新本格魔法少女りすか
やさしい魔法はつかえない
西尾維新
ぼくがその、事件というべきか事故というべきか、とにかく判然としない『事実』を目撃したのは丁度《ちょうど》一週間前、先週の日曜日のことだった。ぼくはその日、所用あって自分の住処《すみか》である佐賀県|河野《かわの》市を遥《はる》か離れ、県境を越えて福岡県博多市の木砂《きずな》町にやってきていた。所用というのは説明の仕様は色々あるが、突き詰めれば要するに『人に会う』というだけで、逆に言えば確たる目的はなかったとも言えるのだが、何にせよぼくはその『事実』の現場に衝突するだけの必然の持ち合わせがあったわけではなく、その場に居合わせたのはただの偶然――というものだろうと思う。こういうことがあるからぼくは偶然という奴がそれほど嫌いにはなれないのだ。ことは、佐賀県への帰途、まず博多駅にまで向かう電車を、木砂町の地下鉄新木砂駅の一番ホームで待っている際に起こった。時刻ははっきりしている――午後の六時三十二分。何故《なぜ》はっきりそう断言できるかといえば、その時間、正に、ぼくの待つ一番ホームに、列車が進入しようとしていたからだ。日本の鉄道は国鉄私鉄を問わず、おしなべて時間に正確である。とにかく、六時三十二分。『一番線に列車が参ります。危険ですので黄色い線の内側までお下がりください』というお定まりの放送も、輸唱するように聞こえてきた、その数秒後のことだった。その電車に乗るためにぼくの前に並んでいた四人――見知らぬ四人だが、今ではもう名前もはっきりしている、賀川先郎《かがわさきろう》、矢那春雨《やなはるさめ》、真辺早紀《まなべさき》、田井中羽実《たいなかうみ》――が、タイミングを測っていたかのように、電車の先頭車両が目前を通り過ぎるその寸前に――線路に向かって、その身を投げ込んだのだ。その瞬間のことを、脳内麻薬の効果なのかただの錯覚なのか、ぼくはスローモーションで記憶している。吸い込まれるように、むしろ先を競うように落ちていく四人と、電車の運転士の唖然《あぜん》とした、天変地異を目撃しているかのような表情――だが、それも一瞬、一瞬のこと。視覚の速度はすぐに元に戻ったが――その一瞬のあとに何がどういうことになったかなんてよほど脳に血液の巡ってない人間でもない限り、説明するまでもないだろう。四人はどれが誰の部品だか分からないくらいにばらばらに、散らばるように吹っ飛ばされた。基本的に電車と言う乗り物は線路を走るだけの物体なので、人間とぶつかったときのことを考えて設計されていない。莫大な質量を所有する一個の鉄の塊《かたまり》、暴力の象徴と考えた方がいい――ぼくと、そして被害者の四人が並んでいた乗車口は、一番ホームにおいて電車の進行方向から割と前の方だったが、そんなことはあまり関係ない。たとえ一番先頭の乗車口に並んでいたところで、ばらばらになって死ぬか、人の形が残るか、それくらいの違いでしかないだろう。今のところ確認されている『事実』はそれだけだが――本当にそれだけだったらぼくは何も問題を感じない。そりゃ、その事実の所為《せい》で電車を無駄に三十分ほど待つ羽目になったが、そんなことでいちいち目くじらを立てるような小人物では、ぼくはないのだ。怒りなんて無駄なエネルギーは、手段、あるいは手役として以外は使わない。ただ――この『事実』が、単なる『事実』だけで収まらない点をいくつか含んでいることが、今回の場合、ぼくにとって大いに間題だ。いくつかの問題―― 一つは誰にでも分かることだろうが、四人の人間が一気に飛び込むという、同時性。一人の人間が電車に向かってダイブする、それだけなら分かり易《やす》い。一人の人間が線路に向かって転がり落ちる、それだけでもまだ分かり易い。自殺か事故での電車事故、そんなものは日本全国、地方中央を問わず二十四時問年中無休で行われている儀式のようなものだ。だがしかし、それが四人が同時にとなると――少し話も変わってくる。四人がまとめて、偶然、偶然に線路に飛び込むなんてとても考えられないことだし――同じく同時に自殺、という線も難しい。その四人がそれぞれに家族だったとか、親しい友人同士だったというのならばまだ『同時に自殺』、考えられない話ではないが、ぼくがその場で後ろから観察していた限りにおいて、四人の間には何の関係性もない、四人はそれぞれに全くの他人同士だった。ぼくは人間観察眼においてはかなりの自負を持っているし(誰でもいい、ぼくの前に連れてくればいい――その人間がどういう人物だか、箇条書きで百個は挙げてみせよう。勿論外見ではなく中身をだ)、四人の間に何の関係性もないというのはこれは後の新聞発表なんかでも言われていたことでもあるので、それは客観的データでも示されている事実である。要するに、同時性に続く第二の『問題点』は関係性のなさ、なのだ。まあここまでいえば第三の問題点に気付かない愚《おろ》か者はそうそういないと思われるが、その第三の問題点とはつまるところ絶対的な不可能性、である。四人が同時に関連なく線路に落ちる――その公式を現実に当てはめようと思えば、すぐ後ろにいた人間が突き落とす、の他に方法は考えられない。実際、警察やらマスコミやらは、今もなお、その方向で『事件』の『犯人』を追っているそうだが――哀れに思うがそれは徒労だ。何故なら四人のすぐ後ろにいたのはこのぼくであり――ぼくは四人を突き落としたりしていない。身も知らぬ四人を線路に突き落として殺すというような、どこの未来にも繋《つな》がらない行為をぼくはしない。なんて言っても、クレタ人のパラドックスを持ち出すまでもなく、自己言及の言葉には何の説得力もないかもしれない。だが証言以上に、ぼくには四人を突き落とすことなど物理的に不可能なのだ。一人くらいなら、それも華奢《きゃしゃ》な女性だったらという限定条件つきでなら、あるいはそれも可能かもしれないが――身長百三十八センチ、体重三十三キロ、当年とって十歳のぼく、供犠創貴《くぎきずたか》には、同時に四人の大人を暴力によって移動させる手段はない。ま、そうは言ってもその場に留まれば疑われるのは必至だったろうから、己《おのれ》の小柄な身体を利用して、騒ぎになっている隙にその場からはしぱらく離れさせてもらったのだが――さておき。そう、ぼくが四人の被害者を殺しおおせた『犯人』ではないという『事実』からして生じる不可能性−不可能性、である。『同時性の有』『欠く関係性』『不可能性の有』……この三つの問題点が揃えば、これはぼくにとって問題、『問題』であると明言してしまっていいだろう。先に言ったよう福岡に行ったのは人に会うためというそれだけの理由だったので、ぼくにとってこの『事実』は予想外のアクシデントとも言えるのだが、この手のアクシデントは、ぼくとしてはむしろ歓迎すべき愛らしい存在だった。何度でも繰り返すが、ぼくは偶然と言う奴をそんなに嫌っちやいないのだ。さて、だからぼくはその日、その脚で直接りすかに会いに行こうかとも思ったのだが、一人や二人ならともかく、四人の人間が死んだともなれば警察もマスコミも気合いを入れて出張ってくるだろうから、もうちょっとほとぼりがさめてからの方がよいだろうと、ぼくは一週間を行動を起こすまでの冷却期間と定め、その間は他の雑事を片付けながら待つことにしたのだった。その一週間の問に何かくだらない解決が為されるようだったら、わざわざりすかの手を煩《わずら》わすこともないのだし、と。だが建前としてそうは思いつつも、ぼくには確信のようなものがあった。確信のようなもの、というのはぼくの性格から生じる非常に謙虚な言い方であって、事実としてはそれは確信そのものである。そう、ぼくは吸い込まれるように線路に落ちていったあの四人が、決して被害者などではなく、正に犠牲者なのだと確信していた。
「やありすか。愛しに来たよ」
「…………」
「いや、会いに来たの間違いなんだけどね」
勿論りすかに突っ込みなんて高度な対人対話能力を期待してはいなかったが、それでも何の反応も見せてもらえないというのも寂《さび》しい話だったので、自然、自分で釈明《しゃくめい》めいたことを口にしつつ、ぼくは部屋の端にほっぽられていたクッション(こうもり形)を拾い、持ち主の許可も取らずに勝手に座る。見れば、りすかは勉強机に向かっていて、黙々と右腕を動かしている。何か書きものだろうか。落ち着けた腰を上げ、りすかの背後まで行って机の上をりすかの肩越しに覗き込む。左側に分厚いハードカバーの本が広げてあって、右側には大学ノート。大学ノートという名前なのに大学生はあまり使わない、あの大学ノートだ。どうやら左から右に、文章を写しているらしい。ならば左の本は新たに入手でもしたか、あるいはどこかの秘蔵図書館からでも借りてきた、魔道《まどう》書だろう。魔道書の写本は実益を兼ねたりすかの趣味なのだ。振り返って本棚を見れば、各種魔道書が文字通り犇《ひしめ》いていて、殺風景な部屋に彩りを添えている。『妖蛆《ようそ》の秘密』――『断罪の書』――『屍食《ししょく》経典儀』――『屍体|咀嚼《そしゃく》儀典』――『セラエノ断章』――『魔法哲学』――『暗号』――『トートの書』――『魔女への鉄槌《てっつい》』――『ドール賛歌』――『世界の実相』――『屍霊《しりょう》秘法』――主立ったところは揃ってはいる(とはいえ、それもほとんどが写本だ)が、それでも手に入らない稀こう本はこうして己で写すしかないのである。そういう意味ではりすかの趣味は魔道書の『記述』の蒐集《しゅうしゅう》にこそあり、写本はただの手段だとも一言える。まあ、下手に原本を集めれば金は掛かるし嵩《かさ》張るし、合理的は合理的、日本語に訳して書いているところはさすが『魔法の王国』出身者だとは思うが。
「―って、うわっ! びっくりしちゃった!」
突然、りすかがぼくを振り向いて、大声をあげた。
「びっくりしたのがわたしだったの。え? なんでいきなりいるのがキズタカなの?」
「……生憎《あいにく》ぼくはりすかと違って魔法なんか使えないからね。階下のコーヒーショップの『準備中』の札がかかった扉をくぐって、中で清掃作業をしていたチェンバリンさんに挨拶《あいさつ》し、カウンター奥のドアを開けてもらって、階段を登って、廊下を歩いて、この部屋のドアをちゃんとノックして、返事がないからもう一回ノックして、それでも返事がなかったんで勝手にドアを開けて中に入ったから、ここにいるんだよ」
「へえ……ぱたぱたぱたと理路整然なの」とりあえず頷《うなず》きはするも、りすかは感心したような顔のままだ。「まあ、ようこそ。適当に座るのはその辺がいいの。渇いているのは喉?」
「別に、そうでもない。季節の割には、まだそんなに暑くないしね。それにコーヒーショップの娘さんからのその質問に、ぼくは迂闊《うかつ》に答えるつもりはないよ」
「お金を取る対象を小学生にはしないって」
「それ、何の写し?」
「ん? あ、いや。不明なのはタイトル。調べているのが現在なんだけれど――まあ、取り得なのが珍しいだけの、マイナーな、大したことのない種類がこの本なの」
「ふうん。しかしいつ見ても面倒そうだよね。その『写し』ってもさ、機械でコピーできたり、りすかの『魔法』がもし応用できたりすれば、かなり楽になるだろうに」
「できてもやらないのが、そんなことなの」きっぱりと、りすかは言う。「こういうのって、楽しいのが、写す作業自体なんだから」
「手段自体が愉悦《ゆえつ》を備えているというわけか。そりゃ、随分と便利なシステムだ。理想的だね」
「キズタカだってそうじゃないの?」
「うん?」
「愉悦が、手段を備えてる」
分かったような表情でそんなことを言うりすかに、ぼくは「そんなことはないさ。手段は、あくまで手段でしかない」と軽く首を振って、否定する。手段はあくまで手段でしかない。それは、まごうことなき、本音だった。
★ ★
ぼくがりすか、水倉《みずくら》りすかの存在を知ったのは去年の四月、つまり四年生に進級した直後のことだった。正確に言えばその一年前から既に、隣のクラスに転校してきた生徒がいきなり登校拒否になった、という話は知っていて、その生徒の名前が水倉りすかであることも、当然、知っていた。よそのクラスの話でもその程度の気は配っている、当たり前だ。しかしここでいうのは『存在』、水倉りすかというその確たる存在が、『魔法の王国』、『城門』の向こうからやってきた『魔法使い』だと知ったのが、四年生、クラス替えでりすかの名がぼくのと並んで出席簿に記載されるようになったその頃だった、という意味だ。無論同じクラスになろうがなるまいが、登校拒否児のりすかはほとんど学校に来ていなかったので、顔は分からない。調べれば分からなくもなかっただろうが、やはりよそのクラスの話、そこまでの必要性は感じていなかった。だが同じクラスになり、ぼくが四年連続、七期連続のクラス委員になったことで、そこでぼくとりすかとに接点が生じる。ぼくはクラス委員として、登校拒否児に会いに行くことにしたのだ。別にその水倉とかいう生徒が学校に来ようが来まいが、大枠のところぼくには何の関係もなかったのだが、だがぼくの力によって人権ある一人の生徒の登校拒否問題を解決したとなれば、教師陣や学校内でのぼくの評価も目に見える程度にはあがるだろう、と考えたのだ。何事においてもそうだが、見る眼のない奴らにはこちらから歩み寄ってやることが必要だ。他人からの称賛になど興味はないが、周囲のぼけた人間達に分かり易い形で『供犠は使える奴だ』という認識を与えておくことは重要だった。『使える』と思い込んで『使って』もらうこと、今のところはそれが重要だった。『使って』もらえれば、必然的に色々な事件、色々な事故、色々な事実に――色々な人間に、出会えることになる。言うまでもなくそのほとんどは益体《やくたい》もない、取るに足らない価値もない事件に事故に事実に人間ばかりなのだが、ごく稀《まれ》に、これからのところのぼくにとって『使える』、事件や事故や事実、そして、人間と遭遇することができるのだ。だからぼくは優等生を演じる。同級生受けはそれほど狙わなくてもいい、狙うべきは教師陣、大人達の方だ。どちらにしたって何の目的もなく漫然と無駄に生きているだけとは言っても、大人と子供では行動半径がまるで違う、彼らの持っている情報はぼくにとってそこそこありがたい。授業の内容を聞く限り彼らはあまり賢くはないようだが、まあ伊達に長時間無駄に生きているわけではないということだ。無論同級生達の情報も切り捨てるわけにはいかないが、これは単純に効率の問題だ。彼らは、無駄に生きている時間さえ少ないのだから、優先順位が後回しになるのは仕方がない――集団授業上、クラスで孤立してしまうのもまずいので、何の役に立ちそうもないどうでもいい人間にしたって、それなりに相手をしてやってはいるが。全く、馬鹿どもの機嫌をとってやるのには、とかく苦労が多い。理想的にはどんな下らない普通人からだって役に立つ何かを引き出し得るというのが素晴らしいのだろうが(自分以外の全てが師匠、だとか、なんとか)、さすがのぼくもその域に達するのはもう少し先のようで、学校では無意味な下積みを過ごしている時間が多い。あんな低能達にあわせてレベルを下げるなんてぼくにとってはほとんど屈辱に近い、むしろ屈辱以上だ。その意味では優等生を演じているわけではない、ぼくは実際に優等生的気質なのだろうと思う。今年で五年連続、九期連続のクラス委員になったことだし……優等生。外面に内面が伴《ともな》っていないだけで。ともあれ、ぼくは当初は単なる点数稼ぎのために、りすかの家を訪ねることにしたのだ。二階建ての、風車のようなデザインのコーヒーショップが、りすかの家だった。紳士然とした老人がカウンターの向こうにいて(後に判明したことによれば、彼はチェンバリンという名で、どうもりすかの従僕らしい)、部屋に案内されてみて、そして扉を調けて、ぼくは――勉強机に向かって、その当時も同じように、魔道書を写していたりすかの姿を、初めて見たのだった。
(……あ)
赤い髪に――赤い瞳《ひとみ》。赤いニーソックスに、赤いワンピース。ワンピースの腰には、ホルスター状になっている細いベルトが引っかかっていて、ホルスターには細長いデザインの、カッターナイフが刺さっている。部屋の中だというのに赤い手袋を嵌《は》めていて、右手首に、唯一赤でない、銀色の無骨な手錠が嵌っていた。手錠のリングが二つとも同じ右手首に掛かっていて、奇妙なブレスレットのように見える。りすかがこっちを振り向くと、しゃらん、と、その手錠のリングがぶつかりあって、波の高い、音を立てた。
(あ、あ、あ――)
見た瞬間、今まで頭の中で考えていた、『登校拒否児を学校に通わせる手段』の全てを、ぼくは自分の意志でもって放棄した。そんなことをしてちまちまとしょぼく点数を稼ぐ理由が、一瞬にして消失したのだ。そう、そのときぼくは直感で見抜いたのである――水倉りすかが、ただの普通人なんかではなく、恐るべき魔法使いであることを。それまでずっとの間、最初は両親から始まって、幼稚園児から八十歳を越える老人まで、生まれてからこっちずっとの間、出会う人間出会う人間を『観察』し続けて、とにかく極限まで鍛《きた》えてきたぼくの観察眼が、目前のクラスメイト、登校拒否児水倉りすかが只者《ただもの》でないことを告げていた。それでどうしたかというと、ぼくはチェンバリンが部屋を去ってから、率直にりすかに向かったのだった。本当の誠意とは、どんな場合であっても相手に対して真っ直ぐに向けるものなのだ。りすかはそんなぼくに対し、こちらが面食らうほどあっさりと、その事実を認めた。認めただけでなく、自分が『城門』の向こう、『魔法の王国』長崎県で生まれ育ち、しかも『魔法の王国』の首都と並び称される魔道市、森屋敷《もりやしき》市の出身であることまで教えてくれた。
「初対面のぼくにそこまで教えていいのか?」
「いいの。別にひたすら隠すようなことでもないし――それに、いざとなればキズタカを消すのがその魔法であればいいだけの話なの」
「消す?」
「消去」
『きちきちきちきちきち……』『きちきちきちきちきち……』『きちきちきちきちきち……』と、ホルスターから抜いた、カッターナイフの薄い刃を出し入れしながら、あっけらかんとそう語るりすかに、ぼくは改めて確信したのだった。これは、――この女の子は、今まで出会った決して少なくない人間達の中で、有象無象《うぞうむぞう》から魑魅魍魎《ちみもうりょう》まで森羅万象《しんらばんしょう》、見てきた人間の中で、一番飛び抜けて――使える駒だ、と。
★ ★
その日から今日現在に至るまで、りすかとぼくとの付き合いは絶えることなく続いている。五年生でクラスがまた別になってしまったが、元々りすかは学校に来ないので、あまり関係がない。付き合いは概《おおむ》ね学外で行われ、ぼくが空いている時間、一方的にこのコーヒーショップに来て、りすかと会話を交わす――というのが基本的な形だろうか。もっとも、りすかはこの部屋を留守にしていることが少なくない。別に学校が嫌でひきこもっているわけではなく、りすかはとある目的を持って佐賀に引っ越して来ているので、魔道書の写しでもやっているとき以外は、そちらの活動で忙《いそが》しいのだ。小学校に籍を置いたのは、それが法律で定められている手続きだからという以外に何も理由はなく、必要がないから学校には行かないというスタンスらしい。実に分かり易い。分かり易いのはぼくも嫌いじゃない。それで、ぼくはその、りすかの『目的』を手伝うという名目で無論、学校の連中には何とかして登校拒否児の心を開こうとしている自分をアピールしている――こうして、頻繁《ひんぱん》にりすかのところへ寄っているわけだ。りすかの方も別に迷惑がるという風もなく、ぼくを受け入れていた。多分、不案内な県外《ソト》の案内人、『人間』としての手足が、一人くらいあってもいいだろう、とでも考えたのだと思う。つまり、りすかにとって、ぼくは有用な駒なのだ。有用というのはぼくの勝手な思い込みなどではなく、事実、ぼくと出会う前の一年と出会った後の一年とでは、りすかの『目的』達成率は全然違う。りすかにとってぼくは『使える』人間だということ――使える協力者であるということ。もっともぼくだってボランティアで魔女のお手伝いをやるほど酔狂ではない。ぼくが欲しかったのは『魔法使い』としての水倉りすかという駒だ。お互いにお互いを駒だと思う、その構図は社会に、そして世界において当たり前なので大いに構わない。それは素晴らしく利害の一致ということ。問題は、果たして真実はどちらか、という点、それだけだ。この問題は、実のところそれほど単純でもない。初対面の際にりすかのことを『使える駒』だと思ったぼくのその認識は、しかし、半分の意味でしか正解ではなかったのだ。りすかは確かに見込んだ通りの魔法使いではあったが――それもこの年齢で乙《おつ》種魔法技能免許を取得済みという驚嘆《きょうたん》すべき経歴の持ち主ではあったが――その魔法の種類が、ぼくにとってあまりにも意味かなかった。意味がないだけならばまだしも――少しばかり、手に余る感があるのだ。『手に余る』……実際、どうしてよいのか対策が思いつかないほどに手に余る。『駒』として、今のところのぼくに扱いきれるような存在では、水倉りすかはなかったのだ。が、しかし、そんな消極的な理由で、りすかから乖離《かいり》する気にはとてもじゃないがなれなかった。ぼくが人生で初めて会った魔法使い。佐賀県と長崎県の間にある天を衝《つ》く『城門』は、法にのっとった手続きさえ踏めば基本的に出入りは自由だが、魔法使いは基本的に酷《ひど》く排他《はいた》的なので、『城門』からこちらには来たがらない。来たとしても、普通はその身分を隠す――りすかが転校してきたとき、出身地を長野県と偽《いつわ》っていたのと同じように。だから、何の能力も持たない普通人が魔法使いと会える機会なんて、ほとんど皆無なのだ。りすかを魔女だと見抜けたような僥倖《ぎょうこう》が、これから先にあるとも思えない(ぼくの観察眼もあったにせよ、客観的に言ってやはりあの出会いはラッキーの域を超えない)。『手に余る』からといってそれだけで離れるには、りすかはあまりにも『貴重』過ぎる駒だったのだ。その貴重さもそれはそれで問題なのだが――あるいは貴重さこそが真の問題であるともいえるのだが――だが、今は無理でも、ひょっとしたらいつかは自由自在に操れるようになるかもしれないし、それに――手に余る駒であっても、それならば、それはそれで使いようもあるというものだ。
「で、キズタカ。何の用を今日のテーマに?」
「りすかの力になれるかと思ってね」
「へえ」りすかはベルトのホルスターからカッターナイフを抜き出し、『きちきちきちきちき……」『きちきちきちきちき……』と、出し入れする。その行為はりすかの癖《くせ》のようなもので、あのカッターナイフは、いうなればりすかにとって魔法のステッキみたいなものだ。「聞かせて。興味あるの」
「一週間前――偶然、不可解な事実に遭遇してね。どうにも常識じゃ測りがつかなかったんで、りすかに相談しようと思ってさ。ひょっとすると……りすかの『目的』に、かするかもしんないからさ」
「へえ。ありがたいのはキズタカだね」
聞けば誰でも分かることだが、りすかの喋《しゃべ》り方には少しばかり不自然なところがある。よく聞けば発音も微妙におかしい――ぼくの名である創貴にしたって、アクセントがおかしく漢字が想像できないような、ラテン語みたいな音声に変換されてしまっている。これはりすかがぼく達の言うところの『日本語』を、あまりうまく喋れないせいだ。文系はそれほど得意分野でないぼくと較べてもまだ語彙《ごい》が少ないのは勿論のこと、どうも文脈というか、助詞という概念をりすかはうまく使いこなせていないようなのだ。去年出会ったばかりの頃はもっと酷かった。いや、勿論長崎県でだって日本語……大和《やまと》言葉は使われているのだが、長きにわたり、高き『城門』によって彼方《かなた》と此方《こなた》に隔《へだ》てられたことにより、あちらとこちらでは、同じ国でありながら文化そのものに、もう遥か異国並の差異がでてきてしまっているようなのだ(まあ、あちらが『魔法の王国』である以上、仕方のない必然的帰結とも言える)。とにかく、りすかがぼくに向かって『日本語』を話すとき、りすかが言おうとしていること、その意味自体は本質的に何も変わっちゃいないのだが、下手なドイツ語の訳みたいになってしまうのだ(固有名詞を強めてしまう傾向がある――のかもしれない)。先の言葉にしたって、本当は『キズタカはありがたいね』と言えばいいところなのに、『ありがたいのはキズタカだね』と、ぼくの他に多数のありがたくない人間がいるみたいなニュアンスになってしまっていた。更に例文をあげれば『嘘吐《うそつ》きは泥棒の始まり』と言おうとすれば、『泥棒が始まるのは嘘吐きから』となり、『どこで誰が見ているか分からない』ならば、なんだろう、『分からないのは誰か見ているのがどこなのかだ』とでもなるのだろうか。このような短いセンテンスならまだ通じるのだが、いくつもの要素が複合された長文を喋られると、よっぽど注意して聞かないとどこかで意味がねじくれてしまうことが、以前にはよくあった。今は、割とマシな方だろう。一年間ぼくと言葉を交わした成果だ――無論、りすかからすればぼく(達)の喋っている言葉こそが、意味を捉えにくい変な喋り方なのかもしれないが、郷に入っては郷に従えということで、りすかもこちらに合わせる努力をしてくれているわけだ。ちなみに、階下のチェンバリンは流暢《りゅうちょう》な『日本語』を話すことができる。見た目、西洋風だというのにだ。
「それで? わたしに持ってきたのはキズタカにとってどんな話なの?」
「一週間前の日曜日、午後六時三十二分。博多の木砂町の駅。四人の人間が一気に線路に落ちて――落ちて、五体ばらばらになったっていう話。知ってるかな」
「ん……」りすかは勉強机の、一番下の大きな引き出しを開けて、分厚いファイルを取り出した。ファイルの表紙には『六月一日〜六月十五日』と書かれている。それは、新聞のスクラップ集だった。りすかはぱらぱらと頁をめくる。その動きで、右腕の手錠がしゃらん、と鳴った。「あ、それがこれかな。うん、憶えてる憶えてる。えっと……賀川先郎、矢那春雨、真辺早紀、田井中羽実、ね。高校生、会社員、主婦、家事手伝い――残念なことに足りないのは、顔写真か」
「顔ならぼくが憶えている。ぼくはその四人の後ろに並んでいたんだよ」
「へえ? そりゃまた偶然なの」
「りすかにはこれがどういう意味か説明するまでもなく分かるよね。ぼくが目的もなく関係性のない四人を突き飛ばしたりしない人間であることは分かると思う。だったらこの『事実』は――非常に、不可解になる」
「……不可解、ね」りすかは神妙に、慎重《しんちょう》に頷いてみせる。新聞情報|如《ごと》きに大したことが書いてあるとも思えないが、ファイルに、じっくりと目を落としながら。「――つまり、この件に、魔法が絡んでるって思っているのが、キズタカなわけね」
「ああ」ぼくは肯定した。「以前いただろう? 人心操作の魔法使い……あと、可能性としては念動力系の魔法が考えられると思う」
「…………」
りすかが反応もせず沈黙しているので、ぼくはなんとなく釈明っぽく、「ま、ぼくには魔法の判断なんて全然分からないけどね」と付け加えた。全然分からないわけではないが、りすかの前ではこう言っておくのも後々のためには大切だ。手の内を全て晒《さら》すほどに、ぼくはりすかを信用してはいないし、依存してもいない。
「……ふうん」りすかはしばらく考えるようにしてから、ちょっと困ったように、ファイルを置いて、ぼくに向いた。「一番困るのは、不可思議で不可解なことを全部魔法の所為にされることなんだけど……キズタカ。一番恐れているのがわたし達なのは、その手の誤解なの。魔法なんてのは大抵の場合、日常生活においては大して役にも立たない、あってもなくても別に困らない異能でしかないんだから。『魔女狩り』『魔女裁判』に対応できるほど、現代の魔法使いは強くないの」
「そんなことは言われなくとも分かってるさ。だからぼくは一週間待ったんだ。一週間以内に何か合理的な説明がつくようだったら、魔法は無関係だろうと思ってね」いくら無能の集団だとは言っても、警察にもその程度の能力はあるだろう。何と言っても、数がいるのだから。だが一週間たった現在も、彼ら無能がその人数を頼りにやっていること言えば、目撃者探しだけだった。「そう――だから、りすかに相談に来たんだ。ぼくには分からないけれど、りすかなら、それが魔法かどうかは分かるんだろう?」
「うーん……」りすかは机の上の整理を始めた。大学ノートを引き出しにしまいながら考える。しゃらんしゃらん、と手錠が鳴る。「人心操作にしろ念動力にしろ、かなり高度な魔法なの――で、高度な魔法使いは、そんな、県外《ソト》でも県内《ナカ》でも、四人を無差別に殺すなんて、意味のない真似《まね》はしないと思うの――その四人の間に何らかのミッシングリンクがあるっていうんなら話は別だけど」
「それは、多分ない。ぼくが観察した限りじゃね、四人の間には何の鎖もないよ。あるとすれば、ただそこに揃っていただけ――精々《せいぜい》、それくらいだね」
「ん……それに、人心操作だと仮定した場合は、それに加えて手間のかかる魔法だから――向いていないように思えるのがこのパターンなの。ふうん――でも、気には、なるか……キズタカがそこまでいうなら」
「議論しててもしょうがないだろ」らちが明かないと思い、ぼくは言う。「論より証拠……時間があるようだったら、現場に行って調べればそれではっきりすることなんだろう? こんなところで話していても全ては想像さ」
「時間? 時間なんて概念が酷く些細《ささい》な問題なのが、このわたしなの」りすかは、その造形にはいまいち似合わない、少し歪《ゆが》んだような笑みを浮かべた。「……でも、そう……現場を見に行けば、確実にはっきりする問題か――新木砂駅って、ここから何時間くらいかかる場所?」
「乗り換え含めて……二、三時間ってところかな。ほい、これ、地図。あと、電車の時刻表」ぼくはあらかじめ用意していたそれら(必要な部分をコピーしてきたものだ)を、りすかに手渡した。「細かいことは自分で計算してね」
「分かった。そこの帽子とって」
「うん」ぼくはクローゼットの前に落ちていた、大きな赤い三角帽子を拾う。その間に、りすかはカッターナイフで、自分の人さし指の先を、手袋ごと、やや深めに、傷つけていた。赤い血が、とろりと、ほんの少量だが、流れ出る。それからカッターをホルスターにしまって、ぼくの渡したその帽子をすっぽりとかぶった。帽子はりすかには随分と深く、目元まですっぽりと隠れてしまう。りすかは苦労してそれを調整した。「ありがと」
「じゃ、行ってらっしゃい、りすか」
「行って来ます」
にこっと笑ってそう言って――水倉りすかは、ぼくの目前からふっと、何の前置きもなく、完全に姿を消した。その――まさに『消えた』、移ったとか動いたとかそういうレベルではなく、今のこの、時間と空間からその存在を『省略』してしまったかのように、りすかの座っていた椅子《いす》は、がらんどうになってしまった。ぼくはクッションから身を起こし、その椅子へ座る。ぎしっと、背もたれを後ろに反《そ》らした。りすかのぬくもりが、まだ残っていた。ぼくはそこでやや、苦笑する。意図《いと》的な笑いだった。
「ドアくらい開けて出て行け……と言うためには、ぼくがドアをしっかり閉めてなかったな。うっかりしてた……ふふん」ぼくは呟《つぶや》く。「さてと。今回は――今回こそは、多少はマシな、使える魔法使いだったらばいいんだけどなあ」
★ ★
水倉りすかの魔法は、属性《パターン》を『水』、種類《カテゴリ》を『時間』とする、運命|干渉《かんしょう》系の能力だ。運命干渉系の魔法は所有しているだけで丙《へい》種魔法技能が認められるほどにレアな魔法系統なので、それだけでもりすかの優秀性は分かると思うのだが、だが、それでも(それだからこそ)ぼくがりすかを『手に余る』と判断したのは、りすかの魔法が自分の内の運命にしか向いていないからだ。誰にでも理解できるよう噛み砕いた表現を選へば――自分の中の時間を操作できる能力、とでも言えばいいのだろうか。たとえば今の場合、『数時間後』、ここから電車を数本乗り換えて福岡県博多市の新木砂駅に到着するまでの『時間』を――省略した、ということだ。短絡的に判断すれば、省略したのは時間ではなく空間のようにも思えるが、時間と空間が本質的に似たようなものであることは、何の取り得もない普通人の同級生にだって知っている人間がいるくらい有名な事実だし、無論、りすかは空間を伴わずに、『時間』『だけ』を省略することもできる。たとえば――先ほどのように、りすかが愛用しているあのカッターナイフで、指先を傷つけた、としよう。その傷の治癒《ちゆ》に三日数えなければならないとして――その三日を、りすかは省略できる、ということだ。『運命干渉』――実際、その通り。りすかが『時間』を省略してしまうことで、未来は変わってしまうのだから。普通なら払わねばならなかった電車料金を一銭も払わずに済ませたというような小さなことから、あるいは、大きなことまで。言ってしまえばりすかの魔法は『未来を変革する能力』――『未来の変革』。少なくともその言葉面だけ見れば、ぼくとしては本当に望むところの魔法だったので、一年少し前、それをりすかから聞いて、この目で見せてもらったときは(後からその意味のなさに気付いた今となっては赤面ものだが)、ぼくは素直に感動を憶えたものだった。だが――残念ながら、『手に余る』。自分の内の運命にしか向いていない魔法……時間を飛ばしたところでそこに記憶は伴わないし(五時間後の未来に『飛んだ』からと言って、その五時間の記憶が付属してくるわけではない。記憶と思考は、『五時間前』のそのままなのだ)、たとえばさっきも話したように、魔道書を写し始めて、三時間くらい掛かるだろうからといってその三時間を『早送り』しても、魔道書の写しは完成しない(それを『着替えるのが面倒でも着替えなければならない』――と、りすか自身は説明した)。ごくほとんどの場合において、本人にとって以外は意味をなさない魔法なのだ。それでは単純な瞬間移動、テレポーテーションの能力とほとんど変わりない。『ある手段』をとればりすかと共に『時間』『空問』を移動することは可能だが、しかし、『省略』だろうが『早送り』だろうが、相対的には時間は経過しているわけだから、二時間飛ばせば二時間分だけ生命としての寿命を消費する。愚劣な馬鹿どもならまだしも、ぼくなら二時間あればどれほどものが考えられるかということを思えば、それは冗談でも考えられない時間の――無駄な『時間』の消費だ。また、今の、十歳の水倉りすかでは時間を『前』にしか進められないので――『時間は不可逆的なもの』というあの理屈だ――消費した時間を取り戻すことはできない。ちなみにりすかが『消費できる時間は(一応)十日を限度としている。十日ずつとは言え、積み重ねていけば結構な寿命を消費しそうなものなのだけれど――
「――それでも、りすかは早死になんてしない」ぼくは呟く。「何故なら、りすかは真実の意味で、どうしようもなく魔女だから」
『赤き時の魔女』。故郷の魔道市、森屋敷市ではそんな称号を、七歳にして得ていたそうだ。『魔法の王国』内においても――基準をそこにおいても、りすかは天才的な魔法使いだった、ということらしい。もっとも、りすかの天才は、りすかの責任ではなく――りすかの父親の責任、なのだけど。そう――父親。父親、である。それが、りすかの目的だった。水倉りすかの目的。端的に言うならば――『父親探し』。と、そこまで考えたとき、りすかの机の上の、黒電話が鳴った。相手はわかりきっているので、ぼくは受話器を取る。
『もしもし? キズタカ?』
「うん」
『ごめん。謝るのがわたしなの。誤ったのもわたし。やっぱこれ、魔法関係みたいなの。ごめんね、偉そうなこと言ったのがわたしで』
「あっそう」それはしてみれば予想済みの事態なので、ぼくは頷くだけだ。「それで、どうする?」
『ん……魔法っても、魔法使いの仕業《しわざ》ってわけじゃなさそうなのよね――えっと、分かるよね。とりあえず、キズタカもここに来ない? 現場の方が話しやすそうなの。あ、この回線、駅の公衆電話からなんだけど……迎えに行くのが今からだからさ』
「いや、迎えはいらない。ぼくは電車で行くよ。寿命を無駄に消費したくないからね。それに、これから展開がどうなるか分からない今、りすかもあたら無駄に魔力を消費すべきじゃないだろ。りすかは『魔力』を、ぼくは『時問』を、あたら無駄にすべきではない。元々ぼくはりすかの賛同が得られなかったところで今日は一人でもその駅まで行くつもりだったから、お金は用意してるしね。そういうわけで、そこで待っていてくれるかい?」
『準備のいいところが、わたしがキズタカを評価している部分なの。分かった。よろしく言っておく相手を、チェンバリンにしておいてね』
通話を終え、ぼくは階下に向かった。コーヒーショップは既に開店の時間を迎えていたが、店はからっぽでカウンターの向こうにチェンバリンがいるばかりだ。まあ、一杯二千円のコーヒーを飲もうという酔狂な人がこんな地方都市にそうそういられても困る。ちなみにぼくは子供舌なので、コーヒーは苦手だった。缶コーヒーやらなら別に構わないのだが、チェンバリンは砂糖やミルクをコーヒーに入れることを許さない。こだわりの店なのだ。いつかチェンバリンの出すコーヒーの味を楽しめるようになりたいというのはぼくの偽らざる本心なのだが――そのときまで、果たしてりすかとの付き合いが続いているかどうか。続いているとしたら、りすかを完全に手中に収めることができるほどにぼくが成長している『未来』がなければならないのだが……そうでなければ、ぼくが『未来』を完全に失っているか、か。ぞっとしない話だ。それはつまり、あの考えの足りない享楽《きょうらく》的な同級生どもや無能の教師陣ども、総じて魔法使いでもなんでもない普通人《できそこない》どもと、同じレベルにまで堕落《だらく》してしまっているということだから。堕落した人生でコーヒーなんか楽しんでもしょうがない、そのとき飲むべきは青酸カリだ。ぼくはチェンバリンに「りすかは福岡に行きました。ぼくもこれから追いかけます」と、なるだけ単純にことの次第を伝える。チェンバリンは「供犠様、お嬢様をよろしくお願いします」と、深くぼくに一礼をした。りすかは『手に余る』がゆえにともかくとして、この老人からぼくはその程度の信頼は勝ち得ている。大人から信用を得るのはそんな難しいことではない、相手が老人ならば尚更《なおさら》だ。チェンバリン――彼はりすか同様森屋敷市、魔道市出身ではあるのだが、魔法は一切使えないとのこと。『魔法の使えない魔法使い』……その意味の判断は、今のぼくは保留している。『おいしいコーヒーを作れることが、チェンバリンの魔法なのよ』とりすかは言うが、そんな言葉で誤魔化されてあげようとは思わない。が、チェンバリンが魔法を使えないという事実だけはどうやら真実のようなので――つまり、能ある鷹が爪を隠しているわけではないというようなので、この問題に対する優先順位は比較的、ぼくの中では低いというだけだ。まあ、コーヒーショップの店主というのは、持っておいて困る駒ではないさ。「はい。それでは。少なくともりすかだけは、今日中に帰すようにしますから、チェンバリンさんもご心配なさらず、お仕事に精を出してください」と言って、ぼくは店を出ようとした。自動ドアが開かない。センサー式でなく重力感知式の自動ドアだから、ぼくの体重では反応してくれないことがたまにあるのだ。全く、今時こんな欠陥システムの自動ドアを採用しているところが、このコーヒーショップの中で一番気に入らない点である。ぼくは思い切りジャンプして、全体重を乗せて、足下のマットを踏んだ。ドアが開き、今度こそ、ぼくは店から出た。それから、福岡に向かうため、まずは最寄の地下鉄駅に向かう。地下鉄――電車、か。
「魔法関係……しかも、魔法使いの仕業じゃないってことは――ぼくにとっても、りすかにとっても、悪い情報じゃあ、ないよな」ぼくは、りすかなら一瞬もかからず消費してしまう、その道程の中、じっくりと考える。
「生まれついての『魔法使い』ってのはとかく厄介で駒になりにくいところがあるが――後天的な『魔法』使いなら、その余地はある」
『城門』の向こう、長崎県出身の人間、魔法使いというのは、いくらぼくの住む佐賀県とはお隣さんとは言っても、先にも言ったようほとんど外国みたいなものだから、文化が違って共通項を探りにくい。りすかにしたって、どうにも根本的にかみ合わない部分があって、それもりすかが『手に余る』原因の一つだ。人の性格を把握するのはぼくの得意分野だが、りすかに関してのみは、ごくたまに外してしまうことがあるのは、そう、認めなければならない。たとえば今回の件で四人の人間が死んだわけだが――その程度の事実、ぼくに言わせれば全然大したことのない話だが、以前似たような事件があった際、りすかは言ったものだった。『死んだ人間には、それぞれ家族があって、友達がいて、恋人がいて、敵対者がいて恩師がいて弟子《でし》がいて――「彼」が死んだというのは、その全てが消失してしまったということなの。それだけ莫大なものを壊してしまった犯人を、わたしは許すことができない』。それだけ聞けば安っぽいヒューマニズムにも思えるのだが――りすかが言った場合ニュアンスがややずれている感があり、それがぼくにとっての引っかかりになっていた。どんな低能にだって基本的に生きる権利があるとはぼくも思うが、それがりすかの意見と一致しているとは思えない。ともあれ、魔法使いの誰もがそんなずれた感性を持っているというのなら、それは明らかな不都合でしかない。……ぼくが『手に余る』と思いながらそれでもりすかと行動を共にしている理由の一つは、りすかについて回っていれば他の魔法使いに出会える可能性がぐんと高まるからだ。実際、狙い通り、この一年少しの間に、何人かりすか以外の魔法使いにも会ったのだが――結果は、いかにも芳《かんば》しくなかった。りすかの魔法よりはまだ建設的な『魔法』を使える魔法使いがいたところで、その魔法使い自体がぼくにとって使える駒でなければ意味がないのだ。道具も人間も、結局自分が使えるかどうかというのが判断基準であるというべきだろう。その意味じゃあ魔法使いは、どんな存在にしたところで多かれ少なかれ、駒にするのは難易度が高いということになる。だが――生来の魔法使いでない『魔法』使い、後天的な魔法使いならば、元々は普通の人間だったわけで、そこにつけ入る余地はある。それは結局比較論の話になってしまうわけだが……。さておき、そして『魔法使い』よりも『魔法』使いの方が都合がいいというのは、りすかにとっても同じである。後天的な魔法使いということは、当然『誰か』、その人物に魔法を教えた者がいるということで――人間に魔法を教えるのは、そりゃあ悪魔と相場が決まっているのだから。
「お待たせ」
一週間ぶりに福岡県、博多市新木砂駅に到着し、一番ホームに移動したところで、ベンチに座って『きちきちきちきち……』とカッターナイフで遊んで暇《ひま》そうにしていたりすかに声をかける。りすかは気だるそうに、前にずり落ちてきていた帽子の位置を直しつつ、「もう、待っちゃったのがわたしだったよ」と、ぼくに文句を言ってきた。もしもりすかの時間移動能力が、自分ではなく周囲に作用するそれだったのなら、その退屈もなかっただろうに。りすかは立ち上がって、脇に置いていた帽子をかぶり直す。
「で、りすか。早速だけど、首尾は?」
「……キズタカが並んでた乗車口って――つまり、線路に飛び込んで命を散らしたのがその四人の『犠牲者』だった場所って……あそこ、だよね」りすかはホームに書かれた白色のラインを指さす。「あの辺の線路部分に、びっしりと、魔法式が描かれてる」
「式? 陣じゃなくて?」
「式」
短く答えるりすか。ぼくはりすかが指さした方向に歩いて行って、覗き込むように線路をチェックするが、無論、ぼくには何も分からない。魔法陣も魔法式も、見破るためには一定の手続きが必要なのだ。その手続きを踏む資格は、しかも、ぼくにはない。
「魔法式ってことは……犯人は、事件当時、この辺にいたってことか。つまり、ぼくは犯人を見ている可能性があるってことだな」
「ん……そうだね」りすかもぼくの後ろにやってきた。一歩歩くごとに、右手首の手錠のリングがぶつかり合って、しゃらんしゃらんしゃらん、と音を立てる。まるで猫の鈴のようだ。「ちょっと見えるようにしてあげるね。キズタカ、ちょっとそこをどくのがキズタカなの」
言ってりすかは、カッターナイフで自分の指先を傷つけ、線路に向かって一滴、その雫をたらした。次の瞬間には手袋の傷だけが残ってりすかの指の傷は治癒されていて――りすか自身の時間をどれくらい『省略した』のだろうか――そして、線路の上にぼわっと、赤く、複雑な紋様のようなものが――薄く、しかしはっきりと、浮かんだ。成程――魔法式。見るのは初めてではないが、本当、見ていると頭がぐちゃぐちゃになってしまいそうなほど、複雑怪奇な絵模様だ。実際、りすかの話では、何の魔法も使えない、耐性も免疫もない人間が、長時間魔法陣や魔法式を見ていると、場合によっては発狂してしまうこともあるそうだ。二秒ほどして、魔法式は線路上から消えた。ぼくはふと、プラットホームを見渡す。日曜の昼間とは言え、地方都市のこと、それほど多くの人間はいない。ぼくとりすかが何をやっているのか、誰も気付いている様子はなかった。ま、傍目《はため》からみればただの小学生二人、注目するには値しないだろう。物事の価値の分からない馬鹿どもめ。愚昧《ぐまい》な人間ばかりだと操るのにも逆に苦労するんだけどな。先が思いやられる。
「酷く、レベルの低い魔法式なの」りすかは言う。「まあ、この程度の魔法に魔法式使ってる時点で、決定したようなものなのは『犯人』が長崎県出身じゃないっていうことなんだけどなんだけどね……」
魔法とは数学のようなものなの、と、付き合い始めて初期の頃、りすかはぼくに説明した。数学のようなもの――つまり、努力すれば誰にでもできる、日常生活の延長上、という意味らしい。時間さえ――『時間』さえかければ、できない落ちこぼれの現れない『技術』。その言に従って言うのならば、魔法式とは文字通りに『式』で、魔法陣とはそれよりクラスの高い『公式』ということになるのだと思う。魔法陣は要するに『罠』――術者本人がそばにいなかったところで、一定の条件がクリアされフラグが立ったならば、その瞬間に『魔法』が発動する。その意味ではやはり文字通り口を開けて待ち構える『陣』だ。振り返って魔法式とは、手続きの省略、カンニングみたいなものである。術をかける対象にその『式』を先に描いておいて、呪文の詠唱時間を省略する、乱暴に説明するならそういうことだ。事前に術の下ごしらえをしておくことによって、本番での手間を省く。奇しくもそれはりすかの魔法である『時間の省略』ということなのだが――さっきのような複雑な紋様を描くまでしなければ詠唱時間の省略さえされないような『呪文』――とかく、魔法の世界は奥が深い。ちなみに、先に言ったよう魔法陣は『罠』、それ自体が『魔法』なので術者本人がどこにいようと『自動的』に発動するし、遠隔操作も可能だが、魔法式はあくまで『式』、遠隔操作が不可能で、その『式』のそばに術者がいなければならない。だから、この事件の『犯人』は――あのとき、このぼくのそばにいた、ということになるのだ。この――ぼくの、そばに。
「……だがりすか。魔法式が線路に描いてあるってのはどういうことなんだ? 人心操作にしろ念動力にしろ、魔法をかける対象は『犠牲者』の四人であるべきじゃあないのかい?」
「つまり、人心操作でもなければ念動力でもないのが、使用された魔法ってことなの」りすかはにやりと笑って言う。「これは、召喚魔法って奴なのね……属性は『風』。呼び出したのは、多分、『真空』なの」
「真空を呼び出した?」
「うん。まあ、レベルの低さはその事実からも導き出せるの……真空なんて、この宇宙のほとんどを占めている、どこにでもあるありふれた『物質』なんだから」りすかは再び、線路に視線を落とした。先ほど、魔法式がちらりと顕現した、あの辺りに。「こともあろうか、その『犯人』……あの辺りに、巨大な『真空』を召喚したの。すると、どうなると思うのがキズタカなの?」
「……ああ」
吸い込まれるようにして線路に落ちて行った四人の『犠牲者』――成程、そういうことか。確かにそういう力技を使えば、人心操作もサイコキネシスも、そんな高度な魔法は必要ない。変則手ではあるが……。召喚魔法(まあ、己に作用しない空間移動能力――ってところか)はクラスの低い魔術だし(りすかの時間移動能力より、五つはランクが下の魔法だ)、りすかの言う通り、真空のような『無』に近い存在の召喚となれば、更に難易度は下がると聞く。そして――そんな難易度の低い『魔法』に、わざわざ魔法式を使用していることからも、『術者』――『犯人』が魔法使いでない、長崎の住人でないことは、明瞭だった。
「当てが外れた? キズタカ」りすかはいたずらっぽく笑って言う。「そんな弱い『魔法』使いじゃあ、キズタカの兵隊として役に立ちそうもないもんね」
「……ふん」いやな笑い方だ。まさかぼくを見透かしたつもりにでもなっているのだろうか? まあいいさ、許してあげよう。「難易の高度低度、レベルの高さ低さってのはあっても、どんな能力だって、強いとか弱いとかじゃ測れないさ――要するに、大事なのはその能力を使いこなせるかどうか、だ。『強い』ってのはね、りすか。自分の才能を使う場所《ステージ》を知っている奴のことだよ。普通人も魔法使いも、それは変わらない。りすかだって――『時間』を操作する、運命干渉系の魔法を、使いこなせているとは言い難い。それほど強大な魔法でありながら、ほとんど意味がないっていうんだからな。使えない才能は、ないのと同じなのさ」
「……ま、そうかもしれないの」あっさりと、認めるりすか。「ああ、それに――キズタカ。前言撤回ってわけでもないけど、この『犯人』――ひょっとしたら、まるっきり弱いってわけでも、ないかもしれないの。真空を操作できるってことは――『式』さえ練られれば、カマイタチを使用できるってことだから」
「カマイタチ……真空刃、ね」
「電車で轢くよりは威力は劣るけど……それでも十分、危険ではあるの。あと、それに、真空の誘電率って問題もあるし、最悪なのはこちらが存在している座標に真空を召喚されることかな。原理的には、裸《はだか》で宇宙に放り出されるのと同じだから。ま、これで『敵』の魔法ははっきりしたわけなのね。属性『風』で、種類は『召喚』。あとは――目的、なんだけど……。手段がはっきりしたところで――つまり『同時性』と『不可能性』は削除されたところで……あとに残るのは『欠く関係性』の問題点。それは、何なのだろうか、分からないのがわたしなの」
「『犯人』が魔法を使えるなら、そんなのは簡単だよ。いつも言ってるだろ? 分不相応な暴力を手に入れた人間がやることと言えば、古今東西いつでもどこでもただ二つ。その暴力によって『上』を打ち崩すか――その暴力によって、『下』を蹴《け》散らすか」
「……そっか。キズタカの同級生たちが、蟻《あり》の巣にお湯流し込むのと、同じなのね」
「そういうことさ。強くなったつもりの馬鹿ってのは、その暴力を試さずにはいられないんだよ。それこそが己の考えが浅いことの証明になるとも知らず」
やれやれ、りすかの言葉で、思わず思い出したくもないクラスメイト達のことを思い出してしまった。あんな普通人《できそこない》ども、日曜くらい、りすかと一緒にいるときくらい、忘れていたいものなのに。ぼくと同じ年齢でありながら、全く考えるということをしない、動物以下の存在。手のかかるという意味では動物以下とも言える。子供の頃から準備をしておかないと、将来いざ比喩ではない戦場にたったときにどういうことになるか、奴らは想像もしないのだ。知識が足りないのは環境の問題もあるから仕方ないにしても、せめて自分の将来の『時間』についてくらい、考えてみたらどうだ。子供だからって甘えていると、その内缶コーヒーみたいなちゃらい大人になってしまうというのに、誰も危機感を抱こうとしない。一人くらい、学年の中に、ぼくが『異質』であることを見抜く奴がいてもよさそうなものじゃないか。そうなったときこそ、ぼくはその『敵』の存在を、両手を広げて歓迎しようというのに。まあいいさ、ぼくはお前らが愚かであることを、今のところは勘弁してやる。精々推理小説でも読んで、頭がいい気になっていろ。
「……じゃあ、たとえ魔法式のことがなかったとしても、間違いないのは、近場に犯人がいたということなのね。暴力を行使したんなら――その現場を見たくてしょうがないだろうから。自分の暴力の成果を、その眼で確認したいだろうから」
「そうだね……ふん。ぼくのそばに、か……」
犠牲者の連中がぼくの直《す》ぐ前にいた以上、やはり、どう考えてもそういうことになるのだろう。考えてみれば、ぼくはあのとき、かなり危ないところだったのだ。もう少しでも、あと一歩でも前にいたとすれば――つまり、四人の内の一人でもが、欠けていれば――ぼくもまた、線路の上の真空に、吸い込まれていただろう。そして命を散らしていたはずだ。危ないところだった。こんなところで、まだ具体的に何をしたわけでもないのに、死んでたまるものか。ん。いや、待てよ……
「りすか。その魔法式は――どれくらい、呪文の詠唱が省略できるレベルの代物なんだ? 魔法発動のための詠唱時間は最終的にどのくらいになる?」
「どのくらいって――人を四人、この距離で飲み込むレベルの真空召喚だとして――まあ、術者のクラスにもよるけど、魔法式がこの程度のクラスなら……概算で、そう――詠唱時間は一秒、前後ってところなの」
「ふむ」
「どうかするのはそれなの? しかし下手糞《へたくそ》な魔法式なの……代数を使えば、もっと単純化できると思うのがこの魔法式なのに。前もそうだったけど――普通の人間に理解できるレベルは、この辺が限度なのかな」りすかはカッターナイフの刃を出す。また、さっきと同じように、手袋ごと、自分の指先を傷つけた。「まあ、二度とやらないのが同じ場所で同じことだろうけど……一応、この魔法式、崩壊させておくの」
「ああ。やっちまえ」
「ほいっと」ひゅん、とりすかはカッターを振るった。ぼくには何が起こった風にも見えないが、りすかは「よし」と頷く。「処置完了。ちょろ過ぎなの」
りすかが今行った行為は、『解呪《キャンセル》』という。魔法陣や魔法式、あるいは魔法そのものを無効果に無効化してしまう魔術の一つだ。そんな難しいものではないが、かといって簡単というわけでもない。りすかだから――りすかだからこそ、呪文か詠唱もなく、実行できる術なのだ。そう――りすかは、ほとんどの場合において、呪文の詠唱を必要としない。なぜならば――その肉体の、ぼくより少し背の高いくらいの肉体の中に詰まっている血液が、そのまま魔法式の役割を果たすから、である。りすかはありとあらゆる魔法式を、体内にあらかじめ『施呪《プログラミング》』されているのだ。それが水倉りすかが、その若さ――というよりは幼さの内に、乙種魔法技能取得者である理由――天才である理由。だからりすかは魔法を使おうと思えば――軽く血を流せば、指先をカッターで切るなどして血を流せば、それで十分なのである。『赤』き――『時』の、魔女。ちなみに、そこまで高度な魔法式をりすかの血液内に織り込んだのは、りすかの父親――現在目下行方不明中の、水倉|神檎《しんご》、その人だ。りすかは――『彼』を、探している。彼を探して、『城門』を越えてやってきた。彼の、手がかりを、どんな細かいことであれ、見逃さないよう、目を皿にしている。たとえば――『人間』に『魔法』を教えることを趣味とする『彼』の手がかりとして――この事件に興味を示した、ように。
「その可能性はどうなんだい? りすか。親父さんの仕業っぽい?」
「ん、さあ。どんな属性のどんな魔法でも、使えるのがお父さんなの。『万能』……お父さんが教えたにしては手際が悪過ぎる気もするけど……でも、手際が悪いのが人間なだけかもしれないし」
「人間に魔法を教えようなんて酔狂な魔法使い、数がいるとは思えないけどね」
「そりゃ、そうなの……じゃあ、追ってみることに決めるのが、この事件にしようかな」りすかはここで、ようやくその提案に本格的な決定を下したようだった。あちこち出回ってもほとんど父親の手がかりなんてない最近、藁《わら》にもすがるような気持ちなのだろう。魔法使いは海を渡れないので、水倉神檎がどこへ行ったのだとしても、生きていれば九州から出てはいないはずなのだが、二年少し探し続けて、りすかはまだその尻尾《しっぽ》すらつかんでいるとは言い難いのだから(まあ、二年の内最初の一年は、りすかのやり方がまずかったとも言えるわけだが)。「じゃ、キズタカ。目撃者はキズタカなんだから、思い出してみて。絶対に怪しい奴を見ているのが、キズタカなはずなんだから」
「そんなこと言われてもね――やれやれ、魔法で犯人が分かったら、こんな事件、一発なのに」
「未来視や過去視は、運命干渉系のかなり上位なの。わたしも、まだ会ったことがないの」
「だったね。えーっと、さっきの話なんだけど……一秒、呪文を詠唱しなくちゃいけないって話だったよね? でも――ぼくのそばに、一秒もの間、そんな呪文らしきものを唱えている奴なんか、いなかったな。そんな奴がいたら、絶対に気付くはずだ」
「そう。キズタカも、呪文を聞いてそれを呪文だと判別するくらいの経験は、もう積んだものね……」
「ちなみにその魔法式、術者はどれくらいそばにいなくちゃならないんだ? 魔法陣ならどれだけ離れていてもいいけど、数少ない例外を除いて、魔法式はそうじゃないんだったろう?」
「五メートル――から十メートルが限度ってとこだと思うの。ま、あんまり近過ぎたら、自分が巻き込まれて電車に轢かれちゃうし……『犯人』としてのスイートスポットは、キズタカがいた場所だと思うけど。真後ろで、四人、が吸い込まれてばらばらになっていくサマ、はっきりと見えたのでしょう?」
「でもぼくは、どんな易しいものであったところで、魔法は使えない」
「じゃあスイートスポットの2として――キズタカの直ぐ後ろ。キズタカの身長なら、大人の人がその後ろに並んで、前が見えないってことはないと思うの」
「ぼくもそう考えた」ぼくは用意していた答えを言う。「でも、さっきも言ったけど、すぐ後ろにいた人間が一秒もの間、呪文を唱えれば、気付くさ。それはぼくじゃなくてもね」
「キズタカじゃないのが目撃者だったとしても気付くかどうかはともかく……キズタカが気付かないってことはないね。注意力の高さこそ、キズタカなんだから」
「と、なると……スイートスポットの3を探すことになるんだけど――どこからなら、四人が吹っ飛ばされてばらはらになるの、見やすいかな。近く――そう、ぼくが並んでいた乗車口の、両隣……いや」ぼくは自分の言葉を否定する。「右側からだと『犠牲者』達は電車の車体の陰になって飛び散るところが見えにくいし――左側からだと、飛び散った部品が、自分のところに飛んでくるかもしれない。それは、危険だよな……あえて可能性がある方を言うならば、左側手になるんだろうか。でも、何て言うか……角度的に、やっぱベストポジションとは言えないよね」
「ん……」りすかは左隣の乗車口に移動する。そして、電車が来る方向を覗き込むようにした。「……やっぱここじゃ危ないの。それに、ちょっと……遠い、かな。ぎりぎり、厳しいと思うの」
3ドアー式や4ドアー式の電車くらいならともかく、2ドアー式の、同じ車両のドアー部分だから、そういう計算になってしまうようだった。五メートル、ということだったか。飛び散った部品が飛んでこないような場所、つまりその乗車口にできる列の後ろの方に並んだら、三角関数の理屈で、更に距離は伸びてしまうわけで……『ぎりぎり』か。
「けど、容疑者はそこに並んでいた人間達以外、消去法的には今のところいないね。どんな人達だったかな――そんな、無駄に混んでいたわけじゃないから、忘れてもいないと思うんだけど……やれやれ、ぼくも不注意だったな。目前の連中が線路に飛び込む事態くらい、想定しておくべきだった。それでなくとも、その事実目撃のあと、現場に残って周囲の連中の騒ぎを、しっかり観察しておくべきだったか……」
「それをしたら、一番疑われるのがキズタカだから、逃げたんでしょう。今頃警察はキズタカのことを捜してたりしてね」
「捜したきゃ好きなだけ捜しゃいいさ。逃げたって言い方は気に食わないけど……ま、そうなんだよね……あ」ぼくは手を打つ。「りすか、他の選択肢もあったよ。何かって? 発想の転換さ……四人の内の誰かが、魔法を使える人間だった――と、いうのはどうだい? 直ぐ前の二人くらいならともかく、一番前に並んでいた人間が一秒くらい呪文を唱えても、ぼくには分からない」
「ん……つまり、自殺ってことなの? 非常に回りくどい、四人の心中って……」
「心中である必要はないけど。四人の内一人だけが自殺で、他の三人は巻き添えを食っただけということも考えられる。無論、四人の心中でもいいけど……関係性のなさから考えると、巻き添えって線の方が高いね」
だとすればぼくはこの『犯人』に対する見方を変えなければならないだろう。暴力を得たことによる古今東西の選択肢、その二つを、どちらも選ばなかったということになるのだから。ま、既に死んでしまっているというのならば――りすかにとってもぼくにとってもその『犯人』は役立たずということになるが、役立たずなもの全てに価値を見出さないほど、ぼくもりすかも、粋《いき》でない存在ではない。ただ線路に飛び込むのではなく、魔法を使って死にかかるなんて、見事なものではないか。巻き添えがでたのは美しくないが、そんなものは瑣末《さまつ》な問題だ。しかしりすかは「それはないね」と、ぼくの意見をあっさりと否定した。
「なかったのは言ったことだったっけ? 魔法で自殺はできないの」
「……自殺、できない?」『魔法』に実際に接するようになって一年少しになるが、それは、初耳だった。「どういうことだよ。簡単だろ? 前にいたじゃないか。自分で作った魔法陣に、自ら嵌って昇天した魔法使いが」
「あれは事故、つまりは過失、自殺じゃないの。ん……魔法ってフィジカルじゃなくてメンタルなものだっていうのは分かるよね? よかれ悪かれ、とにかく精神を集中しなくちゃいけないの。その意味では逆に動物的行為とも言える――本能的っていうのかな。元々なんであれ、『弱い』から『強く』あろうとする手段が、『能力』なんでしょう? 魔法もまたしかり。生物には防衛機能っていうのがあるからね。手首を――」カッターナイフを示すりすか。「手首を切るなら無心になればそれでいいが、魔法は無心じゃ唱えられない。何も考えずにできないのが、微分積分でしょう? 同じことなの。魔法式を使っても魔法陣を使っても、それは同じことなのね」
「ふうん――知らなかったけど、なるほど、考えてみりゃ当然のことだ。これはぼくが迂闊《うかつ》だった、悪かったね、くだらないこと説明させちゃって」
「『魔法の王国』でさえ、自殺できた魔法使いなんて、歴史上一人しかいないの」
「一人いるのか? 誰?」
「わたしの、お父さん」りすかは言いにくそうに、一種恥ずかしそうに、言うのだった。「お父さん、甦生と蘇生の魔法も使えるから」
「……いつもながら、ぶっとんでる親父さんだね」
水倉神檎。その評判……伝説を聞く限りにおいて、是非ともぼくの駒の一つに欲しいところだが、やはり、『手に余る』だろうか……何せ、このりすかを『作った』、親父さんだからな。あまり能力のあり過ぎる駒は、りすか同様、多分それ以上に、使いにくいから……まあ、会えて損をするというような種類の人物でもなさそうだから、父親が見つかるまでは、最低限、りすかとは付き合いを持っていていいかもしれない。その間に、他にぼくにとって有益な魔法使いも見つかるかもしれないし。正直な話、ぼくはりすかに出会う以前、魔法使いというのは『より優れた人間』なのだろうと思っていた。これは馬鹿な大人どもが西洋人のやることは全部正しいと思っているのと同じ理屈だろう。だからこそりすかに出会ったとき、あそこまで感動したのだが――魔法使い全体の大したことのなさを知っていれば、あのときももう少し冷静でいられたことだろうと思う。りすかを含めて、今まで会った魔法使いそれに、魔法使いから薫陶《くんとう》を受けた人間、『魔法』使い――誰も、誰一人として、自分の魔法、自分の能力を使いこなせていない。ぼくから見れば、何故彼らが勿体《もったい》ないと思わないのか本当に不思議だった。どうしてそんな無駄使いをするのか理解できない。本当、世の中の連中ってのはどうしようもない無能ばかりなのだろうか。駒としても使えない生まれついての引き立て役が多過ぎる……『手に余る』とは言え、その意味では、りすかはまだマシな部類に入るのかもしれない。
「……あ」りすかが、不意に、声をあげた。「他にもスイートスポットがあったの、キズタカ」
「うん? どこだ?」
「あっち側」
りすかが指さしたのは、向かいの二番ホームだった。博多駅発の電車が来る、さっきぼくが降りたホームだ。指差すのに使ったのが右手だったので、それに合わせて手首の手錠がしゃらん、と鳴る。
「……ああ」見れば、丁度、魔法式が描かれていたその正面が、あちらでも乗車口になっている。なるほど、あそこに立って、待っていれば……正にスイートスポットではないだろうか。距離的にもいいし、真空が召喚されたとしても、あれくらい離れていれば、自分が吸い込まれることもない(第一のスイートスポットと考えられたぼくの位置では、やはり危険がある)。「いいね、あそこ。あそここそ、ベストポジションだ」
「行ってみるの」
「うん」
新木砂駅には一番ホームと二番ホームの二つしかない。階下のその二つのホームが階上で連結されている形だ。ぼくらは階段を昇り降りし、一番ホームから二番ホームに移動した。一番にしろ二番にしろ、やはり人がまばらなのは同じだった。ぼくらとしては好都合だが――いかにりすか本人が『隠すつもりはない』とは言っても、いきなり時間を『省略』して、消えたり現れたりするところを目撃されれば、好ましくない騒ぎが起こってしまう可能性もある。ぼくがチェンバリンから『よろしくお願い』されているのは、その点なのだ。馬鹿な普通人《できそこない》どもの中には、自分と違うというだけで、魔法使いを『半魔族』と呼んで忌避《きひ》する奴もいるのだ。いわゆる魔女狩り思想だが、愚かしいことこの上ないとしか、ぼくには言えない。いかに国家が法律によって魔法の存在を否定しようと、『城門』で彼方と此方に隔てられていようと、そこにあるものはそこにあるのだ。そりゃまあ、『魔法の王国』側の排他的、あるいは『城門』こちら側の人間を無能者と見下している風潮がある性格に起因している魔女狩り思想であるとも言えるのだが、いい大人がそんな子供の喧嘩《けんか》みたいなことをやってどうしようというのだ。折角の有益なエネルギーを利用しなくてどうしようというのだ、現実を把握《はあく》しようともしない臆病者どもめ。どうせ、議論して相手を見下せば賢く見えるとでも思っているのだろう。議論にもならない言い捨て以外にやり方も知らない癖に、全く、お前ら如きにはヘボ将棋すらさせまい。まあ、頑張って回り将棋でもやっていればいいさ。ぼくは軍人将棋をやらせてもらう。
「ここなの」二番ホームに到着して、りすかは先ほど指定した『スイートスポット』に、自ら立った。「うん――ここからなら、よく見える。そうだね、間違いないの、キズタカ。『犯人』は、この乗車口で、一番前に並んでいた人間なの。多分警察とかの人達が調べてるのは一番ホームの人間だけだから、ノーチェックなのがこっち側なのよね。キズタカ……憶えてないかな? ここに立っていたのが、誰か不審な人間じゃなかった?」
「……と、言われてもね。四人が飛び込む寸前まで、ぼくの前にはその四人が壁になって前は見えなかったわけだし――その四人が飛び込んだ後には、問題の電車の車体があの辺りまで入ってきていて、ぼくにはこっち側の二番ホームまでは、見えなかったわけだし。ここにいた誰かが見えたとしても、それは一瞬のことだよ。さすがのぼくでも、こればっかしはね」
「ん……じゃあ、手詰まりなの」
「いや、そうでもないよ。人間には習慣性ってものがあるからね――蛇の道っていうのかな。『犯人』は、だとしたら、この新木砂駅のこの二番ホームを、普段利用している人間だということが考えられる――人間、物事を試すのには、自分のテリトリー内を選びがちだからね。ひょっとするといつもこの場所に並んでいるかもしれない。安心感があるってことだろうけど――そんな大きな町でもないし、しらみつぶしにあたっていけば、こんなところでこんなことをしでかすような無防備な奴だ、見つからないってことはないよ」
「あー……面倒なの」りすかは後ろに下がっていってベンチに腰掛け、りすかの部屋でぼくが手渡した、地図と時刻表のコピーに目を落とした。きっと、新聞のスクラップも持ってくるべきだったと思っていることだろう。「また、魔法陣構えて、待つのを気長にするしかないのかな……」
「だろうね」
「わたし、魔法陣描くの苦手なの……わたしの場合自分の血を使わなくちゃならないから、あんまり大きな規模になると、貧血になっちゃうの。細かい字とか書くの嫌いだし」
あんな複雑怪奇な魔道書の写しを趣味としている奴が何を言うかと思ったが、その辺の機微は魔法の使えないぼくには測るべくもない。が、それしか手段がないからには、手段が愉悦を備えてなかろうが愉悦が手段を備えてなかろうが、それを実行するしかないだろう。いくら人が少ないとは言え、今やると目立つので、別の時間――『時間』を選択しなくてはならないか……まあ、ここまで来たのは無駄足ではなかったということか。それだけでも救いといえば救いだ。偏在自在のりすかと違って、子供料金で半額とは言え、県を跨《また》ぐと結構ばかにならない。ぼくは、りすかにとっては何の意味にもならない、己の左腕の腕時計を見た。正午、ちょっと過ぎ。そうだな、いい頃合だし、どこかで何か、腹に入れておくことにするか……りすかは財布を持ち歩かないので、ぼくが奢《おご》らなければならないのだが、その辺はまあ、必要経費と言う奴だ。出世払いで返してもらえればそれでいいさ。
「なあ、りすか。ちょっと息抜きに外に出ないか?」
「……………………」
返事はなかった。りすかはベンチに腰掛け、既にコピーをしまっていて、ぼおっと、天井の方を見上げていた。恐らくは無意識にだろう、カッターナイフを『きちきちきちきち……』『きちきちきちきち……』と、出し入れしている。きちきちきちきち――きちきちきちきち――きちきちきちきち――きちきちきちきちきちきちきちきち――
「おい、りすか?」ぼくは無駄と思いつつも、声をかける。魔道書の写しをやっていたときもそうだったが、何かに集中しているりすかに、外からの声はとどかない。究極的に自分の内だけで閉じているのは、りすかの魔法だけではないということだ。「おい、りすかってば」
「キズタカ」やがて、りすかはぼくを見た。またずり落ちてきていた、三角帽子の位置を修正しながら。「ひょっとしたら、犯人、分かったかもしんないの」
「え?」
「ん……これなら、多分、間違いない――と、思うの。いや、どうなのかな――一秒くらいなら、可能かな……でも、もうそれしかないのが、方法だし。だとすれば――これは、今まで考えていたような事件とは、別なのかもしれないの。ねえ、キズタカ」
「なんだい?」
「その――四人が轢かれた電車を動かしていた運転士から、話を聞くことは可能なのかな? もし可能なのがそれだったら……この事件は、解決すると思うの」
「運転士……か。確か、業務上過失致死で送検されてるはずだぜ。まあ、ことがことだし、拘置されてるってことはないと思うけど……その辺は、ぼくの父親に聞いてみないとなんとも言えないかな。あの人にしたって、ここは福岡県だから、管轄は違うわけだし」ちなみにぼくの父親は佐賀県警の幹部だ。滅多《めった》に顔を合わせることはないが、こういうときに利用するには有益な人材である。ぼくにとって厄介な人間ではあるが、まあ、少なくとも無能ではない。「でも、その運転士が、何かを知ってるって言うんだね?」
「うん。そういうことなの」
「そっか――じゃあ、聞いてみる。テレカ、貸して。電話かけてくる」
ぼくはりすかからテレホンカードを受け取って、プラットホーム内に公衆電話を探す。見つけた。背伸びをして受話器をとって、カードを入れる。父親の携帯電話の番号をプッシュしようとするが、ボタンの位置が高いので、「2」を押すはずが間違って「5」を押してしまった。一旦受話器を置いて、かけ直す。全くこの公衆電話というものは、一体何を考えて設置されているのだか。どうしてこんな高い位置に設置する。今回はテレホンカードだからまだいいが、硬貨で電話をしようとすれば、ぼくの身長では何か踏み台を用意しないと硬貨の投入が不可能だ。大人は携帯電話を持っているんだから、せめて公衆電話においては、もっと子供のことを考えて欲しい。人の上に立つ者が雑魚《ざこ》だと、あちこちでこういう事態が生じる。ったく、何の能もない奴は大人しく、精々使われていればいいんだ。一生こなしてろ。ぼくは二度目、今度こそちゃんと狙い通りの番号をプッシュして、父親の携帯電話に連絡を取った。適当に社交辞令の挨拶をしてから、くだんの運転士について質問してみる。書類送検されたところまではぼくの知っている通りだったが、事故による心神喪失で、博多市内の警察病院に収容されているそうだ。四人の人間を殺してしまったんだ、スケールの小さな人間ならば無理もない。運転士の名は高峰幸太郎《たかみねこうたろう》、四十七歳、独身、家族なし。鉄道会社には既に辞表を提出しているそうだ。辞表――鉄道の場合は自動車などの場合とは違い運転士に責任はないので、業務上過失致死とは言ってもクビにはならないはずなのだが、ことがことだけに、仕方ないのだろうが。ぼくはその他、一通り情報を引き出してから、父親に、その運転士と面会が可能かどうか訊いてみる。あの事件に関しては福岡県警でも大体の事情聴取は終わっているので、子供達だけでは無理だろうが、自分が同行すれば、それは不可能ではないだろうということ。りすかの存在を父親は知っているので、その辺の話は通し易かった(勿論、りすかが魔女であることは秘密だが)。ぼくの父親はりすかに甘いのだ。他人事ながら、子供に甘い大人というのはどうも好きになれない。まあ、他人の価値観に口を出すつもりはないが……。色々と仕事もあるし、警察の人間が県外に出るのには手続きが必要(らしい)ので、来週の日曜日になら、ということだったので、ぼくはそれを承諾《しょうだく》し、細かい時間と場所などを打ち合わせ、別れの言葉を告げて、電話を切って、りすかの元へと戻った。
「悪い。長電話になった。あの人、話が長いんだよな……残り度数が七になっちゃった」
「構わないの。それより、首尾は?」
「万全。時間は来週の日曜日、午前十一時に博多市内の警察病院――前で、ぼくの父親と待ち合わせ」
「病院?」
「ショックで入院してんだとさ。所定の手続きを踏んで、病室に入れるのは――十一時半か、十二時ってとこだろうね」
「いい感じなの」りすかは微笑んで立ち上がる。「その男のいる場所に会いにいけるという事実さえあれば――それが来週だろうとなんだろうと、わたしにはその過程を『省略』できる」
「病院の位置……つうか、座標はわかるのか? 地図はいらない?」
「博多の警察病院なら、以前に見舞ったことがあるから大丈夫なの……病室は何号室なの?」
「六〇三号室。事情が事情だから、個室なんだってさ」
「好都合……誤魔化しがききやすそうなの。キズタカ、今度こそは一緒に『飛んで』もらうよ? さすがに一週間も待てるわたしじゃあないの」
「いいよ……正直言って寿命を一週間も縮められるのはぞっとしないけど、りすかが運転士に何を訊くのか興味もあることだしね」
言って、ぼくは左手を、りすかに向けて差し出した。とりあえず、儀式的な防備として、ぼくは周囲を確認した。やはり、誰もぼくらのことなど注目してはいない。一生かけて地を這うような駄虫どものことだから、こんなこと本当は確認するまでもないのだが……無知蒙昧《むちもうまい》も、あまり度が過ぎると犯罪だな。はん、モーツァルトがいい奴でサリエリはいつも悪党かい? いいさ、二十年後には、ぼくがきみたちに豊かな生活というものを与えてあげよう。それまできみたちが生きていられたらの話だが。……さておき、りすかの『魔法』は自分自身の内面にしか作用しない。『時間移動』に持っていけるものは無機物ばかりで、有機物となれば厳しいが――しかし、方法がまったく皆無、というわけではない。要するにりすかの魔力の源である『血液』に、対象を『同着』させ、さらに『固定』すればよいのである。具体的には――
「……痛《つ》ぅ」
りすかが、まずはぼくの掌《てのひら》をカッターで切りつけた。続けて、同様に、自身の右掌に、同じ傷をつける。手袋はもう傷だらけだ。それから、ぼくとりすかは、互いの傷同士をパズルのピースを合わせるように『同着』させて――指を組み合わせる。そしてりすかは左手で、右手首の手錠のリング、その片方を外し、そのリングをぼくの左手にかしゃん、と嵌める。その、無骨な手錠によって――ぼくの左手とりすかの右手が、決して、何があっても離れないように、『固定』した。最後に、りすかはぼくの腰に反対側の左腕を回し、ぼくも同じようにして、二人、抱き合うような姿勢をとる。それだけとればクラスの女子達とも大して変わらない、簡単に折れそうな細い腰。肉なんて全然ついてない癖に、妙に骨ばってなく柔らかい。背中に回されたりすかの左腕がどことなく居心地が悪かった。
「えぐなむ・えぐなむ・かーとるく か・いかいさ・むら・とるまるひ――」りすかが呪文の詠唱を始めた。さすがに一週間もの時間を飛ばすとなれば、いかにりすかと言えど、完全に詠唱なしとはいかないのだった。父親に懇願《こんがん》する振りでもして、あと一日でも早めにしてもらっておくべきだったか、と少し反省した。駒の力を無駄に消費させることは、ぼくにとって恥ずべきことだ。
「えぐなむ・えぐなむ・かーとるく か・いかいさ・むら・とるまるく――」
そして――
★ ★
実行する行為が『時間移動』である以上、相対的にも絶対的にも『移動に時間がかかる』ということはありえない。省略される時間には時の経過などあるわけもない。ただし相対的にはぼくとりすかは一週間の時間を一瞬に『体験』――りすかの言葉を借りれば『無体験』――することになるのだから、その加速に肉体と脳がついていけるかどうかが、課題なのだった。強《し》いて言うなら、それはりすかと――正確にはりすかの『血液』との相性の問題だ。『同着』し『固定』し、それでも尚、失敗するケースもある。失敗した場合どうなるかは――まあ、いいにしておこう。幸い、ぼくの名前である供犠創貴、それに生年月日はりすかの『血液』とワンミス・マッチという結果で――このように、時間移動に同行することができるわけだ。肉体的にはともかく、こう、世界がぐにゃああぁあっと歪んでいく感じは、精神にとって露骨にきついものがあるのだが。意味がないと分かっていても、つい目を閉じてしまう。我ながら情けない。そして、そして――
「う、うわぁ?」
|素っ頓狂《すっとんきょう》な悲鳴が聞こえて――目を開ければ、そこは、白く四角く区切られた――病室内の、ようだった。どうやら『時間移動』――そして二次的な『空間移動』には、成功した模様だ。無論、進んだのはぼくとりすかにとっての相対的時間であって、絶対的には、今は、ぼくらは新木砂駅の二番ホームにいた一瞬後――文字通りの一瞬後に過ぎないのだが。見れば、ベッドの上に、一人の貧相な男が、上半身を起こして、びっくり仰天したように、ぼくとりすかを凝視《ぎょうし》していた。そりゃそうだ、彼からすれば『いきなり』、目の前の座標に人間が登場したようなもの、そのものなのだから。回診の時間でなかったのは幸いだった――医者や看護婦に見つかれば、誤魔化すのに労を要するからな。面会客も、いないようだ。とすると間違いなく――この貧相な、白髪《しらが》混じりの中年の男が、くだんの運転士――高峰幸太郎か。そういえば、顔を見て想い出した――あの事故の際の、スローモーションの映像の中、唖然とした運転士の表情――
「な、なんだ? きみたちは。どこから入って来た? ど、どうやって――どうして、子供が――」動転を隠そうともしない高峰運転士――いや、辞表を出しているから『元』運転士、か。「い、いや、そんなことよりも――」
「落ち着いて下さい。大人でしょう、取り乱さずに」ぼくは高峰をなだめにかかる。こういうときの手はずも、一年前ならまだしも、今のぼくには手馴れたものだった。常識に凝り固まった大人ほど、分かり易い答を与えてやれば、それだけのことで誤魔化されやすい存在はいない。「どっしり構えていてくださいよ。ぼくらはですね、そう、あなたに――」
「あなたにひとつだけ、聞きたいことがあります」
ぼくの台詞を遮《さえぎ》るように、りすかが言った。いつもはぼくの『誤魔化し』が終わるまで喋ろうともしないりすかにしては、それは珍しいことだった。高峰の返事を待たず、りすかは次の言葉を続けた。
「あなたに魔法を教えたのは誰ですか?」
「………………」
「………………」
――と。高峰の表情から――動揺や怯《おび》えが、ふっと、消去されたかのように、なくなっていく。「……ふふふ」と、俯《うつむ》いて、不気味な風に笑って、やがて、顔をあげ、ぼくとりすかを、見据《みす》えるようにした。
「……成程。あんたが――『赤き時の魔女』、か」
「…………」
りすかは高峰を向いたままだ。否定しないのは、もうそれは肯定のようなものだった。
「この俺を――裁きにきたと、そういうわけか?」
「……まあ――そんなところ、なの」
りすかは不敵に、そう応じた。そんな中、ぼくは急速に理解する。そうか――そうだ。仕掛けられていたのが魔法式だったから、『犯人』はすぐそばにいなければならないと思い込んでいたが――常時現場のそばにいなければならないと、思い込んでしまっていたが――根底、その、電車の運転士だったならば――『事実』が生じるそのとき正に、『その場』に現れることができるじゃないか。正に――測ったようなタイミングで、ぴったりと。一秒――微妙な数字ではあるが、電車の速度もそのときには落ちているだろうし――早口で呪文を唱えれば、通過するその寸前に、『真空』の召喚は、可能だ。
「理解できたみたいね、キズタカ」りすかはぼくに言う。「そう――ベストポジションはキズタカのいた位置でも二番ホームの正面でもないの。一番の真のスイートスポット、もっとも『よく』四人が飛び散るさまを目撃できるのは、そう、『電車の運転席』――そこからならまず問違いなく、一部始終を目撃できる」
「だ――だけど」ぼくは高峰を窺《うかが》いながら、りすかに言う。「目的は――なんなんだ? 折角《せっかく》魔法を使っているというのに――結果として業務上過失致死の罪に問われ、職を失い、社会的責任を取らされているじゃないか。今だって、こんなところに入院して――」
「社会的責任?」
高峰が、口を開いた。
「それがどうしたというんだ、一体。俺はな――小僧。一度でいいから、電車で人を轢いてみたかったんだよ」
分不相応な暴力を手に入れた人間がやることと言えば、古今東西いつでもどこでもただ二つ。その暴力によって『上』を打ち崩すか――その暴力によって、『下』を蹴散らすか。『蹴散らす』というその予想自体は的中してはいたが――高峰幸太郎。この男の有した『暴力』は『魔法』ではなく『電車そのもの』だった、ということか。人と衝突したときのことを全く考慮されていない鉄の塊。ぶつかれば紙クズのように人を五体ばらばらにふっ飛ばしてしまう未曾有《みぞう》の暴力、暴力の象徴。その『暴力』を行使する『手段』として――あくまでもただの手段として魔法を使用した、ということなのか。頭の中ではそのように理解が進んでいくが、だが、『そんな馬鹿な』という思いをぬぐいきれない。電車で人を轢いてみたい――その気持ちが理解できないのではない。それは、スポーツカーにのって時速二百キロを出してみたいというような種類の感情の延長線上にある、理解可能な感情だ。むしろ、『魔法を使って人を殺してみたい』『魔法を使って人を線路に落としてみたい』なんて幼稚《ようち》な感情よりはずっと高度で、しかも、分かり易い。分かり易いから――分かり易い。そうか――ものが決められたレールの上を走る物体である限り、いくら本人が『電車で人を轢いてみたい』と願っても、魔法を使いでもしなければ、自分の運転する車体に、都合よく人間を飛び込ませることなど、できるわけがない。犠牲者のあの四人に、やはりリンクは欠けていたわけだ。なるほど――分かり易い。その部分を取り上げて否定するつもりはない。あの唖然とした表情が、望みを達成できたがゆえの放心だったとしても――その放心がゆえに、こんな病院に収容されることになったのだとしてもぼくはその回答を、『分かり易い』と納得しよう。だが――だが、そのために、高峰は他の全てを失ってしまっている――職も、人生も。それじゃあやっぱりほとんど――『自殺』のような、ものではないか。先に続いていない。そこまでして『蹴散らして』――どうしようというんだ。それとも、鉄道会社に辞表を出したのは、目的を果たしたからだと、そういうのか? 今まで何十年も運転士を続けていたのは、『電車で人を轢きたい』という欲求、それだけのためだったとでもそういうつもりなのか? だがぼくのそんな疑問など、高峰は気付きもしないように「あんたの噂《うわさ》は聞いているよ――『赤き時の魔女』」と、りすかに、再度、向かうのだった。
「県外《ソト》で魔法を使う者を片っ端から『裁いて』いる――『魔法狩り』のりすか、だろう?」
「魔法使いは『法』では裁けない――だから『魔法』で裁くの。そういうもんでしょう?」りすかはじりっと、一歩前に寄って、言う。「それより興味あるのがわたしなのは――『それ』、誰から聞いたの?」
「さあ――………………ねえ!」
高峰は咆哮《ほうこう》のようにそう怒鳴ると、両手を天井に向けて掲げた。その刹那、病室内に異変が起こる。ぼわっ……っと、その白き壁が――床が――そして天井が――窓に至るまで、四方八方埋め尽くさんはかりに――そこに『魔法式』が、浮いたのだ。りすかが顕《あらわ》したものではないので赤くはない、むしろ無色透明の、空気のような風のような、立体的構造。ぼくは高峰を見る。高峰はいっそ狂的な笑みを浮かべていた。今まで何度も見た――狂った笑み。ぼくはこのとき、遅まきながら確信した。この男が――『犯人』、魔法の行使者である、と。魔術を悪用するものは――例外なく、この手の笑みを浮かべるものなのだ。
「魔法……『式』!」りすかが己の迂闊さを悔いるような、しまったというような声で叫ぶ。さすがに動揺した風で、大人しぶっていな言葉遣いが崩れる。「待ち構えていたのか! そのためにこの病室で、貴様! 駄人間風情がわたしを嵌めようというのか! 思い上がりにもほどがある!」
「確かに俺はしょぼい駄人間だが――一週間もあればこれくらいの仕事はできるさ! 喰らうがいい、『赤き時の魔女』!」高峰は天井に向けていた両の手を、りすかに向けて焦点を合わせた。「まぎなぐ・まぎなく・えくらとん こむたん・こむたん――」
「はんっ! 遅い、鈍間《ノロマ》が!」
呪文の詠唱を始めたのを見て、りすかがカッターナイフを取り出し、一瞬で刃をむき出しに、高峰に向かって飛びかかった。そう――それが魔法使いの、ありとあらゆる魔法使いに共通する、最大にして最高のどうしようもない弱点。呪文の詠唱中は――どうしても無防備になってしまう、ということ。神や悪魔そのものでもない限り、呪文の詠唱の義務からだけは、逃れられない。同じ魔法を使う場合、高レベルの魔法使いは低レベルの魔法使いよりも詠唱時間が多少は短くはなるものの、それでも限りなくゼロに近付いたところで、決してその数字はゼロにはならない、間隙ができる。だから魔法を本当に安全に行使しようと思えば、チームを組むか、魔法陣を使うか――りすかのように、体内にほとんど無欠の魔法式を組み込むか、しかない。この決して狭くない病室内にくまなく魔法式を描き込んだところで――それでも、まだ詠唱すべき呪文の手続きは残されているのだ。『真空召喚』、停止している線路上の空間ではなく、縦横無尽《じゅうおうむじん》に動くりすかを相手に座標を定めながらというのだから、その手間を含めて恐らく数秒ほど――そしてそれだけあれば、カッターナイフで高峰の喉元を切り裂くのには十分過ぎる――
「……あれ?」
かくん、とりすかが、前に向かってつんのめった。勢い余って、くるりと、その場で回転してしまう形になる。
「……て、あの、ちょっと――」
「あ」
助けを求めるようなりすかの目に、さすがにぼくも気付く。ぼくとりすかは、強固な手錠によって『固定』されていた。りすかがどれだけ素早く動こうとしたところで、もう一人のぼくがこうして停止している以上、互いの腕の長さ以上に移動できるはずもなく――あっ……ていうか、こんな、こんなくだらないことで……
「……まぎなぎむ――てーえむ!」
詠唱が、終了した。
「えっと、ごめん――」
謝るぼくの声が届いたかどうかは分からない。りすかは高峰の呪文詠唱と同時に、四方八方、天井から床から、壁から窓から、四方八方から生じた真空刃《かまいたち》によって――切り刻まれた。切り刻まれた、切り刻まれた、切り刻まれた。腕が飛ぶ、飛んだ腕が二つに分かれる、分かれた二つが砕かれる。脚が飛ぶ、飛んだ脚が二つに分かれる、分かれた二つが砕かれる。頭が飛ぶ、飛んた頭が二つに分かれる、分かれた二つが砕かれる。まるでミキサーにでもかけられたかのごとく、ぼくの目の前で、水倉りすかはすり漬されていくかのように、一瞬で、その原形を失った。原形――そう、正に原形を失う。影も形もなくなったとでも、いうほかないだろう。唯一、サイズがあってなかったゆえに最初の衝撃で脱げてしまい、難を逃れたのだろう、飛ばされた三角帽子だけが――今、床に落ちる。ぶらん、と、手錠がぼくの左腕に垂れ下がった。相手側の『固定』先がなくなったのだから、当然だ。さすがチェンバリンの労作というべきか、あれだけの真空刃の嵐にあいながらも傷一つついていない。だがそれでも、どんな丈夫な手錠でも『固定』できないということはある――もうりすかには腕もなにもないのだから。りすかはただの赤き血液となって――部屋中に、飛び散らされた。天井が、床が、壁が窓が、ベッドが、高峰幸太郎の身体が、そしてぼく、供犠創貴が――真っ赤な鮮血に、染まる。正に、辺り構わず吹き飛んだという形。全てが赤く、赤く、赤く、赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く――――――――――――――
「ひ、ひひゃ、ひゃははははは!」高峰は――狂ったように、笑った。狂的な、狂想の笑み。「な、なんだ――ちょろいぜ、あれが『赤き時の魔女』だって! 一瞬じゃないか――まるで相手じゃない! この俺の方がずっと圧倒的だ! あの四人をぶっ飛ばしたときもばっちりサワヤカ気持ちよかったが――成程これも悪くない! 一週間苦労した甲斐《かい》があったというものだ! 努力して魔法を手に入れた甲斐があったというものだ! 努力が報われるって、なんて素晴らしいのだろう!」
「……………………」
「は、ははははははは――こうなれば、わざわざ人生を捨てるまでもない――もっと楽しくなる! こうなれば、こうなれば今すぐにでもこんな病院退院して、この魔法を使って、俺は、俺は、俺は――」
「……………………」
やれやれいつまで待っても、『俺は』に続きがない。ま、そんなもんだろう。電車で人を轢くくらいのことが、人生最大の目的だった男の言うことだ。その目的は普通に較べて確かに高度だが、驚かされ、意表をつかれこそしたものの――ぼくを当惑させるという偉業を達成するには十分だったものの、どう考えてもやはり、人生と引き換えにすべきほどのものではない。その行為は、全く『未来』に繋がっていないからだ。全く、やれやれ、である。ぱん、とぼくは手を打った。高峰の哄笑を遮るように。実際、その音で、高峰は――多分すっかりその存在を忘れていたのだろう、ぼくの方を見た。ぼくは続けて、ぱん、ぱん、ぱん、と、手を打ち続けた。それは、まあ一応、称賛の拍手のつもりだった。
「……何の真似だ? どういう意味がある?」
「いや、あんたを称えているんだよ――高峰」ぼくはなるだけの敬意を――この程度の人間につりあうだけの敬意を込めて、そう言った。「無論今のは、先に手錠を解いておかなかったりすかの間抜けだけど、そんなことは関係ない。あんたがりすか、『赤き時の魔女』を吹っ飛ばせたという事実が、肝要なんだ」
「…………なんだ? お前は」不審そうに――高峰は、探るように、ぼくに質問する。「お前も、やはり、魔法使いなのか?」
「ぼくはただの駄人間《できそこない》さ。どんな易しい魔法だって使えない――同じ駄人間でも、あんたのような『魔法』使いとも違う。属性《パターン》は『風』、種類《カテゴリ》は『召喚』――魔法式に頼っているとはいえ、大したもんだね。実際、誰から教わったんだい?」
「――答える必要はない」
「なあ高峰。あんた、ぼくの奴隷《どれい》にならないか?」ぼくは言った。出来る限り、精一杯の誠意を込めて。「あんたの魔法、今の今までぼくは何だかんだ言いつつ軽く見ていたんだけど……それは過小評価だった。大したもんだよ。だが惜しむらくは、それでも暴力と言えるほどの質量を有していないことだな」
「…………?」
「ぼくが求めているのは核爆弾に匹敵するクラスの暴力なんだ。人を四人殺せる電車の暴力とも、少女一人をなます切りにできる風の暴力とも違う――最低でも一度に数百万と殺せるレベルでないと、戦力としては数えられないからね。ほんっとう、『魔法』ってのも、実際大したことないよね――スプーンでも曲げてろってんだよ……」肌にりすかの血を感じながら、赤い視界の中、ぼくは言う。「……でも、『塵《ちり》も積もれば山となる』。あんたのその魔法、ぼくが使ってやるよ。高峰幸太郎、あんたはぼくの駒になれ。あんたの人生に目的を与えてやろう――人を電車で轢くとか、そんなチンケな目的じゃない、人生と引き換えにするだけの価値がある、潤いのある豊かな目的というものをね」
「な、な、な……」
「どうやら高峰、あんたは目的のために手段を選ばない、自分の人生すらもなげうって構わないと思っているようでもあるし――あんたにはぼくの手下になる素養がある。あんたのその『能力』はこんなよくわからないところで消費させるべきものじゃない――勿体ないにもほどがある。あんたは力を持ってはいるが、使い方を全然分かっていない――だから、だからこそ、あんたをぼくの奴隷に選んでやる。あんたはぼくのために消費されろ。ぼくに、従え」
「ふ、ふ、ふ、ふざけるなああああああああああ!」
高峰は――怒鳴った。
「き、貴様、貴様、こともあろうか、恐るべきことに、『魔法使い』を『使おう』などというのか!」
「その通り。ぼくこそが、『魔法使い』使いだ」ぼくは一歩下がって、腕を組んで壁にもたれた。これから起こる現象を考慮すれば――これくらいの位置にいないと、危険だ。「りすかに会って、そうなると決めた。魔法使いなんて言っても、奴ら全然魔法を使いこなせていやがらない――まるで、駄人間と同じだ。両者仲良し、駄人間《できそこない》と半魔族《できそこない》。だったら仕方ない、ぼくが使ってやるしかないだろう。ぼくが使ってやらなきゃ誰が使ってやるって言うんだい?」
「こ、子供の――人間の考えることではない!」
「それがどうした、ぼくは子供で人間だ! さあ高峰。もう一度訊くぞ、これが最後だ、高峰幸太郎。ぼくに幸せにしてもらえ」
「――全身全霊お断りだ! 貴様も確実に切り刻まれろ、身のほど知らずの小僧が! まぎなぐ――まぎ……」
そこで――そこで、さすがに、高峰も異変に気付いたようだった。天井から、壁から、窓から――床に、ぽたぽたと、垂れてくる、りすかの赤い血液。その量が――一人の小柄な少女のものとするのには、あまりにも多過ぎるということに。床に落ちていた血液は――その赤き血は、もう、ぼくのくるぶしのあたりまでを、ひたひたに満たしている。白いスニーカーと、白い靴下が鮮血に染まる。天井から床に落ちる血は――既に、雨のようだった。髪も濡れる。ばちゃ、ばちゃ、ばちゃ、ばちゃ、ばちゃばちゃ……ばちゃばちゃばちゃばちゃばちゃ。
「な、な、なんだ、これ……」
「非常に惜しいな。非常に恋々たる気分だ、非常に口惜しい。あんたの『魔法』、扇風機代わりにいいなあと思ったんだけど……ま、じゃあ地球環境には申し訳ないが、ぼくはクーラーで我慢することにするか」ぼくは挑発の一言を言い終えて、見せ場を譲ることにした。「じゃ、あとは好きにやっちゃっていいよ――水倉りすか」
『こ こ ろ え た!』
声が――響く。もう床を浸《ひた》す血液は、ぼくの膝《ひざ》の辺りにまできている。ぼくは半ズボンなので、脚の肌に直接、りすかの血を感じる。生ぬるく、まとわりつくように、ぬめぬめと、撫でられるような、りすかの赤く深い血の水海。部屋中に飛び散った血液が全て、まるでそれ自身が意志をもった生物のように、ずずずずっとその肌を這って、床に広がる赤き血の水海を目指して飛び込んでいく。ばちゃ、ばちゃ、ばちゃ、ばちゃ。自殺のように飛び込んで――混沌のように這い寄って――秩序のように集合し――
「ど、どう……どういうことだ! あ、あいつは死んだはずだ! 俺が殺した!」
「水倉りすかをなめんなよ。あいつはこのぼくが『駒』として、唯一持て余してる女だぜ」ぼくは腕を組んだ格好のままで言う。「どんなに強く吹き荒んだところで『風』で『水』が砕けるものか。飛ばされ散っても『水』は『水』、波紋も残さず元へと還る。まして水倉りすかは水倉神檎の愛娘《まなむすめ》だぜ。神とも悪魔とも呼ばれる、あの伝説の魔法使い――『ニャルラトテップ』の称号を持つ神類最強の大魔道師が織り込んだ魔法式の具現のような存在! まるで悪質な冗談だ! 切り刻んだからどうした、死んだが何だ! ぼくのりすかは貴様如き駄人間が逆立ちしたって存在を消去できる魔女ではない!」
『そ の ―― 通 り だ!』
そして展開された血の海の中から――またも、声が、響く。唸るように、渦巻くように震憾する。
『のんきり・のんきり・まぐなあど ろいきすろいきすろい・きしがぁるきしがぁず のんきり・のんきり・まぐなあど ろいきすろいきすろい・きしがぁるきしがぁず まるさこる・まるさこり・かいぎりな る・りおち・りおち・りそな・ろいと・ろいと・まいと・かなぐいる かがかき・きかがか にゃもま・にゃもなぎ どいかいく・どいかいく・まいるず・まいるす にゃもむ・にゃもめ――』
『にゃるら!』
永劫のように長き詠唱が終わると同時に――血の水海から、にゅううっと――女の腕が、飛び出てくる。ぼくの膝までの血量だ、まだ人が一人沈めるような深さではない――だが、そんなことは関係ない。そんな半端な常識で測れるようなものではない。その手は海に浮いていた帽子を探しているようだった。手探りでその三角帽子を見つけ、そして――一気に、水中から、『彼女』は姿を現す。それに伴い、床を満たしていた血液がずずずずずぅっと、潮が引いていくかのように、その嵩《かさ》を低くしていく。当然だ――『彼女』の肉体を構成しているのはこの『血』。血液こそが、その血液に刻み込まれた魔法式こそが――水倉りすか、自身なのだから。
「はっ……………………はっはーっ!」
りすかは――笑った。それは誕生の、笑い声だった。凡百の駄人間とは違う、誕生と同時に泣いたりはしない――りすかは、誕生と同時に笑うのだ。今はもう、あの、さきはどまでの十歳児の姿ではない。その十七年後――二十七歳の、姿。背は高く、線は細く、しなやかな、ネコ科の猛獣を連想させる体格に――美しき風貌。赤い髪、赤いマント。鋭角的なデザインのベルト、手袋、ボディーコンシャス。燃え上がるような赤い瞳に、濡れたような唇《くちびる》。そして、これだけは変わらない、左手に構えたカッターナイフに――赤き三角帽子。帽子のサイズが――ぴったりと、似合っている。
「……おはよう、りすか」
ぼくは呟いた。渋々と、苦々しい思いで、呟いた。これが――これこそが、りすかがぼくの『手に余る』、最大の理由だった。りすかの父親、水倉神檎はりすかの『血液』にある仕掛けを打った……一定以上の血液が流れ出た――簡単に言えば本体が死の危機に陥った際|自動的《オートマチック》に発動する――本体の生命の停止を発動条件にした『魔法陣』。そう、水倉神檎は『魔法陣』を、りすかの、魔法式が織り込まれた血液内に仕掛けたのだ。条件が満たされれば自動的に発動するその魔法の内容は――『リミッターの解除』とでもいうのだろうか。水倉りすかの相対的時間を一気に十七年分進めるという、そういうとんでもない内容の魔法だ。十七年――およそ六千二百日分の時間を『省略』する。今のりすかの最大魔力、その約六百二十倍の魔力を込めた魔法陣。魔法式で魔法陣を組むという非常識。十歳のりすかにはとても不可能な魔法だが――『ニャルラトテップ』、水倉神檎なら、その程度の仕掛けは余裕で打てる。つまり水倉りすかは、たとえどれだけ血を流しても、永劫回帰、何度でも死ねるのだ。それが父親の愛情という名の庇護《ひご》なのか、欲望という名のエゴなのか、ぼくには判断ができないけれど、しかし、それでも――
「ははははは――あーっはっはっは! おっはよーございまーっす!……ん。何か、声が、おかしいな……」
りすかは、その長くなった指を、自分の口の中に突っ込む。「なんだ……べろが全然短いじゃん。ふん――ガキモードんときに一週間分、二人分時間を飛ばすのに、魔力《けつえき》使い過ぎたか……おい、キズタカ」
「なんだい?」
「左手の親指、もらうぜ」
言うよりも早く、りすかはその位置からカッターナイフを振るった。数メートルの距離を挟んでいるというのに、そんなこととは関係なく――ぼくの右手の親指が、ごっそりと根元のところから、切断された。
「ぐ……」痛みはないが、さすがに自分の肉体が切り落とされるのは、たとえ何度目になっても慣れることなく、生理的にきついものがある。からん、と手錠が抜け落ちる。ぼくは右手で左手を押さえて止血をし、地面に落ちた親指を、りすかに向けて蹴り飛ばした。「……ほれよ」
「さんきゅー……と」その指を拾い、切り口を自分の顔の上に、捧げるようにする。ぼたぼたと流れ落ちる血液は――全て、りすかの、口の中に。絞るように、絞りとるように、りすかはぼくの血を飲む。切り口から血が落ちてこなくなると、りすかは、「あぐ」と大きく唇を開き、その指を咥《くわ》えこんでしまった。しばらく口腔《こうこう》内において咀嚼するように、その指を文字通り骨の髄までしゃぶり尽くして――最後に、「んべっ!」と、真っ赤な舌を、示した。「かーんせい! パーフェクトりすかちゃん! かっこいーぃい! 美しい赤! じゃんじゃじゃ――っん!」
「………………」
唖然と――そんな様子を、高峰は見つめていた。やれやれ、本当に駄人間だ。ひょっとして本当に『赤き時の魔女』があんなものだと思っていたのだろうか? だとしたらしょぼ過ぎだよ、あんた。自分に都合のよい現実しか認めようとしない取るに足らない虫けらめ。お前如きの『火』を消すことすらできそうにない『魔法』ならば、ぼく一人でも対処できるさ。その『風』の魔法は勿体ないが――ま、使えない駒なんざ手元にあっても邪魔なだけだ。
「忠告しておくけど――その姿になってしまえば、もうりすかは、さっきまでみたいに、猫《ネコ》かぶってないぜ。一体何があったのか知らないけど、十七年後、りすかの奴、随分と好戦的な性格になってるみたいだから。何回未来を『改革』してもそうなんだよ。性格ってのは、記憶や思考とは何の関係もない肉体の問題みたいでさ――要するに、物理的な神経回路の構造と脳内麻薬の作用だから、かな。その意味じゃフィジカルもメンタルも似たようなものだね」
「的確な忠告だなあ、キズタカ」一歩踏み出すりすか。「さあその忠告を受け取ったところでどうするのかな、『風使い』――」
「まぎなぐ・まぎなく・えくらとん こむたん・こむたん――」慌てて呪文の詠唱を始める高峰。もう手枷《てかせ》はない、この詠唱中に高峰を攻撃すれば勝負は一瞬で決するが――りすかはそれをしない。のんびりと、ゆっくりと、高峰のいるベッドに向けて、歩んでいる。「まぎなむ・まぎなぎむ――てーえむ!」
そして――詠唱終了。四方八方からりすかに向かって真空刃が飛び――飛んだが、しかし――刃によってりすかの身体が切り刻まれるところまではさっきの繰り返しだったが――切り離された身体がすぐに液状化し、元の位置に戻ってしまうのが――先刻とは違う点だった。切り刻んでも切り刻んでも――切り刻んだところから、元へと還る。
「な、な、な……」
「キズタカ。説明してやればあ?」
「……十歳のりすかには『時間』を『進める』――『飛ばす』、『省略する』魔法しか使えなかったが――」ぼくは左手からの出血を抑えたままで、言われた通りに説明する。「基本的に二十七歳のりすかは十歳のときとは別物だ。肉体が、そして血液が、十七年分、成長している。己の時間を『停止』させることなんてお茶の子さいさいなんだよ」
『停止』している以上は――絶対に、何があろうとも死ぬことはない。傷つくこともなく壊れることもない。何もない。変化しない絶対的な『停止』とは、そういうことだ。時間、時間、時間、時間、時間、『時間』。
「そ、そんな」高峰の焦燥は、もう極点まで達しているようだった。「も、もう一回――まぎなぐ・まぎな――」
「だーかーらぁ! 蛞蝓《なめくじ》の如く極めて著《いちじる》しく鈍《ノロ》いっつってんだろーが駄人間! 一生二進法歌ってろ、歴史において何の価値も持たないゴミがっ! わたしが十六進法の三十二ビートで貴様を物体に還元してやっからよぉーお!」そこで一気にかけよって、りすかは高峰の、その貧相な老いた肉体をベッドの上に叩きつける。右手を心臓の辺りに当てて、そのまま力技で押さえつけた。いくら肉体が大人になっているとは言っても、相手は男だというのに、軽々と。そして左手ではカッターナイフを構えた。「はっはっは――っああ! 部屋中にこんな落書きかまして、頭イッてんのかてめーは! こーゆーのをなあ――無駄な努力っつーんだよ、駄人間!」
「ぐ、ぐ、ぐ――」高峰は呻《うめ》く。何とか抵抗しようとしているようだが、腕も、脚も、見えない鎖にでも拘束されているかのように、自由にならないらしい。「ぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐ――――」
「よっく憶えとけ駄人間! 天才は百パーセントの才能だ、努力なんざしねーんだよ! 貴様のような雑魚がする悪足掻《わるあが》きこそが努力だ、精々一生努力してやがれ!」『きちきちきちきちきちきち!』と、カッターの刃を一気に全部むき出すりすか。「さあ、魔女裁判の時間だぜ――わたしが貴様を裁いてやる! 生きるか死ぬか、二者択一だ!」
「ぐ、ぐぐぐぐぐ……」
「てめえ如き駄人間に魔法を教えた阿呆は、どこのどいつだ? 正直に教えれば、命だけは勘弁してやるぜ。ま――二度と魔法が使えない身体にはなってもらうがな」
「ど、どうして」
「ん? 何が『どうして』でーすーか-?」
「どうしてあんたは――そうやって、県外《ソト》で魔法を使う魔法使いを……裁くんだ? 俺達は――俺達は、同胞じゃないか」
「貴様如き駄人間が高貴なわたしを同胞と呼ぶか! 無礼にも程があるぞ、ならず者が。は――しかし、そりゃ、まあ、そうだな――『父親探し』ってのも確かにあるが――」りすかはぼくの方を向いて、嘲笑的ににたりと笑って見せた。ぼくは、何も言わない。「――貴様を殺すのは貴様一人によって魔法使いのイメージが損なわれるのを防ぐためだよ。県外《ソト》の人間《テメエ》にゃあイマイチ理解しがたい話だろうが、てめえ如き駄人間が魔法使いの代表だと、魔法使いの全てだと思われるととてもとても困るのだよ。腐った蜜柑《みかん》は捨てねばならない。魔法使いが『危険』な存在だと思われると、わたし達は困るんだ。今はまだ『城門』で遮られている程度だが――いざとなれば、あいつらは、何のためらいもなく、長崎に核を落とすだろう」
「…………」
「わたし達はわたしの『同胞』は、二度と核を落とされたくねーんだよ。だからてめえらみてーな駄人間や、その駄人間に魔法を教える外道魔道師に存在されると困るんだ。魔法使いってのは魔女ってのは、無害で優しくきゅーとな愛らしい存在であるってことをアピールするためにゃ、貴様のような落ちこぼれに存在されちゃ困るんだ」
「く……そ、そんな理由で――そんな理由で――」
「さあ、わたしは寛大にも答えてやったぞ。だから貴様は卑屈に答えるがいい。貴様にそのくそったれた魔法を教えた魔道師の名前は、なんだ?」
きらり――と、カッターナイフが光を反射する。りすかはもう何直言わず、高峰をじっと、睨《にら》みつけていた。高峰は、数秒だけ、逡巡《しゅんじゅん》するように沈黙して、そして、やがて、答える――あの、狂的な、笑みと共に。
「クソ喰らえだよ、魔女《ビッチ》」
「いい解答だ、駄人間!」
カッターの刃がくるりときらめき、胸においたりすかの右手ごと――高峰の心臓を刺し貫いた。「ぐ、うう!」と高峰は呻いたが、恐怖が開始するのはこれからだ。りすかの右手と、高峰の心臓が、共に血を流して『同着』しており――そして、カッターナイフによって『固定』されている。そして――始まる。高峰幸太郎の、残りの一生が。残りの一生が、一瞬で――始まる。始まり、終わる。
「が、が、あああああああああああああ!」
ビデオでいうところの『早送り』をされているかのように――高峰の身体が、どんどんと加速度的に干からびていく。『老化』を通りこして、早くもミイラ化を始めているのだ。皮膚はかさかさになって、目玉は水分を失い濁っていき、身体の表面には動脈がくっきりと浮き出て――白髪交じりの髪が一気に総白になり、ばさばさと抜け落ちていく。一気に何十年分もの『時間』を――今、高峰は、経験しているのだ。『相性』なんて、まるで一切、考慮されずに。一方のりすかの方はと言えば二十七歳の姿のままだ。そう――二十七歳のりすかは、その己の魔法属性『時間』にのっとって『停止』の先――『不変』までも獲得しているのだ。どれだけ時間を進めようと――りすか自身には、全く、変貌が、ない。それはもう、ほとんどの概念において『不老不死』。運命干渉系の魔法というのは、突き詰めれば、ここまでのレベルに達する極限の代物なのだ。『時間』を操作すると言うよりも、これでは最早《もはや》――りすかは、『時間』そのものだ。「は、はっは、はっはっはっはっはーっ!」と、哄笑をあげながら――高峰から『時間』を――彼の『血』を、まるで吸い取っているかのように、『取り上げて』いく。
「相変らず無駄な戦い方をする奴だ――」ぼくはそんな、恐るべき時の嵐を遠巻きに眺めながら、呆《あき》れの伴ったため息を吐く。「……だがまあ、それこそが魔女、神にして悪魔の娘らしいと、言えなくもないのか」
天才は百パーセントの才能、と、りすかは言ったが、ぼくはそれは違うと思う。天才とは一パーセントの才能と――九十九パーセントの、無駄な努力だ。その意味でりすか、りすかは間違いなく天才だよ。そして、ぼくは天才でなくていい。ぼくは一パーセントのインスピレーションの他は、何もいらない。
「し――」高峰は、死の更にその先を味わされる苦痛に耐えかねてか、最早恥も外聞もなく、命乞いするかのように、叫ぶ。「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死――」
「うるせえ!」
ぱぁん――と、りすかは、高峰の胸の上においていた右手を、叩きつけた。それによって、かろうじて保たれていた高峰の、ミイラ化して乾燥しきった肉体は――砕け散った。粉々に、砕け散った。空気中に、きらきらと、高峰幸太郎の欠片《かけら》が乱舞する。
「無様なダイヤモンド・ダストだぜ」言って、りすかは、ぱちん、と指を鳴らした。同時に、空気中に乱舞した高峰幸太郎の欠片、それに、ベッドの上に抜け落ちた彼の髪などのもろもろが、『消滅』する。『時間軸から外した』――という奴だ。「だがまあ、なかなか根性のある奴だったな。駄人間如きにしてはだが」
「……忘れてなければだけど」ぼくは勝利の余韻に浸っているりすかに言う。十歳のりすかはともかく――こちらの二十七歳バージョンのりすかは、少々苦手だった。苦手というか、『手に余る』。こんな真の意味での怪物――駒として、使えるわけがない。『強過ぎる』駒は、ときとして脚を引っ張る。その意味で、りすかは、ぼくにとって、りすかの父親と同じ問題を抱えているのだ。「りすか。ぼくの親指を返してくれると嬉しいんだけどね」
「……ああ。悪い悪い」
にたりと笑って、りすかはぼくのところに近付いてきながら――酷く無造作な動作で、自分の左手の親指を、根元の辺りからびちゃりと引き千切った。ぱしやん、と血が弾《はじ》けかけたが、すぐにその血も『停止』の作用で、元に還る。りすかは、その自分の親指を、ぼくの左手の切り口に引っ付けた。血液同士が互いに流動的に絡み合い、しばらくびくんびくんとその親指は別の生き物のように跳ねていたが――やがて、落ち着いた。動かしてみる。ぐー、ちょき、ぱー。ぐー。ちょき。ぱー。キツネ、ウサギ、イヌ。ふん。ま、女性とは言え大人のサイズのものだから、離れて見た輪郭がやや不自然ではあるが、元が不定形の液体、すぐに大きさも整って、そぐってくることだろう。
「どうも、ありがと」
「いやいや。こっちこそどうも」
「でも、どうせ殺すなら、あの駄人間から舌の部品くらい奪えばいいじゃないか」
「キズタカの血は美味《うま》いんだよ。とてもとても、相性がいい。あんな駄人間の血ィじゃあ、一人分飲んでも爪も伸びないさ。なじむなじむ、わたしにはキズタカの血が、一番よく似合う」りすかは赤い唇を歪めて、また、にたりと笑う。「それにしても、今回はお互い――完全なる無駄足って感じだったようだ。わたしはお父さんの手がかりをつかむこともできず――キズタカは、新たな駒を手に入れることができなかった」
「そうでもないよ。無駄を一つ消しただけで――無駄を消したという意味がある」
「ふふん。なるほどね。相変らずよいことをいう。しかし――この姿で会うのは、結構久し振りだな、キズタカ」
「そうだね、りすか」
「何なら、キスしてあげようか?」
「くだらねー。遠慮しとくよ。大人になるまで」
「そっか――いつもながら醒《さ》めた野郎だ。……っと。どの道、もう『時間』だな――」
とろり、と。とろりとろり――どろり、と。りすかの形が――りすかの『時間』が、崩れ始めた。ああ――一分、か。二十七歳の水倉りすかを拘束する、唯一の存在、『時間』――りすかは一分間しか、二十七歳のその姿ではいられない。高度過ぎるその魔法の、魔法式の魔法陣の、必然的な制限と言ったところか。
「じや、またいつか」
「ああ、またいつか」
りすかはぼくの返事に軽くウインクして――そして――そしてりすかは、本来的に不可逆であるはずの『時間』を逆行していく。とろとろと、どろどろと、その肉体が、装いがどんどんと液状化していき――外側から内側から、どんどんと加速度的に崩れて、崩壊していき……そして、最後に残るその形は――
★ ★
「しかし、まあ――あの運転士、高峰が犯人だってのは、それなりに納得がいったんだけど、しかし、どうしてりすかにはそれが分かったんだ? 先頭車両の運転席がベストな位置なのは確かにその通りだけど、それが『犯人』は二番ホームにいなかったって証拠になるわけじゃないだろう?」
「うん?」りすかは答える。「ん……まあ、そうなの」
さすがにもう魔力《けつえき》は使い果たしてしまったらしく、りすかは警察病院からの帰りは『省略』できず、ぼくと一緒に、並んで、こっそりと病院から抜け出て、最寄の駅に向かっていた。今回の発端である新木砂駅も通っている、その沿線の駅だ。りすかは、十歳の姿に戻っている。元の姿というだけでない、絶対的な意味での十歳の姿に。三角帽子とカッターナイフ以外は、二十七歳だったときの面影《おもかげ》はまるでない。帽子もぶかぶかだ。時間の解呪《キャンセル》。十七年後、こいつはあんな美人さんになるのかと思うと、ぼくとしては思うところがないでもないが――まあ、そんなことは、別にどうでもいい。この、手錠をしゃらんしゃらんと鳴らしながら歩くりすかも、圧倒的に他人を見下す時間の女王『赤き時の魔女』のりすかも、どちらも同じ水倉りすかであることに違いない。二十七歳までにあそこまでも魔力を所有することを義務付けられているりすかには同情を禁じえないが――それだって、今のぼくには、別にどうでもいい話だ。無駄を一つ消しただけ――それでも、今回の『仕事』は、意味があったと思う。しらみを潰すためには、やはりしらみつぶしにするしかないのだ。『風使い』――手に入れば手に入れておきたかった駒だけれど、その使い手があんな小物じゃあ、やはり使えない、だろう。となると、高峰に魔法を教えたのが誰かという問題だけが残るのだが――何の証拠もないけれど、高峰が『赤き時の魔女』の称号を知って、しかもそれを警戒し病室内に式を描いて待ち構えていたことから考えると、やはり――しかし、たとえばそうだったとして、どうして彼は――水倉神檎は、そんな真似をするのだろう? どうせ使いこなせもしない駄人間に、魔法を与えてどうしようというのだろうか――そして彼は、己の娘が己を追っていることに、気付いているのだろうか――気付いているのだとすれば――
「時刻表、なの」
「うん?」
りすかは、ぼくの心配などよそに、大して興味もない先にした質問に、答を返してくれた。今なんて言った? 時刻表?
「キズタカが持ってきてくれた時刻表。時刻表のコピー。結局のところ、キーだったのはそれなの」
「よくわからないことを言うね」
「いや、まあ――これ教えると、キズタカ、怒っちゃうかもしれないの――そうでなくとも、落ち込んだりするかもしれないから」
「ぼくが? そりゃどういう意味だ?」
「――ま、これこそ論より証拠なの。そうね、今日は日曜日だったし……ちょうど、時間もいい頃合だし……行って見るの」
「行く? どこへ?」
「新木砂駅なの」
よく分からなかったが、ぼくはりすかに従った。最寄り駅まで行って、佐賀に帰るためには逆方向、新木砂駅へと向かう。二番ホームに下りた。電車の運転席を除けばベストポジションであると指摘された乗車ロヘと、りすかは移動した。「ここだったよね」とぼくに確認する。ぼくは頷いた。
「ねえ、キズタカ」
「うん?」
「大人になんか、なりたくないの」
「うん? 何の話だ? いきなり」
「大人になったら、つまらないって話なの。あの、高峰さんの話じゃないけど、世の中にはつまらない大人ばっかしで――わたしの、お父さんにしたって……」
「だが、大人になれば力は手に入るぜ」
「…………」
「りすかもそうだけど――ぼくだって、そうだ。今はできないことが、大人になればできる」
「それでも、わたしは大人になりたくない」
「……わかんなくも、ないけどね」ぼくはりすかに頷く。十七年後の、あのりすかの性格。好戦的で、まるで周囲を顧《かえり》みない、独善的性格。だがあれは象徴的なものであって、多かれ少なかれ、誰だってあんな風になる。それがリアルに理解できてしまうりすかは――己の使用する魔法に対してはあまりにも皮肉、『成長』を嫌ってしまうものだろう。「でも、ぼくは『力』が欲しい。全てを支配するだけの力が。彼らは愚かだからこそ――ひょっとしたら本当は生きる資格がないほどに愚かかもしれない、だからこそ、ぼくのような人間が、絶大なる『力』をもってして、支配してやらなくてはならない」
「……見解の相違、だね」りすかは言う。「……犯人を運転士と断定したのは、単純な消去法なの。魔法式を作動させるためにはあの現場のそばに『犯人』がいなければならない――けれど一番ホームでは様々な障害があって無理、そして二番ホームでも無理。そうなれば、自然に解答は導き出せたというわけなの」
「いや、待てよ。二番ホームに犯人がいたって説は、別に否定されてないだろ」
「無理なものは無理なの」りすかは言う。カッターナイフを取り出して、『きちきちきちきち……』『きちきちきちきち……』と、出し入れする。「現在六時二十分……か。問題の電車が来るまで、あと十二分だね。日曜日だから、時刻も同じ――と」
「はっきり言えよ。煮えない奴だな」
「キズタカ。一番ホームに行って、あそこに立って」りすかは正面の一番ホーム、その乗車口を指差す。先週、ぼくが立っていたその場所だ。「あそこからわたしが見えるかどうか、試してみて欲しいの」
「……いいけどさ」
言われるままに、階段を登り、階段を降り、反対側の一番ホームに到着するぼく。ホームを移動して、線路を二本、レールを四本挟んだその先に、りすかの姿を求める。その赤い姿はすぐに見つかった。赤という色は、基本的にどんな遠くにあったところで人間の眼でその色の種類を判断できる、唯一の色だ。だからパトカーのサイレンなどの警戒色には赤色が使用されるのだ。同じ理屈で、ぼくはほどなく、向こう側にりすかの姿を発見した。そうそう、この乗車口だ。ここで、ぼくはことの一部始終を目撃したのだ。
「えっと……りすか?」声をかけるも、こんな大きさではあちらのホームまでは届かない。「りー、すー、かー?」
ぶんぶんと、りすかは手を振った。ぼくを認識したらしい。そうだった、りすかはあまり目がよくないから、この距離では声が聞こえない限りぼくが分からないのだ。ましてぼくは赤い服を着ているわけではない。……ということは、あれか? 二番ホームからでは犯人は遠くて『事実』の目撃ができなかった――とでも? しかし、高峰幸太郎がどうだったかはともかくとしても『犯人』、その時点では正体不明の『犯人』の視力など、測るべくもないだろう。それとも『魔法』を使う者は視力が落ちるという、統計的な結果でもあるのだろうか?
「ねー! キズタカー!」
向こうのホームから、りすかが叫んだ。
「楽しかったのは、今日だったねー!」
「……まあ、それなりにね」
「えー! 聞こえないー! 聞こえないのが、キズタカの声なのー!」
「それなりに、ね!」
ぼくも、りすかに倣って、声をあげて叫んだ。さすがに昼間とは違う、ホームにはそれなりに人がいる。少しばかり、ぼくにも恥ずかしい気持ちがあったが、まあいい。どうせ周りの連中は、馬鹿な小学生達が戯れているとしか思っちゃいないだろう。ものを考えることもできない頭部を貼り付けた下等生物の視線なんか、気にする、ことはない。この程度の連中に何と思われたところで、どうでもいいさ。どうせ連中、人を見る眼なんて持ち合わせちゃいないんだからな。常識を抱いて死ぬがいい。
「それなりに楽しかった、って言ったんだよ!」
「もっと楽しいのが、明日だったらいーね!」
「楽しいさ!」ぼくは自信たっぷりに答えた。「もっとどきどきさせてやるさ、このぼくが! 約束は守る、りすかの人生に潤《うるお》いを与えてやる、目的を! りすかの親父さんだって、ぼくがいずれ見つけてやる! 長崎だって、いずれぼくがあんな『城門』とっぱらってやるさ! だから――」
だからもうしばらくの間は、大人しく、ぼくの駒でいて欲しい。手に余ろうがどうしようが、今のぼくにはとにかくりすかが必要なのだから。そう言おうとしたところを遮るように、「うん!」と、りすかは、にっこりと笑った。
「だからずっと! 友達でいよーね!」
「………………」
その台詞に――言葉を失ったそこに、駅構内に、放送が鳴り響く。『二番線に列車が参ります――』と、あのお定まりの放送が、流れた。ぼくはりすかに対し、何か――とにかく何か、反論や、弁明めいたものを、口にしようとしたが――ぼくがいくら大声を張り上げたところで、どうせその放送で遮られるだろうから、やめた。ふん……まあ――なんとでも、思っていればいいのだ。ぼくのことを駒と思っていようがそれ以外の何かだと思っていようが、それはりすかの勝手である。ぼくが、ちゃんと、りすかを駒だと思っていれば――そう認識さえしていれば、それでぼくはりすかを、『使える』のだから。とりあえずりすかに引っ付いていれば――通常よりもずっと、『有用』な人間、魔法使い非魔法使いを問わず、色んな人間と会える。そのメリットは計り知れない――だから、ぼくのことをなんと思っても、それはりすかの自由というものさ。ぼくは寛容だ、そのくらいの自由は与えてやろう。と、そこに――『一番線に列車が参ります――』と先の放送と輪唱するように、重なるように、そんな放送が――こちら側のホームで、鳴り響いた。輪唱――? そうだ、そういえば、あのときも――『――危険ですので――』『危険ですので――』『――黄色い線の』『黄色い線の――』『内側まで――』『――内側まで』『――お下がりください――』『――お下がりください――』――あのときも! 輪唱! ぼくは時計を確認する。六時――六時、三十二分!
「――りすかっ!」
ぼくは顔を起こし、りすかを確認しようとしたが――もう、それは不可能だった。二番ホームには――もう、車両が、速度を伴って入ってきていて――その車体が、壁になってしまって――ぼくは、りすかの、あの赤い姿を、目視することが、できなかった。
「……あ、あ――」
している内に一番ホームにも電車が一瞬遅れで、入ってくる。進行方向が逆で、この位置だから――時刻表に記載されている時間が同じだったところで、一瞬、こちらの側が遅くなるわけだ。成程――これなら、確かに、二番ホームから――『事実』の瞬間を『目撃』することは――不可能だ。先頭車両が、ぼくの前を通り過ぎた。線路に飛び込もうなんて気は微塵も生じなかった。そんなことをするはずもない。ほどなくして、また、輪唱が始まる。『二番線の――』『一番線の――』『列車が――』『列車が――』『発車し――』『発車し――』『ます――』『ます――』。向こうの電車が、少し早く動き出す。先頭に並んでいるぼくが電車に乗らなかったので、後ろにいた駄人間達がぼくを避けるように、車内へと乗り込んだ。ドアーが閉じて――こちらの電車も発車する。がたんがたんがたんがたんがたん――
「りすかっ!」
ぼくは再び、そう呼びかけたが――向かいのホーム、ぼくの正面には――誰もいなかった。そこから何かが『省略』されてしまったかのように、もうそこには誰もいなかった。今さっき向かいのホームで電車を降りた人達が、変な名前を叫んだぼくに一瞬だけ注目したが――すぐに、自分の時間へと、彼らは帰った。ぼくは何だか、してやられたような気分で、右手で頭をかく。怒っちゃうか――落ち込んじゃうか。確かにそうだな……いくら目の前には人の壁があり、その壁であった四人が五体ばらばらになったとはいえ――そして、それから一週間が経過してしまっていたとはいえ――向かいの電車の存在を、忘失してしまっていたなんて。『魔法』の事件だと思って、ぼくとしたことが不覚にも焦ってしまったか。いや、自分が疑われるかという焦りが――いや、全部、言い訳だ。やれやれ、これからは人間だけでなく、無機物もしっかりと観察することにしなくちゃな。無機物の使い方も、これを機会に勉強してもいいかもしれない。そんなことを思いながら、ぼくは自分の左手を見た。ぼくの左手。数時間程度しか経過していないから仕方のないことだが、まだなじみきっていない親指が不自然な左手。その不自然な左手が、にたりと、嘲《あざけ》るように、笑った気がした。
さもありなん。
今や半分以上、ぼくの身体はりすかのものだ。
≪Subway Accident≫is Q.E.D.
小説現代10月増刊号 ファウスト 2003 OCT Vol.1