DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件
西尾維新×大場つぐみ×小畑健
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)FBI捜査官|南空《み そら》ナオミ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「○○」に傍点]
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INDEX
HOW TO USE IT ――――7
page.1 通信――――――13
page.2 竜崎――――――39
page.3 反対――――――65
page.4 死神――――――89
page.5 時計――――――105
page.6 失敗――――――129
last page ――――――153
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装丁・本文デザイン◆斉藤昭+山口美幸(Veia)
イラストレーション・小畑健
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。
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登場人物紹介
L―――――――――――――――――名探偵
南空ナオミ―――――――――――――FBI捜査官
ビヨンド・バースデイ――――――――犯人
レイ・ペンバー―――――――――――FBI捜査官
ビリーヴ・ブライズメイド――――――第一の被害者
クオーター・クイーン――――――――第二の被害者
バックヤード・ボトムスラッシュ―――第三の被害者
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「第三は、少し微妙な問題だ。事件が終局に達するまでのあいだ、僕はひとつの抽象的なまなざしに還元される。抽象的な眼が、かりに僕という肉体を外套のように着けて歩いていると考えてもらいたい。そんな存在にたいして、なにか社会的な責任だとか人間的な反応だとか、そうした種類のものを期待しても無駄だ」
[#地付き]――――笠井潔『バイバイ、エンジェル』
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HOW TO USE IT
ビヨンド・バースデイが第三の殺人を犯した際、彼は一つの実験的試みを行っていた。それは、内臓を破損させない形での内出血で、果たして人間を絶命させうるかどうかという試みだった。具体的には、薬品で意識を失わせた被害者を、身動きの取れない状態に拘束した上で、その左腕を、皮膚を破らないように配慮しながら徹底的に殴打し続けるという試み――つまり左腕の内出血による出血多量死を目論《もくろ 》んだわけだが、しかしこの試みは、残念ながら失敗に終わった。その左腕が鬱血《うっけつ》し、全面が赤紫色になったところで、被害者は死ななかった。びくびくと、奇妙な痙攣《けいれん》をした程度で、命には全く別状はないようだった。腕一本分を満たす血液が失われれば生命は停止するはずだという読みがあったのだが、どうやらそれは甘い読みだったようだ。もっとも、そんな殺し方自体は、ビヨンド・バースデイにとって比較的重要度の低い遊び、余興であって、まさしくただの実験的試みでしかなかったので、成功しようが失敗しようが、どうでもいいと言えばどうでもよかった。ビヨンド・バースデイは軽く肩を竦《すく》めてから、ナイフを取り出して――いや。
いや、いや、いや。
こんな語り方はやめよう、こんな語り口はやめよう、こんな建前的な記述《ノ ー ト》のとり方で、最後の一行まで文章が持つわけがない。頑張ったところで、どこかで嫌気が差し、投げ出してしまうのが関の山だ。歴史上もっとも有名な狂言回し、ホールデン・コーンフィールド風に言うならば、ビヨンド・バースデイの軌跡や思考を追うことがこの場合の僕の目的にそぐうわけではないし(たとえ僕が立場上、いささか以上の割合で彼に共感を覚えているとしてもだ)、運筆絶妙の文体で彼の手による一連の殺人事件を語ったところで、そんなことでこの手記《ノ ー ト》が記録《ノ ー ト》としての価値を高めるわけではない。これは報告《レポート》でもなければ小説《ノ ベ ル》でもないのだ。そして、大体、仮にそんなことになったところで、僕は嬉しくもなんともない。紋切り型のありきたりな言い振りで申し訳ない限りだが、こういった文章がこうして人目に触れている時点で、恐らく僕は生きてはいないだろうから。
世紀の名探偵Lと猟奇の殺人鬼キラとの対決の結果は、この手記《ノ ー ト》を読んでいるような人間にとっては、強いて言うまでもないことだ。道具立てがギロチンから多少ばかりファンタジックにアレンジされたというだけのことで、結局のところ単なる恐怖政治を敷こうとした殺人鬼の思想は、馬鹿馬鹿しいほど幼稚極まりないものだったが、それに賛同する程度には、勝負の神様も幼稚な生き物だったのかもしれない。密告と冤罪《えんざい》に満ちた殺伐とした社会をこそ、神様はお望みだったのかもしれない。ひょっとするとそれは、神と死神との違いを、ネガティヴな意味で考えさせられるエピソードなのかもしれないけれど、少なくとも僕はそんなことを考えるつもりはない。
キラなんてどうでもいい。
僕にとって重要なのはあくまでLだ。
L。
その溢《あふ》れんばかりの才能から鑑《かんが》みれば、あまりにも早過ぎる、理不尽な死を迎えてしまった、世紀の名探偵L。公式の記録に残っているだけで三千五百を超える難事件を解決し、刑務所に押し込んだ犯人の数はその三倍を数える。いち個人でありながら世界中の捜査機関を自由自在に動かすことができるだけの圧倒的権力を持ち、ありとあらゆる称賛の称号を惜しみなく冠され、しかしそれでいて人前には決して姿を現さない――僕はそんな偉大なる彼の言葉を、なるたけ正確な形で、誰かに伝えたいと思う。誰かに遺《のこ》したいと思う。一度はLを継ぐ者と言われたことがある者の役目として、継ぐことはできなくとも、伝え、遺すことができるのなら。
だからこれはLの伝説《ノ ー ト》であり、僕の遺書《ノ ー ト》だ。僕ではない者から、世界ではない場所に向けられたダイイングメッセージだ。実質的な可能性としては、あの頭でっかちのニアの野郎が、この手記《ノ ー ト》を一番最初に発見するケースがもっとも考えられるのだろうけれど、もしそうだったとしても、今すぐこの文章《ノ ー ト》を破り捨てて焼き払えとは言うまい。あいつの知らないLを僕が知っていたことを、あいつが痛感してくれれば、それでいいだろう。あるいは殺人鬼キラの手に、この文章《ノ ー ト》が渡ることもあるのかもしれないのだけれど、しかし、それこそ僕の望むところだ。この文章《ノ ー ト》が、非現実的な殺人ノートの能力と頭の悪い死神の手助けに、終始おんぶにだっこしているらしい調子づいた殺人鬼にとって、本来自分はLの足下にも及ばない塵芥《ちりあくた》だったということを知るきっかけになるとすれば、それは十分に重畳《ちょうじょう》と言うべきだ。
僕は、LにLとして会ったことのある数少ない人間の内の一人だ。いつ、どんなタイミングでLと会ったのかは、僕の人生におけるたった一つの大事な記憶として、ここで明かすつもりはないのだが、僕はその際、Lから、三つの手柄話を聞かされた――ビヨンド・バースデイにまつわるエピソードは、その中の一つである。こんなもって回った言い方をせず、ロサンゼルスBB連続殺人事件と言えば、それなりに聞き覚えのある者も多いのではないだろうか。その件にLが――と言うより、僕が十五歳まで育ったワイミーズハウスが、深く関わっていたことは、さすがに明らかにされてはいないのだが、つまりそういうことである。十人以上の被害者、あるいは百万ドル以上の被害額が出ない事件には原則として関与しないと言われているLが、三人だか四人だかの命が失われた程度のあの事件に、遅ればせながらも積極的に参戦した理由がそこにある。詳しいことは後述するが、そういう意味ではLにとっても、あるいは僕にとっても、それに、ひょっとしたらキラにとってさえも、あの事件、ロサンゼルスBB連続殺人事件は、何らかの分水嶺《ぶんすいれい》に位置づけられる、記念碑的な出来事であったのかもしれない。
何故なら。
あれこそ、Lが初めて竜崎《りゅうざき》と名乗った事件なのだから。
それでは、ビヨンド・バースデイが第三の殺人を何を思いながらどういう風に犯したかなんて、僕にとっては全く興味がない、つまらない描写は丸ごとすっ飛ばすことにして、勿論《もちろん》、第二の殺人、第一の殺人と、殺しの描写を遡《さかのぼ》るようなこともせず、時計の針を翌日の早朝に、つまり、世紀の名探偵Lが、事件の捜査に乗り出した、その光り輝く瞬間へと、アジャストしよう――ああ、そうだ、危うく忘れるところだった。頭でっかちのニアの野郎でも調子づいた殺人鬼でもない第三者としての人間が、この文章《ノ ー ト 》を読んでいる可能性を、形式上だけであってもとりあえずは考慮することにして、僕はこの前置きの最後に、ナレーター兼ナビゲーター、ストーリーテラーとしての署名を残しておかねばならないのだった。もっとも、その二人以外にとっては、そんなこと、逆にどうでもいいことかもしれないが――僕は旧世界のかませ犬、犬死のベストドレッサー、ミハエル・ケール。メロと名乗り、そう呼ばせていたこともあったが、それはもう、昔の話だ。
いい思い出で、悪い夢だ。
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page.1 通信
今でこそロサンゼルスBB連続殺人事件という飛び抜けてスマートな固有名詞が与えられているものの、事件の最中、事件の渦中においては、それはそんな気取った風には一切呼ばれてはおらず、『藁《わら》人形殺人事件』だったり『LA連続密室殺人事件』だったり、とにかく至極ダサい名称で、メディアを賑わせていた。その事実は、事件の犯人であるところのビヨンド・バースデイにとってはいくらか不本意なことだったかもしれないが、どうだろう、僕としては案外、そちらの方が実際的な状況をよく表わしているかのようにも思える。ともかく、ビヨンド・バースデイの手による第三の殺人が行われた翌日、現地時刻で二〇〇二年の八月十四日午前八時十五分、FBI捜査官、南空《み そら》ナオミは一人暮らしのアパートメントの一室、そのベッドの上で、ぼんやりと眼を覚ました。色の濃いレザーパンツに、同じくレザーのジャケットをコーディネートした服装だったが、それは何も、彼女が寝巻きとしてその格好を採用しているということを示す証拠ではなく、夜中にバイクで数時間、何の意味もない気晴らしとして町中《まちなか》を走り回った挙句《あげく 》、帰宅後、そのままシャワーも浴びずにベッドに倒れ込んで、泥のように深く眠ってしまったというだけだ。事件の名称と同じく、今でこそロサンゼルスBB連続殺人事件解決の立役者としてその名を轟《とどろ》かせている南空ではあるが、実を言うと、この事件がリアルタイムで起きていたその当時、彼女はFBI捜査官としては、停職中の身体だった。記録の上では休職扱いだけれど、それはただ単に、上層部や同僚からの圧力に対抗しうる力を、有形無形を問わず、彼女が一つも持っていなかったということである。休職、停職、夏休み。ここでは、その停職の理由までを詳《つまび》らかにする必要はないだろう。確かなのは、ここはアメリカ合衆国で、彼女は日本人で、女性で、しかも優秀で、そしてFBIは組織だというくらいであり、そしてそれで十分だ。勿論《もちろん》、彼女に対して好意的な仲間もいるし、それだからこそ彼女も、これまで、その組織の中で活躍してこられたのだったが、しかし先月、それこそロサンゼルスBB連続殺人事件が起きる直前に、南空は自分でも信じられないような大きなミスをやらかしてしまい――そして今に至る、だった。バイクで町中を走った程度で、気が晴れるような問題ではなかった。
南空はこのとき、FBIを辞めて、全てを捨てて日本に帰ろうかと、かなり本気で考えていた。組織が馬鹿馬鹿しくなったというのも勿論あったが、自分がやらかしてしまった大きなミスというのが、勝ち過ぎる重荷として、彼女の心の大半を占めていた。それはありえない仮定ではあるが、周囲からの圧力というものがたとえなかったとしても、南空は自ら休職を願い出ていただろう。
そして――あるいは退職も。
汗が気持ち悪い、とりあえずシャワーを浴びようと、南空はベッドから緩慢に身体を起こしたが、そのとき、机の上に設置してあるノートパソコンが、どうやら起動しているらしいことに気付いた。しかし起動させた憶《おぼ》えはない――何せ自分は、今目覚めたところなのだ。ならば、夜中に帰宅したときに、電源を入れたということなのか? そしてそれをうっかり、起動させたままに、眠ってしまった……そんな憶えもないが、しかし、ああしてスクリーンセーバーが画面に表示されている以上、そういうことなのだろう……か? パソコンの電源を入れるような余裕があったのだとすれば、着替える時間くらいは、ありそうなものだけれど。南空はジャケットとパンツを脱いで、身体を楽にしてからベッドを降り、机に近付いていき、マウスに軽く触れる。その行為によってスクリーンセーバーが解除され――そこで南空は、更に首を傾《かし》げることになる。メインのメーラーが起動していて、新着メールのアラートを、点滅によって示していたのだ。パソコンをつけたまま眠ってしまったことはあっても、果たしてこんな作業の途中で眠ってしまうなんてことがあるだろうか……と、南空は思いながら、とりあえずは、届いている新着メールをチェックする。新着メールは一通だけ。差し出し主はレイ・ペンバー。それは南空の現在の恋人の名前で、彼もまた、FBIの捜査官だった。『好意的な仲間』の代表的な一人だ(とは言っても、ことあるごとに彼は南空に、「危険だから転職した方がいい」というような台詞を言うけれど)。休職期間の終了が近いから、何らかの事務的な連絡だろうか、それともと、南空が『件名・無題』をクリックすると――
南空ナオミ様
突然の連絡、不躾《ぶしつけ》で申し訳ありません。
ある事件を解決するにあたって、あなたに協力を要請したいと思います。もしも協力していただけるのであれば、ファニーディッシュのサーバー、第三セクションの三ブロック目に、八月十四日午前九時にアクセスしてください。五分間だけ回線を開放しておきます(ファイアウォールは自分で破ってください)。
[#地から2字上げ]L
追伸・あなたと連絡をとるにあたって、あなたのご友人のアドレスを拝借させていただきました。もっとも手軽かつ安全にあなたと連絡をとるための方便だったと、ご寛恕《かんじょ》ください。なお、協力していただけるにしても協力していただけないにしても、このメールを読んだパソコンは、二十四時間以内に本体ごと廃棄していただければ。
「…………」
読み終わって、南空は、もう一度文章を最初から読み、そして、最後にもう一度、署名の部分を確認する。
L。
それは、休職中とは言えいやしくも捜査機関に身を置く者としては、知らないはずのない――いや、知らずにいることが許されない名前だった。レイ・ペンバーの、あるいは他の人物の、ちょっとした悪戯《いたずら》であるという可能性を一応考えてはみるものの、しかしこの署名が偽物であるとは思えない。Lが人前に姿を現さないのをいいことに、勝手にLを名乗った探偵達が辿《たど》った末路を聞いている南空には、今この世界に、悪戯でだってLを名乗る人間がいるはずがないと、断定できる。
ならば。
「……面倒臭いなあ」
ちらりと可愛らしい本音を覗かせたところで、まずは予定通り、南空はシャワーを浴びて一晩分の疲れを洗い流し、長い黒髪をじっくりと乾かしてから、熱々のコーヒーを喉の奥に流し込む。
まあ、考える振りをしてみたところで、どの道選択肢なんてあるはずもない。Lから捜査協力の要請があって、FBI捜査官として、しかもペーペーのFBI捜査官として、それを断れるわけなどないのだ。ただし、この頃の南空は、Lという『名探偵』のことを、あまり快く思ってはいなかったので、自分を納得させる意味でも、躊躇する演技をしないわけにはいかなかったのである。南空ナオミのパーソナリティを考えれば、その理由は推《お》して知るべしと言ったところだ。また、どうやら、ノートパソコンが勝手に起動していたのは、Lによるハッキングだったと考えるのが妥当のようだったが、先月買い換えたばかりの新型ラップトップを理不尽にも廃棄しなければならない現実に、少々落ち込んでいるというのもあった。
「別にいいけど……ああ、まあ、よくはないけれど……」
選択肢なんてあるはずもない。
八時五十五分を過ぎたところで、南空は、残りの寿命が二十三時間ちょっとに指定されたパソコンの前に座り、Lに指示された通りの行動をとる。ハッキングは専門ではなかったが、捜査官としての嗜《たしな》み程度のスキルはあった。
アクセスに成功した、と思った瞬間、パソコンの画面が真っ白になった。すわ何事かと南空は身構えたが、その画面の中心に、綺麗《き れい》にレタリングされた飾り文字でアルファベットの『L』という文字が浮かんできたのを見、ほっと胸を撫で下ろした。
「南空ナオミさん」
ややあって、パソコンのスピーカーから、そんな声が発せられた。あからさまな合成音声。しかしそれこそが、世界中の捜査機関で『Lの声』として認識されている音声だった。南空も、これまでに何度か聞いたことがある――しかしさすがに、こうして直接、自分に呼びかけられたのは、初めてだった。テレビ番組の中で自分の名前が紹介されたときのような、変な気分だった――もっとも、『ような』と言っても南空には、テレビ番組の中で自分の名前が紹介された経験もないので、あくまでそれは想像だが。
「私はLです」
「どうも……」
と、南空は言いかけて、挨拶に意味がないことに気付く。マイクが内蔵されているタイプのパソコンではない、向こうの声は聞こえても、こちらの声は聞こえないのだ。「南空ナオミです。こうして話すことができて光栄です、L」と、打鍵《だ けん》した。アクセスが万全であれば、これで伝わるはずだ。
「南空ナオミさん、現在ロサンゼルスで起こっている殺人事件をご存知でしょうか?」
南空の言葉に対する受けもなく、Lは早速本題に入った。九時五分までに通信を終えなければならないからだろうが、しかし、その物腰、その姿勢も、いちいち南空の癇《かん》に障《さわ》る。まるでこちらが協力することが当然のようなその態度――実際にその通りであるのだとしても、相手のブライドを立ててやる程度の気遣いが、そこにあってもいいとは思う。南空は苛立《いらだ 》ち混じりにカタカタと、強い調子でキーを打つ。
「ロサンゼルスで起こっている殺人事件を全て把握できるほど、私は有能な人間ではありません」
「そうですか。私は把握しています」
皮肉を返したら自慢話をされた。
Lはそのまま続ける。
「昨日の時点で三人の被害者が出ている連続殺人事件のことです――これから被害者は更に増えるかもしれません。HNNニュースでは『藁人形殺人事件』として報道されています」
「『藁人形殺人事件』――」
知らなかった。休職中は、その手のニュースを意図的に避けるようにしてきたからだ。高校卒業まで日本で育った南空にとって、藁人形というのはそれほど馴染みのない言葉でもなかったが、しかし、それでも英語の発音でその言葉を言われると、そこにはそれなりの違和感があった。
「私はこの事件を解決したい」
Lは言った。
「この事件の犯人を逮捕しなければなりません。そのためにはあなたの協力が不可欠です、南空ナオミさん」
「どうして、私が?」
短い文章を、南空は入力した。その文章が『どうして私の協力が不可欠なのか』という意味に取られるか、『どうして私があなたに協力しなければならないのか』という意味に取られるかは、とりあえず相手任せにすることにしたが、どうやらLは、何の迷いもなく前者の意味だと解釈したようだった。とことん皮肉が通じない。
「勿論あなたが優秀な捜査官だからです、南空ナオミさん」
「私は現在、休職中の身ですが……」
「知っています。好都合です」
被害者が三人――と言っていた。
勿論、被害者にもよるだろうが、Lの口振りを聞く限りにおいて、FBIが動くほどの事件だとは南空には思えない。だからこそFBI長官を通してではなく、直接自分にコンタクトをとってきたのだろうという推測は成り立つが、しかし如何《い か ん》せん、ことが唐突過ぎた。その上、考える時間をほとんど与えられていない。強いて考えるとするなら、FBIが動くほどの事件でもなさそうな殺人に[#「FBIが動くほどの事件でもなさそうな殺人に」に傍点]、どうしてLが動くのか[#「どうしてLが動くのか」に傍点]……という点だったが、それもまた、こんなパソコン越しでは、答が出るはずのない問題だった。
時計を見る。
九時五分まで、残り一分もない。
「わかりました。できる限りのことはさせてもらおうと思います」
結局、南空はそう打鍵した。
即座にLから返答がある。
「ありがとうございます。あなたならきっとそう言ってくださると思っていました」
全く誠意のこもっていない声音《こわね 》だった。
合成音声ゆえに、仕方のないことではあるが。
「では、以降、私と連絡をとるための手段を指示したいと思います。時間がありませんので、手短に説明しますが、南空ナオミさん、まずは――」
● ●
まずは、ロサンゼルスBB連続殺人事件の概要を、知っておいてもらわなくてはならないだろう。二〇〇二年七月三十一日、ハリウッドのインシストストリート沿いの一軒家のベッドルームにおいて、一人暮らしの男性が、殺された。彼の名前はビリーヴ・ブライズメイド――職業はフリーライター。あちこちの雑誌に色々な名前で様々な記事を書いていた、業界では名の通ったライターだ――なんて言っても何の説明にもならないだろうが、しかし、現実的にもそんな感じだった。死因は絞殺。薬品で意識を奪われた後、紐のようなもので後ろから首を絞められたらしかった。争った形跡はなし――比較的手際のよい殺人と言えた。第二の殺人が起こったのは、その四日後、二〇〇二年八月四日。今度はダウンタウンのサードアヴェニューにあるアパートメントの一室で、クオーター・クイーンという名前の女性が殺された。こちらは撲殺。何らかの硬い棒状の凶器で、正面から脳天をかち割られていた。被害者はやはり、事前に薬品で意識を奪われていたようだ。どうしてこれが単独別個の殺人ではなく、『同一犯』による『第二の殺人』であると位置づけられたかと言うと、事件現場に、誰が見てもわかるような明白な共通項があったからだ。
現場の壁に藁人形が打ち付けられていたのである。
インシストストリートでは、四体。
サードアヴェニューでは、三体。
それぞれ、壁に打ち付けられていた。
第一の殺人の時点で藁人形のことは報道されていたので、厳密に言えば模倣犯の可能性も考えられなくはなかったのだが、その他にも細かい状況が色々と一致していたこともあり、警察ではこれを連続殺人事件として、捜査する方針が固まった。ただ、そうだとすれば、そこには大きな疑問があったのもまた事実だ――ビリーヴ・ブライズメイドとクオーター・クイーンの間には、何の関係性もなかったからだ。互いの携帯電話に互いの電話番号が入っているということはなかったし、互いの名刺ホルダーの中に互いの名刺が入っているということもなかった。そもそもクオーター・クイーンは携帯電話も名刺ホルダーも持っていなかった――彼女は十三歳の少女だったのだ。四十四歳、ベテランのフリー・ライターと、一体どんな関係があると言うのだろう。関係があるとするならば、事件当時旅行中だった少女の母親ということになるのだろうが、しかし、住んでいる場所も置かれている環境も全然違うこの二人から、積極的な関係性を見出すのは難しそうだった。古きよき時代の探偵小説風に言うならば、ミッシングリンクという奴だ――被害者同士の繋がりが、見つからなかった。捜査の焦点は、当然、そこにあてられたわけだが――そうこうしている内に、九日が経過し(第一の殺人の時点ではそうでもなかったが、この九日の間に、『藁人形殺人事件』として、メディアで取り上げられるようになった)、二〇〇二年八月十三日、第三の殺人が起こることになる。
壁には二体の藁人形。
殺人ごとに、藁人形が一体ずつ、減っている。
殺人現場はウエストサイドの、メトロレール、グラス駅そばの住宅街のテラスハウス、被害者は、バックヤード・ボトムスラッシュ。年齢は、まるで第一の被害者と第二の被害者の間を取ったかのように、二十八歳。性別は女性、職業はいわゆる銀行員だった。言うまでもなく、この被害者もまた、ビリーヴ・ブライズメイドとクオーター・クイーンの二人と、何の関係性も持っていない。どこかですれ違ったことがあるかどうかすら、怪しいだろう。死因は失血死――出血多量による。絞殺、撲殺、刺殺と、一回一回、殺人の手口を変えているその有様《ありさま》は、犯人がいちいち何かを試しているかのような不自然さを感じさせたが、しかし、そのどれも、手がかりらしい手がかりを残していないことが特徴だった。捜査をしようにも、犯人に繋がる材料が全く見つからないのだ――それはこの手の殺人事件としては、とても『奇妙』なことではあったが、とにかく、第三の殺人事件が起きたところで、警察の捜査は完全に行き詰まっていたと言っていい。犯人の手際は完全に警察の上を行っていた――なんて、別段、ビヨンド・バースデイを絶賛するようなつもりは、僕には全くないけれど、まあ、ここでは一応、彼の顔を立てておこうと思う。
そうそう、共通項と言うなら、藁人形の他にも、大きなものが更に一つ――三つの現場は、それぞれ、密室状況であったということだ。古きよき時代の探偵小説風に言うならば、クローズドルーム。もっとも、それについては、捜査班において、あまり重要視されていない事件の要素のようだったが……しかし、南空ナオミがLから捜査資料を受け取った段階で、もっとも気になったのは、その『密室状況』というキーワードだったという。
南空ナオミが、FBI捜査官ではなくいち個人として、Lの指揮の下、事件解決に乗り出したのは、結局何やかやあって、Lから要請があったその翌日、八月十五日のことだった。休職中なので、南空はバッヂも手錠も没収されている――権限についても装備についても、完全に一般人同様の状態で、南空はこの事件の捜査に関わることになったのだ。
とは言え、彼女自身は、それをあまり気にしてはいなかった――そもそも南空は、そういう身分権力をアテにした捜査を得意とするタイプの捜査官ではなかったからだ。多少やさぐれていて、精神的に荒れているところのあったコンディションでこの事件に挑まねばならなかった南空は不幸だったかもしれないが、その意味では、彼女はLに近しい感性を持っていたと言える。即ち、団体行動を苦手とし、組織のしがらみから抜けて一人で動く方が能力を発揮できるという点において――だからこそ、より一層、Lに対し、複雑至極な感情を抱かざるを得ないとも言えるだろう。
ともあれ、八月十五日の正午過ぎ、南空ナオミは第一の殺人の事件現場である、ハリウッドのインシストストリートを訪れていた。男性が一人暮らしをしていたにしてはやや大き過ぎるその家を目の前にして、南空は鞄から携帯電話を取り出し、指定された番号へと連絡を入れる。五重にスクランブルのかけられた、安全な回線と聞いていた。それはLにとって安全というだけではなく、休職中の南空にとっても安全という意味でもあった。
「L。現場に到着しました」
「お疲れ様です」
待ち構えていたように、例の合成音声が、電話から聞こえてきた。Lは一体全体どのような環境のどのような状況で、事件捜査にあたっているのだろうと、ついつい考えてしまうが、それは私にとってはどうでもいいことだと、南空はいらぬ考えを振り払い、「これから、どうしましょう?」と、Lに指示を仰いだ。
「南空ナオミさん、今、現場の中ですか? それとも外ですか?」
「外です。事件現場の通り向かいで、まだ敷地内には這入《は い 》っていません」
「では、中に這入ってください。鍵はかかっていないはずです。そのように手配しておきました」
「……それは、どうも」
手際のよいことで。
そんな嫌味を言いたい衝動を、ぐっと堪《こら》える。用意周到な人間と言えば、普通は尊敬の対象となりそうなものだったが、こういう準備のよさは、少なくとも南空にとっては、素直には認めがたいものだった。
門扉《もんぴ 》を開け、そのまま家の中に這入る。被害者が殺されたのはベッドルームとのことだった――FBI捜査官として様々な事件に関わってきた南空には、外側から家を見れば、その内部の構造は大体わかる。この手の造りならばベッドルームは一階にあるだろうと適当にアタリをつけ、そのとおりに移動する。事件が起きたのは今から丁度半月前ということになるが、管理業者が入っているのだろう、半月分のホコリが、たっぷりと廊下に積もっているというようなことはなかった。
「しかしL」
「なんでしょう」
「昨日いただいた資料によれば――というか、当然と言えば当然なのですが、現場検証ならば、地元の警察が既に済ませていますよね」
「はい」
「あなたは、どういう手段を取ったのかはわかりませんが、とにかく、その捜査資料を手にしている」
「はい」
…………。
はいじゃねえよ。
「なら、今更私が現場に来ることに、何の意味もないのではないでしょうか?」
「いいえ」
Lは言った。
「あなたには、警察の現場検証では見つからなかったものを見つけて欲しいと思っているのです」
「はあ……そりゃ明確ですね」
明確というより、そのままだ。
何の説明にもなっていない。
「それに、現場百遍と言いますから、少なくとも意味がないということはありません。事件からしばらく時間が経って、何かが浮かび上がっているということもあるかもしれません。南空ナオミさん、今、この事件において考えなければならないのは、まずは被害者同士の繋がりです。ビリーヴ・ブライズメイドとクオーター・クイーン、それに、一昨日殺されたバックヤード・ボトムスラッシュとの間には、一体どんな関係性があるのか。それとも関係性のない、全くの無差別殺人なのか――しかし、仮に無差別殺人だとしたら、犯人はどのような基準で、被害者を選別しているのか。つまり私が南空ナオミさんに求めているのは、ミッシングリンク探しです」
「なるほど……」
実のところ、あんまりなるほどという感じではなかったが、Lを相手に議論をしても、本当に知りたいところははぐらかされるだけだということくらいはどうやらわかってきたので、あまり質問はしないように心がけようと思いつつ、南空はベッドルームを発見した。内開きのドア。サムターン錠。
密室状況。
確か、第二の事件現場も、第三の事件現場も、サムターン錠だった――これは共通項だろうか? いや、この程度のことは、捜査資料にも書いてあった、現場レベルで気付かれているようなことだ。Lが求める共通項とは違うはずだ。
そんなに広い部屋ではなかったが、家具・調度が少ない所為《せ い 》だろう、押し詰められたような雰囲気はない。大きなベッドが部屋の中心に、あとは精々、本棚がある程度だ。その本棚に収まっている本にしても、娯楽関係のハウツー本だったり、日本の有名なコミック本だったりで、どうやら、ビリーヴ・ブライズメイドにとってこのベッドルームは、完全にくつろぐためだけの部屋のようである。仕事と私生活はきっちりと分けて考えるタイプの人間だったらしい――フリーライターにしては珍しいタイプだ。ならば恐らくは二階に書斎のような部屋があるはずだと、南空は何となく、天井を見上げた。あとでそちらも見ておく必要はある。
「ところで南空ナオミさん。あなたはこの事件の犯人を、どのような人間だと考えますか? とりあえず現時点での、あなたの推理をお聞かせ願いたいのですが」
「私の推理なんて、Lの参考になるとは思えませんが」
「参考にならない推理はありません」
「…………」
そうですか。
南空は少しだけ考えてから、
「……異常でしょうね」
と、Lからの質問に、あえて言葉を選ぶことなく、直截的《ちょくせつてき》な言葉で答えた。それは、昨日、資料に全部目を通した段階で、確信的に持った感想だった。
「単に人を殺したからというだけではなく、その所作《しょさ 》のいちいちに、犯人の異常さが滲《にじ》み出ているような気がします――しかも、それを隠そうともしていない」
「たとえば」
「たとえば、指紋の問題です。現場には、犯人の指紋が一つも残されていない。完膚なきまでに、拭き取られています」
「そうですね。しかし南空ナオミさん、現場に指紋を残さないというのは、殺人犯としては初歩の初歩ではありませんか?」
「やり過ぎなんですよ」
わかっている癖に、と思いながら、南空は答える。恐らくこれは、参考|云々《うんぬん》というより、自分の能力を試されているのだろう……南空ナオミがLの手足となって動くのに値するかどうか。
「指紋を残したくないのなら手袋をすればいいんです――そうでなくとも、自分が触ったところだけ拭き取ればそれで済みます。でも、この犯人――家中の指紋を拭き取っているそうじゃないですか[#「家中の指紋を拭き取っているそうじゃないですか」に傍点]。第一の事件でも、第二の事件でも、第三の事件でも。最初は、過去に何度も被害者の家を訪れたことがあって、自分でもどこを触ったのかわからなくなっているからなのかと思いましたが、電球のソケットまで拭いているとなれば[#「電球のソケットまで拭いているとなれば」に傍点]、もう話は別です。それはもう異常と呼ばれる領域でしょう」
「ですね。私もそう思います」
「…………」
そう思いますか。
「それで、L、さっきの話の続きにもなりますけれど――もしもそんな常軌を逸した気遣いが随所に埋め込まれているのだとすれば、現場検証で出てくる新事実なんて、ないと思いますよ。少なくとも、望み薄ではあります。この手の犯人は、決してミスをしません」
ミス。
たとえば、自分が先月やらかしてしまったような。
「普通、犯罪捜査とは、犯人のミスを論《あげつら》い、外堀を埋めていくものですけれど、今回に限っては、犯人のミスは期待できません」
「ですね。私もそう思います」
Lは同じ台詞を繰り返し、そして続けた。
「しかし――ミスでないものがあれば[#「ミスでないものがあれば」に傍点]」
「ミスでないもの?」
「ええ。犯人がわざと残していった痕跡[#「わざと残していった痕跡」に傍点]があるとすれば――それに、捜査陣が気付いていないだけだとすれば、そこに、幾分かの望みが出てくるとは思いませんか?」
「…………」
わざと痕跡を残す[#「わざと痕跡を残す」に傍点]――そんなことがあるだろうか? 普通に考えれば、自分にとって不利な証拠を、わざわざ、意図的に現場に残すなんて、ありえない……いや、違う、あるのだ。普通に考えればと言っても、考えてみれば、それは既にわかっているだけで二つもある。一つは壁に打ち付けられていた藁人形、一つはサムターン錠による密室状況。この二つはミスではない、犯人が残していった、明らかな痕跡である。特に後者。南空は最初からそれが気になっていた――密室状況なんてものは、そもそも被害者を自殺に見せかけるための要素として構成されるはずである。第一の殺人は背後からの絞殺、第二の殺人は現場に凶器の残っていない撲殺、第三の殺人も同じく現場に凶器の残っていない刺殺……どれをとっても、自殺の可能性はありえない。ならば、それらの密室には何の意味もないということになる。ミスではなくとも、不自然ではある。
それは、壁の藁人形も同じだった。
意味が全くわからない。
呪いの藁人形は日本の文化だから、犯人は日本人だとか、いや日本人に深い恨みを持つ者だとか、そんな的外れな意見も出ているらしいが(ちなみに藁人形は、その辺の玩具ショップで三ドル出せば手に入るような、ありふれた安物だった)、今のところ統一見解はない。
南空は後ろ手にドアを閉め、そして何となく、腰の辺りの高さにあるサムターン錠の摘《つま》みを回して、鍵をかけ、それから、藁人形が打ち付けられていた箇所を、見て回ることにした。
この部屋には四体。
正方形の造りの部屋、その四面の壁の一面一面に、それぞれ一体ずつ――勿論、藁人形自体は、重要な証拠物件として、現場検証の際に警察が持って行ってしまっているので、今ここに、藁人形の実物は残されてはいない。壁に穴が開いてしまっているので、どこに打ち付けられていたかは、はっきりとわかるけれど――と、南空は鞄から、六葉の写真を取り出す。藁人形が写った写真、それぞれ一葉ずつ。それに――ベッドの上で仰向けに倒れている被害者、ビリーヴ・ブライズメイドの写真が一葉。その首にははっきりと、絞殺痕が窺《うかが》えた。
そして、最後の一葉。
現場の写真ではない、病院のベッドの上に横たえられた、検屍後の、裸にされたビリーヴ・ブライズメイドのバストアップ。その胸の辺りには、大きな傷がいくつも走っている。ナイフで傷をつけられているのだ。そんなに深くない傷だが、とにかく縦横無尽に走っている。これらは、殺される際につけられた傷ではない、死後につけられた傷であるとのことだった。
「この手の一見意味のない死体損壊は、犯人が被害者に深い恨みを抱いている場合にありがちですよね……。何でも屋のフリーライターとなれば、誰から恨みを買っていても不思議はないと思いますけれど……ゴシップ関連の記事も多く手掛けていたようですし」
「しかし、南空ナオミさん、それでは第二の殺人、第三の殺人との繋がりがまるでわかりません。第二の殺人でも第三の殺人でも、その手の、死因とは直接関係のない、死体損壊は行われていますが――むしろ第二、第三の殺人の際の死体損壊の方が、エスカレートしているとすら言えます」
「恨みがあったのはブライズメイドに対してだけで、残りの二人はそれを誤魔化すためのカムフラージュということは考えられます。ブライズメイドでないにしても、標的は三人の内の一人、あるいは二人だけで、残りはカムフラージュという線は十分にありうるんじゃないでしょうか。死体損壊がエスカレートしていることに関しても、それが仕方のない偽装[#「仕方のない偽装」に傍点]だと考えれば、あるいは」
「犯人は無差別殺人を装っている[#「無差別殺人を装っている」に傍点]、とあなたは読むわけですか?」
「いえ、あてずっぽうの推測の一パターンです。もしそうだとすれば、藁人形の説明はつくと思いました。つまり、第一の殺人と第二の殺人と第三の殺人が、同一犯の犯行であることを示す証左として、現場にわざと残していった痕跡[#「わざと残していった痕跡」に傍点]――密室状況もまた、そうなのかもしれません」
となると、ハリウッド、ダウンタウン、ウエストサイドと、場所をあちこちに変えているのも、捜査を混乱させるための方策として見るべきなのかもしれない。この場合、関係者の数を増やせば増やすほど、それだけ捜査は混乱するわけだから……二番目の被害者に少女を選んだのも、わかりやすい異常さの示し方と思えば、納得がいく。
「異常を装う――まあ、異常を装おうというだけで、十分に異常なのですが」
Lはそう言った。意外と人間らしいことを言う、と、南空は少し驚いた。その驚きは、実際のところ感心にも似たものだったので、それを隠すためにでもなかったが、南空は半ば誤魔化すように無理矢理に、話の筋を戻し、先に進める。
「だから、L、私は被害者同士の繋がりを考えるのはナンセンスのような気もします。それは地元警察でも、十分にやってくれていると思いますし……むしろ、個々の人間関係を洗う方が、肝要ではないかと。第三の被害者である銀行員のバックヤード・ボトムスラッシュも、仕事上、様々な企業に関わっていたようですし――」
「しかし南空ナオミさん」
Lは南空の言葉を遮《さえぎ》った。
「あまり暢気《のんき 》なことを言っていられる状況ではありません。私は、このままだと第四の殺人事件が起こるのではないかと危惧しているのです」
「ん……」
そう言えば、Lは昨日もそんなことを言っていた――ような。被害者はまだ増えるかもしれない、と。しかし、何を根拠に? 犯人が捕まっていない以上は、確かに次の殺人はあるかもしれないが、しかし、同じくらいの確かさで、殺人は三件で終わりなのかもしれない。それは犯人の気分次第であり、捜査する側としては、五割以上の確率をそこに見出すことは、できないはずなのに。
「藁人形の数ですよ」
と、Lは言った。
「あなたが今いる現場には四体。ダウンタウンの第二の現場には三体。ウエストサイドの第三の現場には二体――ご存知の通り、一体ずつ、藁人形の数が減っています」
「ええ。それが何か?」
「あと一体[#「あと一体」に傍点]――人形には減る余地があるということです[#「人形には減る余地があるということです」に傍点]」
「…………」
言われてみれば、そうだ。むしろ、四つあるものが二つまで減って、それで終わりになるというのは、法則として中途半端な印象すらある。もしも南空が考えたように、無差別殺人がカムフラージュなのだとしても――だとしたら、被害者の数は多い方がいいに決まっている。無論、その分リスクは増すが、それに見合うだけのリターンはある。大体、この事件の犯人が、殺人をリスクだと考えているかどうかなんて、わかるはずもないのだ――世の中には、殺人自体をリターンだと考えているような殺人鬼も、少なからず存在する。異常を装おうというだけで、十分に異常――
「ならばL。Lは、最大であと二件――このような殺人事件が起こるのではないかと踏んでいるということですか?」
「九十パーセント以上」
そう言った。
「百パーセントと断じてしまっても構いませんが、犯人側に何らかの已《や》むかたない事情が生じる可能性を考慮すると、九十二パーセントです。しかし南空さん、起こるとしたら、あと二件ではなくあと一件です。第五の事件が起こる確率は、三パーセントでしょう」
「三パーセント……?」
随分な落差だ。
「どうしてですか? 藁人形の数は残り二体なのですから……もしも犯人が、藁人形に被害者のメタファーを加えているのだとすれば――」
「そうすると、五番目の被害者が殺される現場には藁人形が残せなくなるからです[#「五番目の被害者が殺される現場には藁人形が残せなくなるからです」に傍点]。四番目の被害者が殺される現場には、二体から一体減って、一体の藁人形が残ります。だからそれは、同一犯の犯行だと読める――しかし」
「ああ……そうですね」
無能を晒《さら》してしまった、と南空はばれないように舌打ちする。そうだ、犯人側の目的が何であるにせよ、藁人形を現場に残すことをその殺人のルールとしているのであれば、藁人形の数をゼロにしてしまうような、五番目の殺人は犯すまい。
「犯人の考えがそこまで及ばないという可能性が三パーセントですが、しかしそれはないでしょう。電球のソケットの指紋まで拭き取るような神経質な人間です」
「被害者は出ても四人目まで[#「被害者は出ても四人目まで」に傍点]――ですか。つまり、次が最後ですね」
「いえ。既に最後です」
Lは強い口調で言った。
合成音声だったけれど。
「次はありません。私が出てきた以上」
「…………」
自信、か。
それとも、矜恃《きょうじ》、か。
どちらにしても、それは久しく、南空が主張していないものだった――ここ数週間、身に憶えのない感覚だった。
自信ってどういうものだっただろう。
矜恃ってどういうものだっただろう。
今の南空には――それがわからない。
「そのためにも、あなたには尽力していただかなくてはなりません、南空ナオミさん。あなたの捜査能力にとても期待しています」
「期待……ですか」
「はい。氷のように冷静な心で、この事件の捜査にあたってください。私の経験上、この手の事件には何事にも動じない思考力が何よりも求められます。そう、氷の上でチェスをする心構えでお願いします」
「…………」
それではカーリングになってしまう。
「L。私が休職中であることは、確か、知っていたんですよね?」
「はい。だからこそあなたに協力を要請しました。今回、私には、個人で自由に動ける優秀な人材が必要でしたから」
「では、私が休職することになった理由も[#「私が休職することになった理由も」に傍点]――当然、ご存知なんでしょうね」
「いいえ」
予想外に、南空の問いは、否定された。
「そこまでは知りません」
「……お調べになってないんですか?」
「理由に興味はありません。あなたが優秀で、しかも今は自由の身であることだけが重要でした――が、しかし、知っておいた方がよかったでしょうか? それなら、一分ほど時間をいただければ、すぐに調査しましょう」
「いえ……」
思わず、苦笑する。
なんだか、世界中に自分の失態が知られているような気になっていたが――世界一の名探偵でさえ、そんなことは知らないのだ。どころか、興味がないとまで言われてしまった。しかも、休職中、実質停職中の今の南空を表現するにあたって、自由の身と来たか――そんなこと、考えもしなかったが、どうやらLには、ユーモアのセンスがあるらしい。
「では、L。第四の事件を防ぐために、捜査を開始しましょう。私はまず、何をすればいいんでしょうか?」
「何ができますか?」
「ある程度のことはできます」
しかし、と南空は言う。
「しつこいようですが、L、この場合、現場検証を独自にやり直すとは言っても――恐らくは、藁人形以外の遺留品を探すということになるんでしょうが、具体的には、どのようなものを探せばよいのですか?」
「メッセージ性のあるものです」
「メッセージ性?」
「はい。これは、お渡しした捜査資料には載っていない事実ですが――第一の殺人が起きた七月三十一日、その九日前、七月二十二日に、ロス市警本部に一通の手紙が届きました」
「手紙?」
いきなり話が飛ぶ。
ロス市警……?
「それが何か、事件に関係が?」
「今のところ、関係を見出している捜査関係者はいません。本当に関係あるのかどうかもわかりませんが、私は関係があると思っています」
「何パーセントくらい?」
「八十パーセントです」
即答。
「差出人は不明――転送システムを利用して、投函された場所さえもわからないようにされていました。封筒の中身は、一枚の紙に書かれたクロスワードパズルでした」
「クロスワードパズル? はあ……」
「馬鹿にしてはいけません、南空ナオミさん。それはかなり難易度の高いパズルで、誰も解けなかったそうです。まあ、真面目に取り組んだ者が一人もいなかったという見方もできますが――とりあえず、ロス市警の人間が数人がかりでも解けなかったパズルがあったと、仮定してください」
「わかりました。それで?」
「そのパズルは、結局はただの悪戯だったのだろうと判断され、その日の内に破棄されたのですが――私はさる情報機関から、別ルートでそのパズルを入手しました。昨日のことです」
「昨日……」
だから、受け取った捜査資料には載っていないということか。既にLは、昨日南空が準備をしている段階で、この事件に対し、違う角度からのアプローチを始めていたということになる。
「解きました」
Lはさらりとそう言った。『ロス市警の人間が数人がかりでも解けなかった』という先ほどの仮定は、どうやら自慢話の枕だったらしい。顰蹙《ひんしゅく》を買いやすそうな性格だ……人のことは言えないけれど、と南空は思う。
「私の解答が間違っていなければ、そのパズルの解答は、その現場[#「その現場」に傍点]――第一の殺人が行われたその家の住所を示していました[#「第一の殺人が行われたその家の住所を示していました」に傍点]」
「……ハリウッドのインシストストリート……二二一番を示していたということですか? 私が今いる[#「私が今いる」に傍点]、ここ[#「ここ」に傍点]……しかし、それでは――それでは、まるで」
「ええ。殺人予告状ということになりますね。もっとも、誰も解けないような難易度のパズルでしたから、現実的には予告状としての体《てい》はなしていないのですが……」
「ロス市警に、他にそのような手紙が届いているということはあるんですか? つまり、第二の殺人の住所や、第三の殺人の住所を示すような……」
「いえ。念のためにカリフォルニア州全土にまで範囲を広げて調査を行いましたが、今のところそのような手紙、あるいはメールなどは存在しないようです。引き続き調査は続けますが……」
「だったら偶然――いえ、いくらなんでもそんな偶然はないでしょうね。正確に細かい住所までを示しているとなれば……どうして九日前なのかという疑問はありますが」
「九日と言えば、第二の殺人と第三の殺人の間の期間も、九日間です。八月四日から八月十三日。犯人は九日間という数字に何らかのこだわりを持っているのかもしれません」
「しかし、第一の殺人から第二の殺人までの期間は、四日間です。……たまたまじゃないでしょうか?」
「ええ、その程度に見るのが正当です。しかし、そのスペースがあるのなら、頭の片隅にとどめておいてもよいでしょう。九日、四日、九日――です。……ともかく、警察機関に対して予告状を出すような犯人です。『予告状を出すような犯人』を装っているだけなのだとしても、尚更《なおさら》、藁人形以外にもその部屋に、あるいはその家に、メッセージ性を含む何らか[#「メッセージ性を含む何らか」に傍点]が残されている可能性は、決して低くはないでしょう」
「ふむ……だから」
わざと残していった痕跡[#「わざと残していった痕跡」に傍点]――か。
それも、藁人形のようにわかりやすい形ではない、メッセージ……たとえば難易度の高いクロスワードパズルのような。なるほど、Lが自分に協力を要請してきた理由がわかったような気がする。こればかりは、安楽椅子探偵を気取っていてどうにかなるものではない、実際に現場を見、触ってみなければならないだろう――それも、数ではなく、質で。なるべく、自分と同じ視点を持った者の眼、物の見方で……。
しかし、だとすれば期待のされ過ぎだと、思わなくもないのだが……手足ではなく眼となれというのは、Lからの依頼としては、いちFBI捜査官には、荷が勝ち過ぎる。
「どうかしましたか? 南空ナオミさん」
「いえ……なんでもありません」
「そうですか。では、一度通信を終えましょう。私は私で、やらなければならないことがたくさんあります」
「わかりました」
Lのことだから、これ以外にも他に抱えている難事件が、数多くあるのだろう。事件は世界中で起こっている。恐らくは、この捜査は、Lにとって膨大な平行作業の内のたった一つでしかないはずだ。そうでなければ、世界一の名探偵など勤まるまい……。
世紀の名探偵、L。
依頼人不在の名探偵。
「それでは、よい報告をお待ちしています。次に南空ナオミさんから私に連絡をするときは、ナンバー5の回線でお願いします」
そう言って、Lの方から電話は切られた。南空は携帯電話を折りたたみ、鞄へと戻す。そして、まずは本棚から調べることにする。このベッドルームにはベッドと本棚しかないのだ、調べるとすればとりあえず本棚しかないだろう――
「この事件の犯人ほどでないにせよ……どうやら、ビリーヴ・ブライズメイドも、それなりに神経質な人間だったようね」
隙間なくきっちりと、本が納められた本棚。なんとなくその冊数を数えてみる――五十七冊。一冊引き抜こうとしてみたが、『隙間なくきっちりと』があまりにも堂に入っているため、結構な抵抗がある。人差し指だけでなく親指も使い、挺子《て こ 》の原理を利用する形で、抜き取った。ぱらぱらとめくる――意味があってやっている行為ではない。これからの捜査方針を考えるための手遊びみたいなものだ。本のページとページの間に、栞《しおり》のように手紙が挟まっていたりすればことは簡単なのだろうが、さすがにそんなことはないだろう。捜査資料には、電球のソケットと同じように、本の一冊一冊一ページ一ページに至るまで、綺麗に指紋が拭き取られていたとあった――それは犯人の神経質さを示す指標の一つであると同時に、捜査班が本の一冊一冊一ページ一ページに至るまで調べ尽くしたということでもある。ならば、そんなメッセージはなかったのだと見るべきだ。
あるいは、捜査班に気付かれない形でのメッセージだったのか……一見、ただの栞に見えるような紙に、暗号のメッセージを仕込んだとか……だが、その考えも、二冊目、三冊目、四冊目の本をぱらぱらめくったところで、否定された。そもそもこの本棚にある本には、栞が挟まれていない。どうやら、ビリーヴ・ブライズメイドは、栞を使わないタイプの本読みだったようだ。神経質な愛書家にはよくあることだ――本の束《つか》に、変な癖がつくのを嫌がる。
……なら、頭一つ抜いて神経質なはずのこの事件の犯人もまた、本のページに何かを挟むような真似はしないか……。
南空は本棚から離れる。次はベッド――しかし、こちらは本棚以上に、手のつけようがない。シーツを剥がして裏返すくらいしかすることがない。その程度のことは、捜査資料を紐解くまでもなく、捜査班が行っているはずだろう。本棚と達い、捜査班に気付かれない形でのメッセージをベッドに仕込むのは、難しいはずだ。
「絨毯《じゅうたん》の下……壁紙の裏……いや、違う……メッセージ自体を隠してどうする? メッセージは伝えるもの……伝わらなければそれはメッセージではない……クロスワードパズルを警察に送りつけている……自己主張は激しい……『難しい問題』……を、あからさまに示すことが目的……これは……そう、馬鹿にしている[#「馬鹿にしている」に傍点]……」
出し抜こうとしているんじゃない[#「出し抜こうとしているんじゃない」に傍点]。
馬鹿にしているんだ[#「馬鹿にしているんだ」に傍点]。
「『お前は俺より下だ』、『あなたは私には勝てない』と示すことが、メッセージの目的……なのだとすれば……、決して気付かれないままに自分だけ得をしようとしているんじゃない[#「自分だけ得をしようとしているんじゃない」に傍点]、目的だけを果たそうとしているんじゃない[#「目的だけを果たそうとしているんじゃない」に傍点]……いや、相手を馬鹿にすること自体が目的……? この場合、相手は警察……ロス市警……社会全体……合衆国……『世界』? 違うな……それにしては、やることが小さい……これは個人を相手にしているようなやり方だ……、とにかく、メッセージ……メッセージじゃない、メッセージ性……この部屋の中に、必ずあるはず……いや」
必ずあるはず[#「必ずあるはず」に傍点]――じゃなくて。
もしも、ない[#「ない」に傍点]のだとしたら?
「この部屋にあるはずなのに[#「この部屋にあるはずなのに」に傍点]、今はないもの[#「今はないもの」に傍点]……今はないけれど……けれど本来はあるはずのもの……藁人形? 違う、藁人形は、被害者を示すメタファーであって、メッセージじゃない、はず……ベッドルーム……ああ、そうだ、人がいない」
ないんじゃなくて――いないんだ。
この部屋の主人、ビリーヴ・ブライズメイドが。
南空は再び、写真を取り出す――ブライズメイドの死体の写真を二葉、現場写真と検屍写真。この死体に、犯人がメッセージを残しているとしたら――絞殺の痕跡じゃなくて、当然、ナイフによる死体損壊の方ということになるだろう。さっき南空がLに言った通り、わかりやすい『恨み』の表われと見るのが普通かもしれないが、そうではなく――そうだ、考えてみれば不自然だ。現場写真では、仰向けの死体が着ているTシャツは、確かにそれなりに血が滲んでこそいるが――しかし、破損はしていない。つまり、犯人は被害者を殺したあと、一旦シャツを脱がし、死体をナイフで傷つけてから、再度シャツを着せ直したということになる。単なる『恨み』なら、Tシャツごと刻めばいいだけの話なのに――Tシャツを傷つけたくない理由があった? しかし、血が滲むことにはおかまいなしだ……Tシャツは間違いなく被害者のもの。普段から使用している寝巻き代わり……。
「そういう……目で、見たら、この傷……アルファベットに、見えなくも、ない、かしら……?」
見る角度を色々と変えてみたらの話だが。
「『V』……『C』……『I』? いや……『M』……これはまた『V』……『X』……? 『D』……ここには『I』が三つ並んでいる……『L』? ……これは、『L』……うーん……やっぱり強引か……」
それにやっぱり、これはそういう風に見れば[#「そういう風に見れば」に傍点]というだけの話だ。漢字やらハングルやらならともかく、見えるものが直線と曲線で単純に構成されているアルファベットなのだ、鉛筆だろうがナイフだろうが、線を引けば、それは何かには見えるだろう。
「本当を言うと、捜査班の人達の意見、実際に捜査にあたっている人達の意見を聞いてみたいところなんだけれど……バッヂもない身じゃ、それは無理よね……まあ、そういうことはちゃんとLがやってくれているんだろうけれど」
こうしてみると、組織に頼らずに自分だけで動くということの大変さが、わかるような気もする。FBIの中では完全に浮いていた自分ではあったが、それでも組織の恩恵は受けていたのだと、このとき南空は、初めて思い至った。
「他の部屋を見に行こうかな……あまり意味がないとは思うけれど。でも、家中の指紋が拭き取られていることを考えれば――」
と言いつつ、とりあえず南空はベッドルームを後にしようとして、そう言えば、とまだチェックしていない箇所があることに気付く。ベッドの下だ。絨毯の下や壁紙の裏ほどではないにせよ、そこは見落としがちな空間の一つではある――そんなわかりやすい盲点に、捜査班のチェックが入っていないとは逆に思えないが、それでも念のため、一回くらい、ベッドの下にもぐりこんでみるのも、いいかもしれない。その視点からしか、見えないものもあるだろう。そう思い、南空はベッドの脇にかがみこんで――
「…………!?」
ぬうぅっと[#「ぬうぅっと」に傍点]。
ベッドの下から[#「ベッドの下から」に傍点]、手が伸びてきた[#「手が伸びてきた」に傍点]。
咄嗟《とっさ 》に後ろに飛びのく南空――急展開の急転直下、動揺を無理矢理に抑え込み、身構える。拳銃は持って来ていない――休職中であることなど関係なく、南空には基本的に、拳銃を持ち歩くという習慣がなかった。だから、拳銃はない。だから、引き金も引けない。
「誰……いや、何者!?」
声を大にして、まるで威嚇《い かく》するように南空は問うが、そんなのはどこ吹く風というように、のんびりと、その手は――ベッドの下から、這い出してくる。右手――続いて左手。そして――全身。四つん這いの姿勢で――一人の人間が、ベッドの下から、現れた。
こいつ[#「こいつ」に傍点]……いつから[#「いつから」に傍点]……?
ずっとベッドの下にいたのか……?
Lとの会話を、聞かれていた……?
様々な疑問が、南空の脳裏を駆け巡る――
「答えなさい! お前は一体何者だっ!」
上着の中に手を入れて、拳銃を持っている風を装いながら、再度、南空が大声で問うと、ぬうぅっと――それ[#「それ」に傍点]は顔を上げる。
そしてゆっくりと、立ち上がった。
天然の黒髪。
無地のシャツに、洗いざらしのジーンズ。
ぎょろりとしたパンダ目の、若い男だった。
痩躯《そうく 》で、見る限り背はかなり高そうだが、しかし随分な猫背のようで、南空よりも頭二つ分、視線が低い――下から見上げるようにして、南空の方を、窺っている。
「どうも、初めまして」
男はそう言って、更に腰を低くし、飄々《ひょうひょう》とした口調で、名乗った。
「竜崎《りゅうざき》と呼んでください」
[#改ページ]
page.2 竜崎
Lは探偵業界において、悪意を込めて、あるいは嫉妬混じりに、『引きこもり名探偵』だの『コンピューター探偵』だの呼ばれることがあるが、それは事実の認識としてはあまり正しくない。南空《み そら》ナオミもまた、Lのことを安楽椅子探偵だという風に考えている節があるが、実際のLは、引きこもりという言葉からは程遠いほど、活発的で活動的だ。社交欲は皆無と言ってもいいが、暗い部屋に閉じこもって雨戸を締め切り、部屋から出てこないような探偵ではない。戦後の世界三大探偵、L、エラルド・コイル、ドヌーヴ、これらが全て同一人物であったことは、今となってはよく知られている事実だ。少なくとも、この手記《ノ ー ト》を読んでいる者なら、間違いなく知っていることだろう……元々はLとは別の個人として実在していたエラルド・コイルやドヌーヴと行われた探偵合戦の成果として、それらの探偵コードをLが獲得したという、深い事情まで知っているかどうかはともかく。その探偵合戦について話すのは別の機会を待つとして、ともかく、これら三つの名前を軸とし、その他にもLは、いくつもの探偵コードを所有していた。僕も完全には把握していないが、その数は軽く三|桁《けた》に上ったはずだ。そしてその内には、表に出て行くタイプの探偵キャラクターも少なくはなかった――殺人鬼キラの前に、竜崎《りゅうざき》や流河《りゅうが》旱樹《ひでき 》を名乗り、姿を現わしたことくらいは、この記録《ノ ー ト》に目を通しているのが誰であれ、やはり知らないということはないはずだ。勿論《もちろん》そんなことは、南空ナオミにとっては知るよしもないことなのだが――実際、Lというその記号すら、彼にとっては結局のところ、ワン・オブ・ゼムでしかなかったのだと、今にして僕は思う。Lがイコール自分だという風にアイデンティティと直結してはいなかった、ただ、生涯に名乗った数々の探偵コードの中で、それがもっとも有名でもっとも有力だったというだけに過ぎない――それもまた、利用価値であって希少価値ではなかったのかもしれない。今となっては誰も知る者がおらず、また知る術《すべ》も全て失われたLの本名ではあるが、本人しか知らなかったその名前にしたって、Lにとっては全てではなかったのだろう。案外、死のノートに、どんな名前、どの名前が書かれることによって自分が殺されたのか、Lにはひょっとしたら、わからなかったのではないだろうか?
と、僕は思う。
ともあれ、ロサンゼルスBB連続殺人事件だ。
「竜崎……さん」
南空ナオミは、受け取った黒い名刺をこねくり回すように吟味し、それから、いかにも胡散《う さん》臭げな感じを隠そうともせず、とりあえず、相手に対してそう呼びかけた。
「竜崎ルエさんで、よろしいんでしょうか?」
「はい。竜崎ルエです」
男――竜崎は飄々《ひょうひょう》と、そう答えた。ぎょろりとしたパンダ目で、じっと南空を見つめたまま――親指の爪を、がちがちと噛みながら。
場所は、ベッドルームから移動して、ビリーヴ・ブライズメイド宅のダイニング。高価そうなソファに、南空と竜崎が、向かい合って座っている。竜崎は、ソファの上で両膝を抱えるような座り方をしていた。子供みたいだと南空は思ったが、勿論、竜崎は子供ではないので、それはただただ不気味な有様《ありさま》ではあった。しかしそれに対して通りいっぺんの突っ込みを入れるには、南空の方が大人過ぎた。南空は気まずい空気を誤魔化すように、再度名刺に眼を落とす――『DETECTIVE』・『LuxakyLuee』。
「この名刺には、職業、探偵とありますが……」
「はい。あります」
「つまり、私立探偵ということですか?」
「いえ、私立探偵という言い方は正しくありません。私立という言葉からは、一種、過剰に過敏な自己主張を感じます……そうですね、あえて言うなら、私は無私立探偵でしょう。無私の探偵です」
「そうですか……」
それはつまり無免許ということだ。
ペンがあればこの名刺に『FOOL』と書き加えておきたいところだったが、生憎《あいにく》すぐ取り出せる位置に筆記具がなかったので、南空は諦めて、名刺を、まるで汚いものでも扱うかのように、自分から隔離するかのように、テーブルの片隅へと置いた。
「では、竜崎さん……改めて確認させていただきますが、あそこであなたは、何をしてらしたんですか?」
「あなたと同じことです。捜査ですよ」
竜崎は表情を変えずに答えた。
瞬《まばた》きをしないパンダ目が、やけに不気味だ。
「この家の持ち主――即ちブライズメイドさんのご両親から依頼を受けまして、一連の事件を捜査している最中です。どうやらあなたも……南空さんも、同じだとお見受けしましたが」
「…………」
このときの南空にとって、竜崎が何者であるかなど、至極どうでもいいことだった――私立探偵だろうが無私立探偵だろうが、構ったことじゃない。問題なのは、この男がベッドの下で、自分とLとの会話をどのくらいまで聞いていたかということだ……最悪、それは自分の進退に関わる問題だ。少なくとも、自分が原因で、正体不明の名探偵Lについての何らかの情報が開示されてしまったとなれば、仕事を辞めるだけでは済まされないだろう。折に触れてそれとなく確認してみれば、ベッドの下では、音が反響して声なんて聞こえなかったと言っていたが、そんな言葉、とてもじゃないけれど、信用できたものではない。
「ええ……そうですね。私も、探偵です」
悩んだ挙句《あげく 》、南空はそう答えるしかなかった。もしも休職中でなかったなら、堂々とFBI捜査官だと名乗ってもよかったのだが、休職中の今それをすれば、バッヂの提出を求められたときに言い訳が必要になってしまう。ならばここは、通りのいい嘘をついておいた方がいい――何、相手が正直であるとも限らないのだから、ここで罪悪感を覚える必要はないだろう。
「依頼人を明かすことはできませんが、極秘に調査を任されています。ビリーヴ・ブライズメイド、クオーター・クイーン、バックヤード・ボトムスラッシュの三人を殺した犯人を探していて――」
「そうですか。では、協力し合えそうですね」
ずばりそんなことを、言ってきた。
図々しさもここまでくれば清々《すがすが》しい。
「……それで、竜崎さん。ベッドの下で、何か事件の解決に役立つ物を見つけることはできたんですか? 犯人が残した遺留品を探していたということなのでしょうが――」
「いえ、そういうわけではありません。家に誰かが這入《は い 》ってきたようだったので、とりあえず隠れて様子を見ようとしていただけです。しばらく様子を見ていた限り、どうやら暴漢の類《たぐい》ではなさそうでしたので、這い出したというわけです」
「暴漢の類――ですか」
「ええ。それに、ひょっとしたら、犯人が忘れ物を取りに来たのかもしれないとも思いましたから。だとすれば千載一遇のチャンスでしたが、しかし、それは的外れな期待でしたね」
「………………」
嘘臭い。
鼻につくほど、嘘臭い。
それよりはむしろ、Lとの会話を盗み聞きするために、ずっとあそこに潜《ひそ》んでいたと見る方が正しいような気が、南空にはする。普通に考えればそれは南空の疑心暗鬼なのだろうが、しかし、この竜崎という男からは、ただならぬものを感じる。
怪しさ全開の凄みがある。
「しかしそれでも、あなたのような方と知り合いになれたのだから、捨てたものではありません。小説や漫画じゃないんですから、探偵同士が反目し合う必要はありません、どうでしょう南空さん、ここは一つ、お互いの持っている情報を、交換し合いませんか」
「……いえ、ありがたい申し出ではありますが、それは遠慮させていただきます。守秘義務がありますので」
南空はそう言った。捜査資料は手に入る可能な限りのものをLから受け取っている――今更、無名の私立探偵から受け取るような情報はないはずだ。まして、その代わりに何かを差し出さなければならないなど、論外である。
「竜崎さんだってあるはずでしょう? 守秘義務」
「いえ、ありません」
「……ないはずがないでしょう。探偵だったら」
「そうですか。じゃあ、あります」
適当だった。
その辺りにこだわりはないらしい。
「しかし、何よりも事件の解決こそが優先されるのは当然至極のことです――わかりました、南空さん。では、こうします。私から一方的に、あなたに対して情報を提供しましょう」
「え……? いえ、そういうわけには」
「いいんです。究極的には、私が事件を解決しようがあなたが事件を解決しようが、同じことですから。依頼人の望みは、事件の解決以外にはないのです。あなたが私よりも優秀な頭脳の持ち主であるなら、そうした方がよっぽど効率がいい」
言葉はご立派だが、そんなことを考えているわけがないと、南空は竜崎のその台詞に、警戒心を強める。こいつは一体何を企んでいるのだろう? さっき、竜崎は、ベッドルームに入ってきた南空を、戻ってきた犯人かもしれないと思ったなどと適当なことを嘯《うそぶ》いたが、逆に言えば、その可能性は、ベッドの下に潜んでいたこの男にこそ当てはめるべき可能性ではないのだろうか……?
「あなたが所持する情報を私に提供するか否かは、その後で決めてくだされば結構です――で、まずはこれなんですが」
そう言って竜崎は、ジーンズのポケットから小さく折りたたまれた紙を取り出した。そしてそれをそのまま、直線の動きで南空の方に差し出してくる。南空はそれを受け取って、いぶかしみながらも、その紙を開く――それは、クロスワードパズルだった。升目と、細かい字で問題文が記されている。南空はすぐに直感する――これは、と。
「これ……」
「おや、ご存知でしたか?」
「あ、いえ……そういう、わけでは」
どういうリアクションを取るべきなのか、迷う。これは勿論、七月の二十二日に、ロス市警本部に送られたという例のクロスワードパズルなのだろうが……確か実物は破棄されたと言っていたから、その写しなのだろうが、どうしてそれを、この男、竜崎が、無造作にジーンズのポケットから取り出すことができるのだ? 南空が反応に困っていると、竜崎は、まるで値踏みするかのように、そんな南空をじっと見つめていた。さながら、南空の能力値を、その反応から探っているかのように……。
「説明させていただきますと――それは先月、七月二十二日に、ロス市警本部に送り主不明で送付されてきたパズルです。誰も解けなかったようですが、そのパズル、解いてしまうと、この家の住所が導き出されるのです。恐らくは犯人が、警察や社会全体に対する予告状……いえ、挑戦状として、提示したものでしょう」
「……なるほど。しかし――」
Lに何を言われたところで、所詮はクロスワードパズルなんだからと心のどこかで侮《あなど》っていた面もあったが、しかし、こうして問題文をじかに見せられると、確かに、難易度は相当に高そうだ。解ける解けない以前に、解くこと自体を面倒臭いと思わせてしまうタイプのパズルのようだった。これを、目の前の男、竜崎が、自力で解いたというのだろうか……?
「この家の住所が導き出せるというのは、間違いないのですか?」
「はい。なんなら、その紙は差し上げますから、どうぞ時間があるときに解いてみてください。ともかく、予告状を出すような犯人は、別個の確固たる目的がない限りにおいて、大抵の場合は劇場型です――現場に残された藁《わら》人形や密室状況も、劇場型の典型的要素と言えるでしょう。ならば、それらの他にも、メッセージ……のようなものが、現場に残されている可能性が高い。そう思いませんか? 南空さん」
「…………」
Lと同じような推理をする。
本当に何者だ、この男……。
仮に、Lと同じような推理をするというだけなら、それは単に、やはり竜崎はベッドの下で、南空とLとの通信に耳を欹《そばだ》てていたのだろうで済ませればいいが、それだけでなく、竜崎はLの立場でしか手に入れることができなかった例のクロスワードパズルを同じように入手し、しかも解いてしまっている――南空にとって『どうでもいいこと』だったはずの、竜崎が何者なのか[#「竜崎が何者なのか」に傍点]という問いが、俄然《が ぜん》、懸念事項となってくる。
「少し失礼」
南空の精神がにわかに緊張したそのタイミングをさりげなく外すかのように、竜崎はソファから両足を揃えて飛び降りて、猫背のままで、キッチンへと向かった。そして、まるでここが自分の家であるかのように、手馴れた仕草で冷蔵庫を開ける。中に腕を差し入れて、何かの瓶を取り出した――そのまま冷蔵庫を開けっ放しに、ソファへと戻ってくる。取り出したものは、どうやら、イチゴジャムの瓶のようだった。
「そのイチゴジャムが何か……?」
「いえ、これは私物です。持ってきたものを、冷やしておいただけです。昼食の時間でしたので」
「昼食?」
考えてみれば持ち主が半月前に亡くなっているこの家の冷蔵庫に、食べ物が入っているわけがなかったが――しかし、昼食? ジャムはいいけれど、ならばパンはどうするのだろう……と、思うほどの暇もなく、竜崎は瓶の蓋を開け、直接手を突っ込んでイチゴジャムをたっぷりと掬《すく》い、それをそのまま口へと運んだ。
「………………」
絶句する南空ナオミ。
言葉らしい言葉が出てこない。
「……ん? どうかされましたか? 南空さん」
「か……変わった食事をされますね」
「そうですか? 普通だと思いますが」
そんな風に首を傾《かし》げながらも、竜崎は、更に続けて、ジャムを掬い、二口目。
「頭を使うと、甘いものが欲しくなりますからね。いい仕事をしたいときはジャムが一番です。糖分は脳にいいんですよ」
「は、はあ……」
あんたの脳に必要なのは糖分じゃなくて専門医による治療だと思ったが、この場面でそれを言うだけの度胸は南空にはない。くまのプーさんさながらの絵面《え づら》ではあるが、しかし竜崎は、黄色くて可愛らしい、なにもしないをしているくまさんではなく、背の高い猫背の男である。四口目まで食べたところで、竜崎はとうとう、瓶をカップに見立て、お茶を飲むかのように、イチゴジャムの瓶に直接口をつけて、ずずずずずっと、瓶一本分、ジャムを飲み干してしまった。
「お待たせしました」
「あー……いえいえ」
「まだジャムは冷蔵庫に入っていますから、何でしたら南空さんもいかがですか?」
「け……、結構です」
そんな拷問のような食事、どんなに飢えていてもしたくはない。南空は竜崎に対し、完全に引いた。ドン引きである。作り笑顔には自信のない南空ではあったが、このとき竜崎に向けていた表情は、見紛《み まが》うことなく、笑顔だった。
恐怖でも人は笑う。
「そうですか」
南空のそんな反応をどうと捉えた風もなく、べろべろと、ジャムで汚れた手を舌で舐《な》めまわしながら、竜崎は飄々とそう言って、
「では、南空さん、行きましょうか」
と続けた。
「行きましょうかって……どこにですか?」
今後、この男から握手を求められる機会があったとき、どうやって断ろうかということを考えながら、南空はそう訊き返す。
「決まっています」
と、当然のように竜崎。
「現場検証の続きです、南空さん」
● ●
このときの南空に、本来ならばある程度、その先の展開を恣意的《し い てき》に選び取るだけの余裕があったことは確かだ。竜崎を名乗る探偵を力ずくでビリーヴ・ブライズメイド宅から追い出してもよかっただろうし、またそうするのが、もっとも常識的な判断とも言えるだろう――がしかし、その常識という名の魅力的な誘惑に切実にかられながらも、結局南空は、竜崎を泳がせる方向に、意志を固めたのだった。Lとの会話|云々《うんぬん》の問題が何よりハザードレベルの高いポイントだったし、それでなくとも怪しいし、不気味だし、やはりあのクロスワードパズルを所持していたことが決定的だった――この素性の知れぬ男を、自分の監視下に置いておく必要を感じたというわけだ。無論、深く事情を知っている者、たとえば僕のような者からすれば、それこそが竜崎の望むところ、狙い通りなのかもしれなかったが、そこまでの深度を、この時点の南空ナオミに求めるのは酷と言うものだ。この時点どころか、言ってしまえば、ロサンゼルスBB連続殺人事件から数年後、殺人鬼キラによって殺されてしまうその瞬間でさえ、彼女は自分がLと会ったことはない、パソコン越しの合成音声に従っていただけだと、頑《かたく》なに信じていたのだから。もっとも、別の見方をすれば、それはそれで世界にとってはよかったのだろう――殺人鬼キラだって、もしも南空がこのような形でLと関わっていたと知っていたなら、彼女をひと思いに殺すような真似はしなかったはずだ。Lの寿命がほんの数年だけとは言え延びたのは、そういう意味では南空ナオミのお陰であるとさえ言えるのだ……いや、こんな仮定は、あまり意味がない。
閑話休題と行こう。
シャーロック・ホームズを読んだことのある者なら、かの名探偵の印象的な振る舞いの一環として、虫眼鏡を使って部屋中を這い回るというあの行動を、挙げることができるだろう。あれこそまさに古きよき時代の探偵小説の象徴とでも表現するべき行いであって、今時《いまどき》の探偵小説で、そんなことをする名探偵は登場しない。大体、探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。探偵は推理なんてせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。推理という行動には、幾許《いくばく》かの努力という要素が含まれてしまうからだ――天才は努力なんてしない。世界中で流行っている日本の少年漫画と同じだ。人気が出るためには主人公が超人の方がいい。
だから、ベッドルームに戻ったところで、竜崎がいきなり、ベッドの下から這い出してきたときと同じように四つん這いになって、虫眼鏡こそ取り出さなかったものの、ゴキブリみたいに部屋中を這い回り始めたのを目の当たりにしたとき、南空は素直に驚いた。別に、ベッドの下にいたからこそあの姿勢だったのではないのか……そのまま壁を登り天井に貼り付けそうなくらい、慣れた感じの四つん這いだった。
「どうしたんですか? 南空さん。さあ一緒に」
「…………!」
ぶんぶんぶん。
残像ができるくらいに高速で首を振る南空。
それをやったら女性としての沽券《こ けん》に関わる。いや、それ以前に、人間として、何か大切なものを失ってしまう気がする。
「そうですか。残念ですね」
人間として何か大切なものをそもそも持っていないっぽい竜崎は、しかし本当に残念そうにそう呟いて、そのまま捜索を続ける。
「だ、だけど竜崎さん……この部屋からはもう、何も発見できないと思いますよ? ただでさえ、地元の警察が洗いざらい調べちゃっているでしょうし――」
「あのクロスワードパズルは、警察の人間が見落としていたものです。同様に、見落とされている何かが、この部屋にあっても不思議ではありません」
「そういう言い方をすればその通りですけれど、あまりにヒントがなさ過ぎます。せめてとっかかりが欲しい――根拠なく漠然と探すには、この部屋には何もなさ過ぎるし、この家は広過ぎます」
「ヒントですか……」
四つん這いの動きを一旦止める竜崎。そして、ゆっくりと親指の爪を噛む――慎重に思案しているようにも見えるし、ただの幼稚な馬鹿にも見える。判断に困る。
「どうでしょう、南空さんは、ここに来て、何か思いつきませんでしたか? そのような、とっかかりのようなもの」
「とっかかり……そうですね」
あると言えばある――被害者の死体に残された傷のことだ。だが、それをここで竜崎に話すべきか否かは、悩みどころである。しかし、このままでは埒《らち》があかないのも確か……事件のことに関しても、竜崎のことに関しても。むしろ、さっき竜崎がクロスワードパズルを提出して南空の反応を見たように、こちらからも仕掛けるべきでは……そうだ、それに、うまくやればそれは、ベッドの下で自分達の会話が聞こえていたかどうかの、確認にもなる。
「じゃあ……竜崎さん。先ほどのお礼、情報交換というわけではないですが……この写真を見ていただけますか?」
「写真?」
写真なんてものは生まれてこの方聞いたことのない単語だというような大袈裟《おおげ さ 》なリアクションで、竜崎は南空の方に近付いてきた。四つん這いのまま、方向転換せずにバック走で。子供が見たら泣き出しそうな動きだった。
「被害者の写真なんですけれど……」
南空が手渡したのは、現場写真の方ではなく検屍写真の方――受け取った竜崎は、「ふうむ」と、もっともらしく、あるいはわざとらしく、頷いた。仕掛けるも何も、表層の所作《しょさ 》から、全く内面が読み取れない。
「優秀なんですね、南空さん」
「はい?」
「死体にこのような傷がつけられていたというのは、報道では伏せられていた事実です――つまりこの写真は、警察の内部資料ということになる。そんなものを手に入れることができるなんて、さすがです。並みの探偵じゃない」
「……竜崎さんこそ、あのクロスワードパズル……どうやって手に入れたんですか?」
「それは守秘義務です」
二の矢として探りを入れてみたが、ぴしゃりという感じだった。ないはずがないなんて言わなければよかった、余計な言葉を教えてしまったようだと南空は後悔したが、もう遅い。
まあ、それは守秘義務ですという物言いは、文法的にはおかしいのだけれど。
「私もどうやって南空さんがこの写真を手に入れたかは聞きません――しかし、これがどういう風にとっかかりであると?」
「ええ、つまり――今はこのベッドルームにないけれど、事件当時はあったものに、犯人はメッセージを残したんじゃないかと思ったんです。それで、本来あるはずなのに今はないものの代表格と言えば――」
「部屋の主《あるじ》であるビリーヴ・ブライズメイドというわけですか。聡明です」
「その写真、角度を変えて見てください――傷が、アルファベットに見えませんか? ひょっとすると、それが何かのメッセージなのかも、と……」
「どれどれ」
写真ではなく自分の首の角度を調整するという奇矯《ききょう》な動作を取る竜崎だった。首の骨が全部軟骨なんじゃないかと思わせるほどの柔軟な動きだったが、できれば目を逸《そ》らしたいところだ。
「――これは、違いますね」
「違う?……やはり、強引な考え方ですか」
「いえいえ、南空さん、全否定ではなく部分否定です。アルファベットではないという意味です。南空さん、これはローマ数字でしょう」
「…………」
あ。
そうか、時計や何やでお馴染みの『V』や『I』は勿論、『C』も『M』も『D』も『X』も『L』も、ローマ数字だ。『I』が三つ並んでいるのを見たときに気づくべきだった――あれは三つの『I』ではなく、『V』だったのだ。すぐ後に『L』を見つけてしまったため、それを名探偵のLと結びつけてしまい、意識がそっちに向かってしまった。
「『1』が『T』、『2』が『U』、『3』が『V』、『4』が『W』、『5』が『X』、『6』が『Y』、『7』が『Z』、『8』が『[』、『9』が『\』、『10』が『]』、『50』が『L』で『100』が『C』、『500』が『D』、『1000』が『M』です。それでこの傷を解読するなら……『16』、『59』、『1423』、『159』、『13』、『7』、『582』、『724』、『1001』、『40』、『51』、『31』となりますが……」
ややこしいローマ数字を、竜崎は流暢《りゅうちょう》な口調で、一瞬で解読した。たまたまローマ数字に強いのだとしても、かなりの頭の回転の速さだ。
「写真が写真ですので、正確に読み取れているかどうかはわかりませんが――八十パーセント、そうでしょう」
「パーセント……?」
「しかし、だからと言って、残念ながら事態は何ら変化しませんね。これらの数字が何を表わしているのかがわからない以上、この傷を犯人が残したメッセージと読み取るのは危険です。ひょっとするとミスディレクションかもしれません」
「――すいません、竜崎さん」
南空は一歩、後ろずさりながら言った。
「なんでしょう?」
「少し、化粧を直しに」
竜崎の返事を待たずに、南空はベッドルームから外に出て、そのまま、一階ではなく二階のトイレへと、階段を昇って、向かう。中に這入って鍵をかけ、鞄から携帯電話を取り出し――少し迷ってから、Lに電話をかけた。ナンバー5の回線。いくつかスクランブルをクリアする電子音があったあと、接続された。
「どうかしましたか? 南空ナオミさん」
合成音声。
L。
南空は声を潜め、口元を手で隠すようにしながら、
「報告すべき事態が生じました」
と言った。
「進展がありましたか? さすがに早いですね」
「いえ、進展と言えば進展なのですが――犯人が残したメッセージらしきものを、発見しました」
「それは素晴らしい」
「いえ――発見したのは私ではありません。なんていうんでしょう、謎の私立探偵みたいなのが――」
謎の私立探偵。
言っていて笑ってしまいそうな響きだった。
「――現れて」
「……そうですか」
それを聞いて、合成音声は黙り込む。それは南空にとって気まずい沈黙だった――何せ、探りを入れる程度のつもりで、あの写真を見せてしまったのは自分の判断なのだから。南空は沈黙したままのLに、竜崎が語った検屍写真からの推理を、説明した。彼がクロスワードパズルの写しを持っていたことも含めて。それを聞いてLは、ようやく「なるほど」と言った。合成音声なので、そこから感情は読み取れないが。
「どうしましょう……正直、彼から目を離すのは危険ではないかと思うのですが」
「格好よかったですか?」
「はい?」
Lの、論点を外した感じの問いに、思わず訊き返してしまったが、再度、「その私立探偵は格好よかったですかと訊いたんです」と繰り返され、南空は質問の意図もわからないままに、
「いえ、最悪です」
と、正直に答えた。
「不気味というか無様《ぶ ざま》というか、もしも私が休職中でさえなかったら、見かけただけで逮捕に踏み切るような、特上の不審人物です。この世界の人間を死んだ方がいい者とそうでない者に区分けするなら、間違いなく前者に属すでしょう。どうして自殺しないのか不思議なくらいの変態に見えます」
「………………」
返事が返ってこない。
どうしたのだろう。
「……では、南空ナオミさん。指示を出します」
「はい」
「恐らくはあなたも同じことを考えているとは思いますが、その私立探偵は、しばらく泳がせておいてください。目を離すのが危険ということもありますが、それよりも、その動向を観察しておいた方がよいでしょう。検屍写真からの推理は、彼の手柄と言うよりはあなたの手柄だと私は考えます。ですが、その私立探偵が只者でないのもまた確かなようです」
「ええ、そう思います」
「今彼は近くにいますか?」
「いえ、私一人です。お手洗いから電話をかけています。ベッドルームからは階段を上がって、更に奥です」
「すぐに彼のところに戻ってください。私は今から裏付けを取りましょう――その竜崎という探偵に、ビリーヴ・ブライズメイドの両親が、本当に事件解決を依頼しているかどうか」
「わかりました」
「次回の通信は、同じ回線で構いません。それでは」
通信終了。
電話を折りたたむ。
さあ、早く戻らないと疑われるか――竜崎の立場からすれば、かなり不自然なタイミングでベッドルームから離れることになってしまったから、と、南空はトイレから外に出る。
ドアを開けたところに竜崎がいた。
「ひっ……っ!」
「南空さん。こちらでしたか」
さすがに四つん這いではなかったが、それでも南空は、息を呑む――この男、一体いつからここに来ていた?
「南空さんが部屋を出てから、私、新事実を発見しましたので、いてもたってもいられず、こうして呼びに来ました。もう、よろしいでしょうか?」
「は、はい……」
「ではこちらへ」
ひょこひょことした足取り、過剰な猫背で、階段へと向かう竜崎。南空はその後ろを、おっかなびっくり、ついていく――ドア越しに会話を聞かれていたか……? そんな不安に、胸中、苛《さいな》まれながら。新事実を発見したなんて、ただの方便なのかも……あれだけ声を潜めていたのだ、聞こえているわけがないとは思うが、聞こえた聞こえなかったは別にして、盗み聞きを試みていたのだとすれば……。
「そういえば南空さん」
「は、はい」
こちらを振り向かないままに、竜崎は言った。
「トイレから出てくる前に、水を流した音がありませんでしたが、どうしたのでしょう」
「……女性に対してそういうことを訊くのは失礼ですよ、竜崎さん」
焦っていたゆえの失敗を自覚しつつも、南空は咄嗟《とっさ 》にそう言いつくろったが、しかし竜崎はまるで悪びれもしない。
「そうですか。で、何故なのでしょう。流し忘れたのなら、今からでも遅くありません、戻ってください。衛生面の問題ですから、男性女性は関係ありません」
「…………」
質問の仕方が嫌らしい。
いや、二重の意味で。
「電話をしていたんです。依頼人と。ただの定時連絡です、それだけです――あなたに聞かれたくない内容の話がありましたので」
「そうですか。でもそうであれどうであれ、これからはきちんと水を流した方がいいでしょう。カムフラージュにはなります」
「カムフラージュですか……」
そんな会話で、ベッドルームに到着。部屋に這入ると同時に、竜崎は四つん這いになった。こうなるともう、シャーロック・ホームズにあやかった捜査方法というよりは、ただの宗教的ジンクスにも見えてくる。
「こちらです」
さかさかと絨毯《じゅうたん》の上を移動し、竜崎が向かった先は、本棚だった。五十七冊の本がきっちりと詰め込まれた、ビリーヴ・ブライズメイドの本棚。南空がLとの通信のあと、真っ先に調べた箇所。
「新事実、って……言いましたよね」
「はい。新事実、いえ、ここは強気に、真実と言いましょう。私はこの本棚に、真実を発見したのです」
「…………」
格好いいことを言おうとしているのが不愉快だ。
無視する。
「……つまり、その本棚の中に事件解決に役立つ証拠があったということですか? 竜崎さん」
「ここを見てください」
言って、竜崎は本棚の、下から二段目の右端の方を指差した。そこには、日本の人気コミックスが十一冊セットで、納められていた――タイトルは、『赤ずきんチャチャ』。
「……それが、どうかしたんですか?」
「大好きな漫画です」
「誰が」
「私が」
「………………」
相槌《あいづち》を打つのも難しい振りだ。表情が、南空の意志とは関係なく勝手に、優しい形を作ってしまいそうになる――そんな南空の複雑な心中を察しようともせず、竜崎は続ける。
「南空さんは日系ですよね?」
「日系と言うか……父も母も日本人です。今の国籍は合衆国ですけれど、私も高校生までは、日本で育ちました」
「では、この漫画のことは知っているでしょう。彩花《あやはな》みん先生の歴史的な名作です。私は全話、連載で追っていました。しいねちゃんが可愛くってたまりませんでした。ただまあ、漫画版同様アニメ版も好きでしたね。愛と勇気と希望でホーリーアップ――」
「竜崎さん。その話、長くなりますか? 長くなるようでしたら、私は席を外しますが」
「南空さんに話しているのにどうして南空さんが席を外すんです」
「えー、あのー……、いえ、私も『赤ずきんチャチャ』は、大好きでしたけれど。アニメも見てましたけれど。愛と勇気と希望でホーリーアップしてましたけれど」
ましたけれど、竜崎さんの趣味嗜好については全く興味がないということを言いたかったのだが、この私立探偵にそんな常識的観点からの意見を述べたところで、意味が通じるかどうかは怪しい。竜崎と同じくらい怪しい。
いや、それは言い過ぎか。
「そうですか。まあ、アニメ版の魅力については今度本格的な席を設けてゆっくり語ることにするとして、今はこれです。見てください」
「はあ……」
言われるがままに、本棚に並んだ『赤ずきんチャチャ』を見る南空。
「何か気付きませんか?」
「そんなことを言われても……」
ただ、コミックが並んでいるだけにしか見えない。だから精々、ビリーヴ・ブライズメイドが日本語に堪能で、日本のコミックを愛読していたことくらいしかわからないが……そんな人間は、このアメリカ合衆国にいくらでもいる。訳されたバージョンではなく原本で接するというのは、マニアというほどの読者でなくとも、よくあることだった。インターネットが全盛の現代、原本を手に入れるなど、容易《た や す》いことだ。
竜崎はそのパンダ目で、じっと南空を見ている。居心地の悪い視線――それから逃れるように、南空は、考えもないまま、一冊ずつ、『赤ずきんチャチャ』をチェックする。しかし、十一冊すべてチェックし終えたところで、新事実らしいもの、あるいは真実らしいものは、一つとして発見することはできなかった。
「わかりません……何かあるんですか? この十一冊のコミックの、どこかに」
「いえ、ありません」
「……はあ?」
さすがに声に険が籠《こも》る。
からかわれるのは好きではない。
「ありませんって、それは、どういう――」
「ありません[#「ありません」に傍点]」
竜崎は、自分の言葉を、復唱した。
「あるはずなのにないもの[#「あるはずなのにないもの」に傍点]――ですよ、南空さん。犯人がメッセージを込めたものがあるとすれば、それはないものではないだろうか――と、あなたは看破しました。そしてそれが、ビリーヴ・ブライズメイド本人であることも、あなたは看破しました。そんなあなたになら、きっと説明するまでもないと思ったんですが――見てください、南空さん。これ――足りないんですよ[#「足りないんですよ」に傍点]。四巻と九巻が、抜けているんです」
「え?」
「『赤ずきんチャチャ』は全十三巻です。十一冊では、二冊足りません」
そう言われて、改めて確認してみると、確かに、背表紙に振られた巻数のナンバーが、『1』『2』『3』ときて『5』、『6』『7』『8』ときて『10』に飛んでいる。全十三巻という竜崎の言が本当なら、四巻と九巻、その二冊が足りないということになる。
「その――よう、ですね。でも、竜崎さん、それがどうかしたんですか? 犯人が、四巻と九巻だけ持っていったとでも? 確かにその線は考えられなくもありませんが、そんなの、元々不揃いなだけかもしれないでしょう? これから買う予定だったのかもしれませんし。本を順番通りに読む人ばかりではありませんよ。現に、それを言うなら、こちらのディークウッド・シリーズは、中途で終わっているようですから……」
「ありえません」
竜崎は断定的に言った。
「『赤ずきんチャチャ』を、四巻と九巻だけ飛ばして読む人間なんてこの世にはいません。恐らくこれは裁判でも十分証拠として通じる事実でしょう」
「…………」
この男はアメリカの司法制度を何だと思っているんだ。
「少なくとも、陪審員が、日本のコミック事情に明るい者達で構成されていれば、必ずそうなるでしょう」
「そんな偏《かたよ》った裁判は嫌です」
「犯人が持ち去ったと考えるのが妥当ですね」
突っ込みを無視するという暴挙に出る竜崎。
それでも、常識的観点に則《のっと》り、南空は食い下がった。
「だとしても、竜崎さん、犯人が持ち去ったと決め付ける根拠はないでしょう。たとえば、友達に貸したということは、考えられないんですか?」
「『赤ずきんチャチャ』ですよ? 親が相手だって、貸すなんてことはありません。買えと言うはずです。つまり、これは犯人が持ち去ったと考えるしかないんです」
強い断定口調で言い切る竜崎だった。
そして、そのまま続ける。
「しかし、同じように、四巻と九巻だけを読みたいと思う人間も、この世にはいないでしょう――何なら、私のジャムを賭けても構いません」
「……さっきあなたが食していたジャムのことを言っているんだとしたら、あれは五ドルくらいで手に入るものですよね……」
そんなんじゃ、彩花みん先生も喜ばない。
「ですから、南空さん、犯人が『赤ずきんチャチャ』の四巻と九巻、その二冊をこの部屋から持って行ったのには、全く別の、明確な目的があると見るべきです」
「……実際、その二冊がその本棚にないことは事実ですから、理屈や可能性はともかくその仮説を取るとしても――でも、だとしたらおかしくありませんか? 竜崎さん。だって、その本棚――」
本がきっちり、納まっている。抜き出すのに苦労するくらい、隙間なく。本当に二冊、コミックスが抜き出されているのだとすれば、その分だけの隙間ができるはずなのに――いや、待てよ?
「竜崎さん。その、『赤ずきんチャチャ』の、四巻と九巻の、それぞれの総ページ数って、わかりますか?」
「わかりますよ。一九二ページと一八四ページです」
「…………」
訊いたものの、答が返ってくることを期待してはいなかったのだが……。ともあれ、一九二ページと一八四ページ……合計で三七六ページ。南空は本棚を見る焦点を変えて、全体をざっと見渡す――そして、コミックス三七六ページ分の厚さの本[#「コミックス三七六ページ分の厚さの本」に傍点]を、五十七冊の中から探す。大して時間はかからなかった。その束《つか》の厚さの本は、この本棚にある五十七冊の中にはたった一冊しかない――パーミット・ウィンター著、『遊び足らず』。
確認する。読み通り――その本の総ページ数は、ぴたり三七六ページだった。
「…………」
続けて南空は、期待を持ってその本のページを適当にめくってみるも、しかし、特に不自然な点は見当たらなかった。
「どうしました? 南空さん」
「いえ……ひょっとしたら、犯人が、二冊抜き取った分[#「二冊抜き取った分」に傍点]、他の本をこの本棚に置いていったんじゃないか[#「他の本をこの本棚に置いていったんじゃないか」に傍点]と思って……つまり、それこそが犯人が残したメッセージなんじゃないかと思ったんですが……」
本をきっちり本棚に詰め込む神経質さが、本当にビリーヴ・ブライズメイドのものだったかどうかは、その仮定では曖昧になる。本当は隙間だらけの本棚だったのに、パズルのために、犯人が他所《よ そ 》の部屋から持ってきた本を、適当に詰め込んだのかもしれない――そこまで考えれば、『赤ずきんチャチャ』にしたって、ビリーヴ・ブライズメイドの持ち物だったかどうか、怪しくなってしまう。栞《しおり》がないというところまで含めて、メッセージのための、犯人の演出だった可能性が生じてくるが――しかし、それならそれで、むしろ一向に構わない。それなら、それこそ、ここに犯人からのメッセージが、揺るぎなく存在するということになるのだから。だが、肝心の本に、おかしなところが全くないというのでは、仮説が根本から崩れてしまう。机上の空論もいいところだ。
「着眼点は悪くないと思います。いえ、むしろいい――というより、それしかないんじゃないですか?」
竜崎は南空に手を伸ばしてきた。握手を求められているのだったらどうしようかと思ったが、この場合は、『遊び足らず』を求められていると考えるべきだろう。南空はそれを手渡す。竜崎は片手の指でつまむようにして、その本を読み始めた。どうやら、速読という奴らしい――三七六ページの本が、あっという間に読まれていく。
読み終わるまで、五分もかからなかった。
今度竜崎に京極《きょうごく》夏彦《なつひこ》を読ませてみたいと思った。
「わかりました」
「え? 何か、わかったんですか?」
「いえ。何もないということがわかりました……そんな目で見ないでください、冗談を言っているわけではありません。内容的には普通の娯楽小説で、メッセージ、あるいは藁人形のようなメタファーの入り込む余地はないようです。勿論、手紙や何やが挟まっているということもありませんでしたし、欄外に落書きが残されているということもありませんでした」
「欄外ですか……」
「ええ、欄外にはノンブルしかありませんでした」
「……ノンブル?」
南空はその言葉に反応した。ノンブル――ページ番号。ページ番号――数字? 数字、数字と言えば――ローマ数字……?
「竜崎さん。被害者の胸に刻まれていたのが、もしローマ数字だったとして……その数は、何でしたっけ?」
「『16』、『59』、『1423』、『159』、『13』、『7』、『582』、『724』、『1001』、『40』、『51』、『31』、です」
よく憶えている。写真を見直そうともせずに。どうやら、一度見たものは決して忘れない性質《た ち 》らしい。コミックスのページ数にせよ、何にせよ。
「それがどうかしましたか?」
「いえ、ひょっとして、その数字がページ番号のことを指しているんじゃないかと思ったんですが……駄目ですね。千番台の数字が二つもある。三七六ページの本じゃ、千ページなんて最初から論外です」
「ええ……いや、南空さん。その場合は、二周目に入ればいいんじゃないですか? たとえば『476』なら、三七六プラス百と解釈して、百ページ目を示していることにする」
「……すると、どうなります?」
「わかりません。しかし、考えてみましょう。『16』が十六ページを示しているとして……『59』、『1423』、『159』、『13』、『7』、『582』、『724』、『1001』、『40』、『51』、『31』……」
そのパンダ目を、薄く閉じる竜崎。
本を確認しようとはしない――まさか、いくらなんでもあの速読で、一冊の本の全文を憶えてしまったということはないだろうが……いや、あるのか? もしかして、あってしまうのか? 何にせよ、南空には、竜崎のそんな様子を見守ることしかできない。
「……わかりました」
「何もないということがわかったんですか?」
「いえ――何かあるということが、わかりました。何かというよりは、もっと具体的なものが。南空さん」
『遊び足らず』を南空に渡す竜崎。そして「十六ページを開けてください」と言った。
「開けました」
「そのページの一番最初にある単語は何ですか?」
「quadratic」
「では、次は五九ページ。そのページの一番最初にある単語は?」
「ukulele」
「では次は二九五ページをお願いします。『1423』だから、三周して四周目、『295』です。一番最初にある単語は?」
「tenacious」
以下、同様の手順。『159』の百五九ページ、『13』の十三ページ、『7』の七ページ、『582』の二〇六ページ、『724』の三四八ページ、『1001』の二四九ページ、『40』の四〇ページ、『51』の五一ページ、『31』の三一ページ、それぞれのページの一番最初にある単語を、南空は読み上げる。順に、『rabble』、『table』、『egg』、『arbiter』『equable』、『thud』、『effect』、『elsewhere』、『name』。
「です」
「ですって……これがどうかしたんですか?」
「それらの単語の頭文字を繋げてみてください」
「頭文字って……えっと」
もう一度、それぞれのページを確認する南空。南空も記憶力は悪くない方だが、さすがに十二個もの単語を、一息には暗記できない。最初から記憶するよう言ってくれていたら別だったけれど。
「Q・U・T・R・T・E・A・E・T・E・E・N……クトルティー・イーティーン?……これがどうかしたんですか?」
「二番目の被害者の名前と似ているとは思いませんか?」
「ああ……言われてみれば」
二番目の被害者、十三歳の少女。
クオーター・クイーン。
「確かに、発音は……というより、綴りも似ていますね。クオーター・クイーンは、Quarter・Queenだから……四文字しか違いません」
「そうなんです。ただし――」
竜崎はそこで歯切れ悪く言葉を切る。
「十二文字の内の四文字も違えば、残念ながらというところでしょう。三分の一も違うということになります。いえ、一文字だって外れれば、こんな推理に価値はないんです。ぴったり合わなければメッセージとしての意味がありません。何かあるんじゃないかと思いましたが、まあ、偶然なのかもしれませんね」
「そんな、こんな偶然なんて――」
あまりにも――あからさま過ぎる[#「あからさま過ぎる」に傍点]。
こんな偶然があるものか。
意図を感じずには、いられない。
意図を――あるいは、異常を。
「しかし、南空さん、合わないものは合わないのだから、仕方がありません。惜しいところまで行った気はしますが――」
「……いえ、竜崎さん。よく考えてください。これ、違っている四文字は、全部、『376』以上の数字のページですよね? 一周、あるいは二周三周している数字です。ということは――」
ページをめくって、三度、確認する。二九五ページ。最初の単語は『tenacious』――一文字目は『T』、二文字目は『E』、三文字目は『N』、そして四文字目は――『A』。
「三周して[#「三周して」に傍点]、四周目のときは[#「四周目のときは」に傍点]――頭文字ではなく[#「頭文字ではなく」に傍点]、四番目の文字を選ぶべきなのでは[#「四番目の文字を選ぶべきなのでは」に傍点]? 『T』じゃなくて『A』。そして『582』の『arbiter』は、一周しての二周目で、『A』ではなく、二番目の『R』を選ぶんです。そうすれば、『Q・U・T・R・T・E・A』は『Q・U・A・R・T・E・R』。クトルティーではなく、クオーターです」
同じように、『equable』は『724』だから、一周しての二周目で、二番目の文字――『Q』を選び、『1001』の『thud』も、『T』ではなく、『U』を選ぶ。そうすれば、『E・T・E・E・N』は『Q・U・E・E・N』だ。つまり、クイーン。クオーター・クイーン。
Lの推測は正しかった。
犯人が残した痕跡、メッセージ。
傷つけられた死体と、本棚から抜き取られた二冊の本に――犯人からのメッセージが、しっかりと残されていたのだ。ロス市警本部に送りつけられたクロスワードパズル同様、次の被害者を示すメッセージが――
「やりましたね、南空さん」
竜崎が、飄々とした口調で言った。
「見事な推理です。おみそれしました、私なんか、とても敵《かな》うところではありません」
[#改ページ]
page.3 反対
Lがどうして、Lとして人前に姿を現わすことを頑《かたく》なに拒否し続けているのかという話をすると、それは一言で簡単に言えば、危険だからだ。危険。探偵に限った範疇《はんちゅう》ではなく、優れた頭脳は美術品と同じで国家を挙げて保護されるべきなのだが、しかしそのためには社会制度が追いついていないのが現状であり、ならば自分の頭脳は自分で守るしかないというのが、Lの持論であったらしい。単純計算で、二〇〇二年当時のLの能力は、平均的な捜査機関五つ分、情報機関にしてなら七つ分を数えていた(キラ事件当時は、この数字は更に跳ね上がっている)。それをただ尊敬の対象、憧憬《しょうけい》の対象と考えるのは容易《た や す》いが、しかしはっきり言って、それだけの高い能力を、たった一人の人間が持っていることは危険である。リスクは分散させなければならないという現代的な危機管理の精神からは程遠い。つまり、ある人物が何らかの犯罪を企んだとして、その犯罪を行う前に、Lを、たった一人の人間を殺すことに成功すれば、それだけ実際の犯行にあたってのハザードレベルを格段に下げることができるからだ。だからLは正体を隠す。別段シャイなわけでもないし、引きこもりなわけでもない。自分の命を守るためなのだ。Lくらいの探偵になれば、自分の命を守ることが世界の平和を守ることとイコールで繋がるので、それを臆病だったり自己中だったり、そんな風に言うのは正しくないだろう。まあ、僕としてはできれば一緒にしたくはないのだが、殺人鬼キラが、たとえノートに名前を書いただけで人を殺す、破格の能力を持っていたからといって、それを大々的に公表するような真似をするわけがないのと、同じようなものだ。賢き者は、自身が賢き者であることを隠す。賢者は名札をつけない。自分の有能さを必死で主張するようになってしまえば、人間も追い詰められているという話――自分の仕事について説明するようなことだけは、するなかれ。
というわけで、Lは動くときに、誰かを矢面《やおもて》に立てることが多い――今回の場合は、それがFBI捜査官|南空《み そら》ナオミだということになる。協力を要請した段階で、それは南空にもわかっていることだった。自分はLの盾だ、と。Lと直接的に繋がっているということが、どれだけ自分にとって危険なことなのか……あれから南空は、あの手この手で、竜崎《りゅうざき》から真実を引き出そうとしたが、どうポジティヴに考えても、『恐らくは[#「恐らくは」に傍点]Lとの会話は聞かれていないはず[#「はず」に傍点]』という程度までしか、その推測を同定できなかった。もしも竜崎が南空とLの関係に気付いていて、その情報を裏に流せば、南空の身はあっと言う間に、いや、あっと言うほどの暇もなく、とんでもない窮地に追い込まれるであろうことを思うと、いかに気丈な南空であっても、不安になる。まして、竜崎の、あの推理能力の高さ……ビリーヴ・ブライズメイド宅のベッドルームにおける絵解きから一日が経過したところで、南空は、あれは竜崎にうまく誘導されていたのかもしれないという可能性について、考えるようになった。あのときは、自分で解答に辿《たど》り着いた気分でいたが――思い起こしてみれば、ノンブルのことも、一周目二周目三周目四周目のことも、全て、竜崎の前振りがあってこそ、気付いたことだった。あそこでわざわざ、南空に、それぞれのページの単語を読み上げさせる必要が、果たしてあっただろうか? あれは、推理に参加しているという意識を南空に与えるための演出だったと思えなくもない……そしてそう思うと、最後の最後のゴールテープを切るところを南空が務めただけで、他は全て竜崎のお膳立てだったというような気さえする。それは、背後にLがいるプレッシャーが生じさせる、猜疑心《さいぎ しん》なのだろうか……。ビリーヴ・ブライズメイドのベッドルームの本棚から、あのように二番目の被害者の名前を導き出せたのは、事件捜査にあたって大きな収穫ではあったが――あれから調査したところ、グレーターロサンゼルス内に、クオーター・クイーンという名前の持ち主は、二番目の被害者ただ一人だけだった――しかし、気分はどこか、もやっとしている感じだ。
八月十六日。
南空ナオミは、その二番目の被害者が殺された事件現場である、ダウンタウンのサードアヴェニューを訪れていた。この界隈《かいわい》には土地勘が全くないので、住宅地図と首っ引きだった――あれから一日。いつ第四の殺人が起きるかわからないこの状況を考えると、本来なら、ビリーヴ・ブライズメイド宅から直接、このダウンタウンに出張ってきたいくらいの気持ちはあったが、その前に調査すべきこと、または裏付けすべきことがあまりにも膨大だったし、交通機関の事情もそこに加味すると、結局、第二の現場を訪れるのは翌日ということになった。第三の事件から数えて、三日後である――九日間、四日間、九日間と来て、次が四日間という周期を、神経質な犯人が、神経質に守ってくるのだとしたら、第四の殺人はまさに明日行われることとなるが、それは現時点ではどうしようもない。防ぐ手立てが、今のところ、ない。ならば出来る限りのことをするだけだった。差し迫った危機に対応できるだけの根拠を、現状南空は持ち合わせていないのだから。
なお、Lの調査によると、竜崎ルエという名前の私立探偵に、ビリーヴ・ブライズメイドの両親が事件捜査を依頼しているというのは、事実であるらしい――それだけでなく、二番目の被害者であるクオーター・クイーンの関係者も、三番目の被害者であるバックヤード・ボトムスラッシュの関係者も、竜崎に事件捜査を依頼しているとのことだった。そこまでいけば、周到過ぎて逆に胡散《う さん》臭いと南空は思うが、しかしそれが事実だというなら、付け入りようがない。攻めどころがない。だが、Lの調査能力をもってしても、その竜崎の背景は、まだ探り切れないとのことだった――だから、私立探偵竜崎ルエについては、捜査協力をする、連携して推理にあたるという名目で、続けて泳がせておいて欲しい、と。
Lは本当は竜崎について何らかの結論に辿り着いているのではないか。南空は少しだけそう考えた。ハザードレベルの関係で、単に南空には説明できないというだけで……まさか南空だって、Lが全ての情報をあますところなく、自分に開示してくれているだなんて、馬鹿なことは考えていない。ならば竜崎のことだって――だがそれも、根拠のない疑心暗鬼と言われればそれまでだった。竜崎が怪しいのは確かだが、しかし彼が具体的に何かをしたというわけではない――あくまで疑惑の段階だ。
でもなあ、と、四つん這いになって事件現場を這い回る彼の絵を、今日も見なければならないのかと思うと(実を言うと、昨日の夜、夢に見た。寝起きの悪い南空が一瞬で飛び起きるような夢だった)憂鬱にならずにはいられなかった――そんなとき、そんな八月十六日の、午前十時。
南空ナオミは、襲われた。
人通りの少ない、ろくに日の差さない薄暗い裏通りを、事件現場に向かう近道として抜けようとしていたら、背後からブラック・ジャックによる殴打を受けた。いや、受けなかった――すんでのところで、上半身を沈めることによって、かわした。ブラック・ジャックは手軽な凶器だ――皮袋の中に砂を詰め込んだだけの簡単な造りだが、その簡単な造りは隠蔽《いんぺい》率の高さと直結するものであり、凶器としての有効度を否定するものではない。髪を掠《かす》めて、それが風を切る音を聞きながら、Lの手足、眼、そして盾となって動くという段階で、当然彼女なりに身の危険は感じていたので、南空はやっぱり来たか、とだけ思い、大して驚くこともなく、すんなりと思考を切り替える。はからずも脳内から四つん這いの竜崎を追い出すことができたので、それは好都合だった。両手をアスファルトに叩きつけて、その反動で長い脚を勢い任せに浮かす――襲ってきた人物の顎を目掛けて、逆立ちの姿勢で、腰を回転させるように捻った。ヒットせず。構わない、この動作は回避の意味と、それから、相手を確認する意味がメインだ。相手は一人――あからさまな覆面をしていた。一人というのは意外だったが、右手のブラック・ジャックの他に、左手に太い鉄棒を持っていることを見ると、強がりでも安全とは言えない状況だと、そう認識できる。ただの暴漢ではないだろう。昨日同様、南空は拳銃を持っていない。勿論、バッヂも手錠もない。逃げるのがもっとも適当な選択肢だろう。が、南空は、襲われたからといってそれで逃げるほど、大人しい性格でもなかった。FBI内における彼女のニックネームは『虐殺南空』である。彼女に対する悪意が十二分に籠《こも》ってはいるものの、それは火のないところに立った噂とは言えない。跳ね上がり、着地し、脚を前後に広げ、右手を顔の前に、腰を低くして、身体を揺り動かしながら、襲撃者に対して身構える。その構えに襲撃者は、一瞬、躊躇《ちゅうちょ》したようだったが――今度はブラック・ジャックではない、鉄棒の方で、南空に向かってきた。上半身をスウェーさせて、それをかわす――そのまま、狭い裏通りを一杯に使うように、側転の動きを見せて、南空は右足のかかとで、襲撃者のこめかみを狙った。今度はしっかりと狙ったが、しかし、こちらもかわされた。そして、攻防はそれでおしまいだった。南空は逃げる気なんて皆無だったが、向こうにはそこまでの熱意はなかったらしい。体勢を立て直した南空にさっと背を向け、襲撃者は駆け出した。一瞬、その背中を追いかけるべきかと思ったが、考えて、二歩ほど踏み出したところで、やめた。あれは恐らく男性。格闘で負けるとは思わなかったが、しかし、徒競走となれば話は別だ。走るのはあまり得意ではない。無駄な体力を使いたくはなかった。
激しい動きに乱れた髪を整えてから、鞄から携帯電話を取り出し、南空はLに連絡を入れる。しかし、通話音が続くだけで、回線が繋がることはなかった。なにぶん世紀の名探偵だ、忙しい身である、定時でなければ連絡がつかないこともあるだろう。幸い、実際的な被害を受けたわけではない、報告はまたあとでもいい。むしろ、今は早く現場に向かった方がいいのかもしれない――今襲われたことによって、竜崎に対する南空の疑いは増した。あれが、この事件に関係がある襲撃者なのか、それとも単に、事件とは無関係だが南空とLとの関係を知っての襲撃者なのかは判断のしようがないが、どちらにせよ、タイミング的には竜崎が噛んでいる可能性は決して低くはない……。L任せにせず、竜崎のことについては、自分でも調査した方がいいのかもしれない、自衛のために……レイに連絡をとって、秘密裏に調べてもらおうかしらと考えつつ、とりあえず南空は、その裏通りから移動することにした。
● ●
予想通り、南空ナオミは追ってこなかった。
裏通りを抜けたところの大通りに、エンジンをかけっぱなしにしておいたセダンに乗り込んで、しばらく転がしたところで、襲撃者はバックミラーを確認してから、あらかじめ下調べをしておいたモータープールに駐車する。そのセダンは盗難車で、アシがつく心配のないものだったから、ここに乗り捨てて行くつもりだった。監視カメラを意識しながら、そこからは徒歩で移動する。勿論、覆面やブラック・ジャック、鉄棒などは、セダンに置いたままだ。全部まとめて、グローブボックスの中に放り込んで来た。当然、指紋など残っているわけもない。
元より、南空ナオミを今日あそこで、どうこうするつもりはなかった。彼女の捜査能力を測るために、ちょっとちょっかいをかけてみただけだ。だから、後ろから襲ったとは言え、怪我をさせるつもりはなかった――何故なら[#「何故なら」に傍点]、殺すつもりでやったのだから[#「殺すつもりでやったのだから」に傍点]。
だから[#「だから」に傍点]、死ぬはずがない[#「死ぬはずがない」に傍点]。
避けると[#「避けると」に傍点]、わかっていた[#「わかっていた」に傍点]。
しかしなるほど、それはさておき、あの女、全くもって大したものだ、振り向きもしないままにこちらの攻撃を避け、更にすぐさま反撃に転じるとは――さすがは[#「さすがは」に傍点]、あのLが[#「あのLが」に傍点]、駒として使っているだけのことはある[#「駒として使っているだけのことはある」に傍点]。頭脳だけではなく、舞台度胸も大逸《だいそ 》れている――そうでなければならない。
どうやら、資格はありそうだ。
己と対峙するだけの資格は[#「己と対峙するだけの資格は」に傍点]。
こきり、と、襲撃者は、首を鳴らす。
その首を傾けたままの奇妙な姿勢で、通りを歩く。
襲撃者。
ロサンゼルスBB連続殺人事件の犯人――ビヨンド・バースデイは、酷薄な笑みを浮かべて、通りを歩く。
● ●
「やあ南空さん。遅かったですね」
南空がクオーター・クイーンの住んでいたアパートメントの605号室に入った途端、竜崎は振り向きもせずに、飄々《ひょうひょう》とそう言った。
「待ち合わせの時間は守ってください。時は金なり、命なりですよ」
「はあ……」
四つん這いの姿勢――ではなかった。丁度、竜崎は箪笥《たんす 》の上段の方を調べていたところだったからだ。が、それはタイミングがよかったとはとても言えそうにない。その段は、まさに被害者である十三歳の少女の下着が詰まった段だったからだ。竜崎がそうしていると、事件の調査をする探偵というよりは、女児のパンツと戯《たわむ》れる変質者だった。
なんだか出鼻をくじかれた形だ。裏通りで襲われた勢いに任せて、竜崎に対してちょっとキツい態度に出ようかと思っていた矢先だったのだが、思い切り気勢を削《そ》がれてしまった。計算だとすれば見事な限りだが、幾らなんでもそんなはずがないだろう。それよりはまだ、竜崎は真正で、女児のパンツと戯れていると見る方が正しそうな気さえする。
南空はため息と共に、部屋を見渡す――そんなに広くない、ビリーヴ・ブライズメイドのベッドルームよりも狭いくらいの、アパートメント。経済格差というほどのことではないにせよ、第一の被害者と第二の被害者との間の|繋がりの無さ《ミッシングリンク》を実感させられる、現実だった。
「確か……被害者は母子家庭で、母親は今は、実家に帰っているとのことでしたね? ショックを受けたようで」
「はい。本来は一人暮らしの大学生向けに建てられているこのアパートメントに親子二人で住んでいたということで、結構、人目を引いていたようですよ。今朝、軽く聞き込みをしてみましたが、色々面白い話も聞けました。まあ、そのほとんどは、昨日南空さんから見せていただいた、警察の捜査資料に書いてあることと重複しますが。事件当時、母親は旅行に出ていて、第一発見者は、不審な物音に気付いた隣に住む女学生だということです。……娘と母親が対面したのは、病院の霊安室だったそうですよ」
「…………」
竜崎の言葉を聞きながら、南空はまず、部屋の壁を確認する……藁《わら》人形が打ち付けられていた痕跡を、確認する。四面ある壁の内、ドアのある壁にだけ穴がなく、他の三面に、穴がある。ビリーヴ・ブライズメイドのベッドルーム同様、その穴が、藁人形があった位置なのだろう。
「気になりますか? 南空さん」
「はい……確かに昨日、私達は」
私達は、と、『達』を強調して、南空は言う。
「第一の事件現場から、犯人の残したメッセージを解読しましたが、しかし……藁人形の問題や、密室の問題については、完全に棚上げのままなんですよね」
「そうですね」
箪笥を閉じて、四つん這いになる竜崎。ただ、前の現場と違って、この第二の事件現場は、人間が二人生活していたということもあって、家具も多いし、雑然としている。這い回るには少し不便そうだった。しかし竜崎はくじけることなく、その姿勢のまま、部屋の反対側へと移動していった。くじけてくれればいいのにと思う。
「しかし南空さん、密室の問題については、あまり考える必要はないかもしれません。探偵小説じゃないんです――現実的には、合鍵を使ったという線が濃厚でしょう。合鍵の作れない鍵なんて、この世にはありませんから」
「まあ、それはそうなんですけれど……でも、この事件の犯人が、合鍵なんて無粋《ぶ すい》なものを使うでしょうか? 密室を作る必要なんて、そもそもないんです。それなのに[#「それなのに」に傍点]、わざわざ作った[#「わざわざ作った」に傍点]。だったら、そこには何らかのパズルがあるんじゃないかと」
「パズル」
「あるいは、遊びというか、余興というか……」
「そうですね。そうかもしれません」
南空は、自分が今入ってきたドアを、確認する。第一の事件現場と、デザインこそ違えど(屋内の扉とアパートメントの玄関との違いだ)、構造や大きさは、大体同じ。サムターン錠。指でつまんで捻《ひね》るだけの、単純な機構の、かなり一般的な錠……ドアをドリルで打ち抜いて外側からこの摘《つま》みを回してしまう、いわゆる『サムターン回し』によって、空き巣に狙われ易い錠ではあるが、しかし勿論、第一の現場でも第二の現場でも第三の現場でも、扉に穴など、開いていなかった。
「竜崎さんなら、どうですか? この鍵を外側からかけようと思ったとき、どんな手段を講じます?」
「鍵を使います」
「いえ、そうではなく、鍵を持っていないとき」
「合鍵を使います」
「いえ、そうではなく、合鍵も持っていないとき」
「かけません」
「…………」
まあ、それが普通の意見ではあるのだけれど。
南空はドアを、手で押して、揺らす。
「探偵小説だったら、竜崎さん、密室と言えば『針と糸』を使ったトリックなんかが有名なんですけれど……ほら、密室とは言え、あくまでも一般家庭の家のドアですから、気密性には欠けているはずです。ブライズメイドの本棚ではありませんが、きっちりと隙間なく、閉じられているわけではない……糸くらいなら通ります。たとえば、隙間から糸を通して、摘みに引っ掛けて、回した、とか……」
「無理でしょうね。隙間があるとは言っても、極々《ごくごく》わずかな隙間ですし、角度的に、力のベクトルがドア本体へと分散してしまいます。やってみればわかりますが、糸の大部分が、扉に接触する形になりますからね。摘みに引っ掛けようがどうしようが、ドアを正方向に引っ張るベクトルにしか、力は働きません。内開きの扉を外向きに引っ張るだけです」
「ですよね……けれど、これくらい簡単な錠では、トリックの入り込む余地って、ほとんどないんですよ。探偵小説だったら、密室の扉というのは、もっと凝った設定のものなんですけれど」
「密室を作る方法なんて、いくらでもあります。それに、やはり合鍵の可能性は否定のしようがありませんよ。それよりも南空さん、問題は犯人が『どうして密室を作ったか』ということでしょうね。必要もないのに[#「必要もないのに」に傍点]、わざわざ作った[#「わざわざ作った」に傍点]。パズルがあるとすれば[#「パズルがあるとすれば」に傍点]、何のために[#「何のために」に傍点]」
「……だから、遊び、余興……」
「何のために[#「何のために」に傍点]」
「…………」
何のためにと言うなら、全てが何のために、だ。
ロス市警にクロスワードパズルを送りつけたことも、本棚にメッセージを残したことも、それに、これまでに三人の人間を殺したことも……犯人に明確な目的があるのだとしたら、それは一体、何なのか。無差別殺人だとしても、その原因はあるはず……Lが言っていた、被害者同士を繋ぐミッシングリンクというのも、結局はまだ、わからないままだ。
南空は壁にもたれて、鞄から写真を取り出す。
この部屋で殺された、第二の被害者の写真……うつ伏せに倒れている、眼鏡をかけたブロンドの少女。よく見れば、頭部が凶器の形に変形していて、そして、その両目が、深く突き潰されている。目が潰されたのは、死後とのことだ――つまり、ビリーヴ・ブライズメイドの胸の傷と同じ、死因とは直接関係のない、死体損壊というわけである。何を使ったのか知らないが、可愛らしい顔立ちをした少女の目を突き潰してしまうなんて、この犯人は一体どんな神経をしているのだろうと、南空は胸が悪くなる。FBI捜査官とは言え、南空は決して正義感が強い人間ではない――だがそれでも、許せないと思うことくらいはある。この第二の被害者に対する犯人の行為は、間違いなくその中の一つだった。
「子供を殺すなんて……酷《ひど》い」
「大人を殺すことも酷いですよ、南空さん。子供を殺すことも大人を殺すことも、何も変わりません」
しかし竜崎は、何と言うこともなさそうに、むしろ冷淡な風に、南空に対して、そう言った。
「竜崎……さん」
「一通り、部屋は調べ終わりました」
竜崎は立ち上がった。そして、両手をジーンズで、ごしごしとぬぐう。素手で床を這い回ったら手のひらが汚くなるというくらいの認識は、あるらしい。
「金目のものはありませんでした」
「……そんなことを調べていたんですか」
空き巣じゃないか。
しかもかなり堂に入《い》った空き巣だ。
「いえ、あくまで念のためです。金目当ての犯行という線を考えたとき、第一の被害者、第三の被害者と較べて、第二の被害者が浮いてしまいますから、ひょっとしたら貯め込んでいるんじゃないかと予想したんですが、外れました。ちょっと休憩しましょう。南空さん、コーヒーは如何《い か が》です?」
「あ、いただきます」
「では、お待ちください」
言って、竜崎はキッチンへと向かった。今日も冷蔵庫でジャムを冷やしているのだろうかと思ったが、まあどうでもいいことだと、その方面については考えるのをやめ、南空はテーブルに着く。結局、裏通りで襲われたことを、竜崎には言いそびれてしまった……追及しそびれてしまった。まあいい。言わないことで反応を見るという作戦に切り替えよう。あれが竜崎の手の者であるという確証は何もないのだし、だったらそちらの方が、まだ次の展開を窺《うかが》いやすい。
「お待たせしました」
トレイにコーヒーカップを二つ載せて、竜崎がキッチンから戻ってくる。カップを一つ南空の前に置き、向かいの席にも置いた後、椅子を引いて、竜崎はその椅子の上に、昨日も見せた、両膝を立てて抱えるような、変な座り方をした。行儀|云々《うんぬん》ではなく、ただただ逆に座りづらそうな姿勢に見えるのだが、本当のところはどうなのだろう、と南空は、コーヒーに口をつける。
「ぐはあっっ!」
すぐに吐き出した。
「ぐ……ぐ、あ、あぐぅ、うぅうぅう……!」
「どうかしましたか、南空さん」
ずずずず、と、そ知らぬ顔でコーヒーを飲む竜崎。
「一旦《いったん》口に入れたものを吐き散らかしたりして、はしたないですよ。それに、イメージダウンに繋がりかねない、酷い悲鳴でした。折角《せっかく》美しい容姿をお持ちなのですから、自己プロデュースは大切にしてください」
「さ……殺人的な甘さが……毒です!」
「毒ではありません。砂糖です」
「…………」
犯人はお前か。
改めて南空は、手にしているコーヒーカップの中身を見る……それは液体というよりは固体だった。コーヒーに砂糖を溶かしたというより砂糖をコーヒーで湿らしたというような、ゾル状、いやゲル状の物体が、カップの中には威風堂々と存在していた。竜崎の座り方に意識を取られている隙に、自分はこんなものを飲まされたのか……。
「泥を飲んだ気分だ……」
「泥はこんなに甘くありませんよ」
「『甘い泥』……」
前衛芸術っぽいタイトルをつけてみたところで、口腔《こうこう》内を支配する悪魔のようなじゃりじゃり感が、消えてなくなるわけじゃない。ずずずずっと、竜崎はコーヒーを飲み続……いや、啜《すす》り上げ続ける。南空の方のカップにだけ嫌がらせとして仕込んだわけではなく、この砂糖の量が、彼にとってスタンダードなものであるらしい。
「ふう。やはりコーヒーはすっきりしますね」
カップ一杯分、砂糖の量にしておよそ二百グラム分を飲み干したところで、竜崎はそう言って、それから南空に、
「すっきりついでに、一つ、いいでしょうか」
と言ってきた。
できれば今すぐ席を立って洗面所に行き、砂糖まみれになった口の中を洗浄したくてしょうがなかったが、そんな風に言われれば仕方がない。「どうぞ」と、南空は竜崎に、話の先を促す。
「ミッシングリンクの件です」
「何かわかりましたか」
「金目当ての犯行という線は、どうやらなかったようですが……昨夜、南空さんと別れてから、面白いことに気付きました。まだ誰も気付いていない被害者同士の共通項です」
「……なんでしょう」
「イニシャルですよ、南空さん。被害者のイニシャルに、共通する特徴があるんです。ビリーヴ・ブライズメイド。クオーター・クイーン。バックヤード・ボトムスラッシュ。Believe Bridesmaid、 Quarter Queen、 Backyard Bottomslash。B・B、Q・Q、B・Bです。つまり、イニシャルが同じ、ファーストネームとファミリーネームの頭文字《イニシャル》が同じアルファベットであるという……おや、どうかしましたか? 南空さん」
「いえ……」
なんだそんなことかという、落胆した気持ちがそのまま表情に出てしまったのだろう、竜崎は言葉を途中で止めたが、南空はそれに対し、フォローを入れる気すら起こらなかった。くだらない、そんなことは、南空でも、三人の被害者の名前を見た時点で、気付いていたことだ。わざわざそんな風に改まって、口にするようなことではない。
「竜崎さん……世界中に、いやロサンゼルス内だけでも、イニシャルが上下で同じだという人間が、一体どれだけいると思っているんですか? アルファベットがAからZまで二十六文字、だから、単純計算で二十六人に一人は、そういう名前の人間がいることになるんです。そんなの、共通項の内には入りませんよ」
「そうですか。大発見だと思ったんですけれどね――」
どこまで本気なのか、がっかりした風の竜崎。
拗《す》ねているみたいに見えるが、やはり可愛くない。
故意だとすれば、最悪の自己プロデュースだ。
「それを言うなら、あなただって竜崎ルエで、L・Lじゃないですか」
「おや。それは気付きませんでした」
「全く……くだらない」
思わず期待してしまった自分が馬鹿みたいだ。こうなると昨日のことも、竜崎に誘導されて解答に辿り着いたと考えるのは、やっぱり考え過ぎなのかもしれない。
…………。
L・L?
「南空さん」
「え、あ、はい?」
「そうなると私の推理はからっきしということになりましたが、南空さんの方で、推理の進展はありましたか?」
「……いえ、進展というほどのものはありません。その意味では、私も竜崎さんのことは言えませんね……やはり、昨日と同じく、この現場から犯人の残したメッセージを探すという方向で、推理していくしかないと思います。正直、犯人の手のひらの上に乗っているようで、癪《しゃく》というか、釈然としませんが……」
「手のひらに乗っていると思わせておけばいいんです。いい気にさせておいて、相手からヒントを引き出すのも、立派な策略の一つですよ。さて、南空さん、メッセージが残されているとしたら……どこでしょうね」
「どこかはともかく、その内容は予想がつきます。恐らくは、第三の被害者……バックヤード・ボトムスラッシュの名前、あるいは住所を指すメッセージだろうと思われます。クロスワードパズルが第一の事件を、本のページ数が第二の事件を、それぞれ予告していたことから考えると」
「でしょうね。私も同じ意見です」
「ただ、そのメッセージをどこに仕込んだかということになると、今のところ見当もつきません。何らかの法則性をそこに見出せれば、犯人逮捕のきっかけになるとは思うんですが……」
あるはずなのにないもの[#「あるはずなのにないもの」に傍点]。
竜崎は、昨日、確かそう表現した。
被害者本人だったり、本棚だったり。
このアパートメントにも、そういったものがあるのだろうか? その、あるはずなのにないもの――が。あるはずなのにないものがあるだなんて、もう言葉として重複が過ぎ過ぎていて、意味が顛倒《てんとう》してしまっているような気もするけれど……。
「となると」
竜崎は言った。
「何を見つけたところで、どうせ、第三の被害者を示すメッセージが出てくるだけと言うのだったら、ここは飛ばして、今からでもすぐに第三の事件現場に向かった方が効率的なのかもしれませんね。何故なら、事件の解決もそうですが、第四の事件を防ぐこともまた、私達の目的なのですから」
「……そうですね」
竜崎に、第四の事件の可能性を教えたのは自分だが――しかしそのときの彼の反応から、竜崎は、最初から自分でその可能性に思い至っていたのではないかという感想を、南空は持ったので、相槌《あいづち》が少し曖昧になった。
「既に起きてしまっている第三の事件を防ぐことはもうできませんが、第四の事件ならばまだ未然に防ぐことが可能です。ここで、答の決まっているメッセージを探すことに時間を費やすよりは、第三の事件現場で、第四の被害者を指し示すメッセージを探した方が、建設的な気はします」
「けれど、それでは、犯人に対して守りに入っていることになりませんか? 後手後手に回っているというか……この部屋にあるかもしれない、犯人に対する手がかりを、見落としてしまうことになりかねません。確実な証拠というのでなくとも、雰囲気というか、感覚みたいなもの……第四の事件を防ぐことは勿論肝要ですが、しかしそのことばかりにとらわれていると、強気な、攻めの姿勢を失うことになります」
「その心配はありません。私は攻めですから」
「攻めですか」
「はい、強気攻めです」
竜崎は言う。
「守りに入ったことなど一度もありません。生まれてこのかた信号だって守ったことがないのが、私の数少ない自慢の一つです」
「信号は守ってください」
「嫌です」
断られた……。
「第四の事件を防ぐことは、恐らくイコールで犯人の確保・特定に繋がるでしょう。私の依頼人も、それを何より願っているはずです。しかし、南空さんの言うこともわかります。では、こうしましょう。私はもうこの部屋を調べ終わりましたから、これから南空さんが調べている間、第三の事件について、思考を巡らしたいと思います。昨日の捜査資料を、もう一度見せていただけますか?」
「手分けしようってことですか? 構いませんけれど……」
もとより協力しているつもりはない。
隣の椅子に置いていた鞄から、一冊のバインダーを取り出す南空。中身が、第三の事件のものであることを確認して、テーブル越しにそのバインダーを竜崎へと手渡す。
「それで……こちらが現場写真です」
「どうも」
「しかし、先ほども言いましたけれど、何の進展もしていませんよ。昨日と全く同じ内容です」
「はい。わかっています。それでも、いくつか確認しておきたいことがありますので……、しかし、酷いですね、この写真は」
竜崎は言って、渡した一葉を、テーブルの上に、南空にも見えるように置く。第三の被害者、バックヤード・ボトムスラッシュの死体の様子が写った写真――それは、FBI捜査官として様々な修羅場を潜《くぐ》ってきた南空ナオミをしても、何度見ても眼を背けたくなるような、猟奇的な死体だった。胸を傷つけられているとか、目を潰されているとか、この写真の前では、そんなことは何でもないことのように思えてしまうくらいに。
左腕と右脚が根元から切断された、仰向けの死体。
現場は血塗れ、血の海だったそうだ。
「右脚はバスルームに放置されていましたが、左腕は目下行方が知れないまま……これは明らかに、犯人が持って行ったと見るべきでしょうね。しかし何のために?」
「またその問いになりますか。しかし竜崎さん、それこそが、あるべきなのにないもの[#「あるべきなのにないもの」に傍点]――ということなのかもしれませんね。被害者の、左腕」
「犯人には被害者の左腕を切断する必要があった……しかし右脚は、持って行っていない。バスルームに捨て置いています。これは何を意味するのでしょうか?」
「どの道、今日の午後には、第三の現場を訪れることにしましょう……。ただ、私にも数時間は、この部屋で、捜査をさせてください」
「ええ。その通りにしましょう。ああ、そういえば、そちらのキャビネットに被害者のアルバムが入っていましたから、南空さん、それは是非チェックしておいてください。被害者の趣味嗜好や、交友関係が読み取れるかと思います」
「わかりました。では」
竜崎が捜査資料に見入ったのを受けて、南空は椅子から立ち上がり、まずは洗面所に向かった。口の中のじゃりじゃり感が、いい加減限界だった。辿り着いて、すぐにうがいをする。一回ではとても足りず、二回、三回と、うがいを繰り返した。
このタイミングでLに連絡をとるべきかどうか、考える。さっきは不通だったが、そろそろ……いや、昨日のような一軒家ならばまだしも、このような学生向けのアパートメントで、竜崎がそばにいる状況で、それをするのは危険だろう。トイレの中から電話をかけたとしても、ドアに近付かれるまでもなく、声が聞こえてしまいかねない。襲撃を受けたこと自体は、いずれ報告しなければならないだろうが……それとも、あんなこと、Lにとっては報告を受けるまでもないことだろうか?
顔を上げ、鏡に映った自分の顔を見る。
南空ナオミ。
これが自分。
はっきりとわかる。
同じ字をずっと凝視し続けていると、ふと、この字はこれで正しいのだろうか[#「この字はこれで正しいのだろうか」に傍点]と、疑問に思ってしまう現象はよく知られている。同じように――自分が自分であり続けること[#「自分が自分であり続けること」に傍点]で、ふと、自分自身のあり方に疑念を抱くこともあるだろう。自分はこれで正しいのだろうか[#「自分はこれで正しいのだろうか」に傍点]――と。
だから、こうして、鏡でも何でも。
自分を見つめ直すことは、必要だと思う。
「……でも、Lはどうなのかしら」
ふと、そんなことが、気になった。世紀の名探偵L……しかし、人前に姿を晒《さら》すことは決してない、正体不明の名探偵。LをLだと本当に認識している者が、果たしてこの世にどれくらいいるのか、あるいは全くいないのか、南空ナオミには知るよしもなかったが――それでも、こう思った。たとえば鏡を見たときに、Lは、自分のことを、ちゃんとLだとわかるんだろうか[#「ちゃんとLだとわかるんだろうか」に傍点]――と。
「鏡……かがみ?」
あれ。
今、何か、思いつきかけた……?
鏡……左右が反対に映る……光の反射……滑らかな平面における光の反射……硝子《ガ ラ ス》、硝酸銀水溶液……銀、いや、材質はどうでもいい、大事なのはその性質……その特性……となると、光の反射……いや、左右が反対……反対?
「反対……反対って、そうだ!」
気付くと同時に、南空は洗面所から飛び出して、テーブルへと戻った。捜査資料を眺めていた竜崎が、南空のその剣幕に面食らったように、パンダ目をぱちくりさせ、
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
と、言う。
「しゃ――写真」
「は?」
「写真を」
「……ああ、第三の事件の現場写真ですか?」
言われて、竜崎は、さっきと同じように、テーブルの上に、その写真を置く。左腕と右脚が切断された死体の写真。それを見て、南空は自分の鞄から、二葉の写真を取り出して、そこに並べた。それは、第一の被害者と第二の被害者の、それぞれの現場写真だった。現在起こっている一連の殺人事件の被害者の殺害状況を示す写真が、これでテーブルの上に並んだことになる。
「気付きませんか、竜崎さん」
「何にです」
「この三葉の写真を見て、不自然な点は」
「……まあ、死んでいるとしか」
「死んでいることは、不自然ではありません」
「哲学的ですね」
「茶化さないでください。ほら、これ――死体の格好が、違うんです。ビリーヴ・ブライズメイドは仰向けに、クオーター・クイーンはうつ伏せに、バックヤード・ボトムスラッシュは仰向けになっている。仰向け、うつ伏せ、仰向け――です」
「……そこに何か法則性があるとでも? それは、事件の期間が、九日間、四日間、九日間となっているのと同じで……つまり、明日、うつ伏せに殺される被害者が出る、そんな風に第四の事件が起こることを意味していると言いたいのですか?」
「いえ、違います。……あ、いや、ひょっとしたらそうかもしれませんが……そうじゃない、それとは違う可能性を、考えています。つまり――クオーター[#「クオーター」に傍点]・クイーンの死体がうつ伏せの状態であること自体が[#「クイーンの死体がうつ伏せの状態であること自体が」に傍点]、不自然なのではないかと[#「不自然なのではないかと」に傍点]」
「…………」
竜崎の反応は、あまり芳《かんば》しくない――ように、見える。南空の言いたいことが、うまく伝わっていないのかもしれない。まだ思いつきの段階で、推理としてまとめるまでに至っていない状態のまま勢いに任せて喋っているので、それも無理からぬことだった。南空は「少し考えさせてください」と、竜崎の隣の椅子に、腰を下ろす。
「南空さん、考えごとをするときは、この座り方がお薦めですよ」
「……この座り方って」
その、膝を抱えた変な座り方のことか?
それがお薦めだと言ったのか?
「本当です。推理力四十パーセントアップです。是非、試してみてください」
「いえ、その……ん、わかりました」
まあ、四つん這いになれと言われているわけではないし、ものは試しだった。突然の閃《ひらめ》きにハイになっている精神を落ち着けるのには、いいかもしれない。
実行してみた。
「………………」
ものすごく後悔した。
しかも、悲しいことに、考えはまとまった。
「如何《い か が》ですか、南空さん。つまり、クオーター・クイーンがうつ伏せの状態であることが、犯人の残したメッセージだということですか? 第三の事件を指し示す……」
「いえ、メッセージじゃなくて、これは、ミッシングリンクの方です、竜崎さん。最初に竜崎さんが仰《おっしゃ》った、イニシャルの推理の、続きみたいなものなんですが――」
変な座り方をした変な二人が変な推理を繰り広げるという、変さこの上ない絵面になっていないかどうか多少気にしながらも、南空は写真を、順に示した。椅子から足を下ろす時機は、完全に逸してしまった感がある。あと、この座り方、見た目よりは座りやすいようだった。
「被害者のイニシャルは、B・B、Q・Q、B・B……ですよね? 確かに、イニシャルの上下が揃う程度では、ミッシングリンクとは言えませんが……これ、一番目の被害者と三番目の被害者のイニシャルは、両方B・Bで、同じなんです。もしも、二番目の被害者がQ・QではなくB・Bだったら、それは十分に、ミッシングリンクであると、言えるのではないでしょうか?」
単純計算で――二十六かける二十六、六百七十六人に一人――という割合になる。単なるイニシャルの一致から、アルファベットを特定の一文字に絞るだけで、そこまで確率は低くなる。Bから始まる名前の少なさを考えると、実際の数値は更に低くなるだろう。
「面白い考え方です。しかし、南空さん。実際には第二の被害者は、クオーター・クイーン……Q・Qです。それとも、ひょっとして南空さんは、第二の被害者が、間違って殺された[#「間違って殺された」に傍点]という可能性を考えてらっしゃるのですか? 本来はイニシャルB・Bの人間が殺されるはずだったのに、間違い手違い人違いで、Q・Qの彼女が殺されてしまったと――」
「何を言っているんですか。第一の現場に残されていたメッセージは、確実にクオーター・クイーンを指しています。人違いなんてありえません」
「そうですね。うっかりしていました」
「…………」
本当にうっかりしていたのだろうか。今の言い方はわざとらしい気も……いや、いちいち竜崎のリアクションを気にしていたら、話が進まない。
「九日間、四日間、九日間。B・B、Q・Q、B・B。仰向け、うつ伏せ、仰向け……ここに『交互』の法則を見出すのも、竜崎さんの言う通り、ありだと思いますし、実際、私もそう考えないわけじゃないですが……でも、『神経質』と『交互』って、あまり相容れない言葉同士だとは思いませんか? 神経質な人間というのは、大抵の場合、首尾一貫しているものです――」
「しかし、被害者の死因は、絞殺、撲殺、刺殺と、あまり一貫していないようですが」
「それは一貫しない[#「一貫しない」に傍点]という点で一貫しているんだと思います――神経質に、色々試していると見ることができる。でも、『交互』というのは、『色々』とは違います。そこで、竜崎さん。さっき、鏡を見ていて、偶然、思いついたんですけれど……『B』と『Q』って、同じ形ですよね?」
「『B』と『Q』がですか? いえ、全然違うと思いますけれど」
「大文字じゃありません、小文字です」
言いながら、南空は右手の人差し指で、テーブルの上に、想定するアルファベットを、書き記す。『b』と『q』。何度も。『b』と『q』。『b』と『q』。『b』と『q』。
「ほら[#「ほら」に傍点]――全く同じ形[#「全く同じ形」に傍点]。さかさまなだけで[#「さかさまなだけで」に傍点]」
「……だから[#「だから」に傍点]、うつ伏せだと[#「うつ伏せだと」に傍点]?」
「はい[#「はい」に傍点]」
南空ナオミは、頷いた。
「単純計算で六百七十六人に一人の、イニシャルB・B……それがミッシングリンクだと仮定するなら、犯人はまず、イニシャルB・Bの人間を探すだけで、一苦労する羽目になる。一人ならともかく、二人三人、あるいは四人探すとなると、尚更です。だから[#「だから」に傍点]――やむをえず[#「やむをえず」に傍点]、イニシャルQ[#「イニシャルQ」に傍点]・Qで[#「Qで」に傍点]、代用した[#「代用した」に傍点]とは、考えられませんか?」
「……『やむをえず』というくだり以外には、賛成します。イニシャルQ・Qの人間がイニシャルB・Bの人間よりも見つけやすいとは思えませんから。仮にそうだったとすると、その代用は、捜査陣に対するパズルの一環として見るべきでしょうね。最初から、全員のイニシャルがB・Bだと、ミッシングリンクとして、わかりやす過ぎますから。しかしそれも、『仮にそうだったとすると』というだけで、その推理の確かさは、三十パーセントにも満たないでしょう」
「三十パーセント……」
いやに低い。
試験だったら、間違いなく赤点だ。
「どうしてですか?」
「南空さんのその推理は、だから犯人はクオーター[#「だから犯人はクオーター」に傍点]・クイーンの死体をうつ伏せにしたのだ[#「クイーンの死体をうつ伏せにしたのだ」に傍点]という結論でしたが……つまり『うつ伏せ』は『反対』の暗示で、『b』と『q』、さかさま[#「さかさま」に傍点]を意味する――しかし、南空さん。その推理は根本的に成り立ちませんよ」
「だから、どうして」
「小文字だからです」
竜崎はあっさりと言う。
「イニシャルなら、普通は大文字でしょう?」
「あ」
確かに。
イニシャルを小文字で表記することは、ない。その際に使用するのは大文字である。クオーター・クイーンは、あくまで『Q・Q』であり、『q・q』ではないのだ。同様に、『B・B』も、決して『b・b』とは解釈しえない。
「……いい線いったと思ったんですけれど」
膝頭《ひざがしら》に顔を埋めてしまう南空。
詰めが甘かったというか……『神経質』と『交互』がそぐわないという考え方が、多少以上に強引な牽強《けんきょう》付会《ふ かい》だったのだろうか? しかし、それでも、『b』と『q』の相似は、妙に意味深長ではあるのだが……。
「そういうこともありますよ、南空さん。気を落とさないでください」
「はあ……」
「それに、その推理、外れてよかったとも言えます。それが正しかったとすると、クオーター・クイーンは、代用という理由で殺されたということになってしまうんですから。十歳そこそこの小さな子供が殺される理由としては、あまりに残酷です」
「そうですね……そう考えれば、この推理は……」
……ん? 南空は竜崎の、そのフォローの言葉に、しかし、首を傾げる。さっき竜崎は、子供を殺すことも大人を殺すことも何も変わらないと言っていたと思ったが……いや、これは理由の問題なのか? 代用という理由だから……でも、それはあまり、関係なくないだろうか? 十歳そこそこの子供――
子供?
子供[#「子供」に傍点]?
小さな[#「小さな」に傍点]――子供[#「子供」に傍点]?
「……違います、竜崎さん」
「はい?」
「小文字でいいんです――この場合は[#「この場合は」に傍点]」
南空は、声を震わせながら言った。
震えている理由は、勿論、怒り。
「だから犯人は[#「だから犯人は」に傍点]、被害者に子供を選んだんです[#「被害者に子供を選んだんです」に傍点]」
十三歳の子供。
イニシャル。
大文字、小文字。
「子供だから[#「子供だから」に傍点]――小文字なんです[#「小文字なんです」に傍点]。そしてそれを[#「そしてそれを」に傍点]、うつ伏せにした[#「うつ伏せにした」に傍点]――さかさまに[#「さかさまに」に傍点]!」
● ●
そもそもイニシャルの話題をあれほど思わせぶりに持ち出したのは竜崎であり、その竜崎が、被害者が子供であることを殊更《ことさら》強調したり、あるいは、この推理の発想を得るきっかけとなる『鏡』がある洗面所へと足を向ける原因となった、砂糖たっぷりのコーヒーを淹《い》れたりしたことに、南空ナオミが思い至るのは、もうしばらく時間が経ってからのことになるが――とにかく。
ロサンゼルスBB連続殺人事件。
後にそう呼ばれることになるこれら一連の事件――そのもっとも重要なファクターが明らかになった、|失われた鎖《ミッシングリンク》が発見された、これが、瞬間だった。
[#改ページ]
page.4 死神
たとえば、あなたが人を殺すにあたって、その際にもっとも難しいことは何だと思う? 3、2、1、時間切れ。その答は『人を殺す』こと……おっと、慌てないで欲しい、何もこれは、いたずらに言葉で遊んでいるというわけではなく、結構真面目な話だ。人、つまり人間という生物は、そう簡単には死なない造りになっている――少なくとも、あっけなく、『ぐあっ!』そして『がくっ!』なんて感じに人が死ぬとは、考えられないはずだ。絞殺だろうが撲殺だろうが刺殺だろうが、そうそう容易《た や す》く、人は死んだりしない。人間は意外と頑丈な生き物なのだ。まして、人が人を殺すとなれば、そこには間違いなく絶対的な抵抗が生じる。誰だって殺されるのは嫌だ、逆に殺し返そうとすらするだろう。人間同士の力の差など大局的には微々たるものだ、一対一となれば、尚更難易度は上がる。そういう風に見れば、名前をノートに書くだけで人を殺すことができた、あの死のノートの存在がどれほど反則的だったのか、想像がつこうというものである。
しかし。
ビヨンド・バースデイが今回の連続殺人を犯すにあたって、彼は殺人そのものに関して、ほとんど苦労というものをしていない。何故なら、殺人そのものは彼の目的ではなく、そんなところで苦労するつもりなどさらさらないがゆえだが――しかし、だからと言って、どうして苦労せずに済むのかと考えれば、その理由は容易には思いつかないはずだ。薬品や凶器を使用しているとはいえ、この時点での三人の被害者が、三人とも、大して抵抗したあともなく、ただあっけなく殺されているのは、一体どうしたことなのか――大抵の場合、その『抵抗したあと』から、殺人犯は特定されるものなのだが、どうして被害者は、そこで死ぬのが当たり前のように死んでしまったのか[#「そこで死ぬのが当たり前のように死んでしまったのか」に傍点]。それは、FBI捜査官|南空《み そら》ナオミには最後までわからなかったことだし、世紀の名探偵Lですら、この事件が完全に終結してから更に数年後まで、推測の糸口すらつかめなかったことである。
もったいぶってもしょうがない。
種明かしをしよう。
ビヨンド[#「ビヨンド」に傍点]・バースデイは[#「バースデイは」に傍点]、天然生来の死神の目の持ち主だった[#「天然生来の死神の目の持ち主だった」に傍点]。彼にとって[#「彼にとって」に傍点]、イニシャルがB[#「イニシャルがB」に傍点]・Bの人間を探すことも[#「Bの人間を探すことも」に傍点]、特定のある日ある時間に[#「特定のある日ある時間に」に傍点]、間違いなく死ぬ人間を探すことも[#「間違いなく死ぬ人間を探すことも」に傍点]、それほど難しいことではなかったのだ[#「それほど難しいことではなかったのだ」に傍点]。何せロサンゼルスには、二〇〇〇万人もの膨大な人口が息衝《いきづ 》いているのだから。
人を殺すことは、彼にとっては普通だった。
死ぬ運命にある人間を殺すことに、どんな苦労も伴うわけもない。
……ああ、死神の目については、一応の補足が必要かもしれない。僕にとってみれば至極当たり前のキーワードだが、しかし説明しておかなければ、人によってはアンフェアになるだろう。死神の目。それは、死神と取引をした人間が得ることのできる特殊な眼のことで、残りの寿命の半分と引き換えに、他人の名前と寿命が見えるという代物だ。本来は、それを得るためには死神との接触が不可欠だが、ビヨンド・バースデイは、そんな取引をするまでもなく、物心つく前から、そんな眼で、世界を見てきたということである。
名乗られる前から名前がわかり[#「名乗られる前から名前がわかり」に傍点]。
出会う人全ての死期を読む[#「出会う人全ての死期を読む」に傍点]。
……どれだけ奇妙な人間が育ち上がるか、そんなことは、考えるまでもあるまい。死のノートがなければ大して役に立ちそうもない死神の目だと思われるかもしれないが、どっこいそんなことはない。寿命が見えるということは、その眼には死が見える[#「死が見える」に傍点]ということである。死、死、死。どんな人間でもいずれ死ぬ[#「どんな人間でもいずれ死ぬ」に傍点]ということを、一時の間断さえなく、思い知り続けながら、ビヨンド・バースデイは生きなければならなかったのだ。父親が暴漢に襲われて死ぬ日のことも、母親が列車転覆事故で死ぬ日のことも、彼には、生まれたときから、わかってしまっていた。|生まれる前から《ビヨンド・バースデイ》死神の目だった、ビヨンド・バースデイ。だからこそ、彼は奇妙な子供の一人として――僕達[#「僕達」に傍点]のホーム・スイート・ホーム、養護施設ワイミーズハウスに、引き取られたというわけだ。
彼はB。
ワイミーズハウス、二番目の子供だった。
「世界の寿命が、見えればいいのに」
八月十九日、午前六時、起床と同時に、ビヨンド・バースデイはそう呟いた。ウエストサイドの郊外、休眠中の会社の名義で借りているプレハブ倉庫の二階――簡易ベッドの上である。合衆国中、いやさ世界中に点在する、彼の隠れ家の一つで、どうして彼がこの日、ウエストサイドにいたのかと言えば、世紀の名探偵Lが現在、隠れ蓑《みの》に使っている休職中のFBI捜査官、南空ナオミが今、この地を訪れているからである。
「南空ナオミ。みそらなおみ。Lの手足。Lの眼。Lの盾。……あははははははは! いや、違うな、この気分はこういう笑い方じゃない……きゃははははははは! うん、こっちだ。こっちこっち」
きゃはははははははははは。
きゃはははははははははは。
と、けたたましく笑い続けながら、ベッドから降りる、ビヨンド・バースデイ。酷薄な笑み――しかし、それもどこか、作り笑いを感じさせる、不自然な笑み。『笑う』という表情を、単なるタスクとして、実行しているようにしか見えない。
ビヨンド・バースデイは、三日前の八月十六日、ダウンタウンの裏通りで、南空ナオミを襲撃したときのことを思い出す。
勿論《もちろん》、そのとき、彼には彼女の寿命がわかっていた――彼には彼女の寿命が見えていた。南空ナオミの寿命。それは、八月十六日のあの時間ではなく、もっともっと、ずっとずっと、先のことだった。
ゆえに。
殺すつもりで襲えば絶対に失敗する[#「殺すつもりで襲えば絶対に失敗する」に傍点]と、彼にはわかっていた。逃げ道の確保の方が、だからあの場合は重要だったのだ。所詮南空ナオミはLの遣《つか》いでしかない、彼女を殺したところで、代わりはいくらでもいる――FBIにもCIAにも国防総省にも、必要とあらばシークレットサービスにも。だから、あのときはただ、確認したかっただけだ。南空ナオミが、Lの代理になりうるのかどうか、を。
「ん〜、ん、ん、ん。かっかっかっか。いや、うっしっし、かな〜? けらけらけらけらって感じでもあるんだけど、それはちょっと軽薄過ぎるか。うん。しかし、まあ、南空ナオミ――まあまあ、だ。FBI捜査官にしておくには、惜しいくらい」
試験は、これまでのところ、合格。
恐らくは今日、彼女は、訪れるはずの第三の事件現場で、ビヨンド・バースデイが残したメッセージに、気付くはずだ。そして第四の事件――ビヨンド・バースデイが起こす予定の第四の事件を、防ごうと動くはずである。
それでいい。
そうなってからが[#「そうなってからが」に傍点]――本当の勝負[#「本当の勝負」に傍点]。
そうなってからが――本当のパズルだ。
「……L」
LとBとの、勝負。
LとBとの、パズル。
「Lが天才ならBは究極天才……Lが変態ならBは究極変態だ。じゃあ、そろそろ仕上げにかかるとするか。BがLを超えるための、仕上げって奴に、なー……くくくくっ」
ビヨンド・バースデイは、そう思ったときだけは、笑い方を迷うことなく、笑った。それは、知る者にとっては、死神の笑い方ととてもよく似た、笑い方だった。
その笑い顔のままで、鏡の前に向かい、髪を整え、化粧を開始する。鏡に映る自分。自分。相変わらず、自分の寿命だけは、見えない。世界の寿命と、同様に。
● ●
というわけで、八月十九日。
南空ナオミはウエストサイドの、第三の事件現場、バックヤード・ボトムスラッシュの住んでいたテラスハウス内にいた。仲の良い友達とルームシェアして暮らしていたらしいが、その友達が出張で出掛けている最中に、凶行が行われたということだった。その友達は、二番目の被害者の母親と同様に、事件後、実家に帰っているそうだ。
テラスハウス二階の、バックヤード・ボトムスラッシュの個室。ノブのすぐ下に、サムターン錠。そして壁には、二つの穴――藁《わら》人形の痕跡。ドアの向かい側の壁、ドアの正面に一つ、ドアの左側の壁に一つ、合わせて二つ。二十八歳という被害者の年齢を考えれば、不自然なくらい床にぬいぐるみがたくさん飾られている、ファンシーなスタイルの部屋だった。四面ある壁際に、それぞれ順番に、二体、五体、九体、十二体。合計二十八体もの、大量のぬいぐるみ。動物のぬいぐるみばかり。もっとも、既に清掃されているとは言え、床から香る血の匂いが、そのファンシーさを台無しにしてしまっているが……。
「……竜崎《りゅうざき》、遅いな……」
左手首に巻かれた、銀の腕時計を確認すると、既に午後二時半。
午後二時に集合ということだったのだが。
先に調べておこうと、南空は実際は早朝には、もうこのテラスハウスを訪れていたのだが、そして、この部屋だけでなくハウス中をくまなく調査していたのだが、しかし、さすがに五時間も経ってしまうと、することがなくなってしまい、手持ち無沙汰だった。しかも、調査からは芳《かんば》しい成果が得られなかったというのだから、尚一層、手持ち無沙汰感は強い。これじゃあまるで、竜崎がいなければ何もできない奴みたいじゃないか、と南空は、唇を噛む。
そのとき、鞄の中の携帯電話に着信があった。Lからだろうかと慌てて電話を開いたが、そうではなく、相手はFBIに勤める彼女の恋人、レイ・ペンバーだった。
「……もしもし? レイ?」
「ああ。手短に話すぞ、ナオミ」
挨拶もそこそこに、レイは低い声で言った。時間的なことを考えると、周囲に誰かがいるような状況で、電話をかけてきているのかもしれない。
「この前、頼まれた件だが、調べてみた」
「そう。ありがとう」
頼んだのが十六日で、今日が十九日だから、多忙なFBI捜査官に頼んだにしては、それなりに早い返答だと思い、南空は礼を言った。実際、レイ・ペンバーが自分のために、普段からどれだけ骨を折ってくれているかを考えると、話をするたびに感謝の言葉を言いたいくらいである。
「で、どうだった?」
「結論から言うと、竜崎ルエという名前の私立探偵は存在しない」
「やっぱり、無認可ということ?」
無私立探偵。
そう言っていた。
「そうじゃない、竜崎ルエという名前の人間が、そもそも存在しないということだ。アメリカ合衆国内というだけじゃなく、世界中の住民登録をあたったが、徒労だった。竜崎姓というだけなら、きみの故郷である日本に、少なからず存在するようだが、しかし、ルエというファーストネームの者は、その中にはいなかった」
「そう……ナチュラルに日本語が使えるみたいだから、ありえるとすれば日本だと思っていたけれど。じゃあ……やっぱり偽名ということね」
「そういうことだろうな」
レイ・ペンバーは、そこで一旦言葉を切って、「なあ、ナオミ」と、声の調子を変えてきた。
「お前、一体、何をしているんだ?」
「質問はしないという約束よ」
「そうだったな……だけど、来週できみの休職期間も終わるわけだが、その後、どうするつもりなのかと思ってさ。FBIに戻ってくる気はあるのか?」
「……今はまだ、考えてない」
「なあ。僕が言うのもなんだけれど、きみは――」
「言わないで。言うのもなんなら、言わないで」
「………………」
「時間、ないんでしょ。……また電話する」
相手の言葉を待たずに、南空は携帯電話を切った。そのまま、くるくると手の内で回して、少し自己嫌悪に陥った。FBIに戻るかどうか。考えてないというより、それは考えたくもないことだった。
「来週か……いや、今は、事件のことだけを考えよう」
それは現実逃避だったかもしれないが、どうやら竜崎はまだ来ないようだったし(偽名だろうとは最初から思っていたので、それについてはどうでもいい……どうして『竜崎』なのかは気にならなくはないが。問題があるとすれば、存在しない私立探偵に仕事を依頼している、被害者の身内の方だろう)、南空は自分に言い聞かせるようにそう言って、もう一度、今判明している事実を、反復、復習しておくことにした。
まずは、ダウンタウンの第二の事件現場に残されていた、犯人の残したメッセージのことだった。あのあと――被害者同士を繋ぐイニシャルのミッシングリンクに気付いてから一時間後に、南空ナオミは、その答に辿り着いた。それは、被害者、クオーター・クイーンがかけていた眼鏡[#「眼鏡」に傍点]だった。竜崎のように四つん這いにこそならなかったものの、あれから南空も、あのアパートメント内を、眼を皿のようにしてありとあらゆる角度から調べたが、何も発見することはできなかった。ならば、ビリーヴ・ブライズメイドの胸に残された傷のようなものが、この第二の被害者にもあるのかと、死体の写真を確認するが、そこにはうつ伏せに倒れた少女が写っているだけである。両眼を潰された、少女の死体……。
南空が頭を抱えていると、「眼を潰すというのが、何らかのメッセージを表わしているんでしょうかね」と、横から竜崎が口を挟んできた。そうかもしれないが……いや、そう考えるのが順当だろうが、では……『眼』? そして南空は、家捜しの最中に眼を通した、キャビネットの中の被害者のアルバムを取り出し、再度、そのページをめくる……ブロンドの彼女の姿を、全ての写真で、確認する。
気付いた。
眼鏡をかけた彼女の写真が[#「眼鏡をかけた彼女の写真が」に傍点]、一葉もないことに[#「一葉もないことに」に傍点]。
眼鏡をかけた彼女の写真は、彼女の死体の写真だけだった――無論、それは、彼女の視力が健全であったことを意味しているのではない。捜査資料の中にあった彼女のカルテには、視力、右眼0・1、左眼0・05とあった。つまり、彼女は主として、コンタクトレンズを使用していた[#「コンタクトレンズを使用していた」に傍点]ということである。犯人は被害者に、死後、眼鏡をかけさせて、代わりにコンタクトレンズを持ち去ったようだった。使い捨てのコンタクトレンズだったので、その紛失は捜査班が気付ける種類のものではなかったが、実家に帰った母親に確認をとってみれば、クオーター・クイーンは日常生活において、家の内外関係なく、滅多に眼鏡をかけることはなかったし、しかも、死体がかけていた眼鏡は、どうやら彼女の眼鏡ではないということだった。
「意外と盲点ではありますよね……死体のかけている眼鏡が本人のものかどうかなんて、普通は気にしませんから。ふむ。まさしく文字通りの盲点です。眼を潰したのは、そういう暗示でしょう」
と、竜崎は言った。
「被害者があまりに眼鏡の似合い過ぎる眼鏡っ子だったというのも、捜査班が後手を踏んだ遠因の一つと見るべきかもしれません。彼女、自分の属性に気付いていなかったんですね」
「いや、竜崎さん、その見解は不謹慎かと……」
「冗談です」
「冗談を言うのが、不謹慎なんです」
「だったら、真面目です」
「真面目に言っても、不謹慎なんです」
「だったら、大真面目です。ほら、そろそろ一回りして格好よくなってきてませんか?」
「そ、そう言われてみれば……」
不謹慎。
母親が娘の死体を確認したのは病院だったというから、そのときにはもう、眼鏡は外されていたはず。恐らく犯人はそこまで計算ずくだったのだろう……ここまで来たら、そう考えるしかない。
「第三の事件現場は、ウエストサイドのグラス駅[#「グラス駅」に傍点]……眼鏡《グ ラ ス》。そのまんまですね。でも、これじゃあ、細かい住所までは絞れません。該当地域が、広過ぎます」
「いえ、そこまで辿り着けば、もう絞れたようなものじゃないですか、南空さん。その周辺で、イニシャルがB・Bの人間を探せば、それで細かい住所まで特定できるんです。つまり、この第二の事件が起こった時点で、犯人としては、イニシャルのミッシングリンクに、気付くことができたはずだと思っているんですよ」
「え、でも……第三の事件まで起きているからこそ、『B』と『Q』なら、『B』の方が表であって『Q』の方が裏であると予測がつきますけれど、第二の事件まででは、そんなの、どっちがどっちかなんてわからないじゃないですか」
「そこまではわからなくていいんです。というか、第三の事件の時点でも、『B』が表で『Q』が裏か、『Q』が表で『B』が裏かなんて、わかりっこありませんよ。第四の事件で、子供の『Q・Q』が殺されてしまえば、それでとんとんなんですから。子供殺しがメインで、犯人としては『Q・Q』の方に揃えたいと思っているのかもしれません。……まあ、どうして『B・B』なのか、どうして『Q・Q』なのかというところまでは、現時点では不明と言わざるを得ませんが、しかし、不明でいいんです。B・Bと一緒に、Q・Qのイニシャルの人間を、探せばいいだけだったんですから」
「あ……そっか。そうですね」
と言っても、そんなもの、八月十六日の時点では、手遅れも手遅れ、後の祭りもいいところで、第三の事件は、とっくのとうに起こってしまっていたのだが。それでも一応裏付けを取ってみると、ウエストサイドのグラス駅周辺、周囲五百メートル内に、イニシャルQ・Qの人間は住んでおらず、イニシャルB・Bの人間は、第三の被害者である、バックヤード・ボトムスラッシュただ一人だという結果だった。
第一の事件現場に残された、本棚のメッセージに較べれば、簡単に解けたきらいのある眼鏡のメッセージだったが、しかしそんなもの、最初から『グラス駅』という答が与えられているから解けたようなものであって、普通なら、死体が普段かけない眼鏡をかけていたというだけで、それが第三の事件を予告したメッセージであるとは見抜けないだろう。単純な分だけ、難易度は第一の事件のときよりも上がっていると見るべきだった。目下、南空は第四の事件を防ぐために動かなければならないのだったが、しかし、次の第三の事件現場に残されたメッセージを、果たして読み解くことができるかどうか……それは彼女にとって、不安の残る課題だった。
だからこそ、やはりこの場面でも、潰された眼の話を振ったのが竜崎で、また、被害者のアルバムに注目するよう促したのも竜崎であることに、南空が気付くことはなかった。それにはもう少し、時間がかかる。
その辺りで丁度、時刻は正午となり、とりあえずは昼食を摂《と》って、それから今後の動きを決めることにした。竜崎は南空を食事に誘ったが、それは固辞した。どんな甘い食物、いやさ毒物を食べさせられるか、わかったものじゃなかったし、それに、そろそろLに連絡をとらなければならなかったからだ。明らかになった事実が、報告すべき段階にまで、達していた。アパートメントからかなり離れた位置にまで移動し、周囲を十分に確認してから壁を背にして、回線を繋げた。
「Lです」
「南空です」
いい加減聞きなれた合成音声。南空は一方的に、それまでに起こった出来事、それまでにわかった出来事を、逐一細かく、まくしたてた。被害者がうつ伏せにされていた理由のところで、またぞろ感情的になりそうになったが、そこはなんとか抑えきった。抑えきったと思う。
「そうですか。わかりました。……あなたに任せて正解でした、南空ナオミさん。正直言って、ここまでの成果をあげてくださるとは、思ってもいませんでした」
「いえ……とんでもありません。そんな風に褒められると、決まりが悪いです。それよりも、今後の方針を、頂きたいと思います。どうしましょう。いつ第四の事件が起きるとも知れないわけですし、このまま直接ウエストサイドに向かおうかと考えているのですが……」
「いえ、その必要はありません」
Lは言った。
「むしろ足場を固める方向でお願いします。今の南空ナオミさんの報告を聞いて、第四の事件が起きるまでには、まだ時間があることがわかりました」
「え?」
そんな話は――していない、はずだが。
「犯人が第四の事件を起こすのは、八月二十二日。今日から六日後です」
「六日後――」
それは、第三の事件から数えて、九日後。九日、四日、九日と来て――次は九日だと? 一体、何を根拠に、Lはそう推理したのだろう? 疑問が、南空の口をつきそうになったが、
「残念ながら今は説明している余裕がありません」
と言った。
「申し訳ありませんが、ご自分で考えてください。しかし、次の事件が起こるとすれば、いえ、少なくとも犯人は起こそうとするでしょう、それは八月二十二日――その前提で、あなたには動いていただきたい」
「……わかりました」
有無を言わさぬその口調には、従うしかなかった。しかし、八月二十二日……そう言えば、ロス市警本部にクロスワードパズルが届いたのは、七月二十二日だった。同じ二十二日。何か関連があるのだろうか?
「では、この六日間のどこかで、じっくりと準備をしてから、第三の現場を調べてみるということにしようと思います」
「お願いします。それから――南空ナオミさん、身の安全にはくれぐれも気を配ってください。この事件に関して、動いてもらっている方はあなたしかいません。あなたが倒れたら、代わりの人材はいないのです」
裏通りで襲われたことを言っているらしい。いきなりそんなことを言われて、南空は少なからず、狼狽《ろうばい》してしまった。代わりの人材はいない[#「代わりの人材はいない」に傍点]。Lにしてみれば何気なく言っただけの、ともすれば白々しいだけの台詞だったかもしれないが――それは南空にとっては、そういう台詞とは、全く縁遠い種類のものだった。
「大丈夫です。怪我一つありません」
「そうではなく、そもそも襲われるような状況にならないよう、気をつけてくださいと言っているのです。裏通りや路地裏、人の少ない場所はなるべく避けて移動してください。多少遠回りになってでも、人目につく経路、交通機関を使うようにお願いします」
「大丈夫ですよ、L。これでも自分の身を自分で守るくらいの自信はあります。多少は格闘技の心得がありますから」
「格闘技ですか。ちなみに何を? 空手ですか? それとも柔道ですか?」
「カポエラです」
「……………………」
Lが反応に困っている感じが、スクランブルのかかった電話回線を通してでも、ひしひしと伝わってきた。まあ普通、日本人女性のFBI捜査官が、カポエラ使いだとは思うまい。そんなわけでもないのに、Lの鼻をあかしてやったような、まんざらでもない愉快な心持ちになるのは、南空にとっては仕方のないところだった。
「いえ、私も始めるまではそんなの嘘だあって思ってたところがあったんですけれど、私、大学生のときにストリートダンスに嵌《はま》りまして、その延長のつもりでサークルに入ってみたら、意外とあれ、女性の護身術として優れているんですよ。基本的に、相手の攻撃を、受けずにかわす格闘技ですから、空手や柔道みたいに、ガードを力任せに破られたりすることがないんです。力ではどうしても男性には敵《かな》いませんからね。それに、カポエラのアクロバティックでトリッキーな動きは、犯人を確保する際に、思いの外《ほか》役立ちます」
「そうですか。なるほど、確かに」
感心した風に、頷く声のL。
おざなりではなく、本気で感心している風だ。
「聞いていると、確かに、興味をそそられます。時間のあるときに、私もビデオを取り寄せて見てみましょう……しかし、いくら自信があるとは言っても、拳銃が相手だったり、多数対一だったりとなれば、話は別でしょう。くれぐれも用心をなさってください」
「わかりました。大丈夫です、その辺りの身の丈は心得ています。……あの、L」
最後に、南空は、Lに呼びかけた。
「なんでしょうか? 南空ナオミさん」
「ひょっとしてなんですけれど……Lには、この事件の犯人の目星が、もうついているんじゃないですか?」
「…………、はい」
少し間を空けての、肯定の返事だった。やはりそうか、と南空は思う。そうでなければ、次の事件が起こる日程など、わかるはずもない。それでもLは南空に、日付を特定できた理由は自分で考えろと言った。つまり、現時点で、犯人を特定しうるだけの情報が、出揃っているということなのだろうか……? 南空は一瞬でそこまで考えたが、しかし、そんな考えを打ち砕くように、Lは続けた。
「実を言うと[#「実を言うと」に傍点]、最初から犯人はわかっていました[#「最初から犯人はわかっていました」に傍点]」
「……え?」
「犯人は[#「犯人は」に傍点]――」
そして、Lは言った。
「犯人は[#「犯人は」に傍点]、Bです[#「Bです」に傍点]」
● ●
イギリス、ウィンチェスターのワイミーズハウスで、Lの後継者、あるいはLの代替品として育てられた僕達ではあるが、だからLについて他人よりもよく知っているのかと言われれば、全くそんなことはない。LにLとして実際に会ったことのある者は僕を含めてほんの数人だし、その僕ですら、天才発明家でもありワイミーズハウスの創始者でもあるワタリことキルシュ・ワイミーと出会う前のLを知っているということはない。Lのバックボーンは誰も知らないのだ。だがまあ、それでも、ワタリの気持ちはわかる。発明家の視点でLのような稀有《け う 》な才能を見てしまえば、そのコピーを作りたい、そのバックアップを取りたいと思う気持ちは、誰だって持つだろう。既に述べたことではあるが、Lが表に出ないのは、自身の頭脳を守るためだ――たった一人の身体に集約された、膨大《ぼうだい》かつ望外な知識を、犯罪者の手から守るためだ。Lは、たとえば自分が死ぬことによって、世界の犯罪率が何十パーセント上昇するかということを、よくわかっていた。だが、たとえば、Lのコピーが作れればどうか。Lのバックアップが取れればどうか。
それが僕達だ。
世界中から集められた、Lの子供達。
互いの名前も知らない、集められただけの子供達。
だが、いかな天才発明家ワタリと言えど、そう簡単にLの偽物など作りうるわけがない。Lに最も近いと言われた僕にしたってニアにしたって、Lにどれだけ漸近《ぜんきん》しようとも、それは近付けば近付くほど遠ざかる蜃気楼《しんき ろう》のようなもので、ならばそれは、試行錯誤の段階であるワイミーズハウスの創設時をおいて、何をかいわんやである。一番目の子供であるAはLであることのプレッシャーに耐え切ることができずに自ら命を絶ち、二番目の子供であるBことビヨンド・バースデイは、卓越し、そして、逸脱した。
BはバックアップのB。
だが、BはLになるのではなく、Lを超えようとした――いや、そうではないのかもしれない。本当のところの彼の心境など、僕にわかるわけもない。彼は――いや、彼ら[#「彼ら」に傍点]の時代は、まだ僕やニアの属す第四世代のように、シリアルLを持つ者のみに対象を絞り、子供達が集められていたわけではない。コードLすら与えられていなかった、失敗が前提のテストタイプだったのだ。だから、自分の経験から、想像に任せて適当なことを言うのは控えることにするが、そう、ビヨンド・バースデイはこう考えたのかもしれない。Lがいる限り、BはLにはなれないと。オリジナルが存在する以上、コピーはいつまでたってもコピーのままだと。
ロサンゼルスBB連続殺人事件。
L.A.B.B――L is After Beyond Birthday.
それが僕が、『藁人形殺人事件』や『LA連続密室殺人事件』よりも、その名称[#「その名称」に傍点]の方が、事件の犯人の意に沿っていると思う理由だ。あれは何も、ネーミングセンスのいい悪いの話をしていたわけではない。まあ、そこまでビヨンド・バースデイが考えていたかどうかは、さすがに疑問だが――しかし、犯行の範囲をロサンゼルス内に限定しているところに、犯人の意図があるとすれば、恐らくはそんなところだったのだろう。きっと彼は、僕やニア以上に、Lという個人[#「個人」に傍点]に、こだわっていた。名探偵に挑戦するために犯罪者になろうという人間の気持ちは、かろうじて僕だからこそ理解し、だからこそこうしてそれを記録《ノ ー ト》に書き記すことができるが、しかしそれにしたって、である。無関係の人間を何人も殺してまで、彼は一体何がしたかったのだろう? あるいは、案外、BはLに会いたかっただけなのかもしれない。そうすれば、彼には、生まれ持っての死神の目によって、Lの名前と寿命がわかったのだから――Lの本名を知りえたのだから。Lが誰なのか[#「Lが誰なのか」に傍点]、知りえたのだから。ビヨンド・バースデイは、自分が死神の目を持っていることを誰にも話さず、誰にも教えなかったが、そんな自分自身のことを、死神のように思っていたとしても、それはちっとも不思議ではあるまい。
だから、これは、LとBとの、形を変えた探偵合戦だ。勿論、かつてLが、エラルド・コイルやドヌーヴと繰り広げたような、正当な探偵合戦とは較べるべくもないが――しかし、最も優れた名探偵は最も優れた犯罪者である[#「最も優れた名探偵は最も優れた犯罪者である」に傍点]との格言にもある通り、捜査のスペシャリストが同時に殺人のスペシャリストであるという観点から見るならば、これは紛れもなく、探偵同士の探偵合戦だ。
ビヨンド・バースデイはLに挑戦し。
Lは、その挑戦を受けたのだった。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、このロサンゼルスBB連続殺人事件は僕達のホーム・スイート・ホーム、ワイミーズハウスの内紛、内輪もめだったのである。巻き添えを食った被害者達にしてみればいい迷惑だったかもしれないが、その被害者達はどうせビヨンド・バースデイが殺さなくても、その日その時間に、他の理由で死んでいた運命にあったのだから、そんな倫理的、道徳的な話をしたって、詮《せん》がないのかもしれない。だとすれば、厳密な意味で、この事件で巻き添えを食った人間がいるとするならば、それは南空ナオミをおいて他にはいないということになるのだろう。
「ん、ん、ん〜ちゃらら〜ん。らん、らん、らん。ぞぞぞぞぞぞぞぞぞ!……いやいや、これは笑い方じゃあないだろう。くくくっ」
身支度を終え。
こきり、と首を鳴らして――
ビヨンド・バースデイは行動を開始した。
[#改ページ]
page.5 時計
結局、竜崎《りゅうざき》が第三の現場であるテラスハウスに現れたのは、午後三時を過ぎた頃のことだった。
「すみません。お待たせしました、南空《み そら》さん」
「大丈夫です、特に待ってはいませんでしたから。勝手に始めさせてもらっていました」
一時間以上遅刻しておきながら、大して悪びれた風もなく飄々《ひょうひょう》と謝ってくる竜崎に、南空は皮肉混じりでそんなことを言った。
「そうですか」
早速四つん這いになり、その姿勢で南空にさかさかと近付いてくる竜崎。さすがにもう慣れたが、やっぱりいきなりやられるとどきどきする格好ではある。竜崎と会うのが三日ぶりだということもあるが……。
八月十六日、Lと連絡をとってから、クオーター・クイーンのアパートメントに戻り、竜崎に、第四の殺人が起こるとすれば、それは六日後の八月二十二日だという話をした。当然竜崎は、どうしてそんなことがわかるのかと訊いてきたが、それは南空にだってわからない。Lがそう言っていたからだとは、まさか言えるわけもないし……。が、しかし、その後、竜崎となんだかんだと話している内に、南空はその解答に辿《たど》り着いた。それは、自分でも納得いくだけの、説得力ある解答ではあったが、しかし、それをその場で竜崎にそのまま教えるのも曲《きょく》がなかったので、「とにかく、二十二日です」と強引に押し切った。今から考えれば、竜崎は「そうですか」なんて、あっさりし過ぎていたような気がするが……ともあれ、結局、第三の事件現場、ここ、バックヤード・ボトムスラッシュのテラスハウスに調査に来るのは、十九日にしようという話にまとまった。それまでの時間を使って、南空ナオミ、竜崎ルエ、それぞれ、事件の裏付けを取る、推理の下準備をするということになったのだった。
南空は十九日までの間、Lとも定期的に連絡をとりながら、自分の考えを進め、その結果、色々と有益な情報を得ることもできたが(Lから提供された、警察機関が発見した新事実というのもあった)、しかし、実際にこうして十九日になって、第三の事件現場を訪れ、数時間の調査を一人でしてみたところで、十六日のダウンタウンから、一歩も進展していないような気が、しなくもない。
「バスルームはもう見ましたか? 南空さん」
「勿論《もちろん》。竜崎さんは?」
「階段を昇ってくる前に、ちらっと見てきました。しかし、あのバスタブは、もう使えませんね。あんな風にペインティングされてしまっては、あの中に入ろうという者は、エリザベート・バートリくらいしかいないでしょう」
「指紋は一つ残さず拭くけれど、被害者の血は拭かない。第二の事件現場でもそうでしたけれど、全く、神経質もここに極まれりですね。典型です。犯人は、自分のこと以外は本当にどうでもいいという感じです」
「はい。その通りですね」
と言いつつ、血の染み込んだこの部屋の床を、平気で這い回る竜崎。もう少しその辺りを意識してもよさそうなものだけれど……それとも、そんなことはどうでもいいと考えているのだろうか? 犯人がそうであったように――と、南空は竜崎の動きを、眼で追う。
「その辺りには何もないと思いますよ? 私も気になって、散々探しましたから」
「おや。南空さんともあろう人が、消極的なことを言いますね」
「別に……ただ、竜崎さん、やっぱり、この第三の事件現場の焦点は、切断された死体[#「切断された死体」に傍点]にあるのではないかと思うんです。左腕と右脚の切断……これは、これまでの被害者の中で一人だけ、大いに異質ですから」
「この前も出た話ですね。あるはずなのにないもの[#「あるはずなのにないもの」に傍点]――そうなってくると、考えるべきポイントは、犯人は、どうして右脚はバスルームに放置して、左腕は持っていってしまったのかということです。何せ腕一本です。『赤ずきんチャチャ』の単行本を、二冊持っていく程度の手間では済まないはずです。それなのに」
「左腕はまだ発見されていない……死体の処理なんて、そんな簡単じゃないはずですから、仮に犯人が持っていったとするなら、持っていっただけの理由があるに違いないんです。それがメッセージ、なのかどうかは、わかりませんが……あるいはメッセージじゃなくても、犯人にとって不都合な痕跡が、そこにはあったのではないか、と」
「まあ、でしょうね。そうとしか考えられません。しかし、二番目の被害者の眼を潰した行為が『盲点』や『眼鏡』を意味していたのだとしたら、『左腕』を持っていったその行為の意味は……いや、そうだとすると、南空さん、右脚のことが、私は気になります。右脚に対する対応が非常に中途半端です。死体の処理なんて簡単じゃないと南空さんは仰《おっしゃ》いましたが、しかし、死体の切断が、そもそも簡単じゃないですし、時間もかかるはずです。テラスハウスの一室で行うには、危険過ぎると思いませんか? 連続する隣家に、いつ気づかれるとも知れない」
「根元から切り落とされた、左腕と右脚ですか……死体が倒れていたのはこの辺りということになりますね。えっと、写真、写真」
南空は、既に鞄から取り出してポケットに移しておいた、第三の事件の現場写真を手に取る。第二の事件現場で、推理の役に立った、あの写真だ。その写真の背景と、現実の風景とをアジャストして、死体があっただろう正確な位置を、推測する。
「ここに、こんな感じで、残った右腕と左脚を、大の字に投げ出して……いえ、大の字にはならないんですけれど。ふうん……」
「まあ、南空さんの推理によれば、まだ第四の事件が起こるまでには時間があるんです、じっくりと調べましょう。……ところで、そろそろお聞かせ願ってもいいですか? どうして、第四の事件が、二十二日だと思ったのか」
「ええ……そうですね」
南空は写真をポケットに戻し、竜崎の方を向いた。竜崎はこちらを向いてはいなかった。付き合いも五日目、会うのも三度目となってわかってきたが、この竜崎、相手の顔を見て話をするという習慣が、あんまりないらしい。まあ、今更その程度の些細極まりないこと、気にもならないが。
「話してしまえば馬鹿馬鹿しくなるくらい、単純なことなんですけれど。第三の事件が起きたのは八月十三日です。そうですよね?」
「はい。確認されるまでもありません」
「第一の事件のとき、ローマ数字が登場しましたが、今回の場合はアラビア数字です。『十三』……『13』。『1』と『3』を横に並べて書いたら、ほら、『B』の形になるでしょう?」
「ああ」
頷《うなず》く竜崎。
あまりの単純さに、ひょっとすると一笑に付されるかもしれないと思っていたが、意外に真面目に受け取ってもらえたようだ。
「そう言えば、子供向けのクイズとして、私もどこかで聞いたことがありますね。『1+3=』という問いで、答は『B』――」
「つまり『B』です」
「……B・Bというわけですか。しかし南空さん、それは第三の事件が起こった八月十三日の場合は、確かに当てはまりますが、他の事件の場合はどうなるのですか? ロス市警本部にクロスワードパズルが届いた七月二十二日、第一の事件の七月三十一日、第二の事件の八月四日、それに、南空さんが予想した八月二十二日。『B』とは、何の関係もないように思われますが」
「一見、何の関係もないように思われます。でも、それは、応用編、パターン違いなんですよ。わかりやすいのは、第一の事件の、七月三十一日。『3』と『1』。一の位と十の位が入れ替わっているだけで、これは『13』の置換だと見ることができます」
「三十一日に関してはそうでしょう。そういうアタリをつけることは可能です。しかし、南空さん、四日と、二つの二十二日に関しては?」
「同じことです。応用編……さっき竜崎さんが子供向けのクイズとして挙げた問題、『1+3』ですが、八月四日の『4』は、本来の『1+3』の答です。七月二十二日、そして八月二十二日の『22』は、十の位が『2』で一の位が『2』、だから、十の位から一の位へ、数字を『1』移動させれば、『13』になります」
B。
13。
「要するに、これまで犯人が行動を起こしている日付、二十二日、三十一日、四日、十三日という一連の日付は、一の位と十の位を足し合わせたとき、どれも『4』になるという共通項があったんですよ。その日付は、一か月の内で、四日、十三日、二十二日、三十一日の、四日しかありません……『4』日しかない。その全てで[#「その全てで」に傍点]、何かが起きている[#「何かが起きている」に傍点]。……藁人形の数もまた、『4』ですよね。『1+3』は、『4』……これはたまたまかもしれませんが、一応|蛇足《だ そく》しておきますと、事件同士の間隔である、四日間と九日間、『4』と『9』を足し合わせてできる数値も、『13』、即ち、『B』なんです」
「……なるほど。悪くない」
竜崎は頷いたようだった。
南空はそれに気をよくする。
「『13』と『B』との同一視というのは、いい視点だと思います」
「でしょう? だから、第四の事件が起こるのは、十三日から数えて、九日後の二十二日であると考えるのが妥当な推理だと思うんです。『9』、『4』、『9』ときて、やっぱり『4』、四日後の十七日であるという線も、ありましたけれど……そうなれば、日付間隔のパートでも『13』が二つできることになりますから。しかし、それよりも、先月に一度、ことが起こっている二十二日の方が、ありうるだろうと読みました。十七日という数字からは、どう頑張っても『B』を暗示する符合は見つけられません。それなら、第四の事件が起こるのは二十二日に間違いがないだろうと」
既に十七日は終わっていて、その日には、ロサンゼルス内で、それらしき事件は起きていない。内心、不安が全くなかったわけではないが、Lがあれほど強気に断定していたということが、南空にとっては大きかった。だからこそ、四日間と九日間の、足し合わせて『13』になるという法則をたまたまだ[#「たまたまだ」に傍点]と、犯人にとっては、看過できる程度の蛇足な偶然だったのだろう[#「看過できる程度の蛇足な偶然だったのだろう」に傍点]と、南空はそう読んだのだった。
「一つだけ、私からあるとするなら」
竜崎は言った。
「二十二日の『22』が、十の位から一の位へ数字を『1』移動させれば、『13』になるというくだりが、いささか強引なように思います。我田引水というか、そこで数字を『1』移動させる理由が、見つかりませんから。三十一日の『31』の、『3』と『1』との入れ替え、置換とは、わけが違います。それは結論から理由を引き出しています」
「え……しかし、竜崎さん……」
「勘違いしないでください、南空さんのその推理には基本的には賛成です。ただ、その一点が気に入らないというだけで」
「でも――それじゃあ」
肝心の二十二日に関する部分の推理を否定されてしまっては、お話にならない。基本的にもへったくれもない、それでは全く、推理に賛成してもらったことにならないではないか。
「いえ、その部分については、私から代案があります。南空さん、あなたは日本育ちだと言っていましたよね? だったら、私よりも漢数字には馴染みがあるはずでしょう」
「漢数字……」
「漢数字で『22』と、思い浮かべてください」
「…………?」
漢数字……。
二十二……か?
竜崎から言われた通りに、そう思い浮かべたものの、南空にはそこから何も思いつかない。
「如何《い か が》ですか?」
「いえ、如何ですかと言われましても」
「そうですか。では、もう少しヒントを出しましょう。南空さん、真ん中の『十』を、『|+《プラス》』に置き換えてください。そう見立ててください。つまり『二+二』です」
「あ」
ヒントどころか、それでは答を言っていた。
『二+二』は、『四』である。
そして『四』は、『一+三』。
「足し合わせると『4』になる――ですね。『4』を『1+3』と解釈するのは、見事な着想だと思います。そもそも『1+3』を『B』と見立てるためには、『1』と『3』を寄せ合わなければならない、つまり『1』と『3』を足して、『B』の形へと成立させるわけですから。だから、だからこそ、『22』は、『二十二』と解釈するべきなのだと思います。足し合わせるに足る根拠があればよいのですよ。そしてその前提に立てば、第四の事件が起こるのは八月二十二日だという推理は、その通りだと思います。この間は南空さんの勢いに気圧《け お 》されてしまったきらいがありましたが、抱いていた胸のもやもやが、これで、黒砂糖を飲み干したときのように、すっきりしました」
「…………」
南空はその比喩に胸焼けがしたけれど。
しかし、どうやら、第四の事件に対する予測について、竜崎にも納得してもらえたようでよかった……満点ではなかったようだし、二十二日に対する推理は南空よりも竜崎のものの方が正しそうだが、とりあえずこれで一安心だった。
「しかし南空さん」
が、そこで竜崎は付け加えた。
「もう一つだけ」
「……はあ」
一つだけが二つあった。
思わぬ不意打ちだ。
「その推理は、犯人が被害者を選定する際に、そのミッシングリンクとして『B・B』を求めている……つまり、犯人が『B』に固執しているという前提があっての話ですよね。しかし、それがわかった際にも、私と南空さんとの間で出た話ですが、『B・B』ではなく『Q・Q』をこそ、犯人が被害者達に求めているミッシングリンクだという可能性も、あるわけですよね」
「ああ、それは……」
もしも第四の被害者が、イニシャルQ・Qのうつ伏せにされた子供だった場合、とんとんになってしまうというような話だった。
「もしも『B』ではなく『Q』だとしたら、その推理は、かなり的外れなものとなりますよね。理屈を捏《こ》ね繰り回して、推理をでっちあげたということになる。ただの偶然を、取り上げて」
「偶然だなんて……『13』と『B』ですよ? それがこれだけ露骨に、点在しているんです。『Q』に関して、そんな符合が一つでもありましたか?」
「はい、そう思います。ここまでくれば偶然ではないでしょう。しかしそれはやはり結果論です。後付けですよね。どうして南空さんが、『Q』ではなく『B』を前提に推理を進めたのかということを、お聞きしたい」
「それは……」
それは、あの日、Lが南空に言ったからだ――『犯人はB』だ、と、かなり断定的に――最初からわかっていた[#「最初からわかっていた」に傍点]、と。しかし、ここでも、そんなことを竜崎に言うわけにはいかない。Lのことについては、竜崎には徹底的に秘密にしなければならないのだ。こうして言葉を多く交わしたからと言って、情が移って、うっかり口が滑るようなことがあってはならない。
「……やっぱり、現時点で三人の被害者が出ていて、『B』と『Q』との比率が、2対1だから、『B』の印象が強かったと……いうことです。……勿論、『B』だけじゃなく『Q』についても、あとで考えてみましたが、『Q』の符合は、見つけることができませんでしたし……」
何とか取り繕おうとするも、だけど、自分でそんな風に喋りながら、自分でも自分の言葉に不自然な感は否めなく、竜崎にも、「なんだか適当な、根拠薄弱な感じですね」と、ぴしゃりと言われてしまった。いい気になって調子づいているところを、窘《たしな》められた気分だった。そうだ、浮わついてどうする……あんな推理、自分は裏付けを取ったというだけで、理由を探したというだけで、Lの推理を代弁しただけのようなものじゃないか。Lの推理なのだから、ここで根拠薄弱という言葉は違うと思うが、結果論の後付けであることは間違いがない。
「犯人はB……」
「はい?」
「いえ、ここまで『B』を強調してきているんです。それ自体がメッセージだとしたら、犯人のイニシャルもまた、B・Bなんじゃないのかと、思ったんです」
「あるいは『Q』。Q・Q。南空さんの言う通り、この事件において『B』の符合が多いのは確かですが、それは我々が『Q』の符合を、ただ発見できていないだけかもしれませんから」
「ええ……そうなんですけれど」
「まあ、とは言え、私も『Q』ではなく『B』だと思いますけれどね。九十九パーセント以上」
あっさり、そんなことを言う竜崎。
前言撤回にも等しい。
「犯人がBだというのも、十分にありうる話です。被害者がB・Bで犯人もB・Bですか……面白くなってきましたね」
「面白く?」
「はい。まあ、今後は気をつけてください、南空さん。肯定するときには肯定するだけの根拠を持ち、そして否定するときには否定するだけの根拠を持たなくてはなりません。たとえ正しかろうと、間違った前提に基づいての推理をしては、犯人に勝ったことにはなりません」
「勝ったことにならないって……竜崎さん、これは勝ち負けの問題なんですか?」
「はい」
竜崎は答えた。
「勝ち負けの問題です」
これは、勝負ですから。
● ●
十人以上の被害者、あるいは百万ドル以上の被害額が出ない事件には原則として関与しないと言われるLにとって例外になりうるのは、難易度Lの事件である場合(まさしくLに相応《ふ さ わ》しい)か、Lにそうしなければならない個人的な事情がある場合かに絞られるが、このロサンゼルスBB連続殺人事件は、その両方だったと言えるだろう。難易度の高さは言うまでもなく、そして、Lにとっては、自身のデッドコピーとの戦いだったのだから。ワイミーズハウスの当時の院長からキルシュ・ワイミーことワタリを通じてLに、Bが行方知れずになったという連絡が入ったのは五月のことで、それ以来Lは、数々の事件を解決する傍らで、全力を挙げて彼の捜索を続けていた。Bというだけで、ビヨンド・バースデイというその本名は、ワイミーズハウスの者も知らなかったわけだから、その捜索は徹底的に難航したが、しかしついに、この一連の殺人に、Lは彼の痕跡を見出したというわけだ――だからこそ、Lには最初から、犯人のアテがついていた。犯人探しというよりは、これはLにとって事件探し[#「事件探し」に傍点]だったのだ。Lはビヨンド・バースデイが自分に対して何らかのこと[#「何らかのこと」に傍点]を起こすのを、ずっと待って、待ち構えていた。全世界の警察組織を動かすことのできるLが、今回に限っては南空ナオミ一人の手しか借りようとしなかった真の理由は、案外そんなところにあるのかもしれない。Lがそんな体面を重んじる性格だったとは僕には思えないが、しかし、誰だって身内の恥を、多くの人間に知られたいとは思わないだろう。
Lはワイミーズハウス全ての者の目標だった。
そして目標とは超えるためにある。
乗り越えるためにある。
踏み潰すためにある。
Mにとっても、Nにとっても、Bにとっても。
Mは挑戦者として、Nは後継者として。
Bは犯罪者として。
「……竜崎さん。何か新事実は出ました……か?」
日付に関する議論を終えたところで、南空は、一旦小休止ということで、一階に降りてキッチンへ行き、二杯のコーヒーを淹《い》れて(勿論、砂糖は普通の分量だ)、それをトレイに載せてバックヤード・ボトムスラッシュの部屋に戻ってくると(トレイで両手が塞《ふさ》がっているので、ドアを開けるのに難儀した。結局、ノブが下腹部の辺りだったので、ちょっと背伸びをして、ベルトのバックルを引っ掛けて開けた)、竜崎は、部屋の中心で、大の字になって仰向けの姿勢で寝転がっていた。部屋に片足を入れたところで、動きが止まってしまう。
「で……出ましたか?」
意味もなく台詞を繰り返す南空。
……まさか仰向けのまま四つん這いになり、ブリッジの姿勢で部屋を這い回るという、あの有名な恐怖映画さながらの動きを見せるつもりなのだろうか……と、にわかに不安になる南空だったが、幸いにと言うか残念ながらと言うか、さすがの竜崎でも、そんなことはしなかった。しかし、では一体、竜崎は何をしているというのだろう。
「あのー、竜崎さん」
「死体です」
「は?」
「今私は死体です。返事はありません。ただの屍《しかばね》のようです」
「………………」
一応、理解はできた。理解という言葉に相手を受け入れるニュアンスがあるのだとすれば、だったら理解したくはなかったが、どうやら竜崎は、第三の被害者が殺されていたのと同じポーズを取っているということらしかった。言うまでもなく、左腕と右脚は、ちゃんと体幹に根付いているのだが、それがわかってみると、確かにそれは写真と見比べるまでもなく、バックヤード・ボトムスラッシュの、最期の姿だった。実践的ということなのかもしれないが、南空にはそういう行為にあまり意味があるとは思えない。しかし他人の推理方法に口を出しても仕方がないので、南空は、机のあるところまで行くのに、竜崎を跨《また》いで行くか避けて行くかを、考えることにした。跨ぐのも嫌だが避けるのも癪《しゃく》だ。
「……ん? えっと」
と、そこで、南空は気付いた。何かに気付いた自分に、気付いた。しかし一体何に気付いた? 多分、何かが視界に入って……いや、視界に入るも何も、ドアを開けた途端、竜崎の『死んだ振り』が飛び込んできたのだから、それどころではなかったはずだが。……そうじゃない。じゃあ、もしも、竜崎がそこで寝転がってなければ[#「竜崎がそこで寝転がってなければ」に傍点]、まず見えたものは何だったのかと思ったのだ。そうだ、コーヒーを運ぶのに邪魔っけな竜崎が、いなかったとしたら――いなかったとしたら、別に、何もない。ごく普通の、ありきたりな、ファンシーな部屋。今はほのかに血の匂いがするだけ。あとは精々、正面に、壁の穴が見えるくらいで……壁の穴?
「藁人形の痕跡……あ」
穴だから、それは大して目立たない。だけど、それが痕跡でなく[#「それが痕跡でなく」に傍点]、藁人形本体だったとしたら[#「藁人形本体だったとしたら」に傍点]? ドアを開けた途端に飛び込んでくるのは、視点の関係上、死体の振りをした竜崎ではなく、藁人形だったのではないだろうか。ドアを開けた途端、藁人形が見える……そういう配置で、藁人形の一つは、打ち付けられていた。……藁人形の打ち付けられている位置は、高さは全部同じような高さ(南空の身長で、腰の辺りくらい)だったが、どの事件現場においても、横の座標はまちまちだった。しかし、そう言えば、どの現場でも、ドアを開けたその先に――
穴が。
「竜崎さん、失礼!」
コーヒートレイを持ったまま、南空は竜崎を、跨ぐ、いや、飛び越える。はずだったが、意識が焦ってしまったからか踏み切りの見込みを間違えて、竜崎の腹を思い切り踏みつけてしまった。ブーツである。しかも、反射的に、トレイを取り落とさないようにバランスを取ろうと、南空は更に焦って、竜崎の腹筋を全体重を載せて踏みにじる結果となった。
「うげ」
屍から反応があった。
それはまあ、当たり前だが。
「ご……ごめんなさい……」
これで竜崎の身体に熱々のコーヒーをこぼしていたら、南空ナオミは完全なるドジッ娘《こ》として後世に語り継がれることになっただろうが、すんでのところで、そこまでおいしいことにはならなかった。身につけている格闘技で鍛えたバランス能力の賜物《たまもの》と言ったところだった。トレイをそのまま机の上に置いて、空いた両手で、捜査資料を手に取る。そして、自分の記憶が正しかったことを、南空は確認した。
「どうかしたんですか、南空さん」
変人奇人の竜崎と言えど、幾らなんでも女性に踏まれて喜ぶ趣味はないと見えて、死体ごっこを中断し、裏返って四つん這いになり、南空の方へと寄ってくる。
「事件現場の見取り図を見直していたんです。それぞれの事件現場の……それで、わかったんです。藁人形の位置についてなんですけれど」
「藁人形の位置? どういうことです」
「私達が現場を調べたときには、もう人形は地元警察に撤去されていましたから、今まで気付きませんでしたけれど、犯人が残した人形の位置に法則性があることがわかったんです。この現場でもそうなんですけれど、部屋に入るためにドアを開けたら、まず藁人形が視界に入ってくるようになっているんですよ。ドアの正面に藁人形が見える[#「ドアの正面に藁人形が見える」に傍点]――部屋に入ったら[#「部屋に入ったら」に傍点]、まず藁人形に眼がいくような意匠になっていたんです[#「まず藁人形に眼がいくような意匠になっていたんです」に傍点]」
「ふむ。そう言えば」
竜崎は、とりあえず、南空の言葉に頷く。
「この部屋は確かにそうですし、言われてみれば、第一の事件現場でも第二の事件現場でも、ドアを開けたらその正面に、藁人形の痕跡があったと記憶しています。……しかし南空さん、それが一体なんだと言うんですか?」
「え、それは……」
それは――一体なんだと言うのだろう。大発見をしたような気分で、勢い余って竜崎の腹筋を踏みつけまでしてまったが[#してまった?]、そう訊かれてしまえば、答に窮する、お寒い状況だった。が、それではあまりに体裁が悪いので、南空は何とか、それらしい言葉を紡《つむ》ぐ。
「えっと……それは、密室状況と関係があるんじゃないでしょうか?」
「どういうことでしょう」
「第一の事件にしろ第二の事件にしろ第三の事件にしろ、被害者の死体の第一発見者は、全員、ドアを開けて、現場に這入《は い 》っているわけじゃないですか。合鍵を使うなり、こじ開けるなりして。そして現場に這入る……すると、いきなり不気味な藁人形が、見えるわけです。まず眼に入るのは、藁人形。どうやっても、意識はその藁人形に引きつけられますよね。その隙に、つまり、第一発見者の意識が他を向いている隙に、部屋の中に潜んでいた犯人は、密室から抜け出した――」
「探偵小説の密室トリックとしては、『針と糸』と同じくらい古典的なトリックですね。しかし、南空さん。よく考えてください。注意を逸《そ》らしたいと言うだけなら、藁人形は必要ないでしょう」
「どうしてです?」
「藁人形がなかった場合[#「藁人形がなかった場合」に傍点]、まず眼に入るのは死体だからですよ[#「まず眼に入るのは死体だからですよ」に傍点]。さっきの南空さんが、屍の私を見たときに動きが止まってしまったのと同じにね。第一発見者が死体を見て驚いている隙に、抜け出せばよいという理屈になります」
「ああ……そうですね。その通りです。……じゃあ、発見者に、まず死体ではないものを見て欲しかった[#「まず死体ではないものを見て欲しかった」に傍点]……? とか?……そんな理由、思いつきませんよね」
「そうですね」
「死体に注目して欲しくなかった、くらいまで言うのならともかく、一秒や二秒、死体の発見を遅らせたところで何の意味もないでしょう……でも、じゃあどうして、この位置に藁人形を? 法則性は偶然なんでしょうか」
「いえ、恐らく何らかの意図はあるでしょう。偶然というには、無理があります。ただし、この方向からのアプローチには、あまり値打ちがないというのが私の考え方ですね。繰り返しになりますが、密室や藁人形という問題よりも、私は犯人の残したメッセージを探す方を優先したい、優先すべきだと思います」
「でも、竜崎さ……いえ、そうしましょう」
反論しかけて、やめた。気になる点ではあるが、しかし、この議論には先がないのも確かだった。それよりも今は、第四の事件の被害者、もしくは場所の特定を、急ぐべきなのだ。どの事件現場にもある藁人形ではなく、犯人がこの部屋にだけ残した、メッセージの特定を、急がなくてはならない。
「すみませんでした、貴重な時間を無駄にしてしまって」
「どちらかと言えば踏みつけたことを謝ってください、南空さん」
「あ、はい、それは勿論」
「本当に悪いと思っていますか? では、お詫びのしるしとして少しお願いをきいていただきたいのですが、構いませんよね」
「……はい」
えらく露骨に見返りを求める……。
しかし、踏んでしまったのは事実だ。
全体重をかけて、容赦なく。
「なんでしょうか」
「先ほど私がやったように、南空さん、死体の振りをしてもらえますか? 被害者のバックヤード・ボトムスラッシュは女性だったわけですから、男の私がやるよりも、インスピレーションが期待できるかもしれません」
「………………」
人間には自尊心があるということを、この私立探偵は知らないのだろうか……と南空は思ったが、しかし、そう突っ溌《ぱ》ねられるような状況でもない。そんなことをして南空ナオミがツンデレだという噂が立っても困る。あらゆる意味で差し迫っているのは確かだ、何か可能性があるのなら、全部試しておきたい。意味があろうがなかろうが、ああ、ここまで来れば、四つん這いになって部屋を這い回るのだっていいだろう。なんて、とても投げやりな気分で、南空は床に、仰向けに寝転がった。視点が今までと、全く違ったそれとなる。
「……どうです? 何かわかりましたか?」
「いえ、全く」
「そうですか。ですよね」
「…………」
駄目元かよ。
竜崎は、椅子の上に例の両膝を抱える座り方をして、南空が淹れてきたコーヒーを、「冷めない内に」と言って、飲んだ。砂糖の量は南空からみての適量なので、そのことで文句を言われるかとも思ったが、これといって何も言わなかった。別に甘いものしか飲み食いできないというわけではないらしい。もう起き上がってもよさそうだったが、それもなんだか気分が悪いので、南空は仰向けのままでいる。
「ふう。熱いコーヒーは痛む腹部によく染みます」
そんなことを言っている。
飄々としているようで、意外と粘着質らしい。
「竜崎さん……第一の被害者の死体と同じで、この被害者も、服を脱がされた後、身体を切断されて、それから改めて、服を着せられていますよね」
「そうですね。それがどうかしましたか?」
「いえ、切断するにあたって、服を脱がした方が容易《た や す》いというのは、わかるんです。服っていうのは、あれで結構、丈夫ですからね。刃物が絡んでしまうかもしれない。でも――脱がした服を、どうしてもう一度、着せるんでしょう? 裸のままにしておけばいいじゃないですか」
「ふむ」
「第一の事件の場合は、シャツを着せ直すことによって、実はローマ数字を構成していた傷を覆い隠すという意味が、そこにはあった気がするんです。けれど、この第三の事件の場合は……意外と大変らしいんですよ? 死体……じゃなくても、動かない人間に、服を着せるっていうのは」
「……南空さん。バスルームに放置されていた被害者の右脚は、靴下と靴を、履いていましたよね」
「はい。写真によれば」
「じゃあ、つまり、こういうことじゃないでしょうか。犯人の目的は……いえ、犯人のメッセージは、服や靴とは関係なく、あくまで死体の切断にあった。だからこそ、それ以外のもの[#「それ以外のもの」に傍点]、それ以外のことは[#「それ以外のことは」に傍点]、そのまま[#「そのまま」に傍点]、元通りに直しておいた[#「元通りに直しておいた」に傍点]――と」
元通りに――直しておいた。
だとすると。
「だとすると……やっぱり、左腕と、右脚ですね。右脚はバスルームに置いて行って、左腕は持って行った……それはどうして? 左腕と右脚は、何が違う……腕と脚……」
ぶつぶつと、天井を見たまま呟く南空。そんな南空に、竜崎は、同じように視点を天井にやりながら、ゆっくりと思い起こすような口調で、
「その昔」
と、親指の爪を齧《かじ》りながら、言った。
「私が探偵した事件なんですが、参考になるかもしれませんから、ちょっとお話してよろしいでしょうか?」
「……どうぞ」
「それは殺人事件で、被害者は胸を一突き、殺されていた上、左手のくすり指を、切断され、持ち去られていました。死体の切断――です。どうしてだと思いますか?」
「左手のくすり指だというのなら、簡単ですよ。被害者は既婚だったのでしょう? 犯人はきっと、結婚指輪を奪うために、くすり指を持っていったんです。結婚指輪は、長くはめている内に肉に食い込んで、抜き取ろうとしても外れなくなってしまうことがありますからね」
「そうです。金目当ての犯行だったというわけです。その後、裏ルートで売られていたその指輪を発見することに成功し、そこから辿って、被害者を殺した犯人を逮捕することができました」
「しかし……その話はその話で興味深いですが、竜崎さん、いくらなんでも、指輪を奪うために、腕ごと持っていったりはしないでしょう。そもそも、被害者、バックヤード・ボトムスラッシュは、独身です。資料によれば、付き合っている男性も、現在はいないとのことでした」
「しかし結婚指輪以外にも、指輪はあります」
「それでも、腕ごと持っていったりはしません」
「ええ。そうですね。ですから、参考になるかもしれない程度のお話です。参考にならなかったようでしたら、申し訳ありませんでした」
「謝っていただくほどのことではありませんが……指輪というのは、ない……ないでしょう」
……では[#「では」に傍点]、指輪以外だったらどうだろう[#「指輪以外だったらどうだろう」に傍点]?
たとえば、ブレスレット。
指輪ではなく、腕輪だったら――いや、馬鹿げている。指輪を手に入れるために指を切るというのは聞いて納得できる話だが、腕輪を手に入れるために腕を切るなんて話は、どう好意的に考えても納得できる話ではない。そこまでやる人間はいないだろう。大体、この事件の犯人は、金目当てなどではない――金目当ての犯行だったら、第二の被害者の少女が、浮いてしまう。
「………………」
すっ――っと、南空は、天井に向けて、左腕を伸ばす。なんとなく、左腕を、床から浮かす。手を開いて、指をいっぱいいっぱいにまで伸ばして、蛍光灯をつかむかのように。
くすり指に、指輪。レイ・ペンバーからもらった、婚約指輪。婚約指輪と言っても、まだ、子供同士の冗談みたいな話ではあるけれど、でも、たとえばこの指輪を奪うために、指を、腕を、切断されるなんてことがあるだろうか……これがブレスレットなら? 駄目だ、自分に置き換えてみたら、それは尚更ありえないことに思えてきた。
腕をあげている内に、上着の袖がずり落ちてきた。それにより、これまで半分隠れていた腕時計が、全体像を現す。銀の腕時計。それは今年の誕生日、二月十四日に、同じくレイ・ペンバーから、贈られたものだった。そう、じゃあ、ブレスレットでもなくて、この腕時計だったなら……銀だから、安くは……腕時計?
「……竜崎さん。被害者、バックヤード・ボトムスラッシュの、利き腕はどちらでしたか?」
「利き腕ですか? 南空さんがお持ちの捜査資料によれば、確か右利きでしたが、それが何か?」
「ということは――普通に考えると、左腕には、腕時計が巻かれていた可能性がありますよね。だとしたら、犯人は、この現場から、腕時計を持ち去ったのかもしれません[#「腕時計を持ち去ったのかもしれません」に傍点]」
寝転がったままの姿勢で――南空は続ける。
「右脚には、靴下も靴も穿《は》かせっぱなしだった。だとしたら、持ち去った腕にも、時計が巻かれっぱなしだった[#「時計が巻かれっぱなしだった」に傍点]という線は濃厚です」
「時計を奪うために、腕を切断したと? ……しかし、それはどうでしょう、南空さん。あなたが仰った通り、指輪を奪うために、腕ごと持っていく人間はいないでしょうし、だったら、時計を奪うために、腕ごと持っていく人間もまた、いないんじゃないですか? そもそも、時計が目的なら、時計だけを持ち去ればいいんです。時計は指輪と違って、食い込んで外れなくなったりはしないでしょう。なにも腕を切る必要はないのでは」
「いえ、腕時計自体が目的だったとは思いません。だから、それが今回のメッセージなんじゃないか[#「それが今回のメッセージなんじゃないか」に傍点]、ということです。時計だけがなくなったのではあまりにもあからさまですから、腕ごと……」
「ミスディレクションというわけですか。なるほど――しかし、だったら右脚を切断した理由の方がわかりませんね。まさか脚に時計を巻いていたというわけでもないでしょうし。また、ミスディレクションとは言っても、何も腕ごととまで行かなくとも、手首だけでも十分な気はしますが」
「…………」
まあ、それはそう――なのだけれど。けれど、時計という着想は、我ながら悪くないような気がする……真実を掠《かす》めている予感がある。第一の事件、第二の事件を通して接してきたなにがしか、ありがちな言い方をすれば、犯人の異常なこだわりみたいなものがこの現場でも同じように働いたのだとすれば、それは、そういうスタイルをとっていたのではないか、という確かな予感……。
「……左腕……右脚……:左手首……右足首……左手……右足……時計、時計、時計、時計……両手両足、両腕両脚……それとも、残された部位[#「残された部位」に傍点]に意味があるのでしょうか? 左腕と右脚じゃなくて、右腕と左脚にこそ、意味が……四肢、と言いますし」
「五体、とも言いますね」
「五体……五引く二は、三……『三』。第三の事件……手足……と、頭で、五体……頭? ……首。首と、片腕と、片脚が……」
思いつくままに、とにかく言葉を繋げる南空――しかし、それはただ、行き詰まるのを恐れて、ただ無意味に、同じところをぐるぐると回っている、迷子のようなものだった。している内に、自分の中にあったはずの指針が、失われていくような感覚すらある。指針が、羅針盤が……。
「五引く二で三なら、両腕を切り落として両脚だけ残すのでも、あるいは、左腕と頭でもよかったはず……左腕が絶対だったとして、どうして右脚だったの……?」
最早《も はや》間《ま》を持たすためだけに、疑問とも思っていない疑問を、疑問とも言えない疑問を、難癖をつけるように南空が、無理矢理ひねり出したとき、そこで、竜崎が言った。
「残ったのが頭と腕と脚、一つずつなら、それぞれ、長さが違いますね」
一瞬、竜崎が何を言っているのかわからなかったし、わかったところで、そのあまりの脈絡のなさに、面食らってしまうような台詞だった。要は、腕は頭――首よりも長く、脚はその腕よりも長いという意味なのだろうが、しかしそれが一体どうしたというのだろう? 竜崎も、南空と同じく、ただただ思いついたことをそのまま口にしているだけなのだろうか? 何の指針にも、羅針盤にもならない。
「指針……? えっと……『針』?」
「針がどうかしましたか?」
「いえ、針……」
密室状況の古典的トリック、『針と糸』。しかしそれは、今の場合は何も関係ない。……針? それって、もしかして――
「時計! 時計の針です、竜崎さん!」
「はい? 時計? 時計の針って……」
「時針[#「時針」に傍点]、分針[#「分針」に傍点]、秒針で[#「秒針で」に傍点]――三針です[#「三針です」に傍点]! 三針の時計は[#「三針の時計は」に傍点]、それぞれに[#「それぞれに」に傍点]、長さが違う[#「長さが違う」に傍点]!」
南空は振り上げていた左腕を、勢いをつけて振り下ろして床に叩きつけ、その反動で一気に上半身を起こす。そのまま竜崎に詰め寄って、竜崎の持っていたコーヒーカップを奪い取り、一気にそれを飲み下し、そして、カップを机の上に、割れんばかりに叩きつけた。
「第一の事件現場では『赤ずきんチャチャ』が持ち去られて『遊び足らず』が! 第二の事件現場ではコンタクトレンズが持ち去られて眼鏡が! そしてこの第三の現場では[#「そしてこの第三の現場では」に傍点]、腕時計が持ち去られて[#「腕時計が持ち去られて」に傍点]――そして[#「そして」に傍点]、被害者が時計に見立てられているんです[#「被害者が時計に見立てられているんです」に傍点]!」
「見立て――被害者が、時計に?」
竜崎は、ぎょろりとしたパンダ目で、興奮した南空の剣幕を眺めながら、対照的に冷静な口調で、そう受ける。
「時計とは――」
「だから[#「だから」に傍点]、首が時針で[#「首が時針で」に傍点]、腕が分針で[#「腕が分針で」に傍点]、脚が秒針なんですよ[#「脚が秒針なんですよ」に傍点]! だから犯人は、時計を持ち去るにあたって、時計だけ持ち去るのでもなく手首だけ切り落とすのでもなく、腕を根元から切り落とさなければならなかったし[#「腕を根元から切り落とさなければならなかったし」に傍点]、脚をどちらか一本[#「脚をどちらか一本」に傍点]、切り落とさなければならなかった[#「切り落とさなければならなかった」に傍点]――でないと[#「でないと」に傍点]、三針の時計にならないから[#「三針の時計にならないから」に傍点]!」
そこまで一気にまくしたて、ようやく高揚した気分が落ち着いてきた南空は、ポケットから写真を取り出す――バックヤード・ボトムスラッシュの、死体の写真。仰向けに、大の字になっている、いや、大の字になれていない、左腕と右脚を切り落とされた、バックヤード・ボトムスラッシュ。
「見てください、竜崎さん、この写真。ほら、これは――頭が時間で右腕が分、左脚が秒で、十二時四十五分二十秒を示しているんです」
「……ふむ。確かに――言われてみれば」
「言われてみればではありません。これが犯人の残したメッセージに、間違いないでしょう――切り落とした右脚をバスルームに捨てていったのは、持ち去ったのはあくまで時計であることを、強調するためだったんです」
「………………」
竜崎は、思案するようにしばらくの間黙ってから、「少し、拝借」と、南空の手から、写真を取る。そして、それを矯《た》めつ眇《すが》めつ、首の角度を色々と調整して、吟味した。そんな風にされると、まるで自分の言った推理が全く的外れであったかのような気分になる南空だった。あくまでこれはメッセージ性の問題だから、そんなのは偶然の事実無根だと言われれば、それで終わってしまう、証拠のない、証拠のありえない推理なのだから。純粋に直感だけが試されているようなものだ。直感の勝負――直感の勝ち負け。
「南空さん」
「……はい、なんでしょう」
「仮に、その推理が正しかったとしても……この写真からでは、被害者時計[#「被害者時計」に傍点]の示している時間が、十二時四十五分二十秒だとは、限りませんよ」
「え?」
「だって、ほら」
竜崎は南空に、写真を晒《さら》した。
上下をさかさまにして。
「こうすると、六時十五分五十秒です。あるいは、こうすると」
今度は写真を横向きにする竜崎。
「三時ゼロゼロ分、三十五秒。さらに百八十度回転させると、九時三十分五秒です」
「……ああ」
そうだった――その通りだ。写真では、被害者の身体を縦方向に撮っているので、勝手に頭――時針が十二時の真上を指していると解釈してしまったが、被害者を本当に時計と看做《み な 》すならば、そうとは限らないのだ。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。写真の角度を変えれば、無限に時間は変化する。ゼロ度から三百六十度まで、たとえ針が固定されていても、文字盤の方をいくらでも回転させることができるのだから。
時間を固定する基準がない[#「時間を固定する基準がない」に傍点]。
「被害者が三針だとすれば、この四角い部屋が文字盤でしょう。被害者は部屋の中心で仰向けになっていたわけですからね。すると、被害者の死体は、このように、体幹が部屋の壁に対し、平行・垂直になる形で寝かされていたわけですから、とりあえずは私が今言った四パターンだけを考えればよいでしょうが、四パターンというだけでも多過ぎです。一つ、せめて二つくらいにまで、時刻を絞らないことには、犯人が残したメッセージを読み取れたとは言えません」
「部屋が――文字盤」
「そう言えば、第一の事件では、時計でお馴染みのローマ数字が、大きな要素の一つでしたね……しかしこの部屋に、ローマ数字らしきものはありません。どの壁が何時を示しているのかを、断定できるヒントがあればいいのですが」
どの壁が何時を示しているか――か。しかし、そんなことを言われても……どの面も、何の変哲もない、ただの壁だ。ドアのある壁、その正面の、窓のある壁。ウォークインクローゼット……あるいは方角だろうか? 羅針盤……。
「竜崎さん。この部屋から見て、北はどちらになりますか? 北をゼロ時と見立てれば――」
「それは私も既に考えましたが、北をゼロ時とする論拠がありません。地図じゃないんですから。東かもしれないし西かもしれないし南かもしれないじゃないですか」
「論拠……論拠、ですか……そう、そうですね。証拠はなくても、せめて論拠はなければ……、でも……どの壁が、なんて……そんなこと、わかるはずも……」
「確かに。奇しくも、乗り越えようもない大きな壁が、私達の前に立ちはだかっている感じですね」
「壁、……ですか。いい比喩ですね。壁、壁……」
壁? 壁と言えば――藁人形だ。この部屋にあった、二体の藁人形。それが何か関係あるのだろうか? 藁人形が、ここに来て意味を持ってくるのかもしれない。そうだ、それくらいしかもうヒントはない、と南空は半ば強引に決め付けて、思考の軸をそこに置く。藁人形。藁。人形。人形。人形。……ぬいぐるみ? ぬいぐるみ――ファンシーな部屋。二十八歳の女性には、不似合いなほど――
壁際に[#「壁際に」に傍点]、ぬいぐるみ[#「ぬいぐるみ」に傍点]。
「……わかりました、竜崎さん」
南空は言った。
今度は――興奮はない。
至極、落ち着いている。
「ぬいぐるみの数です[#「ぬいぐるみの数です」に傍点]――壁際のぬいぐるみの数が[#「壁際のぬいぐるみの数が」に傍点]、それぞれの時間を[#「それぞれの時間を」に傍点]、示しているんです[#「示しているんです」に傍点]。ほら、ドアのある側の壁には、十二体[#「十二体」に傍点]。あっちには九体[#「九体」に傍点]――これは、『十二時』と『九時』を表わしているんです。だから、この部屋を時計として見たとき、ドアのある方向が、上になります」
「……いえ、ちょっと待ってください、南空さん」
竜崎が南空の言葉を止める。
「『十二時』と『九時』に関しては、確かにその通りですけれど、こちらの壁にあるぬいぐるみは五体ですし、こちらの壁にあるぬいぐるみは二体です。時計の文字盤を、四つの数字で示そうというのなら、『12』『3』『6』『9』であるはず――『12』『2』『5』『9』では、文字盤にはなりません」
「なるんですよ[#「なるんですよ」に傍点]、藁人形がありますから[#「藁人形がありますから」に傍点]」
壁に空いた穴を見ながら――南空は言う。
「二体のぬいぐるみに藁人形を足して『3』、五体のぬいぐるみに藁人形を足して『6』です。これで――この第三の事件の現場における、時計の見立ては、成立します。この部屋は、時計として、完成しました」
南空は、バックヤード・ボトムスラッシュの写真を、さっきまで自分が、その前は竜崎が、寝転がっていたその位置に、角度に気をつけながら、そっと、置いた。
「六時十五分五十秒を、お知らせします」
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そして、八月二十二日。
ロサンゼルスBB連続殺人事件、犯人逮捕の日である――が、しかし、それは、歴史を振り返ってみればそうだというだけであって、歴史上の何事でもそうであるよう、リアルタイムの視点においては、登場人物達にそんなことがわかるわけもなく、しかも、それほどに順風満帆だったわけでもない。むしろ、いくつもの不都合といくつもの不安要素を抱えたままで、南空《み そら》ナオミは、その日を迎えることになる。
六時十五分五十秒。
第三の事件現場から、犯人の残したメッセージとして、そう読み取ることができたところまではよかったが、しかし、それを午前六時十五分五十秒なのか、それとも午後六時十五分五十秒なのかを、考える必要があった。時計の見立てを見つけてから、翌日の八月二十日まで、南空は事件現場を探し続けたが、『a.m.』を示す要素、あるいは『p.m.』を示す要素を、部屋から見つけることはできなかった。
「これだけ探して見つからないということは、案外、それはもうどちらでもいいということなんじゃないでしょうか」
と竜崎《りゅうざき》は言った。
「デジタル時計の見立てじゃなくアナログ時計の見立てなのですから、午前午後の区別をつけようという方が、無謀なのかもしれません」
「そうですね……」
南空は頷いた。実際にそうであるかどうかはともかく、最早そう考えるしかなかった。それでも一応、『六時十五分五十秒』と『十八時十五分五十秒』の二通りで、メッセージの解釈を始めることにした。第一の事件現場でクオーター・クイーンが示されていたように、第二の事件現場でグラス駅が示されていたように、第三の事件現場で、何が示されているのか……南空と竜崎、二人がかりでその調査にはあたったが、それらしきものに先に行き当たったのは、竜崎の方だった。『061550』。それは、コンドミニアムの建設認可番号だった。バレーエリアのパサデナにある、大型集合住宅。2LDKから4LDKの部屋が二百部屋近く集まった分譲コンドミニアムである。その、1313号室に、ブラックベリー・ブラウンという女性が住んでいたのだ。1313号室。イニシャルB・B。
「これは間違いないでしょう」
と、南空は言った。コンドミニアムの認可番号は0で始まる決まりなので、『181550』というナンバーな存在しない。午前午後のくだりでいささかの不安を抱えていたが、しかしこうして答が導き出されれば、安心だった。竜崎の言う通り、アナログ時計だからどちらでもよかったのだろうと、ほっと胸を撫で下ろした――しかし、当の竜崎は、あまり明るい顔色ではなかった。いや、そもそも、竜崎は明るい顔色を見せるような男ではなかったが――それでもなんだか、反応が芳《かんば》しくないように、南空には思えた。
「どうしたんです、竜崎さん。これで、犯人の行動を先読み、先回りすることができるんですよ。犯人を待ち伏せすることができるはずです。第四の事件を防げる上に、うまくすれば、目論見《もくろ み 》通り犯人の拘束さえできる。いえ、絶対に確保――生け捕りに」
「南空さん」
竜崎は言った。
「実を言うと、コンドミニアム内にもう一人該当者が、もう一人B・Bがいるんです。404号室に、ブルースハープ・ベビースプリットという男性の方が、一人暮らしを」
「……いや、それは」
イニシャルがB・Bの人間が――二人。二百部屋を擁する大型集合住宅で、一人暮らしだけでなく、家族で住んでいる部屋も少なくはないだろう。少なく見積もっても、住んでいる人間の数は、四百人から五百人……単純計算で六百七十六人に一人の割合でいるイニシャルB・Bの人間が、二人いたところで、それは不思議ではないだろう。十分にありえそうな確率だ。
でも、と南空は言った。
「これは、どう考えても、1313号室の方でしょう。『13』と『B』の暗示ですよ、竜崎さん。『1313』なら、『B・B』になる。第四の事件――藁人形の数から考えて、犯人にとっては最後の事件となるはずの第四の事件の符合としては、これ以上のものはないはずです」
「そうでしょうか」
「そうですよ。だって、404号室なんて――」
確かに、『4』は『1+3』で、『B』ではあるが、『1313』と『404』の二つがあれば、犯人にとっては、前者の方が優先順位が高いはず……どこの誰が犯人であっても、そちらを選ぶはずだと、南空は思う。しかし、竜崎は、そうではないようだった。
「竜崎さん。十三階とか十三号室とかがあるという建物自体、アメリカにおいては珍しいんです。普通『13』という数字は階数表示からは省かれます。犯人からすれば、その十三階があるのならば、そちらを使いたいと思うものじゃないんですか? いや、だからこそ、そのコンドミニアムとその被害者が選ばれたとも……」
「思い出してください、南空さん。事件の間隔の問題が、あったじゃないですか。七月二十二日にロス市警にクロスワードパズルが届き、その九日後の七月三十一日に第一の事件、その四日後の八月四日に第二の事件、その九日後の八月十三日に第三の事件、そしてその九日後の八月二十二日に第四の事件が起こるのだとすれば、九日後、四日後、九日後、九日後――です。どうしてこれが、『9・4・9・4』ではなく、『9・4・9・9』なのかという問題があったじゃないですか。『9+4』は、『13』なのに」
「それは――」
元々、九日間と四日間を足し合わせて『十三』になるということに言及したのは、南空の方だ。しかし、八月十七日に何も起こらなかった以上、それはたまたまだったんだろうと考えた――十七日という日付からは『B』の暗示が導き出せなかったわけだし、だからそれは、問題というほどに問題視していた話じゃない。どうしてそんな話が、ここで出てくるのか南空にはわからなかったが、
「『4』が一つに『9』が三つ。これはバランスが悪いとは思いませんか?」
「確かにそうですが……でも、『交互』は――」
「『交互』ではありません。『4』と『9』をワンセットにして考えるなら、一貫して『13』が連続することになるのですから。そうなっていない現状が、おかしいと言っているのです」
「…………」
「それが、ここで404号室の『404』という数字があれば、『4』が三つに『9』が三つで、バランスが取れます」
「ああ……」
そういう――意味か。
「もしこれが、404号室以外の部屋だったなら、私も百パーセント、いえ百二十パーセント、第四の被害者として狙われているのは1313号室のブラックベリー・ブラウンだと読みますが、よりにもよって、『4』を二つ含む404号室に、ブルースハープ・ベビースプリットという名のB・Bが住んでいるというのは、看過するわけにはいきません」
「確かに……見過ごせません……ね」
そう言われれば、むしろ南空には、404号室の方が、可能性が高いように思われる。四日間と九日間という、事件同士の間隔については、そうは言っても、南空もそれなりの違和感を覚えていたところはあるのだ。本当にここをたまたまで済ませていいのだろうか、と。十七日に何も起きなかったことなんて、結果論じゃないか、と。そのあやふや感がある部分を、すっきりと解決できる事件現場というなら、1313号室よりも、404号室だ。
南空は舌打ちをする。
時計の見立ての午前午後も断定できなかったし、それらしき事件現場候補を見つけたところで、被害者の候補を二人から絞り込めないとは……ここまで来ておきながら、なんだか気持ちが悪い齟齬《そ ご 》だ。すっきりしない。メッセージはしっかり読み解いたはずなのに、気分が晴れない。これは、この先、ひょっとしたら決定的なミスに、繋がりかねないような……。
「仕方ありませんね」
と、竜崎。
「こうなれば、分担するしかありません。南空さん、幸い、私達は二人組です」
二人ではあっても二人組ではない。
と、言えるような状況でもない。
「だから、一人ずつ、現場候補をあたればいいんです。南空さんは1313号室、私が404号室という割り振りが適当でしょう。1313号室の住人、ブラックベリー・ブラウンは女性であり、404号室のブルースハープ・ベビースプリットは男性なのですから、自然、そういう割り振りになります」
「……割り振りって、どういうことですか?」
「さっき南空さんが仰《おっしゃ》ったじゃないですか。先回りの、待ち伏せですよ。ブラックベリー・ブラウンとブルースハープ・ベビースプリットには、今日明日中に交渉して、捜査に協力していただくことにしましょう。勿論《もちろん》、殺人犯に命が狙われているなんてことは言いません。下手なことを言って事前に情報が漏れてしまえば、不測の事態を招きかねませんから」
「しかし、知る権利があるのでは?」
「生きる権利の方が重要です。しかるべき代金を支払って、部屋を丸一日、貸してもらえればいいんです」
「お金、ですか」
「はい。もっともわかりやすい手段です。幸い、私はパトロンから、その程度の必要経費なら即金で払えるくらいの資金援助を受けています。事件を解決すれば、依頼人から報酬もいただけますしね。これが普通の殺人事件だったらそうは行きませんが、イニシャルがB・Bという理由で狙われているだけで、彼もしくは彼女に、殺されるに足る積極的な理由はないんです。殺されるとしたら、彼もしくは彼女は、自分の部屋――1313号室もしくは404号室で殺されなくてはなりません[#「1313号室もしくは404号室で殺されなくてはなりません」に傍点]。ならば、私達が、彼と彼女になりすまして、その部屋にいれば、犯人と遭遇することができるはずです。言うまでもなく、念のための配慮として、二十二日の間中、ブラックベリー・ブラウンにもブルースハープ・ベビースプリットにも、安全な場所に避難しておいてもらいますが……そうですね、豪華ホテルのスイートルームに滞在、など、いいんじゃないでしょうか」
「そして私達が――ですね」
南空は口に手を当てて、考える。被害者候補の買収については、問題ないだろう……竜崎に資金援助をしているパトロンが誰なのかは知らないが、南空だって、Lに頼めば、人間一人を買収するくらいの金額は、引き出せるはずだ。竜崎がブルースハープ・ベビースプリットになりすまし、南空がブラックベリー・ブラウンになりすます……。
「警察の応援は、呼ばない方がいいんですよね……」
「そうですね。被害者の生命は守れるかもしれませんが、ことをあまり大規模にすると、犯人を取り逃してしまいます。そもそも、南空さんや私の推理では、警察機関を動かすだけの理由にはなりえないでしょう。犯人からのメッセージについては、九十九パーセント間違いないとは思いますが、しかし、説得力はあっても、証拠能力には欠けます。根も葉もない妄想だと言われてしまえば、それまでです」
「……根も葉もない」
「根拠もなければ葉拠もないということです」
「………………」
葉拠なんて言葉は元々ないけれど。
確かに、お説ごもっとも。
FBIの恋人、レイ・ペンバーに頼めば……いや、FBIには頼れない。南空は今、休職中の身だ――竜崎に対しても、探偵を名乗っている。ここ一週間の行動は、FBI捜査官南空ナオミとしては、大問題になりかねないものなのだ。本当はLの指揮下にあるとは言っても、それを公表するわけにはいかない……。
「犯人は、恐らく単独犯でしょうけれど、竜崎さん、確保する際には、取っ組み合いになりますよ」
「大丈夫です。一対一なら負けません。これでも私、結構強いんですよ。南空さんだって、カポエラの技があるでしょう」
「それはそうですけれど……」
「南空さん、拳銃は扱えますか?」
「え? いえ、扱えな……くはありませんが、でも、持っていません」
「では、私が準備します。装備してください。ここまではあくまで犯人との探偵合戦でしたが、ここから先は命がけとなります。南空さんも、覚悟を決めてください」
竜崎はそう言って――親指の爪を噛んだ。
そんな風に。
いくつもの不都合といくつもの不安要素を抱え込んだまま、その日は、南空ナオミはウエストサイドのホテルに、一泊した。ホテルの部屋から端末でLに連絡をとり、資金援助と、これまで判明した事実の裏付けを頼む。ひょっとしたらLが、そのような待ち伏せは危険過ぎるとか、被害者候補の安全にもっと気を配るべきだとか、竜崎の考えたシナリオに反対するんじゃないかと思ったが(実のところ、少しばかりそれに期待していたが)、そうではなく、むしろLも、竜崎のシナリオに対して積極的だという印象を、南空は受けた。竜崎を信用していいのかという点を、南空は再三再四、Lに尋ねたが、泳がしておいて問題ないとの答だった。泳がすも何も、二十二日になれば、全てが決定してしまうというのに……。
「お願いします、南空ナオミさん」
と、Lは言った。
「この事件の犯人を、何としても捕まえてください」
あらゆる手段を使って。
あらゆる手段。
「……わかりました」
「ありがとうございます。……ただ、南空さん。公式な警察機関の力を借りられないのは確かですが、非公式な応援部隊ならば別でしょう。そのマンションの周囲に、Lの名前で動く私兵隊を派遣したいと思います。彼らを動かすのに、確たる証拠は必要ありません。勿論、周囲と言っても、かなり遠巻きに囲む形になりますが」
「はい。では、そのように」
そんなこんなで、Lとの通信を終える頃には、零時を過ぎて、もう八月の二十一日になっていた。二十二日は丸々パサデナにいなくてはならないので、二十一日中に、前乗りしておかなくてはならない。こんな状況では無理な相談かもしれなかったが、南空はゆっくりと眠ろうと、ホテルのベッドに入り、目を瞑《つむ》った。
「あれ……」
そこで呟いた。
うとうとと、意識が閉じかけたところで、呟いた。
「そう言えば、私、いつ竜崎に、カポエラのこと、話したんだっけ……」
わからなかった。
そしてもう一つ――わからないことがあった。
南空には、自分がわかっていないことさえ、わからないことが、あった。
それは、南空ナオミにとっては永遠に与《あずか》り知らぬところだ。どう足掻《あ が 》いても、わかるはずもない。この事件の犯人、ビヨンド・バースデイが、顔を見ただけで、相手の名前と寿命がわかる、天然生来の死神の目の使い手であるということなど、わかるはずもない――彼の前では[#「彼の前では」に傍点]、偽名など[#「偽名など」に傍点]、なりすましなど[#「なりすましなど」に傍点]、意味も蜂の頭もあったものじゃないことなど[#「意味も蜂の頭もあったものじゃないことなど」に傍点]、わかるはずもない[#「わかるはずもない」に傍点]。
わかるはずもない。
そもそも、どうしてビヨンド・バースデイが死神の目を、何の取引もなく何の代償もなく、生まれつき使用することができるのかについては、本人すら説明のできないことなのだ。南空もLも、勿論この僕でさえ、そんな理由は知らない。精々言えるのは、間抜けにも死のノートを落とす死神がいるのだから、眼球を落とす死神がいたとしてもおかしくはないということくらいだ。いずれにせよ、死神の存在を知らない人間に、死神の目について意識しろなどというのは、途方もなくナンセンスだろう。
それでも、そうは言っても、少しくらいなら、気付いてもよかったかもしれない。『B』を『13』と見るならば、『13』はまた、タロットカードにおいて、死神の暗示だということくらいには――
そんな風に。
いくつもの不都合といくつもの不安要素、そしてたった一つの失敗を抱え込んだまま――いよいよ、事件はクライマックスを迎える。
● ●
ケーススタディ。
本来僕は、南空ナオミがFBIを休職、実質的な停職処分を受けることになった理由について、この手記《ノ ー ト》の中では一切伏せたままにし、曖昧《あいまい》模糊《も こ 》に済ませるつもりでいた。今だってできることならそうしたいと思っている。その気持ちは本当だ。先にも言ったよう、被害者というなら彼女以外の被害者はいないというくらいに、ワイミーズハウスの内輪揉めの巻き添えを食った形の彼女の、プライベート……でなくとも、個人的事情に踏み込むことに関し、僕は乗り気ではないからだ。だからこそここまで、それについての記述はさりげなく避けてきたのだが、二〇〇二年八月二十二日、バレーエリアのパサデナの、大型集合住宅、1313号室で、竜崎から手渡された拳銃、ストレイヤー・ヴォイト社のインフィニティを両手に持って、複雑そうな瞳で見つめる南空ナオミの描写をしなければならないこの場面に至って、さすがにそうはいかなくなった。その瞳の理由を説明しないまま、何事もなかったかのように次の場面にまで、展開を早送りするというわけにはいかないだろう。
と言っても、やっぱり、そんなに複雑な話ではない。簡潔に説明すると、彼女は、彼女の所属するチームが数か月にわたって内偵・潜入捜査を続けてきた、ある麻薬取引に関わる極秘作戦を、自分の責任で台無しにしてしまった、という文章になる――拳銃の引き金を、肝心なところで引けなかったばかりに。拳銃を持ち歩く習慣がないとは言え、任務となればそれは別――人間を相手に引き金を引いたことがないなんて、青臭いことを言うつもりはない、南空ナオミは訓練されたFBI捜査官だ。潔癖ぶろうとも、誠実ぶろうとも思わない。それなのに、あのときは、引き金を引けなかった。銃口の向こうにあった対象が、わずか十三歳の子供だったから――では、ちっとも理由にはならないだろう。十三歳だろうがなんだろうが、彼は凶悪な犯罪者だった。それなのに、南空ナオミは、彼を取り逃がしてしまい、結果、多くの仲間が時間と労力を限界まで費やし、どれほど膨大な捜査力を犠牲にしたかもわからない極秘作戦を、何の成果も挙げないままに、終結させてしまった。ピリオドを打ったのだ。一人の逮捕者も出せず、どころか、死者こそ出なかったものの、同僚の中には二度と現場に戻れないかもしれないほどの大怪我を負った者もいた――費用対効果としては、最悪の結果だった。いくら彼女が、組織内において弱い立場にあったとはいえ、それでも休職扱いで済んだのは、御《おん》の字というものだろう。
どうしてあそこで引き金が引けなかったのか、南空ナオミには本当にわからない。FBI捜査官としての自覚……いや、覚悟がなかったのかもしれない。「虐殺南空なんて、名前負けもいいところだったね」なんて、恋人のレイ・ペンバーからは、励ましているんだか皮肉っているんだかよくわからないことを言われたが、しかしよくわからないなりに、それはその通りだと思った。
しかし、南空ナオミは思い出す。
銃口を向けたとき――
あの子供が自分に向けた眼を。
信じられないようなものを見る眼[#「信じられないようなものを見る眼」に傍点]――まるで死神にでも出会ったかのような眼だった。馬鹿馬鹿しい……自分が人を殺すことはあっても、自分が人に殺されることはないとでも、思っていたのだろうか? 殺す以上は殺される覚悟があるはずじゃないのか。犯罪者としての覚悟。FBI捜査官としての覚悟。何にしても、覚悟。組織の一員であること。あの子供も、組織の一員ではあった。そうすることで、覚悟は薄れてしまったのかもしれない。覚悟は痺《しび》れてしまったのかもしれない。覚悟は寂《さび》れてしまったのかもしれない。だが、どうだろう。出自を辿《たど》れば、あの子供には更正する機会どころか、そもそも正しく生きることさえ、許されていなかったのだ。そんな人間に、南空はどんな覚悟を求めるべきだったというのだろう? それを期待することが、どれだけ酷なことなのか。あの子供がああいう風にしか生きられないのは、自明の理だった。最初から運命づけられていた。それとも、それでも、その運命は受容しなくてはならないというのだろうか? どういう風に生きてどういう風に死ぬか、元々決まっているとでもいうのか。人の生と――人の死は、何者かに、いいように操られているとでも、いうのだろうか。
そのミスをいいことに、南空を職場から締め出した者達に対する憤りは勿論あるが、たとえば、ロサンゼルスBB連続殺人事件で殺された第二の被害者、クオーター・クイーンと、南空が撃てなかった十三歳の子供との間にどのように明確な違いがあるのかを考えたら、馬鹿馬鹿しくなってしまう心境は否めない。
南空は正義感の強い人間ではない。
倫理的・道徳的観念も強いとは思わない。
事件に対する哲学すら持っていない。
ただ、知らない街を歩くかのように人生を歩いていたら、今の位置にいたというだけだ――もう一度人生を繰り返せば、確実に違う位置に辿り着くだろう。どうして自分がFBIに勤めているのか、問われたときに答えることができないのだ。
優秀ではあるが、それは能力に由来すること。
思想ではない。
「……犯人が子供だったら、どうしよう」
南空は憂鬱そうに、呟いた。
「十三歳……十三歳、か」
そして、手にしていた拳銃を、安全装置を確認してから、脇に置く。そこには、同じく竜崎から支給された、犯人を確保したときのための手錠も、あった。ブラックベリー・ブラウンの住むコンドミニアム、1313号室――その一室。2LDK、サムターン錠がついているのは、玄関から見て手前の側の部屋だった。
このフロアから数えて九階階下の、404号室では、今頃竜崎が、同じように犯人の到着を待ち伏せているはずである――彼はブルースハープ・ベビースプリットとして。……自分は強いみたいなことを言っていたが、あの痩躯《そうく 》で猫背の竜崎が、そんな実力の持ち主には見えないので、割と心配だった。それぞれの持ち場につく前の打ち合わせでも、自信満々だったけれど……疑わしい。
この1313号室と竜崎の404号室、果たしてどちらに、犯人――Lの言うところの『B』が現れるのか、この時点でも、まだ南空には見当もつかなかった。あれから、時間の許す限り、考え続けてはいるのだけれど、結論らしきものは何も出てこないというのが正直なところだ。第三の事件現場における、時計の見立ての午前と午後の問題も、やはり気にかかる……。いや、今更そんなことを考えてもしょうがない。今はもう、犯人が狙うのはこの1313号室、犯人が狙うのはブラックベリー・ブラウンになりすましているこの自分だと決め付けて、行動するべきだ。人の心配をしている場合ではない。あるいはこう言い換えてもいい――『B』は、Lの代理としての[#「Lの代理としての」に傍点]、南空ナオミを狙うだろう[#「南空ナオミを狙うだろう」に傍点]、と。
部屋の壁にかかっている時計を見る。
デジタル時計――午前九時ちょうど。
八月二十二日も、これで九時間が経過した、残り十五時間。今日は一睡もできない、最低でも二十四時間、起き続けていなければならない。トイレに席を外すことすら許されない。長丁場になるのだから、あまり根《こん》を詰め過ぎないようにと、竜崎からも言われている……誰かがこの部屋に現れたとき、瞬時に、自然体で対応できるよう、心掛けて――ともあれ、Lに定時連絡を入れる時間だった。鞄から携帯電話を取り出して、指定された手順に則《のっと》り、Lへと回線を繋げる南空。部屋のドアと、カーテンを閉めた窓へ、順に視線をやりながら。
「Lです」
「南空です。現在のところ、動きはありません。竜崎とも先ほど通信しましたが、何も起こっていない、その気配もないとのことでした。長期戦になりそうな予感がします」
「そうですか。では、引き続き警戒を怠らずにお願いします。先述の通り、別働部隊がコンドミニアムの外側を固めていますが、いざことが起こったとき、即座に対応できる距離ではありません」
「わかっています」
「それから、つい先ほど、コンドミニアム内に二人、味方を派遣しました。間に合わないかと思いましたが、どうやら天候に恵まれました。運がよかったようです」
「え? しかし、それは……」
犯人を警戒させないよう、この部屋を含めてコンドミニアムの中には、監視カメラはおろか盗聴器すら、仕掛けていないのに――突然、そんな予定外の追加要員など。気付かれていることに気付かれることがあっては、絶対にならないというのに――
「大丈夫です。犯人に露見する可能性はありません。一人は潜入のプロ、もう一人は騙《だま》しのプロです。FBI捜査官であるあなたを相手におおっぴらに言うことはできませんが、要は泥棒と詐欺師です。それぞれ、404号室と1313号室の警護にあたってもらいました」
「泥棒と……詐欺師……?」
何を言っているんだろう。
冗談だろうか?
「それでは、南空ナオミさん――」
「あ、あの、L」
南空は、通信を終えようとしたLを、引き止めた。そして、間をおかずに、訊くべきかどうかずっと迷っていたことを――訊く。
「犯人を――あなたは知っているんですよね?」
「はい。前にも言いました。犯人は『B』です」
「そういう意味ではありません――その『B』は、Lのお知り合いなんですよね、という意味の質問です――」
犯人は『B』、最初から犯人はわかっていたと、十六日にLから聞いた段階で、何となく察しはついていたけれど、一昨日のLの言葉で、それは確信に変わった。あらゆる手段を使って[#「あらゆる手段を使って」に傍点]――この事件の犯人を何としても[#「この事件の犯人を何としても」に傍点]、捕まえてください[#「捕まえてください」に傍点]。世紀の名探偵Lに、そこまで言わせる対象が、ただの無差別連続殺人犯だとは、もう思えない。Lに対し、『B』というアルファベットに執拗にこだわるその姿勢といい――
「はい」
合成音声は、南空の言葉を肯定した。
訊かれて困ることではないとばかりに。
「しかし南空ナオミさん、それは極秘でお願いします。コンドミニアムの周囲を固めている別働部隊や、泥棒や詐欺師は、そもそも自分達が、何の事件のために動いているかさえ知りません。知らない方がいいからです。訊かれてしまいましたから答えましたが、本来これは、南空ナオミさんが知らなくてもいいことでした」
「そう思います。Bが何者だろうと、彼が三人の尊い命を理不尽に奪った凶悪犯であるということに、違いはないんですから。でも、一つだけ、教えてください」
「なんでしょう」
「犯人が知り合いでも[#「犯人が知り合いでも」に傍点]、関係ありませんか[#「関係ありませんか」に傍点]?」
それは。
南空ナオミにとっては、子供相手に引き金が引けるか――という問いかけにも似ていた。
「関係ありません[#「関係ありません」に傍点]」
と、Lは答えた。
「正確に言えば、Bは私の知り合いではなく、ただ単に知っている人間だというだけですが――だからと言って私の推理が鈍るというようなことはありません。確かに、私がこの事件に興味を持ち、この捜査に乗り出したのは、最初から犯人を知っていたからです。しかしそれが、私の捜査姿勢、私の捜査方針に影響を与えるということはありません。南空ナオミさん、私は、悪というものが、許せないんですよ。許せないんです。だから、知り合いだろうがなんだろうが、関係ありません。私が興味があるのは、正義だけですから」
「正義……だけ」
南空は、その返事に、息を呑む。
「じゃあ……それじゃあ、Lは、正義以外は、どうでもいいというんですか?」
「そうは言いませんが、優先順位は低いです」
「悪はどんなものでも、許せないんですか?」
「そうは言いませんが、優先順位は低いです」
「でも――」
十三歳の被害者のように。
「正義では救えない人達も、たくさんいます」
十三歳の加害者のように。
「悪で救われる人達も、たくさんいます」
「いますね。しかし、それでもなお」
Lは、まるで口調を変えないままで言う。
南空ナオミを、ゆっくりと諭《さと》すように。
「正義は他の何よりも、力を持っています」
「力? 力っていうのは、強さですか?」
「違います。優しさです」
あまりにもあっけないその口振りに。
南空は、電話を取り落としそうになった。
L。
世紀の名探偵、L。
正義の名探偵、L。
ありとあらゆる難事件を解決してきた――
「……あなたのことを誤解していたようです、L」
「そうですか。誤解が解けて何よりです」
「捜査に戻ります」
「はい。では」
携帯電話を閉じて、そのまま南空は眼を閉じる。
ふう。
別に、何も好転していない。
耳触りのよい言葉を聞かされただけのことだ。
きいた風なことを言われただけだ。
聞こえのいい台詞で誤魔化されたのかもしれない。
問題は何も解決していない。迷いがなくなったわけでも、覚悟が決まったわけでもない。ちょっと何かが変わったような気になったところで、明日になれば、そんなものは元に修正されてしまうだろう。けれど、それでも、まあとりあえず、結論を急いで退職届を出すようなことはせず、休職期間が明けたら、FBIに帰ることにしようと――このとき、この瞬間、南空ナオミは思ったのだった。この事件の犯人は、果たして手土産になるかどうか――と。
「……と。これで、次は一時間後に、竜崎に連絡か……あっちは大丈夫かな……」
ブラックベリー・ブラウンと、ブルースハープ・ベビースプリット――二人のB・B。1313号室と404号室……犯人が狙っているのがどちらなのかを限定できる材料は、本当に第三の事件現場にはなかったのだろうかと、どうしても、思わずにはいられない。可能性が最後まで絞りきれなかったというのは、やることをやってなかったから、やるべきことをやってないからではないのかと――
「……ああ。そうか、だからQ・Qか」
一つ、思いついた。二番目の被害者がB・BではなくQ・Qだった理由。子供を裏返して、『q』を『b』に見立てた理由……それは同姓同名の別人の関与を、防止するためだ。第一の事件現場に残されたタイプのメッセージ……即ち、事件の起こる場所ではなく被害の対象となる人間を示したメッセージの場合は、どうしたって、同姓同名の可能性を否定できない。だから、B・Bよりも珍しいQ・Q……クオーター・クイーン。ビリーヴ・ブライズメイドやバックヤード・ボトムスラッシュでは、一体ロサンゼルスに何人いるのか見当もつかないが、実際、ロサンゼルスにクオーター・クイーンは、彼女一人だけだった――だったら、やっぱり、メッセージの表は、QではなくBで正しかったのだ。B。BB。
しかし、そうまでしてメッセージの解答を絞り込むことに血道をあげている犯人が、どうしてこの最終局面にあたって、被害者候補を二人、想定させてしまうような状況を、作ってしまったのだろう……やはり自分が、何か重要なメッセージを見落としているのだろうか。やるべきことをやっていない、やり残し……。
クロスワードパズル。
そう言えば、まだ挑戦していない。
……こうして思い返してみると、結構、先送りにしたままの問題が、残っている……1313号室と404号室の問題だけではなく。犯人を捕らえることに成功したら、それらは全て解決するのだろうか、それとも……。
「……密室は、やっぱり、合鍵なのかしら」
だとしたら、犯人は合鍵をあらかじめ準備してから、犯行に臨んだということになるが……この犯人は事前にどのくらいまで、被害者の周囲のことを、調べるのだろう。出来る限りの配慮はしたが、ここでこうして、南空が待ち構えていることも、案外、筒抜けになってしまっているということも、ありうるのか……。
「『針と糸』の密室か……まあ、第三の事件では、『針』が重要なヒントになったわけだけど。……言葉の上でっていうだけだけどね」
時針、分針、秒針。
それに、藁人形に現実的な意味があったというのが、驚きだった――単なる被害者のメタファーだとばかり、思わされていたのに。ぬいぐるみと足して、時計の文字盤を表わしていたとは。とすると、あのぬいぐるみの中には、被害者の持ち物じゃないものが、混じっていたのかもしれない……数を揃えるために。ありそうな話だ。
四体、三体、二体と、数を減らしてきた藁人形。
第四の事件で、最後の一体。
と、なるのかどうか――
「最後の一体の藁人形……は、やっぱり、ドアの正面の壁に、残されるのかしら。まあ、どちらかと言えば、そっちを残す……意味深だし……意味深の演出、ということ……? 部屋に、密室に踏み込めば、まず眼を引く……死体よりも、眼を引く……」
南空は、確たる考えがあったわけではないが、立ち上がって、ドアのところへと、移動する。そしてドアを背に、部屋を見渡す――何の変哲もない、ただの部屋。現時点では、ここは殺人現場ですらもないのだ。ブラックベリー・ブラウンの、普通の生活が窺《うかが》えるだけである。
「藁人形が打ち付けられていた高さは、どの現場でも大体一緒だった……横はまちまちだったけれど、縦は一定だった。私で言えば、腰の高さくらい……ということは、これくらいの高さかな」
そのまま、その位置にしゃがみ込む南空。
そうすると自然、竜崎のするあの例の両膝を抱える座り方と似てしまったが、それは考えないことにする。なに、これでまた推理力だかが多少なりともアップするのだと思えば、それはそれでいいだろう。どうせこの部屋にいるのは自分一人だ。仮に、ドアの正面に藁人形が来るというルールが、ここ、第四の事件現場でも適用されるのだとしたら、この視点で、藁人形と眼が合う、視線がぴったりと合致する形になる。藁人形に眼はないし、だからといってどうということもないのだが。
「ぬいぐるみに混ぜることだけを考えるなら、ドアの正面である必要はないはずなんだけれど……意味深の演出……演出、か……それとも、神経質さの、一つの顕現でしかないのかな……あ痛」
変な座り方で考えごとをしていたら、不意に姿勢が崩れて、ドアのノブで後頭部を軽く打ってしまった。打った部分をさすりながら、反射的に後ろを振り向く南空――そして。
視界に、ドアのノブと、そして。
そして、そのすぐ下のサムターン錠。その摘《つま》み。
「…………っ!」
ばっ、と、音が立つほど激しい勢いで、南空は首を正面に向け直す。そして壁を見る。そこには何もない、ただの壁紙。しかし、南空はつい今しがた、そこに架空の藁人形を想定した。そこに[#「そこに」に傍点]、その高さに藁人形があったとしたら[#「その高さに藁人形があったとしたら」に傍点]――ドアの正面どころの話じゃない。
ノブの正面[#「ノブの正面」に傍点]。
サムターン錠の正面に[#「サムターン錠の正面に」に傍点]――人形が来る[#「人形が来る」に傍点]。
「そうだ……なんで気付かなかった!」
腰の高さ――それが藁人形の高さだということは、捜査資料を見た段階で、もうわかっていた。第一の事件現場で、サムターン錠を回すときに、摘みが自分の腰の辺りの高さだったことは意識したし[#「摘みが自分の腰の辺りの高さだったことは意識したし」に傍点]、第二の事件現場では、アパートメントのドアが、その第一の事件現場の扉と[#「その第一の事件現場の扉と」に傍点]、デザインこそ違え[#「デザインこそ違え」に傍点]、同じような構造だと[#「同じような構造だと」に傍点]、そうはっきりと思った[#「そうはっきりと思った」に傍点]……第三の事件現場で、両手が塞がっていたとき、ベルトのバックルを使って[#「ベルトのバックルを使って」に傍点]、ノブを回し[#「ノブを回し」に傍点]、ドアを開けた[#「ドアを開けた」に傍点]。つまり、それらの事実を帰納させて煮詰めれば、サムターン錠の摘みの高さと[#「サムターン錠の摘みの高さと」に傍点]、藁人形の高さとは[#「藁人形の高さとは」に傍点]、ほとんど同一だったということになる[#「ほとんど同一だったということになる」に傍点]。捜査資料を紐解き、数字を照らし合わせるまでもない。が、どうして? 藁人形の打ち付けられた高さと、サムターン錠の摘みの高さが一緒だったからと言って……そして、サムターン錠の摘みの丁度正面に、藁人形が配置されているからと言って、そこにはどんな理由が付随するというのだ?
「………………」
行き着くべきではない解答に、行き着く。
辿り着くべきではない解答に、辿り着く。
このままでは。
そんな気がする。
今まで信じていた前提を、根こそぎ引っ繰り返してしまいかねないような、そんな解答に……だが、もう停まることはできない。自分の意志で推理を中断できるような段階ではない。仮に、第四の事件現場で、ドアの正面の壁に、藁人形が残されるのだとすると……これは背理法だ。四体……三体……二体……一体!
「違う、それじゃあ成立しない……じゃあ、そんな事実はありえない……密室トリック……『針と糸』の密室……『針』は第三の事件現場で……じゃあ『糸』は? ドアには、隙間が……隙間、隙間……隙間なく、きっちりと……」
密室状況。
密室とは――被害者を自殺に見せかけるための要素として構成される――が、今回の場合、見せかけるも何も――だがそれが、逆説だったとするなら。自殺に見せかけないための密室だったとしたら[#「自殺に見せかけないための密室だったとしたら」に傍点]――どうだ?
どうなる?
どうする?
「……ああ」
実際――
ここまでの南空ナオミは、竜崎によって、いいように操縦されていたようなものだった。本棚に残されたメッセージ、『q』と『b』の相似については今更繰り返すまでもなく、事件の起こる日付の推理にしたって、その裏付けは竜崎と話している内に形をなしてきた考え方だし、第三の事件現場が時計に見立てられていることは、腕時計が持ち去られていたのだと気付いたところから既に、思考を竜崎に誘導されていた。指輪の話を振って、頭と腕と脚との長さの違いに触れて、壁を行き詰まりに喩《たと》えて……南空ナオミはほとんど、竜崎の操り人形として動いていたに等しい。
「そうだ[#「そうだ」に傍点]……どうして知っていた[#「どうして知っていた」に傍点]……?」
けれど、こと、ここに至って。
南空ナオミは、遂に――自力で、至った。
真相に。
そして、正義に。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ[#「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」に傍点]!」
自己プロデュースもへったくれもない、空気を切り裂くような雄叫びをあげ、南空はドアの前から跳び、飛びつくように、拳銃と手錠へと手を伸ばした! ひっつかみ、そして、すぐさま踵《きびす》を返す。落としておいたサムターン錠を開け、そのままの勢いで、1313号室を飛び出した。
エレベーター。
いや、待っている時間はない、非常階段。
事前に確認してあるコンドミニアムの構造図を脳裏に思い浮かべながら、廊下を駆け、南空は非常階段を目指す――蹴破るようにドアを開け、階段を三段、四段飛ばしで、駆け下りる。
階下。
九階分の、階下を目指して。
「もう……もう、もう、もう、もう、もうっ! なんでなんでなんでなんで……こんなこと、ありえないっ! あまりにも――あからさま過ぎる[#「あからさま過ぎる」に傍点]じゃないか!」
なんて、歯がゆい。
事実というのは、もっと気持ちのいいものじゃないのか? 真実を喝破したとき、人はもっと、爽やかな気分になるはずじゃないのか? これ[#「これ」に傍点]が、こういうの[#「こういうの」に傍点]がそうだと言うのなら――
ありとあらゆる事件を解決してきたという触れ込みの、世紀の名探偵は、どれほどの質量の重荷を、背負っているということになるのだろう。謎を解き続けることで、どれほどの質量の苦痛を、味わい続けているというのだろう――今まで、そして、これからも。
酷《ひど》い猫背になってしまうくらいに、重く。
膨大な糖分を欲するほど、苦い。
勢い余って一フロア行き過ぎそうになって、慌ててブレーキ。一瞬だけ、呼吸を整えるために時間を使って、それからドアを開け、そこが四階であることをもう一度、確かめる。どちらに行けばいい。右? 左? このコンドミニアムは途中でねじれるような構造になっているので、十三階とは廊下の方向から違う……417号室が右に見え、その向こうが418号室だから、こっちだ!
「きゃああっ!」
悲鳴が聞こえた。
一瞬肝が冷えたが、それは女性の悲鳴だった。振り返ると、どうやらたまたま廊下に出てきたコンドミニアムの住人が、南空が、右手に裸の状態で拳銃を持っているのを見て、あげた悲鳴のようだった。まぎらわしい! 南空はその住人から逃げるように、後ろ足を踏み切った。
404号室に向けて。
「り――竜崎」
次の角を右に折れ、到達する。
玄関に鍵はかかっていなかった。踏み込む。南空がいた1313号室は2LDKだったが、この部屋は3LDK。部屋が一つ多い。どの部屋だ? 考えている時間はない――近いところから確かめるしかない。一つ目の部屋、外れ、中には誰もいない。二つ目の部屋――ドアが開かない。この感覚は、サムターン錠!
「竜崎さん! 竜崎、竜崎!」
ノックをする――いや、ノックなんて生易《なまやさ》しいものじゃない、ドアを叩き壊そうとしているような、激しい殴打。しかし、頑丈な造りのようで、扉はまるでびくともしない。
中から、返事もない。
竜崎の返事はない。
「ふっ!」
ノブの辺りを、後ろ回し気味に、かかとで蹴る。殴打よりはまだ手ごたえがあったが、しかし、それでも簡単に壊せそうな扉ではない。もう一撃だけ、同じ蹴りを同じ箇所に決めたが、結論は同じだった。
南空は――拳銃を構える。
インフィニティ。
装弾数は七発プラス一発、四十五口径。
照準を、鍵の部分に合わせて。
「|引き金を《ト リ ガ ー 》、|引く《プ ル 》!」
一発、二発と――撃ち込んだ。
サムターン錠は、ノブごと吹っ飛んだ。南空は続けざまに、体当たり気味にドアを内側へと開ける――まず、視界に飛び込んできたのは、藁人形だった。壁に打ち付けられた――ドアの正面に打ち付けられた、藁人形。
その、まず、の次には。
入り口からは死角になる位置で[#「入り口からは死角になる位置で」に傍点]、火達磨になっている人間の姿が[#「火達磨になっている人間の姿が」に傍点]――眼に入った[#「眼に入った」に傍点]。燃え盛る炎の中で[#「燃え盛る炎の中で」に傍点]、悶え苦しんでいるかのように[#「悶え苦しんでいるかのように」に傍点]――ばたばたと[#「ばたばたと」に傍点]、のた打ち回っている[#「のた打ち回っている」に傍点]。
竜崎。
それは、竜崎ルエだった。
火の内に――彼の眼が見えた。
「りゅ――竜崎さん!」
眼もくらむような圧巻の熱気。
あちこちに延焼が広がっている。
焼けた高温の空気が、南空の肌を襲う。
この匂い[#「この匂い」に傍点]――ガソリンか[#「ガソリンか」に傍点]!
絞殺、撲殺、刺殺――最後を飾るのは焼殺!
スプリンクラーがあったはず、と、天井を見るが、当たり前のように、それは破壊されていた。機能を果たしていない。スプリンクラーだけじゃなく、警報装置もだ。南空は狼狽《ろうばい》と動揺を押し殺し、404号室から、再度廊下に飛び出す。そして来た道を戻る。ここに来る途中、どこかで消火器を見た、多分、すぐ、そこに――あった! 持ち上げ、抱えて、取って返す。消火器の扱い方の訓練は受けている、本体に貼られているラベルを、いちいち読むまでもない。
ホースの先を炎のかたまり、赤々と燃える竜崎の身体に向けて、強くハンドルを握る。白煙が噴き出し、部屋中が真っ白に染まった――思ったよりも強かったガス噴出の勢いに、バランスを失い、後ろに飛ばされそうになったが、何とか堪えて、ホースを竜崎から逸《そ》らさないように――
実際、どれくらい時間がかかったのだろう。
十秒か、数十秒か。
しかし、南空は、完全に消火するまでに、今日が終わってしまうんじゃないかというような、そんな感覚を味わった。
消火器が空になって――火は消えた。
部屋中を満たした白煙が、徐々に落ち着いていく。
そして目の前には――黒こげの人体。……違う、黒こげというのは刺激の少ない、円《まろ》やかな言い方だ。恐らくそれは、赤黒い肉塊と表現するのが、一番、現実に近い。中までしっかりと火が通っていそうだった。
ガソリンの匂いに混じって、皮膚や髪の毛が焼けた、酸鼻《さんぴ 》極まりない匂いがする。南空は思わず鼻を押さえてしまった。窓を開けて換気を――いや駄目だ、バックファイアの恐れがある。激しく動いたら、それで彼の身体が崩れ落ちてしまうんじゃないかと恐れているかのような、そんなゆっくりとした歩調で、南空は竜崎に近付く。丸く縮まるようにして、仰向け――仰向けになっている彼のそばにしゃがみ込み、
「竜崎さん」
と、声をかけた。
返事がない。
ただの屍《しかばね》なのか?
「竜崎さん!」
「あ……あ、う」
「……竜崎さん」
生きている。
生きて、は、いる。
全身火傷、すぐに本格的な治療が必要な危険な状態ではあるだろうが、とりあえずは安心したそのとき、後ろで物音がしたので、振り返った。人がいた。さっき廊下で、南空の拳銃を見て悲鳴をあげた、このマンションの住人だった。銃声や、消火器の音を聞いて、おっかなびっくりながら、様子を見に来たというところらしい。
「な、何かあったんですか」
そう言う。
それを言うならむしろ、何があったんですか、だ――と思いながら、南空は、
「FBIです」
と、名乗った。
FBIです、と。
自らの所属を――名乗った。
「警察と、消防と、救急を、全部まとめて、呼んでください」
彼女はきょとんとした表情を見せ、それから、「わ、わかりました」と、404号室から、出て行く。……ひょっとしたら、存外、あれがLが配置したという、泥棒だか詐欺師だかの人なのかもしれない、と南空は思ったが、そんなことは、今は後回しだった。
竜崎の身体を振り向く。
赤黒い竜崎の身体を、振り向く。
そして、ゆっくりと、まだ熱をたっぷりと残す、その手首をつかんだ。脈拍の確認……相当乱れていて、しかも、かなり弱い。これじゃあ、病院まで持つかどうか……いや、救急車が来るまで持つかどうかすら……助からないかもしれない。
だとすれば。
言っておかなければならないことがある。
やっておかなければならないことがある。
「竜崎ルエ――」
つかんだ手首に。
南空はそのまま、手錠をかけた。
「ビリーヴ・ブライズメイド、クオーター・クイーン、バックヤード・ボトムスラッシュ、以上三人に対する殺人容疑で、あなたの身柄を拘束します。あなたには黙秘権がありません、あなたには弁護士を呼ぶ権利がありません、あなたには裁判を受ける権利がありません」
● ●
ロサンゼルスBB連続殺人事件の犯人、竜崎ルエことビヨンド・バースデイが、逮捕された。
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困ったときの解決編。
記録《ノ ー ト》の残り容量も少なくなってきたので、要点だけまとめて説明しよう。最早《も はや》ここまでくれば、僕達の尊敬すべき偉大なる先輩、あるいは僕個人にしてみれば参考にすべき先駆者、B、B・B、ビヨンド・バースデイにとって、殺人が目的ではなく手段であったことを繰り返すような段階ではないが、では一体何が目的だったのかと言えば、それもまた、繰り返すまでもなく、自分自身のコピー元、世紀の名探偵Lへの挑戦である。
勝ち負けの問題。
勝負。
だとすれば、この場合、何をもってBの勝ち、何をもってLの負けとするのかという基準を設けなければならない。普通の探偵合戦なら、先に事件を解決した方の勝ちだろう。あるいは、Lと殺人鬼キラとの勝負を持ち出して言うのなら、あれは、キラをキラだと立証できればLの勝ちだったし、そのキラがLを殺した以上、Lの負けだったという他ない。ならばBとLの場合はどうか――ビヨンド・バースデイは、この疑問に対し、こう考えた。
ありとあらゆる難事件を解決してきたというLに[#「ありとあらゆる難事件を解決してきたというLに」に傍点]、解決できない難事件を提供できれば[#「解決できない難事件を提供できれば」に傍点]、それがLに対するBの勝利だと[#「それがLに対するBの勝利だと」に傍点]。
それがロサンゼルスBB連続殺人事件である。
自分が動けば、ワイミーズハウスやワタリから、Lにその報告が行くのはわかっていた、それを防ぐ手立てを講じようともしなかった。どの時点でLが動くのかまでは推測に頼るしかなかったが、その点については、どのパターンにも対応できるように、周到に準備していた。ビヨンド・バースデイは周到で、神経質だった――実際にLが動いたのは第三の事件が起きた直後の、八月十四日。ベストとはいえないが、悪くないタイミングだった。
無論、Lが自分で動くわけがない、手頃な手駒を手際よく使ってくるはずだった――それも少人数、多くて三人、予想で二人、運がよければ一人。ここでは、ビヨンド・バースデイは運がよかった。持ち前の死神の目で、すぐにその手駒の名前は判明する――南空《み そら》ナオミ。休職中の、FBI捜査官。
ただし、大切なのは、彼女はあくまでLの手先であって、L本人とは違うということだ。ビヨンド・バースデイは南空ナオミと勝負をしているのではない、勝ち負けを競っているのは、その後ろに見え隠れする存在、Lなのだ。
だから。
竜崎《りゅうざき》ルエを名乗り、Bは南空ナオミに近付いた。
竜崎ルエ――L・L。
ワイミーズハウスの者にとって、最高位のアルファベットであるLを名乗るのは、全員の最終目標みたいなものなのだが――ビヨンド・バースデイは、この事件でこそ、ここぞとばかりに、そう名乗ったということだ。南空ナオミでも知っている、勝手にLを名乗った探偵達の末路を、ワイミーズハウス出身のビヨンド・バースデイが知らないわけがないので、つまりこれは、彼の決意の堅さを表わす証左の一つである。生き残るつもりなんて最初からなかったという、彼の決意の堅さ。覚悟の証《あかし》。
そして、竜崎となった彼は、とぼけた振りをしつつ、南空ナオミを見張りながら、折に触れて巧みに誘導し、第一の事件から第三の事件にまで、撒き散らしておいた様々な手がかり、メッセージを、彼女に読み解かせた。被害者の遺族をうまく言いくるめ事件解決の依頼を受ける際にした苦労に比べれば、南空を誘導することは容易《た や す》かったと言っていい。その間、彼女がLの代理足りうるかどうかを何度も何度も、色んなやり方で確かめながら――
捜査中、南空は何度もLに連絡をとっていた。どうやらLからは、竜崎ルエという名の私立探偵を泳がしておくように、指示が出ていたようだ。それは予想通り――あのクロスワードパズルをロス市警本部に送ったのは、そういう伏線でもあったのだ。Lでなければ手に入れられないような警察内の機密を[#「Lでなければ手に入れられないような警察内の機密を」に傍点]、わずか一部とは言え所有している人間が現れれば、いかに世紀の名探偵といえど、軽はずみな真似、いい加減な対処はできないはず――事実は、ただ単に事件の犯人だったからこそ、竜崎はあれを持っていたというだけのことなのだが。
南空は予想以上によく働いてくれた。明に暗に表に裏に、露骨にもさりげない竜崎の助言があったからとは言え、並の捜査官では、あそこまでの働きは期待できなかっただろう。欲を言えばきりがない。第三の事件までは、むしろ解いてもらわなければ困るようなトリックばかりを仕掛けておいたのだが、しかしいくらなんでも、竜崎として、全てのメッセージを読み解くわけにはいかなかったのだ――Lが南空をBの矢面に立てたように、Bも南空をLの矢面に立てなければならなかった。竜崎ルエはあくまでも怪しい私立探偵、不審人物であって、Lから必要以上に注目されるわけにはいかなかったのだ。第三の事件までは、ビヨンド・バースデイにとっては、本番、メインイベントである第四の事件を起こすまでの、仄《ほの》めかしに過ぎなかったのだから。南空は最初、カムフラージュという言葉を使ったが、カムフラージュと言うのなら、第三の事件までのすべてが、第四の事件のための、カムフラージュだったのである。
第三の事件で、死体を時計に見立てて示した第四の事件現場――バレーエリアのパサデナの大型集合住宅には、二人のB・Bがいた。それを調べ上げるのは、死神の目の使い手であるBにとっては難しいことではない――とは言え、さすがに、その条件に合致するシチュエーションを探すのが、容易かったとまでは言わないが。1313号室、ブラックベリー・ブラウン。404号室、ブルースハープ・ベビースプリット。Lが使ってきた手駒が南空ナオミ一人だったので、手駒が複数だった場合に想定していた手段を採る手間が省けたのは、助かった。捜査員が二人だった場合は部屋とB・Bが三つある状況を用意すればいいというほど、ことは単純ではなかったのだから。
南空を1313号室、自分は404号室へ。これは別にどちらの持ち場がどちらの部屋でもよかった。たまたま南空が女性だったので、それらしい理由をつけて、南空に1313号室に回ってもらっただけの話だ。
そして竜崎は自殺をはかった。
自らサムターン錠を下ろし、藁《わら》人形を一体、壁に打ち付け、スプリンクラーを壊し、警報を切って、指紋の処理をしてから、あらかじめ準備しておいたガソリンを浴びて、自分の身体に、火をつけた。
第四の被害者に、彼は自分自身を選んだのだ。ビヨンド・バースデイという、自分自身のB・Bを。竜崎ルエが偽名だということくらい、Lが調べるまでもなく、FBI捜査官の南空が手を尽くせばすぐに判明することだろうし、そこから更に手を尽くせば、竜崎ルエの本名がビヨンド・バースデイというB・Bであることまで、わかるだろう。第四の被害者としては申し分ない――どころか、謎の私立探偵の最期としては、相応《ふ さ わ》し過ぎるくらいである。
焼身、焼死。
当然、顔面も指紋も焼ける――南空の前に出るときは必ず化粧その他で変装をしていたし、そもそも写真を残すようなヘマはしていないが、たとえワイミーズハウスの人間が、竜崎ルエことビヨンド・バースデイの死体をチェックしたところで、それが院出身のBであるとは、わかるはずもない。ビヨンド・バースデイとBとを繋ぐ糸など、一本たりとも存在しないのだ。身元を完全に隠すつもりはないが(ビヨンド・バースデイ、B・Bであることは露見しないと困る)、自分がワイミーズハウスのBであるということは、隠さなければならなかった。だから、そこまで、殺し方のパターンを、第一の事件では絞殺、第二の事件では撲殺、第三の事件では刺殺というように、手を変え品を変えしてきたのは、実験的、興味的な意味合いもなくはなかったが、究極的には、四番目に焼殺がきても不自然でないように[#「四番目に焼殺がきても不自然でないように」に傍点]という理由だったのだ。副次的なところでは、いかなビヨンド・バースデイと言えど、自分の死後に自分の死体を傷つけることなどできるわけがないので、三人目まではあった死体損壊が、四人目にはないという齟齬《そ ご 》を、隠蔽できるという意味もあった。焼死体では、死体損壊があったかなかったかの、正確な判断を下すことは難しいのである。
第四の事件現場には、言うまでもなく、メッセージなど、何も残さない。残す意味などない――決して解決できない事件[#「決して解決できない事件」に傍点]として、このロサンゼルスBB連続殺人事件を、BはLに提供したのだから。
解決できない。
というより、明確な解答なんて最初から用意されていなかった――犯人は被害者を装って自殺、追うべき犯人はもういないし、手がかりも残していない。第一の事件、第二の事件、第三の事件と、難易度を等比数列的に上げていったのはそのためだ。特に第三の事件では、最終的に解きほぐせない曖昧な部分を、故意に幾つか残した――午前、午後の問題、そして、1313号室、404号室の問題。だから、第四の事件現場で何もメッセージを発見できなかったところで、南空は、そしてLは、自分の不甲斐なさのせいだと思うだろう。あるはずなのにないもの[#「あるはずなのにないもの」に傍点]――しかし、あるものを見つけるのならまだしも、ないものを見つけるのは難しい。ないものが[#「ないものが」に傍点]、元々ないものだとしたら[#「元々ないものだとしたら」に傍点]、見つけられるわけがないのだから[#「見つけられるわけがないのだから」に傍点]。
しかし、それをどう証明する?
解答のない問題には、解答不能という解答を出さなければならないのに――それまでに起こした三つの事件の公正さが、その解答の邪魔をする。阻害する。ないものを見つけられないLは[#「ないものを見つけられないLは」に傍点]、いないBを探し続ける[#「いないBを探し続ける」に傍点]。一体ずつ減る藁人形のメタファーが、最初から事件の数を四つに限っているので、事件が続かないことがイコールで犯人の死亡と結び付けられることはない。既にこの世にいない、Bの幻影を、Lは追い続けることになる。既にこの世にいない、Bの幻影に、Lは追われ続けることになる。Lはこれから一生、Bの影に怯えて暮らすことになる。
Lは負け。
Bは勝つ。
Bが攻めで、Lが受け――LはBにひれ伏す。
かくしてコピーがオリジナルを凌駕《りょうが》する――
はずだった[#「はずだった」に傍点]。
現実がそうはならなかったのは、そう、気が遠くなるほどの年月をかけて用意周到に準備したこの犯罪が成就せず、影も形もなく破綻《は たん》してしまったのは、彼がLのことばかりを意識していて、その手駒である南空ナオミのことを、最後の最後まで、ただの手駒としてしか、認識していなかったことに原因があるだろう。背後のLにばかり気を取られ、手前の南空が、彼の視界に入っていなかった。その優秀さを評価しているようなことを言いながらも、結局のところ、彼は南空のことを、軽く見過ぎていたのだ。予想以上によく働いてくれた[#「予想以上によく働いてくれた」に傍点]なんて、その言い方がもう、大体、傲慢じゃないか。僕に言わせれば、竜崎の助言がなくても、彼女は案外、同じくらいの速度で、メッセージを読み解いていたという可能性だって、十分にある。
南空ナオミ。
やはりとっかかりは、密室だった。密室状況。竜崎が何度も何度も繰り返して、考える必要はない、合鍵でも使ったんだろうと、南空に対して言っていたのは、その点をつかれるとまずいと、彼自身、思っていたからだ。自分の立てたプロットの、どこに脆弱性《ぜいじゃくせい》があるかは、ビヨンド・バースデイも、それなりに心得てはいたらしい。そうはいっても、それは第四の事件が起きてしまえば見えなくなってしまう脆弱性であり、それまで待てば、それまで持てば、Bの勝ちではあったのだ。第四の事件が起こる水際のぎりぎりで、南空がそれに気付いたのは、僥倖《ぎょうこう》だったという他ない。
第一の事件でも第二の事件でも第三の事件でも、藁人形がドアの正面にあったこと、サムターン錠の摘みと藁人形の高さが同じくらいだった事実に気付いたこと、重要なのはこの二点だ。藁人形に関しては、ぬいぐるみの数と足し合わせるという第三の事件で、それらしい理由付けがされたわけだが、それはあくまでそれらしさの演出というだけのことで、その役割の本分ではなかった。また、被害者のメタファーというのも、メインの中のメインということではなかったのだ。
具体的に、今回の事件における密室の構成方法を記そう。それは、糸を利用した密室である。『針と糸』の『糸』だ。ドアの隙間に糸を通して、それをサムターン錠の摘みに引っ掛け、そして引っ張れば、摘みが回転して錠が落ちるのではないかという推理を南空が披露して、竜崎がそれを否定した場面は、実はかなり際どかった。惜しいところではあったのだ。だが、そのやり方では、力の方向は、摘みではなくドア本体に働いて、内開きのドアを外向きに引っ張るだけの結果にしかならないというのは、竜崎が言った通りである。
だけど、惜しかった。
第四の事件現場で、ドアの前にしゃがんで、自分の視点を低くした、腰の高さにした南空は、向かいの壁を見て――そこに、架空の藁人形を、想定した。壁に打ち付けられた藁人形。……しかし、壁に打ち付けられた藁人形? そうだ、藁人形が空中に浮いているわけがない、それこそオカルト、それこそホラーだ。壁に打ち付けられた[#「壁に打ち付けられた」に傍点]――それでは、打ち付けるための道具立て[#「打ち付けるための道具立て」に傍点]が、そこにはあったはずである。それまでの現場にあった、壁の穴[#「壁の穴」に傍点]――あるいは、捜査資料にあった藁人形の写真を見るまでもなく、日本人である南空ナオミにしてみれば、文化として、知識として、知っている。
藁人形を打ち付けるのは[#「藁人形を打ち付けるのは」に傍点]、釘だ[#「釘だ」に傍点]。
五寸釘。
そして、犯人にとって大事なのは、藁人形ではなく、その釘の方だった。言ってしまえば、藁人形は大袈裟《おおげ さ 》なミスディレクションでしかなかったのである。釘の形――釘の頭。ドアの隙間を通した糸を[#「ドアの隙間を通した糸を」に傍点]、ドアの正面にある藁人形を打った釘の頭に[#「ドアの正面にある藁人形を打った釘の頭に」に傍点]、くるっと巻いて[#「くるっと巻いて」に傍点]、引っ掛ける[#「引っ掛ける」に傍点]。そしてそれから[#「そしてそれから」に傍点]、側面の壁[#「側面の壁」に傍点]――ドアのある壁から見て横側の壁にある藁人形を打った釘へと糸を伸ばし[#「ドアのある壁から見て横側の壁にある藁人形を打った釘へと糸を伸ばし」に傍点]、その頭に[#「その頭に」に傍点]、同じように引っ掛ける[#「同じように引っ掛ける」に傍点]。そしてそれを更に伸ばし[#「そしてそれを更に伸ばし」に傍点]――ドアのある座標へと戻してきて[#「ドアのある座標へと戻してきて」に傍点]、藁人形と同じ高さにある[#「藁人形と同じ高さにある」に傍点]、サムターン錠の摘みに[#「サムターン錠の摘みに」に傍点]、引っ掛ける[#「引っ掛ける」に傍点]。無論、それはわかりやすく説明した図をそのまま文章にしただけであって、実際の手順はそれと逆、サムターン錠の摘み、側面の壁、正面の壁、そしてドアに戻して、隙間を通すということになるが、……要するに、絵で書けば一目瞭然なのだが、現場の部屋の中に、糸で大きな三角形を作るイメージになる。その状態で[#「その状態で」に傍点]、ドアの隙間を通した糸を引っ張れば[#「ドアの隙間を通した糸を引っ張れば」に傍点]――
サムターン錠の摘みは、回転する。
がちゃり。
一言で言えば、釘の頭を滑車代わりにして[#「釘の頭を滑車代わりにして」に傍点]、力のベクトルを斜め向き[#「斜め向き」に傍点]に変えるということだ。より正確に言うならば、藁人形はドアの正面でもサムターン錠の摘みの正面でもなく、ドアの隙間の正面に[#「ドアの隙間の正面に」に傍点]、セッティングされていたということだったのである。この場合、糸を引く力が、力学的にドアに分散することはほとんどない。糸はドアに接しているのではなく、あくまでドアの隙間を通っているだけなのだ。そして直接、正面の藁人形の釘に、巻きついている――引っ張る力は、そこに作用する。あとは、釘の頭を滑車に、力の方向は二回変化され、サムターン錠へと繋がるというわけだ。サムターン錠を落とした後、当然、その糸を回収しなければならないから、十分な長さの糸を真ん中で折りたたみ、二重に重ねた状態にしてトリックに使用する[#「二重に重ねた状態にしてトリックに使用する」に傍点]という応用が必要であると説明するのは、ここまでくればもうついでのようなものだろう。錠が落ちたのを確認したあと、二重にした糸の端っこの片方を離し、もう片方を引っ張れば、糸は無事、回収できる。途中で切れてしまうような、弱い糸を使わなければ、誰にでも実行可能なトリックである。暇なら自分の部屋で試して遊べばいい。壁に釘を打ち込むことが許される環境だったらね。
まあ、うだうだ書き連ねたが、こんな密室トリックなんて本当はどうでもいいんだ。いや、どうでもいいというのは言い過ぎだが、トリック自体に注目するのは、ことの本質を若干、外しているだろう。大切なのは、この密室トリックを実行するには、藁人形が二つ[#「藁人形が二つ」に傍点]――釘の頭[#「釘の頭」に傍点]、滑車が二つ必要だということなのだから[#「滑車が二つ必要だということなのだから」に傍点]。二つ以上、と言うべきか。正面の壁に一つ[#「正面の壁に一つ」に傍点]、側面の壁に一つ[#「側面の壁に一つ」に傍点]、釘の頭が必要なのである[#「釘の頭が必要なのである」に傍点]。だから、四体、三体、二体――第三の現場まではこの密室トリックは成立するが、第四の現場で[#「第四の現場で」に傍点]、藁人形が一体になったとき[#「藁人形が一体になったとき」に傍点]、このトリックは使用することができないのだ[#「このトリックは使用することができないのだ」に傍点]。滑車の数がドアの正面に一つでは、摘みを回すことができない。糸は三角形を構成せず、行って帰ってくるだけである。直線だ。
では、第四の事件ではどうやって密室を構成したのか――それは、既に言ったよう、被害者である竜崎ルエが、自分の手で、サムターン錠を回したのだ。だがそれは、第四の事件が起きるよりも先に密室トリックを解明していたからこそ言えることであってあって[#あってあって?]、そうでなければ、藁人形が一つでも密室状況は構成される[#「藁人形が一つでも密室状況は構成される」に傍点]という事実には反した情報が、ただただ、捜査資料に組み込まれるだけである。密室の脆弱性は、そこで修正される――第四の事件まで、密室状況が謎であり続けていれば、修正される予定だったのだ。
南空ナオミはぎりぎり間に合った。
期せずして竜崎自身が言っていた、『何のために[#「何のために」に傍点]』がそれである。どうして必要もないのに密室を作ったか[#「どうして必要もないのに密室を作ったか」に傍点]。その疑問。遊び、余興――パズル。そもそも密室とは、被害者を自殺に見せかけるという要素……だが、この場合は逆で、第四の事件を自殺に見せかけないための密室だった[#「第四の事件を自殺に見せかけないための密室だった」に傍点]。
解決できない謎を、Lに提供するために。
解決できなくとも、解答がないわけじゃない。
解答不能が、解答。
竜崎のシナリオでは、第四の事件は、定時連絡がとれなくなった彼の下に駆けつけた南空が、正面の藁人形と、焼死したビヨンド・バースデイを見つけるという展開になるはずだった――その時点で南空が密室トリックに気付いてなかったなら、全てはBの思惑通り、目論見《もくろ み 》通りだっただろう。藁人形一つでも密室が構成されるという前提が与えられてしまえば[#「藁人形一つでも密室が構成されるという前提が与えられてしまえば」に傍点]、もはや『三角形の糸』のトリックは思いつきようがない。
藁人形が地元警察に回収されていなければ――事件現場の壁に釘が残っていれば、南空はもっと早く真相に辿り着けていただろう。ただし、それはアンラッキーではなく、ビヨンド・バースデイの計画通りだったと言える。最初に捜査を行う地元警察のことなど、彼は最初から問題にしていない。Lの手駒が現場を訪れる頃には、藁人形と釘の実物は、現場から撤去されている、と、ビヨンド・バースデイは冷徹に読んでいた。残っていたとしても第三の現場だけ――その場合は、ぬいぐるみと足し合わせて部屋を文字盤に見立てるという例の理由づけで十分に通る。だから、ビヨンド・バースデイにとって計算通りでなかったのは、南空ナオミの捜査能力だった。
いや、能力じゃない。
思想か。
ただし、密室トリックに気付いたところで、つまり、密室の構成が第三の事件現場までしか不可能であることに気付いたところで――それだけでは、南空ナオミは確信に至れなかった。むしろ第四の事件では犯人はどうやって密室を構成するつもりなのかという方向に、彼女の考えは傾きかけた。あるいは、この推理自体が的外れなのか、と。すぐさま、竜崎に対して疑いを向けることはできなかったのである。それはそうだ、彼女はLとBとの因縁を詳しいところまで聞いていない――だから、竜崎がそんなこと[#「そんなこと」に傍点]をする理由に、即座には思い至れない。怪しい怪しいとは言え、南空の中で、竜崎への疑惑は具体的な形を作っていなかったのだ。第四の事件は自殺によって起こると考えると、メッセージで示された現場候補が二つで、そこで犯人を待ち伏せする人間が二人、そしてその内一人が自分である以上、もう一人の人間が犯人だと、消去法ではそう考えるしかないのだが、理論で物事を片付けてしまう消去法で犯人を特定できるほど、南空ナオミは数学的な推理の使いこなせる人間ではない。
しかし、すんでのところで、気付いた。
彼は[#「彼は」に傍点]、知っていた[#「知っていた」に傍点]。
南空ナオミがカポエラ使いであることを[#「南空ナオミがカポエラ使いであることを」に傍点]。
今回の事件で、それを知っている者は――南空本人が口頭でそう教えた相手であるところのLと、ダウンタウンの裏通りで南空を襲った襲撃者[#「ダウンタウンの裏通りで南空を襲った襲撃者」に傍点]――即ちこの事件の犯人だけだ。あのとき南空は、確かに、カポエラの技を使った。カポエラの蹴りで、襲撃者を撃退した。竜崎がイコールでLであるなんて荒唐無稽な仮定が成り立たない以上[#「竜崎がイコールでLであるなんて荒唐無稽な仮定が成り立たない以上」に傍点]、あの襲撃者の正体こそが竜崎だ[#「あの襲撃者の正体こそが竜崎だ」に傍点]と、そう考えたときに、南空には真相が見通せたのだった。
失敗。
ビヨンド・バースデイ、竜崎ルエのたった一つの失敗。決してミスをしないと言われた犯人の、たった一つの失敗。南空ナオミのことをもう少しでも高く評価していたなら、あんな風な、口を滑らせたがごとき不用意な発言は出てこなかっただろうが、そんなことを言っても後の祭りだ。天然生来の死神の目なんて嘯《うそぶ》いたところで、人を見る眼はなかったわけだ……とは、結論としてはちょっと出来過ぎか。うまいこと言ったからといって、そんなことは、何の救いにもならない。
実際のところ、Lがことの真相をどの時点でどこまで把握していたかというのは今となっては永遠の謎だ。最初から全てをわかった上で南空を動かしていたのかもしれないし、最後まで何もわからず南空に助けられたのかもしれない。どうとでも考えられそうなところではあるが、まあ、そんな野暮なことを考えるのはよそう。Lはそんな低レベルな次元で語れるような存在ではない。はっきりしていることが一つあれば、それでいい。
Bは南空ナオミに負けた。
即ち、Lにも負けた。
一回の勝負で二つの負けを経験した上、シナリオ通りに死ぬこともできず、ビヨンド・バースデイは警察病院に収容され、かくして七月三十一日から……いや、最初の予告状がロス市警に届けられた七月二十二日から数えれば、一か月にわたって繰り広げられた殺人事件は、幕を下ろした。余談だが、Bがガソリンを浴びて、自分に火をつけたのは、南空ナオミが真相に到達するのと、ほぼ同時だったそうだ。南空が404号室に飛び込むまで、一分はかかっている。普通なら、南空の到着を待たずに、呼吸困難で死んでいてもおかしくなかった。病院への搬送も、救急車も、間に合わないかもしれなかった。だが、死ななかった。彼は死ななかった。彼の身体は彼が思っていた以上に頑丈で、彼の寿命は彼が思っていた以上に長かった。人を殺すにあたってもっとも難しいことは『人を殺すこと』――自分の寿命が見えてさえいれば、きっとビヨンド・バースデイは、こんなやり方はしなかっただろう。可哀想な、僕達の先輩。完膚なきまでに負けたばかりか、おめおめと生き残って、生き恥を晒《さら》してしまって……死にたかっただろうに。
お悔やみ申し上げます、B先輩。
そんなところで、ロサンゼルスBB連続殺人事件の顛末に関するこの記述《ノ ー ト》はおしまいだ。もしも容量が余っていれば、このまま、僕がLから聞いた三つの事件の内の残り二つ――ワイミーズハウスの初代Xから初代Zまでの|そそるべき子供達《ラ ス ト ア ル フ ァ ベ ッ ト》がゲストとして参戦する、世界三大探偵による探偵合戦の舞台、ご存知欧州バイオテロ事件、そして世界一の発明家キルシュ・ワイミーことワタリと、当時推定八歳のLとの出会い――世紀の名探偵L誕生のきっかけとなった、第三次世界大戦をすんでのところで食い止めたウィンチェスター爆弾魔事件についての、詳細記述を続けようと思っていたのだが、それだけの容量は、どう楽観的に見積もっても、残っていないようだ。やむをえない、それらについてはまたファイルを改めるとして、この手記《ノ ー ト》は、我らが南空ナオミの後日談を描写することによって、締めくくるとしよう。
色々あって、南空の復職は九月を待つことになった。ビヨンド・バースデイの逮捕は、南空が考えていた以上の大手柄として受け入れられ、休職中の独断行動についてはほとんど問題にされなかった。職場で浮いているとは言っても、彼女の優秀さは誰もが認めるところだったから――とは、表向きの話。実際は、Lがほうぼうに手を回してくれたのだろうということは、想像に難《かた》くなかった。更に現実的な話をすれば、八月の末に、南空の銀行口座に記載された、聞いたこともない企業から振り込まれた金額もまた、誰からのものだったのか、考えるまでもない。
九月一日、自宅から徒歩で、最寄の地下鉄の駅へと向かう。オフィスに着けば、直属の上司から拳銃と手錠と、バッヂを受け取ることになるだろう。それを考えると、気恥ずかしいような、緊張してしまうような、とにかく複雑な心境だったが、とりあえずそれで、何もかも元通りだった。
犯人逮捕後、一度だけ、Lから連絡があった。事件解決に協力したことについてのお礼と、ちょっとだけ、事件のバックグラウンドのことを、聞いた。BがLの後継者候補だったこと、そしてその思いが余って、逸脱してしまったこと。それでようやく、理解不能だった竜崎の行動原理に説明がついた気がしたが、しかしそれはどうも、気のせいのような感じもした。要は、あの殺人事件は、Lに対する挑戦で、人を殺したのも、自分で死のうとしたのも、全部そのためだったということらしいのだが……人を殺すだけなら異常の一言で片がつくとして、そのために自分が死んで、どうするというのだろう。ことに及ぶ前に、誰かが止めてあげられたんじゃないかと思うが、そんなにも彼は、Lに対して、必死だったのだろうか。他人の命同様、自らの命すらを、道具立てのただ一つとして使えるくらい……。Lを超えるということは、ビヨンド・バースデイにとって、自分の命よりも大切なことだったのだろうか。だとすれば、彼は、必死ではなく、決死だったのだ。止められるわけもない。
それが、彼の覚悟。
だとすれば、なんて――強い。
強い人だったんだろう。
神経質そうに親指の爪を齧《かじ》っていた、彼の姿を思い出しながら、南空はそんな風に思う。
強い。
南空には、真似できないくらい、強い――
「……ん?」
駅の入り口が見えてきたところで、その手前で所在なさげに、気もそぞろな風に突っ立っている、一人の男がいるのを、南空はとらえた。
精悍《せいかん》な顔つきの青年だった。
化粧で隈取《くまど 》りをしているかのようにくっきりと、眼の下に深い隈がある。まるで何日も――いや、生まれてこの方一度も眠ったことがないかのような、そんな有様だ。さながらそれは、正義の名の下、ありとあらゆる事件を解決するために、考えるべきことがあまりにも多過ぎて、だから一睡もしていないかのごとく――常日頃から計り知れないほどの重圧との戦闘を日常的に、そして恒久的に、続けているかのごとく。
長袖の白いシャツにブルージーンズ。
くたびれたスニーカーは、裸足に直接履いている。
「…………?」
なんだか――奇妙な既視感をおぼえる。
どこかで見たような、どこかで会ったような。
そう言えば、雰囲気がどことなく、竜崎ルエ……ビヨンド・バースデイに似ているか……? しかし、似ていると言うよりは、それはどちらかと言えば、あっちがコピーでこっちがオリジナルであるかのような……。
「えっと……どこかで」
両腕を広げて地下鉄の入り口をとおせんぼしているわけでもないのだから、無視して通り過ぎることもできそうだったが、なんとなく、導かれるように、声をかけてしまう。
途端、青年は、南空に飛び掛かってきた。
飛び掛かって――というか、抱きついてきた。
「…………っ!? いやっ!」
南空は、咄嗟《とっさ 》に身体をひねって、青年からのハグを振り払い、そのまま反射的に、攻撃に転じた。上半身を低く沈め、そのまま空中で一回転、後ろ足を蠍《さそり》のように跳ね上げ、青年の両肩に、全体重を載せた二つのかかとを、炸裂させる。青年はその一挙二連撃の蹴りをもろに食らってしまい、その衝撃に足元をふらつかせ、地下鉄の駅への階段を、背中から、派手な音と共に、転がり落ちていった。
しまった、やり過ぎた。
痴漢が相手とは言え、と、着地した状態からすぐに立ち上がり、階段を駆け下りる南空。潰された蛙《かえる》みたいに腹ばいに倒れている青年に、
「だ、大丈夫ですか?」
と、訊いた。
「……なるほど」
と、青年は独り言のように呟いた。
「やはり、ビデオで見るのと実際とは、だいぶん違う……しかし、これで大体習得した……」
「は?」
何をわけのわからないことを言っているんだろう。ひょっとして頭を強く打ったのだろうか。なんてことだ、復職のその日から、早速こんなトラブルを抱え込むなんて……。
「あの……立てますか?」
南空は、とりあえず、倒れている青年に向かって手を差し伸べた。青年はその手を、深い隈取りの眼で、じいっと、穴が開くほど見つめてから、
「ありがとうございます」
と、つかんだ。
南空はそのまま、力任せに青年を引き起こす。
「怪我はありませんか? どこか、痛むところとか……」
「大丈夫です。ありがとうございます」
青年は、南空の手をつかんだままで言う。
立ち上がっても、まだ、離そうとしない。
それはまるで、握手をしているかのような風景だった。激しい修羅場を共に潜り抜けた戦友同士が、堅く握手をしているかのような、そんな風景だった。
「あなたは、優しい人ですね」
笑顔のような表情を見せて、そんなことを言ってから、青年はようやっと手を離し、それから、まるで何事もなかったかのように、のたのたと力の抜けた足取りで、地上への階段を、一段一段、ゆっくりと昇って行く。
「あ、ちょ、ちょっと――待ちなさい!」
一瞬、なんとなく見逃してしまいそうになったが、はっと我に返り、南空は慌てて走って階段を昇り、青年に追いつき、その前へと回り込む。FBI捜査官として、痴漢を見逃すわけにはいかない。青年はぬけぬけと、親指をしゃぶっていた。そこに、神経質そうな雰囲気は、まるでない。
「怪我がないようなら、私と一緒に来てください。痴漢は立派な犯罪です。いきなり女性に抱きつくなんて……何を考えているんですか」
「…………」
「黙っていないで答えてください。そういう態度は、あなたの今後にとって、よくありませんよ。あなた、名前は?」
南空ナオミは――そんな風に、青年に名前を訊く。
青年は、それを受けて。
答えた。
「竜崎と呼んでください」
飄々《ひょうひょう》とした口調だったけれど。
それは、誰かを偲《しの》ぶような名乗りだったという。
● ●
なお、逮捕から数えて翌々年、二〇〇四年一月二十一日、カリフォルニア州の刑務所で終身刑に服していたビヨンド・バースデイは、原因不明の心臓麻痺で、その生涯を終えている。
[#改ページ]
あとがき
どうでもいいといえば至極どうでもいい話ではあるんですが、僕は人の名前を憶えるのが苦手でして、何回聞いても、割と簡単に忘れてしまいます。こうなると人の名前を憶えるのが苦手だなんて持って回った表現をするよりも、人の名前を忘れるのが得意だとより積極的に主張した方がよっぽど真実に近いんじゃないかと思われます。ついでに言ってしまうと、僕はものを見失うのも得意です。ついさっきまで使っていたペン、ついさっきまで履いていた靴、果てはついさっきまで読んでいた本まで、あっと言う間に見失います。まああくまで『見失う』であって『失う』わけではなく、すぐに見つかるのですが(つまり、『見失う』のが得意であるのと同時に『見つける』のもまた得意というわけです)、ものと違って人の名前は、忘れたからといってすぐに思い出せるものではありません。全ての記憶はたとえ忘れても脳の中に残っているといいますが、きっと嘘だと思います。少なくとも忘れた名前は完全にリセットされています。で、そういう場合どうするかと言えば、別にどうもしません。そもそも現実の人間と話していて相手の名前を呼びかける機会なんてそうそうないからです。物語と違って現実では相手の名前がわからなくても会話というものは成立するわけで、それは極端な話、名前ではなくその所属や肩書きに関しても言えることでしょう。どこの誰だかわからない、こちらからしてみれば全く知らない、けれどどうやらこれまで何度も会っている感じの、僕を知っているらしい人とお喋りをしたという経験を少なからずしておりますが、結構なんとかなるものです。『あー、でもひょっとしたらこの人も、今、僕のことをうろ覚えで、誰だかわからないままに話を合わせてくれているのかもしれないなあ』なんて考えている内に、話が終わります。とはいえ、一度、本当に初対面の人にそれをやってしまったことがあって、それはかなり落ち込みました。『愛想のいい奴だと思われてしまった! 違う、僕はとても人見知りをするんだ! 根暗なんだ!』と身悶えしましたけれど、後の祭りでした。なんの話かというと、死のノートはいらないから死神の目が欲しいなあという話です。
本書は大場つぐみ・小畑健両先生の人気漫画作品『DEATH NOTE』のノベライゼーションです。ノベライゼーションってどんな感じなんだろうと思っていましたが、書いてみれば大体こんな感じでした。確実に僕の人生を豊かにしてくれたかの名作のノベライゼーションを担当できて、光栄の極みです。個人的にいい刺激になることが多く、とても有意義な仕事だったと思います。当初の予定ではこのノベライゼーション、サブタイトルを『Lにメロメロ!』にしようと思っていたのですが、現場の空気が思ったより真面目だったのでやめました。そんなこんなで『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』でした。
太陽と海と本書に関わってくださった皆様が、どうか幸せでありますように。
[#地付き]西尾維新
[#改ページ]
1981年生まれ。2002年、「クビキリサイクル」で第23回メフィスト賞を受賞し、デビュー。
同作に始まる「戯言シリーズ」等の作品で、若い世代から絶大な支持を集める。
●大場つぐみ(おおば・つぐみ)/小畑健(おばた・たけし)
2003年末より週刊少年ジャンプにて「DEATH NOTE」(原作:大場つぐみ 漫画:小畑 健)を連載、幅広い世代の注目を集める。同作品は2006年6月、11月に実写映画化される。
■初出
DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件 書き下ろし
DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件
2006年8月6日 第1刷発行
著 者 ◎西尾維新
原 作 ◎大場つぐみ 小畑健
装 丁 ◎斉藤昭+山口美幸(Veia)
発行者 ◎堀内丸恵
印刷所 ◎図書印刷株式会社
製本所 ◎加藤製本株式会社
発行所 ◎株式会社集英社
〒101-8050 東京都千代田区一ツ橋2-5-10
TEL03-3230-6297(編集部)3230-6393(販売部)3230・6080(読者係)
C2006 I.NISIO T.OHBA T.OBATA Printed in Japan
ISBN4-08-780439-900093
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平成十八年十一月二十一日 入力 校正 ぴよこ