偽物語《ニセモノガタリ》(下)
[#地付き]西尾維新
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001
阿良々木《あららぎ》月火《つきひ》の正体を開示することによって、それではいよいよ僕達の物語に終止符を打つことにしよう。あの小賢しくも小うるさい、ちっちゃいほうの妹の話で、僕と、僕の愛すべき仲間たちのエピソードは完結だ。とは言うものの、勿論《もちろん》それで人生が終わるわけじやないし、世界が終わるわけでもない。どうしたところで命まで取られるわけじゃあるまいし――大体、終わりのある人生や終わりのある世界が、どれほど救済的なのか、僕達はそのことに、普段からもっと思いを馳《は》せるべきだろう。終わりたくても終われない、やめたくてもやめられない、そんな地獄《じごく》を人間は日常的に、あるいは異常的に、当たり前のように経験し、当たり前のように継続しているはずではないか。
たとえば僕。
阿良々木|暦《こよみ》。
僕は先の春休み、吸血鬼に襲《おそ》われた――伝説の吸血鬼、鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼、怪異殺しの怪異の王に襲われた。
血を吸い尽くされ、命を吸い尽くされ存在を吸い尽くされ、物理的な身体を吸い尽くされ、精神的な心体を吸い尽くされ、あとには何も残らなかった。
否。
あとには一匹の化物《ばけもの》が残った。
僕から僕を引いたら、化物が残った。
避《さ》けようにも避けられず、逃げようにも逃げられず、死のうにも死ねない――二週間に及ぶ地獄が、そこから始まったのである。
そして二週間に及ぶ地獄は、実のところ今もまだ、完全に完結したとは言いがたい――そうだ。僕の例なんかを引き合いに出すまでもなく、終わりなどという言葉はそもそもが非現実的なのだ。
自《みずか》ら命を絶《た》つ者が、この世の中には多くいる――だけどそれだって大きな意味では終わりとは言えない。結局はその自殺が端緒《たんしよ》となって、新たな局面がスタートしてしまうことになるのだ。
正義が悪を殲滅《せんめつ》しても。
新たな悪が誕生するだけ。
悪を殲滅することはできても、悪を全滅させることはできないのである――どころか、新たに誕生する悪というのは、元々は正義の側だったというケースも大いにありうる。
などと言うと、きっともう一人の妹であるところの火憐《かれん》あたりは文句を言ってくるだろう。文句どころじゃ済まず、ただの怒り心頭で、実の兄であるところの僕の顔面に蹴《け》りでもくれるに違いない。あたしが蹴るんじゃない、あたしに流れる正義の血液がそうさせるんだ、とか、なんとか適当なことを言ながら。
だけど彼女もいずれ知る。
僕が教えるまでもなくいずれ知る。
何も大それたことじゃない。
こんな平和で暢気《のんき》な国の、普通の学校教育を受けただけでも、いずれ知る――正義なんて存在は所詮《しょせん》、新たな正義に打倒されるための前振りにしか過ぎないということを。
全ては全ての前座である。
革命者は開拓者にはなれないのだ。
手のひらはあっさり返されるし、約束はさっぱり反故《ほご》にされる。貸しはちっとも返してもらえないし、弱者はまったく保護されない。
それがルールだ。
世の中のルール。
誇《ほこ》るべき僕の二人の妹達がいくら声高に正義を謳《うた》ったところで、正義という概念《がいねん》がそもそも悪と戦うところ、悪を敵視するところから始まっている以上、それは避けようもない必然である。
悪にも事情があり。
悪にも家族がいる。
そんな現実に突き当たったとき、それでもなお、迷わず正義を貫《つらぬ》ける人間などそうはいない――いたとしても、それは最早《もはや》正義とは言えないだろう。
究極的に言って、正義と悪は対立軸では語れないのである。
二元論じゃないし、人間論でもない。
そんなことを言い出したら、いつまでたっても始まらないし、いつまでたっても終われない。
だらだらするだけ――そういうことだ。
仮に、人が正義でいられるとするなら、それは瞬間瞬間の動画ならぬ静止画、記念写真においてのみなのである――時間の経過は、どうしても意義や意味を劣化《れっか》させる。
元よりの意味を否定する。
もっとも、それも悪いことばかりではあるまい――この話は、存在としての悪も、いずれは正義に転じる可能性があることを示唆《しさ》している。
改心や改善の余地を残している。
殊更《ことさら》悲観的な見方ばかりをせず、それは素直に希望として受け取っておくべきだろう――地獄に落ちた僕が、羽川《はねかわ》翼《つばさ》や戦場《せんじょう》ヶ|原《はら》ひたぎと出会えたように、救いなんてどこに転がっているかわからない。
救いなんてどこにでも転がっている。
こういう言い方もできよう。
終わりがないから、救いもあるのだ。
とりあえずの締《し》めくくりとしてはいささか偽善的《ぎぜんてき》に過ぎる文言《もんごん》という気もするが、それはそれで構わないだろう。それこそ偽《いつわ》りに満ちた最後の物語をとても端的に表していると、言って言えないことはないのだから。
まあ――それでも、その上で。
僕はあえて、ここで大仰《おおぎょう》なことは言うまい。
正義だの悪だの、善だの偽善だの。
終わりだの始まりだの。
生きるだの死ぬだの、言うまい。
格好つけたってしょうがないじゃないか。
命題なんてない。
貴きテーマなど語るまい。
これから語るのは、所詮はただの妹の話だ。
阿良々木月火。
ファイヤーシスターズの片割《かたわ》れ。
下の妹、ちっちゃいほうの妹。
中学二年生で四月生まれで、十四歳で、B型でヒステリックで、ずる賢《かしこ》く、感情がピーキーで――
そして不死身《ふじみ》な。
ただの、偽物の物語だ。
002
「兄ちゃん兄ちゃん。ジャンケン必勝法って知ってるか? どーせ知らねーだろ。知るわけねーんだよ、兄ちゃんみたいなもんは! まったく兄ちゃんと来たらあたしが教えてやんなきゃなーんも知らねーんだから。ふっふっふっふ、よーし仕方ない、あたしがひと肌《はだ》脱いでヌードになって、すっぽんぽんのままでストリーキングしながら、びっちしばっちし教えてやろう」
阿良々木火憐。
つまりは中学三年生の僕の妹は、およそ何の前置もなく、いきなり――逆立《さかだ》ちの姿勢《しせい》で、そんなことを言ってきた。
逆立ちの姿勢。
例によっての、逆立ちの姿勢である。
ちなみにここは自宅のリビングや火憐の自室などでは決してなく、まして体育館的なスポーツ施設でもなんでもなく、住宅街のど真ん中、歩道という名の舗装《ほそう》道路であることは、誤解のないようしっかりと明記しておこう。
さんさんと輝く太陽の下、アスファルトの上で、あろうことか僕の妹は倒立《とうりつ》をしているのである。
下手《へた》すりゃストリーキングより恥ずかしい。
歩行の際の衝撃を吸収するだけにとどまらず、地面に向けて跳ね返すという触れ込みのスポーツシューズ・ショックスが、何の用もなしていない。
「はあ? なんかほざいたか? ジャンケン必勝法? そんなもんあるのかよ。つーかねーよ。お前の存在くらいねーよ」
| 鯱 《しゃちほこ》|立《だ》ちも芸のうちとはいうけれど、僕は町の皆さんから奇異の視線を受けることをとりたてて好む人間ではないので、できれば逆立ちで歩く謎の女子中学生とは物理的にも心理的にも五キロ以上の距離を取りたいところなのだけれど(個人的には倒立か、あるいは僕の妹か、どちらかをやめていただきたかった)、しかしそういうわけにもいかず、仕方なしに彼女の台詞《せりふ》に応じる。
いや実際、何健康法なのかは知らないが、そのふざけた歩行を中断させるためのたゆまぬ努力を僕は決して怠《おこた》っていないのだ。隙《すき》を見ては背後から、火憐の後頭部を狙って鋭いキックを繰り出してはいるのだが、果たしてこいつは背中に目でもついているか、妖怪百目なのかなんなのか、その蹴りをことごとくかわしてしまうのである。
格闘馬鹿は、さすが一味違う。
よっぽどうまく隙をつかないと、どうやら僕は火憐の頭を蹴ることはできないようだ――いや別に、こいつの頭を蹴ること自体が目的ではないのだけれど。
まあ蹴れるもんなら蹴りたいよな。
普段の欝憤《うっぷん》も晴れて、随分《ずいぶん》すっきりしそうだ。
ちなみに火憐の髪型《かみがた》は昔からの、昔ながらのポニーテイルなのだが、その長い髪は逆立ちすると地面につき、引きずってしまう形になるので、彼女は倒立中は常にテイルを襟巻《えりま》きのように首に巻いている。
端っこを引っ張ればいい感じに首が締まりそうだ。
これも何度かチャレンジしたが、やはりことごとく失敗に終わっているのだった。
夏休みも残るところ約一週間――八月十四日、夏真っ盛りの今とすれば、髪の毛製のマフラーは暑いどころか熱そうでさえあるが(しかも顔面は熱せられたアスファルトに激近である)、まあ根性者の阿良々木火憐さんにとっては、むしろそれは望むところなのかもしれない。
燃える女。
火の玉人間を自称するくらいだし。
ったく、お前もう名前を圧縮して憐《りん》になっちゃえよ。
「ふっふっふ。あるんだなー、それが。あたしの存在くらいあるんだなー」
言って。
火憐はひとたびぐっと沈み込んだかと思うと、強度のあるバネ仕掛けのようにびよんと跳ね上がり、それから身軽に、そして華麗《かれい》に宙返りをして、天地正しい状態へと戻った。
阿良々木火憐、ジャージ女。
言い忘れていたが、こいつはかなりの上背《うわぜい》を持つ。
中学三年生の女子でありながら、そして妹の分際《ぶんざい》でありながら、彼女は僕よりも背が高いので(ちなみに僕の成長は中二で止まった。信じられねえ)、こうして真っ当な姿勢に立ち返ると、僕より視点が上に来る――あー、これなら一生逆立ちしといてくれてもよかったかもなあ、なんて思ってしまうのは、いささか身勝手というものだろうか。
「この必勝法を知ってると知らないとでは、その後のジャンケン人生ががらっと変わっちまうだろうぜ。本当はあたしだけの秘密にしときたいんだけど、兄ちゃんのお陰で今日はいい日だからな。恩返しってつもりじゃねーけど、特別に粋なはからいで教えてやろうっつってんじゃねーか」
月火ちゃんにだって教えてねーんだぞ、にっしっし――と、火憐は笑った。
足は止めない。
ひょいひょいと、後ろ向きに歩いている。
器用な奴だとは思うが、今更《いまさら》驚きもしない――バランス感覚を含める身体能力において、はっきり言ってこいつは化物級だ。
人の身でありながら、下手をすれば、吸血鬼よりも化物である。
伊達《だて》にファイヤーシスターズの実戦を担当していない――つい先日の蜂《はち》の騒ぎのときのことを想起するまでもなく。
火憐の普段からの鍛錬《たんれん》を思えば、後ろ向きに歩くくらいはごく当たり前の行動だろう。
一緒にいてとても恥ずかしいというだけのことである。
しかしまあ、一般的にはそれが全てだ。
「僕にこの後のジャンケン人生なんかねーよ」
「それだってあるかもしれねーじゃねーか。ありまくりかもしれねーじゃねーか。可能性を否定しちゃいけねーよ。実際、ジャンケン強ければ人生どんだけ得かって話だよ。ロシアンルーレットやってさあ? どっちが先に引き金引くかで揉《も》めたとき、もしもジャンケン必勝法を知っていたら!」
「確率は一緒だ」
初歩の初歩である。
中三なら習ってんだろ。
つーかそれ以前に、ロシアンルーレットをしなければいけない状況というのが、想定できない。そこまで追い詰められた時点で、人生はおおよそ終局を迎えていると言ってよかろう。
「え? 確率一緒? マジで? 先に引き金引いたほうが不利なんじゃねーの?」
「先に引いて弾《たま》が出なかったとき、相手が引き当てる可能性が高まるだろうが」
「え? 何? 全然わからん」
「いや、だから……」
「『タカマル』ってどういう意味だ?」
「そんなところがわからねえのかよ!」
お前、日本語がわかってねえじゃねえか!
高まる程度の日本語を知らずに、十五年間、どうやってこの国で生きてきたんだよ!
確かお前、成績はいいって設定だったろ!
「タカマル。タカマル。うーん。なんか忍者っぽい名前だな」
「そりゃジャジャ丸だろ!」
突っ込んでみたものの、ジャジャ丸が忍者の名前だったかどうかは、僕もいまいち自信が持てなかった。
オールラウンダーの突っ込み手であるこの僕も、子供番組にはいまいち弱いのだった。
「確か大化《たいか》の改新《かいしん》で中大兄皇子《なかのおおえのおうじ》と一緒に蘇我《そが》氏を倒した……」
「それは中臣鎌足《なかとみのかまたり》だけど……発音からして全然違うけど、カマタリを知っててなんでタカマルを知らないんだよ」
「うーん。じゃあ誰だろう……聞いたことはある気がするんだよな」
うで腕を組む可憐。
途中から、完全に人名検索を行っているようである――そのジャンルを探しているうちは、絶対わかんねーよ。
「しっかしお前、逆に言わせてもらえるなら、なんでそんな単語も知らない奴が、そんなジャンケン必勝法とやらを知ってるんだ?」
「知識の問題じゃねーんだよ。感覚の問題? 結局のところ、人間は何を知っているかじゃなくて、何ができるか、何をするか、だろ?」
「まあ、そりゃそうだけど……」
羽川あたりを見ているとそう思うな。
あいつは知識の宝庫みたいな奴だけれど――むしろ素晴《すば》らしいと思う点は、そして清々《すがすが》しいと思う点は、その知識の活用にこそある。
知識の力行変格活用。
とにかく半端《はんぱ》ないのだ。
さすが、中学生の頃に科挙《かきょ》に受かったとか、高一の夏休みにアビトゥアに合格しているとか、そんなすさまじい噂《うわさ》が流れるだけのことはある(ちなみに流したのは僕だ)。
「たとえば兄ちゃん、確かにあたしはそんな小難《こむずか》しい確率論なんかは知らないけど、それでもちゃんと現実問題、こうしてロシアンルーレットでは生き残ってるわけだし」
「本当にやったことあんのかよ!」
たとえ話じゃなかったのか!
たとえ話じゃあ、なかったのかよ!
いや、つーか……もし本当にやったことがあって、しかも生き残ったってことになると、相手は自分のどたまぶち抜いて死んでるじゃねえか!
事件だあ!
妹が事件の渦中の人物だあ!
「ん? ああ大丈夫大丈夫。最後の一発になったところで、相手のほうが音《ね》を上げたから。ギブアップで終了。ノーサイドだ」
「だったらいいが……全然よくないけど」
何やってんだよ、ファイヤーシスターズ。
滅茶苦茶《めちゃくちゃ》やってるとばかり思ってはいたが、まさか銃器火器がからむような抗争にまで手を出しているとは思わなかった……。
つーか僕、警察行ったほうがいいんじゃねえか?
「なかなか手強《てごわ》いイタリアンマフィアだったぜ」
「なんでイタリアンマフィアがこんな地方の田舎町にやってきたんだよ」
「基本観光だったらしい」
「観光って」
「ほら、よくヤンキー漫画とかで、修学旅行先で地元の高校生と派手な喧嘩《けんか》になったりするじゃん。あんなノリ」
「どんなノリだ」
それが本当なら、確かにもう正義の味方ごっこってレベルじゃねーぞ。
なんだこの妹。
正義じゃないのは勿論、何の味方でもねーよ、この吊《つ》り目《め》のポニーテイル。
「最後盛り上がっちゃってさー。わきわきしちゃってさー。そんでロシアンルーレットってわけ。あはは、日本人のあたしがイタリアンマフィアとロシアンルーレットだなんて、もう国際色が豊か過ぎて誰が何人《なにじん》なんだかわからねえよな」
「お前は国外追放されて日本人じゃなくなれ」
この国から去れ。
平和のために貢献《こうけん》しろ。
「うん? でも、あれ? 相手のほうに最後の一発が回ったってことは、お前、そのロシアンルーレット、先攻したことになってねえ?」
ロシアンルーレットで先攻後攻という言葉も、考えてみればなんだかおかしいけれど。
とにかく、相手に最後の一発が回るためには、火憐のほうが先に自分の頭に銃口を向ける必要がある……だったら順番を決めるジャンケンで、火憐は負けたことになるじゃないか。
必勝法はどうした。
いや、一対一でやったわけじゃないのかな? もしも三人でやったとするなら……。
「馬鹿兄貴!」
殴《なぐ》られた。
理不尽《りふじん》に頬《ほお》を張《は》られた。
暴力の行使について、まるで躊躇のない妹である。
実戦空手の道場に通っている火憐は、その腕前こそ一流越えだが、しかし精神面はまったく鍛錬されていない。
残念だ。
「命を賭けた真剣勝負で、ジャンケン必勝法なんて卑怯《ひきょう》な技を使えるわけがねーだろうが! あたしは正義の体現者だぞ!」
「そんなこと言い出したらお前、ジャンケン必勝法なんて人生のどの局面で使うんだよ!」
この恐るべき鳥頭《とりあたま》。
一分前に話したことさえ忘れてやがる。
まあ、要するにロシアンルーレットの話あたりから、ただの虚言だったってことなんだろうけれど。
設定が破綻《はたん》したわけだ。
「あたしの名を言ってみろお!」
「いや、それ、確か類稀《たぐいまれ》なる悪役の台詞じゃ……」
しかも類稀なる面白悪役だ。
強さ的には全然相手にならないけれど、インパクト的には他の兄弟達にまったく引けを取らない。
ラデイッツさんとはえらい違いだ。
「ああ、わかった。どうせあれだろ? お前の言うところのジャンケン必勝法って、類稀なる動体視力で、相手の指の動きを見て咄嗟《とっさ》に反応するとかいう、あの手の奴なんだろ?」
嘘みてーな話だけれど、そんな離《はな》れ業《わざ》を実行できる人間はいるらしい。
羽川が言っていたので多分本当。
ああ、だったら、忍《しのぶ》に血を吸わせた直後あたりの僕ならば、そんな必勝法を実行できるということになるのかな?
「ちっちっち。その程度じゃあ必勝法とは言えないな。そんなの、目潰《めつぶ》しを受けたあとには使えねーじゃねえか」
「目潰しを受けたあとにジャンケンをしなきゃいけないって、どんな状況だよ。そんな過酷な状況でジャンケンなんかしたくねえよ」
「全局面を想定してこその格闘家だろうが。あたしは全方位型の格闘家を目指してんだよ」
「僕は格闘家じゃねーし、どんな格闘家をも目指してねーよ。なんだよ、その八方達人。大体、目潰しされたら勝ったか負けたかの結果も見えないじゃねえか」
相手に嘘をつかれたら終わりである。
目潰しを仕掛けてくるような相手だ、そのくらいの嘘は平然とつくだろう。
「兄ちゃん。大切なものは目に見えないんだよ」
「星の王子様風に誤魔化《ごまか》すな」
ちなみにその名言には、目に見えないものだからといって大切なものとは限らないという注釈がつけられて然《しか》るべきだと、個人的には思う。
「目潰しだってどーせチョキでされてんじゃねーのかよ」
「ふっふん。まあ、嘘をつかれようとどうしようと、それすら関係なくカバーしちゃうのが、あたしが考案したジャンケン必勝法なのさ。ふふん、これはノーペル賞ものの発想だぜ」
「なんかもう、頭いいことの基準が全部ノーベル賞っていうところが、最高に頭悪そうだよな」
「ふふん、さえずるがいいさ。びーちくぱーちくさえずるがいいさ。でも、これを間いちまったら、兄ちゃん、二度と『ぐーちょきばー、無敵――!』とか、小学生みたいなことは言えなくなっちまうぞ?」
「ああ……僕達の世代じゃそれ、ピストルっつってたけどな……」
二度と言えないって、高校生にもなってそんなこと言ってる奴は、一人もいねぇよ……。
中学生にだっていないだろ。
「ピストル? ああ、本当だ。ピストルの形だ。へー。まあ、これで勝ちを主張する奴でも負かすことができるのが、あたし考案の……えーっと、ノーベル賞じゃなくて、えーと、えーと、そう、芥川賞《あくたがわしょう》ものの発想……」
「……」
こいつは芥川賞が何の賞なのかも知らんのか。
僕の知らない間に落ちこぼれたのか。
賢かったはずの妹がいつの間にか馬鹿になってるって、なんか、凹《へこ》むな……。
僕が高校生になって落ちこぼれたとき、これと同じような気持ちを、二人の妹達も味わっていたのだろうか。
そう思うと悲しい。
手厚くしてやりたくなってくる。
「いいよわかった。聞いてやる聞いてやる。優しい優しい暦お兄ちゃんが火憐ちゃんの話を聞いてやる」
僕は両手をあげて、諦《あきら》めた。
万歳《ばんざい》ではなく、降参である。
とにかく阿良々木火憐からそのジャンケン必勝法とやらを間かないことには、歩みは進もうとも話が進みそうもない。
きっとこれはゲーム進行に必要なフラグみたいなもんなのだろう。『はい/いいえ』で、『はい』を選ぶまで同じ質問が繰り返されるみたいな。
これがゲームクリアに必要な伏線《ふくせん》になるとは、とても思えないけれど……。
「よーっし。兄ちゃんがそこまで頼むなら教えてやる。実践してみようか。ん、でもあれだな、ただジャンケンするだけじゃあ兄ちゃんのモチベーションが上がらねーか。何か賭けたほうがいいな」
「いいよ、そんなの。面倒臭《めんどうくさ》い」
「いやいや、そうしとかねーとあとで兄ちゃんがわざと負けてやったんだとかなんとか、そんな負け惜しみを言い張る可能性があるだろうが」
「ジャンケンでわざと負けるって、それはもう必勝法と同じくらいの難易度だと思うけれど……」
うざい妹だなあ。
わけもなく車道に飛び出して、車に轢《ひ》かれて死なないかなあ、こいつ。
「よし。じゃあこうしよう、兄ちゃん。体育会系罰ゲームだ。ジャンケンで負けたほうがジャンケンで勝ったほうを、ここからおぶっていく」
「おぶってって」
「おんぶだ。目的地まで、おんぶ」
「……」
まあいいか。
どーせジャンケンに必勝法なんてあるわけがないんだし、僕が勝ったらこいつにおぶっていってもらうことにしよう。適当なことを言ったことに対するいいお仕置きになるだろう。
必勝法はなくとも、普通にジャンケンしたら僕が負けることだってあるだろうって? それならそれでいい。
そのときは約束を破るまでだ(ニヤリ)。
中学生というべイビーな世界ならばいざ知らず、残念ながら高校生という大人の世界では、書面上で交《か》わしていない約束は約束とは言えないのだ。
誰が自分よりも背の高い妹(下手すりゃ体重でも負けている妹)をおぶって自分のテリトリー内を闊歩《かっぽ》するかってーの。
「よしよしわかった。その条件でいいや」
「ん? やけにあっさり呑《の》むな」
「や、何も企《たくら》んでなんかいないよ。兄ちゃんを信頼しろ、お前の兄ちゃんは約束は決して違《たが》えない男だろう?」
「そうだったな。兄ちゃんはあたしの誇りだ」
火憐は気持ちのいい笑顔で、そう頷《うなず》いた。
頭の回るほうの妹である月火との約束はともかく、こいつとの約束は多分千回単位で破っているのだが、なんだこの信頼度。
本当に馬鹿なのかもしれないと、ちょっと心配になってしまう。
「んじゃいくぜ。じゃーんけん」
「ああ、待った待った待った」
構えた僕を差し止める火憐。
「既《すで》にそこから勝負は始まってるんだよ。その掛け声は自分で掛けること。これがまず、必勝法の第一段階だ」
「第一段階って……たかがジャンケンで、随分と大仰だな。第何段階まであるんだよ」
「第二段階」
「しょぼっ!」
第二までかよ。
段階とかじゃねーよ、それ。
段差だ。
「掛け声を自分で出すことで、場を制するってわけか? なんだかスピリチュアルな話になってんなあ――風水《ふうすい》みたいなもんなのかよ? 僕、風水ってよくわかんねーんだよなあ……風と水だろ? まあいいけど。じゃ、お前、掛け声かけろよ」
「おう。いっくぜー」
火憐は身構えて、
「じゃん」
と言い、
「けん!」
で。
ぐーを出した。
「……」
勿論、僕は何も出していない――というか、出せていない。
場には、火憐の握られたこぶしだけが突き出されていた。
「ふっふっふっふ。わかるか? わかったか? 兄ちゃん。『じゃん』と言って、『けん』でもう手を出す。出しちゃう。そうすることによって、『ぽん』を待っていた相手に、強制的に後出しをさせることができるんだ! 競技の名称を利用した、敵に後出しを強《し》いる究極のテクニック! つまり! ぐーを出そうがちょきを出そうがぱーを出そうが、相手が後出しである以上自動的にあたしの勝ちとなるって算段さ! さあ兄ちゃん! あたしをおぶってもらおうか!」
妹の顔面を殴った。
ぐーで殴った。
おともだちパンチなどではない、鬼の鉄拳《てっけん》である。
鬼のパンチはいいパンチだった。
鉄のような防御力を誇る我が妹と言えど、さすがに勝ち誇っているところだったので、見事にヒットした。
人間、勝ちを確信した瞬間こそが最も脆《もろ》いという、よくある例の言い回しは、なるほどよくあるだけあって、どうやら的外れではないようである。
「卑怯過ぎるだろ。お前、どこの誰がそんなんで負けを認めるんだよ。相手がイタリアンマフイアだったら、その場で撃ち殺されちまうわ」
「ぬうう。折角《せっかく》さっき思いついたのに」
「思いつきかよ」
そうだろうとは思ったけど。
しかし、そんなただの思いつきを、よくもまああそこまで堂々と言ってのけられるもんだ。こいつのわけのわからんハッタリ精神は、確かに我が妹ながら、尊敬に値するよな……。
でも考えが全然足りない。
短絡《たんらく》過ぎる。
怒られることくらいわかるだろ。
「火憐ちゃん、お前の反則負けだ。おんぶじゃすまねえ。罰則として、僕を肩車して歩け」
「うー。仕方ねえなあ」
僕の提示したより強度の高い罰ゲームを、あっさり受け入れる火憐。
根性者の火憐は、言い換えればただのドMでもあるのだった。
罰やお仕置きを受けるために、事あるごとにわざと僕に突っかかっているのではと思わされることも、度々《たびたび》である。
「よし兄ちゃん。あたしの肩に乗れ」
言って、本当にしゃがみ込む火憐――いや、こうなってしまうとどっちが罰を受けているのかわからない状況だ。
僕はこれから自分の住んでいる町の中を、テリトリー内を、妹に肩車されて移動するのか……?
警察、行くまでもなくやって来るぞ。
どんな釈明《しゃくめい》をすればいいんだろう。
「えと、いや……その、やっぱやめとこうか、火憐ちゃん。僕、最近勉強のし過ぎで太ったし」
「何キロ?」
「えっと、五十六キロ」
「だったら平気だよ。百八十キロまでは、あたしにとっては重さじゃない」
「お前は月の世界の住人か」
百八十キロって。
月の世界でも三十キロだから、それだって重い人には重いそ。
「ま、まあ、そうじゃなくともさ、火憐ちゃん。ほら、おんぶならともかく肩車となると、お前のポニテが邪魔になるじゃん。丁度僕の腹にその尻尾《しっぽ》が突き刺さる形になっちゃって、のけぞって後ろに引っ繰り返ったりしたら危ないし。かと言ってそのポニテを解くと、今度はお前の髪を僕の足が巻き込んで、痛い痛いになっちゃうし」
「ん? ああ、このポニテか。確かにそうだな」
「そうだろ?」
「うん、兄ちゃんの言う通りだ。さすが兄ちゃん、言う通りじゃなかったことがねーな」
諦めたのか、しゃがんだ姿勢からあっさりと立ち上がる火憐――説得してみるもんだと思ったが、しかし、火憐が言い出したら聞かない女であることは、僕が誰よりも知っているはずのことである。
立ち上がったかと思うと、火憐はジャージのポケットから家の鍵《かぎ》を取り出した。
鍵?
なんでこのタイミングで鍵なんか取り出すんだ?
「え? 兄ちゃん、ビニールテープ切るときとか服のタグとか切るときとかに、キーのギザギザを利用したりしないの?」
「ん? まあ、しないでもないけど」
鋏《はさみ》がないときとかにな。
でもそのビニールテープさえここにはないし……って、鋏?
鋏だと?
「よっと」
気付くが遅い。
そして火憐は、その我が家のキーを自分の後頭部へと回し、ギザギザをポニーテイルの根元に当て、そのままノコギリを引くように、ざっくりと自らの尻尾を切り落とした。
バナナをむしるようなお気軽さで。
しかしそんな気軽さとは好対照に、ぶちぶちぶちふちぃ、とスゲえ音がして。
「…………っ!」
「ふーんふーん。おおっと、丁度いいところにゴミ箱が」
火憐は『おー、軽くなった軽くなったー』とか、そんなことを鼻歌交じりに言いながら、ステップを踏みつつスキップをしつつそのゴミ箱に近付いていき、切断した自分の尻尾をくるんと丸めて、そのままぽいっと放り込んだ。
その後何事もなかったかのように。
キーをボケットにしまい直す。
「よしっ! これで兄ちゃんを肩車できるぜ!」
「格好良過ぎる!」
格好良過ぎる……本物の馬鹿だ!
僕の妹が本物の馬鹿だった!
凹むどころの話じゃねえ!
僕を肩車するためだけに、換言《かんげん》するところ、ジャンケンに反則負けしただけのことで、もっと言えばジャンケンに負けただけのことで、小学生の頃から続けてたトレードマーク的な髪型を、切り落としやがった!
「お……お前! お前お前お前! お前、とんでもねえ散切《ざんぎ》り頭になってんぞ!」
「あー? ああ、大丈夫大丈夫。明日にでも行きつけの美容室行くって。ん、でも今ひょっとして盆休みかな」
「自分の顧客の頭がそんなんなってんの知ったら、美容師さん田舎《いなか》から帰ってこねえよ!」
引退するお相撲さんみたいな髪の切り方しやがって……。
人生で一番驚いたわ。
我が身が吸血鬼になったときだって、ここまでの驚きはなかった。
「お前、小学生の頃からずっとポニテだったじゃん! こだわりとかあったんじゃねーのかよ!」
「いやあ、長ったらしくて手入れは大変だし、寝るとき面倒くせーし、起きたら起きたで寝グセだし、ずっとうざいと思ってたよ」
「我慢してたの!?」
ドM!
小学生の頃からドM!
筋金入《すじがねい》りの、骨までドMだ!
「しかもお前、切った髪をゴミ箱に捨てんな! 回収する人が何の事件かと思うだろ! 髪は女の命って言葉を知らないのか!」
「はにゃ? 知らねーけど」
「馬鹿だーっ!」
謹賀新年《きんがしんねん》と書こうとして臥薪嘗胆《がしんしょうたん》って書いちゃって、しかもその年賀状を出しちゃうレベルの端倪《たんげい》すべからざる馬鹿だ!
あるいはデートに誘われた(逢引《あいびき》)のを勘違いしてハンバーグ作っちゃった(合《あ》い挽《び》き)的な!
「髪は女の命か。ふうん、いい言葉だな。だけど兄ちゃん、いい言葉ではいい生《い》き様《ざま》には少し足りない。あたしは命をどぶに捨てて生きるんだ。どぶの中で光る見事な宝石のようであれと、あたしは師匠《ししょう》に言われてるぜ」
「お前がそんな人間になったのは、その師匠とやらの責任なんだな!?」
やっぱ僕、一度お前の通ってる道場に挨拶《あいさつ》に行くことにする!
話し合いが必要だ!
僕の妹を、こんな人間兵器みたいな奴に改造しやがって……本当にもう。
その道場の名前、実はショッカーっていうんじゃねえのか。
「うわあ……取り返しつかねー……。どーすんだよ、それ。月火ちゃん、なんっつーかな」
「そうだなあ。月火ちゃんは何か言うかもなあ」
火憐は(ようやく)困ったような顔をする。
月火の意見は重要視されるのだ。
「うーん。まさか兄ちゃんのせいでこんなことになるとはなあ」
「僕のせいにすんなや! 僕が月火ちゃんに殺されるわ!」
つーか。
まあ、髪のことは最早取り返しがつかないとして(と言うより、これ以上この件については話し合いたくないとして)。
「じゃ、兄ちゃん。肩車だ。かったぐーるま、かたぐるま♪」
「なんでノリノリなんだよ……なんで肩車するほうがノリノリなんだよ。このドM妹が。やっぱこれ、全然僕に対する罰ゲームでしかねーだろ。あー、えーっと……」
まあ仕方ないかと、僕はかがんだ火憐の肩に乗っかろうとする。火憐の変わり果てた頭を太ももで挟むようにして、彼女の肩をまたぐ。
「ん? あれ、兄ちゃん、縦に乗るの?」
「あ?」
「いや、普通は横向きに乗るんじゃないのかって」
「それは柔道の肩車だろ!」
山賊みてえな画《え》になるだろうが。
まだしも普通の肩車のほうがいいよ。
そんな風に適当に会話を交わしつつ、僕は妹にまたがった。
またがった。
……。
おお……。
なんだこの征服感。
なんだかもう、本当の本当にマウントポジションっぽい感じ。
マウントよりもマウンティングだ。
身長のことや戦闘スキルのこともあり、なんとなく力関係が微妙で絶妙な僕と火憐との間柄ではあるのだが、しかしこの体勢は、完全に序列がついたという感じだった。
わけのわからん優越感が僕を支配した。
のは、一瞬のことだった。
「じゃ、立つぞー」
と言って火憐は、五十六キロの僕を肩に乗せたまま、肩に何も乗せていないときと同じように、本当にあっさりと立ち上がった。
「う……うわうわうわうわうわ! 怖い怖い怖い怖い怖い! この高過ぎる視点、超怖い! 下ろせ! 下ろせ! 今すぐ下ろせ!」
火憐の身長から頭部の大きさを引いて、僕の座高を足せば、現在の僕の視点の、およその近似値《きんじち》が出る。
まあ近似値なんて出すまでもなく、要するに二メートルは軽く越えちゃってるわな……すげぇ。アメリカとかのバスケットプレイヤーって、常にこんな視点なのかよ。
妹に肩車されて恥ずかしいとかいう気持ちはもうかき消えた。
戦争における敗者の思想のように、完全に抹消《まっしょう》された。
今僕にあるのは、高過ぎる視点への恐怖だけである。
「すいません、下ろしてください火憐さん! いや火憐さま!」
優越感どころか、完全に負け犬だった。
地上に下りたらそのまま土下座《どげざ》しかねない勢いだ。
なんなら逆立ちしたって構わない。
「んー」
火憐さまは僕ごとき犬コロの声にお耳をお傾《かたむ》けになられることなくすたすたとお歩き始めなさったが、と、その途中でおみ足をお止めになり、お首を傾《かし》げなさった。
「兄ちゃん。ちょっといいかな」
「なんだよ」
「兄ちゃんの局部が後頭部に当たって気持ち悪い」
「……」
やっば肩車って身体でかくなってからやるもんじゃねえよなあ。
変なイベントだよ。
「どうだろう、兄ちゃん。ここは公平に、あたしのポニテ同様、兄ちゃんの局部も切り落とすべきじゃないだろうか」
「怖過ぎるわ!」
何もかも怖いわ!
視点も怖ければ発想も怖いわ!
角川ホラー大賞ものの発想だよ!
あとポニテ切り落としたのはお前が勝手にやったことだから、公平にも何もねえ!
とにかく僕の責任問題みたいにすんな!
「お前の髪はまた伸びるか知らんけど、僕の局部は切り落としたらもう色々とあらゆるすべてがおしまいだろうが!」
吸血鬼だった頃ならまだしも!
いや、吸血鬼だった頃でもそれは嫌だ!
痛いのは痛いんだよ!
想像するだけで痛い!
「そっかー。でも兄ちゃん、重さは問題ないんだけど、あんま揺れられるとバランス崩れるから、じっとしててくんない?」
「無茶言うな。僕はお前じゃねーんだよ。こんなキリンみたいな視点で、バランス取れるか」
キリンだってなあ、あいつら首の筋肉ものすげぇんだぞ。
ネッシーの正体がキリンではないかという学説があるのなら、僕は積極的に支持する。
「しょーがねーな。ちょっと神経使うと思うけど、兄ちゃん、重心を前方に傾けて、あたしの首から頭に対して上半身を載っけろ。そんでから、ぶらぶらさせてる足を脇の下に通せよ。遊園地のバーみてーに固定すっから」
「こうか?」
「がしゃーん」
効果音を口で言う火憐。
そうした途端《とたん》、僕の身体が足といわず全身、びくりとも動かなくなってしまった。遊園地のバーみたいというか、関節技で五体をロックされたみたいな感じだ。
親指をひねられたら動きを封じられてしまいました的なアレ。
……いや、でもそれって合気道とかだよなあ。
僕、未だに火憐が、まともに空手やってるところ見たことねーんだけど。
恐るべきショッカー。
「よし。これで大丈夫だ」
「いや、僕があんまり大丈夫じゃなくなっちゃってるけど……、益々《ますます》大丈夫じゃなくなっちゃってるけど。どこまで大丈夫じゃなくなるんだ、僕。指先さえ動かなくなってるぞ。変な風に痺《しび》れてるし。ねえ、火憐さま。これ、ひょっとして血の流れとか止められてません?」
「でもあたしは楽になったぞ。さっきまでは兄ちゃんのふくらはぎがあたしのおっぱいの先っちょにこすれて、気持ち悪かったし。……局部が頭に押し付けられたり脇に挟んだり、兄ちゃん、肩車ってこんなにエロい行為だったっけ?」
「んー……いや、普通、男女逆なんだけどな」
変なイベントっていうか。
本来ウキウキなイベントなんだよ。
「んじゃま行こうか、兄ちゃん。にっしっし」
火憐はそう言って、止めていた足を、再び進め始めた。
切り落としたあのポニーテイルの重さが、ひょっとしたら僕と同じくらいあったのだろうか、その足取りは今までと何ら変わらない。
いや。
むしろ一歩進むごとに、その足取りは力強くなっていくようだった。
無理もない。
今、僕達が向かっている先、夏休みの午前中から向かっている目的地を思えば――少なくとも火憐にしてみれば、それは、とても無理もないことなのだった。
003
ここで念のために断っておくが、僕と火憐は別に仲のいい兄妹というわけではない――もう一人の妹であるところの末っ子・月火と火憐というならば、それは年子ということもあってかなりレベルの高い仲良しではあるのだが、残念ながら僕とその二人となると、あまり仲がいいとは言えない。
むしろ仲が悪いと言ってもいいくらいだ。
険悪でさえある。
火憐と月火は火憐と月火で、いちいち僕に反抗的だし、僕は僕で、二人の幼稚な思想にはほとほとうんざりしているのである。
特にファイヤーシスターズを名乗っての正義の味方ごっこには、とても付き合いきれたものではない――貝木泥舟《かいきでいしゅう》との例の出来事も、あの二人を更生《こうせい》させるにはもひとつ足りなかったようだ。
本当、貝木の奴、何の役にもたたねぇ。
あそこまで迷惑なだけな大人もいねえや。
だからまあ、こんな風に火憐と二人きりで連れ立って外出するなんてことは、そう滅多《めった》にないわけである――また、火憐が月火と別行動を取るというパターンも、同様にかなり珍しい。
そんなわけだから。
会話も微妙に探り探りだった。
探り探りのその結果がポニテの切断だったり肩車だったりするのだから、まったく兄妹というのは厄介《やっかい》なものである。
まあ、漫画とかアニメみてーにはいかないさ。
実の妹萌えなど、ツチノコよりも存在しないのだ。
近親相姦は上流階級の嗜《たしな》みというが、我が阿良々木家は位置づけとして中流階級なので、当然と言えば当然である。
とは言え、ではどうして、今日、本日。
この日。
八月十四日の月曜日、僕と火憐が共に行動しているのかと言えば――ご安心召されよ、これにはちゃんと理由がある。少なくとも宝くじが当たっていきなり上流階級になっちゃったというような話ではない、れっきとした理由が。
阿良々木暦は妹と仲良しだなんておかしな噂が立っては困るので、きちんと説明しておかなければならないだろう。
以下、回想シーン。
今朝のことである。
「兄ちゃん。何かあたしに、して欲しいことってないかな?」
言い忘れていたが、僕は高校三年生の、いわゆる受験生であり、夏休みといっても休むわけにはいかない。
ただ夏だというだけだ。
八月の中ごろというこの時期は世間的にはっまりお盆ということになるのだが、残念なことに受験生であるところの僕は、そんなイベントにさえ参加を表明することができない。まあ、そうでなくとも、元々我が家はその手の、日本古来の風習に対しては縁《えん》遠いところがあるのだけれど。
忍野《おしの》に知られたら怒られそうな話である。
羽川に知られても怒られそうな話だ――もっとも羽川の場合は、だからといって盆を口実に勉強してなくとも怒られるわけだが。
まあ、羽川に怒られると元気が出るので、どんどん怒って欲しいくらいだ。怒りに肩を震わせながら、連動して胸を震わせながら、どんどん怒って欲しいと思う。
それはともかく。
今日も今日とて早朝に起き、朝食前のノルマとなっているドリルに取り組んでいると、いきなり(ノックもなしに)扉が勢いよく開かれて、火憐が僕の部屋へと乱入してきたのだった。
妹。
阿良々木火憐。
中学三年のジャージ女。
「……ねえよ」
僕は答えた。
ちなみに『扉が勢いよく開かれて』というのは、やや事実に反した表現であるとも言える。叙述モノの推理小説であれば、評論家からアンフェアだと責められかねない不公正さが、そこにはある。
現実には、昔懐かしき刑事ドラマにおいて犯人のアジトに突撃する捜査員よろしく、火憐は僕の部屋の扉を蹴り開けたのだった。
それが彼女にとってスタンダードなドアの開け方なのだ。
阿良々木火憐が生まれ育った文化圏では、和風洋風こだわらず、ドアは足の裏で開けるものなのである。
……いや。
生まれ育った文化圏という話で言うなら、僕や月火も同じということになってしまうので、今の発言は謹《つつし》んで取り消しておこう。
「えー。なんかあるだろー」
不満そうに言いながら火憐は、机に向かう(振り向きもしない)僕に絡《から》んできた。
この場合の『絡んできた』というのは『足が棒になる』『目玉が飛び出る』『喉《のど》から手が出る』というような類の、よくある比喩《ひゆ》表現ではなく、そのまんまの意味である。
火憐は背後から、その両腕をマフラーのごとく僕の首に巻きつけてきたのだ。
身体も遠慮なく僕の背中に密着させていた。
そういう意味では、『絡んできた』と言うよりは『絡まってきた』と言ったほうが、あるいは正確なのかもしれなかった。
べきり、と。
僕の右手にあったHBの鉛筆《えんぴつ》が折れた。
合格するように、という意味の込められた受験生|御《ご》用達《ようたし》の、五角形の鉛筆が折れた。
縁起《えんぎ》でもねえ。
繰り返しになってしまうが(そして僕にとっては不名誉かつ嬉《うれ》しからざる事実なので、あまり好んで繰り返したくはないのだが)、僕の妹、阿良々木火憐の身長は中学三年生女子の平均を遥かに越えている――しかも今もって成長中、昨日よりも今日、今日よりも明日と、日々その身長は更新されている。
まあ火憐の身長が何センチだろうと何メートルだろうと、そんなことは究極的には僕にとってはどうでもいい――問題は、だから火憐が僕よりも背が高いという残念|極《きわ》まりない事実のほうだ。
サイズにおいて勝る人間というのは、意図《いと》する意図せざるにかかわらず、周囲に自然、威圧感を与えてしまうものである。
まして、火憐は格闘技に手を出している。
空手二段の腕前だ。
つまり、火憐は恵まれたその体格というハードに、空手というテクニックをインストールすることによって、ちょっとした野生動物くらいならば余裕で相手取れるほどの戦闘スキルを身につけてしまっているということだ。
実際、僕は火憐のこぶしが民家内の漆喰《しっくい》の壁を貫通《かんつう》するのを見たことがある。
そりゃもう豆腐《とうふ》みてーに。
貫通したその腕が抜けなくなってしまった火憐は、その後、周囲の壁を更に破壊することによって自らを解放していた。
とんでもねえ。
その光景はなんというか、昔の格ゲーのボーナスステージみたいな有様だった。
まあ、なんでこんな話をしているかと言うと、そんな熊《くま》みてーな妹が、後ろから『絡んで』きやがって、『絡まって』きやがったのだ。
僕がどれほど戦慄《せんりつ》したことか。
多分まったく伝わらないだろうけど、一応、表明しておきたかった。
「ねーえ、兄ちゃん。何か兄ちゃんの役に立ちたいんだよー。あたしはこう見えて、頼りになる妹なんだぜ? 尽くす妹なんだぜ? ご奉仕《ほうし》しちゃう妹なんだぜ? なんでもいいから言ってみろって、あたしにして欲しいこと。お役立つぜー?」
「ねえよ。だからねえよ。こんな朝っぱらから妹にして欲しいことなんざあるわけねえだろ。僕にして欲しいことはないし、そしてお前にできることもない。お前は生まれてこの方十五年間、ただの一度も僕の役に立ったことのない女だ」
強《し》いて言うなら邪魔すんな。
今僕は単語の暗記作業に忙しいんだ。
そういう気持ちを込めて、僕は首にかけられた火憐の腕を振り払う。
その気になれば、っまり火憐がちょっとした気まぐれを起こして、この両の腕にカを込め、『不思議に思った』以外の意味合いで僕の首を捻《ひね》ってしまえば、それで阿良々木暦という生命はあっさりと昇天してしまうだろうことを思うと、いつまでもこんな姿勢でい続けたくはなかった。
伝説の吸血鬼とのバトル。
猫との死闘。
蟹《かに》、蝸牛《かたつむり》、猿《さる》、蛇《へび》。
そして蜂。
そういったあれこれを乗り越えてきた、言うなれば百戦錬磨のこの阿良々木暦が、妹のチョークスリーパーで死んでしまうなんて最終回があっていいわけがない。
というか。
そういうことさえ差し引いても、妹に密着されて喜ぶような趣味は僕にはない。
普通にキモいわ。
「見ての通り僕は今集中して勉強してんだからよ、お前ごとき下等生物と遊んでなんかられねーんだ、この単細胞が。暇なんだったらその辺走ってこいよ。別に帰ってこなくていいか……ら……」
どーせたまたま月火と予定がすれ違っただかなんだかで時間を持て余したから、暇潰しのために僕に因縁《いんねん》をつけにきたに決まっている火憐をさっさと追い出そうと、ようやくのこと僕は振り向いて、そして――絶句した。
言葉を失った。
いわゆる言語を獲得する以前の人類の気持ちを痛感することとなったのだ。
いやはや、衝撃である。
目前にある物体を己《おの》が器量によって表現し得ないという事実が、ここまで生物の精神にストレスをかけるものだったとは。
それでも、強いて。
霊長類《れいちょうるい》の誇りにかけて、強いて、目の前に広がる非現実的な光景を、何らかの言葉によって言い表してみよう。
「えっと……」
阿良々木火憐。
僕の妹がスカートを穿《は》いていた。
……。
それがどうしたと思われるかもしれない。
僕が受けたショックをほんの二割でも伝えようとするならば、僕の妹がスカートを穿いていた[#「僕の妹がスカートを穿いていた」に傍点]と、そんな風に傍点《ぼうてん》を振ったほうが、まだしもわかりやすかったかもしれない。
だけど傍点を振ることさえ、僕は忘れてしまっていた。
僕は失ってしまっていた。
前述の通り、火憐はジャージ女だ。
ジャージ以外は着ないと言っていい。
彼女にとってのジャージは戦闘服であり、言うなれば聖闘士《セイント》にとっての聖衣《クロス》である。
その火憐が、聖衣を脱いで、スカートなる衣服を身につけていた。
彼女の長過ぎる脚が。
これでもかとばかりに強調されていた。
下半身だけではない、上半身にも同様の現象が認められる。
ジャージでもなく、ウインドブレーカーでもなかった。
ランニングドレスでさえない。
スポーティーさの欠片《かけら》もないストールに、タートルネックのノースリーブだった。
腕長っ!
首細っ!
そして……そして。
そして、誰だこのキレー系女子!?
ナポレオン一世の言葉に、『人間は身につけた服装通りの人間になる』というものがあるが、その言にのっとって言うなら、今、この部屋、そしてこの家にいる阿良々木火憐は、阿良々木火憐でありながら既に阿良々木火憐ではなかった。
まあ。
そうは言っても火憐も女子中学生である。
ごく稀には学校指定の制服、ブラウスやらスカートやらに身を包むこともなくはないが(それを目撃できる確率は、たまたま空を見上げてみたら流星群が観測できたくらいの確率だと思ってもらえれば、おおよその目安となる)、しかしあれは、あくまで学校の制服だ。
そういう意味では納得できなくはない。
まあちょっとルール違反だけど許してやるか、お目こぼしをくれてやろう、火憐ちゃんにも色々事情があるんだろうし――という、それなりに寛大な気持ちにもなる。
だけど今の阿良々木火憐は、制服ではおよそあり得ない露出度である。
自然の法則に反していた。
こいつ……ジャージじゃなくても着れるのか!?
お前それ、クリフトが天空の鎧《よろい》を装備できたようなもんじゃねえの!?
ごくり、と。
僕は生唾《なまつば》を飲み込む。
これはもう、無尽蔵《むじんぞう》の暑気払《しよきばら》いだ。
恐らくそれらは月火の服なのだろう、ファッション雑誌にでも掲載されていそうな、いわゆるお洒落《しゃれ》なトータルデザイン。月火は月火で着物着たさに茶道部に入るくらいの恐るべき和服女なのだが、彼女の場合は火憐ほど極端ではないので(言い換えれば、服飾に対して軸の通った思想がないので)、通常の衣服も少なからず所有しているのだ。
ただ、如何《いかん》せん火憐と月火では体格に差があり過ぎる。
自然タートルネックはピタTのごとく身体のラインをくっきりと表し、元々|丈《たけ》がそう長くはデザインされていなかったであろうヒダつきのスカートは、過激なミニへと変貌《へんぼう》していた。
ストッキングはおろか靴下さえも履いていないので、むき出しになったその長い生足《なまあし》は、僕に恐怖という感情を与えるのに十分だった。
恐怖。
様々なトラウマが蘇《よみがえ》る。
あれとかこれとかそれとか……って、全部ここ数カ月のことだ!
この数カ月に何回死にそうになってんだよ、僕!……と。
僕のトラウマはともかくとして。
今は火憐のことだ。
「火憐ちゃん……お前、いじめられてるんだったらまず僕に言えよ! そんな酷《ひど》いことになる前に、どうして相談してくれなかったんだ!」
「いや、いじめられてねーよ」
激昂《げきこう》して回転椅子から立ち上がり、火憐の肩をつかんで揺さぶる僕を、なすがままに揺さぶられながらも、彼女は呆れ顔で諫《いさ》めた。
「強いて言うなら、あたしをいじめるのは兄ちゃんだ」
「むう」
「今だから笑って言えるけど、あたし小学生の頃、兄ちゃんから受けた心ない言葉で自殺を考えたことあるからな」
「むむう」
ディープだ。
そんなこと、今告白されても。
そんな酷いこと言ったっけな。
「その辺がきっかけであたしは正義の味方を志したんだ――あたしの中の悪を憎む心は、兄ちゃんが生み出したのさ」
「なんと」
やな責任だ。
押し付けんな、そんなもん。
「い、いや、だけど……だけど火憐ちゃん、誰かに脅《おど》されなきゃ、お前がそんな格好をするわけないじゃないか! ああ、可哀想に……、ジャージ以外のそんなちゃらちゃらした服を無理矢理着せられて、撮られた写メを学校裏サイトとかに流されたんだな……」
目の前が真っ暗になり、僕は頭を抱える。
なんてことだろう。
自分の妹がそんな辛い目に遭わされているのにも気付かず、僕はせっせと受験勉強に勤《いそ》しんでいただなんて……。
偏差値教育の学歴社会にとらわれるあまり、僕は本当に大切なものを見失っていた。
自責の念が怒濤《どとう》のごとく押し寄せる。
気を強く持っていないと、今にも見境《みさかい》なく暴れだしてしまいそうだった。
そんな僕をかろうじて支えるのは、そう、怒りの感情でしかなかった。
それは自分に対する怒りであり、同時に世界に対する怒りである。
「安心しろ、火憐ちゃん! 僕がなんとかしてやる! あとのことは全てこの兄に任せておけ! さしあたってはお前をいじめた奴の住所と携帯番号、それからいじめを放任した担任教師の名前を教えろ! しかるベき報《むく》いを食らわしてやる!」
「……兄ちゃんって、時折、炎より熱いよね」
やっぱ惚《ほ》れるよ、と笑う火憐。
柔らかな笑みである。
むう。
そのリアクションを見る限りにおいて、どうやら僕の推理は的外れらしい。
しかしそれ以外に、果たしてどんな可能性があるというのだろう。論理的に有り得ない可能性を排除することによって導き出された結論は、どれほど有り得なさそうに見えても真実であると、かのシャーロック・ホームズ先生も仰《おっしゃ》っているではないか。
それとも、何か見落としている可能性があるとでも言うのだろうか。
うーん。
大体、ホームズ先生の言うことも、消去法としてはかなり大雑把《おおざっぱ》だよなあ。
「ああ! わかった、コスプレだ!」
「女子がスカートを穿くのをコスプレとか言ってんじゃねーよ……いくらあたしでもちょっと傷つくぞ。そういうこと言われて、あたしは小学生の頃死にたくなったっつーんだよ」
「へえ、ふーん。お前にもデリケートな時代があったんだなあ」
他人事のように言う僕。
反省の色がまるで見えない、我ながら。
「いじめでもコスプレでもねーんなら、何だよ」
「いや、ほら、可愛いかなーと思って」
あっはん!
と。
火憐は力強くしなを作った。
色気の欠片もねえ。
むしろ見事なる拳法の型のようだった。
身体に軸を作って腰を捻れば、それはそうなって当然なのだが。
「し……しかし、可愛いかなって言われても」
「可愛いだろ?」
凄《すご》まれた。
しなを作ったポーズのまま。
よく見ればバランス的には相当キツそうな、無理のある姿勢ではあるのだが、その辺りはさすがの身体能力という感じである。
ちなみに、兄としての|沽券《こ けん》にかかわる話なのであまりおおっぴらにしたい事実ではないが、火憐から本気で凄まれると超怖い。
動物園のライオン相手にガン付けで勝ったという伝説を持つ我が妹である。
僕はさりげなく目を逸《そ》らしつつ、
「か、可愛いなー」
と言った。
い、いや、僕は決して妹からの無言の圧力に屈したわけではなく、『(喉が)渇いたなー』と言ったのだ! 八九寺《はちくじ》よろしく、噛《か》んだだけだ!
失礼、噛みました!
「……」
同じポーズのまま、凄み続ける火憐。
うわ、マジで怖い。
こないだの蜂のとき、火憐からフルボッコにされた痛みは、どうやら最新のトラウマとして、僕の骨髄《こつずい》にまで刻み込まれているらしい。
身体が自然、がたがた震える。
「可愛いな、可愛いな、超可愛いな」
繰り返して言う僕である。
無論、これらも『(肌が)乾いたな、(空気が)乾いたな、(舌の根が)超乾いたな』と繰り返して噛んでいるだけに過ぎない。
八九寺ならもっと上手に噛むのだろうが、僕ではこれが限度である。
上手に噛むってのもおかしな言葉だけど。
「……」
訪れる沈黙。
気まずさフルポイント。
しばしあって、
「えヘへっ!」
と。
あろうことか、火憐が僕に飛びっいてきた。
中学三年生の女の子が飛びついてきた、と言えば、それはどうだろう、あるいは可愛らしさを連想するかもしれない。
しかしそれは事実に反する。
偽りである。
さっき動物園のライオンの話をしたけれど、それにひも付けて言うなら、ほら、テレビ番組か何かで、アフリカとかにいる野生の肉食獣の狩りの様子が流れたりするよな?
一連の火憐の動きは正にそんな感じだった。
敏捷にして俊敏。
踏み込みの一歩目から既にトップスピードである。
交通事故などでありがちな話だが、本当に身の危険を感じたとき、人間の身体はむしろ硬直してしまう。いや、たとえ硬直していなかったところで、火憐からのアタックをかわすことなど、春休みにおいての僕ならばともかく、夏休みにおいての僕には、できるわけがないのだ。
果たして火憐は。
体当たりのごとく、真っ向から僕に抱きついた。
僕は一年ほど前、阿良々木火憐がその体当たりによって、かなり老朽化していたとは言え、学校の校舎で使われていた鉄骨を破壊するのを見たことがある――その映像がキラキラとフラッシュバックした。
幸い、僕はその鉄骨の後を追わずには済んだが。
しかし絶息するには十分の衝撃だった。
鉄骨ならぬ肋骨《ろっこつ》はもう軋《きし》みに軋む。
そんな僕の肺臓周辺の状態にはちっとも構わず、先ほど後ろから腕を絡めてきた火憐は、今度は正面から僕の首に腕を回したのだった。
密着である。
密着二十四時である。
いや、二十四時間も密着されてたまるか。
つーか一分だってやだよ!
このまま火憐の腕力で鯖折《さばお》りでもかまされたら、僕の胴体が真っ二つに分割されてしまいかねないのだから。
そんなこと、春休みの忍にだってゴールデンウイークの猫にだってされたことねーよ。
これが戦慄でなくてなんだと言うのか。
「か、火憐ちゃん……?」
「ありがとうっ! 兄ちゃんが褒めてくれて、嬉しいなっ! 嬉しいなったら嬉しいなっ! わーいっ!」
抱きついたままで。
更にぎゅっと抱きついて。
火憐は溌剌《はつらつ》とした声で言った。
僕はますます戦慄した。
戦慄し放題である。
「…………っ!」
大変だ。
妹がデレた。
いや、大変だっつーか、普通に変だ。
そもそも最初からおかしい。
何かして欲しいことない、なんて言いざまは、たとえ暇潰しにしても火憐の言いそうなことではなかろう。
暇だから潰してもいい?
だったら、普通に言いそうだけど(それはそれで、妹として怖過ぎるが)。
「いやー、こうして兄ちゃんに抱きついてると落ち着くなあー。やっぱ包容力のある兄ちゃんは抱きつき具合が違うよなー。テンピュール枕とか、多分こんな感じなんだろーなー」
「やめろ、気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。ごめん本当本当本当に気持ち悪いから、離れてくれ」
暴れる僕。
しかしフィジカルで火憐に敵《かな》うはずもなく、うまく逃げられない。
これ、腕力とかじゃねえな。
なんというか、物理的にではなく構造的に拘束《こうそく》されている感じだ。
「なんなの? 何の嫌がらせなの? 火憐ちゃん、そのキャラは一体どういうこと?」
本当にいじめじゃないのか?
それとも仲間内での罰ゲームか?
罰ゲームなんだとしたら、いじめられてるのは僕だぜ?
僕、中学生からいじめられるようなこと、なんかしたっけな?
「なんだよ、喜べよ。可愛い妹がいちゃいちゃ懐《なつ》いてやってんだからよ」
「可愛い妹って」
「兄ちゃんもさっき可愛いって言ってくれたじゃん。男に二言はねーだろ」
「今のお前には一言もねーよ」
いやさあ。
まあ実際、意外性もあって、お前のスカート姿とか、ありっちゃありなんだけどさあ。
「なんなんだよ。ちゃんと説明しろよ。お前のやってることが何なのかじゃなくて、お前が何なのかってところから、理路整然と説明しろ」
「何って言われても……、うん、これからは兄ちゃんには絶対に逆らわない兄貴ラブの妹というキャラで売っていくことにしたんだ」
「売って来られても買わねえよ! あとそれ、神原《かんばら》とかとキャラ被るから!」
あいつは妹じゃねーけど。
立ち位置的には後輩ってことで、割と近いものがある。
「神原」
と。
すいっと――突然、火憐が僕から手を離した。
手錠《てじよう》が外されたときのような清々しい解放感を覚える僕(実は先月末に経験済みなので、これは実感に基づくリアルな比喩だ)――から、火憐は三歩下がって距離を取る。
三歩下がって師の影を踏まず。
そんな感じ。
ん。
どうしたのだろう。
火憐の表情がおかしい。
おかしいのはやはり最初からおかしいが、今度はまともにおかしい(まともにおかしいというのも更に変な言い回しだけれど)。
解放してくれたのは嬉しいが、火憐が急にしおらしくなってしまった。
突っ込みの勢いとは言え、いきなり知らない奴の名前を出したので、びっくりさせてしまったのだろうか。
「ああ、えっとな、火憐ちゃん――神原っつーのは、来訪者バオーとはあまり関係のない、僕の一個下の後輩でな――」
とりあえずいい感じに話も逸れそうだし、うまくすれば火憐のスカート姿を歴史的になかったことにできそうだし、ここは神原なる人物について説明しておいてやるかと僕は口を開いたが、言いかけたところで、やや説明に困った。
神原後輩。
直江津《なおえつ》高校二年生。
元バスケットボール部のエース。
ある意味においてあれほどわかりやすい奴も存在しないが、別の意味においてはあれほど理解不能な奴も存在しない。
果たしてどう説明したものか。
ムカデの歩き方を説明するのに近いものがある。
恋って、どうすればいいの?
とか訊かれた感じ。
つーか僕が思っているあいつへの感想を、そのまま飾り立てすることなく口にすれば、それはただの悪口になってしまいかねない。
間違いなく神原の評判を落としてしまう。
それは避けたい。
んー、どうも僕は語彙《ごい》が貧弱だな。
これでは現代文の成績が伸び悩むのも当然だ。
「えーっと……神原はな、その、E5系の新幹線っていうか、リニアモーターカーみたいな奴でさ……いやむしろ戦闘機って言うか……ほら、ファントムとか?」
僕がそんな風に、丁度いい例《たと》えを考えながら、ごちゃごちゃと口ごもっていると。
驚いたことに、火憐のほうから、
「そう、神原|駿河《するが》」
と言ってきた。
あれ?
あれあれえ?
まだ僕、フルネームは言ってねえよな?
「……火憐ちゃん?」
「兄ちゃん! お願いがありまひゅ!」
意を決した風に、火憐は声を張り上げた。
張り上げ過ぎて語尾がやや甘噛みだった。
しかしそこから先の彼女の行動の素早さは、そんな些細《ささい》なミスを帳消しにしてしまうほどに迅速だった。
まさ正しく目にも留まらぬ早業。
全身における縮地法《しゅくちちほう》だった。
あるいは全身における二重の極み。
素早くその場に正座、両手の平をそれぞれ四十五度の角度で、|絨毯《じゅうたん》の敷かれた床にぴったりと隙間なく定位置のように密着させ、柔軟でしなやかな上半身を、それがあらかじめそういう風に駆動することを役目づけられたアタッチメントであるかのごとく前屈、そして人体において最も硬い部位のひとつであるところの額《ひたい》を、母なる地球に対し反逆の意を示すかのように叩きつけた。
そう。
平たく言えば土下座である。
平たく言わなくても土下座だった。
「どうかこの愚妹《ぐまい》めに神原先生を紹介してはいただけないでしょうか!」
「…………」
ああ。
そうか。
そういうことか。
まるっきりキャラじゃねえ、火憐のさっきからのらしからぬ不審な行動、身内でなければ警察か病院、あるいはまとめて警察病院に電話をかけていたクラスの不審な行動に、これでようやくのこと説明がついた。
神原駿河――元バスケットボール部のエースだったというプロフィールは既に記した通りだが、しかしそれは、そんなよくある言葉で表現できるような話ではない。
そんな有象無象《うぞうむぞう》とはものが違う。
彼女は学校始まって以来のスターとまで言われていたのだ。
何せおよそスポーツには縁遠い進学校の弱小バスケットボール部を、全国大会にまで導いたほどの実力者である。
そもそも女子でダンク決められる人間なんて、そうはいないだろう。
色々あって二年の途中で部活は引退することになってしまったが、彼女がスター属性の女子であることは変わりなく、今でも、主に後輩から高い人気を誇っている。
中には熱烈なファンも多い。
あれはいつのことだったか、もう思い出したくもないけれど、あいつのファンに詰め寄られて囲まれて揉みくちゃにされて、僕は非常に心苦しい、大変な思いをしたものだ。
結局、羽川が神原と一緒に仲裁に入ってくれたお陰でことなきを得たが、あのときもあのときで殺されるかと思った。
戦場ヶ原のファンの神原に殺されかけて、次は神原のファンに殺されかけてんじゃ、堂々巡りもいいところである。今度は神原のファンのファンに殺されかけるのかもしれない。
ともあれ。
あいつの人気が、そして求心力が、たかが学校内に収まりきるものじゃないだろうことは、あらかじめわかっていたことである。
とは言え、まさか中学生にまで知れ渡っていたとは……。
改めて、すげー奴だな。
神原駿河。
「……まあ、考えてみりゃ、現代においては格闘技も一種のスポーツだもんな。お前が全国選手の、地元の星であるところの神原のことを知ってても、全然不思議じゃねーわけか」
通っている道場の規律だか規則だかで、大会とかはないらしいが(というか、出られない。道場の教えがあまりに実戦向けに特化しているため、その手の部活動をすることさえも禁止されているとか)、火憐も火憐で、もしもそういうイベントがあって、それに参加したとしたら、間違いなく、否、たとえ間違いがあったところで全国選手だ。
ゆえに通ずるものがあるのかもしれない。
けど、この愚妹、さっき確か、神原先生っつったよな……。
それってさあ。
「お願いします、兄ちゃん! いやさ、お兄様!」
「いやさとか言うな……」
「ほいさっ!」
「いい返事だけどもな!」
突っ込む代わりに火憐の頭を足で踏んだ。
土下座する妹の頭をぐりぐりと踏みにじる兄の姿がここにある。
さつきビビらされたお返しである(ビビってないけど!)。
「いっやあ〜。兄ちゃんに踏まれて光栄だなあ〜」
しかし強靱《きょうじん》にも、地面を向いたまま無抵抗でそんなことを言う火憐。
基本的に肉体派、メンタル面においても努力根性大好きという彼女は、目的達成のためという前提があれば、予想通り、この程度の苦行屈辱ではむしろ楽しげでさえあった。
うーん。
我が妹ながら、Mカッコいい。
「つーかお前の土下座とか、マジで見飽きてんだよ。何かあるたびごとに土下座とかすんな。そのうちお前、朝の挨拶で土下座しだしそうじゃん。僕は大名行列かよ。一人で大名行列って、どんな殿様だよ。言っとくけどな、土下座なんて現代社会においては一種の暴力だからな」
恫喝《どうかつ》外交みたいなもんだ。
その頭を踏んでおいてなんだけど。
「わかった! じゃあ足|舐《な》める! 親指から順番に舐めるから!」
「だからそういうことをやめろっつってんだよ!」
「ぬうっ!」
火憐はわずかに顔を起こして僕を見る。
地に伏せた姿勢から僕を見上げる。
瞳の中がメラメラと燃えていて、立ち塞がる困難に対してやり甲斐を感じている、とてもいい顔つきだ。
「わかった! じゃあ処女やる! 兄ちゃんにあたしの処女やるから!」
「妹の処女なんざいるか!」
僕は火憐の顔面を蹴り飛ばした。
中学三年生の妹に対して暴力が許される局面というものが、現実には存在するのだ。
「ぐおっ」
と、さすがに土下座の姿勢を崩す妹。
それでも、さすがと言うならば、足を折り畳んだままで咄嗟にバックに飛んで、衝撃を後方へと逃がしているほうがさすがだった。
そのまま火憐は(照れ隠しか何かのつもりなのだろうか)、この大して広くもない僕の部屋においてムーンサルト、いわゆる月面宙返りを、天井にかすりながら、しかしぱっちりと決めた。
十点十点十点十点十点。
どんな身体能力だよ。
べッドに着地。
スプリングが激しく軋む音がした。
今夜から寝心地が悪くなってしまうではないか。
何してくれてんだよ。
「……火憐ちゃん。お前、今は勢いでやってるからいいだろうけどな。十年後とか、お前が肉体的にも精神的にも成熟した大人になったとき、僕に対して土下座したこととか、絶対に重い思い出として思い出すことになるからな。言っとくけど僕はお前から土下座されたこととか一生忘れないぜ」
「ふっ。兄ちゃん。十年後より、まずは今日だろ。今日を生き抜けない奴に、どうして明日がやってくるんだ」
「台詞は格好いいけどな」
それで行き着く先が土下座かよ。
情けねえっつーの。
今日土下座する奴に、一体どんな明日がやって来るんだよ。
「一応気にしといてやるけど、火憐ちゃん。お前、外じゃそんなことしてねーだろうな。友達とか、同級生とか……学校の先生とか相手に」
「するわけねーじゃん。あたし、みんなの憧れなんだから」
「……」
まあ、そうなんだよな。
栂《つが》の木二中《きにちゅう》のファイヤーシスターズ。
地元の中学生の顔役。
その片割れなのだから。
しかも火憐は実戦担当ゆえに、月火よりも目立つ立ち位置なのだ。
最も危険で最も目立つ、花形ポジションである。
「あたしが土下座する相手は、兄ちゃんだけと決めてるんだ!」
「僕に土下座を決め打ちすんな」
迷惑過ぎる。
いっぺん死んで馬鹿を直せ。
あるいは馬鹿でいいからいっぺん死ね。
……でもまあ、いつだったか、そういう周囲から人気のあるところも含めて、こいつと神原を『似ている』と思ったことはあったんだよな。
勿論身を置いている環境のこともあり、細かいところで色々と違いはあるけれど、確かに神原と火憐には共通点は多い。
火憐がどこかで神原の噂を聞きつけ、そして強い憧れを抱いたとしても、それはまあ、わからなくはない。
わからなくはないけれど。
土下座は見慣れているとは言え、それ自体はもう日常の風景と化しているとは言え――しかし、ジャージを脱いで、普段毛嫌いしているスカートを穿くほどの気合いの入れよう(兄に媚《こ》びるための、デレ妹としての正装のつもりだったのだろう)は、阿良々木火憐史上初めてのことだ。
なんだかんだで、プライドなのか衿持《きようじ》なのか、自分のやりたいことにおいて兄である僕の手を借りるのを嫌がるこの妹が、こうして折り入ってお願いにくるというのは、それ相当、それ相応の覚悟を必要としただろう。
ふうむ。
「しかし月火ちゃんの奴、よく服を貸してくれたな……お前が着たら布が伸びちゃうだろうに」
「うん。だからこっそり借りたんだ」
「……」
あとで怒られるぞー。
あいつのほうが怖いんだから。
「兄ちゃんに褒めてもらっておいてなんだけど、やっぱスカートってのはどーもあたしの肌に合わねーな。肌に合うもなにも、そもそも肌はほとんど露出されてんだけど。とは言えこのミニスカ、蹴り足出すにはいい感じだぜ」
「それ、元々はそこまで過激なミニスカじゃなかったはずだけどな」
間違ってもそれで階段とか昇るんじゃねえぞ、と僕が言うと、こんなこっぱずかしい服で外に出られるか、と火憐は返してきた。
月火の服を勝手に持ち出しておきながら、随分な言い草である。
まあ、和服の悪口を言われたわけじゃないから、月火もそこまでは怒るまいが。
怒りレベル2、くらいだ。
「ちなみに火憐ちゃん。お前、どうやって僕が神原と仲良しだって知ったんだ?」
どうしようもない僕の性《さが》とでも言うのだろうか、デレた火憐への突っ込みに際してうっかり口が滑ってしまったが、これまでその事実はひた隠しにしてきたはずだ。
変に騒ぎ立てられるのが嫌だから、妹達に対して僕の交友関係は、基本秘密なのである――知られているのは羽川と千石《せんごく》との関係くらいだ。
特に神原との関係は、妹達には知られないように気をつけていたのだが……。
「ああ、うん。それは神原先生の非公式ファンクラブ『神原スール』が配布しているメルマガに添付《てんぷ》されてたスナップに、やけに兄ちゃんが見切れてたから……」
「盗撮《とうさつ》だよなあ、それ!」
非公式ファンクラブって!
神原スールって!
ああ、そうか、わかった、携帯だ!
正義の味方と銘打《めいう》って様々な軽挙妄動《けいきょもうどう》に走る妹達を慮《おもんばか》って、両親からこの夏より、ついに携帯を持たされた我が妹達。
それが悪い風に作用した。
メルマガにしろなんにしろ、それによりファイヤーシスターズの受信できる情報量が圧倒的に増えてしまい――たとえば前の蜂の騒ぎにしてもそうだろう――その一環として、僕と神原との先輩後輩関係も、火憐に知られてしまったのだ(少なくとも写メのみでそれが知られてしまうとは思えない)。
恐るベき情報化社会。
確実に世の中は駄目な方向へと向かっている。
親に相談して、やっぱ妹達からは携帯を取り上げたほうがいいような気がするなあ。
こいつらの安全率は絶対に低下している。
「えー? でも兄ちゃん、それって考えが古臭くない? 授業中に携帯使ってる生徒が多くて嘆くべきことだとかいう大人が多いけどさー、そいつらだってガキの頃は授業中に内職とか手紙回しとかしてたんだろ?」
「まあ、そりゃなあ」
ツールは変われどやることは変わらない。
人間って奴だ。
活字離れとか言って、若者の不勉強を嘆く上の世代は、逆に携帯やらウェブやらに疎《うと》かったりするわけで。
古典文学を読めない子供とライトノベルを読めない親とを比べてみれば、意外とそこには差がなかったりする――もっと極端な例えを出せば、紫式部《むらさきしきぶ》が如何《いか》に優れた文学者だったところで、現代に連れてきてしまえば、彼女は絵本さえ読めない。
文化を縦で比ベることに意味はないのだ。
ま、こりゃ羽川からの受け売りだけれど。
「それで調べてみれば、なんと兄ちゃんは、神原先生から圧倒的な支持を受けているらしいというじゃんか。どういうトリックを使ったんだか知らねーけれど、神原先生は、兄ちゃんを師のように仰いでおられるとか……」
「まあ……間違っちゃいねえけど」
違うとは言わねえけど。
ただ、そういう言い方をすると、大分現実とはズレている気もするな。
トリックこそ使っちゃねーけど、神原の思い込みもでけーわけだし。
「だから兄ちゃん、今女子中学生の間でただならぬ注目を浴びてるんだぜ。神原先生をパシリ扱いしているこの背の低い男は誰なんだと」
「見知らぬ女子中学生から恨《うら》みを買っている……」
パシリ扱いなんかしてねえよ。
あいつの献身振りに誰より困ってるのは、他ならぬ僕だというのに……。
「いや、むしろ大人気だよ。兄ちゃんは女子中学生から羨《うらや》みの熱視線を浴びていると思ってくれ」
「僕の与《あずか》り知らんところで、僕がカリスマになってしまった……」
それはそれで嫌だ。
悪目立ちもいいところである。
「勿論それがあたしの家族だってことは秘密にしてるけどさ、でもこれは何かの縁だと思うんだよ、兄ちゃん。こんな風に神原先生と繋《つな》がれるだなんて、もう明らかに縁があるじゃん。合縁奇縁じゃん。だからお願いだから、神原先生を紹介してくんないかなー」
「縁ねえ……」
「自分で言うのもなんだけれど、きっと神原先生とあたしは気が合うと思うんだよなー」
手を頭の後ろで組んで口笛を吹きつつ、独り言のようにそう言いながら、ちらちらと僕のほうを見るようにする火憐だった。
どうやらさりげなさを装っているらしい。
うざいなあ。
口笛をちゃんと吹けてるのもむかつくなあ。
でもまあ、確かに神原とお前は合うだろうよ――体育会系同士、格好いい系女子同士。
……ただし。
ただし、正直言って、僕は神原に妹を紹介するつもりはないのだ。
頑《かたく》なに。
紹介できない理由がある。
それはスポーツ少女、全国区のアスリートとして知られている神原の、一般的にはあまりに知られていない性癖《せいへき》を、僕は立場上知ってしまっているがゆえの――理由である。
「火憐ちゃん」
「何だい、兄ちゃん」
「諦めろ」
ざくぅ。
僕の腹部が有り得ない音を立てた。
地面にスコップを突き刺したような音である。
妹は躍躇なく兄に暴力を行使したのだった。
肋骨の隙間を通すかのような、瞬間の貫手《ぬきて》である。
肝臓《かんぞう》がなくなったかと思った。
「さあ、兄ちゃん。話し合おう」
「…………」
ちょっと待て、しばらく喋れない。
痛いとかじゃねーぞ、これ。
普通に声が出せない。
「可愛い妹の頼みがきけねーってのかよ。だったらあたしにも考えがあるぞ」
「ぐ……ぐぐ」
発想がもう、本当チンピラだよな。
お前に考えなんかねーよ。
神は絶対に与えてはならない者に絶対に与えてはならない才能を与えてしまっている。
気まぐれ過ぎんぞ、神。
そんなオプションはいいから、まずは考えを与えてやれよ。
「ど……土下座で駄目なら、迷わず暴力とか……ありえない……」
かろうじて声を出せるようにこそなつたものの、横隔膜《おうかくまく》の震えは如実《にょじっ》に内臓に響くので、突っ込みと言うのにはやや痛々しい、切実な響きの声音となってしまった。
「ぶっちゃけありえない……」
痛々しさをカバーしようと台詞を付け加えてみたが、残念ながらより痛々しい結果となってしまったような気もする。
まあ、初代が一番好きだったという話だ。
初期作品以外はガンダムじゃないとか、平成ライダーは認めないとか、そんな意見を見るにつけ聞くにつけ、なんて狭量な、視聴者として器《うつわ》の小さいものの見方をしているのだろうだなんて思っていたけれど、プリキュアの変遷《へんせん》を見ていると、なんだかその気持ちもわかるようにはなってきた僕である。
ファーストインパクトばかりを重んじるとその先がないのも事実だけどな。
「ありえない? じゃあどうしろっつーんだよ、兄ちゃん。話し合い以外に、あたしの念を通す方法があるってのか?」
「お前にとって話し合いってのは殴り合いのことなんだよな……」
いつか月火が言っていたことだが、人間文化的に見れば、殴る蹴るというのも確かに一種のコミュニケーションツールらしい。だけどそれは、互いの暴力が拮抗している場合の話だろう。一方的な暴力ではコミュニケーションとして用を成すまい。
さて、ここで話を整理しよう。
整理整頓はきちんとしようと、僕は小学校で教えてもらった。
だから整理整頓だ。
阿良々木火憐の目的は、神原駿河に自身を紹介してもらうこと――いや、正確には神原駿河を自身に紹介してもらうこと、か。
この目的はかなりがっちり固定されている。
微動だにしないほどの固定。
目的達成のためには猪突猛進《ちょとつもうしん》になれる女である。
なにせ一足す一は根性で三になると思っているような女だ、猛進し始めたら誰が何を言ったところで止まらない。
別の角度から、もうひとつ言えることがあるとすれば――火憐が積極的に、自分のための目的を持つことは少ない。
これで意外と自己主張の少ない奴なのだ。
他人のために動くことを躍躇しない代わり、自分の意志がとても弱い。
薄弱と言ってよかろう。
その辺りが僕が火憐を偽物扱いする大きな理由なのだが――他人のための正義は、自分のための正義の前には脆弱《ぜいじゃく》なフェイクに過ぎないと、そう言い聞かせているのだが。
だからこそ。
こうしてはっきりと、自分のための目的を有したときには、火憐は強くそれにこだわるし、僕としては、火憐のその目的達成のために、万難を排して協力してやりたいという気持ちにもなる。
しかし。
しかしー今回に限りそれはできない。
神原を紹介したくない。
僕は火憐に、絶対的に神原を紹介したくない。
それが僕の立場。
阿良々木暦の目的[#「目的」に傍点]である。
まあ、ときには挫折《ざせつ》を知ることも必要だろう。
火憐と月火には、挫折で挫けるような人間にもなって欲しくない――というのが、まあ、僕のスタンスだ。
この二者の間に妥協案はない。
完全に対立してしまっている。
つまり、一かゼロかというオールオアナッシングの問題で、どちらかが完全に主張を曲げるしかないのだけれど――そして僕が意を曲げる気がない以上、僕は火憐の志を曲げさせるしかないんだけれど、しかし、どうしたもんかなあ。
殴られたら負けるわけだし。
喧嘩で勝てるわけねーし。
まあ、本当に厳密に言うならば、忍に全面的に協力してもらえれば、さすがに負けちゃうってことはないんだけれど――それは人間のやり方としては反則の部類だろう、と。
僕は自分の影を見ながら思う。
室内なので、影は薄い。
「……ふむぅ」
どの道、話し合い及び殴り合いで、解決するのは無理だ。
他人事のように言わせてもらえれば、僕も、どれだけ殴られようと自分の主張を変えることはないだろうしな。
妹の暴力ならば、全て受け切るくらいの度量はあるつもりだ。
これでも一応、兄だから。
お兄様じゃなくとも、兄ちゃんだ。
「……なら、勝負しかねーか」
「あん?」
「揉めたら勝負だろ。僕達の場合は」
言っとくけど対等じゃねーぞ、と僕は言う。
机に戻って、ドリルを閉じる。
早朝勉強は中止せざるを得ない。
この分は後で埋め合わそう。
家族の問題よりも優先されるべき英単語など、ひとつもないのだ。
「今回はお前からの一方的な要求なんだからな、火憐ちゃん。ゲームで言うなら、子と子じゃなくて、親と子の勝負だ」
「……へえ」
ぎらりと。
火憐の声のトーンが変わった。
文字通り火がついたらしい。
勝負という言葉に無条件に反応する加速度センサーが、火憐の中には組み込まれているのだ。
「いいぜ、それでいこう。兄ちゃんもわかってんじゃねーか。ああ、どんなルールでも好きに決めていいぞ。あたしは神原先生に会うためになら、どんな条件でもクリアする」
相変わらず単純な奴だ。
単純過ぎて、見ていて鳥肌が立つ。
このまま成長したら、こいつとんでもない人間に育つぞ――挫折にしろ何にしろ、どっかで学ばないと本気でやばい。妹じゃなくても心配になるレベルで、本気でやばい。危険なやばさだ。
いや、まあ。
これから学んでもらうわけだが。
けど、どうしたもんかなーどんなルールでも好きに決めていいと言われたところで、あんまりハードな勝負を課すわけにゃいかんのだよな。
卑怯とか姑息《こそく》とか、そーゆーものには必要以上の反感を覚える妹である。
燃え上がる正義の魂が許さないそうだ。
ぎりぎりクリアできるラインのルール、かつぎりぎりクリアできないラインの条件という、一見フェアつぽい、公平感のある設定が要求される。
咄嗟にゃ思いつかない。
大体、ハードな勝負を課すわけにはいかなくとも、そもそも火憐にとってハードな勝負って、そうそうないんだよなあ。
だってこいつ、百人空手をやり切ったことがあるそうだぜ?
しかも勝ち越しで。
根性が常人とは違うんだよ。
人質を取られ、暴走族から袋叩きの目に遭っても、最後の最後まで音を上げなかったという話も聞いている――いや、さすがにそのときは僕が助けにいったんだけど。
助けが間に合わなきゃ悲惨《ひさん》な事件になってただろうなあ、あれ……。
こんな平和な町で何やってんだよ。
つまり、根性があり過ぎるというのも問題だということだ。
過ぎたるは及ばざるに及ばず。
それは正義の魂|云々《うんぬん》以前の問題である。
下手に厳し過ぎる勝負にすると、火憐が無理やりにそれをやりきろうとし、挫折どころではない、何らかの取り返しのつかない傷を負ってしまう可能性がある。
退くということを知らない。
引くくらい知らない。
病身をおして尚《なお》敵に立ち向かおうとするような、情熱の女なのである。
……そういう意味じゃ、僕のほうがよっぽど厳しいよなあ。
ハードだし、グレートだ。
こいつに負けを認めさせなきゃいけねーと来てるんだから。
それこそこの間、火憐が病身をおして尚敵に立ち向かおうとするのを止めるために、かなりの大喧嘩をしたものだけれど……あそこまでしなきゃいけないのかなあ。
苦痛が苦しくも痛くもなく、屈辱では屈せず辱《はずかし》められない女。
……いや、改めて考えてみると、マジですげーな、こいつ。
Mカッコいいとか言ってる場合じゃねえ。
本当に僕の妹かよ。
実は義理の妹じゃねーのか?
だとしたら萌えるなあ。
勝負する前からここまで弱気になるのもなんだけれど、さっさと諦めてすっきり神原を紹介してやったほうが早いかもしれないなあ――ん。
んん。
そうだな。
話の中心は神原なのだ。
だったら、神原流のスタイルで行くというのが、この場合は妙案かもしれない。
「ちょっと待ってろ。道具を用意する」
「道具? なんだよ、トランプでもするつもりか? それは卑怯だぞ!」
「なんでトランプが卑怯なんだ……」
知的ゲームに弱過ぎだろ。
安心しろ、そんな手は使わん。
それじゃお前が負けを認めないしな。
できそうでできない勝負でなければ、意味がない(トランプができないという妹の将来は切実に心配だけど)。
お前はこれから地獄を見るのだ。
春休みに僕が体験したのと、同等の地獄をな! 僕は火憐を自分に部屋に待たせて、洗面所へと向かった。目的のものをすぐに見つけて、それを手に取り、部屋へと戻る。
戻ると火憐がベッドに寝転んでいた。
自由だよなあ、こいつ。
足を大胆におっぴろげて、パンツ丸見えだし。
ていうかこの馬鹿妹、下着まで月火のものを拝借しているようだった。
いくら女子同士でもそれは駄目だろ。
「お。兄ちゃん。早かったな」
「隙を見て寝ようとしてんじやねえよ、お前は……お前はのび太くんかよ」
「よく寝たお陰で身長がのび太くんさ」
「うまくねえよ」
「そんなこと言われちゃスネ夫くん」
「不愉快にうまい!」
「ん? 兄ちゃん、その手にしているのは」
火憐は目敏《めざと》くそう言って、起き上がった。
目をこすっているところを見ると、寝転んでいただけじゃなくて本当に眠っていたらしい。
野生動物か、こいつは……。
あるいはどっかの戦争部隊か。
「あたしの歯ブラシじゃないか」
その通り。
僕が洗面所まで行って持ち出してきたのは、火憐が専用で使っている、柄がオレンジ色で毛先が細めの歯ブラシである。
反対側の手には、忘れずにちゃんと歯磨き粉も持ってきていた。
「ま、まさか兄ちゃん……」
火憐が珍しく怯えた表情を見せる。
心なし、青ざめているほどだ。
む。
勘のいい奴だ、察したのかもしれない。
さすが野生動物、戦争部隊。
折角驚かせたかったのに、なんだつまんないなあと思っていたら、火憐が、
「……その歯ブラシをあたしの尻に突き立てるつもりか!」
と、震える指で僕を指差した。
……。
僕が驚かされたわ。
心ありありと青ざめたわ。
なんだよ、その有り得ない発想……。
「さすがはあたしの兄ちゃんだぜ、恐ろしいことを考えやがる!」
「いや、お前の兄ちゃんはそんな恐ろしいことは考えない……」
買いかぶるな。
僕はそこまでの男じゃねえよ。
「そうなのか? けど、昔月火ちゃんが、クラスメイトの女子につきまとっていたストーカー野郎にそれと似たような制裁を加えていたことがあるぜ」
「こえーっ!」
僕の妹、超怖え!
いやまあ、言われてみれば確かに月火の考えそうなことではあるけれども!
確かに、火憐の発想じゃあねえよなあ。
「とは言え、さすがに月火ちゃんは歯磨き粉までは使ってなかったけどな。いやあ、兄ちゃんはやっぱり格が違うぜ」
「やめろ、あの妹と同列に並べるな」
「だから格が違うって」
「何もかも違うわ」
というかさすがに引いたぞ。
火憐よりよっぽどチンピラじゃねえか。
レディースかよ、あいつは。
お兄ちゃんもたじたじだ。
「ま、あたしも少しはやり過ぎだとは思うけどな。けど兄ちゃん、ストーカーみたいな行為に走る卑劣な野郎は、何されてもしょーがねーんじゃねーの?」
やや真面目《まじめ》な顔つきになって、火憐は言う。
その剣幕を受ける限りにおいて、かつて神原が僕のストーカーをやっていたという事実は、どうやら伏せておいたほうがよさそうである。
まあ。
正義の味方ごっこの一環――か。
ごっこじゃないし、味方ではなくそのものだと、そんなことを言えば、また言い返されるだけなんだろうけれど。
「卑劣な野郎ねえ――まあ、女子中学生の尻を追い回すような奴を、僕も庇《かば》う気はねーけどな」
「ああ、そう言えば。確か月火ちゃん、今もそんな噂の真偽《しんぎ》を確認中だっつってたかな」
「噂?」
「うん。なんでもこの町には、ツインテイルの小学生を背後から襲撃して、抱きついては身体中を触りまくる、ストーカーどころか変態みてーな男子高校生がいるらしいんだよ。目撃証言が少な過ぎてどーもはっきりしねーんだが、事実としたら許されることじゃねーからな」
「ほ、ほう」
そそそ、そりゃ大変な変態だな。
と、僕は全力で目を逸らしながら、火憐に相槌を打つのだった。
……考えてみれば、八九寺|真宵《まよい》は何も、僕と羽川にしか見えない幻の妖精ってわけじゃあないんだからな。
少ないとは言え、目撃証言もあるのか。
本当、情報化社会は怖い。
ユビキタスだ。
「もしもいたいけな小学生にセクハラ行為を働くようなカスいるんだとしたら、そんときゃ月火ちゃんだけには任せておかないぜ。あたしも出張《でば》って、ギッタンギッタンにしてやる」
「は、ははははは。お前達もなかなかどうして忙しいんだなあ。まあ、その件については何かわかったら僕に報告しな。悪いようにはしないから」
「ああ、兄ちゃんが協力的な姿勢を示してくれるなんて珍しい。やっぱ兄ちゃんの胸の奥にも正義の心は燃えてんじゃねーか」
「勿論だとも。ははははは」
「えっと、話が逸れたね、兄ちゃん。尻に突き立てないとするなら、その歯ブラシ、何に使うつもりなんだよ。歯ブラシに尻に突き立てる以外の用途なんてあるのか?」
「…………」
すげえ質問だな。
その台詞だけ取り上げたら、お前の方がよっぽど変態だ。
神原と気が合いそうでもある。
ただし!
驚くべきことに神原の変態的発想は、それさえも凌駕《りょうが》するのだ!
あの女はストーカーや変態などという貧困な語彙を、精神性において遥かに凌駕する!
だから紹介したくないんだよね!
「知らないのか、火憐ちゃん。歯ブラシってのは、歯を磨くための道具なんだぜ」
「お、おう。そう言えばそうだったな」
「勿論、厳密なことを言えば掃除とかにも使える。水回りの細かい溝とかを掃除するのに歯ブラシは最適……」
おっと。
また話が逸れかけた。
神原がテーマになっているので、どうしても掃除を連想してしまう……明日が十五日だから、またあいつの部屋を掃除しに行かないとなあ。
「兄ちゃん、確かに歯ブラシは歯を磨くための道具かもしれねーが、それがどうしたってんだ。別にここで歯を磨けって言うわけじゃねーだろ」
「そう、そんなことは言わない」
僕は頷く。
「磨けなんていわない……磨くのは僕だ」
「ん?」
「それも僕の歯を磨くんじゃねーぜ。お前の歯を、僕が磨くのだ」
「…………?」
可憐が首を傾げる。
どうやら、まだ事の重大さを把握できていないらしい。
「いや、わっけわかんねーんだけど……兄ちゃんがあたしの歯を磨いてくれるのか? なんで? まあ、したきゃすればいいとは思うけれどさ……それがどうして勝負になるんだ?」
きょとんとした感じの物言いの火憐。
ふふふ。
そんな暢気な表情を浮かべていられるのもあと数分だと思うと、心の底から愉快だな。
「お前とか月火ちゃんとか、美容室で髪切ったりするだろ。だけど僕は、ああいうの、結構抵抗があるんだよ。知らない人間に頭触られるって、変に緊張するっていうか」
「……うん、ま、わかるけど」
あたしだって見知ってる美容師さん以外には切って欲しくねーよ、と火憐。
「心理学的にも、髪の毛を触るってのはかなり親密な間柄じゃねーと許されないことらしくってな。女の子とかにゃー身体触られるよりも髪の毛触られる方が嫌だって奴もいるそうじゃないか」
八九寺がそうだった。
奴の左右のツインテイルをつかんでハーレ・ダビッドソンごっこをして遊んだ際、びっくりするほど怒られた。
あの八九寺からタメ口で怒られた。
まさかあそこまで激怒するとは……。
さすがに反省したことは記憶に新しい。
「うん……で、それが?」
先の展開が読めない状況というのがどうやら不安になってきたらしく、火憐の声がやや慎重味を帯《お》びてくる。
警戒心は一流だ。
「タッチングって言ってな――まー一番わかりやすいのがその散髪って奴なんだけど、そーゆーのって色々あるじゃん。専門職以外の人間に全身マッサージとか任せられないだろ? そういう話」
「そういう話……」
「そういう話のひとつが、歯磨きなのだ」
僕は言った。
わざわざ講演会風に、一体僕は何を言っているのだろうとも思うけれど。
「お前はさっき気軽に捉えたようだが、歯磨きを他人に任せるという経験は、通常ありえるものじゃない。散髪やマッサージとかと違って、普通は自分でできるし、自分でやるもんだからな」
これはこの数時間後、自分で自分のポニーテイルを切り落とすことになる火憐に対する僕の台詞なのだが、無論この時点の僕に、まさかそんなことがわかるわけもない。
予想もできるか。
「つまりだ、火憐ちゃん――他人に歯を磨かれる行為にはかなりの心理的抵抗が生じるってことなんだ。その心理的抵抗に五分間耐えることができたらお前の勝ちということにしてやろう。そのときは神原を紹介してやる。五分以内に音を上げたら僕の勝ちだ。そのときは神原は紹介しない」
「……ははっ」
僕の提示したそのルール、その条件。
その勝負に――火憐は笑った。
安心したように笑った。
いや、それはむしろ、肩透かしを食らったと言いたげなくらいの、気の抜けた笑顔だった。
「なーんだ、兄ちゃんがあまりにも改まって言うから、さすがのあたしもちょつとビビっちまってたぜ。ちょっとがっかりしたくらいだな」
「そうか?」
「ああ、むしろ望むところと言いたいくらいだ。そりゃ、想像してみるに、まったくの赤の他人に歯磨きなんてされんのはヤダけどさ、この場合はやるのが兄ちゃんなわけじゃん。だったら別に平気だよ」
むしろ妹の歯を磨かなきゃなんねー兄ちゃんのほうが屈辱に耐え切れず途中で音を上げんじゃねーの、と火憐は言う。
「はっきり言ってあたし、兄ちゃんには何をされても恥ずかしくねーよ」
なんて。
兄をナメた余裕の発言さえ繰り出された。
「………………」
くくく!
罠《わな》にかかったな!
ナメた発言さえ耳に心地よいわ!
お前が屈辱には屈しないことはわかっている。
こっちは何年お前の兄ちゃんをやってると思ってんだ。
何を隠そう、僕はお前が生まれる前からお前の兄ちゃんだったんだぜ!
「……僕が途中で昔を上げたときはお前の勝ちってことでいいよ」
「そうか? うーん、あの偉大なる神原先生を紹介してもらおうっていうのに、そんな楽勝な勝負じゃちょっと申し訳ねー気がするなあ。むしろもっと困難なハードルを設置して欲しかったのに。兄ちゃん、KYだよ」
「KY?」
「空気読めないの略」
「ああ、そういや最近よく聞くな」
「あるいはSFだ。少し不思議。なんでだろう」
「さすがは大御所《おおごしょ》だな……時代の先取りが半端ねえ」
かなり不思議だった。
ま、そりゃいいんだけど。
「じゃ勝負開始でいいな。そこ座れよ」
「あいあい」
ベッドに腰掛ける火憐。
気遣いも何もないから、その動作に対してスカートがめくれ放題である。
慣れてないというのも、丈が足りないというのもあるのだろうけれど、やっぱお前スカートとか穿かないほうがいいよ。
そんなことを思いつつ、僕もその横に座った。
お隣さん。
歯ブラシに少なめに歯磨き粉をつけて、身体を捻り、火憐の後頭部に左手を添える。
「あーん」
「あーん」
口を聞かせ、そして歯ブラシを差し入れた。
さあ。
その身をもって偉大なる神原先生の恐怖を味わうがいい。
神原先生のフェチ的アイデアで敗北するのだ、お前も本望だろう。
「も……もぐぉっ!?」
火憐がようやく己《おのれ》の陥った危機的状況を把握したらしいのは、勝負開始からおよそ一分が経過したときだった。
表情に異変が走る。
異変というより、それは激変。
これまで見たこともないような、驚愕と――そして恍惚《こうこつ》の表情である。
「ひ……ひうぐ、ぐ、ぐうっ!?」
今頃気付いたか。
しかし手遅れだぜ、火憐ちゃん。
火蓋《ひぶた》はもう切って落とされたのだ。
そう。
ミスディレクションとして美容院とかマッサージの話とかをしたけれど、歯磨きはそれらとは一線を画《かく》する。
何せ口の中[#「口の中」に傍点]をいじるのだ。
身体の外側ではなく、身体の内側をいじるのだ。
身体の表面ではなく、身体の内面をいじるのだ。
それについて身も蓋もなく、非常にわかりやすく言ってしまうと――快感[#「快感」に傍点]が生じるのである。
要するに。
気持ちいいのだ。
歯を磨くという行為はあまりに日常的過ぎて、慣れてしまっているがゆえに意外と見落としている――僕も神原から言われるまでは、ついぞ思ってもみなかったことだ。
だが厳然たる事実である。
そもそも、肉体のデリケートな部分を細い毛先で撫《な》で回すというのだから、それで気持ちよくないわけがないのだ。
ましてそれを自分ならぬ他人にされるというのだから、たまったものではないはず。
火憐は根性者。
苦痛や屈辱では心が折れない。
つまりドMだ。
ドドMさんだ。
だからこそ逆に、このように快感を与えて甘やかして[#「甘やかして」に傍点]しまうほうが、その心を折るには効果的なのである。
根性は快楽によって折れる!
怠惰《たいだ》にこそ、気位《きぐらい》は屈する!
「ぐ、ぐ……ぐぐぐっ」
奥歯の内側、歯と歯茎の境目あたりをしゃこしゃこと重点的に磨いてやると、火憐は敏感に反応した。身体がびくびくと痙攣《けいれん》している。
白目を剥きかけてさえいた。
……これは別の意味で怖いな。
僕も試すのは初めてだったが、しかし偉大なる神原先生のアイデアはやはり恐ろしかった。
恨むなよ、火憐。
これはお前の身を守るためにやっていることなんだ!
お前だってこんなとんでもねえ発想を持つ女と会いたくはないだろ!?
「ひ、ひう……はう、はう、はう。う……ぐ、はぁ、はぁ」
しかし――
僕は見誤っていた。
阿良々木火憐という女の桁外《けたはず》れの根性を。
快楽によってさえ折れない、蛙《かえる》のようなド根性を。
二分を待たずして音を上げると思っていた火憐は歯を食いしばって――いや、歯を磨いているからそれもできないのだが(それも身体が弛緩《しかん》してしまう理由の一つである)――僕からの攻撃、口撃、甘や
かしに対して、辛抱《しんぼう》強く耐え続けていた。
こうなると、実の兄から快楽を与えられているという少女漫画みたいなシチュエーションに、ただならぬ背徳感《はいとくかん》さえ覚えているはずなのだが、むむう、やるじゃないか。
こうなるとこっちもやる気になる。
僕は(やや反則気味だが)火憐の舌を磨きにかか
った。
しかも舌の裏だ。
もうむき出しの肉と言っていい部位である。
「さっさと音を上げたほうが楽になれるぜ、火憐――いや! 楽じゃなくなれるぜ!」
くすぐり地獄みたいなものだ。
いずれ耐え切れるものじゃない。
どうせあと一分が限度ってところだろ!
「………っ!? な、何イ!?」
が。
あと一分が限度だったのは――むしろ、僕のほうだった。
神原の奴はきっと、そんなことは口に出すまでもなく自明だとばかりに、わざわざ言わなかっただけなのだろうが――この勝負には、大きな穴があった(そもそも神原にとってこんな行為は勝負ではないはずだけれど)。
歯を磨かれるほうの心理ばかりをクローズアップして僕は考えていたがゆえに、歯を磨く側[#「歯を磨く側」に傍点]、つまり僕サイドがどういう気持ちになるものなのかという重要事項を、まったく考慮しないままにこの勝負に臨んでしまったのだ。
とんでもない失策である。
取り返しがつかない。
取り戻しょうがない。
何故なら――
「あふっ……ふ、うううっ。う……うんっ」
…………。
やべえ!
喘《あえ》ぎ声にも似た火憐の声を聞いてると、すげえ変な気持ちになる!
ドキドキする!
火憐のリアクションにいちいちドキドキする!
なんだこの、禁断のタブーを犯しているかのような複雑な心境!
実の妹に快楽を与えているという背徳感!
音を立てて歯ブラシを動かすごとに、火憐のロの中を泡立たせるごとに、火憐の歯ではなく自らの感性を磨いているかのような錯覚さえ感じる。
自分ならぬ他人の歯を磨くことによって、逆に僕のほうが快楽を得ているだと!?
人の役に立つのが嬉しいのか!?
これが学校の先生が言うところの奉仕の心か!?
いや多分違うけれど!
まずい、本来なら汚いなあと思うだけのはずの、火憐の口の端から僅《わず》かにこぼれる涎《よだれ》にさえ、変な愛着を感じる!
すぐにこの手を動かすのをやめないと、このままだととんでもないことになってしまう――そう思うのにかかわらず、それがわかっているのにかかわらず、僕の手は自分の意識を遠く離れ、まるで自動機械であるかのごとく(電動歯ブラシかよ)、その動作を止めなかった。
むしろ動きはよりハードになった。
意識すればするほどに。
火憐の痙攣がより激しくなる――歯を食いしばれない代わりにだろう、彼女はベッドのシーツを固く握り締めているが、そんなことで抑えられるような痙攣では、それはなかった。
顔なんか火が出るほどに真っ赤である。
「……うわ」
思わず声が出てしまった。
すんでのところで呑み込んだが――喉のところまで出掛かった続きの言葉は、僕自身を驚かせるものだった。
うわ。
すげえ可愛い。
僕は火憐の兄を約十六年務めているが(ちなみにこの数字は火憐が母親の胎内にいる時期を含めている。生まれる前から兄貴だったというのは単なるレトリック上の誇張ではなく、つまりはそういった意味合いなのだ)、こいつをここまで可愛いと思ったことはかつてなかった。
さっきスカート姿を可愛いと褒めたのは脅されたから、いや噛んだからだけれど、そして今だって、間違っても可愛いなんて口に出して言うつもりはないけれど――しかし思ってしまった気持ちまでは取り消せない。
一度流出したデータの回収は不可能だった。
うわあ。
うわあ、うわあ、うわあ。
マジでやばいって。
火憐ってこんな可愛かったっけ。
あれ?
あれあれ?
ひょっとしてだけど、僕の妹って世界一可愛いんじゃねえ?
今の今まで、僕は理想の女子っていうのは羽川翼のことだと思っていたけど、それはひょっとして認識ミスだったのか?
羽川以上ってことはないにしても、それでもこいつは、羽川といい勝負ができるんじゃ……いやいやいや!
待て自分!
阿良々木暦!
何を言ってるんだ!
羽川と勝負できる人類なんかいるわけねえだろ!
だから錯覚だ錯覚!
この特殊なシチュエーションが僕を酔わせているだけ!
わかってる、そんなことわかってる!
で、でも――
「う、ううううっ」
火憐と合唱するかのように、僕もまた喘ぎ声にも似た声を発してしまった。
こうなるとほとんど相乗効果である。
自分が何をしているのかもわからなくなる。
僕の思考回路は、ひょっとしたら僕は火憐の歯を磨くために生まれてきた人間なのかもしれないとさえ考え始めていた。
なんて頭の悪い思考回路なのだろう。
歯磨きが、こんな恐るべきリターンエースの有り得る行為だったとは……僕は知らず知らずの内に恐るべき禁呪《きんじゅ》に手を出してしまったらしかった。
だが全ては手遅れである。
知らなかったでは済まされない。
知らなかったでおしまいだった。
如何《いかん》ともし難《がた》い。
最早流れに任せるしかないのだった。
「か……火憐ちゃん」
たとえば煙草《たばこ》ってあるよな?
口に衝《くわ》えて火ィつけて、煙を吸い込むアレ。
肺癌《はいがん》になったり何だりで、人体に悪影響を与えまくる物騒《ぶっそう》極まりないアレだ。
だけどもしもあの物質が、吸えば吸うほど身体のあちこちがよくなっていく超絶健康食品だったりしたらどうだろう?
果たしてこれほど普及しただろうか?
まあ、僕は未成年だし、成人しても煙草を吸うつもりはないが、それでも忍野の奴が常に煙草を(火をつけてこそいなかったけれど)衝えていたことは印象深い。
思うよな。
あれは身体を悪くするものだからこそ――
いけないものだからこそ。
これほどの規模で普及したのではないかと。
今も普及を止めないのではないかと。
やっちゃあいけないこと、しちゃあいけないこと。
そういうものは、そういうものだからこそ。
人を嫌というほど惹きつけて。
人を嫌というほど魅せつけて。
人を嫌というほど惑わせる。
気が付けば。
気が付けば――知らず知らずのうちに、僕は火憐をベッドに押し倒していた。
左手は後頭部に添えたまま。
身体を乗せて、火憐を押し倒した。
僕よりもサイズのある彼女の身体は、しかし体重を少しかけるだけで――抵抗なくすんなりと、押し倒された。
火憐を見る。
火憐を見詰める。
うっとりしているかのような。
とろけているような。
そんな火憐の表情だった。
ヘヴン状態である。
「火憐ちゃん。火憐ちゃん。火憐ちゃん――」
妹の名前を連呼する。
そうするたびごとに、身体が奥の芯から熱くなるようだった。
火憐の身体も、強い熱を帯びている。
「に、兄ひゃん――」
焦点の定まらない瞳で。
火憐は言った。
口の中に歯ブラシを挿入されていることもあって、いやきっとそれがなくとも、呂律《ろれつ》が回らないようだったが。
それでも言った。
それでも健気《けなげ》に、火憐は言った。
「にいひゃん……いいよ」
何が!?
何がいいの!?
と、普段の僕ならきっと突っ込みをいれていただろうけれど、しかしもう僕のテンションもぐちゃぐちゃに融《と》けていた。
ぐちゃぐちゃで。
ぐちょぐちょで。
じるじるして。
じゅくじゅくして。
うぞうぞして。
うにょうにょして。
ざくざくして。
ぞくぞくしていた。
僕は。
阿良々木暦は、阿長々木火憐の後頭部に添えていた左手を優しく外し、そしてその手をそうっと、彼女の胸に伸ばして――
「……何してはるんどすか」
と。
無粋《ぶすい》な。
野暮《やぼ》な。
艶消しな。
いや、救済の声が割り込んだ。
見れば、どうやら僕が開けっ放しにしてしまっていたらしいドアのところに、もう一人の妹、ちっちゃいほうの妹、つまりは和服姿の月火が――唖然《あぜん》とした表情で立っていた。
目を丸くして。
口さえ丸くして。
土偶《どぐう》みたいな感じで。
唖然というか呆然《ぼうぜん》である。
開いた口が塞がらないというか。
閉口《へいこう》しているような有様《ありさま》だった。
「お兄はん、火憐はん……何どすえ、この状況」
何故《なぜ》か京都弁で言う月火。
しかもちょっと祗園《ぎおん》っぽい。
どうやら混乱しているらしい。
「ま、待て月火ちゃん……違うんだ!」
僕は叫ぶ。
いや。
叫んだところで、一体何が違うんだか。
正直言ってみたまんまである。
この状況で誤解するほうが難しい。
「なんでお兄ちゃんが歯ァ磨いたりしたげながら火憐ちゃんを慈愛顔《じあいがお》でベッドに押し倒してるの? なんで火憐ちゃんは私の服を着てお兄ちゃんからうっとり顔でベッドに押し倒されてるの?」
どうやら標準語を使える程度には正気を取り戻したらしいが、その標準語で発せられたのは説明に困る質問である。
丸くなっていた月火の目が、やや通常の状態を形成していくが――それはジト目と言うかなんと言うか、丸い目が三角の目になっただけのような気もする。
月火からのそんな白眼視《はくがんし》は、僕と火憐を我に返らせるに十分だった。
我に返ってみると。
確かに月火の言う通りだった。
つまり、説明に困る質問。
「うおっ! なんで僕、歯ァ磨いたりしたげながら実の妹を慈愛顔でベッドに押し倒してるんだ!?」
「えええええーっ! なんであたし、実の妹の服を着て実の兄からうっとり顔でベッドに押し倒されてるんだよおっ!」
「びっくりしたーっ!」
「びっくりしたーっ!」
びっくりした。
こんなに驚いたのは生まれて初めてだ。
あ・ぶ・ねえっ!
なんだこの越えてはならない一線!
禁断過ぎる!
「た……助かったぜ月火ちゃん! ありがとう!」
「た……助かったぜ月火ちゃん! ありがとう!」
僕と火憐の声がシンクロした。
いや、声だけではなく、身体をねじって月火を指
さす指の動きまでシンクロしていた。
一分の狂いもない。
これがシンクロ競技なら間違いなく金メダルだ。
しかしこの場合、動作がシンクロしたという結果は、悪い印象を月火に与えるばかりで、何一ついいことはなかった。
もらえてゲーセンのメダルである。
だって、僕の身体自体は、未だに火憐を押し倒したままなんだもん。
「ふうん……ふうん」
果たして、月火は。
とても興味深そうに領いた。
最早彼女の目はジト目でさえない。
三角にしていた目は、深く固く閉じられている。
表情は無表情だ。
僕と火憐は、先はどまでとは違った意味でドキドキしていた。
判決待ちである。
ハラハラ。
どろりとした塊《かたまり》のような汗が肌を伝う。
「……うん」
で、月火は顔を起こした。
晴れ晴れとした顔つきだった。
温情判決が下されるのか、情状酌量の余地ありか、せめて執行猶予くらいはつくものかと、僕と火憐はにわかに期待した。
「二人とも、ちょっとそのままの姿勢で待っててくれるかな? すぐにコンビニ行って、千枚通しを買ってくるから」
期待空振り。
死刑判決だった。
千枚通しって。
にっこり笑ったままでにこりともせず、怒りレべル99[#「99」は縦中横]の月火は廊下《ろうか》に出て、ばあん! と思い切り、破壊的にドアを閉めた。
「月火ちゃん! コンビニに千枚通しは売ってないと思うよ! 専門の工具店とか行かなきゃ買えないって!」
廊下に向けた火憐のその呼びかけは、そもそも的外れなものだったが。
その声は完全に無視された。
どたどたと階段を駆け下りていく音が聞こえ、やがて何も聞こえなくなった。
うわー。
すっごい展開になってきたー。
わかりやすく修羅場《しゅらぱ》だ。
コンビニじゃ売ってないにしても、あいつ、ああなったら絶対になんとかして千枚通しを仕入れてくるぞ。
どうすんだよ。
どうするよりも、どうされるかのほうが、この場合は課題かもしれなかった。
「……兄ちゃん。重い」
頭を悩ませている僕に、火憐が言った。
僕は、
「ああ、悪い」
と、火憐の上からどいた。
火憐もまた身を起こし、めくれていた強制ミニスカの裾を直す。
ちょっと照れ臭そうだ。
照れている火憐というのも珍しい。
基本、開けっぴろげな奴だからな。
「で、兄ちゃん。勝負なんだけど」
「え?」
勝負?
なんだその意味のわからない単語は?
植物の名前か?
それとも今朝途中まで憶えた英単語のひとつだろうか。
疑問に首を傾げる僕に対し、
「五分はとっくに経《た》ってるぞ」
と、火憐は続けた。
言われて、ああ、そう言えばこのイベントは僕と火憐との勝負だったと、そもそもの趣旨《しゅし》を思い出し、僕は部屋の時計を確認する。
確かに五分は過ぎていた。
というか、十五分が過ぎていた。
そりゃ月火に発見されもするわ。
「うわっちゃー……」
しまった。
負けてしまった。
いや、単に負けたというよりは、ここは素直に火憐の根性を褒めておくべきだろう。
素直に火憐に尊敬の意を示すべきだ。
途中からは僕もはっきりした意識がなかったとは言え、この極刑に耐え切るとは天晴《あっぱ》れである。
しかも十五分。
怪物的だ。
「はあ。じゃ、仕方ねえか……約束は約束だしな。オッケーオッケー、火憐ちゃん。神原のこと、紹介してやっよ」
本当に気は進まないんだけどな。
でもまあ本人が会いたいって言ってんだから、そもそも本来的には止める理由はないのだ。
理由というか、権利がない。
やっぱり『合う』とは思うし。
属性が一緒だから。
「よく頑張ったな、火憐ちゃん。お前の勝ちだよ。うん、今日のところは兄ちゃんの負けだ。認めといてやる」
「ん、ん」
僕からの労《ねぎら》いの言葉に、しかし火憐の反応は悪かった。
どうしたのだろう。
と、思っていると、火憐は、こほん、と咳払いをした。
こほん、こほん。
そんな風に、火憐はわざとらしい咳払いを繰り返して――大きな身体をキュートに丸めるようにして。
「に、兄ちゃん」
「なんだよ」
「ま、まあ、もし兄ちゃんがどーしてもって言うんなら、仕方ないから三本勝負にしてあげてもいいんだぞ」
「…………」
「ほ、ほら、途中で月火ちゃんの邪魔が入ったし。普通ああいうときはノーゲームじゃん。そ、それに、月火ちゃんが帰ってくるまで時間を持て余すし、気《き》散《さん》じに延長戦に付き合ってやってもいいんだぜ」
超さりげなさを装って。
頬を赤らめながら提案する火憐。
婀娜《あだ》っぽい流し目である。
「えっと……」
僕は。
僕は、手にしていたままの歯ブラシを、密《ひそ》かに握り締める。
「じゃ、じゃあ……その、再戦を申し込んじゃおっ……かな?」
「お、おう。挑まれた以上、あたしは、せ、せ背中は見せない……受けて……受けて、立つぜ!」
「こ、今度は親と子、変えてやってみるとか?」
「う、うん。そ、そのほうがフェアだよねっ!」
互いに。
互い違いに目を合わせないまま――僕達は三本勝負へとなだれ込んだ。
そんなわけで、今朝を境に。
僕と火憐は少しだけ仲良くなったのだった。
004
回想シーン終わり。
つまり今現在、僕は、火憐を連れて神原の家へと向かっている途中なのである。
約束は約束とは言え、書面で交わした約束でない以上、考えてみれば守る義務はまったくと言っていいほどなかったけれど、まあそれでも、約束は約束だった。
橋渡し。
パイプ役を引き受けよう。
その決意の上で、とりあえず僕が火憐に出した唯一の限定条件は、『今すぐ着替えること』だった――だから火憐は現在はジャージなのである。
とはいえ勿論、憧れの神原先生に会うのだから、そのジャージもただのジャージではない。
滅多に着ない、選《え》りすぐり。
勝負服の愛されコーデ。
自転車レース用の蛍光色、派手派手なジャージである。
下半身までビシッとレーパンで決めていた。
……ものすごくどうでもいい情報だったな。
しかし、どうして僕の妹は自転車を持っていない癖に、自転車用のジャージを持っているのか、はなはだ不思議だった。
ちなみに僕は自転車を一台持ってはいるけれど、今は乗っていない。
鳥も通わぬとまでは言わないにしても、本来神原の家は徒歩で向かえるような距離ではないのだが、自転車の二人乗りは避けたかった(二人乗り自体にそこまでの拒否感があるわけではない。が、しかし、妹と二人乗りなんて嫌だ) ので、歩いての行軍なのだ。
火憐は先はどまで逆立ちだったし。
また、今となっては肩車だけれど。
うん。
慣れたら慣れたで結構楽しい視点だぞ、これ。
いやまあ、自転車の二人乗りが嫌な結果が肩車になってしまうあたり、やっぱ多少は仲良くなって打ち解けたとは言え、探り探りの兄妹関係と言えよう。
火憐は火憐で、普段ならばさすがにここまで図抜けた馬鹿ではないのだけれど、やっぱり憧れの神原先生に会えるということであがっていてアゲていて、二重にアゲアゲなのかもしれなかった。
もっとも。
ここで予想外だったのは神原の反応だった。
別に善ではないから急ぐ必要もないのだが、それでも約束を果たすのはなるべく早いほうがいいだろうと、直後(何の直後かと言うと、月火の千枚通しの魔手からなんとか命からがら逃《のが》れえた直後という意味になってしまうわけだけれど、その辺は嫌な感じにリアルで笑うに笑えない感じなので、割愛《かつあい》)、僕は神原の携帯へと電話をかけた。
先述の通り、今はお盆の真っ最中。
ではあるが、神原はそもそもお祖父《じい》ちゃんお祖母《ばあ》
ちゃんと同居しているので、この時期、里帰りのような遠出はしないということである。
だから繋がるには繋がったのだけれど。
「いや、阿良々木先輩。それは困るな」
返ってきたのはそんな反応だった。
意外である。
「確かに私は阿良々木先輩の妹さんに会ってみたいと言ったことはあるけれど、それはあくまでも冗談として言ったわけであって、決して本気だったわけではないのだ」
それは神原らしからぬ言葉ではあった。
天然かつ変態な女とは言え、その器の大きさについては、僕が知るあらゆる人間の中でもトップクラスだというのに。
間違っても人見知りをするような奴ではない。
不審に思って追及してみると、神原はほとほと困り果てたように、
「いや、だって阿良々木先輩」
と言う。
「阿長々木先輩の心遣いは本当に嬉しいと思うけれど、でもだからって、妹さんの処女なんてもらえないよ」
「誰がやるか!」
お前にやるくらいだったら僕がもらうわ!
死んでしまえ!
「お気持ちだけ頂戴しておく」
「気持ちもやらねえよ! 妹に関してお前にあげるものは何もない!」
そんなわけで。
予想外でありながらもそこはやっばり予想通りな、素敵な素敵な神原さんだったわけだが、最終的に紆余《うよ》曲折《きょくせつ》あった未、今日の正午過ぎに火憐を連れて行く約束を、僕は無事に取り付けたのだった。
「うむ。では服を着て待っている」
「なんで基本全裸なんだよ」
会わせたくないなあと、再び僕の気持ちには大きな揺れ戻しがきたけれど、しかしまあ、ことここに至ればそういうわけにもいくまい。
火憐にフルボッコにされてしまう。
それは嫌だ。
「兄ちゃんさあ」
と。
ふと、火憐が下から訊いてきた。
「救急車と消防車って、電話番号一緒じゃん。119っつって。あれってどーなんだろうな? ややこしくねーのかな? 救急車呼ぶつもりが消防車来ちゃったり、消防車呼ぶつもりが救急車来ちゃったりしねーのかな?」
…………。
またこいつ、どーでもいいこと訊いてくるなあ。
何キッカケでそれが気になったんだよ。
別にその手の車とすれ違ったりもしてねーだろうに。
「まあ、確かにそういうこともあるかもしれないけどさ……あれじゃねえの? 緊急番号ってことで、警察と救急と消防で三つあるとして、その三つを全部バラバラにしたら、電話番号を憶えきれねーからじゃねえの?」
「全部っつっても三つだぞ? そして三桁だぞ? そんなもんを憶え切れないなんてことあるか?」
「んー。でも、だったらどうだ、火憐ちゃん。天気予報を聞こうとして、時報聞いちゃったこととかねーか?」
「ない」
「おや」
「時報を聞こうとして、天気予報を間いちゃったことならあるかな」
「一緒だよ」
シンプルを侮ってはいけない。
逆に三桁という単純な構成だからこそ、いざ咄嗟に考えたときに、こんがらがってしまうということもあるのだ。
「110と119が、十個ある11始まりの番号の中では一番憶えやすいだろ。だからとりわけ緊急性の高い三つの機関を、無理矢理二つの番号に割り振ったんじゃねーのかな。救急車呼ぼうとしてパトカーが来ちゃったり、消防車呼ぼうとしてパトカーが来ちゃったりするよりは、さっきお前が言ったパターンのほうがまだいくらかマシなんじゃねーの?」
「えー? でも、怪我《けが》人いるとこにパトカーが来たら暴行犯を捕まえてもらえるし、火事起こったところにパトカーが来たら放火魔を捕まえてもらえるじゃん」
「怪我人や火事が、なんで犯罪絡みだと決め付けてるんだよ」
お前の正義は危険過ぎる。
まず犯罪ありきだ。
「いやあ、だからってさー。怪我人がいるところに消防車が来たら普通は怒るぜ。『水でもかけてりゃ治るって言いたいのかよ!』」
「そんな怒り方はしない」
「火事のところに救急車が来ても怒るよ。『火傷《やけど》す
ることが前提かよ!』」
「それは前提だろ」
「そこへ行くとパトカーは違う。怒れねーよ。だって逮捕されちゃうもん」
「おい正義の味方。お前、あっさり国家権力に屈してるぞ」
「いやいや兄ちゃん、今はあくまで一般的な例として話をしてるんだよ。あたしや月火ちゃんは権力には屈しないさ。ファイヤーシスターズは警察を相手取ったことも何度もあるんだぜ」
「ああ……そのたびに僕が迎えに行ったりしたな」
思い出したくもねえよ。
意味もなく婦警さんと仲良くなったりしたよ。
ったく。
「けど、どうだよ火憐ちゃん。まあ怪我人とか火事とかのパターンはともかく、犯罪絡みのときに消防車だり救急車だりが来たら、それはそれでやっぱり怒られるんじゃねえの?」
「むー。あちらを立てればこちらを立たず、こちらを立てればあちらが立たずか。でもまあ、それはそれで、きっと犯人がサイレンの音にビビって逃げるだろうから、いいんじゃねーか?」
「防犯ブザー的なアレかよ」
「防犯プザー的なアレだよ。だからやっぱり救急と消防は分けておくべきなんだって。確かに110と119は憶えやすい番号だけれど、111ってのだって、相当憶えやすいだろ? あれを消防ってことにしようぜ」
「しようぜって……僕にそんな権限はねえよ。つーか、知らねーけど、どうせ111にも、もう何か割り振られてんじゃねえの? 11始まりの番号なんて、普通に考えりゃ全部埋まってるだろ」
「でもさあ、兄ちゃん。111なんてあれだろ。きっとドッグパークとかの番号だろ? だったら譲ってくれてもいいじゃんよ」
「お前、1をワンでドッグとか、連想がもう小学生
レベルじゃねえかよ」
ああ、まったく。
間違いなく答を知っているであろう羽川あたりからすれば、僕と火憐は、多分今、およそ間抜けにも程があるような会話をしちゃってるんだろうなあ。 会話が探り探りにもほどがあるわ。
探り探りっつーか右往左往《うおうさおう》だ。
「よく聞くのはさあ、警察とか救急とか消防とかに電話かけるときは、焦《あせ》っちゃっていっぱいいっぱいになってることが多いから、それを落ち着かせるために、番号を110とか119とかに設定してるって話だよな」
「ああ? どういうことだよ、兄ちゃん。わけのわかんねーことを言うな。ぶん殴るぞ」
「お前兄に対して短気過ぎねえか!?」
「そうかな」
「なんで話の枕でぶん殴られなきゃなんねーんだよ。……まあ、携帯電話とかプッシュホンとかでは、もう関係ない昔々の話なんだけどさ。ダイヤル式の電話って奴が、かつてあったらしいんだよ。テレビとかで見たことねえ?」
「んー。ダイヤル式ねえ。あるようなないような。ダイヤルって響きが既にレトロだな」
「うん。で、そのダイヤル式の電話は、0と9の番号を選択するのに時間がかかるんだよ。こう、回転させる構造になってるから」
僕も直《じか》に見たことはねーんだけど。
要するに回転する円の端っこのほうに、0や9が設定されているらしい。
「1は?」
「あ?」
「0と9に時間かかるとして、1はどーなんだよ。1をダイヤルするのにも、やっぱり時間がかかるのか?」
「いや、確か1は……逆の端っこだから」
むしろ一番時間かからねーよな。
あれ?
「だったら緊急時の呼び出し番号は、009と000の二つにするべきじゃねーのかよ」
「……009だとサイボーグを呼び出してるっぽくて、場合が緊急であるという事実さえ手伝って、なんだかシリアスな気分が削《そ》がれるからじゃねえ?」
「ああ、わかるわかる」
「わかんのかよ。わかってくれちゃうのかよ」
「で、000は?」
「同一番号の連続は暗証番号に設定できないってのは、これはもう有名な話だな。最近はスキミングとか危ないし。お前も気をつけろよ?」
「電話番号の話をしてるんだよ」
「あーでも火憐ちゃん。三桁の数字ってったら、面白い話があるぜ」
「面白くなかったらぶん殴る」
「合いの手が怖い!」
「なんだよ」
「いや、羽川から教えてもらった数学トリビアなんだけど。なんでもいいから、好きな三桁の数字を思い浮かべてみな。110でも119でも、なんでもいいから。そんでそれを二回線り返す」
「ふんふん」
「そうやってできた六桁の数字は、絶対に7で割り切れるんだとさ。110110だろうと119119だろうと、何であろうと。やってみな」
7は孤独な数字だけれど、孤独ゆえに余りが出ない――とかまあ、そんな感じでまとめると、いい話になるかもしれない。
実際はただの数字のトリックだけど。
「へー。やってみよう。えっと……ん? いや兄ちゃん、3余ったぞ」
「ひと桁での割り算を間違えるな……折角の雑学が台無しじゃねえか」
とか。
まあ。
なんかこう、こんな感じで。
八月十四日、正午前後において、神原駿河の家へと向かう道中、そんな生産性のない、他愛もない、そして大して面白くもないあれこれについて、肩車をされつつも火憐と適当に話していた――そのときのこと。
二メートルを越える僕の視点と同じ高さに――
突如、別の視点が現れたのだ。
「そこな鬼畜《きちく》なお兄やん――ちいと訊きたいことがあるんやけど、かめへんかな?」
僕がこれまでに出会った人間の中で最も背が高かったのは、言うまでもなく吸血鬼狩りの男・ドラマツルギーとなるだろう。
あいつは二メートルどころか、その当時のトラウマティック・テリブル・イメージも伴って、今となっては二メートル五十、あるいは三メートル近い身長があったようにさえ回想される。
まあ厳密に言えば、ドラマツルギーを人間と言ってしまっていいものなのかどうかは、かなり論議の分かれるところなのだけれど……。
かといって、今、僕の目の前に現れた『彼女』が、ドラマツルギーばりの長身だったのかと言えば、決してそういうわけではない。
きっと純粋な意味での身長で言えば、僕とそんなに変わらないくらいだろう。
僕が火憐に肩車されることで身長を底上げしているのと同様――彼女もただ、身長を底上げしているだけに過ぎないのだ。
その人は。
郵便ポストの上に直立していた。
「何ゆうか、叡考塾《えいこうじゅく》ゆうとこ探しとんねんけど――おどれ、それどこにあるんか、知らんけ?」
京都弁である。
今朝、僕の妹であるところの月火が混乱のうちに使っていたようなインチキ発音ではない、なんというか、聞くからに生粋《きっすい》の京都弁だった。
涼しい表情をした、ショートカットの女性。
年齢は二十代後半といったところか。
ダークカラーのパンツルック、インナーはストライプのシャツ。かかとのない、上品な雰囲気の靴。全体的に小学校の先生のような、清潔感のあるきちんとした感じの服装をしていて――まあ、そんな変わった人には見えない。
勿論、それは郵便ポストの上に乗っていることを除けばだけれど。
「……えっと」
僕は反応に戸惑う。
なんだろう。
ギャグパート終了の気配を感じる。
楽しい時間は終わりなのだろうか。
お遊びはここまでか。
まあ確かに、原稿用紙に換算して百枚分以上もはしゃげば、もうさすがにおなかいっぱいという感じはするが。
「何や、鬼畜なお兄やん」
京都弁の彼女は言う。
やや絡むような言い方だけれど――表情はむしろ爽《さわ》やかだ。
「困っとる人を見たら親切にしたりぃゆうて、子供の頃に教えてもうてへんのけ?」
「んー。いや……」
言葉に詰まる僕である。
困っている人を見たら親切にしろとは、なるほど確かに教えてもらってはいるが、しかし目の前にいる彼女はあんまり困っているようには見えないし、そもそも僕はこれまでの人生において誰からも、郵便ポストの上に立っている人に親切にしなさいとは教えてもらっていない。
むしろ注意してあげるべきなのではなかろうか。
しかしそこで我が身を振り返ってみるに、僕は郵便ポストの上に立つどころか、中学生の妹に肩車をさせているのだった。
正当なる勝負の正当なる結果とは言え、このあるまじき状況はなかなかどうして、言い訳のきかないものである。
客観的な第三者が観察する限りにおいて、どうだろう、郵便ポストを踏み台にしている彼女と妹を踏み台にしている僕とでは、僕のほうがいささか分が悪いのではないだろうか。
鬼畜呼ばわりもわからなくはない。
むしろ、よくもこんな僕に道を訊いてくれたものだと、逆に感心したくなる。
「うちはの、影縫余弦《かげぬいよづる》ゆうねん――知らんかな?」
彼女は。
唐突《とうとつ》な風に――そう名乗った。
道を訊くくらいでいちいち名乗る人も珍しい(郵便ポストの上に立つ人くらい珍しい。妹に肩車させる兄ほどではないだろうが)。
それとも名前を間けばそれでそうとわかるくらい、そして優遇措置を受けられるくらいの、この人は有名人なのだろうか?
それって何と言うか、芸能人とか政治家クラスだよな。
でも、そのどっちにも見えないよなあ。
ただし、芸能界にも政界にも疎《うと》い僕の判断は、この場合、まるで信用できまい。
目の前にいる人物は、ひょっとしたらとんでもないVIPなのかもしれない。
僕は視点を落として、火憐の反応を窺《うかが》う。
「…………」
無反応だった。
うーん。
考えてみればこいつの場合、芸能界や政界に対する疎さは、僕とそんなに変わらないか。
これが月火なら話は別なんだが。
あいつはテレビっ子だし。
……芸能界はともかく、政界に詳しい中学生の妹ってのも、なんかこう可愛げがなくて、なかなかやなもんだけど。
僕は改めて、彼女――影縫さんを見遣《みや》る。
確かに顔立ちは綺麗だよな。
京都弁アイドル……京都弁政治家?
いやいや、京都の政治家は大体京都弁だろうから、そんなの珍しくもないだろう。
「僕は阿良々木暦と言います」
とりあえず、名乗らせたままにしておくわけにもいかないので、僕はそう応えた。
するとそれに続いて、火憐が、
「あたしは阿良々木火憐と言います」
と続いた。
ちゃんと挨拶ができるえらい子だ。
と、感心してやつたら、
「まあ呼ぶ者はあたしのことを、どうやらファイヤーシスターズなんて呼んでいるようですがね」
なんて続けやがった。
初対面の人間に自分の通り名を語る痛い奴が、驚いたことに僕の妹だった。
どうやらとか、伝聞調に言ってんのが更に痛い。
自分で勝手に名乗ってる癖に。
「……ふうん。鬼畜なお兄やんに――スズメバチの妹け。おもろいやん」
「……?」
あん?
スズメバチ――つったか?
今?
「ひゃひゃひゃ。まあ、その辺はもう終わっとるみたいやし、別にかまやせんねんけど――で、どうなん? 質問繰り返させてもらうけど、おどれ、叡考塾て、知っとる?」
「はあ……えっと」
エィコウジュク……ねぇ。
叡考塾?
残念ながら聞いたことねえなあ……駅のほうにいくつかある学習塾のどれかなのかな。だったら駅の方角を教えてあげたらいいのかな。
旅行者みたいだし。
よくよく見てみたら髪の毛に微妙に茶髪入ってるみたいだし、だったら少なくとも、地元の人間じゃあないだろう。
この辺、髪の色変えるような奴いないもん。
ヘアカラーなんてどこにも売ってねえよ。
火憐が昔、とち狂って髪の毛をピンクに染めたことがあったらしいけれど、それも絵の具で染めてたそうだもんなあ。
その上から墨汁《ぼくじゆう》で塗りつぶされたんだから、直後はとんでもないマーブル頭だっただろう。
中学デビューのわかりやすい失敗例であり、今となっては、きっと火憐にとっても苦い思い出なのだろう。
ころっと忘れて、なかったことにしているかもしれないが。
思いつきで髪染めたり思いっきで髪千切ったり、本当、命をどぶに捨ててる妹だ。
「……えっと、ちょっと待ってください」
まあなあ。
別に道を訊かれたくらいのことで、そこまで親切にしてあげることもないんだけれど――少なくとも相手は大人なんだし。
僕みたいなガキが気を回し過ぎるほうが失礼だし。
携帯電話のGPS機能でも使えって話だ。
でも、ひょっとすると影縫さんはかつてこの町にいた誰かさんみたいに、機械に弱いのかもしれない。
ダイヤル式の電話しか知らない世代なのかもしれない(←さすがに失礼な発想)。
再び火憐を窺ってみるが、どうやら火憐はこの局面は僕に丸投げし、だんまりを決め込むことにしたようだ。
こいつはこいつで他人に対して親切を惜しまない博愛型のキャラクターではあるのだけれど、しかしこのケースのように、暴力で解決できないタイプの困りごとに対しては、まったくと言っていいほど無力なのだった。
どんな正義の味方だよ。
「ちょっと待ってください。僕の友達に、日本中にあるすべての学習塾の位置を把握しているという驚異の女子がいるんです」
しかしまあ、無力であるという点においては僕も火憐とさほど変わらない。
ゆえに困ったときの羽川頼みだ。
羽川翼。
クラスメイトの委員長。
優等生の中の優等生――全国模試でトップの成績を誇る、いやそれすら誇りもしない、ウルトラ級の優等生である。
前の春休みに知り合って以来、僕は何かと彼女の世話になっていた。
というか、この夏休みにおいても現在進行形で、受験のために勉強を教えてもらうという名目で、朝から夜まで、おはようからおやすみまで、夢の中まで常時世話になりっぱなしだった。
さすがに盆は休んでもらってるけどな。
とは言え、羽川もまた神原とは違う事情で、盆に帰るべき田舎というものがない人間なので――今頃はどうせ、図書館で自分用の勉強でもなさっている頃だろう。
じゃあ電話だ!
羽川さんに電話だ!
やったあ!
こんな些細な事柄でいちいち恩人である羽川に電話する僕のことを迷惑な奴だと思う向きもあるかもしれないが、しかしむしろ僕は、どうでもいいことでこそ羽川と話したいのさ!
少なくとも。
少なくとも、この間みたいな重要な案件に、彼女を巻き込むくらいなら――だ。
とは言いつつも、今日今回に限ってはさすがに手短に済ませなければならないから、雑談は抜き。どうやらギャグパートじゃなさそうだし、僕は叡考塾とやらの場所を訊きたいだけだし、もっと言えば羽川の声が聞きたいだけなのだから。
「お待たせしました、羽川です。阿良々木くん? ちゃんと勉強してる? サボってない? そう、よかった。私? うん、いいよ。軽くお昼の勉強してたとこだから」
お昼の勉強って。
何かのコーナーみたいだ……。
羽川は全国一位の成績保持者でありながら大学受験をしないつもりらしいので、それはあくまでプライベートの勉強なのだろう。
プライベートの勉強ってのも、考えてみたらすげぇ語感だが……。
うーむ。
正午ということで暑さ真っ盛りの時間帯だし、羽川さん、ものすごい薄着とかで勉強してないかなあ、ノーブラとかだったら素敵、そうでなくともせめてシャワー上がりとかの濡れた髪じゃないかなあと考えていると、
「阿良々木くん。何か邪《よこしま》なことを想像してない?」
と、早速《さっそく》突っ込まれた。
超能力者みたいな奴だ。
迂闊《うかつ》に妄想もできない。
「あと阿良々木くん、なんか外にいるっぽいんだけど、本当にちゃんと勉強してるの?」
鋭い。
いや別にサボってねえよ。
朝のドリルはちゃんと終わらせてから出てきたし、火憐を神原の家まで案内したら、ちゃんと帰って勉強する。
「あとなんか阿良々木くん、喋ってる位置が一メートルくらいか高いっぽいんだけど、まさか火憐ちゃんあたりに肩車とかさせていじめてないよね?」
鋭過ぎるだろ!
恐怖の領域だ!
何? 何何?
声音の響きって、一メートルくらいでそんなに変わるもんなのか……?
直に向かい合って喋ってるわけじゃないんだから、これ、『上から声がする』とかじゃないんだよな……そりゃまあ、声は音で、音は空気の振動なんだから、気圧が違えば声も変わるだろうけど……人間一人分くらいのプラスでわかるほどに劇的に変化するか?
やめろよな。
僕の背がよっぽど低いみたいじゃねえか。
「どーもさっきから阿良々木くんが、火憐ちゃんの頭部に股間《こかん》を押し付けて遊んでるような気がしてならないんだけれど……」
その言い方もやめろ。
どんな変態だよ。
いや、別にいじめても遊んでもねえよ……。
つーか冷静に突っ込まれてみると、なんで僕は火憐に肩車をさせているのか、意味がわからなくなってくる。
冷静になっちゃ駄目だ。
我に返っちゃ駄目だ。
熱くなって我を忘れろ、自分。
「叡考塾? うん、知ってるよ」
そして羽川は知っていた。
本当に知っていた……。
影縫さんに対しては随分な大言壮語《たいげんそうご》をしてみせたものの、羽川は独学タイプの成績優秀者なので、まさか本当に日本にある全ての学習塾を把握しているわけがないと思っていたけれど、この分だとそれもありえないでもない。
お前は何でも知ってるな、と、いつものように僕が言うと、
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」
という、いつものようにそんな答が返ってきた。
素敵。
羽川のその台詞を聞くために、今日も生きてるって感じだよ。
……。
まあ、あんまりにも高頻度《こうひんど》で言わせ過ぎてるから、なんかもう近頃は羽川さんは仕方なく、僕に対する付き合いで言ってくれてるみたいな気配も、実は敏感に感じてるんだけど。
ちょっと困った風な表情で言うことが多い。
その顔がまたいい!
「阿良々木くん。今も何か悪いこと考えてない?」
うわあ。
鋭いとかじゃなくて、もう尖《とが》ってるよね。
ビンビンだよね。
「最近さ、さすがに私もちょっぴり諦め気味だよ? 阿良々木くんを更生させるの」
諦めないで!
見捨てないで!
「戦場ヶ原さんはちゃんと更生したのにね――あーあ。まあいいや。急いでるみたいだし、説教はまた今度ね」
また今度説教されることになってしまった。
ここで『うわっ! しまった! やっちまった! 羽川さんに怒られる!』と思う反面、どこかそれを喜んでいる自分がいるあたり、僕も阿良々木火憐の兄である。
兄妹だなって思う。
Mカッコいいのだ。
「ていうか阿良々木くん、叡考塾なら阿良々木くんだって知ってるはずでしょ。だってーほら。忍野さんと忍ちゃんがずうっと住んでたあの廃ビル。あのビルディングに入ってた学習塾が、そうなんだからさ」
羽川は割とあっさりめにそう言ったけれど、僕はその言葉に、驚きと納得を同時に味わわされることとなった。
まず驚きは、僕もよく知る――非常に思い出深い、僕自身春休みの大半を過ごした――あのビルディングに入っていた学習塾に名前があったこと(当然なのだが)に対する驚きであり。
納得は、なるほど、既に数年前に潰《つぶ》れてしまっている塾が相手では、GPSナビなどの最新機器では却《かえ》って対応できまいという、影縫さんに対する納得だった。
へえん。
叡考塾ねえ。
そんな頭よさそうな名前の学習塾だったんだ、あそこ。
ビルを一棟丸ごと使っちゃってる辺り、大手とは言わないまでも、そこそこ規模のでかい塾だったのかもなあとは、なんとなく思っていたけれど。
……まあ、そんな頭よさそうな学習塾も、アロハの小汚いおっさんに住み着かれたり、いたいけな男子高校生の監禁場所に使われたりで、もう散々というか惨憺《さんたん》というか、栄枯盛衰・盛者必衰って感じだけど。
ふうん……。
いやまあ、考えるのは後にしよう。
影縫さんを待たせても悪いし、羽川の勉強を邪魔しても悪い。
肩車のまま足を止めていなければならない火憐に対してはまったくもって悪いと思っていない自分が大好き!
僕が礼を言うと、
「別にこんなのお礼を言われるほどのことじゃないよ。それじゃあ阿良々木くん、神原さんにもよろしく伝えといてね。ばいばーい」
そんな答。
僕は電話を切った……って……。
神原に会いに行くなんて、僕、一言も言ってねえ……多分僕との会話中のどこかに、何らかの根拠を発見したんだろうけど(それは多分、いちいち指摘するまでもないような、羽川にしてみれば明白な根拠だったに違いない)、なんかもう桁外れっていうか、単位が違うよな。
しかし、ほんのちょっと塾の所在を訊くだけのことで、どれだけ僕のプライベートがばれちゃってるんだよ。
代償でか過ぎるだろ。
羽川の中で僕のイメージが、クラスメイトであらぬ妄想をしつつ妹に股間を押し付けて遊びながら後輩女子の家に向かう奴になってしまった……。
そんな変態がいたら、僕、問答無用で殴り飛ばすぞ。
「わかったんけ? 鬼畜なお兄やん」
ややコバルトでブルーな気分(つまりコバルトブルーな気分)になった僕だったけれど、影縫さんからの呼びかけで正気に戻る。
「あ、ええ……その――」
名前ではわからなかったけれど、場所があの廃ビルだというのなら、駅への方向を教えるよりもむしろ簡単だ。
忍野がいなくなってからはさすがにその頻度も滅ったとは言え、僕はこれまで、一体何度あのビルに足を向けたことか、数え切れないくらいなのだから。
ただ、問題がみっつほどある。
そのうちひとつは、まず、あの廃ビルはちょっとややこしい場所にあるから、順路を説明したとしても、それが正確に伝わるかどうかということだ――教えるのはたやすくとも理解するのは難しい。
忍野が張っていた結界《けっかい》とか何とかいう奴はもうとっくに解除されているとは言え、地理的条件までがよくなったわけではないのだから。
が、これについては杞憂《きゆう》だった。
影縫さんは、郵便ポストの上に直立してというアクロバットでファンキーな登場をした割には、どうやら聡明な頭脳の持ち主だったようで、たった一度の説明で、
「はあん。おお、なるほどな。そっちやったんか」
と、しっかり理解したらしかった。
年下の子供に対して見栄を張っての理解した振りという感じもない。
言い方から察する限り、あらかじめ目的地・叡考塾への筋道について、ある程度のあたりはつけていたということなのかもしれない。
では二つ目の問題だ。
「結構距離ありますけど……大丈夫ですか?」
「平気やで。うちは地元からここまでも、歩いてきたくらいやし。百キロまでは、うちにとっては距離ちゃうわ」
……地元って、京都か……それでなくとも近畿《きんき》だよな。
すげー。
百八十キロまでは重さじゃない火憐よりすげー。
あ、いや、冗談かな?
まあ本人が平気というなら平気なのだろうと、僕は三つ目の――最後の問題を解決しておくことにした。
「でも影縫さん。もうその塾、潰れちゃってるんですけれど……何をしに行くんですか?」
最後の問題。
しかし本来、これは訊くべきことではないかもしれなかった。
あくまでも道を訊かれただけのことなのだから、別にそこまで深入りすることはないのだ――何をしに行くかなんて個人的なことを、聞いておく必要はない。
潰れた塾に向かう用事もあるだろう。
また、それはきっと、僕には何の関係もない用事に違いない。
ただまあ、僕の気持ちもわかって欲しい。
ある意味あの廃ビルは僕にとっては、そして僕達にとっては思い出深いだけではなく、とても強い思い入れがある場所なので――初対面の知らない人がそこに向かっているという事実に、若干《じやっかん》のストレスを感じてしまったのだ。
言うほどのストレスではないけれど。
それでも言ってしまったものは仕方がない。
「んー。何をしに行くゆうわけでもないんやけど、まずは拠点作りかな」
案の定、影縫さんはそんなあやふやな言い方でぼかしてきた。
そりゃそうだろう、別に彼女に、いちいち僕に対して自分の目的を説明しなければならない義務はないのだから。
所詮は道を教えてもらった程度のことだ。
そうでなくとも、僕の視点から見れば、影縫さんが道を訊いてくれたお陰で盆休みに羽川と話せたという時点で、既に貸し借りはこれ以上なくなくなっているのである。
フィフティフィフティだ。
「ほな、おおきに。鬼畜なお兄やん――ああ、せやせや。おどれ、ひょっとしたらこんくらいのちっちゃい子ォにおんなじように道ィ訊かれるかもしれへんけど、そんときはおんなじようにあんじょう親切にしたってや」
そう言って影縫さんは郵便ポストの上から跳んだ。
すぐ近くの、民家のブロック塀の上へと。
当たり前みたいに、彼女は僕よりも更に高い視点へと移動したのだ――そしてその上をすたすた、平均台の上でも歩くがごとく、平気の平左《へいざ》で歩を進めていく。
結局影縫さんは、僕の視界から完全に姿を消すそのときまで、ついに一度も地面に降り立つことなく――塀の上やらガードレールの上やらを跳び回り歩きながら、去っていったのだった。
ああ、あれだ……。
わかっちゃった。
あの人、『地面は海。鮫《さめ》がいて、低いところに降りたら食べられる』って遊びをやってるんだ……いや、小学生の頃になら、確かに僕もよくやってたけどさあ。
それで郵便ポストの上に立ってたのか……。
「……ん? なんだよ。さっきからえらく静かだな、火憐ちゃん」
僕は火憐の頭をべちんと叩く。
性能チェックみたいな。
「どうしたよ。あんな不思議人類の相手を、僕一人に任せてんじゃねえぞ。お前のせいで羽川にも怒られたし」
「あ、ごめんなさい」
僕からのさりげない責任|転嫁《てんか》、つまりはナイスパスにはどうやら気付かなかったようで、火憐はそんな風に謝ってから、
「いやあ」
と言う。
「なんか――すげえ強そうな人だなって思ってさ。構えちゃってた」
「強そう?」
ん?
火憐がそう言う場合は――戦闘スキル的な意味合いでの『強そう』だよな?
「そうか? そうは見えなかったけど……振る舞いとか言葉遣いとかを除けば、どこにでもいる綺麗なお姉さんって感じだったけど」
「あの人、兄ちゃんと話してる間中、いっぺんも身体の軸がぶれてなかったよ。フィギュアスケートの選手並のバランス感覚だ」
「……ふうん」
まあ。
やっている遊び自体は幼稚なものとは言え、普通、成人した人間のサイズとウエイトじゃあ、ブロック塀の上なんて、とてもじゃないけど歩けないよなあ。
「けどお前だって、ブロック塀の上とか歩いたりするだろ。しかも逆立ちしながら」
「んー。まあそうなんだけど……でも、あの人、相当鍛えてるよ。こぶしの形、かんっぺきに人を殴るための仕様《しよう》になってたし」
「そ、そうだっけ?」
「うん。クルマのバンパーどついたら、エアバッグが飛び出す級」
「はー」
交通事故級かよ。
信じられない……しかし、それが本当だとすると、とんでもねえな。
火憐の人を見る目はまったくアテにならないが、強度を見る目となれば話は別だ。
よく士たる者は武ならずとも言うし。
「確かにそういう風に考えてみれば、随分と態度に余裕のある人だったよな――不遜《ふそん》というか、不敵というか。なんつーか、腕《うで》っ節《ぷし》に自信がある奴に特有の気配《けはい》を纏《まと》ってはいた」
それこそ、ドラマツルギーあたりが有していた気配に近い。
ああいう気配って、それだけで周囲を威圧してしまうから、千石みたいな気の弱い奴が一番苦手な気配なんだよな。
一般人で言うなら、今向かっている途中の神原あたりが有している気配でもある。
あるいは、かく言う火憐も。
同類だ。
「あたしの師匠でようやく互角ってところだろ、ありゃ。少なくともあたしじゃ勝てねー」
「おやおや」
しかし、同類のはずの彼女から発せられたその言葉に、おどけるように茶化しながらも、僕は素直に驚く。
「火憐さん、随分と弱気じゃねーか」
「戦力差くらいちゃんとわかるさ――相手が悪じゃなけりゃーな」
「なるほど」
逆に言えば、相手が悪の場合には、火憐には彼我の実力差がまったく計れなくなってしまうということである。相手が化物であろうが自分のコンディションが最悪であろうが、その場合はとにかく猪突猛進なのだ。
危険な妹である。
月火も含めて、ファイヤーシスターズっつーか、こいつらデンジャーシスターズなんだよな。
「つっても」
と、火憐は続ける。
首をわずかに動かして――影縫さんが去っていった方向を、やや不快そうに見遣りながら。
「あの人が悪じゃねーとは、まだ決まったわけじゃねーけどさ」
005
そう言えば、いいニュースがある。
喜んで欲しい。
一部マニア層にとっては残念なニュースとなってしまうのかもしれないけれど、まあ基本、概《おおむ》ねの人間にとってはいいニュースだ。
さっき羽川との会話の中でもちらっと触れたことなのだけれど――戦場ヶ原ひたぎ。
僕と羽川と同じ私立直江津高校に通う三年生のクラスメイトであり、僕の彼女、いわゆるステディであるところの戦場ヶ原ひたぎが、このたび、見事天晴れな更生を果たしたという、そんなめでたきお知らせである。
三回回って死になさい、あるいは三回死んでワンとお言いのキャッチフレーズでおなじみ。
タイガー・ジェット・シンの再来、発狂した虎とまで言われた彼女の更生。
悪い子ちゃんからいい子ちゃんへ。
これを嬉しがらずにいられようか。
どんな嬉しがりと言われようとだ。
仲間内で宴《うたげ》が設けられたことは言うまでもないが、その常軌を逸した盛り上がりについては、また機会があれば語ることにして、その更生について、まずは語るとしよう。
ことの経緯はこうだ。
戦場ヶ原の性格の極悪さ――というか、およそこの世のものとは思えないほどの傍若無人・暴虐無人ぶりは皆さんご存知の通り、今更言葉を尽くして説明するまでもないのだけれど、しかし彼女だって理不尽に、生まれつきにその毒々しさを発揮していたというわけではなく、その性悪《しょうわる》にはちゃんと、しっかりした理由があるのだった。
心的外傷という奴だ。
そう言ってしまえば陳腐《ちんぷ》な言葉ではあるけれど、だけど本人にとっては切実である。
陳腐以上の切実がこの世にあろうか。
誰だって、生まれや育ちにそれなりの傷を所有しているものではあるけれど――しかし、戦場ヶ原の主軸がぽっきりと折れてしまった主たる原因は、やはり彼女があまりに頑張り過ぎた[#「頑張り過ぎた」に傍点]ことにあるのだと、僕は個人的にはそう思う。
頑張ることは、ときとして罪となり。
罰を受ける。
蟹。
蟹に出会って――蟹に出遭った。
彼女は遭い。
奪われ。
失った。
結局のところ、彼女にとってのいわゆる高校生活が、果たして一体どんなものだったかは、僕には薄ぼんやりと想像することしかできないのだけれど――一年生のときも二年生のときも同じクラスでありながら、僕には薄ぼんやりと想像することしかできないのだけれど――きっと、その二年間は。
心を閉じてしまうには十分に足る二年間だったと思う。
二年どころか。
一日だって――こと足りただろう。
近付く者をすべて拒絶し。
親切心さえも敵対行為と見做《みな》し。
誰にも心を開かず。
誰にも心を許さず。
友達を一人も作らず、どころか同級生ともロクに口を利《き》きもせず、たとえ授業中に教師に指名されたところで、短く無愛想に『わかりません』としか答えない――
人見知り。
人間不信。
接触拒否。
そんな彼女は椰楡《やゆ》されるように、遠巻きに深窓《しんそう》の令嬢と呼ばれていたものの――真実を知っている者からすれば、それはとんだ皮肉交じりのニックネームでしかなかっただろう。
僕はひょんなことから彼女の秘密を知り、知ってしまい、そしてなし崩し的に、戦場ヶ原と忍野を繋ぐ橋渡し役を務めることになったわけだけれど――それによって、よかったのか悪かったのか、彼女を悩ましていた怪異の問題は、当面のところ、解消したわけだけれど。
しかしそれがなんだと言うのか。
たとえ、怪異が解消されたところで。
たとえ、蟹から解放されたところで。
懊悩から離れたところで。
苦悩から別れたところで。
心が開かれたところで。
心が許されたところで。
折れた心までもが修復されるわけでは――ないのだった。
時が過ぎ、傷は癒えても。
時が過ぎ、傷が跡形もなく消えてしまったとしても――傷を負ったという事実までが消えてなくなるわけではない。
古傷であろうと、記憶までが古くなるとは限らないのだ。
サボテンのように逆立った戦場ヶ原の人となりは――全身が逆鱗《げきりん》の鱗《うろこ》でコーティングされてしまった戦場ヶ原の人となりは、そう簡単に元に戻るわけではない――というか、今となってしまえばそっちが元である。
逆憐こそが本体だ。
毒々しさも、性悪も。
人見知りも、人間不信も、接触拒否も。
攻撃的な人格さえも。
面倒なことに――今となっては彼女の立派なパーソナリティなのだった。
目から憐というように、その逆鱗が剥《は》がれ落ちることなどないのである。
僕と付き合うようになっても。
神原と復縁してからも。
そのパーソナリティには、本質的な変化――あるいは根本的な変化は見受けられなかった。
もっとも、そうは言っても、彼女がそんな本性を見せるのはあくまでも僕や神原の前程度のことであり、学校では猫を被り続けることに成功していた戦場ヶ原ではあったのだけれど――さすがに蟹の件が解決してしまった以上、猫を被ることへのモチベーションが多少ダウンしてしまったのだろうか、猫の専門家・羽川翼にはその『立派なパーソナリティ』を見抜かれてしまったという。
以来、僕は知らなかったのだけれど、戦場ヶ原は羽川より、人格更生用の矯正《きょうせい》プログラムを受けさせられていたそうだが(僕が四月から受けさせられている奴の強化版だったらしい。聞いただけで身の毛がよだつ)、しかし今言っている戦場ヶ原の更生は、羽川には申し訳ないけれど、その矯正プログラムとは無関係のものである。
貝木泥舟。
忍野の、言うなれば同業者。
にして――商売|敵《がたき》。
詐欺師《さぎし》。
彼との再会が、大きかった。
というか、まあ、それしか原因はない。
それだけだ。
貝木は何の役にも立たない、ただただ迷惑なだけの詐欺師ではあったけれど――かつて戦場ヶ原一家を騙したという彼との思いがけぬ数年ぶりの邂逅《かいこう》が、彼女の精神に素晴らしきショック療法をもたらしたのである。
幸運などではない。
奇跡とも違う。
本人の言葉に従うならば、貝木との再会をもって。
貝木泥舟との再戦をもって。
戦場ヶ原ひたぎは――けじめをつけたのだ。
あのとき彼女は、毒を出し切ったのだと思う。
デトックス。
二年間、溜まりに溜まった毒を――解毒《げどく》した。
そんな必要はないだろうけれど、念のために断じて断っておきたいが、それは別に貝木のお陰というわけではない――あいつに感謝する筋なんて一筋もない。
あいつこそ何もしていない。
これは、忍野の言い方を借りるなら、『戦場ヶ原が一人で助かっただけ――』だけなのだ。
貝木のお陰などではなく。
勿論、阿良々木暦のお陰でもなく羽川翼のお陰でもなく、戦場ヶ原ひたぎが――あくまでも個人の力と個人の意思で、にっくき詐欺師からもぎ取った、勝ち誇るべき更生なのだ。
というわけで。
そんな感じで。
ありていに言うと、戦場ヶ原ひたぎはデレた。
もうかんっぺきにデレた。
火憐どころじゃないくらいデレた。
こちらとしては、え、ちょっと待ってよガハラさん、お前のモードにデレってあったの、みたいな感じである。
そんな戦場ヶ原ひたぎは受験生の家庭教師としてはさすがに大いに問題があるから、羽川との入念な話し合いの末、盆休みに入る少し前から暇を出した(そんなわけで今戦場ヶ原は父方の田舎へと里帰り中である)ほどのデレっぷりと言えば、およそ想像がつくだろう。
だけどその想像は間違っているのだ。
というか、その想像ではまだ足りない。
そんな生優しい次元のデレっぶりじゃない。
用もないのに電話をかけてくるとか(これまでは日によって着信拒否さえしていた)、絵文字入りのメールを送ってくるとか(これまでは迷惑メールを転送してきていた)、僕に対してキュートな響きの愛称をつけてくるとか(これまでは悪口を僕のニックネームにしていた)、そんなのはまだまだ序の口である。
花を見ても千切らない。
虫を見ても潰さない。
まず悪態から入らない。
いいものを素直に褒める。
文房具を、正しい用途で使用する。
勿論文房具だけのことに限らず、手料理を振る舞つてくれた際に少しでもネガティヴな評価を出そうものなら、ピーラーで皮を剥かれる――ということもなく。
脚を外気に晒《さら》すくらいなら切り落とす(勿論、見た人の脚を)とまで言っていたのも過去の話、スカートの丈が心なし短くなり(膝下から膝上になった)、真夏らしい、それなりの薄着もし、肌を露出することにもそこまでの抵抗がなくなったらしく。
鉄面皮《てつめんぴ》の無表情キャラでさえなくなり、平坦平淡|一辺倒《いっぺんとう》だった無機質な喋り方にもそこそこ|抑揚《よくよう》がつき、そして何より、よく笑うようになった。
気持ちよく。
笑うようになった。
いわば――普通の女の子に、なった。
僕の知らないうちに誰かと入れ替わったんじゃないかと思うほどの――とてつもない人格豹変振りである。
よそいきの人格、なんてものじゃない。
深窓の令嬢でもなく。
猫を被っているのでもない。
普通に年相応の、可愛い女子高生。
際《きわ》どくもなく、極端でもなく――変に閉じこもりもせず、変に攻撃的でもない、普通の出来事に普通のリアクションをする、普通の女子高生だ。
中学時代の戦場ヶ原は陸上部のエースを務め、人格者の人気者として名を馳せていたらしいから、ひょっとしてその頃の戦場ヶ原はこんな感じだったのだろうか、じゃあ羽川や神原はこんないいもん見ながら中学生やってやがったのか、ずるいぞお前ら、お前らはそんな人間じゃないと思ってたね、とかなんとか拗《す》ねてみたものだが、しかし彼女達の意見を信じるならば、
「中学時代も、あそこまでじゃなかった」
そうである。
戦場ヶ原のことを神のごとく崇《あが》め、どのような毒舌さえも全肯定していたあの神原嬢がちょっと引いていたという、それくらい高レべルのツンデレ具合なのだ。
いやもうなんか。
デレっつーか、ドロって感じ?
ツンドロだ。
なんであいつはそうやって、狭いジャンルの開拓に積極的なのだろう。
……。
ツンドロと言うと、なんだか水質問題系の公害っぽい響きだが、まあしかし、気分的には僕が受けるニュアンスとしても似たような感じである。
公害つーか、私害。
なぜなら、ひょっとするとものすごく長い前振りなんじゃないかという恐れもあるからだ。いや、恐れどころか、どちらかと言えば更生というか、デレ自体、ドロ自体が壮大な嫌がらせだと考えたほうが、まだしも腑に落ちる気もする。
もっとも、冗談にしてはやり過ぎだ。
嫌がらせとしても行き過ぎである。
仮にそれが悪意の産物だとするなら、嫌がらせではなく最早怖がらせだろう。
何せ――戦場ヶ原はそのドロっぷりの一環として、ずっと伸ばしていた黒髪のストレートを、ざっくりと切り落としたのだから。
火憐同様、あれは、小学校の頃から一貫させていた髪型だったと間く――勿論戦場ヶ原は火憐と違って馬鹿ではないので、あいつが自分のポニテをそうしたように、あの見事なロングヘアを衝動的に切り落としたというわけではない。
ちゃんと自ら決意をし。
予約をしてからヘアサロンに行って。
正当なる対価を支払って――戦場ヶ原は、その髪をショートに揃えてきたのだ。
例の前髪直線もやめてしまった。
シャギーとかめっちゃ入ってる。
もうギッザギザである。
のこぎりみてえ。
羽川翼、神原駿河、戦場ヶ原ひたぎと――これで直江津高校・前髪直線組は、一人もいなくなってしまったわけで。
それについては寂しい限りだ。
戦場ヶ原を『最後の直線』と呼ぶことはもうないのだと思えば、素直に遺憾《いかん》の意を表明したい。
神原が今髪を伸ばしている最中なので(ちなみに神原は現在、ふたつ結びのお下げ、いわゆるローツィンだ。ボーイッシュな口調とのギャップがかなり萌える)、だから戦場ヶ原の髪は、神原よりも短くなってしまった。
失恋で髪を切る女子がいるのなら、恋のために髪を切る女子がいてもいいでしょう――というのが戦場ヶ原の言い分である。
失恋で髪を切る女子、というのは、きっと、文化祭後にヘアスタイルを変えた羽川のことを念頭に置いての発言だったのだろう。
彼女も。
それによって、ひとつのけじめをつけていた。
真面目に過ぎる彼女は、あれから――自分に対する拘束を緩めた。
自分に対する厳罰化に歯止めをかけた。
言うならば、羽川もそれ以来、普通の女の子になったのだった。
あるいは、僕にとってのロールモデルが羽川であったように、戦場ヶ原にとってのロールモデルも羽川なのかもしれなかった。
普通。
その二文字は、羽川や戦場ヶ原のような生き方を、短時間であれ長時間であれしてきた人間にとっては――決して当たり前を意味しはしないのである。
恐るべき高望みで。
悲願と言ってもまだ足りない――のだから。
だから。
いずれにしても、そりゃあ恋のために髪を切るとまで言われたら、付き合っている対象である僕としては悪い気はしないけれど(というか、レトリック上寂しい限りだとか遺憾の意だとか言いはしたものの、個人的な好みの話、僕は女子がヘアスタイルを変えるのが結構好きだ)、しかし戦場ヶ原が髪を切った理由は、やはりけじめとしての側面が大きいのだろうと僕は揣摩《しま》憶測する。
潔さとしての散髪だ。
セットではなくリセットである。
何故なら、あの前髪直線のロングヘア――姫カットと言えば聞こえはいいが、しかし今時珍しいスタイルの、日本人形のような古風な髪型は、今はもういない戦場ヶ原の母親が、幼い頃の彼女に対して、よく似合うと言って施《ほどこ》してくれたものだからだ。
戦場ヶ原は大人っぽいヴィジュアルの割にロリっぽい髪型をしているとは思っていたが、本当に掛け値なく、ロリ時代からの髪型だったわけである。
それゆえに、ある視点において――大仰な言い方をしてしまえば、思い出どころか、それは自己証明としての髪型だったのかもしれない。たかがヘアスタイルのことを大袈裟《おおげさ》に言い過ぎだと笑われるかもしれないけれど――戦場ヶ原本人にしてみれば、一体、他にどれほど頼れるものがあっただろう。
それを変えずに貫いた中学時代。
それを変えることも忘れた高校時代。
戦場ヶ原がヘアスタイルをチェンジしたことは、単なるお洒落や、ちょっとした気分転換以上のターニングポイントなのだと思う。
忘れるでも背負うでもなく、受け入れて。
もってそれを過去とする。
そういう意味では、戦場ヶ原ひたぎは変わったのでも、更生したのでも、戻ったのでも取り返したのでもなく――ましてデレたのでもドロたのでもなく。
コンプレックスを克服し。
立派に成長を果たしたと、そう言うべきなのだ。
…………。
まあぶっちゃけキャラとしては炭酸が抜けてしまって、かなり魅力がなくなってしまったわけだけれども、人間としての深みはましたのだから、それでよかろう。
それは羽川についても言えることだけれど、いつまでもあんな極端なキャラでい続けろというのは、一種の悪夢でしかない。
彼女達はああやって、しなやかに成長しなければならないのである。
不老不死でもあるまいし。
実際問題、それこそ貝木泥舟でもない限り――そんな戦場ヶ原の成長を、つまらない女になったなどと言う者はいないはずだ。
そうでなくとも、あんな名字が見本みたいな奴と意見が揃ってたまるものか。
そう言えば、以前羽川が戦場ヶ原を評して、中学時代よりも高校時代の彼女のほうが、ずっと儚《はかな》くて綺麗だ――と言ってたけれど。
最近、その言に重ねて、羽川はこう続けた。
「今の戦場ヶ原さんが、今までで一番いい感じ」
うん。
いつかこんな日が来ると思っていた。
こんな日が来ると、願っていた。
こんな日を信じていた。
おめでとう、戦場ヶ原ひたぎ。
そしておめでとう、僕。
命の危険がなくなったという個人的な安堵《あんど》は差し引くとしても、そういうのを見ていると、戦場ヶ原のそばにいる者として素直に嬉しいと思うし、僕もしっかり生きなきゃなあ――なんて、思わされてしまうのだった。
別に死んでるわけじゃあないけれど。
阿良々木暦の怪異に関するコンプレックスは、未だ――まるでちっとも、小指の先ほども克服されていないのだから。
重要度からすると全然|閑話《かんわ》などではないけれど、まあ、そんなところで閑話休題。
それはさておき、である。
その後、僕は火憐を無事に(肩車されたままで)神原家まで送り届け、門のところで双方を双方に紹介したのだった。
「こちら直江津高校二年生の神原駿河さん。変態だから気をつけろ。こちら栂の木第二中学三年生の阿良々木火憐さん。馬鹿だから気をつけろ」
悩んだ挙句《あげく》、諦めて率直に紹介することにした僕である。
バレる嘘はつかぬが鉄則だ。
いいように言っても仕方ねえや。
説明不足で、あとでクーリングオフを申請されても困る。
両者、返品は受け付けない。
「いやあ」
「いやあ」
……。
シンクロして照れてんじゃねえよ。
褒めてねえし。
まあ、これは付け足しのような余談だけれど、余談と言うより冗談だけれど、紹介したところまでで僕の役割は終わりだ、まさか神原も僕の妹を取って食ったりはしないだろう(もし自制心不足だったところで、火憐の戦闘スキルがあれば抵抗は可能なはず)と判断して帰ろうとしたとき、あろうことか神原が火憐を家の中に招きいれようとしていたので、僕はその蛮行を、彼女の背中に飛び蹴りをくれることで食い止めた。
火憐の貞操を慮ってのことではなく、神原の体面を慮ってのことだ。
七月の末に片付けてやったのが今のところの最後だから、次回の清掃予定日は十五日、つまりは明日で、だから現時点のお前の部屋は最高に煮凝《にこご》りっぼく散らかっているところじゃねえかよ、という意味を込めた、愛の飛び蹴りである。
「神原先生に何してんだコラぁ!」
火憐が、羽川の悪口を聞かされたときの僕ばりに激昂して、飛び蹴りから着地する前の僕に膝蹴りをかました。
どんな瞬発力だ。
着地失敗。
倒れたままでいると追撃が来るかもしれないと思って即座に起き上がった僕の目に飛び込んできたのは、
「阿良々木先輩に何をするか!」
と、神原が火憐に説教をしている画だった。
つーか僕の飛び蹴りが神原に何のダメージも与えていない……だったら僕、何のために火憐に蹴られたんだよ。
……ううむ。
なんていうか、今ここにとんでもない三角関係が成立してしまったぞ。
三角関係っていうかこれじゃ三竦《さんすく》みだけど。
三角無関係かもしれない。
そんな感じで。
一人、逆立ちもなし、肩車もなしで家路についたところで――お待ちかね。
八九寺真宵の登場である。
僕の家と神原の家の中間地点あたり――影縫さんに声をかけられ道を訊かれた、例の郵便ポストを過ぎたあたりの、とある、曲がり角。
リュックサックを背負ったツィンテイルの小学五年生。
八九寺を発見したのだ。
八九寺真宵が現れた。
しかし八九寺真宵はまだこちらに気付いていない――で、ある。
「…………」
僕は、やや沈黙し。
そしてはぁー、と大きく息を吐いた。
やれやれ。
どうせみんな、ここで僕が喜び勇んで八九寺に飛び掛かるとでも思ってるんだろうな。
まだ僕の存在にまるで気付いていない、あの危機感がまったくない生まれたての小鹿みたいな少女に、後ろからしがみつきでもして、しこたま頬ずりでもすると、そんな風に思われちゃってるんだろうな。
本当、やれやれ。
いや、認めるよ?
確かに僕にはそういう時代もあった。
ありました。
でもそれはもう昔の話ね。
カコバナって奴。
僕という人間が未完成だった頃。
いや、未完成というより未成熟だった頃だ。
まだ精神的に成熟していないボーイだった頃の、遥か遠くのエピソードなんだよ。
よければその頃のことを回想してひも解いてみたいって気持ちがないわけじゃないが、うーん、悪いけどよく憶えていないっていうのが正直なところかな。
だから、そんな枝葉《えだは》のごとき昔の話をあれこれ蒸《む》し返されるのは、まあちょーっと気分がよくないかもしれないなあ。
小さいと思われるだろうけどさ。
ガキンチョのときの話をことあるごとに引っ張り出されても、こちらとしてはやっぱり挨拶に困る。初恋の相手が幼稚園《ようちえん》の先生だったとして、どうだい、成人してからその話を持ち出されたら、誰しも困惑するだけじゃないか。
もう僕は大人だからね。
そういう時代は終わったのさ。
当時の阿良々木暦と現在の阿良々木暦は、もう生物学的に別人と言っていい。だって人体を構成する細胞は、次々と入れ替わっていくんだから。
いつまでも同じじゃいられない。
まああの時代はあの時代で楽しかったけれど、しかし人間、どこかで幼稚園からは卒業しないといけないんだ。
そんなこともあったな。
回想シーンの感想は、その一言でいいんだよ。
それが生きるってことなんだ。
悲しいかな、でもそれもやむ方《かた》ない。
成長なくして人生はないじゃない。
戦場ヶ原ひたぎは成長した。
羽川翼も成長した。
だから僕も成長しなきゃって、さっきそう思ったところじゃあないか。
コンプレックスは克服しなくちゃいけないんだ。
ロリコンとかね。
まあ小学生の頃とか、緊急避難時の三原則である『おかし(=押さない、駆けない、喋らない)』を、僕は間違えて『おかし(=幼い、可愛い、少女)』と憶えていたことがあったけれど、それだって今となってはいい思い出。
そう、いつしか人はみんな、趣味も嗜好《しこう》も変わっていく。
移ろっていくのさ。
いつまでも変形ロボットやリカちゃん人形で遊ぶ子供はいないだろう?
卒業は必然的な義務なのだ。
大体今時ツインテイルの小学生萌えとか、そんな奴はおかしいよ。
ツインテイルて。
小学生って。
趣味が古いと言えよう。
オールドセンスだ。
僕はもう八九寺真宵という少女に対しては、何の興味も持っていないのだ。そう、確かに見方によっては、僕は昔、あいつのことが大好きだった頃が、ひょっとしたらあったかもしれない。あったかもしれないけれど、もうそれは取り返しのつかないほどの、大局的に見て紀元前とそんなに大差ないほどの過去、英語で言うところのパストって奴だ。
もう今の僕は、そうだな、司馬遷《しばせん》にしか興味がない。
司馬遷萌えだ。
うん。
まあ。
まあまあ。
まあまあまあまあ、そうは言っても、逆に八九寺に対して興味を失っているからこそ、だからこそ、ここであえて八九寺を無視する理由も特にないのかもしれないな。
気にしてないんだから無視もしないよ。
無視なんかしたら、それは逆に、変に意識しているからだなんて、そんな厚かましくも図々しい勘違いをされる可能性があるじゃないか。
無視とは、つまり一目置くという意味だと、そういうものの見方もある。
それを思えば。
それを思えばだよ?
同窓会にでも出席するようなお手軽な気持ちで、昔のことを引きずっていないという表れとして、八九寺のことなんて意識していないというわかりやすい証明として、ここは軽く声を掛けておくというのが賢明な方策なのかもしれないなあ。
過去は過去として尊重しないと。
成長や変化も大切だけれど、懐《なつ》かしさって感情も確実にあるし、うん、旧交を温めるってのも大事なことだ。
ノスタルジィ。
誰だって、アルバムを眺めることくらいするだろう?
思い出のアルバムだ。
温故知新《おんこちしん》と言うじゃないか、それでこそ、人生を先に歩めるというもんじゃないのかな?
前ばかり向いていても、未来が見えるわけじゃないんだぜ?
過去を忘れることではなく、過去を尊重することによってこそ、人間の精神には真の成長があるということだ。
よしよし、そういう結論が出てしまったのなら僕ももう逆らうまい、まったくもってやぶさかじゃない。早く家に帰って勉強しなくちゃ羽川に怒られちゃうんだけれど、ほんの一分だけ、八九寺のために時間を使ってやるとするか。
「さて」
前振り終了。
そしてここからドラマが始まる。
待ちかねたのは僕も同じだ。
僕は前振りにかけた時間を取り戻すがごとく、疾風《はやて》のように駆けた。
光速の壁は越えられずとも、高速道路の壁くらいなら越えられたかもしれない。
さあ!
思い切りしがみつくそ!
頬ずりするぞ!
触るぞ、揉むぞ!
心行くまで愛するぞ!
今日こそ僕は、八九寺を抱く!
「はちくじぃ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ぐあああっ!」
そして今まさに、僕の魔手が八九寺を襲おうとしたその瞬間、僕は何かに足を取られ、アスファルトで構成された地面に、おろし金で磨《す》り下ろされる林檎《りんご》のごとくぶっ倒れた。
ざりざりざりざり、と、すげえ音がした。
自分の肌から。
肌っつーか肉から。
「う、うわあっ!? 阿良々木さん!?」
その音に八九寺が振り向いて、驚きの声をあげた。
今までで一番驚いていた。
気付かれてしまった……。
これでもう八九寺にしがみつけない。
頬ずりできない。
触れない、揉めない。
愛せない。
抱けない。
なんて絶望だ……たまたま八九寺に会えたというこの素晴らしき幸運を、こんな形でふいにしてしまうだなんて……。
幸運の天使には前髪しかないと言うが、その言葉は今この状況にこそ相応《ふさわ》しかった。
畜生。
なんでそんな変な髪型してんだよ。
ハイセンス過ぎんだろ。
僕はすり下ろされた肌の痛みよりも、その落胆にこそ押し潰されて、しばらくの間、そこから立ち上がることができなかった。
身と心と同様に着ていた服さえもズタボロになったが、そんなことはまったく気にならなかった。
気になるのは心の痛みだけだ。
痛い。
ああ、痛いほど一人ぼっちだ。
と、ふと気付く。
全身全霊の痛みの中、ふと、僕の皮膚感覚において、何やら痛み以外のニュアンスがあることに――ふと気付く。
それは足首だった。
僕の足首、靴下の辺りをがっちりつかむ、小さな手があった。
しかしそれをかろうじて視認できたのはほんの一瞬のことであり、その小さな、日本人のものとは思えない真っ白い手は、すぐに地面へと沈み込んで行った――いや、地面に沈んだのではない。
それは影に沈んだのだった。
僕の影に。
僕の陰に。
「……っつうか忍! てめえの仕業か!」
そのまま一生、地面に貼り付いたままで二度と立ち上がれないのではないかと思っていた、這《は》いよる混沌とは僕のことかと思っていた僕だったが、しかし怒りに任せて勢いよく身体を起こして、地団駄《じだんだ》を踏むように、ツイストを踊るように、自分の影を踏みまくった。
こんなことをしても忍には何のダメージもないのだが、そうせずにはいられなかった。
「くそっ! こいつ! こいつ! こいつ! 何の真似だ! 何の真似だ! 邪魔《じゃま》しやがって! 僕の人生の最大目標を邪魔しやがって! もう血ィやんねえぞ、この金髪金眼! お前のことなんか見捨てときゃよかった!」
傍目《はため》にはまるっきり理解できない、沙汰《さた》の外としか言いようのない謎の奇行を繰り返す僕である。しかも僕の影からは何のリアクションもなかった――さっきから完全に狂人の振る舞いだ。
むむう。
だんまりを決め込むつもりらしい。
なんて勝手な奴だ。
「あ、あのう――」
と。
背後からそんな声。
「あのう――木々良々《ききらら》さん」
八九寺である。
僕のほうが八九寺に、後ろから声を掛けられるとは珍しい――勿論八九寺は、僕に抱きついてきたりはしなかったけれど。
むしろなんだか距離感がある感じだ。
「……もうほとんど原形が残っていないから果たしてそれが僕の名前の言い間違えなのかどうかも定かじゃあねえが、しかし八九寺、僕の名前をファンシーグッズのリトルツインスターズみたいに言い間違えるな。憶えてくれるまで何度でも繰り返すけれど、僕の名前は阿良々木だ」
言いながら、僕は振り向く。
地団駄ツイストする足を止めて。
「つーかお前、さっきすっ転んだ僕に対して驚きのリアクションを取るとき、ちゃんと阿良々木さんって言ってたじゃねえか」
「失礼。噛みました」
「違う。わざとだ」
「はにかみました。えへっ!」
「可愛過ぎる!」
僕も驚きのリアクションを取ってしまった。
なんだこいつ。
パターンを変えてきやがった。
突然の振りに対応できなかった僕が何も言えずにいると、
「はー。阿良々木さんは相変わらずアドリブに弱いですねえ」
と、踵《きびす》を返しててくてく歩き始めた。
って待て。
あんな笑顔を見せておいて、僕を置いていく気か。
くそ、最近八九寺からの、掛け合いにおける僕へのハードルが、どうにも高過ぎるような気がする。
こいつは僕に一体何を求めているんだろう。
僕にどういうキャラになって欲しいんだ。
あんな咄嗟の振りにすぐに正しいリアクションを取れる奴なんて、羽川くらいのもんだぞ。
置いていかれたところで、所詮は小学生の歩幅である。
すぐに追いついた。
ツインテイルを引っ張ってやろうかとも思ったが、それはまあ、ただのいじめになるそうなのでやめておくことにした。
前に激怒されたとこだしな。
ふーむ。
考えてみれば、あれだな。
僕の周囲の人間で、初期設定から髪型が変わってないのはこいつだけなんだな。
先述の通り戦場ヶ原もざっくりショートにしたし、神原は変遷を経て二つしばりのお下げ。千石は最近は長過ぎる前髪をカチューシャであげていることが多くなり、羽川は三つ編みどころか眼鏡もやめてしまっている。
火憐は今朝勢いで切ってしまったし、そうそう、月火も八月の頭に髪型を変えている――もっとも、月火が髪型を変えるのはいつものことなので、あいつのことはそんなに気にはならないが。
まあ、月火のイメチェンについては後に触れる。
で、僕は春休み以来髪を伸ばしっぱなしだし、そして忍にとってはヘアスタイルなんて、あってないようなものである。
そういう意味でも、八九寺真宵は貴重なキャラだった。
……もっとも。
その変化のなさ――恒常性は、八九寺にとって、決していいことではなく。
むしろ悲劇的なことなのだけれど。
いつまでも一緒で。
どこまでも一緒で。
変化も変質もできない。
永遠に――変われない。
蝸牛。
ぐるぐる渦巻く――蝸牛。
「おい八九寺。肩車してやろうか?」
「はい?」
「いや、別に自然だろ。高校生のお兄ちゃんが、知り合いの小学生を楽しく肩車してあげるだけのことじゃないか」
「それ、楽しいのは阿良々木さんだけだと思いますが……」
苦笑いする八九寺。
僕なりの励まし、僕なりの慰めが、何の効力も発揮しない。
気持ちさえ伝わっていない感じだった。
気持ち悪がられていると言ってもよかった。
「ていうか時節柄、発言には注意してくださいね。阿良々木さん、わたしに対しては本当、犯罪者じみてきてますから」
「確かに、僕の愛情がもう犯罪レベルだとは、巷《ちまた》ではよく言われているらしいな。まあ仕方あるまい。強過ぎる愛は、時に国さえ滅ぼすらしいゆえに。が、僕にかつての為政者《いせいしや》達と違うところがあるとすれば、それを傾国《けいこく》の美女などと、決してパートナーの所為《せい》にはしないところだ。あくまでもこの僕が傾国の男子であっただけのことよ」
「あっはっは。うざいですねー」
快活《かいかつ》に笑われた。
まあ笑ってくれるならいいや。
いずれにしても、八九寺にとって、その辺の事情は僕に励まされたり慰められたりするようなことじゃないんだろうし。
余計なお世話というか、普通に心外だろう。
如何せん僕のキャラ作りも、適当過ぎるしな。
先程、司馬遷がどーとか思ってしまったのが悪影響を及ぼしている感じだった。
「しかし伽羅蕗《きゃらぶき》さん」
「いや、八九寺。僕の名前を蕗の茎を醤油《しょうゆ》で煮つめた、ちょっとした通好みの食材っぼく言い間違えるな。僕の名前は阿良々木だ」
「失礼。はにかみました。えへっ!」
「一個飛ばした!」
端折《はしよ》ってんじゃねーぞ。
確かにその笑顔じゃ、大概のことは許せてしまえそうだが。
「んー。食材シリーズで言うなら、アオヤギのほうがわかりやすかったですかね」
「自分に厳しいな、お前……」
僕にも厳しいけど。
「しかし阿良々木さん、こんな真昼間からぶらぶらと町中を俳徊《はいかい》するとは、余裕ですね。受験勉強は諦めたのですか?」
「ぶらぶらと俳徊って」
「頑張ってる振りをして羽川さんの気を引くの、飽きちゃいましたか」
「人間きが悪過ぎるわ!」
「庭訓三月四書大学《ていきんさんがつししよだいがく》と言いまして。まあ羽川さんはいつまでも阿良々木さんの演技に騙されるようなかたではありませんからね。おおかた、受験勉強を名目に羽川さんのキャミ姿を眺めてたのがばれちゃったんでしょう? 阿良々木さんのモチベーションの半分は、羽川さんのおっぱいに関係していますからねえ」
「僕はお前から見てどんな人間なんだよ!」
「残りの半分は不肖《ふしょう》わたしのメリハリボディ」
「お前のボディのどこらへんにメリとかハリとかあるんだよ。お前のボディはなんていうかこう、おいしいビーフシチューが作れそうなくらいの寸胴《ずんどう》ボディじゃねーか」
小学生にしては発育がいいけど、あくまで小学生にしてはだろ。
あとなあ。
羽川はイメチェンこそ果たしたものの、プライベートが制服姿なところは変わってねーからな。
キャミはおろか、本当、僕は未だに羽川の私服を見たことがないんだよ。
あいつどんな私服着てんだろ。
…………。
それ以前に、どうかな。
あいつ、そもそも私服……持ってんのか?
複雑なる家庭の事情があるとは言え、まさかそこまで激しいネグレクトを受けてはいないはずなんだけれど……。
あれ?
これ、結構、闇じゃね?
「いや、でもねー、阿良々木さん。少し真面目な話をさせてもらいますけれど」
八九寺が真剣な面持《おもも》ちで言う。
前振りモードだ。
この展開で真面目な話が始まった例《ため》しがない。
「ファッションとかヘアスタイルとか、そんなころころ変えられたら、非常にアニメにしづらいんですよね」
「またアニメの話かよ!」
「映像を使いまわせないでしょ?」
「使い回しを前提に考えるな! コストダウンを図るんじゃねえ!」
「やれやれ。使い回せるのは、もうわたしの変身シーンくらいですね」
お前の変身シーンなんかねえよ。
お前はいつから魔法少女になったんだ。
「けどまあ、確かにアニメってあれだよな。キャラの服とか髪とか、いつも一緒だよな。ものによったら、髪結んだままで寝てたりするよな」
「そういうのって制作現場の都合もあるんですけれど、しかし言ってしまえば、視聴者側の問題でもあるらしいですよ」
「あん?」
「デザイン変えると、本当に誰だかわからなくなっちゃうんですって」
「……」
そんなわけねーだろ、って言いたいけど。
でも、わかんない人には、ガンダムのデザインが全部同じに見えたりもするらしいしな。
女の子のキャラは皆同じに見えるとか。
よく聞く。
「まったくもう。本当、皆さんがふざけてばっかりだから、わたしがこんな厳しいことを言わなきゃいけないんですよ? ですからちょっとは考えてください。アニメには二期も三期もあるんです。そのとき、誰だかわかんないようなキャラが画面上を跳梁《ちょうりょう》跋扈《ばっこ》してたら、視聴者チャンネル回しちゃいますよ」
「ねぇよ。二期も三期もねえよ。一期一会《いちごいちえ》だよ」
いやらしい計算すんな。
あとチャンネル回すって。
表現が古いよ。
こいつの家、ひょっとして電話もダイヤル式なんじゃねえの?
「だったら戦場ヶ原とか最悪だな。あいつ、髪切ったのこそ最近だけど、髪型自体は昔っから結んで解いて、色々アレンジしてたもんな」
「アニメで再現するのは大変ですよ」
「だよなー」
「ていうか、それ以前にあのかたはアニメで放映して大丈夫なんでしょうか?」
「……んー」
即答できない。
無事に更生した今だからこそ思うことだけど、初期のガハラさんのキャラって、本当に滅茶苦茶だったからな。
でもあいつが登場しなかったら、さすがに話が成立しない感じだし。
「いえいえ、なんだったらあれですよ? アニメ版では、わたしがヒロインを務めてあげてもいいんですよ?」
「何気な野心を見せるな」
「いいじゃないですか。あんな名ばかりヒロインのことはもう忘れましょうよ」
「更生した人間に酷いこと言うなや!」
「だからですよ。あの人、更生して面白くもなんともないキャラになっちゃったわけでしょ?」
「お前は貝木か!?」
「ふっふーん。わたし、キャミとか着ますよ? 着ちゃいますよ?」
「お前のキャミに需要とかあんのか?」
「ブラトップですよー?」
「ブラトップとかさあ。需要はともかく、自分で言うのもなんだけれど、僕の前でそんな挑発的な衣装なんか着たら、お前ただじゃ済まないぞ」
「必然性があれば脱ぎます!」
「お前はお前で放映できないな」
危険な小学生だ。
頼むからスポンサーが撤退するレベルのはっちゃけ振りにならないように、節度ってもんを考えてくれよ。
「貧乳《ひんにゅう》はブルータスだ、お前もか!」
「あ、ごめん八九寺。そういう笑いには僕は付き合えないんだ。お前も女の子なんだから、下ネタとかやめたほうがいいと思うよ」
「貧乳トークに対する食いつきが悪過ぎますっ!?」
「いや、僕、お前のことは好きだけど、別につるぺたのロリが好きってわけじゃないんだよ」
誤解されがちだけどね。
ぱっつんぱっつんのメリハリボデイが好きなのだ。
「お前だって小学生にしては乳がでかいほうだから相手してやってるだけなんだぜ。あくまでもお前の、現時点においてはあってないようなその胸の、将来性に期待しているに過ぎない」
「人類の発言じゃありませんね、それ」
「まあでもあれだぜ、八九寺。僕は戦場ヶ原と付き合ってるし、羽川のことが大好きだけれど、結婚するならお前だと思ってるぜ」
「わたしの大事な人生初プロポーズを、あなたが奪わないでください、阿良々木さん」
ていうか小学生にプロポーズしないでください、と八九寺は首を振った。
むうう。取り合ってもらえない。
僕の胸に溢れるこの情念は、どうすれば八九寺の胸に届くのだろう。
直に触れてみればいいのだろうか。
揉めば伝導するのだろうか。
「おやおや? なんだか嫌な気配を感じますよ?」
「気をつけるんだな、八九寺。僕はいつだってお前の胸を狙っているぜ。ちょっとでもきっかけがあればすぐに触りにいくからな」
「貧乳に興味|津々《しんしん》じゃありませんか。興味津々、日本全国津々浦々です」
「日本中の全ての男子がお前のあってないような胸を狙っていると思え」
「外出できません……」
ていうかその国は滅びます、と八九寺。
ううん。
まあ国の前に、滅んでいるのは僕の好感度のような気もするけれど。
まだ残ってるかなあ。
僕の支持率、何パーセントくらいなんだろう。
「まあでも、そんなこと言い始めたら、神原さんも千石さんも、忍さんだって、放送コード的にはかなり際どいですよね」
「そうだな……」
大人しげな千石あたりが、実は一番危険だったりするんだよな……。
あいつ神社の境内《けいだい》でスクール水着とか着てたぞ。
どんなグラビア撮影だよ。
改めて考えてみると、とんでもなく酷いメンバーだ。まともな感性のキャラがまるで見当たらないじゃないか。
「生き残るのは羽川だけか……」
「あの人はあの人で、生《お》い立《た》ちが半端なく暗過ぎるでしよう?」
「うん……暗いっつーか、黒いな」
過去が黒い奴か腹黒い奴か、エロ黒い奴かしか出てこないのかよ。
どんな物語だ。
「羽川に関しちゃ、猫の問題もあるしなあ」
「ああ。富山ブラックさん」
「ブラック羽川さんだ」
全然違うし、富山ブラックにそこまでの知名度はねえよ。
富山県人とラーメンマニア以外はキョトン呆然の、まったく通じないボケだ。
「あ、そう言えば、こないだアニメ版の阿良々木さんのデザインを見ました」
「何?」
「随分とイケメンにデザインされていたようですよ。わたしとしては残念な結果でちょっと面白くありませんけれど、まあよかったですね。命拾いしたじゃありませんか」
「はあん……」
コメントに困る振りだ。
僕は見てねえし。
イケメンって。
「こう、なんかね。昔の千石さんじゃありませんけど、髪の毛で左目とか隠しちやって、ニヒルな感じでした」
「ニヒル? ああ、そう言えば僕、初期はそんなキャラ設定だったな……」
クールな皮肉屋だったはずだ。
今では見る影もないっつーか。
あっという間にそのキャラは捨ててしまった気がするけど。
つーか八九寺を相手にするようになってから捨てたんだよな。
罪深い小学生だ。
「ニックネームは間違いなく鬼太郎《きたろう》です」
「……間違いなくって」
まあ、確かに妖怪モノだしな。
そういうこともあるかもしれない。
じゃあ羽川が猫娘《ねこむすめ》だ。
戦場ヶ原は……。
…………。
夢子ちゃん?
あいつがあ?
「でも確かに、言われてみればあつらえたように阿良々木さんに似合ってますもんねえ。その虎縞《とらじま》模様のちゃんちゃんこ」
「着てねえよ!」
どんな高校生よ、僕!
リモコン下駄《げた》も履いてない!
妖怪アンテナとか立たない!
「阿良々木さん、そこはちゃんと忠実に合わせていただかないと困ります。あんまりわがまま言っちゃ駄目です」
「なんで現実の僕がアニメに忠実にデザインされなきゃなんねーんだよ」
「いわゆる『メデイアミックスが始まると原作が残念なことになる』法則ですよ」
「なんだその怖い法則は!」
「……まあ本当に残念なことになるのは原作じゃなくて原作者なんですけどね!」
「恐怖過ぎる!」
「おい、暦!」
「似てる!」
けど活字じゃあ、物真似《ものまね》かどうかさえも伝わらない!
僕がただ呼び捨てにされただけみたいだ!
「まあ目玉のお父さまの物真似が似ない人はいませんけどね」
「確かにそうだ……でも僕、鬼太郎は好きだけども、だからってニックネームが鬼太郎になるのはちょっとやだよ」
「左様ですか」
「つーか八九寺。僕のデザインがイケメンかどうかは脇に置いといてだ。身長だよ身長。身長はどうなった」
「んー。そこは原作に忠実でした」
「くっ……!」
駄目か。
駄目だったか。
そうか、いよいよ僕の身長の高さ(低さ)が、衆目に晒される日が来てしまうのか……諦めが肝心とは言え、忸怩《じくじ》たる思いがあるなあ。
あーあ。
これからはずっと火憐の奴に肩車させて過ごそうかなあ。
コンプレックスの克服とか言っても、怪異に対する分はともかく、身長に対するコンプレックスは、解消のしようがない気がする。
単に気にしなきゃいいだけなんだろうけど。
「わたしも阿良々木さんとは浅からぬ縁のある身ですからね。なんとか彼の身長を二メートル越えに設定してはもらえないものかと交渉してみましたが、無理でした。真実は常にひとつだそうです」
「いや、僕はもう、お前がアニメに対して所有している権限のほうが気になってきたよ」
お前はプロデューサーか。
八九寺Pか。
「ま、わたしが本当に気にしているのは、エンディングでわたし達はどんなダンスを踊るのかということに尽きますけどね」
「お前は本当にそれしか気にしてないよな」
「普通はブレイク・ダンスを選んでしまいそうなところですけれど、どうでしょう、ここは思い切り奇をてらってしまって、阿波踊《あわおど》りなんて如何《いかが》ですか?」
「斬新《ざんしん》だ……」
つーか、さすがにメタ発言が多過ぎる。
そろそろついてこれない人も出てくるぞ。
「あっはっは。まあほら、わたしはキャラ的に、メタな発言をしても大丈夫な立ち位置ですから」
「そうなんだけどさあ」
実際、Pみたいなもんだしな。
羨ましい立場だ。
まあ、それもまた、羨ましがってばかりはいられないことなんだけれど。
どうしたもんか。
「しっかしお前、前に随分と思わせぶりなこと言ってた割に、全然この町からいなくなったりしないよな。むしろ会う頻度は上がってるぞ。八月に入ってからやけに会ってる気がする」
「ええ、そうなんですよね。とりあえず思いつきで伏線を張ってみたものの、わたしも一体どうしたらよいものか、途方にくれています」
「新聞連載の末期状態かよ」
意味もなく引いてんじゃねえ。
まぎらわしい奴だ。
「だからわたしも編成局長には掛け合ったんですよ。いくらアニメ化するからって原作を引き伸ばしてもいいことないって。いいことないっていうか、やることないって。アニメと原作は別腹だって」
「スイーツかよ」
「でも駄目でした。わたしの意見は通りませんでした。上からはせっつかれるし下からは突き上げられるし、テレビマンとして、もう散々です」
「板挟みになってんじゃねえよ、八九寺P」
「毒を喰らわば皿まで。こうなったら更なる続巻を出すしかありませんねえ……他社から」
「なんで他社から!?」
「原作が残念なことになったのです」
「なってない! なってないよお!?」
「●●●文庫あたりですかね?」
「伏字にすんな! やましいことなんかねえよ!」
「富士見ファンタジア文庫あたりですかね?」
「伏字にしてくださいお願いします!」
「ところで乾拭木《からぶき》さん」
「確かに僕は明日、神原の部屋を掃除する予定だけども、だからと言って別に掃除好きの掃除マニアってわけじゃないんだから、乾いた布での清掃法みたいな名前で僕を呼ぶな。僕の名前は阿良々木だ」
「失礼。噛みました」
「違う、わざとだ……」
「はみました。はむっ!」
「あまがみっ!?」
よっし!
今回はちゃんとアドリブに対応できた!
僕もやられっぱなしじゃない!
ちゃんと育ってるぜ、阿良々木暦!
「ときに話は違いますが、阿良々木さん」
しかし八九寺はそんな僕を褒めもせず、そのまま会話を進行させる。
叩いて伸ばすタイプのプロデューサーらしい。
「阿良々木さんはロールスロイスの都市伝説《としでんせつ》をご存知ですか?」
「は? ロールスロイスって……えーっと、その、クルマの?」
「ええ。ふむ、その反応からすると、どうやらご存知ないようですね」
「うん。ま、思い当たる節はねーな」
「はーあ。そうだろうとは思いました。どーせ阿良々木さんは都市伝説なんて、斧男くらいしか知らないんでしよう?」
「そこまで見下げ果てられることか!?」
都市伝説。
街談巷説。
道聴塗説。
確かに――忍野ほど詳しいわけではないけれど。
「意地を張らなくてもいいですよ、阿良々木さん。変に知的ぶっても恥をかくだけですから。わけ知り顔でゲーム理論を引用してはみるけれど、実は囚人《しゆうじん》のジレンマしか知らない阿良々木さんなんて、見ていて痛々しいですよ」
「合理的な豚《ぶた》くらい知ってるよ!」
羽川から聞いただけだけど。
しかも内容は忘れた。
あの清楚《せいそ》な羽川さんの口から『豚』『豚』『大きな豚』『小さな豚』『豚が餌《えさ》を食べる』『餌を食べたい豚』『豚が餌を食べたくてスイッチを押す』など、そのような言葉が連呼されるのにすっかりどぎまぎしてしまって、今やそれしか憶えていない僕なのだった。
とても残念な記憶力である。
「砂漠の真ん中に通る道において、ロールスロイスが動かなくなってしまうわけですよ」
八九寺は話を戻して、その都市伝説とやらを語り始める。
「立ち往生《おうじょう》してにっちもさっちもいかなくなり、やむなくドライバーはメーカーに修理してもらおうと、電話をかけるわけですね。すると驚いたことに、場所は砂漠の真ん中だというのに、すぐに航空機で同型新車のロールスロイスが届けられたのです」
「おお。そりゃすげえ」
「いぇ、すごいのはここからなのです、阿良々木さん。無事に家に帰ることができたドライバーなのですが、しかしいつまでたってもメーカーから、その件についての請求書が届かないのです。高級車であるだけに、お金のことはちゃんとしておきたいですからね、しびれを切らしてドライバーはメーカーに再び電話をかけました。するとメーカーは、そんなことは知らない、と言うんです」
「知らないって、ロールスロイス一台空輸しといて知らないわけねーじゃねえか。それともどっか他の会社が新車を届けてくれたってのかよ」
「阿良々木さんと同じ疑問を、当然、ドライバーも抱くわけです。電話口で困惑し、『いや、この間、砂漠でロールスロイスが故障したとき……』と、ドライバーがそう言いかけたところで、メーカーはすかさず一言。『お客様。ロールスロイスは故障致しません』」
「かっけえ!」
さすが!
さすが一流メーカーのサポートは違う!
「いえ、阿良々木さん。都市伝説です」
「あ……そうだっけ」
最初にそう言っていたな。
思わず聞き入ってしまった。
「……で? 確かに面白い話ではあったけれど、八九寺、今、なんでこのタイミングで、その都市伝説を引っ張り出してきたんだ?」
「いえ別に? ただの雑談ですけど?」
「お前さ……、単に僕の名前を噛みたいがためだけに、いきなり脈絡のない雑談を織《お》り交《ま》ぜてくるの、やめろよ」
あるいは八九寺はロールスロイスの話をしたかっただけなのかもしれない――やはりハーレー・ダビッドソンとしては、意識せざるをえないメーカーさんだろうからな。
「では、雑談がお気に召さないようでしたらクイズなど如何でしょう、ドアラ木さん」
「やっぱお前僕の名前を噛みたいだけじゃんという突っ込みをぐっとこらえて言わせてもらうけれど、中日ドラゴンズのマスコットキャラクター風に僕の名前を言い間違えるのもやめてもらおうか八九寺! 僕の名前は阿良々木だ!」
「噛んでませんよ。あなたはドアラ木さんです!」
「断言したっ!」
これまた新パターン!
しかも切れ気味、迫力あるぅ!
「あなたの苗字を阿良々木だと思っているのはあなただけですよ。ほかはみーんなドアラ木さんだと思ってます」
「え。マジで……?」
「本人だからといって自分の名前を好き勝手できると思わないでください。百人中九十九人があなたのことをドアラ木さんだと言うのに、それでもあなたは空気を読まずに自分を阿良々木だと主張し続けるのですか」
「う、うう……」
そう言われると不安になってきた。
おかしいな。僕が噛んでたのかな。
僕の名字は阿良々木だよな……?
「名古屋《なごや》で大人気ですよ」
「ご当地アイドルみたいな感じになってんな……」
「綾羅木《あやらぎ》と噛めば、山口で大人気です」
「ていうか八九寺、クイズはどうした。僕の名前を噛みたいだけじゃなかったと言うのなら、ちゃんと出題しやがれ」
「え? あー、えーっと」
「明らかに今考えてるじゃねえかよ」
「あ、いいのがありました」
ぽん、と手を打つ八九寺真宵。
「あー、でもこれ、阿良々木さんはご存知かもしれませんねえ。ダイ・ハード3という映画で使われてたクイズなんですけれど」
「ダイ・ハード3? ああ、それなら見ちゃってるから知ってるわ。確か主人公の刑事に対して、犯人が色々と難問クイズを出してくるって感じの展開だったよなあ」
「うろ覚えですけれど、確かこんな問題です。『森の中に犬が一匹入っていきました。さてこの犬は、森のどこまで入っていけるでしょう?』」
「……?」
そんな問題使われてたっけ。
いや、僕もかの名作のテレビ放映を見たのは中学生のときだから、うろ覚えなのは同じだけど。
「あ、言い忘れました。これ、映画のノべライズ版にしか出てきてないクイズです」
「そんなん知るかよ! 十年以上も昔の映画のノべライズ版までチェックできるか!」
クイズ自体で盲点を突くな!
この国においては、ダイ・ハードの1と2に原作があることさえも、誰も知らんわ!
「あ、でもこれネタバレになっちゃうかもしれないから答を知りたくないかたはここから何べージか飛ばして読んでいただかないと」
「ありがたい気遣いだけどよ」
原典にあたれるかどうかだよな。
「お前は一体何のマニアだよ……で? 答は?」
「手拍子で答を訊かないでください。少しは考えてみたらいかがですか」
「実はクイズは不得意なんだ。頓知《とんち》の利くほうじゃないからな」
「そんなことないと思いますけど……ま、ではタイムアップということで解答です。答は森の真ん中までです」
「へえ。なんで?」
「残りの半分は、森から出ていくことになるからです」
「おおっと」
意外と綺麗な答えだ。
それこそ頓知が利いている。
素直に感心してしまった。いやあ、昔の映画からでも、学ぶものっていうのはあるんだなあ、文化というのはこうして受け継がれていくのか――
「で、確かに面白い話ではあったけれど、八九寺、今、なんでこのタイミングで、そのクイズを引っ張り出してきたんだ?」
「台詞を繰り返さないでくださいよ、阿良々木さん。二回同じ突っ込みを受けたら、あと一回、こちらも繰り返さなくちゃいけないじゃないですか」
繰り返しギャグは三度まで。
鉄板《てっぱん》である。
「まあ、あとでなんとか雑談に見せかけた伏線だったことにしますから、ここは見逃してください」
「今のクイズがどう伏線になるんだよ」
「えーと、ほら。人生という道程は、最初の半分は生きていくものであり、残りの半分は死んでいく道なのだ――とか言ったら、それっぽくありません?」
「それっぽいけど……」
何事も教訓めかすな。
本気でどっかの詐欺師みてーだろ。
「だけどそんなの、吸血鬼みたいな不死身の存在には当てはまらない教訓だぜ」
「ですね。不死身だったら、始まりも終わりもないわけですし」
勿論故障も致しません、と八九寺は言う。
そりゃそうだ。
生き続けることが、そのまま死に続けることと同義――それが不死身の定義である。
故障もなければ取り換えもない。
言うまでもなく、メーカー保証もない。
「まあでも、たまには意味のない掛け合いも交えておきませんと、全部を全部伏線にしちゃったら後半の展開がばれちゃいますからね」
「やらしい計算だな……」
しかもそんな計算をするならするで、もっとうまく演出しやがれ、この素人《しろうと》テレビマン。
いくら策略を巡らしたところで誰一人、ロールスロイスや、森に入っていった犬が伏線かもしれないなんて思わないよ。
「ほら。わたしばっかりに言わせてないで、次は阿良々木さんの番ですよ。ここらでひとつ、阿良々木さんのほうから何か面白雑談をお願いします」
「無茶振りすんな。ねえよ、面白雑談なんか」
「えー」
不満そうなリアクションの八九寺。
「そんな意地悪言わずに、勉強させてくださいよー。阿良々木さんお得意の数学の雑学でいいですから」
「それは今朝妹相手に披露《ひろう》して、外したところなんだよ」
「あー。わかっちゃいました」
と、不満たらたらだった八九寺が、いきなりしたり顔をする。
「アニメ化されることで注目度が上がるからって、阿良々木さんはアナーキーな雑談路線を卒業しようとなさっているんですね。要するにメジャーに魂売っちゃったってことですか」
「人聞きの悪いこと言うなや!」
「いいんじゃないですか? 阿良々木さんがそうしたいならそうしてください。お邪魔しちゃって申しわけありませんでした。ほら、私はもう止めませんからストーリー進めてくださいよ。伏線にも何にもならない馬鹿馬鹿しい掛け合いなんて、もうしたくないんでしょう? 格調高い創作活動で志高く感動の名作でもお作りあそばせばいいじゃないですか」
「僕、そこまで責められるようなこと言ったか!?」
披露すべき数学の雑談を思いつかなかっただけで、ここまでの仕打ちを受けなければならないのか……やっぱ知識って大事だなあ。
冪数《べきすう》の話でもすりゃよかった。
「でもなあ、八九寺。機知の功あれば必ず機知の敗ありっつってな――あんま変な工夫とかしないほうがいいんだよ」
「まあ、それはその通りですね。しかし雑談もクイズも駄目となると――ふうむ。では、阿良々木さん。こんなのは如何でしょう」
八九寺は言って、不意に姿勢を正した。
真面目な顔をして、表情から笑みを消し、どこか優げな、そして寂しげな――そいでいて、とても満足そうに、頷いてみせる。
「阿良々木さん。今日はお別れを言いに来ました」
「泣きそうだあーっ!」
その台詞だけで泣きそうだ!
なんかもう脊髄《せきずい》反射的に!
「わたし……、阿良々木さんのそういうとこ、結構嫌いじゃなかったですよ」
「涙腺《るいせん》が! 涙腺が決壊《けっかい》するっ!」
「本当はもうずっと前に、私は自分の町に帰らなきゃいけなかったんです。阿良々木さんのことが心配で、こんなに時間が経っちゃいましたけど……でも、もう大丈夫。阿良々木さんは、もう一人でも大丈夫です」
「そんなっ! 全部僕のためだったなんてっ!」
「戦場ヶ原さんと幸せに暮らしてください。羽川さんにあんまり無理言っちゃ駄目ですよ。……そして時折、わたしのことを思いだしてくださいね。八九寺真宵という、阿良々木さんととても仲良しだった女の子がいたことを――忘れないでください」
「いっそ殺せえ!」
泣きそうというか、もうガン泣きだった。
いや、いいいい。
伏線なんかやっぱ回収しなくっていいわ。
百万人の僕が百万回死にながら号泣《ごうきゅう》するわ。
お前は僕の名前を噛みたいがためだけに、脈絡のない雑談だけ言っててくれたらいいわ。
「あれだ、八九寺。お前はこうなったら、忍と一緒に僕の影の中で住んじゃえよ。そうすりゃ二度と迷子になんかならねーし」
「忍さんと二人きりというのも、なかなか緊張感のあるシチュエーションです……」
――と。
と。
そんな風に、結局はいつものようにいつものごとく、何の緊張感もなく八九寺と意味なしトークを繰り広げている真っ最中の真っ只中、このまま原稿用紙千枚分くらいは話し続けていられそうな楽しき雑談の、その真っ只中のことだった。
ギャグパートの終了を告げる、八つの喇叭《らっぱ》のような台詞が――隙間を縫うように、さりげなく割り込んできた。
「ねえ、鬼のお兄ちゃん。知ってるんだったら教えてよ。僕の知りたい道のこと――僕はキメ顔でそう言った」
別に郵便ポストの上に立っていたわけではない。
京都弁なわけでもない。
しかし、その子が――八九寺と同世代くらいにさえ見えるその子供が、先程の影縫さんの何か[#「何か」に傍点]であろうことは、直感的にわかった。
「叡考塾って名前の、今はもう潰れちゃってる学習塾らしいんだけど……鬼のお兄ちゃん。それがどこにあるのか、知らないかな――僕はキメ顔でそう言った」
「……」
言っている台詞の割に、無表情な子供である。
つい先頃までの戦場ヶ原を思わせる、平淡で生物性を感じさせない、無機質な無表情。
そして『僕』という一人称の割に、その子供はオレンジ色のドロストブラウスを上着に、可愛らしいテイアードスカートを穿いていたのだった。
……僕っ子だ!
実在したのか、僕っ子!
それこそそんなの、アニメにしかない設定だと思っていたぞ!
そうと認識してしまえば、カラータイツにミュールというその組み合わせも、心ときめかされるものがありまくりだった。
「……少女を前ににわかに浮き足立っているところを見ると、ご自身はロリではないという阿良々木さん発言の信頼度の格付けは、相当低いと見受けられますね……」
僕の隣でぼそりと眩《つぶや》く八九寺。
うるせえ黙れ。
……ん?
あれ?
人見知りという点においてはかつての戦場ヶ原や千石に決して引けを取らないはずの八九寺が、いきなり知らない奴に話しかけられても逃げ出さず、この場にとどまり続けているってのは、これは結構珍しいな。
知り合いなのか?
いや、そんなわけねーか。
「僕の名前は斧乃木余接《おののきよつぎ》」
していると。
子供は名乗った。
訊かれてもいないのに名乗るところは、影縫さんと同じだ。
やはり連れなのだろうか――そう言えば影縫さんも別れ際に、なんだかそんなことを言っていたような気がする。
斧乃木?
変わった名だ……それに、たくましい名だ。先ほど、ちょうど斧男の話も出ていたが――雄々しいというか、猛々しいというか。
あるいはなんだか、八九寺が噛んだ僕の名前みたいである。
斧乃木ちゃんねえ。
「――僕はキメ顔でそう言った」
「……」
口癖《くちぐせ》うぜえ。
語尾《ごび》として長過ぎるだろ。
そう言うからには、せめてキメ顔を見せろ。
演出が中途半端だ。
「そうかい。僕は阿良々木暦だよ」
「よろしく、鬼のお兄ちゃん――僕はキメ顔でそう言った」
「まあ……よろしく」
聞けよ。
そして歌のお兄さんみたいに言うなよ。
大体、影縫さんのときと違って、別に妹に肩車させているわけじゃないんだから、鬼畜呼ばわりはいただけない。
身に憶えのない呼称である。
それとも斧乃木ちゃんは、僕が八九寺にセクハラを、慣行通りに敢行《かんこう》しようとして失敗したところから見ていたのだろうか?
「えっと……叡考塾なら――」
言っても、それはついさっき説明したばかりの道順である。
ソラで言えるくらいだ。
憶えてなければもう一度羽川に電話できるのに、と、ちょっと残念な気持ちになる僕である。
余弦と余接。
名前も似た感じだし、影縫さんとは姉妹か何かで、旅行か何かでこの辺に来て、そんではぐれちゃって、集合場所が例の廃ビルなんだって感じか?
色々無理のある推測だけども。
似た感じなのはあくまで下の名前であって名字は違うし、そうでなくとも姉妹というほど似てないし、ここは旅行で来るような町じゃないし、そうでなくともあんな廃ビルを集合場所に設定する旅行者がいるわけもないのだから。
影縫さん自身、拠点がどうとか言ってたしな。
でもま。
やっぱ、深入りするようなことじゃない。
訊かれたことだけ答えればよいのだ。
運良く予定外に羽川と話せるというアクシデントにつながった影縫さんのときとは違って、今は八九寺との楽しき雑談の最中だ。悪いけども斧乃木ちゃんには、早くこの場からいなくなって欲しいくらいなのである。
でなくとも。
表情がないから本当に困っているのかどうかは微妙だけれど、何も郵便ポストの上に立っているわけではない、親切にしておくのに躍躇する理由はあるまい。
変な口癖は、幼さゆえの変なキャラ作りだと解釈しておいてやろう。
失敗してると思うけどな。
まあ、忠告してやる義理もない。
あえて、斧乃木ちゃんと影縫さんとが本当に連れなのかどうかを確認する必要さえ、今の僕にはないだろう。
だけど、後に僕は、影縫さんと斧乃木ちゃん、二人の関係をきちんと確認しておかなかったことを、とても後悔するのだった――というような展開もないはず。
「ふうん。そうか、ありがとう。助かったよ、鬼のお兄ちゃん、それに蝸牛のお嬢ちゃん――僕はキメ顔でそう言った」
僕から道順の説明を受け終えて、影縫さん同様一度でその複雑な道程を理解したらしい斧乃木ちゃんは静かにそう言うと、実に無愛想に、僕達に背を向けた。
その際、一応深々と頭を下げはしたものの、しかしお礼の言葉もおざなりだったし、別れの言葉もあっけない。
ただ、不思議と嫌な感じはしなかった。
なんというか――それは、礼儀を知らないというよりは、もっと大規模に、文化を知らないという雰囲気だったからだ。
感情を知らないのではなく、感情を伝える術《すべ》を知らない――そんな温度である。
そういう言い方をするなら、本当に以前の戦場ヶ原っぽいところのある子供だった。戦場ヶ原のあの手の性格は、後天的なものだったが――あの子、斧乃木ちゃんの場合は、それが先天的なものである、とでもいうのか。
ぶっちゃけて言えば。
人間という感じもしなければ――生物という感じもしない。
人格のある鉄のような。
あるいは、人格のある刃物のような――女子。
そんな印象を受けた。
と。
「あれ?」
そんな斧乃木ちゃんの姿が見えなくなってから、僕はふと、今更のように疑問を覚える。
「八九寺……あいつ今さっき、お前のこと、『蝸牛のお嬢ちゃん』って呼ばなかったか?」
「は? ああ、ええ」
どうやら僕の間き違いではなかったらしく、頷く八九寺。
「なんですか? 阿良々木さん。相変わらず阿良々木さんは人間が小さいですねえ。独占欲からは何も生まれませんよ? 阿良々木さんがわたしの矮躯《わいく》、換言するところのロリハリボディに並々ならぬ愛情を注いでくださってくれることには日々感謝していますが、しかし、あのようなお子様がわたしに声をかけたくらいのことで、そこまで眉を顰《ひそ》めることはないでしょう」
「いや、それはそれで許せないんだけど……あ、いや、そうじゃなくって」
あれ?
なんかおかしくねえ?
そう言えば――影縫さん。
影縫余弦。
彼女もまた、僕を『鬼畜』と呼ぶだけではなく――火憐のことも、何か言ってたような。
蜂――とか。
スズメバチとか。
「――鬼? 鬼畜?」
鬼。
血を吸う鬼――吸血鬼。
僕は自然、夏の日差しにできた、自分の影を見下ろすことになった――しかし例によって相変わらず、その影からは、何のリアクションも返ってこなかったのだった。
「しかし阿良々木さん。わたしの見るところ、あの子、なかなか出来ますよ。わたしの師匠でようやく互角ぐらいでしょうね」
「お前に師匠なんかいねえよ」
006
で、帰宅後。
「お前様よ。実は折り入って相談したいことがあるのじゃが、どうじゃ、ここはひとつ、腹を割って話さんか」
昼御飯は、実を言うと神原の家で頂いてきた――火憐が神原に連れられて行くのを見送って、さあ僕はホームへ帰ろうと思ったところで、神原のお祖母ちゃんに誘われたのだ。
ランチである。
神原駿河はお祖父ちゃんとお祖母ちゃんとの三人住まい――さすがあんな立派な日本屋敷に住んでいるだけあって、大黒柱のお祖父ちゃんは、定年退職がない類の仕事をしているらしく、日中はあまりお家におられない。
で、何分今回の『お見合い』は急な話だったので思い至らなかったが、考えてみれば、正午と言えばお昼時である。お祖母ちゃんは既に神原の分と二人分、昼食を作ってしまったとのことだった。
それでお呼ばれする運びになったのだ。
僕としては、せっかく来たのだからちょっと挨拶しておかなくちゃくらいの気持ちだったのだが、却って迷惑をかけてしまったかもしれない。どれどれの長居《ながお》りもいいところだ。
でもまあ神原のお祖母ちゃんの料理の腕前は鉄人クラスなので、辞退し切れずに、その誘惑には屈してしまった。
お盆の真っ只中ということもあってなのか、ちょっと改まった風の和食で、普段よりも手が込んでいる感じの手料理は胃袋に嬉しかったものだ。
しかし、気付かぬうちにえらく信頼されてしまったものである――と、食べながら思った。そりゃ、孫娘の部屋を月に二回片付けに来る謎の先輩を、そうそう無下《むげ》にはできないだろうけど……。
しかしあれだ。
相手が後輩の祖母であり、もうとっくに還暦《かんれき》を迎えたかたであったところで、女性と二人きりで食事をするというのは、どうしようもなくドギマギしてしまうものだ。
さておき。
お祖母ちゃんとしては、やっぱり神原の左腕のことが――気になるのだと思う。
神原のことが、心配なのだと思う。
だけれどこの間、神原自身が言っていたように、お祖母ちゃん……あるいはお祖父ちゃんとしては、彼女の事情に、深くは踏み込めない。
神原の母親のことがあるから。
……そのことで、お祖母ちゃんが僕に対して負い目を感じているというのなら――そんなのは、的外れもいいところだけれど。
戦場ヶ原同様に。
神原だって――一人で勝手に助かっただけなのだから。
僕にできることも。
僕にできたことも、何もない。
だからまあ、今日は、単に親交を深めるために、お昼ご飯を呼ばれただけだと、そんな風に理解しておこう。
それでも一応、念のために携帯番号とメルアドをお祖母ちゃんと交換して(神原と違って、ものすごい速度の携帯|捌《さば》きだった。コンピューターお祖母ちゃんだ)、そして僕は家路につき――八九寺といちゃいちゃして、斧乃木ちゃんに道を訊かれたのだった。
だからまあ、玄関をくぐれば一服することもなく、僕は階段を昇って部屋着に着替え、さあ気分を切り替えて勉強をするかと机に向かった途端。
僕の影からにゅうっと。
金髪金眼の――幼き風貌《ふうぼう》の少女が現れたのだった。
「……」
忍野忍。
五百年生きた吸血鬼――五百年死んだ怪異。
鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼。
春休み、平凡な落ちこぼれの高校生だったこの僕を、地獄のどん底にまで叩き落し、容赦なく地べたを這いずり回らせた化物の――成れの果てにして搾《しぼ》りかす。
僕の元主人でありながら、同時に僕の現|従僕《じゅうぼく》――である。
忍野忍に襲われたせいで阿良々木暦は吸血鬼になり、また忍野忍は阿良々木暦を襲ったせいで吸血鬼ではなくなったのだ。
色々あって、色々なくした。
全てなくした。
言葉を尽くすまでもなく、それだけのことだ。
現状。
忍は僕の影に封じられている。
その代わり、僕の影の中にいる限りは、ある程度は吸血鬼としてのスキルを発揮できるらしい。
出たり入ったりも、忍の自由自在だ。
つーかこいつ、こっちがリアクションを欲しがってるときにはシカトを決め込んでいた癖に、いざこっちが勉強を始めようという段階になって、のこのこと出てきやがった。
「……ふん」
僕は椅子を回転させて、机に向き直った。
あれ? 鉛筆がねえぞ、どこいった……ああそうだ、火憐のせいでへし折っちまったんだった、あの五角鉛筆。
しょうがない、シャーペン使うか。
五角鉛筆はまた買って来よう。
「聞かんかボケーッ!」
後ろからチョークスリーパーをかけられた。
忍のなまっちろい細腕で、容赦なく気管を締め上げられる……っておい、なんで吸血鬼がこんな打撃系じゃない技を使えるんだよ!
「ギブギブギブギブ! 離せ離せ離せ離せ! 離せばわかる!」
一九三二年に起こった五・一五事件ばりの台詞を叫びつつ(受験勉強の成果だ。ただし字が違うので、これでは点数はもらえそうもない)、僕は必死になって忍の肘《ひじ》をタップしながら、ああそうか、忍ちゃんってば今朝、火憐が僕にしなだれかかってるの[#「しなだれかかってるの」に傍点]を影の中から観察してたんだなと、思い至る。
火憐にとってあれは別にチョークスリーパーなんかじゃなくて、ただ単に僕にじゃれてる(神原を紹介してもらうために僕に媚びてる)だけのつもりだったんだろうが、されてる僕の側としては、あのときは首の骨を心配するばかりだった。
その心配という恐れの感情[#「感情」に傍点]は、影を通じて忍にも伝わっていたはずなのだ。
ゆえの所業《しょぎょう》というわけか。
……つーか、その理屈だと、ゆえと言うならそれこそ影で繋がっているがゆえに僕の首を絞めたら忍の首も絞まっちゃうんだけど。
その辺は考えなしの忍ちゃんだったようで、彼女は僕の首から腕をほどいたあと、若干けほけほと、苦しそうにえずいていた。
これ以上なく馬鹿な姿だ。
ちなみにその感覚共有は僕から忍への一方的なものであり、逆はない。たとえば僕が火憐から膝蹴りを受けたらそのダメージは忍に反映されるけれど、僕が忍の平たい胸を撫で回したところで、僕の感覚には何のフィードバックもないわけだ。
酷いたとえばだけど、ここはわかりやすさ優先で。
「なんだよ。何が相談だよ。今回に限らずさ、本当お前って奴はいつもいつも、こっちが出てきて欲しいときには全然出てこねーでおいて、さあ何かを始めようって段になったらそこに狙い済ましたかのように登場しやがって。お前はなんだよ、逆ハクション大魔王かよ。呼ばれず飛び出ずジャジャジャジャンかよ」
「むしろアクビちゃんじゃのう」
忍はようやく立ち直って、言う。
元貴族の吸血鬼が、本当、変な風に日本文化に染まっていってんなあ。
忍野の英才教育は、短期間で劇的な効果を上げてこそいるが、促成栽培が過ぎて、どうも若干の偏《かたよ》りが観測できる。
「と言うか、我があるじ様よ。儂《わし》がお前様の出てきて欲しいときに出てこれないのは、そりゃ当然じゃろう。儂とお前様とでは、生活サイクルが正反対なのじゃから」
「ああ……お前、夜型だもんな」
まあ夜型って表現も、吸血鬼に対してはえらくおかしいものがあるけれど。
太陽を嫌い。
月を好む。
それは吸血鬼としての本能的な習性であり、吸血鬼でなくなったあとでも引き摺《ず》らざるを得ない生存本能だ。
人間が火を恐れるようなものである。
夜型なんて、そんな人間社会におけるインチキ染《じ》みた言葉には、とても収まるものではない。
「そう、儂は夜型ゆえにな」
「……」
お前、吸血鬼のプライドとかねえの?
それを奪った僕が言うのもなんだけどさ。
「だけど忍、だったら今はどうなんだよ。真っ昼間もいいとこじゃねーか。むしろ太陽さんが一番元気な時間だぞ」
「うむ……気分的には日焼け止めクリームが欲しいのう。あとサングラスじゃ。目が焼ける」
「……そうっすか」
なんかこう、あれだよな。
忍ってばすっかり、ギャグ漫画とかに出てくる、駄目なタイプの吸血鬼になっちゃってるよな。
語尾がザマスって感じ。
「無論、こうして儂が昼夜逆転したのにはちゃんとした理由があるのじゃ」
「ちゃんとした理由? それが何かは知らないけど、しかし忍、お前はさっき僕が八九寺に対して罪のないスキンシップを取るのを邪魔しただろ。そんな奴から受ける相談はないぞ」
「ふん。同じ属性の者として見過ごせんかっただけの話よ。寝ているときならばともかく、起きておるときはの」
同じ属性って。
ロリ属性?
「あとじゃ駄目なのか? 勉強ひと段落するまで待てねーのかよ」
「それが結構深刻な話なのじゃ。ことは急を要する」
「なんだよ……わかったよ、聞いてやるよ」
甘いなあ、僕。
別に勉強するのが嫌で楽なほうに流れているわけじゃないんだけど……むしろ最近は勉強するのが楽しくなってきてるんだけど(羽川のお陰だ)。
ま、忍は僕のウィークポイントだしな。
最大のコンプレックスとも言える。
影の中とは言え、四六時中一緒にいるわけだし、これからもずっと仲良くやっていかなきゃなんないわけだし、歩み寄りは大切だ。
僕は椅子を再度回転させて、忍のほうを向いた。
すると忍は真面目な口調で、
「お前様よ。儂が極秘ルートから入手した情報によると、ミスタードーナツが今、全品百円セールを行っておるらしいのじゃ」
と言った。
「……」
おい。
極秘ルートってそれ、明らかに新間に挟まってた広告から得た情報じゃねーかよ。
僕も見たよ。
「これは今すぐ行かんと、売り切れてしまうぞ」
「いや、ああいう店はそう簡単には売り切れねぇんだよ……」
お前、そんなことで僕の勉強を邪魔したのか。
忍のミスタードーナツ好きは、こいつがあの廃ビルで忍野と二人で暮らしていた頃からの伝統ではあるが、ついにこいつは受動的なスタイルを捨てて、自ら積極的に求めるようになりやがった。
俗物化《ぞくぶつか》が激し過ぎる。
せめて血液を求めろよ。
これまでミスタードーナツは、影に沈んだまま出てこない忍を、ザリガニみたいに釣り上げるための餌として使用されることが多かったのだが、その乱獲《らんかく》が仇《あだ》になってしまったか。
こいつ、舌が肥《こ》えやがった。
「しかもさる筋から聞いた話じゃと、なんとこのたび新製品まで登場したとか。早急にチェックせねばなるまい」
「さる筋って……お前の情報網なんて、チラシ以外にねーだろうが。色んなネットワークがある振《ぶ》るな。そんなことを言うために、お前は夜っぴてならぬ昼っぴてで頑張って、昼夜逆転してたのかよ……」
そして僕と八九寺の逢瀬《おうせ》を邪魔したのかよ。
そりゃ随分とちゃんとした理由だな。
つまり、総合的に推察する限りにおいて、斧乃木ちゃんと別れたあのとき、影から何のリアクションもなかったのは、どうやらそのとき、忍はうとうと船を漕《こ》いでいたというだけのことらしい。
まあでも考えてみたら、普段忍が活動している時間って、ミスドは普通にクローズドだからな。
「あー、わかったわかった。夕食前に気分転換がてら、買いに行ってきてやるよ。ゴールデンチョコレートが好きなんだったよな?」
「いや」
忍は首を振った。
頑なな風に、強い意志を込めて、首を振った。
あれ?
確か前にそう聞いたような気がするけど――勘違いだったかな? でも、金髪とひも付けて憶えといたから、ゴールデンチョコレートであってたと思うんだけど……それとも僕が知らないだけで、ミスドのラインナップには、ゴールデン系のドーナツって他にもあるんだっけか?
しかし、ここで忍が首を振ったのは、そういうことではなかった。
彼女は恐ろしいことを、僕に要求してきた。
「儂を店まで連れて行くがよい。この目で見て選びたいのじゃ」
「……」
……考えてみれば、ドーナツを買ってきて欲しいだけなら、メモ書きでも残しときゃいいんだよな……忍が眠気を押してここまで起きていたのは、自らの足でミスタードーナツに出向きたかったからなのか。
「……日光すごいけど、外に出られるのか?」
「ま、ちょっと日に焼ける程度じゃ。儂も今や、まっとうな吸血鬼とは言えんからのう――日焼け止めクリームとは言わんまでも、帽子でもかぶれば大丈夫じゃろう」
「ふうん……」
僕は全然大丈夫じゃない。
いやー、でもまあ、そうは言いつつ実を言うと、いつかは忍はそんなこと言い出すんじゃないかとは思ってたけど、来るべきときがついに来ちゃったか。
何が相談だよ、この幼女。
ただのわがままじゃねーか。
もっとも先述の通り、ミスタードーナツが現在百円セールをやっていること自体は、僕も知っていた――忍と同じ広告を目にしている。
近いうちに買ってきてやろうと、そんな風に思ってはいたのだ。
多分、忍がこのタイミングでこんなおねだりをしてきやがったのは、今朝、僕が仲の悪い妹であるところの火憐の頼みを渋々ながらもきいてやったのを、ぎりぎり起きているタイミングで(忍的には『夜更かし』)、目撃したからだろう。
先ほど、火憐のチョークスリーパーを真似したのと同じで。
今ならこの男、与《くみ》しやすしと見たのだろう。
アホが、彼女がデレたからと言って幸せ気分夢心地で気を緩めおったわ、とでも思ったのだろう。
色々考える奴である。
うーん。
まあ、戦場ヶ原更生の祝儀《しゅうぎ》代わりってわけじゃないが、確かにそれくらいの頼み、きいてやってもいいんだけどなあ。
だけどなー、こいつ目立つから、正直言って外には連れ出しにくいんだよなあ。
ただでさえ、金髪で外国人風というだけでも目立つのに、またお人形さんみたいに可愛らしいもんだから。
下手すりゃ八九寺と話しているときよりも目立ってしまう。
逆に言えば、逆に言ってしまえば、こんなわがままを断るのは簡単なんだけどなー……互いが互いの主人であり、互いが互いの奴隷《どれい》であるみたいな、よくわからない主従関係になっているおかしき僕達ではあるけれど、シビアな命令系統としては一応、僕のほうが上位にあるわけだし。
そしてその命令権には想像を絶するレベルの強制力があるらしく、色々試してみたけれど、現時点において、真実の意味で例外なく、忍野忍は阿良々木暦に対して絶対服従なのである。
命令権というより、権限|委譲《いじょう》に等しい。
恐るべし、吸血鬼のルール。
だからここで駄目だと、僕が強く言い切れば、忍としては引くしかないのだ。
しかし、そんな強権を有しているからこそ、迂闊にそれを振るうことはできないというか、やっぱり忍からの頼みを無下にはしにくい。
強過ぎる力というのは、むしろ弱点になりうるというか。
強みってのは弱みだよなあ。
「おいおい、お前様よ。儂の頼みはきいておいたほうがいいのではないのか? あのツーテイルの小娘との逢瀬を、これからも永遠に邪魔されるのは嫌じゃろう」
「は、八九寺を人質に取る気か! 僕の愛する八九寺を! なんて卑劣な奴なんだ!」
いや。
この場合、人質どころか、むしろ忍は八九寺を守ろうとしているんだけどな。
「……でもどうだ? 忍よ。僕が八九寺と出会うのって基本昼間だけど、お前ずっと起きてられるのか? 二、三日ならともかく、永遠にってのは無理じゃねえ?」
「むう」
そりゃ確かにそうじゃのう、と腕を組む忍。
食欲も強いが睡眠欲も強い吸血鬼である。
欲望に忠実なのだ。
「それに忍。お前は知っているだろう。見くびるんじゃないぜ。僕は脅迫に屈する男ではない」
「ふむ。だったらどうじゃ。儂が能動的に協力すれば、あのツーテイルの小娘を、もっとお前様のいいようにできるのではないか」
「ぬ。それは中々《なかなか》魅力的な条件だな」
一般家庭のとある一室において、少女の人権がいい感じに躁躍《じゅうりん》されつつあった。
恐ろしい話だ。
それとも八九寺に人権はないのだろうか。
「くっくつくっく。悪い話ではあるまい。儂の超能力を行使すれば、あの小娘に限らず、お前様は女子にエロいことし放題じゃぞ」
「むう……誘惑してくれるじゃねえか」
まあ、姿は幼女でも、こいつ、そもそもがドラキュリーナみたいなもんだからな。
サキュバス的な要素も含んでいるのだ。
ゆえにさほどエロに抵抗がないのである。
大体、食欲も睡眠欲も強い以上、性欲が強くないはずもない。
くそっ……とてもじゃないがそんな余裕はなかったとは言え、その事実に、春休み、忍が成人モードの大人ヴァージョンだったときに気付いてさえいれば……!
悔やんでも悔やみきれない苦い過去である。
過ちと言ってよかった。
「ん? いやでも忍、吸血鬼としてのスキルをあらかた失っている今のお前に、一体何ができるってんだよ。超能力じみた真似は、基本、何もできないんだろ?」
できるのはエナジードレインくらいじゃなかったっけ。
でもそれって広い意味ではただの食事だしなあ。
八九寺を食われてたまるかよ。
あいつは永久保存食なのだ。
「……えっとお」
忍は悩ましげな顔をする。
困っている。
かつて万能全能を誇った伝説の吸血鬼は、現在の自らの無能さに、改めて打ちひしがれているようだった。
「ほら、お前様の影に潜んで……、地面から女子のスカートの中を覗いて、パンツの色をリークするとか……」
弱々しい上に、しょぼい提案だった。
溢れるような小物感である。
悲しくなってきた。
「そう! つまりは、パンツの見える化じゃ!」
「今時の企業ストラテジーみてえな言い方しても、一個も魅力的じゃねえよ」
僕はため息をつく。
「あー、もういいや。わかったわかった。わかりました。今日はなんだかそういう星の巡りなんだろ。連れてってやるよ」
こうして無駄話をしている時間のほうが、むしろよっぽど浪費であるーそれに、悲しさに耐え切れなくなっただけでなく(無論それが第一の理由だが)、考えてみれば、僕としても忍に訊いておきたいこともあるのだった。
さっきは無視されたけれど――斧乃木余接。
それに、影縫余弦のことを、訊いてみたい。
たとえうとうとしていたとしても、もしも彼女達が何者[#「何者」に傍点]かだったとするのなら――忍としては、そこから感じ取る何がしか[#「何がしか」に傍点]があったはずなのだ。
怪異の中の怪異、怪異の王。
怪異殺しの――彼女ならば。
「アホが! 儂の話術に引っ掛かりおったわ!」
「本音が漏洩してんぞ……じゃ、店の前についたら合図するから、せめてそれまでは影に潜んでろよ。チャリで行くからさ。それにお前も日光に当たる時間は少しでも少ないほうがいいんだろ?」
「うむ。太陽は儂の敵じゃ」
「敵か」
「いつか倒す」
「…………」
スケールでけえ。
小物感あふれる癖に、スケールでけえ。
「三十分もすればつくからさ。頑張って起きてろ」
「大丈夫じゃよ。待機中、儂は影の中でDSをやっておるから」
「…………」
DS持ち込めるの?
僕の影、そんな四次元ポケットみたいなことになってんの?
ものすごい収納術じゃん。
「いや、物質として存在しているものは持ち込めんぞ。あくまで影に入れるのは儂の肉体だけじゃ」
「じゃあおかしいじゃねえか。DSって」
「物質創造能力を持つ儂が、ゲーム機くらい作れんわけがなかろう。モデルはお前様が、あの似蛭田妖《にひるだよう》みたいな前髪をしとった小娘から借りてきておったアレじや」
「なんでお前が番組のリーダーを知ってんだよ」
千石な。
ああ、そっか……。
服を作れるんだもんな。
ゲーム機くらいなら作れるんだ。
そうだ、そう言えば、ついこないだ、千石がDSを貸してくれたのだった。
前にあいつの家に遊びに行ったとき、MSX2とかMZ−721とか、そういう古いゲーム機ばっかりあったので、きっと千石は最近のゲームには興味がないのだろうと思い込んでいたけれど、僕がふと、
「僕、DSとかやってみたいんだよなー。聞いた話なんだけど、あれって勉強用のソフトとかもたくさんあるんだってさ」とか、そんな世間話を振ったところ、千石はその翌日に、ニンテンドーDSをソフトごと貸してくれたのだった。
なんだ持ってたんじゃん、と思ったけれど。
妙に真新しい、前日に買ったかのような輝きこそ気になりはしたけれど、ちょっと間、それで勉強してみたものである。
もう本体ごと返してしまったのだが、なかなかためになったので、お礼として今度プールに連れて行ってあげる約束をしたのを、たった今思い出した。
プールに連れて行って欲しいだなんて、可愛らしいおねだりじゃないか。
千石もまだまだ子供だねえ。
そうそう、学芸会で行うクラス演劇の演技指導なんかもお願いされていたけれど、あれも夏休みのうちにやってあげなきゃな。
……。
でもなんでだろう、なんか知らないけど、どんどん外堀を埋められている気がするというか、追い詰められて追い込まれて、次々と僕の周囲で既成事実が林立していっているような錯覚があるんだよな……。
妹の友達からDSを借りただけのことなのに、離れた位置から見たら、僕、とんでもないことになってないか?
「儂が作り上げたそのDSで遊べるのは、あくまでお前様の影の中でだけじゃがの――外では超能力は使えんわい。では、後ほど、じゃ」
と。
そう言い残して、そして忍は、僕の影へとダイブしていった。
しかし、ゲーム機を作れるくらいだったらミスタードーナツも作っちゃえばいいんじゃないかと思うけれど、まあ、そこはそれ、そういうわけにはいかないのだろう。
自給自足は生活の基本とは言え、人に作ってもらうもんだからおいしいってのもあるしな。
じゃ、行くか。
面倒臭いなあと思わなくもないんだけど、なんだかんだ言って、戦場ヶ原からDVを受けることがなくなったので、ここんところは僕としたことがあんまり不幸な目に遭ってないからな。
この辺できちんとバランスを取っておかないと、それこそ巨大妹や迷子少女をいじめて遊んでいる、オモシロ最低な奴になってしまう。
好感度は大事にしたほうがよい。
吸血鬼のアッシーくんくらい務めてやろうじゃないか。
僕は椅子から立ち上がり、部屋着から再び外出着に着替え、自転車の鍵を手にとって、自分の部屋をあとにする――階段を降りたところで、廊下を歩く月火とバッテイングした。
むうう。
こいつに見つからないようにこっそり抜け出そうとしたのに、タイミングの悪いことだ。
月火は風呂上がりだった。
どうやら彼女は昼食後、暑さに耐えかねてシャワーを浴びていたようだ――月火は代謝《たいしや》がいいらしく、汗っかきさんだからな。
ちなみに両親は盆も正月もなく共働きなので、夏休み中、僕達兄妹は昼御飯を自分達で作らなければならない。火憐は神原のところにお嫁に行ってしまったし、僕は神原家でおなかいっぱい頂いてきたので、今日は月火のセルフサービス、自分で作って自分で片付けてという感じだったらしい。正に自給自足。茶道部に入っているだけあって(?)、意外と家事をそつなくこなす我が妹である。
……ここでファイヤーシスターズだけに家事が得意とか、そんなことを考えたら敗北者だ。片割れである火憐のほうは、大方の予想通り、料理は苦手だし(片付けは普通に普通)。
しかし、洗い物を済ませてその後のシャワーか。
暢気な奴だなあ。
和服好きの月火は浴衣《ゆかた》姿で手ぬぐい片手に、湯上がりほんのり桜色の卵肌だった。なんでこいつ、自宅の廊下で温泉宿みたいなスタイルになっているんだろう。
羽川ならともかく、お前の濡れ髪なんて見ても、嬉しくもなんともないんだけど。
「あ。お兄ちゃん。またお出かけ?」
「おう。またお出かけ」
「お勉強はー?」
「神様が、今日はやめとけってさ」
神様っつーか。
本当は鬼だけど。
ふうん、と月火は、よくわからないといったように頷いた。
うーむ。
そうして首を傾げている様を見ると、本当に暢気な、のんびりさんに見えるんだけどなあ。
たれ目だし、ゆるい表情してるし。
撫で肩だし、猫背だし。
なんかもうたればんだみたいだもんな、こいつ。
しかし見た目に騙されてはならない。今朝、僕と火憐を千枚通しで串刺しにしようとした事実からもわかるように、阿良々木月火は決して暢気でも、のんびりさんでもない。
まったくたれていない。
たれないぱんだ、つまり熊だ。
火憐のような格闘スキルを持ち合わせているわけではなく、ファイヤーシスターズとしてはあくまでも参謀《さんぼう》担当だけれど――そのヒステリックでピーキーな攻撃性は、我が妹ながら怪物じみている。
素直な気持ちを率直に言わせてもらえれば、火憐は猪突猛進型の馬鹿なのでまだ御《ぎよ》しやすいが、月火は紆余曲折型の馬鹿なので、僕としては手に負えないところがある。
火憐が赤い炎なら、月火は青い炎だ。
迂闊に手を出せば火傷する。
皮膚どころか、肉まで焼ける。
発狂した虎こと戦場ヶ原ひたぎから角が取れた今となっては、目下《もっか》僕に課せられた議題は、このアクティブな中学二年生の妹に、どうやって世間というものを教えてやるかなのである。
今度羽川と話し合おう。
ことによっては、更に強度の高い矯正プログラムが必要とされる。
「お兄ちゃん。火憐ちゃん、今日はおっそくなるのかなー」
「さあ。わかんね」
一応、晩御飯までに帰るよう言っておいたが、憧れの神原先生を前に舞い上がってしまっていた火憐に、果たしてその文言が伝わったかどうか。
最悪お泊まりというケースもあり得る。
ひょっとしたら大人の階段を昇ってくるかもしれない――そうでなくとも、乙女の階段くらいは昇ってくるかもな。
そうなれば、もうあとは野となれ山となれだ。
わからないどころか、僕の知ったこっちゃない。
「ふうん。そっかーまあ火憐ちゃんも熱くなると、前が見えなくなっちゃうタイプだからねえ」
「お前ほどじゃねーよ」
僕が突っ込みを入れると、月火は心外だと言わんばかりに「むう」と頬を膨らませた。
自覚なし。
だからこそやばいのである。
頬を膨らませることにより、よりたれぱんだに似てしまっているのもやばい。
「なんだよ、火憐ちゃんに何か用だったのか? 前回のファイヤーシスターズ的活動、正義の味方ごっこのボランティアには、フォローとかも含めて、とりあえずひと段落ついたんじゃなかったっけ」
「うん。いえいえ、別に何か用ってわけじゃないんだよ。ただまあさ」
月火は言う。
ちょっと複雑そうな顔をして――言い出しにくそうな感じで。
「なんか最近、火憐ちゃんとも別行動が増えてきたなーって思って」
「ん?」
そうか?
僕から見れば、例によって、四六時中いついつでも、一緒に絡んで同行しているようにしか見えないけれど。
同行二人《どうぎょうににん》って感じだけれど。
ああでも、家族とは言え、所詮それは外から見た場合の意見だしな。
本人達的には、あるのかもしれない。
違和感というか――変化の兆しが。
「……喧嘩でもしてんのか? 気まずいとか」
「んにゃんにゃ。そーじゃなくってそーじゃなくって。仲良しは仲良しなんだけど。むっしろリボン、なんだけど」
「チャオ?」
「チュチュ!」
兄妹言語。
端《はた》から聞けば一体全体何を言っているのか、まるでわかるまい。
しかしこれで意思|疎通《そつう》ができてしまうのだから、兄妹というのは恐ろしい――いや、多分僕達にもよくわかっていないけれども。
何も疎通できていない。
「けどやっぱ、当たり前の話だけど、私達もいつまでもファイヤーシスターズとか言ってられないのかなーって」
「は」
やや失笑。
そりゃそうだろ、という思いが大きかったけれど、また同時に、月火が自分からそういうことを言い出すというのも意外だった。
「考えてみればお兄ちゃんだって、昔は私達と仲良しこよしだったもんね。仲良し暦とか言われてたもんね」
「言われてねえよ」
まあでも、千石とか含めて、一緒に遊んでたりはしたよな。
仲の悪い兄妹とは言っても、別に生まれてこのかたずうっと仲が悪かったわけじゃないのだ――きっかけとしては、僕が中学に上がったあたりだったっけな?
急に二人の妹が子供に見えちゃったとか、確かそんな感じだったと思う。
……思い返してみると、我ながらかなり独りよがりで、自分勝手な理由だな。
僕もあまり褒められた兄じゃねえや。
こいつらも妹としてはかなりの異端で、一般的には語れないけれど。
「んー。まあでも、なんだかんだ言って火憐ちゃんも、もうすぐ高校生だしなあ。お前のガッコ、エスカレーター式とは言いつつ、高校からは校舎の場所変わるんだろ? 生活のサイクルも変わっちゃうだろうし――」
僕は自分の影に視線を落とす――電気のついていない廊下のことなので、その影は曖妹荘洋《あいまいぼうよう》で、輪郭の薄いものではあるが。
その中でDSをプレイしているであろう吸血鬼を思いながら、僕は言う。
昼夜逆転とは言わなくとも。
「――色々ズレてくるのは確かだろうぜ。お前にとっちゃ、火憐ちゃんにとっても、嬉しからざることだろうけどな」
「まーねー。十代も後半となっちゃ、警察も見逃してくれなくなるだろうしねー」
「……」
自分の性別や年齢を武器とすることに躍躇のない月火だった。
怖い怖い。
僕に言わせればただのごっこ遊びなんだけれど、それでもファイヤーシスターズが正義の味方を気取っているというのは、世間的には救いであると言えるだろう。
ただ、更に重ねて言わせてもらえるのなら――火憐の正義と月火の正義も、決して同一のものではないんだよ。
見返りを求めず、ただひたすらに純粋に、他人のために動く――仮にそういった行いを正義と呼ぶならば。
火憐の場合は目的[#「目的」に傍点]が正義。
これは非常にわかりやすい――わかりやすい、とても幼稚な正義感である。まっすぐで、誰から見てもまったく読み違えようのない、そんな彼女が阿良々木火憐だ。
ただし、月火の場合は――趣味[#「趣味」に傍点]が正義なのだ。
ホビーなのである。
これは、正直、一概《いちがい》に幼稚とは言いづらい――そういう大人も世間には多いからである。
どちらも偽物じみた正義であることは疑いようがないけれど、その性質は、むしろ対極と言っていい。
偽物とて、唯一ではないのだ。
目的のためには手段を選ばない火憐と、手段のためには目的を選ばない月火――相性がいいのだけは確かだが。
火憐がMなら――月火はSだ。
月火がSなら――火憐はN。
双子のようにそっくりさんというわけではない。
だから相性がいいのは、凹凸が組み合わさっているときだけの話である。
暴れたがりの上の妹に、何にでも暴れる理由を見出してしまう下の妹――栂の木二中のファイヤーシスターズ。
赤い炎と、青い炎。
「お兄ちゃんには、どうせバレちゃってると思うけどさあ」
すると、よもや僕のそんな思考の流れを汲み取ったわけでもないだろうけれど、月火のほうから――話を振ってきた。
「きっと私って火憐ちゃんほど、情熱的に正義を信仰しているわけじゃないんだよね」
「……ほう」
これまた意外な発言だ。
やはり僕にとっては自明なことだけれど――月火がそれについて自覚があったという事実は、驚嘆に値する。
「正義が好きで、正義が大好きだけど、だけど私の中に確固とした正義があるわけじゃないんだよ。火憐ちゃんはよく言うじゃない、正義の血が許さないとか、正義の魂が燃え上がるとか」
「言うよな」
そんなこっぱずかしいこと。
あいつは平気な顔をして言ってのけるのだ。
「だけど私はそういうの、感じたことがないんだ。火憐ちゃんの中には正義があるけど、私の中にはそれがない。私の信じる私の正義は――火憐ちゃんの正義であり、そしてお兄ちゃんの正義なんだよねえ」
「僕の?」
あん?
どういう意味だ、そりゃ?
「ファイヤーシスターズの参謀担当とか言ってもさ、結局、ファイヤーシスターズは火憐ちゃんが中心なんであって、私はそのサポートであり、お手伝いなんだよね」
火憐ちゃんがあそこまで正義を確信していなかったら――私はきっと、正義なんて不確かなもの、信じていないんだよ。
月火は淡々とそう言った。
「その意味では、お兄ちゃんの言うことは正しいよ。少なくとも私に関して言うなら――私の正義は偽物だよ。私は正義を名乗るには、周りの意見に左右されやす過ぎるもん」
「……」
うーむ。
そんな風にはっきりと、自分から言われてしまうと返答に窮《きゅう》するな――僕としては、ほとんど開き直られてしまったみたいなもんだ。
普段と言ってることが全然違うじゃないか。
こいつ、一人のときはそんなことを考えていたのか――本当に意外である。
ファイヤーシスターズで意見が食い違ったとき、優先されるのは火憐の意見になるけれど――それは、火憐が年長者だからというだけでなく、そんな理由があったわけか。
妹のことで僕の知らないことなんてないと思っていたけれど。
僕が戸惑いを隠しきれずにいる間にも、月火の話は続けられる。
「他人のために正義を実行するのが火憐ちゃんなら、他人の影響で正義を実行するのが私なんだよ。方向性には、最初からズレがあるんだ――だからさ、お兄ちゃん。最近はファイヤーシスターズもそろそろ潮時なのかなって思っちゃう場合も増えてきたんだよね――ほら、それこそこないだのときだって、火憐ちゃん、単独行動を取ってたじゃない。お兄ちゃんが身体張って止めた奴」
「ああ、そう言えば」
あれはあれで単独行動だ。
単純に火憐らしい暴走と捉えていたけれど、そう言えば――言われてみれば。
あれもわかりやすい、明白なる変化の兆しと取れなくもないのかもしれない。
阿良々木火憐の――ファイヤーシスターズからの卒業。
「……いいんじゃねーの? 別に。むしろ今までが仲良過ぎるくらいだったと、そう思ってろよ」
僕は中学に上がったときに、妹達に接する態度が変わってしまったけれど、幸いなのかどうなのか、火憐は中学生になっても、月火に接する態度を変えなかった。
それは火憐の、竹を割ったような単純なパーソナリティに起因するものだとは思うけれど――そんなあいつだって、さすがにいつまでも子供ではないはずだ。
ないはずだ。
ないはずなんだ!
ないと言ってくれ!
……いや、つい願望が入ってムキになってしまったけれど――とにかく。
高校生になればまた、世界が広がって。
確かにあいつは変わってしまうかもしれない――僕が高校生になって落ちこぼれてしまったのとは、きっと、違う意味で。
変わってしまい。
成長するのかもしれない。
あいつはまだ――十五歳だ。
ならばいくらでも、成長が許されている。
「別に、それが仕方のないことなのはわかってるけどさ。でもなんだかなあ。火憐ちゃんも高校生になったら、お兄ちゃんみたいに、私をいじめるようになるのかなあ」
月火ははー、と嘆息する。
「二対一じゃさすがに勝負になんないよ。ワンサイドゲームだよ、パワーゲームだよ。これまでなんとか保っていたゲームバランスが、ものの見事に崩れちゃうよ。毎日毎日枕を濡らしながら眠ることになっちゃうよ」
「人間きの悪いこと言ってんじゃねーよ。僕は頼り甲斐のあるお兄ちゃんとして、いつだってお前らの面倒を見てやっているつもりだぜ」
「面倒見るって? どういうこと? 歯ァ磨きながらおっぱい触るとか?」
「……はっはっは」
笑って誤魔化すお兄ちゃんであった。
気さくに喋ってくれてはいたけれど、残念ながら今朝のことを忘れているわけではなかったのか――まあそりゃそうだ。
朝っぱらから兄と姉がベッドの上で絡んでいるところなんかを目撃したら、普通は一生もんのトラウマである。
「よし、決めた」
月火は内心の決意を示すかのように、ぐっと力強く、こぶしを握る。
「今日火憐ちゃんが帰ってきたら、話し合おう。今後のファイヤーシスターズの進退について真面目に話し合おう」
「なんだよ。場合によっては解散か?」
「ありうるね! 音楽性の違いだね! 火憐ちゃんが独立したいっていうんなら、私はそれを引き留めないよ! 涙を呑んで見送るよ!」
茶化すように(というかもろに茶化したのだが)言った僕を、むしろ我が意を得たりとばかりにびしっと指さす月火。
非常に馬鹿っぽい。
……火憐が高校生になって大人になるという希望的観測はまだ抱けるとしても、月火が大人になる日はまだまだ遠そうだなあと、そんな風に思わざるを得ない。
さっきの話とか聞いてても、賢いはずなんだけどなあ、こいつ。
「解散パーティにはお兄ちゃんも参加してよね! 女子中学生とかいっぱい呼んじゃうから!」
「仕方ねえな。そんときくらいは時間作って顔出してやるよ」
適当に答える僕。
決していっぱいの女子中学生に引かれたわけではないけれど。
まあ、いくら強い決意をしたところでどうせ、少なくとも今晩、火憐と月火との姉妹間で、その話し合いが持たれることはないと思う。
長年愛され続けた火憐のポニテが消失したという恐るべきサプライズが、月火を襲うことになるからである。
その後、月火の千枚通しが再度僕を襲うことになるのもまた確実だ。
うーむ、それに備えて、念のために忍にちょっと血を吸っといてもらったほうがいいかもなあ。
あ、そうだ。
火憐のポニテの話にひも付けて、ここで月火のヘアスタイルの話もしておかないと。
今朝は千枚通しによる猛攻をかわすのに精一杯で、そんな細部を紹介する余裕はなかったが、八月期に入ったところで、月火はまたも髪型を変えたのである。
とは言え、羽川や戦場ヶ原、それに火憐なんかとは違って、月火は服を着替えるように髪型を変えるので、今更それに驚くようなことはない。
ただし、その前のダッチ・ボブはあまり月火のお気に召さなかったのか、今回は中でも短い周期、一カ月足らずでのスタイル・チェンジ。
八月十四日現在の阿良々木月火は、肩までくらいの大人っぽいワンレングス風のヘアスタイルだった。シャワーを浴びた直後の今はわかりづらいが、やや内向きにカールがかかっていて、一体どういう手入れをしているのだろうか、大して光も照っていないのにキューティクルがキラキラと光る、艶やかなスタイリングである。
まあ、兄という立場を捨てて客観的に評価を下すならば、中身に反して多少は大人っぼく見えるって感じか。
しかし、ストレートのロングだったりボブだったり、めまぐるしい……そのうちこいつ、コーンロウとかにするんじゃねえだろうな。
それはさすがに全力で止めるとして。
ともあれ、髪型ひとつで女子は変わるものだ。中身に反してとは言ったものの、ワンレンにしてからの月火は心なし、子供っぽい行動が滅ったような気もする。見ているこちらがそういう印象で見ているだけかもしれないが、それはそれで希望に溢れた話ではある――今朝のことにしたって、振り返ってみれば千枚通しというのは月火にしては手加滅された選択だったのかもしれない。ボブカットの頃だったら、物置から電動ドリルとか持ってきても不思議じゃなかった。
ま、だからどうってこともないんだけど。
報告でした。
ちなみに僕はと言えば春休み以来、忍につけられた首元のキスマークを隠すために髪を伸ばしっぱなしにしているので、しかも切る機会も完全に逸した感じで、今やもう結構なロンゲさんの部類である。
鬼太郎じゃなくて、どっちかって言うとむしろミザリィみたい。
いやさすがにミザリィではないけども。
「で、面倒見のいいお兄ちゃん。出掛けるところじゃなかったの?」
「あ、そうだった」
つい話し込んでしまった。
僕のほうからは感覚を共有していなくとも、忍が影の中でいい加滅|焦《じ》れているのがわかる。
DSをやりつつ、ひょっとしたら泣いてるかもしれない。
さめざめと。
「んじゃ、留守番《るすばん》よろしく。すぐ帰ってくるつもりだけどさ。なんかついでに買い物してくるもん、あるか?」
「ないよー。いってらっさい」
「いってらっさる。つーかお前もお前でさっさと部屋に戻れよ。そんなはだけた浴衣姿で廊下にいられたんじゃ、玄関が開けられねーよ」
「にゃ?」
「そんなあられもねー姿でうろうろすんなっつってんだ。みだりにみだらな格好をするな」
和服もいーけど、着るなら着るで、ちゃんと着ろ。
ど素人が。
帯の巻き方も適当なもんだから、胸とか脚とか見え放題じゃねーか……子供体型だから、一個も色っぼくねーし。
むしろ見せられて不愉快だ。
……ん?
おやおや?
「ちょっと月火ちゃん」
「はい?」
「それ、脱がすぞ」
宣言し、月火の帯の結び目に手を伸ばす僕。
「え? 何? やめて、お兄ちゃん! 何すんの、いやああああ!」
抵抗の意を示す月火ではあったが、しかし火憐とは違って武闘派の妹ではない月火の抵抗など、僕にとってはあってないようなものである。
これでも実戦経験は豊富なんだぜ。
さすがに時代劇に登場する悪代官よろしくとまでは行かなかったが、帯をくるくると、加速をつけてほどき、月火の浴衣をあらん限りに剥ぎ取って、解いた帯で彼女の両手首を縛り、そのまま馬乗りになって廊下に押し倒す。
それこそ今、このタイミングで玄関が開けられたりしたら、色々とおしまいの光景だ。
火憐が帰ってきたとかならまだしも、パパママコンビだったらおしまいというか、終わりだ。
この行でシリーズ終了である。
素直に本編だけで終わっときゃよかったという、最悪の幕引きだ。
しかしなんだな、今日は僕の好感度がまるで回復の動きを見せようとしないな。
右肩下がりというか、右膝下がりだ。
もう直線的に落下していて、しかも下げ止まりがねえ。
そんな感じで。
「んん? やっぱそうだ」
「何? 何? 何? 何が起こってるの? 今果たしてどんな事態? 私今、なんでお兄ちゃんに脱がされて、拘束されて、挙句に押し倒されてるのかな?」
「いやさ、月火ちゃん。お前この辺に、傷なかったっけ」
僕は月火の胸部あたりを指さす。
普段なら下着で隠れてるあたりだが、今はシャワーの直後ということで月火はブラジャー(やわらか素材のスポーツブラ)をつけておらず、それゆえにその部位は露《あらわ》になっていた。
はだけ気味の浴衣の隙間から見えて、もしやと思ったけれど――やっぱりそうだった。
あったはずの傷が――なくなっている。
印象深いので、憶えている。
つーか忘れられるようなことじゃない。
そもそも、あれは『こと』じゃなくて『事件』だ。
傷。
月火が小学生の頃――どういう理由だったのかは定かではないが、とにかくトラブルに巻き込まれ、とにかくトラブルを巻き起こした結果として、校舎の屋上から飛び降りたときにできた傷である。
地面に激突したのではなく、たまたま落下点に駐車していたトラックの幌《ほろ》に都合よく、あるいはカンフー映画よろしくに落ちたので、一命こそは取り留めたが――その被害は真剣に深刻だったはず。
中でも、トラックの幌のフレームがもろに突き刺さってできた胸部の傷は、医者から「一生消えない」と、折り紙付きで太鼓判《たいこばん》を押されたはずなのだけれど――
うん?
「あれ? あれ? そういやお前、身体に全然傷とか残ってねーな」
気付いてみれば、そのときの傷だけではない。
ファイヤーシスターズゆえに、正義の味方ゆえに、そいでいて火憐のようなずば抜けた戦闘スキルを持たないゆえに、月火は結構|生傷《なまきず》の絶えない生活を送っている。
いやごめん正直なことを言うと僕との喧嘩もそれら生傷の理由には少なからず含まれているんだけれど――そんな傷跡が、どこにも残っていない。
跡形もない。
とても綺麗な――湯上がりほんのり桜色の。
卵肌だ。
つやつやだ。
水とかすげー弾きそう。
「そりゃ、傷くらい治るよ。人間なんだから」
「んー? ああ。そりゃそうか」
そりゃそうだけど。
そうなんだけど。
でも、なんかおかしいな。
つーかこんなこと、なんで今まで気付かなかったのだろう。
確かに、別に僕はいつも妹の肌を注視しているわけじゃないから(どんな変態だよ)、確実なことは言えないけれども……いや、若いうちはこんなもんなのか?
新陳代謝か?
うーむ。
「ていうか、そろそろどいてよお兄ちゃん。傷のあるなしを確認したいだけだったら、脱がすところまではともかく、手首を縛るのと馬乗りになって押し倒すのは、まったく必要なかったでしょう」
「それは、そりゃそうだ」
勢いでやってしまった。
一日に妹を二人も押し倒すとか、どんな兄だよ。
ふむ。
ま、傷がより多く残ったってんならまだしも、傷が消えてなくなったってんなら、むしろめでたい話なのか。
言っても女の子なんだし。
名誉の負傷とかなんとか、そんな格好いいこと言ってられないだろ。
そんな風に納得して(そもそも、考えてみればそこまで疑問に感じるようなことでもあるまい)、僕は月火の胸を触って、それからどいてやった。
「なんで今どく前にわざわざ胸を触った!?」
「いや、なんとなく」
折角だから。
行きがけの駄賃《だちん》的に。
二文字の平仮名で端的に言うと、つい。
「なんか目に付いたとこにあったから、どんなもんかなって思って」
「そんな気安さで!?」
「うん。ほら。ぷよ。ぷよ、ぷよ、ぷよ」
「足で触るな! そんな楽しげな効果音など出ていない!」
「ファイヤー」
「連鎖《れんさ》などしない!」
「アイスストーム。ダイアキュート。ブレインダムド。ジュゲム。ばよえーん」
「ばたんきゅー!」
勿論。
お邪魔ぷよが僕のほうに落ちてくるというようなこともなく――いやまあ、僕の頭上には災害クラスの数の予告ぷよ(しかも固ぷよ)が見えているような気もするけれど。
しかし魔道物語からのファンとしては、生きているうちに一度くらいはリアルに七連鎖を出してみたいものである。
「もうお兄ちゃん、妹のおっぱい触り過ぎ!」
「それ、そこだけ切り取って聞くと、なんだかものすごいキャラだな……」
好感度の欠片も残ってない。
鬼畜とか鬼とか、そんな言葉じゃ足りねえよ。
そいつは悪鬼羅刹《あっきらせつ》だ。
「今の言葉、書店用ポップとかで使うからね!」
「どこの書店さんが使ってくれるんだよ、そんなポップ」
「我こそはと思わん書店さんに、期待したいよね」
「やめろ、煽るな」
どんな営業妨害だよ。
「まったくもう」
月火は廊下から立ち上がって、ぶつくさ言いながら、僕に剥がされてしまった浴衣をあたふたと着直す。
「あんまこんなことばっかりしてるようだと、私達、本当に羽川さんにお兄ちゃんのあれやこれやを密告しちゃうからね」
「それは勘弁して欲しいなあ」
どんだけ怒られるかわからん。
だけどまあ、僕の基準っていうのも、冷静に見れば案外明確だよな。
触っていい相手と触っちゃ駄目な相手っていうのが確実にあるんだね。
「まったくもう。まったくもうだよ、まったくもう。なんで私達姉妹、彼氏とはピュアな関係を築いているのに、お兄ちゃんとはディープな関係を築かなくっちゃいけないんだよ」
「嘆《なげ》くな嘆くな。火憐ちゃんだって、ひょっとしたら今頃同じ目に遭ってるかもしれないんだ」
ディープっつーか、ティーンズラブな目にな――しかも僕の後輩の魔手によって。
そう考えたら、ファイヤーシスターズはやっぱり、見えないところで繋がっているのだと、そう言えなくもない。
しかし、彼氏ねえ。
いるんだよなあ、こいつら。
「あー。えっとなんだっけ。お前の彼氏は、蝋燭沢《ろうそくざわ》くんだっけ。まだ別れてねーの?」
「悪いけどラブラブっすよ。ラブラブボンバー。火憐ちゃんのほうの瑞鳥《みずどり》くんは、近頃ちょっとだけ不協和音だって話も間くけど……あっちも基本は順調なはずだよ。勿論、もしもお兄ちゃんからこんな目に遭わされてるってバレたら、私も火憐ちゃんも、別れざるを得ないだろうけどね」
「むー」
なんだかむかつくなあ。
妹に彼氏がいるという事実が、兄として実は既に許せないのだった。中学生で恋人がいるっていうのが、そもそも妬ましい感じだ。
別れればいいのに。
ただまあ、僕は僕で、妹達にここまでの振る舞いをしているとバレたら、戦場ヶ原から三行半《みくだりはん》をつきつけられないとも限らない。
そう思うと、いくら更生したとは言っても、まだ戦場ヶ原を自分の恋人として、妹達に紹介するわけにはいかないんだよなあ。
羽川翼というカードの存在を知られているだけで、相当にピンチなのだ。
その件に関して、羽川は別に、僕の味方ってわけじゃないからな。
「んじゃ、今度こそ行ってきます」
「帰ってくんなー。お兄ちゃんの帰る家はないー」
「いいや、僕は必ず帰ってくるぜ……お前のその胸の中にな!」
そんな感じで。
ツーと言えばカー、兄妹言語でのやり取りの末、僕は月火が二階に昇っていくのを見て取って、ようやくのこと、玄関を開けて外に出たのだった。
当然のごとく、二度と。
僕は二度と、この玄関の扉に手を掛けることはないだなんて――そんなことは、この時点では、当然のごとく、予想できるはずもなかった。
007
「フロッキーシュー? 何じゃこれ、あり得なくない? ポン・デ・リングとフレンチクルーラーをあろうことか合体させてしまうなんて、ものすごく最強ではないか! オールドファッション! これはもう見ただけでおいしいことがわかってしまう! あーもうわかっちゃったもん! 食べるまでもない、いや食べるけども! とうふドーナツというのも、ネーミングだけでそそられてしまうのう! ていうかここにずらっーと、宝石のごとく並べられたマフィン系! 何故今までこれらマフィン系の存在を儂に隠しておったのじゃ! 憎い奴らめ、まったくもって許しがたい! いやまあしかし、言うまでもないことじゃが、ゴールデンチョコレートを始めとする、これまで食べてきた数々の選ばれしドーナツ達が、こうも大量に展示されておるというところから既に圧巻《あっかん》じゃ! ぱないの! お前様よ、これ、全部食べてもよいのか!?」
「よいわけないだろ」
なんでたった一回の来店で、ポン・デ・ライオン特大ぬいぐるみをゲットできる級の買い物をしなきゃなんねーんだよ。
お前もうあれだな。
初期のキャラも中期のキャラも、微塵《みじん》も残ってねえな。
いくらなんでもキャラ捨てんの早過ぎだろ。
だったらもういっそのこと、その老人みてーな喋り方もやめちゃえよ。
ぱないの! とか言うくらいだったらよ。
まあ確かに、怪異という存在は、たとえ実在したところであくまで実体がないから、周囲の環境から受ける影響がかなりダイレクトにストレートなんだったな――ブラック羽川がいい例だ。
一度目の登場と二度目の登場ではあの化け猫、かなりキャラクターに変化があった――それはそのまま、羽川の内面的な変化を反映していたのだ。
……ならば忍がこんなお馬鹿な感じになってしまった責任の一端は、この僕にこそあるという結論に至ってしまうわけか。
そうか、客観的に見たら、僕はこうか(多分八九寺とか羽川とかを前にしたとき)。
ぱないのか。
そんなわけで。
この僕、即《すなわ》ち阿良々木暦と、ロリ少女にして元吸血鬼、即ち忍野忍は、念願のミスタードーナツへ入店していた。
このあたりには一軒しかない、貴重なミスドのチェーン店である。
チェーン店といっても、僕はミスドをこの店舗以外に見たことがないので、日本にあるミスタードーナツはこの店一軒だけだ、この店が本店だと言われても、多分信じてしまうだろう。
コンビニだったりファーストフード店だったりも全然少ないこの辺の町事情を考慮すると、奇跡のようなフランチャイズだった。
まあ、ゆえにさほど大きな店舗でもないのだが(肉まんだり汁そばだりの飲茶《ヤムチャ》を販売していないタイプの店だ)、それでも忍にとっては夢にまで見た魅惑《みわく》の極上空間だったようで、彼女は目をキラキラと輝かせていた。
心なし金髪の輝きさえも普段以上だった。
超サイヤ人みたいだ。
そしてそんな輝きもさることながら、先の発言、入店しての第一声からもわかるように、とにかくテンションが高い。
幼女ヴァージョンのときに、忍がここまで素直に嬉しそうな素振りを見せたのは、初めてのことかもしれない。
とは言え、僕まで一緒になってテンションを上げるわけにもいくまい。
ただでさえ金髪美少女ということで、忍はただならぬ注目を浴びまくりなのだ。
忍がはしゃいでる分、ここは僕がしっかりしなくては。
「むうう。全部は駄目か。まあ、そりゃそうじゃろうな――儂も駄目もとで言ってみただけに過ぎぬ。安心せい、お前様。儂も人間界の常識というものは心得てきておる、無茶は通さんよ。ミスタードーナツが食べられるというだけで、十分に冥加《みょうが》に尽きるわ。つまり、一種類につき一つずつということでよいのじゃろう?」
「お前の所有する金銭感覚がどんなもんなのかは知らないけど、頼むからこれだけは理解してくれ。そんなことされたら僕なんかあっさり破産《はさん》するんだ」
お小遣いで生活している身分なんだよ。
バイトなんかしてねえぞ。
そもそも地方過ぎて、近場にバイト先なんかねーんだから。
「え? じゃあ何じゃい? これは果たしてどういうことになるのじゃ? 儂はこんなにも大量に陳列《ちんれつ》されとるドーナツの中から、食すものを残酷《ざんこく》に選別しなくてはならんのか?」
途端テンションダウンで、青ざめる忍。
そんなことで青ざめるな。
別の意味で同情したくなってくる。
「月一くらいで連れてきてやっからよ……とりあえず今日はセーブしとけ。さもしくがっつかずに、お前らしい気品を披露してくれ。あるだろう? 気品。そうだな、まずはお手並み拝見の様子見ってことで、三個くらいからスタートするのが適切なんじゃねえのか?」
「おいおい我があるじ様よ、そうきなきなするでないぞ。言うにこと欠いてさもしいとは何じゃ。たかが金の話ではないか。ここはどうじゃ、先々のことを考えれば、投資じゃと思って儂に恩を売っといたほうが、お前様にとってもよいのではないか?」
「お前に恩を売ったらどうなるってんだよ」
「いやだから、女子のスカートの中身を」
「女子のスカートの中身くらい自力で調べるわ。そんな不正なリークは受けん」
「むうう。お前様、さては男の中の男じゃな」
「ふっ。今頃気付いたか。僕の朝食は常にクロックムッシュだよ」
「紳士的な奴め!」
「しかも時間に正確だぜ!」
馬鹿な会話中。
馬鹿な会話中ですよ。
「あーもう、わかったわかった、じゃあこうしよう。僕とお前で五個ずつ選ぼう。合計十個だ。それをシェアすればいいだろう」
百円セール中だしな。
千円くらいは出費してやろう。
恩を売る必要はないが、機嫌くらいは取っておいてやる。
今後の円滑《えんかつ》なコミュニケーションのために――力を借りようとは思わないけれど、八九寺との逢瀬を邪魔をされるのは、やっぱり困るのだった。
「その代わりマフィン系とパイ系はなしだ。ああいうのは今回の百円セールの対象外だからな」
「んー……」
仕方ないのう、我慢してやるか――なんて、いかにも不承不承《ふしょうぶしょう》といった風に、頷く忍。
このごくつぶしが……礼を言えよ。
言っとくけどこれ、参考書を買おうと思ってた金だぜ?
僕が受験に失敗したらお前のせいだからな。
とにかく、そんな風に話はついたものの、結局忍が陳列棚から十個のドーナツを選ぶのには(僕の分の五個の選択権も委《ゆだ》ねてやった。つーかどうせシェアする以上、僕の分も忍の分もないわけだ)、そこから更に三十分もの時間を要したのだった。
女子のショッピングに付き合うのは大変である。
しかもこの元吸血鬼、目先のことしか見えねーのか、何の目端も利かねーのか、三十分かけて『残酷に選別』した最終的な結論として、なんとフロッキーシューを三個頼みやがった。
チョコ味、アップル味、ブルーべリー味。
確かに厳密には別物だけど、折角色々選べる機会なんだから、バリエーションを求めろよ。
とか、実際、そんな風に岡目八目の口出しをしてやってもよかったんだけれども、容姿に加えて古風な言葉遣いで衆目《しゆうもく》を集めている忍と、レジ前でお馬鹿な掛け合いを行うだけの耐久力は、さすがの僕にもないのだった。
店員さんの反応からすると、どうやら何かのアニメからの影響を受けての、忍のその言葉遣いだと解釈されているようだったけれど、そんな勘違いに乗っかれるだけの図太《ずぶと》さも、僕にはない。
やれやれ。
まあ、好きにするさ。
これから月一で来るんだったら、どんな誤解もどんな理解も、結局は早いか遅いかの違いなのだから。
時間の問題外である。
十個のドーナツに加えてお代わり自由のコーヒーを二人分頼んで、そして僕と忍は二階席へと向かった。
対面の席に腰掛ける。
ほくほく顔の忍である。
幸せいっぱいだ。
「今まで秘密にしておったが、儂はこれまで五百年生きてきた中、実は何度か人類を滅ぼそうかと思ったことがあるのじゃよ。が、しかしお前様、今ここではっきりと声に出して誓おう。ミスタードーナツの存続する限りにおいて、儂は人類を滅ぼさん!」
「スケールはでけえし器はちっちぇえし、お前の五百年は大変だったんだな」
確かに、色々あったんだろうけど。
五百年。
切っても切れないような関係が成立してしまっているとは言え、僕だって忍とは、まだたった半年の付き合いさえもないのだ――知らないこともたくさんある。
それでいいとも思う。
忍は――怪異で。
僕は――人間だ。
怪異だったし、人間だった。
「で、忍。訊きたいことがあるんだけれど」
タイミングを見計らって(つまり、ドーナツがテーブルから五個ほど姿を消したタイミングを見計らって)、僕は切り出した。
「今日、神原の家に行く途中と、そっから帰る途中。僕に道を訊《たず》ねてきた例の二人――京都弁のお姉ちゃんと、キメ顔のお嬢ちゃん。あいつら、お前から見て――どう[#「どう」に傍点]だった?」
影縫余弦。
斧乃木余接。
僕が忍にこうしてたくさんのドーナツを大盤振る舞いしてやっているのには、彼女達のことについて訊いてみたいという、そんな立派な下心もあるのだった。
「ふむ」
さすがに若干、ドーナツ・ハイも落ち着いたのだろうか――忍は僕に対して、不敵な風ににやりと笑った。
にやりと笑おうがどうしようが、エンゼルクリームの白い粉が彼女の唇の周囲をチャーミングに飾っているのはご愛嬌《あいきょう》。
「お前様よ。まあ、これはどうじゃろうな。わざわざ口に出して言葉にするまでもないことというか……少なくとも儂にとっては暗黙の了解事項ではあるんじゃがな。しかし、いい機会じゃから、はっきりさせておくとするかの」
「あん?」
「儂はこうしてお前様の影に封じられておるし――その封印という動かしがたい束縛によって、牙を突き立ててお前様の血液を吸うまでもなく、お前様に対して常時エナジードレインを行っておるようなもんじゃ。つまり、儂はお前様に生かされておるということじゃな――儂はお前様に救われておるということじゃな」
「生かされて……救われて」
「しかも、そんな裏事情を差し引いたところで、そもそもの立場上、儂は現在お前様の従僕に位置づけられておる。まあ、色々ありはしたし、だからこそお前様を恨んでも憎んでもおるのじゃが――それでも一言で言えば、今のところ儂はお前様のことを気に入っておるのじゃよ」
「気に入って」
おる、と。
僕は意味もなく、忍の言葉を反復した。
「お前様をというか、お前様の人生を、ということじゃがな。怪異ではなく、吸血鬼としての力を失った一人の人間としての――お前様に、津々とは言わんまでも、そこそこの興味があるということじゃ」
こうしてドーナツも食えることじゃしの、と、忍は僕が半分食ベ終えたシュガーレイズドを手掴《てづか》みで、自分の口の中に放り込む。
間接キスと言えなくもなかった。
さすがにそんなことで照れるほど、ウブでもないけれど。
「しかしの、我があるじ様。ここが重要なポイントなのじゃが――儂はお前様の味方ではあっても、だからと言って決して人間の味方というわけではないのじゃよ」
「…………」
「無論、怪異の味方ということでもない――怪異は儂にとってはあくまでも食料であり食糧じゃからな。食事であって食餌じゃよ。じゃが、儂はたとえ力を失おうと――影も形も失おうと、儂は人間になったわけではない。たとえば、困っている人間がいるとするじゃろう。恐らくお前様はそやつを助ける。しかし、儂はそやつを助けはせん」
忍は。
選手|宣誓《せんせい》をするように――言う。
「人類を滅ぼしもせんが――人類を救いもせん。こりゃ、儂が儂に課したルールじゃな」
「……吸血鬼としてのルールじゃなくて、お前としてのルールか。お前がお前であるために、引いた一線ってことか」
「然り。ゆえに、お前様に対して、どこかで誰かが困っておるようじゃとか、そんなことをわざわざ教えたりはせん――訊かれたことにも正直に答えるとは限らん。つまりはそういうことじゃ」
先ごろの蜂の話のときに儂が色々世話を焼いてやったのは、あくまでもあるじであるお前様を助けるためであり、お前様の妹御《いもうとこ》を助けるためではない――と。
忍はもぐもぐ、咀噛《そしやく》しながら言った。
甘いものを食べている割に、厳しい顔つきである――どうやら韜晦《とうかい》や嫌がらせで言っているわけではなさそうだ。
そう。
まあ、そうだろう。
体内に幾らかの吸血鬼性を付与された現在の阿良々木暦の立ち位置も相当に複雑だが、逆に大部分の吸血鬼性を剥奪《はくだつ》された、影や形どころか、本来の名前さえも奪われてしまった現在の忍野忍の立ち位置は、単に複雑というよりは、最早、複雑怪奇と言っていい。
忍野忍。
鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼。
彼女の中でのすさまじき折り合いのつけ方は――察して余りある。
伝説の吸血鬼が僕に対して口を閉ざし――一辺倒に黙殺し、しかしようやくのこと、僕に対して口を開くまでに要した時間は、実に四カ月。
四カ月。
五百年の生命に較べれば、それは短い期間なのかもしれない。
けれど忍にとって、その四カ月は。
きっと五百年よりも――長く感じたことだろう。
毎日が葛藤だったと思う。
毎日が逡巡だったと思う。
毎日が絶望だったと思う。
僕の春休みが地獄だったとするなら――忍にとっての地獄は、その春休みが終わって以降、ずっとだった。
だからそんな忍が出した結論なら――彼女がつけた折り合いなら、僕はそれに対して、決して口出しはしない。
太陽を倒そうと思ったところで。
それこそ人類を滅ぼそうと願ったところで。
もうそれを――説得しようとは思わない。
僕の、本来ならばとっくになくなっている、なけなしのこの生命をそっと差し出して、許しを請《こ》うまでだ。
あんまり繰り返すと言葉が軽くなってしまうかもしれないけれど、それでも僕は、何度でも繰り返して言い続けようと思う。
忍野忍が明日死ぬのなら、阿良々木暦の生命は明日まででいい――だって、忍野忍が生きていてくれるからこそ、僕はこうして、かろうじて生きていられるのだから。
「ま、そりゃ確かに……、暗黙の了解事項じゃあ、あるよな。僕だってそんなことはわかってる。今更、わざわざ言われるまでもねえよ。つまり、なんだ? あの二人のことについて――お前としてはあんまり積極的に教えたくはないって感じなのか?」
「その質問に答えることさえも難しいかもしれんのう。教えたくないと言ってしまえば、連中が少なくとも何者[#「何者」に傍点]かではあるらしいということが、お前様に伝わってしまうからのう」
「質問自体を拒否するってか。ふむ。そりゃ厳格《げんかく》なルールだ」
「……ま、厳格というか」
口の中が甘くなりすぎたのか、忍はコーヒーに手を伸ばした。出身国のお国柄、コーヒーよりは紅茶党の忍ではあるけれど、だからと言ってコーヒーが飲めないというわけではないらしい。
幼女がコーヒーを嗜むという画は、しかし見ていてなかなか壮絶だ。
「厳密に言うなら、そうじゃな。あのキメ顔の小娘のほうについては、教えてやらんでもないの」
「と、言うと?」
「ありゃあ人間ではない。怪異じゃ」
忍は端的に言う。
そうは言っても、彼女の中でのルール上、微妙なラインではあるのだろう――感情を込めない、実に事務的で投げやりな口調である。
「人の形を模《も》してはおるがの。儂と同じく、見た目通りの年齢ではない――斧乃木余接という名前も、当然のことながら偽名《ぎめい》じゃろう」
と。
儂はキメ顔でそう言った。
事務的な口調のままでも、敢《あ》えてそんな風におどけた言葉を付け加えたのは、忍の性格的な意地みたいなものだったのかもしれない。
抑えようのない向こうっ気の強さと言うべきか。
根源的な洒落っ気の強さと言うべきか。
いずれにしても――それが彼女のキャラクターだった。
「斧乃木という名字から読み取るに、その正体のおおよその想像もついてしまうがの――その辺はあやつのプライバシーにかかわることじゃからな。儂のルールというよりはあくまでも良識として、そこは口を閉ざしておいてやりたいところじゃの。お前様とて、個人的な性癖を儂に言い触らされたくはないじゃろう?」
「そりゃそうだ」
そりゃそう過ぎる。
言い触らされてたまるか、そんなもん。
「名字はともかく――下の名前、余接ってのが、僕は気になってるけどな。影縫のおねーさんの下の名前と対《つい》になってるってところが」
「はっ。じゃから名前で縛っておるんじゃろうよ。どーせの」
忍は思い切り肩を竦める。
肩を竦めるという動作は、そんな力を込めてするものじゃないと思うのだが、そのリアクションには、憤愚《ふんまん》やるかたない思いがよく表れていた。
「この儂が、あの軽薄な小僧の名前でがっちがちに縛られておるのと同様にの――要するに斧乃木余接は影縫余弦の使い魔のようなもんじゃ」
「使い魔……」
忍同様に縛られた――怪異。
ここで忍が言う軽薄な小僧とは、僕や羽川、戦場ヶ原、それに八九寺にとっても神原にとっても千石にとってさえ恩人に位置するところの、忍野メメのことである。
忍野メメ。
対怪異の専門家――妖怪退治のオーソリティ。
平たく言えばアロハ男。
忍にしてみれば、僕の次くらいには恨み骨髄に徹《てっ》している人間なのだが――忍野がこの町に滞在している間中、彼と忍はあの廃ビル……叡考塾において、ほとんど生活を共にしていた。
だから辛辣な風の言い方をしてはいても、きっと恨み以外にも、忍には色々思うところがあるのだろうとは思う。
察して余りあり。
察することさえできないけれど。
名で縛る――か。
ともあれ、忍野のことをあまり会話の俎上《そじょう》にあげたくないことだけは確かなようで、
「使い魔」
と、忍はさっさと次のセンテンスへと話を繋げてしまう。
「使い魔という言い方じゃと、なんだかパシリっぽいニュアンスの響きを帯びてしまうから、あるいは正しい表現ではないかもしれんの。うむ……この国の文化になぞらえて言うなら、そうじゃな。せいぜい式神《しきがみ》といったところかの」
「式神……?」
使い魔……あるいは式神、ねえ。
そうは見えなかったけどなあ。
人間にしか――見えなかった。
ただ確かに、そう言われてみれば、あの表情のなさ、得体《えたい》の知れなさ、そしてつかみどころのなさは――どこか人間離れした印象を、見る者に与えるだけの物量があった。
ゼロ、マイナスの物量。
そして何より――僕がこれまでに何度となく相手取ってきている、実在化し、物理的に存在しているタイプの怪異と、斧乃木ちゃんとを横に並ベて較べてみれば、なるほど共通点がないでもない。
猫に魅せられたときの羽川翼。
猿に願ったときの神原駿河。
そんな彼女達と、明らかに通ずるものがある。
「ふうむ……」
けどなあ。
いくらなんでも、あそこまで普通に、ごく日常的な感じで、怪異って存在していいもんなのか?
全然わかんなかったぞ。
そりゃ何者かだとは怪しんだし、疑ったもんだけれど――だからこうして忍に質問してみたんだけれど、しかしまさかあのお嬢ちゃんが、そのもの怪異だとは思いもしなかった。
……とは言いはしてみても、しかし、客観的に見れば、そんな摩詞不思議《まかふしぎ》な話でもねーのか。
その『実在化し、物理的に存在している』タイプの怪異というのなら、今まさに僕の目の前で、普通に日常的に、ドーナツをおいしそうに頬張《ほおば》っているではないか。
そして。
他ならぬ僕自身も、また。
ある意味、怪異のような――ものだ。
「……で、式神ね」
ならば。
式神という言葉から連想しうるのは――すごく典型的な連想なのかもしれないが、当然、陰陽師《おんみようじ》ということになるのだけれど。
それで京都弁なんだもんなあ。
つまり、斧乃木ちゃんが怪異だとするなら、影縫さんのプロフィールは――
「鬼畜なお兄やんとか、鬼のお兄ちゃんとか、道理で色々言われるわけだぜ。なるほど、あの二人は――少なくとも影縫さんのほうは、いわゆる専門家って奴なんだ」
専門家――オーソリティ。
つまるところ、忍野メメの同業者――
「斧乃木はまだしも、影縫はどーじゃろうな。あいつは単に、妹御を牛馬《ぎゆうば》のごとく御しておったお前様のことを、正当に、見たまんま評価しただけかもしれんぞ」
あれを見れば誰だってお前様を鬼畜と称するじゃろう、と忍。
僕を揶揄しているのか、それとも本気で言っているのか判断しかねたが、
「ん。うっかり踏み込んでしもうたか」
と、直後に舌打ちしたところを見ると――彼女はどうやら本気でそう言ったらしかった。
失礼な奴め。
……ふーむ、しかし、だとするとおかしな話になってくるな。
別に陰陽師ってわけじゃないのか?
だけどあの人、火憐がかつて蜂の怪異に刺されたこともちゃんと言い当てたんだから、まるっきりの素人ってことはないだろう――いや、あれも単に、『スズメバチのように猛々しい』くらいの、形容詞としての意味だったのかもしれない。
火憐に言わせれば、影縫さんは自動車並の戦闘スキルを持っているらしいからな――逆から言えば、影縫さんのほうもまた、火憐の並々ならぬ戦闘スキルを看破《かんぱ》していたとしても、それはまったく不思議じゃない。
つーか兄を肩車している時点で、只者じゃないことは知れるだろう。
それを称して蜂と言っただけなのかもしれない。
だけどなあ。
「真っ当な人間についての情報は、あくまでも儂は洩《も》らさんよ。儂が開示するのは、怪異のことか、せめて専門家のことだけじゃ」
僕としたことが、きっともの欲しげな表情でも浮かべて忍を見てしまったのだろう、僕が何かを言い出す前に、彼女は僕をそう制した。
「あまり便利に使われてもなんじゃしの――ドーナツをおごってもろうたくらいで、儂の口は軽くなったりはせん。そこまで安い女ではない。儂はお前様の使い魔でもなければ式神でもないのじゃ。あくまで儂は、お前様にとってのただの従僕じゃよ。どうしてもと言うなら、強制命令権を行使するんじゃな」
「……どうしてもなんて、言わねえよ」
お前を便利に使えるなんて思っていない。
恩を売ろうとも思わない。
ま、確かに。
そりゃ随分と都合のいい下心ではあったよな――釘を刺されるのも無理はなかろう。
白木の杭を心臓に突き刺されないだけ、まだマシってもんだ。
「そうか。ならばよい」
忍は再び、コーヒーを口に運ぶ。
僕もなんとなくその動作を真似て、カップを手に取った。
すると忍は、まるで悪意をもって、僕がその黒き液体を口に含む時機を抜け目なく見計らったかのように、
「では、お前様よ。どうしてもと言わん程度のことならば――あそこの席に座っておるあの男にでも訊いてみたらどうじゃ?」
と言った。
「?」
僕は後ろを振り向く。
そしてコーヒーを噴き出した。
店の隅っこで、マフィン系とパイ系の商品だけを大量にセレクトし、それらをエスプレッソのダブルと共に食していたのは――誰あろう。
それこそ、忍野メメの同業者にして――詐欺師。
貝木泥舟だった。
008
中学生から高校生の過渡期《かとき》において、とある蟹に遭遇した戦場ヶ原ひたぎは、忍野メメによってその身体的な問題を解決されるまでの二年間に、五人の詐欺師に騙されている――それはきっと、ある程度本人が望んで騙されたというところもあるのだろうけれど、とにかく、その五人の詐欺師の最初の一人が、貝木泥舟である。
始まりであり、終わりの男。
最初であり、最後の男。
人呼んで、ゴーストバスター。
それが貝木泥舟だ。
葬式の帰りでもあるかのような喪服《もふく》のごとき漆黒《しっこく》のスーツに、色の濃い黒ネクタイを締めた、壮年の――如何にも不吉な男。
この不吉な男は、そして先日、ファイヤーシスターズの正義執行の対象者となった。
悪役として位置づけられた。
詳細は省《はぶ》くが、地元の中学生を中心に怪異を利用したおまじないを流布《るふ》させるという、考えてみれば結構な規模の詐欺を、数カ月にわたって計画的に展開していたのだ――被害が甚大《じんだい》になる前に食い止められたのは、それでも僥倖《ぎょうこう》と言うべきか。
しかしこちらも無傷では済まなかった。
火憐は蜂に刺されてしまったし――その後のフォローも大変だった。全てがうまくいったとは、とても言えない。
それでも。
戦場ヶ原ひたぎが過去の心的外傷と向き合いながらも、まっすぐに貝木泥舟と対決したことにより――とりあえずのことは終結した、くらいのことは言える。
戦場ヶ原は毒を出し切って。
貝木泥舟は、二度と僕達の前に姿を現さないことを約束し、そしてこの町を去っていったのだった――なのに。
なのに。
「なのにてめえ、なんでいるんだよ」
「くだらん。俺が約束を守るとでも思ったのか。だとすれば愚かだな。今回のことからお前が得るベき教訓は、約束は破られるためにするものであるということだ」
ブルーベリーマフィンを食べながら。
不吉な風に――貝木は言った。
ミスタードーナツ食ってても不吉だな、こいつ。
一個もイメージよくならねえ。
可愛さの欠片も生じねえ。
あのとき、確か僕、『阿良々木暦は貝木泥舟とは二度と会ってはならない』とか、『今度会ったら殺し合いになってもおかしくない』とか、色々格好いいこと思ってたはずなんだけれど……、なんで町のミスドで奇遇《きぐう》な感じに遭遇してんだよ。
ふざけんな。
台無しだよ。
しかし、そうは言っても、僕(と忍)が席を移動して、許可も取らずに正面に座ったところでまるで動じず、驚いた風を微塵も見せず、食事を続けるあたりは――やはり只者じゃない、こいつ。
偽物の詐欺師でありながら。
どこまでも――本物だ。
「……とでも、普段の俺なら言いたいところなんだがな」
と。
悪びれずに開き直る貝木に、どんな角度から文句を言ったものかと逡巡して、丁度何かを言おうと口を開きかけたという、とても嫌なタイミングで――嫌がらせのように、貝木はあっさり前言を翻《ひるがえ》した。
「安心しろ。極めて珍しいことに、俺は今回、とりあえずは戦場ヶ原とのあの約束を守るつもりでいる――そのほうが俺の利益になると踏んでいる。金のためになると踏んでいる。ゆえにこの町に二度と来る気はなかったさ」
「いや、でも、今まさに……」
「二度と来る気はなかったから、一度は来たのさ」
「……」
詐欺師だーっ!
本物の詐欺師だーっ!
大体、そんなこと言い出したら、お前一度どころか、この町に来るの最低でも三度目だろ。
あとこいつ、本物とか偽物とかいう以前に、言ってることもやってることも、実は色々と結構な小物だよな。
声の低さで小物感を誤魔化している感じだ。
「……騙すつもりがあったかどうかはともかくよ、貝木さん。あれだけ大見得《おおみえ》を切って、勝ち逃げみたいな感じで去っていっといて、なんでドーナツ食ってんだよ」
「ここの店舗でしか使えない割引券を持っていたことを思い出したのさ――それを使うために戻って来たのだ」
「そ……それも、嘘か?」
「これは心外なことを言う。俺は嘘と坊主の頭はゆったことがない」
詐欺師は堂々と言い切った。
わかっていたつもりだけど……、本当にとんでもねえ、こいつ。
ぱないの、だ。
同時に大した度胸《どきょう》だとも言える。
図太いというか――図々しいというか、大胆不敵にも程がある。
火憐や戦場ヶ原に見つかりでもしたら、今度こそただでは済まないことくらい、わかるだろうに――まるでこそこそすることなく、逃げも隠れもせず、大した防護策を打っている風もなく、ぬけぬけとこんなところにいやがるんだから。
まあ僕も無論、こいつが本当の本当に、厳密な意味で約束を守るかどうかは、微妙だとは思っていたけれど――
書面上で交わしていない約束は。
約束とは言えない――だけど、それでも、戦場ヶ原ひたぎにとっては。
貝木泥舟にそんな約束をさせたという事実だけで、十分だった。
だったんだ。
……ただ、そうだな。
火憐はともかく、戦場ヶ原だよなあ。
折角いい感じに更生したというのに、ここでまた三度《みたび》貝木と遭遇でもしてしまえば、恐ろしいぶり返しがあるかもしれない。
今更元の毒舌女に戻られても対応できないそ。
「割引券のことは本当だが、それだけでもない」
逆接の接続詞も使わず、貝木はあっさりとそう言って、エスプレッソのダブルを口へと運ぶ――いや待てよ、ミスドのメニューにそんなドリンクはねーだろ?
特注か?
なんで飲んでる飲み物まで真っ黒なんだよ。
不吉な空気を纏っている、なんて表現はよく聞くけれど、こいつの場合は、不吉な空気を吐き出している感じだった。
酸素を吸って黒煙を吐き出している感じ。
存在自体が不吉だ。
「いわゆる野暮用だよ。ただのくだらん野暮用だ。阿良々木、お前が気にするようなことではない。いずれ、すぐに消えてやる――」
「僕としては今すぐ消えて欲しいけどな」
「そう急《せ》かすなよ。お前達に二度と会いたくないのは、俺の側も同じだ。お前達のせいで、俺は大損こいたんだからな――お前の妹が色々とフォローに駆け回ってくれたお陰で、後始末に料金をかけずに済んだのが、せめてもの救いだ」
「……」
「お前達にとって俺が疫病神なら、俺にとってはお前達が疫病神だ」
言いながら貝木は、またそろマフィンを口にくわえる。
しかし、改めて、全然似合わないなあ。
内面外面共に不吉な貝木に、甘いものを好むようなイメージはないんだけど。
……そもそも、最初に忍をミスタードーナツで餌付《えづ》けしたのは、他ならぬ忍野メメだったわけだが――ひょっとしたらだけど、怪異に対する専門象をやっていくためには、糖分を大量に摂取する必要でもあるのだろうか?
「本当はまだ割引券が残っているのだがな――こうしてお前に目撃されてしまった以上、もう使わないほうがいいだろう。誰かに転売するとしよう。もたもたしていて、お前に戦場ヶ原を連れてこられてもつまらん」
「連れてくるか」
「だろうな。しかし」
貝木は言う。
まさしく、僕の隣に座って、僕と貝木との会話にはまるで興味なさそうにドーナツを頬張っている忍のほうへと視線をやって。
「阿良々木。お前も中々どうして隅に置けんではないか。俺も悪だがお前も悪だな。こんな素晴らしい真夏の晴天の下、そんな金髪のロリ少女を我が物顔で連れ回しているとはな」
「……」
ロリ少女とか言うな。
我が物顔なんかしてねえよ。
お前と一緒にするんじゃねえ。
貝木との対決自体には、忍は力を貸してはくれなかったので(あのとき忍は多分影の中ですやすや眠っていたはずだ)、貝木と忍が姿を現して向かい合うのはこれが初めてとなるのだが――ふうむ。
人間は人間でも、貝木は忍野と同じ専門家。
忍野と違う専門家。
この場合の忍のルールは、どう適用されることになるのだろう――特にこのように、怪異が絡まない場合には。
「お嬢さん。どうだ、俺に写真を撮らせないか。一枚あたり五百円払おう――俺ならばそれを元手に、五十万は稼げる」
詐欺師が吸血鬼にいかがわしい交渉をしていた。
油断も隙もねえ。
ていうか、あれ?
貝木は貝木で、忍の正体にピンと来ないのか?
あーでも、貝木はあくまで詐欺師としての専門家だからなあ……本当に忍野とはタイプが違うのだった。
そうだ。
貝木は[#「貝木は」に傍点]――怪異を認めていないのだ[#「怪異を認めていないのだ」に傍点]。
怪異はあくまでも詐欺のための道具であり。
蜂もいなければ。
吸血鬼も――いないのだ。
「ふん。他を当たるがよい。儂は自分を安売りする気はないでの」
「マフィンを一個食べていいぞ」
「おいお前様。こいつは案外いい奴じゃぞ」
「あっさり騙されてんじゃねえ」
こいつはきっと五百円だって払わねえぞ。
これらマフィンの代金だって、ちゃんと支払っているかどうか疑問なくらいだ。
最悪、割引券さえ偽造したという可能性も考えられる。
「まあ俺も、他人の趣味嗜好に口を出すほど野暮ではない。きちんと金を積みさえすれば、お前の特異な好みについては、戦場ヶ原に黙っておいてやってもいいぞ」
「……本当に、なんつーか思いついたみたいに脅迫するんだな、お前は」
カツアゲの仕方が堂に入っている。
忍とデートしてたくらいのことをチクられたところで、別に困りはしないんだけど(八九寺のことをチクられたらややまずし)。
「本当、いちいち驚かされるよ。お前みたいな奴が実在するってことには――大体お前、戦場ヶ原の連絡先なんて知らないだろ」
携帯電話を戦場ヶ原に壊されてたしな。
そして戦場ヶ原が民倉荘《たみくらそう》へと引っ越したのは、貝木に騙されたあとの話だった――いや、詐欺師というくらいだから、ケー番くらいの情報を入手するのは、簡単なことか?
まあでも。
そんなこと、しやしないだろう。
戦場ヶ原ひたぎは既に、貝木泥舟にとっては一銭の価値もない女なのだ――中学生を相手に詐欺を働こうとこの町を訪れたときも、ここにかつて騙した家族の娘がいることなど、貝木はすっかり忘れていた。
それさえ嘘かもしれないけれど。
でも、少なくとも――貝木のほうから戦場ヶ原にアプローチすることはなかった。
そういうことである。
そういうことでしかない。
いずれにしても、つまり金銭のことを除いたとしても、いや、除くまでもなく逆に付加したところで、金を持っていない上に、いわゆる『普通の女の子』になってしまった戦場ヶ原は――どうしたって貝木の興味の対象にはなるまい。
それは。
救いのある話だ。
「……はあ」
しっかしなあ。
実は、それこそ忍と初めてのデートということで、勉強を邪魔されたことに対する憤《いきどお》りはありながらも、僕としては実はうきうきした気分もなかったではなかったのだが……、貝木に会っただけで完璧におじゃんになってしまった。
気分はどん底に沈んでいる。
なんだこの逆|座敷童子《ざしきわらし》みたいな奴。
不吉にもほどがある。
会っただけで幸せな気分になれる八九寺とは大きな違いだ――今日はなんだろう、上げて下げるみたいな日だな。
アップダウンクイズ。
「なんだ、その目は。どうして子供が大人をそんな目で見る」
「いや、あんた本当、カラスみたいだなあって」
「カラスか」
それは褒め言葉だな、と貝木。
「あれはたくましい鳥だ。そして賢い鳥だ」
「ああ……まあ、そりゃ」
色が真っ黒なのがイメージ悪いんだけど、見た目で判断するのも、カラスに対して申し訳のない話だ。地域によっちゃあカラスも幸運を運んでくる鳥だとか言われてるらしいし。
「でもあいつら、ゴミ散らかすからなあ」
「カラスがゴミを漁《あさ》るのは、人間がゴミを出すからだ。ゴミを散らかしているのは、大局的に地球規模で見れば、むしろ人間のほうだろう」
「……あんた、エコとか大嫌いそうだよなあ」
「散らかすと言えば、この間、俺はカラスが鳩《はと》を食っているのを見たぞ。あれは壮絶な画だった。あたり一面、羽根が飛び散ってな」
「想像したくもない……」
盛り上がらないトークだな……。
なんて雑談のし甲斐がない奴だ。
いや、そもそも、別に貝木と鳥の話で盛り上がるつもりはないんだよ。
カラスに限らず――鳥がたくましく、強い生き物であることくらいは知っている。
だから、雑談はおろか、本当なら、貝木を見かけたところで無視を決め込んだってよかったのだ――けれど、そこは忍に促《うなが》された通りである。
どうしてもと言わない程度だから。
訊いておきたくて――嫌な気分になるのはあらかじめ承知の上で、僕はこうして席を移動してきたのである。
勿論、戦場ヶ原を守りたいという気持ちが第一だったけどな。
「影縫余弦と斧乃木余接。知ってるよな?」
必要以上に鎌《かま》をかけるような言い方になったのは、下手なきっかけを貝木に与えたくなかったからだ。
知らないなら知らないでいいし、教えてくれないなら教えてくれないでもいいのだが、しかし知りたければ金を払えとか言われて話がこじれるのだけは、勘弁して欲しいのだ。
詐欺師と金のことで揉めたくない。
しかしそんな子供の浅知恵など、大人の悪知恵に敵うわけもなく、
「知りたいか。教えてやる。金を払え」
と、貝木は堂々と胸を張った。
ものすごい三段論法だ。
まったく、守銭奴《しゅせんど》にもほどがある――守銭奴というか、むしろ奪銭奴なんだけれど。
自分の命よりも金が大事と言い切る男である。
ファイヤーシスターズが正義の信念を重んじるように、彼は資本主義の理念を重んじる。
正義など――平気な顔で踏みにじる。
「こうして偶然会ったのも何かの縁だ、阿良々木。今なら割り引いてやらんでもないぞ。割引券を持っていなくとも、な」
「偶然ねえ」
嫌な偶然だけど。
だが、その偶然をしたたかに利用しない手はないだろう。
確かに。
「……あー。わかったよ」
議論になると面倒臭い。
そんなことを思わせられている時点で既に、詐欺師の罠に嵌っているのはわかっているけれど――いいカモにされているのはわかっているけれど、しかし僕だって無策というわけではない。
この場合は与しやすいと、ナメておいてもらったほうがいいと思うのだ。
警戒されてもなんだしな。
詐欺師の猜疑心《さいぎしん》など、洒落にもならない。
「その代わり嘘はやめろよ。いいか、この金髪のロリ少女は、どんな嘘でも見抜くことができるという驚異のスキルの持ち主なんだぞ」
「それこそ嘘だろう。詐欺師を騙そうなどと、大した度胸だ。その度胸は認めてやるがな」
貝木は馬鹿にしたように言う。
そりゃまあ、嘘のプロみたいなもんなんだから、この程度の嘘は見抜くよな――ナメてもらうためにわざわざ言ったとは言え――と、内心僕が得意になっていると、
「そのお嬢ちゃんはどう見ても外国人ではないか。日本語が随分と不自由なようだし、そこまでのヒアリングができるとは思えない」
と貝木は続けた。
……もしも冗談で言っているんだとすれば、貝木泥舟、実は結構ユニークな性格をしているのかもしれない。
いや、これもこいつの手なのか。
貝木はこうやって、数々の手口で数々のいたいけな中学生達に詐欺を仕掛けてきたのだ――与しやすいと思わそうとしているのは、お互いさまなのかもしれなかった。
用心し過ぎてし過ぎることはない。
この不吉な男は――あの戦場ヶ原ひたぎを騙すことにさえ成功した詐欺師なのである。
思い起こしてみれば、貝木に騙された経験を持つ戦場ヶ原は、僕と貝木を引き合わせないために――僕と貝木を関わらせないために、恋人である僕を拉致《らち》監禁《かんきん》するという、恐るべき凶行に及んだくらいだった。
こうして予定外に貝木と向き合ってしまっていることを戦場ヶ原に知られたら、それだけでもやはり、彼女は平静を保っていられないかもしれない。
はーあ。
彼女に秘密ができちゃった。
……しかしまあ、本当に心を削るような掛け合いだなあ。
一個も楽しくねえよ。
ゲージ滅りっぱなしだ。
「で、いくら払えばいいんだよ――その二人の情報にはよ」
言いながら、僕は財布を取り出す。ドーナツ十個とコーヒー二杯で、既に千五百円近く使ってしまっている――お小遣いで生活している親がかりの身分としては、あまり無駄遣いはできない。
戦場ヶ原が里帰りから帰ってきたら、またデートとか行きたいもんなあ。
まあでも支払う相手は大人だし、いくらなんでも小銭ってわけにはいかないか。
二千円くらい払えばいいのかな……。
と、財布の札入れを開けて、とりあえずは千円札を二枚取り出してみて、それでも僕がなお迷っていると、
「どれ」
などと言って、ごく自然な流れで僕の手から財布を奪った。
何が
「どれ」だよ。
滅茶苦茶、本当にナチュラルな動作だったので(美しいと形容してしまっていいほどの一連の手際《てぎわ》であった)、僕は盗られないように手を握り締めるというような反射的なリアクションさえもできず、財布は奪われるがままだった――詐欺師と言うより、掏摸《すり》の手腕である。
隣に座る忍からすれば、あたかも僕が無抵抗で財布を手渡したようにさえ見えただろう。儂のご主人様はアホなのかというような目でこっちを見ていやがった。
「ふん。まあいいだろう、阿良々木。お前と戦場ヶ原、若い男女の前途を祝する意味で、この程度のはした金で許しておいてやろう」
嘘を見抜けるスキルなんてなくともわかるほどに、そんな心にもない心なき台詞を白々しく並べながら、貝木は僕の財布をその喪服の懐《ふところ》へと仕舞った。
……この野郎、財布ごとかっぱぎやがった。
やっぱこいつこそが鬼畜で鬼だよ。
カラスどころじゃねえ。
いや、むしろあれか? あれなのか? この場合、二千円も残してありがとうございますって、お礼を言っておいたほうがいいのだろうか?
でもこれ、『実は財布の中にはもう小銭しか残ってませんでした』チックな、いい話じゃないんだぜ? あの財布の中、虎の子の一万円札とか入ってたんだぜ?
「なるほど、ああすれば儂はもっとたくさんのドーナツにありつけていたというわけか」
忍がうんうんと、興味深そうに何度も頷きながら、そう言っていた。
周囲から影響を受けやすい怪異であるところの忍は、今まさに現在進行形で、人間界の嫌な影響を受けている。
本当、周囲に悪影響しか与えない人間っているもんなんだな。
堪忍《かんにん》して欲しい。
ならぬ堪忍、するが堪忍。
「もっとも俺にとってはした金などという金はないのだがな。一円を笑う者は一円に泣くとは、実は俺が考えた言葉だ」
いよいよ貝木は、もう嘘というかただの虚言を吐き始めた。
不吉だし言ってることは滅茶苦茶だし、もうこいつ、普段どんな生活送ってんだよ……詐欺師じゃないときのプライベートの生活が、まるで想像つかない。
それとも二十四時間三百六十五日。
ずっと――絶え間なく詐欺師なのだろうか。
本物として。
偽物として。
……何がどうだったところで、こうなってくると、僕としては訊きたいことをさっさと訊いてしまったほうがよさそうである――でないと、展望台における望遠鏡のごとき阿漕《あこぎ》さで、追加料金さえ取られる恐れがあった。
「教えろよ。影縫余弦と、斧乃木余接だ」
「ふん。しかし、勿論教えてやる――金をもらった以上は正当な取り引きだ。しかし阿良々木、俺に対してそれを訊くということは、既におおよその見当はついているのだろう?」
貝木は平然とした顔で、言う。
無表情ってわけじゃないのに、貝木の表情は全然読めない――読めたとしても、それは確実に間違っていると思う。こういうのを本当のポーカーフェイスって言うんだろうな。
これも羽川から前に聞いたのだ。
ポーカーフェイスとは、今ではすっかり無表情、つまりは感情が表に出ないという意味合いで広がってしまったが、元々の意味はそうではなかったらしい。本来は、胸に抱いている感情とまったく違う、別種の感情を顔に出している状態を指して――それをポーカーフェイスと言うのだそうだ。
確かに、ポーカーというゲームから生まれた言葉である以上、そうでなければおかしい。無表情だけじゃあ相手を騙すことはできないだろう。
騙すことはできないし。
偽ることもできない。
表情を隠すのではなく、表情を作る。
更に言うなら――
感情を隠すのではなく、感情を作る。
そういうことである。
そこにひも付けて言うなら、つい先ごろまで無表情の鉄仮面を貫いていた戦場ヶ原ひたぎは、詐欺師としては二流だったということになろう。
彼女は表情を隠せても。
感情を偽ることは、できなかった。
……それができてりゃ、僕なんかに正体を見抜かれることもなかっただろうに。
意外と不器用なんだよな、あいつ。
「あいつらは専門家だよ。俺と同じ、ゴーストバスターだ」
特別なことを教えている風もなく、共通の知り合いの好きな食べ物でも教えるようなたやすい口調で――貝木は言い。
そして、
「もっとも」
と、付け加える。
「俺が偽物であるのに対して――あいつらは本物だ。俺が詐欺師なら、あいつらは陰陽師だ」
「……」
陰陽師。
その言葉に、僕は忍のほうを向いた。
しかし忍は貝木の話にはまったく興味がないようで、ドーナツに夢中だった。
つれない奴である。
「……勢いで『ら』などと言ってしまったが、厳密には陰陽師は影縫のほうで、斧乃木はあくまで式神だそうだがな――まったく。妖怪だの幽霊だの、スピリチュアルかぶれの困った二人組さ」
血液型占いでもやってろってんだ。
そんな風に悪態《あくたい》をつく貝木。
言うほど不愉快な風にも見えないが――それはあくまで見えないだけかもしれない。
「……知り合いなのか?」
「何故そう思う」
「いや、言い方が……その、なんとなく? 口ぶりがそんな風かなって思って」
「名を知っているだけだ。影縫のほうが、業界ではそこそこの有名人だからな……怪異|転《ころ》がしなんて呼ばれているぜ。知らなきゃもぐりというだけで、特に会ったことがあるわけじゃあない。あの手の本物は、俺のような偽物のことなど気にもかけんさ……もっともそうでなくとも、俺はそもそももぐりみたいなものだがな」
僕からの問いを、貝木は否定した。
ふむ。
なんとなくと言うか、影縫さんと斧乃木ちゃんを指して言うときに、貝木が『そいつら』と言わずに『あいつら』と言ったことが、ちょっと引っかかったんだけど……まあそんなの、ただの言葉選びの問題だしな。
言葉選びと言葉遊びは似て非なるものだ。
ただの言い間違いということもあるだろう。
兄妹に兄妹言語があるように、専門家には専門家同士の共通言語があるのかもしれない。
「そういうことなら、阿良々木。むしろ俺のほうが訊いておきたいところだな――無論、俺は金など払わないが」
「…………」
どうぞ。
なんでもお訊きください。
「どうしてお前があの二人組を知っている? 真っ当に生きてりゃあ、あいつらは俺以上に関わり合いになりにくい奴らだぜ」
「関わり合いっていうか……単に道を訊かれただけのことなんだけど」
「つまり、何かの機会で名前を知ったということではなく、向かい合って直面したというわけか。それは益々信じがたいな――お前、俺を騙してるんじゃないのか?」
「あんたにだけは疑われたくねえ」
「人違いじゃないのか? 名を偽られたとか――」
「郵便ポストの上に立ってたり、キメ顔じゃないのにキメ顔で言ってたりしたんだけど」
「ふん。本物か」
頷く貝木。
今の証言が本物の証拠になるのか……。
「考えてみれば、今日は随分とおかしな日だよ。その手のオーソリティに、一日の内に三回も遭遇してるっていうんだから――ったく、偶然ってのは恐ろしい」
お盆だからだろうか。
それこそスピリチュアルな考え方だけど。
しかも恐ろしいのは、今日という日はまだ半分ちょっとしか終わっていないということだ――この分だと午後に、僕は更なる専門家と遭遇するということも考えられる。
まさか忍野メメ帰還の伏線なのだろうか。
あのアロハ野郎の再登場の前振りなのだろうか。
だとすると。
うーん……まあ、その、微妙!
「偶然か」
と。
すると、貝木が――僕の言葉尻を捕まえた。
「阿良々木よ。俺も先ほどその言葉を口にしたが――お前に対して偶然会ったのも何かの縁だと言いはしたが、しかしその、いわゆる一般的な意味での偶然って奴は、これがなかなかどうして曲者《くせもの》でな――大抵の場合、偶然というのは何らかの悪意から生じるものだ」
「……悪意?」
「そう。縁などではない。悪意だ」
正義に対する――悪意だ。
貝木泥舟は、どうしてなのか――吸血鬼でもなんでもない、ただの金髪のロリ少女だと認識しているはずの忍野忍のほうを、とても意味深長な風に見遣りながらそう繰り返して、
「影縫余弦と斧乃木余接」
と、続ける。
「あくなき現代の陰陽師――なあ、阿良々木よ。専門家とは言え、連中の専門は非常に狭い。あのツーマンセルの専門は、不死身の怪異なんだぜ」
009
まあだからって別にどうってことはないんだけどな――不死身の生物なんかこの世にいるわけがないんだし――クマムシくらいだクマムシ――とかなんとか、台無しな感じに締めたところで、詐欺師・貝木泥舟から得られた情報はおしまいだった。
役に立ったのか役に立たなかったのか、どうにもよくわからない情報だった――少なくとも支払った対価ほどの見入りがあったかといえば、結構怪しいところである。
不死身専門。
いつぞやのギロチンカッターが、吸血鬼専門のオーソリティだったのと、それは似たような話か――あるいは、偽物の怪異を専門とする貝木泥舟とも、似たような話なのか。
よくわからない。
んー。
そういう意味じゃ、色々ととぼけてはいやがったけれども、僕達が知るところの専門家・忍野メメの守備範囲は本当に、冗談みたいに広かったんだよなあ。
何者だったんだろ、あいつ。
まあ話が済んでしまえば同席している理由はない――僕と貝木は四方山話《よもやまばなし》に花を咲かせるような仲ではないし、そうでなくとも、基本がダーティに落ち着いた雰囲気の貝木相手じゃ、雑談はおろか、掛け合いだって盛り上がりようもないのだ。
こいつとギャグのパートはできねえよ。
で、立ち上がってトレイごと元の席に戻るとき、僕はぎりぎり、危ないところで思い至って、
「そうだ」
と、貝木に呼びかける。
「財布とお金はそのまんまやるけども、貝木さん、一個返しておいて欲しいもんがあるんだ」
「? 返しておいて欲しいもの? なんだ。クレジットカードでも入れていたのか?」
「クレカなんか持ってねえよ。高校生だぞ、僕。……写真。写真入れてたんだ」
「ほう」
貝木は上着の懐から僕の(否、既に僕のではない)財布を取り出し、中を開いて一葉の写真を取り出す――その写真の被写体を見て、貝木は心なし、眉を顰めた。
それがポーカーフェイスの産物だったかどうかはわからないけれど。
「……戦場ヶ原。あの娘、髪を切ったのか」
「ん……まあ、ああ」
入れていたのは、戦場ヶ原の写真だった。
最近撮ったばかりのフォトグラフィである――撮影に使われたのは先月末に神原の部屋から発掘された例のデジカメ。
それをプリントアウトしたものだ。
撮影者の腕がよかったのか、あまりにいい写真だったので、受験勉強のお守り的に財布に挟んで入れておいたのだ――今を生きる高校生男子としてはいささか古風な行為だったかもしれないけれど、だからといってすごすご、戦場ヶ原の写真を貝木に献上したくはない。
それ以前に手放したくない。
僕にとって、それはどんな情報の対価としても割に合わない一葉だ。
「ふん……にこにこと、気の抜けた風に笑ってしまってまあ。人間、腑抜《ふぬ》ければどこまでも腑抜けてしまうものだ――かつてあいつが輝いていた頃を知っている俺からすれば、まるで別人だ。面影《おもかげ》も残ってないし、見る影も残ってないな」
ともすれば貝木は、僕のなけなしの二千円を、更に要求してくるのではないかと思ったけれど――しかし思いのほかあっさり、彼はその写真を僕へと返してくれた。
実に、興味なさげに。
その写真に何の値打ちも見出せないように。
大してごねもせず、僕の手へと戻した。
「――俺としては残念|至極《しごく》な話で、がっかり以外に言葉がない。朗《ほが》らかな戦場ヶ原ひたぎに、一体何の価値があるというのだろう。己の価値に気付かない呪いと己の無価値に気付かない呪い、選ぶとしたらどちらなのか、それは人が背負う一生の問題ではあるが――まあしかし、それでも子供は成長するべきなのだから、俺のように終わってしまった人間は、ここではコメントを差し控えておくとしよう」
終わってしまった人間。
貝木泥舟は自らをそう評した。
確かに――貝木くらいの年齢の人間から見れば、僕や戦場ヶ原など、まだ始まったばかりの子供でしかないのだろう。
そして――もっと言うなら。
貝木泥舟と戦場ヶ原ひたぎが、単純に騙した側と騙された側というだけの関係でないことも、何となく察しはついている。
そうでもなければ――戦場ヶ原にとって、貝木泥舟との再会が、そして対決が、あそこまで明確なけじめとなりうるわけがないのだ。
デトックスとなりうるわけがない。
だけど、どれくらい察しがついたところで、僕は恋人のそんな過去に深入りすべきではないのである――貝木なんかに言われるまでもなく、子供は昨日ではなく、明日を向いているべきなのだから。
終わりではない、始まりとして。
さて。
それでは、まずは近々の未来から――当然、僕が考えるベきは例の二人のことである。
影縫さんと斧乃木ちゃん。
影縫余弦と斧乃木余接。
二人が、予想通りの二人組……ツーマンセルであったことは、これで知れた。
そして予想通りの専門家であったことも――これで知れた。
やはり僕は、火憐や八九寺に対して酷い振る舞いを見せていたから鬼畜だの鬼だの言われていたのではなく、あくまでも体内に幾らかの吸血鬼性を残していたからこそ、あんな風に呼ばれたのだった。
つまり僕はこれからも、あの手の振る舞いは大いにしていっていいということである。
励まされる話だ。
が、しかし、得たい情報を得られたところで一件落着と言えるかと言えば、どうやらそんなことではなさそうだ――むしろ話が広がってしまった感は否めない。
話が大きくなってしまった。
不死身の怪異を専門とするゴーストバスター。
不死身、不死者。
吸血鬼。
貝木はそんな存在は存在しないと言い切ったが。
そして広義の意味ではその言い切りは決して間違っていないが、しかしそれでも厳密に言えば、今この町には、そう呼ばれても仕方のない存在が――二人、存在している。
言うまでもなく忍野忍と、阿良々木暦である。
「不死身のあるところに不死身殺しありじゃ――神話であれ伝説であれ、不死身の化物、あるいは不死身の神は多く登場する。しかし大抵の場合、不死身でありながら、それら怪異は殺される」
不死身が実在するなら。
不死身殺しも――実在する。
奴らはその手の属性じゃ、と忍は言う。
ミスタードーナツからの帰り道。
自転車の二人乗り。
火憐とは避けた二人乗りである。
僕としては忍には、移動中は影の中に潜んでおいて欲しかったのだが、おなかいっぱいになったらしい本人が「折角なので昼間の世界も見ておくかのう」などとわがままを言い出してしまえば、そのわがままを制御する手段は僕にはなかった。
あるが、行使はできなかった。
忍の外見年齢は八歳くらい。
が、六歳と言い張れば六歳と見えないこともないだろう――本当は五百歳だけど。
だから二人乗りは(見た目)違法ではないのだが、もっともそれは忍が素直に荷台に座ったときの話である。
忍は、
「ふむふむ。こっちのほうが話しやすそうじゃな」
と、前かごにすっぽり収まりやがった。
かごに尻をはめ込んで、ハンドルに足をかけ、運転する僕と対面する形。
どうやら自転車をよく知らないらしい。
ことほどさように無知とは恐ろしい――我々素人には発想さえできないような、とんでもねえライディング法を思いつきやがる。
逆ET乗りと名付けよう。
……ていうか、忍は別に五百年生きているだけであって、五百年封印されていたわけじゃないんだから、日本文化に疎いのはともかく、どこかの機会で自転車くらいは知っていてもおかしくないはずなんだけどな。
吸血鬼とか関係なく、普通に世間知らずな奴なのかもしれなかった。
ちょっと運転しづらいけれども(うまく前かごに影ができるよう、前傾《ぜんけい》姿勢で自転車を漕がなければならないのだ)、まあ、ペダリング不可能というほどではないので、そのままスタートすることにした。
ありっちゃありだろう。
「不死身の怪異を専門にする陰陽師、か――やれやれ。標的は僕とお前ってことになるんだろうなあ、やっぱり」
僕も忍も、本当のところは現状、不死身とは言えないんだけれど――不死身の因子は、不死身の欠片は、体内のどこかにまんべんなく、確かに有している。
それが怪我の回復が早い程度の残滓《ざんし》でも。
腹が滅りにくいくらいの残滓でも。
残っていれば、それは不死性となるのだろう。
……思い起こしてみれば、そもそも詐欺師・貝木泥舟にしたところで、この町を舞台に大規模な詐欺を展開しようとした理由は、かつて伝説の吸血鬼(つまりは忍の前身)が降臨《こうりん》したことがあり、そういう場所ではオカルトがらみの仕事(つまり貝木にとっての詐欺行為)が進みやすい――から、などと言っていた。
僕達を目的としていたわけではなくとも。
広い意味では、僕達の存在が貝木を招いたと言えなくもないのだ。
少なくとも貝木がこの町に来たのは、かつて騙した戦場ヶ原が住む町だから再訪したなどという、そんな切なくもセンチメンタルな理由では――なかった。
「ふふん。儂とお前様が標的のう。しかし、そうとは限らんぞ、我があるじ様――」
自転車の前かごで、偉そうにふんぞり返る忍。
両手を頭の後ろで組んでいる。
そんな場所でそんな格好で偉そうにしても、何一つお前のキャリアにとってプラスにはなってねえんだけれど。
けど本当身体ちっこいなー、こいつ。
ポケットとかにすっぽり入りそう。
「――不死身の怪異など、儂は死ぬほど食うて来た。儂も儂で、立派な不死身殺しじゃよ。……大体、そんなことを言い出したら、不死身も何も、怪異はそもそも生きておらんじゃろうに」
「あー。まあ、生きてねえもんに不死身も何もねえよな――」
身も蓋もない言い方だ。
「――だったら怪異は、全部、不死身みてーなもんなのか……。忍野もそんなこと言ってたっけな。でも、そういう定義論はともかくとしてさ。僕達が標的とは限らないっていうんだったら、忍。お前はこの町に、僕達以外に吸血鬼がいるかもしれないって言いたいのか?」
「吸血鬼とは限らんがの――いても不思議はあるまい。否。不思議はある――」
ふむ。
不死身云々の条件を外してみれば、言われてみりゃあ、僕の周囲だけに限って観察してみても、怪異を体内に宿しながら生きている人間ってのは、何人かいるんだよな。
たとえば左手に猿を宿した神原駿河がそうだし。
たとえば精神に猫を宿した羽川翼がそうだ。
「だったら、他にも体内に怪異を宿した、僕の知らない人間がいても、不自然じゃない――っていやいや、不自然だろ。一つの町にそんなたくさん怪異がいるかっての」
「この国には知られておるだけで八百万の神がいるのじゃろう? 一都道府県あたり約十七万柱《はしら》。ひとつの町に十匹くらいおらんほうが変じゃろう」
「怪異を神とごっちゃに――」
していいのか。
それこそこの国じゃ、怪異はイコールで神みたいなものなんだと、それも忍野が言っていた。
わけのわからないことはおしなべて神の御業《みわざ》であり、わけのわからないものはおしなべて神の御姿《みすがた》だ――そうだ。
そう言っていた。
「貝木は吸血鬼なんて信じてなかったけど、そーいやお前みたいなゴールド級の怪異が来訪したせいで、この辺りの怪異が活性化したってのはあったらしいよな。吹《ふ》き溜《だ》まりになった神社に足を伸ばしたりしたっけ――千石とはあのときに再会したんだよな」
まあでも。
そうは言っても、やっぱ現実的に考えりゃあ――影縫さんと斧乃木ちゃんは、僕達を標的にやってきたと考えておくべきだろう。
どこかにいるかもしれない他の不死者を狙ってきて、そしてたまたま、偶然に僕に道を訊いた――とは、考えにくい。
その考えは虫が良過ぎる。
希望的観測は人類が生きるために不可欠な知恵だけれど、このケースでは楽観的思考はあまり役に立ちそうもない。
道を訊かれたことにしろ――最初から、偶然にしては出来過ぎなのだ。
偶然。
偶然とは、大抵の場合、何らかの悪意の産物――悪い奴の癖にいいことも言うんじゃねえかよ、貝木泥舟。
修羅場を潜って生きているだけあって、さすがに含蓄《がんちく》がある。
修羅場において修羅とは化さず、あくまで詐欺師を貫いた男――そして専門家。
専門家であり、オーソリティ――影縫さんもまた、専門家であり、オーソリティ。
陰陽師であり。
怪異転がし。
……ん?
でも、忍は確か、陰陽師という言葉自体には、変に難色を示していた気もするけれど――いや、あれは忍ルールではぐらかしていただけだったっけ?
「どうした? お前様よ。考え事か?」
「考え事って……まあ、考え事だよ。困り事かな」
ま。
訊いても無駄だろ。
忍を追及しても詮がない。
今はそれより、今後、どう動くべきかだけを集中して考えよう。
「影縫さんと斧乃木ちゃん……あの廃ビルを根城《ねじろ》にするあたりが、忍野の同業者って感じか――早目早目に対処しといたほうがいいかもな。いや、もう思い切って、今日中に対応しておいたほうがいいくらいだ――」
「お。なんじゃ? またぞろバトルか? 血|湧《わ》き肉|躍《おど》るのう」
如何にも面白半分風に、にやにやする忍。
わざと事故ってやろうかな、電柱にでも衝突してやろうかな、なんて思うけれど、今そうすると、僕も忍もただでは済まないのでやめておく。
まったく、大した不死カップルだ。
自転車で事故れもしねえんだからな。
「バトルなんかしねーよ。話し合いだ、話し合い」
火憐|曰《いわ》く、影縫さんは火憐の師匠クラスらしいし――斧乃木ちゃんに至れば、存在がそのもの怪異らしい。
戦いたいと思うような相手じゃない。
そもそも僕は戦闘民族じゃないのだ。
死の淵《ふち》から蘇っても、爆発的にパワーアップしたりしない。
「忍野風に言うなら交渉って奴だ――僕やお前がとても無害だってことをわかってもらえれば、退治なんかされないだろ」
「退治のう。退治しに来たとは限らんがのう」
「じゃ、何しに来たんだよ」
「さあ? 儂はお前様の言うことを混ぜっ返して楽しんでおるだけじゃよ――それはどうかな? と言うのが儂の仕事じゃ。ふふ、ま、安心せい。なんだかんだ言っても、儂はお前様と一心同体であり、儂はお前様と一蓮托生《いちれんたくしょう》じゃ。いざとなれば力を貸してやるわい」
「ありがてえこった」
あえてアテにはしないけどな。
けどまあ、後ろ盾にはならなくとも、忍が背景にはなってくれるのは確かだろう――こいつと一心同体であり一蓮托生であるという事実は、窮地《きゆうち》にあっては僕を奮い立たせてくれる。
忍と和解したのは、先月末のことだったけれど――考えてみれば忍はずっと、最初に出会ったそのときから、僕と一心同体であり、一蓮托生であってくれたのではないだろうか。
そんなことに。
僕は最近まで、気付きもしなかった。
気付こうとも――しなかった。
「……それにしても暑いのう。やはり太陽は憎い。お前様の言う通り、影に潜んでおくべきじゃったか。身体が灰になりそうじゃ。帽子など何の役にも立たん。吸血鬼でのうても溶けてしまいそうじゃのう」
「は。だろーよ。この暑さは、何せアスファルトが溶けるっつーんだからよ」
「地球温暖化という奴か。ふん――地球なんぞ昔っから、暑うなったり寒うなったりしとるもんなんじゃがのう」
「そりゃそうだ」
「百度や二百度の変化で一喜一憂する必要はない」
「二百度も上下したら、一喜も一憂もできねえよ」
さて……。
じゃあ、家に戻ったら、そのまま廃ビルに向かうとするか。
早目早目の対処がどうとかいう以前に、こういう場合は交渉のイロハとして、是非とも先手を打っておきたい。
最近じゃあ将棋《しようぎ》は先手のほうが不利な傾向にあると言うけれど、そもそも僕は対決に行くわけでも対局に行くわけでもない。
話し合いに行くのだ。
仮に、影縫さんと斧乃木ちゃんのツーマンセルが、阿良々木暦と忍野忍を目的としてこの町に来たのではなかったとしても――専門家である以上、まさかただのバカンスということはあるまい。
何かしら、怪異がらみの所用はあるはずだ。
だったらこの町が含んでいる摩詞不思議な事情って奴を、老婆心《ろうばしん》ながら説明しといてあげないとな――最悪の可能性として、神原や羽川に累《るい》が及ぶ可能性もないとは言えない。
さっきも考えた通り、あいつらが宿している怪異は取り立てて不死身ではないとは言え……、なんかこう巻き添え的に、あいつらが便乗《びんじょう》退治をされてしまわないとは限らない。
口にすると笑っちゃうような可能性ではあるが、あの二人はなーんかそういうキャラだ。神原駿河は幸《さち》薄いタイプだし、羽川翼は巻き込まれやすいタイプなのである。
そんなわけで今日は勉強は完全にお休み。
休肝日《きゆうかんび》的なアレにしておこう。
いいさ、こういうのは――覚悟していた。
春休み。
鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼と、一生一緒に、死ぬまで生きると決めたときに――生きるまで死ぬと決めたときに、当然の義務として、いやさ権利として、覚悟していた。
この程度、トラブルの内にも含めない。
修羅場なんかじゃない、勝負どころなんかじゃない。
この程度、僕にとっては――僕達[#「僕達」に傍点]にとっては、ちょっとしたイベントですらないのだ。
フラグもなければ選択肢もない。
こんなことであたふたしてたら、忍野に申し訳が立たないってもんだ。
「ま、そう決め込んじまうとなると、別に、これから帰りがけに、直接廃ビルに行ってもいいくらいなんだけどな――」
前かごで、やはり昼間は眠いのだろう、うつらうつらと気持ちよさそうに舟を漕ぎ始めた忍を尻目に、僕は考える――直接廃ビルに行ってもいいくらいなのだけれど。
ただ、実はミスタードーナツからの帰り際、貝木がお情けで残してくれた二千円のうち一枚を使って、火憐と月火にお土産《みやげ》のドーナツを買ってやっていたので(忍が横から「儂のは!? 儂の分は!?」とうるさかった。お前の分なんかあるか)、やはりそれを家に置いてから向かうことにしておこう。
なんならこのドーナツは影縫さんと斧乃木ちゃんへのお土産にしてもよいのだが、それはどうも心付けとしては誠意の足りない使い回し感が否めないし、同じ怪異とは言え、斧乃木ちゃんが忍のごとくミスド好きとは限らない。あんな澄ました顔をして、超辛党かもしれないのだ。
逆効果になってもつまらないし。
下手に下手に出ないほうがいい気もする。
あくまで打つのは、先手だけだ――と。
そんなことをつらつら考えていた僕ではあったが、しかし、僕なりに緊張感をもって臨んではいたつもりではありはしたものの、果たしてそれがどれほどに暢気で平和で、亀の歩みのようにのんびりとした考えであったかは――すぐに思い知らされることになった。
すぐに。
自転車を漕ぎ漕ぎ、家に到着してみると。
自宅に帰ると。
門扉《もんぴ》のところに、まさにその問題の二人組――影縫さんと斧乃木ちゃんがいて、今まさにインターホンを押しているところだったのである。
「あ、おどれ――」
影縫さんが僕に気付き。
彼女に倣《なら》うように、斧乃木ちゃんもまた、無表情でこちらを見た。
ちなみに見られた僕は、金髪のロリ少女を自転車の前かごに荷物よろしく積んでいるという、あられもない姿だったわけだが。
途轍《とてつ》もねえ。
「……どうも」
僕はぺこりと、頭を下げる。
しかし、あれだな。
こうして二人が揃っているところを見ると、やはりこの二人はツーマンセルなのだと思わせられる――割れ鍋に綴《と》じ蓋《ぶた》と言うといかにも例えが悪いけれど、影縫さんと斧乃木ちゃん、パズルのピースのように、お互い嵌るべきところに相手がぴったり嵌っているという感じだ。
人間と怪異。
陰陽師と式神。
「――妹の次は幼女かいな、鬼畜なお兄やん。よりどりみどりやな。ちゅーかよりどりみだらか。かっ、あやかりたいもんやのう」
そう言う影縫さんは、例によって地に足をつけていなかった。
彼女は門扉の上に、器用にもしゃがんでいたのだった――そうしていると門扉を乗り越えて、こっそり我が家に忍び込もうとしている泥棒《どろぼう》のようにも見える。
いや。
何にも見えない。
正体不明の不審者だ。
「お姉ちゃん、あれは幼女じゃなくて吸血鬼だよ。強いて言うなら老婆の部類さ――僕はキメ顔でそう言った」
斧乃木ちゃんはインターホンを押した指をそのままに、無表情で言う。
老婆というその言葉に、忍がびくりと敏感に反応し、不機嫌《ふきげん》そうに目を覚ました。
不機嫌そうというか、不愉快そう。
ああそうなんだ、今のロリ少女姿に不満があるのは知ってたけれど(自分で自分の胸をペたぺたと撫でて、切なそうにため息をついている悲しい画を、夜中に何度か目撃してしまったことがあるのだ)、こいつ、老婆って言われるのは、それはそれで嫌なんだ。
五百年生きてる割に度量が小さい奴だ。
「ふん――新参《しんざん》の小娘がほざ」
ほざきよるわ、かかか――とでも繋げつつ、余裕を見せて格好良く、ひらりと地面に飛び降りようとでもしたのだろうけれど、しかし自転車の前かごというものはきっちりと収まってしまえば自力で脱出できるような構造になっていないので(というか、元々人が乗るような構造になっていない)、そこから忍はかなりの悪戦苦闘をすることになった。
僕の手を借りればよさそうなものなのにそれを頑《がん》として拒絶し、最終的には自転車を巻き込むように横倒しにすることで、彼女は逆ET状態から脱出したのだった。
威厳の欠片もない。
普通に格好悪かった。
「はあん。ちゅうことは鬼畜なお兄やん、文字通りの揺《ゆ》り籠《かご》から墓場までちゅうことか――墓場から出てきたゾンビでさえも相手取りそうな感じやの。ネクロフィリアは貴族の嗜みやゆうんやったっけ? かか、善哉善哉――」
「…………」
阿良々木家の門は、決して神原の住む日本屋敷のものほど立派ではなく、むしろ細い鉄柵みたいなものなのだが――影縫さんはわずかにもバランスを崩すことなく、その上に爪先で座っている。
考えてみれば器用なんてものじゃない。
僕はサーカスを見に行ったことはないので、聞いただけの知識というか、印象で語ることになってしまうけれど――綱渡りのようなバランス系の見世物をするとき、競技者はむしろ積極的に身体を左右に揺らすことで、均衡《きんこう》を保っているはずだ。
一見、それは危なっかしい行為のように見えるけれど、逆に揺れずに停止しているほうが、より危険なのだそうだ――台風が襲来したとき、杉なんかよりも竹のほうが、しなって折れにくいみたいなもんだろうか。
で、影縫さんはと言えば、その理論に真っ向から反していた。
まるで彼女の周囲だけ時間が止まっているかのように、あるいは彼女の足元に見えないガラスの板でも敷かれているかのように――影縫さんは微動だにしない。
高所の、相当に不安定な足場にありながら――彼女はバランスを取っているようにさえ見えないのである。
レベルが高いってレベルじやない。
ここまでの平衡感覚があれば、バランスボールの上で倒立することさえ、きっと彼女にとってはお茶の子さいさいだろう。
水の上さえ――歩けそうである。
火憐ならば、あるいは更に何かを感じ取るのかもしれないけれど――僕のような素人じゃあ、影縫余弦の根本的な凄みさえ、理解することができないのだった。
ただの不思議と理解してしまう。
不思議であり――不可思議だ。
「……なんだかなあ」
思わず、眩いてしまう。
忍の言う通りなんだとすれば(それは貝木よりはずっと信用に値する証言だが)、斧乃木ちゃんのほうがむしろ人外、その正体が何であるにしてもともあれ怪異の者であるはずなのに――それなのに、まだしも彼女のほうが、まともに見えてしまう。
それが陰陽師と式神ということなのだろうか。
僕と忍のような複雑怪奇さを含まない、真っ当な意味での上下関係であり主従関係――明確で明白な命令系統。
ただ、そう言えばさっき、斧乃木ちゃんは影縫さんのことを、「お姉ちゃん」と呼んではいた――でも、だからって別に姉妹ってわけじゃないんだよな?
僕を鬼のお兄ちゃんと呼んでいたのと同じような感覚なのだろうか?
「おお、そうやそうや、まず礼を言うとかなあかんねや――鬼畜なお兄やん、えろう助かったで。おどれの言う通りに進んだら、叡考塾にはちゃんと着けたわ。あないな難儀《なんぎ》なとこ、教えてもらわな到着すんのは無理やったやろな――その上、ほんまに余接にも教えてくれたそうやん」
影縫さんは言う。
陽気な風に――砕けた風に。
敵意も害意も何も滲《にじ》ませず。
「知っとけるけ? 人に道を訊かれやすい奴っちゅうんは、存在的にメンターやゆうんやで。他人を導くオーラがあるっちゅうことや」
うちはオーラなんちゅう曖昧な言葉は嫌いなんじゃけどな――と、影縫さんは破顔《はがん》した。
気持ちのいい笑顔だ。
気持ちのいい笑顔では――ある。
彼女が不死身の怪異を専門とする専門家であるということを知らなければ――間違いなく、気のいいお姉さんにしか見えないだろう。
またその情報源が、世界一信用ならない不吉男だもんだから、どうにも僕は自分の立ち位置を定めにくかった。
「そこへ行くとこのうちなんか、生まれてこのかた一遍も他人から道を訊かれたことなんかあらへんわ――オーラが出てへんのかのう?」
「……だからお姉ちゃんは道を歩かないんだよね。お姉ちゃんの前に道はなく、お姉ちゃんの後にも道はないのさ――僕はキメ顔でそう言った」
斧乃木ちゃんの言葉も、どうにもフォローなんだかなんだかよくわからなかった。
姉妹言語なのだろうか。
楽屋オチなのだろうか。
反応しづらいというか、なんというか――
ここまで絡みづらい相手は初めてだ。
気さくな風でいて、周囲に壁を作っていないようでいて――この二人は、この二人だけで世界が完結している。
なんだか、他所《よそ》のご家庭のホームパーティに招《まね》かれてしまったような居心地の悪さがある――現実にはこの地点は、僕の家の前だというのに。
「その……すみません。はっきりさせておきたいことがあるんですけれど」
しかし、だからと言って、いつまでも黙り込んでばかりもいられない。
相手のペースに乗せられている限りは、交渉なんて成立しない。
交渉。
僕はこの二人と――交渉をしなければならないのだ。
確かに、僕の拙《つたな》い目論見《もくろみ》は外れ、残念なことに先手は打たれてしまったようだけれど――これ以上、気圧《けお》されさえしなければ、今からでも取り返しがつかないってわけじゃないだろう。
後手のほうが有利な傾向――だ。
僕はこけて自転車の下敷きになっていた忍が、四苦八苦《しくはっく》の末にそこから抜け出すのを待って――それから、意を決して切り出す。
「あなた達二人は、僕とこいつを退治するためにこの町に来たんですよね――この世にあるまじき不死者とその眷属《けんぞく》として」
どちらがどちらの眷属なのかは、話が煩雑化《はんざつか》するのを避けるために、さておくとして。
「僕達を――殺しに来たんですよね。二人続けて道を訊いてきたのも、偶然なんかじゃなくて――あれは様子見みたいなものだった」
「…………」
「…………」
単刀直入、ほとんどノープランの出たとこ任せで、実に場当たり的に、僕は切り込んでみた――まずは言葉が通じないことには話にならないと見てのいちかばちか、吉と出るか凶と出るかの挨拶代わり、言うなればただの無茶振りだったのだが。
それを受けて、影縫さんと斧乃木ちゃんは――しかし、揃いも揃って二人とも、不思議そうに首を傾げたのだった。
影縫さんに至っては困ったように、失笑や苦笑に分類されそうな種類の笑みを浮かべている。
「鬼畜なお兄やん。なーんや知らん、おどれ、勘違いしとるみたいやな」
そしてそう言った。
勘違い?
あれ? ひょっとして僕、本当に貝木に騙されているのか? いいように小遣い稼ぎをされてしまったのか?
ありえる!
だとすれば僕は今、この二人から見れば完全に頭の可哀想な人ということになってしまっている――道を訊いただけのことで「僕を殺しに来たな」なんて言い出すとか、もう誇大妄想狂もいいところじやねえか。
やばい、別の意味でピンチだ。
どう切り抜けたらいい。
このままでは交渉相手がお医者さんになってしまうぞ。
僕がにわかに焦り出したところで、
「ま、まるで的外れっちゅうわけでもあらへんねんけどな――けどまあおどれ、それは自意識過剰ってもんやで」
と、実に億劫《おっくう》そうに、影縫さんは言う。
「鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼――怪異殺しの怪異の王、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードに関する諸問題は既に解決したことになっとる。怪異としての彼女は既にどうしようもなく殺され尽くしとる――その眷属も怪異としては実在としての不在や。言うならば、互いが互いのアリバイ、不在証明を証言しあっとるようなもんやさかい――たとえどんな専門豪であろうとも、おどれらについてはアンタッチャブルなんや。当然やな。ちょっと後遺症が残っとる程度の普通の人間に対して、リソースを割《さ》けるほどうち共の業界も閑古鳥《かんこどり》が鳴いてぇへんわ」
「…………っ」
緩みかけた気が、一気に引き締まる。
影縫さんは忍の前身としての名を知っている――
その名を知る者は今となっては僕と羽川だけであり、そしてその名を呼ぶ者は今となっては誰もいないはずなのに。
専門家。
ゴーストバスタ――プロフェッショナル。
不死身殺しの怪異転がし――
「それはでも、言うたら忍野くんの世話焼き、お得意十八番のお節介のお陰ちゅうことになるんやろけどな――」
ぼそり、と。
それはあくまでもただの独り言であるかのように、影縫さんはそう続けた――忍野くん?
いや、今――忍野くんと言ったか?
文脈的に、それが忍のことを指しているとは思えない――しかしだとすれば、一体誰のことを指している?
そんなこと、考えるまでもない。
僕達の恩人――軽桃浮薄なアロハ男。
影縫余弦、この女。
忍野メメを、知っているだと――?
「おい、お前様よ」
僕の影の上で、自転車の下敷きからは脱したものの、しかし尻餅《しりもち》をついた姿勢からは立ち上がらず、別に影縫さんに対抗しているわけでもないだろうが、あえてその格好のままで――忍が横合いから、僕に声をかけた。
「くだらんことで動揺しておる場合ではなかろう――余計なことを思考するでない。今お前様には、他に考えねばならんことがあるじゃろうが」
「え……?」
僕の身体的感覚・精神的感覚は、ダイレクトで忍に伝わる――だから忍にとって僕の動揺を察することなど、感覚というよりは触覚のように容易《たやす》い。
言われるまでもなく、僕が動揺したのは確かだ。
だが今、僕が忍から注意を促されるようなことなど、何一つ――いや。
違うだろう。
よく考えろ、阿良々木暦――思考しろ。
余計でないことを思考しろ。
たとえ相手が詐欺師でなくとも、そして陰陽師でさえなかったとしても、こうも唯々《いい》諾々《だくだく》と、言われる言葉を丸々|鵜呑《うの》みにしてどうするのだ。
貝木の言うことが全部嘘っぱちだったとしても、忍に言われたことを差し引くとしても――最初にこの二人を、二人組を怪しいとした直感は、僕のものだったはずじゃないか。
怪しくて。
異なるものだと――真っ直ぐに感じただろう。
それを否定するだけの言葉は、まだ誰からも、どこからも得ていない。
はぐらかしや、取ってつけたような言い回しは、専門家のお家芸みたいなものだと、僕は嫌というほど知っている。
そうだ。
そうだよ。
もしも阿良々木暦や忍野忍を目当てとして来たのではないと言うのなら――どうして影縫さんと斧乃木ちゃんはここ[#「ここ」に傍点]にいる?
どうして阿良々木家の前にいて。
どうしてその門扉の上にしゃがみ込み。
どうしてそのインターホンを押している――?
と。
緊張感を取り戻し、僕が咄嗟に、警戒心もあらわに身構えようとした、その直前に――
「あーもううるさし! うるさしうるさしうるさし! 一体いつまでインターホン鳴らしてるのよ! 居留守を使ってんのがわっかんないのお!?」
なんて。
そんな絹《きぬ》を引き裂くようなヒステリックな怒鳴り声と共に――門扉の向こう側で、我が家の玄関が大きく開けられた。
その方向を確認する必要などない。
見るまでもなく。
そして言うまでもなく、勢いよく飛び出してきたのは栂の木二中のファイヤーシスターズの参謀担当・阿良々木月火である――あの馬鹿妹、はだけ気味の浴衣姿のまんま、サンダルも鰻かずに外に出てきやがった。
いや、それでも、彼女にも一応の良識はあったと見るべきだろう。
月火も最初は『さすがにこんな寝巻き姿じゃあ外には出られないよね』と、そう思ったに違いない。それに『家族が全員出掛けている今、迂闊に来客に対応するのもまずいよね』、そんな風にも思ったに違いない――だから、斧乃木ちゃんが押すインターホンに対して、これまで無視を決め込んでいたのだ。
居留守を使っていたのだ。
ただ、斧乃木ちゃんはただインターホンを押していたのではなく、どうやら連打していたらしい。ヒステリックな月火じゃなくても、多分僕でも怒って飛び出してくるであろう、ピンポンダッシュ以上のとんでもない悪さである。
澄ました顔して何やってんだ、この子。
どんな悪戯《いたずら》っ子だよ。
まあもっとも、飛び出してくるにしても、わざわざ利き手に千枚通しを用意してくるのは、さすがに月火だけだろうけど――お前のせいで千枚通しのイメージがどんどん悪くなってるよ。
便利な道具なんだぜ、それ。
いただけないなあ。
「この正義の住まう大草原の小さな家、ファイヤーシスターズのホームに対してそんなテロ行為を仕掛けるとはいい度胸――んん?」
わけのわからない方向に張り上げかけたテンションを、抜きかけた矛《ほこ》を――一瞬で飽きてしまったかのように、即座に収める月火。
それはきっと、視界に入る光景が、彼女の理解を越えていたからだろう。
実の兄、阿良々木暦。
これはいい。ここまではいい。
しかし、たとえばその憐に寄り添うようにして、地面にしゃがんでいる金髪のロリ少女。
しかし、たとえば門扉の細い柵の上にバランスよく座り込む謎の女性。
しかし、たとえば未だインターホンのボタンから連打の指を離さない、謎の子供。
これら三名は――どれもこれも、月火の理解を、しかも遥かに越えるものだ。
いやむしろこの場合、唯一理解可能な対象であるところのこの僕が、理解不能な三名と一緒くたになってそこにいることが、より一層、月火の理解を阻害《そがい》することになるだろう。
いつでも好きなときにヒステリックになれ、しかもそのヒステリーを自由自在に収めることができるという類稀なる特技、感情制御スキルを持つ月火は、一歩下がってまずは視界を広く取り、喋りながら考えるようにして、
「えっと――」
と言う。
「その金髪の子は、確かこないだお兄ちゃんと一緒にお風呂に入っていた……」
余計なことを思い出すな。
それは幻覚として処理してろ。
ともあれ――これは状況として、とても好ましくない。そもそも僕は火憐に対しても月火に対しても、オカルト絡み、怪異絡みのあれこれは完全に伏せているのである――火憐が蜂の被害に遭って尚、そういった領域についてのことは隠し通している。
いつかは僕の身体のことや、僕の影に住まう怪異である忍の存在は話し伝えなければならないだろうけれど――今はまだそのタイミングではないと思っている。
僕自身、心の整理がついていないということもあるけれど――何よりも彼女達には早過ぎる。
そう思っている。
だから少なくとも、こんな出会いがしらの交通事故のような形で、それも火憐ではなく月火のほうから先に、こんな世界を知られてしまうことは避けたい――
そんな風に。
忍が折角、僕のメンタルの建て直しを取り計らってくれたというのに――月火の登場によって僕はまたも動揺し、その警戒心、身構えは千々《ちぢ》に乱れてしまった。
ツーマンセルの片割れ。
斧乃木余接は――そこを突いた。
「『|例外のほうが多い規則《アンリミテッド・ルールブック》』――僕はキメ顔でそう言った」
影縫さんに較べたら斧乃木ちゃんのほうがまだしもまともに見えるだなんて、そんなこと、一体誰が言ったのだろう。
まるで認識不足だった。
まるで過小評価だった。
月火が出てきても変わらず、インターホンのボタンを押し続けていた斧乃木ちゃんの人差し指が――そのとき、爆発した。
否、爆発ではない。
ただ――爆発的に、その体積が増大したのだ。
ドラマツルギーという男のことを、僕は知っている――彼は春休みに僕が遭遇した吸血鬼狩りの専門家で、彼は吸血鬼でありながら吸血鬼を狩る、同属殺しの怪異だった。
そのドラマツルギーは、吸血鬼独自の変身能力をあらん限りに行使し、その両腕を歪《いびつ》に醜《みにく》く変形させ、美しきフランベルジェの両剣として振るっていた――その剣で刻まれた痛みは、今でもまざまざと思い出せる。
そして、そんな思い出が。
嫌と言うほど――フラッシュバックする。
ただし、ドラマツルギーが腕を刃物と変形させていたならば、斧乃木ちゃんは指を鈍器《どんき》と変形させていた。
連想したのは――巨大なハンマーだ。
神の雷《いかずち》のような、巨大なハンマー。
増大した、肥大した、巨大化した斧乃木ちゃんの人差し指が――僕の家の門柱を、さながら発泡《はっぼう》スチロールのように破壊する。
動揺の他に、油断もあったろう。
まだ太陽も高いこんな昼間に――こんな住宅街のど真ん中で、バトル展開になど入るわけがないという、至極常識的な思い込みが、僕にあったのは否定できない。
違うのに。
勘違いも甚《はなは》だしいのに。
確かに怪異の時間は夜ではあるが――太陽の下であろうが昼間であろうが、いつだってどこだって、怪異はそこにあり。
そしてそこにないものなのに。
忍野が散々、僕に教えてくれたのに!
「くっ――」
が、しかし。
真に勘違いも甚だしかったのは、この後のことである――身構えどころか、心構えの点においてから、僕は既に間違っていた。
僕は斧乃木ちゃんの唐突なハンマーが、少なくとも僕や、そうでなくとも忍を狙ってのものだと、そう決め付けてしまったのだ――間違っていた。
大間違いだった。
ハンマー――『|例外のほうが多い規則《アンリミテッド・ルールブック》』――は僕の家の門柱を、発泡スチロールのように破壊し。
そしてそのまま。
そしてそのまま。
そしてそのまま。
阿良々木月火の上半身を破壊した。
「…………っ!?」
増大し、肥大し、巨大化するままに――背後の玄関扉もろともに、月火の腰から上を根こそぎに――発泡スチロールのように破壊した。
「つっ……月火ちゃんっっっっっ――!」
何が起きたか、眼前の光景を把握できず。
しかし把握できないままに――僕の肉体は、衝動のままに稼動する。
僕の肉体は、僕のほうを向いてもいない斧乃木ちゃんへと跳ぶ――僕の影に貼り付けられている忍は、その勢いに引っ張られて、アスファルトの地面をたまらず引っ繰り転げた。
そんな忍を慮ることさえ僕にはできない。
視界が真っ赤に染まる。
世界が真っ赤に染まる。
明々と狂い、赤々と狂う。
阿良々木月火を。
月火ちゃんを。
世界一大切な僕の妹を、こいつは――!
「――落ち着きいや、鬼畜なお兄やん。そうかっかすんなや。若い人は知らんかな? 怒りは自らを焼く業火《ごうか》やゆうて――ファイヤーやで、ファイヤー」
斧乃木ちゃんの首に手をかけようとしたところまでは憶えている――しかしそこからの映像は砂嵐のように断絶され、気が付けば僕は地面の上に折り畳《たた》まれていた。
折り畳まれていた。
奇妙だが、その表現が一番しっくりくる。
足を、膝を、腰を、腕を、肘を、肩を、首を、ぱたぱたぱたと蛇腹《じゃばら》のごとく、カリスマ主婦の収納術のように――小さく折り畳まれていた。
そして僕をそんな姿にした張本人、影縫余弦は――折り畳み終えた僕の背中の上に、先ほどまでとまったく同じように、中腰でバランスよくしゃがんでいるのだった。
おかしそうに――
人が良さそうに、笑っている。
「それともこういうとき、忍野くんならこない言うんかな? 元気ええなあ、なんぞええことでもあったんけ――」
「ぐ……っ」
だから――どうして。
どうしてあなたが忍野のことを知っている――忍野の言葉を引用できる――それも、こんな如何にもな場面でだ!
「ざっけんな! てめえ……てめえら! 妹を! 僕の妹を……月火ちゃんを! 許さねえ!」
「んん? なんや――あの子、おどれの妹か?」
彼女は意外そうにそう言って、
「ああそうか、そういやおどれも阿良々木やったな――ただの同姓やと思とったけど」
と、得心したように頷く。
なんだと?
この二人……まさか、ここが僕の家であることさえ知らなかったのか?
じゃあ一体、何故、ここに――
「そうかいな。情報にノイズがあったっちゅうことか。やとしたら、おどれにとってはショッキングな映像やったな。すまんすまん――」
気軽に――テーブルに水でもこぼしただけのような気軽さで、影縫さんはそう謝った。
謝った。
謝った、だと?
「ぐっ……謝ってすむかぁ、てめえっ!」
「見てみいや」
影縫さんは、僕自身の意志では石膏《せっこう》で固められたかのように動かない、地面に押し付けられていた首を、しかし赤子の手でも捻るかのように簡単にねじって――強引に玄関のほうを向ける。
目を背《そむ》けたくなるような光景へと、無理に向ける。
破壊された門柱。崩れた門扉。
玄関は跡形もなくなり、その内側には、凄惨に破壊された、阿良々木月火の下半身が――
「……え?」
実際、言われた通りに見てみればそれは目を疑うような光景だった。
「あ、あれ?」
端的に言って。
月火は――傷一つ負っていなかった。
周囲の破壊された様相と反比例するかのように――消し飛んだはずの彼女の上半身は、下半身に引っ付いた状態で、そこにあった。
廊下の壁に寄りかかるようにして気を失ってはいるものの――ごく普通に、生きている。
先程の悲劇的な画が、ただの目の錯覚だったのではと思わせるほどに――ごく普通に。
ごく健全に。
ただし、月火の上半身に関する肉体以外のパーツ――はだけ気味の浴衣や髪飾りなどは、焼き付けられた記憶通りに破壊され、消し飛んだままであることを鑑《かんが》みれば。
無事なのが――あくまでも、月火のむき出しになった上半身だけであることを思えば。
むしろ目の錯覚なのは、現在見ている景色のほうなのかもしれなかった。
「――違う」
思わず、僕は眩く。
違うんだ。
知っている――僕は、地獄のように知っている。
何度も見た、見せつけられた。
あれら地獄のように知っている。
目の錯覚なんかじゃない――再生だ。
治癒《ちゆ》であり、回復だ。
そして――不死だ。
傷つけても傷つけても死なない、破壊しても破壊しても死なない、殺しても殺しても死なない、死んでも死んでも死なない――恒常性と永続性を内包する、不死性。
忍野忍はそうやって五百年以上生きてきて死んできたし――僕もほんの二週間、生きてきて死んできた。
繰り返し繰り返し、死んできた。
だから――無残《むざん》に吹き飛ばされた上半身が、瞬《またた》き数回の間にありありと再生されることなど、そんなもの、僕にとっては見慣れた光景である。
見慣れて見飽き、死慣れて死飽きた光景だ。
不死性。
不死性――だけど。
だけどどうしてその怪異じみた不死性を、よりにもよって僕の妹が有している――!?
「阿良々木暦さん――鬼のお兄ちゃん。あなたはよくよく不死身の怪異に縁があるようだね。正に地獄の上の一足飛びだ。びっくりするのは、むしろこっちのほうだよ」
気が付けば、人差し指を元の大きさに戻していた斧乃木ちゃんが――何の表情もなく、僕にただただ事実を告げた。
「あなたの妹は不死身の怪鳥《けちょう》に犯されている。あれは端《はな》っからあなたの妹であってあなたの妹ではなく、阿良々木月火さんであって阿良々木月火さんではなく、人間であって人間でない。あそこのあれは世にも珍しい火の鳥、邪悪なるフェニックスだよ――僕はキメ顔でそう言った」
010
「しでの鳥《どり》」
後に忍野忍は、例によって例の如《ごと》く、まずはそう切り出した。
「つまりはホトトギスの怪異――じゃな」
ホトトギス。
カッコウ目カッコウ科の鳥類。
全長二十八センチ、翼長十六センチ、尾羽十三センチの夏鳥――背中は灰褐色《はいかつしよく》、腹は白色で暗褐色の斑《まだら》がある。
「目には青葉山ほととぎす初鰹《はつがつお》――の、ホトトギスじゃ。連中はフェニックスなどと嘯《うそぶ》いておったが、しかしこのしでの鳥に関しては、その言葉から連想できるほどの壮大さはないの――あの軽薄な小僧曰く、『この国じゃあ不死鳥ってのは、孔雀《くじゃく》のイメージが強いからねえ』だ、そうじゃ」
ホトトギスとは、時鳥、不如帰、蜀魂、あるいは子規など、数多くの当て字を持ち――また、今でこそ不死鳥としてのイメージはほとんど残っていないが、かつては冥途《めいど》を行き来する渡り鳥とも称されていた。
盆の時節には相応しい。
言うまでもなく日本人にとって最も身近な鳥類の一種であり、たとえば奈良時代に編まれた現存最古の歌集『万葉集』においても、百五十首以上もホトトギスについての歌が詠《よ》まれている――季語としては当然、夏を意味する。
キリギリスとコオロギさえ引っくり返ってしまうような千年以上前から、既にホトトギスの名で普遍に不変に呼ばれていたという事実にまず驚く。
特徴としてはその鳴き声――ホトトギスの鳴き声は非常に特徴的であり、聞けばすぐにそれとわかる。現代においては『テッペンカケタカ』などと、字面《じづら》ではそう表現されることが多い。
あの声で蜥蜴《とかげ》食らうかホトトギス――である。
「もっとも、当て字のみならず、ホトトギスは異名の多さも群を抜いておるようじゃがの――他の鳥類の追随を許さん。あの小僧は色々言っておったが、そうじゃな。儂が憶えておるだけでも、夕影鳥《ゆうかげどり》、夜直鳥《よただどり》、あやなしどり――くつてどり。五露鳥《いつゆどり》、くきら、そして――しでのたをさ」
しでのたをさ。
しでの――鳥。
「ま、この辺が由来と言えば由来じゃな――言うまでもなく、『しでの』が『死出の』じゃの。しでのたをさが死出の鳥で――ホトトギスじゃ」
受け売りじゃがな、と忍は言う。
実際、その通り――元吸血鬼である忍にとって怪異はあくまでも食料であり食糧でしかなく、食事であり食餌でしかない――いちいちその詳細を把握しているほどに、忍はグルメじゃない。
健啖家《けんたんか》であって美食家ではないのである。
だから――それら知識は、軽薄な小僧こと、忍野メメのものだ。
廃ビルで二人過ごしていた三カ月の間に――忍が忍野から叩き込まれた、怪異に関する膨大なる知識の、ほんの一部である。
忍野がどういうつもりで忍にそんな(忍にとっては不要極まりない)知識を植えつけたのか、その真意は知れないけれど。
「この怪異にはおよそ目立った特徴というものがない――単純極まりなく、至極わかりやすい。まあそれゆえに、面白味のない怪異として、研究対象にはなり難いということじゃな。しかし、それでもあやつらにしてみれば専門分野[#「専門分野」に傍点]ということじゃから、当然のように知ってはおろうよ」
不死鳥。
聖鳥。怪鳥。
フェニックス。
「そう、しでの鳥のアィデンティティはほとんど唯一じゃ――死なぬこと[#「死なぬこと」に傍点]。決して死なぬことが――その存在意味じゃ。儂としては癩《しやく》な話じゃがな、はっきり言ってその不死性は吸血鬼さえ凌駕するそうじゃぞ」
吸血鬼さえ凌駕する――不死性。
不滅性。
それは生命の塊のようなイメージ。
「鹿三代に松一代、松三代に鳥一代という。それほどに鳥は長命の生き物としてとらえられておったわけじゃ。鶴は千年亀は万年などと謳われたところで、千年も生きればそりゃもう化物の部類じゃろう。儂とてその半分しか生きておらぬ」
そう。
そもそもホトトギスに限らず、空を飛来する鳥というのは、世界的にも、生命そのものに準《なぞら》えて語られることが多い――コウノトリが赤ちゃんを運んでくるなんてのはその謂《い》いの最たるものである。
恐らく、巣作りをし、卵を温め、そして我が子に対して献身的に子育てをする鳥類の姿を、人間達が自分に重ねて見たというのがその理由だろう――それはとてもわかりやすく、自分達の子育てを投影できる図だ。
確かにその図は、あるいは他の哺乳類よりも近しく感じられるかもしれない。
だが――もしもその仮説が正しいのだとしたら、むしろホトトギスについては、そのカテゴリの輪っかから外されるべきだろう。
何故なら、ホトトギスという鳥の性質としてもっともよく挙げられるものに、托卵《たくらん》があるからだ。
托卵。
ホトトギスのほか、カッコウやジュウイチなどの鳥の習性としてよく知られている。
他種の鳥の巣から親鳥が離れたときを見計らって、巣にある卵を押し出して地面に落とし、そして代わりに自分の卵を産んでおき――他種の親鳥にその卵を温めさせ、孵《かえ》させるのだ。
孵った鳥もただ漫然とは育てられておらず、元よりあった卵や、先に孵った雛《ひな》などを、背中を使って巣から押し出してしまう――そうやって親鳥が運んでくる餌を独り占めしてしまうというわけである。
「うぐひすの 生卵《かいご》の中に ほととぎす ひとり生まれて 己《な》が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず 卯《う》の花《はな》の 咲きたる野辺《のべ》ゆ 飛び翔《かけ》り 来鳴《きな》き響《とよ》もし 橘《たちばな》の 花を居散らし ひねもすに 鳴けど間きよし 幣《まい》はせむ 遠くな行きそ 我が宿の 花橘に 住みわたれ鳥――先の万葉集とやらで詠まれとる長歌じゃな。儂のみならず、吸血鬼そのものが世界に生まれておらん永古の昔から、そんな習性を有しておるとは驚きじゃ。子育てやらの感覚は、儂の理解を超えてはおるがの」
確かに、生殖によって種を増やすわけではない、吸血によって種を増やす吸血鬼に属していた忍は、鳥類の子育てに自己を投影したりはすまい――ただし、ひとつ付け足しておかねばならないことがあるとするなら、どうしてホトトギスやカッコウが托卵をするのかは、実のところまだ不明なのである。
その生態は吸血鬼の理解のみならず、人間の理解も超えている。
よくわからないというより――わけがわからないというのが真相のようだ。
他種の鳥に子育てを委託するのは、それだけ聞くとなるほど労力をかけずに繁殖《はんしょく》することができて効率的なようにも思えるが――バレるときはあっさりバレるし(当然、バレてしまえば育ててなどもらえない)、たとえ首尾《しゅび》よく成功したとしても、その際は托卵先の巣の一家を根絶やしにしてしまうので、一族を委託する対象は滅少する一方なのである――繁殖を他種に依存してしまっている以上、そのときは自らも滅ばざるを得ない。
そういう話を間くと、確かに忍の言う通り、よくもまあそんな効率の悪い手法で、彼らは現代まで生き残ってきたものだとは思わされる。
「怪異としてのホトトギス――しでの鳥の習性も、やはりそれを引き継いでおるの。要は托卵じゃ――しでの鳥は人間に托卵する」
托卵――人間に対して。
母親に対して。
「フェニックス、不死の鳥として――子を孕《はら》んだ母親の胎内に転生する。一般的に知られておるフェニックス伝説と言えば、老鳥が燃え盛る炎の中にその身を投げ、炎の中より新たな生命として生まれ変わる――というものじゃが」
炎。
火。
ファイヤー――火の鳥、だ。
そういえばホトトギスは、月に会う鳥とも言われているのだったか――
ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる――百人一首にも収録されている、有名な歌ではある。
つまりは月火か。
だとすれば――馬鹿げた駄洒落だ。
面白くもない。
「この場合、しでの鳥にとっての炎とは、つまりは人間の母親だということじゃな。じゃから厳密に言うならば、今回しでの鳥が愚《つ》いたのはお前様の妹御ではなく、お前様のご母堂《ぼどう》ということになろう。お前様のご母堂が十五年前に、体内ならぬ胎内に、怪異を宿したということじゃ――」
そして、一年後に生まれたのが。
阿良々木月火であり――生まれ変わったのが。
しでの鳥。
「実体のあるタイプの怪異ではないのは、先日の蜂のときと同じじゃが――しかし大きな違いとして、しでの鳥は人間に擬態《ぎたい》することができるということじゃ」
否、そうすることしかできない[#「そうすることしかできない」に傍点]――と言うべきじゃろうな、と忍は続けた。
擬態であり――偽装。
偽り。
人間の偽物としての――怪異。
本物ならぬ、怪異。
「大局的に見て、怪異としては無害の部類じゃよ。人に害を為《な》すということはない――ただ偽物というだけじゃ。そして――不死身というだけじゃ。どのような怪我をしようと回復し、どんな病気もすぐ治癒し、寿命まで生き切る。そして死に――また転生する。そうやって、現代まで生き続けてきたというわけじゃな――ホトトギスよろしくの」
ロールスロイスは故障致しません。
八九寺から聞いた、間き流せばよかっただけの雑談だったはずの、そんな都市伝説を思い出す――それに倣って言うならば、しでの鳥は決して死滅しないのだ。
死滅せず、怪我もせず、病気もせず。
聖域の怪異・フェニックスとして。
生まれ変わり続けるだけなのだ。
百年でも――二百年でも。
千年でも。
生き続けて――行き着いたのか。
僕の母親の胎内に。
火憐が六月生まれで月火が四月生まれでは、誕生日の計算がかなりぎりぎりの際どさを帯びてくるのだけれど――そんな怪異の存在が前提にあったとするなら、そんな不自然ささえも自然である。
よくあるクイズだが、『二人の女の子がいます。二人は同い年で、同じ学校の同じクラスで住んでいる家も同じで、そして父親と母親も同じです。だけれど双子ですかと質問しても、そうではないと答えます。二人が嘘をついていないのだとすると、二人はどういう関係なのでしょう?』という問題の答は、決して『三つ子』には限定されない。
姉が四月生まれで妹が三月生まれであれば、ただの姉妹で、解答としては成立する。
理屈上は火憐と月火のように、一年の一時期を同い年で過ごす年子の姉妹も――実在する。
それにゆえに、二人はよく双子と勘違いされることもあるのだけれど――だけれど、やはりそれはレアケースなのだ。
存在しない怪異のように。
レアケースなのだ。
不自然であり、自然なのだ。
「要は、不死ではあっても不老ではないということなのじゃが――正直なところ、お前様も、そういう前提に立って考えてみれば、むしろ得心《とくしん》のいくことのほうが多いのではないか? かの妹御については、常々不思議に思っておったことなど、ありゃせんか?」
ありゃせんかと訊かれれば――ある。
常々どころか、今日気付いただけのことでも――あるじゃないか。
身体の傷が――消えていた。
身体の傷が――癒えていた。
医者から、一生残るとまで言われていた傷から、ごく最近の生傷まで――すべて綺麗に、なくなってしまっていた。
傷は癒えても――治らない。
そのはずなのに。
そうでなければ――異常なのに。
「かつての儂やお前様のような、存在に対して一定の不死性を有しておるというわけではなさそうじゃの――ま、それでは人間の擬態にならんからな。あの小僧はそこまでは触れておらんかったが、まあ不死に関しては儂も一家言《いつかげん》あるからそれなりのことは言える。どうやら観察するところ、しでの鳥は刺激に対して等比級数的に、不死性が増大するようじゃ。先ほどのように、上半身が吹っ飛ばされるほどの致命傷を与えられればそれこそ吸血鬼の如く瞬間的に回復するが――命に関わらん程度の負傷であれば、その不死性はあえて[#「あえて」に傍点]わずかずつ発揮されるらしい。人間界で怪異が生きるための知恵というか――否、環境に対する怪異の適応じゃな」
怪異は周囲の環境から影響を受けやすい。
そういうことだろう。
人間でない偽物であることが露見しないためには、人間として生きるためにはむしろ不要とも言える過度な不死性は隠匿《いんとく》されなければならなかったのだ――先のような緊急事態を除いては。
確かに――納得はいく。
強引にでも、納得させられる。
校舎の屋上から飛び降りたら、その下にトラックの幌があろうが何があろうが、普通は死ぬ――それだけのアクロバットをやらかして、何の後遺症も残らないなんて、本来ありえないのだ。
名誉の負傷が残る程度で済むなんて。
カンフー映画じゃあるまいし――そしてその傷さえ、今となっては癒えている。
そしてファイヤーシスターズ。
正義の味方ごっこ――火憐ほどの馬鹿げた戦闘スキルを持ち合わせているというのならまだしも、そんな過激に危険な活動に身をおきながら、ここまで月火が五体満足でい続けていることが、おかしいと言えばそもそもおかしい。
誘拐されたり、囲まれたり。
それで無事で済むわけないだろう。
参謀担当だからと言って、本当に攻撃的な性格を有しているのは、火憐ではなくむしろ月火だというのに。
それに――言い出したら切りのないことではあるが、もっと日常的なこともある。
阿良々木月火。
あいつは、髪が伸びるのが速過ぎる[#「髪が伸びるのが速過ぎる」に傍点]。
ウイッグを使っているわけでもないのに、ヘアスタイルを数カ月単位でああもころころと変えられるのは、考えてみればそのためじゃないか――ついこないだまでボブカットだったはずなのに、今やそのワンレングス風の毛先は肩まであって、既に僕よりも長くなっている。
一カ月やそこらで、前髪が肩まで伸びるわけもないではないか。
立ち返ってみれば、神原はエロいから髪が伸びるのが速い――なんて、そんな冗談で済まされるようなレベルの話じゃないのだ。
は。
笑えもしない。
異常なスピードである。
再生能力。
無論、髪を切ったところで命に別状はないわけだから、そこまで劇的な再生能力を備えているわけではなかろうが――しかしこと新陳代謝という意味合いにおいて、きっと月火は、爪が伸びるのも、相当に速いはずだ。
あいつは。
代謝が――良過ぎるのだ。
今日だって昼からシャワーを浴びていたし、なるほど、確かに月火は、頻繁に爪を切っているような気がする――これは言われてみればというような話で、本来そんなこと、疑問を差し挟むべきことでもない、些細なエピソードではあるけれど。
思い当たることが多過ぎる。
心当たりが――あり過ぎる。
結局。
ただ、それは――家族であるがゆえに、僕が目を逸らしていただけのことなのかもしれない。
違和感は、そうと気付かなければ違和感ではないのだ――どうしたところで。
偽物は、本物と区別がつかないからこそ――偽物なのだから。
本物さながらであることだけが。
偽物であることの存在証明。
ロールスロイスの都市伝説ほど近代的ではないから、これは道聴塗説の類だが――神隠しに遭う子供の話は、昔から言い伝えられている。
ある日、幼い子が突然姿を消して――数日後に、何事もなかったかのように帰ってくる。帰ってきた子はいなくなる前に比べて、別段何が変わっているというわけではないのだけれど――何の違和感もないけれど。
何の違和感もなく、別人なのだ。
戦場ヶ原の更生を、面白|可笑《おか》しく『知らない間に他人と入れ替わったような』などと称するのとはわけが違う――変化でもなく成長でもなく、そこにあるのはただの代替《だいたい》なのだから。
海外では『可愛い子供は妖精と入れ替えられる』なんて言うらしいけれど、それも起源としては同じところだろう。
しでの鳥もそれらの風間と共通する。
ただ、入れ替わる時期が、生まれる前だというだけだ――それだけだ。
人生ゲーム。
千石と月火と、昔、そんなボードゲームでよく遊んだものだが、今現在は阿良々木月火という名前を帯びているしでの鳥は、永遠に人生ゲームの、上がりと振り出しを繰り返している――そんな、始まりもなければ終わりもない、永劫《えいごう》の双六《すごろく》。
無始無終にして、無色透明の生命。
決定的なのは、月火の影響の受けやすさだ。
彼女の正義は火憐からの影響が強過ぎる――鳥は親を真似て鳴くというけれど、月火の火憐に対するフォローイングは、あまりにも捨て身で、そこにはまるで本人というものがない。
本人がなく――人がない。
人がなく、人でなし。
「繰り返しになるがの」
と、忍は言った。
「しでの鳥は無害な怪異じゃ――その存在理由は、言うならば不死であることだけ。生存することだけを、実存することだけを目的とした怪異――人と同じように生き、人と同じように暮らし、人と同じように食い、人と同じように喋り、人と同じように――死ぬだけじゃ」
それでも。
それでも――怪異なんだろ?
どうしようもなく怪異なんだろ?
どれだけ精緻に人間をかたどろうと、どれだけ精密に人間に似ていようと――怪異であることには違いがないんだろ?
僕からのそんな反駁《はんばく》が間こえなかったわけでもあるまいに、それを無視して、
「お前様がこれまで、そうと気づかなかったのも無理からぬよ」
この儂でさえわからんかったんじゃからの――と、そんな風に最後に付け加えたのは、この高慢で高飛車な元吸血鬼からすれば、いささか言い訳じみてはいた。
ひょっとするとそれは、本当に僕に対する釈明だったのかもしれない。
だけど、そんな釈明はされるまでもない。
むしろそんな釈明をさせてしまったことを――僕は申し訳ないと思ってしまう。
怪異の王たる忍には、怪異の区別はおろか、人間の区別さえもつかないのだ――いや、もっと言うならば彼女には、それ以前に人間と怪異の区別さえついていないかもしれない。
それが王。
王者としての称号。
頂きに立つ――ということである。
極端な話、忍野忍に識別できる人間は、本質的には僕くらいなのだ――阿良々木火憐と阿良々木月火も、突き詰めてしまえば、忍にとってはひとくくりである。
目の前にいれば、勿論差分認識はできるだろうが、離れて数分も経過してしまえば、もうほとんど忘れてしまっている。
興味関心のないものは認識できない。
否、たとえ興味関心があったところで――たとえば英語を理解できない日本人が英字新聞を広げたとして、新聞を畳んだあとには単語の綴《つづ》りさえ記憶していないのと、それは同じことだ。
だから、そんな風にわざわざ言わなくとも――別に忍が、以前から月火のことを知っていて、気付いていて、それを僕に黙っていたとは思わない。
人間の味方ではないのと同様に、忍は怪異の味方でもないのだから。
どれだけ不敵な憎まれ口を叩こうとも――僕は忍が、他ならぬ僕の味方であることを知っている。
実際――
忍がいなければ、あの状況を、あの局面をクリアできたとは思えない。
僕は何が何だかわからず、突然に突きつけられた意味不明な状況にただただ混乱するばかりだった――そうでなくとも、影縫さんに折り畳まれてしまったあの状態からでは、何もできなかっただろう。
考えもなしに激昂して、斧乃木ちゃんに飛び掛かってしまった時点で、僕は既に大失敗を冒していたのだ――もっとも、妹の上半身が目の前で吹っ飛ばされて、それでなお冷静でいられるような人間になりたいとは、まったく思わないけれど。
けれど。
そのざまで、交渉だの話し合いだの――少なくとも忍野メメなら鼻で笑うだろう。
いや、大爆笑だ。
そしてそこから、僕の目論んでいた交渉を行ったのは――その忍野から怪異の知識を引き継いだ元吸血鬼。
そう、忍野忍だった。
「やめい――うぬら。それ以上の狼籍《ろうぜき》は許さぬ。うぬらとて、ここでこれ以上の騒ぎを起こすことを、望んでおるわけではなかろうよ」
忍は僕の上にしゃがむ影縫さんに対して、そう言ったのだ――斧乃木ちゃんのことは無視する形だった。言葉が通じるのは、同じ怪異である斧乃木ちゃんよりもむしろ影縫さんのほうだと判断したのかもしれない。
「んん? うちは別にかめへんけど? 時と場合に考慮するほど、うちはお利口さんやないからな」
影縫さんは茶化すように応えた。
「ちゅーか、許さんゆうて、今のおどれに何ができるっちゅーねん、吸血鬼――元吸血鬼。スキルをなくしたおどれなんぞ、うちにとってはまるで脅威やないで」
「かもしれんな」
かもしれない、どころの話ではない――今の忍は、ほとんど無力だ。
僕の影に封じられているゆえに、その影の中においては多少のスキルは行使できるけれど――それだってDSを作れる程度で、専門家を相手取れるほどのスキルじゃあ、まったくない。
まして影縫さんは不死身の怪異を専門とする陰陽師だ――全盛期の忍ならばまだしも、今の忍が相手になるわけがないのだ。
が、そこは交渉術――
さすがの胆力《たんりょく》とでも言うべきなのだろう。
忍はそんなことを匂わせもせずに、
「しかしうぬはそうでも、そちらの小娘はどうかな――儂のエナジードレインに耐え切れるほど強力な怪異とは、とても見えぬが。そしてそやつを吸い切れば、うぬとも十分、儂は渡り合えるのではないかのう――」
と、そう続ける。
ハッタリだ。
玄関ごと月火の上半身を吹っ飛ばした斧乃木ちゃんの怪物じみたパワーに、今の忍が対応できるわけがない――月火同様に、否、忍の場合は上半身どこうか、全身|隈《くま》なく消し飛ばされるのが関の山だ。
金髪がひと房でも残ればめっけものである。
だけど、忍の不遜な態度は――腕組みをして顎《あご》をあげたその態度は、そんな不安をまるでちっとも滲ませない。
ただ、静かに。
底知れなさだけを――演出していた。
……そんな風に言えば怒られるかもしれないが、そこはそれ、さすが五百歳の年の功と言うべきなのかもしれない――いや、忍の世間知らずさを考慮すれば、その五百年よりも、忍野と過ごした三カ月のほうが、この場合は役に立っていたのかもしれないけれど。
ただのハッタリだけで怪異と、そして人間と、交渉し続けることのできた――どんな極限的な状況にあっても決して暴力を暴力として行使しなかった、あの忍野メメと過ごした、三カ月。
「儂は何も、うぬらの邪魔をしようというわけではない――ただ、一旦退《いったんひ》けと言っておるだけじゃ。その程度の頼みなら、きいてくれてもよいのではないか? うぬらにとっては、時間は重要な問題ではあるまい」
だけど――
だけど、そのハッタリ。
僕には通じるとしても、あるいは斧乃木ちゃんには通じるとしても……、果たして忍野と同じフィールドで活動する専門家である影縫余弦を相手に、通じるものなのか――?
そこに一抹の、いや膨大なる物量の不安がありはしたが、しかし果たして影縫さんは――
「ふん」
と。
僕の頭部から、あっさり手を離した。
「まあええやろ――お言葉の通り、一旦退くわ。退かしてもらいましょ。時と場合に無頓着《むとんちゃく》ゆうても、さすがのうちも、まさか兄の前で妹を退治する気はあれへんかったからな――ゆうても、はは、ほんまの妹やないんやけど?」
「……」
本当の妹じゃない。
偽物の――妹。
「鬼畜なお兄やんにも、身辺の整理をする時間は必要やろ――伝説の吸血鬼に敬意を表して、その時間を与えたるわ。その天晴れなハッタリに騙されといたるさかい、心の準備でも身体の支度《したく》でもなんでもせえや。ふん――失敗ちゅうたら失敗や。仮親《かりおや》やら仮家族にはバレへんうちにケリをつけたげたかったっちゅんが本音やってんやけどな――ノイズ、か」
言って影縫さんは――僕の背中からジャンプし、斧乃木ちゃんの肩へと移動する。
この期《こ》に及んで、まだ地面を踏まない。
こうなると子供染みていると言うよりは、何らかの霊的な意味合いでの誓いを立てているようでさえある。
いや、それよりも、自分の倍近くありそうな影縫さんに肩に着地されながら、まるで表情を変えない斧乃木ちゃんのほうに、この場合は驚きだった。
肩車どころの話じゃない。
やはり彼女は存在として怪異なのだと、改めて思い知らされた――『|例外のほうが多い規則《アンリミテッド・ルールブック》』。
「明日、また来るわ。それまでに色々整理しとき――逃げても無駄やで。言っとくけどうちらは、忍野くんほど甘くはない――狙った獲物《えもの》は逃さへんのや。邪魔立てしよう言うんなら、無害認定なんざシカト決めて、おどれらごと始末したるわ」
ほな、と影縫さんは言い。
斧乃木ちゃんは影縫さんを肩に乗せたままでくるりと反転し、すたすたと、破壊も再生も何もかも、まるで何事もなかったかのように歩んでいく――その背中に。
僕は、
「なんで」
と、かろうじて言う。
かろうじて問う。
痛みと混乱と動揺の中、かろうじて――
「なんで月火ちゃんを……狙うんだ」
狙った獲物、とか言って。
月火に狙われる理由なんか――ないだろう。
かつて忍が吸血鬼狩りの専門家達からその生命を狙われたのとは、わけが違う。
「月火ちゃんには……あなた達から狙われる理由なんか」
「あるやん。ありゃあ怪異やで、バケモンや」
影縫さんは振り向きもせずに、当たり前みたいに辛辣に、僕からの質問に答えた。
高い位置から僕に答えた。
「子で子にならぬホトトギス――化物の偽物が、人間の家族に混じって人間の振りして、人間を騙して生きとんやで――そういうのを指してな、うちらは『悪』、ゆうねん」
「……」
「うちら正義の味方[#「正義の味方」に傍点]としちゃあ――見過《みすご》せんよ」
そないな詐欺はな。
許せんよ。
そう言い残して――影縫余弦と斧乃木余接。
怪異と人間。
陰陽師のツーマンセルは、僕の家の前から去っていったのだった。
011
「たっだいまー。いやー今日は楽しかったぜー、あたしの波乱万丈《はらんばんじょう》なステキ人生においても実にメモリアルな一日だったな。こんなサプライズもう一生ねーよ。もう今日以降どんなことがあってもあたしは驚かねーや……って、ううおぉ!? びっくりしたなあ、もーっ! あたしの家の玄関が綺麗さっぱりなくなって!? なんじゃこりゃあ!」
夕方五時頃。
思っていたよりも早く火憐が帰って来て、自宅の惨状に対して思いのほか、期待以上にいいリアクションを見せてくれた。
「この取り出したる鍵はどこに差し込めばいいんだよ、兄ちゃん! もうこの鍵、ビニールテープ切るときにしか使えねえ!」
「……いやあ」
清々しいほど馬鹿だなー、こいつ。
蜂の巣みてーな脳味噌してんだろーなー。
人間がどうしてここまで馬鹿に徹せられるのかを知るための、いいサンプルになりそうだった。
「お前の帰還はもう少し遅くなると踏んでたんだけど。パパもママも今日は遅いんだから、律儀に門限守らなくてもよかったんだぜ」
「あー、駄目駄目。神原先生を目の前にしちゃうと、やっぱ緊張しちゃってさー。これ以上一緒にいたら頭が沸騰《ふっとう》しちゃいそうだったから、早めに失礼してきちゃいましたよ。もーほんと、出る言葉出る言葉こんがらがっちゃって、あたしってば噛み噛みだったぜ」
「そりゃ見てみたかったな」
「でも兄ちゃん、神原先生ってすっげーいい人なのな。いい人っていうか、できた人っていうか、人格者? とにかく格好いいんだよ」
「まあ、あいつの行き過ぎたくらいの格好よさは、僕も大いに認めるところだよ――あの陰日向《かげひなた》のない性格も、見習いたいところだぜ」
「ただ不思議なんだよな。たまに神原先生、自分で自分の頬を張ったりしてたんだ。気合い入れてんのかなんなのか。あたしが顔近づけたときとか、スキンシップ取ったときとかに」
「……」
それは自分を制していたのだ。
勇猛果敢《ゆうもうかかん》に、自らの邪心と戦っていたのだ――邪心っつーか、あいつのレベルになると邪神と言っても正解になりそうな気がする。
「公園でストバスやって遊んでもらったりしたんだ。しかし神原先生、バスケは最高強かったけど、ジャンケンめっちゃ弱かったよ。掛け値なし。あたしの考案したジャンケン必勝法を使うまでもなく、ほとんど全勝だった」
「そうそう。あいつ、運不運の勝負には、本当弱いんだよなー」
不運というか、薄幸なのだ。
苦労や努力の割にはなぜか報われない奴というか――だからこそ、彼女は猿に願うような羽目に陥ったわけだけれど。
ともあれ、神原の特殊な性癖を火憐に伏せておいたのは、どうやら正しかったようだ――まあ下手に教えてたら、このシンプルな女は憧れの神原先生に貞操《ていそう》を捧げていた可能性もあるわけだし。
まあいずれにしても、神原は火憐によくしてくれたらしい――胸を撫で下ろすというかなんというか、ほっと一安心である。
今度礼を言っておこう。
この分、明日の掃除は普段よりも気合いを入れてやってやらなければなるまい。
「って、そんなことより! 兄ちゃん、これ何!? 何が起こったの!? 砲撃《ほうげき》!? 組織の追っ手から大砲でもぶち込まれたの!?」
「…………」
組織の追っ手って。
愉快な思考回路だなあ、こいつ。
何を見過ぎたらこうなるんだろう。
アニメとか映画とかじゃねえよなあ。
「おいおい火憐。神原の話をしている最中だというのに『そんなことより』はないだろう。神原が聞いたらさぞかしがっかりするぞ」
「あ、そうか。そりゃそうだ、うちの玄関なんかより神原先生の話のほうがずっと大事に決まってるもんな。じゃあ兄ちゃん聞いてくれよ、バスケのほかにもさー、ジャングルジムで鬼ごっことかして――って、なんでだよ! さすがに自宅が半壊してるほうが重要案件だよ!」
ノリ突っ込みの火憐ちゃん。
いやノリ突っ込みはいいんだけど、お前と神原がジャングルジムで鬼ごっことか、想像を絶する光景だな……ちょっと詳しく間きたいぞ。
「うん、まあな」
僕は頷いた。
あれから――影縫さんと斧乃木ちゃんが立ち去ってから、何せ破壊された場所が場所なので、僕はずっと、玄関口に座っていたのである。
近所のかたが心配して何度か声をかけてきてくれたけれど、その辺はうまく、曖昧に誤魔化した――破壊当時の目撃者がいなかったのは、もっけの幸いだったと言えよう。
もっけの幸い。
そんな言葉は、この場合如何にも出来過ぎだけど――例の吸血鬼狩りの三人組よろしく、影縫さんがきちんと目撃者の出ない周到な準備を整えて、凶行に及んだだけのことなのだろうけれど。
時と場合によらなくとも――
法則にはよっていたはずなのだ。
もっとも、彼女達にしてみれば、強行ではあっても凶行ではなかったのだろう。
民家にここまでの破壊をもたらしながら。
彼女達は――高らかに正義を謳った。
いずれにせよ、いくら空き巣さえ出ない田舎町とは言っても、さすがにここまで大胆に玄関を開けっ放しにしておくわけにはいかないので、ずっとこうして、忠犬ハチ公のごとく、僕は阿良々木火憐の帰りを待ちわびていたのである。
考え事も――あったから。
待ちわびていたと言いつつ――、時間を持て余すことはなかったけれど。
「何があったんだよ、これ」
「実は組織の迫っ手が来たんだ」
「やっぱりか! 畜生あいつらめ! 家族を狙うとは卑怯なり!」
「心当たりがあるのか……」
「虫唾《むしず》が走るぜ! いやもうあたしが走る! 太陽目指して突っ走る!」
僕の妹は、愉快な思考回路で愉快な人生を送っているらしい。
早く丸くなれ。
あるいは早く死ね。
そんで忍と一緒に太陽倒して来い。
「んんんん!? 卑怯なりという言葉、これはまるでコロ助のようなり! なんだかコロッケが食いたくなってきた!」
「……もう別のことを考えているのか」
「ようし、晩御飯はおでんで決まりだ!」
「結論も違うし……」
鳥みてーな記憶力してんだな。
こいつこそだよ。
「ってえ! 組織なんかはさすがに知らない!」
「だよね」
「兄ちゃん! 真面目に答えろよ!」
火憐が髪を逆立て、怒った風に言うが、しかし真面目に答えて欲しいんだったら真面目に訊いて欲しいと思う。
お前のノリがよ過ぎて、真面目な話が一個もできねえよ。
「えーっと……いや、実は僕にもわからないんだ。勉強の合間にミスタードーナツ買いに行って、帰って来たらこうなってた」
まあ。
どうせ元より――真面目に答えるつもりはないのだけれど。
「……多分、ダンプカーにでも当て逃げされたんじゃないかな」
「あー、当て逃げかー。こりゃまた、すげー過激な当て逃げをされたもんだな。こんなことってあるんだなー」
僕の虚言を、火憐はあっさり信じたらしい。
信頼度が高過ぎる。
確かに現実的にはそう処理するしかないだろう現象ではあるが、ここまで簡単に納得されてしまうと、なんだか手応えがないな。
妹に嘘をつくことに抵抗はないのだけれど、さすがに罪悪感が芽生えてしまう。
「火憐ちゃん。お前すげー頭よくてすげーキュートだよな」
「え? そう? そんなことないよー」
言いながら、くねくねとしなを作って、照れる仕草を見せる火憐。
よし、罪悪感は払拭《ふっしよく》された。
嘘に嘘を重ねただけとも言えるが。
「へー、ふーん。それで兄ちゃんはここで番をしてたってわけか。お疲れさーん。でもそれじゃ、今日は全然勉強できなかったんじゃねーの?」
「まあな」
これは本当。
勉強なんてできるわけがない。
……いや、それでも広く人生という意味においては――僕は今日、とてもいい勉強をさせてもらっている。
「よっし兄ちゃん、代わるよ。ここからはあたしのターンだ。パパとママが帰ってくるまで、あたしが地獄の門番ケルべロスを務めてやるよ。あるいは地獄の番犬デカマスターだ!」
「どれだけデカレンジャー好きなんだよ、お前は」
「ナンセンスです」
「お前がな」
「いやいや、あたしは真面目にファイヤースクワッド入りを目指しているぜ。まあ逆立ちのしっぷりからすると、あたしはグリーンなんだけどな」
「だったらお前、たまには何か閃《ひらめ》けよ」
まったくもう。
一体どの世代に投げかけているメッセージなんだろう。
届いてるのかなあ。
「だから兄ちゃんは部屋に戻って少しでも勉強しときなよ――一日休んだら取り戻すのに三日かかるっていうぜ。筋肉の話だけど」
「筋肉の話をするな」
「でも本当は鍛えたあとにはちゃんと休ませないと駄目なんだ。超回復って言って」
「筋肉の話を続けるな」
お利口になろうぜ、火憐ちゃん。
そこまで抜きん出た馬鹿で、どうやって世の中渡っていくんだよ。
お前ひょっとして、頭をヘッドバットの道具だと思ってないか?
「ん? あれ、ところで月火ちゃんはどうしてんだ? 兄ちゃん、月火ちゃんと一緒にミスド行ったんだよな?」
「いや」
首を振り。
僕は脇に置いていた、お土産としてのミスタードーナツの箱を火憐に手渡しながら――更に嘘を重ねた。
嘘のミルフィーユだ。
「月火ちゃんはそのとき二階にいたらしくって、僕が帰ってくるまでは、月火ちゃんが番をしてたんだ。けどさすがに現場に居合わせただけあって、ショックが大きかったみたいでさ――今は二階で寝込んじゃってる」
「あー」
月火ちゃんはあれで結構神経細くてナーバスだからなあ、と、火憐は上を向いて、心配そうな顔をした――別に天井が透けて見えるわけでもないだろうけれど。
「訊きたいこともあるだろうけど、ぐっすり寝入ってるみたいだから、しばらくは起こさないでやってくれ」
「あいあーい」
「んじゃ」
僕はしばらく振りに腰を上げる。
火憐の帰りは予定よりも早かったけれど――それならそれで、僕にとっては都合がいい。予定を早めればいいだけの話である。
と。
階段に足をかけかけたところで、
「火憐ちゃん」
と、僕は振り返った。
火憐は先ほどまで僕が座っていたところに、もう腰を下ろしている。
「ん? なんだよ兄ちゃん」
と、僕のほうを向く。
「お前さ。僕のために死ねるか?」
「死ねるよ。だから何?」
……。
予想通りの返答ではあるんだけれど、即答っていうのが格好いいな……。
お前やっぱ神原とタメ張るよ。
本当、妹じゃなかったら惚れている。
妹じゃなければ――な。
「じゃあ、月火ちゃんのためには死ねるか?」
「死ねる。笑いながら死んでやる」
火憐はそう言って、本当に笑う。
直後に首を切り落とされても後悔のなさそうな、そんな見事な笑顔だった。
「月火ちゃんはあたしの妹なんだ――当然だろ?」
「……ああ、当然だ」
僕は火憐の言葉に、深く頷いた。
「僕だってお前達のためなら死んでやるよ。何度でも何度でも――不死身のドラキュラみてーに、死ぬまで死に尽くしてやる」
そう言い捨てて。
僕は再び階段に足をかけ、二階へと向かう――二階と言っても自分の部屋に向かうわけではない。僕はダイレクトに妹達の部屋――即ち、月火のところへと向かったのだった。
あえてノックをせず、ドアを開ける。
月火は二段ベッドの上の段で――寝息も立てず、すやすやと安らかに眠っていた。
やけに寝相《ねぞう》のいい奴なのだ。
音を立てないように、僕は梯子《はしご》に足をかけて、その寝顔を眺める。
安らかに眠っている。
死んだように眠っている。
それでも――死んではいない。
阿良々木月火は、生きている。
「……」
斧乃木ちゃんに上半身を吹っ飛ばされて、それが何事もなかったのように回復した月火は――しかしそれから、意識を失ったままだった。
とんだ傷弓《しょうきゅう》の鳥である。
上半身裸の月火を外から丸見えのところに放置しておくのはさすがに忍びなかったので、意識のない彼女をなんとかおんぶして、四苦八苦の末この部屋まで運んだのだ。
まあ運ぶよりも、ズタボロになった服を着替えさせるほうが大変だった。
意識のない人間に服を着せるなんて、今までやったことがなかったけれど、結構難しいんだな――まあ、服と言っても和服の浴衣なので、洋服よりは着せやすかったけれど。
勢いで着物が左前になってしまったのは、状況的にやや皮肉ではある。
ったく。
手のかかる奴だ。
手のかかる――妹だ。
「不死身ねえ。ヴァンパイアじゃなく――フェニックスか」
二段ベッドの柵に手をかけて体重を預け、月火の寝顔に見入る僕。
こうしていると本当に人間にしか見えず。
とても偽物だとは、思えない。
「笑えねえよな――こんな大爆笑のネタを、ちっとも笑えねえ。今まで散々、お前らのことを偽物呼ばわりしてきた僕なのに」
だけど、現実だ。
現実に僕は、月火の超常的な回復を見ている――文字通りの超回復を目撃している。
殺しても死なない――不死性。
勿論、不死身なら僕も経験がある――ほんの二週間ほどの間とは言え、殺しても死なない身体となった。
逆に言えば、そんな経験がなければ、今だって僕は月火が怪異だなどと、そんな井戸から火が出たような話、信じてはいないだろう。
目の錯覚で片付けたはずだ。
吸血鬼。
不死鳥。
――けれど、それでも、僕の不死と月火の不死には大きな違いがある。
僕の不死は後天的[#「後天的」に傍点]なそれであり――月火の不死は先天的[#「先天的」に傍点]なそれなのだ。
阿良々木月火は、生まれながらにして不死なのである。
怪異としての格で劣るつもりははなはだないらしいけれど――こと不死性という観点においては、不死鳥は吸血鬼を遥かに凌駕すると、忍はそんなことを言っていた。
死なないことにかけてはトップランカー。
まあ確かに、考えてみれば、吸血鬼を殺す方法なんて、いくらでもあるんだしな――太陽の光だの白木の杭だの、大蒜《にんにく》だの十字架だの。
それに較べれば不死鳥の弱点と言われても、咄嗟には思いつかない――自転車の前かごで忍が述べていたお説は確かにごもっともではあったが、それでも不死鳥を退治する類の神話なんて、聞いたこともないのだ。
僕が不勉強なだけかもしれないけれど。
まあ、多分不勉強なだけだとは思う――少なくとも、ああして襲ってきた以上。
あのツーマンセルの陰陽師は――阿良々木月火ことしでの鳥を退治する、何らかの方策を有しているのだろうから。
僕の家の玄関を随分と風通しよくしてくれた、例の『|例外のほうが多い規則《アンリミテッド・ルールブック》』は、あくまでもお試しというか様子見というか――月火の不死性を試すだけの、ほんの挨拶代わりだったに違いない。
だから恐るべきことに、あれ[#「あれ」に傍点]にはあの[#「あの」に傍点]先があるのだろう。
不死身の怪異の専門家というくらいだ。
不死鳥を殺す方法が――あるのだろう。
「……展開があまりにも突然過ぎて、ついてけねーよ。つい今朝がた、僕は火憐ちゃんに肩車させて遊んでたんだぜ? それなのに……ったく、何に悩んだらいいのかもわからねえ」
月火の顎を指でやんわりと触りながら。
僕は眩く。
情けない声だっただろうとは思う。
実際、情けない話だ。
何に悩んだらいいかわからないだなんて――馬鹿馬鹿しい。
何を悩むことがあるというのだろう。
葛藤なんてするまでもない。
しでの烏。
ホトトギス。
怪鳥であり――怪異。
しかしそれは裏を返せば、しでの鳥は単に怪異であるというだけで――それのみであり、その怪異が積極的な意志を有するわけではない。怪異はあくまで、どこまで行っても現象である。
実在しようが実存しようが――現象。
一過性のフェノメノンだ。
意志や意識は、阿良々木月火独自のものであり――彼女は芯のところまで、人間のつもりである。
当然だ、そのつもりでなければ、偽物として不完全になってしまう。
ゆえに。
阿良々木月火に怪異としての自覚はない。
本来の阿良々木月火と同じように生まれ。
本来の阿良々木月火と同じように育ち。
本来の阿良々木月火と同じように生きて。
本来の阿良々木月火と同じように死ぬ。
本来の阿良々木月火と同じような――偽物だ。
「……はあ」
だけどそんなの、本物とどう違うってんだよ。
何から何まで全部おんなじだけど偽物――要するには人工ダイヤみてーなもんか? 本物とまったく同一の原子構造でも、その値打ちには天地|黒白《こくびやく》ほどの差があるっていう――
不気味の谷の挿話を僕に教えてくれたのも、やはり羽川だった。
それは美術の時間だったか――人物画をあまりにモデルに似せて描き過ぎると、それは芸術性よりは高い不気味さを帯びてくるらしい。
マネキンの怖さとか。
人に模し過ぎたロボットの恐怖とか。
人でないものが人の形をしているのは、それが似ていれば似ているほど、精巧な偽物であれば精巧な偽物であるほど、見る者から根源的な拒絶反応を引き起こす――その座標こそが、不気味の谷。
やれやれ、色んな言葉があるものだ。
あれで羽川は何でもは知らない、知っていることだけというのだから、僕は知っていることさえ知らないのだろう。
妹のことさえ――知らないのだろう。
忍に襲われて、自分から地獄に首を突っ込んで、吸血鬼になったとき――僕は人間に戻ることを、切実に願った。
そのために命を賭けた。
そのために命を捧げた。
結局、僕は中途半端に優柔不断、吸血鬼もどきの人間もどきにまでしか戻れなかったけれど――月火の場合は、戻りたいと願えるような人間のありようさえ、最初からないのだ。
阿良々木月火はそもそものカテゴリが怪異であり、阿良々木月火は最初から人間もどきなのだから。
「飛んで火に入る不死の鳥は――僕じゃなくてお前だったのかよ、月火ちゃん」
托卵。
偽物の家族――偽りの妹。
意識することさえもなく、ただそこに存在するだけで、月火はずっと、僕や火憐を騙していた――
「……えいっ」
眠る月火の唇めがけて、キスをした。
「何すんじゃあ!」
一発で目覚めた。
まるで童話に出てくる眠り姫のごとしである――直後に王子様(つまり僕)を力の限り突き飛ばし、二段ベッドから突き落としたところは、童話とは違うけれど。
月火はがばっと身体を起こし、泣きそうになりながらごしごしと自分の唇をぬぐいまくる。
「し……信じられない! こ、こんなの嘘だあっ! 初ちゅーが! 蝋燭沢くんに捧げるはずだった私の初ちゅーが!」
「おお……リアクションが火憐ちゃんと同じだ」
「同じだって……まさか! まさかまさか!」
まさか火憐ちゃんにも同じことを!
そうわななきながら、月火はべッドから身を乗り出し、突き落とした僕をうるんだ涙目で睨みつける。
たれ目だし涙目だし、すげえ目だ。
「か、火憐ちゃんと瑞鳥くんの仲が最近微妙な感じだと思ってたけど、裏にはそんな理由があっただなんて!」
「そんなことはどうでもいいだろう。今は、お前達のリアクションが同じだったという事実に、まずは驚こうじゃないか」
「それこそどうでもいいでしょ!? 妹の恋路《こいじ》をこんな手段で邪魔する兄貴がどこにいるのよ! リアクションが同じだとか――そんなの、姉妹なんだから当たり前じゃない!」
「……そうだな」
当たり前、だな。
お前ら――姉妹だもんなあ。
「はは――あはは!」
耐え切れなくて。
僕は思わず、思い切り笑ってしまい……、それを月火に「何がおかしいかあ!」と、目敏く噛み付かれる。
「二人いる妹の初ちゅー、二人のとも奪っといて、それで笑ってるとか、人としてどうなの!? ハムスターだってもうちょっと節操があるよ! 事故とかじゃないよね!? 明らかに狙い澄ましてたよね!? 火憐ちゃんのときだって、きっと寝込みを襲ったんだよね!?」
「ああ、それは誤解だ。お前の場合は寝込みだったけど、火憐ちゃんの場合は、病身を襲った」
「最悪だあ! ご近所のみなさーん、最悪な人類がここにいますよお! 家族を性的に虐待してる犯罪者がいますよお!」
「そう言うなって。蝋燭沢くんや瑞鳥くんには、僕のほうからちゃんと事情を説明しとくから」
「ああよかった、それを聞いたら一安心、お兄ちゃんからちゃんと説明してくれるんだったら――破局決定だあ!」
「はははは」
「だから! 何がおかしいと訊いている! 私達が失恋するのがそんなにおかしいのか! そんなに愉快なのか!」
「いやいや。お前とちゅーしても、ベっつに何にも感じねーと思ってさ」
「はあ?」
「ドキドキもしねえし、嬉しくもねえ」
それだけわかれば満足だ。
突き飛ばされて尻餅をついた姿勢から、僕はゆっくりと立ち上がった。
「お前やっぱり、僕の妹だよ」
「……は?」
怪認《けげん》そうな表情をする月火。
僕の言っていることがまったくわからないらしい――先の玄関口での騒ぎについては、記憶が飛んでいるようだ。
脳ごと吹っ飛ばされたんだから、そりゃそうなんだろうけれど、ま、好都合だ。
忘れてろ。
金髪のロリ少女のことは勿論として――お前はあんな危なっかしい二人のことなんか、少しも知らなくていい。
自分の正体も知らなくていい。
偽物だろうが、本物だろうが。
お前は僕の妹だよ。
不気味なんかじゃ――ちっともねえ。
「知ってっか? 月火ちゃん。僕はさ、お前のお兄ちゃんじゃなかった頃があるんだぜ」
「……? どういうこと?」
「火憐ちゃんの兄ちゃんじゃなかった頃もある。生まれてから最初の三年間、僕は一人っ子だったし、次の一年間、僕は二人兄妹だった。四年待って、ようやく僕はお前のお兄ちゃんになったんだ」
「そりゃ――まあ」
月火はわけがわからないという風だ。
そりゃそうだろう。
どの道、寝起きにされるような話じゃない――こんな目覚めで、まともに対処しろというほうが無理な話である。
それでも構わず、僕は続けた。
こんなの、言いたいことを言っているだけなのだから。
「だけどな、月火ちゃん。阿良々木月火は生まれたときから――ずっと僕の妹だったんだ。僕の妹で、火憐ちゃんの妹だった。そうじゃなかったときはひと時もない」
「…………」
「僕とのちゅーなんか数えるな。兄妹なんて、そんなもんだろ。言い出したらお前や火憐ちゃんと、子供の頃に一体何回結婚の約束したもんか、わかんねーぜ」
重婚だけどな、と台詞を締めると、月火はそんな昔の話を蒸し返されたのが気に入らないようで、頬をぷうっと膨らませて、
「ばっかみたい、そんな昔のこと持ち出して、何かを誤魔化せるとでも思ってるの――」
と言う。
「――プラチナむかつく」
そして続けて、僕からついっと目を逸らし、眩くようにそう言った。
その言葉は――確か、それほど怒っていないという意味だったか。
知らんけど。
「はっはっは」
僕はそんな風に繰り返して笑ってから、もう少し寝ているように月火に言い含め――
僕は妹の部屋を後にした。
月火にしてみれば、自分がどうしてこんな夕方から寝ているのかさえわからなかっただろうが、しかし有無を言わせない僕から言い知れぬ迫力でも感じたのだろうか、やけに素直に頷いていた。
再び玄関口へ。
僕が二階にいる間に何らかの心境の変化があったらしく、もう火憐は座ってはおらず、本当に何かの門番のように仁王立ちで構えていた。
気分屋過ぎる。
門柱から玄関から綺麗さっぱり破壊されているし、そうかと思えば変な番人はいるし、もうこの家、何がなんだかわかんねえよ。
僕の家は一体どうなってしまったのだろう。
「おーい、火憐ちゃん。僕、ちょっくら出掛けてくるわ」
「む。如何に兄者と言えど、この門を通すわけには行かぬぞ!」
「キャラ作りが変な方向に向かっている……」
「ここを倒したくば、我を通ってから行け!」
「お前を通っていいのか?」
それは具体的にはどういうことなんだ?
僕は何をすればお前を通ったことになるんだ? 入れ替わってる入れ替わってる。
ここを倒しちゃったら、家が半壊どころか全壊するわ。
「あ、ごめんごめん。これって、こないだ兄ちゃんが教えてくれた持ちネタを披露するいいタイミングだったよね」
今それを思い出した風に、火憐は玄関の段差を利用して、やや難易度がきつそうな型の首ブリッジをした。
「ここを通りたくば我を倒してからにしろ!」
「あははははは!」
いや、ごめん。
このネタ、完璧に僕の笑壺《えつぼ》に入っちゃってるから、条件反射的に爆笑してしまう。
「えい」
ブリッジで主張されている胸を揉んだ。
お兄ちゃん、妹のおっぽい触り過ぎである。
「ぐはあっ!」
大ダメージを受けた風の妹。
感電でもしたかのように彼女は靴脱ぎにおいてもんどりうって七転八倒し、まろびころびつ起き上がり、「ふっ」と不敵に笑ってみせた。
「よくぞ我を倒した! 第一の試練は合格だ!」
「その寸劇、まだ続くの……?」
「だが第二の門の番人は、我のように甘くはないぞ……そう! 驚くがいい、奴は我々の兄だ!」
「僕に兄なんかいねえよ」
いるのは二人の妹だけだ、と火憐を押しのけて、僕は靴を覆く。
「ノリ悪いなー、兄ちゃん。『ば、馬鹿な! 兄者は五年前、我を庇って死んだはず!』とか言えよ。あたしはあたしで、ちゃんと兄ちゃんの言いつけ通り、この門を管理してんだからよ」
「少年漫画風に管理しろなんて言ってねえよ。人の出入りにだけ注意してりゃいいんだ」
「出入りねえ。にゃ? 出入り? 出入りだって? 入る前にどうやって出るんだ? まず入らなきゃ出られねえじゃん!」
「…………」
テンションはうざいが、答を知らないので無視。
羽川なら、きっと答えられるだろうけど。
「僕が出る分には出せ」
「ふふん。そういうのなら出してやらんでもないが、果たして帰って来たとき、入れるかなあ?」
「入れろ」
お前の肩の上に載ってるのは頭なのか、それとも西瓜《すいか》なのか、どっちだ。
「つーか出掛けるってどこ行くんだよ。勉強はどうしたんだよ勉強は。えーおい、受験生さんよー」
「なんで上から目線なんだよ……えーっとな。ちょっと参考書買いに行ってくるんだ」
「ふーん。行ってらっしゃい」
またもあっさり僕の虚言を信じる火憐。
貝木に騙されるわけだよな、こいつ……もう兄として僕を信頼しているとかいうようなレベルじゃねーよ。
ひょっとすると僕は思い違いをしていたかもしれない……こいつの僕に対する忠誠心は神原以上かもしれない。
だとしたら怖い話だ。
「火憐ちゃん」
「なんじゃい」
「いつかの続きだ。正義って、何だと思う?」
「正しいことだ。それ以外にゃねーだろ」
「そうだな。じゃあ、正義の敵は何だ?」
「? そりゃ普通に悪だろ。こないだの不吉野郎みたいな奴のことだ」
「ああ、そうだ」
そうだな。
火憐からの真っ直ぐな返答に、僕は頷く。
「だけどな、貝木みてーにわかりやすい悪党なんて、むしろ少数派なんだぜ。あそこまで究極的に悪に徹せられる奴はそうはいない。美学も正当性も持たずに悪党でいることに、大抵の人間は耐えられない。だから自分なりの正しさを打ちたてちまう」
貝木泥舟は例外中の例外だ。
偽物中の偽物だ。
あいつは自らの理を説きはしても、その正当性を、決して主張はしなかった――そう。決して悪びれることなく、彼は悪を自任していた。
火憐や戦場ヶ原からどんな風に言われようとも――あいつ自身は、騙されるほうが悪いだなんて、一言も言わなかったのである。
「だからさ、大雑把に言って――正義の敵は、別の正義だ」
「…………」
「戦争なんて、その最たるものだろ。ファイヤーシスターズの正義も、誰かから見れば正義の敵でしかないんだぜ――自分の正しさを主張している限りにおいて、いつどんな理由で、僕達は正義を敵に回しちまうか、わかんないのさ」
そんなわかりやすい二元構造で、世界は成り立っていない――世界はもっと複雑で、世界はもっと怪奇だ。
春休みだって。
ゴールデンウィークだって。
僕はそれを――嫌と言うほど思い知ってきた。
今だって、知り続けている最中だ。
一生勉強である。
「火憐ちゃん。卑怯って言葉は使いどころが難しいよな――お前は卑怯者が嫌いだし、僕だってそれを肯定するつもりはないんだけど。だけど突き詰めれば、強いってことも弱者にとっちゃ卑怯だし、弱いってことも強者にとっちゃ卑怯だろ。強みってのは、即ち弱み。正しいってことも悪にとっては卑怯だよ。だから卑怯じゃないのは――悪だけだ」
強さは武器になる。弱さも武器になる。
正しさなんて、凶器もいいところだ。
悪だけが。
正義の対極たるはずの悪だけが――正々堂々と、徒手空拳《としゅくうけん》で戦っている。
「お前の言う通り、必勝法ってのは卑怯なもんなんだよ。ジャンケンだろうとなんだろうと――あらかじめ負けることが運命づけられている悪だけが、卑怯とは縁遠い存在なのさ」
正義が必ず勝つのなら、悪は必ず負ける。
悪の栄《さか》えた例しなし。
だからこそ――
「ごめん、兄ちゃん。よくわかんない」
火憐は口を尖らせて言った。
理解が及ばないらしい――こんな話は、さすがにまだ早かったか。
だけど、お前が正義を追求するのなら――これはいずれ、しかも遠からずぶつかることになる、立ちはだかる壁だ。
僕は噛み砕いて――わかりやすく言った。
「人間、生きてるだけで誰かを敵に回しちまうことだってあるんだよ。そういうことだ」
「……だったら」
言葉自体は、今度は呑み込めたようだったが――しかし火憐はそれでも戸惑ったように、僕に訊き返してきた。
「そういうときは、どうしたらいいんだ?」
「うん?」
「正義の敵にされちゃったとき。何にも悪いことしてないのに、むしろ自分は正しいつもりなのに、それでも正義が敵に回っちゃったときは、どうすればいいんだ?」
「――その質問に答えられて、ようやく正義の味方だよ」
僕にはわかんね、と肩を竦める。
振っといて、いささか格好のつかない話ではある――実際、これは八つ当たりのような質問だったかもしれない。
実際、僕も羽川から言われたことがある。
それはゴールデンウィークのことだった。
――阿良々木くんは。
――阿良々木くんは、スターにはなれても、ヒーローにはなれないよね。
厳しい言葉だった。
だけど正しい。
羽川の言うことは――いつも正しい。
僕は正義の味方じゃあないのだ。
人間の味方でも、怪異の味方でもない。
お前達の味方だ。
どこにでもいる、普通の兄貴だよ。
「んじゃ、行ってくる。ここはしっかり守ってろ。誰も入れんなよ」
「任せておけ! 兄ちゃんからの命令には絶対服従の火憐ちゃんさ!」
火憐は仰《の》け反《ぞ》って、胸をどんと叩く。
「あたしの中の悪を憎む心を生み出したのが兄ちゃんなら、あたしの中の正義を愛する心を生み出したのも兄ちゃんだ!」
「……やな責任を」
押し付けんなよ、と。
僕は苦笑いしか返すことができなかった。
僕の影響なんか受けてんじゃねーよ。
お前も――月火ちゃんもよ。
「あー……そうだ。途中、月火ちゃんが起きてくるかもしんねーけど、月火ちゃんは出すな。文字通りの出入り禁止だ。寝技使ってでも寝かせとけ」
「あいさ了解!」
妹を締め上げろという恐るベき命令なのに、どうして了解するんだろう……絶対服従がどうとか言う以前に、こいつは勢いでなんでもやっちゃうタイプだな。
怖い怖い。
僕は火憐を尻目に自転車のスタンドを蹴飛ばして、サドルにまたがってペダルを回す――ハンドルは、当然、本屋とはまったくの逆方向へ。
向かうはお馴染みの、学習塾跡廃ビル――本日判明したところによると、その閉鎖した塾の名前は、叡考塾と言うらしく。
かつて忍野メメが根城とした場所。
そして今は――陰陽師。
不死身の怪異を専門とする怪異転がし。
影縫余弦と斧乃木余接の、拠点である。
「行くのか。お前様よ」
気が付けば――気が付く前から、いつの間にか、僕の乗った自転車の前かごに、逆ET状態で、忍が存在していた。
火憐の帰りを待っているうち、既に太陽は沈んでしまっていた――つまりは月が我が物顔で皓々《こうこう》と照る、怪異の時間の訪れだった。
忍の時間である。
昼間に寝ていようが起きていようが夜になれば目がぱっちりと覚めるあたりが、生物ならぬ化物と言ったところか――昼夜逆転と言っても、別に夜に眠るわけではないのだ。
ゆえに、その目は。
その金色の瞳は燗々《らんらん》と輝き、むしろ生き生きとしているようだった。
生きてはおらずとも――生き生きと。
「ああ。行くよ」
「どこへ。何をしに」
「あいつらのところへ。戦いに」
「何のために」
「妹のために」
「それでお前様は何を得る」
「何も得ないよ。時間を少し、失うだけさ」
アニメ化されようが実写化されようが、僕は真面目になんかやらねえよ――こんなの、いつも通りの悪ふざけだ。
割り切れねえ状況だってんなら――繰り返して、7で割るだけさ。
そうか、と忍は頷く。
どことなく満足げに、頷く。
「お前様が戦う道を選ぶというのなら仕方ないのう――何せお前様が死んでしまえば、もろとも儂も道連れじゃからのう。儂も自分の身を守るために、共に戦わざるを得ないのう」
「……手伝ってくれんのかよ?」
「言っとくが、心底嫌じゃからな。誤解するなよ――儂は嫌で嫌でしょうがないんじゃからな。お前様の極小の妹御がどうなろうと、知ったことではないんじゃからな。あくまでも自分の身を守るために、やむを得ず利己的にお前様を手伝ってやろうというだけなんじゃからな」
「お前のツンデレは、うぜえ」
僕はそう言って――吹き出してしまう。
「はっ――お前、死にたいんじゃなかったのかよ。お前って確か、自殺志願の吸血鬼じゃなかったっけ?」
「ふん。そんな初期のキャラは忘れたわい――中期のように無口でもない。今の儂は、どこにでもいるドーナツ好きの、マスコットキャラクターじゃよ」
さほど自虐的でもなさそうに、忍はそう言う。
むしろ前向きな風に――皮肉たっぷりの、おふざけのように。
「月火、じゃったか」
「あ?」
「お前様の極小の妹御の名前じゃよ」
「ああ……なんだ、名前、憶えたのかよ。お前が人間の名前を憶えるなんて、珍しいな」
「あれだけ激しく連呼されたらのう――まあ、名を覚えたところで区別がつくわけではないのじゃが。――ふん。それに、よき名じゃからな」
「よき名? そうか?」
「月というのが気に入った。太陽は儂の敵じゃが――月には色々と恩恵を受けておる。ゆえにここで、その恩返しをしておくというのも悪くはあるまい」
と、いうのが建前《たてまえ》じゃ。
忍はそう言って――自転車の前かごで踏ん反り返った。
丁度地面に段差があったので、危うくバランスを崩してしまうところだった。
「……そっか。ありがと」
「礼には及ばん」
「じゃ、また今度ドーナツ食わせてやるさ。商品全部とは言わないまでも、トレイ一皿分くらいなら、僕の財力も許すだろう」
「いらん。あくまでも儂が自分のためにやることじゃ――ゆえに見返りは求めんよ」
好意ならば受け取ろう。
忍はそう言って――これ見よがしに、にやりと、邪悪に微笑する。
凄惨《せいさん》に――微笑する。
正義の敵のように微笑する。
「それにお前様。これは私怨《しえん》でもあるのじゃよ」
「うん? 私怨?」
「うむ。伝説の吸血鬼たるこの儂を、よりにもよって後期高齢者呼ばわりしおったあの小娘に――格の違いを思い知らせてやらんといかんのじゃ」
012
鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼、怪異殺しにして怪異の王である忍は、僕によってその存在を奪われ、忍野メメによってその名前を縛られ、その戦闘スキルのほとんどを失っているが――実を言えば、そのスキルを取り戻すのは、彼女にとってはとても簡単なことである。
その気になればいつでも取り戻せる。
要するに、僕の血を吸えばよいのだ。
それだけで忍は元の吸血鬼に立ち返れるのだ――不本意な幼女姿から解放されるのだ。
再び彼女は、最強無敵のヴァンパイアとして君臨できるのだ。
もっとも、言うまでもなく、その場合は必然的な副産物というか、必要不可欠な副作用的に、当然僕も吸血鬼と化してしまうわけである――忍が僕を吸い尽くし、殺し尽くしてしまわない限りにおいてはという話だが。
逆に――今でこそ、僕の影からダイレクトにエナジーを供給されているから、それほどの頻度でなくともよいが――僕が忍に血液を与えることを拒否すれば、忍はそれであっさり、死んでしまう。かつて不死だったとは思えないほどに、あっさりと。
この場合の副作用は、僕がまるまる、何の後遺症も身体に残さず、本当の意味での人間に立ち返れるということである――忍野から散々椰楡された、それは純然たる可能性だった。
忍が吸血鬼に戻る。
僕が人間に戻る。
それは悲しいほどにイコールだ。
ただし今、僕はそのどちらも望んでいない――作用も副作用も、作用も反作用も望んでいない。忍の心中は察する余地もないけれど、あくまでも今のところという前提の上では、彼女は僕の意を汲んでくれてはいるようだった。
ゆえに。
ここで[#「ここで」に傍点]忍に吸わせるべき血液の容積は、少なからず多からずのテイスティングに留めておかねばならない。
いつぞや、神原の猿を相手にしたときと同じように――あるいはもっと遡《さかのぼ》って、羽川の猫を相手にしたときと同じように。
忍野忍を中途半端な化物に。
阿良々木暦を中途半端な化物に。
チューニング、チューンナップしなければならなかった。
交渉をするのでも話し合いをするのでもない以上、戦闘準備はより慎重になさなければ、玄関前での一戦をひたすらに繰り返すだけの結果になってしまう――その結果の先に見える結論は、結果論では済まされないほど非常に切ないものとなるだろう。
僕だって、一日のうちにそう何回も折り畳まれたくはない――忍のハッタリにしたところで、二度目はもう通じないだろう。否、一度目だって、あれは同情票で勝ち取ったようなものである。
まして相手は不死身の怪異を専門とする陰陽師。
準備し過ぎて準備し過ぎるということはない――あるいは、準備するだけ無駄とさえ、言ってしまえるくらいなのだ。
僕と忍は、互いの首元に繰り返し繰り返しかぶりつき、互いの血液を何度も何度も行ったり来たりさせながら――ぎりぎりすれすれベストのバランスへと調整して。
そして。
僕達は万全の態勢を整え。
僕達は万端の勢いで。
僕達は万難を排した上で――影縫余弦と斧乃木余接と正対するために、学習塾跡の廃ビルへと乗り込んだ。
「招かれざる客ちゅうとこやな――忍野くんなら『やあ、遅かったね。待ちくたびれたよ』とでもほざきよるんやろけど、うちはあそこまで他人に対してオープンにはなれへんな」
廃ビル四階。
忍野が寝床として、一番頻繁に使用していた教室である――四階にある三つの教室のうち、階段から見て一番左端の教室。
学習机をビニールテープで引っ付けて作製した、例の簡易ベッドもそのまま。
先日僕が、更生前の恐るべき戦場ヶ原から拉致監禁された教室でもあった。
招かれざる客と言いながら、影縫さんと斧乃木ちゃんは、僕達の来訪をあらかじめ予測していたかのように――教室のドアを開けるときには、既にこちらを向いていた。
踏まないのは、あくまで地面だけという縛りなのだろう――建物の中の床はその範囲に含まれないという決まりらしく、影縫さんの靴の裏は教室の、半分剥げているようなリノリウムの床に――しっかり接地している。
両足で、正当に立っている彼女の姿に――僕は火憐が言っていたことを少しだけ理解した。
この人の立ち方は、不自然だ。
見ていて気持ち悪くさえある。
体軸が――恐ろしく直線的だった。
曲線味をまるで帯びていない。
たとえそうして彼女が立っているところに、自転車に乗ったまま突っ込んだとしても――吹っ飛ばされるのは自転車のほうで、影縫さんは微動だにしないのではないかと思う。
バランスがいいと言うより――固定的なのだ。
……姿勢の問題だけでなく、僕が体内の吸血鬼度を、高めているからな――少なからず距離が近付いた分だけ、影縫さんの実力がわかってしまうということか。
だけど、一度感じてしまうと、もっと早くわかってもよさそうなものだったと思う。
この人が。
この気のよさそうなお姉さんが――まさかここまでの殺気を撒き散らしていたなんて。
ドラマツルギー。
エピソード。
ギロチンカッター。
あの吸血鬼狩りの三人組と較べてもまるで遜色ない、途轍もなく卓越《たくえつ》した殺気――
「……忍野は」
僕は、内心のハラハラを悟られないように――むしろ大胆不敵に見えるように演じつつ、影縫さんの言葉に応じる。
「忍野は、そもそも――一度として、そんな殺気を出しませんでしたよ」
「ふん? かかか、そうやろな――忍野くんはそうや、そーゆーやっちゃ。けどなあ、鬼畜なお兄やん――それはお互い様やん。おどれらもそこまでがっちがっちに戦闘態勢整えてきといて、まさか歓待《かんたい》されると思とったわけやないやろ?」
影縫さんはそう言って、楽しそうに笑う。
共通の知り合いが話題に上ることが、心底嬉しいといった風にも見える。
「特に、そっちの吸血鬼は――旧ハートアンダーブレードちゃんは、随分とまあ様変わりしてもうたやんか」
影縫さんはそう言って、僕の隣の忍を指し示した――その通りだ。
僕の血を、限界値近くまで吸収した忍野忍は、既に八歳の幼女の姿をしていない――既に金髪のロリ少女とは言えない。
かと言って、完全体の成人バージョンまでは戻ってはいないのだ。そこまで戻すわけにはいかない――強いて言うなら、僕と同世代くらいの、十八歳くらいの容姿。
名前を憶えることはできても人間の区別はつかないとは言いつつ、どうやらこの前、僕が火憐からフルボッコにされたときのイメージは(というか影内で連動して受けたイメージならぬダメージは)、さすがに忍野忍の精神に色濃く反映されているようで、その髪型が、今朝までの火憐と同じポニーテイルだった。
服装もどことなくジャージっぽい。
ただし元貴族という経歴ゆえに、無駄にゴージャスな忍のそのジャージは、どことなくブランドじみた高級感が漂っていた。
足元のスニーカーも同様である。
忍野忍は金色の瞳で、影縫さん達のほうを、静かに見据《みす》えていた。
静かに。
睨み据えていた。
「格好ええなあ――うちの若い頃とタメ張るわ、旧ハートアンダーブレードちゃん。その実力のほうまでは、定かやないけどな。まずは外側だけ作ることに執心したちゅう感じやん。ライオンのタテガミか、孔雀の羽根か――あるいは蟷螂《とうろう》の斧か」
「ふん。蟷螂の斧はそちらの小娘じゃろう。忠告しておくが、今の儂を前にあまりでかい口を叩くなよ――陰陽師。スキルとパワーをここまで戻してもろうたのは、かつていけすかん猫を相手取ったとき以来じゃ。はっきり言って儂は今、相当に高ぶっておる――興奮と食欲の坩堝《るつぼ》じゃ。何キッカケでうぬらを殺してしまうか、わからんよ」
得意げな忍は言う。
その声も、幼女のときのように幼く、舌足らずな風ではない――本当、吸血鬼にとって姿形など、何の意味もなさないんだと、久方ぶりに思い知らされてしまう。
「儂はうぬらを殺すわけにはいかんのじゃから――儂に理由を与えるな。儂に動機を与えるな。儂はまだ――こやつを裏切りとうないんでな」
忍は言って、親指で僕を指さす。
裏切りたくない対象として――僕を。
そんな風に、指さしてくれた。
「お願いじゃから儂に本領を発揮させるな。お願いじゃから儂に本性を発揮させるな。お願いじゃから儂に本能を発揮させるな――さすれば、お仕置き程度の吸血で勘弁してやろう」
「……殺すわけにはいかない?」
忍の言葉に反応したのは――僕以上に反応したのは、しかし、斧乃木ちゃんだった。
「その程度の覚悟でここに来たのかい? だとしたら笑わせるよね。ねえ、そうだよね、お姉ちゃん。こっちは殺す気満々だっていうのにさ――僕はキメ顔でそう言った」
相変わらず、キメ顔なんて作っていない。
風のない水面のように無表情だ。
しかし、斧乃木ちゃんがその台詞通りに、忍の言葉に対して強い不満を覚えたのは、どうやら確からしかった。
「まあまあ、そない言いないな、余接――あちらさんはなんにもわかっとらへんだけやねんさかい」
そんな風に影縫さんが取り成したのが、いい証拠である。
「そう、おどれらは何もわかっとらへん――うちらの残酷さも、非情さも。うちらがどこまで論外に道を踏み外した外道《げどう》なんか、まるっきりわかっとらへんのや」
「…………」
わかるさ。
それくらい、わかる。
あなた達は――本当に問答無用で、一言の職務質間もなく、阿良々木月火を、住まうその家もろともに攻撃した。
そんなことをする奴の人間性など――知れている。
怪異性など、知れている。
あなた達は、正義で。
そしてただ――それだけだ。
「ほんで? どないするん?」
影縫さんは、僕に訊いてきた――これからトランプを使って、みんなで仲良く大富豪をやって遊ぶにあたって、ローカルルールの有無を確認するかのような気軽な口調で、訊いてきた。
「基本的にうちらもバトルはウェルカムや――わかりやすいしな、暴力賛成やわ。幸い、お互い人間と怪異のコンビやねんし――うちとおどれ、旧ハートアンダーブレードちゃんと余接っちゅうマッチメークで、対戦カードはええんかな?」
「…………」
「ん? 不満か? なんなら、うちと旧ハートアンダーブレード、余接とおどれっちゅう組み合わせでもええんやで――偽物とは言え、おどれの妹ぶっ飛ばした実行犯は余接なわけやし」
「――いや」
最初のほうでいいよ、と僕は頷いた。
むしろ望むところだ。
どう言い出したものかと、それが一番の悩みどころだったが――そんなこちらの心中を見抜いたかのような提案だった。
余裕のつもりか。
ハンデのつもりか。
どちらにしても、こちらとしてはそれに乗っからない手はない――ありえない。
「よし。では小娘――儂らは下じゃ。二階に儂らのバトルに相応しい部屋がある――そこで思う存分、戦おうではないか。年季の違いというものを思い知らせてやる」
さすが、勝手知ったる廃ビルである――忍はそんな風に、斧乃木ちゃんを誘った。
忍の言っている教室とは、恐らく、僕が神原の猿とバトったときの、あの教室のことだと予想がつく――確かにあそこなら、怪異同士の戦闘にも耐えうるだろう。
「……いいよ、わかった。僕を人質にとった風にしてお姉ちゃんを退かせた、あんなイカサマまがいの手口には僕もムカついているところだったしね。勘違いしないでよ、そこまでパワーアップしたところで、未だあなたは僕より下だ。敬老の日はまだ一ヵ月ほど先だけど、老骨に鞭《むち》打ってまで僕に年季の違いを思い知らせてくれるというのなら、折角だから付き合ってあげるよ、お婆ちゃん――僕はキメ顔でそう言った」
斧乃木ちゃんのその返しに、忍の方角から血管が切れるような音が聞こえてきたけど、まあこれについては、年季の違いがどうとか、わざわざ罵倒《ばとう》を浴びるためのフラグを立ててしまった忍が迂闊だったと言えよう。
「かっ……資料も文献もロクに残存しておらん、極東のマイナー妖怪が。二度とキメ顔などできなくしてやるわ」
いや、だから、別に口でそう言っているだけであって、斧乃木ちゃんは一度もキメ顔なんてしてないんだけれど――とにかく忍は憎々しげにそう言って、教室のドアのほうへと向かっていく。
僕の血液というバッテリーを得た忍は、もう阿良々木暦の影に縛られてはいない――やはりそんなに大きく離れることはできないけれど、同じ座標の二階と四階くらいならば、十分に許容範囲内の距離である。
まあ、これについては機動戦艦ナデシコとエステバリスの関係みたいなものだと思ってくれればいい。
「じゃ、ちょっと老人介護のボランティアに行ってくるよ、お姉ちゃん――僕はキメ顔でそう言った」
斧乃木ちゃんのそんな言葉に、影縫さんは、
「おう、任せたで」
と返す。
すると斧乃木ちゃんは、
「任せる?」
と首を傾げ、
「そんな信頼しているみたいなこと言わないでよ、お姉ちゃん――僕はキメ顔でそう言った」
それだけ言って。
そして斧乃木ちゃんは、急に興味を持ったように僕のほうを向いて、
「ねえ、鬼のお兄ちゃん」
と、そんなことを言ってくる。
なんだよ、と僕が問い返すと、
「あなたは世界をどう思ってるのかな?」
と続け、更にそこから、僕に言葉を返す時間も与えずに――
「僕は、こんな偽物だらけの世界は滅んじゃっていいと思うんだよね、鬼のお兄ちゃん――僕はキメ顔でそう言った」
――そう結論を言い。
キメ顔でもなくそう言って。
とても強く、ありえないほど断定的にそう言い切って、それからやっと斧乃木ちゃんは、ようやくのこと忍の後ろについて――そして二匹の怪異は、この教室から出ていった。
「……」
そしてこれからあの二匹の怪異によって展開される殺し合いは、きっと人間の想像を絶するものになるだろう――あそこまで復調した状態の忍の実力に疑問を挟む余地はないが、しかし何しろ斧乃木ちゃんは未知数だ。
少なくとも僕の家の玄関、それに月火の肉体を破壊したときのあの手際は――僕がこれまで見てきたどの怪異にも引けを取らない。
だとすると果たして、しの
「余所見《よそみ》しとる場合か? おどれ」
と。
僕が斧乃木ちゃんが閉じていったドアに視線をやった、ほんの数瞬の隙をついて――影縫さんが、僕の身体のまさに直前、吐く息が鼻にかかるほどの距離にまで接近してきていた。
「えっ……」
「戦闘は既に始まっとるんやで。おどれとうちが、おぎゃあと生まれたそのときから――」
視線を戻すのさえ、間に合わなかった。
次の瞬間には、影縫さんは僕の膝を蹴り抜いていた――字面通りの意味で蹴り抜いたのだ。
いや、ごめんごめん。
蹴り抜いたという言葉じゃあ足りないや。
それじゃあ僕が受けたのが、膝の皿が割れたか、骨が折れたか程度のダメージであるかのように伝わってしまうじゃあないか。
嘘、小袈裟、紛らわしい。
正しくは、影縫さんは右足のかかとで僕の膝を目掛けてダイレクトに蹴りを繰り出し――そのまま蹴りの威力だけでジーンズごと、僕の脚の膝から下を、電子メスのように切断した、と言う。
小枝でもへし折るかのごとく。
あるいは――虫の足でも千切るがごとく。
「がっ……っ!」
痛みよりも、驚きの感情が先行する。
激痛よりも驚愕だ。
接近を許したのは、ただの油断である――余計な心配に気を割いたその当然の代償として、一撃くらいをこの身に受けることは、まあやむを得ないと言えるだろう。
だが、ここまで破壊的な一撃だと?
人間が人間の膝を蹴ったところで、こんなことにはならないだろう――まして今、僕の身体は限界近くまで強化されているんだぞ?
骨だって、肉だって。
言ってしまえば皮膚でさえ、分厚いゴムでコーティングされているようなものなんだぞ――
「吸血鬼の弱点でも突かれると思たか? 呼吸器官を攻められるとでも? 内臓器官を狙われるとでも? 十字架やら聖水やらを持ち出してくるとでも、思とったか? 水鉄砲で聖水でも浴びせられるとでも信じとったか?」
影縫さんは、言いながら――蹴り足から対角線になる左のこぶしを、目にも止まらぬスピードで僕の顎へと炸裂《さくれつ》させる。
火憐曰く、影縫さんのこぶしはエアバッグが開くほどの威力を持つらしい――しかし影縫さんに対する火憐のその評価は、いくらか修正する必要があるだろう。
あいつも意外と評価が甘いね。
エアバッグどころか。
こんなもん、軽自動車なら廃車になる。
メジャーリーガーが投げる剛速球でも至近距離からぶつけられたかのように、僕の下顎は消し飛んだ――顎を殴られれば頭部が揺れて脳震盪《のうしんとう》を起こすとか、そういう浅いステージの話じゃない。
むしろ脳味噌はちっとも揺れず、下顎底《かがくてい》だけがピンポイントで持っていかれた。
「お生憎《あいにく》様やったな。うちは日本初の武闘派陰陽師や――こまい術式やら小難しい蘊蓄《うんちく》やら、そんなかったるいもん知るかい。怪異なんぞわけのわからんもん、うちはこないな感じに、テンションアゲアゲでいてもうたるだけや」
次は掌底《しょうてい》だった。
控えていた右手での掌底――非常に破壊的に、ありえないような角度をもって直線的に、それは僕の右肩へとヒットした。
肩の関節部――上腕骨《じょうわんこつ》の解剖頸《かいぼうけい》から上だけを残して、僕の右腕がもぎ取られた。
握られたわけでも、捻られたわけでもないのに。
ただの手のひらの圧迫で――もぎ取られた。
歴史に名を残すような大横綱の張り手だって、こうはいくまい。
単純な威力と――その凝縮《ぎょうしゅく》。
パワーとスキル。
その結果としての――大いなる破壊。
影縫余弦のデストロイ。
阿良々木家の前で、折り紙のように折り畳まれたあのとき、これは一体どんな仕組みのサブミッションなのだろうと考えたものだけれど――てんで的外れだった。あんなの、ただの怪力で僕の身体を押さえつけていただけに過ぎないのである。あれは単に、無理矢理柔軟体操をさせられていたみたいなものだったのだ。
ただの怪力。
その、ただの怪力が。
今は手加滅なく、猛威を振るう。
しかし、これが本当に、怪異に対する怪異ならざるただの人間の為せる業なのか――いやもう、そんな御託《ごたく》をごちゃごちゃ並べるまでもねえ、この人陰陽師でもなんでもねえよ!
人間として完全に、戦闘以外のスキルが取り除かれている!
道理で忍があやふやな言い方をするわけだ。
この人は形容の仕様が――ないっ!
「はっ……く、う、うあっ!」
たまらず、僕は後ろに下がる――残った右足だけで思いの限りバックジャンプして、影縫さんから離れる。
影縫さんはあえて追ってこなかった。
それができないとも思わないが、調子に乗って深追いをしてこないあたりが、やはり彼女はプロだと思わされる。
アマチュアの標的に対して、プロは調子に乗るまでもないのだ。
だから、決して勇ましく、重ねて嵩《かさ》にかかってきたりはしない。
おちゃらけているようでいて、淡々と確実な結果を見据えている――
「ふっ……ふっ、ふっ」
だが、助かった――影縫さんの破壊力が、ここまでの凄まじいレベルで、正直、逆に助かった。
痛過ぎて、逆に痛くない。
非現実的で、受け入れられない。
痛覚の領域を遥かに越えるダメージは、脳神経が受け取ることを拒否するのだ――しているうちに、吸血鬼の不死性を帯びた僕の身体は、自動的な再生を開始する。
切断された左足が。
持っていかれた下顎が。
もぎ取られた右腕が。
元の状態へと――システムのように復元する。
勿論その再生速度は、そのもの僕が吸血鬼だったときのごとく、あっという間とはいかない。それでもあ行を言い終わるまでの間には、全てが元に戻っていた。
僕の場合、忍と違って破れた服までは回復の範囲ではないので(僕には物質創造のスキルがないから、服は普通の服なのだ)、若干パンクな感じのファッションになってはしまったけれど。
自らの肉体をいいように蹂躙《じゆうりん》されたという、その精神的なダメージまでが回復したわけではないけれど。
「はっ……はあっ、はっ」
落ち着け、冷静になれ――熱くなれ。
こんな想定外など想定内だ。
我慢できないことじゃない。
この程度の代償で、明日からも妹達のおっぱいを触り放題なのだと思えば、安いものだろう。
とにかく。
これで――仕切り直しだ。
「かかっ……おどれ」
対する影縫さんは愉快そうである。
戦闘中であるにもかかわらず、気さくな態度はまるで変わらない――否。
生まれたときから戦闘開始と言い切る影縫さんの態度がまるで変わらないのなんて、考えてみれば当たり前の話でしかないのか。
常在戦場なんてレベルじゃない。
郵便ポストの上に立ち、僕に道を訊ねてきたときには既に、とっくに彼女はバトルの渦中に身を置いていたのだ。
「おどれ、なんでうちが不死身の怪異を専門にしとるか、知っとるけ?」
影縫さんは大きく口を開けて、ぺろりと下品に舌なめずりをした。
「――やり過ぎるっちゅうことがないからや」
「……っ」
その言葉は――仕切り直したはずの心を折るのに、十分だった。
なんだよ、この人。
世界は広いっていうか……ここまでの強度の人間がいるなんて、思いもしなかった。
勿論、僕は戦うつもりでここに来てはいたけれど――それはあくまで、異能対異能の戦闘を想定してのことだった。
影縫さんの強度を保証する火憐の言葉を疑っていたわけではないが――その身を半分以上まで吸血鬼とした僕なら、少なくとも互角であろうとは思っていた。
なのに――なんなんだ、今の肉弾戦?
なんなんだ、今の力ずく。
この京都弁の陰陽師、ただの力任せで――怪異を圧倒しやがった。
「はっ、はっ、はっ、はっ――」
必死で、激しい動悸を抑えつつ、呼吸を整えながら、僕は思考する。
いや、思い出せ。思い出すんだ。
これは――そうだ。
この部屋の元住人、軽薄なアロハ野郎――忍野メメにだって、さっきみたいな滅茶苦茶は、やろうと思えばできたことだった。
あいつは、しなかっただけで。
確か――できたはずなんだ。
全盛期の忍でさえ、忍野には一目置いていたのである――蟹であろうが蝸牛であろうが猿であろうが蛇であろうが、忍野はもっとシンプルに、いわゆる退治をすることができたはずなんだ。本当の意味で忍野の手に余った怪異など、それこそ羽川のときの猫くらいのものである。
忍野は。
「影縫さん……あなた、忍野とは――どういう関係なんです」
時間稼ぎをするつもりはなかった。
むしろ素人の僕がプロを相手取るなら、短期決戦しかないと思っていた。しかし、やはりこれだけはどうしても、訊いておかなければならないだろう。
そうでないと――すっきりと戦えない。
気の迷いとなってしまう。
「あのアロハ野郎……忍野メメを、あなたはご存知なんですか」
「あん?」
唐突な僕の振りに、影縫さんは首を傾げる。
「なんやいな。忍野くん、あの子、まだアロハとか着とん? ただのキャラ作りや思とったけど、そこまで行くともう何がしかの強い信念とかがあるんかもしれへんなあ」
「…………」
「や、別に言うほどのことやあらへんよ――単なる古い友達や。うちと忍野くんと貝木くんは、大学時代の同期やねん」
え?
忍野はともかく――貝木?
貝木?
貝木だと?
「貝木って……貝木、泥舟」
「そうそう、貝木くん。同じ学科で同じサークルで。もうひとり先輩を交えて、よう四人将棋とかやって遊んどったわ」
「将棋――」
そう言えば、貝木の奴……僕と戦場ヶ原に対して、やや脈絡を外して将棋の話とかを振ってきていたな。
そのときの貝木の様子が、なんだからしくないと思いはしたけれど――
「貝木くんはなー。勝ちに行くんやなくて、利益を得に行くタイプの指し手やったなー。駒柱《こまばしら》とか作んの大好きでな」
「…………」
だからなんで無駄に不吉なんだよ、あいつ。
千日手《せんにちて》なんてもんじゃねえ。
「忍野くんは詰将棋が好きやったな。性格悪いし、双玉《そうぎよく》問題とか作ってうちをいじめてくれよったわ。ミクロコスモスとまでは言わんけど、千手詰め近い問題、よお作っとったで」
「それはそれで友達のいなさそうな感じですね……」
あいつ、学生時代からそんなんか。
いい加滅にしろ。
「……ていうか、そのサークル、将棋研究会だったんですか?」
「いやいや、オカルト研究会。ちゅうても真面目にやっとったん、忍野くんと先輩くらいやったし、将棋のし過ぎで後進育てんの忘れてな。うちら抜けたあとは潰れたはずやで――まあ抜けたちゅうても、忍野くんと貝木くんは二人とも中退してもうたから、ちゃんと卒業したんはうちだけやけどな」
「は、はあ……」
一番卒業できなそうな人だけが卒業している。
いや、まあ、それは別にいいんだけれど――この人、忍野だけじゃなくて、貝木とも旧知ってことなのか?
すると必然的に、忍野と貝木も――旧知ということになる。
意外な反面、一方でやっぱり、というような気持ちもある――影縫さんと斧乃木ちゃんのことを訊いたときの貝木の言葉は、思い出してみるに、やはり不自然だったからな。
するとあの詐欺師は、高校生の僕から金を巻き上げた挙句に、正確な情報を伝えなかったということになるわけだ。
信じがたいな、人違いじゃないのか、とか言っといて……真っ当に生きてりゃあ、あいつらは俺以上に関わり合いになりにくい奴らだぜ、とか言っといて……。
お前ふざけんなよ。
知り合いだってわかってれば、もっと他のことも訊けてたんだよ。
「ちゅうかまあ、おどれの妹がうちらの獲物やゆうて親切に教えてくれたんが、そもそも貝木くんなんやけどな」
「貝木ぃいいいいいいい!」
一つ残らずお前の所為かあ!
全部お前の仕業かあ!
あの不吉野郎、本気で救いようがねえ悪党だあ!
「例によってえっらい金額ぼったくられたけどな。どーせガセやろて駄目元で来てみたんやけど、貝木くんもたまにはほんまのこと言うんやて、驚いたもんやで」
「影縫さんからも金取って僕からも金取って、商売|繁盛《はんじょう》だなあ貝木泥舟! 今度笹でも持ってってやるよ!」
偶然にしては出来過ぎだとは思ってはいた!
しかし、何が『いわゆる一般的な意味での偶然って奴は、これがなかなかどうして曲者でな――大抵の場合、偶然というのは何らかの悪意から生じるものだ』だよ!
明らかにお前の悪意から生じてるじゃねえか!
何を抜け抜けと白々しく、もっともらしい見解を述べてんだ!
こうなるともう、僕と忍がミスドに行ったとき、たまたまそこに貝木がいたという偶然にも、作為的なものを感じる――悪意的なものを感じる。
貝木は詐欺師とは言え専門家、ひょっとすると僕達があの店を訪れるタイミングを見透かしていて、それこそ忍野のごとく、マフィンを食べながら手ぐすね引いて待ちかねていたんじゃあ――大体、戦場ヶ原が里帰りしてるこの盆の時期に町を再訪してるってのも、考えてみればでき過ぎだ。
「くそっ……信じられねえ、この状況――マジかよ、畜生」
高校一年当時の戦場ヶ原が参っちまうわけだぜ、この手際――火憐や月火、ファイヤーシスターズごときじゃ相手にならないのも正当だ。
完全にしてやられている。
影縫さんや斧乃木ちゃんまで含めて、全員が貝木に踊らされてしまっているじゃないか――もうあまりに天晴れ過ぎて、ちっとも嫌味がない。
小物とか言って悪かった。
バイオハザード級だ、貝木泥舟。
戦場ヶ原が、僕を関わらせたくなかったのは当然である――むしろ、一度酷い目に遭わされながらも勇猛果敢に再度貝木に立ち向かった戦場ヶ原の精神力に、改めて感心の一言である。
「そもそも貝木くんは余接のネーミングのネタ元でもあんねんよな――貝木くんにひも付けて、うちは余接の名字を決めたんや。斧乃木の木は、貝木の木なんやで」
「名で縛る――ってことですか」
「ああ。うちは忍野くんと違《ちご》て、自分の名で怪異を縛るような勇気は持ってへんなあ」
斧乃木。
阿良々木を噛んだわけじゃなかったのか。
嫌な横のつながりだぜ――だったら今階下で行われている、忍野忍と斧乃木余接とのバトルは、随分とひねくれた、ねじれた因縁のある戦いということになってしまうわけだ。
「だけど――貝木と面識があるのは僕と火憐ちゃんだけで、問題の月火ちゃんは、直接は貝木と相対《あいたい》してないはずなのに――」
「貝木くんはかなり嫌らしく優秀やったからなあ。あのコは物事の裏側を見通すことに長《た》けとった――やから、三人兄妹のうち二人まで見たら、残りの一人の正体くらい看破するやろ。うちは今日の今日まで、忍野くんが無害認定した吸血鬼のことと貝木くんの言うしでの鳥のことを、繋げて考えてはなかったんやけどな。うちと違うて、貝木くんはおどれの妹のことはおどれの妹のこととして、ちゃんと知っとったわけやろ?」
「まあ――多分」
そうだ。
貝木は影縫さんのように、同姓だなんて思ってはいなかった――ちゃんと火憐を、僕の妹として認識していた。
さすがに三人兄妹であるところまで断定的に把握していたとは思えないけれど――していたとしても、不思議ではなかろう。
「それをうちに伏せとくところが、貝木くんの抜け目ないとこやけどな――むしろ秘密にしとったゆうより、積極的にうちがおどれらをただの同姓やと勘違いするよう促したっちゅうとこか。意図的にノイズを混ぜた。どうせ、そないせな双方から金が取れんと思とったんやろ」
それにも同意。
阿良々木なんて珍しい名字に血縁関係がないと思うほうが、普通じゃないのだ――そこにはどうしたって作為と悪意が必要である。
偶然などではなく。
「……おどれも知っとるやろけど、そもそも貝木くんの専門は偽物の怪異やからな。しでの鳥は、うちの専門分野であると同時に貝木くんの専門分野でもあるちゅうこっちゃ――」
かかか、と
旧知の者から騙されたというのに、屈託《くったく》なく笑う影縫さん。
「――もっとも、誰より優秀やったんは言うまでもなく忍野くんや。周りに女子とかはべらして、誰よりちゃらちゃらしとった癖に、ほんまふざけたガキやったで。まともに勉強しとるとこなんか誰も見たことなかったけど、それでもサークル始まって以来の天才言われとったな。貝木くんでさえ、忍野くんのことは苦手としとったみたいやし――」
「…………」
忍野すげー。
見直したぜ。
優秀とか天才とかはどうでもいいけど、貝木に苦手意識を与えていたという点においては本気の本気で尊敬だ。
……でも、周りに女子とかはべらしてたんだ。
イメージわかねえなあ。
若い頃のことなんだからとやかく言いたくはないけれども、僕は男子たるもの、女子に対しては努めて誠実であるべきだと思うんだけどなあ。
困った奴だよ。
「――ふふ。貝木くんとはかろうじてまだ連絡取れるけど、忍野くんとは中々会えへんねんよなあ。ほやさかい、旧友を懐かしむ意味もあって、まずこのビルに来てみてんけど」
「じゃあ貝木も、この町で根を張っている間に、忍野の存在には気がついてはいたんだな――」
あえて関わろうとしなかっただけで。
いや、ひょっとすると、僕の知らないところで関わっていたのかもしれないけれど。
旧友同士、対面していたのかもしれないけれど。
神原の母方の家系であるところの臥煙《がえん》家は、その道に噛んでいたというし――忍野はそれを知っていたし、貝木にしたって、僕と最初に会ったのは、神原の家の前だった。
それに、忍野はこの町で、妖怪大戦争を未然に防いだとかなんとか、そんなふざけたことを言っていたよなそれに、忍野がこの町を去ったのは、千石が貝木の仕掛けの端のほうに引っかかった、その直後のことだった。
だとすれば。
二人の間には――何かがあったのかもしれない。
勿論、あったとしてもそれを知る余地は僕にはない――忍野は僕に何も言わなかったし、貝木も僕に何も言わなかった。
昼にミスタードーナツで会ってからまだ半日も経っていないけれど、貝木泥舟は、今度こそ既に、この町を後にしていることだろう。僕に対する意趣返《いしゅがえ》しのような(いや、そんなリベンジ的な感情は皆無《かいむ》で、単に『取れるところから取った』だけなのだろうけれど)詐欺は、既に成立してしまっているのだから。
まったく。
盗人《ぬすっと》に追《お》い銭《せん》も――いいところだ。
「まあ、ここはパワースポット言うんか――確かに忍野くんが機嫌よう暮らしとった部屋ゆう感じがするわ」
影縫さんは、背後の学習机製簡易ベッドを首だけで振り返り、それから、
「それに――おどれもな。バトルの最中にこんな昔話に花を咲かせるあたりの抜け具合は、如何にも忍野くんに助けられた人間ゆう感じや」
と言う。
「……助けられた、か」
「『助けない。きみが勝手に助かるだけだよ』――ちゅうとこかいな? 忍野くんの言いそうなことは――しかしなあ、鬼畜なお兄やん」
影縫さんは。
そこで意識を切り替えたかのように、静かな流し目を僕へと向けた。
「さしもの見透かし忍野くんでも、鬼畜なお兄やんの妹が偽物やゆうことまでは把握してなかったと思うんやけど――どうやろな? もしも忍野くんがその事実を知ったとして、そのとき忍野くんはおどれに何て言うたかな?」
「……忍野は」
この町に滞在していた三カ月。
忍野は、ファイヤーシスターズとは一切接触していない。
というか、そもそも、忍野の前で妹の話をしたことがあったかどうかという話だ――いや、多分してねえんじゃねえか?
いくら忍野が見透かしたような男だとは言え(『見透かし忍野くん』は学生時代のニックネームなのだろうか)、話していないことまではわかるわけがないのだ。
貝木が月火の正体を看破したのは、僕との接触も原因としてあるのだろうが、むしろ火憐との接触が大きかったんだろう――ファイヤーシスターズ。
阿良々木姉妹はワンセットだからな。
中学生を詐欺の対象にしていたのだから、自然、そんな『正義の味方』の噂は、どこかで耳に入っていたはずだ。
しかし、仮に。
もしも忍野メメが、この町に滞在しているときに阿良々木月火のことを知ったとしたら――しでの鳥の存在に気付いたとしたら、あいつは一体、どんなリアクションを取り。
僕に何を言っただろう。
忍野メメの手法。
常に中立を保ち、バランスを取ることのみに尽力し、ダブルスパイとなることさえも厭《いと》わない、あの軽薄なアロハ野郎ならば――
「……さあな」
影縫さんに問われ。
自問自答し――そして僕は、身構える。
おしゃべりの時間はおしまいだ。
訊きたいことは、もう訊いた――ギャグパートの余地も、勿論ない。
すっきりと、バトルパートへ移行しよう。
「忍野がなんて言おうと関係ねーよ。意見が対立したら、忍野を敵に回すだけのことだ」
正義を標榜するつもりは、もうないけれど。
正義に限らず、何の敵に回ることも厭わない。
それを言うなら、僕は春休みの最終日から――常に自分自身を敵に回してきたんだ。
あれから一日だって。
誰と喋ってるときだって。
僕は一度だって、自分を許したことはない――!
「影縫さん。僕は妹の味方だよ」
「その妹は偽物や」
本物の妹やない、と影縫さんは――僕が身構えたのにまるで構わず、挑発のためのパフォーマンスのように、両手を広げる。
「しかも、よりにもよってしでの鳥。怪異であり、怪鳥や。アララギに対してホトトギスゆうんが、またこれ大爆笑やないか――おどれは妖怪変化の類に、十何年か? ずうううっと騙されとってんで」
「……それがどうした」
「そりゃ、うちらの手際の悪さ――ちゅうか、貝木くんがおどれらの繋がり、兄妹関係を伏せとったせいで、しでの鳥の正体をおどれは知ることになってもうたけどな。そこはうちらの大失敗であり大失態やけど――どうなんよ」
影縫さんは意地悪く試すような口調で。
僕に質問を投げかける。
「本物や思てた妹が実は偽物やゆうて知ってもても、おどれはこれまでと同じように、その妹を愛せるんかいな?」
「愛せるさ。むしろこれまで以上に愛してやる」
迷いなく、火憐のように即答し。
一旦腰を低く落として――それからロケットスタートで、僕は両手を熊手の形に構え、影縫さんのところへと飛びかかる。
叫びながら。
「義理の妹なんざ――萌えるだけだろうがあ!」
声の続く限り、全身全霊で叫びながら。
僕は影縫さんに飛びかかる。
そして左右から挟み込むように、思い切り両腕を振るう――手加滅などを考える余裕は微塵と言っていいほどなかった。
無心の破壊。
破壊に対し、破壊を返した――破壊に先んじた破壊を提供したつもりだった。
おはようからおやすみまで。
破壊の提供でお送りしたつもりだった――しかし。
「……まあ、わかったわ」
と。
影縫さんは――僕の両腕を、かわすでもなく避けるでもなく、正面から手首をつかむことで、受け止めた。
強引に受け止められた。
強引に差し止められた。
強引に食い止められた。
勢い余って、むしろ僕の肘のほうが余った勢いでぶっ壊れてしまいそうな感じさえあった――嘘だろ、おい。
攻撃だけじゃなく――防御さえ、桁外れなのかよ。
こんな力技の防御が、ありえるのか。
半滅していようとなんだろうと、最強の怪異・吸血鬼の腕力なんだぜ――怪異殺しの眷属としての腕力なんだぜ。
それを片手ずつで止めるか?
しかもお喋りに興じながら、歯を食い縛りもせず?
「おどれの意見はわかったわ――おどれの気持ちはわかったわ。それはそれで尊重せなあかんやろなあ。うちのような正義の味方からしたら」
影縫さんは言って――つかんだ手首を、更に強く握り締める。恐ろしい握力、それはまるで万力《まんりき》で締め上げられているようで、一瞬で手首が練《ね》り飴《あめ》のように引き千切られそうになる。
「非理の前には道理なしや――おどれを説得するんを、うちは諦めた。うちは忍野くんや貝木くんとはやっぱちゃうわ――こぶしでしか会話ができん」
「………っ!」
「けど――やけど、どうなんやろうなあ! おどれはそれでええとしても!」
続けざまに、影縫さんはその姿勢のまま、爪先《つまさき》を蹴り上げてきた――かろうじて上半身をスウェーさせるが、しかしそれでも顔面をいくらか削ぎ取られてしまった。
なまじかわしてしまっただけに、リアルな痛みを実感する――勿論、それだけで影縫さんの攻撃が終わるわけもなく、蹴り足はそのまま、ネリチャギのように振り下ろされる。
いつぞや火憐から食らったのとまったく同じ軌道の攻撃だが、スピードも威力も、上下運動の切り返し方さえ、そのネリチャギは火憐とはまるで別物だった。
更に身体を後ろに反らしたかったが、両手をがっちりとロックされていては、それさえも叶わない。
肩の肉を鎖骨《さこつ》ごと挟《えぐ》られる。
その頃には削ぎ落とされた顔面はいくらか回復しているがしかし今度はその顔面に、影縫さんのヘッドバットを食らわされる。
頭突きである。
戦い方が完璧、ケンカ殺法だ。
こんなの、やすり攻めにもほどがある。
「おどれはそれでええとしても! 他の家族はどないなんやろうなあ!」
影縫さんはその両手を、僕の両手首からようやく離し――堰《せき》を切ったように、一気に攻勢に転じる。
鎌のような足払いを食らわされ、身体が宙に浮いたかと思うと、僕の体幹に無数の連撃が、花火のように披露される――さながら和太鼓《わだいこ》にでもなった気分だった。
目から火花が飛び散り。
効果音さえ見えるようだった。
「おどれはええやろ――おどれには下地[#「下地」に傍点]があるわ。おどれ自身がかつて怪異と化してもうたゆう引け目がある――かつておどれは不死身やったことがある。せやから怪異で不死身、偽物の妹を許容することができるんかもしれへん――それはええやろ! せやけど、そうでない――怪異ともなんとも関係あれへん、他の家族はどないやねん!?」
「…………っ!」
「たとえば、火憐ちゃんゆうたか!? おどれのもう一人の妹は、自分の妹が怪異やゆうて知って、おどれとおんなじことが言えるんか!? おどれのお母《か》んは! 自分が腹ァ痛めて産んだ子が化物やゆうて知って、おどれとおんなじことが言えるんか!? おどれのお父《と》んは、どないやねん!」
鱧《はも》の骨切りでもしているかのようだ。
肋骨という肋骨が、周囲の肉ごとぐしゃぐしゃに砕かれていくのを感じる。いやむしろ、ハンドミキサーでも押し付けられて、全てがシェイクされ、スムージーにされている気分だ。
未だ僕の身体は空中に浮いたままで、影縫さんのコンボは続いている。
とは言え、これがもしも格ゲーだったら、僕のゲージはとっくになくなっているだろう――影縫さん側の画面には『YOU WIN』の文字が画面に表示されているはずである。
「ほんで誰より、本人はどないや!? 偽物の妹本人は、自分が怪異やゆうて知っても――それまで通りに暮らせるんか!? それまで通り、おどれの妹であれるんか!?」
妹。
阿良々木月火。
本物――偽物。
「今は自覚がないからええやろ――けど、それを知ったとき、本人は傷つくんちゃうんか!? 不死身の化物が環境に適応できるわけあらへんもんなあ――それはおどれが一番わかっとるやろ!」
「…………っ!」
「それとも、人ならぬ身で正義の味方でも目指すんかい!? ファイヤーシスターズ、やったっけ? けど、不死身の化物が人間に対してどれほど傲慢《ごうまん》で、どれほど残酷になれるか――それもおどれが一番よくわかっとるよなあ!」
わかっている。
僕は――忍野忍の前身を知っている。
彼女の全身を知っている。
もしも不死身の怪人が正義を志せば、そのとき、どれほどにあるまじき、そして燃え上がるような正義が振るわれるのか――
知っている。
「そうなる前に始末をつけたるんがうちらの仕事や、薪《まき》を抱いて火が救えるか! 焔々《えんえん》に滅せずんば炎々《えんえん》を若何《いかん》せん――鳴かぬなら殺してしまえホトトギス――やろ! おどれのゆうとることは、自分の意見と自分の気持ちだけやないか! 誰もがおどれみたいな寛容な人間や思うなよ! おどれがどんな価値観持とうと、どんな正義感持とうと勝手やけれど――そんな理想を他人に押し付けんなや!」
その語調ほど、影縫さんは怒っているわけではないだろう――打撃に込める思いを強めるために、大きな声を出しているに過ぎない。
けれど。
どうやら僕の言葉のうち、どれかひとつが影縫さんを刺激してしまったのは確からしい――何がいけなかったのだろうか。
想像するしかないけれど。
言いながら、実際のところ、怪異であり化物である斧乃木ちゃんを引き連れている影縫さんは――矛盾を内包しているのかもしれない。
使い魔であり、式神でありながら。
同時に姉妹でもある――ツーマンセル。
義理の妹。
「しょー、りゅー、けん!」
昇龍拳《しようりゅうけん》って言っちゃった。
コンボのとどめとばかりに、影縫さんは飛び上がり気味のアッパーパンチを僕の心臓めがけて打ち込んだ――足場のない僕は当然、心臓を潰されながら勢いのままに打ち上げられ、全身を天井に打ち付けられることになった。
天井のコンクリで、僕の型が取れたほどだ。
突き抜けてしまうかとさえ思った。
「ぐっ……う、う」
うううう。
しばらく、そのまま天井に貼り付けられていた僕の身体ではあったけれど――やがて、万有引力の法則に従って、床に向けて落下する。
華麗に着地などできるはずもなく、今度は仰向きの形で、全身を強く打つことになった。
両面焼きの気分。
熱々のパンで挟まれてしまいそうだった。
「安心すんなや――まだ終わりちゃうで!」
言われなくとも安心などしていないが、しかし不安になるほどの暇も与えず、影縫さんは仰向けの僕にまたがった――いわゆるマウントポジションである。
「余接のことも、そろそろ気になるしな――ちょいと見に行こか!」
見に行く?
影縫さんのその言葉の意味を、僕は察しかねたけれど、すぐに理解は追いついた。
身体でわかった。
体感した。
直感以前に、体感した。
その言葉を皮切りに影縫さんは僕を蛸殴《たこなぐ》りにする――破壊的なこぶしで破壊的に蛸殴りにする。
僕の背面の床ごとだ。
そのパンチは当たり前のように僕の肉体……といいうか肉やら骨やらを貫通し、言うなら直接的に床を殴っていた――そして。
そりゃもう重機のように、床を破壊していた。
こんなときにアニメの話をしてしまって本当に申し訳ないけれども、ルパン三世に登場する十三代目|石川《いしかわ》五《ご》右衛《え》門《もん》あたりが、よく斬鉄剣《ざんてつけん》で床を綺麗に円形にくり抜いて、階下に降りていったりするじゃあないか。
それと同じだ。
綺麗でも円形でもなかったけれど――乱雑で無理矢理で大雑把で、ドリルのように床の破片を周囲に撤き散らしつつの、ぎざぎざじぐざぐな形ではあったけれど。
影縫余弦は廃ビルの床をぶち抜いた。
四階の床、三階の床と、立て続けに。
廃ビルは――より廃ビルと化す。
ていうか影縫さん、多分このビルディングくらいなら素手で解体できてしまうぞ。業者要らずで更地にできる。
人間でありながら既に人間を超越している。
これはほとんど戦闘芸術だ――あらゆる破壊を目的とした、火憐のやっている総合的な、スキルを集約したタイプの空手とはまた別種の、本当の意味での徒手空拳――!
もう完全に僕の身体なんてあれだ、瓦《かわら》割りをするときに、積まれた瓦の上に敷かれる衝撃|緩和《かんわ》用の乾いたタオルみたいなものだった――肉が床と混じっていくのを切実に感じる。
回復する暇なんてない。
どころか、気分的には、破壊が形を成す前に、既に次の破壊を敢行されている感じだった――きっと今の僕は、ストロベリー味のマックシェイクみたいになっていることだろう。
と。
そんな冗談みたいなエレベーターの末、ようやく影縫さんの手が止まり、彼女は床に叩きつけられた僕から離れる――ここまでに僕の身体に打ち込まれたこぶしは、およそ五百発(することもないので、途中から暇潰しに数えていた)。
二階に到着しました。
二階、戦闘現場でございます――
「……さっきからやけに上半身どつかれまくる感覚があると思うたら、お前様か。何をやっとるんじゃ、我があるじ様。儂の足を引っ張るな。これ以上長くなったらさすがに不便じゃ」
金髪金眼の吸血鬼が。
気付けば忍野忍が、僕をほとほと見下げ果てるように、見下ろしていた。
勿論、先の台詞からして、影縫さんは狙い澄ましていたのだろう――僕と彼女が落下した二階の教室は、怪異同士、忍と斧乃木ちゃんが対峙《たいじ》しているその現場だった。
考えうる限りの最短距離で。
僕達四人は、また合流したというわけだ。
……しかし、影から離れたところで未だ僕との感覚共有が継続しているあたり、忍の吸血鬼性の喪失は、本当にただならぬものらしい。
げに恐るべきは忍野の手法と言ったところだけれど、真剣なバトルパートの真っ最中にそんな感覚を押し付けられたのでは、忍もたまったものじゃなかっただろう。
が。
しかしそこはさすがの――怪異殺しである。
「かかかっ。なんや、巨大な口ィ叩いとった割には、どうやねん、えっらい苦戦しとるみたいやないか、余接――」
影縫さんがそう椰楡する通りだった。
薄暗い教室の中、僕と忍の位置から逆側の隅にいた斧乃木ちゃんの姿は、こういうシチュエーションでもなければ、ちょっと正視に堪《た》えない有様だった。
僕も現在、人のことを言えるような風体をしてはいないけれど、斧乃木ちゃんは服から髪から、全身隈なくボロッボロのズタボロで。
今の今まで忍から徹底的な虐待を受けてたらしいことがあらん限りに窺えた。
だって忍のほうは傷一つないんだもの。
金髪は一本さえ乱れていないし、ジャージに土ぼこりさえついてない。
これ、回復力の差とかじゃねーよ。
単純な実力差だ。
とは言うものの、だからと言ってこれは余接ちゃんが怪異として弱体だったということではないはずである。影縫さんの強度をこの身で味わってきた僕がそれを保証する――影縫さんの相棒が、たやすき存在であるはずがないのだ。
僕がこの教室にいなかった以上、例の怪異殺しのブレードは使えなかったはずだし……改めて、忍野忍という元吸血鬼の、圧倒的な化物性を思い知らされる。
……あと、ドS性もな。
どう見てもこの状況、お前、斧乃木ちゃんを甚振《いたぶ》って遊んでただろ……あの無表情の斧乃木ちゃんが涙目じゃねえか。
さっさと終わらせて助けに来いや。
僕が酷い目に遭ってたことは伝わってたんだろ? 老女呼ばわりにどれほど怒り心頭だったのか知らないが、ったく……、スタイルで火憐を模してんだったら、少しはドM性を帯びていろ。
つーか、そもそもこのシリアスな状況で面白いこととかしてんじゃねーよ。
「これから大逆転するところだったんだよ、余計な世話を焼かないでくれるかな、お姉ちゃん――僕はキメ顔でそう言った」
斧乃木ちゃんは、近付いて来る影縫さんに対して気丈《きじょう》にそう言ったが。
いや、涙目なんだって。
キメ顔どころか。
「そうかそうか。まあしかし、見せ場はこのお姉ちゃんに譲っとき――旧ハートアンダーブレード。ほんだらうちとおどれで、決勝戦といこか」
影縫さんは笑いながら、斧乃木ちゃんの頭をぽんぽんと撫でて、そして彼女を庇うようにその前に立ち、忍に対して正対する。
「来いや、旧ハートアンダーブレード。戦おうで」
まるで――物怖じしていない。
伝説の吸血鬼を前に、まるで退く気がない。
不死身の怪異の専門家。
通称怪異転がし――影縫余弦。
「は」
対して、忍も、軽《かろ》やかに笑う。
「は!」
繰り返して――ハウリングするように。
「は!「はは!「ははは!「はははは!「ははははは!「はははははは!「ははははははは!」
怪異は怪異らしく――大いに笑う。
呵々大笑《かかたいしょう》。
陰陽師・影縫余弦からの誘いに対し、忍野忍は牙もむき出しに、暴虐に、貧欲に、埒外に、好戦に、笑って笑って笑って笑い――
「いや、戦わない」
と。
そう言って、両手を万歳の形に上げた。
思わぬそのリアクションに、意外そうな顔をする影縫さんと斧乃木ちゃんだったが、そんな二人の視線を気にする素振《そぶ》りも見せず、忍は倒れたままの、それでもようやく人体の形に回復してきた僕を引き起こしながら、
「そこな小娘をいじめ過ぎたことで、我があるじ様がちょっと引いておるようなのでな。これ以上嫌われるような真似は御免こうむりたいところじゃ」
と言った。
「それに決勝戦じゃと? おかしなことを言うでないそ、人間――我があるじ様は、まだうぬごときには負けておらん。そうじゃろう? お前様よ」
「……そうだよ」
応えて。
そんな無茶振りに応えて――かけられた発破《はっぱ》に応えて、僕は忍の肩を借りつつ、立ち上がる。言うまでもなく、十八歳ヴァージョンの忍は僕よりも背が高いわけで、その肩の位置は相当高かったけれども、頑張って。
「僕はまだ負けていない――僕はまだ、あなたに屈してなんかいない。あなたのこぶしにも、あなたの言葉にも、僕はまったく納得なんてしていない」
「……言うとるやろ」
影縫さんは――興が削がれたというように。
四階で言ったその言葉を――この二階でも、繰り返す。
「おどれがどんな価値観持とうと、どんな正義感持とうと勝手やけれど――そんな理想を他人に押し付けんなや」
「……他人じゃねえよ」
僕は。
外側こそ整いはしたものの、忍につかまっていなければ満足に直立さえできず、まるでサイクロンでも飲み込んだがごとく、肉体の内側をズタズタに寸断されている僕は、それでも――身じろぎひとつできないままに、精一杯強がって、影縫さんに対して反論する。
さっきも思ったんだ。
他人だって?
それは。
それだけは――聞き逃せない。
「他人じゃありません。家族です」
「…………」
「家族には、僕は理想を押し付けますよ」
それに、と。
僕は忍にもつれるようなそんな姿勢で、訥々《とつとつ》と続ける。なんかもううっかり胸とか触っちゃってるけれども、そんな不可抗力さえ、今はまったく気にならない。
戦場ヶ原ひたぎは、たとえば昔、己が身に起きた災難をあえて拒否せずに受難《じゅなん》し、そしてその真相を家族には伏せていた。
父親がどれほどに心配しようと、彼に心を開くことはなかった――自分のことは自分の責任として、呑み込んだ。
五人の詐欺師に騙されようとも。
そんな彼女の決意は、揺らぐことがなかった。
神原駿河は、たとえば未だ、左腕に怪異を宿したままだ――極端に有害とは言えないにしろ、いつだって無害ではないその腕のことは彼女の家族の知るところではない。あの人の良さそうな、料理のうまいお祖母ちゃんは、知ればきっと神原の力になってくれるだろうに、神原はあえてそれを詳《つまび》らかにはしていない――それは彼女なりの気遣いだと思う。
本当は打ち明けたいだろうし、相談だってしたいだろう――身内に隠し事をするのは辛いだろう。
だけど、神原は。
強固な意志を持って隠し通す。
自分のためではなく、家族のために。
そんな彼女達、ヴァルハラコンビを。
僕は心からリスペクトする。
「影縫さん。妹の恥ずかしい秘密をバラすような兄がいるわけないでしょう。僕はそんなこと、いちいちチクったりしませんよ」
「…………」
八九寺真宵風に言うなら、それは。
秘密を持ち続ける勇気――である。
「家族なんだから、嘘もつきます。騙します。迷惑もかけます、面倒もかけます。借りを作ることもあるでしょう、恩を返せないこともあるでしょう。でも、それでいいと思ってます」
それでいい。
それが家族なんだと、僕は思う。
「影縫さん――正義の味方さん」
ポーズでも決めて、格好良く見得を切りながらでも言いたい台詞ではあったけれど、まだ身体は動かない――僕は忍に身を任せて、ただ、眩くように続けるしかない。
「偽物であることが悪だと言うなら、その悪は僕が背負います。偽ることが悪いことなら、僕は悪い奴でいいんです」
僕の判断が偽善ならば。
僕の決断が偽善ならば。
阿良々木月火への僕の思いが偽善であるなら、悪党でさえない偽善者に、阿良々木暦は喜んでなろう――
忍野メメでもない。
貝木泥舟でもない。
影縫余弦でもない。
勿論、ファイヤーシスターズでもヴァルハラコンビでもなく。
阿良々木暦は――阿良々木暦だ。
「好感度なんかいらねえよ。僕は最低の人間でいい」
と。
僕は――キメ顔でそう言った。
「お兄ちゃん」
あいつがそう呼んでくれるなら。
僕はすべて――それでいい。
そしてようやく、肉体の回復が、ダメージに対して追いついてきた――実際、不死性を底上げしていなければ、ここまでの展開の中で、僕は影縫さんに千回近く殺されているだろう。
決して大袈裟でも大仰でもない。
一撃一撃が、まこうことなく一撃必殺だ。
フェイントや繋ぎ、あるいは牽制的な攻撃が一つもない――完全なる打撃系のスタイルだ。防御やサブミッションまでが打撃系だというのだから、恐れ入谷《いりや》の鬼子母神《きしぼじん》。
それは吸血鬼にとっては、本来、もっとも戦いやすい相手のはずなのに――まったくもって天敵のようだった。
僕はおぼつかない、生まれたての小鹿のような足取りで、かろうじて忍から身を離す――あと五秒あれば全快する。
しかしその五秒の間にさえ、僕は影縫さんに、一体何回殺されるか――
「……性悪説か」
ぼそり、と。
そこで、一人で立った僕に、第二ラウンド開始とばかりに更なる追撃を加える――でもなく、影縫さんは、ため息混じりな風に、言った。
さっきまであった気さくな雰囲気が、影縫さんからやや消えてしまっているようで――それを僕はいぶかしく思う。
またそろ、僕の言葉が影縫さんを、変な風に刺激してしまったのだろうか。
性悪説?
だって?
「ん? 知らんか? 忍野くんやら貝木くんやらと、よう話しとったことなんやけど」
影縫さんはこきこきと首を鳴らしながら、僕の反応を窺うようにした。
それは、ウォームアップならぬクールダウンの仕草のように受け取れた。
「高校生なら性善説くらい知っとるやろ。中国の哲学者、孟子《もうし》の思想や。人は生まれながらにして善性を有する。仁《じん》に人心なり、義《ぎ》は人の路なり――善性とはつまり四端《したん》の心。四端とは側隠《そくいん》の心、羞悪《しゅうお》の心、辞譲《じじょう》の心、是非《ぜひ》の心を指し、それら四端は即ち仁、義、礼《れい》、智《ち》の四徳《しとく》に転化できるっちゅうあれや」
「……えっと」
いきなりそんな風にまくしたてられても。
僕は受験生だけれど、倫理は選択していない。
世界史でちょっとやったような――孟子の名前だけなら知っているけれど。
「じゃあ……性悪説ってのは?」
「性善説が理想論やとするなら、性悪説は現実論や。人間の本質は欲望である、人間は欲望に支配されとるっちゅう、身も蓋もない荀子《じゅんし》の思想やね――人は生まれながらに悪性を持つ、言うねんな」
「生まれながらに――悪」
「そう」
頷く影縫さん。
「ゆえに人が善行をなすならば、それは本性ではなく偽りによるしかない――そう喝破《かっぱ》した。偽りであり、偽物であり――偽善によるしかないと」
「偽善……」
偽り。
いつわり。
「偽――つまりは人為や」
人為であり、作為。
それこそが礼であり――規範《きはん》。
人為的な矯正こそが、人を善へと導き、社会をよりよい方向へと導く。
「従来の王道政治に対し、これを礼治《れいち》主義という。善はもとよりすべて偽善であり、だからこそ――そこには善であろうという意図がある」
ちゅうてな、と。
影縫さんはおどけるようにまとめた。
そして、
「なあ、おどれ」
と、僕に対して訊いてくる。
「これは貝木くんが昔、よう言っとった思考ゲームやねんけどな――本物と、それとまったく同じ、区別もつかんような偽物と。どっちのほうが価値があると思う?」
天然ダイヤと人工ダイヤ。
原子構造まで同じでも――区別される。
区別がつかなくとも、区別をつけられる。
偽物というだけで――否定される。
削除される。
「本物と――偽物」
「これに対するうちの答は、当然本物のほうが価値がある、やった。忍野くんは等価値やゆうとったかな。けど、出題者によれば、それは両方間違いやねんて。貝木くんはこない言うとったわ。偽物のほうが圧倒的に価値があるってな」
僕の答を待たず――影縫さんは続けた。
「そこに本物になろうという意志があるだけ、偽物のほうが本物よりも本物だ――かかっ。貝木くんはな、どうしようもない小悪党の癖に、言うことだけは格好ええんや。まあ強いて言うなら、それが今回の件からうちが得るべき教訓っちゅうとこか――十年越しの教訓やけどな」
そんな風に笑って――影縫さんは僕に対して、くるりとその背中を向けた。
そして満身創疲《まんしんそうい》で気息奄々《きそくえんえん》の斧乃木ちゃんに、
「帰るで。うちらの負けや」
と。
唐突に、無言の内に、そして一方的に。
彼女はバトルパートの終了を宣言したのだ。
弓は袋に太刀は鞘《さや》。
つまり。
つまり……?
「え……あ、あの。影縫さん?」
「しらけたわ。うちらは帰る。旧ハートアンダーブレードとのバトルは惜しいけども、こんなけったいな気分にさせられたら、どつき合いしよーゆうテンションにならん」
斧乃木ちゃんの手を取って、引きずるようにすたすたと歩み始める影縫さん――途中、それでも厳しいと判断したのか、斧乃木ちゃんをその背に負って、教室の扉へと向かう。
「ちょっ……ちょっと!」
思わず、引き止めてしまう。
中国思想の講釈を聞いているうちに、当然、既に僕の身体は回復しているけれど――服は見る影もなく、ほとんど全裸みたいなものだったが――だからと言って、ここで影縫さんを引き止めて、バトルを継続する理由なんかないけれど。
思わず、引き止めてしまう。
「なんや? なんかくれるんか?」
影縫さんはごく普通に、帰り際を引き止められたくらいのニュアンスで振り向く。
常在戦場の、気さくな笑顔で。
「い、いや……その、どこに行くんですか」
「次の戦場。不死身の怪異くらいいくらでもおるんや――何せ不死身なんやから。やから一匹くらい見落とすこともあるやろ。『|例外のほうが多い規則《アンリミテッド・ルールブック》』――鳥は取っても巣鳥《すどり》は取るな。おどれの妹はうちらの正義の例外言うことにしといたる。存在的にメンターなおどれが、精々導いたれや」
貝木くんには無駄金払うてもたことになるけどな――と、忌々《いまいま》しそうに影縫さん。
忌々しそうに、でもどこか、楽しそうに。
「……大体、おどれ。最初っからうちとのバトル、どっか本気やなかったよな」
「え……本気じゃないって」
「殺気を感じんどこやなかったぞ。手ェ抜いとったわけやないんやろけど――正直、あれはあれで気ィ抜けたわ」
「……もし」
影縫さんにそう言われて。
僕は思い当たったことを、そのまま口にする――正直、言われるまでは、ほとんど無意識下でしか意識していなかったことだけれど。
僕は本気で――手を抜いていたつもりなんてないけれど。
「もしも僕から殺気を感じなかったというなら――あなたが僕を人間扱いしてくれたからですよ、影縫さん」
「あ?」
「言ってたでしょ。お互い、人間と怪異のコンビだって――この状態[#「この状態」に傍点]の僕を人間と呼んだのは、今まで忍野一人だけなんです」
だから。
気が抜けたというなら――僕のほうこそ、あれで気が抜けていた。
変な気分にさせられて。
しらけてしまった。
そう、あのアロハのおっさんを相手にしていたときのように――どこか、ムキになるのが馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。
「……は。うちとしたことが、期せずして忍野くんとキャラがかぶってもうたか――やってもたちゅう感じやな。ふん、情けない。ほんだら最後には、忍野くんなら絶対言わへんやろっちゅう台詞で締め括《くく》ろか――」
そして影縫さんは。
影縫余弦は、どこかノスタルジックな風に、
「さようなら」
そう言った。
そのナチュラルで流暢《りゅうちょう》な発音からすると――どうやら彼女も別段、生粋の京都人というわけでは、ないのかもしれなかった。
013
後日談というか、今回のオチ。
翌日、いつものように二人の妹、火憐と月火から叩き起こされるまでのあれこれ。
影縫さんは斧乃木ちゃんを背負ったままで廃ビルを後にし――勿論ビルディングから一歩外に出れば、影縫さんは地面を踏もうとはせず、塀やらフェンスやらガードレールやらの上を歩いていた。斧乃木ちゃんを背負おうと、その軽やかな動きとバランス感覚には一糸の乱れもない――僕は忍の首筋にかぶりついて血を戻し、そして忍を幼女の状態に戻し、僕のコンディションもできる限り人間のそれに戻してから、自転車に乗り、前かごに忍を乗っけて、家に帰った。
ちなみに斧乃木ちゃんはズタボロの衣服のまま帰路についたのだけど、僕に全裸で自宅に帰る勇気などあるはずもなく、幼女に戻る前に忍に頼んで物質創造スキルを発揮してもらい、僕の服を仕立ててもらったのは言うまでもない。忍はセンスはいいが無駄にゴージャスなので、その辺りの折り合いをつけるのにそれなりに時間を要してしまった。
「こんな派手な服が着れるか! もっと普通でいいんだよ!」
「カジュアルファッションを仕立てることなど儂のプライドが許さん! 儂がコーディネートする以上、お前様にみすぼらしい格好などさせん!」
そんな感じの壮絶な言い合いが、ツーマンセルが去った後の夜の廃ビルの中で行われたと思っていただきたい。
帰宅までに時間を要したのは、そんなわけだ。
そう言えば、僕が地獄を体感していた春休みに、メールで月火から質問を受けたことがあった――チルチルとミチルは青い鳥を一体どこで見つけたのかと、そんなことを訊かれたのだ。
返信こそしなかったけれど、それくらいは僕も知っている。
自分の家だ。
だから僕にとっての青い鳥は、お前らってことになるんだろうよ――ファイヤーシスターズ。
とか、いいことを思いながら帰宅してみると(その頃には忍は影に潜らせたが)、玄関前で火憐が、仕事から帰ったらしい両親と揉めていた。
両親。
つまり僕の父親と母親でもあるのだが。
「ここは絶対に通さねえ! ここを通っていいのは兄ちゃんだけだあ!」
……。
僕のせいで揉めていた。
僕の指示が限定的過ぎたせいで火憐と両親が――って、そんなん反省できるか。
本物の馬鹿なのか、こいつは。
駄目なゲームのプログラムみたいな奴である――そこからしばらく、僕は両親に対して、破壊された玄関に関する説明をするために、更なる時間を費やさなければならなかった。
説明も何も、話すことは何もないんだけど。
とりあえず火憐に対してしたのと同じ、でたらめの釈明をしておいた――さすがに火憐ほど簡単に鵜呑みにはしてくれなかったものの、しかし現実派の両親としては、よもや妖怪変化の仕業だなんて想像できるはずもなく(むしろ火憐の悪戯だと思っていたらしい。いやいや、これが悪戯で済むかよ)、最終的には納得するしかないようだった。
というか、火憐の十年来の髪型が変わっていることのほうが、両親にとっては重要案件だったらしい――ことの発端がこの僕であることを火憐が言いつけるんじゃないかと不安だったけれど、
「え? あたし、髪なんて切ってねえけど。前からこうだろ?」
なんて、当の本人はきょとんとしていた。
もうポニテ時代を忘れているらしい。
色々、本気で心配な妹だった。
まあ――だからこそ救われるってこともある。
とりあえず、両親が火憐に真剣な説教を始めたタイミングを見て取って、僕はこっそりとその場を抜け出し、二階へと向かう。
もう一人の妹、月火のところへと。
阿良々木月火も阿良々木月火で、僕に言われた通りに、二段べッドの上の段で、僕が出掛ける前と同じように眠りについていた。
寝巻き代わりの浴衣は。
僕が施したまま、左前だった。
直せや、と思う。
しでの鳥。
怪異、怪鳥、ホトトギス。
いくら隠したところで、身体の一部が千切れる級の(そう、丁度僕が影縫さんとのバトルで何度も体験したクラスの)大怪我を、何かの事故ででもしたとすれば、それでおのずと知れることにはなる事実なのだろうけれど――まあそういうことがあるまでは、影縫さんに言った通り、月火の正体については、僕の胸に秘めておくことにしよう。
およそ死なない人間が振るう正義などただの猛威でしかなく、聖域の怪異をその身に取り込んでいる月火は、まずもって正義の資格を失っているのかもしれない。僕や忍がそうであるように――たとえ正義を実行したとしても、それは確かに、あるまじき、野を焼くような正義なのだろう。
心無き正義となるのだろう。
人の心とは物を入れるための器ではなく、燃え立たせるための炎である――なんて、実によく言ったものだ。
托卵か。
確かに、正しいのは影縫さんなのかもしれない――正義は彼女にあるのかもしれない。
少なくとも、テレビ番組なんかでホトトギスやカッコウの生態が説明されるのを見て、それを快く思う人はいないだろう。
効率的ではない繁殖法である托卵の様子を、ずる賢い悪知恵だと、そんな感想で眺めるだろう。
僕だってきっと、短絡的にそう思う。
だけどさ。
ホトトギスやカッコウとは、月火は違った。
少なくともこいつは、僕や火憐を巣から突き落とそうだなんて――ただの一度もしなかった。
月火はずっと、僕と火憐の妹だった。
生まれたときから、ずっと。
本物だろうと偽物だろうと正義であることに変わりはなく、本物だろうと偽物だろうと妹であることに違いはない。
正義じゃなくとも、家族ではある。
それがファイヤーシスターズだ。
僕の妹であり、僕の誇り。
あのとき、斧乃木ちゃんから受けた質問に、だから僕は今更答えよう。
たとえ偽物だらけであろうとも――僕は世界を素晴らしいと思う、と。
あえて天邪鬼に、そう答えよう。
貝木泥舟よろしくな。
「……またキスされるんじゃないかと身構えてたけど、さすがにそんなことはしないかあ」
と。
いきなり、月火がそう言った。
いつの間にか目がぱちくりと開いていて、相変わらず眠そうなたれ目ではあるが、別に今目を覚ましたというわけではなく、どうやらただの寝た振りだったらしい。
つーか過激なネタ振りだ。
「キスしてきやがったら、舌で搦《から》め捕《と》ってやろうと思ってたのに」
「その発想、何かの妖怪みてーだな」
「おはよう。お帰り。どこ行ってたの?」
「おう。実はお前のために怪物みてーな人間と人間みてーな怪物と戦ってきたんだよ」
「へえ。そりゃお疲れ様のありがとう。あんま無理しないでね」
「無理させろよ。好きでやってんだから」
「知ってる知ってる。お兄ちゃんは私達が大好きなんだよね」
「勝手に意訳すんな。お前らなんか大嫌いだよ」
「で、お兄ちゃん。私はいつまで寝てればいいの? お兄ちゃんが寝てろって言うから、こうして頑張って寝続けてるんだけど」
「お前ら姉妹は僕みたいなもんの出す指示に、いちいち忠実過ぎるな……」
本当に将来が心配だぜ、と、僕は足をかけていた梯子から飛び降りる。
「明日まで寝てろ。そして明日、いつものように僕を起こしに来るがいい」
「あいあいさ」
「夏休み明けにさ。僕の彼女を紹介してやるよ」
「へ?」
その言葉に敏感に反応し、月火はがばりと身を起こす。
「何それ。お兄ちゃん、彼女いたの?」
「うん。実は五月あたりから」
「プラチナむかつく」
ジト目になった月火からの直裁的な感想を背に受けつつ、「余計なことチクんじゃねーぞ」と言い残し、そして僕は廊下に出る。
らしくもなくだらだらと出しゃばっちまったが、いつまでも長居していてもつまらない。とりあえずは自分の部屋に戻って着替えるとしよう。
色々やってるうちにすっかり夜も更けてきたことだし――気の利いた化物は、そろそろ引っ込む時分である。
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あとがき
言うまでもなく世の中には本物と偽物があるわけですが、しかしよくよく考えてみれば、ふたつの概念《がいねん》は対《つい》になっており、本物あってこその偽物であるのは勿論のこと、偽物が登場するくらいでないと、それは本物とは言えないような気もします。正義のヒーローものなんかには、必ずヒーローの偽物が登場するみたいな、そんな感じで。偽ヒーローですか。ただし、ここでもう一歩考えを奥へと進めてみますと、いわゆるフェイクであるところの偽物は実在するわけですけれど、本物というのは必ずしも実在する必要がないという点もまた、重要だと思います。本物というのはいわゆる理想像という意味であって、その理想を実現しようとする行為こそが偽物の意味なのだとすれば、じゃあ本物なんてむしろないほうがいいのかもしれないとさえ言えそうです。いや、それはさすがに言い過ぎかもしれませんが、つまりは本物とは理想であり、ならば幻想のことなんじゃないかということくらいは言えましょう。当たり前ですが、人が本物だと信じ崇《あが》める存在にも、元は追った理想という形での何かはあったはずで、最初から本物だったわけではないという理屈になるのです。でも、本物の価値はどれだけの人間に影響を与えるかであると乱暴に定義してしまえば、本物を生むのはやはり本物ということなのでしょうか。そう考えると、本物と偽物というふたつの概念は、対になっているのではなく、ただの表裏一体と言ったほうが正解なのかもしれません。
本書は上巻と同じく二百パーセント趣味で書かれた小説なわけですけれど、まあ上巻とは対になっているのか表裏一体なのか、一体全体また違う感じに仕上がってはおります。この辺が小説の怖いところですね。と言うかなんと言うか、この上下巻そのもの自体が、本編『化物語』上下巻の後日談として執筆《しっぴつ》された物語ということもあり、どうしても『化物語』の存在を前提《ぜんてい》に形成されているわけなのですが、だけどだからと言って『化物語』を読んでなければ成立しない小説なのかと言えば、案外そんなこともなかったりするので不思議《ふしぎ》です。いや、そもそも小説として成立していないんじゃないかという説すらもありますが。しかし阿良々木《あららぎ》姉妹は書いていてとても楽しいキャラクターだったので、筆ののり方と言ったらなかったです。表紙を飾《かざ》ってくださっているVOFANさん、それに読者の皆様も含め、いつまで僕の個人的な趣味に大人数を付き合わせているのかと反省することもしきりですが、まあ阿良々木ハーレムの面々も、みんな色々ありながら、けっこう楽しくやっていますということで、これにて後日談は無事完結。そんな感じで『偽物語(下)最終話 つきひフェニックス』でした。
あとすいません、この本、最終話って謳《うた》ってますけど、ごめんなさい、なんだかあと二話ほど書くことに今決めました。八九寺真宵と羽川翼のことが気になる方は、引き続きお付き合いください。さあ、何人くらいいるのかな?
[#地付き]西尾維新
[#改ページ]
初出 本作品は、書き下ろしです。
入力:ever_free
校正:ever_free
2009年07月02日作成