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西村京太郎
十津川警部・怒りの追跡(上)
目 次
第一章  悲劇で始まった
第二章  夜 の 町 で
第三章  夜 の 尾 行
第四章  函 館 空 港
第五章  灰 皿 の 中
第六章  函 館 駅
第七章  遺  影
第八章  東 京 へ
第九章  ヘルスクラブ
第十章  別  荘
第十一章 パ ー テ ィ
第十二章 関係者たち
第十三章 砂 漠 の 国
第十四章 もう一人の若者
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第一章 悲劇で始まった
北海道は梅雨がないというが、それでも、ここ二、三日、じめじめした天気が続いていた。
どんよりと曇り、時々、雨がぱらつくのだ。本州の梅雨寒のような感じだった。
函館郊外にあるK高校のグラウンドでは、そんな鬱《うつ》とうしい空気をはね飛ばすように、若い掛声が、ひびいていた。
間もなく、夏の甲子園への出場を決める北海道地区の予選が始まる。そのための野球部の練習だった。
K高校は、道南では、有力校の一つだったが、いつも、惜しいところで、出場権を得られずにいる。
それだけに、練習にも熱が入って、小雨が降り出しても、止《や》めようとはしなかった。
グラウンドは、開放されているので、十二、三人の見物人がいた。選手の父兄もいれば、もう十五年間、K高校を応援しているという魚屋の名物おやじもいる。
そのおやじは、いつも、メガホンを持って来て、選手がエラーすると、
「こら! もっと腰をおとして、捕《と》らんかい!」
と、怒鳴ったりするのだ。
監督の部長も、相手が、名物おやじということで、苦笑して、黙認している。
函館新聞の長谷部《はせべ》記者は、カメラを片手に、練習風景を、取材に来ていた。
「夏の甲子園への道」と題した連載記事に、有力校のルポをのせるためだった。
そのK高校が、三校目である。
監督と、エースから、もう、話は、聞いた。
今、グラウンドでは、実戦練習が、始まった。
外野手も、定位置で、守りについている。
長谷部は、他の見物人たちとは、少し離れた場所に立って、野手の動きを、カメラで、追った。
四番を打つライトの清水は、長打力があるのだが、少し太り気味で、足の遅いのが、欠点である。
だから、ライトに飛ぶと、監督が、土手で怒鳴ることが多かった。
長谷部のカメラも、自然に、ライトの清水を追うことが、多くなった。
そのカメラの中に、一人の男が、時々、入って来るのが、長谷部は、気になっていた。
他の見物人は、かたまって、サード付近で、見ているのだが、その男だけは、ライトのフェンスのところに、しゃがみ込んでいるのだ。
年齢は、三十五、六歳か。それも、はっきりしないのは、白っぽい登山帽を、目深《まぶか》にかぶっているからである。
練習を見ているのかどうかも、よくわからない。じっと、しゃがみ込んでいるかと思うと、急に立ち上って、フェンスの金網を、ゆすったりするのだ。
(妙な奴だな)
と、長谷部は、思った。
カーン!
と、金属音が、雨空にひびいて、白球が、ライナーで、右翼に飛んだ。
「ライト! バックだ!」
監督の大声が、聞こえた。
ライトの清水が、巨体をゆすって、バックする。
しかし、ボールは、清水選手のあげた手をすり抜けるようにして、背後の金網を、直撃した。
ボールは、横にはねて、しゃがみ込んでいる例の男の前に、転がって行った。
長谷部の眼に、男が、そのボールをつかんで、ブルゾンのポケットに入れるのが見えた。
ボールを追って行った清水が、それを見て、何か、男にいっている。
男も、立ち上って、何かいい返している。
小柄な男で、一八〇センチを超す清水選手とは、ずいぶん、身長差がある。
清水は、太い腕で、男から、強引に、ボールを取り返そうとし、二人が、もみ合うのが見えた。
その時、男の手が、きらりと光った。いや、男の手に握られたナイフが、光ったのだ。
「あッ」
と、思わず、長谷部が、声を上げた時、清水の大きな身体が、二つに折れたようになり、その場に、うずくまってしまった。
男が、その清水に向って、二度、三度と、ナイフを、突き立てる。
長谷部は、夢中で、ライトに向って走った。他の選手も、監督も、走った。
清水は、横倒しに転がっていた。ユニフォームが、血で、真っ赤に染まっている。
刺した男は、背中を丸めて、逃げて行く。
長谷部と、監督、それに、四、五人の生徒が、追った。
監督は、走りながら、生徒たちに、
「救急車を呼べ!」
と、怒鳴った。
男は、近くにとめてあった自転車に乗った。たちまち、距離が出来てしまった。
生徒の一人が、手に持ったボールを、投げた。が、男にも、自転車にも、命中しなかった。
救急車と、パトカーが、ほとんど同時に、グラウンドに、駈けつけた。
清水は、すぐ、救急車で、病院へ運ばれて行った。
彼が倒れていた場所には、血の海が出来、犯人の男が捨てていったジャックナイフが、その中に、落ちていた。
清水が、取り返そうとしたボールは、金網の傍に転がっている。
長谷部は、目撃者ということで、監督や、生徒たちと一緒に、警官から、事情をきかれた。
「痩《や》せた中年の男で、白い登山帽をかぶっていましたね」
と、長谷部は、いった。
最初から、落ち着かない様子なので、気になっていたとも、長谷部は、話した。
その夜になって、清水選手は、病院で死亡した。
殺人事件になったのである。七月二日だった。
函館署に、捜査本部が置かれ、長谷部は、改めて、証言を求められた。
三浦という警部が、担当だった。長谷部は、グラウンドで撮《と》ったフィルムを、急いで現像し、引き伸ばして、警察に、持って行った。
「ライトを守っている清水選手を、撮っていたので、問題の男は、ちょっと、ぼけてしまっていますが」
と、長谷部は、いった。
それでも、清水の背後に、しゃがんでいる男が、写っている。
「いや、参考になりますよ」
と、三浦は、いってから、
「この男は、何をしに、K高校のグラウンドに来ていると、思いましたか?」
と、きいた。
「それが、よくわからないんですよ。練習を見ているようでもないし、誰かを、待っている感じでもありませんでしたね。それに、落ち着きがないので、気になっていたんです」
と、長谷部は、いった。
「他の見物人にきいても、今日、初めて見た男だということでしてね。警察としても、なぜ、そこにいたのかを、知りたいわけです」
と、三浦は、いった。
「自転車に乗って逃げましたが、あの自転車は、男が、乗って来たものなのかな」
「どんな自転車でしたか?」
「普通の黒っぽい自転車でしたよ。名前なんかは、書いてなかったですね。少し、汚れていたような気がします」
と、長谷部は、思い出しながら、いった。
「他に、何か気がついたことは、ありませんか?」
と、三浦が、きいた。
長谷部は、じっと、考えていたが、
「ひょっとすると、あの男は、クスリをやっていたのかも知れませんね」
と、いった。
「クスリ?」
「ええ。どうも、ヤク中毒のような気がしたんですが、これは、あくまでも、僕の憶測です。断定は、出来ません」
と、長谷部は、いった。
翌日の新聞は、一斉に、この事件を、大きく扱った。
間もなく始まる夏の甲子園大会のこともあるからだろうし、K高校の四番打者が、理由もなく、殺されてしまったという驚きもあったからだろう。
函館新聞には、長谷部の撮った写真が、のった。ライトを守っている清水選手と、その後方、フェンスのところに、しゃがんでいる犯人とが、一緒に写っている写真である。
焦点が、清水に合っているので、犯人の顔はぼやけている。それが、かえって、不気味な感じだった。
どこの、誰ともわからない人間が、突然、ナイフを出して、少年を刺殺しているからである。
各新聞、それに、テレビも、なぜ、男が、清水選手を刺したのかという理由を知ろうとした。
心理学者が、動員されて、様々な意見を、述べていた。疎外《そがい》された人間の、エリート少年に対する憎悪とか、鬱とうしい天気のせいとかである。
だが、なかなか、犯人は見つからなかった。
警察は、長谷部の撮った、ややピンぼけの写真と、グラウンドにいた人たちの証言をもとにして、犯人の似顔絵を作って、配り、テレビ、新聞も、それを、発表した。
一方、悲劇好きのマスコミは、連日、この事件を取りあげた。
清水の刺されたグラウンドに、花束を捧げるクラスメイトの女生徒たち。
四番打者の死を乗り越えて、道南大会での健闘を誓う部員と、監督。
清水を失った両親の悲しみと怒りの表情。「自首して下さい」と、犯人に訴える、清水の母親。
そんなものが、連日、テレビの画面に映し出され、新聞の紙面を飾った。
清水選手の葬儀の様子は、函館のテレビだけでなく、全国ネットのテレビで、報道された。
野球部員だけでなく、K高校の生徒全員が、この葬儀に、参列した。
テレビのレポーターが、生徒たちに、マイクを突きつける。
「清水君は、どんなお友だちでしたか?」
──明るくて、優しい友だちでした。
「こんなことになって、どんな気持ですか?」
──とても、悲しいです。
「犯人に、いってやりたいことがありますか?」
──殺さなくたっていいじゃないかと、いってやりたいです。
監督にも、もちろん、マイクが向けられた。
「監督さんから見て、どんな生徒でしたか?」
──練習好きの生徒でしたね。僕の監督生活の中で、あんなに練習する部員は、初めてです。本当に、口惜《くや》しいですよ。
長谷部は、葬儀の模様を、写真に撮りながら、一人の男が、気になっていた。
清水家の一員として、棺を担ぎ、あいさつもした青年だった。
長谷部が調べたところでは、殺された清水選手は、次男で、長男は、上京し、警視庁捜査一課の刑事になっている。
(この男が、その刑事か)
と、長谷部は、思った。
長身で、さすがに、眼つきが鋭い。彼の写真を、長谷部は、何枚か撮った。監督や、クラスメイトの涙声より、長谷部は、この男の無言の方に、興味を感じたのだ。
翌日の午後、その清水刑事が、新聞社に、長谷部を訪ねて来た。
二人だけで、話を聞きたいというので、長谷部は、社の近くにある喫茶店に、清水を、案内した。
「あなたが、一番よく、犯人を見ていたらしいので、いろいろと、教えて頂きたいことが、ありましてね」
と、清水は、丁寧《ていねい》な口調で、いった。
「僕の知っていることなら、いくらでも話しますが、その代りに、殺された清水選手の兄さんとして、何か話して下さい」
「何かというと?」
「何でも構いません。弟さんの思い出でもいいし、犯人は、どんな人間かという推理でもいいですよ。それを、記事にしたいんです」
「記事に──ですか」
「いけませんか?」
「いや、いいですよ。その前に、こちらの質問に、答えて下さい」
「何を知りたいんですか?」
「犯人は、練習中のグラウンドに入って来て、フェンスの前に、しゃがみ込んでいたそうですね?」
と、清水が、きいた。
「その通りです」
「しゃがんで、生徒たちの練習を見ていたんですか?」
「いや、見ていませんでしたね。眼つきがおかしかったですよ。何か、宙を見ている感じでしたし、急に立ち上って、フェンスをゆすったりしていました」
長谷部は、事件の前後のことを、思い出そうと努めながら、清水に、いった。
「落ち着きがなかった?」
「ええ。いらいらしているようでした。それで、事件が起きる前から、何となく、あの男のことが、気になっていたんです」
「何か、危いことを仕出かすような気がしたんですか?」
「そこまでは、考えませんでしたが、そうですねえ。練習している生徒たちに、石を投げたりするんじゃないか。そんな気はしていましたね」
「弟を刺したあとの様子は、どうでした?」
「僕は、驚いて、駈け寄って行ったんですが、あの男は、刺した直後は、放心したような顔でしたね。そのあと、すぐ、逃げ出したんですが」
「放心したようなね」
「それに、今から、思い出してみると、口の中で、何か、ぶつぶつ呟《つぶや》いていたような気がするんです」
「刺したあとに?」
「そうです」
「クスリをやっていたのかな」
と、清水が、呟いた。
「あなたも、そう思いますか?」
「どうも、そんな感じがしたんですよ。長谷部さんも、クスリをやっていると、思ったんですか?」
今度は、清水が、きいた。
「証拠がないので、記事にしませんでしたが、どうも、あの眼が、異様でした。変に光っていて、そのくせ、焦点が合っていないような──」
「弟は、クスリに殺されたのか」
清水は、低い声で呟き、唇を噛んでいるのが、わかった。
長谷部は、すぐには、こちらの質問を出す気になれず、少しの間、黙っていた。
清水の方が、逆に、
「僕に、何をききたいんです?」
「兄弟は、二人だけみたいですね?」
「間に、妹がいたんだが、小さい時に、亡くなっているんで、年齢《とし》が離れているんです」
と、清水は、律義な答え方をした。
「清水さんも、弟さんみたいに、野球をやっていたんですか?」
「高校時代は、サッカーでしたね」
「優秀な──?」
と、長谷部が、きくと、清水は、初めて、笑った。
「下手《へた》でしたよ。チームも、弱い方で、いつも、負けていましたね」
「大学は?」
「札幌の大学です」
「そのあと、警察に入ったんですか?」
「そうです」
「地元の道警でなく、東京の警視庁に入ったのは、東京が好きだったからですか?」
「刑事として対決する悪というのが、東京のような大都会に、集約されていると思ったからです」
と、いってから、清水は、自分で、照れた顔になって、
「少し、カッコよくいい過ぎたかな」
「そんなことは、ありませんよ」
「しかし、北海道でも、東京と同じような事件が、起きるようになってしまったんですね」
清水は、暗い眼になった。
「そうですね。この函館でも、覚醒剤《かくせいざい》による事件が、何件か起きています。今度のような殺人にまでは到っていませんが、突然、通行人に切りつけて、重傷を負わせたりする事件です。覚醒剤が、東京、大阪のような大都市から、地方へ、広がっているということじゃありませんか」
「弟は、その犠牲になったわけなんだ。必ず、犯人を、捕えてみせますよ」
清水は、いくらか、青ざめた顔で、いった。
翌日の午後、三時頃、市内乃木町近くのスーパーで、事件が発生したという知らせを受けて、長谷部は、カメラを持って、飛び出して行った。
どんな事件か、わからないままに、社旗をはためかせ、車を飛ばして、乃木町に向う。車に取りつけてある無線電話で、事件の詳細を知らせてくる。それを聞きながら、長谷部は、車を走らせた。
スーパーというのは、コンビニエンスストアで、刃物を持った男が、従業員と客を人質にとって、立て籠《こも》っているのだという。警察が、店を包囲して、説得中だともいった。
「大事件になりそうだから、援軍を、もう一人行かせる」
と、デスクが、いった。
大通りに面したコンビニエンスストアの前には、四台のパトカーが、店を包囲するような形でとまり、完全装備の警官が、車のかげから、店を見すえていた。
その後方に、野次馬《やじうま》が、集まっている。
長谷部が着くのと前後して、テレビ局の放送車も、駈けつけた。
長谷部は、車から降り、カメラを持って、前へ進んで行った。
(相手がナイフなら、射《う》たれる心配はないだろう)
と、思ってだった。
パトカーのところまで寄って行った時、いきなり、腕をつかまれた。
振り向くと、清水が、真剣な表情で、見つめていた。
「こちらへ来て下さい」
と、清水は、長谷部を、一番前にとめてあるパトカーのかげまで、連れて行った。
そこからなら、ガラスドアを通してだが、店内の様子が、見えた。
中年の男が、三十歳ぐらいの女性を押さえつけて、首筋に、ナイフを、突きつけていた。
他に、三人の男女が、床に、腰を下しているのが、見えた。腰を下しているというより、座らされているのだろう。
そして、十七、八歳の娘が、床に倒れているのも見えた。彼女の周囲に流れているのは、恐らく血だ。
「あの犯人を、よく見て下さい。K高校で、僕の弟を殺した奴じゃありませんか?」
と、清水が、きいた。
「え?」
と、きき返しながら、長谷部は、ガラスドアの向うを、凝視した。ナイフを持った男が、何か、大声でわめいているのだが、何をいっているのかわからなかった。
K高校のグラウンドで見た男は、髪は、ぼさぼさで、それを、押さえつけるように、登山帽を、目深くかぶっていたのだが、今、見ている男は、丸坊主だった。
しかし、その眼つきは、同じだった。妙に光っているのに、焦点の定まらない眼なのだ。それに、頬がそげ落ちたような痩せた顔も、そっくりだった。
「よく似てます。いや、同じ男だ!」
と、長谷部は、叫んだ。
「やはり、あいつか」
と、清水は、呟くと、いきなり、ガラスドアに向って、近づいて行った。
「危いぞ!」
「ドアから離れろ!」
と、道警の刑事たちが、一斉に、叫んだ。
そうした制止の声を無視して、清水は、歩いて行く。自動ドアが開く。
長谷部も、じっとしていられなくなって、ドアに突進しようとするのを、近くにいた刑事に、腕をつかまれて、引き戻された。
清水が、店の中に入ってしまったのを見て、
「バカヤロー。何をする気なんだ!」
と、待機していた刑事が、怒鳴った。が、見殺しには出来ないと思ったのか、
「仕方がない。飛び込め!」
と、続けて、叫んだ。
警官たちが、どっと、店内に、走り込んで行く。長谷部も、必死で、そのあとに、続いた。清水が、何をするのか、それを、見たかった。カメラに、おさめたかったのだ。
犯人は、奇声をあげながら、ナイフを振り廻していた。
清水が、飛びかかる。だが、左腕を切られて、その場に、うずくまった。血が、腕から流れ落ちる。
それでも、腕を押さえて、立ち上ると、
「この野郎!」
と、叫びながら、犯人を、蹴飛ばした。
相手が、転倒した。が、ナイフは、離さない。むちゃくちゃに、ナイフを振り廻す。
「大人しくしろ!」
「ナイフを捨てるんだ!」
と、拳銃を構えた道警の警官が、大声で、叫んだ。
犯人は、彼等に向って、ナイフを振りかざして、飛びかかって来た。
警官の一人が、拳銃の引金《ひきがね》をひいた。
乾いた銃声が、店内にひびきわたり、犯人の身体が、ばね仕掛けみたいに、はねて、リノリウムの床に、叩きつけられた。
どっと、犯人の胸から、血が吹き出した。
もう一人の警官が、けいれんしている犯人から、ナイフを、もぎ取った。
長谷部は、カメラのシャッターを、押しつづけていた。
「救急車を呼べ!」
と、誰かが、怒鳴っている。犯人は、血を流し続けながら、次第に、動かなくなっていった。
コンビニエンスストアの中で、犯人は、買物に来ていた近くの十九歳の女子大生を、刺している。
彼女も、犯人や、清水と一緒に、救急車で、病院に運ばれて行ったが、すでに、死亡していた。出血死だった。
犯人は、病院で、手術を受けた。が、三時間後に、死亡した。
長谷部は、記事にするために、店の従業員や、客たちからの聞き込みに、走り廻った。
その結果、わかったのは、次のような状況である。
午後三時少し前。コンビニエンスストアには、アルバイトの店員と、四人の客がいた。
そこへ、犯人が、入って来た。店員も、他の客も、犯人の男に、注意を払わなかった。格別、奇妙な男には、見えなかったし、コンビニエンスストアでは、いろいろな客が、入って来るからでもある。
五、六分後に、突然、犯人が、ナイフを取り出し、大声で叫びながら、傍にいた女子大生に、切りつけたのである。
「もう、めちゃめちゃでしたよ。彼女が、動かなくなっているのに、まだ、刺してるんだから」
と、店員は、まだ、青ざめた顔のまま、話してくれた。
犯人の名前は、石川久男。三十二歳と、わかった。
高校を中退したあと、職を転々としていたが、二十七歳から、トラックの運転をするようになった。
真面目に働き、結婚もした。子供も生れた。
しかし、その頃から、覚醒剤に、手を出し始めている。特に、夜の勤務の時に、常用していたらしい。
様子が、おかしくなり、突然、兇暴になって、妻を殴りつけた。
一年前に、妻は、子供を連れて、実家に逃げ帰り、離婚が、成立した。
運送会社も、馘《くび》になった。
その後、何をしているのか、彼の両親や、友だちも知らなかったのだが、突然、今度の事件を引き起こしたのである。
「この事件を、引き続いて、追いかけてみたいんですが」
と、長谷部は、デスクに、いった。
「事件を追いかけるって、どうするんだ? 犯人は死んじまったんだろう?」
デスクが、きく。
「覚醒剤が絡《から》んだこういう事件では、犯人も、いってみれば、被害者です。最近は、北海道でも、覚醒剤が、入り込んで来ていて、今年だけでも、逮捕者が、激増しています。昔は、注射していたのが、今は、気化させて、吸い込むのも出来て、汚染の拡大に、拍車をかけているんです。この機会に、覚醒剤汚染の実情を、調べてみたいんです」
「どこから、手をつける気なんだ?」
「犯人の石川久男に、覚醒剤を売っていた人間を見つけます。それに、覚醒剤ルートも、見つけたいんです。今度の事件を、突破口としてです」
と、長谷部は、いった。
「暴力団が介在しているから危険だぞ」
「それは、覚悟しています」
と、長谷部は、いった。
デスクは、しばらく考えていたが、
「常に、連絡を取ることが、条件だ」
「わかりました」
と、長谷部は、いった。
彼は、函館署に行って、道警が、覚醒剤ルートの解明に、いつになく、熱心になっているのを聞いてから、清水の入っている病院に廻った。
清水は、左腕に包帯を巻いていたが、元気だった。
「東京には、いつ、帰るんですか?」
と、長谷部がきくと、清水は、じっと、宙を、見すえるようにして、
「このままでは、東京には、帰れません。犯人が死んだというだけでは、弟は、浮ばれませんからね」
と、いった。
「どうするんです?」
「もちろん、犯人に、覚醒剤を売った奴を捕える。誰だろうと、容赦《ようしや》はしないつもりだ」
と、清水は、自分に、いい聞かせるようにいった。
「道警も、今度は、やる気になってるみたいですよ」
「そうらしいが、僕は、独自にやりたいと、思っていますよ」
と、清水は、いった。
「なぜですか?」
と、長谷部が、きくと、
「僕は、殺された清水の兄です。刑事である前に、肉親の感情が入ってしまいますからね。それに、ここは、北海道だ。道警の邪魔はしたくない」
「上司には、許可を、得たんですか?」
「今朝、電話しましたよ。上司に、道警に協力する形で、しばらく、事件を追ってみろといわれました」
「しかし、独自にやりたい?」
「今もいったように、僕は、殺された人間の兄だ。肉親の感情は、抑えられませんよ」
と、清水は、青白い顔でいった。
(よし。この刑事を、追いかけよう)
と、長谷部は、決めた。
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第二章 夜 の 町 で
マスコミは、連日、今度の事件を報道した。それだけ、インパクトの強い事件だったということだろう。
その中には、覚醒剤に対する警察の取締りの手ぬるさを指摘するものも多かった。覚醒剤は、主婦の間にも、浸透し始めたといい、その実例を特集したテレビ局もある。
道警本部では、そうした批判に応《こた》えるために、覚醒剤対策本部を発足させた。札幌、函館、旭川といった都市で、集中的に、取締りをするという。
夜の街で、売人と思われる人間を、次々に検挙する模様が、テレビで、放映されもした。
だが、それで、覚醒剤が、北海道から、消えるとは、誰も思っていなかった。
いくら、道内で、取締りを強化しても、外から、次々に、持ち込まれるだろうし、地下にもぐった覚醒剤や、麻薬のルートは、なかなか、根絶できないと、考えられるからだった。
函館署に置かれていた「高校グラウンド殺人事件捜査本部」は、犯人の石川久男が、コンビニエンスストアで、射殺されたことで、事件は、解決したとして、解散したが、代りに、道警本部と同じ、「覚醒剤取締本部」の看板が、かかげられ、入口には、「覚醒剤取締月間」の横断幕が、かけられた。
しかし、何といっても、殺人事件とは違って、地味な仕事になる。それだけ、熱も入らないだろうし、本部の規模も、縮小されていた。
清水刑事は、ひとりで、動いていたが、道警が、それに対して、何もいわなかったのは、彼が、殺された少年の実兄だということの他に、殺人事件の捜査ではないためもあったと思われる。
長谷部は、もっぱら、清水のあとについて、歩き廻った。
最初、清水は、うるさがった。長谷部が、まかれたこともある。
夜の函館の盛り場で、つきまとっていて、いきなり殴られたことがあった。
ホームランバッターの清水選手の兄だけに、腕力があり、長谷部は、その一撃で、気を失ってしまった。
気がつくと、椅子を並べた上に、寝かされ、清水が、のぞき込んでいた。
「ここは、何処《どこ》ですか?」
と、長谷部は、寝たまま、清水に、きいた。
まだ、顎《あご》が痛かった。
「派出所の中だよ」
清水は、怒ったような声で、いった。
「いきなり殴るのは、ひどいな」
と、いいながら、長谷部は、起き上った。
「君が、悪いんだ。邪魔をするからだ」
「顔を洗わせて下さいよ」
と、長谷部は、いい、派出所の洗面所で、ごしごし、顔を洗った。
「僕のことを、新聞に書くのか?」
と、清水が、背中から、きいた。
「なぜです?」
「暴力刑事ということでだ」
「そんなことはしませんよ」
と、長谷部は、いい、煙草に、火をつけてから、
「その代り、僕のいい分を聞いてくれませんか」
と、清水を、見た。
「何がいいたいんだ?」
「ケンカ腰にならずに、聞いてくれませんかね」
「君が、僕の邪魔をしなければいいんだ。他には、何もない」
「僕だって、覚醒剤を、何とかしたいと思っているんです。それに、僕は、この函館のことを、よく知っています。かなりの裏の部分もね。その点、あなたに、協力できると思うんですよ。あなたは、ここの生れでも、今の函館のことは知らない。僕の知識を、利用した方が、トクだと思うんですがね」
「僕は、ひとりで、動きたいんだ」
「ほとんど知らない町でしょう? 行き当りばったりに動き廻っても、なかなか、知らない情報は、つかめませんよ」
「君は、知ってるというのか?」
と、清水が、きいた。
長谷部は、脈がありそうだなと、思いながら、
「今もいったように、僕は、函館で、育ったんです。それに、地元の新聞で、働いています。いろいろな情報が、手に入りやすいんです。役に立ちますよ」
「条件は?」
「条件ですか。あなたと一緒に、動き廻りたいんです」
「なぜだ?」
「あなたに、興味が、あるからですよ」
「興味? 面白くなんかないぞ」
「とにかく、あなたのことを書きたいんですよ。その代り、どんなことでも、協力しますよ。函館にいる暴力団のことも、知っているし、夜のネオン街のことも、特集したこともあるから、知っていますよ」
長谷部は、必死に、いった。
「駄目だといっても、つきまとうんだろう?」
と、清水が、きいた。
「それが、取材ですよ」
「協力をしてくれるんだな?」
「しますよ」
「こちらの条件をいってもいいかな?」
「いって下さい」
「大きなカメラを持って、あとから、くっついてくるのは、止めるんだ。それでは、相手が、逃げてしまう」
「わかりました。ミニサイズのカメラにしますよ」
「やたらに話しかけないで貰いたい」
「口にチャックしておきますよ」
「それならいい」
と、清水は、いった。
奇妙なコンビが生れた。二人とも若いので、一見すると、若手の刑事のコンビに、見えないこともない。
長谷部は、今まで、持ち歩いていた大きなカメラの代りに、小型のミノックスを持ち、テープレコーダーも、超小型のものにした。
「石川久男の家族や、友人に、会いたい」
と、清水がいうので、長谷部は、新聞社で調べた情報を、提供した。
「両親は、今でも健在で、郊外に住んでいますが、石川久男は、二十歳の頃から、家を出てしまっています。だから、両親にきいても、何も知らないと、思いますね」
と、長谷部は、いった。
「両親のことは、わかってるんだ。道警でも、調べているからね。問題は、最近まで、石川久男とつき合っていた人間だ」
と、清水は、いった。
「家出した妹が、一人、いますよ」
「名前は、石川ひろみだろう。道警も、それは、知ってるんだが、行方が、わからないんだ。新聞社は、つかんでいるのか?」
「いや、わかりません」
「それじゃあ、何にもならないじゃないか」
と、清水は、文句を、いった。
長谷部は、苦笑して、
「新聞だって、万能じゃありませんよ。ただ、うちが、石川久男も、被害者なんだという書き方をしたせいですかね、昨日の夜、若い女から、電話がありました。名前は、いいませんでしたが、どうも、石川ひろみと、思えるんですよ」
「なぜだ?」
「まあ、これを聞いて下さい。その電話を、録音したものです」
長谷部は、ポケットから、テープレコーダーを取り出して、清水に、聞かせた。
──コンビニエンスストアで、亡くなった石川久男という男の人のことで、ききたいんですけど。
「あなたは? 身内の方ですか?」
──いいえ。ただの読者の一人です。
「それで、何をききたいんですか?」
──そちらの新聞には、彼も、被害者だと書いてありましたけど、そうなると、本当の犯人がいるわけですわね?
「そうです。石川久男に、覚醒剤を売った人間です。それに、クスリそのものもです」
──売った人は、わかりそうなんですか?
「今、調べているところです。あなたは、知ってるんですか?」
──いいえ。知りません。
「名前を教えてくれませんか? 石川久男を、よく知っている方ですか? それなら、お会いして、何か──」
そこで、テープは、終っていた。相手が、電話を切ってしまったのだ。
「僕は、石川久男の妹だったと、思っているんです」
と、長谷部はいった。
「そうだとしても、何処から掛けて来たか、わからないだろう?」
と、清水が、きく。
長谷部は、コックリして、
「この電話があったのは、午後九時過ぎです。それに、声を、ひそめるようにして、掛けています。自宅なら、声をひそめる必要はないんです。従って、傍に、人がいる場所です。もう一つ、よく聞くと、バックに、人の声が、入っています」
と、いった。
長谷部は、もう一度、テープを巻き戻し、ボリュームを上げて、清水に、聞かせた。
「いらっしゃいませ! という威勢のいい声が、聞こえるね」
と、清水は、いった。
「それも、男の声です」
「二、三人が、いってるね」
「夜の九時過ぎで、こんなに大きな声で、いらっしゃいませという場所は、そう多くはありませんよ」
「クラブや、バーは、こんな大声で、声はかけないな。ピンクキャバレーか?」
「あれは、入口で、声をかけるだけで、店内では、いわんでしょう」
「では、どんな店なんだ?」
「市内に、焼肉のチェーン店があるんです。酒も出します。そのチェーン店では、客が来ると、思いっきり大声で、いらっしゃいませというのが、規則になっていましてね。多分、その店だと、思います」
「そこへ行ってみよう。店は、何店あるんだ?」
「市内に、四店です」
「それを、片っ端から、当るんだ」
と、清水は、張り切って、いった。
長谷部が、案内して、チェーン店「コスギ」を廻ることになった。
店に着くと、清水が、警察手帳を見せ、テープの声を聞かせる。そして、声の主は誰かときくのである。
1号店、2号店では、何の反応もなかったが、3号店で、手応えがあった。
マネージャーと、ウエイターの一人が、「かよちゃんに間違いない」と、いったのである。
石川ひろみが、この店で、かよ子と、名乗っているのか、それとも、全くの他人かはわからなかったが、その女に、会ってみることにした。
住所を聞き、二人は、訪ねて行った。港近くのマンションの一室だった。五階の五〇六号室には、何の表札も出ていなかったが、構わずに、清水が、インターホンを鳴らした。
ドアが小さく開いて、若い女が、顔をのぞかせた。
「石川ひろみさんですね?」
と、清水が、頭から、押しかぶせるようなききかたをした。
一瞬、女の顔に、狼狽《ろうばい》の色が、走り、
「いいえ」
と、いって、ドアを閉めようとするのを、清水が、手で、押さえた。
「僕は、あなたのお兄さんの仇を討ちたいんですよ。僕は、あなたのお兄さんも、被害者だと、思っている。覚醒剤を売った人間を、捕えたいんだ」
「何のことか、わかりませんわ」
「僕の名前は、清水です。死んだ野球選手の兄です」
と、清水が、いうと、女が、「え?」と、小さく声を出した。
とたんに、ドアを閉めようとする彼女の手の力が、弱くなった。
「とにかく、話をさせて下さい」
と、清水は、頭を下げた。
それが、利《き》いたのか、ドアが開かれ、二人は、部屋に、入ることが出来た。
六畳だけの1Kである。若い女の華やかさは、感じられなかった。調度品が少い、というよりも、何もかも、借り物の感じで、落ち着きのない部屋だった。
「勝手に、あなたを、石川ひろみさんと思って、いろいろと、ききますから、なるべく、答えて下さい」
と、清水は、いった。
女は、黙っている。長谷部は、ポケットの中で、テープレコーダーのスイッチを入れた。
「お兄さんのつき合っていた人間を、知りたいんです。誰か一人でも、名前を、覚えていませんか?」
と、清水が、きいた。
「最近は、知らないんです」
と、女が、いった。その言葉は、自分が、石川ひろみだということを、認めたようなものだった。
清水は、それには触れずに、
「いつでも構いませんよ。お兄さんが口にした名前でも、会っていた人間でもいいんです。何か、手掛りが、欲しいんですよ」
と、いった。
女は、じっと、考えていたが、
「川西さん」
「川西──何というんですか?」
「わかりません。三十五、六歳の男の人です」
「何をしている男ですか?」
「それも知りません。でも、ときどき、会っていたようです」
「何処で会ったんだろう?」
「兄は、よく、駅前のパチンコ屋へ行っていたんですけど、その近くに、『泉』という喫茶店があって、そこで、会ったんだと思います」
と、彼女は、いった。
「その男も、よくパチンコをやっていたんですかね?」
と、横から、長谷部が、きいた。
「そう思います」
「あなたも、川西という名の男に、会ったことがあるんですか?」
と、清水が、きいた。
「ええ。パチンコ屋さんで、兄が、貧血を起こして倒れた時、一一九番して、病院に連れて行ってくれたのが、その人なんです。とても、親切な人でしたわ」
「顔立ちを、覚えていますか?」
「色が白くて、丸顔でした。眼が細くて、優しそうでした」
と、彼女は、いった。
長谷部と、清水は、JR函館駅へ行き、駅前にある「泉」という喫茶店に入った。なるほど、傍に、「ラッキー」というパチンコ店がある。
喫茶店のマスターは、五十歳くらいの男だった。
二人は、カウンターで、コーヒーを注文してから、清水が、
「石川久男は、ここの常連だったらしいね?」
と、マスターに、いった。
とたんに、顔色が変った。何か関係があると思われては、大変だと思ったのだろう。
「知りませんよ。あの男が、勝手に来ていたのかも知れませんが」
と、マスターは、いった。
「あんたが、どうのというんじゃないんだよ。同じ頃、川西という客も、よく、ここへ来ていた筈《はず》なんだ。三十五、六歳くらいで、色白で、丸顔の男だよ」
「お客さんは、警察の方ですか?」
「ああ、そうだよ」
と、清水は、警察手帳を、相手に、見せた。
長谷部は、テープレコーダーを回しながら、マスターの顔を見ていた。
「川西さんは、最近、お見えにならないんですよ」
と、マスターは、いった。
「最近というのは、今度の事件が、起きてからか?」
「高校で、生徒が殺される事件のあった頃からですかね」
「どこに住んでるか、知らないか?」
と、清水が、きくと、マスターは、考えていたが、
「確か、この裏のマンションに、住んでいる筈ですよ。シャトー・高山というマンションです」
と、いった。
「何をしている男なんだ?」
「そこまでは、知りませんね。静かなお客さんですよ」
と、マスターは、いった。
二人は、注文したコーヒーには、手をつけず、教えられたマンションを、探して歩いた。
シャトー・高山というマンションは、中古の小さなものだった。
川西の部屋は、四階になっている。エレベーターがついてないので、コンクリートの階段を、あがって行った。
表札は、川西茂男となっていた。ドアについているベルを鳴らした。が、返事はない。二度、三度と、鳴らしたが、同じだった。
「帰って来るまで、待ちますか?」
と、長谷部が、いった。
「いや、時間がない」
と、清水が、いう。
「しかし、留守ですよ」
「中に入って、待つよ」
と、清水は、いい、錠を、開けにかかった。
「そんなことをすると、不法侵入になりますよ」
と、長谷部が、いった。
「怖いんなら、帰っていろよ。勝手について来ているんだから」
突き放す感じで、清水が、いった。
「あなたが、勝手にやってるんですよ。念のために、確認しておきますが」
「ああ、勝手にやってるんだ」
と、清水は、いった。
五、六分して、ドアが、開いた。
清水は、中に入って、明りをつけた。六畳の洋間に、四畳半の和室がついている2DKの部屋である。
部屋は、どちらも、乱雑な感じだった。
机の引出しが、開けたままになっている。
「誰かが、家探しをしたんですかね?」
と、長谷部が、きくと、清水は、
「違うな。急いで、逃げ出したんだ」
「どうして、そう思うんですか?」
「この机の引出しを見てみろよ。何かを探しに、誰かが入ったのなら、中身が、全部、引っ掻き廻されている筈だ。中身を、床にぶちまけているかも知れん。ところが、引出しの中は、きちんと整理されているんだ。だから、この引出しの中から、一つのものを、取り出したと見たらいいんだよ。閉めなかったのは、急いでいたからだろう」
「何を、持ち出したと、思うんです?」
と、長谷部は、きいた。
「断定は出来ないが、預金通帳とか、CDカードといったものじゃないかな。現金も、あったかも知れない。必要なものを持って、逃げ出したんだよ」
清水は、確信を持って、いった。
長谷部は、キッチンも、調べてみた。なるほど、あわただしく逃げ出したと見えて、ヤカンが、床に転がったりしている。それを、元に戻す余裕がなかったらしい。
「室内を、徹底的に、調べるぞ」
と、清水が、自分に、いい聞かせる調子で、いった。
「何を調べるんです?」
「川西という男が、覚醒剤の売人だとしたら、いろいろと、持っている物があった筈だよ。その中の一つでも、見つけ出したいんだ。どうやら、現金や、預金通帳は、持って逃げたらしいが、もっと、大事なものがある。警察にとってだがね」
「どんなものですか?」
「例えば、客の名簿とか、覚醒剤の残りとか、仕入れ先の名前とかだよ」
「そういう大事なものを、置き忘れていきますかね?」
「とにかく、探すんだ!」
と、清水は、怒ったような声を出した。
(激し易い男だな)
と、長谷部は、思いながら、清水に協力して、部屋の中を、調べ始めた。
机の引出しの裏側、和室の畳の下、洋間のじゅうたんの下、ベランダの鉢植えの花の中まで、調べてみた。
清水がいったようなものは、どこを探しても、見つからなかった。
「ありませんね。大事なものは、全部、持ち去ったんじゃありませんか」
と、疲れた顔で、長谷部が、いった。中腰で、探していたので、腰が痛くなってしまった。
「もう一度、調べ直す」
清水は、険《けわ》しい顔で、いった。
「隅から隅まで、調べましたよ」
「君は、休んでいていい。僕が、ひとりで、調べる」
清水は、もう、始めている。長谷部は、あわてて、
「わかった。手伝いますよ」
と、いった。
今度は、植木鉢は、引っくり返して、土を全部、ベランダに空けてしまい、テレビも、機械を叩きこわして、中を調べた。
清水のやり方は、徹底的だった。そんな動作に、弟を殺された怒りが、むき出しに表われているように見えた。
突然、電話が、鳴った。
「もし、もし」
受話器をとると、清水が、いった。
「私だ」
と、中年の男の声が、いった。
「ええ」
と、清水は、あいまいな返事をする。
「至急、本を五冊、送ってくれ。ハードカバーの本を五冊だ。いつものようにだ」
「本を五冊、何処へ送ればいいんですか?」
「私だ。何をいってるんだ? 君は、川西じゃないな」
相手は、やにわに、電話を切ってしまった。
「畜生!」
と、清水は、舌打ちをし、受話器を、荒っぽく、置いた。
「どんな電話でしたか?」
と、長谷部が聞いた。
清水は、話の内容を、教えた。
「年齢は四十代かな。他人《ひと》に、命令するのに馴れている喋《しやべ》り方だ」
と、清水が、いった。
「しかし、本五冊って、何ですかね? 本棚に本がありますが、古本で、あまり読みたいものは、ありませんよ」
長谷部は、本棚に眼をやった。
清水は、首を振って、
「本というのは、多分、暗号だよ。本一冊で十グラムか、百グラムということだと思うね」
「ハードカバーの本と、断わっていますね」
「ハードカバー一冊が百グラム、文庫といったら十グラム、雑誌は一グラムといった単位にしているのかも知れん」
「面白いですが、相手の名前も、住所もわかりませんが──」
「今の男は、本を五冊、いつものように、送ってくれと、いっている」
と、清水は、いった。
「ええ。そうです」
「持って来てくれでもなく、取りに行くでもないんだ。今、クスリを、郵便や、宅配を利用して、客に送るのが、はやっていると、聞いたことがある」
「じゃあ、川西も、その方法で?」
「多分な。郵便と、宅配と、どちらだと思う?」
と、清水が、きいた。
「宅配の方が、早くつきますね」
「そうだ。客の方は、一刻も早く、クスリが欲しいとなれば、宅配便の方だ」
と、清水は、断定した。
「しかし、宅配を扱っている店は、多いですよ。スーパーでも受けつけているし、文具屋でも、やっていますからね」
「川西は、車を運転していたのかな?」
「管理人に、きいて来ます」
と、長谷部はいって、階段を駈けおりた。
管理人にきくと、川西は、白いサニーを持っているが、昨日、今日と、見かけないといった。
部屋に戻って、報告すると、清水は、肩をすくめて、
「車を持っているとすると、近くの店とは、限らなくなるな。函館の市内を全部、調べる気で、当ってみる」
と、いった。
翌日、長谷部が、自分の車を提供し、朝早くから、市内を走り廻った。
川西の似顔絵を作り、それを、見せて廻った。川西が、本名で、送っているとは、限らないからである。
十六軒目のスーパーで、川西の顔を覚えていてくれた。川西のマンションから、車で、十五、六分も走った場所にあるスーパーだった。
このスーパーでは、いろは便の受付だけをやっていた。清水と、長谷部は、スーパーの近くにあるいろは便の営業所に、廻った。
「いろは便」と、横腹に書いたトラックが、ひっきりなしに、出入りしている。ここは、函館市内でも、大きい方の営業所なのだろう。
二人は、所長に会って、川西の似顔絵を見せた。
「確かに、この方に、何回か、利用して頂いています。お名前は、川東茂男さんです」
と、営業所長が、いった。やはり、偽名を使っていたのだ。
「伝票の控えは、とってありますか?」
と、清水が、きいた。
「もちろん、とってありますよ。いつも、中身は、本でしたね」
所長は、そういいながら、何枚かの伝票の控えを、抜き出して、清水の前に、並べた。
いずれも、差出人が、川東茂男になっている伝票だった。中身は、本と書いてある。
八枚の伝票の中《うち》、三枚は、同一人へのものだった。
「これを、しばらく、借りたいんですが」
と、清水は、いった。
二人は、八枚の伝票を借りて、長谷部の車に戻った。
長谷部は、すぐには、車を出さず、伝票を一枚一枚、見ていたが、
「この伊原要一郎というのは、函館の市会議員と同じ名前ですよ」
と、眼を光らせて、清水に、いった。
八枚の伝票の中、同じ名前の三枚が、伊原要一郎宛てになっていた。
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第三章 夜 の 尾 行
「会いに行こう」
と、清水は、いった。
「相手は、市会議員ですよ。簡単には、会ってくれませんよ」
と、長谷部は、いった。
「会うよ」
と、清水は、事もなげに、いった。
「しかし、あのマンションみたいに、黙って、押し込むわけには、いきませんよ」
「新聞記者のくせに、いざとなると、おじけ付くのか?」
清水は、馬鹿にしたように、長谷部を見た。
長谷部は、むっとして、
「そんなことはありませんよ。市会議員の名前が出て来たことで、面白いと、思っています。上手《うま》くいけば、スクープですからね。しかし、いやしくも、社会の公器ですからね。川西が、何を送ったのか、それが、はっきりしなくては、何も出来ないし、伊原市議が、正直に話すとは、思えませんね。それを、いっているんです」
「やはり、怖いんじゃないか」
「訂正記事を出すような真似は困るんですよ」
と、長谷部は、いってから、
「あなただって、さっきのマンションには、不法侵入だし、伊原市議に面会を強要すると、告訴されますよ」
「別に、怖くはないさ」
と、清水は、いった。
「少しやり過ぎですよ」
「やり過ぎたから、この伝票が、手に入ったんじゃないか。文句をいわずに、伊原要一郎の家へ行ってくれ」
と、清水は、怖い顔で、いった。
長谷部は、車をスタートさせた。
清水の強引さに、はらはらしながらも、長谷部は、それに、期待している気持もあった。
最近、函館でも、覚醒剤が、原因と思われる事件が、起きている。今度の高校の事件と、コンビニエンスストアでの殺人は、はっきりと、犯人がわかったのだが、その前にも、似たような傷害事件が、二件ほど、起きているのである。
どちらも、犯人は、覚醒剤の常用者らしいといわれているのだが、まだ、捕まってはいない。
また、常用者は、何人か逮捕されていても、そこで、捜査は、壁にぶつかってしまっていた。
長谷部から見れば、警察の捜査は、歯がゆくてならない。法律に従って、捜査をすれば、疑惑はあっても、逮捕は出来ないのは、わかるのだが、物足りなさが、残るのは、仕方がなかった。
ひょっとすると、この清水刑事が、その歯がゆさを、救ってくれるかも知れない。そんな気もするのだ。
(この男には、弟を、覚醒剤によって殺されたという錦《にしき》の御旗《みはた》がある)
と、長谷部は、思う。
もし、やり過ぎて、告訴されたら、新聞の紙面を使って、助けてやろう。市民は、きっと、清水の味方をするだろう。
長谷部は、頭の中で、そんな計算をしていた。
伊原要一郎は、確か、三十八歳。若手で、人気のある市会議員だった。
市会では、どの政党にも属さず、市会刷新を掲げて活躍している。若者、特に、女性に人気があった。
車の中で、長谷部は、そんな説明を、清水にした。
「正直にいうと、僕も、期待している市議の一人なんですよ」
「政治家なんて、ひと皮むけば、多かれ少かれ、悪いことをしているものさ」
「伊原市議は、市役所の不正を糾弾しているんですがね」
「そんなことは、関係ない。もし、この男が、覚醒剤に関係しているんなら、他で、どんな立派なことをしようと、人間の屑《くず》だ」
と、清水は、激しい口調で、いった。
長谷部は、函館空港に近いマンションの前で、車をとめた。
マンションといっても、一戸が、二階建になった、メゾネットタイプだった。
「奥さんは、いるのか?」
と、清水は、きいた。
「いや、独身です。それで、女性に人気があるんです。独身で、ハンサムですからね」
と、長谷部は、いった。
一階の入口には、伊原の表札に並べて、「伊原要一郎後援会」の看板が、かかっていた。
清水は、インターホンで、会いたい旨《むね》を告げ、出て来た秘書の青年に、警察手帳を見せた。
二人は、二階の応接室に通された。
すぐ、長身の伊原が、笑顔で、現われた。
「私が、市議の伊原ですが、どんなご用でしょうか?」
と、清水を見、それから、長谷部を見た。
「川西という男を、ご存知ですか?」
と、清水が、きいた。
「どういう人ですか? それは──」
伊原が、きき返した。長谷部は、じっと、相手の顔色を窺《うかが》った。が、伊原は、動揺の色は、まだ、見せていない。
「覚醒剤の売人と思われる男です」
「ほう」
「川西は、川東茂男の偽名で、中毒者に、クスリを、売っていたらしいのです。宅配を利用しましてね」
「けしからんな。警察は、その男を、逮捕したんでしょうね?」
「いや、逃亡中です」
「なぜ、逮捕できなかったんですか?」
「売人とわかった時には、すでに、逃亡してしまっていたんですよ」
「なるほど」
「ただ、彼が、宅配で、送っていた客のリストは、見つかりました。その中に、伊原さん、あなたの名前が、あるんですよ」
と、清水はいい、伝票の写しを、相手に見せた。
伊原は、それを、じっと、見ていたが、
「これは、陰謀だ!」
と、大声を出した。
「どういうことですか?」
と、清水が、きいた。
「わかっているじゃないか。誰か、私を落とし入れようとする人間が、こんな名簿を、でっちあげて、わざと、警察の手に渡るようにしたんですよ」
「落とし入れるためですか?」
「私は、市会で、ずけずけ質問をするし、不正をあばくのに、遠慮しませんからね。古手の市会議員や、市のお偉方には、煙たがられているんです。必死になって、私の弱みを見つけようとしているのは、知っていましたがね。こんな卑劣な手段に出て来るとは、思いませんでしたね。例の事件で、市民の方々が、覚醒剤の怖さをよく知っていますからね。私が、いかにも、覚醒剤に関係があるような噂が立てば、私は、間違いなく、次の選挙で、落選ですからね」
伊原は、能弁だった。
「しかし、いろは便で、荷物が、伊原さんのところに送られたことは、間違いないんです。川東茂男の名前でです」
と、清水は、いった。
「そりゃあ、毎日のように、宅配便は、届きますよ。いろは便は、大手だから、そこからも、送られて来ている筈です」
「この三枚の伝票に、覚えはありませんか? いずれも送り主は、川東茂男になっています」
「これね」
と、伊原は、もう一度、伝票に眼を落としてから、
「本となっているから、本を注文して、送って貰ったんだと思いますよ」
「どんな本ですか?」
清水が、きくと、伊原は、眼をむいて、
「失礼な。私を、疑っているのか?」
「川西という男は、本という名目で、客に、覚醒剤を売っていたと、思われるからです」
「証拠は、あるんですか?」
伊原は、また、冷静な口調になった。
「決定的な証拠といったものは、ありません。今もいいましたように、逃亡してしまっていますので」
「それなら、私が、その男から、覚醒剤を買っていたと決めつけるのは、失礼じゃありませんかね」
「では、本当に、本を買っておられたというんですか?」
「そうですよ」
「しかし、その男は、本屋じゃありませんよ」
と、清水は、いった。
伊原は、「うーん」と、天井を見上げて、何か考えていたが、
「思い出した」
「何をです?」
「その男のことですよ。突然、いわれたんで、思い出せなかったんだが、友人に、紹介されたんだ。面白いアルバイトをしている男がいるという話でね。こちらが欲しい本があると、探して、送ってくれる。定価の五パーセント、余計に払えばいいということでしたよ。最近は本屋へ行っても、なかなか、欲しい本が、ありませんからね。それで、試しに、友人の教えてくれた川東という男に、電話してみたら、すぐ、こちらのいった本を探して、送ってくれたんですよ。それで、二回か、三回、頼んだんですよ。覚醒剤なんて、とんでもない」
と、伊原は、いった。
「その時、送らせたのは、どんな本ですか?」
と、清水は、きいた。
「私のいうことが、嘘だとでも、いうんですか?」
「そうじゃありませんが、確認したいのですよ。何しろ、あんな非道《ひど》い事件が、絡んでいますから」
と、清水は、表情を変えずに、いった。
伊原は、「原田君」と、先刻の秘書を呼んで、三枚の伝票を渡した。
「この時、私が送らせた本が、何だったか、覚えているかね?」
「調べて来ます」
と、秘書はいい、部屋を出て行ったが、十五、六分して、メモに、本のタイトルを書き並べて、戻って来た。
冊数は、合計十一冊である。
国際政治に関する本や、行政法の参考書、或いは、北海道の歴史といった本で、著者名や、出版社名、それに、定価も、書かれていた。
「この本は、今、何処《どこ》にありますか?」
と、清水は、伊原に、きいた。
秘書の原田が、
「一階の書庫にありますが。持って来ますか?」
と、伊原を見た。
「どうやら、この刑事さんが、お疑いのようだから、持って来てくれないか」
伊原は、明らかに、皮肉な眼つきでいい、秘書の原田が、十一冊の本を、運んで来た。
清水は、積み重ねた本を、じろりと、眺めてから、
「これが、宅配便で、送られたという証拠は、ありますか?」
「君は、どこまで疑ったら、気がすむのかね?」
伊原が、声を荒げて、清水を睨んだ。
「あなたに、川西ではない川東茂男のことを紹介した人の名前と、住所を、教えて頂けませんか。あなたの言葉が、本当かどうか、確認したいんです」
「私は、市会に、席を置く人間だよ」
「知っています」
「私が、嘘をつくと思うのかね?」
「あなたが、本を注文された人間は、明らかに、覚醒剤の売人と思われるんです。或いは、麻薬も、売っていたかも知れない。ですから、とことん、調べたいんです」
「君は、清水といったね?」
「そうです」
「思い出したよ。新聞に出ていたね。殺された清水君の兄さんが、警視庁の現職の刑事だという記事だ。君が、その清水刑事か?」
「その通りです」
「それなら、必死になっている気持はわかる。私も、実は、あの高校のOBでね。それだけに、犯人に対しては、人一倍、憎しみを覚えるし、覚醒剤は、何としても、根絶しなければならないと思っているんだよ」
「───」
「しかし、私が、疑われるというのは、心外だね。私は、間違いなく、本を買ったんだ。覚醒剤なんか、とんでもない」
「紹介した人のことは、教えて下さらないんですか?」
「その友人だって、純粋に、欲しい本が、手に入るということで、私に、川東茂男という男を、紹介してくれたんだ。その友人の名前をいえば、君は、彼を、疑うに決っている。それが、わかっていて、教えるわけには、いかんよ。それに、彼は、立派な男で、覚醒剤に、手を出すような人間じゃない」
伊原は、声を大きくして、いった。
そこで、行き詰ってしまった。伊原は、それ以上、協力しそうになかった。
清水は、長谷部に、眼くばせして、立ち上った。
車に戻ると、長谷部は、清水に、
「いい忘れましたが、伊原市議の父親は、第一物商の社長です」
「あの全国規模のスーパー店のオーナーの?」
「そうです。今、東京に本社がありますが、生れは、この函館で、まあ、郷土の生んだ英雄というわけです」
「だから、何だというんだ?」
「第一物商は、函館にも、チェーン店がありますし、多大の寄附をしています」
「だから?」
清水は、険しい眼で、長谷部を見た。
「伊原市議は、必ずしも、父親の生き方に、賛成はしていないようですが、父親の方は、違うと思います」
「つまり、あまり、伊原市議を突つくと、うるさいことになるというのか?」
「そのことは、覚悟しておいた方が、いいと思いますよ」
「それでも、新聞記者か」
清水が、軽蔑したように、長谷部を見た。
長谷部は、小さく、肩をすくめて、
「うちの新聞社は、小さいんですよ。一度、資金難で、潰《つぶ》れかけたことがありましてね。立ち直ったのは、資金援助をしてくれたところがあったからなんです」
「それが、第一物商か?」
「うちの社長と、第一物商の伊原社長が、お友だちということでね。新聞社といえども、資本主義のルールで、動いているということです」
「それなら、君は、新聞社に帰れ」
「いや、帰りませんよ」
「伊原市議が、覚醒剤に関係しているとなったら、君は、困るんだろう?」
「さあ、どうですかね。証拠があれば、うちの新聞だって、書きますよ。それに、うちの新聞社が、資本主義のルールで動いたって、僕自身は、それで、動くわけじゃありませんから」
「下手《へた》をすると、馘《くび》になるんじゃないのか?」
「馘になったら、本を書きますね。作家にもなりたい気がありますからね」
「おかしな男だな」
「これから、どうするんですか?」
「他の伝票の相手に、会ってみる」
「一緒に行きますよ」
「いや、君は、ここに残ってくれ」
と、清水は、いった。
「なぜですか? 僕が、信用できませんか?」
「そうじゃない。伊原市議が、何か動きをみせるかも知れないから、君は、ここに残って、あのマンションを、監視して貰いたいんだよ」
「車で出て来たら?」
「尾行してくれ」
「わかりましたが、あとで、何処で、会いますか?」
「夜になったら、僕の泊っている旅館に、電話してくれないか」
と、清水は、いった。
清水が、タクシーを拾うのを見送ったあと、長谷部は、近くのコンビニエンスストアで、サンドイッチと、牛乳を買って、車に戻った。
運転席に腰を下し、伊原のマンションを見つめながら、サンドイッチを、食べた。
(妙な具合になってきたな)
と、思う。
伝票に、伊原市議の名前を見つけた時は、政治家絡みに発展するのかと、気負う気分になったのだが、冷静に考えると、伊原要一郎とその父親は、長谷部の働く新聞社にとっては、アンタッチャブルな存在でもあったのである。
(下手をすると、冗談でなく、馘を覚悟しなければならないかも知れないな)
とも、思った。
幸い、長谷部は、独身だし、作家になりたい夢があると、清水にいったのも、嘘ではない。
第一、ここまで来て、逃げ出すわけにはいかなかった。
ふいに、長谷部の顔に、緊張の色が浮んだ。
伊原の車が、マンションの駐車場から、出て来たからである。
長谷部は、あわてて、食べかけのサンドイッチを脇に置き、ハンドルに、手をやった。
伊原の車は、白い国産車である。資産家の長男ということで、ベンツあたりに乗るところを、国産車に、乗っている。それを、立派だという人もいれば、わざとらしいと、皮肉る人もいる。
伊原自身が運転する車は、ゆっくりと、走り出した。間隔をあけて、長谷部は、尾行を、開始した。
伊原の車は、市の中心街に向って、走って行く。
走っている中《うち》に、夕暮れが忍び寄って来た。星さえも、またたき始めた。時刻は、午後七時を回った。
伊原の車は、十字街にある料亭の前で、とまった。
伊原が、車から降り、腕時計を見ながら、中に入って行く。誰かと、約束をしてあるのだろう。
長谷部は、料亭前の狭い駐車場にとまっている四台の車に、眼をやった。
今、ここに来た伊原の車、それに、黒塗りのハイヤーが二台、そして、もう一台は、ブルーメタリックのベンツである。
長谷部は、手帳を取り出し、車のナンバーを、書き留めていった。
新しく、車が、着く気配がないところをみると、伊原の相手は、先に着いているのだろう。
長谷部は、じっと、待つことにした。助手席に放り投げてあったサンドイッチを頬張り、牛乳を飲む。
(二、三時間かな)
と、思った。こういう高級料亭では、夕食は、そのくらいかかるだろう。
午後九時少し過ぎに、伊原は、料亭の従業員に送られて出て来た。しかし、食事の相手が、出て来る気配はない。
伊原は、自分の車に乗り込んで、走り出した。
長谷部は、迷ったが、結局、伊原を、尾行することにした。伊原が会った相手は、三台の車を調べれば、わかるだろうと、考えたからである。もちろん、その相手が、車を帰してしまっていれば、どうしようもないのだが。
海沿いの国道を、自宅方向に、走る。だが、伊原が、着いたのは、湯ノ川温泉だった。
函館の奥座敷と呼ばれる温泉である。前もって、電話してあったとみえて、「菊屋」という旅館の前には、迎えの従業員が、出ていた。
伊原は、車を降り、案内されて、旅館の中に消えた。
(どうしたものか?)
と、長谷部は、考えた。
明日の朝まで、車の中で、じっと、伊原が出て来るのを、待っていなければならないのか?
(まさか、すぐ、他の旅館へ移るとか、帰るということは、ないだろう)
長谷部は、そう思い、車を出ると、近くにある公衆電話のところまで、歩いて行った。
清水刑事に、伊原の行動を、知らせたいこともあったし、その後の清水の調査の結果も、知りたかったのだ。
清水の泊っている駅前の旅館に、電話を掛けた。が、彼は、まだ、帰っていないという返事が、返ってきた。
「僕は、長谷部といいますが、何か、伝言はありませんか?」
と、きいたが、何もないという。
清水は、夢中になって、伝票の相手を、当っているのだろう。彼のことだから、相当、荒っぽいことをやっているのではあるまいか。
清水が、帰っていないのでは仕方がないと思い、長谷部は、車に戻った。
運転席で、煙草に火をつける。眼の前の旅館「菊屋」は、人の出入りもなく、ひっそりと静かである。
芸者が二人、何か喋《しやべ》りながら、入って行った。伊原が呼んだかどうかわからないが、長谷部は、だんだん、こうして、張り込んでいるのが、馬鹿らしくなってきた。こちらは、窮屈な車の中で、眠気と戦っているのに、伊原は、今頃、温泉に入って、或いは、芸者を呼んで、楽しんでいるのかも知れないからである。
煙草が、何本も、灰になった。それでも、つい、うとうとしてしまった。吸いかけの煙草が、足元で、くすぶっていたりして、あわてて、踏み消した。
こんな時、時間は、やたらに、ゆっくりと、過ぎて行く。
ラジオをつける。音楽をかける。だが、なかなか、時間は、たって行かない。
午前零時になったところで、長谷部は、もう一度、公衆電話で、清水刑事に、連絡してみた。
だが、まだ、旅館には、帰っていなかった。念のために、部屋を見て貰ったのだが、いないということだった。
午前一時に、三度目の電話をした。しかし、同じである。清水は、いぜんとして、旅館に帰っていなかった。
(こっちと同じように、誰かを、張っているのかも知れないな)
と、長谷部は、思った。
清水が、持って行った伝票は、五枚。人数は、五人である。
伊原宛ての三枚は、長谷部が、あずかっていた。
清水は、その一人一人に、ぶつかっているのだろう。とにかく、弟の仇を討つ気でいるから、ぶん殴っているかも知れない。そのくらいのことは、しかねない感じだったからである。
もし、相手が、留守だったら、じっと、張り込んでいるかも知れない。
そんなことを考えている中に、長谷部は、眠ってしまった。
物音で、眼をさますと、フロントガラスを、制服の警官が、叩いているのだ。夜は、もう明けてしまっている。
長谷部は、あわてて、運転席の窓を開けた。四十五、六歳の警官は、厳しい眼つきで、
「何をしているのかね?」
と、きいた。
「何をって、車の中で、寝ていたんですよ」
「免許証を見せなさい」
と、警官は、いった。
長谷部は、免許証を見せ、ついでに、記者証を示した。
警官の態度が、少し変った。
「何か、取材かね?」
「まあ、そんなところです」
長谷部は、面倒くさいので、相手に合せた。
「それならいいが、寝たんじゃ、取材にならんでしょう?」
警官は、下手くそな皮肉をいって、歩き去った。
長谷部は、腕時計に、眼をやった。午前九時に近い。
(伊原は、もう、帰ってしまったのだろうか?)
それが、わからなくて、長谷部は、車を降りると、「菊屋」まで歩いて行き、旅館の従業員に、きいてみた。
「伊原さんなら、さっき、タクシーを呼んで、お帰りになりましたよ」
と、いうのが、返事だった。
「この旅館で、伊原さんは、誰かに、会いましたか?」
と、長谷部は、きいてみた。
「いいえ、おひとりでみえて、誰にも、お会いにならずに、お帰りになりましたよ」
と、女の従業員は、いった。その言葉に、嘘は、なさそうだった。
「時々、ひとりで、みえるんですか?」
「ええ。時には、他の方と、ご一緒の時もありますけど」
「どんな人ですか?」
「男の方が、ほとんどですよ。ここで、接待なさっている感じですわ」
「芸者を呼んで?」
「ええ」
「昨夜も、芸者を、呼んだのかね?」
「昨夜は、来て、すぐ、お休みになりましたから」
と、相手は、いった。
長谷部は、車に戻り、函館市内に向って、走り出した。
新聞社に顔を出す前に、気になったので、駅前の旅館に、清水刑事を、訪ねた。
だが、まだ、戻っていなかった。昨日から、今朝まで、一度も、戻っていないし、連絡もないというのである。
(おかしいな)
と、思った。
昨日、別れる時、清水は、連絡は、旅館の方にしてくれと、いった筈である。伝票の相手を、追っているとしても、長谷部が、連絡してくることを考えて、旅館に、伝言しておくのではないか。
(失敗《しま》ったな)
と、思ったのは、清水が持って行った伝票の相手の名前を、メモしておかなかったことである。清水刑事を、探すことが、出来ないのだ。
長谷部は、新聞社に、顔を出した。
デスクに、昨日のことを報告し、今日も、清水刑事の動きを、追いかけてみたいと、いった。
自分の机に戻ってからも、時々、清水の旅館に、電話を入れてみるのだが、いぜんとして、彼は、帰っていなかった。
昼過ぎに、突然、デスクが、長谷部を呼んで、
「すぐ、金堀町のT病院へ行ってくれ。清水刑事が、救急車で、運び込まれたということだ」
「何があったんですか?」
「そんなことは、わからんよ。とにかく、早く飛んで行け!」
と、デスクは、大声で怒鳴った。
長谷部は、車を、金堀町のT病院に向って、走らせた。
T病院には、函館署の刑事も、二人、来ていた。見舞いというより、事情聴取のためだろう。
しかし、面会謝絶ということで、二人の刑事は、帰って行った。
長谷部は、三階のナースセンターで、清水刑事の症状を、きいてみた。
後頭部を、血まみれにして、運び込まれて来たと、いう。どうやら、後頭部を、何者かに、強打されたようだった。
「助かりますか?」
と、長谷部が、きくと、婦長が、
「私には、わかりませんが、先生は、五分五分だろうと、おっしゃっています」
と、いった。
「場所は、何処ですか?」
「場所って?」
「彼が、倒れていた場所ですよ」
「救急隊員の方は、海岸の啄木公園あたりから、運んで来たと、いっていますけど」
と、婦長は、いった。
長谷部は、啄木公園に行ってみることにした。
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第四章 函 館 空 港
啄木公園は、国道278号線の一角にあった。
正確には、啄木小公園である。函館の町から、海岸に沿って、国道278号線が、湯ノ川温泉、函館空港に向って、延びている。
函館の町から、この国道を、車で、十分ほど行ったところに、作られた公園である。この辺りは、大森浜と呼ばれ、若い日の石川啄木がこの浜で、もの思いにふけったというので、ここに、啄木を記念した公園が、作られたのである。
細長く、小さな公園である。その一角に、詩集を膝に置いた啄木の像が、置かれていた。
長谷部は、車で、この記念公園に向った。
公園の前には、パトカーが二台、停《とま》っていた。
刑事が、三人と、鑑識の人間、それに五人ほどが、ロープを張った公園の中で、動き廻っていた。
その中に、顔見知りの小林刑事がいるのを見つけて、長谷部は、声をかけた。
小林は、ロープの外側に出て来ると、疲れたという顔で、小さく伸びをした。
「東京の刑事さんが、勝手に歩き廻るんで、いろいろなことが起きるよ」
と、小林は、いった。
「しかし、彼は、弟が殺されているんだから、同情できますよ」
と、長谷部は、いった。清水と動き廻っている中《うち》に、彼が好きになっていた。そのことが、自然に、彼のことを、弁護する姿勢にさせてしまうのである。
「その気持はわかるが、ここは、函館だからね」
と、小林は、いった。函館で起きた事件は、函館の警察に、委《まか》せなさいと、いいたいのだろう。
「清水刑事は、この公園で、襲われたんですか?」
と、長谷部は、きいた。
「向うの啄木の像の傍で、血まみれで倒れているのを発見されたんだ。スパナか、ハンマーで、後頭部を強打されたんだろうと思うね」
「彼は、何しに、ここへ来たんでしょうか?」
「誰かに、会いに来たのか、たまたま、立ち寄ったのか──」
「襲われたのは、何時頃ですか?」
「昨夜おそくか、今日の早朝だろうね。当人の意識が、まだ、完全に戻っていないので、くわしいことは、わからないんだ」
と、小林は、いう。
「清水刑事が、ここで、会おうとしたのは、やはり、覚醒剤関係の人間でしょうね?」
「多分ね。われわれに委せておいてくれれば、あんな怪我はしなくてすんだんだ。警視庁の敏腕刑事かもわからないが、われわれのように、函館のことは、よく知らなかったろうからね」
「函館の警察は、死んだ石川久男に覚醒剤を売った人間を、洗い出しているんですか?」
「何人かの容疑者を、リスト・アップしているよ。その中には、清水刑事が追いかけていた川西という男も入っている」
と、小林は、いった。
「川西が、今、何処《どこ》にいるか、わかっているんですか?」
と、長谷部は、きいた。
「いや。突然、姿を消してしまったんでね。清水刑事が、彼を追いかけなければ、川西は、今でも、われわれの監視下にあった筈なんだ。清水刑事が、ぶちこわしてしまったのさ」
「函館警察は、前から、川西をマークしていたみたいないい方ですね」
「その通りだよ。以前から、マークしていたんだよ」
と、小林は、肩をすくめるようにして、いった。
「川西が、川東茂男の名前を使って、宅配を利用し、クスリを、売り捌《さば》いていたことも、知っていたんですか?」
「最近になって、わかったよ」
「それなら、なぜ、川西を捕えなかったんですか?」
「理由は、二つだ。逮捕するだけの証拠がなかったのと、もっと、上部の売人を、捕えたかったからだよ。それなのに、清水刑事が、その苦労を、無駄にしてしまった。組織もつかめない中に、川西は、姿を消してしまったんだ」
小林は、腹立たしげに、いった。
「それなら、なぜ、清水刑事に、わかっている限りのことを、話してやらなかったんですか?」
と、長谷部は、きいた。
「清水刑事が、ひとりで、いきり立って、こちらのいうことを、聞こうとしなかったのさ。いきり立つ気持も、わかるがね」
と、小林は、いった。
「川西の他にも、何人か、リスト・アップしていたわけですね?」
「そうだ」
「その連中の名前を、教えてくれませんか」
と、長谷部は、いった。
「清水刑事に、教えてやるのかね?」
小林は、見すかしたようないい方をした。長谷部は、狼狽《ろうばい》して、
「なぜ、そんなことを?」
「清水刑事は、若い男と一緒に行動していたということだ。その若い男も、同じ刑事じゃないかというんだが、どうも、君によく似ているという情報もあってね。まさか、新聞記者が、刑事だと嘘をつくとも、思えないんだが」
「僕が、そいつなら、今頃、清水刑事と一緒に、殴られて、病院に運ばれていますよ」
と、長谷部は、いった。
「かもな」
「僕は、新聞で、覚醒剤の恐しさを、書きたいんですよ。うちの社では、そのためのキャンペーンも、考えています。何しろ、このクスリのせいで、あんな悲惨な事件が、起きているんですからね。何としてでも、覚醒剤のルートを解明したい。もし、少しでもわかっているんなら、教えて下さいよ」
長谷部は、小林に、頼んだ。
「駄目だな。一応、リスト・アップしたといっても、証拠はないからね。唯一、証拠をつかみかけていたのが、川西だったんだ。それを、ぶちこわされて、今は、手詰り状態だよ」
と、小林は、また、文句を、いった。
「清水刑事を襲った人間についての手掛りは、全くなしですか?」
長谷部は、カメラで、啄木の座像の周辺を写しながら、小林刑事に、きいた。
「手掛りなんか、まだ、つかめる筈がないだろう。やっと、聞き込みを始めたばかりなんだから。とにかく、勝手に行動されて、困っているんだよ」
「犯人は、清水刑事が追いかけていた覚醒剤関係の人間と見ていいですか?」
と、長谷部は、性急なきき方をした。
小林は、肩をすくめて、
「勝手に決めて、書かないでくれよ。まだ、犯人像は、全くつかめていないんだから」
と、いった。
刑事たちは、今度は、海岸へ降りて行った。犯人が、使った凶器を海に捨てたのではないかと、考えたからだろう。
長谷部は、公園に残って、啄木の像を眺めていた。
ここは、国道に面しているし、狭いが、有名な場所である。約束の場所としては、恰好だろう。わかり易いし、盲点でもあるからだ。
清水刑事は、函館の生れだが、今は、東京に住んでいる。よほど、この公園に思い出でもあれば別だが、確かに、会う場所として、指定はしないだろう。とすると、この公園を指定したのは、犯人の方か。
長谷部は、煙草をくわえて、火をつけようとして、急に、おやっという眼を、公園の入口に向けた。
見覚えのある顔が、そこにあったからだった。
石川久男の妹のひろみが、じっと、こちらを見ていた。サングラスをかけていたので、一瞬、他人に見えたのだが、間違いなく、彼女だった。
長谷部が、声をかけようとすると、ひろみは、急に、道路に停めていた車に乗り込んで、発進させた。中古のカローラだった。
長谷部は、あわてて、自分の車に乗って、彼女のあとを追った。
ひろみの白いカローラは、函館市に向って走っていたが、突然、Uターンして、今度は、湯ノ川温泉に向った。
長谷部も、続いて、Uターンした。
(何処《どこ》へ行く気なのか?)
ひろみの車は、湯ノ川温泉を過ぎて、走り続けている。
やがて、前方に、空港が、見えてきた。函館空港である。
丁度、ジェット機が、重たげに、上昇して行くのが見えた。
(彼女は、空港から、逃げ出そうとしているのか?)
と、長谷部は、思った。彼女が、事件に関係しているとは思わないが、兄の石川久男が、あんなことになって、この函館の町に嫌気がさして、東京へでも、逃げる気になったのではないかと、思ったのだ。
ひろみは、車から降りて、空港の建物の中に、入って行った。
長谷部も、声をかけずに、彼女のあとに、続いた。
広いコンコースに、人影がまばらなのは、便が少いせいだろう。片側に、ずらりと、土産物店が並んでいる。
これから、東京などに帰ると思われる観光客が、函館の名産を、買っているのが、眼についた。ほとんどが、海産物である。
ひろみは、まっすぐに、送迎デッキの方向に、歩いて行く。
階段をのぼり、娯楽コーナーの脇を抜けて、彼女は、送迎デッキに出た。
大きな空港なら、送迎デッキには、いつも、送り迎えの人たちがあふれているのだろうが、ここは、彼女の他に、人の姿は、なかった。
長谷部も、デッキに出て、わざと、声をかけず、滑走路に、眼をやった。
細長い滑走路に、飛行機の姿はなかった。わずかに、駐機場の隅で、小さな双発のプロペラ機が、整備中だった。多分、奥尻島行の飛行機だろう。
風は、ほとんどなかった。明るい陽光が、滑走路に降り注いでいる。
かすかに、爆音が聞こえて来た。
小さな黒点が見え、それが、次第に、ジェット機の姿になって、舞い降りて来た。
東京からの全日空機のようだった。
千歳空港へ、行ってしまう人が多いのか、眼の前の飛行機から降りて来る乗客の姿は、少かった。
ひろみは、じっと、飛行機を見つめていたが、急に、長谷部に、眼を向けた。
「まだ、私に、用ですか?」
と、彼女が、きいた。
「いや、別に、ありません。たまたま、啄木小公園で見かけたんで、何となく、ついて来てしまったんです」
と、長谷部は、いってから、
「僕は、飛行機が、好きなんですよ。じっと見ていると、何処へでも、好きな所へ連れて行ってくれる魔法の乗物に見えて来るんですよ」
「魔法の乗物?」
「そうですよ。小さい時は、そう見えましたね。最近は、お金が要るんだとわかってきましたがね」
と、長谷部は、笑った。
「私も」
と、ひろみが、いった。
「私もって、あなたも、飛行機が好きなんですか?」
「いえ。子供の時、魔法のじゅうたんに見えたということなの」
「魔法のじゅうたんというのは、ロマンチックでいいなあ」
「でも、大人になったら、嫌でも、自由に乗れる魔法のじゅうたんなんかじゃないと、わかってきたわ」
「でも、飛行機を見るのは、好きなんでしょう?」
と、長谷部は、きいた。
「私の夢のかけらだから」
「夢のかけらね」
「違うとわかっているんだけど、あの飛行機に乗れば、自由な世界に行けるような気分になってくるの。だから、人生が嫌になった時なんか、ここへ来て、じっと、飛行機が、発着するのを、見ているのよ」
と、ひろみは、いった。
「じゃあ、今日も、人生が嫌になったわけ?」
「今日だけじゃないわ。ここ何日か、毎日、嫌になってるの」
「兄さんのせいで?」
「他にも、いろいろあるわ」
「今日、啄木公園で、何をしてたの?」
と、長谷部は、きいた。
「あそこで、清水という刑事さんが、事故にあったんでしょう?」
ひろみが、逆に、きいた。
「事故じゃなくて、襲われたんだ。スパナか、ハンマーで、後頭部を殴られてね」
「それで、あの刑事さん、大丈夫なんですか?」
「意識不明だそうだ」
「そうなの。それで、あなたは、心配してるのね」
「僕が、心配しているように見える?」
「見えるわ」
「一緒に歩いている中に、何となく、好きになってね」
と、長谷部は、いった。
「それで、捕まえたの? 私の兄に、クスリを売った人を」
「川西という男ね。残念ながら、逃げられてしまった。他に、お兄さんに、覚醒剤を売った人を知らないかな? 川西ひとりから、買っていたとは、思えないんだけど」
と、長谷部は、きいた。が、ひろみは、小さく首を横に振って、
「知らないし、兄のことは、もう、何も思い出したくないの」
と、いった。
そうかも知れないと、長谷部は思い、それ以上、追及するのを止めてしまった。
ひろみは、そのあと、十五、六分、滑走路を眺めていたが、急に、寒くなったみたいに、肩をふるわせてから、
「私、もう帰ります」
と、いって、送迎デッキから、出て行った。
長谷部は、送るきっかけを外された感じで、デッキに残ってしまった。
仕方なく、煙草に火をつける。
(彼女も、可哀そうだな)
と、思い、ぼんやりと、滑走路を見ていたが、
(なぜ、彼女は、啄木公園で、清水刑事が襲われたと、知っていたのだろうか?)
と、考えた。
彼女は、事故といった。が、知っていたのだ。
事件のことは、まだ、新聞にも出ていないし、テレビのニュースでも、報道されていないのではないか。
長谷部は、急に、疑惑のかたまりになって、あわてて、ひろみを、追いかけた。
階段を駈けおり、コンコースを走り、駐車場へ出た。が、彼女のカローラは、すでに、消えていた。
すぐ、函館の町に戻る気になれず、長谷部は、コンコースの中にある喫茶店に入り、コーヒーを注文した。
コーヒーが、運ばれて来る間に、長谷部は、清水刑事の運ばれた病院に、電話をしてみた。
清水の容態をきくと、いぜんとして、意識不明のままだということだった。
次に、新聞社に、電話を入れた。病院と、現場の啄木公園の取材をすませたことをいうと、
「今、何処にいる?」
と、デスクが、きいた。
「また、何かあったんですか?」
「清水刑事が、襲われて重傷というので、東京から、刑事が二人、乗り込んで来ることになった」
「二人もですか?」
「清水刑事の上司の十津川という警部と、亀井という刑事だ。こちらの調べでは、一五時四〇分函館着の全日空機だ。空港に行って、二人の情報をとってくれ」
と、デスクは、いった。
長谷部は、腕時計に眼をやった。午後三時を、五分ほど、過ぎたところである。
長谷部は、今、空港にいるとはいわず、
「すぐ、行ってみます」
と、だけ、いった。
席に戻って、コーヒーを飲んだ。店の前を、見覚えのある函館警察署の刑事が二人、緊張した顔で、通り過ぎた。
一人は、確か、刑事課長である。
(東京の刑事を、迎えに来たのか)
と、思った。
一五時三五分に、長谷部は、喫茶店を出た。
今度は、送迎デッキには行かず、待合室の窓ガラス越しに、滑走路に眼をやった。
東京からの全日空861便は、少しおくれているようだった。
函館署の二人の刑事も、立って、滑走路を見つめている。
十二、三分おくれて、到着のアナウンスがあり、全日空861便が、着陸した。
ボーイング747SRから、どっと、乗客が降りて来た。静かだった空港の建物の中が、急に、賑《にぎ》やかになった。
長谷部は、十津川と、亀井という二人の顔を知らない。それで、函館署の刑事の動きを見ていた。
彼等が、動いて、最後に降りて来た二人の男に、近づいて行った。
二人の男は、ひどく平凡な感じだった。
(頼りない感じだな)
と、長谷部は、思いながら、彼等に近づき、カメラのシャッターを押した。
「何だ? 君は」
函館署の刑事が、眼をとがらせた。
「警視庁の十津川警部は?」
と、長谷部は、きき、一人が、肯《うなず》くと、
「清水刑事と親しくしていた長谷部といいます」
「ああ、清水君から、名前は、聞いていますよ」
と、十津川は、微笑した。
「何か、僕に用があったら、電話して下さい」
と、長谷部は、いい、名刺を、十津川に渡し、わざと、何の質問もしなかった。
十津川と、亀井は、函館署の刑事と一緒に、パトカーに乗って、空港を出て行った。
長谷部も、自分の車に戻り、社に戻ることにした。
社に帰って、フィルムを、現像に廻してから、長谷部は、デスクに、報告した。
「十津川警部たちには、何も、質問しなかったのか?」
「わざと、しませんでした」
と、長谷部がいうと、デスクは、案の定、眉をひそめて、
「どういうことだ? それは」
「あの時、質問しても、型にはまった答しか返って来ないと思ったんです。全力をつくすとか、道警と協力するとかです。それで、あとで、十津川という警部から、本音を聞こうと思ったんですよ」
「本音が聞ける自信があるのかね?」
「あります」
「なぜだ?」
「それは、本音を聞けたら、話しますよ」
と、長谷部は、いった。
デスクは、半信半疑の顔をしている。正直にいって、長谷部自身も、それほど、自信があるわけではなかった。
十津川が、権威主義の男なら、連絡はして来ないだろう。だが、彼が、部下思いの優しい人間なら、電話して来るのではないか。漠然と、そんな期待を持っていただけである。
その日の午後七時過ぎに、自宅にいた長谷部のところに、十津川から、電話があった。
「いろいろと、お聞きしたいので、会って貰えませんか?」
と、十津川は、いった。
「場所は?」
と、長谷部は、きいた。
「私と、亀井刑事は、Nホテルに入ったんですが、このホテルに来て頂けませんか」
と、十津川は、いった。
長谷部は、そのNホテルを訪ね、ロビーで、十津川と、亀井の二人に、会った。
ロビーのコーナーに設けられた喫茶ルームで、コーヒーを飲みながらの対話になった。
「ここの話は、オフ・レコですか? それとも、記事にしていいんですか?」
と、まず、長谷部は、きいた。
十津川は、ブラックで、コーヒーを飲みながら、
「構いませんよ」
と、いった。
「清水刑事には、もう会われましたか?」
「さっき、会って来ました。まだ、意識は戻りませんが、助かるということで、ほっとしています」
と、十津川は、いった。
「君は、清水刑事と、親しかったといっていたが、どんな風に親しかったのかね?」
と、亀井刑事が、きいた。
亀井の方が、十津川より、五、六歳年長に見えた。
「二人で、コンビを組んだんですよ。清水刑事は、ここでは、一匹狼だったから、僕が、函館のことを説明し、手助けする。その代り、わかったことは、記事にするという条件でね」
と、長谷部は、いった。
二人で、コンビを組み、石川久男の妹に会い、川西のことを調べたこと、川西のマンションの部屋を調べている時に掛ってきた電話のことなどを、長谷部は、話した。
「なかなかいいコンビだという自負がありましたよ」
と、長谷部は、いった。
「問題は、清水刑事が、最後に、誰と会ったかということですが」
と、十津川は、いい、長谷部を見て、
「川西という男が、宅配で、クスリを送りつけた人間を、一人一人、当っていたと、思われるわけですね?」
「そうです。伊原市議は、僕が、尾行しました。ですから、清水刑事は、残りの五人を、追っていたことになります」
「だが、伝票は、清水刑事に渡してしまったので、その五人の名前は、覚えていないんですね?」
「そうなんですよ。なぜ、メモしておかなかったのかと、口惜しくて、仕方がないんです」
と、長谷部は、いった。
「その五人が、男か女かも覚えていませんか?」
と、十津川が、きく。
「確か、一人が女で、あとの四人は、男です。女性がいるなと思ったのを覚えていますから」
「宛先は、全部、函館市内でしたか?」
「さあ、覚えていません」
「いろは運送に、控えはないのかね?」
と、亀井が、きいた。
「その控えを借りて来たんですよ」
と、長谷部は、いった。
「すると、いろは運送に行っても、駄目か」
「そうです」
「伊原市議を、ずっと、尾行していたと、いいましたね?」
と、十津川が、改まった口調で、きいた。
「ええ。今朝まで、尾行していましたから、少くとも、清水刑事を襲ったのは、彼じゃありません」
「その市会議員も、覚醒剤を常用しているのかな?」
「それはわかりませんが、川西から、買っていたとは、思います。本を買っていたというのは、嘘だと思いますね」
と、長谷部は、いった。
彼は、伊原に会った時の様子を、十津川たちに話した。
「証拠はありませんが」
「伊原という市議は、他の五人について、何か知っているんじゃありませんか」
と、亀井は、十津川に、いう。
「長谷部さんは、どう思います?」
十津川は、長谷部に、きいた。
「わかりませんね。伊原市議が、クスリや、川西という売人にどう、関係しているかによると思うんです。ただ、川西から、クスリを買っていただけなら、他の五人のことは、知らないと思います。しかし、川西との仲が、それ以上のものだったとすると、五人の名前を知っていた可能性が、出て来ます」
と、長谷部は、自分の考えを、いった。
「そうかもしれない。伊原宛ての伝票が、三枚あったということは、ほかの五人とは、違うのかもしれない」
と、十津川が、いった。
「清水刑事が、意識を取り戻してくれれば、簡単なんですがねえ」
と、亀井が、溜息《ためいき》をついた。確かに、清水が、意識を取り戻して、啄木公園で会った人間を思い出せば、いいのだ。
「ちょっと待ってくれ」
と、十津川は、亀井にいい、ロビーの隅にある公衆電話のところへ歩いて行った。
五、六分して、戻って来ると、ニコニコしながら、
「T病院に掛けてみたんだが、清水刑事の意識が戻ったということだ」
と、いった。
「すぐ、行きましょう!」
亀井が、大きな声で、いった。
「僕も、行っていいですか?」
と、長谷部が、十津川に、きいた。
「どうぞ、来て下さい。彼も、あなたに会いたいと思いますよ」
と、十津川は、いってくれた。
タクシーを呼び、三人で、T病院へ急いだ。
病院に着いたのは、午後十時近かった。待合室も、廊下も、うす暗くなっていた。
三人は、すぐ、三階の病室へ、駈けあがって行った。
手術を担当した医者が、三人を迎えてくれた。
「清水刑事は、意識を取り戻したんですね?」
と、十津川が、医者に、確かめるように、きいた。
「意識は、回復しました。しかし──」
と、医者が、いった。
「しかし、何ですか?」
「肝心の部分の記憶が、消えてしまっているんですよ」
と、医者は、いった。
「記憶喪失ですか?」
十津川が、重い口調で、きいた。
「いや、自分が、警視庁の刑事ということや、弟さんが亡くなったことなどは、はっきりと、覚えておられます」
「じゃあ、何を?」
「肝心の殴られた前後のことを、覚えておられないんですよ。痛みますから、誰かに、殴られたことは、わかっているようですが、啄木公園に行ったことも、誰かに会ったことも、全く、覚えておられないんです」
と、医者は、いった。
「とにかく、会わせて下さい」
と、十津川は、青白い顔で、いった。
医者に案内される恰好で、三人は、病室に入った。
清水は、頭に包帯を巻かれて、ベッドに、横たわっていた。
彼は、三人の顔を見ると、弱々しい声で、
「ああ、警部。カメさん」
と、いった。
「僕のことを、覚えていますか?」
と、長谷部が、きくと、
「ああ、覚えているよ。新聞記者さんだ」
「一緒に、川西という男のことを、調べたのを、覚えていますか?」
「一緒に、何をしただって?」
「覚えていないんですか?」
「悪いんだが──」
と、清水は、顔をしかめ、
「頭が、痛いんだ」
と、いった。
「無理をしない方がいい」
と、十津川が、横から、いった。
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第五章 灰 皿 の 中
「誰にやられたんだ?」
と、間を置いて、亀井刑事が、きいた。
「わかりません」
清水は、眼を閉じたまま、低い声で、いった。
「なぜ、わからないんだ?」
「とにかく、わからないんです」
「しかし、啄木公園には、誰かに会いに出かけていたんだろう? 函館署の話では、啄木公園で、君は、倒れていたということだからね」
「そういわれるんですが、覚えていないんです。殴られた前後のことが、わかりません」
清水は、口惜《くや》しそうに、いった。
「全く覚えていないのかね?」
亀井が、信じられないという顔で、いった。
「いくら思い出そうとしても、肝心の部分が、空白になってしまって」
「ゆっくり思い出せばいいよ」
と、十津川は、穏やかに、清水にいい、亀井と、長谷部を促して、病室を出た。
「どうなってるんです?」
亀井が、病室の方を振り返って、声をあげた。
「医者がいっていたじゃないか。部分的に、記憶を、喪失してしまってるんだ」
と、十津川が、いった。
「どうも、信じられませんね。他のことは、全部、はっきり覚えてるのに」
「だから、肝心のことも、その中《うち》に、思い出す筈だよ」
と、十津川は、いってから、今度は、長谷部に向って、
「清水刑事は、覚醒剤の買い主を、訪ねて廻っていたと、いいましたね?」
「そうです。五人の人間をです」
「清水刑事の所持品を、調べてみよう」
と、十津川は、いった。
清水の所持品は、函館警察署が、預かっていた。
腕時計や、財布といったものはあったが、肝心の伝票は、一枚も、なかった。彼を襲った人間が、持ち去ったのだろうか。
「清水らしくありませんね」
亀井が、十津川に、小声でいうのが、長谷部に聞こえた。
「伝票のことか?」
と、十津川が、きく。
「そうです。五人の人間の誰かと、彼は、啄木公園で、会う約束をした。呼び出されたといってもいいと思います。それも、夜だったと思われますから、危険は、十分に感じていたと思うのです」
「清水刑事は、拳銃は、持っていなかった筈だね?」
「弟の葬儀ということで、帰郷したわけですから、拳銃は、持って行きません」
「それなら、カメさんのいう通り、警戒していなければおかしいね」
「そうでしょう。五人の伝票を、全部持って、一人の人間に会いに行くというのは、いかにも、不用心です。私だったら、その相手の伝票だけを持って行くか、或いは、コピーしたものを、持って行きますね」
と、亀井は、いった。
「清水刑事だって、そのくらいの用心はした筈だよ。それに、啄木公園で、会う約束をしたとすれば、少しは、時間の余裕があったと思う。その間に、五枚の伝票を、何処かに隠すか、或いは、コピーできたと、私も、思うね」
と、十津川は、いってから、長谷部を、振り返って、
「彼が、泊っていた旅館に、案内してくれませんか」
「わかりました」
長谷部は、張り切って、十津川と、亀井を、自分の車に乗せ、JR函館駅近くの旅館に案内した。
小さな旅館だった。
長谷部が、先に入って、帳場にいた女将《おかみ》に話をし、十津川警部たちを、紹介した。
「清水刑事が入っていた部屋を、見せて貰いたいんですが」
と、十津川が、いうと、中年の女将は、変な顔をして、
「警察の方が、今朝早く、お見えになりましたけど」
「それは、ここの警察でしょう? われわれは、東京の刑事で、清水刑事と一緒に働いている人間なんです。彼が、襲われた事件を調べているので、ぜひ、持ち物を、見たいのですよ」
「持ち物といっても、ボストンバッグと、ワイシャツしかありませんけど」
「それで、結構です」
と、十津川は、微笑を見せて、いった。
三人は、二階の部屋に案内された。なるほど、六畳の部屋の隅に、ボストンバッグがあり、着がえたと思われるワイシャツが、丸めて、置いてあった。
亀井が、そのボストンバッグの中身を取り出して調べている間、十津川は、狭い部屋の中を、見廻していた。その眼が、テーブルの上の灰皿で、止まった。
「どうしたんですか?」
と、長谷部が、きいた。が、十津川は、返事をせず、黙って、指先で、灰皿の中を、何度も、こすっている。
「どうしたんですか?」
長谷部が、もう一度、きくと、十津川は、うす黒く汚れた指先を、彼に見せた。
「これ、何だと思いますか?」
「何って、吸殻でしょう?」
「清水刑事は、昨夜、啄木公園で襲われて、そのまま、病院へ運ばれているんですよ。それに、ここには、煙草も、ライターもないし、第一、吸殻がない」
「それは、ここの従業員が、捨てたんでしょう」
「捨てただけで、灰皿は、洗わなかったのかな?」
「女将さんを、呼んで来ます!」
と、長谷部は、大声でいい、階下《した》へ駈けおりると、女将を、連れて来た。
十津川は、彼女に、灰皿を見せて、
「これですが、少し汚れていますね。灰がついていました」
「変ですよ。これは」
と、女将は、眉をひそめてみせた。
「どう変なんですか?」
「毎日、汚れた灰皿は、新しいものに、取りかえていますもの。この部屋の灰皿だって、今朝早く、取りかえたんですよ。きれいに洗ったものと」
女将は、怒ったような声で、いった。取りかえた灰皿が、汚れていたといわれたのが、我慢が出来なかったのだろう。
「今朝、刑事が、来たといいましたね?」
十津川は、灰皿を、テーブルに置いて、女将にきいた。
「ええ」
「その前に、灰皿は、取りかえてあったんですね?」
「ええ。そうですわ」
「すると、その刑事が、煙草を吸ったか。いや、それなら、吸殻が、残っている筈だし、もっと、汚れている筈だ」
と、十津川は、自分に、いい聞かせる調子で、いった。
ボストンバッグを調べていた亀井も、灰皿に、眼をやって、
「これは、何かで、拭き取っていますよ。ティッシュか、ハンカチで」
と、十津川に、いった。
「どういうことですか?」
と、長谷部が、きいた。
「誰かが、この部屋で、煙草を吸ったが、おかしなことに、その人間は、吸殻を持ち去り、しかも、灰皿を拭き取って、帰ったということになるんですよ」
「函館署の刑事がそうしたわけですか?」
「そうなりますね。しかし、部屋を調べに来た刑事が、室内で、煙草を吸うというのも、不謹慎ですね」
と、十津川は、いった。
「つまり、刑事らしくないということですか?」
「そうです」
と、十津川は、長谷部に肯《うなず》いておいて、女将には、
「今朝の刑事というのは、どんな男でした?」
「若い方でしたよ。二十七、八でしょうね。ひとりで、お見えになったんです」
「警察手帳を、見せましたか?」
と、亀井が、きいた。
「そんなもの見ませんでしたけど、刑事さん以外に、この部屋を見に来る人なんかいませんものね」
と、女将は、いってから、急に、不安になったと見えて、
「あの人、刑事さんじゃなかったんですか?」
「その可能性が、ありますね」
「帳場の電話を貸して下さい」
と、亀井がいい、階下へ、おりて行った。
女将は、青い顔になって、黙ってしまった。
亀井が、駈足で戻って来た。
「やはり、ニセモノですね。函館署では、今朝、誰も、この旅館に、行かせたことはないと、いっています」
「そうか」
と、十津川は、眼を光らせた。そんな十津川を見て、長谷部も、興奮して来て、
「誰かが、刑事と名乗って、この部屋を、探したんですね?」
「そうですよ」
「探したのは、例の五人分の伝票ですね?」
と、長谷部が、きくと、十津川が、答えるより先に、亀井が、
「他に考えられるか」
と、怒ったような声で、いった。
(気の短い人だな)
と、長谷部は、思いながら、十津川に向って、
「それ、間違いありませんか?」
と、念を押した。
「ニセの刑事は、ここで、何かを見つけて、燃やしたことだけは、間違いありませんね。とすると、今のところ、五人分の伝票という線が、濃いでしょうね」
と、十津川は、慎重ないい方をした。
「伝票を焼いたが、ここは、日本旅館だから、部屋の中に、バスルームも、洗面所も無い。それで、灰皿が洗えないので、ハンカチかティッシュで、拭き取ったというわけですね」
長谷部が、いうと、十津川は、微笑した。
「丁寧な解説ですね。まあ、そんなところだと思いますよ」
「犯人は、啄木公園で、清水さんを襲って、身体を探したが、肝心の伝票が、見つからない。それで、今朝、刑事に化《ば》けて、この旅館にやって来たわけですね」
「そうでしょうね」
と、十津川は、いい、亀井には、
「ボストンバッグの中には、入っていなかったかね?」
「伝票は、ありませんでした」
「何か、手帳か、メモみたいなものは?」
「それも、ありませんでしたね。何か、清水刑事の追いかけていた人間のことを書いたものがあればいいんですが」
亀井は、残念そうに、いった。
「向うも、必死なんだろう。こちらも、それを覚悟しておく必要があるね」
と、十津川は、いったあと、問題の灰皿を、ハンカチで、包み始めた。
「それ、指紋を調べるんですか?」
と、長谷部は、きいてみた。
「指紋? それも、調べてみてもいいが、灰皿を、拭いていった奴ですよ。指紋を残していくとは、思えませんがね」
「それなら、何を調べるんですか?」
「底に残っている灰ですよ。この灰を調べてみたいんです」
と、十津川は、いった。
「伝票の灰を、どうして、調べるんですか? 元へは、戻りませんよ」
「それは、わかっていますよ」
と、十津川は、いい、ハンカチで包んだ灰皿を、ポケットに、しまった。
亀井は、女将に、ニセの刑事の顔立ちを、改めて聞いていたが、函館警察署へ、これから一緒に行って、似顔絵作りに、協力して欲しいと、頼んだ。
十津川は、それを聞いていて、亀井に、先に、女将を連れて、署へ帰っているように、いった。
「警部は、どうされます?」
と、亀井が、きいた。
「私は、伊原要一郎という市会議員に、会ってみるよ」
と、十津川は、いった。
長谷部は、十津川を、伊原要一郎の家へ、案内することになった。
「会っても、無駄かも知れませんよ。あの男は、絶対に、自分が、覚醒剤とは無関係だと、主張していますから」
と、長谷部は、車の中で、十津川に、いった。
「こちらが、誠意を見せれば、協力してくれるかも知れませんよ」
十津川は、ひどく楽観的ないい方をした。
長谷部は、一瞬、びっくりした表情になって、十津川を見た。この警部は、少しばかり、相手を、というより、今度の事件を甘く見ているのではないかと、思ったからである。
(東京の刑事といっても、大したことはないな)
そんなことを考えながら、長谷部は、車を運転して行った。
伊原は、在宅していた。緊張した顔で現われたのは、やはり、東京から来た刑事が会いに来たせいだろう。
十津川は、丁寧に、あいさつしたあと、
「ぜひ、覚醒剤が引き起こした今度の事件について、伊原さんに、協力して頂きたいと思います」
「もちろん、協力するのに、やぶさかではありませんが、私は、覚醒剤について、何も知らないのですよ。あなたの部下の清水刑事が、勘違いして、私に会いに来ましたが、無関係とわかって、がっかりしていましたがね」
「彼は、何者かに襲われて、今、入院しています」
「まさか──」
と、伊原は、絶句してみせてから、
「清水刑事には悪いが、無関係な人間を、犯人扱いするので、反感を持たれたんじゃありませんか。もちろん、私は、何もしていませんよ」
「清水刑事が、もし、失礼なことをしたのならお詫びしますが、伊原さんも、市会議員として、覚醒剤の問題には、関心が、おありだと思いますが」
「当然、持っていますよ。覚醒剤によって、あんな悲惨な事件が、起きていますからね。何か知っていれば、何をおいても、警察に、連絡しますがねえ」
「それを聞いて、安心しました」
と、十津川は、微笑してから、
「実は、伊原さんに、清水刑事が見せた伝票のことですが」
「ああ、あの伝票なら、私が、本を買って、送って貰ったものですよ。その本も、お見せして、納得して頂いた筈ですがね」
「実は、同じ伝票が、あと五人分ありましてね」
「それで?」
「その伝票にあった五人の中の一人が、実は、あの宅配ということにして、覚醒剤を買っていたことを、認めましてね」
十津川は、生真面目な顔で、いった。
「何という男ですか?」
伊原が、眉を寄せて、きいた。
「名前は、申しあげられません」
「なぜです?」
「警察に、協力したことで、その男が、狙われる危険性があるからです。秘密が守られることを条件に、全てを話すといっていますから」
十津川は、表情を変えずに、淡々と、話す。
長谷部は、また、驚いてしまった。
伊原は、半信半疑の顔で、十津川を見ていた。
「私は、市会議員で、青少年問題にも、関係している。その私にも、話して貰えないのですかね?」
「申しわけありませんが。何といっても、大変な事件が起きていますし、清水刑事まで、襲われているのです。問題の男も、いつ狙われるかわからないと、怯《おび》えているのです」
十津川は、平然と、嘘をついている。伊原の方が、逆に、熱くなっていく感じで、
「しかし、その男は、覚醒剤を買っていた人間でしょう? 彼が、警察が喜ぶような情報を持っているとは、思えませんがねえ。違いますか?」
「われわれも、最初は、大きな期待は、持っていなかったのです。しかし、その男は、自分に、覚醒剤を売る人間のことを調べたり、同じ宅配の方法で、覚醒剤を買っていた人間の名前を、調べたりしていたのです。多分、警察に逮捕された時、そうした知識を、警察に提供して、許して貰おうと考えていたんだと思います」
「しかし、おかしいですね」
「何がですか?」
「ただ、覚醒剤を、使っていただけなら、それほどの罪にはならないんじゃありませんか? その人間も、いわば、被害者だから。それなのに、そんなに怯えていたというのは、理解しにくいんですがねえ」
と、伊原は、いった。
十津川は、いやに、あっさりと、「その通りです」と、肯いた。
「私も、そう思って、彼の話が、最初は、本当とは、思えなかったんです。ところが、よく調べてみると、この男は、宅配で受け取った覚醒剤を、自分が常用していただけでなく、他人に、売りつけてもいたんです。それで、怯えていたとわかったのです」
「そんなことを──?」
「この男の話によると、宅配を使って、覚醒剤を手に入れていた人間は、何人かいるんですが、全員が、それを、他人に売りつけていたらしいのです。いわば、覚醒剤の小売りですね。それなら、全員が、逮捕の対象になると、思っています」
「確かに、その通りかも知れませんが、それ、本当ですかね?」
「もちろん、証拠は、集めますが、私は、事実と、思っています。道警本部でも、同じ考えだと、思いますね」
と、十津川は、いった。
伊原は、明らかに、狼狽《ろうばい》していた。
十津川は、そんな伊原の顔を、見すえるようにして、
「私は、しばらく、函館にいますので、その間、伊原さんの協力を得たく思います。また、お訪ねしますが、その時には、今、申しあげた男が、話してくれることを、伊原さんにも、お教えできると、思いますよ」
「ぜひ、教えて欲しいですね」
と、伊原は、答えたが、ぎこちないいい方だった。
十津川は、長谷部を促して、伊原邸を辞した。
車に戻ったところで、長谷部は、十津川に、
「伊原は、協力してくれましたか?」
と、意地悪くきいた。
十津川は、ニッコリ笑って、
「正直に話してくれて、協力してくれましたよ」
「しかし、彼は、覚醒剤とは、無関係だと主張したじゃありませんか。あなたは、それを、深く追及しなかった」
「今は、追及のしようがありませんからね」
「それでも、彼が、正直に話して、協力してくれたというんですか?」
「そうですよ。彼の表情が、何よりも正直に返事をしてくれていましたからね。私が、伝票の人間は、自分でも、覚醒剤を売っていたと推論で話したのに対して、彼の表情が変りました。つまり、あの男も、同じことをしていたということですよ。証拠はありませんがね」
と、十津川は、微笑した。
「十津川さんは、いつも、あんな嘘をつくんですね」
「いつもは、つきませんよ。ただ、相手が、今日のように嘘つきで、本当のことより、嘘の方が、効果的な場合は、私も、嘘をつきます。特に、今度のように、私の部下が、狙われた時はね」
と、十津川は、笑いを消した、怖い顔になって、いった。
函館署に戻ると、すでに、ニセ刑事のモンタージュが、出来ていた。
年齢は、三十二、三歳ぐらいだろう。細面で、唇のうすい、冷たい感じの顔である。ただ、サングラスをかけているので、眼の表情は、よくわからなかった。
女将の証言として、身長一七五、六センチ、痩《や》せ型と、注意書きがしてあった。
「このコピーを多数作って、函館署の刑事が一枚ずつ持って、函館市内の聞き込みに廻ってくれるそうです」
と、亀井が、十津川に、報告した。
十津川は、ポケットに入れたままにしてあった灰皿を、本部長のところへ持って行き、戻って来ると、長谷部に、
「もう一人、会いたい人がいるので、連れて行ってくれませんか」
と、いった。
「誰です?」
「石川久男の妹です」
「ああ、石川ひろみですね。会って、どうされるんですか?」
「あなたが、啄木公園で彼女を見たと、いったからですよ」
「十津川さんも、何か感じますか?」
「もちろん」
と、十津川は、肯いた。
長谷部は、また、十津川と、亀井を、自分の車に乗せて、今度は、石川ひろみのマンションに向った。
「あの灰皿は、どうしたんですか?」
車を運転しながら、長谷部は、ききたくて仕方がなかったことを、口にした。
「灰皿についている灰の成分を調べて貰うことにしたんですよ」
と、十津川は、いう。
「そんなの、紙の成分に決ってるじゃありませんか」
「そうですがね。ひょっとすると、清水刑事は、コピーをとっていたかも知れない。今は、文房具店なんかで、簡単に、コピーが、とれますからね。もし、そうであって、焼かれたのが、そのコピーの方だったらと、思ったのですよ。感光紙のコピーだったら、灰になっても、普通の紙とは違いがわかるんじゃないか。もし、焼かれたのが、コピーの方だったら、本物の伝票は、どこかに隠されている可能性がありますからね」
と、十津川は、いった。
「可能性は、少いですよ」
「わかっています。しかし、ほんのわずかでも可能性があれば、やってみるのが、私の主義でしてね」
「少しずつ、あなたという人が、わかって来ましたよ」
と、長谷部は、いった。
十津川は、笑って、
「どんな風にですか?」
「悪党にとっては、きっと、嫌な刑事だろうということがですよ」
と、長谷部は、いった。
石川ひろみのマンションの前で、車を停めた。
ひろみも、伊原と同じように、緊張した顔で、十津川たちを迎えた。
「お兄さんのことは、お気の毒に思います。お兄さんも、クスリの犠牲者ですからね」
と、十津川は、いった。
「兄のことは、早く、忘れたいと、思っていますわ」
ひろみは、眼を伏せて、低い声で、いった。
「本当に、そう思いますか?」
と、十津川が、きく。
「ええ」
「今度の事件では、清水刑事の弟が殺されましたし、あなたのお兄さん自身も、死んでいる。こんな血なまぐさい事件は、ただ、忘れたいと思うだけでは、なかなか、忘れられるものじゃありませんよ」
と、十津川は、いった。
「わかっていますわ」
「わかっているんなら、なぜ、努力しないんですか?」
「努力って?」
「あなたの知っていることを、何もかも、話すことです。辛いことかも知れないが、そうした方が、早く忘れられるものですよ。秘密を持ったまま忘れることなんか、出来るものじゃありません」
「私、隠していることなんかありませんわ。兄とは、ずっと、離れて暮していましたし──」
「お兄さんのことじゃありません」
と、十津川は、いった。
「それじゃあ、何のことですか?」
「私の部下の清水刑事が、啄木公園で、襲われて、まだ、入院しています」
「それは、知っていますわ。清水さんには、この長谷部さんと一緒に、お会いしているので、心配しています」
と、ひろみは、いった。
「清水刑事が、襲われたことで、二つ、疑問を持っているのですよ」
「───」
「一つは、犯人が、なぜ、止《とど》めを刺さなかったかということです。確かに、清水刑事は、一時的な記憶喪失になるほど、強く、殴られています。しかし、犯人が、彼の口をふさぐ気なら、気を失っている間に、止めを刺したと思うのですよ」
「───」
「もう一つは、清水刑事のような優秀な刑事が、なぜ、あっさりと、おびき出され、しかも、背後から殴られるような油断をしていたかということなのです。肝心の清水刑事が、殴られた前後の記憶を失ってしまっているので、わからないのですよ。ひろみさんは、この二つの疑問を、どう思いますか?」
と、十津川が、きくと、ひろみは、眉をひそめて、
「私に、わかる筈がありませんわ」
「なぜです?」
「なぜって、私には、関係のないことですもの」
と、ひろみは、いった。
十津川は、そんな彼女に向って、
「今の二つの疑問に、同時に、答えられることが一つだけあるんですよ」
「どんなことですか?」
と、長谷部が、口を挟んだ。
十津川は、相変らず、ひろみに向って、
「清水刑事が、簡単におびき出されたのは、相手が女だからではないかと、思ったのです。それなら、彼が、やすやすと、夜の啄木公園に出かけて行ったことも、納得できます」
「その女が、私だというのですか?」
「そうではありません。でもあなたは、清水刑事をマークしていた。そして、彼を尾行して、公園まできたのです。一方、犯人の側は、実際には、電話を掛けてきた女の代りに、男が、待ち伏せしていて、清水刑事を、背後から、殴りつけた、と思われます。それを見て、あなたは悲鳴を上げ、犯人は、止めを刺すことが、できなかったのです。違いますか? ひろみさん」
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第六章 函 館 駅
石川ひろみは、黙っている。だが、その顔は、青ざめ、眼は、怯《おび》えたように、落ち着きを失っていた。
十津川の指摘が、適中していたことを、そうした表情の変化が、明瞭に、示しているようだった。
「あなただって、覚醒剤が、憎い筈ですよ」
と、十津川は、静かに、話しかけた。
「その覚醒剤を、なくしたいと考えているんです。ぜひ、協力してくれませんか」
「───」
「クスリの怖さは、お兄さんを、あんな形で失ったあなたには、一番よくわかっている筈ですよ。われわれは、お兄さんが、普通の殺人者とは、見ていないんです。お兄さんも、被害者だと思っています。本当の犯人は、覚醒剤と、それを売って儲けている人間たちです。その犯人を、捕えたいのです。もし、何か知っているのなら、われわれに、教えて下さい。われわれを、助けて下さい」
十津川は、じっと、ひろみの顔を見つめて、いった。
長谷部は、そんな十津川の態度を見て、この警部の良さは、こうした誠実さにあるのだろうと、思った。さして、切れそうな感じはない。それなのに、優秀な刑事という評判が聞こえてくるのは、この誠実さ、いや、誠実に感じられる態度のせいかも知れない。
長谷部は、十津川という男について、いろいろと、考えていたが、ひろみの方は、かたくなに、押し黙ったままだった。
十津川は、それ以上、彼女を深追いせず、
「今日は、引き揚げます。もし、話してもいいという気持になったら、いつでも、連絡して下さい。私でも、長谷部君でもいいし、函館署でも構いませんから」
と、いった。
外に出たところで、長谷部は、十津川に向って、
「十津川さんは、意外に優しいんですね。もっと、ねちねちやるのかと思っていましたよ」
「ねちねちですか?」
と、十津川は、笑った。
「彼女は、間違いなく、清水刑事がやられた時、現場にいたんですよ」
「それは、確かでしょうね。彼女の顔色を見ていて、わかりましたよ」
「それなら、もう一押ししても、良かったんじゃありませんか? 彼女が、現場にいたということは、犯人の顔を見ている可能性があるんだから」
と、長谷部は、いった。
「そうでしょうね」
十津川は、微笑した。
長谷部は、眼をとがらせて、
「呑気《のんき》に、肯《うなず》いてる時じゃないでしょう? 部下の刑事を、あんな目にあわせた犯人を知りたくないんですか?」
「もちろん、知りたいですよ。しかし、彼女に、話す気がなければ、どうすることも出来ませんよ。無理|強《じ》いすれば、彼女は、きっと、嘘をつきます。捜査で、一番困るのは、証人が、嘘をついて、その嘘に従って、追跡してしまうことです」
「彼女が、嘘をつくと、思うんですか?」
「何といっても、彼女は、兄を、警察に、射殺されたのです。頭では、分かっていても、気持の上では、そう簡単に、警察に、協力する気にはなれないでしょう。それを考えると、彼女を、追いつめるのは、危険です」
と、十津川は、いった。
「じゃあ、彼女が、話す気になるのを、辛抱強く待つんですか?」
「そうです。待つんです」
「生ぬるい気がしますがねえ」
と、長谷部が、いうと、十津川は、
「清水刑事の記憶が戻ることも、考えられますよ。そうなれば、彼女の証言は、必要なくなるんです」
と、いった。
(ずいぶん、楽観的な人だな)
と、長谷部は、思ったが、それは、口にしなかった。まだ、十津川という警部のことを、よく知らないという気持があったからである。
翌日になって、事態は、意外な方向に動いた。それは、長谷部の想像とも違っていたし、十津川の予想とも、違っていた。
十津川は、昼頃、病院に、清水を見舞った。若い身体は、日毎に、早い回復を見せていたが、肝心の時間帯の記憶は、依然として、よみがえらないという。
「情けなくなって来ます」
と、清水は、本当に、泣きそうな顔で、十津川に、いった。
「その中《うち》に、思い出すさ」
と、十津川は、わざと、笑顔で、なぐさめたのだが、その日の夜になって、清水が、病院から、消えてしまったのである。
病院からの連絡で、十津川は、駅前のホテルから、駈けつけた。
すでに、午後十時を回っていた。
病院には、函館署の刑事も、来てくれた。
三階のナースセンターの婦長が、青ざめた顔で、十津川に事情を説明した。
「五時の夕食は、きれいにお食べになって、別に、変ったところはなかったんです。それなのに、九時の消灯の時に、見たら、いらっしゃらなかったんです」
婦長は、甲高《かんだか》い声で、いう。
「服や、靴は、病院に置いてあったんですね?」
と、十津川は、きいた。
「はい。着がえて、出られています」
と、婦長は、いった。
清水の入っていた病室は、二人部屋だったが、もう一つのベッドは、空いていた。だから、他の患者には、知られずに、抜け出せたのだろう。
十津川は、病室を見せて貰った。何か、自分に対する置手紙でもないかと思ったのだが、パジャマが、きれいにたたまれて、ベッドの上に置かれていただけである。
「とにかく、探しましょう」
と、函館署の刑事は、いってくれた。
十津川は、当惑していた。なぜ、突然、消えてしまったのか、なぜ、自分に、何の連絡もしてくれなかったのか。
それが、わからないのだ。きっと、何か、緊急の用事が、出来たのだろう。
「今日、誰か、清水刑事に会いに来ませんでしたか?」
と、十津川は、婦長に、きいた。
「十津川さん以外には、誰も」
と、婦長は、いった。
「それは、正式に、面会に来た人ということでしょう?」
「それは、そうですけど──」
(病院は、ホテルに似ているからな)
と、十津川は、思った。
この病院には、何人もの入院患者がいる。花束を持って、入って来ただけでは、どの患者に、会いに来たのかわからない。また、見舞客のふりをしていれば、廊下を歩いていても、怪しまれないのだ。
「電話は、どうですか?」
と、十津川は、きいた。
「電話も、ありませんでしたわ」
と、婦長は、かたい表情で、いった。
(やはり、誰かが、会いに来たのだ)
と、十津川は、思った。
そして、連れ出されたのだろう。暴力でとか、脅迫されてとは、思えない。清水は、そんなものに、屈するような男ではないからだ。恐らく、言葉巧みに、騙《だま》されたのだろう。
突然、記憶がよみがえって、自分を殴った人間に会いに行ったということも考えられるが、十津川は、違うと思った。
もし、記憶が戻ったのなら、何よりも、まず、十津川に、連絡して、話を聞かせる筈だからである。
函館署は、十人の刑事を動員して、夜の函館の街を探してくれた。
十津川も、長谷部に、電話で聞き、清水の実家も、訪ねてみた。が、彼は、見つからなかった。
午後十一時を過ぎて、函館署の刑事の一人が、清水らしい男が、JRの函館駅近くを歩いていたのを見たという目撃者を、見つけて、十津川に、知らせてくれた。
駅前の煙草店の主婦である。
六十歳ぐらいで、十津川の質問に対して、駅の方を指さして、
「確か、向うの方へ、歩いて行きましたよ。小走りにね」
と、いった。
「何時頃ですか?」
「午後九時五十分頃でしたねえ。十時少し前だったことは、間違いありませんよ」
「ひとりでしたか?」
「ええ。ひとりでしたよ」
「小走りというのは、間違いありませんか?」
と、十津川は、念を押した。
「ええ。急いでいるようでしたもの」
と、彼女は、いった。
彼女は、服装のこともいったが、清水の背広と、一致している。
十津川は、函館署の刑事と、函館駅に、行ってみた。
駅員の一人一人に、当って、きいた。
白い包帯でもしていれば、目立って、覚えていてくれただろうが、今日の昼に、十津川が、病院に会いに行った時、頭の包帯を、取ってしまっていたのだ。
それでも、ホームにいた駅員の一人が、清水刑事に似た男を見たと、いった。
「ホームで見たというと、その男は、列車に乗るところだったんですね?」
十津川は、その駅員と一緒に、ホームに、入ってみた。
「こちらは、上りの列車が出るホームですね?」
と、十津川は、駅員に、きいた。
「そうです」
「何時頃ですか?」
「二二時過ぎだったと思います」
「午後十時ですか。その頃の上りの列車というと、当然、夜行の、寝台特急ということになりますね?」
「そうです」
「二二時過ぎに出る上りの列車というと、何がありますか?」
「二二時三八分発の北斗星4号ですね。そのあとの北斗星6号は、二三時四一分発ですから」
と、駅員は、いった。
現在、十一時五十分。北斗星6号も、すでに、出発してしまっている。
「今、北斗星4号は、どの辺を走っていますか?」
と、十津川は、きいた。
駅員は、時計に、眼をやってから、
「丁度、青函トンネルを通過中じゃありませんかね」
「次の停車駅は?」
「青森です。〇時五七分着で、十分、停車です」
「列車に、連絡が取れますか?」
「車内に、電話がついていますから、取れる筈です」
と、駅員が、いった。
十津川は、函館駅から、北斗星4号に、電話を掛けて貰った。
山本という専務車掌が出た。現在、青函トンネルを出て、中小国駅近くを走っているところだという。
「そちらに、清水という警視庁の刑事が、乗っているかも知れないのです。呼び出して貰えませんか」
と、十津川は、頼んだ。自分の名前も、伝えた。
そのまま、十津川は、函館駅で、待った。
なかなか、返事は、来なかった。清水自身も、電話して来ないし、山本車掌からの連絡もない。
午前一時少し過ぎに、やっと、山本車掌から、連絡が入った。
「今、青森駅ですが、私は、ここで交代します。何度も、車内放送で、呼びかけたんですが、清水という方は、車掌室に、来られませんでした。本当に、この列車に、乗っておられるんですか?」
「乗っていると、思ったんですが──」
と、十津川は、いった。彼にも、自信はないのだ。
「清水刑事のことは、引き継いでおきますが、もう、真夜中なので、車内放送で、呼びかけるのは、難しいと思います。よほど、緊急な用なら、別ですが」
と、山本車掌が、いった。
「とにかく、上野へ着くまで、探して欲しいのです」
「それなら、引き継いでおきます」
と、相手は、いった。
亀井刑事も、函館駅に駈けつけた。十津川が、事情を説明すると、
「清水は、他の列車に乗ったんでしょうか? それとも、駅員の見間違いで、他に行ったのか」
と、亀井が、いう。
「どれも、はっきりしないんだ。カメさんのいうように、駅で見かけたのは、別人かも知れないし、本人かも知れない」
「東京に連絡して、北斗星4号を、途中まで、迎えに行かせたら、どうですか? この列車の上野着は、確か一〇時一二分ですから、大宮あたりで、乗り込めますから」
「そうだな」
と、十津川が、肯《うなず》くと、亀井が、すぐ、東京に連絡を取った。
そのあと、二人は、駅を出た。
今から、北斗星4号を、追いかけることは不可能である。それに、列車に電話しても、清水が出ないのでは、今は、他を探すより、仕方がなかった。
すでに、午前一時を回っていた。
北斗星4号は、青森を出ている時刻である。この列車は、青森を出たあとは,午前五時四七分に、仙台に着くまで、乗客の乗り降りはない。
深夜になっても、函館の町には、暑さが、残っていた。
「清水刑事は、なぜ、われわれに、何の連絡もせず、病院から、出てしまったんでしょうか?」
と、歩きながら、亀井が、首をかしげた。
「多分、個人的な感情が、先走ってしまったんだろうね」
「個人的な感情ですか?」
「彼は、高校生の弟が好きだった。その弟が殺されてしまったことで、清水刑事は、平静でいられなくなっていた。当然のことだよ。それに、啄木公園で、不覚をとったという気持があった筈だ。だから、何とか、自分ひとりで、今度の事件を、解決しようと思っているんじゃないかね」
「なるほど。それで、ひとりで、走り廻っているわけですか」
「危険だよ」
と、十津川は、呟《つぶや》いた。
清水が、記憶を取り戻したのかどうか、十津川には、わからない。
自分で、病院を出たのか、誘い出されたのかも、判断がつかない。
そのいずれにしろ、清水を殴った人間にとって、彼は、危険な存在の筈なのだ。ということは、清水が、また、狙われる恐れが、十分にある。
十津川たちは、函館署に、寄ってみた。だが、清水についての新しい情報は、入っていなかった。
(待つより仕方がない)
と、思った。が、函館署や、ホテルで、じっとしているのは、気持が、許さなかった。
十津川は、亀井と二人、函館署の車を借り、それを運転して、函館の街を走り廻った。
啄木公園にも、何回か寄ってみた。が、清水は、見つからない。
午前三時を過ぎても、見つからないし、情報も入って来なかった。
北斗星4号は、乗客の眠りをのせて、上野へ向って、走り続けていた。
専務車掌の森田は、もう一度、車内を廻ってみることにした。青森駅で、引き継いだことが、気になっていたからである。
2号車を出て、最後尾の11号車に向って、通路を、歩いて行った。
どの寝台車も、もう、起きている乗客の姿はなく、軽い寝息が、洩れて来る。
中には、突然、大きな寝言が、聞こえたりして、森田は、思わず、微笑してしまった。
6号車が、ロビー・カーである。
ドアを開けて、中に入ったところで、森田は、「おや?」という顔になった。
誰もいないと思ったのに、ソファに、一つだけ、ぽつんと、人影が、見えたからである。
背広姿の若い男だった。
(どうしたんだろう?)
と、思いながら、森田は、近寄って、
「もし、もし」
と、声をかけた。
男は、ソファにもたれ、眼を閉じたまま、返事をしない。
森田は、突然、背筋に、冷たいものが走るのを覚えた。その男の様子に、ただならぬものを感じたからだった。
それでも、勇を鼓して、軽く肩を叩いてみた。
男の身体が、ゆっくりと、横倒しになり、そのあとが、べっとりと、血で、ぬれているのが見えた。
森田は、息を呑み、悲鳴も出せなかった。
そのあと、弾かれたように、車掌室へ向って、走った。
井上車掌長は、森田と、二人で、ロビー・カーに戻ると、
「この人は、例の清水という刑事さんじゃないのかね?」
と、乾いた声で、森田に、いった。
「そうかも知れません」
森田は、やっと出たような、かすれた声で、いった。
井上は、倒れている男の背広を、裏返してみた。
「やっぱりだ。清水というネームが、入っている」
「どうしたらいいですか?」
「死んでるよ。函館署で、探していたんだったね?」
「そうです。見つけたら、函館署に連絡してくれといわれています。電話番号も、聞いています」
「それなら、すぐ、連絡した方がいい」
と、井上がいい、ロビー・カーにある公衆電話を使って、函館署に、連絡した。
十津川は、その知らせを、午前四時半過ぎに、知らされた。
「宮城県警に、連絡しておきましたので、列車が、仙台に着き次第、仙台警察署の刑事が、乗り込む筈です」
と、函館署の署長が、教えてくれた。
「清水刑事に、間違いありませんか?」
十津川は、青ざめた顔で、きいた。
「車掌の話では、背広に、清水のネームが入っていたといっていますし、顔立ちなどを聞くと、清水刑事に、間違いないようです」
「助かる見込みは、ないんですか?」
「列車の中で、すでに、事切れていたようですから」
署長は、気の毒そうに、いった。
「仙台で、遺体は、列車から下されるんですね?」
「そういっています」
「私も、仙台へ行きます」
と、十津川は、いった。
十津川は、亀井と、もっとも早く、仙台へ行く方法を考えた。一刻も早く、清水の遺体を、確認したかったのだ。
「私が、間違っていた。ずっと、病院に、ついているべきだったよ」
と、十津川は、繰り返した。清水の傍についていたら、彼を死なせずにすんだのにという悔いが、十津川を、責めるのである。
「やはり、札幌からの飛行機が、一番早いですね」
と、亀井が、時刻表を見て、いった。
一〇時〇五分札幌発の仙台行に乗れば、一一時一五分に、仙台に着ける。
「カメさんは、もう少し、函館に、残ってくれ」
と、十津川は、亀井に、いった。
「例の伝票のことですね」
「あれが、コピーしたものの灰だとすれば、清水刑事は、ホンモノの伝票を、どこかに、隠していたかも知れないからね」
と、十津川は、いった。
十津川は、ひとりで、午前四時五八分函館発の北斗星3号に、飛び乗った。
千歳空港駅に着いたのが、八時四八分である。
朝食は、駅近くの食堂で、すませた。空港に行き、まず、仙台までの第一便の切符を買ってから、亀井のいる函館署に、電話を掛けた。
「今、例の鑑識結果が、出たところです」
と、亀井が、いった。
「それで、どうだった?」
「やはり、感光紙の燃えカスだそうです」
「すると、ホンモノの伝票が、どこかにある可能性があるわけだ」
「何とか、探してみますよ」
「長谷部という新聞記者にも、協力して貰うといい。彼は、ずっと、清水刑事と行動を共にしていたんだから」
と、十津川は、いった。
時間が来た。十津川は、一〇時〇五分発の全日空724便に、乗り込んだ。
曇り空の中に、ボーイング767は、飛び立った。
気流が悪く、機体が揺れた。いつもなら、気分が悪くなるのだが、今日は、ほとんど、揺れを感じなかった。
仙台空港に着くと、タクシーを飛ばして、仙台中央警察署に、直行した。
そこでは、下田という警部が、迎えてくれた。小柄で、色の浅黒い男である。
「どうも──」
と、下田は、言葉少なにいい、十津川を、霊安室に、案内した。
ひょっとして、別人であってくれと、祈っていたのだが、やはり、清水だった。
「背中を、二ヶ所刺されています」
と、下田が、いった。
その割りに、穏やかな死に顔なのが、せめてもの救いだった。
「北斗星4号のロビー・カーで、発見されたそうですね?」
と、十津川は、いって、死体に眼をやったまま、下田に、きいた。
「死体の発見者の車掌などの証言は、とってあります」
と、下田は、いい、部屋に戻ってから、その調書を、見せてくれた。
死体を発見した森田専務車掌と、函館署に連絡した井上車掌長の証言である。
十津川は、それに、眼を通してから、
「まだ、容疑者は、見つかっていませんか?」
と、きいた。無理を承知の質問だった。
それでも、下田は、眼をしばたたいて、
「何しろ、乗客が多いですからね。それに、犯人は、青森までの間に刺して、青森で降りてしまっているかも知れません」
と、申しわけなさそうに、いった。
「目撃者も、見つかっていないんでしょうね?」
「そうです。今のところ、犯行の目撃者も、見つかっていません」
「清水刑事の所持品を、見せて下さい」
と、十津川は、頼んだ。
机の上に、腕時計などが、並べられた。
十津川は、財布などには、注意をしなかった。
彼が、まず、注目したのは、北斗星4号の切符だった。
函館から、上野までの切符だった。B1と呼ばれる一人用の個室《ソロ》である。
「この切符の指紋は、採りましたか?」
と、十津川は、きいた。
「採っていませんが、それは、清水刑事の背広の内ポケットに入っていたものですよ」
下田は、変な顔をした。
「わかっていますが、一応、指紋検出を、お願いします」
と、十津川は、いった。
北斗星4号には、一般的な二段式のB寝台車が、何両も、連結されている。清水が、この列車で、上野へ行く気になったとしても、そのB寝台を、利用する筈だと、思ったからである。
誰かが、あらかじめ個室《ソロ》の切符を買っておいて、清水に渡したのではないか。十津川はそう考えたのである。
ボールペン、キーホルダーなどは、十津川は、ただ、確認しただけで、すませた。こうしたものは、遺族に、渡すべきものだろう。
夕方になって、清水の両親が、函館から、駈けつけた。
両親にしてみたら、先に、次男を失い、今度は、長男を、失ってしまったのである。
「清水刑事を死なせてしまったのは、上司である私の責任です」
と、十津川は、両親に向って、詫《わ》びた。
「息子は、なぜ、病院から抜け出して、黙って、列車に乗ったのでしょう?」
と、母親が、青ざめた顔で、きいた。
「その理由は、私も知りたいと思っているのです。必ず、理由を見つけて、犯人を、逮捕します」
十津川は、自分に、いい聞かせるように、強い調子で、いった。
清水の遺体は、解剖に廻された。
十津川は、下田警部に頼んで、この日は、仙台中央署に、泊らせて貰った。少しでも早く、解剖の結果を、知りたかったからである。
解剖の結果は、午前二時過ぎに、知らされた。
背中を、二ヶ所刺されて、その一つは、心臓に達していたということだった。死因は、そのことによるショック死であるという。
十津川が、知りたかったのは、死亡推定時刻だったが、午前零時から、午前一時までの一時間と、報告された。
十津川は、それを、北斗星4号の時刻表に合せてみた。
函館発 22:38
青森着 0:57
〃 発 1:07
仙台着 5:47
上野着 10:12
これは、死亡推定時刻と合せると、清水が殺されたのは、列車が、函館から青森までの間を走っている時か、青森駅に停《とま》っている間ということになってくる。
(微妙だな)
と、十津川は、思った。
函館で、十津川は、走行中の北斗星4号に電話を掛け、清水を呼び出して貰おうとした。だが、清水は、車掌室に、現われなかった。
また、この列車に乗務していた山本車掌は、清水が、見つからなかったとして、青森駅で交代する森田車掌に、引き継いでいる。
この時に、清水は、すでに、殺されていたのだろうか?
夜中だったが、十津川は、函館署にいる亀井に、電話を掛けた。
「こんな時間に申しわけないんだが」
と、十津川が、いうと、亀井は、
「眠れませんから、いつでも、電話を掛けて下さい」
と、いった。
十津川は、清水の解剖結果を話してから、
「問題の列車に乗務した山本車掌に、会って、函館から青森までの車内の様子を、きいて貰いたいんだ。特に、ロビー・カーが、どんな様子だったかをだ」
「わかりました」
「清水刑事は、B1という、個室寝台《ソロ》の切符を持っていた。多分、犯人が、買って渡したものだと思う」
「函館から、上野までの切符ですか?」
「そうだ。函館駅で、犯人は、それを二枚買ったんだと思う。窓口の係が、ひょっとして、その客を覚えていないかと思ってね」
「それも、調べてみます」
と、亀井は、いった。
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第七章 遺  影
清水の遺体は、両親の住む函館へ運ばれて行った。弟と一緒の寺に葬られるためにである。
仙台に残った十津川に、函館の亀井から、電話連絡が入った。
「青森で交代した山本車掌に、話を聞きました。彼の話では、函館を出たあと、青函トンネルを見たい乗客が、五、六人、ロビー・カーにいたそうです。そして、青森駅に近づいた頃は、二人だけになっていたと、いっています」
「その一人が、清水刑事だったのかな?」
「どうやら、そうらしいのです。二人だけの時、すでに、死亡していたのかも知れません」
「しかし、それなら、なぜ、山本車掌は、気付かなかったんだろう?」
「それなんですが、山本車掌の話では、若いカップルが、仲良くしているのだと、思い、声をかけなかったそうです」
「若いカップル? 女が、一緒だったのか?」
「山本車掌の話では、若い女が一緒だったので、恋人同士が、静かに、夜を楽しんでいるものと思い、男の顔を、確かめたりしなかったと、いっています」
「どんな女だったんだ?」
と、十津川は、きいた。
「年齢は、二十五、六歳。色白で、ピンクのワンピースを着ていたそうです。ソファに腰を下していたので、背の高さはわからないが、長身に思えたと、いっています」
「何か、特徴はないのかね? その女に」
「山本車掌は、横顔を見ただけだと、いっていますが、今、いいましたように、色白で、彫りの深い顔だった。一瞬、ハーフの女性かと思ったそうです。女性の方の印象が強かったので、男の方に、注意がいかなかったとも、いっています」
「石川ひろみではないようだね。彼女とは、感じがちがう」
「ええ」
「その女が、函館駅から乗ったことも、確認されたのかね?」
「現在、聞き込みをやっていますが、まだ、目撃者は、現われません」
「しかし、かなりの美人で、ピンクの服を着ていたんだろう。目立つ筈だがね」
「そう思いましたが、或いは、列車内の個室で着がえたのかも知れません」
と、亀井は、いった。
「その可能性はあるね。山本車掌の証言で、女のモンタージュを作っておいてくれないか?」
「今、函館署で、やってくれています」
と、亀井は、いった。
「私は、こちらで情報を集めてから、もう一度、函館へ行く。清水刑事の葬儀には、参列したいからね」
「彼は、殉職扱いになるんですか?」
「もちろん、なるさ。たとえ、休暇中でも、覚醒剤の売人を、追いかけている最中に、殺されたんだからね。本多一課長を通して、三上部長に、上申しておくよ」
と、十津川は、いった。
「お願いします」
「それから、石川ひろみは、ぜひ、カメさんの力で、押さえておいてくれ。今度の事件について、何か知っているに違いないんだ」
「函館署で、彼女を、監視してくれています。動けば、すぐ、知らせてくれる筈です」
と、亀井は、いった。
十津川は、亀井のいったピンクの服の女のことを考えた。
彼女が、清水を刺し殺したのだろうか?
ナイフで、二度も刺すというのは、女の犯行というより、男の犯行の感じだが、今は、女でも、刺すかも知れない。それは、判断できないが、その女が、殺人に関係していることだけは、間違いあるまい。
多分、清水は、解剖結果から見て、列車が、青森へ着く直前に、殺されたのだろう。
女は、清水の死体を、ロビー・カーのソファに、眠っているように見せかけ、青森駅で、降りたに違いない。
青森ならば、まだ、死体は発見されず、悠々《ゆうゆう》と、列車から降りて、逃亡できるからである。
それとも、こちらの裏をかいて、上野まで、乗って行ったか。亀井のいうように、個室《ソロ》に乗っていたとすれば、着がえは、簡単だ。
十津川は、その日の中《うち》に、一番、可能性のある青森駅に、戻って、聞き込みをしてみることにした。
夕方、青森駅に着くと、十津川は、青森県警に事情を話し、協力して貰うことにした。
探す相手は、北斗星4号を降りたピンクのドレスの女である。彼女は、恐らく、函館から上野までの切符を買っていて、青森で、途中下車した筈である。どの辺りで、清水を殺し、どこの駅で、逃げるか、予測は、立たなかったに違いないからである。
青森駅で、当日回収された切符を調べて貰った。
寝台特急・北斗星4号から降りた乗客は、少かった。
上野に、翌朝着く、夜行列車だから、途中の青森で、午前零時過ぎに降りる乗客が少いのは、当然なのだ。
だから、問題の切符は、すぐ、見つかった。
函館から、上野までの個室《ソロ》の切符が、途中下車で、回収されていたのである。
改札係も、この切符の乗客を覚えていた。
「乗車券の方は、途中下車のあとも、使えるので、呼び止めて、渡そうとしたんですが、さっさと、行ってしまわれたんですよ」
「どんな人でしたか?」
と、十津川は、きいた。
「若い女の方でしたよ。背は、高いが、眼鏡をかけていて、学校の先生みたいな人でしたね。化粧も、してなかったんじゃないかな」
「ピンクの服を着ていませんでしたか?」
「いや、茶色っぽい、地味な服装をしていましたよ。冴《さ》えない女だなと、思いましたからね」
「その他に、何か覚えていませんか?」
「切符を渡して、すぐ、消えてしまいましたからねえ。スーツケースは、持っていたような気がしますよ。白っぽいスーツケースだったと思いますが、自信はありません」
と、若い改札係は、いった。
青森県警では、問題の切符の指紋も、調べてくれることになった。
仙台からも、死んだ清水刑事のポケットに入っていた切符の指紋について、十津川に、連絡して来た。
「被害者である清水刑事の指紋は、検出されました」
「その他の指紋もありましたか?」
「いくつかの指紋がありましたよ。恐らく、車内検札をした車掌の指紋とか、函館駅の改札係などの指紋と思いますがね」
「そちらで、保管しておいて下さい」
と、十津川は、いった。
青森駅の切符からも、三通りの指紋が、検出された。
改札係の話では、女は、手袋はしていなかったというから、彼女の指紋も、この三つの中に入っている筈だった。
十津川は、青森県警に、二つのことを頼んだ。
一つは、宮城県警の検出した指紋と照合すること、もう一つは、この三つの指紋を、警察庁に送って、前科者カードと、照合して貰うことである。
青森駅で降りた女は、何処へ行ったのだろうか?
北斗星4号の青森着は、〇時五七分である。
東京の盛り場なら、まだ、宵の口だが、青森では、別だろう。
女は、地味な恰好をしていたらしいが、それでも、若い女が、一人で、歩き廻れば、目立つ筈である。
十津川は、青森県警に手伝って貰って、その夜、駅前の聞き込みを、行った。
だが、いっこうに、女の消息は、つかめなかった。〇時五七分に、北斗星4号を降り、改札口を出て、駅前に姿を現わしたのに、全く、目撃者が、見つからないのである。
タクシーに乗った様子《ようす》もないし、駅前の旅館、ホテルに泊った気配もなかった。
十津川自身は、青森市内の旅館に、泊ることにして、函館の亀井に、電話を掛けた。
「明日、早く、私も、そちらへ戻るよ」
「清水刑事の葬儀は、明日の午後二時からです」
「わかった」
と、十津川は、いった。
「石川ひろみですが、東京に行きたいと、いっています。兄の死んだ函館は、暗い思い出しかないから、東京へ行きたいというのです。まだ、聞きたいことがあるからといって、何とか、足止めしましたが、いつまでも、止めておくわけにはいきません。別に、彼女が、殺人を犯しているわけじゃありませんから」
「明日の昼まで、彼女を、止めておいてくれ。私は、もう一度、会ってみたいんだ」
と、十津川は、いってから、
「例の伝票は、見つからないかね?」
「残念ながら、まだ、見つかりませんが、一つ、面白い発見がありました。清水刑事は、函館市内の文具店で、コピーをとったことがわかったんですが、その店で、彼は、切手と、封筒も、買っているんです」
「元の伝票を、何処かへ、送ったか?」
「そう思います。コピーの方は、証拠能力がありませんから、元の伝票を、保存しておきたかったんだと思います」
「何処へ、送ったのかな?」
「彼の両親のところには、今のところ、手紙は、届いていません」
「いろは運送に、返したということは?」
「それは、ありません。向うから、返却を求められてもいませんでしたから」
「考えられるのは、何処かな?」
「東京の自宅かも知れませんし、或いは、警視庁の捜査一課宛てに、送ったかも知れません。一番安全ですから」
と、亀井は、いった。
「私から、西本刑事に連絡しておくよ」
と、十津川は、いった。
彼は、亀井への連絡をすませると、西本刑事の自宅マンションに、電話を掛けた。
「死んだ清水刑事が、今度の事件の証拠品を、封筒に入れて、どこかへ送ったんだ。捜査一課に送ったかも知れないし、自宅へ送ったかも知れない。だから、気をつけていてくれ」
と、十津川は、いった。
「どんなものですか?」
「伝票だよ。宅配で、覚醒剤を配ったと思われる伝票だ。五人分だ。絶対に、犯人たちに渡したくない」
「わかりました。清水刑事のマンションには、私が、泊り込んで、郵便を、全部押さえます」
と、西本は、張り切って、いった。
翌朝早く、十津川は、函館に向った。
午前七時二九分青森発の快速・海峡1号で、函館に着いたのは、九時五八分である。
二時間半足らずの列車の中で、十津川は、珍しく、いらだちを、隠せなかった。どんな事件でも、冷静さを失わなかったという自覚があった。むしろ、亀井のような激しさがないのが、自分の欠点と、思っていたくらいである。
だが、今回は、違っていた。部下の若い刑事が殺されてしまった。しかも、自分の対応のまずさのせいだという自責の念が、十津川の心を、占拠している。その上、犯人は、わかっているようで、はっきりしない。覚醒剤に関係している連中だろうとは、思うのだが、その顔が、はっきりして来ないのだ。
函館駅には、亀井が、迎えに来ていた。が、彼の表情も、険《けわ》しく、重いものになっていた。
十津川は、亀井と一緒に、すぐ、石川ひろみに、会いに出かけた。
ひろみは、前に会った時よりも、表情が、険しくなっている感じがした。部屋の隅には、スーツケースが、置かれていて、函館を出て、東京へ行きたがっているという亀井の話を、裏付けているようだった。
ひろみは、十津川の顔を見ると,
「いつまで、ここにいなければならないんですか? 私には、旅に出る権利がある筈ですわ」
と、食ってかかった。
「もちろん、われわれには、あなたを拘束する権利は、ありません。ただ、私としては、何とか、あなたに、事件の解決に、協力して頂きたいのです。これは、お願いです」
と、十津川は、いった。
「私は、何も知りませんわ。私の兄は、死にました。私が知っているのは、それだけですわ」
「清水刑事が襲われた時、あなたは、啄木公園に行っていませんでしたか?」
「行っていませんわ」
「犯人の顔も、見ていない?」
「ええ」
「もし、あなたが見ているとすると、次は、あなたが、狙われますよ。しかし、あなたが、教えてくれないと、われわれも、あなたを、守ってあげることが出来ないんだ。それを、わかって欲しいと、思いますがね」
と、十津川は、いった。
ひろみは、嫌々をするように、小さく、首を横に振った。
「私も、何も知らないんです。もう、警察に関係を持つのも、嫌なんです。東京に行って、構いませんか? 一刻も、この函館にいたくないんですけど」
と、ひろみは、いった。
「仕方がありません。どうぞ、お出かけ下さい。これから、東京に住むつもりですか?」
「別に、東京でなくても、全てを忘れられるところならいいんです」
「でも、東京へ行く?」
「何だか,一番、忘れられそうなところですから」
と、ひろみは、いった。
十津川は、亀井を促して、部屋を出た。
「彼女、本当に、東京へ行く気でしょうか?」
と、亀井は、歩きながら、十津川に、きいた。
「わからないが、これ以上、詮索《せんさく》は、出来ないだろう」
「それは、そうですが──」
「私は、彼女が、何を考えているか、それが、気になるね」
と、十津川は、いった。
「と、いいますと?」
「ただ単に、全てを忘れたいから、函館を出て、東京に行きたいといっているのか、それとも、何か、他の目的があって、東京へ、行くのか、後者とすると、ぜひ、その目的を、知りたいと、思っているんだよ」
「どんな目的が、考えられますか?」
と、亀井が、きいた。
「カメさんは、彼女を、どう思う?」
「それは、彼女の性格のことですか? それとも、今、彼女の置かれている状況のことですか?」
「どちらでも、いいよ」
と、十津川は、いった。
「とにかく、彼女は、今、打ちのめされた気分だと思いますよ。兄が死んだ。それも、殺人犯として、警察に射殺されたわけですから、その悲しみの持って行き場がないと思うのです。函館の市民だって、石川久男は、何の罪もない高校生の清水選手を、殺した悪人ですから、死んだのも、当然のむくいだと、思っているでしょう。だから、函館から、逃げ出したい気持は、よくわかりますよ」
亀井は、同情するように、いった。
「性格は?」
と、十津川が、きく。
「彼女と、つき合っていたわけじゃありませんから、印象しかいえませんが、負けず嫌いのように、思えますね。頭も悪くないようです」
「その点は、同感だよ」
「だから、心配ですか? 警部は」
と、亀井が、きいた。
「実は、そうなんだ。ただ、じっと、身を隠していてくれればいいんだが、何かを考えて、動いたりすると、彼女も、狙われる危険があるからね」
と、十津川は、いった。
「それにしても、彼女は、なぜ、警察に、非協力的なんですかね? 私も、警部と同じように、彼女が、何か知っていると思っているんですが」
「やはり、警察を、信用していないのかも、知れないな」
と、十津川は、小さく肩をすくめた。
十津川は、いったん、函館署に顔を出し、本部長に、今までにわかったことを、報告した。
本部長は、改めて、殺された清水刑事の死について、悔《くや》みを、いった。
今度の捜査を担当して来た三浦警部が、十津川に向って、
「例のニセ刑事の件ですが、残念ながら、まだ、犯人が、見つかりません」
と、申しわけなさそうに、いった。
「仕方がありませんよ。恐らく、向うさんは、計画的にやったことだと思いますし、一つの組織の犯行と、思いますから」
と、十津川は、いった。
「私は、どうも、ニセ刑事は、もう函館には、いないのではないかと、思っているんですが」
と、三浦は、いった。
「なぜですか?」
と、十津川は、きいた。
「モンタージュのコピーを、刑事たちが持って、聞き込みに走っても、いっこうに、結果が、出て来ないからですよ。それに、関係者が、函館を出て行くからです」
と、三浦は、いう。
「関係者というと、誰ですか?」
「例えば、伊原要一郎です」
「彼も、函館を出て行くんですか? ここの市会議員でしょう?」
「昨日、彼は、市会議員を、辞職しました」
「本当ですか?」
「理由は、健康上の理由ということですが、これは、明らかに、嘘ですね。若さと、健康を売りものに、当選した人間ですから。辞職して、函館を出て、新天地でと、いっているそうです」
と、三浦は、いった。
「行先は、どこと、いっているんですか?」
「それは、いいませんが、多分、東京でしょう」
と、三浦は、いった。
「東京ですか」
「そういえば、亡くなった清水刑事も、東京へ行く列車の中で、殺されたんでしたね?」
「そうです」
と、十津川は、いってから、
「石川久男の妹も、函館は嫌だから、東京へ行くと、いっていましたよ」
「石川ひろみもですか」
「何となく、気になりますね」
と、十津川は、いった。それを、何がときかれると、困るのだが、清水は、上野へ行く列車の中で、殺されている。彼は、何か、東京へ行く理由があって、北斗星4号に、乗ったのだろう。
三浦と、別れて、十津川は、亀井と、清水刑事の葬儀の行われる市内の寺に出かけた。
その途中でも、十津川は、清水が、なぜ、北斗星4号に乗ったかを、考えていた。
「彼は、殴られた前後の記憶を失っていた。その記憶が、戻っていたんだろうか?」
歩きながら、十津川が、ひとりごとの調子で、いった。
「警部は、前に、記憶が戻っていたのなら、われわれに、連絡して来た筈だといいましたが」
と、亀井は、いう。
「今でも、そう思っているよ。清水君は、何よりも、自分が、刑事だということを考えていた筈だ。だから、記憶が戻れば、すぐ、私や、カメさんに、知らせた筈だと思っているんだが、ただ、今度は、彼の弟が、殺されている事件だったからね。普段の気持とは、違っていたかも知れない」
と、十津川は、いった。
「もし、記憶が戻ったとすると、そのために、北斗星4号に乗って、上野へ向ったことになって来ますね?」
亀井が、首をかしげた。
「そうなるね」
「そこが、よく、わかりませんね。もし、それが正しいとすると、啄木公園で、清水刑事を殴ったのは、東京の人間か、東京へ行こうとした人間に、なって来ますよ」
「私も、そのことを、ずっと、考えていたんだ。そこへ、石川ひろみも、伊原も、東京へ行くと聞いてね。今度の事件の根は、東京にあるかも知れないと、思い始めたんだよ」
と、十津川は、いった。
「例の五人分の伝票ですが、あの中に、東京の人間が入っていたんじゃないでしょうか? 運送会社が、函館市内なので、配送先も、せいぜい、道内と、考えていたんですが、ひょっとすると、東京の人間も、いたのかも知れません。それを思い出したとすれば、清水刑事が、上京するために、北斗星4号に乗ったことが、納得できるんですが」
と、亀井が、いった。
「あとで、調べてみよう」
と、十津川は、いった。
葬儀の行われる寺は、前に、清水の弟の葬儀が、あったのと同じ寺だった。
兄弟が、相ついで殺され、しかも、高校野球の選手と、現職の刑事ということで、マスコミが、数多く、来ていた。テレビの報道車も、寺の横に、停《とま》っている。
新聞記者の長谷部も、来ていた。
十津川は、まず、清水の遺影に、深々と、頭を下げた。
(君を殺してしまった──)
と、いう気が、どうしても、するからだった。
犯人逮捕を誓うのは、やさしかったが、十津川は、それは、しなかった。自責の念が、強すぎてである。
そのあとで、長谷部に、会った。
「いろは運送の例の伝票だがね。その中に、東京への発送のものがなかったろうか?」
と、十津川は、長谷部にきいてみた。
長谷部は、当惑した顔になって、
「それを、僕も考えてみたんですが、何しろ、僕は、伊原市会議員の名前を見つけて、それで、びっくりして、そのことばかり考えてしまったんです。何としても、この函館では、有名人ですから」
「他の五人については、注意を払わなかったということですか?」
「そうです。清水さんが、東京行の列車の中で殺されたと聞いて、あの時、他の五人の住所や、名前も、注意して見ておけば、よかったと、悔んでいるんですが」
「いろは運送では、北海道以外にも、発送を引き受けるのかな?」
「それは、調べましたよ。もちろん、引き受けて、提携している東京の会社に、頼むと、いっていました。その逆の仕事もあると、いっていました」
「問題の五枚の中に、東京宛ての伝票があったかどうか、その点は?」
と、十津川は、きいた。
「きいてみましたが、覚えていないというのですよ。伝票を渡してしまったので、調べようがないといっています」
「しかし、伝票は、一枚ずつ、帳簿に記入しておくんじゃないのかな? その帳簿を見れば、何とか、わかるんじゃないですか?」
と、十津川は、きいた。
長谷部は、ますます、当惑した表情になって、
「それも、きいてみましたよ。そうしたら、例の川東茂男関係の帳簿だけが、失《な》くなっているというんです。正確にいうと、カ行の帳簿ということでしたが」
「盗まれたんですね」
「いろは運送では、そうと、断定していませんでしたがね」
と、長谷部は、いった。
「いつから、カ行の帳簿が失くなっていると、いっていましたか?」
と、十津川は、きいた。
「ここ一週間ほどの間ということです」
「すると、伝票を、清水刑事と、あなたに、渡したあとということになりそうですね」
と、十津川は、いった。
十津川と、亀井は、葬儀が終るまで、その寺にいた。とにかく、そうしたかったのだ。
陽が落ちてから、二人は、函館署に、引き揚げた。
函館署の三浦警部が、十津川に、
「伊原が、一六時四五分の全日空で、東京に飛んだそうですよ」
と、教えてくれた。
「やはり、東京へ行きましたか」
「石川ひろみもです。なぜか、みんな、東京へ行きますね。それも、逃げるようにです」
「覚醒剤のルートですが、普通は、東京や、関西方面から、函館へ入って来ていたと思うんですが、逆の可能性も、考えられますか?」
と、十津川は、三浦に、きいた。
「まだ、そのルートは、はっきり解明されていませんが、函館の港には、各国の船が入っていますし、千歳空港は、国際空港です。東京や、関西の警備が厳しければ、北海道から、入って来る可能性も、考えられますね」
と、三浦は、いった。
三浦のいうことが、当っていれば、伝票の五人の中に、東京の人間がいても、おかしくはないのだ。
覚醒剤は、韓国、台湾、フィリッピンなどから、日本に入って来る。成田や、大阪の空港、或いは、横浜、神戸、長崎などの港を通じてである。
その方面の警戒が厳しくなれば、韓国→千歳のルートが、利用されるかも知れないし、函館の港が、使われる可能性もあるのだ。
「われわれも、東京に戻ることにしよう」
と、十津川は、亀井にいい、清水刑事が乗ったのと同じ北斗星4号で、帰京することにした。
その日の二二時三八分函館発の北斗星4号に、二人は、乗った。
二段式のB寝台の切符を買ったのだが、十津川と、亀井は、清水刑事が死んでいたロビー・カーに、足を運んだ。
ロビー・カーには、五、六人の乗客がいた。亀井が、自動販売機で、コーヒーを買い、それを、十津川のところに、持って来た。
二人は、ソファに、腰を下した。
これから、列車は、海沿いに走り、青函トンネルに入って行く。
十津川は、紙コップをテーブルに置き、煙草に火をつけた。
(清水は、どんな気持、どんな理由で、この列車に、乗っていたのだろうか?)
と、十津川は、考える。何よりも、今は、それを知りたいと思うのだ。
「清水刑事と一緒にいたという女は、いったい誰なんでしょうか?」
と、亀井が、いった。
すでに、何回も繰り返された質問だった。が、十津川にも、見当がつかない。その答も、同じなのだ。
「どこの誰かわからないが、彼女が、清水刑事を、あの日、北斗星4号に乗せた。その女が彼の死に関係があることだけは、間違いないと、思っているよ」
と、十津川は、いった。
「何とかして、その女を見つけ出したいですね」
と、亀井が、いう。
「青森で降りたことはわかっているが、今頃は、東京に行っているかも知れないね。その女も、上野行の北斗星4号に乗ったんだから」
と、十津川は、いった。
「組織の人間でしょうか?」
「それも、わからないね。今は、何もわからないのと、同じ状態だよ。それなのに、すでに、清水兄弟が、殺されてしまっている」
と、十津川は、いった。
「しかし、このままでは済ませられない。清水兄弟は、いってみれば、二人とも、覚醒剤の犠牲者です。もし組織があるのなら、それを壊滅させなければ」
と、亀井が、いって、唇をかんだ。
窓の外を、暗い夜が、流れて行く。時折、小さな駅の明りが、眼の前を、通り過ぎる。
十津川も、亀井も、いつの間にか、黙ってしまっていた。
やがて、北斗星4号は、轟音を立てて、青函トンネルに、滑り込んで行った。
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第八章 東 京 へ
青森着〇時五七分。
ここで、清水を殺したと思われる女が、降りたのである。或いは、女の仲間がである。
しかし、もちろん、すでに、この青森からは、出てしまっているだろう。
「北斗星4号」は、再び、上野に向って、発車した。
このあと、午前五時四七分に仙台に着くまで、乗客の乗り降りはない。
十津川は、自分の寝台に、入ったが、とても、眠れるものではなかった。
亀井も、同じだとみえて、しきりに、寝返りを打っている。
午前二時過ぎに、十津川は、
「少し歩いて来るよ」
と、小声で、亀井に、いって、寝台をおりた。
「私も、歩きたいですね」
と、いって、亀井も、ついて来た。
二人は、先頭車の方向に、通路を歩いて行った。
その足が、1号車に入ったところで、急に、とまった。
1号車も、二段式B寝台である。すでに、大方の乗客は、眠りにつき、ひっそりと、静まり返っている。
ここまでどの客車の通路にも、人の姿はなかったのだが、1号車の通路には、若い女が一人、立っていた。
彼女は、じっと、窓の外を見つめている。
「石川ひろみじゃありませんか?」
と、亀井は、小声で、いった。
「そうらしいね。彼女も、東京へ行くと、いっていたんだ」
「どうしますか?」
「そうだな」
十津川は、あいまいにいい、ドアについている小さなガラス窓から、通路を見ていた。
石川ひろみは、十津川たちには、全く、気付かぬ様子で、じっと、窓の外の夜景を見つめている。いや、夜景を見ながら、何かを、考えているのだろう。
しばらく置いて、十津川は、ドアを押して、通路に入った。ひろみは、まだ、気付かずに、車窓に、眼を向けている。
「石川さん」
と、十津川が、声をかけて、初めて、顔を向けた。
その顔に、戸惑いが、浮んでいた。
「われわれは、東京に帰るんですが、あなたも東京ですか?」
と、十津川は、いった。
「ええ」
と、ひろみが、小声で、答える。
「今、話をしていいですか?」
「ここで、ですか?」
と、ひろみは、通路に沿って並んでいる寝台に、眼をやった。カーテンのおりた寝台からは、小さな寝息が、聞こえて来る。
「デッキに行きますか?」
と、十津川が、きいた。
ひろみは、仕方がないというように、「ええ」と、肯《うなず》いた。
三人で、デッキに、足を運んだ。
「何も、お話しすることは、ないと思いますけど」
と、ひろみは、相変らず、かたい表情で、二人の刑事を見た。
「東京での落ち着き先は、どこですか?」
と、十津川が、きいた。その質問に対しても、ひろみは、
「なぜ、プライベイトなことまで、警察に、いわなければなりませんの?」
と、突っかかってきた。
十津川は、苦笑しながら、
「もちろん、警察に、答える義務は、ありませんよ。ただ、われわれとしては、何とかして、覚醒剤ルートを解明し、清水刑事を殺した犯人を、捕えたいんです」
「私とは、関係ありませんわ」
「わかっていますが、あなたが、今度の一連の事件に関係して、何か知っているのなら、それを、知りたいと思っているんです。今は、話したくないかも知れませんが、話す気になったら、もう一度、お会いしたい。それで、東京では、どこに住まわれるのか、知っておきたいんですよ」
と、十津川は、いった。
「私は、何も知りませんわ」
ひろみは、ニベもない調子で、いった。
「そうですか?」
「ですから、何のお役にも立てませんわ。もう、寝たいんですけど、構いません?」
「どうぞ。ただ、何かあったら、すぐ、警察へ連絡して下さい」
と、十津川は、いった。
ひろみは、すぐ、ドアを開けて、自分の寝台へ戻ってしまった。
「警部は、彼女が、何か知っていると、思っておられるみたいですね?」
と、亀井が、きいた。
「ロビー・カーへ行ってみないかね」
と、十津川は、誘った。
ロビー・カーには、一人も、乗客は、いなかった。
二人は、自動販売機で、缶コーヒーを買い、それを持って、ソファに腰を下した。
窓の外を、夜景が、流れて行く。
「石川ひろみだがね。彼女が、何か知っていることは、明らかだよ。ただ、それが、何なのか、全く、見当がつかない。ひょっとすると、彼女自身、覚醒剤の売買に、関係していたのかも知れない」
「しかし、彼女が、覚醒剤中毒には、見えませんが」
と、亀井は、いった。
「ああ、それはなさそうだね」
「それでも、何らかの関係があると?」
「そんな気がする時もあるといった程度だよ」
と、十津川は、いった。
正直にいって、十津川にも、自信がないのだ。それに、覚醒剤のために、人を殺し、自分も死んだ男の妹である。どうしても、強い言葉で、責められない。石川ひろみの方から、自主的に、知っていることを、話して貰いたいのだ。
「清水刑事は、なぜ、この列車に、乗ったんですかねえ?」
亀井は、何回も繰り返してきた疑問を、また、口にした。
十津川は、テーブルに置いた缶コーヒーを、口に運んでから、
「それを、ずっと、考え続けているんだよ。罠《わな》にはめられたとしか、考えられないがね」
「どんな罠だったんですかね?」
「多分、北斗星4号に乗れば、彼を殴った犯人に会えるとか、或いは、覚醒剤ルートのボスが、乗っているからとでも、いわれたんだろうと、思っているんだがね」
「それを、警部や、私に、連絡せずに、彼は、北斗星4号に乗った。その理由が、わかりませんね。彼は、優秀な刑事ですよ。職務に忠実な刑事です。何か、行動を起こす時には、必ず、上司や、同僚に、連絡する男です。それが、なぜだろうと思いますね」
と、亀井は、いう。
十津川は、肯いてから、
「強《し》いて考えれば、清水刑事は、自分の不注意から、何者かに殴られ、しかも、その記憶を失って、犯人もわからない。そのことに、自責の念を持っていた。だから、自分一人で、事件を解決しようとした。だから、私たちには、連絡せずに、北斗星4号に、乗り込んだ。そうとしか考えられないんだがね」
「それでも、われわれに、置手紙ぐらいすると思うんですがねえ」
亀井は、残念そうに、いった。
「今度の事件では、わからないことが、多すぎるよ。例の伝票も、とうとう、見つからなかった」
と、十津川は、いい、缶コーヒーの残りを、飲み干し、煙草に、火をつけた。
「五人分の伝票を、清水刑事は、どうしたんですかねえ。折角、街の文具店で、コピーしたのなら、誰かに、預ければよかったと、思うんですが」
亀井は、不満げに、いった。
「それだがね。清水刑事は、若くて、突っ走ることもあったが、用心深いところもあった。だからこそ、わざわざ、コピーをとったんだ」
「そうです」
「それを、誰にも預けずにおいたなんて、考えられないんだよ。それでは、コピーしたことが、何にもならないからね」
「その通りだと思います」
「だから、誰かに、預けたと考えるのが、妥当じゃないかな」
と、十津川は、いった。
「しかし、そうだとしたら、預かった人間は、なぜ、名乗り出て来ないんでしょうか?」
と、亀井が、きく。
十津川は、しばらく、黙って、窓の外を見つめていた。
雨でも降って来るのか、窓の外は、ひどく暗い。そのせいか、遠くに見える家々の灯が、眩《まぶ》しかった。
「清水刑事は、五人分の伝票を、誰かに預けたとしよう」
と、十津川は、新しい煙草に火をつけてから、いった。それに、続けて、
「そうだとして、誰に預けたか、考えてみようじゃないか」
「清水刑事は、函館の生れですが、長い間、離れていたので、信用できる人間は、少かったと思います。大事なものを預けるのに、見ず知らずの人間を選ぶとは、思えませんから、限定されてきます」
と、亀井は、いった。
「誰がいると思うね?」
と、十津川が、きいた。
「そうですね。函館にいる彼の両親が、まず考えられます」
「しかし、覚醒剤事件に、両親を巻き込みたくないと、考えるんじゃないかね?」
と、十津川が、いった。
「それは、あるかも知れませんね。弟が殺されて、悲しみの最中にいる両親に、それを思い出させるようなことは、しないかも知れません。となると、あとは、函館署の刑事ですか?」
「刑事が、預かっていたら、われわれに、知らせない筈はないと思うがね」
と、十津川は、これにも、疑問を出した。
「あとは、清水刑事と、一緒に行動していた新聞記者の長谷部が、考えられますが」
と、亀井は、いった。
「あの記者か」
「特ダネをつかもうと必死でしょうから、清水刑事から預かった伝票を、われわれに渡さず、自分たちで、調べて、特ダネとして、発表する気かも知れません」
「それは、十分に、考えられるね」
「他にいるとすれば、先刻会った石川ひろみですね」
と、亀井は、いった。
「なぜ、彼女なんだ?」
「私と警部も、彼女を、マークしています。清水刑事も、同じだったと思うのです。そして、彼女も、被害者の一人です。兄を、覚醒剤で、失っていますから。もし、清水刑事が、彼女に会っている時、彼女が、私が知っている人がいるかも知れないといえば、見ておいてくれといって、清水刑事は、伝票を預けたかもわかりませんよ」
「なるほどね。その可能性は、ゼロじゃないね」
と、十津川は、いった。
清水刑事の両親
函館署の刑事
長谷部記者
石川ひろみ
考えられるのは、この人物たちということで、十津川と、亀井の意見は、一致した。
だが、両親には、危険なものは預けないだろうし、もし、預かっていれば、十津川に、その旨話してくれたろう。
函館署の刑事も同じだ。秘密にしておくとは、思えない。
残るのは、長谷部と、石川ひろみの二人である。しかし、この二人が、持っているとして、簡単に、十津川に、見せてくれるとは、思えなかった。
亀井のいうように、長谷部は、自分の特ダネに利用するだろうし、石川ひろみは、なぜか、警察に、非協力的だからである。
「長谷部記者については、函館署に、頼んでみよう」
と、十津川は、いった。
「石川ひろみは、どうします?」
と、亀井が、きく。
「あの様子じゃ、持っていても、渡さないだろうね」
と、十津川は、いった。
二人は、自分の寝台に戻るのが、面倒くさくて、ロビー・カーのソファで、眠った。
五時四七分、仙台着。
ホームを見ていた亀井が、突然、
「石川ひろみが、降りましたよ!」
と、叫んだ。
仙台駅のホームを、ひろみが、スーツケースを下げ、階段に向って、歩いて行くのが見えた。
「東京へ行くといったのは、嘘だったんですかね?」
と、亀井が、いまいましげに、いった。
「そうじゃないと思うよ。仙台からなら、東北新幹線も出ている。多分、われわれと一緒に、東京まで行くのが、嫌だったんだろう。いろいろと質問されるのがね」
と、十津川は、いった。
「私が、尾行しましょうか?」
「何も話したくない女を尾行しても、仕方がないさ。しばらくは、好きにさせておこうじゃないか」
「しばらくはですか?」
「これも、勘だがね。東京で、また、彼女に会いそうな予感があるんだよ」
と、十津川は、いった。
嘘ではなかった。十津川は、あまり、勘を信じない方だが、今度だけは、別だった。石川ひろみとは、また会いそうな気がして、仕方がないのだ。それも、覚醒剤を、仲介にしてである。
午前一〇時一二分。
二人の乗った北斗星4号は、上野駅に着いた。
やはり、東京は、雨になった。
改札口のところに、西本と、日下の二人が、迎えに来てくれていた。
「伊原要一郎は、東京に来ています」
と、車に乗ってから、西本が、十津川に、報告した。
「確認が、取れたのかね?」
「今朝の新聞にも出ていました」
「新聞に、何と書いてあったんだ?」
「これです」
と、西本は、朝刊の一部を切り取ったものを、十津川に、見せた。
〈杉野代議士、総裁選へ意欲満々〉
それが、見出しで、若手だが、保守党の次の総裁選挙の有力候補の一人といわれる杉野代議士の写真が、のっていた。
記事の方は、次のようなものだった。
〈かねてから、優秀なブレーンを集めて、斬新な政策を打ち出すことで有名な杉野さんは、また、新しく、二人の若手政治学者を手元におき、秘書も、三人増やすという。その人たちの名前は、次の通りである〉
その五人の名前の中に、伊原要一郎が、出ているのだ。
「地方議会から、今度は、中央政界への足がかりを、つかもうというわけか」
と、十津川は、肩をすくめた。
「杉野代議士は、力もあるし、若くて、女性に人気のある人物ですから、その下に入ったとなると、うかつに、手を出せなくなりました」
と、西本が、いう。
「杉野さんは、伊原が、覚醒剤の件で、疑惑をもたれていることを、知っているのかね?」
と、十津川は、いった。
「いや、知らないでしょう。知っていれば、採用しなかったと思いますよ」
「有力者の推薦もあったんだろうね」
「伊原の背後には、財界の有力者がついているようですから」
と、西本は、いった。
「川西の消息は、何か聞かないかね? 川東茂男という名前で、宅配を利用し、覚醒剤の密売をやっていたと思われる男だ」
「捜査四課にも、連絡を取って、いろいろと調べているんですが、まだ、消息がつかめません。その男は、本当に、東京に来ているんでしょうか?」
「確信はないがね。私は、東京に来ていると、思っているんだ」
と、十津川は、いった。
警視庁に戻り、捜査一課の部屋に入ると、清水刑事の机の上には、小さな花が、飾られていた。
北条早苗刑事が、飾ったものらしいが、十津川は、改めて、若くして、亡くなった清水の顔を、思い出した。
上司の本多捜査一課長に会い、函館でのことを、報告した。
「清水刑事のことは、かえすがえすも、残念だったね」
と、本多は、いった。
「私の責任です」
「そんなことはないよ」
「いや、私の責任です。必ず、彼を殺した犯人は、挙《あ》げてみせます」
十津川は、自分にいい聞かせる調子で、いった。課長の前で、犯人を挙げてみせると広言するのも、十津川にしては、珍しいことだったが、今回に限り、宣言したかったのだ。
「犯人の目星は、ついているのかね?」
と、本多が、きいた。
「正直にいって、ついていませんが、相手は、個人ではなく、一つの組織と考えています」
「どんな組織だね?」
「それも、わかりません。覚醒剤の密売に関係している暴力団かも知れませんし、全く違う組織かも知れません。なかなか、その組織の顔が、見えて来ないのです」
「顔のわからない組織か」
「しかし、何となく、既成の暴力団といったものではないような気がするのです」
と、十津川は、いった。
「なぜだね?」
「西本刑事たちが、捜査四課にも協力して貰って、調べていますが、いっこうに、におって来ないといっています。既成の暴力団が関係しているのなら、何かにおって来る筈だと思うのです」
「すると、全く新しい組織か」
「そんな感じがしています」
「その組織に、伊原要一郎や、川西が、参加しているということになるのかね?」
「かも知れませんし、伊原は、ただ、買い手の一人だったのかも知れません。川西も同じです。組織の一員だったということも、考えられますし、組織に利用されていた売人の一人に過ぎないのかも知れません」
と、十津川は、いった。
「その組織は、東京にあって、函館には、その手を伸ばしていたということになるのかね?」
と、本多が、きく。
「多分、そうでしょう。従って、事件の根も、東京にあると、思っています。清水刑事が、殺されたのも、東京から、指令が出たためだと、私は、思っています」
と、十津川は、いった。
「指令が?」
「そうです。特に、注意したいのは、清水刑事を、警察官と知っていて、殺したことです。普通、覚醒剤の事件では、仲間割れで、殺しが起きても、警察官を殺すことは、ありませんでした」
と、十津川は、かたい表情で、いった。
本多も、きつい眼になって、
「警察に対する挑戦か」
「少くとも、この組織は、警察官を殺すことを、ためらわないことだけは、確かです」
「これからも、殺すだろうということかね?」
と、本多が、きく。
「多分。必要と思えば、殺すでしょうね。われわれも、それだけの覚悟を、しておく必要があると思います」
「君のいうように、普通は、警察を敵に廻してしまうので、警察官には、手を出さんものだがね」
「そうです」
「なぜだろう?」
「わかりません」
と、十津川は、正直に、いった。
まだ、犯人たちの輪郭も、浮んで来ないのである。
「伊原要一郎は、監視するのかね?」
と、間を置いて、本多が、きいた。
「いけませんか?」
「何といっても、総裁候補の政治家の秘書だからね。伊原が、覚醒剤に関係しているという確証がないのに、尾行や、監視をすると、問題になりかねない。それを、三上部長も、心配されているんでね」
と、本多は、いった。
「わかりました。伊原要一郎には、何もしないことにします。中央政界に入ったばかりで、まさか、覚醒剤に、手を出すことは、しないでしょうから」
「そうだな」
「ただし、伊原が、覚醒剤に関係していることが、わかった時は、誰が、何といおうと、逮捕します」
と、十津川は、声を強めて、いった。
「それは、当然だ」
と、本多も、肯いた。
部屋に戻ると、十津川は、改めて、部下の刑事たちを集めた。
「清水刑事を殺した犯人は、絶対に逮捕し、同時に、覚醒剤ルートを、叩き潰《つぶ》す。その代り、今、本多一課長にも話したんだが、相手は、警察官でも、容赦なく殺す連中だ。その点は、注意して欲しい」
と、十津川は、いった。
誰も、何もいわなかった。全て、わかっているという感じだった。
「具体的に、何から、始めますか?」
と、亀井が、きいた。
「伊原要一郎の尾行と監視は、禁じられた」
と、十津川が、いうと、若い西本刑事たちが、表情を険しくして、
「まずいというわけですか?」
「そうだ。今の段階では、手は出せない」
「しかし、伊原以外の人間は、行方が、わかっていませんよ。川西は、消息がつかめませんし、彼が覚醒剤を送ったと思われる連中の中《うち》、伊原以外の五人は、伝票が見つからないから、名前も、わからない状況ですよ。唯一、わかっている伊原に、手が出せない。監視も駄目だというのでは、何も出来ないじゃありませんか」
西本が、不満を、ぶつけてきた。
他の日下や、田原刑事も、じっと、十津川を見つめている。
十津川は、苦笑した。
「私は、本多課長に、伊原要一郎の尾行と、監視は、やらないと、約束した。しかし、偶然、伊原の行先に、われわれがいたとしても、それは、尾行や監視には、当らないと、思っているよ」
「しかし、警部。偶然、ぶつかるなんてことが、出来ますか?」
と、亀井が、きいた。
「今、北条君が、伊原要一郎の毎日のスケジュールを、調べてくれている。それがわかれば、やり方はある筈だ」
と、十津川は、いった。
「中央政界に、足を踏み入れたばかりの伊原が、また、クスリに、手を出すでしょうか?」
亀井が、首をかしげた。
「多分、しばらくは、手は出さないだろうね」
「そうだとしますと──?」
「伊原が、自重していても、相手は、どうだろうね。一つの組織が、伊原に、覚醒剤を、流していたとする。その組織は、彼を、放っておかないんじゃないか。中央政界に入った伊原を、前よりも、利用しようとするかも知れないし、或いは、伊原の口から、組織の秘密が洩れるのを心配するかも知れない。いずれにしろ、また、接触して来るんじゃないか」
と、十津川は、いった。
「なるほど」
と、亀井が、肯いた。
一時間ほどして、北条早苗刑事が、帰って来た。
「伊原要一郎の一日のスケジュールが、わかりました」
と、早苗は、いい、メモを、十津川に、渡した。
「どうやって、調べたんだ? まさか、伊原本人に、聞いたんじゃあるまいね?」
と、十津川が、心配して、きく。
早苗は、笑って、
「私の大学時代の友人が、政経雑誌の記者をやっているんです。彼女が、今度、代議士新人秘書の一日というのを、やったんです。うまいことに、伊原要一郎のケースを調べたというので、見せて貰っただけですわ」
「それならいい」
と、十津川は、いい、そのメモの中から、利用できる項目を、黒板に、書き抜いた。
十津川が、注目したのは、伊原が、身体を鍛えるために、午後七時から八時まで、西新宿の超高層ビルの中にあるヘルスクラブに、通うという項目だった。
KSヘルスクラブである。
「誰か、ここの会員になってくれ」
と、十津川は、西本たちを見た。
「しかし、そういうところのヘルスクラブは、高いですよ」
と、西本が、いった。
早苗が、手帳を取り出して、
「入会金百万円、毎月の会費が十五万円です」
「そんな金は、出してくれませんよ。伊原の監視のためなんていったら、猶更《なおさら》でしょう」
と、西本が、大きな声を出した。
「もちろん、出やしないさ」
「じゃあ、どうします?」
「私の奥さんは、関西の金持ちの姪でね。そのくらいの金は、出してくれそうだ。君たちの中の、誰が、通うか、それを、決めてくれ」
と、十津川は、いった。
「私は、駄目ですよ。身体がこわれてしまう。それに、私の顔は、刑事面だから、まずいですよ」
と、亀井が、いった。
結局、若い刑事たちが、クジ引きをして、日下刑事が、会員になることになった。
翌日、十津川が、妻の直子に頼んで、百十五万円を用意して貰い、日下が、それを持って、KSヘルスクラブへ、出かけて行った。
三十八階建の高層ビルの五階にあるヘルスクラブである。
温水プール、サウナなどもある豪華なヘルスクラブだった。
フロントで、手続きをした。会社名は、もちろん、警視庁ではまずいので、友人の勤めている商社名を、書き込んだ。
会員証と、ロッカーのキーを貰い、日下は、着がえをして、まず、ランニングルームに入って行った。
会社帰りらしい若い男女もいれば、中年の会員もいる。
指導員が、丁寧に、教えてくれる。
日下は、ゆっくりと、走りながら、会員の中に、伊原要一郎の姿を探した。
七時半頃になって、伊原が、現われた。
伊原も、まず、ランニングから始めたが、日下は、それを見て、
(意外に、敏捷《びんしよう》な感じだな)
と、思った。
日下は、途中で、伊原に追いついて、
「元気ですね」
と、声をかけた。
「ありがとう」
と、伊原が、いう。
「僕は、新入りなんで、いろいろと、教えてくれませんか」
「私も、入会したばかりですよ」
と、伊原も、笑った。
二人は、ランニングルームを出た。
「僕は、日下です。T商事に勤めています」
と、汗を拭きながら、日下は、伊原に、自分を紹介した。
「私は、伊原です」
と、相手も、名乗った。
「何をされてるんですか?」
「何をしていると思います?」
伊原は、笑顔で、きいた。
「普通のサラリーマンの感じじゃありませんね。どこかの若社長という感じだな。違いますか?」
「さあ。どうですかね」
と、伊原は、楽しそうに、いった。
(この野郎)
と、日下は、思いながら、あくまで、笑顔で、
「自由業かな。そうなら、羨《うらや》ましいですねえ」
と、いった。
伊原は、八時過ぎに帰って行った。が、彼に接触したのは、日下以外には、いなかった。
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第九章 ヘルスクラブ
一週間たった。
その間、函館署から、北斗星4号のロビー・カーで、清水刑事と一緒にいたという、女性のモンタージュ写真が、送られてきた。
しかし、暗いロビー・カーの中で、車掌が、ちらっと見ただけの印象で、作った写真だから、あまりあてにはできないだろう。
「これといった動きはありませんが、一つ、困ったことがあります」
と、日下が、十津川に、報告してきた。
「君が、刑事とばれたのか?」
「そうじゃありませんが、警部の奥さんが、あのヘルスクラブに入会されたんです。昨日、会って、びっくりしました」
「直子が?」
「ええ。びっくりして、危うく、あいさつしかけましたよ。そんなところを、伊原に見られたら、変に思われかねません。何しろ、私は、彼には、クラブには、知り合いはいないといってるんですから」
「とにかく、家内にきいてみよう。なぜ、あのヘルスクラブに、急に入会したのか」
と、十津川は、いった。
その夜、十津川は、直子に、クラブのことを問いただした。
「あなたに、ヘルスクラブの話を聞いて、私も、入会してみたくなったの。若さを保ちたいし──」
と、直子は、いった。
「それだけ?」
「それに、あなたのお役に立ちたいとも思ったわ」
「日下刑事が、びっくりしていたよ」
「そういう点、彼は、若いわね。すぐ、顔色に出すから。それに、刑事そのものといった顔をしているわ」
と、直子は、いった。
「そうかねえ」
「だから、相手は、警戒してしまうわ」
「私は、彼が、有能な刑事と、信頼しているよ」
「もちろん、刑事としては、優秀な青年だわ。その点は、同感だけど、スパイには、向かないわね」
「スパイ?」
「伊原という人のことを探るんでしょう? 日下さんは、警察手帳を見せて、訊問するのは、上手《うま》いと思うけど、何気なく、相手の秘密を、探り出すのは、不得手な人よ。だから、私が、お手伝いしようと思ったの」
と、直子は、いう。
確かに、十津川の部下たちは、日下に限らず、直情径行型が多くて、スパイ的な仕事は、苦手である。
「しかし、日下刑事を、やめさせる気はないよ。彼も、一生懸命、やってるんだ」
と、十津川は、いった。
「わかってるわ」
と、直子は、ニッコリして、
「日下さんは、日下さんで、一生懸命に、やったらいいと思うの。ただ、女の私の方が、相手は、油断するわ。もう一つ、あの伊原という人は、女好きね。それは、間違いないわ。だから、私の方が、スパイは、しやすい筈よ」
「女好きというのは、君の勘か?」
と、十津川が、きくと、直子は、クスッと、笑って、
「あのクラブには、女性の会員が、三十人ほどいるんだけど、私は、最初に、彼女たちと仲良くなったわ。その時、聞いたんだけど、彼女たちの一人が、伊原さんに、口説かれたんですって」
「ほう。面白いね」
「野崎裕子さん。二十五歳の美人よ。どこかの会社の社長か、部長さんの秘書だと聞いたわ」
「日下刑事は、そのことは、知らなかったようだよ」
「そうでしょう」
と、直子は、楽しそうに、いった。
「だから、私も、役に立つと思ってるの。日下さんの邪魔はしないから、私も、勝手にやらせて欲しいのよ。日下さんが、何か掴《つか》めば、それはそれでいいし、私の耳に、何か聞こえたら、それは、それで、役に立つと思うんだけど」
「邪魔はしないと、約束できるね?」
「誓うわ。だから、日下刑事さんには、知らん顔をしていて貰いたいの」
「それは、伝えておくよ。ところで、君は、十津川直子の名前で、会員になっているんじゃないだろうね?」
「そんなヘマなことをするもんですか。旧姓で、会員になっていますよ」
と、直子は、いった。
十津川は、翌日、日下に、直子の話を伝えた。
「家内は、無視して、行動してくれていい。家内も、絶対に、君の邪魔はしないといっている。ただ、野崎裕子という女のことは、本当だと思うね」
と、十津川は、いった。
「その女性のことは、知りませんでした。伊原と同じように、マークしてみます」
と、日下が、いった。
勢い込んだ、そのいい方に、十津川は、思わず、苦笑してしまった。直子の言葉を思い出したからである。
「何か、おかしいですか?」
と、日下に、きかれて、十津川は、
「君は、真正直《まとも》すぎるところがあるんだよ。簡単に、刑事と、見破られる心配がある」
「そうでしょうか? 自分としては、努めて、柔らかく、振る舞っているつもりですが」
日下は、不満そうに、いった。
「わかってるよ。君が、努力しているのはね。ただ、功を急ぎすぎると、向うも、警戒しているから、用心される。それに、心配なのは、今度の相手が、平気で、清水刑事を、殺していることだ。だから、君が、刑事とわかると、敬遠される代りに、殺される心配があるんだよ」
と、十津川は、いった。清水刑事を失った痛みを、また、味わいたくないのだ。
「清水刑事の二の舞いには、なりませんよ。絶対に、仇を取ってやります」
と、日下は、きっぱりと、いった。
そのいい方に、十津川は、また、危惧《きぐ》を覚えるのだが、今度は、何もいわなかった。あまり、細かく指示して、角《つの》をためて、牛を殺すことになってはいけないと、思ったからだった。
その代りに、十津川は、北条早苗刑事に、野崎裕子という女のことを、調べさせた。女の方が、警戒されることは、少いと思ったからである。
「野崎裕子。二十五歳。N興業の社長秘書です。K大の政経を卒業したあと、アメリカに、二年留学し、帰国後、N興業に入社しました。大学時代から、才媛の誉《ほま》れが高く、そのせいか、美人ですが、冷たいという評判が、強かったといわれています。現在、独身で、恋人がいるかどうかは、不明です」
と、北条早苗は、十津川に、報告した。
「いつから、あのヘルスクラブに、入会しているんだ?」
「入会は、去年の四月ですから、一年半ほどになります。なお、N興業は、法人として、あのヘルスクラブに、入会しています。N興業の他にも、何社か、入っていますが」
と、早苗は、いった。
「今のことを、日下刑事にも、伝えてやってくれ」
と、十津川は、いった。
「うまくいきそうですか?」
亀井が、十津川の傍に来て、きく。
「お茶でも、飲みに行こう」
と、十津川は、いって、立ち上った。
庁内にある喫茶ルームで、二人は、コーヒーを飲んだ。
「こういうのは、神経が疲れるよ。果して、何か掴めるのかどうか、成算がないし、逆に、不安の方が、強い」
と、十津川は、いった。
「日下刑事は、うまくやりますよ」
亀井は、十津川を安心させるように、いった。
「しかし、芝居が、うまくやれるとは、思わないんでね。犯人を、どんどん追いつめて行くのなら、勇気と、体力があれば、大丈夫なんだが、今度は、日下刑事にしても、勝手が、違うだろうからね」
と、十津川は、浮かない顔で、いった。
「石川ひろみの行方は、まだ、わかりませんか?」
亀井は、コーヒーを、ゆっくり、かき廻しながら、きいた。
「わからないが、東京に来ていることは、間違いないと、思っているよ」
「彼女は、何しに、函館を離れて、東京に来たんですかね?」
「彼女自身は、兄が、あんな死に方をした函館にいるのが嫌になったと、いっていたがね。それだけとは、思えないんだよ。いぜんとして、彼女は、まだ、覚醒剤に、関係しているような気がして、仕方がないんだ」
と、十津川は、いった。
彼が、煙草を取り出した時、ポケットベルが、鳴った。
捜査一課に、連絡すると、日下から、電話が入っているという。十津川は、その電話を、廻して貰った。
「伊原が、例の野崎裕子を誘って、今、ヘルスクラブと同じビルにあるクラブで、会っています」
と、日下は、いった。
「手が早い男だな」
と、十津川が、感心すると、
「私も、驚いています。そこは、午後九時から、ナイトクラブになる店なんですが、どうも、その時間まで、二人は、いるようですよ」
と、日下は、いった。
「二人は、どんな様子なんだ?」
「楽しそうに、話しています。確かに、彼女は、きれいですね。羨《うらや》ましいですよ」
と、日下は、いった。
「どんなことを話してるのか、興味があるね」
「どうせ、伊原が、一生懸命に、口説いているんだと思いますがね」
「面白くなさそうないい方だな」
「若い女というのは、政治家の卵に弱いんですかね」
「自分の未来に、大臣夫人の夢を描くのかも知れないよ」
と、十津川は、いった。
野崎裕子は、現在、N興業の社長秘書である。将来、どんな夢を持っているのだろうか?
社長の息子と結婚して、社長夫人になる夢か。それなら、大臣夫人の椅子だって、同じように、憧れるのではないか。
(まあ、刑事の妻よりは、魅力があるだろう)
と、十津川は、苦笑しながら、思った。
若い日下だって、そんなことを考え、自然に、不機嫌になっているに違いない。
時間が、たっていく。が、いぜんとして、伊原は、野崎裕子を、口説き続けているらしかった。
午後十時を回った。
問題のクラブはすでに、ナイトクラブに、衣がえをした時刻である。
「今、二人は、ご機嫌で、踊っています」
と、日下は、電話して来た。
「踊っている?」
「音楽が聞こえていませんか? 店が、ダンス音楽を流しているので、伊原が誘って、二人で、踊っているんです。いい気なものですよ」
日下は、また、腹立たしげに、いった。
「大丈夫か?」
「何がですか?」
「ひとりで、ずっと、同じ店にいるのは、辛いだろうと、思ってね」
「馴れてるから、大丈夫ですよ」
「伊原は、君に気付いている様子か?」
「わかりませんが、向うは、私を、刑事と気付いていないから、平気ですよ」
と、日下は、いった。
十津川が、受話器を、耳に押しつけると、確かに、ダンス音楽が、聞こえてくる。
十津川は、北条早苗刑事を、呼んで、すぐ、西新宿の超高層ビルの中にあるクラブに、行くように、いった。
「日下刑事は、ひとりで、粘っているが、伊原に、怪しまれかねない。君が、彼のガールフレンドの感じで、助けに行って欲しい」
「わかりました」
と、肯《うなず》いて、早苗が、飛び出して行こうとするのを、十津川は、呼び止め、片手で、財布を取り出し、七万三千円の中から、七枚の一万円札を抜き取って、彼女に渡した。
「ナイトクラブで、がんばっていては、金がいるから、渡してくれ」
「はい」
と、早苗が、受け取って、出て行った。
十津川は、また、電話に戻って、
「これから、北条刑事が、そちらに行くよ」
「え? 何のためですか?」
「君が、電話で呼び出したガールフレンドだ。ひとりで、そういう店に、何時間もいたら、必ず、怪しまれるからね。恋人を、じっと待っていたということなら、怪しまれない筈だよ」
「しかし、警部」
「彼女は、冷静だし、芝居っ気もあるよ」
と、十津川は、いった。
ドアを開け、早苗は、店の中を見廻した。
その眼が、奥のテーブルにいる日下と合うと、軽く手をあげて、寄って行き、わざと、大きな声で、
「ごめんなさい。おそくなっちゃって」
と、いいながら、彼の横に、腰を下した。
日下も、それに合せるように、
「まあ、いいさ。何を飲む」
「ビールでいいわ」
と、早苗はいった。
日下が、ビールを頼んだ。
「例の二人は?」
早苗が、小声で、きいた。
「窓の傍にいるよ」
と、日下も、小声で、いった。
「ご機嫌な感じね、あの二人」
「間もなく、あの二人は、この店を出て行く」
「なぜ、わかるの?」
「さっき、伊原が、マネージャーに、タクシーを呼んでくれと、頼んでいたからさ」
「タクシーが、呼べるの?」
「そうらしい。下に来ると、連絡してくるんだろうね」
と、日下は、いった。
早苗が、ビールを飲んでいると、マネージャーが、伊原たちのテーブルに行って、何かささやくのが見えた。
二人が、立ち上った。どうやら、タクシーが、来たらしい。
日下も、テーブルから、腰をあげた。が、支払いの段になって、金の足りないことがわかって、あわてた。
「あとは、私に委《まか》せて、追いかけて」
と、早苗が、いった。
「しかし──」
「軍資金は、貰って来てるの」
と、早苗が、いった。
日下は、弾《はじ》かれたように、クラブを、飛び出して行った。
早苗は、十津川に渡された金で、支払いをすませると、一階へおりた。
ビルの玄関のところに、日下が、立っていた。
「間に合わなかったの?」
と、早苗が、声をかけた。
「ああ。でも、タクシー会社の名前と、ナンバーは、しっかりと、書き留めたよ」
日下は、手帳を広げて見せた。彼のいうように、タクシー会社と、ナンバーが、書かれ、PM 11.16 と、時刻も、書き添えてあった。
二人は、いったん警視庁に戻り、十津川に報告をすませてから、タクシー会社に、日下が、電話を掛けた。
その電話がすむと、日下は、十津川の傍に戻って来て、
「今夜、あの二人が、タクシーで行ったのは、小田急線の代々木上原にあるマンションだそうです。新築のマンションで、七階建──」
「確か、野崎裕子のマンションが、代々木上原にあった筈だよ」
と、十津川が、いった。
「それなら、今夜は、彼女のところに、泊るんでしょう。いい気なもんです」
と、日下は、いってから、念のためにと、いって、車で、そのマンションを張り込みに、出かけて行った。
翌朝早く、その日下が、連絡して来た。
「今、彼女のマンションから、伊原が出て来ました。タクシーを拾います。午前六時二十六分です」
いくらか、眠たげな声だった。
「彼女は、送りに出て来たかね?」
と、十津川は、きいた。
「ちらりと、見受けましたが、流石《さすが》に、マンションの外までは、送って来ませんでした」
と、日下は、いった。
更に、二時間半ほどして、日下が、
「野崎裕子が、出て来ました。これから、会社に出るんだと思います」
「ご苦労さん。君も、家に帰って、ゆっくり眠りたまえ」
と、十津川は、いった。
「昨夜は、ただ単に、お楽しみだっただけですかね?」
亀井が、十津川を、見て、いった。
「他に、何か考えられるかね?」
「いえ。ただ、こちらが、清水刑事の仇を討ちたくて、うずうずしているのに、敵は、女遊びを楽しんでいる。いらいらして来ますよ」
と、亀井は、いう。
十津川は、肩をすくめて、
「向うだって、しばらくは、自重するだろう。こちらが、監視しているのは、知っているだろうからね。伊原が、女に近づいたり、ヘルスクラブに通っているのは、われわれの注意を、そらそうとしているのか、覚醒剤なんか関係ないことを、印象づけようとしているのか、どちらかだと思うよ。ここで、われわれが、いらついたら、向うの思う壺だよ」
「それは、よくわかっているんですが──」
亀井は、口惜しそうに、いった。
同じ頃、調布市の深大寺近くの雑木林で、一つの騒ぎが、持ち上っていた。
アルバイトで、飼犬の散歩をさせている大学生が、今朝も、いつものように、三頭のシェパードを、歩かせていたのだが、雑木林のところまで来て、急に、一頭が、吠《ほ》え出し、雑木林の中に、走り込んだのである。つられて、他の二頭も、猛烈な勢いで、突っ走ってしまった。
大学生も、あわてて、そのあとを追って、雑木林の中に、入って行った。
三頭の犬は、一ヶ所にかたまって、しきりに、吠えている。
大学生は、何だろうと思って、のぞき込み、そこに、仰向けに倒れている男を発見した。
雑木林の中は、うす暗かったが、大学生は、その男が、死んでいると直感した。顔は、白蝋《はくろう》のようだったし、Tシャツの胸が、血に染まっているのも、わかった。
大学生の一一〇番で、パトカーが、駈けつけたが、その頃には、近所の人たちも、集まって来ていた。
辛うじて、武蔵野の静けさを残していた場所なのだが、急に、騒がしくなってしまった。
初動捜査班は、男の胸に、銃弾が、少くとも三発、命中しているのを確認した。そのためのショック死か、或いは、出血死だろう。
男は、三十五、六歳で、うす手のジーンズに、白いスニーカー、I Love Peace と、染めた白いTシャツといった恰好だった。
ジーンズの尻ポケットには、財布が入っていた。中身の一万五千円は、盗まれていない。
その財布の中には、M銀行のCDカードも入っていて、それには、S. KASAI の名前があった。
初動捜査班の田島警部は、M銀行深大寺支店が、開くのを待って、このCDカードについて、部下を派遣して、きいてみた。
田島の予想どおり、殺された男は、そこに普通預金口座を持っており、口座の名前は、川西茂男になっているということだった。
住所は、調布市内のマンションになっているというので、田島は、部下の刑事と一緒に、廻ってみた。
中古マンションの406号室が、川西の部屋だった。
(被害者は、マンションのキーを持っていなかったな)
と、思いながら、田島は、管理人に頼んで、開けて貰った。
1DKの狭い部屋である。
ほとんど、何もなかった。夏だから、これで、いいのかも知れないが、扇風機はあるが、クーラーは、見つからなかった。
安物の洋ダンスがあるので、開けてみると、夏物の背広が、二着、ぶら下っている。
どう見ても、仮の住いの感じだった。
それでも、電話は、ついているし、M銀行に、口座も、作っていたのである。
預金通帳は、洋ダンスの奥から、見つかった。
八月一日に、七百六十三万円が、入金されていて、それ以後、全く、入金も、引出しもない。
CDカードは、七百六十三万円を預金した時に、作らせたのだろう。
「いつ、引越して来たんだね?」
と、田島は、管理人に、きいた。
「七月の末で、二十八日だったと思います」
と、管理人は、いう。
まだ、一ヶ月たっていないのだ。
「この電話は、前から、ついていたのかね?」
「いえ、川西さんが、自分で、つけたんですよ。どうしても、電話が欲しいと、強く、いっていましたね」
「川西茂男を、訪ねて来た人がいるかね?」
「私の知る限りでは、いませんね」
「いったい、何をしていたんだろう? サラリーマンだったの?」
「それが、わからないんです。ほとんど、話したことがないんです。ただ、昼間も、部屋にいらっしゃることがあったから、普通のサラリーマンではなかったと、思いますよ」
「どこから、ここへ、引越して来たのかね?」
「函館だと、いっていましたよ。北海道の」
「函館?」
と、おうむ返しにいってから、田島は、函館で起きた事件を思い出し、捜査一課の十津川に、連絡した。
十津川は、亀井たちを連れて、駈けつけたが、その顔は、青ざめていた。
川西を、生きて捕えたかったからである。
田島から、預金通帳を見せられると、十津川は、眉をひそめて、
「たった、これだけしかないのか?」
「七百万円は、大金だよ」
「そりゃあ、そうだが、この男は、一|桁《けた》多い預金があっても、おかしくないんだ」
と、十津川は、いった。
「この七百六十三万円は、八月一日に、本人が、現金を持って、銀行に現われて、預金したそうだよ」
と、田島は、いった。
「函館から、現金を持って逃げて来たんだろう。彼の死体は?」
「新宿のT大病院で、司法解剖に廻されている筈だよ。あとは頼む」
と、いい、田島は、引き揚げて行った。
十津川は、改めて、狭い室内を、見廻した。
「こんな所に、隠れていたんですねえ」
亀井は、溜息《ためいき》まじりに、いった。
「川西は、なぜ、殺されたのかな?」
と、十津川は、独り言のようないい方で、疑問を口にした。
「銃で射《う》たれていることや、奪われたものがなさそうな点で、行きずりの犯行とは、思えませんね」
「そうだよ。初動捜査班の話では、財布や、CDカードは無事なのに、マンションのキーは、失《な》くなったと、いっている。多分、犯人は、射殺したあと、このマンションにやって来て、部屋に入ったんだ。手袋をしていたろうから、指紋なんか、残してはいないと、思うがね」
と、十津川は、いった。が、それでも、鑑識には、全ての指紋を、採取しておくように、頼んだ。
十津川と、亀井は、マンションの外に出て、現場である深大寺まで、歩いて行った。
「仲間割れですかね?」
と、歩きながら、亀井が、きく。
「その可能性が強いね。川西は、函館で、宅配を利用して、覚醒剤を売り捌《さば》いていた。莫大な儲けだったと思うよ。それなのに、彼は、八百万足らずの金しか、手に入れていない。その不満を口にしたので、消されてしまったのかも知れないな」
「組織にですか?」
「ああ、そうだ」
「射殺したあと、川西のマンションに入り、自分たちに、不利なものが残ってないかどうか、調べたというわけになりますか?」
「だから、あの部屋に、これはというものがなくても、仕方がないんだ」
と、十津川は、いった。
二人は、現場に着くと、雑木林の中に、足を、踏み入れた。
川西が、倒れていた場所には、ロープが張られ、警官が二人、ガードしていた。
十津川と、亀井は、ロープをくぐって、中に入ってみた。
風が通って来ないので、やたらに、蒸し暑い。
二人は、草の上に屈み込んで、丁寧に調べた。
草の葉に、血の痕《あと》がある。死体が、引きずられた形跡は、なかった。
「多分、川西は、銃で脅かされて、ここまで、連れ込まれたんだろうね」
と、十津川は、立ち上って、いった。
「そして、いきなり、射殺ですか?」
「だから、正面から、射たれたんだろう。逃げる間もなく、射たれたと思うよ」
「犯人の遺留品らしきものは、ありませんね」
「初動捜査班も、何も見つけていないからね」
「薬莢《やつきよう》がないということは、リボルバーですかね?」
「或いは、犯人が、薬莢を、拾って行ったか」
と、十津川は、いった。
午後になって、T大病院から、解剖が終ったという知らせを受けて、十津川は、亀井と、話を聞きに、行った。
最初に、見せられたのは、体内から摘出された、三つの弾丸だった。
三発とも、弾頭は、特殊な加工が、ほどこされた、いわゆるダムダム弾である。殺傷力を強くした弾丸だった。わざと、体内で、とどまるようになっていて、貫通しないのだ。
「死因は、ショック死ですね」
と、解剖した医者は、十津川に、いった。
三発の中《うち》、一発は、心臓に命中しているということだった。
「死亡推定時刻は?」
と、十津川は、きいた。
「昨夜の午後十時から、十一時の間とみられます」
と、医者は、いった。
「その他に、わかったことは、ありませんか?」
「胃の内容物ですが、ほとんど、消化されてしまっていますね。死亡推定時刻が、午後十時から十一時ですから、当然といえば、当然ですが」
医者に礼をいい、病院を出たところで、亀井が、
「ちょっと気になることが、あるんですが」
と、十津川に、いった。
「何だい? カメさん」
「死亡推定時刻は、午後十時から十一時ということでしたね?」
「そうだよ」
「昨夜、伊原が、新宿のクラブを出たのが、午後十一時少し過ぎです。日下刑事が、伊原たちのタクシーに乗った時刻を、十一時十六分と確認しています」
「時間が、合い過ぎるか?」
「そうなんです。ぴったり、アリバイが、成立してしまいます」
と、亀井は、いった。
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第十章 別  荘
妻の直子も、十津川に向って、野崎裕子の態度はおかしいと、いった。
「彼女は、ひと目で、気位の高い女性だとわかったわ。それに、アメリカに留学したり、社長秘書をやったりしているから、二十五歳よりずっと、精神的には大人だと思うの。彼女の眼には、伊原さんは、子供っぽく見えているに違いないし、頼りなく見えている筈だわ。それなのに、簡単に、自分のマンションに連れて行くなんて、不自然だわ」
「だが、現実に、彼女は、伊原を、自分のマンションに、連れて行ったんだよ」
と、十津川は、いった。
「だから、それは、愛とは全く関係のない行動だと思うの」
「つまり、アリバイ作りか?」
「そうした作為が、感じられるわ」
と、直子は、いった。
「自分のためのアリバイ作りと思うかね?」
「殺された川西という人は、伊原さんと関係があったんでしょう?」
「そうだ」
「それなら、彼のためのアリバイ作りね」
と、直子は、断定した。
十津川も、そう思った。
ただ、問題は、何のために、彼女が、そんなことをしたかだった。
何のためにといういい方がおかしければ、誰に頼まれてといいかえてもいい。
伊原の家族にだろうか? それとも、彼は、現在、杉野代議士の秘書だから、杉野に頼まれたのか?
十津川は、それを知りたかった。
その答を見つけるには、伊原の周辺を調べるよりも、むしろ、野崎裕子の対人関係を調べる方が早いだろう。
十津川は、彼女のことを調べるのに、全力をあげることにした。それも、秘密裏にである。
野崎裕子は、二十五年前、浜名湖の近くで生れていた。両親は、現在も、同じ場所に住んでいて、父親は、サラリーマンである。二年後に、定年を迎える。貧しくはないが、格別、豊かでもない。
裕子は、現在、N興業の社長秘書をしているが、月給は、二十万円程度である。
それにも拘《かか》わらず、彼女は、高級マンションに住んでいる。部屋代は、二十万を超すということだった。
「それに、彼女は、白のポルシェを、乗り廻しています」
と、西本刑事が、十津川に、一枚の写真を見せた。
裕子が、ポルシェ911Sを、乗り廻している写真だった。
「彼女自身の車なのか?」
と、十津川は、きいた。
「去年、彼女が、購入しています」
「スポーツ・カーが好きなのかな?」
「彼女は、国内のストック・カーのレースに何回か出ていて、なかなかの腕だということです」
「金がかかるな。ポルシェだって、新車なら、一千万はするんじゃないか?」
と、十津川は、きいた。
「その筈です」
「誰が、その金を出しているんだろう? また、何のためにかね?」
「それが、わからないのです。最初は、N興業の社長かと思いました。社長と女秘書の関係というのは、通俗的ですが、よくあるケースだと思いましたから」
「違うのか?」
「社長は、五十二歳で、精力的な男ですが、われわれが調べたところ、彼には、別に、女がいました。三十歳の女で、今は、彼女に夢中のようですし、野崎裕子との関係は、いくら調べても、出て来ません」
と、西本は、いった。
十津川は、引き続き、野崎裕子の周辺を、調べさせた。
次の日曜日には、十津川自身、亀井と二人で、裕子のマンションに、朝から、車で、張り込んだ。
「彼女のパトロンが誰かわかっても、それが、覚醒剤と結びつくかどうか、わかりませんね」
と、亀井は、運転席で、マンションの駐車場に眼をやりながら、十津川に、いった。
十二、三台の車が、並んでいて、その中に、裕子の白いポルシェも見える。
「わかっているよ」
と、十津川は、いった。
裕子は、魅力のある女だ。ただ単に、美人だというだけでなく、頭もいい。どこかの金持ちが、そんな彼女に惚れて、金を与えているとして、そのパトロンが、函館から続いている今度の事件に、全く関係がないことも、十分に考えられるのだ。
そうだとすると、こうして、張り込むのは、時間の無駄ということになってしまう。
「とにかく、結果を見てみよう」
と、十津川は、自分にいい聞かせるようにいった。
昼になっても、裕子は、マンションを出て来なかった。
十津川と、亀井は、車の中で、サンドイッチと、コーヒーで、昼食をすませた。
夏の太陽は、容赦なく、覆面パトカーに降り注ぐ。クーラーは、利かなくなり、仕方なく、ドアを開けて、風を入れた。
午後二時過ぎに、やっと、裕子が、出て来て、ポルシェに乗り込んだ。
「あの女」
と、十津川が、いった。
「清水刑事といっしょに、北斗星4号のロビー・カーにいたという女に、似ているんじゃないか?」
「そういえば、モンタージュ写真に、印象が、似ていますね」
「背丈も同じくらいだ」
「ひっぱりますか?」
「いや、それは無理だろう。印象が、似ているだけで、警察に、呼ぶわけにはいかない。それに、証拠もないのに、尋問したら、逆に、警戒されてしまうだけだ。もう少し、泳がせておいたほうがいい」
と、十津川はいった。
裕子が、車を飛ばしたのは、神奈川県の大磯近くのリゾート・ホテルだった。
(ここで、誰かに会うのだろうか?)
と、十津川は、緊張したが、裕子は、このホテルのプールで、のんびりと、泳ぎ始めた。
十津川と、亀井は、プールの上にある喫茶ルームで、アイスコーヒーを飲みながら、楽しそうに泳ぐ裕子を、眺めることになった。
「誰かに会う気配は、ありませんね」
と、亀井は、ぶぜんとした顔で、いった。
「そうだな」
「いい身体をしています」
「確かに魅力的なスタイルだが、よく見ると、逞《たくま》しくもあるよ」
と、十津川は、いった。
背が高く、目立つスタイルだが、鍛えられた身体にも見えるのだ。
のんびりと、泳いでいた裕子が、急に、スピードをあげて、泳ぎ始めた。
五十メートルプールを、水しぶきをあげて、往復する。鮮やかなクイック・ターン。五往復ほどすると、裕子は、プールからあがって、満足げに、伸びをした。
「確かに、逞しいですね」
亀井は、感心したように、いった。
「彼女は、学生時代に、水泳の選手だったのかな?」
「そういう経歴は、なかった筈ですよ」
と、亀井が、首をかしげた。
裕子は、そのあと、五メートルの飛込台から、何回か、華麗なジャンプを繰り返して、更に、十津川たちを、驚かせた。
一時間ほどして、裕子は、リゾート・ホテルを出た。
東京に戻るのかと思ったが、彼女は、ポルシェを、西に向って、走らせた。
小田原市内で、給油し、今度は、箱根に向った。
少しずつ、車の窓から入ってくる風が、涼しくなってくる。
御殿場に着く。
裕子の車は、仙石原の奥にある大きな邸に入って行った。
和風の門の中は、ひっそりと、静まり返っている。聞こえてくるのは、蝉《せみ》の声だけである。
十津川と、亀井は、近くに車をとめ、門の傍へ、歩いて行った。
〈江崎〉
と書かれた表札が、かかっていた。
「江崎? 何者ですか?」
亀井が、きいた。
「わからんな」
と、十津川は、呟《つぶや》いてから、急に、亀井の腕をつかんで、引っ張った。
「どうされたんですか?」
と、亀井が、きく。
「監視カメラだよ」
と、十津川は、小声で、いった。
塀の中、大きな松の木に隠された監視カメラが、ゆっくりと、首を振っているのだ。
「用心深い奴ですね」
亀井が、苦笑した。
十津川は、亀井と、仙石原にある派出所に、寄ってみた。
二十五、六歳の若い警官が、いた。
突然、警視庁の刑事が二人、訪ねて来たことで、緊張した様子だった。
「あの江崎という人物は、何者なのかね?」
と、十津川は、きいた。
「私も、よくわからないんです。なんでも、東京にある会社の社長さんとかですが」
「会ったことはあるかね?」
と、亀井が、きいた。
「二度ほど、お会いしたことがあります」
「どんな人間かね?」
「腰の低い、穏やかな方です」
「年齢は?」
「五十五、六と思いますが」
「あの邸に、家族と住んでいるのかね?」
「奥さんと、使用人が何人かいるようですが、はっきりしたことは、わかりません」
「東京の何という会社の社長か、わからないかね?」
と、十津川は、重ねて、きいてみたが、若い警官は、当惑の表情で、首を振るだけだった。
十津川は、電話を借りて、東京の西本刑事に、連絡を取った。
「紳士録で、江崎という男を、調べて貰いたいんだ。年齢は、五十五、六歳、箱根の仙石原に、別荘を持っている社長だ」
と、十津川は、いい、そのまま、返事を待った。
西本は、紳士録を持って来て、見ているようだったが、
「江崎何というのか、わかりませんか?」
「それが、わからないんだ」
「昭和十年前後生れの江崎という社長は、何人かいますね。別荘のことは、のっていないのでわかりません。この全員に、当ってみますか?」
「ああ、当ってみてくれ」
と、十津川は、いった。
二人は、江崎邸に、引き返した。相変らず、ひっそりと、静かである。裕子が、まだ、中にいるのか、どうかは、わからなかった。
「中に入って、どんな人物なのか、見てみたいですね」
と、亀井が、いった。
「今の段階じゃ、無理だな」
と、十津川は、いった。
野崎裕子自身に、もっと強い疑惑があるのなら別だが、現在の状況では、江崎に、彼女のことをきくのもおかしいだろう。それに、江崎という男に、警戒されるのも、まずいと思った。
一時間して、十津川だけが、車から降りて、近くの公衆電話まで行き、もう一度、西本に、連絡した。
「何かわかったかね?」
と、十津川が、きくと、西本は、
「調べてみましたが、五人の江崎社長の中に、箱根に別荘を持っている人は、一人もいませんね」
「一人もいない?」
「そうです。紳士録にのってる五人の中には、いません」
「おかしいな」
「フルネームがわかると、調べやすいんですが」
と、西本は、いった。
十津川は、箱根町役場に行ってみることにした。
あの別荘も、固定資産税が、支払われている筈だと思ったからである。
町役場の税務課で、間違いなく、徴税されていた。
そこに書かれていた名前は、江崎周一郎だった。
十津川は、もう一度、その名前で、西本にきいてみたが、紳士録の社長の名前には、無いということだった。
紳士録にのらないような小さな会社の社長なのだろうか?
町役場で調べたところ、あの別荘の敷地は、一万一千平方メートルの広さがあった。三千坪を超えているのだ。
更に、江崎周一郎は、二年前に、あの別荘を入手しているのである。二年前でも、何十億円だったろう。それだけの資金があったということである。
十津川は、その斡旋《あつせん》をした箱根の不動産会社に、廻ってみた。
大手の会社で、その手続きをした社員に、話を聞くことが出来た。
「その時、頂いた名刺があります」
と、いって、その社員は、机の引出しから、一枚の名刺を出して、見せてくれた。
〈江崎交易社長   江崎周一郎〉
という名刺で、東京の住所と、電話番号が、出ていた。
それを、十津川は、写し取った。
「どんな人でしたか?」
と、十津川は、きいた。
「そうですねえ。眼の鋭い、偉丈夫という感じの方でしたよ」
と、社員は、いった。
「支払いは、どんな形でされたんですか?」
「小切手です。もちろん、一度で、お支払いになりました」
「何十億もですか?」
「ええ。お金は、ある所にはあるんじゃありませんか」
と、いって、社員は、笑った。
すでに、夕暮れが迫っていた。
十津川と、亀井は、東京に引き返すことにした。その前に、西本に電話を掛け、江崎交易という会社を、調べておくように、指示した。
東京に戻ったのは、午後九時近い。
西本刑事が、十津川を待っていて、
「江崎交易へ行って来ました」
「確か、銀座だったね」
「銀座の雑居ビルの三階でした。従業員三人の小さな会社です」
「三人?」
「そうです」
「そんな小さな会社なのか?」
「そうです。東南アジアから、雑貨を輸入しているといっていますが、活気がありませんから、あまり、利益は、あがっていないと思いますね」
と、西本は、いった。
「そんな会社の社長が、何十億円もの別荘を買ったのか」
「土地成金じゃありませんか」
と、亀井が、いった。
「土地?」
「そうです。東京都内に、親から譲られた土地があれば、高く売れます。百坪でも、坪五千万なら、五十億円になります」
と、亀井は、いった。
「明日、それを、調べてみてくれ」
と、十津川は、西本に、いってから、
「三人の従業員に、社長のことを、きいてみたかね?」
と、きいた。
「ききました。三人とも、賞《ほ》めていましたよ。面倒みはいいし、優しい社長だと、いっています」
「どんな社員なんだ?」
「男二人に、女一人です。男の片方は、明らかに、東南アジアの人間ですね」
と、西本は、いった。
「仕事は、忙しそうだったかね?」
と、亀井が、きいた。
「それが、暇そうに見えましたね」
と、いって、西本が、小さく笑った。
翌日、西本は、日下と二人で、江崎周一郎の周辺を調べに出かけた。
十津川は、不安を感じていた。今の世の中、意外な大金持ちがいる。大会社の社長よりも、大金を自由に出来る人間が沢山いるのだ。
江崎周一郎は、そんな人間の一人かも知れない。そんな男が、たまたま、野崎裕子に惚れて、援助を始めた。ただそれだけということだってあるのだ。
裕子が、伊原のアリバイを作ったように思えるのも、偶然かも知れない。もし、そうだとすると、全く、無意味なことをしていることになってしまうのである。一刻も早く、清水刑事の仇を取らなければならないのに。
昼近くに、西本たちが、帰って来た。
「江崎周一郎という男ですが、いろいろと、わからないところのある人物です。昭和十一年五月に、会津若松で生れています。地元の中学、高校を出て上京しているんですが、その後の経歴が、はっきりしません」
と、西本は、いった。
「それで、両親から譲られた土地でも、持っていたのかね?」
と、十津川は、きいた。
「そんなものは、全くありませんね。会津の両親は、すでに死亡していますし、小さな土産物店をやっていただけです」
「二年前に、江崎は、箱根の別荘を買ったんだが、その直前に、どこかの土地を売った形跡は?」
「ありませんね。とにかく、江崎という人物は、よくわからない男です」
「江崎交易は、儲かっているのかな?」
と、亀井が、きくと、日下が、
「税務署の話では、ここ何年間か、赤字だそうで、税金は、払っていません」
「それなのに、何十億円もの別荘を買っている」
「税務署も、おかしいと考えているみたいです」
と、日下は、いった。
「江崎交易を始める前は、何をやっていたんだ?」
「その辺が、よくわからないのです。ヤクザに関係していたという噂もありますし、政治活動をしていたという話も聞きましたが、いずれも、はっきりしないのです。江崎のことを、よく知っている人間が、見つからないんです」
日下は、首をすくめてみせた。
「前科は?」
「それも、ありません」
「謎の人物というわけか」
「写真は、一枚だけ、手に入れて来ました」
と、西本はいい、写真を、十津川に見せた。
中年の男の顔だった。
真正面を向いた、上半身の写真である。
「いやに、かしこまって、写っているね」
と、十津川が、いうと、西本が、
「それは、運転免許証用の写真で、借りて来たものだからです」
「ヤクザか、政治活動か」
「それは、あくまで、噂です」
と、西本が、いう。
「江崎の東京の住所は、何処《どこ》なんだ?」
「中野のマンションですが、どうも、最近は、箱根の別荘の方に、ずっと、泊っているようです」
「奥さんもか?」
「奥さんのことは、わかりません」
「自宅の電話がわかっているなら、掛けてみてくれ」
と、十津川は、いった。
西本が、手帳を見ながら、電話を掛けていたが、十津川に向って、
「誰も出ませんね」
「もういいよ」
と、十津川は、西本にいい、亀井に向っては、
「もう一度、箱根に行って、江崎周一郎に会ってみようじゃないか」
「理由は、何にしますか?」
と、亀井が、きく。
「問題は、それだね。まさか、若い女のパトロンになっている疑いじゃ、会う口実にはならないしね」
「何かありませんかね?」
「化けるか」
「何にですか?」
「税務署員だよ。会社が赤字続きなのに、なぜ数十億円もする別荘を買えたのか、話を聞きに来たといってだ」
「あとで、税務署から、苦情が来ますよ」
と、亀井が、いった。
「最近、江崎は、何か事件を起こしていないかね?」
十津川は、西本にきいた。
「すぐ、調べて来ます」
と、西本はいい、日下と、飛び出して行った。
川西を殺した犯人の手掛りは、いっこうにつかめず、捜査本部の置かれた調布署には、重苦しい空気が、漂っていた。
その上、江崎周一郎が、ただの資産家というだけのことだったら、十津川たちは、全く、壁にぶつかってしまうのである。
唯一、川西と関係があると思われる伊原は、川西が殺された時のアリバイが、成立してしまっている。
東京に来ている筈の石川ひろみの行方も、わからない。
(八方|塞《ふさ》がりというやつか)
と、十津川は、思っていた。
それだけに、江崎周一郎には、今度の事件に、関係があって、欲しかった。
西本と、日下が、一つの話を持って、戻って来た。
「江崎交易が入っている雑居ビルに行って来たんですが、同じ三階に、小さなレストランがありましてね。そこの主人が、江崎を、訴えていることが、わかりました」
「理由は?」
「三ヶ月前、江崎交易の社員の一人が、そのレストランの人間と、口論をしまして、レストランの主人が、江崎交易に、文句を、いいに行ったそうです。その時、社長の江崎が出て来て、いきなり、殴りかかって、レストランの主人が、全治一ヶ月の重傷を負ったという事件です。それで、レストランの主人は、江崎を訴えたわけです」
「江崎は、それに対して、何といっているんだ?」
「警察には、先に殴りかかったのは、レストランの主人の方だと、いっているそうです」
と、日下が、いった。
「これでいこう」
と、十津川は、亀井に、いった。
二人は、車を、箱根に向って、もう一度、走らせた。
江崎邸は、昨日と同じように、ひっそりと静まり返っていた。
門についているインターホンに向うと、塀の中の監視カメラが、自動的に、こちらに向く。
十津川は、警察だが、三ヶ月前の傷害事件について、話を聞きたい旨を、インターホンに向って、いった。
「どうぞ。お入り下さい」
と、女の声が、いった。
二人は、玉砂利の敷きつめられた通路を、玄関まで、歩いて行った。
玄関を開けてくれたのは、若い和服姿の女性である。
広い廊下があり、和室がいくつもつらなっていた。
中庭に面した三十畳ほどの部屋に通された。広い部屋の真ん中に、テーブルと、三つの座布団が置かれている。
二つ並んだ座布団に座ると、庭が、見えた。
自慢の庭なのだろう。とにかく、広い庭だった。庭の中に、小さな山があり、その向うは、見えない。
五、六分待たされて、江崎が、和服姿で現われた。五十五歳ということだが、大柄で、血色がよく、髪も黒々としているので、四十代に見えた。
「江崎です」
と、笑顔でいった。が、眼は、笑っていない感じだった。
「三ヶ月前のことで、わざわざ、来られたんですか?」
「東京でお会いしたいと思ったんですが、おられなかったので」
と、十津川は、いった。
「最近は、ここが気に入って、出来る限り、ここで、寝起きしています」
「奥さんもですか?」
と、亀井が、きいた。
「家内は、先月の初めから身体を悪くしましてね。現在は、熱海の病院に入院しています」
「それは、どうも──」
「あなたのことで、いろいろと、お伺いしたいのですが、構いませんか」
と、十津川は、いった。
「三ヶ月前の事件のことですか?」
「まあ、そうです。レストランのご主人にも、いろいろと、伺いましたので、今回は、あなたのことを、お聞きしたい」
「どんなことですか?」
江崎は、じっと、十津川を見て、きき返した。
「お生れは、会津若松でしたね?」
と、十津川は、そこから攻めた。
「そうです。これでも、会津藩士の子孫ですよ」
「高校を出たあと、上京された?」
「そうです」
「上京されたあと、どうされたんですか?」
「働きながら、大学へ行きましたよ。勉強をしたかったですからね」
「大学は、何処ですか?」
「国立S大の政経学科です。政治を勉強しました」
「政治に興味を、お持ちなんですか?」
「ええ。非常に興味がありますね」
と、江崎は、いった。
「大学を卒業されたあとは? すぐ、江崎交易を、作られたんですか?」
「いや、サラリーマン生活もやりましたよ。自分で、あの会社を作ったのは、数年前です。それから、何とか、やっていますがね」
「儲かっていますか?」
「いや、さほど、儲かりませんね」
と、いって、江崎は、笑った。
「しかし、こんな広大な別荘を、買われたとすると、儲かっていると、思いますがねえ」
と、十津川は、いい、亀井が、続いて、
「何十億円もするんじゃありませんか? このくらい広い家だと」
と、いった。
江崎は、急に皮肉な眼つきになって、
「それが、不思議ですか?」
「貿易会社というのは、大変に、儲かるものだと思いましてね」
「家内の金ですよ。家内は、資産家の娘でしてね、この別荘を買えたのも、家内の力ですよ」
「奥さんは、何処の方ですか?」
「東京の人間です」
「そんなに、お金持ちの娘さんなのですか?」
と、亀井が、念を押した。
「そうです。土地持ちの娘です」
と、江崎は、いってから、じっと、十津川に、眼をやって、
「どうも、わからないことがあるんですがね」
「どんなことですか?」
と、十津川は、きいた。
「警視庁捜査一課の刑事さんが、どうして、ささいなケンカについて、調査をされるんですか? それが、わからないんですよ」
と、江崎は、笑いながら、いった。
十津川は、狼狽《ろうばい》した。警察とはいったが、捜査一課とは、いっていない。あくまで、三ヶ月前の傷害について、訴えを受理した築地署の刑事ということで、会ったのである。
それなのに、江崎は、十津川と亀井を警視庁捜査一課の刑事と、知っていた。
十津川と亀井が、あわてるのを見て、江崎は、ニヤッと、笑った。
[#改ページ]
第十一章 パ ー テ ィ
三日後、十津川は、一通の封書を受け取った。
中身は、招待状だった。
〈江崎周一郎君を励ます会が、来る八月二十一日にホテルNの孔雀の間にて、催されますので、万障お繰り合せの上、ご出席下さいますよう、お願い致します。
江崎君は、現代の日本に、必要欠くべからざる人物であり、彼を励ますことは、日本の将来にとって、必要なことと、信じております。
江崎周一郎君を励ます会 委員会
[#地付き]国務大臣  三沢 卓造〉
そこには、わざわざ、赤いゴム印で、「ご招待」の印が、押してあった。
封筒の宛名は、「警視庁捜査一課 十津川警部様」になっている。
十津川は、それを、亀井に見せた。
「一緒に行ってみないか」
「これは、あの江崎ですか?」
「そうだよ」
「なぜ、警部を、招待したんでしょうか?」
と、亀井が、きいた。
「初めて、江崎という男と会った時に、感じたことがあるんだよ。この男が、全ての元凶で、手強《てごわ》い敵になりそうだとね。向うも、同じような敵意を感じたのかも知れない。それで、招待状を出して、反応を見ようと、いうんじゃないかな」
と、十津川は、いった。
「それで、招待に応じて、逆に、向うの反応を見ようと、思われるんですね?」
「そうだ。出席、欠席のハガキには、本人一人と書いてないから、カメさんも、一緒に行こうじゃないか」
「警部は、あの男が、全ての元凶と、本当に思われているんですか?」
「証拠はないんだ。だから、直感でしかない。しかし、私は、江崎周一郎が、本当の犯人と直感したんだよ」
「じゃあ、行きましょう。江崎の周辺に、どんな人間がいるのか、知らないですからね」
と、亀井も、いった。
十津川は、すぐ、出席のハガキを出しておいて、八月二十一日の夕方、亀井と、ホテルNに、出かけて行った。
三階にある広間、「孔雀の間」に行くと、受付の前では、大勢の人たちが、集まっていた。
〈江崎君を励ます会 受付〉
と、大きな札が、立ち、五ヶ所もの受付が作られていた。
十津川は、受付で、署名してから、広間に入って行った。
料理を並べた中央の大テーブルには、高さ二メートル近い大鷲《おおわし》の氷の彫刻が、立てられている。
集まった人たちの数は、五百人近いだろう。中には、十津川の知っている政財界のお偉方の顔もあった。
受付で貰ったパーティの案内書には、発起人の名前が、ずらりと並んでいたが、有名人ばかりである。
「大変なパーティですね」
と、亀井が、呆《あき》れたように、いった。
まず、この会の発起人たちが、次々に、祝辞を述べた。
どのあいさつでも、江崎が、日本にとって、必要な人物であると、誉《ほ》めあげた。
賞讃の言葉も、大げさで、世界に通用する唯一の日本人、現代の英雄、現代のサムライといった言葉が、次々に飛び出した。
花束贈呈に移って、有名タレントが、次々に登場した。
最後に、江崎のお礼のあいさつがあった。
江崎は、まっ白な背広で、マイクの前に立ち、およそ、次のように、あいさつした。
現在の日本は、物質的には豊かだが、精神的には、貧しくなっている。私は、その精神の高揚のために、全力を尽くしたい。
そのため、一番必要なことは、現代のサムライをつくることである。今の若者は、その素質がないのではなく、教育が悪いのである。
私は、政治的野心は、全くない。政治は、政治家に委《まか》せ、私は、国民の精神面の強化に努めたい。
別に、これといった新しいところはないが、十津川が、注目したのは、江崎を持ちあげる人たちの多さだった。
国務大臣の三沢をはじめとして、ほとんどの政治家が、出席しないまでも、祝電を寄せている。
財界の有力者も顔を出しているし、タレントも、かなり出席している。演歌の大御所といわれる高西太郎も、江崎先生のために作詞、作曲したという「男の勇気」という歌を唄ったりした。
参加者の中に、大学時代の友人で、中央新聞社会部の田口がいるのを見つけて、十津川は、声をかけた。
「妙なところで会うね」
と、田口は、笑ってから、
「江崎という得体の知れない人間のことを、何とか、知りたくてね」
「それで、わかったのか?」
「結局、はっきりしないのさ。最近の日本では、彼のような人間が、結構、多いんだよ。よくわからないが、金を持っていて、顔が、利《き》いて、妙な力を持っている奴がね」
「国務大臣の三沢さんをはじめ、こんなに、祝電を寄せているのは、なぜなんだろう?」
と、十津川は、きいた。
「何といっても、金だろうね。とにかく、江崎は、これといった政治家には、びっくりするような金を渡しているという噂だよ。政治献金でね」
「どこから、そんな大金を稼いでいるんだろう?」
「わからないが、今の時代は、誰も、そんなことは、気にしないんだ。東京の都心で、小さな煙草屋をやっていたお婆さんが、たまたま、十五、六坪の土地を持っていたもので、何十億の資産家になってしまう時代だからね」
と、田口は、笑った。
「ところで、君は、何しに来たんだ?」
と、田口が、きいた。
「江崎周一郎に、招待されたんだ」
「奴は、今度は、警察にまで、手を伸ばしたのか?」
田口が、真顔で、きく。十津川は、笑って、
「実は、ある事件の捜査で、江崎周一郎に会ったんだ。それを覚えていて、招待状をくれたんだろう」
「江崎には、注意した方がいい」
「なぜ?」
「彼に近づく者は、みんな利用されるからだよ。それに、江崎という人間が、何を考えているのか、わからないんでね。今日のパーティでも、一応、精神の高揚とか、武士道とか、まともなことをいってるが、本音が、わからない。ひょっとすると、ひどく、危険なことを考え、計画しているのかも知れないんだ」
「そんな噂でもあるのか?」
「ああ。例えば、若者たちに、本物の武器を持たせて、訓練しているみたいな噂があった。いわば、私兵の養成だよ。それで、調べてみたことがあったが、そういう場所は、なかった」
「じゃあ、単なる噂なんだろう?」
「そうなんだがね。なぜか、この噂が、消えないんだ」
田口は、当惑した顔で、いった。
その時、本人の江崎が、近寄って来て、
「十津川さん」
と、声をかけてきた。
田口と、亀井が、遠慮して、席を外すと、江崎は、丁寧に、
「今日は、来て頂いて、感謝しています。多分、来て頂けないと、思っていたのですよ」
と、十津川に、あいさつした。
十津川は、無難に、
「盛大なパーティで、びっくりしています」
「私は、幸運だと思っていますよ。こんな詰らない私のために、皆さんに来て頂けるんですから」
「江崎さんは、具体的に、何をなさりたいんですか?」
と、十津川は、きいてみた。
「今日、お帰りの時に、私の書いた本を、差し上げることになっています。それに、具体的に、書いてあります」
「本も、出されたんですか?」
「私の主張を、国民に、知って貰いたくて、書きました。幸い、皆さんの賛同を得たようで、版を、重ねています」
と、江崎は、嬉しそうに、いった。
「江崎さんは、若者に、ひそかに、戦闘訓練のようなことをさせているという噂があるそうですね?」
十津川が、きくと、江崎は、クスクス笑い出した。
「おかしいですか?」
と、十津川は、いった。
「よく、そうした噂が流されるんです。多分、私が、どんな映画が好きかときかれて、戦争映画と答えたせいでしょう。法治国家の日本では、そんな戦闘訓練は、出来ませんよ。エアガンとか、モデルガンを使った、戦争ごっこは可能ですがね」
と、江崎は、いう。
「すると、現代のサムライは、どうやって、養成されるつもりですか?」
「それは、精神的なことを、申し上げたんですよ。今の若者に、一番、不足しているのは、何だと、思われますか?」
江崎は、逆に、きいた。
「わかりませんが」
「いかに、生きるかばかり考えて、いかに死ぬかを、全く考えないことです。死生観がないことです。それが、日本人を、堕落させてしまったと、思っているんですよ」
江崎は、妙に、熱っぽい調子で、いった。
「しかし、いかに死ぬかばかり考える世の中は、不幸じゃありませんか?」
と、十津川は、いった。
「そうは、思いませんね。あの〈葉隠《はがくれ》〉が出来たのは、戦国時代が終った、平和な時代です。私がいいたいのは、いかに生きるかという道徳律は、安易で、腐敗しやすいということです。それに反していかに死すべきかという道徳律は、常に、緊張感を持っていて、腐敗しにくいということです」
と、江崎は、いう。
「だから、今の日本でも、そちらの道徳律を持つべきだと?」
「そうですよ。今の政治家のだらしなさを見てごらんなさい。十津川さんも、腹が立って、仕方がないんじゃありませんか」
江崎は、パーティに、政治家や、秘書が、何人も、来ているのに、平気で、大きな声を出した。
十津川は、苦笑した。
「私は、意見をいう立場には、いませんが」
「政治家だけじゃない。財界と、官僚も、だらしがない。国際的な問題が起きると、ひたすら、逃げ廻って、責任を取ろうとしないじゃありませんか。なぜか。それは、今いったように、いかに生きるべきかだけを考えて、いかに、死すべきかが、ないからですよ。死ぬ覚悟が、出来ていれば、あわてふためくこともないんです。死をもって、責任を取るという覚悟があれば、どんなことでも、出来る筈ですよ。そうは、思いませんか?」
「そうは、思いませんがね」
と、十津川は、いった。
江崎は、なおも、何かいいかけたが、丁度、司会役のアナウンサーが、呼びに来た。
「また、邸の方へ、おいで下さい」
と、江崎は、いって、背を向けた。
十津川は、ほっとした顔になって、ジュースを、口に運んだ。
亀井が、戻って来て、
「江崎と、議論されていたようですね」
「議論じゃないよ。向うが、一方的に、喋《しやべ》っただけだよ」
「彼は、どんなことを、いってたんですか?」
「いろいろと、いっていたが、そのことには、私は、興味がないんだ。彼が、何を考えようと、それは、自由だからね。私が、気になるのは、二つだけなんだ」
と、十津川は、いった。
「二つというと、何ですか?」
と、亀井が、きく。
「一つは、江崎の金の出所だよ。田口の話では、江崎は、厖大《ぼうだい》な政治献金をしたりしている。その金は、どうして、手に入れたのかということだよ」
「もう一つは、何ですか?」
「これも、田口の話だが、江崎が、どこかで、若者に、戦闘訓練をさせているという噂が、絶えないというんだ。もし、彼が、若者に、武器を持たせて、そんな訓練をしているとすれば、大問題だからね」
「第一の金のことですが、警部は、覚醒剤の密売のことを、考えられているんじゃありませんか?」
と、亀井は、小声で、きいた。
「その通りだよ。江崎のやっている会社なんか、小さなもので、それほどの儲けがあるとは、思えないからね」
「もう一つは、どうなんですか? 警部は、その噂が、事実と思われますか?」
「わからないが、何とかして、その噂の真偽を、確かめたいと、思っているんだ。暴力団が、現在、大変な武装をしている。しかし、その武器が、政治的に使われることは、まずないだろうと、思っているんだ。ところが、ここに、何十人くらいでも、その武器を、政治的に使おうというグループが出来たら、大変なことになると思うんだよ」
と、十津川は、いった。
「その時には、あの男と、戦いになりますね」
「そうだよ。その予感がある。多分、江崎周一郎も、その予感があって、私を、招待したんだと思うよ」
と、十津川は、いった。
「話は、変りますが、彼女が、来ていますよ」
と、亀井が、いった。
「彼女?」
「野崎裕子です。さっき見ました」
「やはりね」
「彼女が勤めている会社の花束も、来ていますよ」
と、亀井は、いった。
「財界人というのは、別に、江崎から、金を貰うわけじゃない筈だ。それなのに、なぜ、これほど、協賛しているのかな?」
十津川は、首をかしげた。
「怖がっているんですかね?」
「怖いか?」
「例えば、大会社でも、総会屋に弱いでしょう。そういう弱みに、江崎周一郎は、つけ込んでいるのかも知れません」
と、亀井は、いった。
パーティの帰りに、一人一人に、小さな紙袋が、お土産として、渡された。
中身は、江崎がいっていた本である。
〈日本の再生  江崎周一郎著〉
と、なっていた。
(大げさな題だな)
と、十津川は、思い、警視庁に戻って、ぱらぱらと、ページを繰り、眼を通してみた。
今の日本は、太った豚である。何とかして、再生しなければ、国家として、死滅するだろう。そのためには、若者の力が必要である。ただの若者たちでは駄目で、昔のサムライの死生観を持った若者たちが、必要である。
そういった主張が、延々と述べられているのだが、具体的なことは、全く、書かれていなかった。
伊原の監視は、続けられていた。
日下は、続けて、新宿のヘルスクラブに通っていたが、今のところ、伊原は、特別な動きは、示していない。
(このままでは、動きが、とれないな)
と、十津川は、溜息《ためいき》をついていたのだが、パーティから二日たった八月二十三日になって、一つの動きが出た。
夜の十時過ぎに、世田谷区南烏山で、射殺事件が、起きたのである。
射殺されたのは、五十歳くらいの身なりのいい男だった。
とめていた車に乗ろうとしたところを、射殺されたのである。
警察が、関心を持ったのは、暗い場所だったのに、たった一発で、殺されていることだった。
それも、弾丸は、眉間《みけん》に命中していた。弾丸は、7・62ミリで、軍用の狙撃銃で射《う》たれた形跡が、あった。
だが、十津川は、自分が、この事件の捜査を、担当するとは、思っていなかった。
川西茂男の事件を、追っていたからである。
翌朝、TVニュースで、この事件が、報道されても、十津川のそうした気持は、変らなかったのだが、突然、彼宛てに電話が掛ってきて、一変した。
若い女の声の電話だった。
「世田谷で殺された男の人が、いるでしょう?」
と、相手は、いきなり、いった。
「知っていますが、その事件が、どうかしたんですか?」
と、十津川は、きいた。
「まだ、身元不明になっているけど、名前は、塩谷洋です」
「なぜ、知っているんですか? 身内の方ですか?」
と、十津川は、きいた。が、相手は、それには、答えず、
「小さな会社をやっている社長さんです」
「それで?」
「函館の事件に関係しています」
「何ですって?」
思わず、十津川の声が、大きくなった。亀井に、眼で合図して、この電話を、録音するように、頼んだ。
「函館の事件の関係者です」
と、女は、かたい調子で、続けた。
「と、いうと、覚醒剤に関係しているということですか?」
と、十津川は、きいた。
「わかっていらっしゃる筈ですわ。あと、四人います。注意して下さい」
と、女は、いった。
「あなたは、石川ひろみさんじゃないんですか?」
と、十津川は、きいた。
「あと四人です。守って下さい」
「その名前を、教えて下さい。知らなくては、守りようがないですよ。あなたは、あの送り状の名前を、知っているんですね? 清水刑事は、あなたに、名前を、預けたんですね?」
「───」
「とにかく、その名前を、われわれに、教えて下さい」
と、十津川は、頼んだが、相手は、電話を、切ってしまった。
十津川は、顔をあかくして、亀井に、
「録音は?」
「途中から、とってあります。やはり、石川ひろみですか?」
「他に、考えられないよ。清水刑事は、五人の送り状を、石川ひろみに、預けていたんだ」
と、十津川は、いった。
「しかし、それなら、なぜ、われわれに、見せないんですかね?」
若い西本が、腹立たしげに、いった。
「わからないが、彼女は、自分一人で、兄を、あんな風にした犯人を、見つけ出そうとしているのかも知れんよ」
「バカな。若い女の手に負える相手じゃありませんよ」
西本が、吐き出すように、いった。
「だから、南烏山の殺人事件について、警察に電話して来たんだよ」
と、十津川が、いった。
「しかし、その他の人間については、何も教えないわけでしょう?」
「その点が、警察への不信感なんだろうね」
「しかし、なぜ、警察への不信感なんですか? 彼女の兄の石川久男が、射殺されたのは、彼の自業自得《じごうじとく》ですよ。覚醒剤に溺れて、殺人を犯していたんですから。それを、逆恨《さかうら》みして、警察不信なんていうのは、間違っているんじゃありませんかね」
西本は、また、文句をいった。
「そうさ。逆恨みさ。だが、妹の彼女としてみれば、割り切れないんだろうね」
と、いったのは、亀井だった。
「しかし、なぜ、清水刑事は、その伝票を、ひろみに、渡したんだろう。郵便で出したのなら、警視庁の、我々宛てにすればよかったのに」
と、西本がいった。
「清水刑事としては、罪ほろぼしの気持があったのだと思うよ」
と、十津川がいった。
「罪ほろぼし?」
亀井が、きいた。
「ああ、清水刑事は、あのコンビニエンスストアで、石川が、人質をとって、たてこもっていたとき、弟を殺された怒りのあまり、他の警官の、制止を振り切って、一人で、突入していった。その結果、石川は、射殺されてしまった。もし、もっと、冷静に行動していたら、あるいは、石川は、生きたまま、捕えられたかもしれない。清水刑事は、そのことを、ずっと気にしていたのだろう。だから、あの伝票を、ひろみに渡すことによって、自分を、信じてくれと、言いたかったのかもしれない」
「そうか、そうすれば、ひろみも、協力してくれると、考えたんですね」
と、亀井が、いった。
「ひろみは、警察が知らない何かを、知っているに違いないと、清水刑事は、にらんでいたんだろう。伝票を、渡すことによって、その何かを、自分に、教えてくれるだろうと、考えたんだ」
と、十津川は、いった。
「とにかく、南烏山の現場へ行ってみよう。これは、われわれが担当すべき事件だからね」
十津川は、全員に、いった。
十津川たちは、調布の捜査本部から、南烏山の現場に向った。
甲州街道の烏山バイパスの中間地点が、殺人の現場だった。
初動捜査班の佐伯警部が、現場で、説明してくれた。
「問題の車は、ここにとめてあって、被害者は、それに乗ろうとして、射殺されたんだ。だが、誰も、銃声を聞いていないんだ。まあ、この辺は、住宅も少いんだが、どうやら、サイレンサーつきの狙撃銃《スナイパー》が、使われたような気がする」
「一発で、死んでいるそうだね?」
と、十津川は、周囲を見廻しながら、きいた。
「眉間に命中していた。銃も高性能だが、射った人間の腕も凄いよ。プロだな」
「プロ?」
「それも、腕のいいプロだ」
「そんな人間が、日本にいるかね?」
「考えられるのは、自衛隊の人間だが、サイレンサーつきの狙撃銃《スナイパー》というのは、使ってないようなんだ」
「面倒な事件になりそうだな」
と、十津川は、呟《つぶや》いた。
「被害者の名前が、塩谷洋だというのは、間違いないのかね?」
今度は、佐伯が、きいた。
「それは、まだ、はっきりしないんだ。被害者は、車に乗ろうとしていたんだから、運転免許証を、持っていたんじゃないのか?」
「持っていたよ。だが、偽造の免許証だったんだ。だから、身元不明にしておいたんだよ」
と、佐伯は、いった。
「車の持主は?」
「今、調べている。車は、ベンツで、今、世田谷署に置いてある」
「車検証もないのか?」
「車には、入ってなかったね。偽造の免許証にあった住所も、もちろん、でたらめだった」
「車のナンバーから、持主を割り出せるんじゃないかな?」
「今、それを、やっているよ」
「被害者の所持品は?」
「世田谷署に置いてあるが、ぜいたくな品物ばかりだったね。夏物の背広も、外国のブランド物だし、カルティエの財布の中には、三十二万円も入っていた。腕時計は、宝石入りのパティックで、何百万も、するんじゃないかな」
「カードは、持ってなかったのか?」
「CDカードが入っていた。そこにあった名前は、運転免許証と同じ三田孝介だった」
「つまり偽名ということか?」
「そうだが、M銀行のCDカードでね。その線から、住所は、わかるんじゃないかな」
と、佐伯は、いった。
「そうしたことは、われわれが引き継ぐよ。あとは、どの辺りから射たれたか、わかったのかね?」
と、十津川は、いった。
「正確なところは、わからないね。同じ銃があれば、実験できるんだが、今のところ、正確に、何という銃か不明でね。ただ、射殺事件のあった頃、七、八十メートルほど離れた場所に、車が、一台、とまっていたという証言がある」
「それが、怪しいのか?」
「わからないが、被害者が殺されたのは、午後十時五、六分頃だ。その一時間ほど前から、その怪しげな車は、とまっていたというんだ。そして、事件の直後に、消えている」
「どんな車なんだ?」
「大型の外車で、黒っぽかったとしか、わかっていない」
「車内に、人は?」
「車内は、暗くて、人間は見ていないんだ」
「車内から射ったとすれば、薬莢《やつきよう》も見つからんね?」
「ああ。現場周辺を、くまなく探したが、薬莢は、見つからないんだ」
「被害者は、ここに、車をとめて、何処へ、何しに行っていたんだろう?」
十津川は、もう一度、周囲を見廻した。近くに、京王線の千歳烏山駅がある。その近くは、商店街である。
「それも、まだ不明だ。聞き込みをやっているんだが、被害者を見たという証人は、見つからなくてね」
と、佐伯は、いった。
十津川たちは、佐伯から、捜査を引き継いで、世田谷署に行き、被害者の所持品を、見せて貰った。
なるほど、佐伯のいったように、高価な品物ばかりである。
その中から、M銀行のCDカードを、西本に渡して、銀行を当ってくるように、いった。
被害者の遺体は、新宿の国立病院で、解剖に廻されている。
十津川と、亀井は、車で、新宿に向った。
病院で、解剖を担当した医者に、話を聞いた。
「完全に、脳の組織が破壊されていて、即死だった筈ですよ」
と、医者は、いった。
「具体的にいうと、どんな具合なんですか?」
「頭の後半分は、吹き飛んでいますね。眉間に命中し、後頭部から、飛び出しています」
「つまり、ほぼ水平に、命中しているということですか?」
「そうでしょうね」
「胃の中の内容物は?」
「ほとんど、消化されていましたから、食事をすませてから、少くとも三時間は、経過していると思いますよ」
「薬物の反応は、出ませんでしたか?」
「薬物?」
「覚醒剤を、常用していたのではないかということなんですが」
「そういうことも、調べているんですか?」
「そうです」
「薬物中毒ということはなかったと思いますよ」
と、医者は、いった。
「その他には、何か、わかったことはありませんか?」
「最近、胆のうの手術をしていますね。その際、一週間か、二週間、入院していたんじゃありませんか」
「最近というのは、いつ頃ですか?」
「まあ、二、三年以内ということになりますが」
と、医者は、いった。
十津川と、亀井は、このあと、手術室に置かれた遺体を見せて貰った。
医者の言葉では、実感がなかったが、実際に見て、弾丸の威力を、改めて、認識した。
顔の前面は、きれいで、眉間に、小さな弾丸の進入孔が見られるのだが、頭部の後半分は、吹き飛んで、なくなってしまっているのだ。これでは、確かに、即死だったろう。命中し、頭の中で、破裂したのか。
「どうも、わからないですねえ」
と、亀井は、遺体を見たあと、十津川に、いった。
「何がだね?」
「犯人が、使った凶器のことですよ。ナイフとか、せいぜい、猟銃ぐらいで殺したのなら、納得できるんですよ。普通は、そうしたものですからね。それなのに、今度の犯人は、なぜ、難しい武器を使ったんでしょう?」
と、亀井が、きく。
「同感だね。理由があってのことだろうと思うんだが」
十津川にも、わからないのだ。
日本の自衛隊も、持っていないような銃が使われたとすると、アメリカ軍の兵隊が、関係しているのか。
「覚醒剤というと、暴力団が、浮んで来ますが、暴力団は、そんな難しい凶器は、使わないでしょう? 使うとしても、密輸拳銃ぐらいだと思いますがね」
と、亀井は、いった。
だが、今度の犯人は、わざわざ、狙撃銃《スナイパー》を使って、殺したのだ。
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第十二章 関係者たち
それが、最大の疑問として、十津川の頭を支配した。
殺人の動機はわかる。殺された男は、川西茂男から、覚醒剤を購入していた。そのことを秘密にしておきたかったので、殺したのだろう。いわば口封じだ。多分、被害者は、単なる購入者ではなく、川西から、大量に買い入れて、それを、彼自身も、中毒者に売って、儲けていたのだろう。
しかし、なぜ、狙撃銃《スナイパー》のような武器を使ったのだろうか?
十津川は、防衛庁へ行って、銃について、話を聞くことにした。紹介されたのは、陸上自衛隊の一佐で、オリンピックのライフル射撃にも出たことのある堀田という男だった。
堀田は、「七、八十メートルの距離から、眉間《みけん》を、ですか」と、おうむ返しにいってから、
「そりゃあ、大変な腕ですよ」
と、眼を大きくした。
「それも、夜間、暗い場所です。多分、暗視装置つきの高性能ライフルが、使われたと、思うのですが」
「そうでしょうね。それで、相手は、動かずにいたんですか?」
「車に乗ろうとしているところを、射《う》たれています。ドアを開けようとした時でしょうから、その時間は、動かなかったと思いますね」
「しかし、難しいですねえ」
「堀田さんなら、どうですか?」
と、十津川が、きくと、堀田は、苦笑して、
「私は、そんな難しいライフルで射ったことは、ありませんから」
「すると、この人間は、相当な腕と考えられますか?」
「そうですね。それに、暗視装置つきのライフルに、馴れている人間だと、思いますね。いくら、腕がよくても、いきなり、新しいライフルを渡されたのでは、思うようには、射てませんよ」
「すると、その銃を、常に、使用している人間ということになりますか?」
と、十津川は、きいた。
「そうですね。少くとも、かなりの時間、同じ銃で、練習していたと思いますよ。もちろん、実際にも、何度も、標的に向けて、射ったと思います。暗視装置つきで、夜間の射撃訓練もした筈です」
「日本で、そういう射撃訓練をする場所が、ありますかね?」
と、十津川は、きいた。
「暗視装置つきの狙撃銃のですか?」
「そうです」
「まず、そんな銃の持主はいないでしょう」
「もし、持っていたら?」
「まあ、山の中ででも、射つより仕方がないでしょうね。暴力団が、時々、山の中で拳銃の試し射ちをしているでしょう。しかし、警部さんのいわれるような精巧なライフルの試射というのは、難しいでしょうね。山の中で、ただ、やみくもに射てばいいというものじゃありませんからね」
「サイレンサーつきだと、命中精度は、落ちるものですか?」
「さあ。私は、サイレンサーつきのライフルで、射つことがありませんから。しかし、多分、初速が落ちるでしょうから、難しくはなるでしょうね。問題の狙撃銃は、サイレンサーつきなんですか?」
「そう思われるんです。銃声を聞いている人間がいないので」
と、十津川がいうと、堀田は、呆《あき》れたように、
「それじゃあ、まるっきり、狙撃者そのものじゃありませんか。プロですよ。素人が、山の中で、何日か練習したって、無理ですよ」
と、いった。
「自衛隊にも、狙撃銃はあるんでしょう?」
「ありますよ。しかし、スコープつきですが、サイレンサーなんかは、使いませんよ。戦争になれば、銃声が聞こえるのが、自然ですから」
と、堀田は、いった。
問題の狙撃銃については、アメリカ軍にも、照会が、行われた。
その結果、どうやら、NATOで、採用されている狙撃銃で、アメリカ陸軍でも、使われるようになったものらしいと、わかってきた。
十津川は、亀井と二人で、米軍基地に行き、その銃を見せて貰った。
M─16に比べると、銃身が長く、ずっしりと重い銃である。暗視装置もつけられるし、サイレンサーもつけられる。
「バラつきの少い、いい銃ですよ」
と、実際に、射って見せてくれた黒人の軍曹が、十津川に、いった。
「最近、この銃が、基地から盗まれたということは、ありませんか?」
と、十津川は、きいてみたが、その答は、ノーコメントだった。
米軍基地から戻った亀井は、十津川に向って、
「これで、ますます、わからなくなってきましたよ」
と、首をかしげた。
「なぜ、犯人が、あんな難しい銃を使って、殺したかだろう?」
「そうです」
「ただ、殺すだけなら、拳銃で十分だし、ナイフでも、ハンマーでも、可能だった筈だよ。特殊な銃を使用すれば、その銃が見つかった時、証拠になる。犯人は、そのくらいのことは、承知している筈だがねえ」
「一つだけ考えられるのは、その銃を、何としても、犯人が、使いたかったということじゃありませんか?」
と、亀井が、いった。
「使いたいから、使ったか──」
「そうです。たまたま、その銃を手に入れたので、使いたくて仕方がなかった。被害者の口を封じることになったので、この時とばかりに、銃を使ったというわけです。昔、侍が、新しい刀を手に入れると、切れ味を確かめたくて、辻斬りをするのと、同じじゃありませんか?」
と、亀井が、きいた。
「しかしねえ。自衛隊の射撃の名手に聞いたところでは、精巧な銃になるほど、その銃を使った訓練が必要だということだよ。たまたま、新しい銃を手に入れたので、それを使うというわけには、いかないそうだ」
と、十津川は、いった。
「すると、犯人は、その銃を使って、ずっと、練習をしていたということですか?」
「そうだよ」
「しかし、何処で、射撃訓練をするんですか? 日本では、なかなか、練習は、無理なんじゃありませんか?」
「山の中か、無人島か──」
「そういう所で、上手《うま》く、訓練が、出来ますかねえ?」
「問題は、そこさ。銃の微調整をするための専門家を、連れて行かなければならないし、銃がこわれた時に、予備の銃が、必要だ」
「確かに、大変ですね」
「銀行の方は、どうなってる?」
と、十津川は、西本に、きいた。
「M銀行の八王子支店に、三田孝介の名義で、預金がありました。九千二百万円の預金です。八千万円の定期と、一千二百万円の普通預金です」
「それで、住所も、わかったのか?」
「住所は、八王子市内ということで、日下刑事が、行っています」
と、西本は、いった。
その日下刑事が、帰って来た。
「被害者は、三田孝介の名義で、八王子市内に、家を借りて、住んでいました。車庫付きの二階建で、二十八万円で、借りていたようです」
と、日下は、報告した。
「家を借りる時、偽名と、わからなかったのかね?」
と、亀井が、きいた。
「それなんですが、大家さんは、三田孝介が、二ヶ月分の家賃や、礼金などを、きれいに払ってくれたので、何の調査もせずに、貸していたと、いっています」
「しかし、住民票なんかは、出させたんだろう? それに、保証人も」
「そうですが、偽造です」
「それを、確かめなかった?」
「大らかな大家さんなんですよ」
と、いって、日下は、亀井に、笑われた。
「家の中から、何か、見つかったかね?」
十津川が、日下に、きいた。
「それなんですが、手紙や、写真といったものは、全く、ありませんでした。恐らく、用心深く、そうしたものを、残さないようにしていたんだと思います」
と、日下は、いう。
「それで、彼は、何をしていたんだ?」
「近くの人たちの話だと、朝、車に乗って、出かけて行き、陽が暮れてから、帰って来ていたようです。それで、何処かの会社の偉い人だろうと、思っていた人が、多いみたいです」
「彼は、一人で、住んでいたのかね?」
と、十津川が、きいた。
「時々、若い女の姿を見かけたという話もあります。家の中に、三面鏡や、女の服の入った洋ダンスなんかが、ありましたが、彼女の名前は、わかりません」
と、日下は、いった。
「ベンツの持主は、わかったかね?」
と、十津川は、西本に、きいた。
「わかりました。同じ八王子市内のパチンコ店のオーナーです。名前は、藤沢司郎です」
「その男のベンツを、なぜ、三田孝介が、乗り廻していたんだ?」
と、十津川が、きいた。
「藤沢は、あのベンツを、売りに出していたんです」
「それで?」
「彼の話では、五百万で、売りに出したところ、半月ほど前に、三田孝介という人が現われて、買いたいと、申し出たそうです。しかし、車庫がないので、しばらく、今まで通り、あなたの名義にしておいてくれないか。もちろん、五百万はすぐ支払うし、保険も、全て、払うといわれたので、その通りにしてあげていたというのです。実際、三田という男は、五百万を支払い、保険料も、支払ったそうで、妙な人だなと思ったから、名義を、書き換えずにいたんだと、いっています」
「車庫がないからという言葉を、信じていたのか?」
「そういっていましたね。だから、三田孝介の家に、車庫があるといったら、びっくりしていましたよ。それなら、なぜ、名義を、自分のものにしなかったのかって」
「偽名だから、出来なかったんだろう」
と、十津川は、いった。
三田孝介という名前が、偽名だということは、わかった。だが、この男が、石川ひろみが電話でいった塩谷洋なのかどうかは、まだ、不明なのだ。それに、函館の事件の関係者というのも、石川ひろみが、電話で、いっただけである。
十津川は、彼女の言葉を信用したのだが、それは、証明されているわけではなかった。
(彼女が、出て来て、塩谷洋について、話してくれれば、はっきりするのだ。伝票には、あと、四人の名前があった筈だが、彼等の名前も、教えて欲しいのに)
と、思った。
伝票の六人の中《うち》、伊原は、函館から、東京に移り、二人目の塩谷洋は、東京で、殺された。
あとの四人も、東京に来ているのだろうか? それとも、もともと、東京の人間で、川西茂男は、彼等に、函館から、覚醒剤を、送っていたのか?
もし、あとの四人が、今、東京にいるとすれば、石川ひろみは、その四人と、会おうとするだろう。危険を承知で。
あとの四人が、どんな人物かわからない。
しかし、長谷部記者の、話によると、伝票には、伊原のほか、男四人と、女一人の名前が、書いてあったという。
その女の名前は、野崎裕子かもしれない。
だが、暗視装置つき、サイレンサーつきの狙撃銃に狙われたら、逃げようがないのではないか。
もう一つ、十津川が、知りたいのは、この射殺事件と、江崎周一郎の関係だった。
十津川の推理が当っていれば、当然、関係がなければならないのだ。
「江崎は、銃に興味を持っていますね」
と、西本が、いってきたのは、塩谷洋が、殺されて、二日してからだった。
「どの程度の興味なんだ?」
と、十津川は、きいた。
「高価な猟銃を、何挺か持っているようですし、埼玉県のクレー射撃場で、時々、射っているそうです」
「そこで、江崎の腕を、見てみたいね」
と、十津川は、いった。
十津川は、そのクレー射撃場に、電話を掛けてみた。
江崎は、そこの会員になっているという。
「二年前に、入会されています。紳士ですよ。規則は、きちんと守って下さるし、腕も確かです」
と、そこの久米社長は、十津川に、いった。
「今度、いつ、江崎さんが行くか、わかりますか?」
と、十津川は、きいた。
「明日の午後二時に、予約をとっておられますが」
「二時ですね?」
「そうです。何か、伝言でも?」
「いや、私が、そちらで、直接、江崎さんに、伝えます」
と、十津川は、いった。
翌日、十津川は、亀井を連れて、そのクレー射撃場に出かけた。
建物の中に入って行くと、銃声が、聞こえた。
中年の男が二人、並んで、射っていた。今日は、ウイーク・デイだから、サラリーマンではないだろう。
クレーが、次々に、宙を飛び、二人の男が、それを、射ち落とす。失敗すると、男たちは、大きな舌打ちをした。
江崎が、二十五、六歳の若い男を連れて現われたのは、午後二時を、十五、六分過ぎてからだった。
十津川と、亀井は、建物のかげに隠れて、江崎と、若者が、クレー射撃を始めるのを、見ていた。
前にやっていた中年の男たちに比べると、江崎も、若者も、格段に腕が上だった。飛来するクレーを、確実に、射ち落としていく。
二人が、射撃を止《や》めて、ロビーで、コーヒーを飲んでいるところへ、十津川たちは、出て行った。
江崎は、びっくりした顔で、十津川を見、亀井を見た。
「警部さんが、ここの会員とは、知りませんでしたね」
と、江崎は、いった。
「いや、たまたま、興味があって、見ていただけです。江崎さんも、そちらの若い方も、たいした腕だと、感心しましたよ」
十津川は、賞《ほ》めあげた。
「なに、子供の遊びですよ」
と、江崎は、肩をすくめてから、隣りの若者を、
「秘書の星野君です」
と、紹介した。
「あなたも、ここの会員ですか?」
「ええ」
と、星野が、肯《うなず》く。江崎は、十津川に向って、
「彼は、昔、陸上自衛隊にいましてね。そのせいで、私より、腕は、上です」
「なぜ、自衛隊を、やめたんですか?」
と、亀井が、星野に、きいた。
星野は、ちらっと、江崎を見てから、
「団体生活とか、規則なんかが、向いていなかったんでしょうね」
と、表情を変えずに、いった。
「自衛隊にいた頃は、どんな銃を、射っていたんですか?」
十津川は、星野に、きいた。
「最近、新しい小銃になったようですが、自分がいた頃は、六四式といわれた自動小銃です」
「それには、どんな装置がついていたんですか? 付属品として」
「装置って、どういうことでしょうか?」
星野が、怪訝《けげん》そうに、きき返した。
「よくあるでしょう。スコープとか、サイレンサーとかですが」
と、十津川が、いうと、星野は、笑って、
「戦場で、サイレンサーなんて、意味がないでしょう? それに、自分は、一兵士でしたから、スコープなんかも、使いませんでしたよ。とにかく、一斉に連射して、弾幕を張るのが、現代の戦争での兵隊の仕事ですから」
「自衛隊には、何年いらっしゃったんですか?」
十津川が、きくと、江崎が、横から、
「なぜ、星野君の自衛隊時代のことを、いろいろと、おききになるんですか?」
と、きいた。
「いや、ただ、個人的に、自衛隊というものに、興味がありましてね」
「なぜですか? 普通の人は、興味はないんじゃありませんか?」
「私は、ご承知のように、刑事です。警察と、自衛隊とは、似たところがある。例えば、拳銃とか、小銃といった武器を、表立って使用できる唯一の職業です。それで、興味があるんですよ」
と、十津川は、いった。
江崎が、それで、納得したのかどうかわからないが、
「星野君は、確か、三年半ほど、自衛隊にいた筈ですよ」
と、いった。
十津川は、星野に、眼を向けて、
「その間、六四式自動小銃を、使っていたわけですね?」
「そうです」
「その後、社長さんと、時々、ここへ来て、クレー射撃を楽しんでいる?」
「ええ。しかし、せいぜい、二ヶ月に、一回くらいですよ」
「今、全く新しい自動小銃を与えられて、射ってみろといわれたら、射てますか?」
と、十津川は、きいた。
「それは、どういう意味ですか?」
と、星野が、きく。
「日本の場合、銃のプロというと、自衛隊員しか、考えられません。あなたは、そのプロだった。そうした人は、新しい銃でも、簡単に扱えるんじゃないかと、思いましてね」
「そりゃあ、銃の構造というのは、基本的に同じですからね。しかし、多分、当りませんよ」
「なぜですか?」
「銃には、それぞれ、特徴がありますからね。それを身体で覚えるまでは、簡単に、命中するものじゃありません」
「練習すれば?」
「最低、一ヶ月間、毎日、射ちたいですね。それに、常々、その銃を傍に置き、分解、組み立てもやらなければ、銃の性能を、把握できない。しかし、そんなことが出来る場所が、ありますか?」
と、星野が、反論した。
「そうですね」
「それに、日本じゃ、民間人は、猟銃以外は、持てませんよ」
「その通りです」
と、十津川は、肯いてから、今度は、江崎に向って、
「銃に興味を、お持ちのようですね?」
「持っていますよ。しかし、男というのは、たいてい、興味を持ってるんじゃありませんか。私の友人に、平和運動家がいますが、彼は、家に、モデルガンを集めているということですよ」
と、江崎は、いった。
「猟銃を、沢山お持ちだそうですね?」
「ええ。何挺か持っていますが、全て、許可を得ていますよ」
「世界の軍隊が使用している最新式の銃を欲しいとは、思いませんか?」
十津川がきくと、江崎は、微笑して、
「出来ないことは、考えないことにしています。まあ、日本は、優秀なモデルガンを作りますからね。それで、満足していますよ」
と、いい、星野に向って、
「もう一度、やるぞ」
と、声をかけた。
また、しばらく、十津川と亀井は、江崎と星野の二人が、クレー射撃をするのを、眺めていた。
十津川たちの視線を意識したためか、二人とも、さっきのように、クレーに命中させることが出来ずにいる。
「帰ろう」
と、十津川が、急に、いった。
二人は、パトカーに戻った。亀井は、ハンドルに、手を置いたまま、
「警部は、あの星野という男を、怪しいと、思われるんですか?」
と、十津川に、きいた。
「いや。彼の可能性はないよ」
「なぜですか? 元自衛隊員で、射撃の腕は、かなりのものですよ」
「しかし、彼のいう通り、実際に、人間を射つ場合は、慣れた銃でないと、上手くいかないだろうと、思うのだ。そして、あの銃に慣れるには、その銃で、実際に、何回も射ち、分解し、組み立てるぐらいのことをしてなければいけないんじゃないかね。日本に、そんな場所があるだろうか? 拳銃ではなく、有効射程が、何百メートルもある狙撃銃の訓練なんだ。広い場所が、必要だし、ある程度、設備が整っている必要があるよ。ただ、射てればいいというわけじゃないからね」
「しかし、警部。実際に、狙撃銃《スナイパー》が、使われて、男が一人、殺されているんです。それも、的確に、眉間を射ち抜いています。どこかで、犯人は、その銃を使って、訓練していたことは、明らかです」
「わからんよ。だから、余計に、いらいらするんだよ。場所は、何処なんだ? 新型の狙撃銃は、どうやって、手に入れたんだ? どの質問にも、答が見つからない」
「江崎がやらせたとして、このクレー射撃場の社長を買収して、ここで、射撃訓練をしていたということは、ありませんかね?」
と、亀井が、いう。
「確かに、こういう場所なら、設備も、整っていて、条件的には、合っているがね」
「それに、昼間は、営業しているから、狙撃銃の練習などは出来ないでしょうが、夜なら、可能じゃありませんか? つまり、暗視装置つきの銃の練習です」
「調べてみるか?」
「ここの社長と、江崎の関係を、徹底的に、調べてみます」
と、亀井は、いった。
いったん、調布署の捜査本部に寄ってから、亀井は、西本刑事を連れて、久米社長と、江崎の関係を、調べに出かけた。
しかし、この結果は、芳しいものでは、なかった。
「久米社長というのは、交際範囲の広い男で、有名タレントにも、知り合いが、沢山います。タレントでも、クレー射撃を楽しむ人が沢山いますから。そういう人たちに会って、久米社長のことをきいてみたんですが、法律に反するような真似をするとは思えないという点で、一致しています」
と、亀井は、いった。
「江崎との関係も、クレー射撃場のオーナーと、客の一人ということでしかないようです」
と、西本が、付け加えた。
「それに、あの射撃場は、照明設備があって、夜間も営業しています。従って、夜間、特定の客に、貸切りの形で、使わせることはないと、従業員が、いっています」
と、亀井は、いった。
十津川は、顎《あご》に手をやって、
「そういえば、夜間照明が、あったんだ」
「そうなんです。従って、江崎が、夜間だけ借りて、訓練するというわけには、いかなかったと思います」
と、亀井は、いった。
「会員の中での、江崎の評判は、どうなんだ?」
と、十津川は、二人の刑事に、きいた。
「評判は、悪くありませんよ。他の会員は、江崎を、礼儀正しくて、しかも、腕がいいといって、尊敬しているという人も、いるくらいです」
「星野の方は、どうなんだ?」
と、十津川が、きくと、亀井は、一層、当惑の色を濃くして、
「星野の顔立ちを話して、会員たちに、話を聞いたんですが、どうやら、彼は、ほとんど、あのクレー射撃場には、行っていないんです」
「しかし、彼は、時々、行って、練習していると、いっていたんだがね」
「江崎は、ひとりで、よく来ていたそうです」
と、西本は、いった。
「ひとりでか?」
「若い女と、一緒に来たこともあると、いっていました。どうやら、例の社長秘書の野崎裕子のようです」
と、西本が、いった。
「彼女も、クレー射撃をやるのかね?」
「会員名簿に、野崎裕子の名前は、ありませんが、久米社長も、写真を見せたところ、彼女だといっていますし、会員の紹介があれば、あそこで、クレー射撃を楽しんで貰うことになっていると、いっていました」
「彼女は、上手いのかね?」
「かなりの腕だそうです」
「そうなると、星野は、ますます、犯人ではなくなってくるね。クレー射撃の練習も、あまりやっていなかったとなると、夜、人間を射って、一発で仕留めるなんてことは、出来ないだろうからね」
と、十津川は、いった。
「しかし、私は、まだ、あの星野という青年を、完全に、シロとは、思えません」
亀井は、そういった。
「では、もう少し、星野を、調べてみたまえ」
と、十津川は、いった。
翌日、亀井は、朝から、聞き込みに出ていたが、昼頃、戻って来ると、
「奴が、いなくなりました」
と、十津川に、いった。
「いなくなったって、どういうことだね?」
「江崎邸に、会いに行ったら、いないと、いわれました。江崎は、急に姿を消したので、自分も探しているんだといっていますが、信用できません」
「彼の住所は?」
「それが、江崎邸に、住み込んでいたんだそうです。とにかく、この失踪は、おかしいです。絶対に、見つけ出してやります。すでに、死体になっていてもです」
と、亀井は、いい、西本と、また、出かけて行った。
十津川は、ひとりになると、別のことを、考えた。
石川ひろみのことだった。
彼女は、多分、伝票にあった残りの四人に、会おうとしているに、違いない。
その四人が、どんな人間なのか、十津川には、わからない。
だが、眼を閉じると、石川ひろみが、その中の一人を見つけて、会っている姿が、浮んで来るのだ。
石川ひろみの顔は、はっきりしている。しかし、相手は、男とわかるだけで、顔は、はっきりしない。
(危い!)
と、十津川は、思う。
その男は、石川ひろみが、探し当てた時、一番、危険なのだ。
(なぜ、警察に、伝票を、見せてくれないんだ!)
と、十津川は、呟《つぶや》く。
夕方、亀井と、西本が、帰って来た。
「星野は、嘘をついていましたよ」
と、十津川の顔を見るなり、亀井が、いまいましげに、いった。
「どんな嘘だね?」
「クレー射撃場で、星野は、三年半、自衛隊にいたと、いっていたでしょう? 正確には、江崎が、いったんですが」
「それが、嘘なのかね?」
「星野は、確かに、自衛隊にいたことがあります。しかし、教官と、ケンカして、六ヶ月足らずで、やめているんです」
と、亀井は、いった。
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第十三章 砂 漠 の 国
二つのことが、考えられた。
一つは、星野が、犯人ではないということである。もし、彼が、射殺犯でなければ、江崎と、江崎の会社が、今度の事件に関係している可能性も、うすくなってくるのだ。
だが、十津川は、江崎が、今度の事件に関係しているという考えを、捨てられなかった。
もし、そうなら、星野が、射殺犯の可能性は、強いし、何処かで、暗視装置つきの狙撃銃の射撃訓練を、受けたに違いないのである。
「しかし、日本に、そんな場所がありますか?」
と、亀井が、首をかしげた。
「海外かも知れない」
「フィリッピンや、アメリカでは、銃は射《う》てますが、暗視装置つきの狙撃銃を、射たせてくれるとは、考えられません。そうした銃は、軍隊の機密に属するでしょうから」
「そうだと思うよ」
と、十津川は、肯《うなず》いてから、
「星野の最近の行動を調べてみたいね。特に、彼が、海外に出ていないかどうかをだ」
「調べてみましょう。これは、簡単にわかると思います」
と、亀井は、いった。
出入国管理事務所に調べて貰って、一週間前に、星野が、帰国していることが、わかった。
「アフリカから、帰国しています」
と、亀井が、十津川に、報告した。
「アフリカ?」
十津川は、意外な気がした。銃を射てる場所ということで、アメリカや、フィリッピン、或いは、中国を、想像していたからだった。
「どうやら、星野は、アフリカに、一年近く、いたようです」
と、亀井が、いう。
「一年も、何をしていたんだろう?」
「わかりません。星野が、一年間近く、アフリカにいたことだけは、間違いないようです」
「江崎の会社の社員なのかね?」
「そこのところは、よくわかりませんが──」
「もう一度、江崎と、星野に会ってみよう」
と、十津川は、いった。
翌日、十津川と、亀井は、江崎邸を、再訪した。相変らず、真夏日で、昼間は、三十五度近い暑さだった。
江崎は、冷房の利いた奥座敷に、十津川と亀井を、招じ入れてから、
「星野君が、一年間、アフリカにいたのは、本当ですよ。明日、また、アフリカに戻ると、電話でいって来ました」
と、笑顔で、いった。
「彼は、アフリカで、何をしていたんですか?」
と、十津川は、きいた。
「アフリカには、貧しい国が多いんですよ。日本の政府は、ODAとかで、金をばらまいているが、ほとんど、役に立ってないでしょう? それどころか、民衆からは、憎まれている。そんな現状を、心配するのが、日本の若者の中に、いるんです。自分の若さと、体力で、アフリカの民衆のために、働きたいという青年たちですよ。立派だと思いませんか?」
「海外青年協力隊といった若者のことですか?」
「そうです」
「彼が、その一人だというのですか?」
「そうです。一年間、彼は、アフリカで働き、また、行こうとしているんです」
「しかし、あなたの会社と、どんな関係があるんですか? 社員ということですが」
と、亀井が、きいた。
「ああいう有為な青年たちが、一番、悩むのは、何だと思いますか?」
「さあ」
「一年なり、二年なり、或いは、もっと長く、現地で、働いて、日本に帰って来ると、自分の働き場所がないことです。こんな馬鹿なことがありますか? 私は、憤慨しましてね。微力ながら、彼等の助けになってやりたい。そう思ったわけです。それで、私の会社の社員ということにしたんですよ。社員ならば、給料も出せる。彼が、アフリカで、井戸掘りをする費用がないというのなら、私の会社で出そうじゃないか。そういうことにしたわけです」
と、江崎は、いった。
「彼の他にも、同じような社員が、何人かいるわけですか?」
と、十津川は、きいた。
江崎は、ニッコリ笑って、
「何人もいますよ。みんな、素晴らしい若者たちですよ。今どきの、へなへなした青年たちじゃありません。しっかりした信念を持ち、主義のために、自分の命も、捨ててかえりみない若者たちばかりです。私は、彼等が、好きなんですよ」
「みんな、アフリカで、働いているんですか?」
「そうです」
「正確な人数は、わかりますか?」
「多少の増減はありますが、四、五十人はいますよ」
江崎は、誇らしげに、いった。
「四、五十人も?」
「そうです。そのくらいは、いても、いいんじゃありませんかね。国のため、社会のために、一身を投げ出す覚悟のある青年が」
と、江崎は、いう。
「その青年たちに、江崎さんは、援助をされているわけですね?」
「そうです」
「よく、資金が、続きますね」
と、亀井が、いった。
「まあ、私には、家内の財産がありますからね。それに、円高で、使い甲斐もあります。この邸を、抵当に入れてもいいと思っているんですよ。彼等を、援助できるのならね」
と、江崎は、真顔で、いった。
十津川は、すぐには、江崎の言葉を、信じられなかった。
彼は、外務省に行き、海外青年協力隊の現状について、きいてみることにした。
答えてくれたのは、田崎という課長だった。
「江崎交易の社長が、援助しているグループですか?」
と、田崎は、首をかしげた。
「そうです。アフリカで、働いている四、五十人の若者の面倒をみていると、いっています」
「そういう話は、聞いたことがありませんねえ。アフリカの各地で、日本の若者が、医療活動をしたり、農業指導をしたりはしていますが、江崎交易という名前は、知りませんよ」
「民間会社が、勝手に、社員を、アフリカに派遣して、向うの人々に、技術指導をするということは、あり得ますか?」
と、十津川は、きいた。
「それは、あり得ますが、その場合は、海外青年協力隊の名前を使われては、困りますね」
と、田崎は、いった。
十津川は、江崎に、電話で、その話を、ぶつけてみた。
江崎は、電話の向うで、笑い声を立てた。
「役人という奴は、なんで、そう形式に、拘《こだ》わるんですかねえ。国が派遣する若者だろうが、民間の者だろうが、世界のためになっているのなら、海外青年協力隊で、いいじゃないですか」
「しかし、民間の場合でも、江崎交易の名前を聞いたことはないと、いっているんですがね」
と、十津川が、いうと、江崎は、また、笑った。
「十津川さん。私は、自分の会社の利益のために、彼等を援助しているんじゃありませんよ。私利私欲は、全くありません。だから、努めて、私の名前も、会社名も、出さないようにしているんです。従って、彼等の件で、江崎交易の名前が聞こえて来ないのは、当然ですよ。むしろ、名前が出たら、おかしいんです」
「彼等の名前と、アフリカの何処で、どんな技術援助とか、指導をしているのか、詳しく、話して貰えませんか?」
「話しても、構いませんが、彼等は、いろいろな国へ行っているし、単純に、何をしているとは、いえないんです。例えば、水不足の所へ行って、日本式の井戸掘りを指導していても、他のことは、やりませんというわけにはいかないでしょう。野菜の作り方だって、教えることになるかも知れないし、全く関係のないこと、例えば、野球を教えたりしているかも知れないんです」
「アフリカの何処の国に何人というのも、わかりませんか?」
と、十津川は、きいた。
「わかりますが、なぜ、そんなことまで、警察に、答えなければいけないんですかね。何か、大きな事件に、彼等が、関係しているんですか?」
江崎は、大声を出して、きいた。
「殺人事件です」
「まさか、彼等が、そんな恐しい事件の容疑者にされているんじゃないでしょうね?」
「星野さんについていえば、射殺事件について、いろいろと、おききしたいことがあったんですがね」
「なぜですか?」
「犯人は、狙撃に熟達している人間だということは、間違いありません。それも、七、八十メートルの距離から、夜間、一発で、人を殺しているのです。暗視装置つきの狙撃銃を使用したと思われるのです。日本で、銃の扱いに慣れている人間というと、自衛隊にいた人間ということになってきますのでね」
「それで、昔、自衛隊にいた星野君が、疑われているわけですか?」
「まあ、そうです。彼だけでなく、自衛隊をやめた人間は、全て、マークしていますよ」
十津川は、少しばかり、嘘をついた。
「しかし、十津川さん。彼は、自衛隊には、わずかの期間しかいなかったし、狙撃手でもありませんでしたよ」
「わかっていますが、アフリカに行かれる前に、もう一度、お会いしたいと、思っています」
と、十津川が、いうと、江崎は、少し考えているようだったが、
「それでは、出発前、空港で、会うように、星野君に、いっておきましょう」
と、いった。
十津川と、亀井が、成田空港で、星野に会うことになった。
出発までの三十分間という短さだったが、今の段階では、長くしてくれとは、いえなかった。
十津川たちに出来たのは、星野に話を聞いている間、江崎に、席を外させることぐらいだった。
星野は、陽焼けした顔に、サングラスをかけ、Tシャツ姿である。
「これから、アフリカの何処に行かれるんですか?」
と、まず、十津川は、きいた。
「カイロから、ザンビアに入って、小さな村で、魚取りを教えることになっています。これでも、私は、漁師の家に生れていますから」
と、星野は、はきはきした口調で、いった。
「それまでも、ずっと、その村で、漁業を、教えていたんですか?」
「そうです」
「一時的に、帰国されたのは、どうしてだったんですか?」
「参考資料を、取りに戻ったんです」
「漁業の?」
「そうです。新しい技術が、どんどん、開発されますし、特に、今は、魚も、養殖の時代ですからね。その方の参考書が、アフリカには、一冊もありませんから、それが、欲しかったんです。江崎社長が、金を出してくれたので、何冊か、購入することが出来ました」
星野は、嬉しそうにいい、ボストンバッグから、三冊の本を出して、十津川と亀井に見せた。
確かに、車エビの養殖の実際とか、鯉類の飼い方、料理方法といった本だった。
「アフリカは、広いから、本物の銃を射っても、咎《とが》められないんじゃありませんか?」
と、亀井が、きいた。
星野は、笑って、
「それはわかりませんが、実際問題として、そんなヒマはありません」
「しかし、銃を射つのは、お好きなんでしょう? 江崎社長と、一緒に、クレー射撃場に、行ったりしているんだから」
「あれは、社長が、お好きなんです」
と、星野は、いった。
「日本に帰っている間は、江崎社長の家に、いたということでしたね?」
「そうです。完全に、日本のマンションは、引き払って、アフリカに、行っていましたから」
と、星野は、いった。
それでは、事件の夜のアリバイをきいても、無駄だろうと、十津川は、思った。アリバイ証人は、いくらでも、出て来るだろうと、みたからである。
「アフリカでは、これから、また、何ヶ月も、漁業指導をされるんですか?」
と、十津川は、きいた。
「少くとも、あと一年は、行っていようと、思っています」
と、星野は、いう。
「向うでは、毎日、どんな生活をしているんですか?」
今度は、亀井が、きいた。
「そうですねえ。単調といえば、単調ですよ。毎日、同じことですからね。やたらに暑くて、水がまずくて、砂漠は、砂だらけで、村人たちは、なまけもので、本当に、こちらのいうことを理解してくれているのかどうか、わからなくて」
と、いって、星野は、微笑した。
「やはり、暑いですか」
「四十度を超すのが、ザラですからね。頭が、ぼうっとして、何も考えられなくなりますよ」
「クスリの助けを借りたくなることは、ありませんか?」
「クスリ?」
「そうです。例えば、覚醒剤なんかの力を借りたいと思ったことは、ありませんか? 一時的に、頭が、すっきりしますからね」
亀井が、いうと、星野は、苦笑して、
「何ヶ月も、何年も必要な仕事に、そんなクスリは、不要ですよ。要は、根気なんです」
と、いった。
「向うでは、何人くらいの仲間と、仕事をやっているんですか?」
「今は、二人です。もっと、沢山の青年が、志願してくれるといいんですが」
「しかし、全部で、四十人から、五十人と聞いていますよ」
「全員でね。ただし、アフリカも世界も広いですよ。四、五十人では、少な過ぎます」
「しかし、仲間の人たちは、信用しているんでしょう?」
「みんな立派な人間ですからね」
と、星野が、いった時、江崎が、帰って来た。
「そろそろ、搭乗時間だよ」
と、江崎は、星野に、いった。
十津川と、亀井は、星野の乗った飛行機を見送らずに、成田空港を後にした。
「カメさんの感想を聞きたいな」
と、車の中で、十津川が、いった。
「何のですか?」
「星野という青年についての感想だよ」
「アフリカの小さな村で、魚の養殖を教えている、今どき、立派な青年だと思いますよ」
「あれが、事実ならね」
「警部は、疑っておられるんですか?」
「正直にいって、わからないんだよ。私は、星野と話しながら、じっと、彼の眼を見ていた。いい眼だったよ。使命感に燃えた眼だった」
「その通りだからじゃありませんか?」
「ただ、問題は、江崎だよ」
「彼が、覚醒剤に関係していると、思われるからですか?」
と、亀井が、きいた。
「あの男が、函館の例の事件に関係しているのは、間違いないと、私は思っている。あの事件だけじゃない。他でも、彼は、覚醒剤の密売をやっていたと思っている。そして、巨万の富を得たとね」
「その金で、何十人もの若者を援助して、アフリカに行かせていると、お考えですか?」
「ああ。そうだ」
「そうだとすると、妙なことになりますね。江崎は、覚醒剤で儲けた金で、何十人もの若者を、援助し、アフリカで、技術指導をさせていることになります」
「そうだ」
「悪人が、善行をしていることになりますよ」
「本当に、アフリカの人たちを助けているならね」
と、十津川は、いった。
「しかし、警部は、星野が、使命感に燃えていると、おっしゃったじゃありませんか?」
亀井は、車を走らせながら、きいた。
「その通りだよ。彼の眼は、生き生きとしていた」
「そして、間違いなく、アフリカに、行ったんです。まさか、アフリカで、覚醒剤を、売ろうとしているわけじゃないでしょう?」
「それはないと思うよ。まず、売れないだろうし、そんなことのために、星野が、アフリカに行くのなら、あんな眼の輝きはしてない筈だ」
「それなら、やはり、アフリカの人たちの、技術指導に、行っているんじゃありませんか?」
「だから、わからなくなるんだよ」
と、十津川は、いった。
「星野は、向うで、魚の養殖を教えるといっていました。魚は、有力な蛋白《たんぱく》源ですし、金にもなりますから、教えるのは、いいことだと思います。それに、魚の養殖に関する本を、三冊、持っていましたよ。あの話に、嘘はないと、思いましたが」
「調べてくれないか」
「何をですか?」
「星野は、漁師の家に生れたと、いっていた。まず、それが事実かどうか、調べてみて欲しい」
と、十津川は、いった。
翌日、亀井は、星野が生れた福井に飛んだ。
亀井が、そこから、十津川に、電話で、報告した。
「星野家が、漁業をやっていたことは、間違いありません」
「そうか──」
「しかし、漁業をやっていたのは、亡くなった祖父の代までで、彼の父親は、漁業をやめ、市役所に勤めています。平凡なサラリーマンです」
と、亀井は、いった。
「星野が、祖父の仕事を見て育った可能性はあるのかね?」
「ありません。彼は、祖父が亡くなってから生れていますし、その時、父親は、すでに、サラリーマンでした」
「家は、海の近くにあるのか?」
と、十津川は、きいた。
「いや、福井市内で、海岸からは、離れています。両親は、マンション暮しです」
「漁業には、関係がなかったということか?」
「そうですが、全く、嘘をいったわけでもありません。今、いいましたように、祖父の代まで、漁師でしたから」
「彼は、どんな学校を出ているんだ? 水産高校なら、漁業に詳しいことになるんだが」
「いえ。福井の普通の高校です。学校では、サッカーをやっていたそうです」
と、亀井は、いう。
「もう一つ、調べてくれ。彼が、つき合っていた友人の中に、漁業関係者がいなかったか? 普通の高校に通っていても、魚を飼うことに、非常に興味を持っていたということがなかったか。そういうことだ」
「わかりました」
と、亀井は、いった。
夜になって、二度目の電話が入った。
「第一の問題について、報告します。彼の高校時代の友人に、漁師の息子はいません。高校を卒業すると、上京しています」
「しかし、カメさん。祖父は、漁師だったんだろう?」
「そうです」
「父親は、漁業をやめたが、同じ漁港にいた人たちの中には、そのまま、代々、漁師をやっている人もいるんじゃないのか? そうなら、星野の友だちに、漁師がいても、おかしくないと思うんだが」
「それなんですが、問題の漁港は、現在、なくなっているんです。祖父の代に、工場が、進出しまして、補償金が支払われ、全員が、漁業をやめてしまっています」
と、亀井は、いった。
「了解した」
「第二の問題ですが、高校時代の友人の何人かに会って、話を聞きましたが、高校時代の星野は、サッカーに夢中で、魚を飼っていたことはないし、魚の話をしたこともないそうです。釣りにも、興味はなかったようだと、いっています」
「すると、魚と結びつくものは、何もなしか?」
「そうです。祖父が漁師だったこと以外には、全くありません」
「祖父が、漁師だったとすれば、家に、漁具なんかも、残っていたんじゃないかね? 星野が、それを見て育ったということは?」
と、十津川は、きいた。
「それも、ないみたいですね。母親は、三年前に亡くなり、父親は、再婚しています。その父親に、会って、話を聞きましたが、もともと、漁業が嫌いだったので、そうしたものは、全部、始末してしまったそうです」
と、亀井は、いった。
星野は、嘘をついたのだろうか?
十津川は、彼が入っていた自衛隊にも、問い合せてみた。
自衛隊時代、星野が、魚に興味を持っていたかどうかをである。
彼の祖父が、漁師だったことは、間違いないのだ。高校時代に、関心がなくても、急に、興味を覚えて、勉強することだって、あり得るからだ。
しかし、自衛隊に所属していた間、星野が、魚に興味を持ったり、休日に、釣りに行ったりしたことはないという回答だった。
亀井は、次の日に、東京に帰って来た。
「星野は、アフリカへ行ってから、魚の養殖に興味を持ったんじゃありませんかね」
と、亀井は、十津川に、いった。
「と、いうと?」
「若者らしく、やみくもに、アフリカへ行って、何かの役に立ちたいと思った。あり得ることですよ。向うで、村人のために、水汲みを手伝ったり、排水溝を掘ったりしていたのかも知れません。その中《うち》に、魚の養殖をすれば、一番、村人が、助かるのだと、気がついた。そこで、独学で、養殖技術を覚えることにした。大いにあり得るんじゃありませんか?」
と、亀井は、いう。
「なるほどね」
「それなら、星野が、嘘をついたとは、いえないんじゃないですか。独学だというのが、照れ臭いので、自分の家が、漁師だといった。それも、全く、嘘とはいえません」
「参ったな」
十津川は、肩をすくめた。
彼にしてみれば、あの若者が、殺人者であるよりは、アフリカで、技術援助をしている協力隊員であって欲しい。
だが、それでは、江崎の正体が、わからなくなってしまう。いや、江崎までが、正義の味方になってしまうのだ。
そんなことはない筈だ、と、十津川は、自分に、いい聞かせた。
函館で、何人もの人間が死んだ。その中には、清水刑事も入っている。
十津川の脳裏に、生前の、清水刑事の姿が、浮んだ。
若く、正義感に燃えた、青年だった。
弟を殺され、その仇を討とうとする道なかばで、何者かに、殺されてしまった。
無念だったろう、と十津川は思った。
その無念を晴らすべく、事件を追って、やっと、江崎に辿《たど》りついたのだ。
その江崎が、海外青年協力隊に、援助をしているとは、考えられなかった。そんな男が、覚醒剤を売り、人殺しをする筈がないからだ。どこかに、嘘がある。
「星野が、アフリカで、本当に、魚の養殖を指導しているのかどうか、知りたいね」
と、十津川は、いった。
「民間の技術援助とすると、外務省で調べて貰っても、わからないと思いますね」
「しかし、何とかして、知りたいんだ。星野だけじゃない。他にも、江崎が援助している青年が、四十人から、五十人というのが事実なら、彼等が、本当は、何処で、何をしているか、知りたいものだね」
「江崎本人にきいても、本当かどうか、判断がつきませんよ。第一、この人数だって、嘘かも知れません」
と、亀井は、いった。
「それも、疑えば、疑えるんだな」
「アフリカ、アフリカといっているのに、江崎の会社、江崎交易は、東南アジアや、韓国、台湾と商売しています。おかしいですよ」
「いや、会社の方は、覚醒剤の密輸入の相手なんだと思うね。雑貨などを輸入することにして、覚醒剤を、手に入れているんだと思うよ」
と、十津川は、いった。
「とすると、前に考えたことと、同じになってしまいますよ。覚醒剤で儲けた金で、アフリカへ技術指導に行く若者を、援助しているということに」
と、亀井は、いった。
「それはない。江崎は、そんなことをする人間じゃないよ。第一、アフリカへの若者たちの献身を、援助したいと考えるような人間が、覚醒剤に手を出すとは、思えないんだ。あの美名には、必ず、裏があるよ」
「星野が、というより、彼等が、何も知らずに、江崎に利用されているということは、考えられませんか?」
と、亀井は、いった。
「具体的に、どういうことかね?」
と、十津川が、きいた。
「私も、警部のいわれる通り、江崎は、覚醒剤に手を出して、大儲けをしたと、思っています。ただ、それだけでは、疑惑を持たれてしまう。そこで、正義の仮面をかぶることを考えた。丁度、アフリカに、技術援助に行っている若者たちがいて、資金不足をなげいていた。江崎は、それこそ、恰好の隠れ蓑《みの》と考え、資金援助をすることにした。覚醒剤の密売業者から、正義の味方に、変身したわけで、星野たちは、何も知らずに、利用されているというわけです」
と、亀井は、いった。
「確かに、そういう考え方も出来るが、私は、違うんだよ」
「あの星野も、共犯だと、おっしゃるんですか?」
と、亀井が、きく。
「南烏山での射殺事件は、江崎が関係しているとして、彼本人が、実行したとは思えない。あの男は、自分は、手を汚さず、誰かにやらせる人間だよ。そして、あの事件の時、星野は、アフリカから帰国していた」
「星野が、犯人だと、思われますか?」
「証拠はないが、あまりにも、都合よく、出入国しているじゃないか」
「しかし、星野は──」
「アフリカで、魚の養殖を教えているかね? もし、それが正しければ、暗視装置つきの狙撃銃を使って、一発で、人を殺すことは、出来ないと思うよ。だから、なおさら、実際に、アフリカで、何をしているのか、知りたいんだ」
「誰かを、アフリカにやりますか?」
と、亀井が、きいた。
「しかし、今から、追いかけたのでは、星野を、見つけられないだろう。何しろ、アフリカは、広いからね」
「ザンビアへ行くと、いっていましたね?」
亀井が、確認するように、きいた。
「そうだ。ザンビア政府に、問い合せてみるかね?」
「外務省を通じて、やってみますか? 一人一人のことは、正確には、わからないかも知れませんが、魚の養殖を指導している日本人が、いるかどうかぐらいは、わかるかも知れません」
と、亀井が、いった。
「部長に、頼んでみよう」
と、十津川は、いった。
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第十四章 もう一人の若者
結果は、外務省から、報告されて来た。
ザンビアには、現地の人々に、魚の養殖を指導している日本人が、六人いて、その中の三人は、日本の大手の水産会社の社員である。あとの三人は、ボランティア活動をしている青年たちだが、流動的で、氏名などは、確定できない。
また、ザンビア以外のアフリカ各国で、魚の養殖事業を援助している日本人の数は、約十五名だが、その中《うち》、氏名を確定できるのは、大手の水産会社や、商社から派遣されている十名だけで、残りの五名は、つかみ切れない。
外務省からの連絡は、このようなものだった。
「これでは、どうしようもないな」
と、十津川は、亀井と、顔を見合せて、舌打ちをした。
あの星野が、言葉通り、アフリカで、魚の養殖事業を指導しているかも知れないし、違うかも知れない。どちらとも、わからないのである。
ボランティアで、指導している場合、いちいち、外務省や、農林水産省、或いは、厚生省などに、報告して来ないのだろう。
「引き続いて、江崎の動きを監視するより、仕方がありませんね」
と、亀井も、いう。
「それに、何とかして、石川ひろみを見つけ出して、例の伝票を、渡して貰いたい。すでに、一人殺されているし、石川ひろみ自身だって、狙われかねないんだ」
十津川は、いらだちを見せて、いった。
石川ひろみに、同情はするものの、彼女ひとりで、今度の事件の解決をするなどということは、最初から無理な話だし、いたずらに、解決をおくらせているからである。
「彼女は、いったい、何を考えているんですかね?」
亀井が、いまいましげに、いった。
「多分、自分で、兄の石川久男を、あんな風にした犯人に、復讐する気なんだろう」
と、十津川は、いった。
「そんなことをしようとしているのなら、逆に、殺《や》られてしまいますよ」
「私も、そう思っているがね。彼女は、われわれ警察を、信用していないんだ。とにかく、警察は、彼女の兄を、射殺しているからね」
「しかし、それは、逆恨みというものですよ」
「そうなんだが、肉親としては、別の考え方をしたいんだろうね」
と、十津川は、いった。
「しかし、もし、兄の仇を討つつもりなら、兄に、覚醒剤を、売らせている、もっと上の人間を、捜さなければ、だめでしょう。いくら伝票の、人間を、見つけ出しても、それは、川西から、覚醒剤を、買っている人間なのだから、その人間たちを、やっつけても、復讐には、ならないんじゃないんですか?」
と、亀井が、聞いた。
「私も、ずっと、そのことを、考えていた。新聞記者の長谷部の話によると、川西の部屋は、あれだけの、覚醒剤を、扱っているにしては、質素すぎるようだ。それに、川西の部屋で、清水刑事が受けた、電話の声が、命令口調だったというのも、変だ。ふつうは、クスリを買うほうが、下手に出るものなんだ」
と、十津川が、いった。
「そうですね」
「あるいは、川西は覚醒剤を中継しているだけで、その売上代金は、川西をとおさずに、もっと上の人間に、直接、渡されていたのかもしれない」
「そうか、伊原は、川西に、覚醒剤を、送らせ、それを売り捌《さば》いて、その代金を、上の人間に、渡していた、ということになりますね」
と、亀井が、いった。
「そうだ。そして、ひろみは、そのことに、気付いていたんじゃないかな。川西が、麻薬で、金儲けをするような男でないことを、知っていたのかもしれない」
「そういえば、長谷部記者は、ひろみの兄が、パチンコ屋で、貧血を起こしたときに、川西が、病院につれて行ってくれた、といっていました。とても、親切な人に見えたと、ひろみは、いっていたらしいですね」
「だとすれば、ひろみは、伝票の人間を、捜しだし、その人間にたいして、復讐をしようとしているのかもしれないな」
と、十津川は、いった。
若い刑事たちは、十津川の命令で、引き続き、江崎の監視を続けた。
十津川は、その一方、石川ひろみを見つけ出すことに、本格的に、取組むことにし、彼女の写真を、多数、コピーして、東京と、その周辺の警察に配布して、協力を求めた。
江崎が、午後、突然、成田空港へ向ったのは、そんな空気の中でだった。
一瞬、十津川が思ったのは、江崎が、海外へ逃げるのではないかということである。
西本と日下からの知らせで、十津川も、亀井を連れて、成田に、急行した。
暑い日で、空に積乱雲が、巨大な傘を作り、遠くで、雷が鳴っていた。十津川たちが、成田に着くと、西本と日下の二人が、駈け寄って来た。
「江崎は?」
と、十津川が、きくと、西本が、緊張した顔で、
「送迎デッキに出ています」
「国外脱出じゃないのか?」
「いえ。誰かを、迎えに来たようです」
と、西本は、いう。それで、十津川は、一応、ほっとしたが、今度は、いったい、誰を迎えに来たのかという疑問が、わいてきた。
十津川たちは、到着ロビーに入り、亀井が、送迎デッキを、見に行ったが、すぐ、戻って来て、
「確かに、送迎デッキにいます」
「どの便の乗客を迎えに来たのか、わかるかね?」
と、十津川は、西本と日下に、きいた。
「江崎は、エジプト航空のカウンターへ行って、カイロからの便が、おくれているかどうかきいていますから、アフリカからの飛行機と思います」
と、日下が、いった。
「また、アフリカか」
と、亀井が、眉をひそめた時、そのエジプト航空の便が、間もなく、到着すると、アナウンスがあった。
どんな人間を、江崎は迎えに来たのか? 十津川たちは、税関からの出口に、移動した。
エジプト航空のボーイング747が、着陸して、乗客が、次々と、税関を通って出て来る。
江崎も、送迎デッキから、こちらにやって来ていた。
十津川たちは、少し離れた場所から、江崎を、見守った。
やがて、軽装の若い男が、軽く手をあげて、税関を抜け、江崎の傍に、近寄って来るのが、見えた。
年齢は、二十五、六歳。髪は短く、逞《たくま》しく陽焼けしていた。星野によく似ているが、彼ではなかった。
江崎は、その青年を、抱きしめるように迎え、待たせてあったベンツへ、連れて行った。十津川たちも、それぞれ、自分たちの車へ走った。
十津川が、亀井と、覆面パトカーに乗り込むと、待っていたように、無線電話が鳴った。
江崎のベンツを尾行して、走り出した車の中で、十津川は、受話器を取った。
「警部に、女性から電話がありました。必ず、伝えてくれということです」
と、田中刑事が、いった。
「どんな伝言だ?」
「長井利也、四十五歳。現在、東京四谷のAホテル一二〇八号室」
「何なんだ? それは」
「電話の女が、二度繰り返しまして、これを、十津川警部に伝えてくれと、いっています」
「他に、伝言は?」
「これだけです。名前もいいません。これだけで、わかりますか?」
「何となく、わかる。もう一度、名前と、ホテルの部屋番号をいってくれ」
と、十津川は、手帳を取り出し、ゆられながら、メモを取った。
「何があったんですか?」
と、亀井が、きく。
「どうやら、石川ひろみから、連絡があったらしい。男の名前を、一人、伝えて来た」
「なぜ、全員の名前と、住所を、教えないんですかね」
亀井が、また、腹立たしげに、いった。
「彼等が、伝票の住所に、とどまっている筈がないから、彼女も、一人一人、探しているんだろう。今度、教えて来た男の住所も、都内のホテルになっているよ」
と、十津川は、いった。
「なぜ、教える気になったんですかね?」
「自分の手に負えない相手だったからか、或いは、聞きたいことを聞いてしまったからかのどちらかだろう」
と、十津川は、いった。
都内に入ると、江崎の尾行は、西本たちに委《まか》せて、十津川は、急遽《きゆうきよ》、四谷のAホテルに廻ることにした。
ホテルに着くと、念のために、フロントで、一二〇八号室の泊り客の名前をきいてみた。やはり、長井ではなかった。偽名を使って、泊っているのだ。
十津川と、亀井は、エレベーターで、十二階へあがって行った。
一二〇八号室の前へ来ると、十津川と、亀井は、拳銃を取り出した。相手が、どう出て来るか、全く見当がつかなかったからである。
亀井が、ドアをノックした。
細目に開いたところを、十津川と、亀井が、ドアに、体当りした。
チェーンが、はじけ、中年の男が、室内で、よろめき、叫び声をあげた。
起き上って来る男に向って、十津川は、拳銃と、警察手帳を、一緒に突きつけた。
「長井利也だな?」
「何の真似だ! これは」
と、男が、まだ、叫んでいる。亀井は、相手の言葉を無視して、部屋の中を、調べ始めた。
「おい! 何をするんだ?」
と、男が、怒鳴る。
「まあ、話をしようじゃないか」
十津川は、相手の肩を押さえつけるようにして、椅子に座らせた。
「警察が、何の用か、説明して貰いたいね」
男は、眉をひそめて、十津川を睨んだ。
十津川は、拳銃を、しまってから、
「何の用か、わかっている筈だよ」
「わからないね」
「函館の川西か、或いは、川東茂男かから、覚醒剤を買い、それを、また、売り捌《さば》いて、金儲けをしていた筈だ」
「知らないね」
「証拠も、あがっているんだよ」
「それなら、逮捕状を見せてくれ」
と、男は、文句をいった。
「警部」
と、亀井が、声をかけて来た。十津川は、眼の前の男を、無視して、
「何だ? カメさん」
「名前は、やはり、長井利也ですよ。衣裳ダンスの上衣のポケットに、運転免許証が入っていました」
と、亀井が、大きな声で、いった。
「名前が、どうしたんだ? 長井利也だと、罪になるのかね?」
男は、十津川に、食ってかかった。
「カメさん。前科があるかどうか、問い合せてみてくれ」
と、十津川がいうと、相手は、あわてて、
「待ってくれ」
と、声をあげた。多分、前に、覚醒剤の売買などで、逮捕されたことがあるのだろう。
十津川は、もう一つの椅子を引き寄せて、腰を下した。こういう相手には、高飛車に出た方がいいだろうと、考えて、
「証拠は、あがってるんだよ。川西から、宅配を利用して、覚醒剤を仕入れていたことは、伝票が残ってて、わかってるんだ。われわれは、清水刑事を殺されて、がっくりしてるから、何をするか、わからんぞ!」
と、怒鳴った。
長井利也は、一瞬、怯《おび》えた眼つきになったが、首を小さく横に振って、
「おれは、何も知らん」
「まだ、こっちが、何もきいてないのに、何を、とぼけてるんだ?」
と、十津川は、笑った。
「何もって、おれは、クスリのことなんか、何も知らないって、いってるんだ」
「警部」
と、電話を掛けていた亀井が、呼んだ。
「何かわかったかい?」
「やはり、この男は、前科がありましたよ。やはり、覚醒剤の売買です。二年、入ってますね」
「やっぱりな」
と、十津川は、肯《うなず》いてから、長井に向って、
「よくいうねえ。クスリのことは、何も知らないだって?」
「───」
「うちの清水刑事を殺したのは、お前さんだね?」
「とんでもない。そんなことはしませんよ!」
長井は、甲高い声をあげた。
「そんないいわけが、通じると思ってるのか。清水刑事は、川西茂男が、誰に、覚醒剤を売ったか、そのルートを追っていて、殺されたんだ。つまり、お前さんを追いかけていて、殺されたんだよ」
十津川は、長井を睨みつけた。
長井の怯えの色が、ますます、強くなった。
「おれは、知らん。おれは、確かに、覚醒剤に手を出したことはあるが、人殺しはしたことがないし、出来ないよ」
「駄目だね」
と、十津川は、突き放すように、いった。
「信じてくれよ」
「私はね、今まで、犯人を憎んでも、殺したことはない。だが、今度は別だ。可愛い部下を殺されてるんだ。そこにいる亀井刑事だって、同じ気持の筈だ。そうだろう? カメさん」
「もちろんですよ。幸い、ここには、われわれしかいませんからね。どうしましょうか。こいつが、バスルームで、浴槽で溺れることにしますか? それとも、発作的に、窓から飛び降りることにしますか?」
と、亀井が、いう。
「止《や》めてくれよ。おれは、清水とかいう刑事なんか殺してないんだ! 誓うよ」
長井が、声をふるわせた。
「じゃあ、それを、証明してみせるんだ」
「証明ったって、どうやって?」
「お前さんが、どのくらい警察に協力するかで、判断してやるよ」
「協力しろったって、おれは、何も知らないんだ」
「知ってることだけでいいさ。お前さんたちを使って、覚醒剤で儲け、それを、吸いあげたボスは、何処《どこ》の誰なんだ?」
と、十津川は、きいた。
「ボス? そんな者は、知らない。ボスなんかいない」
急に、長井は、身体をふるわせた。今度は、明らかに、十津川へではなく、別の何かに対して、怯え出したのだ。
十津川は、そんな長井を、冷静に見つめた。
「そんなに、怖いのか? まあ、無理もないな。川西茂男も殺されたし、塩谷洋も、殺されたからな」
「───」
「だが、黙ってたって、いつかは、殺されるぞ。ボスは、お前さんたち全員を、殺す気だよ。何もかも話してくれれば、お前さんを、警察が、保護してやる。国外へ逃げたければ、逃がしてやるさ」
「勘弁して下さいよ」
長井は、泣き声になった。
大の男が、泣き出すと、手に負えなかった。
十津川は、亀井を、部屋の隅に、手招きした。
「参ったよ」
と、十津川は、小声で、いった。
「奴は、本当に、怯えていますね」
「どこから、弾丸が飛んで来るかわからないんだから、怯えるのも、当然と、思うがね」
「どうしますか? 捜査本部に、連れて行きますか?」
と、亀井が、きいた。
「連れて行っても、あんなに怯えていたんでは、何も、話さないよ。黙っていれば、殺されないと、思っているようだからね」
「そうですね」
「だが、奴は、狙われるよ。川西茂男も、塩谷洋も、殺されているからね」
「われわれで、守りますか?」
と、亀井が、きいた。
「だが、守ってやるといったら、必ず、奴は、拒否すると思うね。少しでも、警察に近づいたと思われたら、殺されると、恐怖しているようだからね」
と、十津川が、いうと、その言葉を裏書きするように、長井が、大声で、
「帰ってくれ!」
と、叫んだ。
「何をそんなに怖がってるんだ?」
亀井が、振り向いて、きいた。長井の顔が、ゆがんでいる。
「おれは、死にたくないんだよ。刑事が、おれを訪ねて来たとわかったら、間違いなく、殺されてしまう」
「誰に殺されるというんだね?」
と、十津川が、きいた。
「そんなこといえるか。それこそ、自分から、地獄へ飛び込むようなもんだ。お願いだ。早く帰ってくれ!」
「いいよ。帰るよ。二つだけききたいことがある。それに答えてくれたら、帰るさ」
と、十津川は、いった。
「どんなことだ? 早く、いってくれ」
「石川ひろみという若い女が、電話して来たか、会いに来た筈だ。そうだろう?」
「石川ひろみ?」
「そうだ」
「知らないな。そんな女は」
長井は、疲れたような声になって、否定した。
「もう一つ、江崎周一郎という男を、知っているかな?」
と、十津川は、きいた。
「エザキ?」
と、長井は、首をかしげてから、
「知らないね。他に、質問することがないのなら、早く、帰ってくれ!」
と、長井は、いった。
十津川と、亀井が、部屋を出ようとすると、背後《うしろ》で、長井が、大きな溜息《ためいき》をつくのが聞こえた。緊張の糸が切れたといった、感じだった。
十津川は、その気配を感じながら、亀井と、エレベーターで、一階へおりた。
「奴は、江崎周一郎を知っていますね」
と、亀井が、いった。
「カメさんも、そう思ったかね」
「とぼけていましたが、芝居が、臭《くさ》過ぎました。あれは、必死になって、知らないふりをしたんです」
亀井が、笑った。
「やはり、連中のボスは、江崎周一郎ということになるか」
「しかし、証拠がありませんね。長井も否定するでしょうし、江崎だって、イエスという筈がありません」
「それで、思い出したんだが、今日、江崎が、成田空港で、出迎えた若い男ね。あれは、長井を殺そうとして、呼び寄せたんじゃないかね」
と、十津川は、いった。
「もし、そうだとすると、あの若者も、狙撃の名手ということになりますか?」
「そうなるような気がするんだが──」
十津川は、ふと、ライフルの照準器の中に浮ぶ、男のシルエットを、思い浮べた。
ライフルを構えているのは、今日、成田に戻って来た若い男である。そして、狙われるのは、長井利也なのだ。
江崎は、長井を殺そうと思い立って、アフリカから、男を呼び寄せた。多分、陽焼けしたあの男は、ライフルの名手なのだ。
「あの若い男は、いわば、殺し屋でしょうか?」
と、亀井が、きく。
「殺し屋か。それが、適切かも知れないな」
と、十津川は、肯いた。
もし、そうなら、また、暗視装置つきのライフルが、使われるに違いない。塩谷洋が、甲州街道で、射殺されたようにである。
その銃は、いったい、何処から、手に入れたのだろうか?
[#地付き](下巻へ続く)
単行本 一九九一年十一月 実業之日本社刊
〈底 本〉文春文庫 平成七年一月十日刊