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零崎双識の人間試験
西尾 維新
[#ここからゴシック]
第一回
最高の評論家が最低の演出家より面白い舞台を演出しうるとは限らないよう最高の名探偵が最低の殺人鬼より手際よく人殺《ひとごろ》せるとは限らない。
[#ここでゴシック終わり]
「人が死ぬときにはね――そこには何らかの『悪』が必然であると、私はそう思うんだよ」
その車両の中には、二人しか人間がいなかった、それは別段特別特殊な状況《シチュエーション》だというわけではなくて、片田舎、平日昼間の電車事情はそんなものであるというだけだ。
一人は学生服を着た少年だった。髪の毛を薄く脱色していて、少なくとも本人は格好いいつもりでつけているのだろう銀のアクセサリーで耳や手首や指を派手派手しく飾っている。そしてもう一人は、随分と日本人離れして背の高い男だった、しかしその痩せた身体は見る者に大柄という印象は与えず、その手足の異常な長さも伴って、まるで中学校の美術室に飾ってある針金細工のようなシルエットである。背広にネクタイ、オールバッグに銀縁眼鏡というごく当たり前の当たり前過ぎるファッションが、驚くくらいに似合わない。
少年と針金細工は他に誰もいない車両内で会話を交わしていた――というより、どうやら針金細工の方が一方的に少年に対して語りかけているだけのようで、少年の表情にはかなりうんざりした色が窺える。
「例えばここに一人の殺人鬼がいたとしよう。彼は殺人鬼なのでその存在理由にのっとって人を殺す。殺された人は当然死ぬよね。この場合殺人鬼が『悪』いことはいうまでもない、彼がいなければその人は死なずにすんだのだから。そしてその殺人鬼が官憲の手によって捕らえられ、取調べと裁判の結果、死刑を宣告された場合、これは勿論その殺人鬼本人の行いが『悪』かった、というべきだろう、ではしかし、それが冤罪だった場合は? 殺人鬼が本当は人など殺していなかったのに、それなのに死刑を執行されてしまった場合はどうなのか? これは法律のシステムが『悪』、あるいは捜査官や裁判官の頭が『悪』かったのだろう、うん。で、その捜査官が、こととは全く関係のないところで、空から降ってきた阻石に潰されて死んだとする。こりゃもう疑いようもないくらいにまさしく、捜査官の運が『悪』かったのだ」
「はあ……そうっすか」
それがどうしたという風に、気のない返事を返す少年。かなり迷惑そうだが、単純な背丈では自分の倍くらいもありそうに見える針金細工に対して無視《シカト》を決め込むほどの度胸もないらしく、適当に相槌を打っている。
「私が何を言いたいか分かるかな? つまりだね、『人の死』とはとことんをとことんまで突き詰めて『悪』につきまとわれた概念であり、そこには善意や良識の人り込む間隙や油断は一ミリだって存在しないということさ。人が死ぬ物語には、どうしようもないような悪人しか登場しないし、またするべきではないのだよ。正義を説く聖人も倫理を説く善人も、それからついでに謎を解く何とやらやも、登場人物表に名前を連ねる資格がないし、彼らにしたってあえて登場したくなんかないだろう。そういうものなんだよ。人の死で愛やら情やら真理やらをやおら表現しようなんて、そんなことは不可能さ。人の死にあるのは『悪』だけだ」
「『悪』だけ?」
「『悪』だけ。他には何もない」
「けどさ、おっさん――」少年がいかにも精一杯の勇気を振り絞った感じの声で、針金細工に対して反論を試みる。「――『死んだ方がマシ』って状況だって、世の中にはあるんじゃねーのか? 『死んだ方が救われる』、『死んだ方がいい』って状況だって、あるんじゃねーのか?」
「私はおっさんと呼ばれるほど歳を食っちゃいないつもりだがね」と、針金細工は苦笑する。「きみのその反駁に答えるならば、『死んだ方がいい』というような状況、そのものが既に『悪』なのさ。いやいや、きみくらいの年頃の人間からしてみれば、こいつは言葉遊びにしか聞こえないことだろう、気持ちは分かる、気持ちは分かるよ、だが私には言葉で遊ぶ趣味なんかないし、私は君よりも長く人生を生きている身だから、そのくらいの説教はできるつもりでいるんだよ――だからきみ……ええと、名前はなんと言ったっけな?」
「柘植慈《つげじ》恩《おん》……だけど」
恐る恐ると名を名乗る少年に、ぽんと手を打つ針金細工。
「ふむ、慈恩とはよい名前だな。念流の開祖と同じ名前じゃないか。君のお父様の人格が窺える。実に素晴らしい」
「はあ……」
誰だよそいつはそんな奴は知らないと言いたげな少年のことなど気にもとめず、針金細工は言葉を続ける。
「慈恩くん。いいかい、世界はそもそも『悪』というものに滴ちている。人生というのは地雷をあちこちに埋め込んだ部屋の中で閉じこもって生活しているようなものなんだよ、命がけの引きこもり、それが人生だ。特に何もしなかったところで信号に引っかかるくらいの確率で、人間は『悪いもの』に出会ってしまうのだよ、だったら何も自身がその『悪』になって、死に至る確率を更に倍増させる必要などどこにもないだろう――そうは思わないかい? こんなことは訊くまでもないことだろうが、慈恩くんは勿論、死にたくなんかないだろう?」
「そりやまあ、そうだけどさ――」
「そうそう。自殺志願なんてのは生きている人間としちゃ最悪最低の思想さ。その行為は逃避ですらないんだからね。よし、では慈恩くん」針金細工は口調を改めて少年に向かう。
「学校をサホるというのは『悪いこと』だ。今からでも遅くないから、次の駅で電車を乗り換え、君の通う学校に向かいなさい」
「…………」
――どうやら今のこの状況は、学校をサボってどこかに遊びに行こうとしていた少年に対して、針金細工が考えを改めるように説得している――というものらしい。それだけ聞けばごく日常の一駒にしか思えない話だったが、その結論にたどり着くまでに針金細工が使ったルートはあまりにも変哲だった。学校の出欠の話に人死にを引き合いに出すような
人間はなかなかいるものではない。
少年はうんざりを通り越して呆れるも通り過ぎ、ついにはおかしくなったらしく、噴き出すように笑い声を漏らした。
「ったく――おっさん、あんたすっげえ変な奴だな、おい」
「だから私はおっさんと呼ばれるような年齢ではないよ、そうだね、丁度きみくらいの年頃の弟がいるくらいだ」
「へえ。じゃ、俺はあんたのこと、お兄さんとでも呼べばいいってのかい?」
「ん――ああ、いや、それはやめておいた方が賢明だろうね」針金細工はここで、何故か少し歯切れが悪かった。「それこそ、生きていたいと望むなら――うん、そういう意味じゃ、そのじゃらじゃら[#「じゃらじゃら」に傍点]つけている指輪やら腕輪やら耳飾りだって、あまりお勧めはできないな。他人と区別がつき過ぎる」
「とうして? こんなの、ただのお洒落じゃん」
「もしもきみがツルゲーネフを読んだことがあるのならそんな質問はしないだろうし、宇野浩二の愛読者でありさえすれば『普通』ということについて考えてみたことはあるだろうけどね」身体に似合わずどうやら相当回りくどい性格らしく、針金細工は全く関係のなさそうなところから少年に返答する。「そうだね、高校生くらいの、やっとこ世界が見えてくるという君くらいの年齢になれば、将来について考えることも多いだろう。恐らくきみは普段から無意識内にこんなことを考えているんじゃないのかな――『将来働くことになったところで、背広にネクタイ姿にはなりたくない』とかね」
「いや、それは――」
さすがに背広にネクタイ姿そのまんまな針金細工相手に正面から頷くことはできなかったようだが、しかし少年のその表情は雄弁に肯定を物語っている。そんな少年の態度に針金細工はにやりと笑ってみせる。
「いやいや構わないよ、気を遣うことはない。今時の若い者は――というか、若い者というのはいつの時代だって、スポーツ選手かミュージシャンになりたがるものなんだ。ことに背広にネクタイってのを嫌がる――なぜならそれが非常にありふれた『普通』だからだ。君くらいの年齢だと特に顕著なんだが――人間というものは『普通』であることに対して恐れにも似た感情を抱くようだね。『他人と同じ』であることに対して、本能的な恐怖を感じているらしい。しかしこれは私には全然分からない、『普通』であること、それはこの上なく素晴らしいというのに」
「えー? 普通の人生なんかつまらねーよ」
「ならば行き詰まり息詰まり生き詰まっている人生が、君のお望みだというんだろうか。慈恩くん、『普通』というのはね、『他人の迷惑にならない』という意味なんだよ。普通でない者は、その指向性が善であるにせよ悪であるにせよ、定めし他人を傷つけるものなのだ。そして結果、自分も傷ついてしまう――傷つきの|繰り返し《リフレイン》さ。だから『普通』で『当たり前』なのはとても幸福なことなんだよ。本人にとっても、周囲の他人にとってもね。そして自分の周りの人が幸福なら自分も更に幸福になれるものだろう? これが幸せの相乗効果って奴さ。例えば慈恩くん。きみには心から尊敬する人というのはいるかな?」
「心から尊敬する人……?」
「君が神と呼ぶ傑物さ。世界は広いし歴史は長い、一人くらいはいるだろう?」
「尊敬とかはよくわかんねーけど……ジム・モリソンとかは好きかな」
「ふむ?」針金細工はどうやらその名を知らないらしく、疑問そうに首を傾げたが、しかしすぐに「まあいい」と取り直す。知らないことを知ろうとする好奇心とは無縁のようだ。
「私は寡聞にしてその人物を知らないが、君が好きという以上、きっと彼は何らかの偉業、名著を書くなり清音を奏でるなりの偉業を成し遂げたことだろう、それは『普通』ではないことだね」
「ああ」
「しかし――とここで否定文を侍ち出すのは君にとって不愉快かもしれないが、その結果彼が幸福だったかというとそんなことはありえない。彼の周囲の人間が幸福だったかというと、そんなこともありえない。ジムモリさんのことはこれっぽっちも知らないけれど、ありえない、と声を大にして断言させてもらうよ、いいかい、慈恩くん、『普通』じゃないがゆえに生じる現象は、概ね負の方向に向いているものなのだよ。他人から見ればそれは羨ましい人生かもしれないが、羨まれることは何の幸福でもない。名誉も栄誉も、地位も財産も、そんなことは幸せになるためには必要ではないんだ。ここが重要なところだからよく聞いて欲しいんだが、幸せというのはね――結局のところ、周りの人間と仲良くやることなんだよ。それが哺乳動物の宿命なんだから」
「よく、わかんねーんだけどよ――」少年は難しそうな顔をして、針金細工に答える。「つまり才能みてーなもんは、人と仲良くやる上じゃ何の役にも立たないっていうのか?」
「むしろ邪魔になるというべきだろうね」どこに根拠があるのか知らないが、自信たっぷりにそう断定する針金細工。「革命家にでもなろうとでもいうのならば話は別だが、人間として生きていたいならば、自分の性質なんてものはできるだけ隠すべきだ。だから私はこうして背広にネクタイ、革靴にオールバックという、普遍性を重んじたファッションに身を包んでいるというわけだよ。この私にだって、少なからず幸福になりたいという気持ちがあるからね」
「え……?」
じゃあおっさんサラリーマンでも何でもないのにそんな格好してんのかよ、と眼で語る少年を無視する形で、針金細工は「やれやれ」と、突然ため息を漏らす。
「しかしそれが分からない馬鹿も世の中には存在していてね……たとえば私の弟がそうなんだ。ちょっと聞いてくれよ。髪はやたらと伸ばした上に染めているし……いや、君のように脱色するくらいならまだ分かるんだ。しかし染めるというのは何なんだろうね? それだけじゃない、耳にも散々穴を開けて……それも君のような耳飾りじゃない、何を考えているのか知らんが、携帯電話用のストラップなんぞをぶら下げて[#「ぶら下げて」に傍点]いる。とどめには刺青だよ。刺青だよ! それもそれも、顔面に大きく刺青だ、我慢できる阿呆にも加減があるというものだろう。親から貰った身体を何だと思っているのか一度じっくりと話しあってみたいものだ。それで本人は格好いいつもりだというのだから呆れてモノもいえないよ、あんな小僧、家族じゃなきゃぶん殴ってるところだ」
あんたの変人っぷりもその弟といい感じに相対しているよ、などとは少年は言わず、「はあ……そーなんだ」と興味なさげな返事を漏らす。
「おっさんとこ、家族仲が悪いのかい?」
「うん? いやいやそんなことはないよ。今のは可愛さ余ってという奴さ。いわゆる一つ、のろけ話の一種だね、そうだね、私達くらい仲のいい家族というのは、日本中どころか世界中探したところで、見つかることはないだろうな。私が世界に誇れる家族《ファミリー》だよ」
本当に誇らしげに笑ってみせる針金細工。どうやら自慢の家族らしいが、この本人と先の弟の話を聞く限り、他も大体想像がつくらしく、少年の表情は複雑だ。その表情の意味を取り違えたらしく、針金細工は「うん?」と顎を挙げる。
「なんだい。慈恩くんの方こそ、家族とうまくいっていないのかい? そいつはいけないな。家族は仲良くしなくてはいけないよ。それ[#「それ」に傍点]はそういうもの[#「そういうもの」に傍点]なんだからね」
「いや、そういうわけじゃねーんだけどよ……なんっーかうぜーっつーか。親父もお袋も兄貴も妹も、みんなつまんねー奴ばっかでさ」
「ふうん」
少年の家族事情に多少の興味があるのだろうか、ここでは珍しく頷くだけで返す針金細工。
「いや、おっさんに言わせればその『つまんねー』ってのが『普通』で『当たり前』で『幸せ』なんだろうけどさー、やっぱそういう風には割り切れねーよ」
「いいよ、思う存分迷いなさい。葛藤は十代の特権だよ。しかしその葛藤を昔に終えた経験者としての私にいわせてもらえるならね……行き詰ってしまった連中ばかりが寄り集まった家族というのも、またこれで困り者なんだよ。たとえば慈恩くんにしたって、家族が全員殺人狂いなんて家庭に、あえて新規加人したいとは思わないだろう?」
「そりや、まあ……」
「それが当然だし、それでいいんだよ。忘れちゃならない。死にたくないんなら、『当然』という二文字から、『普通』という二文字から、決してはみ出しちゃならないってことを。死ぬ理由なんてのは『悪』と同様、世界のどこにでも地雷のように転がっている。人は必ず死ぬが、だからといって死に急ぐ必要はどこにもない。生きていられる内は、人は生きるべきだ。どんな宿命を背負っていて、どんな罪悪を犯していても、生きている者は生きるべき者だ……特に達成すべき目標がある場合はね。うふふ、実をいうと私はね、家出中の弟を捜している最中なんだよ」
「弟……って、さっき言ってた?」
「ああ。昔っから放浪癖のある奴でね……そして今回はその極みという奴だな。どうやら西日本に向かったらしいことは分かったんだが、それ以外の手がかりがさっぱりでね。長崎に行ってカステラでも食ってやがるんだか、岡山に渡って吉備団子食ってやがるんだか、沖縄に飛んでちんすこう食ってやがるんだか、あるいは京都にとどまり八ツ橋でも食ってやがるんだか、さっぱりさっぱり情報がない」
「あんたの弟がすっげえ甘党だってことは分かったけどさ……、じゃ、見つけられないじゃん。そういうのは警察とか探偵とかに任せといた方がいいんじゃねーの? 素人が色々やっても無駄に終わるもんだぜ」
素人ね、と針金細工は微笑する。
「いやいや、それが警察よりは先に見つけないといけないし、探偵に頼むわけにもいかないという事情もあるのさ。色々と問題のある厄介な弟でね」
「は。ひょっとしてあんたの弟、殺人鬼だとか? さっきの話じゃねーけどよ」
「いやいやあ。殺人鬼というほど大したものじゃないさ、あいつは」針金細工は少年の軽口に対して軽口で答える。「一緒にしたら殺人鬼に失礼だというべきだろうね。ま、そう呼ばれるためにはもうちょっとばかし、私の下で研鎖を積まなければならないだろう。だからこそ、私は何としても弟を探し出さねばならない。今の未熟な腕のままで世間に出て行って、酷い目にあったらかわいそうだからね。世界と夏には危険がいっぱいなんだから」
「見かけによらず、随分と弟煩悩なんだな」
「見かけによらずという言い方は酷いな。それに家族を大切にするのは当たり前のことだ。うん、そうだね、一応聞いておこうか。きみ、髪を染めていて、耳に携帯電話のストラップをつけて、顔面に刺青をした男を見たことはないかい?」
「いや……そんな愉快な奴に会ったら絶対忘れないよ」
「身長は一メートル五十センチくらいで、ちょっと可愛い顔つきをしている。刺青のせいで台無しだがね。髪は大抵後ろで縛っていて、サイドを刈り上げている感じだ。ああ、そうだな、ひょっとするとサングラスをかけているかもしれない、そうそう、これも本人はお洒落のつもりらしいんだが、身体のあちこちにナイフを仕込んでいるんだ」
「うーん……。つーかできればそんな奴には会いたくない感じだけど……ん? なんだ、手がかりはないとかいって、俺に質問するってことは、この辺りにいるだろうってあたり[#「あたり」に傍点]はもうついているってことかい?」
「おっと、名探偵のように鋭いことをいうね。しかしそれは名探偵のように見当外れだよ。そういうわけじゃないさ、全然。情報が皆無という私の言葉に嘘はない。だけど大雑把でいいのならば、家族のいる場所くらい勘で分かる」
「勘……」
「勘だよ。まあ狼の同属本能みたいなものかな。特に私達家族はね、そういう[#「そういう」に傍点]繋がりにかけちゃ、他の追随を許さないところがあるんだよ。だからここら辺にいるんじゃないのかなあ、程度の予測はつくってことさ。さっきも言ったろう? 世界に誇れる家族でね。ま、もっとも誇りと恥じらいは紙一重どころか、ほとんど表裏一体といってもいいくらいに似たようなものなのだけれど。少しばかり余計な話をさせてもらうと、そもそも私の家族というのは――」
針金細工が自分の家族自慢を今にも始めようというそこで車内放送が鳴り、次の駅への到着が近いことを知らせる。それを聞いて針金細工は言いさしていた言葉を停止し、「それではだ」 という。
「君は次の駅でこの電車を降り、降りたホームで電車を待って、そして学校へ向かうんだ。今からでも十分、午後の授業には間に合うだろう。まあ教職員の先生方から多少の説教は喰らうかもしれないが、なあにそんなのは聞き流してしまえばいいんだ。向こうだって心から説教してくれているわけじゃない、相手なんてすることはないのさ」
「……分かったよ。いきゃーいーんだろ、いきゃーな」
少年はやるせなさそうにシートから腰を浮かし、網棚に乗せていた学生鞄を降ろす。あるいはこの後ずっと針金細工につきまとわれるよりは学校に行った方がまだマシだと思ったのかもしれない。そんな様子を見て、針金細工は滴足そうに頷いた。
「うん。それでこそ慈恩の名を持っ者だ。うふふ、名前は大切だよ、名前はね。実のところ名は体を表すというあの言葉は私にとって金科玉条でね」
「はあ……」
「うふ、うふふ。よかったよかった。君はどうやら『合格』のようだね」
「え?」
本当に嬉しそうにそんな言葉をいう針金細工に驚く少年。それに対して針金細工は誤魔化すように大袈裟な動作で手を振った。
「いやいや、今のはこっちの話だよ。それでは世界に気をつけて」
言って針金細工は電車の出入り口を指さす。計ったように同時に、速度を落していた電車が停止して、そのドアが開いた。少年は「そんじゃ」と軽く頭を下げて、駅のホームに降り立ったが、そこで思いついたように振り向いて、「ところでさ」と、針金細工の方を見た。
「あんたの名前、まだ聞いてなかったけど」
「私は零崎双識《ぜろざきそうしき》という」
なんでもないことのようにそう名乗ったところで、電車のドアが閉まった。こうして、ごく普通で当たり前のつまらない少年、柘植慈恩と、ごく普通でなく当たり前でなく行き詰まっている針金細工、零崎双識との接触は終わった。
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零崎双識の背広は特別仕様で、その内側にはホルスターを模したポケットがあり、そこには双識が愛用している『凶器』が隠してある。その『凶器』の拵えはいわゆる鋏の形を型取っているけれど、一目見ればその尋常でなさ加減は判然する。
正確に、しかも分かりやすく言うなら、ハンドル部分を手ごろな大きさの半月輪の形にした、鋼と鉄を鍛接させた両刃式の和式ナイフを二振り、螺子で可動式に固定した合わせ刃物――とでもいうのだろうか。親指輪のハンドルがついている方が下指輪のハンドルの方よりもブレード部がやや小振りだ。外装こそは確かに鋏であり、鋏と表現する他ないの
だけれど、その存在意義は人を殺す凶器だという以外には考えられない、学校の怪談に出てくるてけてけ[#「てけてけ」に傍点]がでも持っていそうな感じの化け物鋏である。刀鍛冶は(どうやらお遊ぴで作ったらしい)この変則的に誂えた刃物に型番号の数字的な名前しかつけなかったというので、双識自身はこの凶器を『自殺志願《マインドレンデル》』と呼んでいて、その名称自身、既に零崎双識を表す単語になっている。それほどまでに双識はこのへんてこな凶器を愛用していたが、しかしそれを安易に人前で自慢したりはしない。誤解されやすいが、極めて控えめで、相手を立て、自分は目立つのを嫌うというのが、零崎双識の性格だった。特技のコサックダンスだって、よほど気分が高潮したときにしか披露しないと決めている。その長い脚のことを思えば、これは驚異的なことである。
しかし少年が電車を降りて直後――双識は何の気もないような動作で、背広の裏側からその刃物を取り出した。しゃきん、と一度、鋏を開いては閉じた。
「やあ――どうやら待たせてしまったようで、悪かったね」
視線は向けないが、双識のその台詞は隣の車両から今正に移動してきた、一人の男に向けられていた。男も双識と同じく、背広にネクタイという極めて一般的な服装をしていたが――その両腕にはとても一般的とはいえない大口径の拳銃を構えていて、その銃口を双識に向けていた。
男は無表情に近く虚ろな目で、全体何を考えているのかはわからない――けれど双識はそんなことにはなから興味はないらしく、苦笑するように笑うだけだった。
「おいおい。お互いプロのプレイヤーだろう? そんな無枠な脅し道具はしまいたまえよ。時間の無駄という言葉を知っているかね?」
「零崎一賊[#「一賊」に傍点]の者だな」
男は言われるままにコルトをしまいながら、双識に対してそう問いかける。問うというより、それはただの確認作業のような言い草だった。拳銃に対して何の驚きも見せなかった双識が、その台詞に対しては大袈裟と言えるまでに反応し、初めて男の方に視線をやった。そこにいるのは今まで見たこともない、知らない男だった。
おかしい、と双識は思う。
零崎一賊であることを理由にねらわれないことはあっても[#「零崎一賊であることを理由にねらわれないことはあっても」に傍点]、零崎一賊であることを理由に狙われるなど[#「零崎一賊であることを理由に狙われるなど」に傍点]――考えとして成り立たない。それは理屈ではなく、零崎という名前はそもそもそういう意味[#「そういう意味」に傍点]だからだ。説明や解説が不要なほどに、それは双識にとって当たり前のことだった。
しかし。
もしも、そこに例外があるとするならば。
するならば[#「するならば」に傍点]。
「うふふ。これでも私は零崎の中でもとびっきりの変り種でね――いわば平穏主義者なんだよ。平和と正義を何よりも愛する、白い鳩のような男なのだ」
腰をシートから浮かし、ゆるやかにその身体を直立させる零崎双識。手足の長さが手伝って、鳩どころか巨大な蟷螂《かまきり》のような印象を受ける。くるくるくると、下指輪に指をかけ大鋏を回して見せた。拵えが間抜けなので威嚇効果は半分とないけれど、それでも男は構えるように一歩下がった。
「だからここで退いてくれるというのなら、私は今のことは忘れよう。君は私に出会わなかったし、私も君に出会わなかった。君は私を見つけられなかったし、私も君に見つからなかった。――何より、君は私に殺されないし、私は君を殺さない。命のことを考えれば、取引が成立する余地はあるんじゃないかと思うんだがね?」
「…………」
男は無言で、拳銃をしまったその反対側の内ポケットから、今度はナイフを取り出した。片方が蛤刃で反対側が薄刃という作りの古い感じの大振りな刃物、軽く振り下ろすだけで人間の頭蓋骨くらい砕いてしまいそうな印象。刃物が持つ独特の美しさが微塵も感じられない無骨な拵えだったが、無論、男はそんなものを必要としていないのだろう。問答無用で全身全霊、敵対心むき出しだった。どうやら双識の言葉は逆効果百パーセントだったらしい。
やれやれ、とばかりに双識は回転させていた鋏を止める。
「弟がすぐここら辺にいるというのにこんなことをしている場合ではないんだけれどね――ま、仕方ないってこともあるか」
双識は『自殺志願《マインドレンデル》』の刃先を二つを二つ、男に向けて突きつけて、笑みを消して見得を切る。
「――それでは零崎を始めよう」
[#地付き](柘植慈恩――合格)
[#改頁]
[#ここからゴシック]
第二回
あなた人を殺しました。
憎悪で、あるいは保身で。
怨恨で、あるいは愛情で。
欲望で、あるいは偶然で。
そこを背後から黒服の男が声をかけてきます。
「殺す前に時間を戻してあげましょうか?」
戻してくれ、殺人なんてまっぴらだ。
戻さないでくれ、こいつは殺されて当然だ。
戻してくれ、もう一度殺したい。
[#ここでゴシック終わり]
男は計画で人を殺し女は突発で人を殺す。たとえそれがどんな突発であったとしても男が人を殺すときはどこか計画的であり、さんざ計画を練った結果の行為であったとしても女が人を殺すときはどこか突発的なものだ。そんな馬鹿みたいに幼稚な偏見に満ちた仮説を、伊《い》織《おり》はこれっぱかしも信じちゃいなかったし、そもそもそんな仮説の存在自体を知らなかった。
なのに。
なんで。
「え。うそお。まじっすか。つーかこんなのアリ? どうすりゃいいんですか、わたくし」
野球のことを『筋書きのないドラマ』と表現することがあるのを、聞いたことかある。先の展開が全く読めない、何が起こるか分からない、脚本のないアドリブ劇。成程言いえて妙だと思う一方で、しかし伊織は思わなくもない。
筋書きのないドラマ。
面白いのかよ、それは。
女子高校生・伊織は生まれて初めて人生における危機というものに直面していた。という表現はあまり正確ではなく状況をより客観的に正しく申告するなら、後方から追われるように危機に迫られていた。振り返ってみればいつもそうで、これまで十七年の伊織の人生は常に、今そこにある危機から逃げるだけのものだった。それはいうなら体育の授業でやるバスケットボールみたいなもので、他のみんなにしてみればボールを奪い合いゴールを目指すことか目的のスポーツなのだろうけれど、伊織にしてみればあまねく球技とはボールのこないところに逃げるのが目的のゲームだった。バレーボールでもソフトボールでも、たとえ玉入れであったとしても、最後までボールに触らずに済めば、それが伊織の勝ちだ。何に対しての勝利なのかは判然としないけれど。
追跡されている、というイメージ。
逃げている、というヴィジョン。
色合いとしては後者の方が強いが、そんなものは追いつかれてしまえば同じことだ。終わりはいつだって唐突なもの。時計の電池が切れるように――というよりは落雷によってブレーカーが落ちたかのように、唐突に、筋書きも粗筋も何もなく。
「なんていうかこう……人生終了ーって感じなんですけど。こんなものなんですか?」
思えばそういう感覚はずっと昔からあった。子供の頃から。予感というのでもなく経験論というのでもなく、ただの確信として、『自分はどこにも到達できないんだろうなー』と、漠然と思っていた。小学生のとき『しょうらいのゆめ』というタイトルで作文を書かされたとき、伊織は『ケーキ屋さんになりたいです。それか無理だったら看護婦さんになりたいです』たり何だり、原稿用紙二枚分夢を語ったけれど、勿論伊織はケーキ屋さんにも看護婦さんにもなれるとは思っていなかった(実をいうとなりたいとも思っていなかった。その作文は姉が昔書いたものを模写しただけだ。何、作文で大切なのは独創よりもアレンジである)。この前の中間試験、内の四科目で満点を取り、教員から『伊織ちゃんはこの高校で八本の指に入る逸材だ。この分ならどこの大学にだって入れるよ』と褒められたときも、なんたそりゃタコが数えたのかよと思っただけで、実際、自分が入れるような大学があるとは思えなかった。今朝、学校に向けて家を出る前に新聞を読んだとき、その一面を飾っている記事を読んだとき、妙に共感を覚えたものだった。それは、伊織の通う高校のそばを走っている路線の電車内で、沢岸徳彦《さわぎしとくひこ》という二十七歳の男が殺されているのが見つかったという記事内容。鋭利な刃物でこれ以上ないくらいにずたずたに切り裂かれていたのだという。その記事を読んたとき、沢岸という人間を伊織は全然知らないし、もし彼が殺されなかったところで多分一生関わることもなかった人なのだろうけれど、だから何一つ接点などないのだけれど、それでも伊織はこの殺された二十七歳の男に共感に似たものを憶えた。自分もこの片田舎の電車の中で何の味付けもなく殺されたこの男のように、どこにも辿り着けないままずうっと片道切符なんだろうなー、と。
決してどこにも辿り着けない。
ゴールのないマラソン。
終わりのない中途。
それは底なし沼に素潜りをやっているようなもので、息が続かなくなれば余力か残っていたところでそこで終わりだ。
「でもー。うー、こんなのわたしに責任なんかないっすよ。勘弁して欲しいっす」
現在時刻は午後四時二十分。
放課後、学校帰り(帰宅部)。
場所は高架下、数分おきにがたんごとん[#「がたんごとん」に傍点]と、電車の通り過ぎる不愉快な音か響く。人気は全然ない、都会のエアポケットならぬ田舎のラグランジュポイント。伊織はそんな状況で、一人、ただ一人で佇んでいた。
目前に一つ、男子高校生の死体を置いて。
「――ていうかマズいっすよ、こんなの」
喉からバタフライナイフを生やしているこの学生服の男は、確か伊織のクラスメイトだったはずだ。けれどどうにも印象が薄かった。伊織にとって『クラスメイト』とは『机を並べて同じ部屋で勉強する同世代の人間』以上の意味を持たない。つまりいくらでも入れ替わりがきく存在であって、そして実際に一年ごとに入れ替わっていく存在であって、ゆえにいちいち名前など憶えていない。そんなことを憶えていたところでどうせどこかに辿り着けるわけじゃない。
仕方なしに伊織は恐る恐る、自分の制服の袖に血がつかないよう気をつけなから(まあ、制服って高いしね)、男の着ている学生服の胸ポケットに手をやり、中から生徒手帳を取り出した。そこには写真やら住所やら様々なデータに混ざって『夏《か》河靖道《がわやすみち》』という名前が記されていた。そうそう、思い出した。ニックネームはやすちー。ごつい外観の割に可愛らしいその愛称を、言われてみれば耳にしたことがある。
「――で、やすちーは何故こんなところで死んでいるのでしょうか? それが問題です」
それは確かに一種の問題ではあったが、解答は考えるまでもなく明瞭だった。他ならぬ伊織自身がバタフライナイフを、靖道の喉笛につき立てたのである。この場合、その解答のどこに対しても叙述トリックの入り込む余地はない。制服の袖が汚れる心配などするまでもなく、返り血で制服はベットベトだったし、この両手に手ごたえはしっかりと残っていた。
「――仕留めちゃいましたよ、わたし」
いつも通り家に帰ろうとしたところで靖道に声をかけられ、言われるがままに彼の後ろをついてきたらいつの間にかこんな人気のないところに連れてこられていて、おうおうひょっとして愛の告白でもするつもりかい? 青春だねえ若いねえとか思ってたら、いきなりわけのわからないことを不明瞭な口調でわめきなから、靖道がバタフライナイフを伊織に向けたのだ。しかしそのときですら伊織はまだ『危機』にせきたてられていると意識することはなく、うわちゃっちいナイフ、と思っただけだった。ヘイヘイ、そんな肥後守みたいなナイフで人間が殺せるのかよ、皮膚は切れても肉は切れないんじゃないのーとか、そんな適当な感想を抱いていると、靖道はその刃先を伊織の心臓に目掛けて突進してきた。その後のことはよく憶えていない。はっきりしているのは、伊織は靖道からナイフを奪い、逆にその刃を相手の喉につきたてたという事実だけだ。
「あーあ。やっちゃったよ」
犯人、わたし。
一瞬で終わる絵解きだった。
どうやら、マジらしい。
これではまるで火曜サスペンスドラマの犯人役だ。となるとあれだろうか、この場面を誰かが陰から覗いていて、後から脅迫行為を受けたりするのたろうか? それで二回目の殺人を犯しちゃったりなんかするのだろうか? ああ、それとも刑事コロンボの犯人のように(確か、衝動的に人を殺してしまう女優の話かあったはずだ)、何とかこの犯罪を隠そうと試みるか? いやいや、考えてみればそもそもこれは法律的には正当防衛ということになるのかもしれない。靖道が先にナイフを向けてきたのだから誰に憚ることなくそのはずだ。正当防衛万歳。ビバ! けど正当防衛って殺しちゃってもいいんだっけ? 確かよかったはずだと思う、それもドラマの知識だけど。けどドラマとしてもあんまり王道過ぎやしないかい? 神様よ。筋書きのないドラマにも程ってものがないですか? また十七歳がどうとか騒がれちゃうんじゃないですか?
「………………」
――しかし、そういう問題じゃないという気もする。『夏河靖道《クラスメイト》』くんには悪いけれど、重要なのは殺してしまった、それ自体じゃない。なんとなく今まで伊織が逃げていたもの――バスケットボールのように忌避していたものに触ってしまったこと[#「触ってしまったこと」に傍点]、重要な問題点はそれだ。逃げ回っている内は伊織は無事だったけれど、一度でもそれに触れてしまえば、その時点で敗北だった。
ぎりぎりで保っていたものが決壊した。
そんな感じ。
「うー。それもこれもやすちーがいきなり襲ってきたりするからだよう」
人のせいにしてみた。
しかしそれは偽ることなく本音だった。思えば教室で伊織に声をかけてきた段階から既に、この靖道はおかしかった。どちらかといえば活発なテンション系のこの靖道なのに、目が虚ろな感じで、声だってこちらを向いてはいなかった。何か変だなーおかしいなーとは思ったけれど、しかしそれだけの理由からクラスメイトがナイフで襲ってくるなんて予想できるほど、伊織は常人離れしていない。
「けど……おかしいな。こんなこと、わたしにできるわけないじゃないのん」
語尾を可愛くしてみたが意味はなかった。
相手から刃物を奪って逆に突き返す。言葉にすれば簡単だけれど、それは体格のいい体育会系の男の子を相手どってひ弱でか弱く愛らしい女の子(自己申告)のできる業じゃない。『奇跡のような偶然がいくつも重なったのだ』という魔法の一文を使うことも、この場合は許されない。伊織は思った通りイメージ通りに靖道から刃物を奪ったし、思ったままにイメージのままに靖道に刃物を突き返した。予想外のことなんて何もなかった。無論伊織は、バスケットボールの例え話からも分かるように、体育は苦手だったし、格闘技なんかには全く興味はない、子供の頃を含めても友達との喧嘩が口喧嘩以上に発展したこともない。なのに、まるで聞き飽きたCDでもリピート再生しているかのように、決まった手順を踏んだだけのように、靖道に対しては身体が動いた。起立、気をつけ、礼、着席、みたいな。
「少年漫画のヒーローみたいに命の危機に直面して『眠っていた才能が目覚めた』とか、そんな感じですか? なんだかなあ……ひょっとしてわたし、ヒトゴロシの才能とか持ってたりしたのかなあ。あはは」
笑ってみても誤魔化せない。
とにかくこういうことになっちゃった以上は仕方がない、自首しよう。未成年だし、自首すれば少しは罪が軽くなるはずだ。おっと、その前に家族に相談した方かいいかな? いきなり末娘が逮捕されたなんて話を第三者から聞かされたら大袈裟でなく死ぬほど驚くことだろう、それはいくらなんでも悪い。いや、自分でやったことの責任は自分で取らないと駄目かな? そんなことを迷いながら、とりあえずこの場を離れようと(自分で殺しといてなんだけど、知り合いの死体なんてあんま見てたくないし)、くるりと身体を反転させたところで、伊織は『ぎょっ』とすることになる。
まるで伊織や靖道が来るずっと前からそこに立っていたかのような当たり前の存在感をもって、コンクリートの壁に身体を半ば任せた形で、一人の男がこちらを見ていた。日本人離れした背の高さ、しかしかなりの痩せ身で大柄という感じではない。身長のことを差し引いても尚異常なくらいに手足が長い。背広にネクタイ、オールバック、銀縁の眼鏡、しかしそんな当たり前のファッションが驚くほどに似合わない。なんだか、まるで針金細工みたいなシルエットである。
目撃された、と伊織は身構える。通報されては自首にならない、刑が重くなる(自己保身)。なんだよこいつは、なんで堂々と見てるんだよ、見るんならちゃんとセオリー通りに陰からこっそり覗いていろよ。いや待てよ、最初から見ていたんだとしたら、伊織が悪くないことだって分かってくれているはず。脅迫行為は成立しない、それどころか証人になってくれる。いやいや最初から見ていたとは限らない。伊織がナイフを奪ったその瞬間からを目撃していたという最悪のケースもありえる。
しかしそんな当たり前の計算を立てている頭の片隅で――というよりそちらこそか片隅で、伊織は感覚の中心で何だか『奇妙』を憶えていた。
あれ。
あれあれ。
この人、この人って、どこかで会ったこと、なかったっけか――
「――君は」
針金細工は何の前口上も抜きで、伊織に向かっていう。特に何の感情も窺えない感じの声色だ。
「君は今、酷く正しいことをいった。まるで釈迦のようだね」
「――え、ええ?」一歩下がりながら答える伊織。まるで釈迦のようって。とんでもねえ挨拶があったものだ。「な、何がでしょう?」
「しかしその正しさに最大限の敬意を表しながらも一つだけ間違いを指摘するならば、『才能』ではなく『性質』と表現するべきだっただろうね。『才能』と『性質』、前者は育てあげるものであり後者は抑えつけるものであるという歴然たる違いを無視してはいけない。とはいえケアレスミスはよくあることだ、気に病むことはない」
「――な、何を言っているでげす?」
混乱のあまり言葉が変になった。
そんな伊織を無視する形で針金細工は脚を運び、伊織の横を通り過ぎて、倒れ伏している夏河靖道の身体の横にしゃがみ込む。そして「うふふ」と不気味な感じに笑った。
「喉を一突きか……うん、見事な手際だ。見事過ぎる。見事過ぎて少々マイナスだな、これは。完全というのは存在してみると案外味気ないもんだよね、個性というものに欠けている。結局個性というのは何が欠けているかということだしな。個性なんて幻想だけどね、しかし幻想がないとつまらない。ところで――えっと、名前はなんでしたっけね? お嬢さん」
「えっ? あ、な、名前は伊織です。苗字は――」
「ああ、苗字は別にどうでもいいんだ、訊きたかったのは下の名前だけ。ふん、伊織ね。宮本武蔵の養子と同じ名前か、羨ましい限りだね。そんな崇高な名の持ち主には初めて会ったよ」
「いや、そりゃ初めましてですけど……」
「そう、初めましてだ。前提となる大事な命題はこれから一体何が始まり何を始めることになるのかということなんだけれどね」
そして何を思ったか、針金細工はバタフライナイフの柄を持って、ナイフをぐい[#「ぐい」に傍点]と引き抜いた。栓が抜けた形になって、どぷ、と赤黒い血が流れ出る。益々死体感が[#「死体感が」に傍点]増した感じで、思わず伊織は目を逸らした。
「こんなおもちゃみたいなナイフでよくもまあ人を死に至らしめたものだね。驚き驚き。見ろよ、ブレードが欠けてしまっている。それも骨に当たってじゃない、筋肉の途中でもうやられているぜ。西洋風のナイフはこれだから好かん。何せ衝撃に弱すぎる」血まみれのナイフを伊織に見せる針金細工。伊織はやはり、目を逸らす。針金細工はそんな伊織の様子に、不可思議そうに首を傾げる。「ん? ああ、ひょっとして伊織ちゃん、君は人を殺したのは初めてなのかな?」
「え……ええ? どういう意味です?」
「つまり伊織ちゃんは日常的な習慣として殺人行為を日々営んでいないのかということだよ」
「そ、そんなの当たり前じゃないですかっ!」
「当たり前にやっている?」
「当たり前にやってませんっ!」
「そうか。やはりそうか」針金細工は頷いてから、『当たり前』ね、とつまらなそうに呟く。
「ならば比喩は釈迦で正しかったわけだ。何が何にせよ初体験は緊張するものだからね、でもそんな気にすることはないよ。私の初体験はいつだったかな……初体験の年齢を憶えているようじゃまだまだひよっこだがね」
「あ。あのあのあの」伊織は全力で焦ってきた。やばい。やばい。やばい。やば過ぎる。こいつは変人だ。「あなたの話はとっても面白いんでできればずっと聞いていたいところなんですけれど、わたくし、これから警察なんぞに行こうかと思ってるんで……勿論一人で続けててくださって結構ですんで、もう行っちゃってもいいですか?」
「警察? 何をしに?」
本気で理解不能を示しながら、針金細工は立ち上がる。近くで見れば、決して背の低い方じゃない伊織よりも子供一人分くらい背が高い。国語の授業で習った『天を突くような』という比喩を思い出した。連想的に『篠突くような』という比喩も思い出したが、それは関係がなかった。
「おいおい伊織ちゃん。おいおいおいおい伊織ちゃん。ちょいとお待ちよ。まさかとは思いこんな質問をする自分が馬鹿に見られないかどうか不安でたまらず脚が震えている感じなんだけど、伊織ちゃん、自首をしようなんて思っちゃいないだろうね?」
「いや、しますよ、するに決まってるじゃないですか」ばたばたと胸の前で手を振る伊織。
「おばかな推理小説じゃあるまいし、こんな犯罪を隠しきれるわけないじゃないですか。どこから見てらしたか知りませんけど先に襲ってきたのはやすちーで、こちらには十分釈明の余地があるんですから」
「思いとどまることを薦めるよ。警察に行ったところで、きみは警官を殺すだけだからな」はっきりと、妙にはっきりと、針金細工はいった。「それから家族や友人、学校の先生なんかに相談するのも控えなさい。家族や友人を殺したくはないだろう? 学校の先生については色々意見があるだろうから私は言葉を控えるけれどね。伊織ちゃんはもう踏み外してしまった[#「もう踏み外してしまった」に傍点]んだから、人と会えば人を殺すことしか考えられない」
「そんな……人を殺人狂みたいにいわないでくださいよう」
「いやいや、君は間違いなく殺人狂だよ」断言された。「生まれたてのほやほや[#「生まれたてのほやほや」に傍点]ではあるがね。ここまで凶悪な感覚、てっきり弟の気配だと思ってきてみたんだが……やれやれ。ここ[#「ここ」に傍点]は外れ[#「外れ」に傍点]だったか。困ったもんだね、うふふ。これは本当に意外だよ、意外。まるで潰れかけの遊園地みたいな有様じゃないか。どうするんだよ私は」
万歳をするように両手をあげて、針金細工はあちらを向いてしまう。「あーあ。タイムテーブルに星一徹という感じだね、全く。うふ、うふふ」と伊織には意味不明の比喩を口にしながら、死体の周りをうろうろと歩き回る。何やら考え事をしているらしい。
「………………」
真似をするわけではないが、伊織も考え事をしてみることにした。まずは今の状況だ。不躾にも自分のことを殺人狂呼ばわりした(まあ、違わないけど、ちょっと違うと思う)この針金細工みたいな男を、一体どうするべきなのか。間違っても営業回り中のサラリーマンという感じではない。死体を前に平然としているところも異常だ(人のことはいえないけど)。警察に通報しようとは思わないのだろうか(通報されたら困るけど)。
「うーん。ま、いーか」気楽な感じで肩をすくめ、軽快っぽい動きで靴の踵を滑らし伊織の五センチ前まで寄ってきた。随分とまあ馴れ馴れしい距離だ。「ちなみに彼を殺したことなら気にする必要などないよ。それは彼の方に非があることなんだから」
「あ……やすちーが襲ってきたところ、見ててくれたんですか?」
よかったよかった、ならば安心だ。そう思い自然顔が綻んだ伊織に対して、無情にも針金細工は「いいや」と首を振る。
「特に何も見てはいない、見ているのは今のこうした結果だけだ。だからここで伊織ちゃんに一つ質問するんだけれどね……この彼氏、何か変なことを言っていなかったかい?」
「え、えーと。そういえば何かわけわかんないことを喚いていたかもですけれど。なんだったっけ」よく憶えていない。何だっけ。「そうそう、犬神家の一族は読んでいるかとかどーとか」
「オーケーオーケー、ベリーオッケー。どうも君の記憶力は随分と不良品で頼りなさそうだけれど、それだけ訊けば私から見て十分だよ」
うんうんと、納得いった風に頷く針金細工。しかしそこで首を傾げるようにし、眉を寄せて悩んでいるような表情を見せた。
「んー。ところで誤解をされていると困るんだけれど、伊織ちゃん。私は別に喪黒福造とかじゃないからね。ここから先に『ヨウスケの奇妙な世界』みたいな展開を期待しているんならそれは放棄してもらえないかな」
「は?」
「つまり私は限界状況に近い苦境に立ってしまった君に対してなんらかの救いをもたらしにきたわけでもないし、君の言うところの『ヒトゴロシの才能』とやらを開花させにきたわけでもないといいたいんだよ。鋏こそ持っているか私は弓矢なんてものは持ち合わせがなくてね。私をそこまで特殊な人間と思ってもらっちゃ困る」
「はあ……?」
「うん? 比喩が通じていないかな? 不可思議そうな顔だね。うふふ、『とある人物』の影響でね、私は漫画をよく読むんだよ。ちょっとしたマニアかな。本当をいうと歴史マニアなんだか、そっちの例だと余計に意味が通じないだろう? 私としては若者とコミュニケーションをとるために最大限の努力をしているつもりなんだけれど、その辺を汲んでくれないかな?」
努力は買うが無駄な努力だと思った。
つーか若者なめんな。
「さすがに最近の流行りじゃないみたいだけど、貧困家庭の事情やら悪い仲間にそそのかされたやら若さゆえの出来心やら、あるいは正当防衛やら怨恨やらの理由でしょうもない[#「しょうもない」に傍点]悪事を犯してしまった若いブロンドの少女に、どこにいたのか背後からスーツ姿の男か声をかけ、暗黒世界の裏街道に引き込んでしまう[#「引き込んでしまう」に傍点]というお話は外国産の古い映画《フィルム》でお馴染みだよね。別にブロンドの少女である必要はないし背後から声をかける必要もないと思うのだけど、しかし私はそのエージェントたる彼らを真似るつもりは毛頭ない。その証拠にちゃんと、君か振り向くまで声を潜めて待っていただろう? 自分の人生の転機には何者かが現れてくれるはずだ――なんて考えは傲慢を通り過ぎて滑稽なものだよ。君を導いてくれる者などこの私と全く同様に世界に無在だ。何故というなら君はもうどこにも辿り着けないのだから」
「辿り着けない――」
「最初から何かを諦めていた節のある君の場合は元よりどこにも辿り着く気なんかなかったのだろうけどね」
断定的な、その上でとにかく人の神経を逆なでするような喋り方をする男だ。しかし言いたいことは分かった。確かに人生の苦境にたったところで都合よく自分を助けてくれるヒーロー(それか光向きであれ闇向きであれ)の登場を望まなかったわけではないけれど、それはいくらなんでもご都合主義だ。救いをもたらしてくれる天使にも願いを叶えてくれる悪魔にも、そう簡単には出会えやしない。だから「そうですね」と、伊織は答えた。
「仕方ないですよねー。やすちーを殺したことに関しちゃ、全面的にわたしか悪いんですから」
「……いいや[#「いいや」に傍点]、だから君は悪くない[#「君は悪くない」に傍点]」
また否定された。しかも、今度の否定はかなり重い。反論を許さないほどの重力を持って、針金細工は断言したのだった。
「先も言ったよう[#「先も言ったよう」に傍点]、この場合悪いのは[#「この場合悪いのは」に傍点]……君の言うところのやすちーだ[#「君の言うところのやすちーだ」に傍点]」
ここで伊織は再度『ぎょっ』とすることになる。針金細工がその背広の下から何の前触れもなく巨大な鋏のような[#「ような」に傍点]ものを取り出したのだ。それは外装こそ鋏に見えるが、しかしそれは他に表現の手法がないからであって、だからかろうじて『鋏のようなもの』ではあるものの、実態全然鋏ではない。これに比べてしまえば先のバタフライナイフなど確かにおもちゃでしかないだろう。けれどそれ以上に『ぎょっ』としたのは――針金細工のその背後に。
首から血を濁々《だくだく》と流した夏河靖道が立ち上がって、虚ろな目でこちらを眺めていたことだ。
「や、やすちー……」
「その通りのご名答、やすちーが悪い[#「やすちーが悪い」に傍点]」巨大な鋏を指先でくるくると回しながら、針金細工はうふふと笑う。「首元をナイフでえぐられ致命傷を負い[#「首元をナイフでえぐられ致命傷を負い」に傍点]、今正に死に至らんとする過程にありながら尚[#「今正に死に至らんとする過程にありながら尚」に傍点]、立ち上がって対象を殺さんとするその概念[#「立ち上がって対象を殺さんとするその概念」に傍点]――それが間違った『悪』でなくてなんだというのか? 君は『悪』といって『悪』といえないほどにどうしようもない――……電車で会った彼と全く同じだな。同情はするが容赦はせんよ」
大量の血が既に流れ出てしまっているためなのか、妙に青白い、先ほどよりもずっと死体感の増している靖道に、そんな声をかける針金細工。どうして、と伊織の方も青ざめる。生きていられるはずがない。これ以上ないくらいに致命傷なのに。彼はもう生きているのではなく、死に終わっていく[#「死に終わっていく」に傍点]途中であるはずというのに。
「――やすちー君。君は『不合格』だ。もうまるでさっぱり見込みがない」
鋏がきらりときらめいた。きらめいたように見えただけでも、それは奇跡的だったろう。先ほどまで伸ばした右手の先で回転していたはずのそれが、いつの間にか左手に移って回転している。と、途端、靖道の首から伊織の造った傷口が消えた。より正確にいうならば、傷口ごとまとめて[#「傷口ごとまとめて」に傍点]首自体が消えた。
夏河靖道の身体と頭部は――切断されていた。
先に頭が地面に落ちて、西瓜でも落したかのような空っぽの音がして、そこにかぶさるように身体が倒れた。今度こそもう二度と起きあがることはないだろうと、それは伊織の混乱した頭でも理解できた。
混乱した頭。
否――それは違う。
混乱しているのでは、ない。
ぞくぞくぞく[#「ぞくぞくぞく」に傍点]、と。ざわざわざわ[#「ざわざわざわ」に傍点]と。
興奮――していた。
目の前にいるのは人間の頚部を振り向きすらもせずに断割した男だというのに――その行為に対して感動[#「感動」に傍点]にも似た気持ちを感じている自分が、ここにいた。今の動き、今の業。アレに比べれば伊織が靖道の喉を刺したときの動作など、子供のお遊戯もいいところだ。何が思い通り、何がイメージ通りだ。あんなの、ただ滅茶苦茶に無様、ただ足掻いているだけだった。
「――私は零崎双識という」
ようやく、針金細工は名乗りをあげる。
「伊織ちゃん」
「は、はいっ!」
思わず姿勢を正した。
頭の先から足の小指までの密度で緊張してしまう。自分はとんでもなく誤解をしていた。少なくともこの男は、いやさこの人は、ただの変人なんかじゃありえない。伊織なんかよりずっと、遥か高みにいる人間だ。よく見ればかなり綺麗な顔立ちをしていることにも気付く。眼鏡の奥の細い目が、これ以上ないくらいに魅力的に思えてきた。そうだ、この人は変人なんかじゃなくて――
「私の妹にならないかい?」
「…………」
変態だった。
◆ ◆
人を殺してしまうという人生で初めての危機に続いて早くも第二のピンチを迎えている伊織のそんな様子を、遠く離れた場所から観察する影かあった。伊織自身の言葉をかりれば、それこそその状況を『陰からこっそりと覗いて』いるその影の数は、数えて二つ。
【ふうんふうん――ふうん】【どういうことでどういう感じだかしんねーですけど、何か二人、いますね】【これは一体どういうことでしょうね?】
【……………】
【どっちも零崎なんでしょうかな?】【状況から判断すればどうもどうやらでそうみたいですけど】【――しかし女の零崎ってのは珍しいですね】【少なくともこの僕は初めて見る感じですよ】
【……ニット帽の娘は曖昧不然だが】【のっぽの背広は、恐らくは自殺志願、マインドレンデルと推定する】【あの大鋏にあの身のこなし、間違えようにも間違えようがない】
【……ってーことは彼、零崎双識?】【うっひゃあ、こいつは全く参ったね】【参りましちゃってますね、どうも】【マインドレンデルっていやあ、通称『二十人目の地獄』、零崎一賊の特攻隊長じゃないですか】【とんでもない大物がかかっちゃった[#「かかっちゃった」に傍点]ものですね、こりゃこりゃ】
【……おまけ[#「おまけ」に傍点]にもう一人、わけの分からん不然がいる――か】【奇妙な……これはついているのかついていないのか[#「ついているのかついていないのか」に傍点]――】
おどけるような態度の片方の影に対し、もう片方の影は真剣そうな面持ちを崩さない。どうやらこの二つの影、性格はかなり対照的であるらしい。けれどその視線の向かう先だけは、変わることなく同一だった。
まるでぶつ切れのその会話は淡々と続く。
【……で】【これからどうしますかね?】【――兄さん】【雑魚ォ消費しての様子見はもうそろそろいいでしょう、あんま目立ってもまずいわけですし】
【その意見は正しい――しかし】
【そうですね――確かにもう結構目立っちゃってますけど】【本当加減ってもんがないですねー、零崎は】【おっそろしいですね、正しく恐怖、時も場所も場合すらも、何一つとして考慮外ですか】
【確かに】【零崎には噂通り身内以外に向ける容赦というものが絶無らしい】【ならば俺は今からもう一度『あの人[#「あの人」に傍点]』のところに行ってくることにしよう】【敵が『二十人目の地獄』とくれば、最悪俺達の手に余る場合もある】
【最悪ねえ――相も変わらず用心深いですね】【くすくす】【それでは最悪なんて知ったことじゃない僕といたしましては、お先にちょっかいかけてくることにしますよ】
【ああ】【好きにしろ、自由を許可する】【貴様の好きなように、薙いでこい】
同時に影が消えた。
[#地付き](沢岸徳彦――――不合格)
[#地付き](夏河清道――――不合格)
[#改頁]
[#ここからゴシック]
第三回
罪深い者は慎み深くあれ。
[#ここでゴシック終わり]
地球の環境問題を語るときによく使われる一文として『壊すのは簡単だけれど作るのは難しい』というようなものがある。軍事大国が持つ核を全て運用すれば地球上から森林という森林を消すことくらい容易だけれど、その消してしまった森林を再度構築するのには莫大な時間がかかる――という意味だ。
けれどどうなのだろうか?
本当に壊すのは簡単なのだろうか?
核爆弾を作るのにだって人間は莫大な時間をかけてきた、などという屁理屈を抜きにしても、真実、今まで営々と築き上げてきた地球というこの星を、本気でそこまで積極的に破壊しようという試みを持つことは、とても難しいことではないだろうか。破壊願望をある一定量以上に持つことは、破壊願望を全く侍たないことと同じくらいに難しいものなのだ。
同じことが人生にもいえる。
生きるのは難しいけれど死ぬのは簡単だ――などとは、双識は決して思わない。そして、たかだか人を一人殺してしまったくらいで、人間の人生が『終わり』だとも考えない。『終わり』というのはもっと決定的で、もっと致命的なものだ。少なくとも双識はそう定義する。自殺しない人間は自殺する勇気のない人間――そんな自殺賛美の思想に対して真っ向から異を唱えている双識ではあったが、その考えの存在を認めないほどに狭量でもなかった。
さておき。
夏河靖道の首斬り死体を前に、零崎双識はただ一人で佇んでいた。鋏はもう血振りを済ませて、背広の中へと戻したようだ。
「――しかし、やれやれだ。誘い方がいささかまずかったのかな。最近の若い子は純情というのか鈍感というのか――とにかく反省せねば。反省、反省」
双識は苦笑して、自分の右手をさする。よく見ればその手の甲には血痕が認められた。夏河靖道の返り血――ではない。あんな死にかけを相手に返り血を浴びるほど、双識の腕は未熟ではなかった。
「…………」
けれど今の状況を誰かに見られれば『腕が未熟』と思われても仕方がないだろう。これ[#「これ」に傍点]は返り血どころではない[#「返り血どころではない」に傍点]のだから。
「――赤、か」
自分の血の色[#「自分の血の色」に傍点]を見るのは本当に久しぶりの経験だった――それがあんな小娘相手[#「あんな小娘相手」に傍点]にとなれば、もう初めての体験だと言ってもいい。
彼女は丸腰だった。しかし、だから油断していたというのではない。彼女の爪が必要以上に長かったことは(少なくともそれが『武器』として使えるくらいに長かったことくらいは)ちゃんと認識していたし、それでなくとも決して彼女を軽く見ていたつもりはない。しかし、それにもかかわらず、彼女は双識の右手に爪を食い込ませ、こちらが怯んだ隙に、双識からの逃走に成功したのだった。
「逃げられちまったカーしかししかし、ありゃあとんだじゃじゃ馬だな。本当に弟を思い出させてくれるよ。あるいは若き日の零崎双識を、ね」手の甲の傷にバンドエイドを貼りながら、咳く双識。「さてさて、この先は一体どうしたものなんだろうな? どうも本当に伊織ちゃん、目覚めた[#「目覚めた」に傍点]のはマジについさっきってところだったみたいだし――放置しておくのも心配だね。心配というより危険だな」
しかし今現在の双識の『任務』は弟を探し連れ戻すことであって、未知数の不確定要素を相手に時間を取られている暇など本来ない。だからといってどうしたものか。弟の方は放っておいてもそれほどの危険はないだろう。あいつはなんだかんだいって芯のところでしっかりしているし、自制も利く。人を殺したところで精々十人単位だ、それを越えることはない。しかし、あのニット帽の女子高生と来たら――
「ただの殺人狂ならば放置してもいいのかもしれないが――手ぶらでこの私からの逃走に成功するとは、もうただの殺人狂とはいえない――殺人鬼だ」
双識の眼が鋭く光る。
「――あの調子じゃ何百人何千人死ぬことになるか分からない。何も分かっていない子供の前に核ミサイルの発射ボタンをずらり一覧並べたようなものだ。最悪、この街が地図から消えることになりかねん」
双識は心底面倒くさそうに、眩く。その口調とは裏腹に、別に街が一つ二つ消えようがどうしようがそれほど気にしないというような表情で、呟く。そんなことよりももっと大事なことがあると言わんばかりに、呟く。
「そして私としても個人的に気になるしな。このやすちー君といい、電車の彼といい。何か酷く落ち着かない。『奇妙』だよ。知らぬ間に知らぬ舞台に立たされているのはよくあることだが、ふむ――そうだな、そうするか。未知数の不確定要素を先に消しておいた方が、精神衛生上よくはあるんだろうし――」
そこで台詞を止める。
そして双識は、再度、背広の内から『自殺志願《マインドレンデル》』をすうっ[#「すうっ」に傍点]と取り出した。
「――どちらにしろ選択権はないようだ」
薄く笑って、靖道の死体から逆に向く。
そこにはぞろぞろ[#「ぞろぞろ」に傍点]と――ぞろぞろぞろ[#「ぞろぞろぞろ」に傍点]と、人が集まってきていた。死体にひかれて騒ぎに気付いて集まってきた野次馬連中――ではない[#「ではない」に傍点]。
その数は五人。
否、一人、背の低い小学生くらいの少女が、五人の陰に隠れて一人。合計で男女三人ずつの六人――全員、虚ろな感じの目をしている。少女を除いた五人にしても、統一感は全くない。壮年の男に金髪の若者、スポ−ツマン風の青年。若いOLの隣には主婦のような中年女性。少なくともこの六人、友達同士といった感じではない。共通の趣味や話題を探す方が難しいだろう。六人はさっと散開して、双識を取り囲むようにした。
「零崎一賊の者だな[#「零崎一賊の者だな」に傍点]?」
全員が声を揃えていった。
不気味だった。
そしてそれぞれに、日常からは考えられないほど危険な凶器を双識に晒す。小学生の少女でさえ、明らかに法律の外側で作られた風のスタンガンを構えていた。
「――おやおや。これ以上ないくらいにおやおやだよ、これは」双識はうんざりしたように、軽く首を振る。「なんだかな――確かに私は美形だけれど、老若男女問わずにモテるほどの色男だったとは、ついぞ知らなかったよ。こいつは認識を改めなくてはね」
場をなごませるための冗句も六人相手には通じない。冗句自体が寒いということもあるが、それだけではなさそうだ。じりじりと、敵は距離を詰めてくる。零崎は冗句を外したことも六人が近づいて来ることも、大して気にする様子もなく、鋏を指先で回転させ続ける。
「……ん? だとすると、あの子の方にも追っ手が回っていると見るべきかもしれないね?」
しゃきん、と刃を鳴らした。
それは先ほどと同様、本当に面倒くさそうな仕草だったけれど、しかしその面倒くさそうさ加減[#「面倒くさそうさ加減」に傍点]は、『零崎双識にとってこんなことは今まで百回も二百回も余裕でこなしてきた[#「こなしてきた」に傍点]ことでしかない』ということを如実に物語っていた。
「ならばならば、今回は和平交渉抜きだ。君達の試験は少しばかし急いで執り行うことにしようか、哀れな人形さん達」
[#画像=「image\人間試験3.jpg」]
逃げる。
逃げた。
伊織は自宅のマンションにまで辿り着いていた。無我夢中から我に返ったときには、オートロックの自動ドアを抜けてエレベータホール、肩で息をついているところだった。膝はがくがく頭はふらふら、今にも倒れ込みそうな有様だ。顔を起こしてあたりを見回してみるが、あの蟷螂みたいな変態男はいない。どうやらあの変態、追ってはこなかったようだ。
「さて――」
と。悩む。
第二の危機から逃げ切ったのはいいけれど、しかし問題の第一は何も解決していない。即ち、途中であんな変態が登場したせいで有耶無耶になりかけているが、伊織が靖道を刺したという事実はどうしたって消しようがないのだった。首を斬ることによってとどめをさしたのはあの針金細工なのだが、しかしそれで伊織が靖道の喉仏をぶっ刺した[#「ぶっ刺した」に傍点]という事実が消えてなくなったりはしない。
帰巣本能というのか、なんとなく家に戻ってきたものの、家族に対して、この制服についた返り血をどう説明したものか。やっぱり正直実直に話すほかないのだろうか。
ただいまの時刻は夜の七時過ぎ。
父親、母親、姉、兄、皆が総出でテレビを見ている頃合だ(巨人−阪神戦)。なんだか末っ子の帰りが遅いなーくらいの話をしているかもしれないが、然程気にしてはいないだろう。伊織の夜遊びはよくあることだったし、よっぽどの家庭でない限り、『むむ、末の娘の帰りが遅い。ひょっとしてどこかで同級生でも殺しているのでは!』なんて悩んだりはしないものだ。
「あー。みんな驚くだろうな――」
しかしどうにも緊迫感はない。
というか、相変らず、伊織は今に至っても尚、靖道を刺したことに対して、ほとんどの罪悪感を持っていなかった。とんでもないことをしてしまった、という感想すらもない。なんていうのか――それどころではないこと[#「それどころではないこと」に傍点]が自分に起こっているような気がしてならないのだ。人殺しなんてどうでもよくなってしまう[#「どうでもよくなってしまう」に傍点]ようなことが、自分と、自分の周囲に起きているような気がしてならないのだった。人殺しがどうでもいいことのはずがないのは、頭では分かっているというのに。
しかし夏河靖道のことよりも――あの針金細工のことの方が、心にかかって仕方がない。
「ええと 確か、葬式がどうとか……?」
その後のショックでよく覚えていない。
とにかく、その彼の台詞を思い出す。
『家族や友人、学校の先生なんかに相談するのも控えなさい。家族や友人を殺したくはないだろう?』
『伊織ちゃんはもう踏み外してしまった[#「踏み外してしまった」に傍点]んだから、人と会えば人を殺すことしか考えられない』
ぶんぶんぶん、と頭を振る。
馬鹿な。あんな変態男のいうことを真に受けてどうする。しかもあの変態は平気な顔をして靖道の首をおっ斬った(人のことは言えないって)。あんな凶悪な刃物(形状は間抜けだったが)を振るえばその程度の芸当、簡単なのかもしれないけれど――その簡単を簡単にやってのけることは、非常に難しいことだと思う。それは当たり前のことを当たり前にやるのがとても難しいのと同じだ。例えばバットを素振りする。簡単なことだ。けれど人の頭を目の前にバットを素振りすることはできるだろうか? 物理的には可能だ。心理的には不可能だ。やることは全く同じだというのに。
可能性イコール実現性ではない。完全犯罪の計画を立てたところで、それを実行するのには決断と勇気と度胸が必要だ。
あの針金細工は――しかし決断も勇気も度胸もなしで、どころか計画すらもなしで、ただの当たり前[#「当たり前」に傍点]のようにして、一人の人間の首を斬り落としてみせた。それは伊織が靖道の喉を刺したのとは、全く種類の違う殺人行為だった。
あれは多分、怖い人間だ。
とてもとても、怖い人間だ。
「――けど、他の人から見たら、わたしも彼も、そんな区別ないんだろうな」
人と会えば人を殺すことしか考えられない。
馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい言葉だ。
けれど、あまりにも当然のように発せられたこの針金細工の言葉には、伊織に対して妙なる説得力があった。
「…………」
とはいえこのまま家に戻らないというわけにもいかない。家族に会って安心したいというのもあるが、現実的な問題としてこの血のついた制服を着替えたい(気持ち悪いし臭いし目立つ)。
こっそり自分の部屋に戻って着替えるという手もあるが、しかしマンションの構造上それは不可能だ。玄関を開けて入るとそこがリビング、そこから廊下が延びて個室が三つ、というのが伊織のマンションの一セットである。つまりリビングを通らずに自分の部屋に行くことはできないのだ(伊織の部屋は一番奥で、しかも考えてみれば姉と相部屋だった)。
「――はあ」
悩んでいてもラチがあかない。
伊織がそう決断したのは、更に三十分ほど悩んでからのことだった。よく考えればこんな血染めの制服でうろうろ迷っているのは一番危険な選択肢である。今まで誰からも声がかからなかったのが不思議なくらいだ。
「よし。よしよしよし」
こうなったら出たとこ勝負だ。最終的にどんな結論がどう出るとしても――もうこれっきり家族と会えないなんてのはごめんだった。
あんな変態のいうことなんかよりも、家族からの自分への愛情、そして自分から家族への愛情を信じよう。
「…………」
――愛情。
その言葉がここまで現実的に、しかしここまでそら寒く響いたのは、初めての経験だった。
エレベータを呼び、中に乗り込んで、十階のボタンを押す。あっという間にエレベータは目的の階に到着した。気分を落ち着かせる暇などほとんどなかった。
しかしどう切り出したものか。
お父さんは怒るだろうなあお母さんとか絶対に泣くよなあお姉さんやお兄さんは学校で苛められることになるのかなあとか、適当に暢気なことを思いつつ、自宅の玄関前に。インターホンを押そうかと思ったけれど、改まったところで意味はないだろうと思いとどまる。
覚悟を決めて、鍵を差し込んだ。
好きです、お父さん、お母さん。
嫌いだけど好きです、お姉さん。
嫌いだけど嫌わないでください、お兄さん。
鍵をくるりと回す。
手ごたえはない――鍵がかかっていない。
「……ふうん?」
手ごたえはない? 鍵がかかっていない?
おかしい。変だ、違和感だ。マンションの入口がオートロックだからといって玄関を開け放すような習慣は我が家にはない。かけ忘れた――んじゃない。かけ忘れたりするものか。そんな忘れっぽい人間は、伊織を除いてこのドアの向こうには誰もいない。
そっとドアを開けた。
靴の数を数える――父親、母親、姉、兄。
いつも通り、間違いない。
間違いないんだけれど
「…………!」
伊織は飛び込むように室内に入り、靴を脱ぐのももどかしく、一足飛びでリビングに飛び込む。そこではいつもと同じ晩餐の光景が展開されていた。テーブルの上に並べられた食事――それを食している人間――その向こうにテレビ――チャンネルは巨人−阪神戦。スコアは零対零。現在、五回の表、阪神の攻撃。
いつもの晩餐と違うのは、食事を食べているのがたった一人で、しかもそれが伊織の知らない男だというただ二点だった。そしてその二点だけで十分過ぎるほど十分だ。
随分と若い感じの男だが、不思議と年齢を特定させない雰囲気がある。そして何というのだろうか――異様な格好をした男だった。いや、自分の家で知らない男が当たり前のように食事をしている時点で限界値を越えて異様なのだが、男のファッションはそれを更に斜め上に越えて異様だった。下半身には黒い袴に上半身には分厚い生地の稽古着――全体的には、これから剣道か合気道の演舞でも行いそうなスタイルである。女性的な顔立ちに和風の眼鏡、伸ばした黒髪を白い鉢巻で結んでいる――少なくともテレビや漫画の中でしか見たこのないような格好だ。
袴の男は伊織に興味なさそうに――というか気付いてすらいないかのように、巨人−阪神戦に見入っている。
ふと見れば、男の隣の席には長い棒のようなものが立てかけられていた。いや『ような』といって、伊織にはそれ[#「それ」に傍点]が何か一瞬で判断することができてはいた。けれどそれは、針金細工の持っていたあの大鋏ほどではないものの、剣道や合気道以上には伊織の日常からは乖離したモノであったので、最終的な決断を下すのには少し時間がかかった。
「………………」
あれは――薙刀だ。
それも大薙刀と呼ばれる、度を抜いて巨大な代物だった。
「……ん? んん? ああ。お帰りなさい」
男はようやく伊織を向いて、そういった。
「あ、ただいまです」
慌てて伊織は応えたが、しかしこんな変な男にただいまする覚えはない。それに気付いて下げてしまった顔をあげ、
「な、なんですかあなたは!」
と怒鳴った。
「こ、こんな、人の家に勝手にあがりこんで……お父さんお母さんはどこですか! 勝手に人の晩御飯を食べないで下さい! ちなみにそのお箸とお茶碗はわたしのです!」
「知ってますよ、伊織さん――くすくす」
名乗ってもいない伊織の名を口にして、袴の男は立ちあがる。背はそんなに高くない。伊織と同じくらいで、男性としては低い方だろう。足元を見れば、見事に土足だった。しかもただの土足ではない、赤い足袋に草鞋ときている。時代錯誤もはなはだしいスタイルだった。なんだよなんだよ、と伊織は頭を抱える。今日は日本全国変態デーなのか?
「まずは可愛く自己紹介……僕の名前は早蕨《さわらび》薙《なぐ》真《ま》といいます。どうも、初めまして」
「あ、はい、初めまして」つい条件反射で頭を下げてしまう伊織。気付いて慌てて姿勢を正す。「――いえ、できれば初めましてしたくないんですけれど……」
「あらあら、これはきついこと言われちゃいましたね! 人を外見で判断しちゃいけませんよ。こいつは別に趣味で着てるわけじゃないんですから、その辺|斟酌《しんしゃく》して欲しいもんですよ」
趣味でしているじゃなきゃなんなんだろう、仕事かよ、その格好すれば時給が出るのかよ、気楽なバイトですねと思うが、口に出していうだけの勇気はない。
「とりあえず座りませんかね? 落ち着いてお話ししましょーや。僕は別にここでチャンバラやらかそうって気ィありませんから」言って、先に椅子に座り直す男――早蕨薙真。
「ところで伊織さんは、巨人と阪神、どっちが好きですか? ちなみに僕は巨人です。野球はやっぱり巨人軍ですよねえ」
「野球は嫌いです……ボールとかバットとか怖いですから」
応えながら、しぶしぶ、薙真に向かい合う形で席につく伊織。できればこんな正体不明の男からは逃げ出したいところだったが、しかし主導権は完全にあちらさんに握られていたし、ここは彼女の家だった。どうして自分の家から逃げ出さなければならないというのだ。
テーブルの上のフォークを、さりげなくつかんだ。それは無意識の行動だったので、伊織自身、フォークを握ったことには気付かなかった。
「――勝手に家にあがりこんだことについては謝りますよ。インパクトを演出したかっただけで、ここだけの話、特に意味はないんです」
「出て行ってくれないと、警察を呼びます」
「おや? こいつはおかしな話ですよ。今警察がここに来たら困るのは伊織さんじゃないんですかねー?」薙真はにやりと笑った。丁寧な物腰とは真逆に、本当に嫌らしい笑みだった。どうこう理屈を抜きにして、生理的な嫌悪が先に立つ。「その血染めのセーラー服、どう隠蔽するつもりです?」
「……わたしも困りますけど、あなただって困るはずでする草《さわ》良《ら》さん」
「早蕨ですよ。ダチでもねーのに人の名字を勝手に省略しないでくださいね。僕達[#「僕達」に傍点]にとって名字ってのはすっごく大事なものなはずでしょう? 闇口《やみぐち》しかり匂宮《におうのみや》しかり――そして零崎しかり、ね」
「……零崎」
零崎――ああ、そうだ。さっきの針金細工はそんな名前を名乗っていた。零崎――そう、双識。零崎双識だ。
その名を思い出せば、なんだか安心した。
不思議と。
しかし伊織のそんな反応は、薙真にとって少し意外だったようで、細い眉が不愉快そうに歪んだ。
「こんなとこでカタギの家族と普通に暮らしているって段階で『ひょっとして』――と思ってましたけれど、伊織さん。あんた――『零崎』じゃないの?」
「……え、えーと……」
戸惑う伊織に、不快そうに舌打ちする薙真。
「んだよぉ……違うのかよ……んだよんだよぉ……!」低い、唸るような声。俯いて、ぶつぶつ[#「ぶつぶつ」に傍点]と低く呟く。がしかし[#「がしかし」に傍点]と、草鞋でテーブルの脚を蹴る音が聞こえた。「偽装じゃなくてマジモンかよ……こんなことならマインドレンデルに先にあたってりゃよかったぜ……クソが。あの地獄野郎、まさか『人形』ごときにやられちゃいないだろうな……」
豹変した口調でひとりごちる早蕨薙真。ひどく粗雑で乱れた独白口調。どうやら先までの丁寧語調は薙真の地ではないようだった。
「あ、あの……」
「……ああ、もう気にしなくていいですよ。これ食ったらすぐ帰りますから。いやあおいしいですね、これ。何ていう料理ですか? くす、くすくす」口調は戻ったが動作は乱暴なままで、薙真はテーブルの上の食事をがつがつ[#「がつがつ」に傍点]と平らげにかかる。「ったく……とんだ無駄足でしたね……無駄骨でないだけマシですか。兄さんに言わせれば『最悪』じゃなかったってところなんでしょうけれどね……」
「あ、あの!」どうにもらちの明かない態度の薙真に対し、伊織はついにテーブルを叩いて怒鳴る。「その料理は豚腎臓の妙め煮といってわたしの好物です! いや、じゃなくて、そ、そんなことよりわたしの家族は、どこに行ったんですか! この時間ならあなたじゃなくて家族の人達がここに座っているはずなんです!」
「ああ……?」
不思議そうに顔を起こす薙真。そして心の底から伊織を馬鹿にしたように「はっ」と意地悪く笑って、殊更伊織を挑発するような口調で、
「あの連中は演出の邪魔でしたからあっちの部屋の中に積んで[#「積んで」に傍点]ありますよ」
といった。
『積んである』
いくら鈍感であるといってもその表現[#「その表現」に傍点]が意味するものを理解できないほどに伊織は鈍感ではなかったし――そもそもついさっき、それを連想できる程度には、その表現[#「その表現」に傍点]が意味するものと似たような[#「似たような」に傍点]体験を、他ならぬ自分の身体で味わってきたところだ。
否定の発想は浮かばない。
むしろそれが自然だ。全てに説明がつく。
特に意味はない、と薙真はいった。
特に意味はない、と。
意味はない。
この男――意味もなく。
意味もなく――わたしの家族を。
家族を[#「家族を」に傍点]!
「――ぁああああああああああああっ[#「ぁああああああああああああっ」に傍点]!」
行動は迅速だった。いつの間にか[#「いつの間にか」に傍点]握り締めていたフォークをつかんだまま、椅子から飛び上がってテーブルから乗り出すように、その切っ先を、袴姿の変態のこめかみ目指して腕を振るった。靖道を刺したときと同様に――それ以上に、何を考える暇もなく、身体は動いていた。
「え? あ、うおうっ!」
寸前まで伊織のその動作に気付かなかったらしく、どこか余裕のあった表情を一変、慌てたように椅子ごと後ろに反って、フォークの一撃を避ける。彼の前髪をかすめる形で空振った伊織の右腕を、薙真はががしっ[#「がしっ」に傍点]と握りとめた。
「危ねえ危ねえ……くす――くすくすくす。まるで別人じゃないですか、こりゃこりゃ」ぐう、と握る手に力がこもる。「ほとんど予備動作なしでしたね。フォークで殺されちゃうところでした」
「――すいません、痛いです」伊織は手を開いて、自分からフォークを離す。「ごめんなさい。もうしないですから、手を離してください。無抵抗ですよ、ほらほら」
「……拍子抜けしますね、随分」呆れたように手の力を緩める薙真。表情に余裕は戻らなかったけれど。「さっきの迫力は? 家族を殺された怒りと恨みはどうしました?」
「手首の痛さには替えられません」反対側の手を頬にあてて笑顔を作る。「ほらほらー。可愛いですよー」
「……いいでしょう」
薙真は手を離した。同時に伊織は椅子から立ち、そのまま三歩ばかり後ろにさがる。あざになってしまっている手首をさすってから、泣きを入れておいて今更かもしれないが、きっ[#「きっ」に傍点]と薙真を睨みつける。
「……ったく ……そのわけのわからなさ[#「わけのわからなさ」に傍点]は、間違いなく『零崎』なんですがね」やはり今更だったらしく、伊織の視線にも大して感じる風もなく肩を竦める早蕨薙真。少しずれた眼鏡の位置を訂正した。「どっちにしたところで今の動き……大事をとって殺しておきますかね」
雨は降りそうにないけど一応折り畳み傘を侍っていこうかな、というくらいの調子で、薙真はそんな台詞をいう。そして隣の椅子に立てかけてあった薙刀を手に取った。ここでチャンバラするつもりはない――というあの台詞は家族の件を除いたところで大嘘だったらしい。嘘つきは嫌いだ、畜生。
軽く二メートルを越えるその大薙刀を、軽く中段に構えて、薙真は伊織に相対する。間にテーブルがあるものの、そんなものがあってもなくても同じであることは、伊織にも感じ取れた。
少なくとも――素人ではないし、多分、そんなものじゃない[#「そんなものじゃない」に傍点]。あのフォークでの不意打ちが外れた時点で、伊織に勝ちの目は残っていなかった。咄嗟のことだったとは言え、あれが最後のチャンスだったのだ。
夕方会ったあの針金細工と同じタイプ。
簡単なことをやってしまう種類の人間だ。
とてもとても、怖い人間だ。
なんなんだよお、と伊織は思う。
こんな目にあうほど悪いことをした憶えなんか一つもない。そりゃ品行方正とはいえない十七年だったし、色々いけない悪戯もやったけれど、人を殺すつもりなんか全然なかったし、殺される憶えも全くない。天罰が下ることにも天誅を下されることにも、付き合うほどの理由がなかった。
「なんなんですかあ――零崎って一体何なんですか! そんなのわたし知りません! 全然知らないんですよお!」
「『零崎』が何なのか? はは、そんなの僕が知りたいですよ。何なんでしょうね、『零崎』。兄さんは何か知ってらっしゃるようですが、ね。僕にゃちっともさっぱり教えてくれないんですよ」じり、と距離を詰めてくる。軽佻なようでいて、伊織に対する警戒を少しもゆるめていない。「どうも……なーんかよく分かりませんね。まるでちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]だ。可能性としては ひょっとして伊織さんは『零崎』になりかけている[#「なりかけている」に傍点]って感じなんですかね?」
「…………」
『なりかけている』?
どういう意味だ? ていうか何言ってんだこいつは。意味とかそんな問題じゃない、火星語で喋ってるんじゃないのか。もう付き合いきれない。いい、もうここはわたしの家じゃない。秘密だけれど実はわたしは家なき子だったのだ。だからさっさと逃げよう。母をたずねて三千里。けれど逃げ切れるか? 既に伊織はここまで帰ってくるのに相当の体力を消費していたし、今いるこの位置はあの薙刀の射程距離範囲に入ってしまっている。派手に動けばその段階で、薙真の薙刀はこちらに突き出されてくることだろう。それが避けられるとは思わない。
「………………」
つーかなにゆえに薙刀。
薙刀? 薙刀……。薙刀ねえ……。ま、いーんだけどさあ。それにしてもこの人、こんなふざけた格好で、薙刀を隠しもせずにこのマンションまで来たのだろうか。それが成功したことは、返り血セーラー服での帰還に勝るとも劣らない奇跡だ。それともここについてから着替えたのだろうか? それもそれで間抜けな話だけど。本当に演出を大事にするタイプらしい――が、そんな理由で殺されちゃたまったもんじゃない、と思う。
お父さん、お母さん、お姉さん、お兄さん。
本当に殺されたのだろうか。ひょっとして気絶させられているだけ、ということはないだろうか。薙真の台詞はたちの悪い脅しみたいなものであって――と。
緊張に耐え切れず伊織の気があさって[#「あさって」に傍点]の方角に逸れたその僅かな油断を突くように薙真は薙刀の刃部分をこちらに向けて、やや上斜め向きに突いてきた。その切っ先がめがけているのは喉から顎にかけての部位。何の容赦もない、脅しも何もへったくれもない、正しく一撃必殺、急所狙いの攻撃だった。
見えてはいる。ぎりぎり見えてはいるが、身体は動かない。後ろに飛んでよければいいことは分かるのだが、自分の運動能力じゃそれが不可能だということも分かる。人生における第三の危機から逃れることは――どうやらできないようだった。
終わり?
終わる。
「――ひうああぁ!」
ざくり[#「ざくり」に傍点]。
肉が裂ける音がして――伊織は悲鳴をあげた。
ただし裂けた肉は伊織のものではない。喉を切り裂かれて悲鳴をあげられるほど伊織の声帯は特殊ではなかった、靖道がそうであったように。
裂けた肉は――伊織の目の前で裂けた肉は、薙真の後ろの窓から飛び込んできた[#「飛び込んできた」に傍点]――放り込まれてきた人間の首[#「人間の首」に傍点]だった。
小学生くらいの女の子の顔、その中心を、薙真の薙刀は抉っていた。その首が緩衝材となって伊織はノーダメージで済んだ様だったが――この状況を「ラッキー! いえい!」で済ませるほど、伊織は太くはなかった。
「な。あ、あああ! うわあぁあ!」
生首の衝撃に伊織は驚きに一歩引き、薙真の方も「――ああっ!?」と、薙刀をひいて後ろの窓を振り返る。窓ガラスは大きく割れていた。首が放り込まれるときに割れたのだろう――と判断する暇こそあれば、その穴から次々と、人間の生首がリビングの中へと飛び込んできた。
「……ひいぃ!?」「――なぁあ!?」
伊織は恐慌し、薙真は驚愕する。
テーブルの上にがしゃがしゃ[#「がしゃがしゃ」に傍点]と音を立てて、着地する数々の首。一、二、三、四――五つ。最初の一つを合わせて、合計六つ。合計六つの生首が、窓から飛び込んできたことになる。ああ、想像してみて欲しい、人間の首が群れをなして空中を乱舞しているその様を。夏の夜の百怪談さながらの様相だった。
「――有浜《ありはま》夜《よる》子《こ》、北田倉彦《きただくらひこ》、梶《かじ》埜《の》窓《まど》花《か》、雅口紘章《まさぐちひろあき》、上月《こうづき》真《ま》弓《ゆみ》、池橋陸雪《いけはしりくゆき》――」
そして最後に、フレームごと窓がこちらにぶっ飛んできた。薙真はそれを薙刀の一振りで払って見せ――ベランダの方向に残心する。伊織もつられるように、その一方向を注視した。
「――全員、『不合格』」
がらんと空いて覗いたそのベランダには――不気味なほど大きな鋏を指の先で回転させている、針金細工のようなシルエットの男がいた。
「うふふ――うふふふ」
零崎双識。
零崎双識が、笑っていた。
「――……!」
舞台に。
舞台にもう一人、人殺しが――殺人鬼といって間違いでないほどの人殺しが登場した、とてもとても怖い人間がもう一人増えた――ただそれだけのことだというのに――普通に見れば状況は何も変わっちゃいないというのに――伊織は、がくりと肩の力が抜けて、その場にしゃがみこんでしまった。
恐怖ではない、安心だった。
これ以上ないくらいの、安心感だった。
しゃきん、と鋏が鳴る。
双識は、鋏を閉じたまま、その先を早蕨薙真の胸元へと向けた。
「うふふ。うふうふ――どうやら殺戮には間に合ったようだね――おい、そこのいかにも怪しい変態くん」
あんたがいうかよ。
「私の妹に手を出すな」
妹じゃねえよ。
[#地付き](有浜夜子――不合格)
[#地付き](北田倉彦――不合格)
[#地付き](梶埜窓花――不合格)
[#地付き](雅口紘章――不合格)
[#地付き](上月真弓――不合格)
[#地付き](池橋陸雪――不合格)
[#改頁]
[#ここからゴシック]
第四回
芸術家が最も恐れる言葉。
それは「つまらない」ではない。
それは「わからない」ではない。
それは「意味がない」ではない。
「私にもできる」の一言だ。
[#ここでゴシック終わり]
薙刀。
日本刀に準じた形の刃をその先端につけた、長い柄を持つ武器である。刀身の長さによって大薙刀、小薙刀と区別され、さらにその形状によって、静型、巴型と分けられる。
知名度としては同じく刃物を武器とする剣道(並びに居合道、抜刀道――)に遠く及ばないが、しかし世の中のことなんであれそれが言えるように、知名度と内実とは関係がない。
まず特筆すべきはその射程距離範囲の広さである。比較的女性の遣い手が多い武術であるがゆえか、薙刀は防御主流の格闘技――合気道や少林寺拳法などと同じ後の先を取る護身術だと思い込まれている向きもあるが、それは大きな誤解でしかなく、実際、薙刀の技にはかなり攻撃的なものが多い。槍や長巻などと同じ系統の長柄武器なので、そもそも自分のそばにまで敵を近寄らせず、敵の刃の届かない場所から安全に攻撃ができるからだ。そして武器そのものが持つその威力だって半端ではない。てこの原理と遠心力を利用して繰り出される薙刀の斬撃は、非力な者がふるっても下手な太刀や半端な鎧ならば容易にへし砕いてしまう。
一対多の状況を念頭に置いた技も多々ある、極めて実戦的な武術――ではあるが、実際に薙刀遣いと相対するという機会は滅多にないことだろう。その長柄はあまりにも目立ちすぎるし、持ち運びに便利とは言えないからだ。
『二十人目の地獄』『自殺志願《マインドレンデル》』零崎双識にしたところで――薙刀遣いと向かい合うのは初めてだった。
◆ ◆
「伊織ちゃん! お兄ちゃん助けに来たよ!」
「やめてくださいやめてください!」伊織は叫んで部屋の端にまで一気に逃げた。薙真からも双識からも等しく距離を取る。「ああ、もう、こんなの嫌過ぎます!」
どうしてこんなことになっているのか全然分からない。何がどう悪くてこんなことになってしまったんだ。クラスメイトに殺されそうになってうっかり殺し返しちゃって、自首しようと思った直後に変な針金細工が現れたかと思うと実はまだ死んでなかったクラスメイトにとどめを刺して、慌てて自宅にまで逃げてきたら時代錯誤の薙刀男が人の晩御飯を勝手に食べていて、そいつに殺されそうになったところでベランダから六つの生首と共に変態が伊織のことを助けにきた。どんな不条理小説の粗筋だよ、これは。
「だ、大体あなた、なんでベランダなんかにいるんですか! ここは十階ですよ! 生首を六つも持ったままクライミングしてきたんですか!」
「うん?」双識はくるくる回していた鋏を一旦止めた。「ああ。お隣さんのベランダから伝ってきたんだよ。留守だったんでね」
現実的な解答だった。
「じゃ、じゃあ、双識さん、どうしてここがわたしの家だって分かったんですか!」
「兄妹愛のなせる業だよ。可愛い妹のためなら、兄に不可能なんてないのさ」双識はにやりと、格好よく笑う。「具体的には高架下でもみ合った際に制服の胸ポケットから生徒手帳を抜き取っておいたんだ」
「ただのスリじゃねえかよ!」
人殺しの上に変態で、しかも大嘘つきだった。伊織は更に二人から距離を取ろうとするが、もうこれ以上逃げ場はない。選択の末、伊織は薙真に近い方へと移動した。正体不明の敵と正体不明の味方なら、それは後者の方が微妙にタチが悪いように思えたし。
「ちなみに僕は伊織さんの後をつけて、マンションの先でうろうろしている隙に先回りしたんですけれど――」と、薙真は言う。薙刀の刃先は双識に向いたままだが、表情には少し余裕が戻っている。「――さすがマインドレンデル。『人形』を六体程度じゃ、箸にも棒にもかかりゃしませんか」
そしてぶん、と薙刀を振るった。その大薙刀の範囲内にある家具、テーブル、椅子、ソファやテレビなどの調度が――そしてそこらに散乱していた六つの生首が、全部まとめて砕けて吹っ飛び、薙真の周りに広いスペースができあがる。今の技は大掃除のときに便利そうだな、と伊織は思ったが、無論便利どころの話ではない。
薙真は部屋のあちこちに吹っ飛んだ生首を尻目に見て、「しかし容赦がないですね」と言う。
「マインドレンデルさん――分かってるんでしょう? 電車の中での彼にしろ、それから伊織ちゃんのクラスメイトくんにしろ、この六つの首の持ち主さん達にしろ――全員、ただの『空繰《からくり》人形』だってのは、分かってたんでしょう? あなた、『零崎』なんですから」
「――……」
双識は薙真の言葉に沈黙で応えたが、しかし伊織としては黙っていられるはずもない。精一杯の勇気を奮って、「そ、それってどういうことなん……でしょう?」と、どちらにともなく訊いた。
「要するにね、伊織ちゃん」答えたのは双識だった。「彼らはね、可哀想に、催眠術で操られていたのだよ!」
「そろそろ終電なので失礼します」
玄関に向かおうとする伊織を、「ああ、待って待って待って待って!」と、双識は慌てて引き止める。
「伊織ちゃん、何を言っているんだ。きみの家はここじゃないか。終電に乗ってどこへ行くつもりだい?」
「JRと阪急を上手に乗り継いでアリバイを作ってくるんです」
「そんな話じゃないだろう」
「今時催眠術なんていっても説得力が皆無ですよう」伊織はぶんぶんと首を振る。催眠暗示。そんな設定、十年前だって誰も信じない。「不条理は生首だけで十分ですよう……泣けてきました」
「催眠術という言葉が悪いのなら洗脳と言えばいいさ。なあ、伊織ちゃん」双識はベランダから一歩、リビングへと這入ってきた。「たとえばの話だが、人間を一人、地下の小さな密室に閉じ込め、一ヵ月間毎日毎日調教を施せば――その人物の価値観や倫理観など、どうにでもすることができるだろう? 人間を人形に変えてしまうことなどそれほど大した手間ではないさ。新興宗教の巧妙な手口を例にあげれば分かりよいだろうな」
「――……」
「世の中にはこずるい悪党連中が大勢いるからね。そういう洗脳活動を専門とする一団もあるくらいだよ――正直聞いて気分のいい話ではないがね。たちが悪いにもほどがある。本当、可哀想だよねえ。操られていた人形くん達には心底同情を禁じえない」
「全員ぶっ殺しちまったあなたがそれをいいますか」薙真が笑う。「それにタチの悪さで言うなら――あなた達零崎一賊の方がずっと上でしょうよ。あなた達を越える属名なんて、『殺し名』七名《しちみょう》の中でさえ、匂宮と闇口しか存在しないってんだから」
またそれだ。
伊織は首を傾げる。
一体なんなんだ、零崎って。
「零崎というのはね、伊織ちゃん――」伊織の表情をみてとって、双識が言った。「――いうならば殺人鬼の集団さ。山賊とか海賊とか、あるだろう? 基本的にはああいう感じだね。現代風にいうなら家族《マフィア》かな」
しゃきん、と鋏を鳴らした。
「そして私は一賊の長男――零崎双識。家族《ファミリー》を守るのは長男の仕事というわけで――若き薙刀遣いくん。できたての妹のために『二十人目の地獄』は、きみに相対させてもらうよ」
「……そうですか」
そして二人は一歩ずつ、更に距離を詰めた。
「なるほどね――了解いきましたよ、マインドレンデルさん。マインドレンデルさん、今、この娘を勧誘中[#「勧誘中」に傍点]だったってわけですね?」
「勧誘中……?」
妹と言っていたのは、そういうことだったのか? 伊織は双識を見るが、もう双識は伊織を見ていなかった。既に二人の距離はかなり近くなっていて――双識の鋏はまだ全然話にならないが、薙真の薙刀の間合いに、双識の足が重なろうとしていた。
「――ふむ」
そこで何を思ったか、双識は鋏を背広の内へと仕舞った。薙真は不審げに眉を寄せたが、中段の構えを解いたりはしない。対して双識は平然としたものだった。天然なのか戦略なのか、どこかゆとりのあるポーズをさっきから全く崩そうとしない。
「どうやらきみはお人形さんじゃなさそうだし、薙刀遣いくん、名前を訊いておこうか。名前を」
「早蕨薙真――と言いますが……しかしがっかりさせないでくださいよ、マインドレンデルさん」薙真は言う。「和平交渉なんて真似をされたらせっかく僕が演出したこの場面が台無しだ」
「そんなことはしないさ。きみには交渉など無意味だろうからね――しかし『早蕨』か。うん、憶えのある名だな」うふふ、と双識は笑った。「では薙真くん。私は不勉強にしてその武器――薙刀というものをよく知らないが、それが狭い室内用の武器でないことくらいは分かる。折角掃除してくれたところを何だけれど、どうだろう、お互い全力を出し合うために、ステージを変えないかい?」
「……意味が分かりませんが」
「正々堂々ってのが好きなのさ、私は」双識は言う。「何でもありの勝負よりルール付きのフェアプレイってのが好みでね。――というよりも、ここで私がきみを圧倒したところで、どこかにすっきりしない気分が残ると思うんだよ。きみに対してとても『卑怯』な手段を用いて勝ったような申しわけない気分になってしまう。私が嫌いな言葉のベス卜3は不誠実、無責任、非人情でね――殺し合う相手に対しても、常に友好的でありたいのさ。ねえ伊織ちゃん?」
「は、はい?」
「このマンション、屋上は開放されているかい?」
「え、あ、はい――まあ」
しどろもどろに答える伊織。状況についていけないことこの上ない。ここは伊織の家だというのに、伊織は完全に置き去りだった。おいおい、ひょっとしてこの人達、これから決闘でもやらかすつもりですかい?
「開放されてるです。だからわたくしめは天気のいい日はそこにお布団を敷いて日向ぼっこをするです」
「いーね。うん。あまりにも本編に関係なさ過ぎるけど微笑ましいエピソードだよ。それでは薙真くん」双識は人さし指で天井をしめした。「我々の決着は屋上で、というのはどうだい? いわゆる頂上決戦という奴だ」
頂上決戦は意味が違う。
「……僕は、相手がそういうことをいうときにはね」薙真は一応、構えを解いた。けれど丸っきり気を緩めている様子はなく、双識を強く睨んでいる。「何を企んでいるのか、考えることにしているんですけれど――しかし零崎の考えることなんざ、分かるはずもありませんね」
「それは結構。不理解は別に今更だよ」
「――分かりましたよ。先に行って待ってます」
ぐるん、ともう一度薙刀を振って――その柄を右肩に置き、ベランダへと向かう。双識の横を通り過ぎ、薙刀をかがめてベランダに出たところで、薙真は伊織を振り向いた。
目が合う。
思わず姿勢を正したが、しかし薙真は何も言わなかった。ただ単純に、にっこりと笑っただけだった。さっきまで伊織に見せていた、どこか相手を挑発するような笑みではない、そう、なんというか――
哀れむような笑みだった。
その表情に伊織は戸惑う。
どうして……?
どうして、わたしは、あんな奴に、まるで同情されるような眼で、見られているんだろう……?
と、そこで跳躍し、薙真の姿が見えなくなる。
「え? あ、あれえ!? あ、あの人飛び降りちゃったんですかあ!?」
「いや、飛び上がったのさ」
言いながら双識が伊織に近づいてくる。伊織はベランダに近づく振りをして、それから逃げた。双識はそんな様子に肩を竦め、「やれやれ」と言った。
「文明人なんだからちゃんと階段を使えばいいのに。あわてんぼうさんだよねえ。奥田右京亮もさながらだな。『騒ぐなっつーの!』てね。伊織ちゃん、知っているかな?」
「もうわたしは何も知らないです……」
「知らないか。ならば具体的な解説が欲しいかな? 伊織ちゃん」
そう言いながらくるりと向こうを向いたと思ったが、しかし伊織に背中を向けたまま後ろ跳びに、伊織のすぐそばにまで移動してきた。逃げられなかった。
「か、解説と言いますと――」
「私も全てを理解しているわけではないがね、一応の説明ができないほど状況を認識できていないわけではないよ。その――」と、散らかった室内をぐるりと見る。「――お人形さん達のことも含めてね。しかし『早蕨』か――『匂宮』の分家だね。そろそろ世代交代している時期だろうから……、確か三兄弟だったかな、あそこは。えーっと――」
思い出すように額に指を当てる双識。
「――太刀遣いの長男、薙刀遣いの次男、弓遣いの長女――だったかな。よく憶えていないが、となると今のが次男くんか」
「い、いえ、あの人の出自がなんであろうとわたしの知ったことじゃないんですが――」伊織はじりじりと後ろに下がりながら問う。「その早蕨さんがどうしてわたしの家に? いえ、さっきの話じゃ、わたしがやすちーに殺されそうになったのも、あの人の所為って感じだったんですけれど――」
「具体的な解説が欲しい?」
「――――えっと」
その質問には正直迷うところがある。今伊織が考えていること――というよりは望んでいること、それはたった一つだけ。
かかわり合いになりたくない。
逃げたい。
もう決闘でも殺し合いでも好き自由やってくれ、ただしわたしの知らないところで。薙刀でも鋏でも構わないから。
「――でも」
残念なことに。
伊織は――別段、無関係なのに巻き込まれているわけではないのだ。何かの巻き添えを食っているわけでもなければ、大事件の余波を受けているのでもない。もしもそういう立場の者がいるのだとすればそれは靖道であり――お父さんでありお母さんでありお姉さんでありお兄さんだ。
残念なことに。
この話は伊織が主役だった。
「――欲しいです。説明」
「うふふ、いい言葉だね。そしていい覚悟だ」双識は笑った。「全てに見放された零崎にこそ、その覚悟は相応しい」
「…………」
しばしにらみ合う形になる双識と伊織。いや――にらみ合うというよりは、見詰め合うような感じで。
殺人鬼と殺人初心者は向かい合う。
「ならば私に背中を向けるんだ、伊織ちゃん」
「……こうですか?」
「両手を後ろに回して揃えてくれ」
「……こうですか?」
「ねえ、伊織ちゃん」
「はい?」
「頭が悪いと言われたことはないかい?」
その瞬間、ぎゅ、と自分の両手首が締まるのを感じだ。肩が後ろに引っ張られるような感じで少しバランスを崩し、そこを双識から足払いを受け、薙真によって掃除された床の上に倒された。両手が封じられているので衝撃が殺せず、もろに肩を打ってしまった。
「手錠じゃないよ。特殊なゴム紐さ。まあゴムとは言っても、人間の力じゃ伸びも縮みもしないけどね」双識は韜晦《とうかい》するように両手を広げる。「私の『自殺志願《マインドレンデル》』なら切れないこともないが、刃が傷みそうだから避けたいところだ。とにかく普通のやり方で解くことは諦めた方が賢明くんのよい子ちゃんだね」
「な、何するんですかあ!?」
「妹を束縛したのさ」
「変態! 変態!」
「安心しなさい、別に手篭めにしたりはしない。それをやると近親相姦になっちゃうし。そのゴム紐はね、とりあえずの応急処置って奴さ。それさえつけておけばきみは無闇に人を殺さずにすむ。別に意地悪でそうしているんじゃないよ? 誤解しないで欲しいんだけどさ」双識は肩を竦める。「きみのあふれんばかりの性質は私から見ても少々危険でね、これでも少し怖いんだ、勘弁してくれ。それを抜きにしても、制御できるようになるまできみのその両手は封じておいた方がいい。殺人鬼とはいえいつもいつも人を殺して回られちゃ迷惑極まりないからね」
「せ、性質ってなんですかあ! わたし、無我夢中で刺しちゃっただけですよう!」
「殺したことが問題なのじゃない。殺し方も問題じゃない。きみが殺せる人間[#「殺せる人間」に傍点]だというのが問題なのさ。解説をするとは言ったけれどね、正直きみについては私の方が訊きたいな。どうして今まで日常の世界に埋没できていたんだい? 私の弟でもそこ[#「そこ」に傍点]にいられたのは中学卒業までだぞ」
「何言ってんだか全然さっぱりわかりません」
「そうだろうね。はいはいはい、ちょっと脚を失礼するよ。大丈夫大丈夫、スカートの中を見たりはしないから」
あやすようにそういって、双識は床に這《は》い蹲《つくば》る姿勢になっている伊織の両足首を持ち上げ、両手首を拘束したのと同じゴム紐で拘束した。そして手首のゴムと足首のゴムを、もう一本のゴム紐で連結する。これで伊織は完全に身動きがとれなくなってしまった。
「ではここでおとなしくしておいてくれ、伊織ちゃん。私は薙真くんの相手をしに行ってくるからね。すぐ戻ってくるから大丈夫」
「全然大丈夫じゃないです!」
「伊織ちゃん」
双識が少し声を低める。
眼鏡の向こうの眼が、今まで以上に細く、鋭く、伊織を見据えた。
「きみはこれから人を殺し続けなければならない。生きていこうとするならね。もうきみの前に『殺すか』『殺さないか』という二択はありえない。『殺す』だけだ。『殺す』だけなんだよ、伊織ちゃん。『殺さない』としか考えられない人間が不健康であるよう、これはもう完全に救いようがない。私がそうだし、私の弟もそうだった。殺すことしか考えられないんじゃない、殺すことが前提なんだ。友人であろうと恋人であろうと諸共だ。一旦自分の性質を露出してしまえば、もう引き返すことなんかできないんだよ。百メートルを十秒で走れる人間は、百メートルを十秒で走れる人間でしかない。走った以上、百メートルに二十秒をかけることはできないのさ。試験《テスト》で百点を取る人間は取りたくて百点を取っているんじゃない、他の点数を取る方法を知らないんだ。零点を取る人間が十点を取ることは、そんなに難しいことじゃない。だが百点を取る人間が九十点を取ることは、不可能だ」
「…………」
「殺人鬼は孤独なんだよ。人を殺す者は本質的に孤独なんだ。孤独過ぎる。友人を持つこともできない。親友が現れることもない。恋人を作ることもできない。良きライバルすらも望みの外、苦しみを分かってくれる理解者もいなければ道を示してくれる指導者もいない。完全に一人きり、寂しく孤独で惨めなものだ。伊織ちゃん。孤独がどんなものだか知っているかい?」
「…………」伊織は答えられない。
「孤独とはね、いてもいなくても同じということだよ。存在の否定だ。あり方の否定だ。それはね――とても悲しい。一人でいるのと独りであるのとは全然違うことなんだ。共に遊べる友達が欲しい。一緒にいられる親友が欲しい。愛してくれる恋人が欲しい。競い合えるライバルが欲しい。分かってくれる理解者が欲しいし、助けてくれる指導者が欲しい。独りは、嫌だ」
「…………」
「だから私達[#「私達」に傍点]は|一族《ファミリー》を――家族を作った。それが零崎の原点さ。匂宮や闇口とは本質的に違う」
『零崎』――『一賊』。
兄。弟。妹――一族。
「理解できないって顔だね。別にいい。望みを捨てろと言っているわけじゃないさ。ひょっとしたら――私の言うことは完全に間違っていて、きみはまだ引き返せるのかもしれない。今の時点ではきみはまだ『正当防衛で身を守った一人の善良なる一般市民』でしかない。やすちーを殺したのは私だし、客観的に見れば[#「客観的に見れば」に傍点]、きみにはまだあちら[#「あちら」に傍点]に戻れるだけの余地はある。だからこそ、今はきみを拘束させてもらうよ。どちらにしても[#「どちらにしても」に傍点]――それがきみのためだろう」
「わ、たしのため――ですか?」
「先ほども言ったが――私には分からない。それほどの性質を十七になるまで抑えられた理由というものが。きみがこれまでに千人の人間を殺したと聞いても私は驚かないが、一人も殺していないというのは異常が過ぎる。今回の件だって、お人形さんに襲われなければきみは殺したりしなかったろう。これがどういうことか分かるかい?」
「わ、分かりません」
「ああ、私にも分からない。だからたった今、私は仮説を打ち立てた」双識はやや深刻な調子で言った。「――きみは本来ありえない可能性なんだよ。かなり特殊な可能性だ。孤独でない殺人鬼という可能性――可能性というよりは希望かな。きみはまだ試験を受けていない。零点なんだか満点なんだかまだ不確定だ。きみはこれからどうなるのか分からない――だからこそ希望だ。ゆえに私としては出来うる限りのフォローはさせてもらうよ――零崎の兄としてね。安心したまえ、きみの兄貴は頼れる男だ」
そして双識は伊織に背を向け、玄関口へと向かう。ベランダから飛び出すような無茶をやらかすつもりはないらしい。
あのとき、双識は言った。『自分の人生の転機には何者かが現れてくれるはずだ――なんて考えは傲慢を通り過ぎて滑稽なものだ』と。人生の苦境にたったところで都合よく自分を助けてくれるヒーロー――そんなものは登場しない、と。
けれど、今彼がやっているのは、そういうことではないのだろうか。断片的な説明を受けたところで伊織には相変らず現状が理解できていないけれど――けれど、最初に彼と会ったときに感じた気持ち。そして、ベランダから颯爽と登場した双識のシルエット。今だって、薙真に向かい合わんとここから出て行こうとしているが――その行動は全て、伊織のためと言ってもいいんじゃないだろうか?
先に考えた通り、今回の件、双識と遭遇したことでことが始まったわけじゃない。ことはとっくに始まっていて、双識はあとから現れたのだ。彼は何も、伊織に危害を加えてなどいない――むしろ二度も助けられている。
ならばこの拘束も。
本人の言通りに、伊織を助けるためのものなのかもしれない。
そう思った。
そう思うと、もう、何も言えなかった。
「ああ、そうそう」
玄関を開けたところで双識は振り向く。
「私としてはスカートの下にスパッツをはくのは外道だと思うんだよ」
「しっかり見てんじゃねえかよ!」
◆ ◆
早蕨薙真は『零崎』の怖さを知らないわけではない――むしろその恐ろしさはその身をもってよく知っているつもりだ。ましてその相手が『二十人目の地獄』、首斬役人・零崎双識とくれば――その相手をなめてかかろうと思うほどに愚か者ではない。双識に対しては勿論――伊織に対しても、彼は全く油断などしていなかった。軽佻さも浮薄さも、あるいは伊織に一瞬見せた苛立ちも、薙真にとっては所有するカードの一枚に過ぎず、彼自身ではない。
そして最大のカードはこの大薙刀。
これをもってすれば、双識が相手でも十分に拮抗しうると――そう考えている。自分の兄を除けば、たとえ相手が何者であろうとも――自分の圏内に侵入することなど不可能だ。まして、先ほど見た双識の武器――『自殺志願《マインドレンデル》』、あの鋏の攻撃範囲はナイフと同等、それ以下だ。いくら双識のリーチが長かったところで、自分の身体には届かないだろう。あのまま狭い室内で立体的に泥試合――ということだったら確かに不利だったかもしれないが、この開けた屋上でなら、『零崎』に対しても確かな勝機がある。それも、かなり確信的な勝機が。それほどまでに、薙真にとってこの大薙刀《カード》は絶対だ。
「ひょっとすると 首尾よくいけばここでケリがついちまうかもしれないですよ? 兄さん」
薙真は呟いて、ぶん、と薙刀を振り――その刃先を、出入り口へと向けた。それと同時に扉が開いて、向こうから、針金細工のような、細長く、奇妙に手足が長い――殺人鬼が現れた。既に鋏を構えていて、臨戦態勢という感じだ。
妖怪のようだ、と思った。
さっきからそうだ。さっきからずっとそうだ。
どうも人間と相対している気がしない。ベランダから突如として双識が現れたときも――それから、さっき、伊織がこの身にフォークを向けたあのときも。それから――妹と一緒に、初めて『零崎』と対峙したときも。全然、人間と相対している気がしない。
「お待たせしたかね? 薙真くん」
人間でないものが声をかけてくる。何の警戒心もなく、つかつかとこちらに寄ってきた。薙真が中段に構えると、ようやく双識は脚を止めて「うふふ」と笑う。
「なんだか滑稽だよね――こういうのは」
「――何がですか?」
「いや、考えても見たまえよ。大の男が二人、平和な片田舎の町で、何の変哲もない平和なマンションの屋上で、顔をあわせたかと思うと殺し合いだよ。それも鋏と薙刀でね。これで私が御獄新陰流の使い手だったなら、少しは絵にもなるのかもしれないが」
「――余裕ですね、マインドレンデルさん」
「ところできみはどうしてそんな珍妙な格好をしているのかな?」双識は薙真の台詞に肩も竦めず、薙真の服装を指さした。「そんな格好で町を歩けば何もしてなくとも逮捕されそうだよ。いや、決して和服を軽んじているわけじゃない。しかしどうしてきみはそこまでして――袴に稽古着、和式の眼鏡、鉢巻でしばった髪に草鞋――そして得物も薙刀ときている。どうしてきみはそこまでして『普通』『当然』から外れようとするんだろうな?」
「何を言っているんですか?」
「正直にいうと私はきみを憎悪しているのだよ。妹の件を抜きにしてもね、私が欲しくて欲しくてしょうがないものを、そうも簡単に溝《どぶ》に捨てるような真似をされるとね――無関係でも他人事でも頭に来る」双識は少し顔を伏せた。「溺れている子供を見れば、無関係でも他人事でも助けるだろう? 同じ感情だよ、これは。『零崎』ならざるきみには決して理解できないだろうがね」
「……口喧嘩をしにきたわけじゃないでしょう、マインドレンデルさん――さっさと始めましょうよ。恐らく、五分でケリがつく」
「こりゃまあ大した自信だ。自信というより既に狂信だな。うん、愉快だね。うふ、うふふ、愉快愉快」双識はそう言って、再び脚をこちらに向けて動かし始める。「ならば胸を貸してあげるよ。逃げたくなったらいつでも逃げなさい、それは恥ずかしいことじゃないし、それなら私も『自殺志願《マインドレンデル》』を汚さずに済む。一日六人も七人も断ち斬っていりゃ、さしもの『自殺志願《マインドレンデル》』でも後二年と侍たないだろうからね」
「――それは『早蕨』を甘く見過ぎじゃないんですか?」
余りにこちらを軽く見た――というよりもう侮辱的ですらあるその言い方に、さすがに薙真が不快そうに表情を歪ませ反論する。双識はあと一歩――半歩で、薙真の間合いに這入る。対して向こうの間合いまではまだ十分な余裕がある。圧倒的に有利なのは――こちらのはずだ。
「甘く見過ぎねえ――私は正しく認識しているつもりなんだがね。悪いことを言ってしまったかな? ならば謝ることに躊躇はないが」
「……そりゃああなた達『零崎』や僕達の本家でもある『匂宮』を含む『殺し名』七名に比べれば、僕達分家如きの知名度なんてのは低いかもしれませんが――知名度と内実は別物ですよ。この大薙刀のようにね」
「勘違いを一つ正してあげよう」
双識は間合いの一寸手前で、再び脚を止めた。
「今きみが言った『殺し名』七名だが――しかしこの私の個人的な意見としては、そんなところに零崎を並べられるのは遠慮したいところだね。『匂宮』は『殺し屋』で『闇口』は『暗殺者』。『薄野《すすきの》』は『始末番』で『墓森《はかもり》』は『虐殺師』、『天吹《てんぶき》』は『掃除人』、『石凪《いしなぎ》』にまで至っては『死神』ときている――どいつもこいつも鳥肌が立つほどおぞましくっておそろしい『悪』党どもだ。――だがね、薙真くん。私達『零崎』一賊はそのどれでもない――『殺人鬼』なんだよ。最初からきみ達如きとは存在している次元が違う。場合によって殺したり殺さなかったりしているきみ達と一緒されると不愉快だし、きみ達だって不愉快だろう。きみ達にとって人殺しは仕事なのだろうが――零崎にとって人殺しは生き様だ」
「――――――」
「さて、それでは」
零崎双識が――
二十人目の地獄が――
自殺志願が――
「零崎を、始めよう」
平然と、早蕨薙真の間合いに這入った。
[#地付き](早蕨薙真――試験開始)
[#改頁]
[#ここからゴシック]
第五回
「君は人を殺した。その理由は?」
理由はない。
「その目的は?」
目的はない。
「その原因?」
原因はない。
「その結果は?」
結果はない。
「よろしい。きみは人間だ」
[#ここでゴシック終わり]
今はもう過ぎた時、今はもうないその町で、一人の少年が失踪した。何の前触れもなく、何の前兆もなく、誰にも何も告げず、ある日突然に、姿を消したのである。
前触れがあるはずもなかった。
前兆があるはずもなかった。
誰かに何かを告げられるはずもなかった。
少年は自分の意志で姿を消したのではない。
少年は、『誘拐』されたのだから。
少年にとって悲劇的だったのは『犯人』の目的は『金銭』ではなく――『愉快犯』でもなく――まして少年や少年の両親に対する『怨恨』でもなかった――目的がその『少年の肉体』そのものだったことだ。
当然少年の両親は警察に捜索願を出し、探偵を雇い、四方八方に手を尽くして我が子を捜したが最後にはその手も尽きた。捜査班もやがて解散され、誰もが少年のことを忘れ両親すらも彼のことを忘れ少年はいなかったことになった。
誰も少年を助けてくれる者はなかった。
『もういい』
少年は思った。
『誰も助けてくれないのなら』
少年は考えた。
『自分でやる』
少年は決めた。
『もういい』
少年は、諦めた。
そして彼は刃物を手に取った。
その日、町はなくなった。
◆ ◆
「…………」
さっきは納得したけれどやはりちっとも納得がいかなかった。手を後ろで縛るのはいい。足首を縛ったのも許そう、わたしは寛大だ。けれど、その二つを連結するとは何事だ。動けないどころか、背骨がみしみし音を立てているではないか。こんな状態では這って移動することすらできやしない。じっとしていることすら既に苦痛だ。
伊織は憤懣やるかたなかった。
分かりやすくいうとむかついていた。
「……こうやって――こうすれば」
全身の力を振り絞って自分の身体を裏向けてみる。そうすると背中が少しだけ楽になった。ようやく伊織は一息つけたが、しかし一息ついている場合ではない。少しでも楽になったら少しでも楽になったなりに考えなくてはならないことがある。たとえば――そう、ひょっとしてこの裏返った状態でなら移動することも可能かもしれない。ならば――移動することができれば、
隣の部屋に、確認に行くことができる。
家族の死体を。
「…………」
けれど結局、伊織はそれを諦めた。第一の理由は背中が痛かったからだが、しかしそれだけでなく――その行為には何の意味もないように思えたからだ。日記をつけるという行為には何かしらの意味があるが、しかしその日記を読み返したところで、過去が改竄されるわけではない。早蕨薙真が始末したと言った以上、そこにはどんな容赦も存在するわけがないのだ。だから確認に行く必要なんてない――
「……あれ?」
なんだそりゃ。
随分とまあ、醒めた考え方じゃないか? 大して知りもしないクラスメイトのこととは違う、これは自分の家族のことなんだぞ? 自分の家族を相手に、それはいくらなんでもお寒いってものじゃないのか?
わたし――何か、おかしくないか?
わたし――何か、おかしくなってないか?
ひょっとしたらという可能性はあるし、それにたとえ殺されていたとしても、処置次第によっては蘇生する希望だってあるかもしれないというのに。
「可能性――希望か」
双識は伊織をそう呼んだ。
その意味は全然分からない。というか、彼が一体何を言いたかったのか、その時点から分からない。
少なくとも敵ではない。
一応は味方らしい。
「――でもお兄ちゃんじゃないですよう……」
つーかあんな兄は嫌だ。
「……ぐ」
仰向けになってさえいれば確かに背骨にかかる負担は楽なようだったが、しかしこのポーズだと脚の方にじわじわと痛みが寄って来ることが分かってきた。そもそも伊織は身体が柔らかい方ではない。前に屈伸九十度、後ろに屈伸十三度というのが伊織の柔軟能力だ。こんな姿勢をとり続けていれば骨が金属疲労(?)を起こして骨折してしまう。
「本来ならもっと真面目に考えなくちゃいけないことがあるはずなのに……どうしてわたし太ももの痛みについて思考しなくちゃいけないんですか……」
嘆いていても始まらない。仕方なしに伊織は、重心をぐい、と上半身の方へと移動させた。そうすれば脚にかかる負担が少なくなると思ったからだ。しかしこれは大失敗だった。
首である。
首が、ぐきり[#「ぐきり」に傍点]と音を立てた。
「うぐがおおおお!」
アキレス腱を切られた恐竜みたいな悲鳴をあげて、リビングの床をごろごろと転がる伊織。無論、そんな『ごろごろと転がる』なんてことが可能な体勢ではない。腕が、脚が、手が足が、背中が胸が、そして再度首が、続けてみしみし――否、べきべき[#「べきべき」に傍点]と音を立てる。熱した鉄板の上に猫を放ってその踊り様を楽しむという悪趣味が世にはあるらしいが、このときの伊織の様子は正にそれを想起させた。
壁に身体があたったことでようやく伊織の跳ね回り[#「跳ね回り」に傍点]は停まった。あと十秒でもこの地獄が続けば、冗談でなく骨折したことだろう。本当、とんでもない結び方で拘束してくれたものだ。何かコツでもあるのだろうか。それともこのゴム紐自体に秘密があるのかもしれない。
「ふう――何にせよ伊織ちゃん危機一髪です」
と――自分で勝手に陥った危機から何とか生還した伊織は、自分がぶつかった壁を見上げて――見上げたところで愕然とする。
それは壁じゃなかった。
まだ伊織はリビングの中心近くにいて、壁からは全然遠かった。ならば伊織を救った形になるそれは何なのか――家具はあらかた薙真がなぎ払ってしまったというのに――
それは一人の男だった。
「――え? あ」
いっの間に。
と、思う暇もない。
どころか相手の姿を明瞭に捉える暇すらもなく――
【結構――手間が省けた】
伊織は意識を失った。
男は日本刀をさげていた。
◆ ◆
金属同士が打ち合う音が連続して響く。
大薙刀の刃と、大鋏の刃。
早蕨薙真と、零崎双識。
双識の『自殺志願《マインドレンデル》』には二枚の刃がそれぞれ両刃で、総計四つの攻撃部位がある。その部位で受ければ刃物の傷みが早くなるので、必然|鎬《しのぎ》――あるいはハンドル部で相手の攻撃を受けることになる。無論最悪の場合はそんなことを言っていられない、直接に刃部で受けて相手と力比べをする羽目になる。
そしてこれが、十度目の最悪だった。
「――驚いたね」
飛び跳ねるように後ろに五歩さがって、薙真から距離を取ったところで、双識は眩く。
「いや、本当に大したものだ、薙刀というのは」
鋏を構え直す暇こそあれ、そこに薙刀を大上段に構えた薙真が距離を詰めてくる。さっきからこのパターンの繰り返しだった。双識が間合いに這入ろうとすれば薙真が先に攻撃し、双識を間合いから追い出したところで今度は自分から詰めてくる――その繰り返し。
「とにかく、斬撃が速い」
一撃を鋏で受ける。響く金属音。双識は痩せ身でこそあるものの体格通りに力は強い、普通ならばここで相手の得物を弾き飛ばせる。けれど薙真の大薙刀での斬撃を、双識は受けるだけで精一杯だった。
「――つまり速いだけでなく重い」
遠心力とてこの原理――そして使い手自身の腕力。それらが合わさってとんでもない規格の破壊力を発揮している。できうる限りその威力を受け流し、受け殺している双識だが、それでももう腕に痺れが現れていた。
敵が薙刀を引くのを見てから、一瞬遅れのタイミングでようやく双識は『自殺志願《マインドレンデル》』のその刃先を薙真の喉元に向けるが――
「しかし、これが届かない」
空振りだった。
薙真がほんの半歩ほど、身をずらしただけである。それだけのことで、双識の刃は薙真にとって受ける必要すらないものになるのだった。
対して双識は先ほどから一度も薙刀をかわせていない。このまま同じパターンを繰り返していれば、遅かれ早かれ薙刀の刃は双識をえぐることになるだろう。
「では、ここで逃さず内に這入れば――」
連撃。鋏のハンドルをそのまま回転させて逆手に持ち変え、ご自慢の長い脚で一気に相手の間合いに侵入する。ここなら十分に刃先は届く。しかも相手の刃――薙刀の『中身』というのは近距離がその攻撃範囲に含まれない。長柄の武器の弱点――それは近距離戦である――
と、考えたのが大間違いだった。
薙真はくるりと薙刀を反転させその柄の末端――『石突』という部位で双識の腹を突いてくる。これにも十分な、一周分の遠心力がかかっているので威力は尋常ではない。刃物ではないから斬られることはないというだけだ。その衝撃で一歩さがったところに、蛭巻の柄による胴払いが炸裂する。ただの歴史マニアであり武に知識の薄い双識にしてみれば知るよしもないことだが、薙刀や槍、長巻など、長柄の武器の使い手は、往々にして同時に杖術や棒術も極めているものである。ゆえに長柄の武器の攻撃部位は先端だけでなく――その全体。攻撃部位を四つしか持たない双識の鋏とでは、その応用が段違いなのだった。
「――そして結果」
双識は間合いの圏内からたたき出された。
そこに、繰り返される斬撃。
金属音。
十一度目の最悪だった。
「――ちょっとタンマタンマっ!」
双識は思わず声を荒らげた。とんでもない。これ以上続ければ刃が傷むとかでなく、この場で『自殺志願《マインドレンデル》』の寿命が終わってしまう。この愛刀に替わりはないのだ。折れたらそこで終わりである。
双識の待ったに対し、薙真はやや躊躇したが、踏み込みかけたその脚を停止させた。双識のあまりに情けない声にやる気を殺がれたようだ。
「――いや、ごめんごめん。さっきの言葉、訂正するよ。君を完全に侮っていた。『胸を貸す』なんて恥ずかしいこと言っちゃったね。赤面ものだ、赤面もの」
「――そんなふざけた得物を使わなければ、もっとまともに戦えるんじゃないですか?」薙真はずっと思っていた疑問を呈する。「僕の薙刀だって相当なもんですけれど――鋏ってのはありえないでしょう。小学生の凶器ですよ、それは。僕らはそんなものを凶器とは呼びません。それは文房具です」
「文房具ねえ――これはこれで思い入れがあるんだけどね。私にしてみれば」
「思い入れなんてつまらないこと言ってないで、こんな薙刀か――あるいは太刀でもナイフでも、そういうものを使えば相当な使い手になれるでしょうに、マインドレンデルさん」
「言ったろう? 零崎にとって殺しは仕事じゃないんだよ。趣味でもない。生き様――という言い方で分からないんなら、そうだね、いうならこれは遊びだよ。何事も余裕《あそび》がないとっまらないだろう?」
「遊びでやっている人達が真面目にやっている人間に勝てると思っていたんですか?」
「おっと、過去形だね。しかしそれを思い上がりと評することはやめておこう。同じ轍は踏みたくないからね」双識はおどけるように首を振る。「しかし――こんなこと聞かなくてもいいと思っていたんだが、ここまで苦戦するとなると、あえて訊かなくてはならない。君達『早蕨』の目的はなんなんだい?」
容易に倒せる相手ならばその目的など一切知ったことではないといわないばかりの言い草だった。構えを解かないままで答えない薙真に対し、双識は続けて言う。
「そもそも納得いかないんだよね――『早蕨』の本家は『匂宮』だろう? あそこは正しく『殺し屋』中の『殺し屋』、生粋の殺戮血族だ。『空繰人形』を使うような無粋はしないはず。洗脳統制主義の『時宮《ときのみや》』とは対極の対極の更に対極に位置する君達に、そんなスキルとパラダイムはなかったと思うんだけど」
「…………」
「どうして主義を曲げてまで零崎《わたしたち》に敵対しようとする? 先ほどの君の言葉を真似るわけではないが――『早蕨』なら『零崎』の恐怖はよく知っているはずだろう」
正体不明の殺人鬼集団、零崎一賊。一賊郎党で共通する特性もなく、一賊郎党が守らなければならない規則もなく、一賊郎党に破ってはならない禁忌もなく、はっきりしていることは一つだけ。
一賊に仇なす者は皆殺し。
「――それは逆に言えば、そっちから手を出さない限り、私達も出来うる限り我慢するということだよ。まして平和主義者のこの私だ。まして殺しを仕事としている君達だ。偶然で殺されてしまうということもあるまいに」
「知っているともさ」薙真は歯軋りをして、答えた。「知っているも何も――僕の妹は零崎の者に殺された[#「零崎の者に殺された」に傍点]」
「――――ほう」
さすがに双識は驚きの声をあげる。
「君達は確か三兄弟だったか――長男の太刀遣い。次男の薙刀遣い。そして長女は――弓遣い」
「ええ。早蕨|弓《ゆみ》矢《や》といって――僕にとっちゃあ可愛い妹でしたよ。僕達三人のコンビネーションは無敵でした」
「近距離の太刀に中距離の薙刀、遠距離の弓ね。時代錯誤であることを除けば確かに、三人まとめて相手にするのは厳しそうだ――」何せ、その内の一人、中距離の薙真だけで既にこの状況だ。三人揃えばどんなことになるのか想像もつかない。「それを突破した者が私達の一賊にいるというのかい?」
「『早蕨』の名誉のために言わせてもらえれば、そのときは妹と二人でしたがね。兄さんは席を外していました」
「二人でも大したものだ。正直なところきみの攻撃に弓が加われば私にはどうしようもない。よければ聞かせてもらえないかい? その『零崎』、どんな奴だったかな?」
「残念ながら名前までは知りませんね。零崎で有名人なんてのは『マインドレンデル』のあんたを除けば『ペリルポイント』と『シームレスバイアス』、あとは『ボルトキープ』ぐらいのものでしょうが。見たこともねーただのガキでしたよ。顔面に刺青入れてました」
「――成程」
双識の顔が真剣な面持ちへと変わる。いや、真剣というよりは、渋い、困ったような表情である。
ガキで、顔面刺青。その上で殺人鬼。早蕨の次男と末っ子を相手に大立ち回りをやらかして、結果それを突破した『零崎』。それだけ訊けば双識にとって十分だった。
つまり――そういうことか。
これは弟がやらかした不始末か。
「……あの小僧。敵を生き残らせたのか」
なんて甘さだ。
気まぐれでそうしたのか、あるいは殺しきれなかったのか、それとも逃げられたのか知らないが……二人を敵に回して一人しか殺さないなど、零崎としては愚の骨頂だ。敵対した者は殺す[#「殺す」に傍点]だけではまだ足りない、それでは恨みと憎しみが残る。皆殺し[#「皆殺し」に傍点]にしてこそ――初めて恐れと慄きが生まれるのだ。
殺す者は殺すことでしか生き残れない。二人敵に回したときは二十人殺す、それが零崎一賊ではないか。そんなことも分からないか、あの愚弟。
「――納得いったよ。つまり動機は復讐か」
「古典的だと思いますか?」薙真はすり足で双識との間合いを詰める。返答如何によってはその場で斬撃を繰り出そうといわんばかりだ。「今時、そんな理由で人を殺すなんて――ましてあんたの言うところの『仕事』者が『零崎』と敵対するなんてのは、おかしいと思いますか?」
「――いや。全面的に支持するよ」
その言葉は双識お得意の韜晦でもなければ皮肉でもなかった。まさしく、心の底からの同意だった。否、同意どころではない、これはもっと積極的な感情だ。つい今しがたまで殺し合っていた目の前の青年が、一緒にされるのも嫌な『匂宮』の分家であるところの『早蕨』が、十年来の友人のように思えてきた。
妹のために、復讐。
零崎に敵対するという危険を冒してまで、己の主義を捨てて『探索用』に『空繰人形』を使用してまで――妹のために、復讐。
見事だ。
実に、見事だ。
美しい。
「…………」
勿論。
しかしそれは、だから殺さないとかだから殺されてやるとか、そういうことではない。
「薙真くん。一つだけ質問させて欲しいのだが――どちらが先に手を出したんだい?」
「あ?」
「いや、失礼。そんなことは関係ないな。どちらから手を出したにしろどんな事情があるにしろ、君の妹を私の弟が殺したという事実は変わらない、同じことだ。弟の不始末は兄の不始末――茶化すのはやめだ。真面目に相手をしよう」
言って双識は『自殺志願《マインドレンデル》』を連結している中心の螺子を外し――がきん[#「がきん」に傍点]、と、二枚の刃へと分解した。
そして一方を右に、一方を左手に。
両手に刃物を構えた。
「――くす」薙真が笑う。「少しは武器らしくなったじゃないですか――マインドレンデルさん。けれどひと振りだろうがふた振りだろうが、そんな短いのじゃ、どうやったって僕の首にゃ届きませんよ」
「なあに、方法はあるよ、右京亮くん」双識はにやりと笑って、一歩を前に進む。「このままきみの間合いに這入り――まず[#「まず」に傍点]はきみの斬撃を、右から来れば左ので受け、左から来れば右ので受ける。続いて[#「続いて」に傍点]あまったもう一振りを――きみの喉笛目掛けて投擲する[#「投擲する」に傍点]」
「…………投擲?」
「きみの妹の話がヒントだよ。飛び道具[#「飛び道具」に傍点]なら、間合いもへったくれもないだろう。無論ナイフの投擲ではきみの棒術の前に弾き飛ばされるのが落ちだろうが、交差攻撃《カウンター》ならばその心配はない」
ナイフとは斬ったり刺したりするだけがその使い道ではない。スローイング用の投げナイフだって数多く存在しているし――解《ばら》して形状を鋏でなくした『自殺志願《マインドレンデル》』ならばその用に十分に足る。
課題があるとすれば薙真の斬撃を片側だけの鎬で殺さなくてはならないという点――それも今までの戦闘で散々痺れてしまったこの腕で、受けなくてはならないと言う点だ。双識だってそれは十分に分かっているし――無論、薙真にだって見えているだろう。
「その『まず』ができると思いますか? カウンター……確かに悪くありません。攻撃せんとするときには必然受けの方に隙ができるというのは、俗説の通りですからね。けれど――それはそちらにもいえることです。攻撃せんとしながらに防御することがどれほどの難易度か、不理解というわけではないでしょう?」
ましてこの僕の攻撃を――と薙真は言う。
関係ないよ、と双識は更に寄る。
「今こうして策戦を口に出したのは、きみに敬意を表したからさ。もうここから先に言葉はいらない。きみは私を存分に殺せ。私はきみを存分に殺す」
それが――最後の言葉。
双識は一気に、薙真の圏内にと侵入した。攻撃を誘うように、ではない。ここで薙真が攻撃を躊躇うようならそのまま両の刃で喉元と心臓を同時にえぐらんと既に刃物を構えた状態で、飛び込むように薙真の圏内に這入った。
「う……く!」
薙真は退くべきなのか押しのけるべきなのか、一瞬だけ迷うように身体を震わせたが――しかし「おおおおおおおおおおおおお!」と、決意の咆哮をあげ、薙刀を繰り出した。
ただし斬撃ではない[#「ただし斬撃ではない」に傍点]。
突撃[#「突撃」に傍点]――だった。
右足を踏み込んで。
その刃先を双識の心臓にむけて。
斬撃には軌道というものがある。薙刀のように威力と速さに重点を置いたその武器では、中途でその軌道を変化させることが難しい――ゆえにその軌道が読み易く、ゆえにその軌道が受け易い。避けることは難いかもしれないが、一撃一撃の防御自体は不可能というほどのものではないのだ。しかしそれは弱点というほどの特徴とは言えない――その防御ごと打ち砕くのが、薙刀という武器なのだから。
が、斬撃主体の武具とはいっても、先に部屋で伊織相手にしてみせたように、刺撃の技も存在する。その上薙真は棒術や杖術だけではない、槍術だって十分に手だれている。斬撃になれた敵に対して不意打ちとして出すには最適の技だった。
剣道でもそうなのだが――突きという技はそれに対する防御がない。杖や生身の拳ならば『捌く』という手段があるが、刃物相手にそれをするのは危険である。防御するにはミートポイントが小さ過ぎるのだ。まして薙真の突撃はナイフなどで捌ける威力ではない――
「やはり[#「やはり」に傍点]突いてくるか――」
と、双識。
「――ならば[#「ならば」に傍点]避ければいいだけだがね」
双識はその大薙刀の刃先をくるっと螺旋するように躱し[#「躱し」に傍点]――一瞬、自分の間合いにまで、薙真に接近した。
「――――え?」
唖然としたような薙真の声。
それはそうだ。これまで一度だって双識は薙真の斬撃を躱さなかった。速度においては圧倒的に薙真の方が優勢だったのだ。まして直線距離で繰り出す不意打ち、捌かれることがあっても躱されることなどありえないはずだった。
しかしその認識は半分正しく半分は過ち。双識が先ほどまでの攻撃を躱せなかったのは演技でなく本当だが――それは大薙刀ゆえの遠心力があってこそ。てこの原理すら登場しないただの突きなら――そしてそれが不意打ちでなく予測できていた突きだったのなら[#「そしてそれが不意打ちでなく予測できていた突きだったのなら」に傍点]、双識にとってそれは躱せない速度ではなかった。
更にもう一点。
『突き』という攻撃は――今までの斬撃と違い、攻撃手は攻撃後に極端な半身の姿勢になってしまう。右脚か左脚、どちらかを極端に[#「極端に」に傍点]踏み込まなければその突撃に十分な威力がこもらないからだ。ならば――
「踏み込んだ反対側[#「反対側」に傍点]に這入り込めば――棒術による近距離防御が一瞬だけ[#「棒術による近距離防御が一瞬だけ」に傍点]、遅れる[#「遅れる」に傍点]」
双識の狙いは交差攻撃《カウンター》ではなかった。
双識の狙いは牽制《フェイント》だった。技の連動《コンボ》の難易度が高い『突き』を出させることこそが、双識の真の狙いだった。
「――くっ!」
早蕨薙真は脚をクロスさせながら薙刀を構え直そうとする。けれどそれは零崎双識が『自殺志願《マインドレンデル》』を組み直すのよりもまだ遅い。
「早蕨薙真くん」
双識は言う。
「きみは『合格』だ――圧倒的に正しい、まさしく『正義』そのものだ。その正しさを胸に抱いたまま、私に殺されて死ね」
『自殺志願《マインドレンデル》』の片刃が、身体をこちらにむけたところの薙真の胸に、深々と刺さった。
[#画像=「image\人間試験5.jpg」]
町内のゲームセンター。
「――よお」
丁度ゲームオーバーになったところで、柘植慈恩は後ろから声をかけられた。
そのときの慈恩は酷く不機嫌だった――彼が密かに思いを寄せていたクラスメイトの女子(赤いニット帽を頭にかぶった、可愛らしい女の子〉が、他の男子(スポーツマンぶった、むかつく男《ヤロー》)に連れられて下校していくシーンを目撃したというとても個人的な理由で、酷く不機嫌だった。
不機嫌にかまけて、夜になっても帰宅せず、バイトもサボってゲームセンターで適当に時間を潰していたのだ。そこを知らない奴から声をかけられるなどというのは慈恩にとって鬱陶しいだけのことでしかない。
けれど慈恩は振り向いたところで驚く。それは知っている顔だった。いや、知りはしないが、聞いたことのある顔だった。それも昨日聞いたばかりの顔である。
背はあまり高くない。染めて伸ばした髪は後ろで縛られており、覗いた耳には三連ピアス、携帯電話用のストラップなどが飾られている。それより何より眼を引くのは、スタイリッシュなサングラスに隠された、その顔面に施された――禍々しい刺青だった。
「――よおっつって挨拶したつもりなんだけどな、俺は」
「――あ、ああ」慈恩は動揺を隠して答える。「な、なんだ? なんだお前」
「俺? 俺はそーだな、ま、人間失格ってところかな?」わけの分からないことをいって、顔面刺青の少年は肩を竦める。「お前に声をかけたのはよ――なんっつーか、ちょいと道を訊きたくてな――つっても別にお前から人生を説いてもらおうとかそういうことじゃない。かはは」
っまらないことを言って(いや、マジでつまらねえ)、一人で笑う顔面刺青の少年。やけに無邪気な、人懐っこい笑顔だった。慈恩が反応に困っていると、顔面刺青の少年は切り替わったように真剣な表情になり、「実は兄貴を探してるんだ」という。
「特徴的な阿呆だから眼につくはずなんだよ。阿呆みてーに背が高くて阿呆みてーに手足が長くて、阿呆みてーに格好悪いオールバックに阿呆みてーに似合わない背広、阿呆みてーに古めかしい銀縁眼鏡。んでもって阿呆みてーに危ない鋏を持ってるんだ」
「――あ、えっと――そういう奴なら、昨日――見たぜ」迷いつつも正直に答える慈恩。
「この辺で、弟を探してるって――」
「そうかいそうかい。弟を探しているってかい。そいっはなかなか――傑作だぜ」
がはは、と顔面刺青の少年は笑ってみせる。
「どこにいるか分かるかい?」
「いや、そこまでは、ちょっと……」
「そっか。そんじゃ、もう少しこの辺うろついてみるかな。あんがとよ、これ、お礼」
びん、と弾いて、こちらにコインを投げよこす顔面刺青の少年。ゲーセン用のメダルかと思ったが、それどころか十円玉だった。メダル一枚よりもまだ安い。
「――十円?」
「阿呆、よく見ろ。ただの十円玉じゃない。なんと驚き、ギザ十だぜ?」
「……ありがと」
「いやいや。心配すんな、俺は気前がいいんで有名なんだよ」
んじゃあな、と言って顔面刺青の少年は慈恩に背を向ける。
その瞬間だった。
十円玉を受け取った慈恩の右手――その一寸下の右手首がぱっくり[#「ぱっくり」に傍点]と裂け、そこから溢れるように真っ赤な鮮血が流れ出たのだ。
「ひ[#「ひ」に傍点]、い[#「い」に傍点]、いぃいいいいい[#「いぃいいいいい」に傍点]!?」
「ん?」
その悲鳴に顔面刺青の少年はこちらを振り向く。
「……あ。あちゃ、悪い。殺しちまった」
その言葉と同時に。
手首だけではない、身体のあちこちが同時に裂けた。一体どこにこれだけの量が詰まっていたのかというような血流が、慈恩の身体中から溢れ出す。
「あ。あああああ!」
「そーんなじゃらじゃら[#「じゃらじゃら」に傍点]と金属《エモノ》飾ってるからだぜー? あー……ま、ほんじゃ、俺、急いでるから、ばいび」
気さくな笑顔でそれだけ言って去っていく顔面刺青の少年。その小柄な後ろ姿は、すぐに慈恩の視界から消えていく。いや、そうではない。眼球すらも裂けてしまい、単純に視界が暗闇に包まれただけだ。
慈恩はその場に、椅子やゲームの筐体《きょうたい》を蹴飛ばすように倒れ伏せ――
「――あ、あ――あ」
最後の意識で考えた。
ああ、成程。
あれが――今のが。
出会えば『死』ぬ――
かかわっただけで『死』を意味する。
『悪』という、概念か。
[#地付き](早蕨薙真――合格)
[#改頁]
[#ここからゴシック]
第六回
たこえぱさ……『ライ麦畑でつかまえて』の影響を受けていない人間なんて僕らの世代には一人だっていないだろうけと……でも、その大半って、野崎孝のファンなんじゃないかって思うんだよね。それが悪いっていうんじゃなくて……つまり『物事の表面を見る』っていうのは、案外穴事だこ思うんだよ。
[#ここでゴシック終わり]
『もしもの話……つまりはただの妄想ゲームだけどよ――俺と兄貴がサシで殺し合ったら、どっちが生き残る?』
弟が問う。
兄が答える。
『どちらが生き残るかというのならば間違いなく俺だろうが――どちらが相手を殺傷しうるかというのならば、それは間違いなくお前だろうな』
『へえ。そいつはどうしてだい?』
『兄を殺す弟というのはいても、弟を殺す兄というものは存在しないからだ』
『そーでもねーだろ。こんな世の中なんだからさ、弟を殺す兄だってどっかにゃいるだろうぜ』
『弟を殺す兄。そんなものはもう存在として兄とは呼べないのさ。そいつは最《も》早《はや》人ではないし、そいつは最早鬼でもない。ただの獣か――あるいは化け物さ』
『はあん――獣か化け物か』
そいつは――傑作だ。
そう――
確かあいつは、そう言った。
双識は、それを憶えている。
ただ。
今の自分の状況を思えば――弟相手に生き残れるかどうかという問いにすら、頷《うなず》けるかどうか疑問だった。
マンションの開かれた屋上で零崎双識は一人――大の字になって寝転んでいた。大鋏《マインドレンデル》を右手にくるくると回転させながら。そのスーツの袖が僅かに、真っ赤な鮮血で汚れている。つい先ほどまでここで死闘を繰り広げた――薙刀遣い、早蕨薙真のものだ。
その薙真の姿は、今はもうない。
「――一日の内に二度も、捕捉した目標《ターゲット》に逃走を許すとはね――『二十人目の地獄』も今は昔、か」
少し自虐《じぎゃく》的に眩《つぶや》く。
いや、しかしこれは本当に驚きだった。
双識は間違いなく薙真の胸に鋏の刃を突きたてたというのに――それはあと一センチでも食い込めばもう致命傷になったというのに――そんな時点からの逆転がありうるとは、想像もしていなかった。
「というより――胸に刃物が刺されば普通はそこで諦めるものだ。それでも尚闘争の意志を失わずに脱出するとは――全くもって大したものだ、薙真くんは」
無論、それだけではない。『生きる意志』『戦う決意』などという精神論的なものだけで生き残れるほど、零崎双識は『敵』として甘くない。薙真が双識から逃げ切れた最大の理由は――彼が突撃を繰り出すときに右足から[#「右足から」に傍点]踏み込んできたことだ。当然それを回避する双識は自分から見て薙真の左側[#「左側」に傍点]に入り込まねばならず――『自殺志願《マインドレンデル》』での攻撃動作は右手[#「右手」に傍点]で行うことになった。
右手。
それは夕方、伊織によって傷を負わされた側の手だ。大したことのないほんのわずかな怪我ではあるけれど――その大したことのないほんのわずかの差異が双識を挫《くじ》き薙真を救った。果たして早蕨薙真は致命傷を逃れ、マンションの屋上から飛び降り、零崎双識からの逃走に成功した。
「うふふ――逃げてもいいとは言ったものの、逃がすつもりなんてさらさらなかったのだけれどもね――」
省察を終えて、双識はその針金細工のような身体をバネ仕掛けのように跳ね上げ、寝転んだ姿勢から一気に立ち上がる。大鋏をくるりと血振りし、背広の内へと仕舞った。
「参ったな。ああいう種類[#「ああいう種類」に傍点]は零崎双識にとって不得手だ。実力が格下でも資質が低序列でも、そんなこととは交渉なくぎりぎりで生き残れる[#「ぎりぎりで生き残れる」に傍点]『戦士《ベルセルク》』――そんなものは最早概念として『|生きる屍《リビングデッド》』に近い。零崎双識は殺人鬼だ。死体なんぞを殺せるものか」
こんな状況を、あの脳みその足りない弟ならば『傑作だ』などと評するのだろうが、残念ながら双識には苦境を楽しむような趣味はない。こちらの手の内をある程度まで晒《さら》してしまった今、早蕨薙真は――そしてその『兄』は――圧倒的なまでに警戒しなくてはならない、どうしようもないくらいの『敵』だった。
「『妹』が殺された――と言っていたかな。時間があればその辺りの事実関係を調べておいた方がいいかもしれないね。――っと、その前に伊織ちゃんだ。あのまま放っておけば背骨がぽきぽきっといい感じに折れちゃうからな」
思い出したようにそう言って、踵を返す双識。扉を開けてマンション内に戻り、階段を降りる。口笛なんかを気楽そうに吹いてはいるが、その頭の中では今後の対策をめまぐるしく考えていた。
――とにかく一度接敵した以上、早蕨薙真は『敵』だ。双識の『敵』ということではない、『零崎』としての『敵』――万難を排して満を持して抹殺しなくてはならない。たとえ背後にどんな事情があるとしても、だ。
同時に伊織の問題もある――問題としてはこちらの方が厄介《やっかい》だ。『零崎』集合外の『零崎』を相手にするのは弟のとき以来二度目だが――彼女の場合、概念としてはともかく存在としては、まだ人を殺していない以上、『殺人鬼』とはいえない。弟のときのケースもあれはあれで特殊といえば特殊だったが、少なくとも奴の場合、双識と出会ったとき既に『人を殺すもの』だった。しかし伊織の場合は。
「ま、この私と――他の『零崎』と接触してしまった以上、共振作用でがんがんどんどん進行が進むことだろうけれどね……朱に交われば何とやら。可能性やら希望やらの言葉を使うには、やはりいささか頼りない」
そして更に、元々の双識の目的――弟の探索の方は完全に停止している状態だ。これで合わせて課題は三つ。双識の身体が一つしかない以上、何かを優先させ、どれかを後回しに、いずれかを二の次にせざるを得ない。
「無理をせず合理的に助っ人を呼ぶのが手っ取り早いのかもしれないね――だが目標に二度も逃げられたなどという恥を晒すのも、私としては避けたいところだな」
ぶっぶっと眩きながら、伊織を残してきた部屋の玄関を開ける。すぐそこのリビングに伊織が縛られて倒れている――はずだったのだが。
リビングには誰もいなかった。
「…………んん?」
双識は首を傾げながら靴も脱がずに室内に入る。隅々まで確認してみても、やはり誰もいない――が、その広々と閑散とした部屋の白い壁に。
『早蕨』の二文字が刻まれていた。
刃物で削られたかのような荒粗《あらあら》しい文字。
それだけで十分だった。
「……長兄が太刀遣い――だったか。おやおや」双識はさして慌てたそぶりもなく肩を竦める。「ひょっとしてこいっはあれかな? 伊織ちゃんは誘拐されてしまって――双識さんはそれを助けに行かなくちゃならないってシチュエーションってわけなのかな?」
手の込んだことだ。
あの薙刀遣い――道理であっさりと逃走したと思った。勝てるようならあそこで決着をつけてしまってもよかったが、取り立てて性急に勝負を急ぐ必要は、あちらにはなかったということか。
「ならば伊織ちゃんの手足を縛っておいたのは逆の意味でも妙案だったわけだ――下手に抵抗しなければ余計な負傷もせずに済むだろう」
無事でいるのかどうか――は分からないが、そこは早蕨の長兄に期待するしかない。しかし彼らの目的が双識単体ではなく『零崎』総体である以上――伊織もその標的の一部には違いがないのだ。五体満足を期待するのは無闇かもしれない。
「ま、悪くとも拷問《ごうもん》に遭って腕の一本脚の一本でももがれる[#「もがれる」に傍点]程度だ――人質なんてのは命が無事でなくては意味をなさないからな」物騒なことを平然と眩き、双識はリビングを後にする。「しかし――ここまで本格的に『零崎』に敵対しようとは、随分と圧巻なる『正義』だ――意地でも一人でこの手でこの刃で、直式《じきじき》に片付けたくなってきたよ」
そして双識はリビングの隣の部屋の扉を横に開いた。途端、その部屋の中からむわっとした臭いが漏れてくる。
血と――肉の臭いだった。
部屋の中には四体の死体があった。
可能性も希望もない、ただの四つの死体。
「伊織ちゃんの父親――母親――お姉さん――これは弟かな? お兄さんかな? 判然としないね」死体を一つずつ検分する双識。「全員薙刀で一斬りか――ま、あの薙刀術。素人さんではひとたまりもないだろうからな」
四つの死体から再度距離を取る。双識は黙祷するように、彼らに向けて手を合わせた。そのまま一分ほど静寂し――やがて、神妙な表情で、双識は口を開いた。
「あるいはあなた達のような家族に囲まれていたからこそ――彼女は今まで健全に生きてこられたのかもしれません。多分彼女にとって――彼女のこれからにおいて、あなた達と過ごした十七年は、かけがえのない、他の何とも代理が利かない――輝いた価値のある宝石に位置づけられることでしょう。彼女をここまで『守って』くれてありがとうございます――」
双識は四人に背を向けた。
伊織――赤いニット帽の少女。
彼女の日常は、本日、転換した。
それはもう誰の責任でもない。早蕨兄弟のせいではないし、あちらに言わせればことの原因であるらしい双識の弟のせいでもないし、無論双識のせいでもないし――多分、彼女自身のせいですらない。
だけど。
彼女がここまで日常にあれたのは、この四人のお陰だ。それだけは――間違いがない。
「あなた達はそれを誇っていい――私はそれを尊敬する。あなた達は間違いなく満点での『合格』です――だからここから先は、この私に任せてください。あなた達の大事な『家族』は――私の『妹』は、私が守ります」
リビングに戻って、双識はその壁にかかっている電話の受話器を手にする。すばやく二十四桁の番号を入力し、目的の相手に繋げる。
「――ああ、少しばかり面倒というか……厄介なことになった。これからこの街で本格的に動くことにする――後の「処理』はよろしく頼むよ。人外同士の殺し合いだ、構うことはあるまい。どちらが死んだところでマイナス一だ、あんたらにとってそれは好都合だろう。共倒れればマイナス二なんだからな。あんた達は情報を操作してさえくれればそれでいい……では頼んだよ、氏神《うじがみ》さん」
通話を終えて受話器を置き、双識はその手で『自殺志願《マインドレンデル》』を取り出す。それは彼が今の時点から臨戦態勢に入ったことを意味した――恐らく、伊織を無事内に助け出し、早蕨兄弟を絶殺するまで解かれることのない、臨戦態勢に入ったことを意味した。
始まった零崎は敵が消滅するまで終わらない。
◆ ◆
「――ううううううう」
伊織は唸っていた。
別に意味はない、唸ることくらいしかすることがないだけだ。その気になれば叫ぶことも怒鳴ることもできるけれど、それは体力を使うのでやらない。省エネ精神は大事だ、限られた体力を有効に。
気がついたときには、両手を縛るゴム紐と両足を縛るゴム紐を連結していた三本目のゴム紐が解かれていて、伊織は随分と楽な姿勢になっていた。ただしそれはあくまで比較しての話であって、状況そのものがよくなっていたとは言いがたい。
ゴム紐で縛られたままの両腕を縄か何かで天井に吊るされて――足が宙に浮いた状態で、伊織は拘束されていた。自身のニット帽を少し前にずらされ、目隠しまでされて。
「……き、『緊縛女子高生』ッ!」
身体を張ったギャグも、聞き手がいなければ虚《むな》しく響くだけだった。
客観的に判断する限りにおいて、どうやら誘拐されてしまったらしい。目隠しをされていてもここが自分のマンションでないことくらいは分かるし――記憶に残っている最後の意識で、双識でも薙真でもない第四の登場人物が現れたことは、しっかりと認識していた。多分あの男――男だったと思う――に何らかの手段で気絶させられ、ここまで(どこだろう?)連れてこられた――という流れなのだろうと思う。三本目のゴム紐を切ったのも、ならばその男の仕業か。
「それだけは感謝してもいいですね……」
しかし天井から腕を吊られて足が着いていないこの現状も、キツイといえば相当にキツイ。伊織は身長に比して言うなら体重の軽い方ではあったけれど、それでも腕が千切れてしまいそうだった。
全く……。
どういうこと、なのだろう。
もう悩むことすら馬鹿馬鹿しい。
それでも無理矢理仮説を立てるのならば――あの男は……多分あの和装の薙刀遣いの仲間なのだろう。双識がそんなことを眩いていたような憶えがある。太刀遣いの兄がいるとかなんとか。おぼろげな記憶を頼る限り、伊織を誘拐した男は日本刀を提げていたように思う。
『零崎』と『早蕨』。
抗争のようなもの――なのだろうか?
よく分からないが伊織は『零崎』サイドに属するらしいから――ならばこの状況は非常に危ういということになる。何せ『敵』の手中にあるというのだから、もうまな板の鯉《こい》もいいところだ。
「………………」
それでも伊織には、どこか危機感が足りなかった。というより……心中のどこかに、安心している部分があった。それはたとえるなら『どんな状況にあろうと、きっとあの人が助けにきてくれるから大丈夫――』というような安心感だ。
つまり零崎双識。
あの針金細工だった。
どうしてだろう? いつの間にわたしは、あの人のことをこんなに頼りにしているのだろうか? そんな機会など一度もなかったはずだ。第一印象は『変態』以外の何物でもないし、その後だって似たようなものだ。ひょっとしたら屋上であの薙刀遣いに殺されてしまっているかもしれない。交した会話だってほんの僅《わず》かなもので、信頼するに足る機会など皆無だ。
なのに。
伊織はこんなに、彼を信頼している。
助けてくれると信じている。
「………………」
まるでそれは家族のように。
何もしなくとも――どんな理由もなく――何も原因もなく――
むしろその対極でありながらも――
当たり前のように、信じている。
思えぱ最初のときからそうだったのかもしれない。あの高架下で靖道を刺したときだって、今みたいに危機感に欠けていたけれど……原因は同じなのかもしれない。
そうだとしたら驚きだ。
伊織は――出会う前から、双識を信じていた。
「――何ていうのかな……こういう気持ちは」伊織はくすりと――笑みを漏《も》らした。「なんっつーか……『滑稽』じゃなくて――そう。『傑作』――だよね」
そのとき、ぎぃい[#「ぎぃい」に傍点]、と金ヘヘへ属のすれるような音がした。恐らくは蝶番《ちょうつがい》の軋《きし》む音――誰かがこの部屋に入ってきたのか。いや、それはここが部屋だと仮定したらの話だ。伊織が吊るされている場所が室内とは限らない、こちらこそが屋外で誰かがどこか屋内から出てきたという線もある。空気の停滞具合からすれば前者なのだが、目隠しをされている伊織にはそれを自信を持って断言することはできない。
現れたのは日本刀を提《さ》げた男だった。
髑《どく》髏《ろ》マークの入った野球帽をかぶり、ごてごてとした紫色のサングラスをかけている。口元が隠れるくらいに襟の立った|だぼだぼ《ヽヽヽヽ》のトレーナーに、同じく三サイズは大きいのではないかというくらいの茶色いハーフパンツ。それに底の分厚い派手な装飾のバッシュ――更に身体中を彩るアクセサリーの数々。その全てが、左手に提げている日本刀と驚き呆れるまでにそぐわない。
無論伊織にその姿は見えない。再び|ぎぃい《ヽヽヽ》という音がした。扉を閉めたらしい。そのまま足音が近付いてくるのが分かって――そして伊織の近くで止まる。
【――随分と余裕のある顔をしている】
何か言われるが、伊織にはその意味が分からない。構わず、日本刀の男は続ける。
【成程――これが零崎一賊か】【真に壮絶――しかし殺人鬼同士の信頼ほどに汚らわしいものなど存在せん】
【実に――最悪だ】
「…………?」
「俺は早蕨|刃渡《はわたり》という――敵対する者はことごとく『紫に血塗られた混濁』などと呼称するがな」
「…………」
その二つ名を聞く限りにおいて、伊織の先の展開は暗闇に近い模様だった。
「え、えーと、ですね」伊織は混乱しながらも口を開く。とにかく沈黙はまずい、沈黙は。相手のいいように話をもっていかれてしまう。それは双識や薙真を相手に学んだことだ。
「あの、まずここから降ろしてもらえないでしょうか? わたくし、見ての通り細腕の少女です。か弱いんです。実は病弱ですし、ごほ、ごほ」
「………………」
相手が沈黙してしまった。
だけどめげないそ。頑張れ自分。
「ごほ、ごほ……ゴッホ!『ひまわり』!」
ひまわりのような笑顔を浮かべてみた。
反応はなかった。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「お前は餌《えさ》だ」やがて、何事もなかったかのように男――刃渡は言う。「『二十人目の地獄』を呼び出すための餌――餌は吊るしておかねば意味がない」
「そんな……ブラックバス釣ってるんじゃないんですから……」
「それにしても珍奇。『零崎』は生来の者にして生来の物ではない。その事実、知ってはいたが、こうして『変異』していく経過を我が目で見る機会があろうとは思いもしなかった」
「人を天然記念物みたいに言わないでくださいよう……」伊織はふるふる首を振る。「それより、えーと、刃渡さん。あの薙真って人は、あなたの弟さんなんですね?」
「然り。不肖の弟だ――」刃渡は言う。「恐らくはもうじきにここへと戻ってくるはず。弟の力を軽く見るつもりはないがそれでも『地獄』相手に勝利を収めることはなかろうよ」
やはり兄弟か。そうと言われてみれば確かに声色なんかはそっくりだ。けれどもその態度は全くの真逆、あの軽佻浮薄《けいちょうふはく》っぽい薙真の部品はこの男のどこにも感じ取れない。
「……『地獄』っていうのは双識さんのことですよね?」
「然り。貴様の『兄』だ」
「…………」
双識が伊織の兄だというのはどうやら暗黙の事実のようだ。未だに認めていないのは伊織ただ一人だけらしい――いや、その伊織にしたって、半ば認めてしまっているようなものなのか。
少なくとも、自分は何か変わってしまっている。昨日までの自分なら、宙に吊るされたりなんかすれば泣き喚《わめ》いていたことだろう。
それはどういうことなのだろう?
泣かなくなった。
それなら強くなったのか?
それとも弱くなったのか?
「な――なんで双識さんを狙うんですか?」
「標的は『零崎』そのものだ。いわば貴様もその範疇《はんちゅう》内。生きたままその縛《いまし》めが解けると思うな」
「……あ、あはは、あの、その台詞、『いずれ伊織ちゃんを殺しちゃうぞー』って意味にも取れるんですけれど」
「この文章をそれ以外に解釈できれば貴様の日本語能力も大したものだ」引き攣ったような薄ら笑いの伊織に対し、にこりともしない早蕨刃渡。「『零崎』は総勢わずか二十四人の小集団だ――貴様を含めるならば二十五人だがな。全員を殺滅することはそれほどの難易度ではない」
「…………」
二十四人の殺人鬼集団というのも大概のように思えるが、しかしそれを全滅させると言ってのけるこちらの刃渡もなかなか尋常ではない。
「何人かの不明瞭な者を除けば『零崎』の内一、二を争う実力者の名が零崎双識……『二十人目の地獄』、マインドレンデルだ。逆に言うなら奴を殺滅しうるようならば『零崎』殺戮《さつりく》も不可能とはいえまい」
「な、なんでそんなことするんですか……漫画とかじゃないんですから、殺し合いなんて」
「――――」
何故そんなことをするのか、という問いに対しては、刃渡は答えない。それは今までの何故そんなことをするのか、という問いに対しては、刃渡は答えない。それは今までの沈黙とは違う、頑《かたく》なな拒絶を感じる沈黙だった。
答えたく、ないのだろうか……?
何にしろ、沈黙はまずい。
「そ、その……じゃ、話題を変えましてー。えっと、ここ、どこなんですか?」
「教えると思うか。そのようなことを」
「で、でもですね。わたしを誘拐しても、場所が分からなければ双識さんも助けようがないじゃないですか。ないですよね?」『助ける』ことが前提のような物言いに、自然となっている自分に気付く。ああ、もう、なんでなのだろう。「だから、せめて大まかな場所だけでも……」
「その心配は無用。『零崎』は同志で同士、『共鳴』――『共振』か、共振し合う。大まかな場所ならば俺が出向いてわざわざ知らせるまでもない。放っておいても向こうから勝手に突き止めようよ」
「…………」
「『零崎』全員に共通して言えることだが、マインドレンデルは相当に自信家。奴ならば誰の助けも借りずに一人でここにまでくることだろう――そのときこそ『地獄』、『最悪』の終焉の刻だ」
「……あなたの方こそ、随分と自信家さんじゃないですか?」
『ないですかあ(↑)』と、強引に挑発するようなイントネーションで、伊織は刃渡に言った。とにかく、このままではまずい。刃渡は今にも会話を終えてここから出て行ってしまいそうな雰囲気だ。縛られている伊織に出来ることといえぱ会話をすることくらい……ならば出来る限り刃渡から情報を聞き出さねばならない。刃渡の怜悧冷徹、冷静沈着な態度をまず崩さねば。それは場合によっては危険な行動かもしれないが、危険というなら今だってもう十分に危険な状態だ。
「あなたの弟さんだってひょっとしたらもう殺されちゃってるかもしれませんしー、あなただって、双識さんに勝てるとは限りませんよ? わたしを人質に使ったところで、果たしてどれだけ効果があるか」
「…………」
お。返答がない。効いているのか? 効いているのか? よし、畳《たた》み掛けろ。和平交渉をするのだ。
「何せ双識さん、あなたに言わせれば『最悪』なんでしょう? 最悪に勝とうなんて無理ですよ、無理無理」
「…………」
「さ。だから今すぐこの拘束を解いてですねー、わたしと仲直りをしましょう。大丈夫、わたし心が広いんです。何せ女主人公ですから」
「………………」
ここで『身も心もヒロインってか?』と突っ込ませて、ぎゃふんと一件落着というのが伊織の筋書きだったのだが、ものの見事に失敗、刃渡からは沈黙以外の何物も返ってこなかった。
「……それもいらぬ心配」
ざり、と立ち上がる音。ああ、どっか行っちゃうっもりらしい。せめて足の先くらいは地面につくようにして欲しい。
「俺にしたって『零崎』の恐怖は既知の内。ならば何の対策も立てずに向かうほどに愚かではない」
「……じゃ、あなたは双識さんに対抗する策があるってことなんですか?」
「最小、二つある」
「……その内ひとっは、わたしですか?」
「否。貴様など保険に過ぎん……とても策とは言えぬ。それに貴様はマインドレンデルだけに対する人質ではない、『零崎』総体に対する人質だ。非力な貴様ならそれに相応しい、そこでいつまでも『零崎』を招くのが貴様の役割だ」
「……わあ、最悪だあ」
「最悪いう言葉をそう簡単に使うな。吐き気がするわ」
冗談めかした伊織の返答に、少し語気を強めて刃渡は言った。どうやら『最悪』という言葉に、なにやらのこだわりがあるらしい。
「で、その二っの策というのは?」
「教えるわけがなかろうよ」
当然のようにそう答えられ、そして|ぎぃい《ヽヽヽ》と、扉の閉じられる音がした。
「…………」
取り残された伊織。
腕は痛いままだし、わけは分からないままだ。
全く、ヒロインとは思えない体たらくである。
「……ざ、『ザ・ハングマン』!」
無論、返答はない。
しかも図的に逆位置だった。
……意味は『無意味な犠牲』。
◆ ◆
早蕨弓矢――弓遣い。
早蕨薙真――薙刀遣い。
早蕨刃渡――太刀遣い。
一人一人では一長一短のある偏った武術しか使えない『早蕨』ではあるが、故事にもあるよう三人の能力を揃えればそれは無敵に近い実力を発揮した。それこそ『早蕨』の本家的存在である殺戮奇術集団『匂宮』にだって引けをとらないくらいに。
そう――三人揃えぱ『二十人目の地獄』だって物の数ではない。こんな手の込んだ真似などするまでもなく、零崎双識などなで斬りに出来ることだろう。
しかし。
今はその三角の一つが欠けている。
あるいは薙真なら否定するだろうが――一対一で勝てるほどに『零崎』は温《ぬる》くない。それは単体としての零崎双識についてではなく、そう、たとえばあのニット帽の小娘にしたところで同じだ。『匂宮』と『闇口』の後塵《こうじん》を拝しながらも尚『零崎』が『殺し名』の内で一番の恐怖と忌避《きひ》の対象である理由がそこにある。
だから。
だからこそ、策が必要となる――
「………………!!」
『零崎』の娘を監禁してあるその小屋から外に出たところで――早蕨刃渡は『|それ《ヽヽ》』に気付いて脚を止めた。刃渡は咄嗟に太刀を抜きかけたが――かろうじて思いとどまり、その刃を仕舞う。
「……来て頂けたのか」
低い声で『|それ《ヽヽ》』に問う。
『|それ《ヽヽ》』は――いるのかいないのか分からないようなあやふやな存在感でして、薄暗い中、かすかに人間の輪郭を保っている。いっからそこにいたのか分からないような不確かさをもってして、刃渡を窺うようにそこにいた。ぼんやりとしてその姿はよく見えない――かろうじて、着ているその衣服が赤色であるのが分かる程度だ。それ以外には全てが虚《うつ》で、何も判然としない。赤色は完全に、その存在を閉じていた。
「正直、当方としても期待はしていなかったのだが――」
刃渡はなんともなしに言葉を繋げるが、しかし警戒は解かない。いつでも刀は抜けるように構えているし、隠すことなく殺気を放っている。そうせずに対することは刃渡には不可能だった。
そんな刃渡に対し、赤い輪郭は「はっ!」と笑って、肩を竦める。刃渡の発する殺気に対しても、まるで怯《ひる》むところがない。
「『零崎』には個人的に一つばかし『貸し』があってね――それに、今のままじゃこの展開、圧倒的に『不公平』だろ。勝負《ストーリー》として面白みに欠ける」挑発するような――というよりはただ単に皮肉げな物言いで、赤い輪郭は言う。「不公平は是正しなくちゃね。弱きを助け強きを挫く――ってのが信条だ。末の妹を欠いた今の『早蕨』じゃ、マインドレンデルを相手にするのは難題だろうからよ」
「助太刀して――頂けるのか」
「勿論――|頂けるものさえ頂けるなら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、どんな難題でも請け負うってのも信条でね」
「……結構。では是非もない」
刃渡が頷くと、赤い輪郭は『にやり』とシニカルに笑って、唐突に消えた。丸っきり音も気配もなく。最初からここにいたのかどうかも怪しい、幻覚を見せられていたような気分だ。
構えを解いて、一つ息をつく刃渡。
【然り。敵に回すのも至《し》極《ごく》おぞましいが――味方に回すのも真に恐ろしい女よ……しかし確かに】
刃渡は至極つまらなそうに眩く。
【『最悪』の相手は『最強』しか不在だろうよ】
[#地付き](無《む》桐博文《とうひろふみ》――合格)
[#地付き](無桐|美《み》春《はる》――合格)
[#地付き](無桐|羽《は》燕《つばめ》合格)
[#地付き](無桐|剣《けん》午《ご》合格)
[#改頁]
[#ここからゴシック]
第七回
ある絵描きの話。
彼はある日事故で利き腕を切断してしまったんだ。こりゃついてないよね。けど彼はめげなかった。残ったもう一本の腕で、絵を続けたんだよね。そして彼は、益々の名声を得たんだ。
この話、どう思う?
ほくは、腕をなくす前に気付けよって思う。
気付かれない才能って、悲劇だよね。
[#ここでゴシック終わり]
赤色。
それは数ある色の中でもっとも人間が意識する色である。たとえば闘牛士が闘牛場ではためかせる赤い布、あれは闘牛よりも観衆を沸かせるための意図が強い。信号機における警戒色の例など、強いて挙げるまでもないだろう。
赤色。
概《おおむ》ねその色が暗示するのは『情熱』『勝利』『優勢』『祝福』『愛情』『熱血』――そして。
『強さ』である。
◆ ◆
「――目薬でうがいしたみてーな気分だな」
顔面の右半分に刺青をいれたその少年は、言葉の通りに心底不可解そうな表情をして、その首斬り死体を検分していた。
とある人気のない高架下、である。
その場所には今見ている学生服の首斬り死体の他にも六体ばかり、老若男女を問わない死体が転がっている。それらも同様に首を斬られているが、この学生服の首斬り死体に限っては、そばに本人のものだと思われる頭部が転がっていた。
「この手口《きずぐち》――間違いなく兄貴の仕業なんだけど……しかし首が六っも足りないのはどういうわけだ?」顔面刺青の少年は死体のそばにしゃがみこんで、更に詳しく検分を進める。
「つまり――兄貴は首を持って『どこか』に移動したってことになるんだが……しかし仮にそうだとして、その『どこか』ってのはどこだ? そして『どんな理由』があってそんなことをするか、だよな……ん?」
そこで何かに気付いたように、頭部を片手にっかんで、傷口同士をつなぎ合わせてみる。元々一つだったものが分割されただけなのだ、無論傷口はぴったりとくっつく――はずだったが。
一箇所、綺麗につかない箇所があった。
喉仏の辺りが|えぐられたように《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》欠けている。
「……こいつは西洋ナイフの傷だな。まるで兄貴の趣味じゃない――つーことはアレか? 兄貴でも|こいつら《ヽヽヽヽ》でもない『第三者』がここにいたってことなのかね?」
眩きながら顔面刺青の少年は辺りを探り、そこに凶器だと思われるバタフライナイフを発見した。ブレードが欠けてしまっていて、これではもう使い物にならないだろう。
「こんなナイフで致命傷を与えられるなんざ、そいつもタダモンじゃねえな。しかしその割にはどっか手口が素人《しろうと》臭い……矛盾《むじゅん》してる。まるで『素人の殺人鬼』って有様だな……。ふうん――さて、こういうときあの欠陥製品ならどんな『解答』を導き出すんだろうね――」
再びしゃがみ込んで、死体を観察する少年。
「兄貴が首を斬り落とすよりこっちの突き刺し傷のが先だな……と言うより、まるで最初の傷を隠す――『消す』かのように重ねて首を斬り落としたって感じか。つまりまずこの学生服のにーちゃんを『第三者』が殺そうとして――そこに兄貴が助太刀した? ふうん――あの変態野郎が助太刀する相手っつーと――」
ぶっぶっと眩きながら考察を続ける少年。
そんな少年の背後に、ゆっくりと忍び寄る影があった。服の上からでも筋肉が分かるような大柄な男で、その両手にバールのようなものを備えている。目が虚ろで、表情もはっきりしない。全く接近に気付いていない少年の後ろ、後一歩というところで彼は脚を止め――そこで口を開き、
「零崎一賊のものだ――|がばっ《ヽヽヽ》!」
……口を閉じることはなかった。
ん、と少年は振り向く。
そこには顔の半分から上を欠き、そこから噴水のように真っ赤な鮮血を流している、巨漢の姿があった。
「――っちゃ。悪い、殺しちまったか」
そして少年はこともなげに立ち上がる。
「とにかく――何か傑作なことが起こっていることだけは確かだ。仕方ねえな……俺もこんなことしてる場合じゃねーんだけどなあ」
面倒そうにそう言いつつも酷薄そうな笑みを浮かべ、顔面刺青の少年は七体の――否、たった今八体になった死体を後ろに残し、その場から移動した。
◆ ◆
伊織が家族と住んでいたマンションから十キロほど離れた場所に――その森林地帯は位置している。森林地帯といってもそんな大規模なものではない、森というにはいささか頼りなく、林というにはやや深い、山を背にしている所為《せい》で大《おお》袈裟《げさ》に見えるものの実際それほどの規模ではなく、子供が迷ったら出られないかもしれないが大人ならばまず迷うことからありえない、その程度の森林だ。
本来ならば。
|本来ならば《ヽヽヽヽヽ》、その程度。
地元では自然公園のような扱いを受けており、住民達の憩いの場を形成している――ということになっているものの、実際にこの森林に脚を踏み入れる者は皆無に等しい。皆無に等しいにもかかわらず、そこは『憩いの場』として認識されていた。その存在は誰もが認識しているのに[#「その存在は誰もが認識しているのに」に傍点]、しかしどうしてだか意識の外においている[#「しかしどうしてだか意識の外においている」に傍点]――ここはそういう空間だった。
「うふ――成程、『結界』か」
その森林地帯の入り口前で、零崎双識はくるくると大鋏を回転させながら、にやにやと笑っていた。
「それも昨日今日に用意された新規の『結界』ではない。うふふ、どうやらここで『当たり』らしいね――シラミ潰しに回るのは骨が折れそうだったけれど、あちらさんもさして隠れるつもりもないらしい」
あれから十二時間が過ぎていた。
太陽はとっくに昇り、雲一つない空からは強い日差しが降り注いでいる。これから行われることになる文字通り殺伐《さつばつ》としたイベントにはあまりにも不似合いで、健康的に過ぎる天候だった。
十二時間。
ここを探り当てるまで、期待していたよりは時間がかかったが、予想していたほどの時間はかからなかった。双識には同属本能とも言うべき直感、蛇の道を知る大蛇のように、伊織のいる場所をアバウトには特定することができるのだが、しかしそれをこうも早く発見できた理由は無論それだけではないだろう。十二時間の間にあちこちから情報を収集し、ここに至るまで三つの『外れ』を経験したし、『空繰人形』による妨害も多々あった。だからどちらかといえば手間取ったという印象の方が強いが――それにしたって、本気で『早蕨』が隠れようとしているのならば、こうも安易《やすやす》とは見つからない。
つまりここはアジトではない。
彼らが選んだ――決戦場所だ。
「相も変わらず『匂宮』の一派は古風なやり方が好きだね――その点、『闇口』なんかよりはよっぽど好感が持てるんだが」
さて、ではさしあたってこの『結界』をどうするか。双識は三分十二秒ほどその対策に思考を費やしたが、出した結論は『外から見てそれと分かる程度のものなら気にしなくても構わないだろう』だった。そもそも純粋なまじりっけなしの殺人鬼であるところの零崎双識は、そういった呪《まじな》い系統の知識が薄かったので、この結論は仕方がないといえば仕方がないものだったが、仮に双識がもう少し慎重でさえあれば、この『結界』にこうも不用意には侵入しなかっただろう。
実際のところ、双識は少し焦っていたのかもしれない。逃げられるはずのない相手に逃げられて、殺せるはずの相手を殺し損なった。そして守るべき者を守りきれなかった。
結局。
彼が『零崎』の中ですら変り種であるというその理由が、彼を更なる窮地《きゅうち》へと追いやることになる。
「では、行くとするかね」
かろうじて道が見て取れる森林の中に一歩脚を踏み入れると、途端、視界が悪くなった。生い茂った木々が太陽の光を遮っているらしい。まるで極相林《きょくそうりん》ような有様だが、こんな町外れの森林公園ごときでここまで樹々が生い茂るはずもない。やはりただの森林公園ではない――ならば何らかの罠があると見るべきか。『罠』を張って待ち構えるというのは『匂宮』の流儀ではなくむしろその対極だが、しかし既にその流儀を捨てて『空繰人形』を使用している『早蕨』だ、用心はしておくべきだろう。
「――ただ、妹を殺されたくらいでここまで手の込んだことをするかというのは実に疑問だな」双識は枝を払いながら道を選びっっ歩く。目的地は特に定めない、勘に従うだけだ。この森林の中には何箇所か休憩用の小屋があるはずだが、そこに伊織が囚《とら》われているとも限らない。ならば下手な基準は設けない方がいいというのが双識の考え方だった。考え方というよりは処世術と言った方がよいのかもしれない。「薙真くんはどうだか知らないが――お兄さんの早蕨刃渡はそんな感情的な人物ではないと聞いたしな」
それはこの十二時間、情報収集をしていた問に仕入れた知識だった。
『太刀遣い』早蕨刃渡。
三兄弟の中で彼だけは、世代交代するその前から『役職』につき、『任務』を遂行していたのだという。実質、今の『早蕨』のリーダーは刃渡であると考えて間違いないだろう。だがどう考えても、『零崎』に仇《あだ》なすというのは組織のリーダーが下す判断として正当とは思えない。勝ち残る見込みがあるのだとしても、払う犠牲が余りにも大きいし――わざわざ『殺し名』七名の均衡を崩す必要があるとも思えない。
たかだか妹一人のために。
「――んん。しかし家族愛が『零崎』の特権だと思うのも勝手な話なのかもしれないね……そんなことを言ったら、お話なんてのは大抵ご都合主義で勝手なものなんだけれど」
考えながら歩くにつれて、どんどんと道が頼りないものへと変貌していく。既に獣道とすら言えない。だがそれは自然の成長した結果というよりはどこか人工的かつ作為的な匂いのする印象だった。
「成程――確かにここは人外同士の『決戦場所』に相応しい。ただし薙真くんの大薙刀はいささか扱いにくそうだな」
どころか日本刀だって使いやすいとはいえないだろうし、むしろこの密林状態は双識の『自殺志願《マインドレンデル》』に有利だ。超接近戦での泥仕合こそ、零崎双識の腕の見せ所である。それくらい相手にだってわかっているだろうのに、どうしてこんな場所を決戦場所に選ぶのか。馬鹿でもない限り、よっぽど自信のある『罠』――『策』でも準備しているのだろう。
「『策』ねえ――いつぞやの可愛らしい『策師』さんみたいなのだったら、私だって敗北のし甲斐《がい》があるんだがね――」
と。
三十分ほど歩いたところで双識は奇妙なものを発見する。行く手に見える、樹齢がかなりになると思われる極太の樹木で――そこに、釘で打ち付けられるようにして、一枚の赤い布がひらめいていたのだ。
何かの罠かと警戒するが、ただの布に罠も策もへったくれもあるわけがない。まさかあの布の向こうが異空間に通じているというわけもあるまいし。周囲の気配を窺《うかが》ってみるも、虫だのなんだのの下等生物が蠢《うごめ》いている息《い》吹《ぶき》しか感じ取れない。少なくとも『この場』に限っては、何の謀略もなさそうだ。
「うふ――なんだろうね」
近付いて行って、その布を手に取る。しかし何も起こらない。完全無欠に何の変哲もない、ただの木綿の布だった。
「んん……? 分からないな……それとも何かの比喩《ひゆ》かな?」
赤い布。
赤。
赤色。
それも、この赤は――
「ふうん……『死色の真紅』、か」
そこを――『|ぽん《ヽヽ》』と。
|後ろから《ヽヽヽヽ》肩を叩かれた。
当たり前の気軽さで、叩かれた。
「……|え《ヽ》?」
確認した――何の気配もないことは確認した。
なのに――誰が双識の肩を叩けるという?
双識はすっと振り向いて――
「 」
――零崎双識は口に出したことこそないものの、意識下に無意識下に『誇り』に思っていることがあった。
それはたとえどんな対象が相手であっても、どんな過酷な状況であっても、それに対して敵前逃亡を為したことがないということだ。『匂宮』『闇口』『薄野』『墓森』『天吹』『石凪』、誰を相手にしたときだって。敗北したことは何度もあるが、それだって『名誉ある敗北』、『意味のある敗北』ばかりであり、心の底から敗北を認めたことなど一度もない。戦略としての撤退の経験はあっても、本当の意味で、恐怖から『逃げた』ことなど一度もない――そういう『強さ』を、彼は『誇り』に思っていた。
誇り。
そして今零崎双識は。
その誇りを放棄する。
「|う《ヽ》、うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁああ[#「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁああ」に傍点]!」
臆面もなく悲鳴をあげ、彼は走った。
走って、
走って、
走って、
走って、
走って、
走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って狂って、
狂ったように逃走した。
道も何も関係ない。目の前にある木枝を薙ぎ払うのも忘れ、それが身体を打つのも構わず、とにかく方向も方角も何もなく、純然たる速度にだけ重点を置いて走った。
「|あ《ヽ》、|あ《ヽ》、|ああああ《ヽヽヽヽ》、|ああああ《ヽヽヽヽ》、|ひ《ヽ》、|ぐ《ヽ》――」
舌が絡んで言葉にならない。
知ったことか。
喉が詰まって呼吸ができない。
それがどうした。
木々が邪魔して髪が乱れる。
構うものか。
気がつけば眼鏡がない。
どうでもいい、どうせ伊達《だて》だ。
今は。
|今は《ヽヽ》。|今は《ヽヽ》。|今は《ヽヽ》。
|今は《ヽヽ》、|とにかく《ヽヽヽヽ》、|逃げなければ《ヽヽヽヽヽヽ》――
「ぐ、うあっ!!」
地面を這っていた木の根につまずいて体勢を崩す。しかしそこはさすがに零崎双識、顔面から無様に転んだりはせず、空中で前転するようにして尻から落ちた。しかしその表情に余裕は全くない。|がくがく《ヽヽヽヽ》と震えていて、正気すらも保っていなかった。そのまま転がるように移動して、近くの樹木の陰に身を隠すように背をつける。
「な、な――」
背広に手を入れる。『自殺志願《マインドレンデル》』を仕舞ってあるその反対側。取り出したのは煙草《たばこ》の箱とジッポー。震える手で煙草を一本取り出して、口に銜《くわ》える。
「――なんでなんでなんで」
|がし《ヽヽ》。|がし《ヽヽ》。|がし《ヽヽ》。
ジッポーをする。
けれど手が震えているからか、火がつかない。
「――なんでなんでなんで」
|がし《ヽヽ》。|がし《ヽヽ》。|がし《ヽヽ》。
火がつかない。
火がつかない。
|火がつかない《ヽヽヽヽヽヽ》。
「――なんで火がっかねえんだ[#「なんで火がっかねえんだ」に傍点]! ジッポーってのは火ィつけるための道具じゃねーのかよおおおおっ[#「ジッポーってのは火ィつけるための道具じゃねーのかよおおおおっ」に傍点]!!」
声を荒らげて怒鳴《どな》る。理性を失い、感情を乱し、それでも双識はジッポーをする。
|がし《ヽヽ》――と。
ようやく火がともる。
赤い赤い赤色の炎が、大きく現れた。
そして
その赤色の向こうに。
「眼鏡《ヽヽ》――|落としたぜ《ヽヽヽヽヽ》」
更に赤い――真紅の死が見えた。
[#画像=「image\人間試験7.jpg」]
|ぎぃい《ヽヽヽ》、と扉の開く音がした。
来た、と伊織は身構える。
今まで三度に亘《わた》り、刃渡と名乗ったあの男はここ(屋内? 屋外?)にやってきて、二、三質問をして帰っていった。どうやら男は伊織が何かを企んでいるのではないかと警戒しているようだ。勿論伊織に何かを企む頭などないのだが、相手が警戒する分には勝手だ。むしろそれを和平交渉のチャンスと見て、伊織の方が積極的に色々喋《しゃべ》っていたのだが、あちらさんは大体においてそれを無視してくれた。しかしもうそろそろ悠長なことは言っていられない。いい加減吊るされている腕の感覚はもう壊死《えし》してるんじゃないかというくらいになくなっていたし、もっと切実な問題として、おなかもすいたし喉も渇いた、お風呂にも入りたいしトイレにも行きたい。つまり女の子的な問題が次継《つぎつぎ》と頭角を現してきているのである。人質のこんな扱いが南極条約で認められているわけがない。
足音が止まった。
よし、ここで腹を据《す》えて一言、びしっと言ってやるのだ。
「あふり――」
ひゅんっと風が流れるような音がして、いきなり重力にひきっけられた。分かり易く言うと落下した。「ひ、ひあぅ!?」と悲鳴をあげる暇《ひま》もあればこそ、伊織は地面に脚から落ちる。それほどの高さに吊られていたわけではなかったらしく、衝撃自体はそんなにない。けれど目隠しをされているので恐怖は通常の三倍だった。
「わ、わわわ」
慌てて両手を地面につく。どうやら自分を吊っていたロープか何かが切断されたらしい――そして同時に両手を拘束していたゴム紐も解かれたらしい、両手を左右に広げて地面にっくことができた。混乱しながらあたりを手探り、そこにあった『何か』を反射的にっかみ、それから反対側の手で目隠しにずれていたニット帽を正常位置に戻す。
「………………」
どうやら、ここは簡易なプレハブ小屋の中のようだ。今まで目隠しされていた伊織の視力でも問題ないくらいに薄暗く殺風景で、中には椅子やらの他には何もない、そんな広くもない室内。窓はあるにはあったが内側から木片で打ちつけられていて、密室効果は完壁。やれやれ、道理で暑苦しかったわけだ。天井を見上げれば丈夫そうな梁が何本か走っていて、伊織はどうやらあそこから吊るされていたらしい。
「――|やはり《ヽヽヽ》、|そうなんですね《ヽヽヽヽヽヽヽ》」
唐突な台詞《せりふ》。
伊織は驚いてそちらを見れば
そこには早蕨薙真がいた。
時代錯誤な和装に身を包んで、その脇に大薙刀を抱えた――早蕨刃渡の弟。
醒めた目で、見下すように伊織を見ている。
いや、醒めた目というよりは――そう、あのときと同じような。
哀れむような目。
「――あ、ああ、あなたは」
ずるずると後ずさる。気がつけば両足の拘束も解けている。薙真が解いてくれた――のだろうか? あの刃渡という男はどうした? いや、それよりも、薙真がここにいるということは、双識は? あの変態の針金細工はどうなったんだ?
「マインドレンデルさんなら無事ですよ」
言って薙真はぐい、と上着をはだけてみせる。そこには見るだけで怖《おぞ》気《け》の走りそうな深い傷口が存在していた。既に血は流れていないものの、跡形もなく回復するとはお義理にも慰めにも言えそうにもない。
「――もっとも、『今現在』無事であるかどうかの保証は致しかねますがね。なんせ、|とんでもない《ヽヽヽヽヽヽ》のが相手をしているらしいですから」
「――え、えーと」伊織はふらっく足で立ち上がる。長時間吊るされていたので身体がうまく働かない。「な、薙真さん――」
「『敵』にさん付けをされるというのも変な話ですよね」薙真は無理矢理作ったような表情で苦笑する。「まして――目前にいるのはあなたの家族を屠《ほふ》った男だというのに」
窺うように。
疑うように。
薙真は伊織を見下ろす。
「…………」
「|そう《ヽヽ》ですか。やはり|そちら《ヽヽヽ》も、同様に|そう《ヽヽ》なんですね」
反応に困っている伊織を見て、納得したように頷く薙真。しかし伊織は全然納得なんてできない。
「あ、あの、どうしてこれ、解いてくれ――」
両手のゴム紐を示そうとして、そこで伊織は更に混乱することになる。|いつの間にか《ヽヽヽヽヽヽ》自分は右手に、物騒な抜き身の刃物を持っていたのである。いわゆる匕首《あいくち》と呼ばれる種類の和式短刀。どうして。どうしてこんなものが、わたしの手に。
「実験ですよ、ただの実験」薙真はつまらなそうに言う。「――そしてその結果は実に芳《かんば》しくありませんでしたね。あなたは目隠しを解くよりもまず[#「あなたは目隠しを解くよりもまず」に傍点]、状況を認識するよりもまず[#「状況を認識するよりもまず」に傍点]、そこに落ちている刃物を手に取った[#「そこに落ちている刃物を手に取った」に傍点]。それはもう本能的な行動と言い表すしか仕様がない――」
「…………」
人と会えば――人を殺すことしか考えられない。
身の安全よりも人を殺す方法を第一に思考する。
いや。
『殺す』と考えてすらいない。
『殺す方法』を思考してすらいない。
「あなたは――『零崎』伊織さん。あなたはもう、人を殺したところで『罪悪感』も『罪責感』も抱くことはもうない。自分の家族を殺した男を目前においても――もう、『殺意』を覚えることがない。『殺意』はいっも、あなたの隣にあるものだから――」
「ち、違います違います!」伊織は大声をあげて薙真を否定する。「も、もう、みんなして勝手なことばかり言わないで下さい! わたしはそんなんじゃないですよ!」
そんなんじゃない――と否定しながらも。
匕首を手放すことができない。
それどころか、|いつの間にか《ヽヽヽヽヽヽ》、それを薙真に向けて構えていた。
そんな伊織に薙真はため息をつく。
マンションで遭ったときのような軽佻浮薄さはどこにもなく――しかしむしろ今の陰鬱《いんうつ》な調子の彼が、あるいは本当の早蕨薙真なのかもしれなかった。
「ねえ――どんな気分なんですか? ある日突然、気付いたときには問答無用に『殺人鬼』になってしまうなんて」
「…………」
「カフカの『変身』じゃないですけれどね……。朝起きたらいきなり『殺人鬼』になっているなんてのは『朝起きたら夜だった』くらいの衝撃はあるんじゃないでしょうかね――『才能』というか『性質』というか、そんな区別は知りませんけれど」
「――そ、そんなこと」
「何をやるにしても、天性の『天才』って奴はいるんですよね――正に真に問答無用に」
「…………」
「人は自分の才能を選べない。別に紫式部《むらさきしきぶ》だって『源氏物語』を書きたかったわけじゃないんでしょうよ。もしも彼女の名が『源氏物語』と共にしか語られないというのなら彼女の人生は、まるで、ただの自動的な書記装置じゃないですか」
「……そ、装置――」
「装置でないというのなら――歴史という舞台の上での役割ですか。しかし僕らみたいにロクでもない役割を押し付けられるくらいなら、存在意義《アイデンティティ》なんてない方がマシだと思いませんか? その辺の、何の目的も何の思想も何の意識もなく適当に、ただの書割の背景として生きている『普通』の連中にでも混じった方が――よっぽどマシだとは思いませんか?」
「…………」
なんなんだ、と伊織は思う。一体何の目的で、薙真は伊織にそんなことを言うのだろう。双識と相対したときに何かあったのだろうか。伊織から一体何を聞きだそうとしているのか。
「伊織さん。『殺人者』と『殺人鬼』と『殺し屋』の違いが分かりますか?」
「え、ええ……? そ、そんなの」
「分からないでしょうね。僕にも分からない。そんなのコロンボとコロンブスとの違い、アーカードとアルカードの違い、ハニバルとハンニバルの違いだと、僕は思うんですけれど」
「こ、恋と愛との違いとか、ですね」
薙真の真意がつかめないままになんとか話題を合わせてみたが、「それは越前《えちぜん》リョーマとコンバット越前《えちぜん》くらい違います」と否定された。
「とにかく、とことんまで意味を突き詰めて考えれば、『殺人者』も『殺人鬼』も『殺し屋』も、何も変わらないと思うんです。……だけどマインドレンデルさん曰く、それは決定的な差異らしいですよ。僕はね、『零崎』伊織さん」
ひゅん、と薙真は薙刀を回転させる。
「僕は『|そういう風《ヽヽヽヽヽ》』に作られたんですよ。物心付く前から『|そういう風《ヽヽヽヽヽ》』になるために製作されてきたんです。僕自身には選択の余地もなく何の決定権もなく――『|そういう風《ヽヽヽヽヽ》』になるためだけに生きてきた。僕だけじゃない、刃渡の兄さんも、弓矢の妹も――」くすり、とここで薙真は笑う。「『三兄妹』なんて言ってもね、昔はもっと数がいたんですよ。
『|そういう風《ヽヽヽヽヽ》』に完成したのが、僕ら三人だけだったというだけでね」
「…………」
「だけど……『零崎』は元々、『|そういう風《ヽヽヽヽヽ》』に誕生しているんですってね。兄さんの言葉を借りれば『生来の者であって生来の物でない[#「生来の者であって生来の物でない」に傍点]』――でしたっけ。選択の余地も決定権もないのは同じだけれど――最初から『|そう《ヽヽ》』なのと作られて『|そう《ヽヽ》』なのとじゃ、全然違うんでしょうね。僕はそれを「運命』の所為にできるけれど――あなた方『零崎』には責任を押し付ける対象が存在しない。『死神』の『石凪』でさえ自らの所業を『神』の所為にできるというのに――『零崎』は自分の所為ですらない。それは『生まれついて』のものですらなく、『生まれもって』のものですらないのだから」
「…………」
「人殺の鬼。正しくその言葉はあなた達にこそ相応しいんでしょうね――」
動機もなく道理もなく理由もなく利益もなく目的もなく黙想もなく原因もなく幻想もなく因縁もなく印象もなく清算もなく正当もなく狂気もなく興味もなく命題もなく明解もなく義侠もなく疑間もなく獲得もなく確実もなく暴走もなく謀略もなく尊厳もなく損失もなく崇拝もなく数奇もなく妄執もなく蒙昧もなく欠落もなく結論もなく懊悩もなく応変もなく益体もなく約束もなく正解もなく成功もなく執着もなく終焉もなく根拠もなく困惑もなく負荷もなく風情もなく決別もなく潔癖もなく超越もなく凋落もなく遠慮もなく演摘もなく努力もなく度量もなく帰結もなく基盤もなく霧消もなく矛盾もなく独善もなく毒考もなく傾向もなく敬愛もなく打算もなく妥協もなく煩悶もなく反省もなく誠実もなく静粛もなく瞠目もなく撞着もなく極端もなく曲解もなく偏見もなく変哲もなく安堵もなく暗澹もなく哀楽もなく曖昧もなく相談もなく騒動もなく喝采もなく葛藤もなく構想もなく考察もなく徹底もなく撤退もなく計算もなく契約もなく無念もなく夢幻もなく容赦もなく幼心もなく資料もなく試練もなく寂箕もなく責任もなく誹諺もなく疲労もなく体裁もなく抵抗もなく究寛もなく屈託もなく技量もなく欺隔もなく要望もなく様式もなく選別もなく先例もなく検分もなく険悪もなく題材もなく代案もなく混沌もなく懇念もなく禁忌もなく緊迫もなく倦怠もなく権限もなく気配もなく外連もなく躊躇もなく中庸もなく敷術もなく不安もなく解説もなく回避もなく規則もなく企画もなく陵辱もなく良識もなく虚栄もなく拒絶もなく防備もなく忘却もなく踏襲もなく到達もなく娯楽もなく誤解もなく惰性もなく堕落もなく叱声もなく失墜もなく嫌悪もなく見解もなく感情もなく痛癩もなく意見もなく威厳もなく境地もなく恐怖もなく作為もなく策略もなく嗜好もなく思想もなく。
純朴かつ潤沢な殺意のみで。
人を殺す。
殺人鬼。
零崎――一賊。
血の繋がりではない、流血の繋がり。
「――違いますよ、それ」
伊織は――ゆるやかに、首を振った。
今度は静かに。
薙真の言葉を否定する。
確かに。
わたしはクラスメイトを殺したのに、何の罪悪感もなかった。家族を殺されたというのに、今、まるで怒りが湧いてこない。双識と会って|おかしくなった《ヽヽヽヽヽヽヽ》――なんてわけじゃない。ただおかしかった部分が――表層に現れただけ。ずっと前から、いつからだったか、ずっと――伊織は『そういう風』だった。
どこにも到達できない。
追跡されている、というイメージ。
逃げている、というヴィジョン。
ゴールのないマラソン。
終わりのない中途。
伊織はずっと逃げていた。ずっと逃げていた結果がこれだ。昨日突然、靖道に襲われたときに反撃してしまったことで『何か』が変わったんじゃない――伊織は終始一貫している。|いきなり《ヽヽヽヽ》『こういう風』になったわけじゃないんだ。支払いを延期して延期して、先延ばしにしまくった挙句に利子が限界までたっぷりたまった借金みたいなものだ。
あるいは怖かったのか。伊織という人間が『どういう風』なのか、それを知るのが。
昨日、家族が殺されたと聞いて、この薙真にフォークの切っ先を向けた。あのときの感情は『怒り』だったか? 家族の生死を確認しようともせず――今、こうして、文字通り親の仇である薙真と普通に会話している自分に、そんな上等な感情があるのだろうか。あれは――ただの『殺意』の発露では、なかっただろうか。
殺意。
感情も理性も伴わない、それは性質。
いつか失敗し――どこかで間違えたその結果。
成程――大した悲劇だ。『間違った天性』。薙真のいうことは、ほとんど正解といっても間違いでないくらいに、正しいように思える。
けれど――それは。
そういうことじゃ[#「そういうことじゃ」に傍点]、ないんだ[#「ないんだ」に傍点]。
わたしはお父さんもお母さんもお姉さんもお兄さんも好きだったし――人なんか殺したくなかった。
誰が何と言おうと――双識が何と言おうと薙真が何と言おうと、たとえ伊織が「どういう風』であったところで――そこだけは、譲らない。
絶対、譲らない。
絶対、許さない。
「多分――双識さんよりも薙真さんの方が正解に近くて……本質的には、双識さんと薙真さんは、そんなに違わないと思います」
「へえ」唇を吊り上げる薙真。「そんなに違わないって言うんなら――じゃあ、何が違うっていうんですか?」
「それは――分かりませんけど。でも、わたしも双識さんも薙真さんも……一人一人、別の人間です。性格があって、人格があります。装置なんかじゃありません[#「装置なんかじゃありません」に傍点]。だから、その……『殺人鬼』だとか『殺し屋』だとか……そんな画一的には、語れないはずです」
「そりゃ大した答ですよ、全く。分類《カテゴリ》を嫌いますか? 感心しちゃいますね」馬鹿にしたように言う薙真。「分類《カテゴリ》を嫌う……はっ! だったら貴様には何があるってんだ! 人を殺す以外何にもねーんじゃねえか! 貴様も俺もマインドレンデルも兄さんもよお!」
激昂したようにいきなり怒鳴って、そして薙真は伊織に向けて薙刀を上段に構えた。伊織も咄《とっ》嗟《さ》に身構えるが、しかし何分完全なる素人、その構えはどこか滑稽《こっけい》な具合である。
「――伊織さん」そして構えたまま、冷えた声に戻って薙真は言う。「それで言うならあなたは『今現在』、『殺人鬼』でもなければ『殺し屋』でもない――いうならただの『殺人者』。まだ完全に『零崎』になっているわけではないんです」
なりかけの『零崎』。
『変異』する経過。
そう言われたんだったか。
「だから――選ばせてあげますよ。『零崎』ではない伊織さんに、選択の余地と決定権を差し上げましょう。今なら、あなたは人間《ヽヽ》のまま死ねますから」
「…………」
「正確にはただの一人だって絶命に至らしめていない今のあなたならば――『鬼』でも『人外』でもない『人』として――死ぬことができます。今ならね」
「――あなたと戦うか、あなたと戦わないか、ここで選べってことですか……?」
後ずさりしつつ、訊く。
しかしすぐに壁が背についてしまった。
逃げ場はない。
逃走は――できない。
もう逃げられない。
もう逃げられない。
もう――逃げられない。
「わたしは、そんな選択――」
「違います」
薙真はすぅっと動いて――その大薙刀の射程範囲内に、伊織の身体を入れた。
「僕に殺されるか自分で死ぬか[#「僕に殺されるか自分で死ぬか」に傍点]――どちらでも好きなほうを、選んでください」
「…………」
嫌だよ。
[#地付き](早蕨薙真――追試開始)
[#改頁]
[#ここからゴシック]
第八回
「月はどうして光る?」
「太陽の光を反射するから、だろ?」
「違う。存在するからだ」
存在しなければ光らない。
[#ここでゴシック終わり]
およそ十年と少し前。
ことをもっとも単純に具体すれば、それはただ、『彼』と『彼女』が『喧《けん》嘩《か》』をしたと――それだけのことだった。
それだけのこと。
それだけのことに――大統合全一学研究所、通称ER2システム(現・ER3システム)、その背後に四神一鏡を覗かせる神理楽《ルール》の組織、そこに加えて『玖渚《くさなぎ》』機関を中心とする一大コミュニティ、及び『匂宮』『闇口』『零崎』『薄野』『墓森』『天吹』『石凪』の『殺し名』七名、更にはその対極たる『時宮』『罪口《つみぐち》』『奇野《きの》』『拭森《ぬぐもり》』『死《し》吹《ぶき》』『咎凪《とがなぎ》』の『呪《なじな》い名』六つ名――それら全てが|巻き込まれた《ヽヽヽヽヽヽ》。
繰り返して言う。
『彼』と『彼女』が一致協力して|それら全て《ヽヽヽヽヽ》に攻め入ったわけではない――『彼』と『彼女』は互いに互い以外のものを眼中に入れてなどいなかった。|それら全て《ヽヽヽヽヽ》はただそこにあっただけで――
巻き込まれただけだ。
巻き込まれただけで――|それら全て《ヽヽヽヽヽ》はほぼ壊滅状態に陥った。たった二人、たった二人の諍《いさかい》いに、世界そのものが駆逐されかかったのだ。
そして――
その微小で極大の『戦争』の勝者は『彼女』だった――究極の赤色と称される『彼女』。
『彼女』は『死色の真紅』と呼ばれる。
◆ ◆
最初の違和感は、あの赤い布。
「――く、は、は、は、は、あはははははははははははははははははは――」
必死に林の中を駆ける姿があった。
その長い手足と無駄に高い背丈を、ところ狭しと縦横無尽、木々の隙間を縫うように、立体交差的に移動する。その際に適当な木々を破壊し、追跡の難易度をあげる細工も忘れない。それは万事においてぬかりのない『逃走』だった。
しかし、それだけ完全なる逃走活動を行っているにもかかわらず、針金細工のような体格のその男の表情には、まるで余裕というものがない。どころか、その表情はひきつったような笑みで満たされ.ている。
「は、はは、はは、あはははは――!」
そして実際、大声で笑う。
全く――
本当に、笑うしかない。殺人『鬼』が追いかけられる鬼ごっこなど、下手な洒落《しゃれ》もさながらではないか。
零崎双識は究極の恐怖の中で、そう思った。
「――ったく、なんでこんなことになるかね……、大体、どこなんだよ、ここは!」
先ほどからどれくらい逃げているのか想像もつかない。人生の残りを全て逃走に費やしてしまったかのような気分だが、実際は一時間程度だろう。けれどその一時間でも十分なはず。東西南北どこへ向かったところで、この林から脱出するには、十分なはずなのに。
「くそ、例の『結界』か――」
『結界』の理由に今にしてようやく思い至る。あれは双識の『侵入』を封じるためではなく『逃走』を封じるためのそれだったのか。あまりといえばあまりに古典的な罠に引っかかってしまった。そしてその結果は――
「考えうる限り、最悪だな」
ちらり、と後ろを振り返った。そんなことをする余裕など微塵もないのに、そうせざるを得なかった。
そんな光景は――滅多に見られるものではないのだから。
『彼女』は双識を追ってくる。
走って――ではない。むしろのんびり、森林公園のハイキングを楽しんでいるかのような暢《のん》気《き》な足取りで、双識の足取りを追ってきているのだ。
片や全力で駆けている双識。
片や暢気に歩いてくる『彼女』。
純然に考えれば双識が早々に逃げ切っているはずのこの理屈を覆《くつがえ》すのは――双識が立体交差的に駆けているのに対し、『彼女』は真っ直ぐ、一直線《ヽヽヽ》に双識へ歩いてきているという一点だ。
障害物――というものがある。
あるいは、遮蔽《しゃへい》物とも。
この場合は、林を構成する木々がそれだ。
双識はその障害物を利用して、時にはそれを隠れ蓑《みの》に、時にはそれを移動手段に、時にはそれを目くらましに、障害を『手段』に変換する。
だが『彼女』にとって――木々などはそもそもにして障害ではなかった。
虫でも払うかのように手を薙ぐ。それだけだ。荒嵐《あらあらし》い手つきで、軽く薙ぐだけ。それだけで――『彼女』の前から樹木は消える。時にはそれは|めきめき《ヽヽヽヽ》と音を立てて、時には|べきべき《ヽヽヽヽ》と音を立てて、時にはそれは何の音も立てずに、障害を『無為』に変換する。
「理屈は単純――『空気に衝突して事故るトラックは存在しない』――」双識はあくまで立体的に逃走を続ける。これがぎりぎり、『彼女』との距離を保てる『手段』だった。「とはいえ、ふざけんなよ――『鷹《イーグル》』どころか『熊《グリズリー》』じゃねえかよ、あんなの――!」
必死をこいて逃げている双識であったが――しかしこれは考えてみればとんでもなく馬鹿馬鹿しい行為だった。『彼女』がほんの少しでも本気を出せば――今ある距離など、あっと言う間もなく詰められてしまう。言うならこれは『彼女』の余裕《あそび》だ。双識は早蕨薙真に『何事も余裕がなくてはっまらない』などと言ったが、成程、遊ばれるというのは気持ちのいいものではない。けれどそんな『気持ちの悪さ』など感じている余裕すらも、双識にはなかった。
絶対。圧倒。強大。覇烈。
――赤色。
「『早蕨』――とんでもないのを雇ってくれたもんだね。手が込んでるだけじゃなく、随分と手がかかっている――」
しかしいつまでも混乱の中に甘んずる双識ではない。さすがにこの辺りで徐々にながら平常心を取り戻してきた。とても冷静とは言いがたかったが、それでも『現状』を認識する程度の能力は戻ってきた。
「――『鷹』だろうと『熊』だろうと――『零崎』の敵に回った以上はこちらにとっても『敵』だ。いかな理由で『早蕨』に伍したのかは分からないけれど――やるしかないか」
枝から枝へと飛び移りながら、背広の内に右手を忍ばせ、『自殺志願《マインドレンデル》』を取り出す。ただ、この時点で双識に『真っ向から立ち向かう』つもりなど僅かにもない。双識は『殺し屋』でもなければ『戦士』でもない、勝利や達成に意味を見出すことがあっても、戦闘そのものには何の意味も興味も見出さない。
あくまで考えることは『逃走』だ。無駄な争いは避けるに限る。双識の平和主義を差し引いても、こと『赤色』に限ってのみは、『零崎』と言えどそう判断せざるを得ない――それほどまでに『彼女』は最強なのだ。
「それ.を理解した上で雇ったのか……? しかしいやしくもあの『匂宮』の分家でありながら、その行動はいささかプライドってものに.欠けるんじゃないのかい……?」
それ.ほどまでに――『妹』の仇にこだわるか。
早蕨弓矢。
「お前は全く罪つくりだな、人識《ひとしき》――」
『彼女』から少しでも距離をとろうと上へ上へと向かうように枝から枝へと飛び移りつつ、双識が久しぶりに弟の名を口にしたそのとき。
後ろから追跡してくる足音が消えた。
今まで、木々が|なぎ倒される《ヽヽヽヽヽヽ》その音に隠れながらも確実に双識の耳が捉えていたその無造作な足音が――|ぴたり《ヽヽヽ》と停止した。
そして一言。
「|飽きたな《ヽヽヽヽ》。|鬼ごっこ《ヽヽヽヽ》」
そんな声がした。
思わず振り向くが――|そこ《ヽヽ》にはもう誰もいない。
そして。
|ここ《ヽヽ》に、『彼女』がいた。
助走の足音もなく――跳躍の脚音もなく――一息で飛び上がってきた『彼女』が、双識の上方で、空中に存在していた。何の事前動作もなく――『彼女』は十メートルの距離を、跳躍していた。
「――ひ」
悲鳴をあげる暇《いとま》もない。
『彼女』がやったことは単純明瞭、ある程度身体がやわらかければ誰にだってできる。
右腕を|ぐいっ《ヽヽヽ》と後ろに振りかぶって――
「――『地球割り』」
振り下ろした。
「――|ずあぁあ《ヽヽヽヽ》!」
ぎりぎりで、『自殺志願《マインドレンデル》』を持っ逆の左腕でそれを防御する。否、防御できたとは言いがたい。それはただ、左腕で顔面を庇ったと、それだけの効果しかなかった。
腕が、|砕ける《ヽヽヽ》音を聞いた。
視界が急激な勢いで回転し、通常の十五倍以上の重力で地面に叩きっけられる。その反動で二メートルばかり跳ね上がり、再度、同じ位置に打ち付けられることとなった。その場にクレーターができなかったのが不思議なくらいの落下速度、隕石の気分を味わった。
「|が《ヽ》、|は《ヽ》、|あ《ヽ》。|あああ《ヽヽヽ》」
左腕。そして左側の肋骨《ろっこつ》。軒並みへし折れている。左脚も、折れてこそいないが、ひどく傷めたようだ。『彼女』はどこだ? 確認する。見れば先ほど双識が触れていた太枝から飛び降りてくるところだった。ここからの距離はおよそ五メートル――と、そこまで事実を認識して。
双識は、|にやり《ヽヽヽ》と笑った。
「――右半身は全くの無事……『自殺志願《マインドレンデル》』も手放していない。そして……どうやら『噂通り』らしいな、『彼女』」
ぐ、と鋏を持つ手に力が入る。
「……『最強』ゆえの『余裕』――それは『油断』と同義。|つけいる隙はある《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
本来なら――今ので勝負は決まっているはず。否、それどころではない、最初、あの遭遇のときに――勝負は決まっているべきなのだ。双識の後ろを容易にとっておきながら、その時点で何もしないなど――それは失敗以外の何物でもない。
「その『むらっ気』――利用させてもらう」
双識は――生存を諦《あきら》めていなかった。
大丈夫、内臓が無事なら問題ない。『ここ』を突破した後に早蕨の長兄とやり合わねばならぬことが憂鬱《ゆううつ》だが――それもこれも、自分の新しい『妹』のためだ。家族のためなら双識は諦めない。絶対に。『彼女』直式《じきじき》に殺されて死ぬのは自分の死に様として悪い選択肢ではないけれど――今はまだ、時期尚早だ。
「おいおい。どーした? 死んじまったのかー?」言いながら『彼女』が近付いてくる。まだ遠い。この距離では『必殺』できない。しかも狙うは『一撃必殺』。今の双識に余裕はない。「は。弱いなあ。実に弱い。弱過ぎる。もうちょっと骨のある奴を想像してたけど――なんてまあ貧弱だ」
「…………」
息を潜めて待つ。
狙うのは――首の一点。
それもノーモーションで繰り出せる一撃、剣道でいう『突き』だ。それは薙真が双識に使った手段であり――そして伊織が靖道に使った手段だった。
もっとも原始的であり、かっ有効。
いかに『彼女』といえど――その具象が人体であることには変わりないだろう。ならば刃物を通さないわけがない。最も筋肉が薄い部位の一つである頚《けい》動脈を狙えば――勝機はあるはず。少なくとも、この場をしのげるだけの『勝機』は。
――そもそもなら、こんな『勝機』があるはずがない。手負いの獣がいかに厄介かなど、|こちら《ヽヽヽ》に生きている者なら誰でも知っていることだからだ。とどめを刺すときにこそもっとも警戒すべきなのは当然の手法である。
だが『彼女』は――
あっさりとその距離を詰め、双識の真近にまできて脚を止め、あろうことかしゃがみこんでその顔を双識に寄せた。
「んー? あれ、本当に死んだの、かな――」
「――|づあっ《ヽヽヽ》!」
刹那に。
『自殺志願《マインドレンデル》』の片刃の切っ先を喉元に向けた。
身体を捻《ね》じるように起こし、最短の速度で、しかし最大の重力を込めて、唯一の勝機に向けて『自殺志願《マインドレンデル》』をきらめかす。これで決まらなけれ.ばもう終わり――『彼女』が身を躱《かわ》せばもう終わり。いくら『彼女』といえど二度と油断はするまい。
どうしようもなく乾坤一擲《けんこんいってき》、正に一点突破、どちらにとっても一撃必殺!
「………………」
「………………」
結論だけ言えば。
『彼女』はその身を躱さなかった。『自殺志願《マインドレンデル》』の刃はまこうことなく『彼女』の喉を捉えた。にもかかわらず――
『彼女』は無事だった。
刃は――皮膚にも刺さらず、停まっていた。
「………………は。ははははは。あははははは」
もう――これで本当に、笑うしかない。
「ははは――はは、あは、あはは」
現実的に刃物が通じない相手にどう戦えというのか? 否、刃物だけではないだろう。たとえこの場に最新型のマシンガンがあったところで、『彼女』はその弾丸を避けもすまい。否否、マシンガンなど物の数ではない。核ミサイルが群れをなして空から沛然《はいぜん》と降ってきたところで、『彼女』は悠々と鼻歌混じりで生き残ることだろう。いやむしろ、見渡しが綺麗になったと喜ぶかもしれない。地球そのものが消えたところで、平気の平左で火星にでも移住するに決まっている。
『余裕』とか『油断』とか、そういうレベルの話じゃない。全然、そんな話をしていないのだ。そんな話は――こっちが勝手にしていただけだ。
「は、はははははははっは、あはははは――」
畜生。
こんなところで――朽ちることになろうとは。
『妹』を助けることもできず――否、問題はそれだけではない。この自分――マインドレンデルが倒れたとなれば、その仇敵《きゅうてき》である『彼女』に対し『零崎』一賊が動く。絶望的に勝ち目のない戦闘に挑まねばならない[#「絶望的に勝ち目のない戦闘に挑まねばならない」に傍点]――己達の存在理由をかけて。『敵』は『敵』でなくなるまでに叩き潰す――それが『零崎』一賊なのだから。
その結果に待っているものが絶滅だとしても。
始まってしまえばもう終わらない。
犠牲者が出ればもう『無駄な戦い』ではない。
「――|それだけは《ヽヽヽヽヽ》」
|それだけは《ヽヽヽヽヽ》、|避けなければ《ヽヽヽヽヽヽ》。
こんな殺せそうもない相手に[#「こんな殺せそうもない相手に」に傍点]――殺されるわけにはいかない[#「殺されるわけにはいかない」に傍点]。
|考えろ《ヽヽヽ》。|考えろ《ヽヽヽ》。|考えろ《ヽヽヽ》。|考えろ《ヽヽヽ》。
全身全霊を使って思考しろ[#「全身全霊を使って思考しろ」に傍点]。
何かあるはずだ。何かあるはずだ。
「は。なんだか全然っまんねーな。もう奥の手はないのかい? マインドレンデルさんよ」
『彼女』からの最後|通牒《つうちょう》にも耳を貸さず――零崎双識は思考する。己にとって何か都合のよい事実はないか――ここまでの展開を思考する。
まず最初のシーンだ。
赤い布。
あの、死色の真紅に染まった、布。
そこをがしっと首をつかまれる。
「はん。『早蕨』の連中も『零崎』のお前も――『妹』『いもうと』と、馬鹿みてーなくだらねー理由で命をかけるんだな――だったら」
そして信じられないほどの圧力が頚部にかかる。
「その理由にのっとって、ここで死んどけよ」
◆ ◆
「――あっ」
|くいん《ヽヽヽ》――と。
匕首を薙刀の先で払いのけた。払われた匕首は天井の梁に深く突き刺さり、落ちてこない。振られた薙刀はそのまま一回転し、持ち主の肩へと帰る。構え直すつもりもなく、早蕨薙真はそのままの姿勢で、
「これが現実ですよ」
と、『零崎』の伊織に対して言い捨てた。
対する伊織は――これで丸腰である。拘束する際(といって、するまでもなく何故か最初から拘束されていたらしいが)兄の刃渡が身体検査をしたらしいので、彼女が他にどこにも武器を持っていないことは確認済みである。
「いくらあなたが『殺人』の『天才』であるとしても――あなたは素人で僕はプロです。この経験の差は、才能ごときでは埋められません」
「う、うー」
伊織が唸るように言って薙真を睨む。そんな伊織に構わず薙真は「さあ、選択し直してください」と言った。
「僕に殺されるか自分で死ぬか――選んでください。いえ……」一旦言葉を切る。「もっと細かく説明するなら。僕に殺される方が、間違いなく『楽』です。痛覚を感じる暇もなく、そっ首叩き落してあげましょう。けれど――その場合、あなたは『普通』じゃなくなる。僕達はカタギの人を殺すことはありませんから、逆接、あなたは|こちら側《ヽヽヽヽ》ということになる。けれど――」
「自分で死ぬなら|そちら側《ヽヽヽヽ》、て言うんですね」
伊織はやる瀬なさそうに薙真に言った。薙真はそれに「その通りです」と頷く。
「今頃あなたの『兄』であるマインドレンデルさんも――林の中途で終わっている頃でしょう」
何せ兄の刃渡だけではない。敵に回すのも味方に回すのもおぞましいような|あの女《ヽヽヽ》が動いているのだ――生き残れる可能性は正に零。薙真が双識の立場なら、間違いなく自害を選ぶだろう。そしてその解答は、今の伊織の立場でも――同じだ。
人として死ぬか。
人外として死ぬか。
そんな答、選ぶまでもないだろう……?
しかし伊織はまるでそんな問題、考えもしてないかのように、
「え……双識さん、もうこの辺にまで来ているんですか?」
と、論点でないところに問うてきた。
「ええ――もう来てますよ。どちらにしろどちらにしたところで、無駄なんですがね。あまりにも――無駄だ」
「――うふ」
と。
途端、嫌な感じに、伊織が笑った。
その笑みはまるで――|あのとき《ヽヽヽ》の、零崎双識のような。
そして彼女は身構えた。
「――格好つけて死ねりゃそれでいーかなーなんて思ってましたけど……それを聞いちゃあ、そういうわけにゃーいかないですね」
「……?」
「わたしは『病弱で気の弱いあえかな』ってタイプじゃないですからね――『勝ち気でワガママ』しかも『お利巧さんで素直じゃない』ってタイプなんです。|向こう《ヽヽヽ》が助けるのは『当然』ですけれ.ど……|こっち《ヽヽヽ》はむざむざ助けられ.るなんての――ごめんです」
「……何の話です?」
「『妹』の話に――決まってるでしょう!」
怒鳴るように言うや否や、伊織は薙真に向けて飛び掛ってきた。問答無用、文字通りの言葉通り、直線に飛び掛ってきた。
その行動の意味が薙真にはつかめない。何の武器も持たず……この自分に向かってくる理由とは、否、根拠とはなんだ? その行動にどういう意味があるというのか。匕首くらいでも構えていればまだともかく――今の伊織は全く絶無の丸腰。そもそも攻撃の手段がないではないか。万が一の一つすらも存在しない。圧倒的な実力の差が理解できないほどの馬鹿でもなかろうに。いや、そういう計算が立たないからこそ――『零崎』か?
――否。
違う、『零崎』には『投げやり』すらもない。今こうして向かってくる以上――そこには『必殺』しか存在しないはずなのだ。っまり何らかの『根拠』、殺人手段があるはずなのだ。
だがマンションのときのようにフォークをすら持っているわけでもない。他に武器になりそうなものは? 縛っていた縄――ゴム紐――どちらも薙真が寸断している、あれでは鞭代わりにもならないし、首を絞めることも叶うまい。
なら、一体、何が?
分からないままに薙刀を構えるが、反応が遅れる。既に伊織は圏内にと這入っている。この距離はもう刃で払うには近過ぎる、薙刀を返し、石突で――
「――あ」
|思い出した《ヽヽヽヽヽ》。
最初のとき、あの高架下で双識と伊織が接触したとき。
|あのとき《ヽヽヽヽ》、伊織は双識を退けていた[#「伊織は双識を退けていた」に傍点]。恐るべきことに、ただの女子高生があのマインドレンデルを退けていた。
その両の手の――爪でもってして[#「爪でもってして」に傍点]。
「――く!」
咄嗟の判断で薙刀を手放し、その手で寸前にまで迫っていた伊織の左手首を押さえる。同時に反対側の手首もぎりぎりで捉えた。その鋭い爪は――左は薙真の頚動脈の寸前、右は眼球のぎりぎりで、停止することになった。
「――不覚」
もしも薙刀で払っていれば――どちらから薙いでいたとしても、その逆の爪が薙真を抉っていただろう。そしてどちらだったところで――致命傷だ。十分に確実に絶対に死ねる。
「……おぞましい」
これが、才能か。
これが、零崎か。
「――放して、くださいよう!」
伊織は、両手をがっちりとっかまれているのをいいことに、その身体を宙に浮かし、手首を支点に薙真の腹に両足をそろえた蹴りを入れる。体重が軽いとはいえその体重の全てをかけての蹴撃、効果がなくもなかったが――
所詮、素人とプロの差異。
筋肉に関しては鍛え方が違う。
びくともしなかった薙真はそのまま伊織の両腕をひねるように返し、裏返しにして床に叩きつける。両手を捉えられたまま衝撃を逃すこともできず、伊織は前面から思い切り叩きつけられた形だ。更に薙真は容赦せず、その華奢《きゃしゃ》な背中に自分の腰を据え、伊織の動きを封じた。
「ぐえっ」
伊織が口からうめき声みたいな音を漏らす。構わず薙真は伊織の左腕を脚で踏みっけ、右腕を両手でつかむ。
「この爪は――危険ですね。僕が手入れしてあげますよ」
ぼそりと言って。
右手で伊織の四本の指をがっちりと固定し、左手の親指をそちらにそろえるように添えて。
生爪を四枚、同時に剥いだ。
「|あ《ヽ》、|ぎ《ヽ》、|いいいいいいいい《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》!?」
聞くに堪えない悲鳴が響く暇こそあれ、薙真はなれた手っきで残った親指の爪も冷蔵庫に張ったシールのように剥ぐ。そして同じ手順を踏むかのように、暴れる右手を踏みつけて、伊織の左手首をっかんだ。
「こちらは――一枚ずっいきますか」
「|い《ヽ》、|い《ヽ》、いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい[#「いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」に傍点]!? や、やだあ! やだやだやだあ! やめて! やめてくだ――」
言葉にならない苦痛が伊織の指を襲う。
人さし指、小指、中指、親指、薬指。
順番に。
順番に順番に。
順番に順番に順番に。
順番に順番に順番に順番に。
順番に順番に順番に順番に順番に。
一作業ごとにあがる悲鳴にまるで構わず、丁寧にして乱雑な手口で、薙真は伊織の十枚の爪を全部残らず剥がし終えた。
「あ……あ、あう……」
うめく声には隠しようもなく涙が混じっている。それはそうだ、当たり前と言えば当たり前。生爪が剥がされる苦痛は深爪なんかの比ではない、大の大人であっても一枚二枚で音をあげる。まして伊織は昨日の夕方まで、正真正銘ただの女子高生をやっていたのだ。これほどの激痛を味わうのは生まれて初めてだろう。
「あう……う、う……」
ぐずりながら、伊織は抵抗をやめた。薙真がつかんだ手首を放しても、それはだらりと地面に垂れるだけだった。もう死んだように動かない。そんな伊織を薙真は笑う。
「これで、本当に丸腰ですね。ピアノもさぞかし上手にひけそうだ。ははっ」
「……やめてください……もう、許してください……」やがて、小さな声で、発音も不明瞭に、伊織が漏らす。「痛いのは嫌ですよう……え、えぐ、ぐ、あ、あう……指が……わたしの、指がぁ……ごめんなさい……謝りますから、もう、ひどいことしないでください……痛くしないでください……」
「…………」
「ひ、ひぐ……う。やめてください、やめてください、ぐ、ひぐ……やめてください、やめてください……痛いですよう……あ、ああう」
「――は。でしょうよ」
薙真は手を伸ばし、先ほど捨てた薙刀を片手で引きずり、手元に戻す。そしてその刃を伊織のうなじに添えて――
そして薙刀を、無理矢理に伊織に握らせた。
「このまま、手を横に引けば……それであなたは死ねます。こんな痛い思いもせず――ただの『人間』として。これが最後の機会ですよ。さあ――『選択』し、『決定』してください」
伊織は鳴咽に震えている。
そんな伊織を薙真は見下ろす。少しでも抵抗するようなら――このまま薙刀を後ろから力を込めればそれ.でいい。豆腐でも斬るように、伊織の首は切断されることだろう。
「いいじゃないですか。くだらないですよ、あなたのこれから先の人生なんて。あなたはもう――一人だ。マインドレンデルさんにも言われたでしょう? 人と会えば人を殺すしかない、それが『零崎』なんです。いっまでたってもたった一人。そんな人生に、何の潤いが、何の実りがあるというのです?」
「………………」
「僕やマインドレンデルさんはもう手遅れですけれど――あなたはまだ間に合う。まだまだ常識の範囲内で、処置できるんですからね。自分で引き際を飾る――むしろそれは、誇らしいことなんですから」
それが、薙真が伊織に贈る最後の言葉だった。
もう言葉は重ねない。
これ.以上言うことはない。
そのまま時を待っ。
しかし――いつまでたっても伊織は鳴咽に震えるだけだ。いくら生爪をはがされ.たといってもそろそろ痛みも麻痺《まひ》してくる頃、薙真は不自然を感じ、眉《まゆ》を顰《ひそ》める。
そしてよく見れば――
「ふふ――うふふ」
伊織は、笑っていた。
笑いに、肩が震えていた。
「ふふ。うふ、うふふふ」
「――何がおかしいんです?」
「何がおかしいかって――|あなたが《ヽヽヽヽ》おかしいに決まってるじゃ、ないですか!」伊織は顔を伏せたまま、いまだ涙混じりの声で言う。「なんかさっきから言ってることがおかしいと思ってましたけど――あなた、わたしに『自分で』死んで欲しいんですね?」
「…………」
「つまりあなたはわたしに――『殺人鬼になるくらいなら自らの死を』選んで欲しいんですね? うふ、なんて理想、なんて理想主義者ですか。しかも情けないことにその理想を他人に押し付けてくるんだから迷惑千万極まりない。何が『手遅れ』だ――てめえでは何をする気にもなれ.ないビビっているだけのくだらない臆病者!」
殺人鬼になるくらいなら死を。
人外に堕するくらいなら死を。
その選択は――至極真っ当、当たり前。
けれど早蕨薙真は――それを選ばなかった。
零崎双識、マインドレンデルの言葉で気付かされた。自分にはちゃんと――その『選択肢』があったことを。『早蕨』は生来の者でも|なければ《ヽヽヽヽ》生来の物でも|ない《ヽヽ》。だから――あったはずなのだ、道は。
選択肢も、決定権も。
外道になる前に死を選ぶ道。
たとえば――『妹』、早蕨弓矢のように。
「そんなに死にたいならちゃんと自分で死ぬがいい!」
伊織が伏せていた顔をきっと起こして、薙真を強く睨みつけ――怒鳴った。
「わたしは死なない! わたしは一人でも、独りじゃないなら『どんな風』になろうと生きてみせる! 自分で死んだりなんかしない! わたしは否定しない! わたしは自分の人生|如《ごと》きに、才能如きに絶望なんかしない!」
今まで大人しかったのが嘘のように、伊織はその全身で暴れ始めた。まさかさっきまでのは『泣いた振り』だったとでもいうのか?『嘘泣き』? その隙に体力を回復させていたとでも? 伊織は止まらず、床を叩き、自由になる手足をばたっかせて、薙真の固めから逃れようとする。プレハブの小屋が軋み揺れんばかりの勢いで伊織は暴れる。その唐突さにさすがに薙真は慌てた。薙刀の刃はもううなじから離れてしまっている。今から改めて狙いを定めるのは難しい――そしてそれ以上に。
薙真は伊織の言葉に逆上していた。
「――き、き、貴様如きが、小娘如きが知った風な口を叩くか! 昨日今日殺人鬼になったばかりのガキがっ! ぜ、絶望の何たるかも知らぬガキ風情がっ! 何の恨みもない女子供を無意味に殺したことがあるのか! 縁も、縁もゆかりもない真っ赤な他人を手前の都合で犠牲にしたことがあるのか! あ、愛すべき大好きな友達を弑《しい》たげてから、そういうでかい口は利け!」
がし、と右腕を踏みっけ、その腕を取り。
短く構えた薙刀で。
「最早貴様は楽になど殺さん! 苦しんで苦しんで苦しめ、一寸刻みだ! 自分から『死にたい』と言うまでじわじわと切り刻んでやる! じっくりとたっぷりと存分に後悔しながら死んで行け!」
伊織の右手首を、切断した。
絶叫が響く。
◆ ◆
絶叫を、聞いた気がした。
「……元ネタは。『キン肉マン』か?」
「……あ?」
『彼女』は不審げな声をあげる。
双識は構わず続ける。
「……ああ、『北斗の拳』もアリだな。それに『幽★遊★白書』『魁!!男塾』……うん、『きまぐれオレンジ★ロード』の従姉妹ちゃんは外せない。私の知識じゃ、こんなもんだが」
「……何言ってんだ? お前」
『彼女』が心底不審そうにそう言ったと同時に。
「分からないなら[#「分からないなら」に傍点]、それでいいさ[#「それでいいさ」に傍点]」
双識はぐいっと相手の手を振り払った。信じられないくらいに弱い圧力[#「信じられないくらいに弱い圧力」に傍点]で握られたその手を振り払い。瞬間に『自殺志願《マインドレンデル》』がきらめき、その腕を|ざくり《ヽヽヽ》と突き刺した。
刃は、皮膚に弾かれることなく――
|深く《ヽヽ》、突き刺さった[#「突き刺さった」に傍点]。
「あ――あああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアア」
悲鳴ではない、ノイズの混じったような声――否、ノイズの混じったような音。
時を同じく、双識の視界が|ぐりん《ヽヽヽ》と反転した。
「|分からないなら《ヽヽヽヽヽヽヽ》――|あんたは《ヽヽヽヽ》『彼女《ヽヽ》』|じゃない《ヽヽヽヽ》」
反転したのは視界だけでない――双識の背後まで、全ての景色が一転していた。それは見覚えのある場所だった。そう思って振り向けば――|そこ《ヽヽ》には、赤い色の布があった。
死色の真紅の布。
|最初の場所だった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
「うふふ――私としたことが散惨《さんざん》に取り乱してしまって恥ずかしい限りだよ。みっともないところを見せたもんだ。途中からちゃんと判明していることだったよね――今回の件に『呪い名』が噛んでいることは」
そして振り向く。
そこに、勿論、『彼女』はいない。
代わりに――その腕から血を|だくだく《ヽヽヽヽ》と流している、軽く六十は過ぎているであろう老婆の姿があった。赤い衣服を身にまとっているが、それはどこかうらぶれた感じがして――まるで何の威圧感もない。
『彼女』のおもかげなど、どこにもない。
傷っいた腕をぐっと反対の手で押さえながら、その双眸で双識を睨みつけている。そんな視線などなんのその、双識は軽く肩をすくめ、言葉を続ける。
「『恐怖』を司る操想術専門集団《ヽヽヽヽヽヽヽ》『時宮』――いくら私の名前が双識だからと言って、あまりに出来過ぎだな、経験豊富なこの私も『催眠』系『洗脳』系本人を相手にするのは初めてだ。すっかり騙されちゃったよ」
「………………」黙って睨みつけている老婆。
「早蕨に『空繰人形』を提供したのもあなたの仕業か。この『結界』もそのためのものだな。成程成程」
適度な刺激のない単調な作業は人を催眠状態に陥れる。これを『感覚遮断性幻覚』という。適度な刺激のない単調な作業――それは目の前を動く振り子を見つめる行為だったり、荷物をあちらからこちらへ移す繰り返しだったり、どこを見ても似たような情景しかない林の中を歩くことだったりする。
「拍子抜けというか、正直がっかりしたところがあるのは複雑だが、しかしやれやれ単純な話をかきまぜて随分と厄介にしてくれたもんだよ、本当にね」
「どうして――分かった」
しわがれた声で老婆が訊く。双識は「うふふ」と軽く笑って「簡単なことさ」と言う。
「いい手ではあるな、これは。卑怯でこずるいが、しかしいい手だ。赤い布を見せ、私に『彼女』をイメージさせる。そのタイミングでお家芸の『操想術』、あとは私が幻覚の中で死ぬのを待っだけか。『勝てるわけがない』と思う相手を想起させるんだ、そりゃ、勝てるわけがないわな。冷静に考えてみれば漫画じゃあるまいし、いくら『彼女』でも木を片手で薙ぎ倒したりできるわけがない。いくら『彼女』でも刃物が刺さらぬわけがない。『地球割り』はよかったがな」
「………………」
「最初の違和感はこの布さ」ひらめいている布を示す双識。「もしもあれが本当に『彼女』ならば――相手を振り向かせるためにこんな手段は用いない[#「相手を振り向かせるためにこんな手段は用いない」に傍点]。まず間違いなくだが、彫刻刀なり何なりを使って、幹に文字を彫ってメッセージを残すことだろう[#「幹に文字を彫ってメッセージを残すことだろう」に傍点]。『振り向けば死ぬ[#「振り向けば死ぬ」に傍点]』云々のね」
「な、何を言っている……?」
「だから私の言っていることが分からないのが、あなたが偽者の証拠だよ。全てに説明があるなんて思わないことだね、こいつは推理小説じゃないんだから。化けるんなら、ちゃんと相手のことを限界まで詳しく調べることだな、偽者さん。ま、そこまで詳しく『彼女』のことを知っている人間の方が珍しいか。その点私はどうやらついていたようだね。いや、ついてないのかな? その所為であそこまで追い詰められたわけだし。積年の夢であった『彼女』との邂逅が実現した喜びが私を冷静でなくしたということでそこら辺は解決しておくとして、しかしあなた、かの名作を知らんとは、日本人として世界の負け犬決定だな。ああ、そういえば聞いたことがあるよ。『彼女』に化けて小金を稼いでいるチャチな『時宮』がいるとかいないとか。ありゃあなたのことか?」
老婆は後ずさるが、双識は構わず続ける。
「しかしさすがは専門、『匂宮』の対極たることはあるね、『時宮』さん。操られた想いのその内の情景自体は見事なものだった。私自身が作り出した幻覚だとは言え、正しく『彼女』は『最強』だった――だが綻《ほころ》びが一つ。先に言った様、『彼女』が『彼女』であるならば――最初の『布』はおかしいんだよ。あれは|術に嵌る前《ヽヽヽヽヽ》だったから、当然と言えば当然なんだがね」
用意されていたのは『策』でも『罠』でもなく――『術』だった。敵が『早蕨』だとばかり思っていたから、こういう歪み手を全く想定していなかったのは、完全に双識の不覚だった。
「だが、綻びに気付けばあとは簡単だった。『彼女』は自らポロを出したよ。『妹』のために命をかけるのが馬鹿みたい――などと『彼女』は言ったが」
ふるり、と首を振った。
「『彼女《ヽヽ》』はそんなことを言わない[#「はそんなことを言わない」に傍点]。私が『彼女』を『恐怖』し――同時に『尊敬』し『敬愛』するのは、『彼女』が私達零崎以上に『身内に甘い』唯一の存在だからだよ。私達とほとんど同じ主義思想でありながら『彼女』はたった一人の独りで世界を敵に回す。これほど恐ろしく、これほど素晴らしい人物は他にいないだろう? だから私は――『彼女』のファンなんだ。ストーカーとまでは行かないが、マニアと言ってもいいかもね。だからこそそれで――確信が持てた。同時に思い出せたよ。クソ汚い――『時宮』さんのことをなッ!」
最後は怒鳴って、双識は『自殺志願《マインドレンデル》』を投げつけた。それは一直線に飛んで行き、今にも逃げんとしていた老婆の左脛に命中、そのまま貫いて背後の樹木に礫《はりつ》けに固定した。
「ひ、い、ぅぅい――」
老婆の顔が恐怖に歪んで双識に向く。
「ま、待て。殺すな。殺さないでくれ。あたしはただ、雇われただけなんだ。『早蕨』の連中に金で雇われただけだ。殺すな、殺さないで――」
は、と双識はそんな老婆を鼻で笑う。
「恐怖を司り意識を操る『時宮』――そんな表情を浮かべるのはあまりにも皮肉だ。正に無様なもんだ、実に貧弱だ。あなた方にそんな目で見られる憶えはないそ。あなた方にそんな口を利かれる憶えはない。全く、『時宮』、いい腕ではあるが、仲良くしたいとは思えない。あなたは言うまでもなく『不合格』だ。『早蕨』もさぞかし苦渋の決断だったろう、あんたのごときおぞましい『呪い名』と組むというのは――」
じりじりと、逃げられない老婆に距離を詰める。もう老婆の表情は恐怖というよりも笑みに近い。最早、笑うしかないらしい。
「お、おい――ひ、ひひ、お、お前。こんな老人、しかも女を、殺すっもりか? まさか」
「よくも私に『彼女』の姿を破壊させたな――とか言いたいんだけどね。幸いながらにして残念ながら、ちっともさっぱり破壊できなかったことだし、ここでは愛すべき弟の台詞を引用することでそれに換えさせてもらうよ」
双識は老婆の脚から『自殺志願《マインドレンデル》』を抜き取って、血振りでもするようにくるりと回転させた。
そしてにっこりと笑う。
「老若男女、容赦なし、だ」
[#地付き](時宮|時《と》計《けい》――替え玉受験・不合格)
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[#ここからゴシック]
第九回
[#ここでゴシック終わり]
兄様。
わたしには兄様が――わかりません。
兄様は一体何を考えておられるのですか?
いつも――そうやって、簡単に。
いつも――そうやって、観察し。
いつも――そうやって、肝心なことは語らない。
わたしには、何も教えてくださらないのですね。
わたしには、何も話してくださらないのですね。
陰険。
意地悪。
人でなし。
わたし達――兄妹なのに。
血を分け合った、兄妹なのに。
この世でたった三人の、兄妹なのに。
わたしを大切にしてくださるのですか?
わたしを大事に思ってらっしゃるのでしょうか。
とても――そうは思えない。
わたしは――いつも、兄様達の足手まとい。
一緒にいると邪魔になるから――
離れた場所からこそこそと、弓を引き。
思いを込めて、矢を放つ。
わたしは――歯《は》痒《がゆ》い。
兄様のそばにあれないことが。
兄様と一緒にいられないことが。
そんな時間があることが、歯痒くてなりません。
わたしはいつでも兄様と一緒にいたいのに。
でも――兄様は、まるで平気そう。
わたしがいてもいなくても、まるで同じように。
そうやって、何も言わず。
そうやって、何も語らず。
いつも黙して、目を瞑《つむ》り。
わたしのことなど、どうでもよろしいのですね。
わたしのことなど、どうでもよろしいのですね。
でも――
わたしはそんな兄様が好きです。
そんな兄様をお慕《した》い申し上げております。
兄様の冷たい瞳が好き。
兄様の閉じた唇が好き。
兄様の華奢《きゃしゃ》な腕が好き。
兄様の美しい躰《からだ》が好き。
お願いします――兄様。
その瞳でわたしを睨んでください。
その唇でわたしに触れてください。
その腕でわたしを奪ってください。
その躰でわたしを抱いてください。
兄様。
お願いします――兄様。
どうかわたしを犯してください。
兄様にわたしの全てを捧げたい。
兄様に犯して欲しいのです。
おかしいことはわかっています。
けれどどうしようもないのです。
もう――どうしようもないのです。
どうしようもないのです。
わたしには――どうにもできないのです。
代わりのものでは――我慢できません。
たとえ同じであっても――
それでは代理になりません。
兄様でなければ駄目なのです。
兄様に代わりなどないのです。
兄様は、この世に、たった一人。
この世にたった一人の、わたしの兄様。
わたし達は、一人と、一人と、一人なのです。
三つで一つだなんて都合のいいこと言わないで。
ずっと一緒にいてくれるわけでもないのに。
我慢にも限度があります。
わたしは、知ってしまった。
切れそうに切ない気持ち。
心をなくしてしまいそうな悲しさ。
知ってしまった。
そういうものが――この世にあることを。
世界はそういうものでできていることを。
兄様は、きっと、強い。
兄様は誰よりも強い。
それはわたしが知っています。
兄様には――敵わない。
そしで兄様は、変わらない。
だがら兄様が――分からない。
ねえ、兄様。
わたし達は一体、何なのでしょう?
わたし達は一体――どういうものなのでしょう。
どうしてわたし達は――兄様達は。
わたし達兄妹は、こんな風なのでしょうか。
どうしてこんなことになったのでしょう。
ねえ――兄様。
答えてください、兄様。
殺すとは――どういうことなのですか?
死ぬとは――どういうことなのでしょう。
ねえ――兄様。
応えてください、兄様。
逃げたくなったら――逃げてもよいのですか?
死にたくなったら――死んでもよいのですか?
わたしはもう、死んでしまいたいのです。
◆ ◆
「……ちえ。術者を殺しても『結界』には関係ないわけか」樹木の下に腰掛けた姿勢で、|ぐいぐい《ヽヽヽヽ》と自分の左腕をいじりながら、一つ一つ確認するように眩く。「どうやら全くの別系統で構成されている『術』らしいね。それに――」
左腕から右手を離し、その手で今度はあばらに触れる。それから続けて左脚。何回か撫でるようにして、そしてゆっくりと、諦めたようにため息をつく。
「幻意識の中で破壊された部位も――そのままダメージとして残るわけか。うまくいかないものだね」
脳髄が『痛み』を知覚してしまった時点で、たとえ肉体そのものには何の異変がなかったところで、それは無関係らしい。そういえば昔から、お前は思い込みが激しい奴だといわれがちだったか……『思い込み』『先入観』『偏見』『催眠』『洗脳』『操想』なんでもいいのだけれど、やれやれ――参ったものだ。
零崎双識は、「うふふ」と笑った。
それから、双識は樹の幹に手をついて、一息に立ち上がる。片足でぴょんぴょんとジャンプし、落ち着いたところで、これからの対策を考える。
現状はとてもいいとは言いがたい。
果たしてこのダメージ、いつまで持続するのか。
「ま……肉体自体には損傷がないのだから、遠からず回復してくれることだろうよ。しかしあまりのんびりしている暇もなし、ここに留まっていても仕方なし、余計なことに時間を喰ってしまったし――動くとするか」
肉体の傷より精神の傷の方が治りが早い。それが零崎双識の考え方だった。心の新陳代謝はそれほど難易度が高くない、忘れてしまえばそれで済む。それはあるいは一般的な考え方とは全逆のそれだったが――双識は自身のその経験上、そう確信している。
「さて――伊織ちゃんはどちらかな。ここまで苦労したんだ。見つけたら熱烈なハグでもさしてもらわんと、割にあわないな」
片足を引きずるようにしながら森林の奥へと移動する。相変わらず目的地点は設けない。勘《かん》としか言い表しようのないものにしたがって、迷いなく足取りを進める。やはりどこを向いても同じような風景にしか見えないが――それでも、確信できる。この森林の中のどこかに、伊織がいることだけは間違いがない。
「――非科学的な話だよねえ」
確信できるとか――間違いないとか。
こんな時代に一体何をやっているのだか。薙真の服装を時代錯誤と笑ったが、しかしそういう問題は『早蕨』だけではない、『零崎』も『時宮』も並んで――どいつもこいつも、時代錯誤云々どころではない、異世界の住人ではないか。
滑稽だ。
確信も何も、双識にはまだ、伊織が生きているのかどうか、生きていたとしても無事でいるのかどうか、本当のところ、まるで分からないというのに。それに関しては――もう、祈るしかないという、そんな有様でありながら。
何が――確信だ。
「――人外というなら、『殺し屋』だろうと『殺人鬼』だろうと、そんなのは確かに変わらないわけか……」
――と。
背後から、唐突に殺気を感じ取る。
咄嗟に振り向こうとしたが、傷めた左脚のせいで思うようにいかない。少しよろめきながら、視線を後ろにやる形になったが、殺気の源主は、そんな、体勢を半ば崩した状態の双識に襲い掛かってこようとはせず、双識が振り返るのを待っていた。
「――これはこれは」
そこにあったのは――早蕨薙真の姿だった。
和装の佇まいに大薙刀、和式の眼鏡に長い髪。そして胸元には――刃物で傷つけられた、痛々しい痕がある。
鋭い視線で――静かに、双識をねめつけている。
その視線を正面から受け、双識は少し戸惑う。
これは――
|これは《ヽヽヽ》、|違う《ヽヽ》。
昨晩、マンションの屋上で双識と組み合ったときの薙真とは全く違う種類の殺気――否、全く別個の雰囲気ではないか。
何がどう違うのかと問われれば――
「『覚悟』が違うといった趣だね――早蕨薙真くん」
双識はしかし、そんな不安の感情を表情には出さずぐっと飲み込み、負傷していることなどまるで匂わさず、おどけた雰囲気で言ってみせる。
「なんだい? こんなところで、どうしたのだい? 昨日はああもみっともなく逃走しておきながら、まさか今更リベンジってわけでもないだろうね? 勝敗は十分に決していたと思うけれど、あの勝負に不満があるだなんて、そんな馬鹿なことは言わないで欲しいなあ」
勝者としての――余裕。
今、双識が頼るべき武器はそれしかない。
正直――左半身のあちこちが不随になっている今、早蕨薙真の大薙刀と殺し合いを演じるのはできれば避けたい。仮に伊織がこの場にいて、それを庇《かば》い救うために、戦わなければ助けられないというのならばまだしも――ここはそこまで無茶をしなければならないようなシチュエーションではない。そうするよりは、もう少し時間の経過を待って、体力の回復を図りたいところだった。
けれど。
「――あなたの妹さんですけれど」
と、彼は双識にまるで取り合わず――
薙刀を下段に構えた。
「――伊織さん、でしたっけ?」
「……ああ、そうだが」
「殺してきました」
さらり、と言われた。
背筋が凍るほど、冷たい声音だった。
双識は表情を変えない。
変えないが、それで精一杯だった。
言葉を――失った。
「どういう……ことだい?」どうにか振り絞って、そう問う声にもまるで力がない。「伊織ちゃんは――私を呼び寄せるための、大事な――そして貴重な、『人質』ではなかったというのか?」
「兄さんはそのつもりのようでしたけれどね――殺したのは僕の独断ですよ。僕の独断と偏見に基づいて、殺しました」少しずつ――双識との間合いを詰めながら言う。「はん。まさか、『殺人鬼』が、殺されておいて文句をいおうなんて、そんな馬鹿なことはありませんよね?」
「……何故」
死人のような声で、双識は訊く。
「何故――殺した」
「決まっているでしょう――」
酷く、冷めた目。まるで全てを吹っ切ったような。あらゆる種類の問いに答を出してしまい、迷いも悩みもないかのような、冷めた瞳で。
「僕が『殺し屋』で――『そういう風』にできているからに、決まっているでしょうが。――他に、どんな理由があるというのですか?」
「…………そうかい」
双識は――静かに頷く。
怒り――というより、諦念が、どこかにたっぷりと入り混じった、悲しげな、苦痛の表情で。
「きみは何かを見切ってしまったようだね――何を見切ったのか知らないが、残念だ。至極、残念だ。折角の『合格』だったというのに――残念至極極まりない」
そして双識は『自殺志願《マインドレンデル》』を構える。
「なら――私も『殺人鬼』としての本分を、まっとうさせていただくよ、早蕨薙真くん」
「是非《ぜひ》もなし」
と。
あちらの台詞よりも、こちらが飛び掛る方が先だった。足場が不安定なところに片脚片腕が思うようには使えない、となれば長期戦にもつれ込むと勝負は不利だ。先の幻想の中での『彼女』との勝負ではないが、これこそまさに、こここそまさに乾坤一梛、一撃で勝負を決しなければならない。幸いあちらも『やる気』――『覚悟』は十分な模様、今度は逃走の心配はない。
存分なる殺し合いだ。
雌雄は――一瞬で決する。
分水嶺は、双識が大薙刀の圏内に這入れるかどうか――その一点。もう前回のときのような突撃はあるまい、あちらの攻撃は斬撃に絞られる。その斬撃の圏内に這入れなければそれで終わり、這入ったところでそれで終わり。
どちらにしても終わりはすぐそこに。
狙いをつけ、『自殺志願《マインドレンデル》』を回転気味に繰り出す。
薙刀の斬撃は――まだ遠い。
双識はその長脚をもって、薙刀の間合いから、一気に大鋏の間合いへと侵入した。よし、ではここからだ。ここから一撃を喉元に決める。この距離でも薙刀の攻撃として、例の柄部による棒術・杖術があるが――それはもう避けない。避けようとしない。攻撃部位が刃でないのならば致命傷にはなるまい、この際背に腹はかえられない、肋骨の一本や二本、三本くらいならばくれてやろう。マインドレンデルの骨、妹への土産とするがいい。
「――刃《ハ》ァ!」
――と。
腹部に――|ひやり《ヽヽヽ》とした感覚が走る。
ぞっとするくらい――冷たい感覚が。
『自殺志願《マインドレンデル》』の刃が止まる。
「……え?」
右の脇腹に――刃物が通っていた[#「刃物が通っていた」に傍点]。
それは、いわゆる日本刀の刀身だった。
薙刀の拵えはどこにもない。すぐそこに、|それだったもの《ヽヽヽヽヽヽヽ》が打ち捨てられている。鋭く冷たい刃を隠していたその外装《ヽヽ》が――鞘のように打ち捨てられていた。
「然と――捉えたり」
早蕨薙真が言った。
否――早蕨薙真ではない[#「早蕨薙真ではない」に傍点]。
「|し《ヽ》――|仕込み刀《ヽヽヽヽ》……だと?」
ずるり、と双識は崩れ落ちる。
その際に相手の胸元の傷が眼に入る。それは――如何にも様相こそ派手だが、しかし随分と残い傷痕だった。こんなもの――こんなものは、『自殺志願《マインドレンデル》』の傷ではない。
「き――きみは」
「名を、早蕨刃渡という」
やけに冷めた声で――やけに冷めた目線で。
冷たく静かな動作で、相手は刀を引き抜いた。
「――手前がいうところの薙真の兄。俗にいう一卵性双生児という種類」
そして、|ぶん《ヽヽ》、と太刀を血振りし、後ろに跳んで、双識から距離を取る。双識はずるずるとその場に崩れ落ちていき、背後の木を背にしゃがみ込む形になる。双識は呆気に取られたような、今の状況がにわかに信じられないような表情で――刃渡を見る。
「その表情――あの愚弟にも見せてやりたかったものだ」刃渡の声は――とにかく冷たい。「それが叶わぬ以上――せめて手前の感想でも伝えてやるとしよう。手前――マインドレンデル。果たして、今、どんな、気分かな?」
「…………」
双識は刃渡からのその質問には答えず、やがて「うふふ」と力なく笑った。
「『双子の入れ替わりトリック[#「双子の入れ替わりトリック」に傍点]』――今時そんなものをやったら怒られるぞ、刃渡くん」
道理で――『覚悟』が違うはずだ。人物そのものが違うのだから、同じである方がどうかしている。双子で、容貌は勿論声音に至るまで全くの同一、服装や傷口を揃えたとはいっても――細かな仕草や雰囲気まで、一緒に揃えることはできない。
「陳《ちん》腐《ぷ》は元より承知よ。陳腐であればこそ、手前のようなモノには効果があるというもの」
「……その時代錯誤なファッションも、こちらの『思い込み』――『先入観』を促進させるための産物か。趣味でやってるわけじゃない――んだね」傷口からどんどん血があふれ出て来る。双識は『自殺志願《マインドレンデル》』を脇に置き、患部を押さえつけて強引に止血した。「大方普段は『お兄ちゃん』、その時代錯誤と対極のファッションに身を包んでいるってところじゃないのかな? カモフラージュとか言ってさ」
「明察」
なんということもなしに答える刃渡。後ろに縛った髪を解いて、その長髪を、懐《ふところ》から取り出した、髄腰マークの野球帽をかぶって、その中へと仕舞う。
「奥の手といえば奥の手、切り札といえば切り札。こんな手、相手が手前でなくては使いもせぬ」
「……『時宮』の婆さんがいい伏線になってたよねえ」双識は苦笑する。「『入れ替わり』の二段重ね。まさか繰り返してくるとは思わなかった。いや――いやいや、お見事お見事。お見事としか――言いようがない」
「…………?」
双識のその、致命傷を負いながらも、やけに余裕ぶったその態度が納得いかないように刃渡は、怪訝そうに眉を顰める。
「しかしまあ――随分となりふり構ってないね、刃渡くん、いやさ『早蕨』さん。『空繰人形』は使うわ『人質』は使うわ『呪い名』に協力を仰ぐわ、挙句の果てには騙し討ちか。ご先祖様がさぞかしお嘆きになるだろうね」
「卑怯だの姑《こ》息《そく》だのと吐《ぬ》かすつもりならば全くの筋違いもいいところと反論しよう。そもそも俺達は殺し合いを演じていたはず。そこに手前勝手な規則を持ち込まれても却って面食らう」
「いや、そうは言わないよ。言ったろう? 見事――だってさ」双識は、苦笑いを崩さない。「仕込み刀とは恐れ入った。中距離用の武器に近距離用の刀を仕込むというアイディアも悪くない。そして何よりあの挑発がよかったな――伊織ちゃんを殺した、云々の、さ」
「手前には悪いがあれに限っては真実」
刃渡はきっぱりという。
「恐らくは今頃、我が弟が始末をつけている頃合であろう。俺は止めたが聞きもせぬ。手前と組み合った際に何かあったと推察するが、如何かな」
「さあて……何かまずいこと、言っちゃったかな」双識は痛む身体に鞭打って、無理矢理に肩を竦めてみせる。「ところで――その、刃渡くん。お願いがあるんだけどさ」
「――何だ。命乞いなら無為」
「まさか。こっちの内ポケットに煙草《たばこ》が入っているんだ、ちょっと取り出して吸わせてくれないかな? 左腕は動かないし、右手はこの通り、傷口を押さえてなくちゃ、出血多量で死んじゃうしね」
「……何を企んでいる」
「企んじゃいないさ。ただ、さっき吸い損なっちゃっててね……死ぬ前に一本と、気取りたかっただけだ」と、そこで思いついたように。「おっと、とどめを刺すのは勘弁してくれ。見ろよこの傷、確実に肝臓《かんぞう》を抉《えぐ》っている.どう見てもまごうことなく致命傷だよ。きみもわざわざ私に近付く危険を冒《おか》すことはない、手負いの獣は危険だよ。そこで私が死んでいく様を見届けたまえ。それが勝者の特権だ」
「……解《げ》せぬな」
益々不審げにいう刃渡。
「再度問う。手前――何を企んでいる。致命傷とはいえ即死というほどの傷ではない、まだ戦闘は可能なはず。何故、その大鋏を手に取らぬ」
「私は無駄な殺しはやらないのだよ」
双識は言う。
どこか疲れたように。
どこか寂れたように。
どこか――やすらいだように。
「信じてもらえないだろうけどね……私は本当は、人なんか殺したくないのだよ。――殺人なんて、真っ平だ」
「……殺人鬼の台詞とは思えぬな。それもただの殺人鬼ではない、零崎一賊の『二十人目の地獄』、マインドレンデルの」
「そうだね。私は零崎の中でも相当な変り種だからねえ……そう、さっきの質問に答えてあげるとね――刃渡くん。私は今――悪くない、気分だよ」
「…………っ!」
「礼を言わせてくれ。私はきみに感謝している、早蕨刃渡くん。己の危険も顧みずに、ありとあらゆる手段を尽くしてくれてまで――」
「――私を殺してくれてありがとう」
これで――やっと、楽になれる。
心底からの安堵の表情を浮かべる双識に、早蕨刃渡は不愉快そうに――気持ちの悪いモノでも見ているような視線を送る。もう、その視線は、冷めているとも冷たいとも言いがたい、生理的嫌悪を隠そうともしない眼だった。
事実――刃渡には分からないのだろう。まるで、死を望んでいるかのような双識の言葉の真意が、全くといっていいほど、汲み取れないのだろう。死に逝く敗者の負け惜しみにしては、随分と手が込んでいるではないか。
「なんと醜悪――なんと最悪。そんな安らかそうな表情で逝《い》かせるために――騙《だま》し討《う》ったわけではない」
「うふふ。悔しがりながら逝って欲しかったってかい? 根暗だねえ。だが残念ながら――そこが『零崎』と『匂宮』との、決定的な違いだよ」
双識は言う。言葉の中に血が混じっている。だが、そんなことには構わずに――続ける。
「むしろそんな手を使われたからこその『安らかさ』さ……そんな小心者に、私の家族《ヽヽ》が敗れるはずもないからな」
「――――っ!」
にやり、と双識は笑う。
「『彼女』のような化け物を『敵』としてしまった場合は意地が何でも死ねないが――きみ程度ならば、一賊の誰でも楽勝だ。は――それに、私の可愛い可愛い『妹』が、薙真くんに殺されているって? そんなことはありえないな。誇大妄想もいいところだ、今、私は確信したよ。きみのような小心者の弟如きに殺される――我が妹ではない」
「――結構。是非もなし」
刃渡は言って、その場に胡坐《あぐら》をかいて座った。双識からの距離はおよそ三メートル、互いにその凶器の圏内ではない。それだけの間合いをおいて、早蕨刃渡は零崎双識と対峙する。
「ならば手前のとどめは――薙真に譲ることにしよう。奴の方が『零崎』に関する恨みは深い――薙真の弓矢に対する執着心は並々ならぬものがあったからな。あの小娘を殺し、手前を殺せば、少しは弟の気も晴れようというもの。――無論、それまで手前が生きていられればの話だが」
「生きていられれば……ねえ」
「余計な動きを見せれば即座に殺す」
「できれば、このまま安らかに死なせて欲しいのだけれどね――まあ、ここに来るのは伊織ちゃんだから、大丈夫なのだけれどね……」
双識は言う。
刃渡は黙った。
左腕が動かない。右腕は使えない。
左脚が動かない。右脚なら――
――駄目だな。
脚の一本でどうにかこうにかできるような相手でないのは、もうはっきりしている。あちらは『策』を色々と巡らせてきたようだが、そんなことをしなくともこの刃渡ならば、双識が万全の状態でも相当に苦戦させられ、互角以上に戦われたことだろう。地の利、人質の有無、それら全てを差し引いたところで、それだけの腕を刃渡は持っている。そうでなければ、いくら『策』とはいえ、ここまで綺麗にあっさりと、見事には決まらない。
それは、彼らも知っているところだろう。
にもかかわらずこうも策を弄《ろう》したのは――
零崎一賊が集団だからだ。
あちらは切《せっ》羽《ぱ》詰《つま》っていて。
こちらは後を任せられる家族がいる。
その差異。
その違い。
双識が死んでも――いなくなっても、その遺志を引き継いでくれる連中が、二十人からいる。
だから、死ぬことがまるで怖くない。
自分が死んでも続きがあって――
決して、終わらない。
「――やれやれだ」
双識は刃渡に聞こえないように眩く。
あの――ニット帽の少女を思い浮かべながら。
伊織ちゃん。
きみにもう少し色んなことを教えてあげたかったけれど――どうやら私はここまでらしい。
きみは――ここには来るな。
逃げろ。
きみは、逃げていい。
きみには逃げる場所が、まだあるかもしれない。
私は――ここが、行き止まりだ。
私は――ここで、行き詰まりだ。
どうやらこの辺にいるらしい、とうとう見つけることが叶わなかった我が弟と落ち合って――別の筋道を探してくれ。人識ならば、きみを無理矢理に『零崎』に引きずりこんだりはするまい。可愛さだけが取り得の小僧で、しかもきみが日常から外れることになった元凶《げんきょう》でもあるクソガキだが、決して悪い奴じゃあない。
伊織ちゃん。
きみは可能性なんだ。
きみは――希望なんだ。
お願いだから――
人なんか、殺さないでくれ。
「――へっ」
双識はらしくもない自嘲の笑みを浮かべる。
「妹……欲しかったんだけどなあ――」
◆ ◆
林の中を駆ける影がある。
「――はあ、はあ、はあ:::」
息も絶え絶えに、しかし一心不乱に、林の中を駆ける影がある。明確な目的地でもあるかのように迷いのない駆け足で、木々が密集するこの林を必死で駆けている。
「――う、うう……」
と、湿気でぬかるんだ地面に足を取られ、無様に転倒する。それはまるで『時宮』の『結界』で封じられたこの森林の空気そのものが、影のその行く手を妨害しているかのようだった。
「――うふふ」
笑って、立ち上がる。
その影は――早蕨薙真か?
兄の元へと駆けつけようと、零崎双識にとどめを刺さんと走る、復讐の念にかられた、薙刀遣いのその姿か?
――否。
そうではない。
影は頭に赤いニット帽をかぶっていた。
己が血で真っ赤に染まったセーラー服。
その右腕の、手首から先が存在しない。ゴム紐のようなものでその傷口を閉じて止血してあるが、それでも止まりきらぬ血液が、そこから|ぽたぽた《ヽヽヽヽ》と垂れ続けている。
反対側の手にしたってとても無事とはいえない、五本の指の爪が全て剥がされていた。だがその手は痛みに震えることもなく、しっかりと力強く、しっかりと心強く、匕首の柄を握っている。
無桐――伊織だった。
「……うふ、うふふ」
スカートについた泥を払い、そしてまた駆け出す。やはり迷いはない、目指す場所があるように。
目指す場所――
勿論それは、森林の外などではない。
そんなところに行く理由なんてない。
「……うふ、うふ、うふふ」
走る。
走る。
しっかりと前を向いて。
折れず、怯まず、挫けず。
眼を逸らさず、顔を背けず。
何からも、逃げることはなく。
その華奢で、壊れかけの身体を引きずって。
「待っててね、お兄ちゃん――」
◆ ◆
そして早蕨薙真の方は――
プレハブ小屋の中、一人で、たった独りきりで、呆然と――立ち尽くしていた。その右肩からは、とめどなく、大量の血液が流れている。早々に止血しなければ失血死、そうでなくともこのまま意識を失ってしまうだろう。
だが彼は微動だにしない。
すぐそばに、人間の手首が落ちている。
伊織の手首だ。
薙真が切断した、無桐伊織の手首。
「…………」
切断した直後、彼女は絶叫をあげて、気がふれたかのように、薙真の下で荒れ狂った。手首から先をなくしたのだ、それは当然の反応。しかしその反応を見ても、薙真の溜飲《りゅういん》はまるで下がらなかった。全然気がすまない。全然満たされない。どころか、薙真はまだまだやり足りない気分だった。すぐさま反対側の手首を切断してやろうと、少し腰を浮かしたところに――
空から刃物が降ってきた[#「空から刃物が降ってきた」に傍点]。
「…………」
正確に言えば、天井の梁に刺さっていた匕首。
薙真が伊織に渡し、その後に薙刀でもって天井へと撲ね上げた、あの匕首だ。
梁に深く突き刺さっていたはずのそれが――伊織が小屋全体を揺らさんばかりに、腕で脚でその身体で、とにかく可能な限りに足掻きまくったせいで――抜け落ちてきた[#「抜け落ちてきた」に傍点]、ということらしい。
そしてその刃は薙真の肩を抉った。
肩の筋肉が寸断されたのが理解できた。
「信じられない――『幸運』だ」
幸運……そうはいっても、全然そんなものでないことは、薙真にも理解できている。『それ』はあのマンションの屋上で、自分がマインドレンデル相手に『逃走』できたのと同じで――幸運などとはまるで違う。
絶体絶命のぎりぎりで生き残れる『資格』。
生き残ると運命づけられている、『資格』。
それが伊織にはあった。
薙真よりも……伊織が、選ばれたのだ。
そう、彼女は、選ばれた。
選択権も決定権もないはずの彼女だったが――それはあるいは、選ばれ、決定されたと、そういう意味だったのかもしれない。
「――そして『零崎』」
生爪を剥がされた痛みに、絶望的な状況に耐えかねて暴れているようにしか見えなかったが――その行動すら、『殺意』の手段でしかなかった。
おぞましい。
おぞましい。
おぞましい。
『時宮』のおぞましさすらも、凌駕《りょうが》する。
最《も》早《はや》――手に負えない。彼女はきっと、マインドレンデル以上に手に負えない。あの高架下でマインドレンデルを退けたのは――彼女のその爪などではなかったのだ。
彼女のその存在だ。
彼女のその才能だ。
本当――どうしようもない。
「そんな『才能』を見せつけられたんじゃあ――そんな『存在』を見せつけられたんじゃあ――確かに、俺程度じゃあ『不合格』だな」
眩いて、ようやく動き出す薙真。
右腕は動かない、どうやら筋やら腱やら神経やらに至るまで、軒並み切れてしまっているようだ。もうこれから先、右腕は今までのようには使えないと見た方がよさそうである。まあいい――『殺人鬼』を、『零崎』を相手に、ひとまず生き残れただけで、それは僥倖《ぎょうこう》というものだ。
落としてしまった薙刀を拾おうとする。
こいつは長年付き合ってきた、ある意味で兄妹達以上の相棒だ。ここで手放すわけにはいかない。だがこの腕では、もう『殺し屋』家業は廃業せざるをえまい。
そう思うと妙にすがすがしい気分だった。
もう――殺さなくてもいいのか。
そうだ、自分は『零崎』とは違う。
伊織や双識とは違う。
死にたければ死ねばいい。
殺したければ殺せばいいし――
殺したくなければ殺さなくていいのだ。
どうしようもないなら
どうにかする、必要なんてない。
どうしようもないモノとは、どうにもしなくて、そのままにしておけば、それでいいモノなのかもしれない。少なくとも、それは、ただ、それというだけ――なのだから。
あるがままだ。
あるがままを、受け入れればいい。
基準で測るから――痛い目を見る。
あるがままを、受け入れて。
そうすればまた――選べるだろう。
学ぶことも、あるだろう。
いつか――解答も分かるだろう。
それだけのこと。
それだけのことだ。
「ねえ、弓矢さん――あなたも、そうでしたか?」
早蕨薙真が、儚げに眩いたそのとき。
|ぎぃい《ヽヽヽ》、と小屋の扉が開いた。
何者か、と誰《すい》何《か》しながら振り返る。
まさか伊織が戻ってきたのか。
それともマインドレンデルが辿り着いたのか。
二人一緒ということもありうる。
否、その二人を撃破した兄、早蕨刃渡か?
「……よお」
――その誰でもなかった。
奇妙な風体の、それは少年だった。
背はあまり高くない。染めて伸ばした髪は後ろで縛られており、覗いた耳には三連ピアス、携帯電話用のストラップなどが飾られている。それより何より眼を引くのは、スタイリッシュなサングラスに隠された、その顔面に施された――禍々しい刺青だった。
「ちょいと道に迷っちまって、よければ教えて欲しいんだが――つっても別に、あんたに人生を説いてもらおうとか、そういうわけじゃない」
言って、顔面刺青の少年は「かはは」と笑う。
だが薙真はそんな冗談に少しも笑わない。
笑うことなどできようはずもない。
薙刀を持つ左手に力が入る。
|こいつは《ヽヽヽヽ》。|この少年は《ヽヽヽヽヽ》。
|この《ヽヽ》――『零崎《ヽヽ》』|は《ヽ》。
「実は兄貴を探してるんだ。目撃証言によれば、多分この森林公園の中にいると思うんだよ。なんか滅茶苦茶迷路みたいなふざけた森で、ちょいとばかし困っててな――セーブ中のメモリーカードみてーな気分だぜ。つまり抜き差しならない状況ってこと」
「………………っ!」
「あ、ひょっとしてあんたも道に迷ってる人とか?あー、あー、あー。そんな面してんよ。ん? つーか、その怪我、転んだのか? 血ィ出てんじゃねえかよ。ちょっと見せてみろよ、俺、血ィとか止めんの得意なんだ」
気楽そうにいって、一歩、小屋に踏み入ってくる顔面刺青の少年。
先ほどまでの――穏やかだった気分が、霧のように消えていく。湧いてくる殺意。蠢《うごめ》いてくる殺意。犇《ひしめ》いてくる殺意。まるで薙真自身がそのもの『零崎』になってしまったかのような――猛然たる、どうしようもない――殺意。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお[#「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」に傍点]! ぜろざきぃいいいいいいいいいいいい[#「ぜろざきぃいいいいいいいいいいいい」に傍点]!」
飛び掛かる。
片腕でその大薙刀を振るい――薙真は顔面刺青の少年目掛けて飛び掛った。両者の距離は三メートルと少し。あと一メートル距離を詰めれば、それでもう顔面刺青の少年は、薙真の薙刀の圏内だった。
殺す。殺す。殺す。
|殺す《ヽヽ》!
「……危ねえな」
そう言いつつ、顔面刺青の少年は動かなかった。
少なくとも、動かなかったように見えた。
だが――薙真は。
十センチほど移動したところで、停止した。
否、正確には停止などしていない。
切断された首も、切断された左腕も、切断された右腕も、切断された胸部も、切断された左脚も、切断された右脚も、切断された右の五指も、薙刀をつかんだままの左の五指も、慣性の法則に従って、停止はしなかった。
けれど生命は停止した。
どうしようもなく――停止した。
顔面刺青の少年の前に、ぼたぼたと、ぼたぼたぼたと、次々に、早蕨薙真の部品が落ちていく。
「悪いな。殺しちまったよ、雑魚《ざこ》キャラくん」
何と言うこともなしにそれを見下ろす少年。
「傑作な代物だろ? これ……『曲絃糸《きょくげんし》』っていうんだぜ」よく見れば、顔面刺青の少年の周囲はきらきらと、極細の糸でも張っているかのように、光っている。「俺が使えば射程距離はおよそ三メートルってところかな――すげえ奴だと十メートル二十メートルまで使えるらしーんだけどさ」
と、そこで顔面刺青の少年、落ちている部品の中に、手首が一つ多いことに気付く。三つとも拾い上げ、どうやら別人のものらしい内の一つだけを残し、二つを床に投げ落とす。
「うん……? 女の……右手首、だな」
興味深げにその手首を見つめる顔面刺青の少年。なにやら思考しているらしく、難しそうな顔だった。その手首に爪が一枚として存在していないこと、床の辺りに無理矢理剥がされたと思われる爪が、数えて十枚散乱していることを、同時に確認したようだ。
「……するってえと、あれか。この薙刀のにーちゃんの肩の傷、戦闘の形跡か。で、手首を斬られはしたものの、なんとか勝利を収めた『女』が……俺とすれ違うように、ここから逃走、した?」
首を傾げ、ぶつぶつと眩きながら、無造作な仕草で、その手首を、己のベストのポケットに仕舞う顔面刺青の少年。
「しかし『勝利』しておきながら即座に逃走する、そんな理由があるか? うーん……いや、『逃走』とは限らないか。つまりその『女』にとって、このにーちゃんは『終着』ではなく――まだ『倒すべき』、『勝たなければならない』対象がいるってことかな? あるいは――『助けなければならない』対象が、いる……?」
ふん、と鼻を鳴らす顔面刺青の少年。
「なんにせよ血の匂いするところに兄貴ありだ。俺もそろそろ焦らねーと、昨日何人か……何人だっけ、まあ何人かやっちまったし、下手すりゃそろそろあの『鬼殺し』に追いつかれちまう。もう見つかってるかもしんねーとこだし……ちゃっちゃ、急ぐとすっか」
どうやらこの手首の持ち主のものらしい、床を等間隔に汚している血痕を追う形で、扉へと向かう顔面刺青の少年。小屋から半歩出たところで、思い出したように振り返り、そして、床に散らばった、大薙刀遣いの解体死体へと眼をやる。
「――そういえば」
そこで首を傾げた。
「いきなり名前を叫びながら襲ってきたところを見るとこの雑魚キャラ、どうやら俺のことを知っていたみたいだったけれど……しかし誰だ? こいつ」
[#地付き](早蕨薙真――不合格)
[#改頁]
[#ここからゴシック]
第十回
素数ってあるじゃん。自分と『1』以外の数じゃ割り切れないって奴。
多分あの中で『2』って数字はさ――めちゃくちゃ居づらい思いをしてるんだろーな。
[#ここでゴシック終わり]
生来の者であり生来の物でない――
と、早蕨刃渡と早蕨薙真は言った。
その言葉の意味を、伊織は考える。
つまり、それは『才能』のようなもの。
『才能』とは開花しなければ、いくら『そこ』にあったところで、その内実を発揮しない。とすればそれは存在しないのと同じだが、やはり誰しもが何らかの形で保有しているものである。
つまり彼らに言わせれば『零崎』とは『殺人の才能』を指すのだろうか。少なくとも彼らから見ればそうなのだろう。そう定義し、そう見ているのだろう。
けれど双識、零崎双識はそれを否定した。
初対面でまず、否定した。
『才能』ではなく『性質』だと。
才能と性質との違い。
ぱっと考えて明瞭なほどに確然な区別があるとも思えない。少なくとも愛と恋よりは近いものなのだろうと思うけれど。
この場には辞書がないので(あったところでそれほど役に立っとも思えないし〉自分勝手に決め付けてしまえば――『性質』とは『才能』のもう一回り下にある概念なのだろう。もう少し、ほんのわずかだが、より形而下にある概念思想。才能が相対的なものだとすれば性質は絶対的な、才能が抽象的なものだとすれば性質は具体的な、そういう概念差、思想異がそこにはあるのだと思う。
だから。
生まれっきの殺人鬼、ではない。
それが人より上手に出来るというだけ。
走るのが速いのと同じ。
計算が速いのと同じ。
単機能として人より秀でているだけだ。
走るのが速ければランナーにならなければならないわけでもないし、計算が速ければ数学者にならなければならないわけではない。ランナーの全てが足が速いわけでも、数学者の全てが計算が速いわけでもないのと同様。相応《ふさわ》しくない一流と相応しい三流、そういった抽象だって世界には確固として、むしろその方が数多くに、確在しているのだから。
だから『性質』とその後の将来とは無関係だ。
相転移の相違点、というようなもの。
方向の量子化。
転移点。
双識は希望、だと言った。
孤独な殺人鬼でない希望。
あるいは可能性。
だがそこにも、認識の歪みがあるように思える。これはいくらか強引な解釈になってしまうかもしれないが――いくら双識や伊織同様にその『性質』を所有していたところで、その『性質』を抑え切ってしまえば、そもそも『殺人鬼』などにはならない。
双識は伊織に対して『どうして今まで人を殺さずにこれたのか分からない』みたいなことを言っていたけれど、しかしそんなこととは没交渉に無抵抗に無関係に、『性質』を抑え切れなかった時点で、伊織に『可能性』『希望』なんてものはないように思う。本当に『可能性』や『希望』などと呼べるのは、今の段階でまだ――
何も気付いていない者。
己の『性質』に無意識の者。
眠っていることさえ気付かぬ睡眠者。
生来の者であっても、生来の物でないモノ。
『希望』だの『可能性』だのは、形ある存在ではないのだ。見えないし、気付かないし、見てはいけないし、気付いてはいけない。
それが、『希望』。
だからそれは双識の勘違い。
私はそんなものじゃないし――
そんなものはいらない。
◆ ◆
太陽照り盛る真っ昼間だというのにあまりにも小暗き林の中、二人の男が向き合って座っている。
一人は如何にも武芸でも嗜《たしな》んでいそうな和装姿に酷く不似合いな燭膜模様の野球帽、小脇には太刀を構えている。何もかもを見切ってしまったような超然とした冷めた眼で、向かいの男を見つめている。
彼は『紫に血塗られた混濁』、早蕨刃渡という。
一人は妙に手足の長い、針金細工のような骨格をした男。異様なまでに疲弊していて顔面は脂汗にまみれている。それもそのはず、腹部に深い刀傷、傷口を押さえてはいるものの、出血は止まらないし、その傷は内臓にまで達している模様。似合わない背広が赤く濡れ塗れている。右脚の横に大きな鋏が落ちていた。
その鋏は『自殺志願《マインドレンデル》』と呼ばれ、また彼、零崎双識自身も、その名で呼ばれる。
「自殺志願《マインドレンデル》――しかし自殺なんぞ、この私は考えたこともないんだがね」
双識は力なく眩く。その言葉に刃渡は反応しない。反応はしないが、一応聞いてはいるようだった。双識も別に刃渡に話しかけているわけではないただの独白のようで、構わずに続ける。
「……けれど生きているのが嫌だったら死んじまえなんてのは、随分と乱暴な話だとは想わないかい? 絶望は愚か者の結論――ならば失望は賢者の結論か。ならば希望は、誰の結論なんだろうね」
「そろそろ意識が危うくなってきたと見受けるが、マインドレンデル」特に何という感情も込めずに、刃渡は言う。「戯れに問う。手前にとって――否、『零崎』にとって、『殺人』とは結局、どのような意味を持っていたのか?」
「意味? 意味なんかないさ。病気みたいなものだよ、こいっはね。しかも不治の病ときている……たまったもんじゃない」
「…………」
「ちょいと私の弟の話をしてやろうか。刃渡くん、きみの妹の仇だよね。うん、その点においちゃきみ達にすまないと思う気持ちはあるんだ――薙真くんの『正義』に対しても、私は正直頭が下がる思いだしね」
「おべんちゃらは結構。手前の弟の――話とやらを聞こう。早くせねば、貴様の命はもってあと三十分といったところだ」
「三十分――なげえなあ。うんざりする。まるで人生のようだね」苦笑するように言う双識。「――あ……っと。弟はその名を人識と言ってね。顔面に刺青をいれていて……」
「外見などどうでもよい。中身の話を聞こう」
「……あいつはね、私と違って『零崎』の申し子みたいなところがある。なんていうのかな――言葉遊びは興味じゃないが、私が『零崎』の異端だとすれば、奴は『零崎』の極端なのさ。殺人を『楽しみ』もしないし――『厭《いと》い』もしない。ただ当たり前、『|そうであるように《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》』人を殺すんだ」
「――『そうであるように』」双識の言葉を繰り返す刃渡。「意味が判然としない。そんなことは我ら『早蕨』にしても同じこと。『殺し屋』が殺しに感情を抱いてはならない。むしろ『殺人鬼』の『零崎』こそ、『殺し名』の中でもっとも積極的な殺人淫楽ではなかろうか」
「そいっは大いなる偏見に基づく誤解だよ。私はそういう意見を聞くたびに悲しい気持ちになる。ねえ刃渡くん。『悲しい』というのがどういう気持ちなのか、知っているかい?」
「…………」
「それはね、『悲しい』ということだよ。とてもじゃないが、言葉で言い表せるものじゃない。言葉をどれだけっくしたところで、我ら『零崎』の感情に追いつけるものじゃないのさ……っと、お」
がくり、と双識の頭が落ちる。意識が跳びそうになったらしいが、すぐにその顔を起こし、不敵な表情で刃渡を見据える。
「……人を殺すなんてことは……『零崎』にとっちゃ、何でもないことなのさ。何でもなく、何でもなく、何でもない。この言葉の解釈は好きにしてくれていいよ。ああ、断っておくがこれは私の意見じゃなく『零崎』全体の総意だ。だから私の弟がきみの妹を殺したというのも、おおよそそんな理由だったのではないのかな」
「つまり弓矢の死亡に――意味はないと」
「そう」
「ならば薙真の恨怒に――意味はないと」
「そう」
「ゆえに早蕨の行動に――意味はないと」
「そう」
双識は頷く。
「意味がないどころの話じゃない……ぶっちゃけた話、私はある程度まできみ達『三人』に感情移入しているから言っちゃうけどさ……まったく逆効果だ。逆効果百パーセント、だよ。余計な忠告かもしれないが、きみにだって分かってるだろう? この私を殺してしまって、生き残れるはずがないと。私が死ねば、私以外の『零崎』が総員で『早蕨』を撲滅する。『零崎』の残りを全て相手に、行住坐臥、全てにおいて生き残れる自信があるのかい? それもたった二人で」
「……協力者は時宮以外にも存在する」
「そうかい。だとするならば最悪『匂宮』と『零崎』、『殺し名』同士の抗争になっちまうがね……それでも構わないと、そういうわけだ。妹、たった一人のために」
「俺のことをそこまで感傷的な人物だと思われると困惑」刃渡は平然と言う。「それはあくまであくまでにおいて弟の意見。俺の目的はどちらかと言えば野心。『早蕨』はいつまでも……『匂宮』の分家に甘んじているつもりはないということだ」
「…………そっかい」
双識はやる瀬なさそうに頷いた。
「……どうしたもんかね、きみの採点は。その動機にその手法、間違いなく『不合格』なんだけれど……しかしこの有様でそれを言えばただの負け惜しみにしか聞こえないだろうしな」
「然り。そもそも手前の如きおぞましき『殺人鬼』が対象を『試験』しようなど、それ自体が失笑ものだ。あまり世界を馬鹿にするものではない。先の有難き忠告にしたところで、この早蕨刃渡、何の対策も立てていないと思うか」
「大方その対策ってのはこの私の死体を隠し、私を装って『零崎』とコンタクトを取るってところかな? 偽装に関しちゃ、『時宮』の力を借りればいいだけだからね。『時宮』に関したところで、あの婆さんだけが協力者ってわけでもないんだろうし。『早蕨』と『時宮』、どういう共通利害があるんだか知らないけどさ」
「笑止。逆論、『零崎』に恨みを抱いていないものを探す方が難しいというものだ」
「そいつはどうかな。『零崎』は『敵対する対象』に関しては完全撃破の記録を樹立してきたからね……そこに『恐れ』は残っても『恨み』は残らない。きみ達のような例がむしろ例外なんだよ、例外。弟の奴の不手際としか言い様がないんだけどね」
「不手際、か。『零崎』らしくもないな」
「ああ……同意だ。しっかり躾けたつもりだったんだが、やはりひとり立ちするにはまだ早い……けど、これからは私も構ってやれないし、自分でそういうところ、ちゃんとしてもらわないとな……ああ、そうだ、刃渡くん。一つお願いしてもいいかな?」
「……何だ」
「もしもこの先……可能性はかなり高いと思うのだが、私の弟に会うことがあれば伝えてくれ。私は、零崎双識は、お前のような弟がいて、それなりに居心地のいい思いをさせてもらえたとね。クソガキではあったが、ま、存在意義はあったとね」
「…………」
その言葉に、不快そうな表情を見せる刃渡。
脇腹を刺してから、既に十数分が経過している。死が近付けば、死の際に立てば、目前の男とて、取り乱すに違いがないと思っていた。みっともなく命乞いをし、刃渡に哀れみを願ってくるとばかり思っていた。そのときこそ、刃渡は勝ち誇った清々しい気分で、そっ首を叩き落してやるつもりでいた。
なのにどうしてこうも。
ますます、安らかそうに。
あまっさえ、こちらの心配までして。
まるでこれでは……聖人の死に際だ。
この男のどこが殺人鬼なのか。
「……否」
首を振る。
刃渡は、この男が夏河靖道の首を落すのを見、またその後六体の『人形』にも同じことをするのを見た。弟・薙真の胸の傷も見たし、今しがた、すぐそこで時宮刀自が惨殺される様子も覗き見ていた。
まごうことなき人殺の鬼だった。
平気で、そう、双識自身の言葉で言えば『そうであるように』、人間を物体に還元した。
「……手前……何者だ」
「知らなかったのか? 零崎だよ」
にやり、と笑う。
まだ笑う。
死の淵にいて、まだ笑う。
「……もういい」
刃渡は.刀を携え立ち上がった。
自分はこうしてあの『零崎』のマインドレンデルを死に至らしめたというのに……どうしてこうも敗北感を味わされねばならないのか。
不愉快なまでの世迷言。
不愉快なまでの絶対感。
不愉快なまでの大矛盾。
ああ、なんとおぞましい。
彼らは黒闇で人を殺すのではない。
彼らは白光で人を殺す。
「手前ら――」
他には何もない、殺意だけの一賊だと聞いていた。そして刃渡自身そう信じていた。が、目の前の男を見ていれば――『零崎』には、その殺意さえも、存在しないように思われてきた。
そんなもの。
見るだけでも汚らわしい――
「我慢ならぬ――ここで終わらそう」
と。
そのときである。
隠すっもりもないほどに大きな音を立てて、早蕨刃渡の後ろの茂みから、一体の影が飛び出してきた。
その手にヒ首を構えている。
反対側の手首から先が存在しない。
血の色で真っ赤に染まったセーラー服に身を包み、同じく赤い色のニット帽を頭にかぶった彼女は、叫びを上げながらその刃の先を刃渡の背へと向けている。
その形相はもう人のそれではない。
まるで、それは。
鬼のような。
人殺しの鬼のような。
「だらあああああああああああああああああああああああああああああああああああ[#「だらあああああああああああああああああああああああああああああああああああ」に傍点]!!」
伊織の姿だった。
「――――!」
全く――気付かなかった。
その事実に、まず刃渡は驚愕する。
潜んでいた気配はない。特攻でもかけてくるかのように、何の溜めもなしに何の躊躇《ためら》いもなしに、突っ込んできたのだろう。ならばそれほどまでに双識との会話に没頭していたっもりはない、相手が素人の女子高生だということを差し引いたところで、物音どころか気配にさえも気付かない道理がないのだ。
そして次なる驚愕は、その影が弟・早蕨薙真ではないということ。ここにこの娘がやってきたということは――もうその時点で弟の運命は決確したようなものだ。どういう理屈があれば、手足を拘束された者相手に、自分の弟が敗北を喫するのか。その理由がまるで不明だったし――何よりもこれ以上なく血の繋がった、遺伝子構造を同じくする弟がつまりは絶死しただろうというその事実に――刃渡は一瞬、身体を硬直させた。
一瞬。
一瞬だけだ。
その一瞬は、刃渡と伊織との差異を埋め得るほどの物量ではない。
「――最悪というほどでも無為《ない》」
眩いて。
身体をゆるりと反転させた。
|ぶん《ヽヽ》――と隙間を縫うように、刃は振られた。
空振りかと思うくらいに、スムーズな動作。
けれど、無論、早蕨刃渡に空振りなどない。
ヒ首を握った左手が、主から離れ、そのまま宙を舞った。
「――|っつ《ヽヽ》!」
両の手を無くし、それでも伊織は止まらず、空中から刃渡に向けて脚を向ける。しかし刃渡はそれを軽く捌いて、逆に伊織の腹部に刀の柄を、交差法気味にぶち込んだ。
飛び込んだところを更に加速される形になって、伊織はそのまま地面に叩きつけられる。その足下に、くるくると回転しながら、いまだ宙を舞っていた伊織の左手首が落下してきた。脚の間に、ぼとりと落ちる。
ヒ首を、握ったままだった。
「――ちえー……失敗」
――無感動そうに、既に自分のものではなくなった自分の左手首を見っめながら、伊織は言った。その表情は――まるで笑っているかのように、歪《ゆが》んでいる。片手首を斬りおとされて――否、両手首を斬りおとされて痛みがないはずもないのに、まるで苦痛が表情にない。
常軌を逸していた。
両手首を落とされて気がふれるとしか思えない。
あの部屋から拉致してきたときのようなおちゃらけた女子高生のような面影が、どこにも欠片として存在しない。
頷けた。
これなら、薙真を退けるのも、得心。
「――伊織ちゃん!」
むしろ冷静でなかったのは、その一瞬の交錯を傍観するしかなかった零崎双識だった。己の腹傷から手を離し、這いずるように伊織にかけよって、その身体を後ろから抱きかかえるようにし、その切断された左の手首をぐっと握り、応急的に止血する。
「伊織ちゃん――馬鹿な、どうして、どうして逃げなかったんだ!」
そしてまるで一般人のような台詞を吐く。
『零崎』らしからぬ、あまりにもありふれた、当たり前な反応。その表情に、先までの安らかさなどどこにもない。聖人もそこのけな穏やかさを以って自らの死を見つめていた、あの一種の高潔さは、どこにも見受けられない。
そこにあるのはただ。
妹を心配する兄のような存在だった。
「――うふ、ふ」
むしろ伊織の方がこの場合は異常、奇妙なほどに嬉しそうな表情を浮かべている。
「やだなあ――どうして逃げなくっちゃいけないんですか。そんな理由、どこにもありませんよう」
「な、何を……」
「だってさあ」
伊織は続ける。
左腕からの出血は双識が抑えているとはいえ、しかし右手の分も合わせて、もう意識が朦朧としてもおかしくない出血量である。否、今意識があること自体、十分に奇跡だ。
「お兄ちゃん、独りじゃ、寂しいかなあって」
「…………」
その言葉に、双識は。
失笑した。
「……別に、そんなことは、ねえさ」
「ふうん。そっかい」
とぼけるように、伊織も笑う。
双識の顔に穏やかさが戻ってくる。
一層の安らかさが戻ってくる。
それは、伊織も同じだった。
まるで二人は。
家族のように穏やかだった。
「……何たる最悪、手前ら!」
地面を踏みつけて、刃渡が怒鳴った。
それだけ血を流しているのだ、さっさと死ねばよかろうが! 手前らの中にはどれだけの血量があるというのか、それだけ殺されまだ足りぬというのか、殺しても殺してもまだ足りぬというか、この鬼ばらが!」
「うるさいなあ……ちょっとは静かにしてくれよ」双識が、心底けだるそうな感じで言う。心地よい眠りを邪魔されたかのような調子で。「私達なんかに構ってないで……弟の薙真くんでも確認に行ってやったらどうだい? 伊織ちゃんがここに来たというのがどういうことか、分からないわけじゃないだろう?」
「知ったことか。弱者が敗北するのは当然のこと。弱き者が生きていること自体が一つの誤解。策略的にここから厳しくなるのが困り物だが、しかしむしろ似たような面を見る必要が減って、清々するくらいだ。それよりも――」
「だったらあなたは『不合格』ですね」
遮るように言ったのは伊織だ。
自分の左手首を切断した相手と、自分の右手首を切断した相手の兄と、しっかりと、目を逸らさず、ひるむことなく、視線だけで対峙する。
その視線に――刃渡はたじろいだ。
「家族を大事にしない人は――『不合格』です」
「……笑止。ならば貴様のやっていることは何だと問う」刃渡は言う。虚勢だけではないが、しかし確実にそれが混じっている声で。「貴様の所為で――マインドレンデルは死ぬぞ。貴様の出血を押さえるために、マインドレンデルは自らの傷から手を離した。意味は分かろう」
「…………」
「まずマインドレンデルが失血死。その後貴様が失血死。まるで貴様の行為は無駄ではないか。素直に逃げておけば、それでまだ希望はあったものの」
「|きぼう《ヽヽヽ》?」
伊織はせせら笑う。
「|いらねーよ《ヽヽヽヽヽ》、|そんなの《ヽヽヽヽ》」
「…………」
「双識さんにその手を離してくれ、とも言わない。わたしは双識さんが倒れたその後でゆっくり死ぬ。大丈夫だよ。妹を庇って死ぬなんて兄の本望じゃない、ねえ。そうでしょ? お兄ちゃん」
後半は背後の双識に向けられた台詞。
その台詞に双識は「勝手な奴だ」と苦笑する。
それだけだった。
何も揺るがない。
双識にだって分かっているはず、その手を離せば、自分が生き残れることくらい。腹の傷にしたって、致命傷に限りなく近くはあるが、この場を|どうにか《ヽヽヽヽ》切り抜けて――伊織を盾にでもして切り抜けて、きちんと適切な処置さえすれば、可能性も希望もあることくらい、分かっているはず。
何故に、それを否定する。
生きるっもりがないのか。
孤独でないなら、死んでもいいというのか。
悲しくないなら、死んでもいいのか。
信頼というにはそれは邪悪過ぎる。
愛情というにはそれは醜悪過ぎる。
なんなんだ、こいつらは。
理解できない。理解できない。理解できない。
理解できない。理解できない。理解できない。
干渉を拒絶している。
ああ、ならばもう、得心するしかないだろう。
『これ』は『違う』んだと。
『匂宮』『闇口』『薄野』『墓森』『天吹』『石凪』――そんな人外魔境の魑魅魍魎とも並べられない、別異でしかない、そんな『もの』だ。
それは例えるなら『彼』のように。
それは例えるなら『彼女』のように。
価値観そのものが違うのだ。
欲しいものも、守りたいものも、まるで違う。
公約数がない。
公倍数もない。
あり得ない数。
存在しない数。
斬れども斬れども斬れやしない。
決して割り切れない数。
零裂き。
零崎。
「もういい!」
先の台詞を繰り返す。
今度はあらん限りの怒号を込めて。
まるで敗北者のように怒鳴る。
負け犬のように遠吼える。
そして刀をひゅん――と振る。
「手前らにはもう一秒たりとも生存することを許可しない! 俺は敗北者で構わぬ、手前らが死ぬならそれでよし! 文字通り、重ねて四つに斬りつけて見せようが!」
「ああ、好きにしろよ」
それでも双識はびくともしない。
むしろさっさとやれと言わんばかりだ。
「それと――私達を二人とも殺したとして、次にきみの相手をすることになるのは――先に話した私の弟だ。メッセージ、くれぐれも忘れないでくれよ」
「弟だど……この期に及んでそんな空概に頼るっもりか。そんな空概が、俺を殺すというのか」
「ああ。うふふ、ひょっとするともうその辺まで来ているかもしれないぜ。都合のよい正義の特撮ヒーローよろしくね」
「……愚に愚を重ねた妄言を」
刀を構え、脚を踏み出す刃渡。
「手前らの住処は間違いなく地獄だ。ここにいられるだけで空気が汚れる、早々に堕するがいい。その弟とやらも――すぐに後を追わせてくれよう。あちらでいくらでも馴れ合っているがよいわ」
そして。
身動きのとれない『零崎』二人に対し。
刀を、振りかぶった。
始まった全てを、終わらすために。
◆ ◆
「………………」
そのすぐ近く。
五メートルほど離れた地点。
樹木に隠れるようにして手を束ねている、一人の少年の姿がある。
背はあまり高くない。染めて伸ばした髪は後ろで縛られており、覗いた耳には三連ピアス、携帯電話用のストラップなどが飾られている。それより何より眼を引くのは、スタイリッシュなサングラスに隠された、その顔面に施された――禍々しい刺青だった。
少年は早蕨刃渡にも、零崎の双識にも伊織にも気配を気取られないという偉業を平然と達成していながらにして……
非常に難しい顔つきをしていた。
というより、困っているようだった。
拗ねているような表情である。
「……成程成程。さっきの婆さんの死体といい、これで事情はよおっく分かったけど――」
忌々しげに眩く。
「相変らず抜けてんな、あの兄貴。何考えてんだ。空概とか妄言とか言われた後じゃ、めちゃくちゃ登場しにくいじゃねーかよ」
[#地付き](早蕨刃渡――試験開始)
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[#ここからゴシック]
第十一回
殺人鬼にとって凶器は刃物。
各探偵にとって凶器は頭脳。
殺人鬼は一度に一人ずつしか殺せない、
名探偵は一度に全員虐殺する。
終局と言う名の虐殺だ。
[#ここでゴシック終わり]
――いきなり、いた。
早蕨刃渡の目前に、零崎双識の目前に、そして伊織の目前に、その奇妙な風体の少年は、存在した。何の予兆もなく、何の前兆もなく、唐突にとしか言いようのないタイミングで、三人が同時に瞬きをしたその瞬間を狙ったとしか説明のつかないようなタイミングでもってして、その少年は、存在した。
背はあまり高くない。染めて伸ばした髪は後ろで縛られており、覗いた耳には三連ピアス、携帯電話用のストラップなどが飾られている。それより何より眼を引くのは、スタイリッシュなサングラスに隠された、その顔面に施された――禍々しい刺青だった。
突如舞台に出現した、目に映ることもなく耳に聞こえることもなく肌に感じることもなく、ただそこに現れたその少年に、刃渡の振り上げた刃物が行き場をなくす。それは双識と伊織も同様のようだった。固く決めた彼らの覚悟が、曖昧のように千々に霧散していくのが刃渡の目にも分かった。
「――突然で悪いが、ここで俺と『あいつ』の違いについて考察してみよう」
少年はサングラスを外し、それをベストに仕舞いながら、出し抜けな調子で言う。
刃渡に言うのでもなく、双識に言うのでもなく、伊織に言うのでもなく、三人に向けるのでもなく、かと言って独白というわけでもなく。まるで――そう、言うならば神とでも言うべき存在にでも向かって宣戦布告するような調子でもって、その言葉を言う。
「鏡に映した様な同一でありながら逆反対であった俺と『あいつ』との絶対とも言える唯一の違い――それは『あいつ』がどうしようもなく救えないほどに『優しかった』ということだろう。『あいつ』はその『優しさ』ゆえに、自身の『弱さ』を許せなかった――つまりはそういうことだ。だから『あいつ』は孤独にならざるを得ない。『あいつ』の間違い、『あいつ』の間抜けはその『優しさ』を他人にまで適用したところだ。素直に自分だけを愛していればそれでよかったのにな。無論俺が言うまでもないように『優しさ』なんてのは利点でも長所でもなんでもない――むしろ生物としては『欠陥』だ。それは生命活動を脅かすだけでなく進化すらをも阻害する。それはもう生命ではなく単純な機構の無機物みてえなもんだ。とてもとても、生き物だなんて大それたことは言えない。だから俺は『あいつ』のことをこう呼んだ――『欠陥製品』と」
そしてちらりと刃渡を向く。
その目に宿った闇に、刃渡は思わず一歩下がる。まるでこの世の混沌を全てない交ぜにしてぶちこみ煮詰めたような、奇妙に底のない闇が、少年の瞳の中に存在していた。へらへらと笑っているその表情にはまるで似っかわしくない、暗い瞳だった。
暗い。
なんて、暗い。
喰らい尽くされそうなくらいに。
瞬間に理解する。
|こいつは《ヽヽヽヽ》――|殺すだろう《ヽヽヽヽヽ》。
たとえ相手が何の力もない赤ん坊でも、目の前にいればそれだけの理由で、殺すだろう。
「対して俺は全然優しくなんかない。優しさのかけらもない、それがこの俺だ。だが俺はその『優しくない』という、自身の『強さ』がどうしても許せない――孤独でもまるで平気だという自身の『強さ』がどうしても許すことが出来ない。優しくないってのはつまり、優しくされなくてもいいってことだからな。あらゆる他者を友達としても家族としても必要としないこの俺を、どうして人間などと言える? 生物ってのはそもそも群体で生きるからこそ生物だ。独立して生きるものはその定義から外れざるを得ない、生物として『失格』だ。かはは、こいっはとんだお笑い草だ、俺と『あいつ』は対極でありながらも――出す結果が同じだっつーんだからよ。辿るルートが違うだけで出発点も目的地も同じ――実に滑稽だ。俺は肉体を殺し『あいつ』は精神を殺す。他人どころか自身をすらも生かさない、何もかもを生かさない。生物の『生』の字《あざな》がここまでそぐわない人外物体にして陣害物体。こんなのわざわざ試験を受けるまでもねーぜ――だから『あいつ』は俺のことをこう呼んだ――『人間失格』ってな」
と、少年は一旦言葉を切る。
「実に――傑作だよ」
そして少年は刃渡に背を晒し、ほとんど瀕死状態の伊織と双識の方へと身体を向けた。戸惑いながらも刃渡は、その背中に問う。
「……貴様――何者だ」
「零崎人識。今のところ、名乗る名前はそれだけだ」
背中を向けたままで刃渡に答え、そしてほとんど瀕死状態の双識に向けて、「かははっ!」と、思いっきり悪意のこもった笑いを、少年――人識は発した。
「なんでえなんでえ――日本から出て行く前に折角だから行きがけの駄賃にあんたをぶっ殺しとこうと思って探してたのによ――てめえ一人で勝手に死んでんじゃねーか。だっせえの」
「……半年振りだというのに、まるで変わってないようだな、人識」
双識がいささか落ち着きを取り戻した声で言う。その表情の大半を呆れが占めているようだが、しかしわずかに、なんというのか――『安心』、否、『安らぎ』のようなものが覗いているのを、刃渡は見逃さない。先の反応からすれば双識にも伊織にも、この新たな『零崎』の登場は予想外のようだったが――否、そんなことは関係ない。
零崎ならば殺さなければならない[#「零崎ならば殺さなければならない」に傍点]。
敵対した以上、どんな手を使ってでも。
振り上げたままだった刀を、刃渡は少年の背中に目掛けて後ろから――
後ろから斬りつけようとしたところで、|刀が動かない《ヽヽヽヽヽヽ》という異常に気付く。振り下ろそうとしてもその場から|ぴくり《ヽヽヽ》とも前に進まない。
「――な」
「――それ、曲絃糸っつーんだぜ」
ちらりと、首だけで人識は振り向いた。
「とてもじゃねーが刀なんかじゃ切れねーよ……待ってな、今ほどいてやるからさ」
そう言って人識はす、と手を天に翳《かざ》すようにする。同時に|しゅんしゅんしゅん《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》――とあちこちから物音がすれるような、空気を裂くような音がこだまし、次の瞬間には刃渡の刀の拘束が解けていた。
「――!?」
刃渡にはにわかにはこの現象が理解できなかった。理解できないが、それでも無理に理解しようとするなら、この目前の『零崎』、飛び道具のようなものを使うのか……? 否、飛び道具というのも少し違う――
慌てて後ろにさがって間合いを取る。相手の得物が何か分からない以上、こんな近距離にいるのは危険だ。そんな刃渡の動きなど全くどうでもよさそうに、少年は「かはは」と笑い、天に翳していた手を下ろす。
「『極限技』……」双識がやけにはっきりした声で人識に問う。「てめえ……どこでそんな『技』、いつの問にどこで憶えたんだよ」
「あーん? 俺も別に無意味に全国放浪してるわけじゃねーんだよ。俺だって変わるさ。いわゆる曲学阿世って奴だな。あんたが散々ビビってた、あの『鷹《イーグル》』にだって、一回だけまみえたぜ。結構惜しいとこまでいったんだが、結果は引き分けってとこだったな」
「…………」
「もっともこの『曲絃』――俺向きの技能じゃねーやな。何年か前、『ジグザグ』とか言う女と共同戦線張ったときに会得して、それから結構なげーけど、いまだ射程距離は三メートルを越えねーし。それじゃ大してナイフと変わらない。やっぱ俺はナイフが好きだわ。多角的に不意打てるって点から見りゃ便利じゃあるけど、こんなの、俺的にはどっか姑息で卑怯って思うし」
「あ。あの、あなたは――」
双識に続いて、双識に抱きかかえられている形になっている伊織が何かを人識に問おうとした。だがそれは|だんっ《ヽヽヽ》と、人識が荒々しく地面を踏みつけた音でかき消される。
「馴れ馴れしく口きーてんじゃねーぜ、|お姉ちゃん《ヽヽヽヽヽ》」眸睨《へいげい》するような眼で伊織を見下ろす人識。「言っとくが俺は、兄貴以外の『零崎』を家族だなんてこれっぽっちも思っちゃねーからな。まして初対面のあんたを助ける義理なんかねーんだよ。ああ、いや……」そこで人識は、気まずそうにぽりぽりと頭をかく。「考えてみりゃ、兄貴を助ける義理もねーのか。元々この俺、兄貴を殺しにきたんだったんだからよ」
「…………」「…………」「…………」
だったらお前何しに来たんだよ、と言いたげな表情を人識以外の全員が浮かべる。突然現れておいて何の目的もなしとは、随分と変哲な話である。まるで『流れに流されるまま、まにまに成り行き任せで行動していたらいつの間にかこんな状況になってしまっただけ』――とでもいうような、少年の曖昧にして模糊な態度だった。
「…………」
しかし他の二人はともかく、そして人識自身がどう思っているかはともかく、刃渡にとって人識が『敵』であることには変わりがない。相手がどういうつもりであろうと――
ただ、先ほどの攻撃――攻撃といっていいのかどうかは分からないが、双識曰く『極限技』とかいう『あれ』には警戒が必要だ。近距離専門の刃渡にとって、飛び道具に近い性質を持つあの技は正しく天敵。本当かどうか、射程距離は三メートルとか言ったか――いや、それだけではない。まだこの少年は何らかの『技』を隠している可能性だってある。相手が未知数でありこちらに何の対策もない以上、ここは一旦退くべきなのか――しかし退くにはあまりにも自分の立場が有利過ぎる。ここで退いて、万が一双識と伊織の命が助かったりすれば、今までの苦労が水の泡だ。
「――かはは」
と、突然、人識が愉快そうに笑った。今度の笑みには何の悪意もない、ただの純粋な、『滑稽だから笑った』というような笑みだ。
「やっぱそうだよな[#「やっぱそうだよな」に傍点]――それが当然の反応だよな[#「それが当然の反応だよな」に傍点]、|うん《ヽヽ》」
「…………?」
「いや――少なくともプロのプレイヤーならさ、何者かも分からないような相手に、無闇に|とっこんで《ヽヽヽヽヽ》いったりはしねーってこと」
「……当然、だろう」
抜き身の刀を構えたままで人識に答える。だが人識の方はまるで構える気配がない。余裕ぶっているというより、こちらのことを完全に見切っているかのような物腰だ。
「|ところがだ《ヽヽヽヽヽ》。さっきここから離れた小屋で――あんたとおんなじツラした野郎がいたんだが、そいつは俺に飛び掛ってきた[#「そいつは俺に飛び掛ってきた」に傍点]。『零崎いぃ!』とか、叫びつつな。これはどういうことだと思う?」
「…………」
弟は伊織にではなくこの少年に殺されたのか。しかしあの、軽薄なようでいて根は慎重無比の弟が感情を激昂させる相手となれば――そうだ、言われてみればこの少年の特徴、顔面刺青――妹の『仇』であるという『零崎』のそのものだ。
「それは――手前が」
「そう、あいつはまるで俺のことを知っているかのようだった[#「あいつはまるで俺のことを知っているかのようだった」に傍点]。俺のことを既に知っている『敵』であるかのように認識していた。つまり『未知の敵』でないからこそ飛び掛ったってことだよな。だけどここにある矛盾点に気付かないか? お侍さんよお」
「……何だ」
「俺のことを知っていたとするなら[#「俺のことを知っていたとするなら」に傍点]――逆に無闇にとっ込めるはずがねーんだよ[#「逆に無闇にとっ込めるはずがねーんだよ」に傍点]。何せこの『曲絃』を前に、それがどれだけ危険な行為かは眼に見えて――逆接、『眼に見えず[#「眼に見えず」に傍点]』分かってるはずなんだから[#「分かってるはずなんだから」に傍点]。俺のことを『既知の敵』と認識してるんならよ」
「…………」
「一度でも俺と殺しあったことのある――俺を知っている人間なら――特攻だけはしてこない[#「特攻だけはしてこない」に傍点]。ましてそれがプロのプレイヤーだってんだからよ」
「しかし……それは」
細かいことのようだが、しかし言われてしまえばもっともな疑問だ。たとえば零崎双識にしたって、これが早蕨刃渡との『初|見《まみ》え』だったからこそ、刃渡の用意した策にあっさりと嵌《はま》ったが、しかしこの手、二度は使えない。それ自体は別に大したことではない。刃渡にしたって、こんな手が同じ敵に二度通じるとも思っちゃいない。双識のように単一の武器、単一のスタイルにこだわる方が珍しいのだ、誰だって普通は複数のパターンを持っている。ならば、人識と一度見えている早蕨薙真が――そう易々と、今の技の餌食になるわけがないのだ。
つじつまが合わない[#「つじつまが合わない」に傍点]。
矛盾している[#「矛盾している」に傍点]。
「どういうことだ。不明瞭。手前――薙真との一度目は、その奇怪な技を使わなかったというのか」
「そこから間違ってんだよ[#「そこから間違ってんだよ」に傍点]、てめーは。言っとくけどな――俺はてめえのツラなんぞにひとかけらの見覚えもねーんだよ[#「俺はてめえのツラなんぞにひとかけらの見覚えもねーんだよ」に傍点]」
「――なんだと?」
「初対面だったんだよ[#「初対面だったんだよ」に傍点]、あんたの弟と[#「あんたの弟と」に傍点]、この俺は[#「この俺は」に傍点]」人識はひどくぞんざいに、面倒そうに言う。「俺はあんたの弟とはさっき会ったばかりだし[#「俺はあんたの弟とはさっき会ったばかりだし」に傍点]――あんたの妹なんて殺しちゃねーんだ[#「あんたの妹なんて殺しちゃねーんだ」に傍点]。濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》って奴だよ、そりゃ」
当然のように語るその口調からすれば、この零崎人識、今の状況に至る事情の大体のところは把握しているらしい。『兄』を探すためにあちこちで情報を収集したのか、それとも残された痕跡や形跡から独自に推理したのか――とにかく刃渡と同程度、否、それ以上に、この状況を俯瞰しているような態度だった。
……しかし、今の言は聞き捨てならない。
「濡れ衣――だと?」
「大体よ――あんたも知ってるだろうが。この兄貴がさっき散々講釈垂れてたように『零崎』には容赦がない――あんたの弟が生きてるってことが[#「あんたの弟が生きてるってことが」に傍点]、俺と会ってないって証拠じゃねえかよ[#「俺と会ってないって証拠じゃねえかよ」に傍点]」
「だが――妹は」
「ああ、そりゃそうだ。あんたがそういう以上、そしてあんたの弟の激昂具合からして、『妹』が殺されたってのは、多分間違いないんだろう」人識はあっさり頷く。「だから誰か別の奴の仕業なんだろうぜ[#「だから誰か別の奴の仕業なんだろうぜ」に傍点]。そっちの殺しに関しては」
全ての前提をひっくり返すようなことを人識は言う。無論刃渡はそんな言葉に惑わされたりはしない。しないが、しかしそう考えれば説明のつくことがあるのもまた、頭の片隅ではきちんと理解できていた。
そう、『不手際』。
|零崎と《ヽヽヽ》『敵対《ヽヽ》』|しておきながら《ヽヽヽヽヽヽヽ》――薙真が生きて戻れたという事実[#「薙真が生きて戻れたという事実」に傍点]。相手を殺しおおせて帰還したというのならばまだ分かるが、その場を逃れただけでなく、その後の追撃もなかったという現実[#「その後の追撃もなかったという現実」に傍点]――
|それは《ヽヽヽ》、|一体何を語る《ヽヽヽヽヽヽ》?
「何を……言うか。ならば、誰がやったと――」
「さあ? んなこと知るかよ。それでも無理に容疑者をあげようっつーんなら――そうだな、あっちの方で死んでた婆さんなんかどうだ?」
あっちの方で死んでた婆さん。
時宮――時計。
今回の件における、早蕨に対する協力者――『空繰人形』を数十体に亘って用意し、戦闘そのものにも力添えしてくれた協力者――『呪い名』六名が一つ、時宮。
「と、時宮――」
「ああ、やっば時宮か、あの婆さん。『呪い名』の誰かだろうなっつーんは想像っいてたんだけどよ」ぽんと膝を打っ人識。「だったら決まりじゃんよ。あの婆さん、『時宮』なら、お得意の『術』とやらを使ってよ――あんたの弟妹くんを、ものの見事に騙しくらまし誑《たぶら》かすことができるんじゃねーのかい? うん?」
[#画像=「image\人間試験11.jpg」]
「…………!」
時宮時計が――零崎双識に対して取った――と言うよりも、彼女がスタンダードに使っている戦術は、いわゆる『擬態』。対戦者――否、『対象者』に対して操想術を仕掛け幻覚世界の中へと引き込んでしまい、自身を別の人物――多くの場合は『死色の真紅』と呼ばれる超越的存在――と認識させることによって容易《たやす》く勝利をつかむという、言うならば『匂宮』から究極に真っ向から対立する手段を選ぶ。今回の場合はそれを双識に対して使用し、そして看破されたわけだが――
だが。
その操想術のもっとも特筆すべき特徴は。
看破されなければ[#「看破されなければ」に傍点]、気付かれないという点だ[#「気付かれないという点だ」に傍点]。
通常ならば自分が術中にあるということすら認識できない[#「通常ならば自分が術中にあるということすら認識できない」に傍点]――今回双識が術から脱せたのは、彼がたまたま、『彼女』に対して時宮時計よりも多くの知識を持ち合わせていたからというだけの理由で、そうでなければ双識は、自身が敵の術中に落ちていることすら知らないままに、命を落としていたことだろう。そして命を落としたその後ですら、自分は『彼女』に殺されたのだと思い続けることだろう。
そしてそれは――
命を落とさなくとも同じこと[#「命を落とさなくとも同じこと」に傍点]。
『擬態《ヽヽ》』|するのが《ヽヽヽヽ》『彼女《ヽヽ》』でなくとも同じこと[#「でなくとも同じこと」に傍点]。
世界そのものを入れ替えられれば[#「世界そのものを入れ替えられれば」に傍点]、気付かないものは気付きようがない[#「気付かないものは気付きようがない」に傍点]。比べる対象がないのだから、直接的でない分だけ。だからこそ『呪い名』は、敵に回すのも――味方に回すのもおぞましいのだ。彼らの術は敵を騙すだけではない――時には味方だって欺く。それも、何の躊躇もなく。否、どころか――その『術』の性質上から考えて、却ってそれらの『術』は|味方の方にこそ《ヽヽヽヽヽヽヽ》効果がある。否、否否、彼ら『呪い名』には敵味方の区別などそもそもないのだ。そういう価値観の元で彼らは動いていないのである。
「婆さんの死体のそばに生えてたでっけえ木に、赤い布が打ちつけられててよ――ありゃあ術師がよく使う手じゃねーか。死体の手口《きずぐち》を見りゃ犯人が兄貴だってのはすぐに分かったし、その荒々しさ加減からして兄貴が『苦戦』したってことも分かる。だったら使った『術』の容内の想像もつこうってもんだ――」
人識が『婆さんの死体』を『呪い名』だと判断した理由を滔々《とうとう》と語っているが、しかしそんな声は刃渡の頭の中には入ってこない。馬鹿な――もしも自分達があの老猜な婆さんに一杯食わされていたのだとすれば――|すれば《ヽヽヽ》。
「く、下らぬ世迷言を――」
「世迷言ねえ」
くく、と人識は笑いをこらえる。『世迷言』というその言葉自体がおかしかったかのように、笑いをこらえる。そしてゆっくりと歩き、今いる場所から移動する。舞台の上で講釈を垂れる名探偵もさながらだった。移動する人識の身体を常に自分の正面から外さない配慮を刃渡は怠《おこた》らないが、しかしそれすら人識にはどうでもいいことのようで、行儀を全く崩さない。
「そうだ――薙真と手前が初対面だとするなら、薙真の瞳に手前の姿を映させることなど不可能。まるで知らぬ『知識』を幻覚に見ることなど――できるわけがない」
「そのできるわけのねーことをやるからこその『呪い』だろうがよ。何も知らない赤ん坊だって夢は見るだろ? 同じだよ。それに姿形の為形だけをまねるってのはそんな無理なことでもない。写真一枚似顔絵一枚ありゃ、それを視界の端に捉えただけで、人は記憶に認識するんだぜ? 大体その理屈が正しいと前提するならば、兄貴に『真紅』の姿を見せることだってできねーはずじゃんさ。兄貴だって、『真紅』を知ってはいても、直に会ったことはねーんだからな。あんたの弟さんのときと同じ理屈で、会ったら生きてるわけもねえ。俺でもない限り『真紅』に会って生き残れるわけがねーんだから。『時宮』、情報の組み替えによって恣意的に映像を見せることができるからこその操想術だろ」
「ぐ――しかし」
しかし。
|しかし《ヽヽヽ》――|の続きがない《ヽヽヽヽヽヽ》。
どう反論すればよいというのか。『時宮』が薙真と弓矢に『零崎人識』の幻覚を見せたとして――どこに矛盾が生じるのか。否、『呪い名』が出てきている時点で、矛盾や背理をどうこう言うこと自体、そもそもが的外れなのだ。『殺し名』ならばまだ物理法則に従う戦闘集団だが――彼らは世界そのものを無視する、唾棄《だき》すべき非戦闘集団なのだから。
「だが――『時宮』が弟達に見せた姿が『マインドレンデル』でも『シームレスバイアス』でもなく、『零崎』としてまるで誰も知らぬ手前であるという点に、説明がっかぬ――」
「疑うねえ。もっともその程度の『疑意』、悪意どころか好意にまで疑いを向ける『あいつ』に比べりゃ全然大したことはねーがな。その疑問に対する答は、俺が『零崎』の中でも一番連携の取れてない、『擬態』しても一番バレなさそうな奴だからってんでいいと思うぜ。相手を倒すのが目的でないんなら、有名人を使う理由なんかどこにもない。違うかい?」
「……ぐ」
「それにそもそもの話、俺には『鉄壁のアリバイ』って奴があるんだ。なんせ俺はこのところ、京都の方で人を殺すのに忙しくってよ――確か、十三人ほどやったっけな。否、一人『あいつ』んときに失敗してっから、結果としちゃ十二人くらいか。つまりあんたの妹に手ェ出してるほど、暇じゃなかったんだよ――もっとも、その十二人の中に混じってたってんなら、話は別だけどな」
「…………」
「考えてみりゃ滑稽な話だぜ。殺人活動にいそしんでいたからゆえに[#「殺人活動にいそしんでいたからゆえに」に傍点]――逆にアリバイが成立するってわけだ[#「逆にアリバイが成立するってわけだ」に傍点]。かはは、こいつは実に傑作だ」
「だ、だが――『時宮』に、そんなことをする理由が――」
「理由は明快だろうが。明快過ぎて困ったくんだよ。『早蕨』――っつうんは要するに『匂宮』の弟分みてーなもんだろ? そして『時宮』はその対極。だったら『匂宮』と『零崎』を殺し合わせようってのは、それほど不思議な発想じゃねーと思うけどな」
「…………」
それは刃渡も思ってはいたことだ。時宮刀自は『零崎』に貸しがあるなどと言っていたが、無論そんな言など刃渡は信じていなかった、『時宮』が今回『早蕨』に連携してくれたのは――あわよくば両者の共倒れを狙ってのことであり、まして善意や何かやではあり得ないということは、よく分かっていたっもりだ。それはそれで構わなかった。刃渡達には『敵』が『零崎』でも圧倒するだけの自信があったし、『時宮』の企みにしたって、彼の野望に鑑《かんが》みればそこまで害のあるものではないと判断したからだ。
だが――
全てのお膳立て自体を[#「全てのお膳立て自体を」に傍点]『時宮《ヽヽ》』が行っていたのだとすれば[#「が行っていたのだとすれば」に傍点]。我々『早蕨』に、『零崎』に敵対するだけの『理由』を作り――それから『道具』を準備したとするのなら、状況は第一象限から第三象限まで変わってしまう。刃渡自身は薙真とは違い、敵討ちや報復のようなセンチメンタルを人生には持ち込まない主義だったが――だが、それがきっかけ程度の意味も持っていなかったかと言えば、それもまた違う。
たとえ自分の意志に従っていたとしても。
たとえ自分の意志に添っていたとしても。
それが用意された舞台で、用意された脚本の上で行われる茶番劇だったとは――それでは目の前の少年殺人鬼の言う通り、丸っきりのお笑い草、丸っきりの道化ではないか。
「俺が――俺達三兄弟が、汚濁にまみれた『時宮』如きに――謀《はか》られたというのか」
声に動揺は混じっていない。混じっていないはずだ。こんなことで動じる己ではない。動じてなどいない。動じてなどないはずだ。冷静になれ。冷静になれ。こんな、突然現れた正体不明の『零崎』の言、信じる理由がどこにある?
理由。
理由。理由。理由。理由。理由。
理由。
「かはは――まあ、そんなの、どうでもいーっちゃどうでもいいよなあ、『早蕨』の兄ちゃん。誰に騙されようと誰を騙そうと、そんなの今の状況にゃー全然関係ない、今の世界にゃ全然無関係だ。どうせ世界は騙したり騙されたりなんだからよ」
そして人識はベストに手を突っ込んで、バタフライナイフを回転させながら取り出した。刃渡から見れば玩具以下の強度しか持たない、チャチな刃物だ。しかしそれをまるで大口径の拳銃でもあるかのように、自信たっぷりの不敵な目っきと共に、ナイフの切っ先を突きつけた。
「俺は殺人鬼であんたは殺し屋だ。そこには何の違いもない、全く同じ畜生同士だ。得物があれば言葉はいらねえ、遠慮も会釈《えしゃく》も忌《き》憚《たん》も気兼ねもなく、呼吸するように殺し合い呼吸するために殺し合おうぜ。俺は殺人鬼としちゃあ最低ランクの力しか持ってないが、どっこい殺人技能じゃ『匂宮』にだって劣らない。今まで他人を殺し損ねたのはただの二度だけだし、その内一度は鏡に映った虚像が相手、その内一度は人類最強が相手だ。ほんの数週間前まで俺を前にして死なない奴なんざ一人も無在だったんだよ。折角だから折角だ、あんたが踊ってる道化芝居に付き合ってやる。『あいつ』と違って俺は全然優しくねーぜ? 殺して解《ばら》して並べて揃えて晒してやんよ」
口上と共にこちらを見るその視線は――紛れもなく『零崎』のそれだった。いつの間にか、人識の話を聞くが内に降ろしていた刀を慌てて構え直す。距離は遠い。飛び込めば瞬きもいらぬ間に人識の懐には飛び込めようが――あちらには正体不明の技がある。『未知の敵』に飛び込めるわけもない――わけもない。
「さあ来いよ。お祭り気分もたけなわだ。くだらない物語の最後を飾る決戦だ、オセロのように白黒つけよう。きっちりと正々堂々、サシでやろうや」
「……然り」
よく観察することだ。あれがどういう種類の技であったところで――全く事前動作なしで繰り出せるわけもない。先で言えば手を天に翳したあの行為がそれにあたる。――だが、それはポケットの中に手を入れたままでも行えるような極小の動作なのかもしれない。どちらにしたってそれさえ見逃さなければ――後の先を取れる。取れる――はずだが。
「………………」
けれど、取ったところで、何の意味があるのだろうか。自分がただの傀儡《かいらい》だったとするなら――勝利は刃渡のものにはならない。薙真のものにもならなければ――弓矢のものにもならない。
何にもならない。
何にもならない。何にもならない。
|何にも《ヽヽヽ》、|ならない《ヽヽヽヽ》。
「………………」
と。
突然、人識は|くつくつ《ヽヽヽヽ》と笑い始めた。
同時に、突きつけたナイフも下ろしてしまう。
「――何だ。如何なる真似《まね》だ」
「いやあ――なんっつーかよ」皮肉そうに唇を歪め、顔面の刺青を歪ませる。「こりゃ本当に便利だなあと思ってさ――成程ね、『あいつ』が嵌っちまうのも、わかんなくはねーな」
「……何を言っている」
「何を言っているって? そりゃ勿論――」
言いながら、人識は後ろでくくっている髪を解いた。ばさりとその長髪が前に落ちてきて、人識の顔面刺青を、丁度隠す形になる。その瞬間に、今まで人識がずっと浮かべてきた薄ら笑いが表情から完全に消え、ぞっとするほどに冷めた目つきになった。
「――戯言《ざれごと》だっつーの、馬鹿野郎」
その瞬間。
刃渡の胸から刃物が二本、|生えてきた《ヽヽヽヽヽ》。
「……|な《ヽ》」
何が起こったのか分からない[#「何が起こったのか分からない」に傍点]。
分からないが、それはもうそれだけで致命傷だった。片方の刃が心臓を、片方の刃が肺臓を、両方狙いすましたかのように確実に貫通している。堤防が決壊したかのように血が溢れる。肉がはみ出ている。|この刃は《ヽヽヽヽ》。この刃には見覚えがある。|これは零崎双識の《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》――『自殺志願《マインドレンデル》』。
「|が《ヽ》、|あ《ヽ》――|ああああああああああ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
痛いというより熱い。熱いというより寒い。震える。痺れる。その感覚を堪えながら――首だけで後ろを、かろうじて振り向けば。
『自殺志願《マインドレンデル》』のハンドルをその口に街えた伊織が[#「その口に街えた伊織が」に傍点]、刃渡の背中に張り付くように、ブレードを食い込ませていた[#「ブレードを食い込ませていた」に傍点]。
「ああ、なるほどですね――」
ハンドルから口を外し、伊織が言う。
うっすらと、恍惚《こうこつ》の笑みすら浮かべて。
「思ったより気分の悪いもんですね――『人を殺す』って言うのはさ」
「|な《ヽ》――|な《ヽ》、|ななななんあなな《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
油断――したのか。否、油断などしていない。
していたとすれば――それはやはり、動揺だ。
人識の言葉に――揺らされて、周囲に気を配るのを怠っていた。双識と伊織を 既に戦力外として、無意識の内に意識の外へと追い出していた。彼も彼女も、死ぬその瞬間までは『零崎』だというのに。人識を自分の視界から外さぬことばかりに気をとられ、伊織と双識に背を向けたことに気付けなかった。否、それすら、恐らくは人識の策略の内。
「|だ《ヽ》、|だが《ヽヽ》――」
伊織の手首の件がある。あの出血は命にかかわるどころではない、双識が握って止血していたその手を離してしまえば――それだけで動いた瞬間に貧血昏倒するはず。両の腕が切断されているのだ、累積の出血量は半端ではない。こんな行為に出られるはずが[#「こんな行為に出られるはずが」に傍点]――
と、気付く。
伊織のその左腕。
刃渡が切断したその左腕に[#「刃渡が切断したその左腕に」に傍点]――|極細の《ヽヽヽ》、糸のようなものが食い込むようにきつく巻きついて[#「糸のようなものが食い込むようにきつく巻きついて」に傍点]、その出血を食い止めていた[#「その出血を食い止めていた」に傍点]。糸のようなもの[#「糸のようなもの」に傍点]――否、それは|糸そのもの《ヽヽヽヽヽ》だ。
「曲絃糸っつーんは、ちなみに曲がる絃の糸って書くんだよ」人識が他人事のような口調で言う。「かはは、|兄貴の発音じゃ《ヽヽヽヽヽヽヽ》、まるで『|極限の技《ヽヽヽヽ》』みてーだったけどさ」
「|が《ヽ》、|あ《ヽ》――」
人識が最初、いきなり三人のど真ん中に現れたのは――まずはとりあえず[#「まずはとりあえず」に傍点]、伊織の止血をするためだったのか。『曲絃』の射程距離三メートル内に伊織を収めるためにむざむざ刃渡の正面に現れる危険を冒した。そうだ、あのときだ、刃渡の刀にもつれた『糸』を回収するとき――あのときに、回収を装って、伊織の左手首に、その極細の糸を巻きつけたのだ。
止血さえ完全なら[#「止血さえ完全なら」に傍点]――最低限の意識を保ったまま、伊織は動ける。少なくとも、その力を振り絞れば、刃渡の背中に、『自殺志願《マインドレンデル》』を喰らわせるほどには。
「|て《ヽ》、|てめえら《ヽヽヽヽ》――」
嵌め――られた?
認めざるを得ない。
自分は――謀られたのだ。
だったら人識のあの言は――何だったんだ?
戯言――だと?
考えてみれば人識の言、まるで根拠がない。かなり主観によっているし――様々な曖昧点をまるで前提条件のように語っていた。推測や推理どころの話ではない。大体アリバイなんて成立していないじゃないか。妹を殺していないというのなら――妹の死亡日時を知っているわけがないのだ。犯行時刻が不明なのにアリバイも何もあるものか。そうだ、それに人識は、刃渡の肝心要の質問に答えていない。『薙真との一度目に曲絃糸を使わなかったのかどうか』――その確率はかなり高いはず。その性質、その正体が分かれば何のことはない、要するに『曲絃』とは『暗器』の一種。その字の通りにひた隠しておくのが当然の武器――使い手であることさえも隠しておくのが当然の武器。それは『切り札』ではなく『伏せ札』であるべきなのだ。事実、今の今まで人識は、自分の『兄』にさえ秘密にしていたではないか。会得したのが数年前で兄に会ったのが半年前なら、当然そういう計算になる。それをああも自慢気に、刃渡に向けて説明した理由とは――一体何だというのだ? ならばあれは真っ赤な嘘で、やはり妹を、弓矢を殺したのは人識なのか。それとも……それとも、真実を演出的に脚色し、こちらの興味をひいたのか。動揺を誘うのが目的ならば完全なる嘘とも思えないが――だからといって完全なる真実とはとても思えない。何が真実なのか、どこまで真実なのか。まるで分からない。
曖昧だ。
茫洋《ぼうよう》だ。
不確かだ。
煮え切らない。
適当で、いい加減だ。
あやふやで、うやむやだ。
どっちっかずで、成り行き任せ。
どこから本当で、どこから嘘なのか――
「ざ、ざれごと――」
「これもまた、曲学阿世って奴だよ。俺は優しくないって、確か二回も忠告《こく》ったよな? 俺の兄貴を殺しといて、正々堂々なんざあるわけないだろ」人識が道化るように肩をすくめ、刃渡に向けて、いざなうように右手のひらを向ける。「さて、全てのトリックに理解が至ったところで、この俺への賞賛の言葉はまだかい?」
「|こ《ヽ》、|この卑怯も《ヽヽヽヽヽ》――」
「おいおい! そうじゃないだろう!」
後ろから、双識の声が飛ぶ。
双識は完全に不随状態の全身をだらりと垂れ提げ、伊織から離したその手で自分の腹部を止血することもなく、口に煙草をくわえるところだった。
「早蕨刃渡くん。きみの台詞はそうじゃないだろう? ん? これできみの『不合格』が決定したのだから、最後の最後の最期くらいは、この泥仕合、『きっちりと正々堂々』、真っ当に全うしようぜ――お互い、プロのプレイヤーなのだから。なあ、『紫に血塗られた混濁』くん?」
「…………!」
伊織の両手がどうやっても使えない以上――伊織に『自殺志願《マインドレンデル》』をくわえさせたのは、双識の仕業なのだろう。なんて――なんて、測ったように謀ったような、作為的なチームワークだ。『早蕨』の三兄弟――早蕨刃渡、早蕨薙真、早蕨弓矢――しかしそれにしたって、ここまで意思の疎通ができていたものか。そうじゃない、できるわけがないのだ。不可能という言葉すら似つかわしくない。双識にとっても伊織にとっても、人識の登場が予想外だったことは間違いがない。にもかかわらず――事前に綿密な打ち合わせでも交したかのような、息の合い具合はどうしたことだ。
これが――『零崎』だとでも言うのか。
血の繋がらない、流血の繋がり。
殺人鬼。
殺人鬼の癖に。
殺人鬼の癖に。殺人鬼の癖に。
それじゃあ、まるで、人間だろうが。
俺達と、一緒じゃねえか。
「てめえら、全員――」
ぐらりと、刃渡の身体が倒れる。
「――最悪、だ」
その言葉に、双識が両肩を揺らす。
その言葉に、伊織が両腕を挙げる。
その言葉に、人識が両手を広げる。
そして声を揃えて、笑顔で答える。
「知ってるよ」
[#地付き](早蕨刃渡――不合格)
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第十二回
あんたの言うことはすごく正しい――
あんたが正しく、俺が間違っている。
だが、一つだけ言わせてくれ。
「――あんたに言われたくはない」
[#ここでゴシック終わり]
「『人が死ぬとき、そこには何らかの『悪』が必然だと思う』――っつーんが、あの兄貴の口癖でな」
その車両の中には、二人しか人間がいなかった。それは別段特別特殊な状況《シチュエーション》だというわけではなくて、片田舎、平日昼間の電車事情はそんなものであるというだけだ。
一人は、顔面に刺青を入れた少年だった。ハーフパンツに安全靴、上半身は裸の上に直接タクティカルベストを羽織っている。流線型のサングラス、右耳には三連ピアス、左耳には携帯電話用のものと思われるストラップ。サイドを刈った長髪を後ろで結んでいる。
もう一人は、頭に赤いニット帽をかぶった少女だった。身長は隣の少年よりもやや高いくらい、全体的には痩せ身。上は何故か体格に合っていない赤いフード付きのパーカー、下は高校の制服のようなプリーツスカート。少年と同じくサングラスをかけているが、これはコンビニででも売っているような安物らしかった。事故か何かにあったのか、両腕ともが手首の辺りで切断されていて、やけに真新しい綺麗な斬り口が痛傷《いたいた》しく覗いている。どうやら極細の糸で縛って止血しているようだ。
少年と少女は他に誰もいない車両内で会話を交わしていた。
「ん――ま、いかした義体師を一人知ってるからよ。だからその腕についちゃ、それほど心配しなくていいと思うぜ。むしろ前よりも便利になるだろうよ」
「……そうですか」
「その後で別の『零崎』、俺が知ってる中じゃ一番性格のマシな奴を紹介してやんよ。後はそいつについていって、生きるなり死ぬなり、騙すなり騙されるなり、てめーの好きにしな。そこまではこの俺が面倒見てやるさ。兄貴の頼みだかんな」
「……冷たいですねー、人識くんは」うんざりしたような表情で少女が天を仰ぐ。「家族なんだから、もっと仲良くしましょうよう。妹なんですよ、ほらほら」
「言っただろ。俺は兄貴以外を、家族と思ったことなんざ、ねーんだよ。『零崎』にだって、兄貴に誘われたから混じってやっただけさ。あんたにだってあんまお勧めしねーよ。ま、口出しはしねーけどさ」
「色々あるみたいですね。人識くん」
「まーね。話すつもりはねーけどな。俺は秘密の多い男ってキャッチフレーズで売ってるもんだから。それに俺、この国にゃちょいとうんざりしててよ。絶対に二度と会いたくない奴が二人ほどいてな――アメリカ行くことにしてんだ」
「どうやって行くんです? 人識くん、お金、ないんでしょう? どころかパスポートも」
「んなもん、いくらでも抜け道くらいあるさ。伊達に全国放浪してねーっつーの、この俺も」と、そこで一旦言葉を区切る少年。「で、何の話だっけな――そう、兄貴の話。人が死ぬのには『悪』が必要だって、よく言ってたんだが――じゃあ今回の場合、誰が『悪』だったんだと思う?」
「そりゃ勿論――わたし達じゃないんですか? 早蕨の長男さんも、そう仰ってましたし。あの人達も大概でしたけど、でも性根のところじゃ、双識さんや人識くんよりはマシっぽかったですし。つまりいわゆる自業自得という奴です」
「しかしな――悪い奴を『悪』とか『最悪』とか、簡単に言えるほど、世界っつーんは簡単にはできてねえと、この俺あたりは思うんだよ。『善』だの『悪』だの、そんな分かり易い二元論で語ることはとても無理だって、そう思う。兄貴は『普通』に憧《あこが》れていたみたいだが――その所為であんな似合わねえ珍妙な格好してやがったらしいんだが――その『普通』だって怪しいもんだぜ。大体『普通』の奴なんてロクな奴がいねーだろ? 普通に憧れるなんてのは、『その他大勢』の中にまぎれて安心したいっつー、くだらねえ愚か者の結論としか、俺には思えない。『個性というのは何かが欠けていること』――それも兄貴の座右の銘だったが、しかしその言にのっとっていうなら、『個性がない』っていうのは、何にもないってことじゃねーのかな? いや、俺もつい最近までは兄貴と大体のところじゃ同じ意見だったんだが、この間とんでもねえ馬鹿にあって、少々思想を変えざるを得ない状況においやられてな」
「とんでもねえ馬鹿?」
「ああ、とんでもねえ欠陥製品だ。『あいつ』は全然『悪』くなんかなかった――嘘つきで、疑り深く、人を人とも思わない人を人とも扱わない、とんでもねえ奴だったが――それでも『あいつ』は全然『悪』くなんかなかった。『あいつ』には責任なんて一切なし――『あいつ』には背負わなくてはならない十字架なんて、本当は一つだってないはずなんだ。しかし――『あいつ』は俺や兄貴どころじゃないくらいの人数を、今まで『殺して』きていた。普通の記憶力じゃ覚えきれないほどの数を虐殺《ぎゃくさつ》してきた。『あいつ』は全然『悪』なんかじゃないのに、その存在だけで人を殺す」
「『呪い名』みたいな人ですねー」
「ああ、俺達よりはそっちに近いだろうな。だがそれともまた違う――一番近い存在としちゃ、やっぱ人類最強の真紅なんだろうよ。『あいつら』がカップルになりゃ、結構お似合いだと思うんだが――なかなか傑作でよ」
「うーん。一度お会いしたい気もしますね」
「やめとけやめとけ。『あいつ』、髪の短い女は好みじゃねーんだとよ。問答無用……っうか、『問答有用』に殺されるぞ」かはは、と少年は笑う。「それはさておき、だからこそ俺は思うんだよ一人が死ぬのに『悪』なんて必要ねーってな。人が死ぬのに必要なのは、ただの刃物と、流血だけさ」
「………………」
その言葉を切欠《きっかけ》に、二人は神妙な顔つきになる。どこかが痛んでいるような、あるいは何かを悼んでいるような。
「……お兄さん、残念でしたね、人識くん」
先に口を開いたのは少女の側。
少年はそれに対し、いささか強がりが混じっているような、しかし一見してはそうとは分からないような態度で「はっ!」と笑う。
「そうでもねーさ。兄貴はどっちかっつーと死にたがりってタイプでね。自殺は嫌いだったみたいだけど、その奥にある屈折して鬱屈した感情は、てめえの得物につけた名前を聞きゃ、想像つくだろ? 兄貴は『悪』でこそなかったが、それゆえに罪悪感から逃れられない奴だった。何の責任もないことに罪責感を抱く奴だった。文学マニアの計算機みてーな男だったんだよ」
「………………」
「つうか、あんたが生きてることが既に常軌を逸した奇跡なんだ。あの出血で生き残れるなんて異常なんだよ、異常。なんなんだ、てめーは? 非現実的なご都合主義。この上兄貴の生存まで望むのは、欲張りってもんだろうが」
「人識くんは、あれですか? わたしが死んで、双識さんが生き残ってた方が、展開として素敵でしたか?」
「別に。あんたが生き残ったのはあんたの運だ。俺がどうこういう筋じゃねーし」
「……運、ですか。それも随分な話ですけどね。結局、おとーさんやおかーさん、おにーさんやおねーさんも、全滅してたわけですし」
「それくらいで済んで御の字だと思っとけよ。兄貴んときなんて、街が一つなくなっちまったらしいぜ。隠蔽工作が大変だったって、大将がよく愚痴ってた」
「人識くんのときは、どうだったんですか?」
「俺は兄貴やあんたとは違うタイプでね――いわゆる『生まれついて』の殺人鬼って奴さ。兄貴がどういう風に思ってたのかは知らないが、その意味じゃ俺は『零崎』の定義からは外れているのかもしれねえ。俺も『あいつ』同様、なんらかの定義にはまるっつー性格じゃねーみたいだな。その辺も、あんま触れないで欲しいんだけど」韜晦するように言う少年。「あんたはひょっとすると兄貴を巻き込んでしまったと思ってるかもしれねーけど、そもそも兄貴は勝手にあんたらの事情に首突っ込んで死んだんだ。間抜けとしか言いようがない、同情の余地すらねーよ」
「……冷たいですね、人識くんは」呆れたように言う少女。「双識さんだけは『家族』なんじゃなかったんですか?」
「兄貴はよく俺を殴ってくれたよ」
「…………」
「兄貴は俺を拾ってくれた。兄貴は俺を助けてくれた。兄貴は俺を育ててくれた。兄貴は俺を心配してくれた。兄貴は俺の面倒を見てくれた。兄貴は俺を好いてくれたよ。俺はそれを、嫌というほど知っている」
少年ははっきりとした口調で言う。
「兄貴と一緒に映画を見た。白黒の、クソっまらねえシリーズ物だった。兄貴が薦めてくれた小説を読んだ。兄貴の薦めてくれた漫画は読まなかったけどな。兄貴とキャッチボールをしたことがある。あの野郎ガキの俺相手に本気でボールをぶつけて、病院送りだったぜ。兄貴が俺にナイフを買ってくれた。そのナイフで切りつけられて、俺は切られる痛みを知った。兄貴の作ったカレーは不味《まず》かった。あれこそが最悪だってくらいにな」
「……人識くん」
「俺は兄貴を嫌というほど知っている。ムカつくことばっかで忘れたくてしょーがねけど、憶えてんだからしょうがねえ。だから、兄貴は独りじゃない。いてもいなくても、どっちでもいいってことにゃあ、ならない。兄貴はここにいた。兄貴はここに、確かにいた。兄貴のことは、俺が、全部、知ってる」
「…………」
しばらく沈黙してから少女も、「うん――わたしも、知ってる」と、少年にではなく、眩いた。
「変態かと思ったんですけどね、最初は」
「変態だよ。その上どうしようもねえアホだ。殺人鬼としてのレベルは高かったが、ただそれだけの、つまらねえ男さ。いや……行き詰った、男か」
行き詰った男。
まるで――あまりにも普通過ぎたように。
「双識さんは多分――自分のことを『不合格』だって、ずっと思っていたんでしょうね」
「だろうな。それには全面的に賛成だ。さっきからあんたの意見を否定してばっかだったから、ようやく気が合って嬉しいぜ」
「――それって、どんな人生だったんでしょうね。だってほら、うまく言えないですけど――『自分』って言うのは、一生付き合わなくちゃいけない唯一の相手じゃないですか。その自分自身を『不合格』としか思えないなんて――そんなの、辛《つら》過ぎますよ」
「そんなの、兄貴に限った話じゃねーだろ。誰だって自分に何かしらの不満を抱いてるもんだ。あんただってちょいと前まで人生を『逃避』だと思ってたんだろ?」
「それは……そうですけど」
「あんま兄貴を悲劇の主人公みたく考えてやるなよ。同情するのが楽なんは分かるけど、甘やかすのはよくない。あいつはあいつで、結構人生楽しんでたぜ? 俺みたいなかわいらしい弟もいたし、それに最後の最後に、あんたみてーにいい感じな妹ができたんだからよ」
「……でしょうか」
「ああ。間違いない。太鼓判だよ」
「――わたし達はどうなんでしょうね?」
少女が改まった口調で、少年に問う。
「わたし達は――『合格』なんでしょうか? それとも『不合格』なんでしょうか?」
「んなもん、『不合格』に決まって――ああ、いや、そうじゃねーか」言いかけた言葉を中断し、少年は頭をかく。「あの兄貴のことだ、俺達にそん資格はねえって、そういうだろうな」
「資格?」
「試験を受ける資格だよ。俺達にそんな資格はない。だってあの兄貴ならこういうに違いない――『家族を試験《ため》す馬鹿がどこにいる』ってさ」
「…………ですね」
少女は、ここで初めて、少女らしい笑みを浮かべた。満面の、多分この少女が本来持ち合わせているのだろう性格に相応しい、可愛らしい笑みを。
逃げもない、迷いもない、微笑。
「……人識くんは、これからどうするんです?」
「どうするもこうするも、どうにかこうにかやってくしかねーさ。さっきも言ったが、この国は俺にとって少々住みにくくなっちまったからな。赤い鬼殺しに追いつかれる前に、さっさと国外逃亡だ。ヒューストン辺りを目指してんだ」
「一緒に行っちゃ、駄目ですか?」あながち冗談でもなさそうな口調で少女が問う。
「人識くんって、結構わたしのタイプだったりするんですけれど」
「心の揺れるお誘いだがね。俺は一匹狼の風来坊だし、あんたの腕が出来仕上がるまで、呑《のん》気《き》かまして悠長に待ってらんねーよ。それにあんたにゃ他にやるべきことがあるだろ? 兄貴の仇討ちって奴」
「…………」
「今回の件、あいつらだけで考えたとは思えない。他にも協力者がいるはず――なんだからよ。『零崎』ならそれすら見逃すわけにはいかねーんだろ」
「人識くんは参加しないんですか?『仇討ち』」
「俺はそういう切った張ったの世界、苦手なんだよ。『呪い名』の連中もいけすかねーが『零崎』の奴らだってそれよかいいとは言いがたい。徒党を組んで個性をなくした奴らっつーか、組織に属する奴らはなんっつーか、怖いからな」
「――それで、寂しくないんですか?」
「寂しさ、ねえ」
くく、と忍び笑いの少年。
「『寂しさ』とか『悲しみ』とか、俺にそんなもんを感じる資格があるのかってえ話だよな、そりゃ。人を殺しといて寂しいなんて、そりゃ我《わ》が侭《まま》ってもんだろうが」
「我が侭ですか――分からなくもないですけど」少女は不服そうだったが、しかし一応は頷いてみせる。「それでもどうにもならないっていうのが、人間の感情ってもんじゃないですか?」
「感情なんかどうにでもなるさ。感情なんて、理性に比べりゃ全然大したことがねえ。それも『あいつ』が教えてくれた教訓の一つさ」
「他の教訓は?」
「『女は身を滅ぼす』、『君子危うきに近寄らず』、『おいしいとこ取りやったもん勝ち』」
「なんか素敵ですねー。ますます興味わいてきたですねー」少女がうふふ、と不気味な笑みを漏らす。「本当その人、一度でいいからお会いしてみたいもんです」
「どうしてもっつーんなら京都に行くんだな。京都に行けば、自然に牽引されるだろうよ。『あいつ』にゃあ変人と変態をひきつける才能があるみてーだから。それもまた、俺との違いか」
「ふうん。京都ですか。分かりました、憶えときます」
「いつまでも京都にいるたあ、限らないけどな――根無し草の孤独主義って点じゃ、俺と同じだったからよ。もっとも――」少年は皮肉っぽい口調で言う。「やっぱやめといた方がいいぜ。『あいつ』は優しいけど、その分容赦がない。容赦がある分優しくない俺とは逆反対に同一だ。京都で傑作に、死に花咲かすことになる」
「傑作――うふふ。それもまた、悪くない」
少女はにやりと笑う。
「その前に――双識さんの仇討ち、ですけどね」
「かはは――まあ、俺に関係ないところで好き自由やってくれや。見えないとこからこっそりとバレねえ程度に、応援してやんよ」
「ありがとう」
――と。
そこで、突然。
|がくん《ヽヽヽ》――と衝撃を伴って、電車が急停止した。慣性の法則に従って、少年と少女も折り重なるように座席に倒れる。それほどに激しい急停止だった。まるで、何かに衝突して強引に進行を妨げられたが如く。駅についたのかと思ったが、そうではない。窓から外を見れば、そこは鉄橋の上。真下には轟々と、川が流れている。しかしだが、果たしてどんな力が、走る電車を正面から停止せしめるというのだろう――?
「ちょ――なん……」
「んー。こりゃ参ったかな」
慌てたそぶりの少女に対し、相変らず口元に笑みを浮かべている少年。しかしその笑みは今までのものとは違い、少々の焦り、多少の自虐、多大の諦念が混じっている、気まずさの表現のようにも見える。少女はその少年の笑みの意味が分からず、更に困惑しているようだった。
けれどその理由は直ぐに知れることになる。
続けて外で爆発でも起こったかのような勢いで、少年と少女のいる車両の扉が一つ、内側に向いて|吹っ飛んできた《ヽヽヽヽヽヽヽ》。それら二枚のドアはそのまま反対側の扉へと衝突し、更にそのまま向こうに抜けてしまう。
そして扉が吹っ飛びぽっかりとあいた形になるその穴から――
一人の人間が、車両の中に乗り込んできた。
威風堂々、それが当たり前のようにして。
彼女は――『彼女』は、すらりとしたその長身を眼のくらむような赤色の衣装に身を包んでいる。かなりの、否、とんでもないほどに図抜けた美貌に見蕩《みと》れてしまうようなスタイル。肩の辺りまである赤い髪、そして射抜くようなその瞳全身という全身から威圧感を放っていて、かなり離れた距離にいるというのに、少年と少女はそれだけで圧倒されていた。登場しただけでそれと理解できる、図抜けた人外感。
『彼女』は――『死色の真紅』と呼ばれる。
「閉塞《おひらき》に来たぜ――殺人鬼」
赤い『彼女』はシニカルな笑みを浮かべる。
「おしまいの鐘だ――あっちからこっちまで、散々探し回っちゃったぜ、人識くん。
さあ、殺して解して並べて揃えて晒せるもんなら、殺して解して並べて揃えて晒してみろよ」
そして一歩一歩、ゆっくりとこちらに近付いてくる。少年はため息交じりに「誠心誠意、傑作だよ……」などと嘯《うそぶ》きつつ、座席の上に倒れた身体を起こす。急停止によってどうやら脱線したらしく、傾いてしまった車内にしっかりと立って、しかしその足腰とは裏腹に、仕方なさそうなやる気のない物腰で、ベストから取り出したバタフライナイフの刃先を、『彼女』に向けた。
「あー。やっぱ兄貴なんかに構ってる場合じゃなかったってか……畜生、俺もついてねえや、『あいつ』同様に」
「――ねえ、その人、人識くんの敵ですか?」
座席に倒れたままの姿勢で少女が問う。
少年が頷くと、少女は「うふふ」と笑って、跳ね上がるように背中で起き、そしてひゅっと右足を空中に向けて蹴り上げる。
「そうですか――だったら」
プリーツスカートの内に隠軌ていたホルスターから、鋏が飛び出す。否、それは鋏とは言えない。言えないが、言葉に頼って表現しようとするならば、そう表現するしかない代物だった。
ハンドル部分を手ごろな大きさの半月輪の形にした、鋼と鉄を鍛接させた両刃式の和式ナイフを二振り、螺子で可動式に固定した合わせ刃物――とでもいうのだろうか。親指輪のハンドルがついている方が下指輪のハンドルの方よりもブレード部がやや小振りだ。外装こそは確かに鋏であり、鋏と表現する他ないのだけれど、その存在意義は人を殺す凶器以外には考えられない。
いっか誰かが、この鋏を『自殺志願《マインドレンデル》』と呼んだ。
そして今もまた、同じ名で。
「|だったら《ヽヽヽヽ》――わたしの敵ですね」
少女は宙に飛び出した『自殺志願《マインドレンデル》』を口に銜え、そして少年同様に『彼女』に向かい合う。そんな少女に向かって少年はやるせなさそうな視線を向け、苦笑する。
「助太刀するぜ」
「ありがとう」
そして二人揃い、『彼女』に向けて一歩を踏み出す。『彼女』はそんな二人を、実になんとも言えない、嬉しそうな表情で出迎える。ずっと行方知れずだった親友に再会したかのような、そんな表情。まるで、これから繰り広げられる死闘を――心の底から楽しんでいるかのように。
そしてそれは少女も同じだった。多少引き攣ってはいるものの、この状況が心底楽しいと言わんばかりの喜色満面な笑みを――『彼女』に対して向けている。先ほどの笑みとは全く逆反対、しかしそれでも、少女が本来持ち合わせている性質に似つかわしい笑み。少女は笑んだままで、『自殺志願《マインドレンデル》』の刃先を二つを二つ、『彼女』に向けてつきつける。
その笑みは――正しく殺人鬼にこそ相応しい。
「全く因果な人生だよな、欠陥製品――」
一人だけ、付き合いきれないとばかりに、やりきれない鬱陶しそうな表情で、少年は愚痴っぽく独白する。
――それでは。
「零崎を――開始します」
始まった零崎は、終わらない。
[#地付き](零崎人識――失格)
[#地付き](零崎|舞織《まいおり》――失格)
[#地付き](試験終了)