[#表紙(表紙3.jpg)]
石田衣良
骨  音 池袋ウエストゲートパークV
目 次
骨音
西一番街テイクアウト
キミドリの神様
西口ミッドサマー狂乱《レイヴ》
[#改ページ]
骨音
この世でいちばん速い音がなんだかわかるだろうか?
夏の終りの遠い稲妻の響きでも、駆け抜ける違法改造車のエキゾーストでも、嵐の空を吹き流される小鳥の歌でもない。そんなものよりもっともっと速い音だ。わかるはずがないだって? おれだってそんなこと、あの音にぶつかるまで考えてもみなかった。
水のなかで爆発をきくような、くぐもっているくせに異常に鮮明でかん高い音。なんのまえぶれもなくでたらめなスピードで立ちあがり、聴覚神経を根こそぎ揺さぶって全身を別世界にもっていってしまう音だ。おれはそいつを池袋のライブハウスで初めてきいた。速度という特性がそのまま結晶化し、フロアを埋めるガキに音より速い弾丸となって突き刺さる。撃たれたガキはみな口をおおきく開け、よだれをたらしそうな顔で叫んでいた。
最高!
やつらはみんなバカで間抜けで、市場社会の負け組らしいが、感覚だけはやたら鋭い。カッコいいものとそうでないものを、カラスがゴミの集積場で餌をよるようにかぎ分ける。その音はちょっと不気味だが、それまでにきいたことのない断然カッコいい音だった。誰がどんなふうにつくったのか、その場にいたガキのひとりとして気にしなかっただろう。
だって、あれだけ速けりゃ、それで十分じゃん。
吹き荒れる音圧でベルボトムのジーンズをばたばたと旗のようになびかせ、誰かが叫んでいた。だが、そんな異常な速さなどなにかを犠牲にしなければ、この世界では決して得られるはずがないものなのだ。
おれたちはもう人を壊したいから壊すのではない。そんな単純な理由で人を壊すには、この世界はあまりに逆転してしまった。人を壊すのはただのおまけにすぎない。
ほんとうにほしい素敵ななにかを手にいれるためのね。
この夏、池袋で流行《はや》っていたのは尻の割れめを半分見せるローライズのジーンズとホームレス襲撃だった。どちらもおれにはあまり関係がない。横目で眺めてすぎるだけ。
西一番街の果物屋の店番とちまちましたコラム書きで、異常な暑さの七月と冷たい八月は終わった。ロマンスなし、事件なし、Hがあったかどうかは秘密。おれはあいかわらず犬のように池袋のストリートをうろつき、本をたくさん読み、すこしだけ文章を書き、なにもすることのない時間をもてあましていた。ある本でこんな言葉にぶつかった。
「鏡をもった子ども」
おれのことだと思った。ちいさな鏡をもっておれはストリートにでる。東京の街とガキどもの姿を映す。厚さのないその薄青い世界が、おれが表現できるすべてなのだ。もちろん鏡の角度を微妙に調節すれば、誰も見たことのない世界の断面だって切り取れるかもしれない。だが、そんなことをしてよろこんでいるのは、二十歳をいくつかすぎたとはいえ、やはり単細胞の子どもなのだ。
あんたは子どもがなんに苦しむかわかるだろうか?
おれにはわかる。子どもは作文で苦しむ。
「ストリートビート」の締切が近づくと、ネタがあってもなくても、おれは自分の部屋でじっとしていられずに街をうろついた。携帯の着メロや自動車のクラクション、とおりすぎる会話の切れ端なんかが、いいBGMになってくれるからだ。そうして二時間も池袋の街を低空飛行していると、しだいに頭のなかが言葉のリズムになってくる。
最初の一行をつかまえたらしめたもので、いきつけのファミレスかファストフードに飛びこむのだ。この数カ月、おれの書斎になったのはロマンス通りのどんづまりにあるヴィヴィッドバーガーというハンバーガー屋だった。マックの半額セールに押されて、いついっても席が半分以上空いている便利な店だ。
九月中旬の締切直前、おれは自動ドアを抜けると、カウンターのむこうに注文した。
「いつもの」
三角形の紙キャップを金髪のロングヘアにちょこりとのせたハヤトが不機嫌そうに返事をする。
「またコーヒーだけか。どうせ何時間もねばるんだから、うちのセットでもくえよ。琉球バーガーはいかがですか」
わざとらしい笑顔をつけたした。そいつはまえに試している。こてこての豚の角煮とパイナップルをバンズではさんだやつ。ハンバーガーというアメリカ文化への嫌がらせとしか思えない味だった。
「あんなのがいち押しなんだから、このチェーンも長くないな」
「そうかもな」
うなずいてハヤトはコーヒーマシーンに移動した。この店では正社員は大学出の男がひとりいるだけで、やつがいないときは古参のアルバイトが店長代理を務めている。ハヤトもそのひとりだった。
「はい、コーヒー、お待ち」
そういっておれのまえにだされたトレイには、発泡スチロールのカップとこの店では一番まともなカスタードパイがのっていた。
「パイなんて頼んでない」
「おれのおごり。あとで手が空いたら顔だすわ。頼みがある」
ハヤトはそしらぬ顔でキャップの位置を直した。たび重なるヘアカラーとパーマで髪はドライフラワーのように乾いて毛羽だっている。こいつはこれでも池袋ローカルじゃけっこう有名なバンドのサイドギターなのだ。ロッカーにしては頬の肉がぽっちゃりしているが、まあ、誰にでも欠点はある。
ちなみにおれの欠点はあまりにやさしくて涙もろいとこ。でも、それがかわいいといってくれる女性ファンも(きっと)いる。
一時間半で原稿用紙二枚分すすんだ。バンザイ! 一日の労働としては十分な成果だった。おれがノートパソコンを閉じたのを、店内の保安カメラで見ていたのだろう。ハヤトが新しいコーヒーをもって、二階のテーブル席にやってきた。時刻はもう夕方だった。派手なスーツ姿のホステスやカラフルなジャージを着た風俗嬢が、なぜか同じヴィトンやエルメスのバッグをさげて、したのロマンス通りを出勤していた。冷めたコーヒーをすすっておれはいった。
「頼みってなんだ」
ハヤトは営業スマイルを見せた。そういえばおれはこいつの名字を知らない。
「あさって、池袋マトリクスでうちのバンドのライヴがある。それでな、まだチケットが残ってるんだ」
「そう。なら、おれがいってもいいよ」
「サンキュー、でもそれだけじゃぜんぜん足らないんだ。マコトはGボーイズのヘッドとも仲がいいんだろう。おれを紹介してくれないか。あのタカシがひと声かければライヴのチケットくらいいくらでもさばける」
おれはタカシの永久凍土から掘りだしたような笑顔を思い浮かべた。手袋なしじゃとてもさわれない冷たい笑い。このお調子者のギタリストに見せてやりたい。第一おれとタカシの関係は仲がいいなんて言葉から最も遠いものだ。
「無理。利用するつもりでやつに近づくと、ぼろぼろにされるぞ。まだしばらくはこの街にいたいんだろ」
そういっておれは財布をだした。ハヤトは渋々うなずいて、封筒からチケットを二枚抜き、おれのまえにおく。一枚でいいといおうとしたら、やつはいった。
「どうせ、彼女の分もいるんだろ。八千円な」
おれは見栄を張って、泣くなく八千円の大金を払った。もてる男の振りをするのは金がかかる。
原稿書きで熱くなった頭をクールダウンしようと、西口公園に足を伸ばした。円形広場のベンチに座り、液晶画面の見すぎで乾いた目を閉じる。とたんに滝にうたれるように無数のノイズに全身を包まれた。
生き残りのセミはどの木のどの枝にとまっているか指をさせるくらいの数だった。どこかの族のクルマが鳴らした「ゴッドファーザー〜愛のテーマ」は、正面のビルから数瞬遅れて跳ね返り、絶妙なデュエットを奏でて公園の空に溶けていく。風の音、木の音、ハイヒールやスニーカーの足音、そしてどこからやってくるのかわからない腹に響く重いうなり。きっと普段は気にもしていないこの街自体の命が発する鼓動なのだろう。
そうして三十分もぼんやりするのが、おれには究極のヒーリングだった。温泉やアロマテラピーなどお話にならない。南の島のトカゲのようにゆっくりと街の温度にあわせ体温をさげていく。街のノイズにぴたりと自分のチューニングがあったとき、おれはそのへんの落ち葉や石ころのようにこの街の一部になる。金もなく、夢もなく、女がいなくても、池袋の底に張りついて生きているのは悪くない。お偉いさんはどんどん日本を改革すればいい。でも、おれはこれ以上落ちようがないから、自分を変えたりなどしない。
だって道端に落ちてる小石は反省などしないし、誰もダイヤモンドに変えようとは思わないだろ。
バスターミナルの脇を抜けて、ウエストゲートパークを離れた。駅前広場にむかう交差点の角にはいつもリヤカーの露店がでている。並べた段ボール箱のうえに青いビニールシートを敷き、発売されたばかりのマンガや週刊誌を一冊百円で平積みしている店だ。
「よう、あんた、真島さんだよな」
平然ととおりすぎようとして、声をかけられた。深みのある渋い声。驚いて露店を見ると、リヤカーの脇にビールケースをおいてやたら立派な顔をした男が座っていた。白いものが混ざったあごひげをなでながら男はいった。
「あんたがくるのを待っていた。ちょっと話をきいてもらえないか」
顔が立派なのでおおきな男かと思ったが、立ちあがってみるとおれより十センチは背が低かった。着古したジージャンとジーンズ、足元は赤茶色のウエスタンブーツ姿だ。もの陰からすぐに、今度はホームレスとひと目でわかる男が寄ってきて、店番を代わった。
「きてくれ」
男の声にはどこか逆らいにくい響きがあった。おれはイエスともノーともいえないうちに、でてきたばかりの西口公園にもどった。
円形広場のベンチに腰かけると、男の声が低く響いた。公園の反対側には東京芸術劇場のガラス屋根と巨大な鉄の角柱を折り曲げた公共彫刻が見える。
「ホームレスの連続襲撃事件は耳にしているだろう。話はその件だ」
それならおれも知っていた。だが、池袋ではこの夏、襲撃事件がやぶ蚊のように多発して、警察も手のつけようがなかった。終電にのり遅れたガキが、憂さ晴らしに公園で寝ているホームレスを襲う。ガキにすればただの余興なのだ。それはニュースになどならないだけで、日本中のどの街でも起きていることだった。
「そっちの名前は」
立派な顔の男は役者のように笑った。
「おれらの世界では名前なんぞ意味がない。とおり名でいいか」
うなずくと男がいった。
「日之出町公園の新さんと呼ばれてる。まあ、すくなくともこの街の仲間にはそれですぐにつうじるはずだ」
おれはあっけに取られて男を見た。そういえば晩年の勝新太郎によく似ている。
「それって大映の『座頭市』シリーズの……」
「あんた、若いのによく邦画観てんな、そのカツシンだよ」
おれもちょっとだけ笑った。愉快なオヤジでいつかコラムのネタにつかえるかもしれない。だが、それと依頼は別の話だ。
「悪いけど、役に立てそうにない。こっちはひとりだし、襲われる人間も襲うやつも不特定多数で、ばらばらに散らばってるんだろ。それじゃ手の打ちようがないよ。警察にでも頼んだほうがいい」
男はしみじみといった。
「警察はなにもしてくれないさ。みんな税金など払っちゃいないしな。おれたちの仲間はほとんど五、六十代かそれ以上だ。ほかにいき場がなくてしかたなくあちこちの公園で寝泊まりしている。そいつらが今じゃ、枕元に鉄パイプや角材をおかなきゃ安心して寝てもいられない。いきなり十キロもあるコンクリートブロックを投げこまれるんだぞ。それならよそにいけというのは、どこか別な場所で野垂れ死ねというようなもんだ」
おれはホームレスの男たちの二十代の姿を考えた。今の若いやつと同じで勢いだけで生きていたのだろう。将来のことなどまったく心配していなかったに違いない。とても人ごととは思えなかった。おれ自身がそうなる可能性は、ニューヨーク・メッツの新庄の打率くらいの割合で確実にある。専門の技能もないし、果物屋だっていつ潰れるかわからない。ファッション誌のコラムの原稿料は、高校生のアルバイトと変わらなかった。
「気の毒に思うよ。でも、できないことはできない」
それをきいて男は声の調子をぐっと抑えた。囁《ささや》くようにいう。
「池袋周辺でこの夏、襲撃事件が十五件起きている。たいていはその場で酔った若いのが補導され、事件は解決している。未解決はそのうち五件だけだ。さらにそのなかの一件は多人数の乱闘騒ぎで筋は見えている。だがな、残る四件は様子が違う」
男はたっぷりと間をおいて、うわ目づかいにおれを見た。ぎろりとむいた目が血走っている。
「その四件すべてで、襲われた仲間は骨を折られている。ひとり目はすねとひざの皿、ふたり目は腰骨、三人目は肋骨を二本、四人目は肩と鎖骨をやられた。全員なにかクスリをかがされて意識を失ったすきに、骨をぶち折られている」
「警察は知ってるのか」
「ああ、知ってる。だが、やつらはおれたちのためにパトロールはしてくれない。せいぜい注意しろというだけだ」
「そうか……」
それなら犯人は同一人物の可能性が高かった。続発する襲撃事件にまぎれて、誰かがあちこちでホームレスの骨を折ってまわっているのだ。なんのためだかわからないが。
「あんたはもぐりだが腕のいい探偵だときいている。それに、ストリートギャングにも顔がきくんだろう。たいした額じゃないが、仲間から集めた金もある。『骨折り』をなんとか探しだしてくれないか。あんたみたいな若いやつからすると、おれたちなどいてもいなくてもいい無用の存在かもしれないが、この街で生きてる人間に変わりはないだろう」
最後の言葉の途中で立派な顔がわずかに上気して歪んだ。この男はおれみたいな石ころのまえで自分がホームレスであることを恥じてちいさくなっている。たまらずにおれはいった。
「そうだな、なんにも変わらない」
おれの声の調子に驚いたようだった。男は目をむいておれを見ていた。それが普段の表情なのかもしれない。
「おれだってたまたまこの街に親の店があるだけで、あんたたちと変わらない。別に立派な人間でも、金をもってるわけでもないさ。なんとか毎日しのいでるだけだ」
日之出町公園のカツシンは不思議そうな表情を浮かべた。
「それじゃ、やってくれるのか」
うなずいて立ちあがった。久々に背中がまっすぐに伸びているのに気がつく。おれの夏休みは終わった。なにかを追っていないときは半分しか生きていないのだ。立派な顔のホームレスに連絡先をきいて、おれは午後の公園、家なき男たちのホームを離れた。
西一番街への帰り道、携帯を取りだしてタカシの短縮を押した。いつ電話しても最初にでるのは取りつぎだ。タカシの声はフリーザーからなだれる白い冷気のようにおれの耳に流れこむ。
「マコトか、なんだ」
挨拶はなし、池袋のキングは箇条書きの名人だ。おれはいった。
「あさっての夜、ライヴのチケットが一枚あまってる」
「それで」
「いっしょにいかないか」
タカシはいらついたようだった。
「話がそれだけなら、おれはいかない。マコト、こっちはおまえみたいにヒマじゃないんだ。用件をいえ」
「そんなにいつも焦ってると、数すくないいいお友達をなくすぞ。話ならライヴのあとでするさ。ホームレス襲撃」
断ち落とした氷の角のようにタカシの声が鋭くなった。
「続けろ」
おれはカツシンからきいたばかりの骨折りのネタを流した。四件の骨折事件とクスリの話をきいて、タカシはようやく満足げにいう。
「わかった、あさって、マトリクスで」
電報みたいな通話は突然切れた。
つぎの日、おれは四畳半でコラムの残りを書いた。最初の二枚のできがよければ、残り六枚は半分の労力であがる。すでに一本のまっすぐな流れができているからだ。おれは夕方には原稿を終わらせ、カツシンに電話した。最近はホームレスだって携帯くらいもっている。時間があまったので、骨折りの件をまとめてパソコンのファイルにいれようと思ったのだ。
「日之出町公園の新さんか、こちらマコトだけど」
締切明けでおれの声ははずんでいたかもしれない。対照的にカツシンの声は暗かった。
「ああ、あんたか。残念だった」
「なにかあったのか」
「五人目が今朝発見された。下落合のおとめ山公園だ」
いきなり冷水を浴びたようだった。うかれていた気分が消し飛ぶ。
「今度はどの骨をやられた?」
「右腕を二カ所。手口は同じだ。クスリをかがされ、ポキンッ」
耳に痛い擬音が携帯から響く。
「犯人の目撃情報なんかはないのか」
「だめだ。深く寝いった真夜中に襲われている。明け方に痛みで目覚めるまで、当人はなにも気づかなかったそうだ」
「わかった。できるだけ詳しくここまでの『骨折り』事件の情報をくれ」
カツシンはよく響く声でそれから三十分ほど話した。メモを取り、欠けている情報を質問で埋めていく。まるでほんとうの探偵みたいだった。電話を切ってから、その夜タカシにわたすためのペーパーをつくった。コラムの二十四倍速で終了する。
この調子で量産できるなら、プロのコラムニストになれるかもしれないと思った。毎回池袋のホームレスの話を読みたがる読者など、どこにもいないだろうが。
池袋マトリクスは東口の豊島公会堂の近くにあるライヴハウスだ。全盛期はヴィジュアル系のバンドがブームになった時期で、そのころ店のまえをとおると化粧をしたガキが昼すぎから行列をつくっていた。ヘアスプレー一本を空にして立てたトサカが、紫・緑・オレンジ・ピンクと色とりどりに並んでいた。
しかしその夜、客は様変わりしていた。見事なくらい黒と白のモノトーンで、男は中世の教会の僧衣、女は『不思議の国のアリス』の喪服版ってファッション。ゴスロリってやつだ。頬と鼻の横にはみな濃い灰色のシャドウをいれている。ハヤトのバンド「デッドセインツ」はゴシック系のバンドだ。マックとディズニーが世界を支配する二十一世紀、悪魔を崇拝し死と破壊を願う。といってもやつらに深い哲学などあるわけではない。そんな趣向のカッコいいバンドがイギリスやアメリカにあるってだけの話。ただのパクリだ。ガキはいつの時代も死ぬほど他人と同じになりたがる。
おれはGAPのセールで買ったカーゴパンツと長袖Tシャツでタカシを待っていた。はっきりいって居心地はよくない。顔色の悪いガキが異教徒のおれを横目でにらみ、禁じられた礼拝に集まるように、無言で地下におりる階段に吸いこまれていく。
開演時間の十分まえ、メルセデスのRVがライヴハウスの正面にとまった。ドアが開き、池袋の王様がおりてくる。氷河のように透明感のあるサックスブルーのブルゾンとパンツ姿。おれは自分の服には無関心だが、ストリートファッション誌でコラムを書いてるくらいだから、そこそこブランドもわかる。その夜のタカシは二〇〇一年秋冬のジル・サンダーだった。王様はどの国でも金もちだ。
「待ったか」
ちらりとおれを見てタカシはいう。RVは音もなく走り去った。首を横に振って、チケットをさしだした。
「いこう」
王様と平民は冥界に続く階段をくだった。
マトリクスは地下二階までぶち抜きになった大空間だ。カウンターでノンアルコールのドリンクをもらい、タカシとおれはステージとフロアを見おろすコの字形のキャットウォークに席を取った。テーブル席は半分ほど埋まっているだけだが、したのフロアは黒い僧衣が身動きもできないほど詰めかけている。タカシの声には楽しんでいるような響きがあった。
「池袋にもいろいろなガキがいるものだな」
おれはうなずいていった。
「まったくな。おまけにホームレスの骨をたたいてまわるやつもいる」
場内のアナウンスが開演は二十分遅れると告げた。よくあることだ。おれはカツシンから集めた情報を手際よくタカシに転送した。キングはうっすらと笑って、フロアの人波を見ながら最後にいった。
「なにかのゲームみたいだな。足から腰、肋骨から肩、鎖骨を抜けて腕。だんだんと『骨折り』の部位が人間の身体をあがっていく」
それはおれも気になっていたことだった。
「そうだ。残っているのは首か頭。つぎに狙われたやつは、ほんとに悲惨なことになる」
タカシは平然という。
「それで警察が本気になれば、それはそれでいいんじゃないか」
おれはすこしムッとした。
「人の命がひとつかかっていてもか」
キングはフロアに落としていた視線をあげて、ちらりとおれを見た。いきなり木枯らしが頬をなでたようだった。タカシの視線には物理的圧力がある。しばらく黙ってやつはいった。
「それがマコトのいいところなんだろうな。だが、『骨折り』がやらなくても、あと三カ月もすればシベリア寒気団が十人単位でやつらを連れていく」
それは動かしようがない事実だった。セミが秋を越せないように、東京のホームレスも冬を越せずに死んでいくものがいる。数百か、数十になるかしらないが。おれの声に自然に力がこもった。
「それは違う。人が死ぬのと誰かに殺されるのは別な問題だ。それにホームレスの男たちは、おれやGボーイズのガキとぜんぜん変わらない。ついてないことが重なれば、今どんなに恵まれていても、おれたちはいつか公園で寝泊まりすることになる。それが今の日本のかけ値なしの姿だろう」
今度ははっきりとタカシが笑っていた。
「遠慮せずにそのホームレス候補におれの名前もいれておいたらどうだ。おれは池袋のGボーイズを束ねているが、すべてが幻に思えることがある。こんな繰り返しがいつまで続くんだろうと不思議になるんだ。なあ、マコト……」
タカシはめずらしく真剣だった。長文のこたえが返ってくる。
「おれが西口公園でホームレスになったら、たまには遊びにこいよ。昔話でもしようぜ」
タカシは庶民の気もちがわかる王様だ。頭の悪いガキから愛されるのがよくわかる。おれが返事をできずにいると、タカシはいった。
「ギャラは負けといてやる。マコト、おまえは『骨折り』の尻尾をつかめ。あとはGボーイズがなんとかする」
サンキューといおうとしたら、場内が暗転した。そして熱い暗やみのなか、たくさんのガキといっしょにおれはあの音をきいた。
それは潜水艦映画で魚雷が炸裂《さくれつ》する音によく似ていた。くぐもってはいるけれど、そんな効果音よりもっと硬い芯がある。耳できくというより、手でつかめそうな音だった。それに、あのスピード感。音がきこえるのではなく、空気が揺れるのを身体で感じた瞬間、耳と耳のまんなかで音のカタチが鮮やかに生まれるのだ。
ステージに山のように積まれたPAから、何度も津波となってその音はオーディエンスに押しよせた。切り立った音のすき間を埋めてバスドラムとエレクトリックベースが響くと、きき慣れた音にようやく安心する。おれは息をとめてとなりのタカシを見た。タカシが声を張る。
「なんなんだ、こいつは」
おれは首を横に振った。全身がしびれる魅力的な音だが、なんの音かまるでわからない。長いイントロがしだいに音量をあげていく。すべての照明とフラッシュが一斉に点灯して、ステージが白熱した。真っ白な闇のなか、身体中に黒い羽をぶらさげた男がくねくねとうたいだす。フロアで客の歓声が爆発した。
おれはそのボーカルの声に、その夜二度目のショックを受けていた。これなら人気がでるのも無理はない。男は舌をあごの先まで垂らしうたっている。
おれが心臓をふたつに裂いてつくった歌をきけ。血の歌をきけ。血の歌。血の。血。
やせ細った骸骨のような男だった。声はきれいなテノールなのだが、乾いたタオルでガラスをこするような、あるいは爪の先で黒板をひっかくような不快な響きがちりちりと表面を覆っている。あと味の悪さにおれの耳はどんどん引きこまれていった。声がとまると、不安でたまらなくなる。気もち悪いのにもっときいていたい。ざらざらと砂で神経をこすり、耳に針を刺してほしい。
嵐になぎ倒される秋草のようにフロアのガキが高くあげた腕を揺らしていた。黒い羽の男に救われたいのか、あの男の血を分けてほしいのか。どちらにしても、熱心なファンはこの声のいくところなら、地の底へでもついていくだろう。
笛吹きはハーメルンだけでなく、池袋にもいた。
ライヴは続いた。冷静にきいてみると、ドラムのタイムキープが不安定で、ハヤトのサイドギターは手数が多い割りにセンスがなかった。リードギターとベースは合格。ボーカルは折り紙つきの素晴らしさだ。それとこれはなんといったらいいのか、冒頭のあの音を手始めに、つなぎの効果音やバンドサウンド全体の立体感がすごかった。普通楽器のあいだにスペースができると、ロックでは軽くすかすかの音になることが多いのに、重量感があって個々の音色の質感もいい。よほど腕のいいミキサーでもついているのだろう。
七十分ほどのステージが終わって、おれが横をむくとタカシの頬のしたの血の色が透けて見えた。王様は興奮している。
「街にはでてみるもんだな。ときにとんでもないものに出会う」
おれも同感だった。客がすこし静まったら楽屋に顔をだすことにした。負け組バーガーチェーン店のいかした店長代理に挨拶し、池袋のキングを紹介するのだ。
楽屋は狭くて汚かった。どこかのバンドが何度も室内をめちゃくちゃにしたみたいだ。重ね塗りされた白いペンキで壁に微妙な凹凸の影がついている。片側にはおおきな鏡が張られ、四方をバブルランプが取りまいていた。「デッドセインツ」の男たちは肩を落とし、一列になって壁にむいている。おれとタカシがローディに案内されて扉を開けると、黒いシャドウをいれた目がそろってこちらを見た。ハヤトがいった。
「よう、マコト。そっちがGボーイズのヘッドか、よろしく」
汚れた布テープを指先に巻いた右手をさしだした。ライヴの直後でハイになっているようだ。ハヤトが手をおろすまで、タカシはじっとその手を見ていた。
「Gボーイズのヘッドがなんの用だ」
楽屋の奥からあの声がする。あわててハヤトが紹介した。
「SINくん、こっちはおれの友達のマコト。それにマコトの親友のキング。Gボーイズにもおれたちのバンドを応援してもらおうと思って呼んだんだ」
ボーカルの名はローマ字でSINというそうだ。バンドブーム以降、名字のないバカな名がバンドマンには流行中だ。紹介されると汗で濡れた頭に黒いタオルをかぶり、面倒そうに部屋の奥をむいてしまった。ファンクラブにはいるつもりはないから、別におれはかまわなかった。だいたいいい歌手に人格者などいるはずもない。そのときドアが開いて、男の声がした。
「SIN、いこうぜ」
アルミ箔をくしゃくしゃと丸めたような声だった。SINとは違うが、不気味でざらりと金属質の印象がある。おれはうしろを振りむいた。落ち葉の腐ったような黄土色のパーカに、オレンジと茶がでたらめに重なる秋色の野戦用迷彩パンツ。足元は赤いワークブーツだった。フードをかぶっているので顔はよく見えなかったが、あごの先に細いヤギひげをつけている。楽屋の奥でSINが立ちあがった。ハヤトがいう。
「SINくん、今日のライヴの反省会はどうするの」
おれの目も見ずに肩先をあてるように脇をすぎていく。SINがいった。
「おまえたちだけでやっておけ」
ボーカルは秋色迷彩といっしょにどこかにいってしまった。ドラムの男がさっきまでSINが座っていたパイプ椅子を蹴りあげる。
「なんだよ、いつもスライとばかりつるみやがって。『デッドセインツ』のメンバーはおれたちじゃないのか」
このバンドが空中分解するのも時間の問題のようだった。飛び抜けた才能をもったひとりとその他おおぜい。ロックし続けるのはたいへんだ。
帰り際、廊下でハヤトと立ち話をした。気になってさっきの男のことをきいてみる。タカシは照明をはずれた隅で無関心におれの話が終わるのを待っていた。
秋色迷彩は須来英臣《すらいひでおみ》。腕のいいエンジニア兼ミキサーで、バンドのCDやライヴの音づくりをすべて手がけているそうだ。詞と曲はSINがつくり、スライがプロデュースとサウンドデザインをする。池袋ローカルでも人気がでてきたのは、SINとスライがコンビを組んでからという。
「今日のライヴにも、でかいレコード会社のスカウトがきてた。マコトたちのテーブル席の近くだったよ。おれたちも来年の春にはメジャーデビューしてるかもな。今のうちにサインしてやろうか」
無邪気なギタリストだった。それまでにせいぜいダイエットでもしておけばいい。おれは最後の挨拶をして、タカシと地上にもどった。池袋の夜はまだ浅かったが、風は秋の冷たさだ。今回の依頼者には厳しい季節が近づいていた。
タカシと夜の池袋を歩いた。街角のあちこちでGボーイズのメンバーの挨拶がうるさいくらい。タカシは片手をあげ、うなずき、かすかに唇の端を吊りあげる。王様でいるのもたいへんだった。
おれたちは六十階通りをこの街ただひとつの超高層ビルにむかった。新宿には何十となくその手のビルがそびえているが、池袋は一本だけだった。正直おれはこの街に二本目はいらないと思う。
カツシンが住んでいる日之出町公園は、サンシャインシティに隣接する西友の角をはいったところにある。周囲は商業ビルと普通の住宅だ。ぽつぽつと背の低い樹木の植わったちいさな公園の端に、五、六軒のビニールシートハウスが固まっている。
カツシンはベンチに座り、おれたちを待っていた。防犯のためだろうか、隅々まで水銀灯の光りが届く明るく清潔な公園だった。だが、ホームレスにはすこし冷たいようだ。ベンチの座面には横になれないように仕切り板が打ちつけてある。
「よう、よくきたな」
カツシンが立ちあがり、出迎えてくれた。おれはホームレスの元締めの立派な顔について、先にタカシに話していた。タカシはカツシンを見ると苦笑しながら会釈した。おれたちがベンチに座り、話を始めようとすると、男がふらふらと植えこみのなかからあらわれた。
「余はわが国の未来を憂えておる……」
男はたぶん五十代なかば。泥だらけの背広姿で、吉野家のもち帰り弁当の空容器を頭にのせていた。ゴムひもがあごの先に引っかかっている。きっと王冠のつもりなのだろう。ここにもひとり孤独なキングがいた。カツシンがいった。
「王様、今日の成果はどうだった」
背中のリュックからどさどさと週刊誌やマンガ誌を取りだす。おれがコラムを書いているファッション誌もあった。カツシンはおれたちを見てうなずいた。
「大事な話がある。あとできちんと奏上するから、むこうへいってくれないか。今夜は酒の用意もある」
牛丼の王冠をかぶった男は酒ときいて目を光らせた。
「よきに計らえ。話は短いがよい」
賛成。雑誌あさりの王様はなにかぶつぶついいながら、青いシートの集落へ歩いていった。
タカシを紹介すると早速話をきいた。その夜日之出町公園には襲撃された五人のうちふたりが顔をそろえていた。すねとひざの皿を割られたひとり目と左のあばらを二本やられた三人目だ。残る三人はまだ入院中。腰骨の横を亀裂骨折したふたり目はもうとっくに完治しているのだが、病院の居心地がよくてでてこないのだそうだ。三食昼寝つきのうえ、鎮痛剤でたっぷりといい夢を見られる。
足を折られたやつはまだ四十代で、よく日焼けしていることをのぞけば、そのまま普通のサラリーマンも務まりそうな男だった。使いこんだ黒縁メガネのせいでそんな印象があるのかもしれない。男は淡々と話した。
「首都高池袋線のガードしたをヤサにしていたんだが、六月七日の夜中にハウスで寝ているところを襲われ意識をなくした。クロロホルムだそうだ」
タカシがクールにいった。
「やけに正確なんだな」
「まあな。サツで調書を取られてるから、場所と日時は嫌でもはっきりするさ」
うんざりした様子で日焼けした顔を歪める。男はベンチまえの地面に腰をおろして、割られた右ひざをさすっていた。脇にはなめらかなアルミ製の松葉杖がある。静かな夜の公園には金属の光りは似あわなかった。おれはいった。
「そのクロロホルムというのも警察がいっていたことなのか」
「そうだ。目が覚めたのは明け方の五時まえで、ジャージがやぶけそうなくらいひざが腫れていた。無理にラグビーボールを押しこんだみたいだった。痛くてたまらなかったが、なんとか近くの公衆電話まで這っていき救急車を呼んだんだ」
カツシンは黙って腕を組み、首を横に振っていた。ジージャンを着てはいるが、戦の軍配を執る戦国大名のようだ。おれは型どおりの質問をした。
「襲われた前後に誰かに見られているような感じはなかったかな」
男はあごの先だけ横に振る。
「いいや。なかったと思う。おれたちはあまり目立たないようにしている。人目についていいことなどひとつもないからな」
世間を騒がせずひっそりと暮らす男たちに、どうやって目をつけたのだろう。
「ほかになにか変わったことはなかったか」
男は大急ぎでうなずいた。話したくてたまらなかったらしい。
「それがな、病院でジャージを脱いだとき、すねとくるぶしのところにソープランドなんかでつかうローションみたいなもんが塗ってあった。まあ、あれみたいにぬるぬるしてなくて、もっとべたべたした硬い手ざわりだったけどな。なんなのか警察もよくわからないといっていた。なあ、カブさん、あんたのときもそうだったよな」
カブと呼ばれた男はあばらを折られた三人目だった。まだ九月なのにキャメルのレインコートを着て、首までボタンを留めていた。やわらかそうな白髪をオールバックにしている。存在感の薄い幽霊みたいな六十代で、さっきからひと言も口をきかずに、おれたちの話をきいていた。男は外灯のしたに立ちつくし、自分のつま先に話しかけるようにいった。
「わたしのときも同様だった。あれはローションというより、若者が髪を固めるときに使用するジェルに近いのではないだろうか。わたしの脇のしたには広い範囲にわたって粘性の高い物質が塗付されていた。痛みで定かではないが、わたしはあのときペパーミントの香りをかいだ気がする」
おれとタカシは顔を見あわせた。このホームレスはどこかの大学のセンセのような話しかたをした。男はそれだけいうと、コートのポケットに手をいれた。ペーパーバックの推理小説のようだ。英語のタイトルが見えた。銀の銃身を赤いマニキュアをした女の手がそっとふれている表紙だった。男はおれたちからひとつ離れた外灯まで歩くと、ページを開いて立ったまま読み始めた。声をひそめてカツシンにいった。
「あの人、なに者」
カツシンはぎろりと目をむく。
「噂はいろいろだ。外務省のキャリアだったというやつもいるし、スイスの投資銀行のトレーダーだったというやつもいる。誰もほんとうのことは知らないが、いつもああして横文字の本や漢字だけの本を読んでいる。ホームレスがみんな同じだと思ったら、おお間違いだ。公園にも普通の街と同じで、いろんなやつがいる」
人間をひとくくりにしたり、ただの数字にしないこと。コラムを書くときも、人に話をきくときも、ついでにいかれた犯人を追うときも、基本は変わらなかった。
おれたちはみなひとりひとり違う。痛みや貧しさも同じはずがない。
聞きこみのあとはカツシンのビニールシートハウスで酒盛りになった。タカシは最初に冷や酒を一杯あおると、ミーティングがあるといってでていった。おれひとりホームレスの男たちのなかに残される。といっても居心地はぜんぜん悪くなかった。
花見なんかでもそうだが、地面に近いところに座ってのむ酒の味は格別だった。酒をくらえば、ホームレスも、素人探偵も、コラムニストもなかった。歌をうたい、バカな下ネタに涙を流して笑う。においなど三十分もすれば慣れてしまった。秋の夜、虫の音を身近にききながらの酒盛りは最高だ。真夜中、酔いざましにでたらめにブランコを立ちこぎして、空にかかる半月に叫ぶ。なんだかわからないが、おれは今生きてる。
結局その夜、日之出町公園のハウスでざこ寝することになった。明け方にすこし寒かったのを別にすれば、初めての路上での宿泊はまずまずの快適さだった。
翌日の早朝、小鳥の鳴き声で目が覚めた。西一番街のようにカラスのやかましい声ではない。青いシートから顔をだして公園の木を見あげると、尾の長いカラフルな熱帯の鳥が何羽も枝のあいだを飛びまわっていた。首のしたに青い輪のような紋があるインコだった。誰かが放したペットなのだろうが、亜熱帯気候になりつつある東京は、やつらにも住み心地がいいのだろう。
のどが乾いたので公園の水道で顔を洗い、久々に水道の水をのんだ。おれでさえ普段はペットボトルのミネラルウォーターを買っている。むだな贅沢かもしれない。水道の水はその朝十分にうまかったからだ。遠くの会社に出勤するサラリーマンやOLが、おれがそこに存在しないかのように視線をそらしてとおりすぎていった。
その日は市場にいくのを勝手に休むことにした。またおふくろはがたがたいうだろうが、うちの店は毎日仕入れなきゃならないほど売れているわけでもない。酒が残っていたからまたハウスにもどり横になった。
なんというか、まともな勤労者といっしょに朝の街を歩く気分ではなかったのだ。
十時すぎにカツシンに挨拶して、日之出町公園を離れた。まだ店を開けるには早い時間だ。ぶらぶらとサンシャインシティ・アルパにはいり、ついでに新星堂をのぞくことにした。平日の午前中のショッピングセンターは閑散としていて気もちがいい。店員も午後のようにだらけずに、まだ気を張っている。
おれはクラシックコーナーで新しいCDをチェックした。今年は没後百年だかのヴェルディイヤーで、やたらとヴェルディのオペラが並んでいる。新録音の『ファルスタッフ』を手にして、横のニューエージミュージックの棚を見ると昨夜の顔がいた。ハヤトのバンドのボーカルSINとミキサーのスライ。スライはまだ秋の迷彩姿で、SINはブラックジーンズにぴちぴちの白いシャツだった。なぜロッカーはみなこんなに細いのだろうか。スライの手元を見ると、チベットのラマ僧の読経をいれたCDをもっている。おれがうなずくと、SINもうなずき返した。数歩近づいて声をかける。
「ライヴよかったよ。でも、最初に鳴ってたあの不思議な音はなんだったんだ」
SINではなくスライがにやりと笑っていった。
「あんたも気にいったか」
「別に気にいりはしないけど、きいてて胸がドキドキした」
不気味に感じたことは黙っていた。スライはいう。
「音の魅力はいろいろだが、ダメなのはもたもたしたのろくさい音だ。あの音は音の速度だけを考えてつくったものだ。なかなかいかしてただろう」
SINがスライのパーカの袖を引いた。よそにいきたそうな素振りだった。スライは振りむくとSINを軽くにらんだ。
「あんたはクラシックなんかもきくみたいだから、耳はそう悪くないんだろうな。ガキは特定のジャンルしかきかないから、話をしてもおもしろくない。音のパレットの色数がすくないんだ。あの音のヒントは、北海道のどこかの炭鉱で起きた落盤事故さ」
音づくりのヒントが落盤事故? おれには意味がわからなかった。
「ある日、狭い坑道で小規模の落盤が起きた。ついてないことに若い鉱夫が背骨のしたのほうまで崩れてきた石にはさまれちまった。下半身の骨はぐしゃぐしゃに潰れたそうだ。なんとか命は取りとめたが、そいつは一生車椅子暮らしらしい。その男がな、こんなことをいってる」
スライは深くかぶったフードのしたで、目をとろりと泳がせていた。効果を狙っているのか、しばらく言葉を切った。にやりと笑って両耳に手をあて、手のひらでこするようにする。おれは続きをせかすのをなんとか我慢した。
「意識を失う直前、そいつは天国の音をきいたそうだ。稲妻よりも速く身体を駆け抜ける音で、たまらない快感だった。若い鉱夫はその音を天国の扉が開いた音だと思ったのさ」
SINがじれたようだった。叫ぶようにいう。
「もういい。スライ、いこう」
パーカの腕を抱えるように、CDショップの外に連れていってしまう。スライはおれに笑いかけながら手を振った。スライは無人の通路で声を張りあげる。
「もうすぐあの音も完成だ。そんときはあんたにもきかせてやる」
SINはずんずんスライを引いていく。それにしてもなぜあのボーカルは急に目に怯えの色を見せたのだろうか。スライの話は抜群におもしろかったのに。
おれはそのとき二日酔いで脳天気だった。情けない。ふたりのことなどすぐに忘れ、ヴェルディでなくワーグナーのCDを買い、朝の池袋を西一番街にもどった。
果物屋のまえに、ヴィヴィッドバーガーに顔をだした。ハヤトは今日も朝一からしっかりと店長代理を務めていた。地方からでてきてひとり暮らしでは、ライヴの翌日だってアルバイトを休むのはむずかしいようだ。やつはおれを見ると、カウンターのむこうで鼻を動かした。
「なんかマコト、安酒と男子更衣室のにおいがしないか」
おれは着たまま寝てしまった長袖Tシャツの袖をかいだ。確かにハヤトのいうとおりだった。更衣室というより剣道の防具のにおい。くさい探偵。
「アイスコーヒーひとつとホットコーヒーひとつ、もち帰りで」
冷たいのと熱いのを交互にのんで、おれは酒を抜き、頭をすっきりさせるつもりだった。コーヒーをいれるハヤトにいった。
「そういえば、おまえのところのボーカルとエンジニアにさっき会った。あの迷彩パンツの男はけっこうおもしろいやつだな」
ハヤトの顔色が急に暗くなった。コーヒーいりの紙袋をカウンターにおいても、おれの目を見ようとしない。
「そう。なにかいってなかった」
「なんだか、もうすこしですごい音が完成するとかいってた。だけど、いったいあの音はなんなんだ」
おれはスライに質問したのと同じことをハヤトにもきいた。襲撃事件を解決する鍵がそこにあるなんて、そのときはすこしも考えずに。ただあの音がいつまでも耳に残ってしかたなかったせいだ。ハヤトはおれを無視して、つぎの客にむかった。
無料のスマイルとSINと同じ怯えた目の色で。
その日は締切まえの借りをおふくろに返さなきゃならなかった。終日、店番。ときどき痛んだ幸水をむいたり、房から落ちた種なし巨峰の粒をつまんだりしたが、商売ものはいくら高価でもぜんぜんうまくない。
ひまを見てノートパソコンに新たな情報を加え、あとはぼんやりと店先の果物を見ていた。おれにセザンヌのような腕があれば、絶対秋の日を浴びた果物屋の店先を描くだろう。光りと影と成熟した果実の微妙な色あいの饗宴だ。BGMは買ったばかりのワーグナー序曲集だった。歌劇『パルジファル』の聖金曜日の音楽をリピートする。ワーグナーは十九世紀ドイツロマン派の作曲家で、あの時代らしい巨人族のひとりだが、あるもの書きがこんなふうにいっている。
「彼はひとつの耳にすぎない。人間のおおきさをした耳だ」
あとにはこう続く。その耳のしたにみすぼらしくやせた細い柄《え》のような人間がぶらさがっている。人間とその部分にすぎないはずの耳が逆転しているのだ。おれがそれで思いだしたのは、スライのことだった。やつも人間の世界に紛れこんだ耳の種族の一員なのかもしれない。そうでなければ、あれほどの音をつくれるはずがない。
聖金曜日の音楽は深々とした森を思わせる静けさと広がりに満ちていたが、おれがきいていたのは半分だけだったかもしれない。スライのいう天国の扉が開く音とライヴできいたあの不気味な響きが耳の底にいつまでも残っていたからだ。
タカシからの電話があったのは昼すぎだった。おれが携帯にでると、湿度ゼロの声がする。
「今夜から、ホームレスの自警団とGボーイズが手を組むことになった」
「そうか」
「池袋周辺の主だったねぐらを数人のクルーで巡回する。マコトのほうはなにか手がかりはつかめたか」
昨日の今日でそんなことができるはずがない。おれはいった。
「昨日は聞きこみと宴会。今日は一日中店番だ。どんな名探偵だって、手がかりなんて見つかるはずないだろ」
タカシは鼻で笑った。
「おまえはいつも事件の始まりにはそんなことをいう。だが、おれの知ってる限りではおまえほど、意味のないこと同士を結びつけるのがうまいやつはいない。なんにもないところからコラムのネタも拾ってくるしな。まあ、せいぜい悩め」
ほめているのか、けなしているのかわからない王様だった。おれは携帯を切って、店番にもどった。
しかし、間違っていたのはこちらのほうだったのだ。その日の夕方には、店番をしているおれの手元にこれ以上はない手がかりが届けられたのだから。
近所のキャバクラのホステスが入院したといって客の注文を受けた。巨峰に白桃にマスクメロンでしめて一万円。おれの店では最上級の組みあわせだった。籐のフルーツバスケットにリボンをかけようとおれが悪戦苦闘していると、店のまえの歩道からハヤトが声をかけてきた。
「悪い、マコト、ちょっといいかな」
おれは二重にした紅白のリボンを放りだし、店先に顔をだした。
「なんだよ、このいそがしいときに。ハヤトがうちにくるなんてめずらしいじゃん」
なぜかやつはおどおどしていた。肩にななめがけした小振りのナイロンショルダーからちいさなプラスチックケースを取りだす。目のまえにかかげた。
「しばらくあずかってもらえないかな」
おれは手に取ってケースを開いた。六十分のミニディスクだった。貼られたシールにはスライスタジオのロゴと電話番号がスタンプで押してある。
「あずかるってどういうことだ。なにがはいってんだ、これ」
ハヤトは無理に笑顔をつくっていった。
「うちのバンドのデモテープ。ちょっとバンドのあいだでもめててさ、その音源は手元においておきたくないんだ。何日かしたら取りにくるから、マコトがもっててよ」
MDは七センチ角ほどの薄いディスクだ。こんなものならどこにでも隠しておけるだろう。おれはハヤトの意図がわからなかったが、受け取って店のCDラジカセのうえにのせておいた。ハヤトは安心したようにいう。
「悪いな。もし、おれになにかあったら、マコトがそいつをきいてくれ」
まるでどこかの政治家かタレントの重大スキャンダルでもはいっているようだった。スパイ映画みたいな台詞《せりふ》だ。からかおうと思って顔をあげたら、やけに真剣な顔でハヤトが道路をわたっていくところだった。肩の線が硬く、強い風のなかを歩くようにまえかがみになっている。
それでも、なにも感じなかったんだから、おれはまったく鈍感だ。
つぎの日、カツシンといっしょに池袋周辺の公園を三カ所、首都高のガードしたを一カ所、明治通り沿いの植えこみを一カ所まわった。人間は実にいろいろな場所で生活するものだ。しかも、どこもそれなりに居心地のいい場所を選んで、段ボールハウスが建てられている。人目と直射日光をきちんと避け、コンビニと水道と公衆トイレから近いところ。おれが街場の育ちだからかもしれないが、片道二時間かけて通勤するくらいなら、都心のすき間でああして遊牧民のような暮らしをするのも悪くないと思った。いざというときのために、ちょっとノウハウを身につけておくのもいいかもしれない。
肝心の「骨折り」に結びつくネタはなにもなし。現場近くのホームレスに聞きこみをしたが、事件および不審者の目撃情報はゼロだった。夕方近くなって日之出町公園にもどるとカツシンはいった。
「足が棒になるだけで、ぜんぜんおもしろくねえな。これならテレビの二時間ミステリーのほうがいくらましだかわからん」
やつはちゃっかり公園のコンセントから電気を引いて、ハウスのなかで小型テレビを見ているのだった。管理人が顔をだしたときだけコードを隠しておけば、夜は電気はつかい放題だという。
「住所不定だと払いこみの通知が送られてこなくてな。東京電力もいかんぞ。電気料金なら払う気はあるんだが」
ごま塩のあごひげをなでて、子どものように笑う。どの世界でも元締めになるような人間にはおかしな魅力があるものだとおれは変なところに感心した。
翌日の朝、おれは店を開けるまえにヴィヴィッドバーガーに顔をだした。まずいコーヒーをのんで、ハヤトとむだ口をたたくのが習慣になっていたのだ。見慣れたカウンターのむこうにはアイロン跡が残るシャツを着た正社員の店長が立っていた。
「ホットをひとつ。今日はハヤト、休みなの」
てきぱきと紙袋にコーヒーカップをいれながら若い店長はいう。
「昨日も今日も、無断欠勤だよ。連絡もつかないし。けっこうまじめなやつだなと思ってたけど、やっぱりバンドマンなんてダメなのかな。はい、ありがとうございました」
おれはコーヒーをもって店をでた。ライヴの打ちあげの翌朝からアルバイトをしていたハヤトが二日続けて無断でさぼるなんておかしな話だった。そこでようやくおれはあのMDのことを思いだした。嫌な予感がする。その時点では、おれのなかでホームレス襲撃とハヤトの失踪はまるで結びついてなどいなかったが、こういう予感だけはなぜかあたるのだ。おれは店のまえのごみ箱に袋ごとコーヒーを投げこんで、丸々と太ったカラスが十五メートルごとに自分の縄張りを主張する朝のロマンス通りを駆けた。
シャッターを開けて、薄暗い店にはいった。甘い蜜の香りがする。夜のあいだに売りものの果実が熟れているのだ。人がのぞかないようにひざの高さまでシャッターをおろした。薄い鉄の羽から漏れた光りが、ほこりの帯をななめに浮きあがらせる。
おれは店の奥、レジの脇にあるCDラジカセのところにいった。ハヤトのMDは丸二日近くそのうえに放りだされたままだった。ケースから取りだし、前面に薄く口を開けたスロットに押しこむ。半分ほどすすむと、あとは機械のほうが勝手にディスクをのみこんでいった。暗い店先で息をつめ、スピーカーに耳を寄せた。金属質の響きがのったスライの囁きが異様な鮮明さで流れだす。
「MC、MC、七月二十四日、中池袋公園、今夜はよく枯れたジイサンだ」
その日は東京で最高気温三十八度を記録したこの夏一番暑い日だった。三人目、あのインテリホームレスがあばら骨を二本折られた日でもある。おれは魅せられたようにスピーカーに耳を近づけた。SINの声はスライより遠く弱々しかった。
「準備できた。早くやっちまおう。人がきそうだ」
スライは楽しくてたまらないようだった。
「だいじょぶ、だいじょぶ。ちょっとくらいもの音がしても、こんなハウスをのぞくやつはいない。そこのハンマーよこせ……金槌じゃなく、木のほう……金属はせっかくの生音がメタリックになってダメだ」
ごそごそと衣類のこすれる音がした。ふたりともマイクのむこうで黙りこんだ。かすかにセミの鳴き声がして、静寂のなかどんどん緊張感が高まっていく。おれまで息をするのを忘れてしまった。
「ンフッ」
腹に力をいれる声が漏れて、つぎの瞬間あの音が開店まえの薄暗い店に響いた。きいた瞬間に耳が吸いこまれる不気味な音だ。「デッドセインツ」のライヴではこの音にあわせて、僧衣を着たガキが踊り狂っていた。あれは骨が砕ける音を、人間の身体に直接つけたマイクで拾った音だったのだ。
なによりもカッコいいのは速い音だといったスライの目の光りを思いだす。それに落盤事故に遭った若い鉱夫の言葉も。空気のあいだを伝わる音のスピードより、硬度の高い固体を伝わる速度のほうが遥かに速い。人体のなかで最も硬いのは骨だ。骨で発生した音が自分の骨を伝わり聴覚神経に届く音は、のろくさい空気を媒介とせず、人間の耳が聴取可能などんなものより速い音に間違いなかった。
スライは別に暴力事件など起こしたかったわけではないのだろう。やつは選ばれた耳の種族の一員だ。それほど粗雑な神経のもち主ではないはずだった。きっと誰よりも速くカッコいい音をつくりたかっただけなのだ。たとえ生きているホームレスの骨を楽器代わりに使用したとしても。
なぜ、ジェルを塗ったのかおれにもそのときわかった。マイクの密着度を高め、空気のすき間ができないようにするためだ。考えてみれば胎児を検診する超音波診断でも必ずジェルをつかっている。
スライのことだ、何種類ものジェルを買い集め、音の透過率やマイクとの相性を試したことだろう。おれにはスライが自分の身体にマイクをセットして、ひと晩中自分の骨をたたく姿が想像できるような気がした。ひとりきりのマイクチェックだ。
素晴らしくハイスピードな骨音が乱舞する楽しいコンサートの夕べ。
だが、もうぐずぐずしてはいられない。リサイタルのラストピースが迫っている。おれの頭にはまえかがみに道路をわたっていくハヤトの思いつめた背中が浮かんでいた。
店長からきいてはいたが、念のため携帯でハヤトの短縮を押した。留守番サービスのまま当人にはつながらなかった。つぎにタカシの短縮。取りつぎが代わると、百パーセント目覚めたキングの声が冷たい水のように流れだす。
「なにかつかんだな、マコト」
カンのいいやつ。おれはかぶせるようにいった。
「ホームレス襲撃の犯人がわかった。タカシも知ってるやつだ」
不思議そうな声がする。
「Gボーイズのメンバーなのか」
「違う。すぐにうちの店にきてくれないか」
「十五分」
あいかわらずコンパクトな会話だった。通話が切れるとおれはつぎの短縮を押した。サンシャインシティ近くのデニーズを事務所代わりにしている凄腕ハッカー、ゼロワンだ。クリスマスの偽装誘拐事件から九カ月、やつの頭に埋めこまれたアンテナは、まだ自分のためだけに神様から送られたメッセージを受信していないのだろうか。
「もし」
ゼロワンの声がした。最近はなんでも言葉を短くするのが流行りなのだろうか。もしをもう一度繰り返すくらいなんでもないと思うのだが。
「こちら、マコト。久しぶりだな。住所を調べてほしい電話番号がある。いいか」
おれはMDに貼られたシールの番号を読みあげた。03で始まる十桁、都内の番号であるのは間違いない。ゼロワンはあわてもせずにいう。
「そのままちょっと待ってろ」
キーボードをかちゃかちゃとたたく音。背景でウエイトレスが「コーヒーのお代わりいかがですか」とかわいらしく客に声をかけていた。看護婦が履くようなデニーズの布製シューズが目に浮かぶ。
「マコト、おまえは間抜けだな」
わかっているが、他人からいわれると腹が立った。
「それがどうした」
「おまえのところにも電話帳くらいあるだろう。今はなネットにもイエローページのサイトがあるからいいけどな」
「それじゃ……」
ゼロワンはガス漏れのような笑い声をあげた。
「ああ、そいつなら電話帳にのってる。正規の料金よりは割引しといてやるよ。スライスタジオの所在地をいうぞ」
おれは店の領収書の裏に南池袋の番地を書き留めて、タカシの到着を待った。
メルセデスのRVはちょうど十五分後に、うちの店のまえにとまった。シャッターの両脇に歩哨を立たせ、タカシが薄暗い店内にはいってくる。おれは唇に手をあててやつの言葉を抑え、MDのスイッチをいれた。
骨の折れるくぐもった音が、ちいさなスピーカーから目覚ましい速さで飛びだした。眉をひそめ、きき耳を立てていたタカシの表情が、なにかを発見したように輝く。
「そうか、スライという男か。おれもライヴのあの音をどこかできいたとずっと思っていた。今、ようやくわかったよ。ほんとうにいいパンチを打つとあんなふうな高い音がきこえるんだ」
おれはタカシのような武闘派ではない。意味がよくわからなかった。キングは無邪気に笑っていう。
「力まかせに殴ったり、押すようなとろいパンチではダメなんだ。身体の隅々までリラックスさせて、優秀な郵便配達夫のようにパンチの衝撃だけを相手の急所においてくる。こぶしをだす速さともどす速さは正確に同じだ。それがうまくできると、ドスンッとかゴツッなんて鈍い音はしない。なぜかパンチを打った自分の肩口で、細いガラスの柱が折れるようなピキッと澄んだ音が鳴る。おまえにもきかせてやりたいな。あれは気もちのいい音だ」
タカシが鞭のように全身をしならせて繰りだす右のこぶしを想像した。気の毒な挑戦者。寒けがする。おれの表情を見て、ストリートの王様は夢見るようにいった。
「その音がすると同時に相手はその場にストンと崩れる。砂の城を殴るようなもんだ。手ごたえなんてまるでない。ただあの音が鳴って、おれのまえからひとり人間が消えてなくなる。おもしろいだろ」
おもしろくない人生のほうがおれは好きだという代わりに、領収書の裏を差しだした。タカシは紙切れを受け取って、外の歩哨を呼んだ。メルセデスのカーナビで正確な場所を探すのだろう。音もこぶしも、おれには世界一速いスピードなど無用だった。
第一、この世界の何人がその速度に耐えられるというのだ。
その日の午後遅くには、Gボーイズとホームレスの自警団が目的の一軒家を距離をおいて張りこんでいた。
明治通りを雑司谷小学校の角で曲がる。二百メートルもすると、真乗院、法明寺、観静院などやたらに寺院が集まった一角になる。スライスタジオはその静かな住宅地に、四軒ほど並んだちいさな商店のひとつだった。一階の雑貨屋はとうに店を閉じ、シャッターには厚く土ぼこりがかぶっていた。
脇についた鉄の階段には看板が針金でとめてある。手描きのラスタカラーでスライスタジオ。二階の窓は内側から黒い紙が貼られて、なかの様子はわからなかった。そっと階段をあがり電気メーターを確かめる。かなりの勢いでまわっていた。外廊下のはずれにあるエアコンの室外機からは熱風が吹きだしている。誰かは知らないが、なかに人がいるのは間違いなかった。
おれとタカシとカツシンは離れてとめたRVにもどった。作戦会議を開くためだ。こちらにはこれだけの人数がいて、予期していないスライとSINを押さえるのは容易だろう。だが、問題はそのあとだった。カツシンはふたりをわたせという。真夜中どこかの公園に仲間を集め、袋だたきにするのだそうだ。もちろんマイクはなし。スライは自分の骨が砕ける音をどんなふうにきくのだろうか。
タカシはホームレスにくれてやっても、自分たちでケリをつけてもいいという。Gボーイズの責めは厳しい。どちらにしてもスライとSINが悲惨な目に遭うのは変わらなかった。対しておれの主張は警察を一枚かませること。税金を有効につかったほうがいい。警察と司法のシステムにふたりをきちんと裁かせるのだ。最後にタカシがいった。
「最終的にはやつらがどんなふうにいかれているかによるな。どうしようもないやつらなら、そのままさらってどこかに埋めてもいい」
力などいれずにさらりとキングはそういった。タカシならいったんそう決めたら実際にやりかねなかった。カツシンの目がぎらりと凄みのある光りを浮かべた。
「そいつもいいかもしれねえな」
おれはフィルムが貼られたメルセデスの窓から外を見た。木々の葉はまだ夏を忘れずに青々と風に揺れている。黄色い通学帽をかぶった小学生がひとつのゲームボーイに群がるように歩道をとおりすぎていった。ガラス一枚むこうは平和の世界。
突入はあたりが薄暗くなったころだった。タカシはGボーイズのひとりにキャップをかぶせ、ストライプのブルゾンを着せた。ドアの脇には四人がしゃがみこみ、三カ所ある窓のしたにはふたりずつ見張りを立てた。空の段ボール箱をもったガキがインターホンのボタンを押す。
「すみません、宅配便です」
ろくに確認もせずにスチールの扉が開いた。最初のガキが思いきりドアノブを引く。転げるようにSINが外廊下にでてきた。いれ違いに突撃部隊の四人がなだれこみ、タカシとおれが続いた。カツシンはSINの細い手首を背中にねじりあげている。
玄関先の短い廊下の奥にもう一枚分厚い扉があった。空気も漏らさない防音仕様の扉だ。スライはこの借家をかなり改造しているようだった。壁の厚さが普通の家とは違う。その先は八畳ほどの広さのスタジオだった。平行面ができないように壁にはゆるやかな凹凸がつけられている。中央に折りたたみ式のテーブルとカラフルなひじかけつきのパイプ椅子。そこにハヤトが縛りつけられていた。おれはテーブルのうえにさまざまな種類のハンマーが並んでいるのを見た。金属製、木製、柔らかなゴム製。先端の形も丸いもの、角ばっているもの、とがっているものといろいろある。スライはこれをハヤトに試したのだろうか。おれにはやつの背中と乱れた金髪しか見えない。まえにまわり、声をかけた。
「ハヤト、だいじょぶか」
しもぶくれ気味の顔はメロンのように丸く腫《は》れあがっていた。あちこちに黒ずんだあざが残っている。唇の端が切れてめくれ、目はブドウパンに埋めこまれた干しブドウのように乾いて力をなくしていた。額の両端、ちょうど眉の終わるあたりのうえには小型のマイクがガムテープで貼りつけられていた。ジェルは溶けだして、凍った涙のように顔の両側を流れ落ちている。頭蓋骨をドラム代わりにつかわれたのだろう。死にかけた虫のような声を漏らす。
「マコトか、水くれないか。やっぱり、ダメだった。スライをとめられなかったよ」
ようやく安心したようだった。カッターの切り口のように腫れた目から、水滴がひと粒こぼれ落ちた。
録音スタジオのとなりはガラスで仕切られたミキシングルームだった。調整卓のむこうでは、ふたりがかりでスライを床に押さえつけている。縛りあげられスタジオの椅子に座るのは、今度はスライとSINの番だった。
スタジオの四隅には先ほどの突入部隊の四人が立ち、防音扉のむこうで別なGボーイズが守りを固めた。タカシとカツシンとおれが残り、ハヤトはまだ椅子から立ちあがれずにいる。冷房がはいっているようだが、詰めかけた人数が多く、スタジオのなかは汗が流れるほどの熱気だった。カツシンは柄の長さが大人の前腕ほどある木槌を取りあげ、重さを確かめている。
「おまえら、こんなもんで人を殴っていたのか。信じられねえガキだな」
タカシはじっとスライを見つめていった。
「理由を話せ」
スライはまだオレンジの迷彩服姿だった。おもちゃを取られた子どものように不服そうにいった。
「仕事だよ。おれは最高の音を録《と》るのが仕事なんだ。ホームレスのおやじなんていてもいなくても別にかまわないじゃないか。それにおれたちは誰も殺しちゃいない。ただ音の素材を借りただけだ。あんたたちだって、あの音をきいただろう。ホームレスの骨一本であの音が録れるなら、文句なしじゃないか」
カツシンは自分の手のひらに木槌の頭をたたきつけた。スライではなくハヤトが椅子のうえで跳ねた。タカシはSINにいう。
「おまえはどうなんだ」
「ぼくは……」
きれいに眉を整えた顔をうつむかせ、SINは言葉に詰まった。顔をあげると、ちらりとスライを見ていった。
「……始まりはスライがもってきた新聞記事の切り抜きだった。例の落盤事故を伝えたものだ。それからスライは『天国の扉が開く音』に取りつかれてしまった。一件目の襲撃で音録りは終わるはずだった。サンプリングしてイコライザーをかければ、いろいろな効果音がつくれる。でも、あの音を最初にライヴでつかって、気が変わってしまった」
あの音のでたらめなスピード。ガキどもの熱狂を思いだす。タカシは首を横に振り、おれを見た。SINはいった。
「ぼくの声とあの音があれば天下を取れる。客の反応がぜんぜん違うんだ。それでスライとぼくはもっともっと骨の音がほしくなった。途中でとめることはできなかった。たくさんのファンにあと押しされていると思いこんでいたんだ。あの音を広めるのがぼくたちの使命だって」
タカシは腕を組んで、仕切りのガラスにもたれていた。Gボーイズのひとりを呼び、なにか耳打ちする。メルトンの黄色いカバーオールを着たそいつが、スタジオを走りでていった。タカシの声は静かだ。
「それで自分のバンドのメンバーまで音源につかったのか」
SINがぶつぶつといった。
「しかたない。やめなければ、すべてをばらすとハヤトはいった。こいつ程度のギターなら代わりはいくらでもいる」
タカシは冷たく笑ったが、目の奥におかしな光りがはいるのがわかった。あぶない。スライとSINは自分たちがおかれた状況がぜんぜんわかっていない。タカシはカツシンにいった。
「なあ、さっきの話だが、あんたたちのやりかたじゃ、こいつらに効果はないよ。肉体を痛めつけるだけじゃ、ひと月もすれば痛みなど忘れてしまう。おれはこいつらから、ほかに代用できないものを奪うのがいいと思う」
かけがえのないものを奪う? おれは意味がわからなかったが、カツシンはうなずいていった。
「そうかもしれんな。おれたちの手に負えるガキじゃないようだ。殺してしまうわけにもいかんしな。あんたなら、こういうガキのあしらいをよく知っていそうだ」
それでおれたちは、スライが録音した骨の音をプレイバックしながら、さっきのGボーイが帰ってくるのを待った。
十分ほどしてやつがもどった。手には茶色のカートンをさげている。ご苦労といってタカシは紙袋を受け取った。中身をスライとSINが座るテーブルにおいた。緑色のプラスチックボトルだった。キャップのうえには398円と値段のシールが貼られている。どのホームセンターでも大量に山積みされている塩素系のパイプ洗浄剤だった。Gボーイはカバーオールのポケットからもうひとつなにか取りだした。銀のクロームがまばゆい工具。大型の穴開けパンチのようだ。
「これでおまえたちの処分は決定だ。スライ、おまえは耳を失う。SIN、おまえからは声を奪う」
突入後初めて、ふたりは縛られた椅子のうえで震えあがった。死なない程度に痛めつけられるだけだとたかをくくっていたのだろう。だが、タカシが決めた罰はそんなものよりずっと過酷だった。スライとSINの顔は今度は正真正銘の恐怖に歪んでいる。キングは穏やかに笑っていった。
「スライ、おまえは自慢の耳に五つずつ穴を開けろ。なんならマイクをつけて、音を拾ってやってもいい。SIN、おまえはその洗浄剤をのみほせ。一度のどをとおせばすぐに吐きだしてもいい。別に死にはしない。だが、一滴も残すなよ。そいつでおまえの声を焼いてやる」
外部から遮断された静かな防音室で、スライとSINが荒く息をする音だけが響いていた。Gボーイズもカツシンも黙りこんでしまった。おれは必死に考えていた。多人数で袋だたきにされるのと、声と耳を奪う罰のどちらがいいか。普通なら全身骨折のほうが重いだろうが、このふたりにはきっと違う。耳と声の種族から肝心なものを奪ったら、あとに残るのは干からびた人間の抜け殻だけだ。なんとかしようとおれが口を開きかけると、眠っているように見えたハヤトがうめくようにいった。
「タカシさん、それにみんな、おれが謝るからSINだけは許してやってくれないか。その洗浄剤なら、おれがのむよ。SINはスライに引きずられていただけなんだ」
ハヤトの顔はまだ青黒く腫れたままだった。カツシンが驚いたようにいった。
「おまえ、なにいってるのかわかってるのか。それだけやられても、まだ懲りないか」
ハヤトは唇を曲げた。笑ったようだ。かさぶたが割れて血がにじんでいる。
「あのバンドを始めるとき、おれはギターを続けるかどうか迷っていた。田舎からでてきて、もう六年になる。そろそろ職探しでもしたほうがいいのかななんてさ。そのとき、おまえのギターはけっこういかしてるといってくれたのがSINなんだ。おれだってよくわかってるさ……」
スタジオは静まり返った。ハヤトは唇が痛んでしゃべりにくそうだったが、言葉を続けた。
「……いくら髪を染めて、ギターケースをもって肩で風を切っても、おれにはプロとしてやっていけるだけの才能はない。だけどSINの声は、ほんとうのほんとに特別だ。そいつはSINだけのもんじゃないんだ。おれが洗浄剤をのむから、こいつには別な罰を与えてくれ。お願いだ」
ハヤトはそれだけいうと、静かに泣きだした。SINは蒼白な顔で唇をかんでいる。驚いたことにカツシンが目を赤くしていた。涙もろい元締め。タカシの氷がすこしだけ溶けたようだった。唇の端の角度がわずかにあがった。スライがいう。
「SINの罰を軽くするなら、おれもそうしてくれよ。不公平だろうが」
間抜けなやつはとことん間抜けだった。タカシの声が白く凍りついた。
「スライ、おまえが穴を開けるのは耳たぶじゃなく耳の軟骨だけになった。嫌ならおれが両耳をナイフでそぎ落としてやる。黙っていろ、わかったらうなずけ」
スライは必死であごひげの先を縦に振った。タカシがめずらしくやさしい声をだした。
「SIN、おまえは折るなら右腕と左腕のどちらがいい」
SINの安堵のため息が長く尾を引いた。やつの目からその日初めての涙がこぼれる。左肩をわずかにあげて意思表示した。タカシはうなずいておれを見た。
「ということになった。これで満足か、マコト。おまえ、泣いてんのか」
泣いてなどいなかった。ただすこしじわっときただけだ。二十歳をすぎたころから、おれの涙腺は当人の意志とは関係なくゆるくなっている。おれはいった。
「いいんじゃないか。スライが警察に自首するというなら、なおいいな」
タカシはどちらでもいいという表情だったが、スライにいった。
「軟骨の穴はみっつずつに負けてやる。おまえは池袋署にでも自首しろ。ただしSINのことは黙っていること。取り調べ室でうたえば、Gボーイズが耳の穴を増やしにいく。何年たっても必ずだ。いいか」
もうスライは黙ってうなずくだけだった。おれはハヤトの腕をつかみ、立ちあがらせてやった。タクシーで病院に連れていくためだ。そのスタジオにもうおれのできることはなかった。
完璧な防音室でよかった。おれは静かな南池袋三丁目がSINとスライの悲鳴で乱されるのがなんだか嫌だった。そんな音は閉じこめておきたいし、おれ自身ききたくもない。それでなくとも、おれの耳にはあの骨音がこびりついているのだから。
ここからは、だからすべて後日談。
スライは耳から血を流しながら、あの夜ウエストゲートパーク裏の池袋署にいった。証拠品として自分で録音したミニディスクをもっていったそうだ。骨の折れる音の証拠品というのは、警察でも初めてだったらしい。悪質な連続傷害犯だが、初犯で自首もしているので、実刑がついても刑期は短いらしい。塀のなかからでてくれば、また音の仕事ができるだろう。やつの耳ならなんの問題もない。
日之出町公園のカツシンはまだ一冊百円の雑誌を路上で売っている。おれがとおるととっておきだといって、文庫本が詰まった段ボールをだしてくれる。夏目漱石と江戸川乱歩を選んだのだが、カツシンは決して金を受け取ろうとはしなかった。今ではときどき熟れすぎた豊水なんかをもっていき、雑誌や文庫と物々交換している。
残暑の厳しい池袋では依然としてホームレス襲撃が続いていた。ホームレスの自警団とGボーイズが手を結んでから、だいぶ数は減ったとカツシンはいっていたけれど、連続「骨折り」事件が解決しても、血の気の多いガキの暴力を完全に抑えることなど誰にもできない。それが今の東京だ。
タカシはタカシであいかわらず、池袋のストリートの王様だ。ときどきおれと役を交換したいなんて弱気をいうが、本気ではないと思う。あの日のスタジオの裁きなど、おれなんかにはなかなかできるもんじゃない。
ときには冷たさと厳しさが、おれたちには必要なのだ。
最後に今回の主役のハヤトとSINのこと。
「デッドセインツ」はあのあとすぐに空中分解した。SINがちょっと名の知れた音楽プロデューサーに一本釣りされたせいだ。ハヤトはまたヴィヴィッドバーガーにもどった。おれが顔をだすと秋のおすすめセット、海苔月見バーガー&山芋シェイクをしつこく売りこもうとする。このチェーン店は間もなく倒産だ。メニューからまったくやる気が感じられない。
やつはゴシック系のバンドを解散し、今度はメロコアのバンドを始めるという。メロディックなハードコアサウンドというが、おれには昔のハードロックと区別がつかなかった。音楽をあまり細かく分類するのも考えものだ。
新しいボーカルを口説くとき、やつはいつもSINの名前をだすそうだ。SINをメジャーにしてやったのはこのおれだ。おまえもおれと組んで一発あてないか。低賃金で不安定なサービス業の、しかも切り捨て御免のフリーターだなんて余計なお世話。ハヤトはこの池袋で自分の人生を好きなように生きている。負け組とバカにしたいやつは勝手にするといい。
おれはやつのギターは買わないが、やつがSINを守るため最後に見せたガッツは高く買う。もともとしもぶくれの顔が殴られてさらに膨らんでも、あのときのやつは断然カッコよかった。おれもハヤトも貧乏なので、別に貧乏は怖くない。貧しくなってもおれは、今の自分自身をもっていくだけだ。
最後の最後にSINのこと。やつは秋の終りに小学生が書いたような単純な恋の歌で大手レコード会社からデビューした。曲はまあまあのヒットを記録。ベストテンのしたのほうに二週間くらい引っかかっていた。おれもテレビで一回SINがうたうのを見た。二曲目は出来の悪い曲で、まったくかすりもしなかったけれど、やつは歌が好きだし、あの声がある。もう一度曲調を見直し、来年のフルアルバムにかけるそうだ。
SINはおれのまわりにいる数すくない勝ち組のひとりだが、もうおれたちの生きている世界には、真の勝者などいなくなってしまったとおれは思う。週替わり月替わりの暫定チャンピオンが、ぞろぞろ浮かんでは消えていくだけなのだ。いちいち覚えることもできない軽い勝者たち。それは個人でも会社でも変わりないようだった。
だいたい子どもでもわかるような勝ち負けになんの意味がある?
店番を終えるとおれはケヤキの葉が散り始めた西口公園にひとりででかける。座り心地の悪いベンチ、むだな噴水、意味のわからない彫刻。それに、このところちょっと冷えこんだ風とこの街のいかしたノイズ。目をあげるとビルのすき間にどこまでも青くのぞいている秋の空。
そこにある素晴らしいものは、今日もみんな無料で、誰にでも開かれている。
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西一番街テイクアウト
夜のショッピングセンターを歩いていると、世界滅亡後ただひとりの消費者になった気がする。豪勢だが淋しい人類最後の買いもの客だ。グローバル資本主義も、高度消費社会も、とうに滅んでしまった(おれには最近覚えたばかりの言葉をすぐにつかう癖があるみたいだ)。どの店にも商品はあふれているが、人影はない。蛍光灯の青い光りで通路は磨かれ、誰の話し声もきこえない。ひっそりと静まりかえった博物館みたいなショッピングセンター。
季節は冬だが、半袖Tシャツ一枚で歩けるほど、エアコンディションは完璧だ。誰も手にとる人間がいなくても、商品は満足そうに生まれたての輝きで互いを照らしている。ちょっと目を離しているうちに、値札だって自然にいれかわっていくだろう。数字は枯れ葉のようにくるくると回転して舞いおり、品質とデザインは不必要なまでに向上していく。素晴らしきデフレ。
ひとけのないショッピングセンターは『ヘンゼルとグレーテル』にでてくる魔法の森のようでもある。一本一本の木が意志をもち、迷いこんだ人間の気を引き、伸ばした枝の先でがんじがらめに縛ろうとする。おれはいつも商品の魔法にかからぬように、広い通路のまんなかを歩く。もちろん財布が限りなく薄いせいもあるが、人が人を呼ぶようにものも人を呼ぶのだ。
だから、その女の子と出会ったとき、おれはきっとこの惑星最後の生き残りのような気分だったんだろうと思う。おれだっていつもなら女子児童に声をかけたりはしない。ロリータ愛好の趣味はないし、小学校の校庭やプールをバズーカ砲のようなレンズでねらう男たちに友人はいない。ステディの女はいないので、いつも飢えてる(グルル!)のは確かだが、そこまで落ちたわけじゃない。
おれは子どものころ、おおきくなったら淋しさや心細い気もちもきっとなくなるだろうと思っていた。大人は酒ものめるし、映画館や銀行にもひとりではいれる。だが、それはおお間違い。おれたちはみな不器用な役者だ。いくつになっても一度やった役を忘れることはない。あのころの痛みや恐れは胸のなかのもうひとつのちいさな心臓にいつまでも残っている。
思うにこの世界で大人になるのは、人類最後の買いもの客に成長していくことなのだろう。絶え間なくものを買い、空っぽの心に投げこむ。買いものの淋しさに耐えられなくなり、ショッピングセンターを憎みながら、それでもほかにいくあてもなくまぶしい通路を歩きまわるのだ。たくさんの商品がうたうセイレーンの歌をききながら。
そして、十一歳の女の子に声をかけ、人生を誤る。
まあ、どんなに誤ったっておれの人生なんて、たかが知れてるけどね。
池袋にはいくつか噴水がある。一番有名なのは西口公園のやつだろうが、一番豪華で楽しめるのは、間違いなくサンシャインシティ・アルパにある噴水だ。関東以外の人のために説明しておくと、サンシャイン60はこの街ただひとつの超高層ビル(六十階建て)。アルパはその足元にくっついた地下一階地上三階の巨大ショッピングセンターだ。店の数は二百か三百くらい。おれはよく知らない。中央に三階まで切られた吹き抜けの広場があり、休日になると新人アイドルや発泡酒のキャンペーンなんかでやかましくなる。
その広場の名物がコンピュータ制御の噴水だ。代わり映えしない毎日に退屈したり、都会のまんなかでマイナスイオンを吸いたくなったりすると、おれはよくその噴水を見にいくことがあった。細かな水滴の壁が淡く煙ったり、宝塚のように一列に噴きあがったり、回転する水のドリルになったり、二十メートルを超える泡立つ柱が轟音とともにそびえたりと、パターンを数十秒ごとに替えながら、イベントのない日は毎日水を吐いている。
水中には赤・青・黄・緑・紫・橙のライトが仕組まれ、噴水の形が変わるたびに照明の色も切りかわる。ディズニーアニメみたいに甘いキャンディカラーだが、いくら見ていても飽きることがない。気がつくと一時間も色と形を変え続ける水のダンスを見ていることがある。おれの頭が悪いせいかもしれない。でも動く水と炎は見る者の心を開くとどこかの作家がいっていた。
それは、やつも同じだったのかもしれない。あの子はいつも噴水まえの大理石張りのステージにスカートを丸く広げ、尻をじかにつけて本を読んでいた。時刻は決まって閉店間際の夜八時ごろ。おれが人類最後の(財布のひもが固い)買いもの客になって、アルパのなかをうろつく時間だ。
棒のような手足をした女の子は、ステージの両脇に積まれたPAからプッチモニやミニモニの新曲がかかると、読んでいる本を脇におき、飛びあがるように立った。その場で勢いよく踊り始める。手足の先を切れよく振って、しっかりと腰をグラインドさせる。衣装は赤いチェックのミニとウルトラマリンのふわふわアンゴラセーター。噴水の奥は鏡張りになっているので、水のカーテン越しに厳しい顔で踊る女の子の姿がひらひらと揺れていた。不機嫌だけど、やたら元気のいい夜のショッピングセンターの天使だ。
だが、彼女は本体のモーニング娘。の曲がかかっても、なぜかぴくりとも動かなかった。ステージにあがる階段に腰をおろしていたおれは、つい気になって初めて声をかけた。
「なあ、なんでモーむすのときは踊らないの」
女の子は黒目がちの目でじっとおれを見おろすと、黙ってもとの場所にもどり、読みかけの本をひざにおいた。返事はなし。きっとおかしな男たちから何度も声をかけられたのだろう。ロリコンおやじは断固無視するのが一番だ。おれはしかたなく階段を離れ、西一番街のうちに帰った。アルパとは池袋駅の反対側だから、楽に十五分はかかる。客引きがブラザーのような顔をして、にこやかに声をかけてくる冬の夜の散歩道。なんであのガキはモーむすだけ踊らないのかな、飯田や保田が嫌いなのかな、なんて意味のないことを思いながら。
それでも自分の将来や女のいない過去何カ月かのことを考えるよりはずっとましだった。
新しい年になっても、おれの身のまわりにはなにも変化がなかった。池袋の街はあいかわらず不景気だが、やたらと人の数だけは多い。うちの果物屋は正月をすぎて、客足はぱったりとまった。タカシもGボーイズも平穏そのもの。めずらしいことといえば、コラムを書いてるストリートファッション誌から、書評を頼まれたことくらい。二十五かそこらでギャング団の抗争に巻きこまれ銃殺された西海岸の黒人ラッパーの評伝だ。
おれは自分の部屋で静かに本を読むなんてできない。そこで何日かして、本をもってアルパにでかけた。さすがにこの季節ウエストゲートパークのベンチは吹きさらしでつらい。「池袋のトラブルシューター、読書中に凍死」なんてニュースになるのは嫌だしね(ちょっとインテリっぽくていいかもしれないけど)。
買いもの客がほとんど消えた一月終りの午後七時。噴水広場のカマボコ型ステージの端に腰をおろし、おれは死んだ百万長者のラッパーのむやみに悲惨な少年時代を読み始める。BGMは水の砕ける音とどれもこれもフラクタルな自己相似形のJポップだ(なあ、おれもけっこう勉強したろ)。
夢中になって読んでいると、開いたページのむこうに女の子の白く粉を吹いたひざこぞうが見えた。かさかさに乾燥している。
「なに読んでるの」
目をあげると黒目がちな視線が見つめ返してきた。おれは表紙をむけてやった。身体だけでは足りなくて顔にも刺青《いれずみ》をいれたラッパーが、「誰でもいいから、ぶっ殺す!」って表情でカメラをにらんでいる写真だ。女の子は顔をしかめた。
「それ、おもしろいの」
「まあまあ。そっちこそなに読んでるんだ」
小学生はパラフィン紙でていねいに包んだ文庫本をもっていた。ちいさな手で本をあげ、肩をすくめる。皿のうえにのった血まみれの生首の絵。『サロメ』オスカー・ワイルド。
「それ読んだことないや。おもしろいか」
「まあまあ」
「名前は」
「桜田香緒《さくらだかお》。そっちは」
「真島誠」
女の子はちょっと怪しそうな目でおれを見ると、急に関心をなくしたように定位置にもどっていった。おれたちは十五メートルほど離れたまま、それぞれの本を読んだ。もの悲しい音楽が流れ、ショッピングセンターが閉まる時間になると、お互い挨拶もせずにステージを離れる。あとは関知せず。都会での出会いなんて普通そんなもの。人の情だって、淡きことコンピュータ制御の水のごとし。
だが、たいていの場合、出会いはそれだけでは終わらない。街ではトラブルが人間同士を結びつけるからだ。そこで田舎からきた人におれからアドヴァイスをひとつ。困ったら大声で助けてと叫ぶといいよ。東京生まれの人間は案外助けを求める人には親身になるものだ。
特にあまりファッショナブルじゃない池袋みたいな街ならなおさら。もっとも香緒は叫びはしなかった。黙ってひっくり返っただけだ。
翌日も店番をおふくろと交代すると、本をもってアルパにいった。なぜ翻訳ものの本てあんなに厚くて長いんだろう。上下二段組で五百ページ。文字に関してはひ弱なおれの限界に近いボリュームだ。
まえの日と同じ場所に座ろうとして、香緒を確認した。噴水まえの立入禁止のロープのそばで文庫本をひざにのせている。自分が読むときに誰かがそばで別な本を読んでいるというのは、なぜか落ち着くものだ。おれは集中して読み始めた。黒人少年が十二歳で麻薬密売で逮捕され、矯正院のなかでラップに目覚めるくだり。同じ房には婦女暴行や強盗、殺人未遂や殺人犯の子どもがごろごろしてる。誰が一番他人に冷酷になれるか自慢しあう獣のようなガキども。同じ貧乏な街でも、アメリカでなく日本に生まれてよかったとおれは心底思った。
PAからちょっとまえのミニモニの曲が流れた。電話をかけようと連呼する、NTTドコモのまわしものみたいなやつ。香緒がまた踊るだろうと、おれは本から目をあげた。ほとんど同時にちいさな手から『サロメ』が落ちて、香緒はうしろむきに倒れた。大理石のステージに後頭部があたるゴツンと鈍い音がする。
おれ以外の誰も気にもとめていないようだった。黙って香緒のところに走った。平らに伸びたままの女の子の横にひざをつきのぞきこむ。
「香緒、だいじょうぶか」
返事はうなり声だけだった。頬と唇が血をなすったように赤い。額に手をのせた。ひどい熱だ。おれは香緒を揺さぶった。
「おまえ、ひとりなのか。親はなにしてるんだ」
親という言葉で、香緒は意識を取りもどしたようだ。おれの手を払いのけていう。
「だいじょうぶだよ、だいじょうぶ」
上半身をのろのろと起こし、肩からななめがけしたポシェットから、折りたたみ式の携帯電話を取りだした。香緒は小枝のようなとがった指先で短縮を押す。つながったと思ったら、携帯を切った。首を横に振る。
「留守電サービスだって」
「おまえの家はどこだ。送ってやるよ」
香緒は必死の顔でいやいやをした。
「うちに帰ってもひとりきりだから、帰りたくない」
「母親は」
「仕事中」
「父親は」
「いない」
「そうか……さっきの短縮、おふくろさんか」
香緒はぼんやりと熱っぽい表情でうなずく。おれはいった。
「もう一回、短縮かけろ」
香緒はおかしな顔をしたが、短縮番号を押した。おれは携帯を取りあげ、留守電サービスに叫んだ。
「あんたの娘が熱をだして倒れてる。仕事が終わったら、西一番街の果物屋にきてくれ」
それからうちの店の詳しい場所とおれの名をいった。驚いて目を開いている香緒を見て、最後につけたす。
「それとまだ子どもなんだから、娘の体調ぐらい気にかけてやれ。風呂あがりにひざこぞうにベビーローション塗ってやるんだぞ」
おれは通話を切って、香緒に背中をむけた。
「おんぶなんて恥ずかしいよ。歩けるから、平気だよ」
「うるさい。おんぶが嫌なら肩にかついでいく。パンツ丸見えだぞ。どっちがいいんだよ」
香緒はおれの肩に手をのせると、横から顔をのぞきこんできた。
「ねえ、マコトってロリコンじゃないよね」
違うとは思うけど、おれだって将来はわからない。十三歳のアイドル(加護ちゃんです!)に中年の男まで大騒ぎする国に住んでいるんだから。返事はせずにタクシーのり場に急いだ。妙にほかほかする子どもの熱を背中に感じながら。
信じられないかもしれないが、そのときおれが思ったのは、父親になるのも悪くないってことだった。パパマコト、アゲイン。おととしの夏はいやいやだったが、今回はほんとうにそのとき一瞬そう思ったんだ。
読書好きで、口が悪い、やせっぽちの女の子の父親になるのも悪くないかなってね。
タクシーのなかで眠りこんだ香緒をうちまで連れていった。売れないメロンやイチゴを店先で見ているだけのおふくろが、あきれていった台詞はこうだ。おまえ、そんな子どもさらうほど飢えてんの。憐れんでくれ、ラッパー。おれの育った家庭環境もあんたや香緒に負けずに劣悪だ。
だが、冷たいのは口先だけ。事情を説明すると、さっさと二階に布団を敷き、自分のスエットに着替えさせてやる。女の子なんだから、マコトはむこういってな。おれにできたのはなんとか熱を計ることだけだった。眠っている香緒の耳に最新式の電子体温計をそっといれる。三十八度九分。
香緒は頬を赤くしたまま、速い息をしている。氷水につけたタオルを絞るおふくろに看病をまかせ、おれは店番をすることにした。どうせ売れないんだから、いてもいなくてもかまわないようなもんだが、店というのは店員がいないとひどく淋しくなる。西一番街を夜のショッピングセンターにするわけにはいかない。なんてったって地元だからな。おれはこの店では死んでもインテリの振りをするのが嫌なので、読みかけの本を読むのはやめた。代わりに部屋からCDをもってきて、店先のラジカセにかける。
エンゲルベルト・フンパーディンク。といっても英国産のセクシー歌手じゃないよ。ドイツ人作曲家のほう。『ヘンゼルとグレーテル』は一八九三年にワイマールの劇場で初演されたかわいい子どもむけオペラだ。甘いメロディが菓子箱みたいにいっぱい詰まってる。
おれはやけにトライアングルが活躍するオーケストラをききながら、香緒の母親を待つことにした。
その夜は長さ百分弱のオペラを二回半きいた。日づけはさっさと替わり、時刻はそろそろ十二時半すぎ。終電で帰ってきたサラリーマンに罪滅ぼしのイチゴを二パック売っていると、店先の暗がりに女が立った。
髪は金髪。赤いフェイク蛇革のタイトなワンピース。襟ぐりは広く開き、胸は首のつけねから谷間ができるほどでかい。叶姉妹にも楽に判定勝ち。肩には豹柄の毛皮のコートを羽織っていた。年は三十プラスマイナス二歳。女は酒焼けしたようなざらざら声で、おれに顔をそむけていった。
「悪いけど、香緒がここにいるってきいたんだ。あんたがさっきの留守電の人、マコトさん?」
ありがとうもすみませんもない。なんだこの女とおれがにらんでいると、香緒のゴージャスな母親は歩道の影から一歩踏みだした。
「遅くなっちゃって、ごめん。今日はヘルプの娘がいなくて、店抜けらんなくて」
そういって顔中を笑いで埋めてみせる。おれは息をのんだ。笑顔なんかにじゃない。たった今なぐられたばかりって感じで目のまわりや頬が赤く腫れていたからだ。
「だいじょうぶか、あんた」
おれはなんだかこの親子の心配ばかりしている。
「うん、だいじょうぶ。さっきチンピラになぐられちゃってさ。慣れてるから平気だよ」
おかしなヒモとでも暮らしているのだろうか。おれは女の顔を見ないようにしながらいった。
「香緒なら二階で寝てる。おれのおふくろが看病してるから、いってみな」
どこかのホステスか風俗嬢なのだろう。どちらにしてもあまり上等な店でないのは確かだった。香緒の母親は胸に負けない巨大な尻を振りながら、のろのろと店の横にある階段をのぼっていった。この母親からあの棒のような女の子が生まれる。遺伝子って不思議だ。
店仕舞いをしているおれが呼ばれたのは、それから五分後だった。おふくろが叫んでいる。手を貸して、マコト。おれは階段をあがり、寝室に顔をだした。ちょうど着替えを済ませた香緒をおふくろがタオルケットでくるんでいるところだった。おふくろがいった。
「ヒロコさん、あんたはしたでタクシーをとめて。マコト、この子を抱いて階段をおりて」
やせっぽちでも十一歳の少女なら三十キロ近い体重がある。わかったといって、香緒の母親を見た。さっきまで娘の額にのっていた氷水のタオルを目のまわりにあてている。おふくろにもらったのだろう。ヒロコはまたのろのろと立ちあがり、玄関にむかった。
「どうも……ありがとうございました」
あまり心のこもっていない、焦点の定まらない声が短い廊下からきこえてきた。おれは香緒を抱きあげながらいった。
「あの母親なんていってた」
おふくろは明らかに口をとがらせていた。今夜はあまり話しかけないほうがいいだろう。
「わかんないよ。なんだかどん臭い女だね。あれじゃあ、この子がかわいそうだ」
赤い顔をして眠っている香緒の額に手をおいた。
「子どもの熱だから、そんなに心配ないと思うけど」
押入れの引出しから解熱剤を取りだし、おれのパーカのポケットにいれた。おれは香緒を抱いて、西一番街の路上にでた。吐く息が噴水のように白い。ヒロコはとめたタクシーの横で待っていた。座席の奥に香緒を押しこみ、母親に解熱剤をわたしてやる。ようやくピントがあったように、ヒロコの顔に表情がもどってきた。
「あたし、バカでごめんね。今日は香緒のこと、ありがとう。おかあさん、いい人だね。よろしくいっといて」
そういってタクシーに滑りこんだ。バスケットボールのような胸を揺らし、顔を腫らしたまま。おれはおかしな親子をのせたクルマを見送り、それで一件落着のつもりになっていた。
だって、これだけで十分いい話じゃないか。新聞なんかに囲み記事でのってる、街のちょっといいネタって感じだ。だが、残念ながらここは池袋で柴又じゃない。
トラブルはトラブルを呼ぶのだ。
一日おいて香緒の母親がうちの店にやってきたのは、夕方六時ごろだった。手にはエルメスとフェラガモの紙袋をさげている。にこにこ笑いながら、上機嫌で店の奥にずんずんはいってくる。おれはのけぞりそうになった。今回はようやく胸の先だけ隠す青いサテンのミニドレス。毛皮のコートはギンギツネだ。
「マコトちゃん、こんばんは。仕事にいく途中に寄っちゃった。おかあさん、いるー?」
今ごろ、すぐそばの池袋演芸場で手品か紙切りか落語でも観ているはずだった。もう何十回も同じ演目を観てるのに、飽きずにかよっている。いないといった。それでもヒロコのテンションはぜんぜんさがらない。がさがさとフェラガモの袋を開き、薄い化粧紙をやぶくとなにか取りだした。
「マコトちゃんなら、きっと似あうと思って。着て、着て」
そういって目のまわりに青黒いあざを残したまま、おれに白い革のハーフコートをさしだす。しかたなくおれは袖をとおした。手ざわりが綿飴のようにやわらかい牛革。こんなふうに革をなめすにはどれほど手間がかかるのだろうか。夜のショッピングセンターの淋しい王子であるおれには、そのコートの値段がだいたいわかった。三十万以上四十万以下というところ。
「やっぱ似あう。こっちはおかあさん用ね。じゃあ」
そういってエルメスの袋をみかんの山のうえにおいていこうとする。
「ちょっと待ってくれ。こんなに高価なものは受け取れないよ。おれは熱をだした女の子を看病しただけだ」
香緒の母親はぼんやりした目でおれを見ると、笑いながらいった。
「いいことをしたら、いいことが返ってくるって、昔神父さんがいってた。マコトちゃんはいいことしたんだから、それくらい当然だよ」
それから急に考える顔になった。なんてわかりやすい女なんだろう。ヒロコは思っていることがすぐに表情にでてしまう。毛皮のポケットからなにか取りだして、おれにくれる。安いデザインの紙マッチだった。
「今夜、うちの店にもきてよ。おごっちゃうからさ」
そして、大股でトキワ通りのほうへ歩いていく。ゆさゆさと別な生きもののように揺れる尻を振りながら。いいことをすれば、いいことが返ってくるか。おとぎ話のような教訓だが、それなら香緒の母親はなにをして、あんなに顔の形が変わるほどなぐられたんだろうか。
おふくろは夜遅く、おでん屋で一杯ひっかけて帰ってきた。なぜ歩いて五分とかからない演芸場にいくのに和服に着替えなきゃいけないのかわからないが、それがおふくろの楽しみならおれは反対しない。店先でエルメスの袋を見つけると、敵は一瞬顔を輝かせた。
「マコトが買ってくれたの」
おれは首を横に振り、事情を説明した。ヒロコの店の紙マッチを見せる。おふくろの細い眉がさらにつりあがった。だから、おれは家庭内トラブルじゃなく、ストリートのトラブルのほうが好きなのだ。狭い果物屋の店先で嵐の黒雲が湧きあがる。おふくろは切れのいい台詞まわしでいった。さすが江戸っ子。
「こんなもん受け取れないよ。マコト、今日中にちゃんと礼いって、返してきな」
おれは紙マッチを見た。ナス紺に黄色で、PUBソワレ。住所は西池袋一丁目の三十番台前半だ。うちの店から歩いてほんの数分だが、そのあたりは悪名高い風俗地帯だった。
ところであんた、連れだしパブって知ってる?
連れだしパブは女の子がいて、酒があって、カラオケなんかもある。そういう点では普通のパブとまったく変わらない。違うのはお気にいりの女の子がいたら、店に金を払いテイクアウトできるってところだ。両者合意のうえでなにをするのかは考えてくれ。ヒントはふたつ。まずそれは違法行為である。それからトキワ通りをわたった池袋一丁目には、渋谷道玄坂に負けないラブホテル街があるってことだ。
うちではおふくろの言葉は、神父様の言葉より重い。それでおれはしかたなく店仕舞いをしてから、何重も防寒着を着こんで夜の街にでた。
悪名高い連れだしパブのどん詰まりにいくために。よい子のみんなはマネをしちゃいけないよ。
池袋でもJRの駅周辺では、その昔かなり激しい地上げがあった。その通りは道幅二メートル半ほどの狭い路地なのだが、奥はどこかの地上げ屋が仕事をしくじったらしく、今は歯抜けの駐車場だった。マンションだかオフィスビルを建ててひと儲けという夢は、ところどころ枯れた雑草の噴きだす荒地になり、風に吹かれている。
とおり抜けできない小路の両側には、ちいさなパブがびっしりと蛍の尻のような薄暗い看板をだしていた。なぜか紫や青が多いのは、裏風俗のうしろめたさなのかもしれない。風俗通のあいだでは有名な連れだしパブのどん詰まりだ。割引チケットをもった女たちがあちこちに立っている。みんな真冬のがまん大会のような薄着。路地を奥まで歩き、ソワレの場所を確かめた。真夜中をすぎれば、あがりになるか客がつくかして、ヒロコも店をでてくるだろう。気の弱いおれには店にのりこんでプレゼントを突っ返すなんて芸当は考えられなかった。
路地の入口にぽつんと立っている電柱のした、青寒い水銀灯の輪のなかでおれは香緒の母親を待ち続けた。東京の星は地上の明かりのあつかましさを恥じて、姿を消してしまったようだ。おれは気づかないうちにちいさく足踏みをしていた。
ときおりサラリーマン風の男たちが連れ立って、あちこちのパブにはいっていく。しばらくすると別な店から、女といっしょに男がでてきて、ホテル街に消えていく。おれと同じように誰の吐く息も淋しく白い。
なぜか、店の女たちが電柱のしたに立つおれをまっ先に見るのが不思議だった。おれの格好はラフでとても私服の捜査員には見えない。誰か別の男と間違えてるんだろうか。
おれはこのあたりでも最低の街を眺めながら、なんだか愉快だった。
これでこそ池袋。おれのホームタウンだ。
尻丸だしのショートコートを着たヒロコが店をでてきたのは十二時半だった。紫のガラス扉を開くと、顔だけだして暗い路地を見まわす。おれに気づくと一瞬顔色が変わったが、手にさげたブランドの紙袋で誰だかわかったらしい。まっすぐに路地を歩いてきた。遠くからでも胸が揺れているのがわかった。いっておくが、おれは巨乳マニアではない。あんなものおおきすぎるくらいなら、ちいさいほうがいいくらいだ。ただ動物なので動くものに視線を奪われる習性があるのだと思ってくれ。調子よく酔ったヒロコがいう。
「どうしたの、こんなとこ寒いでしょう。店に顔をだせばいいのに」
「いいや、のみたいわけじゃないんだ。このプレゼント返そうと思って。こんなに高価なものは、やっぱり受け取れないよ」
ヒロコは目を丸くする。顔のあざの周辺部は黄緑に色を淡くしていた。胸の谷間には汗が光っている。
「それだけのためにあたしを待ってたの」
「そう」
困った顔をした。まぶたはパール系のアイシャドウが塗られ、水銀灯の明かりを受けて真珠貝の内側のようにつややかに光っている。
「返してもらっても、困るなあ。質屋でもぜんぜん安くなっちゃうし。バッグはあたしの趣味じゃないし、コートは着れないし。あたしだって受け取れないよ」
ヒロコは毛皮のコートのポケットにいれた手をだそうとしなかった。しかたなくおれは電柱のしたに紙袋をおこうとした。そのときもの陰から冷水のような声が響いた。
「おまえ、何度いっても懲りないな」
正面から見ていたおれは、ヒロコが全身を恐怖に硬くするのがわかった。きっとこの顔にあざをつけたやつなのだろう。おれは通りの右手、恐怖の元に目をむけた。
通りの奥の暗がりに黒いトレーニングスーツ姿の若い男がふたり、自転車をとめていた。ストリートギャングのような崩れた格好ではなかった。自転車は一台百万近くするポルシェのマウンテンバイクだ。フレームは黒と白の二台。一方通行の多い路地では便利かもしれない。小柄なほうがていねいに自転車のスタンドをだして、こちらに歩いてきた。おれを無視してヒロコにいう。
「この通りで客は取るなといってるだろうが。おまえ、また痛い目に遭わなきゃわかんないのか」
短い髪をくるくるのドレッドヘアに巻きあげた男だった。それともあれはパンチパーマが伸びきったのかな。ヒロコは顔をかばおうと手をあげた。おれはいった。
「待ってくれよ。おれはこいつの娘の友人で、客なんかじゃない」
男は初めておれに視線をむけた。組関係の人間が教習所で最初に習うにらみ倒すようなやつだ。
「なんだ、おまえ」
羽沢組、豊島開発、聖玉社と池袋のそっちの世界ではけっこう顔が知られてきたと思っていたのに残念だった。しかたなく自己紹介する。
「真島誠。果物屋手伝い。おれはもらいものを返しにきただけだ」
ブランドの紙袋を目の高さにあげる。
「なにいってんだ、おまえ」
男が詰めよってきた。
「よせ、クニオ」
マウンテンバイクのサドルに座ったまま坊主頭が一喝した。でかい犬に吠えられたちび犬みたいに、クニオのあばた面が震えながらぴたりと静止する。おれの顔の手まえ二十センチ。
「あんたも危ない目に遭いたくなかったら、そのおつむの弱い女には近づかないほうがいい。いきな」
兄貴分がやさしくいってくれたので、おれたちは素直に歩きだした。ドレッドはしつこくおれをにらんでいたが、あきらめてもうひとりの男と連れだしパブの一軒にはいっていった。看板は佳気多。
「ありがとう」
ヒロコがそういったが、おれは黙ったままラブホテル街とは反対の要町通りのほうへ歩いていった。
「あんたをなぐったのは、やつらか」
おれはうしろを歩いているヒロコにいった。あっけらかんとした声が返ってくる。
「そう」
「どうして」
「あの連れだし小路は、ほとんどの店が中国系とか韓国系の店なんだ。日本人の女がいるのはうちの店くらい。同じ値段で日本人と遊べるならって噂になっちゃってさ」
おれはあきれてヒロコを振りむいた。あざの残る顔で笑っている。
「それで営業妨害で訴えられた」
「そう。うちも多和田組にはショバ代払ってるんだけど、ほかの店のママがみんな泣きついちゃって。なぜかあの通りであたしだけ連れだし禁止なんだよ。不公平と思わない?」
今度は怒っているようだった。ガードレールに座っているロシア人の女がおれを見て、一瞬腰を浮かせた。ジーンズ素材のワンピース。マイクロミニ。背が高いのでひざからしたがきれいだった。女はうしろをついてくるヒロコに気づいて、笑いを引っこめまた凍《い》てついた鉄パイプにもどる。なぜか、池袋ではアジア系の女たちは店に所属し、ロシアやブルガリア、それにコロンビアの女たちはストリートで商売を張っている。おれはロシア人と同じ職業の日本人にいった。
「あんたの店の女の子はみんな、やつらになぐられているのか」
ヒロコは優越感をみなぎらせ、ロシア女にむかって巨大な胸をそらせる。
「まさか。うちの店で連れだしオーケーなのは、あたしだけだもん」
おれはなんだか頭が痛くなってきた。
西一番街にでて、二十四時間営業のエスプレッソスタンドにはいった。通り側に面したカウンターに並んで腰をおろす。ちょっとおかしな人間に好奇心をもちすぎるのは、おれの欠点。だけど、この世界に欠点を直せる人間なんていないだろ(自分のことを三秒考えてみるといい、以上Q.E.D.)。
ヒロコはアイスコーヒーのグラスをまだあざの残る頬骨にあてながらいう。
「店の給料だけでも、親子ふたりなんとかくっていけるよ。でも、それだけでいっぱいいっぱいなんだ。これから香緒の教育費もかかるし、年とったあとのこと考えると、売りをやらないわけにはいかないよ。あたしはバカだけど、香緒は本が好きで頭もいいから、いい学校にいれてやりたいしさ」
おれは黙ってきいていた。酔っ払った大学生の集団が、通りをどろどろに溶けて移動していく。ひとりのガキが音もなく植えこみに吐いた。極彩色の噴水。ヒロコは照れたような顔をした。
「はは、あたし、ちょっとカッコよすぎたかもね。ほんとはさ、香緒のことっていうより、やっぱこの仕事が好きなんだよ。あたしは客を選んでるから、ほんとうのプロとはいえないな。となりに座ってあれこれ話してさ、この人ちょっといいなって思った人としか寝ないんだもん。バカで惚れっぽいから、けっこうみんなよく見えちゃうんだけどさ」
おれは空車のタクシーの列を見ていた。真冬で空気が澄んでいるせいか、赤いライトが妙にきれいだ。
「あんた、ぜんぜん、バカじゃないじゃん」
ヒロコはちょっと驚いた顔をする。なぜか肩を左右に振り、反動で振り子のように胸の先が揺れた。
「くどくつもり、マコトちゃん。あたしなんて簡単だから、今のくらいでやる気になっちゃうよ」
ヒロコは目のあざのまわりを、ほんのりと赤くしている。
「やっぱりあたしはバカだよ。新聞だって読めないし、お客さんの話もわかんないこと多いしさ。でもね、あたしは思うんだ。香緒のことは愛してるし、幸せになってほしいけど、それでもさ、やっぱり自分が一番大切だって。みんなにバカにされて、酔っ払いのおやじに身体さわりまくられても、あたしは自由でいたいんだ。この街で自由に生きたい。昔みたいに施設で暮らすなんて嫌だよ。頭悪いし、明日の見とおしだって立てられないけど、あたしの自由をなにより一番にしたい。そのためなら、いくらなぐられたって平気だよ」
ヒロコはストローをはずして、冷たいコーヒーをごくごくとのんだ。グラスの底の水滴が胸の谷間に落ちる。おれはこの女をちょっと見直していた。いくら汚れても、この街で自由でいたい。おれやGボーイズのガキどもの台詞と同じだった。夜のショッピングセンターをうろついたって、それほど高価なものにはお目にかからない。最低の街をうろつく自由は、どんな商品より高価なのだ。おれは声を殺していった。
「あんたはあの店を辞めるつもりはない。それに連れだしだってやめるつもりはない。それでいいんだな」
ヒロコは不思議そうな顔をしてうなずいた。おれは足元においた高級ブランドの袋を親指の先で示した。
「それなら、こいつは遠慮なくもらっておく。おれが、さっきのやつらをなんとかしてやるよ。これがギャラね、金いらないから」
ヒロコはなにいってるのという表情をしていたが、おれは説明しなかった。だっておれみたいなチンピラが、汚れた街の心やさしき騎士だなんていったら、笑われるに決まってるだろ。
うちに着いたときには午前一時をまわっていた。おれはそのまま部屋にあがる気にもなれずに、果物屋の閉じたシャッターにもたれた。ハイテク素材の重ね着をしてるから、東京くらいなら夜の寒さも平気だ。おれはパーカのポケットから新しい携帯を抜いた。ちょっと遅いかと思ったが、短縮を押す。
「なんだ」
ぐっと渋くなった元いじめられっ子、現氷高組ホープの声が返ってくる。
「サルか、おれマコト。連れだし小路のことを知りたいんだけど」
「またかよ。今度はなんだ」
おれは簡単にヒロコの話をしてやった。サルは途中でバカ笑いをする。
「それでおまえ、その女の売春する自由を守ってやるってのか」
そういわれてみればそうだった。変ななりゆき。
「悪いか」
「悪くはないが、そんな話きいたことないな。マコトらしいといえば、それまでだが」
「あの通りはどこの組の縄張りなんだ」
サルが今度は低く笑った。
「うちと同じ羽沢組系の岩谷組のもんだった。この夏まではな。岩谷の叔父貴がしくじって、今は誰のもんでもない。草刈場さ」
サルはそれから三分ほど、どうやって池袋一の武闘派岩谷組が没落していったか話した。なんでもサルが一枚かんでカジノでうまくはめ殺したらしい。最後に愉快そうにいった。
「今じゃ、あの氷高さんが関東賛和会の次期ナンバーワン候補だ。あのときはタカシにも手を借りたがな。あいつは元気でやってるか。おれ、本部長代行になったよ」
どんなポストだか知らないが、おめでとうといった。どうやらおれの知ってるやつはみんな偉くなっていくみたいだ。おれはいった。
「多和田組って知ってるか」
「ああ、在日の二世三世を集めたやたら元気のいい組織らしい。中国、韓国、台湾なんでもありで、今絶好調ではじけてるって話だ」
「系列は」
「関西系大手の四次だか、五次団体らしい」
「それならあまりでかい組織じゃないな」
「ああ、ワンルームマンションでしこしこやってるんじゃないか」
おれはつぎの日の夜に会う約束をして、通話を切った。
つぎはタカシの番だった。取りつぎがでて、すぐに代わる。キングの声は真夜中の北風よりもクールだ。中身はそうでもないけどね。
「今年初めてだな。用件を話せ」
「あけおめとかないの。挨拶は人間関係の潤滑油じゃないのか」
タカシは軽蔑して鼻を鳴らしたようだった。年に二回しかない感情表現だ。一回目をこんなに早くつかうと、残り十一カ月どうするんだろう。
「どんなにつまらなくても、おれに冗談をいうのはおまえしかいない。用件を話すか、回線を切れ」
おれは池袋のGボーイズの王様をからかうのはやめて、ヒロコの件を話した。二度目なのでずいぶんコンパクトにまとまった。黙ってきいていたタカシがいった。
「今回、金はないんだな」
「ああ、おれに革コート一枚とおふくろのバッグがひとつ。おまえがほしければ、コートはやるよ」
タカシはまた鼻で笑った。
「遠慮しとく。そうなるとGボーイズではなく、おれ個人の問題になるな」
いつも複数のチームを動かし、この街の灰色ゾーンを揺るぎなく統治するキングにしてはめずらしい台詞だった。タカシはいう。
「このごろ、池袋も平和でな。おれも運動不足だ。たまにサルに会うのもいいだろう」
なぜだかはわからない。だが、おれのまわりには男気(女性の皆さん、ごめんなさい、だがこれはほかにいいかえようのない差別語だ)のあるやつが多かった。
類は友を呼ぶということか。誰の名前も池袋署の黒いリストにのっているのが、不思議といえば不思議だが。
つぎの夜七時、噴水広場のステージに池袋の未来をになう三人の青年が集まった。おれとサルとタカシ。果物屋手伝い(ユニクロ)と本部長代行(アディダス)とガキの王(オールドイングランドのすかした白いダッフルコート)。今回はオールスターキャストだ。香緒はインフルエンザも治り、また尻を大理石につけて本を読んでいる。おれは香緒にいった。
「よう、もうだいじょうぶか」
香緒はさっと顔をあげて、おれたち三人を見る。おれとサルを素どおりした視線がタカシでとまった。女は十一でも女だった。どこのクラブにいっても繰り返される反応だ。
「うん、だいじょうぶ。それより、マコトくんの友達?」
サルとタカシは顔を見あわせた。おれははっきりといってやる。
「そう、悪いお友達。最近、ヒロコさんにおかしなことないか」
香緒の表情が曇った。噴水のパターンが霧吹きに替わる。青い霧の壁が背の高さほどに立ちあがった。
「ママには特にないみたい。でも、あたしが変な男の人たちに変なこといわれた」
サルとタカシは水のような目でやせっぽちの女の子を見おろしている。おれは口をはさんだ。
「そいつら、ぴかぴかの自転車にのってなかったか」
「のってた。それで、その人たちが、あのあたしのママが……」
香緒の目がみるみる赤くなった。ちいさな噴水のようにぷつぷつと涙がこぼれだす。おれの声は三十万のイタリア製革コートよりやわらかになった。
「だいじょうぶだ。変に思ったりしない、いってみな」
香緒はまっすぐにまえをむいていった。
「……ママがいやらしい商売をしてる。売ってはいけないものを売ってるって。これからも続けるようなら、今度はあたしのことを痛めつけるって」
タカシがきいたことのないようなやさしい声をだした。
「誰かにそれをいったのか」
香緒は強く首を横に振り、声をあげて泣きだした。ようやく安心したようだ。パラフィン紙のカバーが点々と涙でふやけていった。タカシがいう。
「ママにも誰にもいえなかったんだな。よくがまんした」
香緒はひざのうえでこぶしをにぎって泣いていた。タカシは片ひざをつくと、震える肩にそっと手をおいてやる。サルは怒ったようにそっぽをむいた。おれはアルパの先にあるサーティーワンアイスクリームで、チョコミントとストロベリーチーズのダブルを買ってきて、香緒にわたしてやった。泣きながらアイスクリームをなめる香緒から離れて、おれたちはステージ脇の階段に腰をおろした。
「さて、どうするかな」
おれがいうと、タカシが冷静に返してくる。
「多和田組、潰そうか」
一番したの段に座っていたサルがうんざりした顔で振りむいた。
「おいおい、だから素人はダメなんだ」
おれはサルの坊主頭を見おろしていった。
「なにがだよ」
「だから、任侠映画とか観すぎなんだって。タカシ、池袋に組織がいくつあるか知ってるか」
タカシはドライアイスのように乾いた声でいう。
「百五十から二百」
「この三年で、どれくらい組同士の抗争事件が起きている」
「二、三件」
サルは立ちあがって、おれとタカシを振りむいた。小指のない左手にはめた黒い手袋を振っていう。
「なにか問題があるとすぐにドンパチなんて、ノワールものの読みすぎなんだ。命がけで縄張りを取りあうとかさ、あんなの全部嘘っぱちさ。この街の組織が生きる原理は共存だ。うっとうしいけど、しのぎの邪魔にならなければ、相手の存在を認める。抗争なんて経済効率の悪いことは、よほどのことがない限り誰もやらない」
おれは熱くなっていった。
「それが市場主義のやくざのやり口か。サル、おまえいつから財務省の役人みたいな口をきくようになったんだ」
サルは苦笑いした。
「じゃあ、Gボーイズでも使って、多和田組を潰したあとはどうなるんだ。あんなちいさなところなら、確かにそいつも簡単だろう。だが、あのどん詰まりは今や半分は関西系の利権だ。うちは風俗には手をださないし、ほかのどこがあんな大手ともめるんだ。多和田を潰しても、つぎの組織がやってくる。きりがない」
タカシは考えこむ声になった。
「確かにサルのいうとおりだな。利害を調整し、互いの共存をはかったほうがいいんだろうな。もともとおれたちが守るのは、正義なんかじゃなく、あの子の母親が自分の身体を売る自由だ。決着も白黒でなく、灰色でいいのかもしれない」
タカシはそういいながら、遠くの香緒にすまして手を振った。香緒は片手で本のページを押さえ、アイスクリームをもった手を高くあげる。やせっぽちの自由の女神だ。おれはいった。
「そうなると、力ずくの暴力も、警察をつかってはめる手もなしか。肝心の連れだしパブが取り締まられたらおしまいだからな。いったい、どうすりゃいいんだ」
タカシはサルを見てうなずいた。サルもうなずき返す。にやりと笑って、キングがおれにいった。
「考えるのはおまえの仕事だ。いいアイディアが浮かんだら、連絡しろ」
それだけいうと、タカシとサルは別々の方向に噴水広場を離れていく。くそっ、なんでおれはいつも考える役なんだ。知能指数も人並み(ちょっと以下?)だし、知識も経験もとぼしい。苦手なことばかり押しつけられる損な役まわりだ。ただあきらめるのが下手なので、なんとか最後まで形をつけているだけなのに。おれは頭をかきむしってから、しばらく噴水を眺め、香緒のところにもどった。
コーンの尻尾まできれいにアイスクリームを片づけた香緒にきいてみる。
「おまえ、晩ご飯はどうしてるんだ」
香緒は悪びれずにいった。
「マックかファミレス。うちに帰ればチンするだけの冷凍食品がいっぱいある」
それでこんなにやせているのだろうか。本から顔をあげようとしない女の子にいった。
「今夜よかったら、うちで飯くわないか」
香緒の表情が輝いた。口先をとがらせるようにして叫んだ。
「いいの。迷惑じゃない?」
「おまえひとりくらい迷惑になるわけないさ。うちのおふくろの料理はしゃれてないけど、それでよければな」
そのときステージ上に積まれたスピーカーから、ミニモニの新曲が流れだした。噴水は三階の天井に届くほど、高く白く噴きあがった。香緒は飛び起きるという。
「あたし、もうこの曲の振り覚えちゃったよ」
おれは毛糸のパンツをのぞかせながら、くるくるとまわる女の子をしばらく見ていた。短い曲が終わると拍手してやる。香緒は片手に本をもって、おれの腕にぶらさがった。
「さっきの人もカッコよかったけど、マコトくんも悪くないね」
いいんだ。どうせ、いつもおれは二番目なんだ。
その夜のおかずは、ごぼうの牛肉巻き、具だくさんのけんちん汁、水菜のおひたしに山東菜のおしんこだった。おれには山東菜が白菜とどう違うかわからないが、おふくろは白菜より甘くて長もちするという。見てのとおりの日本食で、キッシュとかポワレとかカタカナ料理なんてひとつもなかった。香緒は熱々のけんちん汁でご飯を一膳片づけると、お代わりはごぼうを抜いた牛肉をほぐし、牛丼のようにのせてたべた。
おれがそんなことをしたら、箸でぴしゃりと手をたたかれるだろうが、おふくろは香緒をにこにこ顔で見ていた。やっぱり女の子はいいねえ、おしゃれのさせがいもあるし。横目でおれを見る。あからさまな性差別だが、おれは無視した。もうぐれているので、これ以上ぐれようがない。おれは早々に晩飯を済ませ、店にでた。
十一時ちょっとまえ、おふくろが二階からおりてきた。
「香緒は?」
「今、寝たとこ」
店先で腕を組んで、おれを疑わしそうに見る。
「おまえ、またやっかいごとに首つっこんだろ」
ため息をついて、うなずいた。手短に香緒の母親が抱える多和田組とのトラブルを話す。
「ふーん、そうか。あのエルメスにそんないわくがあったんだ。それなら、ひと肌脱ぐよ。あたしも報酬をもらったんだから」
やくざとのもめごとに、うちのおふくろが手を貸す? おれとしては、そんな最終兵器をあんなちいさな組織につかうつもりなどなかった。多和田組が木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になってしまう。あわてていった。
「おふくろは香緒の面倒でもみてくれれば十分だよ」
不服そうな顔をする。こうなったらもう一歩も引かないだろう。おふくろには花の都の鉄火の血が流れている。
「だって、マコトにはいい手がないんだろう。あたしにはあるよ」
なんだそりゃあと思ったが、黙っていた。どんなヒントでもほしい気分だったのだ。
「組のほうで関心があるのは、金の問題だけなんだろう。だったら、ヒロコさんでこうむる損より、もっとでかい損害を与えてやればいいんだよ。それが嫌なら、ヒロコさんの連れだしくらい大目にみろといってやればいい」
おれはあきれていった。
「どうやって」
「あたしに考えがある。うまくいったら、マコトが多和田組とかいうチンピラに話をつけな」
その夜一時半すぎにヒロコが仕事を終えて、うちの果物屋にきた。きっと客がついたのだろう。玄関に立つだけで、シャワーのにおいがした。香緒はおふくろの部屋に寝かせてある。おふくろはきりりと締まった表情でおれを見た。
「ヒロコさんと話がある。あんたは自分の部屋にいってな」
戒厳令の布告だ。それから一時間、おれは自分の部屋で音楽もきかずに息をひそめていた。三時近くに声がかかる。眠っている香緒を抱えて階段をおりた。話を終えたヒロコは、なぜか涙ぐんでいるようだった。タクシーにのるとき、何度もおれに頭をさげた。おれはいった。
「なにも頭をさげられるようなことはしてないよ」
ヒロコは胸を揺らして泣いていた。
「いいの。これからなにもしてくれなくてもさ。だって、マコトちゃんはあたしなんかのためになにかをしてやろうって思ってくれたでしょう。そんな人初めてだよ。ありがとね」
おれは夜の池袋に消えるタクシーを見送った。こうなったら、なにがなんでもやらないわけにはいかない。おれの気がかりはひとつ。わが家の最終兵器の狙いだ。
つぎの日の午後、おふくろは電話をかけまくり、夕方からはめかしこんででかけてしまった。おれはずっと店番。暗くなって帰ってきたおふくろは、出前の寿司をつまんでいった。
「今夜から連れだしのどん詰まりをふさいでやるよ。店を閉めたらあんたもおいで」
おれはいつもより早い夜十一時に店を仕舞うと、また厚着をして連れだしパブの並ぶ通りにいった。路地の入口が遠くからでもわかるほど強い明かりで照らしだされている。町会のサーチライトを借りだしてきたようだ。光源に人が固まっていた。ほとんどが、年寄りとオバサンの七、八人。みな肩からななめにたすきをかけている。西一番街商店会。携帯発電機のエンジン音に負けないように、おれは声を張りあげた。
「なにやってんだ」
おふくろはキャンプ用の折りたたみ式テーブルで熱いほうじ茶をいれていた。
「近所のお店の仲間に、演芸場のお友達も呼んで、こうやって張ってるのさ。さっきから酔っ払いが何人もきてるけど、あたしたちの姿を見るとみんな帰っていくよ」
おしゃれなハンチングをかぶった老人が三脚にのせてビデオカメラを構えていた。歩道にパイプ椅子をずらりと並べ、茶をのみながら路地をにらんでいる。確かにこれでは連れだしパブも商売あがったりだろう。
その夜は十二時半で解散した。何度か店の扉が開き、ホステスやママが携帯電話を片手に顔をのぞかせたが、初日には抗議はなかった。店のほうからも、多和田組からも。おれは帰り道、おふくろにいった。
「これから、どうするつもりなんだ」
「みんなには交代しながら、取りあえず一週間ピケを張ってみようっていってある。あんたは若いから、ピケなんて言葉知らないだろう。なんだか、血が騒ぐね」
自分の部屋にもどってから、おれはタカシとサルに電話をいれた。ふたりともおふくろの連れだし小路封鎖作戦に笑い声をはじかせた。サルはいう。
「おれは組のバックがあるから、顔はだしづらいけど、今度見にいってみる。だがな、マコト、多和田組だって黙って引っこんじゃいないはずだ。そんときはしっかりおまえがまえに立ってやれよ」
もちろんだといって通話を切った。続くタカシの反応はこうだ。
「おれも明日からいってやるよ。マコトのおふくろさんて、学生運動やってたのか」
知らないといった。確かおれと同じで高卒のはずだが、おふくろは謎の多い女だ。よく知らないというより、おれはおふくろの秘密に深いりしたくない。平和で民主的なシュプレヒコールもない抗議活動は、それから二日続いた。
多和田組がやってきたのは四日目だ。
その日は朝から曇り空で、東京もかなりの冷えこみを記録した。夕方の六時から張られたピケットラインは、夜十時には四人ほどに人数が減っていた。おれはおふくろの応援要請にこたえて、店を早仕舞いして連れだし小路にむかった。
通りの途中にはGボーイズのメルセデスがとめられていた。おれはきっとタカシが見ているに違いないと思い、スモークフィルムで真っ暗なウインドウにうなずいた。おふくろはおれを見るといった。
「竹森さんがこの寒さで、持病の神経痛がでたっていうんで、マコトがビデオ係やってちょうだい」
見たことがない老人が、あんたのおふくろさんは気風《きつぷ》がいいとかなんとかいって、片足をひきずりながら帰っていった。三十分後、休みなく声をだしているおふくろ以外のテンションがかなり低くなったころ、トキワ通りのほうから黒塗りのキャディラックが一台やってきた。十メートルほど離れて静かにエンジンをアイドリングさせている。
ピケの視線が黒いロングボディに集まった。おれはビデオの三脚をむけた。しばらくして、運転手がおりてきて、座席のドアを開けた。このまえおれにかみつきそうになったドレッドヘアのクニオだ。
黒いクルマからゆっくりと恐竜のように登場したのは三人の男だった。ひとりはクニオをとめた坊主頭の兄貴分。一番小柄な男が最年長のようで、紺のスーツに黒いタートルネックをあわせ、白髪の混ざった髪をオールバックにしている。
「なにやってんだ、おまえら」
小走りでやってきたクニオが、また吠えた。ドレッドの先が震えている。やつは先発隊のようだった。もうひとり、クニオと同じくらい若くひとまわり大柄な茶髪のガキが、意味不明の叫び声をあげている。兄貴分とスーツ男はあとからゆっくりとやってきた。
だが、ここは池袋の西一番街だ。そのへんのオバチャンだって、でかい声をあげる酔っ払いややくざのケンカには慣れている。クニオや茶髪がいくらすごんで見せても効果は限りなく薄かった。おふくろも年寄りも、冷たい目でじっとにらむだけだ。
「まあまあ」
兄貴分がうしろから声をかけたが、クニオはさらに吠えつのった。
「商売の邪魔なんだ。おまえら、いったい……」
「静かにしろといってるのが、わからんか」
兄貴分はクニオの肩をつかんで振りむかせ、狭い通りに反響音が残るほど強く頬を張った。見張り番のオバサンがひとり、文字どおりその場で飛びあがった。おれはおふくろを見た。冷静だ。一般人に手をだせないヤクザが、自分の身内に暴力をふるって周囲に心理的な圧力をかける。初歩的な手だった。
手下の三人が道を開けると、スーツ男がやってきた。四十代なかば、渋いといってもいい顔立ちをしている。
「代表のかたはどなたですか」
おふくろが一歩まえにすすみでた。男はうなずいていった。
「多和田と申します。ここで皆さん、なにをしていらっしゃるんで。この奥の路地の人たちが、営業妨害だとたいへんお困りですが」
おふくろはたすきに手をやっていった。
「このどん詰まりの暗がりで女たちがどんな商売してるかは、みんな知ってるよ。あたしらはこのあたりの商店会のものだけど、街の風紀や教育上よくない影響がある。それで、有志の張り番を立ててるだけさ。文句があるなら、池袋署にでもいきなよ。警察の指導があるなら、あたしたちだって素直に引っこむからさ」
いつのまにか、連れだし小路の店の扉から女たちが顔をだしていた。こわごわとこちらを見つめている。気配を感じて振りむくと、タカシが涼しい顔で立っていた。おふくろの台詞は、打ちあわせどおりだった。あくまで風紀とか教育とか、表立って反対できないような理由で突っぱねる計画だったのだ。池袋ではやくざも強いが、商店会や町会も負けずに強い。地元の商店会の人間に手をだしたら、ちいさな組織などたちまち干しあげられてしまうだろう。スーツ男が歯ぎしりするようにいった。
「この小路で働く人間のほとんどは外国人で、異国で細々と暮らしている人たちだ。よくないことといったって、池袋中どこでもやっていることだ。なにもわざわざ弱いものいじめをしなくてもいいだろう」
ものはいいようだった。どこかの組長ではなく役人にしたいくらいだ。だが、このどん詰まりでは、逆に外国人が多数派で、その利益のために香緒の母親の生活が圧迫されている。この世界と同じだ。強者と弱者の関係は入子《いれこ》になっていて、無限に繰り返されるのだ。
多和田組の男たちは手もだせず、口のききかたにも注意しているようだった。新しい暴対法では、ちょっとした脅し文句ですぐに手がうしろにまわる。ビデオカメラと地元の商店会の組みあわせは、やつらにとっても脅威のはずだった。ほんの五、六人の組織が西口の商店会全体を敵にまわす恐れがある。事実、その夜はほんの十五分ほどで、黒いキャディラックは去っていった。
緒戦は優勢。だが、おれたちの知らないところで、やつらは別な動きをしていた。
翌日からうちの店への嫌がらせが始まった。といっても被害はうちだけではない。近くのゴミの集積場が真夜中に荒らされて、生ゴミが通りに散乱していた。真冬でよかった。夏だったら大騒ぎになっていただろう。おれは両どなりの店の人間といっしょにあと片づけをして、ホースで二十分水をまいた。
つぎの日には、うちの果物屋のシャッターに赤いスプレー缶で、でかでかとバツ印が書いてあった。おまけに日帝とか小日本とか、意味のわからない漢字がいくつか。おふくろは目をつりあげて怒ったが、どうせ塗りなおしてもまたやられるだろうと、おれはそのままにしておいた。
だが、多和田組の嫌がらせは逆効果だった。連れだし小路の封鎖線は、おかげでいっそう厳しくなった。おふくろはさらに多数の友人を動員したからだ。
ヒロコがうちの店にきたのは、ピケ六日目の夕方だった。
店先の商品を選ぶ素振りも見せずに店の奥までやってくると、ヒロコが心配そうにいった。
「マコトちゃん、香緒の様子がおかしいんだけど、話をきいてみてくれない。あたしには口をきかないんだ」
おれははたきをかける手をとめて、ヒロコを見た。シルバーのスパンコールのミニワンピース。バタフライ一枚になる直前のストリッパーの衣装みたいな服を何枚もっているのだろうか。
「どんなふうにおかしいんだ」
「顔に傷がついてるんだけれど、どうしたのってきいても、学校で転んだとしかいわないんだ」
こぶしをにぎって涙をこらえる香緒の泣き顔を思いだした。多和田組に脅されたことはまだ母親に話していないのだろう。
「今どこにいる」
「きっといつもの噴水だと思うけど」
おれはその夜の張り番の準備をするおふくろに声をかけて、サンシャインシティ・アルパに駆けた。
香緒は開いたままの本も読まずに、ぼんやりと形を変える水を見ていた。おれに気づくと、顔をそむけるようにする。おれは香緒を見ないようにゆっくりと近づき、となりに腰をおろした。
「ヒロコさんからきいた。だいじょうぶか、やつらだったんだろう」
香緒は噴水を見たまま、他人《ひと》ごとのようにいった。
「あたしは負けなかったよ。あいつらのまえでは泣かなかったし、ママにも誰にもいわなかったもん」
周囲には涼しい水音が流れていた。
「そうか、香緒はえらいな。なに、された」
やせっぽちの女の子はおびえた顔でおれのほうをむいた。左の頬骨のしたに三日月形の青あざがある。香緒は立ちあがると、座っているおれの背中に抱きついてきた。すぐに熱い涙がおれの首筋を濡らした。声を殺して泣きながら香緒はいう。
「振りむいちゃだめだよ。あいつ、おまえの母親はどうしようもない女だ、おまえもおおきくなったら同じになるって、あたしをなぐった。それで……胸をつかんだんだ。この胸をもんだ最初の男はおれだ。おまえはこれから一生そいつを忘れない。そういってにやにや笑ったんだ。くやしいよ、あたし。だってほんとにそうなっちゃいそうなんだもん」
そのままの格好で香緒は十分泣いた。おれはじっと背中を硬くしていた。
「マコトくん、ママにも警察にも誰にもいっちゃだめだよ。あたしはここで泣いたから、もう忘れる。だいじょうぶだよ。いつもみたいにがまんしちゃうから」
おれは振りむいて頭をなでてやろうとしたが、近づいてくる手に香緒は恐怖の表情を見せた。右手をとめていった。
「そいつ、どんな髪型だった」
「芋虫みたいなのがいっぱいついてた」
ドレッドヘア。クニオだ。誰かをなぐりたくてたまらなくなるのは久しぶりだった。おれは怒りに震えながら、またアイスクリームを買いにいった。
そろそろ決着をつける時間だろう。もう女がなぐられるのはたくさんだ。おれはチョコミントをなめる香緒を見ながら、携帯の短縮を押した。
その夜九時半すぎ、おれとタカシとサルは連れだし小路のなかほどで立っていた。遠くの電柱のしたには、商店会のたすきをかけた年寄りとオバサンが見える。多和田組の男たちは毎日十時ごろ、立ちんぼからその日のショバ代(千円札数枚)を回収すると、その足でどん詰まりにやってくる。毎日ビデオをまわしているから、やつらの生態ならわかっている。
マウンテンバイクがどん詰まりの入口にとめられ、三人が歩いてきた。兄貴分と舎弟がふたり。うちひとりはクニオだ。ライフルのように遠くからきつい目線で狙いをつけてくる。最初に声をかけてきたのは兄貴分だった。
「なにやってんだ、こんなとこで」
おれはいった。
「話がある。あんたたちにも悪い話じゃないはずだ」
クニオのドレッドが揺れて、またわめき始めた。
「おまえらみたいなガキに話なんかねえ」
タカシとサルは腕を組み、交通標識でも見るように口から泡を飛ばすクニオを冷たく見つめていた。兄貴分がいう。
「いい話というなら、あの張り番のことか」
それほど頭は悪くないようだった。おれはうなずいた。
「そうだ。おれたちなら、あれをやめさせられる。だが、それには条件がひとつある」
「なんだ」
おれは連れだし小路の奥に視線をやった。紫ガラスの扉に青い電飾、PUBソワレ。
「あの店の女に手をださないでくれ。女だけでなく、その娘にもな」
兄貴分は理解できないという顔をした。首を振ってからいう。
「たったそれだけでいいのか」
おれはうなずいた。
「そんなことなら、最初からいってくれれば、どうにかしただろうに」
「冗談だろ。あんたたちはもめごとになってからでなきゃ、真剣には考えない。おれがそっちの事務所に顔をだしていきなりソワレの親子に手をだすなといったら、あっさり受けたか」
「なに抜かしてんだ、この……」
またクニオが切れたようだった。つばを垂らして、飛びかかってこようとする。兄貴分がひと声で、やつをとめた。
「わかった。うちのおやじに話をしておく。ちょいと時間をくれ」
それで、おれは坊主頭の兄貴分と携帯電話の番号を交換した。同じ番号の交換でも合コンのときと気分はおお違い。こうしておれの携帯には、男のナンバーばかり増えていく。
店番をしていたおれの携帯が鳴ったのは、つぎの日の夕方だった。
「多和田だ。あんた、真島誠か」
そうだといった。
「条件をのもう。だが、あの女はおまえにとってなんなんだ。それに娘の話といい、まるで意味がわからん」
意味なんておれにだってわからなかった。おれの場合いつだってそうだ。誰かのために親身になって動くのに理由なんてない。金だってもうかるわけじゃない。零細組織の組長がいった。
「今夜から張り番をやめさせてくれ。うちはソワレの女には手をださないと約束する」
「あそこで働く日本人は自由に連れだしをしてもいいんだな。娘にも手をださないな」
「ああ。約束する」
「わかった」
そういって通話を切ろうとすると、多和田がいった。
「ちょっと待て。それとは別におたくらと白黒つけなきゃならない。あんたをいれて三人用意しろ。今夜、十二時にどん詰まりの駐車場にこい」
だんだんと組長の声にすごみが加わってきた。おっかない。
「おれたちにはメンツがなにより大事でな。そうあっさりと素人と取引するわけにはいかんのだ。けじめはつけなきゃならん。別に死ぬことはないだろうが、ちょいと覚悟してこい。逃げるなよ、真島」
わかったといって、今度はほんとうに切った。おふくろは店の奥でサン富士の段ボールを開けている。
「もうヒロコは問題ないって。今夜からピケを張らなくていいよ」
わが家の最終兵器はリンゴを磨く手を休めずにいった。
「そうかい。せっかくのお楽しみがなくなっちまったね」
「それで真夜中に駐車場にこいってさ。タイマンでも張るみたいだ」
おふくろの目が光った。
「マコト、なにか得物はいるかい」
おれは多和田組がちょっと気の毒になった。
真夜中の五分まえ、サルとタカシとおれの三人はどん詰まりの駐車場に立っていた。おれたちのうしろには、ヒロコとおふくろ、それに商店会の何人かが固まっている。
黒いキャディラックが連れだし小路をそろそろと抜けて、駐車場にはいってきた。十二時ちょうどに、多和田と若衆の三人がおりてくる。キャディのうしろには、連れだしパブのママたちがカラフルに続いていた。サルがおれの耳元でいった。
「今日はやけに見物が多いな」
タカシが楽しそうに返事をした。
「高校を思いださないか、マコト」
おれのいってた工業高校ではケンカは唯一のアトラクションでギャンブルだった。タカシはそのグランプリの三冠馬というところ。おれはやつらから視線を離さずに、うなずいていった。
「多和田組もけっこう必死なんだろうな。金をもらってるママさんたちの手まえ、ただで手を引くわけにもいかない。メンツとかいってるが、おれたちはやつらが一生懸命しのぎを張ってるってとこを見せるための瓦割りみたいなもんかもな」
五メートルほど離れて立ちどまると、多和田が低い声でいった。
「よくきたな。今夜は素手で思う存分やってもらおう。どっちが勝っても、恨みは残さない。明日からこの小路は昔どおりに営業する。まあ、まえ祝いと手打ちの儀式だ。それでいいな」
おれたちはうなずいた。腹のあたりで手を組む黒いスーツの組長にいった。
「いっせいにかかるのか。それとも一対一のタイマンか」
眉をつりあげ、やつはいう。
「タイマンがいいだろう。こっちは最初にユーイチがいく。そっちは誰だ」
茶髪の若い男が小石の落ちる荒地に一歩踏みだした。サルがいった。
「じゃあ、おれいってくるわ。マコト、気をつかわなくていいんだよな」
「どういう意味だ」
「だからさ、あまりやりすぎちゃうと、あとでソワレに仕返しされないか」
タカシが鼻で笑った。
「フン、そのときはGボーイズが二十人がかりで、多和田を襲うさ。好きにしてこい、サル」
サルはやる気まんまんで、アディダスのフィールドコートを脱いだ。身長百五十五センチのチビがでてきて、ユーイチはにやりと笑った。なめて手招きをしている。連れだしパブのママたちから、おれにはよくききとれない言葉で喚声があがった。広東語か朝鮮語の「ぶっ殺せ!」なのだろう。
ふたりが二メートルほど離れてむきあったとき、駐車場の入口をシルバーメタリックのメルセデスがふさいだ。銀のクジラのような十二気筒のセダンだ。窓が音もなくおりて、氷高組の銀行員のような組長の顔がのぞいた。多和田の表情は動かなかったが、顔色が変わるのがわかった。氷高のおやじは組織のホープに万が一の保険をかけるため、顔だけだしにきたのだろう。さすがチビでも有望株、本部長代行だ。池袋の三大組織のひとつのトップがきて、駐車場の雰囲気がぐっと締まった。
サルはメルセデスにうなずくと、しっかりと頭をガードしてユーイチに近づいていった。すたすたと並足のまま、腰は一段落としている。ユーイチが最初に大振りの右をサルの腹に突きこんだ。サルの腹はチョコレートのように割れている。あんな見えみえのフックでは効果は薄いだろう。続いて左をぶちこむ。サルは姿勢を変えずに、相手のふところに飛びこんだ。ユーイチは覆いかぶさるように体重をかけ、サルを押し倒そうとする。おれはサルががくんと一段腰を落とすのを見た。サルのコンバースの靴底で砂利がきしんだ。
「フンッ」
腹に響く声を吐いて、サルは額を一直線に突きあげた。その先にはユーイチの細いあごがある。ぐずりとユーイチの顔下半分が変形するのがスローモーションで見えた。その場に崩れそうになったユーイチの腰をかかえ、サルはごつんごつんと頭突きを繰り返した。
白目をむいたユーイチを駐車場に捨てて、サルがもどってくる。落胆のため息が、ママたちから漏れた。
「サルくん、あんたこれから一年、うちのメロンくい放題だからね」
おふくろが興奮して叫んでいた。おれとタカシは、息を荒くするサルに黙ってうなずいてやった。
多和田は冷静な顔にもどっていた。クニオを呼んでなにか短い耳打ちをする。クニオは不服そうな表情をしていた。
「つぎはこのクニオがいく。そっちは」
タカシがいった。
「香緒をなぐったのはやつだろう。おれが頬骨を砕いてきてやろうか」
「いいや、おれがいく。タカシはあっちのでかい肉を処理してくれ」
おれは長身の兄貴分をあごの先で示して、ユニクロのエアテック・ジャケットを脱いだ。ほかのふたりには怒りなどないが、クニオは別だ。やつにも一生忘れられない記憶を身体に刻んでやるのだ。おれは誰にもいわないでといって泣いた香緒の涙を思いだしていた。
おれはどちらかというと頭脳派で、ケンカは特に強くなんかない。だが、そのときは負ける気がしなかった。第一、連れだしパブのママへの営業上の弁明と本気の怒りでは、闘いへの動機が違う。クニオのような間抜けに負けるわけにはいかない。
冷めろ、冷めろ、相手を冷たく観察できるほど、強くなれる。おれは頭をクールダウンするために、口のなかでそうつぶやきながら、真夜中の駐車場の中央へすすみでていった。
クニオはドレッドの先を額で揺らしながら、おれに歯をむきだした。黒いフィラのトレーニングスーツを脱ぎ捨てる。トレーナーとTシャツもまとめて脱いで、上半身裸になった。若いくせに腰まわりにはうっすらと脂肪がつき始めている。やつは首をぐるりとまわすといった。
「おまえは初めから気にいらなかった。へらへらふざけた口ばかりききやがって。多和田さんは、氷高のいるまえで無茶はするなといったが、事故に見せかけて壊してやるよ」
よくしゃべる脇役だった。おれは低い声でいった。
「おまえは香緒のことを覚えているか」
「誰だ、そりゃあ」
「やせぽっちの小学生だ。おまえがなぐり、胸にいたずらしたな」
「なんだ、あのガキか。さわりがいのない胸だったぜ」
意識しないうちに薄い笑いが唇に浮かんだ。アドレナリンが全身に赤い嵐を起こす。おれはクニオの肉をくいたくなった。
「あの子からおまえにプレゼントがあるそうだ」
おれはジーンズの尻ポケットから薄い文庫本をとり、手首の先だけでドレッドに投げてやった。クニオは払いのけようと右手をあげた。『サロメ』が宙を飛ぶのと、おれが跳びこんでいくのは同じ速さだ。
おおきく踏み切って跳躍するだけで、ほんの五十センチほどの距離になる。クニオはあわてておれをなぐろうとしたが、この近さではこぶしは間にあわなかった。おれはひじの先を思い切り振った。狙いはクニオのあばた面の左側だ。跳びこむ身体のウエートにひじのスイングスピード、それにおれの怒りが加わった一発だ。あたったのはわかったが、衝撃はまったくといっていいほど感じない。おれが二撃目の左ひじを振りだしたとき、相手は目のまえにいなくなっていた。足元に倒れていたのだ。
おれは目標を頬骨から、クニオの胸に変更した。顔と胸。香緒の礼はしなければならない。トレッキングシューズで、半分意識をなくしたクニオの肋骨を蹴り続ける。なんの芸もないサッカーボールキックだ。
「マコト、殺《や》っちまいなー」
そう叫ぶおふくろの声で、冷静さがもどってきた。おれは夜の駐車場のバトルゾーンを離れ、タカシとサルのところに帰った。ハイタッチを二度交換する。
「さて、おれの番だな。簡単に済ませてくる」
そういってタカシは白いダッフルコートのまま歩きだした。
だが、予想に反して一番長引いたのは、兄貴分とタカシのファイトだった。兄貴分はボクサー崩れのようで、おお振りのテレフォンパンチなど打たなかった。しっかりとガードを固め、内側からえぐるように速いこぶしを繰りだす。駐車場の地面に落ちるふたつの影が何本もの黒い線で結ばれた。
タカシはコートの裾をひるがえし、天性のバランスとスピードでパンチを防御した。上半身をしなやかに振り、最小限のステップで暴風のような打撃をかわしていく。兄貴分のラッシュはちょうど三分ほど続いた。そのあいだタカシは相手のパンチを見るだけで手はださなかった。
兄貴分にはボクサーとしての才能はあまりないようだった。コンビネーションが正直すぎるのだ。ワンツースリーまではいい。しかし、こぶしの軌道とタイミングを変えたフォーファイヴの追撃は続かない。三分をすぎて、タカシが防御のスピードをさらに速くすると、明らかについていけなくなった。目のまえ三十センチほどのところに薄笑いを浮かべたタカシの顔がつねにある。幽霊と闘うようなものだ。兄貴分に焦りの色が濃くなった。
しだいにパンチが荒くなり、ガードがさがってくる。タカシはその夜初めて両腕をあげて、ほぼ同時に左と右をだした。ひと筋の光りの流れのようなジャブとストレート。右のこぶしはあごの先をピチッと音がするくらい薄くかすめる。兄貴分はその場にすとんと崩れ落ちた。こぶしを両もものうえにおき、きちんと正座した格好で首だけ胸に垂らしている。ぴくりとも動かなかった。座棺のなかの死体のように静かだ。タカシはあとも見ずに帰ってくるといった。
「久しぶりに汗かいた。どうだ、マコト、おれの右ひじはちゃんと伸びていたか」
おれにはタカシのパンチさえ見えなかった。くやしまぎれにいった。
「こんなにたくさんギャラリーがいるのに、おまえの右はちょっと曲がってたよ。それに遠まわりしすぎだ」
おれは静かな息にもどったサルに目をやった。サルもいう。
「そう。もっと内側から、最短距離をいかなきゃな」
それでおれたちは笑った。誰かをなぐってあんなにすっきりと笑ったのはおれは初めてだった。
スコアは三対〇。だが、そのあとの展開は予想外だった。勝ったおれたちにはうちのおふくろと商店会のオバサン、それにヒロコが拍手をしてくれただけ。それなのに駐車場にへたりこんだ多和田組の若衆には、連れだしパブのママやホステスがびっしりと張りついて、なにくれとなく色っぽい看護をしている。
おれは盛りをすぎた女たちを見まわして、サルにいった。
「なんだか、こっちが悪役で、むこうが正義の味方みたいだな」
サルは苦笑いしていう。
「実際そうなんじゃないか。急に張り番を立てて商売の邪魔したり、同じ民族のかわいい兄ちゃんをなぐり飛ばしてみたりな。おれたちは嫌味で金もち、日本人の悪役だ」
タカシはダッフルコートを直していった。
「それぞれの立場にそれぞれの物語がある。正義も悪もどっちでもかまわない。生き生きしてるほうが勝ちさ。やつらを見ろ」
あごの先を倒れているチンピラたちにむける。
「おれたちは今夜勝った。やつらは明日から勝つ。この連れだし小路でちゃんとしのいでいくんだからな」
振りかえって駐車場の入口を見ると、氷高組のメルセデスはすでに消えていた。おれたち三人は順番に香水をつけすぎたヒロコに抱きしめられ、暗い路地をもどっていった。
真夜中の対決から三日後、ヒロコがスイカのような胸を揺らしながら、うちの果物屋にやってきた。池袋も冬本番を迎えていた。吐く息が霜柱のように空中に残る厳しい寒さの夕暮れ。ヒロコはおれに五千円のメロンを二個注文すると、一万円札といっしょに封筒をさしだした。おれの目を見ずに、よそをむいていう。
「これ、香緒からの手紙。あとで読んで」
わかったというと、ヒロコはハイヒールの音を西一番街の裏通りに鳴らし去っていく。連れだし小路では、今夜の仕事が待っているのだろう。おれは店のまえにでて、ゴージャスなうしろ姿を見送り、封筒を開いた。なかには二枚の便箋がはいっていた。
真島誠さま
[#ここから2字下げ]
今度のことでは、うちのヒロコさんもわたしもとてもお世話になりました。どうもありがとうございました。おかあさまと悪いお友達にも、お礼の言葉を伝えてください。わたしはもうだいぶまえから、ヒロコさんの仕事は知っていました。ずいぶん悩んだ時期もあったけれど、今ではしかたないと認めています。まだわたしは小学生なのでお金を稼ぐことはできません。だから、がんばって勉強して、おおきくなったら誰にも悪口をいわれない仕事をして、ヒロコさんに楽させてあげようと思います。
ヒロコさんは、ちょっとスローなところがあるし、買いものをするとすぐにタクシーにのりたがったり、太る太るというくせにショートケーキを三つもたべたりします。でも、わたしにはひとり切りのとてもいいママです。ヒロコさんが顔にけがをして帰ってきたときには、わたしは自分のときより泣いてしまいました。みんなにいろいろいわれても、わたしはヒロコさんが大好きです。
またいつか必ずお店に遊びにいきます。おもしろい本があったら、絶対に教えてくださいね。今日もアルパの噴水で待っています。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]桜田香緒
心のこもったいい手紙だった。文章だっておれのコラムよりうまいくらい。おれはいい気分になって、二枚目の便箋をめくった。こちらは一枚目の整った鉛筆の文字とは違って、書きなぐりのサインペンが躍っていた。
[#ここから2字下げ]
香緒に読むなといわれたから、手紙は読んでないです。あたしはながい文を書くと頭がぶっ飛びそうになるから、かんたんにいいます。どうも、ありがとね。香緒もあたしも、感謝してる。
あたしはこんなふうだから、まだまだがんばって現役の女でいるつもり。ダナ・キャランですごくカッコいいブルゾン見つけたから、つぎにいくときもってくね。
香緒はあたしにはできすぎのいい子なんだ。友達になってやってください。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]ヒロコ
おれは読み終えると二枚の紙を封筒にいれた。果物屋の店先にもどり、イチゴのフォイルに積もったほこりにはたきをかける。自然に流行りの歌をハミングしていた。商売ものが売れなくて、コラムが書けなくても、おまけに金がなくて女がいない四重殺でも、おれが幸せになるのはこんなときだ。
汚れた街の貧しい買いもの客でいるのもいいものだ。おれたちはちょっとしたトラブルで誰かと結びつき、忘れられない輝きをあげたり、もらったりする。
おれは店のまえの色あせた日よけのすきまから、池袋の夕空を見あげた。星の数は断然すくない。だが、一度見つけてみると、ガラス粒のような澄んだ輝きはいつだってそこで光っている。どんな闇もあの光りをなかったことにはできない。
おれは二階のおふくろに声をかけて、西一番街にでた。噴水のまえで待つやせっぽちで、本好きな女の子とデートするために。手もにぎらない清い交際もたまには悪くない。
[#改ページ]
キミドリの神様
どこかの誰かがちいさな紙切れに手のこんだ印刷をする。すかしをいれた紙に七色刷り、十色刷りを重ね、とおし番号を打つ。最新のマイクロ印刷術をつかい、ルーペでしか読めないような文字を印し、磁気インクをつかって電子的な刻印を残す。それでもかかるコストはせいぜい数十円だ。それが市中にでまわるといきなり一万円の価値をもつ。突然生まれる数百倍の利益。まったく魔法みたいにぼろい話。差額の九千九百いくらは、わが国の立派な政府が専有する通貨発行益になる。
だが、一枚の紙切れを通貨にするのは、日本国政府でも日本銀行でもない。おれやあんたみたいな普通の人間が、一万円札には一万円の価値があると単純に信じているからにすぎない。宗教と同じだ。みんなが信じることで、神様は神様でいられる。だから一度でも金というものをみんなが疑い始めれば、紙幣にくっついた幻想はぐにゃぐにゃとゼリーみたいに溶け落ちて、そいつは工芸品のような見事さで印刷されたただの紙切れにもどる。
まあ、そのときには政府や日銀への信用もニューヨークのツインタワーみたいに崩壊していることだろう。おれたちはたくさんの紙切れを手にしたまま、通貨という神なき世界を生きることになる。今だって半分くらい政府への信用は転げ落ちてるから、あぶないといえばけっこうあぶないのだ。金が紙切れにもどる危険は、どこの世界にでも、いつだって存在する。
ここで質問。
おれたちが毎日手にしている円の働きが十分でなくなったら、あんたならどうする? 外貨預金も金の延べ棒を買うのもいいだろう。だけど、それじゃあんた個人は救われるが、みんなは石ころみたいに沈んでしまう。おれは別に日本なんて沈没してもかまわない。でもおれの街の人間が、通貨危機後の東南アジアや財政破綻状態のアルゼンチンみたいな暮らしをするのは見たくない。給料の遅配に、銀行での取りつけ騒ぎ、金利はロケット並みに急上昇し、失業者は携帯電話のように街にあふれる。暴動とパニック、すべての人間が互いの敵になるまであと半歩だ。
そこでいいアイディアがひとつ。
日本の円が十分でなければ、おれたちが通貨を発行すればいい。それで足りなくなった金の働きを補うのだ。おれたちの街のおれたちの通貨。池袋の場合そいつの名前は「ぽんど」といった。今回のおれの話は、この街で新しい通貨を発行しようとした若きタイタンの物語。やつはおれの知ってるただひとりの有名人で、あれこれと書かれはしたが、それでも新しい世代のホープのひとりに間違いはない。
みんなの信用と善意から新しい金が誕生し、すこしずつ成長して、この街に広がっていくのをおれは見た。そいつは決して悪くない見ものだ。
ただ金はたくさんのいいことと同時に悪いことも吸い寄せる。それ自体がモラルの外側にある存在なのだ。金を刷る誰かさんのところには、ろくでもない人間だって集まってくる。そいつは永田町も池袋も変わるはずがなかった。
最初にその札を見たのは寒さもゆるんだ三月なかばだった。ビルの谷間に落ちる日ざしに角度がついて、かびくさい通りがちょっとだけ明るく乾き始めたそのころ。ウエストゲートパークでは、気の早いソメイヨシノが固く結んだつぼみを半分ゆるめ、デパートのトイレみたいな花の香りを石畳に漏らしていた。スギ花粉とディーゼルの粉塵が舞い散る都会の公園にも春はくる。
おれがうちの果物屋で店番をしていると、近所のバアサンがしわくちゃの千円札といっしょにその紙切れをだした。好物のイヨカンの代金だ。千円札よりひとまわりちいさく、鮮やかな黄緑で印刷された札だった。無数の石を水のおもてに投げたようにたくさんの同心円が広がり、波は互いに干渉を起こして複雑で美しい縞模様を描いていた。コンピュータグラフィックスでつくられた精密な文様。中央には「100ぽんど」と、これもデジタル時計の文字盤で使われるような数字がはいっている。
「これなあに、子ども銀行のお札」
余分な札をもどすとおれはいった。バアサンは受け取り、ヴィトンの財布に大事そうにいれる。
「マコトちゃん、あんた知らないの。これ、けっこう便利な新しいお金だよ。池袋の喫茶店ならだいたいつかえるし、ちょっと待ってな」
毛皮で縁取られたロングコートを着たバアサンは、同じくヴィトンのグラフィティラインの巾着から携帯電話を取りだした。フラップを開けて、親指でいくつかボタンを押す。おれにはとても真似できない早業。カラーの液晶画面をこちらにむけていう。
「ほら、マッサージ一時間200ぽんど。犬の散歩三十分100ぽんど。スーパーへの買いもの代行100ぽんど」
確かにちいさな画面にはサービスとその対価がびっしりと掲示されていた。おれは文字を目で追いながら、間抜けにかえす。
「その金でサービスが受けられるんだ。でも、なんで普通の金じゃだめなの」
バアサンは首をかしげるといった。
「よくわかんないけど、ほんとのお金だといろいろあるからねえ。なんか面倒なことでもあるんじゃないのかい。税金とかさ」
世界でもっとも不愉快な言葉を口にしたようにバアサンは顔をしかめる。そんなもんかなといって、おれはつり銭をかえした。ちょっと気になってきいてみる。
「あのさ、イヨカンもうひと袋つけるから、その札をおれにくれないかな」
バアサンはちらりとイヨカンの値札に目をやった。四ついりで五百円。
「それじゃあ、ちょっと損だ。そこのリンゴつけてくれるならいいよ」
ひとつ二百円のサン富士を指さす。おれにはその札の価値がぜんぜんわからなかった。おふくろにはあとで叱られそうだが、いいだろう。おれはイヨカン四つとリンゴひとつと引き換えに、池袋の100ぽんど札を手にいれた。
こいつをたんすにしまって三年もしたら五千円くらいにならないだろうかなんて虫のいいことを考えながら。なあ、地域通貨なんていっても、おれがなにもわかんないのは、あんたにだってばればれだろ。
店番を交代した夕方、おれはウエストゲートパークにいった。円形広場のベンチに座り、西の空を見る。こう見えてもおれはセンチメンタルな都会人なのだ。春の大気にやわらかさを増した夕日が、端っこだけオレンジに燃える雲に沈んでいく。すごいスローモーション。なにもせずにぼんやり夕焼けを見ていると、なんだか放送禁止用語でも叫びたくなるのはおれだけだろうか。じっとしていられずに歩道をぐるっと走ろうかなんて思っていると、パーカのフロントポケットで携帯が鳴った。
「はい」
おもしろがっているような男の声が流れだした。
「真島誠くんでいいのかな」
育ちもよく金もちで、おまけにハンサムなエリートサラリーマンを演じる役者のような声だった。爽やかで頭よさげ。
「そうだけど、あんた誰」
「ああ初めてだったね。ぼくは小此木克郎《おこのぎかつお》」
知らない名前だった。おれは自然に首をかしげてしまう。
「そうおかしな顔はしないでくれ。うちのセンターの若い人からきみの名前をきいた」
おれは西口公園の周囲を見わたした。どこかでエリート声の男がおれを狙っているかもしれない。最近のトラブルをひとつひとつ思い浮かべてみる。まさかいきなり狙撃されることもないと思うが、いかれたやつはなにをするかわからない。おれがベンチを立ちあがると男はいった。
「すまなかった、マコトくん。東京芸術劇場の並びにあるビルを見てくれ。一階はエコロジー商品の店になってる」
ななめの光りに街のほこりが乱反射して、公園の反対側は明るく濁っていた。また男の声がする。
「そのビルの七階だ。ぼくは窓際に立ち、手を振っている」
おれはゆっくりと階数をかぞえながら、視線をあげていった。白いパネルと銀のアルミフレームが二十パーセント、残りは淡いブルーに沈む熱線反射ガラスの建物だった。まだ新しいようだ。五、六、七。おれは七階の窓辺に立つ白っぽいスーツの男を見た。携帯を耳におれに手を振っている。男の横にある窓にはでかでかと「いけ! タウンNPOセンター」と張りだされていた。ださいネーミング。おれも遥か下界から手を振ってやった。男の声はあくまで爽やかだ。
「悪党の口癖かもしれないが、ぼくはきみが心配するような悪い人間ではないつもりだ。池袋一のストリート探偵に頼みたいことがある。つぎの取材まで三十分だけ時間があるんだ。これからここにきてくれないか」
いきなりの展開ですぐに返事ができなかった。オコノギと名のる男は疲れたように窓に額を押しつけ、声を殺していった。
「頼む。これはぼく個人やうちのセンターだけの問題ではなく、この街に暮らしている人すべてにかかわるトラブルだ。きみはこの街の若者のためになるなら、報酬などなくても全力を尽くすときいた」
あらためて言葉にされると、カッコよすぎて照れてしまう。わかるやつにはわかるということか。おれは目一杯鼻の穴をふくらませ、やつを見あげた。
「わかった。実際あんたのいうとおりだけど、誰にそんな話をきいたんだ」
うれしい噂の情報源なら確かめておく必要がある。男はスタッフから声をかけられて、青いガラスのむこう側でちらりと背後を振りむいた。
「うちに出入りしている安藤くんだ。彼はきみのことを高く評価していた」
「安藤って、タカシのことか」
「そうだ。池袋の少年たちの親睦団体を代表しているといっていたな」
全身から力が抜けていく。若い女たちでも街の噂でもなく、Gボーイズの王様のひと言。かなり黒に近い灰色だが、考えてみるとストリートギャングの集団だって、非合法NPOには違いないだろう。
やつの紹介なら絶対しんどいトラブルに決まっている。おれは円形広場を足を引きずってわたった。
のどかな春の夕暮れよ、さらば。
エレベーターの扉が開くと、いきなり活気にあふれたざわめきにぶつかった。急成長中の居酒屋チェーンにでもはいったみたいだ。淡いブルーの上着を着た若い男女が、いそがしげにいき交っている。おれは液晶画面つきの電話が二台並んだ受付で、手近なやつに声をかけた。
「あの、オコノギって人に呼ばれてるんだけど」
胸ポケットのフラップにアオガエルのバッジをつけた女は、男の名前をだしたとたんにうっとりと目を輝かせた。彼女のアイドルなのかもしれない。笑顔を最大に固定していう。
「お約束はありますか」
うなずいた。女は先に立って、フロアを案内してくれた。細かなパーティションで仕切られた机の島が六つ。どのデスクトップにも真新しいコンピュータが並び、ディスプレイよりもそれを取りまく色とりどりの縫いぐるみのほうが多かった。なぜか足元をビーグル犬が走りまわっている。そこにいる男女はみな東京ディズニーランドの従業員(キャストというんだっけ)みたいに明るくにこやかで、いきいきと働いているようだった。ちょっとつくりものの情熱って感じもしたけどね。
おれは開いたままのドアの戸口に連れていかれた。化粧をしていない女がノックしていった。
「オコノギさん、お客さまです」
なかは楕円形のテーブルがおかれた広い会議室だった。部屋の隅ではテレビのクルーが照明のコードやビデオカメラを片づけている。おれは知らないけれど、オコノギはテレビの取材がくるほど有名らしい。クリーム色のスーツを着た男が、いっしょに話していたスタッフにいった。
「芳川くん、ちょっと真島くんと話がある。ふたりきりにしてくれないか」
ヨシカワと呼ばれた長髪の男はテレビクルーに耳打ちした。つぎの瞬間には、ほうきで掃きだされたようにテレビ局の人間と、数人残っていたスタッフが会議室をでていった。オコノギは爽やかな笑顔のまま、備えつけの小型冷蔵庫からミネラルウォーターを抜いて、おれのまえにおいた。
「どうぞ。この冷蔵庫はペルチェ素子というICで冷やすんだ。フロンガスは使用していない」
ガラス越しの木々を背にしてオコノギは座った。繊細そうな指先を重ねる。
「さて、どこから話したらいいか……」
爽やかな笑いは引っこめられ、疲れた表情に変わった。うつむくと髪に天使の輪ができる。三十近いのに子どものようにつややかな黒髪。いったいどんなシャンプーを使っているんだろうか。
オコノギはテーブルに二枚の札を並べた。ついさっきバアサンから手にいれたのと同じ鮮やかな黄緑の札だ。おれのまえに滑らせる。
「手にとってよく見てほしい。そのうち一枚は、ぼくたちのNPOが発行している池袋の地域通貨ぽんどの紙幣だ」
おれはほとんど同じように見える二枚の札を手にした。すかしなどどちらにもない。複雑な干渉を起こした水紋の絵柄も変わりないようだった。ただ紙の手ざわりがちょっとだけ、片方がつるつるとしている。
「区別がつくかな」
若きNPO代表は爪をかんで、上目づかいにおれを見る。
「ぜんぜん」
「表面がなめらかなほうが偽もので、もう一枚がほんものだ。これで左隅の波紋をよく見てみるといい」
そういっておれのまえにルーペを滑らせる。おれは偽100ぽんど札の端を拡大した。
同心円の中心にゴマ粒の半分くらいのおおきさで、水に飛びこむアオガエルが描かれていた。よく見るとカエルの開いた口には鋭い牙がびっしりと生えている。
「なんだか悪そうなカエルだな」
「冗談のつもりでそんなイラストをいれたんだろう。もう、ぼくからきみへの依頼の筋はわかってもらえたと思う」
うなずいておれはいった。
「偽札づくりの犯人探し」
人差し指の先をこめかみにあてた。なんだかスマップの稲垣吾郎みたいだ。嫌味のないキザ男。
「そう。そして秘密裏に偽札づくりをやめさせてほしい」
「なぜ、警察ではだめなんだ」
オコノギは眉のあいだのしわを深くした。ぽんど札と同じ黄緑のネクタイの先をいじりながらいう。
「ぼくたちの地域通貨はまだ生まれたばかりだ。きみはなぜ金が、紙切れではなく通貨として価値をもつか知っているかな」
経済学はおれの専門外。黙っているとやつはいう。
「他の人間も同じ価値のあるものとその紙切れを交換してくれると、みんなが信じているからだ。みんなが信じることを信用力という。ぼくたちのぽんどは、まだ信用力が弱いんだ。地域通貨は生まれたばかりの若芽と同じだ。ちょっとした風や寒さで、すぐに死んでしまう。ぽんどには円と違って、日本政府のような強力なバックはない。だから、この偽札騒ぎは誰にも知られずに解決したいんだ。池袋の人たちには公表したくない。それにそのイラストを見て、きみはなにか感じないか」
感じた。ヤンキーの兵隊が爆撃機の先に歯をむきだして笑うミサイルの絵を描くのと同じ趣味だ。明るく乾いた皮肉な悪意。おれはいった。
「たぶん、こいつを描いたのは調子にのったガキだな」
おれみたいにとはいわなかった。オコノギは重々しくうなずく。
「そうだ。それにうちのNPOの主力になっている年齢層でもある。もしかすると犯人はこの事務所のなかにいるかもしれない」
今度はため息をついて、おれがうなずく番だった。
「秘密にしたい理由がわかったよ。でも、おれにはまだひとつわからないことがある」
オコノギは先をうながすように、おれに手のひらをむけた。
「いったい全体なんで自分たちで金なんか発行しようと思ったんだ」
キザで冷静、それにちょっと疲れたNPO代表の目に炎がはいるのがわかった。声に若々しい張りがもどる。オコノギは座ったまま、すっきりと背を伸ばした。
「マコトくん、ぼくはその質問をマスコミから何十回となくきかれている。でもね、それにこたえるのに慣れたことはないんだ。自分で話していて毎回心が動くよ」
そういってオコノギはおれの目をじっと見つめた。
「今の日本の状況をどう思う」
不景気なのはわかっていた。だが、もの心ついたときから不景気には慣れているので、別におかしいとも思わない。ただおれのまわりのガキのほぼ三分の一に職がないのは事実だった。一番の不思議は、やつらがどうやって携帯の通話料金を払いこんでいるかだ。
「日本全体のことはわからない。でもこの街はだんだんと貧しくなっているような気がする」
オコノギは力強くうなずいた。
「今この国で起きているのは全面的なミスマッチだ。需要と供給。労働と対価。サービスとその受益者。通貨はもともと強力無比なブルドーザーで、そうしたミスマッチをならして平らにする力があったはずなんだ。それが日本ではもう十分に機能しなくなっている。いつまでたっても、社会にあいた傷口がふさがらない。断層は広がるばかりだ。だから、ぼくは自分たちでバンソウコウをつくろうと思ったんだ。目のまえでけがをしている人を見ていられなかったから」
まだ話の要点がわからなかった。きっとおれの頭が悪いせいなのだろう。第一おれにはNGOとNPOの違いさえわからない。
「もともと、街づくりとか環境問題、それにボランティア活動は、現在の通貨とは反りがあわないところが多かった。金の世界ではよりおおきな利潤を生むことが最高で、精神的な満足や社会貢献は二のつぎだ。池袋ではたくさんの若い人たちの力があまっていた。だが、円で対価を払うのでは、払う側ももらう側も硬直してうまくいかないだろう。それでこんな地域通貨を考えだした」
オコノギはジャケットの内ポケットから新しい100ぽんど札を抜いた。ひらひらと揺らしてみせる。公園の木々を背に新しい札は旗のようになびいた。
「最初はうまくいくはずがないと、みんな笑っていた。だが、うちの事務所に登録したボランティアが千人を超えたら、誰も文句はいわなくなったよ。今度はマスコミの取材がうるさいくらいだ。きみもうちのNPOのホームページは知っているだろう」
さっきバアサンに見せられた画面を思いだした。犬の散歩100ぽんど。
「現在六千人を超えて登録メンバーが増大しつつある。自分の空き時間を使って、誰か困っている人のために自発的に働く。それでちゃんと報酬だってもらえるんだ。わかるかな、マコトくん」
おれはいつもクールだといわれているが、まえむきに世のなかに働きかけるオコノギみたいな人間が嫌いではなかった。やつの声はガラスのように澄んで鋭くなった。
「働く能力も意志もあるのに、仕事がなくて働けない。それは通貨が足りないせいだ。みんなが自分に提供できるサービスを公開して、このぽんど札を仲介に池袋のコミュニティで取引の輪を広げていく。そこで生まれるのは新しい雇用だ。国にできないというなら、ぼくたちが新しい金を発行して、若い人たちに仕事をつくりだせばいい。この紙切れはただのレーザープリンターの出力なんかじゃない。新しい働きかた、新しい生きかた、それに新しいこの街のシンボルなんだ」
オコノギの頬にはかすかに赤味がさしていた。さすがに有力NPOの代表だ。言葉に人をひきつける魅力がある。鈍いおれの頭にもようやく話が見えてきた。そして地域通貨というものが、本来どんな働きをするものなのかも。
この街のガキ千人に新しい仕事をつくれるなら、おれは一年間ただ働きしたってへっちゃらだ。だってあたりまえだろ。新しい仕事をつくることは、新しい希望をつくることだ。
それはこの国の大人たちが、ずっと放りだしてきた問題だった。
「最初に偽札が見つかったのは、どこなんだ」
オコノギは声をひそめた。
「ここだ。ぽんどは池袋の飲食店の六割で使用可能になっている。それぞれの店でたまったぽんどはこの事務所で、円に換金されることになっている。先月末の金曜日にもちこまれた四軒分のぽんど札のなかに、この偽札が二十枚ほどまぎれこんでいた」
そういうと店の名と所在地と電話番号が記されたメモをおれにわたした。ざっと目をとおす。オーディネール、ネイチャーキッチン、スオミカフェ、デリ・マングローブ。どれも池袋で最近急に増えてきた、新しいスタイルの店のようだ。
「そうか、最初に使われたのはどこかのカフェなんだ。ますます若いやつがあやしいな。ところでさ、この100ぽんどでいくらくらいの価値があるの」
オコノギは肩をすくめる。
「この事務所では100ぽんど五百円だけど、街では別なレートで動いている。金券ショップなんかでは、変動相場制で今は六百から七百円のあいだだろう。マコトくんへの報酬はぽんどでいいかな」
別に金などもらわなくてもやるつもりだったが、コーヒーのみ放題のチケットだと思えば悪くない話だ。おれがうなずくと、オコノギはジャケットの内ポケットからなにか取りだした。薄緑の再生紙の分厚い封筒だった。
「そこに前金で半額の二万ぽんどがはいっている。うまくいったら、残り半分と特別ボーナスを考えてもいい。この街の人たちのために、ぼくたちの通貨を守ってほしい。マコトくん、よろしく頼む」
そういうと若きNPO代表は腕時計をちらりと見た。そろそろ取材の時間のようだ。オコノギの声は疲れていた。
「つぎで今日四件目だ。同じことを繰り返し話すのはひどく消耗するよ」
背後のドアを誰かがノックした。おれは「日経BP」の記者といれ違いに会議室をでた。最後に見たオコノギの顔は逆光で表情が読めなかったが、暗くなり始めた公園の緑を背に古いSFマンガにでてくる火星人みたいに鈍い緑色だった。
おれはNPO事務所を離れた。森の奥で深呼吸でもしたような爽やかな気分。エレベーターをおり、西口公園にむかってぶらぶらと歩きながら、携帯の短縮を押す。
「はい」
またきいたことのない誰か取りつぎのガキの声。マコトだといって、タカシに代わってもらった。
「偽札づくりの話はどうだった。受けたのか」
楽しんでいる王様。やんごとなきあたりは、庶民の生活をもてあそぶのが愉快らしい。
「ああ。だけど、なにかあるたびにおれの名前をだすのはかんべんしてくれ」
タカシはまったく反省などしない。
「そうか。今度の件なんか、マコトにぴったりだと思ったんだがな。けっこう、その気になってるだろう」
そのとおりだが、くやしかったので黙っていた。池袋のキングはいう。
「おれだってどこかの外国人がいくら一万円札を偽造しようが、痛くもかゆくもないさ。だが、ぽんどは違う。あれはこの街の金だ。Gボーイズ&ガールズで、あのNPOに登録しているやつが二百人はいる」
初耳だった。昼間はサンシャイン通りをジーンズの裾をこすりながら流し、夜はクラブでよだれを垂らして踊るガキどもがボランティアだなんて。携帯のノイズ混じりの声が引き締まるのがわかった。
「いいか、マコト。ぽんどに傷をつけるわけにはいかない。うちのチームをいくつつかってもいい。偽札づくりをあげてこい」
いわれなくてもそのつもりだった。育ち始めたばかりの信用の輪を破るなんて誰にも許さない。池袋の通貨を守るのは、この街の誰かがやらなければならない仕事だ。
おれは久しぶりにやる気になった。まだ時間が早かったのでうちに帰るまえに、金券ショップに顔をだしてみることにした。あらゆるチケットを別な種類の紙に交換する場所。考えてみたらおかしな商売だ。
その店はJR池袋駅西口の交番近くだった。立ちぐいそばや古本屋なんかが雑然と並ぶ東武デパートの陰の立てこんだ地域にある。通りに面したガラス窓には黄色いポストイットが無数に貼られ、コンサートや映画、高速券や航空券がでたらめなディスカウント価格で売られていた。おれは『千と千尋』と『ハリー・ポッター』のポスターがまだ残っているガラス戸を引いた。
店のなかは外側と同じでポストイットだらけ。何人かの客といっしょにガラスケースをのぞきこんだ。上段の中央、一番いいところにあの黄緑の札があった。扇形に開いて並べてある。横には本日のレートがはいったプラスチックの掲示板。買いいれ価格は100ぽんど六百十円で、売値は同じく六百七十円だそうだ。そうするとおれのポケットには十二万円分以上のぽんど札がうなってることになる。久々の金もち気分。WWFのキャップをかぶった店員に声をかけた。
「このぽんど札なんだけど、どんな調子かな」
長髪をうしろで束ねた男はケースに目をやるといった。
「どういうこと、レートの話」
おれはうなずいていった。
「そう。それにどんな客がこれをもってくるのかな」
男の態度はあまり金をもっていそうもないおれにはぞんざいだった。
「レートは去年の暮れにくらべると一割以上あがってる」
「じゃあ、しばらくぽんどでもってるほうがいいんだ」
おれがパーカのポケットからNPOの封筒を抜くと、男は目の端で鋭くチェックした。
「そうだね。自分ならそうする。ここにぽんどをもってくる人間はいろいろだけど、まず飲食店のオーナーなんかと、ボランティアだな。センターで換金するより、ここで換えたほうがレートがいいから」
「でも、誰がこの札を買っていくんだ。ぽんどは池袋周辺でしかつかえないんだろう」
男はにやりと笑った。
「金だってコンサートのチケットと同じだ。人気のあるチケットは高い値段がつくし、それをもってるだけでファッショナブルってことになる。あのNPOの裏サイトにいってみろよ。三千ぽんどでウリをやってる女がいる。円で売るより安くても、ぽんどのほうがカッコいいんだってさ」
携帯電話の走りのころを思いだした。街の女たちがファッションとして取りいれると、なんだって急速に普及するのだ。同じ援助交際でも円よりぽんどのほうがいけてるなんて、とんでもないかん違いだが、なにかが世のなかにあらわれるとき、そいつは必ず新しい歪みを生む。
おれはガラスケースにかがみこんで、孔雀の羽のように開かれたぽんど札を観察した。じっくり見てもほんものと偽ものの区別はつかなかった。あのゴマ粒のようなカエルもついていない。
店員がうさんくさそうな顔でおれを見るので店をでた。歩道にもどるとあたたかな春の夜に全身をつかまれる。池袋駅前を吹きすぎる風は綿飴みたいにやわらかだ。
つぎの日から池袋のおしゃれなカフェめぐりをすることになった。ランチタイムの混雑をはずして、ゆっくりと一日に二軒ずつ。ほんとうはカフェより居酒屋のほうが好みなのだが、仕事だからしかたない。最初にいったのはメモの一番目、立教通りの調理専門学校の並びにあるオーディネールだ。
そのカフェは古いビルの一階で、床はワックスでぴかぴかのフローリング。天井は内装材がはがされ配管がむきだしになっていた。広いフロアのあちこちに田舎のホテルのようなよれた中古家具がおかれている。かかっているのは新しいカエターノ・ヴェローゾのライヴ。モダンなブラジルものだ。おれは玄米のキッシュとハーブティーを頼んで、店長を呼んでもらった。すでにNPOセンターから電話連絡がはいっているので、すべてスムーズに運ぶ。いつもこんなふうならいいのに。
カフェオリジナルのTシャツを着た三十代の店長がおれのむかいの黄色いイームズの椅子に腰をおろした。自己紹介して、おれはいった。
「円とくらべるとぽんどはどのくらいの比率でつかわれてますか」
おしゃれな店長はおしゃれに笑う。
「うちの場合学生街にあるから、多い日は売りあげの二割近くになることがあるかな」
「やっぱり若い人が多いんだ」
今度はおしゃれにうなずいた。左手首のカルティエの腕時計にさわる。なんだか女にもてそう。おれもカフェでバイトしようかな。
「そうだね。ぽんどで払うのは常連のお客さんが多い。税金のこともあるから、伝票も別に整理してるし、去年の夏ごろ新しいお金の出始めには、よく知ってる客以外からはぽんどは受け取らなかったよ」
これほどうまくいっている地域通貨にも最初の壁があったのだ。おれはなるべく上手におしゃれなうなずきかたをまねた。
「最近ではどうですか。例えば先月の終りにぽんど札で精算した客の顔なら、見分けがつくでしょうか」
店長は形を整えた眉を寄せて、考えこんだ。
「うーん、それはむずかしいかな。あとでぽんど分の伝票を見せてあげてもいいけど、客の顔までは覚えてないからね」
ねばってもなにもでてきそうにもなかった。携帯の番号を交換して、礼をいう。店長はCDを替えに去った。ボサノバからアイルランドのフォーク音楽へ。趣味がいい。おれは薄味のキッシュをたべて、紅茶のお湯割みたいなハーブティーをのんだ。おしゃれなカフェのステップをおしゃれにおりる。シティボーイ、マコト。
通りにもどると、なんだか猛烈に煮こみがくいたくなった。みそ味でどろどろのモツ。
二軒目のカフェは東池袋二丁目、駿台予備校そばのネイチャーキッチン。こちらの店はぐっと庶民的な内装で、家具は北欧名作の明らかなコピーとわかるものばかり。ラーメン屋から転職したような店長は、頭の薄い気さくなオヤジだ。なんだかうまそうだったので、おれは白玉ココナツぜんざいを頼んだ。
ここでもオーディネールと同じ質問をする。こたえはシンプル。ぽんどの使用客は一割くらい。やはり流しの客なら顔はわからないが、常連ならきっとわかる。この店はオヤジの趣味だろうか八〇年代のディスコ音楽がかかっていた。打ちこみが流行るまえの人類史上最強のダンスミュージックだ。白玉を口に放りこみながら、勝手に指の先がリズムを取ってしまう。おのぼりさんみたいに池袋のカフェめぐりをしたうえ、こんなに楽しんでいてほんとうに偽札づくりがつかまるんだろうか。
おれはぜんざいの分をぽんどで払って夕方の街にもどった。なんだか十九世紀の探偵にでもなった気分だ。カフェめぐりで解決される美しく、趣味のいい殺人事件。なにも話すことはなかったが、オコノギの短縮を押した。NPOの代表はけっこう細かい。毎日報告をいれるように注文してきたのだ。
「はい、オコノギです」
「マコトだけど、こっちは進展がなかった。あのメモのカフェを二軒まわったけどね。収穫は白玉ココナツぜんざいかな」
オコノギは笑わずそうかといった。そのあとは声をひそめて、一気にいう。
「ちょっとこれから、こっちに顔をだせないか」
「なにかあったのか」
「ああ、新しい偽札が見つかった。今度のはおふざけのアオガエルはついていない」
「すぐいく」
おれは東通りを振りむきながら走り、タクシーをとめた。
前日と同じ会議室、人払いするとオコノギはまた二枚のぽんど札を会議テーブルに並べた。一枚は今までと同じ紙の手ざわりだが、もう一枚はプラスチックのトランプのような冷たい感触だった。おれは自信をもっていった。
「こっちのぺらぺらのが新しい偽札だろ」
オコノギは首を横に振る。
「それを折ってみてくれないか」
おれはほんものだというぽんど札を中央で半分折りにした。手を離してテーブルにもどすと、札は自然に開いて元の形になった。
「新札は紙の種類を替えたんだ。選挙の投票紙なんかに使われるしわや折りに強い復元性をもった特殊用紙だ。日本では二社しかつくっていない。コストはあがるが、偽札予防には紙自体を替えるのが一番有効だから」
おれはフラットに延びたぽんど札を手に取った。新しい札の隅には、NPOのキャラクターのアオガエルの刻印が押してある。目を閉じて指先でふれると、かすかな凹凸が感じられた。おれは新札をもどし、もう一枚を手にとった。折ってみる。鮮やかな黄緑の札は折れたままだった。開いて右下と左上の隅を確認する。こちらにもしっかりと刻印があった。
「こいつが新型の偽札か」
これなら誰だってだまされるだろう。もうゴマ粒のようなカエルはついていなかった。やつらにしても冗談は終りということか。オコノギは厳しく口を結んだ。偽札をおれから取りもどし、手のなかをにらみつける。
「新しいぽんど札はでまわり始めて、まだ一週間とたっていない。デジタルデザイン部が刷るときは、他の部署の人間が立ちあい、用紙や数量の厳しいチェック体制を整えた。偽札づくりも、さすがに特殊用紙までは手がまわらなかったようだが、しっかりと点字の刻印は復元している。気がかりなのは……」
おれはオコノギの天使の輪を眺めながらいった。
「あまりに反応が早すぎること」
「そうだ。なぜ、これほどこちらの打つ手がつつ抜けになってしまうのか」
NPO代表の背後では春の南風に西口公園のケヤキが乱れていた。ではじめの芽が揺れている。おれはいいにくいことをいった。
「やっぱり内部に情報源がいるんじゃないか。悪いけどさ、札を刷ってる部門の人間全員の顔写真と住所・氏名をもらえないか。できれば、他の部署の人間に用意させてほしいんだけど」
オコノギはため息をついてうなずくと、内線で人を呼んだ。
二十分ほど待っておれが受け取ったのは、ボランティア登録票のカラーコピーだった。黄緑のカードには正面の顔写真と名前がはいっている。住所と電話番号は手書きだ。ざっとめくりながらかぞえる。十六人分。
「デザイン部門だけでこんなにいるんだ。すごいね」
オコノギは肩をすくめた。
「タウン誌づくりとホームページの更新は、このNPOの中心的な仕事だ。パンフレットやチラシみたいな刷りものも無数にある。この部署の人間なら誰でもぽんど札のデザインがはいったファイルにアクセスできる。どうするつもりだ」
おれにはコンピュータ犯罪なんて追えるはずがない。探れる場所だって、池袋のストリートだけ。地域密着型しかも低空飛行のトラブルシューターなのだ。
「この写真をもってまたカフェめぐりをしてみるよ。そのまえにさ、そのデジタルデザイン部を見せてくれないか」
オコノギは先に立って、同じフロアを歩いていった。パーティションで仕切られた窓際のブースに連れていかれる。ひとりにひとつの横長机と二台以上のコンピュータ。モニタはDTP専用の二十一インチ高精細タイプだ。オコノギはくるくるとマウスを動かす大学生くらいの男に声をかけた。
「チーフはいないのかな」
室内なのに首に薄手のマフラーを三重巻きにした男が、左耳のピアスを揺らしながらいった。
「遠藤さんは今でてます」
そうかといって、オコノギはあたりを見まわした。手をあげて人を呼び、また声をかける。
「ちょっと浅野くん、こっちへきてくれ。この部署の仕事を、こちらのマコトくんに教えてあげてくれないか」
赤いパーティション二枚むこうから、浅野と呼ばれた男がやってきた。あちこちに裂け目のあるデザイナージーンズに黒いシャツ。十本のうち三本の指にはごついシルバーの指輪がはまってる。さきほどのカラーコピーには確か、サブチーフと書いてあったはずだ。
アサノはひどく色が白かった。三日間分の無精ひげに半分閉じた目。ワイルドで計算されたおしゃれ。とぼけた調子の声がいった。
「新しい戦力ですか、オコノギさん。うちは慢性的に手が足りないんだから、人員増強してくださいよ。マコトくんは、マックつかえるの」
オコノギはおれをアサノに紹介すると、会議室にもどっていった。
「ぜんぜん。文字の打ちこみとメール以外はつかったことないんだ」
「半年あればだいじょうぶ、やってみないか」
考えておくとおれがいうと、アサノはブースのなかを歩きながら、仕事の内容を説明してくれた。
「ここにはコンピュータが用意してあるだけで、登録メンバーは誰でも好きなときにきて好きなだけ働けばいいようになっている。十六人のうちNPO職員は四人だけで、残りはみんなボランティアだ」
おれは十人ほどの若い男女が働くブースに視線を走らせた。ヘッドホンをしたり、椅子のうえであぐらをかいたりしながら、誰もが自分のスタイルでコンピュータにむかっている。おれはブースの中央におかれた機械を見た。
「そいつは最新型のマルチプリンターだ。市販品では最高位のカラーレーザー印刷機で、毎分三十枚刷れて、A3ノビまで対応している」
小型冷蔵庫ほどあるなめらかな白い箱だった。おれは静かにうなり声をあげる機械に手をのせた。
「これでぽんど札も刷っているんだ」
アサノはなんでもなさそうにうなずいた。
「ああ、それがどうかしたのか」
おれはじっとデザイナーの目を見つめながらいった。
「つい最近、ぽんど札の用紙が替わったはずだ。このNPOでいったいどれくらいのやつがそれを知っているんだろうか」
アサノの目には愉快そうな表情があった。偽札づくりには見えなかった。すごく余裕が感じられる。
「理事の何人かとデジタルデザイン部の全員、そうだな、あとはオコノギ代表くらいじゃないか」
オコノギの名前をあげるとき、皮肉そうに口の端をつりあげた。おれが黙っているとやつはいう。
「ぽんどの偽札の噂なら、誰だって知ってるさ。このセンターじゃ口にはしないけどね。でも考えてごらん。ここでマウスを動かして、二、三回クリックするだけで、五百円札がばんばん刷れるんだよ。おいしい話にはちがいない」
それから手をあげて周囲を示す。
「このブースには基本的に誰でもはいることができる。今は十六人だが、辞めていったやつはその何倍もいるし、ここに登録している人間の友人ならみんな顔パスだ」
おれはプリンターから目をあげて、カリフォルニアの新興IT企業のようなオフィスを見つめた。楽園にも不満はあるようだ。
「辞めていったやつがそんなにいるんだ」
「ああ。最初は立派な目的に酔って、安い給料でも我慢できる。だけど、できるやつほどしばらくすると転職を考えるようになるのさ」
「どうして」
「割安な給料と人間関係。組織なんてそんなものだろう。理事の誰かの覚えがよければ、まるで無能な職員にだって役がつく。金で結果がはっきりしない分、うえのほうは仲よしクラブになっちまう。この部署のチーフは理事の奥さんなんだぜ。メールを打つときだっていまだに人差し指二本だけ。クォークやフォトショップが、どこかのラボ屋の名前だと思ってるんだけどな」
アサノにも不満はかなりたまっているようだった。組織の欠点は内部からしか見えないのかもしれない。おれは怒れるデザイナーにいった。
「それで、あんたも辞めようと思ってるんだ」
アサノは首を横に振る。
「そう簡単だといいんだが、この仕事にもけっこうやりがいがある」
サブチーフと呼ばれて、アサノはいってしまった。モニタにかがみこんでデザインのチェックをしているようだ。きっと腕とセンスはいいのだろう。おれがブースの遠くを見ていると、パーティションのむこうに座る太った男と目があった。コメディアンの三瓶に似た坊主頭。軽く会釈する。
「あのアサノって人、上司ともめてるの」
汗をかいて男はうなずいた。もごもごと口のなかでいう。
「ぼ、ぼくもいつも叱られてます。いい人だけど、厳しいから」
おどおどと視線を避けた。ここは日本なのだ。会社がNPOと名前を変えたくらいで、組織の問題がすべて解決するはずなどなかった。
翌日またおしゃれなカフェめぐりにもどった。三軒目は東池袋、総合体育場の近くにあるスオミカフェ。気がついてみると財務省造幣局の東京支局はすぐ近くだった。造幣局の灰色コンクリートの高い塀に沿って歩いていると、オープンスタイルのカフェが見えてきた。
ウッドデッキに白いワイヤーフレームの椅子とテーブルが並んでいる。椅子は二脚ずつ通りのほうをむいていた。デート専用。おれは雑誌でカフェの勉強をしたから、それがどこの椅子かわかった。デザインはハリー・ベルトイヤ。こんな仕事ばかりしていて、おしゃれな空間プロデューサーにでもなったら、どうしよう。
店長は四十代前半、ツイードのジャケットにタートルネックにウールパンツ。すべてカフェオレ色の微妙な諧調で統一されている。池袋というより白金って感じ。おれは手漉《てす》きの跡が残る和紙の名刺をもらった。
北原幸治郎、スオミ・グループ代表。おれは名刺から目をあげると、テーブルのむこうにいった。
「スオミってどういう意味なんですか」
「フィンランド語で湖の国。あの国の別名さ。きき慣れているけど、意味がわからないいいネーミングだろう」
おれは深緑のパラソルのした、偽札二枚を白いテーブルに取りだした。
「もう噂はきいていると思うけど、これがぽんどの偽造紙幣です。先月末にNPOセンターにもちこまれたカフェ四軒分から発見された。見覚えはありませんか」
北原は偽札を手に取り、光りにかざしてみたりする。元にもどすといった。
「ないね」
「それじゃ、このリストのなかでこの店によくくる人間は」
おれはデジタルデザイン部全員のコピーをウエストバッグから引っぱりだす。北原は上品な眉をひそめ、ぱらぱらとめくった。なんだか世のなかには、カフェ的人間と居酒屋的人間の二種類がいるみたいだ。
「うーん、ちょっと、わからないな。なにせお客はいっぱいいるから」
そのときデッキの横を通って、アサノと部下の太った男が店にはいってきた。アサノはおれたちに気づくと、軽く右手をあげて挨拶した。
「どうも、北原さん。あれ、きみは昨日センターにきてたよね」
アサノはあっけらかんという。太った男はピッツバーグ・スティーラーズの半袖Tシャツを着ていた。汗の染みがわきのしたにできている。アサノを振りむいた北原の肩の線が一瞬硬直した。
「ああ、アサノくんか。ちょっとぽんどの偽札調査がきてるんだ」
おれのほうにむき直った顔は、さっきまでの退屈そうな表情にもどっていた。おれは立ちどまったふたりに声をかけた。
「昨日はどうも。アサノさん、そっちの人はなんていうんですか。ちょっと話したんだけど、名前は聞いてなくて」
急に熱くなったようだった。タオルで額の汗をぬぐって太った男はいった。
「どうも、堀井です」
おれは堀井ではなく、おしゃれなカフェの店長を見ていた。ホリイが名のったとき、北原の顔は上品さを保ったままかちかちに凍りついたようだった。池袋に局地的に熱風や寒風が吹く。おかしな陽気だ。おしゃれな店に似あわないおれにだって、ひとつだけわかった。その場にいる誰かが、なにかを隠しているのだ。
NPOのふたりがいってしまうと、北原はまた登録票のコピーを手にした。思いだしたようにいう。
「そういえば、あのふたりはよく顔を見せてくれるな」
「へえ、ほかには」
北原は目をあげておれをじっと見つめた。にやりと笑う。
「わからない。ぼくは人の顔を覚えるのが苦手で、きみのこともすぐに忘れそうだ」
まだまだ余裕があるようだ。おれもなにか皮肉な言葉をかえそうかと思ったが、やめておいた。北原のことは継続調査の対象にいれることにした。間抜けの振りをしておくほうがいいだろう。無理に演じなくても、地のままでいいから、おれの場合ラク。
最後の四軒目は明治通り沿い、目白二丁目のデリ・マングローブ。その店は二十代後半の姉妹が経営する中国茶専門店だった。壁には筆文字のカードがたくさんさがっている。
尊品翠峰高山茶とか安渓特級鉄観音とか、茶葉の種類は百二十だそうだ。家具はぐっとエスニックでインドネシアからの輸入品ばかり。おれは一杯千五百円もする精選だか特選だかを頼んだのだが、味も香りもよくわからなかった。アオザイを着た美人のほうの姉が相手をしてくれる。偽札の話をすると困った顔をした。
「そう。あのNPOにはお友達の弟もいってるの。みんなのお金を汚して、自分だけ儲けようなんてひどい人たちがいるのね」
おちょこのようにちいさな杯をあおってうなずいた。中国茶ののみかたってこんなのでいいのだろうか。登録票のコピーを見せた。彼女が一枚ずつ丹念に目をとおすあいだ、おれは引っつめ編みの髪を見ていた。久々に見る女性の黒髪だった。なにせ池袋を歩いている若い女はみんなぴかぴかの金と明るい茶のあいだのどこかで、ヘアカラーをいれている。黒髪なんてめったにいない。考えてみればおかしな話。店長はコピー紙の束をおくと、アオザイのつつましい胸をそらせた。
「この堀井という人が先月きていたような気がする。ねえ、ヨウちゃん」
振りむいてカウンターのむこうの妹を呼んだ。同じ空色のアオザイを着たグラマーなほうの妹がやってくる。完璧な姉妹だ。姉はホリイの写真を見せた。
「この人、覚えてない? ほら、茶器を落として、急須の取っ手を割った」
妹も思いだしたようだった。
「ああ、あの妙におどおどした太った人。あの人『いけ! タウン』のスタッフだったんだ」
おれは妙に身体の線を強調するアオザイにむかっていった。
「やっぱり、ぽんどで払ったのかな」
妹は自信をもってうなずいた。
「うちのお店は、ぽんどで払ってくれる人には抹茶餡のゴマ団子をサービスでつけるの。この人はその揚げ団子をお代わりしたから覚えてる」
「そうか、ありがとう」
ますますホリイが怪しくなった。気の弱い偽造犯。どこか別なところにやつをつかう人間がいるのだろうか。おれはサービスのゴマ団子を片づけて、明治通りにもどった。
ビックリガードをくぐって、ぶらぶらと池袋駅西口にもどった。ちょうど帰り道だったので、このまえの金券ショップに寄ってみる。店のドアのポスターは『ロード・オブ・ザ・リング』と春の東映マンガ祭りに替わっていた。ガラスケースのむこうの店員のキャップもWWFから全日本プロレスになっている。
おれはNPOの封筒から十枚抜いて、円に換金してもらった。たった二日のあいだにレートは、100ぽんどが六百二十五円に値あがりしている。円はドルやユーロばかりでなく、ぽんどのような地域通貨にさえ弱いようだ。おれはケースのうえにカラーコピーをのせた。
「ちょっとこれ見てくれないかな」
退屈していたのだろうか。長髪の店員は興味しんしんといった顔でのりだしてくる。
「このなかにいるやつで、この店に顔をだしたのはいないかな」
店員はキャップのつばをうしろにまわした。よく見ようとコピー紙の束にかがみこむ。じっくりとページをめくっていった。
「こいつとこいつとこいつ」
指をはさんだところを順番に広げながらそういった。
「これ、やっぱり偽札づくりを追ってるんだろう。あんた、警察には見えないけど、私立探偵かなんかなの。今度休みのときにおれにも手伝わせてくれよ」
三人のなかにしっかりとホリイの坊主頭がはいっていた。偽札の噂はもう池袋の街にもかなり広がっているようだった。そろそろ時間がなくなってきていた。おれは礼をいって金券ショップをでると、ウエストゲートパークにむかった。
歩きながら携帯の短縮を押す。今度からGボーイズの王様へのホットラインをつくってもらおうかな。取りつぎと話すのが面倒なのだ。
三十分後、おれは円形広場のベンチでタカシと話していた。とおりすぎる人がみなやわらいで、みずみずしく思える春の夕暮れ。四軒のカフェとその店長、そして気弱な容疑者ホリイの話をコンパクトにまとめる。
おれが話していると、「いけ! タウンNPOセンター」の窓から、オコノギが手を振ってきた。タカシは無視したが、おれは手を振ってやる。単独行動はつらい。なんといってもおれは気配りだけで世のなかをわたっているのだ。タカシが王の無関心さでいった。
「つぎはどうする」
「そうだな、まだ確実な証拠なんてないけど、徹底的にホリイを追ってみよう。今度はそっちの出番だな」
おれは登録票のコピーから一枚抜いてわたした。やつの住まいは北どなりの板橋区にある。ハッピーロード大山から一本奥にはいった路地のアパートだった。タカシはうなずくと、紙切れを受け取った。
「わかった。三チーム交代で動きを見張ろう。問題はこいつが犯人だとわかっても、そのあとどうするかだな。おまえは、どうする」
おれはなにも考えていなかった。解決策ならこの街の若きホープ、オコノギがいい手を見つけてくれるだろう。
「あの代表にまかせておけばいいんじゃないか」
おれは視線をガラスの建物にむけた。また手を振ってみる。オコノギは最後にさっと手をあげると、どこか別な部屋にいってしまった。
それからの数日もNPOを訪れ、街の飲食店や金券ショップめぐりを続けていたが、熱のはいらない探索になった。おれの勘はホリイが黒だといっていた。オコノギへの連絡は毎日いれていたが、確実な証拠をつかむまでホリイのことは話さなかった。仮にやつが白だった場合、オコノギに悪印象を残してやつのキャリアを潰したくはない。
穏やかな春の日がすぎていった。三月終りから五月にかけては、東京でさえ生きているのが楽しくてたまらない季節だ。風の心地よさに日ざしの丸さ、街を歩く足の軽さ。サクラが満開になるとそれを合図にすすけた街のあちこちで、つぎつぎと名前も知らぬ花が開いていく。東京には自然がすくない。たまに小銭をもった貧乏人と同じで、足りないものほどありがたさがわかるというものだ。
おれの携帯が鳴ったのはホリイに尾行がついて四日目の夕方だった。
おふくろと店番を代わった午後五時、おれは二階の四畳半でヘンデルをきいていた。ヘンデルはバッハの陰に隠れているが、やはりバロックの巨人のひとり。松井と清原みたいなものか。『水上の音楽』はイギリスの夏の野外式典のために書かれた注文作品で、威勢よくホルンが大活躍する。春から夏にかけてきく、最高に爽やかな音の流れだ。
おれが古楽器のヴァイオリンのざらりと素朴な音の感触に神経を集中させていると、充電器の携帯が鳴った。
「マコトか。おれだ」
キングの声は自動車の走行音とともにきこえた。おれがなにもこたえないうちにタカシはいう。
「ホリイが動いた。今回は怪しい。場所は東池袋『スオミカフェ』」
おれの頭はようやくバロックのロンドンから、現代の東京にもどった。
「カフェにはいるのが、どうして怪しいんだ」
タカシはあきれて笑ったようだ。
「すぐにこい。カフェは今日は休みだ。やつは店の裏手の事務所にはいっていった。出迎えたのは北原だ」
わかったといっておれは部屋を飛びだした。なぜか音楽をきいていて、一番の山場になると誰かの邪魔がはいる。ビデオの映画なんかでも同じ。現代って、芸術をゆっくりと鑑賞するゆとりを人に許さないところがあるよな。
おれはダットサンではなく、タクシーをつかうことにした。どうせ現場にはGボーイズのクルマが複数まわされているだろう。グリーン大通りを左折した黄色いタクシーは、造幣局のコンクリート塀に沿ってとまる。おれが歩道におりると、腕を組んで塀にもたれていたタカシが軽く壁を蹴って、まっすぐに立った。いつもながら姿勢がいい。すこし離れたところには三人のGボーイズがだぶだぶのスウェットパンツをはいて待機していた。おれはそっちのほうにも親指を立てて無言で挨拶を送った。キングはいう。
「やつが店の奥にはいってそろそろ二十分になる」
おれがうなずくとタカシは三人にむかっていった。
「ダート、ピックの用意はいいか」
ダートは泥。Gボーイズのほとんどは本名ではなく、とおり名で呼びあっている。違法行為をしたときのリスクを最小にくいとめるためだ。ダートと呼ばれたベレー帽の男はウエストポーチから、財布のようなものを取りだした。
「いつでもいいですよ、キング」
おれたちは二車線の通りをわたって、スオミカフェのウッドデッキに移動した。タカシとおれ、それにふたりのGボーイズが木枠のガラス扉のまえに立つ。ダートはおれたちの背後で鍵穴の正面に座った。ばりばりとマジックテープの音を立てて工具いれを開けると、なかから金属製の耳かきのような道具を二本取りだした。
最初に左手で一本をノブの鍵穴にさし、錠前のなかでなにかを固定したようだった。続いて右手でもう一本の耳かきを穴にいれる。今度はやや乱暴に二、三度引っかくようにだしいれを繰り返す。ダートは二本の道具を右手で固定したまま左手でゆっくりとノブをまわした。もう開いている。
やつはかがみこむと、ドアの下枠についている補助錠にも同じことをやった。それぞれの鍵に十数秒、あわせて三十秒を切る時間で、おしゃれなカフェの扉は簡単に突破された。
「これじゃ、警察もたまんないな」
こんなに簡単では、取り締まる側が追いつくはずがなかった。ぶっそうな時代だ。おれがそういうとタカシは無表情にうなずいて見せた。おれたちはその場に見張りをふたり残し、静かに店内にはいっていった。
明かりの消えたカフェのなかは、どこかの高級マンションのモデルルームのようだった。
イームズ、ベルトイヤ、ヤコブセン。世界の名作チェアがあちこちでメープル材のテーブルを取りかこんで、無関心な美しさを放っている。
おれたちはフロアを抜けて、キッチンへつうじる廊下を足音を殺してすすんだ。右手には二枚の扉が並んでいる。一枚目には従業員専用とパネルが張られていた。ここではなさそうだ。タカシを先頭に奥の扉を目指して移動した。おれはそこであの音をきいた。デジタルデザイン部に流れていた白い機械のうなり。おれはちいさな声でいった。
「ここで間違いないようだ。最初におれとタカシがはいる。みんなは待機していてくれ」
ドアのまえにしゃがみこんでいたGボーイズがうなずいた。キングは立ちあがり、ベージュのスエードの革パンのほこりを払った。
「そうか。一気に制圧するんじゃなく、話をするのか」
もう声をひそめてもいない。おれはしかたなくうなずいて、カフェの事務所の扉を押した。こちらには鍵はかかっていなかった。かかっていたところで、まったくむだだっただろうが。
「仕事中悪いな」
おれはそういって、室内を見わたした。細長い八畳ほどの部屋だった。奥の窓際に机がふたつ並んでいる。その事務椅子にホリイと北原が座っていた。おれたちを見あげたふたりの目はいっぱいに開かれたままだ。
だが、その部屋の主役は偽札犯でもタカシでもおれでもなく、中央にすえられた最新型のレーザープリンターだった。おれたちが踏みこんだ今でも、静かにうなりながら毎分三十枚の速度で、カラフルなぽんど札を吐きだしている。NPOセンターで見たものと同じ機種のようだ。おれはいった。
「これであんたたちの造幣局も終りだな」
ホリイはまたひどく汗をかいているようだった。ニューイングランド・ペイトリオッツの半袖シャツが絞れそうなほどの汗染みに黒ずんでいる。北原はさすがに中年で、素早く立ち直った。顔に不敵な笑いがもどっている。
「なにが終わったんだ」
上品な紫色のタートルネック。ジャケットはハンガーでていねいに壁にかけられていた。おれはいう。
「あんたたちの偽札づくりさ」
「ほんとうにそうかな」
タカシが愉快そうにいった。
「どういう意味だ」
北原は余裕を見せて、ブーツの足を組んだ。手を頭のうしろで組んで天井を見あげる。
「だから、小此木代表がぼくたちをどうするかなといってるんだ」
この男はなにかをにぎっているようだった。よほどの切り札に違いない。偽札づくりの現場を押さえられても、へこまないのだ。おれたちが黙るとやつはいう。
「もし、あんたたちがぼくを警察に突きだすか、ここで暴力を振るうというなら、ぼくはすべてを警察に話す。小此木の立派なNPOが陰でどんなことをやっているか。これはあのセンターでもごく少数の人間しか知らないホットニュースだ」
勇敢な探偵が犯人に脅される。雲ゆきが怪しくなってきた。春の嵐は近い。
おしゃれなカフェの店長は皮肉にいった。
「どうせきみたちも、NPOの理想だけ吹きこまれて、偽札を追っていたんだろう。だが、あのセンターの設立には、こんな黄緑のおもちゃではなく、黒い金がたっぷりとかかわっている。フカオ・エンタープライズという金融屋を知っているか」
噂ではきいたことがあった。ヤクザを始めとする裏世界へ融資する専門の業者だ。事務所はサンシャイン通りの裏にあるらしい。抜群の資金力と厳しい取立で暴力団も一目おく闇の金融屋。もっとも銀行から融資を受けられない裏社会では、金融業者はこちらの世界の都市銀行よりもずっと大切にされている。キングの声は急に冷えこんだ。
「フカオのところがどうした」
おれは目線でタカシを抑えた。やつが本気になれば、ここから北原をさらうくらいわけもない。危機の瀬戸際にいることなどまったく気づかずに、北原は気もちよくしゃべっていた。
「小此木は深尾のおっさんから資金援助を受けて、『いけ! タウンNPOセンター』を始めた。今でも従順にクリーニング屋をやっている」
自分だけがにぎっている情報をこだしに漏らす。さぞ楽しいことだろう。北原はゆるくウエーブのかかった髪に手をやった。
「NPOだってスタッフに給料を払っていないわけではない。剰余の利益を自分のところに還元せずに、公益にまわすのが普通の営利企業との違いだ。小此木のNPOには架空の社員がごっそりといる。ほとんど税金のかからない安い給料でな。深尾のところで生まれたおもてにだせない金は、NPOに流れこみ、そこで浄化されて、善意のスタッフの給料としてあちこちにある深尾の口座に振りこまれる。完璧なマネーロンダリングだ」
おれには返す言葉がなかった。北原の言葉には真実がもつ力強さがあったのだ。
「そうか」
おれはぽつりとそういうと、タカシはもたれていた扉を離れた。さっさとプリンターまで歩き、まだ断裁されていない偽札を取ると、ふたつに引き裂いた。さらにそれを四つに裂く。事務所の床にキミドリの紙切れをばらまくと、澄んだ氷のような声でいった。
「おれにはオコノギが悪でも関係ない。わかるか、おまえ、池袋のぽんど札を汚すことだけは誰にも許さないとおれはいっておく。金がほしいなら直接、オコノギを脅すがいい」
それから右のこぶしの底を、真新しいレーザープリンターの液晶表示板にたたきつけた。
みしりと音がして、液晶は真っ黒に暗転した。横の扉を開き、なかにあるローラーやペーパーガイドをブーツの先で蹴り飛ばす。内臓をかきまわされて、プリンターのうなりはとまった。キングは息も乱さずにいう。
「あとは勝手にするといい。このマコトとオコノギにまかせる。だが、北原、偽札だけはつくるなよ。つぎにやったら、そのときは……」
タカシは笑いながら親指を立て、爪の先でのどを丸くかき切る仕草をした。わかりやすいゼスチャーゲームだ。北原の笑顔は凍りついた。ホリイはシャワーでも浴びたように、坊主頭からだらだらと汗を流している。おれたちは部屋をでた。タカシはドアの外に待つGボーイズに囁くように声をかけた。
「終わったぞ、撤収だ」
おれは集団の最後を歩きながら考えていた。タカシとは違って、おれの仕事はまだ終わっていない。気が重かった。
依頼主への報告が済んでいないのだ。
その夜、おれは携帯でオコノギを呼びだした。場所はなるべくNPOセンターから離れたほうがいいだろうと思い、JRの西口と東口を結ぶ池袋大橋のうえにした。そこは線路をまたぐ長い陸橋で、遠くからでも近づいてくる人間がいればわかるところだ。
夜十時半、おれは春の夜にそびえる清掃工場の煙突を見ていた。角度によって四角形にも六角形にも見える池袋名物だ。オコノギは西口のほうからひとりで歩いてきた。陸橋のうえをわたる風は、抱きしめることができない美女の指先のようにつれなく頬をなでていく。
オコノギはおれに並んで、手すりにもたれた。
「犯人がわかったそうだね」
おれは銀の線が無数に走る橋のしたを見ながらいった。
「ああ。主犯はスオミカフェの店長・北原、従犯はデジタルデザイン部の堀井」
おれはカフェの事務所で拾った鮮やかなキミドリの切れ端をわたしてやった。
「よくやってくれた、マコトくん。ありがとう」
オコノギはうれしげに爽やかな笑顔を見せる。おれは声を殺していった。
「北原はあんたとフカオ・エンタープライズの関係を知っていた」
おれはオコノギの横顔を見つめていた。若きNPO代表は、線路の両側にそびえる光りの断崖のようなビル群を眺め、かすかに笑っているようだった。長々と息を吐く。
「そうか。彼は知っていたんだ。うちの理事の悪友だったからな」
代表はのんびりと他人ごとのようにいう。
「なんで、そんなことになっちまったんだ」
ぼんやりしていた顔がなにかを思いだしたように動いた。
「なんだってそうだけど、始めたばかりのころはつらいものだ。この街をよくしたいという理想はあっても金はない、知名度もない、誰も相手にしてくれない。ぼくは大学卒業と同時にあのNPOを立ちあげた。就職して立派になっていく同級生たちに焦りを感じていたのかもしれない。そんなときにあらわれたのが、深尾氏だった」
オコノギはひとりで笑っていた。陸橋のしたを貨物列車がとおりすぎていく。
「最初に提案されたのは匿名の資金提供だった。資金繰りが苦しくて、緊急避難的に借りいれせざるを得なかった。利息をつけて返せばそれで済むと思っていたんだ。だが、あちらの世界の黒い金はそう簡単に縁を切らせてくれなかった。一度手をだしたら、いくら洗っても手が真っ黒なままなんだ。深尾氏は金を返しても、今度は自分のところの資金をきれいにしろと大量の裏金を送りこんでくる。闇金融と関係をもったということが、ぼくの弱みになってしまった」
そして、おもてにだせない金のクリーニング屋として、NPOセンターが利用されていく。オコノギは右手で新しい雇用を創出する地域通貨を発行しながら、左手ではじゃぶじゃぶと黒い裏金を洗濯していたのだ。おれの声には同情も怒りもふくまれてはいなかったと思う。そうなるように注意していたのだ。
「わかったよ。おれに弁解しなくてもいい。偽造犯は見つかった。これからあとはあんたが好きなようにすればいい。おれはあんたを責めるつもりはない。あんたのやってることがこの街のガキに役立ってるのは確かなんだ」
オコノギはちらりとおれを見て、口のなかでありがとうといった。
「だけど、不思議だな。こうして池袋の街を見ていると、NPOを立ちあげたころと、なにひとつ変わらない。ぼくはちょっとばかり有名になったが、それは悪いことも同時に引き寄せてしまった。ずっと理想に燃えていたけれど、いつのまにかそれが世間むけのポーズとすり替わったのかもしれない。ぼくは自分の奥深くにまだあのころの火が燃えていると信じてる。だけど、こうしてよいことも悪いことものみこんで、毎日が続いていくのだろうね。これが公益を守るということなのかな」
陸橋のうえを生きもののような風が吹いていく。この汚れた世界に縛られた体重が半分になったように感じられる春の夜風だ。オコノギの白いジャケットが濃紺の空を背に丸くふくらんだ。天使の翼といったらいいすぎだろうか。だけど一瞬おれにはそんなふうに見えたんだ。
「今回はそんなに働いていないから、残りの半金はいらないや。でも、オコノギさん、もしなにか困ったことがあったら、すぐおれに電話してくれ。この街を思う気もちがあんたにあるなら、おれはいくらでも手助けするよ。これからもさ」
おれはそれだけいって、さよならをいわずに歩きだした。まだ夜は早い。うちの果物屋の閉店時間だってまだだった。おれは明かりの暗い道を選びながら、ゆっくりと春の池袋を帰った。
これで一件落着。つぎの日は偽札捜査の埋めあわせに一日中、西一番街のうちの店で店番をした。春の主力商品はやはりイチゴ。ミカンやリンゴはそろそろ終りで、スイカにはまだ間がある。温室もののマスクメロンや輸入品のバナナ、マンゴー、スターフルーツなんかは年中あるけど、やはり売れるのは季節ものだ。
夕方、店の奥で『水上の音楽』をきいていると、おれの携帯が鳴る。
「マコトか、おれだ」
前日最新型のレーザープリンターを素手で一台スクラップにした池袋の王様だった。
「なんだよ。花見の誘いか」
のどの奥でなにかを詰まらせたようにタカシは何度か息を切った。笑ったのかもしれない。
「北原が入院した」
「なんだって」
「やつがとんでもない間抜けかもしれないと思って、おれはまだGボーイズに見張らせておいた。やつが襲われたのは白金高輪の駅前で、昨日の深夜自宅にもどる途中だった」
まだのどの奥で笑っている。
「やつは入院先では、自分で地下鉄の階段を転げ落ちたといい張ってるらしい。おもしろいよな。三人がかりでぼろぼろにされて、頬をナイフで切られたのにな。いいクスリになったみたいだ」
おれは携帯を強くにぎっていった。
「その三人はGボーイズのガキじゃないよな」
「おいおい、そんな面倒なことをするか。やるなら、あのカフェの奥で先にやってるさ」
「わかった。サンキュー」
そういって通話を切って、すぐに別の短縮を押した。あの爽やかなNPO代表はこの件を知っているんだろうか。
電話口にでたオコノギはおれのニュースで固まったようだった。
「入院はほんとうなのか」
タカシが冗談でおれに電話するはずがなかった。そんなにヒマなやつではない。王の領土は広い。
「袋にされて頬をナイフで切られたそうだ。間違いない。それより、あんたはフカオに北原のことを話したのか」
オコノギの声が沈む。
「ああ。あの偽札の件では深尾氏も神経質になっていて、なにか進展があれば報告するようにいわれていた」
あきれた。とことんまじめなNPO代表。
「それじゃ、おれと別れたあとでフカオに電話したんだ」
オコノギは電話のむこうで黙りこんだ。
「こんなことになるとは思っていなかったんだ。ぼくはこれからフカオ・エンタープライズにいってくる」
悲鳴がでそうだった。
「やめとけよ。いったいなにしにいくんだ。北原は自業自得だ」
「いいや、ぼくは断固抗議してくる。あとで連絡をいれるよ」
ぷつりと携帯は切れてしまった。おれは西一番街の店先に取り残された。近所の主婦がトヨノカイチゴのパックをもってこちらを見ていた。おれはほとんどうわの空でイチゴを売り、円の代わりにぽんど札を受け取っていた。
その夜はじりじりしながら、オコノギからの連絡を待った。携帯が鳴ったのは夜の十一時すぎだ。NPO代表の声は吹っ切れたようにはずんでいた。
「ああ、マコトくんか。今、マスコミ各社にファックスを流し終わったよ」
意味がわからない。おれは店から外の歩道にでた。酔っ払いの叫び声に片方の耳を押さえる。
「どこにいるんだ」
「うちのNPOセンターだ。ファックスには重要な発表があって、明日の午後一で記者会見を開くと書いてある。きっとたくさんの記者が集まるだろう。マコトくん、決心するのがこんなに簡単だとは思わなかったよ」
おれは焦っていた。オコノギはフカオ・エンタープライズが都の役人かとなりのNPOかなにかとかん違いしている。自分の身の危険にまるで気づいていないのだ。
「フカオはなんていってた」
「さあ、なにも。これでおたくとの関係は解消する、これまでの事実関係はすべて明らかにして、ぼくは代表の座をおりるとだけいってきた」
「明日の記者会見のことは知っているのか」
オコノギはちょっと考えたようだった。
「そうだな、うちの職員のなかにも深尾氏の息がかかった者が何人かいる。ぼくはこれから緊急の会議を開くから、遅かれ早かれ明日のことは知られてしまうだろう」
おれはフカオを直接は知らないが、フカオのようなやつならたくさん知っている。圧力をかければすぐに素人はブチ折れる。そう思いこんで、平気で人を襲わせるタイプ。暴力と金、それですべての人間を支配できると考える裏の世界の常識人だ。おれは携帯のむこうにいった。
「今夜はおれたちがいくまで、その事務所をでないでくれ。明日の記者会見までは、Gボーイズの手を借りて、おれがあんたを守る」
オコノギは不思議そうな声をだした。
「もうぼくはNPO代表ではなくなる。きみたちには価値のない人間になるんだ。どうして、そこまで一生懸命になれる」
おれの声は自分でもわからないうちにきつくなっていた。
「あんたみたいなぼんぼんを、池袋のジャングルに放りだしてはおけないだろ。それに、おれはどこかの組織の代表だから、あんたの手助けをしたわけじゃない。あんたはこの街に必要なことをひとりで始めて、今危険な目に遭っている。いいか、あんたはくだらないこともやったが、いいことだってたくさんやってる。この街のガキだってみんな見てるのさ。あんたの身代わりにちょっとくらいなら刺されてもいいというやつは、いくらでもいる。非営利団体の代表なんだろ、もっと街のみんなを信じてみろよ」
くそ、なんでおれがこんなに焦るんだ。ゆっくりと息を吸い、途切れとぎれに吐くとオコノギはいった。それは必死に涙をこらえる声だった。
「ありがとう。きみたちにまかせるよ。考えてみると、ぼくが成功したのも街のみんなを動かせたからなんだね。待っている」
携帯は切れた。おれはすぐにタカシの短縮を押す。取りつぎがでて代わった。背景はゆるやかなレゲエのバックビート。
「なんだ」
王様の声もくつろいでいた。
「今、どこだ」
「ラスタ・ラブ」
パーティ潰しに放火されてから、火災保険で新装リニューアルしたGボーイズのクラブだった。おれはいった。
「もう酔ってるのか」
「のんではいるが、酔っちゃいない。用件を話せ」
「クルマを二台、人を八人借りたい」
王様の声がしゃんとした。おれはVIPルームの赤いベロアのソファで座り直すタカシの姿が目に見えるようだった。
「なんのために」
「ボディガード。明日の昼まで、オコノギを守りたいんだ。やつはすべてをばらして、フカオと手を切るつもりだ。おれたちが守らなきゃ、北原の二の舞になる。手を貸してくれ」
よしとうなるとタカシは立ちあがったようだった。
「二十分、おまえの店で待て。精鋭を送る、それにおれもな」
心強いよ、ブラザーといって携帯を切った。なあ、この街のストリートギャングだって、そう捨てたもんじゃないだろ。
二十分後、西一番街の通りにとまったクルマは三台だった。メルセデスのRVにアルファロメオの147と三菱エアトレック。RVのウィンドウがおりて、だてメガネをかけたタカシが顔をのぞかせた。
「のってくれ」
おれはメルセデスの座席に滑りこんだ。NPOセンターまでの五分間で簡単な打ちあわせを済ませる。終電が近づいて、西口の歓楽街は今夜最後のにぎわいに燃え立っていた。
おれとタカシ、それに精鋭だというふたりを連れて、エレベーターを使った。NPOの受付にいくと、フロアはどこか異様な雰囲気だった。こんな時間なのにほとんどのスタッフが残っている。おれはまた手近な人間に声をかけた。いつかのノーメイクの女が赤く泣きはらした目でおれを見た。
「オコノギさんはどうしてる」
「会議中です。そこのソファでお待ちください。メモをまわしておきます」
わかったといって、おれとタカシは座った。ソファの両脇にはたくさんのポケットがついた米軍の黒いフィールドヴェストを着たGボーイズが手をまえに組んで立っている。
おれはヴェストの中身は知らないが、特殊警棒とコンバットナイフは予想がついた。まさか短銃まではもっていないと思うが、そこまではわからない。
おれたちは無言のまま、そこで四十分待った。どうしてもやらねばならないことがあるとき、待つことなどすこしも苦痛にはならない。
会議室をでてきたオコノギの頬は興奮で赤くなっていた。手にアルミニウムのブリーフケースをさげて、おれたちのほうにまっすぐやってくる。
「お待たせ。これですべて片づいた。ほんとうにきてくれたんだね」
目を丸くして、にこりともしないボディガードを見つめた。タカシはいった。
「あんたの自宅は」
「目白二丁目、明治通りからちょっとはいったマンションだ」
タカシはきれいに整備された機械のようになめらかに立ちあがる。エレベーターの中央にオコノギ、四隅をおれたち四人が固めた。一階のエレベーターホールでは携帯で連絡を受けたGボーイズが要所を警護していた。オコノギは両脇をおれとタカシにはさまれて、メルセデスのRVにのりこんだ。
「なんだか、ほんとうのVIPみたいだな」
おれは窓の外の真夜中のウエストゲートパークを眺めながらいった。
「どう思ってるかしらないが、あんたはほんとにこの街のVIPだよ」
タカシは振りむかずに助手席でいった。
「そいつは間違いない。Gボーイズの名誉会員にしてやるよ」
「光栄だな。どうもありがとう」
オコノギがおおまじめでそういったので、おれは笑い声をあげたが、タカシをふくめてGボーイズは誰ひとりにこりともしなかった。
その夜はマンション周辺をざっとパトロールしてから、オコノギを四人がかりで部屋まで送っていった。エントランスの正面にエアトレックを一台残して、二台のクルマは解散した。三菱にのったボーイズには長い夜になるだろうが、よろしくといって、おれはうちに送ってもらった。
つぎの朝九時半にメルセデスとアルファがエアトレックと交代した。おれはタカシといっしょにメルセデス組だ。快晴の春の朝、おれはボディガードとオコノギを迎えにいった。
チャイムを鳴らすと、代表はスチールのドアから顔をだした。あまり眠れなかったようで目は赤かったが、表情はすっきりとしている。
エレベーターをおりてRVにのりこんだ。オコノギはいう。
「おはよう、みんな。あと数時間でぼくはあのNPOを離れるんだな」
クルマが渋滞した明治通りにはいった。おれは窓から肉のハナマサを見ながらいう。
「まだ若いんだし、つぎになにやるか考えてるんだろ」
オコノギは爽やかにうなずいた。
「ああ、うまくいくかわからないが、コンピュータのリサイクルのNPOを始めようと思っている。中古のパソコンを企業から安く仕入れて、学校や貧しい家庭におろすんだ」
新しい通貨で街のガキに仕事をつくったかと思うと、つぎはデジタル・デヴァイドの解消に動く。確かにオコノギはまだこの街のVIPだった。
そのVIP襲撃が起きたのは、ウエストゲートパークとNPOセンターのはいった建物の境、ツツジの植えこみのある四角い敷石の歩道だ。
西口公園脇の車道にとまった二台のクルマから、最初におりたのはアルファの四人だった。あちこちに視線を走らせ、朝の公園をチェックする。すぐにRVのふたりもおりて、六人がかりでクルマからビルのエントランスまでの左右を固めた。視線が交錯し、うなずきがかわされる。タカシはオコノギにいった。
「おれたちから離れないように」
おれは先にクルマをおりてドアを手で押さえていた。オコノギがRVから伸ばした足先を地面につける瞬間、その叫び声がきこえた。
「この野郎、ぶっ殺してやる」
男の声は左手から響いていた。おれはすぐにそちらを見た。ひとりの男がなにか棒のようなものを振りまわしながら、こちらに突っこんでくる。
「オコノギさん、早く」
おれがNPO代表を急《せ》かせていると、先ほどの男とは逆の公園側から低いうめき声がきこえた。目をやるとGボーイがひとり倒れている。花粉症の人間がつけるような顔のした半分をおおうマスクをつけた男がふたり、特殊警棒をかざしてこちらに突入してきた。タカシが叫んだ。
「そっちはおとりだ。ダート、ロック、サンド、やつらを押さえろ」
そういってタカシはおれとオコノギの背を押した。自分は警棒を振りまわす男に素手でむかっていく。上半身をのけぞらせ、おお振りのスイングをかわすと、踏みこんで教科書のような右ストレートを伸ばした。男は腰から崩れる。
おれは目の隅でそれだけ確認して、エレベーターホールにはいった。NPOのスタッフが扉の開閉ボタンを押したまま叫んでいた。
「早く、代表、こちらにどうぞ」
エレベーターのなかには三人の職員がいた。オコノギの背を押してやる。
「記者会見、がんばってくれよ」
NPO代表は青い顔でうなずいた。おれはビルのまえの歩道に駆け戻った。最初のひとりはすでにふたりがかりでアスファルトに押さえられている。タカシに右をくったやつは、おかしな形に足を曲げて地面に伸びていた。最後のひとりを三人のGボーイズが取りかこんでいた。男が懐から短い刀をだした。春の朝日を受けて、刃先に凄みのある光りが走った。タカシは三人の背後から声をかける。
「あまり、追いつめるな。けがをするのもバカらしい。おまえ、逃げてもいいぞ。こちらはちゃんとオコノギを守った。雇い主にGボーイズに邪魔されたと報告するがいい。おれたちは逃げない。いつでも相手をしてやるとな」
マスクの男は何度かおれたちの顔に視線を往復させると、ウエストゲートパークを走って逃げていった。おれはタカシに礼をいった。
「危ないところだった。助かったよ」
やつは片手でおれを制すと、携帯の短縮を押した。挨拶もせずにいう。
「午後の記者会見までに、二十人ウエストゲートパークに集めてくれ。最後までオコノギを警護する」
通話を切り、おれを見て笑いかけてきた。地面に倒れた男をあごの先で示していう。
「さて、こいつをどうするかな」
Gボーイズがプラスチックのコードで襲撃犯を縛りあげていた。おれはいった。
「北原に証言させたらどうだ。こいつらに襲われたと。フカオの罪を重くしてやるんだ」
悪くないかもなといって、タカシはメルセデスのカーゴルームに男たちを収容させた。
「おまえはどうするんだ、マコト」
おれは首を横に振っていった。
「おれはここまで。あとはタカシにまかせるよ。もうすぐうちの店を開ける時間だ」
メルセデスで送っていくという王の申し出を断って、おれはウエストゲートパークを横切って、歩いてうちに帰った。なんといっても晴れた春の朝なのだ。クルマにのるなんてもったいない。
おれは十一時にはうちの果物屋を開けていた。おふくろと交代で昼飯をくい終えた午後一時、オコノギはあの会議室で記者会見を始めた。設立当初からのフカオ・エンタープライズの関与を詳細に記録した文書を配り、きちんと説明したあとで、NPO代表を辞任したそうだ。
おれは店番にでていたので直接現場は見ていない。その代わりワイドショーやニュースで流れたオコノギの映像ならちゃんと見ている。
厳しい顔をしたNPO代表のまわりには、ふたりひと組のGボーイズのボディガードがたくさん映っていた。黒いナイロンのトレーニングスーツを着たでかい男が二十人以上。なんだかギャング映画みたいだったが、やつの身の安全を考えるとしかたないだろう。
数すくない地域通貨の成功例だったNPO代表の醜聞は、マスコミ各社でおおきく扱われた。地に落ちたヒーロー。もちあげるときはあれほど立派なことしか書かなかったのに、手のひらを返して正直に罪を告白したオコノギをたたく。マスコミは読者が読みたがるものしか書かないといえばそれまでだが、それでもおれには納得がいかなかった。正義のマスコミにも、正義の読者にもね。
フカオ・エンタープライズには翌週、池袋署と東京国税局の調べがはいった。フカオにとって恐ろしいのが国税の査察なのは間違いない。だが、北原とオコノギの襲撃犯が根性のないやつで、あっさりとフカオの教唆《きようさ》を認めたので、そちらの罪もそう軽くなるとは思えなかった。
春になり、太陽の軌跡が空高く駆けるようになると、ゆっくりと地表に熱がたまってくるのがわかる。都会ではアスファルトの照り返しが激しいのだ。四月の初め、おれが店番をしていると、見慣れない格好をしたオコノギが店先から声をかけてきた。
「やあ、ブラザー」
「どうしたんだ、その格好」
おれは黒ずくめの元NPO代表にいった。やつは白いスーツではなく、ナイロンの黒いトレーニングスーツを着て立っていた。足元はベージュのスリップオンの代わりに、真新しいナイキのショックス。バスケットのヴィンス・カーターモデルだ。それはあの記者会見の日、やつのまわりを守っていたGボーイズのボディガードと同じ格好だった。オコノギは照れたようにいった。
「いや、マコトくんに街のみんなを信じてみろといわれたろ。このところ、浪人中でね。やることがないから、Gボーイズと遊んでるんだ」
おれはふきだしそうになったが、なんとかこらえた。店先のサン富士をひとつ取り、オコノギの胸元に投げてやる。
「やっぱりあんたって育ちがいいな」
オコノギは自分のトレーニングスーツを見おろした。
「この着こなしはいけてないかな」
「そう、ちょっとワルが足りない。パンツは地面にひきずるくらいさげて腰ばきする」
おれはしゃりしゃりと音を立てて、トレパンをずりさげてやった。パンツのなかにいれていたグレイのスエットシャツも外にだす。
「これでいい。あとは暗い通りを歩いてるガキにこういうんだ」
おれはGボーイズのハンドサインをだし、舌を思い切り垂らした。
「ヘイ、新しいNPOのために金をおいてきな。あんたの名前で寄付したことにしてやるからさ」
オコノギは西一番街の路上ではじけるように笑った。おれもつられて笑った。いっしょにそろそろ季節が終わるリンゴをかじる。やつの口のなかに広がる香りが、成功の味なのか名声を失った苦さなのか、おれにはわからない。どちらにしても、それがやつのくう最後のリンゴではないと思うだけだ。
なにせまだ春は始まったばかり、日ざしも気温もぐんぐん上昇している。地に落ちたタイタンの名が新しく芽吹き、この街に気もちのいい影をつくるまで、そう時間がかかるはずがない。
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西口ミッドサマー狂乱《レイヴ》
そいつはペパーミントグリーンに澄んだちいさな錠剤だ。おもてには自分の尻尾をくわえて輪になったヘビの透かし彫り。裏には意味のわからない数字と英字の記号があったり、なかったりする。みんなそいつのことを、蛇丸とかミドリダイショウとかスネークバイトとか呼んでいた。名前がひとつじゃないのは、そいつが薬局であつかう正規の医薬品ではないからだ。
使用説明書はついていないが、効能は簡単。ミネラルウォーターでひと粒のむ、あるいは死ぬほど苦いがばりばりと奥歯でかみくだく。するとあんたはひと晩中、BPMが百を超えるでたらめに速いビートの音楽に、完璧にシンクロして踊り続けることになる。お望みなら真夜中からつぎの日の正午まで、十二時間のマラソンダンスだって可能だ。あらゆる感覚は使用まえのカミソリみたいに切れまくり、踊りながら世界の頂点にぶっ飛んで、あんたはこの世の悲惨のすべてをほほえんで見おろすことになる。
アルバイトや仕事先の上司も許す、首筋に塩を噴いた警察官も許す、億万長者のニュースキャスターもアイドルタレントをくいまくるコメディアンも許す。気分はどんどんでかくなり、テロも報復の空爆も、死んでいく赤ん坊も、ゴルフをする大統領も笑って許すのだ。誰かさんのいうとおり神はビートで、そいつに同期してるあいだは誰だって神になる。
もちろん、あらゆるクスリ(市販、モグリを問わずね)と同じように、スネークバイトにも副作用があった。あまりに踊りに熱中して血圧と体温があがりすぎ脳が焼き切れて沸騰死するとか、心の深部に潜行しすぎて二度と帰れず植物状態になるとか。もっとも街の噂じゃ、そんなついてないやつは千人にひとり。それもよほどのみあわせの悪いドラッグをカクテルでくらったせいだろうといわれていた。
だからばりばりのジャンキーやその予備軍でなくても、ずいぶんおおぜいのガキがこの夏はスネークバイトを血まなこで探していた。ミドリ色に燃える幻のヘビ。そいつの尻尾にかみつけば、宇宙の極彩色の秘密が手にはいる。三十年たってひとまわりしたネオヒッピームーブメントってやつ。
ひと粒一万と値は張るが、ひと晩神さまになれるなら悪くない買いものだろ。
でたらめな暑さの八月にはいるまで、おれはドラッグにもレイヴにも興味はなかった。速い音楽なんてモーツァルトのアレグロで十分(三十六番交響曲のアレグロ・スピリトーソ!)。クスリはこの二、三年まったくのんでいない(肩こりもない、風邪もひかない健康優良トラブルシューターなのだ)。
ここ数年とくらべても今年の東京の夏は異常だった。最高気温が三十六度の超真夏日が二週間も休みなく続く。おれがガキだったころ三十度を超える日は、夏の三月《みつき》でかぞえるくらいだった。それが今じゃ三十度なら涼しいなと感じるくらい。きっと数年後には、東京の最高気温は四十度を突破するだろう。日なたを歩いてる人間がばたりと倒れて死ぬ気温だ。
だが、池袋にはそんな殺人的熱射だって、ぜんぜん気にしない人間がひとりいた。やつはいつもPダッシュパルコの植えこみにもたれ、晴れてる日は朝から晩まで一日中、目のまえをとおりすぎるガキを眺めている。おしゃれで金をもっていそうなやつがくると声をかけるのだ。
「なあ、うちの店を見にこないか。先週、NYででたばかりの新しいTシャツが届いてる。うちのはスーパークールだぜ」
そうやってガキをひっかけて、店に連れこんじまえばやつのもの。こづかいをたっぷりと絞りとられ、からからに干からびたガキは炎天下の街に吐きもどされる。
ヒップホップスタイルのおしゃれなアリジゴクだ。
おれはJRの線路をくぐるウイロードのトンネルを抜けて、池袋駅の西口から東口にでた。左手に新型プリクラに群がる女子中学生を眺めて、ゆるやかな坂をのぼる。その土曜日もやつはとぎれることのないフラッシュのような日ざしのなか、腕を組んで通行人をにらんでいた。胸には大麻の葉の形をした銀のペンダントトップ。
「よう、エディ、調子はどう」
やつはGボーイズのハンドサインを返し、おれにいった。
「ぜんぜんダメですよ、マコトさん。夏休みなのに金のないガキばっかり」
やつの名は山口|英臣《えいしん》・ウィリアムズ。日本人ホステスとアメリカ空軍整備兵のハーフだが、英語はまったくしゃべれない。肌はカフェラテみたいなミルクブラウンだ。
「呼びこみもこの暑さじゃきついよな。おまえ、またなんか変なもんくってるだろう」
おれは明るい日ざしのなか、妙に開いたやつの瞳孔を見ていった。やつは夢見るような笑いを浮かべている。
「いやー、今日もクールだなあ。マコトさんもやる? ピラセタムとビンポセチン」
エディは腰骨の横にまいたウエストポーチに手を伸ばした。おれは苦笑いしていった。
「いいや、遠慮しとく。そいつはいったいなんに効くんだ」
やつはおれのまわりにいる数すくないドラッグマニアだ。合法違法関係なくあらゆるクスリが大好きな人種。子どもがカラフルなキャンディに目がないように、新しいクスリはなんでも試さずにいられないのだ。エディはにやにやしながらいう。
「ピラセタムは脳の右半球と左半球の情報伝達をスピードアップして、記憶力と発想力を改善する。ビンポセチンは脳内の血流を盛んにするんです。どっちもアメリカのちゃんとした製薬会社の製品で、FDAの許可も取ってるし安全ばりばりですよ。マコトさんはライターだから、こいつをくったらすげーいいコラムが書けるかも」
締切まえにはいつもひーひーいってるおれは、やつの誘い文句にぐらりときた。頭がスマートになるからスマートドラッグ。そのうちひと粒のめば億万長者になるミリオネアドラッグがでるのかも。だが、その日のおれは入稿済みのコラムの校正を済ませたばかり。つぎの締切地獄までは永遠に近い三週間もあった。
「やめとく。今度困ったら頼むよ」
そのときPダッシュパルコのエントランスわきに積んであるスピーカーから、でたらめなスピードのシンセドラムが流れだした。油圧ハンマーで腹をたたかれる強烈なビート。鋼《はがね》のように強いソプラノがそのあいだを貫いてどこまでも伸びる。
「永遠子《とわこ》の新曲だ」
エディはそういうとデパートまえの路上でいきなり踊りだした。ストライプのベースボールシャツと同じ柄のスエットパンツ。どちらもハサミで開けばダブルサイズのシーツがつくれるくらいぶかぶかだ。そのなかでゆるやかにリズムを刻んで、エディは全身の関節をうねらせている。袋にいれたヘビがなかでリズミカルに暴れているようだった。プリクラの行列のガキがエディを指さし騒いでいる。やつはおれにウインクすると、笑って女子中学生に手を振った。踊りながらいう。
「いい音楽にいいクスリ。今日もほんとにクールだねー」
日陰の百葉箱のなかでさえ三十六度を超えているのだ。おれたちのいる白いタイル張りの歩道はプラス十度というところか。おれはあきれてやつの胸を見た。うねるBBQのロゴ。それはやつが働くヒップホップファッション専門店の名で、NYの下町ブルックリン、ブロンクス、クイーンズの頭文字だという。東京でいえば池袋、大塚、巣鴨ってとこか。
踊り続けるエディに手を振って、おれはその場を離れた。踊りは苦手だし、わき役のままでいるのも気がすすまない。それにあやうくおれの手足がリズムを取りそうになっていたのだ。音楽の力は血液注射するドラッグと同じだ。即効性があり強烈無比。
おれは日陰を選びながら、東口のリブロにむかった。気になっていた作家の新刊が今朝の新聞広告にのっていたからだ。ださいと笑いたければどうぞ。だが、おれだってストリートのもめごとにばかり関心があるわけじゃない。自分では上手につかえなくても、いい文章とかいい趣味にも興味はある。人間は自分とは正反対のものに絶対的に魅せられるという平凡な真実。
地下の書店におりる階段の途中で携帯が鳴った。踊り場に立ちどまり、耳を澄ませる。
「マコトか、おれだ」
いつだってクーラーがきいたタカシの声だった。池袋のストリートの王様はいう。
「今夜、時間あるか」
抑えた声の調子。めずらしくキングは緊張しているようだった。
「ダメだな。今夜はデート」
おれの冗談に笑いもせずにやつはいう。
「おまえに女がいないのはわかってる。頼みたい仕事がある」
めずらしく余裕のない王様だった。しかたなくいった。
「わかったよ。どうすればいいんだ」
「今夜十二時、幕張まできてくれ」
真夜中に幕張で待ちあわせ? おれは思わずタカシに叫んでいた。
「なんだそりゃ。幕張って、千葉県の幕張だよな」
今度はタカシがふくみ笑いする番だ。
「そう」
「池袋から延々電車にのって千葉までいくのか。このあたりじゃダメな用なのか」
ガキの王の声が引き締まった。
「そうだ。おまえに見せたいものがある。そいつが本格的に始まるのが今夜十二時すぎなんだ。マコト、おまえ、レイヴって知ってるか」
レイヴ? 自分でいったことはないが、エディにきいてだいたいの内容は予想がついた。
「名前だけは知ってる。徹夜で騒ぐ西洋盆踊りだろ」
「まあそんなところだ」
タカシは最後にいった。
「幕張メッセの受付におまえの名前でチケットをあずけておく。ひとりじゃつまらないかもしれないな。誰かいい人がいるなら、誘ってこいよ。チケットは二枚にしておく」
タカシは鼻の先で笑うと、おれが返事をするまえに通話を切った。どうせ女などいないだろうと甘く見ているのだ。おれは平民の底力を見せつけようと、その場で五人の女に電話をかけた。女たちの返事はみんな同じだ。
レイヴ? いきたーい、でも今夜はダメ。また誘ってね、マコトちゃん。
相手を傷つけない断りかたなんてマニュアルが雑誌にのってるんだろうか。まあ、土曜の午後に即日デートの誘いだから、むずかしいのはわかっていた。だが、これではタカシにさらになめられてしまう。
おれは無性に腹を立てながら、本屋におりていった。むやみに並んだ本にガンを飛ばす。なんでこんなにたくさん本を刷る必要があるんだ、どうせ誰も読みはしないのに。取り澄ましたこぎれいな背表紙はなんの返事もしなかった。
その夜果物屋を店仕舞いすると、終電間近のJR京葉線にのり替えて幕張にいった。結局おれの誘いにイエスといってくれたのはエディだけだった。やつは京葉線は初めてだといい、子どものように真新しい電車の窓に張りついていた。暗い水平線と海沿いの住宅の明かり。やせた背中を見ながら、おれは初めてやつに会ったときのことを思いだしていた。
今年の春先だろうか、池袋名物の黒人呼びこみ軍団のなかにひとつだけ不安そうな顔があった。エディは仕事熱心で、誰かれなく声をかけ続け、結局悪いくじを引いた。要町|OD《オーバードライブ》はGボーイズのなかでもちょっと名の知れた武闘派チームだ。ガンをくれたの、くれないのと五秒でもめごとがスパークする。ガキの頭についてる導火線はえらく短いのだ。エディひとりにGボーイズは四人。Pダッシュパルコの先、線路わきに細長く延びる駅前公園に連れていかれる途中で、おれはやつらとぶつかった。話をきく。最初はふくれ面をしていたエディは、おれがふたつ年上だと知るとちゃんと敬語をつかうようになった。けっこういいやつだったのだ。要町のヘッドとおれが話をつけてトラブルはあっさり解決。エディはそれからおれのことをマコトさんと呼び、ストリートの新しい噂を流してくれるようになった。コラムを書くにはいいネタ元だ。
この六カ月毎日新しいスマートドラッグの組みあわせを試しながら、やつは池袋の街に立っている。でたらめに厳しい仕事なのに、とろけるような笑顔を浮かべたままね。
夜の電車の窓に張りつくエディの背中にいった。
「なんでいつもドラッグやってるんだ」
「それはやっぱ単純に気もちいいから。でもさ……」
エディは天然パーマの短髪をかく。背後の窓にコンビナートのパイプラインが輝くように流れていった。
「……オヤジのことがあるかもね。おふくろやおれを棄ててステーツに帰って、今じゃ音信不通だもん。うちは貧乏でたいへんだったしさ、世界が変わらないなら、自分のほうを変えるしかないじゃん。クスリは一発で簡単に自分が変わるから」
「そうか」
そういわれると返す言葉がない。うちのおやじはおれがちいさなころ死んでいるが、エディのケースを見ると、死んでるおやじと生きてるおやじのどちらがいいかは考えものだった。
海浜幕張駅で電車をおりる。SF映画にでてくるターミナルみたいな新しい駅だった。殺人アンドロイドと刑事の派手な追いかけっこにぴったり。改札をでるとこれまたセットのようなビルが並んでいる。建物のあいだにはたっぷりと青黒い夜空が広がり、熱帯夜の風が吹き抜ける。バブル崩壊で砕けた都市計画の夢の跡だ。おれたちは人の流れにのって、遊園地の園路のような歩道を幕張メッセに歩いていった。
「チケットあるよー、いいチケットあるよー」
原色のブルゾンに太い金鎖をしたダフ屋的な格好のダフ屋が、潰れた声を低くかけてくる。エディがいった。
「でもラッキーだったな。今夜のレイヴはオーガナイザーがヘヴンの御厨《みくりや》ソウメイだし、トワコもでるし」
おれはダフ屋を無視していった。
「ヘヴンてなに」
「この五、六年日本各地で大規模なレイヴを成功させてる組織だよ。御厨ソウメイはそこの代表。マコトさんだって今は平気な顔をしてるけど、会場にはいったらぶっ飛んじゃうよ。ヘヴンのレイヴはいつもカッコいいから」
そんなもんかなとおれはいった。ダフ屋にも縄張りがきちんと決まっているようだった。街灯ごとに規則正しく立ち、とおりすぎるガキに声をかけていく。幕張メッセに近づくと、だんだんと他の客の姿が多くなっていった。ジーンズにTシャツといった普通の格好、透ける素材のインド綿のスモックやワンピース、なかにはほとんど水着って女や男もいる。
だんだんと空気が軽くなって、あたりは夏祭りの境内にむかう参道のようになってきた。なんだかおれの気分までハイになってくる。わびしい男のふたり連れにだって、今夜いい出会いが生まれる可能性が絶対ないとはいえない。おれはエディにいった。
「おまえってナンパ得意」
「やめてくださいよ、マコトさん。おれ、人を引っかけるのが仕事ですよ。得意に決まってるじゃないですか」
心のなかでガッツポーズ。こいつを連れてきてよかった。間抜けなおれはそのとき心からおれを振ってくれた女たちに感謝した。
幕張メッセのチケット売り場でふたり分のチケットをもらい、おれたちはメイン会場になる大ホールにむかった。廊下でさえ巨大な獣の心拍のようなベース音が壁を震わせている。エディの足は自然に速くなった。
「もうたまんないなあ。マコトさん、ちょい待ち」
エディは柱の陰に隠れるとペットボトルのミネラルウォーターでなにかのみくだした。
「おいおい、今度はなんだよ」
エディはにやりと笑っていう。
「へへ、ネットで買った青いドルフィン。けっこう飛べるって噂だったんだけど」
おれはあきれていった。
「そいつの中身は」
エディは手のひらにのせた青い錠剤をおれに見せる。確かに水面からジャンプしたばかりのイルカの模様が雑なインクで染めてあった。
「よくわかんないけど、MDMAかなんかじゃないですか。この感じだと混ぜもの多そうだけど。マコトさんもひとつやりますか」
おれは首を横に振った。MDMAは覚醒剤に似た作用のあるアッパー系のドラッグだ。レイヴの流行とともに世界中に広がり、日本でもとうの昔に非合法になってる。
「いいや、やめとく。おれはこれから人に会わなくちゃいけないんだ」
とろりと溶けた目でやつはいう。
「じゃあ、あとでほしくなったらいってください。でも、早くしたほうがいいですよ。おれが最後のくっちゃうかもしれないから」
よだれを垂らしそうな顔をしてエディはいう。きっとこのレイヴの大スポンサーなのだろう、タバコ会社とビール会社のポスターが交互に張られた廊下を、おれたちはホール目指して歩いていった。
高さ三メートルはありそうな分厚い扉を抜けると丸天井のホールがいきなり広がった。サッカー場よりはちょっと狭いだろうか。奥の壁は遠く濁って見えた。音楽のボリュームは真下で見あげる花火大会くらいのでかさ。どすどすと肺のなかの空気まで揺らす。エディと話すには耳元で思い切り叫ばなければならなかった。
正面にはスチールパイプで組まれたセットがあり、そこでDJがふたり皿まわしのバトルをしているようだった。かかっているのはエイヴェックスのユーロビートみたいなゆるい曲じゃなく、工場や建築現場の騒音みたいなノイズ系のダンスミュージック。音程のいいコンクリートドリルにあわせて、椅子のない巨大なホール全体に散らばる客たちが好き勝手に踊っている。壁際にはタバコとビールの売店に、軽食の屋台がたくさんでていた。エディがおれの耳元で叫んだ。
「あそこのカレー屋のレンズ豆のカレーうまいですよ。なぜかルーマニア人の親子がやってるんですけど」
ビーチパラソルのしたから小学生くらいの栗色の髪の男の子が走りだしていった。手には白いポリ袋をさげている。エディはいう。
「踊りましょう。レイヴは見てたってつまんないすよ」
それでおれたちは無数の触手を震わせる単細胞のアメーバみたいな五千人の固まりに加わった。おれのダンスがどうだったかって? 古典派と二十世紀のクラシック音楽で鍛えたおれのリズム感をなめないほうがいい。もちろんガツンガツンに踊ってやった。ファンのみんなに見せられなくて残念だ。
真夜中すこしまえ、おれはエディにひと声かけて便所にいった。真っ白なタイル張りで無菌の実験室を思わせる便所だった。床にレジャーシートを敷いてサンドイッチだってくえそう。地鳴りのようなバスドラムを遠くききながら用をたすと、洗面台で顔を洗った。夏の夜二十分も踊れば誰だって汗だくになる。
ハンドタオルで顔をふいているとおれの横に男が立った。男はあたりに人がいないのを確認している。ベルボトムのジーンズに黒革のヴェスト。波打つ髪はうしろで束ねていた。
「ハイ、ブラザー、いいものいらないか」
鏡のなかの目がおれの目をじっと見つめている。ハードゲイのボーイハントだろうか。
「いいものってなに」
男は右手でヴェストの片側を開いた。駄菓子屋のくじの景品のようだ。ちいさなビニール袋がヴェストの裏にたくさんさがっていた。男はエディと同じ瞳孔の開いた目をしていう。
「ピンクのロレックス、青いドルフィン、オレンジのインド人、黄色おばけ、白の666……もちろん金があるなら、取っておきのグリーンもある」
おれにはちんぷんかんぷんだった。反射的にきいてしまう。
「緑ってなんだ」
男の乳首には長さ三センチほどの胸毛が何本か生えていた。おかしなところばかり記憶に残るものだ。
「知ってるだろ。スネークバイトさ」
おれはそんなもの知らなかった。なんとこたえようか迷っていると、奥の個室の扉がいきなり開いた。蝶つがいがはずれるんじゃないかという激しい衝撃音。鏡のなかでおれたちはそろって便所の奥を見た。男がふたり無表情にこちらにやってくる。光る素材の黒いTシャツに、赤いペンキ跡が飛び散ったジーンズ。小山のような男と鞭《むち》のような男だった。鞭のほうが売人にいった。
「スネークバイトがあるそうだな。見せてみろ」
なめし革のような手のひらをだす。手の甲には緑のヘビが自分の尻尾をくわえているタトゥーが見えた。売人が震えだす。小山のような男は意外な素早さで出入り口のドアをふさいだ。胸のまえで腕を組む。確かにあれはブタもも肉の生ハムではなく腕だったと思う。こいつの手の甲にも緑色のヘビ。おおきさは三十パーセントアップというところか。
鞭のほうは若いころのジャクソン5みたいなカーリーヘアだった。目尻に深い笑いじわを集めて、左手でだらだらと汗を流す売人の頬をなでている。
「おまえがなにを売っても、おれたちはかまわない。だがな、嘘をついてスネークバイトのガセだけは売るな。おれたちの企業努力と誠実さに傷がつくからな。売人は客をがっかりさせないものだろう」
長髪の売人は目に見えて震えながら、ゆっくりとうなずいた。鞭は甘くやさしい声をだした。
「そうか、いい子だ。わかればいいんだ」
つぎの瞬間、ジーンズの尻ポケットを探っていた右手が風を切って飛んだ。両手で売人の頬をはさんでいるように見える。こぶしの形をつくった右手がゆっくり離れるとき、ずるりと売人の頬からナイフが抜けた。血の玉が黒い革のヴェストを転がり落ちる。鞭はいった。
「人のビジネスに手をだすとこんな目にあう。わかったな」
売人がうなずくと、鞭は一喝した。
「返事がない」
「わかり……ました」
短い言葉の途中で売人の頬から空気が漏れて血の泡ができる。頬を流れ落ちる泡を見て、鞭は笑ってうなずいた。
「いいなあ、その芸当。赤いシャボン玉なんて気がきいてるじゃないか」
鞭はおれのほうを見てうなずいた。
「せっかくの商談中に悪かったな。だが、おまえも偽もののスネークバイトには手をださないほうがいい。あんな粗悪品をくったら失明するぞ。それじゃ」
焦る素振りも見せずに便所をでていこうとする。おれはいった。
「あんたたちなら、ほんもののスネークバイトを売ってくれるのか」
男はちょっと驚いた顔で振りむいた。
「どうだろうな。どちらにしても今夜の分はもう残っていない。つぎのレイヴで会ったら、そのときまた注文してみてくれ」
ふたりがでていくと音もなくスチールの扉が閉まった。おれは声をださずに泣いている売人とふたり、素敵なデザインの便所に残された。鏡のなかにきいてみる。
「あいつら、誰」
売人は壁のペーパータオルをまとめてむしると、頬を押さえながらいった。
「ウロボロス。スネークバイトの卸元」
携帯のフラップを開いてやつにいった。
「救急車呼ぼうか」
「うるさい。むこういけ」
おれは泣いている売人を残して便所をでた。やつの足元はなすられた血の跡で白いタイルが台なしだった。親切心がいつも人につうじるとは限らない。
おれがホールにもどると遠くからエディが手を振ってきた。うなずいてやつのところにむかう。エディは近くの女を指さして叫んだ。
「この子たち、浦安からきた女子大生だって」
デニムのブラ一枚のうえに草木染めのバンダナを腹がけ代わりに巻いたドレッドヘアと胸のまんなかに透明なビニールの丸窓がついたTシャツを着たウルフカットの女子大生がふたり。へらへらと笑いながらおれにうなずいてみせる。女たちは自分の長所がどこかよくわかっているようだった。ドレッド女のきれいに締まった背中とウルフ女の胸のビニールを汗で曇らせる谷間。エディは最高だ最高だと叫びながら踊り続けている。女子大生の笑顔は接着剤で顔に貼りつけた面のようだった。夜店で五百円で売っているアニメのセクシーキャラだ。目は光りのない丸い穴。先ほどの便所の騒動といい、この女たちといい、ここがおれのいるべき場所とは思えなくなってきた。幕張のおしゃれなレイヴより、ホームレスと酔っ払いでいっぱいの西口公園のほうがおれにはずっと似あいだ。
窓つきTシャツがおれを指さして叫んだ。
「この人、なんかへん。怖い顔して踊ってる」
おれは女たちに歯をむきだして笑ってやり、背中をむけて黙々と踊った。タカシがおれに見せたいものは、こんなものなのだろうか。ハイになった何千という客のなかで、おれは自分だけにわかる幻滅のダンスを踊っていた。
インダストリー系のノイズミュージックが終わると、きき覚えのあるメロディが流れだした。シューベルトの十四番カルテット。そいつは『死と乙女』というすごいタイトルのついた曲の第四楽章プレストだった。速度記号を間違ったとしか思えないでたらめな速力で弾き切られている。四つの弦楽器の背後にはシンセベースとシンセドラムでつくられた単純なループが延々と流れていた。間近に迫った死神など蹴り飛ばし、全速力で走りだす女がなぜかおれの頭に浮かんだ。どこの誰がつくっているのかわからないが、そいつはなかなかしゃれていた。エディがのんでいたミネラルウォーターをさらって、のどを鳴らしてひと息にのむ。
十二時をだいぶすぎてから、おれの携帯がジーンズの尻ポケットでうなりだした。片方の耳をふさいで叫ぶ。
「マコトだ」
圧倒的なPAの騒音にまぎれて、キングの声は針のように細く冷たい。
「どうだ、レイヴは気にいったか」
ノーと叫んだ。笑い声がきこえたと思うが、よくわからない。おれは携帯を耳にあてて、踊りの群れから離れていった。タカシの声はダンスホールの熱狂から最も遠いものだ。
「そろそろ仕事の話をしよう。楽屋にきてくれ。コンファレンスルームDという一番でかい部屋だ」
「わかった」
あっそうだ、とタカシがいった。
「おまえが連れてる黒人のハーフのガキな、あれがおまえの新しい女なのか」
おれはなにもいわずに通話をたたき切り、重い金属の扉を蹴り飛ばして開けた。
スタッフにきいて楽屋にいった。コンファレンスルームDは確かに広い部屋だった。ソファの島があちこちに点々。鏡張りの壁沿いにはペットボトルの山をのせた横長の折りたたみ式テーブルが十メートルばかり。すべて可動式の衝立《ついたて》でゆるやかに仕切られている。そこにスタッフ証を首からさげた男女がざわざわとでたりはいったりしている。
おれがなかをのぞきこむと、奥の衝立のうえでタカシの細い手が招いた。
「こっちだ」
自分のホームベースを離れた新しい仕事。おれはいつになく緊張して、ゆっくりと楽屋の奥にすすんでいった。白いパーティションのむこうには黒い三人がけのソファがみっつ、コの字形に並んでいる。最初に目に飛びこんできたのはかすかに黄色味をおびた金属の光りだった。無表情におれを見あげている女の足元にある。ほかにはおれの知らない男たちが三人、ソファに座ったままくつろいでいる。タカシはひとりで腰かけていたソファのとなりを視線でさした。おれはそこに座った。
正面に女がいた。落ち着いて見てみると、金属の光りがなんなのかわかった。女の右足のあるべきところには、チタン製の金属のシャフトがある。伸びやかな太もものなかほどから足は冷たい金属の棒になっていた。ひざのところには精密そうな蝶つがいとなんの役に立つのかわからない小型のシリンダーがついている。女は肩をすくめていった。
「義足を見るのは初めて」
そうだといった。こんなに近くで義足を見るのは初めてだ。女のとなりに座るひげ面の男が口を開いた。もう四十近そうな黒縁メガネで、夏なのに薄手のタートルネックセーターに新品のジージャンを重ねている。
「紹介しよう。ぼくはヘヴン代表の御厨ソウメイ。で、きみはまだ知らないようだが、彼女は歌手でモデルのトワコ。今夜のレイヴにも出演するが、うちのオーガナイザーとしても働いている。それにこっちがうちの若いスタッフだ」
背中をまっすぐに伸ばした若い秘書タイプの男がふたり、おれにむかって軽く会釈した。タカシが口を開いた。
「こいつがさっきから話題になっていた真島誠。池袋のGボーイズの頭脳で、なぜかこいつがかかわると事件は、のろのろとだがうまいエンディングにむかう。特別な勘というか、不思議な運があるのかもしれない」
タカシはおれを見てにやりと笑った。
「こんな間抜けづらで、ファッションセンスもいけてないが、外見ほど頭は悪くない」
おれのファッションのどこがいけないというのだ。その夜は白いタンクトップにオーヴァーオールのジーンズ。片方の肩かけはだらりと背中に垂らしてある。どれもエディの店でお友達価格で手にいれた最新ヒップホップファッションだ。まあ、いけてるかどうか、実はおれにもよくわからないんだが。トワコがおれの頭の先から足先まで眺めていった。
「ほんとにだいじょうぶなのかな、この人」
計算のできる犬を見るような目でおれを見る。キングはゆったりとソファに背中をあずけ、トワコに笑いかけた。
「Gボーイズの保証つきだ。おれも何度か危ういところを助けられた。こいつに解決できないなら、あんたたちにも警察にも絶対やつらは押さえられないだろう」
信頼はありがたいが、おれは弱っていた。367引く194足す2684は、なんて問題をだされたらどうしよう。吠えすぎてのどが切れる。おれはいった。
「やつらって誰」
御厨が周囲を見まわした。目があっても秘書のような男たちはまったく表情を変えなかった。ため息をついてからヘヴンの代表は諦めたようにいう。
「ウロボロス」
その夜二回目の名前だった。
「ふーん。そういう名前のやつなら、さっき便所で会ったよ」
一直線に切りそろえた前髪のした、トワコが切れ長の目を細めた。パイル地のパーカの胸を押さえていった。
「ほんとうなの、やつらはなんていってた」
「別になにも。おれじゃなく、別な売人と話していただけだ。スネークバイトの偽ものは売るな。自分たちの信用に傷がつく。それで、売人の頬にナイフででかいピアスを開けた」
御厨は苦笑して、首を横に振った。
「イッセイならやりそうなことだ」
トワコがおれの目をじっと見ていた。義足に注意を取られてわからなかったが、整った強い顔立ちをしている。
「手の甲になにかなかった」
「あった。緑のヘビの丸い輪っか」
御厨が身体をのりだしてきた。
「いいだろう。かれらの話と依頼の内容を説明しよう。だが、これは警察には絶対に話さないこと。ここにいるぼくたち全員が危うくなるからね」
日本一だというレイヴのオーガナイザーは、にっこりとおれにウインクした。
「レイヴというのは荒れ狂うという意味の英語だ。十年ほどまえにスペインの離島やロンドンのちいさなクラブで始まったときから、レイヴとドラッグは切っても切れない関係だった。赤ん坊とおしゃぶりのようなものだ。どこの国でもクスリがなければ、とたんに客は不機嫌になる。最初は圧倒的にエクスタシーと呼ばれるMDMA製剤が有力だった。疲れを知らずに八時間踊れて、この世界のすべての憂鬱を吹き飛ばしてくれる。失業や退屈を忘れ踊り狂う。政治的な意図も、哲学的な意味もなかった。存在のままにただ荒れ狂うのがレイヴの本質なんだ。だが、新型ドラッグはしだいに法の網にかかるようになった。日本でもいつの間にか、覚醒剤なんかと同じ違法な向精神薬の指定を受けている」
御厨はNHKのニュース解説のように手慣れた調子でいった。
「マコトくん、この会場にきてなにか目につかないか」
それなら誰だってわかる。たくさんのおっぱいと思わせぶりな視線。性的な刺激を購買欲に結びつけようと必死になる女たちのイメージだ。
「タバコとビールのポスター」
オーガナイザーはつまらなそうに笑う。
「初期のレイヴは自然発生的な若者の流行現象だった。音楽、ファッション、人とのつながりかた。なんの思想もないとはいえ、ちょっとした文化的な雰囲気があったんだ。なにせまったく新しいものだったからね」
御厨は遠い目をしていた。きっと十年まえのヨーロッパで、その運動に立ち会っていたのだろう。
「だが、この数年はどこの国でも商業主義がレイヴに流入するようになった。会場やPAの規模がおおきくなり、客の数が飛躍的に伸びていく。するとオーガナイズするにも、たいへんな費用がかかるようになる。そこに目をつけたのが、広告の出稿を抑えられているタバコとアルコールの会社だった。集客力のあるおしゃれなコンサートだとでも思っているのだろう」
どこが違うんだと突っこみをいれそうになって、おれは口を閉じた。
「今夜のレイヴは、ぼくたちにとってコマーシャルレイヴにすぎない。利益を捻出するためのね。なにをするにも金がかかる以上、できるだけ上質なエンターテインメントを提供して客や資本家から金を受け取るのは悪いことじゃない。きみはあまり気にいってはいないそうだが、ほんもののレイヴはこんなものじゃない。そのうちヘヴンが本気でオーガナイズするシークレットレイヴに招待するよ。楽しみにしていてくれ」
おれはうなずいていった。
「あんたたちの仕事はわかった。それとウロボロスとかいうドラッグディーラーとなんの関係があるんだ」
御厨はまったく焦っていなかった。テーブルのアイスチャイをひと口のむ。
「夜は長い。ゆっくり話そう。ウロボロスのまえに、ヘヴンのメンバーが考えるドラッグについてのモラルをきみに伝えておかなくてはならない」
オーガナイザーはジージャンの胸ポケットから、クロームに輝くピルケースをだした。かちりと精密な音を立てて開き、青い錠剤をひと粒つまみ、おれに見せた。X字のマーク。カゼ薬よりふたまわりほどでかい。口に放りこんでがりがり。
「これは純度の高いMDMAで、さっき話したエクスタシーの上ものだ。ある本にこんな記録がのっていた。一九九〇年から九五年までの五年間で、エクスタシーによる死亡者は五十四人。対してタバコによる死者が五十五万人、アルコールが十二万五千人だという。わかるかな、ヘヴンは厚生労働省とは別な見解を、ドラッグについてもっている。エクスタシーやマリファナ程度のライトドラッグは、各自の責任で自由に楽しむべきだと考えているんだ。だから、ぼくたちのレイヴ会場では売人がなにをしようと自由だ。そうしたものもレイヴの楽しみのうちだし、文化の一種だと思っている」
話がややこしくなってきた。おれは平然と御厨の言葉をきき流しているタカシを横目で見て口をはさんだ。
「だけど、ウロボロスはダメなんだろ」
御厨の瞳孔が開いてきたのが、正面に座るおれにはわかった。なにも問題などないという偽もののほほえみがインテリ面でとろけてる。だが、なにもないならおれがここにいるはずがないのだ。
「そうだ。ウロボロスは違う。ドラッグは強力な志向性をもっている。例えば覚醒剤は厳しい労働やセックスと直接結びつく、きわめて日本的な国民ドラッグだ。エクスタシーは生まれたときからダンスと仲がいい」
おれはいった。
「スネークバイトは」
御厨はゆっくりと首を横に振る。
「あいつは過去の亡霊だ。知覚を極限まで拡大し、意味や存在の地平線を無理やり押し広げる。ドラッグで宇宙と精神の扉をこじ開けようとした恐竜時代に先祖がえりしたクスリだ。特に新しい薬物を使っているわけではないが、カクテルの方法と組成に特殊なノウハウがあるらしい。覚醒剤並みに強力な依存性があって、効能は……」
となりに座るトワコがいった。
「ともかくぶっ飛び」
おれはクスリには暗い。ばかみたいなことをいった。
「どこまで」
トワコは信じられないという目でおれを見た。癖なのだろうか、右手で義足のシャフトをなでている。そこの部分だけ金属は新品の輝きを放っていた。
「想像力の裏側、世界のてっぺん、夜明けの王国。驚異的なものだけが存在を許されるところ。でも運が悪ければ、地獄の底までひきずりこまれる」
トワコは細い親指で首をかき切る仕草をする。
「あの世いきだよ」
よくわからなかったが、きっとこの女は詩人なのだろう。おれは言葉よりもチタンの金色の光りに目を奪われていた。御厨はいう。
「だから、ヘヴンのレイヴでは覚醒剤やコカイン、それにスネークバイトのようなハードドラッグは禁じられている。ぼくたちがきみに頼みたいことがこれでわかるかな」
だんだんと仕事の筋が読めてきた。おれがうちの果物屋でやるのと同じだ。大切な商品を全部ダメにするまえに、段ボール箱のなかから腐ったリンゴだけ抜きだし捨てること。おれはいった。
「ソフトドラッグの売人はそっとしておき、ウロボロスだけ排除したいんだろ。もちろん警察の手は借りず、すべてないしょのうちに」
「安藤くんのいうとおりだ。真島くんはのみこみがいい」
御厨はうっとりと笑う。おれにはやつが笑っているのか、ドラッグが笑わせているのかわからなかった。そのときスタッフの女がやってきてパーティションの端で声をかけた。
「トワコさん、時間です」
トワコは義足の不自由さなどまったく感じさせずに、ひと動作でさっと立ちあがった。パーカを脱ぐと、したは白い麻のタンクトップだった。締まった腹がまぶしい。背は百七十を軽く超えているようだ。足がでたらめに長かった。片方が金属の棒なので残りの足の長さが強調されるのかもしれない。股のつけ根ぎりぎりで切ったローライズのジーンズは恥骨が見えるんじゃないかという股がみの浅さ。なめらかな下腹に彫られたタトゥーに自然に目が吸い寄せられる。紺色の数字はこう読めた。
1998/5/25
おれはあっけにとられて三次元CGでつくられたフィギュアのような女を見あげていた。
「そいつはなんの日づけなの」
トワコはさっさとソファから離れていく。白いプラスチックの衝立のところでおれを振りむいた。
「わたしの誕生日」
この女がまだ四歳のはずがない。黙っているとトワコはいう。
「ソウメイさんはいそがしいから、ヘヴンとのつなぎ役はわたしがやる。携帯の番号はもうもらってるから、あとで連絡するね。マコトくん、ステージ楽しんでいって」
目の隅にかすかな金属の光りを残して、トワコは衝立のむこうに消えた。
トワコがいってしまうと、急に部屋のなかが暗くなったような気がした。さすがにアーティスト。とんでもないオーラを放っていたのかもしれない。おれは御厨にいった。
「ウロボロスのイッセイって誰なの」
オーガナイザーはそわそわと腕時計を見た。
「それはつぎの機会にでも彼女からきくといい。そんなことより、ぼくたちもステージを見にいこう。今夜はトワコの新曲の初ライヴだ」
御厨と秘書が立ちあがった。秘書のひとりがおれに首からさげるスタッフ証をくれた。おれはとなりに座るタカシに目をやった。乳首が透けて見える魚網のような黒いサマーセーター。池袋の女たちならドミノ倒しで失神ものだが、あいにくおれにはぜんぜん効果はない。オーガナイザーがソファを離れると、おれは小声で王様にいった。
「あいつらっていつもこんな調子なのか。どっか浮いてるっていうか、まったりしてるっていうか」
タカシは鼻の先で笑ってうなずく。
「そうだな。天国みたいに浮世離れしてる」
「Gボーイズがこんな仕事を受けて、なんのメリットがあるんだ」
タカシは横目でちらりとおれを見た。
「ヘヴンは日本全国にネットワークをもってる。海外にも手広くな。ときにはGボーイズも池袋の外の世界とつながらなきゃならないのさ。経営学の基本を知ってるか」
知らないというと、意外ときれいな発音でやつはいう。
「アクトローカル・シンクグローバル」
池袋のキングはにっこり笑い、肩をすくめて見せた。自分の街が好きで、世界なんてほんとはどうでもいいとおれはいわなかった。きっとタカシのほうが正しいのだ。
「おーい、真島くん、きみも見ておいたほうがいい。いくぞー」
天国の組織人の声が遠くからやわらかに響いてきた。
スタッフ以外立入禁止の通路を抜けて、ステージ正面のVIP席に案内された。うしろの一般席はすべてスタンディングなのだが、そこにはパイプ椅子が並びテレビのコマーシャルで見かけた顔がいくつか散らばっていた。おれには興味のない顔だ。おれたちがまえから三列目に座るといきなりホールは暗転した。
立ち尽くす五千人のファンからトワコトワコの大合唱が起きて、津波のようにステージに押し寄せる。レイヴ音楽の基本形である四つ打ちのバスドラムが始まった。巨人の足踏みがドスンドスンと一小節に四回。ステージ中央から青いレーザービームが会場に走る。スモークマシンから吐きだされた煙は夜明けの雲のように青く透明にたなびいていた。
つぎの瞬間スポットライトが一本だけ、ステージ中央に落ちた。光りの柱の底で義足のモデルが両足をしっかりと踏ん張り、目を閉じてうたいだす。トワコの声は細いが、右足のチタンシャフトのように強靭だ。大歓声のノイズを位相のそろった光りのように切り裂いて会場を満たしていく。歌詞はなかった。声を自由自在に楽器のように揺らせ、不思議に東洋風のメロディをつむいでいく。たいしたものだ。トワコはおれにさっきのシューベルトを思いださせたのだから。なにもかも蹴飛ばして自分でもわからない未来にむけて駆けていく女のイメージ。
トワコの声は三階建てのビルくらいのおおきさに積まれたスピーカーから、洪水のようにあふれだしていた。背景音は多重録音のテープなのだろう。ホールの巨大な丸天井が数百人のトワコの声で埋め尽くされていく。空から降ってくる澄んだ声の瀑布だ。彼女はウインドマシンの正面で風を浴び全力でうたっていた。
目に見えぬ歌の翼にのって、トワコはそのままどこかに飛んでいきそうだ。
最近のライヴでは皿をまわすディスクジョッキーだけでなく、VJがいるのがあたりまえになってる。映像イメージをあやつるヴィデオジョッキー。ステージの後方にはテニスコートほどのおおきさのディスプレイが設置され、そこに無数のイメージが四つ打ちのリズムにあわせて浮かんでは消えていた。
輪切りにしたオウム貝の螺旋《らせん》階段のような隔室、トンボの千の目に映る澄んだ秋の空、立体構造をしたマイクロチップの迷宮のような配線図、虹色に対流するシャボン玉の皮膜、モスクにむかって頭をさげる数万人のアラブ人の白い背中、中心部で青い光りを放って衝突するふたつの銀河。世界中の映像記録から集められたイメージは、数分の一秒ずつスクリーンを埋めては、ちぎれるような切なさだけ残し、つぎの瞬間にはどこかにいってしまう。音楽のようだ。
おれはドラッグはやっていないが、それでもトワコのステージは強力だった。ミネラルウォーターだけで完璧な酩酊状態になる。となりでは御厨が立ちあがり踊りだした。最高だ最高だとエディと同じように叫んでいる。
崩れ落ちるハリケーンの泡立つ波頭のまえで、トワコがVIP席のおれたちにむかって手をさしだした。つぎの瞬間背景は誰もいない夏草の平原に変化する。空に浮かぶ純白の雲のかけら。日ざしはレンズの隅で分光され、菱形に飛び散っている。その中央でトワコが手招きしていた。わたしの手を取りなさい。ここにきて永遠をつかみなさい。おれはそう耳元で囁かれた気がした。
なにがなんだかわからない。だが、おれはバネ仕掛けの人形のように椅子から立ちあがり、でたらめな速さでステップを踏み始めていた。このまま壊れたってかまわない。おれは今生きていて、この心臓はでたらめなスピードでビートを刻んでる。
そのとき御厨のいうことが、おれにもすこしだけわかった気がした。
この世界に存在するというのは、ただそれだけで荒れ狂うことなのだ。命はどんなモラルにも縛られない荒れ狂う力だ。規制することも、限定することも、コントロールすることもできない。どこまでもあふれだし、増殖しビートを刻み続ける力。
生きることは、誰にもとめられない速度だ。
真夜中の二時から一時間続いたトワコのステージが、その夜のハイライトだった。DJとVJはつぎつぎと替わり、レイヴの音と映像はそのあとも流れ続けた。だが、おれにはさっきのような瞬間がやってくることは二度となかった。
だいたいひと晩中休みなく踊り続けるなんて、なんのドラッグもやっていない体力ではきつすぎるのだ。おれはトワコのステージのあとで一般席のエディと合流した。明け方の五時に異様にタフな浦安の女子大生とエディにひと声かけて、通路のベンチで眠ってしまった。あたりはダンスホールというより野戦病院のようだった。目につくあらゆる場所で力尽きて倒れた男女が汗だくのまま眠っている。おれは息苦しい浅い夢のなかで何度かサイレンの音をきいたような気がした。
ヘヴンの幕張レイヴが終了したのは、日曜日の午前十時だった。わずかな睡眠で活力を取りもどした客たちが大歓声で拍手して、十二時間の祭りはお開きになった。タカシの姿はどこを探しても見あたらない。きっと暗いうちに池袋に撤退していたのだろう。いつもながら正しい選択だった。
女子大生とは海浜幕張駅のまえで別れた。エディは携帯の番号をゲットしていたようだが、なにをするにしてもおれたちは疲れすぎていた。真夏の日ざしは重い肩を鞭のように打ってくる。エディは湾岸の太陽だって平気なようだった。まだ青いドルフィンが決まっているのだろう。直射日光のなか立ち尽くし、明るく開いた瞳孔で未来都市の下世話な駅まえを眺めている。十字架みたいに腕をいっぱいに広げていった。
「今日も最高にクールだねー、マコトさん」
おれはぶっ飛んだままのやつの切符も買い、手わたしてやった。
「こっちはもうくたくた。しばらくはシンセサイザーの音はききたくない」
おれにはやはりアコースティックな音が一番だ。エディは意外そうな顔をした。
「トワコのライヴも見たし、かわいい女の子にも会えた、それにマコトさんがいないあいだに、いいクスリも手にはいったよ。今回のレイヴは最近じゃ一番のあたりだったけどな」
おれはぼんやりしていたのだろう。あまりに強烈なPAの音圧で聴覚が鈍くなっていたのかもしれない。エディの言葉をあっさりきき流してしまった。あとになって何度そのときのやつの姿を思いだしたことか。夏の光りのなか輝くように白いベースボールシャツ。
最高にクールだねー、マコトさん。エディの笑顔は二度と池袋にはもどらない。
自動改札にむかう途中でおれの携帯が鳴った。留守電サービスに切り替えておけばよかったと後悔しながら耳にあてる。しゃがれた女の声がした。
「マコトくん、わたしトワコ、これからすぐに会えないかな」
機械に切符をいれる。吸いこまれるように消えて改札のむこうにワープするチケット。おれは目を落としたままいった。
「疲れてる。話なら今夜にでもまた電話をくれないか」
トワコは引かなかった。おおきく息を吸っていう。
「疲れてるのはこっちも同じ。でも、新聞記事になるまえに現場を見ておいて」
新聞記事? おれにはトワコがなにをいっているのか、ぜんぜんわからなかった。
「どういう意味だ」
「ヘビが人をかんだ。わたしは今、幕張中央病院にいる。明け方に救急車で十二人が運びこまれて、三人が意識不明の重体になってるの。ヘヴンのスタッフはパニック状態だわ。ソウメイさんは警察に事情を説明しにいってるし。マコトくん、すぐにこられる?」
わかったといって通話を切った。エディはおかしな顔をしていた。
「この切符どうすんの」
おれは駅まえ広場にもどりながらいった。
「取っといてくれ。おれは急用ができたから、ちょっといってくる」
ぼんやりした笑顔を崩さないエディを改札のむこうに残して、おれはタクシーのり場に駆けた。
中央病院は小高い丘のうえにある美術館か音楽ホールのような建物だった。車寄せのあたりにはカメラやビデオをもったマスコミの男たちがうろうろしていた。なんでもいいから素材がほしいのだろう。おれがタクシーをおりるところまで撮影している。
二重になった自動ドアのエントランスを抜けるとガラス天井のホールだった。白いベンチが受付を半円に取り巻いている。その端で女がひとり立ちあがった。深くかぶったキャスケットに涙滴形のサングラス、しっかりと歩く足元には金属の光り。今回は残念だが恥骨のうえの数字は見えない。トワコはいった。
「病室にははいれないけど、見にいってみる?」
おれはうなずいた。ちょっと心配になっていう。
「スネークバイトにはヘヴンはまったくかかわっていないんだろう」
サングラスのしたでトワコがじっとおれを見ているのがわかった。
「心配ないよ。ただこういう不祥事が起きると、代理店の連中は引くかもね」
振りむいてエレベーターにむかうトワコの背中にいう。
「余計なお世話かもしれないけど、そんなに歩いて足のほうはだいじょぶなの」
一時間のライヴのあいだトワコは一度も休まずにステージの隅々まで歩きまわり、ときにはスキップしてうたい続けていた。こちらも見ずにどんどん歩いていく。
「平気、鍛えてるから」
へたするとおれよりも早足のトワコのあとを追って、混雑する総合病院の奥にはいっていった。
エレベーターの扉は四階にある内科病室で開いた。とたんに消毒薬くさい病院のにおいがした。ジンベエを着てベンチでタバコを吸っている入院患者を横目に、おれたちは明るい日ざしのはいる廊下を歩いていった。目的の病室はナースステーションのまえにあるふた部屋だった。開け放したままの戸口をのぞいてトワコはいう。
「症状の重い三人は集中治療室にはいってる。ここにいるのはみんな元気なようだけど」
病室のなかで誰かが最高だと叫んでいた。あまりにタイミングがよくて、おれたちは笑ってしまった。
「御厨さんみたいだな。あの人あんたのライヴのあいだずっと最高だって叫んでた。おれもそう思ったけどさ」
トワコはまんざらでもなさそうにうなずいてみせる。室内からでてきた看護婦がおれたちをちらりと見てとおりすぎた。あたりを観察したが、警官の姿は見えなかった。おれはいった。
「いってみよう」
トワコは立入禁止の札を視線で示す。おれは首を横に振った。
「なにかいわれたら、レイヴでいっしょだった友人だとでもいえばいい。今のところサツもいないし、だいじょぶだろう。あんたもきてくれ」
おれが先に病室にはいるとトワコがついてきた。八人部屋に等間隔でおかれた白いパイプベッドは六人の緊急入院患者で埋まっていた。といっても病状はひどく軽いようだ。左手に点滴を受けながら、おしゃべりしたり、ヘッドホンでCDをきいたりしている。
おれが室内にはいってもなんの反応もなかったやつらが、トワコを見ると騒ぎだした。ベッドに半身を起こしたサイケデリック柄Tシャツの男に近づいた。オレンジと紫とピンクの同心円が胸でハレーションを起こしている。
「おれたちはヘヴンのスタッフなんだ。スネークバイトについて話をききたい。サツとはなんの関係もないから、ちょっとだけ時間をくれないか」
サイケTシャツは気軽にうなずく。
「いいよ。話はするから、あとでトワコのサインをくれよ。誰かペンをもってないかな」
となりのベッドで寝ていたやつが身体をひねってダッフルバッグを探っている。太い油性のマーカーを取りだした。色はシルバー。サイケTシャツは受け取るとシャツの背中をめくった。
「思い切りでかく書いていいからさ」
トワコは慣れているようだった。銀のマーカーで背中に漢字で永遠子と書き、あの数字をいれた。いいなあと同時に声がして残りの五人も手のひらや腹をさしだす。おれは肩をすくめてトワコにいった。
「みんなにサインしてやれば。そのあいだにおれが話をきいておくから」
トワコはうなずいて病室で即席サイン会を始めた。おれはおでこに永遠なんて言葉を書いた人間を初めて見たが、案外悪くなかった。そのうち池袋でもはやるかもしれない。最初のTシャツ男にいう。
「やっぱりあんたも、ウロボロスからミドリを買ったの」
「そうだよ。ひと粒一万だった。前回のレイヴのときより高いじゃないかと文句をいったら、今度のはすごく強力になった新型だっていうから、それならいいかなって」
やつの顔になにかを思いだす表情が浮かんだ。
「のんでしばらくはすごくよかった。トワコの声に包まれて、自分が光りの三原色になった気がした。ディスプレイのなかに飛びこんだみたいなんだ。オウム貝になり、トンボになり、銀河やシャボン玉に変身したりね。だけど、明け方になって別れたガールフレンドのことを考えたらいきなり、ものすごいダウンウエーブがやってきて、あとは垂直降下」
やつは前髪をあげて見せる。でかいバンソウコウが貼られていた。中央に血がにじんでいる。
「おれはよく覚えてないんだけど、なにか叫びながら床に頭をぶつけてたらしい。それで気がついたらこの病院にいたんだ」
そうかといった。ほかに返事のしようがない。
「やっぱり新型のほうが飛びはいいの」
やつはうなずいた。
「そりゃもう、プロペラ機とロケットくらい違う」
「どうすればスネークバイトって手にはいるんだ」
やつは困った顔をする。
「そいつが問題なんだ。ネットではめったにほんものがでてこないし、結局ヘヴンのオーガナイズするレイヴにいくのが手にいれる一番の近道なんだ。まあ、クスリ好きのやつはクスリ好きがわかるから、レイヴで会ったどこかのジャンキーに今日は緑のヘビ見てない? なんてきいてさ。それで口コミで会場にまぎれこんだウロボロスを探すんだな」
サインを終えてもどってきたトワコにうなずいて、おれはやつにいった。
「それって手の甲に緑のヘビの輪がある売人だよな」
やつはサイケTシャツの胸を伸ばしていう。
「トワコさん、ここにもサインちょうだい。でもさ、六本木や渋谷の女の子のあいだで、あの緑のタトゥーがはやってるから、それだけじゃわかんないかもよ。グリーンって刺青ではすごくむずかしい色なんだけどなあ」
おれはサインするトワコの横で立ちあがり、最後にきいてみた。
「最低のバッドトリップをくらっても、まだスネークバイトをくうのかい」
サイケTシャツはいじわるなネコのように笑ってみせる。
「もちろん。今すぐでもオーケーだ。ここなら医療施設も完備してるから、どこまで飛べるか試してみたい。あんたスネークバイトもってるの」
おれは首を横に振った。なにもいうことはなかった。やつは高い金を払って新型薬物の人体実験に応募したのだ。おれにはそれをとめる力はないし、理由もないように思えた。おれはつぎのジャンキーに話をきくために白いベッドを離れた。
病室にいた六人の話はみな似たようなものだった。ある種の人間はなにかに一度はまるとそこから抜けだせなくなるのだ。酒、タバコ、ドラッグばかりじゃない。TVゲームや金もうけや恋愛だって同じようなものだ。近ごろの人間はみなひどく洗練されているから、必ずなにかひとつ依存の対象を用意しておくのがエチケットらしい。そうでないとパーティで会話の輪にはいれないのだろう。
おれだって例外ではない。おれが依存するのは、きっと池袋のストリートやコラム書きや匿名の探偵業なのだ。街の裏側をのぞくことで、退屈な果物屋の店番から自分を解放する。危険なこともあるし、快感だってある。ジャンキーたちとなにも変わらない。
おれは複雑な気分で病室を離れた。トワコといっしょに一階にもどる。エントランスの横にあるサンルームのような喫茶店にはいった。おれはカフェラテ、トワコはミネラルウォーターを頼んだ。一番気になっていることから義足のモデルにたずねた。
「おれにはどう考えても、ヘヴンとウロボロスが無関係とは思えない。イッセイって誰なんだ。事実を隠されたら、おれにはウロボロスをとめられないよ」
トワコはペットボトルから直接ひと口のんだ。なめらかなのどが動く。のど仏が女にないのがおれには不思議だ。
「しょうがないか、でも警察にはないしょにしてよ。佐伯《さえき》イッセイってソウメイさんといっしょにヘヴンをつくった創立メンバーなんだ。十年まえにヨーロッパで始まったレイヴ運動を日本でも根づかせようって組織をつくった。最初のころは仲がよかったらしいけど、成功してからだんだんヘヴンの雰囲気が変わって、イッセイさんは離れていった」
なるほど。ほとんどの組織はうまくいかずに努力しているあいだはダメにならない。腐り始めるのはたいてい成功してからだ。トワコは昨日の夜よりやつれた顔をしていた。美人は得だと思った。研がれたように美しさが一段鋭くなっている。
「続けてくれ」
「もともとソウメイさんは外部からの資本を導入してもいいから、レイヴをもっと一般に広めたいと思っていた。イッセイさんはそれとは反対で、レイヴの精神的な面や文化的な価値を薄めずに大切にしていこうという考えだった。でも、最初に広告代理店と組んだ野外レイヴの成功で流れは決まった。今から三年くらいまえのことね。イッセイさんはヘヴンを抜けて、ドラッグの世界からレイヴにかかわるようになった。LSDやコカインを超える力をもったあのミドリのやつで」
八月の日ざしのしたで冷たいコーヒーをのむ。思わずつぶやいた。
「……スネークバイト」
「そう。昔イッセイさんに直接きいたことがあった。あの尻尾をくわえるヘビの輪、ウロボロスのマークは、永遠に醒めない夢、終りのない知恵のシンボルなんだって。わたしがモデルとしてデビューしたときに、永遠子という名前をつけてくれたのもイッセイさんだった。ソウメイさんは現実主義者で、イッセイさんはロマン主義者なんだな」
現実のまえにロマンチックな人間が敗れる。ヘヴンの歴史は世界の歴史と変わらなかった。
「だが、こうして被害者がでた以上、スネークバイトもイッセイとかいう男も、そのまま野放しにしておくわけにはいかないだろう。ヘヴンだって警察からマークされたら、好きなようには活動できなくなる」
トワコはうなずいた。
「そうだね。今回の騒ぎでスポンサーがびびってるかも。ソウメイさんは警察で知らん振りしてくるっていってたけど、つぎにヘヴンの主催するレイヴで同じことが起きたら、もうおおがかりなレイヴをオーガナイズするのはむずかしいかもしれない」
おれはいった。
「それが案外やつの狙いなのかもな。手づくりレイヴの時代にヘヴンをもどす。そうでなければなにもかもダメにする」
会社や政党、学生のサークル活動だって同じだろう。ソウメイとイッセイのあいだには、日本の組織ならどこでもおなじみの近親憎悪があるのだ。おれはじっとサングラスのしたのトワコの目の動きを観察した。
「あんたはイッセイと仲がよかったらしいけど、連絡は取れないのか」
トワコは首を横に振った。鎖骨の影は交互に深くなる。嘘はついていないように見えた。
「むこうから一方的に電話がかかってくるだけ。誰もイッセイさんをつかまえられない」
そのときトワコはおれの背後でなにかに気づいたようだった。ちいさく手を振る。おれが振りむくと、ひざまであるオレンジ色のワンピースを着た男がこちらにむかってくるところだった。濃い頬ひげのなかに白い歯が見える。ピースフルな笑顔だった。ハーレクリシュナ教徒か、こいつ。トワコはテーブルの横に立ったビーチサンダルの男をおれに紹介した。
「この人はわたしのボーイフレンドで岡崎英樹」
おれがうなずくと、ヒッピーのような男はうなずき返してきた。弱さとやさしさを感じさせる笑いだ。
「それで、こちらが池袋のストリート探偵でマコトくん」
きっと名字は忘れているのだと思った。男を見ていてトワコのライヴのVIP席で見かけたような気がした。おれはいった。
「あんた、レイヴの会場にいたよね」
男はぼんやりと笑ってうなずいた。ここにも夢見るジャンキーがひとり。話にならない。トワコが代わりに返事をする。
「ヒデキはわたしのステージには必ずきてくれるの」
ばからしくなって、お幸せにというのはやめた。
「最後にひとつききたいんだけど、あんたの腹のタトゥーにはどういう意味があるんだ」
トワコは座ったまま男を見あげた。おれの存在など無視して視線がしばらく絡みあう。
「それはまた今度ね。話すと長くなるから」
その場でおれにできることはもうないようだった。ふたりを残して中央病院のカフェを離れた。なぜかひどく虚しく感じながら。きっとなにもいいことがないままおれの八月がすぎていくのが淋しいのだろう。「ぼくの夏休み」はどこにいった?
センチメンタルな探偵。
夕方に池袋にもどった。会社員の酔っ払いがいない日曜日はうちの店の定休日。おふくろはまたどこかの劇場にいって芝居でも観てるに違いない。店の二階には誰もいなかった。うちの親子は休日にはまったくの音信不通になる。
おれは古いクーラーのききが悪い四畳半を抜けだして西一番街におりた。昼間の熱気が敷石に残って、裸足で歩いたら火傷をしそう。ウイロードをくぐりPダッシュパルコのまえに顔をだす。思ったとおりエディはオールナイトで踊ったくせに、その日も通りで客引きをやっていた。
クスリの威力もあるのだろうが、日曜日は池袋もガキが多く、かきいれどきなのでしかたないのだろう。おれがそばにいくとやつは踊るように手を振った。関節がひとつ多いんじゃないかというリズミカルな振りかた。
「エディ、ちょっと話をきいていいか」
疲れているようだが、やつはカフェラテ色の顔いっぱいに笑ってみせた。
「なんでもきいてよ。ついでに新しいステップも教えてあげようか」
おれのダンスはぜんぜんいけてなかったのだろうか。エディはまた路上で踊りだそうとした。
「それはまたにして、スネークバイトの話をききたい」
そういうとやつの顔が真剣になった。
「ふーん、なにが知りたいの」
「おまえの知ってること全部」
わかったとエディはいい、おれたちは駅まえの交差点をわたったところにある談話室滝沢(そういうすごい名前の喫茶店が東京のあちこちにある)に移動した。
エディはレモンスライスの浮いたコーラをのんでいう。
「ドラッグの危険についてみんな騒ぎすぎだよ」
やつはコーラのグラスを目の高さにあげてみせた。
「コカ・コーラのコカってコカの葉っぱの意味なんだ。あのコカインの元になる葉っぱだよ。昔はこのコーラのなかにもコカの葉の抽出成分がしっかりはいっていた。中毒性を疑われて、ずいぶんまえにやめちゃったけどさ」
また別なドラッグ愛好家によるドラッグ擁護論だった。
「そういうのはどうでもいいんだ。今のおれに興味があるのはスネークバイトと卸元のウロボロスだけだ。あのミドリのやつはいつごろでまわったんだ」
エディは氷をばりばりとかみ砕きながら眉をひそめる。
「おととしの夏くらいじゃないかな。最初はネットのドラッグサイトで、日本製のすごいクスリがあるらしいって噂になっていた。Lより強力な幻覚作用があって、Sより厳しくぴきっと醒める。Xより値は張るけど、依存性もほとんどない。そんな噂だった」
「ふーん」
おれは中高年むけの静かな談話室でレモンスカッシュを半分のみ干した。もうコーヒーはたくさんだった。おれの反応が不満だったらしい。エディがいった。
「ふーんじゃないでしょう。ウロボロスはすごいよ、リスペクトしちゃうね。だって二年間も質のいいミドリを安定供給してんだから。さすがに日本ものだよ」
おれには意味がわからなかった。エディはウエストポーチから、ピルケースを取りだした。やつのは青いプラスチック製。細かい仕切りからオレンジ色の錠剤をひと粒つまんだ。おもてにはターバンをした男の顔が浮き彫りになっている。おれは便所で会った売人の言葉を思いだした。
「そいつがオレンジのインド人なのか」
エディはコーラでピルをのみこむとうなずいた。
「こんなできの悪いエクスタシーもどきだって、手にいれるのは案外むずかしいんだ。だからうちらの仲間は売人から最初にサンプルでクスリを引いてみて、質のいいものだとわかったらあるだけ買い占めちゃうんだよ。海外ものはつぎにいつはいってくるかわからないし、同じマークのクスリでもぜんぜんダメになってたりするから。あんな柄なんて毎月変わるしさ」
話がのみこめてきた。おれはピルケースのなかをのぞきこんだ。エディは隠すようにふたをしてしまう。おれはいった。
「ウロボロスはこの二年間、高品質の新型ドラッグをきちんと供給し続けている。非合法ドラッグの立派な一流ブランドってわけだ」
鞭の男の言葉を思いだす。売人は客を裏切らないものだ。企業努力と誠実さ。ウロボロスはとても日本的な密売組織だった。ピルケースをしまってエディはいう。
「そう、エルメスやグッチみたいな超一流ブランド。マコトさんにヘヴンのレイヴに誘われたときは正直うれしかった。だって今度のレイヴで今までのミドリを超える新型がデビューするって噂が飛んでたんだ」
蛇《じや》の道はヘビということか。おれはなにも知らずにタカシにとんでもないドラッグの新作発表会に招かれたことになる。お人よしの探偵。
「ほかにウロボロスの噂はないか」
「いくつかあるよ。ウロボロスは製造直販で、ほかの売人たちにスネークバイトを卸したりしないらしい。あそこのメンバーから買うやつだけが、正規のミドリなんだ。ヤクザの団体が全国展開で売りだしたいといって接触したけど断られたんだってさ」
またふーんといいそうになったので、あわてておれはいった。
「ずいぶんしっかりした組織なんだな」
エディは胃のあたりに手をあててうなずいた。
「今のインド人イマイチだったみたいだ。胸がむかむかする。ウロボロスは結束が固くて裏切り者を絶対許さないらしい。スネークバイトの成分表をもって逃げようとしたメンバーは行方不明になったままだってさ」
「おまえ、佐伯イッセイって名前知らないか」
エディは首を横に振った。
「知らない。でも、なんでもウロボロスの工場にはとんでもないドラッグづくりの天才がいるって噂だよ。普通ドラッグデザイナーって、化学に強いケミカル系か漢方薬みたいな自然ものに強いナチュラル系に分かれてるんだけど、ウロボロスのデザイナーは両方ともばりばりなんだって。それがスネークバイトの秘密かもね。悪い、マコトさん、おれちょっと便所いって吐いてくる」
そういうと腹を押さえながらエディはボックス席を立った。おれは背を丸めるやつのうしろ姿を見送り、千円札を二枚テーブルにおいて談話室をでた。
日曜夕方のニュースはいつもどおりだった。全国の海水浴場であわせて八人が水死。高速道路ではタンクローリーが横転したせいで多重衝突が発生。こちらは三人即死。ドライバーは飲酒運転の疑いで現行犯逮捕されたという。そして三番手に幕張中央病院が映った。女子大をでて二、三年といった感じのマスコットのようなアナウンサーが正面をむいたまま読みあげる。
「今日未明、千葉県の幕張市で集団薬物中毒が発生しました。若者に人気の終夜ダンスパーティの会場で十二名が倒れ、最寄りの幕張中央病院に入院しています。うちひとりが死亡、ひとりが意識不明の重体です。千葉県警では主催者から事情を聴取し、薬物乱用による事件とみて捜査本部を設置しました」
映像は昼間の幕張メッセと中央病院のエントランスが短くつながれ、最後に首にタオルを巻いた女のぼやけた顔写真になった。死亡、横瀬亜由美(21)。集合写真から切り抜いたものなのだろう。ピースサインをだし、日焼けした顔でその女は笑っていた。美人でも不美人でもない女だった。広い額に日がさしていた。家族も友人もいただろうに、ミドリの粒ひとつでこの女とすべての人たちの関係は断ち切られたのだ。
幕張のニュースが終わると、セリエAに移籍した中村俊輔が練習試合でゴールを決める映像になった。おれはリモコンでテレビを消した。最悪の確率は三分の一だ。集中治療室にはいっていた三人のうち、ひとりは回復し、ひとりは植物状態で、ひとりは死んだ。そろそろおれも本気で動かなきゃならないと思った。ジャンキー同士の命がけのババぬき遊びと高みの見物をしてはいられない。
おれは自分の四畳半で上半身裸のまま机にむかった。小学生のころからつかっている傷だらけの学習机だ。CDラックから『死と乙女』を抜きだしセットする。思いつめた人間の最後のひと言のような導入部が始まった。ききの悪いエアコンに汗を流しながら、その時点でわかっていることを、ひとつずつA4のコピー用紙に記入していく。ペンはコンマ三ミリの極細水性ボールペン。文字は砂粒くらい。ヘヴンとウロボロス、それにエディからきいたドラッグ情報をすべて書きだしても半分も埋まらなかった。なにもかもわからないことだらけ。それでも二時間ねばり、布団のうえに倒れるように横になる。どうしても気になることがひとつ頭を離れなかった。
二年間順調にミドリを製造販売していたウロボロスは、なぜ急に焦ってこんな事件を起こしたのだろうか。ビジネスだけを考えれば、これまでの調子で長く続けるほうが賢明なはずだ。ブランドというのは持続することだから。きっと組織の内部でなにかが起こっているのだろうが、おれにはそのなにかがまったくわからなかった。だが、おれの勘は告げていた。
苦しみのたうつ白い腹が見えるようだ。ヘビは急いでいる。
真夜中におれの携帯が鳴った。跳ね起きて充電器から取る。
「はい、マコト」
エディの声はでたらめに明るかった。
「今夜も最高にクールだねー、マコトさん、起きてたー?」
おれもやつのテンションに負けずに不機嫌な声をだした。
「いいや、寝てた。なんだよ、こんな時間に」
「だってさ、昼間スネークバイトのことを知りたがっていたでしょう。だから、つかってみた感じを報告しようと思って」
おれは布団のうえに起きあがった。
「おまえ、ミドリをくったのか」
「うん、レイヴで手にはいったから。ウロボロスって売人のくせにみんなカッコいいんだよね」
おれの声は必死だったかもしれない。
「身体のほうはなんともないのか」
「だいじょぶ。スネークバイトくってから、もう三時間たってる。トワコのCDをヘッドホンでききながらずっと踊ってた。したの階のやつから苦情がきたくらいでぜんぜん平気だよ。でも気がついてみるとなぜか壁がケチャップで真っ赤なんだよね。あー、壁がまわって気もちいいや。マコトさん、なんで携帯から手だしてんの」
まるで意味がわからなかった。おれは焦った。
「なにいってるんだ、エディ」
「こんなちいさな送話口から手をだすなんてすごいマジックだな。手の甲で緑のヘビがぐるぐるまわってる。おもしろいなあ。だんだん醒めてきたから、明日は休みだしもう一発くっちゃおうかな」
思わず叫んでいた。
「やめとけ、エディ。今日そいつで死んだやつがひとりいるんだ。新型のミドリはやばいぞ」
「知ってるよ。死ぬのが怖くちゃ、クスリはくえない。どっちにしてもみんな、ゆっくり死ぬか、早く死ぬかの違いじゃない」
通話は突然切れて耳に痛いほどの静けさがもどった。おれはエディの部屋がどこにあるのかさえ知らなかった。こちらからかけてみたが、留守電モードに切り替わっている。なにもできずに布団で固まっているとまた携帯が鳴った。おれは叫んだ。
「エディ、もうやめろ」
不思議そうな女の声がした。
「誰、エディって。マコトくん、なにいってるの」
トワコだった。全身の力が抜ける。
「なんの用だよ」
「ヘヴンからの連絡。あさっての夜は空けといて」
「なにがあるんだ」
トワコは楽しそうにいった。
「わたしたちのシークレットレイヴ。きっとあさってにはやると思うんだけど」
自分たちでオーガナイズしておいて、日時もはっきりしないのだろうか。おかしな話だ。
「なんだそれ。やるか、やらないかもわからないのか」
トワコは平然という。
「そう、まだ場所も決まってない。商売じゃないんだから、元々レイヴってそういうもんだよ。今度のは幕張の慰労も兼ねたうちうちのやつだし、お金も取らない極秘のだから、予定の一時間まえに中止なんてことになるかもしれない。会場が地元の役所や警察にばれてダメだしされたりしてさ」
あきれておれはいった。
「それでもみんな予定の時間にその場所に集合するんだ」
「そう、シークレットレイヴは、それくらい特別なもの。わたしのステージを観たんだからちょっとはわかるでしょう」
携帯にうなずいてみせる。
「まあな」
最後にトワコは思いだしたようにいった。
「幕張の病院で意識不明になっていた男の子は、今夜十時すぎに目を覚ましたよ。もうだいじょうぶだって。それじゃ、あさってね。ソウメイさんとの打ちあわせもあるから、絶対に空けておいてね」
わかったといって電話を切った。こんな調子ではあと一週間もすれば、おれはレイヴとドラッグの専門家になってしまう。明日の朝は市場にいくために早起きしなければならなかった。ゆっくり眠れるのはあと三時間だ。
市場ではそろそろ季節が終わるスイカと走りのナシを大量に仕いれた。千葉の八日市のスイカと山梨の豊水。おれだってうちの仕事はちゃんとやらなきゃならない。だいたい探偵仕事はいつだって一文にもならないのだ。おかしなもので最初に金を取らずに始めてしまうと、途中から有料にするのは困難だった。クライアントのほうでなく、おれのなかの感覚的な問題だ。金を絡めずに自由に動くのが好きなのかもしれない。それなら依頼主に気をつかうこともない。
もともとトラブルがなくとも、ひとりで街をかぎまわるのがおれは大好きだった。事件はあってもいいし、なくてもいい。だって東京の街を歩いているだけで十分に楽しいだろ。ここではいつだって新しいものが目に飛びこんでくる。最近の都心はどこもものすごい規模の再開発をやっている。全部をマンハッタンに変えようとしているみたいだ。池袋のストリートとはひどい格差だが、あんな建設現場を見てると不景気なんて嘘みたいな話。南北問題はこの国のなかでさえ、ますます強烈になっている。
考えてみると東京の夏なんてほとんど熱帯だ。ストリートではどこかの部族のように日焼けしたガキが、肌の露出の限界に挑戦しながらうだうだと歩いている。親指メールだけやけに素早い東京の未開人たち。次世代携帯の市場としてしか経済統計にでてこない貧しい都市のトライブだ。
おれは昼すぎに店番を代わると、東口のPダッシュパルコにむかった。もうひとりの未開人に会いにいくために。だが、植えこみのまえにはエディの姿はなかった。いつもならサンシャイン六十階通りで客を引いている別な黒人の顔が見える。恐ろしく立派な鼻をした男。おれはやつにいった。
「こんちは。今日はエディいないの」
やつは腕を高く組んだままうなずいた。
「ボスが電話したけど、つながらない」
あとは肩をすくめるだけだった。めったなことでは休まないエディが無断で仕事を休んでいる。心配になってその場で短縮を押したが、エディの携帯は留守電サービスになったままだった。嫌な感じの胸騒ぎ。なぜいいほうの予感ははずれるのに、悪いほうはあたるのだろうか。
部屋にもどった。マックをインターネットにつなぎ、片端からドラッグ系の裏サイトをサーチする。スネークバイトの情報をもっと集めるためだ。だが、おれはいつだって世のなかの動きから一歩遅いのだ。どのサイトもウロボロスとスネークバイトの噂でもちきりだったのだから。
ホームページはどこも興奮に燃え立っているようだった。それも日曜日の幕張のネタなんかじゃない。ウロボロスがついにドラッグの王様スネークバイトを解禁した。都内の繁華街にいる売人から、これまでの半分の値段でミドリが手にはいる。街ではヘビのクスリが飛ぶように売れている。ほしければ今すぐ街に走れ。そんな書きこみばかり飛び交っていた。
なかにはこんな忠告もあった。ひとりで悪いほうへ飛ぶときついから、スネークバイトをくうなら何人かで集まって楽しくやろう。用意できるならH2ブロッカーのような胃薬や消化管運動賦活薬をミドリのまえにのんでおくとなおいい。ハッピートリップを祈る。
おれは警察マニアの集まる裏サイトへ飛んだ。こちらにはスネークバイト関連の情報はまだなにもなかった。警察でもまだ売人たちの動きを察知していないようだ。おれは携帯を取り、短縮を押した。めったにつかうことのないこの街のホットラインだ。
「こちら横山」
いつもながら毅然とした返事。池袋署の警察署長、横山礼一郎警視正は今日も西池袋二丁目のビルで精勤しているようだ。おれのうちからは五百メートルほどしか離れていない。
「ああ、おれ、マコト」
うんざりした署長の声がもどってくる。
「はいはい、またおまえか。で、今度はなんだ」
ゆっくりとよくきこえるようにため息をついてやった。
「おれ、毎年夏になると礼にいに飛び切りの情報をやってるつもりなんだけどな」
「おかげで去年の夏はメトロポリタンのバーで十万もつかった。おまえ、あんな高い酒、よくがぶのみしてくれたな。で、今度はなんなんだ」
おれは幕張の集団薬物中毒の話をしてやった。さすが警視庁。千葉との県境をはさんだ事件のことはほとんどなにも知らなかった。スネークバイトの話も教えてやる。署長の声が引き締まった。
「そうか、新型の薬物が大量に市中にでまわり始めたのか。いい情報だ。お手柄だな」
そんなことはいいからといって、おれはドラッグ関連の裏サイトのアドレスをいくつか教えてやった。
「生活安全課の刑事にすぐに見てみるようにいってくれ。池袋でも放っておけば集団乱用が起こるかもしれない。おれはなんとか売人の組織を追ってみる」
礼にいは心配そうにいった。
「おいおい今度は自分がおとりになるなんていうなよ。無理はするな。こちらは本庁の生活安全課を動かして、首都圏に警戒網を張る。そのスネークバイトとかいうドラッグはなんとしても押さえなきゃならないな。まだ夏休みはだいぶ残っている」
そうなのだ、ガキどもはどんなクスリにでもお気軽に手をだしてしまう。音楽がカッコよくきこえるおしゃれなクスリだなんていわれたら、頭の悪い中高生にはなんの抵抗もないだろう。礼にいには口先でうんと返事はしたが、おれは内心悲観的だった。二年以上まったく警察に知られることなくドラッグの製造直販を続けていたのだ。ウロボロスがそう簡単に尻尾をだすとは思えなかった。
「全力で警察を動かしてくれ。もうひとり女の子が死んでるんだ。売人組織がおれの思っているとおりやけになってるなら、これから何人死ぬかわかんないよ」
通話を切った。おれは呆然としたまま、燃えあがるドラッグサイトを眺めていた。スネークバイトに興奮した書きこみが目のまえで無数に増殖していく。いくらスクロールしてもぶっ飛んだ文字の列は終わらなかった。
自分の尻尾をのんだヘビのようにスレッドは永遠に続いている。
つぎの日もおれは西一番街で果物屋の店開きをした。種なし巨峰とマスカットのパックを交互に並べる。おれは巨峰は種があるやつのほうがうまいと思うが、売れゆきには逆らえなかった。みんなブドウの種を取るのさえ面倒なのだ。店の奥においてあるテレビから、昼まえのニュースが流れだした。
「都内で連続して通り魔事件が起きました」
なぜかハンサムぞろいになった民放のアナウンサーのひとりが緊張した様子でいった。おれは商売ものを放りだして十四インチのブラウン管に張りついた。画面にはアスファルトに落ちた血の跡が映されていた。まだ表面が濡れているような生々しいやつだ。センター街だろうか。HMVの看板が見えた気がした。
「今朝九時すぎから一時間半ほどのあいだに、東京の渋谷、六本木、上野の繁華街で連続して三件の通り魔事件が発生しています。これまでのところ死者はありませんが、重軽傷者八人が病院に運ばれています。容疑者はすべてその場で逮捕されていますが、急性の薬物中毒状態で意味不明の言葉を発している模様です。警視庁では背後に共通する組織や原因がないか、容疑者の回復を待って取り調べる予定です」
おれにはすぐに原因がわかった。スネークバイト、あのミドリのヘビが牙をむいたのだ。テレビを見ているとジーンズの尻ポケットで携帯がうなりだした。
「はい、マコト」
池袋署トップの声がはずみながら流れだした。
「おまえの情報が役に立った。本庁では昼すぎに新型薬物乱用事件の捜査本部を開くそうだ。スネークバイト専用のな。今日の通り魔も三人ともあのクスリをやっていたようだ。おれは警視総監からじきじきに電話をもらったよ。どんなニュースソースをもってるのかうらやましがられた。マコト、おまえ、賞状いらないか」
おれはいらないといった。あんな紙切れなどほしくない。警察から賞状などもらったら、恥ずかしくてGボーイズの集会に顔をだせなくなる。
「じゃあ、今年もメトロポリタンのバーでおごってくれよ。全部終わったらさ」
横山警視正は悲痛にいった。
「おまえは人事院の勧告なんて知らないんだろうな。公務員の給料は今年も大幅にカットされるんだ。ホテルのバーじゃなく、養老乃瀧かなんかにしないか」
おれは店先にもどりながらいってやった。
「これから先、もっといいネタがはいるかもしれないのにな。礼にいがケチるなら、よそに流すよ」
わかったわかったと署長はあわてて繰り返した。
「メトロポリタンでいい。今回は情報収集費の名目で領収書を切る。それよりちょっとうちの署まで顔をだしてくれないか。生活安全課の人間が話をききたがっているんだ」
何人か顔を知っているあの部署の刑事を思い浮かべた。ぞっとするお呼ばれだ。おれはマスカットの箱のまえに座った。
「悪いけどこっちも売人を追うのでいそがしいんだ。話をするのは、つぎの機会にしてくれ」
ちょっと待てと警察署長が電話のむこうで叫んでいた。おれは容赦なく携帯をたたんでしまう。自分からガチャ切りするのはいつだって楽しい。
その夜晩飯をくうとおれは店番にもどった。今夜は外出するとおふくろにはいってある。酔っ払い相手に夏の果実を売りつけながら、トワコからの電話を待った。おれはそうやって、スイカやメロンやオレンジなんかを売るのが嫌いではなかった。自分の店で商売をしているときは案外愛想がいいのだ。ブツをわたし、金を受け取る。スネークバイトの売人と同じで、そのあいだだけにこやかに客と接するのが、なんだかプロフェッショナルでいい気分だった。営業努力と誠実さ。今年の夏のサラリーマンは、去年よりもちょっとだけ気まえがいいようだ。
夜九時、おれの携帯が鳴った。トワコだった。
「千葉駅から内房線にのって」
またわけがわからない指令だった。おれはあきれていった。
「目隠しはしていかなくていいのか」
トワコはおれの冗談など相手にしなかった。
「館山いきの最終は千葉駅から十時二十四分発よ。それで館山の駅まえ広場に真夜中に集合する。わかった?」
おれがわかったというとトワコは急に通話を切ってしまう。ガチャ切りって相手にやられるとなぜこんなに腹が立つのだろうか。おれはときどき携帯をぶっ壊したくなる。
夜の十時半近くに千葉駅のホームに立った。改装まえの上野駅と同じで、妙に淋しい印象の駅だった。子どものころ海水浴にいく途中にのり替えたくらいで、もの心ついてからいくのは初めてだった。
だが、内房線のホームはそこだけ別世界だった。どこから噂をききつけたのかわからないが、二百人近い人間が電車を待っているのだ。レイヴ目あての客は一般の乗客とはまったく違っていた。すでに全員ハイなのだ。怖がって誰も近づいてこなかった。三割ほどは外国人で、ほとんどのやつは背中にバックパックを背負っている。JRのホームというよりは、アジアにむかう国際線の待合室のようだった。手ぶらの人間はおれをふくめ数えるほどしかいない。
なかには薄暗いホームで踊りだしているやつもいる。わけがわからないが、おれはとなりにいた金髪の外国人から紙袋にはいったボトルをまわされた。やつはのめのめとジェスチャーをする。おれは手でボトルの口をぬぐい、ひと口だけのんだ。安ウオッカでのどが焼ける。
千葉から館山までの一時間半、車内はお祭り騒ぎだった。あらゆる種類の酒ビンがでまわり、色とりどりのソフトドラッグは物々交換される。誰かのラジカセがトワコの新曲を割れるような音で流していた。最終電車は蛍光灯の光りと酔っ払いの奇声を撒きながら、東京湾沿いの暗闇を裂いて走った。
館山駅の改札係は驚きの目でおれたちを見つめていた。深夜の〇時一分に到着する電車から、これほどたくさんの人間がおりたのは初めてだろうし、そいつらの格好だって奇想天外だったろう。完全なレイヴ仕様だ。駅まえ広場は短いタクシーの列が見えるくらいで、ほとんどの商店は明かりを落としていた。地方都市のつねで妙に虚ろなスペースと夜空が間抜けに広がっている。おれは近くにいた大学生ふうの男にきいてみた。やつは目の覚めるようなブルーのヘヴンのスタッフTシャツを着ていた。
「これからどうなるんだ」
軽く酔った顔をして、外国人のように肩をすくめる。
「わかんない。誰もいき先は知らないんだ。ただ今夜ここでヘヴンのシークレットレイヴがあるときいてるだけなんだから」
駅員が構内の照明を消してシャッターをおろすと、あたりは急に暗くなった。それでもレイヴの参加者は文句ひとついわずに暗がりのなか立っていた。十五分ほどたっただろうか。駅まえのロータリーにぼろぼろのバスがゆっくりとはいってくる。難民のようなおれたちを見ると、長髪の運転手が軽くホーンを鳴らした。返事は大歓声だった。
手動のドアを開けたのはトワコだ。おれを見つけるとにやりと笑った。
「さあ、みんな、のって」
我先にとおれたちはおんぼろバスにのりこんだ。インドやパキスタンのバスのようだ。さすがに屋根までは誰ものぼらないが、乗車定員を遥かに超えた人間が押しこまれた。それでも半分の参加者が駅まえ広場に取り残されてしまう。トワコは扉を閉じながら叫んだ。
「もう一回、拾いにくるから、みんなここで動かないで待ってて」
中型バスはサスペンションをきしませながら、ロータリーを半周した。おれはトワコといっしょに最前部にあるバスガイド用のステップに立っていた。二車線のメインストリート沿いにある暗い商店街をすぎていく。バスが揺れるたびにおれは壁に腕をつっぱり、トワコの身体にふれないように力をいれた。トワコはいたずらっぽい目でおれを見る。視線の高さはほとんど同じだった。
「無理しなくていいよ。別に身体がくっついたっていいじゃん。同じバスにのって、同じレイヴにいくんだから。わたしたち、明日には親友になってるかもしれないよ」
ありがたいお言葉だったが、おれはそれからもずっと腕に力をいれ続けた。
バスは海沿いの道を二十分ほど走った。人家も信号機からも遠く離れた場所でいきなり停止する。トワコは車内の後方にむかって叫んだ。
「ここからは歩きだよ。みんな登山の用意はいいか」
イエー、やたらと元気のいい合唱が返ってくる。おれは目を丸めてトワコにいった。
「この暗闇のなか、山にのぼるのか」
トワコはにやりと笑ってうなずく。
「そう。やっぱりレイヴは屋根のあるところじゃつまらない。大自然のなかが一番だよ」
しかたなくバスをおりた。右手には波の音しかきこえない真っ暗な海。左手の山は濃紺の空を背にした影絵のようだった。街灯も階段も見あたらない。用意のいい何人かが懐中電灯つきのヘルメットをかぶり、獣道のような急坂に分けいっていく。おれもトワコといっしょにあとに続いた。やぶ蚊に刺され、枯れ草や木の根につまずきながら、じりじりと高度を稼いでいく。何度目かの折り返しで背後を振りむくと、夜空の底に丸く広がる千葉の海が望めた。おれは集団から遅れだしたトワコにいった。
「あんたの荷物もってやろうか」
義足で登山はきついだろう。だが、トワコは口をまっすぐに結んでいう。
「わたしは自分の荷物は自分でもつ。きつくなったら休むから、マコトくんは先にいっていいよ」
おれは短いピッケルをついてゆっくりと前進するトワコといっしょに、夜の山をのぼっていった。
海沿いの山の頂上は階段状の岩場になっていた。広さはバスケットコートくらい。おれとトワコは一時間半かけて、ようやくそこまでたどりついた。あちこちでポータブル発電機がうなりをあげている。ちいさなテントがひと張り、生い茂った緑を背に設置されていた。なかにはDJブースがつくられ、足元にはコードがとぐろを巻いている。両脇に積みあげられているのは、大型段ボール箱ほどのスピーカーを重ねた山。このサウンドシステムのすべてをヘヴンのスタッフが海からまっすぐに切り立つ傾斜を担いであげたのだ。おれはあきれるというより、ちょっと感動していた。やつらはレイヴが終了すれば、明日の午後にはすべてを担いでまた山道をおりていくのだろう。
当然、幕張のときのような派手なレーザー光線も、コンピュータ制御のスポットライトもなかった。照明はテントのしたの裸電球がひとつだけ。まだ音楽は始まっていないから、期待に満ちた参加者のざわめきと気の早い秋の虫の鳴き声が周囲を包んでいる。おれはぐったりと腰をおろしているトワコをおいて、御厨を探しにテントにむかった。
その夜のDJ(日本とオランダとイスラエルの有名なやつらしいが、おれはひとりも知らない)と話しているヘヴン代表に声をかけた。やつは身体にぴたりとあった忍者のコスプレみたいなボディスーツ姿だった。
「ちょっといいかな」
おれが声をかけると、やつは異様に濡れた目でこちらを振りむいた。不思議に思ってきいてみる。
「泣いてるの、御厨さん」
天国の代表は涙目で笑った。
「クスリによっては妙に目が乾くことがあるんだ。今、目薬をさしたところだ。そんなことより、ようこそシークレットレイヴへ。これがヘヴンのほんとうの姿だよ。楽しんでいってくれ」
おれはあきれていった。
「幕張であんな事件が起きたあとでも、レイヴだけはちゃんとやるんだな」
「もちろんだ。存在のまま荒れ狂うのがレイヴの本質だ。きみはなにがあったって、存在するのをやめられないだろう」
もっともな台詞だった。おれたちはテントの外に移動した。あたりに人がいないのを確認しておれはいった。
「スネークバイトが街中にでまわっているのを知っているか」
御厨は幸せそうな笑顔のままうなずいた。
「知ってる」
「じゃあ、今日の午前中にあった三件の通り魔事件については」
ソフトドラッグで完全に決まった代表は無邪気に首を横に振る。
「今日は一日ここにいたからな。通り魔がどうしたんだ」
おれは礼にいからもらった情報をすこしだけ流してやった。
「三人とも新型のスネークバイトをくってたらしい。警察では薬物乱用事件として捜査本部をつくったそうだ。むこうももう本気だよ。御厨さん、これまでミドリをくって突然凶暴になったりしたジャンキーはいなかったのか」
やつの表情はいきなり空白になった。クスリでいかれた頭が、嫌なことを考えたがらないのかもしれない。ゆっくりと首を振る。
「いいや。飛びと依存性は強烈だといっていたが、あったとしても酔っ払いのケンカ程度の話で、通り魔に豹変したなんてきかないな。誰か犠牲者はでたのかな」
おれは正面からヘヴン代表の目をのぞきこんだ。やつは不思議そうに見つめ返してくる。鈴虫の鳴き声がきこえた。
「死人はでてないようだ、まだ今のところはな。おれはなぜこれほどウロボロスが焦っているのか、その理由を知りたい。あんたは佐伯イッセイと古い友達だそうだな。なにか組織のなかで変化があったのか」
ソウメイはうんざりしたような顔をした。暗がりに目をそらす。
「この三年くらい、彼とは話をしていない。電話でさえね。口をきけば、レイヴの本質に返れなんて説教ばかりするんだ。自分は最悪のドラッグを売ってるくせにね。いつまでもヘヴンにつきまとって、イッセイにも困ったものだ」
確かにウロボロスはヘヴンにくっついたストーカーのようなものかもしれない。コバンザメでなくコバンヘビ。だが、こいつは猛毒を周囲に撒き散らす。御厨は思いだしたようにいった。
「うちのスポンサーが騒ぎだしている。つぎの商業レイヴは九月一日の日曜日にあるんだが、それまでにスネークバイトは片づかないだろうか」
おれは頭のなかで悲鳴をあげそうだった。そうなるとあと二週間ほどしかない。御厨は他人事のようにいった。
「今度うちが主催するレイヴで薬物事件が起きたら、代理店がスポンサーを総引きあげするというんだ。そうなると、いくら日本のレイヴのパイオニアなんていわれていたって、大規模なレイヴはもうオーガナイズできなくなる。うちはスタッフもけっこう抱えているからね。失業したらみんな今の世のなか厳しいだろうなあ」
経済ニュースで不況のきつさを指摘する大学教授のようだった。人間は他人の痛みはいくらでも耐えられるということか。おれは腹が立ってきた。
「二週間でそううまくウロボロスが片づくか。だいたいあんたはいつだって、そうやってドラッグを決めては浮世離れしたことをいう。本気で売人たちを締めだす気があるのか。それに街にでまわったスネークバイトはどうするんだ。このまえのレイヴで死んだ女の子や、通り魔に刺されたやつらに、ヘヴンはなんの痛みも感じないのか。あんたには想像力が欠けている」
御厨は困ったようにいう。裸電球にたくさんの蛾が羽をぶつけていた。
「わかってるさ。だけど、ぼくになにができる。毎月のように新しいレイヴをオーガナイズするだけで、こっちは全力疾走なんだ。ゆとりなんてぜんぜんない。レイヴがなんであるかまったく知らない自治体やクライアントに説明し、必死で客を集める。たいした利益もないのに、毎月三分の一は徹夜仕事だ。それでもヘヴンは商業主義だ、資本家の犬だと悪口をいわれる。ヤクでもやらなきゃやってられない」
おれたちはだいぶ興奮していたようだった。日本語のよくわからない外国人が目を丸めてこちらを見ていた。御厨は意志の力で笑顔をつくっていう。
「こんなときにいい争っていてもしかたない。マコトくん、ヘヴンには最高のレイヴをオーガナイズするしかできることはない。きみはなんとか二週間以内にウロボロスをとめる方法を考えだしてくれ」
おれはゆっくりとうなずいていった。
「もしダメだったら」
「しかたない。ヘヴンは解散だ。みんな地上におりて自分の道を見つければいい」
御厨はそういうと手をさしだしてきた。おれはやつの手を軽くにぎった。力仕事をしたことのないやわらかな手。御厨の目はまだ濡れたように光っている。
「用意ができた。そろそろシークレットレイヴを始めよう。楽しんでいってくれ」
おれはテントを離れ、トワコのところにもどった。腕時計を見る。Gショックの蛍光塗料は午前二時すぎを示していた。トワコは立ちあがっていう。
「ソウメイさん、なんだって」
あたりは真っ暗で顔をすぐ近くに寄せなければ表情がわからなかった。トワコの息がおれの頬にかかる。なんで女の息って甘いんだろう。
「あと二週間でウロボロスをとめなきゃ、ヘヴンは解散かもしれないってさ」
「そう、それは残念だな」
どいつもこいつもお気軽なものだった。そのときおれにはあたりの山並みがぐらりと歪んで見えた。PAから身体を震わせるほどの大音量でシンセサイザーが流れだす。音は幾重にも重なり、ゆらぎ、めくれ返っていった。休んでいたやつも跳ね起きて、ざくざくと踊り始める。あたりに土ぼこりが舞うのがわかった。汗だくの二百人が踊りだすと、泥とアルコールのにおいがする。もうおれもやけになっていた。トワコといっしょに暗闇のなか、黙々とステップを踏んだ。トワコは義足のつま先を地面に蹴りこむように踊っている。ときどき誰かの懐中電灯がチタンのシャフトにあたり鋭い光りを跳ねた。
ノンストップでつながれた曲が二十分も流れると、おれはもう面倒になり考えるのをやめてしまった。音楽と山頂の風、揺れる木々と山の生気、でたらめに星を敷き詰めた空にむかって心を開く。
どうせいいアイディアなど、すぐにでるはずがないのだ。おれは夜のいただきで名前のない人間になって踊り続けた。
一時間ほどしただろうか、トワコがおれの耳元で叫んだ。
「マコトくん、話がある」
おかしな顔をしていると、トワコはおれの手を取って歩きだした。平らな山頂をはずれ、十メートルほどしたの岩棚におりる。そこは斜面の海側で、眼下には一枚の黒い鏡のように太平洋が広がっていた。
「のむ?」
トワコがミネラルウォーターをさしだしてきた。サンキューといって三分の一ほど一気に空けた。あきれたように彼女はいう。
「みんな水くらい用意してるのに、マコトくんはほんとになにももってこないね」
「こんな山のなかだなんて、ぜんぜん知らなかった」
おれたちは岩肌にもたれた。頭のうえを大音量のレイヴ音楽が風のように流れていく。トワコはホットパンツから伸びた左足をマッサージしている。
「義足のほうをかばうから、どうしても健康なほうが痛くなるんだよね」
金属のシャフトと伸びやかに筋肉のついた生身の足の対比が妙にセクシーだった。おれは海のほうに目をそらせた。
「あんたって強いな」
マッサージを続けながらトワコはいう。
「そうかもね。でも最初から強かったわけじゃない」
「それって、あのタトゥーの日づけになにか関係あるの」
トワコがちらりと目をあげた。暗闇のなか白目だけが冴えている。
「ほんとに知らないんだ。わたしもまだまだだな。けっこうあちこちのインタビューで話しているんだけど」
自分でもやったことがあるからわかるのだが、インタビューは一時間を五分につまむ作業だ。エッセンスだけではわからないことが世のなかにはたくさんある。おれはまっすぐにトワコの目を見つめた。
「あんたの口からききたいな。話してくれ」
「わたしは十六で事務所にスカウトされてデビューした。最初の数年間はごく普通のかわいこちゃんモデルだった。ハイティーンの女性誌専属のね。カメラマンのいうとおりにポージングして、メイクさんから化粧の方法を習い、スタイリストに新しいファッショントレンドを教えてもらう。たまに芸能人が顔をだすブランドのパーティなんかにいくのが大好きって感じ」
泡粒のように浮かんでは消える無数のモデルたち。なかには例外もいるが、たいていの子の寿命は昆虫並みに短い。
「このままでほんとにいいのかなって迷っていたときにヒデキと出会った。五年まえの夏だった。場所は神宮前で友人のデザイナーがやってるちいさな広告事務所。みんなが業界の噂話や芸能人のゴシップなんかに夢中になってるのに、ヒデキはぜんぜん違っていた。なんかね、存在感がクリアだったんだ。インドの話にドラッグと魂の話。わたしのファッションがエスニックやネオサイケになり、実家をでてヒデキといっしょに暮らし始めるまでたいした時間はかからなかった。ティーン誌をやめて、大人の仕事をしようってショーモデルのオーディションも受けたけど、そのころ壁はなかなか厚かったな」
おれは雑誌の仕事なんかもしてるから、そっちの世界のこともすこしはわかる。コネと運と実力がきっちり三分の一ずつ求められる世界なのだ。かたわらの青草を引き抜き、口にくわえた。青苦い香り。
「ヒデキと最初にインドにいったのは九八年の五月だった。ゴアはアラビア海沿いの有名なリゾート地で、レイヴの発祥地のひとつなの。アンジェナビーチで部屋を借りたんだけど、一日中ヤシの木の砂浜でごろごろして、レイヴの噂を集める。あっちのレイヴって中心になる何人かがお金をだして勝手にセッティングするから、基本的にはすべて無料なの。街にはいつもレイヴの噂が飛び交ってる。だってゴアってレイヴとビーチとドラッグ以外なにもないところだから。それで世界中から集まったレイヴァーがインドの蠅みたいにレイヴの噂に群がってくる。わたしたちもホンダのバイクをレンタルして、毎晩のように噂の現場に飛んでいった。ほとんどは空振りだったけどね」
トワコのホルタートップの脇から締まった乳房の丸みがのぞいていた。彼女はぜんぜん気にしていないようだ。おれのほうが緊張してしまう。
「じゃあ、今夜みたいなのがほんとうのレイヴに近いんだ」
「そう、ただで、宣伝もなくて、口コミで広がる自然発生的なパーティ。動員人数だけを競うロックコンサートとはおお違い。それでゴアについて二週間くらいして、あの日がやってきた」
おれは一度目にしたら忘れられない数字をいった。
「1998/5/25」
「その日は前日からチャポランビーチですごいレイヴがあった。ヒデキとわたしは物乞いの子どもやアシッド売りを無視して、砂まみれで十時間踊り続けていた。マコトくんにも見せてあげたかったなあ。アラビア海にさす夜明けの最初の光り。すごく透明でX線みたいに汚れた身体をとおって、内側から肉体をきれいにしてくれるんだ。レイヴが終わったのが二十五日の昼すぎ。ヒデキはまえの夜から切れ目なくドラッグをのんでたから、最後にダウン系のクスリで締めようとしたのかな。売人からなにか買って一気にのみこんだ。それがよくなかったみたい」
トワコのため息に嫌な予感が走る。おれはじっと彼女の横顔を見つめていた。
「バイクで部屋に帰る途中から、ヒデキの運転がおかしくなった。むこうの道は日本と違って舗装なんてしてないから、センターラインもないの。ヒデキは右に左に蛇行しながら、フルスロットルで走っている。わたしには遠くに土ぼこりが見えて、トラックが近づいてくるのがわかった。トウモロコシを満載した錆《さび》だらけのトラック。気をつけてといったけど、ヒデキはなにかわからないことを叫びながら、まっすぐトラックに突っこんでいった」
レイヴの強烈なビートが子どもだましに感じられる間があいた。トワコは淡々と話す。
「事故の瞬間はなにがなんだかわからなかった。右足が焼けるように熱かっただけ。わたしはすぐに気を失って、気がついたら病院のベッドだった。ヒデキもいちおう入院していたけれど、トラックのバンパーで横に跳ねられた彼には打撲傷があるだけだった。わたしは運が悪かったんだ。あとからきいたら、バイクといっしょにトラックのしたに巻きこまれたんだって。右足の大腿骨のまんなかから先を、ミキサーにかけたように粉砕骨折してしまった。日本の医療技術なら右足を残しておくことができたかもしれないけど、インドの地方の病院では命を守るためには切断するしかなかった。それでわたしはつぎの日、片足を失った」
トワコは含み笑いをしてみせる。
「最初の一年は笑っちゃうくらいつらかった。友達もたくさんなくしたし、家族の顔も見たくない。何度も自殺しようとしたよ。モデル事務所なんて首と同じ長期休養扱い。でも、わたしがどんなに荒れても、ヒデキはいつだっていっしょにいてくれた。なぐっても、熱いスープをかけても笑っている。もっと荒れてもいいんだよ、トワコの苦しみをぼくにも分けてくれって。それで、ある日思ったんだ。右足をなくしたくらいで、人生を全部投げ捨てちゃいけないって。わたしは死ぬほどがんばってリハビリをやった。もう一度ショーのステージに立つ。あのライトを浴びる。今のわたしならかわいこちゃんモデルには表現できないことを、きっと全身でみんなに伝えられる。そう信じていた。お腹にタトゥーを彫ったのは、復帰初の仕事の前日だった。あの日を絶対忘れないためにね。だから、この刺青はわたしが右足を失い、今のトワコとして生まれ変わった日なんだ。わたしの二度目の誕生日」
トワコはホットパンツのうえの腹をなで、おれに白い歯をみせた。
「これはね、お涙頂戴の話なんかじゃないよ。わたしは今では足がないことを感謝してるくらいだな。気分でおしゃれな義足につけ替えられるし、義足を見た人はわたしのことを決して忘れない。だって片足のファッションモデルって世界にひとりだけだから。わたしはパリでもニューヨークでもステージを踏んできたから、それはよく知ってるんだ」
そういうとトワコは前歯をすべてむきだしてみせた。凶暴なほどの笑顔。だが、その笑いがおれの心に火をつけた。いいだろう。誰もヘヴンを守れないなら、おれがウロボロスからあんたを守ってやる。おれはトワコと同じ笑いをつくっていった。
「よかったな。それで、あんたはあのヒデキって男と四年たった今もラブラブなんだ」
トワコは肩をすくめた。
「なにもかもそううまくはいかないよ。ヒデキはもうわたしにはあまり興味がないみたい。この二年くらいわたしたちってセックスレスなんだ。愛はなくなったけど、情だけは残ってるって感じかな」
たったひと言が地雷のようにきいた。おれはほとんど身動きできなくなる。
「やつってなんの仕事をしてるの」
「よく知らないけど、デザイナーみたいな仕事」
「そうか」
トワコは腕時計をちらりとのぞき、うわ目づかいにおれを見る。白目はナイフのように光っていた。
「ねえ、マコトくんていくまで時間がかかる人」
そんなことが即答できるはずがなかった。おれはかろうじて心臓麻痺を起こさずにこたえた。
「ときと場所と相手による」
「なんだか昔の話をしたら、わたし、だんぜんやる気になってきちゃった」
暗闇のなかトワコの顔が近づいてきた。体温の輻射が感じられる距離になると、トワコはかすれた声で囁いた。
「今なら夜明けまで時間があるんだけど、わたしとならどうか……」
おれはそれ以上トワコが話さないように唇で唇をふさいだ。
それはシャワーもトイレもエアコンもない場所でのセックスだった。夜の山と潮風、濃厚な夏草のにおい。星は揺れて、崩れ落ちようとしている。おれの足にふれるチタンのシャフトの冷たさともう片足の熱さがしびれるようだった。ただのHではなく、宗教的な儀式みたいだ。どこかの山の頂上で神々に奉納するセックス。おれは必死で動きながら、こんなふうに人類は命をつないできたんだと思った。あたりに人がいなければ夜空にむかって吠えてしまいそうだ。
トワコの身体は細くしなやかだった。おれはどこかの知事と違ってしなやかなんて言葉は嫌いだ。だが、なめらかに伸びるトワコの胸から腰の線にふれたら、しなやかという言葉以外はでてこなかった。最初はおれがのったが、すぐにトワコがうえに替わった。地面が岩場なので背中が痛いのだ。
おれはトワコの乳房のした側の丸さと星空を見あげながら、深々と射精した。トワコはおれの胸に崩れるといった。
「やっぱり、レイヴもセックスも外が最高だな」
山頂から遠くダンスビートがきこえた。トワコの汗とおれの汗が肌のあいだで溶けあっている。なぜかおれはおかしくてしかたなかった。
「いつもちゃんともってるんだ」
トワコはゆっくりと身体を起こした。おれの頬に手をあてる。
「うん。海外にいくときなんて、むこうのは信用できないから。ちゃんと日本製のコンドームをもっていくよ。乙女のたしなみだね」
ちらりと腕時計を見る。トワコはいたずらっ子のようにいった。
「まだちょっと時間があるみたい。マコトくん、もう一回する」
おれは笑って首を振り、トワコのやわらかな髪をくしゃくしゃになでてやった。
別々にレイヴにもどったのは、それから三十分ほどしてからだ。ぐったりと疲れたトワコが先にいってといい、おれは土まみれで踊り狂う二百人に合流した。おれたちがいないあいだに音楽のビートはますます速くなっているようだった。欲望を解き放ったばかりのおれは軽々と鳥のように踊った。周囲は真っ暗で誰もおれのダンスになど興味はない。おれがいくら華麗に踊ろうが、モグラやネズミのダンスと変わりはしなかった。
しばらくしてトワコがおれのとなりで踊りだした。手を伸ばすと頬がバラ色に熱をもっているのがわかった。おれたちはときどき視線だけで秘密を分かちあい、うなずいては笑った。トワコが海のほうを指さして叫んだ。
「見て」
振り返っておれも見た。東の海のうえに色鉛筆で引いたような明るい青い線が走っていた。その青さが海のうえにゆっくりと広がっていく。誰かが空の扉を無理やりこじ開けていくようだった。曲が替わった。ピアノの轟音がPAを震わせ流れだす。踊っていたみんなが、頭のうえで手をたたいた。
「これ最近の夜明けの曲なんだよ。もうだんぜんカッコいいの」
きらめくように澄んだピアノが小鳥の鳴き声をまねていた。新しい朝をよろこぶ歌だ。おれはトワコの耳元で叫んだ。
「知ってる。メシアンだろ。『鳥のカタログ』だ」
おれのもっているCDと同じ演奏のようだった。ピアノはアナトール・ウゴルスキーというロシア人。三時間を超える大作をすべて暗譜で弾き切ったと評判になったCDだ。作曲家のオリヴィエ・メシアンはフランスの難解で鳴る現代音楽の巨匠。ほかではあまりきくことのない曲だった。おれはトワコに叫んだ。
「こんな曲がレイヴでかかるんだ」
トワコは当然という顔をしてうなずく。
「クラシックもジャズも、ソウルもロックも関係ない。その曲がソリッドで美しければそれで十分。芸術だエンターテインメントだって、そんなものにしがみついていたらダメ。今どきジャンルで音楽を分けるやつなんて、みんなイモだよ」
そのとおりだった。おれはシャワーを浴びるようにPAで増幅されたピアノの音に肌をさらしていた。ウゴルスキーの弾く和音は鋳鉄のフレームがきしむほどのフォルテッシモでさえ透明さを失わない。やつがピアノをぶったたくたびに、夜明けの海のうえに高さの違う水晶の柱がつぎつぎとそびえていくようだった。おれたちは汗と泥にまみれ、朝の光りを待ちわびる原始人にもどり、山のいただきで踊り続けた。
おれは異様にクリアになった夜明けの意識で考えた。宗教が死に、左翼の社会思想が死に、七〇年代以降の異議申し立てはことごとく挫折した。もう現代はこうして意味なく踊り狂うことでしかエクスタシーを共有できない時代なのだ。
レイヴの陶酔は確かに強烈だが、どこにもいくあてのない陶酔だった。おれは山のてっぺんで踊りながら、エディの言葉を思いだしていた。世界が変わらないなら、自分が変わるしかない。おれはレイヴカルチャーがやすやすとドラッグに犯されていく理由がわかった気がした。
みんな難民のようにぼろぼろになって、昼まえに館山駅にもどった。おれたちがのりこんだ内房線の車両は家畜運搬用の貨車のようなにおいだ。ほかの客はとなりの自由席に逃げていった。
トワコとは東京での再会を約束して駅まえで別れた。ヘヴンの車で帰るという。おれが池袋についたのは午後二時だった。気温は髪の焦げる音がきこえそうな三十六度。徹夜で踊ったうえにトワコを抱いたりしたから、体力はもうリザーブタンクの底にすこし残っているくらい。早く自分の部屋で眠りたかった。だが、山手線のホームの階段をおりようとするとおれの携帯が鳴った。
「はい、マコト」
「おまえ、エディって呼びこみのガキを知ってるな」
数日ぶりのタカシの声だった。
「ああ、それがどうした」
タカシは焦らずにゆうゆうといった。
「あのガキがスネークバイトを池袋で売っていた。サンシャイン六十階通りのまんなかでだぞ」
おれは叫び声をあげそうになった。ジャンキーが売人になる。最悪の出世コースだ。あがりは檻《おり》のなかか中毒死。
「やつをどうした」
タカシは低く笑った。
「まだどうもしていない。縛って転がしてあるだけだ。あとはおまえに相談だ。エディをどうする?」
おれはタカシに場所をきいた。Gボーイズのクラブだった。あそこならタクシーでいくより歩いたほうがずっと早い。おれは登山とダンスでふにゃふにゃになった足に気あいをいれて、のろのろと池袋駅構内を走りだした。
「ラスタ・ラブ」は東池袋一丁目、テアトルホテルの裏にある雑居ビルの地下一階だ。おれが階段をおりていくとGボーイズのウエイターがハンドサインをだした。ドレッドヘアにラスタカラーのTシャツ。見張りなのだろう。軽くうなずいて黒塗りの扉を引き、店内にはいる。めずらしく照明がついていた。この店はいつもならブラックライトに壁の落書きが光るコンクリートの黒い箱だ。
おれはガラスの壁で仕切られたVIPルームに急いだ。タカシは赤いベロアの円形ソファに背中を倒していた。おれを見ると冷たく笑っていう。
「どうしたんだ、その格好。どこの火山から避難してきた」
おれは汗と泥でべたべたのTシャツを見おろした。視線の先にはエディが縛られている。やつはおれに気づくと口に押しこまれたボールギャグからよだれを垂らして叫んだ。
「マコトさん」
おれはエディの横にひざをついた。やつの上半身を起こしてやる。口の詰めものをはずしてタカシにいった。
「ちょっと手を貸してくれ。やつをソファに座らせたい」
タカシがうなずくと近くにいたGボーイがエディの両脇に腕をいれ軽々ともちあげた。ソファのうえに落とす。ドラッグ好きの呼びこみは二、三度跳ねてから落ち着いた。おれはやつの正面に座り、じっと目を見つめていった。
「どうして売人なんかになった。おまえはイッセイに会ったのか」
せわしなく動いていたやつの目が自分の手でとまった。そこにおれも見た。縛られたせいか赤黒く腫れた手の甲には、自分の尻尾をかんだ緑色のヘビ。
終りなき知恵を象徴するというウロボロスの印だ。
エディは悪びれずにいった。
「イッセイさんには会ったよ。幕張から帰ったつぎの日、ドラッグ関係の裏サイトをのぞいていたら、ウロボロスの求人広告があったんだ。携帯の指令で東京中をぐるぐるまわり、何人かのメンバーと面接を重ねた。最終試験はイッセイさんのまえで、スネークバイトをくうことだった。そいつは得意だから、ぼくは合格して手にこれを彫ることになった」
右手を軽くあげてみせる。エディは左手で緑のヘビをこすった。
「なぜだ」
エディは首を振っていった。
「マコトさんにはわからないよ。だってマコトさんはドラッグがなくても生きていける人だ。世界がどんなにひどくても、平気でじっと見ていられるでしょう。だけど、世のなかそんなに強い人間ばかりじゃないんだよ。ぼくやぼくの客みたいに」
おれは強いのだろうか。たとえそうでもおれの強さなどトワコの筋金いりのしなやかさの足元にもおよばなかった。おれの声は自然にちいさくなる。
「強くなんかないよ」
タカシの視線を横顔に感じた。おれはすこしだけ声を張った。
「おれは強くない。毎日なんとか踏ん張るだけで必死だ。ここにいるGボーイズの王様だって強くなんかない」
おれがタカシに目をやると、やつはうなずいて見つめ返してきた。
「だからエディ、おまえも自分の足で立て。不幸を誰かのせいにするな。おまえが自分の足で歩けば、同じ誰かが助けてくれる。おまえが歩くなら、おれもいっしょに歩くよ」
それは夜明けに踊りながら、おれがトワコから学んだことだった。片足だろうが、片親だろうが関係ない。世界がどんなに悲惨でもおれたちは最後まで自分の足で立つ。それがストリートでしのぐには、なにより大切なのだ。おれはエディにいった。
「おまえはもう売人をやめろ。ウロボロスにもスネークバイトにも近づくな。嫌なら、ここにいるタカシに監禁してもらう」
池袋の王様はおやおやという顔をしておれを見た。温度を感じさせない声でやつはいう。
「マコト、ちょっと顔を貸せ」
タカシはあごの先をVIPルームの外にむけた。
分厚いガラス扉を背後で閉めると、声をひそめてキングはいった。
「別に監禁するのはかまわないが、それでいいのか。あのガキはどうにもならないジャンキーだが、ウロボロスとつながった細い線でもある。やつをうまく泳がせて、イッセイをたぐったほうがよくないか」
おれはうなだれたままのエディを見た。
「ダメだ。そんなことをすれば、またやつはいいように利用されたと感じる。それじゃ、あいつはいつまでたっても自分の足で歩かない」
タカシは皮肉な笑いに唇の端を歪めた。
「確かにな。それがおまえのいいとこか。だが、そんな甘いことをいうなら、ウロボロスを押さえる別の案をだせ。そうでなきゃ、やつは解放できない」
おれは言葉に詰まった。あることはあるのだが、そのアイディアは生まれてから半日とたっていなかった。細部を検討してもいない。おれの表情を見て、タカシがおもしろそうにいった。
「なんだ。あるなら話せ」
しかたなくおれはいった。
「くいつかずにはいられないエサをまき、ヘビをおびき寄せる。それで……」
タカシは鼻で笑った。
「いいじゃないか、それでどうする」
「ウロボロスの頭をたたき潰す」
ヘビは頭を潰さなきゃ死なないとおれはきいた。売人の組織などリーダーと製造元を押さえれば自然消滅してしまうだろう。タカシは近くのGボーイにいった。
「そいつを放してやれ。マコト、おれはその作戦が気にいった。で、ヘビが危険承知でくいつくエサってなんなんだ」
おれはタカシに歯を見せてやった。トワコと同じあの凶暴な笑顔だ。
「レイヴだ。タカシにも夜明けの野外レイヴの素晴らしさを見せてやるよ」
池袋の灰色の国の王様は不思議そうな顔をする。
「そんなものでほんとにやつらがくいつくのか」
おれはうなずいた。あの澄んだ夜明けを見て思いついたアイディアなのだ。あの光りをイッセイが忘れているはずがなかった。おれはいった。
「ああ、絶対にくいついてくる。ウロボロスはハードなドラッグとほんもののレイヴが大好物なのさ」
タカシはおれにGボーイズのハンドサインをだした。おれはやつの信頼がありがたかった。そこから先はしつこく細かなことをきいてこないのだ。おれにすっかりまかせたつもりなのだろう。おれのほうといえば、たとえきかれても返事はできなかった。
なにせまだなにも考えていないのだから。
おれは「ラスタ・ラブ」から携帯でヘヴンの代表に電話をかけた。御厨は寝ぼけた声でいった。
「ああ、マコトくんか」
「寝てるところをすまない。あんたは二週間以内にウロボロスを押さえたいといっていたな」
ごそごそと布のこすれる音がした。ヘヴンの代表はようやく起きあがったようだ。
「そうだね」
ここで一気に決めなきゃならないと思った。おれのアイディアはまともな人間なら相手にしないたぐいのものだ。迷い始めたらきりがない。おれは気あいをいれていった。
「ヘヴンなら大規模なレイヴを一週間でオーガナイズできるか」
御厨は言葉に詰まったようだった。
「会場は確保してあるのか」
「ああ、ある」
「スポンサーは」
おれは笑った。タカシがとなりでおかしな顔で見ている。
「そんなものはいない。だってこいつはスケールのでかいシークレットレイヴなんだ」
御厨の声がだんだんと覚めてきた。すぐに返事がもどってくる。
「肝心なのは場所と客の数だ。条件を教えてくれ」
おれはひと息でいった。
「場所は池袋駅西口、公園のある広場だ。広さはサッカー場がみっつくらい。人間は五千から一万は集まるだろう」
御厨は悲鳴のような声をあげた。
「無理だ。都心の繁華街では絶対に警察の許可はおりない」
「だから、こいつはほんもののシークレットレイヴなんだ。役人の許可など取らない。Gボーイズの手を借りて、すべての道路は封鎖する。夜中だから交通機関も動いてないし、携帯電話の電波を妨害するポータブルジャマーをばら撒いて、携帯もつかえないようにする。ウエストゲートパークをほかの世界から完全に切り離すんだ。わかるか、ヘヴンとGボーイズでひと晩だけ、いっさいの法律から解放された革命状態をつくる。どんな権力も経済力も介入しないひと夜の天国だ。イッセイはいつだってほんもののレイヴを求めていたんだろ。東京のまんなかで、おれたちがそいつをオーガナイズする。やつは絶対にくいついてくる」
御厨はしばらくぶつぶつといっていた。またエディと同じようなことをいう。
「そいつは最高にクールだな。東京の副都心で大規模なゲリラレイヴか。そうなるとうちのスタッフの何人かは警察に引っ張られるのを覚悟しないといけないな。まあ、あれは道交法違反ぐらいの軽犯罪だから、志願者はけっこういるだろう。おもしろいな、マコトくん。ウロボロスなんかより、そっちのほうがおもしろいくらいだ」
さすがに天国の代表だった。寝ぼけていても圧倒的にのりがいい。おれはいった。
「今夜Gボーイズとヘヴンのミーティングを開く。そっちの名前でホテル・メトロポリタンに部屋を取ってくれ」
御厨は楽しそうにわかったといった。おれが通話を切ると、タカシがおれの目をのぞきこんでくる。
「来週にはこの街で無許可のレイヴか。それでヘビの頭をぶっ潰す。マコト、おまえってオーガナイザーにむいてるのかもしれないな。やってみたらどうだ」
おれはゆっくりと首を振った。自分でいったことがまだ信じられなかったのだ。この街でほんとうにシークレットレイヴなどできるのだろうか。おれは西口公園で荒れ狂う一万人のガキを想像しようとした。とてもじゃないが無理な相談だ。だが、事態はもう走りだしていた。
もう池袋に八月革命を起こすしか道はない。
エディの肩を支えて、Gボーイズの店をでた。タクシーにいっしょにのりこむ。やつの住まいは下板橋の駅のそばにあるおおきな都営住宅だった。外廊下にたくさんの補助輪つきの自転車が並んでいるようなアパートだ。おれはエディをベッドにいれて、冷蔵庫からスポーツドリンクをだしてやった。ちょっと古そうだったが、混ざりものばかりの安ドラッグで鍛えているのだ。やつが腹を壊すことはないだろう。ベッドの横に座って話しかける。
「もうウロボロスに近づくなよ。やつらはもう終りだ。サツもスネークバイトを狙って網を絞りこんでる」
そっぽをむいていたエディがおれを見あげた。
「でも、ぼくはどうしたらいいんだ。BBQの客引きはばっくれたし、中卒じゃまともな仕事なんてないよ。なにをやったってどうせダメなんだ」
おれはぴしゃりといった。
「ひっぱたくぞ。いくら不景気だって無理をいわなきゃなにか仕事はあるさ。なんならいっしょにBBQに頭をさげにいってもいい」
あの店の店長はGボーイズのOBだった。タカシに口をきいてもらい、おれが謝りにいけばなんとかなるかもしれない。もちろん客引きはきつい肉体労働だし、給料だってよくはないが、なにもしないよりはましだ。
タオルケットをかぶってふて寝してしまったエディを残して、おれは西一番街にもどった。今回はくたくたに疲れていたし、夕方でも軽く三十度を超えているのでタクシーをつかった。おれはもう成人だし自分の金でのっているのだから誰に気がねする必要はないのだが、それでもひとりでタクシーにのるのはなぜか気が引けてしまった。
だって二キロで七百円弱なんて贅沢すぎないか。歩けば二十分ほどの距離だ。おれの貧乏性はいくつになっても抜けないみたいだった。
自分の四畳半にもどり、今度こそゆっくりと眠った。寝いるまえに最後に思いだしたのは、トワコの厳しい笑顔と足の長さだった。生身の足もきれいだったが、おれはトワコの強さの元になった金属の足も好きだ。
夢も見ずにシャッターがおりるように眠り、携帯の呼びだし音で目覚めた。
「マコトくん」
トワコだった。おれがそのとき一番ききたかった音楽。おれはなんとか二枚目の声をだした。
「なんだよ」
含み笑いがきこえた。
「寝てたでしょう。そろそろ起きて。今夜十時にホテル・メトロポリタンのロビーに集合だよ。西口公園でゲリラレイヴをやるっていうアイディア、マコトくんが考えたんだって」
「そうだけど」
「いいね。警察にも役所にも許可なんか取らずに、思い切りやってみたかったんだ。どっかおおきな都市のストリートでさ。うまくいったら、またヘヴンの伝説がひとつ増えるよ」
ふーんといった。トワコはさばさばという。
「あのさ、ずっとセックスしてなくて久々にすると、なんかそのあとむずむずしない? あとを引くっていうか、もうちょっとしたいっていうか」
電話でよかった。おれの頬はすぐ真っ赤になってしまった。
「トワコっておれがいいたいことをいつも先にいうよな。こっちだって同じだ。トワコともっとしたいよ」
義足のモデルは電話のむこうで華やかな笑い声をあげた。
「へへ、それがききたかったんだ。それじゃ、今夜十時に」
わかったといって通話を切った。おれはしばらく布団のうえで寝そべっていた。携帯を胸に祈るように抱き、甘いため息をつく。
たまにはこんなこともなくちゃ、難事件ばかり解決していられないってこと。
おふくろは今夜もひとりで店仕舞いしなけりゃならないと文句をいったが、十時五分まえにはおれは店をでて、ぶらぶらとホテル・メトロポリタンに歩いていった。ああ見えて意外とおれの非公然活動にも理解があるのだ。
かよい慣れた近所のシティホテルだが、ロビーのソファにタカシをはじめGボーイズが十人近く、ヘヴンは御厨とトワコを含めて六人ほどいたから、かなりの壮観だった。ラップとレイヴの共同コンサートの打ちあわせみたいだ。タカシは足を組んだままいう。
「おまえが一番近いくせに遅いぞ、マコト」
おれは池袋のキングを無視して、レイヴのクイーンに視線を送った。黒いスリップドレスに白銀の義足。きっとアルミニウムかなにか軽い金属なのだろう。髪をアップにしたトワコは夜明けの泥まみれのトワコと同じように美しかった。御厨がルームキーを片手にいった。
「二番目に広いエグゼクティブスイートを取ってある。いこう」
おれたちは二台のエレベーターに分乗して、二十二階の客室にあがった。
ウエストゲートパークを見おろす窓辺のテーブルにタカシは白地図を広げた。宅配便の業者などが使う一軒一軒に名前がはいった地図の拡大版である。すでに西口公園周辺の道路には印がつけてあった。タカシはレーザーポインターで地図をさした。
「公園の北側に三本、東側に四本、南側に二本の道路がある。道幅の大小はあるが、こいつをGボーイズでとめるのはそれほどむずかしくはない。問題は劇場通りに面した西側だな。六車線もある大通りだし、広い歩道が何十メートルも続いている。やっかいなことに通りの先には池袋署もある。深夜とはいえ夜勤の警官がすこしは残っているだろう」
おれはいった。
「そこは人垣で埋めるか、バリケードでもつくるしかないんじゃないか」
トワコが窓の外を見おろして口を開いた。
「封鎖作戦はGボーイズにまかせるけど、会場はこのくらいのおおきさの広場だよね。もし一万人の客が集まれば、うしろのほうは劇場通りにあふれるんじゃないかな。バリケードなんかつくらなくても、なかにはいってくるのはむずかしいと思うよ」
そうかもな、タカシの声は冷静だった。視線でGボーイズのひとりをうながすと、やつは池袋にのりいれているJR、営団地下鉄、私鉄、バスの最終の時刻を読みあげていった。ほぼ十二時台の後半には公共交通の運行は終了する。御厨がいった。
「十二時に現地に集合して、レイヴのスタートは深夜一時というところかな。このキャパシティなら、十トン積みのパネルトラックが三台あればいい。ステージ車が一台に、PAが左右に二台。理想をいえばPAをもう二台増やして半円形に広場を包みたいところだ。電気は公園の管理用のラインから引いてもいいが、念のために電源車を用意しておこう」
タカシはおれを見ていった。
「交通と人の流れをとめる。そいつはわかった。おまえはさっきの電話で、携帯の電波をどうするとかいってたな」
おれはうなずいた。窓の外では池袋の駅まえのネオンサインが遥か下方に見えた。
「そうだ。東京のまんなかでヘヴンが無料のレイヴをやるんだ。人を集めるのは簡単だが、現場のガキが携帯でダチを呼んだら、人が増えすぎて収拾がつかなくなる。火事場のやじ馬といっしょだ。レイヴの規模をおれたちにコントロールできる限りで抑えておかないと、ほんとうの暴動になるかもしれない」
トワコはにっと笑い、ちいさな声でいった。
「そういうのもちょっとおもしろいけどね」
おれはトワコを無視していった。
「妨害波をだして携帯をつかえなくするのは、警察や救急を呼べなくするためでもあるし、ウロボロス内部の情報交換をストップさせるためでもある」
タカシはうなずいていった。
「そうなるとヘヴンもGボーイズも携帯はつかえなくなるな。おれたちはどうするんだ」
おれは肩をすくめていった。
「携帯のない昔にもどるのさ。Gボーイズのメンバーはたくさんいるだろう。メッセージがあるときは伝令を飛ばせ。手旗信号やのろしなんかもおもしろいよな。だいたいみんな、携帯に頼りすぎなんだ」
おれはほんとうにそう思っている。携帯をもって歩くのではなく、携帯にぶらさがって歩いているストラップ人間のなんと多いことか。
おれの提案で今回オーガナイズするレイヴの名前は、ミッドサマーレイヴとコードネームが決まった。夏至はとうにすぎているが、日本の夏は今が本番だ。かまうことはない。決行日は八月十八日の日曜日深夜。それから作戦会議はヘヴンとGボーイズの人員配置や連携など細かな詰めの作業にはいった。そっちはおれの専門外の話。だっておれは実務型じゃなくて、優雅なコンセプターなのだ。だから残りの時間の半分以上を、おれはトワコのスリップドレスの銀の肩ひもを眺めてすごした。
なぜ、人間は細い鎖になれないのだろうか。不自由なものだ。そうすればおれも鎖骨の影に沿ってうねりながら、トワコの肩にのっていられるのに。
夜中の二時に作戦会議は終了した。そのスイートにはトワコが泊まっていくという。トワコはちょっとおれを窓辺に呼ぶと、三十分したらもどってきなよと耳元で囁いた。ロビーにおりて、長円形の回転扉を抜けるときタカシがおれにいった。
「いい女じゃないか。あれならその辺のつまらない女十人分の価値がある。いってやらなくていいのか」
心のなかでガッツポーズ。王様に初めて平民の底力を見せられたのだ。おれはさして関心なさそうにいう。
「あとでもどる。おまえはひと山いくらのガキにきゃーきゃーいわれてればいいさ」
タカシは笑いながら左のジャブを飛ばし、こぶしはおれの髪を揺らしてとまった。危うく頭蓋骨を陥没骨折するところだった。平民が王様に冗談をいうのは、いつの時代も命がけだ。
おれはGボーイズの集団と西口公園で別れた。夏休みとはいえ、平日の午前二時だった。何人かのホームレスと酔っ払いが石畳のうえで寝ているくらいで、広場は静かなものだ。周囲を取り巻くネオンサインだけが、ひと気のない公園を明るく照らしている。おれはパイプベンチに座り、エディの短縮を押した。
また留守番サービスにつながった。おれはすぐに電話するようにいい、通話を切った。その時点では不吉なことなどなにも考えていなかった。おれが考えていたのは地上二十二階で待つトワコのことだけだった。あのスリップドレスのしたはなにをつけているんだろうか。エディの消息はトワコの肩ひも一本の重さもない。
かわいそうなエディ。
おれたちはその夜、房総の山の頂上でしたのと同じことを、エグゼクティブスイートのベッドのうえで繰り返した。とてもよかった(ほかになにがいえるのだ)。何度目かのあとでウエストゲートパークに陽がのぼるのを、おれとトワコは裸のまま窓辺に立って見つめた。海にさす朝日もビル街にさす朝日も、変わりなく美しかった。砂のように撒かれた数千の建物すべてにバラ色に日のあたるところと青灰色の影ができる十数分間。おれたちはただ黙って手をつなぎその時間を分けあった。二十二階から見る池袋の夜明けはものすごく緻密な貼り絵のようだ。問題は朝日でも風景でもなく、誰といっしょにそいつを見るかなのかもしれないが。
午前中にチェックアウトしてタクシーのり場までトワコを送った。さすがにトワコはスターで、ホテルから自宅のある世田谷までタクシーをつかうことなどなんとも感じないようだった。おれは部屋にかえろうかと思ったが、気分が変わってエディの部屋をのぞきにいくことにした。まえの晩から何度かけてもやつの携帯は留守電のままだし、コールバックもなかったのだ。
トワコの新曲を口笛で吹きながら、東武東上線ぞいの道を歩いていく。性欲の重荷をおろした青少年の爽やかな午前だった。右手には清掃工場の煙突が熱帯の青空を背に白い骨のようにそびえている。
おれは何度も落書きを消したあとが残る都営住宅のエレベーターをでて、エディが借りている部屋までいった。四回、五回とインターホンを押す。返事はなかった。薄っぺらな金属のノブに手をかけた。あっさりと開くので驚いてしまう。
「エディ、いないのか」
おれは声をかけながら室内にあがった。玄関ですぐにおれにはわかった。その部屋には誰もいない。空気の動いている感じがまるでしないのだ。おれはやつの寝室にいってみた。固まりになったタオルケットが床に落ちているが、ベッドはもぬけの空だった。室内はあらされていないが、玄関の鍵はあいたままで誰もいなくなっている。おれにはエディが自分で部屋をでたのか、何者かによって拉致されたのかわからなかった。
ただひとつわかるのはエディがこの瞬間にも危険にさらされているということだけだ。拉致するとしたらウロボロスの売人組織だし、やつが自分から外にでたとするとそれもまた危ない。スネークバイトの依存性は強力だし、この数日あのミドリのヘビは街にあふれているのだ。
おれはその場からタカシに電話した。めずらしいことに今度の取りつぎは女だった。電話が代わるまえにおれはいった。
「そんなところにいると、きれいな顔に傷がつくぞ」
Gガールは鼻を鳴らすとタカシと交代した。やつはいう。
「ヒロミの頬には星印のタトゥーがひとつ、鼻にピアスがひとつある。傷がどうした」
細かな王様。おれはいった。
「今、エディの部屋にいる。鍵はあいたままで、やつはいなくなってる」
「ウロボロスか」
おれは雑然と整った暮らしの形を見まわした。エディは洗濯物をすべて室内に干していた。かすかにかび臭い空気。
「わからない。自分で街にでたのかも」
「ミドリを買いに?」
おれはしぶしぶいった。
「そうかもしれない」
タカシの声が冷えこんだ。気分がよくないか、悪いニュースでもあるのだろう。
「わかった。エディが見つかったら、Gボーイズで押さえることにする。マコト、おまえはテレビのニュース見てるか」
おれは昨日の夜から今日の昼までテレビなど一度も見ていなかった。トワコといっしょだとほかにするべきことがいくらもあるのだ。いいやといった。
「だったら、すぐにつけてみろ。どの局も通り魔の同時多発事件でおお騒ぎだ。今じゃどのゲームセンターでもミドリが手にはいるらしいな。最年少の通り魔は十三歳だそうだ」
通話は突然切れた。おれはエディの寝室のテレビをリモコンでつけた。タカシのいうとおりだった。通り魔は普通の街にも飛び火していた。新宿と浅草の繁華街と用賀と方南町の住宅街。犯人は三十代がひとり、二十代がふたり、最年少は夏休み中の用賀の私立中学二年生だった。
ただミドリはエンジェルダストのように異常な筋力まで発揮させるようなことはないようだった。幻覚作用が強いのも犯行を軽くとどまらせているようだ。今回の通り魔では死者はまだでていない。だがテレビでは専門家の話として、このまま新型薬物の乱用が広まれば、犠牲者がでるのも時間の問題だとしていた。
あたりまえの話だ。人間には急所がある。誰かの振りまわした刃物がそこにあたれば、通り魔が小学生だろうが運の悪いやつは即死するだろう。
おれはエディの部屋をでると、あわててタクシーに飛びのった。今度はタクシー代がもったいないなどとケチなことはいっていられない。誰かの命がかかっているかもしれないのだ。おれは西一番街と運転手にいって、バックレストに背中をあずけた。焦るな、焦らなきゃならないときほど、クールになるんだ。おれは窓の外を流れる池袋本町の街並みをうわの空で見つめていた。
自分の部屋にもどってから、おれは匿名のペーパーをつくった。おれの知っている限りの佐伯イッセイ情報を書きこんでいく。かつてヘヴンのメンバーだったこと、路線の対立でオーガナイザーを抜けて、以降はスネークバイトの売人組織を立ちあげたこと。二年間静かに売《ばい》を続けていたが、この夏急に拡販路線に走ったこと。しかも新規にネットで売人までスカウトしていること。流通量は跳ねあがり、ミドリのヘビはレイヴ会場から街にあふれだしている。
A4のコピー用紙一枚にウロボロスの情報をまとめ、それをもって池袋の街にでる。おれは西一番街からウイロードにむかった。歩きながら携帯の短縮を押す。相手はいつもソフトドラッグでラリってるヘヴンの代表だ。だがそのときの御厨は意外としっかりした声だった。
「御厨です」
「おれ、マコト。あんたも通り魔事件の続報を見たか」
御厨は口のなかで、ああといった。おれはきっぱりという。
「これからイッセイの情報を警察に流す。ヘヴンの名前もでてくるから、あんたにもちょっと迷惑がかかるかもしれない」
「それは困ったな」
御厨はちょっとひるんだようだった。おれはかまわずに続けた。
「今は一刻も早くイッセイをとめるのが先だ。あんたは幕張の事件のあとで地元のサツに呼ばれて、ウロボロスの話をしたのか」
「いいや、ぼくはきかれていないことは話していない」
御厨は当然のようにいった。
「だとすると、たぶん警察はまだイッセイにもウロボロスにも勘づいていないだろう。あいつらにもチャンスをやったほうがいい。むこうはとんでもない組織力をもってるから、おれたちがレイヴをやるより早くイッセイを見つけだすかもしれない」
おれは池袋駅北口のまえにあるコンビニにはいった。店内の監視カメラの位置を確認する。ファックスは銀行のキャッシュディスペンサーと並んでいた。一番カメラ映りがいい場所だ。おれはなにも買わずにその店をでた。御厨はいった。
「だが、ゲリラレイヴの準備にいそがしいときに警察で何時間も拘束されるのは痛いな。マコトくん、その情報はもうすこし待てないのか」
おれはウイロードにはいった。短いがトンネルなので、急に携帯の雑音が増える。
「いいや、ダメだ。あんたが送るなといってもおれは匿名でこの情報を流す。こうなったら誰がウロボロスをとめてもいいじゃないか。ヘヴンだって完全に無傷というわけにはいかない。街ではすでに何人も犠牲者がでてるんだからな」
よくきこえなかったが、ヘヴンの代表はわかったといったようだった。おれは東口の駅まえ公園の並びにある別なコンビニにはいった。蛍光灯でむやみに明るい店内でファックスを探す。ビンゴ。今回は監視カメラの届かない店の隅にほこりをかぶった機械が見つかった。おれはちょっと気になっていたことをきいてみる。
「ところでさ、トワコのボーイフレンドって、なにをやってるやつなんだ」
御厨は気のなさそうにいった。
「今はフリーターみたいなものじゃないかな」
とするとトワコの稼ぎでたべているヒモに近いのだろうか。おれはウロボロスペーパーをセットし、池袋署の生活安全課の番号を押しながらいった。
「ふーん、じゃあ昔はなにをしてたの」
「ああ、それなら知ってる。立木製薬の中央研究所に勤めていたらしい。なんでも腕のいい研究者だったという話だ」
番号の最後のひと桁を危うく間違えそうになった。あわてておれはいった。
「ほんとうなのか、やつが製薬会社の研究者だったのは絶対か」
「そうトワコからはきいてる。それがどうかしたのか、マコトくん」
おれはきちんと番号を確認してから送信ボタンを押した。力の抜けた声で御厨にいった。
「トワコに気づかれずに、岡崎ヒデキという男について調べてくれ。なんならそっちで興信所でも使ってくれるとありがたい」
わかったと御厨はいった。ファックスから無署名の紙がゆっくりと排出されてくる。おれはそれを見つめながら、たったひとつの言葉を思いだしていた。ボーイフレンドの職業をきいたときの彼女の返事だ。あのときトワコはいっていた。
「よく知らないけど、デザイナーみたいな仕事」
デザインするのはなにもファッションや広告や自動車ばかりじゃない。新型の薬物は今デザイナーズドラッグとして、開発者のブランドで人気を集めている。おれはヒデキがデザインするものが、薬物でないことを祈った。
そうでなければ、始まったばかりのこの恋はまともに育ちもしないまま嵐の波にのまれることになる。おれは足をひきずって店にもどり、店番をおふくろと交代した。
その日のおれは西一番街で一番元気のない店番だった。
おかげでそのあと一日中ラジオやテレビのニュースを仕いれることができた。事件はなにも通り魔ばかりではないようだった。あちこちのクラブで薬物乱用が起こり、繁華街の近くの病院はいつにも増しておおいそがしだという。スネークバイトという固有名詞もすでにテレビニュースで一般化していた。アナウンサーは何度も緑色の新型ドラッグには手をださないように訴えている。逆効果だとおれは思った。ある種の人間にとっては危険こそ最高の吸引力をもつものだ。それだけ危険なのにおおぜいの人間がヘビのクスリを試すなら、それに負けない絶大な快楽があるはずだ。もっともな推測。
おれはいらいらしながらエディからの電話を待っていた。だが、その日の夕方にかかってきた電話は一本だけだった。おれが使いこんだ包丁でスイカを割っていると、電話のむこうで池袋警察署長がいった。
「おかしなたれこみが生活安全課にはいった。池袋のコンビニからファックスで送られた紙が一枚だ。なかにはスネークバイトの売人と思われる人物の情報が書いてある」
気のない声でおれはいった。
「そう」
礼にいはあきれたようにいった。
「おいおい、まだ時間はつくれないのか。こっちはマコトの書く字を知っているんだぞ。筆跡鑑定なんて面倒な手続きを踏まずに、生活安全課に話をきかせてやれ」
包丁の先をダンボール箱につき刺した。
「いいかげんにしてくれ。おれは善良な市民で、まっとうな勤労の最中だ。おれはそんなファックスを送ったこともないし、このまえ電話で話した以上のことはなにも知らない」
若きキャリア組のエリートはため息をついた。
「わかったぞ。おまえ、またなにかたくらんでるな」
池袋の署長はおれとつきあい始めてから、勘が鋭くなって困ってしまう。
「誰だか知らないが、そのファックスを送ったやつは、なんとか警察に売人組織をあげてもらいたいと思っているんじゃないか。そいつにはそいつの事情があるんだろう。きっと必死なんだと思う」
「そうか、必死なのか」
しばらく携帯の雑音しかきこえなかった。最後に礼にいはいう。
「いいか、最後にやつらを押さえるときは、遠慮なくおれたちを呼ぶんだぞ。警察は善良な市民を守るためにあるんだからな、そうそいつにはいっておけ」
わかった、そんなことになったらよろしくといって通話を切った。おれにもわずかながら味方がいる。全部男なのが気にいらなかったが、それはしかたないのだろう。
おれは女運が悪いのだ。
夜になって街にでた。散歩しながら頭のなかを整理するためだ。おれはそこで池袋の街の変わりように驚くことになった。本気になったGボーイズはさすがだった。もっとも普通のおのぼりさんにはわからないかもしれない。だが、この街で育った人間には一目瞭然の変化だった。ウイロードやビックリガードの壁面にはグラフィティが躍っていた。銀のスプレーはこう読める。
「Midsummer Rave 8/18/25」
街の電柱にはちいさな手貼りのポスターが風に揺れ、あちこちのGボーイズやGガールズは手にちいさなフライヤーを何枚ももっている。ブティックやゲームセンターにはデザイン違いのフライヤーの束が積んであった。黒い紙に七色の虹。どれも西口レイヴの告知だ。池袋の街のあちこちでひそかな声が交錯していた。
今度の日曜日の真夜中に西口公園でとんでもないことが起こるらしい。
合言葉はミッドサマーレイヴだ。
つぎの日も通り魔と三十五度を超える暑さがニュースのトップだった。あと何年かすると今年の夏は熱帯夜の新記録と薬物乱用の夏として記憶されるのかもしれない。
レイヴの準備はヘヴンとGボーイズですすめているだろう。おれにできることはなかった。トワコからは一本の電話もなく、こちらからもかけなかった。おれは西一番街の店先に打ち水をしながら、おおきな波がやってくるのを待っていた。その波にのまれて崩れるのはおれかもしれないし、イッセイかもしれない。だが、どちらにしても波をとめることはもう誰にも不可能なのだ。
もう遠くの海のうえで最初の津波は起きてしまっている。走り始めたレイヴをとめることは誰にもできなかった。
その夜おれは自分の部屋で眠っていた。窓は網戸だけにして開け放している。緑などたいしてないのに池袋にはやぶ蚊がけっこう多いのだ。呼びだし音で目覚めたのは早朝だった。外はすっかり明るくなっている。おれは目を閉じたまま携帯を耳元にあてた。
「おまえがマコトか」
きき覚えのある男の声がした。着信表示を見て驚いた。男がつかっているのはエディの携帯電話だった。おれはまだ寝ている頭のなかで男の声をあわててサーチした。
「そうだ。そっちは」
「誰でもいい。おれたちを追っているようだが、むだなことはしないほうがいいぞ」
妙にねばりつく声だった。この声を聞いたのは確か幕張メッセ。あの清潔なデザイナーズトイレを思いだした。売人の頬に根元までナイフを刺した男。細い鞭の男だ。
「あんたが、佐伯イッセイか。覚えていないか、幕張の便所でおれはあんたと話したことがある」
「ああ、あのときの肝の据わったガキか」
おれはすでにいい大人なのだが、抗議はしないことにした。イッセイはいう。
「おまえにいい絵を送っておいた。iモードで確かめてみろ。ソウメイやGボーイズとかいう連中にも見せてやるといい。ウロボロスは本気だとな。じゃあ……」
おれは焦って声をかけた。
「待ってくれ。あんたはいったいなにがやりたいんだ。なぜ、そんなに急いでいる。このままじゃいつかウロボロスの輪だってちぎれるぞ」
イッセイの声はさらに粘り気を増したようだった。
「明日もまた自分の心臓が動くと思いこんだやつらの目を覚ましてやりたい。ただそれだけだ。ほかにはなんの意味もない」
通話は切れた。ときおり路上からカラスの鳴き声がする。青い光りのさす四畳半でおれはiモードに接続し、添付ファイルを開いた。メッセージはなかった。三センチ×四センチの液晶画面にその絵が浮かんだ。
椅子に座った首のない男のカラー画像。背景はどこかの河川敷のようだった。切断された断面は携帯の解像度では、赤黒く潰れてしまっていた。だが、それでも十分に見て取れることがあった。ひざのうえで行儀よく組まれた男の手はカフェラテ色をしている。着ているのはハサミで開けばキングサイズのシーツがつくれそうなだぶだぶのベースボールシャツ。胸には見慣れたBBQのロゴがたるんでいる。おれの吐く息は声にならなかった。
「エディ」
やつの死体は首がないということ以外、どこにも傷ついた様子はなかった。液晶画面からは今にもとろけるような声がきこえてきそうだ。
「今日も最高にクールだねー、マコトさん」
目覚めたばかりのおれの身体が震えだした。こいつが佐伯イッセイのユーモアだというなら、おれはやつを絶対に許さない。エディはタカシのいうようにどうしようもないジャンキーだったかもしれない。だが、死者に対する礼というものが時代や地域を超えて人間にはあるはずだった。ウロボロスよ、覚えておくといい。
尻尾をくわえたままのおまえの頭をたたき潰してやる。
おれはその絵を誰にも見せなかった。タカシにエディが死んだと伝えただけだ。おれはやつのおふくろさんがどこにいるのか知らないし、連絡先もきいていなかった。エディにしてやれることはなにもない。タカシの反応はいつもながらクールだった。
「そうか。じゃあ、もうGボーイズで探す必要もなくなったな」
あとはなにもきこうとしなかった。殺人のような重大事件では、タカシは知らなくていいことは決してきこうとはしない。知ることはそれだけ危険を招くことだ。Gボーイズの幹部のあいだでは、それは徹底した習慣だ。
エディの遺体は翌日の朝早く千住新橋近くの荒川河川敷で発見された。おれはテレビのニュースでそいつをきいた。映像は見なかった。一番ひどい絵はすでに見ていたが、それで残りの絵が平気になるなどということはない。
「頭部はまだ発見されていませんが、遺体の様子から死後切断された模様です。また血液からは新型薬物が検出されています。警視庁では薬物がらみのカルト的な犯行と見て、遺体の特定と頭部の捜索をおこなっています」
おれはエディのために深く息を吐いた。やつの最後のトリップがよいものだったことを祈る。それだけがおれにできることだった。
タカシはおれの身の安全が気になったようだ。その日から三人のGボーイズがおれの警護につくことになった。店番をしたり、街を歩くときはいつでも。慣れ切った街をひとりで歩くことさえできない。レイヴまでの数日間、おれは孤独というものの贅沢さを身に沁《し》みて感じるようになった。
インターネットのレイヴやダンス音楽のサイトでは、八月十八日の噂がすでに流れていた。ウエストゲートパークで真夜中に開かれる無料のゲリラレイヴ。オーガナイザーの名前はあがっていなかったが、何人かの有名なDJのほかに出演者としてトワコの名も噂されていた。今年の夏最大のイベントになるだろう、ミネラルウォーターをもって集合しよう。
実物の池袋の街もしだいにその日にむけて体温をあげていくようだった。金曜日の午後には最初の集団が西口公園に出現した。館山のシークレットレイヴに集まった客と同じ雰囲気のバックパックを背負った外国人と日本人の混成グループである。なにもせずに二日もまえからぼんやりとレイヴを待っているのだった。警察官はおかしな顔をしたが、羊のようにフレンドリーでなんの騒動も起こさないのでは、逮捕のしようもなかった。やつらは公園から退去しなさいといわれれば、素直に退去し、小一時間もするとまた広場の隅に集合した。事情を知らない巡査はさぞ不気味だったことだろう。
土曜日の午後、いきなりバイク便がうちの店に届いた。おれはサインをして受け取り、店先の歩道にでた。A4の封筒にはヘヴンのロゴがある。ガードレールにもう四時間も腰をおろしているテンガロンハットのGボーイにうなずいてやる。やつは視線だけで挨拶してきた。おれは封筒を開き、レポートの表紙を読んだ。
「岡崎英樹の調査および行動報告書」
そのしたにはきいたことのない興信所のマークがはいっていた。おれは一枚目をめくり目をとおした。ヒデキは一九七〇年、横浜の生まれだという。地元の中高一貫の進学校にすすみ、優秀な成績で名門私立大学の薬学部に入学。教授の推薦を受けて藤沢にある立木製薬の中央研究所に勤務していた。そこをやめたのは二十代後半で、それ以降表立った職業には就いていない。同居人がひとりいる。トワコの本名は島尾直美といった。
こいつがヒデキの光りのあたるほうの略歴。御厨はずいぶん金をつかったのだろう。このあとには日のあたらない裏側の華々しい勲章が記されていた。ヒデキは中学二年生でせきどめ薬の乱用で最初の補導を記録する。高校にはいると市販薬ではなく、医師の診断書が必要な睡眠導入剤や抗鬱剤を乱用するようになる。何度かの入院記録が残っていた。
おれにも高校時代に記憶がある。どの学校でも頭の悪いガキが薬物に手をだすときはたいていシンナーや覚醒剤だった。頭のいいやつはエクスタシーやマリファナ、あるいはこむずかしい名前のついた洗練された薬物に染まる。やつは典型的な後者だった。
クスリが大好きで、もっとクスリを知りたいから薬学部に進学し、製薬会社に潜りこんだ。どんな世界にも申し子というのがいる。ヒデキはドラッグの申し子だった。
行動報告書はこの四日間のヒデキの動静を追っていた。トワコと住んでいる駒沢のマンションとは別にヒデキは田園都市線宮前平駅の近くにガレージつきの一軒家を借りていた。四日間でそこに三回顔をだしている。なかでなにをしているのかはわからない。ただ興信所の調査員はきちんと近所のききこみをやっていた。以前夜中に異臭騒ぎがあって、その一軒家が怪しいと近くに住む老人は証言したそうだ。
おれは紙の束から目をあげて西一番街の空を見た。八月の後半にはいっても、盛夏の勢いの積乱雲が浮かんでいた。警察でならこの報告書の内容は状況証拠ということになるのだろう。だが、ストリートの法廷ではトワコのボーイフレンドはまっ黒だった。
弁解の余地もない。問題はトワコがこのことを知っているかどうかだ。おれの心もヒデキと同じようにまっ黒になった。五年間つきあい、同棲している男の職業を知らない女がこの世に存在するだろうか。そんなことは片足のスーパーモデルが活躍するくらいのわずかな可能性しかない。おれはその可能性を信じたかったが、信じ切ることはできなかった。
おれにも理性というものがある。
運命の日曜日がやってきた。おれの心はずいぶん打ちのめされていたので、当日になっても緊張も興奮も感じなかった。店は定休日なのでたっぷりと昼寝して夕方に目覚めた。シャワーを浴び、洗濯したてのジーンズとTシャツを身につける。どちらもBBQでエディが選んでくれたものだった。おれはさっぱりした格好で西一番街におりていった。おふくろの声が二階の窓からふってくる。
「マコト、今夜も帰らないのかい」
たぶん帰らないとおれはいった。今夜は外にでないほうがいいと数歩歩いてから叫び返す。もう通りにボディガードは待っていなかった。おれは西一番街の奥にある花屋に顔をだした。ガキのころからおれを知ってるオバサンはおれが五千円札をだして、最高にクールな花束をつくってくれというとびっくりした顔をした。なにせ二十年近くその花屋のまえをとおっているのに、花を注文したのはその日が初めてだったのだ。
花束はオレンジ色のバラを白いカスミソウが取りまくシンプルなものだった。歩道の端でタクシーをとめ、のりこんで千住新橋と告げる。タクシーは日曜夕方の混雑にのろのろと走りだした。
千住新橋はどこかの県境にあるような巨大な橋だった。おれは橋のたもとでタクシーをおりると、堤防に張られたコンクリートタイルをおりていった。川原にいくまでに青々と茂るアシの群生を抜けなければならなかった。おれは緑の壁のなかの踏み分け道を花束を手に歩いた。河川敷は肺まで青く染まる夏草のにおいと熱した泥の放つ都市ガスのようなにおいがした。どちらのにおいにもおれはなにも感じることはなかった。エディのニュースを見ていないので、どこで遺体が発見されたのかわからなかった。アシの群れを抜け、砂利道にでる。おれはまっすぐに橋脚まで歩き、誰かがなにかを燃やした煤《すす》の跡や落書きでいっぱいのコンクリートに花束を立てかけた。正確な場所など問題ではなかった。手をあわせずに、ただ立ち尽くしたまま祈った。
今夜おれを無事に生き延びさせてください。緑のヘビを終りにしてください。
なんだか不思議な気分だった。人間は生きている人間には祈らない。相手が生きてるときはどんなやつだったにせよ、死んだ人間にむかってだけ祈るのだ。
そいつは最高にクールな冗談だと、首のないエディなら笑うかもしれない。
夜になってウエストゲートパークにもどった。円形広場にはすでにかなりの人間がつめかけていた。いつもの日曜夜の五割増というところか。おれは近くのコンビニで弁当とミネラルウォーターを買い、味のしない飯を腹に詰めこんだ。食事ではなく補給だ。
おれはしだいに数を増すガキどもと夜が更けるのを待った。広場は縁日や夏祭りのような陽気な期待感に満ちていたが、おれの気もちはどんどん冷めていった。楽しむためにここにいるのではない。狩るためにいるのだ。おれは座っていたベンチを離れ、西口公園をゆっくりとクルーズした。
公園につうじる道にはハザードを点滅させたクルマがとまり、何組かのチームが待機していた。おれを見つけるとそのなかの誰かがこっそりとGボーイズのハンドサインを送ってくる。どの進入路にも公園にはいろうとする若いやつが押し寄せていた。
群衆の中心は円形広場と噴水のあたりで、後端はすでに芸術劇場のほうまで延びている。あちこちで誰かがもちこんだラジカセがレイヴ音楽で空気を歪ませていた。抱きあってほとんどセックス直前という雰囲気のカップル、西口公園名物のフクロウや太陽の彫刻にのぼる者、すでに地面に伸びている酔っ払い、笑いながらなぐりあっている上半身裸の男たち、植えこみに吐いたり小便をするガキ。まだ音楽も始まっていないのに、なぜか西口公園にはでたらめに自由の空気が流れていた。仕事がなければ、夢のような夜だったかもしれない。だがおれには探しものがあった。
無数の顔のなかからおれが探していたのはふたつの顔だった。
イッセイとヒデキ、ウロボロスの頭についたふたつの眼だ。
どのくらい歩きまわったのか、おれにはよくわからない。携帯が鳴ったのは夜十一時すこしまえだった。池袋の王様の声が低くきこえる。
「マコト、今どこにいる? もうすぐ、携帯がつかえなくなるぞ。東武デパート口にすぐにこい」
おれはわかったといって通話を切った。そのときおれがいたのは路線バスのターミナルのあたり。普段なら三分もあれば反対側の東武デパート口につけるのに、その夜は人をかきわけかきわけ十数分かかった。幕張のレイヴの客数はすでにはるかに超えているだろう。この印象に近い規模というと、おれには東京ドームのコンサートくらいしか思い浮かばなかった。それだけの数の人間が誰にも統制されずに勝手になにかを期待して集合している。人の身体がだす熱は膨大だった。真夜中近くなってもウエストゲートパークは昼間のような熱気を放っている。
東武デパート口の植えこみのまえには半円形にGボーイズが人間の盾をつくっていた。そのなかだけ誰かとふれあわずに立っていられるスペースがある。おれは盾にうなずいてなかにはいった。タカシと取りまき、御厨とトワコとヘヴンのスタッフが何人か顔をそろえていた。おれを見るとタカシが声をかけてきた。
「遅かったな。もう携帯は使用不能だ。おまえがいっていたより妨害電波は強力だった。三十台も小型のジャマーをGボーイズにもたせれば、これくらいの広さならカバーできるそうだ」
おれはうなずいてタカシにいった。
「そっちのウロボロス狩りはどうだ」
王様は薄く笑った。
「公園の端にレンタルの四トントラックがとめてある。ミドリをもってるやつ、ミドリのヘビを刺青してるやつは、すべてGボーイズが見つけしだい押さえて、そこに放りこむ手はずになってる」
御厨はおれにいった。
「あれは見たかな」
岡崎ヒデキのファイルだ。おれは黙ってうなずいた。御厨もわかっているのだろう。あとはなにもいわずに園内の熱気を眺めている。おれは植えこみの陰にトワコを呼んだ。耳元で囁く。
「今日はヒデキってきてるのかな」
トワコは黒いフィールドコートに顔の半分を隠すサングラス。ここで正体がばれたら暴動が起こるかもしれない。とがったあごでうなずいていう。
「うん。わたしのステージがあるから必ずくるよ。彼は大人だから、わたしたちのこと気づいてもおかしな態度は取らないと思う。それがどうかしたの」
おれは顔を伏せていった。
「むこうが大人でも、なんだかおれのほうが落ち着かないよ。まともに顔を見られそうにないんだ。あとでヒデキがきたら教えてくれ」
おれもトワコに負けずに嘘がうまいみたいだ。彼女は肩をすくめてうなずいた。
「わかった」
そのときウエストゲートパークから地鳴りのような大歓声が湧きおこった。池袋駅のほうから巨大なパネルトラックが三台、銀の腹を光らせゆっくりと公園脇の道にはいってきた。御厨がいった。
「ステージ車のまえに本部をつくる。みんな移動してくれ。時間が勝負だ。すぐにレイヴを始めるぞ」
それでおれたちは人間の盾に守られて、ステージまえの最高の場所に歩いていった。
ヘヴンのスタッフによってふた張りのテントがつくられるまであっという間だった。折りたたみ傘を開く程度の時間しかかからない。そのあいだGボーイズは腕を組んで周囲の客に圧力をかけていた。コードをもった人間がトラックのあいだを駆けまわり、PA用の機材を結んでいた。片方のテントのなかには調整卓が組まれ、エンジニアがヘッドホンをかぶりフェーダーで音量を調節していた。誰かが手拍子を始めた。ヘヴン、ヘヴン、ヘヴン。しだいに歓声はおおきくなり、池袋西口のビル街にエコーを引いて天国を呼ぶ声が反響した。
まだ十代のGボーイズがひとり、おれたちのいるテントに駆けこんできた。タカシのまえで直立不動になると息を切らせて叫んだ。
「ミドリの売人をひとり拘束しました」
タカシはにこりともせずにうなずいた。
「わかった。もどってくれ」
ガキは伸ばしたゴムひもが元に返るような勢いでまた大観衆に消えてしまう。おれはいった。
「あれはなんなんだ」
タカシはいった。
「携帯がつかえないだろ。三人の伝令が五分おきにここに報告にくることになってるのさ。狩りの成果を伝えにな」
無線のない時代の戦さというのはたいへんだったのだろう。おれはおかしなところに感心した。
しばらく時間がかかったのかもしれない。だが、おれの感覚のなかではあっという間にステージが始まっていた。あまりの人間の圧力で時間が歪んでしまったのかもしれない。中央のトラックのサイドパネルが鳥の翼のように開く。なかにはブースがふたつ設置され、DJがスタンバイしていた。前後につながれたトラックは荷台に黒いPAの壁を積みあげ、音楽の発射準備をしている。
ステージ車両の中央から青いレーザー光線が西口公園をまっすぐに貫いて走った。東京芸術劇場のななめのガラス屋根にあたって反射した青い光りは池袋の空高くどこまでも跳ねていった。大歓声は公園の木々を揺らした。シンセサイザーの薄っぺらなファンファーレが鳴って、スポットライトのなかDJは高々と手をあげた。御厨は有線のヘッドセットをつけ、腕時計を見ている。
「さあ、始まるぞ。始発が動きだすまでの三時間が勝負だ。みんな頼む」
おれとタカシは軽くうなずき返した。DJの指先がキーボードに落ちてきた。胸のなかの空気までたたきだされるような音量で、シンセドラムの四つ打ちが始まった。原始のリズムだ。夜の底で歓声が爆発し、手を空にむけたレイヴァーがいっせいに踊りだした。波うち揺れる巨大な細胞の触手のような数千の腕。おれはリズムに逆らって身体を動かさないようにするので精一杯だった。まわりで踊っていないのはタカシだけ。トワコはステージの準備にとうにトラックのむこうに消えている。
何度目かの伝令が走ってきて、PAの音圧に負けずに叫んだ。
「ミドリのヘビの捕獲は四匹になりました」
王様はやつの耳元でいった。
「アタマはいたか」
伝令は首を横に振る。タカシの手には若いころのやつの写真があった。御厨といっしょに映っているものだ。宴会かなにかの記念写真のようだった。おれの知っているよりずっと頬がふっくらとしたイッセイがそこにいた。
DJは二十分ほどでつぎつぎとセットを交代した。全速力で曲をつないではテンションを落とすことなく、つぎのDJにバトンタッチしていく。ステージ近くはすでに危険な密集度だった。一度腕をうえにあげるともう二度とおろせないのだ。御厨は口元のマイクに叫んだ。
「そろそろチルアウトのスローナンバーをかけてくれ。まえの客が熱くて溶けそうだ」
別のGボーイがやってきた。タカシの耳元で叫ぶ。
「公園西側に十数人の警官が到着しました」
「様子は」
おれもタカシの近くに耳を寄せた。
「これは無許可の違法なコンサートだ。各自自宅に帰りなさい。遠巻きにそういっていますが、誰もいうことはききません。無線や携帯がつかえないとわかると、有線電話で応援を頼みにいったようです」
タカシはおれにうなずいた。
「ここまでは作戦どおり。あとはいつイッセイが尻尾をだすかだな」
それからの一時間、ミッドサマーレイヴは高原状態をキープした。音楽はノンストップで炸裂し、客は踊り続けた。空になったペットボトルを満たすために水のみ場には長い列ができている。園内には公衆便所は一カ所しかなく、女たちでさえ植えこみのなかで用を足すようになっていた。
おれとタカシは本部に届けられる情報でなんとか事態を把握していた。あちこちの進入路には警視庁の応援パトカーが到着していた。しかしGボーイズの違法駐車が道路をふさぎ、その先に侵入することはできなかった。警察車両をおりた警官は音楽に酩酊状態の一万人プラスαにはなすすべもなかった。なんとかスタッフに近づいて代表者は誰だと詰問しても、誰もまともに返事をする者はいない。御厨はなにをきかれても今仕事中だからとこたえるように教えていたからだ。
伝令からの報告でウロボロスの捕獲が七名になったのが確認できた。だが、どれも雑魚《ざこ》ばかりで肝心のイッセイはまだ発見されていなかった。飛び交うレーザー光線と轟音のなか、事態はしだいに膠着《こうちやく》していくようだった。タイムアウトの時間が刻々と迫っている。
トワコがステージにあがったのは午前三時。最後のセットのひとつまえの回だ。
トワコのステージ衣装は常夏の惑星用の宇宙服みたいだった。銀のホットパンツに銀のホルターネック。そのうえに透明ビニールのカバーオールを重ねている。クロームメッキされた義足はきらきらとミラーボールのようにスポットライトを反射していた。彼女は長さ十メートルほどの荷台ステージの中央で、両手でマイクを胸元に固定し祈るようにうたいだした。
最初にきいておれが驚いたあの新曲だった。だが、今回はどこまでも走っていく女のイメージは湧かなかった。それよりもそんなに急いでどこを目指しているのか心配になる。
おまえのほんとうの気もちは誰のところにあるんだ。最後に心のなかでつぶやいて、おれはステージから視線を切った。トワコを無視してステージ近くに押し寄せた人波をサーチする。左袖の近くにやつはいた。嵐の海に浮かぶ木片のようにヒデキの顔が上下に揺れている。夢見るような表情は初対面のときと同じだった。
タカシはおれの視線に気づいたようだ。ヒデキを見ていう。
「あの男は誰なんだ」
胸のなかでなにかがちぎれるような気がした。おれは叫んだ。
「トワコの同棲相手、それに……」
王様は平民の言葉をきこうと耳を寄せた。シンセビートにギターの和音が重なって音楽の波が一段と高くなった。おれは懸命に叫んだ。
「……たぶん、スネークバイトのデザイナーだ」
タカシは一瞬ですべてを理解したようだった。憐れむような目でおれを見る。ぼそりとつぶやいた声はきこえなかったが、口の形でなんといっているのかわかった。
(あの女か)
タカシはステージでうたっているトワコを横目でちらりと見た。もうおれはトワコを見なかった。タカシの耳元でいう。
「Gボーイズの精鋭を何人か貸してくれ。あの男を追いたい」
タカシは今度ははっきりと笑った。
「いいだろう。ここは小物ばかりでつまらない。おれもいく」
おれとタカシ、それに四人のGボーイズがヒデキを観察しやすい場所にゆっくりと移動した。先ほどの東武デパート口近くの植樹の陰に隠れる。ヒデキはトワコを一心に見あげ、ゆらゆらと芯のないダンスを踊っていた。
おれは黄ばんだ芝のうえにへたりこんでしまった。なぜか全身の力が抜ける。
「ここでトワコのライヴが終わるのを待とう。やつが動くのはそれからだ」
おれはもうそれきりトワコもヒデキも見なかった。音楽のない静寂の世界にいきたかった。できればそこに男も女もなければなおいい。
沖縄音階をつかったブレイクビーツがトワコのアンコールだった。ステージに押し寄せようとする人波のなか、逆に離れようとするヒデキの動きは目立った。タカシがいった。
「いくぞ」
おれたちは遠くからヒデキについていった。やつは誰かに見張られていることなど気にもせずに芸術劇場の横の小道を歩いていく。マオカラーの白い半袖ジャケットがまぶしかった。そのあたりまでくるとレイヴァーの人口密度もかなり減少している。先にあるのはホテル・メトロポリタンだ。Gボーイズの関所も外にでる人間はフリーパスだった。
ヒデキは噴水のとまったアプローチを抜け、階段を軽い足取りであがった。回転扉にやつの背中が消えると、おれたちは全力でダッシュして距離をつめた。早朝の四時近いのにホテルのロビーはざわついていた。フロントを呼ぶ電話のベルが鳴りやまないようだ。きっと騒音の苦情なのだろう。
ヒデキはエレベーターにのりこんだ。ゆっくりと閉まろうとした扉におれはつま先をつっこんだ。おれは初めてやつの驚いた顔を見た。扉が開くと、タカシとGボーイズがなかになだれこんだ。おれは操作盤を確認した。十九階だけがLEDの光りを灯している。おれはトワコのボーイフレンドにいった。
「イッセイは十九階のどの部屋にいるんだ」
やつは黙ってこたえなかった。おれは閉ボタンを押した。タカシはいう。
「ここでおお騒ぎを起こしてもいい。それでおれたちといっしょに池袋署にでもいくか。おれたちはおまえがなにをデザインしたか知ってる」
タカシは腕を組んでじっとヒデキを見た。氷の視線。ヒデキの両側では改造スタンガンを手にふたりの男が詰め寄っている。やつはききとれないほど細い声でいった。
「一九一七号室」
エレベーターは上昇を開始した。おれはヒデキにいった。
「そいつは公園側の部屋なんだろ」
蒼白な顔でうなずいた。やつが白状しなければ、おれは公園側の部屋をすべてたたき起こしてまわろうと思っていたのだ。善良な市民の安眠を妨害しなくてよかった。
その部屋は公園を見おろす角部屋だった。扉のまえにヒデキを立たせ、Gボーイズのひとりがインターホンを押した。
「誰だ」
ねばりつく声。ヒデキはこたえる。
「ぼくだ」
ロックがはずれる音。扉が開くと同時にヒデキが室内に駆けこもうとした。タカシとGボーイズが即座にあとに続いた。ドアを抜けた最後はおれだ。室内を見まわす。トワコと泊まったエグゼクティブスイート並みに広い部屋だった。公園の緑とレイヴァーを映すおおきな窓のそばにイッセイとヒデキが立っていた。横にはアームチェアとサイドテーブルがおいてある。レイヴの熱狂が遠く室内にも響いていた。
タカシと四人のGボーイズは部屋にはいったところで足どめをくっていた。イッセイの手のなかにあるものを見て、動けない理由がわかった。緑のヘビを刺青した手にはちいさなリヴォルヴァーがにぎられていた。銃身は小指ほどの長さしかないが、それでも銃であることに違いはなかった。タカシはいつもの調子でいった。
「やめておけ、そいつひとつで六人を倒すことはできない。みんな、抜け」
四人はヒデキから目を離さずにヒップホルスターからナイフを抜いた。形はいろいろだがどれも刃渡りが十五センチ以上ある凶悪なものばかりだ。金属の光りを見てイッセイは楽しそうに笑った。
「それもそうだな」
イッセイは茶色い革張りのアームチェアに腰をおろした。ひどく疲れているようだった。このまえよりも顔色がひどく黄ばんでいた。おれにむかっていう。
「このレイヴをオーガナイズしたのはおまえだそうだな」
そうだといった。
「いいものを見せてもらった。感謝している」
やつはあいた手で窓の外をさした。
「外部からの力や資本をすべて排除して自然発生的に人が集まる。そして存在のままに荒れ狂う。こんなレイヴがおれの理想だった」
イッセイは銃口でタカシをさした。
「おまえは生意気そうだから、連れていってもいいがおれはもう面倒になった」
こちらをむいていう。
「このまえの電話でなぜ焦っているかおれにきいたな」
おれはうなずいた。イッセイは老人のようなしわを口の端に浮かべて笑った。
「膵臓ガンだ。医者は最短の生存予測をいうことをおまえは知っているか。予測がはずれて長生きすれば、家族は治療効果があがったとおお喜びする。おれの場合は四カ月だった。膵臓ガンの五年生存率はいまだに実質ゼロパーセントなんだ」
タカシはイッセイをまっすぐに見つめていった。
「それがどうした」
イッセイはせきこむように笑った。
「確かにどうということはないな。おれは最後にたくさんの人間が荒れ狂うのを見たくなった。それだけだ。年寄りが相撲や高校野球に熱中するのと変わらない。おれの場合それがドラッグとレイヴだった」
それでスネークバイトを採算度外視で街に放出したのだろうか。だがおれには納得できないことがひとつあった。
「なぜエディを殺した」
面倒そうにヘビはいう。
「ああ、あのハーフのガキか。あれは事故死だ。やつはミドリをくう量を間違えたのさ。手近に死体があったから、ちょっと細工させて送ってみた。意味なんてない。死ねば人間はただのものだ」
おれのなかでなにかがぐらりと揺れた。だが、もうなにをいってもイッセイには届かない気がした。イッセイは晴ればれと笑った。
「最後に見る景色が東京のまんなかのレイヴだなんて最高だな。おれは当然警察病院で死ぬつもりはない」
左手でやつは黒いシャツの胸ポケットを探った。半透明のちいさなプラボトルを取りだした。ぱちりと音を立ててふたを飛ばし、目の高さに容器をあげて乾杯のまねごとをする。
「誰も動くなよ。動けばそいつから撃つ。じゃあな」
イッセイは盃でもあけるように、スネークバイトでいっぱいのボトルを逆さにした。ばりばりと奥歯でかみ砕きごくりと一度のどの奥にクスリを送ると、鮮やかな緑色に粉をふいた口を開いておれたちに笑ってみせた。右手をあげて銃を窓にむけた。立て続けに二度引き金をはじく。窓が白くひび割れたが、ガラスは砕け落ちなかった。
「見ろ。おれたちのまわりはすべてが安全なように設計されている。生きることのスリルは、この世界のどこにあるんだ」
イッセイは緑の唇をゆがめてそういうと、さらに二度銃を撃った。あいた穴から夜の風が流れこみカーテンを揺らした。遠くレイヴの鼓動が部屋のなかを満たす。四発の銃声は増幅されたバスドラムより遥かにちいさかった。
「あの音がきこえるか。あの心臓が跳ねる音。あれがきこえているあいだ人は生き、きこえなくなれば人は死ぬ。どちらにしてもひとりの人間のやることなど、善でも悪でもたいしたことはない。あの音が鳴っているあいだ、ただ荒れ狂えばいいんだ。じゃあな」
イッセイは自分の胸に顔を落とした。ヒデキが両肩を抱いて揺らした。
「佐伯さん……」
タカシは一瞬で距離を詰めると、イッセイの力の抜けた右手から銃を奪った。指先でつまみソファのクッションに放った。おれはヒデキにいった。
「あんたはどうするんだ」
ヒデキの夢見るような表情は崩れなかった。にこやかにいう。
「ぼくも十分この世界でおもしろいものを見た。トワコからきいてるかな」
別に返事の必要などないようだった。おれは黙っていた。
「ぼくは魂を信じている。むこう側の世界の存在もね。今度はあっちに旅するのもいいかもしれない」
そういうとマオカラーのポケットからジップロックの小袋を抜いた。ひと動作で緑色の顆粒をのみほす。ヒデキはおれたちになど関心はないようだった。ぶつぶつと口のなかでいった。
「むこうにいくには量がすこし足りないかな。ぼくはベッドルームで寝るから、きみたちは好きにするといい」
ヒデキは続きの寝室に消えた。おれたちは呆然としていた。ナイフを抜いた四人のGボーイズは緑色のヘビが駆け抜けた部屋では間抜けに見えた。死を決意した人間のまえではナイフなどおもちゃにすぎない。タカシがいった。
「撤収だ」
おれはいった。
「このままでいいのか」
タカシはうなずいた。
「ああ、いいさ。この現場でなにが起こったかサツのやつらにたっぷりと考えさせればいい。きっといくら頭をひねってもやつらにはわからないだろう。万が一おれたちにまでたどりつくことができたら、そのときは話をしてやればいい。ジャンキーがふたり自殺する現場に立ちあいましたとな」
腕時計を見て、タカシはいった。
「もうすぐ四時半だ。レイヴも終了して、道路封鎖も解ける、携帯もいっせいにつかえるようになるぞ。ここで解散だ。各自ばらばらに散ってホテルを離れろ。フロントとドアボーイには注意するんだぞ」
最後におれにいった。
「マコト、おまえはおれとこい。ここで目撃でもされたらすべて台なしだからな」
さすがに平民の気もちに敏感な王様だった。おれは正直いって疲れ切っていた。なにもかもどうでもよかったのだ。エディもイッセイもヒデキもバカだと思った。おれもGボーイズもヘヴンもバカだ。なにも知らずに踊ってる一万人を超えるガキもみんなバカだ。
おれはタカシと無人の廊下を歩きながら、もう二度とドラッグ絡みの事件は引き受けないと心に誓った。おれには池袋の街と貧乏くさい現実だけで十分だ。
エレベーターで地下駐車場におりてから、階段で一階のロビーにあがった。ロビーはレイヴに疲れた客でごった返していた。朝の五時まえなのにカフェは満席で、ずらりと順番待ちができている。おれとタカシは普通に歩いて、混雑をすり抜けた。
「これならいくらおまえでも見つかる心配はなかったな」
横目でおれを見てやつは笑った。おれには冗談で返すだけの力がもう残っていなかった。ホテルまえの広場で握手をして王様と別れた。おれは自分の部屋にもどりただ眠りたかった。
だがそのまえに一本だけ電話をかけなければならない。おれは携帯でトワコの短縮を押したが、また留守電サービスだった。おれは朝方の西口公園で安堵のため息をついた。これでヒデキのことをトワコに伝える最初の人間にならなくて済む。
おれはやつがミドリの小袋を裂いたとき、実はすこしだけほっとしたのだ。これでトワコの一生にあの男が黒い影を落とすことはないだろうと。おれとの関係がこれからどうなるかなんてまったく予想はつかなかったけれど、それはトワコにとっていいことに違いない。
おれは公園を見わたした。館山のときと同じでヘヴンのスタッフは総がかりで園内に落ちたごみを拾っていた。あとでPRするつもりなのだろう、ちゃっかりとその場面も撮影班がビデオに収めていた。
空を見あげた。まだ五時になったばかりなのに日ざしは強烈で、気温はすでに三十度を超えているようだった。おれは足をひきずって西一番街にもどり、ジーンズを脱いだだけで歯も磨かず布団に倒れた。この一年で一番きつい一日はこうして終わった。
朝の市場は自主的に休むことにした。どうせ売れ残りの果実がいくらも店先で腐っていくのだ。かまうことはない。
事件の一報は昼のテレビニュースだった。朝刊はあの時間では間にあうはずがない。
ホテルの外まわりを清掃する業者が白くひび割れた窓に気づいておお騒ぎになったという。位置を確認してから客室係が一九一七号室にはいったところ、窓辺のアームチェアで佐伯イッセイはすでに死亡。だが、岡崎ヒデキは生存していた。意識不明のままベッドで吐しゃ物にまみれ倒れていたそうだ。池袋署では両名の血液から新型薬物の反応を検出。薬物による自殺と見て検証を続けている。
驚いたことにニュースではミッドサマーレイヴのことはまったく流れていなかった。理由は午後のワイドショーを見てわかった。ヘヴンはあの無許可のレイヴを自社アーティストのプロモーションのためということで、ステージのVTRを各放送局にわたしていたのだ。事件ではなくただの宣伝なら、いくら規模がおおきくてもニュースで取りあげることはできないだろう。その代わり若者の無軌道な現代風俗ということで、ワイドショーでは裸で踊るレイヴァーやなぐりあうガキをたっぷりと放送した。
これは後日わかるのだが、ヘヴンのスタッフのうち四名が道路交通法違反で略式起訴された。当然禁固ではなく罰金刑だけ。御厨は自分の知らないところでスタッフが暴走したと弁明したらしい。おもしろいことにヘヴンの人気はこのゲリラレイヴで逆に高くなった。みんなアンチヒーローが好きなのだ。広告代理店は口では文句をいいながら、新しいスポンサーをどっさりと紹介してくれたという。
この日のニュースで最大級の扱いだったのは、誰かが池袋署の裏にとめ捨てていったレンタカーのトラックの中身だった。匿名情報により荷台の扉を開けた池袋署員は、なかで汗だくで縛られ転がされている八名の売人を発見することになった。閉め切った貨物室のなかは四十度を超える暑さで、売人のうち三人は熱中症で留置場ではなく病院に運びこまれた。クスリを抜くにはいい機会だと思うが、当人はいつ救出されるかもわからず死ぬかと思ったのではないだろうか。おれはちょっと愉快だった。
翌日には売人の証言から、ボスの佐伯イッセイとドラッグデザイナー岡崎ヒデキの存在が浮かびあがり、ついにウロボロスの全容がマスコミ各社にも判明した。どの会社もイッセイの自殺の理由を推測していたが、ある週刊誌が末期の膵臓ガンを示す病院のカルテをすっぱ抜き、ウロボロスのボスの自殺事件は急速に終焉にむかった。
ヒデキが借りていた宮前平の一軒家からは、濾紙《ろし》やフラスコなど化学実験の用具と大量の薬物が発見された。ガレージのなかでは太陽光と同じ波長の光りを発生するランプがともされ、大麻草が栽培されていたそうだ。秘密の家庭菜園である。
エディの頭部は荒川の底か下流に流されてしまったのだろう、どこからも発見されなかった。おれは今でもやつがとろりと開いた瞳孔でこの世界を見ているんじゃないかと思うことがある。
「今日も最高にクールだねー、マコトさん」
そうなのだ。この世界は見かたによっては、いつだって最高にクールなのだ。
西口ミッドサマーレイヴから三日後、おれは岡崎ヒデキが搬送された要町昭和病院にいった。今度は花束はもっていかなかった。トワコは集中治療室の外の長椅子に座っていた。おれがまえに立つとトワコはすっぴんの顔をあげた。おれはまた美人は得だと思った。トワコは最後に見たときより、何倍もきれいに見えたからだ。その日の義足は最初に会ったときつけていたチタン製で、飾り気のない麻のワンピースによく似あっていた。硬いビニールのとなりに座り、おれはいった。
「医者はなんだって」
「ずっとこのままかもしれないし、ある日突然意識を取りもどすかもしれない。誰にも予想できないって」
そうかといった。トワコはおれの目をまっすぐに見つめ返してくる。
「ヒデキの最後の様子はだいたい御厨さんからきいてる。でも、マコトくんはその場にいたんだよね。最後になにかヒデキはわたしのことをいってなかった」
嘘をつくことはできなかった。消毒薬のにおいと青い蛍光灯の光りのなかで、おれは黙って首を横に振った。
「わかった。最後の言葉をなるべく正確に教えて」
おれは集中して記憶を探った。
「この世界は十分に見た。自分は魂を信じてる。むこうの世界を旅してくる、そんな感じだった」
トワコの表情が明るくなった。それだけで病院の廊下が明るく照らされたように感じる。
「旅をしてるなら、いつか帰ってくるかもね」
「そうだな」
おれはトワコの手をにぎった。今度はまったくセクシーな意味のない励ましの握手だ。おれはいった。
「ヒデキの仕事の内容はまったく知らなかったのか」
トワコは義足のシャフトのように細く精巧な首を傾げる。
「予測はしていたけど知らなかった。ヒデキは仕事のことを自分にきくなといっていたの。それを知ればわたしも罪に問われることになるかもしれない。ぼくも教えないから、トワコもきくなって」
「そうか。もうひとつきいてもいいかな」
義足のモデルはやつれた顔でうなずいた。
「トワコはなにか情報を絞りだすために、おれと寝たのか」
おれの頬を両手ではさんでトワコはいった。
「もっと自信をもったほうがいいよ、マコトくん。情報なんて別に寝なくても手にはいるもの。わたしはほんとうにいいなって思った人としか寝ないよ。こう見えてもわたしはトワコなんだから」
おれたちは声をそろえて笑った。確かにトワコはトワコだった。なにが起ころうが、たとえ片足だろうが、絶対に自分の足で立ち続ける女なのだ。おれはいった。
「なあ、別におれとつきあわなくてもいいから、もうヒデキにつきそったりするのやめておけよ。今回もそうだし、インドで事故を起こしたときも責任は全部やつにあるじゃないか」
それはおれがこの数日間考えてきたことだ。あんなクスリで眠り続けるヒデキにはトワコはもったいなさすぎる。かりに目を覚ましてもヒデキには厳しい警察の取り調べが待っているだけだ。トワコはひとりで笑っていた。
「あのときもじつはヒデキってものすごくハイだったから、事故のことなにも覚えていないんだよね」
おれは目を丸めていった。
「じゃあ、やつは自分の運転ミスだって知らないのか」
トワコは肩をすくめた。
「そうだと思う」
「話してもいないのか、信じられない。それでもトワコは目を覚ますまで、やつの面倒を見るつもりなのか」
トワコはおれを見てしっかりとうなずいた。かすかに笑っている。おれはおれの負けだとわかった。そんなふうに笑われたらなにもいえなくなる。
「自分でもどうかしてると思うよ。でも、ヒデキはわたしが最低だったときにいっしょにいてくれた。だから今度はわたしの番なんだ。不器用でバカみたいだけど、今のわたしにはほかの方法は考えられないよ」
かつて一度愛した男のためにトワコは自分の可能性をすべて投げ捨てようとしていた。新しい歌姫の恋人がたくさんの死傷者をだしたスネークバイトの調合者だと知ったら、世間は許すのだろうか。そこから先はトワコが決めることだ。おれにはなにもいえない。
だが、どちらにしてもおれは知っていた。世のなか全体が敵にまわっても、トワコは自分の足でどこまでも立ち続けることだろう。エディがあの死にかたしか選べなかったように、トワコも立ち続けることしか選べないのだ。おれたちはみんななるようになって、こうしてなんとか生きている。生きかたなど自由に選べるというやつの気が知れなかった。損得も色恋もトワコの意志のまえでは、愚か者のいいわけにすぎない。
トワコはおれの耳元でいった。
「でもさ、マコトくん、へたっぴーかと思ったけど、意外にうまいからびっくりしたよ」
おれは半分泣きながら笑った。トワコはいう。
「いつかヒデキが目を覚まして、全部話して、それでグーで思い切りなぐって、ちゃんとわたしの目を見て謝ったら、全部を許してヒデキと別れられるかもしれない。そのとき、マコトくんがまだフリーでわたしのことが好きだったら、今度こそちゃんとつきあおうね」
そんな夢のような話でもおれにはうれしかった。
「絶対に約束するか」
トワコが手をさしだした。しっかりにぎると、にぎり返してくる。リハビリで鍛えた筋肉は強力だ。
「うん、約束する」
おれは立ちあがった。そのままそこにいたら、トワコのまえで泣きそうだったのだ。おれは背を伸ばしていった。
「わかった。信じてる。おれからはもう連絡しないよ。いつかトワコから、全部終わったって電話がくるのを待ってる。いつまでも待ってるから。おれだって池袋のマコトなんだからな。約束は忘れないから。じゃあね」
おれは薄暗い集中治療室の廊下をまっすぐ胸を張り歩いていった。一度も振り返らなかった。エレベーターはつかわず、階段を駆けおりる。
おれはそのまま八月終りの街にでて、まっすぐ池袋にむかった。サングラスをかけた帰り道、ひとりで笑ったり泣いたりした。だから、今もおれは待っている。
一本の電話とただひとりの声を。
希望のかけらがあるなら、待つことは決して悪くない。
初出誌「オール讀物」
骨 音 二〇〇一年十一月号
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キミドリの神様 二〇〇二年五月号
西口ミッドサマー狂乱《レイヴ》 書き下ろし
単行本
二〇〇二年十月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十六年九月十日刊