化物語(上)
西尾維新
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化バケモノ物ガタリ語 上
西尾維新NISIOISIN
阿良々木《あららぎ》暦《こよみ》を目がけて空から降ってきた女の子・戦場《せんじょう》ヶ|原《はら》ひたぎには、およそ体重と呼べるようなものが、全くと言っていいほど、なかった――!?
台湾から現れた新人イラストレーター、光の魔術師≠アとVOFANと新たにコンビを組み、あの西尾維新が満を持して放つ、これぞ現代の怪異! 怪異! 怪異!
青春に、おかしなことはつきもの[#「つきもの」に傍点]だ!
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BOOK&BOX DESIGN VEIA
FONT DIRECTION
SHINICHIKONNO
(TOPPAN PRINTING CO.,LTD)
ILLUSTRTION
VOFAN
本文使用書体:FOT-筑紫明朝ProL
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第一話 ひたぎクラブ
第二話 まよいマイマイ
第三話 するがモンキー
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第一話 ひたぎクラブ
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001
戦場《せんじょう》ヶ|原《はら》ひたぎは、クラスにおいて、いわゆる病弱な女の子という立ち位置を与えられている――当然のように体育の授業なんかには参加しないし、全校朝会や全校集会でさえ、貧血対策とやらで、一人だけ日陰で受けている。戦場ヶ原とは、一年、二年、そして今年の三年と、高校生活、ずっと同じクラスだけれど、僕はあいつが活発に動いているという絵をいまだかつて見たことが無い。保健室の常連で、かかりつけの病院に行くからという理由で、遅刻や早退、あるいは欠席を繰り返す。病院に住んでいるんじゃないかと、面白おかしく囁《ささや》かれるくらいに。
しかし病弱とは言っても、そこに貧弱というイメージは皆無だ。線の細い、触れれば折れそうなたおやかな感じで、それはとても儚《はかな》げで、その所為《せい》だろう、男子の一部では、深窓の令嬢などと、話半分、冗談半分に囁かれたりもする。まことしやかに、といってもいい。確かにその言葉の雰囲気は、戦場ヶ原に相応《ふさわ》しいように、僕にも思われた。
戦場ヶ原はいつも教室の隅の方で、一人、本を読んでいる。難しそうなハードカバーのときもあれば、読むことによって知的レベルが下がってしまいそうな表紙デザインのコミック本のときもある。どうやら、かなりの濫読《らんどく》派のようだった。文字であれば何でもいいのかもしれなかったし、そうではなく、そこには明確な基準があるのかもしれなかった。
頭は相当いいようで、学年トップクラス。
試験の後に張り出される順位表の、最初の十人の中に、戦場ヶ原ひたぎの名前が必ず記されている。それも全教科まんべんなく、だ。数学以外は赤点ばかりの僕なんかと較べるのもおこがましい話だが、きっと、脳味噌《のうみそ》の構造が、はなっから違うのだろう。
友達はいないらしい。
一人も、である。
戦場ヶ原が、誰かと言葉を交わしている場面も、僕はいまだ見たことが無い――穿《うが》った目で見れば、いつだって本を読んでいる彼女は、その本を読むという行為によって、だから話しかけるなと、己《おのれ》の周囲に壁を作っているのかもしれない。それこそ、僕は二年と少し、戦場ヶ原とは机を並べているわけだけれど、その間、彼女とは恐らく一言だって口を利いたことはないと断言できる。できてしまう。戦場ヶ原の声といえば、授業中に教師に当てられて、決まり文句のように発する、か細い『わかりません』が、僕にとってのイコールなのだ(明らかに分かっている問題であろうがどうだろうが、戦場ヶ原は『わかりません』としか答えないのだ)。学校というのは不思議な空間で、友達のいない人間は友達のいない人間同士で一種のコミュニティ(あるいはコロニー)を形成するのが普通だが(実際、去年までの僕がそうだ)、戦場ヶ原はそのルールからも例外にいるようだった。勿論《もちろん》、かといって苛《いじ》めにあっているということでもない。ディープな意味でもライトな意味でも、戦場ヶ原が迫害されているとか、疎《うと》まれているとか、そういったことは、僕の見る限り、ない。いつだって戦場ヶ原は、そこにいるのが当たり前みたいな顔をして、教室の隅《すみ》で、本を読んでいるのだった。己の周囲に壁を作っているのだった。
そこにいるのが当たり前で。
ここにいないのが当たり前のように。
まあ、だからといって、どうということもない。高校生活を三年間で測れば、一学年二百人として、一年生から三年生までで、先輩後輩同級生、教師までを全部含め、およそ千人の人間と、生活空間を共にするわけだが、一体その中の何人が、自分にとって意味のある人間なのだろうか、なんて考え始めたら、とても絶望的な答が出てしまうことは、誰だって違いないのだから。
たとえ三年間クラスが同じなんて数奇な縁《えん》があったところで、それで一言も言葉を交わさない相手がいたところで、僕はそれを寂《さみ》しいとは思わない。それは、つまり、そういうことだったんだろうな、なんて、後になって回想するだけだ。一年後、高校を卒業して、そのとき僕がどうなっているかなんて分からないけれど、とにかくそのときにはもう、戦場ヶ原の顔なんて、思い出すこともないし――思い出すこともできないのだろう。
それでいい。戦場ヶ原も、きっとそれでいいはずだ。戦場ヶ原に限らず、学校中のみんなきっと、それでいいはずなのだ。そんなことに対し、暗い感想を抱く方が、本来的に間違っているのである。
そう思っていた。
しかし。
そんなある日のことだった。
正確に言うなら、僕にとって地獄のようだった春休みの冗談が終了し、三年生になって、そして僕にとって悪夢のようだったゴールデンウィークの絵空事が明けたばかりの、五月八日のことだった。
例によって遅刻気味に、僕が校舎の階段を駆け上っていると、丁度《ちょうど》踊《おど》り場《ば》のところで、空から女の子が降ってきた。
それが、戦場ヶ原ひたぎだった。
それも正確に言うなら、別に空から降ってきたわけではなく、階段を踏み外した戦場ヶ原が後ろ向きに倒れてきただけのことだったのだが――避《さ》けることもできたのだろうけれど、僕は、咄嗟《とっさ》に、戦場ヶ原の身体を、受け止めた。
避けるよりは正しい判断だっただろう。
いや、間違っていたのかもしれない。
何故《なぜ》なら。
咄嗟に受け止めた戦場ヶ原ひたぎの身体《からだ》が、とても――とてつもなく、軽かったからだ。洒落《しゃれ》にならないくらい、不思議なくらい、不気味《ぶきみ》なくらいに――軽かったからだ。
ここにいないかのように。
そう。
戦場ヶ原には、およそ体重と呼べるようなものが、全くと言っていいほど、なかったのである。
002
「戦場ヶ原さん?」
僕の問いかけに、羽川《はねかわ》は首を傾《かし》げる。
「戦場ヶ原さんが、どうかしたの?」
「どうかっつうか――」
僕は曖昧《あいまい》に言葉を濁《にご》した。
「――まあ、なんか、気になって」
「ふうん」
「ほら、何か、戦場ヶ原ひたぎだなんて、変わった名前で面白いじゃん」
「……戦場ヶ原って、地名|姓《せい》だよ?」
「あー、えっと、そうじゃなくて、僕が言っているのは、ほら、下の名前の方だから」
「戦場ヶ原さんの下の名前って、ひたぎ、でしょう? そんな変わってるかな……ひたぎって、確か、土木関係の用語じゃなかったっけ」
「お前は何でも知ってるな……」
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」
羽川は納得しかねている風だったが、しかし特に追及《ついきゅう》してくるでもなく、「珍しいね、阿良々木《あららぎ》くんが、他人に興味を持つなんて」と言った。
余計な世話だ、と僕は返した。
羽川|翼《つばさ》。
クラスの委員長である。
これがまた、如何《いか》にも委員長といった風情《ふぜい》の女子で、きっちりとした三つ編みに眼鏡《めがね》をかけて、規律正しく折り目正しく、恐ろしく真面目《まじめ》で教師受けも良いという、今や漫画やアニメにおいてさえ絶滅|危惧《きぐ》種に指定されそうな存在なのである。今までの人生ずっと委員長をやってきて、きっと卒業した後でも、何らかの委員長であり続けるのではないかと、そう思わせる風格を持つ、つまるところ、委員長の中の委員長である。神に選ばれた委員長ではないかと、真実味たっぷりに噂《うわさ》する者もいるほどだ(僕だけど)。
一年次、二年次は別のクラスで、この三年次で同じクラスになった。とはいえ、同じクラスになるその以前から、羽川の存在は聞いていた。当たり前だ、戦場ヶ原が学年トップクラスの成績ならば、羽川翼は学年トップの成績なのである。五教科六科目で六百点満点なんて嘘《うそ》みたいなことを平気でやってのけ、そう、これは今でも明確に記憶している、二年生一学期の期末テストで、保健体育及び芸術科目まで含めた全教科で、落としたのは日本史の穴埋《あなう》め問題一問のみという、とんでもなく化物じみた成果を達成したこともある。そんな有名人、知りたくなくとも勝手に聞こえてくるってものだ。
そして。
たちの悪いことに、いやいいことなのだろうけれど、とにかく迷惑この上ないことに、羽川は、とても面倒見のいい、善良な人間であったのだった。そしてこれは素直にたちの悪いことに、とても思い込みの激しい人間でもあった。過度に真面目な人間にありがちなように、こうと決めたら挺子《てこ》でも動かない。春休みに、既に羽川とは、ちょっとした顔合わせが済んでいたのだが、明けてクラス替え、同じクラスになったと知るや否《いな》や、彼女は、「きみを更生させてみせます」と、僕に宣言したのである。
別に不良でもなければさして問題児でもない、クラスにおける置物のような存在だと、己自身を評価していた僕にとって、彼女のその宣言は正に青天の霹靂《へきれき》だったが、いくら説得しても羽川の妄想じみた思い込みはとどまることを知らず、あれよあれよと僕はクラスの副委員長に任命され、そして現在、五月八日の放課後、六月半ばに行われる予定の文化祭の計画を、教室に残って羽川と二人、練っているというわけだった。
「文化祭っていっても、私達、もう三年生だからね。さしてすることもないんだけれど。受験勉強の方が大事だし」
羽川は言う。
当然のように文化祭よりも受験勉強を優先させて考える辺り、委員長の中の委員長である。
「漠然《ばくぜん》としたアンケートじゃ意見がばらけちゃって時間がもったいないから、あらかじめ私達で候補《こうほ》を絞って、その中から、みんなの投票で決定するっていうので、いいかな?」
「いいんじゃないのか? 一見民主主義っぽくて」
「相変わらず嫌な言い方するよね、阿良々木くんは。ひねてるっていうか」
「ひねてなんかない。やめろ、人をむやみにトンガリ呼ばわりするな」
「参考までに、阿良々木くんは、去年|一昨年《おととし》、文化祭の出し物、何だった?」
「お化け屋敷と、喫茶《きっさ》店」
「定番だね。定番過ぎる。平凡といってもいいかも」
「まあね」
「凡俗といってもいいかも」
「そこまでは言うな」
「あはは」
「大体――平凡な方が、でも、この場合はよくないか? お客さんだけじゃなくて、こっちも楽しまなくちゃならねえってんだから……ん。そう言えば、戦場ヶ原は――文化祭にも、参加してなかったな」
去年も――一昨年もだ。
いや、文化祭だけではない。およそ行事と呼べるもの――通常授業以外のものには、全くといっていいほど、戦場ヶ原は参加していない。体育祭は勿論、修学旅行にも、野外授業にも、社会科見学にも、何にも、参加していない。激しい活動は医者から禁じられている――とか、なんとかで。今から考えてみればおかしな話である。激しい運動[#「運動」に傍点]とか言うのならまだしも、活動[#「活動」に傍点]を禁じられているという、その不自然な物言い――
しかし、もしも――
もしもあれ[#「あれ」に傍点]が、僕の錯覚でないとしたら。
戦場ヶ原に、体重がない[#「ない」に傍点]のだとしたら。
通常の授業以外の、そう、不特定多数の人間と、ともすれば身体が接触する機会のある、体育の授業などは――絶対に参加するわけにはいかない、対象だろう。
「そんなに気になるの? 戦場ヶ原さんのこと」
「そういうわけでもないんだけど――」
「病弱な女の子、男子は好きだもんねー。あー、やだやだ。汚《けが》らわしい汚らわしい」
からかうようにいう羽川。
割合珍しいテンションだった。
「病弱、ねえ」
病弱というなら――病弱だろう。
いや、しかし、あれは病気なのだろうか?
病気でいいのだろうか[#「病気でいいのだろうか」に傍点]?
身体が弱くて、それで必然的に身体が軽くなるというのは、分かりやすい説明だが――既にあれ[#「あれ」に傍点]は、そういったレベル[#「そういったレベル」に傍点]での話ではなかった。
階段の、ほとんど一番上から、踊り場まで、細身の女子とはいえ、一人の人間が落下したのだ。通常ならば、受け止めた方でさえ、結構な怪我《けが》をしかねないようなシチュエーションである。
なのに――衝撃はほとんどなかった。
「でも、戦場ヶ原さんのことなら、阿良々木くんの方がよく知ってるんじゃないのかな? 私なんかに訊《き》くよりさ。なんったって、三年連続で同じクラスだっていうんだから」
「そう言われりゃ、確かにそうなんだが――女の子の事情は、女の子の方が知ってるかと思って」
「事情って……」
羽川は苦笑した。
「女の子に事情なんてものがあるとしたら、それこそおいそれと教えてあげるわけにゃいかないでしょうが、男の子に」
「そりゃそうだ」
当たり前だった。
「だからまあ、クラスの副委員長が、副委員長として、クラスの委員長に質問しているんだと思ってくれ。戦場ヶ原って、どんな奴なんだ?」
「そうくるか」
羽川は、話をしながらも進めていた走り書きを止め(お化け屋敷、喫茶店を筆頭に、クラスの出し物の候補を、書いては消し書いては消ししていた)、ふうむ、と手を束《つか》ねた。
「戦場ヶ原、なんて、一見危なっかしい感じの苗字《みょうじ》だけど、まあ、何の問題もない、優等生だよ。頭いいし、掃除とか、サボらないし」
「だろうな。それくらい、僕にもわかる。僕じゃわからないことが、聞きたいんだ」
「でも、同じクラスになって、まだ、丁度一ヵ月くらいだしね。わかんないってのが、やっぱりかな。ゴールデンウィーク、挟んじゃってるし」
「ゴールデンウィークね」
「ん? ゴールデンウィークがどうかした?」
「どうもしない。続けて」
「ああ……そうだね。戦場ヶ原さん、言葉数も多い方じゃないし――友達も、全然、いないみたい。色々、声かけてはみてるけど、彼女の方から、壁作っちゃってる感じで――」
「………………」
さすが、面倒見のいいことだ。
無論、それを見込んでの、質問だったのだが。
「あれは――本当に難しいわ」
羽川は、言った。
重い響さで。
「やっぱり病気の所為なのかな。中学生のときは、もっと元気|一杯《いっぱい》で、明るい子だったんだけどね」
「……中学生のときって――羽川、戦場ヶ原と同じ中学だったのか?」
「え? あれ、それを知ってて私に訊いたんじゃないの?」
こっちが意外だというような表情を、羽川は浮かべる。
「うん、そうだよ。同じ中学出身。公立|静風《きよかぜ》中学。もっとも、同じクラスだったことは、やっぱりないけれど――戦場ヶ原さん、有名だったから」
お前よりもか、と言いかけて、とどまる。羽川は、有名人扱いされるのを、ことのほか嫌うのだ。正直自覚が足りないとは思うが、本人は自分のことを『ちょっと真面目なだけが取り柄の普通の女の子』程度にしか捉えていないらしい。勉強なんて頑張《がんば》れば誰でもできるというお題目を、本気で信じているのである。
「すごく綺麗《きれい》だったし、運動もできたから」
「運動も……」
「陸上部のスターだったんだよ。記録も、いくつか残ってるはず」
「陸上部――か」
つまり。
中学時代は、あんな風[#「あんな風」に傍点]ではなかったということ。
元気一杯で、明るい――というのも、正直言って、今の戦場ヶ原からは、全く想像ができない。
「だから、話だけなら、色々聞いたもんだったよ」
「話って?」
「すごく人当たりのいい、いい人だって話。わけ隔《へだ》てなく誰にでも優しいって、そこまで言えば言い過ぎじゃないのかってくらい、いい人で、しかも努力家だって話。なんか、お父さんが外資系の企業のお偉いさんらしくって、おうちもすごい豪邸《ごうてい》で、すごいお金持ちなんだけれど、それでも全然気取ったところがないんだって話。高みにあって、更に高みを目指しているって話」
「超人みたいな奴だな」
まあ、その辺は、話半分なのだろうけれど。
噂は噂。
「全部、当時の話だけれどね」
「……当時」
「高校に入って、身体を壊した、みたいなことは、一応、聞いてはいたんだけれど――それでも、だから、実を言うと、今年、同じクラスになって、びっくりした。間違っても、あんな、クラスの隅の方にいる人じゃなかったはずだもの」
私の勝手なイメージの話だけれど、と羽川。
確かに勝手なイメージなのだろう。
人は変わる。
中学生の頃と高校生の今じゃ、訳が違う。僕だってそうだし、羽川だってそうだ。だから戦場ヶ原だって、そうだろう。戦場ヶ原だって、色々あっただろうし、本当に、戦場ヶ原は身体を壊しただけなのかもしれない。その所為で、明るかった性格を失っただけなのかもしれない。元気を一杯、失ったのかもしれない。身体が弱っているときは、誰だって弱気になるものだ。もとが活発だったというのなら、なおさらである。だから、その推測が、きっと正しいのだろう。
今朝のことさえなければ。
そう言える。
「でも――こんなことを言っちゃいけないんだろうけれど、戦場ヶ原さん」
「何」
「今の方が――昔より、ずっと綺麗、なんだよね」
「………………」
「存在が――とても、儚げで」
沈黙するに――十分な言葉だった。
それは。
存在が儚げ。
存在感が――ない。
幽霊のように?
戦場ヶ原ひたぎ。
病弱な少女。
体重のない――彼女。
噂は――噂。
都市伝説。
街談巷説《がいだんこうせつ》。
道聴塗説。
話半分――か。
「……あー。そうだ、思い出した」
「え?」
「僕、忍野《おしの》に呼ばれてるんだった」
「忍野さんに? 何で?」
「ちょっと――まあ、仕事の手伝いを」
「ふ、ううん?」
羽川は微妙な反応を見せる。
いきなりの話題の切り替え――というか、露骨《ろこつ》なまでの切り上げ方に、不審《ふしん》を覚えているようだ。仕事の手伝いという微妙な言い方も、その疑いに拍車《はくしゃ》をかけているのだろう。これだから、頭のいい奴の相手は苦手だ。
察してくれてもよさそうなものなのに。
僕は席を立ちつつ、半ば強引に続けた。
「というわけで、僕、もう帰らなくちゃいけないんだった。羽川、後、任せていいか?」
「埋め合わせをすると約束できるなら、今日はいいわ。大した仕事も残ってないし、今日は勘弁してあげる。忍野さんを待たせても悪いしね」
羽川は、それでもとりあえず、そう言ってくれた。忍野の名前が効いたらしい。僕にとってそうであるように、羽川にとっても忍野は恩人にあたるので、不義理は絶対に有り得ないのだろう。まあ勿論、その辺は計算ずくだけれど、まるっきり嘘というわけでもない。
「じゃあ、出し物の候補は、私が全部決めちゃっていい? 後で一応、確認だけはしてもらうけれど」
「ああ。任せる」
「忍野さんによろしくね」
「伝えとくよ」
そして僕は教室から外に出た。
003
教室から出、後ろ手で扉《とびら》を閉じ、一歩進んだところで、背中から、
「羽川さんと何を話していたの?」
と、声を掛けられた。
振り向く。
振り向くときには、まだ僕は、相手が誰だか把握《はあく》できていない――聞き覚えのない声だった。しかし聞いたことのある声ではあった。そう、授業中に教師に当てられて、決まり文句のように発する、か細い『わかりません』――
「動かないで」
その一言目で、相手が戦場ヶ原であることを僕は知る。僕が振り向いたその瞬間、狙《ねら》い澄《す》ましたように、まるで隙間《すきま》を通すように、僕の口腔《こうこう》内に、たっぷりと伸ばしたカッターナイフの刃を、戦場ヶ原が通したことも――知った。
カッターナイフの刃が。
僕の左頬《ひだりほお》内側の肉に、ぴたりと触れる。
「…………っ!」
「ああ、違うわ――『動いてもいいけれど、とても危険よ』というのが、正しかったのね」
加減しているのでもない、しかしかといって乱暴にしているのでもない、そんなぎりぎりの強さで――刃は、僕の頬肉を、引き伸ばす。
僕としては、もう間抜けのように、大きく口を開いて、微動だにせず、戦場ヶ原の忠告通り――動かずにいることしか――できなかった。
怖い。
と、思った。
カッターナイフの刃が――ではない。
僕にそんな真似《まね》をしておきながら、ちっとも揺るがない、ぞっとするくらいに冷えた視線で――僕を見つめる戦場ヶ原ひたぎが、怖かった。
こんな――
こんな剣呑《けんのん》な目をした、奴だったのか。
確信した。
今、僕の左頬の内側に添えられているカッターナイフの刃が、潰《つぶ》されてもおらず、絶対に峰《みね》でもないということを、戦場ヶ原のその目を見ることで、僕は確信した。
「好奇心というのは全くゴキブリみたいね――人の触れられたくない秘密ばかりに、こぞって寄ってくる。鬱陶《うっとう》しくてたまらないわ。神経に触れるのよ、つまらない虫けらごときが」
「……お、おい――」
「何よ。右っ側が寂しいの? だったらそう言ってくれればいいのに」
カッターナイフを持っている右手とは反対の左手を、戦場ヶ原は振り上げる。その素早さに、平手打ちでもされるのかと僕は、歯を食いしばらないように[#「歯を食いしばらないように」に傍点]身構えたが、しかし、違った。そうではなかった。
戦場ヶ原は左手にはホッチキスを持っていた。
それがはっきりと視認できるよりも先に、彼女はそれを、僕の口の中に差し込んだ。勿論ホッチキスの全部を差し込んだわけではない、そうしてくれていたらむしろよかった、戦場ヶ原は、僕の右頬肉を、ホッチキスで挟《はさ》み込むように――綴《と》じる形で、差し込んだのだ。
そして、緩《ゆる》く――挟まれる。
綴じる、ように。
「か……は」
体積の大きい頭の方、つまり、ホッチキスの針が装填《そうてん》されている側を入れられているため、僕の口の中は大入り満員状態で、当然のように、言葉を発することができなくなる。カッターだけなら、動けないまでもまだ喋《しゃべ》ることはできたのだろうが――今はもう、それを試す気にもならない。考えたくも無い。
まず薄くて鋭《するど》いカッターナイフを差し込むことで大口を開けさせ、そこにすかさずホッチキスを続ける――隅々まで計算された、恐ろしい手際の良さだった。
畜生、口の中にこんな色々突っ込まれたことなんて、中学一年生の頃に永久歯の虫歯の治療を受けて以来だ。あれから、二度とそんなことがないように、毎朝毎晩毎食後、歯を磨き続け、キシリトール入りのガムをかみ続けてきたというのに、それがまさかこんなことになろうとは。
なんて足元のすくわれ方だ。
またたく間に――この状況。
つい壁一枚隔てた向こう側で、羽川が文化祭の出し物の候補を決めているだなんて、とても思えないような異常空間が、何の変哲《へんてつ》も無い私立高校の廊下において、形成されていた。
羽川……。
何が『一見危なっかしい感じの苗字だけど』だ。
思いっきり名前通りの女じゃないか……。
あいつも案外人を見る目がないなあ!
「羽川さんに私の中学時代の話を聞いたところで、次は担任の保科《ほしな》先生かしら? それとも一足《いっそく》飛ばしに、保健の春上《はるかみ》先生のところへ行ってみる?」
「………………」
喋れない。
そんな僕をどう見ているのか、戦場ヶ原は、やれやれといった風に、大仰にため息をつく。
「全く私も迂闊《うかつ》だったわ。『階段を昇《のぼ》る』という行為には人一倍気を遣《つか》っているというのに、この有様。百日の説法屁《せっぽうへ》一つとはよく言ったものだわ」
「………………」
こんな状況でも花も恥《は》じらう十代の乙女が屁という言葉を口にすることに抵抗を覚える僕は案外いい奴なんじゃないかと思った。
「まさかあんなところにバナナの皮が落ちているだなんて、思いもしなかったわ」
「………………」
僕は今バナナの皮で足を滑《すべ》らす女に活殺自在。
ていうかなんでそんなものが学校の階段に。
「気付いているんでしょう?」
戦場ヶ原は僕に問う。
目つきは、剣呑なままだ。
こんな深窓の令嬢がいてたまるか。
「そう、私には――重さがない」
体重が、ない。
「といっても、全くないというわけではないのよ――私の身長・体格だと、平均体重は四十キロ後半強というところらしいのだけれど」
五十キロらしい。
左頬が内側から伸ばされ、右頬肉が圧迫された。
「…………っ!」
「変な想像は許さないわよ。今私のヌードを思い浮かべたでしょう」
全然違うが、結果的には鋭かった。
「四十キロ後半強というところらしいのだけれど」
戦場ヶ原は主張した。
譲《ゆず》らないみたいだ。
「でも、実際の体重は、五キロ」
五キロ。
生まれたばかりの赤子と、そう変わらない。
五キロのダンベルを思い浮かべれば、一概にゼロに近いといえるほどの数字ではないが、しかし五キロという質量が、人間一人の大きさに分散していることを考えれば、密度の問題――実感としては、体重がないも同然だ。
受け止めるのも、容易《たやす》い。
「まあ、正確を期すなら、体重計が表示する重量が五キロというだけなのだけれど――本人としては自覚はないわ。四十キロ後半強だった頃も、私自身は、今も、何も変わらない」
それは――
重力から受ける影響が少ないということなのだろうか? 質量ではなく、容積――確か、水の比重が一で、人間もほとんど水で構成されている都合上、比重、密度はおよそ一――単純に考えて、戦場ヶ原はその十分の一の密度であるということになる。
骨密度がそんな数字なら、あっという間に骨粗鬆症《こつそしょうしょう》だろう。内臓だって脳髄《のうずい》だって、正しくは動作しないはずだ。
だから、そうじゃない。
数字の問題じゃ――ない。
「何を考えているかわかるわよ」
「…………」
「胸ばかりみて、いやらしい」
「…………っ!」
断じて考えていない!
どうやら戦場ヶ原はかなり自意識の高い女子高生のようだった。それだけ綺麗な容姿をしていれば無理もないが――爪《つめ》の垢《あか》でも煎《せん》じて、壁の向こうで仕事をしている委員長に飲ませてあげたい。
「底の浅い人間はこれだから嫌になるわ」
この状況では、どうも、誤解を解くのは不可能のようだとして――ともかく、僕が考えていたのは、戦場ヶ原は、つまり、病弱とは縁遠い、与えられている立ち位置がまるで看板違いな身体であるということだ。体重が五キロだなんて、それこそ病弱どころか貧弱であるはずなのに、そうじゃない。どころか――強いて言うなら、重力が十倍の星から地球にやってきた宇宙人みたいなものだろう、かなり、運動能力は高いはずだ。元々、陸上部だったというのだから、尚更《なおさら》である。ぶつかり合いに向いていないのは確かだろうが……。
「中学校を卒業して、この高校に入る前のことよ」
戦場ヶ原は言った。
「中学生でも高校生でもない、春休みでもない、中途|半端《はんぱ》なその時期に――私はこう[#「こう」に傍点]なったの」
「…………」
「一匹の[#「一匹の」に傍点]――蟹に出会って[#「蟹に出会って」に傍点]」
か――蟹《かに》?
蟹と言ったか?
蟹って――冬に食べる、あの蟹?
甲殻綱十脚目《こうかくこうじっきゃくもく》の――節足《せっそく》動物?
「重さを――根こそぎ、持っていかれたわ」
「…………」
「ああ、別に理解しなくていいのよ。これ以上かぎまわられたらすごく迷惑だから、喋っただけだから。阿良々木くん。阿良々木くん――ねえ、阿良々木|暦《こよみ》くん」
戦場ヶ原は。
僕の名を、繰り返して、呼んだ。
「私には重さがない――私には重みがない。重みというものが、一切ない。全く困ったものじゃない。さながら『ヨウスケの奇妙な世界』といった有様よ。高橋《たかはし》葉介《ようすけ》、好きかしら?」
「…………」
「このことを知っているのはね、この学校では、保健の春上先生だけなの。今現在、保健の春上先生だけ。校長の吉城《よしき》先生も教頭の島《しま》先生も学年主任の入中《いりなか》先生も担任の保科先生も知らないわ。春上先生と――それから、あなただけ。阿良々木くん」
「…………」
「さて、私は、あなたに私の秘密を黙っていてもらうために、何をすればいいのかしら? 私は私のために、何をすべきかしら? 『口が裂けても[#「口が裂けても」に傍点]』喋《しゃべ》らないと、阿良々木くんに誓ってもらうためには――どうやって『口を封じれば[#「口を封じれば」に傍点]』いいかしら?」
カッターナイフ。
ホッチキス。
正気か[#「正気か」に傍点]、こいつ[#「こいつ」に傍点]――同級生に対して、なんて追い込み方をするんだ。こんな人間がいていいのか? こんな恐ろしい人間と、机を並べて同一空間内に、二年以上もいたのかと思うと、素直に背筋《せすじ》が震《ふる》える。
「病院の先生が言うには、原因不明――というより、原因なんかない[#「ない」に傍点]んじゃないかって。他人の身体をあそこまで屈辱《くつじょく》的に弄繰《いじく》り回して、その結論はお寒いわよね。元から、それ[#「それ」に傍点]がそうである[#「そうである」に傍点]ように、そうであった[#「そうであった」に傍点]としかいえない――なんて」
戦場ヶ原は自嘲《じちょう》のように言う。
「あまりに馬鹿馬鹿しいと思わない? 私――中学校までは、普通の、可愛《かわい》い女の子だったのに」
「………………」
手前で手前のことを可愛いと言い放った事実はひとまず置いておくとして。
病院に通っているのは、本当だったか。
遅刻、早退、欠席。
それに――保健の先生。
どんな気分なのだろう、と、考えてみる。
僕のように――僕のように[#「僕のように」に傍点]、ほんの短い[#「ほんの短い」に傍点]、二週間程度の春休みの間だけではなく[#「二週間程度の春休みの間だけではなく」に傍点]――高校生になってから、ずっとそうだった[#「ずっとそうだった」に傍点]、というのは。
何を諦《あきら》め。
何を捨てるのに。
十分な、時間だっただろう。
「同情してくれるの? お優しいのね」
戦場ヶ原は、僕の心中を読んだのか、吐き捨てるようにそう言った。汚らわしいとでも、言わんばかりに。
「でも私、優しさなんて欲しくないの」
「…………」
「私が欲しいのは沈黙と無関心だけ。持っているならくれないかしら? ニキビもない折角《せっかく》のほっぺた、大事にしたいでしょう?」
戦場ヶ原は。
そこで、微笑《ほほえ》んだ。
「沈黙と無関心を約束してくれるのなら、二回、頷《うなず》いて頂戴《ちょうだい》、阿良々木くん。それ以外の動作は停止でさえ、敵対行為と看做《みな》して即座に攻撃に移るわ」
一片の迷いもない言葉だった。
僕は、選択の余地なく、頷く。
二回、頷いてみせる。
「そう」
戦場ヶ原はそれを見て――安心したようだった。
選択の余地のない、取引とも協定とも言えない、こちらとしては同意するしかない要求だったにもかかわらず――僕がそれに素直に応じたことに、戦場ヶ原は、安心、したようだった。
「ありがとう」
そう言って、まずはカッターナイフを、僕の左頬内側の肉から離し、ゆっくりと、慎重《しんちょう》というよりは緩慢《かんまん》な動作で、抜く。その際に、誤って口腔を傷つけないようにと、配慮《はいりょ》の感じられる手つきだった。
抜いたカッターの、刃を仕舞《しま》う。
きちきちきちきち、と。
そして、次はホッチキス。
「……ぎぃっ!?」
がじゃこっ[#「がじゃこっ」に傍点]、と。
信じられないことに。
ホッチキスを――戦場ヶ原は、勢いよく、綴じた。そして、その激しい痛みに反応して、僕がアクションを取る前に、すいっと要領よく、そのホッチキスを、戦場ヶ原は引き抜く。
僕は、その場に、崩れるように、蹲《うずくま》った。
外側から頬を抱えるように。
「ぐ……い、いい」
「悲鳴を上げないのね。立派だわ」
そ知らぬ顔で――
戦場ヶ原が、上から言った。
見下すように。
「今回はこれで勘弁してあげる。自分の甘さが嫌になるけれど、約束してくれた以上、誠意をもって応えないとね」
「……お、お前――」
がじゃこっ[#「がじゃこっ」に傍点]。
僕が何か言おうとしたところに、被せるように、戦場ヶ原は、ホッチキスを、音を立てて――中空で、綴じた。
変形した針が、僕の目の前に落ちる。
自然、身が竦《すく》んだ。
反射という奴だ。
たった一回で――条件反射が組み込まれた。
「それじゃ、阿良々木くん、明日からは、ちゃんと私のこと、無視してね。よろしくさん」
それだけ言って、僕の反応を確認するようなこともなく、戦場ヶ原は踵《きびす》を返し、すたすたと、廊下を歩いていった。僕が、蹲った姿勢から、何とか立ち上がるよりも前に、角を折れて、その後ろ姿は見えなくなる。
「あ……悪魔みたいな女だ」
脳味噌の構造が――はなっから、違う。
あの状況にあっても、そうは言っても、実際にやったり[#「やったり」に傍点]はしないのだろうと、どこか僕は、たかをくくっていた。むしろこの場合、あいつがカッターナイフではなくホッチキスの方を選択してくれたことを、幸運と取るべきか。
先刻《さっき》までのように痛みを和《やわ》らげるためではなく、頬の状態を確認するために、そっと、撫《な》でる。
「………………」
よし。
大丈夫だ、貫通はしていない。
続けて僕は、口の中に、今度は自分の指を差し込む。右頬なので左の指だ。すぐに、それらしき感触に行き当たった。
全然消えてなくならない、弱くもならない鋭い痛みで、分かりきってはいたことだが――ホッチキスの針は、実は一発目は装填《そうてん》されていなかった、やっぱりただの脅し脅かしでしたという、平和的な線は、消滅ってわけか……正直、かなり期待していたのだが。
まあいい。
貫通していないということは、針は、極端に変形していないということだ……ほとんど、コの字形の直角状態を保っているはず。言うなら返しのついていない形、ならばそれほどの抵抗なく、力任せに引き抜けるはずだ。
人さし指と親指で摘《つま》んで、一気に。
鋭い痛みに、鈍い味が加わった。
血が噴き出したらしい。
「……くあぁ……」
大丈夫。
この程度なら[#「この程度なら」に傍点]――僕は大丈夫[#「僕は大丈夫」に傍点]。
べろで、頬の内側にできた二つの傷穴を、舐《な》めるようにしながら、僕は抜き取ったホッチキスの針を、そのまま折り曲げて、学ランのポケットに入れた。さっき戦場ヶ原が落とした針も、拾って、同じようにした。誰かが裸足《はだし》で踏んだりしたら危険だ。もう僕にはホッチキスの針がマグナム弾と同じようにしか見えなかった。
「あれ? 阿良々木くん、まだいたの?」
していると、教室から羽川が出てきた。
どうやら作業は終わったらしい。
ちょっと遅い。
いや、ナイスタイミングというべきか。
「忍野さんのところ、早くいかなくていいの?」
疑問そうに言う羽川。
何も悟ってない風だった。
壁一枚向こう側――そう、全く、こんな薄い、壁一枚向こう側なのだ。それなのに、羽川に全く悟らせずに、あれだけの荒業をやってのけた戦場ヶ原ひたぎ、やはり――只者《ただもの》ではない。
「羽川……お前、バナナ、好きか」
「え? まあ、別に嫌いじゃないけれど。栄養価高いし、好きか嫌いかでいえば、うん、好きかな」
「どんな好きでも校内では絶対に食べるなよ!」
「は、はあ?」
「食べるだけならまだいい、残った皮を階段にポイ捨てしてみろ、僕はお前を絶対に許さない!」
「一体何を言っているの阿良々木くん!?」
手を口に当て、戸惑《とまど》いの表情の羽川。
そりゃそうだろう。
「それより阿良々木くん、忍野さんの――」
「忍野のところへは――これから行くんだよ」
そう言って。
僕はそう言って、羽川の脇《わき》を抜けるように、一息に、駆け出した。「あー! こら、阿良々木くん、廊下を走っちゃ駄目! 先生に言いつけちゃうよ!」と、後ろから羽川の、そんな声が聞こえたが、当然のように黙殺する。
走る。
とにかく、走る。
角を折れたところで、階段。
ここは四階。
まだ、そう離れていないはずだ。
ホップ、ステップ、ジャンプのように、二段、三段、四段飛ばしで階段を飛び下りて――踊り場で着地。
衝撃が脚《あし》に来る。
体重分の衝撃だ。
こんな衝撃も――
だから、戦場ヶ原には、ないのだろう。
重さが無い。
重みが無い。
それは――足元が覚束《おぼつか》ないということ。
蟹。
蟹と――彼女は言った。
「こっちじゃ、なくて――こっちか」
まさか今から、横に折れたりはしないだろう。追いかけてくると思っているわけもない、素直に縦に、校門に向かっているはずだ。部活も、どうせ帰宅部に決まっている、仮に何らかの何らかに属していたとしても、こんな時間から始まる活動なんて有り得ない。そう決め付けて、僕は三階から二階へ、躊躇《ちゅうちょ》無く、階段を降りる。飛び降りる。
そして二階から一階への踊り場。
戦場ヶ原は、そこにいた。
どたばた音をさせながら、転がるように追いかけたのだ、既に察していたのだろう、こちらに背中を向けてはいるものの、既に、振り返っている。
冷めた目で。
「……呆《あき》れたわ」
そう言う。
「いえ、ここは素直に驚いたというべきね。あれだけのことをされておいて、すぐに反抗精神を立ち上げることができたのなんて、覚えている限りではあなたが初めてよ、阿良々木くん」
「初めてって……」
他でもやってたのかよ。
百日の説法とか言ってた癖《くせ》に。
でも、確かに、考えてみれば、『体重が無い』なんて、触れられればそれですぐにバレてしまうような秘密を、完全に守り通すなんてこと、現実的には不可能だよな……。
そう言えば『今現在』って言ってた、こいつ。
本当に悪魔なのかもしれない。
「それに、口の中の痛みって、そう簡単に回復するようなものじゃないはずなのだけれど。普通、十分はその場から動けないのに」
経験者の台詞《せりふ》だった。
怖《こわ》過ぎる。
「いいわ。分かった。分かりました、阿良々木くん。『やられたらやり返す』というその態度は私の正義に反するものではありません。だから、その覚悟があるというのなら」
戦場ヶ原はそう言って。
両腕を、左右に、広げた。
「戦争を、しましょう」
その両手には――カッターナイフとホッチキスを始めに、様々な文房具が、握《にぎ》られていた。先の尖《とが》ったHBの鉛筆、コンパス、三色ボールペン、シャープペンシル、アロンアルフア、輪ゴム、ゼムクリップ、目玉クリップ、ガチャック、油性マジック、安全ピン、万年筆、修正液、鋏《はさみ》、セロハンテープ、ソーイングセット、ペーパーナイフ、二等辺三角形の三角|定規《じょうぎ》、三十センチ定規、分度器、液体のり、各種彫刻刀、絵の具、文鎮《ぶんちん》、墨汁《ぼくじゅう》。
…………。
将来、こいつと同じクラスだったという事実だけで、世間から謂《いわ》れなき迫害を受けてしまうような予感がした。
個人的にはアロンアルフアが一番デンジャラス。
「ち……違う違う。戦争はしない」
「しないの? なあんだ」
どこか残念そうな響きだった。
しかし広げた両腕は、まだ収めない。
文房具という名の凶器は、きらめいたままだ。
「じゃあ、何の用よ」
「ひょっとしたら、なんだけれど」
僕は言った。
「お前の、力になれるかもしれないと、思って」
「力に?」
心底――
馬鹿にしたように、彼女は、せせら笑った。
いや、怒ったのかもしれない。
「ふざけないで。安い同情は真っ平だと言ったはずよ。あなたに何ができるっていうのよ。黙って、気を払わないでいてくれたらそれでいいの」
「…………」
「優しさも――敵対行為と看做すわよ」
言って。
彼女は一段、階段を昇った。
本気だろう。
躊躇しない性格であることは、先程のやり取りで、もう分かり過ぎるほど分かっている。嫌というほどに、だ。
だから。
だから僕は何も言わず、ぐい、と、自分の唇《くちびる》の端に指を引っ掛けて、頬を伸ばして見せた。
右手の指で、右頬を、だ。
自然、右頬の内側が、晒《さら》される。
「――え?」
それを見て、さすがの戦場ヶ原も、驚いたようだった。ぽろぽろと、両手に持っていた文房具という名の凶器を、取り落とす。
「あなた――それって、どういう」
問われるまでもない。
そう。
血の味も、既にしない。
戦場ヶ原がホッチキスでつけた口の中の傷は、既に、跡形も無く、治ってしまっていた。
004
春休みのことである。
僕は吸血鬼に襲《おそ》われた。
リニアモーターカーが実用化し、修学旅行で海外へ行くのが当たり前みたいなこの時代に、恥ずかしくってもう表に出られないくらいの事実だが、とにかく、僕は吸血鬼に襲われたのだ。
血も凍るような、美人だった。
美しい鬼だった。
とても――美しい鬼だった。
学ランのカラーで隠れてはいるが、今でも僕の首筋には、彼女に深く咬《か》まれた、その痕跡《こんせき》が残っている。暑くなる前に、どうにか髪が伸びてくれればと思っているのだが、それはさておき――普通、一般人が吸血鬼に襲われたとなれば、たとえばヴァンパイアハンターとかいう吸血鬼専門の狩人《かりうど》だったり、キリスト教の特務部隊だったり、あるいは吸血鬼でありながら同属を狩る吸血鬼殺しの吸血鬼だったりが、助けてくれるのがストーリーってものなのだろうが、僕の場合、通りすがりの小汚いおっさんに助けられた。
それで、僕は何とか、人間に戻れたが[#「人間に戻れたが」に傍点]――日光も十字架も大蒜《にんにく》も平気になったが、しかし、その影響というか後遺症《こういしょう》で、身体能力は、著《いちじる》しく、上昇したままなのだ。といっても、運動能力ではなく、新陳代謝《しんちんたいしゃ》など、いわゆる回復力方面の話だが。カッターナイフで頬を切り裂かれていたら果たしてどうだったかはわからないが、ホッチキスの針が刺さった程度ならば、回復するまでに三十秒もいらない。それでなくとも、どんな生物であれ、口の中の傷の回復は早いものなのだ。
「忍野――忍野さん?」
「そう。忍野メメ」
「忍野メメ、ね――なんだか、さぞかしよく萌《も》えそうな名前じゃないの」
「その手の期待はするだけ無駄《むだ》だぞ。三十過ぎの年季の入った中年だからな」
「あっそう。でも子供の頃は、さぞかし萌えキャラだったのでしょうね」
「そういう目で生身の人物を見るな。ていうか、お前、萌えとかキャラとか分かる奴なのか?」
「これしき、一般教養の部類よ」
戦場ヶ原は平然と言った。
「私みたいなキャラのことを、ツンデレっていうのでしょう?」
「………………」
お前みたいなキャラはツンドラって感じだ。
閑話休題。
僕や羽川、戦場ヶ原の通う、私立|直江津《なおえつ》高校から、自転車で二十分くらい行った先、住宅街から少し外れた位置に、その学習塾は建っている。
建っていた。
数年前、駅前に進出してきた大手予備校のあおりをもろに食らう形で、経営難に陥《おちい》り、潰れてしまったそうだ。僕がこの、四階建てのビルディングの存在を知ったときには、もう見事な廃墟《はいきょ》になった後だったので、その辺りは全て、聞いた事情という奴だけれど。
危険。
私有地。
立入禁止。
そんな看板が乱立し、安全第一のフェンスで取り囲まれてはいるものの、そこらじゅうが隙間だらけで、出入りは自由と言っていい。
この廃墟に――忍野は住んでいる。
勝手に居ついている。
春休みから数えて、一ヵ月、ずっとだ。
「それにしてもお尻が痛いわ。じんじんする。スカートに皺《しわ》がよっちゃったし」
「僕の責任じゃない」
「言い逃れはやめなさい。切り落とすわよ」
「どの部位をですかっ!?」
「自転車の二人乗りなんて私は初めての経験だったのだから、もっと優しくしてくれてもよさそうなものじゃない」
優しさは敵対行為じゃなかったのか。
言うことなすこと滅茶苦茶《めちゃくちゃ》な女だ。
「じゃあ、具体的にどうすればよかったんだよ」
「そうね。ほんの一例だけれど、たとえば、あなたの鞄《かばん》を座布団《ざぶとん》代わりに寄越《よこ》すなんてのはどうだったかしら」
「自分以外はどうでもいいのかお前は」
「お前呼ばわりしないで頂戴。ほんの一例だけれどって言ったじゃない」
それが何のフォローになっているのだろう。
はなはだ疑問だった。
「ったく――実際、マリー・アントワネットだって、お前よりはもう少し謙虚で、慎《つつし》み深い人間だったろうよ」
「彼女は私の弟子みたいなものなの」
「時系列はっ!?」
「そんな気安く私の言葉に突っ込みを入れないでくれるかしら。さっきから、もう、本当に馴《な》れ馴《な》れしいわ。もしも知らない人に聞かれたらクラスメイトだと思われるじゃない」
「いや、クラスメイトじゃん!」
そこまで否定されるのかよ。
なんだか、あんまりだ。
「たく……お前を相手にするには、どうやらとてつもない忍耐力が必要とされるようだな……」
「阿良々木くん。その文脈だと阿良々木くんじゃなくて私の性格が悪いみたいに聞こえるわよ?」
そう言ったんだ。
「ていうか、お前、自分の鞄はどうしたんだ。手ぶらだけど。持ってないのか」
そういえば、戦場ヶ原が、手に荷物を持っている図というのを、僕はこれまで、見た覚えがない。
「教科書は全て頭の中に入っているわ。だから学校のロッカーに置きっぱなし。身体中に文房具を仕込んでおけば、鞄は不要ね。私の場合、体育の着替えなんかは、いらないし」
「ああ、なるほど」
「両手が自由になっていないと、いざというときにどうしたって戦いにくいもの」
「…………」
全身凶器。
人間凶器。
「生理用品を学校に置いたままにするのには抵抗があるから、困るのはそれくらいね。友達がいないから誰にも借りられないし」
「……そういうことをさらりと言うな」
「何よ。文字通り生理現象なのだから、恥ずかしいことではないわ。隠す方がいやらしいでしょう」
隠さないのもどうかと思う。
いや、個人の主義だ。
口は出すまい。
むしろ、意識に留めておくべきなのは、よりさらりと言った――友達がいないからという、発言の方なのかもしれない。
「ああ、そうだ」
僕は別にそういうのは気にしないけれど、先程のスカートに関する発言からも見て取れるよう、やはり戦場ヶ原も女の子だから、制服がほつれたりするのは嫌うだろうと、大きめの入り口[#「入り口」に傍点]を探し、そこに辿《たど》り着いたところで、僕は戦場ヶ原を振り向いた。
「その文房具とやら、僕が預《あず》かる」
「え?」
「預かるから、出せ」
「え? え?」
法外な要求を受けたという顔をする戦場ヶ原だった。あなたって頭おかしいんじゃないのとでも言いたげな感じ。
「忍野は、なんというか、変なおっさんだけど、一応、僕の恩人なんだ――」
それに。
羽川の恩人でもある。
「――その恩人に、危険人物を会わせるわけにはいかないから、文房具は、僕が預かる」
「ここに来てそんなことをいうなんて」
戦場ヶ原は僕を睨《にら》む。
「あなた、私を嵌《は》めたわね」
「…………」
そこまで言われるようなことかなあ?
しかし、戦場ヶ原は、かなり真剣な葛藤《かっとう》を、暫《しばら》くの間、一言の口も利かずに、続けた。時折僕をねめつけながら、時折足元の一点を見つめるようにしながら。
ひょっとしたらこのまま踵を返して帰っちゃうのかもしれないと思ったが、しかし、やがて、戦場ヶ原は、「了承したわ」と、覚悟を決めたように、言った。
「受け取りなさい」
そして、彼女は、身体中のあちこちから、百花繚乱《ひゃっかりょうらん》様々な文房具を、さながらマジックショーの様に[#底本「のに」修正]取り出し、僕に手渡した。あのとき、階段の踊り場で僕に見せたのは、あれでもまだほんの一部、凶器にして狂気の片鱗《へんりん》に過ぎなかったらしい。こいつのポケットの中は四次元にでもなっているのかもしれない。二十二世紀の科学なのかもしれない。預かるとは言ったものの、僕の鞄の中に入りきるかどうかも、怪しいくらいのとてつもない物量だった。
……こんな人間が何の制限も受けずに天下の公道を闊歩《かっぽ》しているというのは、どう考えても、行政の怠慢《たいまん》なんじゃないだろうか……。
「勘違いしないでね。別に私は、あなたに気を許したというわけではないのよ」
全てを僕に渡し終えた後で、戦場ヶ原は言った。
「気を許したわけではないって……」
「もしもあなたが私を騙《だま》し、こんな人気の無い廃墟に連れ込んで、ホッチキスの針で刺された件で仕返しを企《たくら》んでいるというのなら、それは筋違《すじちが》いというものよ」
「…………」
いや、筋はものすごく合っていると思う。
「いいこと? もしも私から一分おきに連絡がなかったら、五千人のむくつけき仲間が、あなたの家族を襲撃することになっているわ」
「大丈夫だって……余計な心配するな」
「一分あればこと足りると言うの!?」
「僕はどこかのボクサーかよ」
ていうか躊躇無く家族を標的にしやがった。
とんでもない。
しかも五千人って、大嘘つきだった。
友達のいない身で大胆な嘘である。
「妹さん、二人ともまだ中学生なんですってねえ」
「………………」
家族構成を把握されていた。
嘘ではあっても冗談ではないらしい。
とにかく、多少の不死身[#「不死身」に傍点]を見せたところで、どうやら僕は全然信頼されていないようだった。忍野は、こういうのは信頼関係が大事だと言っていたから、その点から鑑《かんが》みるに、この状況はあまりいいとは言えないみたいである。
まあ、仕方がない。
ここから先は、戦場ヶ原一人の問題だ。
僕はただの、案内人である。
金網の裂け目を通り、敷地内に入って、ビルディングの中に這入《はい》る。まだ夕方だけれど、建物の中だというだけで、かなり薄暗い。長期開放置されっぱなしだった建物だ、足元がかなりとっちらかっているので、うっかりしていたら躓《つまず》きかねない。
そこで気付く。
僕にとって、たとえば空き缶が落ちていても、それはただの空き缶だが、戦場ヶ原にしてみれば、それは、十倍の質量を持った空き缶なのだ。
相対的に考えればそうなる。
十倍の重力、十分の一の重力という風に、昔の漫画みたいに簡単に割り切れる問題ではない。重さが軽いイコールで運動能力が高いと、単純に考えちゃ駄目なのだ。ましてこの暗闇で、見知らぬ場所である。戦場ヶ原が、まるで野生の獣《けもの》のように、警戒心をむき出しにしても、それは仕方がないのかもしれない。
速さでは十倍でも。
強さは十分の一になるのだから。
文房具をあれほど手放したがらなかった理由も、そう考えれば、分かる気がした。
それに――鞄を持たない。
鞄を持てない、理由も。
「……こっちだよ」
入り口辺りで、所在なさげに踏みとどまっていた戦場ヶ原の、手首を握るようにして、僕は彼女を導《みちび》いた。少し唐突だったので、戦場ヶ原は面食らったようだったが、
「何よ」
と言いながらも、素直に僕についてきた。
「感謝するなんて思わないでね」
「わかってるよ」
「むしろあなたが感謝なさい」
「わからねえぞ!?」
「あのホッチキス、傷が目立たないようにと思って、わざと、外側じゃなくて内側に針が刺さるようにしてあげたのよ?」
「…………」
それはどう考えても、『顔は目立つから腹を殴れ』みたいな、加害者側の都合だろう。
「そもそも、貫通したらおんなじだったろうが」
「阿良々木くんは面《つら》の皮が厚《あつ》そうだから、なんとなく大丈夫そうだと判断したわ」
「嬉《うれ》しくねえ嬉しくねえ。しかもなんとなくって」
「私の直感は、一割くらいは当たるわよ」
「低っ!」
「まあ――」
戦場ヶ原は、若干《じゃっかん》間を空けて、言った。
「どの道、全然、無駄な気遣いだったわけだけれど」
「……だな」
「不死身って便利そうねって言われたら、傷つく?」
戦場ヶ原の質問。
僕は答えた。
「今は、そうでもない」
今は――そうでもない。
春休みだったら。
そんなことを言われたら――その言葉で、僕は死んでいたかもしれないけれど。致命傷だったかも、しれないけれど。
「便利と言えば便利だし――不便と言えば不便だし。そんなところかな」
「どっちつかずね。よくわからないわ」
肩を竦《すく》める戦場ヶ原。
「『往来危険』が危険なのかそうでないのか、どっちつかずなのと、似たようなものかしら」
「その言葉の『往来』はオーライじゃない」
「あらそう」
「それに、もう不死身じゃない。傷の治りがちっとばかし早いというだけで、他は普通の人間だ」
「ふうん。そうなんだ」
戦場ヶ原はつまらなそうに呟いた。
「機会があれば色々と試させてもらう予定だったのに、がっかりだわ」
「どうやら僕の知らないところで、かなり猟奇的な計画が立てられていた模様だな……」
「失敬ね。ちょっと○○を○○して○○させてもらおうと思っていただけよ」
「○○には何が入るんだっ!?」
「あんなこと[#「あんなこと」に傍線]やこんなこと[#「こんなこと」に傍線]もしてみたかったわね」
「傍線部の意味を答えろ!」
忍野がいるのは、大抵四階だ。
エレベーターもあるが、当然のように稼動していない。となると、選択肢は、エレベーターの天井を突き破って、ワイヤーを伝って四階まで移動するか、階段を昇るかだが、誰がどう考えたって、それは後者を選ぶべきだろう。
戦場ヶ原の手を引いたまま、階段を昇る。
「阿良々木くん。最後に言っておくけれど」
「何だよ」
「服の上からだとそうは見えないかもしれないけれど、私の肉体は、案外、法を犯してまで手に入れる価値はないかもしれないわよ」
「…………」
戦場ヶ原ひたぎさんは、どうやら随分と高い貞操観念をお持ちのようだった。
「遠回しな言い方ではわからなかったかしら? じゃあ具体的に言うわ。もしも阿良々木くんが下劣な本性を剥《む》き出しにして私を強姦《ごうかん》したら、私はどんな手段を行使してでも、あなたにボーイズラブな仕返しをしてみせるわ」
「…………」
恥じらいや慎みはゼロに近い。
ていうかマジで恐怖。
「なんか、その言葉のことだけじゃなくてさ、お前の行動、全般的に見て、戦場ヶ原、自意識過剰っつーか、ちょっと被害妄想、強過ぎるんじゃないか?」
「嫌だわ。本当のことでも言っていいことと悪いことがあるでしょう」
「自覚しているっ!?」
「それにしても、よく、こんな、今にも壊れそうなビルに住んでいるわね――その、忍野って人」
「ああ……随分な、変わり者でね」
戦場ヶ原とどちらの方がといわれたら、いまや即答の難しいところではあるけれど。
「事前に連絡を入れておくべきじゃなかったかしら? 今更だけれど、こちらから相談事をしようというのなら」
「その常識人みたいな発言には驚かされるばかりだけれど、残念ながら、携帯《けいたい》とか持ってないんだもん、あの人」
「どうにも正体不明ね。不審人物と言ってもいいくらい。一体、何をやっている人なの?」
「詳しくはわからないけれど――僕や、戦場ヶ原みたいなのを、専門[#「専門」に傍点]にしているんだって」
「ふうん」
全然説明になっていない説明だったが、それでも、戦場ヶ原は追及してくるようなことはしなかった。どうせもう会うのだからと思ったのかもしれないし、訊いても無駄だと思ったのかもしれない。どちらも正解だ。
「あら。阿良々木くん、右腕に時計をしているのね」
「ん? あ、うん」
「ひねくれ者なの?」
「先に左利きかどうかを訊け!」
「そう。で、どうなのかしら」
「…………」
ひねくれ者だった。
四階。
元が学習塾なので、教室めいた造りの部屋が、三つあるのだが――どの教室も、扉が壊れてしまっていて、廊下まで含めて一体化している状態。さて忍野はどこにいるのだろうと、まずは一番近場の教室を覗《のぞ》いて見たら、
「おお、阿良々木くん。やっと来たのか」
と。
忍野メメは、そこにいた。
ボロボロに腐食した机をいくつか繋ぎ合わせ、ビニール紐《ひも》で縛って作った、簡易製のベッド(とも呼べないような代物)の上に、胡坐《あぐら》をかいて、こっちを向いていた。
僕が来ることなど分かりきっていたという風に。
相変わらず――見透《みす》かしたみたいな男だ。
対して、戦場ヶ原は――明らかに、引いていた。
一応事前に伝えてあったとはいえ、忍野のその汚らしい風体が、今を生きる女子高生の美的基準を大きく逸脱《いつだつ》しているのだろう。こんな廃墟で暮らしていたら、誰だってあんなボロボロのナリにはなるのだろうけれど、それでも、確かに男子の僕から見ても、忍野の見てくれは、清潔感に欠けているとは言えた。清潔感に欠けていると言うしかない、もしも、正直であろうとすれば。そしてそれより何より、サイケデリックなアロハ服というのが致命的だ。
いつも思うことだけれど、全く、この人が自分の恩人だっていうのは、なんか、ショックだよな……。羽川あたりは人間ができているので、そんなこと、毛ほども気にしないようだけれど。
「なんだい。阿良々木くん、今日はまた違う女の子を連れているんだね。きみは会うたんびに違う女の子を連れているなあ――全く、ご同慶の至りだよ」
「やめろ、人をそんな安いキャラ設定にするな」
「ふうん――うん?」
忍野は。
戦場ヶ原を、遠目に眺めるようにした。
その背後に、何か[#「何か」に傍点]を見るように。
「……初めまして、お嬢さん。忍野です」
「初めまして――戦場ヶ原ひたぎです」
一応、ちゃんと挨拶《あいさつ》をした。
無意味に毒舌というわけでもないらしい。少なくとも年上の人間に対する礼儀礼節は弁《わきま》えているようだ。
「阿良々木くんとは、クラスメイトで、忍野さんの話を教えてもらいました」
「はあ――そう」
忍野は、意味ありげに頷く。
俯《うつむ》いてから、煙草《たばこ》を取り出し、口に咥《くわ》えた。ただし、口に咥えただけで、火はつけない。窓も、既に窓として機能していない、ただの中途半端な硝子《ガラス》の破片だが、忍野は煙草の先で、その向こうの景色を示すようにした。
そして、たっぷり間を空けてから、僕を向く。
「前髪が直線な女の子が好みかい、阿良々木くん」
「だから人を安く見積もるなって言ってるだろ。前髪直線が好きって、そんな奴普通に考えりゃただのロリじゃねえかよ。思春期と共に『フルハウス』があったてめえの世代と一緒にするな」
「だね」
忍野は笑った。
その笑い声に、戦場ヶ原は眉《まゆ》を顰《ひそ》める。
ロリという単語に気分を害したのかもしれない。
「えっと――まあ、詳《くわ》しい話は本人から聞いてもらえばいいとして、とにかく、忍野――こいつが、二年前くらいに――」
「こいつ呼ばわりもやめて」
戦場ヶ原は毅然《きぜん》とした声で言った。
「じゃあ、何て呼べばいいんだよ」
「戦場ヶ原さま」
「…………」
この女、正気か。
「……センジョーガハラサマ」
「片仮名の発音はいただけないわ。ちゃんと言いなさい」
「戦場ヶ原ちゃん」
目を突かれた。
「失明するだろうが!」
「失言するからよ」
「何だその等価交換は!?」
「銅四十グラム、亜鉛《あえん》二十五グラム、ニッケル十五グラム、照れ隠し五グラムに悪意九十七キロで、私の暴言は錬成《れんせい》されているわ」
「ほとんど悪意じゃねえかよ!」
「ちなみに照れ隠しというのは嘘よ」
「一番抜けちゃいけない要素が抜けちゃった!」
「うるさいわねえ。いい加減にしないとあなたのニックネームを生理痛にするわよ」
「投身モンのイジメだ!」
「何よ。文字通り生理現象なのだから、恥ずかしいことではないわ」
「悪意がある場合は別だろう!」
その辺で満足したらしく、戦場ヶ原は、ようやく、忍野に向き直った。
「それから、何よりもまず、私としては一番最初に訊いておきたいのだけれど」
忍野にというより、それは僕と忍野、両方に問う口調で、戦場ヶ原はそう言って、教室の片隅を指さした。
そこでは、膝《ひざ》を抱えるようにして、小さな女の子、学習塾というこの場においてさえ不似合いなくらいの小さな、八歳くらいに見える、ヘルメットにゴーグルの、肌の白い金髪の女の子が、膝を抱えて、体育座りをしていた。
「あの子は一体、何?」
何[#「何」に傍点]、というその訊き方からして、少女が何か[#「何か」に傍点]であることを、戦場ヶ原も察しているのだろう。それに、この戦場ヶ原ですらそこのけの、剣呑な目つきで、少女がただ一点、忍野を鋭く睨み続けていることからも、感じる者は、何かを感じるはずだ。
「ああ、あれは気にしなくていいよ」
忍野よりも先に僕が、戦場ヶ原に説明した。
「ただあそこで座っているだけで、別に何もできないから――何でもないよ。影も形もない。名前もなければ存在もない、そういう子供」
「いやいや、阿良々木くん」
そこで忍野が割り込むように言った。
「影と形、それに存在がないのはその通りだけれど、名前は昨日、つけてやったんだ。ゴールデンウィークにはよく働いてくれたし、それにやっぱり呼び名がないと、不便|極《きわ》まりないからね。それに、名前がないままじゃ、いつまでたっても彼女は凶悪なままだ」
「へえ――名前をね。なんて名前で?」
戦場ヶ原を置いてけぼりの会話だったが、興味があったので、僕は訊いた。
「忍野|忍《しのぶ》、と名付けてみた」
「忍――ふうん」
思い切り日本の名前だな。
この場合、どうでもいいことだけれど。
「刃《やいば》の下《もと》に心あり。彼女らしい、いい名前だろう? 苗字は僕のをそのまま流用させてもらった。そっちにも幸い、忍の一文字は入っているしね。二重にすることで三重の意味を持つ。我ながら、悪くないセンスだと、結構気に入っているんだが」
「いいんじゃないのか?」
というか、本当にどうでもいい。
「色々考えて、最終的には忍野忍か、それか忍野お志乃《しの》か、どっちかにすることにしたんだけれど、言語上の統制よりも語呂の良さを優先してみた。漢字の並びが、ちょっとばかしあの委員長ちゃんっぽいところも、僕的にはポイント高いんだよ」
「いいと思うよ」
絶対的にどうでもいいんだって。
いや、まあ、お志乃はないと思うが。
「だから」
いい加減|業《ごう》を煮《に》やした感じで、戦場ヶ原が言う。
「あの子は一体何なのよ」
「だから――何でもないってば」
吸血鬼の成れの果て。
美しき鬼の搾《しぼ》りかす。
なんて言っても、そんなの、仕方がないだろう? どうせ、戦場ヶ原には関係ない、これは、僕の問題なのだから。僕が、これから一生、付き合っていかなくちゃならない程度の、ただの業なのだから。
「何でもないの。ならいいわ」
「…………」
淡白な女だ。
「私は父方のお祖母《ばあ》ちゃんから、淡白でもいい、わくましく育ってくれればと、よく言われていたものよ」
「わくましくってなんだ」
入れ替わってる入れ替わってる。
オーソドックスをオードソックスっていうみたいな感じ。
「そんなことより」
戦場ヶ原ひたぎが、元吸血鬼、肌の白い金髪の少女改め忍野忍から、忍野メメに、視線を移した。
「私を助けてくださるって、聞いたのですけれど」
「助ける? そりゃ無理だ」
忍野は茶化すような、いつもの口調で言った。
「きみが勝手に一人で助かるだけだよ、お嬢ちゃん」
「…………」
おお。
戦場ヶ原の目が半分くらいに細くなった。
あからさまにいぶかしんでいる。
「私に向かって――同じような台詞《せりふ》を吐いた人が、今まで、五人いるわ。その全員が、詐欺師《さぎし》だった。あなたもその部類なのかしら? 忍野さん」
「はっはー。お嬢ちゃん、随分《ずいぶん》と元気いいねえ。何かいいことでもあったのかい?」
だからなんでお前もそんな挑発するような言い方をするんだ。それが効果的な相手も、たとえば羽川のように、いるのだろうけれど、しかし戦場ヶ原に限っては、それはない。
挑発には先制攻撃を以って返すタイプだ。
「ま、まあまあ」
やむなく、僕が仲裁《ちゅうさい》に入った。
二人の間に、強引に割り込むようにして。
「余計な真似を。殺すわよ」
「…………」
今、この人、ごく普通に殺すって言った。
何故僕に火の粉が飛ぶかな。
焼夷弾《しよういだん》みたいな女だ。
全く、形容するに暇《いとま》がない。
「ま、何にせよ」
忍野は対照的に、気楽そうに言った。
「話してくれないと、話は先に進まないかな。僕は読心の類《たぐい》はどうも苦手でね。それ以上に対話ってのが好きなんだ、根がお喋りなもんでね。とはいえ秘密は厳守するから、平気平気」
「…………」
「あ、ああ。まず、僕が簡単に説明すると――」
「いいわ、阿良々木くん」
戦場ヶ原が、またも、大枠を語ろうとした僕を、遮った。
「自分で、するから」
「戦場ヶ原――」
「自分で、できるから」
そう言った。
005
二時間後。
僕は、忍野と吸血鬼改め忍の居ついている学習塾跡を離れ、戦場ヶ原の家にいた。
戦場ヶ原の家。
民倉荘《たみくらそう》。
木造アパート二階建て、築三十年。トタンの集合郵便受け。かろうじて、シャワーと、水洗のトイレは備え付け。いわゆる1K、六畳《ろくじょう》一間、小さなシンク。最寄のバス停[#「バス停」に傍点]まで、徒歩二十分。家賃は概算、三万円から四万円(共益費・町内会費・水道代込み)。
羽川から聞いた話とは随分違った。
それが表情に出たのだろう、戦場ヶ原は、
「母親が怪しい宗教に嵌《はま》ってしまってね」
と、訊いてもいないことを、説明した。
言い訳でもするように。
まるで、取り繕《つくろ》うように。
「財産を全て貢《みつ》いだどころじゃ済まなくて、多額の借金まで背負ってしまってね。驕《おご》る平家は久しからずというわけよ」
「宗教って……」
悪徳な、新興宗教に嵌った。
それがどんな結果を招くのか、なんて。
「結局、去年の暮れに、協議離婚が成立して、私はお父さんに引き取られ、ここで二人で暮らしているわ。もっとも、二人で暮らしているといっても、借金自体はお父さんの名前で残っていて、今もそれを返すために、あくせく働いているから、お父さん、滅多《めった》に帰ってこないけれどね。事実上の一人暮らしは、気楽でいいわ」
「…………」
「まあ学校の住所録には前の住所を登録しているままだから、羽川さんが知らないのも無理もないわね」
おい。
いいのかよ、それ。
「いつか敵になるかもしれない人間に、なるべく住んでいる場所を知られたくはないもの」
「敵、ね……」
大袈裟《おおげさ》な物言いだとは思うが、人に知られたくない秘密を持つ者としては、有り得ないというほどの警戒心では、ないのかもしれない。
「戦場ヶ原。お母さんが宗教に嵌ったって――それって、ひょっとして、お前のためにか?」
「嫌な質問ね」
戦場ヶ原は笑った。
「さあね。わからないわ。違うのかも」
それは――嫌な答だった。
嫌な質問をしたのだから、当然かもしれない。
実際嫌な質問だった、思い出して自己嫌悪に陥るほどに。するべきじゃなかったし、あるいは、戦場ヶ原は、ここでこそ、十八番《おはこ》の毒舌で、僕を叱《しか》り飛ばすべきだっただろう。
一緒に暮らしている家族だ、娘の重みが無くなったなんて事実に、気付かないはずがない――まして母親が、気付けないはずがない。机を並べて授業を受けていればいい学校とは訳が違う。大事な一人娘の身体に、とんでもない異常が起こっていることくらい、簡単に露見する。そして、医者も事実上|匙《さじ》を投げ、検査を続けるだけの毎日となれば、心に拠《よ》り所《どころ》を求めてしまっても、それは誰かに責められるようなものではないだろう。
いや、責められるべきなのかもしれない。
僕にわかる話じゃない。
知ったような口を叩いてどうする。
ともかく。
ともかく、僕は――戦場ヶ原の家、民倉荘の二〇一号室で、座布団に座って、卓袱台《ちゃぶだい》に用意された湯のみに入ったお茶を、ぼおっと、見つめていた。
あの女のことだから、てっきり『外で待っていなさい』とか言うと思ったのだが、すんなりと抵抗なく、部屋に招き入れてくれた。お茶まで出してくれた。それはちょっとした衝撃だった。
「あなたを虐待してあげる」
「え……?」
「違った。招待だったわね」
「………………」
「いえ、やっぱり虐待だったかしら……」
「招待で完璧に正解だ――それ以外にはない! 自分で自分の間違いを正せるなんてなかなかできることじゃない、さすがは戦場ヶ原さん!」
……などと、精々《せいぜい》そんなやり取りがあった程度なのだから、僕としてはもう、戸惑うしかない。まして、知り合ったばかりの女の子の家に入るなんて、とか、そんなウブな文言《もんごん》を吐ける状況でもなかった。
ただ、お茶を、見つめるだけである。
その戦場ヶ原は今、シャワーを浴びている。
身体を清めるための、禊《みそ》ぎだとか。
忍野いわく、冷たい水で身体を洗い流し、新品でなくともよいから清潔な服に着替えてくるように――との、ことだった。
要するに僕はそれにつき合わされているというわけだ――まあ、学校から忍野のところまで僕の自転車で向かってしまった都合上、それは当然のことでもあったのだが、それ以上に忍野から、色々言い含められているので、仕方がない。
僕は、とても年頃の女の子の部屋とは思えない、殺風景《さっぷうけい》な六畳間をぐるりと見、それから、背後の小さな衣装|箪笥《だんす》にもたれるようにして――
先刻の、忍野の言葉を、回想した。
「おもし蟹」
戦場ヶ原が、事情を――というほど、長い話ではなかったが、とにかく、抱えている事情を、順序だてて語り終わったところで、忍野は、「成程《なるほど》ねえ」と頷いた後、しばらく天井を見上げてから、ふと思いついたような響きで、そう言った。
「おもしかに?」
戦場ヶ原が訊き返した。
「九州の山間あたりでの民間伝承だよ。地域によっておもし蟹だったり、重いし蟹、重石蟹、それに、おもいし神ってのもある。この場合、蟹と神がかかっているわけだ。細部は色々ばらついているけど、共通しているのは、人から重み[#「重み」に傍点]を失わせる――ってところだね。行き遭《あ》ってしまうと――下手な行き遭い方をしてしまうと、その人間は、存在感が希薄になる、そうだ、とも」
「存在感が――」
儚げ。
とても――儚げで。
今の方が――綺麗。
「存在感どころか、存在が消えてしまうって、物騒な例もあるけれどね。似たような名前じゃ中部辺りに重石石ってのもあるけど、ありゃ全くの別系統だろう。あっちは石で、こっちは蟹だし」
「蟹って――本当に蟹なのか?」
「馬鹿だなあ、阿良々木くん。宮崎やら大分やらの山間で、そうそう蟹が取れるわけないだろう。単なる説話だよ」
心底呆れ果てたように言う忍野。
「そこにいない方が話題になりやすいってこともある。妄想や陰口の方が、盛り上がったりするもんだろう?」
「そもそも蟹って、日本のもんなのか?」
「阿良々木くんが言っているのはアメリカザリガニのことじゃないのかい? 日本昔話を知らないのかな。猿蟹《さるかに》合戦。確かに、ロシアの方にゃ、有名な蟹の怪異ってのがあるし、中国にも結構あるけれど、日本だって、そうそう負けてばかりもいないさ」
「ああ。そっか。猿蟹合戦ね。そういやそんなのもあったな。でも、宮崎やらって――どうしてそんなところの」
「日本の片田舎で吸血鬼に襲われたきみがそれを僕に訊くなよ。場所そのものに意味があるんじゃないからね、別に。そういう状況[#「状況」に傍点]があれば――そこ[#「そこ」に傍点]に生じる[#「生じる」に傍点]、それだけだ」
勿論、地理気候も重要だけれど、と付け加える忍野だった。
「この場合、別に蟹じゃなくてもいい。兎《うさぎ》だって話もあるし、それに――忍ちゃんじゃないけれど、美しい女の人だっていう話もある」
「ふうん……月の模様みたいだな」
ていうか、忍ちゃん呼ばわりだった。
筋ではないが、少し同情してしまう。
伝説の吸血鬼なのに……。
切ないなあ。
「まあ、お嬢ちゃんが行き遭ったのが蟹だっていうんなら、今回は蟹なんだろう。一般的だしね」
「なんなんですか、それは」
戦場ヶ原は強気な調子で、忍野に問う。
「名前なんて、そんなのは何だって構いませんけれど――」
「そうでもないさ。名前は重要だよ。阿良々木くんにさっき教えてやった通り、九州の山奥で蟹はないからね。北の方じゃ、そういうのもあるみたいだけれど、九州じゃやっぱり珍しいよ」
「サワガニなら取れんじゃねえの」
「かもね。でも、それは本質的な問題じゃない」
「どういうことですか」
「蟹じゃなくて、元は神なんじゃないのかってことさ。おもいし神から、おもし蟹へ派生《はせい》したって感じ――もっとも、これは、僕のオリジナルの説だけどね。普通は、蟹がメインで神が後付けだと思われている。真っ当に考えると、確かに、最低でも同時発生ってことになるんだけれども」
「普通も真っ当も何も、そんな化物は知りません」
「知らないってことはないよ。何せ――」
忍野は言った。
「遭っているんだから[#「遭っているんだから」に傍点]」
「…………」
「そして[#「そして」に傍点]――今だってそこにいる[#「今だってそこにいる」に傍点]」
「何か[#「何か」に傍点]――見える[#「見える」に傍点]っていうんですか」
「見えないよ[#「見えないよ」に傍点]。僕には何も[#「僕には何も」に傍点]」
そう言って、忍野は快活に笑った。爽やかさが過ぎるその笑い方は、矢張《やは》り、戦場ヶ原の気に障《さわ》るようだった。
それは僕も同感だ。茶化しているようにしか思えない。
「見えないなんて、まるで無責任ですね」
「そうかい? 魑魅《ちみ》魍魎《もうりょう》の類ってのは、人に見えないのが基本だろう。誰にも見えないし、どうやっても触れない。それが普通だ」
「普通――ですけれど」
「幽霊は足がないとか言ってさ、吸血鬼は鏡に映《うつ》らないとか言ってさ、でもそもそもそういう問題じゃなく、ああいうもの[#「もの」に傍点]は、そもそも同定できないのが基本――しかし、お嬢ちゃん。誰にも見えないし、どうやっても触れないもの[#「もの」に傍点]ってのは、この世に果たして、あるんだろうか?」
「あるんだろうかって――あなたが、今、そこにいると、自分で言ったんじゃないですか」
「言ったよ? でも、誰にも見えないし、どうやっても触れないものなんて、いてもいなくても、そんなの、科学的にはおんなじことだろう? そこにあることと、そこにないことが、全く同じだ」
そういうこと、と忍野は言った。
戦場ヶ原は納得いかないような顔をしている。
確かに、納得できる理屈ではない。
彼女の立場からすれば。
「ま、お嬢ちゃんは、運の悪い中じゃあ運のいい部類だよ。そこの阿良々木くんなんて、行き遭うどころか襲われたんだから。それも吸血鬼に襲われた。現代人としてはいい恥晒しだよ」
放っとけ。
かなり放っとけ。
「それに較べればお嬢ちゃんは全然マシだ」
「どうしてですか」
「神様なんてのは、どこにでもいるからさ。どこにでもいるし、どこにもいない。お嬢ちゃんがそうなる前から[#「そうなる前から」に傍点]お嬢ちゃんの周囲にはそれ[#「それ」に傍点]はあったし――あるいはなかったとも言える」
「禅《ぜん》問答ですね。まるで」
「神道だよ。修験道《しゅげんどう》かな」
忍野は言う。
「勘違いするなよ、お嬢ちゃん。きみは何か[#「何か」に傍点]の所為でそう[#「そう」に傍点]なったわけじゃない――ちょっと視点が変わっただけだ」
最初から、そうだった。
それは――それじゃあ、匙《さじ》を投げた医者と、言っていることがほとんど、変わらない。
「視点が? 何が――言いたいんですか?」
「被害者|面《づら》が気に食わねえっつってんだよ、お嬢ちゃん」
唐突《とうとつ》に、辛辣《しんらつ》な言葉を、忍野は放った。
僕のときと同じように。
或いは、羽川のときと同じように。
戦場ヶ原のリアクションが気になったが――しかし、戦場ヶ原は、何も、返さなかった。
甘んじて受けたようにも思えた。
そんな戦場ヶ原を、忍野は、
「へえ」
と、感心したように見た。
「なかなかどうして。てっきり、ただの我儘《わがまま》なお嬢ちゃんかと思ったけど」
「どうして――そう思ったんですか」
「おもし蟹に遭うような人間は、大抵そう[#「そう」に傍点]だからだよ。遭おうと思って遭えるもんじゃないし、通常、障るような神でもない。吸血鬼とは違う」
障らない?
障らないし――襲うこともない?
「憑くのとも違う。ただ、そこにいるだけだ。お嬢ちゃんが何かを望まない限り――実現はしないんだ。いや、もっとも、そこまで事情に深入りするつもりはないけれどね。僕はお嬢ちゃんを助けたいわけじゃないんだから」
「…………」
勝手に助かる――だけ。
忍野はいつも、そういうのだった。
「こんなのは知っているかな? お嬢ちゃん。海外の昔話なんだけどね。あるところに、一人の若者がいたんだ。善良な若者さ。ある日、若者は、町で不思議な老人と出会う。老人は若者に、影を売ってくれるように頼むんだ」
「影を?」
「そう。お日様に照らされて、足元から生じる、この影だ。金貨十枚で売ってくれ、とね。若者は、躊躇無く、売った。金貨十枚で」
「……それで?」
「お嬢ちゃんならどうする?」
「別に――その状況になってみないと、わかりません。売るかもしれないし、売らないかもしれない。そんなの、値段次第ですし」
「正しい答だね。たとえば、命とお金とどっちが大切なんだって質問があったりするけれど、これは質問自体がおかしいよ。お金と一口に言っても、一円と一兆円じゃ、価値が違うんだし、命の価値だって、個々人によって平等じゃない。命は平等だなんて、それは僕が最も憎む、低俗な言葉だよ。まあ、それはともかく――その若者は、自分の影なんてのは、金貨十枚の価値よりも大事だとは、とても思えなかったんだ。だってそうだろう? 影なんかなくても、実質、何も困りやしないんだから。不自由はどこにも生じない」
忍野は身振りを加えながら、話を続けた。
「しかし、その結果、どうなったか。若者は、住んでいた街の住人や家族から、迫害を受けてしまうんだ。周囲と不調和を起こすことになる。影がないなんて不気味だ[#「影がないなんて不気味だ」に傍点]――と言われてね。そりゃそうだよ。不気味だもん。不気味な影という言葉もあるけれど、影がない方がよっぽど不気味さ。当たり前のものがないなんて――ね。つまり、若者は、当たり前[#「当たり前」に傍点]を金貨十枚で、売ったってことなのさ」
「…………」
「若者は、影を返してもらおうと老人を探したけれど、いくら探しても、どんなに探しても、その不思議な老人を、見つけることはできませんでした――とさ。ちゃんちゃん」
「それが――」
戦場ヶ原は。
表情を変えずに、忍野に応えた。
「それが一体、どうしたっていうのですか」
「ううん、別にどうもしないよ。ただ、どうだろう、お嬢ちゃんには身につまされる話なんじゃないかと思ってね。影を売った若者と重みを失ったお嬢ちゃん、だから」
「私は――売ったわけじゃありません」
「そう。売ったわけじゃない。物々交換だ。体重を無くすことは、影を無くすことよりは、不便かもしれないけれど――それでも、周囲との不調和ということなら、同じだしね。でも――それだけなのかな」
「どういう意味です?」
「それだけなのかなという意味だ」
忍野はこの話はこれでおしまい、と言った風に、胸の前で両手を打った。
「いいよ。わかった。体重を取り戻したいというのなら、力になるさ。阿良々木くんの紹介だしね」
「……助けて――くれるんですか」
「助けない。力は貸すけど」
そうだね、と左手首の腕時計を確認する忍野。
「まだ日も出ているし、一旦《いったん》家に帰りなさい。それで、身体を冷水で清めて、清潔な服に着替えてきてくれる? こっちはこっちで準備しておくからさ。阿良々木くんの同級生ってことは、真面目なあの学校の生徒ってことなんだろうけれど、お嬢ちゃん、夜中に家、出てこられる?」
「平気です。それくらい」
「じゃ、夜中の零《れい》時ごろ、もういっぺんここに集合ってことで、いいかな」
「いいですけれど――清潔な服って?」
「新品じゃなくてもいいけど。制服ってのは、ちょっとまずいね。毎日着ているものだろう」
「……お礼は?」
「は?」
「とぼけないでください。ボランティアで助けてくれるというわけではないんでしょう?」
「ん。んん」
忍野はそこで、僕を見る。
まるで僕を値踏みしているようだった。
「ま、その方がお嬢ちゃんの気が楽だっていうなら、貰っておくことにしようか。じゃ、そうだね、十万円で」
「……十万円」
その金額を、戦場ヶ原は反復した。
「十万円――ですか」
「一ヵ月二ヵ月、ファーストフードでバイトすれば手に入る額でしょ。妥当《だとう》だと思うけれど」
「……僕のときとは随分対応が違うな」
「そうだっけ? 委員長ちゃんのときも、確か十万円だったと思うけれど」
「僕のときは五百万円だったって言ってんだよ!」
「吸血鬼だもん。仕方ないよ」
「何でもかんでも安易に吸血鬼のせいにするな! 僕はそういう流行任せの風潮が大嫌いだ!」
「払える?」
思わず横槍《よこやり》を入れてしまった僕を片手であしらうようにしながら、忍野は、戦場ヶ原に問うた。
戦場ヶ原は、
「勿論」
と、言った。
「どんなことをしてでも、勿論」
そして――
そして、二時間後――今現在、だ。
戦場ヶ原の家。
もう一度――見回す。
十万円という金銭は、普通でも少ない額ではないが、戦場ヶ原にとっては、通常以上に、大金なのだろうと、そう考えさせる、六畳一間だった。
衣装箪笥と卓袱台、小さな本棚の他には何も無い。濫読派のはずの戦場ヶ原にしては、本の冊数も少なめなので、その辺は恐らく、古書店や図書館で、うまくやりくりしているのだろう。
まるで昔の苦学生だ。
いや、実際、戦場ヶ原はそうなのだろう。
学校にも奨学金で通っていると言っていた。
忍野は、戦場ヶ原のことを、僕よりも全然マシ――みたいな風に言っていたけれど、それはどうなのだろうと、思ってしまう。
確かに――命の危険という意味や、周囲に及ぼす迷惑という意味では、吸血鬼に襲われるなんてのは、冗談じゃない話だ。死んだ方が楽だと何度も思ったし、今だって、一歩まかり間違えば、そう思ってしまうこともある。
だから。
戦場ヶ原は、運の悪い中では、運のいい方なのかもしれない。けれど――羽川に聞いた中学時代の戦場ヶ原の話を思えば、単純にそうまとめ、そう認識するのには、無理があるような気がする。
少なくとも、平等ではないだろう。
ふと思う。
羽川は――羽川翼はどうなのだろう。
羽川翼の場合。
翼という、異形《いぎょう》の羽を、持つ女。
僕が鬼に襲われ、戦場ヶ原が蟹に行き遭ったように、羽川は猫に魅せられた。それが、ゴールデンウィークのことだ。あまりに壮絶で、終わってしまえば遥か昔の出来事のようだが、つい、数日前の事件である。
とはいえ、羽川は、そのゴールデンウィークの際の記憶をほとんどなくしているので、羽川本人は、忍野のお陰でそれがなんとかなったことくらいしか分かっちゃいないのだろうけれど、ひょっとしたら何も分かっちゃいないのかもしれないが、それでも、僕は――すべてを覚えている。
何しろ、厄介な話だった。
既に鬼を経験していた僕がそう思った。鬼よりも猫の方が怖いなんてことがあるとは、よもや考えたこともなかったけれど。
やっぱり、命の危険だったりの観点から見れば――戦場ヶ原より羽川の方が悲惨だったと、単純に言えるのだが、しかし――戦場ヶ原が一体どれほどの思いで今に至っているかを考えると。
現状を考えると。
考えてしまうと。
優しさを敵対行為と看做すまでに至る人生とは、一体、どのようなものなのだろう。
影を売った若者。
重みを失った彼女。
僕には、わからない。
僕にわかる話じゃ――ないのだ。
「シャワー、済ませたわよ」
戦場ヶ原が脱衣所から出てきた。
すっぽんぽんだった。
「ぐあああっ!」
「そこをどいて頂戴。服が取り出せないわ」
平然と、戦場ヶ原が、濡れた髪を鬱陶しそうにしながら、僕が背にしていた衣装箪笥を指さす。
「服を着ろ服を!」
「だから今から着るのよ」
「なんで今から着るんだ!」
「着るなって言うの?」
「着てろって言ってんだ!」
「持って入るのを忘れていたのよ」
「だったらタオルで隠すとかしやがれ!」
「嫌よ、そんな貧乏くさい真似」
澄ました顔で、堂々としたものだった。
議論が無駄なことは火を見るよりも明らかだったので、僕は這いずるように衣装箪笥の前から離れ、本棚の前に移動し、並んでいる本の冊数でも数えているみたいに、そこに視点と思考を集中させた。
ううう。
女性の全裸を、初めて見てしまった……。
だ……だけれどなんか違う、思っていたのと違う、幻想なんか持っていたつもりは全然ないけれど、僕が望んでいたのは、僕が夢見ていたのは、こんな、裸ん坊万歳みたいな、あけっぴろげな感じじゃなかったはずだ……。
「清潔な服ねえ。白い服の方がいいと思う?」
「知らねえよ……」
「ショーツとブラは、柄《がら》ものしか持っていないの」
「知らねえよ!」
「相談しているだけなのに、どうして大声で喚《わめ》いたりするの。訳がわからないわ。あなた、更年期障害なんじゃない?」
箪笥を開ける音。
衣擦《きぬず》れの音。
ああ、駄目だ。
脳裏に焼きついて離れない。
「阿良々木くん。まさかあなた、私のヌードを見て欲情したのではないでしょうね」
「仮にそうだったとしても僕の責任じゃない!」
「私に指一本でも触れて御覧なさい。舌を噛《か》み切ってやるんだから」
「あーあー、身持ちの堅いこったな!」
「あなたの舌を噛み切るのよ?」
「マジでおっかねえ!」
なんていうか。
土台、この女を僕の視点で理解しようという方が、無理があるのかもしれなかった。
人間が人間を理解できるわけがない。
そんなのは、当たり前のことなのに。
「もういいわよ。こっちを向いても」
「そうかよ、ったく……」
僕は本棚から、戦場ヶ原を振り向いた。
まだ下着姿だった。
靴下も穿《は》いていない。
やたら扇情《せんじょう》的なポーズを取っていた。
「何が目的なんだお前は!」
「何よ。今日のお礼のつもりで大サービスしてあげてるんだから、ちょっとは喜びなさいよ」
「…………」
お礼のつもりだったのか。
意味が分からない。
どちらかというとお礼よりお詫びを求めたい。
「ちょっとは喜びなさいよ!」
「逆切れされたっ!?」
「感想くらい言うのが礼儀でしょう!」
「か、感想って……っ!」
礼儀なのか?
なんて言えばいいんだ?
えーっと……。
「い、いい身体してるね、とか……?」
「……最低」
腐敗した生ゴミを見るように唾棄《だき》された。
いや、むしろ憐憫《れんびん》の入り混じった感じ。
「そんなことだからあなたは一生|童貞《どうてい》なのよ」
「一生!? お前は未来から来た人なのか!?」
「唾《つば》を飛ばさないでくれる? 童貞がうつるわ」
「女に童貞がうつるか!」
いや、男にもうつらないけれど。
「ていうかちょっと待て、さっきから僕が童貞であることを前提に話が進んでるぞ!」
「だってそうでしょう。あなたを相手にする小学生なんていないはず」
「その発言に対する異議は二つ! 僕はロリコンじゃないというのが一つ、そして探せばきっと僕を相手にしてくれる小学生だっているはずというのが二つだ!」
「一つ目があれば二つ目はいらないのでは」
「…………」
いらなかった。
「でもまあ、確かに偏見でものを言ったわね」
「わかってくれればいいんだ」
「唾を飛ばさないで。素人《しろうと》童貞がうつるわ」
「認めましょう、僕は童貞野郎です!」
恥辱《ちじょく》に満ちた告白をさせられた。
戦場ヶ原は満足そうに頷く。
「最初から素直にそう言っておけばいいのよ。こんなこと、残りの寿命の半分に匹敵する幸運なのだから、余計な口を叩くべきではないの」
「お前、死神だったのか……?」
取引すると女の裸が見えるのか。
すげえ死神の目だな。
「心配しなくとも」
言いながら、筆笥から取り出した、白いシャツを、水色のブラジャーの上から羽織《はお》る戦場ヶ原。もう一度本棚を見つめ本の数を数えるのも馬鹿馬鹿しいので、僕はそんな戦場ヶ原を、ただ、眺めるようにする。
「羽川さんには内緒《ないしょ》にしておいてあげるのに」
「羽川って」
「彼女、阿良々木くんの片恋相手じゃないの?」
「それは違う」
「そうなんだ。よく話しているから、てっきりそうなんだと思って、鎌《かま》をかけてみたのだけれど」
「日常会話で鎌をかけるな」
「うるさいわね。処分されたいの」
「何のどんな権限を持ってんだよ、お前は」
しかし、戦場ヶ原も一応、クラスの中のこととか、見てないようで見てるんだな。僕が副委員長であることすら、ことによっては知らないんじゃないかと思っていたが。いや、それも、いつか敵になるかもしれない――からなのだろうか。
「よく話しているのは、向こうが僕に、勝手に話しかけてきているだけだよ」
「身の程知らずな口振りね。羽川さんの方が、あなたに片恋だとでも言いたいの?」
「それは、絶対、違う」
僕は言う。
「羽川のあれは単純に面倒見がいいだけだ。単純に、そして過剰に、な。あいつは一番駄目な奴が一番|可哀想《かわいそう》だって、そんな愉快な勘違いをしているんだ。駄目な奴が、不当に損をしているって、そんな風に、思ってるんだ」
「それは本当に愉快な勘違いね」
戦場ヶ原は頷いた。
「一番駄目な奴は一番|愚《おろ》かなだけなのに」
「……いや、僕はそこまでは言ってません」
「顔に書いてあるわ」
「書いてねえよ!」
「そういうと思ってさっき書いておいたわ」
「そんな手回しがありえるか!」
大体――
僕が釈明するまでもなく、戦場ヶ原だって、羽川の性格は、よくわかっているはずだ。放課後、戦場ヶ原のことを訊いたとき、羽川は随分――戦場ヶ原のことを、気にかけている様子だった。
あるいは、だからこそなのかもしれない。
「羽川さんも――忍野さんの、お世話になったのね?」
「ん。まあな」
戦場ヶ原は、シャツのボタンを最後まで留めると、その上から、白いカーディガンを着るようだった。どうやら、下半身より先に上半身のコーディネートを済ませてしまうつもりらしい。なるほど、服には一人一人、別々な着衣順があるものだと思った。戦場ヶ原は、僕の視線なんて全く気になっていないのか、むしろ僕に自分の身体の正面を向けて、着衣を続けるのだった。
「ふうん」
「だから――一応、信頼して、いいとは思うぜ。ふざけた性格で、根明《ねあか》で軽薄な調子者だけれど、それでも、腕だけは確かだから。安心していい。僕一人の証言じゃなく、羽川もそうだっていうんだから、間違いないだろ」
「そう。でもね、阿良々木くん」
戦場ヶ原は言う。
「悪いけれど、私はまだ、忍野さんのことを、半分も信頼できてはいないのよ。彼のことをおいそれと信じるには、私は今まで、何度も何度も、騙され続けているわ」
「…………」
五人――同じことを言って。
全員が、詐欺師だった。
そして。
それが全てでも――ないのだろう。
「病院にも、惰性《だせい》で通っているだけだし。正直、私はもう、この体質については、ほとんど諦めているのよ」
「諦めて……」
何を――諦め。
何を、捨てた。
「この奇妙な世界には、決して、夢幻《むげん》魔実也《まみや》も九段《くだん》九鬼子《くきこ》も、いてはくれないということ」
「…………」
「峠《とうげ》弥勒《みろく》くらいなら、ひょっとしたらいてくれるのかもしれないけれどね」
ありったけの嫌味を込めて、戦場ヶ原は言った。
「だから阿良々木くん。私は――だからね、たまたま[#「たまたま」に傍点]階段で足を滑らせて、たまたま[#「たまたま」に傍点]それを受け止めてくれたクラスメイトが、たまたま[#「たまたま」に傍点]春休みに吸血鬼に襲われていて、たまたま[#「たまたま」に傍点]それを救ってくれた人が、たまたま[#「たまたま」に傍点]クラスの委員長にも関わっていて――そして更に、たまたま[#「たまたま」に傍点]私の力にもなってくれるだなんて、そんな楽天的な風には、どうしたって、ちっとも思えないの」
言って――
戦場ヶ原は、カーディガンを脱ぎ始めた。
「折角《せっかく》着たのに、なんで脱ぐんだよ」
「髪を乾かすのを忘れていたわ」
「お前ひょっとしてただの馬鹿なんじゃないか?」
「失礼なことを言わないでくれるかしら? 私が傷ついたら大変じゃないの」
ドライヤーはやたら高そうなものだった。
身だしなみには気を遣う方らしい。
そういう目で見れば、確かに、今戦場ヶ原が着用している下着も、結構お洒落なそれであるようだったが、しかし、なんだか、昨日まではあれほど魅惑的に僕の人生の大半を支配していたその憧憬《しょうけい》の対象が、今となってはもうただの布きれにしか見えない。なんだかものすごい心の傷を現在進行形で植えつけられている気がする。
「楽天的ねえ」
「そうじゃなくて?」
「かもしんね。でも、いいんじゃねえの?」
僕は言った。
「別に、楽天的でも」
「…………」
「悪いことをしてるわけじゃないし、ズルしているわけでもないんだから、堂々としてりゃいいんだよ。今みたいに」
「今みたいに?」
きょとんとする戦場ヶ原。
自分の器《うつわ》のでかさに気付いていないご様子だ。
「悪いことを――しているわけじゃない、か」
「だろ?」
「まあ、そうね」
戦場ヶ原は、しかし、そう言ったあとで、
「でも」
と、続けた。
「でも――ズルはしているかも」
「え?」
「なんでもないわ」
髪を乾かし終え、ドライヤーを仕舞い、戦場ヶ原は、再び、着衣を開始する。濡れっぱなしの髪で着た所為で、湿ってしまったシャツとカーディガンはハンガーに干して、別の服を箪笥の中から探していた。
「今度生まれ変わるなら」
戦場ヶ原は言う。
「私は、クルル曹長になりたいわ」
「…………」
脈絡《みゃくらく》がない上に、もう半分くらいなっているような気もするが……。
「言いたいことはわかるわ。脈絡がない上にわたしにはなれっこないっていうんでしょう」
「まあ、半分くらいはそんな感じだ」
「やっぱりね」
「……せめてドロロ兵長くらいのことは言えないのかよ」
「トラウマスイッチという言葉は、私にとってあまりにもリアル過ぎるのよ」
「そうかい……でもさ」
「でももなももないわ」
「なもってなんだよ」
何と間違ったのかもわからない。
勿論、何が言いたいのかよくわからない。
そう思っている内に、戦場ヶ原は話題を変えた。
「ねえ、阿良々木くん。一つ訊いていい? どうでもいいことなのだけれど」
「何」
「月の模様みたいって、どういうこと?」
「え? 何の話だ?」
「言っていたじゃないの。忍野さんに」
「えーっと……」
ああ。
そうだ、思い出した。
「ほら、蟹のことで、兎だったり美人だったりするって、忍野の奴、言ってただろ。あれのことだよ。月の模様って、日本からだと兎が餅《もち》をついているように見えるけれど、海外からだと蟹だったり、美人の横顔だったりするっていうから」
まあ、僕も実際に見たわけじゃないけれど、そうだという話だ。それを聞いて戦場ヶ原は、「そうなんだ」と、新鮮そうに相槌《あいづち》を打った。
「そんなくだらないことをよく知っているわね。生まれて初めてあなたに感心したわ」
くだらないって言われた。
生まれて初めてって言われた。
ので、僕は見栄を張ることにした。
「なあに、僕は天文学や宇宙科学には詳しいんだよ。一時期熱中したことがあってね」
「いいのよ、私の前では格好つけなくとも。もう全部わかってるんだから。どうせそれ以外は何も知らないんでしょう?」
「言葉の暴力って知ってるか」
「なら言葉の警察を呼びなさいよ」
「…………」
現実の警察でも対処できない気がした。
「何も知らないってことはないぞ、僕だって。えーっと、たとえばそうだな、日本じゃやっぱり、月の模様といえば兎なわけだけれど、なんで月に兎がいるか、知ってるか?」
「月に兎はいないわ。阿良々木くん、高校生にもなってそんなことを信じているの?」
「いるとして、だ」
あれ、いるとして、じゃないか?
いたとしたら?
何か違うな……。
「その昔、神様がいてだ、仏様だったかな、まあそんなのどっちでもいいや、神様がいて、兎はその神様のために、自分から火の中に飛び込んで、その身を焼いて、神様への供物にしたという話があるんだ。神様はその自己|犠牲《ぎせい》に心打たれて、皆がいつまでもその兎のことを忘れないようにと、空の月に、その姿を留めたと言うんだな」
子供の頃テレビで見ただけの、記憶が曖昧な話なのでいまいち知識として脇が甘い感じだが、まあディテール的にはこんな感じだったはずだ。
「神様も酷《ひど》いことをするわね。それじゃあ兎はまるで晒しモノじゃない」
「そういう話じゃないんだが」
「兎も兎よ。そうやって自己犠牲の精神を見せれば神様に認めてもらえるだろうという計算が見え透いて、浅ましいわ」
「そういう話じゃ絶対にないんだが」
「いずれにせよ、私辺りには分からない話ね」
そう言って。
着かけた新しい上着を、再び脱ぎ出す戦場ヶ原。
「……お前、実は自慢の肉体を僕に見せびらかしたいだけなのか?」
「自慢の肉体だなんて、そんなに自惚《うぬぼ》れていないわ。裏返しで、しかも後ろ前だっただけよ」
「器用なミスだな」
「でも確かに、服を着るのは得意じゃないの」
「子供みたいな奴だ」
「違う。重たいのよ」
「あ」
迂闊だった。
そうか、鞄が重いなら、服だってそうだろう。
十倍の重さとなれば、服であれ、馬鹿にならない。
反省する。
気遣いの足りない――不用意な発言だった。
「こればっかりは、飽きることはあっても慣れることはないわ――けれど、意外と学があるのね、阿良々木くん。びっくりしたわ。ひょっとしたら頭の中に脳味噌が入っているのかもしれないわね」
「当たり前だろ」
「当たり前って……あなたのような生物の頭蓋骨《ずがいこつ》に脳味噌が入っているというのは、それはそれは、もう奇跡のような出来事なのよ?」
「酷い言われようだなおい」
「気にしないで。当然のことを言ったまでよ」
「この部屋の中に死んだ方がいい奴がいるみたいだな……」
「? 保科先生ならいないわよ」
「お前今尊敬すべき人生の先導者である担任の先生のことを死んだ方がいいって言ったのか!」
「蟹もそうなの?」
「え?」
「蟹も兎と同じで、火の中に自ら飛び込んだの?」
「あ、ああ……いや、蟹の話は知らない。なんか由来があるのかな。考えたこともなかったけれど……月にも海があるからじゃないのか?」
「月に海はないわ。得意顔で何を言っているの」
「え? ないのか? なかったっけ……」
「天文学が聞いて呆れるわね。あれは名前だけよ」
「そうなんだ……」
うーむ。
やはり、本当に頭のいい奴には敵わない。
「やれやれ、馬脚《ばきゃく》を露《あら》わしたわね、阿良々木くん。全く、あなたに知識というものを少しでも期待してしまった私が軽率だったわ」
「お前、僕の頭がすごく悪いと思っているだろう」
「何故気付いたのっ!?」
「真顔で驚かれた!」
隠しているつもりだったらしい。
本当かよ。
「私のせいで、阿良々木くんが、自分の頭のお粗末さ加減に気付いてしまった……責任を感じるわ」
「おい、ちょっと待て、僕はそんな深刻なレベルの頭の悪さなのか?」
「安心して。私は成績で人間を差別したりしないわ」
「その言い方が既に差別的じゃねえかよ!」
「唾を飛ばさないで。低学歴がうつるわ」
「同じ高校だ!」
「でも最終学歴となればどうかしら」
「う……」
確かに、それは。
「私は大学院卒。あなたは高校中退」
「三年生になってまで辞めるか!」
「すぐに辞めさせてくださいと、自分から泣いて頼むことになるわ」
「漫画でしか聞いたことのない悪党発言を平然と!?」
「偏差値チェック。私、七十四」
「くっ……」
先に言いやがった。
「僕、四十六……」
「四捨五入すればゼロね」
「はあ!? 嘘つけ、六だから……あ、お前、さては十の位を――僕の偏差値になんてことをするんだ!」
三十近くも勝ってる癖に、死者を鞭《むち》打つような真似を!
「百、差をつけないと、勝った気がしないのよ」
「自分の数値も十の位を……」
容赦《ようしゃ》ねえ。
「そういうわけで、これからは半径二万キロ以内には近寄らないでね」
「地球外退去を命じられた!?」
「ところで神様は、その兎さんをちゃんと食べてあげたのかしらね?」
「え? あ、また話が戻ったのか。食べたかどうかって……そこまで話を進めたら猟奇的になるだろうが」
「進めなくても十分猟奇よ」
「さあね。知らないよ、頭が悪いから」
「すねないでよ。私の気分が悪くなるじゃない」
「お前、僕が可哀想になってこないのか……?」
「あなた一人を哀《あわ》れんでも、世界から戦争はなくならない」
「たった一人の人間も救えない奴が世界を語るな! まずは目の前のちっぽけな命を助けてみろ! お前にはそれができるはずだ!」
「ふむ。決めたわ」
戦場ヶ原は、白いタンクトップに白いジャケット、そして、白いフレアのスカートを穿き、ようやく着衣を終えたところで、言った。
「もしも全てがうまく行ったら、北海道へ蟹を食べに行きましょう」
「北海道まで行かなくても蟹は食えると思うし、全然季節じゃないと思うけれど、まあ、戦場ヶ原がそうしたいって言うんなら、いいんじゃないのか?」
「あなたも行くのよ」
「なんでっ!?」
「あら、知らなかったの?」
戦場ヶ原は微笑した。
「蟹って、とっても、おいしいのよ」
006
ここは地方の、更に外《はず》れの町である。
夜になれば、周囲はとても暗くなる。真っ暗な、暗闇。それこそ、廃ビルの中も外も、ほとんど区別がなくなるくらいの、昼間からの落差だ。
僕にしてみれば、生まれてからずっと住んでいる町のことだ、それに違和感を覚えたり、不思議に思ったりすることもまずないが、それに、むしろそっちの方が、本来の自然であるのだろうけれど、流れ者の忍野辺りに言わせると、その落差が――概《おおむ》ね、問題[#「問題」に傍点]の根っこに絡まっていることが、多いそうだ。
根っこがはっきりしている分やりやすい――
そうも言っていた。
ともかく。
夜中の零時、少し過ぎたところで。
僕と戦場ヶ原は、例の学習塾跡に、自転車で、戻ってきた。後部座席用の座布団には、戦場ヶ原の家にあったものをそのまま使用した。
何も食べていないので若干空腹である。
自転車を夕方と同じ場所に停め、同じ金網の裂け目から敷地内に入ったら、入り口のところで、忍野はもう待っていた。
ずっとそこにいたという風に。
「……え」
その忍野の服装に、戦場ヶ原が驚く。
忍野は、白ずくめの装束《しょうぞく》――浄衣《じょうえ》に身を包んでいた。ぼさぼさだった髪もぴったりと整えられて、夕方とは見違えてしまうような、少なくとも見た目だけは小綺麗な格好になっていた。
馬子《まご》にも衣装。
それなり[#「それなり」に傍点]に見えてしまうのが、逆に不快だ。
「忍野さんって――神職の方だったんですか?」
「いや? 違うよ?」
あっさり否定する忍野。
「宮司《ぐうじ》でもなければ禰宜《ねぎ》でもないさ。大学の学科はそうなんだけれど、神社に就職はしていない。色々思うところがあってね」
「思うところって――」
「一身上の都合だよ。馬鹿馬鹿しくなったってのが真相かもね。何、この服装は、単純に身なりを整えただけだよ。他に綺麗な服を持っていなかっただけ。神様に遭うんだから、お嬢ちゃんだけじゃなく僕だって、きっちりしておかないとね。言ってなかったっけ? 雰囲気《ふんいき》作り。阿良々木くんのときは、十字架持って大蒜下げて、聖水を武器に戦ったもんさ。大切なのは、状況なんだ。大丈夫、作法はいい加減だけど、これでも付き合い方は心得ている。無雑作に御幣《ごへい》振って、お嬢ちゃんの頭に塩|撒《ま》くような真似はしないさ」
「は、はあ……」
戦場ヶ原が、少し呑《の》まれていた。
確かに、面食らう格好でもあるが、しかしなんだか、彼女にしては若干過剰反応のようにも思えてしまう。どうしてだろう。
「うん、お嬢ちゃん、いい感じに清廉《せいれん》になっているよ。見事なもんだね。一応確認しておくけれど、お化粧はしていない?」
「しない方がいいかと思って、していません」
「そう。ま、とりあえず正しい判断だ。阿良々木くんも、ちゃんとシャワー、浴びてきたかい?」
「ああ。問題ないよ」
僕もその場に同席する以上、それくらいは仕方のないことだったが、その際戦場ヶ原が僕のシャワーを覗こうとしてひと悶着あったことは、秘密にしておこう。
「ふうん。きみは代わり映えしないねえ」
「余計なことを言うな」
というか、同席するとはいえあくまで部外者なので、戦場ヶ原のような着替えまでは行っていないのだから、代わり映えしなくて当然だ。
「じゃ、さっさと済ませてしまおう。三階に、場を用意しているから」
「場?」
「うん」
言って、忍野はビルディングの中の暗闇に消えていく。あんな白い服なのに、すぐに見えなくなってしまう。夕方と同じように、僕は戦場ヶ原の手を引くように、忍野を追った。
「しかし、忍野、さっさと[#「さっさと」に傍点]なんて、えらく気楽に構えてるけど、大丈夫なのか?」
「大丈夫って、何が? 年頃の少年少女を、夜中に引っ張り出すなんて真似をしているんだ、早く終わらせたいっていうのは、大人として当たり前の人情だろう」
「その、蟹だかなんだかって、そんな簡単に退治できるもんなのかって意味だよ」
「考え方が乱暴だなあ、阿良々木くんは。何かいいことでもあったのかい?」
忍野は振り向きもせず肩を竦める。
「阿良々木くんのときの忍ちゃんや、委員長ちゃんのときの色ボケ猫とは、場合が違うんだよ。それに忘れちゃいけないよ、僕は平和主義者だ。非暴力絶対服従が、僕の基本方針。忍ちゃん達は、悪意と敵意を持って、阿良々木くんと委員長ちゃんを襲ったわけだけれど、今回の蟹は、そうじゃないんだから」
「そうじゃないって――」
事実、被害が出ている以上、そこには悪意なり敵意なりがあると、そう判ずるべきじゃないのだろうか?
「言ったろ? 相手は神様なんだよ。そこにいるだけ、何もしていない。当たり前だから、そこにいるだけ。阿良々木くんだって、学校が終われば家に帰るだろう? そういうこと。勝手にお嬢ちゃんが、揺らいでいるだけなのさ」
障らない、襲わない。
憑《つ》かない。
勝手にというのは酷い言い草だと思ったが、しかし、戦場ヶ原は、何も言わなかった。思うところがないのだろうか、それとも、今からのことを考えて、忍野の言葉に、あまり反応しないよう心掛けているのだろうか。
「だから、退治するとかやっつけるとか、そんな危険思想は捨てなさい、阿良々木くん。今から僕達はね、神様にお願いするんだよ。下手に出てね」
「お願い――か」
「そう。お願い」
「お願いしたら、それではいどうぞと返してもらえるもんなのか? 戦場ヶ原の――重み。体重は」
「あえて断言はしないけれど、多分ね。年末年始の二年参りとは訳が違うんだから。切実な人間の頼みを断るほど、彼らは頑《かたく》なじゃないさ。神様っていうのは、結構、大雑把《おおざっぱ》な連中なんだ。日本の神様は特に適当なんだよ。人間という群体そのものならともかく、僕達個々人のことなんて、連中、どうでもいいんだ。本当にどうでもいいんだよ? 実際、神様の前じゃ、僕も阿良々木くんもお嬢ちゃんも、区別なんかつかないよ。年齢も性別も重みも関係なく、三人とも、同じ、人間、ってことでね」
同じ――
同じような、ではなく、同じ、か。
「ふうん……呪いとかとは、根本的に違うんだな」
「ねえ」
意を決したような口調で、戦場ヶ原が言った。
「あの蟹[#「あの蟹」に傍点]は――今も私のそばにいますか?」
「そう。そこにいるし[#「そこにいるし」に傍点]、どこにでもいる[#「どこにでもいる」に傍点]。ただし、ここに降りてきてもらうためには[#「ここに降りてきてもらうためには」に傍点]――手順が必要だけどね」
三階に到着した。
教室の中の、一つに入る。
入ると、教室全体に、注連《しめ》囲いが施《ほどこ》されていた。机と椅子は全て運び出され、黒板の前に、神床――祭壇《さいだん》が設けられている。三方《さんぽう》折敷《おしき》に神撰《しんせん》、供物が備えられているところを見れば、今日あれから、急遽《きゅうきょ》作られた場というわけではないのだろう。四隅に燈火《とうか》が設置されていて、部屋全体がほのかに明るい。
「ま、結界《けっかい》みたいなものだよ。よく言うところの神域って奴ね。そんな気張るようなもんじゃない。お嬢ちゃん、そんな緊張しなくったっていいよ」
「緊張なんて――していないわ」
「そうかい。そりゃ重畳《ちょうじょう》だ」
言いながら、教室の中に入る。
「二人とも、目を伏せて、頭を低くしてくれる?」
「え?」
「神前だよ。ここはもう」
そして――三人、神床の前に、並ぶ。
僕のときや、羽川のときとは、全然対処法が違うので――緊張しているというのなら、僕が緊張していた。堅苦しい雰囲気というか――この雰囲気そのものに、おかしくなってしまいそうな感じだ。
身が竦む。
自然、構えてしまう。
僕自身は無宗教、神道も仏教も、区別がつかない最近の若い奴だけれど、しかしそれでも、こういう状況そのものに、反応する、本能的な何かが、心の中にある。
状況。
場。
「なあ――忍野」
「なんだい? 阿良々木くん」
「考えたんだけれど、これ、状況とか場とかっていうなら、僕、ここにいない方がよくないか? どう考えても、邪魔者って感じなんだけれど」
「邪魔ってことはないさ。多分大丈夫だけれど、一応、いざってこともあるからね。いざってことも、あるにはあるさ。そのときは、阿良々木くん、きみがお嬢ちゃんの壁になってあげるんだよ」
「僕が?」
「その不死身の身体は何のためにあるんだ?」
「…………」
いや、それはなるほど格好いい台詞ではあるけれど、少なくとも戦場ヶ原の壁になるためではないと思う。
大体、もう不死身じゃないし。
「阿良々木くん」
戦場ヶ原がすかさず言った。
「わたしのこと、きっと、守ってね」
「何故いきなりお姫さまキャラに!?」
「いいじゃない。どうせあなたみたいな人間、明日くらいには自殺する予定なんでしょう?」
「一瞬でキャラが崩《くず》れた!」
しかも、生きている内は陰口でだって言われないであろう言葉を面と向かって普通に言われてしまった。僕は一体前世でどんな悪いことをして、こんな毒舌を受けているのか、どうやら真剣に考える必要があるのかもしれなかった。
「勿論只とは言わないわ」
「何かくれるのかよ」
「物理的な報酬《ほうしゅう》を求めるとは、浅ましい。その情けない言葉一つに、あなたの人間性の全てが集約されていると言っても過言ではないわね」
「……。じゃあ、何をしてくれるんだ?」
「そうね……阿良々木くんがドラクエXで、フローラに奴隷《どれい》の服を装備させようとした外道《げどう》であることを、言いふらす予定だったのを中止してあげる」
「そんな話、一生で一回も聞いたことねえよ!」
しかも言いふらすことが前提だった。
酷い女だ。
「装備できないことくらい、考えたらわかりそうなものなのに……これぞ猿知恵ならぬ犬知恵といったところかしら」
「ちょっと待て! うまいこと言ってやった、してやったりみたいな顔してるけど、僕が犬に似ているなんて描写がこれまでに一度でもあったか!?」
「そうね」
くすりと笑う戦場ヶ原。
「一緒にしたら、犬に失礼かしら」
「………………っ!!」
ともすればありふれているとも取られかねない定型句を、ここで織り込んでくるか……この女、暴言ってものを、完全に使いこなしてやがる。
「じゃあ、もう、いいわよ。そんな臆病者は、尻尾《しっぽ》を巻いてさっさと家に帰って、いつも通り一人スタンガンごっこでもやってなさいよ」
「なんだその倒錯した遊びは!?」
ていうか、お前さっきから、僕に関して悪質なデマをばらまき過ぎだ。
「私くらいになれば、あなたのような薄っぺらい存在のことなんて、全て完璧に、お見落としなのよ」
「台詞をかんだのに、結果としてより酷い暴言になってる!? お前一体何に愛されてるんだ!?」
そこはかとなくはかりしれない女だった。
ちなみに正しくは、お見通し。
「そもそも、忍野。僕なんかに頼らなくても、あの吸け――忍じゃ無理なのか? 羽川のときみたくさ」
すると忍野はさっぱりと答えた。
「忍ちゃんなら、もうおねむだよ」
「………………」
吸血鬼が夜に寝るのかよ……。
本当に切ない。
忍野は供物の内からお神酒《みき》を手にとって、それを戦場ヶ原に手渡した。
「え……何ですか?」
戸惑った風の戦場ヶ原。
「お酒を飲むと、神様との距離を縮めることができる――そうだよ。ま、ちょっと気を楽にしてってくらいの意味で」
「……未成年です」
「酔うほどの量は飲まなくていいさ。ちっとだけ」
「…………」
逡巡《しゅんじゅん》した後で、結局、戦場ヶ原はそれを一口、飲み下した。それを見取って、戦場ヶ原から返還された杯《さかずき》を、元あった場所に、忍野が返す。
「さて。じゃあ、まずは落ち着こうか」
正面を向いたまま――
戦場ヶ原に背を向けたままで、忍野は言う。
「落ち着くことから、始めよう。大切なのは、状況だ。場さえ作り出せば、作法は問題じゃない――最終的にはお嬢ちゃんの気の持ちよう一つなんだから」
「気の持ちよう――」
「リラックスして。警戒心を、解くところから始めよう。ここは自分の場所だ。きみがいて、当たり前の場所。頭を下げたまま目を閉じて――数を数えよう。一つ、二つ、三つ――」
別に――
僕がそうする必要はないのだが、ついつい、付き合って、目を閉じ、数を数えてしまう。そうしている内に、思い至った。
雰囲気作り。
その意味では、忍野の格好だけではない、この注連囲いも神床も、一旦家に帰っての水浴びも、全て、雰囲気作り――もっと言うならば、戦場ヶ原の、心のコンディション作りに、必要なものだったのだろう。
言うならば暗示に近い。
催眠暗示。
まずは自意識を取っ払い、警戒心を緩め、そして、忍野との間に信頼関係を生じさせること――それは、やり方は全然違えど、僕や羽川のときにも、必要だったことだ。信じる者は救われるなんていうけれど、つまり、まず戦場ヶ原に、認めさせること[#「認めさせること」に傍点]が――不可欠なのだ。
実際、戦場ヶ原自身も言っていた。
忍野のことを、半分も信頼できていない、と。
しかし――
それでは駄目なのだ。
それじゃあ、足りないのだ。
信頼関係が大事――なのだから。
忍野が戦場ヶ原を助けられず、戦場ヶ原が一人で助かるだけ――という言葉の真意は、そういうところにある。
僕は、そっと、目を開けた。
周囲を窺《うかが》う。
燈火。
四方の燈火が――揺らぐ。
窓からの風。
いつ掻《か》き消えてもおかしくない――頼りない火。
しかし、確かな明かり。
「落ち着いた?」
「――はい」
「そう――じゃあ、質問に答えてみよう。きみは、僕の質問に、答えることにした。お嬢ちゃん、きみの名前は?」
「戦場ヶ原ひたぎ」
「通っている学校は?」
「私立直江津高校」
「誕生日は?」
「七月七日」
一見、意味のわからないというよりは全く意味のなさそうな、質問と、それに対する回答が、続く。
淡々と。
変わらぬペースで。
忍野は、戦場ヶ原に背中を向けたままだ。
戦場ヶ原も、目を閉じた上で、顔を伏せている。
頭を下げ、俯いた姿勢。
呼吸音や、心臓の鼓動すら、響きそうな静寂《せいじゃく》。
「一番好きな小説家は?」
「夢野久作《ゆめのきゅうさく》」
「子供の頃の失敗談を聞かせてくれる?」
「言いたくありません」
「好きな古典音楽は?」
「音楽はあまり嗜《たしな》みません」
「小学校を卒業するとき、どう思った?」
「単純に中学校に移るだけだと思いました。公立から公立へ、行くだけだったから」
「初恋の男の子はどんな子だった?」
「言いたくありません」
「今までの人生で」
忍野は変わらぬ口調で言った。
「一番、辛かった思い出は?」
「………………」
戦場ヶ原は――ここで、答に詰まった。
言いたくない――でもなく、沈黙。
それで、忍野が、この質問だけに意味を持たせていたことを、僕は知る。
「どうしたの? 一番――辛かった、思い出。記憶について、訊いているんだ」
「……お」
沈黙を守ることのできる――雰囲気ではなかった。
言いたくないと、拒絶も出来ない。
これが――状況。
形成された、場。
手順通りに――ことは進む。
「お母さんが――」
「お母さんが」
「悪い、宗教に嵌ったこと」
性質《たち》の悪い新興宗教に嵌った。
そう言っていた。
財産を全て貢いで、借金まで背負って、家庭が崩壊するまでに至ったと。離婚した今でも、父親は、そのときの借金を返すために、夜も寝られないような生活を、続けていると。
それが――一番、辛かった思い出なのだろうか?
己の重さが――失われたことよりも?
当たり前だ。
その方が辛いに、決まっている。
でも――それは。
それ[#「それ」に傍点]は。
「それだけかい[#「それだけかい」に傍点]?」
「……それだけって」
「それだけじゃ、大したことではない。日本の法律じゃ、信仰の自由は認められている。否、信仰の自由は、本来的に人間に認められている権利だ。お嬢ちゃんのお母さんが、何を奉《たてまつ》ろうと何に祈ろうと、それはただの方法論の問題だ」
「………………」
「だから[#「だから」に傍点]――それだけじゃない[#「それだけじゃない」に傍点]」
忍野は――力強く、断定した。
「言って御覧。何があった」
「何がって――お、お母さんは――私のために、そんな宗教に、嵌ってしまって――騙《だま》されて――」
「お母さんが悪徳宗教に騙されて――そのあと[#「そのあと」に傍点]」
そのあと。
戦場ヶ原は、下唇を強く噛む。
「う――うちに、その宗教団体の、幹部の人が、お母さんに連れられて、やってきて」
「幹部の人。幹部の人がやってきて、どうした?」
「じょ――浄化、だと言って」
「浄化? 浄化だって? 浄化だと言って――どうした?」
「儀式だといって――私[#「私」に傍点]――を[#「を」に傍点]」
戦場ヶ原は、苦痛の入り混じった声で言った。
「わ――私に、乱暴を」
「乱暴――それは、暴力的な意味で? それとも――性的な意味で?」
「性的な――意味で。そう、あの男は、私を――」
色んなものに耐えるように、戦場ヶ原は続ける。
「私を[#「私を」に傍点]――犯そうとしたわ[#「犯そうとしたわ」に傍点]」
「……そうかい」
忍野は静かに――頷いた。
戦場ヶ原の――
不自然な形での貞操観念の強さ――
警戒心の強さ。
防衛意識の高さと攻撃意識の過敏さ。
説明が、ついた気がした。
浄衣姿の忍野に、過剰に反応したことも。
素人の戦場ヶ原にしてみれば、神道もまた、宗教[#「宗教」に傍点]であること自体には――変わりない。
「あの――生臭《なまぐさ》」
「それは仏教の観点だろう。身内の殺人を推奨する宗教だってあるさ。一概に言ってはならない。でも、犯そうと[#「犯そうと」に傍点]――ということは、未遂だったんだろう?」
「近くにあったスパイクで、殴ってやったわ」
「……勇敢だね」
「額《ひたい》から血を流して――もがいてた」
「それで、助かった?」
「助かりました」
「よかったじゃないか」
「でも[#「でも」に傍点]――お母さんは私を助けてくれなかった[#「お母さんは私を助けてくれなかった」に傍点]」
ずっと、そばで見てたのに。
戦場ヶ原は――淡々と。
淡々と、答える。
「どころか――私を詰《なじ》ったわ」
「それ――だけ?」
「違う――私が、その幹部に、怪我をさせたせいで――お母さんは」
「お母さんは、ペナルティ[#「ペナルティ」に傍点]を負った?」
忍野が、戦場ヶ原の台詞を先回りした。
ここは忍野でなくとも次の予想ができる、そんなシーンではあったが――戦場ヶ原にと効果的であったらしい。
「はい」
と、彼女は、神妙に――肯定した。
「娘が幹部を傷つけたんだから――当然だね」
「はい。だから――財産。家も、土地も――借金までして――私の家族は、壊れたわ。完全に壊れて――完全に壊れたのに、それなのに、まだ、その崩壊は、続いている。続いています」
「お母さんは、今、どうしている?」
「知らない」
「知らないということはないだろう」
「多分、まだ――信仰を続けているわ」
「続けている」
「懲《こ》りもせず――恥ずかしげもなく」
「それも、辛いかい?」
「辛い――です」
「どうして、辛い? もう関係ない人じゃないか」
「考えてしまうんです。もしも私があのとき――抵抗しなかったら[#「抵抗しなかったら」に傍点]、少なくとも――こんなことには、ならなかったんじゃないかって」
壊れなかったんじゃないかって。
壊れなかったんじゃないかって。
「そう思う?」
「思う――思います」
「本当に、そう思う?」
「……思います」
「だったらそれ[#「それ」に傍点]は――お嬢ちゃん。きみの思いだ[#「きみの思いだ」に傍点]」
忍野は言った。
「どんな重かろうと[#「どんな重かろうと」に傍点]、それはきみが背負わなくてはならないものだ。他人任せにしちゃあ[#「他人任せにしちゃあ」に傍点]――いけないね」
「他人任せに――し」
「目を背けずに――目を開けて[#「目を開けて」に傍点]、見てみよう[#「見てみよう」に傍点]」
そして――
忍野は目を開けた。
戦場ヶ原も、そっと――目を開けた。
四方の燈火。
明かりが、揺らいでいる。
影も。
三人の影も――揺らいでいる。
ゆらゆらと。
ゆらり――ゆらりと。
「あ、ああああああっ!」
戦場ヶ原が――大声を上げた。
かろうじて、頭は下げたままだが――その表情は驚愕《きょうがく》に満ち満ちていた。身体が震え――一気に汗|噴《ふ》き出している。
取り乱していた。
あの――戦場ヶ原が。
「何か――見えるかい?」
忍野が問う。
「み――見えます。あのときと同じ――あのときと同じ、大きな蟹が、蟹が――見える」
「そうかい。僕には全く見えないがね」
忍野はそこで初めて振り返り、僕を向く。
「阿良々木くんには、何か見えるかい?」
「見え――ない」
見えるのは、ただ。
揺らぐ明かりと。
揺らぐ影。
そんなのは――見えていないのと同じだ。
同定できない。
「何も――見えない」
「だそうだ」
戦場ヶ原に向き直る忍野。
「本当は蟹なんて見えて、いないんじゃない?」
「い、いえ――はっきりと。見えます。私には[#「私には」に傍点]」
「錯覚じゃない?」
「錯覚じゃありません――本当です」
「そう。だったら――」
忍野は戦場ヶ原の視線を追う。
その先に、何かが――いるように。
その先に、何かが――あるように。
「だったら言うべきことが、あるんじゃないか?」
「言うべき――こと」
そのとき。
特に、何か考えがあったわけでも、
何をするつもりだったのでもないだろうけれど、
戦場ヶ原は[#「戦場ヶ原は」に傍点]――顔をあげてしまった[#「顔をあげてしまった」に傍点]。
多分、状況に――
場に、耐え切れなかったのだろう。
それだけだろう。
けれど、事情なんて関係ない。
人間の事情なんて、関係ない。
その瞬間――戦場ヶ原は、後ろに跳《は》ねた。
跳んだ。
まるで重みなんて無いかのごとく、一度も床に足を着くことも擦ることもなく、ものすごいスピードで、神床とは反対側の、教室の一番後ろ、掲示板に、叩きつけられた[#「叩きつけられた」に傍点]。
叩きつけられ――
そのまま、落ちない。
落ちない。
張り付けられたがごとく、そのままだ。
礫刑《たっけい》のごとく。
「せ、戦場ヶ原――!」
「全く。壁になってやれって言っただろう、阿良々木くん。相変わらず、肝心なときに使えない男だね。それこそ壁みたいにぼーっとしているだけがきみの能じゃないだろうに」
忍野は落胆したみたいに言った。そんなことで落胆されても、目で追える速度ではなかったのだから、仕方がない。
戦場ヶ原は、まるで重力がそのベクトルに働いているかのように、ぐいぐいと、掲示板に押し付けられているようだった。
壁に――身体が食い込んでいく。
壁が罅割《ひびわ》れ、崩壊するか。
あるいは、戦場ヶ原が、潰れそうだった。
「う……う、うう」
悲鳴ではなく――うめき声だった。
苦しいのだ。
けれど――僕には、変わらず、何も見えない。
戦場ヶ原が、一人で壁に張り付いているようにしか見えない。だけど、だけどしかし――戦場ヶ原には、見えているのだろう。
蟹が。
大きな――蟹が。
おもし蟹[#「おもし蟹」に傍点]。
「仕方がないな。やれやれ、せっかちな神さんだ、まだ祝詞《のりと》も挙げてないっていうのに。気のいい奴だよ、本当に。何かいいことでもあったのかな」
「お、おい、忍野――」
「わかっているよ、方針変更だ。やむをえん、まあ、こんなところだろう。僕としては最初から、別にどっちでもよかったんだ」
ため息混じりにそう言って、つかつかと、しっかりした足取りで、忍野は礫刑の戦場ヶ原に近付いていく。
こともなげに近付いていく。
そして、ひょいっと手を伸ばし。
戦場ヶ原の顔の辺りのやや前方をつかみ[#「やや前方をつかみ」に傍点]。
軽く[#「軽く」に傍点]――引き剥がした[#「引き剥がした」に傍点]。
「よっこらせっと」
そのまま、柔道の投げのような形で――つかんだ何か[#「何か」に傍点]を、忍野は、勢いよく――思い切り、床に叩《たた》きつける。音もしないし埃も舞わない。しかし、戦場ヶ原がされたのと同じように[#「戦場ヶ原がされたのと同じように」に傍点]、それ以上に強く[#「それ以上に強く」に傍点]――叩きつけた。そして、一拍の呼吸もおかない素早さで、叩きつけたそれ[#「それ」に傍点]を、踏みつけにした。
神を、踏みつけにした。
至極《しごく》乱暴に。
敬意も信仰もない、不遜《ふそん》な扱いで。
平和主義者は、神を蔑《ないがし》ろに、した。
「…………っ」
それは、僕からすれば、忍野が一人で、パントマイムを――とんでもなく成熟したパントマイムを演じているようにしか見えないのだが、今も、器用にバランスよく、片足で立っているだけのようにしか見えないのだが、しかし、それ[#「それ」に傍点]がはっきりと見えている戦場ヶ原にしてみれば――
目を丸くするような、光景だったらしい。
光景であるらしい。
しかしそれも一瞬、支えを失ったのだろう、壁に張り付いていた戦場ヶ原は、べちゃりと、あっけなく、床に落ちる。そんな高さでもないし、戦場ヶ原には重みがないので、落下の衝撃自体は大したことないだろうとはいえ、完全に意表を突かれる形で落ちたので、受身を取れなかったようだ。足を強く打ったらしい。
「大丈夫かい?」
一応、忍野は戦場ヶ原にそう声をかけて、それから、己の足元を見遣る。それこそ――純粋に、値踏みするような目で。
価値を測るような細い目で。
「蟹なんて、どんなでかかろうが、つーかでかければでかいほど、引っ繰り返せば、こんなもんだよな。どんな生物であれ、平たい身体ってのは、縦から見たところで横から見たところで、踏みつけるためにあるんだとしか僕には考えられないぜ――といったところで、さて、どう思う? 阿良々木くん」
そしていきなり、僕に声をかけてきた。
「始めからもういっぺんやり直すって手も、あるにはあるんだけれど、手間がかかるしね。僕としては、このままぐちゃりと踏み潰してしまうのが、一番手っ取り早いんだけど」
「手っ取り早いって――ぐ、ぐちゃりって、そんなリアルな音……たかだか一瞬、頭、上げただけじゃないか。あんな程度で――」
「あんな程度じゃないんだよ。あんな程度で十分というべきかな。結局、こういうのって心の持ちようの問題だからさ――お願いできないなら、危険思想に手ェ出すしかないんだ。鬼や猫を相手にしたときのようにね。言葉が通じないなら戦争しかない[#「言葉が通じないなら戦争しかない」に傍点]――のさ。この辺はまるで政治だね。ま、このまま潰しちゃったところで、それでも一応、お嬢ちゃんの悩みは、形の上では解決するからさ。形の上ってだけで、根っこのところは残っちゃう姑息《こそく》療法で、草抜きならぬ草刈りって感じで、僕としては気の進むやり方じゃないけれど、この際それもありかなって――」
「あ、ありかなって――」
「それにね、阿良々木くん」
忍野は、嫌な感じに頬を歪《ゆが》め、笑った。
「僕は蟹が――とてつもなく嫌いなんだよ」
食べにくいからね、と。
忍野はそう言って――
そう言って、足を。
足に――力を。
「待って」
忍野の陰から声がした。
言うまでも無く――戦場ヶ原だった。
すりむいた膝をさすりながら、身を起こす。
「待って――ください。忍野さん」
「待つって――」
僕から、戦場ヶ原に、視線を切り換える忍野。
意地悪な笑顔のままで。
「待つって、何をさ。お嬢ちゃん」
「さっきは――驚いただけだから」
戦場ヶ原は言った。
「ちゃんと、できますから。自分で、できるから」
「……ふうん」
足を引いたりしない。
踏んだままだ。
しかし忍野は、踏み潰すこともせず、
「じゃあどうぞ、やって御覧」
と、戦場ヶ原に言った。
言われた戦場ヶ原は――
僕の視点からでは、とても信じられないことに、足を正座に組み、姿勢を正して――手を床について、忍野の足元の何か[#「何か」に傍点]に対して、ゆっくりと――丁寧に、頭を下げた。
土下座《どげざ》の――形だった。
戦場ヶ原ひたぎは――自ら、土下座をした。
進んで、誰にも言われないのに、その形を。
「――ごめんなさい」
まずは、謝罪の言葉だった。
「それから――ありがとうございました」
そこに、感謝の言葉が続いた。
「でも――もういいんです。それは――私の気持ちで、私の思いで――私の記憶ですから、私が、背負います。失くしちゃ、いけないものでした」
そして、最後に――
「お願いです。お願いします。どうか、私に、私の重みを、返してください」
最後に、祈りのような、懇願《こんがん》の言葉。
「どうかお母さんを――私に、返してください」
だん。
忍野の足が――床を踏み鳴らした音だった。
無論、踏み潰した――のではないだろう。
そうじゃなく、いなくなったのだ。
ただ、そうであるように――当たり前のようにそこにいて、当たり前のようにそこにいない形へと、戻ったのだろう。
還ったのだ。
「――ああ」
身じろぎもせず、何も言わない忍野メメと。
全てが終わったことを理解しても、姿勢を崩すことなく、そのままわんわんと声を上げて泣きじゃくり始めてしまった戦場ヶ原ひたぎを、阿良々木暦は、離れた位置から眺めるように見ていて。
ああ、ひょっとしたら戦場ヶ原は、本当は本当の本当に、ツンデレなのかもしれないなと、そんなことを、ただぼんやり、考えていた。
007
時系列。
時系列の捉《とら》え方を、僕は間違っていたらしい。てっきり、戦場ヶ原が蟹に行き遭って、重みを失い、その後で戦場ヶ原の母親が、それを心に病んで、悪徳宗教に嵌っていった――のだと思っていたけれど、そうではなく、戦場ヶ原の母親が悪徳宗教に嵌ったのは、戦場ヶ原が蟹に行き遭い重みを失う、随分と前だと、いうことだった。
考えれば分かりそうなものだ。
カッターナイフやらホッチキスなどの文房具と違って、スパイクなんてものは偶然、手を伸ばしたらそれで届くような、身近にあるようなものではない。スパイクという単語が出てきた以上、それは、戦場ヶ原が陸上部だった頃――中学生だった頃の話であると、あの時点で僕は、察しているべきだった。間違っても、体育の時間にも参加できない、帰宅部の高校時代では、ありえないのだ。
正確には、戦場ヶ原の母親が悪徳宗教に嵌ったのは――それを信奉するようになったのは、戦場ヶ原が小学五年生のときだったらしい。羽川ですらも知らない、小学生の頃の、話だったのだ。
聞いてみれば。
その頃戦場ヶ原は――病弱な女の子だったらしい。
立ち位置ではなく、本当にそうだったのだ。
そして、あるとき、名前を言えば誰でも知っているような、酷い大病を患《わずら》った。九割方助からないというような、それこそ医者が匙《さじ》を投げるような、病状だったそうだ。
そのとき――
戦場ヶ原の母親は、心の拠り所を求めた。
つけ込まれたというべきか。
恐らくはそれとは何の関係もなく――「本当に関係ないかどうかは誰にもわからないよ」なんて知った風なことを、忍野は言ったが――戦場ヶ原は、大手術の結果、九死に一生を得たそうだ。これもまた、戦場ヶ原の家で、戦場ヶ原の裸を、もっと細部までじっくりと観察していれば、背中にうっすらと残っているという手術の痕跡を、僕はあるいは見つけられていたのかもしれないが、しかしそこまでを僕に要求するのは酷《こく》というものだろう。
こちらに身体の正面を向けて、上半身から服を着る彼女に対し――見せびらかしたいだけなのかとは、やっぱり、酷い物言いだったけれど。
感想くらい――か。
ともあれ、戦場ヶ原が一命を取り留めたことで、戦場ヶ原の母親は――ますます、その宗教の教義に、のめりこんでしまった。
信仰のお陰で――娘が助かったのだと。
完全に、型に嵌った。
典型的症例という奴だ。
それでも、家庭自体は――かろうじて保たれていた。それがどのような宗派のどのような宗教だったのか、僕には知りようもないけれど、少なくとも基本方針としては、信者を生かさず殺さず――だったのだろう。父親の稼ぎが大きかったことも、元々戦場ヶ原の家が素封家《そほうか》であったことも、その助けになっていたけれど――しかし、年を追うにつれ、母親の信仰具合、のめりこみ具合は、酷くなっていったらしい。
家庭は保たれているだけだった。
戦場ヶ原は、母親とは不仲になったそうだ。
小学校を卒業するあたりまではともかく――中学生になってからは、ほとんど口をきかなかったらしい。だから、羽川から聞いた、中学時代の戦場ヶ原ひたぎの姿が――それを知ってからもう一度見ると、どれほど歪んでいたかが、理解できる。
本当に――まるで釈明だ。
超人。
まるで超人だった、中学時代の戦場ヶ原。
それは――ひょっとしたら、母親に、その姿を見せるためだったのかもしれない。そんな宗教なんかに頼らなくても、自分はちゃんとできるんだから――と。
不仲なりに。
根本が活発な性格では、なかったのだろう。
小学生のとき病弱だったなら、尚更だ。
無理をしていたんだと思う。
でも、それは、多分、逆効果だった。
悪循環。
戦場ヶ原が、ちゃんとすればちゃんとするほど、模範であれば模範であるほど――戦場ヶ原の母親は、それを、教義のお陰だと、そう思ったに違いないのだから。
そんな逆効果の悪循環を繰り返し――
中学三年次。
卒業を間近にして、ことは、起きた。
娘のために入信したはずなのに、それはどこかで主客転倒を起こし、悪徳宗教の幹部に娘を差し出すところにまで、戦場ヶ原の母親は至った。否、それすらもまだ、娘のためであったのかもしれないと思うと、やりきれない。
戦場ヶ原は抵抗した。
スパイクで幹部の額を、流血するほど傷つけた。
その結果――
家庭は崩壊してしまった。
破局した。
全てを根こそぎ、奪われて。
財産も、家も土地も失い――借金まで背負い。
生かさず殺さず――殺された。
離婚が成立したのは去年だと言っていたし、あのアパート、民倉荘で暮らすことになったのも、戦場ヶ原が高校生になってからなのだろうけれど、全ては中学生の頃に、もう終わっていたのだ。
終わっていたのだ。
だから。
だから戦場ヶ原は――中学生でもない高校生でもない、そんな中途半端な時期に――行き遭った。
一匹の蟹に。
「おもし蟹ってのはね、阿良々木くん。だからつまり、おもいし神[#「おもいし神」に傍点]ってことなんだよね」
忍野は言った。
「分かる? 思いし神[#「思いし神」に傍点]ってことだ。また、思い[#「思い」に傍点]と、しがみ[#「しがみ」に傍点]――しがらみ[#「しがらみ」に傍点]ってことでもある。そう解釈すれば、重さを失うことで存在感まで失ってしまうことの、説明がつくだろう? あまりに辛いことがあると、人間はその記憶を封印してしまうなんてのは、ドラマや映画なんかによくある題材じゃないか。たとえて言うならあんな感じだよ。人間の思いを、代わりに支えてくれる神様ってことさ」
つまり、蟹に行き遭ったとき。
戦場ヶ原は[#「戦場ヶ原は」に傍点]――母親を切ったのだ[#「母親を切ったのだ」に傍点]。
娘を生贄《いけにえ》のように幹部に差し出し、助けてくれもせず、そのせいで家庭も崩壊し、でも、あのとき自分が抵抗しなければ、そんなことはなかったのかもしれないと、思い悩むことを――やめた。
思うのを止めた。
重みを、無くしたのだ。
自ら、進んで。
ズルを――した。
心の拠り所を[#「心の拠り所を」に傍点]――求めたのだ[#「求めたのだ」に傍点]。
「物々交換だよ。交換、等価交換。蟹ってのは、鎧《よろい》を身に纏《まと》って、いかにも丈夫そうだろう? そういうイメージなんだろうね。外側に甲羅《こうら》を持つ。外骨格で、包み込むように、大事なものを保管する。すぐに消えてしまう泡でも吹きながらね。食えないよねえ、あれは」
蟹が嫌いなのは本当らしい。
忍野は軽いようで案外――不器用な男なのだ。
「蟹ってのは、解ったような虫って書くだろう? 解体する虫ってことでもあるのかな。いずれ、水際を行き来する生物ってのは、そういうところに属《ぞく》するものなんだよね。しかも連中――大きな鋏を、二つ、持ってやがる」
結論として。
戦場ヶ原は重みを失って――重みを失って、思いを失って、辛さから、解放された。悩みもなく――全てを捨てることができた。
できたせいで。
かなり――楽になったらしい。
それが本音だそうだ。
重みを失ったことなど――戦場ヶ原にとっては、本質的な問題ではなかったのだ。しかしそれでも――そうでありながら、戦場ヶ原は、金貨十枚で影を売った若者のように、そのことを、楽になってしまったことを[#「楽になってしまったことを」に傍点]、後悔しない日は、一日だって、なかったのだという。
でも、周囲との不調和からではない。
生活が不便になったからでもない。
友達を作れなかったからでもない。
全てを失ったからでもない。
思いを失ったから――それだけだそうだ。
五人の詐欺師。
それは、母親の宗教とは関係ないところの五人だったそうだけれど――それでも、忍野を含めて、半分も信用していないそんな奴らを、半分足らずとはいえ信頼してしまったのも――それがそのまま、戦場ヶ原の悔やみを表していると言える。惰性でずっと、病院に通い続けたことといい――
何のことは無い。
僕は最初から最後まで全く見当はずれだった。
戦場ヶ原は重みをなくしてからもずっとの間。
何も、諦めず。
何も、捨てていなかったのだ。
「別に悪いことじゃないんだけれどねえ。辛いことがあったら、それに立ち向かわなければならないというわけじゃない。立ち向かえば偉いというわけじゃない。嫌なら逃げ出したって、全然構わないんだ。それこそ娘を捨てようが宗教に逃げようが、全然勝手だ。特に今回の場合、今更思いを取り戻したところで、何にもならないんだから。そうだろう? 悩まなくなっていたお嬢ちゃんが、悩むようになるだけで、それで母親が帰ってくるわけでも、崩壊した家族が再生するわけでもない」
何にもならない。
忍野は揶揄《やゆ》でも皮肉でもなさそうに、言った。
「おもし蟹は、重みを奪い、思いを奪い、存在を奪う。けれど、吸血鬼の忍ちゃんや色ボケ猫とは訳が違う――お嬢ちゃんが望んだから[#「望んだから」に傍点]、むしろ与えたんだ[#「与えたんだ」に傍点]。物々交換――神様は、ずっと、そこにいたんだから。お嬢ちゃんは、実際的には、何も失ってなんかいなかったんだよ。それなのに」
それなのに。
それでも。
それゆえに。
戦場ヶ原ひたぎは――返して欲しかった。
返して欲しがった。
もう、どうしようもない、母親の思い出を。
記憶と、悩みを。
それがどういうことなのかは僕には、本当のところはわからないし、これからもわからないままなのだろうけれど、そして、忍野の言う通り、だからどうということもなく、母親も戻らず家庭も戻らず、ただ戦場ヶ原が一人、ひたすら、辛い思いをするだけなのだろうけれど――
何も変わらないのだろうけれど。
「何も変わらないなんてことはないわ」
戦場ヶ原は、最後に言った。
赤く泣き腫《は》らした目で、僕に向かって。
「それに、決して無駄でもなかったのよ。少なくとも、大切な友達が一人、できたのだから」
「誰のことだ?」
「あなたのことよ」
反射的にとぼけてみせた僕に対して、照れもなく、それに、遠回しにでもなく、堂々と――戦場ヶ原は、胸を張った。
「ありがとう、阿良々木くん。私は、あなたにとても、感謝しているわ。今までのこと、全部謝ります。図々《ずうずう》しいかもしれないけれど、これからも仲良くしてくれたら、私、とても嬉しいわ」
不覚にも――
戦場ヶ原からのその不意打ちは、僕の胸に、深く深く、染《し》み入ったのだった。
蟹を食べに行く約束は。
どうやら、冬を待つことになりそうだけれど。
008
後日談というか、今回のオチ。
翌日、いつものように二人の妹、火憐《かれん》と月火《つきひ》に叩き起こされると、やけに身体がだるかった。無理矢理にその身体を起こし、それから立ち上がるだけでも一仕事。酷い熱でもあるときのように、ずっしりと、節々が痛い。僕のときや羽川のときとは違って、取っ組み合いや大立ち回りがあったわけでもないのだから、筋肉痛なんてこともないだろうのに、とにかく、一歩一歩が苦しい。階段を降りていても、ふと気を抜けば、そのまま転がり落ちてしまいそうだった。意識ははっきりしているし、インフルエンザの季節でもないだろうに、一体どういうことだろう。
考えて、まさかという考えが、脳裏をよぎる。
ダイニングに行く前に、洗面所に向かった。
そこにはヘルスメーターがある。
乗った。
ちなみに、僕の体重は五十五キロ。
メーターの数値は、百キロを指していた。
「……おいおい」
なるほど。
神様ってのは、確かに、大雑把な連中らしい。
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第二話 まよいマイマイ
[#改ページ]
001
八九寺《はちくじ》真宵《まよい》と遭遇したのは、五月の十四日、日曜日のことである。この日は全国的に母の日だった。お母さんが好きな人でも嫌いな人でも、お母さんと仲がいい人でも仲が悪い人でも、日本国民ならば誰もが平等に享受《きょうじゅ》することになる、母の日。いや、母の日の起源は、確かアメリカだっただろう。ならばクリスマスやハロウィン、バレンタインデーなどと同列に、一種のイベントと考えるべきなのかもしれないが、とにかく、五月十四日というこの日は、カーネーションの消費が一年三百六十五日の中でトップを記録し、各地の家庭で、『肩たたき券』やら『お手伝い券』やらが、行き交っている日だったのだと思われる。いや、そんな風習が今も現存しているかどうかはわからないが、いずれにせよ、この年の五月十四日が母の日であることは、確かだった。
そんな日。
そんな日の、午前九時。
僕は見知らぬ公園のベンチに座っていた。馬鹿みたいに青い空を、馬鹿みたいに見上げながら、さして何をするでもなく、見知らぬ公園のベンチに座っていた。見知らぬどころか聞いたこともない、そこは、公園だった。
浪白公園と、入り口にはあった。
それが『なみしろ』と読むのか『ろうはく』と読むのか、あるいはもっと他の読み方をするものなのか、僕にはまるでわからない。何に由来するものなのかも、だから当然、わからない。勿論、そんなことがわからなかったからといって、どうということもない。何の問題も生じない。僕は確固たる目的があってその公園に来たわけではなく、ただ単に、でたらめに、気分気ままに足の向くままにマウンテンバイクで駆けていたら、その公園に行き着いてしまったという、あくまでそれだけのことなのだから。
来訪と到着との違い。
当人の僕以外には、同じことなのだろうけれど。
自転車は入り口付近の駐輪場に停めた。
駐輪場には、放置され過ぎ、雨風に晒され過ぎて、もう自転車なのだか錆《さび》の塊《かたまり》なのだかよくわからない物体が二台ほどあったくらいで、他には一台も、僕のマウンテンバイク以外は一台も、停められてはいなかった。こういうとき、アスファルトで舗装された道をマウンテンバイクで駆ける空しさを一層感じるものだが、何、そんなものは、たとえこういうときでなくとも、いつだって感じている空しさだった。
結構広い公園だった。
といっても、それは単純に、遊具が少ないせいでそう感じるだけなのだろう。広く見えているだけなのだ。端っこの方にブランコと、猫の額《ひたい》ほどの砂場があるだけで、他には、シーソーもなければジャングルジムもない、滑り台すらない。高校三年生の僕としては、公園というその場所は、本来もっと郷愁を誘われるべき座標なのかもしれなかったが、むしろそれとはまるっきり逆の感情を、僕は、胸に抱かないでもなかった。
それとも、何だろう、ああいうことだろうか。公園遊具の危険性、子供の安全を考えての結果、みたいな話で、昔は色々と設置されてあった遊具が、撤去されてしまっての、その形だったのだろうか。もしそうだったとしても、僕の感想自体は変わらないけれど、それに、そうならば何より危ないのは間違いなくブランコだと個人的には思うけれど、でも、まあ、そういうこととは関係なく、今、自分が五体満足でいる奇跡とかを、痛感しなくもなかった。
子供の頃は色んな無茶をしていたなあ、と。
ノスタルジィとは違う感覚で、そう思った。
もっとも。
五月十四日の僕は、その一ヵ月半くらい前の段階で、既に五体満足と言えるような身体ではなくなってしまってはいたのだけれど――まだ心に根付いている感傷の方は、どうやらそちら、その現実に追いついてはいなかったということだ。正直言って、それは数ヵ月程度で整理のつくことではない。一生かかっても無理かもしれなかった。
しかし、と、思った。
いくら遊具がないからといっても、それでも、あまりに寂しい公園だった。何せ、僕以外、一人も、誰もいないのだ。今日は天下の日曜日だというのに、である。遊具がない分、気持ち広くなっているのだから、ゴムボールとプラスチックのバットで、野球でもやればいいのに、と思う。それとも、最近の小学生の間では、もう遊びといえば野球、それに次いでサッカー、みたいな習慣は、なくなってしまったのだろうか。最近の小学生は家でビデオゲームばっかりやっているのだろうか――それとも塾通いが忙《いそが》しい? あるいは、このあたりの子供は、一日かけて母の日を祝う、孝行者ばかりなのだろうか。
それにしたって、日曜日の公園に、僕しかいないだなんて、まるで世界に僕一人しかいないみたいじゃないか――というのはいくらなんでも大袈裟《おおげさ》だとしても、まるで、この公園の所有権が、僕にあるかのようだった。もう二度と、家には帰らなくていいみたいな、そんな気分になった。僕だけ、一人だけだから……ん。いや、一人、いた。僕だけではなかった。僕の座っているベンチから、広場を挟んで反対側、公園の隅っこの方、鉄製の看板、案内図――この辺りの住宅地図を眺めている、小学生が一人。背中を向けているので、どんな子かはわからない。大きなリュックサックを背負っているのが印象的だった。一瞬、仲間を見つけたような気になって、僕の心はかすかに緩んだが、しかし、その小学生は、その案内図にしばらく向き合った後、何かを思いついたように、公園から去っていった。そして僕だけになった。
また一人か。
そんなことを思った。
――兄ちゃんは。
そこでふと――妹の言葉が思い出された。
マウンテンバイクで家を飛び出るときに、僕の背中に、無造作に投げ掛けられた言葉。
――兄ちゃんは、そんなことだから――
ああ。
畜生《ちくしょう》、と、僕は、さっきまで取っていた空を見上げる姿勢から、今度は地面を一直線に見詰めるような、頭を抱える姿勢を、取ることになった。
暗い気分が、あたかも波打ち際のように、押し寄せてくる。
空を見て、大分落ち着いてはいたのに、今更のように、自分の卑小《ひしょう》さが嫌になる。自己嫌悪とはこういう感情を言うのだろう――普段僕は、あまりそういうことで悩むタイプではないのだが、むしろ悩みなんて言葉にはとんと縁がないのが僕なのだが、ごくたまに、そう、五月十四日のような、そういうイベントじみた日には、何故か大抵、そういうコンディションになってしまう。特別な状況、特殊な設定。そういうものに、僕は酷く脆《もろ》い。落ち着きを失ってしまう。浮き足だってしまうのだ。
ああ、平日最高。
早く明日になってくれ。
そんな微妙なコンディションから――蝸牛《かたつむり》にまつわるそのエピソードは、始まったのだった。裏を返せば、僕がそんなコンディションでさえなければ、それはあるいは、始まりさえしなかったエピソードだったのだろう。
002
「あらあら、これはこれは。公園のベンチの上に犬の死体が捨てられていると思ったら、なんだ、阿良々木くんじゃないの」
人類史上恐らくは初めての試みになるであろう奇抜な挨拶が聞こえた気がして、地面から顔をあげると、そこにいたのはクラスメイトの戦場ヶ原ひたぎだった。
当たり前だが、日曜日なので、私服だった。いきなりの犬の死体呼ばわりに何か言い返してやろうかと思ったが、その私服姿、それに学校では下ろしているストレートの髪を、ポニーテイル風に結《ゆ》わえている戦場ヶ原のその新鮮な立ち姿に、喉元《のどもと》まででかかった言葉を、僕は、思わず、飲み込んでしまった。
うわ……。
別に露出が多いわけでもないのに、妙に胸が強調された上半身のコーディネート――それに、普段の制服姿からは考えられないキュロットの丈《たけ》。スカートというわけでもないのに、黒いストッキングが、生足よりも艶《なまめ》かしい。
「何よ。ただの挨拶じゃない。冗談よ。そんな、本気で鼻白《はなじろ》んだみたいな顔しないで欲しいわ。阿良々木くん、ユーモアのセンスが決定的に欠如しているんじゃないの?」
「あ、い、いや……」
「それとも何。うぶな阿良々木くんは、私のチャーミングな私服姿に見蕩《みと》れちゃって至福の瞬間ということ?」
「………………」
表現が駄洒落《だじゃれ》なのはともかく、図星というか、確かに概《おおむ》ねそんな感じで正解だったので、うまい突っ込みの言葉も出てこない。
「それにしても、見蕩れるの蕩れるって、すごい言葉よね。知ってる? 草冠に湯って書くのよ。私の中では、草冠に明るいの、萌《も》えの更に一段階上を行く、次世代を担うセンシティヴな言葉として、期待が集まっているわ。メイド蕩れー、とか、猫耳蕩れー、とか、そんなこと言っちゃったりして」
「……前に見た私服とは、随分《ずいぶん》印象が違ったから、びっくりしたんだよ。それだけだ」
「ああ、それはそうね。あのときは、大人しめの服を、ということだったからね」
「そうなのか? ふうん」
「とはいえ、この服は、上下ともに、昨日、買ったところなのだけれどね。さしあたり、全快祝いと言ったところかしら」
「全快祝い――」
戦場ヶ原ひたぎ。
クラスメイトの少女。
彼女はつい最近まで、とある問題を抱えていた。とある問題を、つい最近まで――そして、高校生になってから、ずっと。
二年以上の間。
間断なく。
その問題のせいで、彼女は友達一人作れず、誰とも接触することもできず、あたかも牢獄に閉じ込められているかのような拷問《ごうもん》の如《ごと》き高校生活を送っていたのだが――しかし、幸いなことに、その問題は、この間の月曜日辺りに、一応の解決を見た。その解決には僕も立ち会うこととなった――戦場ヶ原とは、一年生のときも二年生のときも、そして三年生の今現在でも、同じクラスで机を並べる間柄だったが、まともに話をしたのは、そのときが最初だった。そこで初めて、無口で成績のいい、あえかな風の病弱な生徒という程度の認識しかなかった彼女と、縁が生じたと言える。
問題の解決。
解決。
とはいえ、数年に亘《わた》ってその問題と付き合ってきた戦場ヶ原にしてみれば、勿論それはそんな簡単な話ではなく――簡単な話であるわけがなく、その後、昨日、土曜日までの間、彼女は学校を休んでいた。その問題についての、調査というか精密検査というかで、病院に通い詰めだったそうだ。
そして昨日。
そういったあれこれから――彼女は解放された。
らしい。
とうとう。
逆に言えば、やっと。
裏を返せば、ついに。
「まあ、そうは言っても、問題の根源[#「根源」に傍点]まで回復するわけじゃないのだから、私としては、素直に喜べるかどうかと言われれば、微妙なところなのだけれどね」
「問題の根源――か」
そういう問題だったのだ。
けれど、世にある問題と呼ばれる類《たぐい》の現象は、大抵の場合、そういうものだろう――全てはあらかじめ終了していて、それにどんな解釈を付け加えるかというのが、問題と呼ばれるものの、正体なのだから。
戦場ヶ原の場合もそうだし。
僕の場合もそうなのだ。
「いいのよ。私が悩めばいいことなのだから」
「ふうん。ま、そうだな」
そうなのだった。
お互いに、そう。
「そうよ。全くそう。それに、悩めるだけの知性がある分、私は幸せなのだから」
「……どこかに悩めるだけの知性がない分、不幸せな奴がいるみたいな言い方をするんだな」
「阿良々木くんは馬鹿《ばか》だわ」
「直接言いやがった!」
しかも文脈を完全に無視してやがる。
お前それ、僕を馬鹿って言いたいだけじゃん……。
ほぼ一週間ぶりだけど、変わらないなあ、こいつ。
ちょっとは丸くなったかと思ったけれど。
「でも、よかったわ」
戦場ヶ原は薄い笑みをたたえて、言った。
「今日は単なる慣らしのつもりだったけれど、この服、できれば一番最初に、阿良々木くんに見て欲しかったから」
「……ふうん?」
「問題が解決したことによって、ファッションを自由に選べるようになったから、ね。これからは色んな服が、どんな服でも、制限なく着られるようになったのよ」
「ああ……そうだっけ」
自由に服が選べない。
それも、戦場ヶ原が抱えていた問題の一つ。
お洒落をしたい年頃だというのに、だ。
「一番最初に僕に見せたかったっていうのは、まあ、なんっつーか、冥利《みょうり》に尽きるというか、光栄な話だね」
「見せたかった、じゃないわ、阿良々木くん。見て欲しかったのよ。それとこれとじゃ、ニュアンスが全然違うじゃない」
「へえ……」
というか、月曜日、『大人しめの服』の他に、もっとすごい格好も見せてもらっているのだが……。けれど、しかし、やけに胸が強調されたその服は、確かに、かなり、僕の眼をきつく惹《ひ》きつけるだけの魅力を備えていた。いいセンスをしていると言うか、まるで強力な磁力のようで、捕らえられたような気分だった。病弱という触れ込みだった彼女だが、そんな言葉とはまるで対極的な、前向きなベクトルを、感じなくもない。髪をあげているせいで、上半身のラインがよくわかる。特に胸の辺りが――いや、さっきから胸って言ってばっかりだ、僕……。そんな露出は多くない……というより、五月半ばというこの時期を考えたら、長袖《ながそで》にストッキングを穿いている彼女の露出は、むしろ少ないくらいなのに、とにかく、エキゾチックだ。なんだろう、一体どういうことだろう。ひょっとして、月曜日における戦場ヶ原ひたぎとの一件、それに、ゴールデンウィークにおける委員長、羽川翼との一件を経験することによって、僕は、裸《はだか》や下着姿よりも、女性の着衣の方によりエロチシズムを感じる能力を身につけてしまったのだろうか……。
嫌だ……。
高校生の段階で、そんな能力は必要ない……。
ていうか冷静になってみれば、クラスメイトの女の子のことをそういう眼で見るのは単純に失礼だと思う。激しく自分に恥じ入る感じだった。
「ところで、阿良々木くん。こんなところで、一体全体、何をしているの? 私が休んでいる間に学校を退学にでもなってしまったのかしら。家族にはそんなこと話せないから、学校に通っている振りをして、公園で時間を潰しているとか……だとすれば、私の恐れていた事態がついに、といった感じだわ」
「リストラされたお父さんじゃねえか、それ……」
それに今日は日曜日だ。
母の日だっての。
そう言いそうになって、すんでのところで、思いとどまる。戦場ヶ原は、事情あって、父子家庭なのだった。母親については、ちょっとしたややこしい事情を抱えている。そういうことに対してあまり気を遣い過ぎるのもかえってよくないのだろうが、かといって、無闇《むやみ》に振っていい話でもないだろう。母の日という言葉は、一応、戦場ヶ原に対しては、禁句にしておこう。
僕だって――
進んで話したいわけじゃないし。
「別に。暇《ひま》潰し」
「何をしているのと訊かれて暇潰しと答える男は甲斐性《かいしょう》なしという噂を聞いたことがあるわ。まあ、阿良々木くんには関係のない話であって欲しいけれど」
「……ちょっとした、ツーリングだよ」
自転車でだけどな、と付け加えた。
それを聞いて、戦場ヶ原は「ふうん」と頷き、公園の入り口の方を、一回、振り向いた。その方向には、そう、駐輪場がある。
「じゃあ、あの自転車、阿良々木くんのだったのね」
「ん? ああ」
「フレームは酸化鉄でコーティングしているのじゃないかってくらいに錆《さ》びていたし、チェーンも切れて外れていて、サドルと前輪が無くなっていたけれど、そう、あんなになっても自転車って動くものなのね」
「それじゃねえ!」
それは放置自転車だ。
「そういうのが二台あった他に、もう一台、格好いい奴があっただろ! 赤い奴! それが僕のだ!」
「ん……ああ。あのマウンテンバイク」
「そうそう」
「MTB」
「まあ……そうだ」
「MIB」
「それは違う」
「ふうん。あれ、阿良々木くんのだったんだ。でも、そうなるとおかしいわね。前に、私が後ろに乗っけてもらった自転車とは随分造形が違うみたいだけれど」
「あれは通学用。プライベートでママチャリなんて乗れるわけねーだろ」
「なるほどね。阿良々木くん、高校生だもんね」
ふむふむと、頷く戦場ヶ原。
お前も高校生なのだが。
「高校生、マウンテンバイク」
「含むところのありそうな物言いだな……」
「高校生、マウンテンバイク。中学生、バタフライナイフ。小学生、スカートめくり」
「その悪意のある羅列はどういう意味だ!」
「助詞も形容詞もないのだから、悪意があるかどうかなんてわからないでしょう。勝手な推測で女の子に向かって大声を出さないでよ、阿良々木くん。恫喝《どうかつ》だって暴力の一つなのよ?」
それなら毒舌だって暴力の一つだろう。
なんて言っても、仕方ないのだろうけれど……。
「じゃあ、助詞と形容詞を足してみろよ」
「高校生『の』マウンテンバイク『は』、中学生『の』バタフライナイフ『や』、小学生『の』スカートめくり『より』、『有り得ない』」
「フォローする気がないのかよ!」
「やあねえ阿良々木くん。そうじゃなくて、ここでの突っ込みは『有り得ない』は形容詞じゃなくて動詞プラス打消しの助動詞だ、でしょう」
「そんなもん咄嗟に言われてわかるか!」
さすがは学年トップクラスの成績保持者。
いや、わからないのは僕だけなのかな……。
国語は苦手だ。
「お前な、僕はいいよ。僕はそこまでマウンテンバイクが好きってわけでもないし、それに、僕はもう今更だから、お前の暴言については、ある程度我慢がきくからさ。我慢っていうか、融通《ゆうずう》っていうかがな。でも、マウンテンバイクに乗ってる高校生なんて、世界中、五万といるぞ? お前はそいつらを、全員まとめて敵に回すのか?」
「とても最高ね、マウンテンバイク。高校生ならば誰もが憧れる逸品だわ」
一瞬で手のひらを返す戦場ヶ原ひたぎ。
意外と保身的な奴だった。
「その最高さ加減が阿良々木くんにあまりにも似合わないものだから、ついつい、心にもないことを言ってしまったわ」
「責任|転嫁《てんか》までしやがった……」
「細かいことをごちゃごちゃとうるさいわね。そんなに殺されたいのなら、いつでも半殺しにしてあげるわよ」
「残酷な仕打ちだ!」
「阿良々木くん、この辺、よく来るの?」
「平気で話題を戻すよな、お前は。いや、多分、初めてだと思う。適当に自転車走らせていたら、ちょっと公園があったんで、なんとなく、休んでいただけだよ」
正直言って、もっと遠くまで――いっそ沖縄《おきなわ》とかくらいまで来たつもりでいたけれど、こんな風にたまたま戦場ヶ原に出会ってしまったということは、当たり前だけれど、自転車くらいじゃ、住んでいる町からは出られもしないということだろう。それは正に、牧場のごとく。
あーあ。
免許でも取ろうかなあ。
でもやっぱ、卒業してからだよなあ。
「戦場ヶ原は? 慣らしって言ってたけれど、なんだ、じゃあ、リハビリの散歩ってわけか?」
「慣らしというのは服の慣らしよ。阿良々木くんは男の子だからそういうの、しないのかしら? 靴の慣らしくらいはするでしょう。まあ、平たく言えば散歩というわけね」
「ふうん」
「この辺りは、昔、私の縄張《なわば》りだったのよ」
「………………」
縄張りって……。
「ああ、そういや、お前、二年生のときに、引っ越ししているんだったっけ。何、それまで、この辺りに住んでいたってこと?」
「まあ、そういうこと」
そういうことらしかった。
なるほど――ということは、単に散歩とか、服の慣らしとか言うよりも、本質的には、自身の問題が解決したゆえに、昔を懐《なつ》かしんで――ということもあるのだろう。なかなか人間らしい行動を取るじゃないか、こいつも。
「久し振りだけど、この辺りは――」
「どうした。全然、変わらないってか?」
「いえ、逆。すっかり変わっちゃった」
すぐに答えた。
既にある程度、散策は終わっているらしい。
「別に、そんなことでセンチメンタルな気持ちになったりはしないけれど――でも、自分が昔住んでいた場所が、変わっていくというのは、どことなく、モチベーションが削《そ》がれる感じがするわね」
「仕方ないことじゃないのか?」
僕は生まれたときからずっと同じ場所で育っているので、戦場ヶ原が言うような感覚は、正直、全くわからないけれど。田舎と呼べるような場所も、僕にはないし――
「そうね。仕方のないことだわ」
戦場ヶ原は、意外なことに、ここではろくな反論もせずに、そう言った。この女が何か意見めいたことを言われて反論しないなんて、珍しい。あるいは、僕とこの話題を続けても、何ら得るところはないと思ったのかもしれない。
「ね。阿良々木くん。そういうことなら、隣、構わないかしら?」
「隣?」
「あなたとお話がしたいわ」
「…………」
こういう物言いは、本当に直截《ちょくせつ》的なんだよな。
言いたいことややりたいことは簡単|明瞭《めいりょう》。
まっすぐ、ど真ん中。
「いいよ。四人掛けのベンチを一人で占領していることに、若干の心苦しさを感じていたところだったんだ」
「そう。では遠慮なく」
戦場ヶ原はそう言って、僕の隣に座った。
肩が触れ合うくらいの隣に座った。
「……………………」
え……なんでこいつ、こんな四人掛けのベンチで、まるで二人掛けみたいな位置に座るんだ……? 近過ぎませんか、戦場ヶ原さん。ぎりぎりの位置で、まあかろうじて身体同士は触れ合ってはいないものの、ちょっとでも身じろぎすればというものすごく絶妙なバランスで、クラスメイト同士としては、いや友達同士としても、ちょっとこれはちょっとという感じだ。かといって、これでこっちが距離を取るように移動したら、まるで僕が戦場ヶ原を避けているみたいな印象になりかねない。たとえそんなつもりはなくとも、仮にそんな風に思われたら、戦場ヶ原からどんな迫害を受けることになるのかと思うと、そう安易に、僕としては動くわけにはいかなかった。結果――固まる。
「この間のこと」
そんな状況、位置関係で。
戦場ヶ原は平然とした風に言った。
「改めて、お礼を言わせてもらおうと思って」
「……ああ。いや、お礼だなんて、そんなの、別にいいよ。考えてみたら、僕、何の役にも立ってないしな」
「そうね。ゴミの役にも立たなかったわ」
「…………」
意味は同じだけれど、より酷い表現だった。
というか酷い女だ。
「だったら、礼は忍野に言っとけよ。それだけでいいと思うぜ」
「忍野さんのことは、また別の話だわ。それに、忍野さんには、規定の料金を支払うことになっているしね。十万円だったかしら」
「ああ。バイトするんだっけ?」
「ええ。とはいえ私の性格は労働には不向きなので、今はまだ、それについての対策を講じている段階だけれどね」
「自覚があるのは自覚がないのよりはいいことだ」
「なんとか踏み倒せないものかしら……」
「そんな対策を講じていたのか」
「冗談よ。お金のことはちゃんとするわ。まあ、だから、忍野さんのことは、また別――ということ。それで、私は、阿良々木くんには、忍野さんとは違う意味で、お礼を言いたいの」
「だったら、今聞かせてもらったってことで、もういいよ。いくら礼の言葉でも、あんまり何度も言うと、中身がなくなってくもんだからさ」
「中身なんか最初からないわ」
「ないのかよ!」
「冗談です。中身はありました」
「冗談ばっかりだな、お前」
こちらとしては呆れるばかりだった。
こほん、と咳《せき》をしてみせる戦場ヶ原。
「ごめんなさいね。私って、なんだか、阿良々木くんから何かを言われると、ついつい、それを否定したり、それに逆らいたくなったりしちゃうのよ」
「…………」
謝りながらそんなことを言われても……。
あなたとは気が合いませんねって言われた気分だ。
「きっと、これは、あれよね。好きな子を苛《いじ》めたいって思う、ちっちゃな子供みたいな心境なのでしょうね」
「いや、弱い者を甚振《いたぶ》りたいって思う、おっきな大人みたいな心境だと思うぞ……」
ん?
今僕、戦場ヶ原に好きな子って言われた?
あ、いや、言葉の綾《あや》か。
自分に笑顔を見せてくれる女の子が全員自分に惚《ほ》れていると思う中学生みたいな気分になっても大した意味はなさそうなので(スマイルはゼロ円)、僕は、話題を戻す。
「ま、でも実際、そんな恩に感じられるほどのことはしたとも思ってないし、忍野風に言うなら、『戦場ヶ原が一人で助かるだけ』なんだから、僕に対して、恩を感じるとか、そういうのは、やめにしとこうぜってこと。これから仲良くやっていきにくくなるだろ」
「仲良く、ね」
戦場ヶ原は、口調を全く変えずに言う。
「私――阿良々木くん。私は、阿良々木くんのこと、親しく思ってもいいのかしら?」
「そりゃ勿論」
お互い、抱えている問題を、披瀝《ひれき》し合った仲だ。他人とか、あるいはただのクラスメイトとかで済ます段階では、もう、ないと思う。
「そう……そうね、お互い、弱みを握り合った仲だものね」
「え……? 僕達、そんな緊迫した関係なのか?」
ギスギスしてそう……。
「弱みとかそういうことじゃなくて、当たり前に親しく思ってくれりゃいいんだよ……そういうことじゃないわけだろ? そうしたら、僕も、同じようにするからさ」
「でも、阿良々木くんって、あまり友達を作るタイプの人間ではないわよね」
「去年まではそうだったよ。タイプというより、主義だったからな。ただ、春休みにちょっとしたパラダイムシフトがあったわけで……そういう戦場ヶ原は?」
「私は、前の月曜日までよ」
そう言う戦場ヶ原。
「もっと言うなら、阿良々木くんに出会うまで」
「………………」
なんだこいつ……。
ていうかなんだこの状況……。
まるでこれから僕が戦場ヶ原から告白されてしまいそうなこのシチュエーション……息苦しいというか重苦しいというか、そう……心の準備が出来ていない、みたいな感じ。こんなことになるとわかっていたら、もっと服だって髪だってちゃんとして……。
じゃなくて!
ああ、告《こく》られたらどうしようとか、結構真面目に考え始めている自分自身が酷く恥ずかしい! しかも、それについて考える際に、つい戦場ヶ原の胸に眼がいってしまうのはどういうことだ!? 僕はそんなつまらない人間だったのか!? 阿良々木暦は、女の子を外見(胸)で判断するような、品性の下劣な人間だったのか……。
「どうしたの? 阿良々木くん」
「あ、いや……ごめんなさい」
「何故謝るの」
「自分の存在が罪に思えてきたんだ……」
「なるほど。罪な男というわけね」
「………………」
いや。
またそれ、意味は同じでニュアンスが違うし。
「つまりね、阿良々木くん」
戦場ヶ原は言った。
「阿良々木くんが何と言おうと、私は、あなたに、お返しがしたいと思うのよ。そうでないと、私はいつまでも、阿良々木くんに、引け目のようなものを感じてしまうと思うの。仲良くやっていくというなら、それが終わって初めて、私達は、対等な友達同士になれると思うの」
「友達……」
友達。
なんだろう。
それはどう考えても恐らくは感動的な言葉のはずなのに、過度な期待をしていたために、気落ちというか、なんだか、心のどこかでがっかりしてしまっている自分がいるような……。
いや、違う……。
決して、そういうわけでは……。
「どうしたの、阿良々木くん。私としてはそれなりに格好いいことを言ったつもりなのに、阿良々木くんは、どうしてなのか失望したみたいな顔をしているわ」
「してないしてない。戦場ヶ原がそんな風に思っていてくれてることがわかって、フレンチカンカンみたいに大はしゃぎしている自分を必死で隠しているから、逆にそう見えるんだろう」
「そう」
納得していないみたいな顔で頷かれた。
下心のある男だと思われたかもしれなかった。
「まあいいわ。とにかく――そういうわけで、阿良々木くん。何か私にして欲しいことはないかしら? 一つだけ、何でも言うことを聞いてあげるわ」
「……な、なんでも?」
「何でも」
「ああ……」
同級生の女の子から、何でも言うことを聞いてあげるって言われた……。
図らずもものすごい偉業を達成した気分だった。
………………。
でも絶対、こいつはわかってて言ってるよな。
「本当になんでもいいわよ。どんな願いでも一つだけ叶《かな》えてあげる。世界征服でも、永遠の命でも、これから地球にやってくるサイヤ人を倒して欲しいでも」
「お前は神龍《シェンロン》をも超える力を持っているというのか!?」
「当たり前よ」
肯定《こうてい》しやがった。
「あんな肝心なときに役に立たない上に最後には敵に回ってしまうような裏切り者と一緒にしないで欲しいわ。……でもまあ、確かに、私としては、もっと個人的なお願いの方が助かるのは事実ね。お手軽だもの」
「だろうな……」
「いきなりこんなことを言われても、阿良々木くん、やっぱり戸惑っちゃうかしら? だったら、そう、ああいうのでもいいわよ。こういう状況じゃ、よくあるスタンダードな願いじゃない。ほら、その一つの願いを百個に増やして欲しいとか」
「……え? ありなのか? いいのか? それ?」
こういう状況じゃ、恥知らずだけが口にする、ものすごくスタンダードなタブーの一つとして、よくある願いじゃないか。
しかも自分から言いやがった。
服従宣言じゃん、それ。
「なんでも言って頂戴。出来る限りのことはさせてもらうつもりだから。一週間語尾に『にゅ』とつけて会話して欲しいとか、一週間下着を着用せずに授業を受けて欲しいとか、一週間毎朝裸エプロンで起こしに来て欲しいとか、一週間|洗腸《かんちょう》ダイエットに付き合って欲しいとか、阿良々木くんにも色々好みはあるでしょう」
「お前、僕をそんなレベルのマニアックな変態だと思ってたのか!? いくらなんでも失礼過ぎるだろうが!」
「いえ……あの、申し訳ないけれど、さすがにそういうのを一生とか言われると、ちょっと、私としては、ついていけないというか……」
「いや、違う違う違う! 自分のマニア度を不当に低く評価されていることに対して怒ったわけじゃない!」
「あらそう」
お澄まし顔の戦場ヶ原だった。
完全に僕を弄《もてあそ》んでいる……。
「というか、戦場ヶ原、お前、そんなアホな要求を、一週間なら呑めるのかよ……」
「その覚悟はあるわ」
「………………」
捨てちまえ、そんな覚悟。
「参考までに、私の個人的なお勧《すす》めは毎朝裸エプロンで起こす、かしらね。私、早起きは得意というよりは最早《もはや》習慣だし、なんならついでに、朝食を作ってあげてもいいのよ。勿論裸エプロンのままで。それを後ろから眺《なが》めるなんて、なかなか男のロマンじゃない?」
「男のロマンという言葉をそんな風に使うな! 男のロマンっていうのはもっと格好いいもんなんだよ! それに、家族のいる環境でそんなことされたら、ものすごい最大瞬間風速で家庭崩壊するわ!」
「家族がいなければいいみたいな口振りね。じゃあ、私の家に一週間ほど泊まってみる? 結果的には同じだと思うけれど」
「あのね、戦場ヶ原」
言い聞かせるような口調になってしまった。
「仮にそんなような交渉が成立してしまったら、僕達の間に、その後の友情はありえなくなると思うんだよ」
「あら。言われてみれば確かにそうね。そうだったわ。では、エロ方面は禁止ということで」
まあ、妥当だ。
ていうか、語尾に『にゅ』は、戦場ヶ原の中ではエロ方面の要求なのか……。澄ました顔して、結構特殊な趣味を持っているよな、こいつ。
「でも、どうせ阿良々木くんはエロ方面の要求なんてしてこないだろうとは思っていたけれどね」
「お。えらく信頼されてんじゃん」
「童貞だもの」
「………………」
そんな話もしましたね。
そう言えば、先週。
「童貞はがっついてないから、相手が楽でいいわ」
「あの……戦場ヶ原、ちょっと待ってくれよ。お前そうやって童貞について、この前から色々言ってるけどさ、言ってくれてるけどさ、お前だって、別に経験があるわけじゃないんだろう? それなのに童貞をそういう風に言うのは、あんまり感心しないというか――」
「何言っているの。私は経験者よ」
「そうなのか?」
「やりまくりよ」
さらりと言ってのける戦場ヶ原。
こいつ……、なんていうか、本当に僕の言うことに、ただただ逆らいたいだけなんだな……。
やりまくりっていう表現もどうよ。
「えっとな……何て言っていいかわからないけれど、それも仮に、仮にだよ、仮に本当にそうだったとして、その事実を僕に対して告げることが、戦場ヶ原、お前にとって何か利益になるのか?」
「……む」
赤面した。
ただし、戦場ヶ原がじゃなく、僕が、だけど。
なんかもういっぱいいっぱいな会話だった。
「わかったわ……訂正します」
やがて、戦場ヶ原は言った。
「経験は、ありません。処女です」
「……はあ」
告白は告白でもすごい告白をされた。
僕もこの前させられたのだから、おあいこといえばおあいこだけれど。
「つまり!」
戦場ヶ原は続けて毅然《きぜん》と、こちらを人差し指でびしっと指差して、公園中に響き渡らんばかりの大きな声で、僕を怒鳴りつけた。
「阿良々木くんみたいないかさない童貞野郎と話してくれる女の子なんて、精々私のような行き遅れのメンヘル処女しかいないということよ!」
「…………!」
こいつ……僕を罵倒《ばとう》するためになら、自分の身を貶《おとし》めることすらも厭《いと》わないのか……。
ある意味脱帽、ある意味白旗。
全面降伏。
まあ、戦場ヶ原の貞操観念の高さや身持ちの堅さみたいなものについては、実際のところ、先週、トラウマになるほどに痛感させてもらっているから、この件については、とりたてて深く追及しなくてもいいんだけれど。戦場ヶ原にとってそれは、そういうのは、最早性格ではなくて病状の域《いき》に達しているのだから。
「話が逸《そ》れたけれど」
と。
戦場ヶ原はあっさり平静な声に戻って、僕に言った。
「実際のところ、何かないのかしら? 阿良々木くん。もっと単純に、困っていることとか」
「困っていること――ねえ」
「私、口下手《くちべた》だから、うまく言えないけれど、阿良々木くんの力になりたいと思っているのは、本当なのよ」
口下手ってことはないと思うが。
むしろ回り過ぎるくらいによく回る舌だとは思うが――しかし、まあ、戦場ヶ原ひたぎ。
根は悪い奴じゃない――ん、だよな。
たとえ、禁止されていなくとも、これは。
不純な願いなんて、仇《あだ》や疎《おろそ》かに出せるような状況ではないだろう。
「引きこもりを解消する方法を教えて欲しいとか」
「僕は引きこもってなんかねえよ。どこの世界の引きこもりが、マウンテンバイクなんか持ってるんだっての」
「持っている引きこもりだっているかもしれないじゃないの。引きこもりだからといってそのような偏見の目で見ることは許されないわ、阿良々木くん。きっと、タイヤを外して、部屋の中でずっと漕《こ》いでいるのよ」
「エアロバイクじゃん」
健康的な引きこもりだった。
いるのかもしれないけれど。
「けど、いきなり困ってることとか言われてもな」
「確かにそうかもしれないわね。阿良々木くん、今日は寝癖《ねぐせ》、ついてないもの」
「僕の悩みは精々寝癖くらいだという意味か!?」
「深読みしないでよ。意外と被害妄想が強いわねえ。阿良々木くん、行間|紙背《しはい》を読み過ぎよ?」
「他にどんな解釈があるんだよ……」
ったく。
花びらまで棘《とげ》でできている薔薇《ばら》みたいな奴だ。
「誰にでも優しいクラスのあの子が自分にだけは冷たいとか、そういう悩みでも力になれると思うの」
「嫌な話だな!」
何か、無理矢理にでも話さない限り、延々と永遠にこの展開が続きそうだった。
やれやれ……。
本当にもう。
「そうだな……困っていることねえ。敢えて言うなら、それは、困っていることってわけじゃないのかもしれないけれど」
「あら。何かあるの」
「そりゃ、一つくらいはな」
「何かしら。聞かせて」
「迷いがないな」
「そりゃそうよ。私が阿良々木くんにお返しできるかどうかの瀬戸際《せとぎわ》だもの。それとも、人には話しにくいことかしら?」
「いや、そういうわけでもないけれど」
「だったら話してみてよ。話すだけでも楽になるもの――らしいわよ」
…………。
かなりレベルの高い秘密主義者だったお前が言っても、あんまり説得力はないなあ、それ。
「えっと……妹と喧嘩《けんか》した」
「……いまいち力になれそうもない話ね」
諦めの早い女だった。
まださわりを聞いただけじゃん……。
「でも、一応、最後まで聞かせて」
「一応かよ……」
「じゃあ、とりあえず、最後まで聞かせて」
「同じようなもんだろ」
「とりあえずといってもとるものもとりあえずよ」
「……。あー、まー、なあ」
さっき、自分で禁句と決めた言葉だけれど。
この展開じゃ、仕方ないか。
「ほら、今日って、母の日じゃん」
「ん? ああ、そう言えばそうだったわね」
戦場ヶ原は普通に相槌を打った。
やはり、気の遣い過ぎだったか。
となるとあとは――僕の問題だ。
「で。どちらの妹さんと喧嘩したの? 確か阿良々木くん、二人、妹さん、いたはずよね」
「ああ、知ってるんだっけ。どちらかっていうと上の方――だけど、まあ、両方みたいなもんだ。あいつら、何するにもいつでもどこでも、5WlH、完璧にべったりとつるんでるからな」
「栂《つが》の木二中《きにちゅう》のファイヤーシスターズだものね」
「通り名まで知ってんのかよ……」
なんかやだなあ。
妹に通り名がある方が嫌だけれど。
「あいつら、二人とも、母親にべったりでさ――で、母親の方も、そんな二人を、猫っかわいがりしてるわけよ。で――」
「なるほど」
そこまでで得心したと言う風に、戦場ヶ原は僕の言葉を止める。みなまで言うなとばかりに、僕の言葉を最後まで待たない。
「出来の悪い長男としては、母の日である今日本日この日、自分の家には居場所がないというわけね」
「……そういうことだ」
出来の悪い長男、というのは、戦場ヶ原にしてみればいつもの調子の暴言のつもりなのだろうけれど、残念ながらそれはそのまま誇張されているわけでもなんでもない事実なので、僕は、肯定することしかできなかった。
居場所がないとまではいかずとも。
居心地が悪いのは確かだった。
「それで、こんなところにまでツーリングというわけ。ふうん。でも、わからないわね。それでどうして妹さんと喧嘩になるのかしら?」
「朝早い内に、家をこっそり抜け出そうとしたんだが、マウンテンバイクに乗ったところで、妹に捕まったんだ。で、口論」
「口論?」
「妹としては、僕にも一緒に、母の日を祝って欲しかったらしいんだが――なんていうか、ほら、僕はそんなの、無理だから」
「無理、ねえ。だから、か」
戦場ヶ原は意味深長に、そう反復した。
あるいはこう言いたかったのかもしれない。
贅沢《ぜいたく》な悩み、だと。
父子家庭の戦場ヶ原から見れば――そうだろう。
「中学生くらいの女子って、お父さんを嫌うことが多かったりするけれど――男子は同じように、お母さんを苦手とするものなのかしら?」
「はあ……いや、苦手ってことじゃねーし、嫌いってわけでもないんだけれど、気まずいっていうか、まあ、それは、妹についても、ほとんど、同じことで――」
――兄ちゃんは、そんなことだから。
――そんなことだから、いつまでたっても――
「……けどな、戦場ヶ原。そんなことは、問題じゃないんだ。妹との喧嘩とか、母の日とか、それ自体は別に、どうでもいいんだよ――今回に限らず、なんかイベントのある日にゃ、よくあることだから。たださあ」
「ただ、何よ」
「つまりだ。いくら色々あるとは言っても、母の日一つ祝ってやれない自分とか、四つも年下の妹から言われた言葉に本気で腹を立てている自分とか、そういう、なんていうか、自分の人間の小ささみたいなのが、腹立たしくて腹立たしくて、しょうがないんだよ」
「ふうん――複雑な悩みね」
戦場ヶ原は言う。
「一周して、メタ的な悩みになっているわけね。鶏《にわとり》が先かひよこが先か、みたいな感じだわ」
「それはひよこが先だろう」
「あらそう」
「複雑じゃなくて矮小《わいしょう》なだけなんだよ。僕って人間小さいよなー、とか。でも、それでも、妹に謝らなきゃならないことを思うと、滅茶苦茶、家に帰りたくないんだ。一生公園に住んでいたい感じ」
「家に帰りたくない――か」
戦場ヶ原はそこで、ため息をついた。
「残念ながら、あなたの人間の小ささを、私の器量でどうこうすることはできないわね……」
「……努力くらいしてくれよ」
「当然ながら、あなたの人間の小ささを、私の器量でどうこうすることはできないわね……」
「…………」
確かに当然のことではあるが、そうはっきりと、しかも口惜《くや》しそうに言われると、更に落ち込んでしまう。いや、落ち込むというほど深刻な話でもないのだが、しかし、またその深刻でなさ加減も、小さくて嫌なのだ。
「つまらない人間だよなー、って。もっと、世界平和のこととか、人類を幸福にする方法とか、どうせ悩むんなら、そういうことで悩みたいって、思うのに。でも、それなのに、僕の悩みは、こんなにちっちゃい。それが――嫌だ」
「ちっちゃい――」
「しょぼい、と言ってもいいかな。なんかこう、おみくじで小吉ばっかり引くみたいな、そういうしょぼさ」
「自分の魅力を否定してはいけないわ、阿良々木くん」
「魅力!? 僕の魅力はおみくじで小吉ばっかり引くことだったのか!?」
「冗談よ。それに、阿良々木くんのしょぼさは、おみくじで小吉ばっかり引くみたいなんかじゃないわ」
「大凶ばっかり引くって言いたいのか」
「まさか。それはすごいことじゃない……っていうか、おいしいことじゃない。阿良々木くんのしょぼさというのはね……」
戦場ヶ原は語りに重さを加えるために、そこで言葉をたっぷりとためて、それから、僕に言った。
「……大吉を引き当てはしたものの、よく読むと内容的にはそんないいことも書いていないみたいな、そういうしょぼさなのよ」
じっくりと、その意味を咀嚼《そしゃく》して、反芻《はんすう》して。
「しょぼー!」
絶叫する僕だった。
そんなしょぼい奴、生まれてこのかた聞いたこともない……それにつけても、こいつ、よくそんなことを思いつくよな……。重ね重ね――というより返す返すも、末恐ろしい女だった。
「でも、お母さんのことはともかくとしても、妹さんと喧嘩というのは、確かに小さいかもしれないわね。阿良々木くん、妹なんか可愛《かわい》がってそうなものだけれど」
「喧嘩ばっかりだよ」
その中でも――今日のはこたえたというだけだ。
今日は、平日じゃないから。
「目に入れても可愛くない、痛い妹なのね」
「僕の妹は別に痛くはねえよ!」
「それとも、愛情の裏返しって奴なのかしら。案外、阿良々木くん、シスコンだったりして」
「違うよ。妹好きなんてのは、実際に妹のいない奴の幻想だろ。現実にはそんなこと、絶対にありえないから」
「あら。持つ者が持たざる者に対して、そんな上からものを言うような態度を取るのは感心できないわね、阿良々木くん」
…………。
何を言う気だ、こいつ……。
「お金なんか問題じゃないですよー、とか、彼女なんていない方がよかったよー、とか、学歴なんか関係ないんですよー、とか……嫌よねえ、傲慢《ごうまん》な人間って」
「妹はそういうのとは別種だろ……」
「そう。阿良々木くんはシスコンではないと。実の妹を好きになったりはしないと」
「するか」
「そうよね。阿良々木くん、ソロコンっぽいもの」
ソロコン?
聞き慣れない言葉だった。
「ソロレート婚の略よ。姉妹逆縁婚と言って、奥さんが死んだあと、奥さんの姉だったり妹だったりと結婚することを言うの」
「……相変わらずの博識《はくしき》には相変わらずの感心をするばかりだが、どうして僕が、そのソロレートとやらになるんだ?」
「阿良々木くんの場合は、姉ではなく妹ね。つまり、血の繋《つな》がらない女の子にまずは『お義兄《にい》ちゃん』と呼ばせておいて、その後その女の子と結婚……夫婦になっても『お義兄ちゃん』と呼ばせ続ける、これぞ本当、本来の意味での現実的な――」
「僕、絶対、最初の奥さん殺してるじゃん!」
突っ込み担当としては本来|許《ゆる》されることではなかったが、戦場ヶ原の発言が完全に終わる前に、リアクションを取ってしまった。
「で、ソロコンの阿良々木くん――」
「シスコンと呼んでくださいお願いします!」
「実の妹を好きになったりしないというから」
「義理の妹を好きになったりもしない!」
「では、義理の恋人を好きになるのかしら」
「だから……え? 義理で恋人ができるのか?」
なんだそれ。
いや、恋人間係を義理と称することは、よく考えれば別に間違っていないような気もするが、でも、そうなると、実の恋人……? というか、話、逸れ過ぎ……。
「本当に小さいわねえ、この程度の軽口でおたおたと」
「軽くないじゃん、お前の言葉」
「今のはあなたを試したのよ」
「なんで僕試されてるの……っていうか、お前それって、まだ本気を出していないってことなのか!?」
「本気を出すと変身するわよ」
「変身!? うわ、すげえ見たい!」
いや、見たいような、見たくないような……。
戦場ヶ原は「ふう」と、思案顔をした。
「そういうリアクションは大きいのに、人間は小さいのねえ。何か因果関係でもあるのかしら。でも、阿良々木くんがどんなに小さな人間でも、私は見捨てたりはしないの。阿良々木くんの人間の小ささに、ちゃんと、付き合ってあげる」
「微妙な物言いだよな、それも」
「どこまででも、付き合ってあげるわ。西の山から東の海まで、お望みとあらば地獄まで」
「……いやだから、そういう台詞を言えば、お前は格好いいかもしれないけどさ……」
「だから、阿良々木くんの人間の小ささに関わること以外で、何か、困ったことはない?」
「………………」
こいつ、僕のことが嫌いなんじゃないのか。
僕は今、深刻ないじめに遭っているんじゃないのか。
被害妄想であって欲しいけれど……。
「これといって、別にないな……」
「欲しいものも困っていることもないのね――ふうん……」
「今度はどんな罵倒が僕に浴びせられるのかな」
「器が大きくって素敵だわ」
「無理矢理|褒《ほ》めてんじゃねえ!」
「素敵|滅法《めっぽう》ね、阿良々木くん」
「だから無理や……え、何て? 天魔《てんま》覆滅《ふくめつ》?」
「素敵という言葉の強調形よ。知らないの?」
「知らない……というか、そんな死語みたいな言葉を引っ張りだしてきてまで僕を褒めて、一体何を企んでるんだ、お前は」
しかも、言うにこと欠いて器が大きいだなんて……今、人間が小さいという話をしていたところだというのに。
「いえ、阿良々木くんが一週間毒舌禁止とか言い出しそうな気がしたから、先に手を打っておこうと思って」
「そんなの、どうせ無理だろ」
呼吸をするな、心臓を停めろに等しい。
それに、たとえ一週間といえども毒舌を禁止だなんて、そんなのは戦場ヶ原であって戦場ヶ原じゃない、僕としても全く楽しくないじゃないか――っておい、どうして僕が、もう戦場ヶ原の毒舌なしじゃやっていけないみたいなキャラになってんだよ。
危ないなあ……。
「仕方ないわね……それにしても、エロ方面を禁止した途端、何の案もなくなっちゃうだなんて、驚きよね」
「それは確かに事実だが、禁止する前から案なんて何もなかっただろうが」
「わかりました、阿良々木くん。ちょっとくらいなら、エロくってもいいことにするわ。戦場ヶ原ひたぎの名に基《もとづ》いて、欲望の解放を許可しましょう」
「………………」
ひょっとして何か期待されてるのかな……。
ああ、今度は自意識過剰か……揺れるなあ。
「本当に何もないの? 勉強を教えて欲しいとか」
「それはもう諦めてる。卒業できればいい」
「じゃあ、卒業したいとか」
「普通にしてりゃできるよ!」
「じゃあ、普通にしたいとか」
「喧嘩売ってんだなそうなんだな!?」
「じゃあ、そうね――」
戦場ヶ原は、間合いを計った風に、頃合いを見計らって、言う。
「彼女が欲しいとか」
「………………」
これも――自意識過剰、だろうか?
何か、意味ありげな。
「欲しいって言ったら……、どうなるんだ?」
「彼女ができるわ」
平然と言う戦場ヶ原。
「それだけのことよ」
「……………」
うん……。
深読みしようと思えば、できる台詞だけれど。
これが一体、どういう状況なのかは、本当のところ、全くわかったものではないけれど――何にしたって、経緯はどうあれ、自分に恩を感じてくれている人間に対して、付け込むようなことをするのは、やっぱり、よくないよな。倫理的道徳的にどうとかいうより、気分がよくない。
義理の恋人――でも、ないけれど。
忍野の言っていたことが、なんだかわかる気がした。
勝手に助かるだけ――か。
忍野から見れば、僕のやったことなんて――戦場ヶ原に対しても委員長に対しても、それに春休みのあの女……あの鬼に対しても、美しくはあっても正しくはなかったということなのだろう。
戦場ヶ原の問題が解決したのは、誰のお陰でもない、戦場ヶ原の真摯《しんし》な思いによるものなのだから。
その意味じゃ――本当に不純だ。
たとえ、何を願っても。
僕は。
「いや、そういうのは、別に、ないな」
「ふうん。そう」
果たして、深い意味があったのかなかったのか、あったとすればそれはどういう風に深い意味だったのか、それはとうとう不明になってしまったが――戦場ヶ原は、何ということもなさそうに、そう言った。
「まあ今度、ジュースでもおごってくれよ。それでチャラってことにしようぜ」
「そう。無欲なのね」
本当に器が大きいわ。
戦場ヶ原は、まとめるようにそう言う。
この話はこれでおしまいという意思表示だろう。
と。
そこで僕は、正面を向いた。随分長い間、戦場ヶ原の顔を見ていた気がしたので、意図的に、あるいは、気まずさに眼を逸らすように、そっちの方へと視線をやったのだが――そこに。
そこに、一人の女の子がいた。
大きなリュックサックを背負った、女の子が。
003
その小学校高学年くらいの年齢だろう女の子は、公園の端っこにある、鉄製の看板、案内図――この辺りの住宅地図に、向かっていた。こちらに背中を向けているので、どんな顔をした女の子なのかはわからないが、背負った大きなリュックサックがとにかく印象的で――だから、僕はすぐに思い出すことができた。そう、その女の子は、ついさっき、戦場ヶ原がここに現れるその前にも、ああやって、住宅地図に向かっていた。あのときは、すぐに立ち去っていったけれど――どうやら、また戻ってきたらしい。なにやら、手に持っているメモらしきものと、看板とを、見比べているようだ。
ふむ。
つまり、迷子って奴なのだろう。持っているメモには、手書きの地図か、あるいは住所が書かれているのに違いない。
じっと、眼を凝《こ》らしてみる。
すると、リュックサックに縫《ぬ》い付けられた名札が見えた――『五年三組八九寺真宵』と、太いマジックペンで、記されている。
真宵……は、『まよい』かな。
しかし『八九寺』……あの苗字はどう読むのだろう。『やくでら』……かなあ?
国語は苦手。
ならば、得意な奴に訊いてみよう。
「……なあおい、戦場ヶ原。あの看板の前に、小学生、いるじゃん。リュックサックの名札の苗字、あれ、なんて読むんだ?」
「は?」
きょとんとする戦場ヶ原。
「見えないわよ、そんなの」
「あ……」
そうだった。
うっかりしていた。
今の僕は、もう普通の身体じゃないのだ――そして昨日、土曜日、忍に血を飲ませて[#「飲ませて」に傍点]きたところである。春休み頃ほどではないにせよ、今日現在の僕は、身体能力が著《いちじる》しく上昇している。それは視力にしたって例外ではないのだった。ちょっと加減を間違うと――とんでもない距離にあるものが、はっきりと見えてしまう。別に見えること自体は何も問題じゃないのだが、他の人には見えないものが見えるというのは――あまり気分のいいことではない。
周囲との不調和。
それは、戦場ヶ原の悩みでもあったのだが。
「えっと……漢数字、十中八九の『八九』に、『寺』で、「八九寺』って並びなんだけれど……」
「……? まあ、それは、『はちくじ』ね」
「『はちくじ』?」
「ええ。阿良々木くん、その程度の熟語も読めないの? そんな学力で、よく幼稚園を卒園できたわね」
「幼稚園くらいは目隠ししてても卒園できるわ!」
「それはいくらなんでも自分を高く評価し過ぎだわ」
「突っ込みに駄目《だめ》出しが入った!?」
「思い上がりには感心しないわね」
「僕はお前に感心してきたよ……」
「真面目な話、『八九寺』くらい、少しでも歴史や古典に興味があれば、つまり知的好奇心がある人間なら、知っていそうなものよ。阿良々木くんの場合、聞くも聞かぬも、等しく一生の恥《はじ》という感じね」
「あー、はいはい。どうせ僕は学がないよ」
「自覚があるのは自覚がないのよりはいいことだなんて思ったら大間違いよ」
「…………」
僕、こいつに何か悪いことしたっけなあ。
お返ししてもらうとかいう話をしていたはずなのだが……。
「ったく……。ああ、まあいいや。とにかく、じゃ、あれは『はちくじまよい』ってことか……ふうん」
変な名前。
まあ、そうは言っても、『戦場ヶ原ひたぎ』とか『阿良々木暦』よりは一般的かもしれない。とにかく、人の名前についてあれこれいうのは、あまり上品な行為ではない。
「えっと……」
と、戦場ヶ原の方を窺う。
うーん。
こいつ、どう考えても、子供が好きってタイプじゃないよな……転がって来たボールを、平気で反対方向へ投げてしまいそうなイメージがある。泣いている子供をうるさいという理由で蹴飛《けと》ばしそうだ。
となると、一人で行くのが無難《ぶなん》か。
これがあるいは戦場ヶ原ではなく別の奴なら、子供の警戒心を解くためには、女子を一緒に連れて行った方がよくはあるのだが。
やむかたなし。
「おい、ちょっとここで待っててくれるか?」
「いいけれど、阿良々木くん、どこかへ行くの?」
「小学生に話しかけてくる」
「やめておきなさい。傷つくだけよ」
「………………」
本当、酷いことを平気で言うよなあ、こいつは。
いいや、後で話し合おう。
今は、あの子だ。
八九寺真宵。
僕はベンチから立って、広場を挟んだ向こう側――案内図の看板の位置、そのリュックサックの女の子の位置まで、小走りに近付いていく。女の子はどうやら地図とメモとの照らし合わせに必死らしく、後ろから寄っていく僕に気付きもしない。
一歩分、距離を置いた場所から、声をかける。
できるだけ、フレンドリーに、気さくな風に。
「よっ。どうした、道にでも迷ったのか?」
女の子は振り向いた。
ツインテイルの、前髪の短い、眉《まゆ》を出した髪型。
利発そうな顔立ちの女の子だった。
女の子――八九寺真宵は、まずじっと僕を、吟味《ぎんみ》するように見て、それから口を開いた。
「話しかけないでください。あなたのことが嫌いです」
「………………」
………………。
ゾンビのような足取りでベンチにまで戻った。
戦場ヶ原は不思議そうな顔をしている。
「どうしたの? 何かあったの?」
「傷ついた……傷つくだけだった……」
思いの外《ほか》大ダメージを受けた。
回復まで十数秒。
「……もう一回行ってくる」
「だから、何をしに、どこへ行くのよ」
「見りゃわかんだろうが」
言って、再チャレンジ。
少女八九寺は、僕との遭遇なんてまるでなかったかのように、看板に視線を戻していた。メモと照らし合わせるように。背後から肩越しに、そのメモを覗いてみる――書かれていたのは、地図ではなく、住所だった。土地勘がないのでわからないが、まあ、この辺りの住所なのだろう。
「おい、お前」
「………………」
「迷子なんだろ? どこに行きたいんだ?」
「………………」
「そのメモ、ちょっと貸してみろよ」
「………………」
「………………」
………………。
ゾンビのような足取りでベンチにまで戻った。
戦場ヶ原は不思議そうな顔をしている。
「どうしたの? 何かあったの?」
「無視された……小学生女子にシカトされた……」
思いの外大ダメージを受けた。
回復まで数十秒。
「今度こそ……行ってくる」
「阿良々木くんが何をしたいのか、何をしているのか、私にはよくわからないのだけれど……」
「ほっとけ……」
言って、再三のチャレンジ。
少女八九寺は看板に向かっている。
先手必勝とばかりに、僕はその後頭部を平手ではたいた。全く警戒していなかったらしく、八九寺は看板に思い切り、むき出しのおでこをぶつけることとなった。
「な、何をするんですかっ!」
振り向いてくれた。
ありがたい。
「後ろから叩かれたら誰でも振り向きますっ!」
「いや……叩いたのは悪かったよ」
度重《たびかさ》なるショックに、ちょっと気が動転していた。
「でも、知ってるか? 命という漢字の中には、叩くという漢字が含まれているんだぜ」
「意味がわかりませんっ」
「命は叩いてこそ光り輝くってことさ」
「目の前がちかちかと輝きましたっ」
「うん……」
誤魔化せなかった。
残念。
「ただ、お前、なんか困ってるみたいだったから、力になれるかなと思ってさ」
「いきなり小学生の頭を叩くような人に、なってもらうような力なんてこの世界にはありませんっ! 全くもって皆無ですっ!」
滅茶苦茶警戒されていた。
当たり前だが。
「いや、だから悪かったって。マジで謝るって。えっと、僕の名前は、阿良々木暦っていうんだ」
「暦ですか。女の子みたいな名前ですね」
「………………」
言うねー。
初対面で言われることはそうそうないんだが。
「女臭《おんなくさ》いですっ! 近寄らないでくださいっ!」
「たとえ小学生でも女にそれを言われるのは、我慢ならないな……」
おっとっと。
落ち着いて落ち着いて。
まずは信頼――だよな。
状況を改善していかないと、話が進まない。
「で、お前はなんて名前なんだ?」
「わたしは、八九寺真宵です。わたしは八九寺真宵といいます。お父さんとお母さんがくれた、大切なお名前です」
「ふうん……」
どうやら、読み方はあっていたようだけれど。
「とにかく、話しかけないでくださいっ! わたし、あなたのことが嫌いですっ!」
「なんでだよ」
「後ろからいきなり叩くからですっ」
「お前、叩かれる前にもう既に僕のことを嫌いだって言ってただろうが」
「ならば、前世からの因縁ですっ!」
「そんな嫌われ方、したことねえよ」
「前世でわたしとあなたは、宿命の敵同士だったのですっ! わたしは麗《うるわ》しきお姫様で、あなたは悪の大魔王でしたっ!」
「お前、一方的に攫《さら》われてるからな」
知らない人についていっちゃいけません。
知らない人に話しかけられても無視しましょう。
こんなご時世だし、最近の小学校じゃ、そういう教育が、よっぽど徹底されているのだろうか……それとも単に、僕の外観が、子供に好かれる類のものじゃないってことなのだろうか。
何にしても、子供に嫌われるってのは凹《へこ》むよなあ。
「とにかく落ち着けって。別に僕はお前に危害を加えたりしないよ。この町に住んでいる人間で、僕くらい人畜無害な奴なんて、一人もいないんだぜ?」
さすがにそんなわけはないだろうが、こいつを相手にする場合は、これくらい誇張しておくくらいで丁度いいだろう。子供に限らずこういう手合いには、与《くみ》しやすいと思わせておいた方が得策だ。八九寺は納得したのかどうなのか、むう、ともっともらしく唸《うな》って、それから、「わかりました」と言った。
「警戒のレベルは下げましょう」
「そりゃ助かるよ」
「では、人畜さん」
「人畜さん!? 誰のことだ、それは!?」
うわあ……。
四字熟語ならばなんてことのない普通の言葉なのに、下半分を削《けず》るだけで、そこまで圧倒的に侮蔑《ぶべつ》的な言葉になってしまうのか……僕は今まで、なんて言葉を平気で使ってきたのだろう。どころか、使うだけでは飽きたらず、自分から名乗ってしまった……。
「怒鳴られましたっ! 怖いですっ!」
「いや、怒鳴ったのは悪かったけれど、でも、人畜さんは酷いって! 誰でも怒鳴るって!」
「そうですか……でもあなたの方から言い出されたことです。わたしはそれに誠意をもって応えたまでです」
「誠意がこもっていればそれで何でもいいってもんじゃないんだ、世の中は……」
実際には、この場合、人畜というのは『人と家畜』という意味合いで、別に人を批難するような意味合いではないのだが……それでもだ。
「つまり、人畜無害は略したら駄目《だめ》な言葉なんだ」
「はあ。そうですか。なるほどです。つまり素《す》っ頓狂《とんきょう》という言葉みたいな感じですね。興奮すると『スットンキョー!』と奇声を発するキャラを受け入れることはできても、『頓狂な行為に身を任せる男であった……』なんて地の文で紹介されてしまうキャラは受け入れられないのと、同じようなものですか」
「どうかな……僕は興奮すると『スットンキョー!』と奇声を発するキャラを受け入れることはできそうにないが……」
「では、何とお呼びしましょう」
「そりゃ、普通に呼べばいいよ」
「ならば、阿良々木さんで」
「ああ、普通でいいな。普通最高」
「わたし、阿良々木さんのことが嫌いです」
「…………」
何一つ改善されていなかった。
「臭いですっ! 近寄らないでくださいっ!」
「女臭いより酷くなった!?」
「む……確かに、いくらなんでもただ臭いとは、酷い形容だったかもしれません。訂正しましょう」
「ああ、してくれるもんなら」
「水臭いですっ! 近寄らないでくださいっ!」
「意味が前後で支離滅裂だ!」
「なんでも構いませんっ! 迅速《じんそく》にどっか行っちゃってくださいっ!」
「いや……、だから、お前、迷子なんだろ?」
「この程度の事態、わたしは全く平気ですっ! この程度の困りごとには、馴れっこなんですっ! わたしにとってはとっても普通のことですっ! わたし、トラベルメイカーですからっ!」
「旅行代理店勤務だと!? その歳《とし》でか!?」
確かにそれが本当なら、迷子になんてなるわけがないだろうが。
「……ていうか、意地張ってんじゃねえよ」
「意地なんて張ってませんっ」
「張ってるじゃん」
「ていっ! 喰《く》らえっ!」
言ったと思うと、八九寺は僕の身体に向けて、全体重を乗せたハイキックを喰《く》らわせてきた。とても小学生とは思えない、背筋に一本棒が通っているかのような、綺麗な姿勢での蹴りだった。だがしかし、悲しいかな、小学生と高校生とでは、身長差というものが、歴然としてある。この差だけは埋めようがない。顔面に決まっていればあるいはということもあったかもしれないが、八九寺のハイキックは、精々、僕の脇腹辺りにヒットするのがやっとだった。無論脇腹にだってつま先が入ればダメージはある、しかし、それは我慢できないほどの質量ではない。僕はすかさず、八九寺の足がヒットした直後に、両腕でかかって、その足首、ふくらはぎの辺りを、抱え込んだ。
「しまりました!」
八九寺が叫ぶが、既に遅い。……『しまりました』というのが果たして文法的に正しいのかどうかは、あとで戦場ヶ原に訊くとして、僕は、片足立ちで不安定な姿勢になったところの八九寺を、容赦せず、畑で大根でも引き抜くかのような形で、思い切り引き上げた。柔道で言う一本背負いのフォームだ。柔道ならばこのように足をつかむのは反則だが、残念ながら、これは試合ではなく実戦だ。八九寺の身体が地面から浮いた際、スカートの中身が思い切り、それもかなり大胆な角度から見えてしまったが、ロリコンではない僕はそんなことには微塵《みじん》も気をとられない。そのまま一気に背負いあげる。
が、身長差がここで、逆ベクトルに作用した。身体が小さい八九寺は、地面に叩きつけられるまでの滞空《たいくう》時間が、同じ体格の人間を相手にするときょりもほんのわずかに長かった――ほんのわずかに。しかし、そのほんのわずかに、わずかの間に、八九寺は思考を切り替え、自由になる手で、僕の髪の毛をつかんだのだった。理由あって伸ばしている最中の髪――八九寺の短い指でも、さぞかし、つかみやすいことだろう。頭皮に痛みが走る。反射的に、八九寺のふくらはぎから、僕は手を離してしまった。
そこを逃すほど、八九寺は甘い少女ではなかった。僕の背に乗ったまま、地面への着地を待たず、くるりと、僕の肩甲骨《けんこうこつ》を軸に回転し、そのまま頭部への打撃を繰り出した。肘鉄《ひじてつ》だった。ヒットする。だがしかし――浅い。両足が地面についていないから、力の伝導が平生通りにいかなかったのだ。年齢の差、実戦経験の差が、もろに露呈《ろてい》したのだった。決着を焦《あせ》らず、落ち着いて一撃を繰り出せば、今ので決まり、今ので終わりだったろうに。そしてこうなれば、僕の反撃のシーンだった。必勝のパターンだ。
頭に肘鉄を入れられた、そちら側の腕を――感覚的に、左――いや、裏返っているから、右腕か、右腕をつかんで、その位置から、再度、やり直しの一本背負い――!
今度は――決まった。
八九寺は背中から地面に、叩きつけられた。
反撃に備《そな》えて距離を取るが――
起き上がってくる様子はない。
僕の勝ちだった。
「全く、馬鹿な奴め――小学生が高校生に勝てるとでも思ったか! ふははははははははは!」
小学生女子を相手に本気で喧嘩をして、本気の一本背負いを決めた末に、本気で勝ち誇っている男子高校生の姿が、そこにはあった。
ていうか僕だった。
阿良々木暦は、小学生女子をいじめて高笑いをするようなキャラだったのか……自分に自分でドン引きだった。
「……阿良々木くん」
冷めた声をかけられた。
振り向くと、そこには戦場ヶ原がいた。
見ていられなくなって、寄ってきたらしい。
とても怪訝《けげん》そうな顔をしていた。
「地獄まで付き合うとは言ったけれど、それは阿良々木くんの小ささにであって、痛さとか、そういうのはまるっきり別だから、そこのところを勘違いしないでね」
「……言い訳をさせてください」
「どうぞ」
「……………………」
言い訳なんかなかった。
どこを探しても出てこない。
というわけで、仕切りなおす。
「まあ、過去のことはとりあえず置いておいてだな、こいつ――」
倒れたまま起き上がらない八九寺を指さして、僕は言う。まあ背中から落ちたのだから、背負っているリュックサックがいいクッション代わりになっているはずだ、大丈夫だろう。
「なんか、道に迷っているっぽいんだよ。見たところ、親とか友達とかと一緒にいる風でもないし。あー、僕、朝から結構長い間、この公園にいるんだけどさ、こいつ、戦場ヶ原がここに来る前にも一度、ここで、この看板を、見てたんだ。そのときは別に何とも思わなかったんだけれど、それから時間経ってまた戻ってきたってことは、本格的に迷ってるってことだろ? 誰か心配してる人がいたら厄介《やっかい》だろうし、なんか力になれるかなって思って」
「……ふうん」
戦場ヶ原は、とりあえず頷きはしたものの、怪訝そうな顔つきは変わらなかった。まあ、その結果どうして取っ組み合いの喧嘩になるんだと、訊きたい気持ちも山々だろうが、それについては何とも言えない。戦士と戦士の魂《たましい》が呼応したのだとしか言いようがない。
「そう」
「うん?」
「いえ、なるほど……事情はわかったわ」
本当にわかってくれたのだろうか。
わかった振りをされているだけだったりして。
「あ、そうだ、戦場ヶ原。お前、この辺に昔住んでたんだよな? だったら、住所とか、聞いたらある程度、わかるだろう?」
「そりゃ、まあ……人並みには」
歯切れが悪い。
僕のことを、ひょっとしたら本当に児童虐待者として見ているのかもしれなかった。それはあるいは、ロリコンよりも、更に一段階酷い評価であるように思われた。
「おい、八九寺。お前、本当は起きてるんだろ、気絶している振りなんかしやがって。さっきのメモ、このお姉ちゃんに見せてみろ」
しゃがみこんで、八九寺の顔を覗き込む。
白目を剥いていた。
……本当に気絶してる……。
少女の白目って、マジで引く……。
「どうしたの……? 阿良々木くん」
「いや……」
戦場ヶ原にばれないように、こっそりと自分の背で八九寺の顔を隠すようにして、さりげなく、八九寺の頬を二、三回、はたいた。暴力に暴力を重ねているのではなく、勿論、気付けのためだ。
その結果、八九寺は眼を覚ます。
「ん……なんだか夢を見ていました」
「へえ、そうなんだあ。どんな夢だい?」
体操のお兄さん風に応じてみた。
「聞かせてよ、八九寺ちゃん。一体、どんな夢を見てたんだい?」
「凶悪な男子高校生に虐待される夢です」
「……逆夢《さかゆめ》って奴かな」
「なるほど。逆夢ですか」
明らかに気を失う直前の現実だった。
後ろめたさで胸が張り裂けそうだった。
八九寺からメモを受け取って、それをそのまま、戦場ヶ原に手渡す――が、戦場ヶ原はそれを受け取ろうとはしなかった。差し出された手を、氷点下よりも冷たい眼でじっと、見ている。
「なんだよ。受け取れよ」
「……なんだかあなたには触りたくないわね」
ぐっ。
聞きなれたはずの毒舌が、えらくこたえる……。
「メモを受け取るだけだろうが」
「あなたが触ったものにも触りたくないわ」
「…………」
嫌われちゃった……。
戦場ヶ原さんに普通に嫌われちゃった……。
あれえ……おかしいなあ、さっきまで、なんだか、割といい感じだったのになあ……。
「じゃあ、わかったよ……僕が読み上げりゃいいんだろ。えーっと……」
メモに書かれている住所を、そのまま読む。幸いなことに、その中には、読みを迷うような漢字は一つもなかったので、流暢《りゅうちょう》に読み上げることができた。戦場ヶ原はそれを聞いて、
「ふむ」
と言った。
「そこならわかるわ」
「そりゃ助かる」
「私が住んでいた家を、通り過ぎてちょっといったところって感じかしら。細かいところまではさすがに無理だけれど、その辺は辿り着けばフィーリングでわかるでしょう。じゃ、行きましょうか」
言うが早いか、戦場ヶ原は踵を返し、公園の入り口に向けて、大股で、歩き始めた。てっきり、子供の道案内なんて嫌だとか、もっとごねるんじゃないかと思ったけれど、案外あっさりと、引き受けてくれたものだ――いや、そうは言っても、戦場ヶ原は八九寺に向けて自己紹介もしなかったし、どころか八九寺と眼を合わせようともしなかったから、恐らく、戦場ヶ原は子供が嫌いだろうという僕の予想自体は当たっているのだろうけれど。あるいは、お返しとしての『何か一つ』ということで、戦場ヶ原は僕の頼みをきいてくれたというつもりなのかもしれない。
あー。
だとしたら、すごい無駄遣いしちゃった感が……。
「まあ、いいか……行くぞ、八九寺」
「え……どこへですか」
本気でわからないという顔をする八九寺。
こいつには話の流れが読めないのだろうか。
「だから、このメモの住所。あのお姉ちゃんがわかるから、案内してくれるってさ。よかったな」
「……はあ。案内、ですか」
「んん? お前、迷子なんじゃないのか?」
「いえ、迷子です」
はっきりと、それを肯定した、八九寺。
「蝸牛の、迷子です」
「は? 蝸牛?」
「いえ、わたし――」
首を振る。
「わたし、なんでもありません」
「……あっそ。えーっと、じゃ、とりあえず、あのお姉ちゃんに追いつくぞ。あのお姉ちゃん、名前は、戦場ヶ原っていうんだ。名前負けしないくらいにツンケンしてるけれど、慣れれば結構、過激な味わいがあって癖になるし、本当は、割合素直な、いい奴だぞ。素直過ぎるくらいにな」
「…………」
「ああもう。早く来いっての」
それでも動こうとしない八九寺の手を強引につかんで、引っ張るというか引きずるような感じで、僕は戦場ヶ原の背を追った。「あ、あう、あう、おうっおうっ」なんて、オットセイかアシカみたいな奇矯《ききょう》な声をあげながらではあったが、八九寺も、何度かは危なかったものの、最後まで転ぶことなく、僕についてきた。
マウンテンバイクは後で取りに来ることにして。
僕達はとりあえず、浪白公園を後にした。
結局、正しい読み方も、わからないままに。
004
ここらでそろそろ、春休みの話。
春休みのことだった。
僕は吸血鬼に襲われた。
襲われたというよりは、自分から首を突っ込んでいった――文字通り、鋭い牙に向かって、自分から首を突っ込んでいったようなものだが、とにかく、この科学万能、照らせぬ闇など最早ないというこのご時世に、僕、阿良々木暦は、日本の郊外|片田舎《かたいなか》で、吸血鬼に襲われたのだった。
美しい鬼に。
血も凍るような、美しい鬼に――襲われた。
体内の血液を――絞《しぼ》り取られた。
その結果、僕は吸血鬼になった。
冗談のような話だが、それは笑えない冗談だった。
太陽に焼かれ、十字架を嫌い、大蒜で弱り、聖水で溶ける、そんな身体になって――引き換えに、爆発的な身体能力を手に入れた。そしてその先に待っていたのは――地獄のような現実だった。そんな地獄から僕を救い出してくれたのは、通りすがりのおっさん、もとい、忍野メメだった。定住地を持たない旅から旅への駄目大人、忍野メメ。彼は見事に、吸血鬼退治を――その他もろもろまで含めて、やってのけた。
そして――僕は人間に戻った。
ささやかに、身体能力の片鱗《へんりん》――ある程度の回復力やら、新陳代謝やら、まあその程度――が残ったくらいで、太陽も十字架も大蒜も聖水も、平気になった。
まあ、大した話ではない。
めでたしめでたしというほどのこともない。
既に解決した、終わった話題である。いくつか残っている問題らしきものは、月一で血を飲まれ続け、そのたびに視力やらが人間のレベルを越えてしまうくらいの問題らしきものは、それはもう僕が所有する個人的なものということになっていて、僕が残りの一生をかけて、向き合えばいい程度のことばかりなのだから。
それに――僕の場合は、まだ幸運だった。
その期間は、所詮、春休みの間だけだったから。
地獄はほんの、二週間程度だった。
たとえば、戦場ヶ原は違う。
戦場ヶ原ひたぎの場合。
蟹に出遭った――彼女の場合。
彼女は――二年以上、身体に不都合を抱えていた。
自由の大半を阻害《そがい》される、不都合を。
二年以上の地獄――どんな気分だっただろう。
だから戦場ヶ原が、らしくもなく僕に対し、殊勝にも必要以上の恩義を感じてしまっているのも、あるいは仕方がないことなのかもしれなかった――身体に抱えた不都合についてはともかく、心に抱えていた不都合が解消できたという成果は、彼女にとって、恐らく何物にも代え難い、得難い成果だったはずなのだから。
心。
精神。
そう、結局、そういった種類の問題は、誰にも相談することのできない、理解者がいない種類の問題は、肉体よりも精神の方に深く、鎖《くさり》を、あるいは楔《くさび》を、打ち込むものなのかもしれなかった――ともすれば。
言うなれば僕が、平気になったとはいえ、それでも朝、カーテンの隙間《すきま》から差し込んでくる日の光が、未だに怖いのと、同じように――だ。
僕の知っている範囲ではもう一人、僕と戦場ヶ原が籍を置いているクラスの委員長、羽川翼が、同じように忍野の世話になっているけれど――彼女の場合は、期間は僕よりも更に短く数日ほどで、しかも、その間の記憶を失っている。そういう意味においては、一番幸運な立ち位置と言うこともできるだろう。もっとも、羽川の場合、そういう意味において語りでもしない限り、全く、救われることはないのだけれど――
「この辺り」
「は?」
「この辺りだったのよ。私の住んでた家」
「家って――」
戦場ヶ原の指差した方向を、言われるがままに見るけれど、そこにあるのは、ただの――
「……道じゃん」
「道ね」
立派な道路だった。アスファルトの色が、まだ新しい――最近舗装されたばかりというような有様である。ということは、つまり――
「宅地開発って奴か?」
「区画整理ね。どちらかと言うと」
「知ってたのか?」
「知らなかったわ」
「だったらもっと驚いたみたいな顔しろよ」
「私って感情が顔に出ないのよ」
確かに、眉一つ動いていなかった。
しかし――なかなか、視線を移さず、その方向、その場所を見続けている戦場ヶ原のその態度からは、あるいは、確かに、彼女の内面で行き場をなくしている、そんな頼りない感情を、読み取ろうと思えば、それは、読み取れるのかもしれなかった。
「本当に――すっかり変わっちゃったわ。たかだか一年足らずだというのに、なんてことかしら」
「………………」
「つまらないの」
折角来たのに。
そう呟《つぶや》いた。
本当につまらなさそうに。
ともあれ、これで、戦場ヶ原が今日、新しい服の慣らしとやらと並んで、この辺りにまでやってきた大きな目的の一つは、これで果たされてしまったということなのだろう。
振り向く。
八九寺真宵は、僕の脚に隠れるようにしたまま、そんな戦場ヶ原のことを窺っていた。警戒するように、無口になっている。子供ながらに、あるいは子供であるがゆえに、僕よりも戦場ヶ原の方が危険人物だということが直感できたのだろうか、さっきからずっと、こいつは僕を壁にする形で、戦場ヶ原を避けているのだった。まあ、人間が人間を壁になんかできるわけがないのでバレバレだし、しかもそのせいで、戦場ヶ原を露骨に避けていることが見え見えなので、それは第三者的にも状況としては気分が悪いくらいだったが、それでも、戦場ヶ原の方も、お子様の八九寺を全く相手にしていないようなので(『こっちよ』とか『この道を行くの』とか、僕に向けてしか言わない)、まあ、お互い様だった。
間に挟まれた僕はたまったものではないが。
もっとも、さっきからの様子を見ていると、戦場ヶ原の場合、子供が嫌いとか子供が苦手とか言うより、ただ、よくわからない――みたいな反応のようにも、思えるけれど。
「売っちゃったわけだし、家が残っているとは思っていなかったけれど……まさか道になっているとはね。これはさすがに、結構ブルーだわ」
「まあ……、そりゃそうだよな」
それには同意するしかなかった。
想像するに余りある。
公園からここまでの道程にしたって、古い道路と新しい道路が入り混じって、あの公園の看板にあった案内図、住宅地図と、全く違う様相を呈《てい》しているというのだから――この辺りに特に思い入れのない僕だって、何か、モチベーションが削《そ》がれていくような気分だった。
仕方のないことだけれど。
人が変わるように、町並みも変わるのだ。
「ふうっ」
戦場ヶ原は、大きく息をついた。
「どうしようもないことで時間を取らせてしまったわね。行きましょうか、阿良々木くん」
「ん……もういいのか?」
「いいのよ」
「あっそ。じゃ、行くぞ、八九寺」
八九寺は無言で、こくんと頷いた。
……ひょっとして、声を出すと戦場ヶ原に居場所がばれるかもしれないと思っているのかもしれなかった。
一人、さっさと足を進める戦場ヶ原。
それを追う、僕と八九寺。
「ていうか、いい加減に僕の脚から離れろよ、八九寺。歩きにくいんだよ。全く、ダッコちゃんみたいにしがみつきやがって。こけたらどうすんだ」
「…………」
「何か言えよ。黙ってないで」
そう強要すると、八九寺は、
「わたしだって、阿良々木さんのいかつい脚になんて、しがみつきたくなんかありませんっ」
と言った。
無理矢理引き剥がした。
べりべりべりっと、音――は、しなかったが。
「酷いですっ! PTAに訴えますっ!」
「へえ。PTAに」
「PTAはものすごい組織なんですよっ! 阿良々木さんみたいな何の権力も持たない未成年の一市民なんてっ、指先一つでポポイのポイですっ!」
「指先一つか、そりゃ怖いな。ところで八九寺、PTAとは何の略なんだ?」
「え? それは……」
わからないのだろう、再び黙り込んでしまう八九寺。
僕にもわからないけれど。
まあ、面倒な議論に発展せずに済んだ。
「PTAというのは Parent-Teacher Association の略よ。親と教師の会という意味ね」
前方の戦場ヶ原から答が来た。
「経皮経管的血管形成術という医学用語の略でもあるけれど、阿良々木くんがそんなものを求めているとは思えないから、この場合は親と教師の会で正解でしょう」
「へえ。漠然《ばくぜん》と親の集まりって意味なんだろうと思ってたけれど、教師も会には含まれてるのか。戦場ヶ原、さすがに博学だな」
「あなたが浅学《せんがく》非才なだけよ、阿良々木くん」
「語呂がいいから浅学と言われるのには文句はないが、しかし非才はこの場合余計では……」
「そうかしら。じゃあ悲惨と言い換えておくわ」
振り向きもしない。
なんだか、機嫌が悪いな……。
普通の人が見たなら、普段の毒舌を振りまいている戦場ヶ原と今の戦場ヶ原、どう違うんだという感じだろうけれど、僕ぐらい戦場ヶ原から暴言を浴びせ続けられていると、その違いが、なんとなくわかる。言葉にいまいち切れがないのだ。普段、あるいは機嫌のいいときの戦場ヶ原は、むしろ畳み掛けてくる。
うーん。
なんだかなあ。
家が道になってたからか――それとも、僕のせいか。
両方、ありそうだった。
どちらにしても、児童虐待|云々《うんぬん》はともかくとして、戦場ヶ原との会話を途中で打ち切る形で、八九寺のことに絡んじゃったからなあ……流れだったとは言え、それに付き合わされる戦場ヶ原としては、普通に考えれば、内心穏やかじゃないだろう。
ま、そういうことなら、この女児、八九寺真宵をさっさと目的地まで送り届けてやって、それから、頑張って、戦場ヶ原の機嫌取りでもやらせてもらうことにしよう。昼ご飯でもおごらせてもらって、戦場ヶ原のショッピングにも付き合わせてもらって――それで時間が余れば、どこか遊べる場所にでも行こう。そうだな、うん、よし。妹のことがあるので家には帰りにくいし、今日は一日、戦場ヶ原に奉仕するために費やすとしようじゃないか。幸い、手持ちは結構あるし――ってなんだこの奴隷根性!
自分でびっくりした。
「ときに、八九寺」
「なんでしょう、阿良々木さん」
「この住所――」
メモをポケットから取り出す。
まだ八九寺に返してなかったのだ。
「――の、場所には、一体何があるんだ?」
それに。
何をしにいくのか、だ。
道案内をする立場として、それは聞いておきたい――まして、小学生女子の一人旅ともなれば、尚更だった。
「ふーんだっ。話しませんっ。黙秘《もくひ》権を行使しますっ」
「………………」
本当に生意気なガキだな、おい。
子供が純真|無垢《むく》だなんて、誰がいったんだろう。
「教えねーと、連れていってやんねーぞ」
「別に頼んでませんっ。一人で行けますっ」
「でもお前、迷子だろ?」
「だったら、なんですかっ」
「いや……八九寺、あのな、後学のために教えてやるけれど、そういうときは、誰かを頼ればいいんだよ」
「自分に自信が持てない阿良々木さん辺りはそうすればいいですっ。気の済むまで他人を頼ってくださいっ。でも、わたしはそんなことをする必要がないんですっ。わたしにとってはこの程度、日常自販機なんですからっ!」
「へえ……定価販売なんだな」
変な相槌だった。
まあ、八九寺の立場からしてみりゃ、お節介なんだろうけれど、こんなの。僕だって小学生くらいの頃は、自分ひとりの力で、何でもできると信じていた。人の手なんて借りる必要はないと――あるいは、他人に助けてもらう必要なんて皆無だと、そう確信していた。
なんでも、できるだなんて。
そんなこと。
できるわけもないのに。
「わかりましたよ、お嬢様。お願いです、この住所の場所に一体何があるのか、どうかわたくしめに教えてくださいませ」
「言葉に誠意がこもってませんっ」
なかなか頑強だった。
中学生の妹なら、二人ともどっちも、この手で確実に落ちるというのに……とはいえ、八九寺は賢そうな顔立ちをしているし、馬鹿な子供をあしらうようにはいかないというわけか。全く、どうしたものだろう。
「……うむ」
妙案が閃《ひらめ》いた。
尻のポケットから、財布を取り出す。
手持ちは結構ある。
「お嬢ちゃん、お小遣いをあげよう」
「きゃっほーっ! なんでも話しますっ!」
馬鹿な子供だった。
ていうか、本当に馬鹿……。
なんだかんだ言っても歴史上、こんな手で誘拐された子供は一人もいないと思うが――八九寺はその一人目になるかもしれない得難い人材のようだった。
「その住所には、綱手《つなで》さんという方が住んでいます」
「綱手? それ、苗字か?」
「立派な苗字ですっ!」
何故か立腹した風に、八九寺は言った。
知り合いの名前をそんな風に言われたら、気分を悪くするのはわかるけど、そんな怒鳴りつけるようなことでもないだろうに。情緒不安定というか、なんというか。
「ふうん……で、どういう知り合いなんだ?」
「親戚《しんせき》です」
「親戚ね」
つまり、日曜日を利用して、親しくしている親戚の家に、一人で遊びに行く途中ということなのだろうか。よっぽど放任主義の親なのか、それとも、八九寺がこっそり、親の目を盗んで抜け出て勝手にここまで来たのか、それはわからないが――決意むなしく、休日の一人旅という小学生の冒険も、中途|破綻《はたん》ということらしい。
「仲のいい従兄弟《いとこ》でもいるのか? そのリュックサックから見ると、結構な遠出なんだろ? 全く、そんなもん、ゴールデンウィークにでも済ませておけよ。それとも今日でなきゃ駄目な理由でもあるのか?」
「そんなところです」
「母の日くらい、家で親孝行してればいいのに」
それは。
僕が言っていいことではないけれど。
――兄ちゃんは、そんなことだから。
そんなことだから――何が悪いというのだ。
「阿良々木さんに言われたくはありませんっ」
「いや、お前が何を知ってるんだよ!」
「なんとなくですっ」
「…………」
理屈ではなく、単純に僕から説教じみたことを言われるのが、生理的に嫌だということのようだった。
酷い。
「阿良々木さんこそ、あんなところで何をされていたのですか。日曜日の朝から公園のベンチでぼーっとしているなんて、まともな人間のやることとは思えませんが」
「別に。ただの――」
暇潰しと言いそうになって、寸前で思いとどまる。
そうだった、何をしていると訊かれて暇潰しと答える男は、甲斐性なしなのだった。危ないところだった。
「ただの、ツーリングだよ」
「ツーリングですかっ。格好いいですっ」
褒められた。
後に何か酷い言葉が続くかと思ったが、何も続かない。
そうか、八九寺は僕を褒めることができるのか……。
「ま、自転車でだけどな」
「そうですか。ツーリングと言えば、やはりバイクですよねっ。とても惜しい感じですっ。阿良々木さんは、免許はお持ちでないのですかっ?」
「残念ながら、学校が校則で免許の取得を禁止してるから。でも、どっちみちバイクは危ないからな、僕はクルマの方がいいや」
「そうですか。でもそれですと、フォーリングになってしまいますよねっ」
「………………」
うわあ、この子、ツーリングのスペルをかなり面白く勘違いしてる……。訂正してあげるのが優しさなのか、そっとしておくのが優しさなのか……僕には判断できなかった。
ちなみに前を行く戦場ヶ原は無反応。
会話に入ってこようとさえしない。
知能の低い会話は聞こえないのかもしれなかった。
とはいえ。
ここで初めて見せた、八九寺真宵の屈託《くったく》のない笑顔は、かなり、魅力的なそれだった。打ち解けたみたいな笑顔。ひまわりが咲いたような、と言えばありがちだけれど、この年代を越えてしまえば、ほとんどの者は浮かべられなくなるだろう、そんな微笑だった。
「ふう……やれやれ」
これまた、全く危ないところだった。僕がロリコンだったら惚れているシチュエーションだ。ああ、僕はロリコンじゃなくて本当によかった……。
「でも、本当にややこしいな、この辺の道。どういう構造になってんだ? お前、よくこんなところ、一人で来ようと思ったもんだよ」
「別に初めてではないですから」
「そうなのか。じゃあ何で迷うんだよ」
「……久し振りだからです」
恥じ入るように、八九寺は言った。
ふむ……しかし、そんなところだろう。できると思っていることと、実際にできることとは、違う。思っていることは思っているだけだ。それは、小学生でも高校生でも、それ以外のどの年齢でも、同じことだろう。
「そういえば、阿良々々木さんは――」
「々が一個多いぞ!?」
「失礼。噛《か》みました」
「気分の悪い噛み方してんじゃねえよ……」
「仕方がありません。誰だって言い間違いをすることくらいはあります。それとも阿良々木さんは生まれてから一度も噛んだことがないというのですか」
「ないとは言わないが、少なくとも人の名前を噛んだりはしないよ」
「では、バスガス爆発と三回言ってください」
「それ、人の名前じゃないじゃん」
「いえ、人の名前です。知り合いに三人ほどいます。ですからむしろ、かなり一般的な名前であると思われます」
自信たっぷりだった。
子供の嘘《うそ》って、こんな透け透けなんだな。
もうびっくりしちゃうよ。
「バスガス爆発、バスガス爆発、バスガス爆発」
言えちゃった。
「夢を食べる動物はっ?」
間髪《かんぱつ》いれず、八九寺が言う。
いつの間にか十回クイズになっていた。
「……バク?」
「ぶぶー。外れですっ」
したり顔で言う八九寺。
「夢を食べる動物。それは……」
そしてにやりと不敵に笑って。
「……人間ですよ」
「うまいこと言ってんじゃねえよ!」
必要以上に大声で怒鳴りつけてしまったのは、本当にうまいと、不覚にも思ってしまったから。
ともかく。
閑静な住宅街、とでも言うのだろう。
歩いていて、人間とすれ違うということがない。出掛けるべき人は朝の内に出掛けてしまっていて、出掛けない人は一日中家にいる――そういう場所らしい。まあ、そのあたりの事情は、僕の住んでいる場所も、こことそうは変わらないけれど、違うのは、この辺には、やけに大きな家が多いという点だろう。お金持ちばかりが住んでいるということか。そういえば、戦場ヶ原の父親も、外資系の企業のお偉いさんということだった。ここに住んでいるのは、そういう人間ばかりなのだろう。
外資系の企業ね……。
こんな片田舎じゃ、ぴんとこない言葉だけれど。
「ねえ、阿良々木くん」
久し振りに、戦場ヶ原が声を発した。
「もう一度、住所、教えてくれる?」
「ん? いいけど。この辺なのか?」
「と、いうか、なんというか」
微妙な物言いの戦場ヶ原。
わけのわからないまま、メモを再び読み上げる僕。
ふむ、と頷く戦場ヶ原。
「どうも、行き過ぎてしまったようね」
「え? そうなの?」
「そうみたい」
戦場ヶ原は落ち着いた口調で言う。
「責めたければ好きなだけ責めなさい」
「……いや、この程度のことで責めたりしないよ」
なんだその開き直り方……。
潔《いさぎよ》過ぎてかえって往生際が悪い。
「そう」
焦りを見せない涼しい顔で、来た道を逆向きに折り返す戦場ヶ原――その戦場ヶ原を避けるように、僕を中心として、対称的な動きを見せる八九寺。
「……お前、なんでそこまで戦場ヶ原のこと、ビビってんだ? あいつ別にお前に何もしてねーじゃん。ていうか、一見わかりにくいけれど、案内をしてくれてるのは、僕じゃなくてあいつなんだぞ?」
僕もついていっているだけだ。
偉そうなことを言える立場では、実はない。
子供の直感で戦場ヶ原を嫌っているにしても、限度というものがあるだろう。いくら戦場ヶ原だって、別に鋼鉄でできているわけじゃないのだから、そんなあからさまに避けられたら、さすがに傷ついてしまうのではないだろうか。まあ、そういう、僕が思う戦場ヶ原への気遣いのようなものを差し引いても、道義的に、八九寺が戦場ヶ原に対して取っている態度は、正しいとは言えないと思った。
「そう言われると言葉もありません……」
意外なことに、しおらしくしゅんとする八九寺。
それから、声を潜《ひそ》めて、続ける。
「しかし、阿良々木さんは感じませんか」
「何を」
「あの方から発せられている凶暴な悪意を……」
「………………」
どうやら、直感以上のもののようだった。
それは否定できないのがつらいところだった。
「どうも、嫌われているようです……邪魔だ、どこかに消えろという強い意思を感じます……」
「邪魔だ、どこかに消えろだなんて、さすがにそこまでは思っていないと思うが……うーん」
よし。
ちょっと怖いが、訊いてみよう。
僕にとってはわかりきったことではあるが、どうやら、きちんと確認しておく必要がありそうだ。
「なあ、戦場ヶ原」
「何よ」
相変わらず振り向きもしない。
邪魔だ消えろと思われているのは、案外、僕なのかもしれなかった。
お互いに友達だと思っているはずなのに、どうしてこんなに仲良くできないのか、不思議だった。
「お前って、子供、嫌いなの?」
「嫌いね。大嫌い。一人残らず死ねばいいのに」
容赦なかった。
八九寺が
「ひっ」と身を縮めるようにする。
「どう接していいのか、全くわからないもの。中学生のときだったかしらね。デパートで買い物をしていたら、私、七歳くらいの子供に、ぶつかってしまったの」
「あー、それで泣かれちゃったとか?」
「いえ、そうじゃなくてね。私、そのとき、その七歳くらいの子供に対して、こう言っちゃったのよ。『大丈夫ですか、怪我はありませんか、ごめんなさい、申し訳ありません』って」
「………………」
「子供相手にどうしていいのかわからなくなって、気が動転してしまったのね。だけど、だからって、私があんなに、下手に出てしまうだなんて……それが私はショックでショックで……以来、子供と呼ばれるものは、人間であれ何であれ、憎しみをもって向かうように、心がけているわ」
八つ当たりに近かった。
理屈はわかるが、気持ちがわからない。
「ところで阿良々木くん」
「どうした」
「どうも、また行き過ぎてしまったみたい」
「はあ?」
行き過ぎたって――住所を、だよな。
え……? 二回目だぞ、おい。
知らない土地なら、住所と実際の地図がかみ合わないのは、それはよくあることだが、戦場ヶ原の場合、ここはちょっと前まで、自分が暮らしていた土地なのに。
「責められるものならいくらでも責めてみなさい」
「いや、この程度のことで責めたり……ってあれ? 戦場ヶ原、なんかさっきと台詞が微妙に変わってないか?」
「あら、そうかしら。私は気付かなかったけれど」
「なんだよ。あ、そっか。区画整理がどうとかって言ってたな。考えてみりゃ、お前の家も道になってるくらいだもんな、様相が、お前の知っている頃とは幾分違ってても当たり前か」
「いえ。そういうことではないのよ」
戦場ヶ原は周囲を確認するようにしてから、
「道が増えたり、家がなくなったりあるいは新しくできたりはしているけれど、昔の道が完全になくなっているわけではないから……構造的に迷うわけがないのよ」
と、言った。
「ふうん……?」
でも、こうして実際に迷っているのだから、そういうことなのだろうと思うけれど。そう考えるしかないだろう。ひょっとして戦場ヶ原は自分のうっかりミスを認めたくないのだろうか。こいつもこいつで、かなりの意地っ張りだからな……なんて、そんなことを考えていたら、戦場ヶ原は、「何よ」と言った。
「随分と文句があるみたいな顔をしているわね、阿良々木くん。言いたいことがあるならはっきりと言ったらどうなの、男らしくない。何なら、裸で土下座して謝ってあげてもいいのよ」
「お前、僕を最低の男に仕立て上げるつもりなのか……?」
こんな住宅街でそんなことされてたまるか。
以前に、そんな趣味はない。
「阿良々木暦の名を最低の男として世に知らしめることができるなら、裸で土下座するくらい、安いものだわ」
「安いのはお前のプライドだ」
お前、気位《きぐらい》が高いキャラなんだか気位が低いキャラなんだか、もうよくわからねえよ。
「でも、靴下《くつした》だけは穿いてたりしてね」
「このオチでひとネタおしまいみたいなノリで言われても、そんな奇妙な属性は持ってねえよ、僕は」
「靴下といっても網《あみ》タイツよ」
「いや、よりマニアックに迫られても……」
あ、でも。
そんな趣味はないとはいえ、あくまで戦場ヶ原に相手を限れば、網タイツ姿というものを見てみたくなくもない――いや、裸じゃなくていいから。ストッキングでこうなのだったら……。
「その顔はいかがわしいことを考えている顔よ、阿良々木くん」
「まさか。清廉潔白を旨とするこの僕がそんな低劣な人格の持ち主に見えるのか? 戦場ヶ原からそんなことを言われるだなんて心外だな」
「あら。根拠があろうがなかろうがいつでも私は阿良々木くんにはそんなことを言い続けてきたつもりだけれど、今回に限って、特に突っ込みでもなんでもないそういう否定の仕方になるだなんて、怪しいわね」
「う……」
「さては裸で土下座させるだけでは飽き足らず、そんな私の肉体、全身という全身にあますところなく、油性マーカーで卑猥《ひわい》な言葉をあれこれ書きまくる気ね」
「そんなことまで考えてねえよ!」
「では、どんなことまで考えたのかしら」
「そんなことより、えーと、八九寺」
強引に話題を変える僕だった。
このあたりの手際は戦場ヶ原を見習いたい。
「悪いな、ちょっと、時間かかっちまいそうだ。でも、この辺なことはわかったから――」
「いえ――」
八九寺は、驚くほど冷静な口調で――さながら、わかりきった数式の答を無感情に述べるような、非常に機械的な口調で、言った。
「――多分、無理だと思います」
「え……? 多分……?」
「多分という言葉がご不満でしたら、絶対」
「…………」
多分という言葉に不満があったわけじゃない。
絶対という言葉に満足したわけでもない。
しかし――それでも、何も言えなかった。
その口調に。
「何度行っても、辿り着けないんですから」
八九寺は。
「わたしは、いつまでも、辿り着けないんです」
八九寺は、繰り返した。
「お母さんのところには――辿り着けません」
さながら――壊れたレコードのように。
壊れていない、レコードのように。
「わたしは――蝸牛の迷子ですから」
005
「迷い牛」
安らかな千年の封印の途中で無理矢理叩き起こされたかの如く眠そうな、その上でとてつもなく不機嫌そうな、唸《うな》るように低い声で、忍野メメは、そう言った。低血圧というわけでもないだろうが、どうやら忍野は、随分と寝起きが悪い方らしい。普段の気さくな喋り方との落差が、ものすごかった。
「迷い牛だろ、そりゃ」
「牛? 違うって。牛じゃない、カタツムリだって」
「漢字で書きゃ牛って入っているでしょーが。ああ、阿良々木くんはひょっとして、カタツムリって片仮名で書いちゃってるの? 知能指数が低いなあ。渦《うず》巻きの渦の、さんずいを虫|偏《へん》に変えて、それで牛。蝸牛だよ」
「渦――蝸、ね」
「単漢字としては、カ、とかケ、とか読むけれど、まあ、蝸牛以外にはまず使われない漢字だろうね……蝸牛の背負ってる貝殻《かいがら》、渦巻いてるでしょ。そんな感じ……他に、災禍《さいか》の禍って字にも似てるけどね……ああ、そっちの方がむしろ象徴的かな? 人を迷わせる類の怪異はそりゃ数え切れないくらいにいっぱいいるけれど……行き手を遮《さえぎ》る妖怪といえば、阿良々木くんだって塗壁《ぬりかべ》くらいは知ってるんじゃない? で……、そのタイプで蝸牛だっていうなら、迷い牛で間違いないでしょ……ま、名前っていうのはこの場合、姿じゃなくて本質を表すものだからね、牛でも蝸牛でも同じことなんだよ。形って言うなら、ひとがたの絵だって残ってるし……。阿良々木くん、怪異ってのは、名前を考えた人と絵を考えた人が、別の場合がほとんどなんだよ。全てと言ってもいい――大体、名前の方が先行する。名前というか、概念かな。まあ、ライトノベルのイラストみたいなもんだ。ビジュアル化される前に、既に概念は存在している――名は体を表すとかよく言うけれど、あの体っていうのは、肉体、外観って意味じゃなくて、本体って意味だから……くああ」
本当に――眠そうだった。
しかし、その分、いつもの軽薄な調子がいい加減に抜けていて、僕としては話しやすいくらいだ。忍野と話すのは、とにかく疲れるのだ。
蝸牛。
マイマイ目の陸生有肺類巻貝《りくせいゆうはいるいまきがい》。
眼にする機会はどちらかというとナメクジの方が多いが、あっちは、貝殻が退化してしまったタイプ。
塩をかければ――溶けてしまう。
あれから。
僕、阿良々木暦と戦場ヶ原ひたぎ、それに八九寺真宵の三人は、五度のリトライ、コンティニューを試み、法律間近の近道も気が遠くなるほどの遠回りも、例外なく全て試してみたが、しかし、結果から言うと、それらは全て、見事なまでの華々《はなばな》しい徒労《とろう》に終わった。間違いなく、目的地の辺りに自分達がいることは確かだったが――けれど、どうしてだか、そこに辿り着くことは、できないのだった。最後には一軒一軒、しらみつぶしに探して回るみたいなローラー作戦までやってみたけれど、それすらも徒労だった。
では、最後の最後の手段ということで、戦場ヶ原が、携帯電話の特殊機能で(僕はよく知らない)、GPSだかなんだかのナビゲーションシステムを作動させようとしたが――データのダウンロード寸前で、圏外《けんがい》になった。
その時点で、ようやく――あるいは不承不承、遅ればせながら、僕は、この場で何が起こっているのかを、完全に理解することができた。決してそうは言わなかったけれど、戦場ヶ原は、それをどうやら、かなり早い段階から察していたようだが――それに、誰より、一番深く状況を理解していたのは、恐らくは八九寺のようだったが、とにかく。
僕は鬼。
羽川は猫。
戦場ヶ原は蟹。
そして八九寺は蝸牛のようだった。
となると――そういう状況になってしまうと、僕としては、そこで物事を投げ出すわけにはいかなくなった。これが普通の迷子であったのなら、このように自力でなんとかできなかったのなら、近所の交番にでも届けてそれで自己満足の一件落着といきたいところだったが、あちら側[#「あちら側」に傍点]の世界が噛んでいるとなれば――戦場ヶ原も、交番に八九寺を任せるのは反対した。
数年間――あちら側に浸っていた、戦場ヶ原。
その戦場ヶ原が言うのだから――違いあるまい。
とはいえ、勿論、僕や戦場ヶ原で、どうにかなるような問題じゃない――僕も戦場ヶ原も、何らそういう特殊能力を備えているわけではない。ただ単に、こちら側ではないあちら側があるということを、知っている[#「知っている」に傍点]というだけだ。
知は力、なんて言っても。
知っているだけでは、それは、無力だ。
だから僕達は――安易ではあったし安直でもあったし、また、あまり気の進む選択肢《せんたくし》でもなかったけれど、議論の末、最終的には――忍野に相談することにした。
忍野メメ。
僕の――僕達の恩人。
しかし、彼が恩人でもなければできればお付き合いを遠慮させていただきたい種類の人間であることは間違いがなかった。三十を過ぎても未だ定住地を持たず、一ヵ月ほど前からはこの町の、潰れた学習塾を寝床にしている――なんて、そんな現状を説明しただけでも、普通の人なら引くだろう。
――今のところ、この町には興味があってね。
なんて、そんなことを言っていた。
だから、いついなくなっても不思議じゃない、どうしようもない筋金入りの根無し草ではあるが、戦場ヶ原のことで前の月曜――それからその後始末としての火曜日に会ったばかりなので、そして僕は昨日、忍野と会っているので、さすがにまだ、あの廃ビルにいるはずである。
となると、問題は連絡手段だった。
奴は携帯電話を持っていない。
直接会いに行くしかないのだった。
まあ戦場ヶ原は、忍野とは先週知り合ったところで、付き合いと言えるほどの付き合いはないわけだし、ここは対忍野に関しては一日の長がある僕が行くのが妥当かなと思ったけれど、戦場ヶ原の方から、「私が行くわ」という、申し出があった。
「マウンテンバイク、貸して頂戴」
「いや、それはいいけれど……場所、わかるのか? なんなら、地図でも書くけれど――」
「阿良々木くんのお粗末《そまつ》な記憶力と同じレベルで心配してもらっても、私は嬉《うれ》しくもなんともないわ。むしろ悲しくなってくるくらいだもの」
「……そうですか」
僕が悲しくなってきた。
結構真面目に。
「実を言うと、私、駐輪場で最初に見かけたときから、このマウンテンバイクに乗ってみたいと思っていたのよ」
「最高だと言っていたのは、本音だったんだな……そんなことないと思ってたけど、お前結構、素直じゃない奴なんだな」
「ていうか」
戦場ヶ原は言った。
僕の耳元で、囁くように。
「その子と二人きりになんてしないで」
「………………」
「どうしていいか、わからないのよ」
まあ、それはそうだった。
八九寺にしてみても、そうだろう。
僕はマウンテンバイクのキーを、戦場ヶ原に手渡した。確か、前に聞いた話では、戦場ヶ原は自転車を持っていないはずだから、そんな奴に大事な愛車を貸すだなんて、考えてみれば危なっかしい話ではあるが――まあ、戦場ヶ原なら別にいいか、という感じだった。
で。
現在、戦場ヶ原からの連絡待ち。
浪白公園のベンチに、僕は戻ってきていた。
隣には、八九寺真宵。
一人分の距離をあけて、座っている。
いつでも逃げ出せる、というか。
今にも逃げ出しそうな位置だった。
既に、八九寺には、僕と戦場ヶ原の抱えていた――そして現在も抱え続けている事情については、ある程度、話しているが、それを話したことによって、どうやらかえって、彼女の警戒心を強めてしまったようだった。折角、ある程度打ち解けてきたかと思ったところだけに、下手を打った、裏目に出た結果だったが――一からやり直すしかないだろう。
信頼は、とても大事なのだから。
はあ……。
とりあえず、話しかけてみるか。
丁度、気になっていることもあるのだ。
「お前さ、あのとき――お母さんって言ってたような気がするんだが、あれって、どういう意味なんだ? 綱手さんっていうのは、親戚の家じゃなかったのか?」
「…………」
答えない。
黙秘権の行使らしい。
いくらなんでも、さすがに同じ手は通用しないだろうし……大体あの手は、冗談でやるから面白いんであって、あまり繰り返して使うと、マジでやってると思われかねないからな――誰にっていうか、自分自身に。
というわけで。
「八九寺ちゃん。今度アイスクリームを食べさせてあげるから、もうちょっとこっちに近付いてこない?」
「行きますっ!」
一気に身体を擦り寄せてくる八九寺だった。
……口約束の後払いでも別にいいらしい。
そういえば、お小遣いにしたって、結局まだ一円だってあげてないしな……なんていうか、とんでもなく扱いやすい奴だ。
「それで、さっきの話だけれど」
「なんでしたっけ?」
「お母さん――って」
「…………」
黙秘権だった。
構わず、僕は続けた。
「親戚の家だっていうのは、嘘だったのか?」
「……嘘ではありません」
八九寺は、拗《す》ねたみたいな感じの口調で言った。
「母親だって、親戚の内でしょう」
「いや、そりゃ、そうだけどさ」
なんか屈理屈っぽくないか、それ。
というか、それ以前に――日曜日にリュックサックを背負って母親の家を訪ねるというのは、どうもシチュエーションとして、おかしいような……。
「それに」
八九寺は拗ねたままで続けた。
「お母さんと言っても、残念なことに、もうお母さんじゃありませんから」
「……ああ」
離婚。
父子家庭。
それはつい最近も――聞いた話だった。
戦場ヶ原から、聞いた話だった。
「綱手というのは、三年生までの、わたしの名前でした。お父さんに引き取られて、八九寺へと苗字が変わっちゃいましたけれど」
「ん……ちょっと待ってな」
入り組んで、何やらこんがらがって来たので、少し整理しよう。今、八九寺は五年生で、それで三年生までの間は苗字が綱手で(だから、綱手という苗字に、怒鳴りつけるほどのこだわりがあったのだろう)、お父さんに引き取られて苗字が八九寺に変わったということは……あ、そっか、両親が結婚した際、母親の方の苗字に揃《そろ》えたんだ。結婚時の姓の統一は、別に男女、どっちに揃えてもよかったはずだ。となると……離婚して、母親――綱手さんの方が家を出て、この辺りに越してきた……いや、多分、実家なのだろう。それで――八九寺は、日曜日。
この母の日を利用して。
母親を訪ねて来た――というわけなのか。
お父さんとお母さんがくれた――大切なお名前。
「あっちゃあ……偉そうに年上振って、親孝行しろよとか言っちゃったよ、僕……」
そりゃ僕になんか言われたくないよな。
困ったもんだ。
「いえ、別に今日が母の日だからということではないです。お母さんの家は、機会さえあれば、いつでも来たい場所ですから」
「……なるほどね」
「いつでも、辿り着けませんけれど」
「………………」
離婚が成立して、母親が家を出て。
母親に会えなくなって。
母親に会いたくて。
八九寺は、母親を訪ねたらしい。
そう試みたらしい。
リュックサックを背負って――そして。
そして――そのとき、蝸牛に。
「遭ったってわけか」
「遭ったというか、よくわかりませんが」
「ふうん」
以来――何度、母親を訪ねようとしても。
一度も、その家に辿り着けないのだという。
何回くらいチャレンジして、その全てが駄目だったのかなんて、訊くだけ野暮だろうけれど――そして、それでも諦めていないというのは、立派なものだけれど。
けれど――しかし。
「…………」
まあ、こう言っちゃなんだけれど――それに人と較べてどうとかいう話では全然ないのだろうけれど、トラブルとしては、僕や羽川、戦場ヶ原が抱えた問題よりは、いくらか安全率の高い雰囲気のある感じだな――肉体的トラブル、あるいは精神的トラブルではなく、できるはずのことができないという、現象的トラブル――問題が自分の内側にあるわけではない。
問題は外側にある。
命の危険があるわけじゃないし。
日常生活は、過不足なく送れる。
そういうことなのだろうから。
とはいえ、それでも、それが事実であったとしても、そんな知った風なことを、八九寺に対して言うべきではないだろう――口が裂けても。僕がたとえこの春休みにどんな体験をしていようと、八九寺に対し、そんなことを言う権利はない。
だから、余計なことは言わず、
「お前も――色々大変だったんだな」
とだけ、言った。
それは心の底からの感想だった。
本当、頭を撫《な》でてやりたい気分だった。
なので、撫でてみた。
「がうっ!」
その手に噛みつかれた。
「痛ェ! いきなり何すんだこのガキ!」
「うぎぎぎぎぎぎっ!」
「痛い! 痛い痛い痛いって!」
こ、こいつ、冗談とか茶目っ気とか照れ隠しとかじゃなくて、本気で思い切り噛みついてやがる……八九寺の歯が皮を突き破って肉に刺さっているのがわかる、見なくったって血が噴き出しているのがわかる! 本当に洒落にならない、どうして、いきなり――いや、まさか、さてはこれは、僕はいつの間にか、自分でも気付かない内に、知らない内になんらかのイベント発生条件をクリアしていて……、
つまりバトル開始ということか!?
僕は噛まれているのとは逆の手を、拳《こぶし》の形に握り締める。空気を握り潰さんがばかりに。そしてその拳を八九寺の鳩尾《みぞおち》に向けて打ち込んだ。鳩尾は人体のどうしようもない急所の一つだ。それでも食い込ませた歯を離さなかった八九寺は大したものだが、しかし、一瞬だけ、噛む力が弱まったのは、どうしようもない事実だった。その隙をついて、僕はそちら側の腕を、力任せに、でたらめに振り回した。肉を食い千切らんばかりの八九寺、だがそれゆえに、他の部位が留守になる――案《あん》の定《じょう》、あっけなく八九寺は、その腰をベンチから浮かせることとなった。
がら空きになった八九寺の胴を、拳を開いて、僕は抱え込むようにする――小学五年生にしてはやけにふくよかな感触が手のひらにあったのだが、ロリコンでない僕にはそんな事象は全くと言っていいほど影響を及ぼさず、そのまま勢いに任せて彼女の身体を裏返した。口は僕の手を噛んだままなので、当然、首の辺りで、身体が捩《ねじ》れるような形になる。しかし、それは問題ではない。手を噛まれている以上、頭部付近への攻撃はそのままこちらに跳ね返ってくる危険性もある。それよりも、捩れることによって、あたかもあつらえた瓦割《かわらわ》りの如く晒された、八九寺のボディが、この場合の狙い目だった。狙うは勿先ほどの拳に重ねるように、鳩尾――!
「くはっ――!」
完全に決まった。
ついに、僕の手から、食い込ませた歯を離す八九寺。
同時に、胃液のようなものを口から吐き出した。
そして――そのまま、がくりと、意識を失った。
「ふっ――いや、笑えないな」
噛まれていた手を、ほぐすように振る。
「二回目以降となっちまうと、ただ、むなしいだけのもんなんだな、勝利なんて……」
小学生女子を相手に正中線を走る人体的急所を拳で二回も殴《なぐ》りつけ失神させたあげくに、ニヒルを気取ってたそがれている男子高校生の姿が、そこにはあった。
ていうか、それも僕だった。
…………。
いや、はたいたりつかんだり投げたりとかまでならまだしも、女の子の身体を拳で殴るのはないわ、本当。
阿良々木暦は戦場ヶ原ひたぎに裸で土下座されるまでもなく、もう十分、最低の男としての資格を備えているようだった。
「あー……しかし、いきなり噛みつくんだもんな」
とりあえず、噛まれた傷口を見遣る。
ぎえ……すげえ、骨が見えてる……。知らなかった、人間が人間に本気で噛みつかれたら、こんなことになるんだ……。
まあ、それでも、僕の場合。
痛みはあるにしたって、この程度の傷――何をするまでもなく[#「何をするまでもなく」に傍点]、すぐに治ってしまうわけだけれど。
じゅくじゅくと――じゅるじゅると――はっきりわかる速度で傷がふさがっていくその様子は、まるで、ビデオテープの早回しのようで、巻戻しのようで、そういうのを見ると――自分がいかに踏み外した存在であるのかということを、今更のように思い出す。暗い――昏《くら》い気分を、今更のように、思い出す。
全く――本当に、ちっちゃいなあ。
こんなザマで最低の男とか、笑わせる。
お前本当に、人間に戻れたつもりかよ。
「……怖い顔になってるよー、阿良々木くん」
と。
不意に、声を掛けられた。
一瞬、戦場ヶ原かと思ったが――そんなわけがない。戦場ヶ原が、このような陽気な声を発せられるわけがない。
そこにいたのは、委員長。
羽川翼だった。
日曜日なのに学校と何も変わらない制服姿なのは、まあ、こいつの場合はそっちの方が当たり前というか、優等生としてのご愛嬌《あいきょう》――髪型も眼鏡もいつも通りで、唯一校内での姿と違うところがあるとすれば、手にしているハンドバッグくらいだった。
「は……羽川」
「びっくりしたみたいな顔になったね。うん、まあ、そっちの方が、いいかな」
へへへーと、笑顔を見せる羽川。
屈託のない笑み。
そう、八九寺が、さっき、浮かべたみたいな――
「どうしたの? 何やってるの? こんなとこで」
「い、いや――お前こそだよ」
さすがに動揺が隠せない。
あと、どこから見られていたんだろうとか。
もしも真面目の塊、品行方正の生き見本のような、それこそ清廉潔白を旨としている羽川翼に、小学生女子に暴力を振るっている僕の姿を目撃されていたとしたら、もうそれは、戦場ヶ原に見られたのとは、全く違った意味を持って、まずいことになるぞ……。
三年生にもなって退学は嫌だ……。
「お前こそってことはないでしょ。この辺、私の地元だもん。こそって言うなら阿良々木くんの方こそ、この辺、来ることなんかあるの?」
「えっと」
あ、そうだ。
戦場ヶ原と羽川は、同じ中学だと言っていた。
そして公立だという話だったから――そうか、学区から考えて、戦場ヶ原の昔の縄張りと、羽川の行動範囲が被っていても、それは全く不思議ではないのだ。小学校は別のはずだから、合致するというわけではないだろうが……。
「そういうわけじゃないんだけれど、ちょっと、まあ、何もすることなくて、暇潰しって言うか――」
あ。
暇潰しって言っちゃった。
「あっはー。そうなんだ、いいね、暇潰し。することないのは、いいことだよ。自由ってことだもん。私も、暇潰しかな」
「…………」
とことん戦場ヶ原とは別の生き物だな、こいつ。
同じ頭のいい奴でも、これがトップクラスとトップとの違いなのだろうか。
「ほら、阿良々木くんは知ってるんだよね。私、家、居づらいからさ。図書館も開いてないし、日曜日は散歩の日なのよ。健康にもいいしね」
「……気ィ遣いすぎだと思うけどな」
羽川翼。
異形の羽を、持つ少女。
学校では真面目の塊、品行方正の生き見本、清廉潔白である、委員長の中の委員長、非の打ちどころのない彼女ではあるが――家庭に不和を抱えている。
不和、そして歪み。
それゆえに――彼女は猫に魅入《みい》られた。
ほんのわずかな、心の隙をつかれて。
誰も、完全には完璧たりえないという、それは一つの例なのかもしれなかったが――その問題が解決し、猫から解放されたところで、彼女の記憶が消えて無くなってしまったところで、不和も歪みもなくならない。
不和も歪みも残り続ける。
そういうことだった。
「図書館が日曜日に休みっていうのが、なんていうか、自分の住んでいる土地の文化レベルの低さを表してるみたいで、あは、やになっちゃうよね」
「僕は図書館がどこにあるかすら知らないよ」
「駄目だよ、そんなことじゃ。そんな、諦めたみたいなこと言って。受験までまだ間もあるし、阿良々木くん、やればできるんだから」
「根拠のない励ましは、場合によっては罵倒されるよりもつらいものがあるぜ、羽川」
「だって、阿良々木くん、数学はできるんでしょ? 数学ができる人で他の教科ができないなんてこと、普通はないよ」
「数学は記憶しなくていいだろ。楽なんだよ」
「ひねくれてるなー。ま、いいか。その辺は、おいおい、ね。ところで、阿良々木くん。その子、妹さん?」
羽川は、ベンチのそばで横たわっている八九寺を、尖《とが》らした唇で、指し示した。
「……僕の妹はこんなちっこくないよ」
「そうだっけ」
「中学生」
「ふうん」
「えーっと、迷子の子だよ。八九寺真宵って名前」
「まよい?」
「真実の真に、宵闇の宵だ。それと、苗字は――」
「苗字はわかるよ。八九寺って言えば、関西圏《かんさいけん》じゃよく聞く言葉だしね。歴史のある、ものものしい名前って感じだねー。そういえば、『東雲《しののめ》物語』に出てくるお寺って、確か――あ、あれはでも、漢字が違ったっけ」
「……お前は何でも知ってるな」
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」
「あっそう……」
「八九寺に真宵か――ふうん。上下で繋がってる名前なんだね。んん? あ、眼、覚ました」
言われて、八九寺の顔を見れば、ぱちぱちと、ゆっくり、瞬きをしていた。しばらくは周囲の状況をじっくりと認識しているかのように、しかねているかのように、見渡した末、上半身を、八九寺は起こした。
「こんにちは、真宵ちゃん。私、このお兄ちゃんのお友達で、羽川翼って言うんだよー」
うわあ、こいつ、素《す》で体操のお兄さん口調だ。
いや、女だから、体操のお姉さんか。
多分羽川って、犬とか猫とかに、平気で赤ちゃん言葉で話しかけることのできるタイプの人間なんだろうな……。
それに対し、八九寺は、
「話しかけないでください。あなたのことが嫌いです」
と言った。
……誰にでも言うのか、その言葉。
「あれー。嫌われるようなことしちゃったかなー。初対面の人にいきなりそういうこと言っちゃいけないよ、真宵ちゃん。うりうり」
しかしまるで凹みもしない羽川。
僕にはできなかった、八九寺真宵の頭を撫《な》でるという行為も、まるで普通に、達成できている。
「羽川、子供、好きなのか」
「んー? どこかに嫌いな人がいるの?」
「いや、僕じゃないぞ」
「ふうん。うん、好きだよ。自分も昔はこんなだったと思うと、なんだかほんわかしちゃうよねー」
うりうりと、八九寺の頭を撫で続ける羽川。
抵抗しようとする八九寺。
しかし、無駄な抵抗だった。
「う、うううー」
「可愛いねー、真宵ちゃん。やーん、本当、食べちゃいたいくらい。ほっぺたなんかぷにぷにじゃない。きゃー。あ、でもね」
口調が変わった。
学校で僕に、たまに向けるような口調。
「お兄ちゃんの手、いきなり噛んだりしちゃ駄目じゃない。お兄ちゃんだったから大丈夫だったけど、普通の人だったら大怪我だよっ! めっ!」
ぽかり。
殴った、拳で、普通に。
「う……う、うう?」
優しくされたり殴られたりで、前後不覚の混乱状態に陥ったらしい八九寺を、無理矢理、羽川は僕に向ける。
「ほら! ごめんなさいは?」
「……ご、ごめんなさいでした、阿良々木さん」
謝った。
この口調だけは馬鹿丁寧な、生意気なガキが。
衝撃だった。
それにしても、やっぱ、羽川、随分前から見てたんだ……。そっか、そうだよなあ。普通に考えりゃ、肉がえぐれるくらいまで噛みつかれたら、正当防衛くらいはするよなあ。そういえば、最初の喧嘩だって、こいつの方から蹴ってきたんだし……。
羽川は融通こそきかないが、そこまで杓子《しゃくし》定規《じょうぎ》な奴でもないのだった。
単に、公平なのだ。
しかし羽川、子供の扱い、手馴れたものだ。確か羽川は一人っ子のはずなのに、見事の一言である。
ついでに僕が学校において、どうやら羽川には子供扱いされているらしいということまで判明してしまったようだが、それはまあ、よしとしよう。
「それに、阿良々木くんも、駄目だよー」
同じ口調できやがった。
やはりよしとはしにくいものがあった。
さすがに気付き、「ん、ん」と、仕切り直す羽川。
「まあ、とにかく、駄目だよ」
「駄目だよって……やっぱ、暴力?」
「じゃなくて、ちゃんと叱ってあげなくちゃ」
「ん、ああ」
「勿論、暴力も駄目だけれどね、でも、子供を叩いたら、別に子供じゃなくてもだけど、叩かれたことを納得できるだけの理由を、話してあげなくちゃ、駄目」
「…………」
「話せばわかるって、そういう意味だよ」
「……お前と話すと、本当、勉強になるな」
全く。
毒気を抜かれる、こいつには。
この世には、いい人間がいる。
たったそれだけのことで、救われた気分になる。
「で。迷子なんだっけ? どこに行きたいの? この辺なの? なんなら、案内できると思うけど」
「えっと――いや、今、戦場ヶ原に、人を呼びに行ってもらってるところだから」
同じようにあちら側に関わった者だと言っても、羽川にはその記憶がない――知ってはいても、それを忘れている。だったら無闇に、瘡蓋《かさぶた》をいじくるが如く、その記憶を突っつくような真似をするべきではないだろう。
その申し出は有難かったけれど、だ。
「結構、時間食ってるみたいだけど、さすがにそろそろのはずだからさ」
「あれ? 戦場ヶ原さん? 阿良々木くん、戦場ヶ原さんと一緒だったの? んん? 戦場ヶ原さん、最近、学校休んでたけれど――んん? あ、そう言えば、この前、阿良々木くん、戦場ヶ原さんのことについて、私にあれこれ、訊いてきたよね――んん?」
あ。
勘繰《かんぐ》ってる勘繰ってる。
羽川の思い込みパワーが炸裂《さくれつ》しようとしている。
「ああ! そうか、そういうこと!」
「いや、違うと思う……」
もうなんていうか、僕みたいな馬鹿がお前のような秀才の出した答を否定するのは、本当に申し訳ない限りなんだけれど……。
「お前のそういう妄想力って、やおい好きの女子もそこのけだよな」
「やおい? 何それ」
首を傾げる羽川。
優等生はご存じない。
「ヤマなしオチなし意味深長の頭文字だ」
「嘘っぽいねえ。いいわ、今度調べてみる」
「真面目だなあ」
…………。
これを契機に羽川が道を踏み外したらどうしよう。
僕のせいになるのだろうか。
「じゃ、邪魔するのもなんだし、私、もう行くね。お邪魔しました、戦場ヶ原さんによろしくね。それから、今日は日曜日だからあまりうるさいことは言わないけれど、羽目を外し過ぎないようにね。それから、明日、歴史の小テストあること、忘れちゃ駄目だよ? それから、文化祭の準備、いよいよ本格的に始まるから、気合入れてね? それから――」
その後、『それから』を九回続けた羽川だった。
彼女はひょっとすると、夏目《なつめ》漱石《そうせき》以来の『それから』使いなのかもしれなかった。
「あ。そうだ、羽川。でも、一応、一つだけ訊かせてくれるか? 羽川、お前、この辺で、綱手さんっていう家、知ってる?」
「綱手さん? んん、えっと――」
記憶を探る仕草をする羽川。それは、ひょっとしたら知っているのかもしれないと、期待させるに十分な仕草だったが、しかし――
「……いや、知らないわ」
と、言った。
「羽川でも知らないことがあるんだな」
「言ったでしょ? 私が知ってるのは、私が知っていることだけなの。他のことは、からきしね」
「あっそ」
そういえばやおいの意味も知らなかったしな。
そううまく、ことが運ぶわけはないか。
「期待に添えずに申し訳ないね」
「いやいや」
「じゃ、今度こそ、ばいばい」
そして、羽川翼は、浪白公園を去っていった。
彼女は、どうだろう、この公園の名前の読み方を知っていただろうか。
一つだけというなら、それを訊けばよかったと、少しだけ、思った。
そして――携帯電話に着信。
十一|桁《けた》の数字が、液晶に表示される。
「………………」
五月十四日、日曜日、十四時十五分三十秒。
戦場ヶ原の携帯番号を入手した瞬間だった。
006
「で――その迷い牛って、どんな妖怪変化、魑魅魍魎なんだよ。どうやったら退治できるんだ」
「ったく、相変わらず暴力的な考え方をするなあ、阿良々木くんは。何かいいことでもあったのかい?」
忍野は戦場ヶ原に、寝ているところを起こされたらしい。日曜日の朝の惰眠《だみん》を邪魔するなんて酷い子だよと忍野は愚痴《ぐち》ったが、しかし、現在時刻が朝ではなく既に午後であることはまあ勘弁するとしても、毎日が日曜日一年中夏休みの忍野には、そんな言葉を吐く権利は国から与えられていないと思ったので、フォローは入れなかった。
忍野は携帯電話を持っていないので、必然、戦場ヶ原の携帯電話を借りての通話と相成ったわけだが、しかし、主義及び金銭的事情以前の問題として、忍野はどうやら、かなりの機械|音痴《おんち》のようだった。「で、ツンデレちゃん、僕が話すときにはどのボタンを押せばいいんだい?」なんて馬鹿げた台詞が聞こえてきたときには、僕が通話終了ボタンを押したくなったくらいだ。
トランシーバーじゃねえっての。
「しっかし……どういうことなんだろうねえ。珍しいというより、こりゃ異常だよ。よくもまあ、こんな短期間に、そうも色々な怪異に出遭えるもんだよ、阿良々木くんは。愉快だな。吸血鬼に襲われるだけでも普通はもう十分だっていうのに、なんだよ、委員長ちゃんの猫や、ツンデレちゃんの蟹やらに関わったかと思うと、今度は蝸牛に行き遭ったってかい?」
「行き遭ったのは僕じゃないよ」
「ん? そうなのかい?」
「戦場ヶ原からどこまで聞いたんだ?」
「いや……聞いたは聞いたはずなんだけど、夢うつつだったからね。曖昧だな、どうも、記憶違いがあるみたいだね……ああでも、僕は昔っからねえ、いつか可愛い女子高生が、僕のことを起こしに来てくれたら素敵だなあと夢見ていたんだよ。阿良々木くんのお陰で、中学生の頃からの夢がやっと叶ったなあ」
「……叶ってみて、どうよ」
「んー、寝ぼけてるからよくわかんないよね」
叶った夢とはそんなものかもしれなかった。
誰も、どんな場合も。
「ああ、ツンデレちゃんが僕のことをすごい眼で睨《にら》んでいるよ。怖い怖い、おっかない。何かいいことでもあったのかな」
「さあ……」
「さあ、ねえ? 阿良々木くんは女心がわかってなさそうだからねえ――まあいいや。ふん。まあ一度でもこちらの世界に関わってしまうと、それ以降も曳《ひ》かれ易くなってしまうのは事実だけれど……けど、ちっと、集中している感じだなあ。委員長ちゃんもツンデレちゃんも、阿良々木くんのクラスメイトだし――それに、聞いた話じゃ、そこは、委員長ちゃんとツンデレちゃんの、地元なんだろ?」
「戦場ヶ原の場合、もう住んでないけどな。けど、それは関係ないよ。八九寺は、ここに住んでたことはないはずだから」
「はちくじ?」
「あ、聞いてない? 八九寺真宵。蝸牛に行き遭った子供の名前だよ」
「ああ……」
ちょっと間があく。
理由は、眠いからでは、なさそうだった。
「八九寺真宵か……はっはー、なるほどね。見えてきた見えてきた。記憶が揃《そろ》ってきた。なるほどねえ。なんつっかー、いい因縁《いんねん》だよ。まるでちょっとした駄洒落だな」
「駄洒落? ああ、真宵と迷いがかかってるっていうことか? 迷い牛ともかかってるし、迷子ともかかってるって……。へらへら緩んだ顔してる癖に、案外つまんないことを言うんだな、忍野」
「そんなレベルの低いギャグは口が裂けても言わないよ。伊達《だて》にへらへらしてるわけじゃないんだ、この僕は。笑中に刀ありってね。ほれ、八九寺に真宵でしょ。八九寺つったら、あれ、知らない? 『東雲物語』の第五節」
「はあ?」
羽川もそんなことを言っていたっけ。
全くわからなかったけれど。
「阿良々木くんは何も知らないんだな。お陰でこちらとしては説明のし甲斐があるよ。でも、今はそんな暇はないか……眠いしな。ん? なんだい? ツンデレちゃん」
戦場ヶ原が忍野に何か言ったようで、会話が一旦中断する。その声まではさすがに拾えない――というより、戦場ヶ原はわざと、僕に聞こえないように、忍野に何か言っているようだった。
内緒話――でもないだろうが。
何を言っているのだろう。
「んー……ふうん」
忍野が頷く声だけが聞こえた。
そして。
「……はあ」
重苦しい、ため息が、続いた。
「阿良々木くんは、本当に、甲斐性なしだなあ」
「は? 何でいきなりお前からそんなことを言われるんだ? まだお前に対しては、暇潰しだなんて言ってないぞ」
「ツンデレちゃんにこんなに気を遣わせちゃって……ツンデレちゃんが責任を感じちゃってるじゃないか。女の子に尻を任せるなんて、男としちゃ随分と出来損ないだな。尻は敷《し》かれるものであって任せるもんじゃないんだよ」
「あ、いや……戦場ヶ原を巻き込んじまったのは、素直に悪かったと思ってるよ。悪かったっていうか、責任は感じているさ。先週、自分のことが片付いたばかりだってのに、またこんな変なことに――」
「そういう意味じゃないよ、ったく。阿良々木くん、自分のことと委員長ちゃんとツンデレちゃんと、三つ立て続けに怪異を解決しちゃったもんだから、ちょっと調子コイちゃったんじゃないの? 言っておくけど、自分の目で見たこと、自分で感じたことだけが、真実じゃないんだぜ」
「……別に、そんなつもりはないよ」
厳しい言葉に――つい、萎縮《いしゅく》してしまう。痛いところを突かれた気分だ。それについては、残念ながら、思い当たることが、ないではないのだ。
「まあ、そんなつもりはないだろうね、阿良々木くんの場合。阿良々木くんがどんな奴かは、僕はもう、それなりに理解しているつもりだよ。ただ、もう少しばかり、阿良々木くんは周囲に気を配ってもいいだろうってこと。調子コイてんじゃないんだったら、阿良々木くん、余裕なくしちゃってるんじゃない? いいかい? よく聞いてよ。見えているものが真実とは限らないし――それとは逆に、見えていないことが事実であるとも限らないんだ、阿良々木くん。初めて会ったときにも似たような話はしたと思うけれど、忘れちゃったかな? 阿良々木くん」
「……別に、今は僕の話はしてないよ、忍野。いいから、その迷い牛? 蝸牛対策を教えてくれよ。どうすりゃ退治できるんだ」
「だから退治とか、そういうことを言うんじゃないよ。何もわかっちゃいないんだな。そういうことばっかり言っているといつか後悔することになると思うけれど、そのときはちゃんと責任を取るんだぞ? それに――迷い牛は……あ、いや」
言いよどむ忍野。
「……はっはー。ちょっと、これは簡単過ぎて[#「簡単過ぎて」に傍点]、アレだなあ。何を言っても、僕が阿良々木くんを助けることになっちゃいそうだな。よくないな……阿良々木くんには自分ひとりで助かってもらわないと」
「簡単? そうなのか?」
「吸血鬼とは違う。あれは本当の本当にレアケースなんだよ、阿良々木くん。最初があれだと、色々と誤解しちゃうのは仕方ないと思うけれど……そうだね、どっちかって言うと迷い牛は、ツンデレちゃんが遭遇した蟹に、ケースは近いかな」
「ふうん」
蟹。
あの、蟹に。
「あ、そっか、それにツンデレちゃんのこともあるか……あんまり、やだなあ。僕は人間とあちら側との橋渡しが役割であって、人間と人間との橋渡しは専門じゃないんだよなあ……はっはー。参ったな。どうしたもんか。僕は阿良々木くんとは少し仲良くなり過ぎちゃったかなあ。馴れ合いが過ぎちゃったというか、こんな簡単に頼られ、まして電話で用件を済まされるとは思いもよらなかったよ」
「……まあ、安易だったとは思うよ」
安直だし――気の進まない選択肢。
ではあったが、しかし――だからといってそれ以外には選択肢がなかったのも、また、事実だ。
「あんまり気安く僕に接しないで欲しいね。怪異に遭ったとき、僕みたいなのがそばにいるケースなんて、普通はありえないんだから。それに、これはいささか型に嵌った常識的な物言いになっちゃって僕らしくもないけれど、年頃の女の子を一人で、怪しい男が寝泊りしているこんな廃墟みたいな場所に送り込むなんて、感心しないよ」
「怪しい男だという自覚も廃墟みたいな場所だという認識もあるんだな……」
けれど――それは確かに、そうだった。その通りだった。戦場ヶ原があまりにも簡単に承諾《しょうだく》し――むしろ自分の方から名乗り出たくらいだったから、そこら辺に対する気遣いが、ちょっと欠けていた。
「でも、お前は別に何もしないだろ」
「信頼は普通にありがたいけれど、でも、線引きは必要だよ。ルールってのはそのためにあるんだ。ぬるぬるのぬくぬくは、ぬけぬけとよくない。わかるかい? 何があっても完全に駄目という枠で囲った空間を作っておかないと、なあなあで、領地はどんどん削られていくってわけ。例外のないルールはないなんてよく言うけれど、ルールである以上例外はあるべきじゃないし、それに、ルールがなければ例外もなくなっちゃうって、そういうこと。はっはー、なんか委員長ちゃんみたいなこと言っちゃったね」
「んー……」
まあ――そうだ。
その通りだ。
戦場ヶ原には、後で謝ろう。
「阿良々木くんが僕を信頼してくれているほどには、ツンデレちゃんは僕を信頼してくれているわけじゃないんだから。阿良々木くんが僕を信頼しているという理由で、ツンデレちゃんは僕に暫定的《ざんていてき》な信頼をおいているに過ぎない――何かあったら責任は全部阿良々木くんにのしかかるってことを、忘れちゃ駄目だからね。いや、何もしないけど。何もしない何もしないって! うわ、ホッチキスを構えるのをやめてくれ、ツンデレちゃん!」
「…………」
まだ持っていたのか、ホッチキス。
いや、一朝一夕《いっちょういっせき》に抜ける習慣じゃないだろうけど。
「ふー……びっくりした。ツンデレちゃんは怖いツンデレちゃんだったんだな。こりゃあ無類のツンデレだね。えーっと、じゃあ……ああ、もう、やっぱ電話は苦手だなあ。話しにくいや」
「話しにくいって、そんな……忍野、お前、機械|音痴《おんち》にもほどがあるだろ」
「いや、そういうのもあるけどさー、なんかこうやって、僕は真剣に話してても、ひょっとしたら阿良々木くんは寝転んでジュースを飲みながら漫画を読みつつ通話しているんじゃないかと思うと、むなしくなってくるんだよねー」
「意外と繊細《せんさい》なんだな、お前……」
そういうの、気にする奴は気になるらしいけれど。
「じゃあ、こうしよう。迷い牛対策はツンデレちゃんに伝えておくからさ、阿良々木くんはそこでそのままじっとしててよ」
「対策っつって――人伝《ひとづ》てで大丈夫なのか?」
「それを言ったら迷い牛自体が民間伝承だよ」
「じゃなくて、あの――戦場ヶ原のときの、あの儀式みたいなのは必要ないのかってことなんだけれど……」
「ないよ。パターンは同じだけど、蝸牛は蟹ほど厄介じゃない。だって、神様じゃないもん。お化けだな、どっちかって言うと。魑魅魍魎とか怪奇現象とかより、幽霊とか、そっちの類」
「幽霊?」
この場合、神様もお化けも魑魅魍魎も怪奇現象も幽霊も同じような存在にしか思えないけれど――そういう言葉上の違いが、忍野と話す場合には重要だということは、わかっている。
けれど――幽霊。
「幽霊だって妖怪の一種だよ。迷い牛自体、特にどこの地域ってわけでもなく、日本国中、全国津々浦々、とにかくあっちこっちに伝わっている怪異だしね。マイナーだし、名前はまちまちだけれど、まあ、それは元が蝸牛だからなあ。えーっと、それから、阿良々木くん。八九寺っていうのはね、これはそもそも、竹林の中にあるお寺のことを、指し示す言葉だったんだ。正しくは、『八九』ではなく、『淡い』『竹』で、淡竹《はちく》という。淡竹寺。ほら、竹って言えば、まずは孟宗竹《もうそうちく》と淡竹の二種類だろう? また、淡竹は、『破竹の勢い』の『破竹』ともかかっているよね。この場合はあんまり関係ないんだけれど――それを十中八九の『八九』と置き換えたのは、うん、言ってしまえばただの言葉遊びなんだよ。阿良々木くんは知ってるかな? 四国八十八|箇所《かしょ》とか、西国三十三箇所とか」
「ああ……まあ、それくらいなら、さすがに」
よく聞くしな。
「さすがにそれくらいは知っているか――うん、だろうね。まあ、そういうのって、有名無名を区別しなければ、結構あるわけよ。八九寺ってのも、言わばその一種でね――八十九個のお寺が、そのリストの中に収められているのさ。勿論、八十九というのは、言ったように『淡竹』とかかっているんだけれど、後づけの意味じゃ、四国八十八箇所よりもひとつ多い数ってところもあるんだよね」
「ふうん……」
四国と絡んでいるのか。
しかし、羽川は、関西圏がどうとか言っていたけれど。
「うん」
忍野は言う。
「選ばれた八十九のお寺は、大概が関西圏のお寺だからね――その意味じゃ、四国八十八箇所よりは西国三十三箇所の方がイメージに近いのかな。ただ、ここからがこの話の肝《きも》でさあ、悲劇の始まりというわけなんだよ。ほらさー、八九って、『やく』、つまり『厄《やく》』に通じちゃうところがあるじゃない。そういうのって、寺院の頭に冠しちゃったら、否定の接頭語になっちゃうからね、よくなかったんだよ」
「……? そう言えば、僕も最初、『八九』を『はちく』とは読めずに、『やく』なのかなって思ったけれど……しかし、そういう意味を持たせていたわけじゃないんだろう?」
「けれど、期せずして持っちゃったってことさ。言葉ってのは、怖いよ。そんなつもりはなくとも、そういうことに決定してしまう。言霊《ことだま》とも言うけれど、ちょっとこの熟語は、簡単に使われ過ぎているきらいがあるよね。まあ、ともかく、そういう解釈が広がっちゃって、八九寺という括《くく》りは、その内に廃《すた》れちゃった。八十九の内に指定されていたお寺も、ほとんどは廃仏《はいぶつ》棄釈《きしゃく》のときに潰れちゃったし、四分の一くらいしか現存していない――しかも、八九寺に選ばれていたことは、ほとんどひた隠しにしている感じなんだね」
「…………」
なんかこいつの説明はあまりに適当過ぎて、そのお陰で確かにわかりやすくはあるんだけれど、しかし他人にそのまま話したりしたら、大恥をかきそうな感じなんだよな……。
そもそも、そんな、インターネットの検索エンジンにかけても一件もヒットしそうにない知識、どこまで鵜呑みにしていいものか、判断に困る。
話半分――か。
「で、そういう経緯――歴史を理解した上で、改めて八九寺真宵って名前を見ると、どうだろう、妙に意味ありげで、困っちゃうよね、普通は。上下が繋がっていて――さ。大宅世継《おおやけのよつぎ》とか夏山繁樹《なつやまのしげき》みたいなもんだ。『大鏡《おおかがみ》』くらいは授業で習っただろう、阿良々木くんだって。けれど、下の名前がマヨイっていうのはどうなのかなあ? それじゃ、そのまんまじゃないか。それこそ安易で、安直だぜ。ネーミングセンスを疑うよ。ふん、阿良々木くんが最初の段階で、それを感じてくれていたなら、よかったんだけれどね」
「よかったって、何がだよ。それに、こいつが――」
八九寺は、ベンチに座って、大人しく僕の通話が終わるのを待っている。特に聞き耳を立てている風はないが――聞いてはいるだろう。いないはずがない、自分のことなのだ。
「こいつが八九寺って苗字になったのは、つい最近なんだ。それ以前は、綱手だったって」
「綱手? へえ、綱手かよ……よりにもよって。よりにもよって――糸がよれ過ぎだぜ。完全にほつれちまってる。因縁にしたって、そりゃさすがに出来過ぎだなあ、おい。籌《はかりごと》を帷幄《いあく》の中に運《めぐ》らし勝ちを千里の外に決する感じだぜ。八九寺に綱手……なるほど、それで真宵か。むしろ本命はそっちか。真の宵夜ね。はあん――ったく」
アホ臭い。
忍野はぼそっと、そう呟いた。
独白ではあったが――僕に向けた言葉だった。
「もういいや、どうでも。この町は本当に面白いよ、実際。あっちこっちが雑多|坩堝《るつぼ》だな。どうやらこの町からはなかなか離れられそうにないや……じゃ、詳細《しょうさい》はツンデレちゃんに言っとくから、阿良々木くん、聞いておいてね」
「ん。あ、ああ」
「もっとも――」
忍野は皮肉な口調で締めた。
あの薄笑いが、眼に浮かぶようだった。
「ツンデレちゃんがそれを素直に教えてくれればいいけどね」
そして――通話終了。
忍野は決して、別れの言葉を言わない男だった。
「……というわけだ、八九寺。なんとかなりそうだぞ」
「印象としては、あまり、なんとかなりそうな会話ではありませんでしたが」
やっぱり聞いてはいたようだ。
まあ、僕の台詞を聞いていただけでは、肝心なところは何もわからないだろうけれど。
「それはともかく、阿良々木さん」
「何だよ」
「わたしはお腹がすいていますよ?」
「………………」
だからどうした。
僕がうっかり果たすべき義務を果たしてないことを、気遣って遠まわしに教えてくれているみたいな言い方してんじゃねえよ。
とはいえ、そう言われてみれば、そうだ、蝸牛のことがあって有耶無耶《うやむや》になっていたが、考えてみれば、八九寺には昼ご飯を食べさせていない。そう、戦場ヶ原もそうだった……あいつの場合、ひょっとしたら忍野のところに行く前に、一人どこかで何かを食べている可能性がないでもないが。
あー、気が回らなかったな。
僕は今、割と食べなくても平気な身体だから。
「じゃ、戦場ヶ原が戻ってきたら、どっかに何か食べに行こうぜ。つっても、この辺、家しかないから――別にお前、お母さんの家以外なら、どこにでも行けるんだろ?」
「はい。行けます」
「そっか。じゃ、戦場ヶ原に訊けばいいか――一番近い食べ物屋くらい知ってるだろ。で、お前、何か好きな食べ物とかあるのか?」
「食べ物であればなんでも好きです」
「ふうん」
「阿良々木さんの手もおいしかったです」
「僕の手は食べ物じゃない」
「またまたご謙遜《けんそん》を。おいしかったのは本当です」
「………………」
ていうかお前は多分、マジで僕の血肉、少なからず飲み込んじゃってるから、その発言はかなり洒落にならないぞ。
カニバリズム少女。
「ところでさ、八九寺。お前、そのお母さんの家に行ったことがあるっていうのは、本当なんだな?」
「本当です。嘘はつきません」
「なるほど……」
けれど、久し振りだから道に迷った――わけではないのだろう。蝸牛に出遭ったから、初めての場所ではなくとも――いやしかし、どうして八九寺は、蝸牛なんかに行き遭ってしまったのだろうか?
理由。
僕が吸血鬼に襲われたのには理由がある。
羽川にも、それに、戦場ヶ原にも。
ならば――八九寺にも理由はあるはずだ。
「……なあ。単純な考え方だけど、目的地に辿り着くこと自体が目的なんじゃなくて、お前、お母さんに会いたいだけなんだろ?」
「だけとは酷い言い草ですが、まあそうです」
「だったら、向こうから会いに来てもらったらいいんじゃないのか? ほら、お前が綱手さんの家に辿り着けないとしても、お母さんは家の中に閉じ込められているわけじゃないんだろう? 離婚していても、確か、親は子供に会う権利が――」
素人知識だけど。
「――あるとか、なんとか」
「無理ですね。ていうか、無駄です」
即答する八九寺。
「それができるなら、とっくにそうしています。でも、それはできません。わたしはお母さんに電話することさえもできないんですから」
「ふうん……」
「わたしはこうやって、お母さんを訪ねるしかないんです。たとえ、絶対に辿り着けないとわかっていても」
ぼかした言い方をするけれど、つまり、家庭の事情って奴かな……色々と複雑そうだ。それは、母の日にさえこんな風に、一人でよく知らない町まで出てこなければならない時点で、わかりそうなものではあるが。でも、そうはいっても、何か、もっと合理的な手はないものかな……たとえば戦場ヶ原に一人で別行動で綱手家に先回りしてもらって……いや駄目か。怪異相手にそんな正攻法が通じるとは思えない。GPS機能を使おうとすれば戦場ヶ原の携帯電話が圏外になったように、八九寺の目的は達せられないことだろう。忍野と電話が通じたのは、単に相手が忍野だったからに過ぎない。
怪異とは――世界そのものなのだから。
生き物と違って――世界と繋がっている。
科学だけでは怪異に光を当てることはできない、吸血鬼に襲われる人間が、いつまでも絶えることなく存在するように。
照らせぬ闇《やみ》などこの世になくとも。
闇がなくなることはない。
となると、戦場ヶ原の到着を待つしかないか。
「怪異か……実際のところ、よく知らないんだけどな。お前はどうなんだ? 八九寺。妖怪とか化物とか、そういうの、詳しいのか?」
「……ん、いえ、全然」
変に迷ってから、答える八九寺。
「のっぺらぼうくらいしか、知りません」
「ああ、小泉《こいずみ》八雲《やくも》の……」
「なじむですね」
「なじんでどうする」
狢《むじな》。
多分、知らない人はいない話だろう。
「あれは怖いよな……」
「はい。他にはあまり――知りません」
「だろうなあ。そんなもんだよ」
まあ、妖怪とは言っても。
僕の吸血鬼の場合は――いや、いいか。
似たようなものだ、人間にしてみれば。
概念の問題。
問題の、より深いところは――
「八九寺――僕にはよくわからないけれど、お母さんって、そんなに会いたいもんなのか? 正直、お前がそこまでする理由が僕には見えてこないよ」
「子供がお母さんに会いたいと思うのは普通の感情だと思いますが……違いますか?」
「そりゃ、そうなんだけど」
そうなんだけど。
そこに何か、普通でない理由があれば――必然的に、八九寺が蝸牛に行き遭った理由にも辿り着けると思ったのだが、しかし、理由と言えるほどの確たる理由はないらしい。単純な、衝動的な――言葉にできない、欲求構造の本能に似た原理。
「阿良々木さんはご両親共に同じ家で暮らしてらっしゃるんでしょう? だからわからないんです。満ち足りていると、足りない場合には思い至らないものです。人は、足りないものを望むのです。離れて暮らせば、阿良々木さんだって絶対に会いたくなると思います」
「そんなものかね」
そんなもの――なのだろうけれど。
贅沢《ぜいたく》な悩み。
――兄ちゃんは、そんなことだから。
「わたしのような立場の者から言わせていただければ、両親がちゃんといらっしゃるというだけで、阿良々木さんのことが、羨《うらや》ましいです」
「そっか……」
「羊の下に次と書いて、羨ましいです」
「そっか……それ、両方微妙に間違ってるからな」
戦場ヶ原なら、何と言うだろう。八九寺が抱えているそういう事情を聞いたなら――いや、きっと、何も言わないだろう。僕が今やっているように、自分と八九寺を重ねあわせることすらしないだろう。
僕よりも、ずっと近い位置にいながらにして。
蟹と蝸牛。
水際を行き来するもの――だったか。
「先ほどからの口振りからすると阿良々木さんはあまりご両親のことを好いていないような印象を受けますが、ひょっとして、そうなのでしょうか」
「あー、そうじゃないよ。ただな――」
言いかけて、子供相手に話すようなことではないという思いが脳裏をよぎるが、しかし、そうは言っても既に、僕は八九寺の事情について結構立ち入ったことを聞いてしまっていたし、それなら相手が子供だからという理由では、言葉を止められないだろうと、僕はそのまま続けた。
「僕ってさ、すっげー、いい子だったんだよ」
「嘘はいけません」
「嘘じゃない……」
「そうですか。では、嘘ではないということにしておいてあげましょう。嘘も方言です」
「嘘つき村の住人なんだな」
「わたしは正直村の住人です」
「あっそ。まあそりゃ、お前みたいに馬鹿丁寧な言葉遣いで喋る奴でこそなかったけどな、勉強もそこそこだったし、運動もそこそこだったし、悪さもそんなしなかったしで、それに、他の男子がそうしてたみたいに、意味もなく親に反抗したりもしなかったしな。育ててくれてること、感謝してたんだ」
「ほほう。ご立派です」
「妹が二人いてさ、まあそいつらも似たような感じで、家族としてもいい感じだったんだけど、高校受験で、僕、ちょっと無茶しちゃってさ」
「無茶と言いますと」
「…………」
案外、小気味いい相槌を打つよな、こいつ。
こういうのも聞き上手っていうんだろうか。
「自分の学力よりかなり高めの学校を、無理して受けちゃってさ――そして合格しちゃった」
「いいことではありませんか。おめでとうございます」
「いや、よくなかったんだよ。無理して、それで終わりだったらよかったんだけれど――その結果、ついていけなくなっちゃってさ。いや、頭のいい学校で落ちこぼれると、本当、洒落にならねえんだよ。それに、通ってる奴ら、真面目な連中ばっかりで……僕や戦場ヶ原みたいな奴なんて、例外なんだ」
真面目の塊、羽川翼でさえ、僕みたいな生徒を相手にしている段階で、本来、かなりの例外的存在だろう。それをカバーできるだけの能力が、彼女にはあるというだけの話だ。
「すると、今までいい子だった分、反動が来てさ。勿論、別に何があるってわけじゃないんだよ。父親も母親も今まで通りだし、僕も家じゃ今まで通り、のつもりだけれど――ただ、言葉にならない気まずさみたいなものがあってな。そういうのは、どうしても、出て、残ってしまう。だから、結局、お互い気を遣っちゃうし、それに――」
妹。
二人の妹が。
――兄ちゃんは、そんなことだから――
「そんなことだから、僕は――いつまでたっても大人になれない、んだってさ。いつまでも大人になれない、子供のままだ――そうだ」
「子供ですか」
八九寺は言う。
「では、わたしと同じです」
「……お前と一緒ってわけじゃないと思うけどな。身体ばっかでっかくなって、中身がそれについていってないって意味だろうから」
「阿良々木さんはレディに対してかなり失礼なことを言いますね。これでもわたし、クラスではかなり発育のよい方です」
「確かに、なかなか立派な胸をしていたな」
「はっ!? 触りましたか!? いつ触りました!?」
仰天した顔で眼を剥く八九寺。
しまった、口が滑っちゃった。
「えっと……取っ組み合いしたとき」
「殴られたことよりショックです!」
八九寺は頭を抱えた。
本当にショックらしい。
「いや……別にわざとじゃないし、一瞬だけだし」
「一瞬っ!? 本当に本当ですかっ!?」
「ああ。三回くらいしか触れていない」
「一瞬じゃありませんし、それ、二回目からはあきらかにわざとですっ」
「言いがかりだって。不幸な事故だったんだ」
「ファーストタッチを奪われてしまいました!」
「ファーストタッチ……?」
最近はそんな言葉があるのか。
小学生は進んでいるなあ。
「ファーストキスよりファーストタッチの方が先だなんて……八九寺真宵は、いやらしい女の子になってしまいましたっ」
「あっ。そうだ、八九寺ちゃん。そう言えばすっかり忘れてたね、約束通り、お小遣いをあげよう」
「このタイミングで言わないでくださいっ!」
頭を抱えたまま、服の中にアシナガバチでも入ったかのように、八九寺は身体中という身体中を悶《もだ》えさせていた。
哀れだった。
「まあまあ、そう落ち込むなよ。ファーストキスがお父さんだったとかよりは、まだマシだって」
「ものすごく普通のエピソードですっ」
「じゃあ、そうだな、ファーストキスが鏡に映った自分だったとかよりは、まだマシだって」
「そんな女の子、この世にいませんっ」
うん。
あの世にもいないだろう。
「がうっ」
ようやく頭から手を離したかと思うと、八九寺はそのまま、僕の喉元に向かって、噛みついてきた。春休み、吸血鬼に咬みつかれたのと同じ位置だったので、背筋が凍《こお》る。なんとか八九寺の両肩を押さえ、事なきを得る。「がうっがうっがうっ」と、威嚇《いかく》するように音を立てて、歯を噛み合わせる八九寺。なんか昔のゲームにこういう敵キャラがいたなあと思いながち(鎖に繋がれた鉄球みたいな奴)、なんとか、僕は八九寺をなだめる。
「ど、どうどう。よしよしよし」
「犬扱いしないでくださいっ! それともなんですかっ、それはわたしのことを、いやらしいメス犬だと、遠回しに揶揄しているのですかっ!」
「いや、どっちかっていうとお前、リアルに狂犬病って感じなんだが……」
しかし綺麗な歯並びしているな、この子。骨に達するくらいにまで僕の手を噛んでおきながら、その、恐らくは乳歯混じりの歯は、一本すらも、抜けることもなく、欠けることもなかったらしい。並びがいいだけでなく、とてつもなく丈夫な歯だ。
「大体、阿良々木さん、さっきからとてもふてぶてしいですっ! 反省の色が見えませんっ! 少女のデリケートな胸に触っておいて、一言くらいあってもいいでしょう!」
「……ありがとう?」
「違いますっ! 謝罪を要求していますっ!」
「そんなこと言われても、あんな取っ組み合いの最中だったんだから、どう考えても不可抗力じゃん。胸くらいで済んでよかったと思って欲しいくらいだよ。それに、さっき羽川も言ってたろうが。どう考えてもあんな洒落にならないレベルで他人に噛みついてきた、お前が悪いぞ」
「どっちが悪いかなんて問題ではありませんっ! たとえわたしが悪いとしても、それでもわたしは多大なるショックを受けたんですっ! ショックを受けている女の子を前にしたら、自分が悪くなくとも謝るのが大人の男ではないのですかっ!」
「大人の男は、謝らない」
僕は声を低くして、言った。
「魂の価値が、下がるから」
「格好いいーっ!?」
「それとも、八九寺は謝られないと許せないっていうのか? 謝ったら許してやるなんて……そんなの、相手が格下でない限り寛容になれないってことじゃないか」
「なんと、わたしが批難される立場に!? 盗人《ぬすっと》猛々《たけだけ》しいとはこのことです……もう本気で怒りました……温厚なわたしですが、仏の顔もサンドバッグですっ!」
「ありえない温厚だな……」
「ていうか謝っても許しませんっ!」
「ていうか別にいいだろ。減るもんじゃないし」
「うわっ、阿良々木さん、開き直りましたか!? 違います、減るもんじゃないとか、そういう問題ではありませんっ! ていうかまだ発育途中でそんなにでもないのに、減ったりしたら困りますっ!」
「揉《も》まれたら増えるとも言うぞ」
「そんな迷信、信じているのは男だけですっ!」
「つまんねえ世の中になっちまったな……」
「なんですか。阿良々木さんはそんな迷信を盾にとって、今まで婦女子の胸を揉みまくってきたのですかっ。最低ですねっ」
「残念ながらそんな機会は一度もなかったな」
「童貞野郎なんですねっ」
「…………」
知ってるのか、小学生。
進んでるってより、終わってる。
つまんねえってより、嫌な世の中だ……。
とまあ、現代の風潮を嘆《なげ》く振りをしてみても、よく思い出してみれば、小学五年生くらいだったら、僕だってそれくらいは知っていた。自分より下の世代への不安なんて、案外、そんなもんだ。
「がうっ! がううっ! がうがうがうがうっ!」
「いっ、う、あ、危ねえって! マジやばいって!」
「童貞に触られましたっ! 汚されましたっ!」
「誰に触られたって同じだ、そんなもんっ!」
「初めての人はテクニシャンじゃないと嫌だったんですっ! それなのに阿良々木さんだなんて、わたしの夢が破れましたっ!」
「なんだそのファンタスティックな妄想!? ようやく芽生えかけていた罪悪感が消えていくぞ!?」
「がうーっ! がう、がうっ、がう!」
「ああ、もう、うっせえ! 本当に狂犬病かお前は! この前髪眉上、甘噛み女め! こうなったらもうファーストがどうとかキスが何とか、そんなことが気にならなくなるくらいに揉みしだいてやらあー!」
「きゃーっ!?」
小学生女子を相手に我を忘れ、強引なセクハラ行為を力任せに迫る男子高校生の姿がそこにはあったが、それだけは僕ではないと信じたい。
まあ、僕なんだが……。
幸い、八九寺真宵が想像を遥かに越える強い抵抗を見せたため、僕の全身のあらゆるところに八九寺の歯型、及び爪痕がついただけで、このやり取りは行き着くところまで行き着くことはなく、終焉《しゅうえん》を迎えた。息も絶え絶えで汗びっしょりな小学生と高校生が、ベンチで一言も喋らず疲弊《ひへい》した状態で座っているというのが、その五分後の情景だった。
喉が渇いたけど、自販機とかないんだよな、この辺……。
「ごめんなさいでした……」
「いや……こっちこそごめん……」
どちらからでもなく、謝る二人。
しょぼい和解だった。
「……しかし八九寺、割と喧嘩慣れしてるな、お前」
「学校ではよくあることです」
「あんな取っ組み合いがか? あ、そっか。小学生くらいなら、男子とか女子とか、あんま関係ないよな。でも、お前、結構やんちゃなんだな……」
利発そうな顔立ちをしてるのに。
「阿良々木さんこそ、喧嘩慣れしていますね。やはり高校生の不良さんともなると、あの程度のバトルはよくあることですか」
「不良じゃない。落ちこぼれだ」
訂正してむなしくなるような違いだった。
自分で自分を傷つけたみたいなものだ。
「進学校だからな、落ちこぼれても不良にはならないんだ。そもそも不良グループみたいなものがないからな」
「しかし漫画などでは、エリート学校の生徒会長が裏では相当悪いことをしているというのがセオリーです。頭がいい分悪質な不良が生まれるのです」
「それは現実では無視していいセオリーだ。まあ、そうだな、ただ、あんな感じの取っ組み合いなら、妹相手にしょっちゅうでね」
「妹さんですか。二人いると仰《おっしゃ》っていましたね。すると妹さん、わたしと同じくらいの年齢でしょうか?」
「いや、両方、中学生。でも精神年齢は、どっちもお前と同じくらいかもしれないな――幼いんだ、あいつら」
さすがに噛みついてきたりはしないけれど。
一人は空手やってるから、結構真剣勝負だし。
「ひょっとしたら、お前と気が合うんじゃないかな……子供好きっていうか、あいつら自体、子供みたいなもんだから。なんだったら今度、紹介してやるよ」
「あ……いえ、そういうのは結構です」
「あ、そう。物腰|柔《やわ》らかな癖に、割と人見知りする方なんだな、お前……別にいいけどさ。あー……まあ、取っ組み合いの喧嘩なら、どっちかが謝って終わりなんだよなー、確かに」
今日のは――意地の張り合いだから。
それでも、僕が謝って終わりなのだろうが。
わかっちゃいるんだけど。
「どうかされましたか、阿良良々木さん」
「今度は良が増えてるからな」
「失礼。噛みました」
「違う、わざとだ……」
「噛みまみた」
「わざとじゃないっ!?」
「仕方がありません。誰だって言い間違いをすることくらいはあります。それとも阿良々木さんは生まれてから一度も噛んだことがないというのですか」
「ないとは言わないが、少なくとも人の名前を噛んだりはしないよ」
「では、生むみ生もめ生ままもと三回言ってください」
「お前が言えてないじゃん」
「生もめだなんて、いやらしいですっ!」
「言ったのはお前だからな」
「生ままもだなんて、いやらしいですっ!」
「そのいやらしさは、僕にはわからないが……」
楽しい会話だった。
「ていうか、意図的に言おうと思えば、却《かえ》って言いにくい言葉だろう、生ままも……」
「生まままーっ!」
「………………」
噛んだり噛んだり、忙しい奴だ。
「で。どうかされましたか、阿良々木さん」
「どうもしないよ。ただ、妹にどんな風に謝ったもんかを考えると、ちょっと憂鬱《ゆううつ》になっちまっただけだ」
「謝るということは、胸でも揉みましたか」
「妹の胸なんか揉むか」
「阿良々木さんは小学生の胸は揉んでも妹の胸なんか揉まないんですね。なるほど、そういう線引きで自身を律しているわけですか」
「ほほう。皮肉を言うとは骨のある奴め。どんな事実であれ脚色《きゃくしょく》して文脈を講ずると、他人を誹謗《ひぼう》中傷できるといういい例だな」
「別に脚色はしていませんが」
確かに素直な文脈だった。むしろ僕がなんとか文脈を講じて、相当壮絶な言い訳をする必要が、切実にありそうな感じである。
「では、言い直しましょう。阿良々木さんは小学生の胸は揉んでも中学生の胸は揉まないんですね」
「とんでもなくロリコンレベルの高そうな奴だな、その阿良々木さんとやらは。あまり友達になりたくないタイプの男だと見える」
「自分はロリコンではないと言いたげですね」
「当然だ、そんなもん」
「真のロリコンは、決して自身をロリコンとは認めないそうです。何故なら彼らはあどけなき少女を既に立派な大人の女性として、認めているそうですから」
「いらねえ豆知識だな……」
使いどころのない雑学なんて脳の無駄遣いだった。
以前に、小学生からそんなことを教えられたくない。
「ともあれ、ですが、たとえ妹さんであろうと、取っ組み合いをしていれば不可抗力ということもあると思います」
「だから引っ張るな、そんな嫌な話を。妹の胸なんか胸の内に入らないんだよ。小学生の胸以上にな。そういうことだと理解しろ」
「乳道ですね。ためになります」
「ためにはするな。お願いだから。とにかく――今日、家を出るとき、ちっと口論しちまってな。取っ組み合いじゃなくて、口論。まあ、お前の言葉じゃないが、自分が悪くなくとも、僕が謝らなくちゃいけないんだろうと思うよ。そうすることで丸く収まるんなら。わかっちゃーいるんだ。そうしなくちゃいけないってことは」
「ですね」
ここでは、神妙な顔つきで、頷く八九寺。
「わたしのお父さんとお母さんも、喧嘩ばかりしてました。取っ組み合いじゃないですよ、口論の方です」
「で――離婚か」
「一人娘のわたしが言うのもなんですが、仲のいいご夫婦だったらしいのですよ――最初は。結婚以前の恋人時代なんて、もうラブラブ絶頂だったらしいです。ですが――わたしは仲良くしているお二人というのを、見たことがなかったんです。お二人は、いつも、喧嘩ばかりしてました」
それでも。
離婚はしないと思っていた――そうだ。
というより、八九寺には、そんな発想自体がなかったらしい――家族というものはいつまでも、一緒にいるのが当たり前だとばかり、思い込んでいたから。そもそも離婚なんて制度があること自体、知らなかったのだろう。
知らなかったのだろう。
お父さんとお母さんとが、別れ別れになるなんて。
「でも、当たり前っていうのなら、そっちの方が当たり前なんですよね。人間なんだから、口論もすれば喧嘩もします。噛みついたり、噛みつかれたり、好きになったり、嫌いになったり、そんなこと、当たり前なんですよね。だから――好きなものを好きでい続けるために、本当はもっと、頑張《がんば》らなくちゃいけなかったんですよね」
「好きなものを好きでい続けるために、頑張る――って、なんか、不純とは言わないけれど、あんまり純粋な感じがしないけれどな。頑張って好きになるなんて――なんか、努力してるみたいな感じじゃないか」
「でも、阿良々木さん」
八九寺は少しも譲らずに、言った。
「わたし達が持つ好きっていう感情は、本来、すごく積極的なものではないですか」
「……そうだよな」
確かに。
頑張って、努力するべき――なのかもしれない。
「好きなものに飽きたり、好きなものを嫌いになったりするのって――つらいじゃないですか。つまらないじゃないですか。普通なら、十、嫌いになるだけのところを、十、好きだった分、二十、嫌いになったみたいな気分になるじゃないですか。そういうのって――凹みますよ」
「お前は」
僕は、八九寺に訊く。
「お母さんのことが、好きなんだよな」
「ええ、好きです。勿論、お父さんのことも好きです。お父さんの気持ちだってわかりますし、決して、望んでそういう結果になったわけじゃないことも、わかっています。お父さん、色々とあって、大変だったんです。ただでさえ、一家の大黒天だったのに」
「お前のお父さんは七福神のメンバーなのか……」
父は偉大だった。
そりゃ色々とあって、大変なはずである。
「お父さんとお母さんは喧嘩をされ、その結果、別れてしまいましたけれど――わたしはお二人とものことを、大好きなんです」
「ふうん……そっか」
「だから、だからこそ、不安です」
本当に不安そうに――俯《うつむ》く八九寺。
「お父さん、お母さんのこと本気で嫌いになっちゃったみたいで――わたしをお母さんに会わそうとしないんです。電話もかけさせてくれないし、もう二度と、会っちゃいけないって言いました」
「………………」
「わたし、お母さんのこと、いつか忘れちゃうんじゃないかって――このままずっと、会えなければ、お母さんのこと、好きじゃなくなっちゃうんじゃないかって――とても不安です」
だから。
だから、一人で――この町まで。
理由なんてないけれど。
お母さんに会いたくて。
「……蝸牛ね」
全く。
どうしてその程度の願いが、叶わないんだろう。
いいじゃないか、そのくらい。
怪異だか何だか知らないが、迷い牛だか何だか知らないが――どうして、八九寺の邪魔をするのか……それも、何度にも亘って。
目的の場所に辿り着けない。
迷い続ける。
……ん?
いや、待てよ――忍野は確か、この迷い牛、戦場ヶ原の蟹のときと、パターンは同じだと言っていた。
パターンは同じ……どういうことだ? 確か、あの蟹の場合――戦場ヶ原に災厄《さいやく》をもたらしたわけではない。結果的にはそれは災厄だったが、あくまで結果的にはというだけであり、それはある意味において、そして本来的な意味において――戦場ヶ原が望んだことだった。
蟹は、戦場ヶ原の願いを叶えたのだ。
それと同じパターン……属性は違えど同じパターンだというのなら、どうだろう、それは一体、どういう事実を意味することになるのだ? 仮に八九寺が行き遭った蝸牛が、八九寺の目的を阻害しようとしているのではないとして――願いを叶えようとしているのだとしたら。
蝸牛は――一体、何をしているのだ?
八九寺真宵は……何を、望んでいるというのだろう。
そういう眼で見れば……どうしてだろう、八九寺は、どうも、迷い牛が祓《はら》われることを、望んでいないようにすら見えなくも……ないか?
「………………」
「おや、どうかされましたか阿良々木さん。急にわたしのことを見つめたりされて。そんなことをされると、わたし、照れてしまいます」
「いや……なんていうか、そのな」
「わたしに惚れると、火傷《やけど》しますよ」
「……なに、その、台詞」
無意味に読点の数が増えてしまう。
「なにって言われましても、ほら、わたしって見ての通りのクールビズですから、この手の格好いい台詞が似合って似合ってしょうがないのです」
「それ、クールビューティと言い間違っているのはそりゃすぐにわかるんだけれど、なんていうか、そっから先、いまいちどう突っ込んでいいのか、僕には思い当たらないよ、八九寺。ていうか、お前、クールだっていうなら、火傷するってのはおかしくないか?」
「む。そうですね。では」
難しい顔をして、言い直す八九寺。
「わたしに惚れると、低温火傷しますよ」
「…………」
「とても格好悪いですっ!」
「しかも、それも別に、クールではないしな」
湯たんぽみたいに温かいって感じ。
すげえいい人そう。
「あ、そうです、わかりました。発想を転換すればいいのです。阿良々木さん、こういう場合は、決め台詞はそのままに、クールという形容を変えればいいのですよ。クールな女という称号は惜しいですが、この際仕方がありません。背に腹は代えられないという奴です」
「なるほど。ああ、確かにそうやって形容を変えてしまえば、逆に決め台詞に近付けるからな、セオリーと言ってもいい。連載第二回目の表紙アオリ文に早くも大人気と書くみたいなものか。よし、じゃあ、ものは試しだ、やってみよう。言い換えるのが、クールだから――」
「ホットな女と名乗りましょう」
「ほっとするんだな」
「いい人そうですーっ!」
大袈裟なリアクションを取ったところで、はっと気付いたように、八九寺は、
「阿良々木さん、話を逸らそうとしてますねっ」
と言った。
さすがに察されたか。
「阿良々木さんがわたしをじっと見つめていたという話でした。どうしたのですか、ひょっとして、わたしに惚れてしまいましたか」
「…………」
全く察されていなかった。
「じろじろと見られるのはあまり気持ちのいいものではありませんが、しかし、確かに、私の二の腕が魅力的であることは認めます」
「特殊な嗜好《しこう》だな」
「おや。二の腕には何も感じないと? この二の腕ですよ? この形式美がわからないのですか?」
「お前の身体は形式的に美しいのか?」
健康美な。
「照れ隠しをなさるとは、阿良々木さんにも可愛いところがあるのですね。ふむ、理解してさしあげましょう。なんなら、キープしてあげてもいいです。整理券を配布しましょう」
「悪いが、僕は寸《すん》足らずの女の子に興味はないんだ」
「寸足らず!」
その言葉に、目玉が飛び出そうなほど瞠目《どうもく》する八九寺。
そしてくらくらと、貧血のように頭を揺らす。
「なんて侮蔑《ぶべつ》的な言葉でしょう……将来的に規制されてしまいそうなくらい、酷い言葉です……」
「言われてみれば、確かに、そうだな」
「わたしっ、とても傷つきましたっ。発育はいい方なんですっ、本当ですっ! 全くもうっ、人畜さんは酷いことを言いますっ」
「人畜さんって、お前も思い出したみたいに言ってんじゃねえよ。どっちかっていえば、そっちの方が先に規制がかかりそうじゃないか」
「では、人チックさんと言い換えましょう」
「本当は人じゃないみたいじゃないか!」
ていうか、吸血鬼に襲われて半分不死身みたいな僕にそれを言うと、本当に洒落にならない。あまりにも的を射過ぎている侮蔑言葉だった。
「あ、そうです、わかりました。発想を転換すればいいのです。阿良々木さん、こういう場合は、対象となる言葉を外来語に言い換えてしまえばいいのですよ。傷つく人がいる以上、言葉に規制がかかるのは仕方がないことですから。でも、そういう風に規制にあった日本語でも、外来語に換言されることで、脈々と受け継がれていくという話です」
「なるほど。ああ、確かにそうやって訳してしまえば、逆にニュアンスが柔らかくなるからな、セオリーと言ってもいい。少女愛好者と言うよりはロリコンと言った方がまだ少しは救いがあるみたいなものか。よし、じゃあ、ものは試しだ、やってみよう。言い換えるのが、寸足らずと、人畜だから――」
「ショートネスと、ヒューマンビーストですね」
「やべえ! 一時代築けそうだ!」
「ええ! 眼から鱗《うろこ》が剥がれますっ!」
痛そうだった。
というか、痛い二人組だった。
「まあ、じゃあ、寸足らずというのは取り消すよ……。うん、でもな、そりゃ、八九寺は、小学五年生にすれば、確かに、それなりなんだろうけど」
「胸がですかっ。胸がですねっ?」
「全体的に、だよ。でも、それでも、小学生レベルを逸脱してはいない。超小学級というほどではないと思うぞ」
「そうですか。高校生の阿良々木さんから見れば、小学生のわたしの身体なんて、さながらスライダーだというわけですね」
「まあ確かに、外角にキレのいいのを決められると、まず手は出ないな」
ストレートとまでは言うまい。
発育がいいのは、本当だし。
ちなみに正しくは、スレンダー。
「……では、阿良々木さんは、どうしてわたしのことを、情熱的な眼で見つめていたのでしょう」
「いや、その……え、情熱的?」
「そんな眼で見られると横隔膜《おうかくまく》がどきどきします」
「しゃっくりじゃん」
難しい振りだった。
突っ込み担当としての力量が試されている。
「まあ、なんでもないよ。気にしないで」
「そうですか。本当ですか?」
「うん……まあ」
逆――なのだろうか?
こいつ、本当は――口で言っているのとは裏腹に、心の底では、母親に会うことを、望んでいないとか……それともあるいは、八九寺としては母親に会いたいけれど、母親にそれを拒絶されるかもしれないことを恐れているとか……。ひょっとすると、既に事実として、母親からは『会いに来てはいけない』なんて、言われているなんてこと――しかし、今までの話、八九寺の家庭環境を聞く限りにおいて、それは十分にありえそうだった。
だとすると……容易にはいかないぞ。
戦場ヶ原の例を、取るまでもなく――
「……他の女の匂いがするわね」
前触れもなくいきなり登場、戦場ヶ原ひたぎ。
マウンテンバイクで公園内まで入ってきていた。
既に乗りこなしてやがる……器用な奴だ。
「お、おお……早かったな、戦場ヶ原」
往路の半分も、時間がかかっていなかった。
本当に突然だったのでびっくりする暇もない。
「行きは少し道を間違えたのよ」
「ああ、案外わかりにくい位置にあるもんな、あの学習塾。やっぱ地図でも書いておけばよかったか」
「あんな大言壮語しておいて、恥ずかしいわ」
「ああ、そう言えば記憶力がどうとか……」
「阿良々木くんに辱《はずかし》められてしまった……こんな風に私に恥をかかせて悦《えつ》に入《い》るだなんて、阿良々木くんも悪趣味なものだわ」
「いや、僕は何もしてないじゃん! 自滅じゃん!」
「阿良々木くんってこういう羞恥《しゅうち》プレイを女の子に仕掛けて興奮する人だったのね。けれど、許してあげる。健康な男子であれば、それも仕方のないことだもの」
「いや、そいつ、かなり不健康だから!」
そう言えば、忍野の奴、あの学習塾のある場所のことを、結界――とかなんとか、そんな風に言ってたことがあったし。つくづく、僕が行くべきだったかもしれない。
しかし、それはそうだとしても、戦場ヶ原ひたぎ、随分と堂々とした恥じらい方だった。というより、こいつ、絶対恥ずかしがってなんかいない。羞恥プレイにあっているのは、むしろ僕の方ではないだろうか……。
「私ならいいの……阿良々木くんにだったら、どんなことされても、我慢できるもん……」
「突如として正反対のキャラを演じるのをやめろ! そんなことしてもお前のキャラの幅はもうそれ以上は広がらないんだよ! ていうか戦場ヶ原、本当に僕のことを思ってくれているなら、僕が少しでもそういう不健康な素振りを見せたときはすかさず注意してくれ!」
「まあ本当は阿良々木くんのことを思ってないし」
「ですよねえ!」
「私が面白ければ何でもいいのよ」
「いっそすがすがしい!」
「それにね、阿良々木くん。本当のことを言うと、往路に時間がかかったのは、道を間違えもしたけれど、それだけじゃなくて、私、昼ごはんも食べなくちゃならなかったからというのもあるのよ」
「やっぱ食べたんだ……期待を決して裏切らない女だな、お前は。いや、いいけれどさ、そんなの勝手だし、お前はそういう奴だし」
「阿良々木くんの分まで食べておいたわ」
「あっそ……まあ、お疲れさん」
「どういたしまして。他の女の匂いがするわね」
労《ねぎら》いの言葉もそれに応える言葉もそこそこに、最初の台詞に固執《こしつ》する戦場ヶ原だった。
「誰か来ていたのかしら」
「えっと……」
「この香りは――羽川さんかしらね」
「え? お前、なんでわかるの?」
素で驚いた。
てっきり、あてずっぽうで言ったのだと思ったのに。
「香りって……化粧とかのことか? でも、羽川の奴、化粧なんかしてないだろ……」
何せ、制服姿だったのだ。リップクリームでさえ、自主規制しそうなものである。少なくともあの姿でいるときの羽川は、軍服を着た軍人と同じ、そんな校則から大きく逸脱するような行為は、間違ってもしないはずだった。
「私が言っているのはシャンプーの香りのことよ。この銘柄《めいがら》を使っているのは、クラスでは羽川さんだけのはず」
「え、マジ……? 女ってそういうのわかるの?」
「ある程度はね」
何をわかりきったことをという風な戦場ヶ原。
「阿良々木くんが腰の形で女子を区別できるのと、同じようなものと考えてくれていいわ」
「そんな特殊な能力を披露《ひろう》した憶えはねえよ!」
「え? あれ? できないの?」
「意外そうなリアクションをするな!」
「お前は座りのいい立派な骨盤をした安産型だからきっと元気な赤ちゃんが産めると思うぜ、うえっへっへっへって、この間、私に言ってくれたじゃない」
「ただの変態野郎じゃねえか!」
あと、僕はよっぽどのことがないと、うえっへっへっへなんて笑い方はしないだろうし、ついでに言うなら、お前の腰の形は安産型ではない。
「で、羽川さん。来てたのね」
「…………」
なんか怖いんですけれど。
逃げ出したいくらい。
「まあ、来てたよ。もう帰ったけれど」
「阿良々木くんが呼んだのかしら? そうね、そういえば羽川さん、この辺りに住んでいるんだものね。道案内の助っ人としては、頼れる人だわ」
「いや、別に呼んでないよ。たまたま通りかかっただけだ。お前と同じだよ」
「ふうん。私と同じ――か」
私と同じ。
戦場ヶ原はその言葉を反復する。
「偶然なんて、つまりはそんなものかしらね――重なるときには重なるものだわ。羽川さん、何か言っていた?」
「何かって?」
「何か」
「……いや、別に。一言二言……で、八九寺の頭を撫でて、図書館……いや、図書館じゃなかったか、とにかく、どっか行っちゃったよ」
「頭を撫でて――ね。ふうん。そっか。……まあ、羽川さんなら――そうなのかな?」
「? 子供好きってことか? お前と違って」
「羽川さんと私とが違うというのは、そう、確かでしょうね。そう、同じではない。同じではない――では、ちょっと失礼するわよ、阿良々木くん」
言って、戦場ヶ原は、僕の顔に自分の顔を寄せてくる。何をする気なのかと思ったが、どうやら、僕の匂いを嗅《か》いでいるようだった。いや、僕のじゃなくて――多分……。
「ふむ」
離れる。
「別にラブシーンを演じていたというわけではなさそうね」
「……なに? 僕が羽川と抱き合ってたかどうかをチェックしたのか? 匂いの強弱まで判断できるのかよ……すげえな、お前」
「それだけではないわ。これで私は阿良々木くんの匂いも憶えたのよ。阿良々木くんの行動はこれから逐一《ちくいち》、私に監視されていると思うべきだと、忠告だけはしておきましょう」
「普通にやだな、それ……」
まあ、そうは言っても、通常の人間がそこまでできるとは思えないので、戦場ヶ原が一般よりも嗅覚《きゅうかく》が優れているというのが、ここでの事実なのだろうけれど。ん……しかし、八九寺と、戦場ヶ原がいない間に二度ほど取っ組み合いを演じたけれど、その際、八九寺の匂いは、僕の身体に移っていないものなのだろうか? そんなことはいちいち言わないのだろうか。一回目、戦場ヶ原の見ている前でやったときのと、混ざってしまっているのか……それとも、八九寺は無臭のシャンプーを使っているのかもしれない。まあ、どうでもいい話だろう。
「で、忍野から話、聞いてきたんだろ? 戦場ヶ原。早く教えてくれよ、どうすれば、こいつを目的地まで連れて行くことができるんだ?」
忍野の言葉が、実のところ、ずっと僕の内側に張り付いていた――ツンデレちゃん、つまり戦場ヶ原が、それを素直に教えてくれればいいけどね、というあれである。
もっとも――と、そう言っていた。
だから、自然、戦場ヶ原を急《せ》かすみたいな訊きかたになってしまった――八九寺も、心配そうに、戦場ヶ原のことを見上げている。
そして果たして戦場ヶ原は、
「逆だそうよ」
と、言った。
「阿良々木くん。私はどうやら、阿良々木くんに謝らなければいけないそうよ――忍野さんに、そう言われてしまったわ」
「は? あ、なんだ、途中から話題が変わってるのか? お前の話題転換方向修正は、本当に手際がいいよな。逆? 謝らなければならないこと?」
「忍野さんの言葉を借りると」
戦場ヶ原は、構わずに続ける。
「正しい事実が一つあったとして――それを二つの視点から観察したとき、違う結果が出たとする。そのとき、どちらの視点が正しいかを判断する方法は、本来ない――自分の正しさを証明する方法なんて、この世にはないのだと」
「…………」
「でも、だからって、自分が間違っていると決めつけるのも同じくらい違う――んだって。本当、あの人は……見透かしたことを言うわよね」
嫌いだわ。
そう言った。
「いや……何言ってんだ? お前。いや、お前じゃなくて忍野か? この状況に、そんなの、あまり関係がありそうにも思えないけれど――」
「蝸牛――迷い牛から解放される方法は、とても簡単なのだそうよ、阿良々木くん。言葉で説明すれば、とても簡単。忍野さんはこう言っていたわ――蝸牛についていくから迷うのであって、蝸牛から離れれば、迷いはない。だって」
「ついていくから――迷う?」
なんだそれ――あまりにも簡単過ぎてわからない。
言葉が足りない感じだ。それどころか、忍野にしてはいくらか的を外した言葉であるようにも思える。八九寺を見遣るが、無反応だった。しかし、戦場ヶ原の言葉が、彼女の内側で何らかの作用を起こしていることは、確かなようで――唇を、閉ざしている。
何も言わない。
「祓《はら》ったり拝《おが》んだりは必要ないということなの。取り憑いているわけでもないし、障っているわけでもない――そう。私のときの蟹と、それは同じね。そして、更に――蝸牛の場合、対象となっている人間の方から、怪異の方に寄っている[#「寄っている」に傍点]らしいの。しかも、無意識とか前意識とかじゃない、確固たる自分の意志でね。蝸牛に自分がついていっているだけ。自分から望んで、蝸牛の後を追っているだけ。だから迷う。だから、阿良々木くんが、蝸牛から離れれば――それでいいというわけ」
「いや、僕じゃないだろ、八九寺がだよ。でも、それなら――おかしいじゃないか。八九寺は、別に自分から蝸牛についていっているわけじゃ――そんなこと、望んでるわけないじゃないか」
「だからね、逆――なのだそうよ」
戦場ヶ原の口調は普段と何も変わらない、いつもの彼女の、平坦なそれだった。そこからはどんな感情も、読み取ることはできない。
感情が顔に出ない。
ただ――機嫌は悪いように思われた。
とても悪いように思われた。
「迷い牛という怪異は、目的地に向かうのに迷う怪異ではなくて、目的地から帰るのに迷う怪異――なのだそうよ」
「か――帰るのに?」
「往路ではなく復路を封じる――そう」
行きではなく――帰り?
帰るって……どこに帰るんだ。
自分の――家?
来訪と――到着?
「え、しかし――それがどうしたってんだ? いや、話はわかるけれど、で、でも――八九寺の家は……別に八九寺は家に帰ろうとしているわけじゃないだろう? あくまで、綱手家っていう目的地に向かっているのであって――」
「だから――私はあなたに謝らなくてはならないのよ、阿良々木くん。でも、それでも、言い訳はさせて頂戴。悪気があったわけではなかったし……それに、わざとでもなかったの。私はてっきり、私が[#「私が」に傍点]間違っているんだと思っていたのよ」
「…………」
言っていることの意味がわからない――が。
酷く意味がありそうだと――直感できた。
「だってそうでしょう? 二年以上もの間、私は普通じゃなかったんだもの。つい先週、ようやく普通に戻れたばかりなのだもの。何かあったら――私の方が間違ってると思ってしまうのも、仕方がなかったのよ」
「おい……戦場ヶ原」
「私のときの蟹と同じで――迷い牛は理由のある人の前にしか現れないそうよ。だから、阿良々木くんの前に現れたというわけ」
「……いや、だから、蝸牛が現れたのは、僕の前じゃなくて、八九寺――」
「八九寺ちゃん、よね」
「…………」
「つまりね、阿良々木くん。母の日で気まずくて、妹さんと喧嘩して、家に帰りたくない、阿良々木くん。その子――八九寺ちゃんのことなのだけれど」
戦場ヶ原は八九寺を指さした。
つもりなのだろうが――
それは、全然違う、あさっての方向だった。
「私には、見えないのよ」
ぎょっとして――僕は思わず、八九寺を見た。
小さな身体の、利発そうな女の子。
前髪の短い、眉を出したツインテイル。
大きなリュックサックを背負ったその姿は――
どこか、蝸牛に似ていた。
007
昔々のその昔――というほどのことではありません、ほんの十年ほど前の話です。あるところで、一組の夫婦が、その関係に終焉を迎えました。夫一人、妻一人。合わせて二人。かつては周囲の誰もが羨み、周囲の誰もが、幸せになると信じて疑わなかった、そんな二人ではありましたが、結局のところ、二人が婚姻関係にあった期間は十年にも満たない、短いものでした。
いい悪いの問題ではないと思います。
そういうパターンだって、普通です。
その夫婦に幼い一人娘がいたことだって普通です――聞くに堪《た》えないような問答があった末、その一人娘は、父親の元に引き取られることになりました。
最後は泥沼のような状態で、終焉というよりは破綻《はたん》、あと一年でも同じ屋根の下で暮らしていたら、それこそ殺し合いにでも発展していたのではないかと思われるほど、行き着いてしまった夫婦――母親は父親から、二度と一人娘とは会わないことを、誓《ちか》わされました。法律は関係ありませんでした。
半ば無理矢理に誓わされました。
しかし一人娘は考えました。
本当にそれは無理矢理だったのだろうかと。
同じように父親から、二度と母親とは会わないことを誓わされた一人娘は考えました――あれほど好きだったはずの父親のことをあれほど嫌いになった母親は、ひょっとすると、自分のことも嫌いになってしまったのではないかと。そうでないなら、どうしてそんなことを誓えるのか――半ば無理矢理というなら、残りの半分はどうだったのか。けれど、それはまた、自分にも言えることでした。二度と会わないと、そう誓ったのは自分も同じだったのですから。
そうなのです。
母親だからといって。
一人娘だからといって。
関係に永続性なんて、あるはずがないのです。
無理矢理でしょうがなんでしょうが、誓ってしまった言葉は、もう取り消せません。自分が自ら選び取った結果を、能動態でなく受動態で語るのは、恥知らずのすることでした――一人娘はそういう教育を、他ならぬ母親から受けていました。
父親に引き取られ。
母親の苗字を捨てさせられ。
けれど、そんな思いも――風化していきます。
そんな悲しみも、風化していくのです。
時間は、誰にでも、平等に、優しいから。
残酷なくらいに優しいから。
時が過ぎ、九歳から十一歳になった一人娘。
驚きました。
一人娘は、自分の母親の顔が、思い出せなくなってしまいました――いえ、思い出せなかったわけではありません。その顔ははっきりと、思い浮かべることはできます。しかし――それが母親の顔なのかどうか、確信が持てなくなっていたのです。
写真を見ても同じでした。
父親に秘密で手元に残していた母親の写真――そこに写っている女性が、本当に自分の母親なのかどうか、わからなくなってしまいました。
時間。
どんな思いも、風化していきます。
どんな思いも、劣化していきます。
だから――
一人娘は母親に会いに行くことにしました。
その年の、五月、第二日曜日。
母の日に。
勿論父親にはそんなこと言えるはずもありませんし、母親にあらかじめ連絡を入れるようなこともできません。母親が今どんな状態にあるのか、一人娘は全く知らないのですから――それに。
嫌われていたら。
迷惑がられたら。
あるいは――忘れられていたら。
とても、ショックだから。
正直に言うなら――いつでも踵を返して家に帰れるよう、最後まで計画中止の選択肢を残しておくために、一人娘は、誰にも何も言わず、親しい友達にさえ内緒で――母親を訪れました。
訪れようとしました。
髪を自分で丁寧に結って、お気に入りのリュックサックに、母親が喜んでくれるだろう、そう信じたい、昔の思い出を、いっぱい詰めて。道に迷わないよう、住所を書いたメモを、手に握り締《し》めて。
けれど。
一人娘は、辿り着けませんでした。
母親の家には、辿り着けませんでした。
どうしてでしょう。
どうしてでしょう。
本当に、どうしてなんでしょう。
信号は、確かに、青色だったのに――
「――その一人娘というのが、わたしです」
と。
八九寺真宵は――告白した。
いや、それは、懺悔《ざんげ》だったのかもしれない。
その、とても申し訳なさそうな、今にも泣き崩れてしまいそうな表情を見ていると、そうとしか考えられないくらいだった。
戦場ヶ原を見る。
戦場ヶ原の表情は変わらない。
本当に――感情が顔に出ない女だ。
この状況で、何も思っていないわけがないのに。
「以来……ずっと迷っているってのか、お前は」
八九寺は返事をしなかった。
こちらを見ようともしない。
「目的地に辿り着けなかった者が、他者の帰り道を阻害《そがい》する――忍野さんはそれを肯定しなかったけれど、多分、地縛霊《じばくれい》みたいな感じじゃないのかしら。私達、素人の認識ではね。行きの道、それに帰りの道――往路と復路。巡り巡る巡礼。つまり八九寺だよ――って、そう言っていたわ」
迷い牛。
迷わせ牛じゃなくて――迷い牛である、理由。
そうでなくてはならない理由。
そうだ、怪異自体が――迷っているから。
「でも――蝸牛って」
「だから」
戦場ヶ原は諭すように言う。
淡々と。
「死後、蝸牛に成る――ってことでしょう。地縛霊と言いこそはしなかったけれど、幽霊だっていうのは、忍野さんも言っていたわけだしね。それって、要するに、そういう意味だったんじゃないの?」
「でも――そんなの」
「でも、それだからこそ――単純な幽霊とはパターンが違うってことなんだと思うわ。私達が一般的に思い、考えるような幽霊とはね。蟹とも、やっぱり違うんでしょうけれど……」
「そんな……」
でも、そうだ……牛という名称がついていても牛でないように、蝸牛と言ったからといって、蝸牛の形態を取っているとは限らないのか。怪異というものの本質を――取り違えていた。
名は体を表す。
本体。
見えているものが真実とは限らないし――それとは逆に、見えていないことが事実であるとも限らないんだ、阿良々木くん――。
八九寺真宵。
八九寺、迷い。
マヨイとは――元来、縦糸と横糸がほつれて寄ってしまうことを言い、だから糸偏で紕《マヨイ》とも書き、それは、成仏の妨げとなる、死んだ者の妄執をも意味する――また、宵という字は、それ単体では夕刻辺り、即ち黄昏刻《たそがれどき》、言うなれば逢《お》う魔が刻を意味し、これに真の字を冠するとそれは例外的に否定の接頭語となり、真宵、つまり真夜中、細かくは午前二時を指す古語となり――そう、丑三《うしみ》つ刻《どき》を意味するのである。牛だったり蝸牛だったりひとがただったり――しかし、それじゃあ、そんなの、本当に、忍野の言った通りに――
そのまんまじゃ――ないか。
「でも……本当にお前、八九寺が見えてねえっていうのか? ほら、ここにいるし――」
俯いている八九寺の両肩を、強引に抱えるようにして、僕は戦場ヶ原に向かい合う。八九寺真宵。ここにいるし――こうして触れる。その体温も、その柔らかさも、感じる。地面を見れば、影だって出来ている。噛みつかれれば痛いし――
話せば、楽しいじゃないか。
「見えないわ。声も、聞こえない」
「だって、お前、普通に――」
いや――違う。
違った。
戦場ヶ原は、最初から言っていた。
見えないわよ、そんなの――と。
「私に見えていたのは、あの看板の前でぶつぶつ独り言を言って、最後には一人でパントマイムみたいに暴れだした阿良々木くんだけ――何をしているのか、全くわからなかったわ。でも、話を聞いてみれば――」
聞いてみれば。
そうだ、戦場ヶ原には、全部――逐一丁寧に、僕が説明したのだ。ああ、そうか――だから、だから戦場ヶ原は――住所の書かれたあのメモを、受け取らなかったんだ。
受け取るも何も、見えなかったから。
なかったから。
「でも――それならそうと、言ってくれれば」
「だから、言えるわけないじゃない。言えるわけがないわ。そんなことがあれば――阿良々木くんに見えるものが私に見えなければ、見えない私の方がおかしいんだって、私は普通に思うわよ」
「………………」
二年以上。
怪異と付き合ってきた少女、戦場ヶ原ひたぎ。
おかしいのは自分――異常なのは自分。
そういう考え方が、戦場ヶ原の中には、もう、桁違いなほど頑強に、根付いてしまっている。一度でも怪異と行き遭ってしまった人間は――残りの一生、どうしたって、それを引き摺って生きることになる。多かれ少なかれ、どちらかと言うと――多く。世の中にそういうことがあると知ってしまった以上、たとえそれが無力であっても、知らない振りは、できないのだ。
だから。
でも、やっと問題から解放された戦場ヶ原は、またおかしくなっただなんて思いたくなくて、おかしくなってしまっただなんて思いたくなくて、僕にそんなことを思われたくなくて――見えていない八九寺のことを、見えている振りをした。
話を、僕に、合わせたのだ。
そうか……。
それで、戦場ヶ原は、あんな、八九寺を無視するような態度を……無視という二文字の言葉は、この場合、馬鹿馬鹿しいほど、状況に相応しかった。それに、八九寺の方が――戦場ヶ原を、避けるように、僕の脚に隠れていたのも、同じ理由か……。
戦場ヶ原と八九寺は。
結局一言も、会話をしていない。
「戦場ヶ原……だから、お前、忍野のところには、自分が行くって――」
「訊きたかったから。これがどういうことなのか、訊きたかったからね。訊いたら、窘《たしな》められてしまったけれど――というか、呆れられてしまったようだけれど。いえ、笑われたのかもしれないわね」
確かに、なんて、冗談のように、滑稽《こっけい》な、話だ。
笑えないくらい。
「蝸牛に行き遭ったのは――僕だったのか」
鬼に行き遭って――次は蝸牛。
忍野も――最初からそう言っていた。
「子供――それも童女の怪異というのは、かなり一般的なものだそうよ。勿論、ある程度なら私も知っているわ。国語の教科書にだって載っているものね。旅行者を山の中で遭難させてしまう着物姿の幽霊とか、子供同士の遊びに知らない内に混じってて、遊び終わる頃に、一人、連れていっちゃう女の子とか――迷い牛っていうのは、寡聞《かぶん》にして知らなかったけれど。あのね、阿良々木くん。忍野さんが、こう言っていたわ。迷い牛に遭うための条件っていうのは――家に帰りたくないと望んでいること、なんだって。望みっていうには、そうね、それはいささか後ろ向きかもしれないけれど、でも、そのくらい、誰でも考えることだしね。家庭の事情なんて、誰にでもあるもの」
「……あ!」
羽川翼。
あいつもまた――そうだった。
家庭に不和と歪みを抱えていて――日曜日は散歩の日。
僕と同じに、あるいは、僕以上に。
だから羽川にも――八九寺が見えた。
見えて、触れて――話せた。
「望みを叶えてくれる……怪異か」
「そう言えば確かに聞こえはいいけれど、でもそれって、人の弱みに付け込むと、そう表現することもできるんじゃないかしら。阿良々木くんだって、家に帰りたくないと、本気で思っていたわけじゃないでしょう。だから、後ろ向きな望みというよりは、そうね、一つの理由というのが正しいんだと思うわ」
「…………」
「けれどね、だからこそ、阿良々木くん。迷い牛への対処はとても簡単なのよ。最初に言ったでしょう? ついていかずに、離れればいいのよ。それだけのことなの」
自ら望んで――迷う。
それはそうだ――理屈は通っている。永遠にどこにも辿り着けない蝸牛の後ろをついて回れば、誰だって、家に帰れるわけがない。
言葉で説明すれば――とても簡単。
羽川が、あっさり、公園を出て行けたように。
帰れば帰れる。
行くモノに、ついていくから、帰れない。
でも。
家に帰りたくない――なんて言っても、結局、人間、帰る場所は、家しかないのだから。
「そんな悪質な怪異じゃないし、そこまで強力な怪異でもない。まず大きな害はない。そう言ってたわ。迷い牛は、ちょっとした悪戯《いたずら》――軽い不思議、そんな程度のものなんだって。だから――」
「だから?」
僕は遮るように言った。
それ以上――聞いていられなかった。
「だからなんだよ、戦場ヶ原」
「…………」
「そうじゃない、そうじゃないだろ、全然そうじゃないんだよ、戦場ヶ原――話はわかったし、それに、どっかにあった違和感みたいなもんも、これで確かに綺麗に片付いたけれど――僕が忍野に訊きたかったのは、そういうことじゃないだろ。博引旁証《はくいんぼうしょう》ご苦労さまじゃああるが、しかし、そういうのを教えて欲しかったから、僕は戦場ヶ原に忍野のところにまで、行ってもらったわけじゃないだろうが」
「……じゃあ、何のためだったの?」
「だから、だ」
ぐいっ――と。
八九寺の両肩を握る手に、力がこもる。
「僕が訊きたかったのは――こいつを、八九寺を、お母さんのところに一体どうやったら連れて行ってやれるかって――それだけだっただろうが。最初から、それだけだっただろうが。そんな、知ったところで誰にも自慢できないような蘊蓄《うんちく》なんて、知らないんだよ。使いどころのない雑学なんて――脳の無駄遣いだ。大事なのは――そういうことじゃないだろう」
阿良々木暦のことじゃない。
あくまで、八九寺真宵のことだった。
僕が離れればいいだなんて――違う。
僕は離れては、いけないのだ。
「……わかってるの? 阿良々木くん。その子――そこにはいないのよ。そこにはいないし、どこにもいないのよ。八九寺……八九寺真宵ちゃんっていうんだっけ。その子は……もう死んでるの。だから、もう、当たり前じゃなくて――その子は怪異に取り憑かれてるんじゃなくて、怪異そのもので――」
「それがどうした!」
怒鳴《どな》った。
戦場ヶ原を相手に――怒鳴ってしまった。
「当たり前じゃないなんて、そんなの、みんなそうだろうが!」
「…………」
僕もお前も――羽川翼も。
永遠に続くものなんて――ないんだ。
それでも。
「あ――阿良々木さん、痛いです」
八九寺が、僕の腕の中で、頼りなげに、もがく。思わず、強く握り締め過ぎて、肩に食い込んだ爪が、痛いらしい。
痛いらしい。
そして言う。
「あ、あの――阿良々木さん。この方の、戦場ヶ原さんの、言う通りです。わたし――わたしは」
「黙ってろ!」
何を喋っても――その声は戦場ヶ原には届かない。
僕にしか届かない。
けれど、その僕にしか聞こえない声で――こいつは最初から、こいつすらも最初から、自分は蝸牛の迷子なのだと、そう正直に――告げていた。
精一杯《せいいっぱい》、出来る限り、告げていた。
そして、また――言っていた。
最初の最初、一言目に。
「お前には聞こえなかったんだったよな、戦場ヶ原――じゃあ僕が言ってやるよ。こいつは――僕に対しても、羽川に対しても、一言目からいきなり、とんでもねえこと吐《ぬ》かしやがったんだ――」
話しかけないでください。
あなたのことが嫌いです。
「わかるか? 戦場ヶ原。ついてきて欲しくないからって――遭う人間全員に、そんな台詞を言わなくちゃいけない奴の気持ちが、お前にわかるってのか? 頭を撫でられそうになったら、その手に噛みつかなくちゃいけない奴の気持ちなんて――僕には全くわからないぞ」
誰かを頼ればいいなんて――酷い言葉だ。
自分自身がそんな存在だなんて。
おかしいのが自分だなんて。
そんなことは、言えるわけがないのに。
「でも、わからなくても、それでも、自分が道に迷っているときに――一人でいるときに、そういうことを言わなくちゃならない気持ちを、それでも――僕もお前も、違う形で、経験してきているはずだろう。同じ気持ちじゃなくても、同じ痛みを抱えてきたはずだろう。僕は不死身の身体になったし――お前だって怪異を抱えた身体になった。そうだろうが、そうなんだろうが。だったら、迷い牛だか蝸牛だか知らないが――それがこいつ自身だって言うんなら、全然、話は変わってくるじゃないか。お前には見えないし、聞こえないし、匂いすらも感じないんだろうけれど――それでも、それだからこそ、こいつを無事に母親のところにまで送り届けるのが――僕の役目だ」
「……そう言うと思ったわ」
戦場ヶ原にそうするのは全くの筋違いでありながら、思わず怒鳴ってしまったところから、徐々に僕の頭も冷えてきて、自分が無茶苦茶なことを言っているのは、勿論、わかっていたが――しかし、戦場ヶ原は、それに対してすら、顔色一つ変えず、眉一つ動かさずに――僕に言った。
「ようやく――実感できたわ、阿良々木くんのこと」
「……え?」
「阿良々木くんのことを、私、誤解していたみたい。いえ、誤解じゃないか。薄々というか、重々《じゅうじゅう》、それはわかってはいたことだけどね――幻想が消えたっていうのかな、こういうのは。阿良々木くん。ねえ、阿良々木くん。先週の月曜日、私の些細《ささい》な失敗から、阿良々木くんに、私の抱えていた問題がバレちゃって……そうしたら阿良々木くんは、その日の内に、即日に――私に、声を掛けてくれたわよね」
力になれるかもしれないと言って。
僕は戦場ヶ原に、呼びかけた。
「正直、私は、その行為の意味を計りかねていたのよ――どうして阿良々木くんがそんなことをしたのか。だって、そんなこと、阿良々木くんにとって、何の得にもならないじゃない。私を助けても、いいことなんて一つもないのに――どうしてかしら。阿良々木くんは、ひょっとして、私だから助けてくれたのかしら?」
「…………」
「でも、そうじゃなかった。そうじゃなかったみたい。そうじゃなくて、単純に、阿良々木くんって……誰でも助けるだけなのね」
「助けるって……そんな大それたことじゃないだろ。大袈裟に言うなよ。あの状況なら誰だってそうするって――それに、お前も言ってたろ、僕はたまたま、似たような問題を抱えてて、忍野のことを知っていて――」
「似たような問題を抱えてなくとも、忍野さんのことを知らなくとも、同じことをした――んじゃないかしら。忍野さんから聞いた限りだと」
何を話した、あの野郎。
あることないこと言い散らしたに決まっている。
「少なくとも私は――住宅地図の前にいる姿を二度ほど見た程度で、知らない小学生に声をかけようとは思わないわ」
「…………」
「ずっと一人でいると、自分が特別なんじゃないかって思っちゃうわよね。一人でいると、確かに、その他大勢には、ならないもの。でも、それはなれないだけ。笑っちゃうわ。怪異に行き遭ってから二年以上、私の抱えている問題に気付いた人は、実のところ、たくさんいたけれど――最終的にどんな結果になろうとも、阿良々木くんみたいなのは、阿良々木くんだけだったから」
「……そりゃ、まあ、僕は僕だけだろうよ」
「そうね。その通りだわ」
戦場ヶ原は微笑んだ。
そして、それは勿論、たまたま角度が合っただけなのだろうけれど――戦場ヶ原ひたぎは、はっきりと、八九寺真宵のことを、見た。
「忍野さんからの最後の伝言よ、阿良々木くん。どうせ阿良々木くんはそういう甘っちょろいことを言い出すだろうから、優しい優しいこの僕が、今回に限り使えるだろう裏技を一つ伝授しておこう――って」
「う――裏技?」
「本当――見透かしてるわよね、あの人。一体、何を考えて生きているのか、皆目《かいもく》見当つかないわ」
じゃあ行くわよ、と、軽い調子でマウンテンバイクに跨《またが》る戦場ヶ原。既にマシンが自分の所有物であるかのような、手馴れた扱いだった。
「行くって、どこへ」
「勿論、綱手さんのおうちよ。善良な一市民として、八九寺ちゃんを送り届けにね。私についてきて頂戴、先導してあげるわ。それから、阿良々木くん」
「なんだよ」
「I love you」
「………………」
変わらぬ口調で、指さして言われた。
………………、と。
更に数秒間考えて、どうやら僕は、同級生に英語で告白された、日本初の男になってしまったようだということを、理解した。
「おめでとうございます」
八九寺がそう言った。
全ての意味で、場違いで的外れな言葉だった。
008
そして、一時間後――十年ほど前、正確なところはわからないが、とにかく十年ほど前に、少女、生前の八九寺真宵が母の日に目指した場所――あのメモに書かれていた通りの住所の場所に、僕と戦場ヶ原と八九寺は、辿り着いた。
時間はかかった。
が、しかし――あっさりと。
「……でも、こんな」
とはいえ――達成感はなかった。
目前の光景に、達成感は皆無《かいむ》だった。
「戦場ヶ原――ここで間違いないのか?」
「ええ。間違いないわ」
断言の言葉に、覆《くつがえ》る余地はなさそうだった。
八九寺の母親の家――綱手家。
すっかり綺麗な――更地《さらち》になっていた。
フェンスで囲まれて、私有地、無許可での立入を禁ず――の看板が、むき出しの地面に刺さって、立っていた。その看板の、端の方の錆び具合からして、随分と昔から、それはその形であり続けてきたのだろうことは、否定のしようがなかった。
宅地開発。
区画整理。
戦場ヶ原が住んでいた家のように、道にまではなっていなかったが――その痕跡《こんせき》が全く残っていないという点では、同じだった。
「……こんなことってあるのかよ」
忍野メメーあの出不精《でぶしょう》が提案した、今回に限り使えるだろう裏技というのは、聞いてしまえば、何だそんなことかと思ってしまうような、単純明快極まりないものだった――迷い牛、存在として蝸牛となっているとは言っても、しかし、怪異としての属性が幽霊であるのなら、そこには本質的な情報的記憶が蓄積しない――らしい。
この手の怪異は、存在しないのが基本だそうだ。
存在として、存在しない、存在。
見る者がいなければ、そこにはない、と。
今日のことに照らし合わせてそれを言うならば、八九寺は、僕が公園のベンチに腰掛けて、ふと、あの案内図に目を遣《や》ったその瞬間に――そこに現れた、その時点から存在し始めたのだ、ということになる――らしい。
同じ風に言えば、羽川にしてみれば、ふと、公園を通りかかり、僕が座っている隣に目を遣ったとき――八九寺はそこに現れたという理屈になるのだろう。怪異として継続的に存在しているのではなく、目撃された瞬間に現れる――その意味では迷い牛の場合、行き遭うという表現も、半分ほどしか内実を言い当てていないのかもしれない。
見えているときしかその場にいない――観測者と観測対象。羽川ならばこんなとき、それを比喩《ひゆ》するのに相応しいであろう理系の知識を惜《お》しげなく披露してくれていたのかもしれないが、僕はうまいたとえを思いつかなかったし、戦場ヶ原は、知ってはいたのだろうが、わざわざそれを言いはしなかった。
ともかく。
情報的記憶――つまりは知識だ。
僕のような土地勘のない者は勿論、あくまでその付き合いであって、蝸牛が見えてすらいない戦場ヶ原でさえ、迷わせることができる――携帯電話の電波をも遮断することもできる。そして結果的に――対象を永遠に、迷わせ続けることになる。
が。
知らないことは――知らないのだ。
いや、知っていても、対応はできない。
たとえば、区画整理。
十年前に較べてどころか、去年と較《くら》べてさえ、すっかり変わってしまったこの辺りの町並み――近道でもない遠回りでもない、勿論まっすぐ向かうのでもない――
新しく作られた道ばかりを選択したルートを使えば[#「新しく作られた道ばかりを選択したルートを使えば」に傍点]、迷い牛くらいの怪異では対応できない。
怪異が歳を重ねるなんてことはないだろう――少女の怪異はいつまでたっても少女のままだ――だ、そうだ。
いつまでたっても大人になれない――
わたしと同じ[#「わたしと同じ」に傍点]。
十年前に小学五年生だった八九寺……つまり、時系列を整理すれば、僕や戦場ヶ原よりも年上であるはずの八九寺真宵、しかし、学校でやんちゃしている記憶をつい昨日のことのように語る彼女に、一般的な意味での段階的記憶は存在しない。
しない――
ないのだ。
だから――だから。
古い皮袋に新しい酒――そう言っていたらしい。
忍野の奴、あの不愉快な男は真実、見透かしている――実際には八九寺の姿を見てもいない癖に、事情だってそこまで深く聞いたわけでもないだろう癖に――この町のことだって、まだほとんど何にも知らない癖に、よくもまあ、そんな、知った風なことが言えるものだ。
だが、結果から言えば、これは成功だった。
最近作られたところであろう、アスファルトが黒々しい道を、まるで阿弥陀《あみだ》くじのように取捨選択し、古い道、あるいは新しく舗装《ほそう》されただけの道はできるだけ避けて――途中、戦場ヶ原の家があった道なんかも経由しながら、そして、一時間後。
本来ならば、あの公園から、徒歩で十分もかからないであろう距離に、直線で結べば恐らく五百メートルにも満たないであろう距離に、一時間以上もかけて――
目的地に、辿り着いた。
辿り着いたけれど。
そこは、綺麗な――更地だった。
「そんな、都合よくいかないってことなのか……」
そうだ。
これだけ町並みも道行も変わっているのに――目的地だけが何も変わっていないなんて、都合のいいことがあるわけがない。一年足らずの期間をあけたに過ぎなかったのに、戦場ヶ原の家ですら、道になってしまったのである。そもそもこの計略自体、目的地のそばに新しい道がなければ、単なる机上の空論に過ぎなかったのだ。必然的に、目的地そのものが変わってしまっている可能性は、最初の段階から予測できるほどには、高かったということになる――だけど、それでも、そこくらいは都合よく出来上がってくれていないと、全てが台無しじゃないか。全部、意味なんてなくなっちゃうじゃないか。そこが駄目なら、全部駄目なのに。
世の中はそんなにうまくいかないものなのか。
願いは叶わないのか。
迷い牛の、目的地そのものがなくなっているというのなら――それこそ本当に、彼女は、永遠に迷い続ける、永遠に漂《ただよ》い続ける、際限なくぐるぐると渦巻き続ける、蝸牛の迷子じゃ――ないか。
なんて災禍だ。
忍野は。
あのサイケデリックなアロハ野郎は、この結末すら――こんな最後すら、見透かしていたのだろうか。だから、あるいは、それゆえに、わざわざ――
忍野メメは、あれだけ軽薄で、あんなお喋りな調子者だけれど――別れの言葉は決して口にしないし、訊かれないことには絶対に答えない男なのだ。頼まれなければ動かないし、頼んだから応えてくれるとも限らない。
言うべきことを言わなくとも、まるで平気。
「う、うあ」
隣から、八九寺の嗚咽《おえつ》が聞こえた。
あまりの現実に、とにかく驚くことだけに精一杯で、肝心の八九寺のことを、全く気遣えずにいた自分に思い至り、僕はそちらを振り向く――八九寺は、泣いていた。
ただし俯いてではなく――前を向いて。
更地の上――家があっただろう、その方向を見て。
「う、うあ、あ、あ――」
そして。
たっ、と、八九寺は、僕の脇を抜けて、駆けた。
「――ただいまっ、帰りましたっ」
忍野は。
当然のように――当たり前のこととして、この結末を――こんな最後を、見透かしていたのだろう。
言うべきことを――言わない男。
全く、最初に言っておいて欲しい。
ここに辿り着いて、八九寺に何が見えるのか。
僕や戦場ヶ原には、ただの更地にしか見えないこの場所を――すっかり変わってしまったとしか見えないこの場所を、迷い牛、八九寺真宵が見たときに、一体、どんな風景が、見えるのかということ。
そこに現れるかということ。
開発も整理も――関係ない。
時間すらも。
大きなリュックサックを背負った女の子の姿は――すぐにぼやけて、かすんで、薄くなって……僕の視界から、あっと言う間に、消えてしまった。
見えなくなってしまった。
いなくなってしまった。
けれど少女は、ただいま、と言った。そこは、別離した母親の実家で、今や自分とは関係のある家じゃない、目的のための目的地でしかなかった場所なのに――あの子は、ただいまと言ったのだ。
家に帰ったときのように。
それは。
とてもいい話のように、思えた。
とても、とても。
「……お疲れ様でした、阿良々木くん。そこそこ、格好よかったわよ」
やがて戦場ヶ原が言った。
いまいち感情のこもらない声で。
「何もしてないよ、僕は、別に。むしろ今回働いたのは、お前だろ。僕じゃないよ。例の裏技ってのも、土地勘のあるお前がいなかったら、成立しない方法論だったしな」
「確かにそうだけれど――そうかもしれないけれど、そういうことではなく、ね。しかし、まあ、更地になっているとは驚いたわ。一人娘が自分を訪ねてくる中途で交通事故にあって――いたたまれなくなって、家族ごと引っ越したってところなのかしらね。当然、それ以外にも、理由なんて、考えようと思えば色々と考えられるけれど」
「まあな――そんなこと言っちまえば、八九寺の母親が、今、生きているかどうかも、わからないって話になるし」
更に言うなら――父親だって、そうだ。
案外――羽川は、本当は知っていたのかもしれない、と、思った。綱手という家について、彼女は何か、思うところがありそうだった。もしも綱手家が、何らかの事情でもってここからいなくなったというのなら――そしてそれを知っていたのなら、羽川は間違いなく、口をつぐむだろうから。あいつはそういう奴だ。少なくとも――杓子定規な奴では、ない。
単に、公平なのだ。
ともあれ、これで、一件落着……か。
終わってみれば、非常にあっけない。そして気が付けば、日曜日の太陽は――今やもう沈もうとしていた。五月の半ば、まだ日は短い……となると、僕もそろそろ、家に帰らないといけない。
八九寺のように。
そういえば、今日は、夕飯の当番だった。
「じゃ……戦場ヶ原。自転車取りに戻ろうぜ」
戦場ヶ原はあれから、マウンテンバイクに乗ったまま僕と八九寺を先導しようとしたが、マウンテンバイクと徒歩とが行動を共にすることの無意味さ、押して歩く荷物と化した際のマウンテンバイクの無価値さに、言われるまでもなくすぐ気付いたらしく、結局、マウンテンバイクはあの公園の駐輪場に、戻しておいたのだ。
「そう。ところで阿良々木くん」
戦場ヶ原は動かず――更地の方角を見たままで言う。
「まだ返事を聞いていないのだけれど」
「…………」
返事って……。
やっぱり、あの件だよな。
「えっと。戦場ヶ原。そのことなんだけど――」
「言っておくけれど阿良々木くん。私は、どうせ最後は二人がくっつくことが見え見えなのに、友達以上恋人未満な生温《なまぬる》い展開をだらだらと続けて話数を稼ぐようなラブコメは、大嫌いなのよ」
「……さいですか」
「ついでに言うならどうせ最後は優勝することが決まっているのに一試合一試合に一年くらいかけるようなスポーツ漫画も嫌いだし、どうせ最後はラスボスを倒して平和が訪れることがわかりきっているのに、雑魚《ざこ》との戦闘がいつまでたっても終わらないようなバトル漫画も嫌いだわ」
「少年漫画と少女漫画を全否定してるぞ、お前」
「で。どうするの」
考える隙も与えないような畳み掛けだった。
とてもではないが、言い逃れが許されるような空気ではない。友達全員を引き連れてやってきた女子に告白される男子の心境だって、ここまで息苦しくはないだろう。
「いや、お前、ちょっと勘違いしていると思うんだよ、戦場ヶ原。性急っていうか。確かに前の月曜、お前が抱えてた問題の解決に、僕は少なからず寄与《きよ》したかもしれないけれど、その、言うならば恩みたいなものと、そういう感情をごっちゃにしてしまったら――」
「それはひょっとして、危機的状況において男女は恋愛関係に陥《おちい》り易《やす》いという、人間の理性というものを完全にないがしろにし、そういう場合における本性が露呈《ろてい》した仲間同士の険悪極まりない空気を全く考慮していないあの馬鹿げた法則のことを意識しながら言っているのかしら」
「馬鹿げたって――いや、まあ、そんなものかな? 確かに危険な吊《つ》り橋《ばし》の上で告白するような人間がいたら、そいつはかなりの馬鹿だとは思うが……でも、ほら、お返しがどうとか言ってたじゃん、あのときも思ったけれど――お前が僕に、必要以上に恩を感じることなんか……つーか、事情や背景はどうあれ、やっぱ、恩を売ってそれに付け込むみたいな形、僕としてはあんまり、気分よくないんだよ」
「あれは口実よ。主導権を握らせてあげたかったから、阿良々木くんの方から告白させようと思って、ああいう振りをしてみせただけ。愚かな男。貴重な機会を逃したわね。私が誰かを立てるなんて、もう二度とないことなのに」
「………………」
すごい言い草だった。
ていうか、やっぱりそうだったのか……。
誘い受けだったんだ……。
「安心して。私は本当のところ、阿良々木くんに、そこまで恩を感じているわけではないのよ」
「……そうなのですか」
えー。
それもどうなんだろう。
「だって、阿良々木くん、誰でも助けるんだもの」
朝の段階では、そこまで確かに、阿良々木くんのことが、わかっていたわけでは、実感できていたわけではないけれど――と、流暢に続ける戦場ヶ原。
「私だからじゃなかったけれど――でも、そっちの方が、私にはいいわ。助けられたのが私じゃなくても――たとえば、羽川さんを助けている阿良々木くんを横から見ていただけでも、私は阿良々木くんのこと、特別に感じていたと思うわよ。私は特別じゃなかったけれど、そんな阿良々木くんの、特別になれたら、それほどれだけ痛快なことだろうと、思うのよ。まあ……ちょっと大袈裟な物言いになってしまったけれど、阿良々木くん、強《し》いて言うなら、私はただ、阿良々木くんと話すのが、楽しいだけ」
「……でも、まだそんなに――話してないだろ」
どころじゃない。
先週の月曜日、火曜日、それに今日と、あまりにも密度の濃い時間を過ごしていたせいで、うっかりすると見逃してしまいそうだけれど、戦場ヶ原とこんなに会話をしたのなんて、その月曜日と火曜日、それに今日――だけなのだ。
たかだか三日だけである。
クラスが三年、同じだとはいっても――
ほとんど他人みたいなものだった。
「そうね」
戦場ヶ原は反論せずに頷いて、言う。
「だから、もっと、あなたと、話したい」
もっと、たくさんの時間を。
知るために。
好きになるために。
「一目惚れとか、そういう安っぽいのとも違うと思うわ。でも、下準備に時間をかけようと思うほど、私は気の長い性格ではないのよ。なんて言うか――ええ、阿良々木くんを好きになる努力をしたいって感じなのかもしれないわね」
「……そっか」
そう言われれば――その通りだ。
言い返しようもない。
好きでい続けるために、頑張る――好きというのは、本来、すごく積極的な感情だから。だとすれば――戦場ヶ原が言うような、そういう形があっても、いいのだろう。
「所詮はこういうのって、タイミングの問題だと思うし。別に友達関係でもそれはそれでよかったんだけれど、私は結構、欲深いのよ。どうせなら、私は究極以外は、欲しくない」
タチの悪い女に引っかかったと思って頂戴。
そう言った。
「誰彼構わず優しくしているからこんな目に遭うのよ、阿良々木くん。自業自得と反省することね。それでも、心配されなくとも、私だって、恩とそういう感情との区別くらいはつくわ。だってこの一週間――私、阿良々木くんで、色々妄想できたもの」
「妄想って……」
「すごく充実した一週間だったわ」
本当――こういう物言いは、直截的。
僕は一体、戦場ヶ原の妄想の中において、どんなことをし、どんなことをさせられたのだろう……。
「そう、もういっそ、こう思ってくれてもいいのよ。愛情に飢《う》えている、ちょっと優しくされたら誰にでも靡《なび》いちゃう、惚れっぽいメンヘル処女に、不幸にも目をつけられてしまった、と」
「……なるほど」
「ついてなかったわね。普段の行いを呪いなさい」
自分を貶《おとし》めることすら厭《いと》わない――か。
そして、そこまで言わせてしまっている、自分。
そんなことまで。
……ったく、格好悪い。
ちっちゃいよなあ、全く。
「だから、阿良々木くん。色々言ったけれど」
「なんだよ」
「この申し出を、阿良々木くんがもしも断ったら、あなたを殺して私は逃げるわ」
「普通の殺人犯じゃん! お前も死ねよ!」
「それくらい、普通に本気ということ」
「……はあ。そうっすか……」
心の底から、反芻《はんすう》するように、嘆息《たんそく》する。
全く、もう。
面白いなあ、こいつは。
クラスが三年同じで、たった三日だなんて――なんて、勿体ない。本当に、阿良々木暦は一体、どれだけ途方もない、莫大《ばくだい》な時間を、無駄にしてきたのだろう。
あのとき、こいつを受け止めたのが。
僕で、本当によかったと思う。
戦場ヶ原ひたぎを受け止めたのが阿良々木暦で――本当によかった。
「ここで少し考えさせて欲しいなんて腑抜《ふぬ》けた言葉を口にしたら、軽蔑《けいべつ》するわよ、阿良々木くん。あまり女に恥をかかせるものではないわ」
「わかってるよ……現時点でかなり、みっともないと思ってるさ。でも、戦場ヶ原。一つだけ、僕の方から条件を出していいか?」
「何かしら。一週間私が無駄毛を処理する様子を観察させて欲しいとか?」
「お前が今まで口に上《のぼ》してきた台詞の中で、それは間違いなく最低の一品だ!」
内容的にもタイミング的にも、間違いなく。
数秒、間合いを改めて、僕は戦場ヶ原に向かう。
「条件っていうか、まあ、約束みたいなもんなんだけど――」
「約束……何かしら」
「戦場ヶ原。見えていないものを見えている振りしたり、見えているものを見えていない振りしたり――そういうのは今後一切、なしだ。なしにしよう。おかしなことは、ちゃんとおかしいと言おう。そういう気の遣い方はやめよう。経験は経験だから、知ってることは知ってることだから、多分、僕もお前も、これからずっと、そういうものを背負っていかなくっちゃならないんだから――そういうものの存在を、知ってしまったんだから。だから、もしも意見が食い違ったら、そのときは、ちゃんと話し合おう。約束だ」
「お安い御用よ」
戦場ヶ原は、涼しい顔で――相変わらず、表情一つ変えないが、それでも、十分に、僕の方からは、その、あまりにもあっけない、ともすれば安請《やすう》け合《あ》いとも取れるような、けれども確かな、ノータイムでの即答に、わずかなりとも、感じるものがあった。
自業自得か。
えてして、普段の行いということ。
「じゃ、行こうか。すっかり暗くなっちまったし、えーっと……送っていくよ、って言うのかな、こういう場合」
「あの自転車じゃ二人乗りは無理でしょう」
「棒があるから、三人は無理でも二人なら大丈夫」
「棒?」
「足を置く棒。正式名称は知らないけど……後輪に装着するんだ。で、そこに立つわけ。前の奴の肩に、手を置いてな。どっちが前かはジャンケンで決めようぜ。蝸牛はもういないから、帰りは別に普通に帰っていいんだよな。来た道なんて複雑過ぎて覚えてないし……。戦場ヶ原、じゃあ――」
「待って、阿良々木くん」
戦場ヶ原は、まだ動かなかった。
動かないまま、僕の手首をつかむ。
他人との接触を、長らく自らに禁じてきた戦場ヶ原ひたぎ――だから、勿論、彼女の方から、そんな風に僕に触ってくるのは、これが初めてのことだった。
触れる。
見える。
つまり、僕達は、ここにいるのだろう。
お互いに。
「一応、言葉にしておいてくれるかしら」
「言葉に?」
「なあなあの関係は、嫌だから」
「ああ――そういうこと」
考える。
究極を求める彼女に、ここで英語を返すのも、芸がない。かといって他の言語に関する知識となると、生半可《なまはんか》なものしか僕にはないし、どちらにしても、二番|煎《せん》じの感を否めない。
と、すると――
「はやるといいよな」
「はい?」
「戦場ヶ原、蕩れ」
ともあれ、これで、概ねのところ。
羽川の思い込みは正鵠《せいこく》を射ることとなった。
やはりあの委員長は、何でも知っているらしい。
009
後日談というか、今回のオチ。
翌日、いつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされた。起こしにきたということは、どうやら、無条件降伏に近い謝罪の言葉が効を奏《そう》したらしく、二人の怒りは無事に解けたようだった。それとも、今年は結局、何もできなかったわけだけれど、来年の母の日は家の敷地内から絶対に出ないという約束を交わしたのが、よかったのかもしれない。とにかく、月曜日。何のイベントもない、最高の平日。軽く朝御飯を食べて、学校へ向かう。マウンテンバイクではなく、ママチャリで。戦場ヶ原も今日から出席しているはずだと思うと、ペダルを漕ぐ足も、自然、軽かった。けれど、道中、まだそんなに距離を稼いでいない下り坂で、よたよたと歩いていた女の子と衝突しそうになって、僕は慌《あわ》てて、急ブレーキをかけた。
前髪の短い、眉を出したツインテイル。
大きなリュックサックを背負った女の子だった。
「あ……、阿々良木さん」
「入れ替わってるからな」
「失礼。噛みました」
「何してんの」
「あ、いえ、何と言いますか」
女の子は、隠れ身の術に失敗した忍者みたいな戸惑いの表情を見せてから、照れ笑いを浮かべる。
「えーっとですねっ、わたし、阿良々木さんのお陰で、無事に地縛霊から浮遊霊へと出世しましたっ。二階級特進というわけですっ」
「へえ……」
ドン引き。
いくら軽薄なお調子者とは言え、一応は専門家の忍野が聞いたら、あいつでも多分卒倒してしまうだろうと思われる、いい加減というか適当というか、素敵滅法な論理だった。
ともあれ、その子とは積もる話もないではなかったが、とりあえず出席日数のことを常に考えるべき立場にある僕としては、遅刻しないように学校へ行かなくてはならなかったので、ここでは二、三、言葉を交わすだけに留め、
「んじゃ」と、サドルに跨り直す。
そこで言われた。
「あの、阿良々木さん。わたし、しばらくはこの辺り、うろうろしていると思いますから――」
その女の子から、そんなことを。
「見かけたら、話しかけてくださいね」
だから、まあ。
きっとこれは、とてもいい話なのだろう。
[#改ページ]
第三話 するがモンキー
[#改ページ]
001
神原《かんばる》[#底本「かんばる」ママ]駿河《するが》といえば学校内で知らない生徒が一人もいないほどの抜きん出た有名人であり、当然ながら僕も何度となく聞いたことがある名前だった。いや、単純に有名人というならば、僕のクラスメイトであるところの羽川翼や戦場ヶ原ひたぎだって、ひょっとしたら彼女に引けを取らないのかもしれないが、しかしそれは、三年生という僕達の属する学年に限っての話である。そう、神原駿河は僕や羽川翼や戦場ヶ原ひたぎよりも一つ下、二年生でありながらにして、三年生の、それもそういう噂めいたことにはかなり疎い方である僕のいる地点にまで届くほどの、並外れた名声を得ているということなのだ。これは普通に考えて、ちょっとないことである。若いのに大したものだなんて大物ぶってお道化《どけ》るにしても、ちょっとばかり言葉が真に迫り過ぎているというべきだろう。
また、神原駿河の場合、有名人と表現するよりはスターと表現した方が、その含むニュアンスが正確に伝わるかもしれない。羽川翼や戦場ヶ原ひたぎが、後者の人物のその実態はともかくとして、いわゆる優等生、成績優秀品行方正な真面目な生徒として認識されているのとは違い、彼女の場合、そういうイメージでは全くない――無論、スターというからには、荒くれ者のスケ番として名を馳《は》せているということでもない。羽川翼と戦場ヶ原ひたぎが極めているのが主に勉学方面であるのとは対照的に、彼女が極めている道はスポーツの道なのだ。神原駿河はバスケットボール部のエースなのである。一年生、入学したての頃から、あっと言う間にレギュラー入りし、それはそれだけなら入部した先が名も知れぬ、弱小というのも恥ずかしい万年一回戦負け女子バスケットボール部だったからと理由付けが可能かもしれないが、その後の最初の公式戦から、その名も知れぬ、弱小というのも恥ずかしい万年一回戦負け女子バスケットボール部を、いきなり全国大会にまで導いた、怪物的な伝説を築き上げてしまったとなれば、これはスター扱いされない方がおかしいというものだ。一体なんてことをしてくれるんだと逆に責めたくなってしまうくらい、まさに『築き上げてしまった』というほどの、それは、唐突な伝説だった。近隣の高校の男子バスケットボール部から練習試合の申し込みが、冗談でなくあるくらいの強豪チームに、我が校の女子バスケットボール部は、勃発《ぼっぱつ》的に成り上がってしまったというわけだ――たった一人の女生徒の力によって。
取り立てて背が高いというわけではない。
体格も普通の女子高生クラスだ。
むしろ、ちょっと小柄、痩《や》せ型なくらい。
たおやかという表現がぴったりくる。
しかし神原駿河は――跳ぶ。
僕も去年、一度だけ、何かの付き合いで神原駿河の出場する試合を、少しばかり観戦したことがあるが――とにかくはしっこくすばしっこく、敵のディフェンスを抜くというよりはすり抜けるようにかわし、そして、かつて日本中を席巻《せっけん》したあの少年漫画のように、軽やかにダンクシュートを決めるのだった――楽々と、余裕で、爽《さわ》やかなスポーツ少女の笑顔を浮かべたまま、とても気持ち良さそうに、何連続と、何十連続と。シュートは両手で打つのが基本である女子バスケットボール部の試合において、まさかのダンクシュートなんて、一体、どれだけの高校生が目撃できるというのだろうか? 一観客の身としては、彼女の凄《すご》みに圧倒されるというよりは、彼女の凄みに圧倒されてあからさまにやる気を失っていく敵チームの選手達があまりにも哀れで見ていられなくなって、見ていていたたまれなくなって、そっと、その場を離れることしかできなかったことを、全くもって、よく憶えている。
とにかく、いくら僕らの通う高校が勉学メインの進学校であるとはいっても、それでも十代半ばの多感な若者の集う高等学校であることには間違いがなく、ただ勉強ができる優等生めいた生徒よりも、見た目に派手なスポーツの英雄の方が注目を浴び易《やす》いのは、当然の帰結だろう――神原駿河が何をした、何に対してどういう行動を取った、なんて、いちいちどうでもいいと思えるような、いちいちどうでもいいとしか思えないようなことが、風評となって、学校中を駆け巡るのだった。それらの風評を全て収集すれば、一冊の本が書けてしまうくらいである。特に興味がなくとも、どころか、あえてそれを避けようとしてさえ、神原駿河の情報は、入ってきてしまうのだ。僕らの学校の生徒ならば学年を問わず、先輩後輩を問わず、誰だってその気になれば、彼女が今日、学食で何を食べたかを突き止めることすら、可能だろう。簡単である、その辺の奴に訊けばいいのだ。
もっとも、噂は噂。
話半分。
それが真実であるとは限らない。
実際、さすがに僕のいる地点にまで届くほどの噂となると、鵜呑《うの》みにしていいのかどうか判断に迷う、信憑性《しんぴょうせい》に欠けるものが多い――というより、全く正反対の噂が、同時に流れていることだって、少なくないくらいだ。気性が荒い、いや穏やかだ、友達思いだ、いや冷たい、謙虚な性格だ、いや傲慢な奴だ、恋愛は激しいらしい、いや男と付き合ったことはないらしい――そんな条件を全て満たすことのできる個人がいたとしたら、そんな人間は人格が破綻《はたん》しているとしか言いようがないだろう。だからその辺りは、彼女を見かけたことはあっても口を利《き》いたことまではない、どころか五メートル以内に近付いたことさえないだろう僕としては、想像に任せるしかないところだった。とはいえ、現実問題、そんな想像をするような必要は、皆無と言ってしまっていいほど皆無だろう――やはり学年が違うし、また、スポーツスター、バスケットボール部のエース(僕の通う学校の部活は二年生までなので、確か現在は既に、キャプテンに任命されているという噂――このくらいは、素直に信用してもよさそうなものだ)となれば、僕のような落ちこぼれの三年生と、縁のできようはずもないからだ。
縁もゆかりもありはしない。
勿論、彼女は僕のことなど知らないだろう。
知る理由がないはずだ。
と、そう思っていた。
僕はそう思い込んでいた。
それが思い違いだったと知るのは、五月も末に差し掛かり、衣替えの六月を目の前にした頃のことである――僕の首元に刻まれた二つの小さな穴が、伸ばした襟足で、ぎりぎり隠れるか隠れないかくらいになり、この分なら、半月ほど絆創膏でも貼っておけばよさそうだと、胸を撫で下ろしていた頃……僕が、ふとしたきっかけから、戦場ヶ原ひたぎと、いわゆる恋人同士のお付き合いをするようになって、十日ほどの時間が経過した頃のことだった。
足音を高らかに響かせながら近付いてきて、僕に話しかけてきた神原駿河は、そのときから既に、左手を、真っ白い包帯《ほうたい》でぐるぐるに巻いていて――
002
「あ……ありゃりゃ木さん」
「阿良々木だ」
「失礼。噛みました」
金曜日の学校帰り、坂道で自転車を漕いでいて、前方にリュックサックを背負ったツインテイルの小さな女の子、即ち八九寺真宵の姿を見かけたところで僕はブレーキを作動させ、彼女の左側に横付けしてから声をかけると、八九寺はその瞳《ひとみ》をぱちくりとさせ、驚いたような素振りをしてから、いつも通りに、僕の名前を言い間違えた。
まだ僕の名前に言い間違える余地が残っていたことに若干の感動を覚えつつも、僕は律儀《りちぎ》に訂正を入れる。
「……っていうか、人の名前をうっかり八兵衛みたいに言うんじゃない……」
「可愛らしいと思いますが」
「すげえヘタレな奴みたいだ」
「んー。まあ、存外、お似合いではないかと」
さらりと酷いことを言う小学五年生だった。
「阿良々木さん、どうやらお元気そうで何よりです。またこうしてお会いすることができて、とても嬉しく思います。どうですか、阿良々木さん、あれ以来、特に何事もなく?」
「ん? ああ、別に。あんなこと、そうそうないよ。平和な生活を送らせてもらってるさ。平和っつーか、平穏っつーか。ああ、もうすぐ実力テストがあるから、それについちゃ、あんまり平和ってわけでも平穏ってわけでもないんだけどさ」
およそ二週間前――五月十四日、母の日。
とある公園で、僕はこの八九寺真宵と出会い、そして、ちょっとした事件の渦中に身を置くことになってしまった……いや、それはあえて事件というほどに具体的だったわけでも、取り立てて取り上げるほどに抽象的だったわけでもないのかもしれないが、ともかく、少しばかり、普通ではない体験[#「普通ではない体験」に傍点]をすることになった。
普通ではないとは、普通ではないという意味だ。
まあ、結局それは、あの不愉快なおっさん、即ち忍野と、それに戦場ヶ原の力を借りる形で、解決を見た――ことなきを得たわけだが、あの五月十四日が偶然ではなく必然だったとするなら、その後の二週間、何事もなく、平和で平穏な毎日を送っている現在の僕というのもまた、偶然ではなく必然なのだと思う。
こうしてみる限り、八九寺の方も、無事のようだし――それなら、あの母の日に起こったことは、万事丸く収まったといっていいのだろう。それは、普通ではない体験のその後という意味においては、珍しいことだった。僕は――あるいは羽川も――あるいは戦場ヶ原も、そういった意味合いでは、普通ではない体験のその後の方が、後始末の方が、むしろ大変だったというか――よっぽど残酷だったのだから。無惨といってもいい。
八九寺真宵。
そういう意味では、羨ましくはあるな。
「おや、どうかなさいましたか? 阿良々木さん、そんな情熱的な目でわたしの身体を見つめるだなんて、いやらしいです」
「……だから情熱的な目って、どんな目だよ」
しかもいやらしいのか。
嫌な情熱だった。
「そんな目で見つめられると、しゃっくりします」
「お前の横隔膜は異常だ」
びっくりします。
まあ、八九寺の抱える事情というものを考えれば、ただ単純に羨ましいというような、一辺倒の感想を持っていいような場合でもないのだけれど……見ようによっては一番大変で一番残酷なのは、僕でも羽川でも戦場ヶ原でもなく、あるいは八九寺なのかもしれないのだから。その見方をするのが当たり前だという向きも、決して少なくないだろう。
考えていると、僕の自転車の左側を、二人組の高校生が通り過ぎていった。二人とも女子。僕の通う高校とは、別の制服だった。その二人は、あからさまに僕と八九寺の方を、訝《いぶか》しげに見るようにして、ひそひそと露骨に声を潜めながら通り過ぎる、という、非常に気分の悪い真似をしてくれた。……やっぱり、高校三年生阿良々木暦と小学五年生八九寺真宵が話し込んでいる姿というのは、一般的な趣味嗜好を旨とする方々からすれば、非常に異様に映ってしまうらしい。
まあいい。
世間の冷たい視線など、知ったことか。
そんな軽々しい覚悟で八九寺に声をかけたわけじゃない、何、真実は、僕と八九寺のお互いだけが理解しておけばよい。僕達の間に成立した友情は、その程度の偏見では決して揺るがないのだ。
「あらら、あの人達にロリコンだと正体を見抜かれてしまったみたいですね、阿良々木さん。心中、お察し申し上げます」
「お前が言うな!」
「恥ずかしがることはありません。別に小さな女の子を好きだということ自体は、法律には触れないのですから。趣味嗜好は個人の自由ですよ。ただ、そのアブノーマルな思想を実行に移さなければよいだけなのです」
「たとえ僕が小さな女の子を好きだったとしても、そうだな、お前のことは嫌いだな!」
友情は成立していないようだった。
僕の周囲はこんな奴らばっかりか。
ちらりと、後ろを振り返る。
もう、誰も見当たらない。
今のところは。
「……ったく。言うことなすこと末頼もしい奴だよ、お前は。で? 八九寺。お前、どうして、こんな時間にこんなところをうろうろしてんだ。またどっか行こうとして、迷子にでもなってんのか?」
「随分と失礼な言い方をされますね、阿良々木さん。わたし、迷子になったことなんて、生まれてこの方一度もありませんよ?」
「優れた記憶力をお持ちのようだな」
「褒められると照れます」
「いや、優れものだよ、都合が悪いことを全て忘れられることができるなんて」
「いえいえ。ところであなた、誰でしたっけ?」
「忘れられた!」
なかなか鋭い切り返しだった。
センスあるな、こいつ。
「……いや、とはいえ、さすがに冗談だとわかっていても、人から忘れられるっていうのは、結構|凹《へこ》むぞ、八九寺……」
「頭が悪いことは全て忘れられますから」
「お前に言われるほど僕は頭悪くはないよ! 頭が悪いじゃない、都合が悪いだ!」
「都合が悪いことは全て忘れられますから」
「そうそう、それで正し……くない! 全然正しくない! 他人様の存在のことを都合が悪いとか言ってんじゃねえ!」
「自分で言ったんじゃないですか」
「黙れ。揚げ足を取ろうとするな」
「阿良々木さんは我儘《わがまま》ですね。わかりました、じゃあ、気を使わせていただいて、こういう言い方にしましょう」
「どういう言い方にするんだ……」
「不都合がいい」
「………………」
楽しい会話だった。
実を言うと小学五年生と同レベルで話ができる自分自身、阿良々木暦という名前の高校三年生について、ちょっとばかり思うところがないでもないのだが、まあ、なんだ、こうして話す分には、中学生の妹達と話しているのと、そんな変わらない感じだから……それに、そこが中学生と小学生の違いなのか、変に尖ったり妙にひねたりしていない分、妹達を相手にするのよりも、八九寺とは話題の進行がスムーズではある。
「はあ……」
ため息と共に、自転車から降りる。
そして、ハンドルを押し、徒歩で前方へ。
八九寺と話すのは楽しいが、それはそれとして、同じところでじっとしたまま、立ち話と洒落込んでいると、ともするとこの後の予定に支障を来たすかもしれなかったので、まあそんなに時間に余裕がないわけでもないのだけれど、自転車を押して歩きながら、八九寺との会話を続けることにしたのだ。立ち話よりも歩き話。八九寺の方は、どうやら確たる目的地があってうろうろしていたわけではないようで、特に何を言われるまでもなく何を促されるまでもなく、自転車に添うように、てくてくと、僕についてくる。まあ、暇な奴なのだろう。
移動することにした理由は、もう一つあるけれど――再度、ちらりと後ろを振り返ってみたところ、そちらについての心配は、今のところ、どうやらなさそうな感じだった。
「阿良々木さん、どちらに?」
「ん。一旦家」
「一旦? するとその後、お出かけですか」
「まあ、そんな感じ――ほら、さっき言っただろう? もうすぐ実力テストなんだよ」
「阿良々木さんの実力、つまりは真価が問われることになるのですね」
「そんな大袈裟なもんじゃねえよ……問われるのは、卒業できるかどうかって、それだけだな」
「そうですか。阿良々木さんが卒業できないかどうかが問われるのですね」
「………………」
同じ意味なのに、なんだそのニュアンスの違い。
日本語って本当に難しい。
「阿良々木さん、頭の不都合がいい方ですからね」
「もう普通に頭が悪いって言ってくれた方がいくらか気が楽だよ、僕は」
「いえいえ、本当のことでも言っていいことと言うまでもないことがありますから」
「言っちゃいけないことはないのかよ!」
「あ、その、大丈夫です。わたしもあんまり成績はよくありませんから、阿良々木さんとおそろいですよ、おそろい」
「………………」
小学生に慰《なぐさ》められた。
小学生とおそろいだった。
しかも、自分のことを表現するときには『頭が悪い』とは言わずに『成績はよくない』と言い換えているところに、八九寺真宵のさりげない欺瞞《ぎまん》を感じる。
「……いや、でも、それって結構リアルな話でさ。この実力テストで下手を打つと、結構マジでやばいっぽいんだ」
「退学処分ですか」
「進学校は進学校だけど、テストの点が低いことを理由に退学になったりするほどに逸脱した進学校じゃないよ、うちは。ていうか、世の中に実在するのか? そんな冗談みたいな進学校。まあ、だから、どんなに最悪でも留年って感じだけど……だけど、やっぱそれは避けたいよな」
避けられるものなら。
いや、避けなければならないのだけれど。
「ふむ。では阿良々木さん、今日はもう、お出かけなんてしている場合ではないのではありませんか? 早く家にこもって試験勉強をしなければならないはずです」
「意外と真面目なこと言うじゃん、八九寺」
「阿良々木さん、真面目なこと言うじゃんは余計です」
「意外とだけでいいのか!?」
どんなエンターテイナーだ。
「だけど心配はご無用だよ、むしろ話はそこに繋がるんだ、八九寺。言われるまでもないさ。お出かけっつったって、僕は別に遊びや買い物に行こうってわけじゃないんだ。勉強するために、お出かけするんだよ」
「ふむ?」
もっともらしく、首を傾げてみせる八九寺。
「つまり、図書館か何かでお勉強をしようということですか? うーん。個人的には、わたしは、慣れた自分の部屋で落ち着いて勉強した方が、はかどると思いますけれど……ああ、それとも、阿良々木さんは、塾か何かに参加されるということなのですか?」
「図書館と塾とじゃ、塾の方が近いかな」
僕は言った。
「ほら、憶えてるよな? 戦場ヶ原。あいつ、学年でもトップクラスの成績の持ち主だからさ、今日はこれからあいつん家《ち》に行って、勉強を教えてもらう約束なんだよ」
「戦場ヶ原さん……」
八九寺が腕を組んで、すっと俯く。
まさか、忘れてしまったのだろうか。
都合が悪いというか、多分、恐怖がゆえに。
「フルネームは、戦場ヶ原ひたぎ……なんだけど。ほら、この間、僕と一緒にいたポニテのお姉ちゃんで、お前のことを……」
「……ああ、あのツンデレの方ですか」
「………………」
いや、憶えてはいたようだけれど。
なんか戦場ヶ原の奴、あちこちでその『ツ』から始まり『レ』で終わる、片仮名四文字の認識が定着しつつあるみたいだな……いいのかなあ。本人はそれについて、一体どう思っているのか、一度聞いておく必要がありそうだ。僕の対応も、それによって変わってくる。
「包容力に溢《あふ》れた素敵な方でしたよね。わたしのことをずっとおんぶしてくださって、道案内をしてくれたものです」
「過去の記憶が美化されてるぞ!?」
八九寺の中で戦場ヶ原とのことは、さだめしトラウマになってしまっているようだ。まあ、お互いの抱える事情を考慮すれば、さもありなんっていう感じだけど……。
八九寺は腕組みを続けたまま、
「ふうむ」
と唸ってみせる。
「あれ、でも……確か、阿良々木さんと戦場ヶ原さんは――その、まあ、何と言えばよいのでしょうか、えーっと」
八九寺はどうやら、慎重に言葉を選んでいるようだった。質問の内容はおおよそ見当がつくけれど、多分、八九寺としてはそれを直截的な表現で口にすることへの抵抗があり、なんとか別の言い方を探っているといったところだろう。小学五年生のボキャブラリーで、一体全体どのような取捨選択が行われるのか、好奇心というほどではないにせよ、少なからず興味があったので、あえて助け舟を出さずに、八九寺を見守る僕だった。
やがて、八九寺は言った。
「……恋愛契約を結《むす》んでらしたんですよね?」
「最悪のチョイスだな!」
まあ予想通り、怒鳴ることになった僕だった。
教科書のように綺麗なやり取りだ。
「は? 阿良々木さん、わたし、何かおかしなことを言ってしまいましたか?」
「表面的にはおかしな言葉ではなくとも、その裏に匂うとても嫌な意味合いを、感じ取れない人間はなかなかいないと思うぞ……」
「契約……で駄目なら、阿良々木さん、取引ではいかがでしょうか。恋愛取引」
「より酷くなった! いいからもう普通に言え!」
「はあ。ではまあ、お言葉に従いまして、普通に言うことにしましょう。その気になれば普通にすることくらい、わたしにとってはお茶の子さいさいです。では、いきますよ? 阿良々木さんと戦場ヶ原さんって、確か、男女交際をされていましたよね」
「……うん、まあ」
男女交際か。
えらく古めかしい言い方で攻めてきたな。
それがお前の普通なのか……。
「では、勉強を教えてもらうなんて言っても、そんなのはただの口実にしかならなくて、お二人で乳繰《ちちく》り合ってしまうだけではないですか?」
「………………」
乳繰り合うとは、また、古めかしい……。
こいつのボキャブラリーは絶対に変だ。
「留年できるかどうかが問われている実力テストを前に、恋人さんのお家を訪問するだなんて、わたしからすれば、自殺行為としか思えませんが、阿良々木さん」
「卒業できるかどうかだ、僕が問われているのは」
かなりの馬鹿だと思われているらしい。
僕は僕が可哀想《かわいそう》だった。
「あと、自殺行為とか言ってんじゃねえ」
「では、自殺そのものとしか思えませんが」
どうやら僕は小学生から苛めに遭っているらしい。
僕は僕が可哀想だった。
「お前とはいずれ、出るところに出て決着つけなくちゃいけないみたいだよな……」
「出るところが出ている? 胸とかお尻とかですか? 阿良々木さんは小学生の身体に何を求めているのでしょう」
「黙れ。揚げてもない足を取ろうとするな」
僕は八九寺の頭を叩いた。
八九寺は僕の脛《すね》を蹴《け》り返した。
痛みわけ。
相身互い。
「まあ、でも、その辺は大丈夫だよ、八九寺……戦場ヶ原の奴、そういうところには、やたらめったら厳しい奴だから」
「厳しいとは、お勉強に? スパルタなんですね。ああ、そういえば、あの方、馬鹿が嫌いそうですよね」
「ああ。嫌いだって言ってた」
だから戦場ヶ原は子供が嫌いなのだ。
八九寺のことも嫌いなのだ。
ひょっとしたら僕のことも嫌いかもしれない。
もっとも、今の会話の流れで言うならば、戦場ヶ原が厳しいのは、お勉強に対してということだけでは、ないのだが……まあ、その辺は、優等生ということで。
「さながらハートフル軍曹ですね」
「なんだそのいい人そうな陸軍下士官は」
「えーっと、戦場ヶ原さんのお家といいますと、この間の公園の――」
「いや、言ったと思うけれど、戦場ヶ原はそこからは結構前に引っ越していて――僕は、お前と会うちょっと前に一度、もうお邪魔したことがあるんだけど、結構、遠い場所でな。家に帰って、チャリを乗り換えて、それから向かうとして……ああ、考えてみりゃ、時間、そんな余裕あるわけでもないのかな」
「お急ぎでしたら、野暮なお引止めはしませんが」
「いや、切羽詰《せっぱつ》まっているってわけでもないさ」
それに、戦場ヶ原の家に行くのだと言っても、どうしてもやることがお勉強だから、いまいち乗り気になりきれないというのも、偽りのない本音の部分だしな……そんなことを戦場ヶ原に言ったりしたら、どんな暴言毒舌がこの身に浴びせられることになるのか、知れたものではないが。
しかし、まあ。
戦場ヶ原ひたぎ。
八九寺もそうなのだけれど、しかし、戦場ヶ原は戦場ヶ原で――
「なあ、八九寺……お前って」
と、そんな風に。
言いさしたところで、背後から、音が聞こえた。
音。
足音、である。
細かく刻まれたリズムが小気味いい、『たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ』と、走っているというよりは、一歩ずつ跳ねているような、一歩ずつ跳んでいるような――そんな足音。
もう、後ろを振り向いて確認するまでもなかった。
そうなんだよな……。
平和で平穏でないというなら、ある意味、実力テストの他にも、非常に困った問題を抱えているんだよな、この僕は……。
撒《ま》いたと思っていたのに。
たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ。
どんどん近付いてくる足音。
確認するまでもないとはいえ――
しかし、振り向かないわけにもいかない。
たんっ!
そして、僕が嫌々の渋々、ゆっくりと身体を捩《ねじ》ったときに――彼女は、跳んでいた。
彼女は。
神原駿河は、跳んでいた。
走り幅跳びよろしく、一メートルや二メートルではきかない距離を、まるで万有引力の法則を無視しているかのごとく、理想的なフォームと軌道で空中に――空中のままに、僕の右側を、ほとんど顔のすぐ横辺りを、通過して――
そして着地する。
その瞬間、乱れた髪が、すぐに落ち着く。
制服姿。
今度は、言うまでもなく、僕の学校の制服。
スカーフの色が、二年生の黄色。
ちなみに、そんな制服姿での跳躍だったために、その今風に短く改造されたスカートが思い切りめくれかえっていたが、しかし彼女は膝の辺りまで届くスパッツを着用していたため、僕は全く幸せな気持ちにはならなかった。
そのスカートも、少し遅れ、ぱさりと元に戻る。
不意に、ゴムの焼けるような臭い。
彼女の履《は》いている、いかにも高級そうなスニーカーの裏面が、道路のアスファルトと激しい摩擦を起こした結果らしい……どんな桁外れの運動能力なのだろう、こいつは。
そして、バスケットボール部のエース。
神原駿河が――振り向いた。
やや幼さが残るが、しかし、三年生でも滅多《めった》にいないような、凛々《りり》しい雰囲気を漂わす表情、そしてきりっとした眼で――まっすぐに、僕を見る。
宣誓でもするように、胸に手を置いて。
そして、にこりと、軽く微笑《ほほえ》む。
「やあ、阿良々木先輩。奇遇だな」
「こんな仕組まれた奇遇がありえるか!」
明らかに狙いすまして駆けてきただろうが。
辺りを見れば、八九寺は、見事に姿を消していた。僕に対してはあんなずばずば、ずけずけと物を言う癖《くせ》に、意外と人見知りをする子供である八九寺真宵、さすがに判断が早い、あまりにも軽やかなフットワークだった。まあ、あいつでなくっても、見知らぬ女がものすごいスピードで走ってきたりしたら(あいつの位置からは、神原が自分目掛けて突貫してきたように見えたはずだ)、誰だって普通に逃げるだろうけれど。
しかし、本当に友情に薄い奴だ……。
まあいいけど。
視線を戻すと、神原は、何故かうっとりした風に、深々と感じ入っているように、何度も何度も繰り返し、頷いていた。
「……どうしたんだよ」
「いや、阿良々木先輩の言葉を思い出していたのだ。心に深く銘記するためにな。『こんな仕組まれた奇遇がありえるか』、か……思いつきそうでなかなか思いつきそうにない、見事に状況に即した一言だったなあ、と。当意即妙とはこのことだ」
「………」
「うん、そうなのだ」
そして神原は言った。
「実は私は阿良々木先輩を追いかけてきたのだ」
「……だろうな。知ってたよ」
「そうか、知っていたか。さすがは阿良々木先輩だ、私のような若輩がやるようなことは、全てお見通しなのだな。決まりが悪くて面映《おもはゆ》い限りではあるが、しかし素直に、感服するばかりだぞ」
「………………」
やりづれえ……。
僕の顔に、今どんな表情が貼り付いているのかは果たして定かではなかったが、しかし、そんな僕には全く構うことなく、神原駿河は、溌剌《はつらつ》とした笑顔を、僕に向けているのだった。
三日前。
廊下を歩いていたら、よく響く足音と共に近付いてきたこの女、神原駿河から、当たり前のように声を掛けられた。あまりに当たり前のようだったから、そのときはつい普通に対応してしまったが、しかし相手は二年生のスター、抜きん出た有名人。いくら僕がそういった噂めいたものに疎い人間であったとしても、知らないわけがない相手だった――がしかし、彼女と僕との間に接点などありえないと、縁があるはずなんてないとばかり思っていた――ので、少なからず驚いた。
しかし、僕が真に驚いたのは、彼女の有するその性格の方だった。いや、何と言えばいいのかわからないけれど、とにかく、不可思議な……これまでの僕の人生で、一度も遭遇したことのないパーソナリティ、キャラクターを、神原駿河は有していたのだった。
そして。
それ以来、つまり三日前から今日この日この瞬間に至るまで、こんな風に――僕は神原駿河に、付きまとわれているというわけだ。いついつでも、どんな場所でも、『たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ』と、人の目も気にせずに、神原は僕を目掛けて駆け足で向かってくるのだった。
「……休み時間やらはともかくとして、お前、神原、放課後は部活なんじゃないのかよ。こんなところにいていいのか?」
「ほほう。さすがに鋭いな、阿良々木先輩は。些細《ささい》な疑問を絶対に見逃さない、まるで探偵小説の主人公だ。フィリップ・マーロウだって、阿良々木先輩の前では裸足で逃げ出すだろう」
「全国区のバスケットボール選手がこんな時間にこんなところにいる不自然を指摘したくらいのことで、そこまで誉めそやすな」
この程度のことで裸足で逃げ出す探偵が主人公の探偵小説なんて、読みたくねえよ。
「命から二番目の武器として謙虚な姿勢を決して見失わない、その慎み深い自戒に満ちた言葉……ともすればすぐに自分自身を勘違いしてしまう私としては、積極的に見習わせていただきたいものだ。ふふ、古くから朱に交われば赤くなるというが、阿良々木先輩とこうしているだけで、自分が人間的に成長していくのを感じるな。あやからせてもらうとはこのことだ」
にこにこしてそんなことを言う神原。
笑顔に悪意は全くないが。
……僕は、今まで善人というのは、羽川みたいな奴のことをいうのだと思っていたけれど、その究極の形というのは、案外、この神原のような人間のことをいうのかもしれない。
要するに、羽川よりも酷い。
あの委員長よりも迷惑だ。
「でも、ほら、今、私はこんな手だからな」
神原は、そう言って、自分の左腕を僕に示した。
真っ白い包帯がぐるぐるに巻かれた、左腕。五指の爪先から手首の部分まで、隙間《すきま》なくぐるぐるだ。制服の長袖に隠れてよく見えないけれど、実際、肘の辺りまで、包帯が巻かれているそうである。なんでも、ちょっと前に、自主トレ中に誤って、変な風に捻挫《ねんざ》してしまったとか、なんとか――まあ、その噂は、神原が僕に声をかけてくるその直前に、既に聞いていたのだが。
噂は噂。
話半分にしたって――これだけの運動能力、それに、身体の柔軟性を持つ神原駿河が、自主トレとはいえ捻挫だなんて、にわかには信じがたかったが、実際、こうして包帯を巻いている以上は、真実なのだろう。弘法にも筆の誤り、河童《かっぱ》の川流れ、猿も木から落ちる。
「プレイができない癖に体育館にいても、邪魔になるだけだから、私は現在、部活への参加は遠慮させてもらっているのだ」
「つってもお前、キャプテンなんだろ? そうでなくとも、お前がいなきゃ、チームの士気が下がっちまうだろうに」
「私のチームを、そんなワンマンチームみたいに言われるのは心外だぞ、阿良々木先輩。私のチームは、私がいない程度のことで士気が下がるような、軟弱なチームではない」
神原は語気を強くして、そう言った。
「バスケットボールは過酷なスポーツなのだ。一人の力でどうにかなるものではない。ポジション的に、つまり役割として私が目立っているのは認めるのにやぶさかではないが、それもみんなの力があってこそなのだ。だから、私が浴びている称賛は、チームのみんなで分け合うべきものだ」
「……ああ、そうだな」
こういう奴……なんだよなあ。
善良というか、善人というか。
なんというか。
今に限ったことではなく、チームメイトの悪口(のつもりはなかったのだが)には、神原はどうやら、すごく敏感らしかった。一年生の頃、新聞部のインタビューで、当時の先輩に対し失礼なことを言われたという理由で、机をひっくり返した――みたいな噂もあるくらいだし(ちなみにその噂はデマだったが、しかし、どうやら似たようなことはあったらしい)。
ふふ、と、そこで神原は笑みを漏《も》らす。
「わかっているぞ、阿良々木先輩。今のは私のキャプテンとしての資質を試したのだろう?」
「………………」
得意満面な手柄顔で何を言い出す、この後輩。
そんな目を僕に向けるな。
「全く、阿良々木先輩の言葉を後世に残すために記述する際には、執筆者には全て太字にして傍点を振るようにしてもらわないと、読む者にその色合いが伝わらないだろうな、言葉の一つ一つに込められた重みが全然違う。説得力とは何を言うかではなく誰が言うかだとは、普通悪い意味で使われる言葉だが、阿良々木先輩についてそれを言うときに限っては、いい意味で使えそうだ。安心して欲しい。キャプテンとしての責務を放棄するつもりはない。そんな怠慢《たいまん》な真似をするほど、私は思い上がってはいないさ。曲がりなりにもエースとしての自覚はある。みんなにはちゃんと、練習メニューを指示してきた。何、私がいなければいないで、みんな、のびのびとプラクティスに集中できるものなのだ。鬼のいぬ間に洗濯《せんたく》だな」
「鬼ね……まあ、それを聞いてほっとしたよ」
「スポーツとはいえ、あくまで学生の部活動だ。ましてうちの高校は、進学校。基本的には十代の楽しい思い出作りなのだから、部活は気さくに気楽に気兼ねなくが一番だ。しかし、本来無関係な私の人間関係、それにチームメイトのことまで気に掛けてくださるとは、阿良々木先輩は本当に思いやりのある人だ。細やかな心配り、痛み入る。実に懐《ふところ》が深い、一望千里な心具合だぞ。まさかバスケットボール部のためにあえて嫌われ役まで演じてくれるとはな。目下の者に対して本当に親身であればこその行いだ。私は阿良々木先輩のような人には会ったことがないぞ」
「僕もお前みたいな奴には会ったことがねえよ……」
多分、新機軸《しんきじく》だよな……。
ここまで天然の褒め殺しキャラ……。
「そうか。阿良々木先輩からそう言っていただけるとは、光栄の至りだ。ふふ、阿良々木先輩くらい優渥《ゆうあく》な人から褒められると、自分でも不思議なほどに発奮させられるというのだろうか、なんだか、本来ないはずの勇気すらわいてくるようだな。今なら私は何でも出来るような気がするぞ。これからは、何か落ち込むようなことがあったときには阿良々木先輩を訪ねることにしよう。阿良々木先輩の謦咳《けいがい》に接するだけで、私は何でも頑張れるに違いないのだからな」
決して微笑みを絶やさない神原だった。
それはほとんど無防備とも取れる笑顔なのだが――しかし、芯《しん》のところにしっかりとした強さを感じさせるところが、決して無防備ではない。自分自身に対して絶対の自信をもっているからこその、その笑顔なのだろう。
僕とは全く違う世界の人間。
僕とは全く違う種類の人間。
いや、それはそれ自体では、わかりきっていることだし――性格云々ではなく、スポーツ少女、学校のスターである神原と、阿良々木暦とが違う世界の人間だということ、違う種類の人間だということはわかり過ぎるほどにわかりきっていることだったが、しかし、問題は、その神原駿河が、どうして僕に声を掛けてきたのかということだ。
声を掛けてきただけでなく。
こうして、声を掛け続けてくるのか――だ。
駆けてきて――駆け続けてくるのか。
神原自身の言葉ではないが、何か落ち込むことがあったから、頑張るために訪ねてきている――のではないはずだ。僕にそんな、神通力みたいな力はない。あったら自分で惜しみなく使っている。
三日前から数えると、一体何度目の質問になるのかもうわからなかったが、僕は、神原に質問した。
「で、神原。今日は何の用なんだ?」
「ああ、そう……」
ここまで常にはきはきと、淀《よど》みなく応答してきた神原は、ここで初めて、言葉に迷ったようだった。しかしそれも一瞬、すぐに頬に微笑をたたえて、僕に言った。
「……今朝の新聞の国際面、読んだろう? ロシアのこれからの政治情勢について、阿良々木先輩の意見を聞きたいんだ」
「時事ネタかよ!」
しかも、よりにもよって何てセンスだ。
日本の政治についてだって、僕はよく知らないというのに、海を渡ってロシアと来たか……。
「ああ、インドの話の方が阿良々木先輩好みだったかな? ただ、私は残念ながらこの通り、体育会系、アウトドア系の人間なものでな、IT関連は弱いのだ。それよりも今はロシアの抱える問題の方が、私にとっては実際的だ」
「……今朝は新聞、読んでないんだよ」
言った本人ですら誤魔化《ごまか》せるとは思えないほどにあからさまな言い訳の言葉を口にする僕だった。本当は、読むには読んだけれど、議論できるほどの嗜《たしな》みがないだけなのだが……。
しかし神原はそれに対し、
「そうか」
と、ゆるやかに眼を細めるのみである。
「阿良々木先輩は多忙だからな、朝に新聞を読む暇がないのというのも無理はない。分も弁《わきま》えずに無神経なことを言ってしまった、申し訳ない。ならば、この話は明日に回そうと思うのだが、阿良々木先輩もそれでいいかな」
「いいよ……」
「心が広いな。そんな簡単に許してもらえるとは思わなかった。私の浅薄な発言に阿良々木先輩ほどの人が何も思っていないわけがないのに、そんなことはおくびにも出さず、その鷹揚《おうよう》な対応。清濁|併《あわ》せ呑む大きな心とはこのことだ。私はまた阿良々木先輩のことが、一つ好きになったぞ」
「そうか、ありがとう……」
「礼には及ばない。私の正直な気持ちだ」
「…………」
けれど、こいつ、それなりに頭もいいんだよな。
スポーツができて頭がいいっていうのは、人間的にはかなりの反則だよなあ……羽川だって戦場ヶ原だって、運動能力が低いというわけではないのだろうが、この後輩を前にしてしまえば、さすがに較べるべくもないだろう。一応、戦場ヶ原は、中学生のとき、陸上部のエースだったとはいえ、高校生になってからのブランクは大きいだろうし――戦場ヶ原が抱えていた特殊な事情も、そこに加味すれば尚更《なおさら》だ。
いや、勿論。
僕だってまさか、神原が本当に、僕と、ロシアの政治情勢について議論を戦わせたいのだとは思ってはいない――明らかに方便《ほうべん》だろう。
一体何の用なんだと、僕が何回訊いても、あくまでもそんな調子で、神原はまともに答えようとしない。
他に何か目的があるのだとは思う。
しかし、それが見当もつかないのである。
一体こいつはなんで、それもいきなり、こんな風に僕に付きまとうようになったのだろう。学校のスターの神原と落ちこぼれ三年生の僕との接点なんて、一つもないはずなのに。
縁もゆかりもありはしないはずなのに。
「ところで阿良々木先輩、今日は何か変わったことはなかったか?」
「あん? 別に……普通だけど」
お前のこと以外は。
いや、そろそろお前のことにも慣れてきた。
「実力テストが近いから、それがちょっとした頭痛の種って感じかな……」
「実力テストか。ふむ、それには私も頭を痛めている。テストは、部活をやっているものにはとても迷惑なのだ。一週間前から練習が、学校側から強制的に禁止されてしまうから、自主トレに励むしかなくなるのだ」
「ふうん」
そうなんだ。
禁止されたときくらい休めばいいのに自主トレに励むしかなくなるということになる理屈は理解しがたいが、まあ、違う世界の話。
「でも、お前個人に限れば、それもまた都合がいいんじゃないのか? 左手の捻挫、その間に治るだろう」
「ん? ああ……ああ、そうだな」
左手に視線を落とす神原。
「さすが阿良々木先輩、見るところが違う。常に人が幸せになる方法を考えているという感じだな。素晴らしいポジティヴシンキングだ」
「ポジティヴシンキングにかけては、百年経ってもお前の右に出られるとは決して思わないよ、僕は……」
どんな育ち方をしたら、こんな人間ができあがるのだろう。
はなはだ不思議だ。
「まあ、ありふれた言い方になってしまうが、やはり学生の本分は勉強だからな。迷惑とはいえ、実力テストは実力テストで、頑張らせてもらおうと思っているぞ」
「怪我が右手でなくてよかったな」
「いや、私はサウスポーなんだ」
神原は言った。
「左利きというのは日常生活においては大概の場合とても不便なものなのだが、勝敗を競うスポーツの世界に限れば、優位に立てる場合が多いから、重宝している」
「へえ、そうなのか?」
「うむ、対人競技をやっているものならば常識だぞ。生まれは左利きであっても、今の日本では大抵の場合、矯正《きょうせい》されてしまうからな、サウスポーのアスリートは十人に一人、いるかいないかという割合なのだ。阿良々木先輩、この割合をバスケットボールというスポーツに当てはめればどうなると思う? バスケットボールは五人対五人の球技だ、つまりコートの中にいるサウスポーはただ一人。そしてその一人とは即ちこの私だ。私がエースになれた理由の一つが、そこにある」
「ふうん……」
わかったようなわからないような話だな。
「しかし、それだけに、自身の不注意が原因とは言え、いざこうなってしまうと、単純な不便さだけが募《つの》ってしまうのだがな」
「左利きね……ま、僕はスポーツとかやらないからそういうのはよくわからないけれど、でも、単純に、左利きって、格好《かっこう》いいよな」
素直な感想。
まあ、思い込みというかこれは偏見のレベルだけれど、左利きの人間って、僕にはなんだか、動作がいちいちスマートに見えるんだよな。
「そんなことを言って、阿良々木先輩も左利きなのだろう? ふふ、時計を右手首に巻いているからな、すぐに気付いたぞ。左利きの人間は左利きの人間には敏感なのだ」
「…………」
時計はなんとなく右手首に巻いているだけだとは、口が裂けても言えなくなってしまった……これから先、僕は、こいつの前では左手で字を書き、左手で箸《はし》を使わなくてはならないのだろうか。スマートだとは思うけれど、矯正してまでそうなろうという気は決してなかったのだが……。
「じゃあ、試験、大変になっちまうわけだな。利き腕がその有様じゃ、国語の試験なんて、やってられないだろ」
「まあ、そうはいっても実力テストだ、どの教科にしたって論文を書くわけではないからな、多少字が歪む程度で、うん、平気だ。先生方もその辺りの事情はきちんと考慮してくださるだろうしな。阿良々木先輩に不要な心配をかけるような言い方になってしまった、申しわけない。それにしても、全く阿良々木先輩は本当に後輩思いなのだなあ。テストを前に私なんかの心配をする余裕があるなんて、さすがだとしか言いようがない。なかなかできることではないぞ」
「……いや、別に余裕はないんだけどな」
それは本当にもう。
余裕があったら後輩の心配をするというわけではないにせよ、こと今現在に限っては、僕に余裕と言えるようなものは、一切ない。
「今日もこれから、勉強会にお出かけだよ」
「勉強会?」
きょとんとした仕草《しぐさ》の神原。
勉強会という単語がぴんとこないらしい。
「えーっと、つまりだな、わかりやすく言うと、僕はこれまでの成績があんまり芳《かんば》しくなかったので……それに、一年のときと二年のとき、出席日数もやばかったので……」
何故《なぜ》こんな説明をしなくてはならないのだ。
スターとはいえ、年下の後輩相手に。
「つまり、実力テストは、挽回の機会なんだ」
結局、見栄を張った言い方になってしまった。
自分の器《うつわ》の小ささを思い知る。
「ふむ。なるほど」
頷く神原。
「私はあまり試験勉強に熱を入れないタイプだから、よくわからないのだが、まあ、そういえば、クラスの連中も、試験前は誰かの家に集まったりしていた……かな?」
「ん。まあ、そんな感じだ」
「そうか。では阿良々木先輩はこれから友達の家に行くのだな、じゃあ。しかし……」
と、若干、口ごもる風の神原。
「スポーツと違って、勉強なんて、みんなで力を合わせたらどうこうという種類のものだとは思えないのだが……」
「大丈夫。勉強会とはいっても、僕が一対一で、一方的に教えてもらうだけだから、家庭教師みたいなもんだ。クラスに滅茶苦茶成績がいい奴がいてさ、そいつの世話になろうってこと」
「ふうん……ああ」
神原は思いついたように、
「戦場ヶ原先輩か」
と言った。
「……ん? 知ってるのか?」
「阿良々木先輩のクラスで成績がいいといえば、戦場ヶ原先輩をおいて他にいないだろう。かねてより、噂には聞いている」
「ふうん……まあ、そうなんだけど」
まあ、やっぱりあいつも有名人だしな。
下級生にも一人くらい、戦場ヶ原のことを知っている奴がいたとしても、それほどおかしくはないのか。
ん?
でも、どうだろう、成績がいいってことで有名なら、学年トップを誰にも譲ったことのない、より有名な羽川の方を、先に連想しそうなものだけれど……少なくとも戦場ヶ原をおいて他にいないってことはないはずだけれど。それに、普通、勉強会というニュアンスからだったら、順当には同性同士、この場合は女子ではなく男子の名を挙げるのが普通じゃないのか?
なんでいきなり戦場ヶ原なのだろう。
「では、邪魔をしてはいけないな。今日は、ここで失礼させてもらおうと思う」
「そっか」
引き際を心得ているみたいなことを言いながら、しっかり『今日は』と言ってのける辺りが、神原駿河である。
ぐっと腰を落として、脚を伸ばす。
ウォーミングアップ。
アキレス腱《けん》をじっくりと伸ばして――
「阿良々木先輩。ご武運を」
と。
言ったが早いか、神原は、『たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ』と足音を響かせながら、来た道を逆に、駆け足で、戻っていった。かなりの健脚――ただ単に足が速いというんじゃなくて、異様なほど、トップスピードに乗るのが早い。多分、百メートル、二百メートルでタイムを取れば、そんなにずば抜けた記録が出るわけではないのだろうが――しかし、十メートル、二十メートルという超超短距離走なら、陸上部のレギュラーを相手にしたって、神原はそうそう引けをとることはないだろう。この辺り、バスケットボールのような限られたフィールド内で縦横無尽に動き回る競技に対して特化されたアスリートである、神原駿河の面目《めんもく》躍如《やくじょ》か……あっという間に、その背中が見えなくなってしまった。激しい動きに、短めのスカートはめくれ放題だったが、そのスカートからはみ出すほどの長さのスパッツを穿いている神原が、そんなことを気にするはずもない。
……でも、走るときはジャージにした方がいいとは思う……見てる側としてもよこしまな期待を抱かずに済むしな。
そして、やれやれ。
僕は肩の荷が降りたような気分になる。
今回は、比較的、短時間で終わったけれど……どうしてあいつが僕にこうも付きまとってくるのか、その理由をさっさと明らかにしないことには、これからもずっと、こういう事態が続くのかもしれないと思うと、あまり暢気《のんき》に構えてもいられない。いや、別に現実的な被害実害があるわけではないのだから、放置しておいてもいいといえばいいのだが、神原のあの性格は、僕みたいな人間にはちょっとばかり疲れる……いや、神原駿河と話していて、疲れることのない人間なんて、一人だっているのだろうか? そんなの、いたとしても――
そうだな。
それこそ、戦場ヶ原くらいだろう。
「良々々木《らららぎ》さん」
「……さっきのに較べれば限りなく正解に漸近《ぜんきん》した感じではあるが、しかし八九寺、僕の名前をミュージカルみたいに歌い上げるな。僕の名前は阿良々木だ」
「失礼。噛みました」
「違う、わざとだ……」
「噛みまみた」
「わざとじゃないっ!?」
「垣間見た」
「僕の才能の一端をか!?」
いつの間にか、僕の横に八九寺がいた。
神原がいなくなったのを見て取って、戻ってきたらしい。八九寺のことだから本当のところはわからないけれど、その素早さからすると、一応、僕を置いて一人さっさと逃げ出したことについて、それなりの罪悪感を覚えていたのかもしれない。名前の間違いも、今回に限っては本当にわざと、故意の照れ隠しと見るのが正当か。
「何ですか? あの方は」
「見ててわからなかったか?」
「ふうむ。阿良々木さんのことを先輩と呼んでいた辺りから推理させていただくと、そうですね、阿良々木さんの後輩ですか?」
「……名推理だな」
ここで神原なら、マーロウだかなんだか、とにかく古典の探偵なんかを引き合いに出して、八九寺を思い切り持ち上げるようなことを言うのだろうが、駄目だ、一瞬だけその真似をしてみようかと思ったのだけれど、僕の中の何かが、それを許可しようとしない……。
「しかし、阿良々木さん。陰でこっそり聞かせていただきましたが、あの方とはどうにも要領を得ない会話をされていましたね。会話のテーマが最後までよくわかりませんでした。あの方、雑談をするために、阿良々木さんを走って追いかけてきたのでしょうか?」
「ああ……いや、八九寺、そんな風に訊かれても、僕にもそれはよくはわからないんだけれど……」
「わからないとは、えらく水彩画を描く意見ですね」
「僕の意見は美術部員か」
精彩《せいさい》を欠く、な。
僕は正直なところを八九寺に言った。
「今、僕、あいつにストーキングされてんだよ」
「ストーキングといいますと、女性が下半身に穿く」
「それはストッキングだ」
「そうでしたっけ」
「ストーキングじゃわからなかったか? まあ、ストーカーだよ、要するに」
「ストーカーと言いますと、女性が下半身に穿く」
「それはスカートか? なんで阿良々木さんはそこまで女性の下半身の着衣に対して興味津々な男なんだよ」
折角《せっかく》だから八九寺がスパッツと取り違えるような単語は何かないだろうかとちょっと考えてみたが、残念ながら僕の語彙《ごい》ではそれを思いつくことはできなかったので、諦めてそのまま話を進行させることにした。
「よくわかんないんだけど、三日前くらいから、やけに露骨に僕につきまとって、とにかく気が付いたらそこにいて、僕に話しかけてくるんだよ。一方的にな。それも、お前の言う通り、要領を得ない会話ばっかりで……雑談っつーのか何っつーのか、正直、何がしたいんだか、さっぱりだ」
目的は――そりゃ、あるはずなんだけれど。
推測の糸口もつかめない。
多分、はぐらかされている。
三年生と二年生とじゃ、行動範囲がかぶるのはグラウンドくらいだから、たまたま会うということは滅多にない――つまり、逆に言えば、神原はわざわざ、短い休み時間を使って、隙間を縫《ぬ》うようにして僕を探しているということになるのだが、しかし……それくらいはわかるのだけれど、けれど、逆に言えば、それくらいしかわからない。
「ふうむ。でも、阿良々木さん。そんな難しく考えなくっても、あれじゃないですか。あの方、普通に阿良々木さんのことが好きなんじゃないんですか?」
「は?」
「確か、そんなことを言ってらしたような」
「……ああ、そういえば。って、んなわけねえだろ。あんなの言葉の綾だって……ギャルゲーの主人公とかじゃないんだから、そんないきなり、ある日突然、モテモテになったりするわけねえだろ」
「そうですね。阿良々木さんがギャルゲーの主人公だったら、わたしも攻略対象に入ってしまうわけですから、そんなのは真っ平|御免《ごめん》です」
「…………」
小学生、ギャルゲーってわかるの?
僕もやったことがあるわけじゃないんだけど。
「でも、もしそうだとしたら、わたしは難易度の高いキャラでしょうね、きっと」
「いや、多分チョロいぞ、お前……」
人見知り属性さえ解除すれば、後はなし崩しだろう……。ヒロインが六人いたとしたら、四番目くらいに攻略されそうな感じ。
まあ、年齢的な問題を考慮すれば、確かに、かなりの難易度にはなるだろうけれど。
「神原はそういう奴じゃ……ああ、でも、恋愛は激しい奴だという噂もあったっけな、そういえば。でも、それにしたって、神原と僕なんて、接点なんて嘘偽りなくゼロだったんだぜ? 僕はあいつら……神原とかとは違って、有名人でも何でもないわけだし」
しかし、考えてみれば、あいつ、最初に僕に声を掛けてきた段階で、もう僕のこと、少なくとも名前やクラスくらいは、知ってたってことになるんだよな。
どうしてだろう。
誰かに聞いた、とか、なのかな……?
「捨て猫を拾ったところを見られたのでは?」
「拾ってない」
というか、見たことないぞ、捨て猫。
大体、拾ってくださいなんて書かれた段ボール箱に入れられたまま、じっとしてる猫なんているのか? どれだけ躾《しつ》けられてるんだよ。
「では、ゴミを拾ったところを見られたのでは?」
「お前今、猫とゴミとを同列に語らなかったか?」
「それこそ言葉の綾です。因縁をつけないでください。か弱い女の子の言うことに言いがかりをつけて楽しむだなんて、阿良々木さんは本当に悪趣味ですね」
「猫に謝れ。猫は怖いんだぞ」
「そうでなくとも阿良々木さん、一目惚れというものは、実際に存在するらしいですよ。人間同士の関係なんて、ぶっちゃけ第一印象で決まってしまうらしいですし。そう理解すれば、一応、あの方が阿良々木さんに付きまとっているという現象にも、とりあえずの説明がつくのでは?」
きゃんきゃん笑いながら、嬉しそうに言う八九寺。
この辺り、小学生だ。
「間違いありません。わたしの中の女の部分が間違いないと告げています。どうします? 阿良々木さん。今はまだ探りを入れられている段階のようですが、もしそうならば近い内にあの方、阿良々木さんに告白してくるかもしれませんよ? どうしますどうしますどうします?」
「あのなあ。僕はそういう、何でもかんでも恋愛感情で説明しちまう風潮ってのは、あんまり好きじゃないんだよ。昔の海外映画よろしくの、愛の力って奴か? それで全てが解決するなら、世の中、どんな楽か知れないよ。ありえないありえない。単純に、二次的で実際的な目的があるはずと探る方が、よっぽど納得が行くぜ。それに僕は」
僕は言った。
「一番難易度の高いキャラ、もう攻略しちまってるからさ」
003
「不愉快なことを言われた気がするわ」
戦場ヶ原ひたぎは突然そんなことを呟《つぶや》いた。
本当にいきなりで、しかも何の脈絡もなかったために、びっくりして、ノートに走らせていた鉛筆の動きが止まってしまった。
しかしどうやらその呟きは完全に独り言だったらしく、戦場ヶ原はすぐに「それにしても」と話題を切り替えて、
「勉強を教えるのって、難しいものなのねえ」
と言った。
あれから、八九寺とは結局、僕の自宅の前まで一緒に歩き、まあ神原のことやそれ以外のことも含め、色々と話をし、そして、別れた。八九寺はいつもどこかをうろうろしているような奴なので、またすぐに、どこかで会えることだろう。で、リュックサックを置いて、着替えて、教科書とノートと参考書をボストンバッグに詰め込んで、自転車を通学用のママチャリからマウンテンバイクに乗り換え、戦場ヶ原の家へ。既に帰宅していた妹達から根掘り葉掘り訊かれそうになってしまったが、幸い、逃走することに成功した。
八九寺にも言ったが、戦場ヶ原の家は、それなりに遠い。普通は自転車では行かない距離だ。ただ、バスを使うと結果的に徒歩での距離が増えてしまうので、結局は自転車で向かうのが一番早いように、僕は思う――気分的な問題だろうし、戦場ヶ原の家を訪れるのはこれで二度目だし、自宅から向かうのはこれが初めてなので、はっきりしたことは言えないが。
民倉荘――木造アパート二階建て。
その二〇一号室。
六畳一間、小さなシンク。
卓袱台を挟んで二人の標準的体格の高校生が向かい合って、勉強用具を左右に広げれば、それでもう部屋がいっぱいになってしまうような環境である。戦場ヶ原家はいわゆる父子家庭で、戦場ヶ原はいわゆる一人っ子で、そして戦場ヶ原の父親はいわゆる夜遅くまで働き詰めなので、当然、この状況、二人きりだった。
阿良々木暦と戦場ヶ原ひたぎ。
健康な十代の若者が、狭い部屋で二人きり。
男女。
そして、公式な恋人同士。
彼氏彼女の関係である。
それなのに。
「……どうして僕は勉強をしているんだろう」
「え? 馬鹿だからじゃないの?」
「嫌な言い方をするよなあ!」
その通りだけど。
もうちょっと何かあってもいいんじゃないのかと思うだけだ。
実際のところ。
付き合うようになったのが八九寺真宵もからんだあの母の日、五月十四日で、それからこれまでにおよそ二週間が経過したわけなのだが、しかし、その間、色気のある展開になったことは、全くと言っていいほどなかった。
………………。
あれ、デートしたこともないぞ?
考えてみれば。
朝、学校で会って、休み時間に話して……一緒に昼食をとって……放課後、互いの帰り道の分岐点まで一緒に歩いて……、じゃあまた明日と言って、それくらいだ。そんなの、ちょっとさばけた連中なら、男女の垣根なんて関係なく友達同士でやってそうなことじゃないか……。
色気のある展開を強く望むとは言わないけれど、もうちょっとこう、恋人同士らしい展開があっても、いいはずなのに。
「勉強という言葉が含まれるイベントで苦労することなんて、私のこれまでの人生には全くなかったから、阿良々木くんが何に悩んでいるのか、何に行き詰っているのかが、ちっともわからないわ……阿良々木くんが何がわからないのかがわからないのよ」
「そうなのか……」
凹むことを言う……。
こいつの学力と僕の学力との間には、一体どれほどの差があるというのだろう。底が見通せないくらいの、深い谷みたいな感じだろうか。
「わからない振りをしてウケを狙ってるんじゃないかとすら思うわ」
「どんな捨て身だよ……。でも、戦場ヶ原、お前だって生まれたときから頭がよかったわけじゃないだろう? 血の滲《にじ》むような努力の末に、学年トップクラスの成績を維持しているはずじゃないか」
「努力している人間がそれを意識すると思うの?」
「……さいですか」
「あ、でも、誤解しないでね。努力が全く実を結ばない、どころか努力するすべさえも知らない阿良々木くんみたいな人間のこと、ちゃんと哀れんではいるのよ」
「哀れまないでくれ!」
「ちゃんと儚んではいるのよ」
「ぐ、ううっ! 突っ込みを入れると形容がより酷くなるルールなのか……!? これでは迂闊《うかつ》に泣きを入れることもできない!」
一体何のゲームなんだか。
「雑草という名の草はなくとも、雑魚という名の魚はいる……」
「雑魚という名の魚もいねえよ!」
「雑草という名の草はなくとも、雑草と呼ばれる人間はいる……」
「呼ばれる人間がいるってことは呼ぶ人間がいるってことだぞ!」
「しかし、まあ、今度の実力テストで阿良々木くんに合格点を取らせることに成功すれば、私は人間として更にもう一歩、先へと進むことができるんだと思うと、やる気が出るわ」
「僕の成績のことを自分の試練みたいに捉えてんじゃねえ……それに、お前が人間として先へと進むべきところは、もっと別にあるだろうよ」
「うるさいわね。絞め殺したわよ」
「過去形!? 僕は既に死んでいるのか!?」
こいつに勉強を教えてもらおうというのは、ミステイクだったかもしれない……うーん、素直に羽川に頼っておけばよかったのかなあ。
でも。
八九寺にはああ言ったものの、正直、戦場ヶ原の家で二人きりになれば、ひょっとしたら何かあるかもしれないなとか、そんな、下心というのも恥ずかしいくらいの可愛らしい目論見が、あるにはあったんだけれど……。
ちらりと、ノートから、戦場ヶ原に眼を移す。
戦場ヶ原は、相変わらずのお澄まし顔。
表情がほとんど動かない。
恋人同士になったところで、僕だけに、誰にも見せない特別な表情を見せてくれたりはしない……そういった意味では、こいつは全く、ツンデレではないのだろう。
態度も全く変わらない。
うーん。
それとも、例によって、僕が過度に期待していただけなのだろうか。恋人同士という関係になれば、もっと特殊な会話をするものだと、なんとなく漠然と考えていたのだが、案外、どういう関係であろうと、話す内容なんて、それ以前までと変わらないと、そういうことなのだろうか。恋人同士の甘い会話なんて、馬鹿げた幻想ということなのだろうか。
「………………」
きっと。
戦場ヶ原のこれまでを思えば、戦場ヶ原ひたぎが戦場ヶ原ひたぎであるための経緯を思えば、無論、貞操観念云々の問題もあるのだろうが、しかし、それだけでなく、きっと、戦場ヶ原は、僕らの関係性というものに、現状で満足しているということなのだろうと思う。
なあなあが嫌だと言っていた。
言っていたということは、嫌なのだろう。
……いや。
でも、それにしたってなあ……。
大体、戦場ヶ原の方だって、この状況で、何も思っていないはずがないと思うのだけれど……でも、なんだかまだしも、前にこの民倉荘を訪れたときの方が色っぽい展開になったくらいなんだよな……。親のいない家に名目上の彼氏を招《まね》くということについて、全く意識しないほどに世間ずれしていない女でもないだろうに……まあ、そういう眼で見れば、こころなし、卓袱台に向かう戦場ヶ原の私服姿は、気合が入っているように、見えなくもないんだけれど、ただ、それにしてはスカートがやけに長いのが気になる。ストッキングを穿いていない生足なのだが、その長いスカートのお陰で生足の部分がほとんど見えない。意識されているというよりは警戒されているような感じだ。
ふう。
それともこういうときは、男である僕の方から、もっと積極的にアピールするべきなのだろうか? しかし、アピールといっても、今まで女の子と付き合ったことなんかないから、アピールのその方法がわからないぞ。
「どうしたの? 阿良々木くん。手元がお留守になっているわよ」
「別に……難易度高いなあと思って」
「この程度の問題で? 困ったものね」
僕の心情を全く理解するつもりもないらしく、ただ単に、心底呆れ果てたような顔つきをする戦場ヶ原。それは人を見下すことに慣れている者の眼だった。
そして憂鬱《ゆううつ》そうに、ぼそりと呟く。
「もう、いいかな」
「え? ちょっと待って、面倒臭そうにシャープペンシルを脇に置いていかにも気だるい物腰だけれど、戦場ヶ原、お前の中で僕を見捨てるっていう選択肢はあるわけなの?」
「なくはないわ」
ばっさりだった。
「6:4……いや、7:3、かしら」
「どちらが7でどちらが3だとしても、とても現実的な比率だな……」
まだしも9:1と言ってくれた方が気が楽だ。
それで、実際はどちらが7なのだろう。
「葛藤《かっとう》するところよね。頑張ってできないよりも頑張らずにできない方が、まだしもプライドは守れるもの」
「見捨てないでください……」
本当に羽川を頼るしかなくなってしまう。
なんだかんだ言って、それは嫌だ。
あんな、誰だって頑張れば勉強はできるようになると、怖《お》めず臆《おく》せず常識レベルで思い込んでいる委員長から教えを受けるなんてこと、僕にはできない……。
「まあ、そこまで言うのなら、見捨てないけれど」
「そうしてくれれば救われるよ」
「いえいえ、来る者拒まず去る者逃がさずよ」
「怖い考え方だな!」
「大丈夫。やるとなれば、死力を尽くすわ」
「死力までは尽くさなくていい! 全力くらいでいいって! 僕にどれほどのことを強いる予定なんだよ、お前は!」
「……でも、阿良々木くん。そういえば、阿良々木くんは、確か数学だけはできるんでしょう?」
「え? ああ、うん」
何故知っているのだろう。
その疑問を口にする前に、戦場ヶ原は、
「羽川さんから聞いたのよ」
と言った。
そうか、羽川なら、僕の成績に誰より詳しい。
「ふうん……でも、羽川が他人の成績とか、吹聴《ふいちょう》するとは思えないけれど」
「ああ、フィーリングが違ったかしら? この間、阿良々木くんと羽川さんが話しているのを、横からこっそり聞いたという意味よ」
「……それは本当にフィーリングが違うな」
又聞きどころか盗み聞きじゃねえか。
「あらそう」
全く気にした風のない戦場ヶ原。
困った奴である。
「数学は暗記科目じゃないから、なんとなくできるんだよ。公式とか方程式とかって、なんかこう、必殺技めいてて、いいじゃん? スペシウム光線っぽいっていうか、かめはめ波っぽいっていうか、なんていうかさ。他の教科にもそういう必殺技があればいいんだけれどなあ」
「そんな都合のいいものがあれば誰も苦労はしないわ。でもまあ、科目自体の習得をとりあえず脇において、テスト勉強に関してだけ言うならば、必殺技というのはなくとも必勝法というのは、あるにはあるのよね――」
戦場ヶ原は脇に置いたシャープペンシルを再び手にとって、
「その中でも、ヤマを張るタイプの勉強方法は結果として射幸心《しゃこうしん》を煽《あお》ることになるので、癖になるといけないから基本的にはあまりお勧めはしないのだけれど、こうなるともう姑息《こそく》療法として、今回はそうするしかないかもしれないわね。やむなしってことで。なんだかんだ言って、要するに阿良々木くんは赤点さえ取らなければいいわけだから、ボーダーを平均点の半分として……」
と、すらすらと、ノートに数字を記す。
予想平均点と、その半分の数字。
まあ、そういう風に示されると、さすがに何とかなりそうではある数字だった――勿論、そこを満点と看做せばということだけれど。
「暗記主体の教科の場合、教師側としては『絶対に出さなければならない問題』というものを幾つか抱えているから、それを狙うのが肝心ね。腰僥《こしだ》めではない、ピンポイントの対策を練るということよ。解けない問題にかかずらっている内に解ける問題を見逃すような結果にならないようにしようってわけ。阿良々木くん、ここまで、私の言っていること、わかるかしら?」
「……まあ、わかる」
しかし、頭いい奴って、テストに対する考え方、全然違うな……試験を作る教師側の気持ちなんて、今まで想像したこともなかったぞ。いや、ひょっとすると、まだちゃんと点数を取れていた中学生の頃は、僕もそういうことを考えていたのかな……もう遠い昔の話のようだ。
中学生の頃。
懐かしくもない。
「では、まずは簡単な世界史から攻めましょう」
「世界史って簡単なのか……」
「簡単よ。重要語句を全部憶えればいいだけじゃないの」
「………………」
「言った通り、今回の阿良々木くんにはそこまでは要求しないけれど。でも、阿良々木くん。今回の実力テストは、今から私が協力して準備すれば、まあ恐らくはクリアできるでしょうけれど、これからのこと、一体、どういう風に考えているの?」
「これからのこと?」
「進路のこと」
言って、戦場ヶ原は、シャープペンシルの先で僕を指す。
「進路って……いきなり、そんなこと言われても」
「高校三年生の五月末よ。いくらなんでも、何も考えていないということはないでしょう? 前に卒業できればそれでいいみたいなことを言っていたようだけれど、それはつまり、阿良々木くんは卒業と同時に就職するということ? 何か具体的なプランが? 働き口にコネやアテがあるのかしら?」
「えーっと……」
「それとも、とりあえずはフリーター? それともニートなのかしら。私、その辺りの言葉は問題を過度に安易に単純化しているようだから、あまり好きではないのだけれど、勿論阿良々木くんの意見、意志が何より優先されるわよね。ああ、でも、まずは専門学校で手に職をつけるという選択肢もあるにはあるのかしら?」
「お前は僕の親なのか……?」
細かいことをちくちくと訊いてくる。
そんな畳《たた》み掛けるように色々と訊かれても、答えられるわけがない……目の前に迫った実力テストのことだけで、もう僕がいっぱいいっぱいになっていることくらい、戦場ヶ原にもわかりそうなものなのに。
「親? 何を言っているの。恋人でしょう」
「………………」
直截的物言い。
必殺技。
ある意味、毒舌よりも必殺技だった。
少なくとも、僕にとっては。
「進路か……そうだよな。確かに、そろそろ決めないとな……ところで、戦場ヶ原、お前はどうするんだ?」
「進学ね。多分、推薦《すいせん》、取れるから」
「……あっそ」
「多分という物言いは謙虚過ぎたかしら」
「お前にしてはな」
「とにかく、進学」
「進学か」
当たり前のように言うよな。
当たり前なんだろうけれど。
さっきの戦場ヶ原の言葉じゃないが、それに今わからないわけだから一生わからないことなのだろうけれど、頭のいい奴の頭がいいっていう感覚は、一体、どういうものなのだろう。
「学費のことを考えたら、進むべき道は自然に絞られてしまうわね。まあ、幸いにというと自虐《じぎゃく》的になってしまうけれど、私は取り立ててやりたいことがあるわけでもないのだから、進路の方に私が合わる感じになると思うわ」
「別に、どこに行っても、お前はお前のままだろうよ」
「そうね。でも」
戦場ヶ原は言う。
「私はできれば、阿良々木くんと同じ道に進みたいものなのだけれど」
「いや……ちょっと、それは」
そう言ってくれるのは、素直に嬉しいけれど、それはもう物理的に不可能だとしか言いようがないぞ……。
そうよね、と頷く戦場ヶ原。
「無知は罪だけれど、馬鹿は罪じゃないものね。馬鹿は罪じゃなくて、罰だもの。私のように前世でしっかりと徳を積んでおけば、そんなことにはならなかったのに、阿良々木くんは可哀想よね。寒さに凍えるキリギリスを見つめるアリの気持ちが、今、まざまざと実感できるわ。この私に虫けらの気持ちを体感させるとは、阿良々木くんも大したものね」
「…………」
我慢しろ……。
この件に関しては、反論はただ傷口を広げるだけだ……。
「いっそ死んでしまえば、楽になるのに。キリギリスだって死骸になれば、貴重な栄養源として、アリに食べてもらえるんだから」
「お前と次に会う場所は法廷《ほうてい》だな!」
我慢できなかった。
僕もいまいち忍耐力に欠ける。
「まあ、でもさ、そうはいっても、戦場ヶ原。卒業後の進路が分かれたところで、僕達、別に違う道を歩くわけじゃないだろう?」
「そうよね。その通りだわ。でも、大学に入って合コン三昧《ざんまい》な日々を送っている内に、心変わりしてしまったらどうしようかしら」
「キャンパスライフを満喫《まんきつ》する気満々なのかよ!」
「どうする? 卒業したら、同棲でもする?」
さらっと、そんなことを言う。
「それなら、互いの進路が分かれたところで、一緒にいられる時間は、今よりもむしろ増えるくらいでしょう」
「まあ……、悪くはないよな」
「悪くはない? 何その言い方」
「……したいです。させてください」
「あらそう」
そう言って――自然に教科書に眼を落とす。何気ない風を装《よそお》ってはいるし、また、とりようによってはただの軽口ともとれるようなタイミングでの発言ではあったが、そういうときに冗談を交えるような奴ではないことくらい、いくら察しの悪い僕でも、もうわかっている。
こいつは、戦場ヶ原ひたぎなのだ。
……それにしても、先の先まで考えている。
いや、先のことというより――戦場ヶ原はそれほどに、僕のことを、真剣に考えてくれていると、そう受け取るべきなのかもしれない。普通、高校生同士のカップルで、付き合いをそこまで思いつめては考えないものだろうに。
しかし、付き合うってなんなのだろう。
口約束だし、保証があるわけでもないし。
嘆息《たんそく》。
駄目だ、今まで女の子と付き合ったことなんかないから、アピールがどうとかいう以前に、こういう状況で一体どんな反応をするべきなのかすらわからないや。
全くもって見当もつかない。
これならギャルゲーとかやっとけばよかった。
参考くらいにはなっただろう。
でも、攻略はいいけど、ゲームと違って現実にはクリアなんてないんだよな。
「ため息が多いわね、阿良々木くん。ねえ、知っている? ため息一回につき、幸せが一つ、逃げていくそうよ」
「既に千回単位で幸せを逃していそうだな、僕……」
「阿良々木くんがいくら幸せを逃そうと興味はないけれど、私の前でため息なんてつかないで欲しいものね。煩《わずら》わしいから」
「本当に酷いことを言うな、お前は」
「煩わしいと言っても恋煩いよ」
「……ん、反応が難しい振りだな、それ」
微妙に嬉しい気もするし。
突っ込みトラップだった。
「ところで、知っている? 阿良々木くん」
戦場ヶ原は言った。
「私、男と別れたことがないのよ」
「………………」
いや、それ、ものは言いようだろ?
ちょっと聞いたらすごく引く手|数多《あまた》ないい女っぽいけれど、それ、自分は男性経験ゼロだと堂々と宣言しているようなものじゃないのだろうか。
「だから」
しかし続ける。
「阿良々木くんとも、別れるつもりはないわよ」
お澄まし顔は、変わらない。表情一つ、眉一つ動かない。こいつには感情というべきものが皆無なのかもしれないと思わせる。ただし――それでも、やはり、意識していないわけがない、はずなのだ。
二年間だ。
中学から高校に上がるための、中学生でも高校生でも、まして春休みでもない頃から、戦場ヶ原ひたぎは、他人との接触を、一切断っていた。他人との接触方法がわからなくなっても――それは無理もないし、また、通常以上に消極的に、必要以上に臆病になったとしても、それは仕方のないことだろう。警戒心の強い野良猫を相手にしているようなものだ――まあ、猫といえば、むしろ羽川の方なのだろうけど。
アピールの仕方がわからないのは、お互い様ってことなのか。
「……なあ、戦場ヶ原」
「何よ」
「お前、ホッチキスとか、まだ持ってるのか?」
「そういえば……最近は持ってないわね」
「あっそ」
「うっかりしていたわ」
「うっかりね」
なら――それも進歩か。
その程度の変化でツンデレというのは、土台無理があるけれど、それが戦場ヶ原のパーソナリティだというなら――
……ん、そういえば。
その二年間以前の、戦場ヶ原といえば――
「お前、そういえば、中学時代は、陸上部のエースだったんだよな?」
「ええ」
「もう陸上とか、やらないのか?」
「ええ。やる理由がないから」
即答といっていい速度で答える戦場ヶ原。
「もう、あの頃に戻るつもりはないわ」
「ふーん……」
中学時代の戦場ヶ原は、すごく人当たりのいいいい人で、誰にでも優しく、努力も怠《おこた》らない、そして気取らない、人格者の陸上部のエースだったそうだ――元気一杯の、活発な生徒だったそうだ。噂の範疇《はんちゅう》を出ない話だが、しかしこれに関しては、かなり信憑性のある噂だといっていい。
それが、高校生になる直前に、変わった。
そして二年。
変わったものは、戻った。
戻ったから――しかし、全てが戻るわけがない。
本人にも、そのつもりがないのだとすれば。
「その必要性や必然性があるとも思えないし、それ以上に、今更戻っても仕方がないって思うし――色々、背負うべき荷物も増えたから。それに、そもそも、もう三年生だからね。でも、阿良々木くん。どうしてそんなことを訊くのかしら?」
「いや、単純に、スポーツをやってた頃のお前ってのに興味があったもんでな……まあ、ブランクもあるわけだし、無理してまでやるようなものでもないか」
猫といえば羽川翼であるように、スポーツといえば、今の僕の中では神原駿河なので、あの後輩の姿を脳裏に浮かべながらの質問だったわけだけれど……にべもないとはこのことだ。
前向きといえば前向き――しかし。
けれど、果たして、後ろを振り返らないことを、前向きといっていいのかどうか。
今の戦場ヶ原は、やっぱり……。
「大丈夫よ。スポーツなんてしなくとも、このスタイルは維持するつもりだから」
「……いや、そういうつもりで言ったわけでは」
「男と別れたことのない、この弾性に富んだわがままなボディに、阿良々木くんは惹かれたのでしょう?」
「身体目当てみてえに言ってんじゃねえよ!」
しかもわがままなボディって……。
他に言いようはなかったのかよ。
「そう。身体目当てではないの」
戦場ヶ原はとぼけた風に言った。
「なら、しばらくは、我慢できるわよね」
それが言いたかったのだろうか。
だとすれば、随分、遠回しな――とても、戦場ヶ原らしい直截的物言いとは言えないような、酷く迂遠《うえん》な言い方だけれど。
貞操観念、ね。
やはりそれだけではないのだろう、が。
「そうよね。阿良々木くんは、バイキング形式の料理を食べるときに、申し込んでしまった以上どうせ支払う料金は同じなのに、『料金分は食べたな』とか『もうちょっと食べないと勿体ない』とか、そんなせせこましいことを言うような厚顔無恥な人間ではないわよね」
「…………」
それがどういう意味合いを含んだたとえ話なのかはわからないけれど、その意図するところが僕に対する何らかの牽制《けんせい》であることだけは、確かだな……。
人間関係に臆病。
僕との関係に、慎重。
ならば、それに付き合うもやぶさかではない。
付き合うというのがなんなのかはやっぱりよくわからないが、付き合うというからには、全てに付き合おうではないか。
「……ああ、そうだ」
と、そこで思いついて――僕は戦場ヶ原に、神原駿河のことを言っておくことにした。いや、余計な心配をかけてはいけないと思ってというような話でもなく、単に話す必要がないだろうと判断して、戦場ヶ原を煩わせてはいけないと黙っていたけれど、先ほど八九寺が、小学生特有の感性で解釈した、神原駿河の行動原理のことを思うと、万が一でもその可能性があるのかもしれないと思うと、立場的に、恋人である(はずの)戦場ヶ原にそれを黙っているままというのは、あんまりフェアじゃない感じもする。
さっき脳裏に思い浮かべちゃったし。
それに、気になっていることも、あるのだ。
「なあ、戦場ヶ原」
「何よ」
「神原駿河って、知ってる?」
「………………」
沈黙が返ってくる。
いや、何も返ってこない。
フェアじゃないというのなら、この質問の仕方自体が全くもってフェアじゃなかっただろう――だって、学校中のスターである神原駿河のことを、知らない生徒などいるわけがないのだから。今はどうなのかしらないが、どんな遅くとも来週頭には、神原が僕をストーキングしているという事実も、噂となって出回ることだろう。まあ、それは気を揉むまでもなくデマ扱いされておしまいだろうけれど――だけど、だから、自然、この質問は、別の意味をはらんでしまうことになる。あえてフォローを入れずにそのまま、生じた静寂に耐えていたら、
「そうね」
と、戦場ヶ原は言った。
「神原駿河か。懐かしい名前だわ」
「……そっか」
やっぱり――旧知か。
そうだと思ったんだ。
勉強会と言ったとき、神原が学年トップの羽川ではなく、まず最初に戦場ヶ原を連想した理由――それだけではなく、これまでの神原の台詞の端々から、そういうニュアンスは感じ取れた。八九寺が言うような可能性に、僕が全く思い当たらなかったのは、そういう雰囲気が漠然どころか歴然としてあったからだ。つまり、僕ではなく、僕以外の何かを、神原が目的としているという雰囲気――
「それでさっき、阿良々木くんは私の中学時代のことを訊いたのかしら? ええ、あの子は中学時代の、私の後輩よ」
「今も後輩だろ。同じ学校なんだから。ああ、それとも、神原の奴、中学時代は陸上部だったってことか?」
「いえ、あの子は中学生の頃からバスケットボール部だったわ。……神原? えらく親しげに呼ぶじゃない」
瞬間で、戦場ヶ原の目つきが剣呑なものへと変化した。普段、全く感情のこもらない戦場ヶ原の瞳が、やにわ物騒な光を放つ。僕が何か釈明の言葉を口にするのをわずかにも待つことなく、右手のシャープペンシルの先端が、僕の左眼を正確に目掛けて、ものすごいスピードで伸びてきた。反射神経で咄嗟にかわそうとしたが、右手の動きと全く同時に、その上に広がるノートをかき散らすことを一切構わずに卓袱台を膝立《ひざだ》ちで乗り越える形で、反対側の左手で僕の後頭部を抱えるようにした戦場ヶ原によって、その動きは封じられた。
シャープペンシルの先端は――眼球ギリギリの、寸止めということすらも非常におこがましい、瞬《まばた》きも許さないほどのギリギリのところで、動きを止めていた。こうなると、後頭部を抱える形の左手は、僕が余計な動きを見せて自分の手元が狂わないようにという戦場ヶ原なりの配慮なのかもしれないと思わせるほどの、手際のよさだった。
……せ、戦場ヶ原、ひたぎ。
お前、ホッチキス持ってないってだけで、ちっとも変わってないじゃん!
「あの子がどうかしたの、阿良々木くん」
「…………!」
おいおい……!
こんな嫉妬《しっと》深い女なのか、こいつ……!
何て冗談みたいな情の深さなんだ……大体、そんな親しげなニュアンスなんてなかっただろ、今の。後輩を呼び捨てにしただけだぞ? 自分の知らないところで自分以外の女子と知り合っているってだけで、ここまでの仕打ちをされてしまうのか……実際に浮気とかしたら、僕は一体、戦場ヶ原から、どんな目に遭わされてしまうんだ?
こんな恐ろしい目に遭っているけど、しかしこれはこれで、逆に、早く言っておいてよかったと、安心させられるような状況だった。いや、本当によかった、十分に言い訳の余地がある今回のようなケースで、戦場ヶ原のそういう一面を知っておけて……!
「阿良々木くんって、怪我の回復、とても早いのだったわよね。じゃあ、目玉の一つくらいなら、いいかしら?」
「やめろやめろ! さすがに眼球はまずい! やましいところは何もない、親しげになんて全く思っていない、僕は戦場ヶ原一筋だ!」
「あらそう。気持ちいいことを言ってくれるわね」
すっと――シャープペンシルを引く。それをくるりと手の内で二回ほど回転させて、卓袱台の上に置き、散らかってしまったノートや教科書を、整え直す。僕はばくばくしたまま静まることのない心臓を抑えながら、戦場ヶ原のそんな様子を見守った。
「少し熱くなってしまったかもしれないわ。びっくりさせちゃったかしら、阿良々木くん」
「……お前、絶対その内、人を殺すぞ」
「そのときは、阿良々木くんにするわ。初めての相手は、阿良々木くんにする。阿良々木くん以外は、選ばない。約束するわ」
「そんな物騒なことをいい台詞みたいに言ってんじゃねえよ! 僕、お前のことは好きだけど、殺されてもいいとまでは思わないよ!」
「殺したいくらいに愛されて、愛する人に殺される。最高の死に方じゃないの」
「そんな歪んだ愛情は嫌だ!」
「そうなの? 残念ね。そして心外だわ。私は阿良々木くんにだったら――」
「殺されてもいいっていうのか?」
「……ん? え、あ、うんまあ」
「曖昧な返事だーっ!」
「うんまあ、それは、そうね、よくないけれども」
「そして曖昧なまま断ったーっ!」
「いいじゃない、納得しなさいよ。私が阿良々木くんを殺すということは、つまり阿良々木くんの臨終の際、一番そばにいるのがこの私ということになるのよ? ロマンチックじゃない」
「嫌だ、僕は誰に殺されるとしても、お前に殺されるのだけは嫌だ、誰にどんな殺され方をされてもお前に殺されるよりはマシな気がする」
「何よ、そんなの、私が嫌よ。阿良々木くんが私以外の誰かに殺されたなら、私はその犯人を殺すわ。約束なんか、守るものですか」
「…………」
こいつの愛情は、既に相当、歪んでいる。
愛されてることは、実感できるけど……。
「ともあれ、神原の話だったわね」
危険な会話はその辺りでおひらきとばかりに、戦場ヶ原は相変わらずの手順で、当然のように話を戻す。
「まあ、部活は違ったのだけれど、私は陸上部のエースで、あの子はバスケ部のエースだったから、学年は違えど、それなりに付き合いがあって――それに」
「それに?」
「……まあ、今となっては取り立てて言うほどのことでもないんだけれど、部活を離れたプライベートにおいても、あの子には色々と面倒をかけたというか、面倒を見させられたというか……いえ、阿良々木くん」
と、僕に水を向ける戦場ヶ原。
「その前に、どうして阿良々木くんがここで、あの子の名前を出したのか、教えてくれるかしら。やましいところがないのなら、ちゃんと説明してくれるわよね」
「あ、ああ」
「勿論、やましいところがあっても、ちゃんと説明してもらうわよ」
「………………」
下手に隠し立てをすると本当に殺されるかもしれなかったので、僕は三日前から、その、神原駿河からストーキングを受けているということを、戦場ヶ原に話した。後ろから『たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ』と、小気味よいリズムで駆けてきて、僕を相手に取り留めのない話をして、全く何の目的も匂わせないままに帰っていく一人の後輩――神原駿河。何か目的はあるのだろうけれど、その目的がわからない、と。
説明しながら、僕は思っていた。
神原はきっと、戦場ヶ原のいないところを狙って、僕を訪ねてきていたのだろう。今日、八九寺と一緒にいるところを目掛けて駆けて来たのは例外として、基本的には僕が一人でいるところを、狙い澄ましてきていたはずだ。つまり、戦場ヶ原が神原のストーキングを今まで知らなかったことは、たまたまではない。
更にもう一つ、思う。
親しげに呼ぶ――というのなら、僕よりもむしろ、戦場ヶ原ではないのか、と。中学時代の後輩とはいえ、戦場ヶ原が神原のことを、『あの子』なんて言い方をするのは、そう、ニュアンスとしてあまりにも――いや、それは単なる言葉の綾なのかもしれないけれど。
感情が表情に出ないのと同様、戦場ヶ原は、感情が声音に全く現れない。どんなことを言うのにも、ほとんど平坦な口調といっていい。どれだけの強い意志で自分を律しているのだろうと考えると、ぞっとするくらいだ。
けれど――あの子、か。
「そう」
おおよその説明を聞いたところで、戦場ヶ原は、やがて、そう頷いた。やはり、表情一つ変わらないし、平坦な口調だった。
「ねえ、阿良々木くん」
「なんだよ」
「上は洪水下は大火事、なーんだ」
「……?」
どうしていきなりなぞなぞなのだろう。
一体戦場ヶ原はいつからなぞなぞキャラになったんだと不思議に思いながら、僕はとりあえず、その間いに答える。それは幸い、知っているなぞなぞだった。
「そりゃまあ、風呂釜《ふろがま》、だろ?」
「ぶっぶー。答は」
平坦なままで言う戦場ヶ原。
「……神原駿河の家よ」
「お前、学校のスターの家に何をするつもりだ!?」
マジ怖いって!
眼が据《す》わってるって!
「まあ、冗談はともかく」
「お前の冗談は洒落になってないんだよ……実行しかねないんだもん、お前」
「そうかしら。でも、阿良々木くんがそこまで言うのだったら、冗談は口だけにしておいてあげてもいいわよ」
「いや、それが普通なんだけどな……」
「神原はね、阿良々木くんより一年前に、私の秘密に気付いたの」
特にどうということもなさそうに――普通の調子で、しかしそれでも若干鬱陶しそうにしながら、戦場ヶ原はそう言った。
「私が二年生になったばかりの頃、つまり神原が直江津高校に入学してきてすぐのこと。学校の位置的に、それは、私のことを知っている後輩が新しく入学してくるだろうことは予想済みだったし、それについての対策も、一応、私なりに練《ね》ってはいたのだけれど――神原に関しては、少しばかり油断してしまったの」
「ふうん」
戦場ヶ原ひたぎ。
彼女の抱えていた秘密――
僕は階段で足を滑らせた彼女を受け止めたことで、その秘密に気付いた――言うなればそれはただの偶然だ。だが、それは逆に、その程度の偶然で露見してしまうくらいの、危うい秘密だったという風に言うこともできる。秘密に気付いたのは僕が最初ではないと、戦場ヶ原自身も言っていたし――とすると、神原は……。
神原の、あの性格からすると。
「あいつは……神原は多分、お前のことを助けようとしたんじゃないのか?」
「ええ、その通りよ。拒絶したけれど」
戦場ヶ原は平然と言う。
それが当然の文法のように、正しい日本語の使い方でもあるかのように。
「阿良々木くんのときと、似たような対処を取らせてもらったわ。阿良々木くんは、それでも私にかかわろうとした。神原は、それきり、戻ってこなかったわ。まあ、その程度の関係よ」
「……戻ってこなかった」
それが、一年前のことか。
多分、徹底的に――拒絶したのだろう。昔の自分を、中学時代、陸上部のエースだった時代の自分をよく知っている神原が相手だったがゆえに、恐らくは僕のときとは似ても似つかないほどの、強烈な拒絶をしたのに、違いない。そうでなければ――あの神原が、そうそう簡単に引くとは思えない。確か、僕が戦場ヶ原の抱える秘密を知った五月八日の段階で――今現在、学校内でそれ[#「それ」に傍点]をそれ[#「それ」に傍点]と知っているのは、僕の他には保健の春上先生だけだと、戦場ヶ原は言っていた。
今現在[#「今現在」に傍点]――と。
つまり、神原駿河は、過去に、戦場ヶ原の抱える秘密に気付いたものの、戦場ヶ原によってそれを無理矢理に忘れさせられた哀れな被害者……いや、犠牲者の内の一人ということになるのだろうが――しかし、それでも果たして、あの神原が、本当に、戦場ヶ原のことを、忘れられたのかどうか。
「……友達だったんだろ?」
「中学生の頃はね。今は違うわ。赤の他人よ」
「でも、お前はもう一年前とは……状況が変わっているっていうか、その、抱えている秘密って奴は、解決したんだから――」
「言ったでしょう? 阿良々木くん」
遮るように、戦場ヶ原は言う。
「私、戻るつもりはないのよ」
「…………」
「そういう生き方を選んだのだから」
「そっか……」
まあ。
それが戦場ヶ原の選んだ戦場ヶ原の生き方なのだとしたら、僕が横から口を挟むような問題ではないのだろうとは思う――理屈の上では、そう思う。自分の方から手酷く拒絶した相手と、災禍が解決したからといって元の鞘《さや》に収まろうなどと、そんな虫のいいことを言えるような性格でも、戦場ヶ原はないだろうし。
「しかし……お前と神原との関係はわかったけれど、それって、その神原が僕に付きまとう理由の説明には、あんまりなってないよな」
「大方、私と阿良々木くんが恋人間係になったことを、知りでもしたのでしょうよ。私達が付き合い始めたのが二週間前、ストーキングが始まったのが三日前なら、タイミング的には丁度よさそうなものじゃない」
「何? つまり、戦場ヶ原ひたぎにできた彼氏ってのがどんな男なのか、気になって……それで探りを入れているってことなのか?」
「そんなところだと思うわよ。迷惑かけるわね、阿良々木くん。そうね、それについては、私ができる釈明は一つもないわ。人間関係を清算し切れていなかった私の責任といっていいもの」
「清算って……」
嫌な言葉を使う。
むしろ凄惨《せいさん》って感じだし。
「大丈夫。責任は取らせてもら……」
「取らなくていい取らなくていい! お前何するかわかんないもん! このくらいのこと、僕のトラブルだから僕が解決する!」
「遠慮しなくてもいいのに。水臭いわね」
「血生臭いんだよ、お前は……」
んー。
しかし、なんだか、それでも、腑《ふ》に落ちない。
「神原って、一年前、お前にこっぴどく拒絶されてるんだろ? それで、それ以来、それっきりなんだろ? なのに今更、お前に彼氏ができたくらいのことが、気になるもんなのか?」
「これが一般的な事例で、ただ決別した先輩に彼氏ができたということだけならばともかく――この場合は違うでしょう? 阿良々木くん。阿良々木くんは、神原にはできなかったことをやったわけだから、それを不思議だとは思わないわよ。阿良々木くんがしたことは、神原にとって、自分ではできなかったことなのだから」
「ああ……そういうことか」
戦場ヶ原ひたぎの秘密に気付いておきながら……拒絶されてしまった彼女。激しく、容赦なく、拒絶されてしまった彼女。恋人という立場にいる僕が、勿論、その秘密を知らないわけがないというくらいの推測は通常の手順で考えれば誰だってつくだろうし、そうすれば、僕が戦場ヶ原の秘密を知りながらにして[#「僕が戦場ヶ原の秘密を知りながらにして」に傍点]その隣にいるという姿を見て、確かに、神原からすれば、思うところがなくはないだろう。
とはいえ。
その秘密自体が既に解決していることにまで、神原が気付いているとは、思えないけれど。そこまで推測がついていたのなら、さすがに神原は、僕ではなく、直接、戦場ヶ原の方に接触するだろうと、思うから。
「自分で言うのもなんだけれど、神原にとって、戦場ヶ原ひたぎは、憧《あこが》れの先輩だったのよ」
戦場ヶ原は目線を横にやりながら言った。
「私自身、そういう位置づけにいたという自覚はあったし、自ら望んでそういうキャラクターを演じていたわけだしね。仕方のないことよ。仕方のないことだったと思う。だから、拒絶するときも、後腐れのないように注意をしたはずなのだけれど――そう。やっぱりあの子、まだ私のこと、忘れていなかったのね」
「……あんまり迷惑みたいに言うなよ。別に向こうは、悪気があるわけじゃないんだろ。大体、人から忘れられるっていうのは、結構凹――」
「迷惑よ」
きっぱりと言う戦場ヶ原。
全く躊躇しない口振りだった。
「悪気のあるなしなんて、関係ないわ」
「そんな言い方、するもんじゃないだろ……お前が神原にとって憧れの先輩だったっていうなら、それに、神原が今でもお前のことを気に掛けてるっていうなら……まあ、仲直りっていうのもおかしいかもしれないけれど、その余地くらいなら、あるんじゃないのか?」
「ないわよ。一年も前のことだし、仲良くしていたのも中学生の頃のことだし、それに、仲直りっていうのも、やっぱりおかしいし。戻るつもりはないって、言ったでしょう? それとも阿良々木くん、私は今更のこのことあの子の前に出て行って、いっぱい待たせてごめんなさいとでも言えばいいわけ? 愚かしいことこの上ないわね」
戦場ヶ原は、この問答はこれでおしまいだとばかりに、そしてたった今思いついたかのように、話題を変えた。その手際は、いつもながらの見事なものだった。
「そうそう、そういえば阿良々木くん、近い内に、忍野さんに会う予定とか、あるかしら?」
「忍野に? ん、まあ、なくもないけれど――」
忍野はともかく――忍に血を飲ませてあげなくちゃいけないから、あの学習塾跡には、そろそろ行かなくてはならない。今日が金曜日だから、そうだな、明日か明後日にでも、時間を作って……。
「そう。じゃあ」
戦場ヶ原は音もなく立ち上がって、衣装箪笥の上に置いてあった封筒を手に取り、そして戻ってきた。封筒をそのまま、僕の前に差し出す。封筒には、郵便局のマークが入っていた。
「これ、忍野さんに、渡しておいてもらえるかしら」
「なんだこれ……ってああ」
訊いて、すぐに気付いた。
忍野メメ――
あの軽薄なアロハ野郎に支払う、仕事料か。
戦場ヶ原が抱えていた秘密を、戦場ヶ原が見舞われていた災禍を、取り除くのに必要だった――対価としての、平たく言えば仕事料。
確か、十万円とか言っていた。
一応、中身を確認するが、間違いなく、万札が十枚、入っている。恐らくおろしてきたばかりの、ピン札が、ぴったり十枚。
「へえ……思ったより早く準備したんだな。都合するのに時間がかかるみたいなこと言っていたのに。バイトするんじゃなかったのか?」
「したのよ」
戦場ヶ原はしれっと言う。
「少しばかり、お父さんの仕事を手伝わせてもらってね。まあ、無理矢理手伝ったというのが正しいけれど、それで稼いだお金よ」
「ふうん」
戦場ヶ原の父親は、外資系《がいしけい》の企業に勤めているとのことだったが――まあ、選択としてはそれは妥当なのかな? やっぱり戦場ヶ原の性格じゃ、普通のアルバイトには向いていないだろうし、大体、僕らの学校は、アルバイト禁止のはずだ。
「個人的にはお父さんの力を借りるのは反則っぽいから、あまり気は進まなかったのだけれど、それでも、お金のことだけはきちんとしておきたいから。借金のある家庭で育った私としてはね。いくらか端数が出たから、それはまあ今度、阿良々木くんに学食でもおごってあげるわ。我が校の学食は、レベルが高い割にリーズナブルだから、そうね、何を頼んでもいいわよ」
「……ありがとう」
でも、学食なんだ。
平日の昼休みなんだ。
こいつ、僕とデートとかするつもり、そういうの、全くないのかな……。
「でも、それなら、お前が忍野に直接会って渡せばいいんじゃないのか?」
「嫌よ。私、忍野さん、嫌いだもの」
「なるほど……」
そういうこと、はっきり言うよな、恩人相手に。
それで決して、忍野に対して恩を感じていないわけではないというところが、戦場ヶ原の人間の大きいところだと思う。
まあ、別に、僕も忍野が大好きってわけではないさ。
「できれば二度と会いたくないし、これっきりかかわりたくもないくらいね。あんな、他人のことを、見透かしたような人」
「まあ、忍野がお前と相性が悪いってのはその通りだろうけどな。あの人を馬鹿にしきった軽薄な物腰は、お前の性格とは合わないだろうよ」
言いながら、僕はその封筒を、座布団の脇に置いた。そして、その封筒を上からぽんと叩いて、それから戦場ヶ原に、頷いてみせる。
「わかったわかった。そういうことなら、もう何も言わないさ。じゃあ、確かに受け取った。今度、忍野に会ったときにでも、ちゃんと責任を持って、渡しておいてやるよ」
「よろしくお願いするわ」
「うん」
そして、僕は思った。
相性。
物腰。
性格。
あの後輩、神原駿河の、何とも形容のし難いあの新機軸のキャラクターは――そのまんま、戦場ヶ原のキャラクターの、裏返しなのではないだろうかと。相性や、物腰や、性格、それに、それ以外の全てを含んで――
戦場ヶ原は中学時代、陸上部のエースだった。
それだけでなく、憧憬の対象だった。一身に集めていた尊敬の目線は――当然、神原のものだけではなかっただろう。そういう位置づけで、そういうキャラクターを演じていたのだろう――暴言や毒舌を撒き散らす、今の姿とは、多分、正反対のキャラクターを、演じていたのだろう。
暴言と甘言。
毒舌と褒舌《ほうぜつ》。
正反対。
裏返し。
それはつまり。
「では阿良々木くん」
戦場ヶ原は感情のこもらない眼で言った。
「勉強を続けましょうか。知っている? 有名な、トーマス・エジソンの言葉。天才は九十九パーセントの努力と一パーセントの才能である、って。さすが天才、いいこと言うわよね。でもきっとエジソンは、一パーセントの方が大事だと思っていたに違いないのでしょうね。人間と猿とを分ける遺伝子の違いって、そのくらいだって言うわよね?」
004
戦場ヶ原は二年間――そして僕は二週間、である。
羽川はゴールデンウィークの間中。
八九寺は、どうだろう、正確には不明。
何かといえば、それは、怪異に触れていた期間である。普通ではない体験[#「普通ではない体験」に傍点]をした時間――だ。普通ではとてもじゃないがありえない、恐るべき体験をした、期間と時間。
たとえば阿良々木暦。
僕の場合。
僕はこの現代、二十一世紀の文明社会の世の中で、穴があったら入りたいほど恥ずべきことに、古式ゆかしき吸血鬼の被害にあった――血も凍るような恐怖と恐慌の、そして伝統と伝説の吸血鬼に、身体中の血液という血液を、搾り尽くされた。
搾り尽くされ、乾涸びて。
そして僕は吸血鬼になった。
太陽に怯え十字架を嫌い大蒜を忌避《きひ》し聖水を煙《けむ》たがる、その代償《だいしょう》として人間の数倍数十倍数百倍数千倍の肉体能力を得る、更にその代償として、人間の血に対して絶対的な飢えを感じる――漫画やアニメや映画の中で大活躍のナイトウォーカーとなった。いやはや、そんなリアルな吸血鬼、反則だと思ったものだ。今時の吸血鬼は、日中でも平気で歩いて、十字架のアクセサリーを着け、餃子《ぎょうざ》でも食べて聖水でも飲み干して、それでも肉体能力だけはずば抜けて――というのが主流だろうに。
それでも。
やっぱり、吸血鬼という以上は、人の血を吸わなければならないところだけは、今も変わらないだろうけれど。
血を吸う鬼――吸血鬼。
結局僕は、通りすがりのおっさん、別にヴァンパイアハンターでもなければキリスト教の特務部隊でもなく、同属殺しの吸血鬼でもない、普通の通りすがりのおっさん、軽薄なアロハ野郎こと忍野メメによって、そんな地獄から救い上げてもらったわけなのだけれど――しかしそれで、そんな二週間を送ったという事実自体が、消えてなくなったわけではない。
鬼。
猫。
蟹。
蝸牛。
ただ、それでも僕と、他の三人との間には、決定的な差異があるということを、忘れてはならない。特に、戦場ヶ原ひたぎの場合と阿良々木暦の場合には、かなりの違いがある。
それは期間の長さということではない。
失ったものの、多さだ。
戻るつもりはない――と言った。
しかしそれは、必然性や必要性といった話ではなく、戦場ヶ原は戻りたくとも、もうあの頃には戻れないという意味ではないだろうか?
何故なら戦場ヶ原は……二年間、他人付き合いというものを一切合財《いっさいがっさい》拒否してきた、クラスにおいて誰とも接触することもなく、二年間やってきた戦場ヶ原ひたぎは――その二年間が終わった今、何も変わっていない。
僕以外のことについて、何も変わっていない。
阿良々木暦が戦場ヶ原にとって特別であり特例になっただけで、それ以外については、本当に戦場ヶ原は、何も変わっていないのだ。
それ以前とそれ以後に、差異がない。
保健室に行かなくなっただけ。
体育の授業に参加するようになっただけ。
教室の隅の方で――静かに本を読んでいる。教室の中において、本を読むというその行為によって、クラスメイトとの間に、強固な壁を築いているかのように――
本当に、僕と話すようになっただけだ。
昼食を、僕と一緒に取るようになっただけだ。
未だあいつの、クラスの中における位置づけは、物静かで病弱な優等生――である。クラスメイトからは、心持ち、ある程度病状が回復した程度にしか、捉えられていない。
委員長である羽川は、それでも大した変化だと、無邪気に喜んでいたけれど――僕はそれを、そういう風景をそんな感じに、単純に楽観的にとらえることはできない。
失ったのではない。
捨てたのかもしれない。
けれどそれは、結果からすれば同じこと。
わかったような口を叩くつもりはさらさらないし、これからどんな風に付き合っていったところで、本当のところがわかるわけじゃないのだろうけれど――僕が横から口を挟むような問題ではないのだろうけれど。
容喙《ようかい》や干渉が、正しいとは思わないけれど。
それでも、思わなくはない。
戦場ヶ原がもしも、と。
今、戦場ヶ原は、ホッチキスを持っていない……それが進歩で、それが変化であるというのなら、更にその先[#「更にその先」に傍点]というのがあっても、いいはずじゃないのか、と。
僕のことについてだけでなく。
他のことについて、もしも――
「もしもし?」
「はい、お待たせしました、羽川です」
「…………」
いや、電話の受け答えとしてはとても正しいのだろうけれど、携帯電話でその台詞は、ちょっとおかしくないか?
羽川翼。
クラス委員長――優等生のハイエンド。
委員長になるために生まれてきたような女だ。
神様に選ばれた委員長の中の委員長――と、最初は僕も冗談で言っていたのだけれど、クラスの副委員長として二ヵ月の時間を共に作業をしていて、僕はそれが本当に笑えないほどにマッチする表現であることを、知る羽目になった。知識は人間にとってすべからく大切であるべきものだが、できれば知りたくなかった。
「どうしたの? 阿良々木くんが私に電話をかけてくるなんて、珍しいね」
「いや、別に――なんていうか、お前にちょっと訊きたいことがあって」
「訊きたいこと? 別にいいけど。あ、文化祭の出し物の件? でも、実力テストが終わるまでは、文化祭のことについてはあまり考えない方がいいんじゃないのかな――阿良々木くん、かなり大変なんでしょう? 勿論、雑務は全部、私がやっておくけれど。それとも、出し物を変更しようってこと? アンケートで決めちゃったことだから、それは難しいと思うわよ。あ、ひょっとして、変更せざるを得ない何らかの問題があったとか? それだったら、早く対応しなくちゃいけないね」
「……相槌くらい打たせてくれ」
本当、話を勝手に進める奴だよな。
思い込みが激しい上に、一瀉千里《いっしゃせんり》によく喋る。
言葉を挟む隙を見つけるのが大変だった。
夜八時。
民倉荘、戦場ヶ原の家からの帰り道、僕はサドルには跨らずに自転車を押して、アスファルトの道路を歩いていた。ペダルをこがずに自転車を押しているのは、隣に八九寺がいるからでもなくまたも神原が僕を目掛けて駆けてきたからでもなくて、何となく、考えごとをしたかったからだ。
結局、夜八時まで、勉強詰めだった。
夕飯どき、ひょっとしたら戦場ヶ原の手料理がいただけるのではないかとにわかに期待を寄せていたのだが、あの女はそんな気配を全く見せなかった。耐え切れず、それとなく空腹を訴えたら、「そう。じゃあ今日はこれでお開きね。憶えてるとは思うけれど、この辺りは街灯が少ないから、帰路は気をつけて頂戴。シーユーレーター、アリゲーター」と、あっさりと追い出されてしまった。父親が仕事で夜中まで出ていることの多い、事実上一人暮らしの戦場ヶ原ひたぎのこと、料理が出来ないわけがないと思うのだが……。
返す返すも、難易度の高い女だった。
まあ、今の僕は、あんまりお腹の空かない体質だから、訴えた空腹というのは半分以上、嘘《うそ》なのだけれど。
ともあれ。
考えごとといっても、教える立場の戦場ヶ原から平均点を取ることすら諦められてしまうような僕のこと、あまり考えごとが生産的な意味を持つわけではない。ほとんど自己満足みたいなものだ。しかし、世の中には自己満足で終わっていいことと、そうではないことがあり、この場合は後者だった。
で。
右手で自転車を押したまま、歩きながら、羽川の携帯電話に、僕は電話をかけたというわけだ。時間は夜の八時半――それほど親しくない間柄の女子に電話をかけるのに、相応しい時間なのかどうかは、どうだろう、僕にはよくわからないのだけれど、羽川の反応から見る限り、とりあえず許容範囲ではあるようだ。真面目の化身《けしん》のような、人一倍モラルに厳しい羽川なら、駄目なときは駄目だと、ちゃんと言ってくれるはずである。
「えっと。ちょっとばかし長い話になるかもしれないんだけど、羽川、時間、いいか?」
「ん? いいよ? 軽く勉強してただけだから」
「…………」
嫌味なくさらっと、そんなことを言えてしまう辺り、神様に選ばれた委員長の中の委員長だ。
軽くって、どういう勉強のことなんだろう……?
「まあ、じゃあ、できるだけ手短に……羽川、戦場ヶ原と同じ中学だったよな? なんだっけ、確か――そうそう、公立清風中学だっけか」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、一個下の後輩で、神原駿河って奴、知ってるだろ?」
「そりゃ、勿論、知ってるけど? て言うか、神原さんのことを知らない人なんて、いるのかな? 阿良々木くんだって知っているでしょ? バスケットボール部のキャプテン、学校中のスター。私だって、友達と一緒に、試合の応援に行ったことあるくらいだし」
「いや、だから今現在の話じゃなくて――神原の中学時代の話が聞きたいんだけれど」
「んん? そうなの? なんで?」
「なんでも」
「ふうん……いや、でも、中学時代も、今とそんなに変わらないよ。バスケットボール部のエースで、大活躍。二年生の後半からは、今と同じようにキャプテンを務めていたみたいだし。それがどうかしたの?」
「いや、えっと――」
話せないよなあ。
言えないよなあ。
信じないよなあ。
よりにもよってそのスターが、こともあろうにこの僕を、言うにこと欠いてストーキングしているだなんて。
そうでなくとも、どこまで正直に事実を伝えていいものかという問題もあるわけなのだが、しかし、まあ、相手が羽川なら、ある程度の事情を話しても、いいかな。当然、包むべきところは、オブラートに包ませてもらうけれど。
「その神原と戦場ヶ原が、中学時代に仲がよかったって話なんだけれど――そうなのか?」
「んん? いや、前にも言ったと思うけれど、別に私、同じ中学だったっていうだけで、戦場ヶ原さんとそんな物理的接触があったわけじゃないんだよ? 戦場ヶ原さんが有名人だったから、地味めの私が一方的に知っていたっていうだけで――」
「お前のその謙虚な姿勢にはいつもながら感動すら覚えるけれど、そういういつも通りのやり取りは今回はさておくとしてだな……」
「ヴァルハラコンビ」
「は?」
「今、言われて、思い出した。ヴァルハラコンビってね、呼ばれてたよ。陸上部の戦場ヶ原さんとバスケ部の神原さんで、ヴァルハラコンビ」
「ヴァルハラコンビ……? ヴァルハラってどういう意味だっけ、聞いたことあるような気もする単語だな。しかし、なんでそんな風に呼ばれることに……」
「神原の『ばる』と、戦場ヶ原の『はら』で、『ヴァルハラ』なのよ。で、ヴァルハラっていうのは、北欧神話で、最高神オーディンの住む天上の宮殿のことで、戦死した英雄の霊が迎えられる、戦いの神様の聖地っていう意味があるから――」
「……ああ、神原の『神』と戦場ヶ原の『戦場』か」
「それでヴァルハラコンビ」
「はあ……」
嵌りすぎじゃん、それ。
たかだかニックネームのことなのに、うまいこと言う人間がいるもんだな……あえて難を言えば、その響きがあまりに綺麗過ぎて、聞いた側のリアクションとしてはただただ感心するばかりで、そういう意味では逆に反応に困ってしまうくらいであるということだが、しかしそんなの、突っ込み担当者の意地の悪い見方って奴だろう。
「まあ、コンビなんて言われてるくらいなんだから、少なくとも仲が悪かったとか険悪だったとか、そういうことはないんじゃないの? 戦場ヶ原さんは卒業ぎりぎりまで部活に参加してたから、運動部同士の付き合いっていうのは、最低限、あっただろうしね」
「お前は何でも知ってるな」
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」
いつも通りのやり取りだった。
ともかく……まあ、話の裏は取れた感じ。
裏が取れたところで――どうしようか。
表を、どうしようか。
「前に訊いたことの繰り返しになってしまうけれど、中学時代の戦場ヶ原って……今とは全然違う感じだったんだよな」
「うん、そうだよ。まあ、最近、戦場ヶ原さんも少しずつ変わってきてるみたいだけど、やっぱりそれでも、昔とは違うかな」
「そっか……」
変わってきている。
僕に関するところだけ。
だから――昔とは違う。
「やっぱり、後輩に人気とか、あった?」
「そうだね。男女問わず人気あったよ。後輩という区分にも、別に限らなかったみたいだよ? 先輩がいた頃には先輩にも可愛がられていたし、勿論、同級生にも評判がよくて――」
「つまり老若男女問わず――か」
「先輩後輩だから、老若ってほどじゃないけどね。それでも、あえて言うなら、後輩の女子の人気が、一番高かったのかな。そういうことでしょ? 今阿良々木くんが聞きたいのって」
「……察しがよくて助かるよ」
ちょっと察しがよ過ぎるくらいだけどな。
忍野じゃないが、見透かされた気分だ。
「でも、阿良々木くんは、昔の戦場ヶ原さんのことなんて関係なく、今の戦場ヶ原さんのことが、好きなんだよねー?」
「………………」
お前、ノリが小学五年生と一緒だぞ。
ちなみに、別に誰に宣言したわけでもないけれど、僕と戦場ヶ原が付き合っていることは、バレバレである。クラスにおいて大人しい優等生という位置づけであり、今もそうあり続けている戦場ヶ原は勿論、僕もまたそういう行為の対象となるクラスメイトでは決してないから、露骨にからかわれたり無闇にはやしたてられたりはしないけれど、しかしそれでも、いつの間にかそれ自体は周知の事実、暗黙の了解となっていた。
噂というのは恐ろしい。
三年生と二年生の間にある壁を越え、神原のところにその噂が届くのには、さすがにある程度の時間を要したようだけれど……まあ、戦場ヶ原が有名人だということと、神原がその戦場ヶ原のことを気に掛けていたのだろうことを思えば、それでも少し、遅いくらいなのかもしれないが、やはり学年を跨いでしまえば、そんなものだろう。
「何度も言うけれど、清く正しい男女交際を心がけなさいよ、阿良々木くん。不行状《ふぎょうじょう》が噂になるようなことだけは、しないでね。戦場ヶ原さんは真面目そうだから、まあ、燗《ただ》れた付き合いにはならないとは思うけれど」
「はあ……真面目ね」
そう言えば、羽川もまだ、戦場ヶ原の本性は知らないんだよな……他のクラスメイトはともかくとして、僕達が付き合う前から付き合うことを知っていた驚異の羽川委員長でさえ欺いているとは、戦場ヶ原も大したタマだ。そういう意味では、戦場ヶ原は誰にも見せない顔を僕だけに見せてくれているということになるんだろうけれど……あんまり嬉しくないなあ、それ。特別とか特例とかって、そういう意味じゃないわけだろう。
いや、でも、僕達の付き合いの現状は、おおよそそんな感じなのか。手料理すら作ってくれないというのだから、爛れた付き合いになんて、なりようがない。
…………。
ああ。
拒絶された――ということは、中学時代がどうあったところで、神原は、戦場ヶ原の本性を、はっきりと知っているということになるんだ。そしてそれでも尚、今、僕に声をかけてきたということは、神原は――
「戦場ヶ原さんは、難しいよ?」
羽川は、唐突に、そう言った。
そういえば――羽川には、前にも、似たようなことを言われたことを、僕は思い出す。勿論、羽川の言うことだから、それは戦場ヶ原ひたぎの、攻略難易度のことを指しているわけではないのだろう。
「それこそ、あんまり知った風なことを言うつもりはないけれど、戦場ヶ原さん、難攻不落《なんこうふらく》のセルフフィールド、作っちゃってるからさ」
「………………」
「阿良々木くんも、持ってる奴ね。強弱はともかく、セルフフィールド自体はプライバシーとかいって、誰でも持っているものだけれど、戦場ヶ原さんや阿良々木くんは、そこで更に、籠城戦《ろうじょうせん》を繰り広げちゃってるわけ。そういう人は、人付き合いそのものを鬱陶しいと思ってることが多いから。思い当たること、あるでしょ?」
「僕のことか? それとも、戦場ヶ原のことか?」
「両方」
「まあ、あるね」
それはそうだ。
しかし、そうだとするなら。
「でもね、阿良々木くん。人付き合いが嫌いなのと、人間嫌いは、違うんだよ?」
「なんだよ。そんなの、一緒じゃないのか?」
「『世の中に 人の来るこそ うるさけれ』」
落ち着いた、静かな声で、羽川は言った。
「『とは言ふものの お前ではなし』……いくら阿良々木くんが国語苦手だって、このくらいなら、言ってる意味、わかるよね? それに、私が言いたいことも、わかってくれるよね?」
「……わかった」
そう答えるしかない。
まるで子供扱いなのは、業腹《ごうはら》だけれど。
それでも――お礼を言う他に思いつかない。
「サンキュ。悪かったな、わけわかんないことで時間取らしちまって」
「わけわかんなくはないよ。大切な彼女のことを知りたいと思うくらい、普通のことだもん」
羽川は言う。
平気でそういう照れくさいことを言う。
全く、委員長の中の委員長。
「でも、あんまり恋人の昔を探るみたいなことは、しない方がいいとは思うよ? 興味半分面白半分にならないよう、阿良々木くん、その辺りは、きちんと節度《せつど》を守ってね」
最後にもう一本、太い釘を刺すようなことを口にしてから、それじゃあばいばい、と続け、そして黙る羽川。
ばいばいと言ったきりどうして電話を切らないのだろうと僕は首を傾げたが、そうだ、僕は春休みに羽川に教えてもらっていた、電話というのは、掛けた方から切るのが礼儀なのだった。
本当、怖いくらい律儀な奴だ……。
そう思いながら、「じゃあな、また明日、学校で」と言って、僕は通話終了のボタンを押した。そして携帯電話を閉じて、尻のポケットに仕舞う。
さて、どうしたものか。
戦場ヶ原の言うことや、その態度に対し、当然、かつて同じ立場に立った者として、似たような経験をした者として、一定の理解を示さないわけじゃないのだけれど――僕としてはどうしても、神原の方に、同情的になってしまうな。
できれば――と思う。
それに、もしも、とも。
大きなお世話だろうし、余計なお節介だろうし、ありがた迷惑もいいところだろう――いつか戦場ヶ原は、優しさを敵対行為と看做すという、常軌《じょうき》を逸した思想哲学を僕に披露したけれど、これに関しては、優しさとさえ、いえないだろう。
だって、そこには、姑息な計算がある。口にするのも、思うことすら憚《はばか》られるような、そんな口幅《くちはば》ったい思惑《おもわく》が。
でも、僕は思わざるを得ないのだ。
戦場ヶ原に、失ったものを取り戻して欲しいと。
戦場ヶ原に、捨てたものを拾って欲しいと。
だって。
それは僕には[#「それは僕には」に傍点]、絶対にできないことだから[#「絶対にできないことだから」に傍点]――
「こればっかりは、忍野に相談してもしょうがないことだろうしな……あの陽気な馬鹿野郎は、フォローや事後処理に向いている性格じゃ、ないだろう。まあ、僕も人のことは言えないんだけど……って、あれ」
ころっと忘れていた大事なことを、ふとした瞬間に、なんの契機もなく思い出すことはよくあるけれど、このときがまさにそうだった。僕は、肩にかけていたボストンバッグのチャックを開けて、中身をチェックする。チェックするまでもなく、その結果はわかっているのだけれど、なんていうか、悪足掻きだった。案の定――戦場ヶ原から受け取ったあの封筒は、ボストンバッグの中になかった。
忍野に渡す仕事料の入った、あの封筒。
「座布団の脇に置いたまま、忘れてきちゃったか……あーあ、どうするかな」
お金のことだから早めに済ませておいた方がいいのは確かだが、けれどそんな取り立てて急ぐというわけではないし、明日また学校で会ったときにでも受け取ればいい話ではあるのだが……どうしよう? そんなことはないとは思うけれど、本当はちゃんと服のポケットにでも入れていて、それを、羽川と電話しながら歩いている内に、気付かず落としてしまったという可能性もなきにしもあらずだから、念のために戦場ヶ原に電話をして確認を取った方がいいのか……いや。
自転車を押しながらの歩きだったから、そんな距離を稼いだわけでもない、ペダルを漕いで戻れば、すぐさま民倉荘に到着するだろう。ならば、今からでも取りに戻る方が正着手《せいちゃくしゅ》だ。時間が時間だから、最悪の場合戦場ヶ原の父親と顔を合わせる羽目になるかもしれないが、しかし、話に聞く戦場ヶ原の父親の多忙さを考えれば、その確率は無視していいほどには低いはずである。
電話で済むと言われれば確かにその通りなのだけれど、戦場ヶ原とは、会えるチャンスには少しでも会っておきたいからな。
アピールの仕方はわからないけれど。
少しは恋愛気分を味わわせてもらうとしよう。
「んじゃ、まあ」
サドルにまたがりつつ、自転車の方向を反転させて――
僕は、雨が降ってきたのかと思った。
雫《しずく》が頬に触れたから、とか、そういうことではなく、自転車を反転させたすぐ先にいた――まるで僕のことを今までずっと尾行していたかのように、すぐ先にいた『人物』の格好が、僕の視界に入ったからである。
『人物』。
上下の雨合羽《あまがっぱ》。
フードをずっぽり、深く被っている。
黒い長靴に……左右のゴム手袋。
雨が降っているのならば、それは、その天候に対する完全装備といっていい……ただし、手のひらをかざしてみても、やはり雫一滴、僕には感じられなかった。
空は、星空。
郊外の地方都市、その更に田舎町には――月の光を遮る、空を切り取る無粋《ぶすい》なものなど、千切れた群雲《むらくも》の他には何もない。
「……えっと」
あー……。
わかってる……この展開は、わかってる……よく知っている、よくよく知っている展開だ。春休みに、嫌というほど体験した、あの展開だ……。
僕は、この状況にあまりに似つかわしくない半笑いの表情を、しかし、浮かべざるを得なかった。場違いではあるが、懐かしいとすら思ってしまうほどの、しっくりくる感覚だ……ゴールデンウィークにおける、羽川との経験も、共に思い出しながら、僕はそう思った。
問題があるとすれば……そうだな、春休みとは違って、僕はもう、不死身の身体でもなければ、ましてや吸血鬼でもないということか。
冷静でいられるような状況じゃないんだけど……『これ』が、どういう『相手』なのか、それを見極めるためには、何よりも冷静でなければならない。つまり、ここ数ヵ月の間に、僕も少しは慣れた、場数を踏んだということか――
『怪異[#「怪異」に傍点]』に対して[#「に対して」に傍点]。
……母の日、八九寺のときの蝸牛のように、物理的には無害な怪異であってくれれば、助かるのだけれど……だけど、僕の本能が、ここは逃げの一手だと告げている。いや、僕の本能じゃない、僕の身体の中のどこかに巣食う、残滓《ざんし》として確実に存在している、伝説の吸血鬼の本能が――
自転車を再度反転させようとして――咄嗟の判断で、その自転車から、僕は転がり落ちるように飛び降りる。
その判断は正しかったが――代償として僕は、大事な大事なマウンテンバイクを、永遠に失うことになってしまった。雨合羽は、眼にも留まらぬ速度で、こちらに向けて跳ねて来て、左手の拳《こぶし》で、僕がぎりぎり飛び退《の》いた後のマウンテンバイクのハンドル部の真ん中あたりを殴りつけ――マウンテンバイクは、激しい竜巻に巻き込まれた重みを持たない紙屑《かみくず》のようにひしゃげ、凹み、ぶっ飛んだ。電柱にぶつかって止まるまでに、その、ついさっきまでマウンテンバイクの形だった物体は完全に、原形すらも失ってしまった。
避けてなかったら――僕がああなっていた。
のか。
拳の巻き起こした風圧だけで、服が裂けている。
同様に、ボストンバッグのスリングが切れていて、どすんと、僕の肩から足元へと、落ちた。
「……だ、段違いだ」
苦笑いすら――さすがに引く。
直撃しなくとも、ただ巻き込まれるだけで、この驚異的な気配……伝説の吸血鬼とまでは到底いかないにしたって、それを連想するレベルの圧巻さ……物理的恐怖を伴う怪異。
母の日なんてとんでもない。
これは間違いなく、春休みだ。
自転車は失った。
それでも、走って逃げることは可能だろうか? 雨合羽の今の動きを見る限りにおいて……いや、見えなかったのだけれど、つまりそれは見えないほどの速さだったということだから、僕の足では逃げ切ることなんて、不可能だ。
それに。
たとえ逃げるためであっても、この怪異に、背中を向けたいとは思えない――この雨合羽に背中を向けることが、目を逸らすことが、何より怖い。それは、剥奪《はくだつ》することができそうもない、根源的な恐怖だった。
早くも前言撤回だ。
慣れられるものか、こんな感覚。
どれほど場数を踏んでも関係ない。
思い出すだけでも、御免だった。
くるぅり、と、雨合羽がこちらを向いた。フードを深くかぶっているため、その内側の表情は窺《うかが》えない――が、しかし、表情がどうとかいうよりも、そこは、その部分は、深い洞《うろ》にでもなっているかのようだった。暗く、暗く――全くもって、何も窺えない。
世界から欠け落ちているようだった。
世界から抜け落ちているようだった。
そして、雨合羽は、僕に向かってきた。
左拳。
反射神経だけでかわせるような速度ではなかったが――しかし、さっきマウンテンバイクを破壊したときと同じく、まるっきりの直線的な動きだったため、初動の段階で、覚悟を決めた意志を持って反応できたため、またもすれすれで避けられた――避けた左拳は、あっさりと、当然のように、僕の背後の、ブロック塀《べい》を貫通した。カタパルトでもぶちかましたかのような有様だった。
その悪質な冗談みたいな破壊力に驚愕する一方で、雨合羽がブロック塀から左手を抜くまでのタイムラグを利用して体勢を立て直せるかと思ったのだが、つまり、いうなら瓶の中に手を突っ込んだ猿みたいなイメージで、雨合羽に数秒の隙が生じるかと思ったのだが、そんな計算、甘い甘い、通じない。ブロック塀は、雨合羽が左拳で貫《つらぬ》いたその部分から、堰堤《えんてい》が一穴《いっけつ》を中心に決壊するかのように、数メートルにわたってがらがらと、派手な音を立てて崩れていく。
懐かしい風景。
タイムラグなんて一瞬もなかった。
身体全体を捻るようにして、その左拳がそのまま直接、僕に向かってくる――今度は初動もモーションも何もない、ただそのままの位置から、僕の身体を思い切り殴りつけるだけ。
カタパルト。
回避どころか防御すら、間に合わなかった。
どこを殴られたのかも、わからなかった。
視界が一瞬で回転し、二回転三回転四回転、思考回路が揺さぶられるように、激しい重力加速度が前後左右にかかりまくり、世界全体が歪んで歪んで、そして、僕の身体はうつ伏せに、アスファルトの地面に、叩きつけられる。
全身を磨《す》り下ろされる気分を味わった。
磨り下ろされる大根の気分。
だが――痛い。
痛いということは、まだ、生きている。
全身痛いが、一番痛いのは腹部――殴られたのは腹筋のようだった。慌てて起き上がろうとするが、足ががくがくと震え、うつ伏せの状態から表に返るのが、やっとだった。
雨合羽の姿が、やけに遠い。遠く感じる。錯覚かと思ったが――そうじゃなく、実際に遠い。どうやら、たかが一撃で、えらい距離を吹っ飛ばされたようだった。まさしくカタパルトだ。
腹の中身が――気持ち悪い。
この種類の痛みにも……覚えがある。
骨じゃない。
多分、いくつか、内臓が破裂している。
だが、中身はそのように破壊されても、確認してみれば、僕の五体の形は、無事というなら無事のようだった。ああそうか、自転車と人間とじゃ、構造が違うから、同じように殴られたところで、同じように紙屑みたいな有様にはならないのか……ナイス関節、ビバ筋肉。
とはいえ……。
このダメージじゃ、やはりすぐには動けない。
そして、雨合羽は、僕に近付いてくる――今度は、目に、じっくりと映る、焼き付くようなゆっくりとした、のびやかな速度で。あと一撃、たとえそうでなくとも二、三撃、僕を殴りつければ、それで決着である――何も急ぐ必要も焦《あせ》る必要もないということだ。
まあ、その通りだろう、妥当な判断だ。
けれど……なんなんだ?
この、まるで通り魔のような『怪異』……自転車を潰し、ブロック塀を砕くあのパワーからして、どれほどにひとがたであったところで、あれが『人物』でないことは最早あからさまだが、しかし――その『怪異』が、どうして僕を襲う?
怪異にはそれに相応しい理由がある。
意味不明なばかりではない。
合理主義――理《ことわり》に合する。
それが、僕が忍野から学んだ、あの美しき女吸血鬼との付き合いから学んだ、最大の収穫だった――なればこそ当然の帰結として、この怪異にも、必ず、理由があるはずなのに、それが僕には、全く思い当たらない――
原因は何なんだ。
今日あったことを思い出す。
今日会ったひとを思い出す。
八九寺真宵。
戦場ヶ原ひたぎ。
羽川翼――
二人の妹に、担任の教師、顔も朧《おぼろ》なクラスメイト達、それに――順不同に頭の中に名前を挙げていき、
最後に僕は、神原駿河の名を思い出す。
「…………!」
そのとき――雨合羽が方向転換した。
その、ひとがたの身体を、真逆《まぎゃく》に転換させた。
そうするや否や、瞬間、駆け出して――
あっという間に姿を消した。
呆気に取られるほどの、それは、唐突さだった。
「え……ええ?」
どうして、いきなり……?
全身を支配する痛みが、鈍《にぶ》いものから鋭いものに変化していく中、僕は空を見上げる――やはり星空、月が綺麗に映えている。自分の身体のあちこちから匂ってくる、ほのかな血の匂いが、酷く不似合いな風景だった。
口の中に、濃厚な血の味。
やはり内臓が傷《いた》んでいる……はらわたがほどよい具合にかき混ぜられている。だがまあ、これなら、死ぬほどではないな……。それに、病院に行かなければならないほどでもない。既に不死身の身体ではなくなったとはいえ、それでもある程度の治癒《ちゆ》力は残されている、一晩安静にしていれば、そこそこ回復するだろう……命からがら、助かったってところか……。
しかし……。
殴られる直前の記憶が、不意に、特に理由もなく、蘇る。雨合羽の左拳が、僕を目掛けて――その拳だけが、クローズアップされて、フラッシュバックする。自転車を殴ったときなのか、それともブロック塀を貫いたときなのか、摩擦《まさつ》で破れてしまったのだろう、ゴム手袋の、指の付け根の部分に並んで四つの穴が生じていて――やはりそこはフードの内側と同じく洞のようで、抜け落ちているようで欠け落ちているようで、しかし。
あの左拳の中身は。
何かの[#「何かの」に傍点]、けだものの[#「けだものの」に傍点]――
「阿良々木くん」
上から、声をかけられた。
氷点下ほど冷えた、平坦な声。
見れば、同じく冷えた、何の感情もこもってなさそうな眼で、僕を見下ろしていたのは――戦場ヶ原ひたぎだった。
「……よお、ご無沙汰《ぶさた》」
「ええ、ご無沙汰ね」
一時間足らずの、ご無沙汰だった。
「忘れ物、届けにきたんだけれど」
言ってから、戦場ヶ原は右手に持った封筒を、僕の眼前に、ぐいと、押し付けるように示す。そんな近付けられなくったってわかる、それは、戦場ヶ原から忍野へと支払われる、十万円の仕事料が入った、あの封筒。
「私が渡したものをこうも堂々と忘れていくだなんて、極刑ものの罪悪よ、阿良々木くん」
「ああ……悪かったよ」
「謝っても許さないわ。だから精一杯|嬲《なぶ》ってあげようと思って追いかけてきたのだけれど、既に自分で自分を罰していたとは、阿良々木くん、なかなか見上げた忠誠心だわ」
「自分で自分を罰する趣味は僕にはねえ……」
「隠さなくたっていいのよ。その忠誠心に免じて、半分くらい許してあげるから」
「…………」
減刑はされても免罪はされないのか。
戦場ヶ原裁判所は厳しい戒律をお持ちのようだ。
「冗談はともかく」
戦場ヶ原は言う。
「クルマにでも轢《ひ》かれたのかしら? あっちで、阿良々木くんがとても大切にしていた自転車らしきものが、大破していたようだけれど。大破していたというか、電柱に突き刺さっていたというか。コンボイにでも轢かれないと、あんなことにはならないでしょう」
「えーっと……」
「ナンバーは覚えているでしょうね。私が仕返しをしてきてあげるわ。クルマを完全にスクラップにするところから始めて、自転車で轢き殺してくださいと土下座するまで、ドライバーを痛めつけてきてあげる」
物騒なことを普通に言う戦場ヶ原ひたぎ。
そのいつも通りさに、僕は、安心する。生きている実感を、戦場ヶ原の毒舌で得ることになるというのは、おかしくもあり面白くもありって感じだけれど……。
「……いや、僕が一人で転んだだけだよ。前方不注意でな……電話しながら、ペダルを漕いでいたら……電柱に、激突しちゃって……」
「あらそう。なら、そうね、せめて電柱だけでも壊しておきましょうか?」
八つ当たりだった。
逆恨《さかうら》みですらない。
「近隣の住民のみなさんに迷惑だろうから、それはやめておいてくれ……」
「そう……けれど、あんな丈夫そうなブロック塀をも破壊する勢いで激突して、その程度の怪我で済むなんて、阿良々木くん、とても身体が柔らかいのね。感心するわ。その身体の柔らかさは、いつか役に立つときが来るでしょうね。えっと、救急車は……いらないんだっけ?」
「ああ……」
戦場ヶ原も、僕とは、会えるときには少しでも会っておきたいと思って、わざわざ手間をかけて、その封筒を持ってきてくれたのだろうか? バスを使って、僕の家にまで届けてくれるつもりだったのだろうか。だとすれば、僕としては、その行為だけでは、それでもまだツンデレというほどではないにしたって、単純に、浮かれちゃいそうでは、あるよな……。
それに、お陰で助かった。
図らずも。
雨合羽は、戦場ヶ原の姿を捉えて――姿を消したのだろうから。
「しばらく休んでりゃ、すぐ動けるようになるさ」
「そう。じゃ、そんな阿良々木くんに大サービス」
ひょいっと――
戦場ヶ原は、仰向けに倒れている僕の頭を、跨ぐようにした。ちなみに、戦場ヶ原の今日のファッションは、先にも触れた、長めのスカート。ストッキングは穿いていない、すらりとした生足で――そしてこの場合、この視点からでは、スカートの長さは、あんまり関係がなかった。
「動けるようになるまで、幸せな気分でいなさいな」
「…………」
本当を言うと、もう、立ち上がるくらいのことは、できそうなのだけれど――まあ、ちょっとの間だけ、考えごとでもすることに、僕はした。僕の考えごとなんて、生産的な意味を持つわけではないのだけれど……それでも、とりあえず。
とりあえず、戦場ヶ原のことと。
明日のことを、考えた。
005
神原駿河の家は――学校の校門から数えて自転車で三十分ほどの距離にあった。そしてそれは、駆け足でも、三十分ほどの距離だった。最初、後ろに神原を乗っけての二人乗りをしようと思ったのだけれど、それは神原にそれとなく辞された。二人乗りは危険だし、そもそも法律違反だと。まあ、それはそう言われればその通りだし、あるいは後ろに乗って、僕に抱きつく形になることに対して、神原は抵抗があるのかもしれなかった。ならば僕が神原に合わせて、自転車を押して歩こうか、あるいは自転車を学校に置きっぱなしにして行こうかと考えたのだけれど、気にせず乗ってもらって構わないと、神原は言って、じゃあどうするつもりなのかと思ったら、当たり前のように、神原は「では、案内する」と、その両脚で駆け出したのだった。僕をストーキングしているときもそうだったが、この神原駿河、『徒歩』や『自転車』や『自動車』、『電車』という移動手段の候補の中に、同列のものとして『駆け足』を入れているようだった。そんな奴は体育会系の中でも、多分、珍しいのではないかと思う。『たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ』と、小気味のよいリズムで僕の自転車を先導する神原――そして左手の、真っ白い包帯。目的地に到着したところで、神原は心なし少々の汗をかいている程度で、呼吸一つ乱れていなかった。
立派な日本|家屋《かおく》だった。
如何《いか》にも歴史がありそうな感じ。
『神原』という表札が、門扉にあがっている以上、ここが神原の家であることは間違いないのだろうけれど、なんだか、中に入ることを躊躇してしまう、重厚な空気のある屋敷である。
とはいえ、入らないわけにはいかない。
社会科の見学授業でどこかの神社仏閣でも訪れたかのような、そんな名状しがたい気分を味わいながら屋敷内にお邪魔して、ししおどしの見える庭に面した廊下を歩いた先の、神原の部屋へと、障子を引いて、通された。
……よくこんな部屋に、大して親しくもない学校の先輩を通せたものだなというような、そんな有様の部屋だった。
布団は敷きっぱなし、服は脱ぎ散らかしっぱなし(下着含む)、本は教科書も小説も漫画も含めて裏向きに開かれてあったりなかったり、倉庫でもあるまいし段ボール箱が部屋の端に山積みで、何より酷いのは、ゴミがゴミ箱にも入れられず、その辺の畳の上に無造作に、あるいは精々、近所のスーパーのビニール袋に詰め込まれ、ただ放置されていることだ。いや、どうやらこの部屋には、そもそもゴミ箱という概念を与えられている容器が存在しないようである。
十二畳ほどの広い部屋のはずなのに。
足の踏み場もなく、まず一歩が踏み出せない。
「散らかっていて申し訳ないな」
振り向いて、胸の前に右手を置き、邪気なくにっこりとした笑顔で、神原駿河は、はきはきとそう言った。なるほど聞きようによっては状況に即した言葉なのかもしれないが、しかしその台詞は、整理|整頓《せいとん》がある程度しっかりとされた部屋に人を通すときに謙遜《けんそん》で言う言葉だと、僕は思った。
上は洪水下は大火事、なーんだ。
言いえて妙だった。
うわあ……。
生理用品まで転がってやんの……。
僕は思わず目線を伏せる。
見ていたら、もっと見たらいけないものが、ごろごろ出てきそうな気がする……自分に自信があるのは立派なことだとは思うが、それは羞恥心がないのとは違うぞ、神原駿河……。
ああ。
そういうところ、戦場ヶ原に通じるのな……。
もっとも戦場ヶ原の場合、部屋の中にはホコリ一つ落ちていなかったのだけれど……こいつ、性格のこともそうだけれど、中学時代の戦場ヶ原のパーソナリティから多大なる影響を受けて、その所為《せい》で却ってキャラクターが駄目になっちゃっているような気がする。
「遠慮しなくていいんだぞ? よく知らない女の子の部屋に入るのに躊躇する阿良々木先輩の繊細さには素直に感じ入るが、今はそんな場合でもないだろう」
「……神原」
「なんだ?」
「今がそんな場合じゃないのは重々わかっているんだが……それでも頼む、お願いがある」
「いいぞ。なんでも言ってくれ。阿良々木先輩の頼みを断る私ではない」
「一時間、いや、三十分でいいから……僕にこの部屋を掃除《そうじ》するための時間をくれ。それから、でかいゴミ袋を」
別に潔癖症のつもりはないけれど……僕だってそこまで、自分の部屋を綺麗にしているわけじゃないけれど、これはあまりに酷い……残酷とすら、言っていい。神原は、僕が一体何を言っているのかまるで理解できないというようにきょとんとしていたが、しかし、逆に言えば特に反対する理由もなかったのだろう、「わかった」と、ゴミ袋を取りに行ってくれた。
中略。
と、いうか。
無論、神原の部屋の惨状《さんじょう》は三十分程度でどうにかなるような生易しいものではなかったが、それに、そうはいってもやっぱりよく知らない女の子の部屋ということで、倫理的あるいは道義的に手をつけていいところと駄目なところがあったので、散らばっているゴミを一つにまとめ、本や雑誌を整理する(といっても、神原の部屋には本棚がないので、大きさ別に積み上げるだけだが)程度の、四角い部屋を丸く掃くようなある種適当、いい加減な清掃活動だったけれど、それでも最後に、布団を畳《たた》んで押入れに仕舞い込み、衣服を折りたたんで隅に寄せれば(箪笥どころかハンガーすらもなかった)、なんとか見られるくらいにはなったというか、少なくとも、僕と神原が座って向かい合えるくらいのスペースを作ることはできた。
「見事だな、阿良々木先輩。私の部屋の畳とはこういう色をしていたのか。床が見えたことなど、果たして何年ぶりだろうな」
「年単位なのかよ……」
「感謝する」
「……話がついたら、一日がかりで……いや、泊りがけで片付けようぜ、この部屋……今度は本格的に、洗剤とか染み抜きとか、一式揃えて持ってくるからさ……」
「気を使わせてしまって申し訳ないな、阿良々木先輩。私はバスケットボールくらいしか取り柄のない女だから、こういう、片付け後片付け、始末後始末みたいな行動は不得手なのだ」
「…………」
自信たっぷりなにこにこ笑顔でそんなことを言われても困る……。三十分間、全く手伝おうとする素振りを見せず、廊下でつくねんと所在なさげにしていたところを見ると、神原は面倒とか横着《おうちゃく》とかそういうことではなく、本当に整理整頓が苦手なのだろうが、しかしそれでも、別に僕の関知すべきところではないけれど、神原をスター扱いしている学校の連中には、絶対に見せられない、見せてはいけない景色だったことは間違いがない。こいつ、まさかクラスの友達とか、家に呼んでないだろうな……友達ならまだしも部活の後輩とかだったら、最悪、トラウマになってしまうぞ。ゴミ袋に詰めたものの中には、炭酸飲料の握りつぶされた空き缶やスナック菓子の袋とかインスタント食品のカップとかも少なからず混ざっていたし……全国大会クラスのスポーツ少女がそんなもん飲み食いしてんじゃねえよ。
有名人のちょっと抜けてる的なエピソードというのは、むしろ好感を持たれる理由になることもあるのだが、この場合、どう考えても行き過ぎだった。どう頑張っても、そのキャラクターには、萌《も》えられない……。
「じゃあ――さて」
明日のこと。
つまりは金曜日から翌日。
土曜日のこと。
世間では週休二日制が当たり前の習慣になって久しいが、僕らの通う私立直江津高校は名の知れた進学校、土曜日にも普通に授業がある。明日のことが今日のことになっても、結局のところ僕は結論を出すことができず、だから一時間目と二時間目の間の休み時間を使って、僕は二年生の校舎に向かった。何分相手は有名なスターのこと、どのクラスかなど、調べるまでもない。二年二組。三年生が教室を訪ねてきたということで、にわかにクラスは騒然となったが(最上級生になった身としては、今やそれは懐かしくも新鮮な感覚だった)、さすがに神原は――神原駿河は、堂々とした風格で、廊下で待つ僕のところに、大股で歩いてきた。
「やあ、阿良々木先輩」
「よう、神原。お前に少し用があるんだけれどさ」
「そうか。ならば」
神原は何も質問を返さず、ただ答える。
まるで、予定調和のように。
「放課後、私の家まで、付き合って欲しい」
で――
神原駿河の家、日本家屋である。
話をするだけならば、別に神原の家にまで行かずとも、学校の空き教室や、屋上やグラウンド、あるいは学校から外に出ても、その辺りのファーストフード店ででもすればいいと思ったし、実際に神原にもそう言ったのだが、神原としては、僕との話は自分の家でしたい理由があるようだった。
理由があるのなら、従うまでだ。
聞くまでもなく。
「何から話したものかな、阿良々木先輩――なにぶん私はこの通り口不調法なもので、こういう場合の手順というのはよくわからないのだが、まあ、とりあえずは」
神原はさっと脚を組み直して、ぺこりと、僕に向かって頭を下げた。
「昨夜のことを、謝らせてもらおうと思う」
「……ああ」
僕は、一日経って回復した――しかしそうはいってもまだ疼痛《とうつう》が残っているような気がする、腹部を撫でるようにしてから、頷いた。
「やっぱり、あれは、お前だったのか」
雨合羽。
ゴム手袋、長靴。
さっき、片付けた衣類の中に――混じっていた。
言うまでもなく。
「やっぱりなどと、歯がゆい言い方をするのだな、阿良々木先輩は。奥床しい人だ。完全に見抜いていたのだろう? そうでなければ、阿良々木先輩の方から私を訪ねてくるはずがないからな」
「別に……あてずっぽだよ。体格とか、輪郭とか、シルエットとかでの判断……僕が勉強会で戦場ヶ原の家に行くことを知ってた奴とか、そういう条件から絞った上で検索をかけて、そう考えれば、な……、まあ、お前を訪ねていったところで、間違っていたら間違っていたで、何か問題があるわけじゃないし」
「ふむ、なるほど。卓見《たっけん》だ」
本気で感心している風の神原。
「男子の中には腰の形で女子を判別できる者がいるというが、そういう類の話だろうか?」
「全然違うわ!」
雨合羽の上から腰の形なんてわかるか!
「すまなかった。あんなつもりは、なかったんだ」
神原は、改めて、頭を下げた。
それは――誠意のこもった謝罪だったように思う。
けれど、あんなつもりはなかったって……じゃあ、どんなつもりだったというのだ? 明らかにあれは、僕を狙っての――しかし、それすら、そうでないということなのだろうか?
「……いや、謝ってもらっても、僕が知りたいのは、むしろ理由の方なんだけど。いや、理由は――ともかく」
その理由は。
決して思い当たらないわけでもない。
この場面においてあえてそんなことは言わないけれど、それこそが、まず神原を、あの雨合羽の正体だと連想した、その契機、取っ掛かりだったのだから。
しかし――
「ともかく、あの力、怪力のことを――」
怪力。
怪異。
自転車を紙屑のように壊し。
ブロック塀を一撃で崩し。
そして、人間を――
「聞きたい――んだけど。一体、お前……」
「ううむ。何から話したものかというなら、やはりその辺りからか。そうだな、しかし……阿良々木先輩は、突拍子《とっぴょうし》もないことを、信じることができるタイプの人間かどうか、最初に質問しておきたいのだが」
「突拍子もないこと?」
と言えば――ああ、なるほど、そうか。
神原は、僕の身体のことを知らない。元不死身の、僕の身体のことを――昨晩のことにしたって、受けた被害が被害だっただけに、目に見える速度で怪我が回復したわけではないから、それが知れるわけもない。だからこその前置きか――いや、そうじゃない。
神原は、僕のことは知らなくとも、戦場ヶ原のことを知っている。戦場ヶ原の突拍子もない秘密を、僕よりも先んじて、知っている。だから――戦場ヶ原の恋人であるところの僕が、その突拍子もない秘密を、知らないわけがないと思っているはずだ――つまり、今、まさに、僕は神原から、探りを入れられているということなのかもしれない。
「わからないだろうか? つまり、阿良々木先輩は、自分の目で見たものを、信じられるかどうかという意味の質問なのだが」
「僕は自分の目で見たものしか信じないよ。だから、見たものは全部、信じてきた。戦場ヶ原のことも、勿論な」
「……なんだ、そこまでバレていたのか」
言われても、さして悪びれる風もなく、後ろめたさもそれほど感じさせずに、神原は、「しかし」と言う。
「誤解しないで欲しい。私は、戦場ヶ原先輩とのことを知りたくて、ここ最近、阿良々木先輩について回っていたというわけではないんだ」
「え……? そうなのか?」
それは――てっきりそうだと思っていたのだが。
阿良々木暦と戦場ヶ原ひたぎが付き合っているという噂の真偽を確かめようとしていたんじゃ――ないのか? それで、昨日、僕が一人で、戦場ヶ原の家を訪ね、一対一での勉強会を行うという話を聞き、確信を得たんじゃ――ないのか?
いや、それはそうなのだろうけれど。
その読みに狂いはないと思うけれど。
ストーキング自体には別の理由があったとでも?
「バスケットボール部のお前と陸上部の戦場ヶ原とで、合わせてヴァルハラコンビって、呼ばれてたんだろ?」
「ああ、その通りだ。そんなことまでよく知っているな、阿良々木先輩、おみそれしたぞ。これまでだってできる限り高く評価していたつもりだったが、私はそれでも阿良々木先輩のことを侮《あなど》っていたようだ。とてもじゃないが、阿良々木先輩は私の価値観で測れるような大きさではないな。知れば知るほど、遠く感じてしまう」
「……人に聞いただけだけどな」
これだけあからさまな美辞麗句を並べても、全然|腰巾着《こしぎんちゃく》や太鼓《たいこ》持ちに見えないってのは、ある意味芸術作品だよな、こいつ。
「由来も聞いたよ。よく考えられた通り名だよな」
「そうだろう。私が考えたのだ」
誇らしそうに胸を張る神原だった。
……自分で考えていた。
こんな切ない気分、本当に久し振りだな……。
「一生懸命考えたものだぞ。ちなみに私個人のニックネームとしては、『ガンバルするがちゃん』というのを考えたのだが、残念ながらそちらは定着しなかった」
「僕も今とても残念だよ」
「そうか。同情してくれるのか」
ああ。
お前の感性にな。
「情け深いんだな、阿良々木先輩は。まあ、言われてみれば、呼びかけるには少し長いニックネームだったからな、仕方なかった」
「反省点はそこじゃない気もするけどな」
どうやら、中学時代の神原は、とてもいい仲間に囲まれていた模様だ。
当時の戦場ヶ原も含めて……。
「まあ、そうなのだ。ヴァルハラコンビはおいておいて、阿良々木先輩はかなり察しがよいようだから、こんな説明、ひょっとしたら鬱陶しいだけかもしれないが、戦場ヶ原先輩と私は、中学時代に――いや、その話をするよりも先に、先に見ておいてもらいたいものがあるのだった。そのために、わざわざ阿良々木先輩に、貴重なお時間を割いていただき、私の家にまでご足労願ったのだからな」
「見ておいてもらいたいもの? ああ、なるほど。それが家にあったから、学校とかじゃ、話、駄目だったってことか」
「いや、そうじゃなく、学校では目立つというか、人目を憚《はばか》るというか……できれば、他の人には見られたくなかったから」
言って――神原は、左手の、真っ白い包帯を、解きにかかった。ぐるぐるに巻かれたその包帯を、留め金を外し、指に近い方から、順番に――
思い出す。
昨夜のこと。
自転車を破壊したのも、ブロック塀を崩したのも、僕の内臓を破裂させたのも――
全て、左手で作った拳だったことを。
「正直に言って、あまり人に見られたいものではないのだ。私はこれでも一応、女の子なのでな」
包帯が完全に解け――神原は制服の袖を、捲《めく》り上げる。そしてそこに僕が見たのは、神原の、女の子らしい、細くて柔らかそうな二の腕から連なる、肘から先が――野生のけだもの[#「野生のけだもの」に傍点]のそれのような、真っ黒い毛むくじゃらの、骨ばった左手だった。
破れたゴム手袋の穴から覗いた。
けだものの、匂い。
「まあ、こういうことなのだが」
「………………」
そういうデザインの手袋とか、マペットとかじゃ――ないよな、明らかに。長さも細さも、それにしてはあからさまに不自然だし――それに、そんな見た目上の理屈を抜きにしたって、僕はゴールデンウィークに、これと似たようなもの[#「これと似たようなもの」に傍点]を、似て非なるもの[#「似て非なるもの」に傍点]を、確実に目撃している――だから、僕にはこれがわかる。
これが、怪異そのものであることが。
怪異。
野生のけだもの――といっても、しかし、それが何かと問われれば、全くぴんと来ない。どんな動物のようでもあり、またどんな動物のものでもないような気がした。全てに似ている代わりに、何にも属していないように見えた。それでも、あえて言うなら、五指、それぞれにある程度の長さがある指の先の爪の形から、あえて言うなら――
それこそ女の子の身体の一部を形容するのに、あんまり、適切な表現だとは思わないけれど。
「猿の手」
僕は言った。
「猿の手――みたいだ」
猿。
哺乳綱《ほにゅうこう》サル目類から、人類を除いた動物の総称。
「ほう」
神原は、何故か――感嘆したような表情をした。
そして、ぱしんと、組んだ膝を、自分で打つ。
「阿良々木先輩はやはり計り知れないほどの慧眼《けいがん》だな。恐れ入った、持っている目がまるで違う。一見してこれの正体を見抜いてしまうとは、驚きの一言に尽きる。私のような凡俗とは、積み重ねている知識が全く違うようだな――となると、これ以上の余計な説明は不要というわけか」
「か、勝手に納得するな!」
ここで説明をやめられてたまるか。
生殺しもいいところだ。
「僕はただ、見たままの感想を述べただけだよ。何も見抜いてなんかいない」
「そうなのか? ウイリアム・ウイマーク・ジェイコブズの短編小説のタイトルなのだが――『猿の手』。原題は『The Monkeys Paw』だから、まあ直訳と言ってもいいはずだ。『猿の手』というテーマ自体は色んなメディアでいいように使われているから、派生して派生して、色んなパターンがあるけれど――」
「全然知らない」
正直に言った。
そうなのか、と神原。
「何も知らないままに真実を言い当ててしまうなんて、阿良々木先輩は天におわす何者かに選ばれているとしか思えないな。理屈抜きで本質を直観するとは」
「……まあ、勘のよさには定評があるよ」
「やはりそうか。うん、私は私を誇らしく思う。阿良々木先輩ほどではないけれど、そんな阿良々木先輩に一目置いていた、私の勘にもまた、狂いはなかったということだからな」
「そうか……」
照準狂いまくりだと思うけれど。
えっと、と、僕は改めて、神原の左手を見る。
けだものの手――猿の手。
「さ……触ってもいいのか」
「うん。今は別に[#「今は別に」に傍点]、大丈夫だ」
「そ、そうか……」
許可を受けて、僕は神原の手首の部分辺りに――そっと触れてみる。
恐る恐る、こわごわと。
質感、肉感……体温、脈拍《みゃくはく》。
生きている。
この怪異は――やはり、生きているタイプの怪異[#「生きているタイプの怪異」に傍点]。
……あんな有様だった部屋を見られるのは平気な神原駿河でも、さすがにこの左腕を見られるのには、抵抗があった、というわけか……無論、自主トレ中に捻挫《ねんざ》したというあの弁は、方便だったということになるのだろう。包帯は怪我を保護するためじゃなくて、腕を隠すための方法……、捻挫しているという割に、全くそんな素振りを、身体の左側を庇《かば》うような仕草を見せないから、どっかおかしいとは、思ってはいたのだが……いや、そんなことを、後から言っても、説得力はまるでない。
とは言え、しかし。
こんな左手では、バスケットボールができないのは、確かなのだろうけれど。
思わず。
ぎゅっと――その手首を、僕は握ってしまう。
「ん、あ、やんっ」
「変な声をあげんな!」
思わず手を振り離した。
「阿良々木先輩が変な触り方をするからだ」
「変な触り方なんてしてねえよ」
「私はくすぐったがりなのだ」
「だからっていきなりこれまでのキャラを崩すような声音をあげてんじゃねえよ……」
って、思い出してみれば、戦場ヶ原の奴も、そういうこと、何度かやってたな。勿論、使い方は、今の戦場ヶ原とは対極に違うのだろうけれど、しかし、神原が今のようにそれを体得《たいとく》しているということは、じゃあ、あれは中学時代からの戦場ヶ原の持ちネタだったってことか……。
「忘れてるのかもしれないけどな、神原、ここ、お前の家で、お前の部屋なんだぞ? そんな声を出してるのをお前の両親とかに聞かれたら、僕、どうなっちまうんだよ」
「ああ、それは大丈夫」
神原は快活に言う。
「両親のことは、全く、気にしなくていいから」
「……なら、いいけど」
え……?
なんだその、触れられたくないみたいな、露骨にそれ以上の追及を拒むみたいな言い方は……それこそ、これまでのキャラを、崩すような言葉を、いつも通りに、快活に。
まあまあ、と、神原はさっさと、仕切り直す。
左手を、ぐーぱーにしながら。
「この通り、今は、思い通りに動くのだが――しかし、思い通りに動かなくなるときがあるのだ。いや、違うな。思いに反して動くようになる、というのだろうか――」
「思いに反して?」
「いや、思いというか、想いというなら――ううん。どうもわかりづらいな。自分でもよくわかっていないことを説明しようとしているのだから、当然なのかもしれないが……つまり、阿良々木先輩。昨晩、阿良々木先輩を襲ったのは確かに私なのだが、私で間違いないのだが――私にはその記憶が、ほとんど、ないのだ」
神原は、そう言った。
「夢うつつというか夢心地というか――全く憶えていないわけではないのだが、まるでテレビの映像でも見ているようというか、関与できないというか――」
「トランス」
その説明に、僕は割り込んだ。
「トランス状態――って奴だよ、それ。知ってる……人間に憑依《ひょうい》するタイプの怪異は、肉体と精神を、ざくざくに陵辱《りょうじょく》するから」
僕の場合はそれとは違ったけれど――羽川の場合は、羽川翼の猫の場合は、そうだった。だから羽川は、自身が怪異に接していたゴールデンウィークの出来事を、ほとんどといっていいほど、憶えていない。ケースとしては、今回はそれに近いということだろう――羽川のときも、その肉体が変態する種類の現象が起きていたし――
「物知りだな、阿良々木先輩は。そうか、怪異というのか、こういうのは――」
「まあ、僕も、とりたてて詳しいというわけじゃないんだが。ただ最近、どうしてなのかそういう経験をすることが多くて、それに、そういうのに詳しい奴が――」
忍野。
完全にこれは――忍野の領域だろう。
忍野の領分だ。
「――いて」
「うん。そうか、阿良々木先輩が大きな人でよかった。この腕を見せた段階で逃げ出されでもしていたら、話はできなかったからな。それに、少なからず、傷ついていたと思う」
「幸い、だから、突拍子もないことには、色々と慣れてるからさ、安心しろよ。突拍子もないこと……戦場ヶ原のことも、勿論――な」
この分なら、僕自身が怪異に関わり、一時期吸血鬼と化していたことについても、後で説明しておいた方が、いいようだな……本来なら、アカウンタビリティという意味では、それは先に説明しておくのが筋かもしれないけれど、そうするためにはまだ、神原の左手の怪異について、わからないことが多過ぎる。
「とはいえ、さすがにちょっと、びっくりはしたけどな。友達の小学五年生風に言うなら、しゃっくりしたって奴か。でも、最初に一番驚かせてくれたから、この先、どんなエピソードを聞いても、驚かない自信があるぜ」
「そうか。勿論そのために、最初にこの腕を見てもらったのだがな。一番大変なことを、一番最初に済ませたのだ。じゃあ、いよいよ、本題に入らせてもらおうと思う」
神原は笑顔で続けた。
「私はレズなのだ」
「…………」
ずっこけた。
藤子《ふじこ》不二雄《ふじお》先生の漫画みたいにずっこけた。
「ん、ああ」
そんな僕の反応を見て、神原は、「阿良々木先輩は男だから、今のでは少し言葉が露骨だったかな。えーっと」と、首を傾げる。
「言い直そう。私は百合《ゆり》なのだ」
「一緒だ、そんなもん!」
大声を出すことで自我を保とうとする僕だった。
え? 何? どういうこと?
それで、戦場ヶ原と、中学時代に、ヴァルハラコンビとか言って? 先輩後輩で? 戦場ヶ原は神原のことを『あの子』とか言って? ええ? 昨日言ってた、男と別れたことがないっていうの、ひょっとしてそういう意味だったのか?
「ああ、それは違う。戦場ヶ原先輩のことは、私の一方的な片思いだったんだ。私にとって、戦場ヶ原先輩は、純粋にパーフェクトで、憧れの先輩だったからな、そばにいるだけで満足だったんだ」
「そばにいるだけで満足……」
いい言葉だけど。
それは確かにいい言葉だけど。
その前に片思いって普通に言ったよ、この子……。
八九寺、お前の中の女の部分は、全く的外れな答を導き出していたぞ……いや、落ち着け、なんでもかんでも、頭ごなしに否定してはいけない。そうだ……今時の女の子は、案外そんなものかもしれないじゃないか。僕の感覚が古いだけなのかもしれないじゃないか。もっとライトに、もっとリベラルに、考えるべきなのかもしれないじゃないか。
「そうか、百合か……なるほど」
「うん、百合なんだ」
何故か嬉しそうな神原だった。
しかし、それにしても、なんだな……。
吸血鬼だったり猫だったり蟹だったり蝸牛だったり、委員長だったり病弱だったり小学生だったり、猫耳だったりツンデレだったり迷子だったり、挙句の果てには百合だったり、この世界は、なんて言えばいいのだろう、チャレンジャブルというか、貪欲だな……。
やりたい放題じゃん。
戦場ヶ原は、神原駿河がそうであるということを、知っているんだろうか……神原の言い方から判断すれば、知らないのだろう。まあ、知っていたところで知らなかったところで、中学時代の戦場ヶ原にしてみれば、そんなこと、それほど関係なかったと思うけれど。
陸上部のスターと、バスケットボール部のスター。
ヴァルハラコンビ。
「戦場ヶ原先輩はみんなの人気者だったけれど、私の戦場ヶ原先輩に対する想いは、その中でも一線を画していたように思う。その自負はある。私は戦場ヶ原先輩のためなら、死んでもいいとすら思っていたのだ。そう、言うならば、デッド・オア・アイラヴといった感じだった」
「…………」
え……、えっと?
それはうまいのかどうか、微妙なラインだぞ?
「む。私は今、なかなかどうして、面白いことを言ったな。アイラヴとアライヴと掛けるだなんて、我ながら冴《さ》えている。そうは思わないか? 阿良々木先輩」
「ああ。最初は微妙かと思ったが、後から自分でそう付け加えてくれたことによって、僕のジャッジは確定したよ」
うまくない。
ともかく。
僕は神原に、話の続きを、促した。
「続きといっても、なんだろう、別に昔のことを話しているわけではないからな。続きというなら、今と地続きの話なのだ。そもそも、私が直江津高校を選んだのも、戦場ヶ原先輩を追ってのことだったのだから」
「だろうな……その話を聞くと、そうなんだろうと思うよ。その辺は驚くというよりは、納得する感じだ」
そんなことを言ったら、取りようによってはまたぞろ神原のチームメイトを侮辱しているかのように取られてしまうかもしれないから、言わずに心中にとどめるけれど、でも、中学時代からバスケットボール部のエースだったというのなら、スポーツ推薦なり何なりで、もっと充実した環境でバスケットボールができたはずなのだ。それなのに、どうして神原は、バスケットボール部を含め、部活動に全くといっていいほど力を入れていない、進学校の直江津高校に入ったのか――その動機は何だったのかということ。
一途な思い。
というにも、真っ直ぐ過ぎる。
「戦場ヶ原先輩のなめた飴ならなめられるくらい、惹かれていた」
「…………」
それは他人に言っても大丈夫なたとえ話なのか?
「でも、阿良々木先輩。戦場ヶ原先輩が中学を卒業してしまってからの、私の中学三年生の一年間というのは、全く、灰色でな」
「灰色か」
「ああ。灰色の百合生活だった」
「…………」
気に入ったんだね、百合って表現。
好きにしていいよ。
「灰色の脳細胞ならぬ灰色の百合生活だった」
「それは明らかにうまいこと言えてないぞ」
無理矢理会話にギャグを挟もうとするな。
著しく緊張感に欠ける。
「厳しいな、阿良々木先輩は。そのシビアな基準は私には高過ぎるハードルだぞ。でも、それも阿良々木先輩が私のためを思って言ってくれているのだと考えると、素直に受け入れられるのだから不思議なものだ」
「で……それから、その灰色の百合生活で、どうなったんだ?」
「うん。その一年間で、私は今更のように、私にとって、戦場ヶ原先輩がどれほどに大きな存在だったのかを、知った。案外、一緒にいた二年間よりも、離れていた一年間の方が、私にはよっぽど重かったのかもしれない。だから、もしも直江津高校に受かって、戦場ヶ原先輩と再会できたら、告白するつもりだったのだ。それを目標に、私は受験勉強に明け暮れた」
神原は言った。
自信たっぷりの態度はいつものままだったが、しかし心なし、頬が上気している。どうやら、これは単純に照れているらしい――やばい、ちょっと可愛い。ストーキングされているときは面食らい混乱するばかりだったが、ここで初めて僕は、神原駿河のことを、本当に可愛い後輩だと思えた。ああ、僕の中に、百合という、新たな萌え領域が芽生えようとしている……。
なんだか、もう、神原の左腕のけだものの手がどうでもよく思えてきた……違う、ストーリーの本筋は、あくまでその腕のはずなんだ……。
「飴どころじゃない。ガムだ。戦場ヶ原先輩のかんだガムならかめるぐらい、私は戦場ヶ原先輩に惹かれていたのだ」
「基準が全くわからねえ……」
もっといい言い回しでちゃんとたとえろ。
「けれど」
と――そこで、露骨に声のトーンを落とす神原。
「戦場ヶ原先輩は、変わってしまっていた」
「ああ……」
「変わり果てて、いた」
蟹。
蟹と出会った――戦場ヶ原ひたぎ。多くのものを失い、多くのものを捨て、多くのものを無くし――全てを拒絶した、戦場ヶ原ひたぎ。羽川がそうだったけれど、中学時代の彼女を知っている者からすれば、それは別人と見まごうばかりの、変貌だったに違いない。まして、戦場ヶ原を信奉《しんぽう》していた立場の神原からすれば――信じたくないほどの変貌だっただろう。
自分の目で見たものを、信じられないほどの。
「高校生になってから、重い病気を患《わずら》ったということは、聞いていた――長患いで、陸上をやめてしまったことも、聞いていた。そこまでは、事前に、知っていたのだ。でも、あそこまで変わってしまっているとは――思いもしなかった。悪い噂だと思っていた」
重い病気、ね……。
まあ、決して、その解釈が間違ってるわけでもないんだけれど……あれは戦場ヶ原にとって、結局のところ、今もなお完治していない、痼疾《こしつ》のようなものなのだから。
「しかし――違った。噂自体は確かに真相を外してはいたが、そんな噂どころじゃなかった。戦場ヶ原先輩の身体には、もっと大変なことが、起きていた。私は、それに気が付いて――何とかしなければ、と思った。戦場ヶ原先輩を助けなければと思った。だってそうだろう? 私は中学生の頃、戦場ヶ原先輩にすごくお世話になったのだ。受けた恩を忘れたことはない。学年も部活も違ったけれど、戦場ヶ原先輩は、私に、とても優しくしてくれたんだ」
「その優しさは……」
その優しさは戦場ヶ原にとって、どのような意味を持っていたのか――なんていうことは、この場面で、言うようなことでも、聞くようなことでも、ないのか。
「だから私は、戦場ヶ原先輩を助けようとしたんだ――助けたかったんだ。だけど、それは、取り付く島もなく、拒絶された」
「そっか……」
さすがに、どういう風に拒絶されたのかまでは、教えてくれないだろうな。それは多分、戦場ヶ原を庇ってのことだろう……神原は、戦場ヶ原について悪口らしきことを、絶対に何があっても、口が裂けても口にしたくないはずだから。
やはり、僕と同じような目に、僕以上の酷い目に、遭わされたのだろうことは、容易に推測できるけれど……正直、それは僕も聞きたくない。
僕のためにも、神原のためにも。
戦場ヶ原のためにも。
ホッチキス。
「なんとかできると、思った」
慚愧《ざんき》の念に堪えないというように――心の底から悔《く》いているような雰囲気を漂わせつつも、それでも気丈に、無理にさばさばとした風を装って、神原は言う。
「戦場ヶ原先輩の抱えているものを、私がなんとかできると思った。原因を取り除くことはできなくとも、現象を改善することはできなくとも、そばにいるだけで――戦場ヶ原先輩の心を、癒《いや》すことができると思っていた」
「…………」
「お笑い種《ぐさ》だったな。おめでたい女だった。今から考えれば、滑稽《こっけい》千万だ」
だって、戦場ヶ原先輩は、そんなこと、ちっとも求めてなかったんだから――
と、神原は下を向く。
「あなたのことなんて友達とも思っていなければ後輩とも思っていない――今も昔も。そんなことを、はっきり言われた」
「まあ……」
言うだろうな、当時のあいつなら。文房具以上の凶器として、あの辛辣《しんらつ》な暴言毒舌を、戦場ヶ原ひたぎは持ち合わせていたのだから。
「最初は、じゃあ戦場ヶ原先輩は私のことを恋人と思っていてくれたのかと思ったが、しかし、そうではなかった」
「ポジティヴだったな」
「うん。続けて、よりはっきり言われた。あなたのような優秀な下級生と仲良くしておけば自分の評判が上がるから、そのために仲良くしてあげていただけだ、面倒見のいい先輩を演じてあげていただけだ――と」
「……酷いことを言うなあ」
傷つけるのが目的で――
自分から離れさせるのが目的だから――
でも、戦場ヶ原は昨日、神原のことをあの子と呼んで、中学時代の私の後輩だと言い、今は違うと言いつつも、中学時代の友達だったことは認めていた。それは、僕にとって都合のいい解釈なのかもしれないが、でも――それでも、だ。
「優秀な下級生と言われたのは嬉しかったけれど」
ポジティヴだった。
徹頭徹尾《てっとうてつび》。
「でも――私は自分の無力さを思い知った。そばにいるだけで癒せるなんて、思い上がりも甚《はなは》だしかった。戦場ヶ原先輩はむしろ――そばに、誰もいて欲しくなかったのだ」
独りが寂しくない人間は――実在する。
普通に考えれば、戦場ヶ原は、間違いなくその部類だろう――少なくとも、無意味に大勢でいることをよしとする人間では、そもそも、なかったのだと思う。人当たりがよかった中学時代ですら、戦場ヶ原は内心で、そう思っていたに違いないだろう――けれど。
独りが寂しくない、と。
独りでいたいは、違う。
人付き合いが嫌いなのと、人間嫌いが違うように。
「だから私は、それ以来、戦場ヶ原先輩には、近付かなかった。それが、戦場ヶ原先輩が私に望んだ、唯一のことだったからな。勿論、戦場ヶ原先輩のことを忘れることなんてできるわけがなかったけれど――でも、私が身を引いて、何もしないことで、私が戦場ヶ原先輩のそばにいないことで、少しでも戦場ヶ原先輩が救われるというのなら――それを私はよしとできる」
「……お前」
何と声をかけていいのか、わからない。それは単純に、その潔いとも言える態度に感じ入ったからというのではなく、その選択を、やむをえないとも仕方がないとも言わず、よしとできると表現した、言葉に、感じ入ったからだ。戻ってこなかったと戦場ヶ原は言ったが――そうじゃなく、神原は、自分の意志で、身を引いたのだ。
本当に、真剣――なんだ。
戦場ヶ原のこと。
中学時代から、一年前まで想いを募らせ――それに。
今に至っても。
「戦場ヶ原先輩と顔を合わせないように気をつけた。廊下でばったり会ってしまったり、朝礼で姿を見かけたり、学食ですれ違ったりしないよう、行動範囲は全てずらした。私が戦場ヶ原先輩をというだけでなく、戦場ヶ原先輩が私を意識せずに済むよう、取り計らった。勿論、部活の試合で活躍したら、どうしたって私のことは噂にはなってしまうのだけれど、だから、私の噂には虚実、織り交ぜるよう、私自身が、コントロールした」
「……道理で、人格が破綻しているとしか思えない、ちぐはぐな噂が流れているわけだ」
納得。
しかし、そこまで徹底して……ストーキングならぬ、逆ストーキング……とでも言えばいいのだろうか。
「一年は、それでやり過ごしたのだ。灰色どころか、黒色の百合生活だったな。それで我武者羅《がむしゃら》になって、バスケットボールにより熱中できたのは、果たして、よかったのか悪かったのか……でも――そんな一年が経って、私は、阿良々木先輩のことを、知ってしまった」
「…………」
戦場ヶ原のことを気に掛けていたにしては、彼女と僕とのことを知るのが遅いような気がしたが、それは学年を跨いだからではなく、あえて神原が、戦場ヶ原の話題については、避けるようにしていたから――だったのか。
それでも。
阿良々木暦のことを、知ってしまった。
「いてもたってもいられず――一年ぶりに、私は、自発的に、戦場ヶ原先輩を……訪れた。訪れようとした。勿論、一年の間に、ケアレスミスは何度かあったけれど、しっかり、意思を持って戦場ヶ原先輩の姿を見たのは、それが初めてだ。戦場ヶ原先輩は――阿良々木先輩と、朝の教室で、蝶々《ちょうちょう》喃々《なんなん》と、話していた。中学時代でも私に見せてくれたことがないような、幸せそうな、笑顔でな」
「…………」
僕をどんな罵詈《ばり》雑言《ぞうごん》で苛めていたときの笑顔だろう……あの表情の変わらない女が笑顔を浮かべるときなんて、そのときくらいなのだけれど。
「わかるか?」
神原は僕を向いた。
「阿良々木先輩は、私がしたくてしたくてしょうがなかった、したくてしたくてしょうがなかったのに諦めたことを……まるで当然のように、やっていたのだ」
「神原……いや、それは」
「最初は、嫉妬した」
一言一言、区切るように言う神原。
「途中で、思い直そうとして」
溢れる感情を、抑えるような声で。
「最後まで、嫉妬した」
そう締めくくった。
「…………」
「どうして私じゃ駄目だったのかと思った。阿良々木先輩に嫉妬したし、戦場ヶ原先輩に失望した。男だったらいいのかと思った。私が女だから駄目なのかと思った。友達や後輩はいらないけれど、恋人ならよかったのかと。だったら」
だったら――と、神原は僕を睨むようにした。
初めて、僕にそんな批難がましい眼を向けた。
「だったら、私でもいいはずじゃないか」
後輩で、年下の女子だと思っていても、性格的に逆上して僕につかみかかってくるようなことはないだろうとわかっていても――それでも怯んでしまうような、それは、剣幕《けんまく》だった。
「阿良々木先輩に嫉妬して、戦場ヶ原先輩に失望した。そして――そんな自分自身に、呆れ果てた。何が戦場ヶ原先輩を癒す、だ。何が身を引くだ――全部、そんなの、欺瞞だったということじゃないか。全部、私のエゴだったということじゃないか。自分さえよければそれでよかったということじゃないか。そうしていれば、戦場ヶ原先輩に、褒めてもらえるとでも思っていたのか? 馬鹿馬鹿しい。偽善にもほどがある。でも、それでも――私は、昔みたいに……戦場ヶ原先輩に、優しくして、もらいたかったのだ。エゴでも何でも、戦場ヶ原先輩のそばにいたい――だから」
と。
神原は、自分の右手で――自分の左手に触れた。
けだものの左手に、触れた。
「だから私は、この手に、そう願ったんだ」
006
ウイリアム・ウイマーク・ジェイコブズの『猿の手』の粗筋《あらすじ》を、ここで紐解き、詳しく説明する必要はないだろうけれど――その話を知らなかった僕にしたところで、聞いてみれば、なるほどそれは、怪談として、あるいはホラーとして、よくできたストーリーである。教科書通りの恐怖譚、由緒正しく古色|蒼然《そうぜん》とした、物語――そう、その話を知らなかった僕にしたところで、聞いてみれば、どこかで聞き覚えがあるような、思い当たる節があるような、そんな風な感想を持った。
古典という奴なのだろう。
神原に言わせれば、吸血鬼ほどではないにせよ、猿の手というアイテムはかなりメジャーなもので、色んなメディアで色んな風にアレンジされて、使用されているらしい。派生して派生して、生き物の進化図のように派生して、様々なバージョン違いはあるにせよ、その全てに共通し、確実に通底しているのは、つまり、猿の手を猿の手たらしめている最大の要因は――
いわく、猿の手は持ち主の願いを叶《かな》えてくれる。
いわく、ただし、持ち主の意に添わぬ形で――
この二点であるらしい。
そんな、いわくつきの、アイテム。
たとえば、大金が欲しいと願う。すると次の日、家族が死んで、その保険金が手に入るとか。たとえば、会社で出世したいと願う。すると次の日、会社が傾き、上層部が処分され、結果として、傾いた会社の中で出世することになる、とか。
そんな感じ。
何でも、猿の手はインドにおいて、霊験あらたかな老行者によって製作されたアイテムで、人間は運命に従って生きるべきであって、それに逆らおうとすると酷い災難に見舞われると教えるための代物《しろもの》であるらしい。三人の人間が三つずつ願いを叶えることができる、というような触れ込みで、物語に登場する。
三つの願いを叶えてくれるなんていえば、僕あたりが最初に連想するのは、アラビアンナイトの魔法のランプなのだけれど、さて、あれはどんな話で、どんなオチだっただろうか。他にも、世界中に、この手の話は、分布している。何でも願いを叶えてくれる存在が人間の前に現れるという物語形式は、決して叶え切れない膨大《ぼうだい》な欲望に支配された人間にとっては、根源的な物語形式なのかもしれない。怪談形式で最も名高いのは、やはり、『猿の手』らしいのだけれど――
「で――その人は、忍野メメという名前なのか? メメは、片仮名でいいのか?」
「ああ。とはいえ、名前ほど可愛らしい奴じゃないぞ。というか、言ったけど、アロハ趣味のおっさんだぞ。変な期待はしないでくれ。少なくとも、それらしく[#「それらしく」に傍点]は見えないから、そこんところだけは、心構えをしておいて欲しい」
「いや……そういうことではなく、な。字面《じづら》が印象的というか、象徴的というか……、まあ、別にいいのだが。しかし、メメとは、なんだかニックネームのつけにくそうな名前だな」
「そういえば、そうだな……子供の頃、あいつ、なんて呼ばれてたんだろうな。興味なくもないけれど。……ていうか、あいつの子供時代自体、想像もつかないな」
忍野の住処《すみか》は、住宅街から少し離れた位置の、四階建ての学習塾跡――平たく言えば廃墟である。廃墟も廃墟、肝試しでだって近付きたくないどころか、普通に生活していれば恐らく建物という認識で目に入ることさえないだろう、風景としての廃墟である。大きな地震が来れば多分それで完膚《かんぷ》なきまでに全壊してしまうであろう、年季の入った廃墟だ――いや、年季といっても、この学習塾が駅前にできた大手予備校のあおりを食らって潰れたのは、精々数年前のはずなのだけれど。建物とは、数年間人が使わないだけでこんな酷いことになってしまうのだと学ばせてくれる、死に見本のような存在である。だから、住処といっても、忍野はあくまで勝手に住んでいるだけであって、言うならば不法|占拠《せんきょ》も甚だしい。私有地、立入禁止の看板に囲まれて、奴は春休みからこっちの二ヵ月を、送っているのである。廃墟内に残っていた机をベッド代わりに、日がなこの町を俳徊《はいかい》しているというわけだ。
俳徊している。
そう、じっとしているわけではない。
だから、こうして訪ねてきてみても――奴が果たして建物の中にいるのかどうかは、出たとこ勝負である。携帯電話もPHSも持っていない忍野に会うのは、正直、運任せの要素が強い。
神原の日本家屋から、自転車で一時間少し。
勿論、神原なら、駆け足でも一時間少し。
僕達は、その学習塾跡を、見上げていた。
「ところで、阿良々木先輩。阿良々木先輩は、吸血鬼に襲われたとのことだったが――それが阿良々木先輩にとって、初めての怪異……その、怪異というものだったのか?」
「まあ、多分」
気付いていなかっただけかもしれないけれど。
少なくとも意識したのは、それが最初だ。
「それが春休みで、続いて、戦場ヶ原先輩に、私か……それまで何もなかったのに、ここに来て三連続とは、何か暗示的だな」
「ああ」
実際は、羽川の分と八九寺の分を合わせて、五連続なのだけれど、その辺りの事情は、個人情報保護の理念に基づき、それぞれのプライバシーに配慮して、ある程度ぼかして、伏せておくことにしたのだった。
「一度体験したら、後も体験しやすくなるもの――らしいぜ? だから僕は、この先、ずっとそうなのかもしれないな」
「それは辛いな」
「別に……辛いことばかりでもないさ。怪異を体験したからこそ、普通でない体験をしたからこそ、気付いたことや、得たものだって、あるはずなんだから」
そう言ったが、それがフォローのような、ともすれば論点をずらし、気持ちを誤魔化すような響きになるのは、避けることができなかった。実際、辛いことばかりでもないなんて、春休みの経験だけを思い出しても、ただ言を目一杯左右にしたようなものだと自分でも思う。その気まずさもあって、なんとなく、神原の左手を見る――巻き直された、真っ白い包帯。その中身は窺えないが、しかし、その正体を一度知ってしまうと、確かに、その長さやその形が、若干不自然であることが、外側からでも、わかる。わざと同じ箇所に何重にも巻くようにして、わかりづらくはしているようだけれど……。
「阿良々木先輩と戦場ヶ原先輩は、持ち上がりでもないのに、一年、二年、三年とクラスが同じ仲だから、てっきり、前々からある程度は親しかったのかとばかり思っていたのだけれど――その話だと、つい三週間前に、初めて口を利いたということになると思うのだが」
「絶対に初めてかと言われれば、そりゃまあ、怪しいけれど……少なくとも、あいつがくだらないミスさえしなければ、僕はあいつの秘密には気付かなかっただろうし、まあ、付き合うことも、なかったんだろうな。それに――忍野のことを知らなかったら、僕が戦場ヶ原の力になれることはなかったろうし……そういう意味ではたまたまだよ。都合がいいっていうか……不都合が悪いっていうか。神原、お前が知っていたのが猿の手であって、僕が知っていたのが吸血鬼だったっていうだけさ」
一年前、神原が戦場ヶ原の抱える秘密に気付いたというとき――神原がそれをそれほどの抵抗なく飲み込めたのは、僕が鬼と猫をその時点で経験していたように、神原も、猿を知っていたから――なのだろう。だから、僕と神原との違いは、怪異に対する抵抗勢力としての忍野を知っていたかどうかということ。
だから、考えざるを得ない。
もしも、神原が忍野を――いや、忍野じゃなくてもいいのだけれど、戦場ヶ原に貸せるだけの力を持つ、テクノクラートとしての誰それを知っていて、一年前に、戦場ヶ原の抱える秘密を、解決できていたら。今の僕の立ち位置にいるのは、僕じゃなくて、神原じゃないのか――と。年齢や男女の違いは、とりあえず、おいておくとしたら――
たまたま、か。
巡《めぐ》り合わせというにしても――ただの偶然。
「気を使ってもらえるのは嬉しいばかりだが、そういうことを言わないで欲しい、阿良々木先輩。戦場ヶ原先輩はそんな人ではないさ。恩と愛と取り違えるような人ではない。そんなのは、ただのきっかけに過ぎないのさ」
神原は淡く寂しさを滲ませる口調で言った。
「だからこそ、悔しいのだけれどな。戦場ヶ原先輩に拒絶されたとき、私は、戦場ヶ原先輩から、身を引いた。阿良々木先輩は、戦場ヶ原先輩を追いかけた。違いがあるとすれば、鬼と猿との違いなどではなく、忍野という人を知っていたかどうかではなく、その違いだったのさ」
「…………」
決定的だな、と呟く神原。
こうして話していると、意外と自省《じせい》的な奴なんだな……それは、活発で溌剌《はつらつ》としているスポーツ少女という彼女のイメージとは、裏腹な個性だった。けれど、それを後ろめたさと言うのなら、僕も神原と同様に抱えているような気がする。
なんなのだろう?
神原とこうして話していると感じる、僕の心をちくちくと針で刺すような、この後ろめたさのような気持ちは――そんなことをする必要はないだろうに、ついつい、フォローみたいなことを、言ってしまう。
それがますます、後ろめたい。
「うん……しかし、戦場ヶ原先輩の抱えていた問題が、既に解決していたというのは、素直によかったと思う。私が礼を言うのもおかしな話なのかもしれないが、阿良々木先輩には、心から感謝させていただきたい」
「だから僕じゃなくて、それは忍野の奴の功績なんだけどな――いや、違うな、それも違う。戦場ヶ原が助かったのは、戦場ヶ原のお陰だよ。あいつが一人で、勝手に助かっただけなんだ」
そういうことなのだ。
僕や忍野のしたことなど、たかが知れている。
揺るぎ無く、それだけのこと――
「そうか……そうなのかもしれないな。でも、一つ聞かせてくれ、阿良々木先輩」
「なんだ?」
「戦場ヶ原先輩が阿良々木先輩に惹かれた理由はわかった。嫉妬や失望が、それには不釣合《ふつりあ》いなのだということも……うん、わかったつもりだ。でも、阿良々木先輩は戦場ヶ原先輩の、どういうところに惹かれたのだろうか? 二年以上、ただのクラスメイト、口も利いたことのないただのクラスメイトだったというのに」
「それは……」
正面切って訊かれると、答えにくい。照れくさいというのもあるが、それ以上に、そんな風に明確な理由なんて、求められても……ただ、あの日、母の日の公園で――
ああ、そうか。
なるほど。
この後ろめたさの正体は、それなのか。
「……どうして、そんなことを訊くんだよ、神原」
「うん。つまりだな、もしも阿良々木先輩が、戦場ヶ原先輩の身体が目当てなら、私が代われると思うのだ」
「………………」
とんでもない申し出を受けた。
右手と包帯の左手で、ぎゅっと自分の胸をわしづかみにし、寄せて上げる仕草をする神原。制服姿のままなので、それが不謹慎《ふきんしん》なほどアンバランスに相まって、異様なほど艶《なまめ》かしい雰囲気を漂わせる、蠱惑的《こわくてき》なポーズだった。
「私はそこそこ可愛いと思うのだ」
自分で言いやがった。
「髪の毛を伸ばせばもう少し女の子らしくなると思うし、肌ツヤも綺麗に保っている。それに、うん、昔からスポーツをやっているからな、ウエストの辺りなんかほどよくくびれて、引き締まったいい身体をしているのだ。男好きのする素敵なボディだと、言われたことがあるぞ」
「それを言った奴を連れて来い、殺してやるから」
「部活の顧問だ」
「世も末だな!」
「殺されては困る。出場停止になってしまう」
神原は、どうなのだ、と僕に重ねて問う。
冗談で言っているわけではないらしく、そして冗談半分でも冗談交じりでもないらしく、真剣そのものの剣幕で、執拗《しつよう》に、神原は僕に、イエスかノーかの二者択一を迫ってくる。
「私の覚悟は本物だぞ。阿良々木先輩が求めるのなら、いつでもどこでも、阿良々木先輩の攻めを受け切るつもりはある」
「攻め!? 受け!? なんで僕がそんなもんを求めなくちゃならないんだ!?」
「ん? ああ、そうか。阿良々木先輩はBLの素養がないのか。意外だな」
「後輩の女子とBLの話とかしたくねえよ!」
「ん? BLとはボーイズラブの略だぞ?」
「知っている! そこで勘違いはしていない!」
ああ、気付いてはいたさ。
神原の部屋を片付けたとき、散らかっている書籍の中に、いかにもそういうジャンルの表紙のものが大量に混じっていたことくらいは!
でも、敢えて触れなかったのに!
見なかったことにしたのに!
「勘違いはしていないのか。反応からして、てっきりそうだと思ったのに。ならば、阿良々木先輩は今、一体全体何に怒っているのだろう? 私は阿良々木先輩の気分を害するようなことを言ったつもりはなかったのだが、ひょっとして、阿良々木先輩は受けなのか?」
「この話はもう終わりだ!」
「私はネコだから、攻めにはなれない」
「ん……? え、わからなくなったぞ?」
猫?
踏み込んではならない領域に入ってないか。
薄氷を踏むような会話をしている気がする。
「大体、神原、男と女でどうしてBLを演じなくちゃいけないんだ。全くと言っていいほど必然性がないだろうが」
「しかしな、阿良々木先輩。私は、処女は戦場ヶ原先輩に捧げたいと――」
「聞きたくねえ!」
薄氷は割れて、会話は水没した!
戦場ヶ原ひたぎと神原駿河、お前ら二人がかりで、僕の女性幻想を完膚なきまでに破壊しようとしてんのか! 今確信した、僕の危機管理意識が断言した、お前ら間違いなく、先輩後輩の旧知、ヴァルハラコンビだよ!
幸せが大挙をなして、抜き足差し足忍び足、駆け足早足急ぎ足で、足並みを揃えて逃げていくのを全身でひしひしと感じつつ、深くため息。
ああ……もう本当、身体目当てとかなんとか、弾性に富んだわがままで男好きのする素敵なボディとかなんとか、精神が磨り減り身を削《けず》るような際どい会話ばっかりだ……あいつはあいつでおませさんだけれど、それでも昨日の八九寺との会話は、変にすれてなくて本当に楽しかったよなあ――なんて、小学生との会話を懐かしむ僕だった。
末期症状である。
「恐れながら、差し出がましいことを言わせていただくが、阿良々木先輩。後輩の女子とお下劣な会話を楽しめないようでは、社会に出てからやっていけないと思うぞ? 女性幻想など、早めに捨てておいた方が正解だ」
「それこそ後輩の女子に諭《さと》されたくないよ」
それから、お下劣という言い方もどうだろう。
他の言い方をすればいいというわけでもないが。
「そうは言ってもな、阿良々木先輩。しつこいようだが、実際問題、そのような薄っぺらい女性幻想に基づいて貞淑であることを求められても挨拶に困るぞ。仕方あるまい、女の子だってエッチな話に興味があるのだ」
「はあ……」
それはそれで、別の女性幻想をかきたてられるエピソードなのだけれど……戦場ヶ原とかお前とかの場合、そういうのとはまた境遇が違うと思うんだよなあ。
「さあ、それでは、阿良々木先輩はブリーフ派かトランクス派かという話を続けようではないか」
「そんな話をしてはいなかったぞ!?」
「あれ? 私がスパッツの下にパンツを穿いているかどうかという話だったか?」
「穿いてないんですか、神原さん!?」
動揺のあまり、丁寧語になってしまった。
「じゃ、じゃあ、その、スカートからはみ出しているスパッツの下は……!」
「たとえそうだったとしても驚くほどのことではないだろう。スパッツというのは元々肌着の一種だからな」
「だったら尚更、より一層だ! 常にパンツ見せびらかしながら生活してるようなもんじゃねえか、それ!」
しかも、お前……走ってるときとか飛び跳ねてるときとか、まにまにめくれまくってたぞ、そのスカート!
「ふむ。そう言われればその通りなのだが、まあその辺りは、さしずめスポーツ少女からの小粋な贈り物といったところだな」
「違う、露出狂の変態的行為だ!」
「ああそうだ、思い出した、そんな話もしていなかったぞ。私が戦場ヶ原先輩の代わりになれるかどうかと――」
「待て、ことの真相をはっきりさせないままに話を戻そうとするな! 本当は穿いているのか、それとも本当に穿いていないのか、ちゃんと明言するんだ!」
「そういう下卑《げび》た事情は割愛しようではないか、阿良々木先輩。些細なことだ」
「些細じゃねえ、僕の後輩がスポーツ少女か露出狂かの分水嶺《ぶんすいれい》だ!」
エッチかどうかはともかく。
至極《しごく》、どうでもいい話が続いている。
「そうだな。では、こう考えたらどうだろう。スポーツ少女でもありまた露出狂でもある。スポーツ少女だと思う者にはスポーツ少女であり、露出狂だと思う者には露出狂なのだ」
「言葉で遊ぶな! 『○○でもあり××でもある、○○だと思う者には○○で、××だと思う者には××だ』っていう台詞が格好いいのは中学生までだ――お前は僕の妹か!」
どうでもよさもここに極まった。
これ以上ないどうでもよさだ。
「……でもな、神原。真面目な話、どんなに頑張ったところで、お前じゃ、戦場ヶ原の代わりにはなれないよ」
「…………」
代わりにはなれない。
別に、このことだけを言っているのではなく。
「お前は戦場ヶ原じゃないしな。誰かが誰かの代わりになんてなれるわけがないし、誰かが誰かになれるわけなんかねーんだよ。戦場ヶ原は戦場ヶ原ひたぎだし、神原は神原駿河なんだから。いくら好きでも、いくら憧れてても、いくら憧れても」
「……そうだな」
沈黙の後、頷く神原。
「阿良々木先輩の言う通りだ」
「ああ。じゃ、無駄口叩いてないで、もう行こうぜ。ていうか、いい加減そのポーズを解除しろ。さっきから僕が自分の胸を揉みしだいている女子高生と会話している奴になっている。こんなシュールな絵はねえよ」
「む。それは気付かなかった」
「気付け」
色んなことに、早く気付け。
「本当に早くしないと、そろそろ日が暮れてしまいそうだな――夜になったらやばいんだろ? その左手」
「うん。逆に言えば、日のある内は問題がないということだ。少なくとも、あと数時間くらいは確実に大丈夫だな」
「そっか……活動時間が夜だけだっていうのは、なんとなく、僕としては吸血鬼を思い出さざるをえないな……」
ビルディングを囲む金網に沿うように神原と一緒に歩いて、そこに大きく開いた穴を見つける。三週間前、戦場ヶ原と共に、この穴をくぐったのだ――今回は、その後輩の、神原と一緒に。
縁もゆかりもありやしないと思っていたけれど。
こうなるともう、合縁奇縁《あいえんきえん》だ。
袖すり合うも、何とやら。
「足元、気をつけろよ」
「うん。ご親切にどうも、だ」
ぼうぼうに生え放題の草をかきわけるようにして、後ろを来る神原が歩き易いように道を整えながら先へ進み、しかし、今からこの有様だと、夏場には一体どうなってしまうのだろうかと考えながら、崩壊寸前の、ともすれば崩壊後とすら見えてしまいそうな、学習塾に、入る。
散らかりっぱなし。
コンクリートの欠片《かけら》だったり空き缶だったり看板だったり硝子だったり、なんだかわからないものだったりが、散らかりっぱなし、散らばりっぱなし。電気が通っていないから、夕方の段階で既にほの暗い建物内は、普通に見るよりもずっと、朽ち果てているように見える。忍野も、暇なのだったら、せめて建物の中だけでも綺麗にしておけばいいのに、と思う。こんなところで暮らしていて、ブルーにならないのだろうか。
まあ、それでも神原の部屋よりは幾分マシか……。
戦場ヶ原はこの建物の散々な有様具合、忍野の自堕落ぶりに眉を顰《ひそ》めていたけれど、神原なら、その心配はないな……。
「汚い。酷いな、これは感心しないぞ。ここで暮らしているというのなら、忍野という人は、どうして掃除をしないのだろう」
「…………」
変なところで他人に厳しい女だった。
というか、こいつ、ひょっとしたら自意識っていうのが、あんまりないのかもしれないな……。自分に自信があるからこその堂々とした態度だと思っていたが、案外、そういった側面もあるのかもしれなかった。
それは、戦場ヶ原とは違うところだ。
あの女の自意識は、異常である。
忍野がねぐらにしているのは、主に四階。
薄暗い中――僕は歩く。
入り口から離れるに連れて、どんどん闇《やみ》は深くなる――不覚だった、もう僕は何度も来ているのだから、懐中電灯くらい、持ってくればよかった。戦場ヶ原に託された、十万円の入った封筒は、持ってきたのだけれど――つまり、今日は最初から、神原の話がどうであれ、ここには来るつもりだったのだから、それなら、それくらい気を回してもよさそうなものだったのに。
でもなあ。
時と場合によるけれど、僕、今はもう、あんまり、暗いのとか、平気だからな……ついつい、そういう当たり前のことを、失念してしまう。
吸血鬼だった頃の、名残《なごり》、というか。
「…………」
階段に辿り着いたところで振り向くと、神原の足取りは、非常に、おっかなびっくりの、ふらつき調子だった。かなり危うい、暗いのは苦手らしい。普段、気丈なスポーツ少女であるだけに、尚更その歩調が危うく、心細く頼りなく、見えてしまう。そのまま階段を昇れというのは、こうなると酷かな……左手はともかくとして、こんなことで、大事な足でも怪我をしたら、ことだしな……。前に戦場ヶ原をここに連れてきたときは、そうだ、手を繋いでやったものだけれど……。
戦場ヶ原と初めて手を繋いだのは、あのときだ。
うーん……しかしどうしたものか。自転車の二人乗りを神原が辞したのは、その辺りのことを考えてというのもあるのだろうし、考えてみれば僕にしたって、戦場ヶ原における浮気の基準の厳しさは、昨日この身をもって教えてもらったところだからな……。
「おい、神原後輩」
「なんだ、阿良々木先輩」
「右手を前に伸ばせ」
「こうか?」
「よし。合体だ」
その手の先をつまむようにして引っ張って、そのまま僕の学生服のスラックスに通した、ベルトを握らせた。
「こっから階段だから。つまずかないようにな。ゆっくり昇るからさ、気をつけろ」
「…………」
いくらなんでもこのくらいの物理的接触ならば、戦場ヶ原規格でも浮気にならないだろうという、名案だった。我ながら、滅茶苦茶|詭弁《きべん》臭かったが、これで戦場ヶ原に対しては、とりあえずの言い訳が立つ。
「優しいんだな、阿良々木先輩は」
神原は、まるでベルトの強度を確認でもするかのように、ぎゅっと握って引っ張るようにしながら、そう言った。
「よく言われないか? 優しくていい人だと」
「そんな無個性を取《と》り繕《つくろ》うみたいな言葉、よく言われたくねえよ」
「暗がりの案内一つに至るまで、私や戦場ヶ原先輩との関係に気を使ってもらえるなど、心底有難いばかりだぞ。心遣い痛み入る、憎い計らいとはこのことだ」
「……思惑はバレバレなのか」
鋭いなあ。
普通、わからないだろ、そんなの。
ていうか、わかったならわかったで、わざわざ言うなよ、そんなこと……滅茶苦茶決まりが悪いじゃないか。茶化した風を装った分だけ、かなりいたたまれない。
「阿良々木先輩。一つ、訊きたいのだが」
「なんだよ。受け攻めの話以外なら、なんでも訊いてもらって構わないぞ」
「ああ、受け攻めの話は後回しだ」
「受け攻めの話もあるのかよ!」
「あとはパンツの話と露出狂の話がある」
「蒸《む》し返すな!」
「正直、エッチな話以外はしたくない」
「そんなキャラが存在してたまるか! 訊きたいことをさっさと訊け!」
「今までの話の感触からすると……どうも阿良々木先輩は、戦場ヶ原先輩に、私のことを全く話していないみたいなのだが」
「はあ? いや、話してるよ。それで、お前と戦場ヶ原が、ヴァルハラコンビだったことを、僕は知ったんだから」
正確には、ヴァルハラコンビという単語自体は、羽川から聞いたものなのだけれど、戦場ヶ原本人に確認を取らなければ、戦場ヶ原ひたぎと神原駿河の関係性というものは、僕にはわからなかった。推測はできても、推測の域《いき》は出なかった。羽川に聞こうとも思わなかっただろう。
「そうではなく――私の左手のことだ。私の左手が、阿良々木先輩を襲ったということを……」
「ああ、そっちのことか。うん、それは話す余裕が、まだなくて……昨夜はそれどころじゃなかったし、それに、真相もわかってなかったし、お前の左手がそんなことになってるってことも、知らなかったし。そもそもお前が犯人だってことに対する確信すらも、全然なかったわけだしな。山勘もいいところだった。あれについては、今のところ、自転車で電柱にぶつかったということになっている」
「しかしあそこまで周辺被害がでたのに、それで大丈夫なのだろうか?」
「そこは元吸血鬼の身体、警察や病院はご法度《はっと》でな。表沙汰《おもてざた》になると僕も困るんだよ。勿論、お前のこと、戦場ヶ原に、いつまでも秘密にしておくってわけにはいかないだろうけどさ……でも、それは、僕が言うよりも、神原が言うべきことだろうと思ったから」
「私が」
「優しいわけでも、いい人なわけでもないんだよ。ただまあ、色々、思惑が――」
姑息な計算が。
腹黒い、未練が。
僕には、絶対に、できないことを――
「……ん。おっと」
三階と四階との間の踊り場に、忍がいた。
忍野忍。
外見年齢八歳くらいの、透き通るように肌の白い、ヘルメットにゴーグルの、金髪の少女――踊り場に、直接腰をつけて、脚を折りたたむように、体育座りをしている。金髪だからそうは見えないけれど、佇《たたず》まいとしてはさながら座敷|童子《わらし》のようだった。
思わず、声を出して驚いてしまった。
忍は、じいっと、階段を昇ってきた僕と神原を、きつく睨むようにしている。恨めしそうな、厳《いか》めしそうな、物言いたげな、物足りなげな、そんな複雑な色の眼で。
「…………」
無視。
僕は、眼を逸らすように、無視し、黙殺するように、忍を迂回《うかい》するようにして、そのまま、四階に、向かう。それ以外の対応を思いつかなかった。……しかし、どうしてこんな、中途半端な踊り場なんかにいるんだ? あいつ。忍野と喧嘩でもしたのだろうか……。
「な、なあ、阿良々木先輩。なんだ? あの子」
四階に辿り着いたところで、やや冷静さを欠いた、上っ調子な声で神原は言った。まあ、何の説明もなしにあんな少女が、こんな廃墟の中で体育座りをしているのを見たら、気に留めるなという方が、無茶だろうけれど……それでも、神原は今、身体の一部が怪異と化している。ひょっとすると、忍から、感じ取るものがあったのだろうか?
「めちゃくちゃ可愛かったな!」
「今日一番の笑顔で何を言ってるんだお前は!」
「抱きしめたい……いや、抱かれたい!」
「結構気の多い奴なんだな!」
一途じゃなかったのかよ。
しかも相手は子供だぞ……。
「そういうことは思っても黙っておいてくれ……」
「しかし私は阿良々木先輩に隠しごとをしたくない」
「だからって赤裸々過ぎるだろ、お前は」
「赤裸々?」
「裸というキーワードに反応するな! 迂闊に三字熟語も口にできないのかよ、からみづらいにも程があるだろうが!」
だけど、見境なしというか、別に戦場ヶ原に関してだけ百合ってわけじゃないんだ、こいつ……女性幻想に限らない様々な幻想を次々と絨毯《じゅうたん》爆撃のごとく打ち崩され、とりあえずこいつには八九寺を絶対に紹介しないことを心に誓いつつ、僕は暗澹《あんたん》たる気持ちをそのままに、神原に言った。
「……まあ、あれには――関わらない方がいいよ」
吸血鬼。
――の、成れの果て。
吸血鬼。
――の、搾りかす。
それが、あの金髪の少女、忍野忍なのだから。
鬼のいぬ間に洗濯――だ。
「ふうむ。そうか……口惜《くや》しいな」
「今日一番の残念顔も見せてもらったところで、もう着いたぜ、神原。さて、忍野の野郎はいるんだかいないんだか、どうなんだか……いなかったら明日にしようなんてわけにゃ、いかねーからな。僕の命が大ピンチだ」
「……すまない」
「別に嫌味で言ったつもりはないよ。お前が気に病むことなんて何もない」
「いや、それでは私の気が済まない。お詫びはさせてもらわねばならないだろう。そうだ、阿良々木先輩、阿良々木先輩の好きな色は何色だ?」
「あ? 色? 何かくれるのか? そうだな、別にこれってのはないけど、しいていうなら水色かな」
「そうか、わかった」
と、頷く神原。
「では、これから阿良々木先輩と会うときは、できる限り水色の下着を着用することを約束しよう」
「お前のエッチに僕を巻き込むな! 僕のせいみたいになってんじゃねえか! お前はただの欲求不満だ!」
四階にある、三つの教室。どれも扉が壊れている。いるのなら、この三つの教室のどこかに、忍野はいるはずなのだけれど――
一番目の教室は外れ。
二番目の教室に――忍野はいた。
「遅いよ、阿良々木くん。待ちくたびれて、もう少しで寝ちまうところだった」
忍野メメは――罅《ひび》が入って割れまくった、つまずくどころか、裸足で歩いたら深い切り傷を負いそうなリノリウムの床に、それはもう腐っているんじゃないかというような変色した段ボールを敷いて、その上に寝転がったままの姿勢で、開口一番、そんなことを言った。相も変わらず仔細《しさい》構わず、まずは見透かしたようなことを言った。
皺だらけの、サイケデリックなアロハ服、ボサボサの髪、総じて、汚らしい風体。清潔感や清涼感などという単語は、この男とは全く無縁の世界の単語である。この廃墟に相応しい格好であるといえばその通りなのだが、ではこの廃墟で暮らすようになる前は、果たして、忍野がどんな見た目だったのかといえば、今やもう想像すらもできない。
忍野は面倒そうに、頭をかいた。
そして、それから――もう辿り着いたというのに、不安からか、それともいかにも胡散《うさん》臭い忍野に対する警戒からか、僕のベルトを握った右手を離そうとしない、半身を僕で隠すようにしている神原に、気付く。
「なんだい。阿良々木くん、今日はまた違う女の子を連れているんだね。きみは会うたんびに違う女の子を連れているなあ――全く、ご同慶の至りだよ」
「うるせえ。同じ台詞を何度も言うな」
「そんなことを言われても、同じシチュエーションなんだからしょうがないじゃないか。引き出しが少ないんだよ、この僕は。ん? しかも、また前髪直線の女の子だね。制服からすると同級生かい? 阿良々木くんの高校は、校則で髪型が規制されているのか? そりゃ随分と古めかしい制度が残っているんだね、興味深い」
「そんな校則はねえよ」
偶然だ。
というか、ロングとショートの違いはあるとは言え、戦場ヶ原と神原との髪型がかぶっているのは、神原が戦場ヶ原の真似をしているからだろうと思う。戦場ヶ原の髪型の理由は知らないけれど、羽川は、まあ、真面目の象徴として、なのかな。そんなところだろう。
「じゃあ、やっぱり阿良々木くんの好みなのか。ふーん。ならば阿良々木くん、今度、忍ちゃんの髪も、切っておいてあげるよ。あいつはほとんど伸ばしっぱなしだからな、散髪するにはいい頃だろう。だから次はワンレンの女の子を連れてきて欲しいなあ、阿良々木くん。無駄かもしれないけれど、希望を出しておくよ」
「……忍なら階段で見かけたぜ。なんであいつ、あんなところにいるんだ?」
「ああ、おやつのミスタードーナツを、僕が一個多く食べたら、忍ちゃん、拗ねちゃってさ。昨日からずっと、あんな調子なんだよ」
「…………」
どんな吸血鬼だよ。
そしてお前もどんなおっさんだよ。
「涙を呑んでポン・デ・リングは譲ってあげたというのに、いやはや、心の狭い忍ちゃんだよ、本当に。量より質って日本語を教えてあげた方がよさそうだな」
「どうでもいいよ……心底どうでもいいよ。あと、忍野、一つ訂正があるんだけど。こいつ、同級生じゃない。よく見ろよ、戦場ヶ原や羽川とは、スカーフの色が違うだろ? 一個下の後輩で、名前は、神原駿河。『かんばる』は、神様の『神』に原っぱの『原』、『原』って書いて『ばる』って読むんだ。駿河は……えっと」
あれ。
漢字はわかるけれど、その説明は難しいな……。
国語が苦手な阿良々木暦の本領|発揮《はっき》だ。
「駿河問いの駿河だ」
神原が助け舟を出してくれた。
よかった……とはいえ、駿河問いってなんだ? 知らない言葉だけれど、問いってことは、有名なクイズか何かのことなのだろうか? スフィンクスの問いかけみたいな、なぞなぞめいた……。
「ああ、駿河問いね。わかったわかった」
合点とばかりに、頷く忍野。
ちぇ……忍野が知らなかったら、黙っているだけで説明を受けられたはずなのに……僕は軽く舌打ちをしてから、それでもわからないままというのは気持ち悪かったので、神原に、
「駿河問いって何だ?」
と質問した。
「有名な江戸時代の拷問法だ。人間の手足を後ろで一まとめにして天井から吊るし、背中に重い石を載せた上で、ぐるぐる回すのだ」
「自分の名前を拷問で語るなよ!」
「一度、受けてみたい拷問の一つだな」
「………………!」
百合でBLでネコで受けでロリでマゾなのかよ!
ありえない組み合わせだろ、それ……。
我が校のスターは、ちぐはぐな噂を流すまでもなく、人格が破綻しているようである。
言葉を失った。
「ともかく、神原駿河だ」
そんな会話で緊張が解けたのか、ようやく、僕のベルトから手を離して――隠していた半身も忍野の前に晒し、そして、例の堂々とした自信たっぷりの迷いのない態度で、右手を胸の前に、神原は名乗った。
「阿良々木先輩の後輩だ。初めまして」
「初めまして。忍野メメです、お嬢さん」
神原がにこにこしているのに対して――
忍野はにやにやしている。
にこつくのとにやつくの、字面上は一字違いの似た印象だが、しかし、傍で見ているこの身としては、受ける印象は全然違う、むしろ対極といってよかった。笑顔って、ただ笑顔であればいいだけじゃないんだなあと、痛感させられる。忍野も忍野で爽やかな笑い方ではあるのだが、こいつはなんだか、爽やか過ぎて、逆に不快なのだ。忍野の場合、造形の全てが嘘っぽく仕上がっているのである。
「……ふうん。阿良々木くんの後輩ってことは、ツンデレちゃんの後輩でもあるんだね」
まるで神原の背中を見ているかのような、焦点をずらした遠い目線で、忍野はそう言った――それは単純に、戦場ヶ原が僕と同じ三年生だから、当然神原は戦場ヶ原の後輩でもある、という意味では、なさそうだった。
勘繰り過ぎかもしれないけれど。
「忍野――とりあえず、まずはこれ、渡しとくよ。そのツンデレちゃん、戦場ヶ原からだ」
「ん? なんだい、その封筒? ああ、お金ね。お金お金。よかったよかった、そろそろ生活に困ってきていたんだよ。これで梅雨《つゆ》まで凌《しの》げるさ。雨さえ降ってくれれば、なんとか喉の渇《かわ》きを癒せるから、それまでの我慢だと思っていたんだけれど」
「多感な少年少女に嫌な話を聞かせるな」
そんな苦境の中でこいつらはミスタードーナツを取り合っていたのか……そりゃ忍も拗ねちゃうよ。吸血鬼とはいえ、あいつは元々、貴族の血筋だろうが。それが今や、こんな廃墟の中で汚らしい中年のおっさんとの同居生活とは、まさに落ちるところまで落ちたという感じだな……その原因の一端を担っていると思うと、僕としては、複雑な心境だけれど……。
封筒の中身を、忍野はチェックする。
「うん、十万円、確かに。これで僕とツンデレちゃんとの間には、貸し借りなしだ。直接渡しに来ずに阿良々木くんを通すところなんて、好感が持てるじゃないか。ツンデレちゃんは、どうやら、ものの道理を弁えているようだ」
「? 逆じゃないのか? 直接渡した方が、謝意っていうか、誠意っていうか――」
「そういうのはね、示そうが示すまいが、おんなじなんだよ。まあ、そういう議論を阿良々木くんとするつもりはないさ、水掛け論もいいところだ。で――そのお嬢ちゃんは、何なのかな?」
忍野は気楽な調子で、封筒をアロハのポケットにぐしゃぐしゃに突っ込んでから(折角のピン札が台無しだ)、顎《あご》をしゃくるようにして、神原を示す。
「まさか僕に可愛らしい後輩を紹介してくれるためだけに、連れてきたってわけでもないだろうし。それとも、阿良々木くんは単純に、可愛らしい後輩を僕に見せびらかしに来たのかな? もしそうだとしたら、僕は阿良々木くんという男を、甘く見ていたことになるんだけれど……はっはー、そりゃあいくらなんでも、考えにくいよねえ。となると――ん、ああ、その包帯かな? へえ……」
「忍野さん。私は――」
神原が何かを言いかける。
それを、忍野は、制するように、ゆっくりと手を振った。
「順番に聞こうか。あんまり楽しい話じゃなさそうだ。腕に絡む腕話は、いつもそうなんだよ、この僕の場合はね。ましてや、それが左手ともなると、もう尚更さ」
007
神原駿河の部屋を片付けたとき、炭酸飲料の握りつぶされた空き缶とかスナック菓子の袋とかインスタント食品のカップとかに混じって、それ一つだけ異様に違和感のある、長細い拵《こしら》えの桐箱《きりばこ》があった。時代を感じさせる色がついていて、それは神原の扱いが荒かったからだろう、傷だらけではあったが、分厚い、丈夫そうな箱だった。多分それは、何らかの骨董品《こっとうひん》でも――多分|花瓶《かびん》でも――入れられているのだろうと、僕は思った。この日本家屋の荘厳《そうごん》さのことを考えれば、こういう代物があって、それらしいものが中に入っていてもおかしくはない。
しかし。
箱は、空っぽだった。
勿論、だからといってその箱をゴミと判断することはできず、僕はとりあえずそれを段ボール箱の上に積んでおいたのだけれど、話が本題に入るくだりで、神原は、その箱に手を伸ばして、そして、僕との間に、物々しげに置いた。そして、この箱には何が入っていたと思う、と訊いてきた。僕は思った通り、花瓶じゃないのかと答えた。
「阿良々木先輩でも間違うことがあるのだな……こんなことを言うと失礼になるかもしれないが、私としてはほっとしたよ。救われたな。阿良々木先輩の人間らしさを垣間見せてもらった気分だ」
「……で、何が入ってたんだ?」
「木乃伊《ミイラ》だ」
神原はすぐに答えた。
「左手の木乃伊[#「左手の木乃伊」に傍点]が――入っていた」
「………………」
桐の箱に入った、左手の木乃伊。
神原がそれを初めて使用したのは――小学生の頃だったという。八年前、まだ小学三年生だったときに、母親から、この箱を、託《たく》されたらしい。
それが母親と会った最後だそうだ。
箱を渡されてから数日後――まるでそれをあらかじめ予見していたかのごとき計ったようなタイミングで、神原の両親は、交通事故で亡くなった。神原が小学校で算数の授業を受けている最中に、遠く離れた高速道路における玉突き事故で、即死だったらしい。自動車が炎上してしまい、遺体《いたい》は酷い有様だったそうだ。
神原は、父方の祖父祖母に引き取られた。
引き取られて――今の、日本家屋に。
それまでは、両親と三人でのアパート暮らしだったそうだ――というのも、神原の父親と母親は、駆け落ちの結婚だったかららしい。誰からも祝福されない結婚だった、という。伝統と歴史ある家系の父親と、そういったものとは一切縁のない母親……だったとか。今時そんなことがあるのかと思うような話だが、そういうことはいくらでもあると、神原は言った。
「母はそれで、随分辛い思いをしたようなのだ。父は――その風潮に逆らおうとしたみたいだが、無駄だった。ほとんど縁を切られていたようなものだ。実際、両親の葬式のときまで、私は祖父祖母に、会ったこともなかったよ。名前も知らなかった――祖父祖母も、私の名前を知らなかった。最初に訊かれたのは、私の名前だったよ」
「ふうん……」
上は洪水下は大火事。
両親のことは全く気にしなくていい。
そういうことはある――のか。
とはいえ、神原の母親との確執があったにせよ、神原は彼らにとって息子の一人娘――即ち、自分の孫だ。引き取るのが当然ということで、神原は、それまで住んでいた土地を離れ、当然、通っていた小学校から転校することになった。
馴染《なじ》めなかったらしい。
「言葉が違ったからな。今はこの通りだが、両親と暮らしていた場所は、そう、この家から出来る限り距離を置きたいという思いがあったのだろう、九州の端の辺りで、かなり方言が激しくて……いじめというほどではなかったにしても、からかわれて、それで、仲良くできなかった」
「えっと……その小学校は、戦場ヶ原とは違う小学校だったのか?」
「うん。戦場ヶ原先輩とは、中学からだ」
「そっか」
まあ、住所的には、そうだろうな。
羽川とも、多分、違うはずだった。
「今から考えれば、新しい環境で、周囲と不調和を起こしていたことについて、私自身に責任がなかったとは言えない。やはり、当たり前なのだが、両親の死は、私の心に徹《こた》えていたのだ。だから私は心を閉ざしていた。自分が心を閉ざしている癖に、周囲に対して自分に優しくしろとは言えないよな。けれど、こんな言葉も、今だからこそ言えることで――当時の私はただ、両親の死に、深く捕らわれていた。でも、だからといって、私は両親の思い出に浸ることもままならなかったのだ。思い出に耽溺《たんでき》することさえもできなかった。なぜならば、祖父と祖母が、父親の持ち物も母親の持ち物も、あまさず処分してしまったから。彼らは私を、両親とは全く関係のない人間として、育てたかったようだ」
断っておくが、と神原は言った。
「祖父と祖母は、二人とも、立派な人格者だ――私は彼らを尊敬しているし、ここまで育ててもらったことを、本当に感謝している。あくまで、彼らと両親との関係は、私の与《あずか》り知らぬことだというだけのことなのだ」
そうなのだろう。
単なる確執というのには、時間が経過し過ぎている。
そして、だからこそ神原に残された両親の思い出は、ただ自分の記憶の中にあるそれだけと、あとは、そう、母親から託された、その桐箱しか、なかったのだという。
厳重に封こそされていたものの。
開けるなとは言われていなかった。
だから開けた。
木乃伊の左手。
ただし、その頃は――その木乃伊の左手は、手首までしかなかったらしい[#「手首までしかなかったらしい」に傍点]。箱の中には、母親からの手紙が一緒に、入っていた。いや、手紙と言えるほど内容のあるものではなかったようだ――その左手の、単なる取り扱い説明書だったらしい。
願いを叶えてくれる道具だと。
どんな願いでも叶えてくれる。
三つだけ願いを叶えてくれる。
そういう、アイテムなのだと。
当時、学年が一つ上がって小学四年生、九歳だったのか十歳だったのか――どちらにしても、そういう夢物語を信じるかどうかといえば、微妙な年齢だろう。ぎりぎりセーフか、ぎりぎりアウトか、どちらかだ。サンタクロースを信じている子供の割合が、半々くらいになる年齢ではないだろうか? それとも、それは僕くらいの世代から見る、幻想という奴だろうか……少なくとも僕は、小学四年生のとき、サンタクロースの存在は信じていなかったと思うけれど、でも、ドラえもんの秘密道具は信じていたかもしれない。
神原は――半々のボーダーライン。
つまり、半信半疑のそのままに、少女雑誌に掲載されているおまじないでも試す程度の、いうならば軽い気持ちで、その木乃伊に、『お願い』をしたそうだ。
一つ目の願いの内容は何でもよかった。
おまじない程度の気持ちだったから。
まずは、試しだったから。
「もし一つ目がうまくいったときの、二つ目の願いは、決まっていたけどな――」
と、神原は言った。
言われるまでもない。
それは――両親に関する願いに違いないだろう。
両親の、生命に関する願い。
『足が速くなりたいです』。
小学四年生の神原駿河は、木乃伊に――そう願った。その時期の神原は、鈍足で知られていたそうだ……方言のことだけじゃなく、それも、同級生からからかわれる理由の一つだったらしい。高校生になってから考えれば、そんなの、方言と同じくらい馬鹿馬鹿しい理由だけれど、しかしたとえそうでなくとも、足が遅いというのは、小学生にとっては、真剣で深刻な悩みだろう。その頃、たまたま、通う小学校で、近く運動会が開かれることになっていて――その徒競走で一等を取れば、みんなの自分を見る目も変わるんじゃないかと思っての、願いだったそうだ。
「当時の私は運動神経が致命的に鈍かったんだ。のろいというかとろいというか、普通に歩いていても、転んでしまうくらいにな」
「ふうん……でも、今は」
バスケットボール部のエース。
スター。
「……って、じゃあ、ひょっとして」
「そうだったら、よかったんだがな」
むしろ、と神原は言った。
「その夜、私は夢を見た。雨合羽を着た化物[#「雨合羽を着た化物」に傍点]に――子供が襲われる夢だ。布団に入ってよく寝ている子供を、化物の左手[#「左手」に傍点]が容赦なく襲う、そんな悪夢を――見た」
「…………」
「勘のいい阿良々木先輩ならば、もう既にこのストーリーの落ちは見えているだろう。次の日、目を覚ました私が学校に行くと――四人の生徒が、欠席していた。四人は四人とも、私が運動会で、徒競走で一緒に走る予定だった生徒だった」
猿の手。
いわく、猿の手は持ち主の願いを叶えてくれる。
いわく、ただし、持ち主の意に添わぬ形で――
「ぞっとした。私は慌てて、図書館で、その木乃伊の正体を探った――すぐにジェイコブズの『猿の手』に行き当たったさ。恐ろしさに、背が震えた……もしも、二つ目の願いを一つ目に持ってきていたら、一体全体どうなっていたのだろう、と。いや、その四人の同級生にしたって、場合によっては死んでいても全くおかしくなかったはずなのだ……運よく大事はなかったものの、そうなっていてもおかしくなかった」
神原は、木乃伊を箱に戻し、開ける前よりも更に厳重に封をして、押入れの奥に仕舞い込んだという。
二つ目の願いも三つ目の願いも、とんでもなかった――全てから目を逸らしたかった。全部忘れてしまいたかった。
けれど。
そうはいかない。
どれほど忘れたくとも、忘れるわけにはいかなかった。それは運動会までは、まだ時間があったからだ――更に次の日の練習の際、神原は、他のグループに入れられることが決定した。
今度は五人。
別の五人と――一緒に走ることになった。
「私はどうしたと思う?」
「…………」
「どうすれば、よかったと思う?」
どうするもこうするも、そのまま何もしないでいたとしたら――そんなこと、結果は火を見るよりも明らかだった。同じことが起こるだけ……同じことが繰り返されるだけだ。だから、普通に考えれば、木乃伊に願うしかない状況だろう――一つ目の願いをキャンセルしたいと、木乃伊に願うしかないだろう。けれどそれは、怖かった。木乃伊のことを既に調べてしまった神原には、怖いことだった。持ち主の意に添わぬ形で――どのような形でその二つ目の願いを叶えられてしまうか、わかったものではないから。
だから、神原は、走った。
走って、走って、走った。
足が遅いから――
足が速くなるための、努力をした。
「自力で願いを叶えてしまうしか、なかった。そうすれば、木乃伊が同級生を襲う理由なんて、なくなるのだからな。幸い、努力を始めれば、コツはすぐにつかめた――体重が重いとか足を痛めているとか、物理的に足が遅くなる要因があったわけではなかったのでな、運動神経自体はすぐには発達しないにしても、駆け足だけなら、なんとかなった。運動会では、無事に一等を取れたよ。……それがきっかけで、クラスの連中とも、仲良くできるようには、なり始めた。さすがに、もうしばらく、時間はかかったがな」
そして、めでたく自力で願いを叶えることに成功した神原は――運動会の後も、その努力を怠らなかった。元々才能があったのだろう、なんていうととても失礼になるかもしれないが、彼女が積み重ねる努力は次々と花を咲かして実り続け、六年生になったときには、早くも中学校の陸上部から誘いが来るほどだったという。
『たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ』。
とか。
けれど、神原は陸上部に入るわけにはいかなかった。神原は、自分よりも速いかもしれない人間がいるところに[#「自分よりも速いかもしれない人間がいるところに」に傍点]、身を置くわけにはいかなかった――木乃伊に願った一つ目が、どこまで効力を持ち続けるのか、わからなかったからだ。それはひょっとすると運動会で一等を取った時点で終わっているのかもしれないけれど――ひょっとすると、一生続くのかもしれなかった。それは、確認の取りようがないことだった。確認が取れない以上、後者の可能性に、怯《おび》えないわけにはいかない。
神原にしてみれば。
自分が長距離走に向いていないことは、その頃にはもうわかっていた――小学生レベルのマラソンならともかく、中学高校と、それを続けていくことはできなかった。ほんの少しでも自分よりも速い人間がいたら、それで全てはご破算、おしまいなのだから。
だから神原は、中学で、バスケットボール部に入ったのだろう――コートの中だけにフイールドを区切り、限ってしまえば、神原に追いつけるものは、誰もいなかった。
「部活に入らない、運動をしないという選択もあったのかもしれないが、いざというときのために身体をなまらせるわけにはいかないというだけではなく、ほとんど、運動は、私にとって強迫的な拠《よ》りどころみたいになっていたのでな。何かをしていないと――押し潰されそうだったのだ。スポーツ少女なんて言われているが、本当のところはそれほど大したものじゃないのかもしれない。私は恐怖につき動かされていただけなのさ」
でも。
バスケットボールは、楽しかったらしい。
好きになったらしい。
それこそ、強迫的な拠りどころでしかなかったはずの自分の足を――前向きに、ポジティヴに、活かすことができたから。木乃伊から逃げるための手段でしかなかったはずの自分の足を、それ以外の手段として、否、目的として――活かすことができたから。
それに。
チームのエースとなったことで――
戦場ヶ原ひたぎに、会えたから。
「戦場ヶ原先輩は、陸上部のエースだったから……足が速いと評判の私を、見に来てくれたんだ。戦場ヶ原先輩はもう忘れてしまっているかもしれないが、……憶えていても、どうでもいいと思っているかもしれないが、最初は、戦場ヶ原先輩の方から、私に会いに来てくれたんだぞ」
「へえ……」
それは少し、意外だな。
今の戦場ヶ原のことじゃなく、中学時代の戦場ヶ原のことだとしても、意外ではある。
「非公式でいいから百メートル走をしようと誘われた。それを断らざるを得なかったのは、本当に辛かったな。素敵な先輩だった。一目惚れこそはしなかったが、でも、話すようになって三日目には、もう私は戦場ヶ原先輩のことを、好きになっていた。そばにいたいと、思うようになった。私は、戦場ヶ原先輩に、癒されたのだ」
癒し。
それは今の戦場ヶ原からは、太陽から冥王星《めいおうせい》くらいに程遠くも縁遠い言葉だったが――しかし、実際、戦場ヶ原に会ってから、神原は、母親に託された木乃伊のことを、押入れに仕舞い込んだ桐箱のことを、意識から外せるようになったらしい。
忘れられたらしい。
忘れたかったことを――忘れられた。
けれど。
「それでもやっぱり意識の底には残っていて、無意識のところにずっと残っていて、その後も何度か、発作的に、その木乃伊を使ってしまいたいという衝動に駆られることはあった。その木乃伊に頼ってしまいたいという衝動に駆られることはあった。たとえば、バスケットボールの試合で、強豪チームと当たったときとか。たとえば、友達と酷い喧嘩をしてしまったときとか。たとえば、戦場ヶ原先輩と同じ直江津高校に入学しようとしたときとか。……たとえば、戦場ヶ原先輩に、拒絶されたときとか」
全部――我慢した。
全部、自力で、なんとかした。
あるいは、全部、諦めた。
母親が自分に、その桐箱を託した理由を、その頃には神原は理解していた――母親はきっと、困難に遭ったとき、自分の力だけで対処できる人間になれと、そういう思いを込めていたのだろう。『猿の手』の物語におけるそれとは違い、運命を受容することを教えようとしたのではなく、運命を変えるならばそれは自分の手でするべきだと、そう教えたかったに違いない。母親はその母親から、母親の母親は、その母親から、母親の母親の母親は、更にその母親から――脈々と、そう受け継がれてきたものなのだ。運命は自分の手で変えるものだと、願いは自分の手で叶えるものだと、そう受け継がれてきたに、違いない。だから、足が速いのも、頭がいいのも、彼女が、彼女自身で獲得したことだった。
生まれつき――だったわけじゃない。
血の滲むような、努力の末。
それを常に、意識しながら。
だから。
木乃伊に願えば、戦場ヶ原の抱えていた秘密を、問題を、解決することができたかもしれないけれど、神原は、それもしなかった。
黙って。
自分が、身を引いた。
戦場ヶ原のそばにいることさえ――諦めた。
手を握り締め、唇を噛み締め――諦めた。
戦場ヶ原のためなら死んでもいい。
はっきりとそう言ったのだった――神原駿河は。
戦場ヶ原のために、神原は、自分を殺したのだ。
自分の想いを、見殺しにした。
忘れたくないことを。
忘れられないことを――忘れた。
「でも、その一年後……阿良々木先輩のことを、私は、知ってしまった。阿良々木先輩とのことを、私は、知ってしまった。戦場ヶ原先輩のそばにいる、阿良々木先輩を、見てしまった」
我慢できなかった。
なんともできなかった。
諦められなかった。
いつ押入れを開けたのかも、いつ桐箱を取り出したのかも、いつその封を解いたのかも、いつ木乃伊に願ったのかも、神原にはもうわからない、左手首までしかなかったはずの木乃伊がどうして肘の部分まで伸びてしまっているのかということにすら[#「左手首までしかなかったはずの木乃伊がどうして肘の部分まで伸びてしまっているのかということにすら」に傍点]、全く考えが及ばず――気が付けば。
神原の左手が――怪異と化していた。
腕が、けだものの手と化していた。
神原は――
七年ぶりに、ぞっとした、そうだ。
「……お前、僕のストーキングを始めたのは、それからか……そういや神原、会うたびに、今日は何か変わったことはなかったかとかどうとか、僕に訊いていたな」
それは――そういう意味だったのか。
雑談などではなく。
決して戦場ヶ原とのことを探ろうとしていたのではなく……大好きなバスケットボールもできなくなってしまったそんな腕で、人前に出たくもなかっただろうに、包帯でそれを隠してまで、僕の身の安全を――気に掛けていてくれていたのか。
しかし、ストーキングを始めて、四日目。
四日目の夜。
ことは――起こった。
神原は夢を見たそうだ――
雨合羽を着た化物が、僕を襲う夢を。
だからこそ、今日、僕が二年二組の教室を訪れた段階で、神原はあんな風に、とても落ちついた態度だったのだ。
全てを悟っていたそうだ。
何が起こったのかを。
それは僕の読みとは、だいぶん違う裏話だった。
怪異が絡んでいること自体はわかっていたが、現象自体には、神原の意思は噛んでいないということ……そう、その木乃伊の所為だということ。
いわく、猿の手は持ち主の願いを叶えてくれる。
いわく、ただし、持ち主の意に添わぬ形で――
戦場ヶ原のそばにいるためには、そう、現在戦場ヶ原が付き合っている恋人である、阿良々木暦を排除するのが、もっとも手っ取り早いと――木乃伊は思った。
のだろう。
それを恐れてのストーキング――
しかし、神原の予感は的中した。
実際問題、僕が僕でなければ……阿良々木暦が阿良々木暦でなければ、元不死身の、吸血鬼を経験した人間でなければ、あの段階で、確実に殺されていただろう。一撃目も二撃目も避けることはできなかっただろうし、たとえできていても、三撃目で、あっさりと致命傷だった。それほどの、馬鹿げた破壊力、破壊能力だった。推測するに、小学生の頃、被害がそれほどでもなかったのは、神原の身体が小学四年生のそれで、また、運動神経が鈍い段階での、神原だったからに違いない――今の神原は、桁違いだ。皮肉にも、一つ目の願いを回避するために鍛《きた》えた身体が――二つ目の願いに関して、より酷い被害を巻き起こす結果となっている。攻撃に使っていたのは左手だけだったが、目にも留まらぬあの速度は――神原駿河の能力だ。彼女の能力の、底上げされたバージョンアップだろう。
能力――破壊能力。
暴力。
そして。
その問題は、全くもって終わっていない――僕がこうして生き残ってしまっている以上、全くもって終わっていない。日が沈んで夜になれば、何度でも雨合羽の化物は僕を襲うだろうし――神原は、雨合羽の化物に襲われる僕の夢を見るだろう。
僕が死ぬまで、繰り返し、繰り返し。
夢が叶うまで。
願いが叶えられるまで。
神原の、二つ目の願いが叶えられるまで。
戦場ヶ原ひたぎのそばにいたい。
神原の願いは、ただそれだけのことなのに――
「『世の中に 人の来るこそ うるさけれ とは言ふものの お前ではなし』――」
「うん?」
僕の引用に、不審そうに目を開いた神原。
「なんだ、それは?」
「別に……今から訪ねていく相手が、僕らを歓迎してくれるかどうか、ちょっと考えただけなんだけれど――」
そして。
そのまま、着替えもせず昼御飯も食べずに、僕は自転車で、神原は駆け足で、忍野メメと忍野忍が暮らす住宅街から外れた学習塾跡へと、向かったのだった。
で――そして、ようやく現在。
現在。
その四階で、僕と神原は、忍野と向かい合っている。ことのあらましを聞き終えても、忍野は反応らしい反応を見せず、ただ、そんな高くもない天井に吊るされた蛍光灯(勿論電気が通っていないので、ただ吊るされているだけだ)を見上げるようにし、話の途中で口にくわえた、火のついていない煙草を、左右に揺らしながら――何も言わない。話せることは戦場ヶ原の話も含めて全部話したので、もうこちらとしては何も手札はないのだが……。
なんとなく、気まずい空気。
普段は舌から生まれてきたのではないかと思うくらい無駄によく喋る癖に、たまにこういう風に黙り込んでしまうのだから、忍野メメという男は本当に対処に困る……。陽気な性格に見えて、こいつ実はすげえ根暗な奴なのかもしれないと、こういうときには思う。
「包帯」
やがて――ようやく忍野は言った。
「包帯、解いて、見せてくれるかな? お嬢ちゃん」
「あ、うん――」
ちらっと、助けを求めるように、僕を見る神原。僕は、神原を安心させるために、「大丈夫」と言う。それを聞いて、神原は、右手で、包帯を解きにかかった。するすると。
すると――けだものの手が現れる。
自ら袖をまくりあげ――神原は二の腕の部分までを晒す。けだものの腕と人間の腕の、つなぎ目を示すかのように肘を折り曲げて、一歩踏み出し、神原は忍野に、
「これでいいのか」
と言った。
「……うん、いいよ。そっか。やっぱりね」
「やっぱり? やっぱりって、何がやっぱりなんだよ、忍野。今日も今日とてわき目も振らずにわかりにくい態度を取りやがって――いつもいつもひっきりなしに思わせぶりなんだよ、お前は。全能感を演出するのって、そんなに楽しいもんでもないだろうに」
「そうせっつくなよ、元気いいなあ。阿良々木くん、何かいいことでもあったのかい?」
くわえていた煙草を、結局火もつけないままに吐き出して――いや、考えてみれば僕は忍野が、火のついた煙草をくわえているシーンを見たことがない――あのいつものにやにやとした、軽薄なお調子者の笑みを、僕に向けた。
「阿良々木くん、それにお嬢ちゃん。最初に勘違いをただしておいてあげるとすると――それは、猿の手じゃないよ」
「は?」
いきなり、これまでの前提を覆すようなことを、忍野は言って――僕は驚いた。神原も、不意を突かれたような顔をしている。
「猿の手は、ジェイコブズ以来、確かに色々派生しちゃってるんで、何が本当なのか実際はどういうものなのかなんて、実物を見てみないことにはわからないんだけどさ――持ち主の腕と一体化しちゃうなんて例、僕は寡聞《かぶん》にして聞いたことがないよ。ツンデレちゃんが蟹でお嬢ちゃんが猿だったら、そりゃ、日本昔話っぽくて据わりはいいんだろうけれどもさ、でも、世の中そんなうまいことはいかないよね。お嬢ちゃん、自分で調べたんだろう? なかったろ? 猿の手と持ち主とが一体化するお話なんて。もしもあったんだとしたら、無学な僕の知識不足ってことになるけれどさあ」
「……調べたといっても、小学生の頃だから」
「だろうね。でも、それなのにどうして猿の手だって思い込んじゃったのかな? お母さんは、きみに絶対にそんな風には、言っていないはずだけれど……まあ、そうだね、大方、条件が合致したからってところかな」
「条件? なんだそれ?」
「つまり二つのいわく[#「いわく」に傍点]って奴さ、阿良々木くん。いわくつきのアイテム、猿の手。いわく、猿の手は持ち主の願いを叶えてくれる。いわく、ただし、持ち主の意に添わぬ形で――だっけ?」
ふふん、と嫌らしい笑みを浮かべる忍野。
性格の悪そうな笑みだ。
性格が悪いというか、性根が腐ってそうな感じ。
「それが解釈として、お嬢ちゃんにとって都合がよかったんだよね――いや、気持ちがよかったというべきなのかな? まあ、そんなの、どっちでもいいんだけれど。確かなのは、それは猿の手なんかじゃないってことなのさ――元々は木乃伊だったんだっけ? それがお嬢ちゃんと同化することによって、生命を得た、か。となると――さしずめレイニー・デヴィルかな」
「れいにー?」
その単語に反応した僕に、続けての質問を許さず、そんな暇は与えずに、忍野は、「で」と、話を先へ先へと続ける。
「阿良々木くん、『ファウスト』は読んでる?」
「え?」
「はいその反応、読んでない。ていうか存在自体を知らないみたいだね。もうちっとも驚かないよ、そのくらいじゃあ。僕は阿良々木くんのそういうリアクションには、慣れていくことに決めたんだ。それじゃあ、お嬢ちゃんは、どうなのかな? 『ファウスト』は読んでる?」
「あ、えっと」
突然水を向けられ、驚く神原だったが、しかしすぐに、脊髄《せきずい》反射のようにすぐに、「いや、不勉強で、まだ読んでない」と答えた。
「勿論、知識として、物語の概要と粗筋くらいは知ってはいるけれど」
「そうか。いや、概要と粗筋を知っていれば十分だよ。うんうん。普通はそうだよね、高校生ともなれば、それくらいは知っているもんだよね。あーあ、阿良々木くん、恥ずかしいねえ」
「阿良々木先輩のことを馬鹿にするな! たまたま知らなかっただけに決まっているだろう! そもそも阿良々木先輩は読書などという既存の枠に納まる人ではないのだ!」
忍野の言葉に突如《とつじょ》逆上して、声を張り上げて忍野を怒鳴りつける神原だった。通常ではありえないだろうその反応に忍野がぽかんとし、説明を求めるように僕に目線を送ってくる。
僕は、目を逸らすしかなかった。
……神原。
僕のために怒ってくれる気持ちは嬉しいが……、自分のために怒ってくれる誰かの存在がこうも心強いものだとは思いもしなかったが、しかし、そこで忍野を怒鳴りつけると、僕が本当に馬鹿みたいじゃないか……。
「神原……その芸風は一回限りにしておいてくれ。面白いっちゃ面白いんだけど、忍野が僕を馬鹿にするたびにそれをやっていたら、本当に話が先へと進まない……」
「む。そうか。誰とでも虚心に付き合える阿良々木先輩ならではの含蓄のあるお言葉だ。正直、何にでもすぐ業腹になってしまう、人徳が足りない私ではその言葉には承服しかねるところもあるが、しかし阿良々木先輩がそう言うのなら、私は己を律して我慢しよう」
そう頷いて、忍野にぺこりと頭を下げる神原。
「ごめんなさい」
ちゃんとごめんなさいが言える子だった。
素直な子だ。
「……いや、いいんだけど。確かに面白かったし。それにしても、自分の片腕がそんなことになっちゃってるっていうのに、全く元気のいいお嬢ちゃんだね。何かいいことでもあったのかい? ま、ともかく――『ファウスト』の話。ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ、疾風怒濤《しっぷうどとう》時代、シュトゥルム・ウント・ドラングの代表的作家なんだけれど、その作家の集大成としての代表作が、戯曲『ファウスト』だよ。その内容は――お嬢ちゃん、じゃあ知ってる限りでいいから、阿良々木くんに教えてあげてくれるかな?」
「ん、ああ」
遠慮がちに僕を見る神原。
微妙に申し訳なさそうな目線。
ジェイコブズの『猿の手』の梗概《こうがい》を話してくれたときもそうだったのだけれど、神原駿河は性格的に、目上にあたる人物に対して何かを教えるという行為には、どうやら後ろ暗さのようなものを感じてしまうらしい。
徹底して体育会系だ。
「ゲーテの代表作というのは、忍野さんの言った通りで……そうだな、わかりやすい特徴としては、それが二部から構成された物語であるということかな。『初稿《しょこう》ファウスト』、『ファウスト断片』を経て、『ファウスト第一部』、『ファウスト第二部』。そんな風に六十年以上もかかって完結した、最大な大作なのだ。全くもって頭が下がる。ゲーテといえば『若きウェルテルの悩み』や『親和力』も有名だが、渾身《こんしん》の一作といえば、やはり満場一致で『ファウスト』ということになるのだろう。主人公のファウスト博士が、メフィストフェレスという悪魔に魂を売り渡し――全ての知識を得ようとする物語、とでも言えば、紹介としては十分だろう。ネタバレになるから詳しくは話せないけれど、内容としては、第一部では庶民の娘であるグレートヒェンとの恋愛を、第二部では理想国家の建設を描いている。哲学思想というか、知識探求の物語と読むのが一般的だな。阿良々木先輩ならば、まあ当然ご存知だろうとは思うが、『ファウスト的衝動』という言葉もあるくらいで、それは、全てを知り、全てを体験しようという知識欲にのっとった衝動のことを言うのだ」
「…………」
『ファウスト』自体を知らない先輩が、どうして『ファウスト的衝動』なんて言葉を知っていると、この体育会系の後輩は思うのだろう。
「悪魔に魂を売るってところが、その話の肝《きも》なんだよね――悪魔に魂を売って、その『ファウスト的衝動』に基づく願いを、叶えてもらおうとするファウスト博士……結末がどうなるのかは、勿論、阿良々木くんに本屋さんに行ってもらうことにしよう。うん、まあ、そうなんだ。お嬢ちゃんが説明したところまでが、一般常識だ、そこまで認識できていれば、僕も話がしやすいよ。読んでないのにそこまで立て板に水で弁舌《べんぜつ》さわやかに語ることができるってのは、全くもって素晴らしい。付け加えることがあるとすれば、そうだな、案外知られていないんだけど――まあ、そうはいってもゲーテについての解説本とかを読めば普通に書いてあることなんだけどさ、実際、古典なんて今時の人間は読まないからね。お嬢ちゃんのことを言うわけじゃないけれど、読まなくても読んだ気になっちゃうような有名な話をわざわざ読む必要はないってわけだ。だから知られていなくてもしょうがないんだけど、うん、そもそも、この『ファウスト』って物語は、実在の人物をモデルにしていてね」
「なに? そうなのか?」
意外そうなリアクションをする神原。
『ファウスト』自体を知らない先輩には、驚きのポイントがどこなのかわからない。
「ヨハン・ファウスト。文芸|復興《ふっこう》、いわゆるルネサンスの時代に生きたと言われているよ……まあ実在の人物といっても、その辺りはその辺りで諸説あるんだけれど、この人についてのお話が、後に民間伝承となったのさ。医者や魔術師として放浪生活を送り、やっぱり悪魔・メフィストフェレスに魂を売り、ありとあらゆる知識と経験と引き換えに、キリスト教徒の敵として行動することを悪魔と約束し、それから二十四年間に亘《わた》って、まさしく『ファウスト的衝動』のままに生きて――契約が切れたと同時に、悲惨な最期を迎えることになる。これも詳しくは自分で調べなさい、『ファウストゥス博士』に詳しいから」
「ふうん……そうだったのか」
忍野の雑学に、感心した風な神原だった。まあ『ファウスト』云々はともかく、民間伝承が噛んでいるのなら忍野の分野だから、この程度の博引傍証は恒例のことなのだけれど、この感じだと、ひょっとするとこれからは忍野のことも持ち上げるようになるのだろうか。というか、その辺りの神原の基準が僕にはよくわからない。どうやら、誰に対しても同じように差別なく褒め殺すというわけでは、ないみたいだが……。
「てっきり、ゲーテの創作だとばかり思っていた。巷《ちまた》の言い伝えを下敷きにしていたのか」
「まあ、ストーリーにゲーテ流のアレンジがかなり加えられているから、強《し》いていうならゲーテ版『ファウスト博士』って感じだね。太宰の『走れメロス』や芥川《あくたがわ》の『羅生門《らしょうもん》』みたいなものだ。今昔物語と芥川とじゃ、『羅生門』の印象もだいぶん違うだろう? そんな感じ。ゲーテ以外にも、ファウスト伝説は色んな人が物語化しているよ。有名なところでは、イギリスのマーロウとかね。マーロウは知ってる? レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウじゃないよ? クリストファー・マーロウだ。シェイクスピアの先輩作家として紹介されることが多い人なんだけれど、ほら、『フォースタス博士』っていってね」
「ファウストの方が医者というのは、少し面白い」
神原は微妙なはにかみと共にそう言った。
うん? と忍野が怪訝そうに首を傾げたところを見ると、そのはにかみの意味は忍野には通じなかったみたいだけれど。
「けど……忍野」
どことなく話が逸れているような気がしたので、僕は、『ファウスト』については結局よくわからないままに、忍野と神原との会話に参加を試みることにした。
「それがどうかしたのか? いつもながらのまだるっこしい長広舌《ちょうこうぜつ》は大いに結構なんだけど、それが現在の神原の状況にどう繋がってくるのか、僕にはわからないよ。テーマが脱線して、横滑りを起こしてるんじゃないか? 魂と引き換えに悪魔が願いを叶えてくれるってところは、そりゃ猿の手に似ているのかもしれないけれど、でも、この神原の腕が、『ファウスト』に登場する悪魔、メフィストフェレスとやらの腕ってわけじゃないだろう? 猿の手ならぬ悪魔の手だなんて――」
「いや、まさしくその通りなんだ、阿良々木くん。今日の阿良々木くんは冴えてるよ」
忍野は――
びっ、と僕を、気取った風に、指さした。
「『神』原って苗字を有するお嬢ちゃんに悪魔の手じゃ、まるで出来過ぎだけれど、まあ猿蟹合戦とか、この前の迷子ちゃんほどじゃあないよね。この場合は普通に普通の暗示って感じだろ。勿論、メフィストフェレスなんて、恐ろしさも極まる別格悪魔ではないよ――もっと低俗な悪魔さ。階級の低い、そもそも階級に組み込まれてもいないだろう、体《てい》のいい使い魔のような存在。そうなるとその種類を特定するのは本来とても難しいんだけれど、猿の腕を持つ雨合羽の悪魔となれば、必然、数は限られてくる――持ち主と一体化するってのは、レイニー・デヴィルだ」
レイニー・デヴィル。
雨降りの悪魔。
「猿の手じゃない、悪魔の手だ。はっはー、そう考えると、わかりやすいんじゃないかい? どうして猿が人間の願いを、代償もなく叶えてくれるものかって話だろう? 猿の手がどうして願いを叶えてくれるのかと言えば、インドの老行者が不思議な力を込めたからだと、そういう説明がなされているわけだけれど、悪魔なら、そんな説明も触れ込みも一切いらないだろう? 叶えてくれるさ、だって、魂と引き換えなんだから」
「魂――」
「魂と引き換えに、三つの願いを叶えてやろう。当たり前のことさ、悪魔なら」
ふん、と鼻で笑うようにする忍野。
馬鹿にしきった態度だった。
「大体、猿の手なら右手だよ。左手じゃない」
「……そうなのか?」
「猿の手は右手で握って使用するアイテムだからね。普通に考えれば右手だと思うけれど。しかし、悪魔の手か。体系的な悪魔ではないとはいっても、こいつはびっくりだな。阿良々木くんにしてみれば、もう吸血鬼に遭ったくらいだから、大抵のことではびっくりしないのかもしれないけれど……しかし、日本でそういう種類の悪魔ってのは、すごい話だよ。蒐集《しゅうしゅう》のし甲斐がある。ま、その手の願いを叶える系の妖怪っていうのは、確かに日本でもこと欠かないんだけどさ。なんだかなあ、委員長ちゃんのことといい、ツンデレちゃんのことといい、迷子ちゃんのことといい、こうしてみると同列なんだけど……ここはおかしな町だよ、本当に。挙句の果てには閻魔《えんま》大王でも召喚されるんじゃないのかな。……お嬢ちゃん、その左手、お母さんから受け継いだって言ったよね? 神原っていうのは父親の姓だろう。お母さんの旧姓って、わかる?」
「確か――えっと、少し珍しい名前で」
神原はゆっくりと記憶を探るように、答える。
「『臥煙《がえん》』だったかと。臥薪嘗胆《がしんしょうたん》の『臥』に、煙幕の『えん』で、『がえん』……臥煙|遠江《とおえ》というのが、母の結婚前の名前だ」
「……へえ。ああ、そうかい。『とおえ』っていうのは、『遠い』に長江の『江』だよね。つまり遠江《とおとうみ》か。駿河っていうお嬢ちゃんの名前は、その辺が由来《ゆらい》なわけだ。はっはー、いいセンスだね」
「結婚後は勿論、神原遠江だった。しかし忍野さん、それがどうかしたのか?」
「どうかしたのかって? お嬢ちゃん、それはまさか僕に訊いたのかい? いやいや、どうもしないよ。間を持たすためになんとなく訊いてみただけ、何も関係ない。それに、そんな背景はどうでもいいしね、この場合。で、阿良々木くん、それにお嬢ちゃん。話は全部わかったし、その手の正体も、猿の手だったところで悪魔の手だったところで、きみ達にしてみれば同じことなのかもしれないけれど、それで僕のところを訪ねてきて、これからどうしようって腹積もりなんだい?」
「どうしようって――」
「いや、阿良々木くん、勿論、僕はいっぱしの専門家だからね。半可通のなんちゃってオーソリティとして、こういう事態にあたって、力を貸すことにはやぶさかではないんだよ」
「た――」
神原が身を乗り出す。
「助けて、くれるのか」
「助けないよ。力を貸すだけ。きみが一人で勝手に助かるだけだよ、お嬢ちゃん。救いを求めているのなら、僕じゃお門違いだし、そもそも、出る幕じゃないさ。でもね、この場合――阿良々木くん、僕は何をすればいいのかな?」
意地悪い口調で――しかし、決まりきった答を求めているのではなく、僕の答を本当に待っているかのように、忍野は言葉を後に続けない。どうしてだろう? 何をすればいいのかって……そんなの、決まっているじゃないか。
「おい、忍野……」
「つまり、今回僕は、一体何を手伝えばいいのかということなんだよ、阿良々木くん。お嬢ちゃんの二つ目の願いを叶えるのを手伝えばいいのかい? それとも、二つ目の願いをキャンセルするのを手伝えばいいのかい? それとも、お嬢ちゃんの左腕を元に戻すのを手伝えばいいのかい? それとも、その全てかい? 全てっていうのは、少し欲張り過ぎな気もするけれどね――確かに、言えるのは、その全部が、一筋縄にはいかないってことだ」
「いや……えっと」
全てと言えば――その全てになるのか?
でも。
「今起きている現象を、簡単に解決する方法は、とりあえず、二つあるよ。一つは、阿良々木くんが、夜、雨合羽の化物――レイニー・デヴィルに殺されること。そうすれば、お嬢ちゃんの腕も元に戻るし、願いも叶うだろう。もう一つは、そのけだものの左腕を、怪異と同化しちまったその左腕を、すぱっと、切り落とすことさ」
「き、切り落とすって」
忍野の物騒な提案に、僕は、にわかに慌てる。
「……猿――悪魔の部分だけ切り落とすってことができるのか? その後から、元の腕が生えてくるとか――」
「トカゲの尻尾でもあるまいし、そんな都合のいいこと、あるわけないじゃん。たかだか腕一本で状況が解決するなら、買い物としては安かろうってことさ」
気楽に言うが――そんなの、冗談じゃない。
安かろう悪かろうもいいところだ。
普通の場合でもそうだろうが、神原の場合は尚更である。そんなことをしたら、神原は、二度とバスケットボールができなくなってしまうじゃないか。バスケットボールというスポーツが、神原にとってどれほどの救いになって、今もなお彼女の支えで在り続けているのかを考えれば、そんなことおいそれと、たとえ思いついたって、口にしていいような提案ではない。
「あ、ああ。それはいくらなんでも、私としても、困るというか――」
「人間一人殺そうとしてんだぜ? それくらい、当然の代償じゃないのかい、お嬢ちゃん?」
にわかに戸惑いを見せた神原に、厳しい言葉を投げかける忍野だった――こういうときの忍野は、本当に情け容赦がない。羽川のときも戦場ヶ原のときもそうだったけれど――
「まあ、阿良々木くんが殺されるってのも、解決法としては、それはそれで簡単でいいのかもしれないけれどね」
「お、おい、言いたいことはわかるけれど、でも、ちょっと待てよ、忍野。人間一人殺そうとしてるって……それは僕のことだろう? でも、それは神原の望んだことじゃないんだ。神原はただ、戦場ヶ原のそばに――」
「そばにいたいだけ? 笑うねえ」
忍野は厳しい口調のままで僕に言う。
「阿良々木くんは、本当に優しいよね。優しくていい人だねえ――優しくていい人だよ。胸がむかつくねえ、本当にもう。その優しさで一体どれほどの人間を傷つければ気が済むんだろうね? 忍ちゃんのことだってそうだよ。そばにいたいだけだなんて、そんな甘ったるい言葉を、そのまま信じたのかい?」
「……違うってのかよ」
僕は神原を窺いながら、忍野に反論する。
神原は、何も言わない。
「おい、神原――」
「たとえばさ、阿良々木くん。おかしいとは思わないのかい? 小学生のとき、一つ目の願いを叶えたときの話だよ。どうしてその左手は、お嬢ちゃんの足を速くせず、周囲をぶちのめすなんて行動に出ちまったんだと思う?」
「そりゃ――だから、猿の手は、持ち主の意に添わない形で、願いを叶えるから――」
「でも、猿の手じゃない」
忍野はきっぱりと断言した。
「魂と引き換えなんだ。願いは、願った通りに叶うはずさ。レイニー・デヴィルは低級悪魔だけれど、すぐ暴力に訴える悪辣《あくらつ》な属性を有してはいるけれど、でも、契約は契約さ。取引は取引さ。足が速くなりたいと願ったのなら、普通は、そのまんま、足が速くなるはずだ。同級生をぶちのめして、それで足が速くなるのかい? その因果関係は、おかしいとは思わないかい? 一緒に走る人間をぶちのめしたところで、新しいグループに入れられることくらい、自明の理じゃないか」
「…………」
そう言われれば、そうだけれど。
「……じゃあ、どうしてなんだよ。雨合羽の化物は、どうして同級生を――」
「同級生をぶちのめしたかったからだろ。新しい学校になじめずにずっとからかわれてたんだもんな、お嬢ちゃんは。いじめというほどじゃなかったなんて言うけれど、そんなもん、いじめられてる奴は大抵そう言うんだよ。両親が死んだばかりで辛かった時期に同級生から迫害を受けたりしたら、そいつらに復讐を考えたとしても、全くおかしくはない。考えない方がおかしいだろう、そんなの」
「私は――」
言いさして――黙る。
神原は、どう釈明しようとしたのだろう。
そして、どうしてそれをやめたのだろう。
何に、気付いてしまったのだろう。
「無意識だろうさ、勿論。そんなことを願ったのは、無意識の内だったんだとは思うぜ? 意図的にそうしていたのなら、そうとわかるはずだから。本人の自覚としては、『足が速くなりたい』と願ったに違いない。だが、それは表で、裏は違う。その願いの裏には、暗い願望があったのさ。同級生を見返してやりたいと――同級生をぶちのめしてやりたいと。お嬢ちゃんは無意識であっても、そう願ったんだ。悪魔はその願望を、見抜いた。願いの裏を読んだんだ。でも、それは、お嬢ちゃんには、本当のところは、わかっていたはずなんだぜ? 無意識とはいえ、正直な自分の気持ちなんだから。けれど、そんなことを自分で認めたくないから、その現象に別の解釈を求めた……それが「猿の手」だったんだろう。願いが叶う[#「願いが叶う」に傍点]云々じゃなくて、意に添わぬ形で[#「意に添わぬ形で」に傍点]――という、その文言こそが枢機《すうき》だったんだろう? 同級生を襲ったのは、あくまで自分の意思じゃないという、精神的言い訳。まあ、大事なことだよね」
精神的な言い訳。
解釈の問題。
「猿の手に限らず、願いを叶えるタイプの怪異っていうのは、大抵の場合、主人公が悲惨な目に遭って終わる――その意味じゃあ、お嬢ちゃんが小学生の頃に調べたってときに、別の怪異に行き当たってもおかしくなかったはずだ。たまたまそれが、ジェイコブズの『猿の手』だったってだけでね。でも、どうだい? お嬢ちゃんは実際、悲惨な目に遭っているかい? 願いが叶ったことによって不幸になっているかい? 自分をからかっていた同級生が酷い目に遭ったことが、お嬢ちゃんにとって本当に不幸だって、阿良々木くんに言えるのかい? そこはザマミロすっきりしたって思うのが、普通だとは考えないのかな?」
「……普通って、でも、忍野」
「はっはー、阿良々木くん、何の確証があってそんなことを言うんだって思うかい? だってさ、そんなの、話を聞けば、瞭然《りょうぜん》じゃないか。あからさまだよ。お嬢ちゃんのその腕……小学生のときは、どうなっていたんだい?」
「………………」
そういえば。
当時は手首までの姿だったという、その左手の木乃伊は――どうなっていたのだろう。
「包帯がどうとか、そういう話は言わなかったよね――次の日、教室に行くまで、四人の欠席を知るまで、ことが起きていることには気付かなかったんだろう? 左手がそんなことになっていたら、何かが起きていることくらいには気付くはずなのに。つまりどういうことだい? つまり、夜、同級生をぶちのめした段階で、願いは叶ってしまっていたということさ。一晩、お嬢ちゃんが気付かない内に怪異はお嬢ちゃんの左手に同化して、お嬢ちゃんが気付かない内に怪異はお嬢ちゃんの左手から離れたってことだろう。離れて、願いを叶えたその魂の分だけ[#「願いを叶えたその魂の分だけ」に傍点]――成長し、左手首から左腕になったって、ことだろうさ」
「……って、おい、忍野、それじゃあ――」
その話はわかったけれど。
でも、その弁だと、まるで――
「だから、阿良々木くんの最初の考えで、正しかったんだよ。珍しくも阿良々木くんは正解に辿り着いていたんだ。言ったろ? 今日の阿良々木くんは冴えてるって、さ。ごちゃごちゃ複雑に考えずに、普通に、ごく当たり前に、順当に考えれば、それでよかったんだよ。加害者の言い訳を信じるなんて、本当に人がいいよねえ? 阿良々木くんは陪審員《ばいしんいん》にはなれないよ。大好きな先輩を寝取った男。殺したいくらいに嫉妬したとしても、おかしくはないだろうさ。お嬢ちゃんの意思が噛んでいないなんてとんでもない、全てはお嬢ちゃんの意思だったのさ。左手に意思など、あるものか」
と、忍野は言った。
008
レイニー・デヴィルは、とても暴力的な悪魔らしい――何よりも人の悪意や敵意、怨恨《えんこん》や悔恨、嫉心や妬心、総じて、マイナス方面、ネガティヴな感情を好む。人の暗黒面を見抜き、惹起《じやっき》し、引き出し、結実させる。嫌がらせのように人の願いを聞いて、嫌がらせのように叶える。契約自体は、契約として――人の魂と引き換えに、三つの願いを叶える。三つの願いを叶え終えたときに――その人間の生命と肉体を奪ってしまう、そうだ。つまり、人間そのものが、最終的には悪魔となってしまう、そういう性質であるらしい。もしも神原が、一年前、戦場ヶ原の抱える秘密を知った段階で、それを解決してくれと願ったところで、その願いは叶えられなかったということなのだろう。レイニー・デヴィルが叶えることのできる願いは、暴力的で、ネガティヴな願いだけなのだから。
悪魔は願いの裏を読む。
表があれば――裏がある。
足が速くなりたいのは、同級生が憎かったから。
戦場ヶ原のそばにいたいのは――阿良々木暦が憎かったから。
そう、裏を読む。
そう、裏を見る。
無意識の願望を、見抜く。
見透かす――悪魔。
身を引いた自分に後悔はなくとも――その位置に誰かが来ることを、許せなかった。誰かがその位置に来るなら、自分でもいいはずなのに――だったら、私でもいいはずじゃないか。
レイニー・デヴィル。
古くからヨーロッパに伝わる悪魔。
多く、雨合羽を着た猿の姿で描かれる。
その意味では、一応、その左手のことを猿の手と言っても正解なのだろうけれど――とにかく、一つ目も二つ目も、願い自体は、無意識に、明に暗に、神原が望んだことだったのだ。
自分をからかう同級生を。
そして僕を。
小学生のときの同級生が怪我程度で済んで、僕が殺されかけたのは、つまり、神原の想いの差だったのか……ネガティヴな気持ちの量の差だったのか。神原の運動神経の成長云々も、勿論要因遠因としてはあるのだろうけれど、しかし、それ以上の精神的なものも、あったということだ。
まあ、しかし、忍野の言う通り。
僕の考えが足りなかったのかもしれない。
本当に神原が、レイニー・デヴィルに『戦場ヶ原のそばにいたい』と願ったのなら、それで神原が、僕の身の安全を気にするのは、おかしい――小学生のときのエピソードを聞けば、暴力的な左手が阿良々木暦を排除しようとするのはわかる。けれど、どうだろう、神原の立場から、それが確実に起こると、どうしてわかるのだろう? 左手がどんな風に願いを叶えるのか、どんな風に意に添わない形で願いを叶えるのかなんて、本当のところ、わかるわけがないのに。
無意識に願ったことを無意識に知っていたから。
僕の身が危ないと、知っていたから。
怪異が自分の左手と同化して、すぐに雨合羽の化物が僕の前に姿を現さなかったのは、それでも神原が、その衝動を、抑えていたからだろうと、忍野は言った。ぎりぎりのところで軋轢《あつれき》を起こし、鬩《せめ》ぎあっていたのだろうと。
「頑張って足を速くしたなんてのは、自分に対する言い訳としては最たるものだよね。自分で願いを叶えたから、木乃伊は何もしないんだ――なんて、ちゃんちゃらおかしいよ。お嬢ちゃん自身、そう信じていたんだろうけれど、信じていたかったんだろうけれど、そしてそれは、決して間違いではなかったけれど、でも、レイニー・デヴィルが暴力によって叶えた願いは、表じゃなくて、あくまで裏だったんだ。でも、そんな風に自力で全てを何とかしてきたお嬢ちゃんの姿勢が、今回はいいように作用したってことさ……怪異は腕に同化したけれど、それが発動するのを、抑えることができた。そういう意味では、この種の怪異はアイテムみたいなものなんだよ、確かに。持ち主の意識に左右される……まあ、現実的なことを言っちゃえば、悪魔とはいえこの場合は片腕だけだから、レイニー・デヴィルもそこまでの力を発揮できないということもあるんだろうね。意識を凌駕《りょうが》できるほどの無意識を、引き出すことはできなかったということさ。要するに、お嬢ちゃんが阿良々木くんの身体を気にしている内は、左手は発動しなかったということだ。四日前からの、お嬢ちゃんのストーキングは、きちんと効果を発揮していたということだよ。お嬢ちゃん自身は、そんな風には思ってなかったとしてもね、全ては無意識の内のことだから。けれど――昨日かい? お嬢ちゃんは、勉強会とか言って、阿良々木くんとツンデレちゃんが、二人きりで会うことを知ってしまった。それまではあくまで噂でしかなかった、ひょっとするかも[#底本「ひょっとするうかも」修正]しれなかった、二人の付き合いに、とうとう確信を持ってしまった。それで――我慢できなくなった。阿良々木くんの推測通りだよ」
心の隙間を悪魔に付け入られた。
とは、忍野は決して言わなかったけれど。
そういう甘えた弱さを、忍野は徹底して嫌うから。
でも――
最初から嫉妬で、最後まで嫉妬だったと、ちゃんと神原は――言っていた。
言っていたんだ。
「ん、そろそろだろ」
僕の血液を、たっぷり、リミット寸前まで吸い取ってもらったところで、僕は忍にそう言って、抱き合うような形になっていた、彼女の小さな背中を、軽く、ぽんぽんと叩いた。忍は、僕の首筋に開いた二つの穴からそっと牙を外して――その際少しだけ零れた血液を、ぺろりと綺麗に、舌で舐めとった。こうして忍と抱き合っていることも、戦場ヶ原にしてみれば浮気の範疇に入るのかどうかということを、これからは考えなくてはならないのかもしれないが、しかし、この作業はこの形にならないと不可能だから、なんとか勘弁してもらうしかない。春休みならいざ知らず、今の忍の体躯《たいく》は本当に小さくて、それに頼りなくて、こうして抱えていても、まるで霧《きり》か霞《かすみ》でも抱きしめているかのようで、まるで手応えなんてないのだから。
「……と、と」
しゃがみ込んだ姿勢から立ち上がって――少しふらつく。やっぱり、当たり前なのだけれど、吸われた直後は、貧血にも似た症状が現れるな――特に今回は、与えた量が多かった。
デフォルトの五倍近い。
ぴょんぴょんと、軽く跳ねた。
まあ、そうはいっても僕自身の感覚・体感は、実のところあんまり普段と変わらないんだよな、これ……全てのパラメーターが全体に底上げされてしまうわけだから、ノーマルの状態との違いが、厳密には、よくわからないのだ。
忍は、もう、体育座りの体勢に戻っていた。
体育座り……それは、両腕で自分の身体を確かめるように、抱きかかえるような、座り方。
僕の方を見もしない。
「…………」
優しくていい人――か。
僕がいくら自分のことを、優しいわけでもいい人なわけでもないと言い張ったところで、現実問題、その被害を一番食ったのは、やっぱり、この金髪の吸血鬼なんだよな……忍野があんな風に言いたくなるのも、無理はないか。
僕がどうとか言うより、忍にとっては……。
ゴーグルのついたヘルメットを上から鷲《わし》づかみにして、ぐりぐりと、左右に揺すってみた。忍はそれでもしばらくは、無視するように反応しなかったが、その内本気でうるさくなったのか、乱暴に、僕の手を振り払った。
うん。
僕は、それにとりあえず満足し、何も言わず、忍野の主義を真似るように、別れの言葉も口にせず、忍に背を向けて、階段の踊り場から、三階へと降りた。今度忍に会うときは、D-ポップあたりをお土産に持って来ようと考えながら、三階を経由して、そのまま二階へ。
向かって廊下の奥の教室の扉の前で忍野メメは腕組みをして、壁にもたれ、気楽そうに片足をぶらぶらさせながら、待っていた。
「お。待ちかねたよ、阿良々木くん。思ったより時間がかかったみたいだね」
「ああ。ちょっと、ぎりぎりの基準がわかりにくかったからさ。ひょっとすると、少し足りないかもしれないけど……でも、飲ませ過ぎるよりはいいだろ。僕にとっても、忍にとっても」
「んー。まあそれは確かにそうなんだけどね、阿良々木くん、忍ちゃんについては、そんなに神経質になる必要はないよ。僕の名前で存在を縛っちゃってるからね、滅多なことはないさ。名付けるってのは手なずけるってことなんだから。むしろ餓死《がし》の方が心配なくらいだよ。阿良々木くんはこれから悪魔とくんずほぐれつの大立ち回りを演じなくちゃならないんだからさ――、そんな気を回している場合じゃないと思うぜ? 演じるのがただの三枚目になっちゃうよ。すれすれまで引き出したところで、そんな勝率の高い勝負でもないと思うぜ? いくら相手は左腕だけだとはいってもさ」
……レイニー・デヴィルへの対処法。
悪魔祓いは本来、とても時間と手間のかかる大仕事であり、いくらレイニー・デヴィルが低級悪魔だとはいえ、忍野であってもおいそれとはいかないそうだ。本人が言っているだけなのでその辺りは微妙だけれど――しかし少なくとも、忍野自身が手を出す気は、この場合、ないのは確かだった。
戦場ヶ原のときとは違い。
戦場ヶ原の蟹も、あるいは、願いを叶えるタイプの怪異だったと言っていいけれど――あれは神様で、今回は悪魔である。おいそれとはいかないだろうことは、素人の僕でもわかる。
『神』原で、悪魔か。
暗示というよりはむしろ皮肉だな。
けれど――時間と手間をかけている余裕はない。
さっさとしないと、今晩にも僕の命が失われる。僕が殺されるか神原の左腕を切り落とすか――前者の答でストーリーを解決させようというほど、残念ながら僕は生きることに執着のない人間ではない。そしてそれ以上に、神原の左腕を切り落とすなど、論外だ。
となると第三の選択肢。
「契約か……それで悪魔が大人しく魔界だか霊界だかに帰ってくれればいいんだけどな」
「魔界も霊界も、違う世界じゃなくて、『ここ』のことなんだけれどね――ま、難しい話は、いつかと似たような議論になっちゃいそうだから、またの機会にするとして。大丈夫だよ、それくらいは保証してあげる、阿良々木くん。契約を果たすことができなければ[#「契約を果たすことができなければ」に傍点]――契約は無効になる。クーリングオフじゃないけれど、ちゃんとお嬢ちゃんの願いも無効になるさ。哀れ仕事を果たせなかった無能な悪魔は、何も言わずに去るだけさ」
悪魔は去る。
契約を果たすことができなければ。
「つまり――僕が悪魔に殺されなければ[#「僕が悪魔に殺されなければ」に傍点]、か」
「そゆこと」
忍野はへらへら笑って言う。
「勿論、今の阿良々木くんが今の忍ちゃんに限界まで血を与えたところで、たかが知れてるだろうさ……春休みの頃の、実際に阿良々木くんが吸血鬼だった頃の、十分の一くらいの能力しか発揮できないと思って、それでもまだ己の力を過信し過ぎなくらいだよ」
「……随分な数字だな」
「でも、あのレイニー・デヴィルは左手だけ[#「左手だけ」に傍点]だからね――相手が全身だったら阿良々木くんじゃ勝ち目はないけど、それでおまけに人間一人分の『おもり』をぶら提げてるんだから、今の阿良々木くんでも、十分十二分十四分に勝算はあるさ」
レイニー・デヴィルは、猿の手とは全く違う種類の怪異だ――その属性で共通しているのは願いを叶えるという部分だけで、雨合羽の悪魔と称されるように、ちゃんと、全身のパーツが揃った怪異である(この場合、何を全身と定義するかで、また見方も変わってくるのだけれど、それはここでは割愛《かつあい》だ)。それが左手だけで――しかも木乃伊となっていたのは、強固に『封印』されていたからだろうと、忍野は言った。
「まあ、お嬢ちゃんの母方の家系ってのが、問題だったみたいだね――駆け落ちする羽目になったのも、案外、その辺りが原因なんじゃないのかな? ま、勝手な推測で他人の家庭事情を暴《あば》くつもりも覗くつもりもないけれどさ。悪魔の木乃伊なんて、実際、大したもんだ。人魚の木乃伊とかなら、まだ聞いたことがあるけれどね。ふうむ、まあお嬢ちゃんが受け取った当時に手首までだったとして、それならば、残りの部分[#「残りの部分」に傍点]がどうなったのかというのは、個人的には非常に興味があるところだな」
母親、か。
戦場ヶ原ひたぎ、八九寺真宵。
それぞれの怪異に――母親が噛んでいた。
神原駿河もまた、その流れを汲《く》むということか。
まあ、どうやら神原の母親も、父親同様に駆け落ちした段階で縁切りされ、神原駿河本人も、だから母方の実家とは完全に没交渉だったようだから、その辺りは今のところ、どうにも探りようはないようだが……。
「ちなみに、もしも悪魔の全身のパーツが揃っていたら、どうなるんだ? レイニー・デヴィル。忍の全盛期でも、勝てないくらいなのか?」
「まさか。所詮は低級悪魔だ、本物の吸血鬼に歯が立つわけもない。それこそメフィストフェレスを相手取るっていうんだったらまだしも、そんなの、二秒あれば決着だよ。揃った五体を粉砕され、身体中の体液をすすられて、はいそれまでよだ。忘れちゃったのかい、まして忍ちゃんは恐るべき伝説の吸血鬼だったんだぜ? 到底|敵《かな》わないさ、歯が立たないさ。そうだね、レイニー・デヴィルのランクから考えると、まだしも委員長ちゃんのときの色ボケ猫の方が全然強いくらいだよ。おっと、だからって忍ちゃん本人の力を借りようとしたら駄目だよ? それでも単純な退治のみならできるかもしれないけれど、そうなると、脅しじゃなくお嬢ちゃんの腕を切り落とすしかなくなる。阿良々木くんが退治するから――意味を持つんだから」
「レイニー・デヴィルは、願いを叶えることによって、その人間の身体を乗っ取ってしまうんだろう? 願いを叶えてもらうたびに、悪魔に近付いていく……最初は手首までだった木乃伊が肘の部分まで伸びたのは、悪魔が神原の一つ目の願いを叶えたからってことなんだろうけれど、だったら、どうなんだ? 忍野。もしも僕を殺したいと憎む二つ目の願いと、それから、何らかの最後の三つ目の願いを叶えたら、神原はどうなっちまうんだ? 乗っ取られるといっても、それなら、精々、乗っ取られて肩のところまでってことなのか?」
「それは過去に前例がないからわからないと、お役所的な答を返すしかない質問だね。まあ、でも、順当に考えれば、割合的には阿良々木くんの予想通り、乗っ取られたとしても肩のところまでだと思うけれど。だからって阿良々木くん、それは一緒だよ。肩まで乗っ取られたら、全身乗っ取られたのとおんなじさ。株式会社でいえば、それは全株の三十パーセント獲得されたようなものなんだから」
「……だろうな」
「魂は、どっちにしろ抜かれちゃうだろうしね。抜け殻の肉体だけが残ってもしょうがないさ。ああ、鞄とか貴重品とかは預かっといてあげるよ、阿良々木くん。そんなもの持ったままじゃ、動きにくいだろう」
「ああ……悪いな。じゃ、ちょっと待ってくれ」
尻のポケットから携帯電話を、学ランのポケットから家の鍵を取り出して、それをリュックサックの中に放り込んでから、忍野に手渡した。「うん」と忍野は言って、スリングを肩に引っ掛けた。
「しかし――一つだけいいかい? 阿良々木くん」
「なんだよ」
「どうして、自分を殺そうとした相手まで、阿良々木くんは助けようとするんだい? あのお嬢ちゃんは、無意識とはいえ、願いの裏側[#「願いの裏側」に傍点]とはいえ――阿良々木くんのことを、憎んでいたんだぜ。阿良々木くんのことを、憎むべき恋敵として、とらえていたんだぜ」
意地の悪い、いつもの軽口――
というわけでも、ないようだった。
「そもそも、雨合羽の正体がお嬢ちゃんだとわかった段階で、阿良々木くんはどうして、お嬢ちゃんの話を聞こうなんて思ったんだい? 普通はその段階で、問答無用だろうに――その時点で、お嬢ちゃんをすっ飛ばして、僕のところに来るのが本当だっただろうに」
「……生きてりゃ、誰かを憎むことくらいあるだろうさ。殺されるのはそりゃ御免だけれど、神原が、戦場ヶ原に憧れてたっていうのが、その理由だっていうのなら――」
怪異にはそれに相応しい理由がある。
それが理由だったとするなら――
「別に、許せるしさ」
忍野の言う通り、僕の最初の考えで正しかったとするのなら、その状況から、何も変わっていない。最初に戻っただけだ、猿の手もレイニー・デヴィルも全く関係がない。まさか恋敵と思われているとまでは想定外だったけれど、でも、それでも。
姑息な計算。
腹黒い未練。
僕だって、優しくていい人なのかもしれないけれど、羽川のように、清廉潔白の善人というわけでは、ないのだから。
羽川翼。
異形の羽を、持つ少女。
……あいつだけは、本当に、はっきりと、羨ましい。
本当――妬《ねた》ましいくらいに。
「あっそ。まあ、それが阿良々木くんの決めたことなら、それでいいんだけれどね。全然構わないさ、僕の知ったことじゃない。じゃあ、まあ、とりあえず阿良々木くん、お嬢ちゃんに力、貸してあげなよ。言っとくけど、中に入ったら、ことが終わるまで、もう出られないからね。内側からは、絶対に、扉、開かなくなっちゃうから。逃げの選択肢は最初からないものと構えておくこと。後には引けないって状況がどれほどのものか、春休みのことをよーく思い出して、覚悟決めとかなくちゃ駄目だよ? ……勿論、何があっても、僕や忍ちゃんが助けに現れるなんてことはないから。忘れないでね、この僕が常軌を逸した平和主義者にして機会を逸した人道主義者だってことを。阿良々木くんがこの教室に入ったのを見届けたら、僕は四階へ寝に行くから、後のことは知らないよ。阿良々木くんもお嬢ちゃんも、帰るときは、別に挨拶しなくていいからね。その頃には忍ちゃんも眠っちゃってると思うし、勝手に帰って頂戴」
「……世話かけるな」
「いいよ」
忍野が壁から背を離し、扉を開けた。
躊躇せず、中に這入《はい》る。
すぐに忍野は、扉を閉めた。
これでもう、出られない。
二階の一番奥の教室――造りは先ほどの四階の教室と一緒だけれど、ここはこの学習塾跡の中で、唯一、窓の部分が抜けていない教室だ。とは言え、それは、他の教室のように、窓が硝子の破片と化していないという意味ではない。そんな有様になってしまった窓の枠に、まるで昔の台風対策のごとく、分厚い木の板が何枚も、釘で打ち付けられているという意味だ。どうしてそこまでというくらい、執拗に、何枚も何枚も、である。だから、扉を閉じてしまえば、光は一条も差し込んでこない――既に時間は真夜中だが、星の光さえ、差し込んでこない。
真っ暗だ。
けれど――見える。
忍にたっぷりと血を与えたばかりの今の僕には、この暗闇の中が、暗いままに見通せる。そう、この状態の僕は、暗い方がよく見えるくらいなのだ――僕はゆっくりと視線を動かした。
すぐに見つける。
そう広くもない教室の中に一人佇んでいた――
雨合羽の姿を。
「……よう」
声を掛けてみるが、反応はない。
既にもう――トランス状態らしい。
身体は神原駿河だが――左腕と、今の魂は、レイニー・デヴィルだというわけだ……ちなみに雨合羽は、僕が忍に血を飲ませている間に、一番近い雑貨屋まで、神原がひとっ走り行って、手に入れてきたものである。別に雨合羽自体は、必要ないといえば必要ない、少なくとも必要不可欠ということはないだろうオプションとしてのアイテムなのだが、その辺は例によっての雰囲気作り、状況設定のセレモニーという奴である。
教室の中にあった机や椅子は、邪魔だからという理由で、最初に撤去しておいた――だから今、この教室の中にいるのは、神原と僕だけということだ。レイニー・デヴィルの左腕[#「左腕」に傍点]と、吸血鬼もどきの人間以外[#「人間以外」に傍点]だけということだ。
中途半端同士、いい勝負だろう。
いや――違った、いい勝負じゃ、駄目なんだ。
僕は悪魔を圧倒しなくてはならない[#「僕は悪魔を圧倒しなくてはならない」に傍点]。
昨夜と同じだ、雨合羽のフードの内側は、深い洞のようで、その表情も、どころか中身そのものが、全く窺えない――
「……………………」
レイニー・デヴィルや猿の手に限らず、願いを叶えるタイプの怪異への対処法としてもっともスタンダードなものは、その怪異では叶えられない願いを願うことだ。
大き過ぎる願い。
あるいは、撞着《どうちゃく》した願い。
絶対に不可能な願い。
ダブルバインドの板ばさみに落とし込む願い。
つまり底の抜けた柄杓《ひしゃく》だよ、と忍野は言った。そうすることで、怪異を退《しりぞ》けることができる、怪異を見越すことができるのだ――とか。
ただし、この場合は、神原は既に願ってしまっている――戦場ヶ原のそばにいたいと。そして、その想いのために――阿良々木暦が邪魔だと、阿良々木暦が憎いと、阿良々木暦を殺したいと、無意識に、願ってしまっている。レイニー・デヴィルは、その願いに、そのまま、答えようとしている。
願いはキャンセルできない。
一度でもそう思ってしまったのだから仕方がない。
ならば、理屈を裏返そう。
その願いこそが不可能であればいいのだ[#「その願いこそが不可能であればいいのだ」に傍点]。
阿良々木暦がレイニー[#「阿良々木暦がレイニー」に傍点]・デヴィルごときでは殺せない存在であったならばいい[#「デヴィルごときでは殺せない存在であったならばいい」に傍点]――
「理屈と膏薬《こうやく》はどこにでもつくって奴か――これもいまいち詭弁っぽいけど、猿知恵の猿芝居もいいところだけれど、それでも落としどころとしちゃあ……っと、おっと!」
何がきっかけになったのかわからないが――雨合羽は僕に向かって、突如、跳んできた。神原駿河の跳躍力――それが、恨みのパワーで、強化されている。通常ならば、昨夜と同じく目にも留まらない速さだろうけれど――今は違う。
見えるし。
それに、反応でき――
「て、う、うわっ!」
僕は自分の胴体を遠心力でねじるような形で、雨合羽の左拳をかわした――かなりのぎりぎりだった。そのまま回転するように、僕はその場から離れる――格好悪いが、一旦体勢を立て直した方がよさそうだ。
なんだ?
心なし、昨夜よりも更に速いような――いや、まだ目が慣れていないだけだ。とにかく、雨合羽の左手による攻撃を避けながら、隙を見て『おもり』である、神原の身体を捉え、捕まえて、力任せに押さえこめば――
「…………っ!」
既に――追いつかれていた。
馬鹿な、速度に関してだけはどうしたって雨合羽を圧倒できるとは思っていなかったが、忍のお陰で、僕だって昨夜とは比べ物にならないくらいに強化されているはずなのに、こんないともたやすく――雨合羽の左拳が、強く振りかぶられる。左側に避けるんじゃ駄目だ、雨合羽の外側に回りこむように、何とか右側に――
むき出しの、黒い毛むくじゃらの腕が――僕の頬をかすめ、空振りする。その風圧に、身体が切り裂かれるようだったが――それにより晒された雨合羽の脇腹を目掛けて、僕は蹴りを入れた。
……ごめん、神原!
心の中で、そんな風に謝りながら。
案の定左腕の部分以外は、そこまで逸脱してしまってはいない――雨合羽の身体は、蹴られた方向に、素直に吹っ飛んだ。そのままバランスを崩し、リノリウムの床に半身が倒れこむ。
やはり支配しているのが左腕だけというのは、雨合羽にとってネックのようだ……バランスが最悪だ、明らかに、左腕の存在に、全身がついていっていない。
けれど、それにしては、さっきの速度はどういうことなんだ……? 昨夜の段階では、雨合羽はまだ本気を出していなかったということなのか? 僕が強化されたのに合わせて、向こうも速度を上げてきたということなのか……けれど怪異が、そんな手加滅手抜きめいたことをする必然性があるというのだろうか?
わからない。
わからない内に――雨合羽は起き上がる。
うーん……身体が神原のものであるということを差し引いても、やっぱり、転倒している相手に追撃をかけるというのは、僕にはできないな……。そうしなくちゃいけないことはわかっているが、どうしても、迷ってしまう。迷っている場合ですら、ないはずなのに。
優しくていい人。
嫌な評価だ、全く。
無個性をフォローされちゃって、まあ。
最短距離を結ぶ一直線の動きで、雨合羽の左拳が、今度は僕の右肩辺りに炸裂《さくれつ》した――カタパルトのようなその拳が。雨合羽としては正中線を狙ったのだろうが、それを何とかずらすことはできた……が、完全にかわすことまではできなかった。見切れない――あまりにも速過ぎる。三メートルほど、僕は後方へと飛ばされる……肉体的な平衡《へいこう》感覚で、僕は空中でぐるりと回転し、着地。自転車を紙屑《かみくず》の如くにし、ブロック塀を崩壊させた雨合羽の左拳ではあったが、昨日みたいに、僕はありえないほど吹っ飛ばされることも、肉体を決定的に破壊されることもなかった。ダメージは勿論あるが、それで動けなくなるほどじゃない。肩の骨が外れ、その上罅くらいは入ったようだったが、それはすぐさま、吸血鬼の治癒能力で、回復する程度。鋭い痛みも、一瞬で退く。これこそ、懐かしい感覚。やれやれ、明日の日の出が待ち遠しい……僕はどれほどの火傷を負うことになるのだろう?
だが、そんなことを考えている余裕はなかった。着地した姿勢のところに、雨合羽の追撃が来たからだ――追撃、迫撃。雨合羽には迷いがない。左拳が、今度は僕の顔面に向かってくる。目が一向に慣れない、顔面に、そのまま食らってしまった。鼻骨が折れる音を聞かされた。今の状態の僕でそうなのだから、普通の人間の頭部など、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》にするような破壊力なのだろう、想像するだに恐ろしい。僕はみっともなく、這《は》い蹲《つくば》るように、雨合羽から距離を取る。そうしている内に、折れた鼻骨も回復する。本当、嫌な感覚だ。自分がアメーバだかなんだかになったような気分である。これで十分の一だっていうんだから――春休みの経験の、どれだけ地獄だったことか。
次の拳は避けることができた。
けれどその次は、エッジがかする。
「…………くそっ!」
どうしてだ?
どうして避けきれない?
一直線の無駄のない動きだとはいっても、その攻撃動作自体は、左拳を、腕が肩の部分から引き千切れ、ロボットアニメのロケットパンチよろしくもげてしまうんじゃないかというくらい力任せにぶち噛《か》ますだけの、単純な動きだ――事前モーションが少ないというだけで、見切れないことはないはずなのに、どうして、追いつけない? 逃げ切れない? 明らかに昨日よりも何層倍もスピード値が上昇している。パワーは、そうでもないようなのに……一撃や二撃、否、何十撃単位でもろに受けたところで、今の僕の肉体なら、それで即決してしまうことはないようですらあるのに、どうしてスピードだけが、こうも段違いになる?
昨日と今日とで、何が違う……。
雨合羽……。
むき出しの左腕、けだものの手。
……右手も同じくむき出しだが、それは、フードの内側と同じく、見えているはずなのに見えていないような、深い洞《うろ》のような雰囲気で――いや? そうか、そこが昨日と違う。昨日は、雨合羽は、ゴム手袋をして――腕はどちらも、むき出しになってはいなかった。だがそれがどうしたっていうんだ? ゴム手袋をはめていたところで、それで移動速度が下がるわけではないだろう。
そして気付く。
ミスに気付く。
ゴム手袋じゃない[#「ゴム手袋じゃない」に傍点]――長靴だ[#「長靴だ」に傍点]!
神原が雑貨屋で買ってきたのは雨合羽だけ……ゴム手袋と、そして長靴は、入手してきていない――雰囲気作りとはいえそこまで揃える必要がないと判断したからではなく、単純に、そこまで思い至らなかったからだと言うべきだろう。僕も僕で、たった今まで気付かなかったのだから。本家のレイニー・デヴィルが、どういう風に描かれているのか知らないが、忍野がそれをヒントにレイニー・デヴィルを連想したように、雨合羽だけでその性格は十分表されているのだとしたら、怪異として表現できているのだとすれば、神原も僕も、決して間違っていないはずだった。
けれど――長靴じゃないということは、今の雨合羽は、スニーカーなのだ。一目瞭然、見たまんまである。両手がむき出しになっているように、両足もまたむき出しの裸足ということにはならない、靴は、元々神原が履いているものが、そのまま継続しているのだから。
いかにも高級そうなスニーカー。
長靴とは――出せる速度がまるで違う。
神原駿河ほどのアスリートとなれば、尚更だ。
「……しまった」
露骨に足枷をつけたり、足を縛ったり、前段階で神原の身体にそのようなウエイトを付属させる案は、戦略上、あるいは目的上、却下せざるを得なかったが――けれど、長靴くらいならば、ハンデとして、十分にありだったじゃないか……どうして雨合羽が百パーセント力を発揮できるような状況を、こっちからわざわざ演出してしまったんだ。本来単純な、足手まといならぬ左手まといなはずの『おもり』である神原駿河の身体が、随分と軽快に、左腕に付属している!
うう……。
僕は本当に詰めが甘いな……。
こうなってしまえば、避けるだけじゃ駄目だ……今の状態で、ぎりぎりかわせるかどうか、ぎりぎり避けきれないというような割合だったらならば、この身体はダメージが蓄積することがないから、格闘ゲームのように削り殺しにされるということはないにせよ、しかしそれでは圧倒的に勝つ[#「圧倒的に勝つ」に傍点]という宿題を、果たすことはできない。目が慣れたらどうというレベルの話でもなさそうだ。だから、こうなれば雨合羽の攻撃を、相打ち覚悟で正面から受け止めるしかない――僕は低く腰を落として、ペナルティキックの際のゴールキーパーのように、両手を構える。いや――この場合は、バスケットボールの、マンツーマンディフェンスのように、と例えるのがより明確なのだろうか。
しかし、バスケットボールならば明らかに反則のカタパルトが(なんという反則になるのだろう?)、僕の首の根元辺りを目掛けて飛んできて、それを両手で受け止めようと、右手で雨合羽の拳そのものを、左手で雨合羽の手首をつかむように、その上で身体全体で雨合羽の左腕を包み込むように受け止めようとしたのだが――間に合わなかった。いや、間に合わなかったのではない、右手も左手も間に合ったが、カタパルトを止めることができなかったのだ。指の骨が何本か折れるのを知覚した、直後に左拳が鎖骨にヒットする。僕の身体は、ぐらりと後ろに大きく傾く――が、なんとか、後ろ足で踏ん張ることは、できた。受け止めることはできなかったが、体幹に拳が到達するまでに、その威力をある程度削ぐことに成功したということだろう。
雨合羽がその拳を引く前に、早くも折れた指が修復された両手で、その左腕をつかんだ――ようやく、当初の目的通り、雨合羽の動きを止めることができた。ついに僕は、雨合羽を捉えることに成功した。よし、このまま――
「神原、ごめんっ!」
今度は声に出して謝りながら、振り払おうと暴れる雨合羽の左腕を両手で固定したまま、僕は足刀蹴りで、雨合羽の足に、腹に、胸に、三連続で攻撃を加える。人体構造上、普通の肉体状態ではまずできないような型の攻撃。雨合羽が攻撃に左拳しか使えないのと違い、僕は四肢《しし》の全てが使える、その差を、そのアドバンテージを最大限に活かさなければならない。
雨合羽の左腕が狂ったように激しく動く。
ダメージがあるのだ。
忍野の言う通りだ、レイニー・デヴィルが全身だったなら、今の僕では勝ち目はなかっただろうが、こうしてその左腕自体を封じてしまえば、圧倒することは、可能――拳自体は連続で食らわなければ一瞬で修復が可能な範囲の威力だし、だからむしろ厄介なのは神原の底上げされた脚力だが、スニーカーの件は本当にイレギュラーの計算外だったが、それもこうして捉えてしまえば――後はレイニー・デヴィルが、音《ね》をあげるまで、蹴り続ければいいだけだ。音をあげないのなら、息の根が止まるまで。まるで、駿河問いよろしくの拷問みたいで、あんまり気分はよくないけれど、しかし、まさか神原の左腕を引き千切るわけにはいかない以上、まして神原の生命を絶ってしまうわけにはいかない以上、悪魔が去るまで、攻撃を続け、痛めつけるしかない――
がくり、と雨合羽の足が崩れる。
どうやら執拗に繰り返したロー・キックが遂《つい》に効を奏したらしい――と思ったが、しかし、事実はそうではなかった。崩れた足、否、崩した足が、そのまま、僕の顎を目掛けて、最短最速の軌道で跳ね上がってきたのだ。左腕ではない、雨合羽の左脚が――神原の長い脚が上段回し蹴りの形で、僕のこめかみに、針の穴でも通すかのように、的確に当たる。その威力は、勿論左腕でのそれとは較べるべくもないが、しかしそれでも神原の脚力がそのまま攻撃力へと転化されていて、しかも僕にしてみれば完全に想定外の攻撃だったこともあり、脳が揺らされ、視点がぶれる。感覚器官へのダメージは、この吸血鬼(もどき)の身体にも確実に有効だ――それは春休みの大事な教訓。
僕は雨合羽の左腕から手を離してしまった。
続いてきた雨合羽の蹴りを、防御するために。
十字に組んだ腕の上から食らった蹴りは、やはり左腕のカタパルトほどではなかったが――その衝撃は、むしろ説明不能なそれとして、僕の思考を混乱させる。
使えるのは左腕だけじゃない、ってのか……?
だって、忍野は、『おもり』だって――
「……そういうこと[#「そういうこと」に傍点]、なのか?」
思い当たる答は、一つしかない。
つまり、レイニー・デヴィルが、人間のネガティヴな感情をそのエネルギー源として活動しているとするのなら、それはつまり、今の場合は神原駿河の、僕に対する嫉妬を食い物にしているということになるのだろう――左拳がカタパルトだとするなら、神原の肉体は空母そのものだ。熱い思いで、熱い想いで、高圧蒸気を膨張させて、筋肉に凝縮させている。だから、身体全体も、あくまで『おもり』として左腕に引《ひ》き摺《ず》られているだけなのではなく――いや、基本的にはそうなのだろうけれど、先程のような状態、レイニー・デヴィルが危機に陥った際は、防衛行動に出るのにやぶさかではない、ということなのか……?
いや、そんな言い方は詭弁だ。
神原のことを許せるなんていう言葉を使いたいのなら、ここでそんな真実を大きく迂回するような表現をするべきではない――脊髄反射的な、電気を流せば蛙の足が動くがごとくに表現するのは、フェアではないだろう。
つまり。
神原本人の意思で、足は動く。
神原駿河の意思が、噛んでいる。
無意識に、神原は――拒否している。
レイニー・デヴィルの左腕を失うことを。
二つ目の願いが叶わないことを。
僕を殺さないことを。
戦場ヶ原を――諦める気がない。
「……腹黒い、未練ね」
わかるよ、その気持ち。
痛いほどわかる。
痛むほどわかる。
僕も――失い、捨てたから。
もう二度と、手に入らないから。
雨合羽は、どうしてか、そこから動かない。単純に、磁石が磁力に従い動くように、単純に一直線に、執拗に左拳を向けていた雨合羽が、動きを止めた――まるで、何か、複雑な考えごとでもしているかのように。
あるいは。
迷っているように。
迷いのなかった雨合羽の動きが――止まった。
……神原駿河。
戦場ヶ原ひたぎの後輩。
バスケットボール部のエース。
切り落としてくれ――と彼女は言った。
忍野から、その左腕が猿の手ではなく悪魔の手であり、願いは、神原が願った通りに叶えられただけだという、ロクでもない、暴かれなくてもいいような真相を、暴かれてしまった直後……数秒だけ目を伏せた後で、しかし気丈に顔を起こし、僕と忍野を交互に見て、そう言った。
「こんな左手、いらない」
神原は言った。
さすがに、あの笑顔は、表情にはない。
それは――奇《く》しくも、彼女の尊敬する先輩の、現在のパーソナリティ……平坦で、淡白で、感情を感じさせない、口調だった。
「切り落としてくれ。切断して欲しい。頼む。面倒かけるが、お願いする。自分で自分の腕を切り落とすことはできないから……」
「や、やめろよ」
僕は慌てて、差し出されたような形のその腕を、神原に押し返すようにした。毛むくじゃらな感覚が、手に気持ち悪い。ぞわっとする。
ぞっとする。
「何馬鹿なことを言ってんだ――できるわけがないだろ、そんなこと。バスケットボールはどうするんだよ」
「さっき忍野さんに言われた通りだ。私は、人間一人を殺そうとしたのだぞ。それくらい、当然の代償だろう」
「い、いや――神原、僕はそんなこと、全然、気にしてないって――」
滑稽、道化。
なんて的外れな言葉だったのだろう。
僕が気にしているかどうかという問題じゃない。
まして、僕が許せるかどうかも、この際、本来的には全く関係ないのだ――問題は、神原駿河が、神原駿河を許せるかどうかということだった。
同級生を傷つけたくないからと、走り続けた彼女。
ネガティヴな感情を全て抑えつけ、圧倒し。
封じ込めてきた、彼女。
その意志の強さが――逆に、自身を縛りつける。
戒める。
「だ、大体、切り落とすなんて、ありえないだろ、そんなこと。馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。何考えてんだ。馬鹿、お前、本当に馬鹿だよ。何でそこまで物事を、短絡的に考えてるんだ。本気にするようなアイディアじゃないだろう」
「そうか。そうだな、腕を切り落とすなんてこと、誰かに頼むべきことではなかったな。頼まれたからといって、はいそうですかと実行できるようなことでもないか。わかった、自分でなんとか、その方策を考えよう。自動車や電車の力を利用すれば、どうにかなるだろうから」
「それは――」
自動車や電車なんて。
それじゃあ、まるで自殺じゃないか。
自殺行為じゃなく――自殺そのもの。
「切り落とすなら、いい方法があるよ? 阿良々木くん、どうして教えてあげないんだい、困っている人間に対して不親切だなあ。そんなの、忍ちゃんに協力してもらえばいいんじゃないか。刃の下に心あり――彼女の虎の子のブレードを使用すれば、痛みを感じる暇もなく、その左腕を切断することが可能だろう。今の忍ちゃんのブレードじゃ、往年の切れ味はないだろうけれど、それでもお嬢ちゃんの細腕を切り落とすくらい、豆腐でも切るように朝飯前だよ――」
「黙ってろ、忍野! おい神原! そんな思いつめるようなことじゃないだろう! お前が責任を感じることなんて、ちっともないんだ――そんなの、はっきりしてるじゃないか! これは全部、猿の手……じゃない、レイニー・デヴィルとかいう怪異が元凶《げんきょう》で――」
「怪異は願いを叶えただけだろう?」
忍野は黙らなかった。
尚も雄弁《ゆうべん》に尚も能弁《のうべん》に、言葉を繋ぐ。
「求められたから、与えただけだろう? ツンデレちゃんのときも、そうだったんじゃないのかな? 春休みの阿良々木くんのときはケースが違うんだよ。忍ちゃんのケースはそれとは全然違う――阿良々木くん、きみは怪異に何も願わなかったんだ[#「きみは怪異に何も願わなかったんだ」に傍点]」
「…………」
「だから――阿良々木くんに、お嬢ちゃんの気持ちはわからない。お嬢ちゃんの自責もお嬢ちゃんの悔恨もわからない。決して」
そう言われた。
「ちなみに、原典の『猿の手』において、最初に猿の手を使った人間は、一つ目の願い、二つ目の願いを叶えた後、三つ目の願いで、自分の死を願ったそうだ。その願いが何を意味しているのかなんて、いちいち説明の必要があるのかい?」
「忍野――」
言っていることは、正しい。
でも、忍野、お前は間違っている。
僕は雨合羽に相対したまま――膠着《こうちゃく》状態に陥《おちい》ったがごとく、動けなくなった中で、ゆっくりと回想する。
だって、僕にはやっぱり、わかるんだから。
痛いほど、心の傷が、痛むほど。
戦場ヶ原ひたぎの気持ちも。
神原駿河の気持ちも、わかるんだから。
いや、やっぱりわからないのかもしれない。
ただの傲慢な思い上がりなのかもしれない。
でも――
僕達は、同じ痛みを、抱えている。
共有している。
願いを叶えてくれるアイテムが目の前にあって、そのとき願わないと、どうして言える? 僕の春休みと同じく、それは願った結果というわけではないにしたって、清廉潔白の善人である羽川でさえ、ほんのわずかな、不和と歪みによって、猫に魅せられてしまったのだから――
僕と忍との関係だって、本来的に、戦場ヶ原と蟹との関係、神原と悪魔との関係と、何も変わらないんだ。
「構わない、阿良々木先輩」
「構うよ――構わないわけ、ないだろう。何言ってんだよ。それに、戦場ヶ原のことはどうするんだよ。僕は、お前に、戦場ヶ原と……」
「もう、いい。戦場ヶ原先輩のことも、もういい」
神原は、それこそ身を切るような言葉を、口にした。
「もう、いいから。諦めるから」
いいわけあるか。
諦めて、いいわけがあるか。
願いは自分で叶えるものだと――お前の母親は、悪魔の木乃伊を、お前に託したはずだろう。決して、願いを諦めることを教えるためなんかじゃなかったはずだ――
だからそんな顔をするな。
そんな深い洞のような顔をするな。
そんな泣きそうな顔で――何が諦められる。
レイニー・デヴィル。
雨降りの悪魔――そして、泣き虫の悪魔。
そもそもは、しとしとと降る糠雨《ぬかあめ》の日に、つまらないことで親と喧嘩をして家を飛び出し、山に迷い込んで野猿の群れに喰い殺された子供が、その起源だとされる。不思議なことに、家族を含め、集落の者は誰も、その子供の名前を思い出せなかったという――
「……畜生!」
膠着状態に、精神的に耐えられなくなって――まるで走馬灯《そうまとう》みたいに巡る思考に耐え切れなくなって、僕は雨合羽に向かって、駆け出した。それは昨夜から数えても、初めて僕の方からの、受身ではない攻撃行動だった。プレッシャーのかかる邀撃《ようげき》の姿勢に、とうとう我慢できなくなってしまったと言ってもいい。
立ったままの姿勢じゃ駄目だ。たとえ再び左腕を押さえつけたところで、すかさずそこに蹴りが来る。ならば柔道の寝技のように、あるいはレスリングのように、雨合羽の全身を組み敷くくらいの気持ちで、身体ごとぶつかっていかないと――
左右から雨合羽の身体を挟み込むように僕は両腕を広げたが、しかし、雨合羽をとらえることはできなかった――左右の動きならば、対応できたかもしれなかったが、雨合羽が取った動作は、そうではなかった。かといって、後ろに下がったのではない――それでも、後数歩僕が踏み込めば、対応できていただろう。
雨合羽は上に跳んだのだ。
跳んで――教室の天井に、両足の裏を貼り付けて――そしてそのまま、雨合羽は天井を駆けた。『たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ』と、重力に逆らって――万有引力の法則を無視しているが如く、天井を駆けた。
そして天井から降りて――床に着地した。
かと思うと、今度は横に跳んだ。
かと思うと、剥がれかけた黒板に着地して――かと思うと、更にそこから跳んだ――かと思うと、次は窓に打ち付けられた、分厚い板へと着地して――かと思うと、更にそこから跳んで――かと思うと、再び天井へ。
縦横無尽、斜め向き。
めくるめく目まぐるしさで――雨合羽は跳ぶ。
ネズミ花火のように壁から壁へ、壁から天井へ、天井から床へ、床から壁へと、その両脚で――跳ね回る。神原駿河の鍛《きた》えられた両脚で、雨合羽は跳び回る。
あるいは高速で撃ち出されたスーパーボール。
乱舞芸さながらの乱反射。
跳躍《ちょうやく》に次ぐ跳躍。
もう目で追えない。
僕の眼球の動きよりも、よっぽど速い。
さながら落下運動のように加速している、加速に次ぐ加速、徐々に、そして大胆に、跳ねるごとに確実に速度を上げている――長靴とスニーカーの違いなんて、可愛らしいくらいに、徐々に、大胆に、確実に、視界が翻弄《ほんろう》される。
平面の動きが立体になるだけで、こうも変わるものなのか――被害を広げないための、間違いなく決着をつけるためのこの教室、忍野の張ったこの結界だったけれど……それに、動きの速い、俊敏機敏な雨合羽を相手にするにあたって、広いフィールドよりも狭いフィールドの方が有利だろうという単純な計算があったのだけれど――まるで逆効果だった。完全に裏目に出た。
裏目。
どうしてわからなかった、こうなることが。
神原が、陸上部ではなくバスケットボール部を選んだ理由――それは、バスケットボールのコートという、狭いフイールドの中でこそ、神原の両脚は、誰よりも速い、活かせる武器だったから――! あの身長で、あの体格で、軽々とダンクシュートを決めてしまう神原駿河の跳躍力が、この限定された、天井の低い空間においてどう活かされるのかと、そういうこと――!
やることなすこと、裏目続き。
誤算にもほどがある、馬鹿なのか僕は。
常にミスを怠らない。
翻弄するように周囲を跳ね回られながらも、僕は踵《かかと》を釘付けにされたように、その場から一歩も動けない。特に追いきれないのが、床から天井へ、あるいは天井から床への、上下の動きだ――そのデザインの問題で、物理的に、人間の眼は左右の動きには対応していても上下の動きには対応していない。視野が雨合羽の動きについていけないのだ。
足元から一気に背後に回られて――
天井から、ついに雨合羽は僕を目掛けて跳んできた。セパタクローのローリングスパイクのように空中で身体を縦回転させ、その勢いを乗せた爪先が、僕の脳天に突き刺さる――頭蓋骨が陥没《かんぼつ》したのを感じる。その威力に前のめりになったところに、既に床に着地していた雨合羽の、ムエタイの膝蹴りのような一撃が、僕の顎に入った。その二連撃、セパタクローとムエタイのコンビネーションは、タイミング的には数瞬の差もなく、まるでサンドイッチみたいに、挟み撃ちにされたのと同じだけの衝撃が、痛み以上のものとして、僕を襲った。頭部が脳髄ごとひしゃげてしまったようで、少しだけ、意識を喪失する――にわかに人事不省に陥る。
だが死なない。
傷はすぐに回復する。
全く、地獄だ。
等活《とうかつ》地獄。
身体を粉々に砕かれても、一陣の風と共にそれが修繕されて元に戻り、また砕かれ、また修繕され、そして繰り返し身体を粉々に砕かれて、永遠に砕かれ続ける、八大地獄の、その一――僕の春休み、そのものだ。
「ちっ……」
手を伸ばす――雨合羽はそれをかわした。そして左拳を大きく振りかぶる、それに僕は反応する――いや反応じゃない、ただの反射だった。ずっと左腕に注意を集中させていたから、雨合羽の左腕の動きに、必要以上に敏感になってしまっていたのだ。けれど、先ほどの攻撃が、別に左腕を封じられたわけでもない状況からの、積極的な[#「積極的な」に傍点]蹴りの二連撃だったことを、僕はもっと深刻に捉えておくべきだっただろう。あるいは、突然始まった雨合羽の、めくるめく目まぐるしいあの立体高速の撹乱《かくらん》加速移動、恐るべきフットワークが、どういう意味を持っているのかということを。レイニー・デヴィルの左腕だけでなく、四肢全てを使用してのその動作が、どういう意味を持っているのかということを。
|悪魔と遊べば悪魔となる《デヴィル・メイド・デヴィル・アンド・デヴィル》。
願いを叶えてもらうまでもなく、魂を売り渡すまでもなく、肉体を乗っ取られるまでもなく、何をするまでもなく――
悪魔に願えば、悪魔となる。
左拳はフェイントだった。
これまで直線的な攻撃しか見せなかった雨合羽は――ここでついに、フットワークやコンビネーション、フェイントという、戦闘上の小技を使ってきたのだった。
いや、フェイントではない。
やはりここではフェイクというべきだ。
それは、雨合羽にとって、神原駿河の協力なくしてはできない小技なのだから――
左拳に対して身構えた僕にとっては決定的な死角である、反対側の脇腹に、雨合羽の爪先が、今度は三連続で、しかも同じ箇所に的確に、入った――同時に同座標に三連撃という相対性理論的に矛盾した雨合羽のその攻撃によって、僕の身体がくの字に折れ曲がったところで、もう片方の足の裏が、僕の胸を打ち抜く。
カタパルトのように。
こらえきれず、僕は後ろ向きに倒れるが、倒立後転の要領で、手のひらを床について、すぐに縦回転で起き上がり、距離を取る――雨合羽はすぐに距離を詰めてくる。
蹴りが肺に入っていた。
多分、潰れている。
呼吸が苦しい。
駄目だ、すぐに回復しない――つまり、今や左拳よりも、雨合羽の蹴りの方が、ともすれば威力を、破壊力を有しているということか。
神原の想いが、悪魔を凌駕しているということか。
嫉妬。
憎しみ。
ネガティヴな感情。
だったら、私でもいいはずじゃないか。
「……お前じゃ[#「お前じゃ」に傍点]」
潰れた肺のままで――僕は言う。
「お前じゃ駄目なんだよ[#「お前じゃ駄目なんだよ」に傍点]、神原駿河[#「神原駿河」に傍点]――!」
誰かが誰かの代わりになんてなれるわけがないし、誰かが誰かになれるわけなんか、ない。戦場ヶ原は戦場ヶ原ひたぎだし、神原は神原駿河なのだから。
阿良々木暦は阿良々木暦なのだから。
僕と神原との違い。
忍野を知っていたかどうか。
身を引いたかどうか。
鬼だったか猿だったか。
たまたまの巡り合わせで、偶然。
後ろめたさは、ぬぐえない。
僕は後ろめたい、それは神原に対しても、戦場ヶ原に対しても。けれど、代われるものなら代わってやりたいとは、思わない――僕は今の立ち位置を譲るつもりはない。
そうだ。
僕がお前のにっくき恋敵なら――お前も僕のにっくき恋敵だったんだ。僕は、神原のことを、憎まなければならなかったんだ。
ならばそれもまた、後ろめたさの、正体か。
僕は神原を、対等な相手として見ていなかった。
見下していた。
見縊《みくび》っていた。
絶対に安全な高みから、たっぷりと余裕のある立場から、神原と戦場ヶ原の間を取り持ってやろうだなんて、二人を仲直りさせてやろうだなんて、それほどれほどに嫌らしい行いなのだろう。なんて優しくていい人なのだろう。なんて酷くて悪い人なのだろう。
願いは。
願いは、自分で叶えるものなのに――だったら。
自分でなら、諦めたっていいはずなのに。
忘れなければ――諦めたって、いいはずなのに。
「……! ……! ……!」
一撃食らうごとに、身体の形がリアルに変形するほどに激しい、怒濤に次ぐ怒濤の攻撃を、次々と雨合羽は繰り出してくる――もう僕は、それを四回に一回も、かわすことができない。破壊された部分から順に自動修復自動再生されていくが、その速度よりも更に速く、雨合羽は僕を攻め立てる。
いつの間にか、僕は教室の角の部分に、追い詰められてしまっていた。後ろにも、右にも左にも動くことのできない、見えない糸で束縛でもされたかのような位置。雨合羽も、ここまで来れば、フットワークなど使わない――ボクシングでいうところの、ベタ足でのインファイトだ。それはあまりにも一方的な、インファイトだった。いくら上等のスニーカーとはいえ、あんな無茶な加速を続けていればすぐに裏のゴムが摩擦で焼け、すり切れるのではないかという、希望的観測に基づく淡い期待を抱いていたが、その前向きな目論見も、これでご破算。拳が、肘が、膝が、脛が、爪先が、踵《かかと》が、順列組み合わせ様々に、矢継ぎ早に僕の身体のあちこちを苛烈にさいなむ。悲鳴を上げる暇すら与えてもらえない、究極の連撃だった。
それは最早打撃の範疇ではない。
純粋な圧力だった。
骨が折れるだけでは済まない、打撃された箇所が切れる、皮膚と筋肉が、破裂し、爆裂する。脚の踏ん張り、脚の踏み込みが先ほどまでとはまるで違うということなのだろう、雨合羽の左拳の破壊力もまた、どんどん増幅されているようだった。
それでも。
神原駿河の両脚ほどではないが。
「せいっ……ふく」
身体は不死身でも、着衣はそうではない。
僕の服はとっくに、ずたずたになっていた。
やれやれ、制服をまた一着、駄目にしてしまった。
あと数日で衣替えなのに、高い詰襟《つめえり》を。
妹達に、今度はどう言い訳したものだろう。
「ぐう……っ」
この距離なら……。
だが、この距離なら、雨合羽がほんの少しでも隙を見せてくれたなら、その瞬間確実に、神原の身体を抱き締めるように、僕は雨合羽の動きを封じることができる……そのまま全体重をかけて、力ずくで床に押し倒してしまえば、形勢は逆転する。
勝機はまだ失われていない。
今だって、別に、ポジション的に追い詰められたというだけで、実際的に追い詰められたというわけでもないのだ――いくら雨合羽から攻撃を受けたところで、僕の肉体の有する回復力治癒能力がそれについていける間は、そんなもの、恐れるに足りないのだから。
痛いだけなのだから。
神原の心のように、痛いだけなのだから――
痛いということは、まだ、生きている。
「憎い」
声が聞こえた。
「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」
神原駿河の――声だった。
深い洞のような、雨合羽のフードの内側から――直接精神に響くように、訴えるように、聞こえてくる。
「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」
「………………」
憎悪――人間一人では抱えきれないほどの憎悪。
悪意、敵意。
ポジティヴな後輩の、ネガティヴな本音。
渦巻くように――雨合羽の奥に、溢れている。
表面張力一杯に。
「よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくも」
打撃と共に、声は続く。
憎悪の声は続く。
「お前なんか嫌いだお前なんか嫌いだお前なんか嫌いだお前なんか嫌いだお前なんか嫌いだお前なんか――」
「……神原、ごめん」
もう一度、声に出して。
僕は神原に謝った。
「僕は、お前なんか、嫌いじゃないんだ」
恋敵かもしれないけれど。
お前と、僕とじゃ、酷く不釣合いかも、知れないけれど――それでもさあ。
友達くらいには、なれないか?
「……■■■■■■■!」
深い洞から、何か、悲鳴のような金切り声が上がって――雨合羽の蹴りが僕の腹部を、貫いた。貫いた。内臓破裂どころではない、関節も筋肉も完全無視、比喩でなく本当に、僕のどてっ腹を見事に貫通して、肋骨と背骨を砕いて、後ろの壁にまで、その踵が到達していた。串刺しだった。
回復能力を遥かに越える――ダメージだった。
それは。
ずずぅ、と、脚が引き抜かれる。
消化器官がまとめて引っ張り出される感覚。
ごっそり。
引きずり出され――僕の身体こそが深い洞。
洞の中には、何もない。
「神原――」
まずい。
腹部に大きな穴を開けられたことによって――ぐらぐらとして、少し身体を捩《よ》じるだけでも、上半身と下半身とが、分断されてしまいそうだ。となると、もうこれ以上、下手に動くこともできない。まだ意識は残っているが、それでもこの状態では、次の一撃で――決まってしまう。なんて不甲斐ないんだ、僕が圧倒されてどうする。このままじゃ、神原の、二つ目の願いが、叶ってしまうじゃないか。それは、絶対に避けなければならないのに……。
いや、それも、ありなのか?
まだ願いは二つ目だ。
神原が今後……三つ目の願いを我慢することができれば――それでいいんじゃないのか? 神原の腕は、とりあえず元に戻るはずだし、それに、願いは願いだ、神原はきっと、戦場ヶ原のそばに――どんな形であれ、願いは叶うのだから。
譲るつもりは、ないけれど。
譲るつもりは、ないけれど。
許すつもりは、あるんだから。
僕なんて、本来、春休みに死んでしまっているはずだったのだから……ならば忍野の言う通り、それはそれで、簡単で、いいのか。
生に執着はあるけれど。
死に戦慄《せんりつ》があるわけじゃない。
「あ――あ、う」
呻く。
意味もなく、僕はただ、呻く。
断末魔のように。
制服を駄目にすることも、もう、ない。
「神原、するが――」
そして、そのとき。
一刹那《いっせつな》すら絶えることなく数十分は続いていた、雨合羽の連撃が、停まった。
唐突に、停まった。
それは――僕が待ちかねていた、隙だった。
しかしそれでも、僕は、作戦通りに雨合羽を組み敷くことなどできなかった。腹部に大穴を開けられたダメージに回復の目処《めど》が全くたっていなかったということもあったけれど、その行動に出るための意識が既に途切れかけていたからということもあったけれど、しかしそれ以上に――僕もまた、硬直してしまったからだ。
多分、雨合羽と同じ理由で。
硬直して、しまった。
「……随分とはしゃいでいるわね」
教室の扉が開いた。
内側からは決して開かない扉が、外側から。
そして、中に這入って来る。
私服姿の、戦場ヶ原ひたぎ。
「私抜きで楽しそうね、阿良々木くん。不愉快だわ」
感情の読めない表情――平坦な声。
この惨状を見ても、少し眼を細める程度だ。
常に――前触れもなく現れる。
ベルトを巻いていないジーンズに同色のインナー、サイズが大きめのざっくりとしたパーカー、緩く後ろで結んだ髪という、まるで部屋着のまま家を出てきたかのような、私服姿の戦場ヶ原ひたぎの姿だった。
「せ、戦場ヶ原……」
腹に風穴が開いている所為でうまく喋ることができない――声にならない、戦場ヶ原に向かって呼びかけるのも難しい。
どうしてここに?
そう訊きたいのに。
けれど訊くまでもなく、そんな答はわかりきっていた。忍野の奴が呼んだに決まっている――この問いに、それ以外に解答などあるものか。しかしどうやって? 忍野が戦場ヶ原に対して、連絡手段なんて持っているわけがない――戦場ヶ原ひたぎが、嫌っている忍野メメに、携帯電話の番号を教えるわけがない。その機会さえなかったはずだ。
携帯電話?
ああ、そうか。
あの野郎――個人情報保護の理念なんて小指の先ほども考慮せず、プライバシーを完全無視して、僕の携帯電話を勝手にいじりやがったんだ。この教室に入る前に、忍野に預けたリュックサックに入れた、あの携帯電話……とりたててパスワードでロックをかけていたわけじゃない、いくら忍野が機械に不得手でも、時間をかければ、アドレス帳や着信・発信履歴程度は、探ることはできるだろう。携帯電話の使い方だけならば、あの母の日に、ある程度戦場ヶ原からレクチャーを受けていたはずだし――
だが、何故。
一体何のために、よりにもよってこんな場所に、よりにもよってこんなシチュエーションに、忍野は、戦場ヶ原を、呼んだのだ――
途端。
雨合羽が、後ろ向きに跳ねて、天井と壁をそれぞれ二、三回ずつ経由して、僕からずっと離れた位置、教室の角から角へ、対角線の位置へと移動した。
どうして?
後一撃で、勝負は決まるのに。
願いは叶うのに。
ひょっとして、神原駿河としての意識が、戦場ヶ原ひたぎが教室に現れたことによって、雨合羽に提供した無意識を、一時的に抑えつけたのか? ということは、それが戦場ヶ原を呼んだ、忍野の狙いだったのか? けれど、そんなの、一時的な処置に過ぎないじゃないか。レイニー・デヴィルは、人間のネガティヴな感情を糧とするのだから、それ自体が解消されないことには、何も変わらない。昔の海外映画よろしくの、愛の力で全てが解決するなんてことが、あるわけがないのだ。戦場ヶ原を呼ぶくらいなら、お前が来いよ、忍野メメ!
戦場ヶ原は、しかし、そんな雨合羽の行動など一切合財まるでちっとも興味がないとばかりに、じろりと、冷酷な眼で、ほとんど瀕死《ひんし》状態の僕を、きつく睨んだ。それはまるで、獲物を狙う猛禽類《もうきんるい》の眼のようだった。
「阿良々木くん。私に嘘をついたわね」
「……え?」
「電柱にぶつかったなんて、私を騙して、神原のことも、秘密にして。付き合うとき、約束しなかったっけ? そういうことをするのは、なしにしようって。私達は少なくとも怪異のことに関して、互いに秘密を持たないって」
「あ、いや……」
それは――そうなんだけれど。
忘れていたわけではないんだけれど。
「万死に値《あたい》するわ」
酷薄に、笑顔を浮かべる戦場ヶ原。
雨合羽に思う存分ボコられているときにさえも感じなかった膨大な質量の恐怖が、身体中を電撃のように走り抜ける。怖い……マジで怖い、この女。メドゥーサかこいつは。どうすればそんな眼で、他人を……ましてや恋人を見ることができるんだ? って、おい、本当かよ。そもそもそれは、今この状況で、この状態の僕を相手にするような話なのだろうか? お前には場の空気を読むということができないのか、戦場ヶ原。
「……でも、まあ、阿良々木くん、既に一万回くらい、死んだ後みたいだし?」
戦場ヶ原は――扉を開け放したままで、教室の隅でうずくまる僕に向かって、その後ろ足を、踏み切った。
「特別に、許してあげようかしら」
いや。
さすがに一万回は死んでないと思うけれど。
雨合羽は、戦場ヶ原のその動きに、敏感に反応する――同じように、僕を目掛けて、駆けて来た。期せずして行われる、中学時代には実現しなかった、戦場ヶ原ひたぎと神原駿河との、徒競走だった。直線で結べば戦場ヶ原に較べて雨合羽は僕からの距離が数字にして倍くらいあったが、しかし戦場ヶ原は元陸上部のエースとはいえ二年以上のブランクがあるし、まして今は、雨合羽の脚力は神原の力を借りている――否、悪魔そのものと化している。動けない僕の地点に、先に辿り着いたのは、当然、神原の方だった。
ここぞとばかりに雨合羽が、僕に向かって、最後の一撃としての左拳を振りかぶり――そのタイミングで、戦場ヶ原が、遅まきながら、僕と雨合羽の間に割り込むように、到達する。
危ない。
と、思うほどの隙間もない。
雨合羽は――衝突の寸前で、後ろに弾き飛ばされた。弾き飛ばされた? 誰が今の雨合羽を弾き飛ばせる。僕には無理だし、戦場ヶ原には尚更、そんなことは不可能だ。ならば、弾き飛ばされたのではなく、順当に、雨合羽は自分から、後ろに跳んだと見るべきだろう。その結果、後ろ向きに不恰好に、倒れこんでしまったとしても。
僕は呆気にとられていた。
今の動き――まるで、戦場ヶ原を巻き込むことを恐れるような、戦場ヶ原を傷つけることを何より忌避するような、雨合羽の不自然な今の動き、一体、どういうことだ?
やはり、神原駿河としての意識が――否。
そんなご都合主義があり得るか。
怪異は、合理主義だ。
あくまでも、どこまでも、理に合する。
その理が、人間に通じない場合があるだけだ。
しかし、この場合は――
「阿良々木くん。どうせあなたのことだから、自分が死ねば全部解決するとか、間の抜けたことを思っていたんじゃないかしら?」
戦場ヶ原は変わらず、雨合羽のことなど意に介せず、僕に言った――僕に背を向けたままで、こちらを見ずに。こちらを見ないのは、血塗《ちまみ》れ傷だらけの、僕のこの悲惨な姿を見たくないから――ではないことは、確かだった。
「冗談じゃないわよ。薄っぺらい自己|犠牲《ぎせい》の精神なんて、これっぽっちもお呼びじゃないわ。阿良々木くんが死んだら、私はどんな手を使ってでも神原を殺すに決まっているじゃない。私、確かにそう言ったわよね? 阿良々木くん、私を殺人事件の犯人にするつもり?」
……お見通し。
全く、情の深い女だ。
うかうか死ぬこともできないってのか。
一途なくらいに――歪んだ愛情。
「私が何より気に食わないのは、阿良々木くんが、たといそんな身体じゃなくとも、同じ行為に身を投じていただろうということが、はっきりとわかってしまうことよ。不死身の身体におんぶにだっこでこんな馬鹿なことをやっているのだったら、どうぞお好きなようにという感じなのだけれど、阿良々木くんときたら当たり前みたいに、流れのまにまにそんな有様になってしまって――もう、さっぱりね」
「…………」
「まあ、大きなお世話も余計なお節介《せっかい》もありがた迷惑も、阿良々木くんにされるなら、そんなに悪くはないのかもしれないわ――」
戦場ヶ原は、最後まで僕に一瞥《いちべつ》もくれないままに、倒れた姿勢のまま起き上がろうとしない雨合羽に向かって、ずいっと一歩を、踏み出した。雨合羽は、まるで戦場ヶ原に怯えているように、倒れた姿勢のままで、後ろに這いずる。
怯えているように……。
怯えているように……どうして?
そういえば――言われてみれば、昨夜のときも、そうだった。雨合羽は、僕をぶっ飛ばしたところで、突然、去っていった。それは戦場ヶ原が、忘れ物の封筒を持ってその場に現れたからだ……けれど、戦場ヶ原が現れたからといって、どうしてそれが雨合羽の逃げる理由になる? 考えてみれば、それはとても不自然なことではないか。あれが『人間』の通り魔だったり『人間』の殺人鬼だったりしたなら、自然なことだろう――しかし、『怪異』が目撃者を気にする理由なんかあるわけもない。そもそも、雨合羽の左腕の腕力があれば、戦場ヶ原一人程度、何の障害にもならないはずなのに。
なら、どうして逃げた。
現れたのが戦場ヶ原だったからか?
どういうことなんだ?
本当に愛の力なのか?
ご都合主義にも、神原駿河の、戦場ヶ原を想う気持ちは、悪魔をも凌《しの》ぐというのか……一途な想いは世界そのものである怪異も押しのけ、地から天に通じるものなのか――否。
否。
そうじゃない……わかった、想いだ。
レイニー・デヴィルの左手に二つ目の願いを願い、神原の左手がけだもののそれと化した後も――それが実際に発動するまでには、四日を要した。それは、神原が、ぎりぎりのところで、僕が憎いという想いを抑えつけていたからだ。願いは自分で叶えるものだという、彼女の姿勢が、悪魔の暴力を、抑えつけていた。忍野はそういう、一つ目の願いを願ってからの七年の間に強固に根付いた神原の姿勢をちゃんちゃらおかしいと笑ったが――それは、そういう通り一遍の意味ではなかったのだ。
決して間違えてない――と言っていた。
神原の想い。
想い――神原駿河の願い。
レイニー・デヴィルは人間の暗い感情を見透かし見抜く――裏を読んで裏を見る。悪魔は願いの裏を見る。足が速くなりたいのは、同級生が憎かったから。戦場ヶ原のそばにいたいのは――阿良々木暦が憎かったから。
でも、それは、あくまで、裏側だ。
表があれば裏があるよう。
裏があるなら――表がある。
もしもレイニー・デヴィルが戦場ヶ原ひたぎを傷つけてしまったら――憎悪の対象である阿良々木暦を殺そうがどうしようが、関係なく、神原の表の願い[#「表の願い」に傍点]を、叶えることができなくなってしまう……そうだ、愛の力なんてそんな感動的でセンシティヴな問題じゃない、もっと実際的でプリミティヴな問題なのだ。
契約なのだ。
取引なのだ。
レイニー・デヴィルが叶えられる願いは裏側だけだが、それは表がないがしろにされるという意味ではない。実際、神原が小学生のときだって――同級生に復讐をという裏の願いと同時に、足が速くなりたいという表の願いも、結局は、叶っている。因果関係とは関係のないところで、しっかりと、叶ってしまっている。ちゃんちゃらおかしいのは、それが結局、レイニー・デヴィルの思惑通りでしかなかったからだった――レイニー・デヴィルは表を裏に解釈しただけだが、何もないところから裏を導きだしたわけじゃない、表があってこその裏だった。いや、それもまた忍野の言に従うなら、左手に意思など、あるわけがない。全ては、神原駿河の無意識の思惑として――表と裏の、決して交わることのない因果関係は矛盾のように成立する。
悪魔との契約。
魂と引き換え。
クーリングオフ。
叶えられない願いを、願うこと。
ダブルバインドの――板ばさみ。
表と裏との、板ばさみ。
だから――だからこそ、レイニー・デヴィルは戦場ヶ原に手が出せないのだ。そういう契約だから、そういう取引だから、こうして、戦場ヶ原が僕の盾となっている内は――憎い憎い僕にさえも、手を出すことができないのだ。
その左手を、出すことができないのだ。
僕が悪魔を圧倒し、裏の願いの成就を不可能にしてしまうというのが一つの方策であったなら――それと同様に、表の願いの成就を不可能にしてしまうこともまた、一つの方策。
まして今、戦場ヶ原は、僕が死んだら神原を殺すとまで、悪魔の目の前で、宣誓《せんせい》した。知らなかったでは済まされない。レイニー・デヴィルにとって、状況はもう完全に、決定してしまったのだ。
見透かした真似を……。
悪魔なんかよりもずっと、見透かした真似を。
忍野、お前は……お前は本当に、僕なんか比べ物にならないくらい、とんでもなく、酷くて悪い人だよな――!
「神原、久し振り。元気そうで何よりね」
戦場ヶ原は言った。
そして仰向けでずるずると後ずさる雨合羽を――いや、彼女の旧知である神原駿河を、戦場ヶ原は、自分の身体をゆっくりと覆いかぶせる形で、組み敷くようにする。
これほどの悲惨な姿になりながら――
とうとう、僕ができなかったことをする。
僕には、絶対、できないことを。
けだものの左腕と。
人の右腕を、あやすように握り締める。
ホッチキスを――
戦場ヶ原は、もう持っていない。
「……戦場ヶ原先輩」
フードの内側から、ぼそりと。
響くような、訴えるような声。
しかし、フードの内側は、もう、深い洞などではない。泣きそうな顔などではない。泣きそうじゃなくて――泣いている。はっきりと僕の眼には、涙目で泣き顔で泣き笑いの、一人の女の子が映っている。
私は、と、しゃくりあげながら。
彼女は、彼女の想いを口にする。
「私は、戦場ヶ原先輩が、好きだ」
彼女の、彼女の願いを口にする。
「そう。私はそれほど好きじゃないわ」
いつも通りの口調で、直截的に、思ったまま。
戦場ヶ原は平坦にそう言った。
「それでも、そばにいてくれるのかしら」
いっぱい待たせて、ごめんなさいね。
とても平坦に、そう言った。
……愚かしい。
愚かしいこと、この上ない。
全く――かませ犬もいいところだった。
我ながら、そしていつもながら、あつらえたような三枚目を演じたものである。見事なくらい、何の役にも立ってない。
ごめんなさいが言える、素直な子。
戦場ヶ原ひたぎが、どれだけ強欲な女なのかということくらい、僕はとっくに知っていたはずなのに。戦場ヶ原ひたぎが、どれだけ諦めの悪い女なのかということくらい、僕はとっくに知っていたはずなのに。
それが本当に大事なものだったなら。
戦場ヶ原が、諦めるわけがないのに。
大きなお世話、余計なお節介。
ありがた迷惑。
しかし、まあ……それでも、なんというか、全くもってどいつもこいつも、本当に、ひねくれてるよなあ――
実際、裏表のある奴ばかりだ。
表も裏も、メビウスの帯のように、表裏一体。
ならば解釈は愛の力でも、別にいいや。
人から忘れられるっていうのは、結構凹むから。
僕はそんなことを考えながら、とりあえず、腹に開けられた大きな穴がふさがるまでの間、目の前で展開される百合的な情景を、野暮《やぼ》な突っ込みを一つも入れることなく、ただただ、見守ることにした。ここでもしも僕が忍野だったなら、似合いもしない癖にニヒルを気取って、火のついていない煙草でもくわえ、二人に向けて、何かいいことがあったのかどうかとでも訊く場面なのだろうけれど、生憎《あいにく》僕は、未成年だった。
009
後日談というか、今回のオチ。
翌日、いつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされ、寝ぼけまなこをこすりながらも約束通り、日曜日をまるまる使っての勉強会のために、今日こそはその手料理を食べさせてもらえるんじゃないかとほのかな希望を抱きつつ、意気揚々として戦場ヶ原の家に向かおうと、今や僕の持つ唯一のマシンとなってしまった通学用の自転車に跨り、門扉を開けて家から出たところで、手持ち無沙汰っぽく電柱の前で、何故か柔軟《じゅうなん》体操をしている少女に、出会うことになった。私服だったが、短めのプリーツ・スカートと、そこからはみ出したスパッツという組み合わせは、制服姿のときに受ける印象とそんなに変わらない感じ――直江津高校のスター、後輩の神原駿河だった。
「おはよう、阿良々木先輩」
「……おはようございます、神原さん」
「ん。ご丁寧な挨拶、恐縮だ。阿良々木先輩はそういう礼儀礼節から、もう私などとは人間の質が違うみたいだな。怪我はもう大丈夫なのか?」
「ああ……今はむしろ日光がキツいくらいだけど、それも心配していたほどではないかな。ダメージの回復と、とんとんって感じか。で、どうして神原、僕の家、知ってるわけ?」
「嫌だなあ、阿良々木先輩、わかっている癖に。私に見せ場を作ってくれようというのかな? だって私は阿良々木先輩をストーキングしていたのだぞ。自宅の住所くらいは調査済みだ」
「…………」
快活に笑って言われても困惑する。
「で、何か用なのか?」
「うん、今朝戦場ヶ原先輩から電話があって、阿良々木先輩を迎えに行くように言われたのだ。あ、鞄を持たせてくれ」
言うが早いか、自転車の前カゴから、僕のリュツクサックをひょいと取り上げて、それを左手に抱える神原。にこにことしたあどけない笑顔で、「その自転車のチェーンにも油を注しておいたぞ。他にも何か用事があったら、遠徳せずに言って欲しい」と、僕を見る。
友達を通り過ぎてパシリになっていた。
学校のスターを従え引き具すつもりは僕には毛頭なかったけれど、しかし、あの病的なまでに嫉妬深い戦場ヶ原が、神原にはこんな役割を任せているというところから、神原と戦場ヶ原との修復された関係を、再結成されたヴァルハラコンビの間柄を読み取ろうとするのは、果たして僕の穿《うが》ち過ぎだろうか。きっと、穿ち過ぎだろうけれど。
「出発前にマッサージなどいかがかな。そうは言ってもやはり阿良々木先輩もお疲れだろう。結構上手なのだぞ」
「……しかしお前、部活はいいのかよ。日曜日だって練習はあるはずだろう? ほら、そろそろ試験休みなんだから、気合入れてかないと」
「いや、バスケットボールは、もうできないのだ」
「え?」
「少し早いが、引退だ」
神原は僕のリュックサックを持ったまま、左手を僕の前に示した。彼女のその左手は――肘の辺りまで、真っ白い包帯が、ぐるぐるに巻かれていた。その長さやその形が、若干不自然であることが、外側からでも、わかる。
「全てが中途半端だったからな。悪魔は去ったが、結局、腕は元には戻らなかったのだ。いくらなんでも、この腕でバスケットボールを続けるわけにはいかないからな。でもまあ、これはこれでパワフルで、結構使い勝手はいいみたいだぞ」
「……僕の鞄を今すぐ返せ」
なんというか。
半分とはいえ、願いが叶ったのだ。
それくらい、当然の代償のようだった。
[#改ページ]
あ と が き
たまには普通のあとがきが書きたくなったのでここでは本書に収録されている三つの物語についての解説的なものを述《の》べてみようと思います。物語の内容に少なからず触《ふ》れますので、本文を読み終える前にこのあとがきを読んでいらっしゃる方がいましたら申し訳ありませんがここで目を止め、先に本文から読まれることをオススメします。なんて、書きたくなったのはそんなお決まりの文章までなのでやっぱり解説的なものは述べませんが、しかし考えてみれば作者自身による物語の解説というのは、なかなかどうして一筋縄《ひとすじなわ》ではいかないものです。人間思っていることを百パーセント表現できるわけがないし、また表現されたものが百パーセント伝わるわけもなく、実際は上首尾《じょうしゅび》に運んで六十パーセントずつ、つまり作者の思っていることで作品を通して受け手に伝わることは三十六パーセントというのが実際的な数字です。残り六十四パーセントは勘違《かんちが》いで、ゆえに作者自身による解説を読むと受け手として半分以上同意できないことが多々あります。え、そんなつもりで書いてたの? とか。いわゆるコミュニケーションの難しさですが、しかしその勘違いこそがいいスパイスになることは揺《ゆ》るぎのない事実です。たとえば僕なんか、大好きな本を人に勧《すす》める際は自分が感動したシーンを臨場感たっぷりに伝えるという勧め方をするわけですが、後に読み返してみるとそんなシーンはその本の中には存在しないということがままあります。結局人間なんていい加減な生物ですから何かを感じてもそれは半分以上勘違いだってことなんですけれど、しかしそれを悲観的に解釈《かいしゃく》するのではなくその作者、あるいは物語には受け手を勘違いさせるだけの力があったのだという見方をするべきなのかもしれません。昔|衝撃《しょうげき》を受けた本を読み返すと案外大したことなかったという経験は本読みならば誰でも味わったことがあるでしょうし、自分が十代の頃に読んで感動した本を今十代の人に「絶対面白いから!」と勧めても芳《かんば》しい反応が返ってこないという経験は誰もが味わうことになるものですが、それは受け手の勘違い、よく言えばイメージの効果であり、がっかりするよりはむしろ、夢を見せてくれてありがとうと、感謝しなければいけないのかもしれません。付け加えるなら、あとで読み返して存在しなかったそのシーンが他の本から発見されるというケースがあったりもしますが、これは単に僕の記憶力に問題があるだけで、作者及び物語には何の責任もありません。
本書は怪異を主軸に据《す》えた三つの物語――では、ありません。とにかく馬鹿な掛け合いに満ちた楽しげな小説を書きたかったのでそのまま書いたという三つの物語です。本にまとめるにあたって、イラストはVOFANさんにお願いしました。一つだけ解説すると、そもそもは「ヅンデレとゲレンデって響きが似てるよね」→「ゲレンデといえばボーゲンじゃない?」→「ボーゲンって漢字で書けば暴言だよね」という三段|論法《ろんぽう》から生まれた話です。そんな感じで「ひたぎクラブ」「まよいマイマイ」「するがモンキー」、まずは『化物語《バケモノガタリ》(上)』でした。下巻ではもっと馬鹿な掛け合いが繰り広げられますので、ご期待ください。
僕以外の全てのみなさまに、百パーセントの感謝を。
[#地付き]西尾維新
[#改ページ]
初出一覧
本書は、『小説現代増刊メフィスト』に掲載された「ひたぎクラブ」「まよいマイマイ」「するがモンキ――」に加筆訂正のうえ、改題したものです。
「ひたぎクラブ」『小説現代増刊メフィスト2005年9月号』
「まよいマイマイ」『小説現代増刊メフイスト2006年1号』
「するがモンキ――」『小説現代増刊メフィスト2006年5月号』
[#改ページ]
西尾《にしお》維新《いしん》〈にしお・いしん〉
1981年生まれ。第23回メフィスト賞受賞作『クビキリサイクル』に始まる〈戯言《ざれごと》シリーズ〉を、2005年に完結。近作に『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』がある。
illustration
VOFAN
1980年生まれ。台湾版『ファミ通』で表紙、『月刊挑戦者』でイラストーリーを連載中。
2006年2月、初画集『Colorful Dream』(台湾・全力出版)を刊行。
講談社BOX
化物語《バケモノガタリ》(上)
2006年11月1日第1刷発行
著 者――西尾《にしお》維新《いしん》〈にしお・いしん〉
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
平成十九年六月二十七日 入力 校正 ぴよこ