偽物語《ニセモノガタリ》(上)
西尾維新
第六話 かれんビー
001
阿良々木火憐《あららぎかれん》と阿良々木|月火《つきひ》、つまりは僕の妹達に関する物語を知りたいと欲《ほっ》するような層はそもそもこの世には存在しないものと思われるが、しかし仮にまさかそんな特殊な需要があったとしても、僕はあの二人のことについて決して積極的に話したいとは思わない。その理由を話せば誰しも納得《なっとく》してくれるはずなのだが、大体にして往々、人間には自分の家庭内のあれこれをおおっぴらに公《おおやけ》に開示したいと望まない傾向があって、僕も決してその例から漏《も》れることはないからだ。しかしそういう一般性を差し引いたところであの二人――火憐と月火は特別である。もしも彼女達が僕の妹でもなければきっと一生かかわることがなかったであろう、仮にかかわることがあったとしても百パーセント無視したであろう人種だ。ここ数ヵ月ほどの特殊で特異な経験で、僕は一風変わった人脈を少なからず持つことになったが――たとえば戦場《せんじょう》ヶ|原《はら》ひたぎ、たとえば八九寺真宵《はちくじまよい》、たとえば神原駿河《かんばるするが》、たとえば千石撫子《せんごくなでこ》――曲がりなりにもそんな面々と五分でやりあえるだけの資質が僕にあるとすれば、その資質の由来《ゆらい》はあの妹達と同じ屋根の下で育ったことに他ならない。
まあ、とは言え、そんな風に思うのは僕の劣等感、羨《うらや》み僻《ひが》みが多分に関与していることははっきりと言っておかなければフェアではないだろう。怠惰《たいだ》な高校生活の果てに落ちぶれてしまった僕なんかとは違って、火憐と月火は出来がいい――いや、僕だって中学生の頃までは出来る奴で通っていたのだから、まだ中学生の彼女達に対してそこまで引け目を感じる必要はないのだが、それにしたって彼女達の出来のよさは、今現在の僕は認めざるを得ないだろう。親戚の集まりなんかがあれば、必ず、それが決まり文句であるかのように「暦《こよみ》くんにとっては、自慢の妹なんだろうね」と言われることになる、そんな妹達だ。ちなみに妹達が「自慢の兄なんだろうね」と言われているのを見たことはない――いやまあ、どうしようもない不肖《ふしょう》の兄なので、それはそれで致し方ないことなのだが。
しかし僕は声を大にして言いたい。
彼女達は落ちこぼれではないが問題児であり、彼女達は人格者であると同時に人格|破綻《はたん》者であると。
兄としてはいつもの癖《くせ》で、ついついワンセットにして語ってしまうが、当然彼女達にもそれぞれ個性というものがあるので、ここはひとつ、一人ずつについて、順を追って説明しよう。
上の妹。
阿良々木火憐。
中学三年生、六月末に誕生日を迎えて十五歳――僕に対して三歳差に追いついて来た。小学生の頃から、髪型《かみがた》はおおむね、ポニーテイルで通している。実を言うと一度だけ、確か中学校に入学したばかりの頃だったか、彼女は髪を染《そ》めたことがあるらしい――なんかのアニメのキャラみたいな、とでも表現すべきなのだろうか、とにかく目もくらむようなショッキングピンクの髪色に仕上げたらしいのだ。どういうつもりだったのかは未《いま》だに不明だが、まあ当然の帰結として、母親に顔面をぶん殴《なぐ》られて(母の名誉《めいよ》のために言っておくが、温厚《おんこう》な母が娘に手を上げたのは、それが今のところ最初で最後である)、その日の夜には黒に戻された(しかも墨汁《ぼくじゅう》で)。実質火憐の髪がショッキングピンクだった時間は、彼女が自室で髪を染めてから母親が帰宅するまでの数時間だったので、残念ながら学校に居残っていた僕は(当時の僕は高校一年生。落ちぶれるかどうかの瀬戸際《せとぎわ》で、それでもまだ喰らいつこうと頑張っていた頃だったのだ)、彼女のその髪型を見逃してしまっている。惜しいことをしたと思う反面、母親より先に目撃していたら火憐の顔面をぶん殴っていたのは多分僕だろうから、どちらとも言えない。しかし、茶髪の人間さえほぼいない、学ランのホックを外しているだけで不良扱《ふりょうあつか》いされてしまうようなこの郊外の田舎《いなか》町において、そんな度を外した中学デビューを果たそうとした火憐が、果たしてどのような性格をしているかは、これ以上語るまでもないだろう。
造形は、ありていに言って可愛くない。
むしろ格好いい。
あんまり詳しく語ると、そもそも基準となる僕の身長がバレてしまうのでどうしても曖昧《あいまい》な表記になるのだが、火憐は僕より微妙《びみょう》に背が高い。『微妙に』のレンジはご想像にお任せするとして、中二で成長の止まった僕に対して、火憐は中二からぐんぐんと背が伸び始めた。これは互いにとって、どうしようもないコンプレックスである。正直言って気まずいったらない。妹を見上げる。これ以上の屈辱《くつじょく》が世の中にあるだろうか? なまじ火憐は格闘技に手を出しているので、すごく姿勢《しせい》がいいのだった。だから通常より、体感で五センチは高く見えてしまう。そんな理由もあって、彼女は絶対にスカートを穿《は》かない。『足が長く見えてしまうから』と言って、いつもだるんだるんのジャージを着て学校に行くのだった。いや、そのジャージの着こなしがまた、やけに格好いいのである。
ちなみに手を出している格闘技とは空手である。子供の頃から運動が得意な活発《かっぱつ》な奴ではあったが、その才能はどうやら戦闘行為にこそ向いていたらしく、あっという間に黒帯《くろおび》を取った。我が家のリビングにはその黒帯を締《し》めた道着姿でVサインを決めている火憐の写真が飾られているが、それもまた嵌《はま》り過ぎていて、あんまりオンナノコという感じではない。男|勝《まさ》りとまでは言わないが、攻撃的な吊《つ》り目も手伝って、どこかボーイッシュなのだ。僕の知り合いで言えば、神原が一番近いタイプかもしれない。神原駿河から僕に対する尊敬の念を引いたら火憐になるのかもしれない――いや、そのたとえはあまりにもぞっとしないが。
続いて下の妹。
阿良々木月火。
中学二年生、誕生日は四月の頭で、つまり現在十四歳――姉の火憐と違い、髪型は気分と時期によってころころ変える。三ヵ月と同じ髪型でいない、こだわりがあるのだかないのだか逆に不明である。ついこないだまではストレートのロングヘアだったが、今はシャギー入りのダッチ・ボブである。興味がないので詳しく聞いたことはないけれど、どうやら行きつけの美容室があるらしい。中学生の癖に生意気《なまいき》な、と思わなくもないが、これは今の時代、案外そんなものかもしれないと思う。しかし、月火の場合、問題はそういった外面的なところよりはむしろ内面的なところにある。火憐は何と言うか、外見通りの中身なのだが、月火は外見が中身を裏切っている――中身が外見を裏切っているわけじゃないところがミソだ。姉とは対照的な大人しげなたれ目、やはり姉とは対照的な小柄な体躯《たいく》、それにゆっくりとした特徴的な口調はいかにも女子女子しているが、しかしその内面は火憐以上に攻撃的で、しかも怒りっぽい。火憐が暴力的なトラブルを起こした後、よくよく事情を聞いてみると、そもそものことの発端《ほったん》は月火だったというケースは、一度や二度のことではない。その怒りっぽさは最早《もはや》ヒステリーと言ってもいいレベルである。穏《おだ》やかな外見とのその落差に、周囲の人間は必ず戸惑《とまど》うことになる――まあ、唯一救いがあるとするなら、彼女は一貫して、他人のためにしか怒らないという点だろうか。
ひとつエピソードを紹介すると、あれは月火が小学二年生だった頃である。彼女の所属していたクラスが育てていたひまわり園に、休み時間、グラウンドでサッカーをしていた上級生の蹴《け》ったボールが飛び込んだ。ボールを取りに来た上級生を咎《とが》めた水|遣《や》り係のクラスメイトが、横暴に言い返されて泣かされてしまった――まあ小学校においてはままある話だが、その話を聞いた月火の行動は迅速《じんそく》で、あっという間にその上級生の所属するクラスを突き止めて、その教室に突撃した(ちなみに火憐も一緒にだ)。後《のち》に池田屋事件と称されることになるその騒動《そうどう》は(当時世間が新撰組《しんせんぐみ》ブームだっただけで、このネーミングにはさして意味がない)、上級生ひとりを入院させ、その教室の備品《びひん》をあらかた破壊《はかい》するまで収まらなかった。入院先に見舞いの花としてひまわりを送りつけたというのだから手が込んでいる。
というかやり過ぎだ。
泣かされたクラスメイトが恐怖で泣き止んだとまで言われる、恐るべきエピソードである。
パジャマを浴衣《ゆかた》にするくらいの和服好きの彼女は「着物が着たい」というだけの理由で中学では茶道部に入って、そこで茶の精神を学んでいるはずなのだが、しかし如何《いかん》せんその性格ぶりには修正の傾向が見られない。まあ、スイカに砂糖をかけたくらいでマジギレするような短気で偏屈《へんくつ》な坊さんが幅を利《き》かせていたような道では、むしろ彼女のヒステリーは強化されていくのかもしれなかった。
そんな風に、一人いるだけでも十分手に負えない妹が、こともあろうに二人もいるのだ、これはもう手どころか足にも背にも負いようがない。性格的には至極《しごく》平凡な兄の身としては、彼女達が社会的にやばい問題を起こした際に、一体どのように振《ふ》る舞《ま》うかを、ひたすら考え詰《つ》めるだけである。厄介《やっかい》なのは、この二人の妹は、それぞれがそれぞれに相性がいいということだろうか。
暴れたがりの上の妹に、何にでも暴れる理由を見出してしまう下の妹――彼女達が栂《つが》の木二中《きにちゅう》のファイヤーシスターズと呼ばれる所以《ゆえん》である。
千石に聞いた話になるが、中学女子の間では、妹達はかなりの有名人らしいのだ――栂の木二中、つまり栂の木第二中学校は私立で、バスを乗り継《つ》いでいった先にあるはずなのだが、近所の公立(僕の母校)に通っている千石のところまで噂《うわさ》が届いているというのは只事《ただごと》ではない。
本人に確認したわけではないので信憑《しんぴょう》性は疑《うたが》わしいが、なんでも火憐は、入学初日にこの町の全《すべ》ての中学校を支配する番長とタイマンを張って勝利を収め、以来中学生の間ではちょっとした顔らしい――いや、絶対嘘だ。わずか四行ほどの文章の間に二十一世紀にはあり得ない単語が頻出《ひんしゅつ》してるじゃないか。絶対嘘、絶対に嘘だが、しかしそんな嘘さえもまかり通ってしまうくらいに、火憐と月火は有名人だということなのだろう。
栂の木二中のファイヤーシスターズ。
阿良々木火憐がファイヤーシスターズの実戦担当で、阿良々木月火がファイヤーシスターズの参謀《さんぼう》担当。そんな感じで、二人は、お助け隊というか世直し組というか、なんかそんな正義の味方ごっこを、日常的に繰り返しているそうだ。勿論《もちろん》、そんなことを彼女達に言えば、まず火憐が、
「ごっこじゃないよ、兄ちゃん」
と言うだろう。
そして続けて月火が、
「正義の味方じゃなくて正義そのものだよ、お兄ちゃん」
と続けるに決まっている。
あいつらの言いそうなことは大体わかるのだ。
しかし僕は身内として断言できる、連中のやっていることはそんないいものではなく、ただありあまるエネルギーを発散させたいだけなのだと。そんなことばかりしているといつか痛い目に遭《あ》うぞ――と、僕は彼女達に言い続けてきたのだが、しかし、そんな僕のほうが先に、ここ数ヵ月で立て続けに痛い目に遭ってしまったのだからこれはどうにも締まらない。締まらないから、何を言っても説得力はないのだろうが――まあ、だからこそ、どうせ聞き流されるだろうと気楽な気持ちで――声を大にして言うことができる。
阿良々木火憐と阿良々木月火。
彼女達、ファイヤーシスターズの行為は、やはり正義の味方ごっこでしかないのだと。
僕の自慢の妹達。
お前達は、どうしようもなく偽物《にせもの》なのだと。
002
あまりに脈絡《みゃくらく》のない展開なので申し訳ない限りだが、どうやら拉致《らち》監禁されてしまったらしい。
夏休みに入っておよそ十日が過ぎた七月二十九日のことである――いや、随分《ずいぶん》長い間|意識《いしき》を失っていた気もするので、ひょっとしたらもう三十日になってしまっているかもしれない。あるいは既《すで》に三十一日すら通り過ぎて、八月になってしまってさえいるのかもしれなかった。右手首に巻いている腕時計を見られれば日付と時刻は確認できるのだが、鉄柱《てっちゅう》を通して後ろ手に縛《しば》られているため、その行動は叶《かな》わない。ポケットの中の携帯電話を取り出すことも、同じくできない。まあ、それでも時間についての予測はつかなくもない――窓の外は真っ暗で、だからきっと今は夜だろうということくらいは想像がつくのだ。もっとも、窓と言ってもガラスは嵌っていないし、ふきっさらしなのだが。いくら夏真っ盛りでも、ちょっと開放感があり過ぎる場所だった。足のほうは拘束《こうそく》されていないので、頑張れば立ち上がることくらいはできそうだが、そんなことをしても意味がなさそうだったので、僕は腰を床に落ち着けたままで、むしろ足を伸ばした。
こんな場所で――忍野《おしの》と忍《しのぶ》は、暮らしていたんだなあ。
暢気《のんき》にも、僕はそんなことを考えた。
そう、僕が監禁されているこの場所は、馴染《なじ》みも深い、あの学習塾跡の廃墟《はいきょ》である。四階建てで、ゴミや瓦礫《がれき》がいい感じに散らばる、あの崩壊《ほうかい》寸前のビルディングだ。知らない人間が見ればどの階のどの教室も同じようにしか見えないだろうが、僕ほどの通になるとちょっと違う、監禁されているこの教室が、四階に三つある教室のうち、階段から見て一番左端の教室であることがわかる。
わかったからと言って何にもならないが。
勿論今となっては、忍野はこの廃墟どころかこの町にさえいないし、忍のほうにしたって、住処《すみか》をこの廃墟から僕の影《かげ》の中へと移している。ひょっとしたら今あたり、彼女は懐《なつ》かしいと感じているのかもしれないが、どうだろう、ひょっとすると何も感じていないのかもしれない。五百年も生きた吸血鬼の考えることなどわからない。
さて、どうしたものか。
僕はずきずきとした疼痛《とうつう》を後頭部に感じながら(どうやら拉致される際、その部位を殴られたらしい)、場違いなくらいのんびりと考える。意外とこういうとき、人間は焦らないものなのだ。そもそも焦ったってどうにもならない。それよりは現状|把握《はあく》に努《つと》めるべきだろう。
てっきりロープか何かで縛られているのだと思ったが、しかしどうも、僕の両腕を固定しているものは、金属製の手錠《てじょう》のようだった。おもちゃのようなものだとすれば力ずくで引き千切《ちぎ》ることもできるだろう――と思ったが、これがびくともしない。これを引き千切れるならむしろ手首のほうが引き千切れそうだった。手錠に本物も偽物もないだろうが、しかしそれでも言うなら、間違いなくこの手錠は本物だった。
「それでも――吸血鬼の力があれば、こんなもん、余裕《よゆう》で脱出できるんだろうけどな」
手錠どころか、鉄柱のほうを破壊できるだろう。
いや、仮に手首を引き千切ったとしても、持ち前の治癒《ちゆ》スキルでその手首があっという間に修復されてしまうのだから、結果としては同じである。
「吸血鬼――か」
この廃墟の教室を、もう一度見渡して――手じゃないにしても、足の届く範囲には何もないことを確認しつつ、僕は呟《つぶや》く。
どんな暗かろうとそれに重なる形で出来る、自分の影を確認しながら。
「…………」
春休みの話である。
僕は吸血鬼に襲《おそ》われた。
金色の髪をした、美しき吸血鬼に――自《みずか》らの血を、吸い尽くされた。
あらん限りに。
これでもかとばかりに。
一滴残らず――吸い尽くされた。
そして僕は吸血鬼となった。
この学習塾跡は、僕が人間ではなく吸血鬼だった春休みの期間、人目を避《さ》けるように根城《ねじろ》にしていた場所でもあるのだ。
まあ吸血鬼になった人間は、ヴァンパイア・ハンターやらキリスト教の特務部隊やら、あるいは吸血鬼でありながら吸血鬼を狩る、同属殺しの吸血鬼に助けられるのがお約束ってものなのだろうが、僕の場合は通りすがりのおっさん――忍野メメに助けられた。
助けられた、なんて押し付けがましい言いかたを、忍野は最後まで嫌《きら》ったけれど。
かくして僕は人間に戻り、金髪の美しい吸血鬼は、見る影もなく力を奪《うば》われ、どころかその名さえも奪われて(奪われた名前の代わりに与えられたのが忍野忍という名前だ)、最終的には僕の影の中に封じ込められてしまったのだった。
自業自得《じごうじとく》と言えばそれまでのことだろう。
忍も、そして僕も。
それまでのことだろう。
だけど僕は、それまでのことにしたくなかった――だからこそ今の僕と、今の忍がある。忍がそれをどう思っているのかは知るよしもないが、僕は、たとえ間違っていたとしても、こうするしかなかったと思っている。
まあ、そんなわけで。
この学習塾跡の廃墟には、僕も個人的に、思い出がいっぱいだった。思い出がいっぱいというか、本当のところは思い出が失敗なのだが、それはともかくとして。
問題は僕にかつて吸血鬼としての力があったとしてもそれはもう今となっては昔の話であり、そういった属性は残滓《ざんし》程度にしか残っていないということである。金属製の手錠を引き千切るなど夢のまた夢だ。もしも僕がルパン三世だったら、手首の骨を外して手錠など手袋のように脱いでしまうのだが、無論、ルパン三世ならぬただの高校三年生であるところの僕には、そんな器用《きよう》な真似《まね》はできない。
そう言えば。
そう言えば、ついこないだのこと、月火が誘拐《ゆうかい》されたことがあった――まあ誘拐と言えば大袈裟《おおげさ》なのだが、少なくとも笑いごとではなかった。戦闘力において火憐に敵《かな》わないと見た敵対組織(?)が、ならばと策を巡《めぐ》らした結果、月火を攫《さら》って人質《ひとじち》に取ったのだ。お前らそんな週刊少年マガジンに載《の》ってる漫画みたいなことリアルでするなよ! と、僕は心配するよりも先に突っ込みを入れたのだが、月火もさる者引っかく者、誘拐されたのはわざとの見せかけで、敵対組織(笑)を内側から懐柔《かいじゅう》し、崩壊せしめたのだった。
恐るべしファイヤーシスターズ。
ちなみにこの話は、
「お願いだからパパとママには黙《だま》っててください!」
と、姉妹|揃《そろ》って土下座《どげざ》で頼まれている。
わざわざ頼まれなくともそんな馬鹿馬鹿《ばかばか》しい話を両親に報告する気はなかったが、しかし、そこで付き合って一緒に土下座するあたりが火憐のいいところでもあり、悪いところでもあると思った。
つーか年頃の女子が簡単に土下座とかすんな。
そういうとこがガキだっつーんだよ。
「しかし、僕の場合は土下座じゃ済まないだろうな……あいつら、自分のことは棚に上げて泣くんだもん。さあて、どうしたもんか」
というか。
実のところ、結構あたりはついてるんだよな――何がどうなってこういうシチュエーションに陥《おちい》っているのか、大方想像はつくというべきか。
嫌でも理解できてしまうというべきか。
否応《いやおう》ないというべきか。
いやはや参ったというべきか。
「……ん」
と。
そのときである。
あたかも僕が目を覚ますタイミングに合わせたかのように、廃墟の中、階段を昇ってくる足音が聞こえた。教室の扉《とびら》のほうから、光が漏れてくる――この建物の電気系統は全て死んでいるので、懐中電灯の光だろう。そして、その光は一直線に、僕の監禁されている教室へと向かってきた。
扉が開かれる。
眩《まぶ》しくて、一瞬、目がくらむ――しかしそれにも、すぐに慣《な》れた。
そしてそこには。
僕のよく見慣れた女の姿があった。
「あら。気が付いたの、阿良々木くん」
と。
戦場ヶ原ひたぎ。
戦場ヶ原ひたぎは――いつも通りのクールな口調でにこりともせずに、無表情のままにそう言って、懐中電灯の光を僕へと向けた。
「よかったわ――このまま死んでしまうんじゃないかと心配したのよ」
「…………」
言葉が出てこない。
言いたいことは山ほどあるが、その内ただのひとつも、言葉としての形を成さない。僕が苦笑いにも似た表情を浮かべているのにもまるで取り合う風もなく、戦場ヶ原は扉を閉めて、つかつかと僕のほうへと歩み寄ってきた。
その足取りにはまったく迷いがない。
自分の行動に何一つ疑問を持っていない人間の態度だった。
「大丈夫? 後頭部、痛まない?」
懐中電灯を脇に置き、そんな風に訊《き》いてくる戦場ヶ原――まあ、その心遣《こころづか》い自体は、とても嬉しいものなのだが。
だがしかし。
「戦場ヶ原」
僕は言った。
「手錠を外せ」
「嫌よ」
即答した。
もう完璧《かんぺき》に思考時間ゼロで。
つーか……。
怒鳴《どな》る前に、僕は酸素を補給するために、あえて一拍の呼吸を置いた。
そして怒鳴る。
「やっぱお前が犯人かよ!」
「なるほど中々|鋭《するど》い指摘《してき》ね。ただし証拠があれば、の話だけど」
推理小説の解決編によくある台詞《せりふ》を吐く戦場ヶ原。
もうその台詞が出た時点で犯人決定だった。
「監禁場所にこの学習塾跡を選んでる時点で直感したよ! そしてこんな強度の手錠を持ってそうな知り合いは僕にはお前しかいない!」
「さすが阿良々木くん、実に面白いことを言うのね。ちょっとメモを取らせて頂戴《ちょうだい》。次回作を書くときの参考にさせてもらうから」
「犯人が推理作家だった場合のバリエーションとかどうでもいいんだよ! さっさとこの手錠を外しやがれ!」
「嫌よ」
同じ台詞を繰り返す戦場ヶ原。
懐中電灯のライトアップもあって、いつもの無表情の迫力は一層増していた。
怖い怖い。
そしてその表情のまま、彼女は「嫌よ」と繰り返した。
「そして無理ね。鍵《かぎ》はもう捨てたから」
「マジで!?」
「ピッキングもできないように、鍵穴もパテで埋めてあるわ」
「何でそんなことするの!?」
「そして解毒《げどく》剤も捨てたわ」
「僕、毒まで盛られてるんですか!?」
そら恐ろしい話だった。
戦場ヶ原は、ここでようやくくすりと笑って、
「解毒剤は嘘よ」
と言った。
その言葉にほっとする反面、鍵を捨てたのと鍵穴をパテで埋めたのは本当らしいと、がっくりと肩を落とした。じゃあどうやって外すんだよ、この手錠……。
「まあ仕方ない、解毒剤が嘘だったってだけでよしとしとくか……」
「ええ。大丈夫、捨ててないわ」
「毒は盛ったのかよ!」
身を乗り出して突っ込みを入れたが、手錠が鉄柱に引っかかって、いまいちうまくいかなかった。小さなことだが、これは僕のような人間にとって非常に大きなストレスである。
「毒も嘘」
戦場ヶ原は言った。
「ただし、阿良々木くんがあまり聞き分けがないようだと、本当になるかも」
「…………」
こえー。
マジでこえー。
「蝶《ちょう》のように舞い、蝶のように刺すわ」
「蝶が刺すか!」
「間違えた。よかったわね、私の間違いを指摘できて。一生の自慢でしょう?」
「なんだその斬新《ざんしん》な間違いの認め方!」
「正しくは蜂《はち》よ」
「蜂の毒は――強いよな……」
僕はごくりと唾《つば》を飲み込んで、改めて目の前の女――戦場ヶ原ひたぎを見る。
戦場ヶ原ひたぎ。
クラスメイトである。
整《ととの》った顔の作りをしていて、見るからに頭がよさそうで、そして実際に頭がいい。成績は常に学年トップクラスで、近寄りがたい美人、クールビューティーとして名を馳《は》せている。そして、これはまだ一部の人間しか知らない内部情報だが、実際に彼女に近寄った人間は、例外なく酷《ひど》い目に遭わされる。
美しい薔薇《ばら》には棘《とげ》がある、なんて抽象《ちゅうしょう》的な話ではない――戦場ヶ原は美しい棘だ。
中身と外見の食い違いの度合いで言えば僕の妹、阿良々木月火もいい勝負だが、しかし戦場ヶ原の場合は決してヒステリックなのではなく、クールなままの攻撃性を有する。月火はピーキーだが、戦場ヶ原は常に低温のままで臨戦態勢なのだ。要するに一定の距離以内に近付いてきた人間を無差別で攻撃するプログラムを組み込まれた防犯機みたいなものである。
たとえば僕の場合は、口腔《こうこう》内をホッチキスで綴《と》じられた。一歩間違えば大事件、どころか、ことなきを得たのが不思議なくらいの、間違った大事件である。
まあ、そんな彼女の性格にはれっきとした理由があって、五月だったか、その理由のほうについて一定の妥協《だきょう》点とも言える解決がつけられたのだが――残念ながら身に染み付いたプログラムの解除はなかなか難航《なんこう》していて、今に至っている。
「それでも、最近は大人しかったもんだけどな――なんでいきなり彼氏を監禁してんだよ。聞いたことねえよ、こんなDV」
ちなみに戦場ヶ原と僕は付き合っている。
恋人同士だ。
ラバーである。
ホッチキスが結んだ縁《えん》、と言えば、うまいのかもしれない――いや、それほどうまくはないか。大体、ホッチキスは結ぶものではなく綴じるものだし。
「安心して」
戦場ヶ原は言った。
僕の話を見事に聞いていない受け答えである。
「安心して。阿良々木くんは私が守るから」
「…………」
怖いよー。
恐怖だよー。
「あなたは死なないわ。私が守るもの」
「いや、そんなたった今この瞬間に思いついたみたいにエヴァネタを絡《から》めてこられても――あの、ほらガハラさん」
ガハラさん。
最近考えた戦場ヶ原のニックネーム。
あんまり定着してない。
僕ひとりが頑張って普及に努めている感じだ。
「僕、おなか減っちゃって……喉《のど》も渇いたかなって。とりあえず、その辺で食事でもしない?」
機嫌を取るような物言いになってしまうのは仕方ないだろう――とりあえず現状、僕に関する生殺与奪《せいさつよだつ》の権は、戦場ヶ原にがっちり握られてしまっているのだ。下手《へた》に刺激したら冗談抜きで激しく刺される。普段ならいざ知らず、この状況で戦場ヶ原が武装していないわけがないのだ。どんな文房具を持っているのかまではわからないが……。
「ふっ」
戦場ヶ原は笑った。嫌な感じに。
せせら笑うとはまさにその表情だった。
「おなかが減った喉が渇いた……まるで動物ね。いつもいつでも食っちゃ寝するだけなのだから……本当に嫌になるわ。少しは生産的に生きたらどうなのかしら。ああ、ごめんなさい。『生きる』だなんて、阿良々木くんには高度過ぎる要求だったわね」
「…………」
そこまで言われるようなことを僕が言ったか?
言ってねえだろ?
「生産的に死ぬことにかけては、阿良々木くんの右に出る者はいないでしょうけれど。虎《とら》は死んで皮を残すという諺《ことわざ》があるけれど、その意味では阿良々木くん、虎みたいね」
「褒《ほ》めてねえよな、それも」
やっぱり所詮《しょせん》は動物って意味だろ。
わからねえとでも思うのか。
しかし。
その毒舌《どくぜつ》具合を鑑《かんが》みるにあたって、どうも戦場ヶ原は、別に怒っているとか、機嫌が悪いとか、そういうわけではないらしい。……しかし、世界広しと言えど、常に毒を振りまく戦場ヶ原の心中を察することのできる人間は、僕と、まあ精々《せいぜい》神原と、あとは戦場ヶ原の親父さんくらいしかいないだろうな。普通に見てたら、こいつ、ただの常に機嫌の悪い奴だもん。
「でもいいわ、特別に情けをかけて許してあげる。愚《おろ》かで虫のような阿良々木くんがそう言うだろうと思って、私があらかじめ、色々買ってきてあげたから」
愚かで虫のような僕に対してそう言って、戦場ヶ原は、懐中電灯を持っていたのとは反対側の手で持っていたらしいコンビニ袋を、自慢げに示した。
半|透明《とうめい》の袋なので中身が少し透《す》けて見える。
ペットボトルやらおにぎりやら。
なるほど、監禁用の食料か。
意外と気の回る奴だ……いや、考えてみれば嫌な気の回し方だが。
「ああ、そうかよ――じゃ、とりあえず、水分をくれ。水分」
解放して欲しさありきの食事の要求だったが、しかしおなかが減っているのも喉が渇いたのも本当なのだ。吸血鬼現象の後遺症《こういしょう》で、食事方面にはやや我慢の利く僕ではあるが、それにしたって限界はある。どれだけ意識を失っていたのかは知らないが、特に人間、水分は大事だ。
戦場ヶ原はコンビニ袋からペットボトルを取り出して――ミネラルウォーターだった――そのキャップを外す。僕が縛られている以上、当然、戦場ヶ原がそれを飲ませてくれるのだとばかり思ったが、しかし、戦場ヶ原はペットボトルの縁《ふち》をぎりぎりまで僕の唇《くちびる》に近づけてきたところで、ふいっとそれを後ろに引いた。
またこいつは……。
意地悪の種をいくつ持ってんだ。
「飲みたい?」
「まあ……そりゃ」
「ふうん。でも私が飲んじゃう」
ごくごく飲み始めた。
なんだろう、振る舞いにコツがあるのだろうか、ペットボトルのラッパ飲みをしても、戦場ヶ原は全然下品じゃない。むしろ様になっていた。
「ぷはっ。うん、おいしいわ」
「…………」
「何よ、そのもの欲しそうな顔は。誰もあげるなんて言ってないでしょう?」
その文脈だと、お前は喉が渇いている僕に対して自分が水を飲んでいるところを見せつけるためにわざわざミネラルウォーターを買ってきたって話になるけど、それでいいのか。
まあ、やりかねんけど。
「ふふ。それとも口移しで飲ませてもらえるとでも思った? やあねえ、阿良々木くん。いやらしいんだから」
「この状況でそんな発想を持つのは神原くらいだ」
「そうかしら? でもほら、この間、阿良々木くんとべろちゅーしたときとか……」
「この状況でべろちゅーしたときの話とかすんなや!」
怒鳴った。
いや別に誰が聞いているというわけでもないが、そんなあけすけにされたい話ではない。
男の子はデリケートなのだ。
「まあいいわ。どうしても飲みたいって言うなら、飲ませてあげる」
「……どうしても飲みたい」
「はっ! この男にはプライドというものがないのかしら。そんな恥《はじ》知らずな台詞をただの水飲みたさに口にするなんて……もう死んだほうがいいんじゃない? 私だったらそんな台詞を言うくらいだったら舌を噛《か》んで死ぬわよ」
楽しそうだなあ……。
こんな生き生きしている戦場ヶ原を見るのは久しぶりだ……やっぱり最近は無理して大人しくしてたんだろうなあ……。
「いいわ。そこまで言うのなら、哀《あわ》れ過ぎて見ていられないから、同情して水を恵んであげるわ。感謝なさい、この水飲み鳥が」
「水飲み鳥って別に悪口じゃねえよな……」
「うふふ」
更に邪悪に笑ったかと思うと、戦場ヶ原は、ペットボトルを傾けて、ペットボトルを持っていないもう一方の手を濡《ぬ》らし始めた。何してんだよ……って、まあ、この悪意の塊《かたまり》が次にやりそうなことくらい完璧に予想がつくけれど。
戦場ヶ原はミネラルウォーターに濡れた手の指を僕の口元に差し向けて、
「舐《な》めなさいな」
と言い放った。
「どうしたの? 喉が渇いているのでしょう? ならばべろべろと舌を伸ばして、キリンのように汚らしく舐めるがいいわ」
「…………」
キリンも別に悪口じゃねえけど……それでもこいつが言うと、なんでもかんでも悪口に聞こえてしまうから不思議だ。
「あのさ、戦場ヶ原……」
「どうしたの? 阿良々木くんは喉が渇いているはずでしょう。それともあれは嘘だったのかしら。嘘つきにはお仕置きが必要よね――」
「舐める舐めます舐めさせて!」
この状況でお仕置きとか、凄《すさ》まじ過ぎる。
僕は言われるがまま、キリンのように(どんなようになのかは知らないが)、戦場ヶ原の指へと首を伸ばし、そして舌を伸ばした。
「ああ、なんてみっともない。惨《みじ》めさも極《きわ》まるわ。普通、水が飲みたいくらいでこんなことしないわよ。阿良々木くんはきっと、最初からこんな風に、女の子の指を舐め回すのが好きな変態《へんたい》さんなのね」
言葉責めは続く続く。
もう元気|溌剌《はつらつ》戦場ヶ原さんだった。
まあそれはそれとして、戦場ヶ原の指を舐め回すことによって、なんとか僕は喉の渇きは潤《うるお》せた。
さて。
「携帯の待ち受けにしたいくらいいい画《え》だったわよ、阿良々木くん」
「そうかよ……そりゃ重畳《ちょうじょう》だ。じゃ、次はおにぎりをいただきたいな」
「いいわよ。珍しく私は寛大な気分よ」
そりゃまあ、これだけの仕打ちをしてればな。
寛大にもなる。
「おにぎりの具は何がいい?」
「何でもいいよ」
「おざなりね。ひょっとして、阿良々木くんってパン派?」
「別に、そういうわけじゃないけど……それに、見る限り、パンなんか買ってきてねえだろ」
「そうね。おにぎりしかないわ」
「ないものは別に求めないさ」
「パンがなければお菓子を献上《けんじょう》すればいいのに」
「圧政過ぎる!」
速攻《そっこう》で革命が起きるわ。
日本なら一揆《いっき》だ。
「私は育ちがいいから世間知らずなのよ」
「世間知らず以前の問題だと思うが」
「ほら、私って、蝶よ蜂よと育てられたから」
「それは花が正解だろ!?」
適当なことを喋りながらも、戦場ヶ原は、おにぎりのビニールをくるくると綺麗《きれい》に剥《は》がして、そしてそのむき出しのおにぎりをいきなり、僕の口の中に押し込んできた。
「むぐっ! ぐっ!」
むせる僕。
呼吸さえもままならない。
たまらず、
「何すんだ!」
と、戦場ヶ原に苦情を言った。
「いえほら、あーん、とか言うのは恥ずかしくて」
「だからっていきなり押し込むな! げふっ! の、喉に詰まった……み、水! 水! ボトルごとくれ!」
「え……駄目《だめ》よ。間接キスになっちゃうじゃない」
「散々っぱら指を舐め回させた奴がどのタイミングで照れてんだよ!」
果たして、戦場ヶ原は水をくれた。
しかしそれも乱暴に押し込まれた形で、喉に詰まった米粒は押し流せたが、その代わりに溺《おぼ》れそうになった。陸上で溺死《できし》とかありえねえ。
「あーあ。こんなに食べ散《ち》らかしちゃって。阿良々木くんって本当に駄目な子ねえ」
クールに、平坦な口調で言う戦場ヶ原。
お前、そろそろ毒舌の域さえ超えつつある。
日本から言論の自由が失われれば、真っ先に逮捕されるのは、間違いなくこの女だった。
「じゃ、私も食事を摂《と》らせてもらうわね……今日は時間がなかったからコンビニご飯だったけど、心配しないで、阿良々木くん。明日からはちゃんとお弁当を作ってきてあげるわ」
「…………」
「何よ。私の手料理じゃ不満だというの。これでも私は、日々腕をあげているつもりなのだけど」
いや、僕の不満は、この監禁生活がどうやらかなりの長期計画らしいという点にある。ひょっとしたら何かの遊びなのかもしれないと思ってここまで付き合っているが、どうにも戦場ヶ原の目的が見えてこない。
ん?
ああ、そうか。
目的は――はっきりしているのか。
――安心して。
――阿良々木くんは、私が守るから。
守る……な。
本気で言ってんだろうな、多分。
そう思うと――無下《むげ》にもできない。
これは、優しさというより甘さの部類だろうけど。
後頭部を殴られたからだろう、どうも記憶が曖昧だったが――段々と、思い出してきた。
守る。
戦場ヶ原のその言葉の意味。
そして、そこに至る経緯《けいい》を。
「しかし、戦場ヶ原。後頭部を一撃で殴って気絶させるなんて、お前、随分と器用な真似ができるんだな。妹に聞いた話じゃ、人を気絶させるって、案外難しいことらしいんだけど」
「別に一撃とは言ってないわよ」
「あ、そうなの?」
「なかなか気絶してくれなかったから、二十撃」
「死んでておかしくねえ!」
とんでもない話だった。
いや。
とんでもない話と言えば、もうひとつ、確認しておきたいことがある。
本当は確認したくはないが。
しかし確認しなくてはならないことだ。
「……ちなみに戦場ヶ原。ご飯はお前が作ってきてくれるとして、それは本当にありがたい話なんだけど、その、下世話《げせわ》な話、これ、トイレとかどうするんだ?」
僕は質問した。
苦渋《くじゅう》の質問である。
しかし戦場ヶ原はクールに、眉《まゆ》ひとつ動かさず、備えは万全であるとでも言いたげに、コンビニの袋の中からオムツセットを取り出した。
「……が、ガハラさん? まさか、だよね? それはいわゆるジョークグッズだろう? 相変わらずセンス尖《とが》ってるんだもんなあ」
「心配しないで。私、阿良々木くんのオムツなら、替えられるわ」
戦場ヶ原は言った。
無表情のままで、あっさりと。
「知らなかった? 私はあなたのことを愛しているのよ、阿良々木くん。たとえあなたが全身汚物にまみれようとも躊躇《ちゅうちょ》なく抱擁《ほうよう》できるくらい。呼吸から排泄《はいせつ》に至るまで、私があなたの全身を脳まで含めて隈《くま》なく管理してあげるんだからね」
…………。
愛が重い!
003
恐るべき拉致監禁に至る経緯を整理してみる。そう、そのためには多分――七月二十九日の朝あたりから思い返してみるのが適当だろう。
夏休みと言えど、僕はこれでもおちこぼれの汚名《おめい》を返上しようと、大学受験を決意した身である、遊び歩いてはいられない。学年トップクラスの成績を有する戦場ヶ原、それに学年トップの成績を有する羽川《はねかわ》に、日替わりで勉強の面倒を見てもらっている毎日なのだった――キツい毎日ではあるが、しかし考えてみれば、こんなに条件面で恵まれた毎日もないだろう。
と言うか、あのふたりに勉強を教えられて成長しない奴はいない。
期せずして見事な飴《あめ》と鞭《むち》だし。
いや、蜂蜜と金棒って感じかな。
偶数日《ぐうすうび》は戦場ヶ原が担当、奇数日は羽川が担当、というスケジュールになっていたのだが(日曜日は無条件で休み)、しかし当然、相手にも予定というものがあるので、その場合はそっちを優先してもらっていて、その七月二十九日には、担当の羽川が、
「ごめん阿良々木くん! どうしても外せない用事があるの! この埋め合わせは絶対するからっ! 具体的には明後日《あさって》くらいに!」
ということで、フリーになったのだった。
ていうか、こちらから頼んでしてもらっている家庭教師なので、そんなに申し訳なさげにすることもないのだが……。
羽川は相変わらずいい奴過ぎた。
ちなみに外せない用事とは例の両親絡みのことらしい。ずけずけ踏み入っていいことではないだろうから、あえて深くは聞かなかった。僕は羽川のためになら何でもするつもりでいるが、しかし、ならば状況によってそれが最善であるなら『何もしないこと』もまた、『何でも』の中には含まれてしかるべきだろう。
まあ。
そんなわけで暇人《ひまじん》である。
いや、別に勉強は一人でもできるのだが、たまには休むように羽川から言われていた――戦場ヶ原からはそんなことは一言も言われていないが、こういう場合、羽川に従《したが》うことに、僕はしている。
誰でもそうするだろう。
めでたく二連休と行こう。
まあ二連休と言っても、実のところ明日の予定は既《すで》に決まっているのだが、さて、では今日は久し振《ぶ》りに本屋にでも行こうかと、それでも一通りの課題を終えてからリビングに下りていくと、父親と母親はもう仕事に出ていて(共働《ともばたら》きだ。土曜日だろうと関係ない)、月火が浴衣姿でソファに仰向《あおむ》けに寝転がり、逆《さか》さ向きにテレビを見ていた。浴衣でそんなだらしない格好をしているから、もうはだけちゃってはだけちゃって、胸元のあたりが大変なことになっているが、気にもしていない。まあ、格好については僕もあんまり人のことは言えないし、外でちゃんとしてんなら、別にいいけどさ。
「あ。お兄ちゃん。勉強終わったの?」
テレビを消して(面白くて見ていたわけではないらしい)、月火がこっちを向く。たれ目が手伝って眠そうに見えるが、時間帯から考えて、別に眠いわけではないだろう。
「今日は家庭教師、お休みなんだっけ?」
「おう」
まあ、戦場ヶ原が担当の日は戦場ヶ原の家、羽川が担当の日は図書館で勉強するということになっているので、家庭教師という言い方は正確ではないのだが。
塾や予備校に行く案もあったのだが、しかし残念ながら、親を説得し切れなかった。いやまあ、普段の行いって大事なんだなあと思ったものだ。
頑張って挽回《ばんかい》していくしかない。
「私もいつか受験勉強とかするのかなあ。やだなあ」
「お前達は高校受験がないからな」
中高一貫だから。
中学受験は、火憐も月火も、何一つ勉強せずに合格してるし……要領がよ過ぎる。
「するとしても、ずっと先だろ。まだそんなこと考えなくてもいいんじゃないか?」
「まあ、そうなんだけど。でも、お兄ちゃんが急にやる気出してるから、ちょっとね」
「そりゃ悪かった……って、あれ? あいつは?」
「あいつって」
「でっかいほうの妹」
「火憐ちゃんはお出かけ」
「珍しいな」
火憐のお出かけが、ではない。
火憐が外出しているというのに、月火がこうして家のソファでごろごろしていることが珍しいのだ――行動を共にすることが常のファイヤーシスターズである。そして火憐と月火が別行動を取っているときは、往々にして、何か厄介ごとに首を突っ込んでいることが多いのだった。
「トラブルは勘弁《かんべん》だぜ、お前ら」
「やだな、別に何も企《たくら》んでないよ――お兄ちゃんはいつもそう。私と火憐ちゃんのことを、子供扱いばっかりして。心配性なんだから」
「心配してんじゃねえ。信用してねえんだ」
「おんなじことじゃない?」
「いや、心配と信用。このふたつの間にはあまりにも明確な差異がある」
「そんなの、言葉の上だけのも……ふう」
「途中で喋《しゃべ》るのやめんなよ!」
どんだけ適当に会話してんだよ。
まあ、確かにどうでもいい会話の途中だったけど。
話を戻そう。
「で、でっかいほうの妹はどこいったんだ?」
「だからトラブルとかじゃないって。むしろトラブルを解決しに行ったんだから」
「それがトラブルだってんだ」
「そう?」
「トラブルがトラウマになる前に、さっさと報告しろ。僕にチクって裏切り者の誉《ほま》れを受けるがいい。何にしたって、早い内なら手の打ちようってものはあるんだ」
「もー。お兄ちゃん、中学生同士の喧嘩《けんか》に首突っ込まないでよ、格好悪いなあ。喧嘩っていうのはね、それはそれで立派《りっぱ》なコミュニケーションなんだよ。最近は喧嘩の仕方も知らない人間が多過ぎると思わない?」
「いや、まあ、そういう言い方をすれば正しい風にも聞こえるけどさ……」
「喧嘩がいけないんじゃない。正しい喧嘩の仕方を知らないことがいけないんだよ」
調子に乗って、知った風なことを言う月火。
得意顔だ。
「いや、でもお前らの喧嘩って、必ずと言っていいほど暴力が伴《ともな》うじゃん。それが決して正しい喧嘩の仕方だとは思えないんだけど……」
「そんなの、目には目を、歯には歯を、だよ」
「そりゃ紀元前の考え方だ。今が一体二十何世紀だと思ってんだ?」
まあ。
二十一世紀なんだけど。
「じゃあ、目には歯、歯には鈍器《どんき》ってのはどう?」
「三倍返しか!」
「もー! うるさいなあ!」
切れた。
あっという間に切れた。
直前までの得意顔はどこへやら、だ。
「知らない知らない! 私何にも知らないもん! でっかいほうもちっちゃいほうもちゅうくらいなほうも全部知らない!」
「……ちゅうくらいなほうの妹なんかいねえよ」
ったく……。
そんなんだから心配のし甲斐《がい》がねえんじゃねえか、お前らは。
まあ、基本的に他人の悩み、困りごとを原動力として動くファイヤーシスターズ、迂闊《うかつ》に懸案《けんあん》事項の内容は洩《も》らせまい。僕としても見ず知らずの人間のプライバシーには迂闊に踏み込めないしな。
ま、いいか。
手に負えなくなった辺りで相談してくるだろ。
さすがに誘拐騒ぎはもう二度と御免《ごめん》だけどな。
「やれやれ……別に大人になれとは言わないけど、ちっとは大人しくしてろよ、お前らも」
「お兄ちゃんに言われたく、ありませんん〜」
言って月火は、手元にあったリモコンを投げつけてきた。危ねえ。なにすんだこいつ。避《よ》けるわけにもいかず、なんとか受け止めて、テーブルの上へと戻す。
まあ、どちらかと言えば大人しくのほうが無理な相談か。
大人には歳《とし》を取れば誰だってなれるしな。
かと言って、千石くらい大人しいのも問題だが。
火憐や月火が千石の十分の一くらい大人しくなって、千石が火憐や月火の十分の一くらい活発になれば、お互いにとって丁度《ちょうど》いいと思うのだが。
しかし世の中、そんな計算は不可能である。
うまくいかないものだ。
「ん……そうだ、千石だな」
今日の予定が思いついた。
というか、思い出した。
本屋に行くのは中止だ、そう言えば、千石と遊ぶ約束が延び延びになってしまっていたのだ。
千石撫子。
そもそもは月火の、小学校時代の同級生である。月火が家に招《まね》いて遊んでいた、友達のうちの一人なのだ――当時、僕と月火(火憐もだ)は同室だったので、学年こそ違ったが、僕も顔見知りだった。月火が私立の中学にいったのでその縁は途絶《とだ》えていたが、先日、思わぬところで千石と再会した。
思わぬところ。
それ即《すなわ》ち怪異絡みということだが。
まあ、その辺の問題もとりあえずは乗り越えたところで、千石は一度、我が家に遊びに来ている。月火と再会させてあげようという僕の粋《いき》でいなせな計《はか》らいだった。
火憐と月火は、兄の僕から見ればその性格に大いに難があるのだが、不思議とそういう性格は同世代受けするようで、人の中心に立つのが非常にうまい――人あたりがいいというかなんというか、僕あたりには理解できない謎《なぞ》のカリスマスキルがあるのだ。そのスキルは長らく会ってなかった小学校時代の友人にも問題なく作用するようで、月火と千石は仲良く遊んでいた。
その日の帰り際、「今度は撫子の家に遊びに来てね」と千石は言って、僕は頷《うなず》いたのだった。
考えてみればあれから随分と時間が経っている。決して忘れていたわけではないのだが、その間にも色々あったし、僕も本格的に受験勉強を始めてしまったしな。
不義理と言えば不義理。
でもまあそれならこれがいい機会だ、ちょっと電話してみよう。
千石は、田舎の中学生らしく携帯《けいたい》電話を持っていないので家に電話することになるが。僕はポケットから携帯電話を取り出す。千石の家の電話番号は登録済みである――これまで何度か掛かって来たことはあったが、掛けるのは、そう言えばこれが初めてになるが。まだ午前中だが、千石のことだ、きっと起きているだろう。
「も……もひもひっ!? 千石れふっ!」
自宅の電話である、てっきり親が出ると思ったが、いきなり千石が出た。ていうか千石、八九寺ばりに噛み噛みだった。
あれ? 寝起きなのか?
意外だな。
夏休みを理由に昼まで寝るようなタイプだとは思わなかったけど。
「暦お兄ちゃん。久し振り……どうしたの?」
しかし、そう訊いてくる千石の声ははっきりしていた。あれ、まだ喋っていないのに、どうして――いや、別に携帯電話じゃなくても、ナンバーディスプレイ機能はつけられるんだったか。
「いや、突然で悪いんだけど、前になんか、千石の家で遊ぶ約束したろ。今日あたりどうかなって思って」
「へ、へえっ!?」
千石は驚いていた。
というか驚き過ぎていた。
おかしいな、前からの約束のはずだが。
向こうが忘れていたのだろうか。
「今日いきなりってのが都合《つごう》悪いようなら――」
「ううん! 今日、今日、今日! 今日以外は全部|忙《いそが》しいくらいだよ!」
こんな強硬《きょうこう》な千石は初めてだった。
ていうかお前、そんな大きな声出せたのか。
「そうか、今日以外が全部忙しいなら今日しかないな……今からでいいか?」
「うん、今から以外は駄目なくらい!」
マジでか。
どんなハードスケジュールなんだよ。
最近の中学生は大変だなあ……アホな正義の味方ごっこに貴重な青春を費《つい》やしているうちの妹達に、本当に見習わせたい。
十分の一と言わず。
「じゃ、今から行くよ」
僕はそう言って、電話を切った。
そして月火を振り返る。
月火は、一旦《いったん》消したテレビをまたつけていた。朝のワイドショー(土曜版)にチャンネルを合わせていて、芸能界のニュースを、今度は興味深そうに見ている。浮世離《うきよばな》れを気取っている割に、基本ミーハーなんだよな。お願いだから僕に対してもカリスマスキルを発揮《はっき》して欲しかった。
「おい、そういうわけだから」
「ん? え? 何?」
「聞いてなかったのかよ」
「人の電話に聞き耳を立ててないことを責められても困っちゃうな」
「あー」
そりゃそうか。
正論である。
「あのな、今千石に電話して」
「せんちゃんの家に行くんでしょう?」
「聞いてんじゃねえかよ」
「いってらっしゃいー。留守番《るすばん》は任せて」
ひらひらと手を振る月火。
こちらを見もしやがらねえ。
「いや、じゃなくて。お前も行くんだよ」
「はい?」
月火は意外そうに振り向く。
「千石のとこ行くんだから、当然だろうが」
「……あの電話の内容だから、お兄ちゃんが一人で行くんだとばかり思ったけど。て言うかせんちゃんも間違いなくそう思ってるはずだけど」
「そうか? そんなことないだろ」
僕は月火が一緒なこと前提《ぜんてい》で話してたんだけど。
そういや言わなかったっけ?
「ま、別にどっちでもいいけどさ。でも、お兄ちゃん。私が行ってもお邪魔だろうから、お兄ちゃん一人で行ってきなよ。そのほうがせんちゃんも喜ぶだろうし」
「なんだよ。千石と会うのにお前が邪魔ってことあるか。どうせ暇なんだろ?」
「蝦ではあるかもね」
「並べて書かなきゃ似てるって絶対に気付けないような漢字を間違うな」
「あー思い出した思い出した。今日部活だったんだ」
「お前んとこの茶道部はこの夏いっぱい全面的に活動停止になってるはずだろ」
文化祭で和服ファッションショーをやった挙句《あげく》の措置《そち》である。ちなみにその素敵企画の発案者は僕の目の前にいるこの女子中学生。無論、全責任はこいつにあるのだろうが、個人的には乗せられた部員達(そして顧問)にも大いに問題があると思う。
「自主練ですよ、自主練」
「黙れ和服コスプレマニア。ファッションってのは似合えばいいってもんじゃねえんだぞ」
「ジーンズにパーカーを合わせればそれでいいと思ってるお兄ちゃんにファッションについてあれこれ語られたくありませんよーだ」
「まあ、そりゃそうだろうけど……わかんねえな。何を変な遠慮《えんりょ》してんだよ」
「と・に・か・く・さ」
切れる――
その一歩手前のテンションで、月火は言う。
「私は友達の恋の邪魔をするほど野暮《やぼ》じゃないの。それがたとえ報《むく》われない恋だとしてもね」
「は? 来い? そんな乱暴な呼ばれ方はされてねえぞ? 千石はお前ら姉妹と違って、礼儀《れいぎ》正しい女の子なんだぜ」
「実は小学生のときから気付いていたけど、それでも何ていうか、数回しか会ってないはずなのに、一途《いちず》というか何というか……あれから何年経ってると思ってるんだか……私にはとても真似できないね。しようとも思わないけれど」
「ん?」
「ところでお兄ちゃん。お兄ちゃんって、男女間の友情って信じる?」
「当たり前だ」
一昔前なら『同性間の友情さえ信じない』と返しただろう質問に、僕はすぐに答えた。
「千石とだってしっかり友達だ」
「そう。じゃ、それはそれでいいか。とにかく、行ってらっしゃい」
「…………」
んー、頑《かたく》なだ。
こりゃ、これ以上誘っても無駄だな。
「わかったよ。それなら一人で行ってくるさ。留守番よろしくな。火憐が帰ってきたら、話があるって僕が言ってたと伝えとけ」
無駄だろうが、火憐のほうへも一応アプローチをしておこう。
「じゃ、もう行くわ」
「その前にあとひとつ」
「ん?」
「お兄ちゃんってさ、最近火憐ちゃんと、取っ組み合いの喧嘩とか、めっきりしなくなったよね。それって何で?」
それは。
思わぬ方向からの指摘だった。
こいつ……そんなことを考えていたのか?
なんでそんなことをこのタイミングで訊くのか、と僕は戸惑ったが、あるいはそれは、月火はいつからかずっと、それを訊こうとしていたのかもしれない。
僕の口調は知らず、誤魔化《ごまか》すようなものとなる。
「……いや、あいつ近頃腕あげ過ぎじゃん。めきめきって効果音が聞こえるくらいにさ。普通に喧嘩したら僕が負けちゃうし。身長は越えられても、力ならまだ僕のほうがあるはずなんだけど、ま、やっぱマジで格闘技やってる奴には敵わないや」
「火憐ちゃんのことはそうだとしても。さっき私がヒスったときとか、あっさり退《ひ》いちゃうし。なんかやけに物分りがいいって言うかさ」
「む……そりゃ、まあ」
「昔だったら、間違いなく首を絞めてたのに」
「そこまではしてねえよ!」
いや。
したことがないわけじゃ……ないけど。
一回か二回か……三回か四回か。
「いや、そりゃ私達にしてみりゃわがままが通りやすくっていい感じってだけの話なんだけれど、なんっつーかさ、あんまさ」
彼女には珍しく、まるで火憐を真似たかのような蓮《はす》っ葉《ぱ》な口調で月火は言った。
「勝手にひとりで大人になんないでよね。つまんないからさ」
大人になんて、歳を取れば誰でもなれる。
とても、そんなことを言える雰囲気《ふんいき》ではなかった。
004
かと言って無論、本当のことを言うわけにもいかない。『実はお前達の知らないところで僕は吸血鬼になっていて、いやまあなんとか人間には戻れたんだけれど、それでもそこそこ後遺症が残っていて、ひょっとしたらだけれども、お前達と取っ組み合いの喧嘩をすれば、弾《はず》みで殺しちゃうかもしれないから、なるべく喧嘩は避けてるんだよ』――なんて、一体どんな顔をして言えばいいのだ。
しかし、これこそ、余計な心配である。
今の僕と、僕の影に潜《ひそ》む吸血鬼・忍野忍との関係は、わかりやすいようでわかりにくい。複雑なようで単純だ。僕が忍の眷属《けんぞく》であり従僕《じゅうぼく》なのは変わらないのだが、しかし忍は、僕なしでは、生きることも死ぬこともできない、吸血鬼としても怪異としても中途|半端《はんぱ》な存在に成り下がっている。
端的に言えば、今でも僕は忍に血を与えることで半吸血鬼化することができるし、忍のほうにしたって、僕から血を吸うことで、吸血鬼としての力を若干《じゃっかん》ではあるが、取り戻せるのである。つまり裏を返せば、忍に血を与えた直後でもない限り、僕の身体に存在する後遺症は精々《せいぜい》治癒能力くらいということなのだが――だから、心配しなくても火憐との取っ組み合いくらい平気なはず、と言うか、さっき月火に言った通り、本当に格闘技の道を極め始めている彼女には普通に負けてしまうかもしれないくらいなのだが、しかし、それでも。
それでも僕は知ってしまっている。
戦いを。
闘争を。
競争ならぬ――戦争を。
殴り合いならぬ殺し合いを。
僕は戦争と殺し合いを知ってしまった。
その上で――妹と喧嘩をすることが、どうしてもそれまで通りには、できなくなってしまっているのだろう。
今日指摘されるまで、なるべく考えないようにしていたことではあったが、しかし心のどこかで、考えてはいたことだった。
――あんまさ。
――勝手にひとりで大人になんないでよね。
――つまんないからさ。
火憐には逆のことを言われたことがある。
兄ちゃんはそんなことだから[#「兄ちゃんはそんなことだから」に傍点]――いつまでたっても大人になれないのだ[#「いつまでたっても大人になれないのだ」に傍点]――と。
結局、そっちのほうが正しい。
僕の内面が変わったわけではない。
ただ――知ってしまったというだけだ。
まあ別に、月火にしたって、まさか僕に首を絞められたいわけじゃないんだろうけど――しかし、それこそあいつの言い草じゃないが、正しい喧嘩のやり方というのは、確実にあるはずなのだ。
そんなことを考えつつ。
僕はとりあえず、人の家にお邪魔するのに失礼じゃない程度の格好をして(と言っても、月火の言う通りだ、僕のファッションなどどう突き詰めたところでジーンズにパーカーなのだが)、家を出た。
千石の家は、実のところ、割と近所である。初めて彼女を彼女の家まで送っていったときはそのあまりの近さにびっくりしたものだ。まあそんなこと、考えてみれば、小学校が同じ公立なのだから、当然と言えば当然なのだが――自転車も必要ない、徒歩で十分の圏内だ。
近いからと言って自転車に乗っていけない理由はないのだが、しかし向こうにも準備があるだろうから、のんびりと歩いていくことにした。
と、その途中。
僕は見覚えのある背中を見かけることになった。
背中というか、リュックサックなのだが。
「八九寺じゃん」
小さな身体に、大きなリュックサック。
ツインテイルに、見るからに生意気そうな横顔は、確かに八九寺真宵だった。
小学五年生の女の子。
いつだったか、彼女が迷子になって困っているところに声をかけたのがなれ初《そ》めである。現在は余所《よそ》の町の住人らしいのだが、よくこの辺をうろうろしているのだ。でも、相手が何しろ小学生なので、連絡を取る方法はまずなく、もしも八九寺に会いたければ、こうして偶然の出会いに期待するしかないのだった。会えばその日一日いいことがあると、僕と羽川の間では半ばラッキーアイテム扱いされている。僕も、こうして見かけるのは、夏休みに入って初めてだ――いや、本当、随分久し振りになるんじゃないか?
んー、んー、んー……。
千石との約束があるしなあ。
大体僕、あの生意気な小学生、そもそもあんまり好きじゃないんだよなあ――いやもう、はっきり言っちゃえば嫌いだし。もう大嫌い。見かけたからって声かけるような仲じゃ、そもそもないんだよ。たとえ正面から目が合っても無視するくらいの気持ちがあるね!
でもまあ、そうだな、年上の高校生として、小学生相手にそんな態度を取るのも器がちっちゃいか。嫌いな相手ともコミュニケーションが取れてこそ、一人前の男だろう? あくまでも子供に接する際の当然の態度として、ちょっとだけ相手をしてやるさ。いやもう本当全然会えて嬉しくなんかないけど、せめてその振りくらいはしてやるのが最低限の礼儀って奴かな?
ふっ、僕も甘い。
僕は八九寺のところまで、かつてないほどのスタートダッシュで駆け寄り、彼女の身体を力の限り抱き締めた。
「はちくじいい! 会いたかったぞ、この野郎!」
「きゃーっ!?」
突然背後から抱き締められ、悲鳴をあげる少女八九寺。僕は構わず彼女の柔《やわ》らかなほっぺたにキスの雨を降らせた。
「ああ、もう、全然会えないからさあ、お前どっか行っちゃったんじゃないかと思って、もう気が気じゃなくて、ああもう、だからもっと触らせろもっと抱きつかせろもっと舐めさせろ!」
「きゃーっ! きゃーっ! ぎゃーっ!」
「こらっ! 暴れるな! パンツが脱がせにくいだろうが!」
「ぎゃああああああああああああっ!」
八九寺は大声で悲鳴を上げ続け、
「がうっ!」
と、僕に噛み付いてきた。
「がうっ! がうっ! がうっ!」
「痛え! 何すんだこいつ!」
痛いのも。
何すんだこいつも、やっぱり僕だった。
いやゴメン本当は僕こいつが大好きなんだ。
一生消えないんじゃないかと言うくらいの歯形を僕の腕に残したところで、八九寺は僕の魔手(?)を逃れ、距離を取って、
「ふしゃーっ!」
と、うなり声をあげた。
野性化モードだ。
「ま、待て! 八九寺、よく見ろ! 僕だ!」
この場合、たとえよく見て僕だったからといってどうということはないのだが、言うだけ言ってみるものだった、野性化し、赤い警戒色に染まっていた八九寺の瞳《ひとみ》が(人間じゃねえ)、徐々に元の色に戻っていく(念のために表記しておくが、それは青色ではない)。
「……あ、……」
と。
八九寺は立てていた爪を仕舞《しま》いつつ、僕の顔を確認して、言った。
「阿良々木……読子《よみこ》さんじゃないですか」
「概《おおむ》ねその通りであって非常に惜しい感じなんだが、しかし八九寺、人を神保町《じんぽうちょう》に本で詰まったビルを所有している大英帝国図書館特殊工作部勤務の紙使いのおねーさんみたいな名前で呼ぶな。僕の名前は阿良々木暦だ」
つーかお前、うっかり噛まずに僕の苗字《みょうじ》をそのまんま言っちゃったもんだから、下の名前で無理矢理噛んだな。
まあ、かように、僕と八九寺の間では、僕は八九寺に好きなときに好きなようにセクハラをしてもいい代わりに、八九寺は僕の名前を好きなときに好きなように噛んでいいという、紳士同盟が結ばれているのだった。
「少々お待ちください、阿良々木さん! その同盟からは日米和親条約並みの不平等さをひしひしと感じます!」
「そうか? おあいこって気がするが」
「あと、阿良々木さんのセクハラが最近真剣に犯罪のレベルに到達しつつあります! 次あたりわたしの貞操がかなり本気でピンチです!」
八九寺真宵の切実な訴えだった。
まあ、心当たりがないわけではなかった。
というか心当たりしかねえ。
なんで八九寺を相手にするときだけは、僕は自分を抑えられないのだろう。
「何言ってんだ、あれくらいのハグで。アメリカでは普通だよ」
「後ろから忍び寄ってのハグなんてありますか!」
「いつまでもそういう既成《きせい》の枠《わく》にとらわれてるところが、この国の駄目なところなんだよな」
「さっきから阿良々木さんはどこの国の人の立場で語っているんですか! ……あと阿良々木さん、阿良々木さん的にはほっぺにキスしただけのつもりでしょうけれど、何回かは微妙に唇の端《はし》とかにも触れちゃってますからね!」
「マジで!? それはごめん!」
さすがにそこまでするつもりは!
なんて不幸な事故だ!
「まったくもう。阿良々木さんに揉《も》まれまくって、最近、わたしの胸が更に大きくなった気がします。あの迷信って、案外本当だったのかもしれませんね」
「え? お前、成長とかするの?」
「失敬《しっけい》な!」
八九寺がツインテイルを天に突き立てた。
自分の意志で稼動できるのか、その髪。
どういうシステムだよ。
「いやでも、お前の価値って成長しないところにあるんじゃないのか?」
「愚かしいことを言わないでください。というか、次こんなことがあったら、羽川さんにチクりますからね」
「うっ……それは困る」
本気でやめて欲しい。
近頃、羽川と八九寺の仲がよくて困っているのだ。
それこそ、僕にとっては厄介な同盟である。
その同盟はある意味、被害者の会とも言えるが。
「しかし、それはそれとして、阿良々木さん。今日はどちらにお出かけですか?」
ころっと切り替えて、八九寺は訊いてきた。
このあたり、さっぱりした奴である。
さっぱりし過ぎで心配になるくらいだ。
「あー、お出かけっつーか」
「阿良々木ハーレムの新メンバー探しですか?」
「そんな悪趣味なグループを組織しちゃいねえよ!」
「第一期メンバーの忍野さんが卒業しちゃいましたからねえ。あのかたの穴を埋めるのは、中々大変な作業でしょう」
「仮に阿良々木ハーレムなんてものがあったとして、どうして忍野が元メンバー扱いされてんだよ! あいつはアロハのおっさんだ!」
「あんまりメンバーを増やし過ぎると物語が展開しづらいですから、気をつけてくださいね」
八九寺は何気《なにげ》にメタな台詞を吐いた。
まあ、同時に現実的な台詞でもある。
ハーレム云々《うんぬん》は戯言《ざれごと》としても、人間、全ての他人に対して常に平等であることはできないのだ。誰かの味方をすることは誰かの味方をしないということで、誰かの味方になるということは誰かの敵になるということなのである。
正義の味方は。
正義以外の味方を決してせず。
そして正義以外の敵だ。
そこには偽《いつわ》るべき要素は何もない。
つまるところ、正義とは。
全員に対する裏切り者――なのだ。
「そうだな、聞いとくよ。その言葉」
「ええ、聞いておいてください。まあ、私の出番を食うようなことがなければ、別に新メンバーが何人増えようと構《かま》いませんけどね」
「なんでお前|古株面《ふるかぶづら》よ!?」
言っとくけどなあ!
正式メンバーは忍と羽川だけだぞ(爆弾発言)!
「お前なんか所詮は『本日のゲスト』扱いだ」
「はあ、そうですか。だったら阿良々木さん、もっと上手に進行してくださいよ」
「駄目出しされたっ!?」
ゲストから駄目を出される司会進行!
これは立ち直れない!
「いやまあ、千石のことは前に話したっけ? 昔の知り合いなんだけど。今日はそいつん家《ち》に遊びに行こうって算段だ」
「ほほう」
頷く八九寺。
相変わらず小気味《こきみ》いい相槌《あいづち》を打つ少女だ。
「にしては何やら、浮かない顔ですが」
「そうか?」
「はい。ローテーションです」
「なんで僕が先発投手に組み込まれてんだよ」
正しくはローテンション。
まあ、つい先まで、暗いこと考えてたしな。
同じ屋根の下で暮らしている身内に隠しごとをしているというのは、どう考えても気分のいいことではない。
「でも、見てわかるくらいに悩んでたつもりもないんだがな。僕、そんな浮かない顔してたか?」
「ええ。まるでアニメ化されないことを散々|自虐《じぎゃく》的にネタにしてきた物語が何かの間違いでうっかりアニメ化されてしまったみたいな、そんな気まずさを感じさせるお顔をされていました」
「そんな具体的な顔してねえよ!」
「いいじゃないですか。別にアニメ化されるからと言って、完結したはずの物語の続きをやらなきゃいけなくなっちゃったわけでもあるまいし」
「何言ってんだお前!?」
本当、たまに次元を超越したこと言うよな。
こいつは。
「まあ予定外のハッピーに対してナーバスになるのはわかりますが、しかし新たな領域に踏み入ることによって、得るものは必ずありますよ」
「いや、悩んでもいないことで励まされてもな……」
そういや、忍野が昔、アニメ化アニメ化と、随分こだわっていたっけ。何を言っているのかさっぱりわからなかったが、あいつなら八九寺と、建設的な話ができるのかもしれなかった。
ん、そう言えば、八九寺は、忍野とは直接的にも間接的にも、会ったことも話したこともないんだっけ?
まあ忍野のことを思い出したからというわけではないが、僕はなんとなく、八九寺に話をあわせてみる。
「得るものって……、たとえば何だよ?」
「一言で言って、お金ですね」
八九寺は一言で言った。
一言なのに言い過ぎだ。
「……いや、他にもなんかあるだろ」
「はあ?」
見下げ果てた、みたいな表情の八九寺。
眉を寄せて、まるで軽蔑《けいべつ》さえしているかのような表情だった――おいおい、それが小学生の浮かべる表情かよ。
「この世にお金以外何かあるんですか?」
「あるよ! なんかこう……愛とか!」
「はい? 愛? ああ、はいはい、知ってます。それ、こないだコンビニで売ってました」
「売ってたの!? コンビニで!?」
「ええ。二百九十八円で」
「安っ!」
「人間なんてお金をこっちからあっちへ移動させるための交通機関みたいなものでしょう?」
「お前の人生に一体何があったというんだ! 僕はなんでも相談に乗るぜ!?」
「しかし考えてもみてください、阿良々木さん。『世の中金が全てだ!』と言うお金持ちAさんと、『世の中お金じゃないんだよ』と言うお金持ちBさん、どちらかと言えばAさんのほうが好感度高くないですか?」
「どちらかと言えばの話をするな!」
両方やだよ!
「お金の話はともかく、阿良々木さん、わたしはとても楽しみにしているんですよ。エンディングテーマで、果たしてわたし達はどんなダンスを踊《おど》るのか」
「踊ること前提かよ!」
「キャッツアイのエンディングみたいなのが色っぽくていいですよねえ」
「シルエットでいいのか!?」
しかし。
いい加減、知識の古風な小学生だよな。
いくら歴史に残る名作とは言え、キャッツアイのエンディングテーマの映像なんて、普通、今の十代は知らねえよ。
「そうじゃなくってだな、八九寺。そうだ、お前には話してもいいのか。ほら、僕って属性が吸血鬼じゃん」
「そうだったんですか!?」
「なんでそんな大事な設定を忘れてんだよ!」
またいい顔で驚くなあ。
とても演技とは思えない。
「ただのラーメン好きのお兄さんだと思ってました」
「そもそもラーメン好きという設定が初耳だ!」
「確か、全国のありとあらゆるカップ麺《めん》を知り尽くしているのでしたよね?」
「でしたよねって!」
その知識は悲し過ぎるぞ。
せめておいしいラーメン屋を巡れよ。
「全てのご当地ラーメンを味わった男、阿良々木暦……今のところのカップ麺ナンバーワンは、夕張《ゆうばり》メロンラーメンなんでしたっけ?」
「さすがにそんなカップ麺はねえだろ!」
まあ。
みやげ物関係はたまに信じられないような際物《きわもの》があるから、断言まではできないが……。
「ふうむ」
八九寺は腕を組む。
やや難しい顔をして。
「なるほど、修羅々木さん」
「ものすげー格好いいからむしろそっちの名前に改名したいくらいだが、しかし八九寺、何度も何度も繰り返して言うように、僕の名前は阿良々木だ」
「失礼。噛みました」
「違う、わざとだ……」
「噛みまみた」
「わざとじゃないっ!?」
「ファミマ見た?」
「そんな気軽にコンビニの場所を確認されても!」
愛か?
愛を買いに行くのか?
二百九十八円で!
「なるほど、阿良々木さん」
八九寺は言い直す。
難しくもなんともない、何食わぬ顔をして。
「吸血鬼。そう言われてみれば、そうだった気もしますねえ。でも、それがどうかしたのですか?」
「いや、やっぱそんなこと、相手が家族だからって大っぴらには言えないからさ。でも、ひょっとしたらいつまでも隠し通せるもんでもないのかなーって。人間に戻ったって言っても、どうしても影響は出ちゃうわけだし」
「別に馬鹿正直に言う必要はないと思いますけど。それこそ相手がご家族さんだからって、秘密のひとつやふたつ、あって当たり前だと思います」
「八九寺……」
そっか。
こいつもこいつで、家庭の問題に関しては一家言《いっかげん》ある奴だったもんな。ともすれば僕の悩みごとなど、ただの迂闊な発言になりかねないくらい。
「大体、秘密を共有するということは、否応なく相手を巻き込むということですからね。話すことで阿良々木さんは楽になるかもしれませんが、そのことでつらい思いをするのはご家族さんですよ?」
「む……もっともだな」
「そもそも長男が吸血鬼がどうとか怪異がどうとか、夢見がちなことを言い出したら、わたしだったら即座に病院にぶち込みますね」
「もっとも過ぎる!」
うーん。
まあ、それもあるんだよな。
ぶち込まれたわけではないが、戦場ヶ原の場合は、怪異を『病気』として処理していた。少なくとも家族はそのように理解していた。神原辺りは、かかわった怪異の影響で、未だ左腕が通常の状態ではないのだが……その辺り、どういう風に処理しているのだろうか。包帯を巻いた程度で、一緒に暮らしている家族まで誤魔化せるとは思えないけれど。
「今、阿良々木さんに必要なのは……そう! 秘密を持ち続ける勇気です!」
「おお! いいこと言うな!」
「まあ勇気という言葉を加味することで前向きに誤魔化しているだけで、本当はただの秘密なんですけどね!」
「ぶっちゃけた話だ!」
「勇気と最後につければ、大抵の言葉はポジティヴに置換《ちかん》できますよ」
「そんな馬鹿な……日本語はそんな単純な構造にはなっていないはずだ。何千年もかけて形成されたコミュニケーションツールを軽く見るもんじゃねえぜ、八九寺」
「やってみますか?」
「やってみろ。もしも僕を納得させることができたら、この場で逆立ちしてやるぜ」
「逆立ちですか」
「ああ。よりよい土下座を追求した姿勢だ。その代わり、僕を納得させることができなければ、お前がこの場で逆立ちするんだ……そのスカート姿でな! 僕がいいというまでお前の子供パンツを衆目《しゅうもく》に晒《さら》してもらうぜ!」
ほら!
こんな格好よく言っても言ってることが駄目なら格好よくはならない!
聞け、これが日本語だ!
「いいでしょう、その勝負受けて立ちます」
「ふん。度胸だけは褒めてやる」
「飛んで火にいる不死の鳥とはあなたのことです、阿良々木さん」
「いや、僕、そんな格好いいもんじゃねえよ!?」
「では」
こほん、と咳払《せきばら》いをする八九寺。
演出|過剰《かじょう》だ。
「まずは小手調べから……恋人に嘘をつく勇気」
「む」
やるな。
やっていることは普通に恋人に嘘をついているだけなのに、後ろに勇気とつけるだけで、まるでそれが優しい嘘であるかのようだ――そんなことは一言も言っていないのに。
「仲間を裏切る勇気」
「なんと」
すげえ。
結果として仲間を裏切っただけなのに、まるでそうすることによって仲間を守ったかのような印象がある――そんなことは一言も言っていないのに。
「加害者になる勇気」
「ううう」
唸《うな》らざるをえない。
ただ単に人に迷惑をかけただけなのに、まるで自ら汚れ役を買った男の中の男を見ているような気分だ――そんなことは一言も言っていないのに。
「痴漢《ちかん》する勇気」
「ち……畜生」
完璧に劣勢だ。
痴漢という卑劣極まりない犯罪を犯しているにもかかわらず、まるでまったく別の目的があって、その確固たる目的のためにやむなく冤罪《えんざい》をかぶったかのようでさえある――そんなことは一言も言っていないのに!
「怠惰に暮らす勇気」
「な、何てことだ……」
最早後がない。
何もしてなく無駄に時間を消費しているだけのはずなのに、あえてその境遇に身をやつし、大義《たいぎ》のために貧窮《ひんきゅう》に喘《あえ》いでいるかのようだ――そんなことは一言も、本当に一言も言っていないのに!
だ、だけど!
今僕は負けを認めるわけにはっ!
「負けを認める勇気」
「……負けを認める!」
ああ!
言葉の格好良さにひきずられてつい負けを認めてしまった!
実際は負けを認めただけなのに!
日本語って簡単だな!
ちなみに勇気は英語でブレイブ!
「さあ、阿良々木さん。よりよい土下座を追求してください」
「いいだろう――逆立ちする勇気だ」
逆立ちした。
家の近所で。
それこそ、こんな姿を火憐や月火に見られれば言い訳の仕様がない……いや、そんなことないか。月火はともかく、火憐は小学生の頃、よく逆立ちして学校に行ってたし。登校班の物笑いの種だった。腕を鍛《きた》えているんだと彼女は言い張っていたが、鍛えられたのはむしろ僕の差恥心《しゅうちしん》である。
「うわー……、そこまで育った人間が逆立ちしてるの見ると、かなり引きますねえ。もうやめていいですよ」
「…………」
「いや、もうやめていいですって、阿良々木さん」
「…………」
「ていうかやめてください、阿良々木さん。そばで見ているわたしのほうが恥ずかしいです。どうしてそこまで頑なに、さながら今は亡き友人との約束の如《ごと》く、逆立ちをし続けるのです」
「いや、何て言うか」
僕は言う。
逆立ちの姿勢で八九寺を見上げたまま。
「お前の逆立ちが見られなかったのは残念だけど、僕が逆立ちしたところで、結局この角度からだと、お前のパンツは見えるんだなと思ってさ」
この勝負。
最初から僕に負けはなかったのだ。
「はうっ!?」
差恥に赤くなった少女八九寺が取った行動は、『スカートを押さえる』ではなく、『僕の顔面を蹴る』だった。躊躇なく放たれたいい感じのローキックが、最高の角度で僕の顔面に決まった。ローキックが顔面に決まるというシチュエーションもなかなかあるもんじゃねえ。
「阿良々木さん! あなたは変態です!」
「変態の汚名を受ける勇気!」
「うわ、格好いい! パンツくらいいくらでも見せてあげようという気になるくらい格好いいです! 顔面を蹴られてもいまだ逆立ちを続けるところが特に!」
驚異《きょうい》の平衡感覚だった。
我ながら。
「まさかわたしの開発した技術によってわたし自身が苦しめられることになろうとは……皮肉です!」
「ははは! 技に溺れたな、八九寺! お前の奥義《おうぎ》は僕によって完成されたのだ!」
「な、なんということでしょう……わたしは取り返しのつかない化物を生み出してしまったのかもしれません……!」
「けれど、子供パンツなんて言って悪かったな。まさか八九寺が黒のスケスケパンツを穿いていようとは思わなかった」
「はいっ!? 何を言ってるんですか、よく見てください! やめてください、イメージが悪くなります! わたしはちゃんと需要に応えて、子供パンツを穿いていますっ! うさぎさんが描いてあるでしょう!」
「うさぎさんなんて見えんな。見て欲しいならもっと見やすい姿勢を取れ」
「こ、こうですかっ!?」
まあ。
本当にご近所で評判になっては困るので、僕はそのまま体重を移動させ、両足を地につける。
あーあ。
手が汚れちゃった。
ぱんぱん、と僕は手を払う。
本当に汚れたのは心かもしれなかったが、心の汚れは払いようがないのだった。
「で、八九寺、何の話してたっけ?」
「阿良々木さんはパンツが大好きだという話です」
「いや、別に好きってほどじゃねえよ。羽川に訊いてもらえばわかる」
「…………」
珍しく相槌を打たない八九寺。
ひょっとして羽川から何か聞いているのだろうか。
だとしたら僕の人生は大ピンチだ。
被害者の会はやはり厄介な存在である。
早急に対策を打たなければならない。
「そうそう……怪異関連のことは、秘密にしておくのが吉って話だっけか」
「はい、そうでした」
「ま、確かに病院にぶち込まれるのは僕としても勘弁だ。ほんのわずかに残っている不死性さえ、いい研究対象になっちまいそうだし」
「別に、阿良々木さんが頭の可哀想《かわいそう》な人扱いされるだけならいいんですけれど」
八九寺は酷い前置きをして。
それから言った。
「怪異を知ると怪異に絡む[#「怪異を知ると怪異に絡む」に傍点]――ですからね。巻き込むのならともかく――そっちが本筋になってしまえば、むしろ巻き込まれるのは阿良々木さんということになります」
怪異を知ると怪異に絡む。
それは忍野の言葉だっただろうか。
一度でも怪異にかかわってしまったものは、そちらの世界に引きずられやすくなり、逃れようもなく惹《ひ》きつけられる――とか。
猫に魅せられた羽川も。
蟹に遭った戦場ヶ原も。
蝸牛に迷った八九寺も。
猿に願った神原も。
蛇に巻かれた千石も。
無論。
鬼に襲われた僕も、言うまでもなく。
半ば、あちらの世界の住人だ。
片足を棺桶《かんおけ》に突っ込んでるようなものだ――それもただのたとえ話ではなく。
ならば。
知らせるべきでは――ない。
相手のことを思うならば。
火憐と月火のことを考えるならば。
「いっそリスクまで含めて全てあますところなく開示して、ご家族さんにもばっちり覚悟を決めてもらうという手も、あるにはあるんですけれどね。しかし、その方法はいくらなんでもリスキー過ぎるでしょう」
「そうだな。さすがにハイリスクだ。しかも、だからってハイリターンってわけでもなさそうだし。それならむしろローリスクローリターンを地でいきたいもんだぜ」
「ロリリスクロリリターン? これは驚きました、阿良々木さんはものすごい主義を地でいくおつもりなんですね」
「いかねえよ!」
とにかくこいつは僕をロリコン扱いしたがるよな。
まったく違う。
僕にはロリコンの片鱗《へんりん》もない。
そもそも、僕の実際の彼女であるところの戦場ヶ原に、ロリの要素は微塵《みじん》もないのだ。
あいつはどちらかと言うと実年齢以上に大人っぽいタイプ。
「いえ、だからそれは偽装《ぎそう》カップルなんでしょう?」
「そんなわけあるか! なんだよ偽装カップルって、その新鮮な用語は!」
「阿良々木さんは本当はロリでわたしのことが好きですし、戦場ヶ原さんは本当は百合《ゆり》で神原さんのことが好きですし」
「うわ、リアルでやだ! 考えたくない!」
確かに僕はお前のことが好きだけど、後半はキツい! 最近本気で仲睦《なかむつ》まじいんだよ、あのヴァルハラコンビ!
それはもう空白を埋めるかのように!
「まあ、それはともかく、ローリング阿良々木さん」
「僕に面白いキャッチをつけるな! あとローリングにロリコン的な意味合いはねえよ!」
「そんなこと言って阿良々木さん、一人暮らしを始めるときには、どうせフローリングの部屋に住むんでしょう?」
「この時代に一人暮らしをしようと思ったら、大抵の部屋はフローリングだろうよ!」
「釣りをなさるときは、トローリング」
「トローリングの意味なんて知るか!」
語彙《ごい》の豊富な奴だよな!
どんな小学生だよ!
八九寺は「ふう」と、息をついた。
間を置いたらしい。
「あのですね、クララ木さん」
「一字違いで大違いということを示す意味では中々の好例ではあるが、しかし八九寺、僕をアルプスの少女に応援されて立ち上がりそうな車椅子の令嬢のように呼ぶな。クララ木さんは立たねえよ。僕の名前は阿良々木だ」
「失礼。噛みました」
「違う、わざとだ……」
「噛みまみた」
「わざとじゃないっ!?」
「鍵マニア」
「またびっくりするくらい違うとこに着地したな!」
噛みましたっつーか、最早神がかってるよ!
お前の日本語!
「あのですね、阿良々木さん」
八九寺は言う。
言い直す。
「怪異というのは――いわば舞台裏《ぶたいうら》なんですよ」
「舞台裏?」
「普通、舞台の上だけ見ていればいいんです――それが現実というものです。にもかかわらず、たまに舞台裏を覗《のぞ》きたがる輩《やから》が現れて、無粋《ぶすい》なことを言い放つわけです」
「…………」
「知らなきゃ、知らないほうがいいことなんですよ。まして、その舞台裏を知ったことで、まるでそれで世界の仕組みを解明したかのごとき思い込みをしてしまうなんて、酷く的外《まとはず》れな話で――むしろ怪異を知ることで、知らないことが増えただけのことなんですよ」
「……そっか」
なんと言うか。
言うようになったな、こいつも。
昔はそもそも、怪異のことさえよくわかっていなかったはずなのに――いや、こいつがよくわかっていなかったのは、むしろ自分自身のことだったのかもしれない。
そして。
知らないと言うなら――何も知らないのだ。
だからこそ、言えることもある。
ならば。
僕もまた――そうであるべきだろう。
「ま、いいんじゃないですか? あんまり複雑に考えなくとも。今はどうしようもない悩みごとに思えても、百年後には笑い話になってますよ」
「随分かかるんだな!」
多分僕、その頃には死んでるよ!
死んじゃってるよ!
「ええ。つまり生前散々悩んだ挙句、死後、笑い物にされるのです」
「最悪だ!」
「人の噂も七十五人と言いますし」
「そこまでの人数に伝播《でんぱ》するの!?」
「現代はネットがありますからね。七十五人に知れたら世界中に知れたと同義です」
「やなこと聞いた!」
「悩んでも結論の出ないことは、悩むまでもないことなのです。今の阿良々木さんは、『あたしの声、なーんかアニメ声なんだよねー』と悩んでいる、声優さんみたいなものです」
「確かに、そんな無意味な悩みはねえな……」
「それはそれとして阿良々木さん。『ファンレターいつもありがとう! ちゃんと全部読んでます!』という漫画家さんと、『ブログに感想いつもありがとう! ちゃんと全部(検索して)読んでます!』という漫画家さん、行為としては同じことなのに、どうしてこうも印象が違うのでしょうね?」
「現代社会の闇を斬っていただきました!」
いや。
そんな大袈裟なもんじゃねえよ。
「ですから、阿良々木さん」
八九寺は言った。
「阿良々木さんは、もしもご家族さんが、不幸にも舞台裏に足を突っ込んでしまったとき――そのときにはそっと、導いてあげればいいんですよ。それまでは、何もしないのが正解です」
「……そっか」
何もしないのも――選択肢のうち。
そうだよな。
「強《し》いて言うなら、変に意識しないことですね」
「ん。まあそうかも」
取っ組み合いの喧嘩くらい、しておくべきなのかもしれない。月火が思っているほど、僕だって大人になったわけじゃない。
単に、舞台裏を覗いただけなのだ。
だから――ガキなのはお互いさまだ。
「そう。強いて言うなら『妹を』、変に意識しないことですね」
「妹を強調するな! 違う意味に聞こえる!」
だから『家族』ってぼかしてたのに!
バレバレかよ!
「……と。随分話し込んじゃったな」
千石の家に行く途中だった。
そろそろ行かなきゃ。
「悪かったな、八九寺。引きとめちまって。お前もどっか行く途中だったんだろ?」
「ああ、いえ。別にそういうわけでは。わたしはいつだって、道に迷っているだけですよ」
「そんな馬鹿な……」
「強いて言うなら、阿良々木さんの家ってこの辺だったかなー、最近お会いしてないなー、ひょっとしたら会えるかなー、とか、そんなことを考えながらのお散歩でした」
「おう」
なんとまあ。
嬉しいことを言ってくれる。
「よしよし、八九寺。今度から、僕を見かけたらお前のほうからハグしてきていいからな」
「いや、そういう気持ちはありません。勘違いしないでください。ぶっちゃけ阿良々木さんはまるでわたしの好みではありません」
「小学生に振られた!」
ショックだ!
こんな衝撃はない!
ツンデレじゃない奴に勘違いしないでくださいって言われた!
「……ちなみにお前の好みってどういうのよ」
「仙人みたいなかたにときめきます」
「年上キラーにも程がある!」
最低あと何世紀か生きないと駄目だ!
ハードル高っ!
「おかしいな……お前と僕は共に数々の冒険をし、死地をかいくぐってきているはずなのに」
「それがどうしたんですか」
「吊り橋効果って知ってる?」
「ああ、吊り橋の上でふたりっきりになると、別に嫌いじゃない相手でもつい突き落としたくなるっていう例の心理学ですか?」
「そんな怖い話じゃねえよ!」
まあ。
それはそれで、実在しそうな心理学だけどな。
駅のホームで電車が来るのを待ってるときに、理由もなく前の人を突き飛ばしたくなるような、そんな衝動。
吊り橋効果の真逆《まぎゃく》である。
「ていうか、そもそもわたし、阿良々木さんと数々の冒険をし、死地をかいくぐってきたという経験がありませんが」
「何を言ってるんだ。僕のアバン流刀殺法で、何度お前を助けてやったことか」
「阿良々木さん、アバンの使徒だったのですか!?」
「そう。勇者なのに殺法」
「まったく記憶にございません」
「ああ、そうか。冒険のラストでお前は僕を庇《かば》って頭部に受けた外傷が原因で、記憶喪失になってしまったんだったな」
「そんな感動的なラストが!?」
「そうなんだ。病院のベッドで目を覚まして、お前はすぐに言ったものだよ」
「『ここはどこ、わたしは誰?』と?」
「いや、『高校はどこ、わたくしりつ?』と」
「記憶を失ってなお学歴社会の虜《とりこ》です!」
「お前は僕のことを忘れてしまっても、僕は決してお前のことを忘れない」
「で、では、献身的にわたしを介護する阿良々木さんの画でスタッフロールだったのですね!」
「いや、お前の妹と結婚して終わった」
「わたし、すっかり忘れられてます!」
「違う! お前はいつも僕の心の中にいるんだ!」
「病院にいるんでしょう!?」
その通りである。
そもそも八九寺に妹はいないが。
一人っ子だ。
「いいさ。そのうちお前が惚れるような男になってやる。そのときになって告白してきてももう遅いからな」
「遅いんですか?」
「いやごめん意地張ったいつでも待ってる死ぬ寸前でもいいから告白して」
情けない姿勢だった。
惚れられる要素はひとつもない。
「じゃ、また」
「ええ、またお会いしましょう」
「八九寺さ」
僕は。
野暮にも、別れの挨拶《あいさつ》のあとに、問いかけた。
つい、訊いてしまった。
それは訊くべきではないかもしれないことだったが、つい。
「お前、いなくなったりしないよな」
「は?」
僕からの質問に、首を傾《かし》げる八九寺。
本当に不思議そうに。
「いや、ほら――しばらく会えなくて、心配したのは本当でさ。忍野もどっか行っちゃったし、あんな風に、お前もいつかいなくなっちゃうんじゃないかって――」
いや。
それは八九寺の都合で。
むしろそちらのほうが、八九寺にとってはいいのかもしれないけれど――それが八九寺の家庭の事情なら、そうあるべきなのかもしれないけれど。
でも、何ていうか。
それでも、だ。
「いひひ」
八九寺は。
なんだか愉快そうに、笑った。
子供らしい笑顔だった。
「いつも他人の都合ばかりを考えている阿良々木さんがそんな風に、自分の都合を押し付ける相手って、多分わたしか、精々忍さんくらいのものでしょうね」
「む」
「やっぱ阿良々木さんはローリングです」
「むむう」
心外だ。
そもそも忍は五百歳だっての。
ローリングどころかロートルである。
「光栄に思いますよ、本当」
「八九寺――」
「こちらからも質問ですが、阿良々木さん。もしもまた、わたしがどうしようもなく困っていたら、そのときは助けていただいても構いませんか?」
助ける。
忍野が徹底して嫌った言葉。
だけど――僕は。
やっぱり、あの男に助けられたと思うのだ。
そして。
あの男のように、助けたいと思うのだ。
「助けるよ。当たり前だろ」
僕は即答した。
「他の奴にお前を助ける暇なんて与えない」
「ご相談してもよいと?」
「つーか、僕に相談しなかったら怒るからな」
「阿良々木さんらしいお言葉です」
八九寺は、はぐらかすようにそう受ける。
その笑顔は。
どこか、儚《はかな》げにも見えた。
「わたしが、迷子でなくなった後もこの町にい続けていることには、きっとちゃんとした意味があるのです。その意味がわかるまでは、わたしはいなくなったりはしませんよ」
八九寺は、自分のことなのに――それがまるで他人事《ひとごと》であるかのように語った。
ある意味、他人事なのだろう。
わからない自分は、誰よりも他人だ。
「意味がある――か」
「ええ。ですからたとえアニメ化されていなくとも、続編は存在したはずなのです」
「…………」
またわけのわからない発言を始めた。
本当に意味がわからない。
「大体、前の締めかたじゃ、わたしのことをあまりに投げっぱですからね。忍さんを探しに出たまま、わたしは一体どこに行ってしまったのですか」
「僕に訊かれても困るけど……お前がどこに行ったのかなんてお前しか知らねえよ。どうせ迷子にでもなってたんだろ」
うーむ。
そういや、こいつエピローグ不参加だったな。
やはり司会進行に難があったのか。
あとで反省会だ。
「だけど、八九寺。僕はお前がいなくなっちまうくらいだったら、続編なんかなくてもいいよ。お前がこの町にい続けている意味なんて、わからないままでいい」
「嬉しいことを言ってくれますねえ。まあ、いつか、わたしがいなくなるとしても」
そして。
自分自身に言い聞かせるように言う八九寺。
「そのときはきちんと阿良々木さんにはご挨拶させていただきますよ」
「……そっか」
似たような台詞を言って。
結局、何の挨拶もなく去っていったあの男のことを思い出しながら――しかし、僕は頷いた。
「そうか。じゃあ是非《ぜひ》、そうしてくれ」
「ええ。怒られるのは怖いですからね」
八九寺は、重ねてはぐらかすようにそう言って。
笑顔を消した。
005
中学二年生・千石撫子の最たる特徴《とくちょう》と言えば、大人し過ぎる性格もさることながら、その前髪であると僕は思う。伸ばした前髪をサイドに分けることなく、まるで流川楓《るかわかえで》の如く垂《た》らしているので、もうなんかちょっとしたアイシールドみたいになっている。千石自身は、髪と髪の隙間《すきま》、スリットから視線を通せるらしいのだが、外側からは彼女の瞳はほとんど観察できない。まあ、その特徴的な髪型は一種異様な雰囲気さえかもし出しているわけだが、基本的にそれは彼女の人見知りな属性に由来しているので、仕方ないと言えば仕方ないのだった。
そう言えば、外出するときは帽子をかぶることの多い千石なのだが、一般的に帽子は心の壁のメタファーでもあるらしい。忍野からも照れ屋ちゃん呼ばわりされていた千石ではあるけれど、しかしあのレベルになると人見知りとか照れ屋ちゃんとか言うより、ほとんど人間不信だよな。
兄的存在としては彼女の先行きが不安である。
あれでどうやって世間を渡っていくのだろう。
まあそんなことを思いつつ、千石の家のインターホンを押したわけだが(ちなみに千石の家は一般的な二階建ての民家である。戦場ヶ原のような古アパート暮らしでもないし、神原のような馬鹿でかい武家屋敷住まいでもない。普通だ)、迎え入れられて僕はびっくりした。
いや、びっくりなどという言葉では不足である。
驚愕《きょうがく》した、と言っていい。
驚々愕々した。
千石が前髪をあげていたのだ。
可愛らしいピンク(ショッキングではない、大人しめのピンク)のカチューシャで、サイドの髪ごと、後ろに回していた。
目元がはっきり見える。
というか、顔がはっきり見える。
こいつ、こんな顔をしていたのか。
思った通りではあったが――それでも思った以上に、可愛らしい顔だった。相手は年下の妹的存在なのに、ちょっとドギマギしてしまうくらい。
いつも俯《うつむ》きがちな彼女が、この日ばかりは胸を張って、僕を出迎えてくれたのだった。
心なし、頬《ほほ》を染めているようにも見えるが。
そんなに遊びたかったのだろうか。
「……千石、家ではそうなのか?」
「え……えと」
しどろもどろだった。
ああ、いつもの千石だ、と安心する。
ひょっとしたら別人かもしれないとさえ思ったが、ただ質問されただけなのにこれほど取り乱すとは、間違いなく千石だ。
「そ、そうって、どう」
「いや、ほら、その前髪」
「ま、前髪? な……何のことかな」
恐るべきことに、千石はとぼけた。
いや、わからないわけないだろ。
「べ、べ、別に、暦お兄ちゃんが初めてうちに遊びに来てくれるんだからって、勇気を振り絞ったりなんて、撫子、してないよ」
「ふうん……」
まあ。
本人がそう言うのなら、そうなのだろう。
おそらく家の中では、そのカチューシャが当たり前なのだろう――千石のまだ青白い太ももを晒す結果となっている丈《たけ》が短めのスカートや、可愛いキャミソール、その上に羽織った薄手のカーディガンも、きっと普段通りの部屋着に違いない。何しろもうすぐ八月だ、夏も真っ盛りだしな。
危ない危ない、危うく千石が僕のために精一杯のお洒落《しゃれ》をして出迎えてくれたのかと、勘違いをするところだった。何を考えてるんだ、それじゃあまるで千石が僕のことを異性として意識しているみたいじゃないか。
あり得んあり得ん。
可能性皆無である。
「さ、暦お兄ちゃん。あがってあがって」
「ああ、うん……あれ?」
玄関口で靴《くつ》を脱いで、気付く。
土間に全然、靴がない。
このスクールシューズは千石のだよな?
他に、ご両親の分の靴があるはずなのだが……。
「……千石、お父さんかお母さんは?」
「うちの親、土曜日も勤めに出てるの」
「へえ、じゃあ僕の家と一緒だ……だから電話には千石が出たのか」
って待て。
両親不在、娘ひとりの家に、僕がずかずかとあがりこんでしまっていいものなのか? 僕はてっきりご両親がご在宅だと思って……しまった、やっぱり無理にでも月火を連れてくるべきだったのか、いや、今からでも遅くない、そもそも日を改めるべきじゃないのか。
そう思っているうち。
がちゃり。
がちゃり。
と、千石が玄関に鍵をかけた。
ワンドアツーロック。
ご丁寧《ていねい》にチェーンまで掛けた。
ふむ、千石の防犯意識はしっかりしているらしい。……なら大丈夫か。それだけ信頼されてるってことだろうしな。
信頼には応えなければ。
それは年上の人間としての義務である。
「撫子の部屋、二階だから。階段」
「ああ、子供部屋は大体そうだよな」
「もう準備してあるから」
「ふうん」
言われるまま、階段を昇る。
千石の部屋は六畳ほどで、いかにも中学生の女の子の部屋といった感じだった。部屋のそこかしこから(それこそ、壁紙からカーテンからドアノブカバーから)、ストロベリー色の女子オーラが溢《あふ》れている。呼吸すると空気が甘い。なんというか、僕の妹達の部屋とは大違いだ。
ん。
しかしあのクローゼットからだけは、ストロベリー色の女子オーラを感じないな。
むしろなんだか……。
「千石、あのクローゼット……」
「開けないで」
はっきりと、最早強硬と言っていいほど力ある口調で千石は言った。『クローゼット』の『ロ』の段階で返事してた感じだ。『クローゼット』の『ト』を言い切る前に、千石の言葉は終わっている。
「開けたら暦お兄ちゃんでも許さないから」
「…………」
まさか『許さない』なんて言葉が千石のボキャブラリーの中にあったとは、驚きだ……やっぱ人の家には来てみるもんだな。
がちゃり。
僕が完全に部屋の中に入ったのを見て、後から入った千石が、部屋の鍵を閉めた。さすが思春期に入り立て女子の部屋、鍵がついているのか……って、おい。
玄関のドアはともかく、この部屋の鍵を閉める意味がまったくわからないのだが。
なんか閉じ込められた?
いやいやまさか。
千石がそんなことをするはずがない。
する理由がないじゃないか。
きっといつもの癖で閉めちゃったんだな……人見知りで照れ屋な千石だ、普段から施錠《せじょう》の習慣がついていたとしても不思議ではない。
絨毯《じゅうたん》の上に置かれた盆には、ジュースとお菓子が用意されていた。なるほど、これが千石の言っていた『準備』か。
可愛らしいものだな。
「じゃ、暦お兄ちゃん――そこに座って」
「そこって、ベッドの上か? いいのか?」
「うん。ベッドの上以外に座ったら駄目」
「…………」
千石には選択肢という概念がないのだろうか。
何々以外は駄目、ばかりである。
消去法主義者なのだろうか……初めて聞いたな、そんな主義。
僕はベッドの上に座り、そして千石は、勉強机(くるくるメカだ)の前の回転椅子に座った。
「ふ、ふう。この部屋、なんだか、暑いよね」
言って千石はカーディガンを脱いだ。
おもむろに。
いや、この部屋って、お前の部屋だろ。
「暑いんなら、そこの壁に据《す》え付けられているエアコンを入れればいいんじゃ……」
「だ、駄目だよっ! 暦お兄ちゃんはこの地球がどうなってもいいの!?」
地球が人質に取られた。
なんて壮大な人質だ。
「地球温暖化は二酸化炭素で大変なんだよっ……炭素が酸化されるだけでも大変なのに、それがダブルなんだよっ」
「そ、そうか……」
仕組みを何も知らないことが窺《うかが》える説明だった。
まあ、実際のところ地球温暖化って、何で起こってるかわからないらしいけどな。氷河期があればその逆もあるだろうし、二酸化炭素が原因かどうかも、本当は不明なんだってさ。
「そ、それに、暦お兄ちゃん、エアコンなんて昔はなかったんだから……心頭滅却《しんとうめっきゃく》すれば火もまた鈴虫だよ」
「火から生命を作り出すとは、それは斬新な錬金《れんきん》術だな……」
神の域じゃねえか、それ。
超すげえ。
「こ、暦お兄ちゃんも、暑いんだったらそのパーカーを脱いだらどう?」
「ん? 僕か?」
「暑くなくとも、暦お兄ちゃんはそのパーカーを脱ぐ以外ないんだよ」
「脱ぐ以外ないとは……」
恐ろしい惑星だ。
神原辺りが大喜びである。
まあ中学生くらいなら環境問題に敏感《びんかん》になるのも無理はない、ここは付き合ってあげるのが『お兄ちゃん』としての正しい態度だろう。確かに暑くないわけではないし……実を言えばまるでつい先ほどまでこの部屋では冷房どころか暖房がつけられていたかのようだと感じていたのだ。
パーカーの下は二の腕がむき出しのタンクトップのシャツである。千石がキャミソールなので、なんだか二の腕コンビみたいだ。
けどまあ、僕はともかく、男の前で平気でそんな露出《ろしゅつ》の高い格好になれるなんて、千石もまだまだ子供なんだなあと思った。
「じゃ、暦お兄ちゃん。まずジュースを飲もうか……コップはひとつしかないんだけど」
「なんでひとつしかないんだ!?」
ここまで準備しておいて、その手抜《てぬ》かりは一体!
「べ、別に回し飲みで構わないよね――撫子と暦お兄ちゃんは、兄妹みたいなものなんだし」
「いや、まあ、構わないけど……」
キッチンに行って今からでもコップを取ってくるという選択肢はないのだろうか。いや、千石に選択肢はないんだったな。
きっと回し飲み以外は駄目なのだろう。
しかしなんだろう、この囚《とら》われの小動物みたいな気持ちは……小動物なのは、むしろ千石のほうのはずなのだが。
とりあえずジュースを飲む。
うっすらアルコールみたいな味がした。
「……千石。これ、お酒じゃねえよな?」
「ううん、違うよ」
首を振る千石。
「ただのコーラだよ」
「まあ、確かに味はコーラだが」
「強炭酸だけど」
「まだ生産されてたのか、あれ!?」
強炭酸コーラ。
炭酸で人を酔わすという、恐怖の飲み物。
そう言えば用意されているお菓子もチョコレートボンボンばっかりだし、まるで客人を酔わせて前後不覚に陥《おとしい》れようとしているかのような品揃えだ。
恐ろしいラインナップである。
勿論こんなのはたまたまに決まっているし、中学生に客人のもてなし方を要求するほうが無茶だろうから、文句を言うのはやめておこう。むしろ珍しいものを味わわせてもらったと思えばいい。
「部屋にテレビとか置いてねーのな」
「うん。テレビはあんまり見ない。目が悪くなっちゃうから」
「…………」
ならば、あの普段の前髪は一体。
あまりにも巨大な穴過ぎて、逆に突っ込みづらい。
あるいは、前髪を長く伸ばしたいがために、千石は人よりも強く視力には気を遣っているのかもしれない。
「じゃあ、テレビゲームもあんまりやらないのか。今はテレビがなくともポータブルな奴でできるけれど」
「うん。あんまりやらない……有名どころを、ちょっとだけやるくらい」
「そっか。で、たとえば有名どころって?」
「メタルギアとか」
「あーあー」
「MSX2で」
「ああっ!?」
MSX2ユーザー!?
そんな中学生いるのかよ!?
相変わらず意外性のある女子だ。
「本体、一階のリビングにあるけど……暦お兄ちゃんがどうしてもって言うなら、予定にはなかったけど、やる?」
「いや、人ん家来て一人用ゲームとかありえないだろ……」
「なら、ポピラ2もあるけど」
「ポピラ2すか!?」
プレステ2はねーのかよ。
「ともかく、千石。今、予定があるみたいな言いかたしてたけど、じゃあ、その辺も何か準備してあるのか?」
「うん」
千石は、割り箸《ばし》を二本取り出した。
一本は先っぽが赤く塗られている。
「王様ゲーム、しよ」
「…………」
えーっと。
何から説明すればいいのかな。
難しいな。
「千石……そもそもお前、王様ゲームって何か知ってるのか? トランプのキングは何も関係ないんだぞ?」
「知ってるよ。船長さんの命令みたいなものでしょう?」
「うーん」
当たらずといえども遠からず。
サイモン・セッズだ。
「王様の言うことは、接待《せったい》」
「政治的過ぎる!」
千石の、ボケなのか何なのかよくわからない台詞に、まずは突っ込んでおいて。
僕は割り箸を見る。
「まあ、僕もやったことがないから詳しくは知らないけれど、千石、王様ゲームって多分二人でやるような遊びじゃねえだろ」
「何で?」
首を傾げる千石。
「撫子は別にどっちも平気だよ。命令するのも、されるのも」
「ま、まあ、王様ゲームはやめておこう」
まだ何も知らないんだろうなあ。
そういう無垢《むく》さは見ていて気持ちいいが、しかし時折対応に困らされる。まったく、赤ちゃんの作り方を訊かれたお母さんの心境だ。
予定が崩れたからか、千石は少しだけ戸惑ったような顔をしたが、しかし挫《くじ》けることなく、その割り箸を脇に置いて、
「じゃ、人生ゲームしようか、暦お兄ちゃん」
と、そんなことを言った。
「人生ゲームか。うん、いいな」
「人生の言うことは、絶対」
「深っ!」
和室の物置にあるはずだから、と千石は一旦部屋を出て行った。「クローゼットは開けちゃ駄目だけれど、あとは好きにしていていいから。そこのアルバムとか見てて」とのこと。
なんでアルバムを見せようとするのか。
意味不明である。
千石は随分と時間が経ってから戻ってきた――心なし、本棚のアルバムの位置が変わっていないのを見てがっかりしたようにも思えたが、うん、多分気のせいだろう。
ちなみに、その本棚に並んでいる本のラインナップは、随分と個性的だった。というか、漫画が一冊もなく、岩波文庫の古典文学ばかりが並んでいて、中学生にしては異質の本棚だ。まるで、普段からこんな本を読んでいるのだと、自身の大人っぽさをアピールしているようでさえあった。それらは普段は父親の書斎にでもある本で、千石が僕という客人に対して見栄を張っているのだと、そんな心無い誤解をする人さえいるかもしれない。
……でもこいつ、すげー漫画読みだった気が。
ドッジ弾平の最終回とか知ってんだぜ?
しかしまあ、人生ゲームとは随分久方ぶりだ。
子供の頃、約束手形の使い方がよくわからなくて、苦労した憶《おぼ》えがある。
「あ、そうだ。それこそ昔、僕と千石と月火で、一緒にやったことがあるんじゃないか?」
「うん、憶えてるよ」
「そっか」
「そもそも忘れたことがない」
「…………」
まあ、確かに千石は昔のことをよく憶えているよな。僕なんか、割と昔の千石って、記憶に薄いんだけど……俯きがちな子供だったことくらいは憶えてるんだけどな。
ルーレットを回す。
これもこれで、もっと多人数でやったほうが楽しい遊びなんだろうけど、やっぱり突き詰めればすごろくみたいなものなので、ルーレットを回して、自動車型のコマを進めるごとに色々と一喜一憂《いっきいちゆう》があって、割と盛り上がった。
童心に返る気分だ。
……ただ、なんと言うか。
千石が絨毯の上のボードにかぶりつくような姿勢を取っているので、キャミソールの内側がちらちらと見えてしまうのが目の毒だった。ただでさえ正面に座っているから、短いスカートの奥とかが際どい感じだというのに。
まったく。
子供とは言え、相手が千石じゃなかったら、僕はひょっとしたら誘惑《ゆうわく》されてるんじゃないかと勘違いしてしまいかねないくらいの、そんな危険な体勢である。いつかも思ったことだが、千石はつくづくガードする場所を間違えている……あれ? 前にそう思ったときは、確か千石は『ガードする場所』として、前髪を選んでいたんじゃなかったっけ? でも今日は、そっちもそっちで全開だし。
よくわかんないや。
ていうかキャミの下ってブラつけないんだな。
そういや、そもそもキャミ自体が下着みたいなもんなんだっけ……よく知らないけど。うちの妹は、でっかいほうもちっちゃいほうも、そういうオシャレ系の私服には縁がねえからなあ。
ジャージと着物だ。
まあ、なんにしても、暦お兄ちゃんは千石の身体を見てもいやらしい気持ちになったりはしない。僕が紳士でよかったな、千石。
「あ……結婚のマスだ。暦お兄ちゃん、ピン取って」
「おう」
「……撫子、結婚するなら、暦お兄ちゃんがいいなあ」
「ん? え、今の人生ゲームってプレイヤー同士で結婚できるシステムがあるの?」
僕の知っている頃にはなかったが。
「ん……いや、ないんだけど、でも、ほら、理想的には」
「ふうん」
ああ。
そう言えば火憐も月火も、昔は『大きくなったらお兄ちゃんと結婚する』なんて言ってくれてたもんだよなあ。
懐かしいや。
まあ、さすがに千石もそこまで子供ではないだろうから、今のはそう、リップサービスみたいなものだろうけど。
「リップサービス?」
そう言うと、千石は不思議そうな顔をした。
「……ちゅーのサービスのことかな」
「全然違う!」
「恥ずかしいけど、暦お兄ちゃんがそういうサービスをして欲しいなら」
「いやいやいやいやいや!」
どんな兄的存在だよ!
ただの変態じゃねえか!
「そうだ……前から思ってたんだけど、暦お兄ちゃん」
「ん? なんだよ」
「この暦お兄ちゃんって呼び方も、なんだか、幼いよね。暦お兄ちゃんは撫子の本当のお兄ちゃんじゃないんだから」
「…………」
なんか昔、神原とこんな会話をした憶えがあるぞ。
確かロクな結果に終わらなかった気がする。
著《いちじる》しく嫌な予感がするが、しかし話を逸らすのは不自然な状況だ、ここは見《けん》で、流れに身を任せてみるとしよう。
僕としては、千石が今でも昔のように、僕のことを『暦お兄ちゃん』と呼んでくれることは、素直に嬉しいんだけどな。
「まあ、別に呼び方なんて好きにすればいいけどさ。何て呼びたい?」
僕からの質問に、まるでずっと前から答を決めていたかのように、千石は答えた。
「あなた」
「………………」
…………。
なんだ。
なあんだ。
普通の二人称代名詞じゃないか。
まったく不自然なところがない。
結婚の話が出た直後であることなど考慮する必要は全然ないだろうし、おやおや、僕の嫌な予感も最近は外れるようになったのかな。一時期は百パーセントの的中率を誇ったというのにな。
「うん。別に構わないぜ」
「じゃ、じゃあ」
千石は、何故か不思議なことに頬を赤らめて恥ずかしそうに(しかし前髪をあげた千石は、意外に表情豊かな奴だ)、
「あ……あなた」
と、言うのだった。
変な奴。
「あのさあ千石、お前さあ……」
「お。お前って」
千石の顔が更に赤く染まる。
激しく動揺しているようだった。
「あなたに対してお前って……わ、わ、はわわ」
「え?」
それも普通の二人称代名詞だろう?
なんかさっきから、互いの日本語がまるでかみ合っていないような気が。
日本語のプロ、八九寺に今度教えを仰ぐべきか。
「まあいいとして――千石。最近、なんか変わったことないか?」
「え、ど、どういう意味かな」
「いや、こないだみたいなことは、ないかって」
正直、露出の多い今の千石の格好を見て思い出したことである。僕と、数年ぶりに再会したときの千石は、とてもじゃないがこんな肌を露出させる格好はできなかったのだ――
怪異の所為《せい》で。
そして、人間の所為で。
まあ忍野|曰《いわ》く、千石の場合は、僕や羽川、戦場ヶ原や八九寺の場合とはケースが違うので、一概に同じようには考えられないらしいのだが――それでも怪異に惹かれやすくなっていることは間違いないはずなのだ。
気をつけ過ぎても却《かえ》って足元をすくわれるが。
近況は確認しておくべきだろう。
「ううん……撫子は、別に」
「そっか」
「でも」
と。
千石は表情を曇らせた。
「相変わらず、変な『おまじない』は、はやってるみたいだけれど」
「千石の学校でか?」
「そうだけど、うちの学校だけじゃなくて、中学生の間、全般で」
そこで千石は少し迷い。
それから意を決したように、
「多分、ららちゃん達が今、なんかしてる」
と言った。
「………………」
ちなみにららちゃんというのは、月火の小学生の頃のニックネームである――『阿良々木』の真ん中をとって『らら』だ。ららちゃん『達』という以上、それは火憐を含むファイヤーシスターズのことを指しているのだろう。
なんかしてる。
なんかしてる。
なんかしてる!
なんて曖昧で、どういう可能性も導き出せそうで、人を不安にさせる言葉だ……なんかしてる!
いや、もう…なんもすんな!
「こないだ、ららちゃんに話――こないだの蛇の話を訊かれたし……まさか本当のことを話すわけにはいかないから、中途半端な感じになっちゃったけど……、でも、人の手とか借りて、色々調べてたみたい」
「……色々って」
詳しい情報が知りたい!
けど知りたくない!
そういや、確か今日火憐が出掛けてるのって……まさかそれ絡みか? まあ、確かに中学生の間のトラブルなら、あのファイヤーシスターズが出張らないわけがないしな……。
「つまり――例の『おまじない』関係ってことだよな。でも、そもそもあれって正確に言えば呪いとしてはガセみたいなもんなんだろ? 千石の場合は、むしろ千石の対処がまずかったってだけで」
対処がまずかった。
対処が――的確過ぎて[#「的確過ぎて」に傍点]、まずかった。
そういう話だったはずだ。
もっと正確に言えば、忍野忍という、伝説中の伝説みたいな吸血鬼、鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼がこの町を訪れたことによる弊害《へいがい》――でもあった。
裏を返せば。
その辺りの問題が解決した今となっては、中学生の間ではやっている『おまじない』など、何の効力も持たないはずである。
「うん」
と、千石は頷く。
「怪異が本当に、正真正銘、あそこまでの形で実現したのなんて、撫子の場合だけだと思うよ。多分だけど」
「だったら」
「でも、別にららちゃん達は『おまじない』の結果を問題視しているわけじゃないんだ――ららちゃん達は怪異とか、そんなのは多分、そもそも信じてさえない……と思う」
「まあ……、そうだろうな」
割と現実的な奴らだ。
幽霊を怖がりはしても、幽霊を信じてはいない。
そういう立場だ。
「むしろそんなガセみたいな、いかがわしい『おまじない』が横行していること自体を問題視しているみたいで――誰がそんなものをはやらせているのか[#「誰がそんなものをはやらせているのか」に傍点]を、突き止めるんだって」
「…………」
『おまじない』の発信元を――突き止めようってか。
我が妹ながらとんでもないことを考えるな。
ていうか、普通に考えてそんなの無理だろ?
「誰かがはやらそうとしてはやらしたわけじゃないだろうし……突き止めたところで、広がった『おまじない』は、もうそいつの責任ってわけじゃないだろう」
人の噂も七十五人、ではないが。
最初の一人と最後の一人は、まるで別人だ。
ほとんど伝言ゲームみたいなものである。
「そこがららちゃん……て言うか、ファイヤーシスターズらしいところなんだけれど、ららちゃん達は『誰か』が『目的』を持って『おまじない』をはやらせたんだと、決めてかかってるみたいなんだよね……」
「……らしいっちゃらしいな」
まったく。
こりゃやっぱり、火憐とちゃんと話をしておく必要があるかもしれないな――別に放っておいてもよさそうだが、その案件には『千石撫子』という実例[#「実例」に傍点]が含まれているだけにデリケートだ。
下手をすれば。
片足を棺桶に突っ込みかねない。
片足ならいいが――両足ということもある。
まして。
僕のように、首を突っ込まないとも限らない――
「こ……暦お兄ちゃん?」
僕が黙り込んでしまったからだろう。
千石は呼び方を戻して――僕を呼んだ。
僕ははっと気付いて、顔を起こす。
千石は、心配そうに僕を見ていた――今にも泣き出しそうな感じだ。自分が話したことで、僕が心を痛めた風なので、気に病んでいるのだろう。
本当、いい子だよな。
千石が僕の妹だったらよかったのに、と思う。
千石が本当の妹だったら、絶対に取っ組み合いの喧嘩なんかしないんだろうなあ、と。
「何でもない。大丈夫だよ、千石」
僕は言う。
「それと、なんつーか。千石、お前って、そのほうがいいよな」
「…………?」
「や、だから前髪。外でもそうしてればいいのに」
「だ、だって、恥ずかしいし……」
前髪の代わりのつもりか、両手で顔面を隠す風にする千石。
「で、でも、暦お兄ちゃんがそうしろって言うなら……頑張る」
「うん、頑張るのはいいことだ」
僕は頷いた。
人の成長を見守るというのはいいものである。
できれば最後まで見届けたいと思う。
「ところで、人生ゲームもそろそろ終わりそうだけど、千石、このあとは何をする?」
「ツイスターゲーム」
「へえ、そりゃ知らないな。どんなゲームだ? 教えてくれよ」
「うん、教えてあげる……その身体に」
「ははは、楽しみだなあ」
それにしても。
前髪をあげることで晒された千石の瞳の中に時折、まるで彼女に似つかわしくない、さながらガラガラ蛇のようにギラギラした視線が入り混じっている気がするのは、果たして僕の気のせいなのだろうか?
006
本当は千石の家で夕方くらいまで過ごそうという予定だったのだが、あにはからんや、千石のお母さんが正午を過ぎたあたりで帰ってきた。何か職場でトラブルがあったとかなんとか。そのトラブルが何だったかは僕の関知するところではないが、むしろ慌てたのは千石である。
「こ、暦お兄ちゃんのことは秘密だったから、わ、わ、怒られる、怒られる、こんな格好して、変態だと思われる」
と、大わらわだった。
変態だと思われるという発言の真意は不明だったが、しかし重要なのは、僕のことを親に秘密にしていたという点である。『知らせてなかった』と『秘密』では大いに意味合いが異なり、だとするとお母さんにとっては『近所に住む知らない男が留守中に家に上がっていた図』であり、その辺りの説明を満遍《まんべん》なくできるとも思えなかったので、僕は千石のお母さんから隠れるような形で、こそこそと、まるで間男《まおとこ》の如く千石の家を後にしたのだった。
玄関の靴はあらかじめ千石が靴箱に隠していてくれたので助かった……まるでこのような不測の事態をあらかじめ想定していたかの如き手回しのよさが気にはなるが。
ふうむ。
なんだか、追い出されるというか、逃げ出すような形になってしまったのは不本意で、あとで千石に電話してフォローしとかないとなあと思う反面、どうしてだろう、なんだかお母さんの職場でトラブルがあったお陰で、僕のオトコノコとして大切な何かが救われたような気がする……。
ただの気のせいとは言え、おかしな話だ。
ともあれ、また時間が浮いてしまった。
夕方まで出ているつもりだったから、今から家に戻って月火にあれこれ訊かれるのも癪《しゃく》だし(帰りが早かった理由を訊かれて大笑いされるのはごめんだ)、どうせ火憐が帰ってくるのは夜頃だろうし、千石から聞いた話の確認も、そのときに姉妹まとめてするのがいいように思えるし……。
だとすると。
「本当は明日の予定だったけど……ま、いっか」
僕は道端《みちばた》、昼間は何の役にも立たない街灯の近くに寄って、携帯電話を取り出した。
発信先は僕の通う直江津《なおえつ》高校の後輩。
二年生の神原駿河である。
ここに来て神原登場!
「暇してたらいいんだけどな――あいつのプライベートっていまいち読めないし、っと」
ベルが四回。
鳴ったところで、
「神原駿河だ」
と、向こうから声があった。
相変わらず、男前な名乗りである。
「神原駿河。主な武器は加速装置だ」
「お前、サイボーグだったのか!?」
超納得!
そういう前提で聞けば喋りもロボっぽいし!
「ん。その声と突っ込みは阿良々木先輩だな」
「そうだけど……」
いつまで声と突っ込みで判断してんだ。
お前は未だに携帯電話のアドレス帳機能を使えないのか。
「僕以外の人間から電話がかかってきたときはどう対応してんだよ、お前は」
「ふふ、心配は無用だ、阿良々木先輩。そもそもこの番号を知っている人間は数人しかいない。全員、声と突っ込みで判断できる」
「……誰からも突っ込まれてるのか、お前は」
「うむ。私は総受けだからな」
「その言葉の意味は知らん」
まあ。
神原駿河はこんな性格ではあっても、直江津高校始まって以来のスター……弱小バスケットボール部を全国区まで導いた奇跡のスポーツ少女だ。恐ろしいまでの脚力の持ち主で(五十メートルを四秒台で走り抜ける……との噂だ)、その脚力をコートの中であらん限りに披露《ひろう》し、観客を魅了した。致し方ないさる事情でやや早期に部長職を引退した今でも、その人気はまるで衰《おとろ》えることを知らない――迂闊に方々へと電話番号を教えられないのだろう。
スターのジレンマだ。
察してやるべきか。
とは言え、それ以前に、そもそも、アドレス帳機能を使えないことからもわかるよう、神原はあんまり機械に強いほうじゃないからな。自分から掛けることも滅多《めった》にないのだろう。
「神原。今お前、暇か?」
「阿良々木先輩、その質問にはまったく意味がない。この神原駿河にとってみれば、大恩ある阿良々木先輩からの要請は全ての事象より優先される。たとえ今、私が世界を救うための闘争の最中であったとしても、阿良々木先輩に呼ばれたのであれば、私はあえて世界を見捨て、阿良々木先輩の下へと駆けつけよう」
「…………」
相変わらず格好いい……だけど僕よりは世界を優先して欲しいな。世界がなくなったら僕も死んじゃうし。
「まあ、呼ぶっつーか、僕のほうから行きたいんだけど」
「? どういう意味だ」
「えっとな……神原、お前今、家だよな?」
「うん、そうだ……ああ、ちょっと待ってくれるかな、阿良々木先輩。すぐに裸《はだか》になるから」
「なんでだよ!」
お前は裸にならないと話ができないのか!
電話の最中にいきなり脱ぐ奴とか聞いたことねえよ!
「? 何を言っているのだ、阿良々木先輩。電話でとは言え、阿良々木先輩と言葉を交わすのだぞ? ならば裸になるのが礼儀というものだ」
「こっちがしかるべき常識を弁《わきま》えていないみたいな言い方をするんじゃねえ! そしてことあるごとに機会を見つけて脱ごうとするな!」
でも、これは新パターンだな。
いよいよ脈絡がなくなってきた。
この間『立ちはだかる』という言葉に対して激しい興奮を覚えていたあたりから本気でやばいと思い始めていたのだが、神原の奴、ついに一線を越えた感じだ。
「しかし阿良々木先輩。こういうチャンスを見逃さずに脱いでおかなければ、私が変態だということがアピールできないではないか」
「アピールしたいのかよ!」
「どうも私のことを、口先ばっかりで本当は大して変態ではないのではないかなどと心無い意見を言う輩《やから》が後を絶たず、さすがの私でも最近は業腹《ごうはら》なのだ。それは私が一番言われたくない台詞だ」
「誰もそんなこと言わないよ!」
あと、そんなことで業腹になるな!
お前が怒るべきはもっと他のことだ!
「男性経験がないにもかかわらず変態ぶる姿勢に疑問を挟まれてしまうのはわからないでもないが、しかしどうだ、相手がいない以上、それは仕方のないことではないか?」
「僕に訊かれても!」
「そんな些細《ささい》なこと、阿良々木先輩という同志を得た以上、最早時間の問題に過ぎぬというのにな」
「僕を変態仲間みたいに言うな!」
しかも格上みたいに!
僕が変態に関することでお前に勝てるところなんてひとつもねえよ!
「とにかく、脱がなくていいからな」
「甘いな、どうやら阿良々木先輩は私のスピードを軽く見ているようだ。既に私は全裸《ぜんら》であるぞ」
「であるぞって!」
早過ぎないか!?
あ、そっか、こいつ、夏は自宅では下着姿で過ごしているんだった……ならばこの驚異の速度も頷ける。実質、二枚脱げばいいだけなのだから……ていうか脱ぐ前からほとんど脱いでるようなもんじゃねえかよ!
「いよいよお前の変態度合いは僕の手に負えなくなってきたな、神原!」
「おやおや、これはこれはどうしたことだ、私の尊敬する阿良々木先輩らしくもないことを仰《おっしゃ》るではないか。ここは私の家で、ここは私の部屋だぞ? 私がたとえどんな格好でいようと、それは私の自由のはずだ」
「むう」
……正論である。
ハウスルールに口出しはできない。
そもそも阿良々木家だって、風呂《ふろ》上りは下着姿オッケーだし、火憐も月火も(僕も)、家の中じゃ、全裸はないにしても半裸くらいはやりかねないしな。
「確かに、悪かったな……家の外でマッパになったわけでもないのに、責めて悪かった」
「いや、わかってもらえればいいのだ。いくら開放感ある格好が好きな私でも、外でマッパになることなど――たまにしかない」
「たまにはあるのか!」
「そりゃまあ、銭湯《せんとう》とかで」
「ぐっ……!」
いいように振り回されてる!
そりゃ銭湯だって外だよな!
「あとはバスケットボール部で……」
「もう騙《だま》されねえぞ。合宿のときの風呂で、とか言うんだろ?」
「惜しい。合宿というところまでは正解だ。一年の夏、私の主催で行った全裸合宿という企画があってだな」
「廃部になれ!」
「はは、阿良々木先輩、どうしたのだ。冗談に決まっているだろう。こんなたわ言を信じるなんて、もしや本当に、阿良々木先輩のほうが私よりいやらしいのではないか?」
「な、なんだとう!」
なんて屈辱的な指摘だ!
畜生、天よ、この後輩に罰を!
そう祈ってみると、直後、びっくりしたことに、本当に神原へ天罰が下った。
「ぐあっ……!」
と。
神原の唸るような声が聞こえたかと思うと、ずるずると、彼女の身体が崩れ落ちる音まで聞こえてきた。
どうやら何かがあったらしい。
「……どうした、神原」
「うっかり部屋のふすまを閉め忘れていて……お祖母《ばあ》ちゃんが廊下《ろうか》を通り過ぎていった……」
「…………」
ああ。
そういうこと。
ちなみに神原は、祖父母との三人暮らし。
小さな頃から、お祖父《じい》ちゃんとお祖母ちゃんに大事に大事に育てられたそうである。
お祖父ちゃんっ子お祖母ちゃんっ子だ。
「お祖母ちゃんがものすごく悲しそうな目で私を見て、無言で、歩くペースを落とすことなく通り去ってしまった……」
「そりゃ、手塩にかけて育てた孫娘が、マッパで電話してたらなあ……」
どうも部屋で裸というのは、ハウスルールではなく神原一人のマイルールだったらしい。
「うわああ……うわあああああ……私はもうおしまいだ……これから私はどんな顔をしてお祖母ちゃんと話せばよいのだ……」
大ダメージを受けている。
こんな弱った神原は滅多に見られるものじゃない――いや、電話じゃ相手は見えないが、こうなると、すぐにでも会いに行きたかった。こんなチャンスは間違いなく一生に一度である。
「あのさ、神原。ショック受けてるとこ悪いけど、話を戻していいか?」
「あ……うん。もうここからは大して面白いことも言えそうもないけれど、そんな私でも受け入れてくれるか? 阿良々木先輩」
弱気弱気。
大丈夫、心配しなくとも今のお前は超素敵だ。
「ちょっと今日、予定外に受験勉強のスケジュールが空いちゃってさ。本当は明日の約束だったお前の部屋の片付け、今日やっちゃっていいか?」
神原は、かつてはバスケットボール部の部長をつとめただけあってかなりしっかりしているのだが、自分のことに関しては意外と抜けていて(今回、ふすまをしめわすれていたようにだ)、自己|鍛錬《たんれん》を趣味とする割にはどこか自堕落で、まあ要するに彼女の部屋はゴミで埋もれている。
その散らかりようといったら本当に酷い。彼女のファンに見せれば失神するのではないかというほどの様相を呈している。というか、初めて彼女の部屋(十二畳ほどの和室だ)に招待されたときは、僕が失神しそうになった。布団《ふとん》は敷きっぱなし、服は脱ぎ散らかしっぱなし、本は適当に積み上げられたり崩れていたり、謎の段ボール箱が部屋の隅に積み上げられていて、頭を抱えたくなることにその部屋にはゴミ箱がなく、ゴミは適当なビニール袋に分別もされずに詰め込まれ、その辺に転がされているのだった。
散らかっていると言うか、汚いのだ。
せめてゴミくらい捨てろ、と言いたい。
広いはずの部屋は最早布団の上くらいしか自由になる空間がなく、その布団の下にもペンとかノートとか、そういう文房具的なあれこれが入り込んでしまっていた。どうしてあんな布団で寝ることができるんだ。
とか。
まあそんなわけで、僕は招待されたまま腰を落ち着けることもなくその部屋の片付けに取り掛かり、以来、半月に一度のペースで神原の部屋の清掃を行うことを自らの義務として課している。
毎月十五日と三十日は、神原の部屋の掃除。
丁寧なことに、あるいは律儀なことに、神原はたかだか半月で、部屋をほとんど元通りの惨状にまで戻してしまうのだ。部屋を散らかすのも、あそこまで行き着けば、才能である。あんな部屋で半裸で過ごしてたら、冗談でなく怪我するぞ。
「ああ……勿論、構わないぞ。部屋を片付けてもらうだけでもこれ以上なく助かっているのだ、もとより私に意見などない。日付の都合はいくらでも阿良々木先輩に合わせよう」
弱い口調のままではあるが。
とりあえず、神原は承諾《しょうだく》してくれた。
僕は、それじゃすぐ行くと言って、電話を切った――いくら落ち込んでいても、神原はとても立ち直りの早い、ポジティヴな奴だからな。早くあいつの家に駆けつけないと、へこんでる神原を見られない。千石の家と違って、神原の家はやや遠めだ。それこそ脚力自慢の神原なら四秒台ダッシュで(あるいは加速装置だかで)あっという間なのだろうが、生憎《あいにく》、吸血鬼時代ならいざ知らず、今の僕の脚力はごく平均的なそれだ。一旦家に帰って、しかし月火からの質問の矢を避けるために家の中には入らず、庭に止めてあるママチャリに乗って向かうとしよう。
かつて僕は二台の自転車を、通学用とプライベート用に分けて使用していたのだが、プライベートに使用していたマウンテンバイクは、とある事故で破壊されてしまい、現在残っているのは通学用のママチャリだけである。
新車購入の目処《めど》は立っていない。
……いや、欲しいマシンがないわけじゃないんだけれど、たとえ買ったところで、どうせまたすぐに壊れ(壊され)ちゃいそうな予感がするんだよな……。
とにかく、神原の家へと急ぐ。
一秒でも早くつきたい。
神原さんの弱ってるところを見てみたい。
と。
急いでペダルを回していた僕の足を、しかし、止めざるを得ないような景色が、僕の視界の内側へと飛び込んできた。
「…………」
民家の塀の上を、逆立ちしたまま歩いて(?)いる、ジャージ姿の中学生である。
ポニーテイルがぴこぴこ動いていた。
ていうか僕の妹だった。
阿良々木火憐である。
「…………」
小学生の登校班どころか、今でもしていたのか……その逆立ち。
腕を鍛えているのか。
うわー。
八九寺の言う通りだ。
あの大きさの人間が、体育館でもない場所で逆立ちしているのを見ると、すげー引く……。
てくてくと。
僕に気付くことなく、火憐は塀から塀へと、腕の力だけで飛び移る。
「えい」
僕はそんな火憐にそっと自転車で近付いて、その揃った腕の肘の部分に軽くラリアットを食らわした。
「うあ、わわっ!」
平衡感覚では僕のほうが上だったのか。
顔面にローキックを食らわされたわけでもなかろうに、火憐はバランスを崩して、塀の上から転げ落ちた。
頭から落ちやがれと思ったが、しかしそこは運動神経抜群の格闘者、ほんの一メートルほどの高さの間でぐるりと、そのでかい身体を回転させ、見事に着地を成功させた。
こっち向きに着地したので、目が合う。
「……ああ。兄ちゃんか。敵かと思った」
「敵がいるのか、お前には」
「男子たるもの一歩外に出れば七人の敵がいるっつーだろ」
「お前は女子だろ」
「男子で七人敵がいるんだ、女子にはその七倍いるっつーの」
「はあん」
まあ、お前限定の話をすれば、いるんだろうけど。
僕は呆《あき》れ混じりに言う。
「一体全体何をしてるんだお前は。いつまで僕の差恥心を鍛え続けるつもりだよ、もうすっかりマッスルだよ。その歳であんな曲芸みたいな真似する奴、僕は早乙女乱馬《さおとめらんま》くらいしか知らねえぞ。お前実はお湯をかけたら男になるんじゃねーだろうな?」
「ひゃは。そうなりゃ、敵が七分の一に減って便利かもしんねーな。いや、つまんねーか」
「まったく、こんな人目につく場所であんな格好して……、はしたないにも程があるわ。お前はちょっとは思春期の女子らしい自意識を持て。ご近所で評判になったりしたらどうするんだ」
「あれ? なんだかわからないけれど、兄ちゃんが自分のことを棚上げにしている気配が……」
「そんなことは一切していない」
言い切った僕。
そう、後ろめたいことなど何もないのだ。
「つーか、逆立ちだけならまだしも、それで長距離移動とか本気であり得ないだろ……小学生のときは体重が軽かっただろうからともかく、お前今、何キロだ?」
「レディに体重を訊くなよ」
ふふん、と火憐は得意げに笑う。
「まあ、あたしは絞るところはきちんと絞ってるからな。筋肉つけ過ぎねーよーにすりゃ、ウェイトはそんな増えねーよ。ゲーセンで逆立ちしてダンレボしてる奴がいたら、それは兄ちゃんの妹だぜ」
「いや、そんな奴は僕の妹じゃない」
「いやいや、ひとりでエアホッケーができるどこぞの兄ちゃんには敵いませんぜ」
「昔の話を……」
ともかく。
ともかく。
ともかく、ともかくとして。
「何してんだよ、お前。こんなとこで」
「奉仕《ほうし》活動だよ。いわばボランティアだな」
火憐は立ち上がって、自慢げに胸を張る。
得意げな表情がマジでむかつく。
見てるだけでぶん殴りたくなる。
「何がボランティアだ、得意げに横文字使ってんじゃねえよ、馬鹿。この間、ディフィカルトと言おうとしてデカルトって言っちまったような中学生がインテリぶるな」
「いいじゃねーか。デカルトの言ってることって大抵ディフィカルトだし」
「ディフィカルトだけどな」
「つーか兄ちゃん、外で声掛けんなよ。あたしら顔そっくりなんだから、すぐに兄妹だってバレんだろ。恥ずいっつーの」
「僕だって掛けたくなんかなかったわ。声を掛けられたくなかったら声を掛けざるを得ないような行動を取るな」
まあ厳密には、声を掛けたのではなく、ラリアットをぶちかましたわけだが。
「けどまー丁度いいっちゃ丁度いいや。お前に訊きたいことがあったんだ」
「あたしには訊かれたいことはねーな」
蓮っ葉なように言って。
火憐は「よっと」と、また逆立ちする――僕はその足を持って向こうへと押し倒した。火憐はそのままブリッジをする姿勢になる。
町中でブリッジ姿勢というのも珍しい。
また高いブリッジだな……歪《いびつ》にさえ見える。
足が長過ぎるんだよ、こいつ。
「何すんだ、兄ちゃん。危ないだろ」
逆さになった視点で文句を言ってくる火憐。多分こいつはブリッジのまま半日は大丈夫。
「危ないのはお前達の活動だ。お前、今、何してんだ?」
「だから奉仕活動だって」
火憐は逆さのままで笑う。
何だか面白い図だ。
「兄ちゃんには関係ないから、ほっといて」
「……本当に関係ないなら、ほっといてやってもいいんだけどな」
『おまじない』。
そもそも今更千石が噛んでくるとは思わないし、その実例の存在だって、あれは偶発的なものだったはずだし――
放っておけばいいといえば、そうなのだろう。
こいつらの勝手な動きに振り回されて、僕だけが痛い目を見るというのは、いつものパターンだ。
王道である。
しかし、その王道を未だ理解していないのか、
「兄ちゃんに迷惑をかけるようなことはねーっつーの。あたしらだって馬鹿じゃねーんだから」
などと、火憐は言う。
地面から手を離して、首ブリッジへと移行し、そして自由になった両手でVサインをつくる。
誰がどう見ても馬鹿な画だ。
「兄ちゃんはあたしを誰だと思ってるんだ」
「知らねえよ。誰なんだよお前は」
「百鬼夜行《ひゃっきやこう》をぶった斬る――」
火憐は声を潜めて言った。
「――地獄の番犬、デカマスターだ!」
「うわ、かっけー……」
首ブリッジでその台詞を言った女子は、恐らく世界初だ。
「スーパークールに、パーフェクト」
興《きょう》が乗ったのか、続けざまに、今度はデカブルーの決め台詞を披露する火憐。
いや、その姿勢、少なくともクールではないが。
「そりゃあたし、燃える女だし」
「焼け死ね」
しかし、そんな格好悪い姿勢でやたら格好いい台詞を言うという面白芸だけは、認めてやってもいいな……。
真似できねーし。
体力馬鹿の面目躍如《めんもくやくじょ》だ。
「そうかそうか。じゃあこれからはこれをあたしの持ちネタとして使っていくことにしようかな」
「折角《せっかく》だからちょっと練習してみようぜ。何でもいいから格好いいことを言ってみろ」
「ここを通りたくばあたしを倒してからにしろ!」
「予想以上に面白い!」
「逆パターン。ここは任せて先に行け!」
「あははははははははは!」
僕大爆笑。
そんなにあることではないぞ。
しかし、うーむ、しまった。
不覚にも妹と楽しく遊んでしまった。
ここまで言葉を交わしても、未だに僕の得たい情報がひとつも入ってこないのは不思議だが――ただし、どうして火憐がこんなところをうろうろしていたのかは、何を訊くまでもなく、推測がついた。
この辺は、戦場ヶ原と神原、それに羽川が通っていた中学校――公立|清風《きよかぜ》中学校の近くなんだ。中学生の間に流布《るふ》する『おまじない』のことを調べているのなら、この辺は重要な調査範囲のひとつなのだろう。
ふむ。
「ほっ」
火憐はブリッジの体勢から立ち上がる。わざわざ一回逆立ち(三点倒立)をしてから両足で立つという、見事なパフォーマンスっぷりだった。
根っからのパフォーマーだな、こいつは。
言い換えればただの目立ちたがり屋なのだが。
「とにかくさ、今あたし、色々とやらなきゃいけないことがあって忙しいんだよ。兄ちゃん、話なら夜にでも、家で月火ちゃんと一緒にするからさ。それで勘弁してくんない?」
「…………」
ふむ。
まあ、今、急いでいるのは僕も同じだしな。
早く神原の家に行きたいのだ。
妹の振る舞いなどで時間を食いたくない。
話は元々夜に聞くつもりだったし――こんな場所じゃ、あまりロクな話もできないだろう。
僕は、一応、
「……本当に放っておいていいのか?」
と、火憐に訊く。
「うん。どーせもうすぐ終わるから」
「ふうん」
「あたし達、向かうところ敵なしだし?」
「後ろから刺されろ」
「そーいや、月火ちゃん、どうしてた? 家に残ってたろ? 会ってない?」
「別に。テレビ見てたよ」
まあ。
今頃何をしているかは知らないけれど。
留守番は任せてと言いながら、実はこっそりと外に出掛けていて、ファイヤーシスターズとしての活動をしていないとも限らない……。
するとそのとき、火憐のジャージのポケットから、携帯電話の着信音が響いた。
『燃えよドラゴン』のテーマ。
ベタベタだなあ、こいつは。
でも、携帯電話に(頑なに)ストラップをつけたりデコレーションを施《ほどこ》したりしないところは、男らしくて我が妹ながらステキ(女子だけど)。
ちなみに月火の携帯電話はゴテゴテである。
まだ中学生ということで携帯電話を持たされていなかった火憐と月火だったが、うちの両親も時代の流れには逆らえず(つーかぶっちゃけ『もうこの娘達には持たせないと逆に危険だ』という判断が下って)、二人とも、ついにこの夏休みから携帯電話の所持が解禁されたのだが、どうも早速、使いこなしているらしい。
この辺もそつがないよなあ、こいつら。
僕なんか、まだ全然使えないのに。
「はい、もしもし……あ、うん――」
兄との会話中だというのも構わず、火憐は電話に出、そして僕の目を避けるように、こちらに背中を向けてしまった。
そして小声で会話をする。
ぼそぼそ声で、よく聞こえない。『奉仕活動』についての新情報でも入ったのか、それとも完全にプライベートな電話なのか、それもわからない――まあ、盗み聞きするつもりもない。
僕は月火とは違うのだ。
一分ほど話して、火憐は電話を切った。
こちらを振り向く。
表情が少し、真剣味を帯びていた。
凛々《りり》しい顔つきだ。
「……うん、兄ちゃん」
「あ?」
「大丈夫。これで、本当にもうすぐ終わりそう」
「ふうん? はあ……」
曖昧な返事しかできない。
つまり、やっぱり、今の電話は何らかの新情報だったのか?
「夜に兄ちゃんに披露する話は、どうやらあたしの武勇伝になりそうだぜ。ひゃはは」
「誰がそんなもん聞くか。お前が中三になってまで町中を逆立ちして歩いているって知ったことが、今日の僕の最大の不幸だ」
「んじゃまっ! アスタラビスタ!」
と。
多分余計なことを訊かれる前に、ということなのだろう、火憐は無理矢理に話を切り上げて、僕の視界から消えていった。
ちなみにその消えかたはタンブリングである。
すげー勢いでぐるぐる回転しながら去っていった。
なんつーか、マットの上でもないのに、よくもまああんな危険な動きができるよなあ……ああいうのは、神原の運動神経のよさとは全然別のものなんだろうなあ。
神原も確かに足が速く、敏捷《びんしょう》性に優れているけれど、素《す》であんな曲芸みたいな真似ができるとは思えない――いや、そもそもあいつなら、そんなリスキーな真似をしようとも思わないだろう。
その辺が、格闘技と競技との違いかな。
ああ、そうだ、神原だ。
早く神原の家に行かなければ。
火憐のことはとりあえず、放棄しない程度には頭の片隅に寄せておいて、僕は再び、ペダルを回し始めたのだった。
007
そして二十分後。
いつもなら三十分は優にかかる場所にある神原の住む武家屋敷まで、僕は辿り着いた。火憐に会ってのタイムロスがなければ、あと三分ほど早く到着できたかもしれない。
表札の横に備え付けられた、日本家屋には不似合いなインターホンを押すと、応対してくれたのは神原の祖母だった。つい先ほど神原の醜態《しゅうたい》(というか変態)を目撃したばかりの彼女である。まあ、何度も部屋を掃除に来ている関係上、神原の祖父母とは既に面識があるのだが、神原が全裸で電話していた相手が僕だと知ったら、あるいは敷居《しきい》をまたがせてはくれなかったかもしれない。
――あの……。
――駿河をよろしくね、暦くん。
お祖母ちゃんは、なんだか申し訳なさそうな感じで、そんなことを言って僕に頭を下げた。……まあ、学校じゃスターだろうがなんだろうが、お祖母ちゃんにとっては、普通に可愛い孫娘だろうもんな……全裸はともかく、部屋の惨状は知っているわけだし。
心配だろうなあ。
それこそ、信用はしていても、心配だろう。
…………。
でも、高校三年生にもなって、よそん家のお祖母ちゃんから『暦くん』と呼ばれるのは、気恥ずかしいものがある。
お祖母ちゃんと別れて、神原の部屋へ。
ふすまは閉じられていた。
きっと部屋の隅で膝《ひざ》でも抱えて小さくなっていることだろうと想像しつつ、ならば驚かせてやろうと胸をわくわくさせながら、ノックもせずに僕はふすまを開けた。
彼女は一糸まとわぬすっぱだかのままで、掛け布団の上に倒れていた。
「ぶっ!」
神原駿河。
自他共に認めるエロ娘である。
その性欲は、スポーツで発散することができなくなったからだろう、日増しの数値を記録していて、彼女の度を越えたセクハラ発言の数々は、忍や千石や僕やで、訴訟《そしょう》組合を結成できるほどの域にまで達している。
ただし!
意外なことに、僕は彼女のフルヌードを見るのはこれが初めてなのだった!
いや、何て言うかね、それもまたバスケットボール部を引退したからなんだけれど、神原は六月以降髪を伸ばし始めていて、見た目もぐっと女の子っぽくなっていて、だからこう、いきなり全裸とか見せられちゃうと!
いや、うつ伏せなんだけど!
でも背中のラインがすげえ色っぽい!
肩甲骨《けんこうこつ》が素敵過ぎる!
さすがスポーツマン、引退しても自己鍛錬のほうは欠かしていないだけあって、筋肉で引き締まった肉体が美し過ぎる! カモシカのような脚という比喩《ひゆ》があるが、こいつは全身がカモシカだ!
まるで古代ギリシャの彫像!
これが、これが肉体美というものか!
脚の筋肉のつきかたの格好よさには前々から気付いてはいたのだが、脚だけではない、こいつはとんだ全身凶器じゃないか!
これなら普段から脱ぎたがるのも頷ける!
この身体は人に見せないと損だよ!
「…………」
いや。
一糸まとわぬとは言っても、それでも、左腕の包帯だけは――巻かれたままだったのだが。
「か、神原……」
恐らくは、祖母に裸を見られ、最後の力でふすまを閉めたところで力尽きたらしい彼女に、何を言ったらいいかわからないままに、僕は声をかける。
「ん……阿良々木先輩か?」
枕に押し付けていた顔を、神原は起こす。
そして――
「ま、待て神原! 今寝返りを打つな! 今お前が寝返りを打つと大変なことになる!」
主に僕が!
僕が色々と大変なことに!
「……えっと」
ああ、と頷く神原。
「ああ……こんな不細工《ぶさいく》な格好で失礼した。阿良々木先輩の前なのに、恥ずかしい」
「……うわあ」
普通に恥じ入っている……。
神原は、しかしそのまま身体を隠そうとはせず、だらーっと、両手両足を伸ばしたままだった。
顔だけを起こしている。
「しかし、ノックもなしでいきなりふすまを開けるなど、私の知る限り最高の人格者であるところの阿良々木先輩らしくないな……うん」
「いや、その……へこんでるお前を見たいと思って」
「ああ……こんな見苦しいものでよければいくらでも見てもらって構わんぞ」
「…………」
「さあ、見るがいい。これが神原駿河の真の姿だ……ありのままの神原駿河だ」
「いや……」
まあ、その通りだけど。
ありのままというか、生まれたままというか。
「なんていうか……その、ごめん」
ここまでマジでへこんでるとは思わなかった。
天罰|覿面《てきめん》過ぎる。
まさか僕の祈りがこんな結果を招くとは。
「悪かった、神原……責任を取らせてくれ」
「責任?」
神原は、こいつでもこんな目ができるのかというほどのうつろな、死んだ魚のような濁った目でこっちを見て、機械的に僕の言葉を繰り返す。
「責任とは何だ、阿良々木先輩」
「ほら、なんていうかさ、お前の電話の相手は僕だったわけだし、この状況を招いた原因の半分は僕にあるかなって」
まさか天罰を願ったとは言えない。
僕の言葉に、神原は反応らしい反応もせず、
「そんなことはないと思うが」
と言う。
自己責任能力の高さは、この状況でも失われていないようだ。
さすがだ。
僕が知る限りの最高の人格者は、間違いなく羽川|翼《つばさ》なのだが、しかし、次点は案外、神原なのかもしれなかった。
「まあ、それでも阿良々木先輩が責任を取りたいというのなら、それはいいようにしてくれればよい……ところで、具体的にはどういう風に責任を取るのだ?」
「結婚しよう」
「ぶっ!」
今度は神原が噴《ふ》き出す番だった。
再び顔を枕に埋めてしまう。
「な……なぜ結婚」
「いや、後ろ半分とは言え、裸見ちゃったし」
「段階をいくつか飛ばしている……その理屈だと、阿良々木先輩は一体どれほどの数の女性と結婚しなければならないのだろう……」
「いや、人聞きの悪いことを言うなよ!」
人聞きが悪い。
が、確かに事実ではあった。
「……あはは」
あ、笑った。
力なくではあるが、笑った。
「阿良々木先輩」
そして神原は言う。
「非常に魅力的な提案ではあるが、しかし、責任は取らなくてよい。そんなことをしたら私は戦場ヶ原先輩から怒られてしまう。その代わりと言ってはなんだが、阿良々木先輩、ひとつだけお願いがあるのだが、きいてもらえるかな」
「おう。何でもきくぞ。今日に限って、僕はお前の奴隷《どれい》だ」
「服を着たいので、廊下で待っていてもらえるかな」
「……はは」
僕も思わず、笑ってしまった。
まさか神原の口から服を着たいなどという言葉が出ることがあろうとは。
それは、人類が二足歩行を始めた瞬間にも似た、ちょっとした感動だった。
言われた通りに廊下に出、神原の着衣を待って(さすが体育会系というか、神原の着衣はとても早かった。ほんの数分だった。脱ぐのも早ければ着るのも早い)、で、いよいよ清掃開始である。
ミッション。
まずはゴミを大まかに分別し、45リットルのゴミ袋に詰め、庭に出してしまう。ここで区分けするのは明らかな不要物だけだ。ゴミかどうかわからない謎の物体達は、ここでは保留である。僕の部屋ではないので、それがいるものかいらないものかの判断は、究極的には神原にゆだねなければならない――いや、そうは言っても、大抵捨ててしまうけれど。あくまでも保留であって、それは保存ではないのだ。言ってしまえば裁判上の手続きみたいなものなのである。
神原駿河。
こいつ、何気に金持ちで、何気に浪費家なのだ。わけのわからんものばっかり購入して、それを見事な錬金術でゴミにしてしまう。
だから結局はほとんど捨ててしまって。
まあ、そこまでが下地作りである。
本格的な整理|整頓《せいとん》はその先だ。
神原は着替えてもホットパンツにチューブトップと、大して裸と変わらないような露出度の姿ではあったが(体育会系であることを差し引いても、着衣が早いわけだ)、それでも一応、人前には出られる格好になっていた。神原の部屋の散らかり度合いを考慮すれば、できれば露出を抑えた(それは火憐の普段着ではあるが)ジャージででもやるのがいいのだろうが……。
でも不思議なもんで、神原ってジャージは似合わないんだよな。
身長がそんなにないからかな?
制服で激しく動くのはすさまじく格好いいんだが。
とか、そんな風に、衣服についてのあれこれを思いながらの作業だったから目に付いたのか、ゴミの山の中に埋もれていたバスケのユニフォームらしきものを、僕は発掘した。
背番号は『4』。
キャプテンの数字、だったか?
いや、バスケの知識がスラムダンクしかないので、よくわからないけど。
「神原。これって」
「ん、ああ」
ちなみに神原は廊下にいる。
神原は、運動神経はいい癖に不思議と不器用なので(家事は大の苦手。まあ、この部屋の惨状を見せれば、そんなことは括弧《かっこ》でくくって説明するまでもないが)、このフェーズでのお手伝いには邪魔なのだ。神原ほどのスター階級の人間をこんな風に邪魔者扱いできるという事実にわずかなときめきを覚えるが、これは人間としてとても駄目な感情だと思うので口には出さずに封印する。
「部活のユニフォームだな。どこに行ったのかと思ったのだが、そんなところにあったとは」
「へえ。練習用のユニフォームか?」
「いや、それは一年生の頃、全国大会出場を決めたときの記念品だ。ほら、裏返して内側を見てみてくれ。その際のメンバーが、寄せ書きをくれているだろう?」
「……お前には思い出を大切にするという概念がないのか」
「思い出はいつも、この胸の中に置いてある」
「いい台詞だけど!」
ここにもあるよ!
思い出の本体がここに!
記憶喪失になった八九寺を思わせる(それは僕の作り話だが)、悲しい話だった。
「でも、その頃ってお前、まだキャプテンじゃないよな。一年生なんだから。それなのに、背番号は『4』なのか?」
「別にキャプテンでなければ『4』をつけてはならんという法はないぞ。まあ通例はそうだが……私の場合は、エースナンバーということで、当時のキャプテンが譲ってくれたのだ」
「へえ、そりゃいい話だな。そのキャプテンってのも器がでかい。でも、こないだ掃除しにきたときには、こんなもんなかったように思うけど」
「後輩に発破《はっぱ》をかける意味で、これまでは部室に飾っておいたのだがな。夏休みに入る直前、持って帰ってきた」
「へえ」
「時期的にそろそろ、バスケ部が過去の栄光から卒業するいい頃合だろうと思ってな――私は引退した人間だ。それがいつまでも幅を利かせているようでは、どの道バスケ部には先がなかろう」
「ふうん……」
引退してからも、神原はバスケ部に対しては色々骨を折ってたみたいだが――それもここまで、という線引きなのだろうか。
神原にとって、それは贖罪《しょくざい》だったのかもしれない。
バスケ部のことは本当に気にしていたからな。
「まあそのユニフォームは、飾ってあったのを勝手に持って帰ってきてしまったから、警察|沙汰《ざた》になってしまったのだがな」
「終業式の日にパトカーが学校に来たのはそれか!」
「完全犯罪だったから、まだ私が犯人だとはバレていないのだが……」
「どうするんだよ、この証拠品!」
もっとも。
基本的には自分の服を持って帰ってきたというだけのことなんだから、別にいいんだろうけど。
でも、そういう事情ならこれは捨てられないよな――いや、警察に露見《ろけん》するからとかじゃなく、大事な思い出として。
「そう言えば、実は僕ってお前が実際にバスケしているとこ、一試合くらいしか見てないんだよな。そうだ、神原。ちょっとこれ、着てみてくれないか?」
「構わんぞ」
既に引退した人間に対してやや図々しいお願いかとも思ったが、神原は快諾《かいだく》してくれた。この辺り、きっぷのいい女である。
「髪が伸びているから、当時と印象は大分違ってしまうと思うが」
「……お前、髪伸びるの滅茶苦茶《めちゃくちゃ》早いよな」
初対面のときのショートカットは僕より短かったくらいなのに、いまや既に僕を大きく抜いている。僕のうなじには忍に噛まれた傷《きず》跡が深く残っているので、その傷を隠すために、僕は髪を若干長めにセットしているのだが……神原の髪は、もう結べてしまいそうなくらいの長さだ。
「ふむ。そうか?」
「ああ。普通、髪の伸びる速度って一ヵ月一センチくらいだって聞くけど――お前のそれ、五センチは伸びてるよ」
「まあ、私はエロエロだからな」
「ありていに言った!」
思ってたけど!
あえて言わないようにしてたのに!
「そう、具体的には、ぺペロンチーノをいやらしい言葉だと長年|勘違《かんちが》いしていたくらいエロエロだ」
「食べた時点で気付け!」
「家族間通話を家族姦通派と思っていたり」
「…………!」
言葉が出ないほどドン引いた。
「あ、いや……家族間無料を家族感無量と思っていたのだ」
「アットホームに言い直しても駄目ー!」
「あと、露天風呂のことを露出風呂と憶えていた」
「それは勘違いじゃなくてただのお前の願望だろ! その発想は現代人のそれじゃねえよ!」
「うむ。実は私はタイムマシンで五秒後の世界から来たのだ」
「夢の技術が実に無意味に使われてる!」
「そう言えば、ブレスレットを『深呼吸をしよう!』的な意味だと勘違いしていたのも記憶に新しい」
「それはエロとは関係ないただの勘違いだ!」
「『ドンマイ!』みたいな感覚で、試合中に『ブレスレット!』と言って、赤っ恥をかいたものだ。あのときのチームメイトのぽかーんとした顔は忘れられない」
「やめろ! そのエピソードはリアルで痛過ぎる!」
「実家に帰省中かと思ったら実家に寄生虫だったくらい痛いか?」
「痛いなあ!」
まったくもう!
お前とは来世でも仲良くできそうだよ!
「……戦場ヶ原の真似も、やめたんだよな」
「ん? ああ、前髪のことか?」
僕に渡されたユニフォームに袖を通しながら、神原は何ということもなさそうに、答える。
「別にあれは戦場ヶ原先輩の模倣《もほう》というつもりはなかったぞ――いや、わからんか。私のすることだ、信用はならん」
「そういう意味じゃなかったんだけど」
「ふふ。まあ、いずれにしても昔の話だ――阿良々木先輩も、そう気を遣ってくれなくてよい。ん、ほら、どうだ。こんな感じだ、阿良々木先輩」
「…………」
着てくれたのはいいのだが。
チューブトップにホットパンツという格好にユニフォームを着用したせいで、なんか裸にユニフォームみたいなかなり刺激的な格好になってしまった。
ちっとも爽《さわ》やかじゃない。
僕が見たかったのは、決してこんな姿じゃなかったはずなのだが……。
確かに似合うのだけれど、そんな風に似合ったから一体なんだというのだ。
「ふふ」
しかし、神原のほうは自分がどんな姿に見えているのか自覚がないのだろうか、少し嬉しそうに微笑んで、
「こうしていると、あの頃の気分になるな」
と言った。
「あの頃――現役時代のことか?」
「いや、全裸合宿」
「自覚ありまくりかよ!」
その企画は冗談だったはずだろ!
蒸し返すな!
ただ、本当のところどの頃の気分になったのかは知らないが、それは決して悪い気分ではないらしく、神原は、すぐにはそのユニフォームを脱ごうとはしなかった。
まあ、構わない。
掃除の邪魔になるわけじゃなく。
「でも神原、バスケは無理にしても、他のスポーツなら、その左腕でもできるんじゃないのか? たとえば、サッカーとか」
「完全に手を使わないスポーツなど存在しないと、私は思うぞ。サッカーでも、ゴールキーパーを引き合いに出すまでもなく、スローインなどで手を使うしな」
「あー」
「それに私はオフサイドのルールもわからない」
とか言ってると。
そのユニフォームがあった層の真下あたりから、意外なものを見つけた。いや、別に今時分珍しいものではないのだろうが、神原の部屋にこれがあるというのは、僕としては意外だった。
「神原、お前デジカメとか持ってたの?」
しかも最新型(っぽい)。
超薄くて超軽い。
「ああ、それはこの間購入したものだ」
神原は頷く。
へえ、本当に神原のなんだ――携帯電話もロクに使いこなせない機械音痴の神原にしては、随分とハイテク品を買ったものである。
「まあ、我ながら不似合いだとも思っている。しかし阿良々木先輩、世の中には現像に出しにくい写真というものもあるだろう」
「現像に出しにくい写真?」
「セルフヌードとか」
ゴミの山に突っ伏す僕。
折角片付けたのに台無しだ。
「そんなことのためだけにデジカメを買うな! これはお前にはまだ早過ぎる技術だ!」
「いや、『そんなことのためだけ』というわけではないぞ。他にも色々と活用している」
「たとえば」
「一年生の子猫ちゃん達のヌードを撮ったり」
「…………」
それは勿論、一年生の『飼っている』子猫ちゃん達のポートレイトを撮っているという意味だよな? 動物が服を着ていないのは当たり前だし……な!
「無論、本人達の許可は取っているから違法性はない」
「おいおい神原、日本語は正しく使えよ。猫に許可を取ることなんて無理じゃないか。許可を取った相手は飼い主だろう?」
「うむ? そういう人権意識を無視した言い方は好まないが、しかし阿良々木先輩、あえて飼い主というなら、私ということになる――」
「いやあ、僕は猫が好きなんだよなあ!」
話を無理矢理|遮《さえぎ》った。
いや、本当は猫は大の苦手なのだが。
怖いんだよ。
「ふむ。そうか。阿良々木先輩は猫好きか。プライバシーの問題を考慮《こうりょ》すればあたら人に見せるようなものではないが、阿良々木先輩がどうしても見たいというなら、そのデジカメの中のメモリーカードは持って帰ってもらっても構わないぞ。全ての責任は私が取ろう」
「見たいなんて言ってねえだろ!」
「ふふふ。別に照れなくともよいのに」
僕からデジカメを受け取る神原。
どこに行ったのかと思っていたのだ、などと呟く。
しかし人間、普通デジカメはなくさないよな……こいつの失《う》せ物能力は、人類のそれを凌駕《りょうが》している。
失せ物語だ。
「私はそんな、千石ちゃんに負けず劣らず照れ屋さんな阿良々木先輩に、ちょっとしたサプライズを用意している。新学期を楽しみにしていて欲しい」
「は? サプライズ」
「ヒントは『一年生』と『胸』だ」
「…………」
新学期、ロクでもねえ驚きが待ち構えている気配。
今から既にどきどきだ。
と、今度はゴミの山の中から漫画を見つけた。
いよいよこの清掃活動も宝探しの様相を呈してきた感じだ。デジカメを買う金があるなら、いい加減本棚を買えよな……ん、表紙から漫画だと判断してしまったが漫画ではない、小説だった。
『眼鏡秘書と眼鏡王子』。
タイトルからもわかりやすいBL小説だった。
「……これは捨てる、と。燃えるゴミかな」
「阿良々木先輩。それは萌えるがゴミじゃない」
神原がゴミ袋に伸びる僕の腕をつかんで止めた。
こいつ、いつの間にこんな近くに。
ユニフォームが移動系の装備だったのか。
「腐《くさ》ってはいても、必要なものだ」
「そうか? だったらお前、大事な本なら大事なりに扱えよ。こんな風に荒く扱って、作者にも失礼だろうが」
さっきその本を捨てようとした男の台詞だが。
まあ、本ってのも溜まると始末に困るよな。
「しかし、こういうのはどれも同じに見えちゃうよな――神原はきちんと区別をつけて読んでいるのか?」
「無論。それは、SFは全部同じに見えるというのと同じ、狭量《きょうりょう》な意見だな。人間、知らないものは全て同じに見えるものだ。正しい評価を下すためには、知識と教養が必要なのだ」
「そっか。……の割には」
その辺りのゴミの層の中には、同じくBL小説がいくつかあったので、手にしていたそれと、それらの表紙を見比べてみる。
「結局、全部ハンサムなんだよな」
「え?」
「いや、結局神原もハンサムが好きなんだなあって思って。お前、本当は大して変態じゃないんじゃないのか?」
「がっ……!?」
神原が本気でショックを受けた。
もう効果で言えば、顔に縦線くらいではおさまらず、背景ごと白黒反転するくらい。
一番言われたくない台詞だというのは、どうやら本当らしい。
「考えてみればこのご時世《じせい》、BL小説を読む女子なんて珍しくもないだろう。健康な証拠だよ。こんなの全然、普通普通」
「普通!? フロイトの後継者を自任するこの私が普通だと!?」
そんなことを自任してたのか……。
まあ、何でもかんでもエロに結びつけるあたり、後継者たる資格はあるのかもしれない。
「でもなあ……、ハンサムが好きって、女子なら当たり前じゃないか。そのハンサムが揃ってるのを見て楽しむのも、当然だ。つまりこれってアイドルグループみたいなもんだろう?」
「わ、わかりやすくたとえないでくれ!」
「体重が百五十キロを超えないとときめかないとか、加齢臭《かれいしゅう》に興奮するとか、そういうことはないわけじゃん」
「い、いや、それはその……!」
取り乱す神原。
明らかにきょどっている。
「ちょ……ちょっと、ちょっと待ってくれ! そんなことを言わないでくれ! 阿良々木先輩からそんなことを言われたら私はもうおしまいだ! 脱ぐ! 今すぐ脱ぐから!」
「いやいやいやいや、家の中でだらしない格好をするのもまた、考えてみれば普通だしな。外でも銭湯くらいなんだろ? セルフヌード? いや、筋肉のつき具合をチェックするのはアスリートとしては当然だ。今まで色々言って悪かったよ」
「謝って欲しいんじゃない! 阿良々木先輩、まずは私の話を聞いてくれ!」
「でもまあ、今日の経験を思えば、家族に見られて落ち込む程度の裸好きなんだなあ、とは思うよな。お前の話だけを聞いていたら、まるで家の中にいるときは常に全裸くらいに思っていたけど、所詮は自分の部屋という狭い世界での内弁慶《うちべんけい》だったんですね、と言っておこう」
後輩いじめ。
実に体育会系である。
「さっき電話で他ならぬおまえ自身が言っていたように、ひょっとしたら僕のほうがいやらしいんじゃないか?」
「う、うわあああ」
神原の目がぐるんぐるん回っている。
完璧、混乱状態だ。
実にメダパニ。
「ち、違う、その辺りはたまたまそういう本が多いだけで、もっと奥の地層には、ハードなBLもあるんだ。ハンサムばかりがBLでないことくらいわかっている! ほら、よく探してくれ!」
「おいおい神原、探さなきゃないようなものは本当の自分とは――」
一時期流行した自分探しに対する警鐘《けいしょう》とも取れる意見を言いかけたところで、僕は。
僕は神原に押し倒された。
悪いことに場所は布団の上である。
「か、かくなる上は行為をもって身の潔白を示すしか――ないっ!」
左手のことを除いても神原の力は僕の比ではない。
鍛えかたが違うのだ。
逆袈裟よろしく押さえ込まれては、身動きの取りようがない。
「阿良々木先輩、お覚悟!」
「覚悟って!」
「よいではないか、生娘《きむすめ》でもあるまいし!」
「そりゃ男だから生娘じゃあねえよ!」
「大丈夫だ、痛いのは最初だけだ! すぐに気持ちよくなる!」
「きゃーっ!」
「ふふ、阿良々木先輩も中々いい身体をしているではないか――私好みの筋肉だ! 実に触り心地がよい!」
「きゃーっ! きゃーっ! ぎゃーっ!」
「こらっ! 暴れるな! パンツが脱がせにくいだろうが!」
「ぎゃああああああああああああっ!」
僕は。
これから、いついかなるテンションのときに八九寺を見かけたとしても、決して出会いがしらのセクハラ行為には及ぶまいと、そう誓ったのだった。
008
スキル・章変えリセット。
何も起きてないよ。
「大体、形にはなってきたかな」
僕は言う。
神原駿河の十二畳の部屋は、とりあえず、それが十二畳の部屋に見えるくらいの段階までは整頓されてきた。
ここから後は神原が出しっぱなしにした物々を元あった場所に戻すだけなので、まだまだ油断は禁物とは言え、先の見える作業である。
万年床の布団は庭に出して干していた。
その他、脱ぎ散らかしていた服(下着含む)も、今は洗濯機《せんたくき》の中でぐるぐると回っている。
「ちょっと休憩《きゅうけい》するか」
「うむ。そうだな」
神原が畳の上に座る。
ユニフォームは、さすがにもう脱いでいた。
「茶でも淹《い》れて来ようか、阿良々木先輩」
「いや、別に疲れてるわけじゃないから、そういうのは大丈夫。ただ区切りってだけだ」
「阿良々木先輩の清掃スキルは目を見張るものがある。私は阿良々木先輩のそのスキルが見たくて、こうして部屋を散らかしているのかもしれないな」
「それは迷惑だから是非やめろ」
「阿良々木先輩は、いいお嫁さんになる」
「なりたくねえ!」
大体、別に僕は片づけが得意ってわけじゃないんだ。神原の部屋くらいまで散らかっている部屋を掃除すれば、誰だって片づけがうまく見える。元がああなんだもん。
「私の嫁に欲しいくらいだ」
「いや、僕はお前が旦那ってのはやだな……」
「結婚してくれるのでは?」
「ポジションが逆ならな。どっちにしたってお前は戦場ヶ原に殺されるが」
いや。
多分僕も殺されるけど。
「……しかし、阿良々木先輩。阿良々木先輩はあれだな、戦場ヶ原先輩とはお似合いのカップルではあるとは思うが、しかし最終的には羽川先輩と結婚しそうな感じがあるな」
「やなこと言うなよ!」
「そして私とは愛人関係。千石ちゃんが三号か?」
「う……」
なんて嫌な未来予想図だ。
あり得ないはずなのに、背筋が凍る。
きっとその上、本命は八九寺なのだ。
恐るべき阿良々木ハーレムである。
「そ、そんなことはないさ……僕は将来的に、戦場ヶ原と結婚するんだ」
「そんな夢見がちなプロポーズを、私に対して、今ここでされても挨拶に困るな……しかし実際、阿良々木先輩は」
神原は言う。
戦場ヶ原と付き合いを再開した影響で生じたと思われる、黒神原の表情で。
「私が本気で迫ったら、断りきれないだろう?」
「け……結婚をか」
「いや、愛人関係を」
「断るよ!」
多分!
いや絶対じゃないけど!
「阿良々木先輩の優しさは、女子から見れば付け込みやすいから気をつけたほうがよかろうという意味だ。まあ、今のところ他意はない。私は今の関係が好きだからそれを壊す方向へは動くつもりがないが、もしも阿良々木先輩が戦場ヶ原先輩を傷つけるようなことをしたら、きっと私はそのように動くのだろうな」
「…………」
お前は誰よりも、僕達の関係を壊そうとした奴なんだけどな。
お前は漫画に出てくる初期の敵か。
すぐに仲間になる奴。
「……ていうか、考えてみりゃ、羽川と結婚なんかしたら、羽川もまた戦場ヶ原に殺されちゃうじゃないか。それは嫌だ。話さなかったか? 僕は羽川を誰よりも恩人だと思ってるんだから」
「んー? いや、羽川先輩……」
と。
神原は言いよどむようになる。
「羽川先輩と戦場ヶ原先輩の関係は――なあ。そういう心配はいらないと思うが」
「うん? なんだよ」
「いや、あの人達はあの人達で独自の世界があるからな――私としてはそれは不本意でもあるのだが、しかし両者が納得している以上、少なくとも私が口を出せる筋合いではなかろう」
「? ふうん」
よくわからないことを言うな。
まあ、別にいいけど。
「あ、そうだ、神原。休憩時間の間に、これ、やらないか?」
僕は、ゴミ捨て作業の際に発見し、より分けておいた花札のケースを神原の前に置いた。見つけたとき、あとで神原と遊ぼうと思って回収しておいたのだ。今回の宝探しの、事実上唯一の戦利品と言ってもいい。ちなみに同じブロックにあった鷲巣麻雀牌《わしずマージャンパイ》は見なかったことにしている。
「ん?」
しかし。
神原は僕の差し出した花札ケースを手に取り、首を傾げた。
「なんだこれは。メンコか?」
「……いや、メンコっちゃメンコだけど……なんでお前の部屋にあったもんをお前が知らないんだよ」
「ああ、花札か……そう言えばあったな」
神原はケースを開けて、中から札を取り出す。
それを何枚もめくるようにしながら、
「しかし、私はルールを解さん」
と、そんなことを言った。
「デパートで売っているのを思いつきで買ってしまっただけだ。一通り絵を見て、それ以来|蓋《ふた》もあけていなかった」
「なんだ、そうなんだ……じゃ、無理か。久々にやってみたかったんだけどな」
なんだかなあ。
すっかりマイナーゲームになっちゃったよな。
世界一マイナーなカードゲームかもしれない。
まさかウノに負けるとは……。
人生ゲームよりも古いし、仕方ないか。
「いや、無理ということはないぞ、阿良々木先輩。教えてくれれば勿論できる。私はこう見えても、競技のルールを憶えるのは得意なほうだ」
「へえ。でも花札のルールってややこしいぞ」
「応とも。ダブルドリブルのことをボールをふたつ持ってドリブルすることだと勘違いしているような輩と、この私を一緒にしてもらっては困る」
「…………」
すまん、その勘違いは僕も昔していた。
まあ、神原って成績もいいらしいしな。
やってみるだけやってみるか。
二人だし、こいこいあたり。
「松、梅、桜、藤、杜若《かきつばた》、牡丹《ぼたん》、萩《はぎ》、すすき、菊、紅葉《もみじ》、柳、桐《きり》の十二種類がそれぞれ四枚ずつあって――まあ絵で憶えたほうが早いんだが」
軽く説明して、とりあえず実戦。
どれほど言葉を尽くして説明したところで、こんなものはやりながら憶えるものである。というより、役やらを一通り憶えれば、あとはやってみるしかない。
「阿良々木先輩はこの遊戯《ゆうぎ》をどこで憶えたのだ?」
「んー。確か、田舎のばあちゃんの家だと思うけど。なんかこの札の手触りが好きで。ちっちゃくて可愛いし。でも本当、最近遊んでくれる奴がいなくてなあ」
「ああ」
深く頷く神原。
視線を畳《たたみ》へと落とす。
「阿良々木先輩は友達が少ないものな……これは悪いことを聞いてしまった」
「違う! そういう意味じゃない! ルールを知っている奴がいないという意味だ!」
いや。
友達も少ないんだが。
「男友達に至ってはひとりもいないだろう」
「酷いことを言われた!」
「忍野さんもいなくなってしまったし……これから私は阿良々木先輩と誰との絡みを妄想すればよいのか、前途は多難だ」
「そんな妄想をされるくらいなら、男友達なんかいらない」
とりあえず十連戦。
解説つきの模擬プレイ。
当然、ルールを知っている僕のほうが順当に十連勝したところで、神原も大体、ルールを把握したようだった。
八枚の手札を見て、まず役作りを考えること。そして、勝負が始まれば、自分の手役ばかりにとらわれず、積極的に相手の手作りを邪魔すること。先に役を作られてしまうと、もうこちらの手など関係ないのだから――まあ、この辺を押さえられたら、もう一人前である。
「ふうむ。ではそろそろ本番と行かせてもらおう。楽しみどころは見えた」
花札のケースに同封されていた説明書を、それでももう一度確認するように見直して、神原は居住《いず》まいを正す。
「先攻後攻を決めるのは、札を引いて決める、と……説明書にわざわざ『ジャンケンやサイコロは控えて欲しい』と明記してあるところが渋いな」
「渋いだろ」
百人一首並みの渋さだ。
……ま、百人一首もまた、公式ルールでやろうとすればお手上げになる人が少なからずいるだろう、かなりなマイナーゲームだろうけど。
むすめふさほせ。
「私はジャンケンが弱いから、このルールはありがたいな」
「ジャンケンに強い弱いなんてあるのか?」
「まあ、なくはなかろう」
「ふうん……」
まあ、勝負だもんな。
強い弱いはあるか。
札を引くと、神原が十二月の札、僕が九月の札で、僕が親になった。
しかし、『こいこい』は基本的に先攻のほうが有利なゲームなので、ここは初心者の神原に、まずは先攻を譲ることにした。
そのような、手心を加えられるような真似は神原は嫌がるかとも思ったが、それはそれである意味フェアなスポーツマンシップだったからか、神原はさして遠慮するでもなく、「では」と、その提案を受け入れた。
「妹」
「ん?」
「いや、だから妹だ――友達はいなくとも、阿良々木先輩、確か妹がふたりいたろう。その妹と花札をやったりはしないのか? 今の話だと、家族は全員ルールを憶えていそうなものだが」
「下の妹は何度か一緒にやったかな……上の妹は、田舎じゃ野山を縦横無尽に駆け回っていたから。でも、この歳になって、妹とこんな風に遊んだりはしないよ」
「そんなものか」
「そういう兄妹もどこかにはいるんだろうとは思うけど。僕んところは、そんな仲のいい兄妹ってわけじゃないから」
それに、あいつらは忙しいからな。
正義の味方ごっこで遊ぶのに――忙しい。
「私は一人っ子だからな――妹というものがどういうものなのか、よくはわからないが」
「いいもんじゃねえ。それは確かだ」
「あるいは、兄かな。兄がいれば、私の人生はどう違ったのだろう――勿論、阿良々木先輩のことは、兄のように慕《した》っているが」
「そりゃ光栄の至りだ」
「試しに兄のように呼んでもいいだろうか?」
「工夫とかせずに普通に呼んでくれるならな」
「暦お兄ちゃん」
「…………」
やべえ。
超やべえ。
千石の真似なのだろうが、思いのほかの破壊力。
本当に、変にひねらず、奇を衒《てら》わずにストレートに来たところが好印象。
「暦お兄ちゃん。朝だぞ、ほら、起きよう」
「う、うおおお」
「暦お兄ちゃん。遅刻しちゃうぞ、早く早く」
「な、なんと……」
「暦お兄ちゃん。そんな意地悪をしないでくれ」
「ぜ、全身がくすぐったい……」
「暦お兄ちゃん。性行為を――」
「はいそこまで」
駄目が出た。
危ないところだった、溺れるところだった。
……でもまあ、千石もそうだけれど、こういうのは妹じゃない奴が言うからいい感じに、新鮮に響くところが大きいんだろうな。
そもそも、先輩としてはともかく、神原から兄として慕われる自信はない――いや、本当を言えば、先輩としてもないのだが。
「じゃ、そんな感じで」
勝負開始。
ここからは記録を取って。
勝負が盛り上がるよう、ちょっとした賭けをすることにした――と言っても、金銭を賭けるのは高校生として健全ではないので、トータルで負けたほうが罰ゲームを受けるという取り決めにした。
罰ゲーム。
いや、場合によっては健全ではなくなるが。
最悪、金銭よりも不健全なことになるが。
信頼しているぜ、神原!
前振りじゃなく!
「…………」
「…………」
で。
更に十連戦。
今度は模擬プレイではなかったのだが――
またも僕が十連勝だった。
「……えっと」
神原駿河。
確かにルールの憶えはよかったのだが――この女、恐ろしいほど弱かった。
なんなんだ、こいつ。運がなさ過ぎる。
ジャンケンに弱いというのも頷けた。
気になって最後、あんまり上品な真似じゃないのだけれど、使用された札をざっとカウンティングしてみた結果、彼女の手札のほとんどがカス札だった。しかも同じ月でダブっている。十二月のカス札が手の内に三枚って。
駆《か》け引きも何もねえ。
そういやこいつ、親決めのときも当たり前みたいに十二月の札とか引いてたよな……。
僕は経験者だけど、何分久し振りだから、初心者の神原とはいい勝負だと思っていたのだが……まさかここまでの偏りが出てしまうとは、かなり意外だった。
引き分けさえないというのだから恐れ入る。
よく憶えてないけど、引き分け率って、ゲームの構造的にそんな低くないはずなんだけどな。
うーむ。
いや、いい。
究極的にはこんなの運のゲームなのだから、日によってはこんなこともあるだろう。明日やったら今度は僕が神原と同じ立場になるのかもしれない。決して、ああやっぱ神原ってこういう不運な星の下に生まれついてるんだなあとか、本来的にこの娘は幸《さち》が薄いんだとか、そんなことはまったく思ってはいない。
しかし。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
神原はものすごい規模の沈黙をしていた。
三点リーダで六行分も黙る奴がいるか。
目つきが最早、僕の知る神原の目つきではなかった――いや、普段から凛々《りり》しい表情をした奴ではあるのだが、なまじ髪が伸びて女子っぽくなっているため、その据わった目には恐怖さえ感じた。
頬を若干|膨《ふく》らませ気味《ぎみ》なのは、まあ可愛いが。
むくれている。
唇の引き締めかたも半端ではなかった。
どんな勝負でも、負けが込むと黙っちゃう奴っているけど、こいつはその典型だ……。
随分とふて腐れちゃってまあ。
神原も意外なところで、子供だったな。
「そ……そろそろ片付けに戻ろうか? 遊び過ぎた気もするし」
「ほっほう。勝ち逃げをすると」
神原が低い声で呟く。
僕と喋っているというより、畳と喋っているようである。
「阿良々木先輩。今更言うようなことではないが、私は阿良々木先輩を尊敬している」
「あ、ああ」
「最早その信奉ぶりは神に対するが如し、阿良々木先輩を呼ぶときも、心の中では阿良々木参拝と呼んでいるくらいだ」
「それはやめて欲しいな……」
「しかし、その阿良々木先輩にしては、随分と卑劣な態度ではないか。あまり私を失望させないで欲しいな。勝ち逃げなどと、嘆《なげ》かわしい。どうやら私に負けるのが怖いと見える」
「……いや、あの、もう勝ちたくないんです」
しかし神原は僕に起立を許さない。
札をくって配るよう要求してくる。
負けの込んできたギャンブラーってひょっとしたらこんな感じなのかなあと思うけれど、しかし、神原がここまで勝負ごとにこだわる性格だとは思わなかった。
まあ、でないと全国には行けないか。
負けても悔《くや》しくないってのは、ある意味病気だし。
でも、勝てないときに限っては負けず嫌いな性格って、ただただ最悪だよな。
「何を言っているのだ、阿良々木先輩。まだ勝負はわからんではないか。途中で切り上げようとはこの私も馬鹿にされたものだ。ほら、説明書にも『十二回戦で終了』と書いてある。つまりあと二回、勝負は残されているのだ。勝った気になるのはまだまだ早い」
「どう考えてもあと二回で取り戻せる点差じゃ……あ、いやなんでもないです」
すごい目で睨《にら》まれたので思わず黙る。
黙る以外何をしろと?
お互い沈黙である。
僕は札を八枚ずつ配り終えた。
そしてまずは出しやすいよう並び替える。
神原との今後の関係を考えると、トータルで負けるのは無理にしても、せめて残り二回くらいは神原に華を持たせてやりたいところなのだが……何せ運のゲームだから、わざと負けるのも結構難しいんだよな。
こっちが手を抜いても、相手が手役を作ってくれないと話にならないし。
どうしたもんか……ん。
「あ」
「どうした? 阿良々木先輩。阿良々木先輩が親だぞ」
「……いやごめん、手四」
柳が四枚揃っていた。
よって手四。
配られた手札で役となる特殊役である。
「……六文、なんだけど」
神原は無言で、携帯電話の画面で作った勝敗表にその得点を記した。別に負けたほうが勝敗を記さなければならないというような残酷なルールはなく、単に神原が最初に記録係を買って出たというだけの話なのだが、しかしそんなこととは何の関係もなく、ひたすら負けっぱなしの神原である。
えーっと。
これで五十文くらい、僕の勝ちか?
「じゃ、そんなわけで、珍しい役も出たところで終わりにしようか――」
「待てこの……うう。あと一回戦、残っている」
一瞬、僕を罵倒《ばとう》しかけたようだが。
飲み込んだようである。
自制心はさすがだが、しかし自らを制さなければならないその原因のほうがショボ過ぎる。言ってもこれ、ただのカードゲームだぞ。
「そんなムキになるなよ……ブレスレット、ブレスレット。こんなの、たかが遊びだろ」
「そんな志の低さでどうして勝てる!」
「いや、僕は勝ってるじゃん」
「うう」
「遊びなんだから、楽しむってことも必要だぜ? 千石なんて見てみろ。あいつにツイスターゲームって遊びを教えてもらったんだがな、初心者の僕に負けたところで、あいつはすごく楽しそうだったぞ?」
「……阿良々木先輩は、どうやら真のラスボスの存在に、まだ気付いていないようだな」
「ん? 何の話だ」
「何でもない。それも私が口を出すようなことではないのだ」
さあ次だ、と神原は身構える。
嫌々ながらも、僕は札を配った。
まったく、こいつはスポーツで身を立て、ギャンブルで身を滅ぼすタイプだ……ん?
僕は配られた札を見て目をむく。
「……神原」
「なんだ、阿良々木先輩」
「罰ゲームを先に決めておくぞ」
「気が早いな。ちなみに私の側からは性的な欲求……否、性的な要求をするつもりだぞ」
「そうか。いや、死ねでもいいよ」
不健全極まりないことを言う神原に、僕は健全そのものの罰ゲームを提示する。
「お前は生涯ギャンブルをするな」
手札では、またも特殊な手役。
今度はくっつきができていた。
009
徐々に核心に近付いているので、心配はいらない。
花札勝負を終え、それから清掃活動も終え、僕が神原の家からおいとましたのは、もう夕方が近くなった頃だった。神原のお祖母ちゃんから夕食に誘われたが(いつものことだ。何度かいただいたこともある。お祖母ちゃん、料理超うまい)、今日は丁寧に辞した。
そう言えば、片付けの最中。
僕は神原に気になっていたことを訊いた。
つまり、その左腕のことを、家族にはどう説明しているのか――である。
「怪我で通しているよ」
と、神原は言った。
「とてもではないが、説明できるものではないしな」
「ふうん――でも、それで通るか? 僕の吸血鬼体質とは違って、お前の左腕は見たらわかるもんだろう」
怪異に憑かれた神原の左腕は。
形からして――異形《いぎょう》である。
「戦場ヶ原のあれにしたって、隠しようがなかったからだろう、親は知っていたんだし――」
「まあ、それは勿論、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、私のことを心配してくれてはいるがな――それでも私と彼らの間には、どうしようもなく母親のことがある。だから私が踏み込んで欲しくないところには、あの人たちは決して踏み込まないのさ」
そういうことらしかった。
母親――か。
そうだった。
そもそも、神原の猿の左腕は、母親の形見のようなものなのだった――そんなことまではわからないにしても、母親がらみであることを少しでも察せられれば、神原のお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、必要以上には近寄らないだろう。
あるいは。
全てをわかった上で、あえて知らない振りをしている――という可能性もあったが。
まあ。
神原も辛いところではあるのだろう。
母親のことはともかくとして、人間的に尊敬しているという祖父母に対し、どうしようもない秘密を有さなければならないというのは――何事にもまっすぐなあの正直者には、決して楽な選択ではないはずだ。
だけれどそれを飲み込むところまで含めて。
神原駿河の――責任である。
「……ま、どちらにしてもあと数年の我慢だ」
そう。
神原の腕は数年後には元に戻る。
僕の吸血鬼体質とは違って――彼女の腕は、一生付き合わなければならないようなものではない。だからきっと、彼女ならやり通すことだろう。僕は、夕暮れの光で長くなった影を見下ろしつつ、そんなことを思った。
まあそんなわけで。
自転車に乗って、神原の家の、あまりにも立派な木製の門扉《もんぴ》を内側から外側に向けて出たのだが、すると、すぐそこに、何をするでもなく立っている男がいた。
最初、どこかで見たような男だと思った。
しかし――知り合いではなかった。
記憶を探るまでもない。
葬式《そうしき》の帰りのような喪服《もふく》のごとき漆黒《しっこく》のスーツに色の濃い黒ネクタイを締めた、壮年の男だった。見るからに怪しいというか、とても曖昧な言いかたになるが、明らかに何者かっぽい感じだ。
何者か。
それが本物なのか。
それとも偽物なのか。
見ただけでは、そこまではわからないが。
明らかにこの町にはそぐわない――いや、あるいは逆に、僕のこれまでの経緯を振り返るならば、この町に至極|相応《ふさわ》しいとも言えそうな、そんな、そう、ありていに言うならば。
とてもいかがわしい。
とても不吉な男が。
神原の家を見上げていた。
「……ふむ? お前はこの家の子供かな」
この距離なのだ、当然、こちらから一方的に相手を観察することなどできるはずもなく、喪服の男のほうも、自転車に乗って神原家の敷地《しきち》から出てきた僕に、そんな風に声をかけてきた。
その台詞に、ひょっとしたらこの男はセールスマンかもしれない、と思ったが、しかし、そんな雰囲気でもない――こんな縁起《えんぎ》の悪い服装をしたセールスマンがいるものか。
辛気臭《しんきくさ》くて、買うものも買うまい。
「いえ……」
と、僕は首を振る。
どう対処していいかわからない。
セールスマンではないにしても、神原家のお客さんなのだとすれば、あまり失礼な態度は取れない――のだが。
「違います……けれど」
「ああ、すまない。名乗り忘れたな。見ず知らずの人間に対するその警戒は酷く正しい、大切にするがいい。俺は貝木《かいき》という」
「カイキ?」
「そう。貝塚の貝に、枯れ木の木だ」
喪服の男――貝木は、表情を変えることなく、なんだか一種|悟《さと》ったような、しかし不機嫌そうな態度で、僕のほうを横目で見るのだった。
ポマードで固められた黒髪。
どこか人工的な匂いが香る。
やはり――どこかで見たような男だ。
誰かと似ているのか。
だとすると――誰と似ているのだろう。
「……僕は阿良々木です」
先に名乗られてしまっては仕方ない。
僕も、とりあえず苗字だけではあるが、名乗らざるを得なかった。
「漢字は――えっと」
うーん。
他の三文字はともかく、『阿』が説明しにくいんだよな。
字で書けば一発なんだけど。
そう思っていると、
「そこまで説明しなくていい。それは聞いたばかりの名だ[#「それは聞いたばかりの名だ」に傍点]――」
と、貝木は、わけのわからないことを言った。
「ただし、俺が枯れ木だとすれば、お前は若木なのだろうがな」
「…………」
単に歳のことを言ってるのだろうか?
随分もって回った言い方をする。
いや、決して回りくどくはないのだが――それでもなんだか、わざと自分にしかわからないような言い方をしているかのようだった。
「……その、もしも神原の家に用なんでしたら――」
「ふむ。お前は最近の若者にしては礼儀正しいな。それに気遣いの出来る男だ、面白い。ただし、俺に関してはそこまでの気遣いは無用だ。この家にも特に用があったというわけではない」
ただし、と。
貝木は抑揚《よくよう》のない、しかし重い口調で言う。
「臥煙《がえん》の女の忘れ形見がここで暮らしているという話を聞いてしまったのでな。何をするわけでもないが、少し様子を見てみようと思っただけだ」
「臥煙……?」
それは。
確か――神原の母親の、旧姓だったか?
忘れ形見とは――ならば、神原駿河のことか。
最初、僕に『この家の子供』かと訊いたのは、そういうことか――だとすれば貝木は、神原が男なのか女なのかさえも知らないまま、ここを訪ねてきたことになるが。
「しかし無駄足だったな」
貝木は言った。
値踏みを終えたかのように。
「ほとんどオーラを感じない。およそ三分の一と言ったところだな。これならば放置しておいていいだろう――いや、放置しておくしかあるまい。残念ながら、金にはならん。今回の件から俺が得るべき教訓は、真実など、たとえ思い通りであったところで、場合によってはくだらないということだ」
そして、貝木は――
用は済んだ、と言うより。
ただの用済みだとばかりに、踵《きびす》を返して神原家に背を向けて、すたすたと――早足で、ただの徒歩なのにもかかわらず驚くような素早さで、この場を去っていった。
「えっと……」
僕はと言えば、対照的に――しばらくの間、そこから動くことができなかった。決して動きたくなかったわけではなく、何であれ、次の行動に移るのに躊躇《ためら》いを覚えたとでもいうのだろうか。
貝木の姿が完全に見えなくなって。
そこでようやく、僕は思い出した。
思い出したというのは違うかもしれない――
これは連想だ。
僕は、あの不愉快《ふゆかい》なアロハ男。
忍野メメを、連想したのだ。
怪異の専門家――忍野メメ。
この町に数ヵ月滞在し。
そしてこの町から去っていった男。
「いや、あのだらしねえ忍野とじゃ、全然違うんだけどな――それよりは」
それよりはむしろ、と。
忍野の他の――もう一人の心当たり。
その忌《い》むべき立ち姿を脳裏に描く。
貝木というあの男から連想する対象。
それは――あの狂信者。
「ギロチンカッター……」
それは思い出したくもない名前である。
しかし、忘れてはならない名前である。
だから。
「……まあ、忍野とギロチンカッターも、全然違うタイプだけど……」
共通点など、ほとんど皆無《かいむ》だ。
貝木を含めてもそうである。
こうなってしまうと、逆に、どうして貝木から、忍野とギロチンカッター、あのふたりを連想してしまったのか、不思議なくらいだった。
「追うか」
追って。
もう少し――話を聞いてみるか。
そう思って、僕は自転車のペダルを回し始めた――しかしハンドルは、貝木が行ったのと反対方向を向いていた。
口に出した言葉とはまるで裏腹に。
それは我ながら他人事のようで、しかし確実に自分の意志で、まるであたかも、貝木から逃げるかのような足取りだった。
直感だが――
何だかあの男と関わるのはまずい気がする。
縁起の悪い、辛気臭い喪服。
しかし、それは、そんなレベルではなく。
ただ――不吉なのであった。
不吉。
それは――凶という意味だ。
「それはともかく、これ、全然逆方向なんだよな……」
神原の家の掃除も終わったし、もう家に帰るだけのつもりだったのだが、これでは随分と回り道をしなければならない。だからと言って今更寄る場所もないわけだし――本屋も全然逆方向だし、まあいいか、ちょっとしたサイクリング気分と洒落込むとしよう。
ふうん。
しかし一応、あの男のことを神原に教えといたほうがいいのかな? あの投げやりな風な言い草だと、もう貝木が神原家に近付くことはなさそうだが――だから中途半端な不審者情報など、神原を変に不安にさせてしまうだけかもしれないのだが。
けどなあ。
万が一のことを考えると――念のためと思わざるを得ないな。
あいつも女の子だし。
最近とみに女の子っぽいわけだし。
うん、家に帰ったら電話を入れておくか。
と、そんなことを考えながら坂道を立ち漕ぎで登っていると、逆に正面から坂道を下りてくる人間の姿が目に入った。
足首まで届くような丈のスカート、長袖のサマーセーター。髪はうなじのあたりで結わえていて、表情は鉄仮面の如き無表情である。それは見ようによっては不機嫌極まりない表情のようにも見えて――とか何とか、そんな風に外装を描写するまでもなかった。
戦場ヶ原ひたぎ。
僕の彼女だった。
「……今日はよく知り合いに会う日だな」
最終回なのだろうか。
ひょっとして。
八九寺は偶然だし、千石と神原にしても思いつきの偶発的である――この上戦場ヶ原にまで会えるとは、今日は一体どんな日なのだ。
それとも、羽川のドタキャンはここまでの人数にエンカウントしないと埋め合わせできないくらいの、とてつもない重大事項なのだろうか。
だとしたら、その存在感はさすがである。
……ていうか、表面だけなぞれば、女から女へと渡り歩いている男みたいだよな、僕。
非常によくありません。
「おーい、戦場ヶ原」
向こうはまだ気付いてなかったみたいなので、とりあえずそう声をかけて、ぶんぶんと手を振ってみた。
戦場ヶ原は、目つきは悪いが目はいいはずだ。
声も聞こえたのだろう、顔を起こして僕のほうを見る――そしてそのまま曲がり角を折れて、僕の視界から姿を消した。
「……って! おいおいおいおいおいおいおい!」
僕は全力でペダルを漕いで、坂道をものともせず戦場ヶ原を追いかけた。
「マジでへこむことすんなや!」
追い抜いて、通せんぼをするかのように、戦場ヶ原の行く手を遮る。
戦場ヶ原は。
身も凍るような冷たい視線で僕を見ていた。
呪文詠唱《じゅもんえいしょう》なしでここまでの冷却効果を発揮するとは――こいつは上級魔法使いか。
「お、おい、戦場ヶ原……」
「……勉強もせずにこんなところをふらふらしているような男のことを、私は知らない」
「あ、いや……」
怒ってらっしゃる。
わかりやすく怒ってらっしゃる。
「ご、誤解だって」
「だまらっしゃい。誤解もお蚕《かいこ》様もないわ。私の授業からならばともかく、羽川さんの授業から逃げ出すなんて腑抜《ふぬ》けにも程があるわね、失望しました。いえ、もともと阿良々木くんに希望なんてこれっぽっちも持っていなかったけれど」
「違う違う。羽川が今日は忙しいらしくって、今日はお休みなんだよ」
「言い訳は聞き飽きたわ、この無能が」
ずばっと切り捨てる戦場ヶ原。
いや。
聞き飽きたって、受験勉強に関してそこまでの言い訳をした憶えはないぞ。
「所詮あなたは口だけの男というわけね、阿良々木くん。あなたのような男に心を奪われたことは、私にとって一生の恥よ」
「お前、僕じゃなかったら自殺するようなことを当たり前のように言うよな……」
「はっ。虫が」
顎《あご》を上げて、心底見下すような感じで吐き捨てて、戦場ヶ原は僕の自転車に背を向けて、坂道のほうへと戻る。まあ、そもそもこっちの道へは、僕を避けて這入《はい》っただけなのだった。
見逃すわけにはいかず、僕は戦場ヶ原を追う。
「ガハラさん、ガハラさん」
「何よ、ちゅらら木くん」
「人の名前を沖縄《おきなわ》県の方言みたいに呼ぶな、僕の名前は阿良々木だ――って、そりゃ八九寺の芸風だろうが」
「失礼。噛みました」
「違う、わざとだ……」
「噛みま死ね」
「やっぱわざとだ!」
振り向きもしない戦場ヶ原。
かなりのお冠《かんむり》だ。
いや、別に羽川の家庭教師のキャンセルがあったという僕の言葉を疑っているわけではないのだろうが、一度怒りの感情を呈してしまった手前、そうそうその怒りを撤回《てっかい》できないのだろう。
困った性格である。
月火のようなヒステリーなら、治まるのも早いんだけどな――こいつはその、根っからの根っからだから。
「戦場ヶ原、お前さあ」
「変な人が後ろをついてくるわ」
「おいおい、変な人って」
「変なチビが後ろをついてくるわ」
「ついにチビって言ったな、お前!」
僕の背の低さがバレるじゃねえか!
僕がぼかしてりゃわからないことなのに!
「いいじゃない。どうせアニメ化されてしまったら、阿良々木くんが私よりも背が低いことさえもバレるのだから」
「アニメ化反対だ! 原作の雰囲気が失われたらどうする!」
いや。
ほんの数ミリだが、実はそうなんです。
つーかガハラさんが女子的に背ェ高いんだよ。
火憐ほどじゃないにしても。
「なんでもかんでもアニメ化すればいいってもんじゃねえんだよ! 帯にアニメ化って書いとけば本が売れるみたいな風潮に、僕はあえて苦言を呈したいね! こんな時代だからこそ、僕は原作なしのオリジナルアニメが見てみたいって強く思うぜ!」
かつてないくらいムキになる僕。
しかし背の高い奴にこの気持ちはわからねえ!
靴を買うとき、なんとなーく底の厚い奴を選んじゃったりしてな!
「まあ、余計な心配かもしれないわね。どうせ阿良々木くんの存在はアニメ版ではカットされるから」
「主人公がカットされるの!?」
「そう……ギャラクシーエンジェルで言えば阿良々木くんはタクトだから」
「いやだ! あんな不遇な扱いを受けるのはいやだ!」
「烏丸ちとせみたいなポジションでいいなら出してあげてもいいけど?」
「あんな無様《ぶざま》な扱いを受けるくらいならまだ出ないほうがいいわ! ノーマッドのポジションならまだ考えるけれど!」
「なるほど。阿良々木くんはそこまでコンビーフの缶詰の秘密を知りたいのね」
「そういうわけじゃねえよ!」
つーかお前にそんな権限があるのかよ。
お前は大女優か。
配役も全て思いのままか。
恐ろしいわ。
「まあまあ、そうがならないで、阿良々木くん。捨てる神あれば燃やす神ありよ」
「踏んだり蹴ったりじゃねえか!」
「大丈夫、阿良々木くんは出ないけれど、代わりにファンシーなマスコットキャラクターが登場することになってるから」
「グッズ展開への伏線でしかない!」
「大体阿良々木くんは主人公じゃないでしょう。何様のつもりよ、思い上がって」
「う……」
まあ。
言っても司会進行だしな。
「阿良々木くんは主人公じゃない――奴隷公よ」
「何その属性!?」
いくら戦場ヶ原が早足で歩いても、こちらは自転車なので、すぐに追いつく。またぞろ前に回り込もうかとも思ったが、まあそこまでしなくともいいかと、ペースを落として、彼女の背中にひっつく形である。
「まあ、出ないで済むなら出ないでいいさ……お前がエンディングだかで無表情で踊ってるのを、画面の外から精々見学させてもらうよ」
「え? 私は踊らないわよ?」
「…………」
「なんでそんなことしなきゃいけないの、恥ずかしい」
「………………」
かっけー!
ひたぎさん超かっけー!
「ダンスを見学させてもらうのはこの私よ。そしてみんなが踊り終えた後にエンドカードで私が一言こう言うの――『駅で踊るな!』」
「僕はジョージアの昔のCMだってわかるけど、お前それ今の時代何人がわかるネタなんだよ!」
「でもまあここまで前振りしておいて、これで本当に踊るエンディングだったりしたら逆にがっかりよね」
「何がどうなれば満足するんだよ、お前は!」
はなはだ貪欲《どんよく》だった。
前振りっつーか無茶振りだよ。
「ったく……お前は本当にわからない奴だよ。いや、わかりやすい奴っていうのかな」
「何よ。この『自然に優しい有毒ガス発生』こと戦場ヶ原ひたぎの言動に、阿良々木くんは何か文句があるとでもいうの」
「何だよそのキャッチコピー!」
「『不自然に優しい』のほうがよかったかしら?」
「どっちも駄目だ!」
そもそも。
お前という人間は何に対してもどういう風にも優しくはねえよ。
「勘違いしないでよね。私は本当は、阿良々木くんみたいな人間の屑《くず》のことは大嫌いなんだから」
「……お前、ツンデレっていう設定にかこつけて、ひょっとしてただの本音を語ってないか?」
「ただ、女は愛する男より愛されない男と一緒になったほうが幸せだって言うから……」
「微妙に違うし!」
愛されない男ってなんだよ!
勝手なこと言うな!
「冗談よ」
「まあ、冗談ならいいんだけどな……」
「阿良々木くんは愛されまくりのもてまくりだもんね」
「…………」
言葉に棘がないか?
阿良々木ハーレムという、実在しない組織のことを言っているのだろうか?
「ふーんふーんふーん」
嘘っぽい鼻歌を無表情で歌いながら、こちらに手を伸ばしてきて、そのままアイアンクロー気味にがしっと僕の頭部をつかむ戦場ヶ原。
そしてその無表情を近づけてきて。
僕の目を覗き込むようにする。
「じぃーっ」
戦場ヶ原は自分で効果音を出す。
そして――
「三人……いえ、五人かしら?」
と、言った。
「な、何がですか?」
「本日阿良々木くんが遊んだ女子の数」
「…………っ!」
エスパーかこいつ!
え、でも、八九寺、千石、神原だから三人で当ってる……あ、月火と火憐も含まれてるのな!
超すげえ!
「厳密に言えば……六人?」
戦場ヶ原は、首を傾げつつ、そう言った。
どうやら、神原の祖母を含めたらしい。
厳密っつーか、厳し過ぎる。
「で、そういう予想を立てた上で改めて。阿良々木くんは愛されまくりの――もてまくりだもんね」
「…………」
だから無表情が怖いって。
瞳孔《どうこう》が開いている気さえする。
「うふふ」
すっと――アイアンクローを解いたかと思うと、戦場ヶ原は、すかさず、同じ手を僕の口の中に突っ込んできた。
親指を除く四本指を。
僕の口腔内へと侵入させたのだ。
「安心していいわよ――阿良々木くん。意外に思われるかもしれないけれど、私はこう見えて、浮気には結構|寛容《かんよう》なのよ」
「う、うわきなんてしてませんが」
超平仮名。
漢字がひとつも思い出せねえ。
「ぼ、ぼくがしているのはうきわくらいのものですよ」
うまく言おうとして、全くうまく言えなかった。
「そう。愛という名の海で溺れないよう、阿良々木くんは常に浮き輪を手放せないというわけね……」
「お前がうまく言うなよ!」
フォローのつもりか!
ショックで漢字を思い出したわ!
「それとも海じゃなくてプールかしら? こう、女性をプール(貯蓄《ちょちく》)しているという意味を含めて」
「いえ、そこまで深い考えはないですが」
プールに貯蓄という訳があること自体知らない。
勉強になる。
「でも実際問題、阿良々木くんの周囲は女子ばかり」
「そ、そうか? そんなことないと思うけど」
「でも、阿良々木くんの携帯電話のアドレス帳、女子の名前しか登録されてないじゃない」
「勝手に人の携帯チェックすんなや!」
そう言えば。
神原にも似たようなこと言われたな。
みんなの共通認識なのだろうか……だとしたら悲し過ぎるぞ。
「仕方ないかもね。阿良々木くんは女子には親切だけど男子には冷たいっていうキャラ設定だもんね」
「やめろ! 僕の評判が悪くなるようなデタラメを言うな!」
誹謗《ひぼう》中傷だ!
名誉毀損《めいよきそん》に値《あたい》する!
「どうせ阿良々木くんは男子が困っているのを見ても、『ふうん、そう。じゃあ頑張れよー』とかおざなりに励ますだけで、自分の家に帰っちゃうんでしょう?」
「見てきたような悪口を!」
「男子が『助けて!』って言ってきても、『んー、遠慮しとくー』とか、そんな感じでしょう?」
「遠慮しとかねえよ!」
「私はこう見えて、浮気には寛容なのよ」
恐るべきことに戦場ヶ原は、僕にかけた疑惑を完全に払拭《ふっしょく》しないまま、同じ台詞を繰り返すことで、話題を元の位置へと戻した。
なんて印象の悪いことをしてくれるのだ。
本当だと思われたらどうする。
「だから、誰とどんな風に遊ぼうと、それは阿良々木くんの自由だけれど――その浮気が少しでも本気になったなら、殺すわよ」
「…………」
まったく。
まったくと言っていいほど――冗談めかさない。
どこまで真剣なのかわからない――のではなく。
どうして真剣なのか――わからない。
「心配しなくとも遺書を書く時間くらいは提供するつもりよ」
「そんな心配してねえよ!」
「ひたぎちゃんのカウントダウンコーナー……あと四秒です」
「四秒で遺書が書けるか!」
「基本姿勢」
「基本姿勢が厳し過ぎる!」
「大丈夫、阿良々木くんひとりを死なせたりなんかしない――あとから相手の女も送ってあげるわ」
「だからお前が死ねよ!」
「その後、寂しくないよう神原を派遣してあげる」
「お前は神原を何だと思ってるんだ!?」
「都合のいい後輩」
「迷いなく残酷な定義!」
「阿良々木くんへの人身御供《ひとみごくう》」
「あいつ、生贄《いけにえ》だったの!?」
「別に構わないでしょう。人身御供って発音が孫悟空に似ていて、猿なあの子にはぴったりな役割じゃない」
「神原は左腕が猿なだけで神原自身が猿なわけじゃないんだぜ?」
「冗談よ。神原は可愛い後輩」
それに、と。
戦場ヶ原は僕の口から指を抜いた。
「そもそも私は死後の世界なんて、これっぽっちも信じてはいないんだけどね」
「あっそ……」
ま。
お前はそうだろうな。
そう言わなければならないだろう。
「ただ、私と付き合うということはそういうことだと――阿良々木くんにわかっておいて欲しかっただけ」
「……わかってるよ」
僕は頷く。
それは言われるまでもないことだ。
そういうリスクは――含んでいる。
お前はどこまでも、美しい棘だ。
「そもそも、浮気なんてしない」
「あらそう」
戦場ヶ原はそっけなく頷いた。
表情も感情も読めやしない。
しかし続けて、
「ならいいわ」
と言った。
「阿良々木くんが、自分が一体誰の男なのかを忘れていなければ――私はそれでいいのよ」
それは、どこか。
引け目さえ感じさせる言葉ではあった。
戦場ヶ原にしては珍しいとも言える。
しかし同時に彼女らしいとも――言えそうだった。
「私は阿良々木くんの女であるためにそれなりに努力している――できれば阿良々木くんにも、同じようにして欲しいと思うわ」
「努力ね」
いつだったか。
八九寺がそんなことを言っていたか。
好きでい続けるための――努力。
それは決して、不実ではないと。
これ以上なく――誠実だと。
「してるさ」
僕は答えた。
はっきりと、宣誓するように。
「自分が誰の男かなんて――忘れたことねえよ」
「あらそう」
そんな、僕の言葉に。
戦場ヶ原は、繰り返し、そっけなく頷いた。
それだけだった。
それだけで十分のようだった。
「ちなみに阿良々木くん。それはそれとして、最後に参考までに言わせてもらうけれど」
「ん?」
「自分の彼氏がモテモテと言うのは――彼女として、割と最高の気分なのよ」
「本音過ぎるわ!」
そんな会話中も戦場ヶ原の表情はほとんど動かない。
顔面の神経の制御率がすご過ぎる。
とにかく、話題が一段落したところで、
「どっか行く途中なのか?」
と、僕は戦場ヶ原に質問した。
「買い物を終えて家に帰る途中よ。そんなこと、見てわからないの? これだから無脊椎《むせきつい》動物は嫌になるわ」
「脊椎くらいあるよ!」
それに、見てわかるか、そんなこと。
買い物袋でも持ってれば話は別だが。
「じゃ、後ろに乗れよ。家まで送る」
「後ろって?」
「自転車の後ろだよ」
「ああ……その蹴ったマシンの」
「お前、名古屋《なごや》人だったのか!?」
「やめておくわ。スカートが巻き込まれそうだから」
ああ。
今日の戦場ヶ原のスカートは、足首まである上に、ふわふわのフレアだしな。
「それとも阿良々木くん、それは遠回しに、私にこの場でスカートを脱ぐように強要しているの?」
「してねえよ!」
て言うか。
基本的に戦場ヶ原は制服にしろ私服にしろ何にしろ、スカートは丈の長いものしか穿かないんだよな……丈の短いキュロットなんかのときは、絶対にストッキング完備だし。
生足を外気に晒すことをよしとしないのだ。
貞操意識が高いというか、何というか。
まあ。
彼女の過去の事情を鑑みれば、わからなくもない。
わからなくもないが。
「阿良々木くん」
好きなだけ毒を吐いてどうやら気が済んだようで、ようやく、戦場ヶ原のほうから話題を振ってきた。口調は相変わらずの平坦なそれだが、まあこいつは、怒っていようとどうだろうと、基本的には起伏のない喋り方をするのだ。
「受験勉強はともかく――文化祭も終わって夏休みに入り、いよいよ私達の高校生活も、卒業が視野に入ってきたと思わない?」
「ん? ああ、そういやそうだな」
正直、勉強漬けで、そこまで気が回っていないが。
考えてみれば、もうそんな時期だ。
「とりあえず、僕も出席日数の問題はクリアできそうだし――留年ってことはなさそうだ」
「留年したら面白かったのに」
「面白がるな!」
「この最高の見せ場を逃すだなんて……本当、何年バラエティやってるんだか」
「僕はバラエティで高校生活送ってねえよ!」
「私の高校生活の思い出と言えば」
戦場ヶ原は不意に、物思うように顎を上げて。
すうっと、物思いに耽《ふけ》るようにして。
そして言う。
「……やっぱりケシオト以外にはないわね」
「ケシオトなんて高校生になってからやる遊びじゃねえだろ!」
ケシオト=消しゴム落とし。
念のためな。
「何よ、阿良々木くん。その台詞、ケシオトクイーンと呼ばれたこの私を侮辱《ぶじょく》していると受け取っていいのかしら?」
「女子高生をケシオトクイーンと呼ぶことのほうがよっぽど侮辱的だろ!」
「一人で放課後、黙々とトレーニングを積んだ私のケシオトテクニックに敵はないわ」
「そんな悲しい話を聞かせるな!」
「もっとも、遊び相手がいなかったから試合をしたことはないんだけど」
「涙が出そうだ!」
「口の利き方に気をつけることね。さもないと凶悪犯罪に手を染めた挙句、阿良々木くんが好きな漫画に影響されて犯行に及んだと供述するわよ」
「お前、漫画家の先生を人質に取るの!?」
「ケシオトはともかく、高校を卒業してしまえば、もう席替えという言葉でワクワクすることはなくなるのだと思うと、一抹《いちまつ》の寂《さみ》しさを覚えるわ」
「お前にとって卒業はその程度のことか……」
まあ。
戦場ヶ原の高校生活は、三分の二以上――文字通りの意味合いで、何もなかったからな。
何も。
思い出も――何もなかった。
それは吹けば飛ぶような――軽さだった。
「……つーか、お前はそもそも、席替えでワクワクするようなタイプでさえないよな」
「まあね。席は変わっても、私は変わらないもの」
「…………」
深いことを言っているようで、実際に言っているのはただの当たり前の話だった。
だからこそ。
お前は随分変わったよ――と。
そんなことは、言うまでもなかった。
「卒業して、大学に行って――ああ、まだ阿良々木くんが大学に行けるかどうかはわからないけれど」
「その注釈は余計だ」
「大学を卒業して――大人になるのかしらね」
「大人」
「大人と子供の違いって、何かしら?」
戦場ヶ原の質問。
特に答を求めてるわけでもなさそうだ。
思いつきに任せて喋っているモードだろう。
「さあな。考えたこともないとは言わないが――考えてもまるで答が出そうにない問いかけだな」
「私はこう思うわ」
真面目《まじめ》な口調で言う戦場ヶ原。
「風の谷のナウシカを映画で見るのが子供、漫画で読むのが大人」
「真面目な口調で何言ってんだよ!」
「ちなみに私はもう大人」
「僕はまだ子供だな!」
うーむ。
そうだ、こいつ、本、結構読んでんだよな。
「確かお前は、小説だろうと漫画だろうとビジネス書だろうと、何でも読むんだったよな」
「そう。私に読めないのは空気だけ」
「一番大切なものを読み落としている!」
「誤読しっぱなし。行間しか読みません」
ルビばっかり読んじゃったりしてね、と戦場ヶ原。
レベルの高いギャグだ。
空気のルビってなんだよ。
「でも私、空気は読めなくとも空気を凍らすことは得意よ」
「人類に不必要なスキルだ!」
「風の谷のナウシカ、漫画版ではクシャナが思いのほかいい人でびっくりするわよ。あの人、てっきり私の仲間だと思ってたのに……むしろ敵だったのね」
「映画版だろうと漫画版だろうと、クシャナもお前に仲間扱いされたくないだろうよ」
「阿良々木くんも、いつまでも金曜ロードショーに頼ってないで、早く大人になることを勧めるわ」
「受験勉強の最中《さなか》の奴に漫画を勧めるな!」
「何を愚かなことを。受験勉強より大切なことが世の中にはあるはずでしょう」
「そうだけど!」
そうだけど!
僕本人がそんなことを言ったら激怒する癖に!「『腐ってやがる。早過ぎたんだ』というあの名言が、まさか本当に早過ぎたからだと知ったときの感動は、人を確かに成長させるわ……逆に言えば、漫画版から先に読んだ人の映画見たときの感想って、どんな感じなのかしらね?」
「知るかよ!」
「少しは知ろうとしなさいよ、まったくもう。阿良々木くんはいつまでたっても子供なんだから」
「よく言われるよ――」
いつまでたっても――大人になれない。
子供。
いや。
今日、月火に、真逆のことを言われたんだっけ。
「――だけど、な」
「ところで阿良々木くんのほうは、どうしてこんなところに? ここはあなたのテリトリーではないでしょう」
戦場ヶ原はあっさり話題を変えた。
この辺りの切り替えは自由過ぎる。
「見てわからないか?」
さっきの意趣返しというわけではないが、試しにそう言ってみると、
「残念ながら私は微生物の行動学は学んでないわ」
と、戻された。
勝てるわけのない勝負を挑んでしまったらしい。
微生物って……。
「それでもあえて予想するなら……そうね。阿良々木くんのことだから、軽犯罪の帰り?」
「そんなブラリ散歩気分で軽犯罪を犯すか!」
また軽犯罪ってしょぼいな!
悲しくなるぜ!
「神原の家に行った帰りだよ」
話が迂遠《うえん》になってしまうから、千石の家に行ったところから説明する必要はあるまい――そもそも戦場ヶ原と千石は、今のところ接点がないしな。あれ? ひょっとしたら、お互い存在さえ知らないかもしれない。
……ま、だったら尚更《なおさら》、教えないほうがいいだろう。
こんな怖いお姉さんを、大人し姫の千石に紹介すべきではない。
「そう。神原の家で軽犯罪を」
「犯してねえ!」
「あら。てっきり神原の裸でも見てきたのかと思った」
「み……見てねえ!」
どもった。
ただの嘘だし。
いや、正面からは見てない!
言うまでもないと思ってそんな細かい説明を省略しただけなのだ!
「そう。そうね、神原の家で軽犯罪なんて犯さないわよね」
「わかってくれりゃいいんだが……」
「軽犯罪は犯してないけど性犯罪を」
「たとえ言葉の上だけでも大事な後輩でそういう想像をすること自体が僕はもう嫌なんだって、いい加減わかれよ!」
「でも、真面目な話、神原の裸は一度くらいは見ておいたほうがいいわよ。あの女の身体は芸術品のレベルだから。いやらしいんじゃなくて美しいの。男性視点からだと好みもあるんでしょうけれど、女性から見ればあれはパーフェクトなスタイルよ」
「…………」
本当は大いに頷けるし、できればそれについて語り合いたいくらいなのだが、それはできないし、ひょっとしたら鎌掛《かまか》けかもしれないので、僕は沈黙を保った。
て言うか、戦場ヶ原も見たことあるのか。
女同士だからありえる話だが、そのシチュエーションは気になる……いや、八九寺の冗談ではないのだが、ここだけの話、神原のほうは戦場ヶ原にマジで百合なのだ。
エロで百合でマゾで露出趣味。
それが神原駿河。
ハイクオリティ。
BL本の表紙の件で色々いじめたが、彼女が変態のエリートであることは間違いがないのだった。
「髪を伸ばして、すっかり女の子らしくなっちゃったし……あとはあの男前な口調を何とかすれば完璧ね」
「神原駿河改造計画は別にどうでもいいんだけどな――口調については、僕は今のままの神原のほうがいいと思うし」
「あれが私のものだと思うと誇《ほこ》らしいわ」
「お前のものじゃないぞ!?」
あんまり話すとボロが出そうだな。
ちょっと話を逸らそう。
「ああ、そういや、神原の家の前で変な奴を見たぜ」
「え? いつから神原の家の前に鏡が設置されたの?」
本気で言っているみたいな感じで首を傾げる戦場ヶ原――いやもう本当にこいつは。
「変な奴っつーか……不吉な奴なんだけど」
「不吉?」
戦場ヶ原は。
ゆっくりと――僕を振り向いた。
そのことに大して意味を見出さず、僕は、
「名前は――貝木っつったっけ」
と、続けた。
そして。
僕の記憶は――ここで遮断《しゃだん》される。
010
で、気付いたときには拉致監禁だった。
学習塾跡の廃墟、その四階。
後ろ手に手錠。
戦場ヶ原に確認したところ、僕はそんな長い間気を失っていたわけではないらしい――精々数時間とのことだった。
つまり僕が目を覚ましたのは七月二十九日の深夜――というか、七月三十日になったばかりの頃だということらしい。
ふうむ。
とは言え、記憶が遮断されたところで、そこまで思い出せれば全ては繋《つな》がる――要するに、直後、戦場ヶ原にぶん殴られたのだろう。
二十発。
恐るべきことに二十発も。
……絶対最初の一発で気絶していたと思う。
もっとも、戦場ヶ原は素手での格闘スキルを有する奴ではないので、何らかの凶器を利用した可能性が高いと推測できる。さすがと言うか何と言うか、思いついたら即決即断、戦場ヶ原の辞書には躊躇の二文字がなかった。
まあ、自分の身を守るために色々地獄を見てきている女だ――気絶させることよりも、むしろここまで僕を運んでくるほうが大変だったろうな。
と、そんなことを他人事のように考えて。
「まあ、拉致監禁に至る経緯は思い出せたけど」
と。
僕は目前で、平然としている戦場ヶ原に問いかける。
「どうして拉致監禁なのかという問題は、まだ残りっぱなしだな」
「え? 何のこと?」
「何に対してどう誤魔化してるんだよ!」
まるでとぼけられてない!
意味さえ不明だった!
しかし戦場ヶ原には僕の叫びなどまるでどこ吹く風で、ちっとも取り合う風もなく、オムツの封を切り始めていた。何たる恐怖。
つーか……。
まあ、ここまで思い出せれば、大体のところ想像はついてるんだけど。
「貝木って男」
僕は言う。
普段からほとんど存在しない、戦場ヶ原の表情の変化を慎重《しんちょう》にうかがいながら。
「お前の知り合いなのか」
「そんなことより阿良々木くん、紅茶でもどう? 確か阿良々木くんは関西地方のお祭りみたいな名前の紅茶が好きなんだっけ」
「だからせめてもう少し誤魔化すための努力くらいしろよ! ここにはカップもポットもお湯も茶葉もねえだろ!」
あとダージリンな!
ダンジリじゃなく!
一つの台詞で突っ込みどころを三つも作るな!
「阿良々木くんなら誤魔化されてくれると思ったのに」
「お前、僕のことをどこまで馬鹿だと思ってるんだ」
「アメニティを紅茶の種類だと勘違いしてそう」
「馬鹿にするにもほどがある!」
「もっとも、この場合は馬鹿じゃなくてお人よしね」
戦場ヶ原は言った。
表情は変わらない。
「訊かないでくれるとありがたいんだけど」
「……そうするべきなら、そうするけれど。でもそうじゃないだろ。お前がここまでしなきゃならないんだから」
僕を守るため。
僕を守りたくて――戦場ヶ原は、僕を拉致監禁しているのだから。
「お前がここまでするなんて、ただごとじゃない」
「そう? 私、相手が阿良々木くんなら、拉致監禁くらい理由がなくとも口実さえあれば、平気でしそうだけど」
「…………」
うん。
僕も言いながらそう思った。
けれどそれに頷いたら話が進まないのだ。
「貝木|泥舟《でいしゅう》」
戦場ヶ原は。
余所見をして、言った。
「その男の名前よ。貝木なんてそうある名前でもないし、それに不吉だというなら間違いないわ――あれほど不吉という言葉が似合う男を、私は他に知らない」
「…………」
「そう、阿良々木くんが何も知らないように……」
いや。
話の流れを無視してまで僕の悪口を言う必要がどこにあるんだろう。
本気で空気が読めないらしい。
恐ろしい奴だ。
「まさかこの町に戻ってきていたなんてね。意外というか不可解というか――実際、思いもしなかったわ」
「……どういう奴なんだ? お前がそこまで毛嫌いする相手なんて珍しい」
「私が毛嫌いしてない相手がこの地球上に一人だって存在するとでも?」
「だからそう返されちゃ話が進まねえんだよ」
「カエサルのものは、返さない」
「ただの泥棒だ!」
「そう。そして貝木は――詐欺師《さぎし》よ」
考察してみれば。
戦場ヶ原の毒舌は、この状況でいつも通りの相変わらずと言うよりは、打って変わっていつも以上である。
それが何を意味するのかと言えば――そう。
とても素面《しらふ》じゃ話せないような。
真面目に話すのが嫌になるようなことを――これから、話そうとしているのかもしれなかった。
「私の抱えていた問題については、阿良々木くん――それに、忍野さんに解決してもらったわよね」
「ああ」
それは実のところ、一般的な意味で言う解決ではなかったかもしれないけれど、戦場ヶ原が解決と言ってくれるなら、解決でいい。もしも修正点があるとすれば、その解決は忍野の力でも僕の力でもなく――戦場ヶ原自身の力によるものだというだけだ。
「で、言わなかったっけ? 阿良々木くんに忍野さんを紹介してもらう前に――私は、五人の詐欺師に出会っている」
――私に向かって。
――同じような台詞を吐いた人が、今まで、五人いるわ。
――その全員が、詐欺師だった。
――あなたもその部類なのかしら?
――忍野さん。
確か戦場ヶ原は初対面のとき――忍野に向けて、そう言い放ったのだった。
五人の詐欺師。
「貝木はその内の一人――最初の一人よ」
「…………」
なるほど。
忍野と、それにギロチンカッターと似た匂いがあったはずだ。
戦場ヶ原の抱えていた問題とは、つまるところ、蟹。
怪異という問題だ。
忍野メメとギロチンカッターは、立ち位置も仕事に対する姿勢もまるで違い、また、忍野が怪異全般を担当するのに対してギロチンカッターは吸血鬼のみのオーソリティだったが――
怪異に対する専門家という点では同じだ。
そして貝木――貝木泥舟も、また同じ。
それが本物か偽物かは――ともかくとして。
「偽物よ」
戦場ヶ原は断定した。
辛辣《しんらつ》に。
「ただし、詐欺師としては一流だった。私はね、あの男に家族ごと――酷い目に遭わされたのよ。色々やった挙句、お金だけ巻き上げて、結局は何もせずに姿を消したわ」
僕は思い出す。
喪服のようなスーツを着た、あの不吉な男を。
貝木――泥舟。
「何分、最初の一人だったから――私も随分と期待したものだったけれど。その反動もあって、ショックはとても大きかったわ――けれど、そんなのは些細なことなのよ」
「……じゃあ、些細じゃないことは何だよ」
「私は」
僕の質問に、戦場ヶ原は答えた。
躊躇のない台詞である。
「阿良々木くんに、あの男とかかわって欲しくないの。それだけなのよ」
「…………」
「私はもう二度と――大事なものを手放さない。なくしたくない。だから」
戦場ヶ原は、言葉を区切って。
誓うように――そう言った。
「だから、阿良々木くんは――私が守る」
自分自身と約束するように。
そう言った。
僕は、言葉を返せない。
別に納得したわけじゃない。
言っていることを理解できたわけでもない。
論法が二、三段、飛ばされている気がする。
いや、飛ばされているのは、多分情報だろう。
だけど。
戦場ヶ原は――昔、大事なものを手放している。
その経験は、彼女にとって、重い。
重い。
重くて痛い。
躊躇することがなく、それゆえに反省することもほとんどない彼女にとって――唯一と言ってもいいほどの、それは、汚点である。
だから本当に、戦場ヶ原は掛け値なく――
今、僕のために行動しているのだろう。
それだけは間違いなく真実だ。
「貝木って奴は……そんなに問題があるのか。どうして僕に会わせたくないと思うんだ」
「そうね。正義マンの阿良々木くんには、刺激の強過ぎる相手よ」
「正義マンって……」
なんだよそれ。
ファイヤーシスターズじゃあるまいし。
「少なくとも貝木の目的がわかるまで――何をしにこの町に戻って来たのかがわかるまで、阿良々木くんはここで大人しくしておいて頂戴。いえ、たとえ貝木に目的なんてものがなかったとしても、あの男が町を出るまで、阿良々木くんにはここにいて欲しいわね」
「……もしも貝木がこの町に引っ越して来たんだったら?」
「そのときは……」
その可能性を考えてなかったらしい。
戦場ヶ原は少し思案して、
「阿良々木くんは一生ここで過ごす」
と、とんでもないことを言い出した。
「おい、ガハラさん……」
「それか」
そして続ける。
非常に平坦な口調で。
「貝木を殺すか」
「……いや」
殺すとか。
そういう言葉を平気で使うな。
「そうね……、じゃあ、貝木をパチンとするか」
「パチンって!」
可愛い擬音で表現しても駄目!
駄目なものは駄目!
「大体、貝木って男はどんな――」
いよいよ物騒《ぶっそう》なことを言い出した戦場ヶ原に、僕は拘束された姿勢のままで、もう少し詳しい説明を求めようとした――そのとき。
そのときだった。
携帯電話の着信音が響いたのだ。
僕のジーンズのポケットの中から。
この音はメールの着信だった。
「……見ていいか?」
僕の言葉に、戦場ヶ原は少し間を置いてから、頷きはしなかったものの、僕のズボンへと手を伸ばした。そしてポケットの中身をまさぐる。
「って、いやいや! まさぐり過ぎだろ! どさくさにまぎれてどこを触ってるんだ!」
「奥のほうにあってうまく取り出せないのよ」
「僕のポケットはそんなに深くないよ!」
「そう。阿良々木くんは人生もポケットも深くないのね」
「傷つけられなきゃ携帯電話も取り出してもらえないのかよ!」
まあ。
傷つけられたので、取り出してもらえた。
画面をそのまま示される。
当然、適切な操作をしなければメールの文面を読むことはできないのだが――しかし、待ち受け画面に表示された差出人と、そして件名を見るだけで、僕にとっては十分だった。
『from・小妹/subject・助けて!』
かりん[#「かりん」に傍点]、と。
その瞬間――手錠。
僕の両手を拘束する手錠の鎖が[#「手錠の鎖が」に傍点]――切れた[#「切れた」に傍点]。
あっさりと――それから。
それから僕は、立ち上がった。
「……阿良々木くん」
戦場ヶ原は、さすがに驚いたようだったが、しかしさすがというなら彼女のメンタルのほうがよっぽどさすがなもので、まるで取り乱しもしなかった。
ただ。
立ち上がった僕を。
強く――睨み据えている。
「どこへ行く気」
「野暮用《やぼよう》ができた。遊びはここまでだ。悪いが僕は家に帰る」
「帰れると思う?」
「帰るさ。僕の家だ」
そして。
僕の家族だ。
「言っておくけれど――私は相手が吸血鬼だからといって怯《ひる》むほど臆病じゃないし、相手が恋人だからといって怯むほど優しくもないわよ」
「知ってるよ。だからお前が好きなんだ」
「ふふ」
戦場ヶ原は――むしろ楽しげに笑った。
こんな風に、感情を正面からぶつけられる相手がいることが嬉しくてたまらないというように――ほんの少しだけだけれど、笑顔を見せた。
「ここを通りたければ私を倒すしかないわよ――阿良々木くんにそれができるかしら」
「通るよ。その台詞は、ブリッジして言わなければ効果がない。お前が僕を守りたいと言ってくれるように、僕にも守りたいものはあるんだ」
大事なものをなくした経験があるのは。
何も、お前だけじゃねえんだぜ。
「そんな言葉で私を説得できるとでも?」
「説得する必要なんかねーだろ」
「さあ、どうかしら。私のことを、あまり理解のある女だとは思わないで欲しいわね」
「でも、戦場ヶ原。だったらお前、僕のどこに惚れたんだ?」
僕は戦場ヶ原に向かって、言う。
真っ直ぐに睨み返して。
「ここで動かない僕を、お前は好きだと誇れるのか」
「……やば。超格好いい」
ぼそっと。
小声で呟く戦場ヶ原。
いや、急に素に戻らないで。
こっちが照れる。
「私が男だったら恋してるわ……」
「女のままで恋しろよ!」
「してるけど」
「う。む」
互いに、緊迫している中でのえもいわれぬ気まずさで黙り込んでしまったが、するとそこで、今度はメールではなく、通話用の着信音が、戦場ヶ原の手に握られたままだった僕の携帯電話から鳴り響いた。
「もしもし。今取り込み中よ」
着信音がうるさかったのか、勝手に電話に出て、目線はこちらから外さないまま、電話の向こうに対して無感情にそう言い放つ戦場ヶ原。
当然、そのまま電話を切るのかと思いきや――
そこで戦場ヶ原の動きが固まった。
いや、無表情で固まったのだが。
何だか――動揺しているようにも見えた。
しかし、拘束されているはずの僕が立ち上がった際にもまったく取り乱さなかった戦場ヶ原が――動揺?
「い……いえ」
発せられる声にも力がない。
この離れた位置からはまるで聞こえないが、電話相手から何かを言われたのか?
そもそも電話相手は誰なんだ?
てっきり、月火だとばかり思ったが――
「そんなつもりは――ないわ。それは誤解よ。そんなことは一言も言っていないでしょう。ええ、うん――その通りだわ。あなたが正しいわよ。ちょっと待って、そんなことはしなくていい。約束が違うわ。やめて、お願いよ、猶予《ゆうよ》を頂戴《ちょうだい》。わかりました。全部あなたの言う通りにするわ……それでいいんでしょう」
そして電話を切る戦場ヶ原。
諦観《ていかん》するように目を閉じて――携帯電話を僕に向けて、まるで八つ当たりでもするかのように投げつけてきた。
わけがわからない思いで僕は戦場ヶ原を窺ったが、彼女はそんな視線さえ煩《わずら》わしそうに、
「帰っていいわよ、阿良々木くん」
と言った。
本当にわけがわからない。
本当にわけがわからないが、少なくとも――戦場ヶ原がその身体を避けて、扉への道を開けてくれたことだけは、確かだった。
「……いいのか? 本当に?」
「いいわよ……そ、その、阿良々木くん、なんていうか、あれなんだけど」
と。
戦場ヶ原は、いかにも渋々というか……嫌々というか、とにかくまるで意に添わぬという感じで、常にフラットで、平坦で抑揚のない口調で話す彼女にはあり得ないほどにつっかえながら、
「ご……ごめ、ごめんな……さいっ」
そう言った。
どうやら電話相手から、僕に対する謝罪を強要されたらしい――それに従うことが戦場ヶ原にとってどれほど苦渋の決断だったのか、彼女は下唇をかみ締めて、その全身は屈辱に震えていた。
…………。
そんな我慢してまで謝って欲しくない……。
「あのさ……ガハラさん。ちなみに、今の電話の相手って、誰だったの?」
僕からの質問に。
戦場ヶ原は短く答えた。
「羽川さん」
011
月火から助けを求めるメールが来た。
つまりは火憐がピンチってことだ。
僕は急いで自宅まで帰ることにした――ちなみに、そう言えば僕の乗っていた自転車はどうしたのかと戦場ヶ原に訊いてみると、丁度いいゴミ捨て場があったのでそこに駐輪してきたとのことだった。
何てことすんだよ。
ヴァルハラコンビは僕の自転車の廃棄《はいき》を生業《なりわい》としているのだろうか。
僕はそのゴミ捨て場の場所を訊き出して、そこを経由してから帰る羽目になった――道のり的にはかなりの遠回りだが、まあ、走って帰るよりはそちらのほうがまだ早かった。
勿論、戦場ヶ原を家まで送るのも忘れてません。
対立しても彼女である。
真夜中。
それも、まだ未明にはほど遠いという時間。
昼間は月火に見つからないように自転車を乗り出さなければいけなかった僕だが、この時間になると、逆に親に見つからないように家に這入らなければならないのだった……いやまあ、うちの親も僕に関しちゃ放任主義だから、余計な気遣いなのかもしれないけれど。
しかし、こそこそするのも大事なことだ。
後ろめたく思っていることは、きちんと態度で示しておくべきだろう……いや、なんかすげえちっちゃい。
ともあれそんな感じで、こっそり玄関を開けて、こっそり廊下を歩き、こっそり階段を昇って、こっそり妹達の部屋に這入った。
火憐と月火は相部屋である。
「あたしは正しい」
開口一番。
阿良々木火憐はそう言った。
二段ベッドの下の段で、ふてくされた風に胡坐《あぐら》をかいて口を尖らし頬を膨らまし、もういかにも今、身に憶えのない罪で咎めを受けていると言わんばかりの態度だった。
顔がやや紅潮《こうちょう》していて。
むしろ機嫌を悪くしているようでもあった。
「兄ちゃんに怒られるようなことは何もしてないし。月火ちゃんが余計なこと言ったみたいだけど、兄ちゃんには関係ねーから放っておいて」
「…………」
兄妹サイコー。
戦場ヶ原だって、この状況なら礼くらい言う。
僕が今、果たしてどれくらいの危機を脱して家に帰ってきたと思っているのだ、このしっぽ頭。
火憐は外着用のジャージから部屋着用のジャージに着替えていた。どっちもジャージかよ、牛かお前は、八九寺と友達になって来いと思わなくもないが、それはもうここ何年も突っ込み続けている、今更にも今更過ぎる突っ込みなので、引っ込める。
「火憐ちゃん……」
と、心配そうに声をかける月火。
こちらは見た目しゅんとしたものである――まあ、僕にヘルプを出したことで、火憐から何やかや言われただろうからな。滅多に衝突することのない火憐と月火ではあるが、ごくまれに方向性が食い違った場合、やはり弱いのは年下の月火のほうである。この辺りの年功序列制はどうしようもない。とことんまで突き詰めてしまえば実戦担当も参謀担当もないのである。
ま、それはともかくとして。
「とりあえず、何があったのか話せよ。昼に別れてから、一体何があったんだ? お前の武勇伝を、僕は聞かせてもらえるはずじゃなかったのか」
月火からのメールの本文を読んでも、いまいち要領を得ない感じだった。火憐がトラブったということ以外、まだ何もわからない。
こうして見る限り、怪我はしてないようだが。
しかしこいつらの場合、それで一安心というわけにはいかない。
促《うなが》す僕に、無視する火憐。
あー、腹立つ。
「もう一度言うぞ、でっかい妹。何があったか話せ」
「やー、だー、ねー、だ!」
火憐は「んべっ」と舌を出す。両手の人差し指で下まぶたを引っ張ることも忘れない。お前それ中学三年生の女の子が取る行動か!?
僕が怒りに思わず平手を振り上げると、
「阿良々木くん」
と。
横合いから――部屋の窓際で、壁にもたれるようにしていた羽川が。
羽川翼が。
羽川翼が、僕を止めた。
言葉で止めた。
「阿良々木くん、確か、私がお父さんに叩かれたとき、すごく怒ってくれたよね。その阿良々木くんが、どうして火憐ちゃんを叩こうとするのかな」
「…………」
言葉もない。僕は固まってしまった。
「私は、体罰は場合によってはありって考えかたをしてるから、もしも阿良々木くんが、叩かれた火憐ちゃんが納得できるだけの理由をきちんと説明できるなら、勿論、別にいいんだけど」
「……悪かったよ」
「私に謝ってどうするの」
羽川の言葉に促されるまま、僕は火憐のほうを向いて、
「悪い。感情的になった」
と頭を下げた。
戦場ヶ原に続いて、僕も羽川から謝罪を強要される形になった……いやもうなんか、年功序列でこそないが、この辺の力関係も、なんだかはっきりしてる感じだな。
戦場ヶ原が羽川に弱いというのには驚いたが。
苦手にしているとは思っていたけれど――それはむしろ、相性が悪いからだとばかり思っていた。
しかし、あんな言い方だったとは言え、不本意なこと、自分は間違っていないと思っていることであの戦場ヶ原を謝らせるとは――それはもう相性以上の問題だろう。
羽川翼。
同級生――クラスメイトである。
学年トップの成績――どころか、全国模試でもトップを取ったことのある、なんかもう、冗談みたいな秀才である。
いつか戦場ヶ原が彼女のことを本物と称したことがあった――続けて化物とも。付け加えた部分には断じて異議を唱えるが、羽川が本物だというのには、僕も全面的に賛成だった。
彼女にだけは。
偽物の要素が、何一つない。
僕は――春休み、随分と彼女に救われたものだ。いや、大袈裟でなく、僕は羽川がいなければ死んでいる――仮に肉体的に生きていたとしても、間違いなく精神的に死んでいる。
恩人どころの話じゃない。
僕にとっては第二の母親みたいなものだ。
死なずに済んだのではなく、生まれ変わらせてもらったのだと――僕はそんな風に思っている。
当然のように、羽川は僕のクラスの委員長を務めていて(ちなみに僕が副委員長だ。羽川に無理矢理任命された)、そのルックスはまさしく委員長の中の委員長、眼鏡に三つ編み、前髪を揃えて如何《いか》にも優等生然としたもの――だったのは、文化祭までのことである。
文化祭が終わって。
羽川は髪を切った。
肩口で揃えて、前髪にもシャギーを入れた。
眼鏡はコンタクトに替えて、制服こそいじらなかったものの、学校指定の鞄《かばん》にアクセサリーをつけた。それがどうしたと思われるかもしれないが、これは大きな変化である。
今日から太陽は西から昇る、くらいの変化。
事実、私立直江津高校始まって以来の才媛《さいえん》のその変貌に、担任が倒れ学年主任が入院し、校長に至っては責任を感じて辞表まで書いたと、まことしやかに噂されている。
まあ、どこまで本当かはともかく。
実際にクラス内は、蜂の巣をつついたかのような大騒ぎになったものである――髪を染めたわけでもタトゥーを入れたわけでもないのに、まるで羽川がグレてしまったかのような騒動だった。
そんな惨状に、羽川は一言。
「いめちぇん」
言いも言ったり、言い切ったり。
その後の追及を許さない一言だった。
……実を言うと、僕はその『いめちぇん』の理由を知っているのだった――いや、正確に言うと想像がつくというだけのことであって、だけのことでしかなく、だけのことだから、だからこそ、その件については深入りできないでいる。
羽川翼。
彼女は先頃、失恋した。
失恋で髪を切るなんて今時はやらないだろうけれど――羽川はそういうところ、アナクロな女なのだった。
髪を切ったから、それで気持ちまですっきりするというわけにはいかないだろうが――それでも、それは羽川にとって、必要なけじめだったのだ。
三つ編みをやめて、眼鏡を外して。
羽川は以前のような『見るからに委員長』といった感を失って、なんと言うのだろうか、『普通の女の子』みたいに見えるようになった。
それでいい。
それでいいのである。
それこそ、昔から彼女が望んでいたことなのだし――実際、彼女だって立派な『普通の女の子』であり、そして、それでいて、まるで憑き物が落ちたかのようでもあった。
いや、憑き物が落ちたと言うより。
憑き物を手懐《てなず》けたのかもしれない。
そんな感じだった。
……で、まあ、その新生羽川さんが(新生と言っても、『いめちぇん』からもう一ヵ月以上たつので、さすがに見慣れたけれど)、どうして妹達の部屋にいるのかという話だが。
というか、まあ、そうでもないと、あのタイミングで羽川が僕の携帯に電話をかけてはこないだろうけれど――性格までチェンジしたわけではないので真面目さは変わらず、ゆえに羽川が僕に真夜中に電話をかけてくることなど、まずない――さて。
と、その疑問点について、まずは羽川から問いただそうと思ったら、
「翼さんさ」
羽川に庇《かば》ってもらったはずの火憐が、僕よりも先に言った。
「兄ちゃんを責めないでよ。……今のはあたしが悪いし、それに、もし叩かれたら、ちゃんと叩き返していた」
「……そう?」
羽川は肩を竦《すく》める。
ややおどけるように。
「じゃ、余計なことしちゃったかな」
「そうだよ、翼さん」
「でも、火憐ちゃんに叩き返せたとは思えないけど」
「叩けなくとも噛みつくさ。翼さんはあたしの歯の頑丈さを知らねー」
……いやいや。
火憐が庇ってくれた相手にさえ喧嘩腰なのはいつものこととして、お前、いつの間に羽川のことを『翼さん』なんて呼ぶように。
月火を振り返ると、
「私はちゃんと羽川さんって呼んでるよ」
と、的外れな弁解をした。
そういうことじゃない。
さん付けくらいで足りるか僕の羽川には敬語を使え敬語を、と思ったが、しかし、そういうことじゃない。
いや、僕の家庭教師をしてもらっていることもあって、羽川と妹達にはそもそも面識はあるのだが――ここまで親しい関係ではなかったはずなのだが。
「お兄ちゃん。怒らないで聞いてね。お兄ちゃんはこんなことで私達を怒らないでくれるって、私は信じているから」
そんな前置きをしてから、月火が言った。
「ちょっと今回、ファイヤーシスターズは羽川さんに協力してもらって――」
「怒らいでか!」
僕は咄嗟《とっさ》に怒鳴っていた。
何考えてんだこいつらは!
羽川巻き込んでんじゃねえよ!
「阿良々木くん、あまり大きな声を出さない。ご両親が起きちゃうでしょう――それに、阿良々木くんって妹さんをそんな風に怒鳴って威嚇《いかく》する人だったの? 意外だね」
「…………っ」
やりづらい!
羽川の前でいい子ぶりたい僕がいる!
「羽川さん、お兄ちゃんを責めないであげて。お兄ちゃんは、私達が羽川さんに迷惑をかけてないか、心配なだけなんだから」
月火が羽川と僕の間に身体ごと割って入った。
なんでさっきから、僕は妹達にフォローされている構図になっているのだろう。
お前らの役どころずるくないか?
「……ったく」
少し冷静になって、思い当たる。
そう言えば今朝――というか、日付的にはもう昨日の朝のことになるが、月火は、僕の『家庭教師』が、休みであることを知っていた。起こされたときにでも言ったのだろうと思って別に気にしていなかったが、そうじゃない。羽川に予定があることを、それゆえに僕の『家庭教師』が休みになることを、月火はあらかじめ知っていたのだ。
知ってて当然である。
何せ自分達で担ぎ出しているのだから。
「阿良々木くん。火憐ちゃんと月火ちゃんに協力したのは私の意志なんだから、二人を責めるのは筋違いだよ。私の知っている阿良々木くんは、妹に八つ当たりをするような人じゃないよね?」
「……うぬう」
すげえ操縦されてる感じだ。
まあ、別に操縦されなくとも、僕が羽川に逆らうことはないのだが。
「虎に翼のたとえじゃないけど、つまりはフェザー&ファイヤーシスターズってわけさ」
火憐が言った。
ひとつもうまいこと言えてねえ。
お前本当に僕の妹かよ。
「わかったわかった。怒らない、約束する」
「パパにもママにも秘密?」
状況に乗じてあらぬ要求をしてくる月火。
羽川をバックにつけてるからって調子づきやがって……憶えてろよ。お前らとの約束なんざ平気で破ってやるからな。
そりゃもう障子《しょうじ》紙のように。
「秘密だ。だからさっさと説明しろ。何があって、どうなったんだよ」
「さあて。どうなったのかなあ?」
殺意さえ覚える火憐の態度だった。
わかった、こいつには説明する気がない。
だとすると月火か羽川に説明を求めることになるが……羽川はあくまで協力者だろうから、より詳しい事情が知りたいのなら月火を追及すべきなのだろう――ただなあ。
妹相手だと、僕が感情的になっちゃうのも確かだし。
じゃあ、やっぱり、まずは。
「羽川」
僕は羽川に声をかけた。
三人共に話は聞くが、まずは羽川から――だ。
親指で、僕は部屋の壁――隣の部屋を示して。
「ちょっと、僕の部屋まで、いいか?」
「兄ちゃんが翼さんを部屋に連れ込む気だ!」
火憐大喜び。
いつかコロシマス。
「いいよ。行こ」
羽川が壁から背を離した。
「大丈夫だよ、火憐ちゃん、月火ちゃん。二人は正しいことをしたんだから。阿良々木くんも、私の話を聞けばわかってくれるよ。ちゃんと話すから、心配しないで」
「羽川さん……」「翼さん……」
キラキラした目で羽川を見つめる妹達。
かなりの信頼関係を築いてるなあ。
相手が羽川なら、当然か。
「でも翼さん、兄ちゃんと二人きりなんて」
火憐お前は本当に黙れ。
僕は現在よりもお前の将来のほうが不安だよ。
「それも大丈夫。私はこの『兄ちゃん』、信頼してるからね」
言って羽川は、ベッドの上の火憐の頭をぽんぽんと撫でるようにして、先に廊下に出た。
なんっつーか。
つくづく真似できないよな、こいつは。
僕は深々とため息をついてから、「おい、そこのでっかいの」と、火憐を呼ぶ。
「なんだよ、ちっちゃいの」
火憐はふて腐れて言葉を返してくる。
ん?
しかし、心なし、いつもよりその言葉が弱いか……?
それにいつもなら、それこそ『でっかいの』呼ばわりされたら、状況も顧《かえり》みずに激怒して僕に飛び掛ってきてもおかしくないのに……微動だにせず、胡坐をかいているだけである。
「……なんだよ。じっと見てんじゃねーよ」
「…………」
僕はもう一度ため息をついてから、
「確かにお前は正しいんだろう」
と言った。
「お前はいつも正しい。それは否定しない――だけどな、それは正しいだけだ。お前は、いつも強くない」
「…………」「…………」
「強くない奴は負けるんだよ。格闘技やってんならそれくらいわかるだろうが」
僕は言う。
火憐だけではなく、月火のほうも見て。
「正義の第一条件は正しいことじゃない。強いことだ。だから正義は必ず勝つんだ。いい加減それくらいわかれよ。それがわからないうちは、お前達のやっていることはいつまでたっても――ただの正義の味方ごっこで」
偽物だ。
そう言って――妹達の反応を待たず、僕は廊下に出て、ドアを閉めた。
廊下では羽川が待っている。
手持ち無沙汰《ぶさた》な風に。
しかし、どこか楽しげに。
「不謹慎《ふきんしん》かもしれないけれど」
羽川は言う。
少しだけ頬を緩《ゆる》めて。
「阿良々木くんの兄妹交流が見れて、面白い」
「……勘弁してくれよ」
「いい子達だと思うけど?」
「ガキで困ってる」
言いながら、僕の部屋に案内する。
神原と違い、僕は割と整理整頓をするほうなので、突然の来客にも対応できる。
「そのベッドの上にでも座ってくれ」
「阿良々木くん、あんまり女の子にベッドの上とか勧めないほうがいいよ」
「? 何で?」
千石は僕にベッドの上を勧めたけどな。
というか、そこ以外に座るなとさえ言われたのだ。
思い出しながら、僕は椅子に座る。
「ところで羽川。何で深夜なのに制服姿なんだ?」
そうなのだった。
さっきから突っ込みたくて突っ込めなかった。
羽川翼、制服である。
「夏休みなのに制服姿、はいつものことだからもういいとしても……お前は私服を持っていないのか? 僕、お前の私服姿を見たことがねえよ」
「パジャマ着てるの、見られたことあるじゃない」
「パジャマと私服は違うものだ」
ついでに言うと、実は下着姿も見たことがあるが、しかしあれもあれで、私服とは違う。僕が見たいのはあくまでも、羽川が自分のセンスで選んだ外出着なんだよ!
いつになったら見れるんだ!
「いや、別にたまたま……夕方頃に火憐ちゃんと合流して、そのままだからなんだけれど。いっそその辺から説明したほうがいいかな?」
「ああ、頼む」
「……なんか新鮮」
「は?」
「いや、妹に対する心配の仕方って、私とか戦場ヶ原さんとか真宵ちゃんとか神原さんとか千石ちゃんとかに対してするのと、全然違うなって。どう言えばいいのかな、より必死な感じがする」
「必死って……」
「阿良々木くんって妹に対しては別人格なんだね」
笑う羽川。
いたずらっぽい表情だ。
「さっき、随分と厳しいこと言ってたよね。正しいだけで強くないって? あれって自分に言ってるようにも聞こえたけど?」
「……同属|嫌悪《けんお》だって言いたいのか?」
「言われたくないだろうけどね。ああでも、それを言うなら同属嫌悪じゃなくてむしろ自己嫌悪かな?」
羽川の言葉に、僕はため息をつく。
そういう風に見えるのか、と。
そしてまた、確かにその通りだ、と。
その他色んな意味を込めて、嘆息《たんそく》する。
正義マン。
戦場ヶ原にもそう言われたんだっけ。
「羽川。お前はまだ、言ってもあいつらとの付き合いが一ヵ月そこそこだろうからわかんないかもしれないけどな、僕は火憐ちゃんとは十五年、月火ちゃんも十四年近く、一緒に暮らしてるわけだ。その経験から言わせてもらえれば――」
「ぷっ……ふふ」
まだ前置きを終えたところで本論に入ってなかったが、しかしそこで何故か、こらえ切れなかったかのように羽川が噴き出したので、僕は言葉を中断せざるを得なかった。
「は、羽川?」
「いや……ごめんごめん。でも阿良々木くん、妹さん達のこと、ちゃん付けで呼んでるんだね」
「!」
ウルトラ・ミス!
やっちまった!
子供の頃からの癖がどうしても抜けないから、だからなるべく、あいつらのことは名前では呼ばないようにしているのに! でっかいとかちっちゃいとか上とか下とか言って、誤魔化していたのに!
よりによって羽川の前で!
「あ……、あう、あう、あう」
「気にしなくていいよ、ほら、私も火憐ちゃん、月火ちゃんって呼んでるんだし」
「ち、違うんだ……今のはそう、羽川の言い方を真似ただけで、そう、レトリックとしての子供扱いの表れで、僕は普段は呼び捨てに……」
しどろもどろの言い訳タイム。
慈《いつく》しむような目で見られた。
恥ずかし過ぎる……。
「ま、まあ、それはいいとして、本題に入ろうぜ、羽川。ことは一刻一秒を争うかもしれないんだ」
「そうだねー」
ゆる羽川。
やめて、優しくしないで!
「……とは言え、一応、枕の部分くらいは知ってんだよ。確か――中学生の間ではやってる『おまじない』の出どころを探してたんだろ?」
「あれ。何で知ってるの」
「実は千石から聞いた。不本意ながらうちの妹達は――」
「火憐ちゃんと月火ちゃん」
「……うちのいもう」
「火憐ちゃんと月火ちゃん」
いじわる羽川。
前言撤回、やっぱ髪切って性格変わったかな?
「……火憐ちゃんと月火ちゃんは、中学生の間じゃ有名人でな。千石も、あいつらの動向を聞くことくらいあるらしい」
「ふうん――なるほど」
羽川は、納得した風に言う。
「そっか。そう言えば千石ちゃん自身、その『おまじない』の被害に遭ったんだっけ」
「というか、唯一の被害者だろ」
「唯一じゃないわ。最大の被害者ではあるけど――『おまじない』は中学生の間じゃ、色々と悪影響をもたらしているから」
「色々って」
「主に人間関係の悪化、だけど」
…………。
そうか。
千石だって――自分のことばかりではない。
周囲の人間関係ごと、被害を受けたのだ。
「調べてみたら、はやってる『おまじない』って悪意系の『おまじない』ばかりで――明らかに偏向があったの。誰かが意図的にはやらせたんじゃないかっていうあの二人の推測は、多分ほとんどあてずっぽうみたいなものだったんだろうけれど、それでもあながち的外れではなかったんだね」
夏休みでもない限り調べようがなかったけれど、と羽川は付け加えた。
まあ確かに、そういう調査をするならば、長期休みを狙うしかない。
「……ちなみに、いつ頃からあいつらと行動を共にしてたわけ?」
「行動を共にしてたってほどじゃないよ。たまに頼まれて臨時で手伝ってたってだけ。いつ頃からっていう質問に答えるなら、そうだね、夏休みに入ってからだね」
「ふうん……で」
僕は言う。
訊きたいのはここからだ。
「お前が手伝ったんだ。つまりは『犯人』を突き止めちゃったわけだな」
要は。
あのとき火憐の携帯電話を鳴らしたのは――
ほかならぬ、羽川翼だったのだ。
火憐が僕に背中を向けるわけである。
「……私のせいみたいに言われても困るなあ」
羽川は本当に困ったみたいな顔をする。
僕も別に羽川を困らせるつもりはないが。
しかし、言わざるを得ない。
「忍野の奴はさ。お前のそういうところを警戒していたよ。有能過ぎて、絶対に答を見つけちゃうところ――」
僕はそれで助けられたけれど。
逆の可能性も大いにある。
たとえば――
羽川は、羽川自身を助けられなかった。
その有能さゆえに。
「そうだね」
羽川は否定しなかった。
曖昧な笑顔を浮かべ、頷く。
「でも、だからって手を抜くわけにいかないし」
「そうだな。たとえば僕や――火憐ちゃんや月火ちゃんが」
うん。
もういいや、諦《あきら》めた。
「僕や火憐ちゃんや月火ちゃんが、自分の弱さを受け止めなければならないように――お前は、自分の強さを受け止めなければならない」
偽物は偽物であることを自覚しなければならないように、本物は本物であることを自認しなければならない。
まさか。
自身を放棄するわけにも――いくまい。
「で。火憐ちゃんが突き止めたその『犯人』に直談判《じかだんぱん》して――何かされた[#「何かされた」に傍点]ってわけか?」
「そういうこと。私は別行動を取っていて、現場には後から呼ばれたから、その『犯人』に直接は会ってないんだけどね……せめて火憐ちゃんが会いに行く前に合流できてれば、力になれたとは思うんだけど」
「火憐ちゃんは、『犯人』はどんな奴だったって言ってたんだ?」
「えっと」
羽川は言った。
ベッドをわずかにきしませてから。
「確か、貝木泥舟って名前の――不吉な人らしいよ」
012
事実上、半日ほどとは言えあんな廃墟に監禁された所為だろう、僕の身体は思いのほか埃《ほこり》っぽかった。
そんなわけで、僕は羽川からおおよその話を聞き終えて、すぐに――妹達の面倒はとりあえず羽川に任せて――風呂に入ることにした。ともすると暢気《のんき》に見えるかもしれないが、羽川の話で、焦っても仕方がないことはわかった。
というか。
ぶっちゃけ一旦間を置いて落ち着かないと、またぞろ火憐や月火を怒鳴りつけてしまいそうだったのだ。
貝木泥舟。
つーかよ。
そんな奴にかかわってんじゃねえよ……!
よりによって!
そう言えば神原の家の前で貝木と遭遇したとき、あの男は言っていたのだ――『それは聞いたばかりの名だ』とか、なんとか。
あれは火憐のことを言っていたのだ。
考えてみりゃ、阿良々木なんてままある苗字じゃない。
畜生――なんて偶然だ。
いや、むしろ不幸中の幸いと見るべきなのか……戦場ヶ原から詳しい話を聞けば、貝木についての細かい情報は手に入るわけだしな。
でも、その件では言い合いになってるしなあ。
そうそう教えちゃくれない気もする。
ちなみに、一通り話を聞いたあとに、ことのついでとばかりに僕は羽川に質問してみた。あのとき、そのお陰で僕はあの恐るべき拉致監禁から逃れられたのだが、羽川は戦場ヶ原と電話で一体どんな会話をしたのか、と。
「ああ、あれ? 月火ちゃんが携帯でメールを出して、でも、すぐに返信がないのは変だって言うから、私が電話をかけることになったの。時間が時間だったから私は躊躇したんだけれど、せがまれちゃって。なんだかんだ言ってあの子達、『お兄ちゃん』を信頼してるんだね」
「いや、まあ、それは多分そういう事情なんだろうとは思ったけど、でも、お前がどうやって戦場ヶ原を」
あの戦場ヶ原を。
「説得したのかって」
「別に? 戦場ヶ原さんの声を聞いたら大体の状況はわかったから、手短にお願いしただけ」
「手短にお願いって」
「『あんまり聞き分けがないようだと、私が阿良々木くんに告っちゃうぞ』って」
「…………」
怖いっす。
ある意味最強の切り札だった。
まあ、まさかその切り札を、貝木に関する戦場ヶ原との駆け引きに使うわけにはいかないから、それについては素直に頼むしかないんだが――たとえ素直に頼んだところで、そうそう思う通りにはいかないだろう。
で、入浴。
身体を入念に洗ってから、湯船に浸《つ》かる。
かん、かん、と。
湯船の縁に、僕の両手首の手錠が当たって――外しようもなく、ごついブレスレットとなっていた手錠が当たって、軽い音を立てた。
その音に合わせたように――ぬう、と。
風呂場の黄色い電灯に照らされて生じていた僕の影から――ぬう、と、忍野忍が現れた。
有名RPG風に言うなら『バンパイアAがあらわれた!』である。
バンパイアAはこちらを見ている。
「……えっと」
バンパイアA――忍野忍は、基本、僕の影にずっと潜んでいるので、逆に言えばどのタイミングで出現するのかは予測不可能なので、まあそれゆえに、いつ出てこようが僕としてはあまり驚かなくなっていたのだが、それにしても入浴中ということはかつてなかった。
風呂場という場所柄にあわせたのか、裸である。
すっぽんぽんの金髪美少女。
シチュエーション的には最高に最悪で犯罪的だと言えた……いや、忍の外見年齢はただいまのところ八歳あたりなので、神原のときとは違って、その瑞々《みずみず》しい真っ白な裸を見ても何も感じないし、まあ元気そうだなあと思うくらいなのだが。
しかし、忍は。
にい――と僕を見て、笑って。
「こうして裸を見られたということは、儂《わし》もまた、お前様に娶《めと》ってもらわねばならぬということかのう――我があるじ様よ」
と、言った。
幼い声で――尊大に、そう言った。
驚きと言うならこんな驚きはない。
僕は危うく、湯船に沈むところだった。
喋った……。
忍が喋った!
「し――しのぶ」
「かかっ――どうしたどうした、お前様よ。鳩《はと》が豆鉄砲を食らったような顔をして――いや、吸血鬼が銀の弾丸を食らったような顔をして、かの? 儂が喋ったのが、そんなに珍しいか? まさか儂が言葉を忘れたとでも思っておったのかのう」
「………っ」
いや。
喋ること自体は――喋るだろう。
言葉を忘れたとも思っていない。
外見こそ八歳の少女でも――その力の大半を失おうとも――忍が五百歳の吸血鬼であることは、譲りようがないのだ。
問題は。
僕に対して喋ったということである。
僕に――喋ってくれた[#「喋ってくれた」に傍点]ということにある。
こうも突然。
あっさりと、何の契機《けいき》もなく。
「忍――お前」
忍野忍。
吸血鬼――元吸血鬼。
今となっては吸血鬼の成れの果て。
吸血鬼の搾《しぼ》りかす。
誰よりも美しく、鉄のように冷たくて、血のように熱かった――化物の中の化物、怪異の王。
怪異殺しとさえ呼ばれていた。
彼女は僕を殺し。
僕は彼女を殺した。
だから。
忍は――春休みを終えてから、あの学習塾跡の廃墟で忍野と暮らしているときから、今こうして、僕の影に封じられてからも――
一言も喋らなかったのだ。
ほんの一言さえも。
嫌だとも、つらいとも、苦しいとも。
言わずに来たのだ。
それが今、こんなところで――突然に。
「ふん。飽きたわい」
忍は――自らシャワーのコックをひねって、熱いお湯を頭から浴びた。吸血鬼の忍にはそもそも入浴の意味はないのだが――それでも気持ちよさそうに、目を閉じている。
「儂は本来お喋りなのじゃ、お前様も知っておろう。まったく、いつまでも黙ってばかりいられるか。それくらい察せよ、我があるじ様よ」
「…………」
うわ……うまく言葉が出てこない。
いや、嬉しいのとも違う。
喜んでいいことでもない。
だけど――嬉しい以外どう表現する?
これが喜ばずにいられるか?
何と言っていいのか、僕はまともに思考することもできず、だから僕は、
「……ありがとう」
と言った。
「はあ? なんのことじゃ」
コックを締め、お湯を滴《したた》らせながら、僕を睨むようにする忍。幼いとは言え吸血鬼、その視線の鋭さは健在である。無言で僕を睨んでいたときよりも、その視線はよっぽど恨《うら》みがましく、鋭かった。
「あ――いや。えっと、ほれ、これ」
僕は慌てて、手首の手錠を示す。
その切れた鎖を。
「この鎖。切ってくれたの、お前だろ」
月火からメールがあって直後。
手錠の鎖が『かりん』と切れたのは、当然、僕が力で引き千切ったわけではない――どんな必要性にかられても、そんな火事場の馬鹿力は出ない。あれは僕の影に潜んでいた忍の仕業《しわざ》である。
「そうじゃったかのう――かかっ。よく憶えておらんわ。しかしまあ、その腕輪もいい加減不細工じゃな。どれ」
忍は僕の両手首に、その小さな手を伸ばし、今度は鎖どころか、手錠本体のほうを千切った。それがまるで柔らかなドーナツであるかのように。
忍のミスタードーナツ好きは周知だが。
まさかと思うだけの暇もなく、忍はその手錠を口の中にぽいっと放り込んで、ばくばくと食べてしまった。
力をほとんど失っているとは言え――このあたりは、どうしようもなく吸血鬼で、何の理屈も、まして何の遠慮もなかった。
そんな忍に。
僕はどこか――安心してしまう。
「礼には及ばんわ。儂は自分のしたいことをするだけじゃ――今も昔も、いつでものう。それが今回はたまたま、本っ当にたまたま、お前様と合致《がっち》したというだけのことじゃ、我があるじ様よ」
「……忍。あのさ」
「髪!」
何か言いかけた僕を。
忍は、短く、遮った。
そして――自分の金色の髪を指さす。
「髪じゃ」
「……か、髪がどうした?」
「儂の髪を洗うがよい。戯《たわむ》れじゃ、シャンプーとやらを試したい。お前様やらがしとるのを影の中から見て、ずっと面白そうじゃと思っておった」
「触って……いいのか?」
「触らずにどう洗う」
「……じゃ、トリートメントまで含めて」
僕は湯船から上がる。
僕も当然裸なのだが、忍に関しては、もうそんなことを恥ずかしいと思うような気持ちは起こらない――僕は忍の前では、恥という恥を、あらん限りに晒し切ってしまっているのだから。
僕はシャンプーを手にとって、忍の髪に指を通す。
昔触れたときと変わらず。
清流のような――触れ心地だった。
「……お前があのゴーグル付きのヘルメットを外してるところ見るのは、久し振りだな」
「はっ。あれはもうやめる」
「やめるのか?」
「ださい。格好悪い」
「…………」
似合ってたんだけどな。
まあ、あれだけは忍野のセンスだし、実は不満があったのかもしれない。
忍の小さな頭を泡立てながら(吸血鬼にとって自分とはイメージの自分であり、つまりは決して汚れることはないので、その髪の泡立つこと泡立つこと)、僕は、
「あのさ」
と、もう一度言った。
それは再度――忍に遮られた。
「やめい」
「…………」
「何も言うな。儂はお前様を許さんし――お前様も、儂を許しはせんじゃろう」
前を向いたまま。
備え付けの鏡を見たまま――その鏡に映らない、自分の姿を見たまま。
忍は言う。
「それでよい。儂らは互いに互いを許さん――それでよかろう。儂らは過去を水に流してはならんのじゃ。それでも、歩み寄ってはならん理由はなかろうよ」
「…………」
「それが、儂が三ヵ月じゃか四ヵ月じゃか、つらつらと考えて出した結論じゃが――いかがかな、我があるじ様」
忍は。
垂れてきた泡を鬱陶《うっとう》しがるように目を閉じて――そう言った。
「……お前がそんなことを考えてくれてたとはな。意外だったよ」
「お前様も色々考えてくれておったろう――儂はここのところお前様の影におったからな。知っとるよ」
「はは」
僕は忍の頭越しに、シャワーのコックに手を伸ばし、忍の頭を洗い流す。そして続けてトリートメントだった。忍は髪の量が半端でなく多いので、結構な量を使わなければならない。
「いつまでもむくれてもおれんしの。儂の器も、そこまでは小さくはない。……それに、どうやらお前様には、きっちりと言葉にして言わねば伝わらぬようじゃ」
「ん?」
「確かに儂はポン・デ・リングが好きじゃが――一番好きなのはゴールデンチョコレートじゃ。それくらい察して、二つ買うならそちらにせよ」
「……心得た」
まあ。
金色の吸血鬼だし――わからなくもない。
僕は「あとは自分でやれよ」と言って、湯船へと戻った。
「囲い火蜂」
と。
そこでいきなり、忍は言った。
「オオスズメバチの怪異じゃ」
「……あん?」
スズメバチ?
膜翅目《まくしもく》スズメバチ科の昆虫類――?
「儂の国にはそんな種類の蜂はおらんかったからよくは知らんが、蜂の内で、否、昆虫の内で、否否――生物の内で最も強大な一団らしいの。少なくとも集団戦において、連中以上の生物はおらんらしい。社会性を持ちながらかなり獰猛《どうもう》で、しかも好戦的じゃしの」
まあ吸血鬼ほどではなかろうが。
と、忍は付け加えた。
「それって……、ひょっとして」
その言い方は。
まるであいつ[#「あいつ」に傍点]のような――その言い方は。
「お前様の巨大な妹御が、現在|罹《かか》っておる怪異じゃよ」
「……巨大ってほどでかくはないけどな」
お前の本来の姿のほうがでかい。
お前の大人バージョン、百八十はあったよな、確か。
「断っておくが、当然、儂の知識ではない――怪異殺しのこの儂でも、全ての怪異を網羅《もうら》しておるわけではないしの。それに、儂は食うだけじゃ。食材の名前などに興味はない――興味があるのは味だけじゃ」
「じゃあ」
「そう。あの小僧の知識じゃよ」
基本的に人間を区別することのない吸血鬼。その忍が、強いて区別して小僧と呼ぶ相手は――つまり、忍野メメである。
「お前様に儂の気持ちがわかるか」
忍は、苦笑いと共に、愚痴っぽく言った。
「あの軽薄極まりない小僧が、極めて一方的に、何の役にも立たん怪異話を、一日中ぺらぺらと、のべつ幕なしにまくし立ててくるのを――黙って聞いてなければならなかったときの、儂の気持ちが」
「…………」
嫌過ぎる。
忍野メメと忍野忍、二人のときはどうやって過ごしているのかなあと思っていたけれど――そんな風に過ごしていたのか。
「その雑談のうちのひとつじゃ。囲い火蜂。確か……室町時代辺りの怪異じゃったかの。まあ、要するには原因不明の感染病のことらしいが」
感染病。
それが真実。
そして――その真実は、怪異として理解された。
間違いであれ、そう思われたことが[#「そう思われたことが」に傍点]――重要だ。
怪異はそこから、あふれるように生じる。
吸血鬼現象だって、とどのつまりは血液病に還元されてしまうように――
「その感染病は、ろくに身動きができなくなるほどの高熱を発し、最終的に死に至るというもので、実際、何百人も死者が出た――高名な陰陽師によって鎮《しず》められるまで、相当の時間を要した――などと、ナントカという書物に記されておるらしいぞ。いわく、触れない蜂に刺されて[#「触れない蜂に刺されて」に傍点]――身体が火に包まれたようである[#「身体が火に包まれたようである」に傍点]、とか」
「…………」
火憐は。
ああいう性格なので、気丈に振舞っていて、不覚にも僕はまるで気付かなかったが――あれで、かなり肉体的に消耗《しょうもう》しているらしかった。
身体が高熱で火照《ほて》って――燃えるように熱くなっているとのこと。
火に包まれたように。
熱いとのこと。
要するに――病だ。
だから彼女はベッドの上にいたのだ。
顔が紅潮していたのは――不機嫌だったからではなく、僕に飛び掛ってこなかったのも、現状彼女は、ろくに動くことさえできなかったからだったのだ。
僕が帰ってくるまで――あいつは寝ていたのだ。
倒れていた、と言うべきかもしれない。
もっとも、そういう事情でもない限り、そもそも月火が僕にヘルプを送ることはできなかったろうが――羽川が「叩き返せるとは思えないけれど」と言った意味が、それでわかった。
羽川は火憐の疲弊《ひへい》を――知っていた。
火憐の病状を、知っていた。
「ったく、羽川が庇うわけだよ。それでも僕は自業自得だと思うけどな」
「自業自得か」
「身から出た錆《さび》だ。あるいは干からびた鯖《さば》だ」
干からびた鯖とはなんじゃい、と。
忍は眼を細めて、肩を竦める。
「お前様は、身内には本当に厳しいのう……ま、儂はずっと端《はた》で見ておったから今更驚きもせんがの。しかしそれでも、あの元委員長の言い草ではないが、本当に意外じゃぞ」
「元委員長って」
今も委員長だよ、あいつ。
忍は『委員長』をルックスに対する称号だと思っているのだろうか。
「別に厳しくしているつもりはないさ……しかし、羽川の話からだけじゃまだ判断しづらいけれど――どうやらうちの妹は、貝木って奴に怪異の毒を移された[#「怪異の毒を移された」に傍点]……っぽいな」
病を移されるように。
怪異を移された。
「その、囲い火蜂って怪異の毒を――移された、のか。そんなことが果たして可能なのかどうか、わからないけれど」
「可能じゃよ。できんことではないの」
忍は言う。
「ただし、あのツンデレ娘の言うことを信じるならば、カイキとやらは偽物の詐欺師だったはずなのじゃがのう?」
「そうなんだよな」
僕は同意する。
しかし、ツンデレ娘って。
まあ、ここしばらくは僕の影の中で、僕とおんなじ経験してたんだもんな……そういう認識にもなってしまうか。
あれを平均的なツンデレと思われるのも、人間文化に対する壮大な誤解だけど。
「無論、偽物じゃからと言って本物の技が使えんわけではないか――偽物じゃからこそ、本物よりも本物らしいということもあろう」
「箴言《しんげん》だな」
頷く。
それは身につまされる言葉だ。
「確かに、専門家としては半人前でも、詐欺師としては一流ってこともあるよな」
『犯人』ゆえに『半人前』とか。
くっだらねえ駄洒落だけど。
「半人前の専門家のう――」
忍が、思案顔で言った。
「しかし、じゃとすると、一人前よりもむしろ厄介な展開になりそうじゃな。中途半端な腕で怪異を司《つかさど》るなど、儂から見ても常軌を逸しておる。そんな奴は半人前どころか――そもそも人間ではなかろう」
「…………」
「存在として定義するならば、それはそいつ自身が怪異みたいなもんじゃ」
自身が怪異。
それは――どういう意味になるのか。
どんな定義となるのか。
「……ま、その辺は戦場ヶ原に訊いてみよう。つーか、あいつに訊くしかねえ。さしあたっての問題は、あいつ――お前の前で気張ることはないか、火憐ちゃん、火憐ちゃんのその症状は、どうやって治めればいいのか――だ」
羽川は、まず火憐を病院に連れて行ったらしい。
高熱を発した人間に対しては極めて順当な対処だが――しかし、何も解決しなかったそうだ。と言うか、羽川もまた怪異にかかわった経験を持つ人間、その記憶をしばらくの間失っていたとは言え――その状況に対して察するところはあった。
「その意味じゃ、異変を受けて、呼ぶ相手に羽川を選んだ火憐ちゃんの判断は正しかったな。少なくとも僕を呼んだ月火ちゃんよりは、適切だ」
「ふん。しかし、そもそもあの元委員長がおらなんだら、お前様の妹御がカイキとやらに辿《たど》り着くことはなかったのであろう?」
「そうだけどさ」
そういう言い方をするなら、羽川って本当にマッチポンプな奴なんだよな……どんな問題に対しても常に正しい対処ができるけれど、羽川じゃなければまず問題自体が起きないというか。
僕は忍のことについて、羽川に助けられ、それを心底恩に感じているけれど、言おうと思えば僕が忍と出会った一因もまた、羽川が担っていると言うことさえできるのである。
本物。
強さ。
正しく、そして強い。
「熱冷ましの薬が全然効かないし、それに不思議なことに、高熱は苦痛だけれど意識だけはやけにはっきりしている――か。親は今のところ、ただの夏風邪だと思ってるらしいけど」
普段の行いがいいのか悪いのか。
いや、悪いんだけど。
だけど要領がいいからな。
「忍。お前なら火憐ちゃんの病気――食えるか?」
忍は怪異を喰らう。
吸血鬼として。
羽川の猫のとき――そうしてくれた。
いや、くれた、という言い方は正しくない――突き詰めたところ、忍野忍はただ、食事をしただけなのだから。
「残念ながら」
忍は、しかし、首を振った。
「病気というのはただの結果じゃからのう――蜂そのものはおいしく食えても、蜂に刺された結果なぞ食えんよ。林檎《りんご》は食えても、林檎をうまいと感じる人間の感想は食えん、そういうことじゃ。既に怪異は終わっておる。現れておる症状は、今から毒を抜いたところで意味はない」
「そりゃそうか。そうだよな。じゃ、どうだ。忍野は何か、囲い火蜂への対処法までは喋ってはなかったか?」
「どうじゃったかな。喋っておったような気もするが、しかし何せだらだらした話じゃったからのう」
言いながら、忍はトリートメントを洗い流し終えて、湯船の中に入ってくる。民家の普通の風呂である、二人も入れる大きさではないのだが、忍の身体は子供のそれなので、ぎりぎりなんとかなる。
決して僕が小柄だからではない!
「考えてみれば風呂に浸かるのは久し振りじゃのう……かかっ」
「そうなのか?」
「うむ。四百年ぶりくらいじゃの」
「真似できねえスケールだ」
ありえねえ。
まあ、僕も春休み、吸血鬼化していた頃は、風呂も何も、必要なかったからな――人間側からの常識では、どうしたってはかりようがない。
うーん、しかし。
忍とふたりで風呂に入るなんてのは、どうしたってこれが初めてなわけで、いやはやまさか、こんな日が来るとは思わなかった。
感慨深いというのか。
そもそも、こんな形で忍と向かい合うこと自体が初めてなのだ――春休みは僕のメンタルにそんな余裕がなかったからな。
僕は感慨深く、忍を見る。
「……何をじろじろ見とる。このような幼児の裸に興味|津々《しんしん》とは、お前様は真性の変態か」
「いや、そういうつもりで見てたわけじゃ」
「くふふ。お前様からそんな風に熱く見詰められておると、儂としては少しばかり、面白い想像をしてしまうのう」
「あ?」
「いやいや、くだらんことじゃよ。たとえば儂が、この場で大声で、家中に響き渡るほどの悲鳴を上げたとしたら、さてどうなることやらのう――とか、その程度のことじゃ」
「…………っ!」
忍はにやにや笑っている。
発想が尋常じゃねえ!
ていうかそういうのがアウトだってのはわかってるんだな――畜生、忍野が教えたか!
なんだよその無駄な英才教育!
「お前様が口封じのために多量のドーナツを用意してくれようと言うのであれば、儂としても交渉のテーブルにつくのはやぶさかではないぞ?」
「……やれるもんならやってみろ」
卑劣な脅しには屈しないゾ。
僕は余裕ぶって、むしろぐっと胸を張る。
「僕とお前は一蓮托生《いちれんたくしょう》だ――お前だって僕の影から出られない以上、ただでは済まないぞ。少なくとも二度とミスタードーナツは食えなくなるぜ」
「かかっ。なるほど、そう出るか。少しは成長したと見えるな、我があるじ様――」
と。
狭い湯船の中で言い合いをしていたら。
「お兄ちゃん、いつまでお風呂に入ってるの? 次は私の話を聞くんでしょう?」
なんて。
ガラッとガラス戸が開いて、月火が顔を覗かせた。
いつの間にか二階から降りてきて、いつの間にか脱衣所に入ってき、いつの間にかガラス戸を開けたらしい。
「……えっと」
さあ、状況説明!
場所――自宅の風呂!
登場人物――僕、忍、月火!
概略――僕(高校三年生)と忍(見た目八歳・金髪)が一緒に風呂にはいっているところを月火(妹)に見られた!
うわ、わかりやすっ!
説明なんかいらねえ!
「………………」
月火は。
そっと、静かにガラス戸を閉めて。
無言で、すたすたどこかに歩いていった。
「……?」
どうするつもりだろう?
いや、どうするつもりでも構わない、なんにしてもこの場から月火が立ち去ってくれたのは僥倖《ぎょうこう》だ、この隙《すき》に――
しかし。
月火はほんの十秒ほどで、すぐに戻ってきた。
ガラッとガラス戸を勢いよく開けて。
「……あれ? お兄ちゃん、さっきの娘《こ》は?」
きょとんと、質問する月火。
風呂には僕しかいない。
間一髪《かんいっぱつ》、忍は影の中に戻ったのだ。
「さっきの娘? なんだそれは。この緊急時に意味がわからんことを言うな、馬鹿ものめ」
答える声が震えも裏返りもしていないのは、勿論、月火がその右手に包丁《ほうちょう》を持っているからである。
文化包丁。
どうやら台所に行って帰ってきたらしい。
冷静にもなる。
湯船の中なのに肝《きも》まで冷えていた。
「んん……見間違いだったのかな」
「見間違いだよ。目もくらむような金髪で肌が透けるように白い、やけに古風で偉そうな喋りかたをする八歳くらいのぺったんこな女の子なんてここにはいない」
「そっか。うーん」
不思議そうに腕を組む月火。
包丁の刃先が危ないって。
ちなみに反対側の手にはなべの蓋《ふた》をもっていた。
防御も完璧である。
「……まあいいや、いいにしとこ。お兄ちゃん、それにしても随分と長風呂だね。いつまで入ってる気?」
「あー」
忍の髪を洗ってたからな。
単純に倍の時間がかかっている。
「もうすぐあがる。リビングで待ってろ」
「はーい」
「つーかノックくらいしろ」
「? 今までそんなこと言ったことなかったじゃない。何よ、年頃ぶっちゃって。最近なんだか筋肉質になったからって、いい気にならないでよねっ!」
よくわからない怒りを表しながら、月火は脱衣所を去っていった。ガラス戸が開けっ放しだったので、それを閉めに湯船を出る。
と。
「かかっ」
振り返ると、忍が再び、湯船に浸かっていた。
今度は一人なので、足を反対側の縁に載っけて、実に優雅なものである。
「さすがにはらはらしたの。過激な妹御じゃ」
「……うるせえ」
僕もびっくりしたわ。
普通、包丁持ってくるか。
忍が咄嗟に影の中へと戻って隠れてくれたからことなきを得たが、それがあと一秒でも遅かったら、風呂場で流血沙汰を演じるところだった。
掃除しやすいじゃねえか。
「ところで、これは確実に、あの小僧は言っておらんかったことじゃが――意図的に隠しておったことじゃろうが、お前様よ」
僕が忍の足を払いのけて湯船の中に戻ると、その狭い湯船の中で、向かい合う形で。
忍はいたずらっぽい表情を浮かべる。
言い換えれば邪悪で。
そして凄惨な――彼女の笑みだ。
「お前様は、果たしていつ死ぬのじゃろうな?」
「……どういう意味だ?」
その意味も。
あるいは、その意図もわからない質問である。
いつ死ぬかって。
そんなこと、わかるはずもない。
「いや、つまりじゃな……お前様はほとんど人間じゃが、同時にまた、少しだけ[#「少しだけ」に傍点]吸血鬼を残しておるじゃろう? そうなると、寿命とか、その辺はどうなっとるのかと思っての」
「……うーん」
そっか。
考えたこともなかったな。
というか――考えることを避けていたのか。
僕は一生という言葉をよく使うけれど――その一生とは、そもそも何年くらいのことを指すのだろう。
「強度は人間に戻っておっても、寿命は吸血鬼のままかもしれんぞ――少なくとも治癒スキルはそこそこ残っておるようじゃしな。病気にもなりづらい、怪我もしづらいでは――まず早死にはすまい。ひょっとしたら、それこそ仙人の如く――儂の如く、四百年と言わず五百年くらい生きられる、かも」
「…………」
「恋人も、友達も、後輩も、妹御も――みんなこぞって死んでしもうて消えてしもうて、お前様と儂だけが残るわけじゃ。お前様が誰とどんな絆《きずな》を築こうと、時間がその絆を破綻させてしまう」
それは、決してたとえ話ではなく。
まして――笑い話のはずもなく。
確定した未来を語るような口調だった。
まるでそれは――経験談でも語るかのような。
湯船の中で脚を伸ばし――
僕の下腹部を蹴るようにする忍。
蹴るだけでは飽きたらず。
ぐい――と。
ぐりぐり――と。
かかとで、そのまま強く――踏みにじる。
お前様、と僕を呼びながら。
その態度はどこまでも――支配的だった。
「どうじゃ? そう考えると、さしものお前様でもうんざりするじゃろう?」
忍は言う。
僕を――誘い、惑わすように。
誘惑するように。
実に支配的に――言う。
「そこで提案なのじゃが、お前様よ。今すぐ儂を殺して、今度こそ掛け値ない人間に戻ってみるというのは如何《いかが》かな?」
「冗談言うな」
僕は、軽口を装った忍の提案を。
これ以上なく――はっきりと拒絶する。
「お前の出した結論の通りだよ。僕はお前を許さないし、お前は僕を許さない。それだけのことだ。それでもう、この話は終わりなんだよ――続きも何もない。僕達は死ぬまで生き続けるんだ」
それが。
僕のお前に対する誠意であり。
僕のお前に対する決意であり。
僕のお前に対する――償《つぐな》いだ。
許されなくともいい。
むしろ僕は――許して欲しくないのだから。
「ふん。ならばそれでよかろう」
忍は笑う。
あの頃のように――どこまでも、凄惨に笑う。
「精々儂に寝首をかかれんよう祈ることじゃな、我があるじ様。所詮は余生、気まぐれじゃ。しばらくは暇潰しとしてお前様の影として付き従ってやろうが――馴れ合うつもりはない。油断したら即殺すぞ」
まあ、こんな具合に。
僕と忍は、なし崩し的に和解した。
013
阿良々木シスターズ――ファイヤーシスターズの二人を比べたとき、どうしても実戦部隊の火憐のほうが目立ってしまう側面があることは否定できないのだが、しかしそれで月火が妹としてまだマシな奴だという誤解が蔓延《はびこ》るのは、僕としては避けたいところである。
さっきの包丁の件からもわかるよう、あいつはあいつで際どい奴なのだ。僕に助けを求めてきたところで、それを可愛いなどと思ってはならない。そもそも月火には、火憐の目立ちたがり屋な性質をいい隠《かく》れ蓑《みの》にして行動する傾向があるのだ。彼女をマシと思うなら、それは彼女のトラップに嵌っているということなのである。
パフォーマーの火憐はその点に限れば御《ぎょ》しやすいが、同じ馬鹿でも頭のいい馬鹿である月火のハンドリングは、事実上不可能であるといってもいい。
ひまわり園のエピソードもそうだが。
あいつはある意味、火憐よりも攻撃的である。
もうひとつたとえば、昔の話。
月火エピソード・パート2。
火憐と月火が小学生だった頃――そして僕も小学生だった頃。
そう言えば、ひょっとしたらそのときに、月火と千石は同じクラスだったかもしれない。だとすればきっと、千石はそのときのことを憶えているだろう。
確か、火憐が何らかのトラブルに巻き込まれたのだった――あの頃はまだファイヤーシスターズなどと呼ばれる前で、別行動も多かった。
何かがあって何かに追い詰められた火憐を救うため、月火は迷わず校舎の屋上から飛び降りた。
何があったらそんな結果になるのか。
当時の僕もそう思ったが、その理由は火憐と月火しか知らない――いや、あいつらのことだから憶えているかどうかも怪しいが。
幸いなのか、それともしっかり計算通りなのか、たまたま落下地点に駐車していたトラックの幌《ほろ》に落ちる形で(カンフー映画かよ)月火は一命を取り留めたが(無論、何本か骨は折れたし、彼女は名誉の負傷という名のただの傷跡を、その身体に多く残している)とにかく、その飛び降りを機に、それまでのインドア系おとなしさんという彼女に対する評価は雲散霧消《うんさんむしょう》した。
部屋に遊びに来る友達が一人も減らなかったのは、はなはだ不思議ではあるが。
とにかく。
月火は過激であり、そしてその過激さを意識せず抑え込む術《すべ》を心得ているということで、裏を返せばそれはいつだって、ただのヒステリーではない、意図的な暴走をすることができるということでもある。
意図的な暴走。
そんな危なっかしいものがあるか?
ヒステリーは問題ではない、そのヒステリーの奥にある真の激しさこそが――月火の本質なのだ。
閑話休題。
忍を影に戻して、風呂をあがってバスタオルで身体を拭き、それからとりあえずはバスタオルを腰に巻いただけの姿でリビングまで行く。月火の話を聞くのにいちいち正装する必要もないだろう。なんだか大切なことを忘れている気がするが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
リビングで。
月火はソファにちょこんと座っていた。
包丁は……どうやら、元の場所に戻したらしい。
「火憐は?」
僕は月火の正面に座りながら、質問する。
「ん」
頷く月火。
「羽川さんに見てもらってる」
……忘れていたのはそれか。
羽川が一つ屋根の下にいるときに、僕は何て格好をしているんだ。
これでは神原に何も言えない。
「つっても、着替えようにも僕の服、自分の部屋だしな……。まあ……二階にいるならいっか」
月火にあとで服を取ってきてもらおう。
それで解決だ。
まさかこの二十一世紀に、クラスメイトの女の子に半裸の姿でバッタリ、なんてドタバタコメディ的な展開があるわけがない。
「じゃあ、月火。詳しいことを教えてもらおうか」
「うん。それはいいけれど、その前にひとつだけ約束してくれる?」
「条件を出せる立場かよ」
「私の立場は妹だから出せる」
「僕の立場は兄だから断る」
にらみ合い。
油断すると対立してしまう。
「……わかった。諦める」
三分の沈黙の末、月火のほうが折れた。これははっきり言って珍しい――いつもなら僕が折れるほうが絶対に早いのに。
それは今回の件を、月火は本当に手に余ると感じているからかもしれない。
だとしたら。
「ちなみに、どんな条件を出すつもりだったんだ?」
「火憐ちゃんを怒らないであげてって」
「駄目だ」
「私は怒られてもいいけど、火憐ちゃんは怒らないであげてって」
「両方怒る」
「……火憐ちゃんを怒ってもいいけど、私のことは怒らないで?」
「つーかもう怒ってんだよ。さっさと話して楽になれ」
「むう。格好いいこと言っちゃって」
羽川さんの前では怒らないって約束した癖に、と、月火は唇を尖らす。
馬鹿め、あれは羽川の前だからだ。
そんなことは言うまでもない。
むくれつつも、月火は――そのたれ目で僕を見ている。
ただの偏見なのだが、月火に限らず、たれ目の人間って常に何かを企んでいるように見えるよな。
「そりゃお兄ちゃんは何でもできる天才でオールラウンドプレイヤーなのかもしれないけれど、だからって私達のことを馬鹿にしていいってことにはならないんだよ?」
「お前のその鼻につく喋り方も今は我慢してやるから、それを条件としてさっさと話せ。そもそも今回の件は何から始まってるんだ? そこからもう通じてこない」
「そう。いくらお兄ちゃんが世紀の博識家と言ってもわからないことはあるんだ」
「…………」
やべー。
もう我慢できねえかも。
「羽川さんからどこまで聞いてるの?」
その絶妙のタイミングで。
月火はようやく、本題らしいことを言った。
駆け引きでやっているなら大した腕だ。
「大体は聞いた。ただし、羽川はあくまで外側にいる人間だから、内側の話は見えていない。それに大事なところだが――お前達から話を聞くまで、僕は動きようがない」
あと。
羽川は羽川で少なからず、火憐と月火の名誉のために隠していることがありそうだとも思う。
羽川がその気になれば、そもそも意図的に喋っていないことがあること自体隠し通せるだろうから、わざと僕にそれを匂わせ、そこから先は妹達に訊くように促したのだろうが。
しかしあいつ、すげえ立ち位置にいるよな。
中立、一歩間違えばどっちつかず。
むしろダブルスパイみたいな女だ。
まあ、それこそがあいつの尊敬する忍野メメの手法――なのかもしれないが。
「動きようがない、か――私達は大抵の場合、考える前にもう動いちゃうんだけれどね。今回の火憐ちゃんなんて、そのいい例」
「だろーよ」
「お兄ちゃんはさ」
月火は言う。
「何か、後悔《こうかい》してることってある?」
「後悔? そんなもん、いつだってしてる。しない人間なんかいるのかよ」
反省しない奴はいるだろうけど。
まあそれも人間。
「なんて言うのかな。私は後悔って、あんまりしないほうなんだけど」
「だろーな。お前とか火憐とかは、そんな感じだ」
「だけど、だからこそ」
言葉を区切つて、月火。
「なんであのとき後悔しておかなかったのかなあ――って、後悔することはあるんだよね」
「…………」
「ま、いいんだけど」
そう言って。
月火は黙った。
黙りやがった。
…………。
「……どうやら、首を絞められたいようだな」
「あ、いや、そういうわけじゃなく」
「それならさっさと本題に入れ」
「そ、そうだお兄ちゃん、いいこと教えてあげるよ」
「いいこと?」
「私の口癖の『プラチナむかつく』のことなんだけど、あれ、元々は『プチむかつく』からの変化だから、プラチナって言葉から連想されるほど強くむかついてるわけじゃないの」
「お前の口癖が『プラチナむかつく』だってことが初耳だ!」
「何で知らないのよ! プラチナむかつく!」
「明らかに激怒してんじゃねえか!」
プラチナびっくりだ。
言ってることが滅茶苦茶である。
「つーか、巧妙に話を逸らそうとするな」
「う……い、今のはお兄ちゃんを試したのよ」
「だったら僕は僕を試そうとしたお前を試したんだ。さっさと本題に入れ」
「じゃ、じゃあお兄ちゃん、その前に何か、お兄ちゃんが後悔したときの話とか、してくれない? お兄ちゃんの後悔エピソード、聞きたいな」
「……は?」
「普通に話すの、なんだか悔しいし。お互いに秘密を打ち明けあうみたいにできないかな。修学旅行の夜みたくー」
「馬鹿が」
と思う反面、いや実際そう言ってしまったが、まあ、そんなガキ臭さに付き合ってやるのもまた兄の責任かと思い、それにいい加減|堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒が切れそうだったので、僕は月火のその提案に乗ってやることにした。
「つっても、僕の後悔エピソードっつってもな……直截《ちょくせつ》的に訊かれると、当惑する」
あるにはある。
あり過ぎるくらいだ。
たとえば、忍野忍。
彼女のこと。
吸血鬼のこと。
……しかし、もしもそれを妹に話すことがあるとしても、このタイミングではないのは確かだろう。
打ち明けあう秘密としては――重過ぎる。
そんな僕の逡巡を、どうやら月火は焦《じ》らしていると受け取ったらしく、
「何かないの?」
と、重ねて訊いてきた。
「んー、やっぱり突然言われても……どんな話を聞きたいのか、もうちょっと具体的に言えよ」
「だから、ちょっと恥ずかしい感じの話だよ。そう……たとえば、お兄ちゃんにはどうして友達がいないのか、とか」
「今はいる!」
「そうなの? 何人?」
「何人だと? 聞いて驚け」
羽川=友達。
神原……は、後輩だけど、友達だろ。
八九寺、超友達。
千石……友達。ただ、ひょっとしたら、とても仲良しではあるけれど、向こうはそう思ってくれてないかも……友達(月火)の兄だから、仕方なく話してくれているのかもしれない。そうだな、そう呼ばれるのがいかに心地よくとも、やっぱり目指せ、脱『お兄ちゃん』だ。でも友達って言っても間違いじゃないはず。
戦場ヶ原は――彼女。ニュアンス的には、この場合、数に含めていいだろう。
「五人!」
「……いや、マジで驚いた」
月火は引いていた。
たれ目が吊り上がるほどの驚きだったらしい。
「お兄ちゃん可哀想……きっとそのまま寂しく死んでいくんだね」
「実の兄に酷いことを言うな!」
まったく。
ふざけた妹だ。
「で、今はともかく、一時期僕にはどうして友達がいなかったのかって話だけどな……そうだな、僕は昔、こんな風に思っていたんだ。友達を作ると人間強度が――」
「いや、十分に恥ずかしい話はもう聞けたのでいいよ……変なこと訊いてごめんなさい」
「まだ謝るな! 僕はまだ恥ずかしい話なんてしていない!」
「やめてお兄ちゃん、もういいの、それ以上傷口を広げなくてもいいの! もうやめて、もう終わったんだよ!」
「終わってねえー!」
必死で止めんな!
目に涙さえ浮かべて!
「普通に『友達いない』っていう人とは、段違いなレベルで友達がいないんだね……そしてそれに本人だけが気付いていないところが寂し過ぎる」
そ、そうなのか……?
僕にはまだ自覚が足りないのか……?
「お兄ちゃんが交通事故とかで死んでも、お葬式は身内だけで行うことにしてあげる……だってそうしないと、友達がいないのがバレちゃうもんね」
「やな気遣いだ!」
「結婚式は……まあ、友達のいない人が結婚できるわけないか」
「くあー!」
あまりにあまりな言葉の数々に、突っ込みもいよいよ言葉にならない。
僕はただただ、叫ぶだけだった。
「でも、お兄ちゃん。友達って作らないほうが難しくない?」
「なんだよそのエリート階級の台詞!」
傷つくわ!
素で!
「いいんだよ、僕はお前らみたいに仲良し軍団を組織したいわけじゃないんだ。僕はな、こう、みんなから『あいつ、ひとりのときは何してるんだろうな?』とか、そんなことを言われるような謎めいたキャラでありたいんだから」
「だからその台詞を言ってくれる『みんな』がいないわけでしょ? ひとりのときはも何も、ほとんどのときがひとりじゃない」
「……そこまで言うなら、お前も教えろよ。お前の友達は何人いるんだ?」
「え?」
きょとんとする月火。
「数えられるうちは友達とは言えないと思うよ」
「………………」
わけてくれ。
切実にそう思った。
「だから『友』『達』なんだし?」
「うう……もっともなことを」
「大体、友達をカウントしている時点で考え方がおかしいよね?」
「最初に何人って訊いたのはお前だろ!」
とか。
そんなことを言っていると。
「阿良々木くん、ちょっと、二階まで声が響いてるんだけど――それも恐らくは雑談と思われる会話の声が響いてるんだけど、もうちょっと静かに喋れないものなの?」
がちゃりと扉が開いて、リビングに羽川が入ってきた。
気付かないうちに(突っ込むうちに)、随分と大きな声を出してしまっていたらしい。
「あ、悪い。気をつける」
と言いながら――
あ、超やべえ。
――と気付く。
僕は腰にバスタオルを巻いただけの姿で、ソファで妹と向き合っているのだった。いや、付け加えて、突っ込みのためにソファから身を乗り出したりしていたせいで、微妙にそのバスタオルがはだけていたり。
わかったことはみっつ。
ひとつは羽川でも悲鳴をあげることがあるのだということ、ひとつはその悲鳴もまた家中に響き渡るほどに大きいということ、そして最後のひとつは、うちの両親の寝つきは、どうやら異様にいいらしいということである。
014
しばらくは阿良々木火憐の話。
と言っても、僕が羽川と月火の話を聞き、それを統合しての場面回想なので、実際とは少し違うのかもしれないけれど。
とにかく、急に語《かた》り部《べ》の視点がぶれたわけではないので、ここでも心配はいらない。
僕が戦場ヶ原ひたぎに拉致監禁されている頃、阿良々木火憐はいつものジャージ姿で、自らの通う私立栂の木第二中学校の近くにある、某カラオケボックスを訪れていた。
ここのところ追っていた、中学生の間に流布《るふ》する『おまじない』の発端であるらしい『犯人』を、ついに突き止めたのである。
いや実際に突き止めたのは羽川翼であり、勿論そのことに対する感謝の気持ちも火憐にはあるのだが、しかしこのときの彼女は頭にかーっと血が上っていて、そんなことはどうでもよくなっている。
「私が行くまで動かないでね」
という羽川からの助言も。
憶えていない。
これに関しては羽川がミステイクを認めている――その行動を予想できなかったのはあまりに浅慮《せんりょ》だった、と。
しかし僕としては、なんだろう、火憐に対して、お前よくも羽川にこんなくだらねえミスを犯させやがったなと思うだけである。つーか普通に火憐が悪い。
羽川の信頼を裏切りやがって。
月火なら火憐を、事前に止められただろうか? いや、無理だろう。
月火は火憐を煽《あお》ることしかしない。
参謀とは言え、月火は火憐の制御を最初から考えてはいないのだ。
「ようこそ、お嬢さん。俺は貝木。貝塚の貝に、枯木の木だ。お前の名前を聞こうか」
「阿良々木火憐だ」
カラオケボックスの個室で待ち構えていた、喪服のようなスーツ姿の男に対して――火憐は正々堂々、名乗りをあげた。
「こざと偏に可能性の可、良い良い、それに若木の木。火を憐れむで、火憐だ」
「いい名だな。親に感謝しておけ」
特に感情を感じさせない、重い口調。
火憐は一瞬|気後《きおく》れしかけたが。
しかしすぐに気を引き締める。
扉を閉めて。
これで――この狭い密室に二人きりである。
普通なら、それは極めて危ないシチュエーションではあるが、火憐はそんなことを考えない。むしろ自分にはこういうフィールドのほうが向いているとさえ思っている。
馬鹿じゃないのだろうか。
いや、馬鹿なのだけど。
「それで、お前はどちらだ。『おまじない』を教えて欲しいのか――それとも『おまじない』を解いて欲しいのか。前者なら一万、後者なら二万だ」
「どちらでもねー。あんたを殴りに来た」
火憐は言った。
聞くだけならば、余裕の台詞である。
勿論、本当のところ、余裕などない。
火憐は感じている。
伊達《だて》に格闘技に身を染めていない。
武道にその身を置いていない。
貝木泥舟の不吉さは――しっかり感じ取っている。
何をされるかわからない[#「何をされるかわからない」に傍点]。
それは肌で感じる。
けれど、この時点でも彼女はまだ、自分が間違えているとは思っていない――ひとりで来たことを決して後悔していない。
馬鹿だから。
僕に言わせりゃ、偽物だから。
本物の危機に――気付けない。
「殴りに来た。ほう。つまり俺を嘘のメールで呼び出し、罠に嵌めたということか。なるほど見事な手際だ――もっともお前の手柄とは思えないな。お前のような短絡的な人間が、俺の地点まで辿り着けるとは思えない」
「……ああ」
「ならば誰の手柄か教え――てくれはしないだろうな。それでも、そうはいないはずなんだ。こうして、俺と対面できるところまで到着するなど、やや常軌を逸している。こちらからではなくそちらから届くなど。少なくとも中学生の器ではない」
器。
まあ、実際に到達した羽川は中学生ではなく高校生なのだが、しかし羽川は高校生の器でさえないのである。
この場に羽川が同席していれば。
まるで違った展開にはなっただろう。
あの忍野でさえ、単身で羽川と向き合うことは嫌がっていたくらいなのだ。
ごくん、と。
火憐は色んな言葉と一緒に、唾を飲み込む。
そして。
「あんたのやってることはすげー迷惑なんだ。いちいち説明しなくてもわかるよな?」
「何が迷惑だ。俺はお前達の望んだものを売り渡しているだけだぞ。その後は自己責任だろう」
「自己責任?」
火憐は唇を歪める。
その言葉に嫌悪感を覚えないほどに、未成熟ではなかったらしい。
「何が自己責任だ。ふざけんな、人間関係を引っ掻き回すようなことばかりしやがって。どういうつもりなんだよ」
「どういうつもり、か――深い問いだな」
貝木は静かに頷く。
それは火憐にとって予想外の反応ではあった。
そもそも、こそこそと根暗な『おまじない』を噂として流し、中学生から小銭を巻き上げるような小悪党は、こうして直《じか》に会って糾弾《きゅうだん》すれば、向こうはしどろもどろになって取り乱し、殴る前にみっともなく謝罪してくるものだと――火憐はそんな風に想定していたのだ。
だって。
彼女にとって、悪とはそういうものだから。
悪が、強く。
また、したたかであるなど――それは。
決してあってはならないことである。
「しかし残念なことに、俺は深い問いに対して浅い答を返すことになる。それは勿論、金のためだ」
「……か、金?」
「そう、俺の目的は日本銀行券だ。それ以外にはない――世の中というのは金が全てだからな。お前はどうやら、くだらん正義感でここに来たようだが――惜しいことをしたものだ。その行為、依頼人から十万は取れる」
貝木は。
当然のように――そう値踏みする。
火憐の行動を鑑定する。
「今回の件からお前が得るべき教訓は、ただ働きは割に合わない――だ」
「い、依頼人なんているか」
火憐は言う。
気圧《けお》されないよう――虚勢を張る。
「あたしは誰かに頼まれてこんなことをしているわけじゃない」
「そうか。誰かに頼まれておくべきだったな」
「頼まれたとしても、金なんかいらない」
「若いな。決して羨ましいとは思わないが」
貝木は言う。
不吉さはまるで消えない。
カラオケボックスの個室の狭さが、むしろそれを加速させているようにも思えた。
どんどんと――色濃く。
不吉が満ちていく。
「どうした。震えているぞ、阿良々木」
「……震えてなんかいねー。もし震えてるんだとすれば、それは土砂《どしゃ》震いだ」
「そんな自然災害のような震え方をするとは、愉快な娘だ」
それも若さか、と貝木は言う。
火憐を値踏みするように見遣って。
「しかしそれでも、考えなしでアクションを起こすのはやめたほうがいい。それでは折角の愉快さも半減だ。今回の件からお前が得るべき教訓は、感じる前に考えろということだ――阿良々木。お前は俺の目的を訊いたな。そして俺は曲がりなりにもそれに応えた。今度はお前の番だ。お前の目的は何なのだ?」
「もう言ったろ。あんたを殴りに来たんだ」
「殴るだけか?」
「蹴りもする」
「暴力か」
「武力だ。そしてあたしはあんたのやっていることをやめさせる。中学生相手に阿漕《あこぎ》な商売しやがって、何考えてんだ。それでも大人か」
「これでも大人だ。それに阿漕な商売になるのは当たり前だ――」
貝木は言う。
むしろ誇るように。
「――俺は詐欺師だからな」
「…………」
火憐は引きつつ――糾弾する。
責める言葉を繰り返す。
「中学生相手に――恥ずかしくないのか」
「別に。子供が相手だから騙しやすい、それだけのことだ。しかし、阿良々木よ。俺のやっていることをやめさせたければ、殴るのも蹴るのもとりあえずは無駄だな。それより金を持ってくるのが手っ取り早い。この件に関する俺の目標額は三百万だ。根を張るまでに二ヵ月以上かけている――最低でもそれくらいは儲けないと割りに合わない。とは言え阿良々木――どうしてもと言うのなら、俺も全額とは言わん。その半分でも支払うなら、俺は喜んで身を引こう」
「……チンピラが」
「安い言い方をするな」
貝木は少し――笑った。
何がおかしかったのか。
それは失笑だったのか苦笑だったのか――
嘲笑《ちょうしょう》だったのか。
「あんた――それでも人間かよ」
「生憎だが、これでも人間だよ。大切なものを命を賭《と》して守りたいと思う――ただの人間だ。お前は善行を積むことで心を満たし、俺は悪行を積むことで貯金通帳を満たす。そこにどれほどの違いがある?」
「ち、違いって――」
「そう、違いなどない。お前はお前の行為によって誰かを幸せにするかもしれない――しかしそれは、俺が稼いだ金を浪費して、資本主義経済を潤おすのと何ら変わりがないのだ。今回の件からお前が得るべき教訓は、正義で解決しないことがないよう、金で解決しないこともないということだ」
「…………っ」
「俺の『被害』に遭った連中にしてもそうだろう。連中は俺に金を支払った。それは取り引きの対価として金を認めたということだ。お前だってそうだろう、阿良々木。それともお前は、そのジャージを買うとき、金を払わなかったのか?」
「ジャ、ジャージのことだけは言うな!」
火憐は激昂した。
いや。
ジャージのことでそこまで激昂するのは明らかにおかしいが。
しかしそれで、火憐は話を切り上げることを決意したらしい。月火が不在のこの状況では、言い合いでは弱い。火憐は年上相手に議論で勝ったことは数えるほどしかないのだ。
「いいから結論を出せ。あたしに殴られたいのか、それとも――」
「殴られたくはない。蹴られたくもないな。痛いのは嫌いだ。だから」
貝木は。
不意に――動いた。
どうしてなのか――格闘技をやっているはずの火憐は、それにまったく反応できなかった。油断していたわけでも、構えていなかったわけでもないのに――
「お前には蜂をプレゼントしよう」
決して、貝木は火憐に向かってきたのではなかった。むしろその身体を――通せんぼをするかのようにドアの前に立ちはだかっていた火憐の脇をすり抜けるように、動かしただけだった。
その行為は端的に言って、闘争ではなく逃走だ。
罠に嵌《は》められ、呼び出され。
商売をするつもりが糾弾され。
追い詰められて――逃げ出した。
それだけのことだ。
言葉を並べれば、格好悪いことこの上ない。
しかし――とん、と。
すれ違いざまに、貝木は左手の人差し指で。
人差し指で、一刺し。
火憐の額を――軽く突いたのだった。
「……? ……っ? ……っ!?」
驚きは三連。
一度目の驚きは額を突かれたことそれ自体。
それはつまり、顔面を殴られたのと同じだ――もしも貝木が拳を作って、軽くではなく重く、全力で殴っていたら――鍛えている火憐でも、さすがにただではすまなかったはずだ。
二度目の驚きは、ならばなぜ貝木はそうしなかったのかという、そんな疑問。
そして三度目の驚きは。
「………………っ!」
その場で膝を突くほどの――急激な嘔吐《おうと》感。
疲労感。
倦怠《けんたい》感。
そして何より。
身体が――火照る。
熱い。
燃えるように。
火のように熱い。
炎の中に身を投げたような気分だ。
「がっ……あ、ああ?」
喉が焼けるように熱くて。
言葉がうまく紡《つむ》げない。
そんな火憐を見下ろして、
「効果覿面だな。随分と思い込みの激しいタイプと見える」
と言った。
「今回の件からお前が得るべき教訓は、人を見たら詐欺師と思えということだ。人を疑うということを少しは憶えるのだな――俺が許しを請うとでも思ったのか? だとすれば愚かだ。俺を改心させたくば金を積め。一千万円から議論してやろう」
その声は聞こえる。
意識ははっきりしている。
だが――身体がついてこない。
腕も足も頭も、目も耳も口も。
全てが正常に作動しない。
「な……何を、した」
何をされた。
何をされた。何をされた。
何をされた。何をされた。何をされた。
何に[#「何に」に傍点]――刺された[#「刺された」に傍点]。
全然、わからない。
「あたしに――何をした」
「悪いことだよ。勿論有料だ、金はもらう」
言って貝木は、身動きの取れない火憐のジャージのポケットから、彼女の財布を抜き取る。それが勝手に開かれるのを、火憐はただ見ていることしかできない。
いや、視界がぼやけ。
見ていることさえもできない。
「四千円か……まあいいだろう。さっきの話の分はサービスしておく。電車代として小銭くらいは残しておいて……ん。なんだ、定期券があるのか。ならば小銭も不要だな」
じゃらじゃらとした音。
小銭を取り出しているのだ。
「プラス六百二十七円……そんなところか。無記名のポイントカードももらっておいてやろう」
貝木はほとんど空っぽになった火憐の財布を部屋のテーブルの上に置いて、それから、
「少しすれば毒が定着し、動けるようにはなる。携帯を使って助けを呼ぶことを勧めるよ――俺はその間にとんずらするとしよう。勿論、商売は続けさせてもらうが――しかし、直接顧客と会うのは、これからは避けたほうがよさそうだな。いい教訓になった。ではさらばだ」
と言って。
蹲《うずくま》った火憐を振り向こうともせず――ドアを開けて、出て行った。
火憐は――阿良々木火憐は。
意地を張って、しばらくの間、それでも助けを呼ぼうとはしなかった――
015
親が起き出す前に、とりあえず、羽川に帰ってもらうことにした。もう既に、ただの『手伝い』と言うには、如何せんその手を借り過ぎているくらいだった――時間も時間だし、僕が自転車で、途中まで送っていくことにする。
と言っても二人乗りは禁止。
羽川は道路交通法にはうるさい。
緊急事態でない限りは認めてくれない。
別に下心なんてないのに!
僕が羽川に、後ろから抱きついて欲しいだなんて思っているわけないじゃないか!
「悪かったな、色々煩わせちまって。あとは任せておいてくれ」
「ん。そうだね」
歩きながら、僕達は会話を交わす。
考えてみれば、羽川とこんな風に話すのは久し振りだった――家庭教師をしてもらっているので、顔だけならば頻繁《ひんぱん》に合わせているのだが。
勉強中は話なんてできないし。
「もうこれ以上、私は手伝わないほうがよさそうだよね――ろくなことになりそうもないし。私にできることは、ここまでか」
「まあ……そうだな」
否定できないのがつらいところだ。
羽川は正しいし、強い。
しかし正し過ぎ、強過ぎる嫌いがある。
慎重を期さないと、そして慎重を期したところで、周囲を根こそぎにしてしまうところがあるのだった。
「阿良々木くん、怒ってる?」
羽川と僕との歩幅はそう変わらない。
ので、無理に歩調を合わせる必要はない――自転車を押しながら、僕は羽川に、
「何を?」
と訊き返す。
「何をって、とぼけないでよ。火憐ちゃんと月火ちゃんのこと。何て言うか、『犯人』を突き止めたのは私なんだし。火憐ちゃんがあんなことになっちゃったこと。怒ってる?」
「怒ってるとしたら、それはあの二人に対してだよ。羽川に対しては怒る筋がない。……つーかあれだ、怒ってるわけじゃないけれど、でも、あのファイヤーシスターズに協力するなら、僕にも教えて欲しかったっていう文句は言いたいね」
「だって、そのときこそ阿良々木くんは怒るでしょ。それに、私が個人的に火憐ちゃんや月火ちゃんと友達になるのは、自由じゃない?」
「自由だな」
僕はとっても不自由だけど。
まあいいさ。
今更何を言っても始まらない。
こぼれたミルクを嘆いても無駄なのだ。
「だね」
と、羽川。
はにかみながら、制服の胸ポケットから生徒手帳を取り出して、
「でも、折角だから、阿良々木くんには、火憐ちゃんと月火ちゃんのことを黙っていたお詫《わ》びとして、このチケットをあげましょー」
なんて、語尾を不自然に延ばしながら、その生徒手帳の白紙のページを定規も使わず折り目もつけずにそれでも綺麗に切り取って(どうやったんだ?)、僕に手渡した。
僕はそのページ――チケット? ――を裏返して、裏にも何も書いていないことを確認する。
なんだこりゃ。
未来への切符はいつも白紙だという暗示か?
レムなのか?
理想の最終回なのか?
ラブ&ピースか!
「なにこれ」
多分違うだろうから、訊いてみた。
羽川は更にはにかんで、
「いつでも好きなときに好きなだけ私の胸に触っていいチケット。あげる」
と答えた。
「……っ! マジでっ!」
紙片、否、その極上チケットを持つ手が震える。
「うん。マジだよ。その代わり使ったら一生軽蔑するけど」
「意味ねー!」
破り捨てた。
あははは、と羽川は屈託《くったく》なく笑った。
うう……馬鹿にされている。
昔は絶対にこんな冗談を言う奴じゃなかったのに。
前言撤回というか、前言補強だ。
こいつは、本当に変わった。
しかも多分――いいように変わっている。
「いつでも好きなときに好きなだけ私のパンツをもらえるチケットのほうがよかった?」
「それは一生軽蔑されないのか?」
「されます」
「だったらそれもいらない……いつでも好きなときに好きなだけ羽川のスカートをもらえるチケットで我慢する」
「そんなチケットは存在しません」
軽蔑されない上に、スカートをもらえればレア度は下がるとは言えそれでも羽川の衣類は手に入る上、必然的にパンツを見ることもできる(パンツをもらった場合はその手の視覚的な楽しみは得られないのだ!)という、僕的にはナイスな頭脳プレイだったのだが、あえなくかわされてしまった。
「まあ、私のことはともかくとしてさ……阿良々木くん、あんまり火憐ちゃんと月火ちゃんをいじめないであげてね?」
「大丈夫だよ――そっちも心配するな。あいつらがただのわがままでやってんじゃないことくらいわかってる」
「そうなんだよね。同属嫌悪の話じゃないけど、あの子達さ」
羽川は言った。
「やっぱ似てるんだよ、阿良々木くんと」
「……外見の話か?」
いや。
顔の作り、マジで似てんだよな。
写真に撮るとわかりやすいんだけど。
ちなみに目の形で区別するのが一番簡単。
「外見じゃなくて中身の話だよ。ま、私もあんまり人のこと言えないけどね」
「そりゃそうだ……もっとも、僕達兄妹とお前とじゃあ、やっぱ違うけどな」
「忍野さん」
羽川は。
突然、あのアロハな男の名前を出した。
「忍野さん、今頃どうしてるかなあ」
「……さあ。でもきっとどこかで、僕達のことを見守ってくれているさ」
死人のように扱ってみた。
いやまあ、あいつもあいつで、たとえ死んでも僕達のことを見守ってくれるような奴じゃなかったが。
「あいつならきっと、火憐のこととか、あっさり解決しちゃうんだろうな――囲い火蜂ってのも、忍に聞く限りは随分レベルの低い怪異みたいだし」
「忍ちゃん? ……囲い火蜂?」
「あ」
まだ説明していなかった。
僕は忍ととりあえずの歩み寄りをしたこと、それに火憐から高熱を引き出している怪異、囲い火蜂のことを、簡単に羽川に説明した。
簡単な説明で羽川は、
「ふうん」
と理解した。
さすがである。
「囲い火蜂ね――難易度が低いっていうか、とってもマイナーな感じ。でも、阿良々木くんが忍ちゃんと和解したってのはいい話だね」
「悪い話ではないけどな」
僕は影に目を落として、言う。
忍の気配はない。
まあ仕方ない。
あいつは羽川の前では、引きずり出されでもしない限り、絶対に出てはこないだろう。
「……一緒にお風呂ってのはどうかと思うけど」
「余計なことまで話した!」
何で僕はこう脇が甘い。
羽川の前では油断しっぱなしだった。
「じゃ、阿良々木くん、これからは忍ちゃんのこと吸血鬼だった頃の真名で呼ぶの?」
「真名……」
「ほら。キスショット・アセロラオリオン・サータアンダーギーって」
「絶妙に違う!」
すげえ似てるけど!
しかし、よくその沖縄産のお菓子の名前が忍の元の名前と似てるって気付いたな!
高度なボケだ!
ちゅらら木さんとサータアンダーギーのコンビ、すげえ味がある!
いや、まあ、ともかく――
「それは、ない」
僕は答えた。
「あいつのその名は永遠に失われている――今じゃ、忍野忍のほうが真名だ。そして僕は決めている。二度とその名で――あいつのことを呼ばないと。和解しようと崩壊しようと、それだけは決して揺るがない」
「ふうん。まあ、忍野さんがこの町から出て行ったのも、阿良々木くんに忍ちゃんを任せられると判断したからだもんね――本当なら、文化祭の直後に和解しててもおかしくなかったくらいだもん」
「だとすると、随分時間をかけてしまったもんだ。僕の怠慢《たいまん》と言っていいな」
「阿良々木くんは怠慢なんてしてないよ。それは私がよく知ってる」
あっさりと――そう言ってくれる羽川。
そう。
きっと羽川が――一番、気にかけてくれていた。
記憶を失っているときさえも。
僕を気遣ってくれて――いた。
僕は万感《ばんかん》の想いを込めて、
「お前は何でも知ってるな」
と言う。
すると羽川は、
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」
と答えた。
いつも通りの――やり取りだ。
「阿良々木くん。少し怖い話、しよっか?」
「怖い話? なんだよ」
「阿良々木くんが携帯電話をふと見ると、戦場ヶ原さんからの留守電が入っていました。留守電の内容は、『この伝言を聞いたらすぐに折り返して頂戴』とか、そんな感じです」
「それのどこが怖いんだよ。別に普通に折り返せばいいだけだろ」
「着信が昨日」
「こえーっ!」
用件が何でも怖い!
怖くてもう折り返せねえよ!
「なんちゃって。今のは雑談」
「ざ、雑談か……びっくりした。実話かと思った」
「何で私が阿良々木くんの知らない阿良々木くんの実話を知っているのよ……だから何でもは知らないんだってば。それで、私がしたかった怖い話っていうのは、忍ちゃんのこと」
「…………」
「喧嘩っていうのは和解してからが大変なんだから――その辺の心得違いをしないでね」
羽川はそう言った。
それは。
頷くまでもなく、わかっていたことで。
だからこそ――僕は頷かなければならなかった。
僕の反応を見て、羽川は、
「うん」
と言い。
それ以上、そのことについては触れず――話題を戻した。
「そうそう、さっきの話だけれど。たとえ忍野さんが今この町にいたとしても、火憐ちゃんのことは放っていたんじゃない? あの人は――自分から首を突っ込んだ人には、冷たかったじゃない」
「……そうだったな」
仮に、忍野が『助ける』とするなら。
それは――完全なる『被害者』だけなのだ。
僕達の中で言えば、そんな扱いを受けたのは精々千石くらいのものだった――いや、ひょっとすると忍野がロリコンだったからという可能性もあるにはあるのだが。
しかし、たとえそうだったとしても火憐は助けてはもらえまい。
あいつ見た目ロリーじゃないもん。
僕より背ぇ高いし。
忍野よりは低いだろうけど。
「うん、忍野なら、火憐なんか突っ撥《ぱ》ねるか。『助けない。きみが一人で勝手に助かるだけだよ、お嬢ちゃん』とか言って」
「今の物真似は似てたね……」
羽川が的外れなところに感心していた。
まあ、何度聞いたかわからん台詞だからな。
「阿良々木くん、ひょっとして物真似とか得意?」
「得意というほどではないが……」
「やってみてよ。戦場ヶ原さんの物真似とか」
「やだよ。なんでそんなことしなきゃいけないんだ」
「やってよ」
「やだよ」
「やって」
「…………」
三回頼まれると断れない。
相手が羽川だったら、だけど。
でも、そんなに見たいかなあ?
「『やれやれ、阿良々木くんに勉強を教えるなんて、考えてみれば私も随分と無駄な時間を使っているものだわ。この損失をお金に換算すればざっと二億円くらいね。わかる? 阿良々木くんが二億年生きないと稼げない金額よ』」
「似てるかどうかはともかく、阿良々木くんが戦場ヶ原さんからそんな酷いことを言われたことがあるのはわかったわ……」
羽川が引いていた。
似てる似てない以前に、そのリアルさに。
「じゃ、次、真宵ちゃんの物真似」
「えーっと」
羽川の言いなりの僕である。
道化と呼べ。
「『や、やめてください、阿良々木さんっ! 変なとこばっかり触らないでくださいっ! 目で訴えて足りないようでしたら法廷に訴えますよ!』」
「……真宵ちゃんに何をしたの? 変なとこってどこ?」
「またもウルトラ・ミス!」
何もかも迂闊過ぎる!
本当に無脊椎動物か、僕は!
羽川にじとりと睨まれて。
僕の目がバサロ泳法で泳ぐ。
「し……失礼、噛みました」
「本当は何て言いたかったの」
「変な蛸《たこ》……」
変な蛸ばっかり触る変な男になってしまった。
八九寺の制止を振り切って変な蛸に触りまくっている僕を想像すると、それはかなりシュールなシチュエーションだった。
救いようがねえ。
「じゃ……次は神原さん、やってみて」
「『さすが羽川先輩、見事なお手前だ。神に愛されているとしか思えない。私如きではまるで足元には及ばんな……ふふ、しかし羽川先輩と同時代に生まれた者の務めとして、私は決してこの現実から目を逸らすことなく、そのお姿を見て、色々と勉強させていただくとしよう』」
「…………」
「あれ? 自信作なんだけど」
「……私、神原さんにそんなこと言われたことないよ?」
「え?」
「そりゃ礼儀正しい子だとは思うけれど、神に愛されているとか何とか、そこまで大袈裟なことは言われたことがないなあ」
「あれあれ」
なんだ。
あいつ、誰に対してもああなわけじゃないのか。
まさか神原の奴、目上の者に対する、あるいは尊敬する先輩のクラスメイトに対する礼儀としてああしているのではなく、本当に僕個人のことを尊敬しているのか……だとしたら重過ぎるぞ。
一体あいつは僕の人格のどういうところに価値を見出しているのだろう。
「じゃ、最後。私の真似」
「『このおっぱい、阿良々木くんのものだよ。好きなだけ触っていいの』」
「言ってません!」
怒られた。
羽川さんに怒られた……。
本気でへこむ僕だった。
「いや、でも、さっき似たような台詞を……」
「全然違います。それにあのチケットは阿良々木くんが男らしく破いたでしょう。実はあのとき、ちょっとときめいていたり」
「なんと」
では、その加点が今消えたのか。
それは痛ましい事件だ。
悲劇と言わざるを得ない。
「余計なことを言わなければ、物真似のご褒美《ほうび》で胸を触らせてもらえたかもしれないのに……なんてことだ」
「そんなご褒美はありえません」
「でも羽川、こうも気を持たされてしまったら、僕は抑圧されてしまって性犯罪に走ってしまいかねないじゃないか。自覚しろよ、それを防げるのはお前だけなんだぜ?」
「私の胸を触ろうという発想を持つこと自体が、既に性犯罪の域だと早く気付いてくださいな」
「馬鹿な……愛が犯罪だと言うのか」
「愛とか言わない」
更に怒られた。
まあ、これは本当に不謹慎。
「じゃあせめて、妥協案として二の腕を触らしてはくれないだろうか」
「……? どうして二の腕?」
「二の腕の触り心地は胸と同じ感触だと聞きます」
「馬鹿な発想……」
呆れ顔の羽川。
「ていうか、言うほど同じじゃないと思うけど」
「え? そうなの?」
所詮は都市伝説か。
迷信か。妄想か。
「うん。自分で触ってる限り、そんな感じはしないな」
「自分で触ってるの!? 胸を!?」
「や、ちょっと待ってちょっと待って! 誤解しないでよ、お風呂での話だからね!?」
「風呂で――つまり全裸で!?」
「自分の身体を自分で洗ってるんです、当たり前のことでしょう!?」
「ええ!? おいお前何やってんだよ! 僕はそんなに頼りにならないか、言ってくれたら僕が洗ったのに!」
「阿良々木くんのキャラがわからない!」
さすがに慌て気味の羽川だった。
超可愛い。
んん、と羽川は頷いた。
「じゃ、こうしよっか」
「ん? どうするんだ?」
「阿良々木くんがもしも大学に一発で合格することができたら、私の胸触り放題」
「え」
動きが止まる僕。
羽川ははにかんでいた。
「だ……騙されないぞ。触り放題だけど、それをしたら一生軽蔑するんだろう?」
「いえいえ、むしろ明らかに大喜びのリアクション。ポーズを決めて『いやーん、まいっちんぐ!』と言います」
「お前が!?」
そんなことを言ってくれるの!?
ポーズまで決めて!?
二億円払っても見てえ!
「今は調子いいけれど、阿良々木くんも、もうすぐ成績が伸び悩む時期が来るだろうからね。そういうとき、ご褒美って言うか、何らかのリターンがあったほうがやる気がでるでしょう?」
「そ、それは出るが……」
「私は、阿良々木くんを志望の大学に合格させるためなら何でもするって、決めてるから。胸だけじゃなくって、二の腕だろうがなんだろうが、私の身体の柔らかいとこ全部、隈なく阿良々木くんの好きにしてもいいよ」
「な、なんと……!」
僕はおののく。
柔らかいとこ全部、だと……!
「じゃあ、羽川の眼球を舐めるとか、そういうことをしてもいいのか!」
「……今、阿良々木くんのとんでもなく特殊な性癖が明らかになった気がするけど」
「そ、そう? 女子の目を舐めたいって、健康な男子の一般的な発想じゃないのか?」
「それはもう歴史に名を残す殺人鬼とかの発想だと思うな……でも、うん、構わないよ」
「構わないの!?」
「ただし二者択一。眼球を舐めるか、それ以外の柔らかいとこ全部か、どっちか」
「ど、どっちか……」
何という究極の選択だ……いや! こんな問い、考えてみれば迷うまでもないじゃないか!
「眼球を舐めるで!」
「……わかった」
羽川もまた、おののきながら頷いた。
「大学に合格できたらね」
「…………」
て言うか。
そこまで身体を張らなければ駄目だと思うほどに、僕が大学に合格できる可能性は低いと思われているのか……。
そんな悲しい話があるかよ。
冗談にしても酷過ぎる。
「頑張る気になった?」
「挫けそうになった……」
「あはははは」
笑ってるし。
いいや、羽川が楽しげに笑ってくれるなら、僕はそれでいいのだ。
はん。
どーせ大学に合格したとしても、そんなことする度胸、僕にはないっての。
「で、おっぱいの話なんだが」
「忍野さんの話でしょう」
「失礼、噛みました」
「……はやりそうだね、それ」
私もいいところで使ってみよう、と羽川。
八九寺語が変な風に流布していく。
「忍野さんは、火憐ちゃんを助けはしないだろうけど――阿良々木くんはどうするの? 助けるの? 助けないの?」
「助けるさ。けれどそれはあいつのためじゃねえ」
羽川からの質問に、僕は答える。
「まして正義のためなんかじゃありえねえ」
「じゃ、何のため?」
「何のためでもないさ。単なる、どうしようもないルールみたいなものだ。妹が困ってたら兄として助けるのは、当然の話だからな」
否。
当然の話でさえない。
そんなことは、話にならないのである。
「それを聞いて安心した」
「なんだよ。羽川、僕があいつらを見捨てるとでも思っていたのか?」
「半々かなって思ってた」
羽川は、茶化すような僕の言葉を、しかし、決して否定はしなかった。
「阿良々木くん、妹には厳しいみたいだったし」
そしてはっきりと言った。
「それに今回のことはあの子達の責任だし」
「…………」
「だから阿良々木くんは、あえて何もしないかもしれないなって――そんな風に思ってた」
そうだ。
羽川は――優秀で、誰よりも抜きん出ている。
人格も立派で、公明正大、公正だ。
どんな状況でも常に正しい判断をする。
自己を顧みず他人を思える心もある。
だけど。
たとえば――僕が吸血鬼になったとき。
羽川は色々と僕を気遣ってくれ、骨を折ってくれ、時には信じられないような犠牲《ぎせい》を払ってくれもしたけれど。
こいつは、たったの一度も。
僕のことを可哀想だとは――言わなかった。
春休みに体験したあの地獄は。
あくまでも――僕の責任であるというように。
できる限りのことを全てしてくれたけれど。
励ましも、救いも、庇いもしてくれたけれど。
決して――同情だけはしなかった。
たっぷり甘えさせてくれた代わりに。
少しも甘やかしては、くれなかったのだ。
「……僕はお前と違って覚悟を決めてないからな。忍野とも違う。やれるだけのことはやるさ――勿論、できないことはしないけどな」
「そ」
羽川は、頷いて、
「じゃ、この辺でいいや」
と言った。
まだ羽川の家は見えてもいない、そんな位置である――しかし、僕が羽川を送れるのはここまでだ。
それが互いの領分である。
ただし、まだ日が昇っていない。
夜道の一人歩きが危険であることは、それは距離にはあまり関係がないのだ。
「自転車乗ってけよ。貸しとくから」
「いいの? 遠慮しないけど」
返事をする代わりにハンドルを向けると、羽川は、
「じゃ、ありがたく借りてあげましょう」
と、スカートを押さえながら、自転車にまたがった。
羽川のスカートも戦場ヶ原に負けず劣らず長いので、その動作には際どいところがまるでない。
別に最初から期待してないけど。
僕の自転車のサドルに羽川が座ってくれるというだけで十分……いや、こっちの考え方のほうがマニアックか?
うーむ。
僕の性癖は本当に特殊なのだろうか。
戦場ヶ原からは、そういうのを指摘されたことはないんだけど。
「明日返すね」
「おう」
「今日中に解決しときなさいよ。阿良々木くんは明日からまた、受験勉強をやらなきゃいけないんだから――兄としての立場もいいけど、高校生としての本分を見失わないでね」
そんな釘を刺して。
羽川はのったりとペダルを漕いで、帰っていった。
立ち漕ぎだった。
016
羽川の姿が見えなくなるまで見送って、僕は来た道を辿って家に帰り、一直線に妹達の部屋へと向かった――月火は力尽きて眠ってしまっていた。十四歳、まだまだ徹夜のきついお年頃だ――今までだって、相当無理をして起きていたのだろう。まあ、聞きたい話は全部聞いた。とりあえずはゆっくり休んでもらっていいとしよう。
火憐の場合、僕が拉致監禁から解放されて帰ってくるまで、ほとんどの時間、魘《うな》されながらも眠っていたから――逆に今は、寝られない状態らしい。高熱で、しかも眠れないという状態はかなり辛いだろう。
とりあえず、月火をゆっくりと眠らせてやりたかったので、火憐を僕の部屋へと移動させた。
お姫様だっこで運んで、ベッドに寝かせる。
「あー、大袈裟だよ、兄ちゃん。だから兄ちゃんには黙ってたかったのに。みんな口軽過ぎ。熱くらいで心配し過ぎだっつーの」
「うるせえ。病人は黙って言うこと聞いてろ。なんか食べたいか? 桃缶とか」
「食欲皆無」
「そーかよ。……髪、ほどくぞ?」
「風呂入りてー。汗がきもいー」
「髪……」
「ご自由に」
火憐は少し首を起こして、しっぽをこちらに向ける。億劫《おっくう》がっているだけの態度にも見えるが、しかし、それだけの動作で――実のところ、相当しんどいのだと思う。
さっき、抱き上げたときも。
彼女の身体は――本当に熱かった。
燃えているように。
囲い火蜂――である。
もう僕に病状がバレてしまったからだろう、火憐はもう、無理に気丈に振る舞うことをやめていた。
それでも――
最低限の意地は張り続けているようだったが。
外したゴムをベッドの脇に置いて、
「風呂は無理だけど」
と、僕は言う。
「身体を拭くくらいならしてやるぞ」
「あー……お願いするわ。不本意ながら」
火憐は言う。
口調はしっかりしているのだが、しかしやはり、どこか喋り辛そうだ――それとも、意識に身体がついてこないのか。
意地に身体がついてこないのか。
「さっき月火ちゃんにもやってもらったんだけど、もう汗でびしょびしょになっちゃってるし……さっきっつっても時間的にはもう昨日だけどさ」
「そっか。じゃあまあ、服脱いでろ」
言って、火憐を部屋に残して一階に降り、洗面所に向かう。タオルを濡らして、それからキッチンに移動し、そのタオルを電子レンジで暖める。ちょっと熱いくらいのタオルがいいだろう。
部屋に戻ると、火憐はジャージのままだった。
「おい。脱いでろって言ったろ」
「ごめん、兄ちゃん」
「あ?」
「だりい。脱がせれ。拭けれ。そして着せれ」
「てめえ……」
いちいち可愛くねえなあ。
漫画やアニメが伝える『妹』の間違ったイメージって一体何なのだろう。いや、結局、そういうのは観察する側の問題なのかもしれない――可愛いと思って見ればなんでも可愛いもんな。ひょっとしたらこういう生意気な態度も、それはそれで需要があるのかもしれない。
僕はごめんだけど。
まあ、病気のうちは優しくしてやるさ。
言われるがままにジャージを脱がせ、中に着ていたTシャツをまくりあげて、神原ほど禁欲的に鍛え上げられてはいないものの(しかし『神原』と『禁欲的』の言葉が、まさか結びつくことがあるとは思わなかった)、それでもかなり凛々しく引き締まっている火憐の身体を、蒸しタオルで丁寧に拭く。
「うがー」
火憐が唸った。
「兄ちゃんに、裸見られて、ハズカシー」
「何で俳句調なんだよ」
「照れ隠し」
「風呂上り半裸で踊ってる奴が何言ってんだ」
「踊ってる言うな……あれはエアロビクスだ」
「もう、アニメのエンディングではお前がひとりで踊ってろよ」
「あたしが踊るとなればエンディングだけじゃ済まねーぜ……三十分間ずっと踊りっぱなしだ」
「斬新過ぎるだろ……」
しかし、これはこれで不思議なもんだよな。
妹ってだけで、裸とか全然平気だもん。
忍の裸よりも何も感じない。
やっぱ遺伝子が似てると、無意識のうちに感覚が遮断されるんだろうな……まあそうでなきゃ、同じ屋根の下でなんか暮らせないか。
「うがー」
火憐はまたも唸る。
うるさい奴だ。
「背中を拭く。裏返れ」
「めんどい。裏返せ」
「ちっ……」
背中に続いて、下半身も脱がせて、脚も拭く。
さすがに下着の中にまでは手を出さないが。
その辺は月火か母親に任そう。
「くっそー……不覚だよなあ、こういうの」
「あ?」
「……兄ちゃんに言われなくとも、正しさよりも強さが大切なことくらいわかってるよ。でも、急に強くはなれないじゃん」
火憐は――
僕に身体を拭かれながら、悪態をつく。
こうしていると、蒸しタオルといい、なんだかマッサージ師にでもなった気分だが。
「だからって、強くなるまでは目の前で起きてる不正を見逃す――なんてことはできないし。あたしに流れる正義の血が、悪を許さないんだよ」
「お前は暴れたいだけだよ。僕から見りゃ」
「そりゃ、兄ちゃんから見ればごっこなんだろうけどさ……でも、それに」
火憐は言う。
唇を、悔しそうに噛みながら。
「あいつは反則だ」
「…………」
あいつとは――貝木泥舟のことだ。
喪服のようなスーツ姿の、不吉な男。
「こんなのありかよ――わけわかんないうちに、ビョーキにされちゃうなんて。おかしいじゃん。ありえないじゃん。メロドラマじゃん」
「メロドラマなのか……?」
それはよくわからないが。
火憐の足の裏を拭きつつ、僕は言った。
「ま、僕が何とかしてやっから、あとは任せろ。もう余計なことは考えずに、お前はゆっくり休んどくんだな」
「ゆっくり休むなんて、無理。本当のこと言うと、かなりキツいんだ」
「じゃあしんどく休んでろ。心配しなくとも、すぐに治してやるさ」
「治してって……どうやって。薬も効かないのに」
「…………」
怪異についての説明は――まだ、していない。
羽川もその辺、うまく言いくるめているらしい。
八九寺や千石、神原とも話した通りだ。
怪異のこと、それに忍のことについては――話さずに済むのなら、話さないほうがいいのだ。
貝木泥舟についても。
これ以上関わらずに済むのなら――火憐と月火は、関わらずに済ませるべきなのである。
起きたことに対する責任はあるだろう。
ただ。
火憐と月火に、責任能力は――ない。
そう思う。
彼女達はまだ子供で。
彼女達は、偽物なのだから。
「兄ちゃんから見りゃごっこなんだろうけどさあ」
と。
火憐は話を戻した。
いや、それはひょっとしたらうわごとのようなもので――僕に向かって喋っているというつもりではないのかもしれない。
「でもさ……、貝木」
「ん?」
「貝木泥舟。そいつがどうして、中学生の間で、あんな変なオカルトみたいな『おまじない』――呪いをはやらせたか、兄ちゃんももう、月火ちゃんから聞いたんだろ?」
「…………」
「そう、お金のためだってさ」
詐欺師。
偽物の専門家――貝木泥舟。
火憐は、心底軽蔑するように、吐き捨てるように言った。
「悪意を煽って、不安を煽って――そこに付け込んで、実際には何もしないままに、お金をむしりとるんだ。一万とか、二万とか、そんなこと言ってたぜ? 中学生の子供からその金額を取るんだぜ? 恥ずかしくないのかって責めたら、貝木はあたしに言ったぞ。悪びれることなく言ったぞ。子供が相手だから騙しやすい――って」
「……騙しやすい」
「月火ちゃんの友達の、千石って子? あの子は、なんだかすんげー口が重かったけど、まあ何にしても、兄ちゃんに助けられたらしいじゃん。でも、そんなの幸運な例でさ。貝木が噂の発信源だとも知らないで貝木に助けを求めて、要求されたお金を払うために、万引きして捕まった子だっている。兄ちゃんならそんなの、許せるのか? そんな子を前にして、自分はまだ強くないから何もしないって、そんな台詞を言えるのかよ」
火憐は言う。
実際に――今、その子を前にしているかのように。
ここが胸突《むなつ》き八丁《はっちょう》、意志を通さなければならない場所であるかのように。
「あいつは、金が全てだって言ったぞ。あんな漫画みたいな台詞、本当に言う奴がいるとは思わなかった。だって、確かに金は大事だけど、他にも大切なもんがあるはずだろう。愛とか!」
うわあ。
意見がかぶった。
この妹と意見がかぶってしまった。
「金は全てじゃない――ほとんどだ!」
「…………」
いや、あんまりかぶってないか。
兄ちゃん、と、火憐は言う。
「あたしや月火はマジでやってんだよ。これに懲《こ》りたりなんかしねー。もしもこの先に、これと同じことがあったら、絶対同じことをする」
「…………」
「あたしは結果的には負けたけど、精神的には負けてねー。そして次は勝つ。勝つまでやる。勝てなくともやる。大事なのは……結果じゃないはずだろ、兄ちゃん」
「試合に負けても勝負に勝つって奴か? 武道に身を置く奴の言うこととは思えないな」
「それは当たらずといえども近からずだ」
「じゃあ全然違うじゃねえか」
「試合に負けて、勝負にも負けて――それでも、自分に負けなきゃ、負けじゃねー。それがあたしの武道なんだよ」
「だけど……、お前がそういう姿勢でいる限り、迷惑するのは周りなんだぜ。そんなことだから」
そんなことだから。
僕は火憐からよく言われているあの台詞を、ここぞとばかりに――言い返した。
「お前はいつまでたっても――大人になれねえんだよ」
「……あたしはもう大人だ。見ろこのおっぱい」
「羽川の半分もないそれがどうした」
「え? 翼さんってそんななの?」
そう、そんななのだ。
あいつは超着やせする。
「あれが本物だよ。わかってんだろうけどな」
「…………」
「僕としちゃあ、正直、お前らに羽川と付き合って欲しいとは思わないんだけどな……いい機会だ。これからは、あいつから色々と学べ」
僕がそうしたように。
僕が、羽川と出会って――変われたように。
「勝手に大人になって欲しくないなら、お前らもさっさと大人になれ」
「……んなこと言ってねーよ、あたしは。それは月火ちゃんの意見だろ」
「あいつの意見ってことは、お前の意見でもあるだろ。あいつが参謀なんだから」
「うー。その通り」
うがー、と。
火憐は身をよじった。
「動くな。拭きづらい」
「もういいよ、大分すっきりした」
「ここまできて遠慮すんなよ」
「兄ちゃんに病気移しちまってもつまんねー」
「ん……」
ん?
移す?
僕は――少し、思いついたことがあって、手を止めた。大分冷めてきた蒸しタオルを脇に置いて、そして、
「ちょ……ちょっと待ってろ」
と、部屋から廊下に出る。
月火は寝ているし、両親が起きるにもまだ少しだけ時間はあるだろうが、念のためだ。一階に下りてトイレに入り、鍵を閉めてから、僕は、
「忍」
と、自分の影に呼びかけた。
「……なんじゃい」
忍は姿を現さず、声だけで答えた。
構わない。
それで十分用は足りる。
「儂はそろそろ、眠る時間なんじゃがの。力は失っても、夜行性であることには変わりないぞ。そして寝ているところを起こされるのが大嫌いな儂の性格も、まるで変わっておらん」
「ああ、じゃあ、おねむの前にひとつだけ」
僕は忍に質問する。
火憐の言葉から、思いついたことを。
「火憐の病気[#「病気」に傍点]を――僕に移す方法ってないのか?」
「む?」
「病気っつっても根本的には怪異の毒だ――それに、そもそも意図的に移されたものだ。だったら、その毒を更に、僕に移し変えることもできるんじゃないのか?」
「……病を、お前様が背負おうと? ……ふうむ」
影の中で――忍は思案しているようだった。
忍野の話を思い出しているのかもしれない。
脳をいじる――ことは、もうできないとしても。
「まあ……、お前様の身体は、吸血鬼の要素があるからの。囲い火蜂の毒程度を移したところで、体温もそこまでは上がらんじゃろうな――」
「だよな」
吸血鬼は、他の怪異とはステージが違う。
羽川のときの猫でもない限り、その対抗手段にはなりえない――いや、あの猫にしたって、対象が常識外の羽川だったからこそ、あそこまでの事態に至ったというだけなのだ。
囲い火蜂がどういう怪異であろうと。
基本的に吸血鬼の足元にも及ばない。
蜂では鬼は刺せないのである。
「その意味では、お前様に囲い火蜂の毒を移すというのはいい案じゃ。食えぬ毒なら移せばよいというのは、発想としてはアリじゃろう。しかし、カイキがどのような手順をもってお前様の妹御を囲い火蜂の毒で冒《おか》したかわからん以上、移すとしたら我流のやり方で移すしかないぞ」
「なんだ。つまり、我流なら移す方法があるのか」
「あるはある。しかし……、儂としては、正直、勧められん方法じゃな。勧められんと言うか、その……酷く気の進まん方法じゃ」
「リスクは承知だ」
「……リスクと言うか、のう。まあ、それはそれで都市伝説なのじゃが――確か、あの小僧はまったく違う文脈で言っておったような」
「なんだよ、煮えない言い方だな。お前らしくもない。血を吸うとか、そういう行為じゃないんだったら、なんでもいいよ」
「まあ、血は吸わんのじゃが――どうじゃろうなあ。許されることなのかどうなのか、儂としては判断しかねる」
「なんだか知らないが、許されるに決まってるだろ。囲い火蜂ってのは、ひょっとすると死んでしまうかもしれないような怪異なんだろう? たとえそうじゃないにしても、あいつの苦しみを癒《いや》す方法があるんなら、それが何であれ、実行するべきだ」
「至極その通り――じゃな」
頷いた。
それでも、忍は躊躇したようだったが、僕が重ねて要求すると、「ならば――好きにするがよい」と、その方法を教えてくれた。
僕はそして、自分の部屋へと戻る。
「兄ちゃん……トイレかなんか知らないけれど、行くなら服着せてから行ってくれよ」
戻るなり、いきなりそんな(至極もっともな)文句を言われたが、しかしそれには答えず、僕は、
「火憐ちゃん」
と、呼びかける。
状況が状況で気が急《せ》いていた所為もあり、うっかりと火憐のことを名前で呼んでしまったが、それはともかくとして。
続けて言った。
「今からお前とキスするぞ」
017
結果から言えば、怪異――囲い火蜂の毒を、全て僕に移すことはできなかった。
半分か――
あるいは、精々三分の一か。
移せたのはその程度だった。
残念ながら、と言うべきか。
ただ、それでも火憐の身体から、熱はある程度引いた――四十度越えの熱が三十八度台に下がっただけだと言えばそれだけの話なのだが、それだけでも随分違うだろう。
事実、火憐は先ほどまで、
「初ちゅーが! 瑞鳥《みずどり》くんに捧げるはずだったあたしの初ちゅーが!」
なんて、元気いっぱいで暴れていた。
ちなみに『瑞鳥くん』とは火憐の彼氏のことである。下の名前までは知らないし、僕はまだ会ったことはないけれど、可愛い年下くんらしい。もうひとつちなみに、月火の彼氏は『蝋燭沢《ろうそくざわ》くん』と言い(同じく下の名前までは知らないし、面識もないが)、『瑞鳥くん』とは対照的に年上の格好いい系みたいなので、この姉妹、男の趣味は合わないようだ。
ともあれ、火憐が暴れ疲れて眠ってしまったのは、結果オーライと言うべきだろう。
「キスで風邪が移るとか、風邪は移せば治るとか、そんなのは都市伝説のレベルでさえないのじゃがな。口移しというか間接キスというか、まあ、おまじないにはおまじない――じゃ」
と、忍は後に語る。
まあ、それに続けてあきれ返ったような口調で、「お前様は吸血鬼より鬼じゃ」とか、そんなことも言っていたが。
鬼と言うより鬼畜じゃ、とも。
ふうむ。
久し振りに妹を泣かせてしまった。
…………。
ザマアミロ反省しやがればーか。
ともあれ、僕は火憐を寝かしつけたあと、七月三十日、午前九時を過ぎるのを待って、月火に『今日は一日火憐と一緒に大人しくしているように』という旨《むね》の置手紙を残して、家を出た。
自転車は羽川に貸している。
なので徒歩だ。
徒歩で――戦場ヶ原の家に向かう。
すると道中、八九寺の姿を見かけた。
相変わらず大きなリュックサックを背負って、てくてくと歩いている――そういえば、あのリュックサックの中には、何が詰まっているのだろう?
実は大量のダンベルが詰まっていて身体を鍛えているのだと想像すると少し楽しい。
しかし二日連続で八九寺を見かけるとは、随分とついているな。確率的には、一日に二回見かけるよりもレアかもしれない。いや、あいつをラッキーアイテム扱いし続けるには、昨日とか、僕はとんでもなく酷い目に遭っているけれど。
にしても、あいつ、この辺もテリトリーなんだな……それとも新規開拓中か?
まったく。
ひょっとしてこの町の地図でも作る気じゃないだろうな。
お前は伊能忠敬《いのうただたか》か。
「よう、八九寺」
神原のことで懲りたので、普通に声をかける。
すると八九寺は。
「…………」
と。
とても物足りなそうな顔をした。
「あ、あの……八九寺?」
「はあ……阿良々木さんですか」
「いや、名前噛めよ!」
いつものパターンはどうした!
急にアレンジすんなよ!
「阿良々木さん、普通に声をかけてくるなんて随分とつまらない人間に成り下がりましたね。何かあったのですか?」
「随分と辛辣だな!」
うわ、すげえ冷たい目!
冷淡よりも怜悧《れいり》!
戦場ヶ原でもこんな目するかどうか!
「そもそもお前だって嫌がってただろうが!」
「あれはもっとしろという振りでしょう? やめろって言われて本当にやめてどうするんですか。まったくもう、わたしのナイスパスが台無しですよ」
「お前の振り厳しいよ!」
「出落ちでつまらない、みたいなギャグを見せられてしまった気分です」
「そこまで言うか!」
「阿良々木さんなんて辛辣の辣の字を平仮名で書いて、緊張感をなくしていればいいんです……」
「辛らつ過ぎる!」
「ちなみに辛辣は、辛いことが束になって重なると覚えれば、意外と簡単に書けます」
いらない漢字の覚え方を披露しつつ、八九寺はとぼとぼと寂しい背中で去っていく。
僕を残して。
いや、残されてたまるか。
「おい、八九寺。待てよ」
「知りません。わたしの仲良しだった阿良々木さんは死んでしまいました……阿良々木さんからセクハラ行為を抜いてしまったら、ミジンコくらいしか残りませんよ」
「ミジンコなんて最初から僕を構成する要素に含まれてねえよ!」
「もう顔も見たくありません。消えてください」
「やめて! 戦場ヶ原から百回は言われてる台詞だけど、お前に言われると本当に消えてしまいたくなるからやめて!」
「あれ? 消えてって言ったのに何でまだいるんですか? 阿良々木さんは消えることもできないんですか?」
「セーブポイントからやり直してえ!」
並ぶ。
八九寺はそれでも不満そうな顔をしていたが(そういうギャグなのではなく、本当に不満だったらしい。わからねえ奴だ)、しばらくしてからため息をついて、ようやく僕のほうを向いてくれ、
「で、何があったんですか?」
と訊いてきた。
「今日は昨日と違って、随分と真剣モードみたいですけれど」
「真剣モード……まあ、そうかもな」
千石の家に遊びに行くのとはわけが違う。
戦場ヶ原は――怖いのだ。
昨日別れたあと、彼女がどのような行動に出ているのかは想像もつかないのである。
「色々あったんだよ」
「はあ。まあ、深くは訊きませんが」
八九寺は頷く。
この辺りの引き際を絶妙に心得ている女である――小学生にしておくのは惜しい。
「しかし阿良々木さん。顔色があまり優れないのは気になりますね」
「ん? そうか?」
「少し体調が悪そうです」
「んー」
火憐の病気を半分ほど引き受けたとは言え、目に見えるほどの変化はないはずなのだが。
いや。
八九寺には[#「八九寺には」に傍点]――それがわかるのか[#「それがわかるのか」に傍点]。
「囲い火蜂――つーんだってよ。まあ、属性としちゃ、お前の蝸牛とは全然違う奴だと思うけれど。ただ、面倒な相手ではある」
「そうですか――困りましたね」
八九寺は本当に困ったように、腕を組む。
難しい顔をして。
「でもまあきっと、阿良々木さんなら大丈夫ですよ。今までだって、阿良々木さんはずっとそうやってきたじゃないですか」
「だったらいいんだけどな。色々、うまくいかなくて参ってるよ。今までだって、別にうまくやってきたわけじゃないし。失敗ばかりだ」
年下相手に愚痴っても仕方がないが。
八九寺くらいにしか言えないので、僕は言う。
「妹達が馬鹿でさ」
「阿良々木さんよりもですか?」
「僕が馬鹿だっていう前提で話すな!」
そうそう。
こうでないといけない。
真面目に話すには馬鹿馬鹿し過ぎる。
「言ってることは正しいし、それについては尊重したいとも思うんだが――どうにも短絡的過ぎる。やりたいことは正しいのに、やり方がわかってない。そんな風に見える」
「……それは阿良々木さんがいつも言われていることでは?」
「んん」
確かに。
忍野や羽川あたりに似たようなことは言われる。
僕の場合は『美しくはあっても正しくはない』と言われるのだけれど――本質的には同じことだ。
「それに、阿良々木さんがそういう人じゃなかったら、わたしもこんなところで暢気にお散歩なんかできていませんし。でしたら、その妹さん達に救われている人も、いっぱいいるということではありませんか?」
「…………」
いる。
多分、いっぱい。
そうでなければ、あの冗談のような人望は納得できない。
あのカリスマスキルは、しっかりと結果に基づいていて――少なくともあいつらは、僕よりも人に好かれている。
愛されている。
で、それ以外に何がいるんだ?
それがもう十分結論ではないか。
そんな風に頷いてもいい――だけど。
「だけど、何かあいつらはガキだって言うか……人の話なんか全然聞かないんだもん。今回のことだって、あいつらが大人しくしているうちにケリをつけなきゃ……」
そういう意味では、怪異が囲い火蜂だっていうのは、怪我の功名《こうみょう》かもしれないな。
あれでは火憐は大人しくしているしかないはずだ。
大人しく――か。
「八九寺。人はいつ大人になるんだろうな」
「そういうことを言っているうちはなれませんね」
ぴしゃりと言われた。
小学五年生に。
「成人が二十歳と言っても、そんなの時代によって違いますしね。昔はかなりロリーな年齢で結婚していたらしいですよ? 言ってしまえば昔の男はみんなロリコンだったのです」
「やな話だな、それ」
「昔の武将はみんなBLですし」
「マジでやな話だ」
「案外歴史に残る合戦って、全部痴情の縺《もつ》れだったんじゃないですか? そう思ってみると、社会の教科書もなんだか面白いです」
「想像したくもねえ」
「信長、秀吉、家康は三角関係だったのですよ!」
「日本史が引っくり返るわ」
でもまあ、戦争ってそういう側面もあるしな。
その辺りは、社会も世界も変わらない。
切ない現実である。
「引っくり返ろうが裏返ろうが、それが事実なのだから仕方ありません。実はあの時代は、戦国時代ならぬ天国時代だったのです」
「いや、どうだ……その世界を天国と捉えるかどうかは、判断が分かれるところじゃないのか」
「まあ、天国のイメージは人それぞれですからね。ちなみにわたしは天国という言葉からはドリンクバーを連想します」
「何故」
どうしてドリンクバーにそこまで強い憧れを。
いや、わからなくもないか。
天国かどうかはともかく、子供の頃は、それは結構どきどきわくわくする単語だったよな。
「ちなみに阿良々木さんは、天国と言えば何を連想しますか?」
「いや、別に……雲とか、天使とか」
「ふむ」
「強いて言うなら羽川とか」
「……それは阿良々木さんが羽川さんにいかがわしい気持ちを抱いているからでしょう?」
「いかがわしいとは限らないだろ!」
失礼なことを言うな。
ただまあ、そういうイメージなんだよ。
ちなみに戦場ヶ原のイメージは地獄。
言うまでもない。
地獄の沙汰も気分次第な女なのだ。
「働き始めたら大人という考え方もありますが、働かなくとも別に大人にはなれますからねえ」
「歳を取れば誰でも大人になれるって奴か」
「ちなみに阿良々木さん、将来はどのような職に就こうと思っているのですか?」
「生憎、そこまで先のことは考えてねえよ……」
「そういうところが子供ですよね」
「…………」
むう。
そうかもしれない。
「羽川の胸が零《こぼ》れ落ちないように支え続ける仕事、とかねえかなあ」
「真面目な顔をして一体何を仰っているのですか、阿良々木さん」
「まったく、誰だよ、ブラとか発明した奴……そいつがどれだけ儲かったか知らんけど、お陰でこっちは仕事がなくなっていい迷惑だぜ」
「落ち着いてください、阿良々木さん。もとよりそんな仕事は存在しません」
「前の話じゃないけど、胸が大きくなるようお前の胸を揉み続ける仕事でもいいんだが」
「形がおかしくなってしまいます……て言うか阿良々木さん、先ほどからただの妄想がダダモレになってますよ」
「なんと」
「お口にチャックです」
「僕の口にそんな便利なアタッチメントはないな」
「では、お口にホッチキス」
「トラウマが蘇《よみがえ》る!」
ああ、そう言えば、と。
八九寺はたった今思い出したように言った。
「昨日阿良々木さんと別れてから、部活帰りか何かだったのでしょう、阿良々木さんの通う高校の一年女子の集団とすれ違う機会があったのですが、そんな噂をしていましたね」
「そんな噂?」
「三年の阿良々木先輩に胸を揉まれると目を見張るような成長があるらしい、と」
「…………」
僕、その噂を流した奴の心当たりがある。
恐らくは滅茶苦茶脚の速い二年女子だ。
何たるサプライズ。
好意から出た壮大な嫌がらせだった。
新学期が怖い!
「そうだ、阿良々木さん。話を戻しますが、こんなジョークがありました」
「どんなジョークだよ」
「独身の男性が、母親に『いつ結婚するの?』と訊かれて一言。『もうすぐだよ。相手が十六歳になるのを待ってるんだ』」
「笑えねえよ!」
どこに話を戻してんだ。
そもそもなんでこんな話になってるんだ。
話の逸れようにびっくりする。
「まあ確かに、中学三年と中学二年の奴に、大人になれっつっても、そりゃ無理な話か。実年齢的にガキなんだから」
忍とは違うのだ。
僕は自分の影を見ながら思う。
恐らくはその影の中で睡眠中の忍を思いながら――見る。
「そこでしょう。中学生が子供なのは当たり前ですけれど、自分が子供だとわかっていないところが問題なのです」
「おお」
八九寺が鋭いことを言った。
たまにこいつは僕の盲点を突く。
なるほど、それはあるかもしれない。
自覚というのは、確かに課題である。
「それでも、自分を大人だと思っていない大人よりはマシかもしれませんが」
「自分を子供だと思ってる大人ほど手のつけられないもんもねーだろうけどな」
けれどよくいるらしい、これが。
学校の先生の中でも、見かけなくはないしな。
「ちなみに八九寺。お前は自分のことをなんだと思ってるんだ」
「身体は子供、頭脳は大人です」
「名探偵かよ!」
「名探偵と言えば」
八九寺がまた話を逸らそうとする。
別に止めない。
戦場ヶ原の家までそろそろだが、あと一テーマくらいはいけるだろう。
「最近はまた、スタンダードなミステリーが主流になりつつあるようですね。一風変わった感じのではなく」
「なんでお前が流行に敏感なんだよ……別にいいけど。スタンダード? スタンダードって言っても、ミステリー自体、もう下火じゃねえ?」
「何を仰るのですか。推理小説がはやらなくなっただけで、ミステリー自体はまだ全盛でしょう。刑事ドラマも推理漫画も探偵ゲームも、全然なくなりませんよ。どれも大人気じゃないですか」
「…………」
そうなんだよな。
ドラマに至っては常に一番いい枠押さえてるし。
再放送もされまくりだし。
なんで小説だけ廃《すた》れたんだろう……。
すっかり古典芸能化しちまってるし。
「活字離れって奴なのかねえ……でも、ケータイ小説とかは大流行だしなあ」
僕は携帯電話の操作が苦手なので、ああいうのはまだ未読なのだが。
「だからってそのケータイ小説で、ミステリーが主流だって話は聞いたことがないし」
「人間が一生に読める文字の数は決まっているという話がありますね。それが何億文字なのかは知りませんけれど」
「ふうん?」
またも、わけのわからん雑学をお持ちだなあ。
こいつこそ、普段はどんな本を読んでいるのだろう。
「ですから、携帯メールやインターネットやらで、その限界数を消費してしまうため、結果活字離れが起こってしまう――という話なのですが」
「そんなこと実際にあるのか?」
「ないでしょうね」
あっさり自説(ではないのだろうが)を撤回する八九寺。
「まあ、推理小説は、単に面白くないからはやらなくなったんでしょう」
「それはお前の個人的な発言だよな?」
「面白くなくて面目ないですね……あはははは!」
「いやいや、その言葉遊び、自分で言って自分で大爆笑するほどにはイカしてはねえよ!」
「昔ならいざ知らず、映像や演出という点において、他媒体には敵いようがありませんからね。小説の主たる武器は、こうなると感情移入しか残っていません。小説であること、つまりヴィジュアルに訴えないことが、逆に感情移入を容易にさせるのです。だけどミステリーに感情移入しちゃまずいでしょう。誰を信じていいかわからないっていうのが売りなんですから」
「はあん。そりゃそうかも」
「そんなわけで、いまや推理小説は花札よりもマイナーなのです」
「……ん? お前、花札、できるの?」
気になる例えに、訊いてみる。
ええ、と八九寺は頷いた。
「わたし、こんな名前ですから『八八』が好きでしたねえ」
「ついに出会った!」
僕の運命の相手!
やべえ、超遊びてえ!
「はっ……しかし、手元には花札がない! なんてことだ、花札をやろうというときにはルールを知っている奴がおらず、ルールを知っている奴がいるときには手元に花札がない……っ!」
「たまたま花札が手元にある状況というのが、そもそもあまり想定できませんが……」
「いや、これからは持ち歩く!」
僕は決意する。
「そしてお前とたまたま会ったとき、その場で花札大会だ!」
「……阿良々木さん。あなたは何故かわたしとたまたまでしか会ってはいけないと思い込んでいるようですけれど、なんでしたら別に、会う約束とかしても構わないんですよ? 決まった日に決まった場所で、とか」
「え……いや、そんな改まった感じ、照れるじゃん!」
「なんで本当に顔を赤くしてるんですか……」
八九寺がマジで引いていた。
もうそれは引き潮の如く。
ち、違う、これは花札に対する愛であって八九寺に対する愛じゃ……ていうか、僕、そんなに花札好きだったっけ?
どうも相手がいない飢餓《きが》感が想いをより強く募《つの》らせているだけのような気がしてならない。
みんな猪鹿蝶《いのしかちょう》しか知らねえもんな。
「千石あたりはゲームの存在すら知らない可能性があるよな。あーあ……どっかの週刊少年誌が、花札をテーマにした漫画でもヒットさせてくれないもんかなあ」
「いえ、そこまで嘆かなくとも、知ってる人は知ってるんじゃないですか?」
「だからその知ってる人になかなか会えないんだよ」
「沖縄県あたりでは比較的ポピュラーなゲームだとも聞きますが」
「そうなのか?」
「あくまで比較的ですけどね」
「そっか……移住するほどじゃないのか……」
「阿良々木さん、どれだけ花札が好きなのですか……まあ、花札って、麻雀と並んで賭博《とばく》性の強い遊戯ですからねえ」
「賭博性?」
「賭博性が強いということは、違法性が強いという意味に繋がりますし」
「うーむ」
なるほど。
神原の部屋で、花札ケースと同じブロックにあった鷲巣麻雀牌を思い出しながら、僕は深々と頷いた。まあ、箴言だ。そう言えば、たとえばトランプにしたって、ポーカーとかブラックジャックとかバカラとか、あの辺のギャンブル系ゲームは、確かに若者には敬遠されがちだよな。
知ってる人と知らない人の温度差が激しいというか。
賭博性ねえ。
「で、八八寺、何の話だっけ?」
「阿良々木さん、寺が一個減っています」
「ああそうか、気がつかなかった。で、八九寺、何の話してたっけ?」
「阿良々木さんはパンツが大好きという話です」
「話が昨日まで戻ってるじゃねえか」
「パンツの話じゃないとすれば、ミステリーの話ですかね」
「そのふたつは同列か……で? 推理小説ははやらなくなったけど、ミステリー自体はまだ全盛だとして、でもってその中ではスタンダードな設定のものが増えているとして。まあスタンダードじゃないミステリーってのも、いまいちぴんと来ないけど」
「『犯人はこの外にいる!』が決め台詞だと、スタンダードではないですね」
「そりゃスタンダードじゃねえな!」
「『謎は全て時計!』とか」
「随分と内容の偏ったミステリーだ!」
「『証明終了……Q・E――S・T・I・O・N!』」
「明らかに疑問が残ってる!」
けど、そこまでいくと、あの決め台詞も出てしまう。
それはミステリーではない。
「で、八九寺。そっから先がお前のしたい話なんじゃないのか?」
「ええ。まあ、ミステリーですから、人が殺されて、犯人が捕まるわけなのです。ただ、犯人に悲しい動機のあるケースが多くてですねえ」
八九寺は言う。
「ああいうのって、なんだかすっきりしませんよね。悪いのはどっちかわからなくなります――いえ、現実なんてそんなもので、そこがまた面白いのでしょうけれど」
「まあ、ドラマの作りとして、善人が殺されて悪人が犯人じゃ、何のひねりもないからな――時代劇とかならむしろそっちのほうが格好いいんだけど、難しいもんだ。でもどんな悪人にしたって、理由なくやってるわけじゃねえってのも確かだろ」
貝木泥舟。
あいつの理由は――金だったか。
金が全て。
「……ん? あ――悪い、八八寺」
「ですから寺が一個減っています」
「あ、悪い、八七寺」
「わたしの名を呼ぶごとに寺がひとつずつ減っていくシステムなのですか!?」
「八六寺。もう戦場ヶ原の家に着きそうだから、この辺でお別れしないと」
「え? ああ、そうですね。そうでした、あのかたはわたしのことが嫌いなのでした」
八九寺は足を止めて、くるりと方向転換する。
こいつには目的地などないのだ。
「では阿良々木さん、お元気で」
「お前こそな」
僕達は手を振り合って、道行《みちゆき》を幕にした。
うん、道中退屈せずに済んで助かった。
八九寺が去っていくのを見送ったあと、僕は暢気な風に、そんなことを思ったのだった――しかし。
しかしこのとき僕は知らなかったのだ、この先、八九寺真宵という名前の、あの気立てのいい少女の身に一体何が起こるのかを――なんて。
いや、マジで知らないだけなんだけど。
あいつはあいつである意味謎めいてるよな――ひとりのときって言うか、散歩のとき以外は何してるんだろ?
018
木造アパート民倉荘《たみくらそう》、二〇一号室。
戦場ヶ原ひたぎの暮らす場所。
あえて僕は、戦場ヶ原に対して、事前に連絡はしなかった――アポなしでここを訪れたのだ。
それは僕の覚悟の表れでもあった。
民倉荘の各部屋には、インターホンなんて洒落たものはついていない、僕は拳を作って裏向けて、扉をノックする。
返事はない――もう一度ノック。
同じ。
試みにノブを引いてみたら、鍵はかかっていなかった。
無用心極まりねえ。
戦場ヶ原ひたぎは近距離ガードは鉄壁と言っていいほどに固い癖に、基本的に遠距離防御がすさまじく弱い。
で、その戦場ヶ原は。
「…………」
六畳一間の部屋で――鉛筆を削っていた。
一心不乱に。
無我の境地で。
這入ってきた僕に気付くこともなく。
鉛筆を削る――勿論それは文房具の手入れという意味で、別に高校三年生が取る行為としては逸脱したものではないはずなのだが、新聞紙の脇に山と積まれたその膨大な量(百本くらい?)は、もうなんだか、ヴィジュアル的な段階からぞっとしないものがあった。
たとえるなら。
出陣前に刀の手入れをする武士のようだ。
「えーっと……、ガハラさん」
「ねえ、阿良々木くん」
僕に気付いてないという推測はどうやら間違いだったようで、ただこちらに視線を向けなかっただけ――僕の来訪など鉛筆削りという作業に比べて取るに足りないというだけのことだったらしく。
戦場ヶ原は削り終えた鉛筆の先っぽを見たまま、言った。
「……たまたま持ち歩いていた百本の尖った鉛筆が、何かの弾みで第三者に刺さってしまったとしても、それは事故というものよね?」
「いや、事件だ!」
大事件だ!
鉛筆で人を殺した事件が三面トップを飾る!
「ふふ。ならば私は、その新聞の上で再び、鉛筆を削るわ」
「落ち着け戦場ヶ原! してやったりみたいな顔をしても、そんなにうまいこと言えてないぞ!」
お前の貴重な笑顔をそんなことで消費するな!
平均一日五回しか笑わない無表情さんなんだから!
鉛筆を削り過ぎて、刀身が真っ黒になってしまったカッターナイフ――多分、いつか僕の口の中に突っ込まれたのと同じカッターナイフ――を、きらーんとこちらに向けて光らせて。
黒光りさせて。
「とりあえず靴を脱いであがりなさいな、阿良々木くん。心配しなくとももう監禁したりしないから」
「……お邪魔します」
後ろ手で扉を閉め、それからあきっ放しだった鍵を閉めて、僕は靴を脱ぎ、畳の上へと踏み入った。六畳の部屋なので見回すまでもないが、中にいるのは戦場ヶ原ひとりだった。
「親父さんは?」
戦場ヶ原は父親との二人暮らし。入浴中ということもなさそうだし(水音は筒抜けである)、戦場ヶ原父は不在らしい。
戦場ヶ原父は外資系の企業のお偉いさんで、ほとんど家に帰れないような毎日だと聞いてはいたが、日曜日もそうなのか――いや、とんでもない額の借金があると言うし、あの人には日曜も土曜もないのだろう。
事実、戦場ヶ原は、
「お父さんは仕事よ」
と言った。
「今は現地……まあ、海外に赴任中。タイミングはよかったわよね。お父さんまで拉致監禁するわけにはいかないもの」
「…………」
恋人はするわけにいくのか。
この犯罪者予備軍が。
「予備軍っつーか、僕を拉致監禁した時点でとっくのとうに犯罪者なんだけどな……で、お前がそうまで武装準備をしている理由は、訊いたら教えてもらえるもんなのか?」
「訊くのは自由よ。訊くは一時の恥、阿良々木くんは一生の恥って言うものね」
「僕の名前を諺に組み込むな! しかも非常に嫌な感じに! 僕が一生の恥って一体全体どういう意味だよ!」
「阿良々木くんは恥ずかしがり屋さんって意味」
「ぜってー嘘だ!」
ともかく。
僕は、鉛筆のカスが堆《うずたか》く載せられた新聞紙を挟む形で、戦場ヶ原と向かい合って座る。
「貝木と」
戦場ヶ原は言った。
「話をつけに行くのよ。阿良々木くんが私の保護を拒否する以上、私は攻撃に打って出るしかないわ」
「拉致監禁を保護と言い換えるな」
とは言え。
あれが戦場ヶ原なりの保護だということも、わかっちゃいたし――月火からメールがこなければ、僕もあえて拒否しようとは思わなかったけどな。
「なんなら、もう一度監禁してみるか?」
「もうしないって言ったでしょ」
「だったらいいんだけどな。そう言えば、あのあと羽川と話したんだが――」
「え? 羽川さま……あ、いや、羽川さんが私のこと、何か言ってたの?」
「……お前今、羽川さまって言ったか?」
「い、言ってないわ。我が校にいじめはありません」
「いじめられてんの!? お前が!?」
まあ。
戦場ヶ原が『鉄壁』の表面をコーティングするためにまとっていた『病弱な優等生』という例の仮面は、クラスメイトのみんなに対してはともかく、羽川にとっては最早何の意味合いも持っていないからな……。
優しくばかりはしてもらえないだろう。
羽川はいい奴だけど、でも、それは悪を許すということであって、決して悪を見逃すわけじゃないからな。
「そりゃお前が素で行動してれば羽川からは色々注意されることはあるだろうが、いじめられてるとか言うなよ。人聞きの悪い」
「だから、別にそんなこと言ってないじゃない。毎朝羽川さんの靴を磨いているのも、私が好きでやらせていただいていることよ」
「何で羽川に対してそこまで卑屈なんだ!?」
百分の一!
その百分の一でも、僕に気遣いを!
「ともかく……貝木に会いに行くってこったな」
「そうよ。心配しないで。出来る限り話し合いで解決するつもりだから」
「こんな大量の鉛筆を用意しておいて、何を言ってるんだか……今日ここに来てよかったよ。でも、戦場ヶ原。お前、貝木の居場所、わかるのか?」
「名刺があったのよ」
戦場ヶ原は、言って。
鞄の中から――古びた紙片を取り出した。
「昔、あの男から受け取った名刺。今まで破り捨てずにいたのは奇跡ね。もっとも、携帯電話の番号しか書かれてない名刺なのだけれど……番号が変わってなかったのは幸いだったわ」
「ふうん……ちょっと見せてくれ」
その飾り気のない名刺には、『貝木泥舟』の名前と、その名前に対するルビ、それに確かに、携帯電話の番号しか書いていなかった。
いや、あとひとつ。
肩書きが書いてあった。
『ゴーストバスター』。
「……戦場ヶ原。今から僕、世界一酷いことを言うけど、お前これ、騙されるほうも悪くないか?」
「そういう罠なのよ。まさかそんな間の抜けた肩書きを名乗る奴が、本当に詐欺師だとは思わないじゃない」
「そんなもんかなあ……」
まあ。
詐欺行為におけるテクニックのひとつとして、わざと詐欺を装う――と言うものがあるとは、実際に聞いたことがあるしな。
装うことで、逆にそうではないと思わせるらしい――『ここまで嘘臭いものが、まさか本当に嘘なわけがない』と、相手にそう思わせるわけだ。まあ、普通だったら怪しまれて終わりなのだが、用心深い相手には割と効果的な手だろう。
「大体、それを言うなら忍野さんだって怪しさ爆発だったじゃない。まだしも貝木のほうがまともな大人に見えたわよ」
「まあ、アロハとスーツじゃなあ……」
通じるところはあるのだろうが。
忍野も、ボランティアでやっていたわけではないし……僕だって、確か、五百万円もの大金を要求されたんだった。
それが高いとは思わなかったけれど。
「……ってことは戦場ヶ原。お前、あれか。この番号に電話して――貝木と話したのか」
「ええ。あの男、まるで変わってなかったわね――辛気臭いったらないわ。阿良々木くんを解放してから、私は遊んでいたわけではないのよ――羽川さんに怒られて少しへこんでいたけれど、それもほんの五時間程度のものなの」
「五時間もへこんでいたのか……」
変なところでナーバスな奴だ。
本当に羽川が苦手なんだな。
貝木は、火憐に偽メールで呼び出されたことで(正確にはその手を使ったのは羽川なのだろうが)、商売としては携帯電話の使用を警戒しているはずだが――しかし、まだ携帯自体を放棄してはいなかったわけだ。
名刺の古さも加味して考えれば、やはり、戦場ヶ原からの連絡が貝木に繋がったのも、幸いと言うよりは奇跡みたいなものだろうが。
果たしてそれはいい奇跡なのか、どうなのか。
「じゃあ、お前が貝木に電話したのはついさっきって計算になるな」
「そういうことになるわね。一桁の足し算を暗算で行うとはさすが阿良々木くん、頭がいいわ」
「馬鹿にするのも大概《たいがい》にしろ!」
「苦手なのは何だっけ? 掛け算から先?」
「数学は全部できる!」
「何それ。自慢?」
「…………っ!」
自慢ですよ!
それが何か!?
「まったく。フレミング左手の法則ばかりに注目して、フレミング右手の法則があることをつい最近まで知らなかったような男が自慢話など、滑稽《こっけい》ね。あ、ごめんなさい、滑稽だなんて、四画以上の漢字を二つも連続で使っちゃって」
「確かに物理や現国は中でも苦手だが、しかし自分の得意分野を自覚して何が悪いっ!?」
「はいはい、そうねそうねそうですね、阿良々木くんはなーんにも悪くないわよ。悪いのはいつも私ですよーだ」
「確かに悪いのはいつもお前だよ!」
「それで? 阿良々木くんが微分積分を駆使した末に導き出した結論から私に訊きたいことは何? 逆数と絶対値が根号だという数学的見地に基づいて、何か用があって来たんでしょう?」
「お前人としておかしいぞ!」
「人としてはおかしいかもしれないけれど、美人としては正しいわ」
「何としてもおかしいよ!」
まったく。
うっかりすると、どうして僕はこいつと付き合つているのかわからなくなる。
えっと、確かこいつのことが好きなんだっけ?
……どこが?
「僕もついていっていいか」
まあ、折角向こうから訊いてきてくれたのだ――その言葉に甘える形で、端的に、僕は言った。
「貝木と話をつけるなら――僕も一緒に」
「今なら聞かなかったことにしてあげてもいいわよ」
予想通りと言うべきだが。
戦場ヶ原の反応は、冷たいものだった。
言葉の平坦さは普段以上である。
「まったく……飼い犬に手を舐められるとはこのことだわ」
「恋人を飼い犬と表現したことにも腹が立つが、それよりも何よりも、それじゃあただ懐いているだけじゃないかと突っ込みたくなってしまうのは、僕の困った性《さが》だな」
飼い犬に手を噛まれる。
舐められたものだ。
混ざっちゃってるって。
「死にたくなければ前言撤回なさい」
「妹がな。貝木の被害に遭ったんだよ」
僕は言う――前言撤回はしない。
すべきは、そう、前言補強だ。
「囲い火蜂とかいう、わけのわからん怪異を無理矢理に押し付けられて――高熱に魘されている。今は僕がその怪異を半分ほど引き受ける形でなんとか中和してるけれど、それだってこの先、どう転ぶか不明だ」
「阿良々木くんが半分引き受けた? そんなことをして、阿良々木くんは大丈夫なの」
無表情のまま。
しかし、僕の身体を心配する戦場ヶ原。
たまに見せる彼女の人間らしさである。
それは今現在、僕以外に向けて発揮されることがほとんどない、限定条件付きの人間らしさだが――
「吸血鬼の治癒スキルがあるから、大丈夫ではある。さすがに万全とは言いがたいけれど」
心なし、身体が重く――熱い。
燃えるように、とは言わないまでも。
焼鏝《やきごて》が近くにある――そんな感じだ。
「そう。つまり、もう後には退けないというわけね――そもそも妹さんが絡んでるんじゃ、阿良々木くんが退くわけがないか」
「それだけじゃない」
「うん?」
「お前も絡んでる」
真っ直ぐに戦場ヶ原を見て、僕は言う。
「僕のために、お前が貝木と一人で対決しようなんて馬鹿げてる――違うか」
「……別に阿良々木くんのためだけというわけじゃないわ。貝木のことは、私が――」
大事なものを。
かつて捨てたことのある戦場ヶ原が。
「――つけなければならない決着のひとつなのよ。忘れるわけにはいかない、そのままにはしておけない――決着なの。それを終わらせなければ、前に進めないほどの。もしも貝木がこの町に戻ってこなければ――こちらから先に探しにいったほどの」
「……なんでそこまで」
その気迫に、かなり圧倒されながら。
僕はそれでも、問いかける。
「些細なこと――じゃなかったのかよ」
「あれはツンデレったのよ」
「ツンデレったって……」
いよいよ動詞として活用させ始めたのか――なんかむしろイタリア人の名前(ジュリエッタとか)みたいな響きだけど。
「お前……、そんな風に、五人の詐欺師の全員に復讐でもする気か? もう――終わったことだろう。お前がつけなければならない決着は、他にあるんじゃないのか?」
「まさか。五人の詐欺師と言ってもね――忍野さんの言葉じゃないけれど、私は被害者面をするつもりはないの。こちらから頼って裏切られたんだから、それで逆恨みしようってほど、私の人格は……私の人格は……私の人格はともかくとして、筋を外すつもりはないわ」
「…………」
お前の人格は問題ありなんだな。
自認してるんだな。
「だけど、貝木だけは別」
「どうして」
「お父さんとお母さんの離婚を促したのが、貝木だからよ」
戦場ヶ原は、感情を交えずに言った。
もしもその台詞に感情を交えていたら――それが果たしてどんな響きになっていたのかは、しかし、想像に難《かた》くない。
「勿論、全てを貝木の所為にはできないし、するつもりもないけれど――あの男は、私達家族を弄《もてあそ》んだ。それは許せないことなの。それを許してしまうと――私は私でなくなる」
「…………」
戦場ヶ原の父親と母親が協議離婚をしたのは――確か、去年の暮れとのことだった。その頃に、戦場ヶ原は長年住み慣れた家から、この木造アパートに引っ越してきたのだったか。
以来。
戦場ヶ原は母親に――会っていない。
「……貝木がいなくとも、お父さんとお母さんは、きっと離婚したと思う。私達の家族はばらばらになっていたと思う。お母さんがいなくなったのは――私の所為だとも思う。でもね、阿良々木くん。だからって――悪意をもってそうされたことを、どうせ結果は同じだからと、許せると思う? 悪意をもってそうされたことを、どうせ早いか遅いかの違いだからと、許せると思う?」
「悪意――」
「悪意は私の専売特許よ」
「いや、それは知らないけど」
貝木が流布させた『おまじない』によって――千石の周囲の人間関係は、変化せざるを得なかっただろう。
いいようにか、あるいは、悪いようにか。
そんなことで崩れるような人間関係なら『おまじない』なんてなくとも崩れていただろう――と、そんな風に言うことは簡単だ。
だけど、そんなことを簡単に言って欲しくない。
だったらなんだって言うんだ。
死ぬ人間なら殺してもいいとでも言うのか?
なくなるものなら――消していいと。
偽物なら、存在すべきじゃないと。
そんなことを言うのか。
「貝木は金欲しさに――私の出遭った蟹を理由に、私の家庭を滅茶苦茶にした。今更、どうせ同じことだろう――と」
「…………」
「阿良々木くんのことなんて、私にとっては本当は二の次だったのかもね。阿良々木くんを守るなんてのは体《てい》のいい口実で――私は結局、貝木を憎んでいるだけなのかも」
「口実って……」
「だからツンデレったのよ」
戦場ヶ原は――静かに言う。
とても静かに。
「勘違いしないでよね、別に阿良々木くんのためにやってるんじゃないのだから――よ」
「そんなことは……多分、ないさ」
僕は言う。
根拠を持って――
不本意な根拠を持って、言う。
蟹。
戦場ヶ原の出遭った蟹。
その蟹に憑かれていた最中の出来事。
ならば――きっと戦場ヶ原は、その際には貝木泥舟を憎むことさえできなかったはずだ[#「貝木泥舟を憎むことさえできなかったはずだ」に傍点]。あれは――そういう種類の怪異だった。
きっと戦場ヶ原の無念は、そこにある。
貝木泥舟――あの不吉な男を。
リアルタイムで憎めなかったこと――それが無念。
それが戦場ヶ原ひたぎの無念。
阿良々木火憐と阿良々木月火が、底の浅い正義感で今現在そうしているように――当時、貝木を、憎むことができなかったこと。
本来なら。
子供のように――怒るべきだった。
母を亡くした子供のように。
「ただそうなると――ひとつだけ、わからないな。貝木ってのは偽物の詐欺師のはずだろう? それなのに、その話じゃ――お前の蟹に、気付いていた風にも聞こえるけれど」
それに。
火憐に、囲い火蜂とやらを押し付けたことといい。
それじゃあ――
やっぱり、貝木は本物だということになる。
「さてね。でも、本物以上の力を持つ偽物なんて、本物以上に厄介よ――勿論、当時はただのインチキだと思っただけだけれど。でも、それも――今思えば、あえて無能を装っていただけかも。お父さんから、より多くのお金を引き出すために」
「……今は、中学生相手の小遣い稼ぎに勤《いそ》しんでいるらしいぜ。それを防ごうとして、うちの妹はやられたんだ」
「そう。阿良々木くんの妹も正義マンなのね」
「だから正義マンって」
「女の子だから正義ウーマンかしら」
「その造語、お前が想像している以上に語感がださいからな」
「栂の木二中のファイヤーシスターズ……まあ、噂は聞いていたんだけれど」
「そういや、知ってんだったな」
戦場ヶ原の場合、噂を聞いているというよりは、それは情報収集というのが正しい表現な気もするけれど。
「この兄にしてその妹ありね――阿良々木くんってよく妹さんの悪口言うけれど、なるほど頷けなくもないわ。正義同士は相容れないものだもの」
「……あいつらは正義なんて立派なもんじゃない。正義の味方ごっこだ――僕がどうだかは知らないけれど、僕だって自分を正義だなんて思っていない。僕達は、ごっこ遊びをするための空き地を、取り合ってるようなもんだ」
その意味じゃ、同属嫌悪や自己嫌悪なんて、そんな学のある言い方をするべきでは、まるでないのだろう。
こんなの。
ただの――よくある兄妹喧嘩である。
「言っておくけれど、阿良々木くん。私の印象では――貝木の不吉に正義は通用しないわよ。はっきり言うけれど、阿良々木くんは正義だけあって、偽善には強くとも悪人には弱い」
「……だから、正義じゃねえって」
妹達は、それでも正しいが。
僕は――正しくさえないのだ。
美しくはあっても――正しくはない。
忍は、僕の正しくなさの――犠牲者である。
失敗を繰り返し、僕は今ここにいる。
「でも、お前が犯罪者になるのを見過ごせるか」
「罪を犯すつもりはないわ。罰を与えるだけよ」
「現代社会においてそれは同じことだ」
やれやれ。
もしもこいつが神話時代とかに生まれてたら、半端じゃない英雄として語りつがれたんだろうな……確実に生まれる時代を間違えている。
あるいは間違えたのは生まれる世界か。
……でも。
僕はそれでも、お前がこの世界の、この時代に生まれてくれて――よかったと思ってるんだぜ。
お前と会えて、本当によかった。
そう思ってる。
「戦場ヶ原。お前は知らないのかもしれないけどさ、僕はお前を愛してるんだよ。たとえお前が犯罪者になって刑務所に収容されても、毎日面会に行くくらい――だけど、どうせならいつでも一緒にいたい。うっかりすると、どうしてお前と付き合っているのかわからなくなってしまうけれど――理由なんか必要ないくらい、お前が好きだ」
僕の守りたいものの中には。
当然、お前も入ってるんだよ。
「行くなら一緒に行こう。お前は僕を守ってくれ――僕はお前を守ってやる」
「……やば過ぎ。超絶格好いい」
ぶるぶると。
どういう感情の由来なのか、無表情のままで肩を震わせながら――戦場ヶ原。
素の反応、なのだろうか。
「私が男だったら、そのあまりの男っぷりに対して、嫉妬《しっと》に狂って殺してるわ」
「恐怖っ!」
「女でよかった。あなたを好きでいられる」
言って、戦場ヶ原は――
積み上げていた鉛筆の山を、手で押し崩した。
「阿良々木くん。わかりました、あなたの言うとおりにしましょう」
「……じゃあ、貝木のところに、一緒に連れて行ってくれるのか」
「ええ」
頷く戦場ヶ原。
「ただし、その代わり――ひとつだけ、お願いがあるわ」
「お願い?」
「お願いという甘えた言い方が嫌いなら、条件、でもいいけどね――阿良々木くんを貝木に引き合わせるための条件。どうする?」
試すような口調である。
しかし、そんなこと、答は決まっている。
「きくさ。それがどんな願いでも、いくつでも引き受ける」
「私のお願いはひとつだけよ」
阿良々木くん、と。
戦場ヶ原は――静かに言った。
「今回、これから貝木と会うことで――私はけじめをつけるつもり。ご主人さま……いえ、羽川さんが髪を切ったようにね」
「気になるどころの言い間違いじゃねえ。とてもじゃねえが聞き流せねえ」
「脅されてないわよ!」
「脅されてるの!? 羽川に!?」
「そこがどこであろうと羽川さんの前では正座するのが当然でしょう!?」
「どこであろうとですか!?」
「羽川さんが」
僕の突っ込みを無視して。
言葉の調子を戻して、戦場ヶ原。
「羽川さんが髪を切ったように――そうやってあの子が、前に進んだように。私は貝木と対決することで、自分の過去と決別するつもり」
過去。
戦場ヶ原の昔。
それは中学時代のことか。
それとも高校一年生の頃か。
それとも高校二年生の頃か。
それとも。
それら以外のいつかのことか。
「私も――前に進むわ」
「…………」
お前はとっくに前を向いている。
そんなことを言おうとも思った――だけど、それこそ余計なことだろう。
それに、前を向くのと前に進むのは。
やっぱり、違うのかもしれない。
「……で、だから、お願いってなんなんだよ。どうすれば、僕を一緒に連れて行ってくれるんだ」
「今はまだ言えないわね」
「言えないようなことなのかよ」
「どんなお願いでもきいてくれるのでしょう?」
「……いや、そうだけど」
そうだけど、怖い。
怖気《おじけ》づいたわけじゃないが、それは怖い。
白紙の契約書に判をつくようなものだ。
まして相手は戦場ヶ原だ!
「貝木との対決を終えてから――その結果がどうであれ、そのときに言うことにするわ」
「だったら今言ってもおんなじだろ」
「今言ったら伏線にならないじゃない」
「伏線なのかよ!」
「そう。阿良々木くんの死後、私はそのお願いをこの場面で口にしなかったことを後悔しながら、ひとりで生きていくの」
「僕が死ぬような伏線なのか!?」
「そう、そしてクライマックスシーンでは重要なアイテムとして、誕生日に阿良々木くんからもらった天体望遠鏡が使われるのよ」
「天体望遠鏡が使われるようなイベントなんかねえよ! いいから今言え! 伏線なんか知るか!」
「そう言うなら、この話はなしよ」
「…………」
そう言われれば、頷くしかない。
相変わらず、駆け引きの乱暴な女だ。
「わかったよ――それでいい」
「そう。ならば一緒に行きましょう」
と。
戦場ヶ原もまた、頷いた。
いつも通りの――無表情で。
「互いを守りあいましょう」
019
今朝、戦場ヶ原は貝木に電話をして、顧客としてではなくかつての被害者として、面会を――ありていに言って対決を申し込んだわけだが、考えてみれば、相手が電話に出るかどうかから、それは賭けだっただろう。
その賭けには、まず、戦場ヶ原は勝った。
その後の会話においても。
そしてその面会は本日の夕方――ということになったらしい。相手、つまり貝木は、ほとんど二つ返事で、戦場ヶ原の要求を呑《の》んだそうだ。
その進行の順調さが逆に不気味だが。
不気味で――不吉だが。
とにかく。
「約束の時間は午後五時よ」
「そっか――じゃ、僕は、一旦家に戻るよ。ひょっとしたら妹達から、もう少し詳しい話が聞けるかもしれないし。上の妹はまだ伏せってるけど、下の妹なら、そろそろ起きている頃だ」
「そう。では夕方頃、また来て頂戴」
「おう……くれぐれも、勝手に行動するなよ」
「当たり前よ。私がこれまで、一度でも嘘をついたことがあった?」
「…………」
お前の言うことは嘘ばっかりだった。
嘘発見器でバラードが演奏できるくらい。
「私は嘘をつくんじゃない……嘘に疲れたのよ」
「言い方だよな、それ……しかもよくよく考えたら、意味わかんねえし」
何だよ、嘘に疲れたって。
だったら本当のことを言え。
「安心なさい。今回は阿良々木くんに私のお願いをきいてもらうためだもの――嘘はつくかもしれないけれど、約束は守るわよ」
「そうか……まあ、それならいいんだけど」
「ふっ。これは取引よ」
「…………」
約束と取引って、全然違うけどな……。
それに、と戦場ヶ原は続けた。
「さすがの私もやや眠い」
「あ。徹夜だっけ」
徹夜。
こいつは徹夜で鉛筆を削っていたのだ。
いや、うち五時間は、羽川に怒られたことでへこんでいたんだったか。
表情は鉄仮面の如く何も変わっていないが、これはこれで、相当の眠気を感じているということらしい。
本当、外面からじゃ何も読めない奴だ。
「阿良々木くんも、気を失っていた時間があるとは言え、徹夜でしょう。とてもじゃないけれど、貝木は寝ぼけた頭で相手のできる詐欺師ではないわ――妹さんに話を聞くよりは、むしろ家できちんと寝てきたほうがいいんじゃない?」
「まあ……睡眠に関しちゃ、我慢のきくほうなんだけどな。元吸血鬼の体質で」
「でも、寝ておきなさいな」
戦場ヶ原は言った。
「今夜――眠れるとは限らないのだから」
そんな、ぞっとするような忠告を背に受けて僕は家に帰ることになった。まあ、貝木との対決が果たしてどのような展開になるにしても、確かに事前に、コンディションを整えておくことは必要なのかもしれない。
その後にどんな禍根《かこん》を残すようなことになろうと。
後悔しない準備。
とは言え、それでも、火憐と月火に話を聞いておきたいのも正直なところだ――いや、それよりもむしろ、羽川からもう一回くらい話を聞くべきか? 自転車を返してもらいがてら、羽川の家に行ってみるか――ただ、羽川には既に十分過ぎる迷惑をかけている。
これ以上彼女を巻き込むべきではない――と、まあ、これはどうにも、羽川に対してつい過保護になってしまう、ただの僕の性なのかもしれないが。
羽川はいい奴で、これ以上ない善人ではあるんだけれど、やっぱり誰に対しても、決して過保護ではないんだよな――自己責任は自己責任として重んじると言うのか。
特にあいつは。
自分に対して、頓着《とんちゃく》がなさ過ぎる。
そういうところも、髪を切り――前を向いて歩き出したことで、変わってくれればいいのだが……しかしそれは、僕が言っていいことではないのかもしれない。
僕は大学を受験する。
その決意をしたのは、六月のことだ。
高校三年の六月――それは受験勉強を始めるタイミングとしては、いかにも遅過ぎる。普通なら、一年の浪人を覚悟して臨まなければならないような時期である。
それでも僕が頑張れるのは、戦場ヶ原と羽川による、メリハリのある家庭教師のお陰だが――では、彼女達の受験勉強がどうなっているのかと言えば、学年トップクラスの学力を有する戦場ヶ原は推薦で大学に行くつもりだし(ちなみに僕は彼女と同じ大学を志望している。説明する順序が逆になってしまったが、まあつまり戦場ヶ原と同じ大学に行きたくて、僕は受験勉強を開始したのだ)、そして学年トップの学力を有する羽川は、受験そのものをしないつもりである。
学年トップ。
いや、はっきり言って、世界有数の頭脳。
教師陣に将来を嘱望《しょくぼう》されている羽川翼は――
己《おのれ》の進路として、大学を選択しないことを、選択している。
現時点でそれを知るのは僕と、それから神原だけだ――戦場ヶ原あたりはひょっとすると本人から聞いているかもしれないが、少なくとも僕は喋っていない。
喋れるものか。
そんなことが知れてみろ、髪を切った、コンタクトにした、鞄にアクセサリーをつけた、どころの話ではない騒ぎが、私立直江津高校を襲うだろう――本当に学級閉鎖になり、大袈裟でなく休校処置が取られるかもしれない。何せ、学校中の全生徒の知能指数を足し合わせたところで羽川の知能指数には及ばないとさえ言われているのだ――いや、知能指数はそういう計算ができる数値ではないということくらいは知っているが、そんな常識さえ凌駕するほどの格差が、そこにはあるという意味である。
僕は生涯を通して羽川以上の人間に出会うことはないと断言できる――しかし、そんな羽川だからこそ、あるいは、大学進学なんていう、当たり前の進路を選ばないのは、ありうる話なのかもしれなかった。
ありうる話なのかもしれなかったが。
それは突然の話でもあった。
で、大学に行かずにどうするのかと言えば、まあ、言葉にしてしまえば酷く陳腐なそれになってしまうが――旅に出るらしい。
世界中を巡る長い旅。
数年単位の計画で、そこらへんはやっぱり優等生らしく、既にどのようなプランで、どのような旅程で世界を巡るかまで、もう完璧に決めてしまっているらしい。
「じゃあ、僕が大学に合格しようがしまいが、高校を卒業したら、羽川とはもう今までみたいに会えなくなっちまうのか?」
夏休みに入ったばかりの頃――図書館で勉強している最中に、僕は羽川に対してそんな質問をした。さりげなさを装ったが、しかしそれゆえに、これ以上なくわざとらしい問いかけになってしまったかもしれない。
「そんなことないよ?」
羽川は答えた。
にぱ、とはにかんで。
「阿良々木くんが呼んでくれるなら、私は世界中のどこからでも駆けつけるよ。私と阿良々木くんはそういう関係じゃない」
そう言った。
「……じゃあ、お前も、必要なときは僕を呼べよ。その日が前期試験の真《ま》っ只中《ただなか》だったとしても、世界中のどこへでも駆けつける」
「あはは。そういうことは、合格してから言いなさい」
と――そんな感じでその会話は終わった。
終わったが。
それでも、もしも僕と出会ってなかったら――そして怪異と関わらなければ、羽川の人生はもっと違うものだったのではないかと、それだけは、どうしても考えざるを得ない。
鬼を知らなければ。
猫を知らなければ。
彼女の人生は、ここまでレールから外れはしなかっただろう――何せ、レールの上を走ることだけを唯一の目的としてきた女なのだから。
あの――本物は。
「……うん。やめとこう」
僕は、家に着く頃には、そんな結論を出していた。羽川は既に教えるべきことは全て教えてくれたと思うし、仮にもっと詳しい話を聞けたところで、しかし、もしも今日の夕方に、僕と戦場ヶ原が貝木に会いに行くと知られてしまえば、あるいは彼女は同行を申し出てくるかもしれない。
そこまで巻き込めない。
巻き込みたくない。
行けるなら――本当はひとりで行きたいくらいなのだ。
勿論、戦場ヶ原も同じつもりで僕の同行を拒みたかったのだろうし、だとしたら、僕の行動は酷く矛盾《むじゅん》しているのだろうけれど。
だけど、その矛盾は呑み込むしかない。
僕はそういう人間なのだ。
「お兄ちゃん!」
そして家に這入ると――玄関口付近にいた月火が、びっくりしたように僕に気付いて、そんな大きな声を出した。
「あ……起きたのか。おはよ――」
「火憐ちゃんがいなくなった!」
僕の言葉を遮って――月火は叫ぶ。
悲痛に。
「わ、私がさっき起きたら、火憐ちゃん、どこにもいなくって――まだ治ってるはずないのに!」
「落ち着け、月火ちゃん――」
思わず名前で呼んでしまいながら、僕は取り乱す月火の両肩を抱える。そして、今にもどこかに駆け出してしまいそうな月火を、力ずくでこちらへと向けた。
「――僕の部屋は見たか? そっちで寝かせてたんだ」
「見たよ! 当たり前のこと訊かないで!」
ヒステリックに、月火。
今にも泣き出しそうだった。
「く、靴もないし――服も着替えたみたいだし」
「…………っ」
僕が高熱の半分を引き受けたのは失敗だったか、と思う。まだ復調こそしてないとは言え――実のところ、あれで火憐はどうにか行動するくらいのことはできるようになっていたのだ。
暴れ疲れて、寝たふりをして。
僕が出掛けたのを見て、抜け出したのか。
くそ、面倒臭い奴だな、おい!
「パパとママはいつものことだって言ってるけれど――本当のことなんて言えないし、お兄ちゃん、私、どうしたら――」
「落ち着け。心当たりはないのか。あいつが行きそうな場所の心当たり」
「ないよ……」
がくり、と月火の身体から力が抜ける。
うなだれるように。
まるで――半身を失ったかのように。
「貝木って人のところだとは思うけれど……、でも、そもそもその人の居場所がわからないんだもん」
「……ってことは、火憐ちゃんは、貝木の居場所を知ってるのか?」
「知らないはず。一度逃がしてるんだし」
「…………」
火憐。
あの考えなし。
本人にさえ心当たりがないってことじゃないか――アホか! 当てもなく、でもじっとしていられず、ただただ衝動的に家を飛び出したってことかよ――
だから。
だからお前は――偽物だってんだ!
「……僕が探してくる。どうせそんな遠くまでは行ってないはず――行けるはずがないんだ。お前は家で待っていろ」
「え……でも、私も探しに」
わかっている。
多分、丁度、これから出ようとしていたところなのだろう。
だけど。
「お前じゃ火憐ちゃんと会ったとき、逆に説得されてしまう危険がある。これ以上事態がややこしくなったら手に負えない」
「……本当に信用してないんだね」
月火は、泣き笑いのような表情をする。
信用していない、それは当たり前だ。
お前達は普段の行いが悪過ぎる。
あるいは――正し過ぎる。
「信用してない。でも、心配はしている」
「…………」
「でも! それ以上に怒ってんだよ!」
ずっとそう――言ってんだろうが!
突き放すように月火から手を離して、僕は踵を返した――門扉を開けて道に出て、それから考える。
さてどうする。
どこに行けばいい。
火憐自身が目的地を定めていない以上、こちらもあてずっぽう以外では行動のしようがない――一番厄介な行方不明者だ。
戦場ヶ原と違って、火憐は貝木と直接の連絡を取ることはできないはずだ――仮にできたとしても、貝木が素直に会ってくれるわけもない。
自転車を羽川に貸していてよかった。そうでなければ、火憐は確実に、僕の自転車を勝手に使用していたはずだ。自転車と徒歩とでは、行動半径が全然違う――いや、バスに乗られていたら、それもアウトか。妹達は僕と違って、定期券を持っているのだった。
考えろ。
僕が火憐だったらどうする?
身体は本調子じゃなくて、それでも自分にはやるべきことがあって、周囲は止めるけれど、それでは止まれないとき――
「まず、家から離れようとするだろう――見つかったら連れ戻されるんだから、それは最低条件で、そして問題はそれからだ。それから、それから――それから」
それから、どうする。
つーかわかんねーよ、あんな馬鹿の考えること! ひょっとしてコンビニにでも行ってんじゃねえのか!?
僕はその案を放棄したが……、あるいは、火憐ならば羽川に連絡を取るだろうか。持ったばかりの携帯を嬉しげにつかって――あるいは家を出る前に、こっそり電話をしているかも?
いや、ない。
火憐と月火は、羽川に手伝ってもらっていることを僕に秘密にしていて、羽川にも口止めをしていたのだ。それはつまり後ろめたかったからで、また、この状況で羽川に連絡したら、間違いなくそれが僕に伝わるだろうことくらいは推測できるはず――ああでもあいつ馬鹿だから、うっかり連絡するかもしれないよな……。
こっちから携帯に電話してもいいけれど、そんなの出るわけないだろうし……GPS機能で探すってのは、親じゃねーとできねーし。
この状況で親には相談できない。
あるいは電源そのものを切ってる可能性も――
「……うるさいのう」
と。
とにかく僕が、考えもまとまらないままに考え続け、思考のすべてを焦燥に支配されていた、そのとき。
唐突《とうとつ》に――影の内から、声がした。
僕の影の内から。
そうかと思うと、
忍野忍はもう、僕の隣に立っていた。
出現する前に既に出現していた、そんな感じ。
子供らしい、しかし、現実にはあり得ないほどに真っ白いワンピース姿。学習塾跡で過ごしていたときに着ていたのとは意匠の違う、チュニック丈のワンピース。レギンスは穿いていない。
靴は、裸足《はだし》にミュール。
そのミュールもまた、透き通るように白く。
ヘルメットは。
言っていた通り――かぶっていない。
その金髪を――惜しげなく晒している。
とても眠そうな目で――彼女は、僕を見ている。
「騒がしくて眠れやせんわ。お前様よ、わかっておるのか? 今の儂とお前様は影を通じてリンクしておる。お前様が動揺すれば、その動揺はダイレクトに儂に伝わるのじゃ。儂自身は何ひとつ動揺しておらんのに、心理状態が無理矢理動揺のテンションに設定されるのじゃから、言っておくが最悪じゃぞ。じゃからお前様、儂のためを思ってあまり感情を起伏させるでない――などと、そんなこと、お前様には無理な相談かの」
「……忍。状況はわかってるか」
「概ねの。まったく、お前様に負けず劣らず、無鉄砲な妹御じゃのう――ふぁああ」
と、大きなあくびをして。
忍は、その八重歯《やえば》……牙を僕に見せた。
「――おお、そう言えば、儂も迷子になったところを、お前様に探してもらったことがあったかのう。懐かしや、懐かしや」
「……協力してくれるかって、訊いていい?」
「かかっ」
忍は笑う。
吸血鬼のように笑う。
「残念ながら、今の儂はお前様に逆らうことのできん立場でな――主従関係は複雑であろうと、力関係ではお前様のほうが上じゃ。吸血鬼の絆は魂《たましい》の絆じゃと、散々教えてやったろう? ゆえにお前様から命令があれば、それがどんな不本意な内容であれ、儂は逆らえんの」
「命令じゃない。僕はお前に命令できる立場にはない」
「ならばきけんぞ、たわけ」
忍は、呆れたように言う。
「今のは、協力してやるがこちらからそう申し出るのは決まりが悪いので、体面上命令という言葉を使えという意味じゃと、何故わからん。このタイミングで眠気をおしての儂の登場、どう考えてもお前様に協力するために出てきておるじゃろうが」
「……お前も立派なツンデレだよ」
僕は、忍の言葉を聞いて――苦笑した。
なんというか。
すっかり世間ずれしちまってんな、お前も。
五百年生きている奴が、たった五ヵ月で世俗に染まってしまって、いやはや、これは忍野の英才教育の賜物《たまもの》だと思われる。
何やってんだあのアロハ。
「じゃあ、命令だ。火憐ちゃんがどこにいるか、探しやがれ」
「あー嫌じゃ嫌じゃ、何が悲しゅうてこんなどうでもいい下等な人間如きに従わねばならんのやら。しかしそんな風に強権を発動されてしまえば仕方ないのう。ふん。まったくお前様は、儂がおらねば何にもできんようじゃ。いやはや、どうしようもなく可愛い奴じゃのう」
かかっ。
と、もう一度笑って――忍は親指で方向を示した。
「妹御の血は、お前様の血と構造的に似たようなものじゃ。ならば儂にはその匂いで、おおよその場所はつかむことができる。ふむ、どうやらそこまで離れた場所ではないようじゃの」
020
やはりバスに乗って、とりあえずは通う学校――栂の木第二中学校に向かおうとしていたのだろう。阿良々木火憐は、普段使っている最寄りのバス停の、その待合室のベンチで座っていた。
いや、横たわっていた。
バスに乗る前に力尽きてしまったらしい。
日曜日の午後に差し掛かったところ――というこの時間帯、こんな田舎町でバスを利用しようという輩はそうはおらず、待合室は実質貸切状態で、火憐一人しかいなかった。
ジャージ姿で、ベンチに横向きに寝転んで。
呼吸を整えているようだ。
寝てはいるが――眠ってはいないようだ。
忍の言葉を信じて、ここまで三分間、全力疾走で走ってきた自分が馬鹿みたいだ――しかし待合室の中というのはこれはこれで結構な盲点、忍に言われなければ気付かなかっただろう。相手の体力の衰えを計算に入れていなければ、遠目にバス停を見て終わりだったはずだ。
「……よう、キス魔」
火憐は。
気だるそうに僕を見て――ベンチから上半身を起こした。
また――随分と汗をかいている。
無理に動いて、折角僕が中和してやった熱が、ぶり返してしまったのかもしれなかった。
囲い火蜂はともかく、現実的に今だって、外出できるような体温ではないのだ。どれほど意識がはっきりしていようと――身体がそれについていかないのでは、朦朧《もうろう》としているのと何も変わらない。
「帰るぞ」
「うっせ。一人で帰れ」
「だだこねてるとまたキスすんぞ」
「あたしはもう、大切なものを失った……わかっていないようだな、兄ちゃん。今のあたしにはもう怖いものは何もないんだぜ」
「ふん。果たしてどうかな。お前はまだ、真の恐怖というものを理解していない」
「真の恐怖を味わうのは――兄ちゃんだ」
ゆるり、と。
火憐は立ち上がる。
「止めんなよ」
「止めるか止めないかはともかく……まあ止めるんだけれど、お前、どこに行くつもりだよ。相手の居場所も、今のお前はわかっちゃいないんだろうが」
「これから調べる。じっとなんてしてられねー」
降ろしっぱなしにしていた髪を、手首に巻いていた髪ゴムで、手馴れた風に一本にまとめる。
いつものポニーテイルだ。
その姿が――必要以上に決まっている。
「じっとせずに、何をするつもりだ」
「探す、見つける、ぶん殴る」
「紀元前の人か、お前は」
「目には鉄拳、歯にも鉄拳」
「喋れば喋るほど馬鹿だな、お前は」
「ちゃんと言ったろ。あたしがどれだけ悔しい思いをしたか」
「僕もちゃんと言ったぞ。あとは任せろって」
「あたしは――あとは任せたとは言ってない」
「無茶するな。今は大人しく休むときだろう」
「そんな言葉は、見ず知らずの他人だって言ってくれる。どうして兄ちゃんはあたしに、頑張れ、負けるな、やっちまえって言ってくれないんだ」
「そんな無責任なこと言えるか。僕と違って、お前らはパパとママの希望なんだ。折角出来がいいんだから、ガキの悪ふざけ以上のことに手を出すな。大抵のことは大目に見てやる、だから一線を越えるんじゃねえ」
「兄ちゃんがまた真面目になったんだからいいだろ」
「予備校にも通わせてもらえねえよ」
「どうせ兄ちゃんのほうが」
言いかけたところで――火憐はふらつく。
まともに立ってもいられないのか。
ほとんど、気力だけで立っている。
いや――気力さえ尽きているだろう。
ならば彼女を支えるものはなんだ。
使命感か、意地か、気位か。
それとも。
信念か。
「…………」
どれだろうと知るか。
立ってられないなら、背負って帰って今度は逃げられないようにベッドに縛りつけてやるだけだ。
「話し合いじゃ話にならねー」
対話に見切りをつけたのは、しかし、火憐のほうが早かった。
「どーせ兄ちゃんは、あたしの話なんか聞いてくれねーんだろ」
「あとでゆっくり聞いてやるさ。横たわるお前の隣で、林檎でも剥《む》きながらな」
「は」
腕を上げて、拳を作り。
腰を低く落とし、膝をやや曲げて――途端。
今の今まで、ふらふら揺れていただけだった火憐の身体が、背中に鉄柱でも打ち込んだかのように――しゃんとした。
迎撃《げいげき》ではない。
攻撃意志を――火憐は僕に向けた。
「考えてみりゃ、兄ちゃんとマジで喧嘩するのは久し振りだな」
「思い上がるな。妹相手にマジになったことなんて一度もない」
対して、僕は構えない。
ただし――警戒はする。
「段が上がったんだか、なんだったか? しかし、そんなもの――今、この場でどれほど役に立つ。ここは道場じゃないんだぜ。ましてお前は今、通常の状態じゃない」
「あたしの状態? ああ、確かに通常じゃない」
僕の指摘に、頷く火憐。
「……頭はぼやーっとしているし。身体中は火照るように熱い、服が今にも燃え上がりそうだ。あちこちがだるくて一歩踏み出すだけで倒れそう――眼球から水分が飛んでいるのか、兄ちゃんの姿もまともに見えやしない。次に瞬《まばた》きしたら、もう二度と目を開けないかもしれねーな」
「…………」
「つまり、ベストコンディションだ」
火憐は構えたままで――僕ににじり寄る。
拳を伸ばせば届く距離まで。
いつの間にか――近付かれていた。
「……格好いいよ、お前。妹じゃなきゃ、惚れてたかもな」
「兄ちゃんじゃなきゃ、手加減できたかもしれないけど」
それは無理。
と、火憐は――拳を繰り出した。
病み上がりどころか病みの真っ最中の拳、それが見えないわけがなく、僕はそれをかわす――そしてその手首をねじり上げた。
ねじり上げた。
次の瞬間――僕の身体は宙に舞っていた。
「!」
驚くほどの間も与えられず。
声も上げられず、精々エクスクラメーションマークを発しただけで――僕の背中は、アスファルトの地面に叩きつけられた。
アスファルト。
その地面は――人間には固過ぎる。
今度こそ、僕は――声を上げた。
「が、はぁ――っ!」
「道場じゃなくて残念だったね、兄ちゃん。畳の上なら、そんなに痛くもなかったのに」
火憐は言う。
「言ってなかったっけ? うちの流派、二段からは投げ技があるんだよ」
「…………っ!」
マジか。
空手に投げ技なんてあんのか。
世の中には、まだまだ僕の知らないことがいっぱいだ――それに、予想外だった。
全然動けるじゃん、こいつ。
「さんきゅ、兄ちゃん――お陰で目が覚めた」
その台詞は、改心したとか自分の間違いを認めたとかそういう意味ではなく、文字通りに意識がはっきりしたというだけの意味のようで、火憐はその身体をゆっくりと伸ばした。
「次のバスが来るまで……あと二十分か。兄ちゃん、救急車呼んであげようか?」
「……冗談。救急車に乗るのは」
お前だ、と――僕は立ち上がる。
叩きつけられた衝撃で肺《はい》の中の空気を全部吐き出してしまったため、呼吸が落ち着かない。いい、落ち着くのを待つ必要はない。
前を見ろ。
妹を見ろ。
病に冒された――妹を見ろ。
「……嘘。なんで立てるの。死んでもおかしくないはずなのに――絶対に道場以外では使うなって言われた技なのに」
「お前はさっさと破門されろ」
「邪魔すんな!」
今度の拳は見えなかった。
しかし、別に先ほどの攻撃は、投げ技に繋げるためにわざとつかませたというわけではないようで、拳の速度自体は変わらない。
ただ。
ただ、フェイントを混ぜられただけだ。
それだけで――印象は段違いだった。
一度目は、手加減なく。
二度目は――本気だった。
「が、っ、ぐ――ぐっ!」
再びアスファルトに倒れるまでに、五回、火憐の拳が僕の体幹をえぐった。ただの一発もガードできなかった。
それはもう。
波状攻撃のようだった。
「ところで兄ちゃん。『身体が火照る』って……なんか響きがいやらしいと思わない!?」
「思わねえよ!」
「だって『身体』が『ホテル』なんだよ!?」
「お前は僕の後輩か!」
「後輩!? 誰それ!?」
「僕が知る限り最高の変態だよ!」
神原が聞いたら感動するほど喜びそうなことを怒鳴りながら、倒れた僕を蹴りに来た火憐の足首を、僕はつかむ――よし、つかんでしまえば、さすがに力は僕のほうが上だ。手首はともかく、足首をつかまれたときの投げ技なんてないはず!
しかし。
大事なことに、火憐の足は二本あった。
あろうことか火憐はつかまれた足首を軸足としてもう片方の足を浮かし、そしてその浮かした足で僕の脇腹を踏みつけた。
これは痛い。
何せ、自分より身長のある人間からの、体重を乗せた踏みつけである――内臓が全部ぺちゃんこになったかのような錯覚を受けた。
それでも僕はつかんだ足首を離さなかった――のは、そんな悪魔のような攻撃が、三発を数えたところまでだ。
駄目だ、根性じゃ無理。
今の僕の身体は吸血鬼ではないのだ。正直言って、体感的にはギロチンカッターとかよりも火憐のほうが格上に感じる。
「おい、お前様よ」
火憐の足首を離したところで、地面から声が聞こえた――いや、地面からではない、その地面に投影された僕の影からだ。
つまり。
忍野忍の声。
それは声だけで、しかもどうやら僕にだけ聞こえる声のようで――火憐はまったく反応しない。
「言っておらんかったかな……動揺やら焦りやらがダイレクトで伝わるのと同じように、お前様の痛みもまた、同じ割合で儂に通じるんじゃがな」
「……もうちょっと我慢してくれ」
僕は、地面に向けて言う。
火憐から見れば地面に対して話しかけているなんだか危ない人だ――ダメージを受け過ぎておかしくなったと思っているかもしれない。
「命令があれば儂は動くぞ」
「大丈夫だ。手は借りない」
「命令がなくとも今は動きたいくらいじゃ」
「命令する。動かないでくれ」
「無茶を言うのう」
「あとで頭|撫《な》でてやっから」
頭を撫でる。
それは絶対の服従を誓うための儀式である。
昨日忍の頭を洗ってやったのにも。
少なからずそういう意味はあった。
「それでは足りんな。更にその一段階上の儀式を要求する」
「一段階上?」
「うむ。より強く忠誠を表すための儀式じゃ」
「へえ、そんなのあったんだ。ちなみに、それはどういう儀式なんだよ」
「頭を撫でるのではなく胸を撫でる」
「どうして大人ヴァージョンのときにそれを教えなかった!」
僕は泣きそうになりながら立ち上がる――三度目は、言葉さえなかった。
いきなり拳が来た。
もうちょっと。
僕は忍にそう言ったが、この言葉はいかにも曖昧で、具体的に言うと、忍が我慢しなければならなかったのは――まずはこの後の、十発の拳である。
勿論僕も我慢した。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ。
いや、本気で腕を上げている。
素の僕じゃ、まるで敵わない。
弾みで殺しちゃうかも、なんて、我ながらよくもまあそんな傲慢《ごうまん》なことを思えたものだ。ちょっと取っ組み合いの喧嘩をしないうちに、まさかここまで成長しているとは――予想外だ。たかだか数ヵ月で、何故これほどまでに。お前の師匠は最長老さまか。超神水でも飲んだのか。
実際のところ、相手が女だからとか、相手が妹だからとか、そういう格好いい理由に基づき、甘んじて攻撃を受けているわけでは決してないのだが――そんな言い訳でもしないとやってられないような状況だった。反撃の糸口すらつかめない。なんなんだよこいつ。さてはアニメオリジナルキャラだな。世界観が全然違う。
下手に体調が悪い所為でストッパーもブレーキも利かないのだろう、およそ火憐の攻撃は、とどまるところを知らなかった。
知らなかったが、しかし。
それでも未だ倒れない僕を前に――
「……いい加減にしてよ」
と。
一旦動きを止めて――火憐は言った。
「兄ちゃんを殴る、私の拳のほうが痛いよ」
「馬鹿言うな。痛いのは殴られた僕の身体だ」
まったく。
吸血鬼現象の後遺症、治癒スキルがなければ冗談抜きで死んでいてもおかしくない。
「兄ちゃんがあたしに勝てるわけないだろ」
「火憐ちゃんが僕に勝てるわけないだろ」
身体のあちこちから出血しているのを感じる――この血は、あとでお詫び代わりに、忍に飲ませてやることにしよう。
というか、そうやって治癒スキルのランクを底上げしないことには、本当に入院することになってしまう。
「降参するなら今のうちだよ、兄ちゃん」
「その台詞は随分と遅い」
「……拳が痛いから」
殴るのはもうやめる、と。
言って、再度――火憐は飛び掛かってきた。
そして足払いである。
足払いそのものは、次は足を使ってくるつもりなのだろうという予想の下、後ろに飛びのいてかわすことができたけれど――
しかしその後の追撃はかわせなかった。
反対側の足を大きく上げての――かかと落としである。
ていうかネリチャギ。
お前の流派おかしいよ!
「ぐっ……っ!」
両腕を頭の上で組んで防御する――しかし体格で勝る妹の攻撃を、その姿勢では受け止められるはずもない。
むしろ腕の骨さえへし折れるだろう。
お前それ素人相手に披露するレベルの足技じゃないだろと僕は思ったが、しかし、その威力に押し潰されそうにこそなったが、どうしてなのか、僕はその攻撃に倒れることはなかった。
どうしてだ?
手加減されたのか?
いや、まさか――
「ふんっ! やるじゃん、兄ちゃん!」
言いながら、だけれど。
「だけど今のもフェイントだったりするんだよね!」
火憐は今度は、ネリチャギの動きで振り下ろしたその脚を、下方からその爪先で、僕の顎を狙って蹴り上げてきた――馬鹿にしてもらっては困る、そんな大きな動きの攻撃が当たるものかと、僕は上半身をスウェーさせる最小限の動きでその爪先をかわしたが、しかし、その動きに限って言えば、火憐の目的は攻撃にはなかった。
そのまま火憐は、もう片方の脚も、先の脚を追いかけるように蹴り上げ――その全身を空中に浮かした。
そして両の手のひらで直立する。
逆立ちの姿勢である。
「ふっ!」
そして火憐は――その場で回転した。
脚を一直線に開き、あたかも竹とんぼのように。
「がっ……ぐっ!」
かろうじて腕でガードするが、しかしそのガードに一体どれほどの意味合いがあったのか。防御というよりは、むしろ腕を重点的に破壊されているような気分だった。
木製バットで殴打《おうだ》されているようだ。
火憐はそのまま五回転はしただろう、つまり僕の腕は十回蹴られたということだ。僕の腕はすっかり感覚をなくしている、まさか逆立ちしての攻撃にここまでの威力があるとは――
つーかこれ、格ゲーとかで見たことある!
空手じゃなくてカポエラだよなあ、これ――
「こ、この――」
耐え兼ねて、僕は火憐の脚をつかみにかかった。こんなアクロバットな動作、すぐに倒れるはずだとたかをくくっていたのは失敗だった、ここからでも反撃に出ないと――しかし。
それを待ち構えていたかのように。
火憐は僕の手をかわすように――身体を沈める。
身体を沈め、逆立ちの姿勢から一旦地面に寝っ転がり、だがしかし、火憐は回転の勢いはそのまま落とさず、まるでアスファルトを氷のように使い、さながらブレイク・ダンスでも踊るかのように背中を支点に回転を続け、むしろスピンスピードを速め、再び僕の足を払いに来た。それはあたかも、己の両脚を鎌に見立てたかのような切れ味の鋭い蹴りだった。
回転。
回転の利用。
体調不良により筋力を完全には行使できない火憐の、慣性の法則と遠心力を利用しようという、それは策略らしく――しかもその策略は、どうやら大成功のようだった。
上半身の防御に集中していたため、ほとんど無防備だったすねを蹴られて、僕の膝がかくんと崩れる――火憐が狙っていたのはそこだった。
再度、手のひらをアスファルトについて。
逆立ちの姿勢――そして。
そのまま――腕のばねだけで跳ね上がった。
畜生!
普段から逆立ちして鍛えてるだけのことはある!
そう思う暇こそあれ、火憐は先程鎌のように使ったその長い脚を今度は鋏《はさみ》のように使って、僕の頭部を挟み込んできた。鍛えられたその太ももの付け根のあたりで――そして火憐はすぐさま片方の脚の膝を折り曲げ、僕の頭を固定する。
ジャージのクロッチが顔面に強く押し付けられるような形になり、僕は呼吸ができなくなる。
と、それもつかの間。
火憐は空中で、左右に伸ばした両腕をスクリューのように思い切り回転させて――その勢いで全身をねじって、ぎゅるりと反転させた。
そのツイストは――僕を地面から引っこ抜く[#「引っこ抜く」に傍点]。
力ずくで。
力任せに――引っこ抜く。
な、投げ技?
あ――脚で首投げだと!?
馬鹿な、そんなことできるわけがない――と突っ込むほどの暇もない、下準備として僕の脚は既に崩されていて、火憐の、まったく予想外のその動作に逆らうだけの術はなく――視界が大きくぶれた。
僕の身体は、再び宙を舞ったのだ。
両脚がかりの頭フックが途中で解け、なんとか脳天からの落下だけは逃れたが(確実にこれもさっきのと同じ『道場以外では使うなって言われた技』だろう。超人レスリングみたいな技だが、型としてはむしろ古流武道っぽいか?)――しかし着地なんてできるはずもなく、僕は腰を強く打つような形で、地面に叩きつけられることになった。
激痛が走り――僕の動きが固まり。
そして、当然のように着地を成功させていた火憐は、続けざまに、そんな僕に攻撃を加えてきた――鎌のように使い、鋏のように使った脚を、今度は鞭のようにしならせて。
咄嗟に。
僕は地面に落ちていた石をつかんで、火憐に投げつけた――しかもひとつではない、左右でふたつ!
女子中学生に投石する男。
あろうことか僕である。
「うざいっ!」
が、火憐はそんな飛び道具、ものともしなかった――己の身体めがけて飛来してくるふたつの礫《つぶて》を、キックの軌道を途中で変えることで、ふたつとも蹴り飛ばした。
いや、蹴り飛ばしたのではない。
蹴り砕いたのだ。
い――石を空中で割れるような蹴りなのかよ!
木製バットどころか金属バットだ!
「いくらなんでも鍛え過ぎだろ、このシスタープリンセス十二分の一モデルが!」
「それは普通の妹じゃん!」
僕の悪態に的確な突っ込みを入れる火憐、しかしそこが僕とのスペックの違いと言うべきなのか、突っ込みによって本筋をおろそかにすることなく、続けざまに改めて、僕の頭部を狙ってきた。
浮き上がってのローリング・ソバットだ――また僕の頭部が、丁度いい具合の位置にある!
それも驚いたことに――とんでもないことに、一発喰らって終わりではなかった。
それこそ虎に翼の例えではないが、火憐はまるで重力に逆らい飛行しているかのような調子で――空中に浮いたまま、続けて反対側の脚が、ピンポイントで同じ頭部を狙ってきたのだ。
そして、二発で終わりでさえなかった。
火憐は一度の跳躍《ちょうやく》のうちに、回転に任せて三回――僕の頭部を蹴り飛ばした。
ジャムおじさんから新しい顔をもらったアンパンマンの気分だった(果たしてこの比喩は伝わるか!? つまりは頭が吹っ飛んだかと思ったという意味だが――!)。
直立した状態で喰らっていれば、最初の一撃で文句なく昏倒《こんとう》していただろう重さの蹴りが、なまじ地に尻《しり》をつけた状態だったために三連続――これはもう正直言って半端なかった。
脳がこしあんになったかもしれない。
掛け値なく。
「扇風機かお前は――お前の前で喋ったら宇宙人みたいな声になるんじゃねえだろうな、この双恋六分の一モデルが!」
「あたしと月火ちゃん、別に双子じゃねーし!」
「元々はそういう設定だったんだよ!」
「マジで!?」
マジだ。
よく探せば微妙に名残《なごり》がないでもない。
一回転半したところで片足で着地する火憐、しかしそこで一息つくようでは火憐ではない。火憐は今度は逆回転――僕の頭部の反対側を蹴ろうと、再度、飛び上がった。
しかしさすがにそれは人間工学的に無茶な機動だったのか、飛び上がった直後、火憐は自分の蹴りの勢いに振り回されるかのように、大きく体勢を崩した――違う。
違った。
それもまた――フェイントで。
それもまた、回転の利用だった。
火憐は蹴りの勢いを乗せて、僕の目前で見事なバック転を決め――そして、尻餅をついた姿勢のままの僕の両肩に着地した。
肩に着地。
そしてそのまま、僕を踏み台に――跳躍する。
僕の真上に――跳躍する。
「な――お前!」
反射的に首を上げた僕の目に入ってくるのは――
中空で両膝を折り曲げ、そのまま、全体重を乗せたニー・ドロップを、先程踏み台にしたばかりの僕の両肩を目掛けて仕掛けてくる――火憐の姿だった。
「ざ、ざけんな、そんなの喰らったら肩がなくなるじゃねえか――アンパンマンどころの話じゃねえぞ、このハッピーレッスン五分の一モデルが!」
「あれは妹じゃなくて母親だろ!」
そうでした。
勢いで言ってしまいました。
しかし、それにしてもすげー層を狙うよな。
咄嗟に僕は這いつくばるようにその場から、痛む腰を押してなんとか身体を移動させる――ヒットポイントがただ一点のニー・ドロップ、わずかに位置をずらすだけでも、きっとかわすことができるはず。
高過ぎるジャンプ力が仇《あだ》になったな!
そのままアスファルトにニー・ドロップを決めやがれ――小石程度ならともかく、さすがにアスファルトまでを砕けるってわけじゃないだろう!
むしろお前の膝が砕けろ!
が。
僕は視界の端に信じられない光景を捉える。
すんでのところで僕に攻撃をかわされた火憐は、またも空中で両腕、上半身をツイストさせて――ほんの五十センチほどの高さにおいて、自らの、百七十センチの身体を螺旋《らせん》させ、華麗とは言えないまでも、見事な着地を決めたのだ。
這いつくばるように逃げた僕とは大違いである。
戦闘中でありながら、僕は不覚にも、そんな火憐の一連の動きにただただ目を奪われてしまった――そしてそれは当然、決定的な好機を、相手に提供するだけのものでしかなかった。
火憐は素早い足移動で、僕の背後に回り込み、素早く僕の腕をねじり上げて、その腕を脚で搦《から》め捕《と》るようにしながら――改めて自らの両腕で、僕の首を締め上げてきた。
襟《えり》十字……いや、裸絞め?
こちらの腕を自分の脚で巻き込むようにする独特のアレンジはあるけど、これもまた空手じゃなくて、完璧に柔道の技じゃん!
「お前が習ってんのって、ひょっとして本当は柔術……つーか、ジークンドーとかじゃね、え、のか――」
「いいや、空手だよ……この技の名前も、チョーク・スリーパーXだよ!」
「空手に横文字の技があるかーっ!」
大変だ。
妹が看板|詐称《さしょう》の目に遭っている。
いや、ここまで至れば流派も何も関係ないかもしれないけれど。
けれど、これはまずい。
殴打系の攻撃には耐えられても、いくら吸血鬼の治癒スキルがあったところで、絞め技系の攻撃には耐えられない――呼吸器系を直接攻めるというのは、意外と有効な戦略なのだ。最初の投げ技も、肺を傷《いた》められたからこそ、回復に時間を要したのである。
殴るのをもうやめる――というあの言葉が、足技主体のスタイルに切り替えるということではなく、投げや絞め、その手のバリエーションを基本戦略に用いるという意味だったなら、それは僕にとって不都合過ぎる!
「あたしも経験があるからわかるけど、首を絞められるって意外と気持ちよくオチれるんだよ――兄ちゃんもいっぺん試してみな!」
「お前の首を絞めた奴がいるのか! そいつは超許せん!」
「兄ちゃんだよ!」
そうでした。
あとはまあ、道場での稽古《けいこ》だよな。
「積年の恨み、ここで晴らす!」
「目的が変わってきてる……」
が。
しかし、火憐がどれほどに力を込めても――僕の首をどれほどに絞め上げようにも、僕の呼吸はまるで苦しくはならなかった。
やはり体調が思わしくないのだ。
一瞬一瞬のインパクトに力を爆発させればいい打撃技と違い、継続して腕に力を込め続けなければならない絞め技は、今の火憐では十分に効果を発揮できないのだ。
先刻の首投げのとき、両脚によるフックが空中で解けてしまったことも、その推測を裏付けていた。
火憐もすぐに己の失策に気付く。
しかし、その気付いた瞬間こそがチャンスだった。
僕はそこを狙って、火憐の腕を振り払う。
起き上がり、身体を反転させ。
同じく起き上がった火憐の胸元へと手を伸ばす。
テクニックを競う勝負では勝ち目がない、なんとかジャージをつかんで、泥仕合の乱戦に持ち込むのだ。
「どこ狙ってんだ、スケベ!」
が、火憐はあっさりとその手をかわし。
あろうことか、僕の顔面に頭突きをかましてきた。
頭突きって!
女子の使う技かよ、それ!
カウンター気味にもろに鼻っ柱に当たったため、僕は一瞬、前後不覚に陥る――反射的に目を閉じてしまったから、火憐の姿を見失ってしまったのだ。
その隙を逃す火憐ではない。
火憐はその一瞬ですかさず僕の死角に入り、一旦僕に背中を向けて、二百七十度分の回転を加えた、全体重を乗せての裏拳《うらけん》を僕の|顳??《こめかみ》[#??=需+頁]にヒットさせた――ピンポイントでなんて部位を狙うんだ、こいつ!
脳が揺れる。
僕はその一撃でアスファルトに倒れ伏す。
アスファルトに全身を削られまくって、服はぼろぼろになった。
しかしそんなことにいちいち構ってなどいられない、すぐに立ち上がらなければ、追撃を受けてしまう――
「やっぱり――拳が痛いよ」
火憐は言う。
体勢を立て直すためだろう、火憐は僕から距離を取っていた。
「正直、もう殴りたくない。これ以上はただの暴力だ。兄ちゃんだって、さすがにもうわかったろ? 兄ちゃんはあたしには勝てない」
「ふん。馬鹿なことを言う。お前を倒すチャンスを五回は見逃してやったことに何故気付かない。お前こそそろそろ悟れ、火憐ちゃんは僕には勝てないんだ」
いや。
さすがにここまで一方的にフルボッコにされているようじゃ、どんな台詞を言っても負け惜しみみたいに響いてしまう。
勝ちか、負けか。
勝つか――負けるか。
「正義は必ず勝つんだろ?」
火憐は言った。
そうは言っても派手《はで》に動き回ったせいだろう、火憐の足取りは、再びおぼつかなくなっていた――まあ、僕が動けば、またしゃんとするのだろうが。
「だったら、勝ったほうが正しいってことでいいんだよな、兄ちゃん。兄ちゃんを倒せば――あたしは行ってもいいんだよな」
「その考え方は、危ないよ。正義とは随分程遠い」
「あ?」
火憐は、不愉快さをあらわにする。
元々吊り目の彼女の目が。
更に鋭くなって――僕を睨む。
強く――睨む。
「何言ってんだ。兄ちゃんがいつも言ってんじゃないか――偉そうに」
「へえ、僕が何と言った?」
「あたしと月火ちゃんのことだ。正しい、でも強くない――正義は必ず勝つんだから、負けちゃ駄目だって――」
あたし達のことを。
偽物だって。
「偉そうに、偉そうに、偉そうに! だからあたしは、負けないように――」
「ああ。そのことか」
僕は言って――火憐に近寄る。
いや、もう駄目だ。
まともに動けない。
火憐はこのまま行ってしまうだろう――止められない。そろそろ次のバスも来る。
「その通りだよ。お前は正しい。でも強くない」
「強いだろ、少なくとも兄ちゃんよりは」
「それはどうかな。お前は僕から見れば随分と弱い」
「そんなぼろぼろで何言ってんだ、兄ちゃん」
「力が強くっても意味なんかねーよ。本物に必要なのは――意志の強さだ」
たとえば、羽川の一番すげーとこは。
意志が強いってとこなんだぜ。
「貝木のことを許せないというその感情の、一体どこにお前の意志があると言うんだ。お前達はいつだって、他人のために動いている。誰かのために動いている。そこにお前達の意志はない」
「……違う。あたし達は、あたし達が正しいと思うことをしているんだ。みんなのことは、理由に過ぎない」
「笑わすな。理由を他人に求める奴が、正義であってたまるものか。他人に理由を押しつけて、それでどうやって責任を取るというんだ。お前達は正義でもなければ正義の味方でもない。正義の味方ごっこで戯れる――ただのガキだ」
偽物だ。
決して――本物にはなれない、偽物だ。
「お前達が敵視するのは、いつだって悪人ではなく悪役だ――違うか」
「違う! 何も知らない癖に勝手なことを言うな!」
火憐は怒鳴る。
いつの間にか――拳は下ろしている。
握り締めたまま――下ろしている。
「翼さんならわかってくれるはずだ――あの人は何でも知ってるんだから!」
「何でもは知らねーよ――あいつが知ってるのは、知ってることだけだ」
僕は言う。
羽川の口癖。
あいつが、いつだって言っている言葉。
まるで――自分自身に言い聞かせるように。
「自己犠牲じゃない、自己満足に甘んじる覚悟がないのなら――正義などと大仰《おおぎょう》な言葉を口にするな。不愉快だ」
「……他人のために動いて何が悪い。自己犠牲の何が悪い。あたし達が――あたし達が偽物だったからって、何が悪いんだよ! それで何か、兄ちゃんに迷惑をかけたか!」
「迷惑はずっとかけられてる。ただし」
僕は言う。
もう既に――火憐と僕の間に、距離はない。
腕を下ろした火憐を――つかまえる。
「悪いなんて一言も言ってない」
「…………」
「劣等感と一生向き合う覚悟があるのなら、たとえ偽物だろうと、それは本物と同じじゃないか」
握力がほとんどなくなっている、つかまえたところで、ほとんど力が入らなかった。火憐はそれを振りほどこうとはしなかったが、しかし、念のためだ。
僕は火憐を抱きしめる。
その身体は、火照るように熱く。
そして弱くとも――確かに意志はあった。
大丈夫。
お前達はガキで、幼く、子供だ。
だから――これから、いくらでも強くなる。
「言っとくが――僕はお前達が大嫌いだ。だけど、いつだって誇りに思っている」
「に――兄ちゃん」
「悔しいと言ったな、火憐。僕は確かにそれを聞いた。だけどな――僕のほうがずっと悔しい。僕の誇りを汚した奴を、許せるか」
だから――
だから。
「あとは任せろ」
僕は言った。
それ以上言葉を重ねる必要は、もうなかった。
こわばっていた火憐の身体から、ふっと――力が抜ける。
「……悔しいってか、情けない。兄ちゃんに尻拭《しりぬぐ》いをさせちゃうなんて」
「てめーで汗も拭けねえ奴が何言ってんだ。妹の尻拭いなんて、兄ちゃんにとって名誉以外の何でもない」
抱きしめて。
自分より身長のある、火憐の身体を抱きしめて。
僕は火憐に――笑ってみせる。
「今回は僕の格好いいところを見せてやる。惚れないように気をつけるんだな。近親|相姦《そうかん》になっちまうぞ」
もう惚れてる、と、火憐は言って。
「兄ちゃん。あとは、任せた」
そう続けた。
僕達は仲の悪い兄妹らしく。
正しく、とても痛快な喧嘩をしたのだった。
021
ただし、そこから先の展開は肩透かしと言っていいほどにあっさりとしたものになった。果たしてそれを幸運なことにと言うべきなのかどうかはともかくとして。
「よろしい、わかった。もう中学生を誑《たぶら》かすのはやめよう。これ以上の『おまじない』を広げることは、もうしない。あの元気のいいお嬢さん――お前の妹のことなら心配することはない、阿良々木。所詮あれはプラシーボ効果のようなものだ。瞬間催眠という奴だな――あの思い込みの激しさからすれば、通常よりも症状は強く現れてはいるだろうが、その崩れている体調も三日もすれば治る――言ってしまえばただの風邪のようなものだ。それから、戦場ヶ原。お前の母親のことについては正式に謝罪しよう。法律的には俺はあくまでお前達家族の相談に乗っただけで、そのことを裁く法律は存在しないが、お前が傷ついたというのならそれを慰めないわけにはいくまい。その際にお前の父親から巻き上げた金銭に関しても、出来る限りの返却に努めよう――もっともほとんど使ってしまっているので、そちらは少し時間がかかるかもしれないが」
喪服のようなスーツに身をつつんだ不吉な男。
貝木泥舟は――そう言った。
戦場ヶ原が指定したという貝木との面会場所は――この町にあるほとんど唯一の複合デパート、その屋上だった。密室で会うのはまずい、人気《ひとけ》のないところも危険だ、ということでのチョイスだった――それは一応、火憐のミスを下敷きにしての策ではあったのだが。
七月三十日、夕方。
あれから、火憐をおんぶして家に連れて帰り、まあまさかもう抜け出したりはしないだろうが、それでも一応念のため、火憐の顔面に太い油性ペンで『男なら誰でもいい。』と落書きして表に出られないようにし(ついでに月火の顔面には『ブラは面倒だからつけてません。』と書いてやった。連帯責任だ)、僕は戦場ヶ原と再び合流して、そして。
デパート屋上。
簡易遊園地のようなものがあり、そこに付属する形で小さなステージがある。今日は日曜日なので、そこでちょっとしたショーが行われる予定になっていて(戦隊ものショーだ)、そのショーが行われるのを待つ形を装っての――面会だった。
真っ黒な男と、ふたりの高校生。
決して異様な取り合わせというわけではないが、しかし、人目を引くことは間違いない――むしろ人目を引いたほうがいいというわけだ。
もっとも、撃退しているとは言え既に一度、火憐から咎めを受けている貝木が、電話に出るというだけならまだしも、続けざま、呼び出されるままにここに来るかどうかというのは、僕から見ればやはり賭けだったが――しかし、戦場ヶ原には、どこか不思議な確信があるようだった。
それは確信と言うより。
むしろ信頼にも似ていたが。
貝木泥舟は、僕達が現場に到着するよりも先にデパートの屋上に来ていて、ひとり、缶コーヒーを飲んでいたが――僕達の姿を認めると、
「ふむ」
と、その空き缶を、ゴミ箱へと放り込んだのだった。
そして。
「お前は――臥煙の忘れ形見の家の前で会ったかな。妹の意趣返しか。今時随分と珍しい、男気のある子供だ」
そんなようなことを――重い口調で僕に向けて言い、そして戦場ヶ原のほうを見て、
「しかし魅力がなくなったな、戦場ヶ原。普通の女子になっている」
そう――言い放った。
笑いもしない。
その言葉を受け、戦場ヶ原は、
「何よ」
と言い。
それから、貝木の正面に入る。
無表情のまま。
「あなたになんか二度と会いたくなかった――というのは嘘ね。会いたくなかったというのなら、一度として会いたくなかったのだから。だけれど、今はあえてこう言うべきでしょう――会いたかったわよ、貝木さん」
「俺は会いたくなかった。普通の女子になってしまったお前になど、決して。前に会ったときのお前は闇のように輝いていたぞ――いや、悟っていたと言うべきなのか。実に騙しがいがあった」
悪びれもせず――貝木は言った。
思い出す。
やはり――忍野や、ギロチンカッターを思い出す。
タイプはまるで違うのだが――こうして、改めて向かい合ってみれば、何一つ似ていないような気さえするのだが、ただ一点。
確信的なところ。
確信犯なところは――共通している。
全てを認識し、わかった上で。
沈黙と饒舌《じょうぜつ》を――使い分ける。
「お前のせいなのかな――阿良々木。お前がこの娘の抱えていた悩みを解決してやったというわけか?」
「違う。僕は――ただ、背中を押してやっただけだ」
「ならば俺と同じだ」
貝木は言う。
不機嫌そうに――実に不吉に。
「もっとも、俺が押した先は断崖絶壁《だんがいぜっぺき》だが」
「今も――中学生相手に同じことをしているんだってな。背中を押して――突き落としている」
断崖絶壁から。
あるいは――吊り橋の上から。
「妹から聞いたのか。そう、その通りだ。しかし田舎の中学生は小金を持っているな。短期間で随分と稼がせてもらった」
じり、と。
戦場ヶ原が貝木との距離を詰めるのがわかった――臨戦態勢に入るつもりか、いや、戦場ヶ原は、とっくの昔に臨戦態勢に入っている。
デパートの屋上に到着してから。
あるいは、僕から貝木の名を聞いてから。
あるいは――
貝木に騙されてから、ずっと。
「よせ、話し合おう」
と。
貝木は、そんな戦場ヶ原を制す。
「俺は話を聞く。そのために来た。お前達も話をしに来たのだろう。違うか」
「…………」
「…………」
そして――実際、貝木泥舟は僕達の話を聞き。
よろしい、わかった――と言ったのだ。
全ての罪を認め。
全てから手を引き――償いもする、と。
肩透かしだった。
あっさりしていて――しかし、それは、僕達にしてみれば願ってもいない、百点満点の展開ではあったのだが、だがしかし。
それは本当に願ってもいないことであり。
意外と言うよりも、心外な――回答だった。
「……随分と潔《いさぎよ》いのね」
戦場ヶ原が、そんな皮肉めいたことを言ったが――それも、何を言っていいのかわからずにとりあえず言った、その場しのぎの言葉に響いてしまったことは否定のしようがない。
「そんな言葉を、信じられると思って?」
「お前は信じないだろうな、戦場ヶ原」
貝木は当然のように戦場ヶ原を呼び捨てにする。
僕のことも。
「阿良々木。お前はどうだ? お前は、俺の言葉を信じられるか」
「……詐欺師の言うことを、信じろってほうが無茶だ――だけれど、確かに」
慎重を期して、僕は言う。
「まるで信じないんじゃ、そもそも話が成立しない。お前の言う通りだ、貝木。僕達は話をしに来たんだ」
「ふむ。実に冷静だな。まったく子供らしくない――可愛げのないことだ。お前の妹は何も考えていなくて、随分と可愛らしかったぞ。その意味ではさすがは兄と言うべきだ」
さして挑発する風もなく。
さりとて、決して褒めている風でもなく。
貝木はそう言い放った。
「少なくとも」
言葉を短めに区切って。
戦場ヶ原が切り込む。
「私にはあなたが反省しているようには見えないわ。反省の色なんて、まるでないじゃない」
「そうか。そう言えば謝罪の言葉をまだ口にしていなかったな。それに命乞いの言葉もだ。悪かったな、実にすまない、お前達。とても反省している、悔いるばかりだ――いや。俺が謝るべきはお前達ではないのかもしれない。俺が謝るべきはお前の父親と、母親と――それに、今回騙した子供達だ」
「そんな薄っぺらい謝罪の言葉を、信じろと言うの。あなたの言うことなんて――全部嘘じゃない」
「そうかもしれない」
否定せず、頷く貝木。
重苦しい言葉の調子は、怒っているようでもあったが――しかし、それは違うのだろうという直感が、僕にはあった。
この男はきっと。
怒りという感情を――持っていない。
そもそも、怒りだけではない。
この男は――きっと。
他人に対し、何かを思うことなんて、ない。
「だが、俺の言葉が全部嘘だったからと言って、それがどうしたというのだ。俺は詐欺師だ。戯言以外は口にしないのは、むしろ誠実と言うべきだろう――それに、戦場ヶ原」
「何よ」
「言葉と心がすれ違うからと言って、それを単純に欺隔《ぎまん》と考えるのは早計だろう。心と違う言葉を口にしたからと言って、言葉が嘘だとなぜ決める? 言葉が嘘なのか――それとも心が嘘なのか。言葉が偽りなのか、心が偽りなのか。そんなことは誰にもわかるまい」
「……あんまり苛々《いらいら》させないでくれるかしら。私はこれでも――とても我慢しているのよ」
戦場ヶ原は一瞬、目を閉じた。
瞬きよりも――長い時間。
「あなたを殺すのを我慢することは、とても難しい」
「そのようだな。そしてそのあたりが普通になったと言っている。昔のお前なら絶対に我慢などしなかった」
「今更お金を返して欲しいとは思わない――私の家庭は、そんなことでは戻らないのだから」
「そうか。それは助かる。俺は金遣いが荒くてな、蓄えなどほとんどない。お前に金を返すため、新たな詐欺を働かなくてはならないところだった」
「……この町から出て行って。すぐに」
「わかった」
やはり、あっさり。
その要求を呑む貝木。
気持ち悪いほど――怪訝《けげん》なまでに。
「どうした? 阿良々木。なぜ俺をそんな目で見る――俺をそんな目で見るべきではない。結果的には大したことではなかったとは言え、お前は俺に妹を傷められている。もっと恨みに満ちた視線をこそ、俺に向けるべきではないのか」
「……あいつはあいつで自業自得なんだよ。あんたみたいな人間に関わるのが、そもそもいけない。そんなことは、言われなくてもわかることだ」
「それは違う。あの娘のミスは、ひとりで俺に会いにきたことだ――俺をつるし上げたかったのなら、今お前達がそうしているように、複数名で来るべきだった。ならば無抵抗に俺は白旗を上げたろう――今俺がそうしているようにな。それ以外の点において、あの娘は概ね正しい」
「…………」
「それとも阿良々木。お前はあの娘を愚かだと断定し、あの娘を愚かだと否定するのか」
「正しいとは思うよ。だけど」
「強くはない、と?」
貝木は僕の台詞を先回りする。
そんなことはとっくの昔に考えている――そんな小事はとっくの昔に考え終えていると言わんばかりに。
「確かに強くはない。だがあの娘の優しさは、否定すべきではなかろう。それに」
ここで初めて。
貝木泥舟は――笑ったように見えた。
実に不吉に、烏《からす》のように、笑ったように見えた。
さながら。
「それにああいう娘がいないと、詐欺師としては商売上がったりだ」
「……その詐欺師が」
戦場ヶ原が言う。
僕とは違い、きちんと、向けるべき視線を――貝木へと向けて。
「どうして私の言いなりになるのよ。私くらい、言いくるめてしまえばいいじゃない……昔のように。中学生を騙している件にしたって、どうせ証拠なんてないのでしょう」
「戦場ヶ原。お前は俺を誤解しているな」
貝木は言う。もう笑っていない。
さっき、笑っていたように見えたのも、ひょっとしたら錯覚だったのかもしれなかった。
「いや、誤解ではなく、むしろ過大評価と言うべきか。自らが敵視する人間には大きくあって欲しいという願いは実に一般的でわからなくもないものだが、しかし戦場ヶ原よ、人生はそれほど劇的ではない。お前が敵視するこの俺は、ただの冴えない中年だよ。詐欺師としても至極小物の、佗《わび》しい人間だ」
本来はお前が恨むにも足りない男だ、と。
貝木はそう言った。
「俺はお前の敵ではない――ただの迷惑な隣人だ。それとも、お前には俺が化物にでも見えたか」
「まさか。あなたはただの――」
偽物よ、と。
戦場ヶ原は切って捨てる。
しかし。
その偽物が、戦場ヶ原の心を苛《さいな》んでいることもまた――確かなのだった。
「そう。その通り。俺は偽物だ。今も、お前達ふたりに囲まれたこの状況からどう脱したものかということばかりを考えている、卑劣な男だ。そしてそのための最も有効な方策は、やはり、唯々諾々《いいだくだく》とお前達に従うということだろう。お前達の機嫌を取ることが、俺に残された唯一の道だ」
「…………」
ならば何故。
そもそも――ここに来たのか。
戦場ヶ原の呼び出しになんて、応じる義務はなかったはずだ。
「勿論、戦場ヶ原。相手がお前だから唯々諾々と従っているということではない――この状況ならば俺は誰にでも従うだろう。言っておくがな――戦場ヶ原。俺は今朝電話を受けるまで、お前のことなど忘れていたぞ。俺にとってお前の家族のことなど、数多く行ってきた詐欺の、その内ひとつに過ぎない。俺はあのとき、お前から何の教訓も得ていない」
思い出すのに随分と苦労したものだ。
貝木はそう言って、戦場ヶ原を見る。
「俺は大した人間ではない――そしてお前も大した人間ではない。俺は劇的ではなく、お前も劇的ではない。俺がいくら小銭を稼ごうと、それは社会全体から見れば微々たるもので、お前が如何に一大決心をして俺と対決したところで、それは今日の天気さえ左右しない」
劇的ではない。
貝木は――諭すように、そう繰り返した。
「阿良々木、お前はどうなのかな。俺はお前に質問してみたい。お前の人生は劇的か? 悲劇的か、喜劇的か、歌劇的か? お前の影からは――どうも、嫌な気配を感じるのだが」
「…………」
「それに――どうやら妹の被害を半分ほど引き受けているようだ。正気の沙汰ではない。金ももらわず、よくそんなリスキーな真似をする」
わかるのか。
忍のことも――それに、僕の身体のことも。
わかるとしたら――それはどうして。
「あんた……一体、どっちなんだ?」
「? どっち、とは」
「偽物だっていう割に――僕の妹をあんな目に遭わせている。それに戦場ヶ原のことも――本当は、わかっていたんだろう。神原のことも」
どっち――と言うより。
まるで、どっちつかずだ。
「お前は怪異を――知っているのか」
「ふん。これは思いのほかくだらん質問が来たな。興が削《そ》がれる――阿良々木。たとえばお前は、幽霊を信じるか」
貝木は乗り気ではなさそうに、言う。
この話をするのは実に不本意だとばかりに。
「幽霊を信じはしないが幽霊を怖がるという人間の心理はわかるだろう。俺もそれと似たようなものだ。オカルトを信じるつもりはないが、しかしオカルトは金になる」
「…………」
「俺は怪異も変異も否定する――しかし、世の中にはそれを肯定する者もいる。ならばそれを騙すのは容易《たやす》い。俺が小物の詐欺師でありながら、こうして食いつないでいけるのはそのためだ。だからお前の質問にはこう答えよう。怪異など、俺は知らない。しかし怪異を知る者を知っている。それだけのことだ」
正確には、怪異を知ると思い込んでいる者を知っているだけなのだがな――と。
貝木は、今度こそ、笑った。
それはやはり――烏のような笑みだった。
先程笑ったように見えたのは。
やはり見間違いではなかったのだ。
「この世は金が全てだ。俺は金のためなら死ねる」
「……そこまで言えば、もう信念だな」
「どこまで言っても、信念だ。信念に逸脱などない。俺に騙される人間は、俺に騙される代償として、誰もが金を払うことを忘れるな。信じたからこそその対価を支払ったのだろう――一度信じたものを疑うなど、それを不実と言わずに何と言う」
囲い火蜂――と。
貝木は、突然、言った。
火憐にけしかけた――怪異の名を。
知らないとした怪異の名を。
「囲い火蜂のことを、お前は知っているか」
「……室町時代だか何だかの怪異だろ。原因不明のはやり病を、正体不明の怪異に見立てた――当時、結構な数の死者が出たって」
「正解だ。ただし、間違っている」
頷いて、それから首を振る貝木。
「囲い火蜂は江戸時代に著《あらわ》された文献『東方乱図鑑《とうほうみだれずかん》』の十五段に記載されている怪異|譚《たん》だ。それ自体がそもそも無名の文献なのだが――しかし根本的な話、囲い火蜂の存在非存在以前に、『東方乱図鑑』に記載されているような病が室町時代にはやっていたという事実はない」
「――え?」
「そのような事実があったのなら、複数の文献に記載されていてしかるべきだろう――しかしその感染病は『東方乱図鑑』以外には載っていない。つまりそんな『原因不明の病』は最初から存在していなかったのだ」
「…………」
「病がないのだから死者も出ておらず、当然、怪異と見立てられる事象自体が起きていない――その記載は、作者のいい加減な創作だったというわけだ。ありもしないものを、あたかも歴史的事実のように記したということだな」
元々――ない。
怪異という原因も存在せず。
怪異という結果も存在せず。
怪異という経過も存在せず。
全てが――偽物。
「偽史《ぎし》――という奴だ。つまり、囲い火蜂という怪異のスタート地点は、どう探ったところで、室町時代ではなく江戸時代なのだ。その作者の書いたでたらめ[#「でたらめ」に傍点]を、愚かにも後の世の人間が信じてしまったのだよ。お前はこれをどう思う? 根拠もなく、伝承もなく――ただひとりの人間の嘘から、怪異が生じたという事実を」
僕は――ちらりと、自分の影に目を落とす。
今の話を忍野が知らなかったとは思えない――つまり、今の話は忍も聞いてはいたはずなのだが……いや、忍本人も言っていたが、忍野のだらだらとした雑談を全て覚えておけというのは、土台無茶な話か。
それに、今の話をあらかじめ知っていたからと言って――別段、どうということにもならない。
囲い火蜂は。
いようがいまいが、出自《しゅつじ》がどうであろうが、あくまでも――囲い火蜂なのである。
「怪異譚に限らない、現代の都市伝説にしてもそうだ。事実から発するケースと、虚言から発するケースがある。俺は詐欺師として、後者のほうを生業にしているというだけのことだ」
プラシーボ効果。
瞬間催眠。
そういう風に言っていたか。
「……妹のこと」
「ん?」
「だからその……囲い火蜂に刺された――僕の妹のことだ。何もしなくとも治るっていうのは本当か」
「当然だ。囲い火蜂など存在しない――怪異など存在しない。ならばその被害も存在してはならない。お前達があると思うから、そこにある気がしているだけだ。はっきり言おう。お前達の思い込みに俺を付き合わせるな。迷惑だ」
どの口がそんなことを言うのか。
貝木はそんなことを言った。
その言葉に――僕は確信する。
こいつは、偽物だ。
戦場ヶ原の言う通り、本人も言う通り。
劣等感と一生向き合うことを決めている――
誇り高き偽物だと。
「ましてお前が半分引き受けているのだからな――完治まで三日もかからないかもしれない。どんな方法を取ったか知らないが、大したものだ。だがそれだけに、阿良々木よ。お前と俺とは相容れないのだろうな――水と油どころではない。火と油だ」
「……どっちが火で、どっちが油だ?」
「さて。お互い、火という感じではなさそうだが――では、ルビジウムと水と言い換えようかな。この場合、俺がルビジウムだ」
「僕が――水か」
ならば火は。
きっと――火憐と月火のことを指す。
火と火。
重ねて――炎。
ファイヤーシスターズ。
「阿良々木。お前は将棋《しょうぎ》を知っているか?」
「将棋?」
突然の話題転換に僕はついていけず、ただ、相手の言葉を繰り返してしまった。
将棋?
「そりゃ、人並み程度にゃ知ってるけど……それが今、何か関係あるのかよ」
「関係はない。ただの与太話だ、付き合え。お前はどうだ? 戦場ヶ原。お前は将棋を知っているか」
「知らないわね」
戦場ヶ原は短くそう答えたが、それはただの嘘だ。
知らないとは思えない。
むしろ――得意としていそうだ。
それを見透かしたかのように、貝木は、
「あれは単純な遊戯だ。本来的には底が浅い」
と、構わずに話を続けた。
「駒の数が決まっている。駒の動き方も定められている。盤面も画されている。何もかもが有限だ。つまり可能性が最初から限りなく閉じているのだ――これでは複雑になりようがなく、よってゲームとしては低レベルだ。だが、にもかかわらず、一流の棋士は、誰も彼もが天才だ。凡才であろうと極められるゲームを、天才以外は極めていない。どうしてかわかるか」
「……わかんねえよ。何でだよ」
「将棋は速度を競うゲームだからだ。棋士同士の対局では必ず脇に時計が置いてあるだろう。そういうことだ、制限時間のあるゲームだからこそ、ルールが単純なほど盛り上がる。如何に思考時間を短くするか――詰まるところ、頭の良さとはスピードだ。どんな名人の手順であろうと、時間をかければ誰でも同じことができる……だから大事なのは時間をかけないこと[#「時間をかけないこと」に傍点]なのだ」
「…………」
「将棋だけではない、人生もまた有限だ。如何に思考時間を短くするか――換言《かんげん》すれば、如何に素早く考えるかが重要だ。お前達より長く生きている者として、ひとつだけ忠告してやろう」
「結構よ。あなたから受ける忠告なんてない」
戦場ヶ原はすぐにそう答えたが、貝木は「そう言うな」と、まるで取り合わず、
「あまり考え過ぎるな。俺から見れば、己の考えに没頭している奴は、考えなしの奴と同じくらいに騙しやすい。適度に思考し――適度に行動しろ。それが――今回の件からお前達が得るべき教訓だ」
と。
そう言った。
「……携帯電話」
戦場ヶ原は、それがお互い様だと言うように、貝木のその言葉には返答をせず、ただ手を上向きにして差し出して、言った。
「携帯電話を渡して」
「ふむ」
言われるがままに、スーツから取り出した黒色の携帯電話を、戦場ヶ原の手の上に置く貝木。戦場ヶ原は折りたたみ式のそれを力ずくで――逆向きに折り畳んで、破壊してしまった。
コンクリートの床に落とし。
とどめとばかりに――踏みつける。
「酷いことをする」
しかし、貝木の口調は冷静だった。
まるで動揺した風もない。
「これからの仕事に必要な情報が、たっぷり詰まっていたというのに」
「これからの詐欺に必要な情報が――でしょう」
「その通り。だがこれでは、中学生の子供達に対するケアもできないな。顧客の連絡先もわからなくなってしまったのだから」
「私はそんな、知らない中学生達に対するケアなんて求めてない。阿良々木くん」
ちらり、と戦場ヶ原は僕を横目で流し見た。
何も感じさせない目で。
「今から私、世界一酷いことを言うわよ」
「あ?」
「――騙されるほうも悪いのよ」
戦場ヶ原は。
貝木に対して――詐欺師に対して、そう言った。
かつて――自分を騙した。
自分を騙したその相手に――そう言い切った。
「私は正義の味方じゃないの」
続けて――
戦場ヶ原はとても冷えた調子で言う。
「悪の敵よ」
「…………」
「そもそも被害者へのケアなんて、どうせあなたにそんなことはできないわ。やろうとしても、結局、もっとえげつなく騙すだけ」
「騙すだろうな。俺は詐欺師だ――償いだって嘘でする。お前らは理解したくないだろうがな――俺にとって金儲けとは損得ではないのだ」
「あなたのそういうところが」
戦場ヶ原は何かを言いかけて。
やめた。
ただ、つい、と身体を避けて――貝木に対して、道を開けた。
もう話はこれで終わり。
そういう意思表示のようだった。
これで終わり――もう終わり。
何もかも終わり。
「ありがたいものだ。殺されるくらいのつもりで来たのだが、やはり痛いのは嫌いだからな」
貝木は首を傾げるようにして、言う。
もう目を合わせもしない戦場ヶ原に対して。
「言いたいことがあればいくらでも聞いてやるのだぞ、戦場ヶ原。積もり積もった積年の思いが――あるのだろう」
貝木は。
詰め寄るように――戦場ヶ原に言う。
「俺のそういうところが、どうなんだ?」
「…………」
無言か、と貝木は言う。
酷く落胆したように。
「本当につまらん女に育ったな、戦場ヶ原」
「…………」
「昔のお前は、劇的ではなくとも最高ではあったぞ。実に騙し甲斐があった、詐欺師としては珍重《ちんちょう》すべき素材だった。今のお前は本当につまらん。贅肉《ぜいにく》にまみれ、重くなったな」
「…………」
「蒔《ま》いておいた種が腐ったか。こんなことなら、お前のことなど忘れたままでいたかった。ならば俺の曖昧な記憶の中で、お前はいつまでも輝き続けていられたというのに」
「…………うるさい」
戦場ヶ原は呻くように――言った。
無表情のままで――しかし。
視線を戻し、強く、貝木を睨み据えて。
「昔の私には何を言っても構わない、でも、今の私を侮辱しないで――阿良々木くんは私を好きだと言ってくれている。今の私をよ。だから私は今の私を気に入っているの。私は今の私を否定する言葉を聞き流せない」
「なんと。お前達はそういう関係か」
貝木はその事実に、本当に驚いたようだった――戦場ヶ原に負けず劣らず表情の動かないこの男が、本気で意外そうな顔を見せた。
そして、
「そうかそうか、そういうことか。ならばもう何も言うまい。馬に蹴られて死ぬ気もない」
と――僕と戦場ヶ原の間を抜ける。
僕達に背中を向ける。
「それでいいと言うならば償いはしない。俺もあえて金にならないことはしたくないからな。この町から黙って消えよう。明日には俺はもういない。それでいいだろう、戦場ヶ原」
「……ひとつだけ、答えて」
戦場ヶ原は。
その背中に、静かに問いかける。
「どうしてこの町に戻ってきたの。ここは既に、あなたが一度去った場所でしょう」
「言ったろう。前に来たときのことなど忘れている。お前から電話を受けて初めて、前にここで仕事をしたことがあったのを思い出した――その程度だ」
「……その程度」
「吸血鬼[#「吸血鬼」に傍点]」
いきなり。
ぎょっとするような単語を、貝木は言った。
「怪異の王とも言える吸血鬼がこの町に出現したという馬鹿げた話を聞いたから[#「怪異の王とも言える吸血鬼がこの町に出現したという馬鹿げた話を聞いたから」に傍点]――というのが、強いて挙げるべき理由だな。そういう場所では、オカルトがらみの仕事の進みがよいのだ。怪異的な吹き溜まりとなるからな――もっとも、俺は怪異など信じていないが」
「…………」
僕は。
もう一度――自分の影に目を落とした。
何の反応もない。
まだ夕方だから――寝ているのだろう。
あるいは、聞いていて、尚《なお》無言なのか。
吸血鬼。
怪異の王――怪異殺し。
鉄血にして熱血にして冷血の――吸血鬼。
「そうそう、戦場ヶ原」
もう何も言うまい、と言いながら。
最後に、貝木は言った――振り向かないまま。
「いいことを教えておいてやろう」
「いらないわ」
「かつてお前に乱暴しようとした男の話だ。車に轢《ひ》かれて死んだらしいぞ。お前とは何の関係もない場所で、お前とは何の関係もなく――そして、何のドラマもなく」
貝木は、何と言うこともない口調で。
足を前へと進めながら――淡々と言う。
「お前が気に病んでいる過去などその程度だ。決別するだけの価値もない。お前を傷つけた男が、いつかより強き障害となってお前の前に現れることもないし、お前から離れた母親がいつか悔い改めてお前のところに戻ってくることもない。人生とはそういうものだ、過去は過ぎ去った時点で既に終息している。今回の件からお前が得るべき教訓は、人生に劇的なことを期待してはならない――ということだ」
「……どうせ、それも嘘でしょう」
戦場ヶ原は――平坦な声で。
しかし、小さな声で――かろうじて言い返す。
「私のことを今朝まで忘れていた男が、私に乱暴しようとした男のことを、知っているはずがないじゃない。お母さんのことだって――あなたに何がわかるというの。嫌がらせも大概にして頂戴――私を混乱させて、楽しいの」
「まさか、一銭の得にもならん。だが戦場ヶ原、ことを平面的に捉えるな――ひょっとしたら、俺がお前のことを忘れていたということのほうが嘘なのかもしれないだろう?」
「……嘘」
嘘だわ、と戦場ヶ原は言う。
その言葉は――どちらのことを言ったのか。
それを確認しようともせず。
貝木は――貝木泥舟は。
「嘘だろうとどうだろうと、所詮この世に真実などない。心配するな、お前がかつて俺に惚れていたことなど別に浮気には値しない[#「お前がかつて俺に惚れていたことなど別に浮気には値しない」に傍点]――今の恋人に対し誠実であろうとするあまり、俺を逆恨みされても困る。繰り返そう、過去は所詮過去に過ぎん。越えることにも――追いつくことにも価値はない。お前ともあろう女がくだらん思いに縛られるな。精々そこの男と幸せに過ごせ」
さらばだ、と。
別れ言葉を決して口にしなかった忍野とは違い、最後にそんな挨拶を、しかし誠意の欠片《かけら》もなく、まるで乱暴に叩きつけるように口にして――そして貝木泥舟は、僕と戦場ヶ原の前から姿を消した。
僕は。
そして戦場ヶ原は。
しばらくの間――身動きもできなかった。
望み通り。
これ以上ない結末である。
にもかかわらず――なんだろう、この無力感は。
敗北感とも違う、虚無感は。
残念ながら、こんなざまじゃあ――とてもじゃないが、火憐から惚れられるほどの格好良さはないだろう。
それでも、僕の悔しさはともかくとして。
彼女の悔しさだけは――晴らせた気もする。
それで――一応の、及第点なのだろう。
「……お前、あいつに惚れてたの?」
沈黙を破る最初の会話としてはどうかと、自分でも思ったが――しかしすんなりと聞き流すことは難しく、僕は、そんな質問を、戦場ヶ原にした。
女々《めめ》しいかもしれないが。
訊かずにはいられなかった。
「何それ。阿良々木くんは今、付き合っている彼女の処女性を確認したのかしら?」
案の定、戦場ヶ原からは辛辣な反応が返ってくる。
そう返されては言葉もない。
そんなつもりはなかったが、しかしこの場合、そう思われることは、甘んじて受け入れなければならないだろう。
戦場ヶ原はしかし、無闇に追及しては来ず、
「そんなわけないでしょう」
と言った。
「ありえないわよ、ただのあいつの勘違い。思い上がりもはなはだしいわ、気持ち悪い」
とても冷たい声で――戦場ヶ原は言う。
多少の苛立ちを感じさせる無表情だった。
「ただ――あの頃の私は、私を助けてくれる人がいたら、それがどんな人間であれ、王子様のように捉えたでしょうから。あの詐欺師を、多少なりとも好意的に見たことは否めないわ」
まだ一人目だったし――と。
彼女はついでのように付け加えた。
確かに。
誰よりも諦念《ていねん》に満ちながら、誰よりも諦めの悪かった戦場ヶ原なら――
諦めて、捨てて。
諦めず、捨てなかった戦場ヶ原ひたぎなら。
「いつか話したことだから、別に蒸し返すつもりはないけれど……もしも阿良々木くん以外の人が私を助けてくれていたなら――私はその人のことを好きになっていたのかもしれないわね」
ふと、戦場ヶ原はそう呟いた。
そして、僕に言葉を挟む暇も与えず、
「そう考えたら――虫唾《むしず》が走るわ」
と、そう続けた。
「私を助けてくれたのが阿良々木くんで――本当によかった」
「…………」
僕は。
何か言おうとして、それに失敗し、結局はいつか言ったように、
「忍野に言わせりゃ、お前がひとりで助かっただけなんだろうけどな」
なんて、そんな台詞を言うだけだった。
畜生。
こういうときに格好いい台詞を返せるようになったら、僕も一人前なんだろうけどな。
情けない話だ。
僕の言葉に、戦場ヶ原は言い返すでもなく、ただ小さく、「そうかもね」と、頷いた。
「お前が忍野を嫌っていた理由が、貝木を見てたらわかった気がするよ」
「忍野さんは嫌い。貝木は――憎い、よ。それは大きな違いだわ」
戦場ヶ原は言って、肩を竦めた。
「帰りましょう。もう日が沈む――無駄な時間を費やしてしまったような気さえする。まあそれでも、阿良々木くんとあの男が違う形で出会っていなくてよかったと、そう結論しておくわ」
「……確かにな」
その点は戦場ヶ原の言う通りだ。
拉致監禁はやり過ぎにしても、先手を打ってもらったのは助かった――相容れないどころの話ではない。
相性が最悪だ。
敵というより――天敵だった。
「次に会ったら殺し合いになってもおかしくない」
戦場ヶ原に言っていい言葉ではなかったろうが、しかし僕としては、大した考えもなく、そう言うほかなかった。
それが。
貝木泥舟という男に対する、僕からの遠慮|忌憚《きたん》のない感想だった。
つまり。
今回の件から僕が得るべき教訓は、この僕、阿良々木暦は、一生を通じてもう二度と――貝木泥舟に会ってはならないということなのだ。
「何のカタストロフもなかったけれど、これが多分、ベストの形だ」
「カスタトロフ? それ、どんな肉料理だったかしら?」
戦場ヶ原は冷めた口調で言う。
僕よりも強く――そう思っているはずなのに。
「阿良々木くん。形は違えどあれはあれで信念のある正義――だなんて思ったら負けよ。気をつけて」
「……気をつける」
「帰りましょう」
戦場ヶ原は、繰り返して、そう言った。
何事もなかったかのように。
「ああ、そうだ。戦場ヶ原、帰る前に例のお願いってのを聞かせろよ――伏線をほったらかしにすんな。実を言うと不安で不安でしょうがない。僕は一体、何をさせられるんだ?」
「別に、大したことじゃないわ。あの詐欺師に言われるまでもなく、それは決別するだけの価値もないものかもしれないけれど、私は今、過去に対してけじめをつけた。そのつもりよ」
「けじめか」
それは。
誰もが、つけなければならないことだ。
戦場ヶ原も、羽川も――僕も。
あるいは忍も。
「褒めて」
「……それが、引き換えのお願いなのか?」
「違うわよ。大体、阿良々木くんごときに褒められても、嬉しくもなんともないわ。ただ、阿良々木くんが果たすべき当然の義務を忘れているようだから、教えてあげただけ」
「…………」
この女は。
本当、鉄か何かでできてるのか。
「鉄? そんなわけないじゃない――私は柔らかくって可愛らしい女の子よ。あんな男に色々言いたい放題言われちゃって、今だって酷く傷ついているわ。最早まともに立ってもいられないくらい」
「嘘つけ」
詐欺師かお前は、と突っ込むと。
「本当よ。だから」
なんて。
戦場ヶ原は――いつも通りの。
本当にいつも通りの無表情で、いやむしろちょっと怒っているくらいの無表情で、実にフラットな調子で――僕に対するそのお願いを、口にした。
「今夜は私に、優しくしなさい」
022
後日談というか、今回のオチ。
翌日、いつもとはあべこべで二人の妹、火憐と月火を、僕のほうが叩き起こすことになった。ふたりは二段ベッドの上の段で、裸で抱き合うようにして眠っていた。風邪は人肌で暖めたら治るというのも、それはそれで都市伝説の一種だが、起こす立場としてはドン引きの光景ではあった。
仲良過ぎんだよ、お前ら。
しかし、怪異には怪異、都市伝説には都市伝説、忍の言葉を借りればおまじないにはおまじない――果たして、貝木が言ったところの三日を待たず、この日の朝には火憐の体調は戻っていた。
むしろ元気過ぎるくらいだった。
普段から健康優良児だからだろう、体調の悪い状態というのは火憐にとって半端じゃないストレスだったようで、
「あちょーっ!」
と、無意味に叫んだりしていた。
だからお前、どんな道場に通ってんだよ。
今度見学に行かせろ。
そう言えば、火憐が病身を押してこっそりと外出したことについて、月火は少なからずお冠だったのだが(抜け出したことではなく、自分に黙って抜け出したことに怒っていた)、それが一体どういう経緯を辿って、あの百合姉妹的光景に至ったのかは謎だった。
まあ。
彼女達もきっと、正しい喧嘩をしたのだろう。
朝ごはんを食べた後、両親が仕事に行くのを見送って、それから僕は、火憐と月火を僕の部屋に呼んで、大雑把《おおざっぱ》な説明をした。
貝木は既にこの町にいないこと。
よって、これ以上の被害は出ないこと。
その二点である。
怪異そのもののことについては、かなり悩みはしたものの、今回はとりあえず伏せておくことにした。火憐の受けた被害はプラシーボ効果や瞬間催眠で十分に説明のつくものだし、今この時点で、忍のことまで話すのは厄介過ぎる。間接的にとは言え、忍は火憐にフルボッコにされているのだ。今紹介するのはいくらなんでもタイミングが悪過ぎる。
ただ、そう遠くない内に紹介することにはなるのだろうと。
そんな不思議な確信があった。
こいつらに秘密を持ち続けることなんて――
きっと、僕には無理だ。
七月三十一日、月曜日――奇数日なので、今日の家庭教師は羽川である。おとといのドタキャンに対する羽川の埋め合わせがどういうものなのか、楽しみではあるが――ある意味怖くもあった。
で、僕が、そう言えば今日は羽川から自転車を返してもらわないとな、とか考えながら図書館に向かう準備をしていると。
「兄ちゃん、ちょっと出掛けてくるよ」
「お兄ちゃん、かなり出掛けてくるね」
なんて、火憐と月火が僕の脇をすり抜けていく。
火憐は学校指定のジャージ姿、月火は学校指定の制服姿である。
「どこ行くんだよ、百合姉妹」
「詐欺師がいなくっても『おまじない』がいきなり消えてなくなるわけじゃねーんだろ? 悪化した人間関係が回復するわけじゃねーんだろ? これ以上の被害が出ないってだけで、それで被害に遭った子が救われるってわけでもねーんだろ?」
火憐は靴を履きながら、そう言った。
月火は既に一歩外に出ている。
「そりゃまあ。携帯が壊されたからその後のケアはできないって言ってたし――元からする気があったとも思わねえけど」
「うん。だったらそういう後始末も、私達のやりたいことだから」
爽やかな笑顔でそう言い切る月火。
その言葉にはまるで迷いがない。
「……正義の味方ごっこも大概にしろよ」
僕がいつものように言うと、
「ごっこじゃなくて正義の味方だよ、兄ちゃん」
「正義の味方じゃなくて正義そのものだよ、お兄ちゃん」
行ってきます、なんて。
そんな、まるで懲りない言葉と共に――僕の誇り。
僕の自慢の妹達。
偽物ゆえに、きっと何よりも本物に近い彼女達。
ファイヤーシスターズは火のついた花火のような勢いで、出撃していったのだった。
あとがき
最近とみに考えるようなことなのですが、人間というのは決して一面的なものではなく、およそ多元的な生き物であり、だからこそ非常に複雑に入り組んでいて多岐に亘《わた》り、自分が見る誰かと自分以外の人間が見る誰かというのは、もうまったくの別人のようなのでほとほと困ります。いやもっと言ってしまえば、自分の理解している自分と自分以外の人間が理解している自分でさえ、それはきっと別人なのでしょう。また自分以外の人間の見ている自分というのも唯一のイメージではなくそれぞれがそれぞれのイメージを保有していて、やっぱりそれぞれに別人と言えてしまうに違いありません。この場合の別人は最早他人と同義であり、『じゃあ自分って一体何!?』と、若者が自分探しの旅に出てしまうのも得心せざるを得ないでしょう。それを単なる誤解と言ってしまうのは簡単ですけれど、しかし見ている目が違えば見え方が違うのも当たり前の話であり、そういった現象を一概に否定することは不可能です。誰かから見た偽物が誰かから見た本物であり誰かから見た本物が誰かから見た偽物であるなんてことは、この宇宙にはあまねくよくあることで、考えてみればそんな普遍的なことをそもそも俎上《そじょう》に上げること自体が間違っているのかもしれません。ていうかそもそもと言うならそもそも、人間なんて相手によって態度を変える生き物ですから、相手によって評価が変わるのは至極当然極まりない話であり、だったら自分に対して一番正しい評価ができるのはやっぱり自分だけなのかもしれません。だけど自分を知るっていうのは、身の程を弁《わきま》えるって意味になっちゃいますよね?
そんなわけで『化物語』の後日談・『偽物語』の、まずは上巻をお届けします。本編『化物語』、あるいは前日談の『傷物語』の頃から一部で物議をかもしていた、阿良々木姉妹が満を持しての登場と相成りました。まあここから先は裏話ですけれど、本来本書は表に出るはずのない小説で、実際、書き終わったあとも作者はしばらくの間それを誰にも黙っていました。そのままプリントアウトさえせず闇に葬ってしまおう、つまり、この小説はもう僕が独り占めしてしまおうと企んでいたわけですが、要するにはそんな感じで、本書は二百パーセント趣味で書かれた小説です。変な制約とか変なしがらみとかがなく、心の底から自由に小説を書けるというのはとても楽しいと言えましょう。それはプロとしてどうなの? という疑問もないでもありませんが、しかしそういう、いい意味でのアマチュア精神は、個人的にはいつまでも失いたくないと思います。そんな感じで『第六話 かれんビー』、『偽物語(上)』でした。
さて今回、挿絵担当のVOFANさんがやってくださいました。描いていただいた阿良々木火憐のイラストは実に素晴らしい出来栄えで、これはもう作者としてはただただ感謝の一言に尽きます。馬鹿な掛け合いに満ちた小説を書きたいという僕のわがままに付き合ってくださった読者の皆様にも、同様の感謝を。
それではまたいずれ『偽物語(下)』、もうひとつのアフターストーリー、阿良々木月火の話でお会いしましょう――もしも公開する気になったらの話ですけれども。
西尾維新
初出 本作品は、書き下ろしです。
2008年9月1日 第1刷発行
2008/12/29 作成