[#表紙(表紙.jpg)]
北緯四三度からの
死の予告
西村京太郎
目 次
第一章 北からの通信
第二章 ハンドバッグ
第三章 新たな動き
第四章 計画実行
第五章 暗 闇
第六章 辞 表
第七章 北へ還る
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第一章 北からの通信
第一の手紙
〈警視総監尾之内一郎様
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
唐突なお手紙お許し下さい。しかし、書かずにおられません。
一つの事件が、静かに、陰湿に進行しているのを、偶然、知ってしまったからです。
それが、いかなる犯人、グループによって計画されているのか、私にもわかりませんが、少くとも一ケ月以内に、起こることは、間違いないと、思われます。しかも第一段階の事件を、犯人は、東京で引き起こす計画だと、私は、考えるので、あなたに、この手紙を、差しあげる次第です。十分に、ご注意下さい。
五月二十日
[#地付き]K〉
[#ここで字下げ終わり]
第二の手紙
〈警視総監尾之内一郎様
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
前に差しあげた手紙は、信用して頂けましたか? 多分、信用されず、あの手紙は、屑籠《くずかご》行きになったものと思います。それも当然だと思いますね。私の話は、あいまいで、何も具体的なことを、書いていなかったのだから、仕方がありません。
その後、私は、必死になって、調べ、いくつか、お話しできる事実をつかみましたので、ここに、書き記すことにしたいと思います。
犯人の人数は、いぜんとして、不明ですが、最初に、引き起こす事件は、東京の何処《どこ》かで、若い女性が殺されることだと、わかりました。その女の名前は、M・Aのイニシアルです。
しかも、これは、犯人の計画の第一歩に過ぎません。そのあと、次々に、殺人が行われるのか、それとも、どこかで、大爆発が起きるのかはわかりませんが、この殺人が、序章であることだけは、間違いありません。
ぜひ、犯人の恐しく、陰湿な計画を、未然に防いで下さい。お願い致します。
五月二十九日
[#地付き]K〉
[#ここで字下げ終わり]
第三の手紙
〈警視総監尾之内一郎様
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
前の手紙を、読んで頂けたという前提で、話を進めます。
犯人は、三名か四名と、わかってきました。その中の一人は、女性ですが、彼等の名前も、職業も、不明です。あなたに、ぜひ、彼等の計画を防いで欲しいと、お願いしておきながら、犯人たちの素顔が突き止められず、本当に、申しわけないと、思っています。
しかし、私には、彼等に近づく手段が無いのです。というより、近づけば、多分、私の命はないでしょう。注意深く、恐る恐る彼等のことを調べているので、なかなか、彼等のことが、わからないのです。
それでも、前の手紙で、お知らせしたM・Aという女性の名前のMがわかりました。みゆきです。姓のAの方は、まだ、わかりません。彼女が、なぜ、狙《ねら》われるのかもわかりません。しかし、間違いなく、彼女は、殺されます。信じて下さい。その殺人が、序章に過ぎないこともです。
六月一日
[#地付き]K〉
[#ここで字下げ終わり]
第四の手紙
〈警視総監尾之内一郎様
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
前の手紙、読んで下さいましたか。
M・Aは、青柳みゆき、二十三歳です。
彼等に近づき過ぎて、怪我《けが》をしました。これは、多分、警告だと思います。
六月七日
[#地付き]K〉
[#ここで字下げ終わり]
第五の手紙
〈警視総監尾之内一郎様
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
北川治さんは、亡くなりました。彼のメモにあった言葉を、そのまま、お伝えします。
「青柳みゆきは、六月十五日までに、殺されます。彼女は、現在、東京の世田谷区内に住んでいて、雑誌の編集者をしているものと思われます。連中より早く、彼女を見つけ出して守って下さい」
六月九日
[#地付き]T子〉
[#ここで字下げ終わり]
第五の手紙に同封されていた新聞の切り抜き。
〈雨中の轢《ひ》き逃げ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
八日の午後十時三十分頃、新札幌駅近くの裏通りで、若い男が、倒れているのが、発見され、病院に運ばれたが、すでに、死亡していた。この人は、ひばりが丘の団地に住む北川治さん(三十歳)で、警察の調べによると、轢き逃げされたものと思われている。丁度、激しい雨が降っていて、今のところ、目撃者は、見つかっていない〉
[#ここで字下げ終わり]
五通の手紙と、新聞の切り抜きは、六月十二日に、捜査一課長のところに、まとめて、届けられた。
つまり、四通目の手紙まで、悪戯《いたずら》と思われて、受付に、止められていたということである。五通目になって、ひょっとすると、真面目《まじめ》な投書ではないかと、受付の警官が思い始め、あわてて、刑事部長に報告し、部長が、捜査一課長に、五通の手紙を、渡したのである。
判断は、一課長に、委《まか》された。
本多一課長は、手のすいている十津川を呼んで、それを見せた。
「どうしたらいいか、君の意見を聞きたい」
と、本多は、いった。
十津川は、五通の手紙と、新聞の切り抜きに、眼《め》を通した。
一通目から、四通目までは、同じ筆跡だが、五通目は、違った。女性の筆跡になっている。
四通目までを書いたK――北川治が、車にはねられて死んだために、彼の女友だちか、或《ある》いは、フィアンセのT子が、書いて、送って来たのだろう。
「消印は、全《すべ》て、札幌中央ですね」
と、十津川は、いった。
「そうだ。恐らく、手紙にある犯人たちも、札幌に住んでいるんだろう」
「Kは、近づき過ぎて、交通事故に見せかけて殺されたということですね」
「問題は、これが、悪戯かどうかということだよ」
と、本多は、いった。
「投書の主が殺されたとなると、悪戯とは、思えませんね」
「三上部長も、そう思っている」
「それなら、青柳みゆきという女性を、探し出す必要がありますね。六月十五日までに殺すというのですから、一刻も早く、見つけなければと思います」
「それを、きみにやって貰《もら》いたい」
と、本多が、いった。
「わかりました」
「見つけるのは、難しいかね?」
「いや、名前も、年齢も、職業もわかっているから、難しいとは、思いません」
「そうかね」
「雑誌の編集者とあります。この雑誌というのは、東京で出している雑誌のことだと思いますから、見つかりやすいと、思いますね」
と、十津川は、いった。
彼は、部屋に戻ると、出版年鑑を、借りて来た。刑事五人に、年鑑にのっている出版社に、電話をかけ、二十三歳の青柳みゆきという編集者がいないかを、きかせた。
しかし、新聞社や、有名出版社には、該当する編集者はいなかった。
(そう簡単ではなさそうだ)
と、十津川は、思った。
そう思って、出版年鑑を見直すと、東京には、出版社と名のつくものが、やたらに多いのだ。当然、雑誌も多い。
一社で、一つの雑誌というのもある。アングラ的な雑誌を入れたら、物凄《ものすご》い数だった。
二時間、三時間と過ぎても、青柳みゆきが見つからなかった。
十津川は、ひと休みさせ、インスタントコーヒーをいれて、五人に配った。
十五、六分休んでから、五人の刑事は、電話に、取り組んだ。
三十分ほどしたとき、日下《くさか》刑事が、受話器を耳に当てたまま、十津川に向って、片手をあげて見せた。
「編集者が出ています」
と、いって、日下が、受話器を、十津川に渡した。
「捜査一課の十津川といいます。そちらに青柳みゆきさんが、いるそうですね?」
と、十津川は、きいた。
「いますが、今日は、休みです」
と、男の声が、いう。
「住所は、世田谷ですか?」
「そうですが、彼女、何かやったんですか?」
「いや、お会いして、お聞きしたいことが、あるだけです。世田谷の住所を教えて頂けませんか」
「スカイコーポみずほの306号室です」
「ありがとうございます」
「本当に、何もヤバイことは、やってないんですか?」
「その点は、何もありません」
と、いって、十津川は、電話を切ると、若い日下刑事を連れて、パトカーで出発した。
スカイコーポみずほを、探し出し、一階に並んだ郵便箱を見ると、間違いなく、306号のところに、「青柳」と、書かれてあった。
十津川と、日下は、エレベーターで、三階にあがった。
(ひょっとして、もう、殺されてしまっているのではないか?)
と、エレベーターの中で、十津川は、不安になった。手紙には、六月十五日までに、殺されると、書かれていたからである。
日下が、306号室のインターホーンを押した。
間をおいて、ドアが開き、若い女が、顔を出した。ジーンズに、セーターという恰好《かつこう》で、
「どなたですか?」
と、きいた。
十津川は、警察手帳を見せて、
「警視庁捜査一課の十津川と、いいます」
「刑事さんが、何のご用ですか?」
と、相手は、怒ったような声を出した。
「青柳みゆきさんですね?」
「ええ」
と、女は、相変らず、怒ったような声を出す。
「ちょっと、お聞きしたいことがあるのですが、中に入れてくれませんか。立ち話の出来ることではないので」
と、十津川が、いうと、青柳みゆきは、仕方がないという顔で、
「どうぞ」
と、招じ入れた。
1DKの部屋だった。二人が入ると、彼女が、コーヒーをいれ始めたので、十津川が、
「お構いなく」
と、声をかけた。
みゆきは、背を向けたまま、
「私が、飲みたいんです。寝てたのに、起こされたんで、眼がしょぼしょぼしてるんです」
「それは、どうも、申しわけありません」
と、十津川は、苦笑した。
みゆきは、三人分のコーヒーをいれて、十津川と日下にも、配ってくれた。
みゆきは、ブラックで、飲んだあと、
「用件をいって下さい」
と、切り口上で、いった。
「出版社にお勤めでしたね?」
「ええ。小さな出版社ですけど」
「そこで、雑誌の編集をしていらっしゃる?」
「ええ」
と、みゆきは、肯《うなず》き、雑誌を一冊、持って来て、二人の前に置いた。
雑誌の名前は、「全国グルメ月報」だった。
「豪華な雑誌ですね」
と、十津川が、いうと、みゆきは、
「広告が、大半ですから」
と、いう。
ページを繰ると、日本全国の、美味《うま》い店が、紹介されている。のせて、広告料を取るのだろう。
「あなたの仕事は、どういうものですか?」
「他の編集者と同じですわ。どこそこに、美味い店があると聞けば、カメラを持って、飛んで行くんです。写真を撮り、店主さんの話を聞いて来て、それを、のせるんです」
「札幌に行ったことは、ありますか?」
「もちろん、ありますわ。ラーメン特集をすると、雑誌が売れるんで、何回もやりましたけど、その時に、札幌ラーメンの取材に行っています。三回は、行っていますわ」
と、みゆきは、いう。
「札幌の北川治という人を、知っていますか?」
「キタガワ・オサム? 札幌で、ラーメン店を出している人ですか?」
「その点は、わかりませんが」
「名前は、聞いたことがありませんけど」
「札幌で、何か、事件を起こしたことはありませんか?」
と、十津川が、きくと、みゆきは、
「事件――ですか?」
と、眼をとがらせた。
十津川は、笑って、
「いや、こういうことです。ラーメン店を取材していて、そこの店主と、ケンカになったとかといったことですが」
「私は、気が強い方ですけど、取材の時は、ケンカはしませんわ。広告料を貰わなきゃなりませんから」
と、みゆきは、いった。
「札幌で、取材以外で、何かあったということは、ありませんか?」
「覚えがありませんけど、いったい、私が、どうしたというんですか?」
と、みゆきは、十津川を、睨《にら》むように、見た。
「実は、あなたを殺そうとしている人間がいるという投書があったんですよ」
「私を?」
「そうです」
「誰が、そんな投書を?」
「札幌に住む北川治という男です」
「知りませんわ。今もいったように」
「そうですか?」
「その北川さんに、電話して聞きたいわ。なぜ、そんな投書をしたのか」
「北川さんは、亡くなってしまっています」
と、日下が、いった。
青柳みゆきは、心当りがないと、いい張った。
しかし、雑誌の編集をしている二十三歳の青柳みゆきが、実在していたのである。
実在していた以上、守らなければ、ならない。
十津川は、四人の刑事に、交代で、青柳みゆきのガードをするように、指示した。
その一方で、道警に、電話をかけ、六月八日に、死亡した北川治について、調べてくれるように、頼んだ。
その回答は、十四日の昼前に、FAXで、届いた。
〈北川治について、ご報告します。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
北川治は、昭和三十八年に、札幌市豊平の物産店経営の北川徳太郎、文子の夫婦の間に、次男として生れました。札幌市内の小、中、高校を出て、札幌N大に入り、卒業後、札幌化学本社に入社しています。
二十七歳で、社内結婚しましたが、二年後に、離婚しました。原因は、性格の不一致です。
現在は、独身であります。ガールフレンドはいるようですが、今のところ、特定できません。
大学時代は、スキー部に入っており、腕前は、一級だったそうです。身長一七三センチで、がっちりした体格、かなりの美男子で、女性にもてたと、会社の同僚は、証言しています。
彼が、最近、何かを調べていたか、何かに怯《おび》えていたかといったことについても、会社の上司、同僚に聞いてみましたが、そのどちらも、気付かなかったと、いっています。
仕事の面でも、つき合いの点でも、いつもと違った点はなかったとも、いっています。
両親は、今も、豊平で、物産店をやっており、兄夫婦も、その近くに住んでいるので、当ってみましたが、やはり、北川治の様子に、おかしな点は見られなかったと、いっています。
北川治をはねた車は、東札幌で、発見されました。白のスカイラインで、盗難車でした。車を盗んだ人間が、それを運転していて、たまたま、北川治をはねてしまったのか、それとも、彼を殺すつもりで、車を盗み、彼をはねたのか、判断はつきかねています。
道警捜査一課 三浦裕介〉
[#ここで字下げ終わり]
北川治の顔写真も、FAXで、送られてきた。
報告にあった通り、なかなかの美男子に、思えた。
「どうも、はっきりしませんねえ」
と、亀井刑事が、いった。
「何がだい?」
と、十津川が、きく。
「北川は、手紙によると、何かの犯罪組織に近づいたために、まず、警告され、最後に、殺されたことになります」
「そう思えるね」
「それなら、きっと、毎日、びくびくしていた筈《はず》です」
「だろうね」
「それなのに、会社の上司も、同僚も、両親も、兄夫婦も、全く、気付かなかった。そこが、どうにも不可解ですよ」
と、亀井は、不満そうに、いった。
「同感だね。毎日、会っている同僚が、気付かなかったというのは、私も、変だと思うね」
と、十津川は、いった。
「そうでしょう。一人ぐらいは、ちょっと変だなと思う人間がいなきゃ、おかしいですよ」
「それを、カメさんは、どう解釈するね?」
と、十津川が、きいた。
「正直にいって、わかりません」
「カメさんにも、わからないか」
「ひょっとして、悪戯じゃないかと――」
「しかし、北川治は、死んだし、青柳みゆきという編集者は、実在しているんだ」
「ええ。わかっています」
と、亀井は、肯いてから、
「彼女、美人でしたか?」
と、きいた。
「そうだねえ。気の強いところはあるが、なかなか、魅力的な女性だよ」
と、十津川は、いった。
「それなら、こんな風にも、考えられますよ。彼女が、取材で、札幌に行った時、偶然、北川が、会った。例えば、北川が、ラーメンを食べている店へ、彼女が、取材に行ったことかです」
「なるほど、あり得るね」
「北川は、奥さんと別れて、ひとりだった。そこで、青柳みゆきに、声をかけた。ところが、彼女に、手ひどく振られてしまった。北川は、自惚《うぬぼ》れが強いだけに、ひどい屈辱を感じ、何とか、復讐《ふくしゆう》してやろうと思った」
「それで?」
「彼女は、東京に帰ってしまったので、簡単に、手が出せない。そこで、陰湿な方法を、考えたわけです」
と、亀井は、いった。
「なるほど、警視総監あてに、妙な手紙を次々に、送りつける。青柳みゆきが、六月十五日までに殺されると書く。そうすれば、警察は、彼女を見つけ出し、あなたが、殺されるらしいと伝える。警察の手を借りて、彼女を、脅すというわけか?」
「そうですよ。ところが、四通目を出したあと、当人が、車にはねられて、死んでしまった。彼のガールフレンドが、五通目の文章を書いたメモを見つけ、それを、警視庁に送って来た。こんな風にも、考えられるんじゃないでしょうか?」
と、亀井が、いった。
西本、日下、清水、それに、三田村の四人の刑事が、二人コンビを組み、交代で、青柳みゆきの護衛を、続けた。
自宅マンションから、神田の出版社までの往復、それに、マンションに入ったあとである。
十三、十四、十五日と過ぎたが、何事も、起きなかった。
十五日は、特に、緊張して、彼女をガードしたが、狙われなかった。怪しい人間が、近づくこともなかったし、車にはねられそうになるということもなかった。
六月十六日の朝を迎えた。
どうも、悪戯くさくなって来たので、青柳みゆきのガードは、中止すべきだという声も、出てきた。
本多一課長から、意見を求められた十津川は、
「念のために、あと五日間、続けたいと思います」
と、いった。
その主張が、受け入れられた。
十六日も、何事もなく過ぎ、十七日は、西本と日下が、ガードに当った。
何事もなく、青柳みゆきは、出版社に出勤し、夕方、七時に、帰途についた。
駅に着いた時は、すでに、周囲は、真っ暗だった。
駅から、マンションまで、歩いて、十五、六分の距離だった。
近くの公園を抜けるのが、近道なので、みゆきは、いつもの通り、公園に入る。
十メートルほど離れて、西本と、日下が、そのあとを、歩く。
昼間、子供たちが遊び、老人たちが、休む公園も、ひっそりと暗い。
突然、前を歩くみゆきが、声もなく、のけぞり、倒れた。
二人の刑事が、駈《か》け寄った。
倒れたみゆきの胸に、ボーガンの太い矢が突き刺さっていた。
みゆきの身体《からだ》がけいれんしている。
「救急車を呼んでくる!」
と、西本が、叫ぶようにいって、駈け出して行った。
残った日下は、拳銃《けんじゆう》を取り出して構え、周囲を、見廻《みまわ》す。
人の気配を求めて、日下は、公園の暗がりを、探し廻った。公園の外も、探した。が、犯人は、見つからなかった。
犯人は、待ち伏せし、ボーガンを発射すると同時に、逃げたのだろう。
西本が戻って来て、一緒に、探した。が、無駄だった。
やがて、救急車と共に、パトカーも一台、二台と駈けつけた。
みゆきは、救急車に乗せられ、近くの病院に運ばれて行った。
パトカーからは、十津川や、亀井が、降りて来た。
「申しわけありません」
と、西本が、十津川に、頭を下げた。
「ボーガンか」
「そうです。音もなく、彼女が倒れたので、狼狽《ろうばい》してしまって」
「仕方がないさ。一応、非常線を張ったよ。運が良ければ、犯人を、捕えられる」
と、十津川は、いった。
三十分後には、病院から、青柳みゆきが、死亡したことが、伝えられた。
「彼女の部屋を調べよう」
と、十津川は、亀井に、いった。
二人は、スカイコーポみずほに行き、管理人に、みゆきの部屋を開けさせた。
部屋に入って、電灯を点《つ》ける。
「彼女が狙われた理由を、知りたいね」
と、十津川は、1DKの部屋を見廻して、いった。
果して、そんなものがみつかるだろうか?
いかにも、若い女の部屋らしく、きれいに整理されている。華やかでもある。
ただ、ちょっとばかり、ちぐはぐな感じを受ける部屋でもあった。
部屋は、さして広くない。マンション自体も中古だ。
それなのに、置かれている家具は、十津川の眼にも、かなり高価なものと、わかった。
壁には、シャガールの版画が、掛っている。
洋ダンスを開けた亀井が、
「これは、これは」
と、声をあげた。
「ミンクのオーバーが、入ってますよ。新品です。年末にでも、買ったんでしょう」
「妙に、ちぐはぐな生活をしていたみたいだね」
「一見、地味なOLに見えたんですがね」
「ジーンズはいて、カメラを持って、日本中を駈け廻っている印象か」
「そうです」
「それに、あの小さい出版社では、たいした月給も取ってなかったと思うしね」
「カメラも、いいものがありますよ」
と、亀井が、奥の六畳の和室から、カメラを持って来た。
「ライカM6か」
「そうです。もっとも、これは、商売道具みたいなものですから、無理をして、いいものを買ったのかも知れませんが」
「ひょっとすると、預金なんかも、沢山あるんじゃないかね」
と、十津川は、冗談めかして、いった。
洋ダンスの引出しに、預金通帳が、入っていたが、残高は、八十七万円だった。独身で、二十三歳のOLなら、このくらいの預金があっても、不思議ではないだろう。むしろ、少い方かも知れない。
二人は、別の引出しから、手紙の束を見つけ、一通ずつ、見ていった。
学生時代の友人たちと思われる男女からの手紙が、大半だったが、中に、ラブレターと思われるものが、三通あった。しかも、同一人物からのものだった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈何度、電話しても、君が出なかった。何処へ行っていたんだ? 私の気持を、わかってくれていると思っているんだが、ひょっとすると、私の勝手な思い込みではないかと、不安になってくる。
君と会って、女に溺《おぼ》れるというのは、こういうことなのかと、わかった気がする。今までの五十年の自分の人生は、何だったのかと思う。それだけ、私は、君が好きなのだ。五十歳の私が、君に、あれこれ望むのは、無理だということは、よくわかっている。でも月に一、二回は、会って欲しい。お願いだ〉
[#ここで字下げ終わり]
他の二通も、内容は、似ていた。差出人の名前は、後藤久志だった。住所は、四谷三丁目のマンションである。
夜が遅いが、十津川は、この男に、会ってみることにした。
二人は、四谷三丁目に向って、パトカーを走らせた。
十一階建の真新しいマンションに着くと、二人は、エレベーターで、七階にあがり、702号室のインターホーンを鳴らした。
「どなたですか?」
「警視庁の者です」
と、十津川が、いうと、ドアが細目に開いて、中年の男が、顔をのぞかせた。
二人は、警察手帳を見せて、中に入れて貰った。相手は、パジャマ姿で、疲れた顔をしていた。
彼は律義に、名刺を持って来て、十津川と、亀井に渡した。
「N電気の部長さんですか」
と、亀井が、感心したように、いった。
「警察の方が、私に、何のご用ですか?」
後藤は、かたい表情で、きいた。
十津川は、説明抜きで、
「今夜、青柳みゆきさんが、死にました。自宅近くで、殺されました」
と、いった。
後藤の顔色が変るのが、わかった。
「青柳みゆきさんは、ご存知ですね?」
と、十津川が、きき、それでも、相手が、押し黙っているので、亀井が、
「彼女の部屋に、あなたが出された手紙が、ありましてね。それで、伺ったんです」
と、いった。
「申しわけありません」
突然、後藤が、頭を下げた。
「申しわけないというのは、どういうことですか?」
と、十津川は、きいた。
「年甲斐《としがい》もなく、若い娘に惚《ほ》れまして――」
「それで、殺したんですか?」
と、亀井が、きいた。
後藤は、狼狽した顔で、
「とんでもない。いくらなんでも、殺したりはしませんよ」
「しかし、夢中になって、奥さんとの間に、別れ話が持ち上っていたんでしょう?」
亀井は、後藤の顔をのぞき込むようにして、きいた。
「そうですが、殺してはいません。それほどの勇気は、私には、ありませんよ」
と、後藤は、いった。
「正直に答えて下さい。彼女とは、肉体関係があったんですか?」
と、十津川は、きいた。
後藤は、どう答えたらいいか、迷っているようだったが、
「実は、ありました」
「どんな状況で、あったんですか?」
「彼女と初めて会ったのは、去年の十一月末でした。寒い日でした。会社の帰りに、急に、飲みたくなって、新宿のバーに寄りました。初めての店です。小さい店で、先客は、ひとりしかいませんでした。それが、彼女だったんです。普段は、あんな若い女性には、声をかけたりしません。バカにされるか、無視されるに、決っていますからね」
「だが、声をかけた?」
「ええ。ところが、彼女が、話に応じてくれたんです。しかも、笑顔でですよ。彼女の声は、耳ざわりがよくて、頭のいいのが、すぐ、わかりましたよ。話題も、私には、新鮮で楽しかった。あのとき、私は、彼女に、参ってしまったんです。二度目に会ったとき、シャネルの腕時計を贈り、勇気を出して、ホテルに誘いました。断わられるだろうと思ったら、すんなり、一緒に来てくれました。あの時は、嬉《うれ》しかったですねえ」
「そのあと、いろいろと、買ってあげたんですか?」
「ええ。どんどん、のめり込んでいきましたよ。ああなると、どうしようもない感じでしたね」
「シャガールの版画も、買ってあげましたか?」
「ええ。彼女が、好きだといいましたからね」
「しかし、その後、うまく、いかなくなったんですね?」
と、十津川が、きいた。
「彼女は、野心家なんですよ。いろいろなことをやりたいといっていましたね。私が、その邪魔になったのかも知れません」
「どんな新しいことを、やりたいと、思っていたのか、わかりますか?」
と、十津川は、きいた。
「それは、よく知りませんが、多分、彼女は、独立して、仕事をしたかったんじゃないかと思いますね。そんなことを、口にしていたことがありますから」
「それは、自分で、雑誌を出したいということなんですかね?」
「そうだと思います」
「しかし、それには、お金がかかるでしょう?」
「でしょうね」
「あなたに、それを出して欲しいとは、いわなかったんですか?」
と、十津川が、きくと、後藤は、情けなさそうな顔になって、
「私は、部長といっても、サラリーマンですからね。きっと、私にいっても無理だと、思っていたんじゃありませんか」
と、いった。
「じゃあ、彼女は、何処から、そのお金を手に入れようとしていたんでしょうか?」
と、亀井が、きいた。
「それは、わかりません。私は、ただ、未練がましく、もう一度、会ってくれと、手紙を出していただけですから」
と、後藤は、いった。
「彼女、殺されてしまいましたが、犯人に、心当りは、ありませんか?」
と、十津川は、きいた。
「全くありません。なぜ、あんないい娘《こ》が、殺されるのか――」
後藤は、肩を落して、いった。
後藤と、別れたあと、十津川は、
「どう思うね?」
と、亀井に、きいた。
「あの男には、殺せませんね」
と、亀井は、いった。
「そうか」
「ただ、若い女に溺れていただけの中年男ですよ」
亀井は、そんないい方で、断言して見せた。
二人は、その足で、神田の出版社に廻った。
七階建の雑居ビルの一階と二階を占拠しているのだが、それでも、出版社としては、小さい方だろう。
二人は、田島という編集長に、会った。
四十歳くらいで、今どき珍しい坊主頭だった。
煙草《たばこ》を取り出して、火をつけてから、
「青柳クンが、独立したがっていたというんですか?」
と、十津川を見た。
「ええ、自分で、雑誌を出したがっていたと、聞いたんですがね」
「しかし、大変ですよ。この雑誌は、ほとんど、グラビアですからねえ。原価が高くつくんです。うちが、何とか、採算がとれるようになったのは、最近なんです。彼女が、急に、ひとりでやったって、成り立ちませんよ。よほど、金が余っていて、道楽で出すんなら、別ですが」
と、田島は、いった。
「広告をとるのが、大変だということですか?」
と、十津川は、きいた。
「ええ。この雑誌にのせれば、効果があると思うから、広告料を出すんでね。出したばかりの雑誌に、誰も、広告料は出しませんよ」
「彼女には、何か当てがあったということは、ありませんか?」
「そんな話は、聞いたことがありませんね」
と、田島は、いってから、苦笑して、
「もっとも、自分で、雑誌を出す気でいたのなら、そんな話は、私には、する筈がなかったとはいえますが」
「彼女の家は、資産家ですか?」
と、亀井が、きいた。
「そんなことはないんじゃないかなあ。資産家の娘なんて話は、聞いたことがなかったですよ」
と、田島は、いった。
「青柳さんの机を、見せて貰いたいのですが」
と、十津川は、頼んだ。
田島は、その机の前に、二人を案内して、
「どうぞ、調べて下さい」
と、いった。
十津川たちは、引出しを、四つ全部、抜き出して、それを、部屋の隅に、運んで行って、調べることにした。
いろんなものが、雑然と、入っていた。五、六本のボールペン、取材した店の主人の名刺の束、日本地図、トランジスタラジオ、小さなテープレコーダー、ラークが二箱、百円ライターが三つ、使い切ってしまったテレホンカード、小型の時刻表などだった。
十津川と、亀井は、事件に関係ありそうなものをと、探したのだが、見つからない。
やっと、彼女自身の名刺の裏に、電話番号らしきものが、ボールペンで、書かれてあるのを見つけた。
011―261―××××
「札幌の電話局じゃありませんか?」
と、亀井が、小声で、いった。
十津川は、外に出て、公衆電話を使って、この番号に、かけてみた。
事務的な女の声が、はね返ってきた。この電話は、使われておりませんという声である。
「参ったね」
と、十津川は、いった。
「怪しいですよ。札幌から、妙な手紙が、届いていたわけですからね」
と、亀井が、いった。
「そうだな。この電話の持主だった人間を、調べてみよう」
と、十津川は、いった。
二人は、捜査本部に戻ると、札幌の電話局にかけ、問題の電話の最近の持主を、調べて貰うことにした。
返事は、一時間後に届いた。
「あの電話は、札幌駅近くの丸清という寿司《すし》店が、持っていたものです」
と、電話をかけてきた、井上という電話局の人間が、いった。
「今、どうなっているんですか?」
と、十津川は、きいた。
「潰《つぶ》れました。札幌では、有名な店だったんですがねえ」
「いつ頃のことですか?」
「丁度、一ケ月くらい前でした。なんでも、一億円近い負債を抱えていたそうですよ」
と、井上は、いった。
「突然の閉店だったんですか?」
「さあ、いつ、閉めてしまったのか、わかりませんね。有名な店なので、いろいろと、噂《うわさ》がありました。店の主人が、バクチ好きで、それで、借金が溜《たま》ったのだとか、他に女を作ったとか、いう噂です」
「最近、その店で、何かありませんでしたか?」
と、十津川は、きいた。
「何かといいますと?」
「例えば、グルメ雑誌に、悪口を書かれたとか」
「そういうことは、私どもには、わかりかねますが――」
と、井上は、いった。それは、当然かも知れない。
十津川は、礼をいって、電話を切ると、今度は、札幌にある同業者の中から、古い寿司店を探しだし、そこへ、電話をかけてみることにした。
観光案内にあった数軒の寿司店の中から、「よしだ」という店を選んだ。
主人の名前も、吉田である。
「丸清さんのことで、教えて頂きたいことがあるんですが」
と、十津川が、いうと、吉田は、
「警察も、あの店のことを、調べることになりましたか」
と、いった。
それには、答えず、十津川は、
「突然、店を閉めてしまったようですね?」
「そうなんですよ。あれには、みんな、びっくりしましたねえ。あまりにも、突然だったのでね」
「有名店だったということですが」
「ええ。古い店でね、二階があるんですが、そこには、常連しか入れないんですよ」
「どんな人が、常連だったんですか?」
「政財界の偉いさんや、有名タレントなんかですよ。丸清の二階にあがれれば、一流と認められたようなものだといわれていたくらいですよ」
「一億円の借金があったということを、聞きましたが、本当ですか?」
「ああ、噂ね。それが、返せなくて、潰れたというんでしょう?」
「ええ」
「あれは、多分、噂ですよ。第一、今もいったように、政財界の大物が、ついているんだから、たかが、一億円ぐらいの借金で潰れる筈がありませんよ」
と、吉田は、いった。
「ご主人がバクチ好きだったというのは、どうなんですか?」
「ええ。しかし、のめり込むような人じゃありません」
「じゃあ、なぜ、店を閉めてしまったんですか?」
と、十津川は、きいた。
「だから、不思議なんですよ。第一、あそこの主人も、おかみさんも、腕のいい職人五人も、全員、行方不明になってしまっているんです」
「全員、行方不明?」
「ええ。おかしいでしょう?」
「最近、グルメ雑誌に、悪口を書かれたことはなかったですか?」
「丸清さんが?」
「ええ」
「聞いたことがないなあ。あの店は、高いことは、高いですがねえ。それだけのものはありますよ。雑誌に悪口を書かれたくらいじゃ、あの主人は、びくともしませんよ。何しろ、頑固な男だから」
と、吉田は、いった。
丸清の主人の名前は、小西進介、六十歳。妻は、文江五十二歳、子供はないと、吉田は、教えてくれた。
「青柳みゆきという女性を、ご存知ありませんか?」
と、十津川は、きいた。
「何者です?」
「ひょっとすると、丸清さんに、関係があるかも知れないと、思っているんですが」
「若い女性ですか?」
「二十代です」
「それじゃあ、違うなあ」
と、吉田は、いった。
「なぜですか?」
「丸清のご主人は、なかなかの艶福家《えんぷくか》でしてねえ。ずいぶん遊んでますが、小娘は嫌いだといって、三十代の、それも、玄人《くろうと》筋だけを、相手にしていたからですよ」
「そうですか」
「まさか、その女が、丸清の主人の隠し子なんていうんじゃないでしょうね?」
「そういうことはないと思いますが――」
と、十津川は、いった。
「ねえ、丸清さんが、今、何処にいるのか、探してくれませんかねえ」
と、吉田が、いった。
「それは、地元の警察に、捜索願を出されたらいかがですか?」
「そうしたいんですが、あれは、家族しか出せないんじゃありませんか?」
「いや、友人でも出せるんじゃなかったかな」
「それなら、警察へ行って、相談してみます」
と、吉田は、いった。
十津川は、亀井と、もう一度、神田へ行き、編集長の田島に会った。
「札幌の丸清というお寿司屋をここの雑誌に、のせたことがありますか?」
と、十津川は、単刀直入に、きいた。
田島は、傍《そば》にいた記者の一人に、
「うちで、札幌の丸清を、取り扱ったことがあったかな?」
と、きいた。
「先月号に、のせましたよ。先月は、寿司と日本そばの特集でしたから」
「それを見せて下さい」
と、十津川は、頼んだ。
記者が、分厚い先月号を、十津川に、渡した。
ページを繰っていくと、確かに、のっていた。
〈流石《さすが》、政財界人のご推薦、味よし、雰囲気よし〉
という見出しで、ほめあげてあった。
主人と、五人の職人が、並んで、写っている。
「これを取材したのは、青柳みゆきさんですか?」
と、十津川は、きいた。
雑誌を渡した記者が、
「そうですよ」
「ひとりで、彼女は、行ったんですか?」
と、亀井が、きいた。
「そうです」
「この丸清さんが、一ケ月前に潰れたのを、ご存知ですか?」
と、十津川が、きくと、田島は、びっくりした顔で、
「あの店が、潰れたんですか? 有名な店なのに」
「本当です」
「理由は、何ですか? 経営者が、株に手を出していたんですか?」
と、田島は、逆に、きいた。
「わかりませんが、青柳さんが、取材したとき、何か問題は、起きなかったんですか?」
と、亀井が、きいた。
田島は、眉《まゆ》をひそめて、
「何もなかったと、思いますよ。何かあれば、向うが、広告料は、出さないでしょうからね」
と、いった。
「ちゃんと、この時、広告料を、払ったんですね?」
「もちろん。だから、こうして、のせたんです」
と、田島は、いった。
「青柳みゆきさんの机の引出しを調べたら、自分の名刺の裏に、丸清の電話番号が、書いてあったんですが」
と、十津川が、いうと、田島は、笑って、
「それは、取材の時に、メモしたんでしょう。取材するときは、前もって、電話で、アポイントメントをとっておくのが、常識だから」
と、いった。
十津川と、亀井は、丸清の記事がのった先月号を貰って、外に出た。
「青柳みゆきの死と、丸清の閉店とは、関係があるんだろうか?」
と、パトカーに乗ってから、十津川が、いうと、
「それと、例の五通の手紙とでしょう?」
と、亀井が、付け加えた。
「ああ、その通りなんだ」
「何か、わけのわからない事件ですねえ。Kこと、北川治も、どうも、わからない存在ですしね」
「そうなんだよ。北川治と、青柳みゆきとも、今のところ、結びつかない。第一、この北川という男が、果して、手紙の主かどうかも、わからないんだ」
と、十津川は、いった。
常識的に考えて、Kが、北川治だということになるのだが、そうだという証拠は、まだ見つかっていないのである。
現場周辺の聞き込みも、今のところ、収穫はなかった。
ボーガンを持って、現場近くを、うろついていた人間を見かけたという人は、まだ、現われない。
動機も、不明のままだった。
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第二章 ハンドバッグ
捜査は、遅々として、進まない。
一番の問題は、動機だった。
普通、若い女が殺されれば、理由の八十パーセントは、男関係だ。だからこそ、十津川は、彼女に熱をあげていた後藤を追及したのである。だが、彼には、アリバイがある。ボーガンで狙《ねら》うほどの度胸はなさそうだった。
後藤以外というと、これといった男は、浮び上って来ない。
痴情以外の動機というと、残りは、金銭関係その他ということになる。
金銭関係のもつれで、殺されたという匂《にお》いも、嗅《か》げなかった。貯金は、八十七万円しかないが、といって、借金があったという話も聞けなかった。
となると、犯人の動機は、「その他」になってくるが、これは、パーセントは小さいが、範囲が広いのだ。
十津川は、例の五通の手紙と、一枚の新聞の切り抜きを読み返してみた。
手紙の文面を、そのまま信じれば、犯人は、単独ではなく、何人かのグループということになる。
彼等は、何かを企《たくら》んでいて、手始めに、青柳みゆきを殺した。
いや、Kのサインで手紙をくれた北川治も、自動車事故に見せかけて殺されたと考えると、連中は、二人、すでに殺しているのだ。
また、札幌の寿司《すし》店「丸清」の主人夫婦も、行方《ゆくえ》不明になっている。それだって、ひょっとすると、何処《どこ》かで、殺されているかも知れない。
この一連の事件を、どう解釈したらいいのか? 解釈を誤れば、犯人を見つけるどころか、全く別の方向に行ってしまうだろう。
道警の捜査も、進展していないようだ。その証拠に、一時間前にFAXで届いた道警の連絡は、次のようなものだった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈丸清の主人夫婦の行方は、いぜんとしてわかりません。同業者の中には、経営難から、二人が、夜逃げしたのではないかという者もいますが、違う意見もあります。彼等が、いくら借金していても、丸清という名前に、いくらでも融資するという人間が、何人もあるというのです。一億円ぐらいの借金で、夜逃げする必要など、なかった筈《はず》だというわけです。
北川治の件も、進展はありません。いくら調べても、青柳みゆきの名前も、出て来ません。もう一つ、彼の周辺の女性を、全《すべ》て調べましたが、T子のイニシアルの名前は出て来ないのです。彼をはねた人間も、まだ、見つかりません。
こんな報告で、申しわけないと、思っております。
道警捜査一課 三浦裕介〉
[#ここで字下げ終わり]
「道警も、苦労しているようですね」
と、亀井がいった。
「それをどう思うね?」
と、十津川が、きいた。
「ですから、苦労しているなと――」
「そうじゃなくて、すでに、四日もたっているのに、ほとんど、進展しない理由だよ。こちらも、道警もだ」
と、十津川は、いった。
「それは、難しい事件だからだと思いますが」
「しかし、カメさん。北川治というのは、平凡な男だよ。手紙を信じれば、あるグループが、犯罪を企んでいるらしいのに、怖くて、なかなか、近づけなかったような男だ。それに、別に、陰のある人間にも思えない。それなのに、道警の捜査が進展しないのは、なぜなんだろう?」
「そうですねえ。道警の刑事だって、優秀な筈だし――」
「私は、こう考えてみたんだ。捜査が進展しないのは、何もないからではないのかと」
と、十津川は、いった。
「どういうことですか?」
亀井が、首をかしげて、十津川を見た。
「言葉どおりさ。北川治という男には、何もないんだ。だから、いくら調べても、事件との関係がわからない。関係なんか、もともと、なかったんだ」
「それでは、北川治は、手紙のKではないということですか?」
「そう考えれば、捜査の進展のない理由が、納得できるんじゃないかね」
と、十津川は、いった。
「少し大胆すぎるような気がしますが」
亀井が、不安気な表情になった。
「大胆かも知れないが、説明のつく推理だよ」
と、十津川は、いった。
「では、なぜ、北川治は、殺されたんでしょうか? それとも、彼は、今度の事件とは関係なく、自動車事故にあったんでしょうか?」
と、亀井がきく。
「いや、彼は、事件に関連して殺されたんだと思うよ」
「しかし、今、警部は、北川はKではないといわれましたよ」
「Kではないんだ」
「よくわかりませんが」
「われわれは、一杯くわされていたんだよ。道警もだ」
と、十津川は、いった。
「その辺を、説明して下さい」
「単独犯か、グループかはわからないが、青柳みゆきを殺したい奴《やつ》がいた。だが、名前と、雑誌の編集者としかわからない。それに、東京で探すことが出来ない理由があった。それで、考えたのさ、われわれ警視庁の人間に、探させようとね。呆《あき》れた奴さ。まず、意味ありげな手紙を出すことから始めた。最初から、青柳みゆきという名前を出したのでは、もっともらしく聞こえないと考えたんだろう。Kという署名で、一通、二通と、事件を匂わせる手紙を、警視庁|宛《あて》に出し、四通目で、青柳みゆきという名前を出した。このあと、犯人は、北川治という男を車ではねて殺し、それを、恋人のT子の署名で、送ってきた。こうすれば、われわれ警察が、必ず動くと、読んだんだよ」
と、十津川はいった。
「北川治は、なぜ、選ばれたんですか?」
と、亀井が、きいた。
「多分、たまたま名前が、北川治だったからだと思うよ。それに、札幌に住んでいたから、選ばれた。イニシアルがKで、男で、札幌に住んでいる人間なら、誰でも良かったんだ。加藤でも、木島でもね」
「それで、北川治は、殺されたんですか?」
「そうだと思う。だから、道警が、いくら北川治の身辺を調べても、青柳みゆきとの関係が、浮んで来ないし、T子に当てはまる恋人も、浮んで来なかったんだ」
十津川は、断定するようにいった。
「しかし、われわれは、信じて、彼女を探しました」
「ああ。そうさ。犯人の罠《わな》に、まんまと、引っかかってしまったんだ。犯人は、こう考えたんだと思う。Kこと、北川治が、車にはねられて死ねば、警察は、Kが、犯人に近づきすぎたために、自動車事故に見せかけて、殺されたに違いないと思うとね」
「われわれは、その通り考えましたよ」
「ああ。急に、それまでの手紙に、真実性を感じてしまったんだ。その上、犯人は、六月十五日までに、青柳みゆきは、殺されると書いてきた。それで、われわれは、必死になって、青柳みゆきを探し出し、ガードすることにしたんだよ」
と、十津川は、いまいましげにいった。
「しかし、十五日までには、殺されませんでしたね」
と、亀井が、いう。
「十五日までに殺すという考えは、なかったと思うよ。期限を切ったのは、われわれをあわてさせるためだったのさ。われわれが、必死になって、青柳みゆきを、探すことになると計算して、十五日と書いたんだよ」
と、十津川は、いった。
「畜生!」
と、亀井が、舌打ちした。
「犯人は、東京にやって来て、われわれの動きをまず調べ、ガードしている女が青柳みゆきと知って、殺したんだ。まんまと、目的を遂げた。そう考えるんだがね」
と、十津川は、いった。
「それなら、いくら、北川治を調べても、犯人にはたどりつけませんね」
「そうさ。北川治に拘《かかわ》っている限り、捜査は進展しないようになっているんじゃないかと思うね。犯人の狙いもそれなんだよ」
と、十津川は、いった。
「じゃあ、犯人について、何もわからないということですか?」
亀井が、口惜《くや》しそうにいうのに対して、十津川は、微笑《ほほえ》んで、
「そうでもないさ。犯人は、少くとも、青柳みゆきを殺す理由を持っていたことは、間違いないんだ。それも、なるべく早く、殺したかったことは、間違いない。それに、一通目から四通目までは同じ筆跡で、五通目は別人の筆跡だ。つまり、犯人は、少くとも二人以上いるということがわかる。それも、一人は、女だろう」
と、いった。
「これから犯人は、何をする気でしょうか?」
と、亀井が、きいた。
「犯人は、手紙の中で、青柳みゆきの殺しが始まりで、何か恐しいことを企んでいると、書いているよ」
「しかし、それは、われわれに、彼女を探させるための嘘《うそ》じゃないんですか?」
と、亀井が、きいた。
「かも知れない。だがね、私は、こう考えるんだ。青柳みゆき一人を殺すためだけに、こんな面倒臭いことは、やらないんじゃないか。だから、何か大きなことを企んでいて、その前提として何がなんでも、青柳みゆきを、殺したかったんだと思うよ」
と、十津川は、いった。
「だから、手紙に、本当のことも、書いてあると?」
「こんな手の込んだ方法をとる奴は、私は、自己顕示欲が強く、挑戦的な性格だと、思うのだ。それが当っているとすれば、これから、大きなことをやるぞと、警察に知らせたい欲望に、駆られたんじゃないかね」
と、十津川は、いう。
「犯人の挑戦――ですか?」
「それを感じるんだよ。今、五通の手紙を、読み返して、最初に感じたのは、われわれを、うまく引っかけたのではないかという疑いだったが、次に感じたのは、犯人の自己顕示欲だよ」
と、十津川はいった。
「もし、警部のいわれる通りなら、これから、何かやってくる筈ですね?」
亀井が、真剣な眼《め》できく。
「ああ、必ず、何かやると、確信しているよ」
と、十津川は、いった。
会津若松から、車で二十分のところに、東山温泉がある。
湯川の渓谷沿いに、ホテル、旅館が、並んでいる。
最近は、近代的なホテルが多くなり、建築中のホテルもある。会津若松に観光に来た人たちが、この東山温泉に、泊るのだろう。
その一軒、Sホテルに泊った若いカップルの客が、六階の部屋から、眼下に流れる渓流を、見下していた。
今年は、雨が多かったせいで、水量も多く、流れも早い。
渓流のところどころに、落差が出来ていて、そこが、小さな滝になっている。ごうごうと音を立てて、水しぶきがあがり、見ていて、あきない。
「夜になると、この音で、眠れないぞ」
と、男の方は、夢のないことをいった。
女は、水しぶきで、小さな虹《にじ》が出来ているのを、じっと、見ていた。
滝の傍《そば》には、流れのとまったよどみが出来ている。そこは、深くて、コバルトブルーに色が変っている。
何か、白いものが、上流から流れ落ちて来て、それが、よどみに入ると、くるくる廻《まわ》って、下流に、流れなくなる。
(あの白いのは、何だろう?)
と、女は、じっと、見つめた。
白い箱みたいに見えた。それが、浮いたり、沈んだりしている。
(ハンドバッグみたいだわ)
と、女は、思った。
白い箱に、白い紐《ひも》みたいなものが、ついていたからだった。
「ねえ。あれ、ハンドバッグじゃない?」
と、女は、男に、いった。
男は、廊下に置かれた冷蔵庫から、缶ビールを取り出し、飲もうとしていたところだったので、
「ハンドバッグが、欲しい?」
「違うわよ。あれは、ハンドバッグじゃないのって、いってるの」
「何処に?」
と、男は、缶ビールを片手に、窓の外に眼をやった。
「あのよどみのところ」
「何か白いものが、浮いたり、沈んだりしてるねえ。ああ、あれはハンドバッグだ」
「シャネルのハンドバッグよ」
と、女は、いった。
「それなら、高いんだ。あれ、取れないかな」
と、男は、いい、
「よし、取って来よう」
と、缶ビールを持ったまま、部屋を、飛び出して行った。
女も、興味があるので、続いて飛び出し、二人は、エレベーターで、一階へおりて行った。
一階のロビーから、庭に出られるようになっている。二人は、庭|下駄《げた》を突っかけて、外へ出たが、流れは早い。問題のよどみは、向う岸に近いところなので、手で、取れるものではなかった。
仕方がないので、女は、ホテルのフロントに話した。
二人の男の従業員が、長い竿《さお》を持ち出した。それで、引っ掛けて、取ろうというのである。
なかなか、引っ掛けられなくて、悪戦苦闘が続いたが、やっと、引き上げると、集まって来ていた泊り客から、拍手が、起きた。
女の見たとおり、白いシャネルのハンドバッグだった。
一応、落し物だということで、ホテルでは、近くの派出所から、警官に来て貰《もら》った。
その警官の立ち合いで、ハンドバッグが、開けられた。
中も、水が入っていて、ぐしょ濡《ぬ》れだった。
ホテルの従業員が、濡れた中身を、一つずつ、丁寧に、取り出して、テーブルの上に、並べていった。
ハンカチ
化粧品
財布
キーホルダー
預金通帳
印鑑
キャッシュ・カード
小銭入れ
財布には、一万円札十五枚と千円札五枚が、入っていた。
預金通帳の名前は、小西進介となっていたが、キャッシュ・カードの方は、小西文江だった。
預金通帳は、M銀行札幌支店のもので、一千二百万円余りの預金残高になっていた。
「札幌か」
と、派出所の警官は、呟《つぶや》いてから、
「きっと、札幌から、この東山温泉に来た人が、落したんだろうね」
「落した人は、きっと、困っているでしょう。どこに泊っているかわかれば、届けてあげるんですがね」
と、ホテルのマネージャーが、いった。
「私が、聞き合せてみよう」
と、警官は、いった。
井上という警官は、派出所に戻ると、東山温泉にあるホテル、旅館に、電話して、ハンドバッグを川に落した、小西文江という女性が、泊っていないかどうか、聞き合せた。
全部のホテル、旅館に問い合せたのだが、どこにも、そういう客は、いないという返事だった。
(おかしいな?)
と、井上は、思った。
偽名で、泊っているにしても、預金通帳や、現金の入ったハンドバッグを落してしまったのである。きっと、ホテルのフロントに、届けている筈である。
井上は、困って、会津若松署の方へ、報告した。
ハンドバッグを、どうしたらいいか、指示を仰ぐためだった。
返事は、落し物として、処理しろというものだったが、井上が、その書類を作ろうとしていると、今度は、会津若松署の方から、電話がかかった。
田原という警部からだ。
「預金通帳にあった名前は、小西なんだね?」
と、緊張した声できく。
「そうです。小西進介です。キャッシュ・カードは、小西文江ですから、夫婦だと思います」
「通帳は、札幌のM銀行のものなんだね?」
「その通りです」
「すぐ、そのハンドバッグを持って来い。早くだ!」
「そちらに、落し主が、現われたんですか?」
「そんなことはいいから、早く持って来い!」
と、田原が、怒鳴った。
(何を怒ってるんだ?)
と、井上巡査は、口の中で、文句をいいながら、バイクに乗り、ハンドバッグを持って会津若松署に向った。
着いて、ハンドバッグを差し出すと、田原は、引ったくるように、受け取り、すぐ、自分の机の上に、中身を、ぶちまけた。
預金通帳の名前を調べ、キャッシュ・カードのサインを確めると、受話器を取って、
「札幌の道警本部を呼び出してくれ」
と、いった。
道警本部が出ると、田原は、
「そちらから、手配されている寿司店、丸清の店主夫婦の件で、お知らせしたいことがあるんですがね」
と、いった。
向うが、三浦という警部に、代って、
「何か、わかりましたか?」
と、きいた。
「東山温泉の傍を流れる渓流で、今、白いハンドバッグが見つかったんですが、その中にあった預金通帳は、札幌のM銀行支店のもので、小西進介の名前が書いてあります。印鑑、キャッシュ・カードも、小西ですが、カードは、小西文江です」
と、田原は、いっきに、いった。
「それで、小西夫婦も、見つかりましたか?」
と、きく、三浦の声も、甲高くなっていた。
「それは、わかりません。なにしろ、今、ハンドバッグが、見つかったところですから」
「わかりました。なるべく早く、そちらに行きます」
と、三浦は、いった。
翌日早く、道警捜査一課の三浦警部が、単身、到着した。
三浦は、持参した小西夫妻の写真を、田原に渡して、
「一ケ月前から、行方不明になっていて、心配していたのです。借金苦からの蒸発ということで、心中の恐れもあるということで」
と、いった。
「借金苦といっても、預金通帳には、一千二百万円の残金があります」
「そうですね」
「とにかく、湯川の上流を、これから、調べます」
と、田原は、いった。
三浦も、同行することになった。会津若松署から、二十人の警官が動員され、湯川沿いに、上流に向って、捜索が始まった。
流れの早い川だし、両側は、崖《がけ》になっていたり、ぎりぎりまでホテル、旅館が建っていたりするので、調べるのが大変だった。
流れがゆるければ、舟を出すことが出来るのだが、それが出来ない。
ホテルに入れて貰って、屋上から、双眼鏡で、調べたり、橋のかかっている場所では、橋の上から、調べた。
上流に、伏見ガ滝がある。この周辺は、崖が険しく、旅館、ホテルの数も、少い。
崖の反対側に、道路があり、田原たちは、そこに並んで、双眼鏡で、対岸の崖の下あたりを、注目した。
ところどころ、深いよどみがあり、ハンドバッグが見つかった場所と同じ状況になっているからだった。
水面が反射して、水中がよく見えない。曇ってくると、見易《みやす》くなった。
「何か見えます」
と、警官の一人が、声をあげた。
他の警官二人が、対岸の崖の上に廻り、崖下のよどみを、のぞき込んだ。
最初は、白っぽいものが、ぼんやり見えるだけだったが、目を凝《こ》らしている中に、よどみの底に、人間の形らしいものが、沈んでいるのが、わかった。
それも、二人である。
大さわぎになり、消防の救急隊員も駈けつけて、二つの死体の引き上げが始まった。
問題のよどみの深さは、三、四メートルは、あるだろう。
ロープをつけたダイバーが、もぐって行き、二つの死体に、ロープをつけ、引き上げが始まった。
最初に、女の方が、引き上げられた。続いて、男の死体。
衣服が水を吸って重く、男の死体は、途中でロープが切れて、水中に落下して、一度は、失敗してしまった。
それにこりて、今度は、ロープを二重に巻いて、引き上げが、再開された。
数時間の作業のあと、二つの死体が、引き上げられて、崖の上に、並べられた。
二人とも、五十代に見えた。
長い時間、水に浸《つか》っていたのか、顔が、ふくらんでしまっていたが、道警の三浦は、
「丸清の夫婦だと思います」
と、田原に、いった。
一見して、溺死《できし》のように見えるが、正確なことは、解剖の結果を待たなければならない。
二人の死体は、司法解剖のために、福島県立医大に送られた。
男の背広のポケットにあったものは、会津若松署で、保管されることになった。
その中には、内ポケットにあった財布と、運転免許証もある。免許証は、間違いなく、丸清の主人、小西進介のものだった。
三浦は、会津若松署の電話を使って、警視庁の十津川に、連絡をとり、丸清の店主夫婦の死体が見つかったことを告げた。
十津川も、驚いたらしく、一瞬、声をとぎらせてから、
「二人は、なぜ、東山温泉に行ったんでしょうか? その辺りに、知人や、親戚《しんせき》がいるんですかね?」
と、きいた。
「いや、今までに調べた限りでは、この辺りに、そういう者はいませんね。会津若松にも、東山温泉にもです」
「小西夫婦は、温泉好きだったんですか?」
と、十津川は、きく。
「そうですね。温泉好きということは、聞いたことがあります。ですから、小西夫婦と、東山温泉をつなぐものがあるとすれば、温泉好きということだけだと思います。今、ここの警察は、小西夫婦が東山温泉に泊っていたかどうか、調べています」
と、三浦は、いった。
「それに、三浦さんの見るところ、小西夫婦は、殺されたと思いますか? それとも、心中か、事故死か」
「わかりません。二人とも外傷がありましたが、何しろ、渓谷ですからね。崖上から落ちれば、それくらいの外傷は、つくと思います」
と、三浦は、いった。そのあと、何かわかれば、また、連絡しますといって、電話を切った。
会津若松署の刑事たちの聞き込みで、小西夫婦の泊っていたホテルが、わかった。
二人の死体が沈んでいた場所から、更に上流に、Bホテルがある。そこに夫婦は、七月一日から二日まで、泊っていたというのである。
三浦も、田原警部と一緒に、そのホテルに、出かけた。
最近建てられたホテルで、東山温泉でも奥のところである。
フロントが、宿泊カードを見せてくれた。間違いなく、そこには、小西進介と、妻、文江の名前が書かれ、札幌の住所になっていた。
「三日の午前九時に、チェック・アウトなさいました」
と、フロント係が、いった。
「タクシーは、呼ばなかったの?」
と、田原が、きいた。
「一応、お聞きしたんですが、この辺りを歩いてみたいからと、おっしゃいました」
と、フロント係は、いった。
「七月一日の何時頃、二人は、チェック・インしたんですか?」
「夕方でした。午後六時頃だったと思います」
「予約は、いつあったんですか?」
「前日の六月三十日に、電話でありました」
「それは、男の人の電話でしたか? それとも、女性の声でですか?」
「男の方でした」
「小西さんが、電話をかけて来たんですか?」
「そうだと思いますわ。小西と、おっしゃいましたから」
と、これは、予約係の女性が、答えた。
「じゃあ、札幌から、掛けて来たんですかね?」
と、三浦がきくと、相手は、
「それは違うと、思いますわ」
と、いう。
「なぜ、違うと、わかるんですか?」
「そちらの電話番号を教えて下さいと、いいましたら、0278―72―××××と、おっしゃいましたから」
と、予約係の女性は、いう。
「確かに、札幌の電話番号じゃないな」
と、三浦が、呟いた。
田原は、ロビーの公衆電話を使って、予約係のいったナンバーに、かけてみた。
「Tホテルで、ございます」
という女の声が、聞こえた。
「失礼ですが、何処のTホテルですか?」
と、田原は、きいた。
「水上温泉のTホテルで、ございますが」
と、女の声が、いう。
「私は、福島県警の田原といいますが、そちらに、六月三十日に、小西進介と、文江という夫婦が、泊っていませんでしたか?」
と、田原は、きいた。
電話が、フロント係に廻されてから、
「確かに、泊っていらっしゃいます」
と、男の声が、いった。
「いつから、そちらに、泊っていたんですか?」
と、田原は、きいた。
「六月二十八日からで、二十八、二十九、三十日と、お泊りで、七月一日の朝、チェック・アウトなさいました」
と、Tホテルのフロントが、いった。
田原が、それを、三浦に伝えると、三浦は、考える表情で、
「小西夫婦は、一ケ月前に、店を閉めて、消息が、わからなくなっていたんです。ここの前に、水上温泉にいたとすると、温泉を、転々としていたのかも知れません」
「それは、転々と、逃げ廻っていたということですかね? それとも、夫婦で、日本全国の温泉旅行を楽しんでいたということなんですかねえ?」
田原は、首をかしげた。
五十代の夫婦だから、一応、温泉めぐりを楽しんでいたように思える。
しかし、小西進介は、札幌の有名な寿司店の主人である。一億円の借金があって、店を閉めたといわれていたのだ。
それを考えると、転々と、逃げ廻っていたことになるだろう。
「どちらともいえませんね」
と、三浦はいった。
「なぜですか?」
と、田原が、きいた。
「正直にいうと、どちらも、おかしい気がするんですよ。ちゃんとした店があるのに、それを閉めて、夫婦で、呑気《のんき》に温泉めぐりというのは、職人|気質《かたぎ》の人間らしくありません」
「じゃあ、借金取りから、逃げ廻っていたということですか?」
「それも、どうも納得できませんね」
「なぜです? 一億円の借金が、あったんでしょう?」
と、田原がきく。
「しかし、二人が死んだ時、一千万以上の預金がありました」
「ええ」
「一億円の借金を、十ケ月の分割払いにして貰って、第一回分として、その一千万円を払えば、どんな借金取りだって待ってくれるでしょう。店も開けられるし、店が続けば、自然に、借金も返せるんです。普通は、そうする筈ですよ。それなのに、一千万以上の金を持って、温泉めぐりをしていたんです。不思議で仕方がない」
と、三浦は、いった。
「そうも、考えられますねえ」
と、田原は、考え込んでしまった。
三浦は、
「警視庁にも、電話して、このことを、知らせたいと、思います」
と、田原に、いった。
十津川は、三浦からの電話を受けた。
「その夫婦ですが、殺人《ころし》ですか? それとも、心中ですか?」
と、きいた。
「わかりません。こちらでは、司法解剖することになりますから、何か、わかるかも知れないと、期待しています」
と、三浦は、いった。
「小西夫婦が、水上、東山と、温泉を廻っていたというのは、面白いですね」
と、十津川はいう。
「きっと、水上の前も、他の温泉に、泊っていたんだと、思いますよ」
「私も、そう思います」
と、三浦は、いった。
「三浦さんは、小西夫婦が、逃げ廻っていたのでも、温泉めぐりを楽しんでいたのでもないと、思っているんですね?」
と、十津川は、きいた。
「そうです。どちらも、小西さんのことを考えると、おかしいんですよ。職人気質で、すしを握るのが好きな男が、店と、お客を放り出して、温泉めぐりを楽しむなんてことは、考えられないんですよ。と、いって、一億円の借金で、逃げ廻るというのも、おかしいんです。彼になら、お金を出してもいいという人が、いくらでもいるんですから」
と、三浦は、いう。
「それは、私も同感ですが、そうなると、他に、どんなことが、考えられますか?」
と、十津川は、きいた。
「そうですねえ」
と、三浦は、電話の向うで、考えているようだったが、
「誰かの指示で、心ならずも、奥さんと、温泉を、転々としていたのではないかと、思いもするんですが、そうだとしても、誰が、何のために、そんな指示を与えていたのか、わかりません」
「三浦さんの推理どおりだとすると、何か、犯罪の匂いがしますね」
と、十津川はいった。
「犯罪の匂いですか?」
「そうです。もし、犯罪の匂いがすれば、どこかで、東京で殺された女性と、つながってくるかも知れませんよ」
と、十津川は、いった。
十津川の言葉を、どう受け取ったかわからないが、三浦は、
「福島県警の田原警部が、解剖の結果を、十津川さんにも、知らせると、いっていました」
と、いって、電話を切った。
翌日の午後になった。その言葉どおり、福島県警の田原警部が、電話してきた。
「東山温泉で死んでいた小西夫婦の解剖結果が出ましたので、連絡します。肺に、水が入っており、溺死であることは、まず、間違いありません」
と、田原は、いった。
「溺死ですか」
十津川は、少からず、気勢をそがれた感じがした。
小西夫婦の死が、東京の殺人事件につながっているとすれば、ただの溺死の筈がないと思っていたからである。
「外傷があったようなことが、いわれていますが」
と、十津川が、いうと、田原は、
「それが、妙な具合なんですよ」
と、いった。
「何が、妙なんですか?」
「医者の話だと、二人とも、両脚を、骨折しているというんです。沈んでいたのは、崖下の深いよどみですからね。崖上から落ちた時に、岩にぶつかったんじゃないか。その時に、両脚をぶつけて、骨折したんじゃないかというわけです」
と、田原は、いう。
「それは、当っているんですか?」
「確かに、岩がむき出しになっているところがあって、十二、三メートルの崖から落ちて、その大きな岩にぶつかれば、両脚骨折という可能性もあります。ただ、夫婦|揃《そろ》って、両脚を骨折するという可能性というのは、パーセントとして、そんなに高くはないと思うのですよ」
「脚の他にも、外傷はあるんですか?」
と、十津川は、きいた。
「両手にも傷がありますが、これは、軽い擦傷《すりきず》といったものです。それから、頭にも、小さな傷です」
と、田原は、いった。
「崖上から、飛び降りて、大きな岩にぶつかったりすれば、脚は、骨折するでしょうね」
と、十津川は、いった。
「ええ」
「しかし、二人とも揃って両脚を骨折というのは、偶然が、過ぎますね」
「そうなんです」
「よどみというのは、深いんですか?」
「かなり深いです。背は立ちません」
「よどみの他は、流れが早い?」
「ええ。急流で、ところどころに、深いよどみが出来ています」
「その他に、何かわかったことは、ありませんか?」
と、十津川は、きいた。
「小西進介は、何回か、ホテルから、外へ電話をかけています。ただ、一階ロビーにある公衆電話でかけているので、何処へかけたか、わからないのです。水上温泉に聞いたところ、向うでも、同じように、小西夫婦は、一階の公衆電話で、かけていたといいます」
と、田原は、いう。
「部屋からかけると、記録が残るのが、嫌だったんでしょうね」
と、十津川は、いった。
「私も、そう思っているのです」
「外から、小西夫婦に、電話が、かかったり、人が訪ねて来たことは、ないんですか?」
「一度、男の声で、電話があったと、旅館側は、いっていました。ただし、何処からも、何という人間からかもわかりません。もちろん、電話の内容もです」
と、田原は、いった。
「それは、いつ、かかったんですか?」
「チェック・アウトの前の晩だったそうです」
「チェック・アウトしたあと、電話の男と会ったということも、考えられますね」
「そうです。それから、死亡推定時刻を、お話しするのを、忘れていました。七月三日の午前十時から十一時の間です」
と、田原は、いった。
「Bホテルを、チェック・アウトしたのは、三日の午前九時でしたね?」
「そうです」
「すると、ホテルを出て、一時間後から、二時間後に、死んだということですね?」
「そうです」
「現場は、観光客の多いところですか?」
「いや、景色はいいですが、傍にホテル、旅館はないし、崖が続いていますからね。人の気配の少い、静かな場所ですよ」
と、田原は、いった。
「すると、そこで、人に見られずに、小西夫婦を殺すことが、出来そうですね?」
と、十津川は、きいた。
「そうですね。出来るでしょうね。しかし、聞き込みをやっても、今のところ、小西夫婦が、誰かと一緒に、現場にいたという目撃者は、見つかっていません」
と、田原は、ちょっと、疲れたような声でいった。
十津川は、煙草《たばこ》をくわえ、三浦と、田原の二人から連絡されてきたことを、手帳に書いて、整理していった。
十津川は、今、東京で起きた殺人事件を、追っている。
だから、彼の関心は、東山温泉での小西夫婦の死そのものより、それが、東京の殺人事件と、果して、関連があるのかどうかということだった。
東京で殺された青柳みゆきは、記者として、札幌で、丸清を取材している。そのあと、丸清の主人夫婦は、失踪《しつそう》し、東山温泉で、死んだ。
青柳みゆきも、その前に、東京で、殺された。
関連があるに違いないと思う。ただ、どんな関係なのか、肝心なことが、わからないのだ。
十津川が、小西夫婦の解剖結果のことを話すと、亀井は、
「それは、殺《や》られたに決っていますよ」
と、あっさり、断定した。
「殺《や》られたって、どんな風にだ?」
と、十津川は、きいた。
「多分、残酷な方法をとったんだと思いますよ。金属バットか何かで、いきなり、小西夫婦の脚を殴りつける。膝《ひざ》あたりをです。簡単に、骨が折れますよ」
と、亀井はいう。
「そうやっておいて、崖の上から、急流のよどみに、投げ込んだということか?」
「両脚が使えなければ、多少、泳げても、助かりませんよ。深いよどみから脱出できない。必死になって、岩にしがみついても、両脚が利かないから、這《は》いあがれない。疲れ果てて、溺《おぼ》れて、死ぬ。溺死です。両脚の骨折は、崖から落ちた時の傷かと思われる」
と、亀井は、いった。
「それが本当なら、残酷な殺し方をしやがったものだ」
十津川は、唇を噛《か》んだ。もし、亀井の推理が当っていれば、犯人は、冷酷な性格なのだ。
「しかし、これは、あくまで、推理ですから」
と、亀井は謙遜《けんそん》した。
「いや、カメさんのいう通りだと思うね。そんな気がしてきたよ」
と、十津川は、いった。
「なぜですか?」
「青柳みゆき殺しのことを考えたのさ」
「あまり、似ていないように、見えますが」
「形は似ていないが、全体のやり方が、似ているよ。計算高くて、冷酷というところがね」
「そうですかね?」
「犯人は、われわれ警察を使って、青柳みゆきを見つけ出して、殺した」
「そうです。ずる賢い奴です」
「それだけじゃない。その間、われわれを信用させるために、北川治という男を、自動車事故に見せかけて、殺している。ただ単に、彼の名前のイニシアルが、Kだったために、選ばれたんだよ」
「なるほど。確かに、冷酷ですね」
「目的を達成するためなら、人間の命なんか、何とも思っていないんだよ」
と、十津川は、いってから、
「小西夫婦殺しも同じだ。何とか理由をつけて、二人に、温泉めぐりをさせておいて、最後に、二人の両脚を砕き、渓谷に突き落して、溺死させる。同じだよ。その狡猾《こうかつ》さと、冷酷さはね」
「確かに、似ていますね」
と、いって、亀井も膝をのり出してきた。
「そうさ。似てるんだ。つまり、同じ犯人の可能性が強いんだよ」
と十津川はいった。
「青柳みゆきと、小西夫妻の接点は、彼女が丸清を取材したという一点だけですね」
「今のところはね」
「しかし、取材しただけで、なぜ、取材した記者と、取材された寿司店の主人夫婦が、殺されなければ、ならないんでしょうか?」
と、亀井がいった。
「その取材で、何かあったんだろう」
と、十津川は、いった。
「しかし、雑誌には、ちゃんと丸清の広告が、のっていましたね?」
「ああ、のっていた」
「それなのに、三人の人間が殺された。いや、北川治を入れると、四人ですね。犯人は、四人もの人間を殺した。何を得ようとしたんでしょうか?」
「それが、わかればねえ」
十津川は、溜息《ためいき》をついた。
肝心のところが、霧に包まれてしまっている。そのことが、十津川を、いらだたせるのだ。
「今のところ、犯人が、完全に、われわれをリードしている感じですね」
と、亀井も、いまいましげに、いった。
「ああ、完全に、してやられている。次に、犯人が、どう出てくるのか、全く、見当がつかないんだからね。これで、犯人は、全ての目的を達したのか、まだ、何かやる気なのかも、わからないんだ」
「警部は、前に、犯人は、複数で、これからも、何かやる気でいる筈だと、いわれましたね?」
と、亀井が、十津川を見た。
「ああ、いったよ」
「その考えは、まだ変っていませんか?」
「変らないよ。理屈じゃなくて、勘なんだ。犯人は、一人じゃなくて、グループ。その中に女性も、混っている。そう思っている」
と、十津川はいったが、付け加える感じで、
「ところが、今もいったように、何をしようとしているのか、全く、見当がつかない」
「例の五通の手紙は、全て、札幌の消印でしたね」
「そうだよ」
「それが、東京で、青柳みゆきを、殺しています。札幌から、東京へ、やって来たということになります」
と、亀井が、いった。
「そうなんだ。東京のわれわれに、青柳みゆきを探させておいて、犯人は、ゆっくり上京して来て、彼女を殺したんだよ。それを考えると、むかついて来るよ。自分の間抜けさにも、腹が立ってくるんだ」
と、十津川は、いった。
「その犯人は、今度は、福島県の東山温泉へ行って、小西夫婦を殺したんですね」
と、亀井は、いった。
十津川は、立ち上って、窓の外を、しばらく、眺めていた。
どんよりと、重い霧から、今にも、雨が落ちて来そうな感じだった。今年は、いっこうに、梅雨《つゆ》の明ける気配がない。
「私はね」
と、十津川は、亀井に背中を見せたままで、
「私は、勝手な想像なんだが、こんな風に、考えるんだ。何か大きなことを企んでいるグループがいた。札幌のグループだ。計画は着々と進行していたが、突然、その計画に、邪魔が入った。それが、丸清の主人夫婦と、青柳みゆきだ。計画を実行する前に、そのトゲを抜いておかなければならない」
「それで、三人の口を封じたということですか?」
と、亀井は、十津川の背中に向って、問いかけた。
「そうじゃないかと思っているんだ」
「もし、警部の考えられる通りだとしたら、事件は、終ったのではなくて、これからが、本番ということになりますね」
亀井が声を大きくしていった。
「だが、何をやろうとしているのか、どんな連中なのかが、わからない」
「丸清には、有力者が客として、よく集っていたようですね」
「そうだよ」
「その中に、犯人がいるんじゃありませんか?」
と、亀井がきいた。
「かも知れないが、常連客のことをよく知っていた丸清の主人夫婦は、殺されてしまったからねえ」
と、十津川は、いってから、
「そうだ。丸清では、職人を、何人も使っていたといっていた。その職人たちなら、よく知っているかも知れないな」
「聞いてみましょう」
「ああ、道警の三浦警部に、電話して、頼んでみよう」
と、十津川は、いった。
彼はすぐ、道警に、電話をかけた。三浦は、会津若松から戻っていて、電話口に出てくれた。
十津川が、丸清の常連客について、調べて欲しいというと、
「やってみますが、ちょっと、時間が、かかります。何しろ、道内の有力者や、有名人が、常連客でしたからね。慎重にやらないと、こっちの足元がすくわれます」
「なるほど」
「でも、やりますよ」
と、三浦は、若い声で、いった。
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第三章 新たな動き
十津川の机の上に、雑誌が置かれている。
札幌の寿司《すし》店「丸清」の写真をのせている例のグルメ紹介雑誌である。
この写真は、殺された青柳みゆきが、撮ったものだと、編集長は、いっている。
当り障りのない、紹介の文章も、取材に行った彼女が、書いたものだ。
「何を熱心に、見ていらっしゃるんですか?」
と、亀井が、のぞき込んだ。
「丸清の写真さ」
「型にはまった写真と、紹介文ですよ。ひたすら、きれいに、撮っています。雑誌としては、そうしないと、広告料が、取れないんでしょうが」
亀井は、そんないい方をした。
十津川は、笑った。
「確かに、そうなんだがね。青柳みゆきは、この雑誌の写真と、紹介文を、どんな気持で、見ていたんだろうかと、思ってね」
「そうですねえ。それは、彼女が、自分が殺されるのを、予見していたかどうかによると思いますが」
と、亀井は、いった。
「それなんだよ。カメさん。彼女のことを、いろいろと調べてみたが、ちょっと野心家の、頭のいい、若い女性という人間像しか、浮かんで来ない。どこにも、殺される理由は、ないんだ。とすれば、殺されたのは、この取材のためとしか考えられない」
「ええ」
「彼女は、この取材の時、丸清で、何かを見たか、聞いたかしたんだ。それを、気に入らない人間か、グループがいて、彼女の口を封じたとしか考えられない」
「そうです」
「問題は、彼女が、そのことに、気付いていたかどうかということなんだよ」
と、十津川は、いった。
亀井は、考える眼になった。
「よく、いうじゃありませんか。どんな人間でも、自分が殺されそうになれば、気付くと。彼女が、気付いていなかったとは、考えにくいですよ」
「私も、そう思うんだ。それなら、彼女は、利口な女だから、それを防ぐことも、考えていたんじゃないだろうか」
「ところが、われわれの忠告を無視して、殺されてしまいましたよ」
と、亀井は、腹立たしげに、いった。
「それなんだが、彼女は、自分が殺されることはないという自信があったんじゃないかね」
と、十津川は、いった。
「保険をかけていたということですか?」
「そうなんだ。相手も、それを知っていると、思っていたんじゃないかね」
「なるほど」
「彼女は、取材のために、札幌の丸清へ行き、何かを見、聞いた。相手にとって、それは、危険なものだった。だから、あとになって、殺されたんだが、その時は、殺されなかった。なぜだろう?」
と、自問する調子で、十津川は、いった。
「そうですねえ。いろいろ考えられますね。その場に、何人もの人間がいたから、殺せなかったということもあると思います。或《ある》いは、丸清の主人が、間に入って、取りなしたということも考えられますね」
「丸清の主人も、知っていたんだろうか?」
「知っていたと、思いますね。だから、丸清の夫婦も、東山で殺されたんですよ」
と、亀井は、いった。
「とすると、丸清の主人が、一枚|噛《か》んでいたことは、間違いないということか」
「彼は、職人|気質《かたぎ》だといわれていますから、犯人グループに入っていたとは、思えないのです」
「同感だ」
「しかし、たまたま、取材に来た青柳みゆきが、何かに気付いたのに、ずっと、部屋を提供していた丸清の主人が、全く、気付かなかったとは、思えません」
「すると、気付いていて、警察に、いわなかったということになるね」
「そうです」
「なぜかな? 相手が、大事なお客だったからかな?」
「それもあるでしょうが、もっと強い結びつきがあったんじゃないでしょうか」
「犯人がグループだとして、その中《うち》の一人が、丸清の主人と、血がつながっていたといったことか?」
「そうです、昔気質の丸清の主人は、警察にいえなかった。密告するみたいに、思っていたからでしょう」
と、亀井は、いう。
「大いに、あり得るね」
十津川の語調が、強くなった。少しずつ、真相に近づいていくような気がするからだった。
「犯人たちと、丸清の主人夫婦の間に、暗黙の協定みたいなものがあったんじゃありませんかね。主人夫婦の方は、犯人たちが、何をしようと、知らないふりをする。犯人たちは、丸清に、介入しないといった協定です」
「それが、青柳みゆきによって、崩れたということかね?」
「彼女は、取材にやって来て、偶然、犯人たちの秘密を知ってしまった。連中は、すぐ、彼女を、始末しようとしたと、思います。丸清の主人がそれを止めたんじゃありませんかね。青柳みゆきは、自分の店を、わざわざ、取材に来てくれたのに、殺されるのは、可哀《かわい》そうだと、思ったんじゃないですかね。それで、犯人たちと、揉《も》み合った。彼女のことは、自分に委《まか》せてくれ。絶対に、警察には、喋《しやべ》らせないからとでも、いったんだと思いますね」
「それで?」
「犯人たちも、その言葉を無視できなかった。何しろ、丸清の主人が、ヘソを曲げたら、困ったことになるからでしょう。そこで、青柳みゆきのことは、丸清の主人に、委せることにした。犯人たちが、妥協したのは、彼等の計画が、まだ、実行されていないことがあったと思うのです。万一、警察に知られても、何とか、弁明できると、思ったんでしょう。丸清の主人は、青柳みゆきに、多分、金を与え、聞いたか、見たかしたことは、誰にも、喋らないで欲しいと、頼んだんだと思います」
「野心家の彼女も、金が貰《もら》えるというので、黙っていることを約束したんだろうね。金が入れば、自分の野心が、達成できると、思ったろうからね」
と、十津川は、いった。
「丸清の主人は、犯人たちが、勝手に、青柳みゆきを殺すのを心配して、彼女の住所や、勤めている出版社なんかは、教えなかったんだと、思います。ところが、犯人たちは、自分たちの計画を、いよいよ、実行することになって、青柳みゆきのことが、心配になってきたんだと思います。丸清の主人は、心配ないというが、犯人たちは、そうは、思わなかったんです」
「だが、住所などが、わからない。そこで、警察を利用して、青柳みゆきの住所を見つけて、殺したのか」
「そう思います。そこまでいけば、今度は、丸清の主人も、消してしまわなければ、不安になってきます。特に、青柳みゆきが、殺されたと知れば、丸清の主人は、約束を破ったとして、怒り出すだろう。そこで、殺さなければならなくなった。私は、そんな風に考えますが」
と亀井は、いった。
亀井の推理は、多分、当っているだろう。
納得させるものが、あるからだ。
「それで、青柳みゆきのことだが、丸清の主人の言葉を、そのまま信じて、安心しきっていたんだろうか?」
と、十津川は、いった。
「いや、そうは、思いませんね。警部のいわれた通り、彼女は、頭のいい女です。丸清の主人から、金を貰っていたとしても、それだけで、安心して、タカをくくっていたとは、思えません」
と、亀井は、いった。
「それなら、何か、保険をかけていたかな?」
「そうですね。かけていたと、思うし、それを、丸清の主人に、告げていたんじゃないでしょうか。その方が、安心できますから」
と、亀井は、いった。
「丸清の主人は、それを、犯人たちに、いっていたんだろうか?」
「そこが、問題ですね」
と、亀井は、いう。
「丸清の主人は、犯人たちを、刺激するのを恐れて、いわなかったかも知れないな。だから、犯人たちは、丸清との約束を破り、彼女を見つけ出して、殺してしまったんじゃないか」
「可能性が、大きいですね」
「保険がかかっていたのなら、その保険の正体を早く、見つけたいね。犯人たちの計画がわかるかも知れない」
と、十津川は、いった。
こんな場合の保険は、どんな風に、かけるものだろうか?
普通は、自分の知っている秘密を、文書にして、それを、友人に、預けておく。自分に万一のことがあったら、それを、警察に、持って行ってくれといってである。
しかし、今までのところ、そうした通告は、来ていない。
「もう一度、青柳みゆきの友人、知人に、当ってみましょう」
と、亀井は、いった。
その方針に従って、刑事たちは、青柳みゆきの友人や、知人に、会いに出かけた。
結果は、すぐ出た。
高校時代の友人で、都内で会計事務所に勤めている女が、青柳みゆきから、それらしい封筒を、預っていたというのである。
名前は、井上あきである。
「二ケ月くらい前に、彼女が電話して来て、新宿で、会ったんです。その時に、封筒を渡されて、あたしに何かあったら、これを、警察に渡してくれって、頼まれました」
と、井上あきは、訪ねて行った西本刑事と日下刑事にいった。
「それで、どうしました?」
と、西本が、きいた。
「半分、冗談だと思いました。彼女、頭がいいんだけど、時々、友だちを、からかったりすることがあったから。でも、彼女が殺されたと知って、あっと思いましたわ」
「なぜ、警察に、届けなかったんですか?」
「届けましたわ」
「しかし、われわれのところに、届いてませんよ」
「警察にって、いわれてたけど、私は、警察に、知り合いがないんです。だから、すぐそこの交番に届けました」
と、あきは、いう。
西本と日下は、あわてて、豊島園近くの交番に、飛んで行った。
交番には、誰もいなかった。警官は、警邏《けいら》に行っているらしい。
二人は、いらいらしながら、交番の中で、待った。
三十分ほどして、自転車で警邏に廻《まわ》っていた若い警官が、戻って来た。
彼は、本庁の刑事が二人いることに、びっくりして、
「何かあったんですか?」
と、きいた。
「井上あきという女性から、封筒を預ったろう? 今、何処《どこ》にある?」
西本が、噛みつくように、顔を近づけて、きいた。
警官は、その勢いに、後ずさりする感じで、
「ええ、そんなことがありましたが――」
「なぜ、捜査一課に、届けなかったんだ?」
「たいしたことではないと、思いましたので」
と、警官は、青い顔でいった。
「とにかく、その封筒を見せろ」
と、日下が、いった。
警官は、机の引出しを開け、そこから、白い封筒を出して、西本たちに、渡した。
何の変哲もない封筒だった。
中には、便箋《びんせん》が一枚入っていた。それに、今の若い女らしく、横書きで、次のように、書いてあった。
(画像省略)
「何だろう? これは」
と、西本は、呟《つぶや》き、日下と、顔を見合せた。
「わけがわからないものだったので、本庁へはお届けしなかったんですが」
と、若い警官は、いいわけがましく、西本たちに、いった。
今更、この警官に、お説教をしても始まらない。西本と、日下は、その封筒を持って、急いで、捜査本部に戻った。
亀井が、それを黒板に張りつけた。
問題は、何を意味しているかだった。
「文字どおりに受けとれば、八月一日に、何かあるということでしょうね」
と、亀井が、いった。
「五〇〇、〇〇〇、〇〇〇は、金額ですよ。五億円」
と、清水刑事がいう。
「書類etcは?」
と、十津川が、きいた。
「正確なところは、わかりませんが、そのまま受け取るより仕方がないでしょう。五億円と書類、その他と」
亀井が、難しい顔でいった。
「K・Kビルというのは、何処にあるのかな?」
「一応、都内にあると考えて、調べてみます」
「最後の、J・Sは、恐らく、人名だな。何を連絡するのか、わからないが」
と、十津川は、いった。
「どうして、そんな風に、断片的な書き方をしてあるんでしょうか? もっと、きちんと、八月一日に、何があるのか、書いてくれていれば、いいんですがねえ」
と、亀井が、文句を、いった。
「多分、殺された青柳みゆきも、こんな断片的な知識しか持ってなかったんじゃないかね」
と、十津川は、いった。
その断片的な知識を、彼女は、そのまま、書き止めて、親友に、渡しておいたのではないのか。
見る人が見れば、すぐ、何のことかわかるのだ。だから、必死になって、青柳みゆきを探し出して、殺したに違いない。
「今日は、何日だったかな?」
と、十津川は、きいた。
「七月二十五日です」
と、誰かが、答えた。
「あと七日か」
と、十津川は、呟いた。
「K・Kビルの九階に、何があるかわかれば、少しは、展望が、開けると、思います」
と、亀井が、いった。
調べた結果、都内に、K・Kビルと呼ばれるビルは五つあった。
その中の三つは、雑居ビルで、一つは、七階、あとの二つは五階までしかない。九階と書かれてあるのだから、この三つは、除外していいだろう。
残る二つは、十四階建と、十階建の大きなビルである。
十四階建のK・Kビルは、新宿西口にあった。
十津川は、亀井と、まず、このビルを見に行った。
十四階といっても、新宿西口には、超高層ビルが多いので、ほとんど、目立たない。
それに、建てられてから、二十年たっていて、近く、取りこわして、三十二階建のビルに生れかわることになっていた。
「来年の三月から、取りこわしが、始まることになっています」
と、ビルの管理者が、十津川に、いった。
「九階には、何があるんですか?」
と、亀井が、きいた。
「大手の金融会社サンの新宿支店と、原田興業の二つが入っています」
「原田興業というのは、何をやってる会社ですか?」
と、十津川が、きいた。
「主に、新宿周辺に、娯楽センターや、チェーンのクラブを持っている会社です」
と管理人は、いった。
それなら、どちらも、金はあるだろう。五億円という大金も、保管されている可能性がある。
二人は、次に、もう一つのK・Kビルに、廻ってみた。
こちらは、千代田区|麹町《こうじまち》にあった。
政治の中枢に近いせいか、政党の事務所などが、入っている。
問題の九階にも、保守党の経済研究会の名前がのっていた。
その他、「アジア調査研究事務所」などという、よくわからない団体も、入っていた。
「こっちは、あまり、金はなさそうだが、書類etcの方には、関係がありそうだね」
と、十津川は、いった。
「いや、隠し金があるかも知れませんよ」
と、亀井が、笑いながら、いった。
九階にあったのは、この二つのグループの他に、もう一つ、これも、実体がよくわからない、「日本をよくする会」の事務所が、あった。
黒板に書かれた二つのビルの九階の住人の名前を見て、
「なかなか面白いコントラストですね」
と、笑ったのは、北条早苗だった。
「新宿のK・Kビルは、お金があふれている感じだし、麹町の方は、書類があふれている感じがしますわ」
と、いうのである。
確かに、その通りだと、十津川は、思った。
青柳みゆきと、丸清の主人夫婦を殺した犯人は、八月一日に、何をしようとしているのだろうか?
西新宿のK・Kビルのサン金融か、原田興業を襲って、五億円を奪う気なのか。
それとも、麹町のK・Kビルを襲うのか。
「あと、八月一日まで、この二つのビルの九階にある会社、事務所を、調べる。ただ、まだ何も起きていないのだから、慎重にやって欲しい」
と、十津川は、部下の刑事たちに、いった。
特に、政党事務所の方は、うるさいだろう。警察が調べているという噂《うわさ》が出るのを、もっとも嫌がるだろうからである。
J・Sという人物については、あまりにも、漠然としすぎていて、調べようがなかった。せめて、何をしている人間かでもわかれば、調べようがあるのだが。
今年は、梅雨《つゆ》が、なかなか、明けない。
刑事たちは、うっとうしい雨の中を、調査に、歩き廻った。
少しずつ、資料が、集ってくる。
サン金融の社長、島原研一は、五十二歳。東北の生れで、父親から引きついだ広大な土地を売却して、資金を作り、三十代から、東京に来て、金融業を始めている。
現在、東京周辺に、支店を持ち、政界にも知り合いが多いことを、自慢にしていた。
原田興業の社長は、原田圭一郎、六十歳。経歴に不明な点が多い男である。
N大の政経学部を卒業したと自称しているが、調べてみると、N大に在籍した形跡は、なかった。
二十代の時に、傷害で、刑務所に入っているのだが、彼の履歴書には、いつも賞罰なしと、書かれている。
現在、新宿、池袋、浅草に、それぞれ、娯楽センターを持ち、花シリーズのクラブを、都内に、五店持っている。暴力団との関係が噂されているが、確かではない。
政治家は嫌いだといいながら、ある政治団体に毎年二百万ずつ、献金していたりする。
麹町のビルの方は、更に、複雑で、得体の知れないところがあった。
アジア調査研究事務所の社長は、政治評論家の荒木順である。四十二歳。若手の政治評論家として、人気があるが、同時に、批判も多い。長身で、ハンサムだから、人気が出るのだが、人気だけの男だとか、口はうまいが、知識が足りないとか、いう声もある。
彼が、主宰しているアジア調査研究事務所には、政財界の有力者の名前が、ずらりと並んでいる。しかし、その一人一人に当ってみると、頼まれたので、名前だけ貸しているという返事が多かった。
第一、このアジア調査研究事務所が、何をしているのか、はっきりしなかった。一応、「これからの日本は、アジアの中の日本として、生きなければならぬ。問題は、いかに生きるかである」と、案内には出ているのだが、その研究が、発表されたという話は聞けなかった。
保守党の経済研究会は、大臣経験のある新関肇が、主宰しているもので、彼の秘書が、実質的な、責任者になっていた。
この秘書の名前は、森口昭である。研究会には、三人の人間が働いている。こうした研究員は、だいたい同じだが、何をしているのかは、はっきりせず、金集めの機関だという声も、聞こえてくる。
この噂が、あながち、噂だけでない証拠に、この経済研究会の部屋に、建設会社の人間が、ボストンバッグを持って出入りするのが見られるという。
十津川は、黒板に、この四つの名前を、書き出した。
西新宿K・Kビル九階
サン金融(島原研一)
原田興業(原田圭一郎)
麹町K・Kビル九階
アジア調査研究事務所(荒木順)
経済研究会(新関肇――森口昭)
「八月一日に、この四つのどれかが、襲われるということなのだろうか?」
と、十津川は、黒板に、眼《め》をやって、呟いた。
「そして、五億円と、書類などを盗むということですかねえ。青柳みゆきの置手紙の文字を、ストレートに解読すれば、そう読めますがね」
と、亀井は、いった。
「そして、そのことを、J・Sという人物に、連絡するというわけか」
と、十津川は、あまり、自信のない顔で、いった。
全く違う意味にも、解釈できるからである。
五〇〇、〇〇〇、〇〇〇は、多分、五億円のことだろうが、K・Kビルの九階にある会社か事務所を、襲うというのではなく、そこの指示で、動くということかも知れないのだ。
それに、八月一日という日付に、何か、意味があるのだろうか。
八月一日は、日曜日でも、祭日でもない。ただのウイークデイである。
十津川は、黒板に書かれてある五人の人物について、生年月日を、調べさせた。この中に、八月一日生れが、いるかも知れないと思ったからである。
しかし、八月一日生れは、一人もいなかった。
「あまり評判のいいものは、ありませんね」
と、亀井は、苦笑しながら、黒板の名前を見た。
「そうだねえ。ただ、サン金融と、原田興業は、金がありそうだな。銀行の支店なら、そう多額の現金は、置いてないだろうが、サラ金と、娯楽センター・水商売のチェーン店の会社なら、多額の現金が、置かれている可能性があるからね」
「アジア調査研究事務所と、経済研究会の方は、どうですかね?」
「前者は、あまり金がありそうにないね。後者は、新関代議士が、今でも、政界の有力者だから、彼が、大臣に就任した時のことを考えて、献金しにくる業者がいるかも知れない」
と、十津川は、いった。
「しかし、今は、政治家への献金が、うるさくなっていますから、五億円もの現金が、あの経済研究会に、置いてあるかどうか」
と、亀井は、いった。
いぜんとして、犯人の輪郭は、つかめない。
単独犯か、複数犯かも、不明である。ただ、複数犯の可能性が高いという気持を、十津川は、持っていた。
彼等は、秘密を守るために、青柳みゆきを殺し、丸清の主人夫婦も、殺している。
そして、八月一日に、何かやろうとしている。
犯罪であることは間違いない。ただの経済行為が行われるのなら、三人もの人間を殺して、秘密を守ることはないだろう。
たとえ、その経済行為が、法律に触れるものだったとしても、その日時を、変更すればいいのである。
だが、八月一日の日時は、変更しないつもりらしい。
なぜ、日時を変更しないのか。
八月一日に、何をやろうとしているのか。
この二つを、明らかに出来れば、犯人たちの事情がわからなくても、何とか、防ぐことが出来るだろう。
札幌の捜査は、道警に、委せてある。
丸清によく来ていた人間のリストは、道警から、十津川の手元に、送られて来ていた。
リストには、二十五人の名前が、のっている。
その殆《ほとん》どが、北海道内の政財界人である。
今、道警は、この二十五人の中で、最近、姿を消した人物を、洗い出してくれている。
これは、簡単そうで、意外に難しいものだった。
最近、姿を見かけないからといって、犯罪に関係があるとは限らない。プライベートな旅行に出かけているかも知れないからである。
それに、政財界の有力者ほど、秘密の行動を、取りたがる。
丸清の常連だった建設会社の社長が、姿を消し、家人も、会社の人間も、行先について、言葉を濁す。これは、おかしいと、道警が、追って行くと、新規の公共事業のことで、知事と、ひそかに、温泉旅館で会っていて、大さわぎになってしまったりもするのである。
七月二十八日になって、道警の三浦警部から、電話があった。
「奥寺豊という人物の行方《ゆくえ》が、わかりません」
と、三浦は、いった。
十津川は、リストに、眼をやった。
奥寺豊、四十歳。札幌市内で、建設会社を経営している社長と、書かれてある。
「本当に、行方不明ですか?」
「そうです」
「家族や、社員も、行先を、知らないんですか?」
「奥さんとは、二年前に、別れています。会社の方は、最近、景気が悪いらしく、社員も、二分の一に減っています。倒産も噂されていて、社長が消えてしまったもんで、社員は、浮き足だっていますね。必死になって、社長を探しているといった状況です」
「この奥寺豊というのは、どういう人物ですか?」
と、十津川は、きいた。
「一言でいえば、インテリヤクザですね」
「インテリヤクザ?」
「大学を出ていますが、武勇伝の多い男でしてね。空手の有段者で、身体《からだ》つきも、がっしりしていて、盛り場で、ヤクザと、ケンカもしています。いれずみをしているという噂がありますが、これは、噂だけでしょう。ただ、そんな噂があっても、おかしくはない男ですよ」
と、三浦は、いった。
「彼と親しかった人間を、知りたいですね」
と、十津川は、いった。
「それを、今、調べています」
と、三浦は、いった。
「なるべく早く、見つけて下さい。八月一日に、何か起きそうですから」
と、十津川は、いった。
電話がすんだあと、奥寺豊の顔写真が、FAXで、送られてきた。
大きく引き伸ばされた、顔写真である。確かに荒っぽい感じの顔つきをしている。
「この男が、要注意人物ですか?」
と、いって、亀井は、顔写真に、眼をやった。
「正確には、まだ怪しいかどうかもわからない男だよ。ただ、札幌で、動きがあったのは、この男だけでね」
「あと四日ですか」
「それまでに、敵の正体を知りたいね。敵がわからないんじゃあ、戦いようがないんでね」
と、十津川は、いった。
「でも、一人でもわかれば、ずいぶん助かりますよ」
と、亀井は、いった。
「だが、その一人が、もし、間違っていたら、大変なことになるよ」
「脅かさないで下さい。このまま、八月一日になったら、みんなに、この写真を持たせて、二つのK・Kビルに、張り込ませることになるんでしょうから」
と、亀井は、いった。
確かに、亀井のいう通りだった。
このまま、八月一日を迎えたら、二つのK・Kビルに、張り込むことになる。その九階にである。
その時、多分、この男の顔写真を、刑事たちは、持つことになるだろう。少しでも、助けになるものが、欲しいからである。
もしこの写真の男が、全く、今回の事件に関係がなかったら、どうなるのか。ひょっとして、たまたま、K・Kビルの近くにいたら、刑事たちは、彼に殺到してしまうだろう。
前に、目撃証言で使った犯人のモンタージュが、間違っていて、捜査が、大混乱したことがあった。
その二の舞いにならないとも限らない。
それを防ぐためには、もっと、情報が、欲しかった。
十津川たちも、引き続き、二つのK・Kビル九階の会社と、事務所を、調べていった。
二十九日になって、新宿K・Kビルのサン金融の経営状態が、思わしくないという情報が入ってきた。
「バブル全盛の頃、社長の友人の不動産会社へ、四百億円を融資して、それが、焦げついてしまっているということです」
と、清水が、報告した。
「しかし、サン金融は、今も、営業しているんだろう?」
と、亀井がきく。
「していますが、今のままでは、倒産は、確実だそうで、それを防ぐために、関西の西日本ファイナンスと合併するのではないかといわれています。合併というより、吸収されるといった方が、正確なようですが」
「そうだとすると、九階の店に、五億円もの現金が、置いてあることは、まず、考えられなくなってくるね」
と、十津川は、いった。
「そうです。それだけの余力は、ないと思います」
と、清水は、いった。
それなら、八月一日には、サン金融は、無視して構わないかも知れない。
同じ日の夜、道警の三浦警部から、電話が、入った。
「もう一人、姿を消した人間が、わかりました。沼田章という男です」
と、三浦は、いった。
「ちょっと、待って下さい」
と、十津川は、リストに眼をやった。
「沼田章、三十五歳。沼田探偵社ですか?」
「その沼田です。札幌市内で、ひとりで、私立探偵社をやっていた男です、かなり、はやっていたようですが、いつの間にか、休業になっているのです」
「前にいわれた奥寺豊と、この沼田は、何か関係があるんですか? 友人だとか、親戚《しんせき》だとかいったようなですが」
と、十津川は、きいた。
「仕事の上での関係があったようです。奥寺は、初めて、仕事を引き受けるとき、相手の会社なり、個人なりが、信用できるかどうか、私立探偵の沼田に、調べて貰っていたようです。いわゆる信用調査ですね」
と、三浦は、いった。
「つまり、沼田にとって、建設会社をやっている奥寺は、お得意さんだったわけですね?」
「そうです」
「すると、沼田が、例の丸清に、奥寺を、招待したこともあるわけですね?」
「何回かあったようです。もちろん、丸清で食事をしたあと、すすきのに、繰り出していたようですが」
と、三浦は、いった。
すすきのでは、高級クラブで、飲んでいたらしいという。
「沼田は、どんな男ですか?」
と、十津川が、きくと、
「これから、FAXで、沼田の顔写真を送ります。それに続けて、沼田という男の横顔を書いて、送ります」
と、三浦は、いった。
しばらくして、まず、沼田章の顔写真が、FAXで、送られてきた。
続けて、次の文章も、送られてきた。
〈沼田章 三十五歳
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
身長一八五センチ、七五キロと、長身の男です。釧路で生れ、地元の高校を卒業したあと、札幌に来て、大学に入りましたが、二年で中退し、K製薬に入社しました。それは、K製薬は、道内でも、バレーが強く、そのため、高校時代、バレーの選手だった沼田が採用されたと、思われます。
彼は二年ほど、実業団のバレーボール大会に出て、活躍しています。
三十歳の時、K製薬を退社し、札幌市内で、私立探偵社を、始めました。もともと、そうした仕事が、好きだったと思われます。最初は、信用もなく、仕事が来なかったようですが、最近は、一応、仕事も順調だったようで、スポーツカーを、乗り廻していたということも聞きます。
K製薬にいた頃、一度、結婚していますが、彼が、私立探偵を始めてすぐ、離婚しています。
沼田については、物静かで、礼儀正しいという声がある反面、何を考えているのかわからない、不愛想だという声もあります。前科は、ありません〉
[#ここで字下げ終わり]
「これで、二人ですね」
と、亀井が、沼田の写真を、奥寺の写真の横に貼《は》りながら、いった。
「犯人は、二人なんでしょうか?」
と、西本が、きいた。
「わからないが、私は、もっと多いような気がしているんだよ」
と、十津川は、いった。
もちろん、二人でも、青柳みゆきは、殺せるだろうし、丸清の主人夫婦を、殺せるだろう。
だが、K・Kビルの九階にあるどこを狙《ねら》うにしても、四、五人は、必要なのではないか。
「しかし、どんな狙い方をするんでしょうか?」
と、日下が、きいた。
「まさか、アメリカ映画に出てくるギャングみたいに、車で乗りつけて、銃をぶっ放すわけじゃあるまいと、思いますがね」
と、亀井が、いった。
「ドンパチは、やらないでしょうが、五億円を奪うとすれば、車は必要ですよ」
と、西本が、いった。
「五億円の現金といえば、重さだけでも、六七、八キロは、ありますわ」
と、北条早苗刑事が、いった。
「その通りだ。重さもだが、嵩《かさ》もある。大きなケースが、五つは必要だよ。そんなものを、手に提げて逃げられないから、やはり、車が必要だね」
と、十津川はいった。
それには、車は二台、人数は、四、五人が常識では、あるまいか。
「どうも、わかりませんね」
と、若い清水が、口を挟んだ。
「何が、わからないんだ?」
と、亀井が、きいた。
「犯人の気持です。この二人が犯人だとします。自分たちが、八月一日に、K・Kビルを襲い、五億円と書類を奪うことを、青柳みゆきに知られてしまった。それで、彼女を殺し、丸清の主人夫婦も、口をふさいでしまった。そこまでは、よくわかるんです。しかし、青柳みゆきが、このことを、誰かに話してしまったことも、十分に、考えられるわけですよ。現に、メモを、封筒に入れて、彼女は、親友に渡していました」
「それで、何が、わからないんだ?」
と、亀井が、もう一度、きいた。
「警察に話してあるかも知れないのに、二人で、どうやって、K・Kビルを襲うんですかね? 二人でなくて、四人、五人でも、無理なんじゃありませんかね」
と、清水は、いった。
「連中の気持は、わからんよ」
と、亀井が、いった。
「犯人たちは、中止するんじゃありませんか?」
と、清水が、きく。
「君は、中止すると、思うのか?」
と、十津川が、きいた。
「自分たちの秘密を、青柳みゆきに、知られてしまったわけです。それなのに、最初の計画のまま、八月一日に、襲撃するとは、思えません。方法を変えたり、八月一日を、別の日にずらすんじゃないでしょうか?」
と、清水は、いった。
「そうだな、日時を、変える可能性は、あるね」
と、十津川は、肯《うなず》いた。
「私は、変更しないと、思います」
と、いったのは、早苗だった。
「その理由は?」
と、亀井が、きく。
「青柳みゆきが、札幌の丸清で、犯人たちの秘密を知ったのは、六月以前だと思うのです」
「そうだろうね」
「封筒に入っていたメモは、その時に、彼女が、聞いたか、見たかしたものですわ。その時から八月一日という日時は、決っていたわけです。二ケ月以上、前です」
「だから?」
「つまり、犯人たちにとって、八月一日というのは、特別な意味を持っていて、他の日では、いけないんじゃないでしょうか? そうだとすれば、八月一日を簡単には変更できないと思いますわ」
と、早苗は、いった。
「しかしねえ、北条君。標的と思われる四つの会社、事務所を、いくら調べても、八月一日に、関係は、出て来ないんだよ。オーナーの誕生日でもないし、創業の月日でもない。もちろん、八月一日は、ウイークデイで、休みでもないよ。なぜ、八月一日に、固執する必要があるんだろう?」
と、十津川は、きいた。
「それは、私にもわかりませんが、二ケ月以上も前に、八月一日と、決めたのには、何か、理由があったに、違いありませんわ。いつでもいいのなら、二ケ月以上もあとに決めずに、もっと、自由に、行動するんじゃないかと思います」
「だから、犯人たちは、八月一日という月日は、変更せずに、行動するというわけかね?」
と十津川は、きいた。
「はい。私は、そう思います」
早苗は、きっぱりと、いった。
「それは、どちらでもいいんじゃありませんか」
と、取りなすようにいったのは、亀井だった。
亀井は、それに、付け加えた。
「八月一日には、いろいろ意見があっても、やはり、二つのK・Kビル九階を、ガードせざるを得ないんじゃありませんか。その結果、八月一日に何もなかったら、そのあと、本当はいつ、犯人たちが、やってくるかを、考えたらいいと思いますが」
と、いった。
十津川も、微笑した。
「そうだったね。別に、悩むことはなかったんだ。八月一日に、疑問を持ったとしても、この日に、何もしないわけには、いかないからね」
と、いった。
これは、刑事の宿命みたいなものだろう。いくら疑問を感じても、一パーセントでも、可能性があれば、張り込まなければならないのだ。
アジア調査研究事務所のことで、一つ動きがあった。
所長の荒木順が、不倫行為で、訴えられていることが、わかったのである。しかも、不倫の相手が、研究事務所に資金援助してくれているスポンサーの一人、N鉄工の重役夫人だった。
告訴されたのは、三ケ月前で、当時、週刊誌の一つが、これを取りあげ、「荒木組の裏の顔」という書き方をした。
荒木は、否定したが、この重役は、証拠の電話盗聴テープを、週刊誌にのせ、告訴した。
不貞代として、荒木に、一千万円を要求して、裁判となり、まだ、判決は、おりていなかった。
これが、ひびいて、スポンサーが、次々に、手を引いているのだという。
「もともと、荒木の評判はあまり良くなかったところへ、不倫騒動で、スポンサーが、嫌気をさしてしまったようです」
と、アジア調査研究事務所を、調べていた清水が、十津川に、報告した。
「すると、今は、金に困っているということかね?」
と、十津川は、きいた。
「スポンサーは、法人、個人合せて、十何人かいるんですが、仕方なく、お愛想で、出していたわけですから、荒木が、不倫騒動なんか起こして、社会的な信用がなくなると、どんどん、手を引いてしまうわけです」
と、清水は、いった。
「残っているスポンサーの数は?」
「研究事務所の人間に聞くと、全く減っていないと主張していますが、どうやら、半分以下にはなってしまっているみたいです」
「月にどのくらいの収入が、現在あるのかね?」
と、亀井が、きいた。
「それは、教えてくれません。しかし、一番いい時で、スポンサーが、十社、二十人いて、月に三百万といっていました。今は、スポンサーが半分以下になり、手を引きかけていますから、百万も、集っていないと、思いますね」
と、清水は、いった。
「問題が起きたのは、三ケ月前、だったね?」
と、十津川は、念を押した。
「そうです」
「週刊誌にのったのも、その頃かね?」
「そうです」
「それなら、犯人たちは、当然、このニュースと、週刊誌の記事は、知っていることになる。五億円なんかとても無理だと、思っているだろう」
と、十津川は、いった。
「アジア調査研究事務所は、対象から、外しますか?」
と、亀井が、きいた。
「五億円の条件からは、外れるからね」
「その伝でいけば、新関代議士の秘書がやっている経済研究会も、外していいんじゃありませんか。新関代議士は、確かに、かつては運輸大臣もやって、金も集っていたと思いますが、今は、何の肩書きもありません。あまり、金はないように、思いますがね」
と、亀井は、いう。
「しかし、保守党内部では、いぜんとして、強い影響力を、持っているんじゃないのか? 政界再編とか、新党結成の話題が出ると、必ずといっていいほど、新関代議士の名前が、出てくるからね」
と、十津川は、いった。
「では、経済研究会は、外さないようにしましょう。となると、犯人たちが狙うと思われるのは、西新宿のK・Kビルにある原田興業と、麹町のK・Kビルの経済研究会の二つに、しぼられますね」
と、亀井は、いった。
道警の三浦警部からは、その後、情報が、入らなくなっている。
奥寺豊と、沼田章以外に、容疑者はいないのだろうか?
それとも、見つからないだけなのか。
十津川は、どうしても、犯人は四、五人いるという考えを、捨て切れない。守る側としては、相手が二人と四人では、全く、ガードの方法が、違ってしまうからだった。
「今のままでも、犯人は、四人から五人と見て、対応を考えることにする」
と、十津川は、部下の刑事たちに、いい聞かせた。
一番怖いのは、相手を、二人だけと考えて、油断することだったからである。
前日の七月三十一日。十津川は、こちらから、三浦警部に電話をかけた。
「その後、消えた人物は、見つかりませんか?」
「残念ながら、見つかりません。あの二人以外は、全員、札幌にいるようです」
と、三浦は、いった。
では、犯人たちは、二人だけなのか。それとも、八月一日になって、急遽《きゆうきよ》、札幌から上京してくるのか?
電話を切ってから、十津川は、壁にかかるカレンダーに眼をやり、
(明日なのだ)
と、自分に、いい聞かせた。
[#改ページ]
第四章 計画実行
八月一日、小雨。
朝から、十津川は、二つのビルに、部下の刑事たちを、張り込ませた。
今年は冷夏で、やたらに、雨が多い。すでに、梅雨《つゆ》は明けた筈《はず》なのに、今日も、小雨が降っている。
西新宿のK・Kビルに、四人、麹町K・Kビルにも、四人である。
十津川と、亀井は、覆面パトカーに乗って、西新宿のK・Kビルの前に張り込んだ。他に、西本と、北条早苗の二人が、ビルの中に、もぐり込んだ。
麹町のK・Kビルに張り込んだのは、日下、清水、田中、三田村の四人の刑事である。どちらにも、覆面パトカーを配置し、無線電話を使って、連絡を取り合うことにした。
西新宿K・Kビルの九階にあるサン金融と、原田興業は、揃《そろ》って、午前九時に、オープンした。
麹町K・Kビルの方は、少しおくれて、午前十時に、アジア調査研究事務所に、所員が一人やって来て、事務所の扉を開けた。
経済研究会が、開いたのは、午前十一時近くなってからである。
「問題は、麹町の方ですね」
と、亀井が、いった。
「なぜだい? カメさん」
と、車の中から、K・Kビルを見すえるようにして、十津川が、きいた。
「ここのサン金融と、原田興業も、社長が、来なくても、多分、金庫には、大金が入っているでしょうから、いつでも、襲うチャンスは、あるわけです。しかし、アジア調査研究事務所と経済研究会の二つは、この事務所と、研究会に、集金力があるわけではなく、責任者の荒木順と、新関肇――森口昭に、集金力があるわけでしょう。ですから、向うは、責任者が、今日、姿を現わす必要があるんじゃありませんか」
と、亀井が、いった。
「すると、麹町の方は、責任者が現われなければ、事件は、起きないということかね?」
「そうです。大金の入った金庫があったとしても、責任者しか、開け方を知らないんじゃないかと思うのです」
と、亀井は、いった。
昼を過ぎると、その麹町のK・Kビルの方も、切迫してきた。
責任者が、相次いで、姿を見せたからだった。
午後一時に、アジア調査研究事務所に、荒木順が現われ、その二十分後に、経済研究会の方に、新関肇、森口昭の二人が、姿を見せたからである。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――どうやら、どちらも、八月一日の今日、ビルの中で、会が開かれるようです。アジア調査研究事務所の方では、アジアハイウェイを、一ケ月かけて走破したフリーライターの平山明を呼んで、話を聞くことになっているそうですし、経済研究所の方は、若手の代議士を集めて、新関が、話をするそうです。現在の不況を、どう乗り切るかについてだそうです。
[#ここで字下げ終わり]
と、日下刑事は、無線電話を使って、知らせてきた。
「何時からだ?」
と、十津川は、きいた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――どちらも、午後三時からです。
[#ここで字下げ終わり]
「経済研究会の方は、どんな代議士が、集まるんだ?」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――新関と同じ保守党内の若手だと思いますが。
[#ここで字下げ終わり]
「どのくらいの人数が集まるんだ?」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――わかりませんが、十五、六人は、集まるだろうということです。
[#ここで字下げ終わり]
「研究会は、何人集まっても、金には関係ないな。若手の代議士が、何百万もの金を持って、新関肇の話を聞きに来るわけじゃないだろう?」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――そうですね。第一、政局不安定な今、若手が、新関の話を聞きに、沢山集まるとも、思えません。
[#ここで字下げ終わり]
「確かに、そうだが、八月一日に集まるということが引っかかる。十分に、気をつけてくれ」
と、十津川は、いった。
午後二時を過ぎたが、こちらのK・Kビル九階には、何も起きない。
サン金融には、ぽつん、ぽつんと、客が現われている。
原田興業は忙しそうだ。社長の原田圭一郎が、午後一時に、ロールスロイスで現われたが、午後二時を過ぎると、帰ってしまった。
麹町のK・Kビルの方も、異常はないという。もっとも、こちらは、午後三時に、会合があるというから、それまで事件は起きないだろう。
十津川は、刑事たちに、交代で、昼食をとるように、指示しておいた。
十津川自身は、この時間になって、亀井と、パトカーの中で、パンと牛乳で、おそい昼食をとった。
小雨が、相変らず、降り続いている。
「今のところ、何も起きそうもありませんね」
亀井は、不満気な顔をした。
「そうだね」
「三時になると、向うでは、会合があるわけですが、五億円が集まりそうもありませんね。アジア調査研究事務所の方では、講演に、フリーライターを呼べば、逆に、講演料を払わなきゃいけないんでしょうし、経済研究会の方は、若手の代議士が呼ばれているんだから、これも、金が集まりそうもありませんからね。どちらも――」
「ちょっと、待ちたまえ」
と、突然、十津川が、亀井の言葉をさえぎった。
「どうされたんですか?」
亀井が、十津川を見た。
「何か引っかかるんだ。確か、二、三日前の新聞で、読んだことでね」
と、十津川は、いった。
「今度の事件に、関係があるんですか?」
「その時は、別に、関係があるとは、思わなかったんだがね」
「こちらのビルに関係のあることですか? それとも、麹町のK・Kビルの方ですか?」
「向うのビルだ。経済研究会の新関肇について、記事が出ていたんだよ」
と、十津川は、いった。
「どんな記事ですか?」
「今、政界再編ばやりだろう。新関も、それにのって、動くんじゃないかという話さ。小さく、政界便りのところに、のっていた」
「それは、新関肇だけじゃなく、いろんな政治家が、動いていますよ。小島未知男も、新党を作るらしいという噂《うわさ》が流れているようですし、今、政界再編を叫ばない政治家は、いないんじゃありませんか?」
と、亀井は、いった。
「その通りさ。だから、別に、気に止めなかったんだよ。右から左まで、新党ばやりだからね、やたらに、アドバルーンをあげている」
「そうです」
「だが、今日、新関肇の経済研究会に、若手代議士が、集まるという」
「ええ。不況の克服について、新関が、話すわけでしょう?」
「表向き、そうなっているみたいだ」
「表向きですか?」
「ええ。新関は、大臣経験があるといっても、いわゆる経済関係の大臣じゃない。建設だ」
「そうです」
「と、すると、今日の会合は、新党結成への準備じゃないだろうか?」
と、十津川は、いった。
「なるほど。あり得ますね。しかし、それと、今度の事件が、どう関係してきますか?」
と、亀井が、きいた。
「新党結成に必要なのは、まず、金だよ。軍資金だ。金が無ければ、人は集まらない」
と、十津川は、いった。
亀井の眼が、輝いた。
「そうですね。軍資金ですね」
「経済研究会には、建設会社の人間が、ボストンバッグを持って、出入りしていたという噂がある」
「その通りです」
「最近、ゼネコン問題が起きているから、今はないだろうが、新関の手元に、大金が集まっている可能性がある。それを、隠していたら、特捜に摘発され、逮捕される危険が出てきた。それを、新党結成に使ってしまえば、人も集まるし、特捜の摘発を受けても平気だ。政治資金だったということになるからね」
と、十津川は、いった。
「麹町へ行きましょう。その線が、十分に考えられますよ」
と、亀井は、興奮した口調で、いった。
十津川は、麹町にいる四人に連絡をとり、田中と、三田村の二人と、交代することにした。
麹町K・Kビル九階の経済研究会が、標的らしいとなっても、こちらのビルが狙《ねら》われる可能性が、ゼロになったわけではなかったからである。
二時五十分には、交代が、終了した。
いぜんとして、どちらのK・Kビルでも、事件は起きていない。
降り続いていた雨は、ようやく、あがったが、どんよりした天候は、そのままである。
麹町のK・Kビルには、車が、一台、二台と、やって来て、保守党の若手代議士が、降り、エレベーターで、九階に、あがって行く。
「札幌の連中が、まぎれ込んで、九階の経済研究会を襲うかも知れないから、注意しろ」
と、十津川は、ビルの中にいる日下と、清水の二人の刑事に、注意した。
三時を過ぎて、三時二十分頃までに、若手の代議士十八名が、集まった。
経済研究会の扉は、かたく閉められて、中で、どんな話がされているのか、外からは、窺《うかが》えなかった。
同じ階のアジア調査研究事務所では、フリーライターの平山明が、やって来て、午後三時から、アジアの現況について、講演を始めた。こちらの方は、オープンで、希望者は、無料で、中に入り、講演を聞けるようになっている。西新宿のK・Kビルの方も、午後三時を過ぎたが、何も、起きなかった。
「われわれが、張り込んでいるのに気付いて、連中は、犯行を、中止したんじゃありませんか?」
と、亀井が、いう。
「まだ、三時を廻《まわ》ったばかりだよ。八月一日は、あと、九時間近くあるんだ」
十津川は、油断をいましめるように、強い調子でいった。
午後四時七分。
T新聞の車が、やって来て、カメラマンと、記者が、九階に、あがって行った。新関が、新党結成に動くらしいという噂を聞いて、駈《か》けつけたのだろう。
しかし、経済研究会の中には入れず、追い払われ、文句をいいながら、帰って行った。
十津川は、念のために、その車のナンバーを控えておき、T新聞社に問い合せてみたが、間違いなく、この新聞社の車だった。
午後五時になって、西新宿のK・Kビルでは、サン金融も、原田興業も、扉を閉めた。入口の鎧戸《よろいど》が下され、社員は、帰ってしまう。
その直前に、西本たちは、サン金融と、原田興業の責任者に会って、社内に、どのくらいの金が、残っているかを、聞いた。
サン金融の方は、金庫に、六百二十万円の現金が入っているといい、原田興業の方は、原則として現金は、置かないことになっているという返事だった。
どちらも、五億円などという大金は、置いてないのだ。
もちろん、サン金融の六百二十万円を狙うかも知れないし、原田興業の金庫に入っている帳簿を狙うことも考えられたから、十津川は、西本たちに、午前十二時まで、張り込みを、続けるように、指示しておいた。
だが、西新宿のK・Kビルの線は、無くなったとも、思っていた。
連中は、すでに、三人の人間を、殺しているのである。
それまでして、秘密を守ろうとしている人間たちが、六百二十万円を奪うために、サン金融の鎧戸を打ち破り、金庫を、叩《たた》きこわしたりするだろうか?
また、原田興業に忍び込み、金になるかどうかわからない帳簿を、盗み出すだろうか?
「両方とも、ちょっと、考えられませんね」
と、亀井は、いった。
「同感だね」
「第一、八月一日でなければ出来ないことじゃありません。サン金融についていえば、月初めより、月末の方が、金庫に、大金が入っている筈です」
「カメさんのいう通りだよ。サン金融と、原田興業の線は、考えられなくなったね」
と、十津川は、いった。
と、なれば、麹町K・Kビルのアジア調査研究事務所か、経済研究会のいずれかが、標的となっているのだろうか?
十津川は、西新宿から、田中、三田村の二人の刑事に、こちらに廻るように、指示した。
午後五時半になって、アジア調査研究事務所の方は、平山明の講演が終って、入場者が、ビルを出て来た。
主催者の荒木順は、タクシーを呼び、お礼をかねて、平山を赤坂の料亭に招待して、夕食をするといって、出かけて行った。
十津川は、念を入れて、西新宿から廻って来た田中と、三田村の二人に、その赤坂の料亭に行くように、命じた。
経済研究会の方は、いぜんとして、扉が、かたく閉じられたままである。
恐らく、新党結成について、白熱した論議が、続けられているのだろう。
「まさか、中で、不測の事態が、起きているんじゃないでしょうね」
と、亀井は、半分、冗談で、いった。
「その点は、大丈夫だ。入った人間は、全《すべ》て、チェックした。十八人は、全員、保守党の若手代議士だ。それと、今、あの事務所の中で、現金強奪が行われているとしても、犯人は、逃げられないよ。九階だと、他の事務所はないし、エレベーターと、階段は、日下と、清水の二人で、おさえているからね」
と、十津川は、いった。
十津川は、さまざまなケースを、考えてみた。経済研究会の職員の中に、犯人がいる場合もである。その人間が、札幌の仲間と、しめし合せて、五億円を強奪することになるだろう。
だが、十津川たちの視界の中に、奥寺豊、沼田章の二人の姿は、入って来ないのである。五億円もの大金を、たとえ、奪ったとしても、外に仲間がいなくては、持って、逃げることは、出来ないだろう。
その上、今、事務所には、若手の代議士が十八名もいる。いずれも、三十代から四十代で、中には、柔道や、空手の有段者もいるのだ。彼等を相手に、現金強奪をするのは、難しいだろう。
それでも、亀井が、不安に思い、公衆電話を、使って、経済研究会に、電話をかけてみた。内部で、不測の事態が起きてないかを、心配してである。
若い事務職員が、電話に出た。
「新関先生にお会いしたいのですが、そちらに伺って、構いませんか? 後援会の者ですが」
と、亀井が、いうと、相手は、落ち着いた声で、
「先生は、今、会議中ですので、明日にでももう一度、お電話下さい」
と、いった。
どうやら、中では、事件は起きていないらしい。
十津川は、パトカーの中で、警察手帳を広げた。
サン金融社長の島原研一など、四人の社長、責任者の略歴が、書いてある。大いそぎで調べたものだった。
経済研究会の新関肇の略歴を、改めて、読んでみた。
年齢六十歳。政治家にしては、若い方なのだろう。
市会議員から、三十五歳で、衆議院選挙に初当選。
以後、二十五年間の代議士生活である。その間、建設大臣、政調会長などの椅子《いす》についている。
妻保子五十四歳。長男功(三十二歳)は結婚し、現在、S工業の管理課長、長女美香(二十六歳)は、会社員と結婚、次女綾(二十一歳)は、現在R大四年。
別に、驚くような経歴ではない。政治家としては、普通の経歴だろう。家族構成も、平凡といえる。
六時五分。経済研究会の扉が開いて、若手の代議士たちが、出て来た。
どの顔も、紅潮している感じだった。それは、多分、新党結成の話し合いが持たれたからだろう。
事務所の職員も、出て来た。が、なぜか、新関肇と、秘書の森口は、出て来なかった。
若手の代議士たちは、待たせてあった車か、タクシーで、帰って行った。
だが、七時になっても、経済研究会の部屋は、明りがついたままである。いぜんとして、新関も、森口も、部屋から、出て来ない。
「新党結成の話がまとまったので、二人で、今後のスケジュールを話し合っているんでしょうか?」
亀井は、パトカーの中から、九階の明りを見上げて、十津川に、いった。
「そうかも知れないが、集まった十八名の代議士は、全員、帰ってしまっているよ」
と、十津川は、いった。
「それが、おかしいですね。今後のスケジュールを話し合うなら、新党の幹部になる何人かが残って、相談する筈ですね」
「そうだよ」
「じゃあ、プライベートな話を、二人でしているんでしょうか?」
「そう考えるのが、自然なんだが――」
十津川の表情が、少し、険しくなった。何か、あるのだろうか?
「十八人の代議士の誰かに会ってみたいね」
と、十津川は、いった。
「それなら、和田代議士がいいでしょう。確か、四谷三丁目に住んでいる筈です」
と、亀井は、いい、無線電話で、問い合せた。
和田が住んでいるマンションの名前も、わかった。
「君は、ここに残って、張り込みを続けてくれ。私ひとりで、会ってくる」
と、十津川は、いった。
パトカーを降り、タクシーを拾って、四谷三丁目に急いだ。
五、六分で、四谷三丁目にある「ヴィラ四谷」に着いた。
その最上階の802号室が、三十五歳の和田代議士の住所だった。
インターホーンを押し、警視庁捜査一課の十津川ですと、名前を告げた。
ドアが開き、ワイシャツ姿の和田が、顔を出した。
十津川は、警察手帳を示した。
「ぜひ、お伺いしたいことがありまして」
「まあ、入りなさい」
と、和田はいい、部屋に招じ入れてくれた。
リビングルームの椅子をすすめながら、和田は、煙草《たばこ》に火をつけた。
「僕は、別に、警察のご厄介になるようなことはしていない積りだがね」
と、十津川に、いった。
「実は、あなたのことではなく、新関先生のことなんです」
「そう。新関先生のね」
「今日、あの先生の経済研究会に、出席されていましたね」
「ああ。出ていたが、そこで、何があったかについては、ノーコメントだ」
と、和田は、いった。
「そのことは、お聞きしませんが、なぜ、八月一日の今日、会を持たれたんでしょうね?」
と、十津川は、きいた。
「どういう意味だね?」
「八月一日に、何か意味があるのかと、思いまして」
「新関先生にいわせると、八月一日は、縁起がいいんだそうだ」
「なぜ、縁起がいいんですか?」
と、十津川が、きくと、和田は、微笑して、
「先生に、大学へ行っている娘さんがいてね。名前は、確か、綾さんだ。先生が、可愛《かわい》くて仕方がないんだよ、この娘さんが。八月一日は、この娘さんの誕生日なんだよ。だから、縁起がいいと、思われているんだね」
「娘さんの誕生日ですか」
「ああ、そうだ。僕も、二、三度、会ったことがあるが、美人で、優しい人でね。新関先生が、眼《め》の中にいれても痛くないみたいにいうのも、もっともだと思うよ」
と、和田は、いった。
「今日、新関先生に、何かおかしなところは、ありませんでしたか?」
「いや、別に、なかったよ。いつもの通りの新関先生だったがね」
「八月一日が、娘さんの誕生日だということで、何かありませんでしたか?」
と、十津川は、質問を変えてみた。
「そうねえ」
と、和田は、考えていたが、
「電話がかかって来てね、先生があわてた様子で、娘の誕生パーティに出なきゃならないといわれたんだよ。その時は、話し合いは、もうほとんど終っていたので、僕たちは、失礼したんだ」
「つまり、新関先生は娘さんの誕生パーティを忘れていたということですか?」
「そうだろうね。あわてて、綾さんの誕生パーティに、行かれたんだと、思うよ」
と、和田は、笑顔で、いった。
(おかしいな)
と、十津川は、思った。
若手の代議士たちが帰ったあと、新関は、秘書の森口と、あの部屋に、籠《こも》ったままである。
もし、娘の誕生パーティを忘れていて、あわてているのなら、すぐ、自宅へ帰る筈ではないか。
まさか、あの殺風景な経済研究会の事務所で、可愛い娘の誕生パーティをしようというのでは、あるまい。
十津川は、礼をいって、和田のマンションを出ると、麹町に戻った。
待っていた亀井に、パトカーの中に、もぐり込んでから、
「どんな具合だ?」
と、きいた。
「相変らず、新関も、秘書の森口も、出て来ません」
「おかしいな。今日、八月一日は、娘の綾という大学生の誕生日だそうだ」
と、十津川は、話した。
「それなら、一刻も早く、帰宅するんでしょうにね」
亀井も、首をかしげた。
「どういうことなんだろう?」
と、呟《つぶや》き、十津川は、考え込んでしまった。
今日八月一日が、新関の娘の誕生日ということだけなら、別に、問題はない。
だが、三人の男女を殺した連中の狙いが、あの事務所で、八月一日だとすれば、見過ごすことは、出来ない。
「札幌で、連中が、丸清で、問題の話し合いをしていたのは、かなり前のことだよ」
と、十津川は、声に出して、いった。
「そうですね。かなり前です」
「その頃は、政界再編が、声高に、叫ばれていたわけじゃない。だから、その頃から、八月一日に、新関が、今日の会合を持つことを、計画していたとは、思えないんだ」
と、十津川は、いった。
「ゼネコン疑惑もありませんでしたから、新関は、建設業界から集めた金を、あわてて、使う必要もなかった筈です」
と、亀井も、いう。
「そうだとすると、殺された青柳みゆきのメモにあった八月一日というのは、今日の会合のことじゃないことになる」
「新関の娘の誕生日ということですね」
「そうだよ。誕生日は、変らないからね」
「メモには、あと、K・Kビル九階、五〇〇、〇〇〇、〇〇〇、書類etc、J・Sに連絡と、書かれてあったわけですね」
と、亀井が、いった。
「J・Sが何者かわからないが、あとは、あの経済研究会に、大金と、大切な書類が、隠されているということだろう」
「五億円は、必ずあると?」
「ああ。そうだ」
と、肯《うなず》いてから、
「八月一日の新関綾の誕生日と、五億円が隠されているあの事務所が、判じ物みたいだが、どう結び付くんだろう?」
「一つだけ、考えられることが、ありますよ」
と、亀井が、ひどく、真剣な眼つきになって、十津川を、見た。
「誘拐か?」
と、十津川が、いった。
「そうです。身代金五億円です」
「しかし、なぜ、八月一日なんだ?」
と、十津川は、また、考えてしまった。
「そうですね。誕生パーティを、考えても、新関の娘なら、盛大なパーティになるでしょう。そんな場所での誘拐は、かえって、難しいですよ」
と、亀井は、いった。
「だが、八月一日は、娘の誕生日で、五億円は、あの事務所に隠してあると思われる金以外に、考えようがないよ」
と、十津川は、いった。
「大学生でしたね」
「R大の四年生だ」
「今、大学は、夏休みですね」
「そうだ。夏休みなんだ。彼女は、いつも、夏休みに、誕生日を、迎えるわけか」
「問題は、何処《どこ》で、誕生日を迎えるかですね」
「そうか」
と、十津川は、大きく、肯いた。
「新関のことだから、どこかに、別荘を持っていて、娘の誕生日は、いつも、そこで、迎えるのかも知れないな」
「そうですよ。父親の新関は、政治家で忙しいから、娘だけが、ひとりで、先に、別荘に、行ってるんじゃありませんか。父親の新関と、母親は、今日の夕方あたりに、別荘へ行って、一緒に、娘の誕生パーティをやることになっているんじゃないですか。毎年、そういうやり方をしているんなら、娘を、誘拐するのは簡単かも知れませんよ。八月一日には、娘は、必ず、別荘にいることは、わかっているんですから」
と、亀井は、まくしたてるように、いった。
「新関の別荘は、どこにあるんだろう?」
「彼は、衆議院議員でしたね?」
「そうだよ」
「それなら、衆院事務局に聞けば、わかるかも知れません」
と、亀井は、いい、パトカーから降りて、電話をかけに行ったが、戻ってくると、手帳を見ながら、
「わかりました、奥湯河原です」
と、いった。
「行ってみるか?」
「行ってみましょう」
と、亀井が、応じた。
十津川は、西本たちに、張り込みを続けるようにいっておいて、東京駅に向った。
新幹線を、熱海で降りたのは、午後八時過ぎである。ここからは、タクシーを拾って、奥湯河原に、急いだ。
相模湾《さがみわん》沿いの道路を、しばらく走ってから、芦《あし》ノ湖《こ》に向う道に入る。
湯河原温泉の旅館街を抜け、藤木川に沿って、曲りくねった道を登ると、周囲は、深い山間《やまあい》になっている。
藤木川は、美しい渓流になって、谷も深くなった。
ぽつん、ぽつんと、旅館が見えて来た。そこが、奥湯河原の温泉街だった。
新関の別荘は、その温泉街から、少し離れた、山の中腹にあった。
一面の緑の中に、和風の別荘が、ひっそりと、建っている。オレンジ色の瓦《かわら》屋根は、昼間なら、さぞ、鮮やかに見えるだろうと、思った。
家の中に、灯はついているが、門はかたく閉ざされ、十津川たちが、インターホーンを鳴らしても、応答が、ない。
十津川と、亀井が、交代で、しつこく鳴らすと、やっと、女の声で、
「どなたでしょうか?」
と、聞こえた。
「綾さんに、用があって参ったんですが、こちらに、いらっしゃるんでしょうか?」
十津川は、努めて、丁寧に、きいた。
「娘は、病気で、寝ておりますけど」
と、相手が、低い声で、いった。
「失礼ですが、お母さんですか?」
「はい」
「何とか、綾さんと、話が出来ませんか?」
「娘は、気分が悪くて、今は、どなたとも、会いたくないといっておりますので、申しわけございません。あとで、娘に伝えますので、お名前を、おっしゃって頂けませんか?」
と、相手が、きいた。
母親なら、保子だろうと、思いながら、十津川は、
「十津川と、申します」
と、自分の名前を、告げた。
「娘とは、どういう関係の方でしょうか?」
と、保子が、きく。
「それは、綾さんが、よくご存知の筈ですが」
十津川は、ちょっと、意地の悪いいい方をした。
一瞬、相手は、黙ってしまった。
ふいに、家の中で、足音が聞こえ、門が開いて、三十二、三歳の背の高い男が、姿を見せた。
険しい眼で、十津川と、亀井を見た。
「失礼だが、どういうお方ですか?」
と、その男は、きいた。
顔立ちが、新関代議士に、よく似ているところを見ると、S工業の管理課長をやっている長男の功に違いない。
十津川は、亀井と、顔を見合せてから、警察手帳を示した。
男の顔色が、変った。
「警察の方が、何のご用ですか?」
と、切口上で、きいた。
「それは、綾さんにお会いして、直接、申しあげたいと思います」
十津川は、わざと、頑固に、いった。
「母もいいましたが、妹は病気で、今、人に会える状態ではありませんので、兄の私が、うけたまわっておきます。必ず、伝えますので、おっしゃって下さい」
と、兄の功も、頑固に、いう。
「そんなに、お悪いんですか?」
「大変な熱ですので――」
「そうですか。それでは、お会いするのは、諦《あきら》めて、失礼することにします」
と、十津川は、いった。
功は、ほっとした表情になった。
「わざわざ、おいで下さったのに、申しわけありません」
と、頭を下げた。
十津川と、亀井は、暗い道を、奥湯河原温泉の街に向って、歩き出した。
「今日は、ここに、泊ろう」
と、歩きながら、十津川が、いった。
「娘が、熱を出しているので、会えないというのは嘘《うそ》ですね」
と、亀井が、いった。
「多分ね。だが、確認のしようがない」
と、十津川は、いった。
新関の別荘に近いT旅館に、泊ることにした。
幸い、部屋は、あるという。二階の部屋に案内された。窓を開けると、すぐ下に、藤木川が流れ、その向うの山の中腹に、新関の別荘の灯が見える。
茶菓子を運んで来た中年のお手伝いに、十津川は、心付けを渡してから、
「あれは、新関さんの別荘だね?」
と、指さした。
地元の生れだというお手伝いは、
「ええ。偉い先生の別荘ですよ。あそこへ通じる道も、新関先生が、自分のお金で、お造りになったんです」
「いつだったか、きれいなお嬢さんを見かけたんだが、あれは、新関さんの娘さんかね?」
「綾さんでしょう。大学の四年生だと、聞いてますけどね」
「女子大生か」
「ええ。夏休みになると、よく、あの別荘に、おいでになるんです。偉い先生の娘さんなのに、道で会うと、きちんと、あいさつなさいますよ」
「そういう娘さんなら、明日にでも、もう一度、会いたいね」
と、十津川がいうと、お手伝いは、笑って、
「それなら、明日の朝、あの別荘の近くにおいでになれば、綾さんに、会えますよ」
「どうして?」
「ここにいらっしゃる時は、朝早く、この近くを、ジョギングなさる習慣だから」
と、お手伝いは、いった。
「今朝も、ジョギングなさったんだろうか?」
「ええ。ここの若い板前さんが、今朝、会ったって、いってましたから」
「板前さんがね」
「その板前さんですけどね」
と、お手伝いは、急に、声をひそめた。
「どうも、綾さんに、惚《ほ》れてるらしくて、綾さんが、別荘に来たとわかると、柄にもなく、朝早く、ジョギングに、出かけるんですよ」
「それで、今朝も、彼女と、一緒に、ジョギングしたわけだね?」
と、亀井が、いった。
「途中まででしょうけどね」
と、お手伝いが、笑った。
「どうして、途中までなの?」
「板前さんは、太っていて、もともと、ジョギングは、苦手なんですよ。だから、一緒に走ったって、綾さんに、たちまち、置いてきぼりになっちゃいますよ。今日だって、情けないって、ぼやいてましたから」
と、お手伝いは、いった。
「今朝、その板前さんは、綾さんに、会ったんだね?」
と、十津川は、念を押した。
「ええ。二百メートルばかり、一緒に走って、そのあと、置いてきぼりになったって、いってましたわ」
「今日八月一日は、彼女のお誕生日だと、聞いたことがあるんだが」
と、十津川が、いうと、
「そうなんですよ。今日でしたわ。去年は、うちで、料理を作って、持って行ったんです」
「どうして?」
「いつも、身内だけで、お祝いするそうなんですよ。その日のお料理は、お母さんが、作ることになっているというんですけど、去年は、お母さんが八月一日に怪我《けが》をなさったので、急に、うちに、頼みに、いらっしゃったんです」
「じゃあ、今日は、お母さんが、料理を、作っているのかね?」
「でしょうねえ。この時間だと、もう、パーティは、終ってるんじゃないかしら」
と、お手伝いは、いう。
「綾さんには、きょうだいがいると、聞いたんだが」
と、十津川が、いうと、お手伝いは、
「ええ。確か、お兄さんと、お姉さんが、いらっしゃるみたいですよ」
「その人たちも、八月一日には、あの別荘に、集まるんだろうか?」
「さあ、皆さん、忙しいみたいだから、電話で、おめでとうというだけみたいですよ」
と、お手伝いは、いった。
「ここの板前さんだけど、会えないかね?」
と、十津川が、いった。
「呼びましょうか? まだ、いると、思いますから」
「そうしてくれると、ありがたいね」
と、十津川は、いった。
五、六分して、岩田進という若い板前が、部屋に来てくれた。なるほど、でっぷりと、太っていて、足は、遅いだろうと、十津川は思いながら、
「今朝、新関さんの娘さんと一緒に、ジョギングしたんだってね」
と、声をかけた。
岩田は、人の好さそうな顔で、
「二百メートル足らずだけですけどね。いつも、こっちが足が遅いんで、置いてかれちまうんですよ」
と、いう。
「その時の彼女の様子は、どうだったね?」
と、亀井が、きいた。
岩田は、眉《まゆ》をひそめて、
「お客さん方は、どういう方なんですか?」
と、きいた。
「新関さんの友だちでね。今日が、娘さんの誕生日だと聞いたんで、さっき、あの別荘を訪ねて、お祝いをいおうと思ったんだよ。そしたら、お母さんが出て来て、綾さんは、病気だといわれたんだ」
と、十津川は、いった。
「そうだ。今日は、彼女の誕生日でしたねえ」
と、岩田は、ひとりで、合点してから、
「おかしいなあ。僕と一緒に、ジョギングした時は、ずいぶん、元気だったのに」
と、いった。
「本当に、元気だったの?」
「そうですよ。血色も良かったし、眼が輝いていましたよ」
「彼女が、何かに怯《おび》えていたということはなかったかね?」
と、亀井が、きいた。
「そんなことは、ありませんでしたよ。第一、何に怯えるんです?」
岩田は、逆に、きき返した。
「いや、急に、病気になってしまったというんでね」
と、亀井が、いうと、岩田は、ニヤッと笑って、
「それはきっと、お二人が、怪しいと思って、向うが、警戒して、病気だって、嘘をつかれたんですよ。体よく、追い払われたんじゃないんですか?」
「われわれは、そんなに、人相がよくないかね?」
「そうですねえ。ちょっと、怖い眼つきをしてますよ」
と、岩田は、いった。
「そうかね。これからは、せいぜい気をつけて、優しい眼をするようにしよう」
と、十津川は、笑った。
岩田は、あわてて、
「冗談ですよ。でも、綾さんが病気だなんて、信じられませんね。今朝は、あんなに、元気だったんだから」
「彼女は、いつも、同じ時間に、朝のジョギングをするのかな?」
と、十津川は、きいた。
「そうです。だいたい、朝の六時頃ですね。今頃なら、もう十分に明るいから」
「今朝も、その頃だったのかね?」
「ええ。僕は、五時半に出て、その別荘の前で、待ってたんです」
「六時頃というと、人通りは、どうなんだろう?」
「この辺は、ほとんど、人通りなんかありませんよ。たまに、朝早く、渓流釣りに来る人を見かけるくらいでね」
と、岩田は、いう。
「彼女が、ジョギングするコースは、決っているの?」
「ええ。決ってますよ。だから、途中で待っていて一緒に走ることもありますよ。ただ、どこで一緒になっても、すぐ、置いてかれちゃいますけどね」
と、岩田は、笑った。
岩田は、奥湯河原周辺の地図を持って来て、新関綾が、朝ジョギングするコースを、サインペンで、描いてくれた。
全長三キロくらいだろうか。藤木川の渓流に沿った道を、往復するらしい。
「今朝、君は、あの別荘の前で待っていて、一緒に、走り出したんだね。だが、すぐ、置いてかれてしまった?」
十津川は、地図を見ながら、いった。
「そうですよ」
「そのあとは?」
「適当に、走って、ここへ来ました。仕事があるんでね」
「じゃあ、彼女が、そのコースを走って、別荘に戻るところは、見ていないんだ?」
「当り前でしょう。それが、どうかしたんですか?」
「今朝、君が、彼女と一緒に走った範囲で、怪しい人間を見かけなかったかね?」
と、十津川は、きいた。
「そんな人は、見かけませんでしたよ」
「去年も、彼女は、夏休みに、あの別荘に来ていたんだね?」
「ええ。夏休み全部ということじゃなくて、八月一日の誕生日の前後ですけどね」
「去年も、その間、朝のジョギングを、毎日していたのかね?」
「してましたよ。身体を動かすのが、好きだって、いってました」
「じゃあ、彼女の朝のジョギングは、この辺りでは、有名なんだろうね」
「有名かどうかは知りませんが、何人かは、知ってると思いますよ。何しろ、美人のお嬢さんだから」
と、岩田は、いった。
岩田という若い板前が、いなくなったあと、東京の捜査本部に電話をかけ、T旅館の電話番号を、伝えておいた。
午後十一時近くに、西本刑事から、電話が入った。
「今、麹町のK・Kビルの近くから、掛けています」
と、西本は、いう。
「じゃあ、新関と、秘書の森口は、九階の経済研究会の事務所にいるのか?」
「そうなんです。今日は、あそこで、二人は、徹夜の感じですよ」
「そうか。徹夜か」
「そちらで、何か見つかったんですか?」
「はっきりしたら、話すよ。今は、何が起きているのか、まだ、不明だ」
と、十津川は、いった。
不明といったのは、証拠が無いということで、何が起きているのか、想像は、ついている。
多分、今朝早く、別荘の周囲をジョギングしていた新関綾は、何者かに、連れ去られたのだ。
そして、犯人は、東京麹町のK・Kビル九階の事務所にいた父親の新関に電話をかけ、身代金を要求した。
新関は、あわてて、集まっていた十八人の若手の代議士たちを帰し、犯人からの次の連絡を、あの事務所で、秘書の森口と一緒に、待っているのだろう。犯人が、事務所で、次の連絡を待てと、いったのかも知れない。
「こういうことだろうね」
と、十津川は、亀井に、いった。
「私も、同じ考えです。身代金の要求額は、五億円でしょう」
と、亀井も、いった。
「当然、犯人は、警察に知らせたら、人質の娘を殺すと、脅したろうね。だから、新関は、警察に連絡しないのだろうし、別荘にいる母親は、娘は、病気だと嘘をついて、私たちを、追い払おうとしたんだろうね」
と、十津川は、いった。
「しかし、どうしますか? もう一度、別荘へ行って、警察手帳を突きつけて、本当のことを話せといっても、母親も、兄も、話さないと、思いますね」
と、亀井は、いった。
「そうだろうね。あの様子だとね」
「新関と、秘書の森口も、同じでしょうね。警察に黙って、身代金を払って、娘を取り戻そうとするんじゃありませんか」
「そうだな。協力は期待できないな。今の段階では」
と、十津川はいった。
「それでも、われわれだけで、やりますか?」
「やるより仕方がないよ。今誘拐を起こしたと思われるのは、青柳みゆきを殺した犯人と、同一人の可能性があるわけだからね。誘拐事件は起きなくても、殺人事件は、起きる筈だ」
と、十津川は、強い調子で、いった。
「確かに、そうです」
亀井も、眼を輝かせた。
殺人事件の捜査は、大っぴらに出来る。それが、十津川に与えられた任務だからだ。
だが、微妙なところもある。
殺人事件の捜査ということで、十津川たちが、新関や、彼の家族の周辺を、歩き廻ったら、綾を誘拐した犯人は、警戒し、人質を殺して、身を隠してしまうだろう。そうなると、殺人事件の捜査も、難しくなってしまうのだ。
また、綾の家族の協力も、期待できない。というより、十津川たちが、歩き廻り、調べ廻ることに、怒りをぶちまけてくるに違いない。
(それでも、勝手に、捜査を進めていいのか?)
と、十津川は、ふと、思うのだ。
犯人たちは、あの別荘を、監視しているかも知れない。
と、すれば、十津川と、亀井が、そこにやって来て、あれこれ、別荘に行って、聞いたりしたことも、犯人のアンテナに引っかかったろう。
その結果、犯人が、人質を殺して、身代金を取らずに、身をひそめてしまったら、どうなるのか?
新関たちは、十津川たちが、余計なことをしたから、娘が殺されたと、恨むだろうし、肝心の殺人事件の解決も、遠のいてしまうに違いない。
「大至急、東京に戻ろう」
と、十津川は、いった。
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第五章 暗 闇
西本と、北条早苗は、じっとK・Kビルの九階を見つめていた。
経済研究会の窓は、夜半を過ぎても、灯がついたままである。
十津川からの連絡によれば、奥湯河原の新関の別荘から、彼の娘の綾が、誘拐されたらしい。
とすれば、まだ、あの部屋に灯がついているのは、誘拐犯からの連絡を、じっと待っているのだろう。
犯人は、想像がつく。何人かのグループで、その中の二人は、すでに、名前が、わかっているのだ。
だが、この二人の行方《ゆくえ》がわからない。グループの人数も、リーダーが、何者なのかも不明である。
「あの事務所にあがって行って、いったい、どんな電話が、掛ってきたのか知りたいわ。それがわからないと、捜査も出来ないもの」
と、早苗が、いらいらを隠さずに、いった。
「同感だね。だが、新関は、否定するに決っている。十津川警部もいっていたが、娘の綾が、誘拐されたことは間違いないが、証拠はないんだ。新関が否定したら、それ以上、押せなくなる」
と、西本は、いった。
「新関は、なぜ、警察に頼まないのかしら? 自分で、対処できると思っているのかしら?」
「犯人が、警察にいえば、人質を殺すと、脅しているんだろう」
「でも、たいていは、脅かされても、警察に知らせるわ。一般の人は、一生の中《うち》に、何回も、家族を誘拐されるわけじゃないわ。一回もそんな目にあわない人が大半だから、新関だって、今回が、初めてだと思うの。つまり、誘拐に対しては、アマチュアだから、どう対処していいかわからないと思う。一般の人が、すぐ、警察に連絡するのは、誘拐にぶつかったとき、アマチュアで、どうしていいか、わからないから、プロの私たちに、対処を頼むわけでしょう? その点は、新関も、同じだと、思うんだけど」
と、早苗は、首をかしげた。
「勝手に考えれば、新関には、警察にいえない何かがあるんじゃないかな」
と、西本はいった。
「どんなことが?」
「それは、わからないが、例のメモのことを、考えるんだ。あのメモには、五億円の他に、書類エトセトラとあった。犯人の狙《ねら》いは、五億円の他に、書類エトセトラが、あるんじゃないか。その部分が、新関の弱味になっていて、娘が誘拐されたことを、警察に話せない原因になっているんじゃないかな」
と、西本は、いった。
「政治家なら、秘密の一つや二つは、持っていて、当り前ね。でも、それを隠して、警察の協力を求めることだって、出来ると思うのに」
「そうだが、犯人が、電話で、新関の隠しておきたいことを、喋《しやべ》っていて、それを、われわれに聞かれるのが困るのかも知れないよ」
と、西本は、いった。
「でも、娘さんの命が、かかっているのに、そんなことに、拘《こだ》わるかしら? 政治家だって、父親であることに変りはないんだから。何を置いても、警察に協力して、人質の娘さんを助けたいと、願うんじゃないかしら?」
早苗は、相変らず、首をかしげている。
前にも、財界の実力者の一人娘が、誘拐されたことがある。犯人は、警察に連絡すれば、娘を殺すし、お前のスキャンダルを、バクロするといって、脅した。そのスキャンダルが、バクロされれば、彼は、社長の地位を失うだろう。だが、彼は、何としてでも、娘を助けたくて、警察に連絡してきた。
だから、早苗は、首をかしげてしまうのだ。
午前二時になった。
だが、九階の窓の灯は、消えなかった。どうやら、新関と、秘書の森口は、あの事務所で、夜を明かすつもりだろう。
十津川と、亀井が、奥湯河原から、戻ってきた。
二人は、いぜんとして灯のついている経済研究会の窓を見上げてから、引き続いての監視を、西本たちに委《まか》せて、捜査本部に、帰った。
十津川は、奥湯河原でわかったことと、経済研究会の灯が、まだついていることを、捜査本部長の三上刑事部長に、報告した。
三上は、黙って聞いていたが、聞き終ると、
「新関さんの娘が、誘拐されたことは間違いないんだろうね?」
と、念を押した。
「全《すべ》ての状況証拠から考えて、新関綾は、朝のジョギング中に、誘拐されたと、確信しています」
と、十津川は、いった。
「それなら、どうしても、新関さんには、われわれ警察に、協力して貰《もら》わなきゃならん」
「しかし、協力しないと思いますね。その気なら、とっくに、連絡して来ている筈《はず》です」
「とにかく、話し合ってみる」
と、三上は、いった。
いつもなら、事なかれ主義に徹する三上が、どうしたのか、すぐ、経済研究会に電話をかけた。
だが、案の定、そのあと、ぶぜんとした顔で、
「新関さんは、娘が誘拐されたことなどないと、いっている。私が、寝呆《ねぼ》けているんじゃないかみたいないい方をされたよ」
と、十津川に、いった。
「あくまで、秘密にしたいんでしょう」
「なぜ、警察を信用してくれないのかね?」
「いろいろと、事情があるんだと、思いますが」
「しかし、こちらに、全く協力してくれないのでは、捜査の方法が、見つからないだろう? 誘拐があったのに、犯人からの電話も聞けないし、要求された身代金の受け渡し方法も、わからんからね」
と、三上は、当惑した顔で、いった。
「一応、新関代議士には、監視をつけています。新関さんか、森口秘書が動けば、報告が来ることになっています」
「それで、どうする気だね?」
「それは、柔軟に、対応するつもりでいますが」
と、十津川は、いった。
「念を押すが、本当に誘拐があったと、確信しているんだろう?」
「そうです」
「そうだとすれば、犯人は、新関さんが、警察に知らせてないか、びくびくしているに違いない。そんなところへ、君たちが、出て行ったら、人質が、殺されかねんのじゃないかね?」
と、三上は、いう。
十津川は、笑って、
「新関さんは、誘拐は起きてないと、いい張っているんですから、何も、文句はつけないんじゃありませんか?」
といった。
三上が、青い顔で、
「君い――」
「冗談です。十分に、気をつけて動きますよ」
と、十津川は、いった。
正直にいって、十津川にも、どう動いていいか、わからないのだ。
見張っていれば、新関か、秘書の森口が、身代金の引き渡しに動くだろう。
それを、尾行して、誘拐犯を逮捕し、人質になっている新関の娘を、助け出す。
ばくぜんと、そんなことしか考えていないのは、どう動くか、予測がつかないからである。
それに、あの事務所に、現金が置いてあるのかどうかも、不確かである。
犯人の要求は、五億円と、予想しているが、ひょっとして、犯人の作ったどこかの銀行の口座に、振り込めと、命令してくるかも知れない。
その場合、十津川たちには、どうすることも出来ない。新関が、そのことを、教えてくれるとは、思えなかったからである。
まだ、夜が明けない。
十津川と、亀井は、いつでも動けるように、捜査本部で、徹夜することにした。
亀井が、コーヒーをいれてくれた。
「人質の新関綾は、助かると、思いますか?」
と、亀井が、コーヒーを、かき回しながらきく。
「それは、犯人の考え方次第だろうね。何しろ、成人だ。危険な存在だと、犯人が思えば殺されてしまうだろう」
「助かって、欲しいですがね」
「犯人が、大丈夫だと思えば、身代金を受け取ったあと、釈放するだろう」
「どんな時に、犯人は、そう考えますかね?」
と、亀井が、きいた。
「そうだな」
と、十津川は、コーヒーを、一口、飲んでから、
「犯人が、グループで、警察に対抗できるような組織を持っている場合が、まず、考えられるね。人質に、顔を見られていても、平気だからだ」
「テロ組織のようにですか?」
「そうだ」
「しかし、今度の犯人は、複数でしょうが、テロ組織じゃありませんよ」
「わかってる」
「それでも、人質を釈放するケースは、考えられますか?」
「いくつか考えられるさ。人質が、家族の手許《てもと》に着くまでに、犯人たちが、海外に逃亡してしまう場合だ。その自信があれば、人質を無事に返すかも知れない」
と、十津川は、いった。
「人質の新関綾も、両親も、身代金が支払われたあと、口をつぐんでいるという確信があれば、犯人たちは、彼女を殺さないんじゃありませんか?」
と、亀井が、いった。
「その可能性が、一番、あり得るだろうね。今、誘拐が進行している最中だが、犯人たちは、新関が、警察に連絡しないと、確信を持って、動いているのかも知れない。とすれば、人質が、無事に帰される可能性もある」
「そうあって、欲しいですよ。人質が戻ってからなら、われわれは自由に、動けますからね」
と、亀井はいった。
夜が明けた。
いぜんとして、これといった、動きはない。
K・Kビルから、新関も、森口も、出てこないという。
「いらいらして来ますね。今頃、犯人から、新関に電話が入っているかも知れないのに、全く、わからないんですから」
と、亀井は、舌打ちをした。
間違いなく、誘拐は、進行し、間もなく、身代金の受け渡しが行われようとしているのだ。だが、部外者の十津川たちには、何も伝わって来ない。
午前九時を過ぎて、K・Kビルを見張っている西本たちから、無線の連絡が、入った。
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――今、銀行の車が着いて、銀行員が二人、いや、三人が、ジュラルミンのケースを、持って、ビルに入って行きました。
[#ここで字下げ終わり]
「金が届いたか」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――そうです。あのケースに、一億円ずつ入っているとすると、五つありましたから、五億円です。
[#ここで字下げ終わり]
「あとは、それを、どうやって、犯人に渡すかだな」
十津川と、亀井も、すぐ、覆面パトカーで、K・Kビルに、急行した。自分の眼《め》で、成行きを、見ていたかったからである。
二人が着いた時、M銀行の車は、もういなかった。
今、五億円が、九階の経済研究会の事務所に運び込まれ、新関は、犯人からの次の指令を、待っているところかも知れない。
「あのビルの駐車場は、地下にあったね?」
十津川は、西本にきいた。
「そうです。しかし、狭いので、部外者の車が、駐《と》められる余裕はありません。それで、銀行の車も、入口にとまって、銀行員が、ケースを持って、入って行くのが、見えたんですが」
「すると、新関の車は、今、地下の駐車場か?」
「そうです」
「それに、見張はついているのか?」
「日下刑事が、ついています。何かあれば、トランシーバーで、知らせてくる筈です」
と、西本は、いった。
午前十一時過ぎに、その日下刑事から、トランシーバーで、連絡が、入った。
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――今、新関と、森口秘書が、二人で、エレベーターを使い、いくつものバッグを、運んで来ました。車に、積み込んでいます。
[#ここで字下げ終わり]
「その車は?」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――黒のベンツです。ナンバーは、×××××――
[#ここで字下げ終わり]
「いよいよ。身代金の受け渡しだな。車には誰が乗るんだ?」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――どうやら、森口秘書が、一人で運転して行くようです。新関は、エレベーターで戻って行きます。車が、出て行きます。
[#ここで字下げ終わり]
その黒いベンツが、地下の駐車場から飛び出てきた。
田中と、三田村の二人に、覆面パトカーですぐ、尾行しろと命令した。
日下が、トランシーバーを片手に、地下駐車場から、走り出てきた。
十津川は、日下と、西本二人にも、森口のベンツを追えと、指示した。
二台のパトカーが、尾行していることになる。
あと、清水と、北条早苗のパトカーが、残っていた。彼等も、尾行に加わりたがったが、十津川は、行かせなかった。
何といっても、表向き、警察は、この誘拐事件に、ノータッチの形になっていたからである。
それに、十津川は、奇妙な異和感のようなものを感じていた。
M銀行の車が、ビルの入口にとまり、銀行員三人が、五つのジュラルミンケースを持って、入って行った。
少しばかり、堂々としすぎているのではないかと、十津川は、考え始めていたのだ。地下駐車場が、一杯だから、仕方なく、ビルの正面入口にとまったのかも知れない。
だが、新関は、この誘拐事件を、警察にも知らせず、処理しようとしている。それなら、M銀行の名前の入っていない車で、金を持って来いと、銀行にいうのではないのか? とめる場所も、正面入口ではなく、裏口にするのではないか? 十津川は、尾行している田中たちに、連絡をとった。
「どうなっている?」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――ベンツは、現在、日比谷の交叉点《こうさてん》を、左に折れ、濠端《ほりばた》を、九段に向って、走っています。
[#ここで字下げ終わり]
「犯人からの接触は、まだ、なさそうか?」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――森口が、時々、自動車電話を手にしているので、犯人が、それを使って、指示して来ているんだと思います。
[#ここで字下げ終わり]
「西本たちは、時々、交代して、尾行に、気付かれないようにしてくれ」
と、十津川は、念を押した。
その後、森口のベンツは、|千鳥ケ淵《ちどりがふち》から、半蔵門に出て、三宅坂、日比谷と、同じコースを、廻《まわ》っている。
「犯人は、そうやって、尾行がついているかどうか、探っているんでしょう」
と、亀井は、いった。
確かに、そうとしか思えない。誘拐で、身代金の授受の時、よく、犯人が使う方法だった。同じコースを、ぐるぐる走らせ、尾行の有無を調べるやつだ。
だが、十津川は、逆に、余りにも型にはまったやり方に、疑いを持った。
新関は、警察が、誘拐に気付いたことを知っている筈だった。奥湯河原の別荘から、連絡が入っているだろうし、三上部長が、電話で、新関に、聞いているからだ。
当然、警察が監視し、尾行することも、覚悟している筈だった。そして、新関は、警察に介入して貰いたくないのだ。
と、すれば、型にはまった行動は、警察に対する偽装ではないのか?
十津川は、そんな風に思ったのだ。
しかし、だからといって、尾行を、止《や》めるわけにもいかなかった。森口は、本当に、犯人の指示を受け、身代金を、運んでいるかも、知れなかったからである。
突然、森口のベンツが、とまったという連絡が田中から入った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――場所は、千鳥ケ淵近くです。道の脇《わき》にとまっている、ライトバンのすぐうしろに、とめています。
[#ここで字下げ終わり]
「どんなライトバンだ?」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――白のニッサン・ブルーバードですね。年式はわかりません。ナンバーは、練馬の××××です。
[#ここで字下げ終わり]
「すぐ持主を調べてみる。森口は、どうしている?」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――今、車から降りました。トランクを開けバッグを一つずつ、ライトバンに、積みかえています。
[#ここで字下げ終わり]
「ライトバンには、誰も乗っていないのか?」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――乗っていません。森口は、今、五つのバッグを、全部、積みかえました。ベンツの運転席に、入りました。どうしますか?
[#ここで字下げ終わり]
「君は、引き続き、ベンツを尾行しろ。ライトバンの見張りは、西本と、日下にやらせる」
と、十津川は、いった。
森口の運転するベンツは、このあと、途中で、郵便ポストにかなり大きな茶封筒を投函《とうかん》し、K・Kビルの地下駐車場に、戻った。
西本と、日下の二人は、覆面パトカーの中から、白いニッサン・ブルーバードのバンを、監視した。
ナンバーから、この車は、今朝、石神井《しやくじい》駅近くで、盗まれたものと、わかった。
一時間たち、二時間経過したが、この車を取りに来る人間は、いなかった。
それでも、西本たちは、辛抱強く、監視を続けた。
新関と、ベンツで戻った森口は、事務所に入ったままである。
午後四時、五時となり、やがて、周囲が、暗くなってきた。いぜんとして、ブルーバードのバンを、取りに現われない。
犯人は、暗くなるのを待って、身代金を、取りに来るのだろうか?
だが、時間は、空しく、過ぎて行く。
十津川は、夜中になって、監視を、清水と、北条早苗の二人に、交代させた。
十津川と、亀井は、車の中で、腕時計を、見ていた。
すでに、日が変っている。午前二時、三時、四時と、経過していく。
夜が明けてしまった。
だが、ライトバンは、そのままだった。
新関と、森口は、事務所から、動かなくなっている。
「どうしますか?」
と、亀井が、十津川の顔を見た。
「やられたかな」
と、十津川は、呟《つぶや》いた。
「何がですか?」
「カメさんだって、やられたんじゃないかと、思っているんだろう?」
「取引きは、もう、すんでしまったんじゃないかということですか?」
「そうだよ」
「その不安は、ありますが――」
亀井の表情も、冴《さ》えなかった。
「仕方がない。今、問題のライトバンは、清水と、北条刑事の二人が、監視しているんだったな?」
「そうです」
「ライトバンを、調べさせよう。もう、犯人は、現われないと、みていいだろう」
と、十津川は、決断した。
亀井が、無線で、清水と、早苗の二人に、指示を与えた。
そのまま、結果を、待った。
すぐ、無線電話に、清水の声が、飛び込んで来た。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――バッグの中は、全部、古雑誌や、古新聞です。いつの間にか、すりかえられています!
[#ここで字下げ終わり]
と、清水が、叫ぶように、いった。
やっぱりという顔で、十津川と、亀井は、眼を合せた。
「そのままにして、戻って来い」
と、十津川は、いった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――しかし、いつ、すりかえられたんでしょうか? ずっと、監視していたつもりですが。
[#ここで字下げ終わり]
「最初から、金は、入ってなかったんだよ」
と、十津川は、いまいましげに、いった。
無線電話を切ると、十津川は、亀井に向って、
「われわれも、帰ろうじゃないか。してやられたんだ」
「そうですね」
と、亀井は、いい、ハンドルを取ると、アクセルを踏んだ。
捜査本部に戻ると、急に、疲れが、出て来た。
「まあ、コーヒーでも、飲もうじゃありませんか」
と、亀井は、いい、自分で、コーヒーをいれ、十津川にも、すすめた。
「怒るに怒れないというのは、こういうことだろうね」
と、十津川は、いった。
亀井は、笑った。
「そうですね。われわれが、勝手に動いたわけですから、新関や、秘書の森口に、文句はいえません」
「M銀行が、れいれいしく、五つのジュラルミンケースを、あのビルに持ち込んだが、あの中にも、札束は、入っていなかったのかな?」
「そうでしょうね。事務所に、大量の古新聞や、古雑誌がないとすれば、あのジュラルミンケースの中に、それを入れて、持って来させたと、思いますよ」
と、亀井は、いった。
「だろうね。空っぽだったら、持ち方で、わかってしまうからね」
と、十津川は、いい、亀井のいれてくれたコーヒーを、口に運んだ。
「しかし、どうやって、新関は、犯人に、金を払ったんでしょうか?」
と、亀井が、きく。
「いろいろな方法が、考えられるが、あの銀行員に、犯人の作った口座に振り込むように、頼んだのかも知れない。その手続きのために、銀行員は、来たんじゃないかね。ただ、われわれが、監視しているのを知っていて、新関と、森口が、あんなパフォーマンスを、やったんだろう」
と、十津川は、いった。
「そうすると、犯人が、金を受け取るまでに、時間が、かかりますね」
と、亀井は、いった。
「だから、その間、人質の娘を、犯人は、帰さないだろうね」
「人質が戻るのが、遅かったら、現金を動かさず、犯人の口座に、振り込んだ証拠ということになりますね?」
「そうだ」
「新関に会って、それを聞いてみますか。もし、彼が協力してくれれば、犯人を、逮捕できます」
と、亀井が、いう。
「人質が、戻らない中は、新関は、何も話さないよ」
「M銀行は、どうですか? 脅かせば、話してくれるんじゃないですか?」
と、亀井が、いった。
「そうだな。九時を過ぎたら、当ってみよう」
と、十津川は、肯《うなず》いた。
九時を過ぎるのを待って、十津川と、亀井は、M銀行麹町支店に、出かけた。
警察手帳を見せて、支店長に、会った。
十津川は、会うなり、単刀直入に、
「昨日、新関さんの経済研究会に、ジュラルミンのケースを、五つ、運びましたね?」
と、きいた。
小柄な支店長は、かたい表情で、
「私どもが、何か不都合なことを、しましたか?」
「あのジュラルミンケースの中身は、何だったんですか?」
「古雑誌と、古新聞ですが」
「なぜ、そんなものを、運んだんですか?」
「新関先生は、古くから、おつき合いをしていますので、妙なご注文だとは、思いましたが、古雑誌と、古新聞を集めて、ジュラルミンケースに入れて、運びました」
と、支店長は、いう。
「新関さんが、そうしてくれと、いったんですか?」
「そうです。ジュラルミンケース五つに入れて、正面入口から、運んで欲しいと、電話でいわれました」
「なぜ、そんなことを頼むのか、理由も、いいましたか?」
と、十津川は、きいた。
「何も聞かずに、協力して欲しいと、いわれましたので、私の方も、黙って、ご協力したわけです」
「経済研究会に入ってから、新関さんが、ある人の口座に、振り込みを頼むと、いったんじゃありませんか? 五億円を。そして、銀行に戻って、その手続きをしたんじゃないんですか?」
と、亀井が、支店長の顔を、じっと、のぞき込むようにして、きいた。
支店長は、戸惑いの表情で、
「そんなことは、ありません。第一、私どもの支店には、失礼ですが、新関先生には、五億もの預金はして頂いては、おりません」
「いくらぐらいの預金が、あるんですか?」
「それは、申しあげられませんが、一億円前後です」
「その一億円を、誰かに、振り込むように頼まれませんでしたか?」
「いいえ。嘘《うそ》だとお思いなら、帳簿を、お見せしますよ」
と、支店長は、いった。
十津川と、亀井は、外された感じで、外に出ると、パトカーに乗った。
「どういうことなんですかね?」
と、亀井が、わからないという顔で、いった。
「他の銀行にも、預金があるということだろう。そっちの方が、大金が、預金してあるんだ。そっちの方で、身代金を払ったとしか、思えない」
と、十津川は、いった。
「しかし、新関も、森口も、動きませんでしたよ。二人が、動かなければ、M銀行以外に、大金が預金してあっても、その金を、動かせないんじゃありませんか?」
「そうなんだが――」
と、十津川は、しばらく考えていたが、
「別人の名前で、預金してあったのかも知れない。税金対策として、M銀行には、新関本人の名前で、一億円を預金して、それは、税務署にも、報告する。だが、それ以外は、別人の名前で、預金しておく。よくやる手だよ」
「しかし、そんなに信頼できる人間がいるんでしょうか?」
「多分、女だ」
と、十津川は、いった。
「新関の女ですか?」
と、亀井が、きく。
「そうだ。新関の女の名前で、大金が、どこかの銀行に、預金してあるんじゃないか。その女が、新関から、電話で指示されて、誘拐犯と接触し、五億円を、支払ったのかも知れない。麹町で、もっともらしいパフォーマンスが、繰り広げられている間にだよ」
と、十津川は、いった。
「ちょっと、待って下さい」
「何だい? カメさん」
「殺された青柳みゆきのメモにあった名前です」
「それなら、私も、今、思い出していたんだ。確か、J・Sに連絡――だったね」
と、十津川が、いった。
J・Sが、人名のイニシャルだとしたら、どんな名前が、考えられるだろうか?
二人は、J・Sを、女の名前として、考えてみた。
Sの方は、沢山ある。鈴木、佐藤、佐伯、千野、と、いろいろである。
Jの方は、難しい。外国人の女性なら、沢山あるだろうが、日本人の場合は、とっさには、ジュンとか、淳子ぐらいしか、浮んで来なかった。
「新関と関係のある女で、J・Sという名前というのが、いるかどうかだね」
と、十津川は、いった。
「難しいですが、探してみましょう」
と、亀井は、いった。
新関は、若い時、金と女に強いといわれた政治家だった。
最近は、大人しくなったという評判だが、その一方で、両方とも、ますます盛んだという声も、あった。
金の方は、今度のことで、集金力のあることがわかったが、女の方は、どうなのだろうか?
週刊誌などによっては、二つの説があって、政界再編の今、そのリーダーシップをとろうとしている新関は、さすがに、女の方は、控えているという話と、とんでもない、深く静かに潜行して、相手をしぼって、つき合っているという話があった。
もし、十津川たちの推理が正しければ、後者である筈である。
部下の刑事たちは、新関が、ひいきにしている銀座、赤坂周辺のクラブに、聞き込みに廻った。
その一方で、十津川は、新関の娘、綾が、どうなったかを、追いかけることにした。
彼女が、奥湯河原の別荘近くで、ジョギング中に誘拐されたことは、間違いないだろうと思っていた。
そして、警察の眼をかすめて、身代金が支払われた形跡があるが、これは、はっきりしない。
ただ、身代金が支払われたとすれば、人質の娘は、帰ってくるだろう。その保証があったからこそ、新関は、警察に何の連絡もしないばかりか、警察が動いていると知って、裏をかいて、身代金を払った。
と、すれば、新関の娘は、間もなく、解放されて、戻ってくる筈である。
問題は、どんな形で、帰ってくるかである。
奥湯河原の別荘に、ジョギングスタイルで、何食わぬ形で、現われるのか。それとも、新関の自宅に、戻ってくるのか。
十津川は、もし、彼女が現われたら、何とか、接触を持ち、誘拐があったかどうか、あったのなら、犯人は、どんな人間なのか、知りたいのだ。
いくら、当事者の新関たちが、何も起きないと否定しても、十津川は、事件が起きた以上、捜査するつもりでいる。そのためには、ぜひ、新関の娘の証言が、必要なのだ。
十津川は、奥湯河原の別荘と、自宅を監視させている。
だが、それで、彼女を、掴《つか》まえられるだろうか。
「新関は、娘を、われわれに会わせないようにするんじゃありませんか」
と、亀井は、いった。
「私も、そう思っている。犯人も、それを条件に、人質を解放するだろうからね」
「と、すると、別荘や、自宅には、現われないと思いますよ。当然、この二つは、われわれが監視していると、思っているでしょうからね」
「そうも思うが、といって、何処《どこ》を、見張っていいか、わからないんだ」
と、十津川は、いらだたしげにいった。
「私は、こんな風に考えるんです。彼女は、大学生です」
「ああ、今、夏休みだ」
「われわれに見つからないように、隠れたとしても、夏休みが終れば、大学に戻らなければなりません。われわれは、今、見つからなくても、大学に戻れば、会いに行きます」
「もちろんだ」
「それに、彼女には、誘拐されたショックが残っている筈です」
と、亀井はいった。
「そうか。海外か」
「そうですよ。アメリカなり、ヨーロッパなりの大学へ留学するんじゃありませんか。それなら、われわれに見つからないし、勉強も続けられるし、心の傷を癒《いや》すことも、出来ます」
と、亀井は、いった。
「空港に、張り込ませよう」
と、十津川は、いった。
新しく、増員を要請し、刑事たちを、成田に行かせた。
また、国際空港のある府県には、各警察に、協力を、要請した。
素早く、その手配をすませたのだが、十津川には、不安が、つきまとった。
「彼女は、ジョギング中に、誘拐されたと考えられる」
と、十津川は、亀井に、いった。
「その通りです」
と、亀井が肯く。
「しかし、海外に出るのに、いろいろ、必要なものがあるよ。必要な金は、あとから送れるが、パスポートは、出国するときに、必要だ。ジョギング中に、彼女が、持っていたとは思えない。と、いって、われわれが、見張っているから、家族が、パスポートなどを持って、彼女に会いには、いけないだろう」
と、十津川は、いった。
「それでも、私は、彼女が、海外へ脱出する方法を選ぶと、思っています」
「それには、同感なんだが、では、どうやって、パスポートを、彼女に、渡すんだ。われわれの眼を、かいくぐってだ。それも、早く渡して、一刻も早く、彼女を、海外に脱出させたいだろうからね」
「そうですねえ」
と、亀井は、考えていたが、
「あの郵便物じゃありませんかね。森口秘書が、われわれを欺《だま》して、動きましたが、その時、途中で、ポストに、郵便物を、投函しています」
「私は、それは、青柳みゆきのメモにあった、書類エトセトラに当るんじゃないかと、考えていたんだよ。犯人が、身代金と一緒に、何かの書類を要求していて、新関が、それを、郵便物として、送ったんじゃないかとね。カメさんは、あの中に、必要なパスポートなどが、入っていたと、思うんだね?」
「そうです。何処に送られたかは、わかりませんが、多分、今日中に着いて、彼女に、渡ることになっていると思います」
と、亀井は、いった。
「すると、彼女のパスポートが、経済研究会の事務所に、置いてあったということになるよ」
と、十津川は、いった。
「そこが、弱いところなんですが」
亀井は、小さく、頭をかいた。
「国によっては、ビザも必要だよ。そのビザは、どうするかということがある」
「そうですね。ビザが必要な場合も、ありますね」
「それでも、カメさんは、彼女は、海外へ出るだろうと、考えるんだろう?」
「それが、一番いい方法ですからね。犯人にとってもです」
と、亀井は、いい、しばらく、考え込んでいたが、急に、「そうだ」と、呟いた。
「八月一日は、まだ、大学の夏休みが、始ったばかりです」
「それが、何か意味があるのかね?」
と、十津川が、きく。
「今の若い女性は、簡単に、海外へ行きます。彼女も、今年の夏休みに、海外へ行くつもりで、ビザも、取っていたんじゃありませんかね。それなら、これから、ビザを取る必要はないわけです。それに、経済研究会の方が、自宅より、成田に早く行けるので、そこに、パスポートと、ビザを、預けておいたんじゃないかと、思うんですが」
と、亀井は、いった。
「いいね。カメさんの考えは当っていると思うよ」
十津川は、微笑して見せた。
もし、森口秘書が、ポストに投函した封筒の中に、必要なパスポートなどが、入っていたとしたら、それを、何処で受け取るだろうか?
空港で、受け取るとは、ちょっと考えにくい。パスポートや、ビザなどを、空港気付で送ることは、ないと、思うからである。
自宅や、別荘ではない筈だ。それでは、何のために送ったか、わからなくなってしまうからである。
十津川は、考えられる場所を、考えてみた。
新関か、娘の知人、友人宅。
J・Sの自宅。
ホテル。
こんな所だろうか。
友人、知人宅は、敬遠するのでは、ないだろうか。そこから、誘拐事件が、洩《も》れてしまう恐れがあるからだ。
それに、夏休み中である。送っても、相手は、何処かに出かけてしまっている可能性もある。
J・Sは、どうだろうか?
J・Sが、新関の愛人とすれば、これも、避けるだろう。新関が、娘に、愛人の住所や、名前を教えているとは、考えにくいからである。
となると、残るのは、ホテルだった。
「いい線ですね」
と、亀井も、賛成した。
「そうだよ。ホテルが、休みということはないし、郵便物も、受け付けてくれる。秘密も守る。そこに、解放された綾が入り、パスポートや、ビザを受け取ってから、空港に行くという段どりじゃないかな」
と、十津川は、いった。
「十分に、あり得ますね」
「青柳みゆきのメモにあった書類エトセトラというのを、私は、秘密の書類じゃないかと思っていたんだが、五億円の身代金を狙う人間が、政界メモみたいなものを、欲しがることは、ないかも知れないな。あれが、パスポートなどを意味しているとすれば、犯人たちは、人質を解放するとき、海外に行かせることまで考えて、計画を立てていたということになる。それなら、やはりホテルだな」
と、十津川は、いった。
「空港近くのホテルを、洗ってみましょう」
と、亀井が、いった。
更に、刑事たちが、動員された。
あとは、その結果を、待つだけだった。
最初にわかったのは、J・Sの方だった。
新関がよく利用するクラブや、料亭で、聞き込みを続けていく中に、一人の女の名前が、浮かんできたのである。
クラブに出ていた時の名前が、ジュン。本名は、関口純子という女だった。
銀座の高級クラブのホステスだった頃、新関と知り合い、現在は、赤坂の料亭「じゅん」の女将《おかみ》である。
彼女が、前に働いていたクラブのママは、はっきりと、新関の女だと、いった。
彼女の住居が、同じ赤坂のマンションだとわかって、十津川と、亀井は、体当りしてみることにした。
高層マンションの十階の部屋である。
一階で、ガードマンのチェックがある。十津川たちが、警察手帳を見せると、関口純子に、問い合せてみるといわれた。
十津川と、亀井は、一階のロビーで、待たされた。
「ずいぶん、長く待たせますね」
と、亀井が、文句を、いった。
十津川は、笑った。
「きっと、新関に電話して、相談しているんだろう。われわれに、会った方がいいか、何か理由をつけて、追っ払ったらいいかをさ」
と、いった。
受付係が、戻って来て、
「お会いするそうです」
と、いった。
「どうやら、会ってみろと、新関が、いったようだ」
と、十津川は、小声で、いった。
「こちらの様子を見ておけといわれたのかも知れません」
と、亀井も、小声で、いう。
エレベーターで、十階にあがる。1002号室が、関口純子の部屋だった。
インターホーンに向って、十津川が、声をかけると、中から、
「開いてますから、遠慮なくお入りになって」
と、女の声がした。
二人は、ドアを開けて、中に入った。
広い部屋だが、ごたごたした飾り付けは、全くなかった。
玄関にも、小さな花が生けてあるだけだった。
三十畳ほどの広さの応接室にも、応接セットの他には、何もない感じだった。テレビもない。
壁には、小さな版画が一つだけ、さりげなく、掛っていた。
関口純子は、絹の着物を、シャキッと着て、二人を迎えた。年齢は、三十七、八歳だろう。美しいというよりも、才走った感じだった。
「本庁の刑事さんが、何のご用でしょうかしら?」
と、純子は、微笑して、十津川に、きいた。
「失礼ですが、市民の義務というのを、どうお考えですか?」
と、十津川は、きいた。
「警察のアンケート調査ですの?」
純子は、皮肉な眼つきになった。
十津川は、構わずに、
「もし、あなたの傍《そば》で、殺人や、誘拐が行われていたら、どうなさいますか? すぐ、警察に連絡するのが、市民の義務と、思うのですが」
「それ、私の身内や、お友だちが、犯罪に関係していたらということですの?」
と、純子が、聞き返す。
「そうです」
「私は、いつも、こう思って、生きていますの。市民の義務なんかより、愛情や、友情の方を、大切にしたい。ですから、私の身内やお友だちが、たとえ、人を殺したとしても、それを警察に連絡したりはしませんわ。何とかして匿《かくま》って、逃がしてやりますわ」
と、純子は、挑戦的な眼で、十津川を見、亀井を見た。
亀井が、むっとした顔で、
「犯人隠匿罪で、罰せられますよ」
と、いった。純子は、笑って、
「申しあげたでしょう? 私は、法律とか、市民の義務とかよりも、愛情や友情を、大切にする人間だと」
「あなたが、今いわれたのは、身内や、お友だちが、何か罪を犯した場合でしょう? 私だって、家内が殺人をやったら、私は刑事ですが、家内を、逃がそうとするだろうと、思います。私が、今、いいたいのは、あなたの知り合いが、事件の証言者だった場合のことです。被害者なのに、理由があって、あなたに、警察には、黙っていてくれといった場合です。その場合でも、あなたは、黙っていますか?」
と、十津川は、きいた。
「ええ。黙っていますわね」
と、純子は、いった。
「では、もっと、ざっくばらんに、お聞きしましょう。私たちは、あなたが、新関代議士とごく親しいことを知っています。その新関さんの娘さんが、誘拐されたと、考えているのです。ところが、新関さんも、家族も、私たちに、連絡して来ない。多分、犯人に脅されているのだと思います。しかし、それでは、凶悪な誘拐犯を、みすみす、逃がしてしまうことになります。私たちは、何とかして、犯人を捕えなければならないのですよ。あなたも、この誘拐については、よく、ご存知の筈です。私たち警察に協力して、犯人の逮捕に力を貸して頂けませんか?」
と、十津川は、頼んだ。
純子の表情が、変った。口を突いて出たのは、
「何のことか、わかりませんわ。それに、私は、新関先生とは、それほど、親しくは、ございません」
という、そっけない言葉だった。
重苦しい沈黙が、あったあと、十津川は、ひとり言のように、
「五億円の身代金は、もう、支払われてしまったんでしょうね。犯人は、人質の綾さんを帰す。だが、彼女を、警察に接触させると、誘拐のあったことが、わかってしまう。市民の義務を果さないことが、公けになると、新関さんの政治生命に関係してくる。それで、どうしようとしているんですか。解放された綾さんを、そのまま、海外に、送り出してしまうんですか?」
「――――」
「それとも、すでに、綾さんは、海外に出てしまっているんですかねえ? しかし、海外へ出るには、パスポートや、ビザが、必要だと思うんだが、それを、どうやって、彼女に渡すんですか? 空港で、渡すんですか?」
「――――」
「そんな面倒なことをするよりも、私たちに、全《すべ》て、話してくれませんか? 今からでも、遅くはない。話して下されば、私たちは、全力をあげて、犯人を逮捕し、人質を、解放します。どうですか? 私たちに、協力してくれませんか? 新関さんを、説得してくれませんか?」
「刑事さん」
「何ですか?」
「私は、何も知りませんの。刑事さんは、あれこれ、くどくどいわれましたけど、何のことか、全くわからない。ですから、返事のしようもありませんわね」
と、純子は、落ち着き払って、いった。
「あなた、ねえ」
と、亀井が、怒って、いいかけるのを、十津川は、押さえて、廊下に出た。
「愛の方が大事だなんて、犯罪を、何だと思っているんですかね」
と、まだ、亀井は、怒っていた。
「もういいよ。それに収穫があった」
「どんな収穫ですか?」
「こちらの話に、黙っていたが、顔の表情が、微妙に反応していたよ。私たちの推理は、正しいんだと、自信を、持ったよ」
と、十津川は、いった。
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第六章 辞 表
十津川の推理が正しければ、新関の娘、綾は、現在、どこかのホテルにいる筈《はず》である。
それも、国際空港の近くのホテルにである。
翌朝になって、京都府警から、電話が入った。
京都駅近くのGホテルに、新関綾に似た女が、いるという知らせだった。
「宿泊カードの名前は、新藤ひろ子になっていますが、フロントの証言では、新関綾と、よく似ています」
「他に、何かありますか?」
「チェック・インしたのは、昨日の午後ですが、そのあと、Gホテル気付で、彼女に郵便が届いています。中身は、わかりません」
「彼女のチェック・アウト予定は?」
「今日の午後三時です」
「そちらに行きます」
と、十津川は、決断し、亀井と、西本と、北条早苗刑事を連れて、午前九時東京発のひかり213号に、乗った。
午前一一時三七分。京都着。
ホームに、京都府警の大西刑事が、迎えに来てくれていた。
彼の運転する覆面パトカーで、Gホテルに向った。
ホテルのロビーには、同じ府警のもう一人の刑事がいた。
「彼女は、7012号室にいます」
と、教えた。
十津川は、府警の二人の刑事に、礼をいって、帰って貰《もら》った。
フロントに聞くと、問題の女は、昨日チェック・インして以来、外出せず、食事も、ルームサービスで、とっているという。
改めて、新関綾の写真を見せると、フロントも、ルームサービスの女性も、同一人と思うと、証言した。
「彼女に、外から電話が、かかりましたか?」
と、十津川がきくと、
「男の方から、何回も、かかっています。中年の人の声でした。それから、中年の女性の声で二回です」
と、フロント係は、いった。
多分、父親と、母親からだろうと、十津川は、思った。
「三時に、チェック・アウトということですね?」
「はい。その時間に、タクシーを呼んでおいて欲しいと、いわれています」
「行先は?」
「それは、わかりません」
と、フロント係は、いった。
問題の女が、新関綾であることは、百パーセント間違いないだろう。
ただ、彼女を、どう出来るかがわからなかった。
十津川が知りたいのは、もちろん、誘拐のことであり、誘拐した犯人のことである。
しかし、彼女が、こちらに協力してくれるという保証は、どこにもない。多分、否定するだろう。
否定された時、どうするかだった。
嘘《うそ》をつけといって、逮捕するわけにはいかない。誘拐があり、五億円の身代金が、支払われたことは、間違いないのだが、それを、証拠として、ぶつけられないのだ。
ホテルの宿泊カードに、偽名を使ったということで、逮捕も出来ない。そんなことが可能なら、旅行者の半分は、逮捕することになってしまうだろう。
「どうしたらいいと思うね? いや、われわれに、何が出来ると思うかね?」
と、ロビーで、十津川は、亀井と、早苗にきいた。
「彼女は、今日の午後、大阪から、海外に、飛び立つ気でしょうね」
と、亀井が、いう。
「それを、どうやって、阻止できるかだよ」
「まともに、ぶつかってみたら、どうでしょうか?」
と、早苗が、いう。
「何もかも話して、協力してくれというのかね?」
「そうですわ」
「しかし、否定されたら、それで、終りだよ」
「何か、逮捕する理由は、ありませんかね?」
と、亀井が、いらだたしげに、呟《つぶや》いた。
「現役の女子大生で、一応、いいところのお嬢さんだからね。逮捕できるような傷を持っているとは、思えないよ」
「しかし、警部。東京の人間が、成田からではなく、大阪から、海外へ出発するというのは、不自然ですよ」
「そんなことは、わかってるさ」
と、十津川は、いった。不自然だが、だからといって、殺人事件の容疑者でもない人間を、逮捕は、できない。
たちまち、昼を過ぎてしまった。午後三時まで、あと、わずかの時間しか、残されていない。
「馘《くび》を覚悟で、一芝居打つかな」
と、十津川は、ふっと、呟いた。
午後三時。
うすいサングラスをかけた綾が、緊張して、ちょっと青白い顔で、エレベーターから出て来た。
ロビーにある公衆電話を選んで、綾は、東京に電話をかけた。
「これから、行って来ます。大丈夫。向うに着いたら、また、電話します」
と、綾は、短く、いった。
彼女のスーツケースを持ったボーイが、
「タクシーを呼んであります」
と、彼女にいい、外に出ると、手をあげて、タクシーを呼んだ。
大型タクシーが、寄ってくる。
「ありがとう」
と、綾は、ボーイにいってから、車に、乗り込んだ。
「空港へ行って下さい」
と、綾は、リア・シートに身体を、沈めて、いった。
「何時の便ですか?」
と、運転手が、車をスタートさせてから、きいた。
「一七時五〇分のパリ行のエール・フランス」
「それなら、ゆっくり、間に合いますよ」
と、運転手はいった。
タクシーは、名神高速に入って、西に向う。
綾は、眼を閉じた。
しばらくして、眼を開ける。タクシーは、いつの間にか、名神高速を出ている。
綾は、ぼんやり、窓の外の景色に眼《め》をやった。
家並みが、少くなってくる。
急に、綾の顔色が変った。
「運転手さん、道が、違うんじゃないの?」
「――――」
運転手は、黙って、走って行き、雑木林の傍《そば》で、とめた。
もう一台の白い車が、タクシーの横にとまって、サングラスをかけた男女が、降りて来た。
「何なの? これは」
と、綾の声が甲高くなった。
タクシーの運転手は、濃いサングラスをかけた顔で、じっと、綾を見すえた。
綾の顔に、恐怖が走る。
「また、私を誘拐するの? お金は、父が払って、もうすんだ筈だわ。あなたたちとの約束を守って、警察にはいわなかったし、私は、これから、パリへ出発するのよ。パスポートだって、ビザだって、エール・フランスの航空券だって、ここに、持ってるわ!」
と、綾が、叫んだ。
運転手が、サングラスを外した。
彼は、腕時計に眼をやって、
「まだ、間に合いますね。空港へお送りします」
と、いい、他の三人に、自分たちの車に戻るように、合図した。
タクシーがまた、走り出した。
綾は、青白い顔のまま、
「何なの? これは」
と、きいた。
「私は、警視庁捜査一課の十津川といいます。他の三人も、刑事です」
と、運転手は、いった。
「私を、欺《だま》したの?」
「結果的には、そうなったかも知れません」
「警察が、こんなことをして、いいんですか?」
と、綾が、食ってかかった。
「辞表は、書いて、います」
と、十津川は、落ち着いた声で、いった。
「そんなことは、聞いていないわ」
「さっき、あなたがいったことは、テープレコーダーに取りました」
「――――」
「われわれは、現実に、誘拐事件が起きたのに、それを、見逃すことは、出来ないんですよ」
と、十津川は、いった。
「何もなかったのよ」
と、綾は、いった。が、その声は、いかにも、弱々しかった。
「誘拐犯を、野放しにしておいて、いいんですか? そんなことをしたら、連中は、図にのって、またやりますよ。何度もね。簡単に、大金が手に入って、被害者が、沈黙しているからです。そして、次は、人質を、殺すかも知れません。それでも、あなたは、構わないのですか?」
「父は、何もいうなと、いってるんです」
「新関さんは、何か、犯人に、弱味を握られているからだと思いますね。しかし、だからといって、市民の義務を忘れたら、政治家として、失格じゃありませんか」
「それは、父にいったらいいでしょう?」
と、綾は、堅い表情を崩さずに、いう。
「新関さんは、否定する筈です。第一、誘拐されたのは、新関さんじゃなくて、あなたです。あなたの証言がなければ、どうすることも、出来ないのです」
と、十津川はいった。
「弁護士を呼んで下さい」
と、綾は、切り口上でいった。
「呼んでも、構いませんが、多分、弁護士も、警察に協力した方がいいと、忠告すると、思いますよ」
と、十津川は、説得した。
「――――」
今度は、綾は、黙ってしまった。
「犯人について、何かいえば、殺すと、脅かされているんですか? それとも、新関さんに、迷惑がかかるように、なっているんですか?」
「――――」
「多分、両方でしょうね。だから、あなたは、お父さんからも、犯人からも、口を閉ざしていろと、いわれているんだと思う」
「――――」
「しかし、外国へ逃げたら安全だと思うのは、間違いですよ。あなたを誘拐し、新関さんから五億円の身代金を奪った犯人たちも、多分、海外へ逃亡すると思うから、海外で、また、あなたを誘拐する可能性があるし、その時は、きっと、身代金を手にしても、あなたを、殺しますよ。二度も、誘拐すれば、あなたが、黙っていないと、思いますからね」
と、十津川は、いった。
この脅しは、効果があったようだった。
「父は、誘拐のことを、黙っていたというので、罰せられるの?」
と、綾はきいた。
十津川は、微笑した。
「そんなことは、ありませんよ。娘の危険を考えて、警察に知らせなかったからといって、罰せられはしません」
「私は?」
「正直に、何もかも話して下されば、何もいいませんよ」
と、十津川は、いった。
「それなら、話します」
と、綾は、いった。
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〈あの朝、いつものように、ジョキングに出かけました。コースも、いつもと同じです。
私のジョギングに、時々つき合う、旅館の若い板前さんが、この日も、一緒になりましたが、これも、いつもの通り、途中で消えてしまいました。
ひとりになって、川添いに走っていた時、前方に、車がとまっているのが、見えました。茶色の車でした。私のボーイフレンドが持っているランドローバーだったと思います。
エンジンを開けて、とまっているので、故障かなと思いました。二十五、六歳の男の人が、私の方に、近寄って来て、
「この辺に、修理工場はありませんか?」と聞きました。知らないと、いうと、電話をしたいが、公衆電話のある所を、教えてくれと、いいました。
私は、この先の旅館で、借りたらいいと、教えました。地図で教えてくれといって、地図を取り出すので、その地図をのぞき込んでいたら、いきなり、背後《うしろ》から、身体《からだ》を押さえられ、匂《にお》いのする薬を、かがされました。多分クロロフォルムだったと、思います。
気がついた時は、うす暗い部屋に、寝かされていました。
身体は、束縛されていませんでした。手錠もかけられていませんでした。ただ、私に道を聞いた男と、もう一人、同じくらいの年齢の男がいて、片方は、拳銃《けんじゆう》を、持っていました。
ほとんど、何もない部屋で、折りたたみ式の簡易ベッドが一つおかれ、私は、それに、寝かされていたんです。
男の一人が、私に向って、
「新関には、あんたを誘拐したと、伝えてある。あんたも、お父さんに、電話して、本当だと、話しなさい」
と、ひどく落ち着いた声でいい、私に、受話器を持たせました。
電話番号は、男が、押しました。父は、事務所の方でした。
私が、ジョギングの途中で、誘拐されたというと、父は、
「すぐ、釈放させるから、犯人のいう通りにしなさい」
と、いいました。
この電話がすむと、男は、ニヤニヤ笑いながら、
「新関は、おれたちを警察に通報できないんだ。だから、これは、普通の商取引と同じなんだよ。商取引だから、おれたちはあんたに、何もしないし、新関が、きちんと支払いをしてくれたら、あんたを、無事に帰すことにしている」
と、いいました。
なぜ、父が、このことを、警察に通報できないのかわかりませんでしたが、私は、自分が無事に、帰ることが出来ればいいと、思いました。
男二人は、紳士的だったと思います。下卑た言葉で、私をからかうこともありませんでしたし、手をあげることもしませんでした。ただ、一人が掌《て》に拳銃を持っていて、逃げれば、射《う》つと、いっていました。
翌日になって、片方の男が、
「身代金を受け取ったので、あんたを、釈放することにしたいが、問題が出来た」
と、いいました。
私が、どんなことなのかと聞くと、男は笑って、
「厄介な連中が、しゃしゃり出て来た。警察だよ。おれたちも、新関も、今度の取引は、内密にしておきたいのに、警察は、それを、ほじくり返そうとしているんだ。おれたちにとっても、新関にとっても、迷惑な話さ。このまま、あんたを帰すと、どっと警察が押しかけて来て、質問攻めに会う。そうなると、おれたちにとっても、新関にとっても、困ったことになるんだよ」
と、いうのです。私は、このまま、監禁され続けたり、殺されたりしたらと思うと、ぞっとしました。
男は一階《した》へおりて行きました。どうやら下にも、仲間がいて、相談しに行ったみたいでした。一時間ほどして、あがってくると、私に、こういうのです。
「あんたが、自宅や、別荘に帰れば、待ち構えていた警察に、捕ってしまう。こういう事態に備えて、京都のGホテルに、新藤ひろ子の名前で、部屋をとってあるから、そこへ、行って貰う。そこから、夏休みの間、パリへ行っていて欲しいというのだ」
「でも、パスポートも、ビザも、航空券もドルもないわ」
と、私は、いいました。そういうと、男は、ニヤッと笑って、
「それも、ちゃんと、手配してあるよ。おれたちは、前々から計画を立て、その計画では、あらゆる状況に応じられるようになっているんだ」
と、自慢そうに、いいました。
父からも、電話が、かかってきました。私のパスポートなどは、京都のGホテルの新藤ひろ子|宛《あて》に、すでに、送ったというのです。だから、夏休み中、パリへ行っているようにというのです。私も、パリは好きでしたが、なぜ、父が犯人たちのいいなりになっているのかわかりませんでした。
私は、ランドローバーに乗せられて、京都に運ばれました。Gホテルの前で、おろされ、私は、半信半疑で、中に入りました。フロントで聞くと、ちゃんと、新藤ひろ子の名前で、予約され、小包みが、届いていました。部屋に入って、包みを開けると、私のパスポートや、フランスのビザ、ドル紙幣などが、入っていました。日本円で、百万円もです。そのお金で、ホテルで、洋服を買い、スーツケースなどを揃《そろ》えました。
父には、もちろん、ホテルから、もう一度、電話しました。あの犯人たちは、何者なのか、どんな弱味を握られているのか、といったことを、私は聞きました。
でも、父は、犯人は、知らないが、くわしいことは聞くな、とにかく、パリの生活を楽しんで来いと、いうだけでした。多分、父は、政界再編で忙しく、正念場ということで、どんな小さな傷も、怖がっていたんだと思います。犯人は、そのチャンスを狙《ねら》って、私を、誘拐したんだと思います〉
[#ここで字下げ終わり]
新関綾は、二人の男を見ている。しかし、他にも、二人ぐらいの男が、いたようだともいう。
新関綾が乗せられた車は、茶色のランドローバーと見ていいだろう。彼女が覚えていたナンバーは、品川の××―××××である。
十津川は、東京に電話をかけ、この車の持主を調べ、手配するようにいった。
更に、綾から、二人の男の特徴を聞き、似顔絵を作った。
おかげで、彼女の乗る筈だったエール・フランスには、間に合わなくなってしまった。
「このことについては、謝ります。申しわけない」
と、十津川が、頭を下げると、綾は、何か、すっきりした顔で、
「もういいんです。疑念を持ったまま、フランスに行くのは、本当は、嫌だったんです。これから、東京に帰って、父に会いますわ」
と、いった。
「君が、送って行け」
と、十津川は、北条早苗にいった。
犯人たちは、綾に、パリへ行くように、指示している。それに逆らうような行動をとれば、危険かも知れなかったからである。
早苗が同行して、新関綾を、新幹線に乗せて、東京に帰したあと、十津川たちは、借りたタクシーを返し、Gホテルのロビーに、集まった。
「問題は、これからだ」
と、十津川は、刑事たちに向っていった。
「新関綾は、ここまで、ランドローバーに乗せられて来たといっているが、今も、犯人たちが、同じ車で移動しているかどうかは、わからない。多分、彼女を、このGホテルに送りつけてから、何処《どこ》かに、高飛びしたのではないかと思う。これから、それを、探さなければならない。新関綾は、犯人たちの中、二人の男を、見ている。その片方の大きな男は、われわれが、マークしていた私立探偵の沼田章だと思われる。彼女の証言する男の顔立ちや、背の高さなどが、沼田と、一致するからだ。われわれが、マークしていたもう一人は、建設会社の奥寺豊だが、この男も、今度の事件に加わっていることは、まず、間違いないと、思っている。他に、少くとも、一人がいる。新関綾の証言で作ったこの似顔絵の男だ」
と、十津川は、いった。
沼田と、奥寺の顔写真、それに、綾が見た犯人の一人の似顔絵、この三人は、犯人の中に入っている。この他に、一人か二人、プラスしたのが、犯人たちということになるだろう。
フロントが、十津川に、電話が掛っていると告げた。
十津川が出ると、本多捜査一課長からだった。
「ランドローバーの所有主が、わかった。奥寺豊という男だ」
と、本多が、いう。
「奥寺ですか? 彼は、札幌の人間です。車は、東京ナンバーになっていますが」
と、十津川は、いった。
「奥寺は、札幌で建設会社をやっていたが、行方《ゆくえ》不明になっているんだろう。多分、東京に住所を移し、ランドローバーを購入して、今度の誘拐の準備をしているんだと思うね。車を登録したのは、七月二十五日で、住所は、世田谷区内だ。今、その住所を、調べさせているよ」
と、本多は、いった。
もし、ランドローバーが、今回の誘拐のためにだけ、準備されたものなら、今頃は、もう処分されてしまっているだろう。五億円が、手に入ったのなら、ランドローバーの一台くらい、惜しくはないだろう。
十津川は、本多の知らせを聞いたあと、フロントの電話を借りて、大阪空港のエール・フランスのカウンターに、かけた。
「一七時五〇分のパリ行の便のことですが、新関綾という乗客が、乗ったかどうか、問い合せは、ありませんでしたか?」
と、きいた。
「問い合せは、二件ありました」
と、受付の女性の声が、いった。
「二件ですか?」
「はい。一件は、中年の女性の声でした。もう一件は、男の方で、どちらも、しつこく、新関綾さんが、あの便に乗ったかどうか、聞いていらっしゃいました」
「それで、私が頼んだ通りに、答えてくれましたか?」
「はい。新関綾さんは、間違いなく、乗られたと、お答えしておきました」
「ありがとう。助かりました」
と、十津川は、礼をいった。
中年の女の声は、恐らく、綾の母親だろう。そして、男は、犯人の一人だろうと、十津川は思った。
新関綾が、一七時五〇分発パリ行のエール・フランスに、予定通り乗ったとなれば、犯人たちも、油断するのではないか。
そう思って、大阪空港のエール・フランス事務所に頼んでおいたのだが、これで、本当に、犯人たちが、油断するかどうかの自信は、持てなかった。
一時的に、犯人たちは、安心するだろう。自分たちの計画通りに行ったと、思ってである。
人質の綾は、パリに向って、出発し、身代金を払った新関は、警察には何も話さず、事件そのものが、起きなかったことになると、思ってである。
しかし、犯人たちは、用意周到に、八月一日の誘拐を計画した連中なのだ。
警察を使って、青柳みゆきを見つけ出して殺すような、狡猾《こうかつ》なこともする連中なのだ。
彼等は、他の方法でも、新関綾が、パリに出発したかどうか、知ろうとするだろう。そのくらい、用心深い人間なのだ。
それに、連中は、警察が、捜査していることを知っていた。とすれば、エール・フランスの事務所に問い合せたぐらいで、簡単に信じるとは思えない。
それに、今、綾は、北条刑事と一緒に、新幹線で、東京に向っている。十津川は、途中で、彼女の両親には、何も知らせるなと、早苗には、いっておいた。
あと、一時間、両親は、娘が、パリ行の飛行機に乗ったものと、思い込んでいるだろう。
しかし、一時間すれば、両親も、娘の綾に会うことになる。犯人たちも、それを敏感に、感じ取るのではないか。
「一時間後、犯人たちが、どう出るかが、問題だな」
と、十津川は、刑事たちに、いった。
「海外へ脱出するでしょうか?」
と、亀井が、きく。
「奥寺豊と、沼田章の二人の名前は、各県警に、通報してある。国際空港から脱出しようとすれば、空港で、逮捕される筈だ」
と、十津川は、いった。
「手配されていない残りの犯人たちは、海外へ脱出するかも知れませんね」
「かも知れないが、連中は、今まで、協力して、動いて来たんだ。勝手に、自分だけで、海外へ逃げることはしないと、思っているがね」
と、十津川は、いった。
また、本多一課長が、電話をかけてきて、
「明日の午前九時に、記者会見が、行われることになったよ」
「誘拐事件が、公けになったんですね」
「新関としても、これ以上、伏せておくことが出来なくなったんだろう。何しろ、人質の娘さんが、帰って来たんだからね」
「それでは、明朝の記者会見に間に合うように、帰ります」
と、十津川は、いった。
西本を残して、十津川は、亀井と、二一時三八分京都発の最終の「のぞみ308号」で、帰ることにした。
車内で、十津川は、浮かない顔をしていた。亀井が、それを気にして、
「明日の記者会見のことが、心配ですか?」
と、きいた。
「いや、それはいいんだ。新関は、嫌がるだろうが、私は、正直に、事実を話そうと思っている。気になっているのは、犯人たちのことなんだ」
「沼田と、奥寺の二人以外が、わからないことですか?」
「それもあるが、沼田にしろ、奥寺にしろ、札幌の人間だ。他の人間も、札幌の人間で、丸清に集まって、計画を練っていたんじゃないかと思う」
「そうでしょうね」
「私が、ずっと気になっていたのは、札幌の人間たちと、東京の新関肇を結ぶものは、何なのだろうかということなんだ。なぜ、新関に眼をつけたのか? なぜ、彼の娘を誘拐することを計画したのか? 札幌市内の建設会社の社長や、私立探偵が、どうして、東京の政治家を、標的にしたのか。そこが、不思議なんだよ」
「確かに、そうですね」
「その間に、誰かいる筈なんだ。いなければ、おかしいんだよ。ひょっとすると、そいつは大物で、今度の事件では、裏に隠れているのかも知れない。それで、本多課長に、そういう人間がいるに違いないから、気に止めて欲しいと、いっておいたんだ。多分、その人間は、社会の上層部にいるに違いないと思ってね」
と、十津川は、いった。
深夜の二三時五二分に、東京駅に着くと、その本多一課長が、迎えに来ていた。
三人は、捜査本部に、直行した。
部屋にクーラーをつけてから、本多が、
「君にいわれていた、新関肇と、札幌を結びつける人間のことだがね」
と、十津川に、いった。
「見つかりましたか?」
と、十津川が、眼を輝かせた。
亀井が、コーヒーをいれて、二人の前においた。
本多は、それを、口に運んでから、
「これは、三上部長の耳に入ってきた噂《うわさ》なんだ。私と違って、部長は、政財界にも、知り合いが多いからね」
と、いった。
本多が、話してくれたことは、次のようなものだった。
新関肇が、北海道開発庁長官をやっていた頃、彼の音頭とりで、五百億を投じて、知床《しれとこ》周辺の開発計画が、立てられたことがある。
この計画の陰の推進役と呼ばれたのが、中堅の建設会社、正木建設の社長、正木真一郎だった。
「正木は、この計画を、請け負いたくて、新関に、一億円を献金したというが、実際には、もっと多かった筈だ」
と、本多はいった。
「しかし、知床開発計画というのは、結局、ぽしゃったわけでしょう?」
と、十津川は、きいた。
「そうなんだ。それどころか、もともと、この計画自体、新関が、金集めに、勝手にぶちあげたんじゃないかとさえ、いわれているんだ。もちろん、新関は、否定しているがね」
「それで、正木という男ですが、新関に、政治献金をしただけだったんですか?」
「その頃、新関に取り入ろうとして、正木は、涙ぐましいサービスをしたらしい。娘の綾にも、折りにふれて、お土産《みやげ》を持っていったということだ。それに、正木は、新関のぶちあげる知床開発計画を、信じて、周辺の原野を大量に、買ったらしい」
「それは、大変だ」
「今は、売るに売れなくて、厖大《ぼうだい》な借金を抱える結果になって、正木建設も、倒産しかけている」
と、本多は、いった。
「正木と、札幌の連中との接点は、どういうことなんですか?」
「知床開発計画を、正木が握っているということで、地元、北海道の業者は、彼に、接触を図ってきた」
「その中に、奥寺もいたわけですね?」
「そうだ。奥寺は、小さいが、建設会社の社長として、何回か上京して、正木に、接触したようだ。そして、彼も、先を見越して、知床の原野を買い占めて、結果的に、大損をしている」
と、本多は、いった。
「それで、正木は、いつか、新関に復讐《ふくしゆう》しようと考え、札幌の奥寺を、誘ったということですか?」
「そして、奥寺は、札幌で、仲間を集めたんじゃないかね。新関の娘の綾が、夏休みには、奥湯河原の別荘で過ごし、毎朝、ジョキングするといった情報は、もちろん、正木から知らされたんだと思うね。五億円の身代金なら、取れるだろうということもね」
と、本多は、いった。
「正木は、今、何処にいるんですか?」
「わからないが、まだ、正木建設は、倒産してはいないからね。新宿にある会社にいるか、或《ある》いは、成城の自宅にいるか、或いは、今回の事件の間、どこかに、身を隠しているか、まだ、わかっていないんだ」
と、本多は、いった。
「ほっとしました。新関と、札幌の犯人たちの接点が見つからなくて、不安だったんです」
と、十津川は、いった。
「しかし、明日の記者会見では、正木のことは、いわないでくれと、三上部長は、いっていたよ。まだ、犯人と確定したわけじゃないからね」
本多が、いった。慎重な三上部長としては、当然の言葉だろう。
「新関は、娘の誘拐について、覚悟を決めて、マスコミに、話すようですね」
と、十津川が、いった。
「ここまで来ては、誘拐はなかったとは、いえないだろうからね」
本多が、笑った。
翌日午前九時に、マスコミの要求で、緊急記者会見が、開かれた。
まず、三上本部長が、新関肇の娘、綾の誘拐があったことを、発表し、そのあと、十津川は、詳細を、説明した。
十津川は、東京で起きた青柳みゆき殺しが、今回の事件の発端であること、その後、東山温泉で、丸清の主人夫婦が、殺されたが、それも、全《すべ》て、八月一日の誘拐の序曲だったことを、説明した。
この二つの殺人に関係した犯人たちの狙いが、どこにあるのかわからなかったが、八月一日に、新関の娘の誘拐が起きたのを、防ぐことが出来なかった。身代金は、五億円だったと思われるが、人質は無事に帰ったものの、五億円は、まだ、取り返していない。
現在、犯人逮捕と、身代金の奪回に、全力を、あげている。
十津川は、そう話したあと、続けて、
「犯人は、四、五人のグループと考えていますが、その中《うち》の大部分は、名前と、顔が、わかっています。名前と写真を、日本中の空港に配布してあるので、犯人が、海外に逃亡を図れば、たちまち、逮捕されることになっています」
と、強調した。
犯人たちが、海外へ逃亡するのを、牽制《けんせい》するために、強調したのである。
この日の夕刊各紙は、一斉に、今度の誘拐事件を、大きく、取りあげた。
新関は、記者の質問に対して、
「全く、市民の義務を忘れたことで、申しわけない。いいわけになるが、娘の命はないと、犯人に脅されて、つい、警察への連絡を、おくらせてしまったのだ」
と、答えている。
もちろん、犯人に、警察にいえば、娘を殺すといわれたというのは嘘だろう。
新関が、恐れたのは、彼が、北海道開発庁長官だったころ、実現化の可能性の少い知床開発で、正木から、何億もの政治献金を受けていながら、それを、報告していないことを、公けにされるのが怖かったのだろう。彼は、今、政界再編時代の主導権を取ろうとしている。そんな時、致命傷になりかねないのだ。
午後五時過ぎに、京都に残して来た西本から、問題のランドローバーが、見つかったという知らせが、届いた。
場所は、京都駅に近い路上に、放置されていたのである。
車は、現在、八条署に運ばれて、車内を調べているという。
ランドローバーが、放置されていたのは、新関綾が、Gホテルに入った日からと、見られているともいうのである。
「犯人たちは、車で、新関綾を、Gホテルに送りつけたあと、乗り捨てたと思います。多分、目立つ車だったからでしょう。そのあと、どうしたかということなんですが」
と、西本が、電話で、いった。
「普通に考えれば、京都駅から、新幹線に乗ったんだろうね」
と、十津川は、いった。
「その場合ですが、身代金の五億円というのが、気になるんですよ。五億円というと、量だけでも、大変ですからね。ランドローバーにのせてあったとすると、各自に分けて、それを持って、新幹線で、逃げたということですかね?」
「五人なら、一人、一億円だな。一億円なら、一人で、持てるだろう」
「持てますか」
「犯人は、五人かも知れないな」
と、十津川は、いった。
「そうですね。それなら、今、警部のいわれた通り、一人一億円ずつで、割り切れます」
と、西本は、いった。
「問題の時間帯に、大きなケースを持った男たちが、改札口を通らなかったか、君と、北条君で、京都駅の聞き込みをやってくれ」
と、十津川は、いった。
各地の国際空港から、奥寺、沼田、それに顔のわかっている三人が、海外へ脱出したという様子は、ない。
十津川と、亀井は、新宿にある正木建設を訪ねてみた。
会社は、開店休業の感じで、社長の正木は、不在だったし、何処にいるかわからないということだった。
成城の自宅へ廻《まわ》ってみたが、ここも、同じだった。
広い邸の中に、人の気配はなく、ここは抵当に入っているという。
しかし、正木が、今回の事件の犯人の一人、というより、陰のリーダーだったとすれば、東京の何処かにいて、札幌の連中と連絡をとっていた筈である。
「女ですかね」
と、亀井が、いった。
「女ねえ」
「籍が入っていなければ、彼女の家や、車が、正木の借金の抵当に取られることはありませんからね」
と、亀井が、いう。
正木は、女の家に隠れて、札幌の連中と、連絡をとり、計画に、関係していたのか。
十津川は、正木建設の社員や、建設関係の同業者に会って、彼の女関係を、聞いてみた。
「吉野敬子という女じゃないかな」
と、同業者の一人が、教えてくれた。
「どういう女性ですか?」
と、十津川は、きいた。
「正木さんの秘書をやっていてね、三十二、三の美人だが、正木さんが、彼女と、出来てしまってね。その上、バブルがはじけて、莫大《ばくだい》な借金が生れたりしたんで、奥さんが、離婚したんだよ」
「彼女の住所を知りませんか?」
「住所は知らないが、正木さんがやらしていた料理屋へは、行ったことがあるよ」
と、いい、相手は、新大久保の料理屋を、教えてくれた。
駅近くの洒落《しやれ》た造りの店だったが、そこも「臨時休業」の札が、かかっていた。
十津川は、諦《あきら》めなかった。
正木は、この女と、一緒にいるという確信が、かえって、強まったからである。
その料理屋が、吉野敬子の名前で、登記されているのを確かめ、その登記書の住所を、調べた。
住所は、渋谷区上原のマンションだった。十津川と、亀井は、今度はパトカーで、そのマンションに向った。
真新しい十階建のマンションで、その九階に、彼女の部屋があったが、ここも留守だった。
管理人に、行先を、きくと、
「わかりませんが、別荘へ行ってるのかも知れませんよ。なんでも、伊豆の海岸に、買ったとかで、夏には、そこへ行きたいって、おっしゃってましたからね」
という答が、返ってきた。
「伊豆の何処かな?」
「東海岸の伊東の近くだと聞きましたよ」
と、管理人は、いった。
すでに、午後七時に近かったが、十津川は、亀井と、伊東に、行ってみることにした。
時間がなかった。
一刻も早く、犯人たちを逮捕しなければ、彼等が、ばらばらに、散ってしまうかも知れないのだ。そうなると、逮捕に、手間が、かかる。
東京駅から、新幹線こだまで、熱海《あたみ》に出て、そこからは、タクシーに、乗った。
伊東に着くと、駅前の派出所で、吉野敬子名義の別荘がないかを、調べて貰った。三十五、六分して、海岸に、二年前から、彼女の名義の別荘があることを、教えられた。
「小さな島があって、その上に建てられた別荘で、今は、引き潮だから、歩いて行ける筈です」
と、派出所の警官はいい、道順を教えてくれた。
十津川と、亀井は、海岸まで、歩いて行った。
なるほど、百二十メートルほど離れた小島に、二階建の洒落た家が建っているのが見えた。足もとは、潮が引いて、砂地が現われ、小島まで歩けるようになっていた。
十津川と、亀井は、その濡《ぬ》れた砂地を歩いて、島に建っている別荘に向って行った。
岩礁だらけの島の上に建っているせいか、セメントむき出しの別荘は、一見、要塞《ようさい》のように見えた。
だが、門を入っても、人の気配はない。
玄関のドアは、閉っている。二人は建物に沿って、廻ってみた。
裏口のドアも、錠がかかっていて、開かなかった。
「誰もいないようですね」
と、亀井が、いった。
裏口には、木製の桟橋が作られていたが、ボートは見当らなかった。
ボートで、逃亡してしまったのだろうか?
「どうしますか?」
と、亀井が、きく。
「少し様子を見ようじゃないか」
と、十津川は、いい、桟橋に腰を下して、煙草《たばこ》に火をつけた。
その間に、潮が満ちて来て、二人は島から、出られなくなってしまった。
「これから、法律破りをやる。君は、その証人だ」
と、十津川は、立ち上って、いった。
亀井は、眉《まゆ》を寄せた。
「私が証人って、何のことです?」
「私は令状なしで、これから、この別荘の中に入る。あとで問題になったとき、君は、証人だということだよ。私が、法律無視をしたというね」
「それなら、私も、証人でなく、当事者にならして下さいよ」
と、亀井は、いった。
「君まで、法律無視をする必要はない。君は、私を制止しようとして、中に入ってしまったことにすればいいさ」
「そうはいきません。私だって、さっきから家の中に入って調べたいと、ずっと、考えていたんです。警部が、眼をつむっている間に、入りたいと、思いますよ」
と、亀井は、いった。
「じゃあ、こうしよう。次に同じ状況になったら、カメさんが、法律を破り、私が、証人になるよ。だから、今回は、私が、不法侵入をする」
と、十津川はいい、家の裏に廻り、勝手口のドアについている錠を、拳銃の台尻《だいじり》で、叩《たた》きこわした。
十津川が、先に、家の中に入り、亀井が、それに、続いた。
スイッチを探して、部屋の明りをつけた。
一階は、広いリビングルームと、キッチン。バスルームは、温泉が引いてあるらしい。
二階は、和室の部屋が、三間と、洋室が一つ。
十津川が、興味を持ったのは、リビングルームの角に設けられたホーム・バーと、キッチンである、ホーム・バーには、空になったウィスキーや、バーボンのびんが並び、缶ビールの空缶が、大きな紙袋の中に、詰め込まれていた。
キッチンの方には、インスタントラーメンのダンボール箱が、三つほど、積み重ねてあった。空になったダンボール箱が、潰《つぶ》されて、これも三つほど、放り出されていた。
流し場には、汚れた食器が、積み重ねてあったが、大型の食器洗い機を、開けてみると、そこにも、食器が、つめ込まれている。どうやら、つめ込み過ぎて、食器洗い機が、こわれてしまったらしい。
明らかに、この別荘に、何人もの人間が、集まっていたのだ。
「札幌の連中は、札幌から姿を消したあと、ここを根城にして、動いていたんだと思うね。八月一日の計画実行までだ」
と、十津川は、いった。
「誘拐した新関綾を、監禁したのも、ここでしょうか?」
亀井が、きくのに、十津川は、首を横に振って、
「それは、奥湯河原の近くだったと思うよ。ここでは、すぐ、場所が、わかってしまう。彼女は、波の音が聞こえたとはいっていないし、ここに監禁したら、犯人と、正木との関係がわかってしまうから、正木としたら、そんな危険なことは、しない筈だよ」
と、いった。
二階にあがると、押入れに、安物の布団が、何枚も、詰め込まれていた。それを見ても、この別荘に、数人の人間が、寝起きしていたことが、想像される。
「五億円は、ここに、置いてあったと、思いますか?」
と、亀井が、きく。
「そうだと思うね。ランドローバーを捨てた犯人たちは、ここへ戻って来て、五億円を分配して、何処かへ、姿を消したんだ」
「この家の主の吉野敬子は、どうしたと、思いますか?」
と、亀井が、きいた。
「分け前を手にして、海外旅行に出かけたかも知れないな。彼女は、マークされていなかったから、すでに日本を出てしまっているかも知れない」
と、十津川は、いった。
「本来なら、鑑識に来て貰って、家の中の指紋を、全部、採取するんですがね」
亀井が、口惜《くや》しそうに、いう。確かに、不法侵入をしておいて、鑑識を呼ぶことは、出来ない。
「銃は、どうしたかね?」
と、十津川が、呟いた。
「犯人が、新関綾を脅すのに使ったやつですか?」
「ああ」
「五億円を手に入れたんですから、もう、この海にでも捨てているでしょう」
「八月一日まで、じっと、ここで待機していたんだ。東山温泉へ行って、丸清の主人夫婦を殺すことはあったとしてもだよ。その間に、銃の試射をやったんじゃないかね」
「やったでしょうね」
「どこで、やったかだが」
「海に向けて、射ったんじゃありませんか?」
「いや。それじゃあ、練習にならない。私はね、桟橋のような気がするんだ」
と、十津川は、いった。
二人は、外に出て、桟橋のところへ、歩いて行った。
桟橋には、大きな表示板が、掲げてあり、それには、「使用桟橋につき、繋留《けいりゆう》厳禁」と、書かれてあった。
「私は、あの板に向って試射をやったと思うんだよ」
と、十津川は、いい、表示板に近づき、指先で、調べ始めた。
しばらくして、ニッコリして、
「やっぱり、あったよ。銃弾が、めり込んでいる」
と、十津川が、いった。
亀井が、キッチンから、包丁を持って来て、弾丸を掘り出した。
弾丸は、七発、見つかった。多分、それ以上射ったのだろうが、外れて、海に落ちたのだろう。
「これで、家宅捜索の理由が、出来ましたよ」
と、亀井が、笑った。
「銃の不法所持容疑か」
「そうです。鑑識も、呼べますよ」
と、亀井は、いった。
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第七章 北へ還る
正木建設社長の正木
正木の女の吉野敬子
奥寺
沼田
この四人が、今までのところ、はっきりしている容疑者である。他にも、仲間がいるかも知れないが、間違いないと思われるのは、この四人なのだ。
彼等は、五億円の大金を、手に入れた。それを、どう分配したかはわからないが、とにかく分配し、敬子の別荘から、散って行ったのだ。
海外へ逃亡するのに備えて、全国の国際空港へは、手配を頼んだ。
しかし、空港へ、彼等が現われたという報告はなかった。
彼等の行方《ゆくえ》について、捜査本部で、検討会が、開かれた。
「どうも、海外逃亡の線はないようだね」
と、三上部長が、いった。
「私も、海外逃亡の線は、ないと、思います。もし、海外逃亡を図っていたとすれば、もっと、素早く動いているような気がするのです。人質の新関綾が、ホテルで発見された時、すでに、犯人たちは、海外へ逃亡していなければいけないのに、そうしていないのは、最初から、その考えがなかったためだと、私は、思い始めています」
と、十津川は、いった。
「しかし、四人とも、名前も顔もわかってしまっている。連中だって、それはわかっている筈《はず》だ。それなのに、なぜ、海外へ逃げようとしなかったんだろう? 空港で捕るのを、恐れたからだろうか?」
三上が、十津川に、きく。
「それは、ないと思います。奥寺と、沼田は、われわれが、前からマークしていましたが、正木や吉野敬子は、マークしていませんでした。従って、この二人は、海外へ逃亡できたわけです。ところが、入管などに問い合せても、彼等は、出国していません。ということは、どうも、最初から、海外へ逃亡する計画も、意志もなかったとしか、考えざるを得ません」
と、十津川は、いった。
「それなら、連中は、何処《どこ》へ逃げたと、君は考えているんだ?」
「正直にいって、何処と断定は出来ませんが、可能性として、一つだけ考えられるのは、北海道だと思います」
と、十津川は、いった。
「北海道か?」
「そうです。奥寺と沼田は、札幌の人間ですし、正木も、知床開発に関係しています。奥寺と、沼田は、青柳みゆきを殺すのに、われわれ警察を利用しました。彼女を、探す過程でです。何か理由があって、自分たちが、東京に出られないので、警察を利用したと考えたんですが、或《ある》いは、北海道への愛着が、彼等を、動きにくくさせていたのかもしれません」
と、十津川は、いった。
「そういえば、この二人は、東京に、マンションなどを借りたりせず、吉野敬子の別荘に、住んでいたんだな。普通なら、大都会の東京に憧《あこが》れて、大金が手に入れば、住んで、ぜいたくをするものだがね」
「連中にとって、やはり、故郷は、北海道ということかも知れません。正木が、知床開発計画にのったのも、もちろん、金儲《かねもう》けを考えたからでしょうが、北海道への思い入れみたいなものがあったからじゃないかとも、考えますね」
と、十津川が、いうと、三上は、
「そういえば、正木の父親が、北海道の生れだというのは、聞いたことがある。その父親は、北海道で、貧しく生れて、一旗あげようと、東京に出てきたらしい」
「それなら、息子の正木真一郎は、知床開発で、故郷の北海道に錦《にしき》を飾るつもりだったかも知れませんね。父親の果せなかった夢をです」
と、十津川は、いった。
「ただ、北海道は、広いですよ」
と、亀井が、口を挟んだ。
確かに、北海道は、広いと、思う。だが、考えようによれば、千二百万もの人間が住んでいる東京の中で、四人の人間を探すより、見つけやすいのではないか。
十津川は、そう思った。
それに、奥寺と、沼田は、札幌に住んでいた。札幌を、まず、探せばいいだろう。
正木真一郎の父親のことも、すぐ、調べてみた。
その結果、次のことがわかった。
真一郎の父親、正木總太郎は、網走《あばしり》の生れで、二十六歳の時、市内に建設会社を設立している。
だが、失敗して、文字通り一文無しになり、居たたまれず、故郷を捨てて、東京に出てきた。これは、戦前の話である。
その後、苦労して、正木建設を設立した。
正木建設が、大きくなったのは、戦後で、現在の社長、真一郎は、昭和四十年に、父の總太郎が死亡してから、社長の椅子《いす》についている。
真一郎のことをよく知る友人は、
「彼はいつも、北海道への憧れというか、慕情みたいなものを、持っていたんじゃないか」
と、いう。
新関の知床開発計画にのったのも、その気持が、彼にあったからだろうと、その友人は、いった。
「彼は、あの計画に、うさん臭さを感じていたんだと思うね。それなのに、のめり込んで行ったのは、父親が果せなかった北海道へのお国入りみたいなものを、夢見たからじゃないかな」
とも、いう。
網走といえば、知床の近くである。
父親の總太郎は、故郷に、錦を飾ろうとして、果せずに、亡くなった。真一郎は、その夢を、継ごうとしたのだろう。
それなら、正木は、警察に追われる今、その土地へ、逃げるかも知れない。
吉野敬子は、どうだろう?
彼女の生れは、北海道ではなかった。十津川の調べによれば、彼女は、横浜の生れである。
東京に出て、正木と知り合った。
今度の事件で、自分の家(別荘)を提供しているところをみれば、いぜんとして、正木を愛していると、見ていいだろう。
としたら、正木が、北海道へ逃げれば、彼女も、彼と行動を共にして、北海道へ渡ったと、考えるべきではないか。
十津川は、北海道へ渡ることを、決意した。
まず、道警本部に、電話連絡しておいてから、十津川は、部下の亀井たちを連れて、羽田から、千歳《ちとせ》に、飛んだ。
一四時二三分に、千歳に着く。
空港には、道警の三浦警部が、迎えに来ていた。
「網走警察署にも、連絡をとっておきました。正木真一郎と、吉野敬子の顔写真も、そちらから送られて来たものを、コピーして、届けてあります」
と、三浦は、説明してくれた。
十津川たちは、道警本部に行き、本部長にあいさつした。
本部長は、その時、
「連中は、本当に、北海道に現われると思いますか?」
と、きいた。それに対して、十津川は、
「他に行くところはないと思いますから」
と、返事をした。
人間は、弱いものだ、という気持が、十津川にはある。
特に、警察に追われるような時、その弱さが、もろに現われてしまう。十津川の今までの経験でも、それがわかる。
何人もの人間を殺した冷酷な犯人でも、生れ故郷は、警察が手配しているとわかる筈なのに、郷里に、逃げる。全く知らない場所では、不安になってしまうからなのだ。追いつめられれば、られるほど、人間は、弱さが出てしまうのではないだろうか?
今度の事件の犯人でも、同じだろうと、十津川は、思っている。
山奥のひなびた温泉にでも逃げ込めばと、思う人もいるが、それが、出来ないのが、人間だろう。見知らぬ景色と、見知らぬ人たちの中では、不安になってしまうのだ。
十津川たちが、札幌についた翌朝、網走で、正木真一郎らしき男を見たという噂《うわさ》が、届けられた。
十津川は、亀井だけを連れて、すぐ、網走に向った。
網走近くの女満別《めまんべつ》空港に、一二時一三分に着くと、網走署の安井という若い警部が、迎えに来ていた。
彼はパトカーで、網走署に、十津川たちを、送る途中で、
「正木真一郎を見たというのは、正木が、知床周辺の買収をしたとき、彼に頼まれて動いた男なんです。従って、信憑性《しんぴようせい》は、高いと、思っています」
と、話した。
「見たのは、網走市内ですか?」
「そうです」
「市内で、正木は、何をしていたんですかね?」
と、十津川は、きいた。
「K小学校の前に立っていたそうです」
「なぜ、K小学校の前に?」
「この小学校は、彼の父親、總太郎が、卒業した学校でしてね。東京に出た總太郎が、この学校に、ピアノや跳び箱などを、寄贈しているんです」
「彼も、何か寄贈する気なんじゃありませんかね。大金を手に入れたし、その金は、いわば、あぶく銭だから」
と十津川は、いった。
「それを、至急、調べてみましょう」
と、安井は、いった。
彼は、網走署に着くと、K小学校に電話をかけ、教育委員会にも、話を聞いた。
安井は、電話のあと、十津川に向って、ニヤッと、笑って見せた。
「十津川さんのいわれた通りでした。正木真一郎は、K小学校にパソコンを二十台寄贈するそうです。なんでも、一週間後の二十六日に、彼が出席して、パソコンの贈呈式が、行われるそうです」
「二十六日ですか。本当に、正木が現われるのなら、逮捕のチャンスですが」
と、十津川は、いった。
「そうですねえ。それは、正木の性格にかかってきていると思います。学校と、教育委員会には、われわれが調べていることは、内密にしておくように、いっておきましたが」
と、安井は、いった。
十津川が、調べた限りでは、正木真一郎は、自信家で、自己顕示欲が強いといった性格である。それは、彼の会社で働いた人間の多くが、口にする。
ただ、その性格が、今も生きているかどうかは、わからない。正木は、新関に欺《だま》され、復讐《ふくしゆう》のために、新関の娘を誘拐した。そして、今、犯罪者として、警察に追われている。そのことが、彼の性格を、変えてしまっているかも知れない。
少くとも、用心深くは、なっているだろう。
網走署では、捜査方針について、議論が、行われていた。
正木は、一週間後に、K小学校に、現われるかどうかを、めぐってである。
もし正木が、この日に出席する気でいるのなら、今は、彼を探すのを止《や》めて、彼を油断させるべきではないかというのが、一つの意見であり、反対に、二十六日に現われるかどうかわかったものではないから、網走市内と、その周辺を、徹底的に、探すべきだという意見と、二つに分かれてしまった。
ここは、北海道だから、十津川としては、あくまでも、道警の指示に従わなければならないのだが、署長に、意見を聞かれた時、
「私は、何もせずに、二十六日を待ちたいと思います」
と、いった。
「二十六日に、正木が、必ず、K小学校に現われると、思うわけですか?」
と、署長が、聞いた。
「必ずというほどの確信はありませんが、私は、正木の自尊心に賭《か》けたいと、思うのです。彼は、もともと、犯罪者タイプじゃありません。ひたすら、郷里に錦を飾りたいと考えていて、新関の話にのって、知床周辺に土地を買ったのも、もちろん、金儲けもあるでしょうが、故郷に錦の気持も、強かったと思うのです。結局、新関に欺された恰好《かつこう》になりましたが、その復讐をした。残る感情は、故郷に錦ということしか、無くなっているのではないか。私は、そう考えるのです」
と、十津川は、いった。
「だから、二十六日には、K小学校に、現われると、思われるんですか?」
と署長が、きいた。
「正木が、網走に現われた理由は、他にないと、思うのです。もし、ただ逃げるだけのことを考えているのなら、北海道には、戻って来なかったと思うのです。それこそ、女と、海外へ、逃げたと思います。多分、正木は、ずっと、故郷を捨てた父親のことが、頭にあったんじゃないか。父親が亡くなってからは、父に代って、故郷に錦を飾りたい、故郷の人々に、認められたい、賞讃《しようさん》されたいと、思い続けたのではないかと思うのです」
「その気持を、今でも、持ち続けていると、十津川さんは、思われるんですね?」
と、署長は、更に、きいた。
「私は、ずっと、考え続けました。新関に欺されたことへの復讐、そのために、殺人も起こしています。誘拐が重罪だということも、知っている筈です。それで、彼の性格とか、考え方が、変ってしまったのではないかとかです。しかし、K小学校にやって来たり、パソコンを寄贈したりしていることを考えると、彼の性格も、故郷に対する気持も、変っていないと思いますね。いや、変っていないというよりも、彼には、今、故郷への関心しか、残っていないのではないかと思います」
と、十津川は、いった。
「それでは、二十六日まで、われわれは、動かない方がいいと、思いますか?」
と、署長が、きいた。
「いや、探した方がいいでしょうね」
と、十津川は、いった。
「しかし、十津川さん。二十六日に逮捕したいのであれば、それまでは、何もしない方がいいんじゃありませんか?」
署長が、眉《まゆ》をひそめて、きいた。
「私も、最初は、そう思いました。しかし、今回の事件を考えると、正木は、頭のいい男です。警察の力を使って、自分たちの見つけたい女を、探し当てたことでもわかります。それを考えると、われわれが、何もしないでいると、かえって、彼は、疑問を持つ可能性が強いと、思わざるを得ないのです。従って、探すジェスチュアを見せた方が、正木は、現われる可能性があるんじゃないかと考えるようになりました」
と、十津川は、いった。
「しかし、K小学校の周辺に、パトカーが走り廻《まわ》っていたら、絶対に、正木は、現われないんじゃありませんか?」
と、刑事の一人が、きいた。
「もちろん、その通りです。ここは、正木と、知恵比べだと思います。一週間後の二十六日に向けてのです」
と、十津川は、いった。
「どうするんですか?」
と、署長が、きく。
「最初に、必死になって、探し廻り、一週間後には、網走には、来ていないという結論になって、捜査をやめてしまう。正木に、そう思わせれば、成功ではないかと思うのです」
と、十津川は、いった。
「難しいですな」
「そうです。難しいかも知れません」
と、十津川も、いった。
議論が戦わされた。
最初は、十津川の考えに、反対が、多かった。一か八かの計画ではないかと、考えたかららしい。
もし、二十六日に、正木が現われなかったら、芝居をしたのは、それこそ、バカみたいな感じになってしまうからである。
二十六日に現われることは、考えず、全力をあげて、捜査する方が、警察のやり方としては、正道ではないかというのである。
それが、一転して、十津川の考えを採用したのは、多分、失敗しても、本庁の刑事の考えに従ったからだという弁明が出来ると、読んだからだろう。
翌日から、町中を、パトカーが、走り廻ることになった。
当然、マスコミが、何の捜査かと、聞いてくる。それに対して、署長は、
「東京の事件の重要参考人が、網走に逃げて来たという噂があるので、探しているところです。噂なので、信憑性は、薄いのですがね」
と、いった。
正木真一郎の名前と、写真は、出さなかった。容疑者ではなく、重要参考人だからということである。もちろんこれも、計画の中に入っていたことだった。
パトカーは、走り廻ったが、正木は、見つからなかった。
それも、十津川は、計画に入れていた。二十六日に、K小学校に現われるつもりなら、それまで、網走市内にいる筈がないからである。
正木が、二十六日に、現われるつもりでいればいるほど、それまでは、遠く離れた場所にいるだろう。十津川が、正木の立場でも、そうする筈である。
一方、札幌市内でも、奥寺と沼田探しが、展開されていた。
こちらは、二人が、いつ、何処に現われるかわからないので、文字通り、警察が、全力をあげて、二人の行きそうな場所を、しらみ潰《つぶ》しに探した。
二十一日、二十二日と、なっても、見つからなかった。
網走から、十津川は、札幌にいる西本たちに電話をかけて、毎日、向うの様子を聞いている。
「二人を見たという話が出ているので、北海道へ来ていることは、間違いないと、思います。そこで、北海道からの出口は、全《すべ》て、道警が、押さえてしまいました。空港、港、それに、列車です。まだ、二人は見つかりませんが、北海道からは、逃げられないと、思います」
と、西本は、いった。
「こちらは、多分、二十六日に、逮捕できると、思うよ」
と、十津川は、いった。
「三人、いや、吉野敬子を入れると、四人ですが、今も、連絡を取り合っていると、思われますか?」
と、西本が、十津川に、きいた。
「それは、どうかな。四人は、協力して、五億円を手に入れたが、なぜ、やったかについては、それぞれの思いがあったと思う。それが違っていれば、正木と敬子、の二人と、奥寺たちとは、全く別の行動をとっている筈だよ」
と、十津川は、いった。
二十三日、二十四日と、過ぎていく。
まだ、一人も、見つからなかった。
二十五日は、網走署で、記者会見を開き、署長と、十津川が、テレビや、新聞記者たちに向って、事情を説明した。
まず、署長が、今日までの捜査について、話した。
「東京の事件の重要参考人が、この網走に逃げ込んだという情報があったので、今日まで、全力をあげて、捜査を続けて来ましたが、見つかりません。われわれとしては、網走には、来ていないと、断定せざるを得なくなりました」
と、署長は、いった。
「それでは、これから、どうするんですか? 今日は、パトカーが、全く走っていませんが、捜査は、中止ですか?」
と、記者の一人が、手をあげて、きいた。
「その点については、本庁の十津川警部が、説明します」
と、署長が、答える。
十津川は、指名されて、
「正直にいいまして、もともと、重要参考人が網走に来ているという情報は、さほど、信憑性のあるものではなかったのです。東京に身を隠したか、それとも、生れ故郷の網走に逃げたか、半々ではないかと、考えたのです。ただ、網走で見たという情報があったので、こちらに来て、道警の協力を得て、捜査を続けました。しかし、見つかりませんでした。その上、昨夜おそく、東京の調布市内で、問題の人物を見かけたという確かな情報が入りました。やはり、東京に身を潜めていたわけです。今日中に、私と、亀井刑事は、東京に戻ります。お騒がせしたことを、この際、お詫《わ》びしておきます」
と、話した。
「まだ、重要参考人の名前を話して貰《もら》えませんか?」
と、記者の一人が、きく。
「まだ、容疑者でもありませんから、申しあげられません」
と、十津川は、いった。
「捜査中止と、書いてもいいんですね?」
「事実ですから、どうぞ、お書きになって下さい」
と、十津川は、いった。
その日の夕刊に、一斉に捜査中止の記事がのった。
テレビのニュースも、記者会見の模様を伝えた。
新聞も、テレビも、警察が、重要参考人の名前をいわなかったことを、批判した。
十津川は、これで、用意は、全て、終ったと思った。
問題は、正木が、こちらの芝居を、どう受け取ったかということだった。
正木は、明日二十六日に備えて、安全な網走を離れた場所に、身体《からだ》を休めているのだろう。
テレビや、新聞のニュースは、必ず、聞いたり見たりしている筈である。犯罪者なら、当然の筈である。
問題は、正木が、それを、どう受け取るかだった。
警察が、必死に捜したが見つからず、網走周辺の捜査は止めて、東京を捜すことになった。そう考えてくれれば、正木を逮捕できるだろう。
だが、もし、正木が逆に考えれば、かえって、用心して、姿を見せなくなってしまうに違いない。
だから、十津川は、賭けだと思うのだ。
「この賭けは、勝てると思われますか?」
と、亀井に聞かれると、十津川は、返事に窮してしまう。
自信があっても、明日、正木が現われなければ、完全な敗北になってしまうのだ。
「何ともいえないね。わかっているのは、明日、答が、見つかるということだけだよ」
と、十津川は、いった。
翌日は、朝から、小雨だった。
十津川は、縁起をかつぐ方ではないのだが、やはり、雨空を見あげて、いやな気がした。
亀井が、そんな十津川を、勇気づけるように、
「雨の方が、正木が現われる確率が高くなりますよ」
と、いった。
「なぜだい?」
と、十津川は、雨足を見ながらきく。
「正木は、犯罪者です。出来れば、サングラスに、マスクでもかけて、今日の贈呈式に参加したい筈です。雨の日なら、傘で隠して歩けます。晴天の場合より、隠れやすいという感じを、正木が持てば、少しは、今日、現われる確率が高くなるんじゃありませんか」
と、亀井は、いった。
「ありがとう」
と、十津川は、礼をいった。亀井が、少しでも、十津川を勇気付けようとして、いっているのが、よくわかるからだった。
十津川は、署長と密接に連絡をとり、K小学校の包囲に当った。
パトカーは、一台も使わなかった。もしパトカーが、K小学校の近くに止まっていたり、動き廻っていたりしたら、折角の、これまでの芝居が、全て、無に帰してしまうからである。
贈呈式の模様は、地元のラジオが、放送することになっていた。
十津川たちはK小学校には行かず、包囲網の中で、ラジオに、耳を傾けていた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈朝から雨の中、K小学校の体育館で、贈呈式が、始まろうとしています。校長を始めとして、PTAの役員などが、参列し、これから、正木真一郎氏の代理から、パソコン二十台の目録が、校長に、渡されます――〉
[#ここで字下げ終わり]
「代理?」
一瞬、十津川の顔色が、変った。
正木は、来なかったのか。
「代理でも、捕えますか?」
と、署長が、きく。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
〈今、代理の――ええと、今井浩之さんから、目録が、校長に、渡されました。今井さんに、ちょっと、聞いてみましょう〉
[#ここで字下げ終わり]
そんなアナウンスがあって、アナウンサーと、代理人の今井浩之という男の会話が、耳に飛び込んできた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――今井さんは、正木真一郎さんとは、どんな関係なんですか? 正木さんに比べると、ずいぶん、お若いようですが。
――臨時に傭《やと》われたんです。だから、正木さんのことは、よく知らないんですよ。とにかく病気で、今日、ここに行けないから、代理ということで、行ってくれと、頼まれただけなんですよ。
――じゃあ、パートのアルバイトみたいなものですか?
――ええ、そうなんです。申しわけありません。
[#ここで字下げ終わり]
「おかしい」
と十津川は、呟《つぶや》いた。
「この男が、おかしいと?」
と、署長がきく。
「そうじゃありません。正木が、現われないことがです」
「しかし、現に来ていない。きっと、用心して、来ていないんですよ。一筋縄じゃいかない男なんですよ。アルバイトを使って、パソコンを寄贈した実績だけを、作る気なんでしょう」
「いや、それなら、こんな式なんか、必要ない筈です」
「しかし――」
「正木は、来ているんですよ。自分の眼《め》で、この晴れがましい贈呈式を見たい筈です」
と、十津川はいった。
「しかし、いませんよ」
「いや、いる筈です」
「しかし、十津川さん、運動会みたいに、沢山の人が参加するものなら、正木が、隠れて、入り込むことは出来ますが、今日の式は、体育館で、小人数でやっているんです。正木が、隠れて式に参加することなんか、出来ませんよ」
と、署長は、いった。
「いや、正木は、今日の式を見たい筈です」
と、十津川は、いい、
「行ってみよう」
と、亀井を、促した。
十津川は、走った。
K小学校の校門を入り、体育館に向って、駈《か》ける。
雨のしずくが、顔に降りかかる。
今日は、日曜日で、校内は、がらんとしている。
体育館の入口のところに、車がとまっている。
校長たちが、一人の若い男を、送って、出て来るところだった。
一緒に出てきた中年の運転手が、車のドアを開けて、若い男を迎える。
「正木さんに、よろしく、お伝え下さい」
と、校長が、若い男に、頭を下げている。
「伝言は、お伝えします」
と、代理人の男は、いい、リア・シートに、おさまった。
エンジンがかかった。
十津川と、亀井は、駈け寄って、
「エンジンを止めろ!」
と、怒鳴った。
「何をするんですか?」
と、校長が、あわてて、叫ぶ。
十津川は、そんな校長の言葉を無視して運転席の運転手に向って、
「エンジンを切るんだ!」
と、大声で、いった。
それでも、運転手は、ハンドルを握り、車をスタートさせようとする。
十津川は、拳銃《けんじゆう》を取り出した。
車が、走り出した。急速に、加速して、校門に向う。
十津川は、そのタイヤに向って、一発、二発と射った。亀井も、十津川にならって、拳銃を、発射した。
近くにいたPTAの婦人から、悲鳴があがり、校長が、
「何をするんですか!」
と、叫んだ。
車は、校門に激突して、とまった。車体は、斜めになり、後輪が空転している。
十津川は、拳銃を、内ポケットにおさめて、ゆっくり、車に近づいて行った。
リア・シートから、若い男が、這《は》い出してくる。
十津川は、その男は無視して、運転席のドアをこじ開け、のぞき込んだ。
運転手は、額から、血を流して、呻《うめ》き声をあげていた。
サングラスが外れ、かぶっていた、うす茶のハンチングが、飛んでしまっている。
「大丈夫か?」
と、十津川は、声をかけた。
「右膝《みぎひざ》をやられた」
と、運転手が、呻くように、いった。
「カメさん。救急車を呼んでくれ」
と、十津川は、亀井に、いってから、
「正木真一郎さんだね?」
と、運転手に、声をかけた。
運転手は、返事をしない。一一九番して戻ってきた亀井と、二人がかりで、運転席から、男を引きずり出した。
右膝が、曲ったままになっている。ズボンの膝のあたりが裂けて、血が、流れているのが、見えた。
地面に横たわり、呻き続けている男の顔を、改めて、十津川は、のぞき込んだ。
亀井も、横から、見すえて、
「間違いありませんね。正木真一郎ですよ」
と、小声でいった。
「やっぱり、自分の眼で、今日の贈呈式を、見たかったんだろう」
と、十津川も、小声で、いった。
雨が、男の身体を濡《ぬ》らし、血が、流れて地面に滲《し》み込んでいく。
サイレンの音がして、救急車が、到着する頃には、署長を始めとして、道警の刑事たちも、K小学校に、集まってきていた。
「本当に、正木真一郎なんですか?」
と、署長が、担架にのせられる男を、のぞき込むように見て、十津川に、きいた。
「間違いありません。正木です」
と、十津川は、いった。
救急車が、走り出し、覆面パトカーに乗った十津川たちが、後に従った。
運ばれたのは、網走中央病院である。ここも、日曜日で、外来の姿はなく、すぐ、右膝の手術が、行われた。
その間に、代理で、贈呈式に出た今井という男の訊問《じんもん》が、パトカーの中で行われた。
今井は、自分の運転免許証を示し、たまたま、傭われただけの人間であることを、強調した。
今井の話によると、彼は、東京から、ひとりで、北海道に遊びに来て、サロマ湖の湖岸のホテルに泊っていたが、そこで、昨日、男に声をかけられたという。
「明日、網走のK小学校で、パソコンの贈呈式がある。それに、自分の代理で、目録を、校長に渡してくれというのですよ。それだけのことで、五万円もくれるというんで、すぐ、引き受けました」
と、今井は、あっけらかんとして、いった。
「おかしいなとは、思わなかったのかね?」
と、十津川が、きいた。
「多分、恥しいんだろうと思いましたよ、慈善はしたいが、恥しいという人もいるでしょうからね」
「その男が、運転手になって、贈呈式についてくるというのは、おかしいと、思わなかったのかね?」
「別に。とにかく、人殺しなんかするわけじゃないし、五万円も貰っているんだから、構わないじゃないかと、思っていましたよ」
と、今井は、いった。
今井に、サロマ湖のホテルの名前を聞いて、十津川は、亀井と、そのホテルに、パトカーで向った。
湖岸のホテルだった。
日曜日のホテルのロビーは、到着した観光客で、賑《にぎわ》っていた。
今、北海道は、観光の季節なのだ。
十津川と、亀井は、フロントに直行すると、警察手帳を見せ、正木真一郎の顔写真を示して、
「この男が、ここに、泊まっていたね?」
と、きいた。
十津川の表情が、きつくなっている。
それに、つられる感じで、フロント係も、表情をかたくして、
「泊まっていらっしゃいます。お名前は、吉田秀夫様ですが」
「ひとりじゃない筈だ。一緒に泊っているのは?」
「奥様が、ご一緒です」
「今、その奥さんは? 部屋にいるのかね?」
「いらっしゃると、思いますが」
「案内してくれ」
と、十津川は、いった。
ルーム係の女性が、十津川と、亀井を、五階の部屋に案内した。
「おかしなお客様で、テレビは見ずに、ラジオを聞いていらっしゃいましたわ」
と、ルーム係が、エレベーターの中で、十津川に、いった。
それは、網走のK小学校の贈呈式を報道するラジオを、聞いていたに違いなかった。
514号室だった。
ルーム係が、ドアをノックし、声をかけても、返事がない。
十津川は、ドアを開けさせ、部屋に、飛び込んだ。
三部屋もあるスイートルームだった。洋室の居間のテーブルの上には、小型ラジオが、放り出されていた。音楽が鳴っている。
スーツケースが、部屋の隅に置かれているが、ハンドバッグが見当らない。
部屋の隅の受話器の横に、メモ用紙があり、それに、ボールペンの走り書きがしてあった。
011―598―23××(406)
と、数字が、並んでいる。他は、何も、書かれていなかった。
十津川は、部屋の電話を使って、その数字にかけてみた。
「定山観光ホテルでございますが」
という声が聞こえた。
札幌に近い定山渓のホテルらしい。とすると、406というのは、部屋の番号だろう。
十津川は、急いで、同じ電話を使い、札幌の道警本部にかけ、西本刑事を、呼んで貰った。
「正木真一郎は、こちらで、逮捕した。ただ、一緒にいたと思われる吉野敬子には、間一髪で、逃げられた。逃げた先は、多分、定山渓温泉の定山観光ホテルだ。そのホテルに、奥寺と沼田もいると思う」
と、十津川は、いった。
「本当ですか?」
と、西本が、きく。
「こちらのホテルで、正木と、吉野敬子が、定山観光ホテルと、連絡をとっていたんだ。そのホテルの406号室の人間とだよ」
と、十津川は、いった。
「わかりました。すぐ、道警の責任者に、話します」
西本は、興奮した口調で、いった。
電話がすむと、十津川は、急に、全身から力が抜けていくような気がした。
亀井が、その間に、スーツケースを開けて、中身を調べていた。
「ここに泊っていたのは、吉野敬子に間違いないようですね。このスーツケースにも、K・Yのイニシャルが、入っています」
と、亀井が、十津川に、いった。
「他に、何が見つかったのかね?」
「預金通帳といったものも、札束もありません」
「手に入れた大金は、銀行に預金してしまったか、どこかに、隠してしまったんだろう」
と、十津川は、いった。
二人は、ホテル周辺の聞き込みを行った。
その結果、吉野敬子と思われる女が、ホテルの外で、タクシーを拾ったことを、確認した。
そのタクシーは、石北本線の遠軽《えんがる》駅まで、客を運んでいた。
運転手に会って、聞くと、
「女の人は、ずっと、青い顔をしていました。ちょっと、気味が、悪かったですねえ」
と、いう返事が、戻ってきた。
吉野敬子の顔写真を見せると、間違いなく、彼女だったと、証言した。
石北本線の遠軽から、彼女が、何処へ逃げたかわからない。
しかし、彼女は、正木を愛していたと見ていいだろう。だからこそ、北海道まで、一緒について来たのだと、十津川は、思う。
その敬子は、正木が、捕ったと気付いて、逃げ出した。
しかし、それだけ愛していた正木を放り出して逃げたとは、思えない。どうしたらいいか、誰かに相談しに行ったと考えるのが、自然だろう。
今、彼女が相談できる人間といえば、一緒に、今回の犯罪に参加した奥寺と、沼田の二人である。
彼等の連帯が、どんなものだったか、十津川には、わからない。だが、最初は金欲しさや、憎しみで、手を結んだとしても、殺人などを続けている中《うち》に、ダーティは、ダーティなりに、連帯感を強めたのではないだろうか?
それに、正木も、奥寺たちも、この北海道の生れだったら、北海道を故郷としている人間たちである。その面の連帯感もあるだろう。
十津川と、亀井は、遠軽から、札幌へは行かず、網走に引き返した。
向うのことは、道警と、西本たちに委《まか》せておこうと考えたこともあるし、正木から、話を聞きたいこともあったからである。
十津川と、亀井は、正木が運ばれた病院に、急いだ。
網走署長が、十津川を迎えて、
「正木の傷は、大したことはなかったみたいです。右膝の手術をすませて、今は訊問可能です」
と、教えてくれた。
「訊問はされましたか?」
「一度しました。新関肇の娘を誘拐し、五億円の身代金を奪ったことは、素直に認めましたが、それは、新関によって損害を与えられたのだから、その損害を返して貰っただけだと、いっています」
「殺人については、どういっているんですか?」
「それは、他の二人がやったものだから、自分は、関係ないと、いっています」
と、署長は、いった。
十津川と、亀井は三階の病室に、正木を訪ねた。
彼は、ベッドに寝たまま、十津川たちを迎えた。
「全部、ここの刑事に話したから、もう話すことはないよ」
と、正木は、いった。
「なぜ、網走に来たんだ? 捕ると思わなかったのか?」
と、十津川はきいた。
正木の口元に、小さな笑いが浮かんだ。
「私の夢は、北海道の広い土地を買って、父親が潰した会社を北海道に作ることだった。新関代議士に、その夢を託したんだが、裏切られてしまった。新関から、五億円を奪ったのは、私にしてみれば、弁償して貰ったようなものだよ。悪いことをしたとは、思ってないんだ」
と、いった。
「しかし、君たちは、人を殺してるじゃないか。北川治や丸清の主人夫婦を殺し、雑誌記者を殺している。それに、五億円を取り返したみたいにいってるが、誘拐は、重罪なんだよ」
と、十津川はいった。
「人殺しは奥寺たちが、勝手にやったものだ。私には、関係ない」
と、正木はいった。
「しかし、連中と一緒に、今度の計画を立てたんだろう?」
と、十津川は、いった。
正木は、首をすくめるようにして、
「あの二人は、ただの小悪党だよ。私に便乗して、大金を手にいれたかっただけだ。いわば、私を利用しただけだ」
と、いう。
「君だって、彼等を利用したんだろう? 君一人じゃあ、あんな誘拐は、実行できなかった筈だよ」
「正義を、行うのに、ちょっと手を借りただけだ。ちゃんと、報酬も、払っている」
「吉野敬子だが、彼女は、札幌に、奥寺たちに会いに行っているよ。間もなく、全員が、逮捕されるだろうがね」
と、十津川がいうと、正木は、舌打ちして、
「敬子の奴《やつ》、なぜ、そんな馬鹿なことをするんだ! あんな小悪党たちとは、もう、連絡をとるなと、いっておいたのに」
と、いった。
あくまでも、自分は、正義を行ったのであって、奥寺や沼田とは、違うのだという気持なのだろう。
正木の訊問中に、署長が、呼びに来た。十津川と、亀井が廊下に出ると、
「定山渓温泉で、連中が、今、逮捕されたそうです。奥寺と、沼田の二人、それにもう一人、奥寺の友人の神崎という男が、いたそうです。どうやら、金につられて、仲間入りしていたようです。吉野敬子も、彼等に会いに来たところを、逮捕されています。正木が捕ってしまって、どうしたらいいか、相談に行ったようですね」
と、署長が、メモを見ながら、報告した。
「金は、見つかりましたか?」
と、亀井が、きいた。
「奥寺たちは、車で、東京から逃げて来ていて、その車の中に、三人分の三億円が、積んであったそうです」
「では、正木と吉野敬子が、受け取ったと思われる二億円は?」
と、十津川は、きいた。
「彼女が預金通帳を持っていたという報告は、来ています。多分、それに、入金されているんだと思います」
と、署長はいった。
正木と、敬子は、北海道で、何か事業をやろうと考え、預金していたのかも知れない。
そんなことが、出来ると、思っていたのだろうか?
十津川と、亀井は、病室に戻ると、
「全員が、捕ったよ。吉野敬子もだ」
と、十津川は、正木にいった。
「あの連中は、捕ったって仕方がない。ただ金欲しさに、動き廻ってただけだからな」
と、正木はいう。
自分は、奥寺たちとは、違うのだということを強調したいのだろう。
「あんたと、奥寺たちのどこが違うんだ?」
と、亀井が、睨《にら》むと、正木は、横を向いてしまった。
十津川と、亀井が、訊問を了《お》えて、病室を出ようとすると、正木は、
「教えて貰いたいことがある」
と、十津川に、声をかけた。
「何だね?」
と、立ち止って、十津川は、正木を見た。
「私が捕ってK小学校の件はどうなるのかね? パソコンの寄贈者として、私の名前は、残るんだろうね?」
と、正木はきいた。
本書は平成六年三月、カドカワノベルズとして刊行されたものを文庫化したものです。
角川文庫『北緯四三度からの死の予告』平成8年9月25日初版発行