西村京太郎
みちのく殺意の旅
目 次
第一章 五年の歳月
第二章 飯 坂 温 泉
第三章 東  京
第四章 天 童 温 泉
第五章 王 将 風 呂
第六章 推 理 合 戦
第七章 疑惑の中で
第八章 帰京のあと
第九章 置 手 紙
第十章 解明への旅
第十一章 逮 捕 状
第十二章 日  記
第一章 五年の歳月
その手紙を受け取った時、矢代はしばらく考えた末、出かけることにした。
すでにあれから五年の歳月がたっているのだ。人間の憎しみも、五年もたてば薄らいでいるだろう。
阿部も、だからこそ矢代に、こうして招待状を寄越したに違いない。矢代はそう思った。
原田に電話してみると、彼のところにも阿部から招待状が来ているという。
「それで、君は水戸へ行く積りか?」
と矢代は原田にきいた。
「実は、おれの方から君に相談しようと思っていたんだ。あれ以来、水戸には行っていないんだよ。久しぶりに、水戸の町も見たいしね」
「同感だね。家内も時々、水戸をなつかしがっているんだ」
「そうだろうね。おれや君は水戸生れじゃないが、由紀さんは生粋の水戸っ子だからな」
「田村の消息は聞いてないか」
「横浜で、小さな食堂をやっているらしい。結婚はまだみたいだ」
「君は結婚しているんだろう?」
「婚約中だよ。来年の春に式をあげる。その時には招待状を出すよ」
「どうだ。君のフィアンセも入れて、一緒に水戸へ行ってみないか。出来たら田村も誘ってね」
「阿部におれ、それに君と由紀さん、田村と木下みどりの六人が集まれば、あのグループ全員ということになるな」
「集まって、五年前のわだかまりをきれいに解消しようじゃないか。君もフィアンセを連れて来いよ。水戸で阿部と和解したあと、家内がいっているんだが、東北を一緒に旅行してみないか。東北の温泉めぐりなんかいいと思うがね。阿部もそういっている」
「そうだな。四、五日、骨休めをするのもいいね。おれのフィアンセだが、若いが温泉が好きでね。聞いたら大学時代に、女の子ばかりで温泉研究会を作っていたというんだ。最近は、ヤング・ギャルの間で温泉が人気があるらしい」
「それなら行こうよ。僕は有給休暇がたまっているので、五日ぐらい休みを取ろうと思っているんだ」
「水戸からだと、まず福島へ出て、飯坂温泉かな。少し俗っぽいかもしれないが」
原田は、完全に行く気になっている口振りだった。
矢代は、笑って電話を切った。
水戸には、楽しさと苦痛の二様の思い出があった。
矢代は、水戸の大学で四年間を過ごした。
文学青年だった矢代は、「東海砂丘」という同人雑誌をやっていた。
水戸藩の景勝地として、昔から水戸八景と呼ばれるものがあり、その一つが東海村の砂丘だったからである。
同人は六人だった。矢代の他に、阿部、原田、田村、池西由紀、それに木下みどりの六人である。
六人の中《うち》には真剣に、将来作家になりたいと念じていた者もいたし、ただ単に青春の思い出に入っていた者もいたようである。だが今となっては、誰がどうだったかということは、あまり意味がない。
六人の中、五人は、文学から遠いところに今いるからだ。同人誌時代には、作家としての才能が一番ないと思われていた木下みどりだけが、現在も小説を書いていると、矢代は聞いたことがある。
同人誌「東海砂丘」は、大学二年の時に始めている。そして、大学四年の秋に一つの事件が持ち上がった。
六人の中で、リーダー格だったのは、浪人した関係で一番年長だった阿部である。年長だということ以外にも、阿部は他の五人より本を読んでいたし、有名な作家の家を訪ねて、「東海砂丘」に原稿を頼んでくるというような実行力も備えていた。
最初の中、矢代たちは阿部の才能に敬服していたから、彼がリーダーとして我がもの顔に振舞うのも、許して来た。
それが結果的に、かえっていけなかったのかもしれない。
阿部は傲慢《ごうまん》になり、矢代たちに迷惑をかけても平気になった。
大学の先輩で、Nという流行作家がいる。
阿部は東京に訪ねて行き、自分達の雑誌のことを話し、寄附を頼んだ。Nは十万円を寄附してくれたのだが、阿部は他の五人に相談なしにやってしまい、揚句、その十万円を呑《の》んで使ってしまったのである。
Nから、同人雑誌が送られて来ないというハガキが来て、矢代たちは、はじめて知ったのである。
他にも、阿部の勝手な行動で迷惑をうけることが多かった。例えば、「東海砂丘」は大学周辺の喫茶店などから援助金を貰《もら》い、その広告をのせて維持費の足しにしていたのだが、それも阿部が受け取って飲んでしまったこともある。
矢代たち五人は我慢が出来なくなって、阿部を除名してしまった。
それが、大学四年の秋である。
矢代としてみれば、同人誌からは除名するが、友人としてはこれまで通りつき合ってもいいやと思っていたのである。
ところが阿部は、なぜか突然、大学をやめてしまった。
矢代には、理由がわからなかった。阿部が勝手に仲間の金を飲むのに使ってしまったことは、他には洩《も》らしてはいなかったからである。
わからないままに矢代は、同人誌仲間の池西由紀と結婚した。大学を卒業するとすぐである。
その時やっと、阿部がなぜ大学までやめてしまったか、その理由に気がついたのである。
阿部は由紀が好きだったのだ。他のことには強引なくせに、阿部は彼女に対しては、不器用にしか接することが出来なかった。
阿部は勝手に由紀に惚《ほ》れ、勝手にひとり悩み、勝手に怒っていたのである。同人誌の金まで使って酒に酔っていたのは、そのためだったのかもしれない。
自分が除名された時、愛していた由紀までがそれに加わっていたことに、阿部は怒りと絶望を感じて、大学までやめてしまったのである。
その揚句、阿部はカミソリで手首を切って自殺まで図った。ためらい傷がかなりあったので、警察は、本当に死ぬ気はなかったのではないかという見解だったが、矢代たちの受けたショックは大きかった。
矢代は最初、由紀と水戸に住むつもりで、就職口も市内の銀行にしていたのだが、急遽《きゆうきよ》、東京に引越すことにしたのもそのためだった。
あれから五年たった。
そして、阿部からの招待状が届いたのだ。
文面は明るいものだった。総《すべ》てが若気の気負いだったと書き、六人で集まって、学生時代の楽しかったことだけを語り合わないかとあった。
矢代が行く気になったのは、阿部が水戸市内で喫茶店をやって成功しており、結婚したと書いてあったからである。
阿部がいまだに独りでいたら、いくら誘われても、由紀を連れて水戸を再訪する気にはなれなかったろう。由紀に対する未練があって、まだ独身のままでいるのかと、どうしても考えてしまうからである。
矢代は、勤務先の銀行に五日間の休暇届を出し、十一月七日に由紀と二人、上野駅に向った。
上野駅には、原田が可愛らしいフィアンセと一緒に、先に来て待っていた。
「加藤敬子さん」
と原田はちょっとばかり照れた顔で紹介した。
同じ年の二十七歳だというが、小柄なのでもっと若く見えた。
矢代たち四人は、一四時〇〇分発の特急「ひたち23号」に、乗った。
特急なら、上野から一時間二十一分で水戸に着いてしまうのである。
それなのに、五年間、矢代も由紀も水戸を訪ねていなかった。
列車に乗ってしまうと、これまでのためらいが嘘《うそ》のように思えてきた。
「田村には、とうとう連絡が取れなかったんだ」
原田は、流れて行く窓の外の景色に眼をやりながら矢代にいった。
「僕も連絡を取ろうと思ったが、住所がわからなくてね」
と矢代もいった。
女二人は男たちの会話には構わず、ファッションの話をしている。矢代には、その方が有難かった。
原田は、バッグから東北地方の温泉のパンフレットを取り出した。
「あれから、旅行代理店に行って集められるだけ集めてみたんだ」
原田は得意げにいった。言葉どおり、十何枚という数である。
温泉の話になると、女たちも話の中に加わって来た。
「男だけで遊びたい温泉もあるねえ」
原田が、ニヤニヤ笑いながらいった。
「どうぞ、行ってらっしゃい」
加藤敬子が冗談まじりにいう。このままだと原田が誘いそうなので、矢代はあわてて、
「僕は駄目だよ」
「君のところはかかあ天下か」
原田がひやかす。そんな他愛のない会話を交わしている中に、列車は水戸駅に着いた。
ホームに降りて、矢代は駅の変りように驚いた。
エクセルと呼ばれる、六階建の駅ビルに変容していたからである。
列車は一階のホームに着き、改札口は二階になっている。
「すっかり変ってるわ」
由紀は改札口を抜けながら、驚きの声をあげていた。水戸は茨城県の県庁所在地だが、これまで大都市という感じがなかった。人口が二十二万と少いこともあるが、その他に、大きな事件の舞台になることがなかったからだろう。
それだけ、昔のたたずまいを保った静かな町のイメージが矢代にあったのだが、久しぶりに訪ねると、この町も大きく変貌《へんぼう》しようとしているのがわかった。
四人が北口に出て行くと、
「おーい。ここだ!」
という大きな声が聞こえた。
阿部だった。サングラスをかけた女と一緒に、矢代たちの方へ手をあげて歩いて来る。
学生時代も大柄だったが、もっと太って、大きくなった感じだった。
「よく来てくれたね」
と阿部は嬉《うれ》しそうに微笑してから、
「これと、結婚してね」
と一緒の女性を紹介した。
彼女がサングラスを外した時、矢代と原田、それに由紀も、一様に「あれっ」と声をあげていた。
同人誌の仲間だった木下みどりだったからである。
「なんだ、彼女と結婚したんなら教えてくれればよかったのに」
原田がいった。
「どうも照れ臭くてね」
阿部は頭をかいた。
「おめでとう、みどりさん」
と由紀がいった。
原田が、不思議そうな顔をしているフィアンセの敬子に、小声で事情を説明している。
「とにかく、おれの店でひと休みしてくれ」
と阿部がいった。
駅前の大通りをまたいで、長い歩道橋がかかっている。
「ずいぶん変ったわ」
由紀はみどりに向って溜息をついている。
原田はフィアンセと話をしているので、自然に矢代が歩道橋を渡りながら、阿部と話すことになった。
「彼女はまだ、小説を書いているみたいだね?」
と矢代はきいてみた。
「そうなんだ。今、S誌の文学賞の候補になっていてね。当選しそうなんだ」
阿部は、嬉しそうにいった。
「そりゃあ素敵だ」
「君はどうしてるんだ?」
阿部にきかれて、矢代は苦笑した。
「おれは、今の銀行員の仕事に満足しているよ」
「銀行員か」
「田村には連絡がとれなかったんだが、彼も来るのかな?」
「一応、住所を調べて手紙を出したよ」
と阿部はいった。
歩道橋をおりて五、六分歩いたところに、阿部のやっている喫茶店があった。
「アカプルコ」という名前だった。「本日は臨時休業させて頂きます」と、ドアに貼紙《はりがみ》してある。
中に入ると、南の海をイメージしたという明るい感じの店内だった。
テーブルも十五、六はある。かなり大きな店だった。
阿部は、カウンターの中に入ると、
「何がいいね?」
と矢代たちにきいた。
コーヒーをいれる手付きは、さすがに馴《な》れている。そのことにも矢代はほっとした。
この分なら、今夜は楽しく飲めて、和解が出来、明日は東北温泉旅行に出かけられるだろう。
コーヒーやオレンジジュースが運ばれて来た。
「今夜は一席もうけてあるから、総ておれに委せて貰うよ」
阿部がご機嫌な調子でいった。
「来てよかったわ」
と由紀が小声で矢代に囁《ささや》いた。
不吉な予感は何もなかった──。
阿部の喫茶店で一休みしてから、彼の車と、もう一台タクシーを呼んで貰って、水戸市内の見物に出かけた。
矢代たちにとっては青春の思い出を訪ねる時間になったし、水戸が初めてだという原田のフィアンセにとっては楽しい発見の時間だった。
まず、那珂《なか》川の近くにある自分たちの母校を訪ねた。
ここは変っていなかった。三階建の校舎も野球場もテニスコートも、いくらか古びたり設備が少し良くなったりはしていても、五年前までの面影をとどめていてくれた。
そのあと加藤敬子の希望で、水戸へ来た人が必ず立ち寄る偕楽園《かいらくえん》や弘道館に廻った。
矢代は昔をなつかしく思い出しながらも、時々気になって、阿部の顔色を窺《うかが》った。
阿部は元気に迎えてくれたし、木下みどりと結婚していることもわかってほっとしたものの、やはり阿部の気持が心配だったからである。
しかし、阿部は終始、明るかった。同人誌「東海砂丘」のことも彼の方から話題にして、
「君たちにも、あの頃はいろいろと迷惑をかけて申しわけなかった。おくれてしまったが、今夜はそのお詫《わ》びもかねて大いにご馳走《ちそう》するよ」
と笑いながらいったくらいである。
国道一一八号線を飛ばして、瓜連《うりづら》町の古徳沼も見に行った。
阿部が古徳沼にもうオオハクチョウが来ているといい、女性たちが見たがったからである。
阿部のいった通り、何百羽というカモに混ってオオハクチョウが十五、六羽、優雅な姿を見せていた。
矢代は、由紀と二人だけでここへ来た時のことを思い出した。桜の季節の頃である。大学二年の時だった。二人で歩いている中に陽《ひ》が落ちてしまって、その時、初めてキスをしたのだが。
市内に戻って、六時から、阿部が予約してくれていた店で夕食になった。あんこう鍋《なべ》である。
駅近くに、あんこう鍋を安く、美味《うま》く食べさせてくれる店があって、同人誌の会合のあと、冬場にはみんなで食べたものだった。原田などもそのことを思い出したらしく、複雑な表情で箸《はし》を動かしている。
(阿部はどんな気持であんこう鍋にしたのだろうか?)
と矢代は阿部を見たが、彼はにこにこ笑いながら、原田やフィアンセの敬子に酒をすすめている。
(こっちの考え過ぎかも知れない)
矢代はそう自分にいい聞かせた。
阿部が五年前の事件に拘《こだわ》っているのではないかと思ったのだが、案外、拘っているのは矢代自身の方かもしれないのだ。
阿部が矢代の前に来て、
「どうだ一杯。少しは強くなったんだろう」
と酒をすすめた。同人誌仲間の間で一番酒が弱かったのが矢代だった。
「少しは飲めるようになったよ」
と矢代はいってから、六人のなかで一番酒の強かった田村のことを思い出した。
「田村が来なかったのは残念だね」
矢代は杯を阿部に返しながらいった。
「さっきもいったが、手紙は出したんだ」
「来ないのは、仕事がうまくいっていないのかな」
「実は前に一度、田村に会ったことがあるんだよ」
と阿部がいう。
「本当かい?」
「去年の夏に、水戸へ来たといって電話をくれたんだ」
「それで会ったのか?」
「ああ、わざわざ電話をくれたんだからね」
「田村はどうだった?」
「君は東京へ行ってから、田村に会ってないのか?」
「ないよ」
「その方が良かったかもしれないな」
「なぜだ?」
「ひどい状態だったからだよ。心身ともに荒れていたね。アル中寸前だった」
「どうしてそんなことになっていたんだろう?」
矢代は五年前の田村の顔を思い出しながらきいた。
田村は六人の中で一番、陽気な奴《やつ》だった。決してハンサムではなかったが、明るく話好きだったから女にももてた。どちらかというとネクラな矢代は、いつも田村の性格や生き方が羨《うらや》ましかったものである。
横浜で食堂を始めたらしいと聞いた時には、彼ならうまくやるだろうと思ったのだが。
「くわしいことは話してくれなかったんだが、何もかもうまくいかなかったとはいっていたね。東京や横浜でいろいろなことをやったらしい。食堂をやったりバーのマスターになったりしたが、全《すべ》て失敗して、借金だけが増えたといっていた」
「横浜で食堂をやっているというのは聞いたことがあるんだ。彼のことだからうまくいくと思っていたんだがね」
「田村自身、必ず成功すると信じていたみたいだ。おれたちの中じゃあ彼が一番商才に恵まれていたからね。それが失敗ばかりしていて、自棄《やけ》になっていたんだと思う」
「そうか」
「それだけじゃないんだ」
「というと?」
「彼はこんなこともいっていたんだ。借金が重なって参ったとき、昔の仲間に助けて貰おうと思って電話で借金を頼んだが、冷たく断られたとね」
「ちょっと待ってくれよ」
矢代はあわてて阿部を手で制した。
矢代は妻の由紀に向って、
「去年の夏、田村から金を貸してくれといって来たかい?」
ときいた。
由紀もびっくりした顔で、
「いいえ」
「僕のほうも、電話もなかったし、会社に会いにも来てないんだ」
矢代がいうと阿部は、
「実はおれも初耳だったんだ。それでおれがいない時に電話があったんじゃないかと思って、家内に聞いてみた」
といってみどりを見やった。
みどりは眼鏡をかけた眼で、矢代や由紀を見て、
「私ね、阿部が心配すると思って黙っていたんだけど、実は夏に田村さんから電話があったの。事業に失敗して金に困っている。頼むから百万貸してくれないかというの。私は彼が好きだし、友だちだから助けてあげたかったけど、私も阿部も丁度、喫茶店を始めたばかりのところで、私たち自身、お金に困っていたでしょう。だから断ってしまったのよ」
「その電話があったのはいつ頃だったの?」
と矢代はきいた。
「八月に入ってすぐだったと思うわ」
「そうだとすると、僕たちは休みをとって、北海道ヘ一週間、行ってたんじゃないかな?」
矢代は妻の由紀を見た。
「ええ、去年の夏は北海道のペンションに一週間行ってたわ」
「じゃあ、その間に田村は電話して来たのかもしれない」
「おれも去年の八月初めは、夏休みをとって海へ行ってたよ。確か沖縄の民宿だった」
と原田もいった。
「それで君はどうしたんだ?」
矢代は阿部にきいてみた。
阿部は溜息をついて、
「家内にそのことを聞いたんで、少かったけど十万円を田村に渡したよ。何かの足しにしてくれといってね」
「それはよかった。しかし参ったな。田村が困っている時に助けてあげられなかったことになると」
「だからおれは今日、田村に来て貰って、みんなと仲直りして貰おうと思って手紙を出したんだがね。とうとう来てくれなかった。おれも残念なんだ」
と阿部がいった。
田村のことが話題になって、楽しかった席が沈んでしまった。
それでも、明日は東北の温泉めぐりの旅に出るということで、矢代たちは十一時には旅館に入った。
矢代は由紀と布団に入ってから、すぐには眠れなかった。
由紀も同じらしい。
「田村さんのことはショックだったわ」
「ああ、僕もさ。でも、僕たちだってうまくいかないこともあるよ。田村だって立ち直るさ」
「そうね。今度、田村さんに会うことがあったら、その時になんとかしてあげたいわね」
由紀は矢代を見ていった。
しかし、矢代が由紀の身体《からだ》を抱き寄せた時には、もう田村のことは忘れていた。それが若さの良さでもあるのだろうし、若さの残酷さでもあるのだろう。
翌日は午後一時過ぎの出発なので、ゆっくりと十時近くまで矢代は眠っていた。
今度の東北温泉旅行ではゆっくりと楽しもうと、原田とも相談してあったのである。
昼食は阿部が自分の店で食べてくれというので、矢代たちは昼近くに旅館を出て彼の喫茶店に寄った。
阿部夫婦が特製のライスカレーを作ってくれた。
「うちの店ではコーヒー以外に簡単な食事も出すんだ。その中ではこの特製のライスカレーが自慢でね」
と阿部はいった。彼ももう田村のことは口にしなかった。
午後一時近くに矢代たち四人は阿部の店を出て、水戸駅に向った。
水郡線で郡山へ出て、そこから東北本線で福島へ。今夜は福島の有名な飯坂温泉に泊ることになっていた。
「君たちも一緒に温泉めぐりをしないか?」
と原田が阿部夫婦を誘った。
「そうだよ。あと二人ぐらい旅館の方は何とかなる筈《はず》だ。どうだい?」
矢代も横からいった。
「行きたいが用があってね」
と阿部がいった。
「途中から追いつくかもしれませんわ。それでもいいのかしら?」
みどりがきいた。
「もちろん構わないわよ。ぜひ来てね」
由紀がみどりにいった。
矢代は紙片にこれから行く温泉の名前と泊る旅館の名前などを書き込んで、阿部に渡した。
「もし田村がおくれて来たら、彼も連れてあとから行くかもしれないよ」
阿部がいった。
水郡線は水戸─郡山を結ぶ線で、両駅の頭文字をとって名付けられている。
水郡線のホームは一番端の一、二番線である。
阿部夫婦も入場券を買って、ホームまで送りに来てくれた。
矢代たちがホームに降りて行くと、一三時三三分発の列車はもう二番線に入っていた。三両編成のディーゼル列車である。
「可愛《かわい》らしい列車ね」
と敬子がにこにこ笑っている。
赤い気動車は、可愛らしいといえないこともない。
ウィークデイのせいか、乗客はぽつりぽつりと乗ってくるだけで、ホームは静かだった。ホームがうす暗く地下ホームのような感じなのは、水戸駅が橋上駅で、その下にホームがあるからだろう。
一三時三三分発の郡山行普通列車は、定刻にゆっくり動き出した。
阿部夫婦がホームで手を振っている。矢代たちもドアのところで手を振った。
すぐ阿部夫婦の姿は見えなくなり、矢代が座席の方へ行こうとした時、突然、由紀が、
「あっ」
と声を出した。
列車は駅を出て、急に窓の外が明るくなった。
「どうしたんだ? 変な声を出して」
矢代がきくと、由紀は小さく首を振って、
「彼がいたわ」
「彼って誰だ?」
「田村さんよ」
「どこに?」
「ホームの端にひとりで立って、じっとこの列車を見てたわ。濃いサングラスをかけてコートを着て。田村さんに見えたわ」
「気のせいじゃないのか? よく似た人間というのはいるものだよ」
「ええ、わかってるわ。でも、ホームの端に立ってじっとこっちを見てたのよ」
「駅員じゃなかったの?」
「サングラスをかけてうす茶のコートを着てたのよ。そんな駅員なんていないわ」
「何をごちゃごちゃいってるんだ。早く座れよ」
と原田が声をかけてきた。
矢代と由紀も、四人掛けの座席に原田たちと向い合って腰を下した。
「田村がホームの端に立っていたというんだよ」
矢代は肩をすくめて原田にいった。
「田村ならなぜ声をかけて来なかったんだ?」
「だから僕は、別人だっていってるんだ」
「そうね。別人かもしれないわ」
と由紀もいった。
「わあ、紅葉がきれい!」
急に敬子が大きな声をあげて、窓の外を見つめた。
第二章 飯 坂 温 泉
矢代たちの乗った三両編成の気動車は、ゆっくりしたスピードでのんびり走っている。
車内はステンレスがぴかぴか光っている感じで、気分が良かった。ただ背もたれが直角なので、じっと座っていると身体が痛くなってくる。
矢代は立ち上って車内を歩いてみた。初めて乗る列車を探検するのが、矢代は好きだった。子供の時、先頭車へ行ってあきもせずに前方の景色を見つめていた。その気分が今でも続いているのである。
先頭車へ行ってみると、乗員室のドアは閉っていたが窓にカーテンがおりていないので、前方がよく見える。矢代はしばらくの間、子供にかえった気分で、近づいては左右に流れていく景色を楽しんでいた。
いつの間にか由紀が横に来ていた。
「気をきかせたのか?」
矢代が小声できいた。
「あの二人に当てられて逃げ出して来たの。先に逃げるなんてインチキだわ」
由紀が笑った。
「そんなに、仲がいいのか?」
「少し甘過ぎて、ちょっと心配なくらいだわ」
「結婚前だ、そのくらいが丁度いいさ」
と矢代もいった。
わざと元の座席には戻らず、二人は一両目の座席に腰を下した。
窓の外に見える低い山は、全て鮮やかに紅葉している。東京に比べると、やはりこの辺りは紅葉が早いのだろう。
水郡線は単線なのでところどころで待ち合せて、上り下りが交換する。最初、上菅谷《かみすがや》駅が待ち合せである。水戸黄門(光圀《みつくに》)の隠居所として有名な西山荘へは、ここで支線に乗りかえである。
水郡線も合理化で無人駅が多くなり、そんな駅では車掌がホームにおりて切符を受け取っている。
乗客も少しずつ降りていくが乗って来る客がほとんどないので、車内はだんだんすいていった。気がつくと一つの車両に五、六人しかいなくなっていた。
「昔はもっと混んでいたのに」
と由紀が残念そうにいった。
矢代も学生時代、三回ほどこの水郡線に乗ったことがあるが、由紀のいうようにもっと乗客が多かった。
途中でどっと高校生が乗って来て、急に車内がにぎやかになった。
その高校生たちも降りてしまうと、また車内はひっそりと静かになった。
水戸を出てしばらくはゆっくり走っていたのだが、次第にスピードがあがって来た。線路の状態がよくなったのだろうか。
「暗くなって来たわ」
窓の外を見ていた由紀が呟《つぶや》いた。
まだ五時前である。陽の暮れるのがずいぶん早くなった。
磐城《いわき》石川という駅に着いた。常陸《ひたち》大宮、常陸大子《だいご》という駅名があって磐城に変ったところを見ると、いつの間にが福島県に入っているのだろう。郡山が近くなったので、矢代と由紀は元の座席に戻った。加藤敬子は原田にもたれるようにして眠っていた。
定刻の一七時三七分、郡山着。
ここから福島までは、東北本線の特急「つばさ13号」に乗ることになっている。
五分の余裕しかなかったが、「つばさ13号」の到着は隣りの四番線なので乗りかえは簡単である。
九両編成の特急「つばさ13号」が入って来た。
鳥の翼を図案化したヘッドマークがついている。これに乗ればあと三十分と少しで福島に着く。そして飯坂温泉でゆっくりと温泉にひたることが出来る。
矢代たちはその期待で浮き浮きしながら、特急「つばさ13号」に乗り込んだ。
水戸から郡山まで乗って来た三両編成の気動車に比べると、九両編成の特急「つばさ13号」は車内も座席も格段の素晴らしさだった。
そのことも四人を嬉しくさせた。
車内はがらがらだった。秋の観光シーズンと年末の帰省ラッシュのはざまになっているからだろう。
発車すると福島まであっという間だった。一八時一九分。夜の福島駅に着いた。
「着いたわ」
敬子がホームに降りて伸びをしながらいうと、原田が、
「おれは腹がへったよ」
「夕食は飯坂のホテルでとることになっているんだ。がまんしてすぐ行こう」
矢代が原田たちをせかせた。エスカレーターで改札口に向った。
福島から飯坂温泉まで福島交通の電車が走っているが、四人なのでタクシーにした。タクシーのりばで中型に乗り込んだ。
「飯坂温泉!」
と原田が元気のいい声でいった。
タクシーが走り出した瞬間、由紀が「あッ」と声を出した。
助手席に乗っていた矢代が振り向いて、
「どうしたんだ?」
「駅のところに立ってたわ」
「まさか田村がなんていうんじゃあるまいね?」
矢代は笑いながらきいた。が、由紀は真顔で、
「似てたわ」
「似ている人間は三人いるというからね」
原田がからかい気味にいった。
由紀は眉をひそめて、
「嘘じゃないわ、田村さんそっくりだったわ」
「しかし、君は水戸のホームでもそっくりな男を見てるんだよ」
「同じ服装なの。サングラスも同じだったわ。水戸でもホームからじっと私たちの方を見てたけど、今度もじっと私たちの方を見てたわ」
「それは別人だよ。いいかい、水戸ではその田村に似た男は僕たちが乗った列車をホームで見送っていたんだろう? それなら僕たちと同じ時間で福島に来られる筈がないんだ」
「車を飛ばして、おれたちの列車に途中で追いついて乗り込んでいたかもしれないぜ」
原田がいった。
「それはないさ」
と矢代が断言した。
「なぜだい?」
「僕と由紀は一両目にいて、郡山に近くなって君たちのいる最後尾の三両目に戻ったんだ。車内はがらがらで三両しかないんだからね。乗っていれば気がつくさ」
「そうだわ」と由紀も肯《うなず》いた。
「あの時、彼は乗っていなかったわ」
「それなら別人だよ」
と矢代がいった。
「その筈なんだけど、同じ人だったわ」
由紀はまだいっていた。
タクシーはまっすぐ北に向って走る。東北縦貫自動車道の下を抜けると、間もなく待望の飯坂温泉である。道路の横に福島交通の線路が伸びていた。
前方が明るくなった。
摺上《すりかみ》川沿いに百三十軒以上のホテル、旅館が立ち並ぶ、東北最大の飯坂温泉である。俗化しすぎているともいわれるが、それなりに楽しい温泉であることは確かである。
五、六階建の立派なホテルが明りを川面に映してひしめいている。
その中の一軒、ホテル水映館に着いた。
部屋に通ってから、幹事役の矢代がすぐ夕食を運んでくれるように頼んだ。
由紀は丹前に着がえると、
「食事の前にお風呂に入らない?」
といった。
「すぐ夕食が来るよ」
「じゃあ、さっと入って戻ってくる」
といって、由紀は部屋を出て行った。
矢代は自分が頼んだ手前もあって、夕食が運ばれてくるのを待っていたが、なかなか来なかった。
「しようがないな」
と思い、それなら先に一風呂浴びて来ようと考えて、手拭《てぬぐ》いを持って部屋を出た。
廊下で原田たちと一緒になった。
原田と敬子も、食事の前に温泉に入るのだという。
エレベーターで五階から一階まで降りた。
ここは男湯と女湯にわかれている。矢代は原田と、大浴場と書かれたガラス戸を開けて中に入った。
大きなガラス窓があって、温泉につかりながら外の景色が見えるようになっている。
原田がお湯の中で身体を伸ばしながら、
「おーい、敬子!」
と隣りの女風呂に向って大声で呼んだ。
「やめろよ」
と矢代は照れて小声でいったが、原田は意に介さずに、
「おーい。いるなら返事しろよ!」
と怒鳴った。天井が高いので声が反響する。一緒に入っていた中年の男三人がにやにや笑っている。
「いるわよ!」
敬子の声がはね返って来た。
「矢代の奥さんも一緒なんだろ?」
「由紀さん? 彼女いないわよ!」
「もういいよ」
と矢代は笑いながらいった。
原田は今度は泳ぎ始めた。
矢代はすぐ出ることにした。隣りに由紀がいないところをみると、すぐ出て部屋に戻ったのだろう。
「先に出るよ」
と原田にいって、矢代は温泉を出た。
エレベーターで五階の自分たちの部屋に戻った。料理がすでに運ばれていたが、由紀の姿はなかった。
(行き違いか)
と思った。
先に部屋に戻った由紀は、矢代がいないのでまた一階の浴場に行ったと思ったのだ。
腹がへっているので、先に食べ始めることにした。
温泉へ来ての楽しみの一つは食事である。
多すぎるくらいのおかずが食卓に並んでいる。牛肉のたたき、天ぷら、刺身、かもロースと、統一のとれていないところがかえって豊かな感じで嬉しいのだ。
若い矢代は山菜や川魚料理などを出されるより、こうした脂っこい料理の方が好きだった。
東京だとせいぜい二ぜんぐらいしか食べられないのだが、三ぜんも食べられて満足して箸を置いた。が、まだ由紀は戻って来なかった。
(しようがないな)
と、その言葉が癖で呟くと、矢代は部屋を出てもう一度、一階へおりて行った。大浴場へ行く途中のロビーで、土産品を売っていたのを思い出したのである。
由紀は落ち着いたところもあるが、その一方、妙に感覚的なところがあって、気に入った品物を見るといつまでもその場から動かないところがあった。
土産物売場で足を止めてしまっているのだろう。そう思ってロビーに行ってみた。
広い売場に丹前姿の泊り客が五、六人、品物を選んでいた。
その中に由紀はいなかった。
矢代は急に不安になってきた。
部屋に戻ったが、彼女の膳《ぜん》はそのままになっている。
矢代は原田の部屋に電話をした。
原田と加藤敬子が来てくれた。
「本当に彼女がいなくなっちまったのか?」
原田がきいた。
「そうなんだ。一階の土産物売場やバーものぞいてみたんだが、どこにもいないんだ」
「おかしいな。先に温泉に入って来るといったんだろう?」
「ああ」
「気分が悪くなってどこかで休んでいるんじゃないかね。急に温泉に入ったんで」
「そうだな」
矢代はすぐフロントに電話をして、調べて貰った。
五、六分して返事があった。どこにもそういうお客はいないというのである。
「外を探してくる」
と矢代はいった。
「外?」
「このホテルの中にいないのなら外へ出たのかも知れない」
「おれたちも一緒に探すよ」
原田がいってくれた。
三人は丹前姿でホテルを出た。
さすがに寒いが、それでも同じように丹前姿で散歩している泊り客が何人かいた。
芸者が歩いているのにすれ違った。ここへ来る途中では、四人で芸者さんを呼ぼうかなどと話し合っていたのだが、矢代の頭からそんなものはけし飛んでしまっていた。
摺上川にかかる十綱《とづな》橋を渡って対岸にも行ってみた。
だが、由紀は見つからない。
探し疲れて三人がホテルに戻ろうと十綱橋近くまで来たとき、十五、六人の人垣が出来ているのにぶつかった。暗い川面に向って騒いでいる。警官が懐中電灯の光を投げかけていた。
矢代たちもその人垣の横から川面をのぞいてみた。
橋を支えているコンクリートの橋げたに、丹前姿の若い女が引っかかっているのだ。
警官の懐中電灯の明りがその女の顔を照らし出した。矢代の顔色が変り、膝《ひざ》がふるえ出した。
(由紀!)
死体は、警官と消防隊員、それにホテルの従業員たちが協力して引き揚げた。
事件の話は、あっという間に温泉街に広がったとみえて、続々と野次馬が橋の袂《たもと》に集まって来た。丹前姿の泊り客もいれば地元の人間もいる。
たちまち百人を越して黒山の人だかりになった。
すでに鼓動が停止していたが、由紀の身体は救急車に乗せられた。矢代もその車に同乗させて貰った。救急車は福島の大学病院に向った。
パトカーも同じ大学病院に駈《か》けつけた。由紀ののどの部分に皮下出血の痕《あと》があったからである。
福島県警の岡崎という刑事が、殺人の疑いがあるので遺体を解剖に廻したいと矢代にいった。
「拒否は出来ないんでしょう?」
矢代は、痩《や》せてやたらに背の高い岡崎刑事を見上げるようにしてきいた。
「まあ、そうですね。しかし、ご主人の納得のもとに解剖させて頂きたいのですよ」
と岡崎はいった。
「五分間だけ待ってくれませんか」
「なぜです?」
「もう一度、家内の顔を見たいんです」
矢代は頼み、変り果てた由紀の遺体をもう一度、一人っきりで見せて貰った。
蛍光灯の青白い光の下に、白布に敝《おお》われた由紀の遺体が横たわっていた。眼の前に遺体があるのに、矢代はまだ事態が信じられずにいる。夢を見ているような気がするのだ。
白布をめくると由紀の顔が現われた。髪はびっしょりと濡《ぬ》れたままだった。同じように濡れた丹前の襟元が乱れている。
矢代はそれを直してやりながら、じっと由紀の顔を見つめた。
白い顔、小さく開かれた口、そして白いのどには警察が指摘したように、赤黒く変色した皮下出血の痕が見えた。
誰かが由紀のくびを締めたのだ。そして摺上川に投げ込んだに違いない。
(誰が君にこんなことをしたんだ?)
答えはもちろんない。
それでも矢代は、二度、三度と胸の中で同じ質問をくり返した。
タクシーが着いて、原田と敬子の二人が顔をのぞかせた。
「大丈夫か?」
と原田がきいた。間の抜けた質問だが、それを笑う気力は矢代にはなかった。
岡崎刑事が入って来た。
「もういいですか?」
と岡崎がきく。
矢代は黙って肯いた。
遺体は解剖のために運ばれて行った。
「いろいろと奥さんのことでお聞きしたいことがありましてね」
と岡崎は矢代にいった。
「どんなことですか?」
「なぜあなたの奥さんが死体で摺上川に浮んでいたのか、何か心当りがありますか?」
「あれば僕は自分で犯人を捕えていますよッ」
自然に矢代の声が荒くなると、岡崎は苦笑して、
「無理かも知れませんが、落ち着いて答えて頂きたいのですよ。いつ飯坂へ来られたんですか?」
「今日です」
矢代は、四人で水戸から水郡線で郡山に来て、郡山から特急「つばさ」で福島へ来たことなどを岡崎に説明した。
「すると奥さんは、タ食の前に温泉に入って来るといって一人で部屋を出て行き、そのまま摺上川で死体で見つかったというわけですか?」
岡崎は眉《まゆ》をひそめて聞いた。どうも信じられないという表情をしている。
「そうです」
と矢代は肯いた。不審だろうと、それが事実なのだ。
「しかし、ホテルの一階の温泉から奥さんを連れ出すなんてことは考えられませんがね。他の泊り客の眼もあるでしょうからね」
岡崎刑事が相変らず顔をしかめている。
「僕は嘘はついていませんよ。それに彼女は温泉には入らなかったと思うんです。僕がすぐあとから温泉に入りに行きましたが、彼女はいませんでしたからね」
「すると温泉に入って来るといったが、そのままホテルの外に出たということになりますね。そして犯人に出会ってしまったということに」
「そう思います」
「しかし、なぜ奥さんはあなたに嘘をついたんですか?」
「そんなことわかりませんよ」
「奥さんとはうまくいっていたんですか?」
岡崎は意地の悪い眼付きになった。矢代は、むっとした。
「まるで僕が犯人みたいないい方ですね」
「いや、そんな積りじゃありません。あなたと夫婦|喧嘩《げんか》でもしていれば、ぷいっとホテルを出て行ったということも納得できますからね」
「家内とはうまくいっていましたよ」
「それは僕が保証しますよ」
と横から原田がいった。
原田は、矢代と由紀がどんなに仲が良かったかを説明してくれた。
「今度の旅行で何かおかしなことはありませんでしたか?」
岡崎がきく。
矢代が考えていると、原田が、
「そういえば死んだ由紀さんが妙なことをいっていましたね」
といい、水戸のホームで友人の田村を見たらしいと岡崎にいった。
「本当ですか?」
岡崎が、矢代を見た。
「ええ。家内がそういったんです。しかし見たのは彼女だけですから、多分、田村に似た人間を見たんだと思いますね」
「なぜそういえるんですか?」
「彼女は、福島の駅でも田村を見たといってるんです。僕たちが着いてすぐの時です。しかし水戸駅のホームで僕たちを見送っていた人間が、福島にいる筈がないんです。だからあれは家内が見間違えたんだと思いますね」
しかし、岡崎はいかにも刑事らしく、すぐには肯かなかった。
「その田村という人はどんな人間なんですか?」
と岡崎はきいた。
「僕たちと一緒に、水戸の大学時代に同人雑誌をやっていた仲間です」
「今度の東北温泉めぐりには同行する筈だったんですか?」
「水戸に住む仲間の阿部が、田村にも手紙を出したとはいっていたんだが、来なかったんです」
「来なかった理由はわかりますか?」
と岡崎が追及してきた。
矢代は、田村が自分たちを恨んでいるらしいということを話した方がいいのかどうか迷った。
そんな矢代の表情を素早く読み取ったとみえて、岡崎は、
「何か事情がありそうですね」
「別にありませんよ」
「あなたはどうですか?」
岡崎は原田にきいた。
「実は──」
「実は何です?」
「田村は事業に失敗した時、昔の友人の僕たちに金を借りようとしたんです。その時、いろいろ事情があって僕たちは力を貸してやれなかったんですよ。恨まれているとすれば、そのことしか考えつきませんね」
と原田はあっさりと喋《しやべ》ってしまった。案の定、岡崎はきらりと眼を光らせた。
「その時の恨みで田村さんが皆さんを追っかけて来て、まず矢代由紀さんを狙《ねら》ったということも考えられますね」
「じゃあ、家内の見たのは本物の田村だったというんですか?」
「もしそうなら、田村さんは水戸からあなた方をつけて来たということになりますからね。つけて来てチャンスを窺《うかが》って、まず矢代由紀さんを殺した」
「しかし、家内は水戸のホームで見ているんですよ。物理的に不可能です」
「水郡線の列車をタクシーで追っかけて、途中で乗り込んだのかもしれませんよ」
「それは僕たちも考えたんです。しかしたった三両編成の列車です。僕と家内はその三両の中を歩いて廻ったんです。しかし田村はいませんでしたよ。途中で乗って来てはいないんです」
「自信を持っていえるんですか?」
「ええ」
「水郡線は確か単線で、非電化でしたね」
「そうです」
「急行は走っていましたかね?」
「いや、急行も特急もありませんよ。もしあれば僕たちはそれに乗っていますよ」
「すると、あとの急行なり特急に乗って追いつくということは出来ないわけですか」
「そうです。出来ませんよ」
「しかし、その田村という友人は気になりますね。奥さんは眼はいい方でしたか?」
「確か両眼とも一・五だったと思います」
「田村という人は、特徴のある体型なり顔をしていますか?」
「そうですね。まあ、特徴のある方だと思いますね」
「それなら奥さんが見間違えるということはないんじゃありませんか?」
と岡崎がいう。
「しかし刑事さん、福島では駅のタクシー乗り場でタクシーを拾ったとき、家内が田村さんがいるといったんです。駅の出口のところに立って、じっとこちらを見ていたといいましたよ。とすると、われわれと一緒に福島に着いたか、それより前に着いたとしか考えられないんです。問題は、家内が同じ田村を水戸駅のホームでも目撃していることです。僕たちが水郡線に乗ってホームを滑り出した時、田村はまだホームにいたんですよ。彼女が水戸駅で目撃していなければ、田村が僕たちより先に福島に着いていようとどうしようと別に不思議はありませんが、水戸駅でも見たとなると話は別です」
別に田村をかばう積りでいいつのったわけではなかった。ただ本当のことを岡崎刑事に告げたかったのだ。
「それは田村さんを調べればわかるでしょう。住所はわかりますか?」
と岡崎はいった。
「仲間の阿部が招待状を出した住所ならわかりますよ。教えて貰いましたから」
矢代は手帳を取り出して、そこに書かれた住所を岡崎刑事に見せた。
岡崎はボールペンでそれを引き写しながら、
「田村という人の写真はありませんか?」
「僕が持ってる」
と原田がいった。彼はショルダーバッグから、大学時代に同人誌の仲間たちで一緒に撮った写真を取り出して岡崎に見せた。
「右から二人目が田村です。五年たっていますからね、多少、顔は変っているかもしれませんよ」
「これをしばらくお借りしますよ」
と岡崎はいった。
「家内の遺体はいつ返してくれるんですか?」
矢代はまっすぐ岡崎を見つめてきいた。
「解剖が終り次第、お返ししますよ。それまで飯坂のホテルでお待ち下さい」
「今日中には返して貰えないんですか?」
「無理ですね。明日までかかります。解剖が終り次第、連絡しますよ」
岡崎は事務的な調子でいった。
仕方なく矢代は、原田たちと一緒に飯坂温泉に戻った。
夜中になって電話がかかった。
「阿部だよ」
と相手がいった。
「十一時のテレビのニュースを見てびっくりしたんだ。大変なことになったね」
「僕もまだ信じられないんだ。だが死んじまった」
「明日おれたちもそっちへ行くよ。何のなぐさめにもならないと思うが──」
「ありがとう」
「何か、おれや家内に出来ることがあったらいってくれないか」
「今は何もないけど、田村が今どこにいるか知らないか?」
「田村か。前にもいったように招待状を出したんだが、彼は来なかったんだ」
「だが死んだ家内は田村を見ているんだ」
「どこで?」
「水戸駅のホームと福島駅でさ」
「まさか。来ているんならおれに連絡してくる筈だよ。彼から何の連絡もないぜ」
「家内の錯覚だったかも知れないが、彼女は間違いなく田村だったといってたんだ」
「しかし、君たちと一緒の列車で行ったわけじゃないんだろう?」
「違うんだ。僕たちが水郡線の列車で水戸駅を出発した時、家内は列車の中からホームにいる田村を見たといってるんだよ」
「それなのに福島駅にもいたというのか?」
「そうなんだ。だから家内の錯覚だと思っているんだが、彼女が殺されてみると何か気になってね」
「わかるよ、その気持は。警察には田村のことを話したのか?」
「一応は話した。警察は神奈川県警に頼んで調べて貰うといっているんだが──」
第三章 東  京
福島県警からの協力要請は、まず神奈川県警に行き、そこから東京警視庁に廻されてきた。
問題の田村明人が、横浜から東京に住所を変えていることがわかったからである。
「なかなか面白い事件だよ」
と捜査一課長の本多が十津川警部にいった。
本多は本件の概略を説明した。
「なるほど、面白いというか、奇妙な事件ですね」
と十津川もいった。
「君の考えはどうだね? 殺された矢代由紀という女性が幻を見たと思うかね?」
「わかりませんが、田村という男に会えば、幻だったかどうかわかると思います。田村が犯人かどうかもです」
「田村明人は、今年の九月七日に、横浜から東京の世田谷区烏山《からすやま》に住居を移したことになっているそうだ」
「横浜では何をしていたんですか?」
「伊勢佐木町で小さな食堂をやっていたが、うまくいかなかったらしい。借金が出来て、東京へ逃げ出したのかもしれないね」
「とにかく私が亀井刑事と田村明人に会って、話を聞いて来ましょう」
十津川は本多にいい、亀井刑事を連れて世田谷区烏山の田村明人の住所に出かけた。
車で甲州街道を走りながら、十津川は亀井に事件のことを話した。
「東北の温泉めぐりとはうらやましいですね」
亀井は本当にうらやましそうな顔をした。
「しかし、殺されたら何にもならんよ」
「それはそうですが──」
「カメさんは東北の生れだから、飯坂温泉にも行ったことがあるんじゃないのかね?」
「行きたいとは思っているんですが、まだ行っていません」
亀井は残念そうにいった。
十津川も同じだった。家族サービスに温泉に行きたいと思うことがよくある。だが、計画を立てても事件が起きて、たいてい駄目になってしまうのだ。
亀井の運転する覆面パトカーは烏山に着いた。
中古の五階建のマンションだった。十津川と亀井は車をおり、マンションの入口を入って行った。三〇二号室の郵便受に、「田村」と書いてある。
管理人室の窓が開いて、中年の管理人が、
「田村さんはお留守ですよ」
と十津川たちに向っていった。
「留守? いつからです?」
十津川がきいた。
「そこまではわかりませんが、ここ四、五日、顔を見てませんね」
「どうしても会いたいんですがね」
「私も今月分の部屋代を貰っていないので困っているんですよ」
「どこへ行ったかわかりませんか?」
「わかりませんね。あまり部屋にいない人なんでね」
「奥さんは?」
「いませんよ。独り者ですよ、田村さんは」
「田村さんは何をしている人ですか?」
「さあ。前にラーメンの店を京王線の千歳《ちとせ》烏山駅の近くでやっていると聞いたことがありますが、行ってみたらそんな店はなかったですからね」
「三〇二号室に電話はありますか?」
「ありますよ。前に借りていた人がつけたものですがね」
「かけてみてくれませんか」
「留守ですよ」
「ひょっとすると居留守を使っているかもしれませんからね」
「そんなことはないと思いますがねえ」
管理人は首をかしげながら、管理人室の電話を使ってかけてみてくれた。
「誰も出ませんよ」
と管理人はいった。十津川は亀井と顔を見合せた。
田村は福島の飯坂温泉に行き、矢代由紀という女性を殺したのだろうか?
十津川は管理人に電話を借り、本多一課長に連絡を取った。
「四、五日前から留守だというのが気になります。カメさんも同意見ですが、田村の部屋を見てみたいのです」
「君も部屋を見れば何かわかると思うのかね?」
「思います」
「わかった。すぐ令状を貰おう」
と本多はいってくれた。
捜索令状が届けられたので、十津川は三〇二号室を開けさせて中に入ってみた。1DKの狭い部屋である。
ひょっとすると田村が部屋の中で死んでいることも考えたが、1DKの部屋は猫一匹いず寒々としていた。調度品もほとんどない。
冷蔵庫のドアを開けると納豆や豆腐などが入っていたが、豆腐は水分がなくなってひからびてしまっている。
六畳の隅には石油ストーブが置いてあった。そして小さな机。その机の上に手紙が置いてあった。
付箋《ふせん》がついていて、横浜の旧住所からこちらへ廻された旨が書いてある。封は切られていた。
差出人は水戸の阿部豊となっている。十津川は中の便箋に眼を通してみた。
〈元気か?
僕も家内のみどりも君のことを心配している。
実は五年ぶりに、水戸の僕のところで「東海砂丘」の仲間が集まることになった。ぜひ君にも来て欲しい。
十一月七日の午後、矢代、原田、それに由紀クンも来るといってきている。彼等も君に会うのを楽しみにしているよ。十一月七日だから間違えずに来て欲しい。
十月二十七日
阿部〉
田村はこの手紙を読んだ。だが五年ぶりの会合に彼は出なかった。
なぜ出なかったか、その理由がわかれば飯坂温泉での殺人の動機がわかるかも知れない。
「警部。これを見て下さい」
亀井が屑《くず》かごの中から、いくつもの小さな紙片を取り出して十津川の前に置いた。
写真を切り裂いて屑かごへ捨てたのだ。十津川も手伝って、元通りになるように紙片を並べてみた。
六人の若い男女が並んで写っていた。同人誌「東海砂丘」の仲間たちと書いてある。
裏には一人一人の名前も書いてあった。阿部、田村、原田、木下みどり、矢代、そして池西由紀と書いてある。
「この池西由紀が飯坂温泉で殺されたわけですね」
亀井が写真をじっと見つめて呟いた。
「殺された時は矢代由紀だったんだ」
「切り裂いて屑かごに捨ててあったのはどういうわけですかね?」
「それだけ昔の仲間を恨んでいたということかもしれないね」
「これで、田村が追いかけて水戸から福島へ行った証拠さえつかめれば、殺人容疑で田村の逮捕状がとれるんじゃないですか」
「行ったとすれば、十一月七日でなくて翌日の八日だろうね。そして水戸駅の水郡線のホームで、矢代夫婦や原田たちが列車に乗って出発するのを見送ったことになる」
「唯一の目撃者の矢代由紀はもう殺されてしまっているわけですから、田村が十一月八日に水戸駅にいたことの証明は難しいですよ」
「何か見つかるといいがねえ」
十津川は改めて狭い室内を見廻した。貧しい感じがする室内である。独身貴族などといういい方があるが、そんな豊かな雰囲気はここにはない。
田村は事業に失敗して、横浜からここへ移って来た。借金もあったらしい。
部屋の様子を見れば、ここへ来て仕事がうまくいき始めたという気配は感じられない。
それに、田村が金に困っている時、昔の仲間は助けてくれなかったという。知らなかったと仲間はいっているらしいが、田村にしてみれば同じことだったろう。
そういう冷たい昔の仲間たちが水戸で集まり、そのあと呑気《のんき》に東北の温泉めぐりをするとなると、腹が立ってくるだろう。
「新聞が溜《たま》っていませんね」
亀井が玄関のところで十津川にいった。
「そういえば古い新聞が一枚もないね」
「ここへ引越して来てから新聞をとらなかったんでしょうか?」
「横浜で事業に失敗してここへ逃げて来たばかりで、新聞を読む気にもなれなかったのかもしれないな」
「毎日、仕事を見つけに歩き廻っていたんでしょうか?」
「それとも金策に歩き廻っていたか」
十津川は台所をのぞいてみた。
ゴミ袋の中にはラーメンやうどんなどの、空になったカップが詰っていた。それに国産ウイスキーの空びんが十五本。
それから想像されるのは荒れた生活である。
十津川は廊下に立ってのぞいている管理人に、
「田村さんは誰かの紹介でこの部屋を借りたんですか?」
ときいてみた。
「いや、駅前の不動産屋で聞いて来られたみたいですよ」
管理人はその店の名前をいった。
十津川は亀井に更に部屋の中を調べてくれるようにいってから、一人で駅前の不動産屋に足を運んだ。
やたらにマンションの物件が出ているのは、この辺りが新しい住宅街になっているからだろう。
小さな店で、小柄な主人と女事務員が一人いるだけだった。
「ああ、あの人ならよく覚えていますよ」
と店の主人は細い目で十津川を見た。
「九月に引越したんでしたね?」
「引越しじゃありませんよ、あれは」
と相手は笑って、
「とにかく今日から住みたいといわれましてね。冷蔵庫なんかは中古品を買って、布団だけは新品をスーパーで買われたようですがね。その日からあのマンションにお住みになったんですよ。あれは何かまずいことがあって移って来られたんじゃありませんかねえ」
「一人でやって来たんですか?」
「いや、外に女の人が待っていましたね。店の中へ入って来られないので、どんな女性かわかりませんでしたがね」
「女性が一緒だったんですか?」
「そうです。何かあったんですか? 他人《ひと》の奥さんと逃げて来たとか──」
「いや、そんなことはありませんがね。その日から住んだとすると、権利金や敷金もきちんと払ったわけですね」
「ええ。もちろん頂きましたよ」
「部屋代はいくらですか?」
「一カ月八万円です」
「それに権利金などがプラスされると四十万くらいですか?」
「そうですね。権利金、敷金とも二カ月分です。それに私のところで一カ月頂きましたから四十八万円ですか」
「それはその日に払ったんですね?」
「ええ。でも払ったのは女の人かも知れませんよ」
「なぜです?」
「支払いの時に田村さんは外に出て、女の人と相談していらっしゃいましたからね」
「ご主人はその女性を全く見なかったんですか?」
「ええ」
「しかし、あのマンションヘ案内して行ったわけでしょう?」
「そうなんですが、その時には女の人はどこかへ姿を消してしまっていましてね。よほど二人の仲を知られたくないんじゃないかと思いましたね。やはり他人《ひと》の奥さんじゃありませんかねえ」
「若いか年齢《とし》をとっているかもわかりませんか?」
「ちょっと声が聞こえましたがね、若い女性の声でしたよ。それ以外は何にもわかりません」
と店の主人はいった。
田村に若い女性がついていたらしい。田村自身、独身で若いのだから、ガール・フレンドがいても不思議はない。いや、いる方が自然だろう。だが、はぐらかされたような気がしたのも事実だった。
昔の仲間に対して心の底で嫉妬《しつと》し、憎しみを抱いている孤独な青年というイメージを、十津川は田村明人という男に対して抱いていたのである。
その中の、孤独な、という部分だけはずれがあったようである。彼に親しい女がいたのなら、少くとも孤独ではなかったろう。
十津川は、マンションに戻ると、管理人に女のことを聞いてみた。
「そうですねえ」
と管理人はちょっと考えてから、
「一度、見ましたよ。田村さんが女の人と駅の近くを歩いているのを。後姿でしたがね」
「どんな女性でした?」
「普通の女の人ですよ、つまり普通の恰好《かつこう》をした」
管理人は普通を協調した。
普通の女というのはひどくあいまいな表現である。具体的な女の顔が浮んで来ないのだ。
「身長は?」
と十津川は具体的に質問した。
「百六十センチぐらいでしたよ」
「顔は、見たんですね?」
「それが、顔を合せたら向うさんが顔をそむけるようにしてしまったので、はっきりとは見ていないんですよ」
「すると、誰に似ているということもわかりませんか?」
「そうなんです。ただ、全体として地味な感じを受けましたよ。服装も地味でしたね」
「年齢はどのくらいでした?」
「二十七、八歳といったところじゃなかったですかね。田村さんに丁度いいなと思ったのを覚えていますからね」
「その女性に会ったのは一度だけですか」
「ええ、そうです」
「田村さんというのはどんな人ですか? 管理人のあなたから見て」
「なんか、ネクラという感じですね。顔を合せてもあいさつをしないし、隣りの部屋の人も気味悪がっているんじゃないですか」
「どんな仕事をしているかわからないといいましたね?」
「そうなんですよ。定職がなかったんじゃないんですか。とにかく私としては、今月分の部屋代を貰っていないんで困っているんです。どこへ行ったんですかねえ」
管理人は苦虫を噛《か》みつぶしたような表情をしている。
「九月に越して来てから、何か事件を起こしたことはありませんか?」
と亀井がきいた。
「田村さんがですか?」
「そうです」
「そういえば先月の中頃でしたかね、日曜日でしたよ。鈴木さんとケンカをしてましたね」
「鈴木さんというのは?」
「三〇五号室の若いサラリーマンですよ」
「今、いますかね? いたら会いたいんだが」
「今日は休みなんですかね、さっき見かけましたから呼んで来ましょう」
小柄な管理人はすぐ駈け出して行き、二十七、八の若い男を連れて来た。この近くの信用金庫に勤めている青年である。
亀井が田村とのことを聞くと、鈴木は眉を寄せて、
「あの男はどうかしてますよ」
「なぜケンカになったんですか?」
「それがいまだにわからないんですよ。あの日、僕は友だちと飲んで帰って来たんです。いい気持で歌いながらね。マンションの前で彼に会ったんですよ。名前は知らなかったんですが、最近、越して来たんだということはわかりましたからね。今晩はってあいさつしたんです。そしたらじろりと睨《にら》んで、うるせえなッって怒鳴られましてね。こっちもむかッとしたんで、ちょっと殴り合いになったんです」
「彼がなぜそんな態度に出たのかわかりましたか?」
「いや、今でもわかりませんよ。何か面白くないことがあったんだとは思いますがね」
「そのあと、彼はあなたに謝りましたか?」
「ぜんぜん。あとでわかったんですが、この近くの子供が公園で野球をしていて、丁度、通りかかった田村さんにボールが当ったことがありましてね。普通なら相手は子供でしょう、怒らないですよ。それが、ボールを拾いに来た子供がぶたれたそうですよ」
「そうですか」
「どういう神経なんですかね」
鈴木という青年は肩をすくめてみせた。
田村の評判は、どうも芳しくなかった。鈴木の他にも、マンションの住人で廊下ですれ違う時、肩が触れたら物すごい顔で睨《にら》まれたという者も出て来た。
野球をやっていた子供が、田村にぶたれたというのも事実だった。
田村が働いていた店もわかった。京王線の明大前近くのスナックで、十月に二十日間ほど働いていたのである。十津川と亀井は、その店のマスターに会った。
「横浜で食べもの店をやっていたというんで傭《やと》ったんですよ」
と四十二歳のマスターは十津川にいった。
「誰かの紹介で来たんですか?」
「いや、店の前の貼紙を見て飛び込みで来たんですよ。チャーハン、カレーライスなんかを作れるというので傭ったんです」
「それで?」
「なかなかうまく作りましたよ。休みませんしね。それでいい人を傭ったなと思っていたんですがね。困ったことに何か面白くないことがあるとお客とケンカするんですよ。それで困りましてね。二十日間働いて貰ったのを、給料を払ってやめて貰ったんです」
「怒りっぽかったんですか?」
「まじめなところもあるんですよ。家で面白くないことでもあったんですかねえ」
「お客とケンカをした時、なぜケンカをするのか、その理由をきいてみましたか?」
「ええ。一度はね」
「彼は何か答えましたか?」
「おれの性分だから放っといてくれと、逆に食ってかかられましたよ」
とマスターは苦笑した。
「二十日間ここで働いている間ですが、女性が訪ねて来たことはありませんか?」
「それはありませんでしたね。ただ、一度だけ電話がかかったことがありましたよ。若い女の声でしたね。丁度、彼が使いに出ていた時だったんでまたかけてくれといったんですが、そのあとかかって来ませんでした」
「その女性は名前をいいましたか?」
「いや、聞いたんですがいいませんでした。ただ、彼が帰って来たんで女から電話があったと教えましたよ。彼には誰かすぐわかったみたいでしたね」
「この店をやめてからですが、田村に会われたことはありませんか?」
「いや、会っていません」
「店にいる間ですが、彼は自分のことをあなたに話しましたか?」
「一度だけ話をしたことがありますよ。その時、水戸にいたことがあるといってましたね。嘘か本当かわかりませんが」
「その水戸のことを懐しそうに話していましたか? それとも、恨めしげに話していましたか?」
十津川がきくと、マスターは「どうでしたかねえ」と考え込んだ。
「水戸ってどんな所と、その時、私がきいたら、詰らない所だっていいましたね。だからあまりいい思い出は残っていないのかもしれませんね」
「友だちのことをあなたに話しませんでしたか? 彼は水戸の大学を出てから横浜で食堂をやり、それに失敗して東京に移って来たんです。水戸の大学時代に親しくしていた友人が何人かいるんですが、彼等のことを何か話していませんでしたか?」
「いや、聞いたことはありませんね。私が覚えているのは水戸にいたことがあるということだけなんですよ。とにかくほとんど喋らない男でしたからね」
「金に困っているようでしたか?」
「困っていたと思いますよ。最初に私の店に来た時、働くことが決ってからいきなり千円前借りしたいといいましたからね」
「二十日間働いてやめたわけですね?」
「ええ」
「いくら給料を払われました?」
「日給月給で一日五千円の約束でしたから、十万円払いましたよ」
「払った日を覚えていますか?」
「十月の二十三日か二十四日だったと思いますね」
「すると、その時は十万円持っていたことになりますね?」
「まあ、そうですね。あの男が何かやったんですか?」
十津川は電話で福島県警の戸田という警部に、東京でわかったことを報告した。戸田は今度の事件の責任者だった。
「田村明人は東京のマンションから消えていましたか」
戸田は訛《なま》りのある声でおうむ返しにいった。
「そうです。どうやら福島へ行っているような気がしますね」
「すると、被害者が水戸駅のホームと福島の駅で見たというのは幻ではなかったことになって来ますね」
「田村はこちらでは鬱々《うつうつ》として楽しまなかったようですから、殺人に走る可能性はあったと思いますよ」
「実は神奈川県警からも、横浜時代の田村のことを知らせて来たんですよ」
「横浜ではどんな様子だったんですか?」
十津川は興味を持ってきいた。
「田村は父親が亡くなった時、遺産の分与を受けましてね。それで伊勢佐木町でレストランを始めたそうなんです。もともとそういう仕事が好きだったみたいです。レストラン・タムラという名前ですが、食堂といった方がぴったりの小さな店だったそうです」
「すぐ潰《つぶ》れてしまったんですか?」
「いや。最初はうまくいっていたようです。ところが図にのって銀行から借金をして店を広げたところ、うまくいかなくなったみたいですね。店は他人手《ひとで》に渡り、借金だけが残った。その頃、田村は、友だちが少しも助けてくれないと文句をいっていたそうですよ」
「その恨みつらみが福島で爆発したということですかね?」
「もしそうだとすると、他の四人も危険ということになるんですが」
「被害者と一緒に飯坂温泉に行っている連中はどうしているんですか」
「引き続いて事情聴取を行っていますよ。それから水戸から仲間の阿部夫婦がやって来たので、この二人からも話を聞いています」
「県警としては犯人は田村明人とみておられるんですか?」
「まだ断定は出来ずにいるんですよ。何しろ田村明人と思われる男を見たのが、死んでしまった被害者一人ですからね。それと水戸駅のホームで彼女が見たのが本物の田村明人とするとですね、彼女は福島の駅でも見ているというのがどうもおかしくなるんです。被害者は水戸駅を出発した列車の中から、ホームに立っている田村を見たんですからね。その田村が先廻りして福島に来ていたというのが納得できないんですよ」
「すると、同行している夫も怪しいということですか?」
十津川がきくと、戸田警部は肯いて、
「旅先でも夫婦喧嘩を始め、カッとした夫の方が妻を川に突き落としたということも考えられますからね。それに、一緒に飯坂に来ている友人の原田と彼の恋人の加藤敬子にもチャンスはあったと思っていますよ」
「もちろん彼等は三人とも否認しているんでしょう?」
「そうです」
「彼等はこれからどこへ行く予定にしていたんですか?」
「東北の温泉めぐりをやることにしていたようで、飯坂の次は天童温泉に行く予定だったそうです」
「次は天童ですか」
十津川はちょっとばかり羨ましくなった。ここ一年、いや二年ほど、事件に追われて温泉には行っていなかった。
「それでこちらでは、もし彼等の中に犯人がいるかどうか不明の時は天童へ行かせようかと思っているんです。証拠もなしに長時間、拘束も出来ませんし、彼等が動けば事態も動くんじゃないかと思いましてね」
と戸田警部はいった。十津川は意見を求められたが、わからないといって電話を切った。今、事件を直接調べているのは福島県警である。そのことが頭にあったからだった。
十津川が東北地方の地図を見ていると、亀井がのぞき込んで来た。
十津川は、彼等が天童温泉に行くかも知れないと亀井にいった。
「もし田村明人が犯人だとすると、天童まで追いかけて行く可能性がある」
「県警も犯人が動くのを期待しているんじゃありませんか?」
「まあ、そうだろうね」
「天童は一度行ったことがあります。確か駅に大きな将棋の駒《こま》が飾ってありましたよ」
「もう一度、田村のマンションに電話してみてくれないか」
と十津川はいった。亀井は受話器を取り、何回かかけていたが、
「まだ帰っていないようですね」
「やはり被害者が見たのは田村明人だったのかねえ」
「もしそうなら、田村の犯行の可能性は九〇パーセントくらいあるんじゃありませんか」
「それに、天童でまた事件が起きる可能性もあるよ」
十津川は彼等六人の写っている写真を取り出して見つめた。田村のマンションに破り捨てられていた写真を貼り合せたのである。
六人の五年前の写真だ。水戸の大学で仲間六人で同人雑誌をやっていた頃である。
六人とも若々しく仲が良さそうに見える。少くともこの頃は、この中の誰かが仲間を殺すなどとは考えてもいなかったに違いない。
五年たった今、六人の中の一人の女性が飯坂温泉で殺され、残りの五人の中に犯人がいるに違いないと思われている。
その憎しみはどんな具合に育てられて来たのだろうか?
第四章 天 童 温 泉
解剖のすんだ由紀の遺体は、水戸から駆けつけた母親と一緒に、生れ故郷の水戸に帰ることになった。
矢代は原田たち四人に向って、
「君たちは次の天童へ行ってくれないか」
といった。
原田がとんでもないという顔で、
「おれたちも一緒に水戸へ戻るよ。奥さんの葬儀に参加したいんだ」
「僕たちもそのつもりだよ」
とあとから福島へ来た阿部も矢代にいった。
「ありがたいが、僕としては君たちに天童へいって貰いたいんだよ。僕もいったん水戸へ戻ってから、すぐ君たちを追いかける」
矢代がいうと、阿部は肩をたたいて、
「そんなことをいって由紀さん、いや奥さんの葬儀はどうするんだ?」
「ただ死んだのなら、僕はこのまま水戸へ戻って東北旅行は中止するさ。だが、彼女は殺されたんだよ。しかも彼女は、僕たちを追いかけて来た田村を見たといっていた。彼女はホテルの外で殺された、僕はこう考えているんだ。彼女は夕食の前に温泉に入って来るといって、丹前姿で階下《した》へおりて行った。だが温泉には入らなかった。階下へおりて玄関のところで何気なく外を見て、外に立っている田村を見つけたんじゃないだろうか。当然、彼女は何の用かと思って外に出る。或いは田村が手招きしたのかもしれない」
「じゃあ君は、田村が奥さんを殺したと思っているのか?」
阿部がきいた。
「断定はしないよ。だがどうしても田村のことが気になるんだ」
「しかし、水戸駅のホームにいた田村が、おれたちに追いつける筈がないじゃないか?」
原田が首をかしげて見せた。
「わかってるよ。だが僕は彼女の言葉を信じたいんだ。彼女は水戸のホームで見送っている田村も見たし、福島に先廻りしている田村も見たといっている。それが事実なら、彼女は田村に殺された可能性があるんだよ」
「しかし、どうやって田村さんを見つけるの?」
とみどりがきいた。
「田村がもし由紀を殺したのなら、その動機は一つしか考えられない。彼が困っている時に、僕たちが何もしてやらなかったことを恨んでということだよ。それなら田村は由紀だけでなく、僕たち全員を狙っている筈だ。僕たちが天童へ行けば、田村もきっと天童に来ると思っている」
「彼は横浜にいるかも知れないよ」
原田がいった。
矢代は「違う」といった。
「さっき刑事さんに聞いたんだ。田村は横浜で事業に失敗して東京に逃げた。その東京の住所から四、五日前に姿を消しているというんだ。しかも最近、やたらと怒りっぽかったとも教えてくれた。田村はここへ来ていると僕は思っている」
「どうするね?」
阿部は他の三人の顔を見た。
加藤敬子は肩をすくめて、
「私にはわからないわ」
「そうだ。君には関係ないんだよ」
原田がほっとした顔でいった。
矢代は首を横に振った。
「田村の怒りが大きかったら、冷静に考えるかどうかわからないよ。君の恋人ということで殺すかも知れないね」
「まさか──」
「いや、矢代のいう通りかも知れないな」
と阿部がいった。
「なぜだ?」
「田村は事業に失敗して、今、どん底だ。しかも彼は、僕たちが助けてくれないことを恨んでいたと思われる。その恨んでいる人間がいい気になって温泉で遊んでいれば、その相手の女性にだって腹が立ってくると思うね」
「しかし、だからといって殺すことは許されないよ。田村を捕えて、なぜ由紀さんを殺したのか問いただしてやるよ」
原田が息まいた。
「だから僕は、君たちにこの旅行を続けて欲しいんだ。そうすれば必ず田村は現われると思うんだよ」
矢代は堅い表情で四人にいった。
「現われたらどうするんだ? 殺すのか?」
と原田がきいた。
「いや、そんなことはしない。警察に渡す前に、なぜ由紀を殺したのか、その理由を聞きたいんだ」
と矢代はいった。が、それは全くの本心ではなかった。
今、矢代の胸を捉《とら》えているのは怒りだった。田村には悪いことをしたと思っていた。だがいかに恨んでいたとしても、いきなり殺すことはないではないか。
田村を見つけたら、彼の行為をなじる前に、多分、殴りつけてしまうだろう。
「彼女のおふくろさんは、君がすぐ引き返すことを了承しているのか?」
と阿部がきいた。
「ああ、話したよ。一刻も早く由紀を殺した犯人を捕えたい。そのあとでゆっくり彼女の霊を弔いたいといって、了解して貰っているよ」
矢代はそういった。
「どうするね?」
阿部は原田たちの顔を見廻した。
「私たちが天童へ行けば田村さんが現われるのなら、行きたいわ。私もどうしても田村さんに会いたいから」
とみどりがいった。
「そうしてくれれば有難いよ」
矢代は素直にいった。
原田は矢代に向って、
「本当に君も天童に来るのか?」
「ああ、すぐ行く」
「それならおれたちも天童に行くよ」
と原田はいった。
「行きましょう。行きましょう」
敬子は単純に嬉しそうにいった。
結局、四人は予定どおり次の天童温泉に行くことになった。福島県警も別に反対はしなかった。
県警の戸田という警部がこの事件の捜査に当ったのだが、一応、夫の矢代や友人の原田、その恋人の加藤敬子も訊問《じんもん》した。しかし、三人の中の誰かが犯人と断定することも出来なかった。
戸田警部は、もちろん田村明人について興味を持った。だからこそ神奈川県警と東京警視庁に、捜査の協力を要請したのである。
田村の顔写真が手に入ったので、それを何枚かコピーし、部下の刑事たちに持たせて福島周辺の聞き込みに当らせた。
特に飯坂温泉のホテル、旅館には一軒ずつ当ってみた。が、田村明人と思える人間が泊っているという報告はなかった。
東京警視庁の十津川警部は電話で、田村が東京のマンションから姿を消していること、大学時代の友人たちと一緒に撮った写真を破り捨てていたことを知らせてきた。
明らかに田村は、友人たちを憎んでいるとみていいだろう。
それにマンションから姿を消していることから考えて、福島にやって来ていることは十分に考えられる。
殺された矢代由紀は、水戸の駅と福島の駅で田村を見たといっていたという。見たというのは一人だけで、しかもその当人が死んでしまっているので、にわかには信じられないのである。
(ひょっとすると夫の矢代が妻の由紀を殺し、その罪を旅行に来なかった田村明人にかぶせようとしているのではないか?)
とも戸田警部は考えてみた。
これも可能性があった。もし矢代が犯人なら、被害者の由紀が水戸と福島の駅で田村を見たというのは嘘ということになる。田村が自分たちのことを恨んでいるのを知っていて、彼の犯行に見せかけようと嘘をついたのだ。
しかし、夫の矢代が犯人だという確証もつかめなかった。
矢代たちをこれ以上、引き止めておくことは出来なかった。
矢代が妻の遺体を水戸に運びたいというのも許可せざるを得なかったし、他の四人が天童へ行くのを止めるわけにもいかなかった。
ただ、居場所は常に連絡して欲しいとだけ、戸田警部は彼等にいった。
阿部たちは、福島発一五時二四分のL特急「つばさ11号」で天童に向った。
矢代はそれより先、寝台自動車に妻の遺体を積み、義母の文子と水戸に向った。
福島で荼毘《だび》に付してもよかったのだが、文子が水戸の実家でも一日だけ娘の遺体と一緒にいてやりたいといったのである。
夜の七時を過ぎてやっと矢代たちは水戸に着いた。
遺体は実家の奥の部屋に安置された。矢代はまだ悪夢の続きをみている感じだった。
白木の柩《ひつぎ》の中に由紀がおさまっているのが信じられない。いや、柩の中に彼女の遺体が入っていることはよくわかっているのだ。ただ、よくわかっているのに実感が伴って来ない。
「申しわけありませんが、明日は早く出発します」
と矢代は文子にいった。
「今夜は一緒にいてくれるんですね?」
「ええ。ずっと由紀の傍《そば》にいますよ」
と矢代はいった。
由紀のきょうだいも集まってきて、通夜になった。
矢代は途中でその席を抜け、山形県天童温泉の松竹館に電話をかけ、原田を呼んで貰った。
「どんな具合だ?」
ときくと原田は、
「天童の駅に着いた時、きょろきょろ見廻したんだが、田村は見つからなかったよ。まあ、彼が由紀さんを殺したんだとすれば、おれたちに見つかるような場所をうろうろしている筈はないんだがね」
「田村は必ず天童に行くよ」
と矢代はいった。
「それは由紀さんが田村を見たからかい?」
「ああ。そうだ」
「しかし、水戸と福島の両方で見たというのは、いくら考えてもおかしいぜ、水戸のホームでおれたちの列車を見送っていた田村が、福島の駅に先廻りしていたというのはね。その点はどう考えてるんだ?」
「わからないよ。だが僕は、彼女の言葉を信じたいんだ」
と矢代はいった。
これは身びいきでいっているのではなかった。由紀は眼が良かったし、いいかげんなことをいう女でもなかったからである。理屈にあわなくても、由紀が見たといえば、水戸と福島の両方の駅で彼女は田村を見たのだ。
「他の連中はどうしている?」
と矢代はきいた。
「君が来られるのかどうか心配しているよ。無理をしなくてもいいともいってる」
「大丈夫さ。明日は早く天童へ行くつもりだ」
矢代は改めて自分にいい聞かせるようにいった。
「おれたちに何かしてやれることはないか?」
「ありがとう。大丈夫だ」
と矢代はいって、電話を切った。
そのあとは矢代は、由紀の柩の前にじっと座り続けた。
せめて朝までは何も考えずに由紀の冥福《めいふく》を祈っていようと思っても、眼をとじるとどうしても誰が殺したのだろうかという考えの方に行ってしまう。
田村が殺したのか、それとも田村以外に犯人がいるのか。考え続けている中に夜が明けてきた。矢代は隣りの部屋に退《さが》って少し眠った。
眼をさますと義母が朝食を作っておいてくれた。矢代はそれを食べてから家を出た。義母の文子は自分の気持をわかってくれているだろうが、他の親族は途中で家をあける自分を快くは思わないだろう。
水戸駅に着くと午前九時〇四分発の水郡線に乗った。
座席に腰を下し、ホームに眼をやった。
列車が動き出した。あの時は、由紀がホームに田村を見たといったのである。そのホームはあっという間に矢代の視界から消えた。
由紀があの時、ホームに本当に田村を見たとしよう。
田村は、そのあと、何かを利用して福島に先廻りしたのだ。
(そんなことが可能だろうか?)
同じ水郡線に乗って追いかけたとは考えられない。
先行する列車を追い越す列車は、この水郡線にはないからである。
次は車で追いかける方法である。これは不可能ではない。水郡線の列車のスピードが、時速四十キロにもならないからである。
ただ車の場合は、万一、渋滞に巻き込まれた時、計画は崩れてしまうだろう。
残るのは他のルートの列車を利用することである。地図の上では、水郡線で水戸から郡山に出て、郡山から東北本線で福島に来るのが一番近く見える。
だが、他のルートもあるのだ。
水戸から水戸線で小山《おやま》に出る。小山からは東北本線で福島に向うルートがある。
地図の上では水郡線を利用するよりも距離的に遠い感じだが、果して時間も余計にかかるのだろうか?
一二時五三分に郡山に着くと、矢代はすぐ時刻表を買って調べてみることにした。
矢代は福島で、いったん駅の外へ出た。妻の由紀が殺された日のことを考え直してみたいと思ったからである。
時刻は多少違っていたが、駅の前に広がる福島の町は同じたたずまいを見せていた。
駅を出たところにタクシー乗り場がある。矢代たちはそこでタクシーに乗った。
そのタクシーが出車してすぐ、由紀は駅の方を振り返って、田村がいるといったのである。矢代は駅ビルの入口に眼をやった。
もちろん、今、そこに田村の姿はない。家族連れが出て来て、タクシー乗り場の方へ歩いて行った。
矢代は郡山駅で買った時刻表を持って、近くの喫茶店に入った。
外が寒いので、店の中は暑く感じられた。矢代は奥のテーブルに腰を下し、コーヒーを注文してから時刻表と手帳を広げた。
その日、矢代たちが動いたルートは次の通りだった。
水戸13・33─(水郡線)→郡山17・37
郡山17・42─(特急「つばさ13号」)→福島18・19
問題は水戸を一三時三三分より遅く出発し、水戸線に乗って福島で追いつけるかということである。
同じ特急「つばさ13号」に乗れた、というのでは仕方がないのだ。
福島駅では田村が先に着いて待っていたという感じがしたし、「つばさ13号」の車内でも田村を見かけてはいないからである。
矢代は田村の身になって考えてみた。
彼は水戸駅のホームで矢代たちを見送った。
ホームにいたのは、わざと自分の姿を見せたのだろうか。
その辺はわからないが、とにかく田村は一三時三三分水戸発の水郡線には乗らなかったのだ。
田村はこの列車を見送ったあと、矢代たちを追いかけたことになる。
水戸線なら追いつけるのか?
矢代は水戸線のページを開いた。
一四時一八分水戸発の列車があった。四十五分あれば、水郡線のホームで矢代たちの列車を見送ったあと、水戸線のこの列車に乗ることが出来るだろう。
一四時一八分の列車に乗ったとすると、小山着は一五時三五分である。
小山から宇都宮に出れば、早い新幹線に乗ることが可能である。
矢代は東北本線のページに眼を移した。
一五時四六分小山発の黒磯《くろいそ》行の普通列車に乗ることが出来る。これに乗れば、一六時二三分には宇都宮に着く。
矢代たちの乗った「つばさ13号」は、一六時一九分には宇都宮を出てしまっているから間に合わないが、東北新幹線に乗れば追いつけるのか。
次に東北新幹線のページを開けてみる。
一六時四七分宇都宮発の「やまびこ67号」に乗れるだろう。
この列車の福島着は一七時三七分である。
矢代たちが一八時一九分に着いたわけだから、実に四十二分前に着いてしまうのだ。
それだけではなかった。
東北新幹線のページを更に見ていくと、次の「やまびこ141号」でも間に合うことがわかった。
この「やまびこ141号」は一七時一五分に宇都宮を出て、福島には一八時〇九分に着くのである。
矢代はそれを逆算していった。この「やまびこ141号」に乗ればいいとなると、水戸を何時に出れば間に合うかである。
その結果、水戸発一五時一九分の列車で小山に向っても間に合うことがわかった。水戸発一四時一八分の水戸線の次の列車である。
矢代はその二つを、手帳にまとめてみた。
水戸14・18─(水戸線)→小山15・35
小山15・46─(東北本線)→宇都宮16・23
宇都宮16・47─(「やまびこ67号」)→福島17・37
これが、矢代たちを見送ってからすぐ水戸線に乗った場合である。
見送ったあと、いったん駅を出て何かしてから水戸線に乗っても、次のルートを利用すれば間に合うのだ。
水戸15・19─(水戸線)→小山16・35
小山16・43─(東北本線)→宇都宮17・11
宇都宮17・15─(「やまびこ141号」)→福島18・09
矢代は手帳の数字を見つめた。
これで由紀が嘘をついていなかったことが証明されたことになる。
彼女が福島でも田村を見たといったのは、嘘ではなかったのだ。
だが、嬉しくはない。
田村明人は何といっても友人だからである。
四年間、青春時代を共に水戸で過ごした仲間である。気分屋のところがあるが、悪い男ではなかった。悪い男なら四年間もつき合えなかったろう。
その田村が由紀を殺したとは思いたくない。
だから由紀の言葉を信じる一方で、福島で彼女が田村を見たというのは間違いであって欲しいとも思っていたのである。
だが、どうやら犯人は田村のようである。
列車を使ったトリックもわかった。動機は最初からわかっている。田村が横浜で事業に失敗し助けが必要だったとき、矢代たちは何もしてやらなかった。それを恨んでいるに違いないのである。
重い気分で矢代は腰を上げた。気は重いが、これから天童に行って、追いかけて来るだろう田村と対決しなければならない。
福島駅に戻り、天童までの切符と特急券を買った。
一五時二四分福島発のL特急「つばさ11号」に乗った。秋田行である。
帰省の時期になれば満員になるのだろうが、今日はすいていた。
窓側に腰を下すと、矢代はなるたけ景色を楽しもうと思った。田村のことを考えるのは天童に着いてからでいいだろうと、自分にいい聞かせた。
福島駅を離れると、列車は東北の内陸部に向って入って行く。
窓の外を見ていると、山を登って行く感じだった。
水戸や福島では紅葉が始まったところだったが、この辺りはすでに紅葉の盛りである。
「つばさ11号」が山を登るにつれて、周囲は黄色や紅の色彩にあふれてきた。
松林や杉林が濃い緑を残して、色彩の変化を更に鮮やかなものにしている。
水戸や福島に比べると、この辺りは温度差があるのだろう。
更に日本海が近くなれば、もっと秋は深くなるのだろうか?
列車は米沢、山形と停車して行く。どの駅も、初秋というより晩秋の気配だった。陽が落ちてきたせいもあるが、ホームで列車を待つ人々は一様に寒そうにしている。
一七時丁度に、「つばさ11号」は、天童に着いた。
小さな駅である。特急が停まるのは、天童が将棋の駒の産地として有名なのと、温泉のせいだろう。
矢代はホームにおりてから、白い息をはいた。風が冷たい。
何時に着くと連絡していなかったので、駅には誰も迎えに来ていない。
改札口を通ると、小さな待合室になっていた。
将棋の駒がいたるところに飾られているのは、いかにも天童らしい。駅のホームにも、子供の背たけほどもあるプラスティックの駒が置かれていたし、切符売場にも、三十センチくらいの王将がこちら向きに置いてある。
矢代は駅前からタクシーに乗り込んで、
「松竹館」
といった。
タクシーが走り出すと、天童が飯坂温泉と違うことがすぐわかった。飯坂の場合は温泉街だけが一カ所にかたまっていたし、温泉街というのはだいたいそうしたものだが、天童の場合は違っている。
市の中心街のところどころに、旅館やホテルがある感じなのだ。
松竹館も市の中心街にあった。近くにホテルもあるが、そば屋や靴屋もある。
十二、三分で松竹館に着いた。
中に入ると、「名物王将風呂」の看板が眼についた。将棋の駒の形をした浴槽ということだろう。
矢代がフロントで名前をいっていると、
「来たね」
と声がして、原田が顔を出した。
矢代は一人部屋をとって貰った。部屋は三階である。
「来ないんじゃないかと心配してたんだ」
と廊下を並んで歩きながら原田がいった。
「田村はまだ現われないのか?」
「注意してるんだが、まだ誰も見かけていないよ」
と原田がいった。
エレベーターで三階にあがった。
原田と敬子、それに阿部夫婦が同じ三階に、それぞれ部屋を取っていた。
矢代は自分の部屋に入った。原田も一緒に入って来た。
「夕食は六時半に僕の部屋でやることになっている。それで君もいいだろう?」
「ああ、いいよ」
と矢代はいった。
部屋は暖房で熱いくらいだった。飯坂温泉でもそうだったが、北国では外が寒いので部屋の中は必要以上に温度をあげるのだろうか。
矢代は窓のカーテンを開けた。
町のネオンが輝いている。
「あの辺はバーやスナックがある」
と、原田が横に来ていった。
昨夜、みんなで出かけて行き、スナックでカラオケを唄《うた》って来たのだという。
「今、阿部たちは部屋にいるのか?」
と矢代がきいた。
「風呂に入っていると思うよ。君も一緒に入りに行かないか。王将風呂といって、大きな風呂なんだ」
「少し疲れているので、あとで入るよ」
「じゃあ、おれは入って来る。六時半になったらおれの部屋に来てくれ。三三二号室だ」
原田はそういい残して出て行った。
ひとりになると矢代は、腰を下して煙草に火をつけた。
無理をして天童へ来たことが果して良かったのかどうか、彼自身にも判断がつかなかった。
水戸で由紀の遺体と一緒にいてやった方が良かったのではないだろうか? 天童で田村を見つけ、問いつめて犯行を自白させたところで、悲しみが深くなるだけのことではないのか?
矢代はそんなことを考え続けた。
しかしそのまま水戸にいたら、恐らく田村に対する疑惑と焦燥《しようそう》の虜《とりこ》になってしまっていただろう。
犯人が田村なら、この天童にも必ず現われるという確信が矢代にはある。
田村が恨んでいるのは由紀一人ではない筈だからである。
むしろ同じ男同士ということで、由紀よりも矢代や原田、それに阿部の方をより強く恨んでいたに違いないのだ。
突然、部屋のドアがノックされた。
田村のことを考え続けていた矢代は、ぎょっとしてドアに眼をやった。
矢代が返事をしないので、相手は更に激しくノックしている。
「誰?」
と矢代はきいた。声がかすれているのが自分でもわかった。
「ルームサービスです。お茶をお持ちしましたけど」
という女の声がした。
矢代はほっとすると同時に自分自身の狼狽《ろうばい》が恥しくなって、乱暴にドアを開けた。
この旅館の従業員が魔法びんと茶菓子を持って入って来ると、「いらっしゃいませ」と落ち着いた声であいさつした。
矢代は照れかくしに「お風呂は何時までやってるの?」などと聞いたりした。
従業員が出て行ってしまうと、矢代はほっとすると同時に、急に自信がなくなってきた。
(こんなことで果して田村が現われた時は、上手《うま》く対応が出来るのだろうか?)
第五章 王 将 風 呂
気分直しに、矢代は温泉に入ってみることにした。
エレベーターで三階から一階に降り、男性風呂と書かれたガラス戸を開けた。
先客は一人しかいなかった。
中はこの旅館が自慢するだけあって、広々としていた。将棋の駒の形をした大きな浴槽が中央にあり、「王将」の文字がお湯の中に黒く浮びあがってみえた。
矢代が湯につかっている間に先客も出て行って、広い湯殿の中は彼一人になった。
思い切り手足を伸ばし、天井を見上げた。
ここは天童の町の真ん中なのだが、まるで山奥の秘湯のように静かである。
庭に面したガラス窓は、気温の差で曇っていた。
(由紀が生きていたら、一緒にここの温泉にも入れたのに)
と考えると、改めて彼女を殺した人間への怒りがわきあがってきた。
たとえ相手が田村でも許せないと思えてくる。ここに彼が姿を見せたら、殺してやりたくなるだろう。
矢代は身体を洗う気にもなれず、浴槽の縁に腰を下して曇ったガラス窓を見つめていた。
田村が時間的に飯坂温泉で由紀を殺すことが出来たということが、矢代の頭を占領していた。
ガラス戸の開く音がして、原田が入って来た。
「どう? いいお風呂だろう?」
と原田は屈託のない声でいい、太り気味の身体を浴槽に沈めた。
矢代が黙っていると、原田は広い浴槽の中を子供のように平泳ぎで一往復してから、
「明日、天童の町をみんなで見物して廻ることにしているんだが、君も行くだろう?」
「そうだな」
「気が晴れるよ。それに、おれたちがじっと息を殺していたら、田村も現われにくいと思うんだ。自由に動き廻っていた方が、彼も出て来るんじゃないかな」
「この町に面白いところってあるのか?」
「いろいろとあるらしいよ」
と原田はいった。
それでも矢代は、まだ明日、市内見物をするかどうか気持が決まらないままに、先に温泉を出た。
夕食は原田たちの部屋で一緒にとった。
原田たちも阿部たちもカップルである。そのことが改めて由紀のことを思い出させた。
「田村がこの天童に来ている気配は今のところないね」
阿部が食事をしながら矢代にいった。
「その田村のことなんだが」
と矢代は、自分がここに来る途中で考えたことを阿部たちに話した。水戸線や東北新幹線を利用すれば、水戸で自分たちを見送っても、先に福島に着けるということである。
「そいつは面白い」
と原田がまっ先に眼を輝かせた。
「本当に可能なのか?」
阿部は半信半疑の顔をしている。
矢代は夕食のあと、自分の部屋から時刻表を持って来て、もう一度、手帳に書き抜きながら説明した。
「なるほど、田村はこのルートを利用して先廻りをしたのか」
と阿部も納得した顔になった。
「でも、まだ彼が犯人だなんて信じられないわ」
と悲しげにいったのは、阿部の妻のみどりだった。
大学時代から物静かな女なので、友人の田村が犯人らしいというのが悲しいのだろう。
加藤敬子はやはり部外者の感じで、矢代の書いた水戸線─東北新幹線のルートを興味津々という顔で見ていた。
「面白いわね、そうすると先廻り出来るのね」
と敬子は原田に小声でいっている。
矢代は慎重に四人に向って、
「僕は、だからといって田村が犯人だと決めつけることはしたくない。まだ証拠はないんだからね。ただこれで、由紀が福島で彼を見たというのは、嘘じゃなかった、ということにはなったと思うんだ。だから田村に会えたら、弁明を聞きたいとは思っているんだ」
といった。
半分は本音、半分は嘘だった。田村を見つけた時、果して冷静に行動できるかどうか、自分にもわからないのだ。多分かっとして、いきなり殴りつけてしまうのではないのか。
夜になって自分の部屋にひとりになると、矢代は寝つかれずに、時々、布団の上に起き上って窓の外に眼をやった。
曇ってしまった窓ガラスを手で拭《ふ》いて、夜の天童の町を見下した。
この旅館の近くにバーやスナックの並ぶ一角があるということで、それらしいネオンが見えた。東京の盛り場の、あの洪水のようなネオンに比べたら、まるで線香花火のように小さい。
その一角以外は、ほとんど闇《やみ》に包まれている。車もまばらにしか走っていない。
矢代は、その暗闇の中にじっとたたずんでいる一人の男のことを考えた。田村のことをである。
(もし天童に来ているんなら、早くおれの前に出て来てくれ)
と矢代は闇に向って呼びかけた。もちろん返事はない。
布団に入った。が、眠れない。うとうとしても、すぐ眼がさめてしまう。
そんな状態で朝を迎えた。
それでも朝食がすむと、矢代はみんなと一緒に市内の観光に出かけた。ひとりで旅館に残っている気になれなかった。こちらが動けば田村も姿を現わすかも知れないと思ったからである。
阿部がハイヤーを呼んでくれて、それに五人が乗り、市内を廻ることになった。
ちょっとぜいたくだが、これも阿部が矢代を気遣ってくれたということだろう。
それに人口五万余の小さな天童の町なら、二時間もあれば車でひと廻り出来るだろうということもあった。
五人がすし詰めになって、旅館を出発した。寒かったが、空はきれいに晴れている。
「とにかくこの町を案内してよ」
と阿部が運転手にいった。
五十歳ぐらいに見える運転手はちょっと考えてから、
「じゃあ、最初に舞鶴公園に行きましょう。一番、見晴らしのいいところです」
といった。
車はじきに山を登り始めた。
鯉《こい》の養殖をしているという愛宕《あたご》沼を過ぎると、「落石注意」の札がところどころに見える急坂にかかる。
さして高い山ではない。頂上は駐車場になっていて北風が冷たかったが、それでも観光客の車が十五、六台、駐《と》めてあった。
中には東京ナンバーのライトバンもあり、何気なく中をのぞくと若者が中でカップラーメンを食べていた。
運転手がいったように展望が素晴らしく、天童の町だけでなく、山形盆地全体がパノラマのように眼下に広がっているのが見えた。その向うの山脈《やまなみ》は朝日連峯だろう。
駐車場の奥に、テニスコートのようなものがあった。
階段状の観客席も作られている。しかし運転手の説明によるとテニスコートではなく、春にここで人間将棋が行われるのだという。
有名人を呼んで将棋を指し、芸者や商店の主人たちが将棋の駒になって動くのだという。
「それなら写真で見たことがあるわ」
と敬子がにこにこした。
矢代もパンフレットで見たことがあった。その時には町中《まちなか》の公園でやるのだろうと思っていたのだが、実際にはこんな山頂でやるのかと意外な気がした。
次に矢代たちは車で山をおり、民芸館へ寄った。
老人がひとりで始めた民芸館だという。
天童が生んだ有名人というと、まず、日本で最初の流行歌手といわれる佐藤千夜子がいる。「波浮《はぶ》の港」の歌手である。
矢代たちの世代では説明を聞いてもぴんと来ない名前だったが、彼女が生きた時代の品物がずらりと並べてあるのは面白かった。
老人がひとりでやっているらしいのだが、矢代たちが中に入ってもいっこうに出て来なかった。
切符を売る窓口もない。
原田が奥に向って「誰かいませんか?」と大声で呼んで、やっと小柄な老人が出て来た。
「ああ、いらっしゃい」
と呑気な声でいう。
一人四百円を払うと、切符を奥から持って来て渡してくれた。
「じゃあ、ご説明をいたしましょうか」
老人は急に調子を変え、独得の口調で飾ってある品物の説明を始めた。その説明は面白いのだが、展示室は陽かげになっていてやたらに寒かった。
天童生れの老人は平気な顔だが、矢代たちは寒くて仕方がない。
二階で将棋の駒作りの実演と販売をやっているというので、全員が早くそこに行きたがった。そこならストーブがありそうだったからである。
矢代も白く息を吐きながら二階への階段をあがりかけて、窓のところにノートが置いてあるのが眼にはいった。署名簿である。
何気なくぱらぱらとめくってみた。横に硯《すずり》と筆が置いてあり、それで見学者が自分の名前や住所を書きつけていた。
「何だい?」
と原田ものぞき込んだ。
東京の人間もいたし、東北や関西の人間もいた。──信用金庫理事などと、わざわざ肩書きまで書き込んでいる男もいた。
「あッ」
と急に矢代が声をあげたのは、最後に近いページに、
〈東京 田村明人〉
の署名を見つけたからである。
原田も「あれ!」と、声をあげた。
「これ、田村の名前じゃないか」
「このあとに二人しか署名がないから、多分、今日か昨日、書いたんだと思うね」
矢代は顔をこわばらせていった。
他の三人は、老人と一緒に二階にあがってしまっていた。
矢代はそのノートを持って、原田と一緒に二階へあがった。
そこは駒作りの工作場と土産物売場が一緒になっていて、大きなストーブが燃えていて暖かい。
五十歳ぐらいの職人が、駒に字を彫っていた。
矢代はさっきの老人にノートを見せた。
「この田村という人のこと、覚えていませんか? 昨日か今日、この民芸館に見物に来たと思うんですがね」
「いや、覚えていませんね。皆さんが記帳するところは私は見ないですからね」
と老人はのんびりといった。
「じゃあ、この人はどうですか? 昨日か今日、来た筈なんですがね」
矢代は今度は、田村の写真を取り出して老人に見せた。
老人は仔細らしく写真を見ていたが、
「覚えておりませんな」
「しかし昨日か今日、来た筈ですがね」
「私はあまり人の顔は覚えん方なんですよ」
と老人は手を振った。
どうも嘘ではないらしい。
矢代は阿部やみどりにもノートを見せた。
「この字は田村の書いたものかな?」
「よく似てるよ」
と阿部がいった。
矢代もよく似ていると思っていた。田村の字はかなり特徴がある。普通は右上りだが、水平というよりいくらか右下りである。はねるところをはねない。
そうした特徴は、ノートの字にもはっきりと現われていた。
「やはり田村は天童へ来ているんだよ」
と原田がいった。
「しかし、なぜこの民芸館に来たんだろう?」
阿部が首をかしげた。
「そりゃあ、われわれと同じで見物に来たのさ」
と原田。
阿部は違うというように首を横に振った。
「田村がわれわれに対して何も含むところがなければ合流してくる筈だよ。それをしないのは何かあるんだ。そうだとすれば、感情が荒れていて呑気に民芸館の見物なんか出来ないよ」
「しかし、現に記帳してるじゃないか」
「われわれもここに見物に来ると考えて、田村は自分の名前を書いておいたんじゃないかな」
「何のために?」
「われわれを怖がらせるためだと思うね。田村は水戸駅でも福島の駅でも、由紀さんに顔を見せているんだ。たまたま彼女しか見なかったが、きっとあの時も自分の姿を見せて、われわれへの恨みを示そうとしたんじゃないかと思うね」
駒作りの作業を見物して少しは楽しい気分になっていたが、田村の名前で急に暗いものになってしまった。
次は自分が殺されるかも知れない、という不安にもつながっているからだろう。
市内見物を早々に切り上げて、矢代たちは旅館に帰った。
夕食のあとも、重苦しい空気は消えてくれなかった。
矢代だけは由紀が殺されたこともあるので、重苦しい空気の中でも田村に会いたいと思っていたが、原田は違っていたらしい。
「こうじめじめしてたんじゃ面白くないな。芸者でも呼ぼうじゃないか」
と他の四人の顔を見廻した。
阿部がたしなめるように、
「矢代のことを少しは考えろよ」
「僕も芸者を呼ぶのに賛成だ。せっかく天童まで来たんだ。楽しくやって貰いたいんだよ」
と矢代がいった。
「でも由紀さんが亡くなったばかりなのに、ちょっと不謹慎だわ」
みどりがいった。
「いや、彼女だって、僕たちが湿っぽくしていたら残念がるだろうと思うよ。彼女も楽しいのが好きだったからね。それに、田村はいつ現われるかわからないんだ。緊張のしっぱなしじゃ疲れてしまうよ」
「私は芸者さんに会ってみたいわ」
敬子が原田にいった。
「じゃあ、僕が話してくるよ」
と矢代は、自分で立ち上った。
阿部夫婦だって楽しくやりたいと思っているに違いない。矢代に遠慮しているのなら、彼が先に立って芸者を呼んでやらないと、誰も動こうとしないと思ったからである。
旅館のフロントにいって芸者を呼んでくれるように頼んでから、矢代は玄関を出て旅館の周辺を見渡した。
東京に比べたら悲しいほど少いネオンである。
それに寒いので、あまり人通りはない。しばらく眺めていたが田村の姿は見つからなかった。
一時間ほどして芸者が二人やって来た。
中年の芸者は落ち着いていて着物姿がよく似合っていたが、若い方はエアロビクスでも踊り出しそうな感じだった。
酒を飲みながら、二人からこの天童の町のことや、お客の様子などを聞いているうちに、さすがに重苦しい空気もほぐれてきた。
人口五万余りの天童の町に芸者が百人近くもいるという。原田が今日、舞鶴公園へ行き、人間将棋が行われる場所を見て来たというと、二人の芸者も、今年は「歩」になったのだといった。
矢代は途中で、疲れたからといって自分の部屋に引き揚げた。
芸者が二人来てくれて座が賑《にぎ》やかになったといっても、阿部やみどりが時々、心配そうに自分を見ているのに気がついたからである。
すでに十一時近かった。女中さんの敷いてくれた布団に腹這《はらば》いになると、矢代は煙草をくわえた。
原田たちの部屋では、まだ芸者がいて飲んでいる筈なのだが、矢代の部屋まではその賑やかさが聞こえて来ない。
(警察はどうしているのだろう?)
と思った。
福島の警察署は妻の由紀が殺された事件を捜査している筈なのだが、何の連絡もして来ないところをみると、壁にぶつかってしまっているのだろうか?
由紀が水戸でも福島でも田村を見た、と矢代はいったのだが、警察は信じていないのだろうか?
テレビのニュースで事件のことを何かやっていないかと思い、十一時になると起き上ってテレビをつけてみた。山形市内の交通事故のことはくわしく放送したが、飯坂温泉の事件の方はどの局のニュースもやらなかった。
(ひょっとして警察もマスコミも、由紀が殺された事件のことを忘れてしまったのではないだろうか?)
ふとそんな不安にかられたりした。
マスコミは次の事件に手を伸ばしても、警察が殺人事件を簡単に忘れる筈はないのだが、矢代にしてみると、ついそんな不安にも襲われるのだ。
遅かったが、矢代は福島県警に電話をかけてみた。
由紀の事件を担当している戸田警部は、まだいてくれた。
矢代は戸田警部にも、田村が水戸線や東北新幹線を使って、殺人が可能なことを証明した。
戸田は、「ほう」とか「それは面白い」と相槌《あいづち》を打ちながら聞いていたが、
「だいたいはわかりましたがね。電話でははっきりしないところもあるので、明日そちらへ行きますよ。明日も天童にいらっしゃるんでしょうね」
ときいた。
「ええ。います」
と矢代はいった。
電話をすませてからも落ち着けなくて、矢代はもう一度、風呂に入って来ようと思った。
廊下に出て、エレベーターに乗る途中で原田の部屋をのぞくと、ドアが開いていて敬子が後片付けをしているのが見えた。
「芸者はもう帰ったんですか?」
と声をかけると、敬子は手を止めて、
「男の人たちは出かけましたわ」
「出かけたって、もう十二時を過ぎてますよ」
「ええ。まだ飲み足りないんですって。それで、この近くに芸者さんがよく知っているお店があるといって出かけたんです」
「あなたも一緒に行けばよかったのに」
「私、眠くて」
と敬子は笑った。
「みどりさんは、どうしました?」
「彼女も疲れたといって、自分の部屋に引き揚げましたわ。もう寝たんじゃないかな」
「あなたは大変ですね。その部屋を宴会に使ってしまったから」
「大丈夫ですわ。全部、隅に押しつけておいて寝てしまいますから」
と敬子はいった。
矢代はお休みをいってから、エレベーターで一階におり、王将風呂に入った。
十二時を過ぎて、旅館全体がひっそりとしている。
温泉の噴き出してくる音だけが天井にひびいていた。
十二、三分入ってから、矢代は自分の部屋に戻った。
布団にもぐったが、やはりなかなか眠れなかった。早く事件が解決してくれれば少しはほっとして、眠れるようになるかもしれない。
二時、三時と腕時計が指すのを覚えていた。
三時を少し過ぎた頃だった。
ドアがノックされる音で、矢代はぎょっとして起き上った。
「誰?」
ときくと、
「私です。敬子です」
という声が聞こえた。
あわててドアを開けると、丹前姿の敬子が青い顔で立っていた。
「どうしたんです?」
ときくと、
「彼がまだ帰って来ないんです」
「芸者と外へ飲みに行ったんでしょう?」
「ええ。でも阿部さんはもう帰って来ているんです」
「阿部に聞いてみましたか?」
矢代がきいたとき、その阿部がみどりと一緒に部屋から出て来た。
「まだ帰っていないの?」
と阿部も心配そうに敬子にきいた。
「ええ」
と敬子が頷《うなず》く。
「一緒に帰ったんじゃないのか?」
矢代は、阿部にきいた。
「原田の方が先に帰ったんだ」
「先に?」
「この近くの『恵《めぐみ》』というスナックで、あの二人の芸者と飲んだりカラオケを唄ったりしていたんだ。一時半頃になって原田が帰るといってね。僕も一緒に帰ろうと思ったんだが、中年の芸者がもう一曲唄ってくれといったもんだから、原田だけ先に帰ったんだよ。僕は二時になってから戻った、てっきり原田はもう帰ったと思っていたんだが」
「ここから近いスナックなんだね?」
「ああ、歩いて五、六分のところだよ」
「途中で原田を見かけなかった?」
「ああ」
「もう一度その店へ行ってみようじゃないか」
と矢代はいった。
矢代と阿部がエレベーターに乗ろうとすると、みどりも敬子も一緒に探すといってついて来た。
四人は階下《した》におりた。
旅館のフロントも、この時間では窓口を閉め、白いカーテンがかかっていた。
玄関は閉っていたが、遅く帰ってくる泊り客のためだろう、小さな通用門は開いている。
阿部もそこから入ったのだといった。矢代たちは丹前姿でぞろぞろと外へ出た。
痛いような寒気が、むき出しの顔を攻めつけた。
もう人通りは絶えてしまっている。時折りタクシーが通り過ぎて行く。
矢代たちは、阿部の案内で問題のスナックまで歩いて行った。
確かに旅館から近かった。
スナックやバーが五、六軒並んでいた。
矢代と阿部が「恵」というスナックをのぞいてみたが、原田の姿はなかった。念のために他の店を見てみたが同じだった。
次は旅館までの帰り道だった。原田はかなり酔っていたというから、途中で気分が悪くなったということも考えられる。
或いは眠くなって、路上で眠ってしまったか。
矢代にも酔って道路で寝た経験がある。
帰り道や近くの路地を探してみた。が、原田は見つからなかった。
「まさか──」
と阿部がふるえる声で呟いた。
「大丈夫だよ」
と矢代はいった。
そんなことは考えたくなかった。妻に続いて友人を失うことなど、考えたくはない。それに、犯人も友人の一人などということはなおさらだった。
「しかし、原田はどこにもいないじゃないか」
「一つだけ探し忘れたところがあったよ」
と矢代は急に元気になって阿部にいった。
「どこだ?」
「外は寒い。寒い外から、旅館に帰ったら君はどうする?」
「僕はすぐ自分の部屋に入って布団にもぐったよ」
「他にも暖まる方法はあるだろう。ここは天童なんだ」
「そうか。温泉に入るか」
「そうだよ。原田はこのスナックを出てから、酔っていたのでふらふら歩いて帰ったんだろう。身体がすっかり冷えてしまった。そこで王将風呂に入ってから部屋に戻ろうと思った。入っている中に、酔いが残っていたので眠っちゃったんじゃないのかねえ」
「風呂で寝られるかな?」
「温泉なら寝られるんだ。温泉だと絶えずお湯があふれて流しの上に流れているだろう。だからあそこに寝ていると、すごく気持がいいのさ」
「本当に君のいう通りなら嬉しいがね」
「大丈夫だよ、僕たちが寒い中を探し廻っているのに、原田は王将風呂で呑気に寝ているさ」
と矢代は努めて明るくいった。
四人は旅館に帰った。
王将風呂は男女に分れている。矢代と阿部が、中に入ってみることにした。
二人は脱衣場から風呂の中をのぞき込んだ。
「やっぱりいるよ。君のいう通りだ」
阿部が嬉しそうにいった。
裸の男が湯舟の近くに俯《うつぶ》せに寝ているのが見えた。
あふれるお湯が、男の身体を洗っているように見える。
「おい。原田!」
と矢代が呼んだ。
呼んでから様子がおかしいと気付いた。
矢代はあわてて脱衣場から風呂場に入って行った。
阿部もその後に続いた。
近くに寄ると後頭部が、何かで殴られたのだろうか、ぱっくりと口を開け、血がこびりついているのがわかった。
抱き起こすと、のどに赤黒いロープの痕がついていた。
ゆすってみたが何の反応もない。
「とにかく救急車を呼んでくれ」
と矢代は原田の身体を抱いたまま阿部にいった。
阿部が電話するために飛び出して行った。
五、六分すると救急車のサイレンが聞こえて来た。
旅館の人たちも起き出して来た。
救急隊員が風呂場に担架を持って入って来たが、ぐったりとしている原田の脈を診《み》、心臓の鼓動を確かめてから、
「もう死んでいるね」
といった。
「まだわかりませんよ!」
矢代は怒鳴るようにいった。
「しかし、心臓は停止していますよ」
「とにかく病院へ運んで下さい!」
救急隊員は、矢代の気迫に押されたように原田の身体を担架にのせ、救急車まで運んで行った。
敬子と矢代が乗り込み、サイレンを鳴らして市内の救急病院に向った。車の中の救急隊員も矢代も敬子も、黙りこくっていた。
病院に着くと、すぐ当直医が診てくれた。
しかし医者は眉を寄せ、黙って首を横に振った。
「駄目なんですか?」
と矢代がきいた。
「死んでいますよ」
「しかし何とか」
「もう何とも出来ませんね、お気の毒ですが」
と医者は冷たい口調でいった。
敬子はうつろな眼で、すでに死体となってしまった原田の身体を眺めている。
「すぐ警察に連絡しなければなりません。これは明らかに殺人ですからね」
医者がいった。
救急隊員が近くの電話で一一〇番した。
やがてパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
矢代はそんな事態の動きを、まるで悪夢を見ているような気で眺めていた。
恐れていたことが現実になってしまった。
刑事が二人やって来た。医者が彼等に死体の後頭部を見せて、その傷の状態を説明している。
「何かかたいもので後頭部を殴られ、そのあとロープでくびを締められたんだと思いますね」
と医者がいっている。
刑事の一人が矢代と敬子を見た。
「あなた方の知り合いですか?」
ときいた。
矢代が原田の名前をいい、グループで天童に来たことを話した。
矢代が、福島の飯坂温泉でもグループの一人で自分の妻でもある由紀が殺されたというと、刑事の眼が光った。
「こりゃあ連続殺人だな」
と相棒の刑事と顔を見合せた。
阿部とみどりも、旅館の車で駈けつけた。
刑事たちが、原田が死んでいた王将風呂が見たいというので、全員でまた旅館に引き返すことになった。
旅館に着くと刑事たちは風呂場に入り、矢代たちはそれを見守った。
刑事の一人が急に、ズボンをはいたまま風呂の中に飛び込んだ。
何をしているのかと矢代たちが見つめていると、その刑事は風呂の底から鉄製の灰皿を拾いあげて、ズボンを濡らしたままあがって来た。
更衣室に置いてある、南部鉄で出来た灰皿だった。
灰皿は三つ置かれていて、その一つだった。
刑事がその灰皿で殴るまねを同僚にして見せているところをみると、それで犯人が原田の後頭部を殴ったというのだろう。
原田のくびを締めたロープは見つからなかった。
王将風呂の前にあるロビーで、矢代たちは改めて質問を受けた。
矢代は吉井という中年の刑事にきかれて、田村のことを話した。
吉井刑事は手帳に書き留めながら聞いていたが、
「すると君は、友人の田村が犯人じゃないかと思っているんだな?」
「思いたくはないんですが、田村には動機もあるし、由紀と原田を殺すことが出来たんです」
「水戸駅で君たちを見送っておいて福島に先廻りしたり、この天童で民芸館のノートに自分の名前を書き残すというのは面白いね」
「面白くはありません」
矢代が抗議すると、吉井は眼をしばたたいて、
「いや、すまん」
といった。
「田村は、僕たちがあの民芸館に行くことを予期して書いておいたんだと思います」
「そうだろうね」
「僕としては、一刻も早く田村を見つけ出したいんです。そして話を聞きたい。彼が犯人でなければ嬉しいし、もし犯人なら、彼自身のためにも、もう止《や》めさせたいんです」
と矢代はいった。
少しずつ夜が明けてきた。
二人の刑事は松竹館を出ないようにといい残して、いったん引き揚げて行った。
「少し眠った方がいいよ」
と矢代は敬子にいった。
だが敬子は、死んだ原田の傍にいてやりたいといって、また病院へ出かけてしまった。
残された矢代たち三人は、阿部夫婦の部屋に入った。
「君は田村が殺したと思うのか?」
と阿部が青白い顔で矢代にきいた。
「他にいないだろう?」
矢代はきき返すようにいって、煙草に火をつけた。
「でも、私はまだ信じられないわ」
とみどりがいう。
「僕だって田村が殺したとは思いたくないさ。だが彼は由紀と原田を殺すことが出来たんだ」
「しかし、田村はこの松竹館に泊っていないよ」
と阿部がいった。
「ああ」
「それでも王将風呂の中で原田を殺せたかな?」
「昼間なら無理だよ。しかし原田が殺されたのは深夜だ。フロントの人たちも眠ってしまって、通用門だけが開いていた。田村が入って来ても誰も怪しまなかったと思う。外で飲んで帰って来た、泊り客の一人としか思わないからさ。田村は多分、一人で旅館に帰って来た原田のあとをつけて来たんじゃないかと思う。原田が旅館に入るのをつけて、田村も中に入った。原田は酔いがさめて寒くなったので、自分の部屋に戻る前に王将風呂に入ることにした。午前一時半を過ぎていたから、他の泊り客は眠ってしまっていたろうし、風呂も多分、原田一人だったと思うね。そこへ田村が入って行った。更衣室にあった南部鉄の灰皿を手にしてそっと原田の背後から近づき、いきなり後頭部を一撃したんだ。倒れて意識を失った原田に対して、用意して来たロープでくびを締めて殺したんだと思う。そんな真夜中の惨劇を誰も知らなかった。田村は灰皿を風呂の中に投げ込み、ロープを持って旅館を出て行ったんだ」
「僕はそのあとに帰ってきたんだな」
と阿部がいった。
「恐らくそうだろうと思う。君は午前二時に帰ったんだろう?」
「そうだ」
「それなら三十分あるから、田村は王将風呂で原田を殺し、逃げ去るだけの余裕はある。僕は何も知らずに三階の部屋で寝ていたんだ」
「自分を責めるのはよせよ。夜が明けたら田村を見つけようじゃないか。田村が犯人なら、午前二時頃にはこの天童市にいたことになる。きっとまだこの町にいるさ」
と阿部はいった。
矢代もそう思う。しかし、田村は逃げられないからこの天童市にいるのではなく、次の獲物を狙っているのではないのか?
今夜だって、田村が原田だけを狙っていたとは思えない。
真夜中にたまたま原田が、たった一人で旅館に帰って来たから狙われたのだ。もしそれが矢代だったら、殺されたのは原田でなく彼だったに違いない。
三人で話しているうちに、カーテンの向うが明るくなった。
晩秋の陽差しが射し込んでいる。
「僕たちも少し眠っておいた方がいいんじゃないか。眠れないかも知れないが」
と阿部がいった。
矢代が眼をさましたのは昼近かった。
田村が今度は自分を殺そうとしている夢を、矢代は見た。起きると腋《わき》の下に汗をかいていた。
「おい。矢代」
と阿部がドアの外で呼んだ。
「今起きるよ」
と矢代がいった。
「僕たち一階のロビーにいるから、君もすぐ来てくれ」
「何かあったのか?」
「君の奥さんの事件を調べている、福島県警の戸田警部が来ているんだ。僕たちに会いたいといっている」
「僕が彼に電話したんだよ」
と矢代はいった。
矢代は身仕度をして、一階へおりて行った。
ロビーで戸田警部が腰を下して、阿部夫婦から話を聞いていた。
矢代は近づいてあいさつした。
「昨日、電話してくれた人ですね」
と戸田は微笑して矢代を迎えた。
「あの時はまだ原田が殺されてなかったんです」
「今朝、今度の事件を知って、びっくりして飛んで来たんですよ。こちらの警察と合同捜査ということになりますからね」
と戸田はいってから、パイプを取り出して口にくわえた。が禁煙でもしているのか、パイプに煙草を詰めなかった。
「ところであなた方は、やはり友だちの田村明人が犯人と考えているんですか?」
「他に考えようがないんです。残念なんですが」
阿部は肩をすくめるようにしていった。
「矢代さんも同じ考えでしたね?」
と戸田警部が矢代を見た。
「そうです。彼が犯人だと思っています。阿部のいうように、僕も友人の田村が犯人と考えるのは悲しいんですが」
「彼は犯人じゃありませんよ」
と戸田が断定して、矢代たちを驚かせた。
「田村が犯人じゃないというのは、どういうことですか?」
矢代がきいた。
「簡単にいえば、犯人ではあり得ないからです」
戸田は相変らず断定的だった。
矢代はむきになった。
「しかし、田村は水戸駅で僕たちを見送ってからでも、水戸線と新幹線を使えば福島、飯坂と先廻りして、由紀を殺すことが出来たんです」
「ああ、あなたが電話で話してくれたアリバイトリックですね」
「そうです。水戸線で小山《おやま》に出て、小山から東北本線で宇都宮、宇都宮からは東北新幹線の『やまびこ141号』を利用すれば、水郡線に乗った僕たちよりも十分も早く福島に着けるんですよ」
矢代がいうと、戸田は微笑して、
「そうでしたね。なかなかの推理だと感心しましたが、それは駄目なんですよ」
「そんな筈はありませんよ。僕は時刻表を見て、何度も検討したんですよ」
「私もね。あなたの電話のあとで時刻表を見て調べてみましたよ。確かにあなたのいう通り、水戸線と新幹線を使って追いつくことが出来ます」
「それなら問題ないじゃありませんか? 田村には僕の家内を殺せたんですよ」
「そうむきになる前に、これを見てくれませんかね」
戸田はポケットから折りたたんだ新聞を取り出して、矢代に渡した。
「何ですか、これは?」
「その社会面を見て下さい」
と戸田がいった。
矢代は新聞を広げた。阿部夫婦も横からのぞき込んだ。
十一月九日の朝刊である。
〈昨日の八日、水戸線で衝突事故。三時間不通に〉
これが見出しだった。
記事によれば、八日の水戸発一四時一八分の小山行の列車が途中の福原附近で大型トラックと衝突、そのため水戸線は三時間近く不通になった。復旧したのは夜に入ってからだという。
「その水戸発一四時一八分の列車というのは、田村があなた方を見送ってから乗ることの出来る列車です。次の一五時一九分発に乗っても、小山から宇都宮に出て新幹線を利用すれば追いつける。そうですね?」
と戸田は矢代を見た。
「ええ、そうです」
「そのキーになる列車が事故にあって、三時間近く水戸線が不通になっていたんですよ。十一月八日というのは、あなた方が水戸から福島へ向った日でしょう?」
「ええ、そうです」
「その日の事故なんです。これで、あなたのトリックが使えないことがわかったでしょう? 田村明人は水戸線を使うことが出来なかった。つまり、皆さんの先廻りをして福島に着くことは不可能だったんですよ」
「それでは福島の駅で僕の家内が田村を見たというのは、どう説明したらいいんですか?」
と矢代は食いさがった。
「奥さんには失礼だが、似た男を見間違えたということだと思います」
と戸田がいった。
「家内は眼がいいんです。見間違えたとは思えませんよ」
「しかし、矢代さん、あの日、水戸線は使えなかったんです。あなたの推理は成立しないんですよ。従って、水郡線で行ったあなた方に田村は追いつけなかったんですよ」
と戸田はゆっくりといった。
(では、由紀は見間違えたのか? それとも嘘をついたのだろうか?)
第六章 推 理 合 戦
「意外だったね」
阿部が小さく首を振った。
「私も矢代さんの推理が当っていると思っていたわ。田村さんが犯人とは信じられなかったけど」
とみどりは複雑な表情で矢代にいった。
「しかし、田村以外に誰が由紀や原田を殺したりするんだ?」
矢代は自問するような口調で呟いた。
戸田はそんな矢代たちの顔を冷静な眼で見守っていたが、
「本当に田村明人以外に、犯人は考えられませんか?」
ときいた。
矢代は戸田を見返して、
「考えられませんよ。まさか由紀や原田が、物盗りに殺されたわけじゃないでしょう?」
「そうですね。物盗りなら、わざわざ風呂の中まで入って来て殺したりはしませんね。更衣室から盗んで行くだけでしょう」
「それじゃあ、誰が殺したというんですか?」
矢代が聞くと戸田は苦笑して、
「まるで叱《しか》られているみたいですな」
「そんなことはありませんが──」
「正直に私の考えをいいましょう」
戸田は改めて矢代たちの顔を見廻した。
「どんなことですか?」
と矢代が聞き、阿部は、
「警察の考え方を聞きたいですね」
といった。
「本当に聞きたいですか?」
戸田は念を押した。そのいい方に矢代は嫌なものを感じながら、
「話して下さい」
「今度の事件ですが、あなたがいったように物盗りの犯行とは思われない。とすると当然、あなた方の中に犯人がいることになります」
と戸田はいった。
当然の話なのだが、正面切って警察にいわれると、やはり矢代の心は重くなった。
戸田は言葉を続けて、
「一番怪しいのは田村明人という人間です。あなた方の昔の仲間で、あなた方全員を恨んでいるという。その上、水戸の駅と福島の駅で、殺された矢代由紀さんが田村を見たと証言している」
「この天童でも、田村の書いた文字が見つかっていますよ」
と矢代がいった。
「そうでしたね。だが水戸線の事故のために、田村は飯坂温泉で矢代由紀さんを殺すことは不可能とわかって来ました。田村明人でないとすると犯人は誰なのか? 当然の帰結として、残る人たちの中に犯人がいると思わざるを得ないのですよ。あなた方もこの考えに賛成だと思いますがね」
「それは単純すぎますよ」
と矢代が抗議した。
「どこが単純すぎるんですか?」
戸田がきいた。
「二ひく一は一みたいないい方だからですよ」
「正確にいうと、六ひく一は五ということです。あなた方五人と田村明人の六人の中に犯人がいると、飯坂温泉で矢代由紀さんが殺されたときは考えました。しかし田村には不可能だったとなると、残るのは五人です。そして、この天童で殺された原田さんも除くことが出来る。残るのは四人になる」
「その中に犯人がいるというんですか?」
「私の考えを知りたいというので話しているんですよ。私は阿部さん夫婦も疑っていたんです」
「僕たちをですか? なぜ?」
阿部が戸田を睨むように見た。
「水戸駅で見送った田村明人に飯坂で矢代由紀さんが殺せるのなら、同じようにあなた方を見送った阿部さんと奥さんのみどりさんにも、殺すことが可能だったからですよ」
と戸田はいった。
「動機は何です?」
阿部がきいた。
「それはわかりませんが、私の疑いはもっともだと思うでしょう? 田村明人が怪しければ、阿部夫妻も怪しかったんです。しかし田村明人には不可能だとわかった。となると阿部夫妻にも不可能ということになります。良かったですね、阿部さん」
戸田はちょっと皮肉な顔つきをした。
阿部はぶぜんとした顔で、
「僕たち夫婦まで疑われていたんですか?」
「ひどいわ」
とみどりも悲しげな顔をした。
戸田は肩をすくめて、
「われわれの仕事は全員を疑うことですからね。田村明人、それに阿部夫妻がシロとすると、残るのは三人です」
矢代は嫌な予感がした。
「まさか、僕が家内を殺したなんていうんじゃないでしょうね?」
と矢代は戸田にきいた。
「妻殺しはもっとも典型的な殺人の一つですよ」
と戸田はにこりともしないでいってから、
「残るのは三人。その中の一人、原田さんはここ天童で殺されました。となると残るのは二人になる」
「ちょっと待ってくれませんか」
矢代はあわてて戸田の言葉をさえぎった。
「何です?」
「残るのが二人というと、僕と原田の恋人の加藤敬子さんということになるんでしょう?」
「自然にそうなりますね」
「それに彼女は昔からの仲間じゃない。動機のない人間だ。となると僕が犯人だといっているようなものじゃありませんか?」
「違いますか?」
「冗談じゃない。僕に何の動機があるというんです。僕は家内を愛していたんです。彼女を殺した犯人を捕えたい気持で一杯なんですよ」
「動機はいろいろと考えられますよ」
「どんな動機ですか?」
「あなたの奥さんの由紀さんはなかなか美人だった。魅力的な女性だった」
「それが動機なんですか?」
「そうです。美しく魅力的な奥さんを持った男は、どうしても嫉妬深くなるものです。あなたは昔の友人たち、例えば原田さんなどと奥さんが浮気をしているのではないかと疑った。ひょっとすると、あなたが嫉妬し、疑うだけのことがあったのかも知れない。嫉妬に狂ったあなたは奥さんを殺し、次に浮気の相手の原田さんを殺した」
「僕が今、何を考えているかわかりますか?」
矢代は怒りを抑えて戸田にきいた。
「何ですか?」
「あなたを殴りつけたいのを必死でがまんしているんですよ」
と矢代はいった。
だが戸田は、別に恐縮した表情も見せなかった。
「あなたが犯人でなければ、残るのは加藤敬子さん一人です。彼女があなたの奥さんを殺し、恋人の原田さんを殺したと思いますか?」
「いや」
「それでは犯人がいなくなってしまうじゃありませんか」
戸田は小さく笑った。
「加藤敬子というのはどういう女性なんだろう?」
と阿部が誰にともなくきいた。
矢代はその阿部に向って、
「僕は水戸に行くことになってから、初めて原田に紹介されたんだ。だからどんな経歴の女性なのかも知らないし、性格もわからないよ」
「あなた方はどうですか?」
戸田は阿部とみどりを見た。
「僕も水戸で初めて会ったんです」
「私も」
とみどりがいった。
「じゃあ皆さんは、加藤敬子が何者か一人も知らないんですか?」
戸田が矢代たちにきいた。
「知りませんよ。原田がフィアンセだと紹介してくれただけです」
と矢代はいった。
「すると彼女も、容疑者の一人ということになってしまいますね。或いは彼女は、あなた方を恨む理由を持っていて原田さんに近づいたのかも知れない」
戸田は難しい顔になった。
「その線はあるかも知れませんよ」
と阿部はいった。
「彼女は病院でしたね?」
「そうです。原田の遺体のある病院にまだいる筈ですよ」
「私もそこへ行って来よう」
戸田は、原田の遺体のある病院へ出かけて行った。
旅館のロビーには矢代たち三人が残された。
「コーヒーでも飲もうじゃないか」
と阿部が気分を引き立てるようにいい、自分で喫茶店からコーヒーを運んで来て、矢代とみどりに配った。
みどりはそのコーヒーを口に運んでから、
「驚いたわ。あの警部さんが私たちまで疑ってたなんて」
「でも水戸線が事故を起こしていて助かったよ。もし水戸線がちゃんと動いていたら、間違いなく僕も君も犯人扱いされているところだったんだ」
と阿部が眉をひそめていった。
「君たちはいいが、僕は当分、疑われ続けなければならないよ」
うんざりした顔で矢代がいった。
「私たちはあなたが犯人だなんて思っていないわ」
みどりがいってくれた。
「しかしあの警部は、妻殺しはよくある事件だみたいなことをいいやがった」
「君が由紀さんを本当に愛していたことはよく知ってるよ」
と阿部がいった。
「ありがとう。しかし彼女が死んでるんでね。それを証明するのは大変だ」
矢代は溜息をついた。
由紀を殺した犯人を見つけたいからこそ、悲しみをこらえて天童までやって来たのである。
それなのに犯人扱いされるとはどういうことなのかと、口惜《くや》しくて仕方がなかった。
「加藤敬子が犯人じゃないかという考えについてはどう思う?」
と阿部がきいた。
矢代はコーヒーに砂糖を入れながら、
「警部にもいったけど、彼女のことはよく知らないんだ」
「原田は本当に彼女と結婚する気だったのかな?」
「さあね。僕の眼には、あの二人は本当に愛し合っているように見えたがね。だが、彼女のことを知らないからね」
「僕たち全員を恨んでいるという可能性はあるかな?」
「あんな可愛い顔をした人が、そんな恐しいことを考えてるとは思えないわ」
とみどりがいった。
矢代はコーヒーカップを持ったまま立ち上って、ガラス窓の外に眼をやった。
「もし僕たち全員が恨まれているとすると、その原因は水戸時代だろうね。卒業したあと六人全員で何かしたことはなかったからね」
「何を考えてるんだ?」
阿部がきいた。
「いろいろと可能性を考えてるんだよ。僕は前に、加藤敬子に会ったことがあるだろうかと考えてみた」
矢代がいうとみどりがすぐ、
「ないわ」
「僕もないね」
と阿部もいった。
「僕もさ。だから僕たち六人が直接、彼女をいじめたとか傷つけたということじゃないと思う。彼女の家族か友人、知人を僕たちが傷つけたんだ」
「そんな記憶はないわ」
とみどりがいう。
「若さに委《まか》せてかなりでたらめなこともやったが、復讐《ふくしゆう》されるようなことはしてない筈だよ」
阿部もいった。
「僕たちが運転していた車で、人をはねて殺したということもなかったね?」
「あったかな?」
「大学時代、僕たち全員、運転免許を持っていた。車は六人で金を出し合って買った、カローラの中古しかなかったけどね」
「ああ、そうだったね」
阿部は懐しそうにいった。
「みんなであの中古車を、水戸で乗り廻していたんだ。一緒に乗ったこともある。人をはねたことはなかったかな?」
矢代がきくと、阿部はちらりと妻のみどりに眼をやって、
「僕も家内も事故は起こさなかったよ」
「僕もだ」
と矢代はいってから、
「誰かが一人で運転していて人身事故を起こした。だが他の五人には黙っていた。はねられた人間は死に、その娘が加藤敬子だとする。彼女は何年かかかって親をはねた車を見つけ出した。その車の持主は阿部となっていた」
「そうだ。僕の名前にしてあったんだ」
「だが実際には六人で乗っていたので、彼女の親がはねられた時、誰が運転していたのかわからない。そこで六人全員を殺すことを考え、その中の一人の原田に近づいた」
矢代がいうと阿部は苦笑して、
「それじゃあ、まるで映画の世界の話だよ。実際に、六人の誰が犯人かわからないので六人すべてを殺す、なんて人間がいるとは思えないよ」
といった。
矢代は自分たちの中に犯人がいるとは考えたくない。
阿部夫婦にしても同じだろうと、矢代は思う。だからこそ田村が由紀を殺さなかったとわかった時、驚きながらも、同時にほっともしたのである。
自分たち以外の加藤敬子のことを犯人ではないかと考えたいのも、その表われだろう。
「君は彼女をかばうが、彼女について何も知らないわけだろう?」
と矢代は阿部にいった。
「別にかばっているわけでもないよ」
「じゃあ可能性はあるんだ。こうなったら、彼女が何者なのか調べた方がいいと思うね」
矢代は熱心にいった。
田村に由紀は殺せなかった。阿部とみどりも同じである。そして原田は殺されてしまった。
となれば、加藤敬子しか残っていないのだ。
「しかし、どうやって彼女を調べるんだ? 面と向って、君は僕たちを憎んでいるかときくのかい?」
と阿部がきいた。
「方法はわからないよ」
「私がそれとなくきいてみるわ」
といったのはみどりだった。
「そうだね。女同士ならうまく聞き出せるかも知れないな」
阿部がほっとした顔でいった。
矢代も内心ほっとしていた。訊問は苦手だったからである。
夕方になって、加藤敬子が疲れ切った顔で戻って来た。
阿部と矢代は、みどりだけを敬子の傍に残して旅館を出た。
旅館の近くにあるそば屋に入った。
大きな水車が店の前に飾ってある名物店である。
奥のテーブルに腰を下してから、
「二人だけにして大丈夫かな?」
と矢代がいった。
「大丈夫だよ。みどりは賢いから上手《うま》く話すよ」
阿部は自分にいい聞かせる調子でいった。
「しかし、もし加藤敬子が犯人で、われわれ全員を殺す気でいるとしたら、絶好のチャンスと思うかも知れないぞ」
「脅かさないでくれよ」
阿部は笑った。が、やはり心配らしく、明るい笑いにはならなかった。
「二人だけでいるときみどりを殺したら、それこそ犯人は自分だと告白するようなものだからやらないさ」
と阿部はつけ加えた。
「そうだな」
矢代も頷《うなず》いた。阿部をそれ以上、心配させることもないと思ったからである。
水車そばでゆっくりそばを食べて旅館に戻ると、ロビーにはみどりがひとりでいた。
「彼女は?」
と阿部がきいた。
「今、自分の部屋にあがって行ったわ」
「何か聞いたか?」
阿部がソファに腰を下してきいた。
矢代もその横に腰を下して、みどりを見た。
「いろいろとね。でも彼女が本当のことを話してくれたかどうかはわからないわ。確かめようがないんだから」
みどりは低い声でいった。
「わかってるよ」
と阿部が頷く。
「彼女は東京の練馬の生れで、現在、両親もそこに住んでいるといっていたわ。父親の仕事はサラリーマン」
「うん」
「彼女は三人きょうだいの末っ子で、兄と姉の二人とももう結婚しているといっていたわ」
「平凡だが幸福な家庭の娘という感じだな」
と矢代はいった。もちろん、これがすべて本当だとしての話だが。
「家族の話をする時、どんな顔をしていた?」
阿部がきいた。
「わからないわ。楽しそうじゃなかったけど、それは原田さんの遺体と一緒にいたせいかもしれないし──」
「水戸にいたことはないのかな?」
と矢代がきいた。
「それも聞いてみたわ。住んだことはないけど、一度か二度は前に行ったことがあるといっていたわ」
「原田には初めてといっていたんじゃないかな」
と矢代はいった。
「本当か?」
阿部がきいた。
「僕は原田や彼女と一緒に上野から水戸へ行ったんだが、その時、彼女は水戸は初めてといっていたような気がするんだがな」
と矢代はいった。
あまり自信はなかった。
「それ、おかしいな」
阿部がいう。
「いや、僕も聞いたような気がするだけなんだよ」
「まあ、それは別として、前に水戸へ来ていれば、水戸から福島へ行くルートなんかもよく知っていたんじゃないかね」
と阿部がいった。
「彼女を犯人みたいにいうのはよくないわ」
みどりが傍からいった。
「しかし、僕たちにも田村にもアリバイがあった。矢代が由紀さんを殺す筈がない。とすると、残るのは彼女しかいないよ」
と阿部がいった。
矢代は、阿部も同じことを考えているのだなと思いながら、
「僕も彼女が怪しいと感じているんだ。最初は田村が由紀を殺したんだと思い込んでいたが、田村はただ僕たちと一緒になりたいと思っているのかもしれないね」
「僕たちと一緒に?」
阿部がきいた。
「そうだよ。僕たちと田村との間に何となく垣根が出来てしまったが、彼も前のように仲間に入りたいんじゃないかね。といって、田村にはちょっとシャイなところがあるから、彼の方から仲直りすることが出来ず、声をかけて貰いたくて、ちらちらと姿を見せているんじゃないのかな」
「すると民芸館のノートに田村が名前を書いておいたのは、僕たちを脅かすためじゃなくて、天童に来てることを僕たちに知らせているわけか」
「そうだよ。駅の伝言板に名前を書くのと同じ気持だと思うね」
と矢代はいった。
「じゃあ、今度、田村を見かけたら、こっちから声をかけてやろうじゃないか」
阿部がいう。
「僕はね、明日、あの民芸館に行って、ノートに田村への呼びかけを書いて来ようかと思うんだ。田村は犯人じゃないんだから、きっと自分の名前を書いてその反応を待っていると思うからね」
「それはいいね。三人だけになってしまって心細いから、彼が来てくれるとほっとすると思うよ」
「私も賛成だわ」
とみどりもいった。
午後七時のおそい夕食になった。
同じ部屋で四人で食事ということになった。
矢代の視線は自然に加藤敬子に向いてしまう。
彼女は化粧を直して来たのだが、それでもひどく疲れているように見えた。前なら恋人の原田を失った心労のためだと思ったろうが、今は二人の人間を殺した疲れではないかと考えてしまう。
「敬子さんはこれからどうするんです?」
と阿部がきいた。
敬子は食欲がないらしく、ほとんど箸をつけなかったが、
「明日、原田さんのご両親が着くということなので、相談して決めたいと思っていますわ」
「原田を殺したのは誰だと思いますか?」
矢代は意地の悪い質問をした。
だが敬子は、「え?」という顔になって、
「田村という人じゃないんですか?」
「田村は犯人じゃありません」
「でも、皆さんがずっと──」
「僕たちは、飯坂温泉で由紀を殺したのもこの天童で原田を殺したのも、同じ犯人だと思っているんですよ」
「ええ」
「ところが、水戸駅で僕たちを見送った田村には由紀を殺すことが出来ないんです、物理的にね。とすると、原田を殺したのも田村じゃないことになります。同じ理由で阿部夫婦にも、物理的に由紀は殺せないんですよ」
「じゃあ誰が?」
と敬子がきいた。
「簡単な引き算ですよ。残るのは僕とあなたしかいません」
矢代はそういって、じっと敬子を見つめた。
敬子の顔が青ざめた。
「私がなぜ原田さんを殺さなきゃならないんですか?」
「あなたが犯人だとはいっていませんよ。ただ僕の家内も原田も、行きずりの人間に殺されたとは思えないんです。とすると、一緒に飯坂、天童と温泉めぐりして来たわれわれの中に犯人がいるとしか考えられないんですよ」
「───」
「それに、別の人間が家内と原田を殺したとも思えない。そうなると、僕とあなたしかいなくなるんです。これはあなたを犯人と考えるかどうかじゃなくて、ただ事実をいってるだけなんですよ」
「じゃあ矢代さん、あなたが犯人だわ。私は誰も殺してないんだから」
「それを証明できますか?」
阿部が横からいった。
敬子は青白い顔を阿部に向けて、
「私には動機がないわ。矢代さんの奥さんにだって、今度の旅行で初めて会ったんです。そんな人をどうして殺すんですか?」
「原田のことを愛していたんですか?」
「ええ、愛していましたわ。彼が死んで、それがよくわかりました。疲れているのでごめんなさい」
敬子はそういって立ち上ると、自分の部屋に帰ってしまった。
「どうだい? 彼女が犯人だと思うか?」
阿部が矢代にきいた。
「わからないな」
と矢代はいった。
「動機だがね、こんな動機だって考えられるんじゃないか。彼女と原田は一見、仲のいい恋人同士に見えたが、実際は憎み合っていた。お互いが憎み合っていなくても、彼女の方だけが理由があって原田を憎んでいてもいい。今度の旅行で原田を殺してやろうと思っていた。しかしいきなり原田を殺したのでは、疑いはすぐ彼女にいく。そこでまず、関係のない由紀さんを殺した。都合のいいことに、僕たちが犯人として田村を考えてしまった。天童に移ってから、敬子は本当の目的である原田を殺した。どうだね?」
「なかなか面白いよ」
と矢代はいった。
何かの小説で似たようなストーリイのものを矢代は読んだことがある。一人の人間を殺すために他の人間も殺して、犯行の目的をわからなくするという話だった。
敬子もその手を使って、まず由紀を殺したのか?
もしこれが当っていたら、ついでに殺された由紀があまりにも可哀《かわい》そうだ。
「僕の推理が当っているとすると、彼女はまた誰かを殺すね」
と阿部がいった。
「目的を達したのに?」
みどりがきく。
「そうだよ。今やめたら僕みたいな人間が、本当に殺したかったのは原田だろうと考えたりする。だから余計に殺して、目的をわからなくするんだ」
「そんな──」
「だが、そうだろう?」
阿部が矢代を見た。
矢代は次第に気が重くなってきた。
「僕にはわからないよ。とにかく明日、民芸館に行ってくる」
といって、矢代は自分の部屋に引き揚げた。
布団に入ったがなかなか眠れなかった。
消去法でいけば、加藤敬子が犯人ということになる。
(彼女が由紀を殺し、原田を殺したのだろうか?)
眠れない中に朝になった。
朝食をすませると、矢代はひとりで民芸館へ出かけて行った。
相変らず外は寒い。
いつかのノートを広げた。改めて田村の署名を見てから、矢代は新しいページに次のように書いた。
〈田村明人へ
僕たちは松竹館にいる。遠慮しないで来てくれ。
矢代、阿部〉
これで果して田村が来てくれるかどうか。
矢代が民芸館から旅館に戻ると、前にパトカーがとまっているのが見えた。
(また何かあったのか?)
と矢代は暗い予感を覚えて走り込むと、青い顔の阿部とぶつかった。
「どうしたんだ?」
と矢代がきいた。
「田村が死体で見つかったんだよ」
と阿部が声をふるわせた。
第七章 疑惑の中で
死体が発見されたのは早朝だった。例の人間将棋が行われる舞鶴公園である。
小高い愛宕山の山頂から、天童の町が一望の下に見渡せる。
駐車場には、陽が昇るにつれて一台、二台と車が入って来た。山形県の車もあれば県外の車もある。
風が冷たいので、車をとめたまま車内で抱き合っている若いカップルもいた。
山頂の見晴台はさして広くはない。たいていの見物客は天童の町の見える側に立ち、そのあと春に人間将棋が行われる場所で写真を撮ったりして帰ってしまう。
飯坂からやって来た家族連れも車の前で記念写真を撮ったりしていたが、小学生の男の子が両親の傍を離れて反対側の斜面に向って小走りに駈けて行った。
こちらは天童の町も見えず、急な斜面に松がまばらに生えているだけなので、見物客の姿もない。
両親は、あわてて小学一年生の男の子のあとを追いかけた。
急な斜面から落ちでもしたら大変と思ったからである。
子供はすぐつかまえたが、若い両親は斜面を見下しておやっという顔になった。
斜面の途中、松の根元の雑草の生えているところに、人間が俯《うつぶ》せになっているのが見えたからだった。
斜面を転げ落ちた感じがした。
「大丈夫ですか!」
と大声で呼んでみた。が、返事はなかった。
おりていくには斜面が急だった。
そこで駐車場の近くにある公衆電話ボックスまで走り、一一九番した。
救急車が駈けつけ、二人の救急隊員がロープを使って斜面をおりて行った。
横たわっていたのは若い男で、すでに死亡していた。
後頭部に、明らかに強打されたと思われる傷があったので、救急隊員は警察に連絡した。
午前八時四十分頃である。
うす茶のコートを着た若い男は、ポケットにあった運転免許証から田村明人という名前とわかった。
次に警察は、彼を現場まで運んだタクシーを探した。
狭い町だし、タクシーの数も限られている。被害者、田村明人を乗せたタクシーはすぐ見つかった。
その運転手の証言によれば、今朝の午前六時頃、ホテル「てんどう」の前で乗せたという。
そのことから、被害者はホテル「てんどう」の泊り客であることがわかった。
刑事たちはホテル「てんどう」に行き、田村明人が二日前から泊っていたことを知った。
田村の泊っていた部屋を調べたところ、テーブルの上にメモ用紙が残っていて、それに「旅館・松竹館」とボールペンで書いてあった。
刑事たちは更に松竹館を訪ね、そこに泊っている阿部夫婦が田村明人の知り合いであることを知ったのである。
矢代は阿部夫婦と一緒に、田村の遺体が運ばれた天童警察署に足を運んだ。
加藤敬子は、疲れているし田村明人には面識がないからといって、同行しなかった。
警察署の地下に、田村の遺体が安置されていた。
これからすぐ、解剖のために病院に運ばれるというので、あわただしい面会になった。
まぎれもなくあの田村だった。
福島県警の戸田警部も来ていた。
「解剖すれば更にはっきりするだろうが、これは明らかに殺しですね」
と戸田は矢代たちにいった。
「後頭部に傷があるからですか?」
矢代がきいた。
「そうです。そのあと突き落としたんですよ。顔や手足の傷は斜面を転がり落ちる時に出来たものだが、後頭部の傷は違いますよ。あれはあきらかに、何か鈍器のようなもので殴られたものです」
「物盗りの犯行ということは考えられないんですか?」
「三万五千円入りの財布は、盗《と》られていないそうですからね」
「それだけですか?」
「もう一つは、午前六時にタクシーで愛宕山の頂上の舞鶴公園に行っている。まだ夜が明けたばかりですよ。誰かに会いに行ったとしか考えられませんからね」
「じゃあ、僕たちの中に犯人がいると思うんですか?」
天童警察署には原田が殺された時、捜査本部が置かれていたが、今度の田村明人が同じ大学を卒業した仲間だということで、別の捜査本部は置かず、同じ陣容で捜査が行われることになった。
責任者は山形県警の中村という警部だった。
身体の大きな、威圧的な話し方をする男である。
「殺しの方法から考えて、原田を殺したのと、今回、田村を殺した人間とは同一人だ」
と、中村は矢代たちに向っていった。
そういえば原田も、鉄製の灰皿で後頭部を殴られてから、王将風呂に放り込まれている。
殺人の方法はよく似ているのだ。
「犯人は君たちの中にいると思わざるを得ない。もう一人はどうしてるのかね?」
中村はじろりと、矢代たち三人の顔を見渡した。
「彼女は旅館に残っています。気分が悪いということなので」
と阿部がいった。
「旅館で殺された原田のフィアンセの加藤敬子だね?」
「そうです」
「なぜ来ないんだ?」
「それは、今いったように気分が悪いからですよ。フィアンセが殺された直後ですから、当然だと思いますが」
「しかし、こちらから見れば容疑者の一人だよ。本当に気分が悪くて来ないのかね? 逃げているんじゃあるまいね」
中村警部は眉を寄せて、阿部を睨んだ。
「そんなことはありません」
矢代が口を出した。が、自分でも声に力のないのがわかった。
矢代自身、加藤敬子を疑っていたからである。
矢代は今朝七時半に自分の部屋で朝食をとり、タクシーで民芸館に出かけた。
警察の話では、田村が殺されたのは午前六時半から七時頃までの間らしい。
その間に、加藤敬子が旅館を抜け出して殺人現場に行っていたとしても、矢代にはわからないのだ。
中村は部下の若い刑事に小声で何かいい、刑事はすぐ飛び出して行った。多分、加藤敬子を連れに行ったのだろう。
「君は今朝、どうしていたね?」
今度は中村が矢代にきいた。
「僕を疑っているんですか?」
「君たち全員を疑っているさ」
「僕は用があって、民芸館へ行っていましたよ」
「何をしに?」
「実は、田村に呼びかけようと思ったんです」
矢代は正直に、民芸館のノートに書いて来たことを話した。
「つまり、田村明人がどこに泊っているか知らなかったというんだな?」
と中村警部がきく。
「そうです。知っていれば、民芸館のノートで呼びかけるような面倒なことをしないで、彼の泊っている旅館へ行っていますよ。そうしていれば、彼だって殺されずにすんだんですからね」
「福島県警の戸田警部によれば、今度の事件で今朝殺された田村明人と阿部夫婦には、アリバイがあるということだ。とすると犯人は、君か加藤敬子ということになるんじゃないかね? どうなんだ?」
中村は意地の悪いきき方をした。
矢代の顔が小さく歪《ゆが》んだ。
「僕は犯人じゃありませんよ」
「じゃあ、加藤敬子が犯人だというのかね?」
「彼女でもありませんよ」
「おかしいじゃないか。犯人がいなくなってしまうぞ」
「僕たちの他に犯人がいるんじゃないですか?」
「まさかそんなことを信じているんじゃないだろうね? 君の奥さんがまず飯坂温泉で殺され、次にこの天童で原田が殺され、今度は田村明人だ。三人とも君たちの仲間だろう。それでも行きずりの犯行と思うのかね?」
「僕にはわかりませんよ」
「そんなことはない。仲間の中に犯人がいると思っている筈だ。君たちの眼がそういってるよ」
「しかし、彼女には動機がありませんよ」
と矢代はいった。
昨夜、阿部たちと彼女が犯人だった場合の動機について推理したことは、中村警部にはいわなかった。
「動機か。そんなものはすぐ見つかるさ」
と中村は事もなげにいった。
しばらくして、さっき飛び出して行った若い刑事が、敬子を連れて戻って来た。
中村警部は、わざと彼女一人を別の場所へ連れて行って訊問した。
「彼女、大丈夫かね?」
阿部が矢代の横に来て、小声で話しかけてきた。
「何が?」
「あの中村という警部にいじめられていると思うよ」
「彼女がシロなら心配ないよ」
「君はシロだと思ってるのか?」
阿部がきいた。
「わからん」
と矢代はいった。
消去法でいけば、彼女以外に犯人はいないのだ。
これははっきりしている。だがそれにも拘《かかわ》らず、矢代は加藤敬子を犯人と断定できなかった。
加藤敬子が青い顔で、矢代たちのところにやって来た。
風邪をひいたのか咳《せき》をしている。
「参ったわ。まるで私を犯人扱いよ」
と咳をしながら敬子がいった。
「ひどいわね」
みどりが敬子にいった。
「僕だって犯人だと思われてるんだ」
と矢代がいった。
「あなたも?」
「ああ。阿部と奥さんは僕の家内を殺すことが出来ない。田村もだ。時間的に可能だったのは、夫の僕と原田とあなたの三人だ。その三人のうち、原田は殺されてしまった。となると、残るのはあなたと僕の二人だけなんだ。だから警察は僕とあなたを疑うんだよ」
「でも、私じゃないわ。私は誰も殺してないわ」
敬子はいやいやをするように首を振った。
「わかってるわ。あなたは犯人なんかじゃないわ」
とみどりが敬子の肩を抱くようにしてなぐさめた。
「ありがとう。でも警察は信じてくれないのよ。東京に帰りたいっていったら、中村という警部はこの天童を離れてはいけないといったわ」
敬子はいまいましげに、中村がいる方を睨んだ。
「まだ誰かが死ぬと思っているのかな?」
阿部が呟いた。
「僕はこれから、田村が殺されていた舞鶴公園に行ってくるよ」
と矢代はいった。
「警察が変に勘ぐるかも知れないぞ」
阿部が心配した。
「どうせ疑われているんだから構わないさ。それに、こうしていたんじゃ僕の疑いはいつまでたっても晴れてはくれない。だから自分で、何とかして犯人を見つけ出すんだ」
「みんなで行こうか?」
「いや、僕だけでいい。君たちはここにいてくれ」
矢代はそういって外へ出た。
タクシーを拾おうとしていると敬子が出て来た。
「私も連れてって」
「どうして?」
「私もあなたと同じで、このまま疑われてるのは嫌なの。だからあなたと一緒に犯人を見つけてやるわ」
「いいよ」
と矢代はいった。
タクシーを止めて乗り込むと、舞鶴公園の名前をいった。
タクシーはスピードをあげて愛宕山に向った。
急なカーブの連続である小道を、タクシーが登っていく。
山頂の駐車場に着くと、二人はタクシーを帰した。
風は相変らず冷たい。田村の死体が見つかったあたりにはロープが張られ、制服の警官が立っていた。
矢代と敬子は、上から急な斜面を見下した。
「上から突き落としたのね」
敬子は声をふるわせた。
「田村はなぜ、早朝にここへ来たのかな?」
「もちろん犯人に会いに来たのよ。犯人に呼び出されたんだわ」
「何の用心もせずにかい?」
「ええ。犯人がよく知った人だったから、安心してここへ来たんだと思うわ。安心しているからこそ、犯人に背中を向けてしまって殴られたんだわ」
「じゃあ、犯人の動機は?」
「わからないわ。田村さんって人、私、よく知らないのよ」
と敬子はいった。
矢代には、敬子が本当のことをいっているのか嘘をついているのか、判断がつかなかった。
犯人扱いされて本当に悩んでいるようにも見えるし、悩んでいるのはあくまでも仮面で、その仮面の下で冷酷に三人の人間を殺しているのかもしれない。
(彼女が犯人でないとすると、いったい誰が由紀や原田たちを殺したのだろうか?)
矢代は考えながら、改めて斜面の下をのぞき込んだ。ふと、背後に敬子が廻ったのを感じた。
(おれまで突き落とす気なのか?)
背筋に一瞬、冷たいものが走った。が矢代は、金縛りにあったように身体が動かなかった。
奇妙なのだが、もし今、敬子がおれを突き落としたら、犯人だということがわかるなとも思った。
「危いわ」
と敬子がいった。その声で、呪縛《じゆばく》を解かれたように矢代は振り返った。
敬子が蒼《あお》い顔で立っていた。
「大丈夫?」
と敬子がきいた。
「大丈夫だよ。どうして?」
矢代はその場を離れながら、逆にきき返した。
敬子はまだ蒼い顔のまま、
「ひょっとすると、矢代さんがあそこから飛び降りるんじゃないかと思ったのょ」
「冗談じゃない。僕は自殺なんかしないよ。一刻も早く家内や友人を殺した犯人を見つけ出したいんだ」
「見つかりそうなの?」
「さっき君が僕のことを突き落とそうとしたら、君が犯人だという確信が持てたんだがね」
と矢代はいった。
敬子の表情が険しくなった。
「私を試そうとして、わざと崖下《がけした》をのぞいていたの?」
「意識してためしたわけじゃない。正直にいうといらいらしてるんだ。僕は家内を殺した犯人を一刻も早く見つけ出したい。ところが犯人がわからない。一時、田村が犯人に違いないと思っていたんだが、彼も殺されてしまった。その上、警察は僕が家内を殺したんじゃないかと疑っている。このままでは耐えられないよ」
「だからといって私を疑うのは困るわ。私は誰も殺してないんだから」
「しかし物理的にいうと、君か僕が犯人ということになってしまうんだよ」
「じゃあ、あなたね」
敬子は光る眼で矢代を見つめた。
「僕は自分が犯人じゃないから、君が殺したと思ってる」
「私には動機がないわ。あなたは奥さんとうまくいってなかったから殺した。そのあと、それを知られたんで昔からの仲間の二人を殺した。動機はあるわ」
「それをいえば君だって同じじゃないか。原田とうまくいってなくて殺したのかもしれない」
「でも、他の人を殺す理由がないわ」
「一見そう思えるが、何か理由があるのかもしれない」
「めちゃくちゃだわ」
「そうさ。めちゃくちゃだよ。正直にいって今度の事件は、何が何だかわからないんだ。唯一、動機があると思っていた田村が殺されてしまったからね」
矢代は溜息をついた。
「田村さんは自殺したんじゃないの?」
「自殺?」
「ええ。田村さんってよく知らないんだけど、あなたの奥さんや原田さんを憎んでいたんでしょう?」
「二人だけじゃなく、僕たち全員を憎んでいたんじゃないかと思っているんだ。彼には冷たくしたようだからね」
「それを怒って、田村さんはあなたの奥さんと原田さんを殺したんじゃないかしら?」
「そこまでは納得できるが、その先は?」
「田村さんは二人を殺したところで、きっと激しい自責の念にかられてしまったんだわ。それに警察も田村さんを探すようになったしね。追いつめられて飛び降り自殺したんじゃないかしら?」
「後頭部の傷は?」
「あの斜面に落石注意の看板が出ていたわ。それにごつごつした岩が顔をのぞかせていたりするから、下に落ちるまでに後頭部をぶつける可能性もあると思うわ」
「田村が二人を殺した時点で、追いつめられて自殺か」
矢代はその言葉を口の中で呟いてみた。
残った人間にはそれが一番、無難な結論かも知れなかった。残った人間を追いつめなくてもすむからだ。
「寒いわ」
と敬子が急に肩をすぼめるようにしていった。
矢代は敬子とタクシーで町へおりたが、すぐ旅館には戻らず、民家風の喫茶店に入った。
二人だけでもう少し話し合いたいと思ったからである。現在、警察は矢代か敬子のどちらかが犯人だと思っている。それを考えると、どうしても同病|相憐《あいあわ》れむといった気分にもなってくるのだ。
もちろん敬子が犯人としたら、その動機を見つけ出したいという気持もあった。二人は奥のテーブルに腰を下した。
コーヒーを飲みながら矢代は、
「さっきの君の考えだがね」
「田村さんが自殺したってこと?」
「そうだ。もう少し君の考えを聞きたいんだよ」
「別に考えなんかないわ。二人の人間が殺されたわけでしょう? 阿部さん夫婦は、物理的にあなたの奥さんを殺すことは出来なかった。残るのは私とあなただわ。私も殺してないし、あなたも殺さないのなら、残るのは田村さんしかいないことになるわ」
「しかし、田村にも僕の家内は殺せないんだ」
矢代がいうと、敬子はコーヒーカップに手を添えるようにしてじっと考えていたが、
「阿部さん夫婦と田村さんでは条件が違うわ」
「どんな風に?」
「阿部さん夫婦が私たちを水戸駅で見送ったことは、みんなが知ってるわ。だから阿部さん夫婦には完全なアリバイがあるわけでしょう。でも田村さんは違うわ。水戸駅で私たちを見送っていたというのは、亡くなったあなたの奥さんしか見ていないわ」
「つまり、僕の家内が人違いをしたというわけだね?」
「ええ」
「原田もそう考えていたみたいだったよ」
「犯人が私でもあなたでもなければ、そう考えるのが自然だわ」
「そして犯人の田村は追いつめられて自殺か」
「民芸館のノートのことだけど」
「ああ」
「あれ、どんな積りで田村さんは名前を書いたのかしら?」
「僕は挑戦の気持で書いたと思っていたんだけどね」
「挑戦って?」
「おれはここに来てるぞ。お前たちを殺してやるぞというね」
「そうね。そうも見えるわね」
「君は違うと思うのか?」
「私は、何回もいうけど田村さんという人を知らないの。いえ、田村さんだけじゃないわ。今度、一緒に旅行するまでは、原田さん以外、誰も知らなかったわ。だから冷静に見られたのかもしれないけど、民芸館のあの署名は挑戦というより、早く自分を見つけてくれっていっているみたいに私には思えたわ」
「僕たちに見つけて貰いたがっていたというのかい?」
「矢代さんたちが冷たくしたって、どんなことをしたの?」
と敬子がきいた。
「田村は事業に失敗してね、借金が出来ていたんだ」
「それを助けてあげなかったの?」
「ああ、そうだ。助けてやらなかったんだ」
「でも、それで友だちを恨んで殺そうとするかしら?」
「それは田村がどのくらい困っていたかによると思う。田村が犯人なら、僕たちの想像以上に憎んでいたことになる」
「そうね。小さなことでも大きく傷つく人はいるものね」
「僕は君のことを知りたいな」
「なぜ?」
「別に理由はないんだ。とにかくここまで一緒に旅行して来た。だからかもしれないね」
「ちょっとばかり甘ったれな平凡な女よ」
と敬子はいった。
「原田との出会いはどんな風だったのかな? もちろん恋愛だったんだろう?」
矢代は煙草に火をつけて敬子を見た。
「偶然の出会いといったところね」
とだけ敬子はいった。
「なぜ今度、原田と一緒にこの旅行に来る気になったの?」
「煙草、貰っていい?」
敬子は手を伸ばして、矢代の煙草をつまみあげた。
矢代は火をつけてやってから、
「婚前旅行のつもりだったのかね?」
「そんな意識はなかったわ、ただ旅行が好きだったし、温泉も好きだったからかな」
「水戸は初めて?」
「子供の頃、行ったことはあると思うけど、もう忘れていたわ」
「両親は健在?」
「ちょっと待って」
急に敬子は顔色を変えた。
「何だい?」
「やっぱり私を疑ってるのね。刑事と同じ質問の仕方だわ」
「ただ君のことを、いろいろと知りたいだけだよ」
矢代はあわてていった。
「私は別にあなたたちのことを、深く知りたいとは思わないわ。原田さんが死んでしまった今は余計ね。むしろただの他人で別れたいと思っているわ。いい思い出になりそうもないんだから」
と敬子はいう。その通りかもしれなかった。殺人事件の上に、当人が警察によって犯人扱いされたのだから、悪い思い出でしかないだろう。
敬子の気持もよくわかる。といっても、あくまでも彼女が本当のことを話しているとしてだが。
「学生時代、何か運動をやっていた?」
と、矢代は話題を変えた。
「テニスを少しね」
と敬子はいってから、急に薄ら笑って、
「別に運動をやっていなくたって、鉄製の灰皿で頭を殴ったり、崖の上から突き落とすぐらいのことは出来るわよ」
「別にそんな気でいったんじゃないよ。僕も大学時代は運動をやっていたんでね」
「いいわけしなくてもいいわよ。奥さんを殺されたあなたが私を疑う気持はわかるもの。でも何度もいうけど、私はあなたの奥さんに会ったのは今度が初めてなのよ。原田さん以外の人たちは全てそうだわ。彼からいろいろと聞いてはいたけど」
敬子は吸いかけの煙草を灰皿に置いたまま喋り、それに気付いてコップの水で消した。
彼女の言葉を信じていいのだろうか? 嘘をいっているようには見えない。しかし、人間の表情なんてわからないと思ってもいた。
安い品物を万引しただけで顔色が変ってしまう者もいれば、人殺しを何件も重ねても平然としている者もいるからだ。
旅館に帰ると阿部が矢代をロビーの端に連れて行って、
「何かわかったか?」
ときいた。矢代は、ロビーの横の土産物売場でみどりと話をしている敬子に眼をやりながら、
「田村は自殺したんじゃないかな」
「現場に行ったら、自殺の証拠が見つかったのか?」
「いや、そうじゃないが、田村が自殺したと考えれば辻褄《つじつま》が合うし、誰も傷つかない」
「じゃあ、由紀さんと原田を殺したのは田村ということになるのか?」
「そうだ。田村は僕たちを恨んでいた。それで僕たちを追っかけて来て、由紀と原田を殺した。田村は人の好《い》いところがあるから、二人を殺したところで神経が参ってしまった。罪の大きさに慄《おのの》いたといってもいい。警察に追いつめられてもいた。それで自殺の道を選んでしまった──」
「一応、納得できないことはないが、田村は朝の六時に旅館を出て舞鶴公園に出かけたんだろう。そんなに早く自殺しに出かけるというのはおかしいんじゃないか?」
「気まぐれは誰にもあるさ。それに田村は、最初は自殺する気じゃなかったのかもしれない。何かを考えようとして、あの山頂へ行ったということもあり得るじゃないか。考えごとをしているうちに、ふっと恐しくなって自殺してしまったのかもしれない」
「そうか。田村が自殺したと考えるか──」
「このあと事件が起きなければ、十分にあり得ることだと思うんだよ」
と矢代はいった。
「それで警察は納得してくれるかな?」
阿部は心配そうにいった。
「わからないが、いくら考えても他に犯人はいない気がするんだよ」
「彼女はシロだと思うのか」
阿部はちらっと敬子の方に眼をやった。
「わからない。しかし田村が由紀と原田を殺し、自殺したと考える方が自然のような気がするんだよ」
と矢代はいった。
第八章 帰京のあと
東京警視庁の十津川のところに、山形県警の中村警部から電話が入った。
「ぜひ力を貸して頂きたいのです」
と中村はいった。
「例の連続殺人ですね?」
「そうです。福島の戸田警部とも話し合っているんですが、どうもすっきりせんのです」
「田村明人も殺されてしまったようですね」
「そうなんです」
「すると、残った人間の中に犯人がいるということになりますね。常識的に見てですが」
「私もそう考えました。三人の男女が殺されましたが、同一犯人の仕業と見ているからです」
「なるほど」
「とすると、犯人は一行の中の矢代か加藤敬子か、ということになってくるんです。阿部夫婦は物理的に、最初の犠牲者の矢代由紀を殺せないからです」
「その矢代と加藤敬子は逮捕できませんか?」
と十津川はきいた。
「証拠がありません。それに動機がわからんのです」
「動機ですか」
「矢代と妻の由紀の仲が悪く、かっとして矢代が飯坂温泉で彼女を殺してしまった。それで終らせたのでは自分が疑われる。そこで次に原田を殺して、犯人が全員を殺そうとしていると思わせた。考えられる動機としてはそれしかないと考えているんですが」
「なかなか説得力がありますよ」
と十津川はいった。
「しかし、果して矢代と妻の由紀の仲が悪かったのかどうかわからんのです」
「その点はこちらで調べましょう」
「お願いします。もう一人の加藤敬子の方は、更に動機が不明です。彼女は原田の恋人ですが、他の連中とは今度の旅行で初めて会ったといっているからです。それで、彼女のことも調べてくれませんか」
「わかりました。やりましょう」
と十津川は約束してから、
「それで、彼等をこれからどうするんですか?」
「それで弱っているんです。矢代は、休暇が切れてしまったからすぐ東京へ帰りたいといっていますし、加藤敬子も同じです。阿部夫婦も、水戸で店を持っているのですぐ帰るとはいっていますが」
「しかし、彼等は事件の重要参考人でしょう?」
「そうですが、今の段階では彼等を足留めしておくだけのものが見つかっていないのですよ。消去法で、矢代か加藤敬子が犯人だろうといっているだけのことでしてね」
「すると、犯人を帰すことになりますか?」
「矢代は今日中に東京に帰りたいといっています」
「田村明人は自殺したのではないか、という考えについてはどうですか?」
と十津川はきいてみた。
「ああ、そういう見方もあります。田村が矢代由紀と原田を殺し、自責の念にかられて自殺したのでないかという見方です」
「違うのですか?」
「外傷の状態から見て、田村は明らかに他殺です。自殺や事故死ではありません」
「するとやはり、残りの四人の中に犯人がいるということになりますね」
「今もいいましたように、消去法でいけば矢代か加藤敬子のどちらかが犯人ということになるわけです。従って、動機がはっきりしていれば、今すぐにでも逮捕したい気持でいるんですが」
中村は残念そうにいった。
午後六時に、再び中村から電話がかかった。
「彼等が帰ることを許可することに決まりました。四人とも今日中に、それぞれ東京、水戸へ帰るといっています」
「そうですか」
「出来れば、東京に帰った矢代と加藤敬子の二人を監視して頂きたいと思うのですが」
「わかりました。引き受けました」
「私も福島県警の戸田警部と一緒に明日、東京へ行きます。今後のことも相談したいと思いますので」
と中村はいった。
十津川が亀井に話すと、亀井は、
「いよいよ舞台は東京ですか」
「カメさんの口ぶりだと、東京で四人目の犠牲者が出そうじゃないか」
「出るかも知れませんよ」
亀井は脅かすようにいってから、
「今日中に帰京するとなると、特急『つばさ』で天童から福島へ出て、その先は東北新幹線ということになりますね。天童一九時〇三分発の『つばさ16号』がありますから、これに乗るんじゃありませんか。その列車だと福島着が二〇時四四分ですから、十一時前に上野へ帰れます」
「よく知ってるね」
「今、あわてて時刻表を調べてみたんです」
「カメさんの意見を聞きたいね」
「犯人が誰かということですか?」
「カメさんも、矢代か加藤敬子が三人を殺したと思うかね?」
「そうですね。物理的に、矢代か加藤敬子しか犯人であり得ないということですからね。とにかく中村警部のいう通り、問題は動機だと思います」
と亀井はいった。今の段階では、他にいいようがないということだろう。十津川は腕時計に眼をやった。午後七時になったところである。
まだ矢代たちは天童にいるだろう。亀井のいう通り、一九時〇三分天童発の特急「つばさ16号」に乗るのが、一番早く東京に帰る方法と思われるからである。
十津川と亀井は、矢代のマンションのある東中野へ行ってみることにした。七階建の、いかにも新婚向きの白いマンションである。その五階の角部屋が矢代の部屋だった。
十津川と亀井は、管理人と五階の住人たちに矢代夫婦のことを聞いてみた。彼等は異口同音に、夫婦仲の良かったことをいった。
「あんな仲のいい夫婦はちょっと珍しいんじゃありませんか」
と管理人はにこにこ笑いながらいった。中年の管理人は由紀が殺されたことを知らなかった。十津川がそれを告げると青い顔になり、矢代さんはさぞ悲しんでいるでしょうね、と呟いた。
「人生というのは不都合なもんですなあ」
「何がですか?」
亀井がきくと、管理人は眼をしばたたいて、
「あんないい奥さんが死ぬなんてねえ。他にいくらでも死んだ方がいい人間がいますよ」
「矢代夫婦は共稼ぎだったんですか?」
「いや、ご主人が銀行員で、奥さんは勤めをやめて家にいました。ご主人がそうしてくれといったそうです」
「二人は休みの日なんかはどうしていました?」
「よく一緒に出かけていましたね。恋人同士のように腕を組んでね。それがいやらしく見えませんでしたよ。奥さんはあの通りの美人だったし、あれは矢代さんの方が奥さんに惚れていましたね」
と管理人はいった。
五階の住人たちの言葉もほとんど同じだった。矢代夫婦の仲の良かったエピソードは、いくらでも聞くことが出来そうだった。
十津川と亀井は、次に練馬区|石神井《しやくじい》の加藤敬子の家に廻ってみた。
石神井公園の近くのかなり大きな家である。そこに、両親と敬子は一緒に住んでいた。
有名な電気メーカーの販売部次長である父親はまだ帰宅していなかったが、母親の良子が十津川たちを家にあげ、娘のことをいろいろと話してくれた。
「末娘なので多少甘えたところもありますけど、気立てはいいと思っております」
と良子は、おだやかな口調でいった。
「原田さんとは、何回かお会いになっているんですか?」
十津川がきいた。
「ええ、娘が連れて来ましたから。明るくていい方だったのに、亡くなったと敬子から聞かされてびっくりしていますわ」
「将来、結婚させる気でいらっしゃったんですか?」
「ええ、娘もその気でいたようですし──」
「水戸にお住いになったことはありませんか?」
と十津川がきくと、良子はびっくりした顔で、
「いいえ。でも、なぜ水戸なんですの?」
「そんな噂《うわさ》を聞いたことがあったものですからね」
十津川は軽い嘘をついた。
「主人も私もずっと東京ですわ」
「敬子さんは、今日、帰ってくるんですか?」
「はい。遅くなるが今日中に帰ると、さっき電話がございました」
「亡くなった原田さんのことですが、向うの家族ともお会いになっているわけですか?」
「ええ。ご両親がこちらにお見えになって、いろいろとお話をしましたわ。それでなければ、娘を泊りがけの旅行には行かせませんわ」
「失礼な質問なんですが、敬子さんと原田さんの仲が、最近おかしくなっていたということはありませんか?」
「いいえ、そんなことはありませんでした。敬子も今度の旅行を楽しみにしていましたし、出かける日には原田さんが迎えに来てくれましたもの」
「敬子さんには、お兄さんとお姉さんがおられましたね?」
「はい」
「そのどちらかが、水戸に住んでいるということはありませんか?」
と十津川が水戸に拘《こだわ》ってきいた。
「いいえ。長男の威夫《たけお》は現在、勤めの都合で大阪に住んでいますし、長女の今日子は横浜に住んでいますわ」
「結婚しておられる?」
「ええ。二人とも結婚しています。もう孫が二人も出来てしまいましたわ」
良子は幸福そうな笑顔を作った。
三十分ほどした時、敬子の父親が帰宅した。あと三年で停年になるという加藤は、いかにも平凡だが中流家庭の主人という感じがした。
「原田君のことは、本当にびっくりしています」
と加藤は、和服に着がえてから十津川にいった。
「なぜ旅先で殺されたと思いますか?」
亀井がきくと、加藤は当惑した顔で、
「私には全く見当もつきません。いい青年でしたからねえ」
「二人の結婚について、何か障害はありませんでしたか?」
と十津川はきいてみた。
「何もありませんでしたよ。向うのご両親も敬子を気に入って下さっていましたしね。結婚してもしばらくは共稼ぎでいくというような話もしていましたね」
「敬子さんですが、どんな性格ですか?」
十津川がきくと、加藤と良子は顔を見合せていたが、良子が、
「さっきもいいましたけど、甘えん坊ですの。でも、性格ははっきりしている方だと思います」
「はっきりしすぎている」
と加藤がいった。
「もし原田さんが嫌いになったら、敬子さんはどうしたと思いますか?」
「嫌いになったら?」
「あくまでも仮定のことなんですが、そんな時、敬子さんはいつまでも未練を持つほうですか?」
「いや、そんな娘じゃありません。さっさと別れてしまいますよ。その点、はっきりしている娘ですよ」
と加藤はいった。
多分、両親の話は本当だろうと、十津川は思った。敬子という娘は相手が嫌いになったら、殺すよりさっさと別れてしまう性格らしい。
(しかしだからといって、敬子が原田を殺さなかったという結論にはならない)
とも十津川は思った。単純に原田が嫌いになったのなら、殺さずに別れるだろう。
だが、憎みながらなお未練があれば、憎しみが強すぎたならば、そんな敬子でも相手を殺すかもしれないのだ。
午後九時近くにその敬子から電話が入り、これから東北新幹線に乗るという連絡があったのを機会《しお》に、十津川と亀井は加藤邸を辞した。
「いい人たちですね」
と亀井が帰り道でいった。
「普通の人たちだし、矢代夫婦も加藤敬子も、多分、原田も、同じように普通の人間なんだ」
「矢代と加藤敬子が犯人とは思えなくなりましたよ。同じマンションの人たちや家庭の話を聞く限り、二人に殺人を犯すような動機はありませんからね」
「カメさんらしくないねえ」
と十津川はいった。
「そうでしょうか」
「普通の人間が殺人を犯すのが世の中だよ。動機なんか全くなさそうに見えても殺人は起きるよ」
と十津川はいった。
今日中に加藤敬子と矢代が東京に帰って来る。阿部夫婦は水戸に帰ったのだろうか?
そしてまた、新しい殺人が起きるのだろうか? 動機がわからないままにである。
(それを防がなければならない)
と十津川は自分にいい聞かせた。
東京に帰って何日かして、矢代は加藤敬子から電話を貰った。
「今度の日曜日に会いたいんだけど」
と敬子はいった。
「日曜日ね」
「どうしてもあなたに話したいことがあるの」
敬子は堅い声でいった。
「それ、今度の事件に関係があることなの?」
「わからない。でも、私はあるんじゃないかと思ってるの」
「どんなことなんだ?」
「女の直感みたいなものかしら」
「よくわからないんだが、僕にわかるように話してくれないか」
矢代は軽いいらだちを感じながら、敬子にいった。
「正直にいって、私にもわからないの。でも、あなたに話した方がいいと思うのよ」
「じゃあ、今、電話で話してくれないか。いや、君の家へ会いに行ってもいいよ」
と矢代はいった。
「日曜日まで待って。それまでにちょっと調べたいこともあるから」
敬子はそんないい方をした。
「何を調べるんだ? よかったら僕も協力するよ」
「男のあなたにはわからないことだと思うから、私一人で調べるわ。わかったら日曜日に会った時に話すわ」
「君は犯人を知っているのか?」
「知らないわ」
「じゃあ、何がわかったんだ?」
「それが私にもよくわからないの。それでもあなたに話した方がいいかなと思って」
「よくわからないな」
「とにかく日曜日に会った時に話すわ」
「土曜日じゃ駄目なのかい?」
「とにかく日曜日にして。新宿の西口にある『ピンアップ』という喫茶店知ってる?」
「ビルの二階にある店だろう。知ってるよ」
「じゃあ、そこで日曜日の午後一時に」
と敬子はいい、電話を切った。
矢代には、敬子が何をいいたいのかよくわからなかった。しかし事件に関係があることだといわれると、電話を切ってから落ち着けなくなってしまった。
テレビを見る気もなくなって考え込んだ。敬子はいったい明後日の日曜日に、何を話すつもりなのだろうか?
犯人を知らないという。知っていれば矢代にではなく、警察に話すに違いない。
女の直感ともいった。矢代も、女の方が男より直感力が優《すぐ》れていると思う。しかし敬子がどういう意味でいったのかわからないのである。
翌日の土曜日も落ち着けなかった。早く敬子の話というのを聞きたかった。
やっと日曜日が来て、矢代は新宿西口のビルの二階にある「ピンアップ」という喫茶店に出かけて行った。
二十分も早く着いてしまったので、コーヒーを飲みながら敬子が現われるのを待った。
午後一時になって、店のドアを開けて二人の男が入って来た。二人は立ち止まって店の中を見廻していたが、矢代の視線とぶつかるとまっすぐに近づいて来た。
「矢代さんですね?」
と若い方がきいた。若いといっても四十歳ぐらいである。
「ええ」
と矢代が頷《うなず》くと、相手は向い合って腰を下し、
「捜査一課の十津川です」
と名乗った。もう一人は亀井という刑事だった。
矢代が黙っていると、十津川は自分たちのコーヒーを注文してから、
「あなたに会うのははじめてですが、あなたのことはいろいろと知っていますよ。例の殺人事件のことで向うの警察の依頼で調べましたから」
といった。
「そうですか」
矢代は生返事をして、腕時計に眼をやった。もう十分過ぎたが、敬子は現われない。
「ここで加藤敬子さんと待ち合せだったんですね?」
と十津川がきいた。
「彼女に何かあったんですか?」
「わかりませんが、昨日から行方不明です」
「昨日から?」
「そうです。何か思い当ることがありますか?」
十津川にきかれて、矢代は一昨日の電話のことを話した。
「彼女は昨日、どこかへ自分の直感について調べに行ったんじゃないかと思いますね」
と矢代はいった。
「外出したのは事実です。母親の話では、お昼近くに彼女が、ちょっと出かけてくるからって家を出たそうなんです。ところが夜になっても帰宅しない。福島や天童のことがあるので、心配になって警察に届けたというわけです」
「ここはどうしてわかったんですか?」
「彼女の部屋を調べたところ、カレンダーの今日の日付のところに、新宿『ピンアップ』午後一時と書いてあったので来てみたんです」
と十津川はいってから、
「本当に彼女がどこへ行ったかわかりませんか?」
「水戸の阿部夫婦にも念のため聞いてみます」
矢代は十津川にいってから、レジの近くにある電話で水戸の阿部にかけてみた。
阿部が電話に出た。
「加藤敬子さんがそっちに行ってないか?」
と矢代がきくと、阿部はびっくりした様子で、
「彼女は僕のところへ来ることになっていたのか?」
「そうじゃないが、昨日から行方不明でね。心当りを探しているところなんだ」
「そいつは心配だな。ここへは来てないよ。もし来たら引き留めておいて連絡する」
と阿部はいった。
矢代が席に戻ると十津川が、
「彼女は今度の事件のことで、あなたに話したいことがあるといったんですね?」
と確認するようにいった。
「そうです。しかしそれが何なのか、全く見当がつかないんですよ。犯人の名前がわかったのかときいたら、違うといっていましたしね。自分の直感について話したいといってたんですが」
「直感ねえ」
十津川は難しい顔になった。彼にも何のことかわからないようだった。
「ひょっとして福島に行ったんじゃありませんか?」
横から亀井刑事がいった。
「事件の起きた場所ということかね?」
と十津川がきく。
「そうです。彼女は女の直感で、今度の事件について何かおかしいと思った。しかし彼女自身にも何がおかしいのかわからない。それを知るために、事件のあった福島の飯坂温泉や天童温泉に行ってみたんじゃありませんかね」
「しかし、それならなぜ、両親や僕に連絡して来ないんですか?」
と矢代は口を挟んだ。
「とにかく向うの県警に連絡して来ます」
亀井は立ち上って、電話のところへ歩いて行った。
矢代は、気持を落ち着かせようと煙草に火をつけた。
「彼女はなぜ、あなたに話そうとしたんですかね?」
と十津川はきいた。
「僕にもわかりませんが、同じ境遇だったからかもしれません」
「つまり、あなたは奥さんを殺され、彼女はフィアンセを殺された。そういうことですか?」
「それもあるかも知れませんが、今度の事件では僕と彼女が疑われているんです。阿部夫婦は物理的に僕の家内を殺せなかったし、動機があったと思われた田村も殺されてしまった。残るのは僕と加藤敬子の二人だけだったんです」
「そういう意味ですか」
十津川が頷いた時、亀井刑事が戻って来た。
「両県警に連絡しました。彼女を見つけたらすぐ連絡してくれるそうです」
と亀井がいった。
「何か彼女のことでいい忘れたことはありませんか?」
十津川が矢代にきいた。
「全部話しましたよ。僕自身、彼女が何をいいたいのかわからなかったんです。今日、会ったらくわしく聞こうと思っていたんです」
矢代は十津川たちと別れて、自分のマンションに戻った。
(加藤敬子はどこへ行ったのだろうか?)
矢代はもう一度、水戸に電話をかけてみた。
今度はみどりが電話に出た。
「敬子さんのことは主人に聞きましたわ。心配ですわね」
とみどりがいう。
「彼女から連絡はありませんか?」
「ええ。ありませんわ」
「阿部はどうしていますか?」
「さっき、用が出来たといって出かけて行きましたけど」
「出かけたんですか?」
「ええ。阿部に何か用がありますの?」
「いや、別に。とにかく彼女が現われたらすぐ知らせて下さい」
矢代はそういって電話を切った。
念のために敬子の家に電話してみたが、まだ帰らないという。
今度は警視庁の捜査一課にかけてみた。十津川警部を呼んで貰うと、
「残念ながら福島や天童にも、まだ現われてないそうですよ」
といわれた。
「まさか彼女まで殺されたんじゃないでしょうね?」
矢代は不安をぶつけてみた。
「何か思い当ることでもあるんですか?」
十津川は逆にきいてきた。
「とんでもない。そんなことで思い当ることなんかありませんよ。ただ、旅行先で三人も死んでいますからね」
「彼女とは今度の旅行ではじめて会ったんですか?」
「そうです」
「それなら彼女があなたの奥さんを殺す理由もないし、逆に殺される理由もないと思いますよ」
「しかし、昨日から帰っていないんですよ」
「わかっています。われわれも全力をあげて探しているんです」
と十津川はいった。
その日が暮れて、夜になった。だが敬子は帰宅しなかった。
朝が来た。
うとうとしていた矢代は電話の音に眼を開けた。受話器を取ると、十津川警部の声が聞こえた。
「彼女からまだあなたに連絡は来ませんか?」
と十津川がきいた。
「ありません。そちらはどうなんですか?」
「家にも帰っていないし、電話もないとのことです。福島や天童にも現われていませんね」
「もう二日でしょう。警察はどう見てるんですか?」
「正直にいってわかりませんね。電話を貰ったあなたさえよくわからないといっているんですからね」
「何とか見つけて下さい」
と矢代はいった。
更に一日たった。が、敬子は見つからなかった。
(殺されたのだ)
と矢代は思った。他に考えようがないではないか。
敬子は、犯人の名前はわからないといっていた。が同時に、直感で何かつかんだようなこともいっていたのだ。
犯人はそんな敬子の口を封じたのだろうか?
犯人は阿部夫婦なのか? しかしあの夫婦には、由紀を殺せなかった筈だというアリバイがある。
矢代はまたわからなくなってきた。敬子が殺されたとすると犯人がいなくなってしまうのだ。それとも、全く予想もしないところに犯人がいるのだろうか。
二日が過ぎた。
いぜんとして加藤敬子は行方不明のままである。
この日の午後二時頃、北千住近くの荒川放水路の土手で遊んでいた子供たちが、水路に浮んでいる若い女性の死体を発見して一一〇番した。
パトカーが駈けつけ、死体は水路から引き揚げられた。
死後かなり経過していると思われる死体だった。身元がわかるようなものは身につけてなかったが、警官の一人が二日前に捜索願の出た加藤敬子ではないかと思い、警視庁捜査一課と連絡をとった。
捜査一課から十津川と亀井が風の冷たい放水路の土手に駈けつけ、加藤敬子の母親もタクシーで飛んで来た。
死体にかけてあった毛布がめくられた時、母親の顔色が変り、嗚咽《おえつ》が始まった。
その死体は間違いなく、行方不明になっていた加藤敬子だったのである。
第九章 置 手 紙
十津川は衝撃を受けていた。
彼は加藤敬子と他の六人との関係を調べ、彼女が殺される可能性は少いだろうと見ていたからである。
次に殺されるとすれば、阿部夫婦と矢代の三人の中の一人だろうと思っていたのである。
その予想が崩れてしまった。犯人はなぜか、加藤敬子を狙ったのだ。
矢代の言葉によれば、彼女は電話で何かを直感したといっていたという。それが事実なら、そのために殺されたのか。
それがいったい何だったのか、彼女が死んでしまった今となっては解明するのは難しい。
加藤敬子の遺体は大学病院に運ばれて、行政解剖された。
死因は、後頭部を強打されたことによる脳組織の破壊である。
死亡推定時刻は、土曜日の午後九時から十二時までの間ということだった。時間帯が広いのは、死体が水に漬っていて死亡推定時刻を限定しにくいのかもしれない。
「殺し方は似ていますね」
と亀井が十津川にいった。
後頭部を強打するというやり方が前の事件と似ている。
原田も鉄製の灰皿で強打されたあと、王将風呂に放り込まれていたし、田村明人も同じだった。背後から殴られ、急な斜面に突き落とされていたのである。
最初に殺された矢代由紀も似ている。
「犯人は同一人ということだな」
と十津川は重い口調でいった。
犯人は皆殺しを図っているのだろうか。
十津川と亀井は改めて矢代を呼んだ。
十津川が解剖の結果を伝えると、矢代はひとりで頷《うなず》いて、
「やっぱり土曜日の夜に殺されているんですか」
「家族の話では、彼女は土曜日の昼頃に出かけています。その日の夜、殺されたわけですよ。それであなたにもう一度、彼女から電話のあった時のことを話して貰いたいのですがね」
十津川がいうと、矢代は困惑した表情になって、
「僕もいろいろと考えてみたんです。彼女がいったい何をいいたかったんだろうと思ってね。でもわからないんですよ」
「彼女はしきりに直感ということをいっていたそうですね?」
「そうなんです。一番、耳に残っているのは直感という言葉なんです。彼女は女の直感で何かに気付いたんじゃないかと思うんです」
「それを確かめにどこかへ出かけ、殺されたということになりますね?」
「そうなんです」
「出かけた先で考えられるのは?」
「やはり水戸の阿部夫婦のところか、僕の家内や原田たちが殺された東北ですね」
「どちらに行ったと思いますか?」
「わかりません。水戸には、彼女は来なかったということでしたけど」
「阿部夫婦がそういったんですね」
「最初は阿部が出ました。あとでかけたときは奥さんの方が出ましたね」
「あとでかけた時、なぜ阿部さんが出なかったんですかね?」
「出かけていて留守だと、みどりさんはいっていましたよ」
「あとでかけたのはいつですか?」
「日曜日の夕方です」
「どこへ出かけていたんですかね」
十津川がいうと、矢代は眉をひそめて、
「警部さんは阿部を疑ってるんですか?」
「正直にいえば残った方を全部、疑っていますよ。矢代さん、あなたを含めてですがね」
「三人のうちの誰かが加藤敬子さんを殺したと思うんですか?」
「他に考えられますか?」
十津川がきき返すと、矢代は黙って暗い眼をした。
「多分、犯人は、加藤敬子さんに何かを気付かれたと思って殺したんだと思いますよ」
十津川がいうと、矢代はわからないというように頭を振って、
「いったい何に気付いたんですかねえ。どうしてもそれがわからないんですよ。ずいぶん考えているんですがね」
「今度の一連の事件で、何か見落としていることはありませんか? 彼女が気付いたのなら、あなただって気付いていなければおかしいと思いますがねえ」
亀井が多少、意地の悪いきき方をした。
矢代の顔が赤くなった。
「いくら考えてもわからないといってるじゃありませんか」
「阿部さんのことを話してくれませんか」
と十津川がいった。
矢代は疲れた眼で十津川を見た。
「彼を疑うんですか?」
「あなたが犯人でなければ、阿部夫婦が犯人ということになりますからね」
「しかしあの二人は、物理的に僕の家内を殺せなかったんでしょう? それなら原田や田村、それに今度の加藤敬子を殺したのも二人じゃありませんよ。同一犯人なんでしょう?」
「同一犯人と思っています。ところで阿部さんというのはどういう人ですか?」
十津川は重ねてきいた。
「良くも悪くも大人ですよ」
と矢代はいった。
「それはどういう意味ですか?」
亀井が強い眼で矢代を見た。
「大学時代に僕たちは六人で同人雑誌をやっていたんですが、阿部が責任者だったんです。他の五人は子供でしたが、阿部だけは大人でしたね」
「それは悪い意味でもですか?」
「ええ、まあ。会費のことでもめたことがありますからね。しかし、そのことはすぐ解消したんです」
「阿部さんが、亡くなった由紀さんを好きだったんじゃないかということを聞いたことがありますが、その点はどうだったんですか?」
「僕は由紀と一緒になってから知ったんですよ。しかし、それも解消していたと思いますよ。阿部もみどりさんと結婚しましたからね」
「果してそうですかね」
亀井は疑わしげにいった。
「どういうことですか?」
「嫉妬というのは意外に長く続くものですよ」
「しかしそれなら、阿部は僕か由紀を殺せばいいわけでしょう? 原田や田村、それに加藤敬子を殺す必要はないんじゃありませんか」
矢代は怒った顔を亀井に向けてきた。
「加藤敬子さんは、彼女が何か気がついたから殺されたんですよ」
「じゃあ、原田と田村は?」
「大学時代に会費のことでもめたんでしょう?」
「ええ」
「くわしく話してくれませんか」
「僕たちのやっていた同人誌は金がありませんでしたからね。先輩で成功しているOBから寄附を貰っていたんです。阿部がそれを使い込んだことがありました」
「他の五人は怒ったわけですね?」
「そうです。しかし学生時代のことですよ」
「しかしあなたは、はっきり覚えているわけでしょう?」
「ええ、覚えてはいますが、彼がそれを根に持っていたなんて考えられませんよ。あの時は彼の方が悪いことをしたんだから」
「皆さんはそれを責めたんでしょう?」
「ええ、まあね。あの頃は同人誌を続けていくのにお金が必要でしたからね」
「責めた方はもう過去のことだと思っても、責められた方はずっと忘れずにいるものでしょう。それに、あなたに対しては奥さんのことも重なっている」
「でも阿部もみどりさんも、物理的に家内を殺せなかったんですよ」
「ひょっとすると殺せたのかもしれない」
十津川がいった。
「どうやってです? 水戸から福島まで車を飛ばしたんですか?」
「それはわかりませんがね。あなたが犯人でなければ、水戸の阿部夫婦が犯人ということですからね」
「しかし、信じられませんね」
「その気持はわかりますよ」
と十津川はいった。
矢代が帰ったあと、十津川は亀井に向って、
「水戸へ行くかね?」
ときいた。
翌日、十津川と亀井は、午前一一時〇〇分上野発のL特急「ひたち17号」に乗った。
常磐線を北に向うL特急「ひたち」は、三十分に一本ずつぐらいの間隔で出発している。
その特急に乗れば、一時間半足らずで水戸に着く。
一二時一七分に十津川たちは水戸に着いた。丁度、昼食時なので、十津川と亀井は駅前の食堂で昼食をとってから、阿部夫婦のやっている喫茶店「アカプルコ」に出かけた。
店は開いていて、カウンターの中に阿部みどりがいた。
「ご主人にもお会いしたいんですがね」
と十津川がいうと、みどりは元気のない顔で、
「主人は今おりません」
「どこにいらっしゃるんですか?」
「急に旅行に出かけました」
「どの方面にですか?」
「それがわからないんです。一週間ほど旅行してくると置手紙をして」
「その手紙を見せてくれませんか」
と十津川がいった。
みどりは奥からその手紙を持って来て、二人に見せてくれた。
〈いろいろと考えたいことがあるので、一週間ほど旅行に行く。大丈夫だから騒がないで欲しい〉
そう書いてあった。
「昨日の夕方、買物から帰ったらその手紙があったんです」
とみどりはいった。
「本当にどこへ行ったかわからないんですか?」
「ええ。親戚やお友だちのところへ電話してみたんですが、行っていませんでした」
「前にもこんなことがありましたか?」
「内向的な人ですから、何か悩みごとがあると、ふらっとひとりでいなくなることがありましたけど」
みどりが暗い表情でいった時、カウンターの上の電話が鳴った。
みどりが受話器を取った。が、急に声を甲高くして、
「あなたなの? 今どこにいるの?」
「ちょっと代って下さい」
と十津川は強引に受話器をみどりから取りあげて、
「阿部さんですね?」
「あなたは?」
男の声がきいた。
「警察の者です。今度の事件のことで、あなたや奥さんにいろいろとお伺いしたくて水戸へ来ているんですよ」
「家内は何も知りませんよ」
と相手はいった。
「じゃあ、あなたは何か知っているんですか?」
「───」
相手は黙ってしまった。
「ぜひ、阿部さん、あなたに会って話を聞きたいんですよ。いつ水戸へ帰って来るんですか?」
「そのうちに帰るつもりです。考えたいことがあるんです」
「何を考えたいんですか? 今度の事件のことですか?」
「───」
「あなたが殺したんですか?」
「───」
「違うのなら違う理由を話して下さい。あなたが知っていることを話してくれませんか」
十津川が重ねてきくと、相手は電話を切ってしまった。
十津川は受話器を置いてみどりに向い、
「ご主人は切ってしまいましたよ」
「私は主人を信じていますけど」
「われわれだって、ご主人が何かしたとは思っていません。ただ一連の事件について、何か知っていたらそれを話して貰いたいんですよ」
十津川がいうと、みどりは困惑した顔で、
「残念ですけど、私には何もわからないんです。ただただ驚いているだけなんです」
「ご主人は事件について何かいっていませんか?」
「主人も当惑していましたわ。誰がこんなひどいことをしたのかと」
「みなさんがまだ学生時代、同人雑誌をやっておられましたね?」
「ええ。『東海砂丘』という雑誌です」
「その頃、阿部さんと他の五人の間でいざこざがあったと聞きましたが」
「ええ。でも昔のことですわ」
「それが現在まであとを引いていたということはありませんか?」
「そんなことはありませんわ」
みどりは怒ったような声でいった。
「しかし、それなら阿部さんはなぜ急に、旅に出たりしたんですかね?」
亀井がきいた。
「わかりませんわ」
「本当にどこへ行ったか心当りはないんですか?」
「わかっていたら私はすぐ会いにいきますわ」
その日、十津川と亀井は水戸市内のホテルに泊った。
部屋に入ったあと、十津川はみどりから借りて来た阿部の置手紙に改めて眼を通した。
(これはいったい、何を自分の妻に伝えたかったのだろうか?)
と十津川は考えてみた。
いろいろと考えたいことがあるというが、阿部は何を考えるつもりなのだろうか?
今度の事件のことに違いない。他に、今真剣に考えることがあるとは思えない。
もちろん、阿部夫婦の間にだけあった問題かもしれないが、それなら十津川にはわからないし、事件に関係がないことならどうでもいいともいえるのだ。
「カメさんはどう思うね?」
と十津川は手紙を亀井に渡した。
亀井は二、三回、読み直していたが、
「いろいろと考えられますね。阿部が犯人だということもです」
と思い切ったことをいった。
「犯人だから逃げたということかね?」
「そうです。自分の身に警察の手が伸びて来たのに気付いて、逃げ出したんじゃないでしょうか?」
「しかし、逃げればかえって疑われるんじゃないかね? それは彼にもわかっている筈だよ」
と十津川は疑問を口にした。
「確かにそうですが、こうも考えられます。阿部は自分が疑われ始めたことはわかっていた。ただ警察の態度がわからない。そこでちょっと姿を消して、警察の反応を試してみたんじゃないかと思うんです。もし警察が必死になって探すようなら、戻るのは危険だ。だが警察が全く動かなければ、安心して家に戻れるはずです」
「かも知れないが、阿部夫婦には矢代由紀殺しについてアリバイがあった筈だよ。もし阿部が犯人だとしても、そのアリバイが崩れない限り、彼は安心なんだ。彼もそれを知っている筈だよ。だから逃げたりしないんじゃないかね」
「そのアリバイなんですが──」
「うん」
「私はひそかに、穴があるんじゃないかと思っているんです。六人プラス一人のグループの中で、すでに四人が殺されています。残る三人の中に犯人がいるに違いないと思うのです」
「その点は私も同感だよ。全くの他人が、次々に四人を殺したとは思えないからね」
と十津川はいった。
六人の中に犯人がいて、同一犯人という考えは、始終、十津川の頭の中で変っていなかった。
「それでですが、矢代が犯人だとするとおかしなことになってしまいます。彼も阿部夫婦に確固としたアリバイがあることを知っていたわけです。またそのアリバイを彼が崩そうとした気配はありません。となると、田村や加藤敬子が殺されていけば、残る自分が犯人にされてしまうことはわかっていたと思うのです。そんな矢代が、自分を窮地に追い込むようなことをするとは思えないのです」
「つまり、矢代が田村や加藤敬子を殺すことはあり得ないと思うわけだね?」
「そうです。田村明人が殺されずにいれば、警察も彼等の仲間も、犯人は田村だと思っていた筈です。彼には動機がありましたからね。ところが犯人はその田村を殺してしまった。とすると犯人は矢代か加藤敬子のどちらかになってしまいます。その二人の中の加藤敬子までが殺されてしまえば、残った矢代が犯人だと自供したようなものです。矢代がまだ逮捕されないのは証拠がないからです。消去法でいけば、矢代以外に犯人は考えられない。もし矢代が犯人なら、そんな風に自分を追い込むことをするでしょうか?」
「なるほどね」
「そう考えると、アリバイはありますが、むしろ阿部夫婦の方があやしくなります。もし彼等が犯人なら、田村、加藤敬子と殺していけば、矢代の容疑がだんだん深くなっていくからです」
「それはいえるね」
「ただやり過ぎたんじゃないでしょうか。ひょっとすると阿部夫婦、或いはそのどちらかが犯人じゃないかと疑い出した人間がいた──」
「それが加藤敬子だったというわけかね?」
「そうです。彼女は矢代に対して女の勘で何か感じたといったそうです。それはひょっとして、阿部に疑いを向けたんじゃないでしょうか? 理屈でいえば、阿部夫婦にはアリバイがある。だから犯人である筈がないと考えてしまう。しかし加藤敬子は直感で、阿部夫婦か或いはその片方が犯人じゃないかと思ったのかも知れません。その自分の直感を確かめたくて、彼女は水戸へ行ったんじゃないでしょうか?」
「あり得るね」
「危機を感じた相手は、訪ねて来た加藤敬子を殺して荒川放水路に捨てた。しかし警察の追及の手が伸びて来るのを恐れて、警察の反応を見るために姿を消した。私はこう思っているんですが」
「カメさんは、阿部が犯人だと思っているわけだね?」
「そうです。彼のアリバイはいつか崩せると思っているんですが」
と亀井はいった。
阿部はどこへ姿を消したのか?
十津川は、みどりがひょっとすると行き先を知っているのではないかと思ったが、彼女が必死になって探しているのを見ると、そうとも思えなくなって来た。
(みどりは本当に知らないらしい)
とすると亀井のいうように阿部が犯人で、警察の反応を知るために姿を消したのだろうか?
十津川と亀井は、東京に戻って様子を見ることにした。二人にももちろん、阿部がどこへ行ったかわからないからである。
三日、四日と過ぎても、阿部は水戸の家へ帰って来なかった。
その間、十津川は念のために例の置手紙の筆跡鑑定をしてみた。妻のみどりは阿部が書いたものだといったが、本当かどうかわからなかったからである。
専門家の鑑定が行われ、その結果、阿部本人のものに間違いないとなった。阿部は置手紙を残してどこかへ消えてしまったのである。
みどりは自分一人で探し廻っていたが、それでも心配するなと置手紙にあったので、警察には捜索願をださないようだった。
五日目になると、とうとうみどりは捜素願を水戸警察署に出した。
普通こうした捜索願に対して警察は、あまり熱のある対応をしないものである。特に相手が分別のある成人の場合、犯罪の影がない限り警察は調べることをしない。自分の意志で姿を消した場合が多いからである。
ただ、今度の場合は違っていた。すでに四人の男女が殺され、その犯人かもしれぬと思われている阿部なのだ。警察は全力をあげて阿部を探すことになった。
矢代も心配していた。
彼も阿部が犯人とは思っていなかった。おかしないい方だが、ここまで来ても阿部やみどりが犯人とは思えないのである。
それは加藤敬子が犯人とは思えなかったのと同じだった。理屈ではなく、人間的な感情だった。自分の仲間に犯人がいて欲しくないという気持が、どうしても働いてしまうのである。
六日目の朝、十津川は水戸警察署から電話を貰った。
「阿部が見つかりました」
と相手がいった。
「どこにいたんですか?」
「北海道の登別です」
「温泉のある?」
「そうです。向うの警察から今連絡があったところで、残念ながら阿部は死亡していました」
「殺されたんですか?」
「いや、自殺のようです。ホテルの一室で死亡していて、遺書もあったそうですから」
「どんな遺書だったんですか?」
「そこまではまだわかりません。向うも調べている最中のようですから」
電話が切れると、十津川は思わず深い溜息をついた。
「死んだんですか?」
と亀井も堅い表情できいた。
「自殺らしいんだよ。登別のホテルで遺書を残して自殺したということだ」
「しかし、なぜ自殺なんかを?」
「わからんよ。カメさんは、阿部が犯人で、追いつめられているかもしれないといっていたじゃないか。そのために自殺したのかもしれんよ」
「遺書を早く見たいですね」
と亀井はいった。
北海道警からその遺書が電送されて来たのは、約一時間後だった。
〈僕は疲れた。疲れ切ってしまった。こうして自分自身の人生を清算するのが、僕にとって最良の方法と思う。
みどりよ。君を愛している。さようなら。
豊〉
「筆跡は阿部本人のもののようですね」
と亀井が送られて来た文字を見て十津川にいった。
そのあと、阿部が登別のホテルでどんな様子だったかもわかって来た。
阿部は登別のホテルに、吉田功の偽名で泊っていた。
チェック・インした日付から考えて、阿部は水戸を発《た》ったあと、なぜか飛行機を使わず、列車、青函連絡船を使って北海道に渡り、登別へ行ったようである。
「新登別ホテル」に泊った阿部は、毎日、朝食のあと、近くを散策していたらしい。その間、何を考えていたかわからない。
ホテル側の話によると、阿部は誰にも電話しなかったし、電話がかかって来ることもなかった。
そして今朝、首を吊って死んでいるのが発見されたのだという。
ホテルといっても実際には旅館といった方が良く、阿部が泊っていたのも和室だった。
そのかもいにネクタイを吊《つる》し、それに首をはめて死んだのである。
明らかな自殺だと、北海道警本部は発表した。
死亡推定時刻は、今朝の午前二時から三時の間だという。
十津川は念のためにその時刻の矢代のアリバイを調べ、水戸警察署にはみどりのアリバイを調べて貰った。その結果、二人とも北海道には行っていないことがわかった。
流しの犯罪とは考えられなかった。何も盗られてはいなかったからである。
財布も腕時計も運転免許証も部屋にあった。その免許証で本名がわかったのである。
ホテルの話では、阿部は一日中無口で、何かを考え悩んでいるように見えたという。ルームサービスの女性は、自殺するかも知れないと思い、支配人に話をしたことがあったともいっていた。
妻のみどりが、すぐ遺体を引き取りに登別に向った。
十津川と亀井は、東京にいて事態の展開を見守った。阿部の死は自殺で間違いないように見えたからである。
「カメさんの考えた通りになったね」
と十津川は阿部の死を報じる新聞記事に眼を通してから、亀井にいった。
どの新聞も阿部の自殺を大きく報じていた。もちろん、連続殺人のことがあったからである。
さすがに阿部が犯人だと断定している新聞こそなかったが、それを匂《にお》わせる記事は多かった。
テレビも同じである。テレビの画面には登別のホテルの従業員が何人か顔を出し、自殺した阿部がいかに暗く、沈んでいたかを証言した。
「そうですね」
亀井は頷いた。が、その声には元気がなかった。
「どうしたんだ? カメさん。阿部犯人説じゃなかったのかね?」
「いや、阿部が犯人と思いますが、自殺するならもっとはっきりした遺書を残しておいて欲しかったですよ。事件の全てを説明するような」
「まあこれでも、事件のことを申しわけないといっているように思えないこともないさ」
「そうですかねえ」
「阿部が犯人だとして、四人を殺したのは私です、申しわけありませんでした、死んでお詫びしますとは、自尊心があって阿部には書けなかったんじゃないかね」
「かも知れませんが」
「阿部に矢代由紀が殺せたことがわかれば、彼が犯人で自殺したことがはっきりすると思うがね」
と十津川はいった。
福島県警と山形県警から、十津川に電話が入った。
どちらの用件も同じだった。
阿部の自殺で今度の連続殺人事件は終結したと見ていいかどうか、意見を交換したいというものだった。その相談に、東京で捜査会議が開かれることになった。
その会議で阿部が連続殺人事件の犯人と断定されれば、事件は終了である。
それには、矢代由紀殺しについての阿部のアリバイをまず崩さなければならないのである。
それが出来るだろうか?
第十章 解明への旅
十津川は、阿部の遺書を何回読み直したかわからない。
文章は暗記してしまった。
亀井のいう通り、どこかおかしい気がするのだが、十津川にもどこがと指摘できないのだ。
遺書であることに間違いはない。疲れ切ったと書き、妻に向ってさようならといっているからである。
あの連続殺人事件がなければ、十津川もこの遺書に対して何の疑いも持たなかったろう。普通の遺書である。
だが、連続殺人事件を無視はできない。阿部は事件に巻き込まれた人間の一人の筈である。殺されたのは、加藤敬子をのぞいて彼の親友たちである。
ショックを受け、犯人はいったい誰なのだろうかと考えた筈なのだ。
それなのにこの遺書には、一言もあの連続殺人事件についての記述がない。遺書に何かおかしいと感じるのは、恐らくそのためだろう。
阿部はなぜ遺書の中で、自分や妻を巻き込んだ連続殺人事件に言及しなかったのだろうか?
全く関心がなかったのか?
それは考えられない。大学時代の親友たちが次々に殺されていき、まだ犯人が見つかっていないのである。そんな事件に関心がなかった筈はない。
理由は二つ考えられる。
阿部が犯人だから書かなかったという推理である。警察内部でもそう考える人たちが多かった。
阿部は犯人で、自責の念に追いつめられた気持から自殺の道を選んだ。ただ自分の罪を告白するだけの勇気はなかった。だからこんなあいまいな遺書になったという推理である。
第二は、阿部が犯人ではない場合である。
それなのに自殺したということは、連続殺人事件以外に彼を追いつめたものがあったということになってくる。もしあの連続殺人事件が自殺の原因なら、それについて言及していなければおかしいからである。
しかし遺書の文面からだけでは、それが何だったのかわからない。
「なぜ自殺の原因をはっきり書いておいてくれなかったんですかねえ」
と亀井はいらだちを見せて、舌打ちをした。
「何か書けなかった理由があったんだろう」
と十津川はいったが、その理由がわからないのだ。
「そうかもしれませんが、阿部が犯人だと断定しても、この遺書の内容では疑問が残りますし、犯人ではないと断定も出来ません」
「福島県警や山形県警は、これで事件を解決したことにしたがっているよ」
「われわれもそう考えたいですがね」
「もう一度、水戸へ行ってみないか」
と十津川が誘った。
「阿部の奥さんに会いにですか」
「それもあるが、阿部が犯人にしても、彼のアリバイを崩さなければならないからだよ」
「ああ、福島の飯坂温泉で矢代由紀が殺された事件のアリバイですね」
「そうだよ。阿部夫婦には物理的に矢代由紀は殺せなかった。このアリバイを崩さないと阿部を犯人と断定することも出来ないんだ」
と十津川はいった。
翌日の朝、十津川と亀井はもう一度、水戸へ行くことにした。
上野駅で特急「ひたち」を待っていると、矢代に会った。彼もこれから水戸へ行くのだという。
「新聞は阿部が犯人みたいに書いていますが、僕にはどうしても納得できないんです」
と矢代は十津川にいった。
「しかし、君たちの中に犯人がいることは間違いないと思いますがね」
「阿部にはアリバイがありますよ」
「あなたの奥さんが殺された件についてのアリバイですね?」
「そうです」
「しかし、他の三人が殺されたケースについてはアリバイがありませんよ」
「そうですが、第一の事件だけ犯人が違うなんてことは考えられません」
矢代は断定するようにいった。
車内でも矢代は、阿部が犯人とは思えないとくり返した。
「それなら阿部みどりさんが犯人だというわけですか?」
亀井が聞いた。
矢代は首を横に振って、
「彼女が犯人なんて、なおさら考えられませんよ」
といった。十津川は苦笑して、
「それでは犯人はいなくなってしまうじゃありませんか」
「そうなんです。犯人がいなくなるんです。だからもう一度、水戸へ行ってみようと思ったんですよ」
「もし第一の事件について阿部さんのアリバイが崩れたら、彼が犯人だと認めますか?」
十津川がきくと、矢代は困惑の表情になった。
「アリバイは崩れませんよ」
「崩れるかもしれませんよ」
と十津川はいった。
今、眼の前にいる矢代が犯人でなければ、阿部夫婦が犯人である。もしそれが正しければ、阿部のアリバイは崩れる筈である。
水戸に着くと矢代は、みどりに会いに行くといった。十津川は彼と別れて水戸駅に残り、亀井と二人、水郡線のホームに行った。
十一月八日。ここから矢代たちは列車に乗って郡山に向った。
阿部夫婦はホームにいて、矢代たちを見送ったのである。
この事実は消しようがない。矢代たちを見送った阿部夫婦が、先廻りして福島に行くことが出来るか。それがアリバイ崩しの眼目である。
水戸線で小山《おやま》に出て、東北新幹線を利用するルートが考えられた。
これなら先廻りできるのだが、残念ながらその日、水戸線で事故があって、このルートは使えなかったのである。
「だが犯人は他のルートを使って、福島に先廻りしたんだ」
十津川は水郡線のホームに立って呟いた。
「そういえば、矢代由紀は福島で田村を目撃していましたね」
と亀井がいった。
「そうなんだ。彼女は人違いしたんだという意見もあるが、私はそうは思わないね。彼女は見たままを夫の矢代に告げたんだと思う。田村はこのホームで矢代たちを見送り、先廻りして福島駅にいたんだよ。田村にそれが出来たんなら、阿部夫婦にも出来た筈だよ」
「しかし、方法がわかりませんね」
と亀井がいった。
十津川は亀井と水戸駅を出て、近くの喫茶店に入った。
時間が早いので客の姿はない。二人はモーニングサービスのコーヒーとトーストを頼んだ。
コーヒーが運ばれて来ると、十津川は売店で買った時刻表をテーブルの上に広げた。
「タクシーを利用したという考えは捨てることにしよう。犯人はもっと確かなものを使ったと思うからだ。タクシーは道路事情によって時間が変ってくるからね。鉄道を使って、水戸から福島へ行く全てのルートを考えてみようじゃないか」
「しかし、矢代たちが利用した水郡線と事故のあった水戸線しかないんじゃありませんか?」
と亀井がいった。
「いや、そんなことはないさ。他にも常磐線を使うルートがあるよ」
と十津川はいい、地図の常磐線を指で示した。
「水戸から常磐線で平まで行き、平から磐越東線で郡山へ出る方法ですか?」
亀井も地図を眼で追った。
「そのルートを使っても郡山に出られるわけだよ。郡山からは東北本線で福島へ行ける」
「このルートで先廻り出来ますかね?」
「とにかく調べてみようじゃないか」
と十津川はいった。
十一月八日。矢代たちは一三時三三分発の水郡線の列車で水戸から郡山に向った。
阿部夫婦は水戸駅のホームでこの列車を見送ったのだから、もし常磐線に乗ったとしても、一三時三三分よりあとの列車ということになってくる。
十津川は時刻表の「常磐線」のページを開いてみた。
一三時三三分以後となると、一四時一九分水戸発の特急「ひたち21号」が眼につく。
これに乗ると、平には一五時三四分に着く。何となく上手《うま》くいきそうな感じだった。
問題は平の先である。
磐越東線のページに移ってみた。が、そこで十津川はがっかりしてしまった。
とにかく列車の本数が少いし、臨時のスキー列車以外に、特急も急行も走っていないのである。
一五時三四分と早く平に着いても、一六時四三分発の普通列車しかないのだ。
これに乗ると郡山着が一九時〇六分である。矢代たちは一八時一九分に福島に着いてしまっているのだから、これでは完全に間に合わない。
「駄目だな」
と十津川はぶぜんとした顔でいった。
「アリバイは崩れませんね」
亀井がいう。
「そうだねえ」
と十津川はしばらく考えていたが、
「もう一つのルートがあるよ」
といった。
「ありますか?」
「ああ。常磐線に乗って上野へ戻るルートが残っているよ」
「しかし警部、それじゃあ時間がかかり過ぎますよ。上野まで引き返すんですから」
亀井が肩をすくめた。
十津川はにこりともしないで、
「ひょっとするとそれが盲点だったかもしれないよ」
「といいますと?」
「水戸から福島へ行く場合、とにかく少しでも福島に近づくことを考える。逆に遠ざかるルートは考えない。そこが盲点じゃなかったのかということさ」
「確かに盲点ですが、実際に上野へ戻ってしまって間に合いますかね?」
「調べてみようじゃないか」
と十津川はいった。
もう一度、常磐線のページを開く。今度は北へ行く列車ではなく、上野へ戻る列車である。
一三時三三分以後というと、一四時〇四分水戸発の特急「ひたち20号」がある。
この列車に乗れば、一五時二四分、上野着になる。
上野からは当然、東北新幹線を使うことになる。
「間に合いそうだよ」
と十津川は微笑した。
上野を一六時〇〇分に出る「やまびこ67号」には楽に乗れるだろう。
「カメさん、成功だよ。この列車に乗れば福島には一七時三七分に着くよ」
「矢代たちの福島着は一八時一九分ですから、四十分も早く着けますね」
亀井が弾んだ声を出した。
「これで阿部夫婦のアリバイは完全に崩れたんだ。当然、田村だって福島へ先廻り出来た筈だから、矢代由紀の眼は正しかったんだよ」
「どうしますか?」
「とにかく阿部みどりに会ってみよう。阿部夫婦は十一月八日ではなくて、翌日の九日に福島へ行ったことになっているが、本当は八日に行っているかもしれないからね」
と十津川はいった。
二人は、阿部夫婦がやっていた喫茶店へ行ってみることにした。
「アカプルコ」の近くに来ると、店の前でみどりと矢代が、顔を寄せるようにして話し込んでいるのが見えた。
十津川が急に立ち止まった。
「どうされたんですか?」
と亀井が小声できいた。
「カメさんはあの二人をどう思うね?」
「あの二人ですか。夫が自殺してしまった女と妻を殺された男というわけですね。同病|相憐《あいあわ》れむというやつじゃないですか?」
「なるほどね」
「お互いに慰め合っているとしても不思議はないと思いますよ」
「そうだな」
と十津川は頷《うなず》いてから、
「阿部さん」
と声をかけた。
みどりはびっくりしたように矢代から離れて、十津川たちを見た。
矢代は「ああ」と声を出して、
「何かわかりましたか?」
と十津川たちにきいた。
「面白いことがわかりましたよ。十一月八日ですが、矢代さんたちの乗った列車を見送ったあと、一四時〇四分に水戸を出る『ひたち20号』で上野に戻れば、福島に先廻り出来るんです。上野からは東北新幹線を使ってね。阿部さんはあの日、このルートを利用して先に福島へ行ったんじゃないですかね」
十津川がいうと、黙って聞いていたみどりが、
「それは違いますわ」
ときっぱりといった。
「違う? 証拠がありますか?」
「ええ。あの日、矢代さんたちを見送ったあと、ここで人と会ったんです」
十津川の顔に当惑の色が浮んだ。
(本当だろうか?)
と十津川はみどりの顔を見すえた。もし彼女のいうことが事実なら、やっと解決に向ったと思ったのに、事件は再び厚い壁の中に閉じ込められてしまうのである。
「誰と会ったんですか?」
十津川がきくと、みどりは、
「駅前商店街の方がたとですわ。あの日、近くの神社のお祭りのことで相談することになっていたんです」
といい、商店街の幹事だという四人の名前をあげた。
「会ったのは十一月八日に間違いないんですか?」
十津川は念を押した。
「ええ。間違いありませんわ。駅で矢代さんたちを見送ってから、あわてて店へ戻ったんですもの。もし何もなければ、一緒に行っていましたわ」
とみどりがいい、それを聞いていた矢代も口を挟んで、
「確かにあの日、阿部は僕たちに、用があるので一緒にいけないといっていましたよ」
といった。
「カメさん」
十津川が小声でいうと、亀井が心得て、みどりの言葉を確かめに出かけて行った。
亀井が戻って来たのは、一時間ほどしてからだった。
十津川を店の外に呼ぶと、
「四人の中、三人の幹事に会って来ました」
と亀井がいった。
「それで、どうだったね?」
「確かに十一月八日の午後、神社の祭りについてこの店で集まったと、三人とも証言しました。お祭りについて、商店街でどのくらいの寄附にするか相談したそうです」
「会合があったのか」
「十一月八日に間違いないか、何度も念を押したんですが、三人とも間違いないといっています。簡単な記録もとってありましてね。嘘をついているとは思えません」
「その会合は、何時から何時まで行われたんだ?」
「最初は午後一時からの筈だったが、阿部夫婦が水戸駅に友人を見送りにいくので、そのあとということになったんだそうです。それで二人が戻ってから、一時間半くらいですんだといっています。議題といっても、お祭りの寄附のことしかなかったからだといっていました」
「一時間半ね」
「一時四十分頃から、午後三時頃までだったといっていますね」
「三時頃か。正確な時刻はわからないのか?」
「時計を見ながら相談していたわけじゃないから、何時何分まではわからないといっていましたね。しかし、午後三時前後だということだけは間違いないということです」
「参ったな」
と十津川が溜息をついた時、みどりが店から出て来て、
「どうでした?」
ときいた。
「あなたのいった通り、十一月八日に会合があったようですね」
「嘘はいいませんわ。それにあの会合のあと、主人は車で東京まで、コーヒー豆の仕入れに出かけていますわ」
「会合が終ったのは何時でした?」
「確か午後の三時頃でしたわ」
「それから車で、東京に豆の仕入れに出かけた?」
「ええ。だから絶対に、福島へは行っていませんわ。私たち夫婦が行ったのは、翌日の九日なんです」
「東京でコーヒー豆を買う店は決っていますか?」
「ええ。いつも両国の問屋さんで買っていますわ」
みどりはその店の名前を教えてくれた。十津川はその店に、電話をかけてみた。
「コーヒーの『あらい』です」
と向うは、店の主人が出てくれた。
「水戸のアカプルコという喫茶店のことなんですが」
「ああ、阿部さんなら、ずっと取引きさせて貰っています」
「十一月八日に、阿部さんが豆を買いに行きましたか?」
「ちょっと待って下さい。調べますから」
と相手はいい、二分ほどしてから、
「ええ。十一月八日に阿部さんが見えていますね」
「何時頃ですか?」
「時間は書いてありませんが、夕食を一緒にして、そのあと一緒に飲んだのを覚えていますよ」
「いつも飲むんですか?」
「いや、阿部さんは車を運転して帰らなければならないんで、飲むのはもっぱら私の方でしてね。阿部さんは雰囲気が好きだといって、一緒につき合ってくれるんですよ」
「阿部さんが帰ったのは、何時ですか?」
「九時を廻っていましたからね。水戸へ着いたのは十二時近かったんじゃないかな」
十津川は電話を切ると、みどりに十一月八日の何時頃、阿部が帰ったかきいてみた。
「ずいぶんおそくなってからですわ」
とみどりがいった。
「時計は見ませんでしたけど、十一時は過ぎていたと思うんです。私はテレビのニュースで、飯坂温泉で由紀さんが殺されたのを知っていたんで、主人に話したんです。そうしたら主人は、すぐ電話していましたわ」
「そうです。八日の夜おそく、阿部から電話がありましたよ」
矢代がいった。
「時間は?」
と亀井がきく。
「十一時過ぎでした。確か、十一時のテレビのニュースを見てびっくりしたといっていました。そして、明日、行くといってくれたんです」
矢代はその時のことを思い出すようにしながら、十津川たちにいった。
「十一時のテレビのニュースで知ったのは、奥さんの方ですね?」
と十津川は、みどりにきいた。
「ええ。私がテレビで知って、帰って来た主人に教えたんですわ」
「そうですか」
と十津川はいった。
別にどうということではない。自分は見ていなくても、妻にテレビのニュースでやっていたといわれ、自分で見たと電話することだってあるだろう。
問題は十一月八日に、午後三時頃まで阿部夫婦は商店街の幹事と会合を持ち、そのあと阿部が、車で東京へ豆の仕入れに行ったことである。
これでは、福島へ行って矢代由紀を殺すことは不可能である。
(すると犯人は、矢代ということになるのだろうか?)
十津川は改めて矢代の顔を、強い眼で見すえた。
(しかしこの男が犯人だとしたら、動機は何だろう?)
妻の由紀を殺す動機なら、いろいろと考えられる。
夫婦仲は良かったというが、これだけはわからない。
殺された矢代由紀はなかなかの美人だったから、その男関係で、夫の矢代が嫉妬にかられていたことだって考えられるのだ。
そして今度の旅行を利用して、妻の由紀を絞殺した。
当然、疑いが自分にかかってくるので、田村という犯人を仕立てあげた。妻の由紀が、福島駅で田村を見たといっていたと嘘をついてである。
死人に口なしで、それに反論することは誰にも出来ない。田村は加藤敬子をのぞく全員を憎んでいることになっているから、みんなが田村に疑いを向けた。
あとの殺人は、ドミノ倒しみたいなものではなかったのか?
妻の由紀だけを殺せばいいのだが、一緒にいた仲間に気付かれてしまった。
まず原田に気付かれ、彼を殺した。次は田村である。彼を犯人に仕立てあげたのだが、当の田村が天童に現われた。あわてた矢代は、田村を舞鶴公園に呼び出して殺した。
最後は加藤敬子である。彼女も、ここまで来て矢代に疑いの目を向け、何かに気付いたのではないのか。
そこで矢代は、彼女まで殺さなければならなくなった。
別の理由も考えられる。
妻の由紀だけを殺したかったのだが、それではすぐ自分が疑われてしまう。そこで矢代は他の仲間も殺していき、犯人が全員を憎んでいたように思わせたのではないかということである。
(矢代が犯人だとすると、阿部の自殺はどう解釈したらいいのだろうか?)
十津川は、頭の中でせわしなく考え続けた。
阿部は、一連の事件とは無関係に自殺したのだろうか?
全くあり得ないとはいえない。商売のことで苦しんでいたということだって考えられるし、妻のみどりとの間がうまくいってなかったこともあり得るだろう。
「どうされたんですか?」
と矢代が声をかけてきた。
「いや、何でもありません。コーヒーを貰えませんか」
十津川はみどりに頼んだ。十津川と亀井は椅子に腰を下し、みどりのいれてくれたコーヒーを飲んだ。
「警部さんは、まだ阿部を疑ってるんですか?」
矢代は、意地の悪い質問を十津川にしてきた。
「いや、阿部さんはシロですね。アリバイが成立しましたからね」
「それならみどりさんだってシロでしょう? 十一月八日は水戸にいたんだから」
「ええ」
「すると、僕が犯人ということになりますか?」
矢代は笑いながら十津川を見、亀井を見た。
(この男は警察に挑戦しているのだろうか?)
と十津川は一瞬、思ったくらいだった。
「あなたがやったんですか?」
十津川が逆にきき返した。
「僕が、家内や友人を殺す筈がないじゃないですか」
矢代は肩をすくめるようにしていった。笑いが消えて、暗い眼になっている。
「あなたが犯人でないとすると、あなたの証言は全て本当のことなんですね?」
「僕の証言というと?」
「亡くなった奥さんが水戸のホームや福島の駅で、友人の田村さんを見たといっていたということや、これも亡くなった加藤敬子さんと、電話で話した内容のことです」
「ああ、それは本当ですよ。僕は嘘はついていません。その必要もありませんからね」
「あなたが犯人でなければ、いったい誰が犯人なんですかね?」
と亀井がきいた。
「僕にもわかりませんね。警察もわからないんでしょう?」
矢代はまた、挑戦的な眼つきになった。いまだに犯人を逮捕できない警察を、非難しているような眼でもあった。
十津川と亀井は、矢代たちと別れて水戸の町へ出た。
昼食のために駅近くの食堂に入った。
二人とも元気がなかった。阿部のアリバイが崩れたと思ったのに、また壁が立ちはだかってしまったからである。
「犯人はいますよ」
亀井は、注文したカツ丼《どん》を食べながら十津川にいった。
「そりゃあいるさ。殺人が行われたんだからね」
十津川はぶっきら棒ないい方をした。彼はライスカレーを食べている。
「ひょっとすると、あの二人が共謀して、連続殺人をやったんじゃありませんかね」
「二人って、矢代と阿部みどりのことかね?」
「そうです。あの二人が親しげに話しているのを見たとき、閃《ひらめ》いたんですよ」
「つまり、二人がいい仲で、邪魔な仲間を次々に殺していったということかい?」
「そうです」
「しかし阿部みどりの方は、十一月八日には水戸にいたんだよ」
「だから実行犯は矢代です」
「みどりの役目は?」
「矢代のために、有利になるように証言することじゃなかったんですかね?」
「しかし、そんな証言はしていないように思えるがね。もう一つ、亡くなった矢代の奥さんは美人で魅力がある。阿部みどりの方はまじめそうだが、正直にいって美人でもないし、男から見て魅力的な女性でもない。矢代が美人の奥さんを捨てて、阿部みどりと仲良くなって殺人を犯すというのは、ちょっと考えられないがねえ」
十津川は首をかしげた。
亀井は、やけみたいにカツ丼をかっ込んでから、
「しかし、男女の仲というのは常識では律し切れませんからね。それに、阿部が自殺したんだってそのせいかもしれません」
「自分の妻が浮気しているのを知って、絶望してということかね?」
「浮気だけなら自殺はしなかったでしょう。阿部は、妻のみどりが矢代と共謀して、友人たちを殺したことを知ったんじゃないですかね。実行したのは矢代だとしても、その矢代に妻のみどりが協力していたとすれば、大変なショックだったに違いありませんからねえ」
「確かにそうかもしれないがねえ」
十津川はあいまいないい方をした。亀井の推理には、どうも賛成できなかったからである。
しかし、だからといって十津川にも、これと断定できる推理は生れていなかった。
第十一章 逮 捕 状
十津川と亀井は、新しい壁にぶつかって東京に戻った。
水戸でわかったことは、すぐ福島と山形の各県警に電話で知らせた。
「つまり、四人が殺され一人が自殺したのに、犯人はわからなくなってしまったということですか?」
福島県警の戸田警部は、軽い皮肉をいった。
「残った矢代と阿部みどりの共犯説もあるにはありますが、残念ながら二人が共犯だという証拠はありません」
と十津川はいった。
山形県警の中村警部は何もいわなかった。
しかし三日後に、戸田と中村警部の二人が一緒に東京にやって来た。
しかも二人とも、矢代に対する逮捕状を手にしていた。
「うちでは、飯坂温泉での矢代由紀殺害の容疑です」
と戸田がいい、山形県警の中村は、
「天童における原田殺しと田村殺しの容疑です」
といった。
東京警視庁も、加藤敬子を殺害した容疑で矢代を逮捕しないかともいう。そうなれば、足並みが揃《そろ》うというのだ。
「矢代が犯人とする根拠は何ですか?」
十津川は二人にきいた。
福島県警の戸田は、待ってましたというように膝を乗り出した。
「飯坂温泉の事件では、物理的に矢代由紀を殺すことが出来た者と、出来ない者に分けることが出来ます。現場に居合せた矢代、原田、加藤敬子の三人は、殺害可能だったわけです。田村は同行はしていなかったが、十津川さんの推理に従えば、水戸から上野に戻り、上野から東北新幹線を使うことで、時間的に殺人が可能です。阿部夫婦は不可能です。となると、矢代、原田、加藤敬子、それに田村の四人の中に犯人がいることになる。ここまでは十津川さんもOKでしょう?」
戸田がきく。
「話を続けて下さい」
「しかしです。この四人のうち三人が殺されました。単純な引き算です。残った矢代が犯人だというのは間違いないと思いますがね」
「中村さんの方はどうですか?」
十津川は山形県警の意見も聞きたかった。
「天童温泉に彼等が来た時は、阿部夫婦も追いついていて、アリバイはありません。ところで今度の連続殺人については、私は同一犯人だという考えに立っています」
「その点は同感ですね」
と十津川はいった。
「その前提に立つと、答は簡単です。飯坂で矢代由紀を殺した犯人が、天童へ来ても次々に殺したことになります。飯坂の矢代由紀を殺せたのは夫の矢代だけということになれば、他の殺人も彼の犯行ということになる。それだけのことです」
中村はあっさりといった。
「動機は何ですか?」
と十津川は二人にきいた。
「それは簡単ですよ」
と戸田がいう。
「夫の矢代が、家庭不和から妻の由紀を殺したという図式ですか?」
「その通りです。一見仲が良く見える夫婦でも、本当は憎み合っているということがよくありますからね。矢代夫婦の場合もそうだったんじゃないですか?」
「山形の場合はどうですか? 犯人を矢代として、動機の説明がつきますか?」
十津川は興味を持って、山形県警の中村にきいた。
今度の事件で一番難しいのは、動機だと思っていたからである。
中村はゆっくりと手帳を広げて、
「天童で殺された原田と田村ですが、この二人と矢代の関係は、大学時代の友人ということです。田村と矢代の間はもう少し複雑です。田村は商売が失敗したとき、昔の仲間が助けてくれなかったといって、恨んでいたといわれます。もし田村が矢代を殺したのならこの動機が使えますが、実際は逆ですからね。単なる憎悪では説明がつきません。そこで、こういう推理はどうかと思うのです。原田の場合は、飯坂温泉で何かを目撃したために殺されたのではないか。例えば矢代と奥さんの由紀が、激しい口論をしているところを目撃したといったようなことです。それなら動機になりますからね。ただ、原田はそれを警察にいわなかった。友人なので犯人の矢代に向って、あれはどうしたんだときいてしまった。それで矢代は、原田の口を封じるために殺してしまったのですよ」
「田村明人も同じですか?」
「彼の場合は少し違います。矢代は、奥さんを殺したあとも友人の原田を殺したあとも、犯人は田村に違いないと主張していたわけです。その田村が現実に現われて喋られては困る。そこで矢代は、他の仲間より先に田村を見つけて殺してしまったんですよ。一番いいのは自殺に見せかけて殺すことだったと思いますね。二人を殺したことで自責の念にかられ、自殺してしまったという構図に出来るからです。しかしそうは上手《うま》くいかなくて、後から殴りつけ、突き落として殺してしまったというわけです」
と中村はいった。
同じことを、十津川も考えたことがある。
一つの殺人が行われる。犯人はその一人だけを殺すつもりだったのだが、現場を見られたために、次の一人を殺さなければならなくなる。まるでドミノ倒しみたいに、意志に反して次々に殺人をやらざるを得なくなった、というストーリイである。
だが十津川は、今度の事件は違うような気がしていた。
しかし、そのことは中村にはいわなかった。
「だから矢代を、殺人罪で逮捕することに決定したわけです」
と戸田と中村の二人は、こもごもいった。
警視庁として、福島県警、山形県警に同調して、矢代に対する逮捕状を出すかどうかが議論された。
「われわれが迷っていると、福島、山形の両県警に遅れをとることにはならないかね?」
と三上刑事部長が、心配そうに本多捜査一課長を見、十津川を見た。
「われわれが追っているのは加藤敬子殺しですが、矢代が犯人だという証拠はあるのかね?」
本多が十津川にきいた。
「ありません」
「しかし十津川君、君も今度の一連の事件の犯人は同一人と考えているんだろう?」
と三上が眉をひそめてきいた。
「そう考えています」
「それなら、矢代が犯人と考えざるを得ないんじゃないのかね? 福島県警は矢代由紀を殺したのは夫の矢代と考え、逮捕する気だ。山形県警は、原田と田村を殺したのも同じく矢代と考えているんだろう。同一犯人と考えるのなら、加藤敬子を殺したのも当然、矢代になってくるんじゃないのかね?」
「証拠がありません」
十津川は頑固にいった。
三上はいらだちを無理におさえている感じで、
「矢代が犯人じゃなければ、残るのは阿部みどりしかいないじゃないか」
「そうです」
「彼女が犯人だと思っているのかね?」
「それも証拠がありません」
十津川がいうと、三上は顔を赤くして、
「何をこの時期になっていってるんだ。福島と山形の両県警が矢代を逮捕して事件の解決を発表した時、東京の警視庁だけがいまだにもたついているということになったら、どうするのかね? これは警視庁の面子《メンツ》にかかわるんだよ」
「わかっていますが、動機も証拠もないでは、逮捕に踏み切れません」
「動機はあるじゃないか。あの夫婦は憎み合っていたんだ。それで十分だろう。よくある話だよ。それに、全員を殺すことができたのは矢代だけだ。アリバイなしなんだ。それでも逮捕は出来ないというのかね?」
「私は無理はしたくないのです。最後の詰めをやらずに逮捕して、後悔はしたくありません」
と十津川はいった。いざとなると頑固な男である。
「最後の詰めというのは何のことなんだね?」
三上がきいた。
「私は今度の事件をもう一度、見直してみようと思っているんですが」
「この段階に来てそんなことをしようとしているのかね?」
三上は呆《あき》れ顔で十津川を見た。
「どうも今度の事件では、最初から見方を間違えたんじゃないかと思い始めているところです」
十津川はまっすぐに三上を見返した。
「見直しにどのくらいかかるのかね?」
と本多が十津川にきいた。
「二日ぐらいはかかると思います」
「見直しても、矢代が犯人という結論になるかもしれんだろう?」
三上がきく。
「かもしれません」
「そんなことになれば、警視庁は福島、山形の両県警に大きく遅れをとることになる。それがわかっているのかね?」
「わかっています」
と十津川はいった。
十津川の頑固さが一応、勝った感じで、警視庁は同調しないことになった。
翌日、福島県警の戸田警部と山形県警の中村警部は矢代を逮捕した。
矢代はまず福島に移送され、そこで妻の由紀殺しで訊問を受け、それが終れば天童に移されることになった。
新聞は大きくこの逮捕を報じた。四人の男女が殺され、一人が自殺した事件なのだから当然だろう。
しかし、三上部長の危惧《きぐ》は当った。
新聞が、警視庁のもたつきも厳しく指摘していたからである。
〈それにしても東京警視庁のもたつきはどうしたのだろう? 今度の事件では、誰が考えても残った者の中に犯人がいる筈である。残っているのはたった二人なのだ。それでもいまだに、犯人が限定出来ずにいる理由がわからない〉
明らかに、皮肉なひびきのある書き方だった。
「部長はきっと、これを読んで頭を抱えていますよ」
と亀井が新聞に眼を通してから十津川にいった。
「そうだろうね。もたついていることは確かなんだ」
十津川は肩をすくめるようにしてから、
「矢代は、もう福島に着いた筈だね?」
「向うで訊問が始まっていると思います。彼が自供したら、すぐ知らせると戸田警部がいわれていますが」
「阿部みどりはどうしているんだろう?」
「さっき彼女の感想を聞こうと思って、水戸に電話しました」
「彼女はいたかね?」
「いましたが、矢代のことが心配なので、福島へ行くつもりだといっていました。会わせて貰えるかどうかわからないが、行ってみるというのです」
「そうか」
「これからどうされますか?」
「もう一度、彼女に会ってみたいね。それに、大学時代の彼女のことを調べる必要があると思っている」
と十津川はいった。
「その時代のことが必要ですか?」
「事件を見直すには必要だよ。まず福島へ行って、阿部みどりに会ってみたいね」
「先日、会ったばかりなのに、もう一度、会う必要がありますか?」
「矢代が逮捕されたあと、彼女がどんな表情をしているか見たいんだよ」
と十津川はいった。
二人は翌日、上野から東北新幹線に乗って福島に向った。
福島県警に行くと、戸田警部が迎えてくれた。
「残念ながら、まだ矢代は自供していません」
と戸田はいった。
「阿部みどりが来ませんでしたか」
「そういえば来ましたよ。矢代に会いたいというんですがね、それは出来ないといって断りました。そうしたら、これを渡してくれといって、セーターを置いていきましたよ」
「彼女は福島のホテルに泊っているんですか?」
「そうらしいですよ」
と頷《うなず》いてから、戸田は机の上のメモを見せてくれた。それには、みどりの泊っているホテルの名前が書き込んであった。
「もし面会を許されることになったら、すぐ知らせてくれといってるんですよ」
と戸田がいった。
十津川と亀井は、そのホテルヘ廻ってみた。
フロントに頼むと、阿部みどりはロビーヘおりて来た。地味な感じの女だと思っていたのに、今日は原色の派手な服を着ていた。
化粧も濃い目になっている。
「ああ、十津川さん」
とみどりは嬉しそうに声をかけてきた。
「あなたがどうしているのかと思いましてね」
と十津川はいった。
「私は大丈夫ですわ。矢代さんを助けて下さい。彼が人を殺したなんて、信じられませんもの」
「あなたは、矢代が無実だと思いますか?」
と十津川はみどりにきいた。
「もちろん無実に決っていますわ。そんなことは、警部さんだってわかっていらっしゃるんでしょう?」
みどりは十津川の顔をのぞき込むようにして、きき返した。
「いや、私にも彼が無実かどうかわかりませんよ」
十津川はわざと無表情にいった。
「でも警部さんは、矢代さんが犯人とは思っていなかったんでしょう?」
みどりは心外そうに眉を寄せて、十津川を見た。
「いや、そんなことはありませんよ。論理的に考えれば、犯人は矢代以外に考えられないんですよ」
「でも、この福島県警や山形県警が矢代さんの逮捕に踏み切っても、警部さんはためらっていらっしゃるんでしょう? それは警部さんが、矢代さんを無実だと思っていらっしゃるからなんでしょう?」
「それも違いますよ」
「どう違うのか教えて下さい」
「今もいったように、論理的に考えれば私だって、矢代を犯人だと考えますよ。逮捕しないのは証拠がないからです。しかし、犯人は彼だと思っていますよ」
「でも、矢代さんには人殺しなんて出来ませんわ」
「さあ、それはどうですかね。私は刑事を何年もやっていますが、その経験からいえば、人殺しの出来ない性格なんていうのはあり得ませんよ。ただその人が、殺人をやるような立場に追い込まれないだけのことなんです。矢代にしても、普段はとうてい人殺しなんか出来そうもない性格かも知れません。しかし、追いつめられたらやったと思いますよ。例えば、奥さんの由紀さんが浮気をしていたのに気がついて、かっとしたようなことだったら、飯坂温泉で殺してもおかしくはないんです」
「でも、矢代さんには奥さん以外の人を殺す理由はありませんわ」
「奥さんを殺すところを見られたから、ということもありますよ」
「そんな──」
「矢代が有罪の判決を受けたら、どうしますか?」
十津川がきいた。
「もし裁判になったら、優秀な弁護士をつけて矢代さんを無罪にしてみせますわ」
「それは難しいんじゃないですかね。誰がみても彼は犯人ですよ。裁判官だってそう思うに決っています。弁護士に出来ることといったら、せいぜい情状酌量を頼むことぐらいでしょうね」
「情状酌量?」
「そうです。死刑を無期にすることぐらいでしょうね。それも難しいかもしれないな。何しろ、四人もの人間を殺しているんですからね」
十津川は冷たくいった。
みどりはじっと考えてしまった。
「カメさん。失礼しよう」
と十津川は亀井を促して、ホテルを出た。
亀井は小さく首を振っていたが、おさえ切れなくなったように、
「わかりませんね」
と十津川にいった。
「何がだい?」
「警部がなぜあんなことをいわれたかです。警部は矢代が犯人とは思っていらっしゃらないんでしょう?」
「まあね」
「それならなぜ、反対のことを彼女にいわれたんですか? わざと脅して、彼女の反応を見たんですか?」
「それも多少はあるがね、一般の見方を教えてやったんだよ。裁判になったら確実に矢代は有罪だね。状況証拠は全て、彼が犯人であることを示しているからね。まあ、だからこそ福島と山形の両県警は矢代を逮捕したんだろうがね」
「彼女、どうしますかね?」
「起訴されたら、優秀な弁護士を頼むといってたじゃないか」
「しかし、無罪をかちとるのは難しいですよ」
「だろうね」
「せいぜい死刑が無期になるぐらいじゃありませんか」
「そうだろうね」
「彼女は本当に無実を信じているんでしょうか?」
「それもどうかね」
「何を考えていらっしゃるんですか?」
と亀井がきいた。
「彼等の大学時代の友人に、会いに行ってみようじゃないか」
十津川がいった。もともとそのために東京を出て来たのである。
東北新幹線で上野に戻り、上野から特急「ひたち」で水戸に向った。
その日は水戸市内の旅館で一泊し、翌日、水戸警察署へ顔を出した。
どうしても、地元の警察の応援を得る必要があったからである。
矢代たちと同期で卒業した仲間が、現在、どこで何をしているのか、調べて貰わなければならなかったからだ。
水戸警察署は大学と協力して、卒業後、現在も水戸市内に住んでいる人たちの、名前と住所を表にしてくれた。その数は二十六人である。
十津川はまずその二十六人に電話をかけ、矢代やみどりのことをよく知っているかどうかきいてみた。
同期生でも、矢代たちの仲間のことをほとんど知らない者もいる。そうした人たちには会って話を聞いても仕方がないので、最初から除外することにした。
よく知っているという人間は、二十六人中ほぼ三分の一の八人だけだった。十津川と亀井は、その八人に一人ずつ会ってみることにした。
最初は、市内で文具店をやっている金子茂という男だった。
サラリーマン志望だったが、父親が亡くなったので文具店をついだということだった。
その店の前の喫茶店まで出て来て貰って、十津川と亀井は会って話を聞いた。
「事件のことはびっくりしましたよ」
と金子は、人の好さそうな顔をくもらせていった。
「六人を全部ご存知ですか?」
十津川がきいた。
「ええ。親友というほどじゃありませんが、よく知っています」
「じゃあ、一人ずつ話を聞かせてくれませんか。まず阿部さんについて話してくれませんか。どんな男でしたか?」
「グループのリーダーに向いている男でしたよ。責任感が強かったし、世話好きでしたからね。ただ、僕もつき合いがあったけど、話をして面白い人間じゃありませんでしたね。まじめ過ぎるんですよ」
「彼が五人の仲間と、『東海砂丘』という同人誌をやっていたことは知っていましたか?」
「知っていましたよ。僕も詩をやっていたので、二度ほどのせて貰いました」
「しかし、あのグループに入らなかったんですね?」
「僕はわがままだから、グループで何かするというのは向いてないんですよ」
と金子は笑った。
「矢代さんのことはどうですか? つき合ったことはありますか?」
「ええ。彼はこのグループの中では、一番まともだったんじゃありませんかね。それにハンサムで、女性にもてましたよ」
「由紀さんと結婚しましたね」
「似合いのカップルでしたよ。彼女も美人でしたからね」
「今、矢代さんのことを、六人の中で一番まともだといいましたが、他の五人はみんな変っていましたか?」
「そうですね。多少は変っていましたよ」
と金子は笑ってから、
「阿部は、今もいったようにまじめ過ぎて、話をしてきづまりなことが多かったし、原田はやたらに大声を出していましたからね。田村はひねくれた性格だったし、みどりは自己卑下が強過ぎましたね。自虐といった方がいいですかね。ああ、由紀は矢代と同じく、まともでしたね。だから二人は結婚したんでしょうが」
「みどりさんが自虐的というのは、どういうことですか?」
「彼女、魅力があると思いますか?」
金子が逆にきいた。十津川はいきなりきかれて狼狽《ろうばい》しながら、
「あると思いますがね」
「本当ですか?」
と金子はまた笑った。
「うちの大学では四分の一が女性でしたがね、みどりは魅力のない女性ということになっていたんですよ。美人ではなかった、それだけの理由じゃなかったんです。どういったらいいのかな。自分は魅力がないというので、一層、無愛想になってしまっていたんですよ。笑顔を見せまいとしていた。そんなことで、ますます面白味のない女になっていましたね。だから、小説の中ヘ逃げ込んでしまっていたんじゃないですか?」
「阿部さんと結婚した時はどう思いましたか? 意外な気がしました? それとも、似合いの男女と思いましたか?」
「どっちかといえば、なるほどねと思いましたよ。阿部は、今もいったようにくそまじめでしたからね。現代風な若い女性には向いていないし、つき合いもなかったろうと思うんですよ。そうなると、みどりが似合いだったんじゃないかとね」
「みどりさんの方はどうだったんですかね? 阿部さんを好きだったんでしょうか?」
「それはわかりませんが、彼女にしてみたって、結婚相手はなかなか見つからなかったでしょうから、喜んでいたんじゃありませんかね」
と金子はいった。
次に、及川ゆう子という女性に会った。学生時代の姓は高田で、卒業して二年後に、サラリーマンと結婚している。
ゆう子は、阿部や原田たちのことはよく知らないが、みどりについて面白いことを知っていると、電話でいったのである。
「彼女と親しかったのですか?」
亀井がきくと、ゆう子はにやっと笑って、
「親しくなんかなかったわ。彼女って面白い人じゃないですから」
「じゃあ、なぜ面白いことを知ってるんですか?」
「それは、あることがあってなんです」
とまたゆう子はにやっと笑った。
「どんなことです?」
「いつだったか、彼女の家に行ったことがあるんです。なぜ行ったのかは覚えていませんわ。彼女の部屋で彼女を待っている時、何気なく机の上を見たら、赤い皮表紙の手帳がのっていたんですよ。どんなことが書いてあるのかなと思って手に取ってみたら、彼女の日記だったんですわ」
「それは面白いな。どんなことが書いてありました?」
十津川が身を乗り出すようにしてきいた。
「確か卒業間際の日記でしたよ。その中に矢代さんのことが書いてありましたわ」
「ほう。面白いですね。矢代さんについて、どんなことが書いてありました?」
「それが、矢代さんと深い関係にあるように書いてあったんですわ。本当に驚いたし、意外な気がしました」
「具体的に、どんなことが書いてありましたか?」
「矢代さんに誘われて食事に行ったとか、矢代さんがあまりに熱っぽく口説くので、自分の家でセックスしたみたいなことですわ。矢代さんについて、由紀のことも書いてありました」
「どんなことですか?」
「矢代さんと一緒にいたら、由紀が嫉妬にかられて押しかけて来たとか、彼女が嫌がらせにカミソリを送りつけて来た、といったことが書いてありましたわ」
「実際にそんなことがあったんですかね?」
「日記には書いてありましたわ」
とゆう子はいった。しかし次に会った川上徹というサラリーマンは、その話を聞いて笑った。
「それは嘘ですよ」
「なぜ嘘だと思うんですか?」
「だって、矢代には由紀という恋人がいたんでしょう? 現に結婚もしている。そんな矢代が、なぜみどりにちょっかいを出すんですか? それも、みどりが美人で魅力あふれる女なら別ですがね。みどりはどうみても魅力の乏しい女ですからね」
「矢代さんは由紀さんひとすじということですか?」
「ひとすじかどうかわかりませんがね。みどりにも熱をあげていたなんて信じられませんね」
川上は、肩をすくめるようにしていった。
四人目に会った、スーパーの支店長をやっている黒川謙二も、川上と同じように、矢代とみどりが深い仲だったとは信じられないといった。
「矢代はまじめな男だし、本当に由紀に惚れていましたからね。他の女に色目を使っていたなんてことはあり得ませんよ。男女の仲は不可思議だとはいいますがね」
「すると、みどりさんの日記にそんなことが書いてあったことは、信じないんですか?」
「信じませんね」
と黒川はいった。だが五人目の宮島ユミは、また先のゆう子の証言を裏書きして見せた。
「私も彼女の日記を見たし、彼女自身から、矢代さんに口説かれて困っていると聞いたことがありましたわ」
「それ、本当ですね?」
「ええ。本当ですわ」
ユミはきっぱりといった。
第十二章 日  記
「納得いきませんね」
と亀井がいった。
「何がだい? カメさん」
十津川はきいたが、亀井が何をいいたいのか、想像がついていた。
亀井は眉をひそめて、
「だって、そうでしょう。殺された由紀という女性には会っていませんが、写真で見ると素敵な美人ですよ。友だちに聞いても、明るい女性だったといいます。それに反して、こんなことをいうと何ですが、みどりという女性は魅力がありませんよ。何となく暗い感じがしますしね。それに、矢代は由紀に惚れていたわけでしょう。それなのにみどりにちょっかいを出していたなんて、信じられませんね」
「しかし、彼女の日記のことはどう考えるんだ?」
「多分、嘘を書いてたんですよ」
「じゃあ、もう一度みどりに会ってみるか」
と十津川はいった。
彼女はまだ福島にいるという。十津川と亀井は仕方なく、もう一度、福島に引き返した。
前と同じ市内のホテルで、十津川たちはみどりに会った。
彼女は前より明るくなったように見えた。一応、逮捕された矢代のことを心配しているのだが、それにも拘らず、明るさがちらついて見えるのだ。
「水戸で、あなたのお友だちの何人かに会って来ましたよ」
と十津川は、会って来た何人かの名前をいった。
「なつかしいわ」
みどりは眼を輝かせた。
「その中の二人の女性、及川ゆう子さんと宮島ユミさんに、面白い話を聞きました。及川さんは旧姓高田さんです」
「二人とも親友だったんです。会いたいわ」
「彼女たちは、あなたの日記を見たといっていましたね。大学を卒業する頃にです」
「そんなこと、いったんですか?」
「ええ」
「あれは、見られちゃったんです。恥しいわ」
みどりはしなを作って見せた。
「その日記には、矢代さんのことが書いてあったというのです。矢代さんに口説かれて困ったと書いてあったというのですが、これは本当なんですか?」
「そんなこと、答えなきゃいけませんの?」
「出来れば答えて頂きたいですね」
「誰にもいって欲しくないんですけど、本当なんです。私は、自分が魅力がないって知っていますわ。でもなぜか矢代さんは、私が好きだといっていましたわ。彼の下宿に来てくれといわれたこともあったし、食事のあとなんかに、本当に口説かれたんです」
「それで、あなたはどうしたんですか?」
「由紀さんが、矢代さんのことを好きだということは知ってたんです。私ね、彼女に相談されたことがあるんですよ。矢代さんのことが好きで仕方がないけど、どうしたらいいかって。だから、迷わずに体当りして行きなさいって、いってあげたんですわ。その手前も、矢代さんと仲良く出来ませんわ。だから誘われても断ったんです」
「それで、矢代さんはどうしました?」
「かえって意地になってしまって、私が自分のアパートに夜帰ると、突然暗がりから飛び出して来て、強引にキスされたこともありましたわ」
「それも日記に書いたんですか?」
「ええ、書いたと思いますわ」
「失礼なことをお聞きしますがね」
と亀井が探るようにみどりを見ながら、
「矢代さんとは、関係があったんですか?」
「関係ですか?」
とみどりはにっと笑ってから、
「一度だけ、強引に迫られて、由紀さんには悪いと思いましたけど、負けてしまったことがありましたわ。もちろん、そのことは由紀さんにも主人にもいいませんでしたわ」
「今でも矢代さんは、あなたのことが好きだと思いますか?」
これは、十津川がきいた。
「わかりませんわ。それは、矢代さんにお聞きになったらどうですか? でも、彼は本当のことはいわないかもしれませんわね」
「というと?」
「だって、前から私のことが好きだったといえば、それが殺人の動機にされかねませんもの」
とみどりはいった。
それでも十津川と亀井は、福島県警に頼んで留置されている矢代に会わせて貰った。
矢代はよく眠れないとかで、顔が青白くむくんで見えた。
「今、みどりさんに会って来たよ」
と十津川がいった。
矢代は笑顔になって、
「彼女にはお礼をいっておいて下さい。差入れをしてくれるし、元気づけてくれますからね」
「彼女のことを好きなのかね?」
「嫌いじゃありませんよ」
「大学時代だが、その頃もみどりさんが好きだったのかね?」
「それ、どういうことですか?」
矢代は首をかしげて十津川を見た。
「好きだったかどうかきいているんだよ」
「彼女は才能のある女性でしたからね。目立ちませんが」
「口説いたことがあるのかね?」
十津川がきくと、矢代はまた「え?」という顔になった。
「僕がみどりさんを口説くんですか?」
「彼女は、君に何回も口説かれたといっていたがね」
「そんなことはありませんよ。僕はあの頃、由紀に惚れていましたからね。他の女性を口説いたりはしませんよ」
「おかしいな。みどりさんは君に口説かれたが、由紀さんのことがあるので断ったといっているんだ」
「それ、何かの間違いですよ。阿部に口説かれたということなんじゃありませんか?」
「いや、君に口説かれたとはっきりいっていたよ。それに一度だけ、君に強引に迫られて関係したともね」
「嘘ですよ。僕はそんなことはしない。僕はずっと由紀を愛して来たんです。ずっとです」
「じゃあ、みどりさんが嘘をついているということかね?」
「理由はわかりませんがそうです。きっと何か勘違いしてるんですよ」
「彼女は昔から嘘をつく人だったかね?」
「いや、そんなことはありませんよ。彼女はまじめで口数の少い女性ですよ。昔も今もね。だから、何か勘違いしているんだと思いますよ」
矢代は勘違いを繰り返した。
二人は県警本部を出た。
「どっちが本当ですかね?」
と亀井がきいた。
「カメさんはどう思うね?」
「わかりませんね。みどりが嘘をついているのかもしれないし、矢代だって下手をすれば殺人の動機になりますからね、みどりが好きだったとは、口が裂けてもいえないんじゃありませんか?」
「彼女の日記を見せて貰おうじゃないか」
「まだ持っているでしょうか?」
「持っている筈だよ」
と十津川はいった。
再びホテルにみどりを訪ね、十津川は大学時代の日記を見せて欲しいと頼んだ。最初はためらっていたみどりも、十津川が、矢代の証言と食い違うのだというと、見せることを承諾した。
翌日、一緒に水戸に帰り、十津川たちはみどりから大学の最終学年の日記を借りることが出来た。
「一週間ほど貸して下さい」
と十津川はいった。
水戸から東京へ帰る列車の中で、十津川はその日記に眼を通した。
細かい字でびっしりと書かれている。隙間《すきま》のない書き方に、十津川は何か息苦しさを感じた。
九月十日のところには、次のように書かれていた。
〈九月十日(小雨)
今日もアパートに帰ると、矢代が暗がりで待っていて、じっと私を見つめている。私も苦しい。でも由紀を裏切ることは出来ない。そんなことをしたら、大切な友情を失ってしまう。だから、すり抜けて自分の部屋に行こうとしたら、彼にいきなり腕をつかまれた。すごい力で腕が折れそうになる。その痛さが彼の愛情の強さに感じられて、私は一層胸が苦しくなった。私は止《や》めて下さいといったが、その口を彼にふさがれてしまった。彼は私の耳元で、本当は君が好きなんだと繰り返した。その激しい息遣いに、私はめまいを覚えた。由紀に悪いと思いながら、彼の愛を受け入れてしまおうかと思ったりした。彼の情熱的な──〉
このあとも延々と続くのである。
十一月二日には、矢代と初めて関係したことが書いてある。
その書き方はちょっと異様だった。書き出しは普通なのだが、肉体が結ばれるあたりから、急に露骨で粘っこい描写になっている。自分が矢代のものを口に含んで、フェラチオしたことを延々と書いているのである。
十津川は読み終ると、黙って亀井に渡し、腕を組んで考え込んだ。
亀井は飛ばし読みをしてから、
「面白いですね」
と十津川にいった。
「面白いだけかい?」
と十津川はきいた。
「そうですね。日記は普通、こんな風には書かないんじゃありませんか。私は男ですから、女の心理というのはわかりませんが、例えば彼女が矢代と結ばれた日なんですが、ちょっとおかしいと思いますね」
「どうおかしいんだ?」
「矢代は友だちの恋人であるわけでしょう。普通ならその矢代と関係してしまったことは小さく書くものじゃないですかね。それも暗号のような書き方で。それなのにみどりは、その時の体位まで克明に書いています」
「そうなんだ」
「警部もおかしいと思われましたか?」
「ああ。だが、これが事件とどんな風に関係してくるのかがわからない。ただ、矢代が由紀がいながら浮気をしたというだけのことなのか、それともこの日記の記述が今度の連続殺人の遠因になっているのか、それを知りたいんだがね」
「どうやったらわかりますか?」
「東京に着いたら、川井先生に会ってくるよ」
と十津川はいった。
「川井というと、いつか事件解決に助力して貰った心理学の先生ですか?」
「精神科医だよ」
と十津川はいった。精神異常の青年が引き起こした無差別殺人の時、犯人の心理について聞きに行った医者である。
上野に着くと、十津川ひとりがみどりの日記を持って、S大病院に精神科医の川井を訪ねた。
「どうしても先生に助けて頂きたくて伺いました」
と十津川がいうと、六十歳近い川井は見事な白髪をかきあげるようにしながら、
「十津川さんがわからない事件があるんですか?」
「事件そのものはよくわかるんですが、これがわからないんです」
十津川は日記を川井に渡した。
川井はぱらぱらとめくりながら、
「女性の日記ですね」
「その日記を書いた人間の心理状態を、分析して頂きたいのです」
「というと、かなり面白い日記のようですね」
「そう思います」
と十津川はいった。
川井は椅子に腰を下すと黙って日記を読み始めた。しばらくの間は十津川を無視した態度で読んでいる。
十津川はじっと川井が顔をあげるのを待った。
一時間以上たったろうか、川井は急に立ち上るといったん奥に消え、戻って来ると一冊のノートを十津川に渡した。
「それを読んでごらんなさい」
「日記のようですね」
「若い女性の日記です」
と川井はいった。
十津川はページを繰っていった。最初に気がついたのは、みどりと同じように細かい字でびっしり書いてあることだった。行かえのない書き方である。
〈四月六日(月)
今日もあの男が私を待ち伏せていた。いつもの嫌らしい犯すような眼で、電柱のかげからじっと私を見つめている。あの眼で見られると、自分が裸にされてしまうような気がして身体がふるえてきた。知らない顔で通り過ぎようとすると、今度は黙ってあとをつけてくる。彼の息遣いが首筋にふりかかってきた。この次はきっと、あの男は暴力で私を犯すだろう。あの凄《すご》い勢いで私のドレスを引きちぎって、私を押さえつけてのしかかってくるに決っている──〉
「この男はどうなったんですか?」
と十津川は川井にきいた。
「その日記の主が殺しましたよ。ナイフで」
「犯そうとしたからですか?」
「いや、多分、男はなぜ自分が殺されるのか、最後までわからなかったと思いますね」
「すると、この日記の主の勝手な想像だったということですか?」
十津川がきいた。
「そうですね。妄想といえばいえるんですが、このケースで面白いのは、この女性にとって日記に書かれたことは、まぎれもない現実だということなんです。おかしないい方ですがね。ただそうありたいとか、それが怖いといった感情じゃないんです。だから、それは違うんだといくら説得しても無駄なんですよ。日記の主が殺人を犯したあと警察官が、お前の殺した男は無関係だったんだといくら説得しても無駄でした」
「精神異常ということではないんですね?」
「殺した男との関係だけを見れば、明らかに異常ですね。しかし、他の面では全く正常な女性ですよ。頭もいいし、論理的にものを考える人です」
「すると、なぜ殺した相手に対してだけ、こんなことになってしまったんですか?」
「いろいろな理由が考えられますね。セックスに対する強迫観念が、幼い時から彼女にあったのかもしれない、そう考えて調べてみたのですが、彼女は幼い時、眼の前で母親が強盗に暴行されたという経験をしていることがわかりました。このことから、男は怖いものだという強迫観念、セックスと暴行、恐怖が結びついてしまったのだと思います」
「なるほど」
「彼女はセックスや異性に対して、逆の意味で異常な興味を示していたわけです。その結果、よく出会う男、被害者に対して、彼が自分を襲うと思い込み、現実性を持ってしまったわけです」
「私が持って来た日記の主はどうですか?」
「彼女は多分、内気で空想癖が強い性格だと思いますね。男に対して引っ込み思案で、自分はもてないと決めてしまっている。その上、恐らく平凡な顔だちでしょうから、現実の世界では男から誘われることはめったにない。ところが、それを補うように空想の世界では、男から愛されいい寄られる自分を作りあげてしまう。それがどんどん強くなってくると、しまいには空想の世界が現実そのものになってしまうわけです。特定の相手がいれば現実化は早まります」
「日記に書くというのはどういうことなんですか?」
「こういう人たちは、面白いことにたいてい日記に書きますね。多分、これは現実なのだということを日記に書くことによって、自分にいい聞かせているのじゃないかと私は思いますね。現実だから日記に書く、そして、日記に書きつけてあるのだから現実なのだということでしょう」
「もう一度、繰り返しますが、日記の主は自分の希望としてこれを書いているんじゃありませんね? こうだったらいいという」
「いや、それならこんな書き方はしませんよ。彼女にとって、これは現実にあったことなんです」
「彼女だけの現実ということですね?」
「そうですね。悲しいことに、彼女以外の人間はそれを認めませんがね」
「ありがとうございました」
と十津川はいった。
「何か役に立ちましたか?」
「ええ。大変役に立ちました」
「その日記が、悲劇のタネにならなければいいと思いますがね」
「すでに悲劇のタネになってしまっていますが、おかげで事件は解決に持って行けそうです」
十津川はおだやかにいった。
十津川は捜査本部に戻ると、先に帰っていた亀井に川井医師に聞いた話を伝えた。
亀井は、これ以上興味のあることはないという顔で聞いていた。
「面白いですね。それが今度の一連の事件の核になっていたわけですか」
と亀井がいう。
「問題は二つだね」
「といいますと?」
「この核は、それ自体では殺人にまで発展しない。ただ、これがどう増殖していったかということだね」
「もう一つは、みどりが犯人だとして第一の殺人が出来たかどうか、ということですね?」
「そうだ。もう一度、彼女のアリバイを検証してみようじゃないか」
と十津川はいった。
亀井は手帳を取り出して、そこに書きつけた数字を見ながら、
「問題の日、阿部夫婦は、矢代たちを水戸駅に見送ったあと自分たちの店に戻り、商店街の幹事と会っています。そのあと、阿部がひとりで車でコーヒー豆の購入に東京へ行き、帰宅したのは、夜おそくなってからです」
「阿部が東京に行き、業者と飲んだことは確認がとれていたね」
「そうです。阿部のアリバイは完全です」
「問題はみどりの方だね。時刻表を見てみよう」
と十津川はいった。
机の上に時刻表が広げられた。
十一月八日の一三時三三分発の水郡線の列車を、阿部夫婦は水戸駅で見送った。
そのあと常磐線の特急「ひたち」で上野に行き、上野から東北新幹線に乗れば福島に先廻りできることはわかっている。
午後三時まで水戸にいても、この手段は可能だろうか?
時刻表の常磐線のページを開いた。一五時〇〇分に水戸を出る特急「ひたち24号」というのが見つかった。
(これに乗れば間に合うかどうかだな)
と思った。
もしこれが駄目なら、三時以後の列車は当然、使えないことになる。
二人は「ひたち24号」の上野着の時刻を調べた。
一六時二〇分に上野着である。
次に東北新幹線のページを見た。
一六時三〇分発の「やまびこ141号」がある。ホームを走れば、十分間で乗りかえは出来るだろう。
「やまびこ141号」が福島に着くのは、一八時〇九分。
「間に合うぞ」
と十津川がいった。
矢代たちが福島に着いたのは、一八時一九分である。十分も早くみどりは福島に先廻り出来るのだ。
今度は、飯坂温泉で由紀を殺し、その日のうちに水戸に帰れるかである。
由紀が殺されたのは、午後六時四十分から午後七時頃までの間と考えられている。
午後七時頃に殺したとする。タクシーを待たせておいて急がせれば、七時二十分には福島駅に戻れるのではないか。
午後六時五十分に殺したとすれば、七時十五分には福島駅に着ける。
福島からは一九時二一分発という「あおば224号」が出る。これに乗れば二一時二二分に上野に着ける。
常磐線の下り、二一時三〇分発の特急「ひたち47号」に何とか乗れるだろう。それに乗れれば二二時五五分には水戸に戻れる。
「商店街の幹事は、午後三時頃まで話をしていたと証言しているが、三時ジャストとはいってないんだろう?」
と十津川はいった。
「そうです。三時頃です」
「もし十分前に別れたのなら、みどりは午後三時水戸発の『ひたち24号』に乗れたんだよ」
「そして飯坂温泉で由紀を殺し、深夜に水戸に戻れるわけですよ」
「きっとみどりはこの方法で飯坂温泉にいき、由紀を殺したんだよ」
「動機は何でしょう? 由紀を殺した理由は何となくわかります。みどりは、自分が矢代が好きで矢代も自分を愛してくれていると思い込んでいた。となれば、由紀はその恋の邪魔したわけですからね。しかし、他の連中はなぜ殺したんでしょうか?」
「それはあの核が広がっていったんじゃないかと思うね。あの日記は妄想じゃなく事実なんだ、彼女にとってね。となると、矢代と由紀を結びつけようとする他の仲間の動きはみどりにとって、自分と矢代の恋を邪魔する行為に見えたとしてもおかしくはないよ。矢代とみどりの関係を無視する仲間の動き、といっても二人の間には何もないんだから無視するということもないんだが、これもみどりの眼には自分と矢代の間を裂こうとする行為に見えただろうね」
「なるほど」
「だから由紀も原田も田村も、全て憎しみの対象になっていたんだと思うね」
「じっと殺すチャンスを狙っていたということですか? 五年間もですか?」
亀井は半信半疑の顔できいた。
「それはこういうことだと思うんだよ。五年前にみどりは日記に、矢代が自分に惚れていると書き続けた。そう信じ込んでいたわけだよ。その後、みどりのこの現実は少しも変っていなかったんじゃないだろうか?」
と十津川はいった。
「といいますと?」
「矢代と会わないことでかえって、みどりの胸の中で彼女の現実がどんどん発展していった、ということも考えられると思うんだよ。どう発展したかは即断できないが、例えばこんなことも考えられるんじゃないかね。由紀と結婚した矢代はどうしてもみどりのことが忘れられず、由紀と離婚したがっている。夫婦仲も険悪になってケンカの連続だ。矢代は別れようと思うのだが、由紀は承知しない。友人たちも由紀に味方し、矢代を押さえつけている。由紀をはじめとして他の仲間を殺してしまわないと、矢代を助け出すことは出来ない。そんな風にみどりの胸の中の現実は発展していたんじゃないだろうか」
「それなら、みどりが由紀をはじめとして次々に殺していった理由がわかりますね」
と亀井はいってから、
「田村の役割は何だったんでしょうか?」
「今、思い出したんだが、事業に失敗して横浜から東京に逃げて来た田村を、いろいろと助けた女がいたね」
「そうです。部屋を借りたりしてやった女でしょう。平凡な顔立ちで、自分は田村のかげに廻っていたということですが」
「彼女は、みどりじゃなかったのかな。失意の田村を助けてやることで恩を売り、あとになってから自分の思い通りに動かしたんじゃないかね」
「なるほど。大いにあり得ますね。夫の阿部には、昔の友人を助けてやっているんだといえばすむことですからね」
「そうやっておいて、一方では夫をそそのかして、五年ぶりに矢代や由紀たちを東北旅行に誘ったんじゃないかと思うんだよ」
「殺害計画を練りながらですね」
「それは同時に、矢代を由紀たちの手から助け出す計画でもあったわけだよ」
「そうでしたね。彼女にしてみれば、愛し合っている矢代と自分の愛を確かめるための行動だったわけですね」
「その通りさ」
「天童では利用した田村も殺してしまったわけですね。ところで、部外者の加藤敬子を殺したのもみどりでしょうか?」
「もちろんだよ」
「理由は何だったんでしょうか?」
「加藤敬子は、女の直感で何かに気付いたということだった。それが何かわからなかったが、今なら想像がつくね。彼女は、みどりの矢代を見る眼がおかしいことに気がついたんだよ。他の男たちは、当の矢代本人もそれに気付かなかったんだから、当り前の話さ。矢代とみどりは何もなかったし、彼女は阿部と結婚していたからだ。だが女の敬子は、みどりの眼が矢代を熱っぽく見つめていることに気がついたんだ。そして水戸へ行き、みどりに直接会ってきいたんだろう。みどりは危険を感じて敬子を殺したんだ」
「阿部は自殺と思いますか?」
「ああ、あれは間違いなく自殺だよ。阿部は多分、事件のあとで何となく妻のみどりに疑問を抱き、調べ出したんだと思う。そして、多分みどりの日記を読んだんだ。真相を知った阿部は、絶望して死を選んだんだ」
「矢代が犯人として逮捕されてしまったのは、みどりにとって予想外のことだったんでしょうか?」
と亀井はきいた。
「最初はそうだったろうね」
「最初だけですか?」
「先日、彼女に会った時、矢代が起訴されようとしているのに、みどりは明るい顔をしていた。ちょっと意外だったんだが、今になるとこう考えられる。矢代が死刑になっては困る。しかし懲役刑で刑務所に入っていれば、もう他の女に奪《と》られることもないし、彼はみどりを頼るしかない、そう思ってみどりは楽しんでいたんじゃないかと思うね」
「何という女だ」
と亀井は舌打ちした。
「まず福島に行って県警に話をし、矢代を釈放しなければならないな」
と十津川はいった。
十津川と亀井は、東北新幹線で福島に向った。
福島に着いたのはその日の午後である。県警に行き、十津川が自分の推理を話し、持って来たみどりの日記を見せた。
本部長を初め、事件を担当した戸田警部たちも十津川の話に耳を傾け、みどりの日記に眼を通した。
「なるほど、阿部みどりが犯人で矢代はシロかもしれんね」
と本部長はいった。
「矢代は釈放してくれますか?」
「だが証拠がないよ。阿部みどりにアリバイのないこともその通りだと思うし、この日記も興味がある。しかし決定的な証拠にはならんよ」
「困りましたね」
と亀井が十津川にいった。
「しかし、県警の考えもわかるよ。確かにみどりのアリバイは崩れたし、動機もわかった。だが、矢代が犯人だとしてもおかしくはないんだ。彼が、奥さんの由紀との間がうまくいかなくなっていたとすれば、殺す理由になるし、その現場を見られたということで、あとの人間を次々に殺して行ったことも考えられるからね。特にここの県警は、福島市内で起きた殺人、由紀が殺された事件についてだけで矢代を逮捕している。妻殺しなら、いくらでも動機は考えられるし、矢代にアリバイもないからね」
十津川は、県警本部を出ながら亀井に答えた。
「しかし、犯人はみどりです。みどりが犯人でなければ、夫の阿部の自殺の理由がわからなくなります」
「その通りなんだがね」
「証拠ですか?」
「そうだよ。阿部が自殺したのは全く違う理由かもしれないし、妻のみどりが矢代のことを、まだ忘れられずにいると知ってかもしれないが、それでも矢代犯人説を否定する理由にはならないんだ」
「どうしたらいいんですか? 折角、みどりが犯人だという確信を得たのに」
亀井が口惜しそうにいった。
「どうしたらいいかな」
十津川も考え込んだ。
確信だけでは逮捕は出来ないし、福島や山形の県警の説得は出来ない。
「目撃者を探しますか」
と亀井がきいた。
「目撃者か」
「みどりは加藤敬子を殺しています。殺したのは多分、水戸でしょうが、死体を捨てたのは荒川放水路です。われわれの所轄ですから、自由に捜査できます。みどりが死体を捨てるのを目撃した人間が見つかるかもしれません。目撃者が見つかれば、みどりもあきらめて全てを自供するんじゃありませんか?」
「目撃者はいたと思うね」
「それならやりましょう」
「多分、夫の阿部が目撃したと思うよ」
「は?」
「それが、或いは自殺の原因かもしれない。妻が殺人犯とわかったが、警察にいう気になれず、絶望して自殺したことも考えられるからね」
「じゃあ、警部は本当の目撃者はいないと思われるんですか?」
「多分、用心して殺しただろうからね」
「じゃあ、どうします?」
「一つだけ方法があるよ」
と十津川がいった。
「どんな方法ですか?」
「阿部みどりの日記だよ」
「日記ならもう見ましたが」
「あれは大学四年の時の日記だ。みどりが日記を書き続けていれば、今度の事件についても書いている筈だよ」
「書き続けているでしょうか?」
「あの日記の調子から見ると、現在も書き続けている可能性が強いと思うね」
「しかし、彼女が日記に自分の殺人のことを書いていると思われますか?」
「そうだね。書いているかどうかはわからない。しかし彼女は、自分と矢代が愛し愛されているという夢を、現実のこととして日記に書いた。単なる妄想なら消えることもあるが、彼女の場合は現実なんだ。現実である以上、別れても消えたりはしないから、いつまでも続いている筈だよ。それがどう続いているのか見てみないかね」
「しかし、彼女は最近の日記を見せてくれるでしょうか?」
「いや、見せないだろうね」
「どうします?」
「どうしていいかわからないんだ」
と十津川はいった。
その夜は福島市内のホテルに泊ったのだが、翌朝、十津川が目覚めると、隣りのベッドに亀井の姿がなかった。最近、朝のジョギングをしていると聞いていたから、ホテルの近くでも走っているのかと思ったが、いつまでたっても亀井は戻って来なかった。
あわててフロントに問い合せると、先に帰ったという。
「連れには黙っていてくれといわれたので、連絡しなかったのですが」
とフロントはいった。
その瞬間、十津川は失敗《しま》ったと思った。
十津川は急いで仕度をすると、部屋を出た。亀井の行く先も、なぜひとりだけ先にチェックアウトしたのかもわかったからである。
亀井は水戸へ行ったに違いない。みどりの家に忍び込み、十津川のいった日記を盗み出す気でいるのだ。ひとりで出かけたのは、不法侵入が問題化した時、十津川を巻き添えにしてはいけないと考えてのことだろう。
亀井は苦労人だが、直情径行なところがあって、非難を覚悟で突っ走ってしまうことがある。駅に急ぎ、上野行の新幹線に乗った。
(カメさん。無茶は止めてくれよ)
と十津川は新幹線の中で祈った。上野に着いて、水戸に向う特急「ひたち」に乗る。犯人が利用したと思われるこのコースを、これで何度動いただろうか。
水戸に着いたのは十二時すぎである。昼食はとらずに、みどりの家に急いだ。例の喫茶店の二階が、住居になっている。
店の前まで来ると、そこに亀井が立っているのが見えた。
十津川を見つけると、嬉しそうに手をあげた。近づくと亀井は、照れたような顔をした。
「申しわけありません。黙ってホテルを抜け出してしまいまして」
「そんなことはいいよ」
「その代り、これを手に入れました。最近のみどりの日記です。警部がいわれたようなことが書いてありますよ」
亀井はニコニコしながらノートを差し出した。
十津川はどんな顔をしていいのかわからず、眉をひそめながら、
「まさか、カメさん──」
「え?」
「家宅侵入なんか──」
「ああ、大丈夫です」
「本当かね?」
「最初は、みどりの家に忍びこんででもと思っていましたが、それはしなくてすみました。水戸駅へ降りて、まず彼女に電話したんですよ。最近の日記を、今度の事件の参考に見たいといったんです。そしたらいきなり電話を切ってしまいました。それであわててここへ来てみたら、彼女が日記を焼こうとしていたんですよ。私が声をかけたら、彼女は飛び出して行きました。それで焼ける寸前の一番新しい日記を、無事に拾いあげたというわけです。だから角が焦げているでしょう?」
「彼女は?」
「わかりません。彼女を追いかけるよりも、日記を火の中から取り出すのが先だと思ったものですから」
「それで良かったよ」
と十津川はいった。
十一月八日 夜
今日、あの女を殺してやった。五年間も私と矢代の間を邪魔してきたんだから、殺されて当然なのだ。愛も何もないのに、ただ私に対する嫌がらせから彼と結婚し、彼を縛りつけておいたのだ。彼がどんなにこの結婚にうんざりしているか、私のことを思い続けていたか、昨日、五年ぶりに会ったとき直感的にわかった。
眼と眼があった時、彼が今でも私を愛してくれていることがわかって、私は胸がふるえた。私の考えは正しかったのだ。あの女はそれに気づいて、憎しみの眼で私を睨んだ。恐しい眼だった。私が殺《や》らなければ、きっと嫉妬からあの女は私を殺しただろう。
いわば、私の行動は正当防衛なのだ。夫は何も知らずに眠っている。いつも鈍感な夫だ。つくづく嫌になる。
十一月十二日 夜
今日は原田を殺した。
矢代の親友だなんて笑わせるわ。親友なら、彼が由紀との結婚をどんなに嫌がっていたかわかった筈なのだ。それなのに、強引に二人を一緒にして悦に入っていた。自分がどんなに矢代と私の二人を傷つけたか、全く気がつかない鈍感さに、前から腹が立っていた。
今日もそうだ。由紀が死んで解放された矢代が、あんなに晴れやかな顔をしているのに、原田の奴、矢代が悲しんでいるとか、由紀が可哀そうだとか、馬鹿なことをいっている。
私はだんだん腹が立って来た。当り前だ。
十一月十三日 夜
田村!
馬鹿な田村──
彼が事業に失敗して、それでもみんなが知らん顔をしている時、私は彼を助けてやった。
別に恩を売る気はないが、私が頼んだことだけをやってくれればよかったのだ。
ちらちら顔を出して、どこかに姿を消してくれればよかったのに、私を舞鶴公園に呼び出してお説教を始めたのだ。
いや、お説教ならまだいい。
矢代と由紀が仲のいい夫婦だったから、彼女が殺されて可哀そうだといい出しだのだ。
何を馬鹿なことをいうの。
矢代があの女を嫌っていて、結婚したのを後悔していることは、誰の眼にもはっきりしていることじゃないか。
それなのにいいつのるのだ、矢代が由紀を愛していたなんて嘘を。私は嘘をつく人間は嫌いだ。後ろを向いたすきに石で殴りつけたら、田村は坂を落ちていった。
嘘つきは死ねばいいんだ。
十津川は更にページを繰っていった。加藤敬子を殺したことも書いてあった。その書き方は他の日付のと変っていなかった。敬子が嘘つきだから、腹がたって殺したと書いてある。
──なぜ嘘をつくの。
あの女が死んで喜んでいる矢代を、なぜ不幸だなんていうの。
なぜ、これから私と彼が幸福になろうとするのを邪魔しようとするの?
こうした書き方なのだ。
自分を誤魔化しているという様子は、微塵《みじん》も感じられない書き方である。
「犯行を自供しているというより、自分の愛の正しさを主張している感じでしょう」
と亀井がいった。
「きっと彼女自身、正しいことをしていると思い込んでいたんだと思うよ」
「彼女と矢代の純愛物語を完成させようとしていた、というわけですか?」
「恐らくね」
と十津川はいった。
「しかし、これがあれば福島と山形の県警も、納得するんじゃありませんか。阿部みどり本人の気持をうまく説明できるかどうかはわかりませんが」
「とにかく福島へ行って、矢代を釈放して貰おう」
「逃げた阿部みどりはどうしますか?」
「彼女を捕えるのはあとでいいよ。もう彼女が殺さなければならない人間は一人もいないんだ」
と十津川はいった。
二人は日記を持ってまず福島に行き、そこに山形県警の中村警部にも来て貰って日記を読んで貰った。
「こんな自供書を読んだのは初めてですよ」
と、両県警の警部が同じ言葉を口にした。
「しかし、阿部みどりが犯行を自供していることは、間違いありませんよ」
と十津川はいった。
福島県警に逮捕されていた矢代は釈放された。
十津川は、彼にみどりの日記をみせるかどうか迷った。が、釈放された理由をきかれて、それを説明するのが大変で仕方なく日記を見せた。
読み終った時、矢代の口をついて出た言葉は、十津川が予想した通りのものだった。
「こんなこと、信じられませんよ」
と矢代はいった。
阿部みどりはなかなか見つからなかった。
見つかったのは二日後である。
伊豆の修善寺温泉の旅館の一室で、かもいに首を吊って自殺していたのである。
遺書があった。
遺書の宛名は矢代だった。
〈あなたと一緒に三日間を過ごした思い出の修善寺の旅館で、この手紙を書いています。
あなたと結ばれる筈でしたのに、いろいろな妨害にあってこんなことになってしまいました。残念でたまりません。でも、今でも私はあなたのことを愛しています。だって、あんなに強く私のことを愛して下さっているのですもの。
私は死んでいきますけど、別に怖いとも悲しいとも思いません。もう私達の仲を裂こうとする人間はいませんから〉
「矢代は、みどりと一緒に修善寺に行ったことなんかないといっていましたよ」
と亀井がいった。
「そうか」
と十津川はいっただけである。
十津川は、急にみどりという女が可哀そうになってきた。
初出誌
「週刊文春」昭和60年12月19日号〜61年6月19日号
単行本
昭和62年3月文藝春秋刊
みちのく殺意の旅
二〇〇二年十月二十日 第一版
著 者 西村京太郎
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
http://www.bunshunplaza.com
(C) Kyoutarou Nishimura 2002
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