実力者の条件 この人たちのエッセンス
〈底 本〉文春文庫 昭和六十年十月二十五日刊
(C) Daizou Kusayanagi 2000
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目  次
政界の玉将・田中角栄
“江戸前フーシェ”・川島正次郎
財界の鞍馬天狗・中山素平
財界のマスコミ隊長・鹿内信隆
沖縄の信長・具志堅宗精
偉大なる田舎者・川上哲治
最後の神様・小林秀雄
ザ・マン・黒沢 明
京風“類猿人”・今西錦司
“頭脳産業”のスター・糸川英夫
“空間の魔術師”・丹下健三
音喰い人種・武満 徹
画壇の無欠陥人間・東山魁夷
自由教育の家元・小原国芳
文壇の“国際銘柄”・井上 靖
人物再録の狙いについて――文庫版のためのあとがき
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実力者の条件
この人たちのエッセンス
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政界の玉将・田中角栄

常に“短兵、急を告げる”男
田中角栄の趣味は、競馬・ゴルフ・小唄・将棋と多岐にわたっている。そのいずれにも熱中するが、とりわけ常軌を逸しているのは将棋である。
世の中に麻雀で徹夜をするものは珍しくないが、田中角栄は将棋で徹夜するのである。それも、坂田三吉が京都・南禅寺の勝負で長考したというような、日本の棋史に残る大勝負のためではない。ときにはお抱えの運転手を相手にし、またあるときは選挙区の“家老”とむかいあって、勝てば勝ったでもう一番、敗ければ|口惜《くや》しがってもう一番という、勝負ぶりである。ときには平気で“|二歩《にふ》”を指す。相手が注意すると、「いや、おれの場合は日本将棋連盟が特別に許している」と、扇子をパタパタさせてすましている。その程度の将棋である。選挙の|最中《さいちゆう》に、旅館にひき揚げてきた田中が、例によって将棋盤を持ち出し、片岡甚松(越後交通専務)に一戦を挑んだ。たて続けに三番、敗けた。「よし、もう一番」と口惜しがるところを、周囲のものが「明日は強行軍だから」となだめすかして部屋にひきとらせた。明け方、片岡が起きて田中の部屋をのぞくと、なんと彼は寝床にも入らず、ひとりで将棋を指していたものだ。
そんな角栄を父親の角次が心配して、これも古い友人である中西正光(中西興業社長)に、「角は進むことしか知らぬ男です。すこし、あんたの慎重さを見習うようにいい聞かせて下さい」とたのんでいる。
田中の行動は、レーザー光線のような直進性ばかりではない。迅速である。しょっちゅう、「短兵、急を告げて」いる。若いときからそうだ。市内電車で二停留所のところだと、もうタクシーに乗りたがる。建築事務所をひらいて、設計・工事監督の請負をしていたときも、ほかの事務所なら一カ月かかるところを一週間でやってしまう。製図板の上に一升酒をデンとおいて、二晩くらいぶっとおしで図面を書きあげる。一週間ほどして現場にいって、工事がふつうのスピードですすんでいると、彼はもうむしゃくしゃして、ノコギリを手にするや足場に飛び移り、片っ端から足場の丸太を切り落してしまうのだ。これには職人がおどろいて、昼夜兼行、火事場のようなさわぎで仕事を仕上げるという。
政治家になり大臣を歴任しても、この「短兵、急を告げる」動作はかわらない。いや、さらに磨きがかかったと見る向きもある。大蔵大臣のとき、主計官がこむずかしい数字を並べて説明すると、その半分も聞かぬうちに「わかった、わかった」と腰をうかせる。ために「あれは田中角栄ではなくて、わかった角栄だ」と|綽名《あだな》をつけられた。
何人かの財界人に「田中角栄の勤務評定」をしてもらった。日本の“総理候補”としては、注文や異論があったが、彼の資質については「明敏・果断・実行力・大衆性・力強さ」の五点で、まったく一致していた。
“越後ブロンソン”
大正七年生まれ、五十四歳で、田中角栄は父親が心配した「進むことばかり知る」性質をモーターにして、早くも総理大臣の候補者に挙げられたわけだ。もし、一国の総理になることを出世というなら、彼は、日本の政界史上、空前絶後の“スピード出世”を記録するであろう。いや、スピードばかりではない。新潟県の、日本海に臨む豪雪地帯の寒村に生まれ、高等小学校を|卒《お》えるとすぐ土方をやり、上京して建築事務所の“住込み小僧”になっている。これが田中角栄の人生の出発点である。この出発点と到達点の格差の深さ、その深さを埋めた時間の|迅《はや》さ、この二つを考えあわせても、日本の人物史上|稀《まれ》にみる存在である。ほかに類例を求めたところ、彼とそっくりなのがひとりいた。
アメリカの映画俳優、チャールズ・ブロンソンである。ブロンソンは|提灯《ちようちん》を|潰《つぶ》したような顔をしており、この点、田中角栄の方がまだ見映えがするが、二人ともヒゲをはやし、ひと|重瞼《えまぶた》で、潰れたような声を出す。田中が土方―土建会社の小僧─保険業界誌の見習記者─雑貨輸入商の店員─建築事務所の所員─自家営業─二等兵、という、大衆の海を泳いできたように、ブロンソンも土方、料理人、ボクサー、水泳教師、沖仲仕、トラック運転手、映画界に入っては“殺され役”と、人生の大衆席にすわり続けてきた。
ひと口にいえば、二人とも“セルフ・メイド・マン”である。学歴はないが、田中角栄もチャールズ・ブロンソンも“私の大学”を卒業している。田中が“私の大学”でなにを|必須《ひつす》科目にしたかは、今日の彼の存在そのものを語ることになる。これは後で述べる。
ただ、ひとつだけ先に紹介すると、彼らは人生を屈折した感情で歩きながら、心の中に、ひとつの“救い”を持っている。ブロンソンにあっては、それは「絵を描くこと」である。彼の妻のジル・アイアランドは、ブロンソンと結婚するまえまで、デビッド・マッカラムという、ブロンソンとは正反対の繊細なイメージをもつ俳優の妻だった。それがドイツのレストランでブロンソンに|一目惚《ひとめぼ》れしたのは、一見ヒゲむじゃで汗臭そうな男に“かげり”を見たからであるという。
わが“越後ブロンソン”が胸に秘めていたものは、小説である。彼は子どものときから“作家志願”で、高等小学校を卒業した年、新潮社の雑誌『日の出』の懸賞小説に応募、「三十年一日のごとし」という作品が佳作に入って、五円をせしめている。上京して土建屋の|丁稚《でつち》小僧になってからも、昼は現場、夜は中央工学校という忙しさにもかかわらず、堂々二百枚の小説を書きあげて、同僚の入内島金一(信友商事取締役会長)に「読んで下さい」と渡している。
いまでは、さすがに小説は書かないが、それでも軽い持病の「甲状腺機能|亢進《こうしん》症」(バセドー氏病)の検査に東京逓信病院を訪れると、ベッドの|枕元《まくらもと》に小説本を山のように積みあげ、いつまでも読んでいるそうだ。
このような人間的な味が周囲の話題になるのは、ことほどさように、社会の視線が彼の存在に集っていることを意味していよう。
坂田三吉、涙の場面
将棋でいえば、田中角栄は“政界の玉将”である。玉将ではあるが王将ではない。
将棋には「王将」と「玉将」の区別があるが、本来は「金・銀・珠玉」というように、「玉将」だけだったそうだ。
|碩学《せきがく》・幸田露伴の研究によると、二枚とも「|王《ヽ》将」であって、この「|王《ヽ》」という字の意は玉である。この「|王《ヽ》」が一般に「王」と混同されたとみえる。
「王将」と「玉将」にわけたのは、江戸時代の儒学者で、例の「天に二日なく国に二王なし」という思想から、「|王《ヽ》将」を「王将」と「玉将」に分解したようだ。
ともかく、幕末時代には「王将」と「玉将」が使われるようになり、駒師もそれをあたりまえのこととして、駒を彫ってきた。現在では、上位のものが「王将」をもつことになっているが、これが、いつ、どういう理由でそうなったかは、棋界の専門家の間でもはっきりしない。どちらでもいいようなものだが、この区別を大衆の間に決定づけたのは、北条秀司の戯曲「王将」であろう。この芝居の中で、坂田三吉が関東名人・関根金次郎と戦って泣く場面がある。
「世の中には、王さんはひとりだわい。|わい《ヽヽ》にはその格はあらへん。関根さんこそ、王将や。そういうおひとや」
田中角栄は、これまで池田勇人や佐藤栄作を「王将」とし、自分は「政調会長」「幹事長」「蔵相」という「玉将」の位置にいた。やがて、福田赳夫と「王将」を争うことになるのだが、財界人の間には田中の「玉」のヽが“黒い霧事件”以来の濁点にみえると評価するむきがある。彼の「短兵、急」な行動主義が、|緻密《ちみつ》さやときにはブラッフさえも必要とする総理の位置には、|瑕瑾《かきん》ではあるが、拭い切れない弱点になるという見方もある。
このような「田中角栄玉将説」の背景には、日本のエスタブリッシュメントの、別の階段をあがってきた男に対する、|胡散《うさん》臭そうな眼付があることは否みえない。
しかし、田中角栄が今日のような“スピード昇進”をとげたのは、東大・官僚・大臣という階程と|連繋《れんけい》はするが同質化しないという態度を持ち続けたからである。もし、同質化していれば、彼はありきたりな“侍大将”に終ったろうし、今日のような大衆的人気はかちえられないはずだ。
ある政界通によると、「田中は、吉田学校の池田と佐藤に対して“|蝶番《ちようつがい》”の政治家であった」という。蝶番、今日の言葉でいえばネゴシエーターである。
池田と佐藤の蜜月時代がおわったのは、鳩山一郎が日ソ国交回復をすませて引退した、昭和三十一年末の総裁公選である。
総裁候補者には石橋湛山・岸信介・石井光次郎の三人が立った。田中は佐藤といっしょに岸を擁し、池田は石井をたすけ、ついで石橋と連携した。
これで田中は池田と断絶したかといえば、けっしてそうではない。池田派の“玉将”である大平正芳と通じている。このときから二年まえ、吉田茂が内閣を放り出し緒方竹虎も解散権を放棄して、鳩山一郎の手で選挙がおこなわれたとき、旧吉田派は|惨憺《さんたん》たる選挙戦を味わった。大平も例外ではない。このとき田中角栄(当時・副幹事長)は、大平の選挙区である香川県まで飛んでいって、「大平君は、将来、総理になるひとです。そのとき、私は大平内閣の官房長官になって、同君を応援します」と、声涙ともに下る演説をしている。
岸内閣が誕生する際、最大の眼目になったのは、石橋内閣の蔵相におさまった池田勇人が、入閣してくれるかどうかであった。池田が入らなければ、吉田・鳩山以来分裂した保守勢力の合同は、|画餅《がべい》にひとしいわけである。
池田のもとに、野村秀雄(元NHK会長)が使者に立ち失敗、つづいて|賀屋興宣《かやおきのり》が“先輩”の圧力をきかせたがこれもダメ、ついに財界の意向を代表して堀田庄三(住友銀行頭取)が足をはこんだ。が、これも失敗した。
しかし、結局、池田は入閣したのである。田中は、今日、「兄弟喧嘩ほどはげしいもので、|肚《はら》の中では、やはり“佐藤のたのみなら”という思いがあったのさ」と語っているが、そのもうひとつ裏に、田中と大平のタッグ・チームがあったことは否定できない。
佐藤栄作のパイプ役
岸内閣から池田内閣になると、田中は「蔵相」「幹事長」という中心的位置にすわり、佐藤栄作への“蝶番”の役目を果している。その佐藤が池田の三選に挑戦したとき、田中は池田の前で涙を流して“禅譲”をたのんだ。田中によると、池田が「よし、わかった」といったのは午後四時ごろだったが、それから池田も佐藤も宴会があって、両者が電話で話しあったのが午後十一時すぎ、二人とも酒が入っていたので、「ひとこと多かった」状態になり、ついに“禅譲”は決裂、田中は佐藤派の保利や福田から“裏切者”とよばれる立場に立たされた。
しかし、池田が病いに倒れ、後継者問題があらわになると、田中はやはり佐藤栄作の有力なパイプの役割をする。このとき、幹事長の前尾繁三郎は、第一案を「藤山愛一郎総理・河野一郎副総理」とし、第二案に「佐藤総理」を用意したという。が、第一案は財界の反対にあって粉砕され、第二案が生き、吉田茂も強く佐藤を推したので、「佐藤内閣」が誕生している。
なるほど、このように見てくると、田中角栄は保守合同の有力な“蝶番”になってきた。テニスや卓球でいうと、ダブルスの出場選手である。彼が“玉将”から“王将”になるためには、いちどシングルスの決勝戦に出なければならない。その最大の難関は福田赳夫である。
福田が「一高・東大・大蔵省」と絵に描いたような“秀才コース”を歩いてきたのに対して、田中角栄は“私の大学”の卒業生である。典型的なセルフ・メイド・マンだ。彼の“学歴”がどのように通用するかは、日本の知的構造にひとつの|示唆《しさ》をあたえるであろう。
“私の大学”五つの特性
田中角栄にかぎらず、松下幸之助、司忠、吉川英治などの“私の大学”の出身者には、共通した性格があるように思う。
すくなくとも、五つほど、挙げられる。
第一「実技に|長《た》けていること」
第二「人心|収攬《しゆうらん》がうまい」
第三「演技を心得ている」
第四「故郷を持っている」。田中角栄は、これまでの政治家生活を「出稼ぎみたいなもの」といっているが、この心情は「失敗したら郷里に帰って百姓をする」という、一種の|帰巣《きそう》本能に通じているように思う。
第五「発想や手法が既成のエスタブリッシュメントと同質化しないこと」。これは、食べものや洋服の趣味にまで及ぶことがある。
田中における“五つの特性”は、彼の人生をかなりダイナミックに彩っている。
彼は昭和十三年、盛岡騎兵旅団に入隊、すぐ黒竜江と松花江の合流点にある富錦という最前線に送られた。その輸送の途中、二等兵のくせにヒゲを生やし、トラックの上で「|王《ワン》さん待ってて|頂戴《ちようだい》ネ」を歌っていたので、やにわに殴られたと語っている。そうとう図太い神経だが、これは彼の“既成秩序”に対する、せいいっぱいの反抗とも思われる。
彼が配属された第二四連隊第一中隊が、第一期の教育計画をつくったときだ。これが軍司令部までいって、表現の仕方が悪いと突きかえされた。なにしろ遠隔地なので、再び届ける時間を計算すると、図表を丁寧につくっている暇がない。中隊長一同、|真《ま》っ|蒼《さお》になった。このとき片岡甚松少尉が気がついたのは、自分の小隊にいる田中上等兵が建築士であることだ。中隊は片岡の提案に|愁眉《しゆうび》をひらいたが、田中はこの命令をうけると、「私も職人です。こういう仕事は階級ぬきにして、思いどおりやらせてくれないと、時間どおりゆくかどうか、わかりません」と申し立てた。中隊長が|切羽《せつぱ》つまって「いいようにしろ」というと、彼は、「職人らしく、裸になって酒を飲みながらやりますぜ」といい、まず、「助手をえらばせて下さい」と自分勝手に「製図班」をつくった。
これがなかなか傑作で、日ごろ、文書課で女性から来た手紙を新兵に読ませている高橋曹長に「石炭|焚《た》き」をわりあて、しょっちゅう新兵を殴る藤井軍曹は酒と針の調達係にした。針は製図板に紙をとめるのに使うから、被服係下士官からもらってこい、というのだ。このように、下士官をさんざんこき使う一方、彼は同年兵には鉛筆を削らせたり線をひかせたりして、酒を飲みながらゆうゆうと仕上げてしまったという。
片岡は当時を回想しながら「あんなに痛快な場面はなかった」と語っているが、田中はそれこそ“体験で演技”をしていたのだろう。彼は、のちに病気になって内地送還となるが、軍隊にいる間はおもに|糧秣《りようまつ》・酒保・功績係などの管理部門で働いている。これは“物資と人事”を扱う部門で、このときから幹事長タイプの人物だったといえないことはない。
ある夜、片岡少尉が巡察していると、酒保の会計室に電気があかあかとついて、酒の|匂《にお》いが|洩《も》れている。入ると、田中上等兵が洗面器になみなみと酒をあけ、大アグラで帳簿を見ている。そのいいぐさがふるっていた。
「輸送の途中、|酒瓶《さかびん》が割れたので、倉庫の員数を点検しているところであります」
洗面器のまわりにはこわれた酒瓶が林立し、そういわれれば文句のつけようのない場面が出来あがっていたそうだ。
こういう知恵は田中上等兵独特のものであるが、どこかに彼の反抗の眼つきがちらつくようである。
辞書を丸暗記
彼は、しばしば、「人生の内職ばかりやっていて、学業が中途半端になってしまった」と、“学歴コンプレックス”のような言葉を口にしているが、これは裏がえすと「学校は出なくても」という“自信”がいわせていることもある。
事実、彼はものすごい勉強家である。
土建屋の小僧のころ、リヤカーをひきながら「広辞林」を一頁ずつ破いて覚えている。英語学校に通い出すと、英和辞典を「A」から丸暗記しようとかかっている。自分で建築事務所をひらいてからは六法全書を破りながら暗記したものだ。彼の「暗記能力」はつとに有名で、その旺盛な行動力とあわせて「コンピューターつきブルドーザー」とよばれているが、じつは彼が最も得意なのは数学である。実際、彼と会って話していると、財政投融資の数字から彼が仙台陸軍病院に入院した日まで、およそ算用数字で表現できるものはポンポンと出てくるが、数字には意味のある数字とない数字があるものであって、この“特技”はたいしてポイントにはならない。むしろ、数学が得意という直観力と演算力のしたたかさが彼の|身上《しんじよう》であろう。
田中は、一時、海軍兵学校を受けようとしたことがある。身体検査もパスしてもいる。思いとどまったのは、「いかに最短距離を走って田中家を復興するか」というモノサシで測ると、三年八カ月かかって海軍少尉になっても、月給八十五円では間尺にあわないと判断したからだ。余談になるが、この選択は正しかった。彼は二十一歳で軍隊に入るとき、西山町の第一銀行に当時の金で三千円を払いこみ、父親の借金をかえしたうえ、「もし、おやじが貸してくれといったら、このとおり私がかえすから、どうか貸してやってくれ」とたのみこんでいる。それを聞いて姉のフジヱは声を挙げて泣いたそうだが、当時、田中の家は父親が|馬喰《ばくろう》をして得た金をほとんど競馬に注ぎこみ、一家十三人、家屋敷には担保の縄がかかって、|米櫃《こめびつ》はからであったという。しかも、西山を捨てて群馬県の沼田に移りすむ矢先であったというから、田中角栄も海兵受験どころではなかった。
彼は「私がもし大学までゆけたら、天文学者か保険数理学者になっていたろう」と語っているが、これは“数学好き”を別の言葉で表現したものであろう。
軍隊で糧抹や酒保の帳簿をひきうけたのも、その数理的才能からであるが、彼はここで“学校出”の兵隊が幹部候補生の試験を受けるとき、幾何や代数を教えてやっている。
このような経験は“学校出”に対して、やはり、ある種の緊張感をうむであろう。
大蔵省におちた涙
誰でも大臣になると、役人から「国会想定問答集」というのをわたされる。野党の質問を予想して、それに対応する回答のデータが書いてあるが、たいていの大臣は党務や私事に忙殺されて読むことがすくない。ところが、田中は大蔵大臣になったとき、「国会想定問答集」を明け方までかかっても読破し、かならず自分のものにしていたという。これが大蔵省の役人の好感を大いによんだ。
ところが、あるとき佐藤一郎官房長(前経企庁長官)との間に、「国会想定問答集」をわたした、わたさないの行き違いがあった。佐藤が、「前日お渡しした資料の中に書いてあります」というと、田中は「いや、書いていない。昨日もらったぶんには見当らない」と否定した。それでも佐藤が「そんなことありません、書いておきました」と強弁すると、田中は|椅子《いす》からぱっと立ち上って、涙をぽろぽろこぼしながら、「佐藤君、僕は君たちのくれるものを全部読んでいるんだよ」と、いった。それから、すっと大臣室に入ってしばらく出てこなかったが、出て来たときはまったく明るい顔になって、「さあ、やろう」と仕事にとりかかったという。
田中の涙が、周囲の“東大出”に対するくやし涙か、池田の知遇をえて史上最年少で蔵相の椅子を占めた男の緊張感からか、|忖度《そんたく》することはむずかしい。ただ、彼の「君たちのくれる資料は全部読んでいるんだ」という自負心は“私の大学”卒業者に特有のものとして、胸を打つものがある。
この自負心がさせたのか、彼はIMF総会で英語で演説するといい出したことがある。柏木参事官という“英語の名人”がコピーを書き、テープレコーダーに吹きこんだ。田中は、それを前にひねもす練習し、ついに幹部をあつめて「いまからスピーチをやるから聞いてくれ」と“実演”したそうである。
彼の『私の履歴書』には「一汗かいた私の世紀? の演説に対して、むろんお世辞ではあるが、“よくわかった”と握手を求めてきた多数の外国の大蔵大臣や中央銀行総裁たちは、さすがに国際的な政治屋だと心から感心した」と書いている。
この“世紀の英語演説”のあと、ニューヨークの邦人会が、田中蔵相一行をニューヨーク一のレストランの|晩餐《ばんさん》会に招いている。そのとき田中は招待されたお礼にと立ち上り、シャンデリアの|燦《きらめ》く下で、ゆうゆうと「王将」を歌ったものだ。
「英語演説」といい「王将」といい、彼にしてみれば誠心誠意のあらわれなのだが、エスタブリッシュメントの方からみると、「なんともテレることのない男」という印象がつよくなる。
じつは、このあたりに田中の“演技派”としての|韜晦《とうかい》趣味がうかがえてならない。彼は、三十八歳という若さで郵政大臣になったが、そのときの|挨拶《あいさつ》に、たいていの大臣は「このたび、はからずも大臣という大任を拝し」というのに、彼だけは「努力した|甲斐《かい》あって、ついになりました」と大笑いしたものである。
そういう態度が、ますます越後生まれのブロンソンを思わせるのだが、一種、|蕪雑《ぶざつ》にみえるこの行動の裏に、じつは彼の“神経質”な面がかくされているようでもある。
声帯の黒メガネ
田中の行動の起点には「|吃音《きつおん》」がある。赤ん坊のときのジフテリアが原因で、彼はひどい吃音になり、教室で読本を読みながらドモリだすと、うしろにそっくりかえって、ついには倒れてしまったという。それが修正できたのは「歌と寝言ではどもらない」という発見からで、彼はまず|膝《ひざ》で調子をとってからモノをいう練習を始め、流行歌もさかんに歌った。当時の流行歌には浪曲も入る。彼は「乃木大将」が得意で、昼休みの一時間、はじめから終りまで、一字一句まちがえずに口演したそうだ。
妹の幸子は“左きき”で、学校に入ってからも左手で書いていたが、田中は北満で受けとった慰問文を読み、幸子に「兄さんは一生をかけてドモリをなおした。おまえもそんな気持で“左きき”をなおせ」と手紙に書いている。田中にとって“吃音”は難敵中の難敵なのだ。彼は「僕はほんとうは感受性のつよい人間なのですが、声が悪いのと日本浪曲会の会長をしているので、いつも“足して二で割る”強引な政治家に見られるのが残念です」と語っている。これは、かなり|本音《ほんね》と聞いてよい。
彼は吃音からのがれるために、|節《ふし》をつけてものをいう癖を身につけた。浪曲もそのひとつである。当然、浪曲語りの声帯になる。つまり、田中のブロンソンに似たあの|嗄《しわが》れ声は、声帯による処世術である。野坂昭如が、シャイ(|含羞《がんしゅう》)な気持をかくすために黒|眼鏡《めがね》をかけたように、田中は声帯に黒眼鏡をかけているのではないかと思う。
そのうえ、彼は甲状腺機能亢進症の気味がある。甲状腺がはれると声帯もはれて、声の出がわるくなる。
彼は声帯に黒眼鏡をかけることによって、「足して二で割る政治家」の評価を受けるかわりに、吃音も克服する一方、クロッキーでぐいぐい描くような、直線的な行動も可能にしているのではないか。
赤か黒か
彼は、いつも黒と赤の二本の万年筆をもっている。官庁の書類や陳情団の書類に目をとおすと、「ぜひ、なんとかしてやってほしい」ものには赤ペンで回送先の|宛名《あてな》を書く。たとえば、陳情書の内容について予算をつけてやってほしいときには、赤ペンで「大蔵省主計局長殿」と書くのだ。黒ペンのときは「ご考慮を請う」である。よくしたもので、役所の方でも、この“赤ペン”“黒ペン”を弁別しているという。
この判定は、彼の政治家としての直観力による。これが|正鵠《せいこく》を射た場合はいいが、はずれた場合は問題がのこるだろう。
大蔵大臣当時、彼は主計局から四百億円の“かくし財源”をもらうと、各省の要求項目のうえに、「ハイ、これは二十億」「ハイ、これは十億」と書いてゆき、配分技術を身上とするエリートをハラハラさせたものだ。
こういう果敢な判断は、ありきたりの体系を守ろうとする発想とは別の、新しい発想を産み出すが、往々にして“蛮勇”になることも否めない。
いよいよ大臣折衝の段階になって、科学技術庁長官の近藤鶴代が、「大蔵省にゆくと、大臣をはじめ、主計局などの男たちが取り囲んでいじめるから、私はゆかない」といってよこした。これには主計局が困って、「部屋には大臣と二人だけにしますから」と折れ、田中と近藤が膝をつきあわせて話せるようにした。
ところが近藤が帰ってから、田中の承認したぶんを見ると、新規の要求項目にはぜんぶ「調査費」がついている。これは初年度はたいしたことはないにしても、年度を経るにしたがって相応の面倒をみなければならない。「大臣、完敗じゃありませんか」と役人がいうと、田中は「ええ、まあ、そういうな」と言葉を濁していたが、近藤のあとに灘尾弘吉厚生大臣がくると、こんどは全項目を否認して、“完勝”したという。
そのあと、厚生省の次官が大蔵省に「どうしてこんな無茶苦茶な査定をするんだ」と怒鳴りこんできたというから、よほどのことであろう。
もっとも、彼が蔵相のとき、一般の評価は「高小卒の角栄が東大出のエリートを手玉にとった」に集中した。事実、田中ほど大蔵省主計局に“うけ”のいい大臣はいない。主計局が望む大臣像とは、自分たちの意図を理解してくれたうえで、党三役を抑え込む力のある政治家である。主計局の|傀儡《かいらい》になっても党三役に滅多|斬《ぎ》りにされるようでは危険このうえないのだ。田中は、そのへんの事情を心得て、立ちまわっている。
あるとき、大蔵省があまり削ったので、自民党の代議士会が「予算案をみとめない」と騒ぎ出した。ときの岩尾総務課長(現・農林漁業金融公庫副総裁)が「大臣、たいへんです」と迎えにゆくと、田中は「よし、みていろ」と立ち上り、代議士会で「みなさんの要求は充分に聞きいれますから」とかなんとかいって、結局まるく収めて、政府原案どおりに通過させたそうだ。こういうところに彼の“理外の理”をつかむうまさ、あるいは直観力の鋭さがうかがえる。
これからの日本経済は、たぶんに“財政指導型”の傾向をつよめてゆくであろう。ところが、財政の硬直化が問題になっている。歳入の自然増収があっても既定経費でくわれ、新政策に金がまわらないという。しかし、これは考えてみればおかしな話で、食糧管理特別会計や健康保険特別会計をいまのままにしたうえでの話である。つまり、硬直化しているのは財政ではなくて、制度そのものであろう。
制度が硬直化しているから、金の流れもきまってしまい、発想も硬直化してしまう。そこで、いまや“制度破壊の実力者”が求められるようになる。このあたりも、田中が政界の“玉将”視される理由である。
クモの巣の情報網
彼の、もうひとつの特性は“人心収攬”のうまさである。「田中秘書団」というのがある。あえてこれが話題になるのは、まず二十人という頭数、つぎに役割分担の機能、第三に情報収集の速さ、である。
田中派(越山会および財政調査会)の歳入は三億五千八百七十万円であるが、このうち人件費に千二十八万円が使われている(昭和四十四年度分・自治省調べ)。おもしろいことに、歳入の規模からみると田中派は、佐藤・福田・前尾につづいて四番目の規模だが、上位三位が明記していない「人件費」をはっきりと出している。これは、やはり“二十人”という頭数によるものであろう。
こんな話がある。共産党の加藤進議員が、信濃川の河川敷の利権でうまい汁を吸っている会社があると摘発、その会社に田中角栄の秘書が監査役として名を連ねているという材料を、国会で質問することになった。ところが、その質問当日、加藤議員は会社の登記書を取りよせて、唖然とした。問題の秘書は、その前日に監査役を辞任し、名前が消えていたのである。これは、偶然のタイミングなのか、田中秘書団の情報網によるものか、いまだにわからない。しかし、それにしても、「田中秘書団の情報網はクモの巣のようで、その真ん中にいるのが角栄グモだ」という声を立たせたことは事実である。
とにかく、これだけの人数を集め、それぞれに役割をあたえているのだから、田中角栄には「人をひきつける|なにか《ヽヽヽ》がある」と思われている。
たとえば、同盟通信からきた早坂茂三だ。彼は|麓《ふもと》秘書とともに、田中の“飛車・角行”といわれている。田中の「沖縄放言」というのがあった。昭和三十六年、ロバート・ケネディが来日して、中曾根康弘・江崎真澄・石田博英・宮沢喜一、それに政調会長の田中角栄が会見した。席上、田中は「私見であるが」とことわって「米軍基地の機能をそこなわずに沖縄を復帰させるためには、日本の憲法を改正して、核つき返還を考えざるをえまいが、どうであろう」と発言した。会見は非公式であったが、田中の発言は新聞にスッパぬかれた。野党はその責任を追及し、国会の審議はストップした。田中は、二、三日、|蒲団《ふとん》をかぶって寝こんでしまった。この問題の発言を強引に書いたのが早坂だという。田中は、その後、早坂に「おれが記者だったら、やはり書くよ。あれは書くべきことだ。それにしても君は優秀だな」と語ったそうだ。たいていの政治家なら、新聞社の幹部に怒鳴り込みにゆくか、書いた記者を忌避するか、その両方をする者さえいるものだ。ところが、田中は率直にみとめている。
早坂は、田中のそういうところに|惹《ひ》かれて、秘書になったという説がある。
大道の賭け将棋
彼の『私の履歴書』を読むと、「|躓《つまず》きの石は起き上りの石」という格言どおり、ひとから“被害”を|蒙《こうむ》っても、これを“教訓”として受けとめている。
学費も生活費も乏しくなって大道の“賭け将棋”に手を出す。サクラに取り巻かれて、虎の子の五円札を奪われたうえ、腕時計まではずされてしまう。その時、彼はこう考える。「この事件で一つりこうになった。一カ月汗水流して働いても五円しかもらえない身で、チョロリと大道で五円もうけようとは、これは私が不届きだったのだ。勝負ごとで金はもうかるものではなし、またもうけようと考える自体、間違いであることを知ったのは収穫であった」
こんなふうに、彼のはかなり体験から割り出したものが多い。
あるとき、妹の風祭幸子が上京して、田中の家にいると、にわかに|襖《ふすま》があいて、田中が「ひとが色紙を書いているときの気持がわからんのか」と二、三発、殴りつけたという。幸子は黙って編物をしていたので、なんのことかわからず、しばらくポカンとしていたが、田中家の女中や書生が大きな声で話していたことに気がついて、田中のやり方に納得したという。女中や書生が、幸子の犠牲に恐縮したことはいうまでもない。その夜、幸子が板橋に住む姉の家に泊りにゆくと、角栄は何回も電話をかけて妹を呼び戻し、酒を注ぎながらいったそうだ。
「おまえを殴ったのは本心からじゃない。それなのに、今夜よその家に泊られたら、兄さんだってやり切れないじゃないか」
小意気な一幕ものにありそうな場面だが、田中の行動にはこういう情緒的なものがあり、それが人心収攬には効果をあげている。
政治家に色紙はつきものだが、田中角栄の書き方、いや、与え方をみていると、これがパスポートがわりになっているという。自分の部下や身内にはほとんど書かず、敵味方の境界すれすれのひとを“第一順位”にするそうだ。
妹の亭主が「私にも書いて下さいよ」とたのむと、「あなたは早稲田大学の学士様、私は高小卒、ハンコだけ|捺《お》してあげるから、文句は自分で書きなさい」と、からかったものだ。
色紙一枚にも、うがった話が続々と出てくるが、彼自身のいうように「学閥もなく門閥もなく|閨閥《けいばつ》もなく、郵政大臣・大蔵大臣・政調会長・幹事長、すべて史上はじめての若さでなった男」の細かな気くばりがうんだエピソードであろうか。
「政治家は私一代」
彼に「政治家六十歳説」というのがある。六十歳になったら政界を引退して、|悠々《ゆうゆう》自適するのが人生だというのである。
娘の真紀子の結婚式のとき、彼は福田、大平、重宗をはじめ、国会議員で“長”のつくものをぜんぶ披露宴に呼んだ。総数三百人のうち議員は二百人に達したという。
さて、その席上、田中はスピーチに立つと「私は、政治家は私一代で結構だと思います。孫子には、|金輪際《こんりんざい》、こんなものをやらせません」といい放った。これには驚くものあり、苦笑するものありだったが、田中は「本心からそういった」と述懐している。
「私自身、|毀誉褒貶《きよほうへん》にも|闊達《かつたつ》さを装いながら、二十八歳から五十三歳まで過してしまった。気がついたら人生の大半です。長い道程のようにも感じるし、あくれば一朝の夢、の感がないでもない」
彼の後援会に「越山会」というのがある。郷里では、上杉謙信を“天正の越山”、田中角栄を“昭和の越山”というつもりだが、田中角栄によれば「若いころにつけたペンネームで、小説を書くときは田中覚園、浪曲その他は越山と号した」という。
この越山には二つの意味があって、大臣などになったとき、「ひと山、越したな」と振りかえるのと、「ひと山越せばいつでも帰れる郷里がある」というのとになるそうだ。
田中はこれを“帰巣本能”とよんでいるが、別の言葉でいえば、“出発点”あるいは“初心”を忘れまいとする用意のようだ。これは“私の大学”の卒業者には共通した感情である。
彼は宴会に出ても、あまり美食しない。料理はほとんど残してしまう。家に帰って、郷里の母親の手づくりの|味噌《みそ》と|醤油《しようゆ》をつかった料理を食べる。肉でも野菜でも、辛く煮付けたものが好物だという。
田中の郷里には“中もち”という制度がある。一家の戸主が亡くなって、|嫡男《ちやくなん》が子どもの場合、その子どもをひきとって育て、家の面倒も見て、その子が一人前になったとき家を継がせるという制度である。一種の村落共済制度であろうが、彼はこれを何人かやっている。
地主の子どもをひきとって育てたが、あるときその母親が田中家を訪ねた。妻のはな子が、「まあ、Yちゃんのお母さん」と、つい世話をした子の名を口にすると、田中はかんかんに怒って「そんないい方があるか。このお方は地主様の奥様だぞ」と、たしなめたという。聞きようによっては、“功成り名遂げた”田中の余裕がいわせたようにもとれるが、郷里のひとは「小作人であったころのことを忘れまいとする言葉だ」と解釈している。
そのためかどうか、彼は東京・目白に一万三千平方メートル(約四千坪)の土地を手に入れ、そこに大邸宅を構えたが、しばらくの間、クーラーはもちろん、扇風器もガスストーブも入れなかった。妹の幸子が|呆《あき》れてワケをきくと、田中はこういった。
「おれたちのオフクロは、田の草とりをするのに、扇風器を担いでいったか。|藁《わら》仕事をするのにガスストーブを使ったか。おれたちは、屋根のある家にいるではないか」
このきびしい論理がゆるんだのは、彼がバセドー氏病にかかり、温度に敏感になってからで、夏に扇風器の風をあてては「ホホウ、こんなに気持のよいものか」と眼を細めたという話がある。
“出稼ぎ”政治家
こういうエピソードは、およそ佐藤栄作や三木武夫の周辺からは出てこない。福田赳夫も、ふだんはワイシャツの|袖口《そでぐち》を折りかえし、「わが輩はだナ」というような口調になるが、田中角栄ほど、郷里あるいは自分の“出発点”と密着していない。つまり、佐藤・福田・三木にとって“政治家”は専門職であるのに対して、田中角栄は“出稼ぎ”の一種なのである。この点で、彼は党人脈であるが、亡くなった大野伴睦や河野一郎のような“プロフェッショナル”ともことなる。
自民党内には“発想の転換”という言葉がしきりに聞かれる。硬直化してゆく制度、都市化する日本列島、感覚的判断に流れる世代、生きがいの喪失、それらをひっくるめながら日本は“国際化”の荒海に乗り出している。この危機感がうんだ言葉であるが、いちばん最初に使ったのは三木武夫で、いちばん多く口にしているのは田中角栄だという。ことに彼は、昭和生まれの議員をつかまえては、「発想の転換をしろよ」というそうだ。
その彼が、昭和四十二年、美濃部都知事の当選を許した直後に、「自民党の反省」と題して書いた一文がある。当時、政調会長である。
その中で、彼は“都市改造”と“地方開発”は同義語であり、したがって大都市中心の効率投資よりも先行投資を考える必要が生じ、そのためには民間資金をその投資の中心に参加させ、土地を“商品”という考えから解放するために、私権の一部を制限すべきことを訴え、最後に自民党の体質についてつぎのように反省している。
「……鳩山、石橋、岸、池田、佐藤各内閣の手で、保守合同後の国政を担当してきた自民党は、いつ知らず権力の椅子に|馴《な》れて、前近代的な党の体質改善を怠り、流動する社会に対応して国民の希望を汲みとり、政治に反映させる、柔軟でダイナミックな方向感覚と政治感覚に欠けていた」
まるで、ひと昔前の“進歩的文化人”が書くような内容である。
一九七二年七月六日、田中はついに「玉将」から「王将」の位置についた。その前日、自民党総裁選挙で、ライバルの福田赳夫を圧倒して総裁にえらばれた直後、彼は自分の自動車に乗りこむや否や、ホロリと一滴、涙を流した。側近が「しかし、一期ですね」とささやくと、彼は涙を|拭《ぬぐ》ってから「え? いま、なにかいったか?」と聞きかえしたという。実力で占めた“座”そのものがいわせた言葉かもしれない。
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“江戸前フーシェ”・川島正次郎

正体を語らず
例によって、この人に会うまえに「川島正次郎論」を読んでおこうとした。おどろいたことに、誰一人、この政治家を取り上げていなかった。阿部真之助も御手洗辰雄も大宅壮一も、ついに“川島論”を書かずじまいに終っている。ただひとつ、「東京タイムズ」に昭和三十二年の暮から十回にわたって署名入りで連載したものが手に入った。明治二十三年千葉県の|行徳《ぎようとく》に生まれてから岸内閣の幹事長をつとめるまでの「自叙伝」で、江戸前のしゃれた口調が要領よくまとめられている。ところが、この切り抜きを彼にみせると、彼は眼鏡をはずして「どれ、どれ」とのぞきこみ、それからおどろきの、感心の、といった|口吻《こうふん》で答えたものだ。
「あたしゃ、こういったもの、存じませんがねえ。ずいぶん上手にできているじゃございませんか」
彼自身の著作は、後にも先にも、たった一冊しかない。それも彼自身に関するものではなく、アメリカの「I・W・W」についての報告書である。「K・K・K」という、例のイカのお化けのような袋をすっぽりとかぶり、眼のところだけ窓をあけたのがユニホームの、白色テロリズムの団体があるが、それと同類のものである。川島は、若い頃、永田秀次郎(東京市助役)から金を|貰《もら》ってアメリカに遊学している。これは文字通りの“遊学”であるが、彼はその七カ月の間にアメリカの労働運動を勉強したり、「I・W・W」の話に興味をもったらしい。しかし、この本はなかなか手に入らないものだし、また入ったとしても川島正次郎の正体を物語るものでもない。
かくして、川島正次郎に関する資料あつめは徒労に終るかにみえた。が、有力な資料、というより彼の政治家としての人物像を浮彫りにする資料があったのである。それも、外国の本の中にあったのだ。
四選阻止派に投げた爆弾
それは、シュテファン・ツワイクの『ジョゼフ・フーシェ』である。フーシェは十八世紀から十九世紀にかけて、フランスの政界を手玉にとり、天才的謀略家の名をほしいままにした人物である。
川島正次郎の|陰画《ネガフイルム》は、フーシェという定着液に|浸《つ》けると、薄気味わるいほど、|陽画《ポジテイブ》に変ってゆくのである。私が、この定着液があることに気がついたのは、川島の“佐藤四選”の演出からである。
自民党内が“佐藤四選か否か”でざわついてきたとき、川島副総裁は「秋にならなければわからんよ」とトボケていた。周囲も、そんなものかな、と思った。が、彼はその間に“読み”をすすめていたのだ。
四十五年七月十三日。内外情勢調査会で講演したとき、彼は、「基本的な政策をかかげて総裁選を争うべきではない。外交問題、とくに中国問題をテーマにすることは避けた方がよい」と力説した。これは、三木武夫を先頭とする四選阻止勢力の足元に爆弾を投げつけたようなものだった。
一週間後、川島派の研修会で、「次の内閣は行政改革と選拳法の改正を重要課題にすべきだ」と講演した。これは政府与党にとっては多年の宿題であり、いまさら目新しいものではない。が、九月十八日、佐藤首相は閣議で「行政簡素化の推進」を指示し、行政改革に積極的な姿勢をみせたものだ。この二つの発言をつなぎあわせると、いかにも佐藤内閣がこのまま延長するのがあたりまえだという、概念の既成事実ができかかるのである。「総裁選は政策で争うな」「次の内閣は行政改革と選拳法の改正」、そして第三弾が「人心一新は不要」という“札幌談話”である。このように、彼は一度も「あたしゃ、佐藤君の四選を望んでいますよ」といってはいない。しかし、三つの談話をむすびあわせると「四選があたりまえではないか」という、強い表現になるのである。
この一連の談話をたどってゆくと、その糸の先に、バルザックがフーシェについて書いた言葉が浮び上るのだ。
「あらゆる|面貌《めんぼう》の下に|端倪《たんげい》すべからざる深さを蔵しているので、その行動の瞬間においては、到底その意の|奈辺《なへん》にあるかを洞察し得ないが、一芝居すんだずっと後になって、|漸《ようや》く|合点《がてん》のゆくといったような人物の一人」
そして、ツワイクはフーシェについて、ということは川島正次郎についても、決定的な論評を下している。ツワイクは、偉人や英雄が数十年数世紀にわたってわれわれの精神生活を支配してきたことは疑うまでもないが、ただそれは精神生活だけのことであると前おきして、つぎのようにいう。
「現実の生活、実際生活においては、――そしてこのことは、あらゆる政治的軽信を|戒《いまし》めるために特に強調しなければならぬ点だが――|傑《すぐ》れた人物、純粋な観念の持主が、決定的な役割を演ずることは|稀《まれ》であって、はるかに価値は劣るが、しかしさばくことのより|巧《たく》みな種類の人間、すなわち黒幕の人物が決定権を握っているのである」(秋山英夫・高橋禎二氏の訳文による)
では、フーシェにみられる“黒幕的要素”はいかなるものか。それを川島正次郎の“言行録”とつきあわせて紹介してみる。
三途の川までつきあわぬ
「ジョゼフ・フーシェは、どのような境遇にあっても、抜け道だけはあけておく、変転自在の可能性だけは残しておくのである……彼は、人間はおろか神にさえ、終生不変の忠実を誓うことなど、夢にも思ったことはない」
川島のまえにも、三木武吉や広川弘禅という、謀略型政治家はいる。この二人は政界の“大ダヌキ”“小ダヌキ”といわれた。その手口は、川島よりも数段徹底していたともいえる。しかし、三木は鳩山に|賭《か》け鳩山に殉じた。広川も吉田茂専用の“小ダヌキ”であった。これに対して、川島は「あたしは|三途《さんず》の川まではつきあわないよ」が口グセであったと、政治評論家の|木舎《きや》幾三郎はいっている。
河野と川島の比較がある。河野は朝日新聞、川島は東京日日の、二人とも政治部の記者である。河野はニュースを取るのが早かったが、まとめた記事は下手くそで、読めたものではなかった。川島は平凡なことを書いているようでいて、そのじつ、政界の形勢を読みとるのに妙を得ていた。同じ政界ジャーナリストの木舎は、川島の方に不気味な眼力を感じていたという。この“読み”の早さが、彼をして「三途の川までつきあわない」といわせるのであろう。
フランス革命が勝利に終って、廃位された国王の広間にジロンド党や山嶽党の連中がしずしずと入ってくる。その七百五十人の“国民代表者”の中にナント県選出の代議士ジョゼフ・フーシェも混っている。ツワイクは、フーシェはジロンド党の席にすわるか山嶽党の席にすわるかと、筆の上で見つめている。
「彼は長くはためらわなかった。彼の知っている党はただ一つ、これまでも忠実だったし、死ぬまで忠実であることを変えない党、すなわち有勢な党、多数党にきまっていた」
川島は、昭和五年の第二回普通選挙で当選して以来、政友会に籍をおいている。彼の師匠は森|恪《かく》と前田米蔵、同僚は中島守利だ。いずれも日本政界史上に“軍師”として名をとどめている。彼らの処世術は「主役にならず脇役に徹すること。ただし主流派の脇役であること」にあった。川島が師匠の前田米蔵からこの処世哲学を吹きこまれたことは想像にかたくない。
大正十三年、政友会が分裂をおこし、鳩山一郎や中橋徳五郎が脱会して政友本党を結成したとき、川島は前田とともに黙って残留した。その後、再び久原房之助と中島知久平の二派にわかれたときも、川島は“本流”である中島派に残っている。このように、彼はつねに“本流政治”に|棹《さお》さしてきたのだ。結果論になるが、結局はそれで間違えていないのである。鳩山・中橋の「政友本党」も、二年後には三十数名が一挙に「政友会」に復帰している。また、中島・久原の分裂も、最後のところは本流に統一という姿におわっている。
この“本流の中の|脇役《わきやく》”という態度は、戦後もつらぬかれている。川島は、追放中に冷や飯を食ったこと以外には、孤影|悄然《しようぜん》たる鳴かず飛ばずの境地に入ったことはない。
政界記者は、彼を“陽気な|寝技師《ねわざし》”あるいは“ヒマワリ型政治家”とよんでいるが、“陽気な寝技師”とはたとえ謀略をつかっても人から恨まれず、“ヒマワリ型政治家”の方はつねに|陽《ひ》のあたる場所に顔を出すという態度からきている。
これは、しかし、一流主義とはちがうのだ。一流主義は、既成の一流につく行為をいう。本流主義の方は、どれが“本流”になるかを|嗅《か》ぎわける能力が必要であろう。実際的にいえば“本流”になる可能性を嗅ぎあてたら、こんどはそれを仕立てる才腕や努力も必要になる。
川島流・人事を壊す法
三木武吉は、かつて総理・総裁の座を床の間の花にたとえたことがある。男子の本懐を問われるなら、床の間の花になるよりは、みずからの“|手活《てい》けの花”を眺める方がよい、というわけである。川島には、そのようなホモ的趣味はなく、彼にあるのは「力のあるものが政治を行う」という徹底した現実主義だ。
ツワイクはフーシェがタレーランやシェイエースとともに僧院という学校の出身者で、ここの出身者に共通のものは“人間学の大家”であると指摘している。
「この僧院学校の十年間にジョゼフ・フーシェは、後年外交家として活躍するに当って非常に役立った多くのことを学んだ。わけても沈黙の技術、堂に入った|韜晦《とうかい》術、心底を見抜き気持を読みとる心理学的|堪能《たんのう》」
川島にとってはこころよくない人事問題がもちあがった。彼は“川島番”の記者に「メシでも食いにゆこう」と呼びかけた。それも一人ではなく、対抗する二社の記者にである。川島、天ぷらを食べながら、ポツリポツリと人事を|洩《も》らす。記者の方も老練、「あ、ジイさん、わざと洩らしているな」と気がつく。が、ニュースはニュースである。スクープとはいえないが、二社だけが扱うニュースにはなる。「とにかく書くか」という気をおこさせる。翌日、記事が出る。党内は蜂の巣をつついたサワギだ。人事問題は、事前に洩れると、できるものでも流産する率が高い。反対派の攻撃に大義名分みたいなものが加わる。結局、川島の洩らした人事はコッパ|微塵《みじん》になった。後日、川島は会食した記者と顔をあわせたとき、なにごともなかったようなふうで「やあ、コンチワ」といった。
もうひとつ、ツワイクのフーシェ論をつけ加えておこう。
「誰かが世界の|檜《ひのき》舞台に乗り出そうとする時には縁の下の力持になってやるが、最後の決勝点に入る瞬間に、かつての友を裏切って地上に引き倒すのも、まさに彼に他ならぬのである」
岸内閣のあと、池田・大野・石井が総裁選出馬を表明した。川島は岸内閣の幹事長をつとめ、川島派の|旗頭《はたがしら》でもある。当然、去就が注目されたが、そのとき彼がとった行動には、いまだに各説があって|謎《なぞ》めいている。
第一は最もフーシェ的な行動である。川島は、最初、大野を担いだ。「これは選手になる。いうなれば国民的人気の人である」といった。同じ岸派でも赤城宗徳は池田を担いだ。「国民的人気ということなら、池田である。あの愚直で|朴訥《ぼくとつ》なところがいい」と主張した。南条徳男は、親分の岸信介が「藤山が有望」などというので藤山派をつくった。
ところが、総裁公選にあと二、三日というところで、大野が立候補を辞退するといい出した。いったい、なにが大野に出馬を断念させたのか。
伴睦を売ったのは誰だ
河野一郎は、この|元凶《げんきよう》を川島正次郎だとしたまま、世を去っている。「川島は大野陣営の名簿を池田に渡したのだ。これでは、大野は鏡を背にしてマージャンをやるようなもので、手の内は相手にマル見えになってしまう。悪党は川島だ」というのだ。
なぜ、川島は大野を売って池田に走ったのか。河野の説明はこうだ。
石井が党人派は自分一本に絞ってくれ、といいだした。決選投票にもちこんだ場合、大野一本に絞ると、参議院の石井派の票は大野をきらって池田に流れてしまう。自分なら、完全に石井プラス大野の票になる、という。石井はこれを川島にもたのんだ。さればと川島は石井よりも池田をえらんだ。
以上が河野の説明である。が、これも素直に信用するわけにはゆかない。当時、河野は“打倒池田”に燃えていた。そこで大野を担いだが、石井のいうことを聞けばなるほどもっともである。そこで、石井一本にしぼる|肚《はら》を固め、大野派の村上勇や水田三喜男に“大野説得”にあたらせた、という話もあるのだ。こちらが本当だとすると、フーシェは河野一郎になるわけである。
投票前夜、午前二時。ホテル・ニュージャパンの大野派の部屋から川島が出てきた。彼は、出前持ちのあんちゃんのように口笛を吹きながらエレベーターを待ち、やがて誰もいない箱に乗って消えていった。この姿を、何人もの記者が目撃している。ただ、大野となにを話しあったかはわからない。確実なことは、川島派は全員池田に投票したことである。
同じ日の午前五時。永田雅一、萩原吉太郎、児玉誉士夫の三人は、「大野が出馬を断念したいというのですが、その件についてホテルまでおはこびねがえませんか」という電話を受けとった。とにかく大野を部屋に訪ねると、「石井一本にしないと、参議院の票が池田に流れてしまうそうです」と、青菜に塩の|態《てい》である。
萩原は、「バカおっしゃい。負けてもいいから最後までおやんなさい」といいわたし、側近の山口三郎を|蔭《かげ》に呼んで、「こんなくだらないことで朝早くから起すんじゃない」と叱りつけた。
萩原によると、「このとき川島派は、まだ、動いていない」という。
二日まえ、萩原は永田雅一と帝国ホテルの大野に会っていた。そこへ、川島派の“代貸し”といわれる椎名悦三郎がくる。
椎名は、幕末の科学者・高野長英こと後藤悦三郎の孫である。母方の椎名家に養子に入って姓が変ったが、川島をひき立てた後藤新平の|甥《おい》にあたり、その関係からも二人は盟友となって久しい。
大野は「川島派からは何人来てくれるか」と椎名にきいた。椎名はそのとき「いずれご返事します」と確答を避けた。そのうち大野が総理総裁分離論をいい出した。総理は池田でも石井でもいい、自民党総裁はこのワシに、というわけである。水田三喜男が真向から反対した。
その翌日、つまり投票日の前日、石井光次郎が萩原を訪れ、「私一人にまとめてくれませんか」とたのんだ。
この段階では、大野は出馬を断念していないし、川島の方もまだ動きをみせていないわけである。そしてその日、河野派の重政誠之が川島派のリストをひろげて「こいつは大丈夫、こいつはあぶない」と票読みをしているのである。
こうなると、大野の出馬断念と川島の池田支持のタイミングはきわめて微妙で、大野は推名の回答がこないことを「裏切られた」と解釈して、もはやこれまでと出馬断念に傾いたともいえるのだ。萩原説はこれをとり、「総裁選にせよなんにせよ、完全な裏切りというものはかつてあったことがない。味方になると信じていたものが来なかった、となると“裏切りだ”と感じるわけだが、じつは、それは“読みちがえ”だったともいえるのだ」と語っている。
大野は、はたして川島に「裏切られた」のか、川島を「読みちがえた」のか。それによって大野の評価も川島の評価もかわってくるはずである。
さて、総裁選が終って間もなく、萩原は川島に「一体全体、あなたは総理になる気はないのかね」と冗談まじりにきいている。川島はこう答えた。
「キミね、あたしは大野君よりよほど|悧巧《りこう》のつもりですよ」
川島の政治哲学は“情勢哲学”なのである。総理総裁なんて、なりたくてジタバタしても、なれるものではない。情勢|如何《いかん》である。その情勢を読めるかどうかなのだ。彼は、私に「佐藤四選」をこう言い切った。
「佐藤君が四選することが良いか悪いかではないんです。ようござんすか。いまの情勢下では佐藤君がやるのが適当だ、ということでしかありません」
役者になりそこなう
ジョゼフ・フーシェと川島正次郎とには、その政治的態度にオーバーラップするところがあるが、ただひとつ違うのは、その容貌と気質である。ツワイクの描くフーシェは、たとえばこんな男である。
「決して美男子ではない。いや、全然お話にならない。|痩《や》せこけたほとんど亡霊のように骨と皮ばかりの肉体、角ばった線の見える細面もいやらしく不愉快だ。……誰でも彼に会った者は、この男には熱い赤い血が|循《めぐ》ってはいないのだ、という印象を受けた。……女にも賭博にも気を向けたことはなく、酒も|嗜《たしな》まないし、|贅沢《ぜいたく》は嫌い、筋肉を動かしたこともなく……」
このクダリを川島にあてはめると、まったく正反対になる。
美男子である。子どものころ、|葭町《よしちよう》の「堺家」という置屋に与太郎、ぽん太郎という芸者がいて、この二人が正次郎をわが子のようにかわいがり、しょっちゅう真砂座という芝居小屋に連れていった。|座頭《ざがしら》が大谷馬十。新派の河合武雄の実父である。その馬十が正次郎の目鼻立ちと利発さに目をつけて、「養子にもらってみっちり芸を仕込みたい」と彼の伯父に談じこんだ。
かわいいといわれれば余計手放したがらぬが肉親の常である。「そりゃいけません」とことわったため、正次郎、役者になりそこなっている。
川島が政友会から選挙に出るとき、千葉県一区選出の柏原文太郎が地元の有力者の間をひきまわした。柏原は目白中学の校長から代議士になった変り種で、愛知揆一の叔父にあたる。この柏原に連れてこられた川島を一目見て、「めっぽういい男じゃねえか」とおどろいたのが中村勝五郎(日本馬主協会会長)である。中村によると、江戸っ子の二代目三代目はすっかり|脂《やに》っぽくなったが、川島は江戸の水で洗い抜いたというイキさがあったそうだ。
死という言葉が大嫌い
写真で見る川島は、半透明の枠の眼鏡をかけ、小さな眼をくぼませ、いつも平板な顔立ちになっている。三木武吉や河野一郎のように、見るからに一癖も二癖もあるといった、“|苦《にが》み”みたいなものがない。むしろ隠花植物のような薄気味わるさを漂わしている。
ところが実際に会ってみると、言葉づかいから身のこなしから、これはもうイナセというよりほかにいいようのない感じで、むしろドンブリの腹掛けに|股引《ももひき》をきちっと|穿《は》いて、吉原つなぎが|裾《すそ》をとりまく|半纏《はんてん》でも着て、|雪駄《せつた》を|爪先《つまさき》につっかけた方が似合いそうなフィーリングなのだ。
「川島先生」というより「おや、|正《しよう》ちゃんじゃないかい、ま、ちょっとおあがりよ」と声をかけたくなるような、気さくな雰囲気ももっている。
八十歳まで生きた。某日、記者クラブの面々を帯同して競馬場にゆき、最終レースまでつきあって、その帰途彼が後援会長をしている畠山みどりのショーを国際劇場で見て、それから料亭で晩飯をすませてマージャン大会をひらいたものである。彼の眼底を診察した西郷眼科医によると、「眼底はきれいそのもので、血管の状態は六十そこそこの若さを保っている」という。こうなると、怪物というほかはない。
彼の健康法はこうだ。かつて、金栗マラソン王に長寿の|秘訣《ひけつ》をきいたところ、「一日に一回、こうして筋肉を使っていれば老いこむものではありません」と教えてくれた。そのあと久原房之助に健康法をきいたら、「老人になったら、身体を動かさず、しずかに一日をおくることです」と答えた。
「この両方を聞いて、あたしは、結局、健康というのは健康を考えないことなんだ、と悟りました。人間、要するに、したいことをしていれば|永保《ながも》ちするものであります」
したがって、彼は「死」という言葉を極端にきらった。一粒種の男の子を十二歳で亡くし、それと前後して先妻も失ったことが、彼に「死」を憎悪させているともいう。永田雅一の説によると、川島が政権に執着しないのは長男を失ったためだというが、逆縁の悲しみが人生に理想の火を掲げるエネルギーを減殺することは、しばしばあることである。
こんなふうだから、「誕生日」を口にされるのも嫌いで、七月十日にお祝いをもっていってもニコリともしなかったそうだ。
このように見てくると、川島は年齢的にも手腕の上からも、日本政界の“元老”として収まり、浦安の舟宿でも改築して、そこで悠々自適の生活を送っても、おかしくない地位にある。ところが、彼はその正反対に、きわめてコマメに動くのである。電話も自分でダイヤルをまわしてかけ、料亭の部屋も自分で予約するようなことをする。
前述の畠山みどりのほか、後援会長をしているものは三波春夫、北の富士。それにプロレス協会と江戸火消保存会の会長をつとめ、専修大学(彼の出身校)の総長でもある。以上は肩書ばかりではなく、会合があるとかならず顔をみせ、北の富士の化粧まわしをつくるときは加藤栄三、東山|魁夷《かいい》の両画伯を土俵下につれていって見学させたうえ、帰りに三波春夫のショーにまで|相伴《しようばん》させたものだ。
こんな話もある。千葉県下である男が自動車のポンコツ屋をひらいた。いま流行のカーベキューである。ちっぽけな町工場だ。が、親の代から川島ファンである。「工場びらきに顔出してくださいよ」と中村勝五郎がたのむと、川島は「あいよ」と立ちあがり、自動車で行ったのでは京葉道路が混むからと、地下鉄の東西線に乗って西船橋でおり、そこからタクシーで駈けつけたという。
以上のような身のこなしは、江戸っ子本来のものではないかと思う。
川島は行徳と市川の間にある河原という町に生まれ、選挙区も千葉一区であるが、父親を早く失い、伯父が日本橋に出した|鼈甲《べつこう》店で育ち、久松小学校に通っている。そのときの同級生が川柳の川上三太郎、中央青果社長の藤浦富太郎で、この藤浦は江戸っ子のチャキチャキといってよく、例の名人「円朝」の名を預かっている人物だ。久松小学校を卒業してしばらく店の手伝いをしていたが、父親にたのんで夜間の正則英語学校に通った。この学校は神田今川橋にあり、ここもまた下町っ子が集るところである。
川島は「江戸っ子とは常識家のことです」といっているが、これは多くの“江戸っ子論”の中でも、もっともよくいい得たものであろう。
江戸は、いうまでもなく、権力の集合地として開発されてきた。江戸の町人たちは、徳川幕府と大名屋敷の消費を中心として発展してきた。彼らの金科玉条とは「将軍家御用|達《たし》」であり「水戸様お出入り」である。権力の威光にすがることが商道発展の|兆《しるし》になる。この態度は町方の民衆にもおよび、火消し人足も「加賀様お抱え」なら|角力《すもう》取りも大名のお抱えで、いずれも“お屋敷”のメンツを重んじる生活意識がつよい。
常識家の和製フーシェ
これに対して、上方商人の金科玉条は「始末・算用・才覚」である。始末は資本(もとで)、算用はソロバン、才覚はアイディアというわけだ。ここには経済外要素は|微塵《みじん》も入ってこない。江戸商人が「将軍様」を拝むのに対して、上方商人は「利益」にひれ伏すのである。
江戸っ子は、このような権力のヒエラルキーの中で成長した、と私は思う。したがって、彼らにとって望ましいのは体制の維持であり、変動よりも安定、革命よりも手直し、ゴテ盛りの装飾よりも江戸小紋、|根付《ねつけ》や留め金にあしらった目立たない|贅沢《ぜいたく》さである。この文化的表現が、彼らの意識に|含羞《はにかみ》のブラシをかけ、人を|顎《あご》で使うよりも自分をコマメに働かせ、突飛な考えよりも眼のゆき届いた常識を|涵養《かんよう》させたのである。
明治維新で、天皇が江戸に進駐してくるときまったとき、江戸の板塀に「江戸の豚京都の|狆《ちん》に追い出され」という川柳が|貼《は》りつけられた。徳川|慶喜《よしのぶ》が新しがり屋で真先に豚肉を食べたところから、将軍は“江戸の豚”になったわけである。
しかし、明治政府が完成すると、江戸っ子はこれにたわいなく順応した。将軍様にかわって天子様が、大名にかわって薩長の官員が支配者となっただけの話である。
川島が「江戸っ子は常識家です」と評した裏には、四百年にわたる庶民の生活態度がこめられているのだ。そして、川島もまた彼の言葉どおりに“常識家”なのである。いってみれば、彼はフーシェ的要素を多分にそなえているが、実体は“江戸前フーシェ”というところであろう。だから彼は、フーシェの近似値にとどまって、|妖僧《ようそう》ラスプーチンにならなかったのである。
日航ハイジャック事件で“男”をあげた山村新治郎は二代目代議士であるが、彼の父親は河野派(春秋会)に属していた。
河野が三木武吉と図って吉田自民党を|脱《ぬ》けたとき、初代山村新治郎もいわゆる“七人のサムライ”の一人として加わり、明治座の支配人だった新田新作と懇意だったところから、千葉銀行の古荘四郎彦頭取から多額の資金を引き出していた。山村家自体も、佐原の|由緒《ゆいしよ》ある穀物問屋で、その地方では名門中の名門である。そこで山村も自分で金を|工面《くめん》して河野・三木ラインの|金櫃《かねびつ》を一手で賄っていたものである。
ところが、鳩山内閣が成立して河野は顕位顕職についたが、山村は一向に芽が出ない。そのうっぷんが、料亭「中川」でひらかれたダービーの前夜祭に出た。酒に酔って「河野さんもひどいや」と山村がこぼすと、当時、河野の|寵愛《ちようあい》を一身に浴びていた安田善一郎(農林省経済局長)が「おめえみたいなイナカものに文句があるか」とからんできた。
この一件で、山村新治郎は春秋会を脱けて川島の交友クラブに投ずる。川島はすぐに山村を行政管理庁長官にしてやった。世にいう“〇・五大臣”ではあっても大臣は大臣である。「ありがてえ話じゃねえか」と涙をこぼしながら、山村新治郎はまもなく、他界した。このとき、川島はみずから葬儀委員長になって、山村の葬式を佐原小学校で行い、時を移さず長男にまるごと襲名させて、そのまま選挙戦に放り出している。
さて、その二代目“山新”が身代りとなって平壌に入ったとき、川島は赤城宗徳とともにモスクワにいた。真夜中に愛知外相から電話が入り、赤十字社を通じて日本人乗客の身体保護を図ってもらうようにとの要請である。川島は、時をうつさずクズロフと折衝を重ね、ほとんど一睡もしなかった。やがて、川島や赤城のモスクワ滞在日程に限度がきた。「かえりましょう」と促されると、川島は椅子の上で腕を組み、きっぱりといったものだ。
「あたしゃ、山村が無事に帰されるまで、モスクワから動きませんよ」
川島は、日航機は朝鮮民主主義人民共和国に没収され、乗客の身柄はモスクワ経由でかえされると思っていたらしい。これは誤算で、山村らは平壌から羽田に帰りついた。二日おくれて、川島はモスクワから羽田に降り立った。迎えに出た“身代り新治郎”に、川島が「あたしは、おまえが帰るまで帰る気はなかったよ」というと、新治郎、川島の胸に泣き伏したという。ほんとうはそれほどでもなかったのだろうが、どうも川島正次郎を取りまくエピソードは明治座か新橋演舞場むきになってしまうのである。
自衛隊は出動準備せよ
考えようによっては、川島のこうした行動は彼の“副総裁”という地位とバランスがとれていないかのようにみえる。派閥の大将だけなら子分の安否に生命を賭けるのもいいだろう。が、いやしくも与党の副総裁なのである。
しかし、これは川島の中ではなんら矛盾していない。彼は人間の常識をふんでいるだけなのだ。ここから、彼の|直截《ちよくせつ》的な行動も出てくる。
六〇年安保のとき、川島は岸内閣の幹事長として国会議事堂の窓から三十万人の渦を見ていた。岸首相は官邸にいた。群衆の流れが首相と幹事長を分断している。このとき川島は国会をひそかに脱け出すと防衛庁に入っていった。長官室に赤城がいるのを見ると、彼はすぐ陸・海・空の幕僚長を招集せよといった。三幕僚長が長官室に集ると、川島は、
「国会周辺の群衆を自衛隊の力で排除できないか。自衛隊の出動準備はできているか」
と|訊《たず》ねた。これには三幕僚長がおどろいて、「自衛隊の装備は警官のとは質的にちがいますから、群衆鎮圧にはむきません」と、ことごとく反対した。なぜ、川島は自衛隊に出動準備を要請したか。彼はこう語っている。
「当時の警官は|拳銃《けんじゆう》を除けば丸腰同様であった。短い警棒一本だ。もし群衆が本気で暴れ出したら、警官はひとたまりもないであろうと読みとれたからだ」
これは単純明快な論理である。論理というより、ごくふつうの常識である。
彼は“選挙の名人”といわれているが、これには傑作な“選挙哲学”がある。「二つのことさえ守ればいい」というのだ。
第一は、候補者の人気を序盤・中盤・終盤と次第にあおっていって、人気の頂点を投票日にあわせることだ。早くあおりすぎて、投票の前に人気の頂点がくると、投票日には下り坂がぶつかってしまう。
第二は、演説の内容だ。候補者は壇上に立ったとき、常に会場に集っている聴衆が頭の中で考えているようなことを|喋《しやべ》ること。そうすれば、聴衆は、「この候補者は自分と同じような考えをもっているのだ。この人を国会におくりこめば自分の考えの一端が実現できるだろう」と考えるものだ。
この“選挙哲学”からもわかるように、川島の“常識”は論理とか体系とかを持たない、どちらかといえば大衆の皮膚感覚に近いものといえる。川島を動かしていたものは、この“常識感覚”がとらえた自民党自身の危機感である。
ひそかに抱く危機感
彼によると、戦前の政友会は一口に党員五百万といわれていた。ことほどさように、政党は大衆基盤の上に成り立っていた。ところが、戦後、GHQによってこの基盤は崩され、その上にいた代議士は追放された。国会が先にできた。その椅子を埋めるために代議士ができた。戦前とくらべると、現在の政党は代議士がえらばれてから党員をつくるというふうに、逆ピラミッド型になっている。自民党がその典型だ。
川島は「一九八〇年は自民党は共産党と対決せざるをえないだろう」という。共産党は、戦前の政友・民政両党のように底辺に大衆層をもっている。しかも、それはソフト・ムードでひろがりつつある。また、大学紛争にみられるように、日共は暴力集団と戦い、大学封鎖を内側から解き、事態の収拾に努力しているではないか。自民党は、いったい、日共ほど積極的に大衆と対話をはじめているだろうか。
前にも紹介したように“選挙の名人”といわれた川島でも、習志野にできた団地に対しては、票が読めずに弱りぬいている。四十四年暮の選挙で川島がトップで当選したとき、これは珍しいことではないのに、川島の妻がテレビの前に泣き伏したという話がある。やがて都市化がすすみ核家族が多くなってくると、自民党もいまのままではすまされまい。
だから彼は「選挙区制の改正」とか「政治資金規正法の整備」を、つねに唱えてやまないのである。
また、彼は台湾と韓国にはある程度の距離をおいている。台湾にはたびたび招請されたが、一回訪問しただけである。これは、彼が中華人民共和国への見とおしを持っているためで、昨年、伊豆で行われた日米合同委員会では「中国を国際社会に復帰させる方向で日本も努力すべきだ」と演説して、注目をあびている。毛沢東・介石の時代はそうは永くない。つぎに周恩来・経国の時代になったらどうなるのか。それを考えると、川島は韓国ロビイや台湾ロビイにつながる代議士がいまいましくなってくるのだ。
このような“危機感”をひっくるめたものが「佐藤四選」である。理由は二つある。
第一は、佐藤・ニクソン会談で双方が約束したことを、佐藤首相が忠実に実行すること。ことに沖縄を「七二年・本土並み・核ぬき」で復帰させること。
第二は、佐藤が四選を断念すれば、福田・田中・三木・前尾が立候補して、そうとうな激戦になるだろう。実弾(現金)も|取沙汰《とりざた》されるにちがいない。一方、国内では公害が話題になり交通事故は毎日のことである。その結果、社会的緊張は高まる一方だ。そこへ総裁選挙をやってみせることは、国民のコンセンサスを失う以外の何物でもない。
それだから、現体制のまま政治をおこなって、改めるところは改めようじゃないか、となるわけだ。
川島がこの“佐藤四選”を決意したのは四十四年の暮、自民党が三百二議席を獲得したときで、その場で佐藤首相と黙契を交わしたという説がある。自民党の大勝は彼らにも意外とするところで、この大勝をそのままコンクリートなものにして保守党百年の基礎をきずくには、急激な論争を避けて安全運転第一でゆこうとの考え方から出ているのだともいう。たとえはわるいが、肺にできた空洞を外科手術で切除しないでそのまま固めてしまおうという作業にも似ている。
この安全運転第一主義は、たしかに現代の状況がそれを必要とする面もあるだろうが、やはり川島の政治家としての体質がものをいっている。
周恩来との約束
彼には、名人上手といわれた大工が幅四寸の大カンナをひと息に使いこなすように、政治もカンとコツが必要だという観念がある。
川島正次郎は、いうなれば政治の“職人芸”に徹しているのだ。大工の|棟梁《とうりよう》の資格が“墨つけ”にあるように、川島も自分の図面については絶対の自信を持っている。
昭和四十年、バンドン会議十周年へ日本政府代表としてインドネシアにわたった。健在だったスカルノはその席で川島を周恩来にひき会わせた。そこで彼は「これからは政治的な体制を超えて国と国とがフランクに話しあいを進めようではないか」と周恩来にもちかけ、二人の間で「つぎの年にアルジェリアで具体的に話しあおう」という約束をとりかわした。いってみれば、単なる口約束であるが、川島はいずれこの約束は実現させたいと願っていた。
しかし、このとき川島は「日本はうかうかしていると、インドネシアを中共に近づけることになる」と感じてもいる。これはいかにも川島らしい直感力で、第一に“わがデビ夫人”は火曜日から金曜日までスカルノといっしょにいるが、土曜日から月曜日までの休日中はスカルノは第二夫人といっしょで、この第二夫人が中共派だということである。つぎに、スカルノ大統領の身辺を見たところ、中共から送りこまれた十数人の漢方医が彼の健康管理にあたっており、日本が接近しようにもどうしようもない“白衣の壁”が感じられたのだ。
このジャカルタ訪問と前後して、インドネシアのスバンドリオ外相から賠償の前払いという形で、ジョクジャカルタ、サムデラ・ビーチ、バリ島の三カ所にホテルを建設してほしいという話が持ちこまれた。この話の仲介に立ったのは、例の木下産商で名を|馳《は》せた“豊島グループ”である。川島はこの話を聞くとすぐ、小坂外務、水田大蔵、佐藤通産の三大臣に話をつけ、これを実現させている。
ほどなく、インドネシアに“九・三〇事件”がおこり、共産党に支持されたウントン中佐がヤニ将軍ら七人の軍首脳を血祭りにあげたが、それも束の間、すぐスハルト将軍の反撃にあって|潰滅《かいめつ》した。この九月三十日から十月二十日までの三週間、スカルノ大統領とスハルト将軍の立場はまったく均衡し、国民はどちらについてよいか|戸惑《とまど》った。各国の大使館も、しばらく模様ながめの態度をとり、一切の手出しをしなかった。
このとき、日本政府は「スカルノは三カ月後にはまきかえすであろう」という現地からの報告により、六百万ドルの衣料援助を行ったのである。しかし、この金はビタ一文、現地の民衆の手にわたらなかった。本来ならば、ブアサ明け(断食明けのインドネシア正月)に着る|衣裳《いしよう》が購入されるはずであったが、スバンドリオが途中で握ってしまい、これをバリサン・スカルノ(スカルノ独立青年戦線)の装備編制費にあててしまったのだ。このとき、スハルト将軍の密使も東京に潜行し、タスマットハルを先頭に米の緊急輸入を懇願して歩いた。彼らはシリワンギ師団のウィトロ将軍の配下で、もしこちらに米の都合をつければ、日本はスハルト将軍にもつよいパイプを通ずることになる。結局、この米の緊急援助は成功したが、それは政府がやったのではなく、ある民間人のグループが香港とバンコックを中心に仕事をしたのである。
川島がインドネシアのホテル建設に力を|藉《か》したのは、彼の図面の中に「非同盟国との親交」という間取りがあるからだろう。彼は、インドネシアのほかにも、アラブ連合のナセル大統領と会い、個人的な親交を結んできている。こういうところは彼の“お家芸”で、政府間で|鹿爪《しかつめ》らしいやりとりをしている間を縫って、すいと相手のフトコロにとびこむのがうまいのだ。
ところが、インドネシアの“九・三〇事件”以後の動きのように、川島と親交を結んだ相手がひっくりかえってしまうと、彼の職人芸も実を結ばなくなるわけだ。
また、名人上手の世界ではその技術の後継者がなかなか見つからないのが共通の悩みになっているが、川島の場合にもそれがあてはまるであろう。彼の政治技術には政治家生活五十年に近い歳月がかかっている。企業の工場などでは、名人芸は分解されて高卒の工員にもできるように標準化されているが、政界の技術だけはどうしようもない。
政界の“無形文化財”
妙ないい方をすれば、川島正次郎は政治家の“無形文化財”だった。
だが、この無形文化財たるゆえんそのものが、自民党内の若手政治家にはなんとも|苛立《いらだ》たしい、旧弊なシロモノに映るのである。彼らは、あるときは「自民党の必要悪」とよぶこともある。そうはいっても、川島の“読み”と“演出”は名人芸で、足元にも及ばないことも認めているのだから、ストレスはよけいひどいわけだ。しかも、政界編成となると“川島派”は端倪すべからざる存在となる。
川島によると「派閥の経済単位」というのがあって、「交友クラブ」のように二十人くらいの規模が選挙の面倒も見きれるし、意見も統一しやすいので、もっとも効率的だということだ。
某派の師団長が「たのむから私の派をひきとって下さい」とアタマを下げてたのんできたとき、川島は「これ以上大きくしたくありませんから」とにべもなくことわったという。このへんが職人・川島正次郎である。ふつうなら、この派閥も吸収して“大勢力”を誇るところだが、それでは図体ばかり大きくて動きがとれないとの判断なのだ。
ところが、この政治の職人は会社をやらせるとまるでダメらしい。彼は追放中に三海水産、山王建設など会社をやったが、見事に失敗している。この間の生活をみていたのが正力松太郎と高橋|雄豺《ゆうさい》の“内務省グループ”で、とくに高橋(読売新聞顧問)は警保局につとめていたとき、属官として入ってきた川島と机を並べて仕事をしている。川島によると、高橋は陸士中退の変り種で高等文官試験をとるために猛勉強をしていたので、「あたしがキミのぶんまで働くからしっかりおやんなさい」と、仕事をひきうけてやったという。高橋の回想では川島は文学書をかなり読んでいたそうだが、旧友の黒川鍋太郎は「川島の真骨頂は俳句にあった」という。
「政治なんて一寸先は闇」
川島は正力・高橋とともに船橋競馬場と川口オートレースを手がけていたが、追放解除とともに政界に復帰した。そのとき「政治家になったのだから事業はやめて学校をおやんなさい」と迎えにきたのが、専修大学理事長の森口忠造である。森口は川島家の書生をしながら専修大学を出て毎日新聞に入り、事業部長までいって母校にかえっている。
そこで川島は総長になったが、不思議なことに、この学校にはまだ“紛争”らしいものは起きていない。森口によると、ここにも川島の“先読み”が効を奏していたという。数年まえ、左翼学生の間から「学士認定の証書に総長の名があるのはおかしいではないか」と声があがった。川島はそれを聞くと「すぐ、とれ」と森口に命じた。森口が「これをハズすと左翼をつけあがらせるし、反左翼の結束にも悪い影響がありますから」と反対すると、川島は猛烈に怒った。
「あたしの名ひとつくらいでガタガタするような反左翼同盟なんていらねえ。おまえも、そういう了見では学校をやる資格はないよ」
川島はまた“六○年安保”のとき、国会へ行こうとする学生たちをまえに、「あたしは安保内閣の幹事長でここの総長だが、キミたちが安保に反対するのは自由だ。ただ、行動をおこすまえによく条文を読んでいってくれ。それが学生というものじゃありませんか」と演説した。これで国会ゆきの学生は半減したというが、以上の二つのエピソードは、川島の大衆政治家の体質を語るものだろう。その彼の口癖がこうだった。「政治なんてものは、キミ、一寸先はヤミでござんすよ」。
[#改ページ]
財界の鞍馬天狗・中山素平

明瞭かつ剛直
中山素平の|曾《そう》祖父は要右衛門といって、島原七万石の城主・松平|駿河守《するがのかみ》の御用商人であった。
天保の大|飢饉《ききん》のとき、駿河守は地元の実力者をあつめて、|義捐金《ぎえんきん》の|醵出《きよしゆつ》を申し渡した。中に一人、「その儀はお取り下げ願います」と、|肯《き》かぬ者があった。中山要右衛門である。駿河守が「なぜか」と|訊《たず》ねると、要右衛門はこう答えている。
「困窮の民に義捐金を与えることは、一時しのぎにはなっても、怠け者をつくります。困ればまた寄付がくると思うようになりましょう。されば、この際、百姓町人をとわず新田開墾にあたらしめて食糧をつくるべきですが、これに従事した者には老若男女を問わず、同額の日当を支給し、働けば食えるという気性を養うべきです」
駿河守はこの申し出を採用して開墾にあたらせ、どうにか飢饉を切りぬけることができた。この開墾地はいまでも「三好屋新田」という名で島原市内に残っている。
この話は、素平の弟、中山|要《かなめ》(日曹油化副社長)が、島原の郷土史誌の中に見つけたものである。彼はこれを読んだとき、「兄貴は曾祖父の血をひいているのではないか」と思ったそうだ。
たしかに、「寄付」よりも「開墾」という思想は、今日の経済界の指導者がもっている「福祉国家」より「福祉社会」という哲学と|揆《き》を|一《いつ》にしている。イギリスや北欧のような保障型社会はかえって勤労意欲をなくさせるから、むしろ「高所得・高負担」の積極的な社会をつくろうというわけだ。
中山素平などは、このような積極的な考え方のチャンピオンといっていいだろう。一般には親子や兄弟の間ではお互いの思想に共鳴しにくいものであるが、素平と要の間にはともに経営者であるという共通項が、弟の共感をひきおこしたともいえる。いや、それ以上に、中山素平の経済人としての哲学が明瞭かつ剛直であったといったほうがいい。
独り孤塁を守る
中山素平の印象は、背広を着た|鞍馬天狗《くらまてんぐ》である。映画やテレビに出る鞍馬天狗が、いずれも男前で長身・|痩せぎす《ヽヽヽヽ》なように、中山素平もスマートである。しかも、海運再編成、日産・プリンスの合併、証券恐慌の際の日銀特融問題、八幡・富士両製鉄の合併というふうに、経済界に危急存亡が伝えられると、かならず姿をあらわして問題を解決する。その間の動きが迅速果敢、神出鬼没、さらに問題を解決したあと、後も振りかえらずに立ち去ってゆく姿は、いよいよもって鞍馬天狗を|髣髴《ほうふつ》とさせる。
しかし、中山素平が鞍馬天狗を思わせるのは、以上のようなアピアランスとビヘイビアだけからではない。より本質的にはその立場が似ているのである。
鞍馬天狗こと倉田典膳は、新選組と対決したり桂小五郎と密談したりするので、一応は勤皇討幕の立場に立っているのだが、いつもひとりで行動し、勤皇藩にも討幕派にも属していないのだ。もちろん佐幕派でもないが、勝海舟などとは|胸襟《きようきん》をひらいて話しあうこともある。いってみれば、彼はいつでも、特定の派閥やイデオロギーにある程度の距離を保ち、天下国家の利益と直面するという態度をとっている。そして、問題解決のためには、|公卿《くぎよう》や浪士や町人の力をうまく活用するという、幕末時代のシステム・エンジニアなのだ。彼のシステムの中では、黒姫の吉兵衛やちょび松のような未組織労働者もサブ・システムとなりうるのである。
中山素平は興業銀行の頭取・会長をつとめ、経団連の幹部でもある。その立場からいえば、資本家陣営に属するわけであるが、その発想や行動はカチカチの資本家とは程遠いものがある。三つ四つ、経済人としてのエピソードを並べてみよう。
終戦直後、経済界の有志で「企業協同体研究会」というのができた。薄暗い電灯の下で「日本をどう再建するか」が熱っぽく語られていた。中山はその会合でこういった。
「これからは資本主義だけでは食えませんよ。頭脳が価値をうむ時代です。その価値に資本と労働を結びつけなければだめです」
昭和二十八年の頃だ。中山は興銀から開発銀行の理事として出向していたが、ある座談会でこういっている。
「防衛生産を、経営者というか産業側が取上げる時には、不景気を回避しよう、ということで取組んでいるんですね。これは非常に危険です。防衛生産にしても見透しがなければやるべきものじゃない。国を誤ることになると思うんです」
近くは新日鉄の合併話が出たときだ。この話は、最初、八幡製鉄の社長だった稲山嘉寛が口火を切った。昭和四十二年の半ば、稲山は富士製鉄の永野重雄をおとずれ、「鉄鋼業界の景気変動はどう考えても無益な競争が原因になっている。これでは日本経済も落ち着かないと思うがね」と相談をもちかけた。稲山によれば「永野という男はとにかく気の早い男」で、稲山の言葉をきくとすぐ「これからすぐ中山さんのところへ行こうや」と腰を浮かせた。中山が会長をしている興業銀行は、八幡・富士両社へ融資している幹事銀行である。
「それはいいところに気がつきましたね」と、中山は二人の話を聞くといった。「やはり日本経済の中に安定勢力というものがなければ、国際的な進歩についてゆけませんよ」
それから中山は興銀の中に独自の調査室をつくり、両製鉄が合併した場合をあらゆる角度から研究した。やがて稲山は「中間報告をしたいから」と連絡を受けた。
「例の合併の話ですが、いろいろ検討した結果、むずかしいと思います」
中山は引導を渡すようにいった。理由は「独禁法というタテマエがあるので、たとえ国家的にみてメリットがあっても、世論の支持をうることはまだ困難です」というのである。
最後にもうひとつ。昭和三十七年、頭取だった中山は、興銀創立六十周年の記念事業として、東南アジアの発展途上国にある金融機関から係長クラスの人間を“|練習生《トレイニー》”として迎えることにした。練習生は二十人ばかりで、日本に滞在中は丸の内ホテルに泊らせ、滞在費一切の面倒を見るのである。これは今日でも続けられている。
以上のエピソードを通じて流れるものは、むしろクールな理性である。資本の擁護とか自由主義の堅持といった価値判断が、さわがしく先行していない。
「新日鉄誕生」の際は、後で述べるように、財界応援団が一人去り二人去りして、ときどきの会合も通夜の席のようにしめっぽくなったが、このとき中山だけは「私一人でもやります」と信念を|枉《ま》げなかった。この話をつたえ聞いたある財界の長老は、「|素《そ》っ|平《ぺい》ひとり孤塁を守る、か」と長大息したそうだが、中山はヤブレカブレになっていたわけではなく、「世論の支持を受ける」ための根回しをめぐらせたうえで孤塁に|倚《よ》る覚悟を見せたのである。
東南アジアからの“練習生”の受け入れも、今日でこそ経済界の問題意識にのぼってきているが、中山は八年もまえに、経済援助はそれを与える国の社会構造への挑戦を伴わなくては無意味であることを知っていたのだ。中山のこのような考え方とか行動とかは、興銀という中立性のつよい銀行の性格からきていると説く人もある。たしかにそれも理由のひとつであるが、中立性というなら、経済官僚の中立性がいちばん密度が高いはずである。
三つのS・Cが……
中山素平が鞍馬天狗に似ているのは、その中立性ばかりではない。彼の資質にあるものは“パァ・ゴルファー”のそれである。“パァ・ゴルファー”とは一ラウンドをパァでまわる人のことで、別名を“オールド・マン”という。ゴルフに興味のない人なら、オールド・マンとは慎重な熟練者と思っていただけばよい。さて、パァ・ゴルファー、つまりオールド・マンは三つのS・Cがみとめられる。
自己抑制( Self Control )
自  信( Self Confidence )
自己集中( Self Concentration )
人物の印象でいえば、「声の調子をかえず、あわただしい動作をしない」男である。
中山素平の実際のゴルフは、筆にするのを|憚《はばか》るほどひどいもので、|湊《みなと》守篤(日興証券取締役・相談役)は「あの人のゴルフは永久にうまくならない」と断定さえしている。その中山の資質を語るのに“パァ・ゴルファー”をあてがったのは、彼の生涯の最大の皮肉になるかもしれないが、この資質が現代の鞍馬天狗を思わせるのである。
鞍馬天狗がうけるのは、男前もさることながら、静かで老練で時代の潮流を見すえているからである。その結果、幕末の動乱にまきこまれないで、身近にいつも涼し|気《げ》な風が立っている。大衆が求めているのは、あぶな気のない、問題解決者なのだ。
中山素平にもそういうイメージがある。経済が巨大化し、社会関係が複雑になると、権力や心情だけでは解決できない部分が出てくる。いままでの日本は、あるときは“行政指導型社会”であり、あるときは“金融指導型社会”であった。が、今日では経済の発展のちょうど裏側で、公害・住宅難・交通事故・物価高・社会にコオプできない人間の出現など“|不経済《デイス・エコノミー》”とよばれる副産物がたくさん出て来ている。これらは、政府だけの力でも解決できないし、また金融資本が取組んですまされる問題でもない。要するに、いままでの機関や方法を延長しただけでは、問題解決にあたれぬ情勢が展開しつつある。この情勢が、現代の鞍馬天狗を要求し、中山素平にそのイメージを重ねつつあるといえるだろう。
“双葉ヌキ”の栴檀
もっとも、彼は“極めつきの秀才”であったわけではない。兄弟も中学(麻布中)の同窓生も「彼が興銀の頭取になろうとは夢にも思っていなかった」と、口をそろえていうのである。
彼は、昭和四年に東京商科大学(現・一橋大)を出て、興業銀行に入っている。金融恐慌の直後で、経済界は沈滞しきっているときだ。興銀もご多分に洩れず、新入社員の採用は、大正十四年、昭和二年、昭和四年と、一年おきにしかとらなかった。だから、中山が昭和四年をどちらか一年ずれていたら、“興銀の中山”あるいは中山鞍馬天狗は出現しなかったかもしれない。
同期生は二十四名で、目ぼしいところでは日高輝(山一証券社長)、石井一郎(日産化学会長)、鈴木太郎(山陽パルプ社長)、それに東京商大から一緒の川又克二(日産自動車社長)がいる。佐々木恭太郎(新日本証券社長)が、戦後、興銀の人事部長になったとき、ひそかに昔の考課表をひき出して“先輩”たちの成績を眺めたところ、昭和四年組のトップは日高輝で、中山は“マァマァ”のところにいたという。
新入社員は「第六号応接室」に入れられて、簿記とソロバンの実習をうけた。この専任教官が経理課長だった鎌田正明(国民金融公庫相談役)で、彼は|栗栖《くるす》赳夫や工藤昭四郎なども仕込んだベテランであるが、中山の印象を「とにかく物静かで老成しており、どこか見どころのある青年だった」と語っている。もっとも、将来の大物を扱いつけてきた鎌田も「しかし、頭取になる人材とは見ぬけなかった」といっている。
「|栴檀《せんだん》は双葉より芳し」というが、つまり、中山は“双葉ヌキ”の栴檀であったわけだ。
中山のこの地道な印象は、おそらく、彼の生い立ちから来ているものと思われる。弟の要によると「家貧しくして孝子出づ」の典型みたいなものだとなるが、彼の父はなかなかのハイカラで、明治の初期に梅干を入れたニギリメシを肩から背負ってアメリカに留学している。帰国後、門司で石炭を扱い、それから上京してアメリカのエクィタブル生命保険会社の極東支配人にまでなった人物だ。
ところが、中山が十二歳のとき父は盲腸炎で急死してしまい、それから一家は気丈な母の切り盛りでなんとか生活を続けるようになる。麻布中学の同級生だった山路平四郎(早大教授)によると、中山の学生服は|襟《えり》の部分の色が変っていたそうだ。これは服を裏返しに仕立てなおしたときに出る色である。
一家は芝の寺の境内に住んでいた。境内にはいくつも家があり、中山家はいちばん奥の右側の家だったが、左側にはかつての日本共産党中央委員、というよりプロレタリア芸術論で知られた蔵原惟人が住んでいた。
弊衣破帽に反感が
中山は、父の急死を見て医者になろうとし、ドイツ語のあった府立一中を受験してパスしたが、叔父の松本武平というのが「ドイツは欧州大戦で完敗したからドイツ医学はハヤらない」と反対したため、一中のすべりどめに受けた麻布中学に入学している。
彼は七人兄弟で六人が男だが、これがぜんぶ私立中学に入っている。たった一人の姉だった愛子も東京女学館という派手な私立女学校に進学している。中山とはごく近い|親戚《しんせき》にあたる佐藤美子(声楽家)によると、彼の母親は行儀作法の行き届いた、折目の正しい婦人であったが、その反面ひじょうに近代的で、大正の中頃から子どもたちに“ママ”と呼ばせていたそうだ。
中山が商大を受けたのは、高等学校の|弊衣《へいい》破帽に反感を抱いたためだという。あれもおしゃれの一種で、そういう自己顕示をする人間をひどくきらう性格がこのときに芽生えている。それというのも、父の没後、中山はすぐ下の弟の舜吾と家計の管理に当っていたからだ。
「素平さんは兄弟の中でいちばんツマラナイ人」とは佐藤美子の批評だが、長男の俊夫(東京電力相談役)、次男の克己(建築家)は、素平とは正反対の豪傑|肌《はだ》で、行動の振幅が大きく、語って飽きさせない人物だという。とくに建築家の中山克己は、日劇の設計やホテル・ニュージャパンの内装の設計をしてきているが、戦後はバーの設計が多く、「おれはアーキテクトというよりバーキテクトだ」と、さかんに気炎を挙げている。この二人の兄は、素平が興銀頭取として名を挙げてきてから、世間に「素平の兄さん」と紹介されるのが残念でならぬという。ちょうど、石原慎太郎が「裕次郎の兄さん」、遠藤正介(近畿電気通信局長)が「|狐狸庵《こりあん》(周作)の兄さん」と紹介されると憤然とするようなものであろう。
さて、この二人の兄は社会に出ると月給をそっくり家に入れたが、その支出を管理するのが素平と舜吾であったわけだ。
素平が商大に進んだのは、高等学校の弊衣破帽に反感を抱いたためでもあるが、家計を助けるためには早くサラリーマンになろうと、最初は専門部を受けようとしている。これは母の反対でとりやめになった。
このように見てくると、寺の境内に住み、折目正しい母をたすけ、家計を管理し、弟の面倒をみ、一日も早くサラリーマンになろうと考える、これが中山素平の青春の総計になる。あるとき佐藤美子が中山家の茶の間で「頭が痛いわ」というと、兄弟はいっせいに「それ、薬の係りは素っ平さんだよ」と笑ったそうだ。このエピソードは、素平が中山家の家事の中心にいたことを物語っていると思う。
彼の唯一のレクリエイションは野球である。六大学では早稲田、プロ野球では巨人軍の大ファンで、興銀の頭取をやめるときも、「できることならセ・リーグの会長に就任したい」と冗談をいったほどだ。
彼自身も野球をやるが、見落せないのは、彼が捕手専門であることだ。興銀に入ってからも軟式野球でマスクをかぶり、東大の名投手として鳴らした高橋一の速球を受けていたというから、そうとうな腕であろう。
同期生の日高輝は「彼の野球好きは、捕手をしていながら、もし自分が監督ならここはこう攻めると思っていることが楽しいからだ」と批評しているが、これは適評である。中山自身も、“企業合併の裏方”“再編成の参謀”などと呼ばれる位置に立ってしまうのは、捕手をしながらレフトをバックさせたり、ライトをセンター寄りにさせたりして、全軍の配置をととのえるのにたまらない興味を覚えているからだ、といっている。
電照菊のような男
日高によると、興銀の内部で「中山素平というのはタダモノではないぜ」という風評が立ったのは、戦後、興銀を|潰《つぶ》しにかかったGHQと交渉して、ついに債券発行銀行としての存在理由を認めさせたときであるという。
たしかに、その時点での中山素平をとらえてみると、昭和二十二年に四十二歳の若さで理事(取締役)となり、GHQと交渉して興銀の再建に当る一方、経済同友会発足の中心人物ともなって、二年先輩の二宮善基(東洋曹達工業会長)をして「おれのところには日本そのものを考える中山というのがいるぞ」と世間にいい触らしめさせている。
中山がこのように脚光を浴びたのは偶然ではない。人間の才能の開花とか人格の形成とかは、かならず強烈な触媒剤があるもので、中山の場合はこれが昭和十五年から総裁に就任した河上弘一にあたるようだ。
河上は強烈な電光であり、中山はそれを浴びて開花した|電照菊《でんしようぎく》のようなものである。
しかし、河上を語るまえに結城豊太郎のことを語らねばならない。
結城は日銀から興銀の総裁におくりこまれ、昭和五年九月から十二年まで、その座を占めていた。河上弘一は中山に「興銀をこれだけにしたのは結城さんだよ」と語っていたそうだが、私には三つのポイントがあるように思われる。
第一は人材の整備だ。興銀は大正十四年以来一年おきに新入社員を採っていたが、結城は昭和六年から毎年採用するようにした。とくに昭和六年は不況のどん底で、大学卒は|巷《ちまた》にあふれていた。結城は「こういうときこそ、たくさんの社員を採りましょう」といった。
「経済界は、いまは行き詰まっているが、やがてかならず発展する。そのときの人材をたっぷりとっておこう」
興銀が募集すると、東大卒だけで二百人、全部で四百人が応募してきた。このうちから五十名ほど採用したが、この中には高等文官試験をパスしたものも混っていた。やがて経済が回復すると、採用を差しひかえたところが苦しくなった。結城はそれを見ると、高文合格者を大蔵省に出すなど、人材を出向させるのを惜しまなかった。これがのちになって興銀の人材配給の性格をつくっている。
第二は、証券界に対する救済融資である。金融恐慌のあと株価はなかなか回復しなかった。結城はこの救済策として二千万円を用意した。日高によると「用意したぞという声明だけで株価は回復した」という。これが、戦後の証券恐慌のとき、共同証券をつくる思想的基盤となる。
第三は、公益優先の思想である。政府から資本金の半分が出資されている。「一銀行の立場より日本にどう役立てるか」を考えろ、とこれが結城の口癖であった。中山たちは、この思想を空気のように吸ったそうだ。
生えぬき総裁の登場
結城のあとが|宝来《ほうらい》市松、それから河上弘一の登場となるのだが、河上総裁がきまったとき、「はじめての興銀生えぬきの総裁とあって一同奮い立つ思いだった」と、石井一郎は回想するのである。
結城は名総裁にはちがいなかったが、興銀マンには威圧を感じさせるものがあった。
興銀に入ってくるものは、どちらかというと、荒っぽいのが多い。昭和四年、興銀の株価は二十四円になったことがある。大学の優等生はこれを|尻目《しりめ》に見て三菱・三井・住友に入ってしまうのだ。興銀にくるのは二番手か、野性味のある連中である。サラブレッドではない。だから総裁が大蔵省や日銀から天降ってくると、“コン畜生”という気がどうしても残る。そういう心理的歴史がある興銀が、戦後は方々の会社に社長を配給しているが、石井はそこを踏んまえてOBたちに「おれたちがはじめから出先の会社に入っていたら、社長はおろか取締役にもなれなかったかもしれないという思いを忘れるな」と呼びかけている。
それはとにかく、興銀マンは昭和十五年にはじめて“プロ興銀”の総裁をむかえたのだ。結城時代は直立不動の姿勢で応答し、支店長会議でも灰皿さえ出されなかった空気が、にわかに伸び伸びとした。
二宮善基は、河上を“性善説の銀行家”として高く評価している。二宮は興銀の貸付部長だったとき、河上に|訊《き》いてみた。
「どうも、相手の会社の経営なんて、社長が感じいいか悪いかできめるようになりますなあ」
すると河上は「ああ、君のいうとおりだよ。だがネ、それを行外でいっちゃいかんぜ」と答えた。そして、ちょっぴりこわい眼をしてつけ加えた。
「社長に対する好悪感が捨てられんなら、自己修業せいよ。自分が好きだと思う人物は自分の枠にしか入らん人物かもしれんし、自分がイヤなヤツだと思う人物は、自分よりうんとすぐれているのかもわからんのだぞ」
二宮のいう、河上の“性善説”は「相手の長所をひっぱり出して育てる」という、積極的な態度に発展する。
興銀は、日産を創立した|鮎川《あゆかわ》義介をはじめ、森|矗昶《のぶてる》、野口遵などの「腕はあるが金はない」という連中に融資して、これを“新興コンツェルン”とよばれるまでに育てている。当時の興銀は、市中銀行がイギリス型の商業銀行であったのに対して、いわばフランス型の混合経済(官民共同)による銀行であったから、長期の設備資金の融通を本業としてはいたが、やはり最後は人物評価にかかっていたのである。
河上の人物評価は見事というほかはない。
中野友礼という実業家がいた。頭の回転が早く、人の意表に出るので評判は芳しくなかった。日本曹達工業の創始者で興銀の世話になり、さんざん|手古摺《てこず》らせた。興銀から役員を派遣すると追い出してしまう。借入金は言を左右にして返済しない。とうとう興銀は中野に辞表を書かせることになり、二宮がその役を仰せつかった。中野は墨をすり、紙をひろげたところで、「ちょっとお手洗いを拝借できまいか」と部屋から出て、そのまま逃げ帰った。河上総裁、自らの出馬となった。すると中野は神妙になっていった。
「河上さんが出てこられたら、もう、逃げられません。いま辞表を書きます」
“河上イズム”の実習
中山は人事部長として河上に仕えている。いわゆる“河上イズム”を、毎度、実習していたわけである。
終戦の年、昭和六年入社の松原準一を名古屋支店長にすえることになった。中山は、名古屋という大都会には松原は若すぎると考えた。たとえば第一銀行の名古屋支店長は酒井杏之助(のちの頭取)である。その旨を河上にいうと、「バカをいえ。おれは松原君の|年齢《とし》にはもっと大きなことをしたぞ」と叱られた。
戦争中、夜になると川口市のダンスホールで稼ぐ女子行員がいた。家計を助けるためという事情があるにせよ、服務規定違反である。中山人事部長、懲戒免職を具申した。河上総裁は「それはいかん」といった。
「キミ、銀行の規定くらいでお嫁入りまえの女性を傷つけることはないじゃないか。依願退職にしてやりたまえよ」
中山人事部長、まだ|諦《あきら》めずに女子挺身隊からは除名処分にした。
終戦。中山素平は戦時金融の支柱を果した銀行の人事部長として、辞任を申し出た。河上総裁はいった。
「私が責任をとるから、それまで待てませんか」
河上は酒には甘かったが女にはきびしかった。日本の銀行は昔から“床の間産業”である。融資先から酒を注がれる。
「飲んでもよろしい。酒が入ると相手の口が軽くなって、ホロッと本音をこぼすものだ。そのかわり女はいかん。品位の問題だ」
河上の訓戒である。ところが融資申込者が面会に来て、「おたくの審査部はひどいじゃありませんか。酒を飲ませ女を抱かせたのに、いざとなると融資をことわるとは|殺生《せつしよう》だ」と鼻を鳴らした。河上総裁は「なにッ」と|椅子《いす》から飛びおりた。傍にいた中山素平がとめる間もあらばこそ、河上はその男の首を両掌でシメあげ、声高に叫んだ。
「うちの行員は酒は飲むかも知れんが、女には手をつけんぞ。貴様、その嘘を取消さないかぎり、この手を離さんぞ」
中山は、河上の部下に対する信頼、愛情を感じて、口もきけぬほど感動する。
戦後、河上はみずから興銀を退いたが、GHQから追放の追い打ちをかけられ、東京の一隅に門を閉ざして出ることがなかった。しかし、中山は一カ月に一度、かならず訪問するか席を設けるかして、河上を慰め、|逝去《せいきよ》するまで欠かすことはなかった。
病臥した時期
進藤次郎(大広社長)は、朝日新聞の社会部長の当時、中山からその席に招かれたが、彼が河上に接する態度は弟子が恩師を扱うのと、まったく同じ|篤《あつ》さであった。進藤がすっかり感激して、この話を経済部長の広岡知男(現・社長)にすると、マジメ一本ヤリの広岡は「そういう席なら朝日が一席もたせてもらおうよ」と乗り出した。
朝日新聞主催による「河上前総裁を慰める会」も珍しいが、その席で進藤が酔ったあまり芸者のカツラをかぶり、ついでに衣裳までつけてふざけた。すると中山は「広岡さんが次郎|姐《ねえ》さんの|旦那《だんな》になって写真撮影をなさいよ」とけしかけたが、その後すぐ造船疑獄がおこり、社会部が日野原の|愛妾《あいしよう》・秀駒の写真を探しはじめるにおよんで、広岡と進藤は「オレたちの写真が新聞記者の手に入ったらどうしよう」と真っ青になった。このとき中山素平は「どうして、そんなつまらないことを心配するのですか」と、カラカラと笑っていたそうだ。
中山素平に彼自身の話を聞きにゆくと、話はいつの間にか河上総裁のエピソードになり、また自分のところにかえり、再び河上の話に飛ぶといったふうであるが、中山の人格の何分の一かは河上のものであるという印象を|拭《ぬぐ》い切れない。中山が河上から触発されたものは、おそらく銀行員としての進退や知恵ではなくて、いわば人間の深さを同心円的に伝達されたのではないかと思う。
昭和二十八年、中山は開銀理事として出向したまま、火力|借款《しやつかん》の交渉で渡米する。その|挨拶《あいさつ》にいったとき、河上は中山と握手してから「こんなに手が冷たいのは、身体のどこかに故障があるのだよ」と語ったそうだが、中山は帰国後、はたせるかな肺結核になって慶応病院に入院したのである。
このとき河上夫人も言語障害で入院していたが、河上は夫人のベッドの下に畳一枚を敷いて寝泊りの看護をし、ときどき「君が代」を子守|唄《うた》のように歌って、妻のつれづれを慰めていたという。これを眺めていた中山の胸中は、いくばくか、察するにもあまりある。
進藤にいわせると「中山さんを病気にしたのは、しょっちゅう飲みながら夜明けまで|喋《しやべ》っていた私の責任だ」ということになるが、その進藤とも親友の田中清玄(田中技術開発社長)が、慶応病院に入院中の中山に、一日として欠かさず、資生堂のコンソメ・スープか東京会館のポタージュを届けていたという話も、またすさまじい。
田中清玄氏への評価
田中清玄という人物は、一口にいうと“国際的起爆剤”である。アラビア諸国における、石油資源を確保するために働いてきたが、現地の王国では、彼を“VIP”扱いにしている。VIPとは、ふつう「|非常に重要な人物《ベリイ・インポータント・パースン》」の略称であるが、田中にはもうひとつの意味があって、「|とても規格にはあてはまらぬ人物《ベリイ・イレギユラー・パースン》」でもあるのだ。興業銀行から出向した開銀理事が、進藤次郎のような器量の人物と飲んで身体をこわし、その病床にVIPが毎日スープを運ぶなどという話は、一筋縄の理解でからめとるわけにはゆかない。
興銀内部にも、中山が田中と交際することを忠告するものがあるらしい。中山と田中の交際は、終戦直後、経済同友会をつくるときに田中が共産主義運動の講師に招かれたのがきっかけである。今日では、田中は中山の“国事思想”の実施部隊長になった感があるが、田中にいわせると中山への傾倒は「士ハ|己《おのれ》ヲ知ル者ノタメニ死ス」の一語につきるそうだ。一方、中山のほうは興銀のスタッフから忠告されたとき、こう答えたという。
「あの人は、なにかのときに、あの人でなければできないものを身につけている人です」
たとえはすこしおかしいが、この評価の仕方は、池田|成彬《しげあき》の宇垣一成に対する評価とまったく同じである。池田は「古人今人」という対談集で「宇垣という人は、平時は必要のない人だが、七十年か八十年に一度、国家非常のときに使いみちのでる人です」といっている。
業界再編成の波しぶきがさかんなころ、中山は名古屋造船と石川島重工、飯野と日立造船などの合併をつぎつぎと手がけていったが、興銀内の事務局から「力が弱いものどうしを合併させても効果はあまりないんじゃありませんか」と苦情が出た。そのとき中山は、こう答えている。
「だから君たちはダメなんだ。合併は足し算ではありませんよ。掛け算の効果を|狙《ねら》うんです。マイナスとマイナスを足すと大きなマイナスになりますが、これをカケあわすとプラスになるじゃありませんか」
彼は、また、こうもいっている。
「新しいプランを出して、三人が賛成し、七人が反対したら、おやりなさい。いままでの常識では測りえぬ可能性があって、すくなくとも三人はそれを理解できているんですから」
鉄鋼合併での作戦は
中山素平における評価の基準は、マイナスをいかに採用するかにある。というより、プラスもマイナスも取りはずして、絶対値の大きさ・質に目をあててゆくという態度であろう。これは一見、豪放|磊落《らいらく》な東洋的手法のように見えるが、中山は評価を下すまでにじつに綿密な調査を続けるのである。
昭和四十三年一月、こんどは永野重雄のほうから「やはり合併は俺たちの生きているうちにやろうよ」と稲山に呼びかけがあり「新日鉄問題」は再び中山のところに持ちこまれた。
中山は「こんどこそ本当ですね」と二人に念を押して、すぐさま梶浦・鷹尾の両重役を筆頭に事務局を再開したが、このとき中山は山田精一公取委員長の人間研究まで調査対象にとり上げている。これは本格的なシステム戦略だ。余談になるが、いよいよ審判が日程にのぼったとき、小林中・木川田一隆と中山の三人が山田に会いにいった。が、話の途中で山田がふっと立って部屋から出てしまい、小林と木川田をひどく憤慨させた。「この調子ではひょっとするとダメかもしれぬ」という二人にむかって、中山は「いや、あの人は消極的にイエスをいえる人だから大丈夫です」といったそうだ。
中山の作戦は、公取委が課題として突きつけた条件と山田の立場の接点を、合併のメリットという土俵の上で探すことにあったのだ。
松根宗一(大同製鋼相談役)は中山素平の大先輩に当るが、中山の人事政策を見ていると、ひとつの特徴があるという。けっして「あいつはダメだからやめさせる」と、|容赦《ようしや》もなく首を落すようなことをしない。かならず、相手の性格を研究して、やめるのが至当であるという道筋をつけてから、話をもちかけるのである。
このため更迭されたものも自信を失わずにすむし、中山もまた一種類の“戦力”を手放さないですむのである。
「中山というヤツは頭そのものがコンピューターになっていて、さまざまな記憶をしまいこみ、これを問題に応じて縦横無尽に組み立てることができるのだ」
松根はこのように語っているが、湊守篤や佐々木恭太郎も中山素平と議論して勝ったタメシがないとコボしている。
湊によると、同一の問題を論じあう場合、湊が五通りくらいの模擬案を考えつくと、中山は十通りに近いものをぶつけてくる。そのシミュレーション(模擬実験)の早さは、日頃の修練としか思えないそうである。
思うに、シミュレーションの早い人物は、自分の好みとか利害を無機化して、自己を思考の座標のゼロ点に立たせているのではないだろうか。
下村亮一(経済往来社・社長)によると、河上が中山を後継者ときめたのは、彼が開銀理事のときだという。ある日、河上は下村の肩をポンと|叩《たた》いて、「キミ、つぎの頭取は中山だよ」といったそうだが、これが昭和二十八年のことである。
中山が頭取になったのは三十六年十一月だから、河上はおよそ九年まえに予言していたことになる。そして中山頭取が実現したとき、河上は田中清玄に「私はこの男を最初から頭取の|器《うつわ》として導き、遇してきた。この男以外に、興銀をして日本再興の担い手となしうる人物はいないからな」と語ったという。
中山は頭取を六年半続けて、昨年五月、みずからは代表権のない会長に退き、正宗|猪早夫《いさお》を頭取に昇格させた。この一年前、中山は日高に会って「そろそろ頭取をやめようと思っている」と洩らしている。
日高が「おれを危急存亡の山一証券に送りこんで、“オレはもう上った”では話がすまんぞ」というと、中山は「だって、やめるものはやめるのだから仕方がない」と、彼独特のガンコぶりを発揮した。そこで日高は「やめるのは君の勝手だが、君自身が正宗君をうんとPRしてからやめるべきだぞ」と忠告したという。
しかし、河上が九年まえから中山を頭取と目していたように、中山と正宗の間にも気の長い話がある。
中山が副頭取のころ、下村の「経済往来」で座談会を企画した。前日になって中山の秘書から「都合がわるくて出席できない」といってきた。下村が「それなら代りの役員を」と望むと、秘書は即座に「中山副頭取の代りなら正宗取締役です」と答えたというのだ。これは名頭取と|謳《うた》われた川北禎一が在任中のことで、正宗は役員になってホヤホヤの時期である。下村は、中山の人材育成の素早さに舌を巻く思いがしたといっている。
しかし、さすがに“情報化時代”を思わせるのは、中山が頭取を退任するとき、野村証券の瀬川美能留(会長)が、これが市中銀行の頭取たちにどう影響するか、調査をしたという話である。
鞍馬天狗の本舞台
彼は頭取を辞任した直後、若手の役員や課長連と一夜の宴を張ったが、終戦直後のGHQとの交渉や海運再編成のときの思い出話をはじめると、並みいる一同オイオイと泣き出した。一般の企業ではとても信じられないことで、一時、興業銀行が“中山銀行”と呼ばれたのも無理はないであろう。
中山は、新入社員に対する訓辞の中で、「君たちは生産会社に入るよりずっとツマラナイ会社に入ってきた。要するに仕事はコネをきかせたり酒を飲んだりして、金を集めてくることである。しかし、諸君が集めてくる金はわれわれが有効につかう。中山素平がトップにいることは興銀のためになることであり、興銀が栄えることは日本が栄えることである」と話すのをツネとしている。たいへんな自信というほかはない。
その中山が六十三歳の若さで退陣し、さらに会長さえやめて相談役になろうとしているのは、これから先の仕事に全力投球をするためであろう。彼自身の口から発表されているものに「海外の石油開発事業の一本化」「千億円財団」などがあるが、これからがほんとうの鞍馬天狗の登場かもしれない。
興銀時代の中山は“中山銀行”といわれるほど活躍しても、誰からも|罠《わな》をかけられなかった。戦後の興銀を再建したのは彼であり、また興銀には「仕事さえすればよい」というノンビリした空気があって、あまり立身出世にこだわる必要がない。他社へ転任する重役も、若いころ融資系列会社に派遣されているので、“他人の飯”の味は知っているわけである。興銀のビジネスマンは、いわば“経営派出夫”みたいなもので、系列会社の社長になるのも一種の“企業下取り業”に似ているし、興銀そのものが「社長置屋」なのだ。融資先から“|貰《もら》い”がかかってくれば、社長や重役の一人や二人はどうしても出さざるをえない。勢い、近頃では経済界を歩くと、足の踏み場もないほど“興銀製社長”にぶつかる。
そこで中山の新事業だが、これはいままでのように融資先のソロバンを考えて手を打つのとはちがって、興銀とは縁もユカリもない企業のリゴリズム(厳格主義)と直面することになるわけだ。
このリゴリズムを説き伏せるには、彼のシスティマティカルな考え方が唯一の武器になってくる。いや、この武器をフルにつかって、いわゆる“インターディシプリナリ”(異専門間協業)を作るようになるかもしれない。そうなると、個別企業の利害や政府与党の思惑からいよいよ自由になるから、現代の鞍馬天狗にも磨きがかかってくるわけである。
金儲けはカラキシだめ
中山は会長辞任を洩らしたあと、松根宗一にむかって「これからは大いに勉強するつもりです」といった。松根が「なにを勉強するのか?」と聞くと、彼は「|常磐津《ときわず》を藤井丙午さんに習い、ゴルフに通い、バーにも精を出します」と答えたものだ。言葉をかえていえば、中山は歌舞音曲はまるっきりダメで、ゴルフは図らずも“師匠”になった佐々木恭太郎が目を|掩《おお》いたくなるほどの腕前で、柳暗紅灯の巷には「あそこには民衆がいないから」と、本心は好きではない。それよりも、部下を連れて、屋台のおでん屋で分厚いコップに酒をたっぷり注いで飲むのを趣味としている。
|中司《なかつかさ》清の会長就任を祝うパーティを中山が設営した。日曜日の朝からゴルフで、夜になってから銀座の有名なクラブを借り切ったという。さぞかしバカ金をとられたろうが、一同がそのクラブに行ってみると、ほんとうに開店している。二宮善基は中山が設営したときいて、「世の中、変った」と|唸《うな》ったそうだが、中山にこんな芸当ができるわけがない。
その席上に佐藤美子も招かれたが、隅のほうで中山がホステスに囲まれている光景は、まるで“|平仄《ひようそく》があわない”という言葉そのものだったという。
中山が、そういう世界に精を出すと宣言しても、これは自己|韜晦《とうかい》の初歩的なもので、まったく無駄な抵抗にすぎまい。
彼についての傑作なエピソードは、四十年以上も銀行勤めをしたのに、財産運用はからっきし下手だということだ。興銀の頭取をつとめながら、別荘ひとつ持っていない。仏像や茶器に名品があるともきかない。それどころか、昭和二十八年、開銀理事として出向するとき、彼は興銀から貰った退職金をすっかり“前借り”の清算につかってしまい、ある人に「この借金のためにも開銀へゆかざるをえないんですよ」と語ったそうだ。その借金は、ほとんど彼自身のものではなく、外地から引き揚げてきた同級生の転業資金とか、選挙に立候補した友人へのカンパとかで、あるときは民族運動をやっている藤村又彦のために月給袋をそっくり渡してしまい、妻の久子から「|家《うち》はどうやって暮すのよ」とひどく叱られたという。そのとき中山は、ご丁寧にも、カボチャを五つも六つも担いでかえり、それでまた余計怒られたということである。ちなみに、妻の久子は中山が大阪支店に勤めていたときの同僚の妹である。子どもが二人あるが、いずれも慶応を出てサラリーマンになり、平凡な結婚をしている。
驚くべき先見性
彼の兄の克己が、すこし財産運用を図ろうと素平に相談し、彼のすすめる株を買いこんだところ、|儲《もう》かるどころか欠損になり、「あいつは|素《そ》っ|平《ぺい》ではないぞ、|嘘平《うそへい》だ!」と叫んだという話がある。
これは、いかにも興銀の性格を物語っていておもしろい。鎌田正明によると、戦前の興銀では社員が株式を売買することは禁じられていたという。そのかわり、「身許保証金制度」という、一種の社内預金があって、月給やボーナスから天引きされたものを積み立て、年に八分の利子をつけてくれたそうだ。
弟の要も、素平の先見性の深さにはおどろくことがある。カネボウに勤めていたが、社内改革で関連会社へ転出することになった。あてがわれた会社は、焼玉エンジンのメーカーだった。相談にゆくと言下に「よせ」といった。
第一に最早“焼玉エンジン”の時代ではない。第二に、まったく縁のない業種を多角経営として持っているのは、経営経験の蓄積がないからダメというのである。が、その会社は|潰《つぶ》れる気配もなく経営しているので、要が素平の判断に半信半疑でいると、あっという間に倒産してしまった。
これには舌を巻いたが、さて、副社長として現在の経営の相談にゆくと、どうも間尺にあわない。素平は“社会に奉仕する”という観点からアドバイスをはじめるので、要のほうはいつもダブダブの服を着せられたような気持になるそうだ。
資産運用から余暇利用まで決定的に不器用なのは、私は中山素平が|醒《さ》めすぎているからだと考える。
歌舞音曲が下手なのも、彼は下手な歌をうたっている自分をまじまじと見つめる能力があるからだ。ゴルフのフォームがぎごちないのも、ほかの人のようにフォームを気にしている自分をもうひとりの自分が見つめているからである。銀座のホステスと平仄があわないのも、自分のほうにそうしなければならない必然性が皆無なことを知っているからだ。
この醒めた精神が、彼を|模擬実験《シミユレーシヨン》の名人に仕立てあげている。これが彼の威力であると同時に、摸擬実験のほうが早すぎるというマイナスも出てくる。
“醒め型”の本質は?
大学紛争が華々しかったころ、中山は土光敏夫(東芝社長)にこういった。
「ああ、結構ですな。大学紛争というのは、衣食足って、学生たちがモノを考え出した証拠ですからな」
土光は怒って答えた。
「バカをいうな。あいつらがなにを考えているものかね」
中山は薄笑いのまま口をつぐんだが、彼が「学生たちがモノを考え出した」という言葉をつかったのは、その裏に社会構造のひずみに対する認識が点滅していたはずである。このような“醒め型”は少年時代をのんびりと育った人間には見られない。むしろ、若くして家を切り盛りした人間に多く見られるものだ。なぜなら、醒めていなければ、|ちまちま《ヽヽヽヽ》した収支が崩れるからである。鞍馬天狗の素性がわからぬように、中山素平の本質もわれわれ庶民の中の“ワン・オブ・ゼム”なのであろう。
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財界のマスコミ隊長・鹿内信隆

今も残るシカナイキネンカン
北海道夕張郡|由仁《ゆに》町。明治二十年代にひらかれ、夕張炭坑が開掘されるまでは、夕張郡の支庁がおかれていた。由仁はアイヌ語で「温泉の|湧《わ》く暖かな土地」という意味だという。
この町に着くとすぐ「鹿内記念館がある」と聞いて、さっそく、見学に出かけた。
由仁町が鹿内信隆のために記念館をつくったとしても、おかしくはないと思ったのである。鹿内はニッポン放送社長(昭和三十六・五)、フジテレビ社長(三十六・十一)、サンケイ新聞社長(四十三・十)を兼ねている。現代が工業化社会から情報化社会へむかいつつあることは、すでに常識になっているが、鹿内はラジオ・テレビ・新聞という“マスコミ三業”を経営する、唯一の人物になったのである。
マスコミ三業と花柳界の三業とは、どこか似ているところがある。ともに接客業であり、口舌や機知を商品化し、自前のうちはいいが|旦那《だんな》がつくと芸が荒れ、むやみに自尊心はつよいが金が|溜《た》まらない等々の共通点がある。昔の家作持ちには、「役者、芸者、記者の“三者”には家を貸すな」という不文律があったそうだが、これも三者に似通った性格があるためだろう。
もっとも、鹿内信隆がマスコミ三業界を掌中に収めたのは、彼が記者や芸者を好んだためではない。理由はもっと深刻である。彼は、これまでにマスコミ界の王者たらんとして刻苦勉励したことはない。経営の浮沈に|乱離骨灰《らりこつぱい》の悲惨を|嘗《な》めたわけでもない。いってみれば、鹿内は財界が、流動化する社会への対応策として、マスコミのマウンドに送ったエースである。切り札も切り札、一九七〇年をまえにした財界のマスコミ対策の主戦投手である。
ところで「鹿内記念館」はすぐ見つかった。大正のはじめ頃の建物だが、いまでもモダンな面影を残している。なるほどローマ字で「シカナイキネンカン」と書いてあるが、これは鹿内信隆の出世を祝ったメモリアル・ホールではなかった。薄っちょろに|剥《は》げた看板に「フォトグラフィック・ステュージオ」と英語で書いてある。じつは「鹿内記念館」は鹿内の生家で、どこの町にも見かける写真館であった。
この写真館を経営していたのは、信隆の母親の|最代《もよ》である。いまも存命で軽井沢の別荘に住んでいる。最代はひとりで撮影・現像・焼付をやってのけた。明治末期から昭和の中頃まで、つまり鹿内が早大政経学部を出て仕送りができるようになるまでである。おそらく女流写真家としては本邦の草分けではないかと思う。
最代は写真術を夫の|徹《とおる》から教わったという。彼女の夫、つまり信隆の父親は前身は撮影技師だったが、由仁町に来てからは歯科医になった。大正七年のことで、信隆が由仁小学校に入学すると同時に父の徹も歯科医専に入っている。これは妻の最代の発案によるものらしい。このため父子の学資はかかって最代の細腕にかかり、そのうえ信隆を|頭《かしら》に四人の子どもを抱えて、彼女は髪ふり乱しての毎日だったという。由仁町の人は、いまでも、鹿内家のことを語るのに、信隆よりも最代のことを話題にすることが多い。
人間の性格のうち基本的なものは十歳のころ作られるというが、鹿内信隆が戦後日経連の専務理事として|怒濤《どとう》のような労働運動に立ち向い、二・一ストをはじめ、日産自動車の吉原大争議などで火の出るような応戦を演じたのも、しっかり者の母親の|薫陶《くんとう》の結実ではないかと思われる。
父子三代の「突進型」
彼が中央労働委員会の使用者側代表として各地に転戦しているとき、札幌まで来て南部信二と顔をあわせた。南部は鹿内の出た岩見沢中学の第一回卒業生で、二年先輩である。当時、北海道新聞からえらばれて地方労働委員会の委員になっていた。委員会がおわってから二人で|定山渓《じようざんけい》に骨休めに出かけた。南部は温泉につかりながら、この資本家陣営の“二枚目”に忠告する気になった。
「鹿内君はまだ三十六、七だろう」
「そうですよ」
「ま、若さもあるだろうが、もうすこし足を地につけた感じにならんかな。見ていて、はねっかえりすぎるようなんだ」
すると鹿内は|断乎《だんこ》とした口調で答えた。
「いや、私は好きこのんでいまの仕事をやっているんじゃないんです。わが資本家陣営には、やる|奴《やつ》がいないんだ。それで私がやっている。だから“鹿内ではダメだ”といわれれば、いつでもやめるつもりです」
それから部屋に帰って寝る段になると、鹿内はしみじみといったそうだ。
「私は、母親から“おまえが鹿内家を再興しておくれ”と頭をなでられながら育ってきたんですよ」
鹿内が親しい人に話すのは、祖父・鹿内為右衛門のことである。幕末に|弘前《ひろさき》藩の家老をつとめ、押しよせた官軍を相手に最後まで闘った。追われて北海道の|留萌《るもい》に落ちのびたが、北海道の土地の半分を領有するに至ったという。このことは鹿内が徳川夢声との対談にも語っている。
「私がこれと思ったことに突進するのは、たぶんに祖父為右衛門の血を|享《う》けているからと思う」
これは鹿内の述懐だが、父母は為右衛門のいた留萌から由仁に移り住んだようで、信隆はときどき祖父の話を聞かされていたのだ。
父の徹もたぶんに為右衛門の感化をうけていたのであろう。由仁町に政治家が|遊説《ゆうぜい》にくると、自らはフロックコートを着用し、信隆には|定紋《じようもん》つきの羽織|袴《はかま》をつけさせて、政治家の宿泊先に出向くのをつねとしていた。これは信隆がかよった小学校の校長、多田了介が目撃している。
鹿内徹は一風変った人物で、歯科医にはなったが、由仁町ではほとんど診療していない。ボストンバッグと診療箱を下げた旅医者になり、馬の背にまたがって日高地方を歩いている。だから家にもほとんど寄りつかず、たまに由仁駅に降り立った美丈夫を見た町の人が、「ああ、先生が帰ってきたが、こんどは何日いることかな」と|噂《うわさ》しあうほどだった。
徹が旅医者として漂泊したのは、酔狂のためではない。彼は人の歯をほじるよりも地球をほじるのが好きで、目あてはクローム鉱脈にあった。いわば“山師”である。歯科医としてかせいだ診療費は、ほとんど一山あてるための費用につかってしまい、妻子に仕送る余裕はなかったそうだ。
彼は、やがて、宗教に|凝《こ》り出した。夫婦ともにクリスチャンであったが、徹はバイブルはユダヤの精神による世界征服の道具であると思いこむようになり、キリスト教・|神道《しんとう》・仏教をミックスした“鹿内教”をつくって、町で辻説法を試みるようになった。辻説法はマスコミの原型である。最も効果的なパーソナル・コミュニケイションの一手法だ。その彼から鹿内信隆のような“マスコミ三業”の|統轄《とうかつ》者が出たのも、なにかの因縁かもしれない。
妻の最代は夫のそういう行動を、「あのひとの唯一の生き|甲斐《がい》だから」と認め、もっぱら望みを信隆に託したわけである。信隆もまた母と一体となって働いている。
あるとき、町にもう一軒、写真館ができた。結婚式や卒業式の記念写真は、「鹿内記念館」と新しい「日の出写真館」のとりあいとなる。折も折、母親が撮影のときマグネシウムの暴発で顔に|火傷《やけど》を負った。そこで信隆は母親のかわりに遠くの町まで出かけてゆき、電柱に「記念写真・身分証明用写真、割り引きいたします」というポスターを|貼《は》って歩いたという。
トントン拍子の契機
「鹿内家再興」をいいわたされても、手がかりになる|親戚《しんせき》や財産があったわけではない。むしろ窮屈な生活である。彼は中学校に進んだとき、通学用の革靴が買えなくて、母親の婦人靴をぱかぱかいわせながら|穿《は》いていたほどだった。母親も事あるごとに借金しようとしたが、由仁町の平均的生活感情からは、“変った一家”とみられたため、誰も金を貸すものはいなかった。鹿内家では母親が子どもを呼ぶのに「信隆さん」「千代子さん」と“さん”付けをしていたが、それすら由仁町の人にはおかしく聞こえていたのである。
期待をかけられながら条件は整っていない。そういう環境は、人間を|萎縮《いしゆく》させて|つじつま《ヽヽヽヽ》ばかりあわせる性格をつくるか、その逆に常識を破るような挑戦的性格を育てるのではないか。立身出世の態様からいえば、高級官吏・弁護士・医者・軍人などの資格取得者になるか、この逆に実業家・作家・芸能人などのように“無から有を生じる”職業につくかである。前者の態様には忍従と勤勉さが、後者の態様には攻撃的性格と努力とが要求されるであろう。
早稲田大学を出た鹿内は、恩師と仰ぐ阿部賢一の推薦で倉敷絹織を受験した。彼はあとでのべるように演劇運動に凝っていたため、就職試験を受けそこなったらしい。倉レの試験では、途中の筆記試験など五つ六つの過程をとばして、最終の面接考査を受けた。まったくのヤミ試験である。彼はこのとき、試験委員の重役から「どんな部署をのぞむかネ」ときかれると、こう答えている。
「とにかく工場から働いてみたいと思います。それも新しい工場で勉強したいのです」
これには重役の方が感激し、彼を文句なく採用すると、新設したばかりの|新居浜《にいはま》の工場に入れた。彼はこの工場でやみくもに働いたが、このとき専務で工場長をやっていたのが、のちに人絹業界の大立物となった菊池寅七である。菊池はこの|はつらつ《ヽヽヽヽ》たる青年に惚れこみ、自分の娘を|娶《めと》らせた。鹿内の出世は、いうまでもなくトントン拍子である。
倉敷に入ったのは昭和十一年四月だが、十三年七月に菊池が三徳工業を創設するや、その創立事務を手伝って業務課長になっている。それから軍隊に入り十八年八月に除隊してくると、小倉源治郎がはじめた日本電子工業の取締役に迎えられた。ときに三十四歳の若さである。
彼は、ときによると、「僕はサラリーマンというものを六カ月しかやっていないからな」というそうである。私とのインタビューでも、「私の血液に流れているものは本質的に経営者の感情です」といった。自負するところのものが、サラリーマンという一般的状態からの断絶なのである。社会的な平均価値からの離脱といってもいいだろう。
とにかく、彼が倉敷絹織を受験したとき「工場から勉強させてくれ」と申し出たのは、彼のその後の行動にもみられる、ひとつのパターンである。
キザで太い陸軍中尉
戦後、日本電子工業の常務取締役に昇進した彼は、関東経営者協議会から経済同友会のメンバーとなり、小坂徳三郎や亡くなった村木武夫(住友石炭)とともに、“財界三|ぶち《ヽヽ》”の一人に数えられる。この三人は寄るとさわると、戦後の激動期に対応しえない旧型経営者を|罵倒《ばとう》し集会があると演説ばかりぶっている。それで“三ぶち”の|綽名《あだな》がついた。この威勢のいい若手財界人に目をつけたのが、諸井貫一や桜田武である。
日清紡の桜田は大将の宮嶋清次郎が国家の枢機に参画したため、三十六歳の若さで専務となり、陸海軍との折衝の|矢面《やおもて》に立たされていた。相手は青山にあった軍の需品|厰《しよう》である。陸・海軍が一体となって「物動計画本部」をつくり、主要物資の需給計画からコスト計算までやっていた。桜田がそこへ顔を出すと、生意気だが勉強家の陸軍主計中尉が応対に出た。それが鹿内信隆である。秩父セメントの大友社長(現社長の父親)から原価計算を仕込まれて、なかなか鋭いことをいう。桜田は、その頃からこの青年将校に目をつけていた。その縁で、鹿内は財界の青年将校になるのである。
このとき海軍側からは小坂徳三郎中尉が派遣されていた。小坂は艦政本部の主計官だったが、陸軍との合同会議に出てみると、「キザで鼻もちならないが、しゃべり出すと佐官や将官を|翻弄《ほんろう》するような太いヤツ」にぶつかった。名前を聞くと鹿内という陸軍中尉で、以後、なんとなくウマがあい、二人できびしい計画の枠をかなりいじくりまわしたという。
戦後、経済同友会はできたものの、GHQには進歩派が多く、労働対策のためのセクションを設けることは許されていなかった。経営者の方も、物資と資金を手当するのが精一杯で、労使の人間関係にまで手がまわらない。むしろ、避けて逃げまわっていた。そこで労働者側のワンサイド・ゲームになり、各地で“|吊《つる》し上げ”や“人民管理”がおこなわれた。
この事態を憂慮していたのは桜田武、三鬼隆(故人・日本製鉄社長)、諸井貫一(故人・秩父セメント社長)である。まもなくILOに使用者側の代表をおくる事態がおきたが、この推薦母体が日本の経営者陣にはない。そこで、労働対策の専門機関として「日経連」を発足させた。が、誰をあてるかとなると、おいそれと人材がいない。このとき桜田は鹿内を意中の人にきめ、日本電子工業に赴いて「おたくで払う役員手当くらいのものは保証しますから」と、鹿内常務をスカウトしたのである。
鹿内はこのとき選択を迫られている。桜田のスカウトをことわって一企業の社長になるか、経営者団体の番頭役になるか、そのいずれかだ。人生を縦深陣地ですすむか|鶴翼《かくよく》の陣形でひらいてゆくか、どちらかである。彼は、結局、日経連専務理事をひきうけた。
「正直にいって、資本家の“|走狗《そうく》”になったとき、自信は二〇パーセントしかなかった。勝算は一〇〇パーセントなかった。なにからなにまでゼロからの出発だ。ただ、私は自分の生命は戦争でなくなっているはずで、生きているのは、いわば付録みたいなものである。付録ならやれるところまでやってやれ、と思った。会社で千数百人の首切りも手がけている。どうせなら、とことん戦ってみよう、これだった」
経営者陣営に期待されながら条件はすこしも整っていない。まさに「鹿内家再興」の命題と同じ環境であり、それにのぞんで、「どうせならやってみよう」という行動原理に|拠《よ》ったのも、倉敷絹織入社のときと同じである。
真説(?)「深層海流」
話をスピードアップする。昭和二十九年、ニッポン放送が開局した。植村甲午郎が社長で鹿内信隆は専務である。松本清張の『深層海流』は、ニッポン放送(文中では日輪放送)は経営者陣営が反共政策を打ち出すために、V資金(接収貴金属を売却したもの)を使って開設したとしている。その真偽はたしかめうべくもないが、南喜一(国策パルプ会長)によれば、「東京放送や文化放送がすっかり左翼化したため、これに対抗上つくったことは事実」なのである。
鹿内はニッポン放送に入るときも、自分で道筋をあけ、見とおしを立てて行動したのではない。彼は、財界から声がかかったとき、「東京には五十キロ局が二局もあるのに、このうえもう一局つくることはバカ騒ぎですよ」と反対している。小坂が「あんなものにゆくなよ」というと「おれもそう思うんだ」と、あっさり|肯《うなず》いてもいたのだ。
ただ、周囲の情勢からいって、鹿内が日経連専務理事の椅子にすわっていることが適当かどうかは問題になっていた。
専務理事には鹿内のほかに前田一、佐藤正義の二人がいた。鹿内が主席理事である。前田はどちらかというと闘将型で、日経連の“徳球”とよばれ、|直截《ちよくせつ》な論理で押しまくった。これに対して鹿内は知将型で、前田が“徳球”なら彼は日経連の“志賀”とよばれていた。体格もいまのように|紡錘《ぼうすい》状ではなく、剣道で鍛えた肉のつき方がスマートな感じを与えている。佐藤は事務局長の任にあった。
昭和二十九年になると、労組の内部分裂も体系化し固定化し、経営者陣営にとって労組は対立物ではなく、むしろ社会の構成要素にかわりつつある。労使協調よりも労使協働という経済的側面もつよくなっている。
社会の対立物としての革新陣営は、むしろ日教組を先頭として、思想的な問題提起を行なうようになったのだ。
この際、日経連が労働問題に鹿内・前田の両エースを必要とするかどうかである。大方の評価は、労働問題は前田に支えさえ、鹿内はむしろ思想問題の作戦正面にむけるべきではないかとなってくる。ある人にいわせると、鹿内は日経連の役割の終ったことを知り、自分でニッポン放送の根まわしをして転身したという。が、鹿内自身は「そうではなくて引きずりこまれたのだ」と断言している。
ニッポン放送をめぐる申請は、桜田によると「わやくちゃに近いものだった」らしい。どうせ余った電波ならと、名も知らないような新聞が、ワラ半紙にエンピツの走り書きで申請書を出してきた。そんな程度のものが珍しくなかった。
財界はこの電波に執着を見せた。彼らにとって、独立日本の課題は「思想・哲学・治安・教育」を樹立することだった。それにはマスコミ媒体が必要である。老いた論客や財界ゴロの出版している雑誌に、広告料という名の援助費を出していてもはじまらない。広範囲な不特定多数にむかって、直接的に情報を送る必要がある。
鹿内によれば、「報道機関は不偏不党・無色中立といったって、その労働組合が総評に加盟している以上、公正な報道に疑義をさしはさむのは当然」という認識がある。だから、財界自身が“中立不党”の報道機関をつくろうというのだった。
以上の考えは、植村社長・鹿内専務で実現した。鹿内がひっぱられたのは、彼の経営管理能力を買われたからである。
反共十字軍の師団長
鹿内はニッポン放送の事実上の社長であった。彼は放送局のある糖業会館の一階から三階までを飛びあるき、社員をどなり上げ、場合によっては頼んだ起案書が気に入らないと、それを投げつけた。マスコミ三業地にはじめて足を踏み入れた彼は、マスコミに不文律となっていたドンブリ勘定や無制限に近い時間外勤務を徹底的にチェックした。ニッポン放送の従業員に労働組合をつくらせなかったのは当然である。彼は、「金利以上の配当は、どんな場合でもやらないと株主に公言した。会社に利益が出たらまず諸君に分配し、さらに余裕があればプログラムやサービスにむける」と約束し、「この会社は中立公正な報道をするための同志的結合である」と強調した。
ニッポン放送の初期の利益は、せいぜい七十万円程度だった。先発の民放はすでに億円単位の利益をあげている。鹿内は「追いつけ追いこせ」をスローガンに掲げたが、かけ声ばかりではなく、時間帯編成・対称別編成の番組をつくらせた。対称別編成とは、たとえば時間を限ってハイティーン番組をつくり、ハイティーンが飛びつきそうな商品を出しているところをスポンサーにする。懐炉会社や鉄鋼会社がどんなにその時間帯を欲しがっても絶対に売らない。聴取者を限定するかわりにスポンサーも限定するのである。この作戦は見事にあたり、ニッポン放送は先発会社と肩を並べるに至った。
鹿内は財界|統帥《とうすい》部から派遣された反共十字軍の師団長である。ニッポン放送で|堡塁《ほうるい》を築き、そこを足がかりにフジテレビに転進し、さらにサンケイ新聞に躍り出た。そのいずれの場合も、彼は統帥部の命令書で動いていた。
「私は、いままで自分がやりたくてやった仕事はひとつもなかった」
これは彼が吐息とともに述懐した言葉である。それはそうだろう。ニッポン放送、フジテレビ、いずれも後発会社である。経営者として面白味はない。サンケイ新聞にいたっては、資本金十億円のところに赤字が二十億円も累積している。売掛金は三十数億円もある。鹿内はサンケイの経営者の|椅子《いす》をむけられると、逃げに逃げた。小坂によれば「四年間も逃げたのだから、鹿内も鹿内だが追う方も追う方だ」ということになる。この間の事情はあとでのべる。
しかし、彼は「気の進まない仕事」でも、いったん引き受けたとなると、猛烈なバイタリティを発揮して取組むのである。ニッポン放送の専務になったときは、給料日の一週間くらいまえになると、家に帰らず机の上で寝たという。それでも役員手当が払えず、一年半で「妻子を裸同然」にしたそうだ。が、彼は手弁当で銀行の間を歩き経営を続けていた。一種の“負けずぎらい”である。
由仁小学校の同窓生たちは、鹿内の印象として「エクボと負けずぎらい」を挙げている。
彼は笑うと、じつに|愛嬌《あいきよう》のあるエクボができたという。それが親近感をそそったが、反面では|頑固《がんこ》で闘争的だった。
子どもたちの遊びに、“|手戦《ていくさ》”と“降参じゃっこ”があった。手戦は手刀で相手の身体を|斬《き》るゲームであり、降参じゃっこは、とにかく押しまくって羽目板におさえつけるゲームである。
鹿内はこのいずれをも好んだが、腕力のつよい奴にひどい目にあわされても、一度も“降参”といわなかった。|眉《まゆ》を|吊《つ》り上げ、半白眼の眼を|剥《む》いて、こらえにこらえた。「なんちゅう奴じゃ」と上級生は舌を巻いたものだ。
早大時代の演劇活動
岩見沢中学に入ってすぐ、彼は付近の果樹園にスイカを盗みにいって、管理人につかまった。彼のつかまっている間に、配下の腕白どもは逃げおおせたが、彼はどんなに問いただされても、「おれ一人でやったことです」と口を割らなかった。結局、代金を弁済することになって、彼は母親には内緒で剣道の防具を売ってあてたという。この一件から、友人の間で「信隆さんは男らしい人だ」という評判が立った。
岩見沢中学では弁論部に入ったが、彼は小柄な生徒であったため、演壇にむかうと首から上しかあらわれない。机の上の首がモノをいう|恰好《かつこう》になるのだが、彼の声はかなり大きく、語調にも迫力があって、北海道の弁論大会の代表選手にえらばれている。同級生によると、彼は由仁から岩見沢まで汽車で通学していたが、座席には滅多にすわらず、デッキに立って弁舌の練習を繰りかえしていたという。|怒濤《どとう》にむかって声をきたえた永井柳太郎の故智にならったのである。
この強情な性格は、彼のいうように祖父の為右衛門から受けついだものかもしれない。が、その血をいつも|覚醒《かくせい》させていたのは、鹿内家の長男という自覚ではないかと思う。財界人になってからも、「気のすすまぬ仕事」をひき受けさせられながら、それに全力投球を惜しまないのも、長男的性格のゆえであろう。彼のいわば“水火もいとわぬ活動”は、|健気《けなげ》な長男の働きが父母の|眼頭《めがしら》を熱くするように、財界の宿老には“|愛《う》い|奴《やつ》”と映らなかったであろうか。
岩見沢から早大に進むと、彼は北海道出身の学生のために「学生会館」を建設する運動に加わり、日比谷の松本楼に大蔵省銀行局長に昇進していた大久保禎次を招いて、結成大会をひらいている。大久保は道出身者で、のちに帝人事件に連坐したが、そうとうな実力者だった。鹿内は大久保の前で|懸河《けんが》の弁をふるい、ついに北海道学生会館を開設させる運びとなった。現在、この会館の館長は大井三郎であるが、大井は鹿内が果樹園荒しをやったときのクラス担任で、停年でやめたのを鹿内がつれてきたという。
早大時代の鹿内は演劇活動一本やりで、|土方《ひじかた》与志に師事していた。彼によると、土方にはプロレタリア演劇を叫ぶ面とモダニズムの面とがあり、鹿内は後者の方がすきでマルセル・パニョルの|笑劇《フアルス》に打ちこんだ。もっとも、彼は俳優志願ではない。むしろ劇団主宰者である。みずから脚本を書き、初夢子や水久保澄子を使って舞台を演出し、文化学院の女生徒を動員して、飛行館で公演を打っている。このとき入口で“呼び込み”をやったり、切符のモギリをしていたのが、後輩の森繁久弥である。演劇運動といえば、長髪にトックリセーター、喫茶店で半日くらい|潰《つぶ》している連中を想像するが、鹿内のはソロバンずくのところがあった。
ある偶然が彼を演劇から離れさせた。六代目菊五郎の至芸が|謳《うた》われ、松竹が演劇界を独占していた時代である。おりから第一次大戦後の不況下で、松竹の過酷な不況対策が下級俳優の不満をまねき、彼らに人望の厚かった上級俳優の猿之助(故・猿翁)が中心になって、春秋座を結成、本郷座で旗揚げ公演を行なった。が、客の入りはさっぱりで、座員はメシも食えぬという|惨憺《さんたん》たる結果におわった。鹿内は早稲田の学生をひきいて炊き出しをし、楽屋に届ける仕事までやった。「いまの全学共闘そっくりの振舞いだった」という。結局、春秋座は解散、猿之助は元の古巣にかえった。このとき復帰をのぞまず、さらに新劇団をつくったのが中村右衛門、河原崎長十郎である。
この「前進座」の文芸部に土方与志の弟子がゆくべきだということになり、鹿内と宮川雅青(現・前進座文芸部長)ともう一人の三人でクジをひいた。クジは宮川にあたった。もし鹿内にあたっていたら、彼の運命もどう変っていたかわからない。
小坂徳三郎との比較
鹿内が早大を出たのは昭和十一年である。在学中はまだ社会主義の本が読めた。「改造」を買うと特高の手帳につけられるほどだったが、図書館で勉強するぶんには差しつかえなかった。鹿内もこの種の思想に接した形跡がある。岩見沢中学の同級生が札幌であったとき、鹿内は「プロレタリアを解放しなければほんとうの幸福な社会はこないんだよ」と、小さな声で話したという。その友人は、戦後、鹿内信隆の名を日経連の闘士として発見したとき、最初は「世間にはなんと同姓同名の人がいるものだ」と、信じられない気持であったそうだ。
「学生会館」の建設といい、劇団の経営といい、学生らしい情熱は持ちあわせているが、ただそれだけではない。具体化するために、いっぱしの社会人の知恵を出している。自分の流儀でやらないとおさまらないところがある。
鹿内信隆には彼なりの“合理主義”があって、社会の概念とは別のところに|敷設《ふせつ》するのである。たとえば、労働組合に対する考え方を小坂徳三郎とくらべてみる。
小坂は組合をそのまま認めたうえで、「従業員手帳」を発行している。これはフォァマン教育の一環として行なったもので、現場の主任・職長・組長などが自分の部下について、職場成績のほか家族関係、生活状況、家庭の悩み、|嗜好《しこう》、交友、長所短所を書きこむようになっている。人間関係を円滑にするための「人別帳」である。小坂はその「従業員手帳」の前文に自ら筆をふるって書いている。
「君が君の部下を深く理解し、部下の指導にいささかの間違いもないよう、この名簿を所持させる。上長は部下の喜びを自分の喜びとし、部下の悲しみを自分の悲しみとして……部下の短所を数える前に先ず長所を数えるように心がけ……公正と愛情をもって部下に接するよう……」
これは情報をつかった人間管理法である。日経連でも注目するほど実績をあげたというが、ナポレオン・ボナパルトの部下統率法とよく似ている。ナポレオンは|麾下《きか》の部将の個人的事情に通じ、戦場におくり出すまえに、そのことを口に出すのがつねだった。
「マリウス君、お嬢さんのピアノは上達したかね。彼女のソナチネをいちど聞きたいと思ったが」
てなことを聞く。マリウス少将は「陛下はこれほど私のことを思って下さっていたか」と、よろこんで死地に赴くのであった。明治天皇も重臣たちの事情には通じていた。もっとも伊藤博文のように「子どもは何人になったか?」と聞かれて、「明日までに数えてまいります」と答える部下もいるにはいたが、小坂の組合対策はこういう流れに立ったものとみていい。
水野社長室をツブす
鹿内は戦後十年近く組合と闘ってきた。それなのに、フジテレビの中に組合ができた。文化放送系の社員がひとかたまりになったのだ。彼はこのとき、眼を真赤にして、「九日会」にあらわれた。これは小坂・村木・鹿内の“財界三|ぶち《ヽヽ》”が集まる会で、村木武夫が東京十二チャンネルで死力を尽くして亡くなるまで二十数年も続いた。三人が日本にいれば、ただの一度も欠かしたことのない会合である。
その席上で小坂が、「おまえのところも組合ができたじゃないか。だから、いわないこっちゃないんだ」というと、鹿内は「なにぃ!」と眼を三角にした。鹿内は怒ると眼が三角になる。彼は、しばらく小坂のニヤニヤした顔を眺めていたが、ふっと吐き出すようにいった。
「いや、おれの信念として、組合はあっちゃいけねえんだ」
「おまえ、乱暴なことをいうな。信念と組合をいっしょにするな」
「そうじゃねぇんだ。組合をつくるつくらないじゃなくて、経営者がもっとほかの形を考えるべきなんだ。それを従業員に示すのがほんとうなんだ」
鹿内の考えている従業員対策は「少数精鋭主義による高能率・高賃金」である。この方程式にあわせた組織をつくるべきで、能力の平均化や職場の機能をストップさせるような組合は認めないという方向である。労働組合法の基本的な精神、つまり経営者の経営管理から従業員の生活権を守るための団結、こういう考えのチャンネルとは別のところに組合観が設定されているのだ。この“鹿内イズム”は、後発会社の「追いつけ追いこせ」が生んだ、特殊エンジンにもなりえたであろう。そのかわり誤解を招く面もあった。
鹿内はフジテレビにも副社長として入った。社長は水野成夫だったが、実質的な仕事はほとんど鹿内がとりしきった。彼は社長室を潰して会議室にあてた。
「めったにしかこない社長のために、部屋をあけておくことはない。この会社はおれがやっているのだし、おれが社長みたいなものだから、社長室はいらないよ」
彼は側近にそういってきかせた。この“社長室廃止”は水野を激怒させた。水野は、それこそ一年に一度しかゆかないような「伊豆観光」(現在は東急が経営)にも大きな社長室を設け、悦に入っているようなところがある。それが水野の大きさであり、同時にあやうさでもあるのだ。フジテレビに自分の部屋がないと知ったときの、彼の|驚愕《きようがく》ぶりは察してあまりある。
有能な“女房”が必要
亡くなった尾崎士郎が、水野を評して“光秀製造業”といったことがある。この場合、水野はもちろん織田信長である。天才肌でヒラメキが強く、|癇癖《かんぺき》で|好悪《こうお》の情が激しい。今日の|寵臣《ちようしん》、明日は|流謫《るたく》の身である。だから明智光秀がつぎつぎに出来た。が、いずれも“戦力なき光秀”で水野信長を|仆《たお》すことはできない。しかし、水野には光秀もできたかわりに|莫逆《ばくげき》の友もできた。|喧嘩《けんか》わかれをしても、背中をむけあったまま、「おい、うまくいっているか」と声をかけるような心情が残った。
こんな話がある。水野と親しい財界人の秘書が、おやじが中気で倒れたのでラクダのシャツを買ってやろうと思ったが、あれは意外に高いものですね、と語った。料理屋で、おしぼりと茶菓の出るまえの雑談だった。水野は「フン」といって話にのらなかったが、後日、その秘書の父親のところにラクダの上下がとどいた。贈り主は水野成夫となっている。水野はその秘書の父親の住所を探し、黙っておくったのだ。秘書は父親から話をきくと、くるまを飛ばして礼をいいにいった。すると水野は「黙ってとっておけばいいものを」と、つまらなそうな顔をした。こういう“水野|節《ぶし》”はたくさんある。
鹿内は水野よりちょうどひと回り下の“|亥歳《いどし》”である。年の若さが彼に合理主義をとらせるのだが、その合理主義が通用するためには有能な女房役が必要だという説がある。
その筆頭にあげられるのが、こんどサンケイ新聞の副社長になった松本竜二である。松本は早稲田で鹿内と同期である。ダイヤモンド社に入ったが、石山賢吉と喧嘩して飛び出し、静岡新聞にひろわれて浜松の支局長をしていた。鹿内は日経連の専務理事として関西に出向くと、帰途は必ず浜松で下車して松本のところに立ち寄った。そのうち日経連が独自のPR活動をやることになると、鹿内は松本に白羽の矢を立てた。このときの条件がすさまじい。
「日経連に公報部をつくりたいが、いま、おまえにやれる金は五万円しかない。これでやってくれ」
ふつうの場合なら、「新しい仕事だ。おまえの好きなようにやってくれ。骨はおれが拾うつもりだ」と、出るところである。それを五万円と区切ったところが“鹿内流”であろう。松本は期待にこたえて「経営者」「日経連タイムス」を発行し、PR活動を軌道にのせた。日経連の公報部は、いまもって日経連の一組織ではなく、独立の株式会社なのである。松本はこの会社をつくってからニッポン放送の秘書役になり、フジテレビの総務局長に転じ、電波の黄金時代でひと息ついたが、それも束の間、こんどは苦しくなったニッポン放送の専務をあてがわれ、そしていま難破船サンケイ丸に乗り移らされたのである。
鹿内にとって、松本は|直諫《ちよつかん》しうる唯一の人物である。フジテレビに労組の火の手があがり、あわや全社員におよぶかと思われたのが“ボヤ”程度に終ったのは、社員の中に松本の人徳を慕うものが多く、「あの人と対抗するのはイヤだ」と腰砕けになったからともいう。松本は鹿内にとって“仁将”という存在だということだ。
UHFで勝負に出る
鹿内の合理主義には挑戦的な性格がある。|規範《バウンダリイ》的なものに対する挑戦である。このため、彼のビジョンの中には鋭い先見性が貫かれているが、その先見性に体重をかけすぎて、現実化の根まわしを忘れるところがある。
たとえば、「航空貨物会社」「アジア・ビジョン」「ニューヨーク世界博」は鹿内の“三大失策”にあげられている。
鹿内は相撲でいうと押し相撲だ。直線的に押しまくる。押す方に気が入りすぎるとワキが甘くなる。そこをつけ狙われる。航空貨物輸送の着想は面白い。が、日本の経済には、まだ、風呂敷が大きすぎる。アジア・ビジョンはアジア諸国を電波で結ぼうというものだが、これも通信衛星が上ってからの話である。「ニューヨーク世界博」は、企業を|口説《くど》いて出展させたのはよかったが、現地での工事がすべてクラフト・ユニオンの手で行なわれるという誤算もあって、赤字を出してしまった。
これらのプランには、持ちこみのものもある。鹿内はその“先見性”や“着想”が面白いと、乗ってしまうところがある。しかし、これは経営者の素質の一面であろう。人生には「トライアル・アンド・エラー」があるもので、行動科学はこのエラーをみつけてカットする役目をもっている。が、経営者はエラーをおそれていたのでは、トライはできないのである。経営者にとって、新事業のために|蒙《こうむ》った“向う傷”は、むしろ栄光というべきであろう。経営者はトライ探し、学者はエラー探し、作家はエロ探し。これが今日の相場になっている。
鹿内がその先見性で大勝を博したのは、UHFのネット化である。彼は数年まえにこの電波に目をつけ、アメリカのUHF局を調査するために、単身で渡米している。当時、国内では誰一人Uを口にするものはいなかった。
鹿内は一週間かけてU局をまわり、五年間に三百局のうち百五十局が潰れたことを知って愕然とする。一方、VHF(いまの電波)とUHFの混在しているところを調べ、これならゆけると確信をもった。彼はオール・チャンネル法について見聞をひろめ、州内立法の参考資料まで持って帰国すると、まず電機メーカーを集めて「これからはカラーとUHFの時代になる」と大演説をぶちあげ、オール・チャンネル法のパンフレットをばらまいた。
四十三年からそのUHFが各地で開局されるようになったが、鹿内は「Vは幹線、Uは支線」の原則を立て、フジテレビをキイ・ステーション(親局)とするネット化に全精力を傾けた。この結果、フジは仙台・東京・東海・関西・広島・福岡の太平洋岸六局と沖縄テレビをネットすることに成功し、さらにUHFでも次のような成績をあげている。(完全にネット化したものを一〇〇とし、他局と相乗りのものはその比率を数値化して作成してみた・筆者)
フジテレビ 六六〇(十社)
NET   四六〇(十社)
日本テレビ 二六〇(六社)
東京放送   四〇(二社)
東京放送と日本テレビは先発局である。無人の野をゆくがごとくVHFをネット化している。急追をかけたのがNETとフジテレビで、これはUで争うほかはない。しかしこの一、二年のうち、U局が一本立ちしてくると、フジの系列化は充実することになる。すると、東京放送対フジテレビの決戦という場面が見られるだろう。東京放送の今道社長は「TBSは最大の放送局よりも最良の放送局になりたい」といっている。これに対して、鹿内はニッポン放送・サンケイ新聞との三位一体説を打ち出している。
流れた鹿内“謀叛説”
サンケイ新聞が財界の手にわたったのは、昭和三十三年のことだ。前田久吉の個人商店式のやり方に|破綻《はたん》が出て、時事新報の伊藤正徳が堀田庄三、小林中、桜田武、今里広記に「なんとかしてくれ」と相談をもちかけた。堀田の住友銀行はかなり融資をしている。小林中を頂点とする“財界四天王”は朝・毎・読の反体制化を見て、サンケイを確保することになった。社長に水野成夫をおくりこみ、小林と桜田の二人が夏の炎天下を十八行も銀行をまわって、金利の棚上げや新しい融資をたのんで歩いた。
水野のサンケイ再建策は見事だった。負債五十億円、実質赤字四億五千万円の企業を就任二年目で八分配当にもちこんだ。水野はこれで身体をすりへらしたらしい。桜田によると、「いっしょにゴルフに行っても、ハーフ・ラウンドもまわりきれないで、しゃがみこむ有様」であった。しかし、水野の積極経営も三十九年からの不況には勝てず、配当も六分におとしたが、なんといっても、売掛金が雪だるま式にふくらむことを防げなかった。かてて加えて、水野の信長性が発揮された。彼は新聞の不況を、体質変換や、あるいは新聞の体力を軽くすることで救おうとせず、むしろ関連産業をふやすことによって態勢を立て直そうとはかった。この「拡大均衡策」が「サンケイ・バレィ」「伊豆観光」「サンケイ・アトムズ」である。これらの事業が、サンケイ新聞の足に借金の鎖をかけることになった。
水野が仆れたあと、鹿内は社長の椅子を|擬《ぎ》せられると逃げまわった。四天王は鹿内のほかに、伍堂輝雄(日航会長)、津末宗一(菱華産業)にもあたったが、いずれも「任にあらず」と逃げられた。小坂徳三郎は第一候補だったが、政界出馬(東京三区)ということで|免《まぬが》れた。
鹿内は「水野退陣・鹿内社長」をきめる役員会をスッポカし、これを流会させてまでいる。このため一時は鹿内の“|謀叛《むほん》説”が流れたが、このとき彼は大分県に|隠栖《いんせい》する|信夫《しのぶ》韓一郎を訪れ、新聞経営の本義を聞いていたらしい。信夫は朝日がうんだ大記者である。
一匹狼の試練
周知のように、鹿内はサンケイ新聞をひきうけるにあたって、関連事業を整理し、今里広記に常務として入ってもらうことを条件にした。南喜一は鹿内のこの態度を批判していう。
「サンケイ新聞だけをひきうけるなら、なにも鹿内君でなくてもいい。鹿内にとって水野は“兄貴分”だろう。その水野がやりかけた仕事は、もう三、四年もすれば、立派に芽を吹いてくる。それをそっくり鹿内君がひきうけて、水野同様に悪戦苦闘をはじめたら、誰が彼を放っておくものかね。財界はそんなに冷たいものではない。鹿内君は人の心より自分の頭を信じすぎるのではないか」
北海道出身の財界人には植村甲午郎、萩原吉太郎らがいる。が、一般的にいって、財界には“甲州閥”“近江閥”などの地縁関係があるのに、北海道出身にはこの関係が|稀薄《きはく》だとされている。
鹿内の出身地である夕張郡からは、社会党の横路節男(故人)、竹田巌道(前北海道タイムス社長)、芸能人の坊屋三郎くらいしか出ていない。鹿内は閥も|ひき《ヽヽ》もなく上京した。財界はこの有能な一匹狼を飼育した。一匹狼はつねに最前線に出され、その中で戦いの論理を身につけた。その論理は、彼に自己を無機化することを教えた。いまやマスコミ三業の社長、自己とその周辺を有機化することを迫られているのかもしれない。
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沖縄の信長・具志堅宗精

「昇陽は拝まぬ」
たとえば、友人をカメラで撮る場合、自分はカメラを構えたままで、「おい、もうすこし右寄れ、もうちょっと前、もっと右」と、友人を動かしてファインダーに収める人間がいるであろうか。
沖縄に、そういう痛快な人間がいたのである。オリオンビールをはじめ、十社の会長をつとめる|具志堅宗精《ぐしけんそうせい》である。秘書の山田義見をつれてアメリカ旅行をした際、彼は「自由の女神」像の前で、山田を撮ってやろうといい出し、カメラをかまえたまま、「こら、そんなところにいたのでは貴様が入らんではないか。もっと右、それから前」と叫んだものである。
このエピソードは、具志堅宗精という人物の密集写真のようなものである。これも拡大してみると、彼の人生観・経営観・日本観があらわれてくる。
沖縄の復帰を感傷ないしは感情論をぬきにして語ろうとすると、事態は“|沖縄人《ウチナンチユ》”の自立心なしには、沖縄は薩摩・大日本帝国・アメリカ軍政部に続いて四度目の“琉球処分”にあいそうな気配である。
いうなれば“具志堅語録”がある。政治・経済・処世論にわたって約六十項目におよぶ。「アメリカは沖縄に用がある間は|尻《しり》に火をつけても沖縄を返さない、用がなくなればとめてもさっさと引き上げる」とか「もし本土が勝手なことをすれば共産党と組んでも抵抗する」とか、戦略戦術を心得たものが多いが、その中で「|昇 陽《ヌブイテイーダ》のみを拝む姿勢はいけない」というのがある。
「|昇 陽《ヌブイテイーダ》」は「調子のいいひと」「えらくみえる人」の意味である。調子のいいひとには無批判に従ってゆくという、沖縄人のある種の性格を|衝《つ》いている。これが具志堅宗精の基本的な性格のひとつである。
戦前は警察に入って平巡査から警察署長にまで進み、戦争中は警視に昇進して米軍と一戦まじえ、戦後は米軍政下に宮古島知事をつとめ、辞任後は|味噌《みそ》、ビールの醸造などをはじめて、沖縄の“工業資本”を育ててきた。つまり、彼の歴史はそのまま沖縄人の歴史であるが、それを貫徹するものは、「昇陽を拝まぬ態度」である。
総理大臣と“電報魔”
財界の長老である竹野寛才(沖縄製糖社長)は「こういう男が、あと五、六人おれば沖縄はもうすこし変っていたであろう」と評価しているが、たしかに彼の行動は“小国の生き方”の代表例みたいなもので、“本土並み”の評価をすれば、気の短いこと、行動の|迅《はや》いこと、織田信長そっくりである。
「電報魔」という|綽名《あだな》がある。陳情であれ、激励であれ、抗議であれ、すぐさま「ソレ、電報」とくる。それも百字や二百字の|沙汰《さた》ではない。千五百字から二千字におよぶ。一例をお目にかける。昨年六月十六日、当時、建設大臣であった根本龍太郎に宛てたものだ。
「新聞報道によりますと大臣は、本土も戦災を受けており特に沖縄を甘やかすと他の過疎県からも不満が出るので過保護はいけない、また建設大臣として沖縄視察のチャンスもあったがそれも断わったとのことですが、私は政治は正義と愛情がなければいけないと信じます。知るは愛のもと、大臣としてそのようなお心構えでは立派な政治が行なわれるはずはありません。ご発言の通り広島、長崎も原爆被災地であり、また大なり小なり各県被害を受けているのも事実です。しかし戦場となった県がどこにあるでしょうか。もし沖縄が本土防衛の防波堤とならず米軍が日本本土に上陸した場合どうなっていたでしょうか。あの時の国民感情は最後の一兵まで戦う心意気でありました。(中略)当地で玉砕された海軍司令官太田中将は海軍次官宛の最後の電報で『沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世格別のご配慮を賜わらんことを』と申されましたが大臣もその心で沖縄問題に当って頂きたい。(中略)大臣のご発言は返還協定反対者に対するけん制球とも思いますが、これは内閣不統一のそしりを受ける恐れもありますので慎重なご態度をもって豊かな沖縄県づくりに|邁進《まいしん》なさって頂きたい」
この電文は千六百字ある。それも、これ一本ではない。「同様の電文を佐藤総理ほか誰と誰と誰にも打ちました」と書いてある。受けとった方は、知らぬ顔の半兵衛をきめこんで握り潰すわけにはゆかない。
佐藤首相が「沖縄返還協定」の仕上げを終えてサンクレメンテから帰国したとき、羽田空港に出迎えた具志堅が「総理、沖縄の具志堅です」と握手を求めたところ、佐藤は思わず「おお、電報をありがとう」と|洩《も》らしている。なんでも彼の電報がしばしば本土の閣議の話題になるそうだから、佐藤も途端に具志堅の顔が電報に見えたにちがいない。
ところで、前述の根本建設相宛の電文は、具志堅の本土に対する気持、ないしはスタンドポイントを率直にあらわしているように思われる。ひと口にいえば「大和恋しや、恨めしや」である。
彼は、戦前の“皇民化教育”によって、日本人の道徳観や生活感情をすっかり身につけている。と同時に、戦前・戦後を通じて沖縄人として受けた“差別”を身をもって味わってもいる。これが、心情的には日本人でありながら、現実生活の上では日本とアメリカを等距離に眺める、複合した心理を形づくったのだ。このような心理構造は、沖縄人が多かれ少なかれ、持っているものである。これが若い世代になると、たとえば“非国民の思想”なるものに発展する。「われわれは日本人でもなければアメリカ人でもない。琉球民族である」という考えで、「日本を選択するかアメリカを選択するかは、日本に一応帰ってからきめてもよい」という態度を結果するのである。これはハワイの日系三世の態度と一脈通ずるものがある。三世たちにとって、もはや“日本”や“東京”は完全に“外国”である。彼らは米本土でフランス人なり中国人なりと結婚して、そこの国の国籍を取得することに、なんの抵抗感ももっていない。こういうのを“地球民族”というのだが、かつて琉球王国という、空間的にも文化的にも言語的にも完結性をもった民族として、沖縄の若い世代が“地球民族”を志向してもなんら不思議ではない。その方が知的混血をとげられて幸いかもしれないのだ。
本土人より純粋な日本人
「明治が見たければハワイにゆけ」という言葉があるが、「日本人にあいたければ具志堅にあえ」といった方がぴったりする。
彼の愛唱歌は「人生劇場」と「王将」だが、彼自身はひどい音痴で、次女の静子によると、最後までしっかり歌えるのは「愛国行進曲」と「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」の二つであるという。もちろん、具志堅にジャズやポップスを期待する方が無理だが、彼が「愛国行進曲」しか歌えないというのは、あながち偶然ではない。
大のプロレスファンで、テレビの放映時間に間にあわせようと夜道をかけ足し、転んで手首を折ったが、その痛みを知らぬまま、ジャイアント馬場と火の玉小僧・吉村に声援をおくり続けたと、彼の自叙伝『なにくそやるぞ』に書いてある。いや、それよりも彼が「日本人よりも純粋な日本人」であることを物語っているのは、キックボクシングを見る態度である。
ある試合で、具志堅がさかんに赤パンツの選手を応援するので、娘の静子が「お父さんはあの選手を知っているの?」ときくと、彼は「なに、白パンツの|奴《やつ》が不良みたいにモミアゲを伸ばしているのが気にくわんのだ」といい放ったそうである。こんなふうだから家庭の|躾《しつけ》も厳格一方で、廊下を足音立てて歩いたといっては叱り、タタミのヘリを踏んだといってはドナるという始末である。いまだに、彼の家の|硝子《ガラス》戸は指紋ひとつ見られないほど磨かれ、廊下はぴかぴかのつるつるで、来客が何人ひっくりかえったか知れぬという。
しかし、感動的なエピソードは長女の初子が離婚したときだ。具志堅は「離婚など家門の恥」として、六年間、娘に家の|閾《しきい》をまたがせなかった。が、妻や次女が初子と交際し、なにくれとなく面倒を見るのは、知っていながら黙って見すごしたという。今日では「明治座」の新派でも上演しなくなった、日本の父親の|肚芸《はらげい》を彼は那覇市で日常的に演じているのである。
玉代勢正昭(警視正・|普天間《ふてんま》署長)によると、戦前の具志堅警視はものすごいカミナリ|親爺《おやじ》で、ことに綱紀を正すことにきびしかったが、それには三百六十五日間同じ言葉を引いて訓話したという。「武士道とは死ぬことと見つけたり」「上みれば限りなし、下みて暮せ百合の花」「み国のためにはかるかに、なにすることありて世の中に立つ」である。
最近でも、『葉隠』以外は使っている。あるとき、オリオンビールの社内で「上みれば限りなし、下みて暮せ百合の花」を訓辞したところ、たまたま上むきの百合が花瓶にささっており、若い社員が「会長、あの百合は上をむいています」といった。すると具志堅は|大喝《たいかつ》一声、「バカ、あれは百合ではない」といったものだ。
しかし、もっと彼らしいのは西郷隆盛の「み国のためにはかるかに、なにすることありて世の中に立つ」を、今日の“具志堅語録”では「沖縄の復興のためにはかるかに」とかえていることである。具志堅にあっては、「沖縄の復興」はしばしば「み国」と同心円になっている。だから、復帰についても、「沖縄が自前の力をつけてからすべきだ」という考えをもっていた。が、戦争によって|屍山血河《しざんけつが》の地と化し、米軍支配によって山容改まった沖縄が立ち上がるためには、“み国”の援助が必要であり、それは感傷的な慰めの言葉でもなく具体的なプログラムであることを要求するのである。ここで「み国」と「沖縄」とは、それぞれの中心を離して距離が生じるのだ。その距離は「アメリカ」と「沖縄」との間にあった距離でもあり、具志堅から見ればともに比較計量のできる対象である。しかし、「愛国行進曲」しか歌えぬ彼が、「み国」と「沖縄」の間に容易に距離をおくことができるのは、もうひとつ深いところで、沖縄人としての哀切な経験が動因となっていよう。
皇民化と差別
彼は、明治二十九年八月、那覇市に生まれている。生家は二百五十年も昔から続いた味噌屋であったが、彼の父の代にはそれもやめて、農業を主体に琉球|紬《つむぎ》の糸染めや加工や刑務所の看守で現金収入を得ていた。高等小学校を|卒《お》えて島尻農学校にすすむが二年生のとき父を|喪《うしな》う。上の兄が商業学校に通っていてあと三カ月で卒業するという年めぐりである。宗精は「自分が犠牲になるから」と申し出て、兄の宗演を卒業させる。彼の学歴は農学校二年中退で終っている。その後、製糖工場の職工になったり、級友の友寄英彦(歯科医)によれば那覇港の桟橋で沖仲仕までやったという。
大阪でも働いている。造船所の職工、下働き人夫、消防隊員、土方等である。戦前の沖縄人は本土にわたると、たいてい大阪の小林町か横浜の鶴見で働いていた。ここに先住者がいたからで、彼らは群落をなし、肩を寄せあって泡盛を飲み、|蛇皮線《じやびせん》をひいて異郷の夜をすごしている。上からの皇民化教育を押しつけられながら、実生活では差別の壁にかこまれていたわけである。具志堅は栄養失調のため|脚気《かつけ》になり沖縄にかえる。しかし、このとき、彼は二百円もの(大正八年で)貯金をしている。すでにタダものではなかったわけだ。この金を資本に八重山の開拓を試みたが失敗、それでは巡査にでもなるかと試験を受け、「沖縄県巡査拝命」が大正九年十一月、彼が二十五歳のときである。それから敗戦まで警察官の生活が続くが、彼は機会をとらえて昇進試験を受け、昭和四年警部補、同十年警部、同十八年地方警視と昇進している。われわれは、今日の尺度で彼の履歴を読みすごしてはならない。戦前の沖縄官界は、生麦事件の一味であった奈良原繁が県知事として赴任して以来鹿児島県出身者に牛耳られていた。奈良原はことあるごとに鹿児島から後輩をよびよせ、県行政の要職につかせたのだ。そのため、県庁内では課長以上のクラスに沖縄県人が入ることがなかった。終戦間際になって、何人かが課長になったが、これは人的欠乏のためである。司法畑も同様で、警察官は巡査部長どまりである。部長になると、沖縄県人の間では「部長具志堅」というふうに“屋号”がわりに使うほどである。この支配的風潮の中を具志堅宗精は|這《は》い上がったのだから、よほどの努力と“大和化”にはげんだわけであろう。
玉砕を覚悟
静子の記憶によると、父親はほとんど家庭生活を楽しむということがなかった。家にいれば部屋にこもってもっぱら読書である。あるいは、押入れに並べた泡盛の|甕《かめ》から古酒を汲んで陶然と酔っている。ある年の夏、珍しく子どもたちを海水浴につれていった。ところが、彼は三人の子どもの胴に縄をかけ、その端をもって自分は砂浜にすわり、本を読んでいる。時間がくると、彼はその綱を引っ張る。子どもたちは否が応でも海の中からたぐり寄せられるわけである。
また、友人の友寄英彦は戦時中の具志堅がいかに“猛烈署長”であったかを語っている。沖縄はことに防空演習がさかんだった。具志堅署長は、隣組の消火演習にみずから出むき、一場の訓辞を垂れたあと、「五キロ焼夷弾が落ちた場合はみなさんの火タタキ棒くらいでは役に立ちません。こうするのです」と、一枚のムシロを|拡《ひろ》げてみせた。それから「|焼夷弾《しよういだん》落下!」と鋭い声で叫ぶと、地面においた|模擬弾《もぎだん》の上に身体を投げかけた。起ち上って「わかりましたか。いまの要領です」といった署長の夏服はインクで|藍《あい》に染まっている。模擬弾の上に伏せたときポケットの万年筆が折れて、白い服いっぱいにインクがしみたのである。
沖縄に米軍が上陸し、警察は住民の誘導と保護にあたったが、いよいよ日本軍の最期が近づくと、具志堅は島田県知事に「最期をお伴させて下さい」とたのんでいる。これは島田がことわったので果さなかったが、すでに“玉砕”を覚悟していたのだ。
以上は、皇民化教育の徹底ぶりを物語るもので、いまさらながら教育の効果のおそろしさに|慄然《りつぜん》たる思いがする。しかし、この皇民化教育が骨の髄まで変質を来たさせるかといえば疑問なのだ。
戦後、友寄が沖縄を訪れた際、|比嘉《ひが》主席に「あなたのような人に去られては困る」とひきとめられ、住宅金融公庫から資金を融通するから、それで家を建て、沖縄に定着してほしいと懇望された。友寄は歯科医でもあり古俗旧習に精通してもいる。彼が「どうしたものか」と具志堅に相談すると、「おれたちが二十万円くらいの金はつくってやるさ」と、具志堅は奉加帳をつくって筆頭に自分の名を書き、それから二十人ほどの友人の名を挙げて、「自転車でひとまわりしてこいよ」といった。友寄が好意を謝して出かけようとすると、具志堅は「ちょっと待てよ」と声をかけた。
「友人たちの前ではな、トモヨセと発音するなよ。それはヤマトンチュ(大和人)の呼び方だ。|沖縄《うちな》らしくトモヨシといえよ、トモヨシとな」
彼が、後に述べるように弟の宗発の誘いに応じて味噌・|醤油《しようゆ》の醸造業に携わり、さらにオリオンビールを創始して本土ビールとわたりあい、のちには「琉球工業連合会」の会長を六年つとめて「沖縄に経済人あり」と本土財界の認めるところとなったのは、織田信長を思わせる神算妙略と迅速果敢な行動もさることながら、その心底に「沖縄人による、沖縄人のための事業」という意識が渦巻いてもいたのだ。
彼の創始したオリオンビールは、最初の二年間、さっぱり売れなかった。本土ビールの洗練された味もさることながら、沖縄人の間に“舶来品崇拝”の心理が根づよく横たわっていた。「|昇 陽《ヌブイテイーダ》を拝む」は|嗜好《しこう》品にもあらわれるのだ。
銀行があわてた。三百二十五万円ばかりの融資が焦付きになる。二年間、利子の返済を棚上げして回復を待った。そればかりか、銀行の幹部は宴会やパーティがあると「島内産のビールを飲みましょう」と説いてまわった。このため、本土ビールを輸入している商社から「そんな銀行からは金を借りてやらんぞ」と苦情をもちこまれたほどだ。
このさ中、具志堅宗精は説いてまわった。
「これがダメなら沖縄人はダメな民族なんだ」
ビール会社の社長のPRという受け取り方もある。しかし、具志堅はこういっている。
「戦前の沖縄経済はほとんど鹿児島県人に握られていた。砂糖を買って大阪にもってゆくと現地値段の三倍にもなった。だから鹿児島からは“経営者”とよばれるような人はこなかった。たいてい|天秤棒《てんびんぼう》担ぎか|香具師《や し》同然の一旗組であった。沖縄県民は自分で経済をおこすという経験も気力もなかったのだ」
彼は「大和」に対すると同様に「米軍」にも、決定的な支配を許さない。というより、「米軍」の機構や意志を逆手にとって、かなり利用さえしている。今日の全軍労が「反戦平和」を唱えながら、「基地従業員の解雇反対」という、説得力の乏しい闘争構造に永住しているのと好対照である。
戦後の沖縄には「農地改革」と「追放」がなかった。自作農を創出すると軍用地接収の際に面倒がおこるからであり、本土並みに追放令をかけると人材の不足を来すからでもある。
「用米闘争」から「矯米闘争」へ
昭和二十二年、具志堅は宮古島知事を依嘱される。主席と副主席が「いつでも骨を拾ってやるから宮古島にいってくれ」というのを、具志堅は「先輩づらをするな」とおさえ込み、赴任するかわりに「四つの条件を|諾《き》いてくれ」と持ち出している。
「人事権を私にまかす」「島民の生活の安定をはかる」「教員の俸給をあげる」「産業をおこす」の四条件だ。具志堅は警察官時代に前後三回宮古島に赴任し、島情にくわしい。そこを買われての交渉だけに、彼の方が強気だ。東官房長がすぐ米軍にかけあい即座にOKとなった。このとき具志堅は俸給について一言もいっていない。明治男の面目である。結局、「本島知事が八百円で、ワシは九百円。本島が|恰好《かつこう》つかないので英語手当に百円のせてワシと同額になった」そうだ。
宮古島知事になったときから、彼の“反米闘争”いや、“用米闘争”が始まる。赴任して一週目に「失対事業」として集団農場の開放を策定した。宮古島には財源らしいものは一文もない。唯一の頼みである製糖業は砲撃で四散し技師はいない。具志堅以外の役人は「金はどうするんですか?」と目を丸くした。具志堅は、直接、軍政官のところへ出向いて「産業復興資金に百五十万円下さい」とかけあった。このへんが信長的である。彼は軍政官の立場を読んでいる。
アメリカ人は実績主義だ。無為を至善とする国の官僚とはちがう。当時のマクナマラという軍政官は|海兵隊《マリン》上りの鬼のような男で、具志堅が来るまでに知事の首を三人ちょん切っている。こんどまた具志堅を切ると四人目で、そうなると彼自身の行政手腕が疑われるのだ。そこで彼は軍政官にいう。
「産業資金百五十万円が出せないなら、最初の条件とちがいますから、私は本島にかえります」
軍政官は「わかった」と叫び、みずからLSTに乗って本島に赴き、百五十万円を抱えてかえってくる。彼はこの金で引揚者や帰農者のために「集団農場」を|拓《ひら》いたが、これは河上肇の『貧乏物語』を読んでいて得たヒントだという。
つぎは、もっと手のこんだ“用米闘争”である。具志堅は、|西表島《いりおもてじま》の国有林に目をつけた。西表島は、当然、八重山島の知事の管轄下に入る。しかし国有林にまで権限が及ぶかどうかはさだかではない。
彼はまず軍政官にかけあって、本島の軍司令官に西表島開発の許可をとりつけてもらい、さらに開発費として百二十五万円支出させることに成功した。それからこの金で西表島の山林に入ったが、千古|斧鉞《ふえつ》を入れぬ|態《てい》で、直径二メートルの|樫《かし》の木が昼なお暗き密林をつくっている。彼は百二十五万円をつかい果して木を|伐《き》ると、それを米軍に売りつけ、資金を稼いだ。さらに巨大な現物を抱えた米軍にむかって“払い下げ”を申請し、米軍の費用で宮古島に運びこんだ。ついに、米軍側がハテナ? と首を|傾《かし》げた。
「こりゃおかしいぞ。わが軍の金で伐採した木をわが軍が買いとり、しかもそれを無料で払い下げる。わが軍は一文の利子もとっていない、となると勘定があわない」
具志堅宗精、すこしもおどろかず、「そりゃ、あなた、それは大きな誤解ですよ」といったものである。
「米軍は沖縄を復興させようとしている。私は、その復興のすじみちを行なっているにすぎない」
彼はその金と材木で学校を建て慈善病院を開設している。宮古島には医者がいない。具志堅は「必ずつれてくる」と本島にわたり、知事の給料を上廻る給料で医者を迎え入れた。彼の|狙《ねら》いはマラリア|撲滅《ぼくめつ》である。宮古島のマラリアはひどく、戦争中、戦死者の九割はマラリアだといわれたくらいである。これは見事に成功した。金がまだある。公益質屋と大道をつくった。ついに、彼は「米占領区域の中で最も復興を早く実現した知事」と呼ばれた。
こういう“用米闘争”の話はまだかなりあるが、彼の名をさらに高からしめたのは“|矯米《きようべい》闘争”の実績である。アメリカ側を矯正、いまの言葉でいえば総括してしまうのである。
「ゲスリング事件」
その典型例が自叙伝『なにくそやるぞ』に出てくる「ゲスリング事件」である。宮古での盛名をそねまれて、ゲスリング司令官に|讒謗《ざんぼう》するものがあった。ある村長選挙にかけて具志堅が五十万円を着服したというのである。反具志堅派はこのほかにも「宮古島の天皇絶対反対」「ワンマン帰れ」などのビラを|貼《は》ったり、知事室に青年たちをなだれこませた。さらに、ゲスリングが“恐妻家”なのを奇貨とし、彼の妻に吹きこむものまであらわれた。彼の妻はしょっちゅう赤いドレスを着ていたので、島民からアカンマ(赤いババア、赤い馬の意味もこめている)とよばれている。「アカンマが来てからゲスリングが悪くなった」ともいわれ、妻のカーテン・レクチュアがだいぶきいてきたらしい。「具志堅横暴」はアカンマのいななくところにもなった。具志堅は騒ぎが大きくなると、ひそかに事の次第を|認《したた》めて密使を立て、本島の軍司令官に「調査員の来島」を要請した。このへんがアメリカ人のやり方を知った上での行動である。果せるかな調査員がくる。徹底的な調査の末、具志堅の潔白が証明され、まもなくゲスリングには左遷の令状がくる。彼は、勝利の記者会見で「私は潔白でした。それだけです」とひとこといっている。これはホンの一例で、彼に理非を問われて失脚もしくは左遷された軍人は五人におよんでいる。傑作なのはジーグラーという商工部長で、これは軍人上りではなく官僚出身だったが、就任するや否や、米軍物資の「払い下げ申請書」を英文十枚、日本文十枚提出するように改悪し、そのうえ申請者の身分証明書まで添付せよと布告した。具志堅、すっかり腹を立てる。形式主義がきらいで、「語録」にも「タキシード式行動はいけない」(タキシードは自主性のない形式主義と見なしている)というのである。
彼は、わざと身分証明書をつけずにジーグラーの前にあらわれる。果して「ないじゃないか。ノーだ」ときた。具志堅は「おお、ないともさ」と答えると、腕時計をはずしてジーグラーの鼻先につきつけた。この時計こそ、“首切りマクナマラ”と異名をとった軍政長官が具志堅に知事をやめるとき記念品として贈ったもので、サインが彫ってある。
「これをよく見ろい」と、具志堅宗精は“遠山の金さん”ばりである。
「あんたは、沖縄を復興しに来たのかね。それとも復興の妨害に来たのかね」
商工部長のデスクにいっせいに視線があつまる。具志堅はますます大きな声を出す。ついに、ジーグラーは折れたが、その一週間後、いずこともなく姿を消したものだ。
“|金《チン》ハブ”の猛烈
彼の味噌醸造は弟の宗発にすすめられたものだが、醸造に必要な機械はほとんど“用米闘争”の賜物である。「払い下げ」を申請して許可がおりたところへ朝鮮戦争が|勃発《ぼつぱつ》、すべての許可はひとまずキャンセルとなった。具志堅は「そんなバカなことがあるものか」と軍政長官の|許《もと》に乗りこみ、「銀行から三百七十五万円も借金しているのに機械がなければ品物ができぬ。利子も払えないが、どうしてくれる」と迫りに迫った。ところがこの長官は宮古知事時代の彼を知っており、「おお、君か」とみずから資材部長に電話をかけ、必要なものを払い下げるように命令した。すると具志堅は、ボイラー、モーター、エントツなどすべて新品を払い下げてもらい、ゆうゆうと引き揚げたものである。「ボイラーなど十四、五年使えたからずいぶん助かりました」と述懐しているが、彼の“用米闘争”は、琉球工業連合会の会長になるにおよんで、島内産業のためにも展開されている。
例の「繊維品輸入規制」のときは、「沖縄は本土とちがう」旨を陳情、綿製品の輸入規制枠からはずしてもらっている。さらに彼は米軍の「ドル防衛」にも真向から挑戦し、米軍基地が買い付けをしめ出した品目のうち、被服、木工品、食料品については解除に成功している。米軍基地の買い付けを沖縄では“島内輸出”というが、これでずいぶん第二次製品部門が救われたのだ。さらに米軍REX(東南アジア地域に展開する米軍に品物をあっせんする機関)もドル防衛策をとったとき、「アメリカと沖縄の関係は特別ではございませんか」と陳情の波状攻撃をかけ、ついに「沖縄は別」の特別措置をとりつけているのだ。このほかAID(経済開発協力基金)を引き出して、若い学徒を“第三国研修”に送り続けている。一方では、彼みずから「オグレズビー産業基金」をつくり、工業関係の大学生の奨学資金にあてたり、工業技術者の表彰にあてたりしている。オグレズビーというのは、民政府の経済次長をしていたアメリカ人で、「沖縄人より沖縄のことを知っている」といわれ、沖縄人の経済的独立のきっかけになるようにと砂糖とパイナップルの栽培をすすめた男である。具志堅は彼が次長で亡くなったのを|悼《いた》み、七千ドルを|醵出《きよしゆつ》して記念基金をつくったという。
こういう話を沖縄で丹念に拾ってゆくと、本土の沖縄に関する発言が熱っぽければ熱っぽいほど空虚にきこえてくる。やはり一国の命運に詠嘆調は似つかわしくない。早い話が、本土の著名人による“沖縄論”は沖縄の本屋ではさっぱりの出足なのである。
以上のような行動から、具志堅には“|金《チン》ハブ”という綽名がついた。直情径行に見えていてポキリとゆかない。真っすぐ食いついてくるが、粘りづよくてなかなか離れない。そのうち相手がしびれてくるわけだ。
「琉球新報」からスカウトされた山田弘(新生沖縄県をつくる会)が営業部長のとき、「あなたと藤原弘達とには共通点がある。藤原さんはガラガラ蛇で、あなたはハブ、ともに毒蛇ですね」といった。すると具志堅は「バカいえ。おれはハブにはちがいないが、ひとを傷つける毒は持っておらんよ」となかば否定したそうである。
“具志堅語録”に、「義理ンも踏み|違《たが》ン、しなさきんちくし(情も尽して)うちゆわたゆしどひとのかなみ(浮世渡ることこそ人の要)」というのがある。
具志堅が“ハブ”に化身するのは、対米・対日の場面である。ずいぶん探してみたが沖縄人相手には“青大将”にもなっていない。沖縄人の“群れの生活”が心底身についているのではないだろうか。ただひとつの例外は、沖縄商工会議所の会頭選挙を国場幸太郎と争ったことである。これも事情通によると、最初に国場がやり、次は禅譲スタイルで具志堅がなるところだったが、国場が動かなかったため選挙になったのだという。ともあれ、このとき具志堅は応援者から寄せられた“実弾”を金庫の中に|収《しま》いこみ、敗戦ののち、丁重な手紙をつけて各人に封筒のまま返却している。このようなストイックな態度は警察官生活が永かったためであろうが、これは会社経営者としても一貫している。
娘の静子によると、彼はどんな事情があっても家族に会社の自動車を使わせないという。また、味噌、醤油、ビールも絶対に会社から持ち出させない。必ず小売店で買うように仕向け、「小売店があるから会社がやってゆけるんだぞ」といい聞かせるという。本土の経営者なら、女房が買い物や観劇に社用車を使い、自社の株まで売ってマンションだの別荘だのを建てるところだ。が、沖縄財界の“金ハブ”は自分の|棲《す》み|家《か》も七十歳をすぎてようやく新築する始末である。古い家をこわしたとき、大工がボロボロの|梁《はり》や|根太《ねだ》を見て、「よくこれで夜中に床が抜けなかったものだ」と感心したほどだ。
「不可能のない男」
しかし、具志堅のストイシズムはさらに発展して「島産品愛用運動」にまでおよぶ。こうなると、当然、商社との間に摩擦がおきる。が、彼はハブのように直進するのみだ。
具志堅がオリオンビールを始めたのは、まえにも述べたように「沖縄でつくれるものは沖縄がつくろう」という思想からである。
最初、本土のビール会社に提携を申し込んだ。ところが、話しているうちに「亜熱帯地域ではむずかしい」「水がわるい」「機械に適当なものが見当らない」等のマイナス理由ばかり挙げてこられた。本土の一流会社にそういわれれば、たいてい尻込みするものだが、そこが“金ハブ”たる|所以《ゆえん》である。いったん歯を立てたら離れない。吉田義男(現社長)に「具志堅さんは不可能を突破するために生きているようだ」といったところ、吉田は、「いや、あのひとには最初から不可能ということがないんですよ」と、|辟易《へきえき》した笑いを洩らしたものである。
亜熱帯地域でも工場の温度管理が完全ならかまわない。水処理には当時出廻りはじめたイオン交換樹脂を使えばよい。たしかに沖縄の水は良質とはいえず、本土で二百トンとれるところが百トンから百二十トンというハンディキャップはある。が、質の方は確保できる。のこりは「機械」だ。これにはエンジニア出身の吉田があたった。吉田は商事会社に在籍して具志堅の訪問を受けたが、「いま、お世話できる機械はエンジニアとしては十全とは申せません」といったのが具志堅の気に入り、工場設備一切を|委《まか》せるという条件でスカウトされている。彼自身は長崎県出身であるが、具志堅の情熱にほだされて沖縄に腰をすえたわけだ。
吉田は、プラントで買えばエンジニアは楽であるが、それでは高くつくので、ちょうどステレオ気狂いが部品ごとに買い集めるように、醸造缶、モーター、|撹拌器《かくはんき》などをバラバラに買い集めた。このとき具志堅は買い付け部隊とともに虎の門の「福田屋」に宿をとり、三部屋をぶち抜いてネゴシエーション(交渉)の場にあてたという。彼一流のハッタリといえばハッタリだが、やはり“一世一代”の大演技であったろう。
ここで具志堅は粘りに粘り、一般に予測されうるコストの三分の一で買い付けをおわっている。沖縄は“外国”だから日本のメーカーは輸出優遇措置をうけ、まずそのぶんだけは安くなる。しかし、具志堅はさらに“現金決済”をもち出して買い|叩《たた》き、最後には「日本本土の発展のために“|弾丸除《たまよ》け”になった沖縄が自立しようとするときに、なんらかの手助けをするのはあなた方の責務ではありませんか」と、本気になって「沖縄復興論」をぶったものだ。
命を売る“ローラー作戦”
かくてオリオンビールはスタートしたが、本土ビールに|馴《な》れた感覚は容易にふりむかない。もっとも、アルコール飲料の味覚なんてあてにならないもので、オリオンも名うての“うるさ型”十人を呼んで“目隠しテスト”をしたところ、正確にオリオンビールと本土ビールを飲みあてたのは一人であったと、記録されている。
吉田の狙いは、本土ビールが競合関係からすこしずつ“個性”をつけているのに対して、できるだけ“特性”のないビールをつくることにあった。これは程なくできたが、さっぱり売れない。具志堅は、このとき「語録」に「売れないのではなく売らないのだ」という一条を加え、先頭を切って“ローラー作戦”を開始した。
いまでも語り草になっているが、オリオンの社員は退社時間をすぎると、いっせいにバーやキャバレーに繰り出し、本土ビールを飲んでいる沖縄人に「オリオンビールを飲んで下さい」とすすめるのである。このときのセリフがふるっている。
「本土ビールを飲めば沖縄の金は本土にいったきり|還《かえ》ってきませんが、オリオンビールなら廻り廻って沖縄人の所得になるじゃありませんか」
社員はひと晩に一人当り五ドルまで飲むことができる。だいたい四、五本である。山田義見(業務次長)は、入社早々、「夜は会社の金でバーを飲んでまわれるなんて、世の中にこんな結構な勤め口もあるものか」と思ったが、これがじつは大変な残業であることに気がついたという。ある社員の計算によると、かなり真面目にローラー作戦を遂行した場合、一人が一年にドラム缶八本ぶんを飲んだことになるそうだ。これを六十歳近い具志堅もやった。名護の工場を出て那覇市の繁華街に飛びこみ、さらにコザ市に足をのばし、深夜に那覇にかえって飲む。多い日で一日に十八軒まわっている。過労がたたって、胃|潰瘍《かいよう》になり、手術をうけるために入院した。|真《ま》っ|蒼《さお》になって見舞いに来たのが銀行である。
彼は夜の巡回で政財界の指導層が本土ビールを飲んでいるのを見ると、「沖縄の自立のためにオリオンを飲んで下さい」と、たのんで歩いている。さらに、夜の報告にもとづいて、翌朝、社員を会社や事務所に派遣し、「昨夜はバー○○でご尊顔を拝見いたしましたが、なにとぞビールを召し上る際はオリオンをご用命下さいますように」と、いわせてもいる。
そのかわり、社長以下全社員に布告して、「タバコは“ロン”を|喫《す》うべし」と“島産愛用”を徹底し、どこへゆくにも“オリオン帽”をかぶってゆくことを命じた。具志堅はその実行第一人者で、「沖縄タイムス」が社会功労者として表彰したとき、彼は五つ紋の紋付羽織に|袴《はかま》という|いでたち《ヽヽヽヽ》に、白いオリオン帽をかぶって出向いたものである。
その“法皇”的実力
「天皇と帽子」というエピソードもある。具志堅宗精、キャラウェイ高等弁務官を訪れた際、帽子かけに例の白いオリオン帽をかけ忘れて辞去した。スタッフの一人が「忘れものだ」というと、キャラウェイは「いや、彼はたいした経営者だ。忘れたと見せかけて、自分が来たことを印象づけようとしている」と、ニヤリと笑ったというのである。“天皇”はいうまでもなく具志堅の綽名だが、彼は時には“法皇”的実力を発揮することもある。
オリオンビールの市場占拠率は九二%である。のこり八%を本土ビールがわけあっている。圧倒的につよい。生ビールは六四%である。ただし、本土ビールには二〇〇%の課税がついている。本土ビール側は具志堅の“政治力”がモノをいったと解釈しているが、具志堅にいわせると、琉球政府との間に“問わず語り”に設けられたものだという。つまり、琉球政府としてみれば、ビール会社ができることは酒税・法人税・事業税・固定資産税・従業員の源泉所得税などが入り、歳入のたのもしい財源になりうるわけだ。具志堅もこのへんを|弁《わきま》えて“沖縄復興論”を民政部に吹きこみ、「輸入制限措置」を獲得したとみてよいであろう。ともあれ、本土ビールは二〇〇%の高率課税では勝負にならない。そのうえ、オリオンビールそのものが磨かれてきたとあっては、ますます太刀討ちできないわけである。ただし、この課税は特別措置として復帰後五年間は続けられるが、それからあとは、すべて“本土並み”となる。このとき本当の勝負どころを迎えるだろうが、具志堅は“生ビール”を目玉商品において闘えば大丈夫という自信を持っている。
とにかく人口百万といえば東京都世田谷区である。そこに頭取から小使いまで揃っている銀行が二つある。バス会社が六社ある。本土資本が流れこんでくれば、たちまち過当競争になる。
沖縄の経済は、資本金の額、労働装備率、従業員一人当りの付加価値額、同人件費を本土経済とくらべると問題にならない。沖縄で「中小企業」といわれたものが、「本土復帰」の暁にはいっぺんに「小企業」または「零細企業」になってしまう。結局独立・提携・系列化・廃業の四つの道しかない。すべては本土資本の“おめがね待ち”である。
具志堅宗精も、そういう事態が訪れることを見抜いている。すべては経済の法則にしたがわざるをえまい。が、彼の中に燃え続けた「沖縄人がつくる沖縄の経済」という理念は、どこにもってゆけばよいのか、それが問題になってくる。
彼がいま期待しているのは、「海洋博覧会」などを中心に行なわれる本土の手による「基盤整備」である。それは本土資本のための舗装道路かもしれないが、沖縄人もそれを手がかりに“自立経済”を達成することができるだろう。
「海洋博」の第一回シンポジウムが行なわれた際、岡本太郎の「博覧会なんてお祭りだから、ただ、無目的にさわぐところに意味があるのだ」という発言に対し、具志堅は|執拗《しつよう》にかみ付き、ついでに小宮山重四郎(国会議員)もまき込んで、えんえん二時間にわたる論争を展開している。“大和人”は工業化社会の人間回復のために「博覧会」を考えるが、“沖縄人”は人間の自立のために「博覧会」を考えているのだ。
彼は、いま、若手経営者の間で“沖縄|砦《とりで》のおやじ”と呼ばれている。ことに琉球工業連合会の若手に対しては期待しているらしく、町であっても「オイ、やっとるか」と声をかけ、自分の得た情報をどんどん流しているという。この信長の下から羽柴秀吉や柴田勝家が出るかどうか、これからの“見もの”であろう。われわれは、沖縄を“三十七番目の県”と考えがちである。しかし、沖縄は鹿児島県の南にある県ではない。行政的にはそうであっても、沖縄人の心はそれほど簡単に日本列島と同じ色に塗りかえられない。かえられないことによって、沖縄は独自の文化を|蘇生《そせい》させ、われわれにとっても貴重な“県”になりうるのである。
いざ、「復帰」桶狭間へ
具志堅宗精は、一度、自殺を試みて失敗している。沖縄戦の末期である。警察は統制力を失って解散、具志堅那覇署長は「これからは、三々五々にかたまって、北部に避難されたい」と下知した。
彼は、三人の警官とともに落ち延びてゆく途中で、「最早これまで」と拳銃を口にくわえ|引鉄《ひきがね》をひいている。二発が不発におわった。潮風で安全弁が|銹《さび》ついて動かなかったという。「私は、あの時から第二の人生が始まった」という感慨がある。それが彼をして「沖縄人としてやれることをやってみよう」という思いに生きさせたのであろう。
宮古島知事をやめてすぐ、具志堅は「赤マルソウ」という味噌を始めるが、当時の“戦果袋″(米軍の|雑嚢《ざつのう》)にサンプルを一杯詰めこみ、市場に出かけて地べたにすわっているアンマ(女)に「どうぞご試食下さい」と、一本一本おいてまわっている。あるときは県庁や警察署をたずね、昔の後輩に「おたくの職員の家庭で使わせてくれませんか」と、頭を下げて歩いている。沖縄のようにまだまだプレステイジ(威光)の効く社会では、これは容易ならぬことで、町のひとは「知事さんがあんなことしている」と|唖然《あぜん》として見守ったそうだ。具志堅にしてみれば、“第二の人生”を身体に覚えさせたところであろう。
その彼が、いま、本土復帰の狂濤波瀾に傘下の十社を引きつれて臨みつつある。いよいよ|桶狭間《おけはざま》にむかう織田信長をほうふつとさせる。信長は馬上で美しく酔い、|幸若《こうわか》の「敦盛」の一節、「人間五十年、|下天《げてん》のうちをくらぶれば、|夢 幻《ゆめまぼろし》のごとくなり、ひとたび生をえて滅せぬもののあるべきか」を歌っていた。具志堅宗精は、同じような意味の琉歌を歌っていようか。
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偉大なる田舎者・川上哲治

TV、ジー・パン、プロ野球
この広い世界の中で、日本とアメリカに共通するものが三つある。
テレビの放映時間。ジー・パン。プロ野球である。
テレビの放映時間は、日米ともに一日十八時間で、イギリス・フランス・ソ連などの八時間ないし十時間にくらべると、電波の“タレ流し”といった感がある。ジー・パンは例のジェームス・ディーンが「エデンの東」で|穿《は》いてみせて以来、ハイティーンの男女が共用するところとなった。プロ野球については説明するまでもあるまい。
ところで、この三つの共通現象には公約数がある。一口にいえば、そこに擬制心理が働いているということだ。この心理は、戦後社会の独特のものである。
テレビの画面は、それを見るものに“臨場感”や“同時経験”を与える。視聴者は茶の間にいながら、ハイ・ジャックや成田新空港の“現場”に意識の上で参加しているであろう。
ジー・パンを穿くヤングたちは、わざわざ軽石で布をこすって使い古しの感じを出している。|裾《すそ》を切って糸をハミ出させることもある。彼らは、わざとやつれたジー・パンを穿くことによって、深い生活経験を感覚的に味わおうとしている。実際の日常生活は、米俵ひとつ担げそうもない薄い胸や細い腰をして、情念だの愛だのを口ずさみ、チンタラチンタラした時間を空費しているのだが、それだけに色あせたジー・パンに労働経験への擬制心理を深めているのだ。
阪急はなぜ敗れたか
プロ野球のファンも、グラウンド上に展開される作戦・用兵・豪打・美技に、組織の一員である自分を投影しているところが多かろう。
プ口野球のティームとは、個人の能力と組織の原理とをいかにうまく|噛《か》みあわせるかという、管理社会の“実験モデル”である。その中心点に立つのが監督で、彼は選手という名の技術者を「勝利」という目標にむかって統御する一方、親会社に対しても経営的な責任を負わされている。
「読売巨人軍」が全国的なファンを抱える一方、徹底的な“巨人ぎらい”を持っているという現象は、管理社会の光と影というふうに考えることができる。
さて、その「読売巨人軍」を率いる川上監督だが、二時間ばかりインタビューしていると、なるほど管理社会の管理人間とはこういうタイプの人間か、ということが痛感させられる。
たとえば、彼が七|連覇《れんぱ》という大記録を打ち樹てた四十六年の「日本シリーズ」では、「打撃にまさる阪急が有利」という予想がかなり行なわれていた。この予想の裏側で、巨人軍の試合運び、というより川上の用兵作戦は堅実一本ヤリ、小味でおもしろくないという不満もかくされていたようである。しかし、結果は予想を裏切り、巨人軍の圧勝に終った。一般には「巨人と阪急では野球が違うようだ」という結論になった。
ところが、川上監督は「それは違います。阪急は|うち《ヽヽ》と体質的には同型のティームです」という。
「だから阪急が本来の体質でプレーをしたら、こんどは|敵《かな》わなかった。ところが試合前の一カ月くらいから、阪急に“長打力あり”という世評が立った。そのため、阪急は本来の体質を忘れて、長打力に依存する気持が出てきた。私はシメタ、と思いました」
実社会の処世訓に「人間は得意になっているときがいちばん危ない」というのがあるが、川上はこの単純な心理を阪急の“前評判”の中に見抜いていたわけである。
また、彼はある監督を評して、このようにいったことがある。
「監督の|采配《さいはい》が|称讃《しようさん》の的になるようでは、よい監督とはいえません。監督の采配は目立たないのがいちばんいいんです」
これも「社長にハイライトがかかるような会社の株は売りだ」という、経営訓と|揆《き》を|一《いつ》にするものだろう。
もうひとつ、彼は球団社長の正力|亨《とおる》との関係をつぎのようにいっている。ある人が川上と正力の関係が疎遠だという|噂《うわさ》を耳にして、川上に「亨さんともすこしはつきあえよ」と忠告したときだ。
「おれには、勝つことがあの人とつきあう最良の方法なんだ」
以上のエピソードから、川上の特質として、計算・寡黙・執念をあげることは容易である。彼は、「勝利」という目標にむかって、情意の干満を完全に制御しつつ、確実なもの・専門的なもののみを組織化しようとする。そのためには、身辺に波立ち起る感情や|取沙汰《とりざた》をなるべく早く処置しようとする態度がみられる。
評論家の後藤修が、巨人軍の現役投手であったころ、川上と花札をやった。後藤がうまいのか、あるいはツイていたのか、川上はさんざんにやられた。傍で観戦していた選手が「監督、そこは場所がわるいんですよ。かわってもらったらどうですか」と口をはさむと、川上は、「バカいえ。あっちこっち場所がえをするヤツにはロクなのがいない。勝つときは勝つんだ」といったが、すぐにハッと口をつぐんで、後藤にそれとなく「キミのことをいったのではない」ととれるような意味の話を矢つぎばやにしたという。後藤は“球界ジプシー”と肩書がつくほど各球団をまわってあるいた選手である。
こんど『終わりなき勝利』という、川上哲治の“人間”を|温藉《うんしや》な筆でとらえた一冊を公刊した細川嘉章は、「ポール・ヴァレリーは“敵の神を撃て”といったが、川上の処世術は絶対に“敵の神”を撃たないことである」と語っている。これは、彼の性格を理解するうえで、かなり有力な評言である。ただ単に「敵をつくらない」という単純な解釈からではなく、「勝つ」という行為に航跡のようにつきまとう“非情さ”に、彼自身がまず堪えねばならないからだ。彼は、この“非情”の処理を坐禅に求めているようだが、このことは後に紹介する。
巨人軍の選手の給料はコンピューターで計算されている。計算上の要素は「貢献ポイント」と呼ばれる評価点である。その選手の働きがある試合にどれほど役立ったか、それが一挙手一投足ごとに評価される。
かつて、「広島カープ」が東洋工業のコンピューターを使って“王シフト”を編み出し、さらにスコアブックの数字をコンピューターにかけて、王が内角球に弱いことをはじき出したが、巨人軍ではさらに進んで、選手の給料まで管理しはじめたわけである。選手にしてみれば、自分の“働き”がどう評価されるかを知りたいわけだが、会社の方では「貢献ポイント」は絶対に公表しない。
あるとき、川上は細川嘉章を自宅に訪ねてこういっている。
「新人選手の給料ですがね。昔は、読売新聞の平社員の三倍が相場でした。それが、いまでは十倍です。巨人軍がいくら|稼《かせ》いでも、選手の給料には追いつかなくなる。そこで合理的にしようと貢献ポイント制を採用したわけですが、これを公表すると、どうしても情がからみますからね」
これも、川上の“自己管理”のひとつと、考えられないことはない。
もっとも、彼は大衆の前では「巨人軍監督」であるが、経営体系の上では「読売興業・常務取締役」である。「読売興業」は三つの事業をもっている。読売会館、巨人軍、西部本社である。読売会館は毎月三千万円の家賃が入り、償却もとっくに済んでいる。巨人軍は年収約十億円、諸経費九億円で、一億円の黒字だろうと|玄人《くろうと》筋は踏んでいる。この二社、いや二事業部の収益があげて西部本社に注ぎこまれているが、九州では“後発紙”だけに、赤字続きである。会館の時価は数十億円で、そうとうな担保力は持っているが、さりとて無制限に金融を受けられるものではない。
川上常務取締役は、もっぱら巨人軍の“現場”を担当する役員だが、読売興業が西部本社を抱えているかぎり、巨人軍という“営業種目”からは絶対に収益をあげなければならない立場にある。
この意味からも、彼は管理社会の典型人間であることを要求されている。
われらは批評家にあらず
一九七一年の正月、彼は「われらは批評家にあらず」と大書して、合宿所に|貼《は》り出した。七一年度の方針というわけだ。批評家不要というのではなく、選手は実技・実践をとおして自分の意見を持て、という意味である。
川上は「背番号16」の頃から「本体を磨く」という理論をもっている。バッターボックスに立って、球をまちかまえる自分は“仮りの姿”であって、それを見ているもうひとりの自分がいる。これが“本体”である。だから、この“本体”を磨けば、バッターボックスの中の自分をいちばんいい姿に|矯正《きようせい》することができる。これは理論というより信念と呼んだ方がいいだろう。
管理社会で排除されるのは、情緒・独断・|恣意《しい》・不定型などの要素である。論理・計算・制御・定型だけが参加の資格を与えられる。現代の若ものが、|乞食《こじき》のように髪をのばし、靴のカカトを踏んでズルズル歩くのも、変則ビートの音楽やサイケデリックな色彩を好むのも、管理社会の持つ|干《ひ》っ|乾《から》びた合目的性に生理的|反撥《はんぱつ》を覚えるからであろう。
しかし、日本の資本主義社会はこうした若ものの心情まで|汲《く》み入れるような管理システムを考える余裕はない。日本列島の開発は、技術革新を先頭にした情報系・交通系・知識集約系の大型プロジェクトがまかり通ることになっている。だからこそ、“生きがい論”が|澎湃《ほうはい》と起ってくるわけだが、一方では、この大型プロジェクトの進行につき添ってゆける人間も出るであろう。
運・鈍・根の人
川上などは、その典型的人間のひとりである。彼の人生は「生きがい」を求めるよりも、「どうやって生きるか」を出発点にしており、さらに「生きるためにはなにが必要か」を自分で体得してきているのだ。バッターボックスにおける「本体論」など、そのひとつのあらわれにすぎない。
かつて、千葉茂が「運・鈍・根」について川上と話しあったことがある。干葉は「ラジオ関東」の解説者をしているが、昭和十三年に川上や吉原と巨人軍に入団、“花の十三年組”と騒がれた名選手で、二塁手としてのプレーはファンを|湧《わ》かせたものだ。
「カワさんよ。人生は運・鈍・根というけれど、あんたは、ほんま、運のいい男だな」
川上が、これに答えて、
「世間の人は、おれが監督になったとき“あのエゴイストの職人に監督ができるものか”といったよ。|棚《たな》からボタモチだって。でもね、いくらボタモチがのっていても、立ち上って、棚の下まで身体を運んで、棚をゆさぶらなければボタモチは落ちてこないよ」
千葉は「ハハァン」と感心したが、すぐにまぜっかえしている。
「しかし、ボタモチがのっている棚にめぐりあえるのが“運”だよ。おれなんか、ずいぶん棚をゆさぶってみたが、落ちてくるのはホコリばかりだった。ホコリをかぶって、しまいには棚まで落してしまった」
この川上・千葉間の「タナボタ論」は、それぞれの人生を物語ってあまりある。千葉は、水原監督の後継者と目されていたが、当時の品川主計社長が「新田理論」というバッティング理論を導入したとき、若手選手の先頭に立ってこれを担ぎすぎ、品川社長の失脚とともに巨人軍を出ている。このとき、川上は「野球は理論でするものではない」として傍観して動かなかった。
一説には、正力松太郎社主がなお水原監督を評価しているのを見て、品川・干葉の体制にくみしなかったといわれているが、心情的にはそうであったにせよ、当時の川上には「理論なんてアテになるものか」という、“弾丸ライナー”の自負心が強かったようである。
しかし、千葉が指摘するまでもなく、私が会った十数人の球界人は、必ず一度は「川上の運のつよさ」を口にする。別所|毅彦《たけひこ》などは「もし、本格的な川上論をやろうと思ったら、陰陽五行説から彼の先祖まで調べる必要があるだろう」と、半ば真顔ですすめてくれる始末だった。
家を助けるための巨人入団
川上は周知のように旧制熊本工業(以下、熊工という)の出身である。昭和十二年に吉原正喜とバッテリーを組んで甲子園に出場、決勝戦まで進んで野口二郎投手を擁する中京商業に敗れている。が、その年の秋、明治神宮体育大会の選抜野球で、第一回戦に宿敵中京商業とあたってこれを破り、二回戦で徳島商業を撃破、決勝戦では海草中学をヒット二本におさえて優勝、全国制覇の栄冠に輝いている。
その年の春、巨人軍の鈴木惣太郎と市岡忠男が熊本まで来て、水前寺球場の川上・吉原の練習ぶりを見物してかえった。二人の目的は吉原捕手にあったが、二人とも川上の鋭いバッティングに|惚《ほ》れこみ、浅沼総監督に「打球が弾丸ライナーで右翼に飛ぶ、ルー・ゲーリックそっくりのバッティングです」と報告、藤本定義監督も「これからの巨人軍に必要なのはそういうプレーヤーです」と助言したため、あらためて“吉原・川上の同時獲得”ということになった。
再び市岡忠男が熊本に来て、川上に提示した額は、支度金が三百円、月給が百十円だった。川上は八人兄弟の長男だ。弟妹はまだ幼い。母親は「ゆくな、ゆくな」と反対、父親も反対だったが、「徴兵検査までだぞ」という条件をつけて許した。というのは、本人の哲治が「熊工を卒業して熊本鉄道管理局に入っても月給四十五円、それなら百十円のほうが家の助けになる」と考えて、入団を決意したからである。
ところが、その翌日、熊工野球部の先輩で、セネターズの選手だった中村民雄が、「南海グレートリングス」の結成準備にあたっていた小林次男の依頼で、熊本の土を踏んでいる。中村は、熊工野球部長の坂梨安次郎に「契約金五百円、月給百五十円で川上哲治を」という条件を提示した。
坂梨は“川上の育ての親”といわれる存在だし、中村の師匠にもあたる。もし、巨人軍の市岡よりも一日早かったら、一も二もなく、川上は南海に入っていたろう。が、一日おそかった。坂梨は中村にいった。
「いや、そりゃ民さん、惜しかったばい。そぎゃんよか条件なら南海にやったとばい」
もっとも、川上が南海に入った場合、今日のような存在にならなかったとは誰もいいきれない。だから、この場合は“運”というより“偶然”といったほうがいいだろう。
しかし、川上が坂梨安次郎の目にとまったことは、彼にとって幸運であった。もうすこし、彼の“野球人生”のフィルムをまき戻してみる。
川上が大正九年三月、|球磨《くま》郡大村字郷(現在の|人吉《ひとよし》市南泉田町)に生まれたとき、その辺一帯はすでに“野球熱”が渦巻き、川上の父・伊兵次は「伊兵次さんの姿のない野球試合もない」といわれるくらい、“草野球”を見て歩いている。
熊本日日が集大成した『熊本の体力』という本によると、日本の野球は熊本から始まった(明治四年)という説が紹介されているが、それはとにかく明治二十年代には|水俣《みなまた》に高野辰吉という投手があらわれカーブを投げたという。その曲がる球を見た観衆は、「辰吉シャンな、魔法使いんごたる。あん人の投げらすタマば見てみい。ホームベースのところでグイと曲がりよる」と噂しあったそうだ。
川上は大村小学校の尋常四年から“球拾い”をはじめる。父の伊兵次は、家の外壁にウチワを貼り、三十メートルも遠くから投げさせて、これに当てる練習を課した。野球好きの父としては当然のことだろうが、これが“金の卵”を育てる結果になった。
小学校の野球指導をしていた土肥敏雄が、川上の“腕力”をみとめて、ライトにつけ八番打者にした。その年、大村小学校ティームは福岡の春日原野球場でひらかれた全九州少年野球大会に県代表として出場した。その決勝戦で、川上は六回無死走者一塁のバッターボックスでホームランを放った。これが、彼が公式戦で打った第一号本塁打である。
尋常五年からは投手。先輩に|苧園虔《おぞのたかし》(現・人吉営林署)という熊本農業の投手がいて、彼が川上にインドロップの投げ方を教えた。苧園によると「コントロールは悪いが、球は滅法はやかった」という。
川上は、五年、六年と大活躍する。これに眼をつけたのが坂梨安次郎である。坂梨は熊本商業の出身で、英語で身を立てようとアメリカに渡り、シアトルの自動車会社につとめたが、海外生活のつれづれを紛らわすためアメリカの野球を見物したのが病みつきになる。帰国して熊工に英語教師として勤めたが、校長に「熊工から日本一の野球を出してみせます」と約束、野球部を預かった。それだけに、県下の“優秀選手”をスカウトし、この面倒を見るのに全力を傾注したといってもよい。
その坂梨の眼に川上の剛速球がとまったが、いかんせん、川上の家は当時ひどい貧乏ぐらしで、高等科進級もどうかという状態だ。
彼の生家は、かつて球磨川のほとりで船宿を営んでいた。人吉盆地は永く相良家の支配するところとなり、徳川三百年の間にもここだけは国替えがなかった。相良三十八代、続きに続いたのは、|嶮岨《けんそ》な山に囲まれ、交通手段としては球磨川しかなかったためである。したがって人吉から|八代《やつしろ》まで四十キロの交通をあずかる船宿は繁盛し、一時は「川上のあといり(あととり)は金貨ばもってアメを買いにくる」といわれるくらいだった。父の伊兵次は、訴訟・簿記・|算盤《そろばん》に明るく、町内会長に推される人物でもあったが、そこが“二代目”の|鷹揚《おうよう》さで、フリーボーンというよく走る馬を持ったばかりに、競馬と酒に家運を傾けさせてしまったらしい。
伊兵次は、馬を売り家を売り田畑を売って、馬車屋になる。が、まもなく船宿当時に身体をひやしたのが|因《もと》で神経痛が出て、一家の家計は妻の肩にかかる。哲治の母ツマは、わずかばかりの田畑を耕し、農耕の合間には一日八十銭の“日雇い”に出て、孤軍奮闘のありさまだ。川上も、尋常三年のころから朝は新聞配達、夕方は豆腐売りをやっている。
新聞配達と豆腐売り
弟の治徳(国民宿舎支配人)によると、「兄貴は露地に入るのが恥かしくて、自分は入口に立ち、私を売りにやらせた。兄が売っても一日五銭にしかならなかった」といっている。この少年期の心の屈折が、のちの彼を大成させるバネとなったことは否みえない。
「私の記憶では、コメの飯はほとんど食べたことがなかった。麦飯ばかりだったし、弁当のオカズも梅干一個だった。兄さんも私も、弁当の時間になると、県会議員や商家のムスコの弁当箱からオカズをとりあげて食ったもんです。ヘンな伝統ですがね」
弟の治徳の回想だが、「母親と私たち兄弟が働かねば一家は干上りそう」という危機感は、実際にあったようである。
坂梨にとって幸運だったのは、この左利きの少年投手が、学業成績も抜群であったことだ。坂梨は、市内で耳鼻咽喉科を開業する奥村隆のすすめで、川上をこの病院に寄食させる。奥村隆は、|済済黌《せいせいこう》時代、名キャッチャーとうたわれていた。
川上は熊工の機械科に合格、奥村家の書生をしながら通学するのだが、まもなく奥村は川上に済済黌の転校試験を受けさせる。「中学のほうが、将来、大学にも進学できるから、この際野球をやめて勉強に専念しろ」というのが理由だが、実際は野球の練習で川上の帰りがおそくなり、書生の仕事が充分でないことが不満だったらしい。川上は済済黌を受けなおし、五倍の競争率を突破して入学する。が、一学期がすむと奥村家を出奔する決意を固める。理由は、看護婦たちに意地悪くされ、患者の|膿《うみ》や|青洟《あおばな》のついたガーゼを洗うのにヘキエキしたからだという。
彼はそこで阿蘇山に飛びこんで自殺を考えている。奥村家に下宿していた五高生に阿蘇の道順を聞き、これから出かけようとする矢先に、五高生の急報で駆けつけた父親に人吉まで連れ戻されるのだ。それからまた人吉中学に転校するが、それを知った坂梨は矢も|楯《たて》もたまらず川上を再び熊工に迎えに飛んでゆく。
このとき坂梨は、川上の月謝を特待生扱いで免除すること、日常の面倒は後援会がみることなどの根まわしをととのえているが、もうひとつ、重大な腹芸を打っている。
熊工の体格検査で、川上は「色盲」と判定されていたのだ。当時の県立工業学校は、「色盲」は不合格である。坂梨はその事実を知ると、暮夜ひそかに校医を訪れ、「色盲」を「色弱」に改めてもらっている。
後年、川上が巨人軍のリーディング・ヒッターとして活躍しはじめたとき、坂梨野球部長は校長に、「じつはな」と一件を打ち明けたものだ。校長はそれを聞くと、
「ああ、もう、そぎゃんこっつあ、きかんがいちばんええ」
と、そっぽを向いたそうだ。
坂梨は四十六年の九月に亡くなっている。晩年になって、この話をはじめて妻にきかせたものだ。彼の妻も「坂梨も亡くなりましたから、もう時効でしょう」と打ち明けてくれたが、もしこの“腹芸”がなかったら、川上は吉原正喜という名捕手とめぐりあわなかったろうし、市岡・鈴木の名伯楽の眼にもとまらなかったであろう。もっとも、今日の川上は自動車の運転で「十年間無事故」の表彰を受けているから、おそらく栄養失調による「色弱程度のもの」だったと思う。
川上の“強運”を挙げるひとは、「自殺未遂」「吉原とのめぐりあい」、さらに「交通事故」をあげる。
昭和三十年、川上は同僚の平山と下谷の待合で一杯やり、|酩酊《めいてい》運転の結果、本郷三丁目の停留所に乗りあげている。このときハンドルはハの字に曲がり、平山は顔面に裂傷を負ったが、川上はカスリ傷ひとつ負わなかった。なお幸いなことに、川上の車に乗るはずだった芸者たちが、|女将《おかみ》の機転で裏口から脱走し、絶好の“新聞種”になるのを免れたことである。
さらに“幸運”を強調する向きは、長島が入団するとき、川上は「おまえが入ると巨人軍がつよくなりすぎる」と反対、そのためほとんど南海入りがきまりかけた長島を、社長だった品川主計が連れ戻したという話を挙げる。現在の巨人軍に占める長島の位置を考えると、これも“幸運”といえばいえるが、どうも結果論の|匂《にお》いがしないでもない。
しかし、このような川上の“運づよさ”を挙げるなら、彼が小学生のころから他人の弁当のオカズをあてにするような“悲蓮”に見舞われたことのほうはどうなるのか。
彼が“幸運”に恵まれたことも確かなら、“悲運”をねじ伏せてきたことも確かであり、彼の性格や人生にはその闘争の傷跡がより大きく左右しているように思われる。
川上は月給百十円のうち毎月六十円を熊本の実家に送っている。つまり、東京では“中卒並み”の生活をしていたわけで、千葉茂によると「兵隊にゆくまでの五年間、彼はオーバーを二着しかつくれなかった」という。
相棒の吉原は明朗|闊達《かつたつ》な性格のうえに、建具屋の息子とあって、仕送りの必要がない。とくに沢村投手に可愛がられて、紅灯柳暗の|巷《ちまた》に出没する機会も多かった。そんな時、川上は下宿の一部屋で、黙々とバットを振り、ために畳がすり切れたという。
入団の翌年(昭和十四年)、打率三割三分八厘ではやくも首位打者になる。このとき、野村証券の一課長であった瀬川美能留が、読売の経済部を通じて面会を申しこみ、個人的な後援会をつくっている。
もっとも、このころの川上はプロ野球の選手として一生を過すつもりはなかったらしい。それこそ「徴兵検査まで」で、それから……大学に入りなおし、八幡製鉄の平凡なサラリーマンを|憧《あこが》れていたという。というのも、当時の風潮として“プロ野球”を多分に遊芸視する傾向があり、試合中にスタンドに寝ころんだ観客から「こら、しっかりやらんかい」などと声をかけられて、川上はつくづく情けない思いがしたと述懐している。彼が野球に生き|甲斐《がい》を感じるようになったのは、戦後、それも巨人軍の優勝を味わってからだ。
軍隊時代は鬼の教官
軍隊時代の川上見習士官については、作家の虫明亜呂無が、飛行整備学校の学生たちから弾圧的で陰惨な教官として|怖《おそ》れられた、と書いている。とくにそのビンタは強烈で、これを食った学生は、もろ手をあげて空中に放り出され、スローモーション撮影を見るように、地面に叩きつけられたというから|凄《すご》い。
「川上の制裁があった日は、ぼくたちは、隊内でも飛行場でもほとんど口をきかなかった。ドギモを抜かれて、口がきけなかった」
ところが、ある日、虫明幹部候補生は叔父の面会に会いにゆくため、麦畑のあぜ道を走っているところを川上に見つかる。当然、空中に舞うことを覚悟していると、川上は中指で虫明のひたいを突き、「いかんじゃないか」といって立ち去る。これで虫明は、川上を学生たちと同じレベルで憎悪する気になれなくなったと書いているが、これは川上の一面を予告しているように思われる。
熊本県人の性格に、古くから“肥後もっこす”という言葉がある。高知県の“土佐のいごっそう”と、ほぼ似たようなもので、強情張りとか頑固一途という意味だが、ときにはヘソ曲り・意地悪という意味にもなる。
現代の“肥後もっこす”は、例えば市内のラーメン屋である。このラーメン屋は職人気質で、夜の九時になると店仕舞し、それ以後は絶対に商売しない。工夫に工夫を重ねて「日本でいちばんうまい」という自負心をもっている。
熊本日日の『熊本の体力』も東京オリンピックの年から足かけ三年間にわたって夕刊紙上に連載、通算四百十七回におよび、一冊にまとめたところ、二段組み八ポの活字で七百ページという大著になっている。値段がまた八百円という“もっこす”である。
川上の“|凝《こ》り|性《しよう》”はしばしば話題になるが、彼のは、たとえ趣味・道楽でも“凝り性”をとおりこして“もっこす”の領域に入っている。
水石のブームがはじまると、彼はグラインダーを買いこんで、家中を石だらけにしながら磨き立てる。菊づくりに熱中して見事な作品を並べたが、あるとき植木屋から「|旦那《だんな》がたのように、ふんだんに|金肥《きんぴ》をかければ、いい菊ができるのも当然ですよ」といわれると、ハッと自省して咲き誇った菊をひっこぬき、|鉢《はち》をすっかり片付けてしまう。
こんなのは序の口で、医者から「歩きなさい」といわれると、自宅から後楽園まで歩きどおしに歩く習慣を身につけたものだ。彼の家は渋谷の奥にあるから、どう見ても一時間半はかかる距離である。
川上哲治という野球人は、熊本県という“野球熱地帯”に自生した“もっこす人間”の原種ではないかという気がしてくる。
終戦後、軍隊から復員してきた彼は、食糧難のためさっそく|野良《のら》仕事にとりかかったが、心の中で「百姓こそ一生の仕事だ」ときめると、ムギの品種改良や多収穫法の本を買ってきて、それを読みながら畑を耕し、ついに村で一番良質なムギをつくって、「しろうとがくろうとの百姓を出しぬいた」との評判をとっている。このとき彼は神戸に置いてきた妻子に「いまは、おまえたちのことより麦の穂の出方が心配だ」という手紙を送ってもいるのだ。
肥タゴの手で場外ホーマー
まもなく、市内の“野球気違い”が「熊本クラブ」を結成、後輩の馬場靖太(南星機械販売・熊本所長)が迎えにゆくと、川上は手をさし出して「|嗅《か》いでみろ、まだコエタゴの匂いがするぞ」といったが、その手でバットを握ると、やにわに初球を場外ホーマーにしたという。
川上の“もっこす性”は、以上のように生活の危機にも道楽にもあらわれるが、その一徹ぶりの|裡《うち》に|垣間《かいま》見られるのは、彼の“不器用さ”である。
いくら百姓専一を心がけたとはいえ、妻子に「おまえたちより麦の穂のほうが心配だ」とは、正直すぎて曲がなさすぎる。相手の心情を|慮《おもんぱか》る余裕がないといわれても仕方があるまい。
新幹線の中で新婚夫婦が、通路をとおりかかった川上に「なにか書いて下さい」と、サインを求めた。川上は、むっとした表情で、手帳をさし出した新郎の手を払いのけた。たった四、五秒、名前を書いてやるだけでも、この新婚夫婦には一生の思い出になるだろうに、手を払いのけられては、それもまた一生の悪い思い出になってしまうであろう。
川上によれば「私は公けの場所では、ほかの人に迷惑をかけるので絶対にサインはしません」という。「一人にすると、あとからあとからと続いて際限がなくなる」というのもわかるが、どうも原則本位で融通の使い方に不器用なところが見える。
しかし、この不器用さが、かえって彼の「確実なもの」への信仰を深めるのである。
千葉がいっている。
「川上の野球は打撃だけだった。足はおそいし、守備は悪い。彼が一塁手のとき、どれだけティームの守備率に迷惑をかけたことか。しかし、彼はダメな男だったからよかった。ベロビーチで非力なドジャースの“守りの野球”を見たとき、全身で吸収することができた」
川上巨人の誕生
昭和三十六年、彼は「読売巨人軍」の監督になると、牧野・荒川・別所・広岡の四コーチを設けている。四コーチの平均年齢は三十歳をすこし上回ったところで、それだけに「イエスマンに取りかこまれた百姓野球」という陰口も叩かれたが、これを決定したのは球団代表になった佐々木|孜美《あつみ》だという。
佐々木は、当時新聞記者だった牧野が書く記事を読んで、「これだけ野球がわかる男なら、川上にいちばん欠落している理論づけを手伝わせることができる」と採用、また別所と川上が疎遠になっていることを知って「川上さんよ、反対の性格を入れなきゃだめだ」と川上を説得している。荒川をつれてきたのは広岡だが、川上は荒川の大毎時代の成績をくわしく調べたものだ。
いろいろな経緯はあろうが、このコーチ布陣は「巨人軍のコーチはOBから採る」という原則をくつがえし、牧野・荒川という“よそ者”を入れたうえ、仲の悪いとされた別所まで迎え入れたのは、川上が自分に“欠落したもの”を補おうとした、ひとつの自覚的な行為と見て差しつかえあるまい。
それが今日では、別所・広岡・荒川の順に去って、残るは牧野ひとりになっている。彼らが立ち去った経緯は、どこの社会にでもあるような人間模様で、こと新しく述べる必要もないと思うが、ただひとつ、川上という“肥後もっこす”の原種の一面を物語るのは、彼が別所のために泣いたという話である。
別所退団のきっかけは、深夜までビールを飲んでいた中村稔投手の首根っこを別所コーチがおさえつけ、川上監督の前で謝らせた一件である。それはその場のことですんだが、一カ月半もたって、ある投手が洩らしたため、週刊誌に「別所鬼軍曹の殴打事件」として報道された。これを読んだ高橋|雄豺《ゆうさい》社長がおどろき、川上に相談する。川上は「ま、別所には一週間くらい謹慎を申しつけて、世間のホトボリがさめるのを待ちましょう」と進言、高橋も承諾したが、別所は「川上さんに裏切られた」と辞表を叩きつけたのである。
川上は、このとき「何度も別所君の家に電話をかけて了解を求めようとしたが、別所君が怒って電話口にも出ようとしなかった」といっている。が、そのあとで、川上は大阪のロードゲームに出むいたとき、「おれは、人間を抱いてやれぬ男なのだろうか」と、さめざめと泣いたそうである。
彼は、原点をいつも“球”においているという。バッターボックスで球をまっていると、球が一瞬停止することがある。それを叩くとヒットになる。スランプのときは球の停止がわからないが、心が澄んでくると、ちょうどゴルフでティー・アップしたときのように、球が空中で停止する。
そこで彼は、なにか問題が生ずると、この停止した球を原点にして、そこからイコールをひいてみる。イコールの先に人事、球団、球界、日本、宇宙などをつなげてみて、それがつながるように考え続けるそうだ。
彼の出身地には球磨川が流れているが、川上の哲学を聞いていると、球磨という地名は彼のためにつけられたような錯覚にとらわれる。
一時、牧野スパイ説が取沙汰されたことがある。中日ドラゴンズがつくった“巨人軍情報”をすっかり抱えて川上の許に飛びこんだとするもので、牧野は川上に「辞表を出しましょうか」と申し出たものだ。このとき川上は「時だ。時を待て。いま、なにもいわなければ、時間がすべてを流してくれる」と、牧野を慰め、かばいどおしにかばったという。
これなども、牧野の理論を停止した球とイコールでつなぎ、「スパイ説」は|流説《るせつ》として流すがままにしたわけであろう。
彼はこういっている。
「別所君も荒川君も、巨人軍にとっては、そろそろやめてもらってもいいときに、向うのほうからやめてくれた。私がいい出さずに済んだわけです。苦しんだのは広岡事件だけでした」
長島のホームスチール
広岡事件は、トレードに出された広岡がそれを不満として「他球団に出すならクビにしてもらいたい」と、正力松太郎社主の許に|直訴《じきそ》におよんだ一件である。正力はこれをとりあげ、息子の総支配人に「広岡にもう一年機会を与えてやれ」と命じ、監督である川上の意向を無視する決定を下した。
マスコミは川上のカナエの軽重を問い、その非を鳴らした。川上が、広岡がバッターボックスにいるのに、三塁の長島にホームスチールを命じるような、あてつけがましいことをしただけに、スポーツ新聞は川上総攻撃の調子になった。が、川上は一言も反撃しなかった。彼は、このことを美濃・正眼寺の梶浦逸外老師にたずねている。老師がいう。
「広岡についてさんざん叱られてみろ。広岡の不満、世間の攻撃、これを|玩味《がんみ》してみれば、球団のほかの選手にも共通するものがあるだろう」
川上はこの言葉を守って沈黙を続けたが、その間、川上夫人は神経性直腸炎にかかって危篤におち入り、息子は「僕は鶴岡さんの息子に生まれてくればよかった」と嘆いたそうである。
このころ、川上は「弱りました」と水原茂を自宅に訪れている。水原は長男を交通事故で亡くした直後でもあったので、「川上君、息子はとりかえしがつかないが、野球はいくらでもとりかえしがつくよ」といってやると、川上は「それもそうですなあ」と納得して帰っていったという。
この水原が川上に禅をすすめている。彼が現役を退こうか否かと迷っているときだ。当時、神経痛と不眠症に悩まされている。水原が同道して正力社主を訪れたとき、「坐禅をすすめているのですが」というと、正力は「鎌倉くらいでは近すぎてだめだ。岐阜の正眼寺の梶浦老師につけ」と、紹介状を書いたうえ|袴《はかま》までつくってやったという。
水原によると、川上はそのときも“ゴーイング・マイ・ウェイ”を発揮して、大阪での大リーグとの試合に向う途中、名古屋で下車して、さっさと岐阜に入ってしまった。それから、川上の参禅が始まるが、梶浦老師は「もう、あの男にはなにも教えるものはない」といっているそうだ。
老師が川上に出した考案は「球」である。「いいか、野球の球だけではないぞ」と、念を押している。
川上は、人間の眼には限度があるから、監督やコーチの眼が離れても、そこに新人を放りこめば、どうしても訓練されざるをえないような体系が必要で、巨人軍はいまそれを完成しつつあるという。一口にいえば、戦力の管理体系をつくることである。
後藤修によれば、巨人軍くらいこの体系づくりが完成しかかっているところはないという。たとえば、Xという投手がいた。ほかの球団が“ドラフト第一位”に指名した。巨人軍は、一年間、Xの成績を見守り、私生活まで調べあげて、手をひいた。第一位にドラフトされたXは、やはり使いものにならずに消えていった。巨人軍は常に調べるだけ調べあげたうえ、採用して戦力に育てあげる。
これらの体系に川上がどれだけ参画しているかわからないが、彼はいま巨人軍を安定勢力にすることによって日本のプロ野球そのものの純度を高め、それによって読売興業の内容の密度を高めるというプログラムを背負っている。
“オレは人間を抱けないのか”
管理社会にあっては、“遊び”や“抵抗”まで管理されてしまうのが特徴である。川上が選手を技術者と|見做《みな》してつくり上げた体系は水も洩らさぬものがあるが、それでも「おれには人間を抱くことができないのか」という悲哀がのこる。
そこで、彼の体系にはときとして“破”が必要になるわけだが、これも「連敗すると逆に門限を廃止したり、八月・九月にティームをガタガタにして十月のシリーズ戦に上り調子をあてようとしたり、結構、破ってみせている」という評価もある。
彼自身が“遊び”の真髄に触れる余裕がなかったから、逆に管理できる“遊び”を体系の中に持ちこむことができるわけである。
佐藤栄作。安井謙。成田知巳。岩井章。永野重雄。瀬川美能留。牧田与一郎。森武臣。茅誠司。淡島千景。――おもだった“巨人ファン”“川上ファン”である。一見して、|遊冶郎《ゆうやろう》を気取れる“都会人”はいない。そんなものは役に立たない日本列島になりつつあるのだろう。
[#改ページ]
最後の神様・小林秀雄

西欧文化から日本文化へ
小林秀雄に関して、五十数人の人が書いたものに眼をとおし、二十人近い人にじかに話を聞いて、さて、鎌倉の海が見えるその書斎で約二時間半の会見をして、おどろいた。その間に語られた言葉は、どれひとつこちらの予備知識に触れるものがなかった。ことごとく、新しく、いくつかのエピソードを|括《くく》ってしまう力をもっていたのである。
明治三十五年生まれだから、はやくも|古稀《こき》の齢である。この年齢にさしかかると、たいていの人は、もう何度も語られて|手垢《てあか》のついたエピソードや、エンドレス・テープのように繰返される思想を、心地よげに語るものである。
ところが、小林秀雄は批評という「対象と精神の衝突」をいまだに続けているのである。
「老いてますますさかん」などというものではない、衝突の具合やスピードが余計精確になっているという|態《てい》である。
志賀直哉亡きあと、“文学の神様”はいよいよ小林秀雄一人になったというのが通説になっているが、小林はいまや“文学”や“文壇”という領域を出て、日本の思想家の“神様”になったという感がふかい。
ここでいう“神様”は、本人が望んでなるものではなく、社会の方が“神様”を感じて、仕立ててしまう存在である。私はこうした社会的産物としての“神様”には四つの条件がそなわっていると思う。
第一、神秘性が感じられること。
第二、御託宣に威力があり、それに触れるものに対して活殺の効力をもっていること。
第三、神主や氏子の多いこと。
第四、仕事や行動はそれほど目立たないのに、いつまでも影響力をもちうること。
このような基準からすると、われわれは現実面では周恩来、思想面では小林秀雄の、二柱の神様に直面しているのではないかと思われてくる。
「物に衝突する精神の手ごたえ、それが批評だ」とは、小林秀雄が昭和二十三年の秋、大阪で行なった「私の人生観」という講演の中に出てくる言葉である。
この講演を主催したのは「新大阪新聞」で、小谷正一(現ポイント・セール社長)が小林のところに講演依頼に行っている。その折、小谷は愛読者であった気安さから、小林との距離をそれほど遠いものと思わず、気持の中にあるものをぶつけたものだ。
「小林さんは、若いころからボードレール、ヴァレリー、ジイド、ドストエフスキーについて語ってきた。いわば西欧的知性に触れてきたわけですが、いま、日本人の無常観がどうのこうのといっている。これは、若いころはビフテキが好きだったが晩年になると湯豆腐を好むという、谷崎潤一郎さんみたいな、日本人に共通の心境とちがいまっか」
すると、小林は語気をつよめて小谷に|訊《たず》ねかえした。
「君、日本に仏教が入ってきて日本人のものになるまで何年かかったか、知っているのか。たいへんな考察と実践があるんだ。文化もそうだよ。谷崎さんが西欧文化から日本文化へ折返した地点が二合目で、俺が折返した地点が三合目かも知れないが、その折返し点をつないでゆくのが文化になるんだ」
“定説”をくつがえす洞察
このあと、小林は話を発展させて「日本には文学史が一冊もないんだよ」といっている。たとえば、「枕草子」に清少納言が藤原行成の姿を見て扇で顔をかくすところがある。従来の解釈では、扇の蔭で清少納言は「|噂《うわさ》に高いドン・ファンが来たわ」とセセラ笑ったことになっているが、小林はこの“定説”を一挙に“俗説”の淵に|叩《たた》きこむのである。
行成と清少納言の書を見ると|雲泥《うんでい》の差がある。当時の宮廷人の間では、書は教養そのものであった。清少納言は自分の書の低さを恥じて、行成の顔がまともに見られなかったのだ。扇で顔をかくしたのは、教養というものに対する日本人の感受性がとらせた行為ではないか。小林はこの解釈を小谷に聞かせたあと、こう結んでいる。
「だから、おれは身近なもの、手ざわりのあるものを確かめているんだ。おれにはもうあまり時間がないんだよ」
小林のこのような洞察に触れると、現在、市民権を与えられて通用している概念がみんなあやしく見えてくる。事実、『私の人生観』ひとつ読んでも、今日の|殷賑《いんしん》をきわめているかに見えるジャーナリズムが「実は、およそ|堪《こら》え|性《しよう》のない精神が、|烈《はげ》しい消費に悩んでいるに過ぎず、しかも何かを生産しているような振りを大真面目でしているにすぎない」し、「民主主義とは、人民が天下を取ることだなどと|喚《わめ》いているうちに、組織化された政治力という化け物が人間を食い殺してしまうだろう」という指摘が出てくるのである。
清少納言の話といい、『私の人生観』の言葉といい、逆説や修辞学的表現は|微塵《みじん》もなく、適確な思想の発射台から飛んでくるだけに、読者や聴衆の方は完全に価値を解体されてしまうのだ。
したがって、この発射台の構築作業を見れば、小林秀雄という存在の見取図も書けそうである。
消えてゆく原稿用紙
小林は、現在、「本居宣長論」に取り組んでいるが、これを雑誌に連載しはじめてから、六年になる。
一カ月おきに一回が二十枚の原稿だが、小林はだいたい一度に二回ぶんを書く。ところが、約束の一回ぶんを渡すと、つぎの回の原稿に手を入れはじめ、次第に枚数を減らしてゆくのである。あるとき、小林家のお手伝いさんが、書斎の机の上の原稿を見て「うちの|旦那《だんな》さんは原稿を書くたびに枚数が減ってゆくのですね」と気味悪がったそうだが、これが小林の仕事の方法なのである。
彼が「本居宣長」を書こうと考えたのは、昭和十三年のころである。この動機については後述するが、以来考え続け、その間にさまざまな思想家と取り組み、|荻生徂徠《おぎゆうそらい》を研究したときに、日本文化を解明する鍵は言葉にあると確信した。それが「本居宣長」に突入する直接のきっかけになったが、彼はやにわに宣長の資料に飛びかかっていない。
まず、「言葉とはなにか」を考えるために、言語学の勉強から始めている。エスペルセンやフンボルトの「言語哲学」を読破し、それからヘーゲルの「精神現象学」を繰りかえして読み、やっと「言葉」の位置をきめると、本居宣長にとりかかるという手順である。
ところが、仕事を続けているうちに、宣長が「源氏物語」を精読していることがわかった。すると小林は、出版社にたのんで連載を中止してもらい、春から冬にかけて「源氏物語」の全巻を五回も読み|耽《ふけ》ったものである。
これが、小林の思想の発射台を構築するマニュアルであるが、ここには三つの要素が語られている。
第一に「ひとつの仕事にとりかかったら、ほかのことをしないこと」、第二に「手ざわりをたしかめること」(実際についてみることといってもよい)、第三に「その仕事を持続させること」。
この三つの要素は、小林秀雄の何十年かを見え隠れしてあらわれてきたものだ。
彼は、府立一中・一高・東大というコースを経過している。このコースの同期生に、河上徹太郎、|迫水《さこみず》久常がいる。小林は中学生のころから、マンドリンや野球など、およそ学校が禁止しているものに凝り、したがって成績の方は百番以下と“三ケタ”にとどまっていた。一高も三回受験して“一浪”で入っている。彼の父は東京高等工業の教官で、退職してからは御木本真珠店の工場長になり鳥羽に赴任している。しかし、間もなく御木本もやめて、みずから「日本ダイヤモンド株式会社」をおこし、日本ではじめてダイヤモンドに五十八面をつける切削工業を創始した。
小林によると、彼の父は手先が器用で根気があり、当時流行した|鼈甲《べつこう》を買ってきて、自分で|櫛《くし》の歯を刻みこんだり、また|堆朱《ついしゆ》を彫るのも巧みであったという。母もまた手振りの良い女性で、小林が一高に入ったころに父が亡くなるが、その後は生花や茶道の教授をしながら二人の子を育てている。
小林が日本の職人に寄せる畏敬と愛情にはなみなみならぬものがあるが、彼によると「自分の身体には職人芸を好んだ父母の血が流れているのかもしれない」という。いや、そのような単純な遺伝学的発想とはべつに、彼は“職人”を思想としてとらえ、方々の新聞・雑誌に筆をふるっている林房雄をつかまえて、いってきかせている。
「おまえさんは注文されたものを片っ端から書いているが、そういうのは職人じゃないよ。職人ってのは、自分の気に入らないものは書かないもんだ。また、たとえこしらえても、自分が気に入らないものはこわしてしまうもんだぜ」
小林の作業ぶりは前に述べたが、彼は「歩きはじめると方向がきまる」という原則をもち、「モーツァルト論」も「本居宣長論」も、仕事をしながら文献にあたるという方法を崩していない。とすれば、仕事の途中で、考えてもみなかった有力な資料に遭遇した場合、その資料に出あう以前の記述の軽重が問われるという局面もありうるわけだ。事実、小林はこれを「ベルグソン論」で経験し、八十回も連載を続け、版元が何回か一本にまとめたいと申し出たにもかかわらず、すべて捨て去って省みない。これは執筆者の“誠意”の問題であろうが、そういう社会公認のモラルからする解釈ではなく、「気に入らないものはこわしてしまう」という職人の態度を執っていると見るべきである。小林は、職人のそういう態度に“芸”を見ているし、その“芸”の持続される生活を“道”としている。
父の死と大病
さて、小林が一高に入る直前に、父が亡くなり、「ダイヤモンドKK」は叔父に引き継がれる。このときから小林秀雄の環境がかわる。白金小学校以来の同級生だった|雀部《ささべ》利三郎(元海軍大佐)によると「白金小、一中を通じて小林は素直な筋のいい少年であった。家にゆくと洋風の応接間にとおされ、ハイカラな洋菓子をふるまわれた」と語っている。
後年、小林は大岡昇平が十八歳のころ、“押しかけ家庭教師”に出むき、フリガナつきの教科書でフランス語を教えるが、大岡家で夕食を出されると、きまって正坐して頭を低く垂れ、丁重な礼をいってから|箸《はし》をとって、大岡を驚嘆させている。小林の折目正しい、しかもさっぱりした接遇は、東京の中堅階級の所産であろう。
ところが、父の死後、叔父のひき継いだ会社もうまくゆかなくなり、一家はかなり窮迫した生活をおくる。妹の富士子(田河水泡夫人)は「父は財産をほとんど会社に注ぎこんだので、私の女子大生活は|かつかつ《ヽヽヽヽ》の状態だった」という。そんなさ中に小林は盲腸炎をこじらせて腸|捻転《ねんてん》をおこし、一時は死を宣告されるほどの大病を経験する。
その後、雀部は一高に進んだ小林に会い、「これは活字になった僕の最初の小説だが、君をモデルにしているので、差しあげよう」と、薄い雑誌を手渡される。それが「|蛸《たこ》の自殺」である。当時、雀部は小林が小説を書こうとは思わなかったので、かなりおどろいている。そして、一中時代に“文学同人誌”にも加わらなかった小林が、一高に入るとたちまち“文士”の道を歩き出したのは、家の没落と大病が衝撃になったのではないかと推測している。
凄惨な自己闘争
井伏二によると、小林秀雄、中島健蔵、河上徹太郎、それに井伏自身の四人には「父親が早く死んだ母親育ち」という共通点があるそうだ。この“母親育ち”は、父親にたよれないかわりに父親の影響も受けないので、はやくから「ひとりで生きる」強さを持ち、老成してしまう。また、父親から脱出しようとする青年期のエネルギーがすべて自分との闘争にむけられ、一種|凄惨《せいさん》な自己闘争が展開されるのではないかと見ている。
この井伏の観察に雀部の実感を重ね合わせると、小林秀雄の青年期の枠組みができあがる。
昭和二年、雀部が兵学校を卒業して上海の陸戦隊に勤務していると、母親から手紙が来て、小林秀雄が家を訪ねてきたが、あの“きれいな坊っちゃん”が|玄人《くろうと》のような女のひとと一緒だったと伝えてきた。そこで雀部はふたたび違和感を深めるのである。雀部の回想の中の小林秀雄は、英語と国語はズバぬけてできたが数学の不得意な少年であり、夏休みに父親の赴任先の鳥羽に遊びに行って、タツノオトシゴのアルコール漬けを買ってきてくれる静かな少年なのである(このアルコール漬けを雀部はいまでも持っている)。
しかし、雀部母子の違和感が深ければ深いほど、ことほどさように小林秀雄の|真摯《しんし》な堕落があったといえよう。“あのきれいな坊っちゃん”だからこそ、小林は人生の単独飛行を|傍目《わきめ》もふらずに敢行したのではないだろうか。
彼は一高生のころ、家庭教師などのアルバイトで金が入ると、隅田川の一銭蒸汽に乗って、玉の井の|私娼窟《ししようくつ》に通っている。しかし、いつも懐に女に食べさせるためのスシの折箱をしのばせているのだ。当時、彼が文丙(フランス語)の学生として出会った思想家は、ランボー、ヴァレリー、ジイドなどの十九世紀から二十世紀にかけての存在である。つまり、純粋に個人の原理を追跡し、格闘し、ついに神を求めざるをえないような血の噴き方をしている存在である。
彼は、妹の富士子が田河水泡と結婚するとき、すでに愛人との同棲生活に|破綻《はたん》をきたしていたが、つぎのような内容の手紙をおくっている。
「兄さんは失敗したけれど、君たち二人はうまくゆくだろう。人間は《どういうふうに生きるか》を考えて生活してはいけない。考えて生活するのではなく、心情で生活するものだ。それが大切だよ」
小林はこのころからすでに“観念”を拒否することを始めている。ずっしりと手ごたえのある生活を経験する姿勢をとっている。
一中・一高・東大というコースは、「末は博士か大臣か」という“上位指向型”の価値感を手もなく生みやすいが、彼はそのような日本的スノビズムに背を向けて、人間の原理そのものへ突入してゆくのだ。
これは、彼の古美術に対する態度にも一貫してあらわれる。彼の古美術開眼は青山二郎というディレッタントの手びきによるが、まず最初に没入したのは李朝の白磁である。やや大ぶりの|瓶子《へいし》を「|壺中居《こちゆうきよ》」という美術店で見た途端、「買ったぁ」と叫び、現金の持ちあわせがないので、八十五円で買ったばかりのロンジンの時計をはずして、その場から持ちかえっている。
白磁の悲しみと怒り
李朝の白磁はいまでこそ時価数百万円という“資産的価値”で語られているが、もとをただせば、朝鮮の貧しい陶工たちが、妻子を養うために焼いた磁器である。しかも、磁器を作る仕事は下層階級のものだった。当時の朝鮮で陶工の子どもに父親の職業をきくと、恥かしがって逃げ出すという物語もあったのである。今日のように“作家”だの“先生”だのという段ではない。だからこそ、李朝の白磁には作意もなければ美意識もない。陶工たちは、黙々と、すわりのよいもの、使いやすいもの、すこしは文様のついたものを、生活のために焼いていたのだ。この無作為な作為が、陶工の悲しみや怒りや、あるいはまた思いもよらず形よく焼き上った喜びを、実直にあらわしている。小林秀雄はそれに|惹《ひ》かれたのである。彼は李朝を出発点として、|信楽《しがらき》、|縄文《じようもん》土器、|鐔《つば》・|琅《ろうかん》(|勾玉《まがたま》類)と遍歴してゆく。つまり無署名の世界である。日常生活の中で、手から手へと使い伝えられた道具類である。
彼は長谷川泰子という女性との同棲を解いたあと、約一年間、奈良に滞在している。奈良公園の中の「江戸三」という料理屋の離れを借り、当時奈良にいた志賀直哉の息子にフランス語を教えることによって生活を保っている。この一年間に奈良の寺や仏像を数多く見ているのだが、小林の美術評論には一向にそれがあらわれない。和哲郎や亀井勝一郎があれほど|熾烈《しれつ》な出会いをとげた仏像について、彼は|百済《くだら》観音をはじめて見たとき「|痩《や》せた女は|猥褻《わいせつ》だ」というボードレールの言葉を憶い出したと、後年、書いているにすぎない。不審に思って小林に|訊《たず》ねると、「仏像には手ざわりがないから、観念で見るほかはない。だから興味がもてなかった」と答えたものである。その観念が邪魔になるし、また仏像自身が説明しているものが多すぎる、というわけである。この態度は、彼の生活にもあらわれる。彼を|憧《あこが》れる青年は多いが、彼の前に立つ青年はまず皆無といっていいだろう。生半可な観念論を粉砕されるからである。
しかし、それにしてもなぜ小林秀雄は、白磁から入って、土器、陶器、鐔、琅
、それから、富岡鉄斎や良寛へと、審美の対象をかえていったのか。彼は「もっぱら金銭的必要からだ」と答えている。やきものに惹かれているうちに相場がどんどん上り、彼の収入では買い切れなくなってきた。道具屋に会って相談すると「鐔をおやんなさい。二千円も出せば、まだ、良いものがあります」とすすめられた。そこで鐔。これもだいたい買い集めると、もう手の届くものがない。そこで琅。だいたい、これが遍歴の動機だという。
「美とは煩脳である」
「しかし、女と同じなんだな」と小林はいう。李朝の白磁にめぐりあったとき、ちょうど大失恋の直後で、胸に大穴をあけて歩いていた。「淋しくてやりきれなかった」と、小林は「壺中居」の広田|《ひろし》に述懐している。
この「やりきれない淋しさ」が、古美術の遍歴をさせるのだ。やきものから鐔に移ったのは、直接には金銭的理由であるが、やきものにめぐりあえなくなったあとの空虚感は、ちょうど女とわかれたあとの淋しさのようなもので、なんとか早く美しいものとめぐりあいたくなる、その心情が鐔に飛びつかせる。
「だから美とは|煩悩《ぼんのう》のことなんですよ。煩悩があるから夢中になる。身近なもの、手ざわりで確かめうるものである必要がある。その点からいうと、美術館や博物館は、ひとに煩悩をおこさせるものをしまいこんで、それに鍵をかけてしまうもんだから、社会の中の美意識を減退させているわけです。大きな博物館は文化の水準を物語るものではなく、美という煩悩のエネルギーを|減殺《げんさい》する装置にすぎません。困ったことです」
小林の「本居宣長論」は昭和十三年以来のものだと報告したのは、彼が李朝から縄文土器に移ったことと関係がある。小林は縄文土器を眺めているうちに、これを産んだ日本の古代社会に接近したくなった。いや、小林秀雄の言葉でいえば「古代社会が小林を呼んだ」のである。この表現の仕方に、小林というパーソナリティと対象との関係が語られている。
彼は鐔に凝っているころ、自分の家の風呂が故障して今日出海の風呂に入りにきたが、いつも鐔をポケットにつめこんできて|湯槽《ゆぶね》の中にまで持ちこんだ。湯槽の中でしげしげと眺め、それから寝床の中にも持って入る。琅もそうである。
彼は「近代絵画」という論文の中で「セザンヌはプロフォンドゥール(深さ)だった。じっと見ていると、向うからこちらが見られているのだった」ということを書いているが、鐔も琅も、小林にとっては、その背後にある歴史が自分を見つめるという経験の窓口になっている。その視線を感じ、|囁《ささや》きをきけることが日本人なのである。
そのような日本人をつかみとって、公衆の面前に展開してみせたところに小林の神秘性があると思われる。
さて、小林は縄文土器という古代史から眺められ、その呼びかけに応じて「古事記」を勉強しようと思い立っている。これが本居宣長に走ってゆくきっかけになるのだ。
小林は「はじめからわかっているものは書く必要がない」と、よく、ひとに語ってもいる。彼の対象は、彼に囁きかけるもの、彼に煩悩を起させるものになる。観念による理解では、どうしても剰余が出て、おさまり切れないものになる。つまり、|魔性《デーモン》をそなえたものだ。彼はそのデーモンの懐に一気に飛びこんでゆく。それからその解体作業をはじめる。これが、小林のような評論家と解説者の|岐《わか》れ|途《みち》だと思う。「一億総評論家」という言葉があるが、今日の社会に現出している“評論家”はほとんど“解説者”であろう。解説者には“|魔性《デーモン》”との出会いがない。むしろ、あっては困るし、魔性と出会ってもこれを回避してしまう。だから解説とは、現状を別の言葉でいいかえたものにすぎなくなり、「一億総評論家」でありながら日本列島はますます混迷を深め、文明ばかりが徒長して文化が枯れ果てるという荒廃の庭を拡大してゆくのだ。
小林秀雄の“御託宣”が威力を持つのは、人間社会の“魔性”と格闘して、これを|醇化《じゆんか》するからである。彼の友人の一人は「小林は“神様”といっても|素戔嗚尊《すさのおのみこと》(須佐之男命)だ」と評したが、これは若いころの彼が誰彼の見境なしに痛烈な|舌鋒《ぜつぽう》で切り刻んだからであろう。
「壺中居」の広田社長によれば、小林ほど“眼で買う客”はいないという。たいていは財布の|紐《ひも》をほどく前に、「何時代ですか」とか「どこの|窯《かま》ですか」と“耳”を働かせる。それから眺める。つまり“眼半分・耳半分”で納得しようとする。ところが小林秀雄は“耳なし芳一”だ。なんにもきかずに、気に入ったものを「買ったぁ」と叫んで、持っていってしまう。当然、百発百中というわけにはゆかない。|贋物《にせもの》をつかむことだってある。しかし、彼は贋物を本物と信じて愛した人間がいたとすれば、彼の愛情もまた贋物といいきることができるかという信念に立っている。客観的な「本物」と主観的な「贋物」との間に、心情を機軸として、どんなひらきがあるというのかという立場に立っている。
人ふれれば人を斬り……
彼が憎むのは、観念だけを振りまわし、人生を「本物」で渡っていない|輩《やから》である。これに対しては痛烈な攻撃をあびせる。この“神の怒り”に触れ、あるいは触れることをおそれるのあまり、いく人の作家が涙を流し、息をひそめたかわからないそうだ。ことに、この“神様”はお|神酒《みき》を召し上ると、素戔嗚尊になり給う確率が高かったらしい。そうなるともう、論理の|刃《やいば》を|草薙剣《くさなぎのつるぎ》もかくやと振りまわし、人ふれれば人を斬り、馬ふれれば馬を斬るといった修羅場を展開したという。
いくつかのエピソードを聞きもし読みもしたが、今日の文壇にも通用しそうなのは、久米正雄を泣かせた一幕である。
久米正雄といえば、一時、文壇の大御所で菊池寛とともに天下を二分する流行作家であった。たまたま居酒屋で飲みあわせていると、久米が「こんなに飲んじゃ小説が書けねえな。あしたの連載ぶんは会話を多くして、ひき延ばすとするか」といった声が小林の耳に入った。すると小林は、「その態度はなんだ。あんたは、それでも作家かい」とからみはじめ、作家の存在理由から生き方まで、精密な論理で久米を縛り上げた。久米は黙って聞いていたが、やがて首を深くうなだれ、傍にあった|雑巾《ぞうきん》をとって流れる涙を|拭《ぬぐ》ったという。これはその場に居合わせた目撃者の話だから、間違いあるまい。
このように、小林は素戔嗚尊になると、位官序列はほとんど無視してしまう。もともとそういう思想があるところへ“お神酒”が注がれると、身の危険もかえりみなくなる。
戦争中、「大東亜文学者大会」というのがあった。日本文学報国会の主催で、いわゆる“大東亜”の文学者を一堂に集めての大会である。その三回目に、会長だった久米正雄が、またも東京で開催しようとする情報局に抵抗した。一回目は東京でも仕方がないが、本来はアジア各地をめぐり歩くのが交流というものではないか、と主張した。すべての文士がこれに同調した。情報局は「勝手にしろ」と放り出したため、文士たちは児玉機関のルートで南京開催に|漕《こ》ぎつけた。
“仏さまのような顔だ”
ところが、小林は児玉機関の連中と飲んでいるうち、|領袖《りようしゆう》格の吉田彦太郎にからみはじめ、「おめえたちはケチな人間だ」と、例のとおり|辛辣《しんらつ》な舌鋒で切り刻んだ。これには吉田が本気になって怒り、「片腕ぐらいは貰いましょう」と、小林が泊っているブロードウェイ・マンションの十階の部屋を訪れた。
部屋が暗いので吉田がスイッチを入れたところ、小林はベッドの上で安らかな寝顔を見せている。しばらく小林の寝顔を見ていた吉田は、なにもせずに降りて来て、ある文士に「まるで仏さまのような顔をしている。ああいう男の腕は貰わないことにした」と語ったという。
このとき、酒席の舌鋒を聞いていた高源重吉が、小林にすっかり|惚《ほ》れこんでいる。高源は戦後「新夕刊」の社長になったが、当時はやはり児玉機関の領袖の一人である。この高源がまた小林の生命を救っている。
南京政府の要人・林伯生が文士たちと同行したときだ。汽車の中で|一献《いつこん》かたむけると、小林はすっかり陽気になり、「おまえさんはいいヤツだよ。しっかりやるんだぞ、おまえ」と、林伯生の頭をしきりに|撫《な》でた。これが護衛の任にあたった将校たちの眼には、林の頭を叩いたと見えたらしい。|密《ひそ》かに謀議して「小林を消そう」となった。「酔ったときに|剃刀《かみそり》で|頸動脈《けいどうみやく》を切り、ホテルのバスに|浸《つ》けておけば、自殺になるよ」という殺人計画が高源重吉や草野心平の耳に入った。高源はすぐに首謀者の|許《もと》にいって「あの人は、日本にとってかけがえのない人だから、どうか手出しをしないで下さい」とたのんで、事なきをえたという。
以上のような脱線もあるが、小林にとって、問題なのは「生活態度」なのである。たとえ力は乏しくても、精一杯に生きているものに“真実”があるという、きわめて健康な認識が基底にある。
終戦になって、「のらくろ」を書いていた田河水泡が「これからどうなるかな」と|呟《つぶや》くと、小林は「君みたいにホンモノを持っている|奴《やつ》は困るわけがないよ」と激励している。
プロレタリア文学との対決
彼が東大を出たのは昭和三年である。マルクス主義の全盛期だ。プロレタリア文学も一ジャンルを|劃《かく》し終ったときである。小林は、しかし、ついに一度もマルキシズムと|袖《そで》を触れあうところがなかった。評論史上からいうと「マルクス陣営からの攻撃に対して、非マルクス陣営で|巧緻《こうち》をきわめた理論反撃ができるのは小林秀雄一人だった」となる。
しかし、小林自身に即していえば、彼がマルキシズムに|与《くみ》しなかったのは「マルクス青年に上流階級の出身が多く、自分で生活している人間が見当らなかったからだ」という。
小林は、そのころ、中原中也の愛人だった長谷川泰子と同棲し、二人で世帯を張ってゆくために、家庭教師・翻訳・原稿執筆などで|稼《かせ》いでいる。それでも金のない日が多く、近所のソバ屋から“白丼”という飯だけをとり、ひとつ二銭の納豆をかけてすませる日が多かった。それだけに「プロ陣営の連中が、議論ばかりしていても食えることが不思議でならなかった」のだ。だから「マルクスは正しい」とその思想構造そのものは認めながらも、「ただ正しいというだけではなんにもならない」とし、マルクス主義者たちの「生活態度」が変らないことを痛撃して、同調しない姿勢をとっている。
マルクス陣営から小林に接近したのは林房雄である。林は小林秀雄のコの字も知らなかったが、入獄するとき彼の「マルクスの悟達」を読んで感動、三年の刑期を終えるとすぐ、小林の家を訪れている。小林は、林がマルキシズムに投入するとき「酒も煙草もやめた」というのを聞いて、「こいつはほんものだ」と迎え入れるのだ。小林にすれば、マルキシズムにせよなんにせよ、ひとつのイデオロギーで生きてゆこうとするのは信仰であり、林が酒も煙草も断ったことは信心の|証《あかし》で、これは立派な生活態度だということになる。
余談になるが、林は入獄中に蔵原惟人の資金カンパに協力したことが発覚、余罪を追加されたため、出獄するとすぐまた逆戻りする。このとき、林を刑務所まで送っていったのは小林秀雄と深田久弥の二人だけである。小林はこのときのことを語って、「ああ、マルキシズムとかプロレタリア文学というのは、こんなものかと思った」という。この認識が、いよいよマルキシズム信奉者における理論と実践の遊離を思わせたのであろう。
小林がプロレタリア文学者として認めるのは、いまのところ中野重治ひとりである。これは中野がマルキシズムを執ろうと執るまいと、彼の「文学」が一流だからであるとの認識による。
「プロレタリア文学というのは矛盾した存在なんだ。プロレタリア主義は集団の政治思想で、文学は個人の思想だから、いっしょになるわけがないし、なっても個人は集団にかないっこないから、政治に役立つ文学ということになる。となると、それは文学ではない」
だから彼は「プロレタリア文学」を|標榜《ひようぼう》するものは一切みとめない。それが「歴史的産物だから」という考え方には、彼には「歴史とは|形而上的《メタフイジツク》なもの」という歴史観があって、この面からも同調しないのである。
「我が事において後悔せず」
以上のように、小林の人間観は「生活そのものを見る」ところからきている。もっと要約すると、「生活が顔に出る」という“|風貌《ふうぼう》論”になる。「男は四十すぎたら顔に責任をもて」とは、ナポレオンがいったとか太宰治がいったとか、いろいろな取沙汰があるが、小林のはもっと徹底している。
パリのサンジェルマンを歩いていて、芸術青年たちがヒゲをはやしているのを見ると、美術評論家の海藤日出男に「あのヒゲが消えないうちはフランスの芸術はダメだね」と語っている。これはわかるにしても、誰かが「サルトルの哲学は読みましたか」と|訊《たず》ねたところ「あんなヘンな顔をしているヤツに哲学がわかるものか」といったというエピソードは、いかにも神様的である。
神様のご託宣が断定的なように、小林の結論も“|独断《ドグマ》”のひびきを持っている。
清少納言と藤原行成の関係を“書”で語られたとき、小谷正一が「しかし、現代とは生理も心理もちがう時代のことですし、ほんまかどうか、わかりまんのか」と訊ねると、小林は「だって、そう思わざるをえないじゃないか」と答えている。もっと見事な例は、宮本武蔵の「我事において後悔せず」だ。これを「我れ事において」と読んだのは菊池寛と坂口安吾である。菊池はこの言葉が好きで、色紙をたのまれると、よく|揮毫《きごう》していたそうだ。一方、坂口は彼の代表作である「青春論」で、自分が「後悔しない」というのは、精一杯やってきたのだから地獄に|堕《お》ちてもいいという|諦《あきら》めの言葉であって、宮本武蔵のように|毅然《きぜん》としたものではないと書いている。
「もっとも、われ事において後悔せず、という、こういう言葉を編みださずにはいられなかった宮本武蔵はつねにどのくらい後悔した奴やら、この言葉の裏には武蔵の後悔が呪のように聴えてくる」
ところが、小林秀雄ひとりが『私の人生観』の中で「私は『我が事』と読むのがよかろうと思っている」と述べている。
「わが事において後悔せず」と読むと、「今日まで生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て」という解釈になるのである。今日のことを後悔して自己批判しても、明日はまた明日で自己批判があるわけだから、自己批判とか自己清算とかそんな甘っちょろい言葉で生活していったのでは、いつになっても自分の本体というものに突き当らないではないか、というのである。この発言が昭和二十三年の時点で行なわれたことを考えると、当時の風潮に対する壮烈な挑戦とも受けとれよう。
小林の“断定”には、一般が常識と考えているものが一転して非常識になり、非現実と思われるものがじつは最も現実の重みを抱えているものに転化する、おそるべき転覆力がそなわっているのだ。
インテリへの影響力
彼がこの「断定」をひき出すためには、前にも述べたように、長時間の検証と考察のエネルギーを注いでいる。彼はそれを表面に出さない。なぜなら、それは「作業」であって「全体」ではないからだ。だから、彼ほど「ベルグソンもいっているが」というような、他人の言葉づかいを引用する人種を嫌うものもいない。
「本居宣長」を研究してゆくうちに、例の「敷島のやまとごころをひと問はば、あさひに匂ふ山ざくら花」という歌が、戦争中から|喧伝《けんでん》されたように、「ますらおぶり」を歌ったものではなく、その正反対の「たおやめぶり」の歌であることがわかった。
小林がゴルフ場へゆく自動車の中で今日出海に話すと、今は、「たしかユスティニアヌスが“自然はオスがきらいだ”といっているよ」と答えた。今にしてみれば話をあわしたつもりだが、途端に小林は「つまらんな、そういういい方は」とそっぽをむいたそうである。
小林が“神様扱い”されるような、“断定”を発するまでには、それこそ「もう地獄だよ」という神様らしくない叫びをあげるような難行苦行を経過しているのだが、今日出海は、小林のエピゴーネンたちは浅墓な「断定」を下すこと、弱い者を見つけて酒席でからむことだけを真似していると苦り切っている。
国木田独歩は「どんな西洋人よりも西洋人らしくなるのが日本人だ」と書いたことがあるが、日本のインテリの中には「小林秀雄以上に小林秀雄らしい人」があらわれつつあるのは否みえない。それが日本の知的風土といえばそれまでだが、西洋人が日本人に影響力をおよぼすように、小林秀雄も日本のインテリに多大の影響力を持っているわけである。
小林が「仏蘭西文学研究」に「人生|斫断家《しやくだんか》アルチュル・ランボオ」と「『悪の華』一面」を続けて発表したとき、東大同期の中島健蔵は深田久弥と「あいつの文体にひきずりこまれちゃかなわんから、二人で頑張ろうや」と同盟を結んだという。中島は、文体ばかりではなく、小林の結論から出発しようとする試みは無意味で、結局は「やっこさんの歴史観と戦うのが一番だ」との立場に立っている。
このように、小林はデビュー以前から周囲に影響力をおよぼしてきたわけだ。
昭和四年、「改造」の懸賞評論に「様々なる意匠」が二等に入選してデビュー。ちなみにこのときの一等は宮本顕治の「敗北の文学」である。小林は、当然、自分が一等になるものと信じて、賞金の三百円を借金し、二等の賞金百五十円との差額を埋めるのに苦労したという。
それはともかく、この「様々なる意匠」以来、どの評論を読んでも、どんなエピソードを聞いても、まったく同じ顔の小林秀雄があらわれるのである。いつもなにかを考え、原典について読んでいる小林秀雄の背中があらわれるのだ。まるで金時|飴《あめ》を切るように、どの時間軸で切っても同じ小林秀雄の顔が出てくる。
「人生斫断って、なんだ」
今日出海が聞くと、小林は右手の指で髪の毛を|捲《ま》きながら「クペするんだ」(クペはカットと同じ)と答えた。
「わからんね」というと「わからんやつだな。要するに人生を帰納することだよ」と小林はいっている。これが昭和三年、小林秀雄が二十六歳のときの話である。
しかし、小林自身が人生を帰納して歩いてきたといえるであろう。
ある日、彼は、「佐佐木茂索さんが晩年小説を書かなかったのは、酒が飲めねえからだと思うよ」と後進に語っている。それなら、小林のように「酒が飲める」人は小説が書けてもよさそうだ、ということになる。小林によれば「おれが小説をやめたのはドストエフスキーを評論したからだ」となるが、私は小林は酒を飲むまえに、いつも「|思 考 酩 酊《ゲダンクト・ゲトルンケン》」の状態にあって、酒を飲んでも|醒《さ》める一方だからだと思う。つまり、小林は「思考酩酊」の中で、小説的にひろがるものを帰納させてしまうのではないか。果ては、面倒|臭《くさ》くなるのではないか。
彼はひとつのテーマにとりかかると、そこに帰納のエネルギーを集中するから、ほかのことは一切しなくなる。仕事ばかりではなく日常生活も一種の仮死状態に入る。したがって、妻から「鉄瓶の中で卵をゆでて下さい」といわれて、愛用の懐中時計をゆで上げてみたり、妹の眼鏡をかけて何時間も読書をするという珍現象がおこる。
なかでも小林秀雄の全貌を伝えるのは、横須賀線の終電車での話だ。自分のまえにすわった酔っ払いが、乗りすごすまいと必死の顔で起きている。鎌倉の二つ手前の大船駅で酔っ払いは立ち上り、|外套《がいとう》を着、風呂敷包みを抱え、帽子をかぶる。そのいちぶしじゅうを見ながら、小林は酩酊した人間の精神状態を考察している。「あの帽子は他人のものだ。精神的緊張がゆきすぎると余計な装飾が必要となる」と、頭の中で評論ができあがる。鎌倉に着いて彼はその先を考えながら電車を降りるが、翌日、酔っ払いがかぶった“他人の帽子”がじつは買ったばかりの自分の帽子であったことを知り、|愕然《がくぜん》とする。こういう話である。
日本的“生”を純粋に持続
小林秀雄がどんな「思考酩酊」の状態でも、絶対に置き忘れてこないものはひとつしかない。彼自身である。彼には“忘我”がないのだ。講演している最中でも、彼は自分の使った言葉をもとにして、|喋《しやべ》っていることとは全然べつのことを考えはじめるという。
いま、彼が考えているのは「人類の歴史には滅亡をふくむ構造があって、われわれはその終末点に到る一過程を生きているのではないか」ということである。だから、日本に生まれた宿命的な“生”を純粋に持続するようにと、彼は「宣長さん」と呼びかけながら本居宣長に迫っている。小林秀雄は宣長の近似値に自分を見ているのかもしれない。
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ザ・マン・黒沢 明

その集中力
黒沢明の“日割り的人物論”というのがある。
「一週間のうち、何日かは脚本を書き、何日かは“よきパパ”になり、何日かはウォツカをガバッと飲んで、何日かはゴルフをする」
この四つの部分を組みあわせると、黒沢明という人物の全体像ができあがるそうだ。
おもしろい見方だが、この人物論がいわんとするところは、もうひとつ、ある。
「ことほどさように、黒沢明にはボヤッとしているような、中間の時間や感情がない。彼の映画のように、行動から行動までがカットバックで続いているのだ」
一例をあげる。
映画祭があってモスクワに八日、レニングラードに二日滞在して、帰国した。すぐ、テレビ映画第一作「馬の詩」の編集にとりかかった。
私も、ダービーのとき、府中競馬場にしつらえられた器材を見たが、二千ミリという、バズーカ砲のような望遠レンズを火の見|櫓《やぐら》のような足場にすえているのにはおどろいた。
黒沢の編集は五日五晩続き、終ったときは松江陽一(助監督・「黒沢プロ」取締役)が倒れて、三十時間眠り続けた。松江は四十歳、黒沢は明治四十三年生まれの六十一歳である。やはり倒れて三十九度五分の熱を出し、|腎盂《じんう》炎と診断されている。
作品を撮り終ったあと、黒沢が倒れるのは珍しくない。たいてい一週間はベッドから離れられず、三食を運ばせてひねもすウツラウツラし、やっと起きあがったときは、髪の毛がゴソッと抜けているという。
こういう彼を評して、「完全主義者」「|凝《こ》り屋」「黒沢天皇」という批評があるが、それは撮影しているときの姿であって、彼の人間的内容には、一種の“種族保存本能”が働いているように思われる。大げさにいえば、「地球に爪跡でも残したい」という思いであり、すこし上品にいえば「文化として歩留るものを創りたい」という気持である。
ベネチアの国際映画祭で、黒沢は訪ねてきたイタリアの監督見習と若い娘に、日本文化を語ってきかせている。
「本当の黒という色は、日本では下地に赤い色を使う。それから黒い色をのせる。日本の紋付の黒――あれはまず赤い色で染め上げて、それからさらに黒く染めるのだ。そうしないと、黒に厚味が出ない。|痩《や》せた黒になってしまう」
イタリアの若造に、この手法の意味するものがわかろうと、わかるまいと、これが黒沢の最もいいたいところであろう。
彼の古美術に対する愛着には定評があるが、それも|根来《ねごろ》塗りの|高坏《たかつき》とか、|信楽《しがらき》の|種籾壺《たねもみつぼ》とかどっしりと重い質感のあるものが多い。彼が作品の完成祝いに菊島隆三(脚本家)に贈った信楽の壺は、土と火の格闘によって流れ出した自然|釉《ゆう》に、|窯《かま》の中の灰がべっとりと降りかかった、見るからに重い安定感のある壺である。これに手足をつけて、黒眼鏡をかけさせたら、そのまま黒沢明となって歩き出しそうな感じさえする。
このような質感のあるものに生命力を感じ、それを仕事にも人生にもすえてゆこうというのが黒沢明だ、といっていえないことはない。
いうまでもないことだが、質感を出すためには、妥協とか譲歩、あるいは|迂回《うかい》や逃亡はありえない。精確な手続きを踏んで、やがてはあらわれるであろうゴールにむかって、歩き続けるまでだ。その過程で、彼は絶対に敗けてはならないのである。
俳優の千秋実とゴルフをした。黒沢の打つ球は、みんなひん曲る。千秋の球は真直ぐな白線を描いて飛ぶ。千秋がいった。
「映画を撮るときは鬼のようになるくせにゴルフとなると、まるで気弱なお嬢さんですな」
黒沢がしょんぼりとして答える。
「人間、ひとつ強いものがあればいいんだ。そうなにもかも強くちゃ、他人に悪いですよ」
眼から血を吹く思い
「ヘラクレス信仰」という心理的傾向がある。豪快で、強く、|逞《たくま》しいものに対する憧れだ。自分がヘラクレスのような“強い男”になりたい、というよりも、強い男の持っている、ムシムシするような体臭に|惹《ひ》かれる心理である。
彼は、よく「眼から血を吹くような思いをしたか」という言葉を口にする。
「橋本忍をみろ。彼は肺病になったとき、医者から“声を出すと肺が破れるから口をきくな”といわれた。橋本は、五年間、唇だけ動かしてモノをいった。どうだ、おまえにできるか」
この“おまえ”といわれたのは、監督としては同期の谷口千吉である。黒沢が続ける。
「千ちゃん、おまえは橋本のように“眼から血を吹く思い”がないからだめなんだ」
では、黒沢にはあったか?
この「眼から血を吹く思い」のエピソードは、たちまち集るのである。
まず、少年期の記憶だ。黒沢の父は、陸軍士官学校の第一期卒業生である。日露戦争のときは現役だったが、戦場にゆかぬうちに予備役になり、日本体育会の理事として、かなり進歩的な役割をしている。
余談になるが、この父が若いころは血気さかんで、蛇をつかまえては鉢巻きにし、雷が鳴ると、村じゅうを大声あげて駆けめぐったという。出身は、“東北の京都”といわれた|角館《かくのだて》の近く、田沢湖線にそった中仙町である。姉の春代によると「父は雄弁で話をたくさんもっていた」というから、黒沢の作話力は父の|膝《ひざ》の中で養われたのかもしれない。
さて、この父が発展しすぎて事業に失敗、家計が苦しくなる。そんなある日、五人きょうだいの末っ子の明が、三輪車をほしがった。このとき、彼のすぐ上の兄、丙午が明を表に連れ出し、江田川にかかった橋の上で「いま、うちは三輪車が買える世帯ではないんだよ」といってきかせている。
黒沢家は秋田県の出身だが、明は東京生まれの東京育ちである。彼はある雑誌で「僕は江戸っ子なんだ」と語っているが、|粋《いき》や|気風《きつぷ》とは縁遠い、退役軍人の質素で剛直な家庭に育っている。早い話が、彼が大島|紬《つむぎ》を着て机にすわっている写真を見ると、胸元からも|袖口《そでぐち》からもラクダのシャツがまる見えで、とても“江戸っ子”のレベルにあるとは思えない。だいいち、江戸っ子のノンシャランとした身のこなしは、黒沢とは対極点にある感覚であろう。
ただ一人の兄の自殺
第二は、兄・丙午の自殺である。丙午は府立一中の受験に失敗、陸士や海兵への“予備校”の感があった成城中学に進んでいる。姉の春代によると、この受験失敗はかなりショックであったという。そのためかどうか、丙午は“軍人の家庭”に背をむけるように、活動写真の弁士になっている。これはままあることで、高橋三吉海軍大将の息子はサンドイッチマンになったし、評論家の青地|晨《しん》も陸軍少将の父に背いて社会主義活動に投じている。
植草圭之助(脚本家)によると、丙午は徳川夢声の系統で、芸名を須田貞明といい、当時は“映画説明者”といって、生駒雷遊らの“活動弁士”とは自他ともに|峻別《しゆんべつ》していたそうだ。どう違うかというと、映画説明者は、新宿の「武蔵野館」や浅草の「|葵《あおい》館」に出演し、もっぱらジャック・フェーデやエドモンド・キールなど、ヨーロッパの“文芸もの”を手がけていたという。須田貞明こと黒沢丙午は、夢声と並んで、かなり人気があったらしい。そのため、早くから家を出て独立したが、のちに妻以外の女性ができて、三角関係の清算からか、伊豆海岸で|入水《じゆすい》心中をとげている。
この兄が亡くなる三日前、黒沢明はいっしょに食事をし、大塚の駅で別れている。このとき、丙午が振りかえって、「あ、ちょっと」といった。「なによ、兄さん」と明が立ちどまると、丙午は弟の顔をじっと見て「いや、いいんだ」と、くるりと背中をむけたという。それから事件があって、明は父といっしょに伊豆まで兄の遺骨を拾いにゆく。これが、当時、中学を出たばかりの彼に、大きなショックであったことは想像にかたくない。
さて、黒沢明は|京華《けいか》中学を|卒《お》えると、「同舟社」という画塾に進み、すぐさま「二科展」に入選している。たいへんな画才というほかはない。ところが、今日とちがって、一回や二回の入選では、絵で生活することは到底できない。
当時、一家は姉の春代の給料で生活を支えている。彼女は、森村女学園からお茶の水の女高師に進み、卒業するとすぐ母校の教壇に立った。女性として当時の“最高学府”を出たわけだが、五人きょうだいの中でも、高専クラスに進んだのは彼女ひとりである。
黒沢明も自活の途につくのが当然だが、これがなかなかなくて、図案の懸賞募集に応募したり、婦人雑誌のカットを描いたりしている。グリコの「一粒三百メートル」の図案では二等に入選した。黒沢は「もし、あれが一等だったら、いまごろどうなっていたか」と頭を抱えている。が、これは今日の黒沢だからいえることで、「主婦の友」の「お|惣菜《そうざい》料理」の頁にキャベツやジャガイモのカットを書いていたときは、「一日に一食がやっとだったから、カットを描きながら|唾《つば》がたまってきて弱った」という。
彼は、このあと、どういう経路をたどったのか、「日本プロレタリア芸術連盟」の美術部に属し、「ナップ」の表紙絵を描いていた柳瀬正夢の代作をしている。このとき、植草圭之助が、やはり「ナップ」の文学部にいて、二人はある夜、千駄ヶ谷の駅前でばったり出くわしたものだ。
おもしろいことに、黒沢と植草とは、ともに黒田小学校の立川精治という先生に開眼させられている。黒沢は“絵画”、植草は“文学”である。この立川精治は、のちに暁星小学校に転じ、戸板康二や尾上松緑にもつよい影響を与えたという。
高峰秀子との恋愛
黒沢が、もうひとつ「眼から血を吹く思い」をしたのは、高峰秀子との結婚問題であろう。「|綴方《つづりかた》教室」で天才的子役として登場した高峰は、山本嘉次郎監督の「馬」ではすっかり娘に成長し、助監督であった黒沢の血をさわがせている。当時の黒沢の恋情は並大抵のものではなく、京華中学の同級生で、またPCLに同時に入社した小柳進一によると「それはもう“恋した”とか“|惚《ほ》れた”という程度のものではなかった」そうだ。結局、この恋愛は黒沢の“片想い”に終始するのだが、ある新聞に高峰の養母の談話なるものが発表され、その見出しが「助監督風情に娘はやれるか」と、大きなゴシック活字で組まれたため、彼は傷心に塩をぬられた思いでいたという。
彼は、かつて友人に「ドストエフスキーはすごい作家だ。僕なんかが眼をそらせるところを、じっと見つめている」と語ったことがある。が、助監督の松江は「いや、見つめるのは黒沢さん自身も同じで、人間はたいていイヤなことは忘れるものだが、彼はじつにイヤなことを覚えている」と語っている。
このエピソードは、彼が悲劇から眼をそらさない性格であることを物語っていよう。植草圭之助は「黒沢は小学生のとき級長でとおし、クラスの信望を一身にあつめていたが、しかし“募われて|溺《おぼ》れるところがない”人間だった」という。客観的な距離感、あるいは|醒《さ》めた眼、これは男性の“強さ”の一種であり、ヘラクレスへのパスポートでもある。
私は、どういう縁あってか、昭和十八年の「姿三四郎」以来、彼の全作品を“有料観客”の一人として見てきている。批評家もあまり見なかった、戦争末期の「いちばん美しく」(このときの主演女優を彼は妻にしている)も、帯広の師団にいるとき、引率外出で中隊長に見せてもらった。作品の批評は専門家や“黒沢ファン”にまかせるとして、彼の作品を見た記憶や、黒沢を語るひとの話をきいていると、彼の“ヘラクレス信仰”には、千慮して一決するような、年輪のある男への傾倒が一本の筋として貫通しているように思える。
未熟への蔑視
黒沢明は、しばしば「思想がない」とか「知性がない」といわれている。たとえば、シナリオ作家の石堂淑朗は「彼は|悪《あ》しき権威主義者であり道徳主義者である」と非難し、また映画監督の増村保造は「彼の作品に深さが欠けているのは、彼が思想性のある作家といわれるにもかかわらず、その知性が豊かでないからである」と断定している。亡くなった三島由紀夫にいたっては「黒沢明には思想がない。あっても、せいぜい中学生程度のものだ」と書いてもいる。
たしかに、ヨーロッパ社会に発生した哲学的基準から黒沢の作品を見ると、登場人物にも事件の発展にも、思想の構図はみられないかもしれない。
しかし、彼の好きな根来塗りや信楽の壺が、完成のときは制作の手続を隠しながら一種の緊張感を見せているように、彼は精確な手続を踏んだものがそなえる“質感”そのものを、ひとつの思想として提示しているのではないかと思われる。
この態度は、未熟なもの、年輪を経ないものへの、頑固な|蔑視《べつし》となってあらわれる。
たとえば、「椿三十郎」の主人公に若侍たちが三十郎の|斬《き》り込みに加勢すると申し出ると、「貴様たちといっしょではケツを斬られるからな」と三十郎は鼻先でセセラ笑うのである。また、「赤ひげ」では長崎帰りの若い医者が、町の診療所での哀切な経験から“ご典医”の道よりも“町医者”をえらぼうとするのに対して、“赤ひげ”なる老医は「ちょっとばかりの経験で、きいたふうなことをぬかすな」と、怒鳴りとばしてもいる。
おもしろいことに、この「椿三十郎」や「赤ひげ」は菊島隆三や小国英雄との共同脚本だが、これらの青年を|叱《しか》りとばすところは、黒沢明がひとりで書いた部分なのである。
黒沢は、これらの描写によって、自己顕示的なもの、ひとりよがりのもの、論理の整合性だけをペラペラと口にするものへの軽侮と蔑視をこめているようにも見受けられる。このほか、「野良犬」における老刑事と新米刑事、「酔いどれ天使」における老医と与太者、あるいは名優・山本礼三郎|扮《ふん》するところの|侠客《きようかく》と与太者、「七人の侍」における剣の達人(宮口精二)と若侍(木村功)など、黒沢の作品には「ベテランと未熟者」の対比が、ものの見事に描かれている。見方によっては、家父長支配の男性社会が肯定的に語られているようにも受けとれる。が、黒沢には人生の密度の濃淡さえ伝えうれば、それで満足なのであろう。「野良犬」は菊島隆三の出世作のひとつになったが、彼が警視庁捜査一課に日参して刑事の行動を取材した折、「ゴミ箱の中に身を沈めて張り込みをするそうです」と黒沢に報告すると、黒沢は「冗談じゃないよ。脚本書きだってそれくらいの苦労はしている。誰でもがやりそうな苦労なんか映画にはできないぜ」と、真顔になって否定したそうだ。
黒沢にとって問題なのは、地道な事実を積み重ねていって、その先になにが飛躍してあらわれるか、である。これは彼が|世阿弥《ぜあみ》の著書から学びとったものだという。
したがって、彼は“映画的時間”とか“映画的現実”を極力排除することに努める。
「暴走列車」の|破綻《はたん》は、彼のこの態度が原因になってもいる。
「機関車が五分間走っている時は五分間のことしか撮れないんだよ、ぼくは。ぼくの映画のつくり方って、大体現実の時間に沿うんで、映画的時間というものは使わないんです。ところが向う(アメリカ)の脚本では、五分間に二十五分間の出来事が詰めこんであるんだ」(「文藝春秋」45年新年号「お茶の間放談」より)
濃密な“現実”
いわゆる“映画的時間”や“映画的現実”によりかかると、手法上の“小手先芸”がいくらでも介入してくる。作品の密度は甘くなる。観客に対して、いつも「これは映画ですから」という、いいわけを用意しておかねばなるまい。
黒沢明は、現実の被膜の内側にある真実を描くために“映画”という器材を使っているのだ。彼における“映画監督”とは「映画の監督」ではなくて、むしろ「映画|を《ヽ》監督」しているのである。
彼の作品には共同脚本が多い。
あるとき菊島が「あなたはひとりでも充分に書けるのに、こんなにひとを付き合わせて、しかも脚本料まで払って、やっと一本を完成させることはないじゃないか」といった。すると黒沢は言下に、「そうじゃないよ」と否定し、共同執筆の理由を|滔々《とうとう》と述べ出した。
要するに「人間は得意になっているときがいちばん危ない」という。シナリオ作家には「ここはもらった。誰にもここは書けないんだ」という個所がある。映画監督にも「私しか撮れないもの」があるはずだ。じつは、こういうところが盲点になる。
ある監督にこんな例がある。
決闘シーンだ。風の吹き荒れる草原である。剣士が二人、むかいあっている。風が足元の草を狂おしく|薙《な》ぎ倒してゆく。上空にヘリコプターをとばして、その風圧で“風”をあらわしている。
監督もスタッフも「やった、これは|凄《すご》いぞ」と叫んでいた。黒沢はその場に居合わせた菊島に「だめだよ、これは」といい、さっさと引き揚げた。
果せるかな、撮影してラッシュを見ると、ぜんぜん迫力がない。草原は微風にゆれているという感じだ。監督もスタッフも、ヘリコプターの爆音にエキサイトし、その眼で周囲の風景を眺めている。
黒沢が脚本を共同で書くのは、このような「得意になっている部分」がお互いにチェックできるし、また、それぞれが|捉《とら》えた現実を積み重ねることによって現実よりも密度の濃い現実を創出しようとするからだ。
彼は、俳優が台本どおりに芝居をし、その芝居が完全にゆるみなくできあがるまで、カメラをまわさない。まず完成された芝居があり、カメラはそれをうつすだけだという考えをもっている。それと同様に、彼は脚本の中で、いちばん密度の濃い“現実”をととのえようとしているのである。
黒沢流脚本術
黒沢は木下恵介、市川崑、小林正樹らと「四騎の会」をつくっている。一本撮ろうということになって、山本周五郎の『町奉行日記』から『どら平太』というコンセプトを引き出した。脚本は例によって共同執筆だ。そこで市川崑が黒沢の書きっぷりを見ていると、彼はたいていのシナリオ作家がする“箱書き”(コンストラクション)をつくらないで、原稿用紙を広げるや否や、やにわに書き出した。これが黒沢流で、彼はある現実を一気に書くとつぎにまた別の現実をグーッと書きあげ、あとでそれを手際よくつなぐのである。これは、文章法でいうと、森恭三氏の“カスガイ法”という手法で、まず、いちばん自分が書きたいことを書いてしまう。すると文章にもられた心情の鮮度がおちないわけだ。最後に、部分的にできあがった文章を「さて」とか、「日本的といおうか、なんといおうか」などの“カスガイ”でつないでゆくわけである。
このような、黒沢流脚本術は、文意に愛着をもつ筆者には非情な印象をあたえる。
谷口千吉が共同執筆で温泉宿に缶詰めになった。「では、いまから二時間書こう」と、黒沢と机を|挟《はさ》んで書き出した。二時間たって、できあがった部分を交換して読みはじめると、黒沢は谷口の原稿をギュッギュッと絞って、|屑籠《くずかご》に放りこんだ。谷口は、一瞬、怒り心頭に発したが、黒沢の方が断然すぐれているので、文句はいえなかったという。それからまた書き進んだが、谷口が出発点に戻ったのを|尻目《しりめ》に、黒沢はぐんぐん自分のぶんを書き進み、三日ほどで完成すると、まだ机にしがみついている谷口をおいて自分は渓流に魚釣に出かけてしまった。
ところが、谷口がやっと追いつき、再び読みあわせがはじまると、黒沢は「あ、そこは千ちゃんの方がいい。それを|貰《もら》おう」といいざま、自分の脚本をビリビリと破ってしまった。
こういう仕事は、芸術だの情念だのをオチョボ口にのせている作家にできることではない。労働には「仕事」( WORK )と「作業」( LABOUR )とがあるそうだが、黒沢には「作業」を実直に積み重ねて「仕事」たらしめようとする、日本の工匠と同じ手法がうかがえる。
彼がこの手法をどこで体得したかはあきらかではない。日本人の持つ、ひとつの資質のようにも思われる。
黒沢と同型同類の人物に土門がいる。永い時間をかけてひとつの仕事をし、ひとびとが忘れる頃発表して、そのたびに世間の話題になる。増村保造や浦山桐郎は黒沢の作品を見て映画監督になろうと決意したそうだが、土門の「ヒロシマ」「古寺巡礼」に触発されて写真家になったものも、数知れない。
土門が、かつて信楽の壺を撮ったことがある。自宅の|根太《ねだ》がぬけるほど本を買いあつめ、赤鉛筆をひきながら丁寧に読み終ると、こんどは信楽の窯跡に出かけた。「陶片は焼物の字引きである」という名言を吐きながら実地を踏査し、やっと信楽の壺の前にカメラを|据《す》える。が、二日も三日も壺を眺めて、なかなかシャッターを切らない。あるひとが、しびれを切らして「ずいぶん慎重ですね」と声をかけると、土門はその男をジロリと|睨《にら》んでいったものだ。
「馬鹿をいえ。おれの写真は壺の裏側まで撮れているんだ」
“永遠の男性”
黒沢が、気に入らないと“仕出し”(通行人)まで変えてしまうので、助監督がいつも“通行人のスペア”を確保していることは有名な話だが、「椿三十郎」の着る衣服の紋を考えて、ついに徹夜したという話は、エピソードをこえて“伝説”にまでなっている。そのうえ、彼はこの紋をつけた着物を染めさせたものだ。そのほかの時代考証は、すべて前田|青邨《せいそん》のところに持ちこんでいる。彼もまた歴史を“再現”することより、その“手ざわり”をたのしんでいるのだ。
このような“歴史の手ざわり”に触れようとする態度は、「女性上位社会」や「若者尊重主義」とは、まったく次元を異にする。ときには、周囲に迷惑をかけ犠牲を強いながらも、「作業」が「仕事」に飛躍するのを待つ、男性の横暴な姿がそこにある。
この意味で、黒沢は「男性上位社会」の最後の“天皇”であり、“ヘラクレス信仰”にみちた“ザ・マン”である。原節子を“永遠の処女”とすれば、黒沢明は“永遠の男性”である。
「椿三十郎」の共同脚本を書いているとき、小国だけがほかに用事ができて、別の宿屋に泊った。ひと仕事終って晩酌をしていると、黒沢から「おれもいま酒を飲んでいるんだが、どうしても心に懸るものがあって、おちつかない。そっちへ行っていいか」と電話があった。小国が承諾すると、まもなく黒沢があらわれ、「仲代達矢の武士がどうしても三船の三十郎から離れない。あやしんでいる。これを第三者もだまされるようなだまし方で、仲代を三船から離すわけにはゆかないか」と、切り出した。いわゆる“映画的手法”を使えば、おもしろおかしく処理できるのだが、それでは作品の密度が下ってしまうわけだ。
男の“泣き”
小国によると、碁打ちの言葉に「負けた碁でも、この碁には“泣き”が入っている」というのがあるそうだ。ふくみのある、いい言葉である。
「黒沢の作品がそうだ。成功作にせよ失敗作にせよ、みんな男の“泣き”が入っている。碁といっしょですよ」
いや、“泣き”が入るのは黒沢ばかりではない。彼のスタッフは、仕事をするたびに、泣かされている。一点一画をゆるがせにしない性格のためだ。つまり、クソ真面目、である。
黒沢はロケ先の宿で助監督をあつめてマージャンをするそうだが、彼が主催した場合は“|賭《か》け金ゼロ″だという。なにも賭けずに、ギャンブルをやるのは、湯のない風呂|桶《おけ》に入るようなもので、人生の徒労このうえない話だと思うのだが、黒沢は「いちばん敗けたヤツにはマンジュウを食わせる」といって、よろこんでいるという。
あるとき、飲んでいてコーラスをやろう、といい出した。なんでも「鐘の音」とかいう曲で「リンドーン」という部分が、ルフランでコーラスになる。歌いはじめると、黒沢は「さあ、立って」と全員を立たせ、みずからは割箸をタクトがわりに持って、小首をかしげ耳をかたむけ、真剣な表情で合唱を指揮したという。
賭け無しマージャンといい、酒席のコーラスといい、真面目といえば真面目だが、なんとも不器用である。少なくとも、おとなのやることではない。
この不器用さが、彼の人間関係を崩すことになる。本人は「よかれ」と思ってやったことが、相手には“有難迷惑”になることだってあるだろう。
彼は肉が好物である。肉について詳しく、したがって焼き方もうるさい。ただ、肉を食うことに|悦《よろこ》びを感じるだけではなく、肉を食って体力をつけないと、画面に|弛緩《しかん》した部分が出ると理由づけているのが、いかにも黒沢らしい。
さて、相手が肉の熱いうちに食べないと、彼の機嫌はよくない。「あいつはイナカモノだ」となる。肉の皿に添えたクレッソンを新聞記者が食べ残したところ、「あいつはひとの誠意がわからないヤツだ」と、あとでさんざんコキおろしていたという。
黒沢明は“ひとづきあい”が悪いとされているが、じつはつきあいをはじめると、トコトンまでサービスしてしまうので、一回ごとにクタクタになるという。それをおそれて、あまり交際範囲をひろげないのが真相だそうだ。この結果、彼があまり姿を見せない“神秘的人間”に見えてくるのはやむをえない。
しかも、撮影所に入ると、これはもう鬼のようになるというから、黒沢明は自分の不器用さで自分を“天皇”にしているようなものだ。
このような天皇は必然的に孤独になる。ここがワン・マンとはちがう。ワン・マンは自分の意志で自分の周囲をからめとってしまう。意志に反するものは断頭台に送りこむまでだ。黒沢天皇は、好意と愚直さがメダルの裏表になっている。それが相手に対して、裏表のどちらがかえっているか、判断のつかぬところがある。周囲も「裏ですよ」「表ですよ」と進言することを|憚《はばか》っている。そこから、天皇の“悲劇”が始まるのである。
だから、彼は無類の“淋しがり屋”である。つねに彼の|苦衷《くちゆう》を解する側近を求めている。この場合、女性は対象にならない。彼一流の真面目さから、彼は女性を完全に理想化するか、あるいはまったく生理的に考えるか、そのいずれしかできないのである。
黒沢を映画監督の登竜門においたのは山本嘉次郎である。黒沢を|溝口《みぞぐち》健二と比較して、さすがに奥義に届くことをいっている。
溝口は、近松秋江の『黒髪』に出てくるような|性悪《しようわる》女にきりきり舞いをさせられ、それを嘆きながら女を味わっている。彼には「|饐《す》えた女」の味がわかる。それを映画に表現すると、これがまた天才的にうまい。いってみれば、女の足の裏まで描いてみせる。黒沢にはこれができない。彼にとって、“女”は「女神」か「ひどい奴」のどちらかである。
したがって、黒沢の作品に登場する女性には、あとで話題になるようなのは皆無である。女の描き方が下手だというのではなく、女らしい女を登場させないのだ。
黒沢|男《ヽ》と木下|女《ヽ》
民芸出身のプロデューサーが、一計を案じて、黒沢と木下に共同脚本を書かせたことがある。黒沢の描く男と木下の描く女を組みあわせれば、本邦最初の“男と女の物語”ができようというわけだ。
半分ほど書きすすんだところで、お互いが脚本を見せあった。読みおわって木下がいった。
「黒沢さん、あんたの書く男にはどんな女も|惚《ほ》れませんよ。女にとって、まったく魅力のない男ですもの」
黒沢も、まけずにいいかえした。
「木下さん、そういうあなたの描く女には、どんな男も惚れませんよ」
これでこの話は立ち消えになったが、木下の最初の発言がおもしろいと思う。むしろ「女に惚れられない男」を書くのが黒沢の真骨頂であり、そういう男が彼自身なのである。
「黒沢から映画をひいたらなにも残らない」という人が多い。それほど、彼は映画づくりに全エネルギーを投入してしまうわけだ。その最も激しいのが“感情移入”である。
映画監督には二種類あって、“踊る監督”と“踊らぬ監督”にわかれるという。“踊る”方はしょっちゅうカメラの横の椅子から立ち上り俳優のところに演技をつけにゆく。もっとはなはだしいのになると、俳優が泣く場面で自分も泣いてしまう。近頃のヤング監督に多いそうだ。
“踊らぬ”方は、|椅子《いす》にすわって、じっと見つめている。俳優が自分でなにかを発見するまで待っている。俳優の方が逆上して「どうすればいいんですか?」と聞くと、「どうすればいいか、自分でやってみて下さい」という。黒沢は、この後者の方である。そのかわり、彼は撮影現場そのものを、劇中の“現実”にかえてしまう。
市川崑が「どですかでん」の現場を見にいったら、水を打ったように静かで、スタッフがぬき足さし足で歩いている。「どうしたんだ?」と小声できくと、子役の少年が自然に涙を流すまで待っているんだ、という返事がかえってきたそうだ。
これが「トラ・トラ・トラ!」のような戦争映画になると、黒沢の状況づくりはさらに徹底する。この方のエピソードは、紹介しても信じてもらえないくらいである。
トラ・トラ・トラ!
まず、山本五十六大将に扮した鍵谷武雄(高千穂交易社長)が、撮影所内においてある自動車に乗ってセットまで乗りつける。この間一分間だが、山本大将は必ず自動車である。大将がおりると、セットまでの道に赤いジュウタンが敷かれる。黒沢監督が「気をつけ!」をかける。途端に、長官送迎のラッパが鳴りひびく。これはテープに吹きこんであり、長官の姿が見えると同時に|嚠喨《りゆうりよう》と鳴りひびかないといけない。ある助監督はこのタイミングを狂わして、交替を命じられたという。
撮影の合間にも、山本大将は架空の大佐や少尉と話すことを禁じられている。休憩中といえども、「大将に大佐や少尉が話しかけられるわけがない」という解釈が生きているのだ。
宮口精二は入院中の海軍中将の役だが、ある日、黒沢から「いったん中将の軍服を着てからベッドに入って下さい」といわれて、びっくりしている。海軍中将の服を着て、それを脱いで入床すれば、気持はまだ中将であろうというわけだ。
ところが、この撮影は東映のスタジオを使ったため、思わぬ支障が出た。宮口がベッドで激励文や慰問文を読むシーンがある。小道具が手紙を数通そろえた。その中に「ヤクザ映画」につかう“果し状”が出てきて、黒沢が激怒する大騒ぎになったという。
しかし、黒沢の心情をより物語っているのは、彼が山本長官の乗る自動車にホロを覆わせたという一件である。東映撮影所内は、テキ屋の扮装をしたのがいっぱい歩いている。そういう空気から、将官旗を立てた海軍省の自動車を隔離しようと図ったわけだ。
黒沢には、そういう雰囲気づくりに天才的なところがある。小柳進一の話によると、黒沢は「忠臣蔵」の助監督をしていたが、ある日、撮影に行き詰まってスタッフに弛緩がおきたところ、彼は黙って屋根に登って、静かに雪を降らせはじめた。ところが、その降らせ方があまり見事なので、監督も俳優もいっせいにやる気を出したという。
以上のようなエピソードを集めると、真面目で口下手で不器用で、現実の追跡過程に思想を求め、強い生命力に憧れるという、日本の典型的な男性像が浮かびあがる。
もうひとつ、つけ加えるなら、彼の“淋しがり屋”は“優しさ”に通じることだ。
「黒沢から映画をひいたらゼロになる、それならいいんだ。ゼロどころかマイナスが残るところが心配だ」と、彼の友人が語っている。
撮影所では徹底的に怒鳴りまくる。あるときは、助監督に「あの男を殴ってこい」と命ずることがある。ところが撮影が終った途端に、いままで怒鳴りまくった助監督に「どう? きょうは何を食べる?」と声をかけるのだ。助監督の方はアッケにとられて、しばらく違和感の去るのを待つという。
映画監督は、さまざまな能力の統合者である。今井正などは、スタッフに勝手なことを|喋《しやべ》らせておいて、その“上澄み”をきれいにさらってゆく。
それと対照的なのが黒沢で、彼は“孫悟空型”である。孫悟空が身体の毛をぬいて、ふっと吹くと、数多くの“分身”があらわれるように、撮影所内の彼はあらゆるスタッフに彼の“分身”になることを要求する。彼はこの精神的同型をもって、連帯感を形づくろうとする。この型からはみ出した人間を痛烈にやっつける。しかし同時に、この精神的同型がいかなる価値の作品を生むかもわかっているのだ。
彼はその価値にむかって、自分の“分身”をヘラクレス的力量をもって引っ張ってゆこうとする。そこから悪戦苦闘がはじまる。その苦闘が終ったあとも、なお“同志愛”が残るわけである。
“カラヤンを撮せ”
ひとつの作品を完成しおわったあと、彼は最も密度の高い“現実”を通過してきているので、ふつうの現実を増幅させないと、精神的バランスがとれない。
彼の音楽好きは有名で、とくにベートォベン、ドボルザックの愛好者だが、あるときNHKテレビでカラヤンの「運命」を聞いた。カラヤンに対しても“首ったけ”である。ところが、テレビが中途からカメラをパンさせて、カラヤンよりも第一バイオリンやチェロにフォカスをあわせた。すると黒沢はかんかんになって怒り、そばにいたものに「NHKに電話をかけていまのカメラの撮り方はなんだ、と抗議しろ」と命じた。みずからも受話器に出て「あのカメラワークはなんだ。大衆がカラヤンを見たがっているのが、わからんのか」と怒鳴ったそうだ。
このように攻撃型になるならまだしも、撮影を離れたあとの彼は、性善説の|かたまり《ヽヽヽヽ》のようになってしまう。
女の優しさには“愛される”ことの期待がこめられているが、男の優しさは底無しである。側近の「映画をひいたらマイナスが残る心配」はこのことであろう。
黒沢明が、入社試験を受けて、山本嘉次郎の前に立ったのは、昭和十一年のことである。「日本映画とその|匡正《きようせい》法を論ず」という課題作文が通過し、五百人のうちから四人が採用された。黒沢もそのひとりである。山本は採用の理由をこういっている。
「趣味を聞いたら“絵です”という。誰が好きかと問うと“富岡鉄斎や|万《よろず》鉄五郎です”と答えたが、その好きな理由がかなり専門的な勉強を思わせたので、採用した」
ところが、入社してみると、|体《てい》のよい小使みたいな仕事で、さっぱり振わない。情なくてやめようかと考えていたら、小田基義(当時・助監督)にとめられ、山本嘉次郎のサード助監になって、やっと映画のおもしろさがわかってくる。
この時分から、黒沢は情報局や映画雑誌の“懸賞脚本”に応募し、まったく連続的に入賞している。ある日、|祖師谷大蔵《そしがやおおくら》のブリキ屋に下宿する谷口千吉のところへ、黒沢が「泊めてくれ」ところがりこんできた。谷口は二年ほど先輩である。
夜、|煎餅蒲団《せんべいぶとん》に寝るとき、谷口は「おれは電気がついていると熟睡できないんだ」と、部屋を暗くした。黒沢は谷口がのこした四分の一くらいの面積に、ちぢこまって寝る。
夜中に、谷口が胸のあたりに風を感じて眼を|醒《さ》ますと、黒沢はロウソクを立てて、その灯が谷口にあたらぬように雑誌でさえぎり、原稿用紙が買えないので古い台本の裏を使って、猛烈な勢いでシナリオを書いていたという。谷口はそれを見て「こいつに追い越されても仕方がないな」と、そのときから深い劣等感を持ったという。
未完成の巨匠
黒沢自身は山本に「失業者は多いし、学歴はないし、毎日メシの心配をする生活に戻るまいと必死でした」と語っているが、山本は黒沢の筆力を見て「言葉が追いつかぬくらい、身体の中から|溢《あふ》れてくるものがあった」と認めている。
六年で監督に昇進。スピード出世である。それから三十年間、映画をとり続けてきた。「羅生門」で“グランプリ”を受賞、「用心棒」「椿三十郎」で“世界のクロサワ”の位置を確立する。しかし、彼をこの位置にもちあげた作品の制作方法が、今日の日本の映画界にはなかなか通用しにくくなっている。
黒沢自身もいまの配給制度が映画産業の斜陽を早めることを指摘し、自分の作品はロード・ショウ・システムにかけて貰いたいと主張しているが、実現はおぼつかない。
このような立場に立って、黒沢明は「日暮れて道遠しだな……まだ、死ねないよ」と、側近に語っている。かつて「私の最高傑作は次回の作品です」といい放った男である。「日暮れて道遠し」は、半分は虚無感、半分は自負心がいわせたものであろう。
小国英雄が、「黒沢明という男は、いつも未完成で、レッテルが|貼《は》りきれないな」といったところ、黒沢は「その言葉、どこかに書いてくれよ」とたのんだそうだ。|寡聞《かぶん》にして、小国が書いたことを知らない。よって、ここにつけ加えておきたい。もうひとつ、彼の親友である星野武雄(元・東宝プロデューサー)がこういっている。
「黒沢の映画じゃ、男が泣きすぎるぜ。これからは、泣かねえ男をおつくんなさいよ」
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京風“類猿人”・今西錦司

きわめた山頂六百峰
新幹線「こだま号」のグリーン車で、京都から岐阜羽島までの間、座席から腰をうかせて窓外の山々を見やって落着かぬ男がいたら、それが岐阜大学学長・今西錦司である。
明治三十五年生まれの六十八歳とは思えぬ引き|緊《しま》った身体で、もうひとつの目印は、ズボンにカギザキのツギが当っていることだ。
今西は、十月十八日現在で、山頂をきわめた山は五百七十五に達し、来春までには踏破記録を六百にふやすといっているそうだ。このため、彼は朝湯を欠かしたことがなく、湯から上ると庭に出て、足を|腿《もも》の高さまで揚げて、オイチニを三百回くりかえしている。もうひとつ節食も励行、ことに米の飯は避けている。この自主トレーニングは、二十一歳の徴兵検査以来、絶対に増減したことのない六十キロという体重を維持するためである。
「体重が重いということはやナ、それだけ重いものを山へ担ぎあげることになるわけえ」
今西錦司といえば、このエピソードから始めざるをえないほど、山岳家・探検家という印象がまずつよいであろう。
昭和七年に南カラフト東北山脈を踏破したのを皮切りに、海外遠征だけを拾ってみても、昭和十一年白頭山冬季遠征、十三年から十四年にかけて内蒙古草原調査、十六年にはポナペ島の生態調査、十七年には北部大興安嶺調査と続き、終戦の前年には北シナの張家口に「西北研究所」ができて、今西はその初代所長に収まっている。
戦後はヒマラヤに挑戦、海外渡航も自由にならない昭和二十八年、マナスル踏査隊長として出発、さらに三十年にはカラコルム・ヒンズークシ探検隊を組織、ついにはアフリカに遠征してキリマンジャロを攻略している。このとき今西は頂上近くまでくると、先頭に立っていた若い隊員を見て、「あんなのに頂上を踏まれてたまるかい」と走り出し、その隊員を押しのけて見事にトップになったが、頂上でバッタリ倒れて、しばらくは泡を吹いていたという。
戦後の日本登山隊の海外遠征は今西錦司の名で|綴《つづ》られたといっても過言ではないであろう。
その彼が約四十年間|棲《す》みなれた京大を辞したのは、五年まえのことである。そのときの摸様を、登山家で経営者の加藤泰安がつぎのように「聞き書き」している。
「大学の最後の退官講義を聞いた人の話では、退官講義というものは、たいがい長い過去の思い出を語る、しんみりとしたものだが、彼の場合は徹頭徹尾これからやろうという計画ばかりであったらしい。それが普通の人なら一生かかってもやり切れないことばかりで、滅多に教室に出たことのない学生のなかには、就任講義と間違えて、来学期から先生の講義には必ず出ますといってきたあわて者もいたそうだ」(「アルプ」八六号より)
今西山脈の頂上とすそ野
登山家としての今西は前述のように健在だが、学者としての今西は京大の退官講義で抱負をのべたほど、いや、それ以上に脚光をあびている。理由は二つある。ひとつは「社会人類学者」としてアメリカの学界から注目をあび、彼の著書がつぎからつぎへと翻訳されていることだ。これは、生物を環境から切り離して社会集団として眺める見方がユニークであり、かつ実際的であるという理由にもとづくものだが、もうひとつ、彼が生態学者として社会の現代的課題にこたえる立場にあることだ。
|生態学《エコロジー》という耳慣れぬ学問がマスコミに|頻繁《ひんぱん》に登場するようになったのは、この一、二年のことである。
語源はギリシャ語で「すみかの研究」の意味だそうだが、要するに生物と環境の関係を調べる学問で、一定地域内の動植物群とそれを支配している空気・水・土壌・地形を「生態系」と呼び、この生態系を研究の対象にしているものである。
生態学登場には二つの動機がある。ひとつは、未来産業のひとつとして、この生態学を応用した技術が脚光をあびるであろうとの予測。たとえば、ある種のバクテリアを銅鉱石にとりつけると、そのバクテリアは銅ばかりを食ってゆく性質があるから、銅鉱石からバクテリアを回収すれば、ひじょうに|歩留《ぶどま》りのいい精錬技術を手にしたことになる。このほか、コウモリの出す電波やガラガラヘビの赤外線に対する反応なども、レーダーやミサイルに応用される可能性が高いという。
もうひとつは、いうまでもなく公害問題である。吉良竜夫(大阪市大教授)によると、環境問題を国際会議の規模で扱う場合、集ってくる地球科学者や生理学者のためにプログラムをつくる能力のあるのは生態学者であるという。
今西は、もちろん、後者の公害問題に参加を要求される立場に立っている。
以上が、今西錦司についての|“簡単な紹介”《ブリーフ・イントロダクシヨン》である。だが、これは山にたとえるならば、今西の頂上だけを紹介したにすぎない。この学者が学界の中で、“今西山脈”あるいは“今西学派”を形成してきた過程を眺めると、そこには日本の学界、いや社会そのものの姿が浮びあがるのである。
西陣帯問屋のひとり息子
日本の社会には、古くから“|師承《ししよう》”がひとつのモノサシになっていて、これのないものは“我流”あるいは“素人芸”として軽んじられる傾向がつよかった。現在はだいぶ緩和されたが、それでも大学の講座制とか技芸の家元制度とかに、それがつよく残っている。
板画では世界的名声に達した棟方志功も河井寛次郎が発掘しなければ、永く埋もれていたかも知れないし、陶芸家の魯山人も「その技に師承を見ず」として一人前に扱われなかった時期が永い。
学界では植物学の牧野富太郎、緯度観測の平三郎が“小卒”という学歴のゆえに、貴重な業績を残しながら、最後まで属官扱いであった。今西錦司は京都の府立一中(現・洛北高)、三高(旧制)、京大という定食のようなコースを歩きながら、京都大学で教授になったのは定年四年まえくらいで、在職期間のほとんどを講師ですごしている。
彼の生家は西陣の帯問屋で、屋号を「錦屋」といい、一時は|禁裡《きんり》に西陣織を納めていたという説がある。祖父の今西平兵衛のとき明治維新になり、二代目府知事槇村正直の積極的な勧業政策をうけて、平兵衛はフランスのリヨンに留学、ここで織機の勉強をして帰っている。
ところが、祖父をついだ彼の父は、この商売が気に染まなかったらしい。彼は日露戦争に陸軍中尉として参加した豪の者で、息子の錦司には、「帯というのは、いってみれば芸者の|腰枕《こしまくら》だ。おまえまでこの店をつぐことはないよ」と宣言していたそうだ。
今西が三高から京大に進むとき、この父が亡くなる。彼は小学校のころから昆虫採集に熱中し、中学時代はひとかどの標本をそろえる水準に遠していたが、三高から京大に進むときも、迷わずに「農学部昆虫学科」をえらんでいる。中学からの同級生に西堀栄三郎がいる。戦後、南極観測の第一人者として活躍したが、それ以前から今西の海外遠征の大きな支柱となった人物である。今西と西堀は三高のグラウンドの掘立小屋で「大学はどこへ進むべきか」を相談した。「おれは趣味と学問とが一致するところへゆく」と、言下にいったのが今西である。
もっとも、今西のいう“趣味”はすでに“昆虫”ではなくて“登山”の方であったと思われるフシがかなりある。彼は一中時代に西堀とともに山登りを始めたが、この動機になったのは父親が|遺《のこ》した陸軍測量部の地図である。
彼は私に山登りの動機を「突然変異や」と語ったが、西堀によると、今西は|山城《やましろ》三十三山の地図をひろげ、三角点(頂上)を中心にそのあたりの地形をにらんでいることが多かったという。
この山登りは三高にもひきつがれ、二年後輩の桑原武夫らを加えて、三高山岳部の誕生になるのである。昔の旧制高校には「必要出席日数」というのがあって、この日数に満たないと、どんなに試験答案の成績がよくても落第させられたものだ。
この逆に、この日数さえ確保すれば、オール六十点でも進級できた。今西は最初から欠席してもいい日を数え、これを挙げて登山にあてている。彼が農学部をえらんだのは、理学部にゆくと夏期に白浜にある臨海試験所にゆくことになり、そのぶん山に登れなくなるからだという人さえある。
今西は農学部で木原均の遺伝学を学んだが、主任教授は湯浅八郎(前・国際基督教大総長)だった。ところが、湯浅は学者どうしの|角逐《かくちく》にまきこまれて|椅子《いす》を奪われたため、今西は大学院から理学部にかわらざるをえなくなった。
大学の研究室というのは|管《くだ》のような世界で、一本の管に入ってしまえば教授の浮力をかりて上にあがってゆくが、管の外に出たら最後、とりつくシマもないところだ。今西は理学部の非常勤講師となって、まったくの|外様《とざま》的存在となったが、それでも大学を飛び出さなかったのは、ひとつには生家に家作がたくさんあって生活に困らなかったこと、もうひとつは大学にいれば実験ができることであったろう。彼はここでウスバカゲロウの生態について、観察を主体とする|執拗《しつよう》な研究を続けている。
隊長にしかなれぬ男
しかし、これだけでは今西が人生の大半を“講師”としてすごさざるをえなかったという説明にはならない。かりに今西さえその気になれば、しかるべき運動をして、新しい師匠を見つけ、助教授から教授という管の道を泳げたかもしれないのだ。
ところが、彼の二つの性格がそれをさせなかった。
第一の性格は、私があった十数人のひとが一様に指摘した「リーダーシップ」である。今西は「リーダー・オア・ナッシング」「隊長にしかなれぬ男」「リーダーであるために生まれてきた男」であるという。
加藤泰安によると、リーダーには天性のリーダーと修業を積んでなったリーダーとの二種類があるが、天性の方は、|夢想家《ドリーマー》であること、闘争心のつよいこと、健康であること、楽天家であること、個性がつよいこと、頑固だが協調性のあること、身辺がきれいなこと、の七条件がいるそうだ。余談になるが、近頃ハヤリの“人材開発論”などもアメリカの三流学者の請け売りなどしないで、登山という限界状況の中でえられる人間像を手がかりにした方が効果的なのではあるまいか。
今西のリーダーシップが加藤のいう七条件を完備しているかどうかは別として、ある教授のいうように、「リーダー格の実力のあるものが教授になるための下積み生活がつとまるはずはなかった」のはもっともであろう。
第二は、今西は早くから野外研究の方向をとり、研究室で文献を|漁《あさ》るタイプのラボラトリアンを眼中においていなかった。ある教授が学説を発表したところ、今西が起ち上って「それは先生の感想ですか、それとも学説ですか」と聞いて、くだんの教授を憤激させたという話がある。もっとひどいのは、教授をまじえて仲間と外で酒を飲んだとき、三条大橋の上で教授を殴ったことである。そのとき今西は「この野郎、あまりに無学だ」と叫んだというから、彼自身の方法論によほどの自信があったわけである。
こうした性向が、それが正当な理由にもとづいていようと、大学当局に受け入れられないのは、学界という社会の性質から見て当然であろう。
「おれを早く助教授にせい」
戦後、彼は大学を辞めそうになった。定員法で講師は二人となったが、理学部の生態学には三人いたため、一人が余分になる。「それならオレがやめる」と今西はいったが、貝塚茂樹や桑原武夫が相談して彼を人文科学研究所に入れたのである。ここでも今西は「あの教授は無学にも程があるから殴った方がいい」と進言する調子で、一向に“今西流”は改めなかったらしい。それでも彼自身はずいぶん身を処するに円満であったようで、定年四年前に人類学教室の教授になったとき、桑原らに「人文ではかなり住みづらかったよ」と|洩《も》らして、聞いた人文研の連中を「あれで円満だったのか」と驚倒させている。
講師の給料は薄給でお話にならず、これには今西も参ったという。あるときは生家の蔵にあった軸ものや陶器を売り立てたり、家作を処分したりして急場を|凌《しの》いだが、それもなくなると、今西の妻は自分の着物をぬいで金にかえたという。彼には四人の子どもがいるが、戦後のインフレと今西の薄給とでは、家計が火の車であったことは想像に難くない。
今西によると、助教授と講師の給料に格段のひらきがあるので、「おれを早く助教授にせい」と大学に要求したら、「おまえはえらすぎて、こんどなるとしたら教授しかない」と待たせに待たされたという。もっとも、家計は火の車でも、今西は夜な夜な|爽快《そうかい》に飲んでいたというから、彼の妻には“ヴィヨンの妻”を思わせるエピソードが多い。それは、彼の人柄を描く項目で詳述したい。
このような次第で、彼は万年講師の椅子に甘んじたが、さてまた大学の不思議なところは、自由な研究をするとなったら講師でいる方が充実感が高いのである。教授・助教授になると、収入も名誉も高くなるが、学生の面倒から学内の行政まで目を届かせねばならず、研究一本に打ちこむわけにはゆかない。講師はそういう日常業務からは自由である。なんとも皮肉な話だが、貝塚茂樹によると「学説の創造にかけては伊藤仁斎以来」という今西の業績は、講師という位置にあればこそできたといいうる。いや、彼は学説ばかりか、人間をもつくったのだ。
日本の学界にはおもしろい生態分布があって、思想や学説のうえで独創的な存在があらわれると、その祖述者・解説者・心酔者がつながり出し、学界の中に学者の垂直分布を露呈することがある。
戦前における学者の垂直分布の中で、最も大きかったのは、夏目漱石と西田幾多郎を頂点とする“漱石山脈”“西田山脈”で、この両山脈がわが国の思想界・文化界にあたえた影響は圧倒的であったといえるであろう。
漱石山脈の中では、寺田寅彦、小宮豊隆、阿部次郎、安部能成、野上豊一郎、鈴木三重吉、森田草平などが第一期生で、和哲郎、内田百、芥川龍之介、久米正雄、松岡譲、赤木桁平(のちの池崎忠孝)などが第二期生といってよい。
一方、西田山脈の方は、西田幾多郎の人格はもちろんのこと、その学説を慕って全国から秀才があつまり、田辺元、天野貞祐、山内得立、務台理作、三木清、戸坂潤などが哲学の城を築いた。戦後マルキストになった柳田謙十郎や創価大学に迎えられた樺俊雄なども、この本流につながるものと見てよいであろう。
この両山脈のほかに、山塊ないしは丘陵程度のものも数えあげると際限はないが、多かれ少なかれ、それらに共通していることは、創始者の方法論や論理構造に否定的に対立するものはなくて、そのミニアチュアかバリエーションとしてあらわれるものが多いということだ。平たくいえば、学者の一種のノレンわけみたいなもので、本家は分店をたくさん従えることによって、いよいよ威光をまし、分店は本家に連なることによって経営を保証されるといった|按配《あんばい》である。
山のシゴキで入門テスト
戦後もこうした事情にあまりかわりはないが、それでもこうした分布とは種類のちがった、いわば平面分布がみられるようになった。その第一は湯川秀樹の素粒子論グループであり、第二は今西錦司の人類学グループである。
いま、いわゆる“今西グループ”の顔触れを眺めてみると、中尾佐助(大阪府立大教授)、森下正明(天理大教授)、梅棹忠夫(京大人文研教授)、吉良竜夫、川喜田二郎(移動大学)、富川盛道(東外大教授)、川村俊蔵(京大教授・霊長類研究所)、伊谷純一郎(京大助教授)などの名が即座にあがってくる。
学界通ならすぐわかるように、これらの顔触れの中には専門的共通項がほとんどみられない。動物学者あり昆虫学者あり生態学者あり、といった有様だ。さらにこの平面分布を仔細に観察すると、学者としてひとつの専門をたどるより、専門から専門へと横|這《ば》いしたものが多いということが明らかになる。
まず梅棹忠夫だが、彼は人文科学研究所で文化人類学を専攻しているが出身は理学部の動物学科である。吉良竜夫は農学部から理学部に横這いし、川喜田二郎は三高理科から文学部地理学科に入り、いまや移動大学なるものをはじめて学外に移動してしまった。森下正明は農学部昆虫学科から理学部へ、川村俊蔵は三高文丙から理学部へ、伊谷純一郎は獣医学校から理学部へと移動してきている。また、学者ではないが、「カナダ・エスキモー」「戦場の村」など、|明晰《めいせき》な筆致のルポルタージュをものした朝日新聞の本多勝一は、やはり、“今西グループ”の一人であるが、彼は千葉大薬学部から京大農学部の遺伝学科へ横すべりをしているのだ。
これが、今西グループの特徴のひとつである。今西は、前述のように、学者生活の九〇パーセントを講師の位置で送っている。講座もなければ教室もない。それでいて、ごらんのように多士|済々《せいせい》の人材を集めている。しかも、その構成員は、これまでの山脈のように垂直分布の形をとっていない。
ここに、今西グループの現代的な意味があるといえる。ひと口にいえば|“異専門間協業”《インター・デイスプリナリイ》あるいは“境界領域学問”ということであるが、その協業の接着剤になっているものは共通の問題意識である。その問題意識のエンジンとなっているのが今西の発想法であり、あるいは哲学であるといってもよいだろう。
彼らが、今西の発想法や哲学に触れるのは、おもしろいことに山登りや探検という行動においてである。梅棹によると、今西の“入門テスト”は山登りにつれてゆき、登山の過程でその人間が見せる行為をマークして、「あいつはダメ」とか「なかなかいける」と判断するのだそうだ。山登りはしばしば人間性を露呈させるものだから、今西流のテスト法もあながち無茶とはいえないが、かなり経験主義的ではある。
しかし、今西にしても弟子たちにしても、はじめから登山や探検を通してのつきあいなのだから、この経験主義的テスト法もやむをえないものだろう。
「山より月給を愛するか」
今西が西堀や桑原らと一中・三高・京大の山岳部を形成してきたことは前にも述べたが、グループの面々は、たとえば梅棹のようにその全コースを追ってきたり、あるいは三高で今西門下と合流したり、京大に入って今西グループに遭遇したり、というふうに、|所詮《しよせん》は避けられない運命に出会うわけである。
この出あいはまことに運命的で、たとえば加藤泰安などは京大を出てから東京で生活していても、今西のために二つも会社を棒に振り、今西の姪である彼の妻は「いまに今西さんに殺される」と嘆いているという。加藤は学習院高等部の出身で今西とは気質も出身もちがうが、学習院山岳部の先達である岡部長量につれられて上高地にいった際、訪ねて来た今西から「こら、ボン、酒を|買《こ》うてこい」といわれたのが、なれそめであった。それ以来、加藤は今西をひどく嫌うようになり、彼が穂高で遭難したというニュースが入ると、思わず「バンザイ」と叫んだという。ところが、京大にいた松方三郎が「山では今西が一番だ、今西のところへゆけ」と命令するので、京大に進学して今西を訪れた。
「なにしに来た?」
「山の話をして下さい」
「なんの話をするんだ」
こんなふうに|翻弄《ほんろう》されること二年間、加藤も加藤で「ああ、いやだ、また今西のところへゆくのか」と渋い顔をしながら通い続け、やっと二年目に「晩飯でもくおうか」と誘いをうけたという。それからは山で飲み町で飲みの仲間になったが、今西は自分の計画を思い立つと、出発の日・たどるコース・参加するメンバーを勝手にきめて、そのとおり実行しないと収まらない癖がつよかった。富川盛道はこれを“予定魔の今西”とよんでいるが、ことに加藤が自分の計画に参加しないと機嫌が悪く、「山よりも会社なんてものがそんなに大事か」とか「おまえも山より月給を愛する男になったか」とか、さんざん|厭味《いやみ》をいうので、加藤は会社を辞めては今西の“山行き”にしたがったという。
加藤のこのような“被害”は、ほとんど誰もが受けているところだが、それでも今西から離れてゆくものがいないのは、今西の計画の素晴しさとフィールド・ワークの密度の高さにあるという。
たとえば、こういう話がある。
今西錦司と桑原武夫が伊賀の山を歩いた。今西が、突如として早足で歩き出した。桑原もそのペースについてゆくと、ほどなく沼沢地がはじまった。今西は黙々と足を早める。ぐんぐん日が落ち出した。沼沢地を抜け切ると、夜になった。そこからは村へ降りる一本道である。今西はその抜け切ったところで腰をおろし、ウイスキーを出して飲みはじめた。約一時間半、彼は酒を|舐《な》めてはしゃいだ声になった。
もうひとつ。大興安嶺に富川が同伴した。一日じゅう歩いて夜になった。それでも今西隊長は、がっしりした背中を見せて黙々と歩く。したがうのはヘトヘトで、早く「宿泊」の声がかかるのをまっている。が隊長の足は尾根にむかう。隊員は|喘《あえ》ぎながらついてゆく。一瞬、隊員たちの顔が白銀に輝いた。山嶺で、もの凄い光を放つ満月を迎えたのだ。富川はこのとき、「今西さんはロマンティストであるよりもエピキュリアンだな」と感じた。
このように、今西は計画をさだめ行動をおこしたら、あとはほとんど説明をしない。身体ぜんたいで説明しているのである。しかも、その説明が狂ったことがない。今西と山行きをともにしたものは、この無口な説明に“男らしさ”を感じる。それはダイナミックであると同時に、哀切なひびきさえ感じさせる。この感覚が、時折は「ガンコおやじが」「クソじじいめが」と感じる|憤懣《ふんまん》を一掃させて、さわやかな後味をもたらすのである。
山に入りてカンを養う
今西の対人関係は、ひと口にいえば「関心せず」である。「関心せず」とは深入りしないでいわば“浅く|契《ちぎ》る”ということであろう。今西はこの言葉を三高の英語教師であった矢野峰人から教わっている。なんでもラテン語にある言葉とかで、「何事にも関心せず」という成句さえあるそうだ。
「関心するのは山だけや。山だけには|惚《ほ》れてますねン」と今西はいう。山以外のことには深く契らず、したがって貸借なしで、もしあるとすれば飲み屋の借金くらいなものだといい切るのである。
これは今西の処世訓だけではなく、哲学にさえなっている。「関心せず」は人間に対してばかりではなく、学説に対してもそうだ。
桑原は、「今西は“アンチ・文化主義者”で、カント|曰《いわ》く、マルクス曰くといった引用をするインテリにはフンと横をむく」といっているが、彼自身も、「引用どころか、ものに書いてあることも信用しないんやね」といい切っている。
従って、「やってみなければわからない」が彼の信条になる。「私が書くものは、だから、私の身体を通過したものばかりなのだ」
この哲学は“山行き”によって磨きをかけられている。
山を歩いていて、道が左右に|岐《わか》れているとその分岐点で立ち止って考える人間がいる。今西は「愚か者め」と叱りつける。今西によれば、「右へ行ってだめなら引き返して左にゆけばよい。道はジクザクでもピークをきわめればいい」のである。
そのために“ルート・ファインディング”が登山の|白眉《はくび》になる。ひじょうに難しい。だから、ひじょうに楽しいものになる。即戦即決のカンが必要になる。
「僕が、この年になっても山登りをやめないのは、この“ルート・ファインディング”のカンを養うためだ。見給え、三日も山を歩いてから鏡を見ると、眼が猟師の眼のようにキラキラしているもんや」
古典的名著『生物の世界』
彼は、一度登った山には二度と登ろうとしない。つぎには未踏の山を目指している。
これには二つの意味がある。つねに新しい山を目指すのは、“ルート・ファインディング”のカンを養うためである。即戦即決の神経を磨くためである。
「学問かてそうえ。五つのデータで十の意味を求めようと思ったら、データの|囁《ささや》きが聞えねばならん。その囁きが聞えるかどうかはカンや。科学いうもんはその囁きにそそのかされて追跡するもンや。そこで先を読んで深入りして、また先がひらけてゆく。そこが学問のおもしろさや」
今西が新しい山ばかり登るという意味の第二は、一度登った山を愛して、春夏秋冬と季節をわけたり、登るコースをわけたりして、幾とおりも山を味わうタイプと比較すると、鮮明になる。
今西は自分のようなタイプを第一の型の登山者、一山派を第二の型の登山者として、つぎのようにいう。
「第一の型の登山者は一つの山に登っても、その山を、常により広い山塊、或いは山群の部分とみて、その全体的関係を把握しようということに興味をもち、第二の型の登山者は一つの山に登れば、それを直ちに全体と見て、その部分的関係の探求に興味を感じる」
これは期せずして、学問の姿勢そのものを物語っている。自分が登った山と山群との全体的関係をつかもうとするのが、今西のフィールド・ワークの基本なのである。そして、山と山群の関係をつかむときに発動されるのが、カン=直観的認識とよんでいいだろう。
今西の著書に『生物の世界』というのがある。独創的な方法論を貫いた、古典的名著といわれている。昭和二十四年からはじまったニホンザルを中心とする霊長類の比較社会学的研究も、じつはこの本の延長線上にあるものとみられる。
今西は、この本の中で「新しい生物学の生命」は直観的な「類推」だとしている。「類推」とは、「われわれがものの類縁関係を認識したことに対する、われわれの主体的反応のあらわれ」だ。それはどういうことか。たとえば、「石や木を見つけて今日はと挨拶しても、石や木が何も返事しないということ」は子供にでもわかるが、犬や猿のような高等動物になると、「彼らのわれわれにたいする働きかけを予想しないわけにはゆかない」のである。類縁関係のこうした直観的認識で、生物学をながめるとどうなるか。
「生物学の任務は必ずしもわれわれの生活資源という問題にばかり結びついているのではない。われわれ人間もまたこの世界構成の一環として、生物的類縁をもち、われわれの現わすさまざまな行動習性も、われわれの生物的地盤の中に深く根ざしたものであることを明らかにすることによって、われわれがわれわれの本質について深く反省する資料を与えるものでなければならない」
ダーウィンへの批判
この考え方は、新しい「生物学」を出発させる号砲になった。このモノサシで、たとえば「生物と環境」を測ると、つぎのような、光彩|陸離《りくり》たる考え方になる。
「環境なくして生物の存在が考えられないとともに、また生物の存在を予想せずして環境というものだけを考えることも出来ない」
要約すると、今西は「生物は環境を主体化する」という。そして主体化された環境は、また生物に働きかけて、生物を環境化するのである。だから、
「生物とその生活の場としての環境とを一つにしたものが、それがほんとうの具体的な生物なのであり、またそれが生物というものの成立している体系なのである」
今日、この体系がこわれかかっている。環境の主体化が科学技術によって進みすぎ、公害問題をひきおこしている。人為化された環境が生物の体系にアンバランスをひきおこしている。「だから“自然に還れ”という叫びだけではナンセンスなのだ」と今西はいう。それはとにかくとして、生物による環境の主体化・主体化された環境による生物の環境化・そのような生物と環境とをひとつにしたのが具体的な生物、という論法はあきらかに「西田哲学」そのものである。
今西によると、「三高にいたころ西田哲学が流行したので、誰もがするように西田さんの本を小脇に抱えておったが、あんな難しいもの、よう読めんわ」といっているが、この「生物と環境」の関係論だけは、西田哲学の体系を援用したと認めている。
さて、このような環境論から生物の社会を眺めてみると、どうなるか。今西は、ここで有名な「|棲《す》み分け原理」を展開させる。これまでの生物学は“弱肉強食”“優勝劣敗”の原則で生物の社会を眺めてきた。これはちがうのではないか。力のつよいものどうしは、棲み分けによる空間的対立で共存している。また、強いものと弱いものとがいっしょにいる社会では、一方が優位を占め、他方は席を譲ることによっても一種の別な平衡を保っている。この社会では分業を条件とする階級構造が成り立っているのだ。
今西は、ここでダーウィンの「進化論」に対する鋭い批判を投げかけている。もっとも、学界の中では、「今西はダーウィンの学説と正面からわたりあっていないから、あれは批判にならない。今西の“棲み分け原理”など、学界の孤峰にすぎない」という声が出ている。これに対して今西は、「原理の組み立て方がちがうのやから、ダーウィンとチャンバラせんのはあたりまえや」と|歯牙《しが》にもかけない。ダーウィンとも“関心”しないのだから、自分の学説ははじめから孤峰なのだ。ただ、その孤峰がハリボテでないのは、フィールドにおける具体的な観察があるからだ、と心底にたのむところがつよい。
サルのボスにも徳はある
もうひとつ踏みこんでみると、今西の眼は、生物が「生きている」よりも「生かされている」という、宇宙的生命観の核にあてられているようである。これによって、生物は「所を得さしめられて共存」しているのであって、この状態をしも「生物社会の繁栄」といおうではないか、ということになる。
この点で、彼はかつて石原|莞爾《かんじ》の「東亜連盟」の思想に共感を抱いている。石原が京大で講演したのを聞いて「えらい奴や」と思ったが、それから十年たって、再び石原が来て講演するのを聞いてみると、十年まえとまったく同じことをいうので、もう一度、「えらい奴や」と思ったそうだ。
ところで、生物による環境の主体化とか、強いものどうしの空間的対立、あるいは弱者の分業による階級的生存、という認識は、生物の知恵を感じさせずにはおかない。
今西によれば“山登り”も知恵の作業なのである。天候が変った。雨にズブ濡れになった。山の中だ。「今日はやめます」とはいえない。これを切りぬけるのが知恵である。知恵というのは、非合理的なものの解決の対象として包括してゆく知的エネルギーのことだ。これに対して、知識とは非合理的なものを最初から切り捨ててかかるような認識にすぎない。
「いまの大学は、知識ばかり教えて、知恵を教えないから、あかんのや」
岐阜大学学長・今西錦司は慨嘆するのである。今西のフィールド・ワークは、いってみれば、知恵の連続であるという自負がある。
彼は作家の開高健との対談でおもしろいことをいっている。サルの社会にはボスがいるが、「あいつらの世界はジャングルの掟で支配されとるのやろというのは非常にアサハカな考えで、やっぱりそうやないんや。サルを治めるにもやっぱり徳がいる」というのである。これは、今西のはじめた「個体識別法」という、いわばサルや野生ウマの顔を穴のあくほど見つめて、その心理や生理を記録してゆくという方法がいわせるものである。今西のこの方法は、蒙古草原の調査のとき、蒙古人が何百頭という羊を一人で操っているのを見て、そこからヒントを得たそうである。
今西グループのメンバーは、このような今西哲学を山頂や草原で吹きこまれながら育っている。彼は教授ではないから、「こういう研究をしてみろ」というようなことはいわない。そのかわり、メンバーが突っかかってゆくと、手加減なしに応対する。相手をこっぴどくやっつけて、憤死寸前にまで追いこむことが多いという。
たまに論文を書いて「読んで下さい」ともってゆくと、今西は赤鉛筆をもって直しはじめるが、そのうち論文をどんどん消して、自分の意見を書きはじめ、なおし終ったときは、論文の最初の論旨とはまったく逆の結論にしてしまうことも、ままあるそうだ。いや、もっと凄いのは翻訳で、彼は翻訳しながら「こんな考えは間違っておる」と怒り出し、原書とはちがった翻訳文にしてしまう。彼によれば、「学問的に間違ったものを日本語で出すよりは、正確なものを世におくるのが親切な翻訳だ」ということになるのである。
こういうひどい扱いをうけながら、今西グループのメンバーを彼の弟子とよぶのは、ふさわしくない。師弟の関係でいうなら、メンバーにはそれぞれが所属する教室に“先生”がいるわけである。だから、今西のところは“町道場”である。国立大学に学ぶ“上士”たちが、城の中の剣法以外に、町道場に来て|荒稽古《あらげいこ》をやっているようなものだ。
大学の研究室に対して、今西のところは“ゲリラ・スクール”である。彼らは文献主義的な研究方法を学習する一方、状況に応じて知恵を出しあう広場を今西のところに見出したといえるであろう。ここでは、誰もが誰かのために論文の下書きをする必要がない。テーマを与えたり与えられたりする関係もない。日本の社会構造の本質を知るための社会工学を、それぞれの能力をサブ・システムとして組み上げようとしている。と、書いてくると、これは大学紛争の初期の段階における“心情三派”の主張と重なる部分が出てくる。
まれにみる機械オンチ
今西グループの酒飲みはかなり有名だが、やはり特筆すべきは今西の底知れぬ強さで、本多勝一によると、「六十をすぎたのに、われわれと談論しながら、徹夜で一升酒を飲む」というから、おそろしいきわみである。
これが貧乏講師のときから続いたのだから、家計はたまったものではない。今西先生の方は一向におかまいなし。というより、西陣の“帯問屋のボン”として磨かれた味覚は、材料の特性を生かした|濃《こま》やかではんなりした京都料理の内懐を舐めつくして、舌ゴケの一枚一枚までうるさくでき上っている。これが戦前戦後、昼夜、家計をとわずに発動されるのである。
今西のニホンザルの研究は|都井岬《といみさき》の半野生ウマの観察から始まったが、一説によると、当時は終戦直後で京都にうまいものがなかったため、彼は美食を追って都井岬にいったのがウマにめぐりあうきっかけになったのだという。もし事実であっても、彼の学問にはなんら支障は来たさないし、京都の学者が美味求真の果てにテーマを発見するというのも、日本人の生態からはありうることでおもしろい。いや、それどころか、今西錦司は生態学者として眺めても抜群の存在だが、生態学的に今西錦司を観察しても出色の存在で、人によっては「今西錦司の生態学的研究」の方がだんぜんおもしろいという向きもある。
彼は、まず“家事無能症”である。それも、タテのものをヨコにもしないという身分的なものからくる無能ではなく、理学部出身でありながら、近代的メカニズムには滅法よわいのである。
桑原武夫によると、今西の不得意はカメラで、フィルムの|装填《そうてん》ができないばかりか、どこにシャッターがあるのかもわからない。今西はフィールド観察にゆくとき、絶対にカメラを携行しない。「写真にたよるより自分の視覚で記憶する」と、これはこれで堂々たる方法論であるが、じつはカメラの取扱いがわからないのである。しかし、文部省の科学研究費で渡米するときなどは、報告書に一枚や二枚は写真をつけて出さねばならないので、桑原は、絞り8・シャッター125分の1にセットしたカメラを今西にわたし、「絶対にほかのところをいじるな」といいふくめたそうだ。結果は七割がた写っていたというから、日本のカメラの性能もたいしたものである。
この話におどろいていると、末娘の皆子から、「父は万年筆を使いません。自分でインクが入れられないからです」という証言があった。もっと|唖然《あぜん》とせざるをえないのは、電気についての初歩的知識の欠落である。
あるとき、人類学教室の電気がつかなくなった。今西教授は秘書に「電気屋をよんで修理させるように」と命じた。電気屋は教授の読書を妨げまいと忍び足で近寄り、電気スタンドに手を触れるやパッと点灯した。
「先生、|電球《たま》がゆるんでましたんえ」
このメカニズムに対する弱さは、今西が生涯の半分を山岳や草原で|棲息《せいそく》したという、いわば“類猿人”のような生活から来ていよう。彼の皮膚呼吸の機能は、したがって、山野むきにできあがり、人工的な温度・湿度には適応性を欠くところがある。
習い覚えた“教授メシ”
暖房がダメ、冷房もダメ。夏の京都でタクシーに乗ると、冷房車であるにもかかわらず、窓をあけ放って気持よがっている。したがって家庭内にも冷房を持ちこまず、窓を開け放って自然の風を入れている。庭は「雑草園」と名づけたほど、草木が生い茂るにまかせている。窓から眺めて生物学的観察をするためだが、ヤブ蚊の増殖地にもなっている。この襲来は蚊取線香でふせぐ。つまり、網戸もしないのである。これは今西の閉所恐怖症にもとづくもので、エレベーターやケーブルカーに乗っていると、息がつまりそうで倒れてしまいそうな気分になるという。
新薬についても知識が安定していない。あるときの登山で足をいためた。軽い|捻挫《ねんざ》だったらしいが、今西は背負袋からチューブをとり出すと、せっせと患部に塗りこんだ。彼はサロメチールを塗ったつもりだが、周囲のものはそれがライオンハミガキであるのを目撃して、笑うに笑えぬ心境であったという。
以上は、いずれも山野に棲息する時間の永かったことからくる、文明社会との行動錯誤である。したがって、酒の入らぬときの“人見知り”も当然であろう。
たいていの男は、たとえば鬼神をも泣かしむるものであっても、孫にはだらしのない笑みをうかべるものだが、今西にとっては孫もやはり人類なのであって、彼は孫連れの娘の訪問をうけると、応接間に入って寝た|ふり《ヽヽ》をするという習性をもっている。
長女の|麻棠子《まどこ》が上田篤(京大助教授)と結婚した。あるとき上田が研究室に岳父をたずねた。秘書が「上田さんがおみえです」と告げた。そのとき今西は、「ハテ、上田って誰やね。私は知らんデ」と、|怪訝《けげん》な顔をしたという。
以上が、いわば“類猿人”を京都に住まわせた場合の、友人や子どもたちの観察結果である。しかし、いかに京都に住んでいても、山行きの際に自分でやらねばならない仕事、たとえば炊事などは絶対に自信がある。
得意は“教授メシ”である。彼は自分の好む刺身や野菜が入ると、米飯を自分で炊く。
|鍋《なべ》に米と水を入れてガスにかける。飯が吹いてくると、鍋のフタをとって水がひけるまでまち、それからフタをかぶせ、そのうえからスリバチをデンと乗せて、火をばあっと強くかけ、鍋の中で飯がキチキチという音を立てるまで待つ。
この間、今西学長はガス台の前から一歩も動かず、じっと鍋を見つめ、手早く作業し、最後のキチキチを待っているのである。
彼は、環境が人為化した社会の中に生き残りうる、最後の純粋人間なのかもしれない。かの“教授メシ”はかたくしまってうまいそうだが、そのしまりには幾百度の山行きの経験がこめられていよう。
彼は公害問題の座談会でこういっている。
「ぼくはね、自分で一週間に一ペんぐらい原始人の生活をしている。だから自分のいうことには根拠があるという信念がある。一ぺんも山にも登らず、都心に安住している連中は中毒していてわからないでしょう。ぼくは中毒現象を避けようと思って、年とともにますます山行きが積極的になってきた」
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“頭脳産業”のスター・糸川英夫

ランド・システムという“芸者の置屋”
糸川博士の営業種目は「組織工学研究所」「スリー・ティ」「|R&D《ランド》・システム」それに「海洋開発技術研究会」である。「スリー・ティ」とは耳新しい言葉だが、これは3Tで「|明日のための技術《テクニック・ツー・ツモロー》」の頭文字をとったものだ。ことほどさように、営業種目は、すべてこれからの日本が産業・技術・教育・交通・生活などのあらゆる面で取り入れてゆかねばならない「考え方」とか「方法論」を取扱っている。一口にいえば“頭脳産業”である。
たとえば「ランド・システム」は、企業が当面する公害問題の解決にもあたっている。ある会社の工場排水が川に流れこんで|鮎《あゆ》を全滅させた。漁業協同組合から損害賠償の訴えがきた。裁判はスッタモンダして両三年はかかる。その間、工場の操業をストップさせるわけにはゆかない。さあ、どうする? 博士の「ランド・システム」には、常時七十人の技術者が登録されている。その中から工場設計、排水処理に得意なものをピック・アップして、この問題について意見を出させた。解答は、工場の汚水を川に流しこまず、工場のまわりをUターンさせて、その間に浄化装置を設け、汚水をきれいな水にかえてもう一度使うことになった。なんのことはない、ホテルのプールで使っている循環式浄化法である。「ランド・システム」から派遣された技術者たちは、先方に泊りこみでこの装置を完成させた。
おもしろいことに、「ランド・システム」に登録されている技術者たちは、ここの専属ではない。それぞれが会社とか研究所の組織に属している。社長もいれば研究主任もいる。彼らはテーマによってピック・アップされ、才能を結合される。いわゆる“タスク・フォース”のやり方である。
いってみれば「ランド・システム」は芸者の置屋みたいなもので、糸川博士はそこの抱え主であり、お座敷がかかると、持ち芸に応じて技術者を派遣し、糸川はその“玉代”をピンハネしているようなものだ。
糸川博士がこの商売をはじめてから、かれこれ二年になる。東京大学をロケット問題で辞任した時、退職金は五百万円にもならず、最初はずいぶん苦労したらしい。友人の話では、家屋敷を抵当に入れ、ハイヤーをタクシーに乗りかえたそうだ。博士によれば「ヘミングウェイの『老人と海』に登場する釣師みたいなもので、新しい魚がいる以上どうしても船を乗り出すほかはなかった」という。
この“頭脳産業”が収まっているビルは東京麻布の六本木にあるが、ビルの名が「スター・ビル」というのがいかにも象徴的である。
彼の趣旨に賛同し、かつ協力している顔触れは野田一夫(立教大教授)、松下寛(野村総合研究所)、堤清二(西武百貨店)、水野惣平(富士石油副社長)などの“未来派”のスターばかりである。いや、もっと象徴的と思われるのは、これほど新しい頭脳をつめこんだビルのエレベーターが、昇降をはじめると薄気味のわるい震動をおこし、乗るものを不安におとしいれることだ。エレベーターの壁に「すこしガタガタしますがご安心下さい」との|貼《は》り|紙《がみ》がしてなければ、誰でも帰りは階段を利用しようと思うにちがいない。また、糸川博士の部屋は、窓が閉まっているにもかかわらず、自動車の騒音が否応なしにひびいてくる。およそ、ものごとを考えるのにはふさわしくない環境である。
日本の“頭脳産業”がこの程度のビルに収まっていることは、いかに日本が「考え方」に対する価値づけを怠っているかの証拠でもあろう。
糸川博士は、それでも日本における組織工学の可能性に挑戦しなければならない。理由は三つほどある。
第一は、日本は外国からの技術導入になれ切っている、自前で開発した技術は数えるほどしかない。いったい、日本には自己開発の力があるのかどうか、確かめる必要がある。
第二は、社会がタテ割りに出来ているので、技術の水平的な交流や結合が不可能に近い。アメリカの技術者は、大学に五年、官庁に五年、民間会社に五年、つごう十五年の遍歴で組織工学者として育ってくる。ひとつの目標にむかって、さまざまな専門を結びあわせることを身につける。日本では二個所を遍歴するのがやっとである。この社会組織の中から、どんな結び目を発見すればよいか。
第三は、技術に対する宗教の抵抗がない。欧米では新技術は神の摂理に対する|冒涜《ぼうとく》として、民衆の間に反抗がおきる。日本にはこれがなく、外国からの新しい技術がスンナリと入りすぎる。これをどのように解釈したらいいか。
ヘリコプターはまかせる
一方、欧米諸国では組織工学による未来の開拓がはじまっている。アメリカの航空機産業は、宇宙産業で得た経験を海洋開発に投入しつつある。ロッキードなどは海ばかりではなく、子どもの教育に組織工学をもちこんで新しい教科書をつくっている。筆者もそれを見たが、算数の加減乗除を行なうのに0と1の数字しかつかわない、コンピューターの機能にのっとった教育法が編み出されている。
大脳生理学からいうと、人間の才能は0歳から3歳の間にだいたいきまってしまうそうだが、アメリカの教育法はまさにこのへんに向けられている。それにはまず、0歳から3歳までを教育する専門の保母を教育する必要があり、その体制が固められつつある。
イギリスはイギリスで、海水からウランをとる方法に、一国の技術を|賭《か》けている。これは大きな賭だが、まったくナンセンスだとはいいきれぬ可能性がある。
日本はこの|趨勢《すうせい》に追いつく力があるかどうか。それには、日本の中に組織工学を育てうる余地があるかどうかを検討しようというわけである。
といえば、糸川博士に“憂国の至情”がたぎっているような印象になるが、博士自身の経歴を追跡してみると、彼が現在「組織工学」に情熱を傾けているのは、|間歇《かんけつ》温泉の湯が噴き出るようなもので、しごくあたりまえのタイミングの業と思えてくるのである。
糸川博士は、知る人ぞ知る、日本のロケットの開発者である。昭和三十年四月にペンシル・ロケットの水平発射を行なって以来、ベビー、カッパ、ラムダと水準をあげてゆき、電離層内の電子密度や電子温度の観測に成功している。
博士がこのロケット開発を口にしたのは、昭和二十六年の暮である。日本の航空界は講和条約が成立するまで、翼をもがれたニワトリ同然だった。二十六年になって、戦時中に三菱重工・中島飛行機・川崎航空機で働いていた技術者があつまって、「これからはヘリコプターの時代が来る」ことを確認しあった。ところが同席していた糸川は「ヘリコプターはみなさんにまかせます」といい、その会合の翌日にアメリカに飛び立った。やがて帰国すると、彼はアメリカで見たミサイルの技術をもとにして、「ロケットによる輸送機の開発」を提唱し、AVSA(航空電子並びに超音速研究)グループをつくっている。
「組織工学」とは、ひと口にいいかえれば「情報の合成術」であって、その特徴は 技術革新をふくんでいること 数十万個の単品(情報)を扱うこと 必要性がつよいこと、この三つにつきる。となると、そもそも航空機そのものが「組織工学」の方法でできており、ロケットはさらにこれを精確にしたものである。
いち早くロケット開発を口にした彼が、組織工学を営業品目にしたのは当然である。しかし、これは単なる“先物買い”にできる芸当ではない。糸川によると、人間には窒素型とフッ素型があるそうだ。窒素型は他人と結びつきにくい人物で、自分なりのやり方しかできないが、フッ素型は方々に手を出してどんな素質のものとも結合してしまうタイプである。この分野でゆけば、糸川などは全身これフッ素ということになりそうだが、「組織工学」のリーダーになるには、そういう傾向値だけでは不充分である。
第一にアタマがよく数理系統にあかるいこと。これはもちろんだが、第二に「ニュートラル・ヒューマン・リレイション」を確立できること。日本語に直すと、いかなる才能・気質の人物とも等距離に立てる人間であること、この二つが“システム人間”の資格になってくる。なぜなら、彼はあらゆる情報の秤量を正確に行なわなければならないからである。
“自己改造”の努力
これは現代の科学が生んだ人間の“新種”といってもいいだろう。糸川などは、さしずめ、新種第一号ということになるが、これがどのような形成過程をたどってきたかとなると、まったく興趣はつきない。
糸川によると、彼は中学三年の頃まで、自分でも手をやくほど“空想少年”であったという。机の前にすわっていると、つぎからつぎへと空想が翼をのばし、とめどがなくなってしまう。そこで彼は、「ドリアン・グレイの肖像」の主人公が|錘《きり》で|腿《もも》を突いて自己|覚醒《かくせい》をはかったのにならい、ハダシで庭におりて、足の裏に地球を感じることに努めたという。また、空想に|溺《おぼ》れないための「戒律」をいくつか書き、本箱の横腹に貼って自らを戒めてもいる。以上は糸川自身が語ったものだが、さらに彼の知人が聞いたところでは、「自己改造をするために古本を|漁《あさ》って読みに読んだ」という話もある。
こうした“自己改造”の努力は、自分の性格上のマイナスをなおすよりも、自己構築の方に効果があらわれるのではないかと思う。糸川は「空想少年」から離脱することによって“平均的人間”になるよりも、もっと意志のつよい、どちらかといえば感情の抑制のうまい人間をつくることになったのではないか。
いわゆる“糸川ロケット”が失敗を重ねているときの記者会見で、ある記者が彼の応答ぶりに腹を立て「それでもオメエは東大教授か」と叫んだところ、彼はむしろキョトンとした表情でそっぽを向いたという。その表情は感情を押し殺すというよりも、外側の感情に触発されない人間のものであったという。
三島由紀夫との共通項
糸川のタイプとそっくり似ているのが三島由紀夫である。三島も昭和三十年のはじめから“自己改造”に努めている。腺病質な体質で、それが「煙草」、「春子」などの繊細な織物を思わせる傑作を書かせたのだが、彼は自分の体質がそのまま文学に開花することをおそれ、その果てにくる破滅型の文士の影を断ち切ろうと、日光浴からボディビルに発展し、さらに剣道にまでおのれを投じたのだ。当時の彼は「ギリシャの均整美」を至上命題としたかのようにいっているが、じつは自分の小説を|巧緻《こうち》をきわめた構築物とするために、それに耐えうる体力と神経を養おうとしたにほかならない。
三島が神田明神祭の|御輿《みこし》を担いだり、近頃は政治の|範疇《はんちゆう》にまで顔を出すのは、文学的体力のトレイニングのためである。
彼はボディビルで身体を鍛え上げたころ、バーや喫茶店で話しこんでいても、午後十一時になると「お先に失礼するよ」と、さっさと席を立ったものだ。その鮮かな断絶には、きびしい自己規制の姿があった。と同時に、世の中が目を|醒《さ》ましている間は自分もつきあっているという、闘いの気迫もあった。彼は自分を鍛えることによって、世間の平均的感情との間に緊張感をもち、その緊張感を小説の構築作業にまでもちこんだわけである。この努力は成功し、彼は現在、|蟹《かに》以外の何物にも感情を動かさない。蟹だけは、砂浜を|這《は》っているものでも、真赤に|茹《ゆ》で上っているものでも、三島にとっては大敵なのである。
“姿勢制御”のうまさ
糸川の自己構築も、彼の精緻な理論を組み上げるのに役立っていよう。少なくとも、自己形成を自分自身の手で成しとげた人物は、自分の行動や論理を明るい視野の中においているものである。
ロケット開発の最初からの協力者であった新山春雄(日産自動車顧問)は、糸川から、「すみませんでした」という言葉を聞いたことがないといっている。彼はかならず「それはこういうわけです」と、筋道のとおった論理を展開するのである。
ロケットを飛ばすときに大きな課題になるのは「姿勢制御」である。日本のロケットも、この問題に論議が集中したが、糸川博士は自分の“姿勢制御”には並々ならぬ自信をもっていたように思えてならない。
糸川は“自己改造”から“姿勢制御”の結果をひき出したといえる。
兄の糸川一郎(東亜設計事務所顧問)によると、糸川家には四人の兄弟がいたが、長男の一郎と次男の英夫とは一度も|喧嘩《けんか》になったことがないという。一郎は英夫をとびこえて三男とは取っ組みあいの喧嘩を何度かしたが、英夫とは絶対にやらない。これは、英夫が人と争うタネをつくらないからで、彼は父母に対しても感情のいさかいが起りそうになると、上手に回避してしまうのだそうだ。一郎の記憶では、英夫が母親と争ったのは一度だけで、彼の結婚話がもち上ったときだ。相手はフランス文学者の小松清が紹介した娘であるが、英夫は交際したうえで結婚してもいいと考えたのに対して、父母は、「先生ともあろう人が女性を紹介するなどもってのほか」と、そもそものはじまりから反対した。このとき、糸川英夫は母親に、「結婚するのはお母さんじゃなくて僕なんですよ」といい、ぷいと家を飛び出して、芸者のところへ常磐津を習いにいってしまった。のちに述べるように、彼は弦楽器が得意なのである。兄が見た弟の争いはこれ一度だけであったという。
糸川博士は戦後東大教授となったが、「教授会には顔を出したことのない無礼なヤツ」という評判を立てられた。これも、兄の一郎にいわせれば、無礼だから出席しなかったのではなく、出席すると争う可能性があるから欠席したのだという。この“回避の論理”を発展させるとこうなる。
「弟は、東大生産研に戻ってから、音響学をやってバイオリンをつくったり、つぎには波動計をつくって脳波測定を実用化した。第三段階はいち早くロケットを手がけた。このことを“新しがり屋”と評する向きもあるが、兄の眼からみると、あれはいずれも“他人のやらないものをやれば争いにならない”という、彼の精神構造から出ているのです」
肉親ならではの見方であろう。別の見方をすれば、糸川が“争いを回避”できたのは、姿勢制御がうまかったからではないか。争うことによって生じるロスを明敏に計算できたからこそ、自分をプラスの座標に静止させたのだと思う。これは、彼の無類のアタマの良さからもきている。
糸川英夫の“秀才ぶり”は、もはや伝説化しはじめている。
なにしろ彼の兄、小学校・中学校の同級生、いや小学校の「卒業証書授与名簿」の記入者までが、ある錯覚にさえとらわれているのだ。私もずいぶん秀才と会ったが、取材上でこれほどの錯覚と出会ったタメシがない。
彼は東京麻布の南山小学校に通っていたが、そこの五年生のとき市立一中を受けてパスしている。戦前は小学校五年から中学にすすみ、中学四年から高等学校に入る制度があって、これを両方ともはたしたものは“天才”とか“神童”と呼ばれたものだ。
糸川は小学校五年からたしかに|市《ヽ》立一中に入っている。ところが南山小学校の「卒業証書授与名簿」には、糸川の欄外に「|府《ヽ》立一中に入学」と書きこみがある。きわめつきの秀才だったので、当然、秀才校である「府立一中」に入ったものと勘ちがいしているのだ。
糸川は市立一中の|五年《ヽヽ》生から東京高校理科甲類に進んでいる。ここでまた周囲は錯覚している。兄の一郎は「小五から中学へ、中学|四年《ヽヽ》から東高へ入りました」といい、市立一中の同窓生である堀川直義(成城大教授)も「四年から進んだ」と、錯覚しているのだ。
糸川英夫といえば、当然、「小五・四修の秀才」というイメージになってしまうのである。それほど、できたことも事実である。
鳩山家にちなんだ命名
彼の父親は教育者で、麻布の|笄《こうがい》小学校の校長をしていたが、熱烈な乃木大将の崇拝者で、子どもたちに真冬でも水をかぶって冷水摩擦をすることを要求した。と同時に、ごく単純に優等生が好きで、鳩山一郎が東大で銀時計をもらったときに生まれた子に一郎、つづいて鳩山秀夫が東大を卒業したときに生まれた子に英夫と名づけた。糸川|英《ひで》夫は鳩山|秀《ひで》夫にあやかってつけられた名である。ところが鳩山家の兄弟はそれで絶えたので、糸川の父は三番目の子に|三男《みつを》と背番号のような名をつけている。四番目は|民生《たみを》というが、これは普選運動がさかんになり、民本主義が叫ばれたのを機縁につけた名だという。
四人兄弟は、父の願いどおり東大を卒業している。長男が工学部土木学科、次男の英夫は航空学科、三男は火薬学科、四男は文学部心理学科である。三男の糸川三男については知っている人もいようが、舞踊家の石井漠の門下生で、石井も周囲も“後継者”と目していた人物である。府立一中の頃に舞踊をはじめ、満州にまで巡演して将来を嘱望されていたが、急に「男子一生の業にあらず」と舞踊をなげうち、府立高校に入りなおして東大を卒業している。
余力のあるトップ
さて、糸川英夫は鳩山秀夫をしのぐ秀才である。小・中・高と伝説がのこっている。本来なら父親が校長をしている笄小学校にゆくところを、越境して南山小学校に入学させられる。この学校は後藤新平、井上馨、芳川顕正など、伯爵・子爵家に囲まれて建っており、権門名家の子弟が多く通っていた。
糸川少年は担任の北条数馬から独特の英才教育をうけている。なにしろ進むのが早く、二年のときに四年の課程をやっていたのだから、クラスの子といっしょにすることができない。ことに暗算は抜群で、何回やっても間違えることがなかった。そのうえ人柄はよく、昼休みには鬼ごっこにも木馬跳びにも参加する。北条先生はふた言目には「糸川君を見習え」といい、教員会議などで教室をあけるときは「糸川君、みんなに教えていなさい」と“師範代”を命じたというが、その糸川も教壇に立ってつとめおおせたというから、すごい話である。
糸川少年は|痩《や》せ型で色が浅黒く、見るからに|怜悧《れいり》を思わせるタイプで、着物を着た子が多かったのに、いつもすっきりした学生服を着ていた。級友の一人は、その糸川の印象を拡大してゆくと湯川秀樹につながってしまい、したがって糸川がロケット問題で朝日新聞の追及をうけ、彼が立役者になっていた宇宙航空研究所の経理のズサンな面などが明るみに出されたときは、どうしても級友の糸川英夫と印象が合致しなかったと述懐している。
市立一中では、永い間、「当校には糸川英夫という|開闢《かいびやく》以来の秀才がいた。彼もまた九〇パーセントは汗の賜物であった」という伝説が生徒たちを悩ませている。糸川はここでも独走を続けたが、ひ弱な秀才タイプではなく、柔道やバレーボールをやる一方、ハーモニカの吹奏楽団を組織してその指揮者になっている。彼の音楽好きはたいへんなもので、現在でも事務所にFMのステレオをもちこみ、「二分という時間があれば鳴らしている」という状態で、読書のときはバックグラウンド・ミュージックを流している。
市立一中には首席で卒業する生徒に彼の欲しいものを賞として与える規定があったらしい。糸川はその“首席賞”の希望をきかれると、「ベートォベンのアルバム」と答え、これを獲得している。
五年から東京高校へ。兄の一郎が尋常科から高等科へ進学していたためである。
三年間、理科甲類の級長であった。理乙の級長は桶谷繁雄(東京工大教授)であるが、桶谷は糸川の首席は“余力のあるトップ”で、とても相手にならなかったという。
しかし、後年の糸川を|彷彿《ほうふつ》とさせるようなエピソードがある。理科には糸川・桶谷のほかに、平山二郎(後に胃腸病院長)という秀才がいた。糸川と平山の答案の出し方がおもしろい。一時間の試験問題を、二人とも十五分か二十分で解いてしまう。平山はできた答案をためつ|眇《すが》めつし、腕をくんで|瞑想《めいそう》に|耽《ふけ》ったりして時間がくるのをまち、級友といっしょに答案を出しにゆく。ところが糸川ときたら、十五分くらいでしゃあっと解くと、頭をひねっている級友を|尻目《しりめ》にさっさと提出して、校庭にとび出す。糸川には別にこれ見よがしの“悪気”はないのだが、鈍才たちにはいかにも派手々々しい、|癇《かん》にさわる行動に見えるのだ。
桶谷はそういう糸川の記憶を|敷衍《ふえん》して、彼には劣等生の|心情《メンタリテイ》がわからない面があるのではないかと類推する。
ロケット記者との会見のとき、新米の記者が「ロケットの初速は何メートルですか?」ときくと、糸川はぷつんと答えたものだ。
「初速は、キミ、|0《ゼロ》ですよ」
まさに正解であるが、そう答えられたのでは、記者はミもフタもない。あるときは「君は、そんな初歩的な問題がわかっておらんのかね」と突き放す。これも記者の側に勉強不足の責任があろうが、周囲は「もっとホカにいいようがあるではないか」と、反感をもってしまうだろう。
桶谷の、糸川における“メンタリティ理解不足”の指摘は、独走を続けてきた男の盲点に触れているのではないか。
帯域幅のひろさ
彼が「組織工学」のリーダーとして、|“中立的 人間関係”《ニュートラル・ヒューマン・リレイション》の姿勢制御を自らに課することができるのも、他人のメンタリティを仕事の場にもちこまないからであろう。つまり、糸川の盲点は「組織工学」では美点になりうる。いや、現代社会の性格は人間の才能や感覚を物的視するところまで来ているように思う。十年まえまでは、「品質管理」という言葉は、部品や主成分のバラツキをなくすための、いわば均質化への作業であった。それが現在では、組織にいる人間の能力をも|捉《とら》えている。「仕事はできるが酒飲みだ」は、能力の系列では異常値と|見做《みな》され、「酒飲みだが仕事はできる」が管理されるべき品質として登録されるのだ。こんな世の中である。お互いに気をつけたい。
しかも、糸川の“秀才ぶり”は、才能の|偏《かたよ》りという現象を伴わない。彼は十五分間で答案を提出すると、校庭に出てバレーボールの球を追いまわしたり、柔道をやったりしている。桶谷によると、この“余力あるトップ”は、暁星中学の同級生の吉田健一にも見られた現象で、この点は糸川と吉田とはそっくりだという。私は、糸川英夫の“自己改造”に三島由紀夫の姿を見る思いがしたが、秀才にはどこかに共通点があるものだ。世間で「あいつは変ったヤツだ」といわれる手合いには、したがってほんとうの秀才はいないかもしれない。
この“余力あるトップ”を別の評価にいい直すこともできる。糸川は「性格の帯域幅がひろい」という批評がある。
旧型の電話機は、どんな声でも同じようにきこえる。一様に|きんきん《ヽヽヽヽ》して音声に幅がない。現在の六〇〇型は、ほとんど肉声同様にきこえる。収容しうる音波の帯域幅がひろいのである。
糸川が「帯域幅のひろい性格」といわれるのは、総理大臣から待合の仲居にいたるまで、どんな経歴・職業・気質の人間とも話をあわせることができるからである。
これは、彼の頭脳が情報の選択に対して訓練されているためで、外側からの刺激に対して、同調の座標をすぐえられるからだ。彼は、数学・物理・化学については天才的な頭脳を持っているそうだ。こんな話がある。
糸川家の長男と次男は、小学校から大学を卒業するまで、同じ八畳の部屋に寝起きしていたが、その十七年間というもの、弟の英夫はただの一度も兄の一郎に勉強を教わったことがなかった。いつも、ひとりで問題を解決しているのだ。この均衡が破れたのは、一郎が大学の三年、英夫が一年のときである。破ったのは兄の方で、彼は卒業試験をひかえて|函数《かんすう》の勉強をしていたが、三日かかっても解けない問題にぶつかった。そこで弟に「おまえならどうする」と持ちかけたところ、英夫は一時間ばかりでスラスラと解いてしまい、一郎を落胆させたというのである。
“無類の弁士”
彼は「組織工学」に熱中する反面、まえにものべたように、音楽をひどく愛している。一般には、音楽はリラックスするための道具と理解されがちだが、じつはそうではない。糸川の中では、音楽は“時間の函数”であり、組織工学の別の表現になっているのだ。
この「帯域幅のひろい性格」は、おそらく“システム人間”にとって不可欠の資格であろう。情報の合成に必要なことは、まず最初に情報に対する感度の良さである。良い感度でとらえられた情報は、いくらでも増幅できるし、あるいは変調することもできる。
糸川が“無類の弁士”といわれるゆえんも、“システム人間”の能力の別の表現にほかならない。
太平洋戦争の「|作 戦 計 画《オペレーシヨンズ・リサーチ》」を語る人間が、十人のうち十人まで、ものすごい|饒舌《じようぜつ》家になるのは、海洋作戦の中にふくまれるシステム工学が彼を饒舌にするのである。海洋作戦には風向・風速・潮流・彼我の火力・速力・兵員の練度・航空機の能力・補給力など、あらゆる情報の収集・解析・合成が必要なので、それを語ってゆくうちに口数が多くなってしまうのだ。
糸川はアメリカから帰朝する|匆々《そうそう》、ロケットに関する講演会にひっぱり出された。弟の講演など滅多にきいたことのない兄だったが、ロケットに新鮮な興味を感じていたので、聞きに出かけた。その会場で彼はワキの下にひや汗をかいた。
弟は講演をはじめるなり、「ロケットについてはアメリカの国防省の機密に属することなので、こういう場所では話せません」と切り出したのだ。聴衆はロケットの話をききにきている。しかも演者が糸川博士だからである。ところが本人は「話せません」とやってのけた。しかし、彼はそうことわっておいてから、アメリカ人の合理主義について語り出した。車|椅子《いす》で生活している人が、屋根の上で鳴く猫を追い払う工夫をした。屋根屋にたのんでスプリンクラーをとりつけてもらい、その発射装置を家の中にひきこんで机の上にセットした。猫が鳴く、ボタンを押す、スプリンクラーから水が噴き出す……われわれ日本人も、もっと生活を合理化しなければいけない。糸川博士は、小さな物語をたくみに結びつけて、二時間にわたる講演を終えたという。
彼がロケットを始めたとき、周囲の学者がもっとも目を見張ったのは、国の予算をすいすいとひき出したことである。最初は六十万円の研究費だったが、最後は三十四億円に達している。ぜんぶで百二十億円からの“官費”がつぎこまれたわけだ。名うての大蔵省も彼の“弁舌”のまえには抗し切れなかったのである。もっとも、大蔵省の秀才は論理の整合性だけを求めるものだから、糸川にしてみれば|自家薬籠中《じかやくろうちゆう》のものであったろう。
糸川は明治四十五年七月二十日、東京の青山に生まれている。明治四十五年は七月二十九日までだから、彼は九日間だけの“明治生まれ”である。このことはあまり意味はなく、むしろ同年の一九一二年にドイツでフォン・ブラウンが生まれていることに意味がある。フォン・ブラウンは戦争末期イギリス国民を恐怖のどん底におとしいれた、V2号というロケット弾の発明者だ。戦後アメリカにわたり、航空宇宙局のサターン計画を指導して、ミサイルから人工衛星にまで発展させた。糸川が“日本のフォン・ブラウン”と呼ばれているゆえんである。
ところで、このフォン・ブラウン、組織工学の神様のようにいわれているが、一方では「アクのつよいイヤ味な男」という批評がある。糸川にも同じような批評がある。彼をほめる人は「行動力のある人物」として高い評価を与えるが、ケナす方は「唯我独尊で|腐儒《ふじゆ》に近い」とぼろくそにいう。考えてみれば、これはメダルの表裏みたいなもので、ひとつの性格が価値尺度によって正反対の評価をうけることは、けっして珍しくはない。
彼は「組織工学」のリーダーである。いかなる人間関係からも等距離に立ち、情報をいち早くキャッチして、これを合成する役割を担っている。が、彼は合成しただけではおさまらない。これを実現する方向にもってゆく。このとき、彼のパーソナリティが発揮されるのだ。情報の合成作業は、それに当る人物の無機化を意味するものではない。むしろその作業の中に人格が最もつよくあらわれるものである。
思うがまま翼を作る男
彼は昭和十年に東大航空学科を出ると、すぐ中島飛行機に入社した。彼が航空学科をえらんだのは、飛行機がシステムの固まりという認識があったからではなさそうだ。むしろ、もっと痛烈な理由からである。
ある日、兄の一郎のところにきて、「東大でいちばん入試のむずかしいところはどこですか」と聞いた。
「そりゃおまえ、航空学科だよ。九人しか入れないし、毎年、各高等学校のナンバーワンがやってくるんだ」
一郎がいうと英夫はすかさず、「そこだ。そこにしよう」といった。
「もし、落っこちても兄さんとは二年の差しかできないからな」
その年、彼は一番で入学している。将来の志望を「いちばんむずかしいところ」できめる性格は、なんとも説明のしようがない。彼は、後年、会社から顧問のあっせんをうけると、「私がなってあげましょう。学問には専門なんてありゃしませんよ」といったそうだが、大学入試のときすでに「基礎さえあればなんでもこなせる」という自信を身につけていたのだろう。
中島飛行機に入ったのは、糸川によると「人間関係の中で|揉《も》まれてみようと思ったからだ」という。
ここで彼は翼の空気抵抗を研究し、NN―4型(最初のNはニッポン、つぎのNは中島)を開発して、社内で「思うがままに翼をつくれる男」の異名をとった。さらに彼の名を高くしたのは、フラップ(下げ翼)の研究である。いままでのフラワー型を改めて|蝶型《ちようがた》フラップを開発したところ、これが飛行機の離陸性能と高度飛行性能の背反性を解消し、さらに空中戦闘の際の機能性をぐんと高めた。横転や宙返りをやると、クルリクルリと小まわりにまわって、敵が照準をつけにくくなる。これは、|隼《はやぶさ》が出るまえの主力戦闘機であった「九七戦」にとりつけられ、昭和十四年のノモンハン事件では“ノモンハンの|荒鷲《あらわし》 ”と異名をとらせた。
昭和十六年東大にかえって助教授。こんどは「社会の小うるさい人間関係にイヤ気がさしたからだ」という。かたわら旅順工大の講師などをやっているうちに終戦。日本は翼をもがれた形になる。
戦争用に新設された第二工学部はのちに生産技術研究所になったが、糸川はそこの教授となって、音響学の講座をひらく。
ここで彼は一丁のバイオリンを製作している。彼自身が正式に師匠についてセロを弾けるので、耳と波動学とを結びあわせたものだろう。だいぶ自信があったらしい。あるとき、桶谷のところに電話をかけて「諏訪根自子さんを紹介してくれ」とたのみこんだ。
「諏訪さんと会ってどうする」
「じつはバイオリンをつくったが、諏訪さんのストラディバリウスと同じ条件のところで演奏して、それを録音にとり、僕のとくらべてみたい」
この申入れは、諏訪根自子が気味悪がって応じなかったため、実現しなかったが、糸川はおそらくストラディバリウスの音波を数値化して、その域に迫ろうとしたのであろう。
十年ごとテーマを変える
バイオリンから脳波計にうつる。同じく波動計学の分野だからたいして不思議はないが、アメリカで流行の|兆《きざし》をみせたものをパッとつかむタイミングが早い。航空学者の佐貫亦男(日大教授)は、「あの人は技術の結び目をひろい上げるのがじつにうまい」と感心しているが、適評であろう。脳波計から「鉄の肺」に移ったところで、こんどはロケットだ。このとき医者から「鉄の肺の研究を続行してくれるように」とのつよい要望があったが、糸川は「アメリカではすでに人工肺にとりかかっているのを見て、これ以上やることはない」と思い、やめたという。
飛行機からバイオリンへ。バイオリンから脳波計へ。そしてロケットという変化は、兄の一郎によれば「他人と争わぬ分野を探したから」となるが、桶谷繁雄によれば「専門からハミ出した不飽和の分野にとびついて形をあたえる学者」の作業となる。
生産技研にいた頃、彼に“|巾着《きんちやく》切り”という|綽名《あだな》をつけた学者がいた。研究のことを何気なく話していると、いつのまにか糸川はそれを自分のものとしてしまう、アイディアを|頂戴《ちようだい》するというのである。専門外の不飽和の分野を飽和させるためには添加剤が必要で、それがこの綽名となったらしい。
もっとも、彼はこの変化をもっと簡単に割り切って「私は十年ごとにテーマを変えることにしている」という。なぜ十年かというと「五年で|研究《リサーチ》、五年で|生活《ライフ》、それがすぎればつぎの発見にむかう喜びにひたりたいから」である。航空機はたしかに昭和十年に始めて二十年におわっているから正味十年になるが、これは敗戦という外側の事情によるものではないのか。これを問い|質《ただ》すと、彼は「いや、終戦のときは自動車工業をやろうと思っていた」という。ロケットも昭和三十年に始めて、宇宙航空研究所を辞任したのが四十二年だから、十年説が間のびしてしまうが、糸川は「十年目にあたる昭和四十年に辞表を出したが、いまやめられては困ると慰留された」と語っている。現実的には十年ではなくても、彼の中では十年になっているのである。
さて、糸川が生産技術研究所でロケットをはじめたとき、東大は航空研究所の看板を理工学研究所にぬりかえ、さらにここに生産技研を合流して「宇宙航空研究所」とした。これは茅誠司が学長のときに実現したものだが、この原動力となったのは糸川だったといわれている。真偽の程はたしかではないが、ロケット学者が航空学者といっしょになろうというのは当然であろう。
ところが、この合併のとき、ひと|悶着《もんちやく》あった。両者が顔をあわせたとき、谷理工学研究所長が「われわれは君たちを心地よく迎え入れることにしました」と|挨拶《あいさつ》した。宇宙航研が出来ると、航空10に対してロケット1くらいの割合になる。俗にいえば、航空が母屋でロケットは物置きくらいの気持であろう。これに対して、糸川はやにわに反論した。
「なにをいっているんですか。われわれは、あなた方をわれわれの研究の三分の一にとり入れてあげようというんですよ。すこしお言葉がちがいやしませんか」
このとき居合わせた茅学長は両者の|角逐《かくちく》を知らん顔で聞いていたそうだが、いざフタをあけてみると、糸川のロケット一家はすごい勢いで成長し、航空側にしてみれば「ヒサシを貸して母屋をとられたような恰好」になった。こうなると航空側の|反撥《はんぱつ》はますますつよくなる。しかも、糸川のロケット研究は、文部省・東大というラインで進められ、科学技術庁が置き去りにされた恰好である。これも周囲の抵抗をつよめる原因になる。
リーダーとしての宿命
私はここで、糸川英夫自身がロケットになったような感じがしてならない。糸川は“システム人間”である。複雑な心理的メカニズムをもっている。いかなる刺激にも同調しうる。いや、もっと彼をロケットらしく思わせるのは、空気抵抗があったときの姿である。
新羅一郎(明大教授)によると、ロケットの設計でいちばんむずかしいところは、空気中を飛んでいるときの一分間前後におきる問題だという。ここを乗りこえれば、あとは誘導の問題になる。
糸川は最初、ロケットの相談を新山春雄に持ちこんだ。新山は当時富士精密(旧中島飛行機)の専務だったが、糸川とは別にアメリカの航空業界を視察して、「ロケット時代到来」の感をふかくしている。
糸川と新山は中川良一に「やらないか」ともちかけた。中川は日産常務で、中島時代の後輩である。これに戸田侍従の弟の戸田康明(現・日産ロケット部長)を加えた。糸川がペンシル・ロケットを提案し、戸田が実際の図面をひいた。火薬は日本油脂の村田技術部長(現・社長)にたのんだ。かくて、国分寺の元射場でペンシル・ロケットの水平発射が行なわれた。この実験は何百本と行なわれ、重心の移動やハネの|角度《ピツチ》が数値化された。
ロケットが成長して電気部門が必要となると、グループは明星電気を訪れ、高間繁社長に協力方を懇願した。高間は福田赳夫の後援者で、のちに東大宇宙研と科学技術庁が対立したとき、科学技術庁長官だった三木武夫を説得する大役を果している。
この経過を見てもわかるように、糸川は出発の当初から、三菱・東芝・旭化成などの大どころと交渉することを避けている。東芝は電気部門を、旭化成は火薬を頼まれたとき、ニベもなくことわったそうだが、新山は「それよりも糸川君は自分の思いどおりにやれる会社をえらんだのだ」といっている。
つまり、糸川ロケットは空気抵抗の少ないところをえらんで進発したのだ。だが、ロケットが大きくなるのと同様に、糸川号も大きな空気抵抗を受けはじめる。空気との摩擦熱も生じる。
誘導装置のないロケット
日本のロケットには最初から誘導制御装置はついていなかった。実験観測用として出発したために、正確な軌道を描かなくてもよいとの考え方からである。ところが、実験の中途でアメリカやソ連がポンポンと人工衛星を打ちあげはじめた。そこで日本も「日の丸衛星をあげたら」という声が出た。アメリカやソ連の衛星は、ICBMから開発された誘導制御装置がついている。これを無視して、日本が人工衛星をあげることは、むしろナンセンスに近いのだ。ところが、糸川は「やがて人工衛星だ」といった。彼自身が「あがらないこと」をいちばんよく知っていたはずである。このため、学者の間から「日の丸衛星は予算要求衛星だ」との声が出た。しかし、糸川はその衝に当らざるをえなかった。なぜなら彼は「組織工学」のリーダーであり、先見性と行動力を存在理由としていたからである。
日本のロケットに誘導制御装置がついていなかったように、糸川という“システム人間”にもそれに似た装置がなかった。
バーナード・ショウの警句に「教えるものは行なうべからず、行なうものは教えるべからず」というのがある。世界きっての名バレリーナであるマーゴット・フォンテンにもプリセツカヤにも、|稽古場《けいこば》には|教師《テユーター》が存在する。教えるものと行なうものとが未分離なのは日本だけである。その代表が家元制度だ。この制度がおかしいのは、封建的な雰囲気をもっているからではなく、芸術家と呼ばれる人が先生を兼ねているからである。糸川の立場もこれに似ていた。学者であると同時に実行家だった。彼が両方を兼ねたのは、「組織工学」のリーダーとしての宿命であるかもしれないし、彼自身の自己完結度のすさまじさであるかもしれない。いや、別の見方をすれば、日本には投手のなり手ばかりいて、捕手になろうという人種が少ないためかもしれない。しかし、考えてみれば、糸川博士に妙な誘導装置がついて、この|類《たぐ》いまれな“システム人間”がおかしな方向に飛び出す方が、われわれ鈍才にとっては脅威であろう。
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“空間の魔術師”・丹下健三

“現場”は外国
外国の都市でめずらしい建物を見た海外旅行者が、カメラに収めて得々と帰国したところ、建物の設計者が|丹下健三《たんげけんぞう》であったという風景がしばしばおこりそうな勢いである。
このところ、丹下の“現場”はほとんど海外になっている。
ユーゴスラビアのスコピエとイタリアのボローニャの都市開発、今年の春からサンフランシスコの|下町《ダウンタウン》の開発がはじまった。ボローニャの場合は、共産党市長と建築担当の|枢機卿《すうきけい》がいっしょに頼んできたというからおもしろい。
サンフランシスコの開発は、日本でいうと“東銀座”にあたるような繁華街の一角で、幅百二十メートル、奥行二百五十メートルの地帯をそっくりそのまま作りかえようというのである。アメリカ人に「北米の中で最も魅力のある町はどこか」というアンケートを出したところ、回答者の四〇パーセントがサンフランシスコと答えたそうで、それだけにこの都市の開発には都市工学のエース、ジャスティン・ハーマンが|采配《さいはい》をふるい、各国から一流の都市設計家をあつめているそうだ。
しまい込まれた東京計画
丹下のほかにも、岡田謙三や流政之のように“国内相場”よりも“海外相場”の方がズバ抜けて高い日本人はかなりいるが、丹下の場合はその作品(建物・都市設計)が一枚のタブローや一個の彫刻とちがって、その国に住む人間の生活感情までとらえてしまう点に大きな意味がある。
浅田孝(環境開発センター社長)がいうように、「建築は社会に働きかけて百年も百五十年も影響してゆくというドラマツルギー(作劇術)を持つ」もので、この観念が建築家の仕事の衝動となっていることは否定しえない。丹下健三がボローニャやサンフランシスコの開発に挑戦するのも、自分の作品が地域の住民になにを問いかけるかという衝動のゆえであろう。
とすると、過密都市と下手クソな“ニュータウン”づくりに悩む日本に丹下健三は“現場”を見つけてよいはずであり、また日本も彼に開発プランをたずねてしかるべきことと思われる。
丹下が「東京開発計画」を立案したのは、一九六〇年のことである。彼の案は、ヒトデのような|恰好《かつこう》(求心型放射状システム)になった東京を、神経系統のような姿(線型平行射状)にあらためることを骨子とし、この考えを具体化すると、東京湾上に“海上都市”を出現させるという壮麗なものになるのであった。
この時点では、丹下案のほかに「加納久朗案」をはじめ、学者・政治家・財界人・文化人などから五十を上回る「改造プラン」が出そろっている。しかし、これらの名案・珍案も丹下案と同様にどこかにしまわれてしまったのだ。人類学者の泉靖一によれば「文明の母胎である都市が無計画につくられ、都市政策がつねに既成事実のあとを追っかけ、ただの一度も理論が事実よりも先んずることがなかった」のが、東京都であった。いや、東京都というより、日本の為政者の都市に対する考え方であったといったほうがいい。
挑戦的オプティミスト
丹下がこのような“思考風土”にいささかうんざりしているかどうかは明らかではない。また、うんざりしてもそれを軽々しく口にするような人物でもない。後にのべるように、丹下の性格には黒川紀章が「あの人はミケルアンジェロに似ている」と指摘したような、直観的・情熱的・ダイナミズムが|横溢《おういつ》しているが、彼はまたそれを制御してゆく意志力もきわめてつよいのだ。これは、彼が個人の住宅よりも、公共建築を手がけてきた仕事歴が形づくったものと思われる。
とにかく、丹下の日本の都市開発に対する挑戦は役所のロッカーの中に閉じこめられた。そして、つぎの挑戦をおこす機運がくるまえに、外国から“注文”が引き続いたわけである。
丹下の海外相場が高値をつけている理由を、イサム・ノグチは「日本美を外国人にわかりやすい面で表現しながら、なおかつ、未来を告げる新しさを語っているからだ」と評価している。たしかに、丹下の作品には日本そのもの・東洋そのものを丸出しにしたものは絶えてない。経営がうまくいった神社や寺院がコンクリートでそっくりかえった屋根をつくるような擬古主義は、彼が最もきらいな様式なのである。
川添登にしたがえば、建築家としてデビューしたとき、「いうならば、ヨーロッパの近代建築に日本の伝統をあてはめるのではなく、日本の伝統建築を近代化してゆくという方向に、彼の戦略態勢がとられていた」のである。
しかし、イサム・ノグチがいうような“様式美”だけでは丹下の海外相場はきまらないであろう。そのほかに、外国のプランナーが丹下の様式に|垂涎《すいぜん》を催しかかる|なにか《ヽヽヽ》があるはずだ。
その|なにか《ヽヽヽ》をイサム・ノグチは「丹下さんのオプティミズム(楽天主義)が外国人を勇気づけている」という。
アメリカ大使館のパーティでノグチが、日本の山河が破壊され、自然が失われてゆくことを話題にした。
「生態学的にみても、今日のような自然破壊はよくないようですね」
ノグチが憂わしげにいうと、丹下はきっぱりと|遮《さえぎ》った。
「いや、自然というのはどうにかできるものですよ。心配なさらないで結構」
このときノグチは「丹下さんは心臓がつよいね」と思ったそうだ。
「この人間の生存に対する自信、明るく楽天的な考え、これが世界の人々を勇気づけ、不安や苦悩を吹き払ってくれるのではないか」
説明するまでもないが、イサム・ノグチがつかっている「オプティミズム」は、日本的感覚における“手放しのノンキさ”とか“バラ色の|憧憬《しようけい》”とかいう意味ではない。積極的・挑戦的という言葉が必要なほど強い“主観”をいっている。
私は、ノグチが丹下を「オプティミストだ」と評したとき、途端にバックミンスター・フラーのことを思い出した。フラーは、建築家・発明家・哲学者として有名だが、それよりも自らを「地球という名の宇宙船の乗客」と考え、大量生産できる「住宅機械」や水中都市・空中都市など、いわゆる“未来産業”のチャンピオンとして脚光をあびている。その語るところはきわめて積極的であり、考えのひろがるところはきわめて楽天的である。
「環境保護論者たちは、環境を汚染する産業化をこれ以上進めることはできないといっているが、これはもっともナンセンスだ。汚染は、われわれが収穫していない資源以外の何物でもない。われわれは汚染という資源の価値を知らないがために、それを拡散させているのだ。しかし、もしわれわれがプランニングの段階に進むならば、政府は煙突や吐き出し口にたまる汚染物を集めて、その中から化学物質を抽出することによって、汚染物の回収にかかる費用以上のカネを取り戻すことができよう」
以上は、アメリカ大使館が編集している「21世紀からの眺望」に掲載された「バックミンスター・フラー論」の一部であるが、汚染を産業の必然悪とみずに“新たな物質”ととらえる意識は、技術と人間の知能への信頼以外の何物でもない。
丹下がノグチに「心臓だね」と思わせるような発言を日本の環境破壊についてしたとすれば、彼は都市設計というシステム思考を、日本列島の上にまで拡大していたのではないであろうか。
建築というより彫刻
黒川紀章は丹下の作品を批評して「巨大さ、偉大さ、原理性、論理性」とし、この面での完結度が高ければ高いほど、「丹下氏の建物はひとを|育《はぐく》んで、ひとの暮しがそこから始まるような空間を感じさせない」と結んでいる。
後者の「ひとを育む」というテーマは、現代の都市工学が直面している課題で、これは後で触れるが、黒川の指摘した丹下作品における「原理性・論理性」は、丹下健三という建築家の“原理”と“論理”を物語っているように思われる。
一般的にいって、コンクリート建築にはどこかに設計者の“逃げ”や“泣かせた”ところがあり、設計の当事者はその前を|面《おもて》を伏せて通るものだそうだ。が、丹下の建造物にはおよそそういう個所がなく、どこから見ても|完璧《かんぺき》だという。コルビュジエは、かつて「私は建築家といわれるのを好まない、なぜなら私は芸術家だからだ」と語ったが、イサム・ノグチはその言葉を|憶《おも》い出して「丹下氏の建造物はむしろ彫刻である」といったことがある。
いいかえれば、丹下の建造物はそれ自体の完成度が高くて、周囲の風景との親和を必要としないということであろう。
広島の児童図書館をつくったとき、丹下は放射状構造にするのはおもしろくないと、逆三角形の朝顔型にして周囲をガラス張りにした。これだと部屋は明るくなるし、外側の見映えもよい。そのかわり晴天の日にはガラスが熱をとおして部屋の温度があがる。そこで、丹下の弟子でもあり協働者でもあった沖種郎が周囲に樹木を植えて、直射光をさえぎると同時に、樹木という生きた構造物と図書館との親和をはかろうとした。しかし、丹下は断固として樹木の予算を計上するのを拒んだ。せっかくの構造物をそのまま現出することができないというのである。
このエピソードを発展させて考えれば、丹下は自分の建造物の完成度を主張させるためには、周囲の地形の起伏や道路のありようまでを設計しなければならなくなる。それも樹木のような生きた構造物では困るので、すべて建築技術から生まれたものでなくてはいけないのだろう。
丹下自身の家がそうだった。世に“成城御殿”とよばれた高床式|檜《ひのき》造りのこの家の周囲には大きな|欅《けやき》の木が一本あるだけで、あとは|坦々《たんたん》たる芝生であった。余談になるが、樹木がないうえに高床式のガラス張りになっているので、家人は足の裏をいつも通行人に見られているような気分になり、落着かなかったという。また、丹下自身も、朝早くから光が射しこんでくるため、スリーピング・マスクをかける習慣がついたそうだ。
このような、建造物それ自体に主張させるという思想は、丹下の建築家としての自己形成と同心円的にできあがったと思われてならない。
東大受験に二度失敗
彼は愛媛県立|今治《いまばり》中学の四年生から広島高等学校の理科甲類に進んでいる。いわゆる“四修”の秀才だが、東大の建築学科に入るときは二年浪人を味わっている。建築学科がむずかしすぎたためではなく、彼が受験勉強を怠けたからである。一浪のとき、東大のほかに東北大学の建築学科も受けたが、ここは二十人の定員に対して二十二人の受験者であったにもかかわらず、丹下は落ちた二人の中に入る始末だった。彼自身の話によると、哲学書や技術書ばかり読んでいて、受験勉強はほとんどしなかったらしい。二浪のときも年の暮まで勉強せず、母親が郷里に連れ戻してくれたのでやっとその気になり、二カ月ほど勉強して入学できたそうだ。
丹下がこのような“哲学青年”になったのは、広高のドイツ語教師であった長島喜三(日比谷会館取締役)の影響によるものらしい。
長島は西田幾多郎門下で、高等学校では論理学とドイツ語を受け持ったが、じつは授業そっちのけで、バウハウスの『建築美学』やプドフキンの『フィルムレギー』を講義したり、トーマス・マンの心象世界を解説したりして、はなはだ熱っぽい高校生活を送らせたものである。このため丹下たちは広島の喫茶店を根城にして、トーマス・マンからニイチェ、ドストエフスキーへと議論を発展させ、ミッション・スクールの女生徒の憧憬の的となっていたようだ。折から一九三〇年初頭の、モダニズム思想の|揺籃《ようらん》期である。時代そのものが一種の熱病期にあったともいえるだろう。
丹下は高校一年のときは五番であったが、卒業期にはビリに近い成績になっている。それでも東大をえらんだのは、当時の建築学科の主任教授であった岸田日出刀の著書を読んで、つよく|憧《あこが》れたからだという。もっとも、彼があくまで建築家たらんとしたかどうかは疑問である。
ただ一人、背広の小学生
上京して浪人生活を送っているとき、彼は“徴兵のがれ”に日大芸術学部の映画科に籍をおいている。もし、二浪後も東大に入学できなければ、彼は「映画監督になるつもりであった」と友人に打ち明けている。事実がそうなれば、折から黒沢明が日大芸術学部に在学中だ、いまごろは日本の映画界を二分していたかもしれない。
彼が映画監督の道をえらんだのも、あながち“徴兵のがれ”ばかりではなく、造型の世界に対する情熱があったからであろう。つまり、丹下健三は建築家になるまえから造型への熱度をあげていたといえるのだ。
東大に入ったとき、丹下は恩師の長島に合格した旨の電報を打っている。長島はすぐさま「同じやるならコルビュジエ以上になりたまえ、世界の歴史の流れをつくりたまえ」と返電を打ったが、丹下は早くもミケルアンジェロとコルビュジエに心酔し、下宿の部屋にこの|稀代《きだい》の建築家の写真を飾って、「コルビュジエに負けてたまるか」と叫んでいたという。
東大時代の彼の写真を見ると、髪を長くしてリーゼントスタイルにまとめ、長目のオーバーを着て、見るからに|瀟洒《しようしや》なナリをしている。友人の話によると、四谷の木造アパートにサトウハチローと隣りあわせに住んでいたが、その当時からワイシャツを三十枚ちかく持っていたというから、そうとうなオシャレである。
これは彼の生家が今治の素封家で、父親が今治商業銀行(現・伊豫銀行)の常務をしていたため、裕福なうえに都会風の生活を送ったからであろう。小学校の同級生であった徳永正三(三座建築事務所代表取締役)は「われわれは|紺《こん》ガスリの着物にハカマをはいて通学したが、丹下君は紺サージの背広と半ズボンで革の|編上靴《あみあげぐつ》をはいていた」と、丹下の少年期を語っている。このエピソードは、地方の小学校に紛れこんだ少年の面影をつたえるだけではない。その少年が、周囲との違和感にたえながら、なおかつ、整ったものを保ってゆこうとする精神的緊張感を身につけたことまで語っているのではないか。
この緊張感が高等学校における知的モダニズムによって増幅され、東大に入って岸田日出刀とめぐりあうことにより、彼の精神的態度を形成したと思う。
岸田は東大教授の中でもズバぬけたスタイリストで、たとえばどれほどすすめられても野球だけはやらなかった。その理由が「衆人環視の中で三振するのはイヤだよ」というにある。一種の見栄っ張りにはちがいないが、もうすこし言葉を固めていうと、これは「|自《みずか》らに|醒《さ》めた態度」といえるのではないか。
丹下が、この憧れの恩師の精神的態度を|なぞって《ヽヽヽヽ》いったとしても不思議ではない。
彼の一年上に詩人の立原道造がいる。立原は肺結核のため二十六歳で亡くなったが、見舞客に「五月の風をゼリーにして持ってきて下さい」とたのむような繊細さで、大学の卒業論文も「浅間|山麓《さんろく》の芸術家コロニー」という夢のような設計を描き、そのコロニーの中に住む自分の家を「ヒヤシンス・ハウス」と名づけている。
神保光太郎は立原を“夢みる建築技師”と名づけたが、一年後輩の丹下健三は“ミケルアンジェロを夢みる技師”であった。当時の建築学科には「|木《こ》っ|葉《ぱ》」という同人雑誌があったが、丹下は大学院に入ってからこれを友人と「建築」と改題し、そこに「ミケルアンジェロ|頌《しよう》」を掲載してもいる。
ミケルアンジェロは築城から彫刻までを手がけた、一種の狂気に近い天才で、群衆が彼のつくったダビデ像の鼻が高すぎると笑ったところ、ハンマーでその鼻を欠いたという有名な話がある。大衆的な理解の範囲で、自分の芸術を成立させまいとするエネルギーを物語っていよう。
同期生の話によると、丹下が大学で書いた意匠は構造計算にはのらないような奔放なもので、あきらかにこれまでの意匠の系譜とは異質なものを光らせていたという。岸田日出刀もこの点を買い、「丹下君のは細かいフィーリングはないが、大筋をつかむことは抜群である」と認めていた。
塚原昇(寿商店常務)は、当時の丹下は日本の伝統文化にひそむ“わび”とか“さび”を否定し、その創造的破壊を敢行することによって、日本美の近代的|蘇生《そせい》を|狙《ねら》っていたと語っている。
もっとも、このような大胆な挑戦者が東大工学部の正規のレベルに残ることはむずかしかった。塚原によると、丹下は例によって哲学書や歴史書ばかり読んでいたので、みずからも卒業をあきらめて落第を志願したが、新年度の入学者の数がすくなくなるという大学側の理由で、むりやりに“卒業”させられたという。
そこで丹下は、大成建設の入社試験を受けたが、一発で振り落されている。といって浪人していると徴兵にかかるので、彼は前川国男の設計事務所にもぐりこんだ。ここでは正式採用というより“下働き”のような扱いであったが、彼のミケルアンジェロ的行動はこの事務所でようやく技術者としての規格に組みこまれ、たちまち“プロ”として頭角をあらわすに至る。
棲み馴れない自邸
彼が最初に名をあげたのは、岸記念体育館の設計である。当時、岸田日出刀はこの体育館の顧問をしていたので、設計コンペティション(競争)には審査員であると同時に“注文主”の目で眺めていた。そこへ丹下の作品が出たわけで、岸田はすぐに彼の設計を採用し、さらに前川事務所から大学院に呼び戻した。このときから、丹下健三の“大学生活”が始まるのである。丹下は岸田の許で助教授になり、さらに教授に昇進して今日におよんでいるが、東大にあることすでに三十年になる。
もっとも、世間の方では丹下健三を“大学の先生”よりも、“奇妙な建物”の設計者として記憶しているのではないかと思う。
東京オリンピックのときにできた室内競技場といい、目白にあるカソリック教会といい、三角や四角の建造物ばかり見てきた日本人には、魔術師の仕事としか映らないような|恰好《かつこう》をしている。
しかし、これらの建物は“丹下哲学”といえるものに支えられているのだ。彼の論文のひとつに「美しいものは機能的である」という文章がある。これまでの概念では、「機能的なものは美しい」であり、これは|柳宗悦《やなぎむねよし》をリーダーとする民芸運動の一派によってさまざまに立証されている。われわれの周囲を見まわしても、使い勝手のよいものほど美しい形をしているものだ。が、丹下のは逆に「美しいものは機能的」なのである。丹下にその真意を|質《ただ》すと、一時、建築界に機能主義が流行し、それが|瑣末《さまつ》な技術万能に落ち入ったので、建造物が人間にあたえる感動を強調するのが狙いで、あの論文を書いたという。が、彼の真意は、もうすこし深く彼の精神的潔癖性からきているように思われる。
つまり、彼の内部にはミケルアンジェロとコルビュジエが同居し、この二つの性格がつねに優位を主張して抗争を続けているのだ。ミケルアンジェロは「私の身体を切れば絵具色をした血が流れるであろう」と豪語していたが、丹下にも意匠家としての強い自負がつらぬいている。
話をわかりやすくすれば、彼はおよそ個人の住宅を建てたことがない。せいぜい自分の家くらいであるが、これにすら|棲《す》み|馴《な》れることができず、アパートに逃げこんでいる。前にも紹介したように、丹下邸はガラス張りのため朝が早くくるし、女中部屋をつくらなかったので女中さんが押入れの中で寝るという、妙な欠陥を持っていたのだ。これは丹下自身が、いかにいやいやながら作ったかを物語るものであろう。いいかえれば、彼には|帰巣《きそう》本能が趣味としてもないのではないか。家庭は休息と|団欒《だんらん》の場であるが、彼はその世界を完全に構築することに、自分自身の停滞を感じているのではないか。
丹下健三は、つねに自己否定の作家である。ひとつの作品を手がかり、ないし足場にして、つぎの作品をつくるというのではなく、前後の作品が鋭く断絶することによって、彼の作家的使命感は支えられている。丹下の作品を眺めてゆくと、つぎからつぎへと異質の表現があらわれ、そのような非連続の連続が彼の精神的エネルギーを物語っているように見える。
彼ほど、作家としての安らぎと回顧をもたぬものもないであろう。彼はいつも過去を切り捨てている。過去からの離脱のエネルギーと新しいものを追跡するエネルギーとが相乗されるところに、丹下健三の言動の軌跡がうまれる。
あるとき、丹下は寝台車のベッドで|甲《かん》高い|唸《うな》り声をあげ、通路に仁王立ちになったという。何事ならんとカーテンから首を出した乗客は、通路に黒いスリーピング・マスクをかけた男が立ちはだかっているのを見て、女子どもは泣き出すほどのショックを受けたそうだ。このときの同行者は、丹下の頭の中は、新しい仕事に対するプランがいつもいっぱい詰っており、彼はそのため昼といわず夜といわずウナされたのだと語っているが、あの|瀟洒《しようしや》なベストドレッサーからは考えもつかぬエピソードである。しかし、彼の本当のダンディズムは|蝶《ちよう》ネクタイやスーツにあるのではなくて、意匠家としてのそれにある。
設計変更に口惜し涙
彼が「美しいものは機能的である」というのは、彼は自分の建造物を都市的大衆に対応するものとし、その建造物の美しさが大衆に感動を与えることによって、建物も地域社会の意識を獲得しようという方程式から出ている。したがって、丹下健三が都市の大衆との間に架ける伝達の橋は、「美しいということ」それ一本なのだ。彼は、孤独な|美神《ミユーズ》の狩猟者である。
「個人の家を建てるということは、そこに住むひとの好みを聞いてやらねばならないことでしょう。私はそんなことに自分のエネルギーを消費するのがいやなんです」
彼の「個人住宅忌避論」であるが、事実、彼の作品は公共建造物や大きな商業ビルばかりである。
しかし、公共建造物や商業ピルにもオーナーの“好み”が先行するわけで、彼はこれと自分の美学とが衝突すると、|はた《ヽヽ》のひとが|呆《あき》れるほど粘着力を発揮する。
東京都庁を建てたときは、都の役人との折衝が八時間も続いたが、この間、彼は独特のスマイルとクールな話しぶりをかえず、いちども|声高《こわだか》になったり感情的な表現をつかったりしなかったという。彼は自分の美学をつらぬくために自分を制御することにも|長《た》けているのだ。
その丹下健三が設計上のことで男泣きしたことがある。電通の前社長・吉田秀雄が彼の才能にすっかり|惚《ほ》れこみ、新社屋の設計をたのんだ。彼も「己れを知る者のために死ぬ」くらいの勢いでとりかかり、理想的な形を求めるのに一年間を費した。ところが、これがまた新しい試みであったため、工事には慎重に慎重を期したので、建設費が予算をはるかに上回った。その間に吉田秀雄が世を去る。結局は「とにかく予算の範囲内で」ということになり、丹下の理想像は打ち切られた。このとき彼は、|口惜《くや》し涙をポロポロこぼして、設計変更に同意したという。売り出し中の建築家ならとにかく、これは彼が五十五歳のときの話である。ナイーブといおうかすさまじい執念といおうか、とにかく丹下健三の内面にたぎるものを示している。
この“美の追跡者”には、建築の歴史を自分の手で創ってゆくという自負心が高鳴っていることであろう。
われわれが魔術師の仕業かと|見紛《みまご》う、ハイビスカスの花のような形の屋根、海底から拾ってきたお化けヒトデを思わせる構造、これらを実現するために、彼は構造計算にもきびしい要求をする。
“わがまま”の効用
丹下が現出する空間の魔術を支えているのは、坪井善勝(東大名誉教授・東北大教授)である。坪井は構造計算の第一人者であるが「丹下の設計によってどれほど新しい方程式が発見されたかわからない」と、いっている。
事実、丹下の設計は従来の計算方法では実現されない部分が多く、丹下がまた強度が完全に証明されなければ納得しないタチなので、丹下の仕事がおわると坪井の研究室から工学博士が必ずあらわれるという。
「丹下さんの設計は学位論文のタネになる」と坪井は笑っているが、彼の研究室から出た五人の若い工博は、それぞれが開発した方程式をつかって、たとえば円天井をとらえたひとは、これを原子力発電のタンクの天井に応用するなど、技術の外延的拡大をかなりやっている。
坪井によれば、力学計算ばかりやっているとアタマが悪くなるそうだが、丹下のは新しい考え方を触発する要素をふくんでおり、ヘンテコリンな絵ほど新鮮な頭脳をつくるのだという。
この評価は、そのまま「丹下研究室」にもあてはまっておもしろい。
彼の研究室ほど|錚々《そうそう》たる建築家を輩出したところもないであろう。
京都の国際会議場を設計した大谷幸男(現・東大助教授)をはじめ、沖種郎、磯崎新、吉川健、西原清一、阿久井喜孝、黒川紀章といずれも個性的な作家が名を並べている。
坪井は「丹下さんほどわがままで世話のやけるひとも珍しいが、そのわがままが世界の建築界への作品提示となったのだ」と批評しているが、丹下の“わがまま”が、注文主や施工者の習俗的な考えを突破して、|類《たぐ》い稀な空間領域を創出したことは否みえない。この孤独にして|颯爽《さつそう》たる存在に、都市工学を志すものが|惹《ひ》かれるのも無理はないであろう。
丹下健三は岸田日出刀の|愛《まな》弟子であった。岸田は、丹下に嫁を世話しようとして、彼を軽井沢のホテルに閉じこめ、一日じゅう口説いたほどである。丹下は持ちまえの“粘りづよさ”を発揮して、ついに首をタテにふらなかったが、岸田にはそれがまた根性のある男として好もしく映っている。
賢明あるいは老獪
しかし、丹下は岸田の愛弟子であったと同時に、岸田を頂点とする日本の建築界の“鬼子”でもあった。
戦時中、「大東亜建設記念造営計画」の競争設計があった。丹下は応募して一等に入選した。モデルは伊勢神宮を基本とし、それに京都御所をやや加味したものである。この作品について、審査員の前川国男はつぎのように書いている。
「(前略)鉄筋コンクリートに依る“神社”の計画にあたって“歴史に確認されたる形”をその出発点とし、木造神社建築の母型に|拠《よ》り所を求められたのである。しかも“|聳《そび》え立つ|千木《ちぎ》”も“|太敷《ふとしき》立つ柱”もここには影をひそめ、“|勝男木《かつおぎ》”は天窓に変貌してそこに見られるものは単なる擬古主義ではない。(中略)その対象が神社建築にとられたために今日、日本建築の造形的創造一般にはらむ普遍的な問題の核心もまた、相当見事に外されていることも、われわれは認めざるを得ない。よく申せば作者は賢明であった。悪く申せば作者は|老獪《ろうかい》である」
どうも役人と建築家の文章は読みづらいのが相場だが、この最後の「作者は賢明、悪く申せば老獪」という評言は、だいぶ長い間|流布《るふ》していたらしい。
その翌年、外交官の柳沢健の企画で「日泰文化会館」の懸賞設計が行なわれたが、丹下はまたも一等に入選、二等が前川国男、三等が小・中学校の同級生徳永正三となっている。
丹下はこの作品でも伊勢神宮のもつ原型を探りあて、これを近代建築の明るみの中に構築したのであった。
建築学界には医学界と似たところがあって、師弟関係の密度が濃い。岸田日出刀の仕事は、彼の先生である内田祥三がほとんど拾って与えたものだし、その岸田も丹下に倉敷民芸館、オリンピックの施設、東京都庁をやらせるのに蔭の力になっている。
しかし、丹下はその返答に完璧な建造物を提示してみせたのだ。彼にとっては作品がすべてであり、人間関係は作品を完成するための戦術にすぎない。したがって、丹下の弟子は丹下から仕事をもらったことがないという。つまり、建築学界における師弟の習俗は彼のところで断絶してしまっている。
小さなことをいえば、建築学界の実力者たちは、ほかの世界の実力者とゴルフや小唄の会などを共有し、いわば“四畳半的つきあい”の中で存在を保っているが、丹下にはそういう影が|微塵《みじん》もない。
あるとき坪井が丹下の健康を心配して、ゴルフ道具一式を贈り、戸塚のカントリークラブのメンバーにしたが、丹下はそこに一度も足をむけず、彼の道具はロッカーの中に入ったままだという。
彼の唯一のレジャーは、親友の塚原昇と銀座のしょうもないバーを飲みあるくことで、あるときはゆきつけの|鮨屋《すしや》に顔見知りの花売り婆さんを連れていったという。丹下にしてみればサバけたつもりかもしれないが、なんとも不器用な遊びである。彼には、花売り婆さんの|憩《いこ》いが銀座の高級鮨屋にはないことがわからないのであろう。
昭和の初期にモダニズムの洗礼をうけたインテリゲンチャが、西欧的世界へ自らを介入させることによって、日本の隠微な風土から強引に離陸しようとする風景は、ままあることである。その離陸の方向は、日本を脱出して外国に定住するか、丹下のように作品をもって存在圏をつくるか、あるいは革命運動に投ずるかの三方向であろう。
「丹下なかりせば」という質問に対して、多くのひとは、「都市の考え方がこれほど早くでなかったであろう」と答えたが、丹下は日本の建築界の“鬼子”となることによって、彼の周囲にすぐれた才能を発芽させたともいえる。
ブラジリアの教訓
川添登にしたがえば、丹下のスタッフには、参謀は浅田孝、構造に坪井善勝、スタッフのチーフに大谷幸夫がいたほか、「設備に野口哲人、天才的技術者川合健二、現場監督に近代建築運動の若い闘士道明栄次、セメント材料学に川村正明といった協力者を把握していた」となっている。
しかし、丹下が岸田日出刀の“鬼子”であったように、彼の弟子たちも尋常一様のエピゴーネンではない。禅語に「師匠と弟子はカタキ同士」というのがあるが、すぐれた師匠ほど異質の弟子を産むのであろう。そうでなければ、文化は停滞してしまうはずだ。
丹下の弟子には三種類がある。ファン型、知識整理型、造反型である。このうち「知識整理型」というのは、丹下と接していると、建築上の概念の分類や切り捨てがきわめてスムーズにゆくという手合いである。
造反型の典型は、二年まえの大学紛争のときに現われた。丹下の「都市工学研究室」も紛争の拠点になり、頑強にも機動隊に抵抗している。友人の重松敦雄(国際観光旅館連盟副会長)が「丹下君、どうするんだ?」ときくと、丹下健三は「どうしたらいいでしょうね」と|蒼《あお》い顔のしどおしであったという。
しかし、この都市工学研究室の|叛乱《はんらん》は、その母型を十年まえの「CIAM」(国際建築家会議)における叛乱に求めることができる。この叛乱は歴史的権威の破壊を狙ったものだが、その底流にあったものは、「建築技術だけで都市はできるのか、いや、都市をつくってもよいのか」という問いかけであった。
たとえば、ブラジリアという人工都市ができたとき、そこに息づいていたものは、美しいまでの整合性を出現した設計空間ではなくて、その人工都市をつくった人夫たちが勝手に建てて住んだバラックのスラムの方であった。
浅田孝の高弟である田村明(横浜市企画管理部長)は、この人工都市の中に人々がいちばん使いやすい道をひとりでにつけたことに着目し、黒川紀章はバラックのスラムに大感激して帰国している。
苦労する参謀
このような経験が、論理性と整合性を主軸とした都市設計に対して、そこに住む人間の思いとか感性といった、計量化されない価値を評価すべきだという声をおこさせた。運動としては「|ちまた《ヽヽヽ》づくり」の形をとったのである。この視点を延長してゆけば、当然、人間と自然の生態学的な把握が必要になり、丹下健三のオプティミズムとは対立するわけである。
丹下は、かつて弟子の沖種郎に「私は伝達者ですよ」と語ったことがある。建造物という客観的なものに思想性をあたえ、美的均衡の中に昇華させるためには、どのような洞察力が必要であるか。丹下はそれを作品をもって伝達したわけである。
彼は、また坪井に「内部空間がよくできているものは外部空間も美しいものです」と語ってもいる。こういうとき丹下は意匠家と構造家の接点に立っているのだ。
その接点は、意匠の側からも構造の側からも追いつめられるだけ追いつめた極点でできあがる。だから、丹下は「美しいものは機能的である」といいうるのであり、作家としての発想がひとびとを感動させることに自信をもっている。
浅田孝は、こういう丹下を「天才作家」と呼んでいる。
「国内のコンペに応募していたころは、丹下さんの作品は描きあがった途端に一等だ、とわかるものであった」
浅田はこのように評価しながら、「そのかわり、あとが大変だった」とつけ加えている。丹下の作品を抱えて走り出すのは浅田の役割であったが、そのあと役所側と予算の折衝をしたり、材料の打ちあわせをすること一切をひき受けるのである。一例をあげると、都庁の設計では、丹下案どおりに行なうと、都市ガスの使用量が三倍かかることになる。これをどう調整するかが参謀たちの役割なのだ。
天才には自分の思念した世界しか見えないから、このような折衝はできない。しかし、浅田はこの天才に対して、べつの形の協力もしている。
「私は、丹下さんに対して敵対的協力者であったつもりです」というのだが、その真意は、丹下の作家精神を燃焼するだけさせて、そのうえで虚飾を指摘したり都市の民衆に対する考え方に意見を出すということであった。すると、丹下は猛烈に怒るが、その怒りを表面に出さずに内側に集積してゆく。この集積があるレベルに達すると、一挙にふきあげて、原案をさらに飛躍させるというのである。
私は、この話を聞いて、丹下健三はほんとうの天才なのだなと思った。異質の概念をとり入れながら、また新しい価値を打ち出すエネルギーはなかなか得られるものではない。これができなければ、天才とは“わがまま”や“ひとりよがり”の別名にすぎなかろう。
私は、丹下の作品が絶えず自己否定をくりかえし、非連続の連続というダイナミズムを|湛《たた》えているがゆえに、世界の建築界に大きな位置を占めていると書いた。が、彼の“敵対的協力者”である浅田は、さらに丹下自身について、断絶後に連帯するというソシアル・ダイナミズムを求めている。
それは、丹下健三は依然として東大教授であり、都市工学界の権威であるという状態からの離脱のすすめである。日本での定評をかなぐりすてて、ボローニャでもスコピエでもいいから、とにかく日本以外のところに移住し、日本の大衆的状況と断絶することによって、つぎにうみ出す都市設計を媒介として民衆と共有できる資産を提示せよ、というのだ。平たくいえば、東大教授を捨てて無名の一匹狼になる、そのソシアル・ダイナミズムが作家精神をより透徹力をもったものにするであろうというのである。
民衆と親和できるか
今井兼次という建築家がいる。早稲田大学の教授である。おもな作品に日本学園高等学校や長野県穂高町の|碌山《ろくざん》美術館がある。
この今井に「六本の柱の物語」というのがある。早大図書館の玄関ホールに六本の柱があるが、これを仕上げたのは若い左官職人であった。彼はロウソクの火を灯し夜を日についで仕上げていって、いよいよ最後の一本を仕上げるという日に、若い妻に日本髪を結わせるやら盛装させるやらし、三人の幼い子どももいっしょに工事現場につれてきた。それから大ホールにゴザを敷いてその上にすわらせ、父親が精根こめて最後の一本を仕上げてゆく姿を見守らせた、というのである。
この話を読んで、私はゆくりなくも、今井が設計した碌山美術館に“番人”として住んでいる、横山拓衛のことを想い出した。横山は若いときから“馬車|曳《ひ》き”をしていたがなにかの縁で美術館の横の小屋に住んでいる。その彼に「なまくら観音」という創作童話がある。第一銀行の頭取であった酒井杏之助がひどく感動し、小さなパンフレットにまとめたが、信州の山河から自生したような感じを与える物語だ。
碌山美術館の中庭に|校倉《あぜくら》づくりの小屋があり、その傍に「一九七〇年・美術蔵」という立て札が立っている。聞けば横山が|鉈《なた》一丁で木を削り、組みあわせ、独力で建てたものだという。
「なぜ校倉にしたのか」ときくと、横山は「なんという形か知らんが、建て物の写真帳をペラペラ繰ってみたら、これがいちばん美しかったので、この形をえらんだ」と、あたりまえのような顔をして答えた。
「六本の柱」の左官職人と「碌山美術館」の横山拓衛とに、美しいものへの衝動を共通項としてつかみ出すことは容易であろう。それは、民衆の感性の構造に組みこまれていたものである。
丹下健三の作品が、これらの感性と断絶して、さらに包括的な創造性を打ち出すのか、あるいはこれらの感性と親和することによって“都市と民衆”という今世紀最大の課題に波動をよびおこすか。いまこそ、彼の「賢明にして老獪」の特性が、もっとも期待されるときであろう。
[#改ページ]
音喰い人種・武満 徹

序奏・平均的ニッポン人
鹿児島県の|川内《せんだい》市から今を時めく二人の音楽家が出ている。一人は作曲家・|武満徹《たけみつとおる》、もう一人は流行歌手・森進一である。森進一については芸能週刊誌にまかせるとして、武満徹は一口にいうと「名声なき天才」である。
この場合の「名声」とは、リルケのいう「誤解の集積としての名声」であり、「天才」とは、ランボーのいう「他者にはどうすることもできない宿命的資質に魅いられてしまったもの」という意味である。
日本の作曲家で、今日、武満ほど世界の音楽界に知られ、評価されているものも少ないであろう。浜田徳昭(九州芸工大教授)によると、ヨーロッパを旅して必ず聞かれるのが「タケミツはいま何を書いているか」であるという。日本の作曲家が話題になると、おそくても三人目には「タケミツ」の名が出るともいわれている。
事実、彼が昭和三十二年、二十七歳のときに作曲した「弦楽のためのレクイエム」は、すでに二百回以上もヨーロッパで演奏されている。昭和四十二年、ニューヨーク・フィルハーモニイが、その誕生百二十五周年を記念して武満に作曲を依頼、彼がそのために書いた「ノヴェンバー・ステップス」というオーケストラ曲が、いまもなお欧米で演奏されていることは音楽ファン以外のひとの耳にも入っていよう。武満はこの曲に尺八と|琵琶《びわ》をとり入れ、単なる和洋合奏の域を超えて、音の持つ深さを探りあてたのである。
そのほか、ヨーロッパの大学が年俸数万ドルで客員教授に迎えにきたとか、パリのサラベールという音楽出版社が彼の著作権を独占し、彼がパリを訪れると、キャデラックやロールスロイスしか停まらぬ「プラザ・アテネ・ホテル」に宿泊させられるとか(もっとも、彼は食事のときは「カツドンが食いたい」とホテルから脱け出すが)、とにかく世界での話題には事欠かない。
しかし、武満は作曲家以外の仕事をしないし、作曲もCMソングや演歌を手がけないので、大衆的には知られていない。「誤解の集積による名声」がないゆえんである。ところが、彼の音楽ほど、日本の音階の持っている可能性をひき出し、とり入れているものも少ないとされている。
作曲家の芥川也寸志が適確にそれを表現している。
「われわれが習った西洋音楽は、たとえば壁と絵のようなものだ。壁は間仕切りのためにあるし、絵は額縁の中に閉じこめられる。規格とか|枠《わく》の中に収まっている。武満のは日本間の|襖《ふすま》であり掛軸である。襖はとり払って部屋をひろげることができるし、掛軸は生け花との調和によって見るひとの美意識を拡大する。西洋音楽はひとつの音に集約させようとし、武満の音楽はひとつの音に宇宙的なひろがりを持たせようとする」
西洋音楽を「|陽画《ポジテイブ》」とすれば武満の音楽は「|陰画《ネガテイブ》」である。組立てと分析でできた西洋音楽が、シェーンベルクの十二音階で頭打ちになり、コンセルヴァトワールや、ジュリアードという音楽の“名門校”の卒業生たちが、日本に押しかけて「音」そのものを追求しはじめたのが昨今の現象である。武満はそれを作曲家として誕生して以来手がけてきたのだ。が、日本の音楽風土はこの最も日本的な作曲家には一顧だにしなかった。
たとえば、例の「弦楽のためのレクイエム」だが、この曲は秋山邦晴(音楽評論家)が上田仁のところへ「こういう|凄《すご》い天才がいるんですが」と持っていって、やっと東京交響楽団の演奏にかかっている。ところが評判は芳しくなく、「アカデミックなものが足りない」と書いた批評家さえあった。恥を話すようだが、来日したストラヴィンスキーが「これはたいへんインテンス(|勁《つよ》い)な曲だ。あんな小男がこんな曲を書くとは!」と絶讃し、またハチャトゥリアンも「これはこの世の音楽ではない。たとえば、深海の底のような音楽だ」と評して、彼の実質的名声が定まったような次第である。
つまり、武満徹を語ることは、日本を裏側から語ることになるのである。藤田|嗣治《つぐじ》や岡田謙三のように“文化的亡命”を遂げたのなら仕方がないが、武満は日本から離れようとしないし、勝新太郎の「座頭市」の大ファンで、「おめえさん方、|斬《き》られてもいいのかえ」というセリフから|殺陣《たて》まで、そっくり演じてしまうほどの“平均的ニッポン人”なのである。
第1楽章・タケマン憤然
武満徹が、久しく楽壇に認められなかった理由は三つあるそうだ。
第一、音楽学校を出ていないこと。第二、音楽家以外の劇作家・映画監督・画家などとつきあいが深く、いつもトックリジャケツにコールテンのズボンを|穿《は》いて、どことなく|胡散《うさん》臭い風があること。第三、いかなる楽団にも楽壇にも属していないこと。
彼の貧乏物語は、古今亭志ん生についで壮絶なものだが、友人の秋山が見るに見かねて、映画音楽で|稼《かせ》がせてやろうと、叔父が所長をする大映多摩川撮影所に連れていったことがある。
「あなた、学校はどちらですか?」ときかれて、武満が「京華中学です」と答えると所長はすぐ「ああ、それではちょっとなあ」と言葉を濁した、というエピソードがある。
こんなところでも「学校出」というモノサシが通用するわけだ。武満も「僕、やっぱり学校を出ないとダメなのかなあ」と首をひねっていたという。
彼の出身校である京華中学は、戦前は一風変った学校で、植草甚一・黒沢明・清水|崑《こん》・石川淳・井口基成・市川猿翁など、個性的な仕事をする人物を輩出している。
武満は東京生れで、両親とともに満州に渡ったが、母親の言葉によると「学校は東京にゆきたい」と、両親や二人の妹にわかれて帰国、叔母の家にひきとられて、そこから富士前小学校を経て京華中学に入学している。
もし、時代的背景を考えないで人間が生きられるとすれば、武満という天性の音楽家は、京華中学から芸大にすすみ、いまごろは芸大教授か欧州留学中というところかもしれない。
この章での|主調音《ライトモチーフ》を先に出すと、彼が京華中学で学んだものは“反抗”という姿勢である。
武満は、一度は芸大を受験している。「どうしても音楽をやりたいなら芸大を受けよ」という母親や|親戚《しんせき》の命令だった。が、周囲はことごとく絶望視していた。母親が京華中学の音楽教師だった萩原先生のところへゆくと、「彼は音楽をやるといっても、せいぜい、キャバレーのピアノ弾きくらいではありませんか」といい渡される始末である。この先生は流行歌手の二葉あき子の亭主だが、音楽はオーソドックスをもって任じていたのだ。また、担任教師だった和久井先生も武満を呼んで「君は数学が3で、音楽のように組立ての能力を必要とする分野にはむかないのではないか。むしろ教育大を受けたまえ」と忠告している。和久井は「今日の武満を見ると、私は坊主にならねばならん」といっているが、しかし和久井の洞察は結果的には正しかったのである。武満の音楽は、数学的な組立てで発展してきた音楽が頭打ちをし、|二進《につち》も|三進《さつち》もゆかなくなった地点から発生しているのである。
武満は芸大の願書をとりよせ、科目演奏にいちばん簡単なショパンのプレリュードをえらび、試験当日に妹の下駄を突っかけて出かけていった。これだけでも合格の可能性はないが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だのは無関係だろう」との結論に達して、受験断念を確認したものである。翌二日目、彼は試験場にゆかず、上野の松坂シネマに入って「二重生活」という映画を|観《み》てすごしている。
彼は作曲家にはなりたかったが、大学に入る気はまったくなかったのだ。彼の周囲は「教練が不合格だったので大学進学をあきらめた」と理解しているが、それはちがう。彼は、もともと“学校”を認めていなかったのである。
軍事教練への反抗
武満が京華中学に入ったのは昭和十八年である。この学校はもともとリベラルな気風がある反面、軍事教練だけはうるさかった。教官の一人に、短期現役で少尉になった手塚金之助という生徒監がいた。これが武満のことを「タケミツ」とよばない。
「おい、ブマン」とくる。黙っていると、こんどは「こら、タケマン」と呼ぶ。まだ黙っていると、「返事せんかい」と彼のひろい額を突っつく。彼はこの額から頭にかけての|恰好《かつこう》が飛行船に似ていたため、ツェッペリンと|綽名《あだな》されていたのだ。
野外演習で入浴したとき、武満は腹の虫を抑えかねて、風呂場の中で「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだ。それが“金坊”の真うしろだったからたまらない。「この野郎」と|素《す》っ|裸《ぱだか》のまま殴られた。
翌十九年の二年生の夏、「学徒動員令」で八高線の松久にある陸軍|糧秣厰《りようまつしよう》の作業にかり出される。第二九〇四部隊に配属されて、そこで|惨憺《さんたん》たる毎日を送るのだが、武満はこのころから、級友の間に「チビのくせに悪づよい|奴《やつ》」という印象を与えている。
生徒主催の演芸会があった。部隊の将校や下士官も観ている中で、真面目な生徒たちは、先輩黒沢明がつくった「姿三四郎」の一場面をだいたい脚本どおりにやった。ところが武満は佐藤という親友と|謀《はか》り、美校の学生たちが“十八番”にしている「月夜の晩に|芒《すすき》をわけて」という|卑猥《ひわい》な踊りを、|頬《ほお》かむりまでして踊ってみせたのだ。
「予科練」を志望
もうひとつ、欠かせぬエピソードは、彼が「予科練」を受験したことである。級友の間では、陸士・海兵が“本命”で、予科練は口には出さねど|軽蔑《けいべつ》する風があった。武満は、「それが僕には猛烈に|癪《しやく》にさわった」という。
「八百屋や魚屋の小僧さんが、本当に純真な気持で予科練に入っているのに、なんたることかと思った。よし、それなら僕は八百屋や魚屋の小僧さんといっしょになろうと決心した」
武満の音楽は「弱すぎる」という批評もあるくらい、繊細である。優しさの糸が一本細く、慰めるように、語りかけるように通っている。この「予科練志望」は、彼の“優しさ”を不意に発火させたものであろう。
勤労動員は一年でおわり、武満たちは三年生の夏、農家の庭先で“玉音放送”をきく。生徒たちは本気で「松久に立て|籠《こも》ろう」とか「白虎隊のように自決しよう」と話しあう。武満もその一人である。終戦間際、彼は「日本は敗けるそうだ」と語った級友を、腕力のつよい奴の助けをかりながらも、殴りとばしている。
そのような緊張状態を持ち続けて帰京したとき、学校も教育もあまりに荒廃していた。ある教師は、彼らを迎えると、開口一番「オイ、どこかに米を売ってくれる農家はないか」と聞いたものだ。これが武満には「猛烈に腹立たしかった」という。
中学五年のとき上級学校に進むものと、新制高校三年に進むものとにわかれ、武満は後者をえらんだが、終戦からあと、彼はほとんど学校に出ていない。そのかわり、独学で音楽を勉強しはじめている。すでに“学校”は眼中になかった。“金坊”と“萩原先生”は見事な“反面教師”になっていた。
米軍酒保のピアノ
「学校出でないこと」「音楽家以外の胡散臭い仲間といること」「楽団に縁がないこと」の三条件は、そのまま武満徹という“音楽原種人”を育てたといってよい。彼のような傷つきやすい神経の持ち主は、それゆえに戦後の価値転倒で「秩序」や「体系」の醜態を味わい、その集合体としての「芸大」を否定したのである。逆説的にいえば、武満は芸大に進まなかったから音楽家になれたのだ。いや、武満ばかりではなく、彼の友人である湯浅譲二も福島和夫も秋山邦晴も林光も、ほとんど満足に学校を出ていない。秋山は早大仏文、湯浅は慶大医学部に在籍していたが、武満から「音楽をやるのにどうして学校にいるんですか」と|怪訝《けげん》な顔をされ、びっくりして退校した、と武満はよろこんでいる。
実際問題として、彼は“学校”よりも“|糊口《ここう》”をしのぐのに|大童《おおわらわ》だったのだ。座間の駐留軍キャンプに通い、ここでGIからタバコを買って、これを銀座の「ストーム」とか「USA」というキャバレーに卸売りする。その“|口銭《こうせん》”が彼の生活費であったが、彼は座間にゆく貨車の連結器にすわりながら、ひそかに彼の中から|湧《わ》いてくる音をあつめていたのだ。
座間でウィリアム・ミッチェルという軍人を知る。「僕、音楽をやりたいんですが」というと、ミッチェルは横浜・根岸の第七騎兵師団の|酒保《しゆほ》を紹介してくれた。酒保がひらくのは夕方からで、それまで掃除夫がきて掃除をするが、それを監督するのが仕事である。その間に酒保にあるピアノを弾いてもよい、ということだった。
武満はこの酒保にきっかり一年通い、ここで作品をつくって、彼の“師匠”ともいうべき清瀬保二のところに持っていっている。
そのまえに、彼は浜田徳昭のところで二、三曲を書いている。彼が学校に顔を見せるのは講堂のピアノが使いたいときで、一時は福島としのびこみ、|鍵《かぎ》をこわして|蓋《ふた》をあけ、演奏をたのしんでいたそうだ。このとき“張番”に立たされていたのが、一つ年下の浜田の弟である。
あるとき、弟が「音楽を勉強したがっている人です」と武満を家に連れてきた。浜田が会うと、|痩《や》せさらばえて骨と皮ばかりだ。「これは音楽どころか栄養が先だ」と晩飯を食わせ、父親にひきあわせた。こんどは父親のほうがびっくりした。
「君は鹿児島の武満だろう」と、一発でいいあてた。浜田の父も鹿児島出身だが、川内市の|隈之城《くまのじよう》町で、武満の父・威雄と小学校で一緒であったという。それほど|面貌《めんぼう》に特色があったのだろう。
武満の家は、ほとんど音楽には無縁だったといってよい。その反対にいずれも一癖、二癖ありそうな人物を輩出している。
祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長をつとめ、原敬内閣のとき衆議院議員を十七年間も続けた(連続当選七回)、地方政界の名士である。
その長男、道雄は十八歳でアメリカにわたり、先年、五十年ぶりに帰国したが、剣道七段の腕前になっていた。武満が「私の祖先には武満龍風軒という剣術の達人がいて、|薄田隼人正《すすきだはやとのしよう》の先生だった」と口走るのは、この叔父とイメージを混同しているのだろう。彼の友人によると「龍風軒というのは渋谷あたりのラーメン屋の名前らしい」というから、ますますアテにならなくなる。
次男の国雄は、スポーツマンで、法政大学野球部の主将である。|喧嘩《けんか》わかれの早慶戦を復活させ、卒業後は内務省に入ったが、神宮外苑の球場を管理するところとなり、秩父宮などが観戦するときの“ご説明役”になっている。
三男の威雄が徹の父だ。|高輪《たかなわ》中学から法政大学、帝国海上保険につとめ、満州へわたり帰国後、死亡(結核)とある。徹は威雄が三十六歳のときの長子である。彼は「徹だけはサラリーマンにするな」といい|遺《のこ》したそうだが、彼自身もなりたくてなった“社員”ではない。そのまえにダンス教師をやっている。鹿児島県出身の、それも政友会の幹部代議士の息子として、かなり抵抗のあった道であろう。
四男の兼雄も法政大学卒業。宮内省に二十一年間も勤め、昭和四十一年に退官、隈之城町にある「|可愛《えの》山陵」の御陵番となっている。ちなみに、この御陵は神武天皇の曾祖父、つまり天孫降臨をしたニニギノミコトの御陵で、現存する天皇家の墓では最古のものである。いまもって皇族の参拝が多い。
この血統から“音楽”を拾ってみると、いささか縁がないでもない。
御陵番の兼雄は音楽好きで筑前琵琶を六年間、その後、薩摩琵琶も修得している。|玄人《くろうと》ハダシという域で、劇場・学校・神社のステージにあがり弾奏して拍手を浴びたという。
父親の威雄は尺八とバイオリンである。また歌唱と歌舞伎役者の|声色《こわいろ》がうまかったが、とりわけダンスは抜群で、これまたダンスの好きな妻の麗子(徹の母)と、東京から鹿児島へ帰る寝台車の通路を踊り抜けたという逸話がある。
第2楽章・水晶片
さて、浜田の父との奇縁もあって、武満徹は浜田家に|入《い》り|浸《びた》りのような恰好になる。母の麗子は保険の外交員で娘たちを育て、|飄然《ひようぜん》としていなくなる徹にはほとんど関心を払わなかったようだ。浜田徳昭は、武満に音楽の知識を吹きこんだが、「武満は眼をキラキラさせ、身体ぜんたいで聞いている感じだった」と回想している。
昭和二十一年の夏、ある朝、浜田は武満に揺り起こされた。午前七時だった、と浜田はその“歴史的時間”を記憶している。
「作曲ができた」
武満が小さな声でいう。
「でも、キミは五線譜の読み方も書き方も知らないんだろう」
「それでも、できた」
天才が眼の前に……
武満は、ピアノの前まで浜田を連れてくると、一本指でポロン、ポロン、ポロンと三音か五音、|間《ま》をおいてピアノを鳴らした。「こういう音ができた」
その音を聞いたとき、浜田は「天の啓示を聞く思いがした」といっている。わずか一分間そこそこの曲だが、ピアノの平均律の十二音という枠とは無縁の、ちがった音組織がひき出されていた。
「ドビュッシイを聞いてびっくりしたって、時代も民族もちがうから、現実感がなかった。それなのに、私の眼の前に、天才が寝巻きを着て立っている。そういう驚きがあった」
浜田は、それから二カ月半にわたって、彼が何年かかけて勉強したものを、すべて武満に注入した。記譜法から始まって、コントラプンクト、アナリーゼ、ハーモニイなど、つまり、音楽を書くための“文法”を教えこんだのである。武満は、そのあと「夜想曲」「無題」「小作品集」と、ぽつんぽつんとした調子で書きあげている。
彼は、そのあと、ヤミ煙草や酒保で得たカネを懐に神田の古本屋をまわり、とにかく「音楽」と名のつく本を片っ端から買って読んだという。学歴社会を経なかった武満は、浜田の手引きを突破口として、自分で“文法”を修得したわけだが、それは彼にとって「過去の語法」であり、いってみれば作曲家としての運転免許証のようなものであったろう。
音楽学校出身の佐藤勝は、清瀬保二のところで武満に会ったが、そのときの印象のひとつとして、「自分が学校にいたために、作曲家としていかに無駄な時間を費やしたかを教えられた」と語っている。
武満によると、作曲はかなり早く、京華中学の応援歌をつくって、五線譜が書けないので、歌って教えていたという。
それはとにかく、彼が「音楽家」を志したのは、学徒動員で泥と汗にまみれていた山の中である。中瀬という学徒出身の見習士官がポータブル蓄音機で一枚のシャンソンをかけた。ジョセフィン・ベーカーの歌だった。武満は、そのときの心理的光景を書いている。いまでも光る文章である。
「真夏の午後、兵隊に命ぜられて数人の学生が黒い雄牛を|屠殺《とさつ》した。その事件で、私たちはどうしようもなくたかぶりながらも、なぜか黙ったまま半地下壕の宿舎に閉じこもっていた。夜、一人の見習士官が手回しの蓄音機をさげて学生の宿舎へたずねて来た。彼はうつむきながらなにかを語り、一枚のレコードをかけた。それは、私にとってひとつの決定的な出会いであった。(中略)あの時、私たちはけっしてその歌を意志的に聞こうとしていたのではなかった。そして歌はまた、ただ静かに大きな流れのように私たちの肉体へそそがれたのだ」
武満は、その歌がジョセフィン・ベーカーだったとわかったのは、あとになってからだといっている。これが音との“出会い”というものだろう。彼の師匠の清瀬保二は、ベートォベンの交響曲の一節を聞いて、音楽を志している。彼の友人の福島和夫は、小鳥を買いに神田の町を歩いているとき、ふと耳に入ったドビュッシイの「牧神の午後」の冒頭が、音楽家を志望させたといっている。
このほか、木工の黒田辰秋はウィンドウの中にあった河井寛次郎の青磁の香炉に工芸家を志し、染色の|芹沢介《せりざわけいすけ》は|門付《かどづけ》に立ち寄った虚無僧の尺八の音に“野の芸術”といわれる草木染めを志している。
日本に限っても、芸術家の誕生に衝撃的な“出会い”が働いた例は、数多いことであろう。が問題はその“出会い”が行なわれても、芸術家のほうにどれほど触発されるものがあるか、である。
冒頭に述べたように、武満徹には、ランボーのいうような「当人もどうしようもない資質に魅了されたもの」があると思う。
それは、あたかも精巧な水晶片を思わせる。精度のよい通信機には水晶片が入っており、これが電波を発信したり受信したりする。そのわずかな振動が音となり信号となるのだ。
武満徹は、身体全体が水晶片でできているようなものだ。
内面に沈潜する音
彼が清瀬を訪ねたのは、十八歳のときである。清瀬が「新作曲派」の第一回発表会のために書いた「バイオリン・ソナタ」を聞いて感激し、翌日すぐ出むいている。清瀬がそのときの武満を山根銀二に語っている。
「そのソナタの第二楽章で、一カ所だけドッペルを使っているんだが、かれはそこで身ぶるいしたというのだ。そんな細かいことを言われたのは初めてで、耳がいいと思って驚いたし、一音符の書き方に恐ろしくなった」
清瀬は、また、武満の作品を「深夜に針一本落ちても、その音をすくいあげてゆくような、内面に沈潜する作品」と評している。
この“武満観”は彼の音楽的体質が水晶片に似ていることを物語っているのではないか。横溝亮一(東京新聞記者)は、「武満徹は宇宙の中にある音の“触媒材”である」といっているが、これもおもしろい。武満が最初の作曲を浜田にきかせたとき、彼はピアノから離れると、「こういう音がきこえた」といっている。
最初の「こういう曲ができた」は一般的な言葉づかいで、武満の実感は「こういう音がきこえた」のである。彼は、宇宙の中の音を捕捉し、それを食べてしまっている。彼は“音喰い人種”である。ただ、音の喰い方がかわっている。西洋音楽は、ドという音を丸ごと|呑《の》んでしまうか、あるいはレ、ミ、ファと音をヨコにつないで料理する。
武満は「ベートォベンは音のつなぎ方の大家ですが、僕はひとつの音をうんと拡げて聞こうとする」といっている。
佐藤勝によると「ふつう、オーケストラの楽符はヨコに書くものだが、武満のは“タテ書き”だ」という。これはおもしろい表現で、彼は「ド」なら「ド」という音の深奥を探ろうとしているというのだ。
たとえば、「ミュージック・コンクレート」が華やかなころ、作曲家たちは地下鉄の走行音やガラスの割れる音を採集し、これをおもしろおかしく配列することによって、「これが前衛音楽だ」と、ほうり出してみせた。これに対して、武満は一人、たとえば「黒つぐみ」の鳴声を録音し、これを十六分の一のスピードで聞かせたものである。
武満の音の喰い方は、「ド」を単音として丸のみにせず、長い棒状にして味わってゆく|恰好《かつこう》である。
武満の音楽的出発が、戦後の混乱社会であったことは偶然ではない。
音楽学校出身者には芥川也寸志、團伊玖磨という秀才が輩出する一方、この時期に「現代音楽」の天才たちも星雲状態になって出現している。
武満を中心に語れば、浜田徳昭の家でコーラスをやった仲間に福島、鈴木博義がいる。ここのコーラスはベートォベンの「第九」をやっていたが、福島と武満は「もう食傷した」とばかり、二人でデキシーランド・ジャズの中からコーラスをつくって歌った。反抗のつもりでやったら、周囲から「すばらしくうまい」とホメられてがっかりしたそうだ。
そのうち武満は清瀬のところに出入し、ここで早坂文雄や伊福部昭にめぐりあう。早坂は「羅生門」以来、黒沢明の映画音楽を担当して名を出している。伊福部も線の太い、|蒼穹《そうきゆう》のような明るさを持った曲を発表している。
第3楽章・「中退・傍系」行進
昭和二十五年、武満は「新作曲派」の第七回発表会に、彼の第一回作品「二つのレント」を出した。
これを会場で聞いた湯浅と秋山がおどろいた。二人は大学こそちがえ、「現代音楽研究会」のメンバーで、音楽会にいって退屈な曲が出ると、下駄ばきの足をガタガタいわせて抗議するという“悪者”だった。
武満の曲はたった三、四分だったが、身体を|串刺《くしざ》しにするものがある。二人は、すぐ、楽屋にとんでゆくと、出て来たのは少年のような男だった。その翌日から、武満・湯浅・秋山の三人は、「ベートォベンは俗物のかたまり」「ワグナーは醜悪の見本」「だいたい音楽に始まりや終りがあるのはおかしい」といった議論を徹夜で話しあう。
もっとも、武満は「二つのレント」のあと、胸の裂けるようなショックを受けている。演奏会の翌日、駅の立売りスタンドで「東京新聞」を買い、「音楽評」に目をあてると、最後に一行「武満の作品は音楽以前だ」とあった。
彼は鈴木を促して「新宿文化」に入り、映画も見ずに、暗がりで涙を流したという。
この「音楽以前」という評言子にかぎらず、しばらくの間、彼の作品には「ド・ミ・レの音楽が正確に書けないために産まれたもの」とか「音楽だかなんだかわからない」という批評が浴びせられた。
しかし、その一方では、彼を媒介として湯浅・秋山が福島・鈴木と|識《し》るようになり、またそれぞれを通じて劇作家や画家が仲間に加わって、戦前の「秩序」や「体系」とは違う地表に新しい芸術家の増殖作用が始まった。これが一カ所に集まったのが「実験工房」である。名付け親は瀧口修造(美術評論家)である。
人生の師・瀧口修造
瀧口は「私も彼も学校にゆけないという境遇が似ていたし、彼の音楽の組織が私のような|素人《しろうと》もひどく感動させた」と語っている。武満にとって瀧口は人生の教師であり、彼の存在を社会に|繋留《けいりゆう》させる唯一のブイであったようだ。彼は瀧口の世話で「アトリエ」に「パウル・クレー論」を書き、はじめて原稿料らしきものを手にしている。
ところで、彼の師友範囲を眺めると、ほとんどが学歴らしい学歴を経ていないことが、ひとつの特徴になっている。
清瀬は松山中学中退、早坂も北海中学の中退である。伊福部は北大農学部であり、秋山は早大、湯浅は慶応を中退している。
彼らにとって、“芸大”とは「金持ちの子弟がのんびりと音楽をやるところ」であり「コンセルヴァトワールに留学して教授になり」「年に一回か二回、作品を書いて巨匠になるところ」でしかない。音楽家として「弦楽四重奏曲」を書かねばならないというシキタリがあり、卒業までにシンフォニイを十本、クヮルテットを数本書くという不文律みたいなものもある。いずれもピタゴラスが楽器のためにきめたという平均率の枠内の問題だ。武満や湯浅のように「自分の音を追求する」という余裕のあろうはずがない。
以上は、星雲状態のように出現した“中退・傍系派”に共通した認識だが、武満の最初の作曲に遭遇した浜田徳昭は、「自分の無能を照射されたという思いに駆られた」結果、猛烈な勉強を自分に課している。その「告白」がすさまじい。
浜田によると、武満に会った十六歳から向う十一年間、毎週の金曜と土曜を「不眠の日」として七千時間の勉強を積み重ねることにしたという。
「絵でも絵と自分の間に漂うものが絵の深さをきめるように、音楽も音と音の間の空気で作曲の生命がきまる。武満はそれを生来感得する能力があり、それを損わないですむスタートを切った。その武満に対抗するためには、私は量で対抗するほかはない、と思った」
結局、浜田は十一年間のうち、一晩だけ炭火の一酸化炭素中毒にかかって休んだほか、七千時間の勉強を積みあげたという。しかし、作曲は断念し、指揮者に転向している。が、武満の作品には、まだ指揮棒を振っていない。彼の作品にはたとえば小沢征爾のように強烈な個性が遭遇し、火花が散るようでないと、作品の深さにまで指揮が届かない。
浜田の場合はすこし特殊かも知れないが、しかし、「生来の感得する能力を損われないスタートを切った」という点は、多くの音楽家がみとめている。
この点から見ると、今日の「バイオリン教室」や「ピアノ教室」の繁昌は、子どもの感得能力をひとつの枠型にはめこんでしまうおそれがあり、風景としては猿や犬に芸当を仕込んでいるのとあまり大差はないだろう。
武満が感得した音をひとつの曲として完成すれば、そこには|自《おのずか》ら「武満トーン」というのがでるわけだ。
彼は原始音の中から自分の|嗜好《しこう》にあった音を選びだし、その音のひびきの中に新しい音を発見してゆく。
したがって、彼の作曲は「捨てる作曲」になる。たとえば「弦楽のためのレクイエム」も、秋山邦晴が遊びにいった折に目をとおすと、次第に曲が短くなり、残った音は必要ぎりぎりのものだったという。
それだけに大変な遅筆家で、ひと晩徹夜して二十五秒ぶんしかできなかったということも、まれではない。
ある日、一台のピアノが
武満がいくら「音を喰っている」とはいえ、現実問題として食料を摂らなければ、音を喰う能力もでてこない。ところが、音を捨ててゆく作曲法だから、仕事は限られ、必然的に貧乏になる。
武満の貧乏物語の|白眉《はくび》は、|質種《しちぐさ》があるのに質屋にゆけなくなったという話である。つい最近まで、質屋には米穀通帳をもってゆく必要があったが、米屋の支払いが滞っていたため、通帳を米屋にとりにゆけず、無念の思いでいたという。ところが、妻の浅香が「いざ」というときの用意に千円札を一枚、ナゲシの裏にかくしておいた。彼女がそれをさし出すと、武満は大いに怒り二階から|抛《ほう》り出した。家の前はドブ川である。浅香はそのドブ川に入り、流れゆく千円札を必死の思いでつかまえたという。
貧乏のうえに夫婦とも結核である。重症でパスもヒドラジッドも効かない。武満によると、友人たちは「死んでくれるか、結婚してくれるか」と見つめていたが、結婚してくれたので胸を|撫《な》でおろしたという。武満夫妻は食事がおわると、お互いに薬包をつつみ合ったり、すこしでも熱の軽い方が起きて働いたとか、|凄惨《せいさん》な物語はかなり続いている。
また、彼は作曲家の基本的道具ともいうべきピアノを持っていなかった。本郷から日暮里にかけてブラブラ歩きながら、ピアノの音が|洩《も》れる家をみつけると、「僕にも弾かせて下さい」とたのみこんで、その都度練習したそうだ。武満は「一軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」といっているが、ときどき同行した福島によると、最初はたしかに貸してくれたが、きまって途中で「もうこないで下さい」といわれたという。
武満も福島もピアノが下手で、そのうえ聞きなれない妙な音を出すため、家人の方が|呆《あき》れてしまうらしかった。
ただひとつ、有名な大学教授の家のピアノが武満に影響を与えている。フランスのエラール社のもので、|鍵《けん》が深く沈み、ふくらんだ音色を出すピアノである。福島によると「武満の音のイメージは、あの大学教授のピアノによってひき出された」といっている。
彼は、ピアノにありつけないときは、長いボール紙にピアノの鍵盤を書いたのを抱えて歩いている。これを公園のベンチに腰かけて横たえ、ボール紙に書いた鍵盤を指でおさえては音のイメージを出していたのだ。
その武満にある日、突然、一台のピアノが届いた。|黛《まゆずみ》敏郎からの贈りもので、黛は芥川と将棋をさしながら武満にピアノのないのを聞くと、一面識もないのに「使ってくれ」と、妻のピアノを贈ったものである。
第4楽章・無へのフィナーレ
武満は、音を捨てていって、結局、なんにも音がしなくなったときが、いちばん豊富な音を出しているときだという。そのときは作曲家も|要《い》らなくなったときだが、同じ論法でいえば、沈黙こそ偉大な作曲家ということになる。彼は『音、沈黙と測りあえるほどに』のなかで、つぎのようなメモを残している。
「イルカの交信が彼らのなき声によってはなされないで、音と音のあいだにある無音の|間《ま》の長さによってなされるという生物学者の発表は暗示的だ」
室生犀星が詩集を出すとき、収録作品をひとつひとつ眺めては、一行、二行と消してゆき、ついに一行しか残さなかった。傍で見ていた川端康成が「そんなことをしたら詩がなくなりますよ」と声をかけると、室生は、「結局、詩というのは真っ白な紙にしたときに最大の詩になるのですね」と語ったことがある。
室生と武満の認識がぴたりと一致してくるのは、やはり“日本人”という共通項のためであろう。池大雅のいう「なにも描かない余白がいちばんむずかしい」というのと同じである。
西欧の文化が「付け加える文化」なのに対して、東洋の、とりわけ日本の文化の根底には「捨てる」という精神行為が働いている。「捨てる」は「使わぬ」ではなく、むしろ「より大きく使う」を招来するのだ。
武満の趣味は「キノコ」である。アメリカの作曲家ジョン・ケージのひそみに|倣《なら》ったそうだが、彼はキノコの形も色も確定しない。不確かな存在感が好きだという。信濃追分に仕事用の山荘を持っているが、それもキノコ採集を考えてのことだという。
武満がキノコに感じる「不確かな存在感」は、そのまま彼の“音楽哲学”になっている。彼が従来のオーケストラ曲に意味を認めないのは、作曲家が六十人の人間にひとつの音を押しつけているからだという。
「六十人にはそれぞれ生活と意見があるはずだ。それを全部ムキ出しにして、作曲家とかかわりあうとき、果して曲そのものがこわれないかどうかという緊張感が生れる。そのとき曲は完成する。だから、作曲家と指揮者と演奏者が出会って、作曲家の知らなかった音がその時点で出ることが大切だ。だから非個性的なものの方に生命がある」
彼が「映画音楽」を手がけるのは、映像が音楽という枠をこわして、結局は共同の作品が生れる面白さだという。彼の先輩だった早坂文雄は「映画音楽は作るな」といい残したそうだが、これは音楽がどうしても伴奏になり、独立性を失うという意味であろう。ところが、武満は映画音楽を作る段になると、セリフもノイズも音楽も一体として考え、音楽監督の立場に立ってしまう。
恩地日出夫(映画監督)によると、武満は「そこのセリフは必要なのかなあ」とやんわりといい、あるいは「ここは音楽をやめましょう」と作曲したものを落して、映像と音楽の“共同作品”をつくるのだという。
しかし、この製作態度は「映画音楽」に限ったことではない。彼は作曲家の“無署名性”を主張する。たとえば、三味線の喜左衛門がポンと音を出したとき、その音は作曲家のものか喜左衛門のものか、あるいは三味線という楽器のものか、わからない。だから、作曲家は、音の出る状況を設定すればよいのだという。
吉田直哉(NHKチーフ・ディレクター)は、「徒然草」や「枕草子」を音で描くと、武満の音楽になるのではないかという。書いている主体が、宇宙の一部分であることを認識しながら、全体をまとめている、というわけだ。
生々流転への肉薄
つまり、武満は自分の音を、|生々流転《しようじようるてん》するものにかかわらせている。だから、ベートォベン流にぷっつり終る音楽はナンセンスだ、ということになる。彼の作品は、つねにつぎの作品につながってゆく。一曲は絶対に完結することはなく、いつもある状況の中のプロセスにすぎない。完結曲ではなくプロセスだから、演奏家や聴衆に立ち会ってもらう必要がある。これはたとえば伊勢神宮の遷宮式のように二十年ごとに姿が消えて、様式という抽象概念が伝わる東洋的伝達法と同じ表現になる。
彼は、ひとつの作品を書いているとき、かならず次の作品の構想を妻や友人に話してきかせるという。プロセスの仕事をしている以上、これは当然の態度であろう。が、ここまで純粋に、流動するものに沿ってゆく芸術家もめずらしい。彼は「感得したものを損われなかった」ために、日本人の心情もまた最も原型的に保ち続けているのかもしれない。
ただ、彼は自分のレコードのジャケットに富士山をつけられたとき、ひどく恥ずかしかったといっている。
「特別に意識したことはないが、私のなかで富士は異なる二つのすがたをしていた。一つは美しい自然であり、一つは私に恥の感覚をよびさますところのものだ。それはかならずしも富士そのものではない。それに象徴される国家という存在であり、日本なのだ」(『恥の感覚』より)
この「武満論」も、おわりがないようなものである。が、ひとまず、彼が日本を“自然”と“国家”にわけていることを保証して、終ることにする。
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画壇の無欠陥人間・東山魁夷

日展もついに……
四十四年の四月、わが国で最大の規模を誇る公募展「日展」が画期的な機構改革と人事の入れ替えを行なったとき、世間の識者たちは「造反有理もついに日展におよんだか」と、暗然として時流を眺めたという話が伝えられている。
日展は昭和三十三年に財団法人として発足したが、その内部の人間関係が新聞や雑誌に紹介されるにつれて、美術団体としてよりも、“ボス政治の博物館”として社会の興味をひいていた。
私は、かつて日本芸術院を調べたことがあるが、ほとんどの話が芸術院の美術部門の九〇パーセントを日展出身者が占めていることを指摘し、芸術院を“日展の養老院”にたとえているものが多かった。
戦後、横山大観・梅原龍三郎・小杉放庵・富本憲吉らがあいついで芸術院会員をやめていったが、その最大の理由は「日展運営規則」の第三条に「本会は日本芸術院第一部会員をもって組織する」ときめられていたことへの|反撥《はんぱつ》である。これはきわめて巧妙な表現で、たとえ日展に反対であっても、日本芸術院の第一部会員になれば、自動的に日展運営委員会の構成分子にされてしまうことになる。
また当時、日展の事務局は芸術院会館の中におかれ、日展の元理事長の|永《ひさし》(洋画)や現理事長の山崎覚太郎(工芸)は同時に古くからの芸術院会員で、二人ともたいへんな実力者という定評がある。
このように見てくると、日展は日本芸術院の|雛型《ひながた》であり、芸術院の他の部門(文芸・芸能)でも“ボス政治”が見られるのは、日展の体質にあわせたのだという批判がわいてくるのも当然である。せんだって亡くなった安藤鶴夫に聞いたことだが、久保田万太郎は第二部(文芸)の部長をやっていたころ、いつも会員の空席をひとつふたつ残し選挙が近づくと、長火鉢の灰を灰|ならし《ヽヽヽ》で|掻《か》きながら「こんどは、いってえ、誰にやろうかな」と楽しむことが多かった。安藤はその“ボスぶり”に嫌気がさし、火鉢の向うから「そういう先生って、あたしはきれえだ、だいっきれえだ」と叫ぶと、久保田は「およしなさいったって、あんた、美術の方は会員にするのに金をとるが、あたしたちはきれいなんだから、このくらい楽しんだってよござんしょ」と答えたそうである。
東山君ならやるだろう
こんどの日展改革は、日展の体質とまでいわれた、師弟|閥《ばつ》・学閥・門閥に対する若手作家の危機意識が起爆剤になったという。これまでも、日展の“体制批判”はなくもなかったが、それを公然と行なうと、我妻磐宇や中村正義のように破門されるか、みずから日展を去るほかはなかった。
このため、陰湿な空気がよどみはじめ、東京芸大をはじめ多くの“芸大卒”は工芸部門を除いて出品しなくなった。ここに既成作家たちは断絶感を感じ、改革のスピードを早めさせたという。
もっとも、こんどの改革は“下からの革命”ではなく、“山崎改組”とよばれるように、実力者である山崎覚太郎が原案を書いたものである。山崎は一種の年齢制限を設けて、七十五歳以上を“顧問”にタナ上げするとともに、理事を五十四人にふやして集団指導体制をつくったものだ。会社でいえば老社長を代表権のない会長にまつり上げ、常勤取締役をふやして、常務会の権限を強化した|恰好《かつこう》である。これが実質的にどういう効果があるかというと、七十五歳以上の理事(ほとんど芸術院会員だが)を顧問にすることによって、彼らが握っていた人事権(審査員の任命権)・総理大臣・文部大臣・菊華の各賞選考の機能を奪いとり、これを“集団合議制”のテーブルに移したことである。もうひとつ、つけ加えると、日展の役員をしていた三十五人の芸術院会員のうち二十一人が姿を消したことだ。
中村岳陵のように、「こんどの改組は、私の破邪|顕正《けんしよう》の言がこわいものだから、私を棚上げにするために仕組まれた策謀だ」と批判するムキもあるが、客観的にみれば、日展と芸術院の|癒着《ゆちやく》性がいくぶん薄らいだことは否みえないであろう。この余波が他の部門にどのように波及するかは今後の問題である。
ところで、この改組でフレッシュな話題になったのが、東山魁夷が日本画部門の主任になったことである。友人の加藤栄三はじめ「東山君ならやるだろう」との声が高い。
完全無欠な計画
東山魁夷は系統からいうと結城素明・中村岳陵の門下といわれているが、彼はこれまで一度も“団体屋”として手を汚していない。いや、“東山待望論”はそのような|閲歴《えつれき》からくるよりも、むしろ彼の生活態度から出てくるものが多い。
温和である。注意ぶかい。|緻密《ちみつ》である。合理主義者である。透明である。近代的紳士である――これが「東山魁夷ってどんな人?」という質問から出た大方の答である。さらに「あの人はエピソードがないのが特徴だから、語るのに苦労する人」「酔うことのない人」「蒸溜水みたいで味がない人」「いうなれば“万年坊や”である」「霊的な人」という、|褒貶《ほうへん》がウラオモテになっているような批評もかなりある。
それにもかかわらず、“東山待望論”がきかれるのは、日本画家にはめずらしくその“合理性”“近代性”が顕著なためなのだ。
彼の“合理性”を活写するエピソードがある。
三十七年四月、東山は北欧旅行をこころみたが、彼はこの旅行計画をつくるのに、まるまる一年かけたものである。いよいよ出発する段になって、藤本韶三(三彩社社長)が訪問すると、東山は詳細なスケジュール表を見せたが、それには何日の何時何分に汽車に乗ると湖水に何時に着き、湖水をわたる船が何時に出て対岸にわたるには何分かかると、びっしりと書きこまれていたという。
東山はこの行動計画表をつくるために、世界的な旅行案内書の『|VDK《ベー・デー・カー》』をはじめ各種のパンフレットを取りよせ、ホテルを出て右へ曲って三百メートルゆくとポストがあることまでメモしておいたそうだ。
美術評論家の難波専太郎が、この話を出発前にきいて面白がり、東山の帰国後さらに訪問して、夫人に「ポストはありましたか?」ときくと、夫人も半ば|呆《あき》れたように「それがピタリとその位置にあったのです」と語ったそうだ。
東山によると、その北欧旅行は画業のテーマを拡大するためではなく、仕事をしすぎて“慣れ”が生じたので、「その日常を断ち切り、心を新鮮にし、腰を落着けて、大自然の中におまえ自身を置く必要がある」という“心の声”に誘われて、決行したものである。
これは、東山にかぎらず、音楽家でも作家でも日常性から脱出して、外国で自分自身を見つめたり、あるいは新鮮な感覚をチャージするために、しばしばとる行動である。しかし、その旅行をあまり厳密にスケジュール化することは、日常性を海外まで背負ってゆくようなもので、人生に“休止符”を打つことにはならない。だから、ほとんどの人が行きあたりばったりの、自由時間をたのしむ態度をとる。
ところが、東山は完全無欠な計画の下に出発するのだ。これは、彼の性格からきているといえばいえる。
崩れることへの恐怖
東山ほど“遊び”についてのエピソードが少ない人物もいない。
彼は昭和六年に東京美術学校(現・東京芸大)を卒業している。美術学校の記念祭は、そのデカダンぶりに定評があって、東山のクラスもカフェーの女給から|衣裳《いしよう》を借り、リリヤンで|かつら《ヽヽヽ》をつくって、「あの道、この道」という歌を踊り狂ったものだ。同級生の橋本明治、加藤栄三などはその方の先頭で、女装の下から|毛脛《けずね》を出して良家の子女の顔をそむけさせたが、東山は|専《もつぱ》ら準備委員の方にまわり、「とうとう人前には出せぬ写真には加わらなかった男」として、妙な尊敬をあつめたものだ。いわゆる“大家”の一人となった今日でも、彼は表千家の茶道をたしなむくらいである。
彼自身もそのことを|淋《さび》しがり、あるとき知人に「僕はこれでいいのでしょうか」と相談をもちかけた。知人が「お|謡《うたい》をやると、声も出るし舞いも入るし、なかなか面白いものですよ」とすすめると、「でも、お謡は自宅で|稽古《けいこ》するんでしょ」と東山、「そりゃそうです」と知人がこたえると、彼はいったものだ。
「それではダメだ。僕は仕事の関係から居留守を使うことが多いので、声を出しているとわかってしまう」
謡をやればやったで、仕事と余暇のバランスは新たにとれるはずだが、彼はすぐに話の決算をつけてしまうのだ。
結局、どうしたか。あるとき彼は「すこしはボーッとしようと思って」、ドイツ語の本を読み出した。読みすすむうちに熱中し、ついに午前三時まで読みつづけたため、翌朝、鼻血を出して大騒ぎになったという。
このような“マジメ人間”のエピソードは語れば際限がない。いくつかのエピソードを重ねてゆくと、その“マジメさ”がかえって|滑稽譚《こつけいたん》になってくるのである。マジメとは別の意味では“不器用さ”に通じるものであろう。不器用さは社会への適応性を欠くことがあり、そのギャップに人間のおかしさが感じられるのではないかと思う。
しかし、東山の“マジメさ”は、彼自身によると、その裏に一貫した主調がある。いわば「崩れることへの恐怖」である。東山の書いたものを読むと、彼自身には放浪性があり自分自身がどうなるかわからないという。この性格を抑えるために、彼は画家になったとさえ告白している。
「私の場合は、どうにもならぬ困った人間だからこそ絵を描くのだと云うことです。絵に打ち込んでいなければ、どんなことになるかわからない始末の悪い人間であるから、一心に絵を描くことになるので、品行方正、勉強家と云うこと、健康で正常で明朗であれば、何も苦労して絵なんか描く必要がないでしょう」(『わが遍歴の山河』より)
これは、社会常識からいえば|逆説《パラドツクス》になる。一般には、芸術家といえば「品行方正、勉強家と云うこと、健康で正常で明朗である」ことに飼育された人間の日常性を|嗅《か》ぎわけ、それに破調の矢を射かけることによって、生命の感動をひき出そうとする存在と思われている。彼らの作品は、日常性からの共感や理解を拒むことによって成立し、それとの対極点で存在を主張することによって創造と名づけられている。彼らはその思想表現の形式として、絵や音楽を使っている。
東山の告白はこの逆で、自分自身を律するために絵画という表現形式をもちいている。これは、彼の「生きている」よりも「生かされている」という哲学と、根底で深くかかわりあっているのだ。もうすこし抽象的ないい方をすると、彼の画業は「生かされている」という思念のドラマを描き続けているかのようである。
筆名の由来
東山は明治四十一年、横浜の生まれである。本名は新吉、魁夷はもとより雅号だ。この名前をつけるのに、彼は例によって『言海』『漢和大辞典』をひっくりかえし、さんざん調べたうえできめたものだ。
魁は「さきがけ」「おおいなり」「すぐる」「やすし」の意味があるが、東山は|槐《えんじゆ》の木が好きなので、これと同首の字を探したという。「夷」は国語では野蛮人の総称になるが、漢語では「満足」「たいらか」「事無し」の意味になる。もっとも、「夷」をえらんだのは漢語の意味とはあまり関係なく、「東山」という字と音が、優雅で間のびしている感じなので、下の二字を三音のひき|緊《しま》った字にしようと、これは彼独特の設計感覚からきているのである。
事実、東山魁夷の|風貌《ふうぼう》は「魁夷」という文字や音からくるものとは正反対で、くるくるの坊主アタマと深くて柔和な|眼差《まなざし》、どんなに無礼なことをいわれても止めぬスマイルなどは、総本山の寺院の執事といった感じをうける。
本名の新吉は祖父の名で、この人物がひとかどの男であったらしい。瀬戸内海の|櫃石島《ひついしじま》、大阪城の石垣の石はこの島から切り出されたという記憶があるが、東山家はこの島の庄屋をつとめていた。それが明治維新の際、どういうわけか、祖父の新吉は妻子を捨てて江戸に出て、築地で船宿をはじめている。やがて榎本武揚の知遇を得て、時機に投じ、幕軍に加わって函館戦争を経験したものだ。のちに東京に帰って船の周旋業を再開、ずいぶん金を残したらしいが、息子(つまり魁夷の父)がすっかり使い果してしまった。
魁夷の父は、ひと口にいえば江戸っ子肌。|粋《いき》で、やることがきれいで、他人思いのおひとよしである。築地から横浜に出て船具商をはじめたが、慶応義塾にも通ったとかで、横浜市長をつとめた平沼亮三とも親交を結んだ。が、商売の方がうまくゆかず、魁夷が四歳のとき、神戸に移住し、船具商を続けるかたわら日本石油の代理店を兼業した。
魁夷の人間形成には父母の性格の違いが大きなポイントになるが、彼の母親は豊橋の出身で、生家は|火口《ほくち》を作る家業だったが、マッチが普及するにつれて没落したという。父の粋好み派手好きな性格に対して、母は地味で忍耐づよく、二人の溝は深まるばかりであって、魁夷を間に三人の兄弟は、その溝の中で両方から|溺愛《できあい》されていたらしい。後年、魁夷が美術学校を出てからドイツに留学したのも、家庭内の愛情のもつれから|脱《のが》れ出たいためだったと書いている。
普通のコース歩きたい
魁夷は入江小学校から県立第二神戸中学校に進学する。五年生に小磯良平がいたが、彼ははじめ「画家になろうとは思ってもいなかった」という。同級生の四本潔(川崎重工業副社長)によると、東山は作文の名手で、いつもクラスの代表作にえらばれていた。東山の著書である『わが遍歴の山河』『白夜の旅』『風景との対話』は、どれをとっても名文である。きわめて視覚的な文章で、対象を鮮明な言葉で描くことによって、筆者の心象を位置づけるという趣きがつよい。
親友の四本は三高から京大に進んだが、東山も家業が商家なので、高商かできれば高等学校をのぞみ、「いわゆる“普通のコース”歩きたいなア」と考えていたという。いや、それならマシな方で、彼はもっと消極的な生き方をのぞんでいたことが、『風景との対話』に書かれている。
「中学生の頃、作文に『希望』という課題が出た時、軒下をきれいな水が流れる小さな町で、こぢんまりした本屋を|営《いとな》み、可愛らしい奥さんを貰って、平和に暮したいという意味のことを書いて、受持の先生に叱られたことがある」
これは恩給生活者の考えであって、大正末期の中学生にしては、消極的な面でおそろしくユニークである。
ただ、絵を描くことは好きで、また抜群にうまかった。それなのに中学の上級に進むまで画家を志さなかったのは、画家生活に対する漠然とした恐怖心があったからだ。
日本画ならいいぞ
中学生のころ写生に出ていると、|飄然《ひようぜん》と放浪|絵描《えか》きがあらわれて「君は画家になるのか」と聞いた。東山があわてて「僕は画家になんかならないよ。食えないもの」と答えると、その男は|軽蔑《けいべつ》の表情をうかべて「君、野良犬だって食っている。餓死しないだけにはな。人間が食うためにだけ生きるのか」と、痛烈な言葉をあびせた。東山は真っ赤になってうつむいたが、心の中では「そんなことはわかっている。だけど僕は野良犬はごめんだ。気の毒な母が、なお悲しむからな」と叫び続けていたという。
彼を“画家”の方へむけたのは、第二神戸中学の国語と英語の二人の教師である。国語教師は東山の画才を認め、機会あるごとに大阪の帝展や京都の院展につれてゆき、絵描きの深みに彼をひたすようなことをした。この訓練と東山自身の自覚もあって、彼は美術学校を志望するようになるが、そのころから「|放埓《ほうらつ》な父に忍従を強いられてきた母を楽にしてやりたいという、経済的成功者としての夢と芸術家生活との|桎梏《しつこく》」に悩み続けるのだ。
父は新吉の絵描き志望をきいて仰天する。「絶対にまかりならん」といった。これを根気よく説得したのが、英語教師である。ここでおもしろいことに、東山は中学生の頃油絵ばかり描いて、日本画の画家になろうとは思っていなかったことである。
東山が日本画の道に進んだのは、父が「身体の弱い子だから仕方がない。|棄《す》てたと思って諦めよう」と英語教師の説得に譲歩したうえ、念のためにと東京の知人に「画家の事情を知らせてほしい」と手紙を出したことによる。ところが、父親の手紙を受けとった男が、たまたま書画|骨董《こつとう》の|類《たぐい》を手がけていたため、「日本画家ならやってゆける」と返事をよこした。そこで父も「日本画ならいいぞ」と許したが、東山は「とにかく美校に入ってしまえばこっちのものだ」と思って、日本画を志望した。折りも折り、結城素明が欧州から帰って教授になり、「これからは学問は少々足りなくてもデッサンのしっかりしたものを入学させよう」という方針を打ち出した。これが、写生を続けてきた東山にはピタリときて、日本画科の居心地をよくしたという。
彼は、美術学校で一年から五年まで特待生の扱いを受けている。特待生の恩典は授業料免除であるが、神戸の「東山商店」はそれほど家業は|逼迫《ひつぱく》していない。彼が特待生の処遇をうけたのは、衆目のみとめるところ、総合点がクラスで抜群であったからだ。
彼のクラスは、先輩や教授から“ヘタクラス”といわれるほど絵が下手だったが、それでも橋本明治と加藤栄三がトップを争っていた。二人とも在学中からホープといわれ、加藤は卒業して間もなく文部大臣賞を獲得している。ところが、学科の方はもうひどいもので、たいてい東山新吉に“代返”をたのんで逃げてしまう。
加藤栄三は岐阜商業の出身だが、美術に渇望して美校に入っている。描くことは好きだが、美学だの語学だのとなると、もういけない。そのためかどうか、加藤の入校は東山より一年早いが、途中でいっしょになっている。加藤によれば、「もし、東山君といっしょにならなかったら、今日の僕があったかどうかわからない」という。彼は「勉強にモマレることができた」といっているが、それ以外にも“代返”や試験答案の“カンニング”でだいぶ救われたからであろう。
「東山君はとにかく勉強した」というのが、同級生の一致した印象である。「どんな眠い講義でも彼だけは出席していた」と、加藤栄三もいう。
パン画は描かない
条件つき入学・特待生・母親思いという、さまざまな制約が、彼を勤勉という|椅子《いす》に縛りつけてゆく。
当時の消息通は、昭和六年組を教えた教師に結城素明と松岡映丘の二人があったが、松岡についた学生の方が絵の伸びはよかった。東山はどちらかといえば“結城組”で、結城のデッサン尊重を忠実に守り、制作態度から考えてゆく傾向がつよく、これが後年、画家としてのスタートをおくらせたと評価している。この評価は微視的には当っているかもしれないが、東山が今日でも“愚直”に近いデッサンから出発し、結局は大作を仕上げることを考えると、結城の教授法は“長期計画型”であって、どちらがよかったかわからない。
東山が最後まで“マジメな学生”であったのは、ひとつには卒業の前年あたりから、実家が“左前”になったことにもよる。おひとよしの父が債務の連帯保証人になって失敗したうえ、高利貸からも借りたため、金融的にゆきづまった。東山は四年生のときから“仕送り”を辞退し、子どもの絵本を書いて生活費を稼いでいる。あとで述べるように、彼が画家として注目を浴びたのはこの十四、五年であるが、それまでの“苦境時代”に彼はほとんど“パン画”(生活のために描く絵)を描いていない。このため、彼がデビューしてからの値段はくずれることがなかった。
もうひとつ、彼のスタートをおくらせたといわれているのが、昭和八年からのドイツ留学である。
あるとき、加藤が電車の中で読書している東山を見つけた。近寄って「東山君、お勉強だね」というと、東山は本から顔をあげて「ええ、ドイツにゆくものですからドイツ語を勉強しています」と答え、加藤をびっくりさせている。
画家の外国留学といえばパリかフローレンスと相場がきまっているのに、東山はドイツをえらんだ。理由は、「パリは日本人がたくさんいてさわがしいだろうし、自分は外国にいて日本画を見直すのだからドイツでいい」というのである。あくまで思索的だ。
この希望を矢代幸雄教授に話すと、矢代も「ドイツの美術館は西洋の美術を研究するためには、資料も整っているし、学者も|揃《そろ》っている。それにフランスにもイタリアにも地続きだ」と賛成している。それから二年後、ベルリンまできた矢代に東山があうと、矢代は「君はなにになるつもりか」と聞き、東山が「絵描きになりたい」と答えると、「それなら一日も早く日本に帰れ」とすすめている。つまり、矢代は東山がドイツ留学の相談に行ったときは、学者か評論家を志望していると思ったのであろう。また美術学校校長だった和田英作は、ドイツ留学に賛成したうえ、「ドイツの女は経済的で親切だからいいが、向うにいる間だけとはっきり約束して、けっして連れて帰ってはいけない」と訓戒を与えている。
東山のドイツ留学は二年続いた。途中から“日独交換学生”の待遇が与えられ、その期限がもう一年あったが、実家の「東山商店」がいよいよ傾いたため、帰国せざるをえなかった。
船が瀬戸内海をとおるとき、東山は甲板から日本の風景を見て、その穏かな美しさに魅惑と抵抗を感じたといっている。
「この甘美なものが日本的なものであるとして、それに反抗したり、|魅《ひ》かれたりしながら、風景画家になってゆくのが私の運命かもしれないと、そんなことを考えていました」
われらのホープ帰国す
この緊張感は今日まで続いていよう。東山が南国よりも北国を好み、平地よりも山岳に走り、温暖なところを避けてとおるのは、彼の中に“甘美なもの”に共振する周波数があるからだ。日本画という|肌理《きめ》のこまかい画法と画調は、ともすれば東山を冬から春へ、寒冷地から温暖地へ連れてこようとする。彼は、そういう地帯では対象の生命が描けぬという。ものの生命は、完結してそそり立つものの中にあるのではなく、むしろ|生々流転《しようじようるてん》の中にある。移ろいやすく、はかないものにこそ生命があり、それを凝視するためには寒冷の心情が必要なのだ。必要なのだが日本画はそれだけでは成立しない。いわば、仏典にいう“|二河白道《にがびやくどう》”である。崖っぷちを一輪車で走るようなもので、どちらに転んでも救われない。
東山は、瀬戸内海をとおるときに日本の風景に抵抗感を感じたが、それが本当にわかったのは、「生きる望みを失ったときに、風景の方から“見させてくれた”ものがあってからだ」といっている。この辺の事情を的確に批評しているのが川端康成で、川端は随筆『落花流水』の中で「東山魁夷君の絵は対象の方が描かせている」と表現している。べつのところで、川端はある人に「東山君の絵は将棋の名人が指す将棋みたいなものだ」と語っているが、これはあまりに“破れ”のないことに対する、川端の不満であろう。川端はこの不満を口にすることで、自分白身の文章への批評としているのではないか。
しかし、神戸港に着いた東山を迎えたのは“われらのホープ”という眼差であった。同級生では加藤栄三・山田申吾が出迎えに来たが、加藤は当時を次のように回想している。
「東山君は前髪を少しパラリとさせ、黒ずくめの服装をして、肩からライカかなんか|提《さ》げて、真っ直ぐな姿勢でタラップを降りて来た。いまや“われらのパイオニア”が身体中にヨーロッパの知識をつめこんで帰ってきたという感じだった」
ところが、この“われらのパイオニア”は、帰国してから悲惨な運命にばかり見舞われる。高金利で営業していた「東山商店」は不況でトドメを刺され、一画学生が帰国したところで立ち直るすべもない。その整理にあたっているうちに父親が心臓|喘息《ぜんそく》で倒れる。
彼は家事の整理と父親の看病に追いまくられながら、帰朝第一作を描いて院展に出品するが、これはあっけなく落選ときまる。
その間に東山は結婚する。夫人になったのは美術学校の教授をしていた川崎小虎の娘である。この話は川崎家から出たもので、娘の方が「東山さんのところへゆきたい」といったそうだ。命をうけて山田申吾が東山に打診すると、「独身でいるつもりはない」という。そこで山田は加藤のところへゆき、「あいつは、これまで女性関係はないだろうか」と相談する。加藤は「十中八、九はないと思うが」と答えて、心あたりをシラミ|潰《つぶ》しに調査したところ、ついに東山が日本国内では完全に童貞であったことがわかり、二の句がつげなかったという。
東山は正式に川崎家から話があると、単身同家を訪れて、自分に放浪癖があること、兄が肺結核で若死にしていること、実家が整理に入っていることを、ぜんぶ話したものだ。が、このときの川崎小虎がなかなか立派で、東山の話を聞き終ると、「借金なんて絵描きにはどうでもいいことだよ。また、いまのその生活も、もう十年くらい続けないと、ものにならないね」といったものだ。
評論家になった方が……
ところが東山の運命は“十年くらい続く”どころではなかった。結婚して東京に新居をかまえる。神戸から母親が整理の手伝いにくる。その翌日、母親は軽い脳|溢血《いつけつ》で倒れる。
東山が神戸で負債の整理にあたり、四苦八苦したあげくどうやら目鼻がつくと、途端に父親が発作をおこして息を引きとる。これと前後して、学校を卒業した弟が結核で倒れ、|近江《おうみ》|八幡《はちまん》の療養所に入る……しかも、日本は非常時体制に入り、戦争への道を突っ走ってゆくのだ。
このような状態でも、描くものが画壇に認められ、社会で評価されればいい。が、東山自身がいうように、「私が絵描きとなった姿を、父にも母にも弟にも、つまり肉親の誰にも見せることができなかった」のだ。
東山が「日展」の特選となったのは昭和二十二年である。それまでは「描いては落ち、描いては落ち」の状態だった。ある評論家は「ドイツ留学が日本画に対するピントを狂わせたのではないか」といっているが、のちに中村岳陵について古画の模写から始めたことが東山の再出発になったとすれば、結城素明から受け継いだモダニズムが当時の画壇には適応しなかったともいえる。
ある画家は「東山君の絵は軽すぎたんだ」という。帝展の審査は、一枚の絵に五秒か六秒しかかけない。どこかにギクリとさせる主張がなければ、審査員の眼にとまらなかったという。
この沈滞期に東山は東京の阿佐ケ谷に住んでいた。隣組に軍神・加藤建男少将の家があった。あるとき友人が訪れると、東山は腕を組んで「僕は先生になった方がいいか、それとも評論家になった方がいいかもしれん」と|呟《つぶや》いたそうである。
同僚の加藤栄三、橋本明治はすでに華々しくデビューし、一家をなしている。東山は彼らに完全に出おくれた。昭和二十三年、日展内部に|叛乱《はんらん》がおき、「画壇の|覚醒《かくせい》をうながす」として、若手画家が「創造美術」をつくって脱退した。このとき加藤栄三も渦にまきこまれる形で加わったが、主謀者に「この運動の意味からいって、東山魁夷という、加えざるべからざる人物がいる」と主張した。すると幹部の面々、顔を見あわせて「そりゃ、一体、なにをやっている人物かネ」と|訝《いぶか》ったという話がある。日展特選の直後でさえ、このとおりだから、戦争中の彼が“鳴かず・飛ばず”であったのはいうまでもない。
千葉の素封家に間借り
千葉県の|下総《しもうさ》中山に中村勝五郎という|分限者《ぶげんしや》がいる。当主は幼名を正行、勝五郎を名乗って三代目。全国馬主会の会長で、持ち馬の数は三歳駒が五頭、四歳が十数頭、全部あわせると三十頭をこすという。本業は|味噌《みそ》・|醤油《しようゆ》の醸造業だ。
元禄時代まで旗本、大小を捨てて経営家になり、茨城・千葉を開墾してその領地からあがる上納米が一万石におよんだそうだ。家臣を持たぬ一万石だから、その|豪奢《ごうしや》な暮しは察するに余りあるが、いいつたえによると、たった一人で吉原の大門を閉めさせた(つまり吉原全体を一夜買い切った)男が三人も出たという。
中村家が終戦後GHQとわたりあって日本の古美術を防衛した話や、巣鴨のB級戦犯の遺骨が久保山火葬地に捨てられていたのを捨った話は、それだけで一巻の書になってしまう。東山魁夷との関係に即していえば、中村家は地方の|素封家《そほうか》が文人墨客を寄食させていたように、明治このかた、日本画壇と深い関係がある。渡欧するまえの藤田嗣治もこの家に居候をしていたし、当主の勝五郎が中学生の頃、門内の長屋に酔漢が居すわって、いつも酒を片手に絵を描いているので、父親に「あれは誰だ?」と聞いたら「岸田|劉生《りゆうせい》という男でそのうちモノになるだろう」と答えたというエピソードもある。
風景画がいいんですよ
東山は空襲がはげしくなると、|飛騨《ひだ》の高山に疎開した。妻の妹の婚家先に陸軍の技術将校がいて、その|つて《ヽヽ》で間借りができた。ときすでに、夫人の衣類や家財道具はことごとく売り食いにまわり、東山によれば「これ以上の貧乏はしようとしてもできない状態」になっていた。
東山は寝たきりの母を背負い、妻は夜具を背負って高山に入った。どう見ても|惨憺《さんたん》たる生活だが、東山の著書を読むと、この時期のくだりは自然と接触できる喜びを描いたものが多い。東山の妻もよくできた女性で、花好きの病母を慰めるため、山から|桔梗《ききよう》やツツジを折ってビール|瓶《びん》にさし、部屋に花明りを灯すことを忘れなかったという。
下総の中村勝五郎、この話を聞いていたく感激した。それよりまえ、東山とは同期の大須賀力が中村家と縁戚にあたり、その関係から加藤栄三が目をかけられて下総中山に呼ばれて住むようになり、以後、「六窓会」(昭和六年卒業組)の面々が中村家を訪れている。東山もその一人であった。戦争中、東山はこの家から柏の東部十二部隊に入っている。たまたま上京中、飛騨高山に召集令状が来たことを知らされ、疎開地に帰る余裕がなかったためだ。
戦後、熊本から復員した東山は、中村家の事務所の二階に住んでいた。中村の話によると、ある年の正月、東山が風景画を描いてもってきた。一同で眺めていたが、その画面に加藤が一羽の鳥をぴゅっと描いた。なんともいえない味が出たので、中村の父(二代目・勝五郎)が「東山さん、風景画がいいですよ」といった。それまでの東山は比較的馬や建物を描いていたという。中村の父が中村岳陵に東山をたのみ、それから東山は古画の摸写に精を出して、西洋画的筆致から回帰し、さらにもう一度、結城素明から伝えられた技法を開花させた……これが中村とその周囲が語る“戦後の東山魁夷”である。
技法的にはそうであったのかもしれないがこの原稿は美術批評をするのが趣旨ではない。ただ、東山はこの“下総中山時代”に入るまえに、母と弟をあいついで失っている。彼は、この別離の模様を『わが遍歴の山河』に書いているが、おそろしいほど抑制のきいた筆で、透明な表現になっている。
母親が亡くなる四、五日前に、喉頭結核で療養所に入っていた弟が訪れる。東山が「泰ちゃんが来たよ」と母親に告げると――
「母はもう前から視力が衰えた眼の上に始終当てていた手拭をとらせて、一寸弟の顔を見ただけで、又、すぐ布をかけさせてしまいました。もう余り口をきくこともなくなっていたのです。唯、一筋の涙が目尻から皺をつたって耳の方へ流れていました」
弟が帰ったその夜から母親の臨終がはじまる。葬式の日は風のつよい澄み切った日で、富士山が新雪に輝いて美しく見え、透明な空に母を焼く煙が消えてゆく。
東山は市川市に出て中村勝五郎の好意をうけながら、日展の第一回公募展のために作品を描くが、落選する。それがわかった日、弟が危篤だという|報《し》らせをうける。
このような経過で、東山は肉親の死を経験して妻と二人だけの生活になるのだが、人間的にもうひとつ成長する。
「私の精神は徐々にではあるが、生を把握する日がくるのを暗示しているようだ。全てが無くなってしまった私は、又、今生れ出たのに等しい。これからは|清澄《せいちよう》な目で自然を見ることが出来るだろう。腰を落着けて制作に全力を注ぐことが出来るだろう。又そうあらねばならない。こう考えた時に、私の眼前におぼろげながら一筋の道が続いているのを見出すのでした」
東山がこの手記を書いたのは三十九歳のときである。精神年齢からいって、人生に“|負《ふ》の価値”があることを体得する年頃だ。運命に押しまくられながら、その守勢の中に生きることの|貴《たつと》さを逆につかむ態勢ができる。
透かすと芯がある
新宮殿の大作「朝明けの潮」を完成した彼は、その骨休めに京都を歩いたが、例によってスケッチを続け、こんどは「京洛の四季」を発表した。展覧会が盛況なので、友人の一人が「よかったですなあ」というと、東山は「僕は喜怒哀楽に心の振幅をすくなくして、静けさをたもちたいです」と答えたという。
対象といっしょに燃えるのではなくて、自分の座標をきちっときめて、対象そのものを凝視しようという姿勢である。
彼が自然を凝視し、おびただしいデッサンを描くことは、もはや伝説的な語り草になっている。
たいていの画家は、気に入った風景に出あうと、パチパチとカラー写真を撮り、これを眺めながら描き上げてしまう。ところが東山は、何度も足を運んでから描き上げる。
三谷敬三(三渓洞社長)によると、東山は裏磐梯の風景を描きにいったとき、まず冬枯れの山を描き、それから半年まって、こんどは新緑の裏磐梯にいって、前の年に描いた枯木の山に葉を塗りつけて完成したという。三谷によれば「東山さんの絵は、透かして見ると、|芯《しん》が通っている」ということになる。
「朝明けの潮」のときも、彼は日本全国の海岸をあるきまわって、潮の流れ方や波紋の出来方をスケッチした。「弥生画廊」の小川敏夫が能登半島に同行したが、十一月の|霰《あられ》の中に東山は立ちつくし、ずぶ|濡《ぬ》れのまま|巌頭《がんとう》から海を眺めていたという。小川によると「東山さんのデッサンは色を入れて本画と同じものをこしらえてしまう」という。だからデッサンの保有量だけでも、美術商として換算すれば、そうとうな財産になるというわけである。
東山の絵にひとつの特徴がある。およそ“人物”らしきものが登場しないのだ。いや、人ばかりではなく、馬や猫のような動物もでてこない。そこで、「東山魁夷が人間を描けないのは、思想がないからだ。それがまた高級料亭の床の間に似合うゆえんだ」と批判する声がある。東山は答える。「私の絵に人間が登場する必要はない。風景の中に人間の心が入っているからだ」と。
東山は心象風景の密度を高めることによって、自分自身の存在を鮮明に打ち出そうとする。これは、すぐれたドキュメンタリイ・フィルムの製作方法と一致するところがある。ドキュメントを展開する過程で“私”をのぞかせず、事実の拾い方やその組み上げ方に“私”を主張させるのである。「私小説」における“私”が個我の確立を思わせながら、じつは“私”に|倚《よ》りかかって、制作の主体である“私”の客観視を放棄するのに対し、客観主義的な描写は、逆に“私”を事実との関係で吟味することによって、かえってつよい自己主張をとげる場合がある。
もっとも、客観主義を貫徹する人間は、私生活にかえると、|放縦《ほうしよう》そのものの態度を示すものである。ところが東山魁夷の個人的生活は、これまた画業と性質が似ているのだ。
彼は、前にも紹介したように、不遇時代にもほとんどパン画を描かなかった。下総中山にいたころは、米軍人に日本画の描き方を教えたり、教育学者の周郷博の世話で雑誌の|さし《ヽヽ》絵を描いたりしながら、中村岳陵の指導をうけている。
それでも若い時分の絵が何枚かあって、あるとき三渓洞の三谷社長が集めるだけ集めて東山のところに持ってゆくと、彼は新しい絵と交換し、それらの旧作を一気に燃してしまったそうだ。
流れにさからわぬ哲学
また、三彩社の藤本社長によれば、東山は自分の画集が出版されると、まず版元に原価を聞き、その原価が償われるだけ買いとって方々に献本するという。版元の方ははじめからモトがとれるので大助かりだが、東山にしてみれば、自分の画集によって“損得”という関係が生じるのを断ち切るわけであろう。
彼は少年の頃、淡路島で泳いでいて、波にさらわれたことがある。必死になってもがいたが無駄で、力を抜いて波にまかせると、うまく助かった。
彼はこれを“処世哲学”としているかのようで、社会の流れ・時の流れに沿ってゆくだけだといっている。つまり、自分の方からは打って出ないのだ。打って出るのは、絵を描くときだけである。
東山ほど、俗事を“よくつとめる”男はないという。会合には定刻どおり顔を出し、割当てられた仕事はきちんと片づける。中村勝五郎によると「三時の約束」の場合、ラジオの時報どおりに玄関の呼びリンが鳴る。出てみると必ず東山魁夷で、日本画壇史上これくらい|几帳面《きちようめん》な人もないだろうと断定している。
美術商たちは、彼の期日の正確さを挙げる。十一月一日にできるといったら、必ず十月三十一日に電話がきて「明日、どうぞ」といってくれる。“土牛のあさって”という言葉があるそうだ。奥村土牛はおよそ期日の守れぬ男で、いついっても“明後日には必ず仕上げます”という。明後日にゆくと、また“明後日”ということになる。土牛自身は悪気はなく、主観的には完成できると思っているのだ。
東山が国鉄と比較されるほど人生のダイヤを正確に動かしているのは、“滅私奉公”のように見えて、じつはその逆なのである。彼は自分の自然観照、絵の制作を|擾乱《じようらん》されないために、俗事を俗事の|埒内《らちない》で完全に処理してしまうのだ。
学者や音楽家にも、こういう人生手法をとっている者が多いが、たいていは俗事を鼻先であしらっている風が見え、自分は|悧口《りこう》ぶってもハタ目には“悧口馬鹿”と映る場合が多い。イヤ味でいんぎん無礼で鼻持ちならなくなる。
東山が同じような手法を使いながら、そうした悪印象をひとかけらもみせないのは、「生きる」より「生かされている」という哲学が精神的な地下水となっているからである。
中村勝五郎の母、サトは東山にこういったそうだ。
「これからは、あんたはもっと強い人にならなければダメよ。他人にたよられる人間になることよ」
東山を評して、あれは“愚直”に見えてじつは“賢直”だ、といった人がある。東山は、これから“愚直”と“賢直”の刃渡りを強いられそうだ。それがトップグループにいるものの宿命なのであろう。
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自由教育の家元・小原国芳

凄惨な進学戦争
世界は緊張緩和にむかって動いているというのに、日本の“進学戦争”はいよいよエスカレートして、もはや|泥沼《どろぬま》に入ったとしかいいようがない。
たとえば「日本進学教室」というのがある。小学生が中学受験のために通う“|塾《じゆく》”である。この塾に入るのがむずかしい。
小学四年生から「進学教室」に入るための受験勉強をはじめる。四年生で中学二年の学力を身につける。それも知識だけではだめで、二十分間という短時間で全問題を解答しうる“技術”が必要だ。ある教師はこういっている。
「子どもたちは、考えて答案を書いているのではない。そんなヒマはなく、問題を見た途端に反射的に解答を書きこめないといけない。――こうなると、彼らはもはや“解答マシン”と呼んだ方がよさそうだ」
マシンは機械であって人間ではない。だから、彼らの中には、特訓のためひとりで歩く力さえなくなって、母親に背負われてくる子もあるという。
これは一時的な現象とはいいきれない。もし、今日の学校教育制度がこのまま推移すると、より大量のマシンが生産されるだろうと思われる。
昭和四十年の総教育費は二兆四千億円だった。これが六十年には五十五兆円になるだろうと予想されている。ざっと二十倍の膨張である。あながち無理な数字とはいえない。
第一に所得水準があがる。
第二に父母の学歴水準があがる。昭和六十年に父母になるものは、現在の父母より高学歴化している。これが教育費をふくらませる大きな動因になる。ヨーロッパ社会では、財産家の息子でも、学力がないとわかると、高校程度で社会に出し、飛行機のパーサーとか洋服の裁断師とか、能力の方向に沿った職業につけさせる。が、日本では、なにがなんでもまず“学歴”なのである。
第三は、女子の学歴が高まること。第四は高学歴に対する社会の要求がつよまること。
以上のような動因が、子弟の進学率を高め、たとえば幼稚園で九五%、高校も九五%、大学で四〇%(大学院で一六%)になるだろうと見られている。こうなると、いわゆる名門校の稀少価値はますます上るわけで、したがって、受験勉強のためにひとりで歩けない子どもがふえても不思議ではなくなる。そのうち「中学生用歩行器」などが売り出されるかもしれない。
このような進学戦争が子どもの持っている個性や創造性とは、なんら関係がないことはいうまでもない。反射的な解答能力は反復による習熟であって、創造とは無関係であろう。しかも、彼らはつねに競争原理に支配されることによって、情緒の不安定な人間になり、自分につごうのよい結論を性急に求めようとする“短絡人間”に育ってゆく。この競争原理からはじき出された子どもは、もはや論理を構築してゆくことに興味を失い、情動的に行動する“|刹那《せつな》人間”になってしまうであろう。
ある京大教授から興味あることを聞いた。京都の北白川地区は、代表的な中産階級の住宅地であるが、この閑静な地域の学生は“ガリ勉型”か“全共闘”のいずれかであって、適当に勉強したり適当に遊ぶといった“中間型”はほとんど見られないという。
情緒不安定の短絡人間
今日の中産階級には家庭に二つの特徴がある。ひとつは家庭の型がなくなったこと、もうひとつは家庭にリズムが失われたことである。
かつての家庭では、子どもが父親の働く背中を見ながら育った。父親の職業を中心にそれとない“型”や“手順”が家庭内をつらぬいていた。中産階級にはそれがない。父親は家庭をベッドルームとしか心得ていない。
第二は、中産階級は日本の社会の“第一線”に働く階級である。交通や情報の高度化とあいまって、彼ら自身の仕事のリズムが失われつつある。出張や残業はもはや“日常業務”にさえなっている。このため、家庭内のリズムが失われ、子どもは母親の監視下にのみ|棲息《せいそく》するようになる。
こうした環境が、子どもの情緒を不安定にし、衝動人間を生産してゆくことはいうまでもない。しかも、この「中産階級」は戦前の社会構造では一五%内外であったが、今日ではまもなく七五%に達しようとしている。
「連合赤軍」のメンバーが中産階級の出身であり、しかも“国立大学”の学生であることは、けっして偶然ではない。彼らを“狂気の集団”として片づけることはたやすいが、それだけでは問題を指摘したことにはならない。あるいはまた、寒冷地における限界状況が事件を招いたという見方は、彼らが昨年夏から殺人を犯していたことを考えると、まったく成立しない。
日本の社会構造における「中産階級」の肥大化と、父母の高学歴による教育費用の増大は、われわれに|凄惨《せいさん》な進学戦争を予想させ、その戦争がもたらす青少年の荒廃を約束しているのではないだろうか。
その意味で、教育を“産業”としてではなく“思想”としてとらえなおす必要があるだろう。
しかし、明治以後の日本教育史をふりかえってみると、あの官学万能であった明治・大正期においてすら、一斉授業による詰込み主義への反省と批判が行なわれ、「自由教育」とか「新教育」とよばれる方法論が展開されていたのである。
この「自由教育」の旗手は全国各地に輩出したが、今日なお健在で学校教育を続けているものに、明治二十年生まれの|小原国芳《おばらくによし》がいる。小原は、周知のように、玉川大学の学長である。
七〇年夏、「日本デューイ学会」が玉川大学のキャンパスをかりて研究集会をもった。その帰りに、ある大学の教授が構内をひとまわりしてこういった。
「いまどきビラ一枚、タテカン一本見られない大学なんて信じられない。びっくりしたとしかいいようがない」
すると、もうひとりの大学教授がちょっぴり皮肉をつけ加えた。
「われわれもびっくりしたが、ここの学生が世間に出たとき、もっとびっくりするのではないか。それほど、ここは清浄すぎる」
その翌年の夏、「日本教育哲学会」がこの大学でひらかれたときも同じような声がきかれたそうだが、事実、玉川大学の構内には、例の「|《せん》」や「|《どう》」という“中国文字”を使ったビラも立看板も見当らない。ヘルメットをかぶって、マイク片手に、本人もよくわかっていないような演説をする学生の姿もない。ソ連や中国の大学を訪問すれば、こんな光景も珍しくないだろうが、日本の、しかも東京都ではいささか|狐《きつね》につままれた気持さえしてくる。
“教育参謀本部をつくれ”
しかし、この風景が小原国芳の“教育思想”の結実だといえないことはない。もっとも、彼は「玉川大学」をもって教育思想を完成させたのではなく、選挙に打って出て政治家になり「教育を政治の内側から改める」ことも考えている。これまでにも、一度、参議院全国区に立候補したが、善戦むなしく落選した。原因は、彼の出身地である鹿児島県で若いころの離婚|沙汰《ざた》を取り上げられ、思うように票が集まらなかったからだという。
小原の「教育改革案」は、まず「昔の軍隊に参謀本部があったように、同じような力の入れ方で教育本部をつくれ」から始まる。それから東大を大学院だけにして、学問をしたいものに開放し、全国の大学高専校を職業準備機関にしてしまう。そうすれば全国六千の高校は受験勉強をする必要がなくなる。それができないならせめて東大の入学試験に“相撲”をとり入れろという。受験生に相撲をとらせて、「貴ノ花みたいに根性のある|奴《やつ》から入学させろ」というわけだ。もちろん、これは冗談だが、思想は冗談ではない。いや、彼の教育家としての生涯を支えてきたのは、反東大、反文部省の“根性”であったといえる。
小原は鹿児島師範から広島高師に進み、さらに京都帝大文学部を卒業している。経歴からいえば、ものの見事に“官学コース”を通過したわけで、その彼が“反東大・反文部省”を貫いたのは、植民地の青年がイギリスやオランダの大学を出て独立運動をやったのと似ている。
もっとも、彼の“独立運動”が大正の“自由教育思潮”に乗ったことは否めない。したがって、彼の教育思想は戦前の天皇制とはなんら|牴触《ていしよく》しなかった。しないばかりか、教育勅語も読んだし、海軍兵学校に出向いて、求められるままに「教育改革案」も建策している。
小原によると、「六十年間教育界にいて、何千人という“校長”“学長”に会ったが、“あ、この人だ”と思ったのは小泉信三先生一人だけだ」という。なるほど、小泉信三と小原国芳には三つの共通点がある。
第一は、ともに官学反対の自由主義者であること。
第二は、頑固と思われるほどの“共産主義ぎらい”であること。小原にこんなエピソードがある。「日本万国博」に勇んで出かけたが、はじめから終りまで「ソビエト館」ばかり見ていた。同伴者が|呆《あき》れて、「なぜ、アメリカ館やフランス館を見ないのか」と聞くと、彼は「おれはロシアが大きらいだから見ているんだ」と答え、東京に帰ると幹部を集めて、「ほかは見ないでもよい。ロシアが子どもをどう教えているか、じっくり見てこい」と命令したそうだ。さらに徹底して、彼は大学院をつくる目的のひとつに「勇敢な反共闘士の育成」をあげている。
坂田文相と加藤東大総長
第三は、権力には|反撥《はんぱつ》するが権威には服すること。小泉信三が晩年は皇室の教育顧問になったように、小原は“国家”そのものには反撥していない。
東大紛争が長引いたとき、文部大臣の坂田道太と東大総長(代行)の加藤一郎が対立した。二人とも成城高校(旧制)の出身で、小原の教え子である。同窓生や先輩が奔走して、ある家に二人を呼び握手させた。加藤がピアノを弾き、坂田がドイツ語で|歌唱曲《リード》を歌ったという。この話を聞いた小原は、同窓会の幹事をつかまえてこういっている。
「どうだ。ひとりは文相、ひとりは東大総長だぞ。おまえたちボヤボヤしていると、二十年後の卒業生からこういう偉い奴は出てこないぞ」
自分自身は反東大・反文部省でとおしてきたが、東大総長や文部大臣はやはり小原にとって“偉い奴”なのである。したがって、今日の「玉川大学」に学生ビラ一枚、立看板一本も見られないのは、学生の完全自治が許されているのではなく、その反対に小原の“道徳教育”が浸透しているからである。じつをいうと、この大学には教職員組合もなければ学生の自治会もないのである。いってみれば、教職員も学生も“小原式エア・コンディション”から流れる空気を吸っているようなものだ。
彼が香川師範で教えた田尾一一(元芸大音楽学部長)がこういっている。
「玉川の雑誌『全人』に依頼されて寄稿したところ、編集部から“この文体は『全人』にあいません。小原風の呼吸とちがいます”といって来た。小原さんの特色がつよすぎて、いまや小原一色になってしまったのではないか」
それほどつよい個性だから、彼の教育思想は、今日まで生きのびたともいえるだろう。生け花にも『小原流』という家元があるが、小原国芳もいまや自由教育界の“家元”だといって差し支えない。
もっとも、この“家元”は伝統芸術の家元とちがって、はなはだ質素な暮しをしている。脱税をするどころか、玉川学園の建設のために四十六億円の借入金があり、年利五億円を支払うため、悪戦苦闘をしているのが実情だ。これは私学に共通の“悩み”であるが、小原の場合は「なんでも日本一」という思想が学校の経営状態に影響していないとはいえない。
「なんでも日本一」
この「なんでも日本一」は彼が本格的に自由教育をはじめてから一貫した思想なのだ。一例をあげると、成城中学のころ生徒たちのためにプールをつくったが、「日本一にしよう」と五十一メートルの長さにした。たしかに“日本一”になったが、折角のプールが公認記録用にはならず、試合はいつもよそのプールで行なったという。こういうトンチンカンな話は、彼のダイナミックな人生航路に、ふんだんにあらわれる。欧米の社会では“航跡のある男”( a man of awake )が珍重されるが、小原の“航跡”は|波瀾《はらん》万丈型である。それも自分で波瀾をひきおこしている恰好だ。
小原の自由教育が始まるのは、牛込の成城小学校から中学にかけてであるが、その|萌芽《ほうが》は香川師範の教員時代に見られる。
このときの教え子で、琉球美術研究の第一人者である鎌倉芳太郎がその模様を『日本新教育百年史』に活写しているが、それによると小原は一週二十三時間が平均時間なのに、「優等生のためには毎朝七時から」「劣等生のためには夕食後一週二晩」という特別授業をつけ加え、なんと四十時間も教えていたという。しかも、教材はリーダーから英語劇まで十種類におよび、とくに英語劇には力を入れて、「ベニスの商人」のシャイロックを教壇の上で熱演してみせたそうだ。このときの小原の演技からほとばしる英語が、どれほど生徒の身体にしみこんだかわからないと、鎌倉は述懐している。
いまどきの生徒なら逃げ出すか、「猛烈教師反対」のプラカードを立てるかもしれないが、小原の授業が当時の生徒に支持されたのは、彼が全日常生活を生徒の間に溶けこましたからであろう。彼はすでに妻帯していたが、妻を実家におき、給料はあって無きが如くで、大量の本を買いこんだ残りは生徒との飲食にほとんど費消している。香川師範に二年ほどいて、小原は京大に進学するのだが、そのとき菓子屋の借金が当時の金で二百円になっていたという記録さえあるのだ。
鎌倉芳太郎は香川師範から東京美術学校に進み、正木校長のすすめで沖縄師範をえらび、そこで屋良朝苗を教えている。屋良は小原の“孫弟子”に当るわけで、小原によれば「左翼に担がれたりするなと叱りつけた」そうである。
この香川時代に、彼のもうひとつの特技があらわれる。生徒の姓名を完全に覚えることだ。鎌倉は級長をしていたので「右大臣」とよばれた。どこであっても、小原は「オオ、ウダイジン、元気かね」と声をかけ、そのたびに鎌倉は「初恋に似た|羞恥《しゆうち》と感動を味わった」といっている。教室に入れば「佐藤」「井上」ではなく「イッちゃん、どうかね」「トクさん、これはどうだ」である。
この特技は「玉川大学」の父兄にまでおよんでいる。生徒をつかまえて、「キミのお父さんは○○産業の専務だったね」はまだいい方で、キャンパスの中で母親に会うと、「おや、△△さん、あなたはお会いするたびに美しくなるじゃありませんか」と|挨拶《あいさつ》するのである。これで△△夫人はバッタリとまいってしまうのだ。
「全人教育」を発表
小原の教育思想は大正十年に発表した「全人教育」で、これは生徒の知・情・意のすべてを総合的に開発することを至上目的としているが、そのまえに教師と生徒との濃密な人間接触があることは見のがせない。これがのちに、彼が採用する“ダルトン・プラン”(後述)の成功の前提となっている。
後日談になるが、香川師範を卒業して十五年目に、鎌倉芳太郎が結婚費用を借りにいった。そのとき小原は成城学園の主事をしていたが、鎌倉の顔を見ると「おお、右大臣か」と迎え入れ、昭和四年の金で五百円をポンとわたし、「タダではやらんよ。相良徳三が西洋美術史を書いているから、君は東洋美術史を書きたまえ」といった。鎌倉が恐縮して、「本は書かせていただきますが、とりあえず借用書を」というと、小原は「そんなものどうしているんだい」とケロリとしていたそうだ。こんなふうだから、何回か|欺《だま》されるし、人を見る眼に|脆《もろ》さがつきまとうが、これが小原の教育者としての|真骨頂《しんこつちよう》でもあろう。
京大哲学科を出て、広島高師の附属小学校に勤めている。大学院にすすむコース、京都女子師範の教壇、それにこの高師附小の三コースがあったが、「高師附属から三顧の礼をもって迎えられた」と小原はいっている。ところが、それにしては冷遇気味で、小原は当時“離れ座敷”といわれた高等科を受け持たされた。
大正七年八月のことだ。新教育思想の花盛りである。小原は|切歯扼腕《せつしやくわん》している。高師の附属小学校は授業の“師範モデル”が出せるところで、それだけに参観人が毎日のようにつめかける。しかし、それも尋常科一年から六年までで、法制上やむをえずつけた高等科は視察の興味をひかないのだ。
修身の時間に心中物語
当時、最も多く参観人をあつめたのは友納友次郎(友納前千葉県知事の父)の作文である。京都・伊勢を東限にして、“|西《にし》”とよばれる広島高師の勢力圏から毎日のように参観人がつめかけた。ところが、小原のところには誰もこない。「そんなバカなことがあるか」と怒った彼は、女子生徒の修身の教材に“お染・半九郎”の心中物語をえらび、「これほど人間相愛の真・善・美の極致はない」と得意の弁舌にのせた。これが大評判となり、彼の教室にも参観人がつめかけたという。
このエピソードの意味は、小原国芳を幾重にも物語っている。
当時彼は、娘までもうけた妻と離別して、二度目の妻を迎えようとしている。最初の妻は、彼が養子に入った|鰺坂《あじさか》家の娘である。
小原の生家は父親が病弱のうえに子どもが多く(七人兄弟、国芳は三男)、赤貧洗うが如きものがあった。国芳は十一歳のとき母に死別し、その二年後に父親も|喪《うしな》っている。生来、頭脳|明晰《めいせき》、行動的でもあった彼は、中学進学を断念するかわりに通信技術養成所に入り、のちに大浜電信局に配属されて、日露戦争で信濃丸が打電した「敵艦見ゆ」の電波を傍受している。鹿児島師範に進む段になって鰺坂家に入るのだが、小原によると「娘まで|貰《もら》うという約束はなかった」そうで、当時の事情からいえば“意志のない結婚”をしたという。
この結婚は高師附小まで続くが、同時に小原は教会でオルガンを弾いていた牧師の娘に愛情を覚え、鰺坂家には妻と娘の扶養料(三千円)をおくることを条件として、再婚に踏み切ろうとしている。したがって、お染・半九郎の心中物語に、「男女相愛の極致」を説いたことは、かなり彼の具体的な感情が裏打ちされていたとみられている。
彼の離婚は「教育者にあるまじき行為」として、広島や鹿児島で|喧伝《けんでん》され、ことに広島では市内の電柱に“小原|糾弾《きゆうだん》”のビラまで|貼《は》られている。また、広島高師の恩師である西晋一郎(倫理学)もその講義で「教職員の恋愛」をひき、小原を名指しで非難したものだ。小原はこの硬直した倫理観に真向から反撃を試みたわけだが、もうすこし深くたどれば、小原の中に教職員を“聖職者”とする意識の否定があったのだ。この“聖職者意識”は、児童と接する場合に“|衝立《ついたて》”となってしまう。ことに自由教育では、学習するのは児童であり、教師はその補助者という立場に立つ。したがって教師は、なによりもまず、人間に通じていなければならないことになる。
この一件のあと、小原は沢柳政太郎に招かれて成城学園の創設に当るが、このとき、新卒の教職員を採用するに際して、その面接試験の第一問に「君は女は好きか、恋愛したことがあるか」ときいている。若い大学出が答えられずにモジモジしていると、小原はこういった。
「なんだ。勉強していただけのことか。ぼくは女を愛して鰺坂家を出たぞ、どうだ。君は教師になったら、子どもと恋愛しろ。それが教師というものだ」
もし、受験者が「女ですか、女なら大好きです」と答えようものなら、小原は破顔一笑、「よし、採用決定だ。隣りの部屋に入って家の設計図を見てこい。君が大学を出るころには家が出来ている。月給四十五円、家賃はいらんぞ」と叫ぶのである。
“ひまわりのような男”
小原には自分に“脚光”をあてる演出のうまさがある。小原を“ひまわりのような男”とたとえた教育家がいる。つねに頭角をあらわし、大輪で華やかで、生気にあふれている。そして、かならず|陽《ひ》の当る方へ顔を向けている、という意味だ。彼が教育者として失意のどん底に|陥《お》ちたのは、戦時中の「興亜工大事件くらいなものだろう」といわれている。手短かに説明すると、小原はこの事件で巣鴨拘置所に六カ月間勾留されている。玉川学園を大学に昇格させる近道として、興亜工大という姉妹校をつくり、文部省に申請した。文相は橋田邦彦である。当時、日大も医学部を設置すべく運動したが、検察庁の調べで日大から文部省に五十万円という金がばらまかれていたことが発覚した。橋田文相は検事総長にかけあって、この事件を|闇《やみ》から闇に葬ったが、おさまらないのは担当検事である。ほかにもあるだろうと、洗ってゆくうちに、玉川学園が興亜工大を申請中で、その窓口にあたる係員に贈賄しているという事実をつかんだ。小原によれば、あまり手続が|煩瑣《はんさ》なので、書類の作成を頼みっぱなしにし、夕食代として二円とか三円進呈していたのが悪かったという。贈賄といっても残業費のようなもので合計して千五十円である。
余談になるが、「小原国芳ひまわり説」は別として、「彼と五分間話したらその魅力の|虜《とりこ》となる」ともいわれている。香川師範時代、高松の下宿の女主人にたよりにされ、住居をかえるとその女主人が娘をつれて転がりこみ、一時は鹿児島から来た妻と、妙な“四人暮し”をしていたと、彼自身が自叙伝に書いている。女性ばかりか男性の間にも熱っぽい崇拝者がかなりいる。苦労人が持つ親和力であろう。私と会った小原は、音吐朗々として|懸河《けんが》の弁をふるい、ゆうに四時間を超える“ひとり語り”を続けたものだ。その大半をメモして活字記録を照合してみると、数字も年代も固有名詞も、どれひとつ狂っているものはなかった。語り慣れた話でもあろうが、八十五歳にしてこの博引|旁証《ぼうしよう》、博覧強記の様は、|鱗《うろこ》の生えた怪物教師を思わせる。
さて、小原がいよいよ自前の“全人教育”を発揮するのは、大正八年十二月、成城小学校の主事に招かれてからである。
これは沢柳政太郎の招きに応じたものだが、沢柳というのも傑出した人物で、最初、成城中学から“校長に”と要請された。成城中学は閑院宮や早川雪洲が学んだ学校だが、校風は|朴訥《ぼくとつ》、ついには陸軍士官学校の“予備校”のような存在になった。そのため入学者が減少し、経営が危機に|瀕《ひん》したとある。
小学教育の充実こそ国の力
ところが沢柳は、「いまさら中学校には興味がない。小学校の校長ならやってみたい」と答えたという。彼は、そのときまでに、文部次官、東北大・京大の両総長、帝国教育会長など、“長”のつくものを二十八やってきている。教育界の大御所だ。それが「小学校の校長なら」といったのは、さすがに|慧眼《けいがん》である。この発言の真意は現代にも生きていよう。いや、生かされねばならないであろう。小学校教育の充実こそが、ほんとうに国の力を養うことになるのに、現代の教育制度ではその配慮に欠落するところがある。
一例を挙げる。待遇問題である。小原の時代に即していえば、大正十二年の師範卒で、初任給が四十八円である。独身なら充分にやってゆける。昇給は一年に二円か三円だ。問題は「恩給」である。
勤続十五年をすぎると、小・中学校教師は一年ごとに、俸給の百五十分の一が加算された。一方、高等学校の教師の加算率は三百分の一であった。だから、退職時になると、師範出身の“訓導”も大学卒の“教官”も、恩給額に差がつかなかった。したがって、小・中学校に“人材”が集まった。一生を教壇に捧げられるだけの余裕もあった。
いまはちがう。戦後の改革で、この小・中学校教員の特典が廃棄された。高校教師よりも低くきめられている。
このほか「教育実習」が戦前は一学期間(四カ月)なのに現在は「三週間」、これでは「学校管理」の方法や「教育環境の整備」まで身につけることはむずかしいであろう。
沢柳に招かれた小原が、高師附属小学校を一年ちょっとで後にしたのは、「京大卒」という学歴が先輩や同僚教員のやっかみを受ける一方、後輩や高師の学生から“輝ける星”として仰がれ、心情的に疲労したからだという説もある。小原はそのことを一行も自叙伝に書いていない。沢柳に“白羽の矢”を立てられたことを感泣している。
沢柳は小原に「給料は一本だ」といったらしい。小原は「一本とは百円なり」と心得て、妻に「三越にいって帯でも買ってこい」と気前のよいところを見せた。妻も妻で、さんざん買いものをしてきたが、沢柳のいう一本は五十円のことで、小原は三越の支払いにかなり苦労している。
沢柳がはじめた成城小学校は、生徒に登山帽子をかぶせ、ランドセルを背負わせ、長ズボンを禁止して半ズボンにした。今日では一般化しているが、当時は「児童の行動を活発化するため」の革命的服装であった。おそらく、これが半ズボンとランドセルの|嚆矢《こうし》であろう。
佐藤瑞彦(元・自由学園主事)によると、沢柳の教育思想は、「学問|を《ヽ》教えるのではなく、学問|で《ヽ》教える」ということに尽きる。「学問|を《ヽ》教える」のは大学に入ってからである。小学校の段階では、「手工で教える」「図画で教える」。さらに児童が教室で失禁すれば、その「小便で教える」のが教育というものだ。
この小学校を発展させて成城学園を創設する。これは、ほとんど小原の仕事である。沢柳が太平洋会議でハワイに滞在中のことだ。小原は住友本社の臼井定に資金を出してもらい、成城に土地を買って父兄に分譲し、その利益で学校を建てた。この手法は玉川学園を創設するときも同じである。一方で不動産業をやりながらその利益で学校経営を|賄《まかな》っている。小原自身も「私は土地分譲のセールスマンも兼ねている」と述懐しているが、後年、興亜工大が“経営放漫”の故をもって小西重直の手に移ったとき、小原はこの京大時代の恩師を「あのひとには|乞食《こじき》の真似ができないから、学校の経営は不可能だ」と、いいあてている。小原によれば、アメリカの学長には“パブリック・ベガー”という異名があるくらい、寄付金や経営資金の調達に苦労するものだが、帝大出身者は他人にアタマを下げたことがないからダメだというのである。事実、小西の興亜工大は昭和二十一年の出火をきっかけに経営がゆきづまり、川島正次郎の手に渡って、「干葉工業大学」に変身している。
小原は成城学園を開設すると、自由奔放な教育家や教育手法を導入した。この教育がいかに在校生にとって快適なものであったかは、三十数年を経た今日でも数々の“語り草”になっている。
「目標、永遠の彼方」
この理由をたずねてゆくと、結局、教師に突き当る。小原の集めた教師には、音楽では「城ヶ島の雨」の|梁田貞《やなだただし》、絵画では正宗得三郎、演劇では奥村博史(平塚らいてうの夫)、学校演劇の斎田喬、体操は三橋喜久雄という顔触れである。
鰺坂二夫(元・京大教育学部長)がおもしろい経験をしている。中学二年まで鹿児島にいて、三年から編入試験をうけて入った。
まず、音楽があるのにおどろいた。教室に入ると、梁田が「きょうはサンタルチアを歌いましょう」といった。鰺坂は「|惨《さん》たる血や、とはなんとすごい歌だろう」と思った。梁田がピアノを弾きながら、かつて耳にしたこともないような声で歌う。びっくりしていると、「あなたもお母様に貰った声のまま歌いなさい」といった。
体操・生理学の三橋喜久雄は空が晴れていると「きょうは屋外授業だ」と飛び出した。整列させて「気をつけ!」をかけ「礼!」という。生徒がペコンと頭を下げると「待てッ」と声をかけた。
「男と男が礼をするときは、お互いの眼を見合うものだ。それが男どうしの礼だ」
そういって、ひとりひとりの眼と視線を結びあった。それから「|駈《か》け足!」と号令し、「目標、永遠の彼方!」と叫んだという。
教育の方法論の手前に教師の人格論がくる。これが成城卒業生の回想である。小原がそのように教師をあつめている。
だから「ダルトン・プラン」が可能だったわけである。この教育方法は、アメリカの教育学者パーカスト女史がシカゴの傍のダルトンで創始したものである。
信頼が個性を読みとる
一斉授業をやらず、生徒に自学自習させて、教師はそれを手伝ったり点検したりする方法である。つまり、教師は生徒ひとりひとりに対面し、その個性に応じた教材を与え、進度をチェックしてゆく。だから、教師と生徒の間に信頼関係が前提となる。これがなければ生徒の個性は読みとれない。当然、教師には猛烈な負担がかかる。小人数でなければとてもできない。
成城学園では、しかし、この「ダルトン・プラン」を採用していた。生徒は各自が「進度表」をもち、ときどき教師の前に「テストして下さい」と申し出る。テストに合格すれば、興味の赴くままに、どこまで進んでもかまわない。中学二年で微分や積分に突入する生徒も出る。
そこで「|超《と》び級」という制度が公然化していた。東大総長の加藤一郎、興銀頭取の正宗|猪早夫《いさお》、外務省参事官の柏木雄介、お茶の水女子大教授の柳田為正等々、超び級の“秀才”を挙げたらきりがない。新記録をつくったのは、阿部寛光という農林次官の息子で、中学で飛び高校で飛び、東大法学部に半ズボン姿で入り、二年のとき高文を三番でパスし、十八歳で卒業したものだ。もっとも「才子薄命」の例に洩れず、肺結核で|夭折《ようせつ》したが、死の床から細い腕を出して駈けつけた小原の手をにぎり、「小原先生」とひとこといって落命したという。
もっとも、この“東大秀才組”が輩出したのは、成城が開設されて数年たってからである。しかも、これらのエピソードは小原には自慢の種だが、自由教育を語るにはふさわしくないように、私は思う。
むしろ、創設期の話がいい。成城中学で「ダルトン・プラン」を受けた生徒たちは、小原の奔走によって成城学園が七年制高等学校になったのを幸い、そのまま高等科に進む。ひとつには、父兄から「高等科をつくるように」との熱望があったためだ。
ところが、高等科の第一回卒業生は大挙して東大を受験し、全滅するという悲喜劇がおこるのである。文学部の印度哲学科は定員をこえること二名であったが、その“二名”に成城からの出身者がぴたりと入っていたそうだ。
「東大全滅」という成果
この「第一回生全滅」こそ自由教育の精華というべきであろう。事実、このとき|新渡戸《にとべ》稲造博士は「一高に入るか、しからずんば、成城にすすめ」と|喝破《かつぱ》しているのである。
この全滅現象は「ダルトン・プラン」の当然の帰結である。なにしろ生徒の自学自習にゆだねられているから、興味の|湧《わ》かない科目は本もあけないということになる。
数学の天才がいた。小原は「百点満点なんてバカらしい。百五十点という答案もあるはずだ」といっているが、その天才はまさに百五十点の答案を連続的に書いた。ところが卒業をひかえたある日、彼は友人にびっくりした顔できいたものだ。
「キミ、豊臣秀吉ってどんなヤツだい?」
つまり純粋に「ダルトン・プラン」を推進すると、こういう結果になるのである。だから、「東大全滅」は理の当然というべきだが、これにはさすがに学校当局も父兄もあわてた。高等学校である以上、「東大入学率」がひとつのメドになり、「全滅」では程度のいい生徒が集まるまいとの不安が募った。
そこで古谷綱正(TBS解説委員)が在学したころは、一斉授業も加味され、少しは“東大入試”を心掛けるように変っていたという。が、それでも校風は自由で、森暁(日本冶金社長)のように一日じゅう馬小屋にいたり、大岡昇平のように学校にはほとんど顔を出さないものもあった。
小原は、成城学園のそのような“変身”に|厭気《いやけ》がさし、「わが理想にあらず」という言葉を口にして、新しい、というより彼の教育思想の原点に立ち戻る動きをはじめる。それが「玉川学園」である。
彼は「講演成金」とか「印税成金」といわれるほど、各地を講演したり本を書いたりして、そうとうな収入をあげているが、これをすべて「玉川学園」の創設に投入している。
しかし、これだけで三千万坪からの土地が買えるわけがない、金主を群馬師範出身で講談社の社長の野間清治に仰いでいる。野間は小原の申し出に「ああ、いいでしょう」と請われる額をひきうけた。
昭和四年、いわゆる“成城事件”がおこる。小原が成城の金を一時的に玉川学園に注入したのを、叛乱軍が追及、背任横領で訴え出たのだ。この叛乱軍の謀議を、小原の愛弟子であった鎌倉芳太郎が、偶然にも伊豆の蓮台寺温泉で聞いている。
蓮台寺の謀議
鎌倉はそのとき伊豆長八の取材に下田に渡り、蓮台寺温泉に投宿した。その夜、同じ宿で議論する声があるので、耳をかたむけると、これが「小原追放」のプランであったという。おどろいた鎌倉は、早速、帰京してこのことを当時成城の教官であった柳田国男に告げた。柳田はそのとき「これが公然化するとたいへんだから黙っておいで」と、鎌倉の口を封じたという。
検事局の調べの結果は、「成城学園の経理の放漫なことは認められるが、小原国芳が私財として着服した|痕跡《こんせき》はまったくない」と、小原の“白”を立証した。
しかし、小原はこの事件ですっかり厭気がさし、「玉川学園」の経営に全力をあげるようになる。ここで、彼が最初にとり入れたのは“塾”の思想である。松下村塾はもとより、広瀬淡窓のひらいた「|咸宜《かんぎ》園」の“三奪主義”(身分・学歴・年齢を奪う)も思想としてとり入れている。
彼が、玉川で「一斉授業はやるな」「授業参観大歓迎」から出発したことはいうまでもないが、教師たちに「学びつつ教える」態度を要求したことは、教育の原型をとらえたものとして評価されてよい。
小原は、高等部の教師に「中学の教室を見ること」を要求し、中学部の教師には高等部の授業を参観することを命じている。
このほか、彼は「通信教育」をはじめたが、これは慶応大学のそれと並んで最も信頼を集めている。この「通信教育」にも同窓会(芳友会)があって、会員はすでに三千人に達している。現在、教育を受けているものは三万人で、植木泰雄(新高原中学校長)によれば、受講者は「上級資格を取得したいもの」「大学在学中に教職単位をとっておらず改めて教員資格をとりたいもの」に大別されるという。
教師の再教育
この三万人のうち、毎年五千人が夏のスクーリングに参加し、中央のホットな教育情報と専門的技術を身につけてかえる。この期間は小原も参加し、いっしょに風呂に入って、背中を流しあいながら地方教育の実情を聞いているという。
小原は「ダルトン・プラン」を復活させると同時に、一方では“先生づくり”のための教師再教育もすすめているわけである。
「ダルトン・プラン」の方は、成城時代のように純粋率直な形で採用されてはいない。うまくいっているようだが、ある公立高校教師によると、このプランの|うま味《ヽヽヽ》がわかるのは、教員生活になじんで教師と生徒の関係がつかめるようになってからだという。
佐藤瑞彦によると、公立学校の教師でこのプランを強力に推進した一人に、岩手県の菅原隆太郎がいる。このプランは、教材の“本代”にそうとう金がかかるが、菅原はこれを自費で賄ったという。そのかわり、生徒の方には「砂に水が|浸《し》みこむ」ように、学習力がつくそうである。
小原の「ダルトン・プラン」と「先生づくり」は、たしかに車の両輪をなすものであり、教育戦略としては間違っていない。
しかし、学校経営とこれがどこまで共存できるかとなると、それはこれからの問題である。私大の経営は、ひと口に「五千人」を採算点としている。それ以下であると、そうとうな授業料や入学金をとらないかぎり、赤字になる。
ひと口に「五千人」というが、この人口を“進学”や“就職”にダイレクトに結びつけず、“学問”に結びつけるにはなにが必要であろうか。
この課題は、同時に小原の説く「全人教育」や「労作教育」が、高度に発達した産業構造に適応する人間をつくりうるか否かにもかかってくる。
小原ほど「日本一」「世界一」が好きなものもいない。この点では亡くなった平凡社の下中弥三郎といい勝負である。小原は鹿児島県久志町(現・坊津市)の出身だが、ここは柳田国男が「|椰子《やし》の実の流れつくところで、文明の発祥地だ」といったと、だいぶ|嬉《うれ》しそうである。
また、玉川の地は“秋吉台の聖者”で知られた本間俊平が、「この地は筑波山と丹沢山に囲まれた、光かがやくところの学都である」と宣したとあって、これも自慢の種にしている。
じつは、玉川の前に、|溝口《みぞのくち》に大きな土地があって、小原は買収にかかろうとしたが、「世界に紹介する際に川崎市の玉川大学ではいかにもとおりがわるい。やはり東京でないといけない」と思い直し、玉川に乗りかえているのである。
小原を評して後藤新平・出口|王仁三郎《わにさぶろう》につぐ、日本で三枚目の大風呂敷という向きもあるが、現代のような教育危機には彼のような超|弩級《どきゆう》の風呂敷も必要であろう。その包みの中から、取るべきものを探すのは、われわれの問題意識でもある。
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文壇の“国際銘柄”・井上 靖

八月十五日の報道部
暑い日だった。焼跡にポツンと残った毎日新聞大阪本社の内部は、夏の|午《ひる》下りの白っぽい光に囲まれて、人々の動きや書類戸棚が影絵のように見えた。
終戦の“玉音放送”がおわると、編集局内のあちこちに、四、五人の小さな|塊《かたま》りができて、ひそひそ話がいつまでも続いた。どの集団も声の高さは同じで、そして笑い声は絶対にあげなかった。
いくつかの影絵の林の中で、真っ白なシャツを着た記者がせっせと原稿を書いていた。昭和二十年八月十五日の、大阪の町と民衆の表情を、男はザラ紙に鉛筆をこすりつけるような調子で書きつらねた。新聞記者としては、二度と遭遇することのない、歴史的な時間の記述者となったわけだが、この男はみずからその仕事を買って出たわけではなかった。
八月十五日の報道部デスクは、井上靖という学芸部出身の記者に割り当てられていたのだ。井上の「玉音・ラジオに拝して」という記事は、翌十六日の朝刊の社会面を埋めつくした。
「……日本歴史未曾有のきびしい一点にわれわれはまぎれもなく二本の足で立ってはいたが、それすらも押し包む皇恩の偉大さ! すべての思念はただ勿体なさに一途に融け込んでゆくのみであった」
この報道部デスクが今日の“作家・井上靖”になろうとは、編集局内の誰一人、想像するものがなかった。いや、井上靖自身が、その当時は作家の道に入ることを考えていなかったのである。年齢もすでに三十八歳をすぎている。
評論家の臼井吉見は、大正期や昭和初期の作家には紅露・白樺・秋声などの手本があるが、戦後の作家は徒手空拳で起ち上った、と指摘しているが、井上靖や松本清張などはさしずめその典型であろう。そして、徒手空拳ながら、二人とも日本文壇史にひとつの原型を残した点でも共通している。
実力者とは、その時代あるいは社会に、のっぴきならない影響を与えた者をいうが、ことに彼の出発点と到達点の格差が大きければ大きいほど、時代や社会のうける影響も深いものがあるように思われる。
井上靖の文壇的地位は、かけがえのない原型を残したという証言で充分であろうが、なお世俗的なモノサシで表現してみるならば、文学に与えられる賞という賞をほとんど取りつくしていることである。
『闘牛』で芥川賞。
『天平の|甍《いらか》』で芸術選奨文部大臣賞。
『氷壁』で芸術院賞。
『楼蘭』『|敦煌《とんこう》』で毎日芸術大賞。
『淀どの日記』で野間文芸賞。
『風濤』で読売文学賞。
『おろしや国酔夢譚』で日本文学大賞。
この業績からみると、井上に残された褒賞は「文化勲章」と「ノーベル賞」の二つになってしまうわけだが、学芸記者や小説編集者の間には、その可能性はかなりつよいという空気がある。
手堅い野球監督
私が、この“実力者”に興味を持つのは、井上がその出発点と到達点との大きな格差を、わずか十数年という短い歳月の間に築いたことである。
井上靖が「闘牛」で文壇に登場したのは四十三歳のときである。彼は、この年を「作家年齢一歳」として計算し、生理年齢と作家年齢とが壮年期でほぼ一致するのが理想的だが、自分の場合はかなりズレているので、これからの十年間(作家年齢における壮年期)に人生の結論を書いてみたい、そのためには文学以外の表現芸術に接することも文筆家としてのサービス精神も、すべて切り捨ててゆこうといっている。
彼が、みずからいう「最後の十年」に|賭《か》けるのは、あながち生理年齢の限界がくるという理由からではない。
わずか十数年の作家生活で、文学史上にも世俗的にも確固とした位置を占めたことは、いいかえれば文筆に携ってからの一年間の密度がきわめて高かったということになる。
つまり、実力者の影響を測る方法として、現在の業績をそこに到達するまでの歳月で割ってみると、一年ごとの密度、すなわち社会にあたえた影響の深さがえられるわけである。
井上の旧友である小谷正一によれば、井上は「芸術院会員と詩人との距離を、きわめて知的な歩幅で測れる作家」であり、彼の文壇進出のペースを見ていると、手堅い野球監督が走者を一塁から二塁、二塁から三塁、三塁から本塁へと進めるような|按配《あんばい》だと評している。これは、小谷の鮮明な眼を思わせる批評だが、一塁への出塁を芥川賞、一塁から二塁までを「身体に|鞭《むち》打たれるような多作」にたえたこと、二塁から三塁までを各種の文学賞と芸術院会員、というふうに区分してみると、三塁から本塁突入までが「これからの十年間」ということになるわけである。
井上における一年平均当りの密度の高さは、小谷のいうような冷静な歩幅に支えられたのであろうが、同時にその密度は井上に人間が生きるということのすさまじさ・おろかさ・むなしさを濃厚に感染させたにちがいない。
井上によれば、外も漱石も藤村も、|所詮《しよせん》は「人生とはなんぞや」を求める文学であったが、いずれも最後は「わからぬ」ところで幕を閉じている。つまり、人生への疑問そのものと“抱合い心中”しているのである。
結論というか、一応のピリオッドを打って見せたのは、谷崎潤一郎ひとりで、谷崎は「|瘋癲《ふうてん》老人日記」の中で「老人ってこんなものです」「死とはこんなものです」と投げ出してみせたが、そのピリオッドにどれほどの重さがあるかとなると、|戸惑《とまど》いを感ぜざるをえない。
井上は、これからの題材を記紀・万葉集の人間、アイヌ民族、富士山系にある民話などに求めようとしているが、これらの資料山脈から発掘される人間は、おそらく|性懲《しようこ》りもなく今日も歩き続けている人間たちと同心円の存在になるであろう。したがって、これまた、むなしい風に押されて生き続けているのであるが、むなしいからといって歩くことをやめれば、ついに爪跡すら残らないという存在でもある。
あるとき、小谷が天井に達する本棚の作品集を見て「ずいぶん書いたものだな」というと、井上は真顔で「なに、二万年の流れからみれば砂粒のごときものさ」と答えたという。
井上の文学には、人間の営みを無限大のモノサシで測ってみて、その計測に堪えるものに価値を認めるという姿勢が一本つらぬいている。彼は、この見方を自分自身にもあてはめざるをえないのだが、その結果、自分の営みがむなしいものとわかっても、こんどはそのむなしさにそそのかされて書かざるをえなくなるのだ。
締切り日のない作家
戦後の企業には、固有かつ独創的な技術を開発して市場を拡大し、短時日の間に一流銘柄となったものがある。これらの企業は、戦前の財閥系企業とちがって伝統も人材も乏しいから、到達した水準は自分で維持せざるをえない。そのためには絶えず技術や市場を開発せざるをえないわけだが、その不断の緊張感が新しい眼をひらかせ、その企業をさらに前進させることになる。
井上靖の作家生活には、多分にこの新型企業と似ているところがある。
企業の実力を測るのに“解散価値”から眺める方法があるが、井上靖の解散価値を生命保険で使われているホフマン方式で眺めると、日本文壇の中でも超一流の価値になるのではないかと思う。
第一に文学的固定資産がぼう大なことだ。
彼には「長編ロマン」(『猟銃』・『氷壁』など)「社会派小説」(『闘牛』・『黯い潮』など)「西域小説」(『敦煌』・『崑崙の玉』など)「自伝小説」(『しろばんば』・『月の光』など)の四つの系統があるが、これらはいわば文学のコングロマリットであって、欠けているものは「思想小説」くらいなものである。これらの固定資産は、毎年、文庫本とか作品集という形で利子を挙げている。
作家的生命を健康と先見性にわけて考えると、健康の方はいっしょに入浴した足立巻一(詩人)や福田宏年(文芸評論家)が「土方のように引き|緊《しま》った身体をしている」と口をそろえていっている。
彼の健康法は杉道助が|遺《のこ》していったタマネギのスライスを三杯酢で食べることだが、これはじつは気休めみたいなもので、彼の頑丈な|体躯《たいく》は旧制四高時代に柔道をやったことが基礎になっている。柔道は四段だが、一年後輩の竹林八郎(東急土地開発社長)によると、井上のは「立ってよし寝てよし」の技巧派で、試合では“抜き役”専門であったという。
毎日の記者時代、酒癖の悪いのがいて井上にからんできた。井上は苦笑しながら|捌《さば》いていたが、その男が腕力を|揮《ふる》った途端、きれいに技をかけたところ、男の身体は宙を舞って|爪先《つまさき》が天井の羽目板を|擦《こす》ってから落下したという伝説さえある。
二年ほどまえ、『おろしや国酔夢譚』の取材に中央アジアに出かけたが、彼はどんなにまずい料理でも平気でたいらげ、夜になると同行の加藤|九祚《きゆうぞう》(上智大講師)と酒を飲んだうえ、取材の成果を大型ノートに書きうつす作業を怠らなかったそうだ。これは井上の忍耐強さにもよるが、それとて体力がなければできる仕草ではない。
先見性についていえば、彼は今年から「締切り日のない作家」の地位を獲得している。これはサービス精神とは対極点にある地位で、井上の文学的締切り日がマスコミをリードすることになるわけだ。文学にかぎらず、現代の文化は両極分解を遂げてゆかざるをえないが、そういう流れの中にあって文学は一方で商品化・娯楽化してゆくのに対して、他方ではガルブレイスのいうように「審美的価値財」として定着化してゆくであろう。井上が意識的にこの流れに沿った人生プランを設計したわけではないが、ただ漫然と文学の土砂崩れにしたがう愚かさからは見事に身をひいている。
史実を追いつめる
彼が、このまま彼の企画どおりの作家生活を押しすすめていったとすると、彼の作品は“国際銘柄”としても相当な高値で通用するにちがいない。
すでに、彼の歴史小説は中国やソビエトに対して、意識の輸出をするきっかけをつくっている。
ひとつは「天平の|甍《いらか》」である。昭和三十九年の秋、中国は北京と揚州で|鑑真《がんじん》の千二百年忌を記念する集会をひらいたが、さらに鑑真とゆかりの深い揚州の大明寺には鑑真記念館が建てられることになった。また、鑑真を日本に導く役をつとめた栄叡は端州の竜興寺で雄図むなしく果てたが、同寺では栄叡の記念碑を建てるに至ったという。これらの動きは、鑑真の研究家である安藤更生と井上靖の業績がきっかけになったもので、中国側は「天平の甍」が|上梓《じようし》されるまでは鑑真について顧慮するところがほとんどなかったといわれる。
もうひとつ、『おろしや国酔夢譚』では、エカチェリーナ二世が漂流民の光太夫を謁見する部屋の名前とか間取りについて、井上は加藤九祚とともにソビエトを訪れ、現地の博物館長と協議のうえ、いちばん正確と思われる構図をきめている。この旅行の際、ソビエト側はモスクワ、レニングラード、イルクーツクの各大学、科学アカデミーの研究員を動員して、宮殿がつたえられるように五階ではなく大理石づくりの三階であったこと、階段を上って二階の右手が黄金の間、左手が肖像の間であることなどを定着させている。
井上が、このようにしてまで史実を追いつめるのは、日本の資料で書いた小説がソビエトで読まれた場合の不安を感じたからだというが、これは言葉をかえていえば東洋的|思惟《しい》や日本的心情を世界の文学市場に持ち出さない文学的資質を物語ってもいよう。ついでにいえば、彼は史実をつきとめることによって、たとえば大黒屋光太夫の報告との誤差をはかり、その誤差の中に、異郷にある日本人の心情をまるごと獲得しようという手法を使っているのである。つまり、井上靖という作家は、文学者にとっては主食であるべき心情をすら、客観という非情の眼で眺めまわしているのである。彼は、人間の心情と自分とを絶対に同心円におかないのである。いや、一度だけ、例外がある。あるひとが「君はずいぶん主人公を登場させたが、いちばん好きな人物は誰かね?」とたずねたところ、彼は「じつは『戦国無頼』の弥平太だ。あれが死ぬところを書きながら泣けて仕方がなかった。あいつは全力投球をしながら、なお、孤独の中に死んでいったのだ」と答えたという。この述懐は、おそらく彼の実人生を支えている哲学を物語ったものであろう。
重役にでもなれた人
以上のように、井上靖の“解散価値”は国際市場にも通じるものがあるが、これを支えているものは、換算価値の確実さと自己資本率の高さである。
文士を職業として社会的に定型化したのは菊池寛である。菊池は「第一に生活、第二に芸術」というスローガンを掲げ、作家と戯曲家をあつめて日本文芸家協会をつくり、原稿料の定額化などをはかった。これが、ちょうど新聞小説の一般化や婦人啓蒙運動の潮流とぶつかって、文士は“アウト・ロー”の状態から“先生”とよばれるような身分的安定を獲得するに至った。
しかし、これは経済生活の安定を意味したのであって、彼らの生活態度を変えるまでには至っていない。彼らがスノビズム(俗物根性)と距離をおくことによって人間の可能性や悪魔性に対する透徹した眼を持ち続けることは否みえない。ただ、スノビズムとの距離が心理的な範囲にとどまらず、実生活にも体現されてしまうために、文士は文士以外の職業に換算した場合、その価値はゼロにひとしいように思われるのである。
戦後は、株を手がけたりアパートを建てたりする文士が続々とあらわれ、文士の換算価値もだいぶ出てきたように見うけられるが、これとて多分に副業的であり、精神面まで換算価値のあるものはむしろ|稀《まれ》であろう。
そこへゆくと、井上靖の換算価値はかなり確実である。
彼は作家だけの講演会にのぞんでも、最後まで実質をもって話しとおすという。ふつう、作家の講演は、話す方も聞く方も「小説を書くのが本業で|喋《しやべ》る方は余技」という暗黙の了解があり、一種の顔見世興行のような雰囲気がつきまとうものである。ところが、井上靖の場合は、ある人の表現によると「背中にびっしょりと汗をかきながら学者か教育家のように鮮明に語りつくす」ということだ。事実、彼は一流会社の研修会の講師をもつとめているが、これは|並大抵《なみたいてい》の話術や資料でできるものではない。ひとつには、仕事に対する誠実さにもよるのだろうが、それよりも彼の能力の幅の広さを物語るものだろう。
彼は毎日新聞を図書編集部の副部長で辞しているが、やめるまえに部長の|椅子《いす》があいて、昇任を促されたことがある。このとき彼は、しばらく考えたというから、新聞社生活にも自信がなかったわけではあるまい。いや、古い同僚であった平井忠夫(毎日新聞社史編纂室)が「井上君は重役になれる人ですな」と、斎藤栄一(同社専務)にいったところ、斎藤は黙って|頷《うなず》いたということである。
人物評価をする場合に、「ほかの職業にもっていってつとまるかどうか」という換算価値がひとつのメドになるが、井上の場合は、これが作家とはおよそかけ離れた経営スタッフなのだから、そうとうなものである。もっとも、彼のこのような特性に対して「そもそも作家であることの資質に疑問があるからではないか」という批評が生まれるのも、当然といえば当然であろう。この批評は、作家とはついに作家以外のなにものでもないとする、作家の非交換価値にすべてを賭ける立場から出てくるわけである。
貸しも借りもつくらない
井上の換算価値の確実さは、彼が四十歳から本格的に小説を書き始め、四十三歳でデビューした事情と深い関係がある。つまり、彼は十代あるいは二十代という文学的発情期をべつの形ですごしたため、その時代に発情した作家が五十や六十になっても後遺症をみせる姿とは別物でいられるのである。彼が、なぜ、四十歳から小説を書き出したかは、あとで触れることにする。
もうひとつの特性は、人生の自己資本率がきわめて高いことである。井上靖は、他人に対して“貸し”もつくらないかわりに、また“借り”もつくらないといわれている。
作家や芸能人は、行く先々で色紙を求められるものだが、井上靖は見ず知らずの人には一筆も染めたことがない。沼津中学の同窓生が井上を囲む会をつくっているが、彼はその会に出席しているときでも、駆けつけた地元のファンには一筆だに書かないそうである。これは、なかなかできないことだが、井上によると、「見ず知らずの人に色紙を書いて、あとでそれがどのように利用されるかわからないからだ」ということになる。これだけなら小心翼々の保身術のようにきこえるが、井上にはもうすこし徹底した哲学があるようだ。彼は、かつて、友人の小谷にこういった。
「作家の死後、ひきだしから日記や手紙が出てくるなんて、迷惑千万な話ですな」
「しかし|断簡零墨《だんかんれいぼく》といえども、その人物の人柄がうかがえるもので、文学研究のよすがにはなるのではないかね」
小谷が反問すると、井上はもっと強く首を振っていったものだ。
「いや、作家が書いたものすべてがその作家を物語りはしない。ときには義理にしばられて、くだらない恋愛論を書くことだってある。期日や枚数の関係で、心足らざるものを渡してしまう。そんなものと、本心こめて書いたものとを、同じ人格の上に並べられたのではやりきれない。私は、死ぬまえに、弁護士に依頼して、世の中に発表するものを、すっかり整理しておくつもりでいる」
この態度は、井上の作品「狼災記」の話を|髣髴《ほうふつ》とさせる。この中で井上は、狼は性交場面を見た人間をどこまでも追いかけていって喰い殺すと書いているが、狼を井上に、性交場面を“過去”とか“日常生活”におきかえてみると、彼が本格的な作品以外のものを|抹殺《まつさつ》しようとする姿勢が鮮明になる。
七、八年まえのことだが、柔道家でもあり、作家でもある彼の友人が、ある|真摯《しんし》な陶芸家の一生を小説に書いて、その出版記念会が催された。そこに出席していた井上靖は、請われるままにスピーチに立ったが、彼は開口一番、「きょうは私、彼とは作家の関係でお祝いを申しあげに来たのではなく、柔道界に身をおくものとしてスピーチいたすのであります」と、はっきりとことわりを口にしたものである。私は、このとき、井上の人生に対するケジメの|峻《きび》しさを知ったが、さらに五年まえに行なわれた「四柔会」の模様を聞いて、彼の人生運転の|要諦《ようたい》を思い知らされる感があった。
「四柔会」とは旧制四高柔道部の出身者がつくっている会である。彼はそこへ妻子を伴ってあらわれたが、その際に、じつに三十五年まえの事件について先輩たちの謝罪を求めたものである。
四高柔道部の反乱
事件とはこうだ。井上が二年生のときのインターハイで、四高は松山に敗れた。かつて四高が七年連続優勝、そのあと六高が七年連覇をとげて、四高としてはなんとしても|覇権《はけん》を取り戻したかった。そのため、四高柔道部は猛|稽古《げいこ》を続けた。「武専の二倍やれ」というのが合言葉だった。ところが、松山とあたって、敗けるはずがないのに敗けた。井上たちは三年生になる。ところが、校内に「柔道部はひどいところだ」という声が立って、一年生からは誰も入部してこない。ここで井上たちは反省した。「高等学校はやはり本を読んだり思索をしたりするのが主だ」となり、柔道部の規約をかえて「夏稽古は十日間、正月は帰省したうえ開校後の合宿一週間、年間を通じて土曜日は稽古をしない」とした。この規約改正が、先輩たちには敗北主義と映った。東大・京大・九大などからおおぜいが押しかけ、部員を柔道場にすわらせて、猛烈に|叱責《しつせき》したうえ、井上ら首謀者に退部を命じたのである。これは昭和五年のことである。
それから三十五年経って、井上は「四柔会」の集りでこの一件を持ち出し、「私どもを退部させたのは先輩の不明である」として、謝罪を要求したのだ。
井上が身辺に決着をつけておこうとする努力は並大抵のものではない。彼には、過去のことでも、きちんと整理されていないと気がすまないのだ。
要するに、彼が人生に対して“貸し”も“借り”ももたず、血も涙も自己資本でやりとげようとするのは、日常性の湯気が立っている事物から作品を判断されることがやり切れないからであろう。
作品ひとつを成立させるためには、人に伝えようもないひとつの真実が胸の奥にあって、それが行動の原理になっている。誰にも告げられないし、告げるべきことでもない。だから、作品以外のものはすべて決着をつけるか、抹殺するかする。抹殺することによって、殺されたものが作品を支えているのだという考えになるだろう。
この哲学からすれば、井上の人間に対する態度は“浅く|契《ちぎ》る”で一貫することになる。
したがって、彼は弟子などとは無縁だ。文学青年が井上を慕って作品をもってくる。
最初、彼は「うん、まあね」という。二回目、文学青年が「読んで下さいましたか?」とたずねると、彼は|嚇怒《かくど》する。
「作家が、ひとの原稿を読むことが、どれほどたいへんなことか、君にはわからんのか。そのくらいわからなくて、作家になろうとでもいうのか」
井上には「文学は、しょせん、ひとりのもの」という考えがあるから、「私について作品をよくしようと思う、その根性そのものがすでに文学とは無縁である」という態度を打ち出している。
彼には文学上の先輩はいるが、師はいないのである。古今東西の文学者の中にも師はいない。臼井吉見のいうように「徒手空拳で出てきた作家」なのである。
父母と離れた少年期
井上が「浅く契る」という態度を守り、自分からも他人の領域を侵さないかわりに、他人からも侵させまいとするのは、彼が六歳から十四歳までの少年期を父母と離れて暮し、肉親の愛情を味わわなかったからだと、自分でもみとめている。この性向を見抜いていたのは、沼津で井上と同じ下宿にいた金井広(医師)である。彼はこういっている。
「僕らはおたがいにひとりの部屋を持っていた。強くそれを持っていた。人の中にはいり、人と談笑することが好きでいながら、いつも孤独なひとりの部屋をひとに明け渡さない性向を抱いていたのだ。だから、一つの部屋で勉強し、一つ部屋に眠りながら、僕らはついに背中合せでいることを忘れなかった」
井上は父母とわかれて暮すが、彼の幼少の面倒をみてくれたのは、「自伝小説」に出てくるとおり、|曾《そう》祖父の|妾《めかけ》だったおぬい婆さんである。詩人の足立巻一は「この婆さんとの土蔵の中の生活が井上靖の原体験となっているのではないか」とも指摘している。
井上靖の作品には、たとえば温度のない炎のように、明るさにも|翳《かげ》りにも冷たい色が流れているが、その原因はこの原体験にあるようだ。そして、これが作家であるがゆえの心情の過熱を防いでいるともいえよう。井上靖は、良かれ悪しかれ、放熱装置のついた作家として出発したのである。
学生結婚のハシリ
井上には、もともと作家になる気はなかった。いや、新聞記者になる気さえなかったといえる。
昭和十一年、二十九歳で毎日新聞に入るまでの彼は、ひと口にいえば無頼の詩人である。
彼の父は軍医少将で退職している。彼も医者になるように運命づけられ、沼津中学から八高や静高を受けたが数学がダメで一年浪人し、父の任地であった金沢に移って、四高理甲に入学している。ところが四高を卒業すると九大の法文学部に入ってしまい、ここで父親の望みを断った。そればかりか、井上は九大に籍を置きながら上京し、染井墓地の近くに部屋を借りて、福田正夫の主宰する詩誌「焔」の同人となり、潤などとも親交をむすんで、もっぱら詩作に没頭した。この期間が足かけ二年あって、こんどは京都大学文学部の哲学科に入り、植田寿蔵博士について美学を勉強している。
井上が京大を卒業したのは昭和十一年のことで、すでに二十九歳になり、その前年に解剖学の|泰斗《たいと》として知られる足立文太郎博士の娘と結婚している。いわば“学生結婚”のハシリであるが、井上家と足立家は親戚の間柄で、靖も妻のふみも小さいときから|許婚者《いいなずけ》としてきめられていた。
軍医少将の長男でありながら詩作に走り、九大に入りながら東京に下宿し、しかも二十九歳の女房持ちで大学を卒業する。およそ、規格という規格をふみはずした青春である。
この間、彼はもっぱら懸賞金を|狙《ねら》って「サンデー毎日」に小説を投稿した。最初から佳作に当選して三百円をせしめたが、それが脚色されて上演されるにおよび、森田信義から「君は芝居をかけ」と声がかかり、ついで「けっして勉強の邪魔はしないし、六十円の月給を払う」という条件で「新興キネマ」にひっぱりこまれる。就職難の時代だっただけに、この条件はずいぶん|救《たす》かったらしい。
まもなく同志社大学の教授をやめて映画監督になった野口昶と共同で脚本を書いたが、池袋の旅館で書き上げたのが二・二六事件の朝で、けっきょくこの脚本は陽の目を見なかった。これが発表されていたら、彼はいまごろ東宝か松竹の重役になっていたかもしれない。
一方、井上は相変らず「サンデー毎日」の懸賞小説に投稿したが、これが毎回入選して、そのつど三百円を貰い、この金で東京・京都間の“二等パス”を買って、新興キネマと妻子の間を往復していたという。この投稿のうち「流転」が千葉亀雄賞を受けて、大枚二千円が転がりこんだが、|刮目《かつもく》すべきことに、井上はこの三味線弾きを主人公にした小説の材料を、伊原青々園の「日本演劇史」にある一行と平凡社の百科事典の中からとったという。
中央公論がこの新人に着目し、編集者が小説の依頼にやってきた。が、井上は頑として応じなかった。当時の彼は、詩人としての志が高く、もし中央公論に書けば「作家に成り下がることをおそれたから」といっている。
それから井上は毎日に入り、昭和二十二年に「闘牛」を書くまで、ぷっつりと小説の筆を折るのである。
しかし、この戯曲と大衆小説の時代に、井上靖は作家としてのいちばん大切なものを身につけたのではないか。
詩の中に凍結した文学
彼が「闘牛」で芥川賞を受けたとき、「詩賦往来、ややもすれば|篋笥《きようし》にあまる」さまで、|行李《こうり》二杯ぶんの作品があったという伝説がある。が、これは作り話で、実際は『猟銃』と「通夜の客」の二本しかなかった。が、井上によると「作品はなかったが、その要素はすべて詩の中に凝結してあった」ということになる。
つまり、井上は文学の“元火”を詩の中に凍結しておいた。戯曲は、なによりも構築力をたかめるものだ。そして、大衆小説は読者の共鳴する箇所を探りあてる、最も本格的なレーダーである。
いってみれば、井上靖という作家は『闘牛』を書く以前から、詩・戯曲・大衆小説の中で生育をとげていたわけである。これにもうひとつ、新聞記者の経験が加わる。取材の方法を身につけていること、それに平易で簡潔な文章である。記者出身の平井が「井上君の文章は、新聞の文章のように読者の理解のスピードと同じ速さだからわかりやすい」と指摘しているのは、さすがである。
井上靖は第一作が芥川賞に当選し、しかもそれが“社会小説”であったため、|彗星《すいせい》的出現のようにいわれているが、これは錯覚である。彼は文学を構成する要素を、ひとつひとつマスターしたうえで、『闘牛』にそれを合成したといえよう。
現代語でいえば、彼は「文学」のシステム・エンジニアであり、詩も戯曲も懸賞小説も新聞記事も「文学」のためのサブ・システムであるといえなくはない。
福田宏年は「井上靖の文学には現実と血みどろになってわたりあうところがない」点を指摘し、「たとえば恋愛小説を書く場合は、恋愛感情そのものを文学というビーカーの中で純粋培養している」といっている。これは過不足のない批評で、井上は恋愛感情ばかりではなく、人間の運命そのものも実生活を切り捨てた無菌状態の中で|捉《とら》えようとしているのだ。これは、彼の文学が内的な発情から発生したものではなく、システム産業の性格をもっているから可能になるのである。
したがって、もし「文学」も貿易自由化の品目に入れられるとすれば、井上の作品は国際商品として通用することになるだろう。
システム産業が伝統的価値から自由なアメリカにおいて発達したように、井上の文学にもそれに似た秘密がある。
岳父の尽力で毎日に入社
井上の作品の底流には、いつも作者の虚無的な|眼差《まなざ》しが感じられる。『戦国無頼』の弥平太のように、精一杯に努力しながら最後は誰にも理解されずに戦死するとか、敏腕を|謳《うた》われた記者が中国山脈に|隠栖《いんせい》して「中国塩業史」に打ちこむ姿(「通夜の客」)とか、あるいはカジカの研究に一生を賭ける科学者(「明日来る人」)とか、主人公はいずれも人生の“陽だまり”で呼吸していない。
井上はこれらの人物に特別の愛情もよせないし、格別嫌悪するわけでもない。彼が好んで書くのは、こういう人物の営々としてつとめる過程である。井上の文学は“過程文学”という感がつよい。彼は絶対といっていいくらいに、結果の成否を問わないのである。
井上の、この過程重視の姿勢は、彼の“柔道修行”からきているのではないかと思われる。高等学校に入ってすぐ、井上は松江高校と対戦した際に白帯ながら二段を三人投げとばした。このとき先輩の一人が井上を呼びつけて、「あの試合は君が相手より強かったから勝ったまでだ。どうだ、これから練習量だけがものをいう柔道をしてみないか」といった。こういういい方は旧制高校に独特のもので、青春時代の“目つぶし”みたいな効果がある。井上の柔道生活は、この「練習量だけがものをいう」思想につらぬかれた。ここから、過程主義が生まれるのだ。
井上靖の美学は“過程の美学”である。この美学の裏には、人生そのものに対する無重力感がかくされている。
これは、井上自身に人生を“おりて”いる感覚がふかいからである。将棋でいえば投了である。こういう感覚がある以上、他人を押しのけても|遮二無二《しやにむに》突進するという姿勢はまず求められない。よしんば深い情をかけられても、それは情をかける人の“|業《ごう》”というべきもので、それに釣合おうとする意志は|湧《わ》いてこないであろう。ここから、彼の“浅く契る”という態度も生まれてくるわけだ。
彼が毎日新聞に入社できたのは、岳父の足立文太郎のおかげである。滝川事件を取材にいった藤田信勝(論説室顧問)がそのまま京都支局に残り、ある日、足立家に遊びにゆくと、博士のほうから「たのみがあるんだが」と切り出した。
「おれの|婿《むこ》はシナリオを書いているが、ちっとも金にならないし、正業についているとも思えない。ま、『サンデー毎日』の懸賞小説にも当選したし、ひとつ新聞社に入れてもらえないか」
藤田は、さっそくこのことを支局長だった岩井武俊に報告する。岩井は足立と気があい、前から飲み友達でもあったので、これを学芸部長の井上吉次郎(現・関西大学名誉教授)にとりついだ。「よかろう」ということになって、足立同道のうえ、井上が京都支局にあらわれる。岩井支局長が面接した。
「あなたはシナリオを書いているそうだが、新聞記者として押しとおすつもりか、それとも新聞社を踏み台にして作家になるつもりかね」
「記者一本でゆきます」
井上はそう答えている。それから井上学芸部長のところで記者修業がはじまるが、この部長は|一廉《ひとかど》の教養人で、ことに仏教美術については|造詣《ぞうけい》があった。井上靖は、仏教と美術を担当させられて、しばしば比叡山や高野山に赴くが、このときに学芸部長からそうとう仕込まれたことは想像にかたくない。また、後年、井上が書いた「天平の甍」や「敦煌」の素地は、このときの勉強でつちかわれたものであろう。
風邪をひいて出家に失敗
話をもとにもどす。井上がジタバタするほど記者になりたくてなったわけでもないし、泣きたいほど作家になりたくてなったわけでもないという過程を立証してみたいのだ。彼は、|笹舟《ささぶね》が風に押されて音もなく走るように、周囲の声に背中を押されて歩いてきた。なるものになってきた。
当時、学芸部のデスクをやっていた山口広一は、「井上は筆がおそいし、おとよ(山崎豊子=当時学芸部)は記事がまずいし、二人とも記者としては落第だったのが、いまや流行作家になりよった」と評したそうだが、井上の書く美術の“囲みもの”や連載には定評があって、河井寛次郎あたりからそうとう信頼されていたらしい。一時は、井上自身が美術記者として専門化しようと考えたこともあるようだ。
ところが、この意図は小磯良平の批評でたちまち粉砕される。小磯は「君の書く美術批評は、僕らに血を流させない。それは君がせいぜい京都の美術を知っているくらいで、ルーブルの前にさえ立ったことがないからだ」と言い放ち、「美術記者になりたいなら東京で修業したまえ」と忠告したものである。
井上は、このように画壇と往来し、いってみれば関西美術界の世話人的立場に立つのであるが、二度ほど新聞記者をやめようとしている。
一回目は、昭和十七年のことで、杉道助にたのんで満鉄入りを希望した。理由は、戦争とともに特派員として出される記者が多くなったが、彼はその姿を見るたびに「これで記者もおしまい」という思いにとりつかれたのだ。ところが、井上らしいことに、彼は満鉄大阪支社の事務所に行くには行ったが、社員が静まりかえって机に向っているのを見ると、くるりと|踵《きびす》をかえして、さっさと逃げてきたというのである。
二度目は高野山に入山して|僧侶《そうりよ》になろうとしたことである。沼津中学の同級生である露木達(芹沢文学館館長)によると、井上の中学生時代のアダ名は“坊主”だったというから、行きつくところに行きついたのかもしれない。この出家行は、学芸部長の井上吉次郎のすすめによるもので、「おれもなるから、おまえも入山しろ」とすすめられて決意したという。
高野山に水原堯栄、中川善教の二学僧あり、二人の井上は試験を受けてパスしてしまった。ところが、学芸部長のほうは深夜の修行中廻廊から転落して足首を|捻挫《ねんざ》し、井上靖のほうは入山の一週間まえから風邪をひいて寝込んだため、二人とも頭をまるめるまでに至らなかったという。もっとも、二人とも紀州の末寺まで貰う約束ができていたというから、これは井上の人生の大転機になっていたかもしれない。井上自身も「あのとき、寺を貰って、桃畑の花明りをみながら暮したほうがよかったかもしれない」と語っている。
話ができすぎているかもしれないが、井上の“人生をおりた”ような態度は、彼の家系に出家|遁世《とんせい》の血が流れているからではないかと思われる。
父の隼雄が軍医少将で退官したのは、まだ四十歳代であったが、彼はそのあと伊豆に|隠栖《いんせい》して、ついに一人の患者も|診《み》ることがなかった。
母方の叔父二人が、やはり、人生というレースを放棄した恰好である。一人はバス会社を経営し、社長として才腕をふるっていたが、ある日突然、社長の椅子を去った。その後、彼は行商人をしながら各地をわたり歩いたという。これは雲水僧の変型を思わせる。
もう一人は、アメリカでホテルの支配人をしていたが、これまた風に吹きおとされるようにその位置を去って、故郷に隠栖したのである。
このような出家遁世の血。曾祖父の妾との土蔵生活。肉親の体温を知らなかった少年時代。沼津中学での自由奔放な生活。柔道からくる過程の美学。これらの総計が、人生に対する客観的な態度を生み、目的意識の喪失を招いたといえないだろうか。
前借りで遅れた東京転勤
井上靖が作家を志望した動機が、また、じつに単純なのである。詩人仲間の一人であった野間宏が「黄蜂」に「暗い絵」を発表して、一躍、文壇の注目をあびた。井上は、この野間のデビューぶりが大きな刺激になったといっている。野間は井上に、「小説を書きなさいよ。いまなら、すぐ、世の中に出られますよ」といった。この言葉が井上の背中を押したのだという。
井上は書いた。『猟銃』『闘牛』である。これが「文學界」に紹介されて芥川賞を受賞する経緯はかなり知れているので省略するが、興味があるのは、このときの井上の作品に対する態度である。
彼は『猟銃』を書き上げると、いろいろなひとに見せて批評を乞うている。あるとき、詩人の先輩である竹中郁のところにもってきた。竹中が一読して、冗長なところや感情過多の箇所を指摘すると、井上は翌日、全文を清書しなおして持ってきた。
「徹夜かね」と竹中がきくと、井上は「徹夜です。新聞社の仕事は徹夜くらいの頭でちょうどいいんです」といって笑い、「それよりも、こんどの作品は大丈夫でしょうか?」ときいた。竹中が「大丈夫だよ」というと、井上は「ほんとですね。絶対に大丈夫ですね」と、強く念を押したものである。
この頃の井上靖は、新聞社の帰りに闇市に立ち寄り、|鰻《うなぎ》・牛肉・卵・石油をふんだんに買いこんでいた。足立巻一がびっくりして「どうするんだ?」ときくと、井上は「小説を書くために体力をつける。石油のほうは電気が暗いから、石油ランプのシンをうんと出して、四、五箇いっぺんに点灯するんだ」と答えた。いってみれば、文学への投資である。
井上は、この費用を毎日新聞から“前借り”している。このため、彼が石川欣一にたのんで東京本社に転勤させてもらうとき、前借りの清算がつかずに辞令がおくれたほどである。このピンチを救ったのが、井上靖の秘められた処女出版である。大阪に尾崎という出版業者がいて、ここが、彼の『流転』を中心に、「サンデー毎日」に入選したユーモア小説や探偵小説(これらの作品には沢木|信乃《しの》というペンネームを使っている)をあつめ、堂本印象の表紙をつけて出版したのだ。井上は、その印税を懐にして、ようやく大阪を後にすることができた。
東京に出て、いよいよ『猟銃』や『闘牛』が活字になるとき、彼は印刷工場まで足を運んで、「文學界」編集長の上林吾郎が「ここは長いから削りましょう」とか「この部分は前に出しましょう」と注文をつけるのに、黙ってしたがっていたという。
このようなエピソードからは、既成概念の作家のイメージは浮かんでこない。作家といえば、句読点ひとつ触れられることにも神経を病むのが相場であるが、このデビュー当時の井上靖は、むしろ文壇受験生の面影がつよい。いや、受験をしたというよりも、文壇に投資したといったほうがいいかもしれない。
彼は記者当時、しばしば淀の競馬場に通ったが、馬券の買い方に豪気|颯爽《さつそう》たるものがあり、勝てば勝ったでそのぶんを最終レースに投入するのが常であったという。この話をきいて、井上が作家を志望して東京に突入してきたのは、彼の人生に対する最後の賭けのような気がしてならなかった。
扇谷正造は、井上靖を評して「水鳥のような人」といったが、その意味は、水鳥は水面下で|足掻《あが》きを続けているが、その努力はすこしも姿にみせず、水面を端麗に走っているというにある。さて、その水鳥がこれからどう飛ぶかが問題である。
小林秀雄が、ある日、井上靖にこういった。
「井上さん、そろそろ最後の仕事ですね。最後の仕事ってものはね、永いものですよ」
井上靖、|眉《まゆ》をあげて、言葉はなかった。
[#地付き]〈了〉

人物再録の狙いについて
――文庫版のためのあとがき
いつの時代にもその時代をなんらかの質において表徴する人物がいるものです。その人物と同じ時代を生きる人たちは、誰もがその人物の人柄・思想・人間関係を知りたく思うものです。人々は、表徴的人物を尊敬や憧憬の感情を以て眺める場合もありますが、その多くは表徴的人物の中に自分が生きている時代の質を読みとろうとしているのではないかと私は思います。つまり、人物論とは同時に時代論であると考えられます。
この文春文庫に収録した「人物論」には原籍があります。雑誌『文藝春秋』の昭和四十四年一月号から昭和四十七年六月号まで、三十六人の人物をとりあげて連載しました。この連載は、のちに「実力者の条件」「新・実力者の条件」「新々実力者の条件」という三部作となって文藝春秋より出版されました。その三年間、私はほとんど「人物」の取材と執筆にかかりきりでした。連載を終わって自分の身辺を整理していると名刺の大きな束が出てきました。数えてみると、五百八十余枚ありました。つまり、一人の人物を書くのに平均三十六の人にあったことになります。取材の苦労話をするつもりはありません。その種の話はいちばん嫌いです。ただ、どうしてたくさんの人にお目にかかったかと言うと、これから書こうとしている「人物」の近似値をできるだけ実像に近づけようと思ったからです。実像に近い報告でなければその人物が表徴する時代を語れないからであります。もうひとつの理由は、人物の近似値を求める作業に私の主観を入れてはならないと思ったからです。いまでも「マスコミはあらかじめ色眼鏡をかけて見る」という言葉が聞かれますが、とくに人物論にはその人物に対する好悪の情が入りやすいので、多くの人たちの眼に映った像を重ねあわせることによって色眼鏡を排外しようと考えたわけです。
振りかえってみると、忙しかったが懐しい思いのする作業でした。その作業から十数年が経ってしまいました。当然、登場していただいた方の身辺にも変化があります。物故された方、余生を静かに送られている方、いまだに活動を続けられている方、さまざまです。この文春文庫の「人物論」は、在来の出版物をただ版型を変えて誕生させるということをせず、新版のつもりで再編成してみました。編成の狙いは、前にも書きましたように「時代の質を語り続けている人物」に置きました。以上が文庫版上梓の弁であります。ご理解いただければ幸甚です。
昭和六〇年七月
[#改ページ]
単行本
実力者の条件/昭和四十五年四月文藝春秋刊
新・実力者の条件/昭和四十七年四月文藝春秋刊
新々実力者の条件/昭和四十七年十月文藝春秋刊
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文春ウェブ文庫版
実力者の条件
この人たちのエッセンス
二〇〇〇年七月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 草柳大蔵
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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