考えられることがあるよ」
と、十津川が、いった。
「ありますか?」
「ああ、大きな理由があるさ。田代が、事故を目撃したが、警察に証言できないわけがだよ」
「どんなことでしょうか?」
「金だよ」
「金ですか?」
「買収されたんじゃないかということだよ。田代は、事故を目撃した。その事故は、山崎健一というトラック運転手が、はねて殺したというものではなかった。トラックにはねられたのではなく、別の車にはねられた。こうだったとしてだが、はねた犯人が、田代に目撃されたと気付いて、手を打ったんじゃないだろうか? 金で、田代を黙らせたんだよ。田代は、一時、金が欲しくて、買収されてしまった」
と、十津川は、いった。
「それが、なぜ、自ら河西弘と名乗ったり、こんな投書を、警察にするようになったんでしょうか?」
と、亀井が、きいた。
「買収されたという前提で、話すんだがね」
と、十津川は、断わってから、
「犯人にしてみれば、田代に証言されては困るから、事故の直後に、金を渡して、口止めしたと思うね。十月九日か十日だ。だから、田代は、警察に行かなかった。それが、一ケ月後に変心したのは、なぜなのか? となると、その一ケ月間に、田代の身に、何かあったとしか、思えないね」
「何があったんでしょうか?」
「そこまでは、想像できないよ」
「田代の知り合いを探して、もう一度、彼の行動について、聞いてみます。事故の直後なら、まだ、田代彰一の本名で、動き廻っていたと思います」
と、亀井は、いった。
十津川は、刑事たちを動員して、この調査に当らせた。
田代は、友人、知人が少ない上に、二年前のことである。なかなか、当時の田代を知る人間が、見つからなかったのだが、三日目になって、やっと、一人の男を、見つけ出した。
その頃、田代と、外国旅行に出かけたという、石川《いしかわ》という二十八歳の男だった。今、雑誌に、旅行案内などを寄稿して生活しているという石川は、亀井の質問に答えて、
「あの頃、彼とは、同じアパートに住んでいましてね。二人とも、仕事はないし、金はないしという状況でしたよ。それでも、カメラマンの田代も、僕も、アフリカへ行ってみたいと思って、いつも、アフリカの話をしていたんです。田代は、アフリカの写真を撮りたいといっていたし、僕は、旅行好きでしたからね。もちろん、行きたいと思っても、先立つものがありませんからね。それに、行くんなら、出来るだけ、長く行っていたいと思っていました。アルバイトで、何とか、金を貯《た》めてと思っていたら、突然、田代が、金が出来たから、行こうと、いったんですよ」
「それが、二年前ですか?」
「そうです。田代は、金の出所はいいませんでしたが、僕は、そんなことはどうでもいい、とにかく、アフリカへ行ければと思いましたからね」
「出発したのは、いつですか?」
「とにかく、あわただしい出発でしたね。田代が、やたらに、せかせましたからね。ちょっと、待って下さい」
と、石川は、いい、パスポートを、持って来て、見せてくれた。
それによると、出国は、二年前の十月十五日になっていた。
帰国は、十月二十五日である。十日間のアフリカ旅行だったことになる。
「田代さんも、一緒に、帰国したんですか?」
と、亀井は、きいた。
「いや、彼は、もう少し、アフリカにいたいといって、僕と別れました。まあ、彼の金ですから、僕も、もっといたいというわけにはいかず、予定どおり、二十五日に、帰ったんです」
「田代さんが、いつまで、アフリカを廻っていたか、わかりますか?」
「十一月の七日か八日に、アパートに、帰って来たんじゃなかったかな。何か、人が変ってしまったように見えましたね」
と、石川は、いう。
「それは、どういうことですか?」
「もともと、口数の多い方じゃなかったんですが、何か、思いつめたような顔でしたね。どうしたんだと、聞いたら、アフリカを、カメラで撮りまくっていて、ショックを受ける光景にぶつかったというんです」
「どんなことですかね?」
「くわしくは、話してくれなかったんですが、どうやら、エチオピアで、飢えた子供たちを見た時に、ショックを受けたらしいんですね。自分の今までの生活が、嫌になったといっていましたね」
「そのあと、どうなりました?」
「僕は、いってやりましたよ。ショックを受けるのもいいが、何も出来やしないんだとね。それに、日本人のわれわれには、われわれの生活があって、それから、飛び出せやしないんだって。そうでしょう? アフリカで、何万、いや、何十万の人々が飢えている。だからといって、僕たちに、何が出来ますか? 何かしたいと思いながら、だらだらと、同じ生活を続けていくんですよ」
「田代さんは、あなたの言葉に、どう反応したんですか?」
と、亀井は、きいた。
「そんなことはわかってるが、今までの生き方を、ほんの少しでも、変えてみたいんだといっていましたね。そのあと、突然、アパートからいなくなってしまったんですよ。その後、彼に会ってないんですが、何かあったんですか?」
「いや、私たちも、田代さんに会いたくて、探しているんですよ」
と、亀井は、いってから、
「アフリカに一緒に行っている間ですが、田代さんが、交通事故のことを、何かいっていませんでしたか?」
「彼、交通事故を起こしたんですか?」
「いや、交通事故の目撃者と、思われるのですよ。それで、証言して貰いたいと思って、探しているんですがね」
「知りませんでしたね。彼は、何もいいませんでしたから」
と、石川は、いった。
「急に、アフリカ行のお金が入った理由については、どうですか? 何か、いっていましたか?」
「向うに着いて、草原の中で、夜明けを迎えた時、きいてみましたよ。ずっと、聞きたくて、我慢してたんです。そしたら、怒ったような声で、そんなことは、どうでもいいじゃないかと、いいましたよ。確かに、その通りなんで、二度と、聞きませんでしたね」
と、いって、石川は、笑った。
亀井は、戻って来ると、十津川に、石川の話を、報告した。
「やはり、金を貰っていたようです」
「だが、日本に居づらくて、友人と、アフリカへ出かけたということなんだろうね」
と、十津川は、いった。
「そう思います。だが、向うへ行って、厳しい生活にぶつかって、考えることがあったんでしょう。何となく、わかる気がするんですが」
亀井は、語尾を濁した。
「わかるが、何だい?」
「それで、問題の交通事故について、警察に、投書をしたり、わざと、死んだ河西弘の名前を名乗ったりし始めたんだと思うんですが、事故を目撃しているのなら、なぜ、本当に、河西弘をはねた人間は、誰なのか、はっきり、書かないんですかね?」
と、亀井は、不満を、いった。
「田代は、そこまで、はっきりとは、目撃していないのかも知れないよ」
と、十津川は、いった。
「しかし、相手は、黙らせるために、金を払っていますよ」
「わかってる。事故は、十月八日の午後十一時四十分頃に起きている。暗かった筈だよ。それに、もし、誰かが、河西弘をはねて殺そうとしたのだとすれば、車内灯は消し、フロントライトも消して、近づいたに違いないんだ。だから、田代が、目撃したとしても、運転している人間は、見てなかったと思うよ」
と、十津川は、いった。
「それなら、なぜ、犯人は、金を払ったんでしょうか?」
と、亀井が、きく。
「それは、運転していた犯人の気持になって考えれば、わかると思うね。犯人の方からは、きっと、田代が、見えたんだ。人間というのは、おかしなもので、自分の方から、相手が見えると、向うから、こっちも見えているんじゃないかと、思ってしまう。それに、犯人は、万一ということも、考えたんじゃないかな。それで、田代を探し出し、金で、黙らせた。もちろん、犯人自身は、顔を出さずにね。だから、田代は、犯人を指摘したくても、わからなかったんじゃないかね」
と、十津川は、いった。
「しかし、山崎健一が、犯人ではないこと、田代には、わかっていたんですね? それは、なぜなんですかね? 犯人の顔が、わからなかったのに」
「トラックさ。田代が目撃した車は、トラックじゃなかったんだと思うよ。だから、トラックで、はねたと、新聞に出たとき、これは、嘘《うそ》だと、わかったんだろう」
と、十津川は、いった。
「田代は、いったい、何をしようとしているんでしょうか?」
と、亀井が、きいた。
「まず、河西弘の名前を使って、三鷹署に、真犯人を探してくれと、頼んだ。だが、警察は、取り合わなかった。そこで、田代は、何とかして、自分の手で、真犯人を見つけ出そうと考えたんだと思うよ」
「それが、アフリカで、ショックを受けて、自分の生き方を、変えてみようと思い立ったことなわけですか」
亀井が、いう。
「少しは、変えたいと、いったんだろう。金で買収されたことから考えれば、大きな変化だし、田代は、きっと、真犯人を見つけることに、生甲斐《いきがい》を覚えているんじゃないかね」
と、十津川は、いった。
「河西弘の名前を使っているのは、そうして、動き廻れば、犯人が動揺して、ボロを出すと考えているんでしょうか?」
「多分、そうだろうね。従って、田代も、危険な立場にいるわけだよ」
と、十津川は、いった。
「今、田代は、何処にいるんですかね? それとも、真犯人に、すでに、消されてしまったんでしょうか?」
「消されていないとしても、危険は、大いにあるね。真犯人にとって、うるさい存在だろうからね」
と、十津川は、いった。
だが、田代彰一を、どうやって探したものか、十津川にも、見当がつかなかった。
考えてみれば、河西弘になりすましている田代の写真は、見ているが、まだ、当人には、会っていないのである。今のところ、彼の足跡を追っているに過ぎない。
「われわれの推理が当っていて、田代が、河西弘を殺した真犯人を、見つけようとしているとすれば、われわれが、同じように、捜査を進めていくと、田代と、自然に、顔を合わすことになるかも知れないね」
と、十津川は、亀井に、いった。
亀井は、肯いてから、
「その時、われわれは、田代を逮捕できるんでしょうか?」
と、きいた。
「そうだな。出来そうもないね。さっきもいったが、今のところ、氏名詐称だけだし、それによって、誰かに、損害を与えているわけでもないからね」
と、十津川は、苦笑しながら、いった。
橋本は、東京に帰って来ていた。わずか四日間の石垣島だったが、東京とは違う強烈な南の太陽のせいで、すっかり、陽焼《ひや》けしてしまった。
それが、ひりひりと痛い。十津川に電話をかけ、改めて、沖縄で楽しんだ礼をいい、十津川からは、田代について、わかったことを教えて貰った。
そのあと、陽焼けで痛い肌を、冷たいシャワーで、なだめてから、ベッドに俯《うつぶ》せに寝転んだ。その姿勢で、手を伸ばし、煙草《たばこ》をくわえた時、電話が、鳴った。
煙草をくわえたまま、電話を取った。
「橋本さん?」
と、男の声が、きいた。
「そうです。橋本です」
「あなたに会って、話したいことがあるんだが、時間は、ありますか?」
男は、丁寧に、きいた。
「それは、話の内容によりますね」
と、橋本は、いった。
「橋本さんにも、興味があることだと、思いますよ」
相手は、思わせぶりないい方をした。
「まず、あなたの名前から、教えてくれませんか? 会う、会わないは、そのあとです」
と、橋本は、強気にいった。
「河西弘です」
「河西?」
「そうです。どうですか、会う気になりましたか?」
「本当に、河西弘さんなんですか?」
「そうですよ。あなたは、僕のことを、城崎まで行って、調べたんじゃなかったですか?」
と、相手は、切り返した。
橋本は、緊張をおさえながら、
「僕も、あなたに、会いたくなって来ましたよ」
と、いった。
「条件が一つあります」
「どんなことですか?」
「このことを、警察には、絶対に、いわないことです。あなたは、元警視庁一課の刑事だから、僕のことを、昔の上司に、話したくなるとは、思いますが、それでは、困る」
男は、途中から、厳しい調子になって、いった。
「わかりました。喋《しやべ》りませんよ」
と、橋本は、いった。ここは、どんな約束をしてでも、河西と名乗る男に、会いたかったのだ。
「では、明日の昼十二時丁度に、新宿《しんじゆく》西口のPという喫茶店で。もし、刑事が一緒だったら、僕は、会わずに、帰ります」
と、相手は、いった。
「そんなことはしませんよ。約束は、守ります。安心して下さい。明日、正午に、その店へ行きますが、僕の顔は、知っていますか?」
と、橋本は、きいてみた。
「あなたが、城崎へ行ったのを、知っていると、いった筈ですよ」
「なるほどね」
「こちらの顔は、知っていますね?」
「写真で見ていますよ」
「それなら、問題はありませんね。では、明日」
と、いって、相手は、電話を切った。
橋本は、自分が、興奮しているのを感じた。陽焼けした肌の痛みは、忘れてしまっている。
ふと、電話に眼が行った。十津川に、今の電話のことを話したい。だが、それに気付かれたら、元も子もなくなってしまう。
(これは、誘拐事件ではないのだ)
と、橋本は、自分にいい聞かせた。
それに、今のところ、河西弘こと、田代彰一は、殺人犯でもない。取り逃がしても構わない相手なのだ。
橋本は、自分に、いい聞かせて、電話に、手を伸ばさなかった。
翌日、橋本は、新宿西口にあるPという喫茶店を探して、十二時十分前に、店に入った。
店内は、半分ほどの席が埋っている状態だった。
橋本は、入口に向って腰を下し、煙草をくわえた。
客の出入りがある。が、写真の男は、なかなか、現われなかった。十二時を、五分、十分と過ぎていく。
(来ないのか?)
と、思ったとき、突然、横から、
「橋本さんですね」
と、声をかけられた。
不精ひげを生やし、眼鏡をかけた男が、そこにいた。
よく見れば、写真の男なのだ。男は、橋本と、向い合って、腰を下して、
「万一のことを考えて、しばらく、様子を見ていました。許して下さい」
と、丁寧に、いった。
「僕が、刑事を連れて来ると思ったんですか?」
「半々だと思っていましたよ」
と、相手は、いった。
「確認したいんですが、あなたは、田代彰一さんですね?」
と、橋本が、きいた。
男は、イエスとも、ノーともいわず、
「河西弘ということにしておいて下さい」
と、いった。
「僕は、長谷部徳子さんから、頼まれて、城崎へ行った。あなたのこと、いや、ホンモノの河西弘のことといった方がいいのかな。とにかく、調べに行った。そのあと、長谷部徳子は、何者かに殺されてしまった。あなたが、殺したんですか?」
橋本が、きくと、男は険しい眼つきになって、
「僕は、そんなバカな真似《まね》はしませんよ。殺す理由がないんだ」
「あなたと、長谷部徳子の関係は、何なんですか?」
と、橋本は、きいた。男は、今度は、皮肉な眼つきになった。
「それは、捜査一課が、答を欲しがっているということですかね?」
「いや、僕の興味ですよ。何しろ、彼女は、僕の依頼主ですからね」
と、橋本は、いった。
「長谷部徳子が何者なのかわかれば、自然に答が出て来ますよ」
相手は、そんないい方をした。
「わからないから、聞いているんですがね」
「あなたは、プロの筈だ。簡単に、答を見つけようとしないで、調べて下さい。ところで、僕が、聞きたいのも、彼女のことでね。警察は、彼女を殺した犯人について、どの程度まで、調べあげているんですか?」
と、今度は、相手が、きいた。
「僕は、今は、警察とは、関係ありませんよ」
「あなたが、絶えず、十津川警部と連絡をとっていることは、知っていますよ」
と、相手は、いった。
「なぜ、知っているんです?」
「警察は、僕が何者なのか、気付いている。それは、あなたが、僕の写真を、十津川警部に見せたからです。あなた自身も、石垣へ行っている。もう、長谷部徳子という依頼主はいないんだから、新しい依頼主は、十津川警部に、決っているじゃありませんか」
と、いって、相手は、小さく笑った。
(油断の出来ない男だな)
と、橋本は、思った。
「それで、僕の質問に対する答は、どうなんですか?」
と、相手は、また、きいた。
「それを聞いて、どうするんですか?」
橋本は、逆に、きき返した。
「わかれば、僕は、目標に、一歩近づける」
と、相手は、いった。
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第五章 誘拐への旅
「警察は、長谷部徳子《はせべとくこ》を殺したのは、あなただと思っていますよ。その線で、捜査を進めている筈《はず》です」
と、橋本《はしもと》は、いった。
河西弘《かわにしひろし》こと、田代彰一《たしろしよういち》は、明らかに、失望の色を見せた。
「その先入観から、脱《ぬ》けられないんですかね。日本の警察も、その程度のものですかね。もっと、優秀だと思ったんだが」
と、いった。
昔、警視庁にいた橋本は、むっとしながら、
「それは、あなたの責任ですよ。もし、無実で、それを訴えたいのなら、堂々と、警察へ出頭したらどうなんですか」
「それは、駄目だな」
と、田代は、にべもない調子でいった。
「なぜ、駄目なんですか?」
「それは、今、あなたが、警察は、僕を捜しているといったじゃないですか。そんな空気のところへ、出て行けば、犯人逮捕で、事件の幕が下りてしまう。そんなことは、我慢がならないんですよ」
と、田代は、いった。
「じゃあ、あなたが、犯人でないのなら、誰が、犯人だと、思うんです。わかっているのなら、名前をいって下さい。警察は、あなたの言葉を信じないかも知れませんが、僕は、自由な一市民です。勝手に動けるから、調べてみますよ」
橋本が、いうと、田代は、疑わしげな眼つきで、見返してきた。
「あなたは、十津川《とつがわ》警部の指示で、動いているわけでしょう? 現に、先日も、石垣島《いしがきじま》に行ってきている」
「僕は、私立探偵ですからね。頼まれれば、どんな調査でも引き受けますよ」
「警察の依頼でも?」
「あれは、十津川さん個人の依頼です。だから、きちんと、費用は、貰《もら》って動きましたよ。実費と、調査費をね」
「本当ですか?」
「義理だけで、動いていたら、どうやって、暮していくんです? 昔の知り合いだって、ちゃんと料金を貰うのが、当然でしょう?」
と、橋本は、笑った。
「つまり、警察に対しても、完全な第三者だといいたいんですか?」
「そうありたいと思っていますよ。正直にいえば、やはり、昔の職場だし、昔の上司ですからね。完全な第三者というわけにはいかないけど、金はちゃんと貰うし、間違っていると思えば、遠慮なく、いいますよ」
と、橋本は、いった。
田代は、考えていたが、
「じゃあ、あなたに、調査を頼もうかな」
「喜んで、引き受けますよ。料金さえ払ってくれれば、大事なお客様ですからね」
と、橋本は、いった。
田代は、内ポケットから、封筒を取り出して、橋本の前に置いた。
「中に、二十万円入っています。今は、それ以上、出せないんですよ。これで、調べてくれませんかね」
「何を調べるんです?」
「宮原《みやはら》代議士と、広田《ひろた》家の関係です」
と、田代は、いった。
「なるほどね」
と、橋本は、肯《うなず》いたが、
「それは、なかなか、難しいな。代議士と、会社社長は、どちらも、僕には、無縁の世界だから」
「出来ませんか?」
「何とか、やってみますよ。それが、僕の仕事だから。調査依頼書を、書いて下さい」
と、橋本はいい、いつも、持っている用紙を、田代の前に、差し出した。
田代は、苦笑して、
「そんなものは、要らんでしょう。とにかく、調べてくれればいいんだから」
「じゃあ、そちらの希望をいって下さい。関係といっても、どんな関係を、調べればいいのか」
「まず、宮原代議士に、政治献金をしているかどうか、していれば、その額が、知りたい」
と、田代は、いった。
「他には?」
「その政治献金ですが、最近、急に増えてないかを、特に知りたいですね」
「わかりました。他には」
「広田|圭一郎《けいいちろう》が、現在、乗っている車が、何なのか、多分、外国の車だと思いますが、その車を買った時期を調べて欲しいですね」
「他には、ありますか?」
「いや、二十万円ですから、それだけで、結構です。なるべく早く、調べて貰いたいんですよ」
と、田代は、いう。
「やりますよ。調査がすんだら、何処《どこ》へ届けたら、いいんですか?」
「いや、三日したら、僕の方から、電話します。三日して、出来ていなければ、次は、更に、三日したら、連絡します」
「わかりました」
「では、今日は、これで失礼します」
と、田代はいい、ふいに席を立った。
相手が、姿を消したあとも、橋本は、しばらく、腰を下したまま、動かなかった。
煙草《たばこ》に火をつけ、田代が置いて行った封筒に眼をやった。彼が、二十万入っているといい、橋本は、中身を調べなかった。
田代のいう通りに、二十万が入っていると、信じたのだ。なぜかわからないが、田代という男には、橋本を信じさせる何かがあったということである。それが、何なのか、橋本にも、うまく説明は、できないのだが。
(しかし、大変だぞ)
と、思った。
捜査一課の刑事だった頃は、警察手帳を示せば、たいていの場所に入って行くことが出来たし、たいていの人間に、会うことが、出来た。
しかし、一市民になった今は、そんな万能の道具は、持っていない。私立探偵といっても、日本では、免許制になっていないから、何の権限もないのである。
宮原代議士と、広田との関係を調べるといっても、そのどちらも、多分、会っては、くれないだろう。宮原代議士の秘書や、広田の秘書にすら、まともにぶつかっては会うことは、難しい。
方法は、二つだなと、思った。
地道に、宮原か、広田のどちらかを、尾行する。その結果、宮原が、広田に会うことがわかれば、二人の間に関係があることだけは、わかる。
もう一つは、彼等を欺《だま》して、近づき、情報を取る方法である。
橋本は、事務所に帰ると、机の引出しから、名刺の束を取り出した。
調査の時に、利用するために、印刷しておいた名刺である。利用するケースに対応して、いろいろな肩書がついている。もし、バレれば、肩書詐称で、警察に、逮捕されるだろう。その時、十津川たちに、迷惑をかけるので、今まで、名刺は、作ったが、使わずに来たのである。
橋本は、並べた名刺を見ながら、しばらく、迷っていた。
だが、田代が、なぜ、死んだ河西弘を名乗っているのか、長谷部徳子を殺したのは、本当は、誰なのかを、知りたかった。
それに、そのヒントでも掴《つか》めれば、十津川が、喜ぶとも、思ったのである。
橋本は、名刺の中から、「政経デイリー記者」の肩書の入ったものを、使うことにした。
これが、果して、宮原に会うパスポートになるかどうか、わからない。宮原が、用心して、名刺の電話番号にかけたら、それで、おわりなのだ。
橋本は、事務所の電話を取り、宮原代議士の事務所に、かけた。
池田という秘書が出た。
「私は、政経デイリーの記者で、橋本といいます。最近、政治資金が、問題になっていますが、尊敬する宮原先生のご意見を、うかがいたいと思うのですが」
と、橋本は、いった。
「宮原は、今、忙しいので、お会い出来ませんが」
と、秘書がいう。
「先生が、駄目でしたら、秘書の方に、お話を伺いたいのですよ。先日は、藤田《ふじた》先生に、政治資金の問題で、有意義なお話を伺って、紙面を飾ることが出来ました」
と、橋本は、わざと、宮原のライバルの政治家の名前をあげて見せた。
「そうですか」
と、秘書は、考えていたが、
「私で良ければ、お会いしましょう」
と、いった。
橋本は、カメラと、テープレコーダーを持ち、愛車のミニ・クーパーで、宮原の事務所のある麹町《こうじまち》に出かけた。
半蔵門《はんぞうもん》に近い場所に、宮原の事務所があった。
橋本は、肩書つきの名刺を受付で渡し、池田秘書に、会った。
四十歳前後の、唇のうすい男だった。
こんな時、遠慮がちにやると、かえって、疑われてしまう。橋本は、高飛車に出ることにした。
池田の前に、さっさと、テープレコーダーを置き、カメラを構えて、
「まず、顔写真を一枚、撮らせて下さい。紙面を飾るのに、池田さんの写真が、必要ですので」
と、いい、二度、三度と、シャッターを、切った。
池田は、反射的に、ちょっと胸をそらせて、ポーズを作った。これで、こちらのペースに巻き込んだことになる。
「僕は、政治は、金がかかるものだと思っていますし、公明正大な政治献金なら、いくら貰ってもいいと思っています」
と、橋本は、テープレコーダーのスイッチを入れておいて、いっきに、まくしたてた。
「その通りですよ」
と、池田が応じる。
「宮原先生は、常に、クリーンな選挙をやられているし、法律に従って、政治献金を報告されているので、いつも、感心しているのですよ」
と、橋本は、いった。
池田秘書は、嬉《うれ》しそうに、笑って、
「ちゃんと理解して下さる方がいるのは、嬉しいですね。宮原も、喜びますよ」
「出来たら、宮原先生の政治資金の報告書を、見せて頂けませんか、それを、新聞にのせるというのではありません。ちょっと、見せて頂きたいだけです」
と、橋本は、いった。
池田は、急に、迷いの色を見せたが、
「新聞には、のせませんね?」
と、念を押した。
「もちろんです。のせません。ただ、ここで、拝見するだけです」
「それなら、お見せしましょう。去年の分として、自治省に、報告したものです」
と、池田は、いい、キャビネットの中から、取り出して、橋本の眼の前に、広げて見せた。
さまざまな政治団体や、個人、或《ある》いは、企業からの献金のリストである。
橋本は、その中から、広田の名前を探した。
指で、ずっと、追っていくと、
(あった)
と、思った。
広田圭一郎の名前で、百万円が、宮原代議士の政治研究所に、献金されていた。
もちろん、百万円という金額を、そのまま、うのみには出来ない。報告書に書かれていない金が、どれだけ、動いているか、わからないからだ。
(とにかく、これで、広田圭一郎と、宮原が、つき合いのあることがわかった)
と、思った。
橋本は、わざと、広田圭一郎の前にある何人かの名前について、簡単な質問をしてから、
「この広田圭一郎という方は、どういう方ですか?」
と、池田に、きいた。
「若いが、頭の切れる、社長心得といったらいいかな。将来は、間違いなく、立派な社長になる人ですよ」
「社長の御曹子《おんぞうし》というわけですか?」
「そうです」
「宮原先生は、そういう若い経済人にも、人気があるんですねえ」
「そうなんですよ。宮原は、若い考えを持っていますからね。この広田さんのように、若手の企業人に信望があるんです。早く首相になって下さいというお手紙を、沢山、頂きますよ」
と、池田は、得意げにいった。
「なるほど、僕も、宮原先生の書いたものを読んで、感心したことがあります。確か、『現代日本と、世界の潮流』でしたかね」
「そうです。あれを、読んで下さったんですか?」
「もちろん、インタビューする相手の考えを知っておくのは、当然の義務ですからね」
と、橋本は、いったが、もちろん、読んではいない。宮原事務所を訪ねるに当って、大急ぎで、宮原が、書いたものを、調べて、タイトルだけ、覚えてきたのである。
「次の桐野功《きりのいさお》という方も、若い人ですか?」
と、橋本はきいた。
「そうです。三十五歳の若い、気鋭の財界人ですよ」
「なるほど、若い人たちが、宮原先生に、期待しているのが、よくわかりました。出来たら、この広田圭一郎さんと、桐野功さんに会って、宮原先生との思い出みたいなものを、聞きたいと思うのですが、どうでしょうか?」
と、橋本は、きいた。
「私が、紹介状を書きましょう」
池田は、自分の名刺を、取り出し、裏に、サインペンで、
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈政経デイリーの橋本記者を、紹介します。誠実な記者ですので、彼の取材に協力して下さい〉
[#ここで字下げ終わり]
と、書いてくれた。
橋本は、礼をいい、今度は、広田圭一郎に、会いに行くことにした。
会社の方に、訪ねた。
名刺の力は、絶大で、会社の応接室で、広田と、会えた。
広田は、ほとんど無警戒に、橋本を、迎えた。
「池田さんは、お元気でしたか?」
と、広田は、先に、きいた。
「元気そのものの感じでした。広田さんによろしくと、おっしゃっていました。――宮原代議士とは、いつ頃からのつき合いですか?」
と、橋本は、きいた。
「僕の父親も、宮原先生と、親しかったですからね、親子二代のファンということですよ」
「親子二代ですか。たいしたものですね」
「そんなに、珍しいことでもないでしょう。農村とか、漁業の町なんかには、よくあることです」
と、広田は、いった。
「広田さんは、結婚は、当然、していらっしゃるんでしょう?」
橋本は、知らない顔で、きいた。
「いや、まだ、独身です。別に、独身主義じゃありません。いい人がいたら、すぐ、結婚したいと思っています。父にも、早くしろといわれていますのでね」
「その時の媒酌人《ばいしやくにん》は、当然、宮原さんに、頼むんでしょうね?」
「ええ。宮原先生ご夫妻に、お願いしようと思っていますよ」
と、広田は、いった。
気がつくと、壁に、「気宇壮大」という、いかにも、政治家が書きそうな色紙の文字が見え、それには、「広田圭一郎君に」と、あり、宮原代議士の署名があった。
宮原の色紙が、この会社にあっておかしくはないのだが、橋本が、注目したのは、その色紙に書かれた日付だった。
二年前の十月になっている。
二年前の十月といえば、河西弘が、はねられて亡くなっている。色紙の日付は、その交通事故があった、直後のようである。
日付の字が、小さいので、橋本は、
「この色紙は、宮原先生のじゃありませんか。僕も、同じものを頂いたことがあるんですよ」
と、いいながら、色紙に近づき、書かれている日付を、確認した。
橋本は、礼をいって、広田と別れると、今度は、自治省に行き、宮原代議士の、ここ五年間の政治資金報告書を見せて貰うことにした。
ここで使ったのは「政治を明るくする会、理事長」の肩書の名刺だった。
そこでも、橋本は、期待したものを発見した。
三年前の報告書には、広田圭一郎の名前は、ない。それが、二年前から、突然、報告書の中に、出てくるのだ。
ずっと、年間、百万円ずつである。
田代は、急に、政治献金が増えていないか調べてくれといった。報告書を見る限り、急に、増えたのではなく、急に、始まっている。
念のため、広田圭一郎の父親である現社長の名前を、探してみた。
ひょっとすると、二年前に、父親から、息子の圭一郎に、代ったかも知れないと、思ったからである。
広田圭一郎は、宮原代議士とは、父親の代からのつき合いだといった。もし、ずっと、父親が、宮原に政治献金をしていて、それが、二年前から、息子の圭一郎に代ったのであれば、彼の言葉は、裏付けられるのだ。
だが、いくら、報告書を調べても、広田の父親の名前も、広田の会社の名前も、見つからなかった。
橋本は、事務所に帰ると、今日、わかったことを、まとめて、報告書の形にした。
だが、これだけでは、宮原代議士と、広田の特別な関係の証明とは、いえなかった。
政治献金をするのは、各人の自由だし、二年前から、急に始めたとしても、それが、罪になるわけでもないからである。
前々から、宮原代議士の考え方に共感していたが、二年前から、個人で、政治献金するようにしましたと、広田がいえば、別に、不思議ではなくなってしまうのだ。
橋本は、この先が、難しいと思った。
田代が、知りたいことは、二つあるだろうと思った。
政治資金報告書には、一年に百万円の献金と、ある。
報告書への記載が義務づけられ始める金額である。
問題は、実際の金額だった。報告書に出ている金額がすべてだとすれば、この献金は、二年前の交通事故と関係あり、と決めつけるわけには、いかない。
裏で、一千万、二千万の金が動いていたとすれば、何かあると思われても、仕方がないし、田代が、期待しているのも、そうした情報に違いなかった。
だが、それを調べるのは、難しい。特に、何の権限もない橋本には、なおさらである。
宮原には、妻と、田代が接近をはかった娘の美保《みほ》がいる。
もともと、宮原は、資産家だから、娘の美保が、ぜいたくな生活をしていても、それが即、広田圭一郎からの献金だとは、断定できない。
橋本は、宮原邸の周辺で、噂話《うわさばなし》を、集めることを始めた。
噂話というのは、全くのでたらめもあるが、時として、真実に近いこともあるからだった。
宮原邸のある成城《せいじよう》は、豪邸の多いところだが、それでも、三百坪の邸《やしき》は、目立つ。それだけに、噂話の対象になり易《やす》い。おまけに、宮原は、政治家である。なおさら、あれこれ、批判の対象になることも、多い筈だ。
橋本は、翌日から、宮原の噂話集めに取り組んだ。
宮原邸の周辺にある喫茶店で、コーヒーの梯子《はしご》をしながら、マスターと、話をする。夜になると、スナックや、飲み屋に、顔を突っ込む。
その他、宮原邸に、寿司《すし》の出前をする寿司店、クリーニング店、或いは、宮原が、時々、出張を頼むマッサージ師などを、橋本は、標的にした。
特に、橋本が、眼をつけたのが、マッサージ師だった。
宮原は、肩がよくこるので、在宅の時には、毎日のように、成城駅前の指圧、鍼灸《しんきゆう》の施療院に、マッサージの出張を頼んでいた。
橋本は、そこに、毎日通い、マッサージをして貰いながら、話を聞くことにした。
マッサージ師は、話好きだし、宮原の方も、マッサージ師が、眼が見えないということで、安心して、いろいろと喋《しやべ》り、また、平気で、電話に出て、政治の話などをしていたらしい。
橋本の質問に対して、最初は、宮原のことに触れるのを怖がっていたが、やはり、話好きなのだろう。徐々に、話してくれるようになった。
初めの中《うち》は、「立派な方ですよ」とか、「さすがに、貫禄《かんろく》がありますねえ」と、田中というマッサージ師は、宮原のことを、いっていたのだが、途中から、急に、声をひそめ、宮原家の内情を話すようになった。
「宮原さんも、株に手を出して、大損をしたらしいですよ」
と、田中は、声をひそめていった。
「やっぱりね。実は、おれだって、損をしたんだ。もっとも、おれの損は、せいぜい、五、六十万なんだが、それでも、借金で、大変だったよ。宮原さんは、ケタが違うだろうがね」
橋本は、そんないい方をして、相手を、あおっていった。
「そうなんですよ。向うさんは、億単位だそうですからね」
と、田中は、橋本の肩の辺りを、指圧しながら、いう。
「そうだろうね。億単位だろうね。しかし、政治家なら、損をしなかったんじゃないのかね?」
「そうでもないらしいですよ。株の他に、郷里の福島に、ゴルフ場を造ろうとして、失敗したそうですから」
「よく知ってるね」
「ええ。六ケ月ほど前なんか、電話で、怒鳴っていらっしゃいましたものね。夜おそく、マッサージに、呼ばれたんですけど、そんな時間でも、やたらと、電話が入って、その度に、宮原さんは、怒鳴っていましたよ」
「それが、ゴルフ場のごたごただったわけ?」
「ええ。宮原さんは、なぜ、うまくいかないんだとか、許可がなぜおりないんだ、私の名前をいったのかとか、大声で、いってましたよ。結局、ラジオのニュースで、そのゴルフ場が、資金が続かなくて、造成が、中断してしまったと、聞きましたよ」
と、田中は、いう。
「そのニュースを聞いたのは、いつ頃かね?」
と、橋本はきいた。
「そうですねえ、今年の二月頃だったんじゃないかな。とにかく寒い時で、会社が潰《つぶ》れて、社員の人たちは、この寒さに大変だろうなと、思いましたからねえ」
「ゴルフ場の失敗というと、何億、いや、何十億の赤字になるねえ」
「そうですよねえ」
「そんな話は、聞いてない?」
「今いった、電話で怒っていらっしゃった時ですけどね。二億ぐらいの金が、何とかならないのかと、大声で、いってるのを聞きましたよ」
と、田中は、いう。
「今でも、宮原さんは、電話に向って、怒鳴っているのかね?」
「いえ。最近は、物静かですよ」
「どうしたのかな?」
「さあ、でも、ああいう偉い政治家の方は、何処からか、お金が入ってくるんじゃありませんか。それに、三百坪の土地が、おありになるじゃありませんか。駅から、ちょっと遠いけど、今でも、坪五百万はするっていいますよ。それだけだって、十五億円ですからねえ」
と、田中は、いう。
(あの土地は、どうなっているんだろうか? ゴルフ場が、失敗となると、あの土地も、抵当に入っているだろう)
と、橋本は、思った。
どうやって、それを、調べたらいいのか。銀行に友人でもいれば、抵当に入っているかどうかぐらいは、わかるだろうが、橋本にはそのツテがない。
橋本は、十津川に、電話をかけた。
「お願いがあるんですが」
と、いうと、十津川は、気安く、
「君には、ずいぶん世話になったから、私に出来ることなら、引き受けるよ」
と、いってくれた。
「宮原代議士の成城の土地が、現在、どうなっているか、知りたいんです。恐らく、銀行が、抵当として、おさえていると、思うんですが」
「それを、なぜ、知りたいんだ?」
十津川が、当然の質問をした。
「申しわけないんですが、今は、その理由をいえないんです。ある人間との間で、秘密を守ることになっていますから」
と、橋本は、いった。それで、断わられるなら、仕方がないなと思ったのだが、十津川は、「わかった」と、いった。
「君は、私立探偵だから、依頼者の秘密を守る義務がある。それに、君には、お返しをしなければならないからね」
「すいません」
「いいよ。調べるのは、簡単だから、二時間後に、返事をする」
と、十津川は、いった。
正確に、二時間後に、十津川が、橋本の事務所に電話をして来た。
「宮原代議士は、地元福島で、ゴルフ場の建設を始めていた。宮原エンタープライズという会社を作り、甥《おい》を社長にしたんだが、実質的なオーナーは、宮原自身だ。これが、失敗して、四十億から、五十億の借金を作った。彼の成城の家は、M銀行に、十五億円の借金の抵当にとられていたよ」
「やっぱり、そうですか」
「ところが、先月、宮原は、この十五億円を返済して、抵当権は、解除されている」
「誰かが、借金を肩代りしたんでしょうか?」
と、橋本は、きいた。
「誰かは、わからないが、宮原が、十五億円を、M銀行に返済したのは、事実だよ。宮原には、まだ莫大《ばくだい》な借金があるが、返せる自信は、あるといっている。十五億円の返済が、その自信につながっているんじゃないのかね」
と、十津川は、いった。
「急に、返済したんですか?」
「M銀行の話を伝えるよ。どう考えても、宮原さんは、十五億円を返済できる状態ではなかった。ところが、突然、全額返済されたので、びっくりした。誰か、資産家のスポンサーがついたんじゃないかと、いっている」
「それが、誰かは、わかりませんか?」
「今のところ、わからないね。宮原は、中央協産という、いわば、トンネル会社を作って、例の宮原エンタープライズなどに、金を出しているんだが、その中央協産の小切手で、払ったといっている。中央協産の口座へ、誰が、十五億円も振り込んだかとなると、よくわからなくてね」
「なるほど」
「君には、だいたい、想像がついてるんじゃないかね?」
「いえ。まだ、わかっていません。助かりました。ありがとうございました」
「いつか、なぜ、君が、宮原代議士の邸のことを調べたか、話してくれるんだろうね?」
「時期が来たら、必ず、お話しします」
と、橋本は、約束した。
その日の夕方になって、田代から、電話が入った。
「河西弘です」
と、田代は、いい、
「例の件、調べてくれましたか?」
と、続けた。
「あなたのご希望どおりに出来たかどうかはわかりませんが、いろいろと、わかったことがあります。会って、話したい」
と、橋本は、いった。どうしても、もう一度、会いたかったのだ。
「警察には、知らせていませんね?」
と、田代が、きいた。
「知らせていれば、この電話は、逆探知されて、今頃あなたは、逮捕されていますよ」
と、橋本は、いった。
「わかりました。先日と同じ新宿《しんじゆく》の喫茶店で、午後七時に」
と、田代は、いった。
その時刻に、橋本が行くと、今度は、田代の方が先に、テーブルに着いて、待っていた。それだけ、橋本を、信用したのだろう。
橋本は、コーヒーを注文し、報告書を取り出して、田代に渡したあと、言葉で、今までに、わかったことを、説明した。
「くわしいことは、その報告書に、書いてあります。あなたの予想したとおり、宮原代議士は、広田圭一郎と、つながりがあります。表面上は、年間百万の政治献金ですが、ゴルフ場の赤字を、広田が、助けたと、思っていますよ」
「やはりね」
と、田代は、呟《つぶや》いた。
「あなたは、何を狙《ねら》っているんですか?」
と、橋本は、きいた。
田代は、黙って、考え込んでいたが、
「あなたには、お礼をいいますよ、よく調べてくれたと思います。どうやら、警察にも、知らせずに、秘密を守ってくれたようだし――」
と、いった。
「職業上の守秘義務がありますからね」
「でも、あなたは、十津川警部と、親しいし、いや、親しいというより、尊敬しているんでしょう?」
と、田代がきく。
「尊敬していますよ」
「その十津川さんにも、黙っていてくれたんですか?」
「聞かれたが、黙っていましたよ。ところで、どうなんですか? 何を考えているのか、教えてくれないんですか? それに、これから、何をしようとしているのか」
と、逆に、橋本がきいた。
「それはいえませんね。これは、僕ひとりの問題だから、僕が、ひとりで、解決しなければならないんですよ」
田代は、一言一言、区切るように、いった。
「そこがわからないんですがね。なぜ、あなたが、ひとりで、解決しなければならないんです。警察に全部、打ち明けて、協力して貰ったら、どうですか?」
と、橋本は、いった。
「警察に知らせたら、僕は、駄目になってしまうんですよ」
「だから、なぜなんですか?」
「理由はいえませんね。それも、僕自身の問題だから」
と、田代は、いう。
「これから、どうするんです? 二十万貰ってるんだから、まだ、調べますよ」
「もう、結構です。重ねて、お礼をいいます。僕が調べていたのでは、ここまで、辿《たど》りつけなかったと思いますから」
と、いって、田代は、立ち上りかけた。
それを、橋本は、手で、おさえるようにして、
「このまま、別れると、僕は、全《すべ》てを十津川警部に、報告しますよ」
と、脅した。
一瞬、田代の表情が険しくなったが、突っ立ったまま、
「構いませんよ。それは、あなたのご自由ですから」
と、田代は、いい、そのまま、店を出て行ってしまった。
橋本は、追っかけようとして、止《や》めてしまった。追いついたら、どうするのか、彼自身にも、わからなかったからである。
五、六分の間、橋本は、考え込んでいたが、店の電話で、十津川警部に、連絡をとった。
「至急、お会いしたいんです」
と、橋本は、いった。理由は、いわなかったが、彼のいい方に、十津川は、切羽つまったものを感じたとみえて、
「わかった。何処で会うね?」
「今、新宿にいます」
「よし、そこで会おう」
と、十津川は、いい、すぐ、橋本のいる店まで、駈《か》けつけて来てくれた。
「申しわけありません。呼びつけまして」
と、橋本は、まず、詫《わ》びた。
十津川は、微笑して、
「そんなことは、構わんよ。何か、怯《おび》えているような顔をしているね」
と、いった。
「今まで、田代と会っていたんです。河西弘を名乗っている田代彰一です」
橋本が、いうと、十津川は、肯いて、
「やはり、田代に、何かの調査を頼まれていたんだね」
「そうなんです。宮原代議士さんと、広田圭一郎の関係を調べてくれといわれました。彼は、私に二十万円払い、依頼したんですが、その時、絶対に、警察には、いわないでくれと、頼んだんです」
「なるほどね」
「そんなことは出来ないといって、断わろうと思ったんですが、仕事を引き受ければ、田代が、何を考え、何をしようとしているか、わかるんじゃないかと思ったんです」
「わかるよ」
「それで、警部には、宮原の家のことを、調べて頂いたんです」
「それで、宮原代議士と、広田圭一郎の関係は、わかったのかね?」
と、十津川が、きく。
「証拠はありませんが、広田は、二年前から、宮原代議士に接近を図り、毎年、百万円ずつ政治献金をしています。もちろん、表に出ない金も、宮原代議士に、渡していると思うのです」
「それが、成城の土地のことだな?」
「そうです」
「それを、ここで、田代に、報告したんだね?」
「そうです。報告しました。私見を、交えずにです。彼は、ありがとうと、いいましたが、このあとは、自分ひとりで解決しなければならないと、いうんですよ。私は、彼に、全てを、警察に話したらどうかと、すすめたんですが、これは、自分一人の問題だから、警察には話したくないといって、出て行ってしまいました。田代は、何かやる気でいます。何かわかりませんが、大変なことになりそうなので、警部に、来て頂いたんです」
と、橋本は、いった。
十津川は、難しい顔になって、考えていた。
「田代は、何をやる気かな」
と、十津川は、呟いた。
「あの眼を見ていたら、大それたことをやりそうな気がしますね。それが、怖いんです。ひょっとして、彼が、誰かを、殺したりするんじゃないかと思いまして」
と、橋本は、いった。大げさにいっている気はなかった。田代が、自分の問題だから、自分で解決をつけるといって、立ち上った時、この男は、人殺しでも、何でもするのではないかと、思ったのだ。
十津川は、運ばれてきたコーヒーを、ゆっくり、かき回しながら、
「田代は、二年前の交通事故を、目撃していたんじゃないかと思う。それなのに、多分、金を貰って、沈黙を守った。ところが、ニセの犯人が名乗り出たりして、真実が、隠されてしまった。田代は、自分のやったことを恥じて、河西弘をはねて殺した真犯人を、見つけて、捕えようとしているのかも知れない」
「その真犯人が、広田圭一郎ですか?」
「田代は、そう思い込んでいるのかも知れない」
と、十津川は、いった。
「しかし、何の証拠もないでしょう。それに、二年前の事故は、山崎健一《やまざきけんいち》が自供、服役して、解決してしまっています。今更、どうにかなるんでしょうか?」
と、橋本が、十津川を見た。
「それを、どうかしようと思って、君のいう、何か恐ろしいことを、仕出かすかも知れないね」
十津川が、難しい顔で、いった。
「警部は、何をすると、思いますか?」
「正直にいって、わからないね。私は、田代に会って、いろいろと、話をしていないからね」
と、十津川は、いう。
「申しわけありません。腕ずくでも、田代を捕えて、警部のところに引きずって行けばよかったのかも知れません」
「いや、そんなわけにはいかないよ。田代は、河西弘と、名乗っているが、ただ、名乗っているだけで、河西弘になりすまして、財産を横領するとかいった悪事を働いているわけじゃないからね。無理に、連行するわけにはいかないんだ」
十津川は、なぐさめるように、橋本に、いった。
「しかし――」
と、橋本が、いいかけるのを、十津川は、おさえて、
「警察が、何とかする。君は、帰って、休みたまえ」
と、いった。
「休んでなんかいられません。田代を、探したいと思います」
「それは、構わないが、今度は、見つけたら、私に、連絡してくれよ」
と、十津川は、いった。
十津川は、橋本と別れると、捜査本部に、戻って、亀井《かめい》に、橋本の話を伝えた。
「田代彰一ですか」
と、亀井が、いった。
「そうだ。この男が、何かやろうとしているのさ。橋本君は、ひょっとして、殺人をやるんじゃないかと、心配している」
「ターゲットは、誰ですか?」
「多分、広田圭一郎だ」
「河西弘を、本当に殺したのは、広田圭一郎と思っているわけですか?」
「そうらしい」
「広田に、護衛をつけますか?」
「そうだな。西本《にしもと》刑事と、日下《くさか》刑事の二人を、護衛に、付けよう。田代を見つけたら、参考人として、ここに、連れて来ることにする」
と、十津川は、いった。
彼は、西本と、日下の二人を呼び、田代彰一の写真を持たせ、広田圭一郎の護衛に、向わせた。
「君たちの仕事は、難しいぞ。広田圭一郎は、二年前の事件の犯人かも知れないんだ。だから、君たちが、行って、彼を、用心させては、まずいんだ。彼に、知られないように、護衛して貰いたいんだよ」
と、十津川は、二人に、いった。
二人は、出かけて行った。
十津川は、暗い窓の外に眼をやった。山崎健一を射殺した犯人も、まだ、見つかっていなかった。
その犯人と、二年前の事故を計画した犯人が、同一人だという可能性もあった。
(他に、何かすることはなかったかな?)
と、十津川は、自分に、問いかけた。
すでに、長谷部徳子と、山崎健一の二人が殺されている。
三人目の犠牲者は、どうしても、出したくなかった。
田代は、広田圭一郎以外に、誰を、狙うだろうか?
なかなか、考えつかない。
(宮原代議士は、どうだろうか?)
と、十津川は、考えた。
どうやら、田代は、宮原が、広田から金を貰い、何か、広田の便宜を図っていると、思い込んでいるらしい。
とすれば、広田も憎いが、宮原代議士も、憎いだろう。宮原代議士を、田代が狙う可能性も大いにあると思わざるを得なかった。
(宮原代議士にも、護衛をつけた方がいいだろうか?)
十津川は、迷った末、清水《しみず》と、三田村《みたむら》の二人を、向けることにした。
二組の刑事たちからは、刻々と、護衛の模様が、連絡されてきた。
広田圭一郎は、自宅と、会社の間を、律義に往復しているようだった。西本の報告によれば、広田自身、何かに怯えているように見え、用心深く、動いているように見えるという。
宮原の方は、現在、平河《ひらかわ》町の議員会館に住んでいる。こちらも、プライベイトに、街に出ることは少なく、護衛は、しやすいという連絡だった。
十津川は、ひとまず、ほっとした。
あとは、全力をあげて、田代を、見つけ出すことである。
十津川は、田代が、長谷部徳子を殺した犯人と、断定してはいない。山崎健一を殺したと、思ってもいなかった。
だが、いずれにしろ、十津川は、田代を見つけ出して、聞きたいことが、多かったのである。
広田と、宮原へ、護衛をつけてから三日目の昼過ぎだった。
突然、宮原家から、一一〇番があって、宮原家の一人娘、宮原美保が、誘拐されたらしいと、いってきた。
十津川は、ショックを受けた。
護衛すべき人間を、一人忘れていたという反省に、苦しめられながら、亀井たちを連れて、成城の宮原邸に、急行した。
母親の文子《ふみこ》が、青ざめた顔で、十津川たちを迎えた。
彼女の話によれば、美保は、今朝、ジョギングに出かけた。いつも、一時間ほど、自宅の周囲をジョギングして、戻ってくるのだという。
ところが、十時になっても、十一時になっても、帰って来ない。
しかし、美保は、立派な成人である。それに、夜でなく、明るい時間だった。危いという思いが、少なかったとしても、不思議はない。
昼過ぎに、男の声で、電話があった。
その男は、電話に出た母親の文子に向かって、一言、
「娘さんを、預かったよ」
と、いって、切ってしまった。
「それ以外に、男は、何かいいませんでしたか?」
十津川は、テープレコーダーのマイクが、受話器に取りつけられるのを見ながら、文子に、きいた。
「いいえ、何もいいませんでしたわ」
と、文子は、いう。
「男の声に、聞き覚えはありませんでしたか?」
「ありませんでしたわ」
文子は、不安と、緊張の入り混じった声で、答えた。
「ジョギングに出た娘さんも、何の連絡もして来ないんですね?」
「ええ。何もありませんわ。それで、これは、警察に、電話しなければと、思ったんですわ」
と、文子は、いう。
父親の宮原も、車を飛ばして、帰って来た。
居間にいる十津川たちを見ると、険しい表情になって、
「警察が出てくると、美保が、危いんじゃないのか!」
と、文子に、怒鳴った。
文子が、それに答える前に、十津川が、
「われわれは、人命尊重で、動きますから、お委《まか》せ下さい」
「いつも、警察は、そういうんだ。だが、実情はどうなんだね? 先月も、五歳の女の子が誘拐されて、警察が介入したため、犯人に殺されてしまったじゃないか」
と、いった。
その時、電話が、鳴った。
宮原も、文子も、十津川も、一斉に、電話機に、眼を向けた。
文子が、受話器を取る。自動的にテープレコーダーが、動き出す。
スピーカーから、相手の声が、聞こえる。
「おれだ、娘の美保は、無事でいる」
「娘を返して下さい」
と、文子が、話した。
「こちらの要求が通れば、娘は、返してやる」
と、男は、いった。
「いくら欲しいんですか? いくらでも払います。だから、娘を返して下さい」
「金は、要らない」
「じゃあ、何が、欲しいんですか?」
「二年前、交通事故で、河西弘という青年が死亡した。犯人として、トラックを運転していた男が逮捕されたが、その男は、射殺された。犯人は別にいて、このトラック運転手は、替え玉なのだ。そのことを、宮原代議士は、よく知っている。なぜなら、真犯人と思われる広田圭一郎から、多額の金を受け取り、法務委員会で、警察の動きを、牽制《けんせい》しようとしているからだ。おれの要求は、一つだ。宮原代議士が、なぜ二年前から、突然、広田圭一郎から、政治献金を受け取るようになったのか、更に、十五億円の金が、流れている真相を公表すること。これが、おれの要求だ」
その言葉が、電話から流れてくると、宮原は、顔色を変えた。
彼は、いきなり、妻の文子から、受話器を、もぎ取ると、
「でたらめをいうな!」
と、怒鳴った。
だが、相手はあくまでも、冷静だった。
「でたらめではない。広田圭一郎は、あんたに対して、急に、二年前から、献金を始めている。その理由を、明らかにすればいいのだ。別に、難しいことじゃない」
「広田圭一郎という人から、そんな金は、貰った覚えはない!」
「それなら、お前の娘は、死ぬことになる」
「金ならやる。身代金がいくらなのか、いってくれ」
「金は要らないと、いった筈だ。今、こちらがいったこと以外に、何も要求しない。一刻も早く、おれの要求を実行しろ。二十四時間しても、この要求が通らなければ、おれは、宮原美保を殺す」
と、男はいい、続けて、
「一時間後に、また、連絡する。それまでに、おれの要求が実現していれば、美保を返す。そして、また、一時間後だ。時間がたてばたつ程、美保は、衰弱し、死ぬことになる。それは、全て、お前の責任だ」
「何だと?」
と、宮原が、必死に、気持をおさえて、きいた時、電話は、切れてしまった。
宮原は、まだ、受話器を握りしめ、それを振り廻《まわ》すようにしながら、
「何て、奴だ!」
と、叫んだ。
「あなた、美保を助けてやって、下さい」
と、文子が、宮原を見る。
「助けたいのは、私だって、同じことだ。しかし、こんなデタラメを、受け入れることは、絶対に出来ない。私の政治生命に、かかわることなんだ」
「宮原さん」
と、十津川が、小声で、呼んだ。
「事実を話してくれませんか」
「事実なんかない。全て、デタラメだ。それなのに、犯人のいう通りにしろというのかね?」
「それでは、娘さんの生命《いのち》を助けることは、出来ませんよ」
と、十津川は、いった。
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第六章 惨殺
「犯人は、あの男なんだね? 石垣島《いしがきじま》で、娘に近づいて来た男だ」
宮原《みやはら》が、睨《にら》むように、十津川《とつがわ》を見た。
「恐らく、そうでしょう。河西弘《かわにしひろし》と名乗っている男です」
「わかっているんなら、なぜ、逮捕しない?」
宮原は、十津川を、叱《しか》った。
「何処《どこ》にいるかわかれば、あなたにいわれるまでもなく、逮捕しますよ。それに、人質になっているお嬢さんの安全も図らなければなりませんからね。まさか、お嬢さんのことは、どうなっても構わんといわれるんじゃないでしょう?」
十津川も、反論した。
宮原は、顔を赤くして、
「私は、何よりも、美保《みほ》の生命《いのち》が、大事なんだ。親として、当然だろう!」
「だから、私たちも、うかつには、動けないんです。犯人の要求には、どうしても、応じられませんか?」
と、十津川は、きいた。
「当り前じゃないか。私は、広田《ひろた》クンは知っているが、彼のために、便宜を図ったことなどはない。まして、金を貰《もら》って、動いたなどということは、絶対にないんだ。もし、そんな嘘《うそ》を喋《しやべ》って政治生命を絶たれたら、どうするのかね?」
「お嬢さんを助けるために、仕方なく、嘘をついたということで、世間は、納得してくれると、思いますよ」
と、亀井《かめい》が、傍から、いった。
宮原は、強い眼を、亀井に向けて、
「世間は、そんなに甘くはないんだ。あとになって、私が、娘を助けるために、嘘をついたんだといっても、それを、世間が信じるかね? とにかく、ああいったんだから、本当なんだろうと、世間は、思うものだ」
「じゃあ、どうします?」
「それを考えるのが、君たち警察の仕事だろうが。何のために、国民の税金で、養われてるんだ!」
また、宮原が、大声をあげた。
「もちろん、われわれも、犯人逮捕に、全力をつくしますよ。しかし肝心の先生の協力がないと、逮捕は、難しいと思いますが」
と、十津川は、いった。
「世界に誇る日本の警察力は、どうなってるんだ? こんな時のために、あるんじゃないのかね?」
「犯人の要求に応じるお気持は、全く、ありませんか?」
十津川は、改めて、きいた。
「嘘はつけんよ。私は、政治家だ」
「それでは、こうして下さい。また犯人から電話があったら、応じるような素振りで、電話を長引かせてくれませんか。その間に、逆探知で、犯人の居場所を確認し、逮捕しますから」
と、十津川は、いった。
「あなた、美保のために、そのくらいは、して下さい」
と、文子《ふみこ》が、いった。
宮原は、考えていたが、急に、柔らかな表情になって、
「そうだな。娘の生命を助けるために、芝居をすればいいわけだ。あくまでも、芝居だ」
「そうです。あなたが、例えば、人を殺したと、マスコミに公表しても、犯人に脅迫されていたわけですから、殺人の証拠にはなりません。あなたが、脅迫されていたことは、みんなが、知っているからです」
と、十津川は、いった。
「そうだ。私が、嘘をつくことは、みんな知ってるんだ。ただ、約束して貰いたい」
宮原は、十津川を見、亀井を見た。
「どんな約束ですか?」
「犯人は、私に、嘘の告白をさせようとしている。あたかも、私が、広田クンに金を貰って、彼のために、便宜を図ったようなだよ。もちろん、私は、天地神明に誓って、そんなことはしておらん。政治家として、そんなことをすれば、命取りだからな。だが、芝居として、私は、そんな告白をしなければならん。マスコミに、それが、のるかもわからない。犯人は、それを要求するに違いないからだよ。君たちや、マスコミは、真相を知っていても、一般大衆は、知らない。間もなく、次の選挙がある。間違いなく、私は、落選だ」
「マスコミは、事件が解決したあと、あなたが、お嬢さんを助けるために、やむなく、嘘の告白をしたと、書きますよ」
「それだけでは、不十分だ。その時、君たちも、証言して貰いたい。冷酷な犯人のことも、きちんと、話して貰わなければ、困るのだ」
と、宮原は、いった。
「わかりましたが、私たちより、三上《みかみ》刑事部長の証言の方が、重味があると思います」
十津川は、そういった。本当に、そう思っていることもあったが、三上刑事部長なら、政治的な配慮も、きちんと、するだろうと考えたからでもある。
十津川は、すぐ、三上刑事部長に来て貰った。
三上は、到着すると、十津川の想像した通り、宮原のご機嫌をとり、「全《すべ》て、宮原先生のご希望に添うように、処理致します」と、いった。
それで、宮原の機嫌も、直ったようだった。
十津川と、亀井は、廊下に出た。犯人から電話がかかれば、自動的に録音されるように、セットされている。
「マスコミの説得も、三上刑事部長なら、うまくやりますよ」
と、亀井が、ほっとした顔で、いった。
「そうだね。われわれより、大人だ」
十津川も、苦笑した。
「それにしても、田代の狙《ねら》いは、いったい、何でしょうか?」
「それは、電話で、彼がいっている通りだろう。田代は、ひたすら、二年前の交通事故の真相を明らかにしろと、いっている。田代は、前にもいったが、恐らく、その事故を目撃し、犯人が、広田|圭一郎《けいいちろう》と、わかったんだ。田代は、それを、証明しようとしている」
「出来ると、思っているんでしょうか?」
「思っているから、宮原の娘を、誘拐したんだろう。本当は、広田圭一郎を誘拐して、自白させたかったんだろうが、広田は、警戒しているので、彼に影響力のある宮原を、動かそうと、その娘を誘拐したんだろう」
「田代は本気で、それが、出来ると考えているんでしょうか?」
と、亀井が、眉《まゆ》をひそめて、十津川に、きいた。
「出来ると思ったから、誘拐という行為に出たんだろう」
「甘いですね。宮原は、一人娘を愛しているが、とにかく、タヌキです。田代の思う通りにはならんでしょう」
「それだけじゃないよ、カメさん。宮原は、とかく、悪い噂《うわさ》のある政治家だ。田代のいう通り、広田から金を貰って、河西弘を殺した二年前の事件のもみ消しに、一役、買っている筈《はず》だ。いや、何か問題になれば、法務委員長の肩書きで、おさえつけることになっているんだと思うね。田代が、彼の一人娘を誘拐したことで、宮原は、うさん臭さのある政治家から、悲劇の主人公になってしまう可能性がある」
「その可能性はありますね」
「もし、マスコミが、宮原と広田の癒着を暴いても、これからは、それを、嘘だと受け取られることが考えられるね。宮原なら、そんな風に、持って行くと、思うんだ」
「今、宮原は、やたらに、一般大衆に誤解されるのが怖いといっていますが」
「確かに、その不安は、持ってるだろうね。だが、これを、プラスに持っていくことだって、抜け目なく、考えているさ」
と、十津川が、いった時、奥で、電話のベルが鳴るのが、聞こえた。
十津川と、亀井は、居間に、引き返した。
宮原が、受話器を取った。
三上が、両手を広げて、話を引き伸ばすように、指示している。
十津川は、別の受話器を取って、犯人との会話を聞くことにした。
「一時間たったぞ」
と、男の声が、いった。
宮原は、前は、威圧的に出たが、今度は、引き伸ばすために、下手に出て、
「わかっている。君の要求は、わかったが、どうしていいかわからないのだよ。告白しろといわれても、いったい、誰に告白したらいいのか、君は、いってくれないからね」
と、送話口に向って、喋っている。
「そんなこともわからないのか!」
男の声が、腹立たしげに、いう。
「申しわけないが、わからないのだ。どうすれば、君が満足するのか、教えて欲しい」
「そんなことまで、いちいち、いわなければいけないのか。まず、テレビ局に電話して、重大発言をするといって、集めればいいだろう。そして一時間前に、おれのいったことを、発表するんだ。で、次は、新聞記者を集めて、同じことをやれ」
「君のいうようなことを、記者たちに話しても、信用しないと思うがね。あまりにも、常識外れだし、政治家が、自分の命取りになることを、話す筈がないと、思うに、決っている」
「それなら、あんたが、広田に圧力をかけて、二年前、河西弘をはねて殺したのは、自分だと、警察に、自首させるんだ」
「広田クンが、そんなことを、承知する筈がないよ。考えてもわかることだ」
「あんたの娘が、死んでもいいのかね?」
「では、一応、広田クンに電話してみるが、時間が欲しい。説得に時間がかかる」
「絶対に、自首させるか、あんたが、マスコミに、告白するか、どちらか、早く決めるんだ。おれは、いらいらしてくると、あんたの娘さんを――」
急に、亀井が、十津川の肩を叩《たた》いた。
十津川は、受話器を外して、送話口を手でおさえ、
「何だ?」
「逆探知に成功しました」
亀井が、緊張した声で、いった。
「場所は?」
「新宿西口、中央公園近くの公衆電話ボックスです」
「行こう」
十津川は、受話器を置き、亀井と部屋を出た。
外に置いてある覆面パトカーに、急いだ。
二人は、車に乗ると、亀井が運転して、新宿西口に、急行した。
中央公園近くの二つの電話ボックスが並んだ場所だった。
二人は、車を止めた。
二つのボックスとも、人の姿はなかった。
「逃げたのか?」
と、十津川が、呟《つぶや》く。
「受話器が、外れたままになっていますよ」
亀井が、いった。なるほど、受話器は外れて、ぶら下っている。十津川は、それを取り上げて、耳に当ててみたが、もう通じていなかった。
十津川と、亀井は、周囲を見廻《みまわ》した。午後七時に近く、すでに、周囲は、暗い。
「田代は、この辺りに、住んでいるんだろうか?」
十津川は、呟いた。
「車を使っているとすれば、この近くとは限りませんね」
「とにかく、周囲の聞き込みを、やってみよう」
と、十津川は、いい、部下の刑事たちに、ここへ来るように、いった。
二十人近い刑事が、歩き廻った。が、なかなか田代のいるマンションか、アパートは、見つからない。当然、人質の宮原美保も、見つからなかった。
翌朝になって、突然、宮原美保が、解放されたという知らせが、飛び込んできた。
午前八時半頃、彼女から、自宅に電話が入り、母親が、四《よ》ツ谷《や》駅近くで、疲れ切って佇《たたず》んでいた美保を見つけ、すぐ、信濃町《しなのまち》のK病院へ運んだというのである。
十津川と、亀井は、すぐ、K病院へ向った。
美保は、三階の個室に入っていたが、十津川たちが着くと、看護婦が、今、眠っているので、取調べは、待って欲しいと、いった。
「状態は、どうなんですか?」
と、十津川が、きいた。
「疲れ切って、いらっしゃいますわ」
「それだけですか? 外傷などは――?」
「ありませんわ」
と、看護婦が、答えた。
「奇跡みたいなものですね」
亀井が、ほっとした顔で、いった。
「そうだね。成人の人質が、無事に、解放されるというのはね」
と、十津川も、いった。
「田代が、公衆電話で、宮原を脅迫している間に、逃げたんでしょうか?」
「それにしては、時間が、たち過ぎているね」
「JR四ツ谷駅近くで、母親が見つけたというと、その周辺に、監禁場所があるんでしょうね?」
「調べてみよう」
と、十津川は、いった。
刑事たちが、今度は、四ツ谷駅周辺の聞き込みを開始した。その調査が、実らない中《うち》に、K病院から、宮原美保に会えるという知らせが、入った。
十津川と、亀井は、すぐ、急行した。
まだ、今度の事件のことは、公表されてないので、病院内に、記者の姿はない。
三階の病室には、宮原夫妻が、来ていた。
「娘は、ショックを受けているから、刺戟《しげき》するような質問は、避けてくれ」
と宮原が、いった。
「わかっています。監禁されていた場所を、知りたいだけです」
と、十津川は、いった。
病室には、花が飾られ、看護婦が一人、腰を下していた。
十津川は、彼女に、出て貰ってから、美保の顔をのぞき込んだ。流石《さすが》に青白い顔だが、外傷はない。そのことに、ほっとしながら、
「あなたを誘拐したのは、去年、石垣島で会った男ですか?」
と、きいた。
「ええ」
と、美保が、肯《うなず》く。
「名前をいいましたか?」
「ええ、河西弘と、いっていました」
「まだ、その名前を、使っていましたか」
と、十津川は、何となく、小さな溜息《ためいき》をついてから、
「監禁されていた場所を知りたいんですが、覚えていますか?」
「あの辺の地名は知りませんけど、地図を、描《か》きますわ」
と、美保は、いい、亀井が、手帳と、ボールペンを差し出すと、それに、発見された四ツ谷駅からの地図を描いた。
どうやら、四谷三丁目から、信濃町方面に入った辺りらしい。マンションの名前は、「第一四谷コーポラス」と、美保は、いった。
これだけあれば、十分だろう。十津川と、亀井は、K病院を飛び出して、そのマンションを探した。
五階建の小さなマンションだった。その最上階の五〇三号室に、「河西」の名札が、出ていた。
ドアは、開いたままになっていて、中に、人の姿はなかった。
1DKの部屋である。カーテンは、閉まり、明りはついているのだが、妙に、薄暗かった。
六畳の和室は、布団が敷きっ放しになっていて、布団の上には、ロープや、ガムテープが、散乱している。
電話はなかった。だから、わざわざ、新宿西口まで行って、かけたのか?
その他、部屋に残っているものといえば、缶ビールの空缶や、カップラーメンの空箱、それと、新聞だった。
今、田代が、何処にいるのか、それを示すような地図も、メモもない。
十津川は、管理人に会って、聞いてみた。
田代は、一週間前に、やって来て、五〇三号室を借りたいと、いったという。
「きちんと、背広を着て、名刺を出されたんで、ちゃんとしたサラリーマンだと思ったんですが」
と、管理人は、いい、その時、渡されたという名刺を見せてくれた。
その名刺にも、もちろん、河西弘の名前が、印刷されていて、大会社の経理課係長の肩書がつけてあった。
「どうやら、このマンションは、宮原美保の誘拐のためだけに、借りたみたいですね」
と、亀井が、いった。
「彼女が、逃げたと知ったら、もう、ここには、戻って来ないかも知れないな」
と、十津川は、いった。
それでも、万一、田代が戻って来た時に備えて、十津川は、若い西本《にしもと》と日下《くさか》の二人の刑事を呼んで、部屋に隠れさせ、彼自身は、もう一度、亀井と、K病院へ引き返した。
宮原は、まだ聞くことがあるのかと、露骨に、嫌な顔をした。
「そちらの事情聴取がすんだら、娘は、しばらく、私の知っている温泉にでも連れて行って、ゆっくり、過ごさせてやろうと、思っているんだがね」
と、宮原は、いった。
「誘拐された前後のことを、お聞きするだけです」
と、十津川は、いい、美保に向って、
「答えたくないことは、何もいわなくて構いませんよ。誘拐されたのは、昨日の朝ですか?」
「ええ。昨日の朝、いつものように、一時間ほど、ジョギングして、家の近くに戻ってきたら、声をかけられたんです。去年の夏、石垣で、といわれて、肯いたとたんに、白いハンカチみたいなものを、顔に、当てられました。そうしたら、急に、意識が失《な》くなってしまって――」
「エーテルを嗅《か》がされたんでしょう。それから、どうしました?」
「気がついたら、眼かくしをされ、縛られていました。私が、気がついたとわかると、こんなことをして、申しわけないが、正義を行うためなんだといっていましたわ」
と、美保は、いう。
「正義のためと、いったんですね?」
「ええ。私は、何のことかわからないと、いいました」
「そうしたら?」
「二年前、広田という男が、婚約者のいる青年を、はねて殺した。ところが、その男は、別の人間に、罪を着せて、何の罰も受けていない。それを、正すんだといいました」
「なるほどね」
「それと、私と、どんな関係があるんですか、と聞きました」
「彼は、どういいました?」
「広田は、私の父に、大金を渡し、政治の力を使って、この事件を、もみ消そうとしていると、いいましたわ。広田も許せないが、私の父も許せないと」
「あなたは、それを、信じましたか?」
と、亀井が、きいた。
「いいえ。いきなり誘拐するような人の言葉を、どうして、信じられます?」
と、美保は、いった。
「あなたが、逃げた前後のことを、話して貰えませんか」
と、十津川は、いった。
「そんな話のあと、私は、睡眠薬を、飲まされたんだと思いますわ」
「つまり、眠ってしまった?」
「はい。カップラーメンと、インスタントコーヒーを貰ったんですけど、そのどちらかに、睡眠薬が入っていたんだと思いますわ」
「そのあと、どうしました?」
「気がついたら、手首を縛っていたロープが、少し、ゆるんでいました。それで、何とか、ほどいて、逃げ出しましたわ。外に出たところで、家に電話して、四ツ谷駅で、母と落ち合ったんです」
美保は、きちんと、説明した。まだ、彼女の手首には、ロープで縛られた痕《あと》が、痛々しく、ついていた。
宮原が、顔をのぞかせて、
「もういいだろう。娘は、精神的に、参ってるんだ」
と、十津川に、文句を、いった。
「もう結構です」
と、十津川は、微笑し、亀井を促して、帰ることにした。
「田代も、ヘマをしたものですね」
と、帰りの途中で、亀井が、いった。
「何がだい? 人質の宮原美保に逃げられてしまったことかい? それとも、電話の逆探知のことかね?」
「電話の方は、結局、逃げたんですから、田代のヘマにはなっていませんよ。ヘマは、肝心の人質を逃がしてしまったことです。そう思いませんか? 田代は、人質をとって、宮原に、要求を突きつけた。その要求が、全く、実行されない中に、人質を逃がしてしまったんでは、今後、宮原に、何の要求も、出来なくなってしまいますからね」
と、亀井が、いう。
「そのヘマだがね、人質を取った田代が、肝心の人質に逃げられてしまうなんて、ヘマ過ぎると、思わないかね?」
十津川が、考える表情で、いった。
「別に、ヘマをやろうとしてじゃないと思いますよ。しつかり縛っておいたつもりのロープがゆるんでいたということは、あり得ますからね。田代は、誘拐のプロじゃないから、そんなヘマをしても、別に、おかしくはないと思うのですが」
「だがね。田代は、西新宿の公衆電話を使って、宮原を脅迫していた。われわれが、駈《か》けつけた時は、もういなかった。当然、四谷三丁目のマンションに引き返した筈だよ。宮原美保がそのマンションから逃げたのは、翌朝なんだ。田代が、電話している中に、逃げたんじゃないんだよ」
「それは、わかっていますが――」
「田代は、電話したあと、マンションに戻った。彼が、最初にすることは、何だと思う?」
「人質が、逃げ出さないかどうかを、調べることでしょうね」
「そうさ。その時、人質は、まだ、眠っていた筈だよ。眠らせておいたのは、逃げられては困るからだろう。だから、マンションに戻ったら、縛ってあるロープを点検したりしたんじゃないかね。或《ある》いは、ずっと眠らせておくために、再度、エーテルを嗅がせたりした筈なんだ。それなのに、翌日、田代は、どこかに出かけてしまい、その間に、ロープがゆるんでいたので、人質は、逃げ出していた。ヘマというより、間の抜けた話だよ」
十津川は、いった。
「田代が、わざと、ロープをゆるめておいたということは、考えられませんか?」
と、亀井が、きいた。
「わざと? 逃がすためにかね?」
「そうです。田代は、正義感から、河西弘と名乗り、二年前の交通事故の真相を、明らかにしようとしているわけです。宮原の娘を誘拐したのも、そのためで、決して、彼女をどうかしようとか、身代金を取ろうという気ではなかったと思います。ですから、電話で、宮原を脅している中に、誘拐したことに、後悔を感じたんじゃないでしょうか。それで、マンションに戻ると、まだ、睡眠薬で眠り続けている宮原美保のロープをゆるめて、姿をくらませたんじゃありませんかね」
と、亀井が、いう。
「なるほどね。そう考えれば、説明はつくが、宮原美保を手放してしまうと、そのあと、宮原を脅すことは出来ないんだ。私が、田代なら、たとえ、誘拐が悪いことだと思っても、宮原が、いうことを聞くまでは、人質は、解放しないね。宮原が、告白したら、初めて、人質を、解放する。田代は、なぜ、そうしなかったのか。いぜんとして、私には、謎《なぞ》だよ」
と、十津川は、いった。
宮原は、娘が無事に戻ったことを、いいことに、何の告白も、マスコミには、しなかった。
田代は、何処かへ、消えてしまった。正確にいえば、何処かへ、逃げてしまったということなのだろう。
宮原邸にも、警察にも、電話が、かからなくなった。考えてみれば、肝心の人質が、いなくなってしまったのだから、田代も、動きがとれないに違いない。
問題は、今度の事件を、公表するかどうかだった。
宮原は、人質の娘が、無事に戻ったのだから、公表はしないで欲しいと、いった。
「新聞が書けば、娘の美保は、傷つくに決っている。犯人と一夜を共にしたということで、あることないこと、書き立てられるし、噂されるからね。それを、考えて貰いたい」
と、いうのだ。
宮原は、法務委員長である。それだけに、捜査本部も、彼の要求を、無視するわけにいかなかった。それに、まだ、田代が、逮捕されていないという事情もあった。
三上刑事部長は、マスコミへの公表は、当分、差し控えるという結論を出した。当分というのは、田代が、逮捕されるまでだといった。
十津川たちは、行方をくらませた田代を追った。
二日、三日と、過ぎたが、田代は見つからない。
捜査本部は、日本各地の国際空港にも、手配をしたが、田代が、海外へ逃亡した形跡はなかった。
「田代は、今度は、広田本人か、彼の家族に、狙いをつけてくるかも知れない。その点に、注意しろ」
と、三上は、いった。
宮原と、娘の美保には、再び、田代が狙う恐れがあるということで、護衛をつけた。だから、三上のいう通り、広田の方に、田代が、狙いをつける可能性は、十分にあった。
危険なのは、広田本人と、彼と結婚することになっている高梨《たかなし》ゆみだった。彼女は、二年前に死んだ河西弘の恋人だったのだから、屈折した正義漢の田代から見れば、裏切りに見えるに違いなかったからである。
十津川は、この二人に、西本たち若い刑事を護衛につけた。
その西本から、十津川に、電話連絡が入った。
「今、高梨ゆみと、広田が、六本木のレストランで食事をしていますが、ちょっと、妙な具合です」
と、西本が、いう。
「何が妙、なんだ?」
「警部は、私たちの他に、二人に、護衛をつけました?」
「いや、君たちだけの筈だが」
「二人には、すでに、護衛がついていますよ」
「そんな筈はないよ」
「ずっと、彼等を、見ているんですが、男が二人、つかず離れず、一緒にいます。広田たちがそれに気付いているのかどうか、わかりませんが」
「どんな男たちだ?」
「二人とも、三十代ですね。中肉中背ですが、よく鍛えられている感じがします。おかげでわれわれは、あまり、広田たちの傍へ寄れません」
「その二人が、広田と、高梨ゆみを、狙っている気配はないのかね? 例えば、田代に頼まれて」
と、十津川は、きいた。
「それは、ありません。誰かが、広田たちに近づくと、二人の男は、鋭い眼で、観察しています。プロを感じますね」
と、西本は、いった。
「プロか」
「何となく、VIPの護衛に当っているSPの身のこなしを感じますね」
「広田は、高梨ゆみと、食事を始めたところか?」
「そうです。フルコースを注文したようですから、食べ終るのに、あと二時間くらいは、かかると思います」
「それなら、今から、カメさんを誘って、男二人を、この眼で、見てみることにするよ」
と、十津川は、いった。
十津川は、店の名前と、場所を聞き、亀井と、六本木に向った。
「広田が、傭《やと》ったのかも知れませんよ。今は、金を出せば、プライベートなガードマンを、傭える時代ですから。先日、広告を見ました。格闘技の有段者を揃《そろ》えて、電話をお待ちしていますと、ありました」
と、六本木へ行く途中で、亀井が、いった。
警備保障会社は、以前からあって、主として、会社の警備を請け負ってきたが、これからは、個人が、狙われることが多くなるだろう。それに対応して、資産家の生命を守る商売が生れてもおかしくはないのだ。
六本木のフランス料理店に入って行くと、西本と、日下がいた。
奥のテーブルでは、広田と、高梨ゆみが、食事をしている。
「二人の斜め右のテーブルにいる男たちです」
と、西本が、小声で、いった。
一見、中年のサラリーマンという感じの男が二人いた。だが、仔細《しさい》に見ると、肩幅も広く、がっちりした身体《からだ》つきで、背広が、窮屈そうなのが、わかってくる。
十津川は、持ってきたカメラを取り出した。亀井が、立ち上って、壁を作り、十津川が、素早く、男二人に向けて、シャッターを押した。その音が聞こえる筈はないのに、気配を感じたのか、彼等は、光る眼を、こちらに向けた。
十津川は、わざと、見返した。
二人は、視線をそらせてしまった。
(刑事と、気付かれたか)
と、十津川は、思い、亀井を促して、店を出た。
捜査本部に戻ると、十津川は、すぐ、写真を現像し、焼き付けた。引き伸して、コピーを、何枚か、作った。
「この男たちの素性を知りたいね」
と、十津川が、いうと、亀井が、
「警備保障会社とか、私立探偵社に、当ってみましょう。金で傭った男たちだと思いますから」
と、いった。
亀井と、同僚の刑事が、写真を持って、出かけて行った。
丸一日かかって調べ、戻って来ると、亀井は、
「二人の素性が、わかりました」
と、難しい顔で、十津川に、報告した。
「どこかのガードマンかね?」
「違います」
「カメさんにしては、妙に、思わせぶりだな。私立探偵でもないのか?」
「S組の連中です」
と、亀井がいう。
「暴力団の?」
「そうです」
「なぜ、S組の人間が、広田圭一郎と、高梨ゆみの護衛をしているんだろう?」
「多分、宮原の線だと思います」
「そうか。以前、宮原代議士と、S組の組長が、親しいという噂が流れたね。同郷だし、S組が、選挙の時、宮原のために、働いたということもあった」
「そうなんです。あの二人は、S組の準幹部の佐々木《ささき》と、今村《いまむら》です」
「S組に、問い合わせてみたかね?」
「帰りに、新宿にあるS組の本部へ寄って、聞いてきましたよ。佐々木と、今村の二人は、先月、組をやめたので、何をしているか知らないという返事でした」
「嘘だな」
「もちろん、そうだと思いますが、反論するだけの証拠がないので、引き下るより仕方がありませんでした」
「これも、広田が、宮原に渡した金の見返りかね」
「そうでしょうね」
「当然、宮原は、自分と娘の身を守るためにも、S組に頼んでいるかも知れないな。そうすると、田代が、殺されてしまう危険も出て来たね。S組の連中なら、容赦なく、田代を殺すかも知れないからね」
「いや、もう、指示が出ているんじゃありませんか。田代が警察に捕って、二年前の事故のことや、広田と宮原の関係を、べらべら喋られたら、広田も、宮原も困るでしょうからね。田代を見つけたら、口を封じろと、いわれているかも知れません」
と、亀井が、いった。
「その田代だが、いぜんとして、行方がわからん」
「橋本君のところにも、連絡して来てないんですか?」
「さっき電話してみたが、連絡はないと、いっていたよ」
と、十津川が、いったとき、捜査本部の入口の方が、急に、騒がしくなった。
「見て来ます」
と、亀井が、飛び出して行ったが、戻ってくると、眉をひそめて、
「新聞記者の連中です。誘拐事件について、記者会見を、要求しています」
「おかしいな。これは、あくまでも、トラック運転手の山崎健一《やまざきけんいち》殺害事件の捜査本部で、誘拐の字なんか、何処にも、書いてない筈だが」
「しかし、記者さんたちは、宮原の娘が、誘拐されたことも、ちゃんと、知っていましたよ」
「誰かが、新聞社に、連絡したのかね?」
「宮原|父娘《おやこ》が、する筈がありませんから、田代でしょう。他に考えられません」
「それで、三上刑事部長は、どうしている?」
「一時間後に、記者会見をするといって、時間稼ぎをしていますよ」
と、亀井が、いった。
すぐ、十津川は、三上に呼ばれた。三上は、困惑した表情で、彼を迎え、
「今、新聞記者が、押しかけてきた。例の誘拐事件のことが、洩《も》れたんだ」
「田代が、新聞社に、連絡したんだと思いますよ。宮原代議士が、する筈がありませんから」
「君も、そう思うか?」
「他に、考えられません」
「一時間後に、記者会見をするんだが、どう話したものかと、思ってな」
「事実を話すのが一番いいと思いますが」
と、十津川が、いうと、三上は、肩をすくめて、
「そんなことをしたら、宮原さんが、大迷惑だよ。田代が、何を要求したかまでは、話せんよ」
「宮原さんは、否定していると、付け加えればいいんじゃありませんか」
と、十津川は、いった。
「そうしても、宮原さんに、傷がつくよ」
と、三上が、いった。
電話が、鳴った。受話器を取った三上は、
「そうですか。そちらにも、新聞記者が――」
と、いっている。
(電話して来たのは、宮原か)
と、十津川は、思った。
「なるほど。一億円ですか――」
と、三上が、いっている。
電話を切ると、三上は、十津川に向って、
「記者会見では、こう話すから、君も、心得ていて貰いたい。宮原代議士の娘が、誘拐され、犯人は、一億円の身代金を、要求してきた。宮原代議士が、それを、用意している間に、人質の娘さんが、ロープをほどいて、逃げ出し、無事に保護された。事件を公表しなかったのは、未《いま》だに犯人が、捕らず、再び、誘拐事件が起きる可能性があるからである」
「一億円ですか」
「身代金として、納得できる金額だよ」
「宮原さんが、そういって来たんですか?」
と、十津川は、きいた。
三上は、十津川を、強い眼で見つめて、
「記者会見では、こう発表する。それに反するような言動は、慎んでくれよ」
と、いった。
その日の午後八時に、急遽《きゆうきよ》もたれた記者会見で、三上は、一億円の身代金で、押し通した。
「もっと、他の要求が、犯人から、宮原代議士にあったという噂があるんですが」
と、質問した記者がいたが、三上は、
「それは、ありません。犯人の要求は、一億円でした。宮原さんが、それを用意している中に、人質だった美保さんが、逃げて来たわけです。幸運でした」
と、主張した。
美保が、監禁されたマンションも、彼女が収容された病院も、事実を話したので、記者たちも、納得したようだった。
翌日の朝刊に、事件のことが一斉にのった。
〈犯人は一億円を要求して、失敗〉
〈人質の美保さん、必死の脱出〉
〈幸運だったと、父親の宮原代議士〉
そんな見出しが、紙面を占領していた。広田圭一郎のことは、一行も、書かれていなかった。
「宮原の差金《さしがね》ですか? 一億円は」
と、亀井が、十津川に、きいた。
「そうだろうね」
「これを見たら、田代が、怒りますよ。怒って、また、何かしようとしますよ」
「だが、今度は、失敗する。下手をすると、ガードしているS組の連中に、殺されてしまうかも知れないぞ」
と、十津川は、いった。
「いくら、犯人でも、そんなことは、許されません」
亀井が、声を大きくして、いった。
「その点は、私も、同じ気持だよ。田代は、われわれで、逮捕したい。いや、逮捕しなければならないんだ」
「例の私設のガードマンですが、排除するわけには、いきませんか?」
と、亀井が、きく。
「まず、無理だろうね。S組では、組を辞めたと、いってるんだろう。嘘とはわかっていても、決めつけるわけにはいかないし、広田たちが、自費で、用心棒を傭っていても、そのことが、違法とはいえないしね」
と、十津川は、いった。
「それでは、西本刑事たちに、よく注意して、田代が現われたら、S組の連中より先に、逮捕するように、いっておきましょう」
と、亀井が、いった。
それから一週間後、奥多摩《おくたま》の渓流に釣りに来ていた五十六歳の男が、流れの傍で、男の死体を発見した。
死体は、大きな岩石と岩石の間に、押し込まれていた。
顔には、変形するほど殴られた痕があった。顔だけではなかった。パンツ一つの裸で、放置されていたのだが、上半身にも、無数に、殴打の痕が見られた。
腹部を、二ケ所刺されていて、それが、致命傷と思われた。
年齢は、三十歳前後、身長一七五センチ。所持品が、何一つないので、身元の確認が、難しいと考えられた。
しかし、身元は、意外に早く判明した。その顔が、十津川たちの追っていた、田代に似ていたからである。
十津川は、亀井を連れて、多摩《たま》署に、急行した。
そこに、運ばれて来ている死体を見た瞬間、十津川も、亀井も、思わず、小さな溜息をついた。それほど、死体は、傷つけられていたのである。それでも、田代に間違いなかった。
身体や、顔の無数の傷は、明らかに、固い物で、殴られたものだった。恐らく、木刀ででも、殴ったのだろう。
「拷問ですね」
と、亀井が、いった。
「拷問のあと、刺殺したんだろうね」
と、十津川は、いった。
「誰が、なぜ、こんなことをしたんでしょうか?」
「われわれで、それを、はっきりさせるさ」
と、十津川は、いった。
死体は、解剖のために、東大病院へ運ばれた。
十津川は、死体の発見された場所を中心に、探してみたが、何も見つからなかった。多分、殺害場所は、そこではないのだ。
その日の夜になって、解剖結果が、十津川に、報告されてきた。
直接の死因は、腹部を二ケ所刺されたことによる出血死である。
しかし、十津川が、関心を持ったのは、死亡推定時刻だった。
八月十三日の午後十一時から十四日の午前一時という推定時刻に、十津川は、眼をむいた。
その日は、田代が、宮原美保を人質にとり、父親の宮原を、電話で脅迫した日だったからである。
その翌朝、人質の美保は、四谷三丁目のマンションを逃げ出し、助かったのだ。
そのあと、十津川たちは、必死になって、田代の行方を、追った。そのために動員された刑事は、延べ、二百人を越している。それなのに、田代は、そのときには、もう、殺されていたのである。
「どうなってるんだ?」
と、思わず、十津川は、呟いた。
亀井も、同じ当惑に襲われたらしく、
「参りましたね。われわれは、死んでしまっている人間を、必死になって、探していたことになります」
と、いった。
「その日、午後七時頃、逆探知に成功して、われわれは、新宿の公衆電話に、駈けつけた」
と、十津川は、八月十三日のことを、思い出しながら、いった。それを引き継ぐように、亀井が、
「問題の公衆電話ボックスには、すでに、人はいなくて、受話器が、ぶら下っていましたね」
「田代が、あわてて、逃げたので、受話器を放り出したんだろうと、考えていたんだがね」
「ええ。私も、そう思っていました」
「しかし、その日の午後十一時から午前一時までの間に、殺されたとなると、違っていたのかも知れないね」
「どんな風にですか?」
と、亀井が、きく。
「田代は、ひどい拷問を受けて殺されている。あれだけ、殴りつけるには、かなりの時間が、必要だよ。犯人は、何か聞き出そうとして、めちゃくちゃに、殴りつけた。田代が、なかなか喋らなかったので、あれだけ、殴ったんだろう。二時間や三時間は、かかったんじゃないかね」
「ええ」
「三時間としよう。午後十一時に死んだとすると、拷問は、午後八時に始まったことになる。とすると、田代を殺した犯人は、われわれが、公衆電話に駈けつける寸前に、彼を連れ去ったということも、考えられるんだよ」
「田代は、電話中に、突然、襲われたので、受話器が外れた状態になっていたということですか?」
と、亀井が、きいた。
「その可能性があるんじゃないかね。何者かが、田代を連れ去り、拷問の上、殺し、奥多摩に捨てたんだ」
「誰ですか?」
「われわれは、宮原邸にいて、電話の逆探知に成功し、二人で、新宿に駈けつけた。犯人は、それより先に、新宿に着いたことになる」
「誰に、それが、可能でしょうか?」
「宮原邸の電話のまわりにいた人間は、新宿西口の公衆電話から、田代がかけていることを知った筈だ。大声で、いったからね」
「そうです」
「私たち以外にも、刑事はいたが、刑事が、出し抜くような真似《まね》はしない筈だ。とすると、一番怪しいのは、宮原か、宮原家の人間ということになってくる」
「そうですが、なぜ、私たちより先に、あの公衆電話ボックスに駈けつけられたんでしょうか?」
と、亀井が、きいた。
「新宿だからだよ」
と、十津川は、いった。
「S組――?」
「そうだよ。S組の本部は、新宿にある。そこへ電話をかけ、西口の公衆電話ボックスに行かせれば、われわれより先に、辿《たど》りつける」
「なるほど、S組と宮原とは、関係がありますからね」
「S組の連中が、われわれより先に、田代を捕え、連れ去り、あんなひどい拷問をしたんだよ」
「聞き出そうとしたのは、人質の監禁場所ですか?」
「そうだ。あれだけやられれば、田代は、教えたと思うね。連中は、四谷三丁目のマンションに、飛んだ」
「連中は、なぜ、監禁されていた宮原美保を助け出し、宮原邸へ連れて行かなかったんでしょうか?」
亀井が、きくと、十津川は、笑って、
「そんなことをしたら、田代を痛めつけた末に、殺したことが、バレてしまうよ。だから、S組の連中は、四谷三丁目のマンションに着くと、眠らされている宮原美保の手首のロープをゆるめて、立ち去ったんだよ。彼女が、気がついてから、自分で、逃げ出せるようにだよ」
「それで、なぜ、ロープがゆるんでいたかの説明がつきますね」
と、亀井が、いった。
「つまり、宮原は、S組を使って、田代の口を封じたんだよ。自分のためと、金を貰っている広田のためにね」
十津川が、いまいましげに、いった。
「この件で宮原を、訊問《じんもん》しますか?」
「今は、駄目だ。彼が、S組を使って、田代を殺した証拠は、何もないんだ」
と、十津川は、いった。
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第七章 金と力
橋本《はしもと》は、ある感慨を持って、田代《たしろ》が惨殺されたことを報じる新聞に、眼を通した。
新聞には、田代を殺した犯人については、何も、書かれていない。十津川《とつがわ》の話では、宮原《みやはら》に頼まれたS組の連中が、拷問した上、殺したに違いないということだった。
だが、証拠はない。
橋本も、この残忍な殺人の奥に、宮原がいると、思った。田代が、橋本に依頼して、宮原のことを、調べていたからである。
橋本は、その期待に、完全には、応《こた》えられなかった。宮原と、広田《ひろた》との間に、結びつきがあることは、想像がついたが、証拠は、見つからなかった。いや、見つけられなかった。
田代は、それに、あき足らずに、宮原の娘を誘拐するという実力行使に出たに違いない。
宮原は、警察より、S組の力を信じて、娘と、田代を探させたのだ。その方が、秘密が守れると、思ったからだろう。
S組は、組織の力を使って、田代を見つけ出して、惨殺した。
(おれのせいかも知れない)
と、橋本は、唇を噛《か》んだ。
田代の満足する資料を、橋本が見つけ、揃《そろ》えてやれたら、彼は、それを使って、宮原と広田を、告発でき、宮原の娘を誘拐するような乱暴なことをしなくて、すんだに違いないからである。
それでも、宮原と広田は、S組の暴力を使って、田代を殺そうとしたかも知れないが、しなかったかも知れないのだ。
(おれが、殺したようなものだ)
と、さえ、橋本は、思った。
それに、田代が預けていった金が、まだ、残っている。そのことも、橋本の気持を、重くするのだ。
(殺された田代のために、何かしてやらなければ――)
と橋本は、思う。それも、十津川たちの出来ないことでである。
橋本は、S組が支配力を持つ新宿《しんじゆく》の盛り場に、飲みに行き、S組についての話を集めることにした。
当然、危険が伴った。
すぐ、橋本の行動は、S組に、眼をつけられ、因縁をつけられることがあった。が、それ以上の行動に、相手が出なかったのは、田代のことで、警察が、S組をマークしていたからだろう。
毎夜、歩き廻《まわ》っている中《うち》に、橋本は、河村太《かわむらふとし》という男のことを知った。
S組の幹部だった男で、二ケ月前に、突然、組を破門になっている。理由は、わからないが、橋本は、この男に、会ってみることにした。
何人かの人間に、河村の行方を聞いた揚句、やっと、池袋《いけぶくろ》の小さなバーのマスターをしている河村を見つけ出した。
橋本が、話を聞きたいというと、河村は、いきなり、彼を、外へ連れ出した。そのまま、近くの小さな公園まで、連れて行く。
「どうしたんだ?」
と、橋本が、きくと、河村は、笑って、
「店に、女の子が一人いただろう。あいつに話を聞かれたくないんだ」
「なぜ?」
「昨日わかったんだが、あの女の男が、S組のチンピラでね。話が、筒抜けになる」
「S組が、怖いのか?」
「怖くはない。向うが、おれのことを、心配してるんだ。喋《しやべ》られると困ることが、いくらでもあるからな」
と、河村は、いった。
橋本は、煙草《たばこ》を取り出し、相手にも、すすめてから、
「僕を助けて欲しい」
と、いった。
「助ける?」
と、河村は、おうむ返しに、いってから、街灯の光の下で、じっと、橋本を見つめて、
「あんたの顔を、何処《どこ》かで見たような気がするんだがな」
「そうかね?」
「あんた、警察にいたことがあるんじゃないか?」
「ああ、いたことがあるよ。馘《くび》になって、刑務所に入ったことがある」
と、橋本は、正直に、いった。
河村は、ニヤッと笑った。
「思い出したよ。女のために、五人の男を、痛めつけて、刑務所入りになった刑事だろう? 刑事にも、骨のある奴がいるなと、感心したもんだ」
「困っているんだ。助けて欲しい」
と、橋本は、もう一度、いった。
「おれに、何をして欲しいんだ?」
と、河村が、きく。
「田代という男が、惨殺された。拷問された末にね」
「ああ、新聞で見たよ」
「S組が、やったんだと思うが、証拠がない」
「まさか、おれに、その証拠をつかんで貰《もら》いたいなんていうんじゃあるまいね?」
「そんなことは、頼まない。ただ、あんたの知ってることを話して貰いたいんだ」
と、橋本は、いった。
「どんなことだ?」
「S組と、財界人や、政治家とのつながりだよ。具体的にいえば、広田|圭一郎《けいいちろう》や宮原代議士との結びつきだ」
「ふーん」
「あんたは、二ケ月前まで、S組の幹部だったんだから、この間の事情は、よく知っている筈《はず》だ」
「あんたは、それを知って、どうする気だ?」
「田代の仇《かたき》を討ちたい」
「仇討《かたきう》ちとは、ずいぶん古風だな、今どき、はやらないぜ」
と、河村は、笑った。
「古いかも知れないが、そうしたいんだ。田代に、金を貰って、調べて欲しいといわれたが、それが、出来なかった。その埋め合せだよ」
と、橋本は、いった。
「おれが、喋ったら、報酬は、何なんだ?」
と、河村が、きいた。
「田代から預かった金の残りが、十万余りある。それを、あげられるだけだ」
「十万とは、少ないねえ」
と、河村は、笑う。
「他には、何もないんだよ」
と、橋本は、いった。貯金もないし、宝石も持っていない。
河村は、しばらく、考えていたが、
「じゃあ、その十万を貰うかな」
と、いった。
「じゃあ、話してくれるんだな?」
「こんなところじゃ、話は弾まんよ。どこかで、うまい酒でも飲みながらにしようじゃないか。その十万を使ってさ」
と、河村は、いった。
彼の案内で、雑居ビルの三階にある飲み屋に行き、そこで、鍋《なべ》をつつきながら、酒を飲んだ。
「おれが、破門になったのは、組の方針に反対して、組長に、食ってかかったからでね」
と、河村は、いった。
「組のどんな方針に反対したんだ?」
「S組というのは、古い、歴史のある組でね。典型的な博徒だった。それに惚《ほ》れて、おれは、S組に入ったんだが、最近、S組は、金まみれでね。金を貰って、金持や、政治家の犬になった。それが、現代のヤクザだそうだが、おれは、それに耐えられなくてね」
河村は、吐き捨てるように、いった。
「広田や、宮原代議士とのつき合いのことか?」
「ああ、そうだ」
「組長の高島寛《たかしまひろし》の方針ということか?」
「新方針というやつだよ。組長を、いつの間にか理事長と呼ぶようになった。まるで、会社だよ。それも、悪徳会社だな」
「高島は、よく、広田や、宮原と、会っていたんだろうね?」
「おれも、お供をして、よく、この二人に、会いに行ったよ。特に、去年あたりから、会う回数が、多くなったね」
と、河村は、いう。
「会って、どんな話を、してたんだね?」
「広田に会う時は、金の話だよ。宮原との時は、選挙の応援の頼みだったり、右翼と話をつけてくれと頼まれたりだったな」
「広田から、どのくらいS組に、金が流れているんだろう?」
と、橋本は、きいた。
「高島組長、いや、高島理事長が、会ったときは、一回に、一千万近い金が、渡されてたよ。現に、おれが、受け取ってたから、間違いないさ」
「その金を、高島は、何に使ってるんだろう?」
と、きくと、河村は、笑って、
「株や、土地に、注《つ》ぎ込んでる。ヤクザが、株屋になったり、不動産屋になったりしてたんじゃ、この世界も、もう終りだと、思ったね」
「その金は、借りてるんじゃなくて、貰ってるんだろう?」
「当り前だろう。いちいち、借用書を書くかね」
と、河村は、いった。
「その見返りは?」
と、橋本は、きいた。
「いろいろだよ。広田圭一郎が、父親から社長を継ぐことに、重役連中の中には、反撥《はんぱつ》する奴もいる。そういう連中を脅したり、組合|潰《つぶ》しを引き受けたりしたよ」
「最近は、他にも、頼まれたことがあるんじゃないのか?」
と、橋本は、きいた。
河村は、また、ニヤッとして、
「あんたがいってるのは、例の広田のやった交通事故のことだろう?」
「ああ、そうだ」
「ヤクザというのは、そういうことに敏感でね。金の匂《にお》いがすると、自然に、集ってくる。あの事件については、S組の方から、持ちかけたんだよ。知ってるぞということを、ちらりと見せただけで、広田は、金を出したよ。そのあとは、今度は、S組が、広田を守る側に廻った」
「それには、宮原代議士も、関係してるのか?」
「広田が、宮原にも、金を払って、いろいろと、頼んでるのは、知ってるよ。宮原という政治家も、ヤクザと同じで、広田に、タカってるんだな」
「あの交通事故の真相は、どうなんだ?」
と、橋本は、きいた。
「あんたは、知らないのか?」
「広田圭一郎が、誰かに頼んで、河西弘《かわにしひろし》を、交通事故に見せかけて殺したのか、それとも広田自身が、はねてしまったのを、隠そうとしているのか、そこがわからないんだよ」
「山崎健一《やまざきけんいち》というトラック運転手が、自首して、刑務所入りをしたんじゃないのかね」
と、河村がいう。
橋本は、手を振って、
「広田が、山崎健一に金をやって、河西弘を殺させたということか? そんな単純な事件だったら、こんなに、後を引かなかったと思ってるよ。長谷部徳子《はせべとくこ》が殺されたのも、あの交通事故の目撃者だったからだと思ってるし、田代や、君が今いった山崎健一が殺されたのも、二年前の河西弘の事件が、尾を引いているからだ」
「なかなか、よく見てるよ」
と、河村は、いった。
「広田が運転してる車が、河西弘をはねたのかな?」
「そう思ってるのか?」
「可能性はあると思ってるんだが」
「ああ、当ってないこともないな」
河村は、微妙ないい方をした。
「山崎健一を射殺したのは、S組の人間なんだろう?」
と、橋本は、きいた。
「あれは、おれが、S組を飛び出してから起きたんだ。だから、わからないが、あれだけの腕を持つ男となると、S組の中でも、限られてるな」
「準幹部の佐々木《ささき》と今村《いまむら》は、どうなんだ?」
橋本が、きくと、河村は、肯《うなず》いて、
「いい線いってるよ。あの二人は、自衛隊あがりだし、毎年、何回か、グアムに行って、ライフル射撃をやってるからね」
「じゃあ、この二人のどちらかかね?」
「それは、何ともいえないね。可能性は高いが、おれのいなくなってからのことだからな」
と、河村は、いった。
彼は、いくら酒を飲んでも、酔わなかった。もともと、強いのだろうが、橋本の眼には、それだけではなく、映った。何か、周囲に気を配っていて、それが、酔わせないような気がするのだ。
橋本は、店内を見廻《みまわ》した。
カウンターに、五人の客、それに、座敷の方には、橋本たちの他に、二組の客がいる。いずれも、サラリーマンらしい男たちである。この中に、S組の人間がいるのだろうか?
「僕はね。S組の組長というのか、理事長というのかが、広田から金を貰い、或《ある》いは、宮原と結びついて、具体的に、何をしたのかを知りたいんだ」
と、橋本は、熱を込めて、いった。
「それに、やったという証拠もだろう?」
と、河村が、いう。
「ああ、欲しいね」
「悪いが、おれは、そこまで、あんたに協力できないよ。S組を飛び出した男だが、何年間か、そこにいた人間だからね」
と、河村は、いった。
「駄目かね?」
「悪いな、ご馳走《ちそう》になっちまって」
と、いって、河村は、腰をあげた。
「仕方がない。僕だって、警察を馘になったが、まだ、愛着があるからね」
橋本は、河村に向かって、いった。
もう夜が、深い。
橋本は、雑居ビルを出て、池袋の駅に向かって、歩き出した。少し、酔いが、残っている。
駅のホームにあがり、新宿方面行の電車を待った。まだ、最終までには、何十分かあるので、余裕があった。
最終的に、河村は、橋本の欲しい証拠といったものは、渡せないと、いった。しかし、あれだけ、はっきりと、元S組の幹部が、話してくれたことは、嬉《うれ》しかった。
二年前の交通事故について、河村は、面白いことをいっていたとも思う。
橋本が、運転していたのは、広田圭一郎ではなかったのかというと、河村は、まあ当ってないこともないと、いったのである。
あれは、どういう意味だったのだろうか?
それを考えている間に、電車が、近づいて来るのが見えた。自然に、足が前に出る。
その瞬間、橋本の身体《からだ》は、いきなり、前に押された。
(不覚!)
と、思ったが、橋本の身体は、前にのめり、足が宙を泳ぎ、線路の上に、転落した。
誰かが、悲鳴をあげた。
橋本は、あわてて、ホームと線路の間の隙間《すきま》に向かって、這《は》い進んだ。
自分では、急いで手足を動かしているつもりなのに、身体は、のろのろとしか動かない。
電車が、ブレーキのきしみをあげながら、近づき、橋本の身体を、こするようにして、通り過ぎて行き、停車した。
一瞬の静寂が、ホームを支配した。
次の瞬間、駅員が、大声で叫びながら、ホームを駈《か》けて来た。
電車が、ゆっくりと、動き、ホームが空《あ》くと、一斉に、線路をのぞき込む。
橋本が、立ち上ると、ホームにいた乗客から、拍手が、起きた。
橋本は、駅員に、ホームに引き揚げられた。若い駅員は、
「大丈夫ですか?」
と、きいてから、橋本が、負傷していないとわかると、
「酔ってますね」
と、今度は、非難するような眼つきになった。
(誰かに、押されたんだ)
と、橋本は、いいかけて、やめてしまった。
彼を突き落した犯人は、もう、このホームにいないだろうし、酔いが残っているのは、事実だったからでもある。
橋本は、駅の事務室に連れて行かれ、名前と住所を聞かれた。
自宅マンションに帰ったのは、十二時過ぎである。ホームから落ちた時の恐怖は、徐々に消え、代りに、怒りが、こみあげてきた。その怒りは、自分を落した者への怒りであると同時に、油断していた自分自身への怒りだった。
翌日、昼近くに眼をさますと、電話が鳴り、受話器を取ると、十津川からだった。
「とんだ目に遭ったね」
と、十津川がいった。
「ニュースに出てますか?」
「ああ、新聞に出ているよ。酔って、落ちたとあるが、私もカメさんも、信じられないんだ。君が、酔って、ホームから落ちるなんてね」
「本当は、突き落されたんです」
「やっぱり、そうか」
と、十津川が、いった。
「多分、犯人は、S組の人間だと思っています」
「なぜ、そう思うんだね?」
「昨日は、S組を飛び出した男に会って、S組と、広田圭一郎、宮原代議士との関係を、聞いたんです。その帰りでしたから」
と、橋本は、いった。
「その男から、どんなことが、聞けたんだね?」
「それは、会って、お話しします」
「いいね」
と、十津川は、いった。
橋本は、十津川を、捜査本部に訪ねて行った。新宿や、渋谷《しぶや》の喫茶店にしなかったのは、また、S組の連中に、尾行されるのを心配してだった。
橋本は、河村の話をした。
十津川も、二年前の交通事故についての河村の言葉に、興味を示した。
「その、まあ――というのは、どういう意味だろうね?」
と、十津川が、きく。
「自宅に戻って、いろいろと、考えてみたんです。その言葉もですが、その時の河村の表情もです。同じ言葉でも、いろいろな意味になりますから」
と、橋本は、いった。
「確かに、そうだな。それで、君は、どんな風に解釈したんだ?」
「あの時、河村の口元に、笑いが浮んでいましてね。ですから、君に考えつくのは、せいぜい、そのくらいのところだろうと、いっていたんじゃないかと思います」
と、橋本は、いった。
亀井《かめい》も、傍に来て、橋本の話を聞いている。
「すると、河西弘をはねて殺した車は、広田圭一郎が、運転していなかったということなのかね?」
と、十津川が、きいた。
「そう思います」
「じゃあ、広田圭一郎が、金で、誰かを傭《やと》い、交通事故に見せかけて、河西弘を殺したのかね?」
十津川が、首をかしげた。
「例えば、トラック運転手の山崎健一ですか?」
と、横から、亀井が、いった。
十津川が、首を横に小さく振った。
「そんな簡単な事件じゃないだろう」
「私も、そう思います。私が、山崎健一の名前をいったら、河村は、笑っていましたから、違うと思います」
と、橋本も、いった。
「山崎健一を射殺したのは、S組の連中なのかね?」
亀井が、きく。
橋本は、河村の話を、そのまま、伝えた。
「今度の誘拐騒ぎで、河村は、高梨《たかなし》ゆみの護衛をしたという佐々木と、今村は、S組の組員の中で、銃の扱いに慣れている男だと、いっていました」
「なるほどね」
と、十津川は、肯いて、
「S組の組長が、二人を組からやめさせたといっているのは、山崎健一殺しで、追及された時の用心かも知れないな。組とは無関係だと、主張できるからね」
「そうです。そんなところかも知れません」
と、亀井が、いう。
「証拠が、欲しいねえ。二年前の事件でも、今度の田代殺し、山崎健一殺しでもだ」
十津川が、口惜《くや》しそうに、いった。
「私も、河村に、裏付けになるものが欲しいといったんですが、彼は、組はやめたが、やはり、組は、裏切れないみたいなことをいっていましたね」
と、橋本は、いった。
「彼と会っての帰りに、池袋駅で、ホームから、突き落されたんだな?」
亀井が、きいた。
「そうです。つけられているのに気がつかなかったのは、不覚でした」
「河村という男にも、当然、尾行がついていたろうね」
「そう思います」
「大丈夫かな?」
「わかりませんが、河村は、十分、注意しているようでした」
と、橋本は、いった。
「それでも、危いな」
十津川が、じっと、宙を睨《にら》む感じで、呟《つぶや》いた。
橋本も、急に不安になって、
「これから、様子を見て来ます」
「私も、行こう。その男に会ってみたいからね」
と、十津川が、立ち上った。
亀井の運転する覆面パトカーに、十津川と、橋本が乗り、池袋に向かった。
橋本の案内で、河村のやっているバーに、行ってみた。
午後二時を廻ったばかりなので、もちろん、閉っている。
「河村の住んでいるところは?」
と、亀井が、きいた。
「確か、この二階に住んでいるようなことを、いっていましたが」
と、橋本が、いった。
十津川たちは、二階を、見上げた。その窓には、カーテンが下りているので、中の様子は、わからない。
「いるのかな?」
十津川が、呟く。橋本は、道路に落ちている小石を拾って、二階の窓に、ぶつけてみた。
当って、大きな音がした。
三人は、見上げたまま、反応を待った。
だが、窓も、カーテンも、開かない。
「入ってみます。私なら、民間人だから、あとで、問題になっても、謝ればすみます」
と、橋本は、いい、ドアに、体当りした。
「荒っぽいね」
と、亀井が、笑う。
橋本が、二度、三度と、体当りすると、ドアが開いた。
中をのぞき込んだ橋本が、「あッ」と、声をあげたのは、椅子《いす》が転がり、カウンターの背後の棚に並んでいたウィスキーや、ブランデーのびんが、床に、散乱していたからだった。
十津川と、亀井が、飛び込んで、きた。
「こりゃあ、ひどいな」
と、十津川が、いう。亀井が、二階への狭い階段を、あがって行った。
橋本と、十津川が、そのあとに、続いた。
二階には、ベッドや、洋服ダンス、テレビなどが、置かれていた。
だが、こちらは、荒らされていない。
ただ、裏の路地に通じる窓が、開いていた。
「何があったんでしょうか?」
橋本が、心配顔で、きいた。
十津川は、窓から、狭い路地を見下しながら、
「ここから逃げたか、それとも、連れ去られたかだな」
「逃げてくれていたらいいんですが」
と、橋本は、いった。
亀井は、部屋の中を見廻していたが、
「血痕《けつこん》は、どこにも、ついていませんね。階下にも、ありませんでしたから、少なくとも、ここで殺されたということは、ないと思います」
と、いった。
「何とか、河村を助けてやって下さい」
と、橋本は、十津川に、いった。
「写真は、ないかな?」
「探してみます」
と、橋本は、いい、部屋の中を、探し始めた。十津川と、亀井が、それを、手伝い、少し調度品の中を調べた。
小さな額《がく》に入った写真が見つかった。浴衣《ゆかた》を着た男と、三、四歳の女の子が、写っている。男は、あぐらをかき、子供を抱いているのだ。
「河村かね?」
と、十津川が、きいた。
「そうです。河村です」
「一緒にいるのは、彼の子供かな?」
「かも知れません。眼のあたりが、似ていますから」
「よし、カメさん、この写真をコピーして、河村を見つけ出そう。私も、聞きたいことがある」
と、十津川は、いった。
十津川と、亀井が、写真を持って、引き揚げたあと、橋本は、その場に残った。
彼は、河村が、逃げたと、信じたかった。
逃げたとすれば、何処へ行ったのか、それが、わかればと、思ったのである。
写真には、幼い女の子が一緒に写っていた。が、ここには、子供のものは、何もない。子供の服も、人形もだ。
それに、女の匂いも、感じられない。
(子供は、何処かへ、預けてあるのだろう)
と、思った。
あの写真のバックは、この部屋でも、一階のバーでもない。多分、子供に会いに行った時、そこで、撮ったのだろう。その場所がわかれば、もう一度、河村に会えるかも知れない。
手紙でもあればと、思ったが、それは、一通もなかった。
(ここにやって来た連中が、手紙を全部、持ち去ったのではないか?)
と、橋本は、思った。
そうだとしたら、持ち去った目的は、わかっている。橋本と同じように、河村の立ち廻り先を、見つけるためだ。
橋本は、一階におりた。荒らされた店内を、転がっている椅子をさけるように歩きながら、何かないかと、探した。
カウンターに置かれていた花びんも、床で砕け、生けてあった白い菊の花が、散乱している。
この店では、客に、おにぎりや、焼魚なども出していたらしく、棚には、皿が、いくつも重ねてある。
不揃《ふぞろ》いの皿だった。いかにも、素人が、焼いたものとわかる。改めて、見廻すと、灰皿も、不揃いで、不恰好《ぶかつこう》だ。
その一つをとって、裏を見ると、河村と、署名が入っていた。マスターの河村が、趣味で、焼いたのだろう。
店内にも、二階にも、電気炉はなかったから、河村は、カマのある所へ行って、自分の店で使う皿や、灰皿などを、作っていたに違いない。
橋本は、その場所を、知りたかった。
皿の裏には、書いてない。どこかに、書いてないかと、店内を見廻している中《うち》に、壁にかかっているカレンダーが、眼に止まった。
〈陶磁の里、有田《ありた》〉
という文字があった。
東京では、めったに見られないカレンダーである。バーにも、ふさわしくない。
(九州の有田か)
と、橋本は、思った。
店の電話を使い、捜査本部にいる十津川に電話をかけ、皿のこと、カレンダーのことを、説明した。
「すると、君は、河村が、有田へ逃げたと思うのかね?」
と、十津川が、きいた。
「わかりません。ただ、ひょっとして、有田に、友人なり、知人なりがいて、そこに、娘を預けているのではないかと、思ったんです。もし、そうなら、危険を感じたら、まず、娘に会いに行くのではないかと思います」
「わかったが、私も、カメさんも、今は、東京を離れられないんだよ」
と、十津川は、いう。
「わかっています。私が一人で、河村を探して来ます」
と、橋本は、いった。
「そうしてくれ、飛行機で行くのかね?」
「そうします」
「それなら、日下《くさか》刑事に、羽田《はねだ》へ、金を持って行かせる」
「金は、何とかなります」
「遠慮するな」
と、十津川が、大きな声で、いった。
橋本が、羽田空港に着くと、日下刑事が来て、封筒を渡された。
橋本は、ありがたく貰っておくことにして、一七時〇〇分発、福岡行のJAL371便に乗った。
福岡着一八時四〇分。バスで、JR博多《はかた》駅に行き、一九時四五分発のL特急みどり25号に、乗った。
有田に着いたのは、二一時〇八分である。
駅前から、タクシーに乗り、運転手に、例のカレンダーにあった店の名前を、いった。窯元《かまもと》「岩田《いわた》」と、あった。
タクシーが、走り出した。
「この岩田というのは、どんな店かね?」
と、橋本は、運転手に、きいた。
「旅館もかねててね。お客に、自分で、絵付けさせ、焼いてくれるよ。なかなか、人気がある店だよ」
と、運転手は、いった。
「楽しそうだね」
「だが、もう、窯《かま》の方は、閉めてしまってるね」
「泊りたいんだ」
と、橋本は、いった。
タクシーは、細長く伸びた有田の町を、走り、一軒の店の前で、とまった。
窯元の「岩田」と、旅館「いわた」の看板が二つ並んでいた。
タクシーをおりると、橋本は、旅館「いわた」の方に、入って行った。観光シーズンを外れているせいか、ひっそりとしている。
女主人らしい中年の女性が出て来て、
「お泊りですか?」
と、きいた。
「部屋が空いていたら、泊りたい」
と、橋本は、いい、部屋に通ってから、おかみさんに、
「河村さんを、ご存知ですか?」
と、きいた。一瞬、彼女の顔に、当惑の色が走った。が、否定も、肯定もせず、黙っている。
(知っているんだな)
と、橋本は、思い、
「僕は、彼の友人です。彼が、危険なので、助けたいんですよ」
と、いった。
おかみさんは、橋本の言葉を信じたのか、
「河村は、今日の昼頃来て、すぐ、また、帰って行きました」
と、いった。
「今日、来たんですか?」
「ええ、彼の娘を、うちで預かっているんです。それで、娘に会いに来て、お金を置いて、すぐ、また、出て行きましたわ」
「行先は、わかりませんか?」
「東京に家があるから、そちらへ戻ったんだと、思いますけど」
「何かいっていませんでしたか? 危険が迫っているとか――」
「河村は、前から、危いことばかりしてましたから」
と、おかみさんは、溜息《ためいき》をついた。
橋本は、おかみさんが、いなくなると、部屋の電話で、東京の十津川に、電話をかけた。
お金の礼をいってから、今日、河村が、こちらへ来ていたことを話した。
「娘に会いに来た、といって、お金を置いて、帰って行ったそうです。行先は、わかりません」
「そこは、河村の親戚《しんせき》か何かなのかね?」
「遠い親戚です。河村の女が死んですぐ、子供を預けに来て、それから、毎月、養育費を送って来ているそうです」
「とにかく、河村は、生きていたわけだ」
「そうです」
「行先は、わからずか?」
「はい。東京へ戻ったんじゃないかと思います。ここのおかみさんの話では、他に、親戚は、ないそうですから」
と、橋本は、いった。
「わかった」
と、十津川は、いった。
その日は、旅館いわたで、泊り、翌日、早く、東京に戻ることにした。
宿料を払い、タクシーを呼んで貰っていると、おかみさんが、何枚かの現金書留の封筒を持って来た。
どれも、河村が、二十万円を入れて、毎月、送って来たものだという。
「全部、取っておいたんですけど、何かの役に立てばと思いましてね」
「拝見します」
と、橋本はいい、一枚ずつ、見ていった。
住所は、池袋のあのバーになっているのが、殆《ほとん》どだったが、二枚だけ、会津若松《あいづわかまつ》市内になっていた。同じ所番地である。
その住所を、手帳にメモしてから、橋本は、旅館を出た。
JR有田駅に着いてから、橋本は、東京の十津川に、電話をかけた。
「会津若松市内から、二回、河村は、養育費を、送って来ています。今年の一月と、三月です」
と、橋本はいい、正確な住所を、伝えた。
「ひょっとすると、今、河村は、そこにいるかも知れないというわけだね?」
十津川が、きく。
「今のところ、そこしか、わかっていません」
と、橋本は、いった。
「わかった。すぐ、福島県警に連絡して、この住所を、調べて貰うことにするよ」
と、十津川は、いった。
電話を切ると、十津川は、すぐ、福島県警に連絡をとった。
電話で、問題の住所をいい、ファックスを使って、河村の顔を、送った。
「この男が見つかったら、何とか、理由をつけて、押さえておいて下さい」
と、十津川は、いった。
一時間ほどして、福島県警の寺田《てらだ》警部が、電話して来た。
「市内の、いわれた住所へいって来ましたが、河村は、いませんでした」
「そこは、どういう家ですか?」
と、十津川は、きいた。
「鶴《つる》ガ城《じよう》跡近くの小さなスナックで、吉田《よしだ》きみ子という三十一歳の女が、やっています。彼女は、河村を知っていると、いっていました。東京にいた頃、つき合っていて、その後、会津若松に戻って、この店を始めたと、いっています」
「今年の一月と三月に、河村が来ていたと、いっていますか?」
「それは、認めていました。一月と三月は、十日ほど、泊っていったらしいですよ」
と、寺田が、いった。
「最近は、会ってないと、いうわけですか?」
「そうです。嘘《うそ》をついているのかも知れませんが、現在、この店に、河村がいないことは、間違いありません」
「河村が、行くかもわからないので、見守っていて下さい」
と、十津川は、頼んだ。
その日の午後には、橋本が、有田から帰京し、十津川に、連絡してから、そのまま、東北新幹線で、会津若松へ行くといった。
夜になって、福島県警の寺田警部から、あわただしく連絡が、入った。
「ついさっき、例のスナックの近くで、拳銃が、二発、発射されたようです」
と、寺田が、いう。
「何があったんですか?」
と、十津川は、きいた。
「現場に急行したのですが、何も発見できませんでした。今、引き続き、現場を、調べています」
「吉田きみ子は、どうしています?」
「店を開いて、客に愛嬌《あいきよう》を、振りまいていますよ」
と、寺田は、いった。
続いて、今度は、橋本が、電話してきた。
「今、会津若松のスナックに来ています。例の住所にある店です」
と、橋本が、いった。
「今、その近くで、拳銃が、射《う》たれたんじゃないか?」
「ええ、警察が来て、調べていますね」
「近いのか?」
「ええ。店から、五、六十メートルのところにある公園です」
「射たれたのは、河村かも知れないな」
と、十津川が、いうと、橋本は、
「私も、そう思って、この店のママの様子を窺《うかが》っているんですが、顔色は、変りませんね。落ちついていますよ」
「現場に、血が流れているのかね?」
と、十津川が、きいた。
「見て来ます」
と、橋本は、いった。二十分ほどして、電話が、また、かかった。
「現場ですが、血痕らしきものは、見つかりません。警察は、二発の薬莢《やつきよう》を、発見したといっています」
「じゃあ、拳銃が射たれたことは、確かなんだね?」
「そうです。何者かが、二発射ったんです」
「君は、引き続き、そのスナックを、監視していてくれ。河村が現われたら、すぐ、知らせて欲しい」
と、十津川は、いった。
続いて、寺田警部からも、二度目の電話が入った。
「薬莢が二発分見つかりましたから、狙撃《そげき》があったことは、間違いありません。また、聞き込みで、白い車が、急発進して、消え去ったという証言を得ました。その白い車に、乗って来た人間が、拳銃を射ったのではないかと、思っています」
と、寺田は、いった。
「会津若松市内の暴力団の間で、発砲があったということは、ありませんか?」
十津川は、念のために、きいてみた。
「それは、考えられませんね。ここの暴力団は、今のところ、仲よくしていますし、今日、動いた気配は、ありません」
と、寺田は、いった。
しかし、翌朝、午前八時過ぎに、同じ寺田警部から掛った電話は、十津川が、心配していたものだった。
「鶴ガ城跡の堀に、男の死体が、浮んでいるのが見つかりました。どうやら、河村と、思われます。今、身元確認を、急いでいます」
と、寺田が、いう。
(河村に、違いない)
と、十津川は、思った。
「どんな状態で、見つかったんですか?」
「城跡は、現在、公園になって、管理事務所が置かれているんですが、そこの職員が、外堀に、俯《うつぶ》せに浮んでいる死体を、見つけたわけです。背広姿で、靴をはいていました。しかし、顔には、ひどく殴られたあとがありますし、身体も、殴られていますね。財布などは、見つかりませんから、盗《と》られたものと、思っています」
「射たれた形跡は、ありませんか?」
「右足の太股《ふともも》のあたりを、弾丸《たま》が、貫通しています」
「他に、何かわかったことは、ありませんか?」
「石垣の上が、遊歩道になっているんですが、その一ケ所から、血痕が多数、見つかっています。恐らく、そこで、被害者は、殴られ、堀に投げ落されたのだと思います」
「河村だという確認は、まだ、出来ていないのですね?」
「今、例のスナックのママを呼んでいます。来てくれれば、身元は、確認できると、思っています」
と、寺田が、いう。
「彼女が駄目なら、橋本に、聞いて下さい。そちらに、行くと思いますし、彼は、河村に会って、話をしていますから」
と、十津川は、いった。
十津川の予想した通り、橋本は、その日の中に、ニュースを見て、会津若松署に急行した。その結果を、電話で、十津川に、報告してきた。
「間違いなく、河村でした」
と、橋本は、いった。
「そうか。やはり、河村か」
「ひどく、やられていますね。裏切者に対する報復の感じです」
と、橋本は、いった。
「県警は、聞き込みを、やっているんだろう?」
亀井が、十津川の横から、きいた。
「やっていますが、まだ、河村を殺した犯人についての情報は、ないみたいです。まあ、一人の犯行じゃありませんね。複数の人間が、やったんです。一対一なら、河村も、むざむざ、やられなかったと思います」
と、橋本は、いった。
「吉田きみ子も、身元確認に、行っているんだろう?」
と、十津川が、きいた。
「はい。来ています」
「河村は、彼女に会ってから、殺されたのかね?」
「彼女は、会ってないと、いっていますが、わかりませんね。なかなかの女に見えますから、警察にだって、本当のことは、いわないかも知れません」
と、橋本はいう。
「河村が、殺されたとなると、彼から、証言を貰うことは、出来なくなったな」
「それが、残念ですが、ひょっとして、彼が、何か残しているんじゃないかと、それに、期待しているんです」
「何を残していると、思うのかね?」
と、亀井が、きいた。
「わかりませんが、河村は、死を予感していたと思いますね。だからこそ、有田へ行って、娘に会ってたんだと思います。とすると、遺書みたいなものを書いて、誰かに、渡しているんじゃないかと……」
「例えば、吉田きみ子か?」
「そうです。それで少し、彼女にくっついていてみようと、思っています。うまくいったら、すぐ、報告しますよ」
と、橋本は、いった。
十津川は、そちらは、橋本に委《まか》せ、東京の広田や、宮原たちの動向に、注意を払うことに努めた。
一応、河村が、殺された日時について、宮原代議士と、広田圭一郎のアリバイを調べたが、二人とも、しっかりしたアリバイを、持っていた。
福島県警からの報告によれば、河村の死亡推定時刻は、昨日の午後十一時から、今朝の午前一時の間となっている。
宮原代議士は、その時間、同じ派閥の代議士二人と、夜明けまで、二十一世紀へ向けて研究会を開いている。これには、N大の政治学の助教授も招かれているので、アリバイは、完全だった。
広田圭一郎の方は、昨夜の午後十時から、十二時まで、銀座のクラブ「R」で、同業の会社社長二人と、飲んでいた。これも、証人が何人もいるので、アリバイは、完璧《かんぺき》だった。
「笑っちゃいますね」
と、亀井は、苦笑していた。
「いかにも、用意されたアリバイという感じだねえ」
と、十津川も、いった。
「夜中のアリバイなんか、無いのが普通ですよ。これは、明らかに、宮原と、広田は、この時間に、アリバイをちゃんとしておいて下さいといわれていて、その通りにしたんだと思いますよ。もちろん、いったのは、S組の連中でしょう」
亀井が、いまいましげに、いった。
「アリバイは、完璧だが、二人が、河村の死を、予期していたということでもあるな」
と、十津川は、いった。
「それで、たとえ、河村殺しの犯人が、見つかっても、われわれが解明したいと思っている事件の方には、何のプラスにもならないことになってしまいますね」
「そうだな」
と、十津川は、肯いてから、
「二年前の事故のことだがねえ」
「河西弘の死に、何があったかということですね」
「橋本と、河村の会話から考えると、広田圭一郎が、河西弘を、殺したのに、間違いない」
「はい」
「だが、広田が、金で、誰かを傭い、事故に見せかけて、河西を殺したという単純なことではないらしい」
「私も、そう思います」
「しかし、広田の運転する車が、河西弘をはねて、殺してしまったのでもないらしい。橋本が、そういったら、河村が、笑ったようだからね」
「しかし、他に、何がありますかね? 広田が、自分で車を運転していて、はねて殺したのと、金で、誰かに殺させたのと、この二通りしかないと、思いますが」
と、亀井が、いった。
「だが、違うらしい」
「どう違うんでしょうか?」
「河村にいわせれば、もっと、複雑なことなんだろうな」
「複雑な――ですか?」
「そうだよ。それで、いろいろ考えてみたんだがね」
「ええ」
「こういうことかも知れない。例えば、広田の運転する車が、河西弘を、はねて殺したとする。その時、同じ車に、他に、誰か、乗っていたんじゃないか」
「同乗者が、いたということですか?」
「そうだよ。もっと、複雑なケースだって、考えられる」
「どんなことですか?」
「車は、一台じゃなくて、二台というケースだよ」
と、十津川は、いった。
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第八章 終局の旅
十津川《とつがわ》は、自分の推理を、亀井《かめい》に、話した。
「最初、私は、二つのケースしか考えなかった。広田圭一郎《ひろたけいいちろう》の運転する車が、河西弘《かわにしひろし》をはねて死なせてしまった。その場は、あわてて逃げ、あとから、金の力で、山崎健一《やまざきけんいち》を、轢《ひ》き逃げ犯に、仕立てた。もう一つのケースは、広田が、最初から、河西弘を殺したいと思って、山崎健一に頼んで、トラックで、はねたということだ。だが、どちらも、納得できなかったんだよ」
「なぜですか?」
「あまりにも、広田の動きが、大げさだからだよ。宮原《みやはら》代議士が、なぜ、あんなに、広田に肩入れするのかも、不思議だった。金のためだとは、思ったし、現実に、広田は、宮原代議士に、大金を貢いでいるようだが、果して、それだけなのだろうかという気が、していたんだ」
「政治家と、タニマチの関係ではないと?」
と、亀井が、きく。
「いや、その関係だと思うが、宮原は、タヌキだ。下手をすれば、殺人犯の庇護者《ひごしや》になりかねない危ない真似《まね》を、なぜ、するのだろうかという疑問を持った。自分の政治生命にかかわっているんだからね」
と、十津川は、いった。
「他にも、不審なことが、ありましたか?」
「宮原の娘の美保《みほ》のことだよ。殺された田代《たしろ》が、なぜ、彼女に近づいたり、彼女を、誘拐したりしたのか、それも、不審だったよ」
「父親の宮原代議士を、脅迫して、宮原に、広田のために、策動していること、広田が、本当は、河西弘をひき殺したことを知っているに違いないから、それを、公表させようとしたわけですよ」
と、亀井が、いった。
「だがね、カメさん。宮原が、たとえ、脅迫に屈して、公表したとしても、広田本人が、否定してしまえば、警察としては、どうしようもないわけだよ」
「確かに、そうなんですが、現に、田代は、宮原美保を誘拐して、宮原に、公表を要求しています」
「そうだが、今もいったように、それで、広田が河西弘を殺したことが証明できると、思っていたのかという疑問が、あるんだ。もう一つ、田代は、河西弘を本当に殺した犯人を見つけようと、決心したあと、彼は、河西弘を名乗った。まあ、これは、河西弘と名乗ることで、犯人や、自動車事故の目撃者に、動揺を与えようと思ったのだろうが、田代は、まず、沖縄で、宮原美保に近づいている」
「ええ。それは、彼女が、宮原代議士の娘だったからだと思います。彼女を通して、宮原に近づき、彼と、広田との関係を、明らかにしようと思ったんじゃありませんか?」
と、亀井が、いう。
「それだけなんだろうか?」
十津川は、自問する調子で、いった。
「他に、何があると?」
「ああ、田代は、カメラマンだが、政治について、くわしいわけじゃない。その彼が、なぜ、宮原と広田との関係を知っていたのだろうか?」
「それは、いろいろと、調べたんじゃありませんか?」
と、亀井が、きき返した。
「かも知れない。だが、広田圭一郎が、河西弘を、殺したんじゃないかという疑問なんか、新聞には、もちろん、のっていなかったし、田代が、疑問とするまで、誰も知らなかった。警察だって、取りあげていない。宮原代議士と、広田の会社とのつながりだって、問題にはなっていなかった。それなのに、田代は、なぜ、宮原に、注目したのだろうか?」
「そういえば、確かに、そうですが――」
「それで、私は、車は、二台あったんじゃないかと、考えるように、なったんだよ」
と、十津川は、いった。
「それを、わかるように、説明してくれませんか」
と、亀井が、十津川を見た。
「広田の会社と、宮原代議士は、関係はあったと思う。政治家と、財界ということでね。これからあとは、推理なんだが、広田の会社が、主催したパーティでもあったんじゃないか。二年前の問題の日だよ。そのパーティには、もちろん、広田圭一郎もいたろうし、宮原代議士の娘の美保も、参加していたんじゃないか。宮原代議士なんかは、パーティのあと、運転手つきの車で帰宅したが、若い娘の美保は、自分の運転する車で帰ることになった。広田圭一郎も、自分の車を運転して、一緒に、走ったんじゃないか。或《ある》いは、車をつらねて、海でも見に行こうと思ったのかも知れない。とにかく、広田圭一郎の運転する車と、宮原美保の車が、走って来て、河西弘を、はねて、殺してしまったんだ。多分、広田の車が、まず、はね、それを、宮原美保の車が、ひいてしまったんじゃないか」
「それを、田代と、長谷部徳子《はせべとくこ》が、目撃したというわけですか?」
「そうだ。だから、宮原代議士も、必死になって、この事故を、隠そうとしたんだと思うんだよ」
「それで、私も、納得できます」
と、亀井は、いった。
「広田の方は、彼自身が、運転していた車が、はねたのだから、必死だったろうと思う。宮原代議士は、彼自身ではなく、娘の運転していた車だから、広田ほどではないだろうが、これが、公表されれば、自分の政治生命にも、関係してくるから、必死になって、もみ消そうとした。広田は宮原が、そのために、金が要るといえば、いくらでも、出したんじゃないかな」
「宮原は、前から知っていたS組を、利用して、二人の目撃者を、黙らせにかかったわけですね?」
「金を与え、少しは、脅しもしたと思うよ。長谷部徳子は、完全に黙ってしまい、田代は、その金で、アフリカなどを旅行し、写真を撮った」
「そして、田代は、アフリカの悲惨な状況を眼にしている中《うち》に、自分の生き方に疑問を持ち、帰国すると、自分が目撃した事件の真相を、明らかにしようと考えたわけですね」
「彼は、二台の車が、河西弘を、はねたのを見ていて、ナンバーを覚えていたんだと思う。それで、持主を調べたんじゃないかな。当然、広田圭一郎と、宮原美保の名前が、浮んでくる」
と、十津川は、いった。
「それで、まず、河西弘の名前を使い、沖縄へ行き、宮原美保に近づいたというわけですか?」
と、亀井が、眼を輝かせて、きいた。
「そうだよ。だが、われわれは、広田圭一郎の車が、河西弘をはねて殺した、それを宮原代議士に頼んで、何とか公けにならないようにしているのだと、思い込んでいたから、田代が、美保に近づいた理由を、考え違いして見ていたんだ。父親に近づくための手段じゃないかとね」
と、十津川は、いった。
「宮原代議士は、当然、娘の車が、広田の車と一緒に走っていて、河西弘をはねたことは、知っていたんでしょうね?」
「そりゃあ、広田から聞いて、知っていただろう。だからこそ、今いったように、必死になって、S組を使い、田代と、長谷部徳子を、黙らせたんだ。山崎健一という、轢き逃げ犯人も、作りあげて、ほっとしていたら、自分の娘に近づいてきた男のことを知って、びっくりした。写真を見たら、田代という目撃者の一人だったからだよ」
「娘の美保は、河西弘と名乗って、近づいて来た男が、事故の目撃者だと、気付いていたんでしょうか?」
と、亀井が、きいた。
十津川は、小さく、頭を横に振って、
「知らなかったと思うよ。宮原は、娘に黙って、事件を、闇《やみ》から闇に葬ろうとしたに違いないし、河西と聞いても、二年前の事故の犠牲者と、同じ名前とは、思わなかったんじゃないかね」
「だが、宮原は、狼狽《ろうばい》した?」
「ああ。あわてたと思うね。何とか、押さえ込んだと思い、ほっとしていた事件が、二年たって、また、頭をもたげてきたからだ。その上、田代は、もう一人の目撃者、長谷部徳子とも、接近を図っている。そこで、あわてて、彼女の口を封じた。これも、S組を使ってだろう。もし、広田圭一郎に頼まれただけなら、宮原は、そんなに必死になって、動き廻《まわ》らなかったと思うね。下手をすれば、自分の政治生命にかかわるんだから、むしろ、冷たく、広田との関係を、絶ったんじゃないかと、思っている」
十津川は、熱っぽく、いった。
「その上、山崎健一が、刑期を了《お》えて、出所してきたわけですね」
と、亀井が、いう。
「そうだよ。ますます、不安になった宮原は、山崎も、S組に頼んで、射殺したんだ。一番、消したかったのは、田代だったと思うが、田代は、姿を消してしまい、見つからなかった」
「S組に、全《すべ》てを頼んだとすると、金が要りますね。S組が、タダで、危ない橋を渡るわけがありませんから」
「ああ、その金は、広田圭一郎から、出ていたんだと思うよ。宮原にしてみれば、娘のために動いたんだが、お前のために、やっているんだと、広田には、いっていたろうからね」
と、十津川は、いった。
「田代は、橋本《はしもと》君に、金を渡して、宮原代議士と、広田との関係を、調べてくれるように、依頼していますね」
「ああ、自分が動けなくなったからだろう」
十津川は、橋本の顔を思い出していた。
「そのあと、田代は、実力行使に出て、美保を誘拐しますね。もし、彼女が、広田と、二台の車で、河西弘を轢き殺したのだとすると、田代は、彼女に、自白を強要すべきなのに、なぜ、父親を脅迫して、広田との関係を公表せよと、迫ったんでしょうか?」
亀井が、当然の疑問を、口にした。
十津川は、肯《うなず》いて、
「確かに、カメさんのいう通りだよ。私も、その点が、わからなかった。辻褄《つじつま》が合わないとも、思った。やはり、河西弘をはねて殺したのは、広田圭一郎だけなのかとも、思ったよ。だが、それでは、納得できないものが、残ってしまう。それで、こんな風に、考えてみたんだ。宮原美保は、若く美しい。そして、田代も若く、独身だった」
「愛ですか?」
と、亀井が、きく。
「そうだよ。二年前の事故の時、多分、田代は、二台の車のナンバーは、見ているが、運転していた人間の顔は、はっきり見ていなかったんじゃないか。それを確かめるために、田代は、沖縄の石垣島《いしがきじま》で、宮原美保に会った。だが、その時、田代は、彼女の美しさに、魅《ひ》かれてしまったんじゃないかね。人間というのは、というより、男はといった方がいいかな、惚《ほ》れた女のことは、いい方に、いい方に、考えたがるものだ。悪いことが見つかっても、それは、何かの間違いだと、考える」
と、いって、十津川は、笑った。
「二台目の車は、宮原美保のものだが、運転していた女は、別人なんですか?」
と、亀井は、きいた。
「多分、田代は、そんな風に、考えようとしていたんじゃないかね。美保の女友だちだとか、或いは、宮原の女が、運転していたのではないかとね。ただ、心の底では、美保が犯人だろうとも、思っていた筈《はず》だよ」
「すると、彼女を誘拐した時は、複雑な気持だったんでしょうね」
と、亀井は、いった。
そうだろうと、十津川は、思う。もともと、田代は、平凡な男だ。だから、金を貰《もら》って、目撃した事件について口をつぐんだのだろうし、また、アフリカで、突然、自分の生き方に疑問を持って、今度は、河西弘殺しの真犯人をあぶり出そうとする。
そんな弱い男が、美保を誘拐したのは、よくよくのことだろう。誘拐することによって、彼は、いったい、何を、証明しようとしたのだろうか!?
電話が鳴った。
現実に引き戻されて、十津川は、受話器を取った。
宮原代議士の動きを見張らせていた日下《くさか》刑事からの電話だった。
「宮原が、何かしようとしているのか?」
と、十津川が、きくと、
「宮原は、動きませんが、娘の美保が、アメリカに行きます」
「アメリカに?」
「そうです。アメリカに行きます。父親の宮原が、手を廻して、向うの大学に、入ることになったんです。彼女が、卒業した大学と、姉妹校の関係を結んでいるアメリカの大学にです」
「いやに急だね?」
「そうなんです」
「出発は、いつだ?」
「明後日の午後のJALで、出発することになっています」
と、日下は、いって、電話を切った。
十津川は、亀井を振り返ると、
「どうやら、私の想像が、当っていたらしい。宮原代議士は、急に、娘の美保を、アメリカの大学に、留学させることにした」
「逃がす気ですね」
「ああ、そうだな。危なくなってきたとみて、日本の外に出すつもりだ」
「どうしますか?」
「明日、宮原美保に会いに行こうじゃないか」
と、十津川は、いった。
二人は、翌日、宮原邸を訪ねた。父親の宮原代議士は、まだ、帰宅していなくて、美保は、アメリカへ行く準備をしていた。
十津川は、彼女に、外へ出て貰った。
近くに、公園があり、そこでの話になった。彼女は、かたい表情で、十津川を見ている。
「運転免許は、お持ちですか?」
と、十津川は、きいた。
「持っていますけど、ペイパードライバーで、車を運転したことはありませんわ」
と、美保は、いった。
「では、車も、持ってない?」
「ええ。持っていませんわ」
「免許をとられたのは、いつですか?」
「二年前ですけど、それが、何か?」
と、美保は、きき返した。
「なぜ、免許を取られたんですか?」
「みんなが、取るというので、何となく。私って、あまり自主性がないんです」
「免許を取ったが、車は、買わなかったんですか?」
「ええ」
「お父さんに頼めば、買ってくれたんじゃありませんか? あなたに、甘そうな先生だから」
と、十津川が、いうと、美保は、笑って、
「実は、その父が、反対したんですわ。学生の分際で、車を持つなんてけしからん、卒業したら、買ってやると、いわれました」
と、いう。
「おかしいですね」
十津川が、じっと、美保を見つめた。
「何がですか?」
「実は、昨日、あなたのお友だちに会いましてね。車のことを、聞いたんですよ」
十津川が、いうと、美保は、黙ってしまった。
十津川は、続けて、
「二年前、あなたが、お父さんに買って貰ったといって、真っ赤なポルシェを、得意そうに運転していて、お友だちも、乗せて貰ったことがあると、いっているんですよ」
「それ、何かの勘違いですわ」
「勘違いですか?」
「ええ」
「しかし、こんなことは、調べれば、本当かどうか、わかりますよ。あなたが、嘘《うそ》をついているかどうか――」
「――――」
「自動車事故というのは、やろうとして、やるものじゃない。気をつけていても、事故を起こしてしまう。特に、車を運転し始めて、二、三ケ月たった時が、一番多い。そうでしょう?」
「何のことを、おっしゃっているのか、わかりませんわ」
「二年前の交通事故のことを、いっているんですよ。あなたが、赤いポルシェを運転し、広田圭一郎も、自分の車を運転していて、事故を起こした。多分、広田の車が、河西弘をはね、続けて走っていたあなたのポルシェが、河西弘を、もう一度、はねた。違いますか?」
「河西弘という人は、トラックにはねられて、死んだんじゃないんですか? そう聞いていますけど」
「あれは、作られた犯人です」
「――――」
「恐らく、二年前のあの夜、あなたも、広田圭一郎も、酔って、車を運転していたんじゃないかと思うんですよ。何かのパーティだったんだと思いますね」
と、十津川は、いった。
美保は、顔をゆがめて、
「多分とか、恐らくばかりですのね。そんなあいまいなことで、人を罪に陥れようとするんですか? 日本の警察は」
「いや、事故のあった日はわかっていますから、調べれば、その日に、何があったか、わかりますよ」
「でも、私には、関係ありませんわ」
「出来れば、あなたには、進んで、全てを話して頂きたいのですがねえ」
と、十津川は、いった。
「話すことは、何もありませんわ」
と、美保が、いう。
「よく考えて下さい。あなたと、広田圭一郎が、二年前、事故を起こし、河西弘というサラリーマンが、死んだ。それを、隠すために、今までに、何人の人間が、死んだと思っているんですか? 身代り犯人になったトラックの運転手が、射殺され、目撃者が二人、口封じに殺され、事情を知っている元暴力団員も、殺されました。あなたと、広田圭一郎が、素知らぬ顔をしていれば、これからだって、死人が出るかも知れないんですよ」
「――――」
「アメリカに逃げ出したからといって、二年前の事故からは、逃げられませんよ」
「――――」
黙り込んだ美保の顔に、明らかな動揺の色が見えた時、突然、宮原が、現われた。
彼は、走って来ると、十津川を睨《にら》んで、
「警察には、もう用はない筈だ。それに、娘は、アメリカ行の支度で忙しいんだ」
と、いい、美保に対して、
「すぐ、帰りなさい」
と、いった。
美保が、ほっとした顔で、走り去ったあと、宮原は、十津川と、亀井を見すえて、
「君の部下が、私を、尾行したりしているのは、知っている。その上、今度は、娘までかね。私の忍耐にも、限度があることを、知っておいた方がいいな。法務委員会で、君たち警察の横暴さを、問題にしたら、どうなるかね」
と、脅すように、いった。
「われわれは、殺人事件の捜査をしているんです」
と、十津川は、いい返した。
「だから、何をやってもいいと、思ってるのかね? 第一、私や、娘が、それと、何の関係があるのかね?」
「私は、子供を持っていませんが、子供を持つ父親の気持は、わかるつもりです」
と、十津川は、いった。
「何のことかね?」
「あなたが、美保さんを大事にする気持は、わかるということです。一人娘だし、美人で、頭もいい。ただ、可愛《かわい》いからといって、そのために、人殺しまでしていいということには、なりませんよ」
「何をいっているかわからんね」
「いや、よくおわかりの筈ですよ」
「私は、失礼する。君たちも、私が、怒って、君たちを告発したくならない中に、帰りたまえ」
と、宮原は、いい、二人に背中を向けて、自宅の方へ、戻って行った。
亀井は、小さく舌打ちして、
「あの先生、こっちを脅しやがった」
「それが、仕事だからね、あの人の。そのために、法務委員になってるんだ」
と、十津川は、笑った。
「しかし、残念ですね。証拠がなくて、あの先生も、娘も、広田も、それに、S組の連中も逮捕できないのは」
「今、証拠を、見つけようとしているよ」
と、十津川は、いった。
亀井が、驚いて、
「誰が、見つけようとしているんですか?」
「橋本君だ」
「彼が、何処《どこ》でですか?」
と、亀井が、きいた。
「河村《かわむら》のことを、覚えているだろう?」
「S組の元幹部で、殺された男ですね?」
「そうだ。会津若松《あいづわかまつ》で死んだ。殺したのは、S組の連中だ」
「河村は、自分が、殺されるのを、知っていて、会津若松へ出かけたんじゃなかったんですか?」
「そうだと思うね。河村は、まず、九州の有田《ありた》へ行き、自分の子供と会い、次に、福島へ飛び、会津若松で殺された」
「そこでは、吉田《よしだ》きみ子というスナックのママに会いに行ったと思われますが」
「河村は、S組と宮原代議士、それに広田圭一郎との関係も、よく知っていた男だ。だから、殺されたともいえる」
「それが、わかれば、いいんですが――」
「それで、橋本君に、頼んだんだよ。われわれが動いたら、河村の幼い子供と、吉田きみ子が危険になる。S組は、秘密を守るために、どんな残忍なことでも、平気で、やるだろうからね」
「警部は、河村が、何か、書き残しているとみているんですか?」
「ああ、そうだ。秘密を握っている河村が、S組をやめてから、無事にいられたのは、彼が、その秘密を文書にして、何処かに預けているからだと、私は、思っているんだ。河村に、橋本君が食いついて、それで、S組は、彼を消してしまったが、私は、書類は、まだ、何処かにあると思っているんだ。だから、橋本君に、頼んだんだ」
と、十津川は、いった。
「見つかればいいんですが――」
亀井は、心配そうに、いった。
十津川は、亀井に、橋本からの連絡を待っていてくれと、頼み、ひとりで、二年前の事故について、もう一度、調べることにした。
事故を担当した交通係の刑事に会った。
「河西弘だが、はねられて、即死だったんだろうか?」
と、十津川が、きくと、相手は、ちょっと考えてから、
「即死ではなかったと思います。あの時、犯人のトラック運転手の山崎健一は、二度、はねていますから」
と、いった。
「二度?」
「はい。二度、はねられた形跡があるのです。つまり、山崎は、はねておいて、もう一度、はねた。生き返られては困るから、そうしたんだと、私は、思いました。残酷なやり方ですよ。生き返って、喋られたら困ると思ったんでしょう」
「しかし、山崎健一は、一年の判決だったんだろう? 殺すつもりで、もう一度、はねたのなら、もっと重い罪になるんじゃないかね?」
「公判では、弁護士のいい分が通ってしまったんです。二度なんか轢いていない。一度だけだといういい分がです」
「なるほどね」
と、十津川は、肯いた。
次は、二年前に、宮原美保が、赤いポルシェを持っていたことの証明だった。
十津川は、宮原邸の近くにあるポルシェの輸入代理店を、一店ずつ、当ってみた。
二店目の東京ポルシェで、反応があった。
二年前の四月に、赤いポルシェを、宮原美保に、売ったというのである。
二年前の帳簿に、きちんと、記入されていた。
「確か、お父さんが、お支払いになりました」
と、店の営業担当者が、いった。
「そのポルシェは、今、何処にあるか、ご存知ですか」
と、十津川が、きくと、営業担当者は、当惑した顔になって、
「さあ、そこまでは知りませんが、確か、お売りしてすぐ、お乗りにならなくなったようですね」
と、いった。
なんでも、半年ほどして、宮原邸を訪ねると、車庫に、赤いポルシェが無くて、故障しがちなので、乗るのを止《や》めたと、聞いたというのである。
「ポルシェが、故障しがちなんて、あり得ないので、変だなと思ったんですがね」
と、営業係は、いった。
これで、二年前、美保が、ポルシェを持っていたことは、確かめられた。
最後は、二年前の事故の日、十月八日に、何が、あったのだろうかということだった。
広田圭一郎と、宮原美保が、一緒だったとすれば、それは、広田が主催したパーティか、何かだろう。
そう考え、十津川は、捜査本部に戻ると、紳士録のページを、繰ってみた。
十津川の予想が、当っていた。広田圭一郎のところに、十月八日に、生れたとなっていたからである。
事故の日は、広田の誕生日だったのだ。
多分、都内のホテルで、そのパーティが、行われたのだろう。
宮原代議士と、娘の美保も、招待されたに違いない。広田と、宮原代議士は、つき合いがあったのだから、広田は、娘の美保とも、顔見知りだったとみていい。
パーティが、終ったところで、少し酔った美保が、車を飛ばして、何処かに行きたいと、いったのだろう。広田も、それなら、一緒に行こうといって、自分の車に乗り、二人は、車を連ねる形で、夜の街を、走って行った。
そして、事故。
(しかし、なぜ、美保のポルシェに、二人で乗らなかったのか?)
という疑問が、生れてきた。
二人が乗ったポルシェが、河西弘を、はねて殺したということなのだろうか?
いや、それなら、運転していた人間の罪になり、助手席の人間は、罪にはならない。
それに、交通係の刑事は、死体は二度、轢かれたと思うと、いっているのだ。
(そうか。広田の車には、もう一名、同乗者がいたのか)
と、十津川は、思った。
広田と、美保は、別に恋人同士ではない。年齢が違いすぎるし、広田は、最近、高梨《たかなし》ゆみと、婚約している。
と、すると、広田が、自分の車の助手席に、誰か、乗せていたとしても、おかしくはない。例えば、パーティのコンパニオンをである。
それなら、二台の車で、いいのだ。
十津川は、都内のホテルに、片っ端から電話をかけ、二年前の十月八日に、広田圭一郎の誕生祝パーティがあったかどうか、聞いてみた。
四つ目のNホテルで、十津川の期待する答が、返ってきた。
その日の午後六時から、広田の誕生パーティが、平安の間で、開かれたと、教えてくれたのである。
盛会だったという。政財界人と、有名タレントも来て、賑《にぎ》やかだったらしい。
「その前の年も、私どもで、誕生パーティをやらせて頂いたんですが、去年は、なぜか、急に、取り止めということになってしまいました」
と、Nホテルの支配人が、いった。
橋本からの連絡は、なかなか、来なかった。九州の有田と、福島の会津若松の両方を調べるのだから、時間が、かかっているのかも知れない。
一日たち、宮原美保が、アメリカへ出発する日の昼近くになって、やっと、橋本から、電話が入った。
「連絡がおくれて、申しわけありません」
と、橋本は、まず、律義に、いった。
「それで、河村の書いたものは、あったのかね?」
と、十津川は、きいた。
「九州の有田でも、会津若松の吉田きみ子のところでも、見つかりませんでした。河村は、何も残さなかったのかと、がっかりして、帰京したら、ありました。彼は、私|宛《あて》に、送ってくれていたんです。会津若松の消印がありましたから、旅先で書いて、投函してくれたんだと思います」
橋本は、嬉《うれ》しそうな声を出していた。
「それで、手紙の内容は?」
と、十津川は、きいた。単なる手紙では、何の価値もないのだ。
「これから持って行きますから、とにかく、読んで下さい」
と、橋本は、いった。
橋本は、車を飛ばして、捜査本部に、やって来ると、部厚い封筒を、十津川に、渡した。妙にふくらんでいるので、中をのぞくと、手紙と一緒に、小さなカセットテープが、入っていた。
十津川は、まず、手紙の方に、眼を通した。
手紙は、「橋本大兄」という、かた苦しい文章で、始まっていた。
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〈橋本大兄
貴兄が、二年前に始まる事件の真相を知りたいと思う気持は、よくわかった。そこには一片の私心もなく、田代の仇《かたき》を討ちたい、そして敬愛する警視庁捜査一課の十津川警部の期待にも応《こた》えたい、と貴兄はいった。
誠に、羨《うらや》ましい。小生も、かつて、任侠《にんきよう》の道に入ったのは、十七歳の時で、当時のS組の組長は、まれに見る人格高潔な人柄で、この人のためなら喜んで死ねると、思ったものだった。
時代が変り、S組も代が変り、今の組長になってからは、小生の夢や、期待も、次第に、消えていった。時代のせいかも知れぬが、現組長の人格に関《かか》わってくる部分も、また多いと、思っている。
政治家と繋《つな》がりを持ち、そのために、働いて金を儲《もう》ける。強きをくじき、弱きを助けるという任侠道は、完全に、消えてしまった。
その典型的な例が、二年前のあの事件であった。貴兄が知りたかったのも、あの事件のことと思うので、詳しく書いておく。
二年前の十月、九日の朝だったと思う。小生は、組長に呼ばれて、突然、轢き逃げ犯人を一人、つくれと、命じられた。そこで、選び出したのが、山崎健一である。彼は、十代の頃、チンピラで、傷害事件を起こした時、小生が、かばってやったことがあり、それに、運送会社で働いていたので、適当と、思ったのである。
組長が話したところでは、有名政治家の一人娘と、広田という会社社長の息子が、いささか酔って、車を連ねて夜の街を走っていて、人をはねて殺してしまったという。組長は、その政治家から、何とかしてくれと頼まれて、引き受けたのだ。
前々から、組長は、有力な政治家と結びつくのが、組の繁栄に通じるという考えの持主だから、この話に、飛びついたのだ。
その政治家の名前は、宮原。事故を起こした娘の名は、美保である。広田の誕生パーティを、都内のホテルで開き、そのあと、酔いにまかせて、車を走らせたらしい。広田の車には、自社の女子社員を乗せていたというていたらくだった。
私が選んだ山崎健一は見事に役目を果たし、裁判では、一年の刑になった。
これで、済めば、いうことはなかったのだが、この事故には、二人の目撃者がいることが、わかると、宮原は、また、うちの組長に、処理を頼みに来た。前組長なら、自分の頭の蠅《はえ》は、自分で払えと、拒否したに違いないのだが、今の組長は、これで、政治家とのつながりが、更に強固なものとなり、また、広田圭一郎からの謝礼金が入ると喜んで、引き受けたのだ。
この処理は、小生と、佐々木《ささき》に委《まか》され、二人の目撃者、田代と、長谷部徳子には、金を与え、睨みもきかせて、黙らせることに、成功した。
それが、二年後になって、妙なことになってくるとは、小生も考えなかった。
二年前の事故で、死んだ河西弘と同姓同名の男が、事故のことを、嗅《か》ぎ廻っているから、どうかしてくれと、宮原が、また、うちにいって来たのだ。
小生は、組長に命ぜられて、調べてみた結果、どうやら、目撃者の一人、田代が、何を血迷ったのか、河西弘と名乗り、二年前の事故の真相を究明しようとし始めたらしかった。
彼は、もう一人の目撃者、長谷部徳子に接触し、また、宮原美保に近づいていることが、わかった。
田代も、長谷部徳子も、二年前の十月八日の事故の時、夜だったので、運転していた人間の顔までは、見ていないのだが、ナンバーや、車の型は、見ているだろう。何よりも、河西弘をはねた車が、トラックではなく、二台の車と知っている筈なのだ。この二人が、警察に、同時に、話を持っていけば、警察としても、あの事故を、洗い直さなければならなくなるだろう。
この後始末は、再び、小生に委された。小生は、元凶である田代を見つけ出そうとしたが、向うも、覚悟しているとみえて、なかなか、捕まらない。長谷部徳子は、簡単に、捕まえられたが、こちらが、しばらく、東京を離れているように説得したのに対し、子供のために、東京を離れられないという。その上、動揺していて、いつ、警察に駆け込むかわからない。それを、報告すると、組長は、すぐ、消してしまえと、指示してきた。
長谷部徳子が、死ぬと、警察が、動き出した。小生は、別に、警察は怖くはないのだが、次第に、嫌気がさして来た。組長は、政治家とつながりが出来、広田から、金も入ってくるので、満足のようだが、冷静に考えれば、政治家と、金持ちの使い走りではないか。こんなことをしていれば、S組を、潰《つぶ》すことになりかねない。
小生は、それを組長にいい、手を切るようにいったのだが、逆に、破門されてしまった。そのあとのことは、小生には、関係ないが、山崎健一を射殺したのも、組長の指示で、宮原代議士からの依頼だろうと信じている。
破門したあとの小生について、組長は、必死だったと思う。田代よりも、小生の方が、危険な筈だからだ。何しろ、小生は、二年前の事故の後始末をして、真相を知っているからである。
小生の命も狙《ねら》われると、覚悟したが、九州の有田に預けてある娘のことがあって、簡単には、死ねなかった。それで、組長には、事故の処理を頼まれた話や、宮原代議士からの電話を、録音したテープがあることを、伝えておいた。もし、小生を消そうとしたり、娘に手出しをすることがあれば、そのテープを、警察に送るとだ。
そのため、組長も、小生に、手出しをせずに来たのだが、田代を惨殺した手口などを見ると、テープ一本で、安全とは、いい切れなくなってきた。その上、小生の存在に気付くと、警察が、橋本さんを通じて、接触してきた。組長は、ますます、小生を危険視してくるだろう。
先代の組長なら、小生が、たとえ、組を出ても、絶対に、警察にたれ込むことはないと、信じてくれたと思うのだが、今の組長には、そうした、男と男の信頼感は、皆無なのだ。
小生は、間もなく、S組の連中に、消されるだろう。有田で、久しぶりに、娘に会えたので、もう心残りはない。
橋本大兄の男気に応えて、大事なテープを、同封する。これを、どう使おうと、貴兄の勝手だ。
小生から、貴兄に頼むことはないが、一つだけ、気掛りなのは、娘のことだ。まさか、S組が、あの子に、手を出すことは、ないと思っているが、坊主憎ければの喩えもある。もし、貴兄に、この手紙と、テープに対して、少しの感謝の気持があるとしたら、娘のことを、心配してくれないか。
貴兄の尊敬する十津川警部にもよろしく。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]河村拝〉
十津川は、テープを、テープレコーダーにかけてみた。
手紙に書かれてあったように、宮原代議士から、事故の後始末を頼む電話や、娘の美保に、妙な男が接近して来たので、調べてくれという電話などが、録音されていた。
その他、S組の組長と、河村とのやりとりも、入っている。そのやりとりの中には、目撃者も、この際、始末しろといった、生々しい組長の声も、録音されていた。
広田の声は入っていなかったが、宮原代議士の電話の中で、
「広田が、びくついて困っているので、何とか安心させてやってくれ。金はいくらでも出すといっている」
と、宮原が、喋っていた。
十津川は、腕時計に眼をやった。
宮原美保が乗ることになっているロス行のJALは、一六時四〇分出発の筈である。
「カメさん。出かけよう」
と、十津川は、亀井を、促した。
そのあと、西本《にしもと》刑事には、この手紙と、テープを、三上《みかみ》刑事部長に渡し、広田圭一郎や、S組の幹部の逮捕状を貰っておいてくれと、頼んだ。
成田《なりた》まで、パトカーを飛ばした。
空港の出発ロビーに、入ったが、まだ、宮原美保の姿は、見えなかった。
ひょっとして、出発便を変更したのではないかと思い、JALのカウンターで、聞いてみたが、今日の便は、取り消されていなかった。
やがて、美保が、父親の宮原代議士と一緒に、出発ロビーに、現われた。宮原の秘書らしい男が二人、ついて来ている。
十津川と亀井が、近づいて行くと、宮原の顔が、険しくなり、二人の秘書が、身構える姿勢になった。
美保は、青ざめた顔だったが、覚悟していたのか、落ち着いていた。
「君たちまで、私の娘を送りに来てくれたのかね?」
と、宮原が、精一杯の強がりを見せて、十津川に、きいた。
「いや、申しわけありませんが、アメリカ行を止めて頂かなければなりません」
と、十津川は、いった。
「理由は、何だね?」
宮原が、気色ばんで、きく。
「それは、そちらが、よく、おわかりのことと思いますが」
「わからんね」
「二年前の交通事故の件です。それについて、事情を聞きたいので、これから、われわれと、同行して頂きたい」
「その必要はない」
「酒気帯び運転と、過失致死――逮捕状をとって、連行してもいいんですが、こんな場所で、手錠をかけるわけにもいかんでしょう。だから、任意で、同行して頂きたいと、いっているんです」
と、十津川は、辛抱強くいった。
「ノーといったら、どうするのかね?」
宮原が、眉《まゆ》を寄せて、十津川を見、亀井を見た。
「宮原先生」
「何だ?」
「先生にも、あとで、警察に来て頂くことになりますよ」
「何の容疑でだ?」
「三つの殺人に関係した容疑です。殺人を依頼した件では、殺人の主犯になるでしょうね」
「馬鹿な! 証拠があるのか?」
宮原は、血の気の引いた顔で、十津川を、睨んだ。
「証拠なしに、天下の代議士先生に、こんなことは、申しあげませんよ」
「私を、誰だと、思ってるんだ!」
と、宮原が、怒鳴ると、それまで、黙っていた美保が、
「もういいわ。パパ」
と、小声で、いった。
「何がいいんだ? お前は、アメリカへ行って、勉強するんだ」
「アメリカには行けないなって、何となく、思っていたの」
と、美保は、いった。
宮原は、なおも、美保を、行かせようとしたが、彼女には、もう、その気持がなくなっていた。
十津川と、亀井が、宮原美保を連れて、捜査本部に戻ると、広田圭一郎たちに対する逮捕状が、出ていた。
「宮原代議士も、逮捕しなければなりません」
と、十津川が、いうと、三上刑事部長は、
「今、請求中だが、少し時間が、かかるらしいぞ」
と、いった。
それでもいいと、十津川は、思った。相手が、代議士だし、法務委員会のメンバーだから、慎重を期しているのだろう。
(だが、逃げられはしない)
と、十津川は、思っている。逃げれば、自分の罪を認めるようなものだから、面子《メンツ》を考えても、宮原は、逃げ出しはしないだろう。
その日の中に、広田圭一郎と、S組の組長と幹部が、逮捕された。
宮原に対して、逮捕状が出たのは、翌日になってからだった。その間、十津川が考えた通り、宮原は、逃げなかった。逃げれば、政治家としての生命は終る。それが、何よりも、怖かったのかも知れない。
「これで、全て、終りましたね」
と、亀井にいわれた時、十津川には、勝利の快感はなく、彼の胸を占めたのは、深い疲労感だった。
「この事件は、いったい、何だったのかね?」
「殺人事件ですよ。それが、解決されたんです」
と、亀井は、あっさりと、いった。
「確かに、そうなんだが、二年前、交通事故を起こした広田と、宮原美保が、警察に出頭してくれていたら、それで、終っていたんだよ。田代も、長谷部徳子も、山崎健一も、河村も、死ななくて、すんだんだ」
と、十津川はいった。
が、亀井は、一応、肯いてから、
「事件なんて、みんな、そんなもんですよ」
と、いった。
十津川は、苦笑して、
「カメさんは――割り切れていいねえ」
「それだけ、警部より長く生きているということかも知れません」
と、いってから、
「今度、東北のひなびた温泉へ行ってみませんか」
「温泉ねえ」
「後生掛《ごしよがけ》温泉なんかどうですか? 標高千メートルの高いところに、一軒だけ、旅館があるんです。他に、何もありません。温泉に入って、山を見て、散歩をして。そんなことをしていると、世の中が、単純に見えて来ますよ」
と、亀井は、いった。
本書は、一九九二年六月カドカワノベルズとして刊行されたものを文庫化したものです。
角川文庫『夏は、愛と殺人の季節』平成7年8月25日初版発行
平成15年4月10日16版発行