[#表紙(表紙1.jpg)]
石田衣良
池袋ウエストゲートパーク
目 次
池袋ウエストゲートパーク
エキサイタブルボーイ
オアシスの恋人
サンシャイン通り|内 戦《シヴイルウオー》
反自殺クラブ
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池袋ウエストゲートパーク
[#地付き]内戦のさなか帰ってきたK2に
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池袋ウエストゲートパーク
おれのPHSの裏側にはプリクラが一枚貼ってある。おれのチームのメンバー五人が狭いフレームになだれこんで写ってる色のあせたシール。フレームの絵柄は緑のジャングル。バナナめあての下品な猿たちがスイングしてる。それはこっちの世界と変わらない。プリクラのなかには、ほっぺたとほっぺたをくっつけて、最高におもしろい冗談を今聞いたばかりって顔が並んでる。もちろん、ヒカルもリカもいる。なにがそんなにおもしろかったのか、おれはおぼえてない。そんなシールをいつまで貼ってるんだっていうやつもいる。そのたびに「夏の思い出」とか「過去の栄光」とか適当にこたえる。だけど、本当はなぜなのか、おれにもよくわからないんだ。
◆
おれの名前は真島誠。去年、池袋の地元の工業高校を卒業した。立派なもんだ。おれのいってた高校では、卒業までに三分の一が退学する。知りあいの少年課の吉岡がいってた。おまえのところはヤー公のファームだって。タタキに、ヤクに、出入り。筋のいいやつは、すぐに上からスカウトされる。なかには、ヤー公にもなれないほどあぶないやつもいた。例えば山井。やつとは小学校からの腐れ縁。やつはでかくて四角くて切れやすくて、なぜか髪の毛が硬い。てっぺんに金色のワイヤーを一万本くらい突き立てた高さ百八十五センチの冷蔵庫を想像してくれ。耳と鼻に開けたピアスを猛犬用のチェーンで結ぶのも忘れないように。やつの戦績はおれの知る限り、五百戦四百九十九勝一敗というところ。とっておきの一敗についてはあとで話すよ。
やつのあだ名の元になる事件があったのは、中学校二年の夏。山井とクラスの誰かがつまらない賭けをした。東口の区立総合体育館でよく見かけるでかいドーベルマンに、勝てるかどうかってバカな話。山井はおれなら勝てるといい、誰かは無理だといい、みんなはおやつのパン代をそれぞれ思うほうに賭けた。つぎの土曜日、山井とその他大勢はぞろぞろと中学の校門を出て体育館へむかった。その犬がいた。体育館まえの広場、遠くに飼い主のじいさんが座ってる。ドーベルマンはベンチのしたの臭いをかぎながらうろついていた。山井は左手に牛肉の赤身をつかみ、犬へ差しだした。犬は大喜びでしっぽを振り、山井にむかって走っていく。山井は右手に得物を握りこんだ。五寸釘を打ち抜いた木の棒。安物のワインの栓抜きみたいなT字型。おれは山井が技術の時間に得物の先をグラインダーで尖らせるのを見た。五寸釘の先から飛ぶ火花。山井はドーベルマンがよだれを垂らしながら飛びついてくると、赤身を引っこめ右手をまっすぐに突きだした。狭い犬の額に吸いこまれる五寸釘。離れて見ていたおれには音さえ聞こえなかった。山井は右手を一度ぐるりとえぐってから引き抜いた。犬は山井の足元に落ちた。額からはほとんど血は流れていなかった。ドーベルマンは口から泡を吹き全身で|痙攣《けいれん》している。誰かが吐く音が聞こえた。おれたちはみんな、素早く広場から消えた。
つぎの月曜日から、やつのあだ名は「ドーベル殺しの山井」になった。
◆
高校を卒業したおれはプーになった。まともに就職もできなかったし、する気もなかった。アルバイトもだるいし、やる気がでない。おれは金がなくなると、おふくろがやってる果物屋を手伝ってこづかい銭を稼いだ。
果物屋といっても銀座にあるようなこぎれいなフルーツパーラーなんかとはわけが違う。うちの店は池袋西一番街にある。それだけで地元のやつならわかる。店の並びはファッションマッサージやアダルトビデオ屋や焼肉屋。死んだおやじが残した露店に毛のはえたような店を守るのはおれのおふくろ。店先にはメロンやスイカ、出始めのビワやモモやサクランボなんて値の張るものばかり並んでる。財布のひもがゆるんだ酔っ払いを狙って終電間際まで店を開けてる、どこの駅まえにもきっと一軒あるような店。それがおれんち。店から、西口公園までは歩いてほんの五分。半分は信号待ちだ。
去年の夏おれは小銭のあるときや仲間の誰かが金をもってるときは、たいていの時間を池袋西口公園のベンチで過ごした。ただぼんやりと座ってなにかが起こるのを待っているだけ。今日やることなんてなにもないし、明日の予定もない。退屈の二十四時間の繰り返し。でも、そんな毎日でもダチはできる。
◆
そのころおれの相棒はマサだった。マサは森正弘。おれのいってた高校から奇跡的に四流大学に滑りこんだ秀才。だがマサはほとんど大学には寄りつかず、いつもおれと西口公園でつるんでいた。おれといっしょだとナンパがうまくいくという。やつは日焼けサロンで真っ黒に焼いた胸をおおきくはだけて、左耳にピアスを三つしている。去年の六月の雨の日、おれたちは西口の丸井にいた。雨宿り。金がないと雨の日は困る。いくところがない。マサもおれも一文なしで買い物もできずに、ただ店のなかをうろうろと歩いていた。退屈して地下のヴァージン・メガストアの本屋をのぞくと、そこでおもしろいものを見かけた。写真集や美術書、値の張る本が並んだコーナー。メガネをかけたチビのやせっぽちが、大判の本をショルダーバッグに押しこんでる。チビはそのままなに食わぬ顔でレジの前を無事通過。エスカレーターで一階にあがり丸井の正面入口から出ていった。おれたちもチビのあとを追った。交差点を渡り、東京芸術劇場まえの広場で追いつき、おれたちはチビにうしろから声をかけた。やつはそのままの格好で一メートルも飛びあがった。いいカモ。こいつはいくらになるだろうか。おれたち三人は近くの喫茶店に入った。
◆
結論からいうと一銭にもならなかった。アイスコーヒーをおごられただけ。チビの名前は水野俊司。盗んだ本はフランスのアニメ作家の画集だという。シュンは初めのうちはろくに口もきけなかったが、途中から早口で話しだすとこんどはとまらなくなった。田舎から東京に出てきてデザインの専門学校に入って三カ月。ほとんど誰とも口をきいていない。友達はいない。学校はバカばかり。授業はつまらない。
早口で話すときも目に表情がなかった。ちょっとあぶない。おれとマサは目をあわせた。ついてない。こいつはタタイたりしてもしょうがないやつだ。シュンはバッグからクロッキー帖を取りだし、おれたちに自分で描いたイラストを見せた。すごくうまい。だがそれがどうしたというんだ。ただの絵じゃないか、そんなもん。おれたちは喫茶店を出て別れた。
つぎの日、おれとマサが西口公園のベンチに座っていると、シュンがやってきて黙ってとなりに座った。クロッキー帖を取りだしイラストを描き始める。そのつぎの日も同じ。そうして、シュンはおれたちの仲間になった。
◆
池袋西口公園(おれたちはカッコをつけるときはいつも「ウエストゲートパーク」と呼んでいた)の本当の顔は週末の真夜中。噴水のまわりの円形広場はナンパコロシアムになる。ベンチに女たちが座り、男たちはぐるぐると円を描きながら順番に声をかけていく。話がまとまれば、公園を出ていく。飲み屋も、カラオケも、ラブホテルも、すぐとなりだ。噴水のまえにはタンスくらいあるでかいCDラジカセが何台も並び、腹に響くようなベースにあわせて、ダンサーのチームが振りつけの練習をしてる。噴水の反対側では、シンガーの連中がギターを抱いて地面に座り叫ぶようになにか歌っている。最後のバスが出ていったあとのターミナルには、埼玉からきた族のクルマが列をつくり、のろのろと流しながらスモークガラス越しに女たちを口説いている。ねえ、おれたちとやんない? 公園の並びの東京芸術劇場は夜はシャッターをおろしているが、そのまえの広場は格好の遊び場だ。ボーダーとBMXのチームがスケートボードとマウンテンバイクのアクロバットを競いあっている。西口公園ではそれぞれのチームに見えない縄張があり、その境界線を武闘派のGボーイズが血の臭いを探すサメみたいにうろついている。公園の角の公衆便所はマーケット。みんな一晩じゅうなにかを売り買いしている。売人が五分置きに便所にはいり、ルーズソックスのコギャルも売人といっしょに男便所に消えていく。
そして、土曜日の夜がくるたびにおれたちも熱い湯につかるように一晩じゅう西口公園で時間をつぶした。ナンパすることもされることもあった。ケンカを売ることも買うこともあった。だが、たいていの夜はなにも起こらず、なにかが起きるのを待っているうちに、東の空が透きとおり夏の夜が明けて始発電車が動き始める。それでもおれたちは「ウエストゲートパーク」にいった。
他にすることはなにもなかったから。
◆
ヒカルとリカに会ったのもそんな週末の夜。その夜はおれたちにしてはめずらしいことに金があり、めずらしくマサのナンパは空振り続き。もうすぐ、夜が明けそうでマサは焦ってかたっぱしから女たちに声をかけている。やれそうならいいって感じ。おれは噴水の水が噴きあがりくずれて落ちるのをぼんやり眺めていた。シュンは街灯の明かりのした、いつものようにクロッキー帖にイラスト描き。するとおれたちのまえに足が四本並んだ。どちらも流行の白い革のサンダル。ヒールが十五センチもあるやつ。一組の足は色が白くすんなりと伸びて形がいい。もう一組は短いけれどよく焼けていて、肉がたっぷりつまってる。
「なにしてんの?」
色黒のほうがシュンのクロッキー帖をのぞきこんで声をかけた。真珠色のスリップドレス。目がおおきくて、ちょっと猿がはいった顔。ショートカット、背がちいさくてかわいい。十六くらいかな。
「えー、すっごーい、チョウマ!!」
なんで若い女の声ってこんなうるさいんだろう。笑い声なんてサイレンみたい。
「おまえら、うるせーよ」
思わずおれがそういうと、色の白いほうがこたえた。
「いいじゃん、私たちイラスト見せてもらってるだけなんだから」
色白のほうは背が高く、黒のへそだしのチビTにミニスカート。おっぱいがでかくて斜めうえにむかって突きだしている。『ヤングマガジン』のピンナップガールみたい。目があうと瞳は明るい茶色だった。ハーフかこいつ。
「まあまあ、いいじゃない、おふたりさん。なあシュン、お近づきの印にこのお嬢様たちのイラストを描いてさしあげろよ。おまえの絵なんて、こんなとき以外は役に立たないんだからさ」
女たちと話しているおれたちに気づいたマサが、さっそく戻ってきて声をかけた。マサはこの女たちが気にいったみたいだ。特に色の白いほう。一生懸命コナをかけている。しばらくして、シュンの絵が仕上がった。クロッキーのしたのほう、西口公園の敷石のうえに色の黒い女がいた。猫の耳としっぽ。足を横に投げだしたセクシーな招き猫のポーズでちょっと甘えたふくみ笑い。画面のうえのほうには、もうひとりの女がいた。真っ白でおおきな天使の羽をはやして宙に浮かんでいる。遠くを見ている視線、悲しそうな横顔。おれはシュンのイラストで初めて気がついた。色白の女はたいへんな美人だってこと。イラストは女たちに大受けだった。おれたち五人はそれから、近くのカラオケボックスにいった。明け方で腹がすく時間だったから。そして同じような歌をたくさん歌った。色白で背の高い女は渋沢光子、色黒で背の低い女は中村理香と自己紹介した。ヒカルは私のことを本名のヒカリコで絶対に呼ばないでねといっていた。ちょっと変だなと思ったが、埼玉からきたブスが自分をジェニファーと呼べといいはったこともある。まあいい。ヒカルがなぜ自分の名前が嫌いなのか、その理由がわかったのはずっとあとになってから。
もうすべて手遅れになってからだった。
◆
ヒカルとリカはそれから、毎日「ウエストゲートパーク」にやってくるようになった。ふたりのいってるお嬢さん学校も夏休み。おれたち五人はいつもつるんで遊ぶようになった。ヒカルは最初のころ、会うたびに誰かにプレゼントをもってきた。最初はこのまえのイラストのお礼だといってシュンにドイツ製の水彩色鉛筆。六十四色がきれいな木箱に納まってまぶしいくらい。おれはそれまでそんなものを見たこともなかった。つぎはマサにサファイアのピアス。台座は二十二金。友達の宝石屋の娘から買ったクズ石だといっていた。最後はおれ。ナイキのエアジョーダン。例の九五年のマイケル・ジョーダン・モデル。マコちゃんなら似合うと思って。やっぱり、うちのチームのヘッドにはカッコよくなって欲しいもんね。心配しないでね、親戚に個人輸入のスポーツショップやってる人がいるから安く手に入るんだよ。天使の笑顔。おれはしぶしぶ受け取った。
あとで、リカを呼んで聞いてみた。
「ヒカルは、いつもこうなのか」
「うん、だいたいそうだよ。気にいった人なら」
「ヒカルの家、金持ちなのか」
「そう、代々続いた金持ちだって噂だよ」
「おやじさんなにやってんの」
「オークラ省のエライヒトだって」
◆
つぎの日、PHSでヒカルだけ呼びだした。待ちあわせは東口のP'パルコ。おれは入口の横の植えこみに座って待った。池袋の狭い空に入道雲が見える。約束の時間にヒカルはやってきた。白いノースリーブのワンピースに白いロングブーツ。アムロの背を高くして色を白くしてうんとグラマーにした感じ。それじゃあ、なにも残らないか。あたりの男たちの視線がヒカルの身体のラインを上下になぞるのがわかる。ヒカルがおれのとなりに座ると、男たちの視線は急に横にそれていった。
「初めてだね、マコちゃんとふたりきりで会うなんて」
「そうだな」
「なにか話があるんでしょう。ここ暑いからどっかサテンでもいこうよ。私がおごるから」
「いや、いいよ。おれが呼んだんだから、おれがおごる」
おれたちは近くのマクドナルドにいった。アイスコーヒーをふたつ。二階の窓際に席を取る。窓から池袋駅まえの人波が見えた。
「で、話ってなんなの」
「プレゼントのこと」
不思議そうな表情。ヒカルは黙っている。
「もうひと通りみんなにプレゼントやったろ。だから、プレゼントはおしまい。わかるな?」
「えー、わかんないよ」
急にふくれ面になった。上目づかいの目が光った。泣くのか、こいつ。
「なあ、ヒカル、人にものをもらうとなにかお返しをしなけりゃならない。それにいつももらってばかりいると、つぎをあてにするようになる」
「いいじゃない。そしたら、つぎもヒカルがプレゼントあげるもん」
ヒカルの目のふちから大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。となりに座っている男がおれをにらんだ。おれもじっとにらみ返す。やつは目を伏せた。
「いいか、ヒカル、おれたちはホストじゃない。金を使ってくれる女じゃなくても、好きならいっしょに遊ぶさ。だから、もうプレゼントはなし。いいな」
ヒカルの表情が急に明るくなり、泣き笑いの顔になった。激しいやつ。
「ねえ、最後のもう一回いってくれる?」
「プレゼント……」
「それじゃなくて、そのまえの言葉」
しかたがないから繰り返した。
「好きならいっしょに遊ぶさ。だから、泣くなよ」
ヒカルに雨上がりの夏空のような笑顔が戻った。
おれたちはマックを出た。駅まえのスクランブル交差点で信号待ちをしていると、おれの横でうつむいたままいった。
「ねえ、マコちゃん。誰かの誕生日とか特別にいいことがあっても、プレゼントはだめなのかな?」
「うーん、しょうがねえな。そういうときはいいよ」
青になるといきなりヒカルが駆けだした。両腕を広げて飛行機のポーズ。人波をかわしながら右に左に旋回する。おれはあきれて見ていた。通りのむこう側に着くと、ヒカルは振りむいて両手でメガホンをつくり叫んだ。
「やっぱり、マコちゃんて、サイコーだよ。また明日遊ぼうね」
◆
カラオケやクラブやゲーセンにいったり、ケンカしたり、CDや服をパクったり、盗んだ携帯電話ででたらめに国際電話をかけたり、テレクラのオヤジを呼びだして笑ったり。おれたちの遊びはたわいのないものだった。なんで、あのころはあんなにおもしろかったんだろうか。おれは今でもちょっと不思議だ。だが楽しい時間は続かない。
八月の最初の週にあの連続女子高生絞殺未遂事件が起きた。池袋のストラングラー(首絞め魔)とかいって雑誌やテレビで話題になったから、まだみんなおぼえてると思う。最初の被害者は都立高校の二年生。池袋二丁目にある「エスパス」というラブホテルで意識不明のまま発見された。女はなにかクスリを飲まされ、首をひもで絞められてレイプされていた。つぎは二週間ほどして、駅の反対側、東口のホテル「2200」で、女子高をやめたばかりのプーの女が同じように意識不明で発見された。どちらも病院ですぐに意識を取り戻したが、犯人については固く口を閉ざして語らなかった。ストラングラーにひどく脅されたらしい。池袋の街には制服のパトロールや私服のデカ(ださいカッコ)があふれた。おれたちにはいい迷惑。
そうこうしているうちに、どこかの週刊誌が被害者の女子高生の素行を調査してすっぱぬいた。タイトルは「コギャル売春の落とし穴」。同級生はウリの噂を話し、街の知りあいはふたりの値段をばらし、近所の主婦は壊れた家庭環境を楽しそうに語った。ウリで稼いだ金でふたりが買いこんだブランドもののリストは、その号の週刊誌の目玉になった。それからはどのマスコミでもなにを書いてもいいことになったらしく、ひどいイジメが始まった。特別料金でサドの客に首を絞めさせた。屍姦プレイの当然の代償。テレビではSM評論家が家庭でできる安全なSMプレイの解説をする。
◆
ストラングラーが騒がれだしたころ、リカとヒカルの様子もおかしくなった。なにか言い争っていたのに、おれたちがいくと急に仲のいいふりをしたり、カラオケボックスから真夜中に抜けだして帰ってこなかったり。おれは女同士のことだと思って放っておいた。
ある日曜日の午後、ヒカルをのぞくおれたち四人はいつものように西口公園のベンチに集まっていた。ヒカルはおやじさんと何カ月もまえからの約束で芸術劇場でクラシックのコンサート。あとでおれたちと合流することになっていた。
マサはヘアスタイルを念入りにチェックし、シュンは黙ってクロッキー帖にイラスト。いつもの通りの日曜日。化粧を直していたリカがおれのところにくるといった。
「ねえ、マコちゃん、相談があるんだけどな……」
「いいよ、いえよ」
「ここじゃ、ちょっと……」
「なんだよ、マコトだけにしか話せないような相談なのかよ」
マサが横から口をはさんだ。
「そうだよ、大事な話だから、マサなんかには教えてあげない」
「いいよ、いいよ、ったく、どいつもこいつもマコマコってうるせーんだよ」
なにかを見つけたらしく、シュンは手を振って立ちあがった。
「おーい、こっち、こっち」
東京芸術劇場からおりてくる長いエスカレーターの列のなかにヒカルの姿が見えた。肩を出した深い青のドレス。結婚式の二次会なんかで着るようなやつ。マサのピアスのサファイアみたいに光ってる。髪をアップにしたヒカルはきれいだったが、どこか様子がおかしい。人形のようにぎくしゃくした歩き方。ヒカルは着飾った客でいっぱいの劇場まえの広場をふらふらと横切ると、まっすぐにおれたちのところにやってきた。そのまま、ベンチのまえにしゃがみこむ。顔色が悪い。血の気が失せて裸の肩は青い灰色。ヒカルはその場にすこし吐いた。透明な唾液が敷石に糸をひく。
「だいじょうぶか、ヒカル」
おれたちはヒカルをベンチに座らせた。リカがヒカルの背中をさする。
「おい、シュン、ヒカルにあったかいコーヒーでも買ってきてくれ」
「どうしたの、だいじょうぶ、ヒカル」
リカは心細そうだった。
ヒカルはしばらく荒い息をしていたが、しばらくすると口を開いた。
「もう、だいじょうぶ。あのね、アンコールで嫌いな曲をやったの。それで気持ち悪くなっちゃって」
「それ、なんて曲?」
シュンが紙コップのコーヒーを手渡しながら聞いた。
「ありがと。チャイコフスキーの『弦楽セレナード』」
おれはそのときやっぱりヒカルはお嬢様なんだなと思った。別世界の話だ。
「あ、ヒカルのおとうさん!」
おれたちは全員リカの視線の先に振りむいた。背の高い男が立っている。ダークスーツに銀のネクタイ。ふちなしのメガネ。髪の毛は半分白かった。おれはどこかのニュース番組のキャスターみたいだなと思った。目元がヒカルによく似てる。ヒカルのおやじさんはおれたちにあごの先で挨拶すると、劇場通りのほうへ歩いて消えた。
ヒカルの様子が落ち着いたころ、おれはリカにいった。
「なあ、リカ、相談ってなんだ」
「ああ、あれね、ヒカルも調子悪そうだし、こんどにするよ」
「だいじょぶなのか」
「うん、だいじょぶ、だいじょぶ」
リカは笑ってそういった。だが、だいじょうぶなんかじゃなかった。そのリカの笑顔をおれははっきりとおぼえている。無理にでも聞きだせばよかった。その相談はその場で永遠に消えてしまったのだから。
◆
つぎの週の夜、おれが店番をしているとPHSが鳴った。
「もしもしマコト。おれマサ、たいへんなことになっちまった……」
マサの声が途中でとぎれて、がさがさともみあう音。
「おい、電話代わったぞ。こちら吉岡だ。今日の夕方、中村理香さんが遺体で発見された。今すぐ、池袋署にこられるか。話を聞きたい」
「わかった、すぐいく」
「それでな、おまえ今日一日なにしてた?」
「今日は一日店番だよ、おれを疑ってんのか」
「いいや、でも、まさかってことがあるからな」
そうだ。そのまさかがリカのうえに起きた。なんだって起きることがある。
「それから、この件はまだ誰にも漏らすんじゃないぞ」
「わかってる、五分後」
「待ってる」
おれはPHSを切った。二階にあがり、テレビを見てるおふくろに声をかけた。ちょっと出てくる。おれが階段を駆けおりるとあとからおふくろの声が追っかけてきた。今夜も帰らないのかい? ニュースショーでは恐ろしげに池袋西口のラブホテル街を歩く女性レポーターが映っていた。うちのすぐ裏のあたりだ。
◆
池袋警察署は芸術劇場の裏、ホテルメトロポリタンの隣にある。おれは酔っ払いとカップルでいっぱいの夜の池袋の通りを走りに走った。信号を無視して片側三車線の大通りを突っ切る。リカのことは思いださなかった。走るのは体育の授業以来。それでも足の筋肉は軽々と動いた。夜の風が身体の表をなでる。
池袋警察署に着くと入口わきの階段を駆けのぼった。少年課の受付で吉岡の名を出した。その夜フロアはごった返していた。リカの事件のせいだろうか。奥のほう、窓際の机で吉岡が立ちあがりおれに手をあげた。机の横にパイプ椅子を置いて、マサが座っている。おれと目があうとマサは泣きそうな顔になった。
吉岡はゆっくりと歩いてきた。おれから目をそらさない。
「よう、いきなり悪いな、マコト」
「そんなことより、リカはどうしちまったんだ?」
「まあ、こっちにこい」
吉岡はおれの先を歩きだした。やつの背は低い。脂ぎった薄い髪と日焼けした地肌。安っぽい背広の肩に積もったフケ。おれは黙ってついていった。同じフロアの一角、取調室のドアが並んだ一番奥の部屋に案内された。ビッグブース、Gボーイズの連中がそう呼んでいる取調室。よほどヤバイことをやらなきゃビッグブースはのぞけない。やつらはそういっていた。吉岡と机をはさんで座ると、正面の壁の胸からうえは鏡になっていた。
「これから、おまえのいうことはすべて証拠として記録される。よく思いだして正直に話してくれ、いいなマコト」
いつもの吉岡の声ではなかった。おれにではなく鏡の裏の誰かにむかって話している。吉岡は今日一日のおれの行動を聞いた。朝は何時に起きた? 昼飯はなにを食った? 昼飯のときなんのテレビを見てた? テレビでタモリはなにしてた? 店番の時間は? 顔見知りは店にきたか? 今日はメロン何個売れた? おれは思いだせる限り正確に話した。今夜はいつもの吉岡じゃなかった。十三で同級生の頬骨をへこませてから五年。おれは吉岡の取り調べには慣れてる。吉岡もおれが慣れてることは知ってる。鏡の裏のやつらはそれを知らない。
「中村理香さんと最後に会ったのはいつだ」
「このまえの日曜日」
「理香さんに特に変わったことはなかったか」
「ああ、なかった」
なぜかわからないが、リカに相談があるといわれたことをおれはいわなかった。それで地雷を踏んだ。
「なにかおまえだけに、特別な相談があると、理香さんはいっていたんじゃないのか」
「ああ、そういえばそうだ」
マサだ。しかたない。ヒカルの体調が悪くなったりして、結局その相談は聞けなかったとおれはいった。吉岡はまるでおれを信じない。それから小一時間、話はリカの「相談」のまわりをいったりきたりした。おれは同じ話を何十回も繰り返した。何度繰り返しても話が変わらないとみると、吉岡は席をはずし部屋を出ていった。取り調べが始まって二時間すぎている。吉岡はすぐに部屋に戻ってきた。
「まあ、いいだろう。いっていいぞ」
「ちょっと待ってくれ。おれは聞かれたことをすべて話した。だが、リカのことをなにも聞いてない。そっちだってすこしくらい教えてくれたっていいだろ」
吉岡は苦虫を|噛《か》み|潰《つぶ》したような顔をした。おれの胸ぐらをつかんでおおきな声を出す。
「このバカ野郎。調子に乗るな、これは殺しだぞ。おまえみたいなチンピラに、いうことなんかあるか」
おれの顔に吉岡のつばとタバコ臭い息がかかる。吉岡はおれだけに聞こえるように急に声を落とした。
「バカ野郎が、せっかくの芝居を台なしにしやがって。もうちょっと続けてろ。あとで教えてやる」
「どうも、すみませんでした、刑事さん」
おれは思いきりおおきな声を張りあげた。
「まあ、いいだろう、おれの机で待ってろ」
ビッグブースを出るとき吉岡はおれの肩を叩いた。いつもより当たりは強かったが、おれは申し訳ありませんでしたと、もう一度おおきな声であやまった。
◆
吉岡の机にいくと、もうマサの姿はみえなかった。夜の十二時をすぎて、人影もまばらになっている。十五分ほどすると、吉岡がやってきた。
「マコト、おまえしょうがねえやつだな。本庁の捜査一課のまえで事件のネタなんか聞きたかったのか。やつら明日の新聞に載るようなことだって、もったいぶって極秘扱いしてんのによ、このど素人が」
「刑事さん、すみませんでした」
おれはまた大声でいった。
吉岡は苦笑いをしている。
「しょうがねえな、おまえいつでもそうならいいんだけどな。腹減ったろう。ラーメンでもおごってやる、さあこい」
おれたちは警察署を出て、西口公園裏の博多ラーメンの店にいった。終電のあとでも店は満員。脂っぽいテーブルと椅子と空気。注文はラーメンと餃子とビール。コップは二個。
「飲むか」
吉岡はおれに聞いた。首を振ると自分のコップに注いで一息で飲みほす。
「それより、リカのことを教えてくれ」
「まあ、ちょっと待ってろ」
吉岡は黒い手帳を取りだし、のぞけないように背表紙を立てて読み始めた。
「本日、午後六時二十分、池袋二丁目のホテル『ノッキング・オン・ア・ヘブンズ・ドア』──なんでスケベホテルにこんなしゃれた名前つけんだろうな最近──602号室で埼玉県川口市の中村理香さん十六歳が遺体で発見された。発見者は同ホテルの清掃パートのおばちゃんだ。詳しくは司法解剖の結果を待たなければわからないが、死因はまあ絞殺だろう。首にひものようなもので絞めた跡が残っていた。警察では午後四時三分に中村理香さんといっしょにホテルに入った若い男の行方を鋭意捜査中だ」
ラーメンがきた。白く濁ったスープを吉岡はうまそうにすする。おれははしを割ったが食欲がまるでなく、一口も食えなかった。
「犯人はやっぱりストラングラーなのか」
「わからんが、その線も有力だな」
「ビデオとかは残ってないのか」
「そんなもんですぐにホシがあがるんなら、東京中にカメラを置きゃあいいんだ。おれたちが楽になる。だがなストラングラーのときも、ホシは自分だけうまくカメラの死角をついてホテルのフロントを抜けている。やつは何度もスケベホテルの下見をしてるとおれは思うな。池袋のラブホテルに詳しいし、頭の切れるやつだ」
おれは吉岡がラーメンと餃子を腹につめこむのを見ていた。今ごろになってリカの笑顔を思いだす。招き猫のポーズ。
「まあ、そんなに思いつめるな。だがな、なにか思いだしたことがあったら、いつでもおれに連絡すんだぞ。おまえ、おれの携帯の番号わかってんだろ」
「ああ」
吉岡はビールの最後の一杯を飲みきった。
「こっちは、これから徹夜で書類書きだ。たまらんな……」
おれは目のまえに置かれた空っぽのコップをじっと見つめていた。
「それからな、マコト、おまえ自分たちでなにかやろうなんて手を出すんじゃないぞ、この変態野郎は警察の獲物だ」
◆
つぎの日、おれたち四人は西口公園のベンチに集合した。リカの葬式にいくために。JRで池袋から川口へ。川口の駅からはタクシー。リカの家にいくのはみんな初めてだった。タクシーがリカの家に近づくと黒い服が目につくようになった。あたりはのんびりした分譲住宅地。おれたちは行きどまりの路地の入口でタクシーをおりた。両側に白いマッチ箱のような家が並んでる。どの家にも同じような鉢植えの赤い花。だが、リカの家のまえは警官とテレビカメラとレポーターでごった返していた。喪服の人たちはスポットライトから顔をそむけて並んでいる。おれたちも列の最後についた。おれには初めての葬式だった。おやじのときはちいさすぎてなにもおぼえていない。玄関わきで名前を書いて香典を渡し、まえのまねをしているといつのまにかまた家の外に出ていた。あっけない。おぼえているのは、リカのおやじさんとおふくろさんと妹が三人で固まってちいさくなっていたこと。一晩で目のしたにくまができ顔から肉が落ちている。ショックのあまり涙も流せない顔。そして、天井まで届く白い花に囲まれた、リカなら自分では絶対に選ばない遺影。たぶん高校入学のときの写真なのだろう。リカはまだサロン焼けのしていない白い顔で純真そうに笑っている。家でのリカはどんなやつだったんだろう、おれには想像できなかった。
外に出ると夏の午後の明るい日ざしがまぶしかった。リカの同級生の泣き声のなか、おれたちはリカの家を離れた。ヒカルは音を立てずに泣きながら歩いた。タクシーをとめて川口駅へ戻った。陸橋をのぼるときクーラーのきいたタクシーの窓いっぱいに入道雲が見えた。上半分は太陽があたって輝くように白い。リカはもう入道雲を見ることはない。おれの頭のなかではひとつの言葉がぐるぐるまわっていた。
リカのためにできること、リカのためにできること、リカのためにできること。
◆
おれたちは川口駅の改札のまえで解散した。みんな言葉がすくない。マサとシュンは改札を通ってホームにおりていった。ヒカルはいつまでものろのろしている。おれはひとりになりたかった。
「おまえも、いけよ」
「ちょっと、話があるんだけど」
「聞きたくない」
「リカのことでも」
リカのことなら聞かないわけにはいかない。ヒカルとおれは駅前のファミリーレストランにいった。硬いビニールの椅子に座る。ヒカルがいう。
「テレビとか雑誌とかで、いつかばれちゃうと思うから先にマコちゃんにいっておくね。あの、リカね、ときどきバイトしてたみたい。マサとシュンには、マコちゃんからいってね」
「それウリのことか」
「でも、最後までは売らないってリカはいってた。テレクラとかで客を探してカラオケいったりカップル喫茶いったり、Bどまりだって」
「だけど今回は……」
「そうだね、お金に困ったら最後までいってたのかもしれない」
手をつけていないアイスコーヒーのコップが、びっしりと汗をかいている。
「ヒカル、リカの心配事聞いてないか。おれ、このまえの日曜日に相談があるんだけどっていわれて、そのままになってるんだ」
「あれのことかな」
ヒカルは眉をひそめた。
「なんでもいい、いってみろよ」
「うん、ちょっと変だけど金離れがすごくいい客がいるんだって。リカはセンセイって呼んでた。怖いからって、待ちあわせの場所までリカといっしょにいったことがある」
「おまえ、その男の顔おぼえてるか」
「うん、だいじょうぶ」
おれはPHSでシュンを呼んだ。シュンはまだ池袋にいた。クロッキー帖と鉛筆をもってすぐに川口に戻るようにいう。
リカのためにできることが、なにかありそうだった。
◆
話だけで似顔絵を描くのは初めてだとシュンはいっていた。おれがセンセイの特徴をヒカルから聞きだし、それをシュンがちょっと描いてはヒカルに見せ確認する。作業はほんのすこしずつしか進まなかった。いつのまにか、ファミレスの窓の外は夜になっている。どうにか、ヒカルが満足できる絵があがるまでに三時間たっていた。絵のなかには髪を真んなかで分けた男がいる。ぼんぼんだ。あごのとがったスリムなハンサム。こいつ学校では成績が良かったんだろなとおれは思った。
「わるいな、シュン。これそこのコンビニでコピー百枚くらい取ってきてくれ」
シュンがファミレスを飛びでていくと、おれはPHSでGKを呼びだした。
◆
GKはゴールキーパーの頭文字じゃない。Gボーイズの|王様《キング》って意味。やつの名は安藤崇。タカシは池袋のギャングボーイズを束ねてる頭で、すべてのチームの王様。どんなふうにやったかって? こぶしとアタマで。おれのいってた高校の二大有名人ていうのが「ドーベル殺しの山井」と「カール安藤」だった。カールはカール・ルイスのカール。山井はでかくて力があってタフで強い。タカシはしなやかで速くて正確で強い。背は百七十五くらい。山井より十センチも低く、体だって薄かった。だがやつの腕や脚はぎりぎりに絞りあげたワイヤーロープのように引き締まっている。おれは、池袋のクラブでタカシがジャケットの袖に引っ掛けて、テーブルからグラスを落とすのを見たことがある。やつはなにかダチと話しながら落ちていくグラスに気がつき、すぐにテーブルのしたに手を伸ばした。つぎに手がテーブルのうえにあらわれたときにはさっきのグラスが握られていた。ドリンクは一滴もこぼれていない。しかもグラスをもった手は、グラスを引っかけた手と同じ手。魔法のような速さだった。おれはそのあと、タカシのところにいって話しをした。やつは生まれてからなにかを地面に落としたことがないといった。地面に着くまえにみんな拾えるじゃないかと。
山井とタカシのタイマンがあったのは高三の夏。そのふたりがダントツで強いのがわかってるまわりが、卒業するまえにどちらが強いのか確かめたくて話をたきつけた。そうするとおかしなもので、だんだんとそうしなきゃならないムードに当人たちもなっちまった。ふたりにはいい迷惑。ある日山井がおれのところにきて、立会を頼むという。他には頼めるようなダチはいないからと。おれは別に自分を山井のダチだと思っていなかったが、恥ずかしそうに頼むやつを断りづらくなり話を受けた。
つぎの日曜日、閉めきった体育館で世紀の対決は始まった。観客は満員、退学したやつさえ見物にきてる。賭け率は六対四で山井が優勢。板張りのバスケットコートのセンターサークルのなか、タカシは山井のまわりを左に円を描きながら、ちいさな素早いパンチを出した。背筋がすっきりと伸びて、腕だけがバネ仕掛けのように突きだされ跳ね戻る。同じ箇所に同じように鋭いパンチを三発四発。山井はなんとかタカシを捕まえようとしたが、タカシの脚には羽がついてる。たまに山井の振りまわす横なぐりのこぶしがタカシをかすめることがあった。しかし、そんなときもタカシは顔色を変えず決して大振りをせずに、同じように正確で速いパンチを当てていった。それを見たとき、おれはその勝負の行方がわかった。
タカシのパンチは山井のパワーとスタミナを一撃ごとにそぎ落としていく。山井も化け物みたいにタフだった。パンチの雨を食らってもまえにまえに出ていく。しかし十五分後に立っていたのはタカシだった。もっとも、タカシの最後の台詞は「おまえとは二度とやりたくない」だったけれど。
◆
「もしもし」
タカシのゆったりした声がPHSから流れだした。
「おれ、マコトだ。今夜、各チームのヘッドを集めてくれないか」
「それはおまえのところの女の子のことか」
あいかわらず、話が早い。
「そうだ、なにかしてやりたい。いいネタがある」
「ストラングラーか……」
しばらく間が空いた。おれはPHSから流れる街の雑音に耳を澄ませていた。
「いいだろう、今夜九時にホテルメトロポリタンのロビーで会おう。招集をかけておく」
タカシの電話は切れた。おれは心配そうにこちらを見ているヒカルにうなずいた。
◆
夜のホテルメトロポリタンのロビーはすいていた。ホテルマンの視線は、ロビーに置かれたソファの一角に集まっている。Gボーイズのヘッドが四人、ボーダー、BMX、シンガー、ダンサーそれぞれのチームのヘッドが各一人、そしてタカシとおれ。全員のメンツがそろうとおれたちはエレベーターでタカシが予約した会議室に移った。
思いおもいの派手なカッコをしたガキが十人、黒い革の重役が座るみたいな椅子にそり返った。なかなかの見物だった。誰も口をきかない。タカシが最初の挨拶をした。
「先週、定例のミーティングをしたばかりだが、急に集まってもらってすまない。今日は、例のストラングラーのことできてもらった。招集をかけたのはそこにいる真島誠だ。みんな、そいつのことは知ってるだろ。そいつのチームの女が昨日殺されたことも。さあ、マコト、話せ」
おれはリカの話をした。吉岡の情報とウリのバイトの話。そして、ヒカルの見たセンセイの話。おれは似顔絵のコピーの束を取りだし、メンバーにまわした。
「おれはこのミーティングでみんなにガードシステムを動かしてもらいたい。二十四時間のパトロールにホテルとテレクラの張り込みだ。それから池袋のあらゆるボーイズ&ガールズにこの似顔絵をもたせてほしい。二人死にかけて、一人はやられた。そろそろ、おれたちもこの街とおれたち自身のために、本気で動くときだとおれは思う」
「また、ストラングラーが動くという保証はあるのか」
スキンヘッドのGボーイズのひとりがいった。
「わからない。でもこの一月で事件が三件も起きている。おれは間違いなく近いうちにまた起きると思う」
「そのセンセイがストラングラーだという証拠は? ただのスケベオヤジかもしれない」
長髪をインディアンのように編みあげたシンガーのヘッドがいった。
「その可能性はある。だが、その線しかおれにはたぐる情報がないんだ。やってみる価値はある。それにおれたちは警察じゃない。どんな手を使っても口を割らせてやる。しらを切り通すことはストラングラーにも絶対できない」
ひとりずつ順番に意見をいっていった。必ず発言しなければならないのがこのミーティングのルール。とりをタカシが締めた。
「よし、みんなの意見はわかった。これから一カ月間、Aクラスのガード態勢に入る。四交替で二十四時間、各チームからガーディアンを出してもらいたい。ラブホテル街、テレクラ、それにカップル喫茶。すべてにガーディアンを張りつかせよう。それから、池袋にいるすべてのガキにこの似顔絵を三枚ずつもたせろ。そのセンセイを第一のターゲットにして、年の離れたカップルには特に注意するように。いいか、こんどはおれたちがストラングラーを狩る番だ」
◆
リカの葬式の翌日から池袋の街はコンバットゾーンになった。警察も、Gボーイズも殺気立っている。新聞やテレビは連続絞殺未遂犯が、ついに最初の犠牲者を生んだとセンセーショナルに騒ぎ立てた。やつらは楽しそうだった。商売のいいネタ。おれは、ストラングラー狩りのコーディネーターになった。パトロールの人間の割り振りをし、各チームから連絡を受ける。そして三日に一回六時間、マサとシュンそれに都合がつけばヒカルといっしょに、池袋のジャングルの巡回に出た。おれのもとにはタカシから足のつかない携帯が五台届けられ、始終呼びだし音が鳴るようになった。頭を使ってくたくたになるのは生まれて初めての経験だ。
◆
それから一週間があっさりとすぎた。有力な情報はすくなく空振りが続いた。援助交際のオヤジとコギャルのカップルがいくつか網にかかっただけ。しかしガーディアンになった池袋のボーイズ&ガールズは誰ひとり文句をいわなかった。街でリカの顔を白黒でプリントしたTシャツを着たガキの姿が目につくようになった。爆発したソバージュの頭、目にかかる髪を貫いてまっすぐに正面をにらむリカの強気な顔のしたには、REMEMBER Rと血のような赤い文字。サンシャイン通りに出ていた露店で、おれもそのTシャツをコロンビア人から買って着た。
◆
パトロールの合間、おれとマサとシュンが西口公園のベンチで休んでいると男がふたりやってきた。ひとりはメモ帖にセンスの悪い黒のショルダーバッグ。もうひとりはおおきなフラッシュつきのカメラとカメラバッグ。首筋に流れる汗を拭きながら太ったメモ帖がおれに話しかけた。
「こんちは、君たち、殺された中村理香さんのことは知らないかな」
おれたちは視線をかわした。マサの目が細くなる。あぶない。
「いいや、それ誰のこと」
おれは調子をあわせた。
「ストラングラーに殺された女の子だよ。知ってるだろう、ウリをやってたとかいう。ホントについてないよな、ブランドの服だのカバンだの買うために身体売って殺されちゃうなんてさ」
「そうだな、なにかわかったことあるかい」
おれは声を抑えた。
「いや、この子はまえのふたりと違って友達連中の口が固くてな。まあ、組織売春の疑いはちょっと出てきたんだけど」
あのリカが組織売春? わからない。おれがもうすこし話を聞きだそうとするとマサがいきなりメモ帖を殴った。シュンはカメラにつばを吐き、催涙スプレーをカメラマンに吹きかけた。
「ふざけんじゃねえ、リカのでたらめ書いてっと、殺すぞ」
マサが叫んでいる。
人が集まってくるまえに、おれたちは走って西口公園から消えた。
◆
それからさらに二週間。ストラングラーの姿は見えず、Gボーイズの跳ねあがり連中が我慢できなくなり、オヤジ狩りを始めた。年の離れた援助のカップルを狙って。まあ、しかたない。自業自得。おれのPHSには吉岡から電話が入った。なにか狙ってんじゃないだろうな? 街がぶっそうだぞ。なにも知らない、なにもしてないとおれ。吉岡は獲物は必ず警察に渡せといって電話を切った。
そのころ、真夜中のパトロールで。おれたち三人はラブホテル街をぶらぶらと流していた。コンビニのまえでGボーイがガードレールに座り、携帯でどこかに電話中。ガーディアンだ。むこうはこちらを視線で確認し、おれはちょっとうなずき返した。そのまま、両側にラブホテルが並んだ細い通りに折れていく。薄暗い。どこも空室の青いサイン。街灯の光りの輪のなか立ちんぼの女がふたりいた。ぎりぎりのミニスカート。遠目には若い女のようだが、そばによると深いしわを隠す化粧。三十代後半から五十までいくつにでも見える顔だった。ふたりはおれが着ているリカのTシャツを見た。
「がんばんなさいよ、あんたたち。その子の|仇《かたき》とってやってね」
おれはシュンが描いた似顔絵を渡した。リカの事件があってから、今までばらばらだった人間たちを結ぶかすかな絆が、池袋の街に生まれたようだった。
◆
一カ月のガーディアン活動も終わりに近づいた四週目の週末。機械のようにパトロールと張り込みは続いていた。Gボーイズはやると決めたら必ずやる。その夜は明け方まで当番だったので、おれたち四人は八時すぎに西口のマクドナルドで晩飯にしていた。ビッグマックたくさんとポテトとコーラ。どの席も満員で、タバコの煙で部屋の反対側がかすんで見える。土曜の夜は窓から見おろす池袋の人波もいつもより楽しげ。おれのリュックのなかで携帯のどれかが鳴った。ヒカルがリュックに飛びついて携帯を取りだす。二個目でビンゴ。おれに渡す。
「こちら、マコト」
「マコトさん、キラーズーのヨシカズです。今、丸井の裏のカップル喫茶『メゾピアノ』のまえにいます。センセイそっくりの男が若い女を連れてはいっていきました」
「わかった、そこにいてくれ。五分で着く」
おれは電話を切り、みんなに声をかけた。
「カップル喫茶『メゾピアノ』、いくぞ」
◆
池袋西口ロータリー前のマクドナルドから、西口五差路の丸井まで早足で歩いて三分。丸井を通りすぎて二本目のちいさな道を曲がると飲み屋が集まった一角。カップル喫茶「メゾピアノ」はその通りの左手にある鉛筆みたいに細い雑居ビルにあった。看板などは出ていない。知らなければ通りすぎてしまいそうだ。通りに面した薄汚れたエレベーターのまえに、十四、五の中坊くらいの背の低いGボーイがいた。だぶだぶのジーンズを腰骨ではいて、なかで泳げそうなくらいでかいユタ・ジャズのユニフォームを着てる。おれは親指を立てて挨拶した。
「ヨー、ごくろうさん。やつは何分くらいまえに入ったんだ」
「まだ十分もたってないと思います」
「なんで、『メゾピアノ』だとわかった」
「エレベーターが六階に止まって空になって戻ってきましたから」
「このビル、エレベーターのほかに出入り口は」
「非常階段がありますけど、どちらにしてもビルの外に出るのは、この正面の入口を通らなきゃ無理です」
ヨシカズははきはきとこたえた。賢いやつ。
「お手柄だな。キラーズーのヘッドとタカシによくいっておくよ」
どうするかなあ? おれはヒカルを見た。ヒカルがうなずく。
「これから、おれはヒカルと店のなかに入ってセンセイの顔を確かめてくる。おまえはタカシに電話して、おれたちが張りついてることを報告してくれ。それからあと、おまえたちはタカシの命令で動いてくれ。いいな」
おれはマサとシュンの目を正面から見た。シュンはうなずいた。マサはちょっと不満そうだったが、やはりうなずいた。
◆
エレベーターのドアが六階で開くと狭い廊下をはさんですぐ正面にMezzo Pianoというプラスチックのプレートがさがった灰色のスチールドアが見えた。普通のマンションなんかのドアと同じ。店っぽくない。おれはドアを引いた。
蛍光灯で明るい廊下にくらべて店のなかは薄暗かった。カーテンで仕切られた三畳ほどの狭いスペース。右手にカウンターがあり、黒い蝶ネクタイにどじょう髭をはやした中年の男が入っている。目と目があった。
「いらっしゃいませ」
ひどく柔らかな声。ヒカルとおれは店のなかに足を踏みいれた。
「こちらへどうぞ」
どじょう髭がおれたちを案内する。黒いカーテンを分けて店の奥にいくと、八畳ほどの横長のスペースに赤いベルベットのソファが六組、ちいさなテーブルをはさんで対面するように置かれている。暗さに目が慣れないおれには、ぼんやりした人の輪郭しかわからなかった。おれたちがはいっていくとカップルの動きが一斉にとまった。残りの空席は手前の角にひとつだけ。おれたちはそこに座った。どじょう髭がペンシルライトでメニューを照らし、ヒカルが注文する。
「ウーロン茶」
「それをふたつ」とおれ。
「かしこまりました」
どじょう髭がカーテンをあげて出ていくと、となりの二十代後半のリーマンとOL風のカップルがまず動いた。女が男の足のあいだにひざをついてリーマンのペニスをくわえた。わざと音を立てる。男は尻を突きだしている女のタイトスカートを手を伸ばしまくりあげた。OLはしたになにもはいていない。正面の中年カップルに見せつけるように女は腰を小刻みに揺らせている。ヒカルがおれの肩に腕をまわし、耳の穴に舌をいれてから囁いた。鳥肌。
「マコちゃん、なにもしないとかえって変だよ。私はいいから気にしないで」
ヒカルはそういうとおれの右手を取って、ホルタートップの胸に押し当てた。ノーブラ。どろどろと粘る熱い液体がつまった柔らかな風船。握り締めると指のあいだからなにかがこぼれそうだ。おれは勃起した。
ヒカルの胸をもみながら、おれは店のなかを見渡した。おれたちの正面では頭が薄くなりかけたオヤジとその妻という感じの地味なふたりが目を丸くしている。このカップルはパス。となりのリーマンとOL、そしてそのむかいの手慣れたふうの中年カップルもパス。残るのは一番奥のソファの二組だけ。カップル喫茶では目をあわせたりしなければ、お互いにいくらしつこく見つめてもいいらしく(というよりみんなそうしている)おれには好都合だった。一番奥の斜めまえのソファには、ジーンズ姿の学生がふたりはまぐりみたいにぴったり張りついていた。そのうちにやつらはジーンズを脱ぎ、下着も脱いだ。白いソックスははいたまま。不思議だ。そして最後に、おれたちと同じ並びでソファをひとつ置いて、その男がいた。小便をするようなポーズを女にとらせうしろからクリトリスをこすっている。女はまだ若く、十代の最後のコーナーをまわったあたり。アーアーアー。男はふくろうのように首を振り周囲に視線を飛ばしていた。真んなか分けの髪、シュンの似顔絵よりやせて鋭そうな顔。だが、あのセンセイだった。おれはヒカルの耳に唇をつけて囁いた。ヒカルがため息を漏らす。
「手前の列の一番奥のカップル、よく見てくれ」
ヒカルは頬を染めたままうなずいた。そのまままえかがみになり、おれの太ももに顔をのせ乗りだすように奥のソファを見る。ヒカルの手はおれの盛りあがったファスナーのうえをなで続けている。しばらくすると、ヒカルはまたおれの首に抱きつき耳元でいった。
「間違いない、あの男がセンセイよ」
◆
それからしばらくいちゃいちゃのまねごとをして、おれとヒカルは店を出た。カウンターで金を払う。カウンターのまえに並んだ椅子に席が空くのを待つカップルが三組。エレベーターのなかで、ヒカルは癖になりそうといった。またふたりでこようねと。エレベーターをおりると雑居ビルのまえには誰もいない。ガーディアンらしき人影さえ、どこにも見当たらなかった。おれはすぐにタカシにPHS。
「タカシか、センセイに間違いないそうだ。確認してきた。これから、どうする?」
「まず、女を帰せ。クルマとバイクも用意してそのビルのまわりは網を張ってある。なあマコト、これからどうするじゃないだろう。おまえはどうしたいんだ?」
タカシはだてにGボーイズのキングと呼ばれてるわけじゃない。やつには人の心を読む力がある。そこが山井との一番の差だ。
「おれは直接やつがストラングラーかどうか確かめたい。ちょっと荒っぽいことになるかもしれないけどな。やつを逃がさないようにバックアップだけ頼む」
「よし、いけ、マコト。ストラングラーをしとめてこい」
◆
あとで電話するといってヒカルを帰した。むちゃはしないでねと心配そうにいって、ヒカルは東京芸術劇場のほうへ消えていった。おれは路地を渡ったむかい側のガードレールに座って、センセイを待った。待つことはまったく苦にならなかった。
REMEMBER R。
それからさらに三十分、夜十時をまわった。何度目かのエレベーターの扉が開き、若い女の肩を抱いたセンセイが雑居ビルの入口にあらわれた。白っぽいスーツでネクタイはなし。肩にはコーチのショルダーバッグ。女の足元はかなりふらふらで、やつは女を支えるように歩きだした。振り返って後ろを確認する。おれも動きだした。丸井の交差点を渡り、芸術劇場へ。ボーダーやBMXのチームはいつもの土曜の夜と変わらず劇場まえの広場で見事なスタントを見せていた。センセイは人波をかき分けるようにして、西口公園の裏手にあるラブホテルにむかっている。ふたりは公園を出て芸術劇場わきの細い路地に入った。周囲に人影はない。暗い路地のつきあたりにはラブホテルが二軒。サービスタイム、四千円より。
おれは早足でふたりを追い抜き、ラブホテルのまえに立った。センセイとおれの目があう。やつは俳優みたいな端正な顔。若く見える三十なかば。どこかの品のいい女子大のセンセイという感じ。意外と小柄だった。百七十ちょうどというところか。
「なんだ、君は」
「なんでもないよ、ただあんたがストラングラーかどうか、確かめたい」
とたんにやつはあわてだした。泳ぐ目。
「なにをいってるんだ。私は彼女とデートしてるだけだ。強盗なら人を呼ぶぞ」
女の目はとろんと溶けて、視線は夜の空をさまよっている。
「呼びたきゃ、どうぞ。だが、呼ばないんなら、そのバッグ見せてもらう」
やつはいきなり女を突き飛ばした。女はそのままぐったりとアスファルトに倒れ、起きあがってこない。やつはショルダーバッグのポケットからなにか光るものを取りだしおれに向けた。細い刃。メスのようだった。センセイは泣きそうな顔になっている。
「いけ、早く、あっちいけ。のろのろしてると刺すぞ」
「やりたきゃやれよ。でも、おまえはもう絶対に逃げられない。こっちはあたりをびっちり張ってるんだ」
「嘘をつけ」
路地裏で震えるメス。
「いいや、ほらあんたのうしろにも」
やつはメスをおれにむけたまま、首だけでちらりと振りむいた。おれはリュックを肩から落とし、肩ひもをにぎってやつの右手に叩きつけた。ちいさく速く。リュックのなかには連絡用の携帯が五台とおれのPHSがはいってる。最初の一撃でメスが飛び、つぎは頭を狙った。二発三発四発。おれはリュックを振りまわし続けた。やつは頭をかかえてへたりこんでしまう。
「見事だな」
おれの背後から声がした。リュックを振りかざしてすぐに振りむく。タカシが腕を組んで立っていた。薄く笑っている。
「ゲッ……」
なにかを吐き戻すようなセンセイの悲鳴に正面を見ると、タカシのチームのやつが、ちょうどセンセイを蹴り倒したところだった。うつぶせにのびたセンセイの両手首と足首に、プラスチックの輪のようなコードを通す。コードを締めてぱちんと音を立てて留めると、やつはまったく身動きできなくなった。
「アメリカ製だ。よくできてるな」
タカシがいった。おれは道端に落ちているやつのショルダーバッグを拾いあげた。フラップを開ける。麻のロープ、手術用の手袋、なにかわからないとろりとした透明な液体が入った小びん、バイブレーター二本、メスがもう一本、ポラロイドカメラ、ストップウォッチ。タカシはおれを見て首を振った。
「やめろ、見るな。私の私物だ。おまえたちはいったい何者だ。警察じゃないんだろ。私にこんなことをしてただで済むと思ってるのか」
いも虫のようにもぞもぞと身体をくねらせながら、地面で男が叫んでいる。
タカシは落ちているメスを拾った。男にむかって歩いていく。チームの男はさっと身を引いた。
「おまえ、『チャイナタウン』て映画知ってるか。ジャック・ニコルソンとフェイ・ダナウェイ。いい映画だったよな、おれはビデオで見ただけだけど」
タカシはセンセイの横にしゃがむと髪をつかんで頭をもちあげた。じっとセンセイの目をのぞきこむ。
「ああ、知ってる。ロマン・ポランスキー監督。いったいなにをしようっていうんだ」
センセイはタカシの目の力に負けて視線をそらした。
「おまえがすべてしゃべれば、なにもしない。おまえは池袋のストラングラーだな、どうなんだ」
タカシはメスの先を、センセイの左側の鼻の穴にいれた。
「知らない、それについては私はなにもいいたくない。私には黙秘権があるはずだ」
タカシはメスを手前に引いた。プツッと厚手のビニールを切るような音。センセイの小鼻が切れ、傷口から血があふれだした。わけのわからない悲鳴をあげるセンセイの歯と歯ぐきが赤く染まった。よだれといっしょに赤い泡がアスファルトに落ちる。
「よく切れるな、このメス。黙秘権などおまえにはない。もう一度聞こう。おまえはストラングラーだな」
こんどは右の鼻の穴にメスをいれた。センセイは涙目になっている。
「わかった、もう切らないでくれ。そうだ、私がやったんだ」
「リカを殺したのもおまえなのか」
おれはやつに聞いた。
「こたえろ」
タカシはほんの二ミリほどメスを鼻の奥にすすませた。
「いいや、私は殺しはやってない。これはゲームなんだ。薬の量もきちんとはかっているし、首だってストップウォッチを見ながら絞めている。殺人なんてぶざまなことは、私はしない」
タカシとおれは顔を見あわせた。
「本当か。本当にそうなのか」
おれもやつの横にしゃがみこんだ。
「そうだ、いくら責められてもやっていないものはやっていない。それより、早く医者に連れてってくれ。私の鼻に傷が残ってしまう」
「無理だな、もうすぐ、ここには警察がくる。あんたはもう逃げられない」
こたえるタカシの声を聞きながら、おれはリカのことを考えていた。こいつは本当にやっていないんだろうか。それとも、なんとかここを切り抜けたくてバクチを打っているのか。
「やめてくれ、金なら出す。一千万でも二千万でも、おまえたちが見たことのないような金を積んでやる。私は死んだ女のことはよく知らないんだ」
「おまえ、リカのこと知ってるのか」
おれはいった。
「ああ、何度か援助したことはある」
「首も絞めたのか」
「一度だけだ。きちんと金も払ったし、お互い納得ずくのプレイだったんだ」
おれには返す言葉がなかった。男の目に奇妙な光りが見えた。
「私にこんなことをして、ただでは済まさんぞ。警察に捕まるなら、そこでおまえたちのことを証言して訴えてやる。おまえたちも刑務所に送ってやるぞ、傷害罪だ」
男は酔っている。自分がドツボにはまってることさえ忘れて。タカシはおおきく笑った。心から楽しそうに。
「おまえは自分が賢いと思ってるな。いつもお勉強ができたから、それだけの理由で。だがな、欲に誘われてジャングルに入っちまったときが、おまえの運のつきだった。ここじゃどんなに立派なおつむだっておまえみたいなブタを救うことなんてできない。わかるか」
タカシの顔で動いているのは口だけ。男のことを見てさえいない。
「うるさい、最高の弁護士を立てて私はすぐに戻ってくる。きっとおまえたちに復讐するぞ、金で動くヤクザものにおまえたちを襲わ……」
タカシはメスを引いて、残りの小鼻も切った。髪をつかんだ左手でセンセイの顔をアスファルトに叩きつける。ほんの一瞬のことだった。ピッ、グシュ。鼻が潰れる音。男はなにか叫びながら泣いている。
「いこう、もうサツがくる」
タカシはそういうと、右手をあげて人差し指で空中にちいさな円を描いた。路地の両端で通行人をとめていたGボーイズたちが去っていく。
「さあ、マコト。おれたちもいくぞ」
「どこへ」
おれは泣いている男を見おろしていた。
「クラブへ」
「飲みにいくのか、これから」
「おまえもわからないやつだな。おれたちは今日、夕方からその店でずーっと飲んでるんだ。そうだろ」
タカシはおれににやりと笑った。
「そうだな、おれたちは今だって本当はここにはいない」
おれもタカシに笑いかけた。
そしておれたちは戻った。本来おれたちが属しているところ、仲間が待ってる場所へ。
◆
クラブの名は「ラスタ・ラブ」。Gボーイズの息のかかった店だ。スプレーの落書きだらけのコンクリートの黒い箱。その夜はほとんど貸切だった。ミーティングに顔を出していたヘッドがみんな集っている。一月近く続いたガード態勢がようやく明けて、もうお祭り騒ぎ。ゆったりしたレゲエのリズムにあわせて、みんなラムをくらい踊ってる。マサとシュンもいた。あちこちで乾杯の声が聞える。だが、おれはいくら飲んでも頭の芯が冴えたままだった。ストラングラーをしとめたのはめでたい(やつがあの場で逮捕されたことは、通報を入れた見張りからタカシのところに報告があった。)しかし、リカのことがアタマを離れない。おれにはストラングラーが嘘をついていたようには思えなかった。リカを殺した犯人は別にいるのかもしれない。流しの変態がもうひとり、この街をうろついているのだろうか。だが、それならおれにはもうなにもしてやれることはなさそうだ。静かに酒を飲んで時間をつぶした。これからようやく店が盛りあがるという深夜二時すぎおれは重い腰をあげた。店のドアを開けて外に出ようとすると、Gボーイがきてタカシが呼んでいるという。店の奥で取り巻きに囲まれているタカシのところにいった。視線があうとタカシはうなずいた。手でおれを呼ぶ。大音量のスライ&ロビー。タカシはおれの耳のそばでいった。
「今日はごくろうさん。マコト、おまえならいつでもうちのチームの幹部に迎えるぞ。それからな……」
珍しくタカシがいいにくそうだった。
「あのヒカルって女に気をつけろ。それだけだ」
おれは家に歩いて帰り、布団をかぶって寝た。帰り道では、こんどはタカシの「ヒカルのそれだけ」って言葉が頭のなかをぐるぐるまわった。その夜は悪い夢をたくさん見たような気がする。ひとつもおぼえていないが。
◆
翌日の日曜日、おれは昼ごろ起きだした。新聞の社会面のトップは「連続絞殺未遂犯、逮捕!」の記事だった。布団のなかで新聞を読んだ。リカの事件があってから新聞を読むのが習慣になっている。今国語の試験をやれば、すこしはいい点が取れるかもしれない。
ストラングラーはどこかの大学病院の麻酔医だという。三十七歳、独身。勤務態度はまじめで、将来を嘱望されたエリート。あの人がまさか。型通りの文章。だが、警察でもやはりリカ殺しは否認しているという。今後、じっくりと時間をかけて取り調べの予定。
おれは西口公園にいった。いつものようにベンチに座る。マサとシュンがきて、夕方にはヒカルもそろった。おれは昨日の夜の話をした。タカシがストラングラーの鼻を切ったことを除いてすべて。リカのことではみんな納得はしていなかったが、自分たちでストラングラーを捕まえたことで満足してる、そんな感じ。そのまま、だらだらと無駄話が続いた。久しぶりにのんびりした日曜日の午後。もうパトロールはない。
夕日がさしてビルの影が長く伸びていく。すぐに夏も終わりだ。おれはぼんやりと西口公園の円形広場を眺めていた。おれたちのベンチの反対側に「ドーベル殺しの山井」の懐かしい顔。山井は携帯を取りだしナンバーを押す。マサとしゃべっていたヒカルの携帯が鳴った。黒のプラダのショルダーからヒカルは携帯を取りだした。
「ハーイ、ヒカルです……なあに、ちょっと、あんた勝手にかけてこないでよ……用があればこっちからかけるよ、じゃあね」
ヒカルはすぐに携帯を切った。初めはかわいい声だが、途中で急にブチ切れたようだった。おれはヒカルの声を聞きながら、山井をボーッと見ていた。やつの電話も終わったようだ。偶然だろうと思った。タカシの「それだけ」を思いだすまでは。
その夜は、シュンとマサが「ラスタ・ラブ」で朝まで飲んでたこともあり、早めに解散した。つまんないといいながら、ヒカルも帰った。別れ際ヒカルはおれの胸元を人差し指でつつくと、またあの喫茶店いこうねといった。
◆
おれは家に帰るまえに、丸井の地下のヴァージン・メガストアに寄った。生まれて初めてのクラシック売り場。クラシックはまったく聞いたことがない。揃いのポロシャツを着て長髪をゴムで束ねた若い男の店員に聞いてみた。
「チャイコフスキーの『弦楽セレナード』あるかな」
店員はおれをTのラックに連れていった。すごい量のチャイコフスキーがある。
「カラヤン、デイヴィス、バレンボイム、ムラヴィンスキー、指揮者はどれにしますか?」
どれでもいいとおれがいうとその店員はお得だからこれがいいとデイヴィスのを渡してくれた。おれはレジでそれを買い、家に戻りCDラジカセにセットした。そのままその夜六回繰り返してその曲を聴いた。
◆
『弦楽セレナード』は外国映画で舞踏会のシーンに流れるような曲だった。甘くて悲しいワルツみたいなやつ。優雅な社交界のお嬢様が、ふくらんだドレスで輪になって踊る踊る。おれはつぎの日もそのつぎの日も、朝から晩までその曲をかけてただ考え続けた。リカ、ヒカル、ストラングラー、山井、組織売春。同じ言葉が百万回くらいおれの頭を駆けめぐった。それでも考えるのはやめなかった。リカはもう考えることもできないんだから、それくらいしてやってもいいはずだ。
三日目の夕方、おれはタカシにPHSをいれた。
「山井の携帯の番号を知りたいんだが、調べつくかな」
「空は今日も青いか? あたりまえのことを聞くな」
タカシはすぐに折り返し山井の番号を教えてくれた。すぐにかけた。
「もしもし」
街のざわめきをバックに山井の間延びした声が聞こえる。
「よう、おれマコトだ。ちょっと話があるんだけどな。今、時間取れるか」
「ああ」
「じゃあ、西口公園で三十分後に。いいか」
「ああ」
電話は切れた。おしゃべりなやつ。
◆
おれはベンチに座り山井を待った。あたりは暗くなり始めている。家に帰るサラリーマンが足早に公園を横切り、平日なのでGボーイズもわずかだった。約束の時間をすこしすぎて山井の金色の頭が公園の東武デパート口に見えた。おれを見つけたらしく、まっすぐにむかってくる。ごつい黒のエンジニアリングブーツに迷彩のパンツ、袖を切り落としたグレイのTシャツ。腕にはたくさんの切り傷が走っている。鼻と耳のピアスを結ぶチェーンはゴールドに替わっていた。
「よう」
山井はおれのとなりに座った。
「ああ」
「なんの用だ」
山井の声は低い。のどの奥で平らな石をこすりあわせたみたい。
「ヒカルのことを聞きたい」
おれは山井から目をそらさずにいった。山井の表情はまったく変わらない。
「ようやく気がついたな」
「なにが」
「あの女がおれのものだってことだ」
「おまえたち、つきあってるのか」
おれは驚いていった。
「いいや、つきあっちゃいない。だが、あの女はおれのだ」
「なぜ」
「今まで生きてきて、おれはおれと同じ種類の人間に初めてあった。それがあの女だから。おまえたちがいうようにはつきあってはいない。だけど、あの女はおれのだ。手を出したら、おまえでも殺すぞ、マコト」
ドーベル殺しとお嬢様が同じ種類の人間だって。こいつはどうかしてるのか。
「おまえとヒカルが同じだなんて、誰も思わないだろうな」
「おまえたちにはわからない。あの女にだってまだわかってない。あの女は自分がおまえに惚れてると思いこんでる。知ってたか」
「まあな」
しぶしぶこたえた。
「おまえは鈍いけど、いいやつだ。最後にいっとく。おれはおまえもタカシもこの世のなにも怖くはない。あの女を見つけたからな」
山井は立ちあがった。また背が伸びたのかもしれない。おれは去っていくやつの分厚いドアみたいな背中に呼びかけた。
「なあ、このまえヒカルの携帯に電話したのはわざとだったのか。おれの目につくように」
「あたりまえだ」
山井はいってしまった。あたりのサラリーマンは山井が歩いていくと自然に道をあけた。
◆
つぎの土曜の昼すぎ、ヒカルとふたりだけで待ちあわせをした。場所はやはり西口公園のベンチ。いい天気だった。もう九月なのに夏の日ざしが残ってる。ヒカルは初めて会ったときの黒のチビTと黒のミニスカート。おれのとなりに飛び乗るように座るといった。
「なんか、うれしいな。マコちゃんとふたりきりで会えるなんて。ちょっと、早いけどこのまえのカップル喫茶でもいこーか」
ヒカルはいつものように明るかった。天使のような笑顔。だが、山井はこの笑顔にまいったわけじゃない。
「おれ、だいたいわかったと思う」
ヒカルは人の雰囲気を読むのが早い。表情がすぐに変わる。
「何のこと」
慎重に言葉を返した。
「リカのことだよ」
「だって、あれはストラングラーがやったんでしょう」
「おれは違うと思ってる」
「じゃあ、誰がやったの」
「おまえ」
ヒカルは凍りついた。ほんのすこしだけまがあった。
「なにいってんの、私がそんなことするわけないじゃん。リカとは友達だったのに」
「おれも本当にそう思うよ。でもおまえやったろう?」
おれはヒカルの目をのぞきこんだままいった。
「私はやってないもん」
おれはヒカルの目をさらに見つめた。おかしな光りが揺れてる。
「だから、山井にやらせた」
ヒカルは耐えきれなくなったようだった。涙があふれて、ぷつぷつとおおきな目から落ちていく。それでも、おれはヒカルの目を見つめ続けていた。
「でも、私は山井に死ぬほどリカをびびらせてって頼んだだけだよ」
おれはリカの葬式の日のヒカルの涙を思いだしていた。まだだ、ヒカルは底を見せていない。
「本当か、ヒカル、本当にそうなのか」
おれはヒカルから目をそらさなかった。さらに力を入れて見つめる。山井もいっていた。どうせおれは鈍い男だ。
「本当のことをいったら、全部なくしちゃうよ。マコちゃんだって、きっと私のことを嫌いになる」
「本当のことをいわなければ、おれはおまえを憎むようになる。ヒカル、話せ」
ヒカルはおおきなため息をついた。両目から涙が引いていく。カットの声がかかった素晴らしく演技のうまい女優みたいだった。声さえ変わった。
「わかった。話すよ。リカはついてなかった。夏休みの始めころ、リカはウリの仕事でストラングラーに会った。一週間ぐらいいつもスカーフ巻いていたのおぼえてるかな、リカはあれで首についたあざを隠してたんだよ。その後、ストラングラーがどじ踏んで大騒ぎになって、リカはだんだんびびりだした。あたし、やつを知ってる。マコトに相談したほうがいいかなって」
「でも、おまえはそれをとめた」
「そう、だってリカがマコちゃんにそれをいったら私のこともばれちゃうよ」
「ヒカルがオヤジたちに女の子を紹介してたってことか」
「そう。私が女の子たちを全部手配してた。私は学校も親も警察もへっちゃらだよ、でもマコちゃんに知られるのだけは嫌だった」
「どうして」
「それは、マコちゃんが……」
ヒカルの顔つきがまた急に変わった。女優から幼い女の子へ。目がとろんと溶けてヤクを決めたみたいだった。ヒカルはきれいにマニキュアされた親指の爪を噛みだした。
「どうした、だいじょうぶか、ヒカル」
「それはね、マコちゃんがパパより年下の人で初めて好きになれた人だったからなの。あたしね、嫌だったけど、パパより年上の人しか好きになれなかったの」
「なあ、あのチャイコフスキーはなんだったんだ?」
「パパの大好きな曲だよ。パパはチャイコフスキーが好きで書斎に鍵をかけて、ふたりだけでよく聴いたんだよ。『弦楽セレナード ラルゲット・エレジアーコ』。パパはヒカリコのことをたくさんたくさんかわいがってくれたの。痛いときや嫌なときもあったけど、愛してる人同士はそういうことをするんだってパパはいってたよ」
同じ種類の人間か、山井のいうとおりだった。山井のオヤジは近所でも有名なアル中で、理由があってもなくても山井や母親を殴りつけていた。うちの店先で冬の夜に雨宿りをしていたこともあった。朝ふたりで池袋のガード下で丸まって寝ているのを小学校にいく途中で見かけたこともあった。そのオヤジは山井が中学のころ肝臓で死んだ。やつはいい気味だといっていた。山井が犬を殺したのはそのすぐあとだ。
「ヒカル、初めてのときはいくつだったんだ?」
「幼稚園の年長さんのときだよ、いっぱい血が出て、ママにソファを汚したって叩かれたの。だから、ヒカリコはママが嫌いでパパが好きなの」
「もうわかった。ヒカル、いいよ」
「よくないよ!」
ヒカルは叫んだ。また、張りのある女優の声に戻っている。爪も噛んでいない。ぎらぎらとぬめる目の光り。
「よくなんかない! あたしが山井にリカを殺してくれって頼んだんだから。山井はなぜかあたしのことがすぐにわかって、あたしに惚れた。あたしのためならなんでもしてやるって。他の人間にできないことでも、おれならやってやるって。だから、あたしは頼んだんだ。リカを殺してくれって」
「金か」
「お金はいらないって」
「ヒカル、おまえなにか山井に約束したのか」
「そう、身体をあげるって。セックス三回。でもキスはなし。あたしは好きな人にしかキスはしないよ」
「おまえが、そういったとき山井はどんな顔してた」
「知らない、山井の顔なんてよく見てないもん。ちょっと悲しそうだったかもね」
おれは黙った。なにも言葉が浮かばない。土曜日の午後の西口公園にはボーイズ&ガールズが集まり始めている。噴水のざわめきとギターをあわせる音。高い空には薄っぺらな秋の雲。
「ねえ、マコちゃん。もうこんな話はなしにしようよ。マコちゃんが黙っていてくれたら誰にもわからないんだし。ふたりでこんなゴミみたいな街から出ていこうよ。私がいっぱい働いて、マコちゃんにはいつもカッコいいスーツ着せて、ポルシェに乗らせてあげる。マコちゃんのためなら、私ウリをやってもいいよ。ふたりで遊んで暮らそうよ。私の身体だって自由にできるんだよ。マコちゃんだって、私が欲しいでしょ? ねえ、ウンていってくれるだけでいいんだよ」
「そうしたら……」
「そうしたら、私たちは誰の手も届かないところで幸せになれる」
「おまえ、ほんとにそう思ってるのか。ほんとに誰もかれもだましたまま生きていけると思ってるのか」
「そうだよ。私はこれまでずーっとそうやってきたんだから。私はこれからだってそうするしかないんだから」
ヒカルは立ちあがると、ふらふらと歩きだした。いつかコンサートでチャイコフスキーを聴いたあとの人形のような歩き方。そのまま芸術劇場まえの広場を横切っていく。おれはヒカルの背中をずっと見ていた。ヒカルは劇場通りでタクシーを停めて乗りこんだ。おれはあとを追わなかった。タクシーはクルマの流れに消えた。おれがヒカルを見たのはそれが最後だ。
◆
そのまま、おれは暗くなるまでベンチに座っていた。なにもしなかった。二時間たってPHSを取りだし、吉岡の携帯の番号を押した。
「もしもし」
「おお、マコトか。おまえ、派手にやってくれたな。やつの鼻は元通りにはならないそうだ。ハンサムづらが台なしだな」
低い笑い声がする。
「そうか、あんなやつはどうでもいいんだ。それより……」
「それより、なんだ。理香さんのことか」
「ああ、どうしてわかる? おれ、リカと山井のことで話があるんだ」
「おまえなあ、警察をなめるなよ。最初の二件と理香さん殺しは現場の様子が全然違うんだ。おまえにはいわなかったけどな。無菌の実験室とゴミ置き場くらい違う。こっちだって地道な捜査してんだ。なんでおまえ、山井のことがわかった」
「考えたんだよ、百万回くらい」
「やつには、もうさわるな。新聞に出るからいいだろうがな、今、やつは別件の傷害容疑でこっちにいる。理香さんが殺された日の午後にやつの目撃証言が出てな、これで事件は終わりだな」
「そうだったんだ。ならもういいんだ」
「おまえ、他になにかいいたいことあるんじゃないか?」
「いや、もういい」
「そうか。ところでマコト、おまえ毎日ぶらぶらしてんなら警官にならないか。おまえならむいてると思うんだがな。なんだったら、警察学校に口きいてやるぞ。どうだ」
「ありがとう、でもおれには無理みたいだ。こんなことばかり毎日続いたら、おかしくなっちまうよ、じゃあ」
おれはPHSを切った。家に帰った。その夜は、マサの呼びだしも調子が悪いといって断った。布団をかぶって考えた。
今度はヒカルのためにできることを。
◆
つぎの月曜日の夕方、おれはリュックをさげて家を出た。池袋から丸ノ内線で二十分。地図で確かめてあったので、目的地はすぐにわかった。霞が関三─一─一。灰色のレンガ造りの立派な建物。三つ並んだ白いアーチのまえにはガードマンが十人。なかに入る人間はパスを見せなきゃならない。おれはゲートから百メートルほど離れて、ガードレールに座り待った。
おれの初めてのオヤジ狩り。おれはただひたすら待ち続けた。それから五時間後、夜十時をまわったころ、見おぼえのある背の高い男が、ガードマンに挨拶をしてゲートを抜けた。おれはあとをつけていった。夜の霞が関は人影もまばら。その男は地下鉄の駅に近道をしようとしたのかちいさな公園に入った。おれはダッシュで追いつき、まわりこむと正面から声をかけた。
「渋沢さんだろ」
「なんだ、君は」
おおきくウェーブした銀色の髪。ふちなしのメガネ。ヒカルによく似た目元。男は落ち着き払っている。
「ヒカルの知りあいだよ。ちょっと返すものがある」
男は不思議そうに眉をひそめた。こいつも俳優みたいなやつだ。
おれはまえに足を一歩踏みだし右のこぶしを引いた。フェイント。左のショートフックでヒカルのオヤジの腹を殴った。やつの身体が折れたところを、両手を組んで肩先にぶち当てた。男はそのまま倒れた。おれは男の肩口と太ももをゆっくりと数をかぞえるくらいのスピードで蹴り続けた。ななつ、やっつ、ここのつ、とう。地面で頭をかかえている男にむかっていった。
「おれはあんたがチャイコフスキーを聴きながらヒカルになにをしたか知ってる。どうしてこんな目にあったのか理由を知りたかったら、ヒカルに聞け。すべてを話してくれってな。その後、警察にいくならいけばいい。それはあんたたちしだいだ」
おれは男のぴかぴかの黒い革靴を脱がせ、植えこみのなかに放りこんだ。代わりにリュックから出したナイキのエアジョーダンをヒカルのオヤジの足にはかせてやる。ヒカルからの最初で最後のプレゼント。九五年モデルのイエロー。
「こいつを見せればわかる。ケリは自分でつけるようにヒカルにいってくれ」
おれは男が立ちあがるのも待たずに、そのまま霞ケ関駅に足早にむかった。まあ、ヒカルのオヤジが警察を呼ぶことがないのはわかっていた。ただ同じ空気を吸っているのが嫌だったのかもしれない。
◆
数日後に、新聞にちいさく出ていた。「大蔵省銀行局次長、刺される」。刺したのは娘のA子さんで、A子さんは日ごろから精神状態が不安定だったという。幸い、傷は浅く生命に別状はない模様。
◆
ヒカルはヒカルのやり方でケリをつけた。それでよかったのかどうかおれにはわからない。でもこれでおれの話はおしまいだ。だからここから残りはみんなそのあとのニュース。
ヒカルは今、長野かどこかにある施設に長期入院している。絵はがきが一度きた。
ヒカルのオヤジは、大蔵省を依願退職してどこかのリース会社に再就職した。
マサは最近、大学のサークルにはいった。夏はサーフィン、冬はスノボっていうナンパなやつ。やつにはぴったり。ウエストゲートパークにはたまにしか顔を出さないが、今でもいいダチだ。
シュンはコンピュータゲームの会社でアルバイトをしてる。キャラクターの絵を描く仕事、専門学校よりおもしろいから、そのうちガッコはやめて就職するかもしれないそうだ。
山井は、結局ヒカルのことは黙ったままオリのなかへはいった。出てきたら、結婚してあげるとかなんとかヒカルに丸めこまれたらしい。数年後に、ヒカルがどうやって山井から逃げるのかちょっとした見物だが、おれはヒカルならうまくかわしてしまうと思う。ヒカルの演技はやっぱり山井より一枚上手だから。もっとも、わかったうえで山井はヒカルを許して、だまされた振りをしてるのかもしれない。それはおれにはわからない。
タカシは今でもGボーイズのヘッドを張っている。ちょっとしたトラブルがあって、今回の礼に手伝ったことがあるが、それはまた長くなるから、つぎの機会にでも話すよ。
で、おれのこと。おれはちゃんと店をやるようになった。市場にいくのに朝早起きするのがしんどい。変わったことといえば、最近クラシック売り場の店員と仲よくなった。やつはなぜか、おれがロシア音楽好きだと思っているらしく、いろいろとおれにすすめてくる。ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ。だから、うちの果物屋では『春の祭典』とボブ・マーリーが今では交互にかかってる。おれはチャイコフスキーよりストラヴィンスキーのほうが好きだ。
あんたが池袋にきて、おかしな音楽がかかってる果物屋を見つけたら声をかけてくれ。おれが店にいるときなら、五千円のメロンだって二割引きだ。
まあ、それでもうちの店のぼろもうけなんだけどな。
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エキサイタブルボーイ
お化けワゴンの噂を聞いたことがあるだろうか?
それは明け方に近い真夜中、首都高5号線や日の出通りを走っているとバックミラーにいきなりあらわれる。ものすごいスピードであんたの運転してるクルマのケツに追いつき、もうすこしで衝突する直前になると、曇りガラスみたいに半透明にかすんで青白い炎を噴きあげ始める。そのワゴンはあんたのクルマをよけもせず、まっすぐ抜きにかかるだろう。わかるかな、ワゴンの鼻先があんたのクルマのケツに溶けこんで、ゆっくりと重なっていくんだ。十センチ、二十センチ、一メートル……走ってるあんたのクルマの車内を、お化けワゴンがゆっくりと歩くくらいの速さで通り抜けていく。
シートにシートが、ハンドルにハンドルが、特撮映画みたいに二重にだぶる。運転してるあんたとお化けワゴンの運転手は溶けて重なる。あんたの肩からもう一組の腕が伸びて別なハンドルを握ってる。あんたの顔も二重になる。目に目、舌に舌。
そのワゴンにはふたりの人間が乗っているという。ドライバーは二枚目の男、助手席にはすごくきれいな女が座ってる。ここで大切なのは、絶対にその女の目を見ちゃいけないってこと。女は明け方の薄曇りの空みたいな明るい灰色の瞳をしているだろう。それを見た人間は近いうちに必ず事故るって話だ。運の悪いやつはそのまま連れていかれることもある。だからあんたは目をつぶったままハンドルをしっかりと握りしめる。するとお化けワゴンはあんたのクルマを通り抜け、池袋から雑司が谷霊園のほうへ再び思いきり加速しながら走り去るという。
流星のように銀の尾をひきながら。
◆
それはメタリックブラックのホンダオデッセイだという話だ。おれはお化けワゴンを見たことはないが、消えた黒いオデッセイなら一台知ってる。それにあのオデッセイが二度と首都高を走らないだろうってことも。
◆
おれんちは池袋の西一番街で果物屋をやってる。タカシから久しぶりのPHSが鳴ったとき、おれは出始めのミカンを店先に並べていた。秋の終わりの水っぽいだけで甘くないミカン。立派なのはワックスでぴかぴかの表面と値段だけってやつ。
「マコトか? 今夜、時間とれないか」
安藤崇は池袋のギャングボーイズを締めてるヘッド。いつも挨拶などしない。無駄がなく、速く、鋭い王様。
「いいよ」
「九時にウエストゲートパークのベンチで」
PHSは切れた。ジーンズの尻ポケットに戻すと、なにも考えずにミカンを積み続ける。子どものころ遊んだレゴブロックを思いだす。おやじたちのいう通り、どんな仕事にも喜びは見つかるものだ。
だが、おれは夜が待ち遠しかった。仕事の喜びはポケットに入るくらいだが、その退屈ときたら二トン積みのトラックが必要なくらいだったから。
◆
池袋のストラングラー(首絞め魔)をおぼえているだろうか。夏のあいだ大騒ぎになったから犯罪マニアでなくても記憶に新しいんじゃないかな。犯人を逮捕したのは警察だが、やつを見つけてふんづかまえたのは、池袋ではGボーイズの自警団ということになっている。おれはたまたまそのとき指揮をとっていた。殺された女がおれのチームのメンバーだったからしかたない。
それ以降おかしな噂が池袋の街に流れて、ときどきおかしな依頼が舞いこむようになった。
人探しに、トラブルの解決に、ガード。たいていはろくでもない話。
あたりまえだ。警察に届けられるようなネタなら警察を使う。金があるなら興信所やヤクザを使う。おれのところにくるのは、警察にも話せず金もないガキのトラブルばかり。それでもひまなときなど、おれは話を受けることがあった。退屈しのぎにはちょうどいい。それに金もなく頭もなく、どうしようもないトラブルをかかえて身動きのとれないガキを見てるのに耐えられなかったから。
良心が痛んでというわけじゃない。鏡を見てるみたいでね。
◆
ウエストゲートパーク──池袋西口公園はJR池袋駅西口のすぐ正面にある。噴水を囲む円形広場は夜になるとGボーイズのたまり場だ。おれは夜九時すこしまえに家を出た。うちの店から公園まで歩いて五分とかからない。
公園にはいるとあちこちのベンチに酔っ払いやナンパ待ちの女たちが座っていた。男たちが広場をうろつきながら声をかけている。まだ本格的な冬までは時間が残ってる。今シーズン最後のごちそうをいただこうというつもりなのだろう。女たちもなま足のマイクロミニでその期待にこたえている。嬌声があがる円形広場のまわりをデパートの看板やラブホテルのネオンが、ぎらぎらと光りの壁になって取りかこんでいる。
いつものウエストゲートパークの夜だった。
◆
おれはタカシのベンチに近づいていった。なぜかやつのまわりだけは防音装置でも仕掛けてあるみたいに静かだ。タカシはおれにむかって右手の親指を立てる。黒の細みのスーツにVネックの光る素材の黒いセーター。グッチか、あいかわらずおしゃれ。両わきに座っていた男たちが立ちあがった。見あげるほどおおきな二人組。一卵性双生児だというタカシのボディガード。そろいのボウリングシャツは、Gボーイズのチームカラーの鮮やかな青。ふたりに声をかけた。
「ごくろうさん、1号・2号」
二人組はエアコンの室外機みたいなあごで同時にうなずくと、おれのためにベンチをあけ街灯の光りの輪をはずれた。警戒態勢。どっちが1号だったかな。
「いきなり悪いな、マコト」
タカシがおれの目を見ていう。詫びからはいるなんてらしくない。驚き。嫌な予感。
「で、なんの用?」
「おまえに仕事を頼みたい」
「やばい仕事なんだろ」
「ああ、ちょっとな。ヤー公がからんでる。羽沢組だ」
羽沢組は池袋に何十あるかわからない暴力団のトップスリーから滑り落ちたことがない。ヤクザのメジャーリーグ。
「断れないのか」
「断ろうと思えば、なんとか断れる。だが……」
どこかのベンチでナンパされた女が夜のジャングルの鳥みたいな派手な笑い声をあげた。タカシは苦笑いする。
「なあ、マコト。池袋だって平和そうに見えるが、水面下じゃ微妙な力のバランスが働いている。羽沢組の依頼を断ることもできるが、そのときは池袋のGボーイズ全体にマイナスのカードを一枚残すことになる」
「うまく解決すれば、やつらにおおきな貸しをつくれるというわけか」
「そうだ」
頭の足りないGボーイズのガキどもを考えた。排気ガスの臭いのする公園の空気を吸いこんで、おれはこたえた。
「わかった。うまくいくという約束はできないが、やってみるよ」
今度驚いた顔をしたのはタカシ。おれはそれまでヤクザ絡みの話はすべて断っていた。
誰にだってつきあいたくない人間がいる。
◆
「おまえはストラングラーのときにGボーイズを全部動かしてガード態勢をとってくれたろ。おまえには借りがある。だけどなんでおれなんだ?」
そういうとタカシは笑った。きれいな歯。
「なあ、マコト。いかにこの街で人材が払底しているか知ったら、いくらおまえだって驚くよ。力の強いやつ、こわれたやつは一山いくらでいる。だがそれなりに切れて池袋の裏を知ってて、ガキどものあいだを目立たずに泳げるやつはそうはいない。おまえがGボーイズの切り札だ」
タカシにこんなふうにほめられるためなら、命を落としてもいいというやつをおれは何人か知ってる。できすぎた言葉。あやしい。
「頼りないエースだな。で、いつ話を聞きにいけばいい?」
タカシは唇の端をつりあげ、上目づかいでのぞきこむ。
「今すぐ。十時に羽沢組とセッティングしてある」
あきれた王様だった。
◆
タカシのGMCは池袋東口のグリーン大通りを右折した。本立寺のつきあたりでハザードをつけ、停車する。ヴァンのステップをおりた。目のまえにコンクリート打ち放しのしゃれたビルが建ってる。看板のたぐいは見えなかった。タカシとおれ、それに1号・2号と四人でうえへあがった。鏡張りのエレベーターの天井の四隅にちいさなシャンデリアが揺れてる。カットグラスの涙が百滴ずつ。
エレベーターの扉が開いた。正面には赤っぽい木のドア。MEMBERS ONLY。その両わきに若い男がふたり立ってる。ディマジオとレノマのトレーナー姿。なぜある種の業界人はユニフォームが好きなんだろうか。男たちはおれたちを見ると反射的に鋭くにらみをきかせた。パブロフ。
「十時に氷高さんと面会の約束をしている」
タカシがそういうと門番のひとりが携帯を取りだした。低い声でなにか囁いている。おれたちは知らんぷりをしていた。携帯を閉じた男がドアを開けた。
「どうぞ」
「おまえたちはここに残ってくれ」
ビルの構造材の一部のように垂直にそびえる1号・2号にタカシがいった。1号・2号は門番から目を離さずにうなずいた。おれとタカシは店のなかにはいった。
店のなかはすみからすみまで札束で磨きあげたような作り。ドアと同じ木目のパネルがカウンターと壁に張りめぐらされている。窓はない。金属は|真鍮《しんちゆう》。あちこちで鈍い黄色が光ってる。床は沈んだ赤のカーペット。同じ赤のソファがフロアにぽつぽつと島のように浮いている。客はカウンターにひとりと一番奥に一組。奥はホステスにはさまれて座る初老の男。プロゴルファーみたいに派手なチェックのスーツ。ソファのうしろにはまた別のふたりが両手をまえに組んで立っている。パブロフがもう一組。
おれたちがソファに近づいていくとカウンターに座っていた男が立ちあがった。
「そちらが真島誠さんですね、安藤さん。よくきてくれた。待ってましたよ」
男は笑顔をつくっていった。自動ドアをはいるとこちらがなにもいわないうちに、いらっしゃいませと挨拶してくる銀行員みたいな男。
「マコト、こちらが羽沢組若頭の氷高さんだ」
年は四十なかばで小太り。生えぎわが後退した髪をオールバックになでつけている。ていねいだが、どこか遠い目。
「うちのおやじに紹介します。こちらへどうぞ」
氷高は先に立っておれたちを奥へ案内した。ソファのまえに立つと直立不動でいう。
「お客人が到着なさいました」
初老の男は女たちの太ももにのせていた手をどかし払うように振った。内装と同じように金のかかった女たちはすぐにソファを離れた。おれの頭の先から足の先まで男はゆっくりとなめた。恐ろしく姿勢のいい年寄り。背中に鉄板がはいってる。
「まあ、かけてくれ」
年寄りがそういうと、氷高にうながされタカシとおれは円形のソファに並んで座った。年寄りのとなりに座り氷高がいう。
「こちらが関東賛和会羽沢組、組長羽沢辰樹です」
羽沢は目を細め鷲のような顔で会釈した。おれを見たままいう。
「あんたがこの夏の変態をおさえたというのは本当か」
黙ってうなずいた。氷高がいった。
「なにか飲みものでも注文し……」
羽沢のよく通る声が言葉を断ち切る。
「どうやったんだ」
「おれだけの力じゃない。池袋じゅうのガキの力を借りてる」
タカシが口をはさんだ。
「だが、何十というチームの指揮をとり、ストラングラーを追いつめる糸口をつかんだのはこのマコトだ」
羽沢辰樹はいきなりテーブルに額を押しつけるように頭をさげた。ソファのうしろに立つボディガードが息をのむのが聞こえた。見事な白髪だけ見える。そのまま店内の時間がとまってしまったようだった。しばらくして顔をあげるといった。
「その力、うちの娘を探すために貸してくれ。頼む」
羽沢はそのままおれから目を離さなかった。事情がまるでわからない。返事のしようもなかった。
「必ず見つけだしてくれといってるわけじゃない。ただ力を惜しまずにやってほしいと頼んどる。どうだ?」
たいした圧力だ。目に力がある。おれはこの年寄りに好感をもち始めていた。
「わかりました」
「精一杯やると約束してくれるな」
うなずいた。鷲の顔が崩れた。
「そうか、よかった。詳しい話はここにいる氷高から聞いてくれ。私がいてはいいにくいこともあるだろう」
そういうと羽沢は腕時計をはずした。右手に握りこむと、その手をおれへ伸ばす。
「つまらんものだが男同士の約束の印だ。受けてくれ」
しかたなく受け取る。鷲の爪が開いて、ずっしりとした手ごたえがおれの手に落ちた。
「さあ、つぎいくぞ。それからお客人、今夜この店は羽沢組の貸切だ。酒でも女でも好きにやってくれ。だが明日からは頼むぞ」
羽沢辰樹は立ちあがるとボディガードを引き連れ店から出ていった。たいした役者だった。おれは手のひらを開いてなかを確かめた。金の塊をくりぬいてつくられたロレックス。文字盤に輝く十個のダイヤモンドを見て、おれの気分は重く沈んでいった。
◆
「姫が消えてから一週間たつ」
氷高はスーツの内ポケットから写真を取りだし、おれのまえに滑らせた。池袋の街でよく見る私立高の制服の女。このまえヌード写真集を出して話題になった清純派のタレントをうんときつくした顔だち。髪は明るい茶色で、アーモンド型の目はグレイ。瞳は宝石でもはめたみたいにフラッシュを|撥《は》ねかえす。女は夜の街を背にモデル立ちしている。やせた野生の鹿みたいな女だった。
「姫の名前は天野真央、うちのおやじが内縁関係にあった女に生ませた娘だ。五十をすぎてできた初めての女の子で、たいへんなかわいがりようだった。母親は病気で姫がちいさいころなくなっている。うちの組の姐さんがきついひとで、姫を家にいれることはできなかったが、おやじはなに不自由ない生活をさせていた」
おれは氷高にいった。
「どこかで遊んでるって可能性は? 警察には届けたのか」
「旅にでも出て遊んでて、そのうち帰ってくる可能性もなくはない。姫は手のつけられない跳ねっかえりだったからな。警察には家出人の届けを出したよ。だがあいつらは事件になるまではなにもしてくれない。わかってるだろう」
うなずいた。横に座るタカシを見た。正面をむいて知らん顔をしている。
「あんたたちの世界には特別な情報網があると聞いたことがあるんだが」
「まあな、人探しならヤクザにかなうやつはいないだろう」
氷高は淡々と認めた。浮かない顔をしている。
「それなのに、おれたちみたいなガキに頼む。なぜなんだ」
「姫が普通に動きまわっているなら、とうに組織の網にかかってるはずだ。日本全国のどこかで姫の銀行のカードや携帯電話が使われれば、内部協力者からすぐにこっちに連絡がはいる。だがこの一週間まったく足取りが消えている。金も電話もいっさい使わずにどこかに潜るなんて普通なら考えられない。うちの組のほうでも必死になって探しているさ。それでも見つからない。そんなとき、おやじがどこかからあんたの話を聞きつけた」
「おれは人探しの専門家じゃないよ」
「だがこちらの知らない街のガキどものネットワークをもってる。正直にいうが、おやじの気まぐれで頼んではいるが、そう簡単に姫は見つからんだろう。おやじにあまり思わせぶりなことをいうのは勘弁してくれ。あれで切れると手がつけられない。あんたもどうにかなりたくはないだろう」
氷高の目だけは笑っていない。地が出てきたようだ。
「まあな。その姫を探すためには、もっと詳しい情報が欲しい。どうすればいいんだ」
氷高は携帯を取りだし、どこかへ電話をかけた。誰かをよこすようにいっている。タカシのまえにはウーロン茶、おれのまえにはオレンジジュース。ぬるいジュースを口にふくんだ。すっぱさにのどが締まる。
女も酒も自由になるときに限って、その気になれないのはどういうわけなんだろうか。
◆
十五分ほど待つと、誰かが店にはいってきた。まっすぐにおれたちのソファにくると氷高の横に棒をのんだように立つ。どこかで見た猿顔。背は百五十五もないチビ。
「こいつがうちの若衆で斉藤富士男。姫の付き人をやっていた」
斉藤の名前で思いだした。おれの視線に気づいたようだ。サルもにらみ返してくる。
「富士男、おまえは明日からこの真島さんといっしょに姫探しに加われ。わかったな。この人のいうことを聞いて、しっかりやるんだぞ」
「はい、よろしくお願いします」
サルは頭をさげた。顔をあげると無表情に正面をむく。十インチはおおきそうなだぶだぶのホワイトジーンズに黒のナイロンのプルオーバー。胸にはおおきく白い文字でB.I.G.とはいってる。このごろのヤクザの下っ端はけっこうおしゃれだ。靴はコンバースの黒革のオールスター。中学のころのださいサルからは想像もつかなかった。もっともサルがヤクザになるなんてのも同じことだが。やつが暴力団員になれるなら、おれは今ごろ宇宙飛行士にでもなって、壊れた星のかけらでも回収してるはずだ。
◆
おれたちは店を出た。どうも尻の座りが悪かったので。氷高とはそこで別れ、タカシのクルマで池袋駅西口まで送ってもらった。サルもいっしょ。
夜も十一時をまわっていたが、池袋の人波はまだまだ上げ潮だ。異常発生した酔っ払い。赤橙黄緑のネオンサイン。遠くからはきれいだが近づくと臭うというやつもいる。だがおれはそうは思わない。むなしいともうつろとも思わない。あれはみんな人間の欲望の光りだ。欲望を憎むことはできない。みんな黙ってそのまま光っていればいい。きれいはきたない、きたないはきれい。おれだってシェークスピアのビデオくらい見るさ。
西口の東武デパートの閉じたシャッターのまえ、サルとおれはつっ立っていた。
「富士男、おまえ時間あるのか」
「昔みたいにサルでいいよ、マコトさん。今夜話しておきたいことがある。知ってる店でいいかな」
うなずくとサルが先にたって歩きだした。あとを追う。街のノイズと秋の終わりの夜の空気が心地よかった。
◆
サルとは地元の中学時代の同級生。猿顔だからサル。中学生のつけるあだ名なんてそんなもの。サルは中二の秋に登校拒否になりそのまま自宅で中学を卒業したはずだった。卒業アルバムでも集合写真から離れたすみに顔だけ浮いていた。
小柄で暗い顔。存在感の薄さ。不思議になんの印象も残っていないやつだった。もう五年以上たつが、その夜会うまでは思いだしたことなど一度もない。
サルのちいさな背中に呼びかけた。
「なあ、おまえ中学出てからなにしてたんだ」
サルの肩がびくりと動いた。
「なにも。ぶらぶらしてた。ある日、ゲーセンで遊んでいたら今の組の兄貴に声をかけられた」
「すぐにヤクザになったのか」
おれは驚いていた。気の弱い中坊のサルからは想像できない。
「ああ。それで事務所で氷高さんに会うといわれたんだ。今から五年辛抱したら、ポケットにいつでも百万の札束をこづかい代わりに入れておけるようにしてやるって」
「景気いいんだな。それで今じゃポケットに金がつまってるんだ」
サルは振りむくとおれの目をまっすぐににらんだ。
「マコト、なめるなよ。おれだって羽沢組の看板しょってんだ。あのころのおれじゃないぞ。おまえの噂は聞いてる。池袋で売出し中なんだろ。だけどおれだっていつかでかいことをやってやる、絶対だ。今は金なんてない、だけど……」
「だけどなんなんだ?」
「仲間ができた」
こいつ正気か。暴力団にはいらなきゃダチができないほど追いこまれていたのか。サルはまた立教通りを歩き始めた。背中越しにおれにいう。
「おまえ、ネズミとりって知ってるか」
「いいや」
「真夜中の学校に集合する。フェンスの破れ目を抜けて。おれのいたグループではやってたゲームなんだ。ジャンケンで一匹ネズミを決める。みんなは十分間待つ。そのあいだにネズミは校内のどこかに隠れる。三十分間見つからなきゃネズミの勝ちだ。見つかれば負け。最初は楽しい遊びだった。涼しい夏の夜、真夜中の学校、誰もいないプール。水だけ揺れてる。なにもかも最高だった」
振りむかなくてもサルの顔は想像がついた。夢見るサル。
「だが、そのうちネズミになるやつのメンツが決まりだした。おしまいのころ、いつもネズミはおれ一匹だった」
「そうか……」
同じクラスにいてもグループが違えばまったく話が通じない。今でも同じだろうか。サルのグループは最大派閥で、目立たない普通の子が多かった。
「それで、おしまいのころは剣道の防具をつけさせられた。腕や足はタオルや座布団でぐるぐる巻きだ。デブネズミと呼ばれてた。おれは必死で隠れたよ。もうみんな素手じゃなかったから。バドミントンやテニスのラケット、ひどいやつは木刀や金属バットをさげて追ってくる」
酔っ払いや学生の塊が街角のあちこちで溶けてどろどろになっている。こたえる言葉がなかった。
「その夏のあいだ身体中からあざが消えるひまはなかった」
「誰にもいえなかったのか」
「ああ、完全なシカトよりあざのがましだ。この店だ」
サルはガラス扉を押して明るい店内にはいっていった。こちらを振りむくことは一度もなかった。
◆
モニタのなかでハーダウェイが飛んだ。五秒間宇宙遊泳してスラムダンクを決める。マイアミ・ヒート対デトロイト・ピストンズ。プラスチックの内装の明るいスポーツバーだった。カウンターでタコチップとビールを買い、おれたちはすみの背の高いテーブルに座った。サルは生ビールの泡だけなめるといった。
「昔話はもういいだろ。この店は組の人間に会いたくないときにくるんだ」
「ああ、姫の話を聞こう。学校や友達や男出入りはどうだったんだ。電話番号なんて残ってないのか?」
「携帯も手帳も姫といっしょに消えてる。電話番号は残ってない。友達はひとりいるが入院中だ。男は……」
サルはプルオーバーのフロントポケットからなにか取りだした。テーブルに投げる。薄っぺらな紙製のアルバムが二冊。ページをめくった。ほとんどが男との写真。五人や十人じゃきかない。
「見ての通りだ。その男たちの名前も電話番号も一部しかわからない。それにもう一冊。こっちを見たことはおやじにはないしょにしてくれ」
サルは同じようなアルバムを出した。表紙が赤い。なかは姫のヌード写真だった。スタイルがいい。男と絡んでいるものもあった。身体つきで何人かの別な男であることがわかる。黒い革の下着をつけて男の乳首に針を通してる姫。笑顔。ピースサイン。
「とんだ姫だな。だけどなんでサルが付き人になったんだ。組長の隠し子の世話なんていいしのぎにはならないんだろ」
サルはおれの手からひったくるように赤いアルバムを取った。
「おれが姫の好みのタイプじゃなかったからだろう。姫に手を出して指を落としたやつもいたそうだ」
なぜかサルはふくれ面。
「最後に姫に会ったのは?」
「消える三日前。サンシャインシティのデニーズでおやじからのこづかいを渡した」
「いくらだ」
「毎月の三十万。一人暮らしの部屋代に光熱費、携帯の料金なんかはおやじが出していた。金に困っていたとは思えない」
「だが消えた。なんか思いあたることはないのか」
「この一週間駆けずりまわりながら考えたよ。でも、ないんだ。男は隔週で代わっていたから気にもとめてなかった」
「クスリは?」
「遊び程度のドラッグはあったかもしれないが、シャブはない。おやじにきつくとめられていた」
「じゃあ、手がかりはまるでなしか」
サルは不機嫌な顔でうなずいた。
「だから組のほうでもお手あげなんだ。マコト、おやじに約束なんかして大丈夫なのか」
今になってタカシがなぜこの話をおれに振ったのかよくわかる。ミスってもGボーイズに傷はつかないからな。おれはほんとにめでたいやつだ。
◆
その夜、それから二時間サルの話を聞いた。学校と男関係はこの一週間で羽沢組が手を尽くして洗ってるという。やつらは徹底してやる。どの男もへどを吐くほど揺さぶられているはずだ。いくつか家庭やカップルが壊れているかもしれない。そちらはまかせておくしかない。入院している女友達には会っておきたい。脈は薄いだろうが。
とんでもないお姫様の話を聞きながら考えた。ヤクザも警察も手を出さないのはどこだろう。おれにしかできないことはなんだろう。答は見つからなかった。
だが、あるとしたらそれはストリートにしかないだろう。おれに見つけられるものはすべて池袋の汚れた道のうえか、あの壊れかけのガキどものなかにしかない。しかたない、おれもそのなかのひとりだし、おれが生きているのはこの街なんだから。
「サル、姫から最後に電話を受けたのはいつだ」
「受けたんじゃない。おれがかけたんだ。いなくなった夜の十二時、定時のコールだった。池袋のセブンイレブンのまえだといってた。街の音がしたから外なのは間違いない」
「それからどうするって」
サルは一段と不機嫌な顔をした。こちらの答は想像がつく。
「うるせーよ、バカザルには関係ねー。で、切れた」
◆
午前三時近くおれたちはバーを出た。サルはひどく酔っていた。
「マコトさん、もう一軒いきましょうよ」
またマコトさんに戻っている。
「だめだ、姫探しの初日が二日酔いと知ったらおやじはどう思う」
「わかったよ。それじゃサウナいこう。酒さえ抜いたらいいんだから。最後までつきあってくれよ、いいだろ、マコトさん」
サルは深夜の池袋の路上で駄々をこねた。羽沢組に入ってサルが見つけたのはどんな「仲間」だったんだろうか。おれたちは池袋駅の方向へひきかえし、最初に見つけたサウナにはいった。脱衣所で服を脱ぐときサルのやせた背中が見えた。
紺の筋彫りは観音様。アーモンド型の目、厚い上唇、ちいさな顔。
姫によく似ていた。サルが背中を目にしておれの様子に注意しているのがわかった。おれはなにもいわなかった。その後もサルは酔ってしゃべり散らしたが、入れ墨についてはひとこともふれなかった。
手を出せば指を落とされるヤリマン姫といじめられっ子あがりで友達が欲しくてヤクザになったサル。結ばれるはずのないふたり。悪い話ではなかったが、ディズニーアニメには不向きなストーリーだ。
◆
明け方、おれは寝ているサルに置き手紙を残しサウナの仮眠室を出た。朝の光りが路上に落ちたゴミに斜めにさしている。楕円の影がアスファルトをまだらに染める。カラスの鳴き声がどこかのビルに反響して頭上から降ってくる。涼しい秋の朝だった。吸いこんだ冷気が肺のなかでアルコールの燃えかすをぬぐい去ってくれる。おれは早朝の池袋が夜の池袋のつぎに好きだ。
家に帰り仲買人に電話をいれて足りないものを注文した。市場へはタカシのところのGボーイズに動いてもらえばいいだろう。何人使っても文句はいわないはずだ。
◆
いつものように十一時にうちの店のシャッターをあげると、まえの歩道にサルが立っていた。不機嫌そうな挨拶。おれはサルに手伝わせて店先に果物を並べると、おふくろに店番を頼んで家を出た。二階から『どーなってるの!?』のテーマ曲と文句をいう声。サルが笑っていう。
「あんたにも、怖いものがあんだな」
ロマンス通りのサテンでモーニングサービスを食べながら作戦会議をした。だがおれに打てる手など数えるほどしかない。そのうちのひとつをすぐ使う。
タカシにPHS。取次が出て電話がまわされた。
「マコトだ。アルバイトのガキのつてでも頼って、池袋のセブンイレブンで最近なにか起きていないか調べてほしいんだ」
「池袋の周囲どのくらいだ」
「そうだな、半径一キロくらいでいい」
「なにを調べるんだ」
「例の姫がセブンイレブンのまえで最後に連絡を絶っている。八日まえの水曜の夜中だ。だからそのあたりで姫を見かけたやつがいないか調べてほしい。誰かよこしてもらえないか? 写真がある」
店の名をいってPHSを切った。十分後には見たことのないGボーイが店にあらわれた。黄色のサングラスに毛糸の赤い帽子。えり足にドレッドヘアがのぞいてる。なぜか甘ったるい臭いのするやつだった。おれはサルがもっていたアルバムから、姫ひとりが写った角度の違う写真を三枚選び、そいつに渡した。写真屋で複写するようにいう。
それからサルとサテンを出た。目的地は歩いていける場所だ。
◆
ロサ会館のまえを通り飲食店街を抜けた。昼前のこの時間、テレクラもヘルスもゲーセンも開店休業で、明るい日ざしのなか、街は妙におだやかに見えた。トキワ通りを右に折れて四ブロック。文化通りとの交差点を左。ラブホテル街の裏を抜けると、いつのまにか商店よりもマンションやアパートなんかが多い住宅街になっている。
サルがいう。
「さっきのコンビニの話だけど、姫がよくいくセブンイレブンなら場所はわかってるんだ。ほら、そこの角の店」
秋の日のあたる交差点にそのコンビニがあった。茶色のタイル張りのマンションの一階。晴れた外の通りよりまぶしく清潔そうな店内。雑誌スタンドのまえにはいくつか立読みの人影。横は駐車場になっていて歩道奥のスペースに白線が三、四本ひかれている。今はクルマは停っていないが、その代わりに白のヴェスパが一台とガキが三人。ひとりはスクーターのシートに、残りは地面に座ってる。缶ジュースにポテチの小袋。タカシのところで見た顔を見つけて声をかけた。
「よう、こんちは」
「あっマコトさん、おはようございます」
姫の写真を見せた。一週間まえの話を聞いてみる。ここで見かけたこともあるような気はするけどわからない、水曜の夜にはきてない。予想通りの返事。写真を一枚渡す。見つかればお手柄だといい、このあたりのガキに聞いてもらうように頼んだ。サルは黙ってコンビニのまえで待っている。
「いこう」
「なあ、あんなガキが役に立つのか」
そのガキとほとんど変わらないサルが不満げにいう。わからないとおれ。セブンイレブンから三十メートルほど歩くと目的地だった。新築の真っ白なマンション。オートロックの数字が並んだプレートに分厚く金メッキがしてあるのは、なにか意味があるんだろうか。
◆
姫の部屋は803号室。合鍵でドアを開けると部屋のなかはひどい散らかりようだ。サルがいう。
「もともときれいじゃなかったけど、組の人間がきて部屋中かきまわしていったんだ。家探しの専門家だといってた。シャブやドラッグを見つける名人だって」
高価そうなハイヒールやパンプスでいっぱいの玄関をあがり、開けっ放しのクローゼットを横目に奥へ。十二畳ほどのワンルーム。ソファベッドのクッションは引き裂かれ、ハンガーにはかけきれない服が斜めにはみでてる。ポケットはみな裏返し。部屋の反対側には半円形のおおきな鏡がついたドレッサー。ガラスの天板からこぼれ落ちそうな化粧品。白くて長いギターのピックのようなものがそのあいだに刺さっていた。
「なんだ、これ」
サルはうんざりした顔でバルコニーのむこう、池袋のスカイラインを眺めてる。
「つけ爪だよ。接着剤で指先につけるんだ」
ユニットバスものぞいてみた。天井のふたがずれて暗がりが見える。洗面所のコールドクリームや歯磨きまでからっぽにされている。
「すごいな」
「マコト、なんか収穫あったか」
「ゼンゼン」
おれたちは姫の部屋を出た。サルは鍵をかけながらいう。
「おまえが人探しの名人だっていったやつのつらを見てみたいよ」
正解。サルにバナナを一本。おれだって同じ気持ちだった。
◆
西口改正通りに戻りタクシーに乗った。サルがドライバーにいう。
「御茶ノ水の医科歯科大付属病院」
窓の外をビルが流れる。妙に下品な話をする昼時のAMラジオ。サルに聞いた。
「姫の友達ってどんなやつなんだ」
「遊び仲間。だいたい想像つくだろ」
「なんで入院してんの」
「ケガ。どうしようもないバカだからかもしんない」
それで入院してたら病院がいくつあっても足りない。
「で、どんなケガなんだ」
「足首の腱を切られた」
「それで」
「山のなかに捨てられた」
あきれた。やっぱり頭が悪すぎて入院してるのかもしれない。女の名は細川美祐。姫の親友だそうだ。美祐は乗ってはいけないクルマに乗ってどこかの山奥に連れていかれ、アキレス腱を切られたうえ、まわされてそこで捨てられたという。
〔見ず知らずの人に声をかけられてもついていってはいけません〕
幼稚園からやり直す必要がある。美祐の暴行傷害は事件にもなっていない。本人に訴えるつもりがないし、警察にかかわりたくないから。
東京は平和な街だ。
◆
ベッドには水玉のパジャマのうえにトレーナーを着た女が上半身を起こしていた。六人部屋の病室の一番奥の窓際。まぶしいくらいの日ざし。サルが声をかける。
「こんちは、調子どう」
女は女性週刊誌から目をあげた。美祐は丸顔で童顔で色白。グラマーとデブの境界線上の身体つき。髪はなんども脱色とパーマを繰り返したせいで極細パスタみたい。握った分だけ折れそうだった。
「サルくん、お見舞いにきてくれたの」
ぱっと笑顔を見せる。悪くない笑顔。サルはおれを紹介した。籐のかごにはいったちいさなブーケを渡す。あたりさわりのないことをいってから話を聞いた。姫の普段の生活についてはサルのいうことと変わりない。姫のキャラクターに純な乙女心が加わっただけ。
「この一週間、姫はどうしてると思う」
「新しい男と旅行にでもいってるんじゃないかな。どっか海外とか。マオちゃんは強いし絶対に負けない娘だからだいじょうぶ」
毛布のなかに消えている足先を見て、なんとなく聞いた。
「ところで、それをやったやつらって顔見知りだったのかな」
美祐の顔色が変わった。なにかにつきあたったらしい。
「うーん、知らないやつら」
「でも、クルマに乗ったんだろう?」
「ナンパだもん、そういうことはあるよ。命まではとらないもん」
「今回はついてなかったんだ?」
「そうだね。あいつら、ひどかったから。……あの、あたしね、いい男を見るとこの人に恋しちゃうかもって、すぐに思っちゃうんだ。そういうときはもうはまっちゃってること多いんだけど、とまらなくなっちゃう」
そういうと上目づかいでおれを見た。粉砂糖のかかったシュークリームになった気がする。こりない女。
「クルマおぼえてる?」
美祐は窓へ視線をそらした。日ざしに目を細める。美祐の顔に神経を集中した。
「あたし、クルマに詳しくないからわかんない」
口を閉ざした。嘘をついてる。それだけはわかった。
「また聞きたいことができたら、きてもいいかな」
「いいよ、でも今度はひとりでおいでよ」
ちょっと媚びた目つきを見せた。よくわかんない女。
◆
タクシーで池袋に戻った。おれにできそうなことはやり尽くしてしまった。まだ昼の三時まえ。サルと吉[#底本では「土/口」]牛を食った。考えてみれば昨日の夜からずっとサルといっしょだ。店を出てからいった。
「おれ、ひとりで考えたいことがある。今夜十一時にきてくれ」
サルはおやじがどうとかいっていたが、おれはかまわずにうちに帰った。部屋に戻るとCDラックに目を走らせる。あった。ラヴェルのピアノ作品集。CDラジカセにかける。
『亡き王女のためのパヴァーヌ』。ちょっと不吉なタイトル。おれはオーケストラ版より原曲のピアノ版のほうが好きだ。夏のストラングラー事件以来すっかりクラシックにはまっていた。なにかを考えるときには欠かせなくなっている。
机のうえに投げだされたままの金のロレックスを手にとった。ラヴェルのピアノ曲とスイス製のハンドメイドの腕時計はよく似ていた。精密で高価でぴかぴか。数百万の腕時計は簡単に買えるが幸せは買えないってことか。歌謡曲の歌詞みたいだ。鷲の顔の年寄り、黒革の下着の姫、アキレス腱を切られた女。つぎつぎと思いだす。いくら考えてもなにもわからなかった。
おれは名探偵じゃない。そのままふて寝した。
◆
いつもより早めに店を閉めてシャッターにもたれて待つと十一時五分まえにサルがきた。
「こんな時間にどこいくんだ」
サルの息は白い柱。冬は近い。
「セブンイレブン」
テレビの二時間推理ドラマで刑事がいってた。現場百回。百万回だったかな。
おれたちは昼間の道をまた歩いた。コンビニは夜の住宅街に救命灯のような光りを投げて浮かんでる。明かりに吸い寄せられたガキどもが季節はずれの蛾のように集まり、買っても買わなくてもいいようなものを買っていく。おれたちは横の駐車場でガキに声をかけては、姫の写真を見せ話を聞いた。反応はやつらの脳みそみたいに弱い。寒さで手足の先が棒のように固まると、なかに入って肉まんと熱い緑茶を買った。初めての夜、深夜二時すぎまでねばった。
空振り。
◆
つぎの日の夕方、タカシから電話があった。セブンイレブンの件はうまくいってないという。引き続き調べるそうだ。おれも同じとこたえた。
「それから、マコト。おまえ、こんな噂聞いたことないか。お化けワゴンがあらわれると女が消える。これまで二、三人というやつ、もう二、三十人消えたというやつもいる」
聞いたことないとこたえた。姫の件で頭がいっぱいで怪談につきあうひまはないと。うっかりしてた。まあ、気づいたところで遅かったろうが。
◆
真夜中になるとセブンイレブンにいくようになった。おれの探せそうなところはそこくらいしか残っていないのだからしかたない。暖かな部屋で革のソファに座り天才的な推理力で犯人を指さしたかった。湯気のあがる肉まんをもったまま。金田一マコト。
おれたちは時間をずらし、明け方や早朝にもセブンイレブンへいった。アルバイトの店員とはすっかり顔なじみになった。そのうちひとつ気になることを見つけた。それは駐車場から百メートルばかり離れたマンション。四階の角部屋の窓だ。そこだけがいつでも明かりがついている。
夜の十一時、深夜二時、明け方の五時。
日曜日、火曜日、木曜日。いつでも明るい。
このあたりの住宅街に他にそんな窓はなかった。受験生でもいるのだろうか。閉めきられたままのカーテンがときどき揺れた。なにかが光っているように見えたこともある。
眠らない窓はそのうちサルとジョークの種になった。
◆
目をさます夢を見続けて夢のなかで不眠症に悩むガキの話。
夢のカウンセラーはやつにいう。不眠症は病気ではありませんよ。そして夢の机のうえのサボテンを指さす。近ごろじゃサボテンだって不眠症なんですから。ガキは夢のサボテンをさわり、鋭いトゲで指を刺す。血が指の腹で玉になる。
「痛い! よかった、これは夢じゃないんだ」
そのときサボテンが口を開く。
「誰だ、おれの夢のなかで叫んでるのは」
◆
聞き込み三日目の夜十二時ごろ。おれたちがいくといつものように何人かのボーイズが駐車場にたまっていた。聞き込みを始める。道のむこうからふらふらとガキがひとり歩いてきた。十一月終わりの夜中に半袖のTシャツ一枚と染みのついたチノパン。なんと裸足。Gボーイズのひとりがいう。
「ヤバイ、ヨッサンだ。マコトさん、目をあわせないほうがいいですよ」
ガキはときどき片手をあげて缶コーヒーの缶を口元にもっていく。飲んではいないようだった。プルトップの開口部を鼻のしたに寄せて深呼吸。アンパンか。そのガキが駐車場にはいってくるとシンナーの臭いがきつくのどの奥を刺した。
「みんな──元気か──あ?」
とんでもない大声。いかれてる。叫ぶ挨拶の会かコイツ。誰もこたえない。誰も目をあわせない。するとアンパンはゆらゆら揺れながらコンビニの扉に手をかけた。なかから知らずに別のガキが出てくる。手にさげた白いポリ袋がアンパンの手をかすり、シンナーいりのコーヒー缶が地面に落ちた。茶色のタイルに煙のように広がるシンナー。アンパンが吠えた。
「おまーえーなーんだー! ぶっ殺ーすー」
◆
おれはコンビニに駆けた。相手のガキは恐れたふうもなくアンパンをまっすぐに見ている。アンパンが腕を広げ、そのガキに飛びかかろうとしたとき、ポケットにはいっていたガキの右手が走った。アンパンの太ももをこぶしで軽く叩いたように見える。やつの右手が戻るのと、ももから半開きの蛇口みたいに血がたれるのは同時だった。
汚れたチノパンの横に赤い筋が入り、裸足の足先がみるまに泥と血でぬるぬるになった。アンパンは足を抱えてしゃがみこんでしまう。ガキのこぶしから三角形の金属片が突きでていた。通信販売で売っているのを見たことがある。手のなかに握りこんで使う鋭い両刃のダガー。
おれと目があうとガキは薄く笑った。二枚目、女にもてそうな甘いマスク。
「刺すことないだろ。ちょっとしたこぜりあいで済んだはずだ」
「ケンカなんて面倒くさいですよ、刺しちゃえばすぐに終わるでしょ。優しいなあ、マコトさんは。こんなアンパン中毒、クズじゃないですか」
おれの名前を知ってる。池袋の地元のやつだろうか。若い、おれより年下みたいだ。
「名前は?」
「そんなことどうだっていいじゃない」
二枚目は急ぐふうもなく歩いていってしまった。
おれのうしろに立つサルがいった。顔が青い。
「素人は怖いな。この街はどうなっちまってるんだ」
同感。サルにバナナをもう一本。おれにもまるでわからない新しい世代がつぎつぎとあらわれている。その夜おれはすごく年をとった気がした。
◆
サルによると羽沢組の捜索で有力筋が一本浮かんだという。豊島区役所裏のゲーセンの店員。ナンバーズでも当てたらしく、店を辞めて女連れでサイパンに遊びにいってるという。最近つきあい始めた姫によく似た若い女の噂。鷲の組長は若いやつをすぐに飛ばしたそうだ。
タカシのほうからはお化けワゴンの続報。女が消えるのは怪談ではなく確かな話だという。女をさらっては山に捨てるチーマーが池袋をワゴンで流してる。おれのほうでも聞き込みをしてくれといわれた。だけど夜のウエストゲートパークのわきに停まってるクルマの半分(もうちょっと多いかな)は、似たような目的できてる。何千台もあるクルマをどうしぼりこめばいい?
おれはセブンイレブンの夜中の聞き込みを続けた。めぼしい収穫はなし。どうやら一番出遅れているのは、切り札のおれみたいだった。
◆
聞き込み八日目の金曜日、日の高いうちにおれはひとりでセブンイレブンにむかった。駐車場に立ち、例の明かりの消えない窓を確認する。三分も歩くとそのマンションの入口に着いた。白い塗装がすすけ、くすんだ灰色になったマンション。のんびりしたエレベーターで四階へ。外廊下をすすみ奥の通りに面した部屋のまえに立つ。表札を確かめる。ステンレスにはまった白いプラスチック板が黄ばんでいた。
┌───────┐
│ 森 永 和 孝 │
│ 理 子 │
│ 和 範 │
└───────┘
三列目で目がとまった。森永和範。おぼえがある。すぐにサルにPHS。中学の卒業アルバムをもってセブンイレブンにくるようにいう。国語の教科書にのってたクモの糸の話を思いだす。どうかこの糸が切れませんように。
◆
サルは二十分でセブンイレブンの駐車場にあらわれた。事情を話しアルバムのページをめくる。サルがいった。
「森永なんてやつ知らないな」
「おれの三年のときの同級生。うちのクラスの学級委員だった」
住所録を確かめる。住所、マンション、部屋番号。三つそろった。ビンゴ。
「どうすんだ」
「いってくる。サルはここで待っててくれ」
◆
頼りない感触のインターフォンを押した。
「はい、なんでしょうか?」
上品そうな女の声。
「和範くんの中学時代のクラスメートで、真島誠といいます」
息をのむ音が聞こえた。チェーンロックがはずされてドアが開いた。青いセーターにグレイのサブリナパンツ。髪はひっつめ。うちのおふくろより年は若そうだが、目のまわりに妙にしわが多い。
「和範くん、今日はいますか?」
「ええ、いることはいるんだけど……」
困った顔をする。
「久しぶりにこのあたりにきたものだから、ちょっと話がしたいんですけど」
「わかったわ。声をかけてみます」
おふくろさんは奥に消えた。玄関で待つ。人が話す気配。戻ってきた。
「わざわざきてくれて悪いんだけど、今日のところは帰ってもらえないかしら」
「具合でも悪いんですか」
おどおどしている。小声でいう。
「外の通路で待っていてもらえますか? ちょっとお話ししたいことがあるんです」
うなずいてマンションの外廊下に出た。どうなっているのかまるでわからない。廊下の端まで歩いて交差点のセブンイレブンを見た。すこし遠いが店内も駐車場も一目で目に入る。サルはしゃがんで卒業アルバムを開いていた。ちいさなサル。
「お待たせしました」
和範のおふくろさんが黒のハーフコートをはおってあらわれた。手に赤いエナメルの財布。どこにいくんだろうか?
◆
池袋駅のそばの喫茶店に入った。おれはホットコーヒー、おふくろさんはレモンティ。しばらくカップをのぞいてから彼女はいった。
「うちの和範くん、なんだけど……今は、学校に、いってないんです」
「そうなんですか」
和範は中三のときクラスで一番。ぴかぴかの優等生で私立の進学校に受かってる。おれはてっきりどこかのいい大学にいってるものと思っていた。
「それで、高校を、やめただけでなくて……すごくいいにくいんだけど、部屋からまったく出てこないの」
おふくろさんの話によると、和範はこの三年間、自分の部屋から出てこないという。食事はドアのまえに置いておく。トイレやシャワーは誰にも見られないように家族の目を盗んですませる。ドアの内側には自分で鍵をつけたそうだ。完璧な引きこもり。欲しいものがあると食事の盆にメモがのせられかえってくる。「TDK・VHSビデオテープ120・ハイグレードタイプ・6本」メーカーや種類が違うとあとでコンクリートの壁を叩く音がリビングまで聞こえるという。ときにはそれが二十分続く。手で殴っているか、頭突きでもするような鈍い音。
「うちに和範くんのお友達がきてくれたのはこの三年間で真島さんだけなんです。今日は突然だったし、和範くんも機嫌が悪そうだったから無理でしたけれど、これにこりずに、ぜひまたうちに遊びにきてほしいの。和範くんの本当のお友達になってあげてほしいんです。お願いします」
それからお願いしますを三度繰り返した。おふくろさんは頭をさげながら泣いていた。レモンで淡くなった紅茶の表に溶ける涙。遠くのウエイトレスがこちらを見ている。好奇心まるだし。うちのクラスの希望の星だったやつが自分の部屋を独房にして暮らしている。壊れてないやつはいったいどこにいるんだろうか。
わからないのは新しい世代だけじゃないようだった。
◆
その夜もセブンイレブンでサルと聞き込みをした。和範の話をするとサルがいった。
「おれにはそいつの気持ちわかるような気がする」
「なんで?」
「おれ、中二のとき登校拒否になったろ。学校にいかなくちゃと思うと朝うちの玄関のドアを開けられなかった。夕方、おふくろが帰ってくるまで玄関で立ってたことあるよ」
「そうか」
「おまえにはわかんないよ。おまえのなかには誰がどうやっても絶対に動かないなんかがある。学校も世間もうちの組が動かそうとしても無駄だろ。ときどきマコトが氷みたいに冷たいやつだなと思うときがある。でも、そんなにクールなのはおまえの心のどっかが開けられないドアみたいになってるのかもな」
サルは今も明かりがついたままの窓を見あげていう。
「引きこもりのあいつよりたちが悪かったりしてな。たまには開けたほうがいいぞ」
サルは立ちあがり、尻をはたいた。
「おれ、おでん買ってくる。組のおごりだ、なに食いたい?」
なんでもいいとおれはいった。尻を通してアスファルトから冷気が身体に流れこんでくる。サルのいう通り、おれは冷たい人間かもしれない。だけど誰だって開けることのできない部屋をひとつもってる。そんなもんじゃないだろうか。
『亡き王女のためのパヴァーヌ』が流れる白い部屋を考えた。
おれの部屋、おれの独房。
◆
つぎの週明けからスケジュールが変わった。夕方早い時間に和範の家へいき、いったん家に戻って真夜中近くにセブンイレブンの聞き込みにでかける。
おれは毎日、そのマンションを訪れた。ときには店のメロンをさげて。そのころのおれに和範がなにかを知ってるなんて確信があったわけじゃない。他にできることもなかったし、おふくろさんの涙が忘れられなかった。それにサルの言葉が残っていたせいかもしれない。おれのドアを開けること、それで和範のドアを開けること。
玄関をあがるとリビングのテーブルにはお茶の用意がしてある。おれはおふくろさんと簡単な挨拶をすると、フローリングの廊下を歩いて和範の部屋のドアのまえに座った。おふくろさんは気をきかせてクッションをもってきてくれる。おれはドアにもたれてひとりで話した。部屋のなかから返事はない。テレビの音が低く流れるだけ。
白いドアにむかっておれは話した。中学のころの顔見知りのその後のこと。誰かと誰かができちゃった結婚し、誰かが自衛隊に入り、誰かが風俗嬢になり、誰かが自殺し、たいていの誰かはまだ学生やアルバイトをやってる。
池袋の街の話もした。ゲーセンのプリクラやGボーイズのこと。中学時代にクラスでいったサンシャインシティの水族館のこと。夏休みに自転車で駆けまわった小石川の植物園や六義園のこと。決死の覚悟でひとり一冊エロ本を買う約束をしたタバコ屋の怖そうなおやじのこと。和範は優等生のくせに変な勇気があり、ただひとりSM雑誌を買って尊敬を集めた日のこと(赤いロウソクでなぜ興奮できるのかみんなよくわからなかったが)。
あのころの夏の夕暮れの光りと空気、朝の教室の無関心に整った机と椅子、体操着の臭いや体育館の床の冷たさ、ぬるく透明に肌をなでていく、ぷりぷりと弾力のあるプールの水。話し始めると思い出は泉のようにあふれた。
ヤクザになったサルの話もした。跳ねっかえりの姫の失踪も。そしておれのこと。夏のストラングラーの話に店番の退屈さ。おれはこれからなにをやりたいんだろう。自分でもまるでわからないこと。甘ったるくてバカみたいだが、なんとか毎日をやりくりして、なにか本当にやりたいことが見つかればいいなと思っていること。
そしてまた別の秋の七曜がすぎた。
◆
聞き込みは続く。土曜夜のセブンイレブンは近所のガキどものサロンだった。駐車場に座りこんで誰かの噂話やバカ話をするボーイズ&ガールズ。おれとサルもその輪にはいった。メンバーが増えたり減ったりしながら朝まで続くトークショー。食い物と飲み物でいっぱいの冷蔵庫はとなりで一晩中開いてる。誰かがいった。
「ヨッサン、今、入院中なんだって。アンパンが切れてたいへんらしいよ」
「よかったじゃん。横になって寝てんのがシンナー抜くには一番だってさ」
「めちゃくちゃのどがかわくんで、ヨッサン点滴飲んだって話聞いた?」
薄暗い駐車場で爆笑。おれはいった。
「あのいきなり刺したやつ、誰か知らないか」
首を振るGボーイズ。このあたりでは見かけないやつらしい。
「じゃあ、お化けワゴンの話聞いたことないかな」
今度はみんなうなずく。やな感じ。みんなが知ってるってことは誰もよく知らないってことだ。案の定、話はとっちらかった。おひれがついた怪談話に花が咲く。最初に話したのはそのとき聞いたネタをおれがアレンジしたやつ。おもしろかったが姫には一センチも近づけなかった。
◆
休み明けの月曜日、小一時間ほどいつものように話をして和範の部屋のまえを立ち去ろうとするとドアのなかでなにかが動く気配がした。ロックがはずされる音。稲妻みたいだ。ドア越しにいう。
「はいってもいいのか」
「うん」
おれはドアを開けた。意外に軽い木のドア。
部屋は六畳くらい。パソコンとビデオテープとCDとマンガで床も壁も見えないほど埋めつくされている。カーテンのかかった窓のまえ、三脚のうえには見たことのない双眼鏡がのせられていた。双眼鏡の先がカマキリの触角みたいに上方に一メートル近く伸びている。和範は座椅子にもたれ部屋の角に置かれたテレビを見ていた。横に並んだ二台の十四インチとビデオ。黒いスエットの上下。やせっぽちだった背中が脂肪で盛りあがっている。束ねた髪は腰の近くまであった。こちらに背中をむけたままいう。
「適当に座って」
「ああ、だけどなんで今日は開けてくれたんだ」
「マコトが賭けに勝ったから」
和範の声は細く高い。
「なんの賭け?」
「マコトがなんのためにぼくのところにきていたのかはわかってる。その双眼鏡で見てたから。毎晩張り込みしてたよね。あのセブンイレブンでなにが起きたか知りたいんだろ。一週間以上こなければ、なにもいうのはやめようと、ぼくは賭けをしていた」
さすがはクラスで一番。
「今日で一週間と一日か。ところで、この双眼鏡なんなんだ」
おれは立ちあがり双眼鏡を見た。おかしなレバーが突きでてる。さわろうとしたら和範が叫んだ。
「さわっちゃだめだ。それは旧ソ連軍の狙撃手用潜望双眼鏡だ。ピントが恐ろしく繊細にできてる。あわせるのがたいへんなんだ」
緑色の迷彩塗装がはげてところどころ金色の地金がのぞいていた。おおきくて傷だらけの双眼鏡。さわらないよう注意しながら接眼レンズをのぞきこんだ。レンズのなかが異様に明るい。セブンイレブンの雑誌スタンドが見えた。『スポーツ・グラフィックナンバー』W杯サッカー日本代表。特集タイトルまで鮮やかに読める。
「物陰に隠れた狙撃手が一キロ先のターゲットを確認するためにつくられたものだよ」
背中越しの声は自慢げ。
テレビにむいたままの顔に姫の写真を突きだし、三週間まえの水曜夜の話を聞いた。和範は黙っていきなり立ちあがり、学習机の引き出しから半透明のプラスチックカバーがついたルーズリーフノートを取りだす。ぺらぺらめくる。なかをのぞくと0・3ミリの水性ボールペンの細かな文字がびっしり。
「あったよ。夜の十二時十五分ころ、その姫によく似た子がセブンイレブンのはずれでオデッセイに乗りこんでいる」
「ちょっと見せてくれ」
観測日誌を渡してくれた。目を通す。それはメタリックブラックのオデッセイだという。車高をぎりぎりまでさげたローダウン。スモークガラス。クロームの三本スポークのエアロホイール。右サイドに角型のマフラー二本出し。リアゲート左側テールランプのうえには3Dグラフィックのエアブラシで銀色の流星。ごていねいなことに流れ星のイラストまで添えられていた。あきれた。ページをめくると一晩も欠かさず克明な日誌がつけられている。おれは紙を一枚もらいメモをとった。
「ありがとう。助かるよ。だけどなんのためにこんなの毎日書いてるんだ」
和範は定位置の座椅子に戻っていた。
「わからない。毎日二十時間起きていてテレビをモニタしてるか、双眼鏡で街を観察してるんだ。意味なんてないし、すごくつらいけど、やめられないんだ」
しばらくなにもこたえられなかった。
「でも、これで姫が見つかるかもしれない。和範の仕事だって誰かの役に立ったんじゃないかな」
「……ありがとう」
蚊の鳴くような声。
「いいや、ドアを開けてくれて、こっちこそ本当に感謝してる」
和範だけでなくおれのドアもすこしは開いたのだろうか。部屋を出ていこうとすると和範は急に振りむいた。その日初めてまっすぐにおれの目を見ていう。
「今度、マコトのうちに遊びにいってもいいかな」
「待ってる。絶対こいよ」
和範は泣き笑いの表情を浮かべた。いい笑顔じゃないか。
◆
マンションの外に出るとすぐにタカシにPHS。池袋中のGボーイズに黒いオデッセイを追わせるようにいう。特徴は山のようにある。この街を走っているなら必ず網にかかるはずだ。つぎにサル。
「すぐにセブンイレブンにこられるか」
「ああ、なんで」
「黒いネズミが浮かんだ。ラストクォーターの始まりだ」
◆
駐車場でオデッセイの話をした。銀色の流れ星について説明するとサルがおかしな顔をした。和範のイラストの写しを見せる。
「この星印なら見たことある。デニーズで金を渡したとき姫のつけ爪に描いてあった」
「間違いないか」
「ああ、黒く塗った爪に銀の星ですごく目立ったから忘れない」
「よし。組のほうへはサルから連絡をいれといてくれ」
サルは黙ってうなずいた。おれは興奮していてサルの顔をよく見てなかった。鷲の組長へはおれが電話をいれたほうがよかったのだろうか? 今でもわからない。
◆
砂時計を見てるみたいな待機の時間。店番をしたり、CDショップをのぞいたりするいつもの生活に戻った。心はそこになかったけれど。サルとはたまに連絡をとるくらい。
おれのPHSがいきなり鳴ったのは、四日目の夕方だった。店から歩道に出る。
「もしもし、マコト?」
驚いた。和範の声だった。
「どうした」
「今、セブンイレブンのそばにあのオデッセイが停った」
「わかった。すぐいく」
◆
店のまえの通りでタクシーを停めながら、サルにPHSを入れた。電源が切られていますとの機械的アナウンス。諦めてまだ揺れてるタクシーのドアに滑りこむ。セブンイレブンまでは歩いても十二、三分。クルマなら三分とかからないはずだ。
流れ星がおれの手をすり抜けないように。主婦や学生でにぎわう夕方の住宅街が窓の外を飛びすぎる。頭のなかでは黒いワゴンが彫刻みたいにとまったまま動かなかった。
◆
タクシーのフロントガラスにオデッセイが見えた。腰をぐっと落とし道路にはりつくローダウン。ヘッドライトの上半分に黒いテープが貼られ眠たげなマスク。夕日を浴びてそのクルマは赤黒く輝いていた。車内には誰もいない。横に男がふたり。むきあってなにかを話しているようだ。空気が緊張している。顔が見えた。正面をむいてるのはサル。ずっとここで張り込んでいたのか? オデッセイの十五メートルほど手まえでタクシーを停め、ゆっくりと歩きながらふたりに近づいていった。サルの声が聞こえる。
「この女に見おぼえがないか聞いてるだけだ。どうなんだ」
サルは姫の写真を見せていた。ガキのうしろ姿がなぜか記憶に残ってる気がした。背はおれと同じくらい。緑のダウンベストにチェックのネルシャツ、白のコットンパンツ。ポケットに手を突っこんでいる。そばまで寄ると、サルの視線がおれを追ってガキからそれた。
「気をつけろ!」
叫ぶ。一瞬遅れてダガーを握ったガキの右手がサルに走った。
◆
サルはステップバックして刃先をかわした。コンバースの靴底が鳴く。ガキはおれに気をとられ、こちらを振りむいた。甘い二枚目づら。いつかアンパン中毒を刺したあいつ。サルはその瞬間を逃さなかった。ジョーダンみたいな鋭いカットイン。蹴りあげたコンバースの先にはガキの股間がある。股をおさえてしゃがみこんだガキの右手に背後からおれは飛びついた。こぶしを開かせダガーを取りあげる。
指を入れる四つの輪の中央に突きでた三角形の両刃のナイフ。重い。メリケンサックとしても使えるタイプ。サルはアスファルトにガキの頭を抑えこむと背にまわり両手に手錠をかけた。
「準備がいいな」
「ああ」
こたえるサルの息が荒い。
おれたちはガキのベストのポケットからオデッセイの鍵と財布を取りだした。ガキを引き立てて三人で乗りこむ。シートは白い革張りの豪華版。運転はおれ。二列目にサルとガキが並ぶ。そのうしろは広いカーゴルームだ。
思いだしてサイドウインドウのスイッチを押した。モーターのうなり。なめらかにおりるスモークガラス。親指を立てた右手をオデッセイの窓から高々と突きだす。
あの狙撃手用のスコープで和範もきっと見てるに違いない。
◆
オデッセイを転がした。静かなところがいいだろう。池袋三丁目の御岳神社のわき、緑の陰にオデッセイを停めた。ガキはひとこともしゃべらない。サルが免許証を読んだ。
「岡田春彦。昭和五十五年生まれ。十八か、おまえ」
岡田はふてくされた表情だった。
おれは財布を探った。家族用のゴールドカード。どこかのテニスクラブのポーチで両親と三人で撮った写真にビーグル犬を抱いた岡田の写真。普通の笑顔。幸せそうな金持ちのファミリー。サルが二枚目面に姫の写真を突きつける。おれは正面から岡田の目を見ながらいった。
「十一月十二日水曜日夜十二時十五分、おまえが天野真央をこのオデッセイで拾ったのはわかってる。おまえはあの女がその後どうなったか知ってるか」
表情は変わらない。わずかに目を細めた。
「そのまま天野真央は三週間以上連絡を絶っている。おまえが彼女をどこかでおろしたなら、その場所を教えてくれ」
岡田は笑った。サルのこぶしが頬骨にあたり乾いた音がする。
「無駄だ。やめとけ。それより、このクルマを徹底的に調べよう」
念のためおれはもっていたバンダナで岡田の足首を縛った。
「サル、おまえうしろのカーゴルームから始めてくれ」
そういうと運転席のまわりから調べ始めた。グローブボックス、ドアポケット、シートのした。前席の足元には長い髪が何本も落ちている。色や長さが違うたくさんの髪の毛。十分ほど探すとサルが後部で息をのむのが聞こえた。
「マコト、これ見てくれ」
リアゲートを跳ねあげオデッセイのうしろにまわる。サルはめくりあげたカーペットのうえでへたりこんでいた。手のひらになにかのせている。おれに突きだした。黒い細長い三角形の一番先には銀の流星。かすれた銀の尾は付け根のほうに長く伸び、尾の先は黒くこびりついた血に消えている。サルがゆっくりとつけ爪を裏返すと、血のにじんだ生爪がぱりぱりに乾いて貼りついていた。
死んだ爪の色。
◆
その夜、東池袋にある羽沢組のそばでオデッセイを停めて、おれはサルと別れた。組事務所に岡田を連れていくとサルはいっていた。すっきりとしなかったがしかたない。おれにできるのはそこまでだ。やつにとっては長い夜になるだろうが、岡田に同情する気にはなれなかった。
◆
つぎの夜、店を閉めてテレビを見ていると、おれのPHSが鳴った。
「マコトか? 今夜ちょっとつきあってもらいたいんだ」
「なんに?」
「姫を探しに」
店の横の階段をおりるとまえの車道にはなめらかに光るオデッセイ。ウインドウがさがる。サルが顔をのぞかせた。
「乗ってくれ」
目が血走っている。昨夜は眠っていないようだ。おれが助手席に乗りこむと黒いボディがネオンを撥ね散らしながらゆっくりと発進した。後席には縛りあげられた岡田。サルと同じように赤い目。
「どこにいくんだ」
「埼玉の山のなか」
「やつが吐いたのか」
「どんな手を使ったのかは聞かないでくれ」
おれは黙った。カーゴルームには青いビニールシートとシャベルがある。おれはなんに使うのかも聞かなかった。
◆
オデッセイは川越街道をどこまでもクルマの流れに乗って走った。岡田は後席で眠っているようだ。ちいさないびきが聞こえる。所沢に通じる街道を左折する。そのまま所沢基地までくるとフェンスの横にサルはオデッセイを停めた。岡田をこづいて起こす。
「着いたぞ」
面倒そうに岡田はいった。
「ああ……ここをまっすぐいくと小高い丘に入っていく道が右側にある。のぼるとうえはちょっとした森になってる。そこだ」
やつの声はかすれていたが落ち着いたもの。サルはオデッセイを出した。丘に続く道をのぼっていくと、建売住宅の明かりが規則正しく並ぶ斜面がむかい側に見えた。
◆
オデッセイをおりて三人で森のなかに入った。枯れ葉にくるぶしまで沈む。懐中電灯に照らされた森の小道をそれて二百メートル。下枝を透かして街の明かりが遠い。
最初にそれを見つけたとき、枯れ葉のうえに古着でも捨ててあるように見えた。ばらばらに散った女物の服。その真ん中に枯れ葉や土と同じ色になった姫が横たわっていた。全裸。目や口の穴は夜をはめこんだように暗い。排泄物の臭い。
「ここにいてくれ」
サルはそういうと姫に近づいていった。死体の横にしゃがみこむ。乱れた髪に手を置いた。
ゆっくりと優しく、ゆっくりと優しく、なでる。
あの手つきをおれは死ぬまで忘れないだろう。
サルは姫の顔のそばでなにかを拾ったようだ。おれたちのほうへ戻ってくる。奇妙に安らいだ顔をしていた。涙ぐんでいたのかもしれない。そうではなかったのかもしれない。おれにはわからない。
「これ」
おれに手のひらを出した。マグライトで照らす。姫の灰色のカラーコンタクト。周辺についてる虹彩の模様が闇のなかきらりと光った。灰色の光りがいつまでも目に残る。
夜空を駆ける流星がひく長い尾のように。
◆
オデッセイに戻った。サルは黙ったままリアゲートを開けて青いビニールシートを取りだす。おれはいった。
「なにをするつもりだ」
「姫が寒がってる」
「よせ、いじるな。ここからは警察にまかせろ」
サルは怒った目をする。
「いやだ。マッポにまかせて、テレビや新聞のやつらに姫をもう一度殺させるのか? もう十分じゃないか。おれはそんなことは絶対にさせない。おまえでもとめさせないぞ、マコト」
サルは本気だった。おれにはとめる力も理由もないように思えた。
「好きにしろよ」
「悪いな」
サルの背は森に消えた。
◆
岡田をオデッセイの後席に乗せた。チャイルドロックをかけてドアを閉める。おとなしいものだった。疲れきっているのか、それとも猫をかぶっているのか。
おれはクルマの外で羽沢組若頭・氷高にPHS。すぐにやつが出る。どこかの飲み屋のようだ。きゃーきゃーと騒ぐ女の声。
「姫を見つけた。手遅れだった」
一瞬の間があく。うるせー静かにしろ。電話のむこうで氷高が叫ぶ。
「で、相手は見つかったのか」
「ああ、今サルとおれで押さえている。聞いてないのか」
「ああ聞いてない」
驚いた。サルはすべてをひとりで抱えこんでいるのか
「おれは昨日組事務所で話をつけたと思ってた。サルとやつをどうすればいい?」
「どうもこうもない。あんたからサルに伝えてくれ。好きなようにやれと」
そのひとことで腹が煮えくり返った。
「ふざけるな。そんなことをいえばサルがつっ走るのはわかってるだろ。それにあんたのところのおやじがサルひとりにまかせて満足するはずがない。ひとり娘なんだろ。報告もいれずに好きなようにやったら、サルはいったいどうなるんだ」
「わかってる。おれがかばってやっても指が落ちるだろうな。だが素人のあんたにはわからんだろうが、今うちのおやじはマッポににらまれてんだ。この件がばれたら死ぬまで塀のなかだ。姫の|仇《かたき》を討つためでもあぶない橋は渡らせられん」
「サルは知ってるのか」
「うすうすはかんづいているだろう。やつだって組の飯を五年も食ってる」
「そうか……」
足元に広がる所沢の街明かり。十二月の澄んだ空気に硬い光りが揺るぎもしない。
「あんたには本当に世話になった。そのうち一席設けさせてくれ。よくやってくれ……」
氷高の声を途中で叩き切った。
そのときほどおれはヤクザが嫌いになったことはない。
◆
しばらくするとサルが戻ってきた。声をかける。
「お疲れ。今、おまえんとこの若頭に電話をいれた」
サルの顔色が変わる。
「なにもいうな、マコト。いつもわかったようなつらすんじゃねえ」
サルはわめいた。目は悲しそうなだけで怒ってはいない。姫と同じ野生動物の目。叫んだあとでいう。
「こんなことにつきあわせてるのに、すまない」
サルは涙声だった。誰に謝る理由がある? おれは黙ってうなずいた。オデッセイに乗りこむ。ゆっくりときた道をくだった。エアコンのきいた暖かな車内には決して消すことのできない臭いが、いつまでも漂っていた。どんな臭いか誰にもいうことはできない。
それは死の臭いだったから。
◆
オデッセイは川越街道に戻った。さらに埼玉の西にむかう。サルに聞いた。
「どこにいくんだ?」
「うちの組でやってる産廃処理場」
眠った振りをしていた岡田が、目を開けて後席から口をはさむ。
「待ってくれ、マコトさん。そいつはおれを殺す気だ。おれはまだ十八歳だ。ちゃんと警察に連れていってくれよ」
サルがこたえる。
「そうすれば少年院から三、四年で帰ってこれるか」
「そうだよ、おれにだって家族はいる。友達もいる」
岡田は必死におれのほうを見ていう。
「とんでもないツッコミ友達か? マコト、こいつのグループは女をさらってはまわして山に捨てていた。生きていようが死んでいようがおかまいなしで。気がむけばナイフで刺してな。あの美祐もこいつらにやられたそうだ。免許証を見せて確かめてきた」
岡田はつばを飛ばしながらいった。早口。とまらない目の動き。
「遊びだったんだ。死ぬなんて思わなかった。死んだのは事故だよ。あの女は最後の最後で組の話をわめき始めた。おまえたちみんなに追い込みをかけてやる。学校も家族も容赦しないって。しょーがないだろ。こんなところで死にたくないよ。おれにもチャンスをくれよ」
端正な顔が歪んでいた。口の端に泡がたまっている。無理もないが。
「どんなチャンスだ?」
おれはいった。岡田の目が光る。
「一対一の勝負だ。そのチビとおれでやらせてくれ。おれが負ければなにをされても文句はいわない。その代わり勝ったら警察に連れていってくれ」
おれは首を振った。横目でサルを見る。サルはまえを走るクルマのテールランプから目をそらさずにぽつりといった。
「いいよ」
「ほんとか? マコトさん、今の話聞きましたよね」
「ああ。サル、ほんとにいいのか」
サルは正面をむいたままうなずくと小声でいった。
「逃げていい」
「どういうことだ。おまえに勝ったら警察じゃなく、自由に逃げてもいいのか」
うなずくサル。石を削ったような横顔。負けるときは死ぬとき、黙ってそういってる。岡田は上半身を縛りあげられたまま、荒い息をして目だけぎらぎらさせている。ふたりともいかれていた。
「わかったよ、立会人はおれがやる。最後に立っているやつが勝ち。勝ったほうが今の条件で好きにやる。それでいいな?」
サルも岡田も赤い目をしてうなずく。恐ろしくエキサイトしやすいガキふたり。こいつらを相手にいったいおれはなにをやろうとしてるんだろう。わからなかった。だがどうなるにしても、それはもう始まっていた。引き返すこともとめることも、なにもなかった振りをすることもできない。姫はもうむこうにいってしまっている。
それに、おれたち三人も、お化けワゴンに乗っちまっていたから。
◆
ゲートの鍵はサルがもっていた。
山のなかの産廃。
真夜中の二時をまわって誰もいない。オデッセイはゆっくりと砂利を踏んですすんだ。周囲は波形の鉄板で目隠しされている。壊れた機械の内臓の山。恐竜の骸骨みたいなクレーンが夜空に溶けてる。薄汚れたプレハブ小屋が二軒。敷地のはずれには黒い油と重金属の池。オデッセイのヘッドライトがなめるとだるそうに七色に光った。
中央の空き地に一本のポールが立っていた。先端にはまぶしくて見つめていられない強力な明かりが一灯。真夜中の太陽。
おれたちは無言でオデッセイをおりた。
サルと岡田は五メートルほど離れて立った。ふたりの影が放射状に伸びる。
岡田のロープをほどき手錠をはずしてやる。笑っていた。自信があるようだ。
おれは足元の小石を拾った。
「得物はなし。あとは自由。この石が地面に落ちたら始まりだ」
おれは小石を空高く投げた。夜空に見えなくなった石がしばらくしてどこかでこつんと地味な音を立てた。
サルは友人に挨拶でもするように普通に歩く速さで岡田に近づいていく。岡田はしゃがみこんで右手に石を握った。
「武器はなしだろ」
おれがいうと同時にサルが叫ぶ。
「いいんだ、好きにさせろ」
サルは両ひじのあいだに頭を入れたカニみたいな体勢。岡田はサルより頭ひとつ分背が高かった。二枚目づらでまだ笑っている。心底こういうことが好きみたいだ。
手の届く距離になった。岡田の石のこぶしがサルの脇腹に入る。息を吐く音。サルの足がとまる。岡田のパンチが続いた。左右の脇腹、肩口、ガードする両腕。サルは頭だけはしっかりと守っている。両手のあいだからサルの目がじっと岡田を見すえていた。腕や腹はもうあざだらけに違いない。ネズミとりの話を思いだした。だが今のサルはあのころのサルとは違う。
叩かれても叩かれてもサルはさがらなかった。
◆
パンチのすきをついてサルは岡田のふところにはいった。岡田はサルの背中をでたらめに打ちだす。後頭部だけはしっかりとガードするサル。身体を密着させ岡田のベルトをつかむ。腰を落とす。
そのまま飛びあがるような格好で、岡田のあごにサルは頭をぶちあげた。岡田の腰が砕ける。一発目。
サルはさらに腰を落とし、あごを守る岡田の左の手のひらを頭でぶち抜く。二発目。
岡田は石をもった右手をあげてあごを守った。かまわずにサルはぶちあげる。平らな石が手のなかで砕け散る。三発目。
サルは焦らなかった。地面に杭を打ちこむハンマーみたいに、どすんどすんと突きあげる。
骨と骨を打つ鈍い音が真夜中の産廃に響いた。
◆
鼻血を流して地面に伸びる岡田にサルがまた手錠をかけた。サルの息が荒い。
「悪いな。ここから、先は、マコトに、見られたく、ない。帰って、もらえないか」
両手をひざにあて中腰になったサルがおれを見あげていう。
「国道に、戻って、五キロも、歩けば、JRの、駅がある。おまえは、なにも見て、ないし、こいつとも、おれとも、会ってない。今夜のこと、は、忘れてくれ」
おれは黙ってうなずいた。砂利を踏んで帰る。
おれが歩く先に影が伸びた。この影はもうおれから離れないだろうなと思った。
◆
夜明けまえの田舎道をそれから二時間歩いた。
頭のなかには機械油と重金属の湖の底を走る黒いオデッセイ。運転席には二枚目の岡田、助手席には明るい灰色の瞳の姫。お似合いのふたりだった。岡田があんなやつでさえなければいいカップルになったろう。残念ながらサルと姫よりはしっくりきた。
姫がおれに手を振る。岡田は冷たく笑う。銀の流星がオデッセイのリアゲートを抜けだして、田舎道の夜空を駆ける。
JRの駅に着くとしばらくベンチで夜明けと始発を待った。駅の名前はいいたくない。
制服のスカートのしたに赤いジャージをはいた女子高生といっしょに揺られ、おれは朝の池袋に帰ってきた。マイ・ホーム・タウン。
◆
その冬初めての本格的な寒波がきたのは数日後。池袋のビルとビルのすきまの空気もシャーベットみたいにかちかちに冷えこんだ。ナイフで削って白鳥がつくれそう。だが女たちは気合いをいれて、なま足にミニスカートで通してる。立派。感謝。
その後、姫の死体は誰にも見つからなかった。公式には行方不明のまま。鷲の組長は葬式さえあげてやれなかったと泣いたという。
岡田の取り巻き三人は婦女暴行傷害であげられた。私立のお坊ちゃん高校の三年生。羽沢組が美祐に圧力をかけ警察に届けさせたそうだ。主犯の岡田春彦は黒いオデッセイとともに現在も逃走中、公式にはね。未成年の傷害犯を警察がそう熱心に追うとは思えない。マスコミが騒いだのは一週間くらいだった。
それからサルと池袋の裏通りでなんどかすれちがうことがあった。挨拶。サルはおれを兄弟と呼び、なくした小指の先を冗談にする。落とし物届けを交番へ。やつの背中の観音様には色がついたそうだ。おれは瞳の色が灰色なのかどうか聞かなかった。
タカシはあいかわらず池袋のGボーイズの王様だ。おれに会うと組織を動かす苦労話をする。姫の話をしようとするとやつはおれをとめる。知らなくていいことは聞かないようにする。それがタカシのモットーだそうだ。
そうそう、和範は自分の部屋から外に出られるようになった。おおきな一歩。
おれが用事から帰ってくると店のまえにやつが立ってる。首までボタンをとめた黒のロングコートに黒のパンツ。黒のニットキャップに指先を切り落とした黒革の手袋。怪人二十面相かこいつ。うちのおふくろが寒いからおれの部屋で待つようにいったが、和範はなかにはいらなかったという。池袋西一番街の真冬の路上で三時間。他にそんなやつはテレクラやヘルスの看板もちくらいしかいない。
和範はおれの顔を見るとにっこりとおおきく笑い、挨拶だけして胸をはり帰っていく。
もう独房ではなくなった部屋に戻り、狙撃手用のスコープでこのおかしな世界を観測するために。
がんばれよ、この街の平和はおまえの肩にかかってる、おれは和範の背中にいう。
やつはこちらに背をむけたまま右手を高くあげる。しっかりと握りしめたこぶし。
まっすぐに立った親指は、青ガラスみたいに硬い池袋の冬の空をさしていた。
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オアシスの恋人
ある朝、目をさますと街の様子がまるで変わってることがある。
額に血管が青く浮きあがり、冴えた白目の底で瞳だけピキピキと殺気だってる。どの通りも鐘をぶっ叩いたあとみたいな金属質の緊張感。路地の隅々まで焦げくさい空気が流れてる。街をうろつくGボーイズやヤクザたちはみんな、一本筋が通ったように身体の線を硬くしている。飛びかう視線。薄暗い戸口の囁き声。
もちろん、普通のサラリーマンや警官は気がついちゃいないだろう。だが誰かさんと同じように街だってテンパるときがある。すくなくとも年に何回かはね。
その朝池袋の街は、水に溶かすと糸を引くようなドロドロのスピードでも決めたみたいだった。一週間絶食した男が小躍りしながらマラソンを完走する抜群のシャブ。誰でも三時間だけインスタントスーパーマンになれる夢の静脈注射。
氷水みたいな二月の北風のなか、その朝街は舞いあがっていた。つぎに着地するのは獲物をしとめるときだろう。でも、おれは関係ないと思っていた。そのころの毎日ときたら、店先のりんごの皮がしなびる音が聞こえるくらい静かなものだったし、すくなくともかわいそうな誰かはおれじゃない。
そのときは不運な獲物が、おれんちにやってくるなんて想像もしていなかった。
◆
その朝、おれは十一時すぎにいつものように店を開けた。池袋駅の目のまえ、西一番街。まわりは飲み屋に風俗にゲーセン。うちのちいさな果物屋はハイエナみたいに、池袋の街の下っ腹にはりついてる。何軒かクラブに品物を納めているが、なかには皿にのったメロンが薄緑の宝石みたいな値段になる店もある。
ボッタクリ。もっともヤクザのオーナーは、五割増しの請求書を気前よく通してくれる。悪口はいえない。ボッたり、ボラれたり。それがストリートライフってやつ。
おれはさっさと店を出し、おふくろに声をかけ家を出た。なにかいってるが気にしない。店のまえに停めたダットサンのパネルトラックに乗りこんで、池袋駅西口のロータリーをひとまわり。西口公園──ウエストゲートパークわきのゆるやかに曲がった小道にはいった。石畳。着飾ったやつらがすまして歩いてる。通りにはあいかわらずキャッチが多かった。ガラス越しでもなんてくどいてるのかわかる。
「英語が話せたらいいと思わない?」
「きれいな肌してるね。でもあなたなら、もっときれいになれるのに……」
耳より情報のオンパレード。おれたちはそろそろ自分が得をしない話に耳をかたむけたほうがいいのかもしれない。
◆
クルマに乗ったまま、シュンを待った。水野俊司はおれのダチで、絵がものすごくうまい。夏のストラングラーの似顔絵を描いたといえば、池袋のボーイズ&ガールズならみんな納得するだろう。
おれがぼんやりと冬のウエストゲートパークをながめていると、いきなりうしろのドアが開いて、黒い影がバックシートに滑りこんできた。首筋に銃のようなものを突きつける。耳のうしろでかん高い声。
「おまえはもう死んでいる」
シュンだった。ガキ。目だし帽のうえからかけた黒のセルフレーム。ちいさな手のエアガンは大砲みたいな銀のデザートイーグル。
「マコト、驚いた?」
「つぎはゼッタイぶっ飛ばす。おまえひとりか、友達は?」
シュンはサイドウインドウに四五口径の銃口を振った。目をむけるとダットサンの横に若い男がにこにこしながら立っている。巻き毛、色白、頬が赤い。テレビの時代劇で若殿をやる子役あがりの俳優みたい。キャメルのダッフルコートにジーンズ。オレンジ色のマフラーはおれが知らないしゃれた巻き方をしている。シュンは手まわしで窓ガラスをさげるといった。
「紹介するよ、バイト先の友達でぼくのコンピュータの師匠の砂岡賢治。で、こっちが真島誠」
おれがうなずくとケンジがいった。天晴れな笑顔。
「お噂はかねがね聞いてます」
「どんな噂?」
「シュンの知ってる人間のなかで一番頭の回転が速いって」
シュンが口をはさむ。
「そう、ぼくが知ってる高卒のなかでは」
笑った。北風がケヤキの梢を削って、笛みたいな音を立てる。
「乗ってくれ」
おれはダットサンを出した。池袋発、電脳ショッピングツアーの始まりだ。
◆
ウィークデイの午後、不忍通りはすんなりと流れていた。ルームミラーでケンジの視線を捕らえていった。
「おれ、秋葉原もコンピュータも詳しくない。近くまでいったら道、教えてくれ」
ケンジはにこにこしたままうなずいている。人はよさそうだが一本足りないような笑顔。おれのとなりに座るシュンは肩をすくめる。
「おまえ、このまえ電話で配送サービスもないっていってたけど、どんな店なんだ? 大丈夫なのか、それで」
果物屋のうちだって配達くらいはする。
「まあ、いってみればわかるよ」
シュンはにやにやしている。まあいい、運転に集中した。ケンジの案内で湯島で蔵前橋通りに左折、末広町交差点の手まえで裏通りにダットサンをいれた。角のドトールのむかいにクルマを停める。電信柱のプレートは外神田三丁目と読めた。おれたちはダットサンをおりた。
秋葉原の裏通りはさえない格好のガキがびっしり。池袋の地下街も真っ青の人出だ。なぜかみんなおおきなショルダーバッグをさげてる。通りの両側にはうちの店くらいの間口しかない、ちいさなコンピュータショップが続く。アスファルトのうえに無造作に段ボールが積みあげられ、新しい箱を積んだ台車がつぎつぎと人ごみを分けて走ってくる。どこかのスピーカーから流れるアニメのテーマ曲。捨てられたチラシと甘ったるい声優の歌声が北風に転々。見ているうちに値札が書きかわり一度に三万値引きされ、ロリコンソフトの専門店に続く狭い階段は休みなしにガキどもを吸いこんでいった。
「すごいな」
おれがつぶやくと、ケンジがうれしそうにいった。
「世界一の電脳ジャングルにようこそ。中央通りに並んだでかい店にいくやつなんてイモだよ。テレビや冷蔵庫を買うんじゃないんだからさ。さあこっち」
おれはおのぼりさんみたいにあたりを見まわしながら、ケンジのあとを追った。五十メートルも歩くと裏通りのちいさな交差点の角に青いビニールシートが見えた。そのうえにはむきだしのコンピュータが山積み。日曜の公園のフリーマーケットみたい。人だかり。
「ここが目的地。コンピュータ専門のジャンクショップ。でもね、動作確認もしてあるし、六カ月保証付きだから本当はジャンクじゃないんだけどね」
シュンとケンジは道端に座りこんで、店の長髪の兄ちゃんとなにか話してる。おれはすこし離れて電信柱にもたれて見ていた。
東京は広い。おれの知らない聖地がまだたくさんあるみたいだ。
◆
シュンの商談には二十分ばかりかかった。退屈したのでおれもジャンクをのぞいてみた。でかいのはじゃまくさいので、ちいさなやつ。弁当箱を二つ並べたくらいの濃いグレイの箱が目にとまった。ふたの手まえに虹の六色のりんごマークがついてる。どう開けていいのかわからないでいると、ケンジがふたを開けてくれた。
「お客さん、目が高いね。ところでマコトさんは、コンピュータなんに使うの」
わからない、まったくの初心者とおれ。
「じゃあ、とりあえずこれ買っとけば。このマック、パワーPCになるまえの最高速のラップトップだから、拡張性もあるし普通に使うには十分だよ」
「そんなもんかな」
「うん。あのね、みんな最新機種のベンチマークテストばっかり見て騒いでるけど、ワープロや表計算、それに年賀状のデザインくらいなら、どのコンピュータも文句なしなんだ。そんな作業に今のハイエンドを使うなんて、あぜ道をポルシェで走るようなもんだよ。そのために五十万も六十万も出すのはバカだけだ」
おれはケンジのいってることが半分くらいしかわからなかった。だがわかったことがひとつある。りんごのコンピュータのふたの端には、スーパーの商品に貼られているような安っぽい紙のシールがついていて、それは二万八千円と読めた。鉛筆の手書き。確かに安い。
おれがそのコンピュータを買おうとしたらケンジがきて値引き交渉をしてくれた。というわけで、おれが使ってるマッキントッシュはたったの二万五千五百円。|耕耘機《こううんき》並みの速さで打つ薄っぺらな文章には確かにぴったりの値段だった。
◆
ちなみにシュンは十七インチのモニタとタワー型のIBM互換機にキーボードでしめて五万八千円。バイト先の会社から古くなったスキャナーとペン入力用のパッドはただでもらったそうで、ちょっとしたデザインワークやソフト作りならそれで十分だという(なっ、おれもけっこう勉強したろ。ほとんどはカシーフのおかげだけどな)。
世界最速とか最軽量とかそんな数字になんの意味がある? ただの道具じゃないか、そんなもん。まあこうして使ってみるまでは、おれだってコンピュータを魔法の箱だと思ってたけどね。
◆
千川のシュンの部屋までむきだしのコンピュータを配送して、夕方池袋に戻った。真冬の空は暮れ足がはやく、東武デパートのうえの寒そうな青はすぐオレンジになった。店の奥の液晶テレビではのんびり長野オリンピック。歩道から女の声。
「マコトちゃん」
目をあげると千秋が立っていた。紺のダウンのロングコート、白いモヘアのミニドレス、黒革のブーツはぴかぴか。蛍光色のピンクやグリーンはどこにも見あたらない。ヘルス嬢のわりにはシックなスタイル。
「ヘイ、いらっしゃい」
おれは店先に出ていった。眉にかかるシャギーの茶髪のすきまから、千秋はすがるような目でおれを見あげる。凍りついた笑顔のまま早口で囁いた。
「お願い、助けて欲しいの。人の命がかかってる。明日、昼すぎならいつでもいいからお店にきて。『オアシス』って店、知ってるよね? 私を指名してちょうだい、絶対」
あっけにとられていると、イチゴをツーパックとかぶせるようにおおきな声で注文する。イチゴいりの白いポリ袋を渡すと千秋はおれの手に金を押しこんだ。
「明日のお店の分」
そっぽをむいていうと、そのまま歩いていく。おれの手には折りじわのないピン札が三枚残った。
「毎度あり、確かに」
おれは千秋の背中にそういうのが精一杯だった。謎の(元)同級生。
◆
つぎの日、二時すぎに家を出た。西一番街のアーチをくぐり、エビス通りを池袋二丁目へ。パチンコ屋の角を曲がり、風俗と飲み屋と放置自転車がびっしり並んだ細い通りにはいる。どの店のまえにもハッピを着た呼びこみ。曇り空。気温二度。
「お兄さん、いい娘いるよ」
「悪いね、予約いれてる」
手袋をしたままもみ手をするのは、寒くてしかたないからみたいだ。
おれはまっすぐ通りの奥にすすんだ。三差路の正面にグレイタイルの真新しい六階建てのビルが見える。窓と窓のあいだの壁面にはバカでかい看板が横長に六つ。どれも原色のネオンで昼間からチカチカしてる。そこはフロアがすべて風俗で埋まった池袋でも有名なヘルスビルだった。
エレベーターわきの看板で千秋の店を確かめた。「オアシス」は五階。キャッチコピーは「ココロとカラダのリラックス──オアシス」だそうだ。砂丘からヤシの木が二本突きでた、へたくそな影絵のマークの斜めうえには、ピンクのハートが飛んでる。なかには赤い文字で「全娘AFオーケー」。
うしろの路地をベビーカーを押した主婦がふたり通りすぎていった。
AFはアナルファックのこと。ため息をつきながら、エレベーターの△[#底本では上向きの白抜き矢印]を押した。
薄暗いホールで矢印だけ鈍い光りを放ってる。エレベーターは腹を壊したラクダみたいに遅い。
おれはリラックスからほど遠い気分だった。
◆
エレベーターのドアが開くと三メートルほどの廊下がまっすぐに続いていた。つきあたりにはおおきな幸福の木の鉢植え。グレイのカーペット、薄暗い照明。歩いていくと右手に黒いスチールのドアが見えた。例の砂丘とヤシの木マークいりのネームプレートがさがってる。ドア枠の斜めうえからビデオカメラ。重なりあう灰色ガラスの瞳がおれを見おろしている。
「いらっしゃいませ。お客様、ご予約はお済みですか」
舌先で一度転がし角を丸めたような甘い男の声。どこかに隠れたスピーカー。
「今日が初めてなものだから」
「そうでございますか……」
ちょっと間があいた。おれはビデオカメラから目をそらして待った。
「どうぞ、おはいりください」
オートマチックの銃身が跳ねかえるような鋭い金属音がして、ドアの鍵がはずされた。電子式のオートロックだろうか。おれは楽園に続くドアを開いた。
オアシスの空気は、湯気の匂いがする。
◆
ちいさな窓からは、その店のシステムを説明する男の手の先しか見えなかった。一番人気のおすすめは七十分のAFコース二万五千円という。昨日買ったコンピュータを思いだす。資本主義の不思議。おれはそのコースでいいといった。
「女の子はどうします?」
男はおれにむかって大判のファイルを広げる。一ページに下着姿の女の子のポラロイド写真が四枚。千秋を探してぱらぱらとめくっていく。あった。薄紫のレースの下着をつけた千秋が片頬だけで笑ってる。ポラのしたには静夏※[#ハート黒、unicode2665]。
「この娘がいいな」
「静夏さんですね」
男は横のボードを確認していった。
「あと三十分ほどお待ちいただきますが、よろしいですか」
いいといった。千秋にもらったピン札をカウンターにのせる。
「指名料追加で二千円いただきます」
三枚の紙が引っこめられて、ちょっと短い紙がまた三枚戻ってくる。やっぱり資本主義は不思議だ。
◆
受付のとなりの部屋で、ビニールの黒いソファに座りそれから四十五分待った。ワイドテレビではアメリカ製のブルーフィルム。果てしなく続くアナルセックス。なかには両刀の男を中心に三人つながってる場面もある。埼京線の貨物列車を思いだした。ガッシャン、ガッシャン。待合室にはおれの他に先客がふたり。誰も目をあわせない。会話もない。ふたりのオヤジがどんなやつだったか話すのはフェアじゃないと思う。おれがどうしていたかって聞かれても困る。
その四十五分はおれの短い人生で何番目かに長い四十五分だった。
◆
帰ろうかなと思っていると受付と反対側のドアが開いた。
「お待たせしました」
白いバスローブ姿の千秋が顔をのぞかせた。前かがみになると意外と深い胸の谷間。千秋はおれと目をあわせない。
「ここで靴をお脱ぎください」
ティンバーランドのトレッキングシューズを苦労して脱いだ。千秋がげた箱にいれてくれる。黒や茶の革靴でげた箱にはほとんど空きがなかった。
「こちらへどうぞ」
蜂の巣みたいに両側にびっしりと扉が並んだ長い廊下を、千秋が先にたって歩いていく。ハーレムにまぎれこんだ気分。ゴムで束ねたポニーテールの先は揺れていたが、千秋のちいさな尻はほとんど揺れない。どこかのドアから洩れるうめき声や会話の切れ端。右側の奥から二番目のドアノブに千秋が手をかけた。振りかえる。その日初めて千秋はおれを見た。つながる視線。暗い廊下を背に、たくさんの色と光りが見えた気がする。だがわかったのは千秋がせっぱつまってるってことだけ。しばらく見ないうちに、頬や首の線がそいだように鋭くなってる。
「きてくれて、ありがとう。さあ、はいって」
◆
棺桶をふたつ並べたくらいの狭い部屋だった。そのうち棺桶ひとつ分のスペースがひざくらいの高さのマットになっている。おれは腰をおろすと、声をおさえていった。
「いったい、どんな用件なんだ」
「そう急がないで、マコトちゃん。服脱いでくんない」
「なんで」
「他のお客さんと違うことをしたら怪しまれるでしょ」
千秋は含み笑いをして、おれに背をむけた。ネルシャツとセーターとTシャツを一度に脱ぎ、ジーンズをおろした。
「なあ、パンツも脱ぐのか」
「うん、それでこのローブ着て」
背中越しにバスローブを渡される。裸でローブ。どうなってんだ。芸能人みたい。
「じゃ、お客さん、いきましょう」
千秋はドアを開けてさっさと出ていってしまう。開いたままのドア枠が残った。廊下の奥から千秋の声がする。
「お客さん、こちらですよー」
◆
四つ並んだシャワーブースのひとつに、ふたりではいった。しばらく千秋が湯温を調整している。となりから女の高笑い。
「じゃあ、流して。それとも洗ってあげようか」
首を振った。ローブを脱いでシャワーのしたに立った。千秋は横をむいている。おれは黙ったままぬるいシャワーに打たれていた。千秋が小声でいう。
「ごめんね、こんなとこ呼んで。ねえ、よかったら話のあとで遊んでいかない? マコトちゃんなら、うーんとサービスするよ」
また首を振った。シャワーヘッドの横に消毒用のうがい薬が見える。サービスしてもらうなら、イソジンがないところがいい。おれはゼイタクすぎるだろうか。
◆
小部屋に戻ると千秋の話はとまらなくなった。おれの耳のすぐ横でちょっとハスキーな囁き声。硬いマット。さらっとしたシーツのしたには厚いビニールの感触。
「去年の十二月の初めころだったかな。つぎの日があがりの日曜日の夜、最後にお客がついたの。すごく太っていてデパートのアドバルーンみたいな人だった。いつも通り、なめてかぶせてAFしたんだけど、途中からおかしくなるくらいよくなったの。最後の三十分くらいはいきっぱなし。ああ、なんか変なクスリでも使われたなと思ったんだけど、それでもどうでもいいくらいによかった。その男は『おれたちって相性がすごくいいんだよ』なんていってたけど。あたりまえだよね、だってアナルのなかにスピードぬられちゃったんだから」
千秋は笑った。枯れた花の笑顔。その男はヘビーEという通り名だという。覚醒剤の売人。何度か通ってくるうちに、千秋はヘビーEからスピードを買うようになった。常習。お得意様。
「急にやせてなにも食べなくなって、私の彼──カシーフっていうイランの人なんだけど──が気づいたの。それで、昨日の事件になっちゃって」
「昨日の事件てなんだ」
「知らないの、マコトちゃんて池袋の裏に詳しくて、トラブルシューターやってるって評判なのに」
「おれは別にプロじゃない。その事件を教えてくれ」
池袋の街中がテンパって殺気だっているのは気づいていた。理由を調べようとは思わなかったが。
「昨日のお昼に私がヘビーEからエスを買ったあとで、カシーフがヘビーEをつけて喫茶店にはいったの。で、たまたまついてなくてヘビーEはヤクザとクスリの取り引きがあったみたいで」
「それで」
「カシーフはスピードを燃やして逃げちゃった」
イラン人のボーイフレンドはジッポのオイルを黒いナイロンのショルダーバッグに缶ごとかけると火のついた紙マッチを投げたという。はやらない池袋の裏通りの喫茶店。客のいない午後。カシーフは逃げ、ヤクザは店に金を握らせ、警察沙汰になるのは抑えこんだそうだ。
「今ね、ヤクザとヘビーEの仲間がカシーフに追い込みをかけてるの。顔もばれちゃってるし。なんとかしてカシーフを助けてあげて。お願い」
千秋はおれに手をあわせた。だが、できることとできないことがある。
「警察にいって保護してもらったらどうだ」
「だめよ、彼は不法滞在だから、そんなことしたら強制送還されちゃう」
「でも命は助かるだろ」
「そうだけど、そしたらもう会えなくなっちゃうよ」
千秋はしおれた。張りのない太もものうえに置いた手を見おろす。おれと同じ十九歳。どこかの小部屋から間の抜けた男のあえぎ息が聞こえて、あたりはいっそう静かになった。
◆
千秋はぽつりぽつりと話す。
「カシーフに初めて会ったのは、トキワ通りの道路工事現場。お店にいく途中で毎日通るんだけど、いつも挨拶してきて三日に一度くらいはプレゼントをくれたの」
枕元を指さした。ちいさなテディベアのついた携帯にティッシュの箱やローションが雑然とおいてある。
「違うよ、壁のほう」
視線をあげると空を煮詰めてつくったような青い玉ねぎのイスラム寺院の絵はがきがピンでとめてあった。カシーフのプレゼントはプラスチックの造花に、イランの絵はがきや、ぼんたん飴など安いものばかりだったそうだ。
「イラン人なのにダボシャツとニッカボッカ姿で、紫のラメ入りの靴下なんかはいてておもしろい人だった。それで、デートすることになって。私が仕事の話をしたら、ショックを受けたみたいだけど、なんとか理解するようにがんばるっていってくれて」
「いいやつだったんだ」
「うん。私がつきあった人で、私から金を引っ張ろうとしなかったのは、カシーフが初めてだよ」
刺すような目で千秋はおれを見る。男性全体の罪のために謝ったほうがいいんだろうか。ビデオカメラより冷たい視線。
「で、今カシーフはどうしてるんだ」
「マコトちゃん、やってくれるの」
「まだ、わかんないよ。でも、ちょっと調べてみる」
「ありがとう、やっぱりマコトちゃんっていいやつだ」
千秋はそういうと、おれに抱きついた。ほっぺたにキスをして、耳の穴をちろりとなめる。身体の右半分だけ鳥肌が立った。
◆
カシーフは親戚筋にあたる男のアパートにかくまわれているという。じゃあ安全じゃないかというと千秋は首を振った。ヤクザが懸賞金をかけたのでイラン人の売人グループも動きだしているという。イラン人同士のネットワークは速い。すぐに目をつけられるだろう。
「じゃあ、千秋のところへ移ればいいじゃん」
千秋はあきれた顔をした。
「だめよ。ヘビーEは私がイラン人とつきあってたこと知ってるもん。マコトちゃんほんとに大丈夫なの。気のせいかもしれないけど、私今日ここにくる途中でなんか視線感じたよ。だから、こうしてお客のふりしてきてもらったんじゃない」
「そうか。電話で済んだ気もするけどな」
「わかってないな、マコトちゃん、終わってる」
千秋はハンガーにさげられた黒いワニ革のケリーバッグをとると、なにか取りだした。銀行のマークがついた四角い封筒。厚さはレンガくらい。おれに手渡す。確かめると帯封のついた束が三つ。帯のうえには誰かのハンコの朱肉の跡。
「なに、これ」
「部屋だって用意しなくちゃいけないし、足もいるかもしれないでしょ。カシーフはお給料ほとんどイランに送金しちゃってるから、お金ぜんぜんもってないの。あとはマコトちゃんへのお礼」
多すぎる。それはおれが生まれて初めて見た大金だった。あっけにとられていると千秋がいう。
「心配しないで。それくらいのお金、このお尻で二カ月でたまるんだよ」
腰骨の横を叩いて無邪気に笑った。おれは千秋の生産設備と販売ルートを考えた。やっぱり資本主義は不思議だ。
いや、不思議なのは千秋のアナルを買いにくる男たちなのかもしれない。
◆
「オアシス」を出たのは、終了時間の五分まえだった。待合室のドアを開け、おれを送りだすとき千秋はまたきてねと笑顔でいった。いれ替わりにつぎの客がはいっていく。売れっ子。
池袋二丁目の通りにもどると、乾いた北風が頬に心地よかった。ぶらぶらと丸井まで歩き、今度の事件を考えた。なにも浮かばない。パーカのポケットにはレンガみたいな札束。入口わきの黒い柱にもたれてPHSをかける。まず、Gボーイズの王様・安藤崇へ。取次が出てすぐに代わる。
「昨日の騒ぎ、なんか知らないか」
「噂はいろいろ流れてる」
あいかわらずクールな声。PHSから聞こえるクラクションの音。
「教えてくれ」
「事件じゃない事件が起こったのは、文化通りの喫茶店『ガラスの城』。年寄り夫婦ふたりがやってるちいさな店だ。デブの売人とヤクザの取り引き現場にイラン人が乗りこんだ。対立する売人グループとも、デブに廃人にされた女の復讐ともいわれてる。そしてエスに火をつけて逃げた。燃やされたエスは噂じゃ五百グラムとか一キロ。だが、いいとこ三百じゃないか。エスのスモークを食らった店のじいさんがテンパって、なにか叫びながら文化通りをストリーキングしたって話だ」
「そのデブの売人については」
「去年の終わりに渋谷のほうからきたやつらしい。なかなか腕利きで商売は順調に伸びていたようだ」
「わかった」
「マコト、おまえ一枚かんでるのか」
さすがに鋭い。まだ、わからないとおれ。礼をいってPHSを切った。つぎにサルにかける。サルは羽沢組の下っ端で名は斉藤富士男。秋の黒いオデッセイの一件以来、ときどき飲んだりする仲になった。そういえばサルとおれと千秋は同じ中学。
「はい、斉藤っす」
「マコトだ。なあサル、昨日の事件について知りたいんだが」
「おまえもじっとしてらんない性格だな」
「羽沢組はからんでるのか」
「いいや。うちは高みの見物だ。本家の通達でシャブはご禁制になってる。表むきはな。今度の騒動な、卸元は天道会だそうだ。東京じゃシャブの本場は渋谷、新宿、上野ってことになってる。やつら縄張は渋谷なんだが、マーケットを広げたくて、息のかかった売人を池袋に送りこんだっていってた」
「売人グループと天道会の関係は」
「そりゃ独立系に決まってる。まとめて卸すならともかく、大手はバイみたいなあぶないしのぎに手は出さない。組員が売人じゃマッポにつかまれたとき、あっというまに上までぶちこまれる。シャブは厳しいよ」
それならヘビーEの売人グループだけでも片づければ、なんとかなるかもしれない。
「サル、橋本千秋っておぼえてるか、中坊のときの」
「ああ。けっこうかわいかったろ。それに五千円」
そうだ。千秋が五千円でウリをやってるって噂が中学で流れてた。おれは本当かどうか知らない。話を変えた。
「その千秋の噂、最近なにか聞かないか」
「風俗やってるってのは聞いた気がする。詳しくは知らない。あいつ今度の一件と関係あるのか」
「それを調べてる」
「そうか。マコト、天道会には気をつけろよ。やつらメンツをつぶされてトサカにきてる。池袋じゃ新参だから派手には動けないが、懸賞五百万だそうだ。いい気味だけどな」
◆
その夜十一時すぎに、おれはダットサンを出した。南池袋、日出小学校裏のアパート。横についた鉄の階段をのぼる。住宅街にカウベルみたいに響く音。204号室のドアをノックして、のぞき穴に絵はがきを差しだした。青い玉ねぎのイスラム寺院。
すぐにドアが開いた。若い男が出てくる。両肩にドラゴンの背びれがうねる青いサテンのスタジャン。太ももがぶかぶかなのに足首だけ細くしまったストーンウォッシュのジーンズ。その男の顔はおふくろの部屋に貼ってある若いころのエルヴィス・プレスリーによく似ていた。浅黒いハンサム。すねてるような表情。違うのは鼻のしたのチョビヒゲ。荷物は黒いナイロンのダッフルバッグひとつだった。やつはおれに笑いかけると意外にほっそりした右手を出す。
「はじめまして、カシーフです。よろしくお願いします」
なめらかな日本語。まっすぐに伸びた背筋。追われていることなど、まるで感じさせないやつだった。
「挨拶はいいよ。きてくれ」
ダットサンにもどると、深いニットキャップとミラーグラスを渡した。
「私あんまりこういうの似合わないよ」
カシーフはルームミラーを見ながらていねいにキャップに縮れた髪を押しこんだ。ウルトラマンみたいなグラスをかける。まんざらでもなさそう。
「オーケー、いきましょう」
おれに笑いかけた。あきれた顔がふたつミラーグラスに映ってる。ヘンなイラン人。
◆
クルマのなかでカシーフはいう。
「私、日本人理解できないです。なぜ、あんな覚醒剤のプッシャーを野放しにしておくの。私の国ならあいつらみんな死刑です」
「そうかい」
気のない返事をして、うしろについてくるクルマがないか確かめた。どのクルマも怪しく見える。
「金儲けのために覚醒剤もってたらもちろん死刑。お休みの金曜日に首切られます」
「日本語うまいね」
「そうでもないです。やっぱり外の空気はいいね。ちょっと遠回りしていきませんか」
おれは首を振った。ドライブする気分じゃない。
◆
うちの店のまえにダットサンをつけた。ダッフルバッグをもち横手のドアを開ける。すぐに急な階段。あがると二階が狭い住まいになってる。おふくろの六畳、おれの四畳半、台所の四畳半、物置の三畳。
カシーフを連れて、玄関にはいった。顔を出したおふくろに、事情があってちょっとうちに泊まることになるといった。カシーフは笑顔で自己紹介する。
「カシーフ・ハリアット・サレー・ビン・アブドゥラ・アジーズ・アル・モバラクです。ご迷惑をおかけします。よろしくお願いいたします」
笑顔でていねいに頭をさげた。おふくろはひと目でカシーフが気にいったみたいだ。マコトにしちゃあ、めずらしくちゃんとしたお友達ね、といって自分の部屋に消える。おれはお友達なんて言葉をおふくろから聞いたのは初めてだった。
カシーフを窓のない三畳の物置に通した。布団だけは敷けるように片づけてある。
「キュークツで悪いな。しばらくここで我慢してくれ」
◆
つぎの朝五時半、ごそごそという物音で目がさめた。音は物置から。跳ねおきてふすまを開ける。細かな模様でびっしりと埋まった青いじゅうたんに座り、カシーフが壁にむかって何度も頭をさげている。ぶつぶつぶつ。お祈りをしているみたいだ。
なにもいわずにふすまを閉めて、自分の布団にもどった。しばらく眠れなかった。おれは自分の身のまわりで宗教を信じている人間を見たのは初めてだった。
アッサラーム・アライクム。
◆
その日の午前は市場を休み、カシーフのアラビア講座になった。やつはちょっと複雑な生まれだという。
「イランはペルシャ人の国。イラクとか湾岸諸国はアラブ人の国。日本でこれがわかってる人めったにいません。どちらもイスラムだけど、宗派が違う。言葉が違う」
毎朝明け方におきて、どこかの砂漠の街にむかって祈る生活なんてわかるわけない。しかもお祈りは日に五回。
「私は九○パーセントペルシャ人のイランでアラブ人として生まれました。イランではアラブ人といわれ、他の国にいくとペルシャ人といわれる」
おれにはその違いさえぴんとこなかった。
「どうして、日本にきたの」
「日本はとてもいい国です。お金いっぱい稼げます。イランではどうやって日本にいくかみんな考えてる。それに差別があまりない」
日本に差別がないわけない。部屋だって簡単には借りられないだろう。
「それはマコトさんが、サウジアラビアにいったことないから。私はあそこでカフェのアルバイトしてたことあります」
縦長の鼻の穴がふくらんだ。声がおおきくなる。
「日本なら誰だってのどが渇いたら店にはいって自分で飲みものを買って飲みます。でもあの人たちは、外に停めたメルセデスのなかでホーンを鳴らすだけ。わたしたちが出ていって注文を聞き、もっていかなくてはならない。表の気温は四十度越えてる。クルマのなかは冷房で気持ちいい。私が汗だくでもあの人たちへっちゃら。ジュースを渡すと礼儀知らずはちょっとだけ開けた窓からお金を道にまきます。貧乏人、外国人といってメルセデスは去っていく。私、何度もやけどしそうになりながら小銭ひろいました」
金持ちとそうでないやつ。どこの国も同じということか。
「同じ宗教を信じる兄弟の国からきた人を奴隷のように扱う。イラン人もトルコ人もパキスタン人も出稼ぎのみんな怒ってます」
物置の空気をかき混ぜるように腕を振る。カシーフはいいやつだけど、けっこう激しい。まあ、そうでなければ他人の大切な商売道具に火をつけたりはしないだろうが。
◆
昼まえに店番をしているとPHSが鳴った。千秋の寝ぼけた声。カシーフは無事にうちに移したという。
「で、これからどうするの」
わからないとおれ。最後まで計画を立てて動いたことなどこれまで一度もない。いつもいきあたりばったり。千秋は不安そうに電話を切ったが、おれが不安なのだからそれもしかたない。部屋にもどりCDラックに目を走らせた。頭を使うときおれにはクラシックのBGMが欠かせない。
リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』は『千一夜物語』をテーマにした組曲。おれはしたにおりると店先のCDラジカセに銀のディスクをかけてぼんやりと考えた。
なんだかにぎやかでオカズの多い曲。池袋西一番街の下世話な雰囲気にぴったり。ライナーを読むと『千一夜物語』は、女はみんな不貞だから初夜で一発やったら殺すと決めた王と、毎晩続ける話のおもしろさだけで命をつないでいくシェエラザードの物語だそうだ。悲惨な話。
結局王はシェエラザードの賢さに女全体を見直し、それまでの考えをあらためる。それは千秋も同じだろう。自分から金をむしろうとしないカシーフの誠実さに、男全体への考えを(すこしだけ)あらためる。
おれはなんとなく天井を見あげた。うちの物置にいるチョビヒゲをはやしたシェエラザードのことを考えた。
なんとかして、あのふたりが大手を振って池袋の表通りを歩けるようにしてやりたい。天道会やヘビーEみたいな売人がでかいつらをして、千秋やカシーフが逃げ隠れする。それがストリートの掟なら、そんなもん絶対にひっくり返してやる。おれのなかで、なにかがぐつぐつと沸きあがってきた。
どうすればいいか、まるでわからない。だが……
自分のなかにある熱を信じるしかないじゃないか。
◆
傷んだメロンの柔らかな皮を包丁ですっぱりと断ち落とす。まだ食える残りの形を整え皮をむいて八等分。割りばしを通して店先に並べると一本二百円。メロンリキュールみたいに甘くてこれがよく売れる。捨てるよりずっといい。おれは無心で作業を続けた。刃先が果肉を裂く快調なリズムにあわせて、おれのなかでひとつの考えが形をとり始める。
いけるかもしれない。
ダイジョウブなの? 千秋の声が聞こえる。わからないとおれ。
だけど、カシーフにできたことがおれにできないはずがない。
◆
夕方、シュンの携帯に電話をいれた。
「マコト? マックの調子どう」
「あまりさわってない。ところでシュンのまわりに盗聴とか盗撮とかに詳しいやついないか」
「いきなりなんで」
「ちょっとトラブルがあってね。はめてやらなきゃならないやつがいる」
「おもしろそうだね。ぼくの知りあいにはいないけど、ケンジの友達ですごい電波マニアがいるっていってたよ。連絡取ってみようか」
「ああ」
「で、いつ話をしたいの」
「できれば今夜」
無言。電話のむこうにシュンのあきれた顔が見える。おれはいった。
「話を聞いてもらうだけでも金は出す。今度はふところがリッチなんだ」
折り返し電話をいれるといって通話は切れた。滑りだしは悪くない。
◆
夜八時、家を出ようとするとおふくろがふくれつらをした。カシーフのことだというと逆にがんばってこいという。
「ついでにカシーフに教わった店でラムかチキン買ってきて」
イスラムの方法で精肉しているという肉屋の地図をもらった。池袋に二軒あるそうだ。物置に顔を出すとカシーフはうれしそうな顔をした。
「マコトさん、あのマック、マコトさんのですよね。よかったらちょっといじってもいいですか? データにはさわりません。退屈で退屈で」
いいよ、買ったばかりで使ってない、好きにしてくれといった。
裏の駐車場からダットサンを出した。先に買いものを済まそうとビックリガードを抜けて南池袋へ。明治通りに並んだ飲食店のなかに中東料理の専門店があった。店の横にはちいさなガラスケース。なかには赤い肉の塊がごろごろ。看板はミミズのエアロビクスみたいなアラビア文字。おれは四、五メートル手前でクルマを停めてあたりをうかがった。店のまえには誰もいない。雰囲気がつかめるまで数分待つ。
落ち着いてくると人が見えてくる。あたりを歩く何百人のなかで動いているやつととまっているやつ。片側二車線の通りをはさんだむかいのガードレールに肌の浅黒い男。ときどき鋭い視線を店に投げている。通りのこちら側、十五メートルほど離れた電話ボックスの陰に外国人がふたり。臭い。今は冒険する理由もなかった。食いものはなんとかなるだろう。おれは諦めてダットサンを夜の通りに滑りこませた。
◆
千川のシュンのワンルームマンション。狭い玄関をあがり奥に顔を出すと全員がそろっていた。シュンに若殿のケンジ、それから目のふちまでかかるマッシュルームカットの初対面のガキ。ビートルズの四人ならジョージ似。ケンジがいった。
「マコトさん、こいつが電波マニアの波多野秀樹。あだ名はラジオっていうんだ」
よろしくとおれ。ラジオはあごの先だけでうなずいた。ストライプのワークパンツのベルトに携帯ホルダーのようなものをさげている。使いこんだ飴色の革製。空いてる場所に腰をおろして聞いた。
「それ、なに? ピッチ?」
ラジオは黙ったままふたを開けるとなにか取りだした。出始めのころの携帯くらいのおおきさ、だが厚みは倍ほどありゴムのカバーがついた長いアンテナとノブが上面についてる。テンキーと液晶の窓はPHSと同じ。
「これハンディっていう携帯無線機なんだ。○・一から二千メガヘルツまで受信できるようになってる。警察無線はデジタル化されたから無理だけど、消防や救急、防災にタクシー、アナログのコードレスホンや盗聴波を聞くことができる。盗聴防止のスクランブルを解読する機能もついてメモリーは千二百チャンネルだよ」
ラジオは一息で楽しそうにいう。おれにはカシーフのお祈りと同じだった。ぶつぶつぶつ。うなずいてから、千秋とカシーフの話をした。天道会とヘビーEをこの街から排除するためにおれが考えた計画も。
話が進むうちにみんながまえのめりになってくるのがわかる。あきれたボーイズ。
◆
話のあとで缶コーヒーを飲みながらシュンがいった。
「だけど、相手はヤクザがらみなんだろ。あぶなくないか」
おれがこたえる。
「あぶないよ」
「だけど……」
ケンジがにこにこしながらいう。それともそれが普通の表情なのか。
「覚醒剤の販売はせいぜい懲役三、四年だよね、殺人ならプラス十年だよ。金儲けだけのために売人をやってるやつが、命までは取らないんじゃないかな」
黙っていたラジオが口を開いた。
「おれはおもしろいと思う。うまくすればやつらは誰にはめられたかも気づかないだろう。おれ、昔インチキ興信所でアルバイトしてたことあるんだ。盗聴や盗撮なら完璧にセッティングできるよ。それに今、国会で『組織的犯罪対策法』ってのが審議されてる。この法律は犯罪組織に対して盗聴を認める内容なんだ。あと何カ月かすれば、電波はみんな潜って手を出せなくなる。やるなら、今しかない」
おれは多数決を取った。草の根民主主義。四本の腕があがる。全会一致でGO。
やっぱりあきれたボーイズだった。
◆
つぎの日、ダットサンに四人乗りこんで秋葉原にいった。ラジオがつくった買いものリストは以下の通り。
・ハンディ 三台
・ピンホールカメラ 三台
・中古8ミリビデオ 二台
・ビデオ用トランスミッター 一台
・盗聴用送信機 三台
・自転車 二台
・中古ワゴン 一台
あとはラジオの手持ち機材でなんとかなるという。買いものは一日で済んだ。秋葉原の駅ビルの横にくっついた電気市場。焼け跡のバラックに毛のはえたような店で最新の電子機器がバカみたいな値段で売ってる。直径二ミリのピンホールCCDカメラはなんと二万ちょい。シリコンバレーもびっくり。
一番高い買いものはクルマの十二万だった。横に斉木工務店と入った白い三菱デリカワゴン。ダンパーがへたってひどい乗り心地。ケンジとシュンはBMX用の自転車を買ってご満悦。やっぱり買いものは楽しい。資本主義のはかない喜び。
少年探偵団のショッピングツアーは終わった。それでも千秋の札束をひとつ丸々は使いきれなかった。
◆
それから一週間、おれたちは尾行と盗聴と盗撮の練習を続けた。池袋の街を歩いている誰かを適当に選び交代で張る。そんなときハンディは便利だった。トーンスケルチという機能を使うとパーティラインのように四人で一斉に話せる。ターゲットをつぎつぎと受け渡しながら、ときには丸々半日続く尾行。別になにをするわけでもないのだが、相手を捕捉しているだけでぞくぞくするような奇妙なスリルがあった。誰のなかにもハンターの血は眠っている。
ケンジとシュンのBMXにはハンドルバッグがつけられ、ピンホールカメラと8ミリビデオが仕組まれた。おれの腰にはちいさなウエストバッグ。こちらはピンホールカメラとトランスミッター、それにバッテリーがはいってる。全部でビジネス手帳くらいのおおきさ。無線で飛ばした映像は、近くのワゴンのなかでラジオが録画する。おれのパーカのえり元には豆粒ほどのワイヤレスマイク。音はハンディでも聞けるし、MDもまわってる。
おれは全身にワイヤーがついた擬似餌になった気がした。羽の先までぴかぴかにうまそうな偽物フライ。それでおれのコードネームはフライ。シュンは絵描きだからペインター。ケンジは若殿でプリンス。ラジオはラジオのままだった。
◆
真夜中、外の空気を吸わせるためにカシーフとよくドライブした。二月の終わり。東京の寒さが一番厳しい季節。路上を歩く人影はまばらで、五つも六つも先の交差点の青信号までくっきりと澄んで見える。光りのリズム。
あるときカシーフはいった。
「私の名前カシーフはアラビア語で発見という意味ですね。マコトはどういう意味」
「辞書で調べたことがある。誠は真実とか、まごころとか、神に誓うって意味だって」
やつはいきなり芝居がかった大声を出した。
「アッラーフ・アクバル。それはいい名前です」
「今のどういう意味」
「神は偉大なり」
笑った。おれは神に誓ったことなど一度もない。カシーフの横顔に聞いてみる。
「オアシスって見たことある?」
「一度だけ」
「どんなとこ」
「イランではみんなあまり旅行はしません。私がいったのは大学に通ったUAEにあるハッタというオアシス。ビルがいっぱいのドバイからクルマで一時間。とがった岩山のあいだに一年中水がたまった泉があります。とても青い。とても透明」
「じゃあオアシスって水があるだけのところなんだ」
「そうです。それは素晴らしいこと。水は命です」
カシーフは低い声でなにか民族音楽のようなものを歌いだした。繰り返される人なつっこいメロディ。東京の街灯りが冷たい窓ガラスのそとを飛びすぎていく。
青い水と赤い血を考えた。
白い粉と干あがる命のことも。
シャブ中になるとかさかさに肌が乾いていくと誰かに聞いた。小便はオロナミンCみたいなどぎつい黄色に染まる。
オアシスに湧きでる青い水と下水をくだる黄色い水。
◆
休み明けの月曜日、おれは千秋に聞いたヘビーEの携帯の番号を押した。冬晴れの午後一時。西口ロータリーに停めたワゴンのなか。シュンとケンジとラジオはイヤホンをさして息をひそめている。MDデッキのパイロットランプは録音中の赤。三回呼びだし音が鳴って、太く低くよく響く声がこたえる。
「はい」
ヘビーEは声だけなら二枚目。
「ここに電話すれば手にはいらないものが手にはいると、知りあいに聞いた」
「その知りあいの名前は」
「『オアシス』の静夏」
やつはちょっと間をおいた。
「あんたの名は? ニックネームでもしただけでもいい」
「フライ」
「三分したらかけてくれ」
PHSは切れた。三分後にリダイアル。今度はすぐにヘビーEがでる。
「いいだろう。どのくらい欲しい? うちはテンハチでイチゴーだ」
テンハチは覚醒剤○・八グラム。イチゴーは一万五千円。千秋から学習済み。
「最初だからテンハチでいいよ」
「あんたは今どこにいる」
池袋駅西口とこたえた。
「じゃあ北口の右手にある電話ボックスのまえで待っててくれ。十分でいく」
PHSは切れた。急いでワゴンをおりようとしたシュンにラジオがいう。
「絶対に無理はするなよ。うまくいかなくてもつぎがある。相手に気づかれなければ、何度でもトライできるんだから」
シュンはうなずいた。おれもいっしょにワゴンをおりる。シュンはBMXで北口にむかって走りだした。ワゴンもおれを残して去っていく。
青空とひとりきり。
◆
デートクラブのチラシでいっぱいの電話ボックスを背にして待った。通りのむかい側、ガードレールにBMXをよりかからせ、横にシュンが座っている。ラジオが運転するワゴンはどこにも見あたらなかった。さすが。
ちょうど十分後、ビックカメラのほうから男が歩いてきた。ヘビーE。分数の割り算はできなくてもヘビーEを間違うやつなどいないだろう。背はおれよりちょっと低いくらいだがたぶん体重は二倍強。黒のペンシルストライプのスリーピース。シャネルのロゴ入りのサングラス。極めつけはアフロヘア。Pファンクの旅まわりみたい。
おれが驚いていると、やつはにやりと笑う。
「フライさんかい」
「そうだ」
「じゃあ、もらおうか」
サングラスのしたで歯をむきだした。おれは丸めて輪ゴムでとめた金を渡した。
「三分したら電話をくれ」
グローブみたいな手の親指と小指だけ伸ばし顔の横にあてると、くるりとターンして帰っていく。本日のショーはおしまい。あっけない。
◆
また三分後にリダイアルした。ヘビーEの声でPHSがぶるぶる震えそう。
「さっきはどうも。いいか、ウイロードを抜けて東口に出る。左手に自転車置き場があるから、そこを通りすぎて水天宮までいってくれ。それでわきにある木のベンチの右端に座り、座面の裏をさぐる」
説明しなれているようだった。
「そこにあるのか」
「そうだ。歩いて三、四分だ。あたりには誰もいないだろうが、さりげなくな」
「わかった」
ハンディを取りだし回収地点を告げた。OKの返事が三つ重なる。
◆
雨で黄色のペンキがところどころはげ落ちた古いベンチ。座面のしたをさぐると紙の手ざわり。テープをはがしてそいつを取るとちいさな真四角の黒い封筒だった。表には白いスタンプでブタのケツが押してある。ユーモア。
おれは東口のマクドナルドのまえでタクシーに乗りこみとなりの目白駅までいき、JRで再び池袋に戻った。家に帰る。シュンもケンジもラジオも、もう集合していた。
◆
ロードショーが始まった。粒子の粗いざらざらの白黒映像には、電話ボックスのまえでアホづらをしているおれ。ヘビーEが登場する。二言三言。金が移る。画面から切れたヘビーEを追ってシュンのカメラが揺れながら動きだす。ヘビーEは池袋大橋のほうへゆっくりと歩いていく。あたりを一周するとまた北口に戻ってきた。駅まえのパチンコ屋の二階にある喫茶店にあがっていく。もう出てこなかった。ビデオは全部で十五分ほど。
つぎにケンジの絵を見た。水天宮わきのベンチに近づいていくアディダスのトレーニングスーツの若い男。長身スリム。そっぽをむいたまま座面のしたに手をやり、すぐに立ちあがり去っていく。水天宮の斜めむかいにあるコンビニに入った。雑誌を立ち読みするふりをしながらベンチを見ている。おれが歩いてきてスピードを回収し、その場から離れると、やつはコンビニを出て西口に戻っていく。ビックカメラの先にあるでかい駐車場の横に建つ、取り壊し寸前のオンボロアパートに入った。映像はそこまで。こちらは二十分くらい。
そしておれの。まん丸のヘビーEが近づいてきて、やつの北半球だけのショットになる。あのときは気づかなかったが両手の指にはごついシルバーの指輪がごろごろ。やつはリラックスしているようだ。顔には始終笑いが浮かんでる。落ち着いてビデオで見ると、なかなか愛敬のあるやつだった。太っているので年がわかりにくいが、意外と若いんじゃないだろうか。
第一回目の撮影会はまず成功。
◆
薄い手袋をして、真四角の黒い封筒を開けた。手のひらに隠れるくらいのおおきさ。シュン、ケンジ、ラジオ、それにカシーフがのぞきこんでくる。なかにはちいさなセロファンが五袋。白い粉は古くなって粒子がつぶれた味の素みたい。郵便用の電子スケールで計ってみるとひとパケットが○・二グラム。おかしい、ちょうど一グラムはいってる。みんなに静かにするようにいってヘビーEに電話した。音の背景はカップのこすれる音、人の話し声。
「さっきのフライだけど」
「毎度」
「テンハチじゃなくてしっかりイチはいってた。いいのか」
「わざわざどうも。一パケはうちのおごりだ。銀行だって新しい口座を開けば石けんくらいくれるだろ。気にいったら、末永くひいきにしてくれ」
「わかった。サンキュ」
PHSを切った。やつが池袋でのしているのも無理はない。ビジネスマン。
◆
四日後に二度目の撮影会をした。ヘビーEとの待ちあわせは同じ電話ボックス。しかし今度スピードを取りにいったのは西口ラブホテル街の裏通り。改正通りをそれて一本目の小道に缶ジュースの自動販売機が十台も並んだ場所がある。ホテル街の谷間。昼でも薄暗い通りがそのあたりだけ明るくなっている。おれはいわれたとおりに左から二番目の自動販売機でコーラを買い、取りだし口の右端をさぐった。再び黒い封筒。
ケンジが撮ったビデオを見ると配達人はスキンヘッドにサングラスの男だった。背は低くがっちり型。やつもおれがスピードをポケットに入れたのを確認するとあのオンボロアパートに戻っていく。
だんだんと絵が見えてきた。
◆
つぎの一週間で三回目と四回目の撮影会を済ませた。どちらもあっけないほどうまくいく。やつらのバイのやり方はつぎの通り。
客からの注文を取り、現金を引きあげるのがヘビーEの仕事。北口のパチンコ屋の二階にある喫茶店をオフィス代わりに使い、やつは客から注文があるたびにおりていく。近所をひとまわりしてから約束の電話ボックスへ。やつは金を受け取るとすぐにアディダスかボーズに電話を入れ、受け渡し場所までスピードを運ばせる。配達場所は三カ所。水天宮のベンチ、ラブホテル街の自動販売機、無人の二十四時間駐車場のメーター裏。
ふたりは客と直接には顔をあわせない。客が回収するまで物陰でチェックしてるのはトラブル防止のためだろう。駐車場わきのオンボロアパートはやつらのネタ部屋ということになる。覚醒剤の隠し場所。この部屋は夜になると誰もいない。確認済み。
やつらは尾行にあまり注意を払わない。なぜだろうとラジオに聞いたことがある。しばらく黙ってからラジオはいった。
「それは警察が尾行や盗撮みたいな手を売人にあまり使わないからじゃないかな。おれたちも警察やヤクザみたいに見えないしね。手口が巧いから自信もあるんだろうな。だってヘビーEはエスをもってないから、職質をかけられてもいくらでもいいわけできる。配達のふたりも危険なのは、エスをもって受け渡し場所にいくあいだの数分間だけだろ。分業制でよくできた販売システムだよ」
どんな仕事でも成功するには、それなりの努力がいる。ヘビーEは自分の仕事をよくやっていた。おかげで池袋の下水はどんどん黄色くなるのだろうが。
◆
おれたちの作戦はつぎの段階に進んだ。
ヘビーEの住まいは千秋の勤める店から歩いて数百メートル。西口改正通りに面したペンシルビルにあった。ラジオとおれは、ヘビーEが喫茶店で勤勉に労働にいそしんでいるのを確認して、ビルのエレベーターに乗った。そろいのNTTのしまのつなぎに、アルミのツールボックス。下見はしてある。ラジオのいうにはそのビルは一階おきに電話線の引きこみ口があるそうだ。
ヘビーEの部屋がある六階でおりた。ひとフロアにふたつのワンルーム。三、四メートル離れてドアが並んでる。奥がやつの601号室だ。ラジオはするすると無人の廊下を歩いていく。ドアのわきにしゃがみこんだ。メーターボックスの扉のボタンを押す。鋭い金属音がして鉄のちいさな扉が開いた。なかにはほこりをかぶった水道と電気とガスのメーター。コンクリートの壁沿いには濃い灰色のビニール電線が四本走っている。ラジオは奥から二番目の電線のビニールをワイヤーストリッパーでくるくると裸にした。暗がりに赤く光る銅線。
ワニ口クリップのようなものでむきだしになった銅線の上下をはさみこんだ。ふたつのクリップの中間には親指の先ほどの黒い箱がついてる。ラジオはその箱とクリップごと灰色の絶縁テープで銅線をぐるぐる巻きにしてしまう。真ん中にコブがついた電話線が残った。ドアを閉めて立ちあがる。ここまでで三、四分。おれはいった。
「もう終わりか。そんな簡単でいいのか」
ラジオは肩をすくめる。
「スパイ大作戦じゃないんだ。簡単に決まってる。そうでなきゃ誰でもできないだろ。電波がいいのは方法さえ間違わなきゃ、誰でも使えるとこだから」
ラジオはツールボックスを取りあげると腰を伸ばした。
「今ので有線電話の会話を半永久的に発信できるんだけど、もうひとつおまけを置いていこう」
やつはつなぎの胸ポケットから銀行のキャッシュカードくらいのおおきさの黒いプラスチック箱を取りだした。裏を返して透明なビニールをはぐ。ヘビーEの部屋のドアのまえにしゃがんで郵便受けに手を入れた。ドアの内側に黒いカードを貼りつけているようだ。
ラジオは再び立ちあがった。
「これでうまくすれば室内の会話も拾える。こっちは半永久とはいかないが、それでも二、三週間くらいはもつと思うよ。誰かが話しているときしか発信しないから。さあいこう」
二番目の発信機の設置には十秒とかからなかった。あきれた。
ラジオが魔法のランプの精霊に見えた。パパラパー。
◆
その日の夜、銅張りの屋根が青く粉を吹いてるオンボロアパートの三階にいってネタ部屋にも発信機を置いてきた。ほんとにただ置いてくるという感じ。これで仕掛けは終了。あとはやつらが食いついてくるのを待つだけ。
いきなりヘビーEからスピードを買わなくなるのも怪しまれるだろうと思い、おれはたまにやつからショッピングした。今度は尾行も盗撮もしていない。電線なしのクリーンなフライ。おれはヘビーEと顔なじみになり、短い言葉を交わすようになった。
正直にいうけれど、ヘビーEは悪いやつじゃない。別な出会いかたをしていれば、おれたちは友達になっていたかもしれない。
別な国の別な首都の別な街なら。でも日本の東京の池袋じゃ、それは無理な話だった。
◆
盗聴は仕掛けるよりモニタするほうが何倍もたいへんだった。ラジオはハンディをもったまま発信機の近くを歩きまわった。半径百メートル保証と発信機のマニュアルに書かれていても、電波の状況が悪いとほんの二十メートルでも受信できないという。ラジオはちいさな段ボールに受信機とMDを入れて都のゴミ袋でくるみ、近くの植えこみや非常階段の隅に置いていく。おおきさは女の子のランチボックスくらい。それを一日おきに回収するのはケンジとシュンの仕事だった。
戻ってきたMDはラジオが倍速でチェックしていく。ヘビーEは毎日、渋谷の天道会にその日の売り上げを報告していた。間の抜けたことに全部有線の電話で。電波をばらまく携帯よりそっちのほうが安全と思っているようだ。実際にはデジタルの携帯電話のほうが盗聴はむずかしいとラジオはいう。電話はこんな調子。
「今日はイチキューテンニ、サンロク」
一日で十九・二グラムのバイ、売り上げは三十六万。この日やつはひまなほう。
「はい、ご苦労」
電話はすぐに切れる。ヘビーEはなかなかしっぽを出さなかった。
◆
ラジオが盗聴を続けるあいだに、おれはケンジにため撮りしたビデオの編集を頼んだ。十五分くらいでヘビーEのバイの仕組みがわかるようにと。ケンジは赤い頬でにこにこと笑ってうなずく。
三日後にあがったビデオテープをみんなで見た。シュンの部屋の二十一インチのテレビデオ。モノクロのざらざらした映像のなかに、ヘビーEとおれが映っている。最初の取り引きの絵のようだ。ヘビーEはそのままだが、おれは透明人間のように服だけ空中に浮かんでいた。顔や手があるべき場所には池袋駅北口の雑然とした背景。
「特撮映画みたいだね」
シュンが感心していう。
「まだ早いよ、ちょっと待って」
ケンジは唇に人差し指をあてる。静かになった部屋のなか、ヘビーEの低い声が流れた。
(フライさんかい)
(そうだっちゃ)
おれの声がラムちゃんのかん高い博多弁? になっている。
「どうしたんだ、これ」
おれはケンジに聞いた。天晴れな笑顔。
「『うる星やつら』をサンプリングしてマコトの声を吹き替えたんだよ。絵のほうは一コマ一コマ顔を消して、街の背景を移植してつくったんだ」
よくわからないままおれはいった。
「それたいへんじゃないのか」
「けっこうね」
にこにこ。うれしそうに笑うだけのケンジに代わってラジオがいう。
「絵のほうは凝りすぎだけど、声はあれでいいんだ。イコライザーをかけたり、ヴォイスチェンジャーを通しただけじゃ元の声紋は回復できる。あれなら完璧だ」
とんでもないボーイズ。おかげで仕掛けは完了。
◆
おれはやることがなくなった。ただ電話を受けるだけ。ラジオの報告はいつもひと言だった。
今日は? バツ。
いつもの通り店番にもどった。だがしばらく店を見ているとおふくろがやってくる。カシーフが退屈そうだから相手をしてやれば。店番交代。遊び人のおふくろが芝居や寄席にいかずにそんなことをいうのはめずらしい話。
そんなときおれは二階にあがり、カシーフにコンピュータ講座を受けた。やつは中東の技術系の大学にいっていたらしく、マックの操作はお手のものだった。シュンからもらったワープロやグラフィックスのソフトをつぎつぎとインストールしてくれる。ハードディスクの整理にキーボードの打ち方の手ほどき。それに知っていればヘビーユーザーに見える賢いショートカットのやり方なんか。
おれはあるとき聞いてみた。そんなにコンピュータが使えるのに、なんで日本でドカチンなんかやってんの?
「それは、そのほうがお金になるからね。イランではコンピュータの仕事すくないし。私の知りあいの弁護士や医者も建設現場にいますよ。日本のドカチンには世界のインテリがいっぱい」
ここにも資本主義の不思議。カシーフは、それでも晴れやかに笑う。毎朝続く夜明けのお祈りと金曜日の首切りを考えた。公開処刑の見物人は弁当をもって集まるそうだ。
きたるべき二十一世紀。コンピュータを使いこなすことなどアメリカ人のまねをする必要もない。ターバンを巻いても、チョンマゲでキーボードを打っても、いいじゃないか。
◆
おおきな獲物がかかるまで、一週間とはかからなかった。
つぎの月曜日の真夜中、ラジオからPHSが入った。ヘビーEと天道会のつぎの取り引きがつかめたという。おれはラジオのマンションがある江古田へダットサンを走らせた。ラジオの部屋の片側は灰色のスチールラックになっていて、アンプや無線機やメーターがラックにネジどめされて積みあげられている。なんかの研究所みたいだ。床をうねるワイヤーの束が妙にカラフル。
すぐにMDを再生してもらう。声がひどく生々しい。息を吸う音さえ鮮明だった。聞き慣れたヘビーEのバリトン。
「そろそろ、つぎを頼む」
「ああ、わかった。どれくらい」
「四百ならいくらになる」
「三百」
「高い。百や二百じゃないんだ。もう少しまけてくれ。二百五十でどうだ」
「二百八十」
「二百六十」
「わかった、二百七十で手を打とう」
「そうだな」
四百グラムで二百七十万。これをきれいにさばけば五百万近い利益になる。濡れ手でスピード。ヘビーEは千秋とは別な意味で覚醒剤にはまっている。おれとラジオはヘッドフォンをしたままふたりの男の会話を聞き続けた。とうとうやつらのしっぽをつかんだようだ。だが不思議と興奮はなかった。頭のなかは奇妙に醒めたまま。
ヘッドフォンをはずすと真夜中の静けさが耳を刺した。
◆
その夜、ラジオの部屋からケンジの家にまわった。即席でテープをつくってもらう。ケンジの部屋はラジオと違いモニタとコンピュータが多かった。それにソフトの箱とマンガも。おれはケンジが作業をしているあいだ、やつのベッドで仮眠をとった。横になると天井に『うる星やつら』のポスターが見えた。
虎の皮のビキニのラムちゃん。
◆
早朝、池袋に戻る途中で電話ボックスにはいった。一一○番。相手が出たのを確かめて送話口にMDのスピーカーを押しつける。再生スイッチ。
「とびきりのニュースがあるっちゃ。ヘビーEっていう売人と天道会の覚醒剤の取り引きが決まったっちゃ。場所は池袋のホテルメトロポリタンの一階喫茶室、今度の金曜日の午後三時だっちゃ。資料の映像も送るから、待っててね。ダーリン、がんばって」
◆
店を出した午後、東口の電話ボックスまで歩き、同じことを繰り返した。
警察ではきちんとテープに録音しているだろうが、念のため。
ついでにケンジのビデオと覚醒剤五グラム分の黒い封筒を丸井の紙袋にいれて、池袋郵便局の交差点にあるコインロッカーに預ける。元は真っ赤だったスチール扉は日にさらされて淡いピンクにくすんでいた。十四列並んだロッカーの右から二列目の中段。キーナンバーは006。おれはそのキーを速達と書いた封筒にいれ、千円分くらいの切手をでたらめに貼り、近くのポストに投げこんだ。
あて先は、歩いて三分の池袋警察署生活安全部薬物対策課。
◆
郵便局まえの交差点の反対側にはでかいカラオケビルが建っている。壁面の巨大なネオンサインは三万五千曲以上、曲数日本一と自慢げだ。つぎの日、おれたちは個室の窓からふたりの私服がコインロッカーを開けるのを見ていた。紙袋のなかをのぞいて不思議そうな顔をしている。
ブタのケツのスタンプつきの封筒を思いだした。警察の仕事はたいへんだ。
◆
千秋とカシーフを東京駅に送っていったのは木曜日の朝だった。狭い部屋のなかに閉じこもっていたから、ゆっくりと羽を伸ばさせてやれと千秋にいった。神戸と京都を巡る十日間の旅。千秋はガイドブックでびっちりと計画を立てたそうだ。かわいそうなカシーフ。やつは新幹線のホームでおれを強く抱き締め、頬にヒゲをこすりつける。
「マコト、長いあいだ本当にありがとう。アッサラーム・アライクム」
おれもあなたが平和でありますようにとこたえる。
「ワ・アライクムッ・サラーム。帰ってくるころには池袋も静かになってると思うよ」
開かない窓のむこうに並ぶシェエラザードとシャリアール王が、手を振りながらホームを滑っていった。
◆
金曜日は五月初めのぽかぽか陽気になった。髪に吹く風がなまぬるい。こうしてまた春がくるのは本当に不思議だ。考えてみるとこれが十代最後の春。だからどうというわけじゃないけれど。
長野オリンピックはいつのまにか終わり、今はパラリンピックが開催中。おれはダンガリーのシャツ一枚でいつかの夜カシーフがかけたミラーグラスをして、西口公園のベンチに座っていた。ケヤキの枝先には薄緑の芽が互い違いに並んでる。二時すぎ、シュンとケンジとラジオがぽつぽつと集まってきた。全員がそろうとおれはうなずいた。
ベンチを立ちあがり、ウエストゲートパークの裏の小道をぶらぶらと歩いていく。暑いくらいの木もれ日のなか、授業や仕事をさぼった学生やサラリーマンがのんびりと散歩していた。去年の夏、タカシといっしょにストラングラーをしとめたラブホテルの小道を横目に、東京芸術劇場の裏手に出る。通用口には日ざしをあびて白く輝くトレーラー。なかからコントラバスやハープやティンパニのケースが運びだされていく。週末の公演を控えてどこかのオーケストラが引っ越ししているのだろう。
おれたちは新緑の植えこみを背に歩道のアスファルトに腰をおろした。
正面には二車線の道路をはさんでホテルメトロポリタンの喫茶室。
ほんとの高みの見物。
◆
ホテルメトロポリタンの喫茶室の片側は高さ三メートル、幅十メートルくらいのはめ殺しの巨大なガラス窓になっている。缶ジュースやミネラルウォーターをもって日ざしで熱くなった道端に座りこんでいるおれたちから、内部はステージのように一目で見渡せた。S席。
喫茶室の柱の横のソファにヘビーEとアディダスの姿が見えた。もっともさすがのアディダスも今日はジャケットにスラックス姿。カフェの入口にはひとり離れてボーズが座っている。腕時計を見ると三時五分まえ。おれはいった。
「なあ、黙ったまま目を皿のようにホテルを見てたんじゃおかしいよ。誰か話をしてくれないか」
三人が目を見あわす。ラジオがマッシュルームカットの前髪をかきあげていった。
「じゃあ、おれが話すよ」
シュンが聞く。
「ネタは?」
「おれがいかにして電波と友達になったか」
おれとケンジは拍手のまねをした。おもしろそう。
◆
ラジオの声は高くてすこしかすれてる。スピッツのボーカルみたい。
「うちは金持ちでも貧乏でもなかった。親も離婚してないし普通の家庭だと思う。でね、今から五年まえの中学二年の春、理科の実験用キットを買ってもらったんだ。ドライバー一本とはんだごてでできるFMの送信機だよ。日曜日の夕方、熱が出るくらいの勢いでおれはそいつをつくりあげた。で、晩飯のあとで決心した。今夜中に絶対試験放送をやってやろうって。それで真夜中に起きてこっそり家を抜けだしたんだ。送信機のスイッチはONにしたままね」
おおきなガラス窓のなかで動きがあった。アルミのアタッシェをもった若いダークスーツの男がカフェにはいってきてあたりを見まわす。ヘビーEに気づくと会釈してやつのソファにむかった。ヘビーEと男は笑いながらなにか話してる。スーツの男はとても天道会の構成員には見えなかった。静かな会話。再び動きはとまった。
しばらく間をおいてラジオが続ける。遠くから響く声。
「だめになったというやつもいるけど、おれはそのころ出たばかりのU2のアルバムが好きで『ステイ』って曲をエンドレステープに入れて送信機につなぐと家を出た。それから近所を自転車で駆けまわったんだ。自転車にはちいさなFMラジオが積んである。春のあったかな夜だった。通りの角を曲がるたびに雑音が増えたり減ったりしながら、おれの放送局からおれの好きな曲がラジオに流れてくる。ある道にはいるといきなり満開のサクラの白とボノのかすみみたいなゆったりした歌声が重なる。遥かに離れてるのに、こんなに近い、その曲はそんな歌詞なんだ。まっすぐな通りを電波がはいらなくなるまで走ったり、ぐるぐると円を描きながら家から離れてみたり。夏の夜の海を泳ぐイルカだってあんなに楽しくはなかったろうな。あの離れているのにつながっている感じ。おれは友達がすくないってのもあって、それからどんどん電波にのめりこんだ。三カ月もして夏がくるころには、おれのあだ名はラジオになってたよ」
おれはラジオは幸せなやつだと思った。なんにせよ、本当に好きなことに巡り会えたんだから。たいていの人間にはそんな瞬間はやってこない。
だからスピードが商売になる。
◆
もう一度拍手をしようとしたら、ガラス窓のなか音のない舞台に緊張が走った。
広いカフェに散らばっていたサラリーマン風の男たちが一斉に動き始め、ヘビーEのソファを取り囲んだ。なかのひとり、四十代初めの小柄な男が上着の内ポケットから書類を出して、ヘビーEに見せている。ぱくぱくと動く口。
ヘビーEはソファにどっしりと座ったまま動かなかった。顔の表情も変わらない。人間は本当に驚くと、なにもなかったふりをするみたいだ。自動ドアを抜けてひとりだけ逃げようとしたボーズは、外で待っていた刑事に呼びとめられた。
四人の売人の両わきにふたりずつ警官がついて、ホテルの喫茶室を出ていく。エントランスには白いワゴンが二台とセダンが二台まわされていた。乗りこむヘビーE。車の列はおれたちの目のまえを通り、西口改正通りを右に曲がって見えなくなった。交差点から池袋警察署まではほんの五十メートル。ヘビーEはなにを考えたのだろうか。あまり時間はなかったろうが。
数分間の無言劇が済んで、凍りついていたカフェの人間たちが動き始めた。逮捕された当人よりも驚いた表情。口々に今見たばかりの世紀の瞬間の話をしているのだろう。
目撃! 池袋警察二十四時!! カメラは見た!!!
おれたちは立ちあがり尻をはたきながら、その場からぶらぶらと歩き去った。
「終わっちゃったね」
ラジオのさびしげな声。春の日暮れまえの日ざしにさらされて西口の繁華街はハチミツ色。
遥かに離れてるのに、こんなに近い。おれもその歌を聞きたくなった。
◆
池袋の街はまた二日三日神経質になったが、一週間もすると緊張は収まった。サルにPHSをいれると、天道会のネタ卸部門はごっそりと警察に引っ張られているという。愉快そうな笑い声のあとでサルはいう。
「ところで、マコト、今回は一枚かんでないのか」
ぜんぜんとおれはこたえた。かんでるわけない、ただ見てただけだと。PHSを切った。今回の件では血は一滴も流れていない。よかった。たくさんの黄色い水が下水を流れただけ。だがその水だって、いつか青く透きとおって、どこかから湧きだすだろう。
水と命と季節は巡る。
◆
旅から帰った千秋にPHSをいれた。出勤途中に丸井のまえで待ちあわせ。よく晴れた三月の午後一時。ランチ帰りのサラリーマンは白いシャツの袖をまくっている。汗ばむくらいの陽気。おれが半袖のTシャツ一枚で入口わきの黒い角柱にもたれていると、千秋がケリーバッグをさげて信号を渡ってきた。紺のサテンのミニドレス、袖だけシフォンでシースルーになってる。すんなりと伸びた二の腕。セクシー。
「待った? マコトちゃん」
首を振った。
「用件ってなに」
「だいぶ減ったけど、これ返そうと思って」
おれはぶかぶかのパンツのサイドポケットから銀行の封筒を取りだした。
「いいよ、そんなの返さなくて」
「よくない。最初にいったろ。おれはプロじゃないって」
おれは黙ったまま千秋の目を見つめた。千秋もおれを見ている。人間の目はこんなにちいさいのに、なぜこんなに深いのだろう。不思議だ。しばらくして千秋はうなずいた。
「わかった。じゃあ、交換しよう」
千秋はケリーバッグを開き、なかからテディベアのマスコットがついた携帯電話を取りだす。わけがわからないまま、おれは半分くらいに減った封筒と携帯を取り替えた。千秋のかすれた声。おれに目をあわせないまま話し始める。
「その携帯ね、ネタ屋の電話番号が十七本はいってるの。ヘビーEがいなくなったから十六本か。私、なんとかスピードは断ったけど、その連絡先だけは捨てられなかった。朝になれば電話すればいいんだ。スピードはいつでも手にはいるんだから。そう自分にいいきかせながら、その携帯握ったまま一晩中ぶるぶる震えてたこともあるよ。でも、もう終わりにする。マコトちゃんの手で捨てて。今度のことはほんとにありがとう。またね」
そういうと千秋はおれの目をのぞきこむ。紅潮した頬、涙ぐんだ目。おれは黙ったままうなずいた。千秋はすこし笑うと、くるりと背をむけて西口五差路の広い道路を渡っていく。おれには横断歩道がオアシスへ続く輝く白い道に見えた。
◆
おれはその足で丸井にはいった。エスカレーターを乗り継ぎどんどんのぼっていく。六階のメンズフロア。ウィークデイの午後、買い物客よりも店員のほうが多いくらい店内はすいていた。男性用トイレにはいった。鏡張りの洗面所。勢いよくレバーをひねりシンクに水をためていく。なみなみとあふれる楕円の水。おれは静かに千秋の携帯を揺れる水面にひたしていった。すべての罪と汚れを洗い流すように。
そのまま三分間。ちいさな空気の泡さえ浮かばなくなったころ、携帯を取りあげ短縮番号を呼びだしてみた。液晶は死んだまま。反応なし。
丸井からの帰り道、おれは西口の地下街におりて、燃えないゴミのくずかごに千秋の携帯を落とした。意外とおおきくカツンと乾いた音がする。だがおれは振り返らなかった。
◆
お話がここで終わるならめでたしめでたしだった。
だが、千秋とカシーフの仲を裂いたのはスピードやヤクザよりもっと手ごわい相手。不況と公共事業の打ち切り。カシーフが働いていたちいさな下請け土木会社はライバルのチクリにあった。あそこは不法就労の外国人を使い不当に安く工事を請けおっている。早朝、夜明けのお祈りをしているとき入管の手入れがあったという。春の終わりころ、カシーフはイランに強制送還された。ついてない。
それから二週間ほどして、うちの店にバンダルアッバースからDHLの国際小包が届いた。開けてみるとスカーフにくるまれて白銀に輝く半月刀。|柄《つか》には真っ青なトルコ石が埋めこまれている。カシーフの手紙を読むとジャンビーアは成人の男の印であるという。マコトは立派な男だ。いつか、どこかでまた会おうと。
◆
千秋はそれでもめげていない。うちの店先で例のメロンの串を二本もぺろりとたいらげては、おれにいう。せっかく返してもらったから、あのお金でイランに遊びにいこうかな。見かけるたびに千秋は首に黒いシルクのスカーフを巻いている。おれがそれなあにと聞くとふっくらとした頬で笑ってこたえる。
「チャドル。むこうにいくと女の人は顔を隠さなくちゃいけないの。だからいつもこれをもってる。ちょっとした旅の予行演習かな」
西一番街のごみごみした裏通りを、千秋は風を切って歩いていく。
今日もこの街のオアシスでひと稼ぎするために。
千秋の肩になびくシルクのスカーフは、春の風をはらんで限りなく軽い。空飛ぶスカーフに乗って、おれまでまだ見たことのないオアシスへ飛んでいけそうだった。
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サンシャイン通り|内 戦《シヴイルウオー》
目のまえに赤と青のジャケットを突きつけられ、どちらかを選べといわれたらどうする?
そして、その選択にあんたの命がかかってるとしたら。
まわりを取り囲むのはナイフやスタンガンで武装したいかれたガキばかり。みんな、あんたがどっちのジャケットを選ぶか、ギラギラした目で見つめてる。正解は赤かもしれない。青かもしれない。ガキどもがどっちの色のチームなのか、あんたには絶対わからない。選ぶ色によって、地獄にいくかもしれないし、ガキどもに抱き締められ祝福されるかもしれない。命がけのクイズ。
そんなの狂ってる。大人たちはみんなそういった。ガキどもにしたって、そんなことわかってる。だが一度燃えあがった憎しみと暴力の炎は、誰かさんのお説教や指導要領なんかで消せるもんじゃない。
だからこの春、池袋じゃ赤や青の服を着る人間はひとりもいなかった。通学途中の小学生のガキから、横丁のタバコ屋のばあさんまでね。デパートじゃ赤ん坊の寝巻きさえ赤と青は売れ残った。制服の色を変えたファストフードだってある。おしゃれに命をかけるバカはいない。なにも知らずに闘牛士の赤のウインドブレーカーを、おそろで着こんだおのぼりのカップルは、Gボーイズの跳ねあがりに裏通りへ連れこまれボコボコにされた。全身骨折。赤い上着はナイフで短冊のように切り裂かれ、火をつけられたという。哀れな戦争の犠牲者。
池袋ではみんなその抗争を、シヴィルウォーと呼んでいた。サンシャイン60階通りをはさんだ水面下の戦い。ガキどものガキどもによるガキどものための内戦。サンシャイン通り|内 戦《シヴイルウオー》とね。
そのあいだ、おれがなにをしていたかって?
すごくこたえにくい質問だよな、それって。
刺しっこしてるガキがあちこちで倒れ、サイレンがビルに乱反射し、ストリートが夜ごとぐつぐつと沸騰していたそのころ……
おれは、初恋をしていた。
太古からつたわる精神と肉体の神秘を、初めて解いたつもりになっていた。
世界はどこもかしこも花ひらいている。
まったく、いい気なもんだよな。
◆
夏みたいに暑い五月終わりの夕方、おれにとっては特別な一日になるその日、おれは近所の散歩に出ていた。いき先は最近見つけた池袋の穴場。西口の芳林堂と東口のリブロ。
おれはそのころすこしずつ文字だけで埋まった本!を読むようになっていた。知りたいことは山のようにある。教えてくれるやつはひとりもいない。だからひとりで読むようになった。それまでは本屋にいっても、マンガと雑誌コーナー以外のところには寄りつかなかった。最初は何ページも続く活字を読むのは、潜水でプールの底を泳ぐように苦しかった。だけどすこしずつ息はのびていくもんだ。家にまともな本の一冊もなかったおれでさえ、何十ページも休みなく読めるようになる。ときには一息百ページ。人体の奇跡。
加奈と初めて出会ったその夕方も、おれは本屋のビニール袋をさげていたはずだ。歴史と法律、それにエンジェルがどうのとかいう下品な小説かなんか。そのときの本のことは忘れてしまったが、加奈のことは忘れていない。
あれから何百回となく思いだしているが、そのたびにより鮮やかになってよみがえってくる。鋭く刻まれた線。濡れてるような色。瞬間冷凍された加奈の姿。
水のなかの宝石みたいだ。
◆
おれは本屋探険を終えて、うちの果物屋に帰ってきた。薄暗い西一番街でなぜかうちの店だけ浮きたって見える。近づいていくとまだ明るいのに、店先がライトの洪水で照らされていた。うちはカラー写真入りのメニューがいるようなフルーツパーラーじゃない。間口一間の夜店みたいな果物屋。謎のフォトセッション。強い照明に走りのスイカが黒光りしてる。
「なにしてんの」
店のまえの歩道に立ってる男に声をかけた。光りは男の肩口からあふれている。男の肩にはベータカム。ソニーのばかでかい業務用ビデオカメラ。逆光で男の顔はよく見えなかったが、髪は長髪のソバージュだ。リーのブーツカットジーンズにつまさきに鉄板がはいった黒いエンジニアリングブーツ。グレイ霜降りのトレーナーは肘までまくられ、筋肉質の腕がのぞいていた。
やつはいきなりカメラをおれにむける。光りの一撃。
「そのまま、カメラを見て」
驚いた。女の声。
「だから、なにやってんだ」
うちのおふくろも店の奥から、腕を組んであきれて見てる。通行人はおれたちから顔をそむけて通りすぎた。カメラをのぞく十秒間。
その女は停止スイッチをいれ、録画をとめた。同時に右目をファインダーから離して、まっすぐにおれを見る。強烈なハロゲンライトが消えて、女の顔がひとつ残った。
細面、すごい色白、形よく整った半円の眉と切れ長の目。中性的な顔だちのなか、唇だけがたっぷり赤い。モデルのりょうに似てる。背は百八十近くあるおれとほとんど変わらないくらい。でかい女。二十代後半くらいか。
「いきなり撮ってごめんなさい。でも、私あなたに仕事を頼みたいの」
気の強そうな声でそういうとジーンズの尻ポケットから丸くなった名刺を差しだした。なぜか受け取ってしまう。まだあったかい名刺には、ビデオジャーナリスト・松井加奈の文字。あとは携帯の数字が一列。
「仕事ってなんの」
「池袋の少年たちの抗争事件をドキュメンタリーにまとめたいの。あなたはこの街の子どもたちのことなら、なんでも知ってる。ガイド役にはぴったりだっていわれたわ」
「誰に」
「池袋警察署少年課の吉岡さん」
あきれたオヤジだ。去年の夏の事件をまだおぼえてる。だが、吉岡の紹介じゃ話を聞かないわけにはいかなかった。なにせ、またいつ世話になるかわからないからね。
◆
おれが話だけでも聞こうというと、加奈はそれも撮らせてくれないかという。
「わかったよ。だけど場所変えよう」
うちの店のまえはカンベンして欲しいもんな、当然。
「じゃあ、サンシャイン60階通りは?」
バカか、この女。あんなやばいところでだらだら話なんかしてらんない。
「あんた、今の池袋のこと知らないの」
「サンシャイン60階通りにあなたが立って、この街の抗争のことを話してくれたら絵になるんだけどな」
加奈は残念そうだ。だが、いい絵のためにタコ殴りされたらたまらない。
「コンバットゾーンにはうかつにはいらないほうがいい。撮影みたいな目立つことをするなら、どっちのチームのヘッドにもまず話を通さなきゃだめだ」
加奈はうなずくといった。
「わかったわ。場所はあなたにまかせる。でも、今の台詞あとでもう一回いってくれないかな、カメラまわすから」
あきれた女。加奈はかがみこむとベータカムのハンドルを骨ばった手でつかみ、腰を伸ばす。しなやかに張りつめるジーンズ。そのまま店のまえに停めたバイクまで歩き、ベータカムをトランクのなかにストラップで固定する。バイクはシルバーのヤマハSR500。リアタイヤの両わきにアルミの大型トランク付き。加奈は振りかえるとおれに銀のヘルメットを差しだした。なぜか受け取ってしまう。おれはこの女に出されると、なんでも素直に受け取っちゃうみたいだ。
「どこにいけばいいかな」
加奈は涼しい顔でおれに聞く。瞳をのぞくと、笑っているようだった。あきれておれはこたえた。
「ウエストゲートパーク。あそこは中立地帯だ」
◆
バイクは池袋駅西口を風を切って走った。五月の夕暮れの匂うような大気。銀の明星を散らした濃紺から、黒の混ざったオレンジへ無限のグラデーションを見せて、ビル街のうえ夕空が広がっている。カーブを曲がるたびに昼間の熱でほてったアスファルトがせりあがり、くすんだビルはばたばた倒れていく。爽快。
バイクのうしろに乗るのは、高校生のころ遊びでのぞいた族の集会以来。加奈は開けるときはしっかりとアクセルを開ける。性格が出るよな。トラックのあいだをすり抜けるときなど、老いた鯨を追い抜く若いイルカみたい。
おれは加奈の腰に手をまわしていた。しっかりつかまれといわれたので。意外にきゃしゃで柔らかなウエスト。こんなところを明日香に見られたら、スリーシーズンくらいうるさくいわれそう。まあ、つきあい始めてまだ三カ月にもならないけれど。明日香の甘えた笑顔を風に流して、ヘルメットで加奈の後頭部に頭突きした。ソフトタッチで二回。加奈は一瞬振りむき、おれに叫ぶ。
「なぁーに?」
「すごーく、気分いいな」
おれは太ももでしっかりとバイクのシートをはさむと、両腕を風のなかに思いきり伸ばした。ワークシャツの袖が風をはらむ。私はカモメ。
今ジャンプすれば、三十メートルくらいは飛べるだろうか。
◆
西口公園わきの歩道にバイクを停めた。加奈はさっきとは別なトランクから8ミリビデオを取りだす。最新のデジタルタイプ。おれたちは円形広場を取りまくベンチにむかって歩きだす。敷地内の石畳のあちこちに赤と青のグラフィティ。巨人が空から吐き落としたカラフルな|痰《たん》みたい。Gボーイズの青いGBマークにRエンジェルスの赤い翼。青の文字に赤いペイント缶を叩きつけ、そのしたにDEATH FOR G ALLと書かれたもの。赤のうえに青い文字でR.I.P.とサインが入ったもの。都の制服を着た老人が、何人か力なく落書きを消している。遠くの木陰にはパトロール警官の姿。加奈はおれの横顔にビデオをむけていう。
「R.I.P.ってどういう意味かな」
「みな殺し」
「じゃあ、この落書きはお互いのチームにおくるメッセージなのね」
「そう、宣戦布告だ」
「いつから池袋はこんなふうになっちゃったの」
思わずおれはカメラをにらんだ。おれだってそれが知りたい。それになぜこんなふうになったのかも。ベンチに着く。叩きつけるように腰を落とす。おれの話は長い話になるだろう。
それはおれたちの街が壊れちまっていく物語だったから。
◆
始まりは今年の正月。それまでの池袋はチーマーもダンサーもシンガーもスラッシャーもその他大勢のガキも、すべてGボーイズが仕切っていた。そのヘッドがGボーイズの|王様《キング》・安藤崇。稲妻のように速く、蛇のように賢く、フリーザーで凍らせたグラスみたいにクールな王様。この街の女たちのあこがれの的。GKのタカシは高校時代からおれのダチで、去年まではいろいろあっても、この街は平和なものだった。
そこへ新年といっしょに、ひとりのガキが池袋にあらわれた。今では伝説になってる大晦日の夜、やつはガキどもでごった返すウエストゲートパークで、いきなり踊りだしたという。ボロボロのブラックジーンズに裸の上半身。裸足。長い金髪をなびかせ身体から湯気をあげながらやつは一時間踊った。真夜中の冷気を裂く金のつむじ風。興奮は高圧電流のように観客のあいだを駆け抜け、一晩でやつは西口公園のダンサーたちのヘッドになった。
嵐の名は尾崎京一。初めの三カ月、やつのチーム「レッドエンジェルス」は静かに勢力を伸ばしていた。タカシとも友好的にやっていたとおれは当人から聞いた。だが、この春からエンジェルスは、Gボーイズに正面きってぶつかるようになった。
ひとつの街にふたりの王様はいらない。内戦は週ごとに激化した。潰しあうオール・ザ・キングス・ボーイズ。池袋の「赤と青」戦争の惨劇。週刊誌の見出しはいつも通り最低。だが、もっと最低なのはこの街の裏通りで実際に起こっていることだ。エスカレートするだけの報復合戦。やつらはいう。一人やられたら、五人やりかえせ。五人やられたら、五十人やりかえせ。叩き、折り、刺し、燃やせ。あとは際限のない繰り返し。
そしてこの街の住人は外に出るたびに、「赤と青」を身につけていないか鏡で調べるようになった。いかれたガキは敵対チームのカラーを見ただけで、闘牛のように見さかいなしに突っかかる。恐怖の服装チェック。
好きな色のために死ねるのは、壊れたガキだけだ。
◆
「あなたはタカシくんの友達だから、Gボーイズの一員なのね」
加奈は8ミリビデオをおれにむけたままいう。
「いいや。おれは赤でも青でもない。ただの果物屋の店番だ。やつらの内戦とはなんの関係もない。だけど、好きな色のTシャツも着れないなんて頭にくる。去年の今ごろ池袋はこんなふうじゃなかった」
「警察にこの状況を変えられるかしら」
「無理だろうな。やつらはシヴィルウォーをわかっちゃいない。上から強権的に抑えつければ、圧力は横に逃げる」
「強権的ねえ……あなたはこの状況をどうしたらいいと思う」
加奈はつぎつぎと質問を投げる。考える時間を与えるな。取材には悪くない手。
「なあ、あんたはこの街にいきなりあらわれて、そうしてなんでも聞いてくる。欲しいのはどんな答なんだ。書いてくれよ。読んでやるから」
おれはカメラにむかって笑ってやった。首をゆっくりと左右に振る。
「どっちの笑顔がいいと思う?」
ため息をついて加奈は録画をストップした。やれやれ、ようやくこれで話ができる。
「もう嫌になったんなら、この街の取材はやめたほうがいい」
加奈は厚い唇を曲げておれに歯をむきだす。笑う女。全然いろっぽくなんかなかった。撤退は絶対しない。決意表明。
「ますます気にいったわ。私どうしても、あなたにジャングルクルーズのガイドになってもらいたい」
おもしろい。
「なんのために? あんたはこの街でなにがやりたいんだ」
「どこかでおかしなことが起こっていたら、私はそれを大勢の人に知らせる。それが仕事なの。それでみんなの注意が集まり、事態はよくなるかもしれない、変わらないかもしれない。私にはそこまでわからない。でも私はやるわ。まず伝えなくちゃ、絶対なにも変わらないもの」
「伝えることで悪くなるってことは?」
「もちろん、それもある。でもね、マコトくん、私たちは目のまえで起きていることに目をつぶり、口を閉ざしてはいられない生きものだよ。いいことも悪いことも『あっ、それおもしろい』っていう好奇心から、すべて生まれたんだから」
キュリオシティ・キルド・ア・キャット。そんな名前のバンドがあったよな。だが、甘いことをいう加奈が、おれにはすこしまぶしかった。まえむきな大人を見るのは久しぶりだったからかもしれない。
「わかったよ。ひとつだけ約束してくれ。興味本意でこの街をいじらない。それに、ガキどもを血の色が好きなケダモノではなく、人間として扱うこと」
「じゃあ、やってくれるの」
うなずいた。この街に生まれ育って、かつての同級生や友達同士が命のやり取りをしているのを、黙って見ているのはもう耐えられない。加奈は大喜びでまたビデオをまわし始めた。
おれはちいさなカール・ツァイスのレンズをのぞきながら考えていた。この女はおれを利用するだろう。だが、取材なら両陣営を自由に行き来できる。おれも和平工作のためにこの女を利用する。それで十分じゃないか。
円形広場に目をやるとかつての盛況は嘘のように人影まばら。中立地帯でさえ、もう誰も寄りつかなくなっている。女たちやナンパ師の影さえ見えないうつろなウエストゲートパークの春の夜。
五月のケヤキは、人間たちにまるで無関心、いきいきと夜も緑。
◆
夜の公園に携帯のメロディが流れた。ボブ・ディランの『風に吹かれて』。アナクロ。加奈はビデオをまわしたまま、ウエストバッグから携帯を取りだし小声でなにか話している。顔が引き締まった。録画をとめる。
「いきましょう」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。嫌な予感。
「なにが起きたんだ」
「誰か刺された。いっしょにきて」
加奈はバイクに小走りにむかう。すぐにおれもあとを追った。
◆
加奈のSRは池袋警察署の角を曲がり、ビックリガードの底を抜けて南池袋にはいった。サンシャイン通りから南のこのあたりはエンジェルスの縄張。おれはめったに足を踏みいれない。バイクは東口五差路をグリーン大通りに右折。信用金庫の角を折れて、まっすぐにサンシャイン通りにむかった。薄暗い街角のあちこちにエンジェルスのメンバーがなにもせずにただ突っ立ってる。おれたちを追う感情のない目線。なかのひとりは親指と人差し指を丸めてGボーイズのハンドサインをつくり、それから親指を地面に突き立てる。Gボーイズのガキは地面をなめてろ。わかりやすい挨拶。
現場は百メートルも手まえからわかった。救急車とパトカーの回転灯があたりの店を赤く染めてる。正面にジーンズメイトがある三つ角の真んなか。加奈は道端にバイクを停めると、ベータカムをかついだ。おれたちは人だかりをかきわけて救急車に近づいていく。赤いコーンで周囲をかこまれた五メートル四方くらいの立入禁止区域。警官が四人がかりでやじうまを排除している。
中央にマンホールくらいのおおきさの血だまりとチョークの跡。救急車のリアゲートへストレッチャーが収容されていくところだった。たぶん十代なかばくらいの少年。顔の下半分を透明な酸素マスクがおおい表情はわからない。意識なし。左耳に三つ並んだ金のピアス。
逃げ遅れたガキがひとり腰縄をまかれて、警官につき添われ現場に残っている。やはりやられたのはGボーイズのようだ。立ってるガキは赤のトミー・ヒルフィガーのヨットパーカに腰骨のしたまでおろしたぶかぶかのジーンズ姿。レッドエンジェルスのユニフォーム。パーカのわき腹から胸にかけて、黒い筋が重そうに走っている。返り血か。
加奈は強烈なライトを照らしながら、周囲の状況をなめるように撮っていく。すぐにどこかの新聞社のカメラマンがふたりやってきた。フラッシュに回転灯にハロゲンライト。大量の光りがサンシャイン通りの路地裏を切りとっていく。
だが、いくら光りのシャワーで洗われようと、固まり始めた血だまりは揺るぎもしなかった。
◆
現場周辺にはたくさんの子ども。午前三時のクラブみたいな盛りあがり。加奈のベータカムのまわりをいくつかVサインが囲んでる。なかには両手の親指を組んで胸のまえで翼をつくるエンジェルスのハンドサインを送るガキまでいる。
「くだらんサインなどやめろ」
聞きおぼえのある怒声が、人だかりの後方でおこった。離れて停めた覆面パトから背の低い中年男が歩いてくる。少年課の吉岡。しばらく見ないうちに髪の生えぎわはじわじわ後退。この街の平和みたいだ。打つ手なし。なぜ刑事はでかでかとポリエステル混と書いてあるスーツを着てるんだろうか。
吉岡は横を通りすぎるとき、あごの先でおれにうなずいた。
「あとで顔貸せ」
閉じた唇のすきまからそう漏らす。おれがうなずくと、立入禁止区域にはいりなにか警官と話し始めた。
おれは別に話なんかないんだけど。
◆
二十五分後、現場に若い警官をひとりだけ残し、救急車もパトカーもやじうまも去った。運の悪い飲み屋のバーテンが、ホースの水で流した血の跡をデッキブラシでこするだけ。排水溝に落ちる赤い泡を最後に加奈がベータカムをとめると、吉岡がやってきた。カメラを足元において、加奈は頭をさげる。
「先ほどは、どうもお世話になりました」
おれに対する態度とは全然違う。口を開けて見てると吉岡がおれにいう。
「なんだ、もうガイドになったのか。おまえ、昔からベッピンに弱かったからな」
この女がベッピン? 冗談じゃない。
「あんたこそ、淫行条例にひっかかんないように慎重に遊びな」
吉岡のあごが落ちる。有効打。一瞬後、やつは笑いだした。
「これだからな。松井さん、マコトは口は悪いが、頭のほうは口ほど悪くない。あなたの要請を受けたのもなにか考えがあるのかもしれない」
そういいながら横目で吉岡はおれを見る。
「なあいいか、マコト。警察でもいつまでもガキの戦争に甘い顔はしていられない。こんなことが続くと街を歩くすべてのガキに職質をかけて、ご同行を願うなんてことになりかねない。エライさんのあいだでは強硬論も出てるんだ。おまえはタカシの親友だ。この戦争を収めるためにおまえから口をきいてくれ。あの京一とかいうガキにもな。松井さんの仕事も、しっかりやるんだぞ。おふくろさんにはおれから電話いれといてやる。いいな」
吉岡は勝手にそれだけいうと加奈に会釈して歩いていってしまう。ネオンサインの谷を遠ざかる地方公務員のちいさな背中。見あげると星のない池袋の夜空にサンシャイン60がそびえている。のしかかる光りの塔。加奈がいった。
「吉岡さんて、いい人だね」
そんなこと昔からわかってる。
口に出していうなら死んだほうがましだけどな。
◆
夜九時近く、おれは加奈のSRで西一番街のうちの店まで送ってもらった。長い一日だった。特に日が暮れてからは。だが、そんな日はなかなか静かに終わらない。起きるときは、なぜかすべてがいっぺんに起きる。
おれがバイクをおりて、ヘルメットを加奈に渡していると、後頭部に刺さる声。
「マコちゃん」
寒くなった。明日香だ。機嫌が悪そう。
「あら、マコトくんの彼女? こんにちは。じゃあ、また明日ね」
加奈は店先に立ってる明日香にゴーグルをかけたままうなずくと、すぐにSRをふかしていってしまう。孤立無援。
明日香はおおきな胸の上半分を丸々とのぞかせたアロハ柄のキャミソールドレスで両腕を組んでいた。怒りのポーズ。テレビゲームのキャラクターみたい。わかりやすくて単純。白いメッシュいりのショートヘア。サロン焼けで真っ黒な顔に、唇だけが真っ白なパールのリップグロスで氷山みたいに浮いてる。おおきな目は今はつりあがって三白眼だった。
内田明日香は高三の十八、初めて会ったのは三月の日曜の明け方四時。場所はたまに顔を出していた池袋のクラブ。満員電車みたいな混雑のダンスフロアを見ていたら、いきなり声をかけられた。お互い酔っていたのでなにを話したかはおぼえていない。それから、不思議とあちこちの店で顔をあわせることがかさなり、あとはお決まり。いつのまにかつきあうようになり、いつのまにか寝るようになり、いつのまにか怖れるようになった。だって女って面倒じゃないか。
「今の人だーれ? なんか男みたい」
「誰でもないよ。仕事。池袋をビデオに撮りたいからって、ガイドを頼まれた」
明日香はパトロール警官の目。所持品検査をされそう。
「ふーん。それで引き受けたの」
「まあな」
「じゃあ、いいよ。今日はグローブのチケットとれたから、もってきてあげたけど、他の人といく。なんか、ちょームカツク。ざけんなってカンジ」
わざとおれが嫌いな「超」を使った。とめる間もなく歩いていってしまう。やれやれ。明日香のうしろ姿はハワイ出身の日系グラビアアイドルみたいだ。ゴージャス。
でもよかった。これでシンセをひくT.K.を見なくて済む。それくらいなら、うちでJ.S.B.のキーボード作品でも聴いていたほうがいい。新しく出たマレイ・ペライアの『イギリス組曲』かなんか(これがすごくいいんだ)。
おれがうちの店にはいっていくと、おふくろがいった。女にはっきりしないところなんか、おれは死んだおやじにそっくりだそうだ。
悲しい劣性遺伝。
◆
その夜は、疲れていいかげんうんざりしてるのに来客がとまらなかった。十一時すぎに店のシャッターをおろしていると、まえの歩道から声をかけられる。
「きみ、真島誠くんかな」
半分おりたシャッターを片手でささえて外を見ると、まだ若い男が立っていた。身体にぴたりとあったスリムなモード系のダークスーツ。ポール・スミスかなんか。体格がいい。にこにこ笑っている。ちょっと酒もはいってるみたいだ。
「そうだけど、あんた誰」
「忘れちゃったかな。礼一郎だよ。横山礼一郎」
そういうと両手で強く頭をかいた。ジミーちゃんみたいに。そのしぐさですぐに思いだす。昔、近所に住んでいてよく遊んでもらった相手。幼なじみというには年が離れているが、なぜかウマがあった。もっとも、こっちは小学校の劣等生で、むこうはなんと天下の東大文Tだったけれど。
「なつかしいね。通りがすっかりきれいになっても、この店は変わんないな」
「汚いままで悪いな。でも、礼にい、いきなりどうしたの」
「今度こっちに赴任してきた。地元のおエライさんたちに、あっちこっち引っ張りまわされてね。さっき、ようやくお役ごめんになったところだ」
「ふーん、接待するのもたいへんだね」
「いや、おれは接待されるほう。たいへんなのはいっしょだけどな」
「そんなにエライの」
「まあね」
浮かない顔。あまり職業をいいたくないみたいだ。
「だから、なにやってんの」
「ここだけの話、おれ四月から池袋警察署の署長になったんだ」
今度はおれのあごが落ちた。回復不能な有効打。
「それで、マコトにちょっと聞きたいことがある」
「おれはなにもやっちゃいないよ」
警察官になにか聞かれると反射的に出る言葉が出た。習慣は怖い。おれの答に新署長は大笑いした。
「わかってる。マコトがちゃんとやってるのは吉岡くんから聞いている。話をするくらいいいじゃないか」
「それは幼なじみと警察署長と、どっちの立場で」
新署長はぼりぼりと頭をかく。なんか好青年て印象だが、見かけにだまされちゃいけない。頭は切れるんだから。礼にいはおれが回転の速さでとても太刀打ちできないと思った数少ない人間のひとり。世界は広いよな。
「まあ、半々だな。それじゃだめか」
「未成年の飲酒に目をつぶってくれるなら、いいよ」
新署長の頼みじゃ断るわけにはいかない。それに、どのみちおれはその夜、簡単に寝つけそうになかった。
「あまり望ましくはないが、軽く一杯ならいいだろう」
話せる池袋警察署長。
◆
五分ほどで店じまいを終えると、おれはおふくろにひと声かけて、西一番街に飛びだした。礼にいは背筋をすっきりと伸ばし、薄暗い路地に立っている。なぜかスポットライトを浴びてるみたいだった。世のなかカードのそろってるやつっているよな。生まれたときからフルハウス。あとはフォーカードかファイブカードになるかの違いってやつ。
おれたちは黙って肩を並べ歩きだした。東口に抜けるウイロードでは、シンガーの連中が小銭の入ったギターケースのうしろでなにかがなっている。定番の自由と夢と失恋。笑点のお題みたい。狭いトンネルに響く歌声のフーガ。
グリーン大通りから、交差点をひとつ渡り戦闘地帯へ。サンシャイン60階通りにはいるとおれは通りの左側を歩いた。そっちはGボーイズの縄張。ガードがところどころに立っていて挨拶してくる。おれはGボーイズのメンバーじゃないが、タカシのダチなので敬意を払われているみたいなんだ。
「これがシヴィルウォーの前線か」
礼にいがぽつりといった。
「そうだよ、戦場にようこそ」
「おれがちいさかったころも池袋はけっこうおっかなかったよ。60階通りに映画を見にきたときカツアゲされたもんな。映画は確か『ヘルハウス』だったな」
そういうと遠い目をする。
「かわいい思い出だな。いまじゃカツアゲなんて子守歌みたいなもんだ。あんたたちに見えないこの街の裏側じゃ、毎日戦闘が起きてる。果てしない|殲滅《せんめつ》戦」
最近本で読んだ言葉を使った。礼にいはちらりと横目でおれを見る。
「こっちだ」
そういうとちいさな路地を左に曲がった。入口のゲートは「ひかり町」と読める。古いサテンやこまかな飲み屋が両側にびっしりと並んだ横丁。無数の看板とネオンサインからたれ流される濡れた光りを見て、おれはなぜか加奈のベータカムの乾いた真っ白な光りを思いだしていた。
それに、あのきゃしゃなウエストの感触も。
◆
礼にいがおれを案内したのは、ラーメン屋の二階にある細長い飲み屋。木の階段をのぼるとぎしぎし音がする。素人が塗ったとひと目でわかるペパーミントグリーンのカウンターが店の奥までのびて、真んなかには三十代後半の男とはたちそこそこの女。わけありカップルが一組。おれたちは奥の窓際に席をとった。閉じたブラインドは、外のネオンを受けて規則正しい間を置いて青くかすむ。
「ビールとバーボンだけの店だけど、いいかな」
うなずいた。正面の壁はアナログLPで埋めつくされたラック。
「いつものふたつとストーンズの『メインストリートのならず者』」
礼にいはTシャツ姿のバーテンに注文した。Tシャツの胸にはおおきなマリファナの葉っぱが一枚。
「なんか、らしくない店だね」
おれがそういうと笑顔を見せる。
「そうだな、ここでは署長って呼ぶなよ」
酒が届いた。|琥珀《こはく》に浸る氷の球。
「話ってなに? やっぱりシヴィルウォーのこと」
「まあ、そうだな。池袋じゃ今一番ホットな問題だ。池袋署には優秀なたたきあげの副署長が何人もいてね、署長は飾り物で政治的なことだけやっていればいいシステムになってる。おれとしては、もうちょっと現場の仕事がやりたいんだけどね」
苦笑いして一口。
「無事に勤めあげるだけなら警務や総務のポストも空いていた。だが官僚として組織を動かすより、直接市民の安全を守る仕事のほうが警察らしくないか。単純だけどな」
「それで今はなにしてんの」
「対外的な折衝。報告の吸いあげ。時間があるときは、論文を書いてる」
「なんの」
「少年問題」
あきれた。評論家になってるのか。
「論文でなんかわかるのかね」
「まあ、なにもしないよりましだろ。おれはパス解析っていう数学の技法を使ってる」
「ぜんぜんわかんない」
「あのな、パス解析は非因果的効果をたくさん含んだ相関関係を分解して、説明変数の直接的、間接的な効果を算出する。それを一定の約束のもとで配列し直すと、変数のあいだの因果関係を推定できるんだ」
チンプンカンプン。赤パジャマ、黄パジャマ、茶パジャマ。それじゃ早口言葉か。
「具体的にはどういうこと」
「作業はコンピュータで回帰方程式を解いて偏回帰係数を出すだけだ。それで少年非行の何百とある要因のなかから、どういう理由で再非行化や非行の深化がすすむのか、因果関係を解析できるってわけ。まあ、おれの趣味だけどね」
たくさんの非因果的効果と少年非行のつながりか。この街の壊れたガキどものことを考えた。それにおれ自身のことも。
「その方程式におれをいれるとどうなるんだ」
新署長は目を丸めておれを見る。
「おれみたいに片親で、貧乏で、学業不振で、補導歴が複数あるって非因果的効果を、その方程式にいれると、どのくらいの割合で再非行を繰り返して、常習犯罪者になるのか知りたいね」
長いため息が聞こえた。礼にいは指先でグラスの氷をくるくるとまわす。涼しい音。
「だいたい八○パーセントくらいかな……マコト、そう熱くなるなよ。人間も数が多くなるとそんなふうに、数字として扱ったほうが、見えてくることもあるってだけの話だ」
そんなことわかってる。だが納得はいかなかった。
「ただの数字あわせでシヴィルウォーに手を出すと痛い目に遭うよ」
晴れやかな笑顔。まっすぐにおれを見るつぶらな目。
「いいアドヴァイスだ。池袋署にはおれにそんなことをいうやつはひとりもいない。なあ、マコト、おれたち組まないか? 吉岡くんに聞いてる。おまえだってこの街をなんとかしたいと思ってるんだろ。おれも厳罰主義でびしびし取り締まれば問題が解決するなんて考えちゃいない。だけど、おれに届く情報は上にあがるたびにこぎれいに|濾過《ろか》されて、現場の熱がまるで伝わらなくなってる。おれにはストリートで実際に起きていることを知らせてくれるクールな目ととがった耳が必要なんだ」
古ぼけた木のグリルのスピーカーから、『タンブリング・ダイス』が流れてきた。ミック・ジャガーのしゃがれ声。おれと組んででかいヤマを踏まないか? そのフレーズで思わずおれも笑っていた。いい演出。人の心をたらすのがうまいやつって確かにいるよな。目のまえにもひとり、笑いながら計算してるやつがいる。ちっとも嫌味じゃなかったけどね。でも、池袋警察署長というカードは、いつかおれの切り札になることがあるかもしれない。
「わかったよ、パートナー。どうすればいい?」
「じゃあ、まずシヴィルウォーのブリーフィングを始めてくれ」
おれはバーボンのオンザロックでのどに|鞭《むち》をいれると、その夜二度目になる長い話を始めた。
◆
つぎの朝は寝不足のまま市場へいった。家に帰って二度寝して、十一時すぎに店を開けていると、首からゴーグルをさげた加奈が歩いてくる。トレーナーが替っているだけで、たぶんジーンズはいっしょ。めずらしい女。おれを見るとやつは眠そうな顔でいう。
「おはよう、今日はどうする」
ちょっと待ってろというと、加奈はイチゴをワンパックもって、店のまえのガードレールに座り、洗いもせずに食べ始める。ぱくぱくぱく。朝ごはん。信じらんない女。
昼すぎに起きだしてきたおふくろと店番を交代して、おれたちは近くのサテンにいった。とりあえず加奈の普段の仕事の進めかたを聞いておかなきゃ話にならない。ビデオジャーナリストに知りあいなんていないからね。
「長編のドキュメンタリーはあまりお金にならないけど、私にとっては作品って感じかな。実際には昨日の夜みたいな現場をこつこつと足で稼いで、キー局やケーブルテレビにビデオを売りこむの。それが暮らしていくための日銭になる。私はフリーランスだから、すぐ金になる事件現場はけっこう重要ね」
なるほど。その調子でいいんじゃないかとおれはいった。シヴィルウォーを地道に追いながら、事件が起きればその場でフットワークよく対応する。
「それでマコトくんの報酬なんだけど、どうすればいいかな」
「金はいいんだ。いい作品をつくってくれよ」
その代わりおれはおれの考えで動くとはいわなかった。加奈は軽く驚きの表情を浮かべ、一拍おいてにっこりと笑う。悪くない笑顔。
「それじゃだめだよ、仕事なんだからなんて、私はいわないよ。ほんというと今けっこう苦しいから。だけどこのドキュメンタリーがお金になったら必ず配当するわ。マコトくん……」
加奈はおれをまっすぐに見る。目の光り。
「なんだよ」
「あんたけっこうカッコいいよ」
ありがとうといった。なぜか素直によろこんでしまった。おれはそのころから加奈にかたむいていたのかもしれない。
バカみたい。交通事故、食中毒、花粉症。恋なんて不運といっしょだ。必ず不意打ちをしかけてくるし、逃げきることも絶対できない。
それにしても、相棒がたくさんできる春。
◆
手始めにレッドエンジェルスの頭、京一に取材をしようということになった。シヴィルウォーにビデオカメラを入れるための挨拶を兼ねて。タカシのほうはいつでも会えるのであとまわし。
すぐに困った。おれはエンジェルスには手づるがない。タカシにPHSをいれて京一の電話番号を聞くわけにもいかない。それは筋違い。しかたがないので危険だがエンジェルスの本拠地に、アポなしで直接会いにいくことにした。悪名高い東池袋のエンジェルパークへ。
突撃! となりのギャング団。
◆
東池袋中央公園はサンシャインシティの横にはりついた長方形の公園。入口は四列の木が一直線に植わって、そのあいだは通路、真ん中が広場、一番奥が幅二十メートルの段違いの噴水になってる。昔はビル街の憩いの広場。だが内戦からこのかた、レッドエンジェルスの集会場兼司令センターになっていた。もっともおれはエンジェルパークになってからはいったことはないけれど。
加奈のバイクで公園の入口に乗りつけた。快晴のウィークデイの午後。春風に揺れるのどかな新緑の木々。だが、その木陰には赤い歩哨が四人。植栽一列にひとり立っている。ポルシェかレイバンのサングラスに赤のTシャツかポロシャツ。やつらは掃海艇の乗組員みたいに油断なくあたりを見まわしていた。第一チェックポイント。
おれたちは赤い歩哨を刺激しないように、ゆっくりと動く。加奈はベータカムを肩にのせた。目を見交わす。準備完了。駐車場の鎖みたいな金のチェーンを首からさげた手近なガキに声をかけた。
「レッドエンジェルスに取材を申しこみたい。上のほうに話を通してくれないか」
そういうとおれは加奈の名刺を渡した。四人のひとり、まだ小学校の高学年くらいのチビが名刺をもって噴水に駆けていく。おれたちは残りの三人に取り囲まれた。水のように平静を装う。
「ねえ、あなたたち、待ってるあいだに撮ってもいいかな」
能天気。加奈はTPOなんて言葉は知らない。すると目を細めてにらんでいた三人が顔を崩した。まだ子どもの笑顔。
「あとで許可が出たら、撮ってくれよ。カッコよく、殺し屋みたいに」
そういうと胸のまえでエンジェルスのハンドサインをつくる。のぼせたガキ。だが、このお子ちゃまが切れるとどうなるか、この街のやつならみんな知ってる。
◆
チビが戻ってきた。連れは三人の女。ぶかぶかのジーンズにオーバーサイズの迷彩アーミージャケット。戦いの女神。京一にはこんな決死の親衛隊がいくつかあるそうだ。こいつらの噂はGボーイズのあいだでも有名。どんなに強い男でも、ひとりきりなら絶対逃げろ。あたりまえだよな。とうがらしスプレーを顔にかけられ、改造スタンガンで煙が出るほど電撃されて、特殊警棒や鋲付きのフィールドブーツで打ちまくられたら、マイク・タイソンだって白目をむく。
なかのひとりあごのとがった美人が、おれの全身をなめるように見てからいう。
「あんた、知ってる。マコトだろ。なんでも屋の。あんたはGボーイズとグルじゃないのか」
「違うよ。一般市民。おれはどっちのサイドにも立たない」
正義はどちらにもないからとはいわなかった。まあその他大勢のサイドにもそんなものないのかもしれない。
「あんたたちは親衛隊のどのグループなんだ」
「キャンディーズ」
美人にいった。
「やっぱり、あんたがランちゃんなの」
戦いの女神はカミソリみたいに薄く笑う。
◆
おれたちは歩哨から親衛隊に引き渡された。まわりを囲まれたまま、奥の噴水にむかう。噴水まえのベンチには十数人のガキ。思いおもいの格好でくつろいでる。いろんなトーンの赤がたくさん。その中央で背をすっきりと伸ばして座るガキが、おれたちへ顔をあげる。
「天使長の磯貝だ。用件は?」
まわりを剃りあげ頭のてっぺんだけ平らに残したフラットトップ。日焼けしたくどい顔に白のドルチェ&ガッバーナの上下。左手のパテック・フィリップは切手くらいの厚さ。
おれは加奈の仕事とサンシャイン通り内戦のドキュメンタリーの話をした。どちらの陣営にも肩入れはしない。仕事は長期にわたるだろう。黙って聞いていた磯貝がいう。
「その取材を受けるとおれたちにメリットはあるのか」
ないといった。名前くらいは売れるかもしれないが基本的にはない。取材に応じなきゃならない義務など誰にもない。
「だけど、誰かがここで起きていることを、みんなに知らせなきゃいけないわ」
重いベータカムをかついだまま加奈はいう。こめかみを流れる汗の滴。
「どちらにしても、直接あんたたちのヘッドに会って話を聞きたい。それはあんたの一存で決められることじゃないんだろ? あとで電話してくれ」
おれがそういうと加奈はおれの耳に口を寄せる。くすぐったい息。今この景色を撮る許可をもらえないかしら? あまり欲ばるなといい返すと、誰かのベルが鳴った。磯貝が尻のポケットから携帯を取りだし小声で話す。そうか、そうか、わかった。
「なあ、あんたたち、忙しくなりそうだぞ」
磯貝が唇のはしをつりあげる。
「なにか事件なの」
加奈の声が緊張する。
「ああ、すぐに飛んでいきな。春日通りでもめごとだ。Gボーイズのアホがピザ屋のバイクを襲った。アルバイトのブルゾンが赤かった。もっともな理由だよな」
磯貝がそういうと、同時に加奈の携帯からもメロディが流れた。加奈はありがとうというと携帯を無視して走りだす。肩には十キロ近いベータカム。
女が強いのはなにもエンジェルスだけじゃない。
◆
春日通りの事件はたいしたことなかった。気の弱そうなピザ屋のにいちゃんが顔から血を流して、歩道のへりに座ってるだけ。あたりの通行人は気にもとめずに通りすぎる。横にはパトカー。Gボーイズはとっくにどこかに雲隠れ。カメラはおれたちが一番乗りだった。救急車も呼ばずにパトカーで病院に送られるアルバイトを撮って収録終わり。加奈に聞くと、あまり金にはならないかもしれないという。
バイクに戻ると携帯が鳴った。話している加奈の表情が明るくなる。
「どうだった」
「ヘッドの取材OKだって。今夜十二時、さっきの公園で」
伝説の第一天使と真夜中のアポがとれた。ラッキー。おれは加奈と別れ家に戻った。店番をしながらようやく真剣に考え始める。この内戦をとめるためにおれが打てる手を。
いつも通りなにも名案は浮かばなかった。
◆
その夜は、日が暮れるころ西のほうから走ってきた雲が空にふたをして、天気は荒れ模様になった。真夜中の五分まえ、加奈のSRは東池袋中央公園の正面入口に停まる。春の嵐に揺さぶられ白い葉裏を見せる木のしたには、昼とは別な歩哨が四人。今度はわざわざ磯貝とキャンディーズがおれたちを出迎えてくれる。ランちゃんに笑いかけたが、ニコリともしなかった。緊張してるみたいだ。まわりの人間にこれほどの緊張感を与える尾崎京一というのは、どんなガキなのか。嵐の雲みたいに湧く興味。
石畳の園路を抜けて、噴水まえのテラスへ。ゆるやかなカーブを描く石張りのベンチの中央には数メートルの空きがあり、その真んなかにガキがぽつんとひとり座っている。おれたちがベンチの正面に立つとやつも立ちあがる。あたりにはべる四十人分の視線が赤色レーザーのようにそいつに集中して、やつがヘッドだとわかった。京一はたくさんの視線の圧力を鏡のように軽々と撥ねる。光りを反射しても傷ひとつつかない鏡。
黒のジーンズに素足で革のサンダル。上半身は裸で茶色のスエードベストだけ。たてがみみたいな金髪。太い首に革ひものチョーカー。その先には銀の翼のペンダントトップが揺れてる。半円形に発達した両肩の筋肉に赤い翼のタトゥーがひとつずつ。
顔はなんといったらいいのか。プライドの高さと傷つきやすさと真夜中の森の静けさを、でたらめに混ぜあわせたような顔。決してキムタクみたいなハンサムではない。だが、吸いこまれそうな匂いのあるやつだった。おれが誰を思いだしたかって? 死んだジム・モリスン。それにまったく違うタイプだがGボーイズの王様・安藤崇。
「よくきたね、あんたがマコトで、そっちが加奈さんだろ。よろしく」
涼しい声でそういうとおれに手を差しだす。意外ときゃしゃな手を握った。強く握り返される。引き締まった上腕に刻まれる筋肉の鋭い影。
こちらこそよろしくとおれたちはいった。
「で、なにを撮りたいんだ。なんでも協力するよ。まあ、戦闘シーンを撮らせろといわれても無理だけどな」
「じゃあ、まずあなたのインタビューからお願いするわ」
京一は拍子抜けするほどフレンドリーな笑顔でうなずく。周囲のエンジェルスがかたずをのんで見守るなか、加奈は京一の座るベンチの正面に三脚を広げ、ベータカムをセットすると、強力なハロゲンライトをつけた。京一は強い光りにもたじろがない。ほほえんでカメラを見る。録画開始。
「あなたが池袋のレッドエンジェルスのリーダーね」
「さあ、どうかな。おれはただこうして代表して話しているだけだ」
「エンジェルスには何人くらいの構成員がいるの」
「三百から五百。正確には誰もわからない。動員をかければその三倍くらい集まると思うけど」
「あなたたちは、なぜGボーイズと抗争事件を起こしているの」
「それはやつらが臭いGボーイだから……」
真夜中の公園に響く拍手とブーイング。
「それに、やつらが古い国で、おれたちが新しい国だから。歴史を勉強してみな」
新しい王は皮肉にいう。
「ねえ、なぜあなたたちのところに、ちいさな子どもまで集まってくるのかしら」
その答はおれでもできる。京一の顔からは感情が消された。
「ガキどもにはモデルがない。身近なところに目標になる大人がいないし、夢も見せてもらえない。おれたちはモデルと絆を用意する。自分が必要とされている充実感、仲間に歓迎を受ける喜び。規律と訓練。今の社会では得られないものを、力をあわせ見つける」
加奈は石畳に腰を落としファインダーをのぞいたまま質問する。声が強くなった。
「それで、子どもたちを戦闘員に仕立てあげる?」
「なんなら殺し屋にといってもいいよ。だが最初に手を出したのはGボーイズだ。自衛のための戦力は憲法の枠内なんだろ。おれたちはアメリカのガキみたいに軽機関銃や手榴弾をもってるわけじゃない。しょうがない。池袋ではガンジーは生き残れない」
ベータカムの横からおれが口をはさんだ。
「それじゃ、この内戦が終わることはないのか」
「ストリートにはいつも戦いがあった。今はその戦いに名前がついたというだけだ」
再び拍手と歓声。サンシャイン通り内戦か。京一は言葉で突っこんで弱みを見せるようなやつじゃない。新聞の社説程度の説得など、やつの鏡の表面にさえ届かないだろう。
「それじゃあ、あなたの個人的なことを聞いてもいいかしら」
うなずく。
「あなたの家族は」
夢見るような笑い。
「死んだよ」
「みんな?」
「そう。アメリカに住んでたころ交通事故でおれの両親は死んだ。もともと心が壊れてた弟は、半年後に自殺した。日本に帰ってきていっしょに暮らしていたばあちゃんも死んだ。肺炎。苦しまないから老人にはいい病気だとおれは医者にいわれた」
「じゃあ、ひとり暮らしなの」
「ああ、生命保険のおかげで金だけたっぷり残った。おれのまわりにいる人間はみんな死んでいく。だけど、まわりで人が死ぬと、自分もすこしずつ死んでいくんだ。愛してる人が死んで、愛してくれる人が死んで、自分の死を待ってるだけのときに、おれはここにいる仲間と出会った。やつらはおれのために死ぬだろう。おれもやつらのために死ぬだろう。ためらう理由はない。どうせいつか死ぬんだ。それに死んでしまえば、もうこれ以上誰かが死んでいくのを見なくてすむ」
春の嵐が揺らす木の葉のざわめきの他に音はなかった。京一は薄い笑いを口元にはりつけたまま話し続けた。あたりを取り囲むエンジェルたちの視線が、鉄さえ蒸発させそうなくらい熱くなっているのがわかる。絶対のカリスマ。こいつらに手を出すなら警察だって本気でなきゃあぶない。
「すこし、しんみりしすぎたな。踊ろう」
シャイな笑顔を見せる。ひときわおおきな拍手と歓声。
「おれ、シカゴのバレエスクールにいたんだ。両親の事故は卒業公演を見にくる途中だった」
そういうと肩と首のストレッチを始める。薄い皮膚のしたでうねる筋肉。エンジェルスの誰かが、事務机ほどあるばかでかいCDラジカセを、台車にのせて運んでくる。うやうやしく押されるスイッチ。暗がりで震えてる足の折れた犬の泣き声みたいなハーモニカで、音楽が始まった。
◆
曲はインエクセスの『スイサイド・ブロンド』。おれは踊りなんて詳しくない。だが京一の踊りが、そこらで見かけるヒップホップダンスと違うのはすぐにわかった。クラシックバレエとストリートダンスの遺伝子レベルの融合。京一オリジナル。
噴水まえの一段低くなったテラス。幅二十メートルのステージをいっぱいに使って京一は踊った。背景は新緑の木々と段違いの水石。空に目をやるとサンシャインシティの白とトヨタ・アムラックスのメタリックブルー、それにアーバンネットビルの灰色ピンクが、そそりたつ絶壁になってエンジェルパークを取り囲んでいる。
あたりのガキは息をとめて京一のダンスを目で追う。公園入口にいた歩哨さえ集まっていた。音楽はドアーズの『ライト・マイ・ファイア』からジミ・ヘンドリックスの『リトル・ウイング』へ。ベストを脱いで上半身裸になった京一が、つぎつぎと意表をつくステップを繰りだす。肋骨のうえについた薄い筋肉が、あれほど見事に浮きあがっている身体を、おれは初めて見た。やつの身体にはセロファン一枚ほどしか脂肪がついていない。三曲跳ねまわってから京一はベータカムにいう。
「わかるかな。死んだやつだけがおれを踊らせる。今夜は気分がいいな。あれをかけてくれ」
周囲のエンジェルスから長いため息が漏れた。なんだかわからないが、つぎはとっておきのダンスらしい。春の夜の湿った空気が、熱をもったガキどものあいだに染みわたり、誰かと誰かがふれあうだけで、火花が飛びそうだ。
◆
裏通りを忍び足で歩くようなピッチカートでその曲は始まった。どこかで聴いたことのある曲。第一ヴァイオリンから第二ヴァイオリンに受け渡された主題が何度も繰り返されて、夜の公園に波紋のように広がっていく。
京一は噴水に飛び乗った。水に濡れた御影石のステージに小走りで円を描く。ひとつのメロディにひとつの円。描き終わるとステージの反対側まで飛んでいきもうひとつの円を描く。幅二十メートル、奥行五メートルほどの水盆に離れて置かれたふたつの円。三分足らずのその楽章で、京一は舞台に想像上のセットをつくりあげる。
一瞬の休止のあと、激しい全奏が始まった。ヴァイオリン二、ヴィオラ、チェロ。京一は片方の円のなかでは、足元の水を跳ね散らしながら激しい踊りを舞う。ひとしきり踊るともうひとつの円に飛んでほとんど動きのない、だが筋肉には非情な緊張を要する静かな舞を見せる。動と静、静と動の繰り返し。しかし音楽がもりもりと盛りあがってくると、ふたつの円のあいだの行き来がどんどん激しくなった。ふたつの電極のあいだを往復するひと粒の電子のようなスピード感。
そしてエンディング。ふたつの円の真んなかで京一は高く高く跳んだ。嵐の雲の底を指先でかきとって降りてくる。水滴も飛ばさずにつまさきから柔らかく着地すると、そのまま浅い噴水に倒れこむ。したから見ていたおれには、暗い御影石の舞台に京一が吸いこまれていくように見えた。
静寂。嵐の吹き荒れる音が夜の公園に帰ってきた。
◆
その場にいた全員が身体のなかからありったけの息を吐きだすと、ひと呼吸おいて歓声が爆発した。ベータカムを操作する加奈の横顔を見ると、ファインダーに押しつけた目のふちが興奮で赤くなっている。
京一はジーンズから水をたらしながら立ちあがり、噴水のへりに腰をかける。荒い息。いきいきと濡れた目。思わずおれはいった。
「すごいな」
「ああ、ありがとう」
「バルトークの弦楽四重奏第四番」
その夜、初めて京一は驚きの表情を浮かべた。
「そうだ。第四楽章のアレグレット・ピッチカートと終楽章のアレグロ・モルト。この街のガキでこの曲を知ってたのはあんたが初めてだ」
「たまたまCDで聴いてただけだよ」
「おれもあんたの噂はいろいろ聞いてる。ストラングラーとか黒いワゴンとかね。だけどあんたはGボーイズの専属だと思っていた」
そういうと京一は首からチョーカーをはずす。揺れる銀の翼から落ちる水滴。
「これ、もっていきな。おれたちのどんな集会にも顔パスになる通行証だ。なにかトラブルに巻きこまれたら、これをうちのメンバーに見せるといい……」
そこで息を切ると、京一は腹から声を響かせた。
「レッドエンジェルスはあんたたちを歓迎する」
拍手と歓声。アンコールの多いコンサートみたいな夜。
「マコト、あんたに質問がひとつある。今の踊りはどんな意味だったと思う」
京一は目にかかる汗を指先で切り飛ばして笑う。あてずっぽうでこたえた。
「激しい円は生きていること、静かな円は死んでること。そのあいだを激しく行き来する、それが踊ることなのかな」
京一は肩をすくめる。
「そういう解釈もあるんだろうな。だが、今のダンスに生きてるなんて希望はない。あのふたつの円は死と死を想う心を振りつけたつもりだ。死ぬことばかり考えて、死でも生でもない暗闇に落ちていくダンサーの物語なんだ」
夢見るような笑顔。八分間の自伝か。気休めをいってもしかたない。おれは黙ったままうなずいてチョーカーを受け取った。
死の天使からのプレゼントは湯気がたつほど熱い。
◆
その夜、加奈はそこにいたエンジェルスのメンバーをひと通り撮影した。身体のどこかに赤をまとっている以外は、ひとりとして同じ格好をしたやつがいない。十歳から二十歳くらいまでの約四十人。熱帯動物園。個性を尊重する教育方針が必要なら、役人はレッドエンジェルスを取材するといい。
加奈とおれが公園を離れたのは真夜中の二時。SRはほんの数分で池袋駅東口に着く。終電がとうにすぎて駅まえのロータリーに人影はまばら。バイクをおりてヘルメットを返そうとすると加奈がいう。
「これから一杯飲みにいかない? 帰っても、とても眠れそうにないよ」
うなずいた。京一のダンスを見てからすぐ眠るには、ゾウがひっくり返るくらいの睡眠薬がいる。
「マコトくん、どこかいい店知ってる?」
「サンシャイン通りに戻ってくれ」
SRにまたがった。500cc単気筒のエンジンは、おおきな獣の心臓のようなビートを刻む。ぬるま湯のような五月の夜を裂いてバイクは駆けた。
◆
ひかり町の昨日の店に加奈を連れていった。客はゼロ。昨日と同じスツールに座り昨日のバーテンに注文する。
「同じのふたつ。あとジミ・ヘンドリックスの『エレクトリック・レディランド』」
おぼえた手はすぐに使ってみないとね。氷の球を打ちあわせて乾杯。おれたちよりひと足早く酔っ払ってるジミの歌声がすぐに流れてきた。『エンジェル』。加奈はいい曲だといった。おれはいつもよりピッチをあげて飲み始める。やばくならない程度にぼかしながら、今までの事件を話した。池袋の表と裏、それに裏の裏。加奈は笑って聞いていた。
おれは口説きモードにはいっていたのかもしれない。そんなのはめったにないことなんだけど。
◆
店を出たのは明け方の四時。閉店だというのでおれたちはしぶしぶ腰をあげた。木の階段をおりる加奈の手には、店で買ったお持ち帰り用のバーボンがひと瓶。真っ暗な路地に立ったまま、加奈に聞く。
「どうする? バイクは無理だろ」
「歩く。あたしのところで朝まで飲もう」
そういうとどんどん歩いていってしまう。おれは加奈が都内に住んでいることを祈った。だが、五分も歩くと、加奈は川越街道に面したビルにはいっていく。道路に突きでた看板にはウィークリーマンションとあった。白いタイル張りのビルを見あげているとエレベーターホールから声がする。
「早く。それとも九階まで走る?」
◆
ウィークリーマンションのなかをのぞいたのは初めてだった。ドアを抜けると左手にユニットバスの扉。奥は縦長の八畳くらいの部屋。本棚も机もベッドも同じ白っぽい建材でできてる。机のうえにはビデオの編集用機材に業務用モニタ。ノートとペン。ストップウォッチ。加奈の部屋には女らしい小物などひとつもなかった。
備えつけの冷蔵庫から氷を出して、加奈がオンザロックをつくってくれる。そのころにはおれたちの話ときたら、でたらめなバカ話ばかり。腹の皮をよじって笑いながら、何杯目かのおかわりをするとき、加奈とおれの手と手がふれた。百万ボルトのスタンガンみたい。衝撃で全身熱くなり指先まで心臓のどきどきが届いて、気がつくとおれたちは初めてのキスをしていた。どちらが先にしかけたわけじゃない。
キスはふたりの真んなかでした。
◆
キスのあとでトレーナーをあわてて脱がそうとすると加奈がいう。
「だめだよ、急いだら。今から十分間キスをしたら、つぎに進もう」
そういうと立ちあがり明かりを消して、机からストップウォッチをもってくる。
「さあ、始めよう」
加奈はストップウォッチを押した。
おれは加奈の唇に唇でふれた。厚くてやわらかな輪郭を舌のさきでゆっくりとなぞる。加奈は硬くした舌をおれに突きだす。できるだけ深く吸ってみた。甘い唾液。飲ませて欲しいと加奈もいう。唇の裏、歯ぐきの裏、前歯のゆるやかなアーチ。舌のさきに届くかぎり深く、互いの口のなかを探険する。自分でさえ忘れてるくぼみ、古傷、ひだ、すきま。舌は小魚みたいに泳ぎ反転する。加奈の口のなかのなめらかなところとざらざらしたところを地図をつくるように確かめ、むきだしの歯と歯をこすりあわせる。いったいキスになにができるのか、生まれて初めての発見に、おれが震えていると加奈がいった。
「もう、十五分たったよ。マコトくん、あなたのキス素敵」
それでおれたちはつぎにすすんだ。ゆっくりと。キスを続けながら。
◆
思いだしただけで胸が痛くなるようなキスってあるよな。誰かの歌にもある。いつかきっと愛の謎が解けるって。その夜はおれの愛の謎が初めて解けた日だと、個人的には思っている。心と身体をつなぐ謎。初恋なんて幼稚園の年長さんでするもんじゃない。
おれたちは、互いに服を脱がせあい、キスのとき口でしたのと同じように、全身の肌と粘膜を探った。シャワーはいいのと聞くと、加奈は浴びてはダメという。汗とほこりとその人の匂いが大事。お刺身を水で洗って食べる人なんかいないでしょ。
つぎの三十分、おれは加奈の身体のうえで長い旅をした。筋肉質の身体のあちこちに、吹き寄せられたように柔らかな脂肪のたまりがある。丘と高原、森と泉、塔と窓。空から目で楽しみ、指先で張りを確かめ、鼻と舌で香りを味わう。加奈の体液は塩をふった牛乳みたい。気持ち悪くなんかぜんぜんない。カートン一本でも飲みたいくらい。
「さあ、きて」
それまで何度も耐えていたおれは、ようやく加奈のなかに潜った。
なんだか底の見えないひどく熱い温泉みたいだ。
◆
みえを張るわけじゃないが、いつもならもうちょっと長くもつんだ。だけど、そのときおれの忍耐力はもう限界だった。二度三度と腰をあわせるだけで、身体じゅうの熱が先端に集まってくる。おれはいった。
「加奈、やばい。もういきそうだ。避妊もしてないし」
閉じていた目を開き、眉を寄せたまま加奈はおれを見あげる。ひどくセクシーな目。見ているだけでヒューズが飛びそう。
「ダメ、私もいきそうなの」
そういうとおれにまわした手でおれの尻を強くつかんだ。加奈は自分の腰をしたからこすりつける。
「やばいって。そんなことしたら……」
「いいの、全部ちょうだい。私は絶対赤ちゃんができない身体だから。ダイジョブ」
なにが大丈夫なのか意味がわからないまま、つぎの瞬間おれはいってしまった。ほとんど同時に加奈もいく。遠くから聞こえる長い叫び。
ふたりのあいだに架けた橋を通して、おれの熱が加奈のなかに何度も何度も流れこむ。このまま続いたらからっぽになっちゃうと怖くなったころ、ようやく脈動がやんだ。
それでもおれたちの震えはなかなかとまらなかった。
◆
「私ね、出身は福島なの。東京の大学を出て、田舎に戻って地元のテレビ局に入った。それで希望通り報道の仕事にまわされたわ。彼と知りあったのはその職場」
加奈は氷を口に入れたまま昔話を始める。
「彼って」
「私の元だんな。彼は先祖が福島の城代家老だったとかいういい家の跡取り息子。頭もよかったし仕事もできて、ヴァレンタインデイにはチョコの山ってタイプ」
「ふーん」
不機嫌そうな自分の声に驚いた。なぜおれが妬く必要がある。
「なぜか、私のことが彼は気にいったんだよね。お嬢さんじゃないところが新鮮だったみたい。私は彼の子どものころからの友達ってちょっと苦手だった。イブニングドレス着て、イタリアオペラにみんなでいくってのもちょっとね」
肩を出したドレスでベータカムをかつぐ加奈を想像した。盛りあがる僧帽筋。
「今なんか変なこと考えたでしょう。笑ったな」
加奈はそういうとおれの乳首に氷を押しつける。いちゃいちゃ。昔話はしばし中断。
「それでね、私は嫌だったけれど派手な結婚式をあげた。最初の二年は楽しかったな。ねえ、マコトくん、不妊症の定義って知ってる」
首を振った。
「国際不妊学会では、子どもを望んでる夫婦のあいだで二年間子どもができないと不妊症なんだって。結婚して二年たってむこうの家の両親が心配し始めたの。もちろん私は気にしてなんかいなかった。彼はいったわ。おふくろを安心させるためだけでも、ふたりで産婦人科にいくかって」
「そうか」
「検査の結果、彼はシロで私はクロ。私には排卵障害がある。原因は卵巣にあるかホルモン分泌を指令する脳にあるかわからない。それから二年間は地獄だった」
加奈は淡々と話す。
「毎朝目がさめて最初に考えるのが体温計のこと。グラフをつけて医者にもっていくと明らかに排卵がない。何度も続く血液検査と膣検診。あれレイプみたいで嫌なんだ。HCGっていう排卵誘発剤を筋肉注射するんだけど、涙が出るくらい痛くて、その日は足をひきずらなきゃ歩けない。でもね、注射をした日とそのつぎの日はセックスをしなくちゃいけないの。私が痛いのがわかってるから、彼はなるべく手早く済ませる。お勤めね。毎回が楽しみなごちそうだったセックスが、立ち食いのジャンクフードになっちゃった」
おれは黙ったまま加奈の髪に手を置いた。加奈は泣いていない。夜を見てるだけ。
「聞いてる。続けてくれ」
「わかった。でも、それはまだ地獄の第一層だったの。不妊治療はつぎの段階にすすんだ。今度はパーゴナールっていう薬。この薬の使用量を決めるためには二十四時間のおしっこを全部集めて病院で検査しなきゃならないの。私はおおきなポリタンクをもってテレビ局にいったわ。ロケ、おしっこ、編集、おしっこ、打ち上げ、おしっこ。考えてみると人間て嫌になるくらいトイレにいくんだよね。おしっこでいっぱいのタンクをもってすごす毎日が、どんなにロマンチックで意気あがることか。ちょっと想像つかないよね」
加奈はそういうと低く笑う。
「それで薬の分量が決まると今度は一日おきの筋肉注射が始まった。吐き気と痛みと下痢。それでもがんばってセックスをする。でも何カ月か無理するうちに、すっかりむくんでジーンズもはけなくなっちゃった。妊娠もしてないのにお腹が丸々ふくらんで。それで医者にいくと両方の卵巣が腫れあがって、腹水がたまっているって。卵巣の過剰刺激なんだって。二週間入院して、お見舞いにきた彼のお母さんに『もうちょっとがんばりましょう、体外受精もあるし』といわれて、私は子どもをつくることからも、結婚からもおりることにした。彼のことは好きだったんだけど。しょうがないよね、私が私じゃなくなるくらいがんばってもダメだったんだから」
しゃくるような長いため息。重ねた手に力をこめた。
「そのころは街でベビーカーを見るたびに、私は不完全な女だって責められてる気がしたよ。気がつくと世のなかって赤ちゃんでいっぱい。大学時代の男友達に相談すると『おれが子どものつくりかた教えてやろうか』なんていう。最低だよね。グーで思いきり殴ってやった。それで離婚して、慰謝料をちょっともらって、東京でフリーのビデオジャーナリストを始めたの。今、決まった住まいはないんだ。いいネタを追って走りまわるだけの毎日だから。それでもあのころよりずっとましだけどね。私の話はこれでおしまい。退屈した?」
返事はしなかった。目のはしから耳へ流れ落ちる涙の滴をそっとなめた。加奈の味がする。彼女が声をあげて泣き始めたのは、おれが抱き締めてからだった。
◆
それから、しばらく抱きあって、もう一度セックスした。閉じたままのカーテンに朝の光りがさして薄青く光ってる。今度のセックスは水のうえで揺れる小舟のような優しいやつ。さすり、ほぐし、なぐさめる。そんなセックスがあるんだってことも、おれはその夜初めて知った。自分にそんなことができたんだってこともね。
二度目のセックスのあとで、おれたちは手をつないで眠った。バカみたいだろ。だけど、その夜のことを思いだすたびに、おれは今でもひとりで泣いたり笑ったり、部屋を飛びだしてあてもなく街をうろつきまわったりする。
誰かと本当につながっていると感じた初めての夜。恋が始まるのはそんなときだ。
世界はどこもかしこも花ひらいている。
だって、おれ自身がその花のひとつなんだ。
◆
つぎの朝は、耳障りなベルで目がさめた。ベッドの横に脱ぎ落としたジーンズのポケットからPHSを出して、裸のままこたえる。
「もしもし」
「マコトか」
驚いた。京一の声。加奈も上半身を起こしておれを見ている。ちいさな乳房の下側の丸み。
「Gボーイズのやりくちが知りたければ、すぐ東池袋公園にいくといい」
通話は切れた。氷をすかして見る炎のような声。
「なにがあったの?」
加奈はシーツのしたで下着をつけ始めた。おれの顔色が変わったのがわかったらしい。
「わからない。だけど京一の様子がおかしかった。急ごう」
おおあわてで服を着ると部屋を飛びだした。ほんの二、三時間まえ、酔っ払って歩いてきた道をおれたちは走った。バイクを拾いにいかなきゃならない。一時間も眠っていないのに、おれはなぜか異常に足が軽かった。五月終わりの快晴の朝。街はまだ眠っている。
走りながら加奈はおれに手を伸ばす。
うれしかった。おれは加奈の手をひいて池袋の裏通りを駆けた。
◆
東池袋公園はサンシャイン60階通りの北側なので、Gボーイズの縄張。ひかり町から直線距離でほんの三百メートル。バイクなら一分フラット。京一の電話から十分後には、おれたちは公園に着いていた。中層ビルに囲まれた静かな児童遊園。びっしりと植えられた木々のなかに、鉄棒や滑り台や砂場が散らばっている。見あげればまぶしい新緑のドーム。
だが、今その一角に人が集まり始めていた。やじうまと警官数人。遠くから聞こえるサイレン。加奈はベータカムをかつぎ近づいていく。
現場はプレハブの公衆トイレわきだった。
黒っぽい土のグラウンド一面にぶちまけた真っ青なペンキ。半径五メートルほどの青い海ができてる。植えこみやベンチにもペンキが飛んで、そのあたりはなにもかも真っ青だった。シュールな演劇の舞台みたい。そして青の中心には、深紅の布に包まれたそれが横たわっていた。強烈な赤と青の対比で目がちかちかとハレーションを起こす。
なぜだろうか。そばによって開いて見なくても一瞬でわかった。それは死んだエンジェル。一○○パーセント間違いない。死んだガキを包むのは赤い布。元の顔がわからなくなるほど殴られて、スイカみたいにふくれあがった頭部が赤い布のあいだからのぞいてる。昨日の集会にいたやつかもしれない。
加奈はすべてを冷静にベータカムに収めていく。赤い死体、青いペンキの海、新緑の公園、パジャマ姿のやじうま、硬い表情の若い警官、そしてまた、赤い死体のふくれた頭。
救急車がきて、増援のパトカーがきて、現場のまわりを青い建築用のビニールシートがおおい隠すまで、さらに十分かかった。
◆
「池袋のカラー戦争に最初の死者」
加奈の撮影した映像がテレビニュースで繰り返し放映されて、その日の夕方からサンシャイン通り内戦は全国区になった。それまではローカルニュースに思いだしたように取りあげられるだけの小ネタだったのだが。
こぜりあいはそれ以降、かえってすくなくなった。どちらのチームでも単独で街を歩くやつがいなくなったから。その代わり、いざ衝突となると徹底的な潰しあいになった。たいていは十対三とか、二十対五なんていう一方的なリンチ。殴られ、切られ、ロープをつけてクルマでひきまわされたりする。死者が続かないのが不思議なくらい。もっともケガをしたくらいじゃ誰も警察に届けたりしない。水面下の闘い。
誰もいないはずの裏通りで真夜中いきなりクルマが炎上し、それぞれのチームご用達の店のウインドウは叩き割られる。警察も抑えこみに必死になったが、よく組織化され池袋の街の隅々まで知りつくしたガキどもを静かにさせるのは、容易なことじゃない。
おれのPHSには非番のなくなった吉岡から不平の電話がはいり、礼にいからは一日置きに街の様子を報告するよう頼まれた。
おれは燃えあがる街をレポートした。航空燃料みたいな憎しみがストリートにあふれている。爆発する炎の勢いはとどまることがない。
打つ手もなく街が燃え落ちていくのをおれは見ていた。シヴィルウォーの絶頂期はそれでもまだ始まったばかりだ。
◆
週刊誌の記事によると、死んだガキは渡辺一正十九歳。やはりレッドエンジェルスの準幹部メンバー。黒いニットキャップをかぶり、唇のはしにピアスを入れた顔写真を見て、思いだした。集会のとき、磯貝のとなりに座ってたちょっとナンパなやつ。
池袋警察署には「東池袋公園少年殺人事件」の捜査本部がつくられ、本部長には署長の横山礼一郎警視正が就任した(あとで聞いてみるとここでも礼にいはお飾りで、実際に捜査本部を取りしきるのは本庁の捜査一課だという、そりゃあ論文でも書きたくなるよな)。警察では敵対する少年ギャング団Gボーイズを厳しく取り調べ中。だが派手な事件のわりには目撃者もなく、遺留品もすくないので捜査は難航しているそうだ。
おれは事件の翌週、タカシにPHSを入れた。いつものようにすぐには出ない。しばらく待たされたあと、取次が二回。
「タカシか? なんか話すだけでもたいへんだな」
「ああ、転送電話をあいだにはさんでる」
「そんなにやばい状況なのか」
「この一週間、おれは自分の部屋で寝てないよ。メンバーの部屋を泊まり歩き、日中はクルマで移動を続ける」
GボーイズのGMCを思いだした。ミニバーとテレビ付き。もうとっくに別なクルマに代えているだろうが。
「おれを殺すという脅しが毎日ある。連絡さえ取れるようにしておけば、住所不定でも警察はかまわないそうだ」
おれは公園の一件を聞いてみた。タカシと殺しはおれのなかでは、絶対につながらない言葉だ。
「うちのメンバーのあいだでも、調べている。だが誰がやったのか、まるでわからない。もっとも跳ねあがりのGボーイがあれをやっていて、口をつぐんでいるのかもしれない。おれにはわからない」
「もし、犯人がGボーイズならどうする」
「むずかしい質問だ。だが、警察に引き渡すだろうな。それで停戦できるとは思わないが。そうなるといい弁護士が必要だな」
タカシはあいかわらずクール。おれは加奈の取材の話をしたが、遠慮するという。あたりまえだ、おれだってタカシならそうする。しかし、Gボーイズのあいだで、おれと加奈に特別な取材許可を与える通達を流してくれるという。ありがとうといった。それからおれはいわなくてもいいことをいった。
「タカシ、死ぬなよ」
やつは鼻で笑う。
「おれが死ぬように見えるか」
見えない。だが、おれは京一のことを思いだしていたんだ。嵐の夜の死と死を想うダンス。あの冷たい手がつぎに誰の頬をなでるのか、いったい誰にわかる?
◆
ガキどもが人間性の貴重な一面をつぎつぎと見せてくれるので、加奈とおれはてんてこまいになった。感染しやすい憎しみと酩酊しやすい暴力。ビジネスとして見れば加奈には悪くない話。あの公園のビデオは記録的な値段で売れたらしい。
池袋の街が炎上しているそのころ、おれと加奈のあいだも燃えあがっていた。おれは加奈のウィークリーマンションにいりびたりになり、うちには何日かに一度着替えを取りに戻るだけになった。
取材とセックス。昼間は子どもたちが血を流す現場を撮影し、朝と夜は飽きることなく抱きあった。おれは猿になってたと思う。オクテが味をしめただけといいたければ、どうぞ。だけど、あんたのときはどうだった? 突然開いた扉のまえで立ちすくまなかったかい? 部屋のなかは光りでいっぱいだ。
ふたりだから起こせる奇跡を繰り返し、こんな仕組みをデザインした雲のうえの誰かに感謝するうちに、六月の第一週がすぎて東京は長い梅雨にはいった。
もちろん、おれも加奈もそんなことは気にしない。だってふたりとも、もう愛でびしょびしょだったから。
シャワー代わりのぬるい雨なら大歓迎だ。
◆
六月。池袋のビル街のてっぺんをかすめる低い雲から雨が漏れてくる。ゆるんだ水道みたい。だが、降り続く雨には燃え盛るストリートの熱を冷ます力はなかった。
加奈のビデオのストックは着実に増えていく。血でいっぱいのビデオテープ。そういうのはよく売れる。そのころから、現場でおかしな話を聞くようになった。それはたとえばこんなやつ。Rエンジェルスのガキがいう。
「Gボーイズには、羽沢組がついてる。ヤー公のうしろ盾。やつらはやることが汚い。おれたちにも同盟が、抑止力が必要だ」
Gボーイズのガキもいう。
「Rエンジェルスは京極会と手を組んでる。やつらはヤクザもんのぱしりだ。この街を守らなきゃいけない。やつらが欲しいのは金だけだ」
それで、おれと加奈は両方のチームに取材した。どっちで聞いても返事はいっしょ。
「おれたちは組んでないが、やつらは組んでる」
オウムになったガキども。いったいどうなってんだ?
◆
関東賛和会羽沢組は池袋のしにせの暴力団。おれは以前、組長の娘の失踪事件を手伝ったことがあり、いくらかコネがあった。中学の同級生もいる。
おれは加奈の部屋に戻るとサルにPHSをいれた。夜の十一時すぎ。
「マコトだ」
「ああ、久しぶりだな」
サルの声の背後にはプロ野球の結果を伝えるアナウンサーの声。
「なあ、サル、羽沢組がGボーイズと組んでるなんて話を、聞いたことないか」
「誰から」
「組のなかの誰かから」
「ないな。やつらが泣きついてきたなら話は別だが。そんなの高校野球にプロが手を出すようなもんだ。おれが下っ端だから知らされてないのかもしれないが、これだけ大騒ぎになってんだから、そんな裏があるなら組うちで臭いくらいはするはずだ」
「そうか」
「そうだな。それに今回のシヴィルウォーの件じゃ、池袋の店はどこも売り上げがた減りだ。うちが吸いあげる分も当然減ってる。ガキの戦争を喜ぶやつなんていないだろ」
おまえだってガキのくせにとはいわなかった。
「京極会って聞いたことあるか」
「ああ、南池袋でじわじわのしてるって話だ。やつらバックがでかいから、うちとしてもやりづらい相手だよ」
そういうとサルは関西に本拠をもつ広域暴力団の名をあげた。そっちの世界の松下電器。おおきいことはいいことだ。どこにでもある日本株式会社。
「すまないが組の上のほうでGボーイズとつるむ動きがないか、それとなく探ってくれないか」
「マコト、おまえ今度の件にも一枚かんでるのか」
「ああ、今度は思いきりかんでる。おれはなんとか、昔の池袋を取り戻したい」
サルはちいさく笑った。
「おまえが街の平和のためにひと肌ぬぐってわけか。まあいい、姫のときの借りもあるしな。やれるだけやってみる。ところでマコト、あのビデオ見たか」
「なんのビデオ」
「『ピースメーカー』ってやつ。平和をつくるものって意味なんだろ」
そうだとこたえた。サルは中卒、おれはかろうじて工業高校卒。だが、おれたちが学んだほとんどのことは、ストリートの学校で学んだ。サルはいう。
「マコト、おまえがピースメーカーになれよ。手伝うぜ。ガキの内戦なんて、もうたくさんだ」
ありがとうといってPHSを切った。確か有名な銃にも、そんな名前がついていたよな。ちょうど加奈が髪を拭きながらシャワーから出てくる。おれは欲望に負けて飛びついた。
なさけないピースメーカー。
◆
その夜、真夜中をすぎてから礼にいにPHS。池袋警察署長の仕事は、政治的な用向きばかりといっても、かなりの激務で十二時まえに礼にいが目白のマンションに戻っていることはめったにない。
「マコトか」
「ああ。礼にい、女いないの? いつかけてもすぐおれの名が出るな」
「バカ。これはおまえ用の携帯なんだよ」
おれは今日一日の報告をしてから、京極会と羽沢組の話をする。まだ噂話にすぎないが、特に京極会に注意してくれ。礼にいはマル暴の刑事に報告書をあげさせるそうだ。PHSを切るまえに新署長がいった。
「マコトのほうこそ、女はどうなんだよ」
おれは疲れと満足で寝息もたてずに眠っている加奈を見た。筋肉質の眠り姫。
「もちろん、ばっちりだよ。あんたみたいな秀才には、この恋の甘さはわかんないだろうな」
「マコト、今度『王子と乞食』ごっこしないか」
おれたちは笑って通話を切った。おれには王子はミスキャスト。
◆
つぎの朝はどんよりとした曇り空。おれはうちに顔を出してくるといって加奈のウィークリーマンションを出た。ぶらぶらとサンシャインシティまで歩く。
おれの首には京一にもらったチョーカー。揺れる銀の翼がサンシャイン60階通りの南側でもおれの安全を保証してくれる。もともと北側のGボーイズには顔がきいたから、今では好きなように動けるというわけだ。だけど、考えてみればおかしな話。今から一年まえには誰だって池袋の街を自由に歩けたんだから。
サンシャインシティの地下一階のドトール。おれは窓際に席を取るとPHSを出して、エンジェルスの天使長・磯貝の番号を押す。
「マコトだ」
「ああ、おまえか。なんの用だ」
「ちょっと話がある。ふたりきりで会えないか」
「いつ」
「今すぐに。おれはサンシャインシティにいる」
わかったと磯貝はいう。やつはやっぱりとなりのエンジェルパークにいた。おれがアイスラテを飲みながら待っていると五分後にやつがくる。リーバイス501の古着に赤と白のボーダーのカットソー。テレビのアイドルが着ればかわいい格好だが、磯貝だとどこかの格闘家のトレーニングウエアみたい。
十メートルほど手前でやつはおれにうなずく。店にはいってくるととなりに座った。
「今日はカメラはいっしょじゃないのか」
「ああ、ビデオがまわってちゃ話しにくいこともあるだろ」
磯貝は日なた水みたいな目でおれを見る。
「なあ、あんたのエンジェルスでの仕事って、どんな仕事」
「京一の参謀役、あとは金の流れの整理だな」
「じゃあ、実質的にエンジェルスを動かしているのはあんたなんだ」
「いいや。おれは組織の形を保っているだけだ。エンジェルスを動かすガソリンはやっぱり京一だ。おれには人は集められない」
磯貝はふっと息を吐く。力を入れて磯貝の目をのぞきこんだまま、おれはいった。
「京極会って知ってるか」
目の色は変わらなかった。だが、半分閉じた目のなかで、なにかが動いた気がする。やつは間を置かずにこたえる。
「噂は聞いてる。しかし、おれは知らんな。エンジェルスとしては、あんたに不名誉な噂を流されるのは迷惑だ。このつぎから、おれや京一のまえでそんな名は口にするな」
そういうと磯貝はおれの顔に顔を寄せてくる。目と目のあいだの十センチ。
「わかったな」
笑顔の形に歪めた唇のあいだから磯貝は漏らす。おれはやつの目をじっと見ていた。返事はしなかった。磯貝はスツールから立ちあがると、そのまま店を出ていった。
おっかない背中。
◆
夜八時すぎ、おれたちがサンシャイン60階通りを流していると、『風に吹かれて』のメロディが鳴った。携帯を耳にあてた加奈の表情を読む。今度はスクープみたいだ。目の光りが違う。そのころは両チームの顔見知りから、事件が起きるたびに連絡がはいるようになって毎日うるさいくらい。それでも加奈がベータカムをかついで出動するのは、四、五件に一回くらいの割合だった。
「今度はなんだ」
「ナイフ、お腹よ。救急車がもう池袋病院にむかうところだって」
最後の一節はサンシャイン通りを遠ざかる背中から。加奈は高校時代バスケットの選手で、実業団から誘いがあったそうだ。反復横跳びなんて福島県一だったんだから。もうでたらめに足が速い。
おれたちは裏通りに路上駐車したダットサンにむけて走った。梅雨いりしてから、加奈のSRからおれのパネルトラックに足を代えている。おれがジーンズのフロントポケットからキーを取りだすと、加奈は助手席のドアノブに手をかけて待っている。
「遅い、バイト代から引くよ」
冗談じゃない。一円も払ってないくせに。
◆
池袋病院は川越街道沿いにある白いタイル張りの建物。赤いちいさな救急病院の看板が歩道のうえにはりだしていなければ、どこかの保険会社の支店みたいな地味なつくり。すぐ裏に例の事件があった東池袋公園がある。おれは公園の小道にダットサンを停めた。加奈がベータカムをかつぐと、ちょうど救急車のサイレンが近づいてきてなさけなくとまる。
病院わきの夜間入口。ひとつだけ赤いランプが灯ったアルミドアの横に立って、加奈はビデオをまわし始める。観音の後部ドアが勢いよく開いて、救急車からストレッチャーがおろされた。白衣にヘルメットの救急隊員が二名。おれたちの目のまえをがらがらとストレッチャーを押していく。揺れる点滴。ガキは出血のせいか透きとおるように白い顔。首からくるぶしまでは白いカバーでおおわれ、靴底がまだきれいな新品のアディダス・スタンスミスが突きだしていた。痛々しい白のテニスシューズ。まだ中学生だろうに。
ストレッチャーのあとを幼い女の子がついていく。切れ長のちょっとつった目は真っ赤だが、涙を落としてはいなかった。身長は百四十センチもないくらい。小学校高学年じゃないだろうか。白のTシャツに赤いナイロンベスト、横に赤の三本線が入ったトレーニングパンツ。
女の子が消えるとアルミのドアがゆっくりと閉まった。
「いこう」
加奈はベータカムのファインダーから目をはずすという。
「どこに」
「私、もうすこし今の女の子を追いたい」
そういうと加奈はすたすたとダットサンに戻っていく。どうするつもりだ?
◆
加奈はベータカムを手持ちの8ミリビデオに代えて戻ってくる。肩にはバッテリーと生テープいりのショルダーバッグ。
「いくよ」
そういうと夜間入口のドアを開けてはいっていく。おれも続いた。明かりが落とされた病院のなかは洞窟のようだ。静けさと暗さ。とてもすぐ外を川越街道が走っているようには思えない。加奈はまっすぐに受付カウンターにむかう。モニタにむかって作業している看護婦に聞いた。
「今、運ばれた少年の関係者です。どちらにいけばいいですか」
「二階の奥の手術室にどうぞ。待合室は廊下の横です」
おれたちは階段を急ぎ足でのぼった。灰色の長い廊下の突きあたりに曇りガラスのダブルの自動ドア。手術室。これより先は関係者以外の入室を禁じます。廊下をすこし戻ると缶ジュースの自動販売機が灯台のように浮いている。ドアのない部屋にはいった。黒いソファが三列、夜を映すだけの高い窓にむいて並んでいる。さっきの女の子はひとりぽつんと最前列のソファのはしに座っていた。
加奈は少女からすこし離れて同じソファに座る。
「きっと大丈夫よ。元気を出してね」
少女は加奈へ顔をあげる。なんの感情もない目。
「ひとりなの? おとうさんやおかあさんは」
首を振った。
「おとうさんはいない。おかあさんは圏外だって」
そういうとベストのポケットから携帯を取りだす。彼女はちらりとおれの首にさがるエンジェルスのチョーカーを見た。加奈がいう。
「私たち、この街のことをビデオで取材してるの。もしよかったら、カメラまわしてもいいかな」
女の子はちょっと考える。
「手術が終わるまでいっしょにいてくれたら、いいよ」
◆
手術には五時間かかった。
待合室でおれたちはいろいろと話をした。手術を待つ時間て、なぜのどが乾くんだろう。缶コーヒー、オレンジジュース、ジャスミン茶、それにもう一度缶コーヒー。
女の子の名は峰岸薫。十二歳の小学校六年生。手術を受けているのは兄の茂十四歳という。茂はレッドエンジェルスのメンバー。父親はどっかに蒸発して母親は夜の仕事をがんばっている。今日の夕方、母親の誕生日の買いものに出かけたところを、茂と薫はGボーイズ数人に囲まれた。おにいちゃん、私がいたからつっぱっちゃったみたいなの。相手は四人なのに茂は虚勢を張ったそうだ。口ゲンカはもみあいになり、ナイフで片がついた。
このまま夜明けになるんじゃないかと思うころ、手術室の自動ドアが開いてストレッチャーが出てきた。少年の顔は先ほどと同じように蒼白。意識はない。おれたちのまえをとまることなく流れていった。薫は目線だけでストレッチャーを追う。ぷつぷつと落ちる涙。まだ若い医者が手術室を出てくると、薫のところにまっすぐに歩く。ビデオをまわす加奈にちらりと目をやった。薫にいう。
「いいのかな」
取材のことをいってる。薫は黙ってうなずいた。
「おにいさんは出血も多くてあぶない状態だったけれど、一番むずかしいところは越えました。たぶんもう大丈夫だと思う。だけどね、腸がひどく傷ついていて、かなりの分量を取らなきゃいけなかった。で、お腹の横に穴を開けて袋をつけました。残念だけど命には代えられないからね。この袋は傷が治ってもずっとつけなきゃならないんだ。わかるかな」
自分が刺されたみたいな血の気の失せた顔。薫は黙ってうなずく。他になにができる。兄の茂は十四歳、残りの一生を腹に糞袋をさげて生きる。
「今度、おかあさんがきたら、もっと詳しく説明します。今日は長いあいだ、お疲れさま。よくがんばったね。もうできることはないんだ。帰って休みなさい」
医者はそういうとおれたちをにらんだ。
「あんたたちも取材させてもらったんだから、この子を家まで送ってくれよ。それくらいのことはできるだろ」
いわれなくてもわかってる。黙ったままうなずいた。
おれは怒ったような表情で必死に涙をこらえている薫の顔を見ていた。
おれたちの街はいったいどうしてこんなに壊れちまったんだ?
なさけない。おれの身体のどこかから抑えようのない怒りが、ぐらぐらと湧きあがってくる。目のまえが暗くなり、全身の血が沸騰した。薄暗い廊下に立ったまま、くやしくておれは音を立てずに泣いた。薫がおれのトレーナーの袖を引く。自分も泣きながらおれにいった。
「だいじょうぶだよ、マコトさん。私もおにいちゃんもだいじょうぶ。だから、泣かないでね」
もうおれはどうなってもいいと思った。この街に平和を取り戻すためなら、おれはどんなことだってやってやる。薫の肩を抱いた。小鳥のような肩甲骨。加奈を見た。8ミリビデオのツァイスのレンズは、露のように澄んでバカな人間たちを映している。
おれが絶対ピースメーカーになってやる、おれが絶対……石のような思いが繰り返し胸に落ちて、深いところに冷えた塊ができた。
◆
平和台まで薫を送り、ウィークリーマンションのまえで加奈をおろした。またあとでといって、おれはダットサンをうちの駐車場に戻しにいった。もう真夜中の二時すぎ。パネルトラックのヘッドライトが最初に駐車場をよぎったとき、人影は見えなかった。だが、ドアに鍵をかけ、帰ろうとすると背後から男の声。
「おまえ、真島誠だな」
振りむいた。男が五人。ダットサンのわきに立つおれを半円形に取り囲んでいる。二十代の若いのが四人に四十代のオヤジがひとり。おかしい。どっちのメンバーにもそんな老けたやつはいないはずだ。
おれがなにもいわないでいると、右端のガキがいきなり殴りかかってきた。さっき病院で見た景色で、おれは頭に血がのぼっていたのかもしれない。普段のケンカなら決してしないことをした。こぶしを流してガキの腕をわきにはさみこみ、思いきり締めあげると身体ごと外側にひねった。骨のはずれる鈍い音がおれの肋骨に響く。壊すための動き。ガキは外側に九十度に折れた肘をおさえて地面を転げまわる。あとは乱戦。
もみあううちにいいパンチがひとつあごの横にはいり、気がつくとおれの視界のほとんどを駐車場のアスファルトが占めていた。三角形に切り取られた夜空。梅雨時のアスファルトは頬に冷たい。飛んでくる足がたくさん見えた。サッカーボールの気分。おれは後頭部と腹を腕で守り、赤ん坊みたいに身体を丸めた。十発目のプレースキックまではおぼえているが、そのあとは意識が遠くなった。プロだと思った。太ももや肩や背中など、おおきな筋肉のあるところしか狙わない。殺すつもりはない。なにかの忠告なんだろう。ていねいなメッセージ。
なかのひとりが執拗におれの尻を蹴りあげた。それも尾※[#「骨+低のつくり」、unicode9ab6]骨ばかり正確に狙う。痛かった。衝撃が背骨を駆けて頭蓋骨のなかで花火になる。閉じた目の奥で咲く花火は毎回色が違ってる。遠くなる意識に遠くからの声。
「よし、もういくぞ。おまえらガキだからってなめちゃだめだ。まあ、これであの女もちょろちょろ嗅ぎまわらなくなるだろう」
あの女ってどこの女だ、おれはそうはっきりいったつもりだが、口からたれるのはアとウの音とよだれだけ。それから一番楽なことをしてしまった。
おれは真夜中の駐車場で失神した。
◆
目をさます。すぐに腕のGショックを見た。まだ十五分しかたっていない。おれの身体には腕時計みたいな耐衝撃性はないみたいだ。なんとか上半身を起こすまでに、うんざりするほど時間がかかる。こんなにひどくやられたのは久しぶり。ジーンズの尻ポケットからPHSを取りだした。奇跡的に壊れていない。加奈の短縮。すぐに加奈が出る。ちょっとうちに用ができた、今夜はあっちで泊まるとだけいって切った。おれの声はおかしくなかったろうか。おれにはわからない。
それから十数年ぶりのなつかしい行為をした。はいはいとつたい歩き。普通に歩けばうちの店までは三分の距離だが、その夜は二十分かかった。
階段をはいあがり、ドアをそっと開けて自分の部屋に戻った。おふくろは起きているのかもしれないが顔を出さなかった。ありがたい。苦労してジーンズを脱ぎ、全身を確かめてみる。あざだらけ。赤と黄と青と黒。多色づかいの絞り染めみたい。手鏡で顔を見た。こちらは傷ひとつない。やはりプロだ。鮮やかな手並み。
それにしてもバカなやつら。自分たちは暴力のプロだ、骨身にしみるほど痛めつければたいていのやつはぶち折れる。単純にそう信じてる。ガキどもの戦争をなめて、いつもの手慣れたやり口に頼る。オヤジがはまりやすい罠。
おれの全身打撲など安いもの。これで手がかりがひとつできた。
◆
明け方、のどの乾きで目がさめた。ひとつの言葉が戻ってくる。あの女。あの女って誰だ? 雨の音が聞こえた。熱があるみたいだ。寝返りを打とうとしてあまりの痛みに諦めた。そのまま、眠ってしまう。あの女っていったい誰だ? あの女って……
◆
つぎの朝が最悪だった。熱と痛み。関節は雨ざらしの古タイヤみたいにコチコチ。まるでいうことを聞かない。全身の絞り染めは、色を深めてしっかりと定着した。トイレまではっていき、血が混ざっているんじゃないかと恐るおそる小便をする。セーフ。おふくろはバカじゃないのという顔でおれを見る。食欲はまるでなかったが、三人分のゆで卵とソーセージ、トーストとサラダを用意してもらい、無理やりつめこんだ。ビタミン剤と鎮痛剤を適当に振りだしてオレンジジュースで流しこむ。部屋に戻り、加奈にPHS。風邪をひいたみたいだから、二日だけ休ませてくれ。わかった、無理しないでね。それでおれは夕方まで寝た。休むことも闘いの一部だ。
◆
目がさめたのは午後四時すぎ。意識が戻った瞬間にわかる。身体はずいぶん楽になった。おれはバルトークの弦楽四重奏曲を一番から順に聴きながら、今回の一件を考え始めた。暴力団絡みなら裏の絵は簡単だろう。お決まりの金と縄張争い。だが、その絵をどうやって敵対する数百というガキどもにわからせるのか。やつらは憎しみと暴力に酔っている。抗争の愚かさと根拠の怪しさを、雷でも落とすように理解させるにはどうすればいい。シヴィルウォーをいっぺんに鎮静化する手だてはあるんだろうか。内戦が長引けば死んだ渡辺や薫の兄貴みたいな犠牲者が増える。
どうすればいいんだ、ピースメーカー?
考えあぐねていると、おれの部屋のドアにノックの音。
「はいってもいい?」
明日香の声だった。あわてた。毎日加奈とすごすようになってこの半月、明日香は放りっぱなし。なにもいわずにしばらくたつと、ドアが開いて明日香がはいってくる。白のマイクロミニと紺地に白の水玉チビT。得意の胸を強調した襟ぐりの広いやつ。加奈の控えめな胸に慣れた目には、それはむやみにおおきく凶暴に見えた。
「したでおかあさんに聞いたよ。身体じゅうあざだらけなんだって。マコちゃん、むちゃしたらだめだよ」
枕元に座る明日香は、早くも涙ぐんでいる。おれはリモコンでバルトークをとめた。ホラー映画みたいで怖いといわれたことがある。それから、明日香はかいがいしくおれの身のまわりの世話をした。新しいTシャツと下着を出し、電子レンジで温めたおしぼりで全身を拭いてくれる。コンビニの焼プリンとおにぎり、パッションフルーツのジュースと減肥茶。口元に運ばれた食いものにただ口を開けるだけ。されるがまま。ひな鳥になった気がする。
それでもおれは頭のなかで、必死にタイミングを計っていた。
別れを切りだすタイミング。
◆
だけど、そういうことでは、おれはいつも決定的に遅いんだ。ひと心地ついて、好きな人ができたといおうとすると、先手を取って明日香がいう。
「ねえ、マコちゃん、いいにくいんだけど……あたし妊娠しちゃったみたい」
昨夜のサッカーボールキックの数十倍の衝撃。おれの話は吹き飛んだ。
「間違いないのか」
「うん。産婦人科にいってきたから」
「そうか……」
なにもいえなかった。つきあい始めたころ、今日は絶対大丈夫な日だからといってそのまましたことがあったはずだ。身におぼえがないとはいえなかった。
「それで、明日香はどうしたい」
「ガッコおもしろくないし、マコちゃんの赤ちゃんなら、やめて生みたい。お嫁さんにしてくれる?」
そういうと明日香は上目づかいでおれを探る。目のまえが真っ暗になったが、おれは笑顔をつくっていった。
「わかった。ひと眠りするからとなりの部屋にいてくれないか」
眠りにつけるはずなどなかった。おれの頭のなかでは加奈の笑顔と筋肉質の身体が駆けまわっている。それに妊娠した明日香と踊る京一と白熱するシヴィルウォー。
もうなにがなんだかわからなかった。
◆
それでも、ひどく弱っていたみたいだ。いつのまにか寝てしまう。夜になって目をさますと枕元には明日香の置き手紙。重しはシュークリームとカフェオレ。
もうパパなんだから無理しちゃだめだよ。シヴィルウォーからは手を引いて。それにあの女の人の仕事からも。明日またくるね。※[#ハート白、unicode2661]明日香
ガキがガキをつくってどうすんだろう。頭が痛くなった。だが未来のママの頼みでもシヴィルウォーから手を引くことはできない。おれはPHSをとると、千秋に電話をいれた。橋本千秋は池袋二丁目のファッションヘルス「オアシス」のナンバーワン。風俗の裏事情にけっこう詳しい。
「マコトだ。今、話していいかな?」
「いいよ。今日はあがりだから」
「最近、そっちの世界で京極会って名前を聞かないか」
「ああ、うちの店にもその系列の売りこみがあったよ。リネンとかおしぼりとかグリーンとかね。やっぱり大手だから安いみたい」
「そうか」
「それに近いうちに池袋は京極会が締めるようになるから、早いうちに乗り換えておくとなにかといいんだっていわれたみたい。うちの雇われ店長がこぼしてた。羽沢組から簡単には寝返れないって」
「ふーん、でも乗り換えた店もあるんだろ」
「まあね、サンシャイン60階通りから南はほとんどらしいよ。京極会とエンジェルスの縛りがきついんだって」
なるほど。それから昔話をした。イランに強制送還されたカシーフのこと。手紙はちょくちょくくるそうだ。やつは台湾から船で密入国の計画を立てているらしい。そんなに日本がいいのかなというと千秋はこたえる。
「そりゃあね。日本ならしっかり稼げるし、あたしみたいな美人がいるもん」
PHSをもつ手の甲を叩いて拍手してやった。
「ところで、マコトちゃん、まだあの明日香って子とつきあってんの? 黙ってたけどそっちがつきあい始めのころ、悪い噂聞いたよ。あの子、おとなしそうな顔して、あちこちで吹きまくってたみたい。マコトを絶対自分の男にするって。あんたのこと探して週末の夜は池袋じゅうの店をはしごしてたらしいよ。ねえ、やめときなよ、あの子。マコトちゃんには似合わないよ」
考えとくといってPHSを切った。重い気分のまま、サルの短縮。千秋の話の裏をとる。だんだんとシヴィルウォーの絵が読めてきた。それでも重い気分は晴れなかった。
パパマコト。まるで実感が湧かない。
◆
駐車場の襲撃から二日目の朝、おれの身体は急激な勢いで回復していた。素晴らしい十代。昼すぎに起きだして、簡単なストレッチで強張った筋肉と関節をゆるめていると、明日香がきた。弁当をつくってきたそうだ。タコのソーセージ、ハート型の卵焼き、リンゴのうさぎ、スライスしたイチゴのサンドイッチ。
敷きっ放しの布団のうえに明日香が赤と白のギンガムチェックを広げる。弁当を食べ始めようとすると玄関にノックの音。
「マコトくん大丈夫? お昼買ってきたからいっしょに食べない」
加奈の声だ。自分の顔から血の気が引く音がする。おれは透明人間になりたかった。いっそ消滅してもいい。
「おじゃましまーす」
廊下を近づいてくる。死刑執行人の足音。ドアが開くと加奈がコンビニの袋をさげて立っていた。いつものグレイのトレーナーにジーンズ。おれたちを見て、顔色が一瞬で変わった。
「そうか。本当におじゃましちゃったみたいだね」
硬い笑顔をつくる。そのまま振りむいて帰ろうとする。
「待ってくれ」
かける言葉もないくせに、思わずおれは呼びとめていた。加奈の動きがとまった。そこに明日香が割ってはいる。
「あなたのせいでマコトは傷だらけよ。おとといの夜、駐車場で襲われたんだから。どっちのチームかわからないけど、シヴィルウォーのとばっちりよ」
加奈は驚きの表情。心配そうにおれを見る。
「身体はもういいの」
うなずいた。
「大丈夫だ。ぴんぴんしてる。明日から現場に戻る」
「まだシヴィルウォーに手を出すつもりなの? マコトちゃん、おかしいよ」
明日香を無視して加奈はうなずいた。
「私、今日は帰るわ。お大事に」
「それからね、私、マコトの赤ちゃんを妊娠してるんだ。私たち結婚するんだから、マコトに変な色目つかわないでね、オバサン」
加奈の背中に明日香の言葉が刺さった。勝ち誇った女の声。
コンビニの袋をさげた右肩が一度だけぴくりと動いた。重いベータカムをかついでもいつもすっきりと伸びている広い背中から、砂のように力が抜けていくのがわかる。加奈はなにもいわずに去っていった。うちの玄関の安普請のドアが静かに閉まる音。
胸が痛んだ。加奈の胸はもっとひどく痛んでいるだろうが。
◆
つぎの日の昼まえ、久しぶりの梅雨の晴れ間。いつものようにウィークリーマンションにいった。加奈は収録機材の手入れ中。おれが部屋にはいっても振りむきもしない。硬い空気。加奈は手を休めずにいう。
「妊娠か。私、男となんかいい感じだなと思うと、いつもそれがじゃまするんだよね。笑っちゃうな」
ため息のスタッカート。
「すまない」
「いいよ。あの子のいう通り、私はマコトくんより十歳近く年上だし、オバサンだもん。いつかはこうなると思ってた。でも、今度のは短かったな」
「オバサンなんていうなよ」
思わずおれはいった。けれど続く言葉はのみこんでしまう。加奈が好きだから年上だって気にしない、そういって抱き締めたかった。だが、今さらそんなことをしてどうなる。
◆
その日は一日ぎくしゃくしていた。どこかのガキに話を聞いていても、事件現場でベータカムをまわしていても同じ。昨日までとは、なにかが決定的に変わってしまっている。カーステレオのボリュームをあげようとして、指の先が触れあっただけで、互いに身体を硬くする。あたりまえのようにキスしていた指が今は遠い。加奈の指はどれも別な味がしたのに。遥かな恋の日。
夜になって、ウィークリーマンションに戻った。おれがベッドの足元に機材を置くと加奈がそっぽをむいていう。
「マコトくん、今日から自分の部屋に帰らなきゃだめだよ。残念だけどね。私、疲れたからシャワー浴びて寝る。送らないから、そのあいだに帰って」
そういうとタオルをもって加奈はバスルームにこもってしまった。この部屋にくるチャンスももうあまりないのかもしれない。しかたない。おれはやるべきことをやった。
久しぶりの盗み。
本棚に並んでるベータのビデオテープ。レッドエンジェルスのメンバーを大量に収録した、いつかの公園の夜のテープを二本。ジーンズの腹に押しこんでうえからパーカの裾をかぶせる。空きケースは本棚に戻した。
「おやすみ、加奈。好きだったよ」
ちいさな声でそういって、部屋を出た。誰も聞いていないときに限って素直になれるのは、どうしてだろう?
◆
その夜、加奈の部屋を出ると、おれはダットサンで江古田にむかった。江古田には電波マニアのラジオのマンションがある。街のビデオ屋じゃベータのダビングは無理だが、機材のそろったラジオのところならわけはない。
おれはラジオにコピーを二本つくってもらった。ダビングの待ち時間にシヴィルウォーの話をする。そろそろ、もう一度チームを組みたい。スピードの売人を見事にはめた、あきれたボーイズに集合をかけてもらう。
「腕がなるな」
目のふちまでかかるマッシュルームカットで、ラジオの目の動きは読めない。だが、やつは口のはしをつりあげてにやりと笑う。赤頭巾ちゃんのオオカミを思いだした。もっとも今回の赤頭巾ちゃんは同情する価値のまるでないやつらだが。
◆
オリジナルのベータ版とVHSのコピーを一組もって、ラジオのマンションを出た。真夜中まであと五分。おれはPHSを取りだすと礼にいの短縮を押した。呼びだしベルを聞きながらダットサンのドアを開ける。
「マコトか、なんだ」
「調べてほしいテープがある。今、大丈夫かな」
「ああ」
「じゃあ、マンションのしたまでおりてきてくれ。十五分でいく」
PHSを切り、イグニションをひねる。ここまではやられっ放しだが、ようやくこっちにも攻撃の番がまわってきた。へこんだまま、ひっこむわけにはいかない。サンシャイン60階通りに火をつけて、裏で笑っているやつらの首をかき切ってやる。ルームミラーに映るおれの口元にも笑いが浮かんでいた。赤頭巾ちゃん、気をつけな。血を流さなくても、誰かさんを抹殺する方法なんて百通りだってある。ダットサンで夜の街を流しながら、おれは自然に鼻唄を歌っていた。ジミ・ヘンドリックスの『エンジェル』。
加奈との最初の夜のことは、無理やり思いださないようにした。
◆
目白の礼にいのマンションに着いたのは正確に十五分後。たっぷりとした緑のなかに中層のマンションが並ぶ高級住宅街。寝静まって人影もない。なぜ金持ちは静かなところで散らばりたがるんだろう。換気扇の臭いでとなりの晩飯がわかるおれんちとはえらい違い。
マンションの車寄せはレンガ敷き。張りだした丸い屋根。入口の両わきには壺を抱えた女の白い彫像。美術館の展示室みたいなオートロックのドアのむこうに礼にいは立ってる。
おれがダットサンを乗りつけるとやつは出てきた。金持ちでもスエットを着るんだ、変なところに感心する。ウインドウをさげた。
「部屋にあがるか」
礼にいは長身を折っていう。
「やめとく。また盗癖が出るとやばいから」
おかしな顔をした。コピーのVHSテープを渡す。
「それよりこのテープに映ってる人間で、京極会に出入りしてるやつがいないか調べて欲しいんだ。末端でも、ほんのすこし色がついてるくらいでもいい。なんだったら大阪のマル暴にでも問いあわせてくれないか」
「なるほど、京極会か。シヴィルウォーが激化してついに本職のおでましってわけか。いいだろう、調べよう。だけどな、マコト、おまえ素人なんだから、あまりあぶないことには手を出すなよ。これは警察の仕事だ」
わかってるといった。ただ裏をさぐる情報が欲しいだけだと。心のなかで舌を出す。確かにおれは素人だ。だが、シヴィルウォーは警察の仕事なんかじゃない。おれたちとおれたちの街の問題だ。
おれは池袋警察署長のスパイとしても働いている。でもおれをコントロールするのは、池袋のストリートの声だけだ。
その声は、今、平和といってる。
◆
腹にビデオテープを隠したまま、つぎの朝、加奈のウィークリーマンションにいった。ノックしてドアを開けると、加奈が腕を組んで立っている。ばれた。万引きを見つかるときもそうだけど、やばいのって瞬間でわかるよな。
「マコトくん。取材のテープ、無断でもっていったね」
うなずいた。しかたない。腹からテープを出して、デスクの角にそっとのせた。
「いったいなんに使ったの? 誰かに売ったわけじゃないよね」
「おれ、最初から加奈の仕事の手伝いだけが目的じゃなかった」
「お金はいらないっていったときから、おかしいなと思ってたよ。マコトくんはそのへんでふらふらしてる子と違うし、なにか別なことを狙ってるのかなって。でもいいやつだから、気にしてなかったけどね。で、目的ってなんなの」
「シヴィルウォーをとめること」
「そうなんだ」
うなずく。加奈の目をしっかりと見ていった。
「おれたちはもう別々に動いたほうがいいと思う。加奈はジャーナリストだからこの街を外からレポートする。だけどおれはこれから、シヴィルウォーの渦のなかにはいっていくつもりだ。おれ自身がプレーヤーになって、この抗争を静めたい。もう暴力ざたも、好きな通りをうろつけないのも、赤だの青だのって色分けにもうんざりなんだ」
加奈の長いため息。
「わかった。しょうがないね」
「おれも最後にひとつだけ聞きたいことがある。加奈はなぜ、シヴィルウォーを取材しようと思ったんだ? 池袋の地元の、それも裏に詳しいガキ以外は、あのころ誰も内戦のことなんて知らなかったはずだ。きっかけはなに」
二度目のため息。加奈の肩が落ちる。
「もう隠してもしょうがないね。池袋にくるまえ、私は大阪で暴力団のルポルタージュをつくってた。度胸がいいって、なぜか京極会の幹部に気にいられてね。それで情報をもらったの。つぎは池袋にいってみな。きっといいネタが起こるぞって」
そういうことか。お互い腹の底に別な心をもっていた。だけど不思議とおれは腹が立たなかった。もうガキじゃない。大人の世界にはそういうこともあるんだろう。おれは加奈に手を差しだした。
「お別れだ。本当に楽しかった。おれが加奈にどれだけ感謝してるか、わからないだろうな。加奈はおれにたくさんのことをくれたよ。エッチもいっぱい教わったしね」
笑顔をつくった。あんたがおれの初恋だったなんていえなかった。加奈はおれの手を握ると、腕のなかに飛びこんでくる。頬にかさなる頬。耳元でいう。
「さよならはいわないよ。きっとまた会おう。それから、絶対にむちゃしたらだめだよ。死んだらだめ」
一度だけ思いきり抱き締められた。目を見る。そのときすべてがわかった。おれが加奈を好きなことを加奈は知ってる。加奈がおれを好きなこともおれは知ってる。お互いにそれがわかってるってことを、ふたりとも知ってる。二枚の鏡にはさまれて無限に跳ねあう理解の光り。その一瞬のあいだだけ、離れていた心がひとつになった。
ウィークリーマンションの殺風景な白い廊下を帰るとき、おれはちょっと涙ぐんでいた。悲しいのか、幸せなのか、もうおれにはわからなかった。
◆
数日後、雨の昼休みに礼にいから電話。
「ひとり浮かんだぞ。あのビデオで天使長・磯貝繁幸と自己紹介してたやつ。あいつの本名は内海繁幸、京極会の構成員だ。関西の少年院に顔写真も残っていた」
礼をいった。これでターゲットが絞れる。
「それからな、マコト。おまえは大丈夫だろうけど、得物はもち歩くなよ。職務質問と任意の所持品検査が強化されることになった。変なもんもってるとうちに引っ張られるぞ」
安心してくれといってPHSを切った。おれの得物は頭のなかにある。中身を読むことも、取りあげることも、誰にもできやしない。ガキが振りまわすオモチャなんかよりずっと危険だけれど。ダイオキシン、株・債券、若い女たち。一番危険なものはいつだって自由に出まわっている。
◆
六月三週目。しとしと雨の月曜日から、礼にいのいう通り警察の取り締まりが強化された。最初の二日はエンジェルスもGボーイズも、かなりの数が池袋署に引っ張られたが、三日目には誰も引っかからなくなった。その代わり二、三ブロックに一カ所、どこかのガキの家が武器庫になった。いろんな種類のナイフ、催涙スプレー、スタンガン、特殊警棒がどっさり。テレビゲームの空き箱といっしょに押しいれに山積みになる。さらにトカレフや黒星、ブルガリア製のキーホルダーガンなんかの噂がサンシャイン60階通りを乱れ飛んだ。
末期的。どこかの裏通りでそんなものが火を噴くまえに、なんとかしなきゃならない。
あきれたボーイズの出番だった。
◆
そうそう、そういえばそのころおれが池袋を歩いていると、ときどき人の視線を感じることがあった。またサッカーボールにされるのはたまらない。そんなときは、いつも遠まわりでも人通りの多い道を選んだ。池袋の繁華街の傘の海のなか、尾行するやつを見分けるのは容易なことじゃない。だから、おれはさっさと逃げた。
逃げるのはまったく恥ずかしいことじゃない。
◆
その週の土曜夜、江古田のラジオのマンションにあきれたボーイズ+1が集合した。シュンとケンジとおれが呼んだスーパーサブの和範。和範は恐ろしくねばり強い。今度のケースにはたぶんぴったり。
おれはこの春から始まったサンシャイン通り内戦の話をした。そしてピースメーカーとしてのおれたちの仕事についても。今回はあまり金にはならない。おれは加奈がくれるバイト代をみんなに分配するつもり。あまりあてにせずに待ってくれ。やつらは黙ってうなずく。おもしろい仕事には目がないボーイズ。おれはラジオのビデオプリンターから出力した磯貝の写真を、電子機器で埋まったスチールラックに貼りつける。
「ターゲットはこいつだ。こいつが京極会の誰かと接触するところを、誰が見てもわかるように記録したい。こいつ自身が京極会の下級構成員で、シヴィルウォーを陰であおってるはずだ。やつの仮面をひっぱがしてくれ」
和範が手をあげていった。
「もし、そうじゃなかったら」
「そうじゃなかったら、そんなふうにでっちあげる。これは裁判じゃないんだ。一発しかけて、爆風でガキの戦争の炎を吹き消す。理屈も正義も公平も、あとからでいい」
返事はないが、手ごたえは熱い。それからおれたちは作戦会議を始めた。ラジオからいいアイディア。採用。パーティラインのように全員でいっせいに話ができる携帯無線機が和範にも渡される。
準備完了。今度はおれたちがやつらをはめてやる番だ。沸騰するストリートの裏側をあばき、対立するチームを再びひとつにまとめる。赤と青を混ぜあわせ、この街のガキどもを新しいカラーで染め直す。平和と共存の色へ。
それでおれたちのチーム名は「パープルクルー」になった。紫組。運動会ではあまり見かけない色だが、響きは悪くない。
梅雨の真っただなかの土曜日深夜。おれたちは開け放した窓から強い雨が降り続く夜空を見ていた。雨の色は紫。おれはサンシャイン60階通りが、パープルレインで紫に染まるサイケデリックな夢を見た。
◆
つぎの日からおれたちは磯貝を徹底してマークした。やつの部屋は、南池袋の東京音大わきにある。五階建ての303号室。ラジオはいつものようにさっさと盗聴器をしかけた。和範は近くをしらみつぶしに歩いて張り込み場所を見つけた。五十メートルほど離れた雑居ビル。屋上に突きでた階段室のうえに段ボールと双眼鏡を持ちこむ。シュンとケンジは張り込みの交代要員。おれはラジオといっしょに、やつの三菱デリカワゴンのなかで待機。怪しまれないように、すこしずつ場所を変えながら何時間でも待つ。
おれたちのクルーのなかで磯貝に顔が割れているのはおれだけ。そこで、おれは磯貝が詰めているときに、エンジェルパークに顔を出すことにした。離れたところから観察し、エンジェルスからそれとなくやつの情報を引きだす。
磯貝は京一がダンサーたちのヘッドになった大晦日から、ひと月遅れて池袋にあらわれたという。ともかく、最初から羽振りがよかったそうだ。頭の回転が速く、面倒みもよかったので、京一の右腕になるのに時間はかからなかった。レッドエンジェルスの拡大路線は、磯貝を中心に始まった。なるほど。
死んだ渡辺はその磯貝の金庫番。だが赤い布にくるまれて公園の海に捨てられる二カ月ほどまえ、急に暮らしぶりが贅沢になったという。高級マンションでひとり暮らしを始め、中古だがBMWのクーペを乗りまわす。真実かどうかはやぶのなかだが、おれはひとつの絵を描いた。磯貝を攻めるにはいい材料になるだろう。
降り続く雨のなか六月の三週目は、静かにすぎていった。
◆
一週間も誰かを徹底的に追いまわすと、そいつの生活パターンはだいたい読めてくる。磯貝は自分に尾行がつくことなどまるで関心がなかった。一日置きにやつはエンジェルパークに詰める。当直の正午、やつのマンションにエンジェルスが三人一組でお出迎え。クルマは真っ赤にペイントされたトヨタ・ハイラックスサーフ。歩いても十分とはかからない東池袋中央公園に出勤する。
オフの日はボディガードを連れて池袋の地元で買いものをしたり、映画のはしご。やつはアメリカのアクション映画が好みだ。磯貝はごく普通の遊び人だった。不思議なのは女の影がまったくないこと。やつならもてないわけはないと思うんだが。
そして週に一度土曜日の夜には、京一をはじめ幹部全員が集まるRエンジェルスの集会に顔を出す。京一ほどのカリスマはないが、磯貝もなかなかの話し手だった。おれは熱くなったガキどもに混ざりやつの話を聞いた。Gボーイズをやっちまえ。自由と独立と復讐のために。ガキをあおる磯貝。拍手と雄叫び。
集会の前列に、加奈の姿が見えた。肩にかついだベータカムと洪水みたいなハロゲンライト。おれは加奈をわざと見ないようにしていた。加奈も背中が硬かったから、こっちを振りむかないようにしていたんじゃないだろうか。おれのうぬぼれ。
◆
最初の突破口を開いたのは、和範だった。ケンジとシュンがアルバイトと専門学校で都合がつかなくなって、三日連続で張り込みを続けた木曜日の夕方。薄暗い小雨の午後四時。
いきなりハンディが鳴った。おれとラジオはそれぞれの携帯無線に耳を押しあてる。
「今、やつがマンションのエントランスを出ていく。ひとりで動くのは初めてだ。サングラスにタイガースの野球帽」
すぐにおれはデリカワゴンの運転席に移った。ゆっくりとクルマを出す。マンションの角からクルマの鼻を出すと遠ざかる磯貝の背中が見えた。今日はどこにも赤を身につけていない。光る素材のスリムな黒の上下。タイガースのキャップは百メートル離れていてもわかった。
ワゴンはそのまま停めておく。磯貝は明治通りにぶつかると手をあげた。タクシーがとまるのを確認してから、おれは思いきりアクセルを踏みこんだ。
◆
やつを乗せたタクシーはまっすぐに明治通りを走る。給料日近くでかなりの混雑だが、見失うほどではなかった。おれのとなりでラジオはダッシュボードに固定した8ミリビデオをまわし始める。タクシーは靖国通りにぶつかると右折。歌舞伎町のネオンを右手に見ながら、JRのガードを抜けて西新宿へむかう。東京の雨雲を支える柱のような高層ビルがそびえる一角、ホテルまえのロータリーでタクシーは磯貝をおろした。センチュリーハイアット。暗い雨のなか高い吹き抜けのロビーが光り輝いている。
「どうする」
おれがいうと、ラジオはうなずいた。後席に積んだ変装用の衣装のなかから、紺のブレザーを取る。袖を通して、ルームミラーで髪を直した。
「いってくる」
そういうと雨のなかに飛びだした。ビデオレコーダーをしこんだショルダーバッグを小わきに抱え、ラジオの背中は光りのロビーにむかって駆けた。
◆
おれにはできることがなくなった。効きの悪いエアコンのせいでむしむしするワゴンのなか、西新宿の路上でただ待つだけ。ぼんやりと雨を見ていた。雨を見るのはけっこう楽しい。おれはわりと好きだ。
二十分後、ロビーの自動ドアのむこうにラジオの姿が見えた。ジーンズにバスケットシューズにネイビーブレザー。遠くから見るとやっぱり変だ。やつはハンディを取りだす。
「このまま、地下のパーキングにおりるから、そこで落ちあおう」
「オーケー」
おれはゆっくりとワゴンを出して、センチュリーハイアットの駐車場にむかった。
◆
高級外車のあいだを太いコンクリートの梁が走る地下駐車場。クルマを停めて待っているとラジオが、エレベーターからおりてくるのが見えた。まっすぐにこちらにむかってくる。にやにやしてる。なにかつかんだようだ。ラジオはワゴンの横に立つと窓を叩いた。ドアを開けてやる。
「いい場所だな、ここ。やつがおりてきても一目瞭然」
「ああ。それより、どうだった」
「待てよ。今、いいもん見せてやるから」
それから、おれたちはデリカワゴンのなかで特別試写会を始めた。
◆
うしろの席に積んだモニタにラジオの8ミリビデオをつなぐ。のっぺりしたビデオのカラー映像。わずかだが画面が揺れている。ラジオはいう。
「こいつの手ぶれ補正はけっこう使えるな」
まぶしいロビーだった。複雑な幾何学模様の厚みのあるカーペット。三人のクラークが並んだフロント。四畳半のおれの部屋ならいっぱいになる巨大な生け花。ゆったりと間を置いて並ぶソファセット。なにかをしていたり、していなかったりするシティホテルのロビーの人々。
ひとり掛けのソファのひとつに磯貝が足を組んで座っていた。サングラスで表情は読めない。そこへ画面の右手、エレベーターホールのほうからでかくて太った中年のオヤジがあらわれた。明るいグレイのダブルのスーツ。シャツは目のさめるようなブルーでネクタイは無地のシルバー。ごつい手にはルームキー。立ったまま磯貝に親しげに話しかけ、肩に手を置く。おれはその手の置き方に、おやっと思った。ただのせられているのではなく、柔らかにさするような手の動き。ラジオは笑う。
「わかるだろ」
「まあな」
おれはちょっとショックだった。磯貝がゲイだったことにじゃない。やつの美的感覚に違和感を感じた。違和感て微妙な言葉だよな。
だって、あんな熊はないだろ、普通。
◆
エレベーターホールにむかう磯貝とオヤジを追って、カメラも動きだす。身体を寄せあって歩くごつい男の背中。エレベーターがくるとふたりは乗りこむ。半分閉じた扉にラジオの手がはさみこまれるのが画面に映った。カメラ入りのショルダーバッグを抱えたラジオがエレベーターに乗ると、ふたりは刺すような目でラジオを見る。オヤジの異常に迫力のあるガン飛ばしでわかった。こいつはどっかの筋もんだ。
しばらくしてエレベーターの扉が開いた、真っ先にラジオが出る。左右にのびるまっすぐな廊下。人影はない。ラジオはショルダーバッグを引っくり返した。画面のなかでホテルの廊下が一回転する。うまいもんだ。背中越しのビデオ撮影。
続いてエレベーターから磯貝とオヤジが出てきた。ラジオのほうをキツイ目で追っていたが、やつが廊下の反対方向へ歩いていくのを見て安心したようだ。オヤジは磯貝の肩を抱く。五枚ほど先のドアのキーを開けるときには、オヤジは磯貝のあごをうえにむけて熱烈なキスを降らせていた。
愛は盲目。
◆
おれたちはそのままカーテンを閉めきったワゴンの後席で、三時間待った。あの部屋のなかでおこなわれていることを想像しないようにしながら。
はずしたネクタイを胸ポケットに突っこんださっきの熊オヤジが、エレベーターホールの自動ドアを抜けてきたのは午後八時すぎ。遠くからでもやつがキーホルダーと携帯を振りまわし、いい気になって肩で風を切っているのがわかる。ちゃらちゃら。踊りだしそうな足取り。おれたちは出口のそばの空きスペースに移動して待機する。
しばらくするとシルバーのトヨタ・セルシオが目のまえを流れすぎた。運転席には熊。ハンドルにかけたごつい手にごついプラチナのブレスレット。銀の光りが尾をひく。
おれはワゴンをそっと出した。
◆
セルシオは雨の小滝橋通りを北上する。上落合の下水処理場の横を抜けて、新目白通りから目白へ。なんのことはない。やつのクルマは礼にいの住まいのそばにある高級マンションのゲートを抜け、そのまま地下の駐車場に消える。エントランスまわりは、どうせイタリアから直輸入したとかいうんだろう白大理石でピカピカ。
おれたちはワゴンをゲートの手前で停めた。ゲートわきには詰め所があり、ガードマンが立っている。今日はここまでで十分。
それにしても不思議だ。善玉も悪玉も、なぜ金をもつとみんな同じ生活をしたがるんだろうか。
◆
南池袋の磯貝のマンションに戻ったのは夜十時。雨のなか屋上で張り込みを続ける和範を呼びだす。今日はもういいからおりてこいよ。和範は五分後に雑居ビルの非常階段からあらわれた。全身ずぶ濡れ。フードをしっかりとひもで締めた黒のゴムカッパに長靴。両手は携帯トイレと袋ものの菓子とミネラルウォーターでぱんぱんのコンビニ袋。首には高倍率の双眼鏡。やつはおれたちを見ると右手をあげて親指を立てる。姫の事件以来、このハンドサインがやつのお気にいり。
和範がワゴンに乗りこんでくると異様な臭いが鼻を打った。あたりまえだよな。七十時間以上、風呂にもトイレにもいかずにビルの屋上に張りついていたんだから。ラジオがめずらしく声に感情を見せた。
「話には聞いてたけど、おまえすごいな」
和範は照れて、怒ったような表情で窓ガラスの外を見る。
「……ありがとう……」
そう聞こえた気がするけど、おれの聞き違いかもしれない。
◆
つぎの週には熊のほうにも尾行をつけた。最初の二回は失敗。おれたちがクルマにばかり目をつけていたせいで。熊オヤジは足を使い分けていた。プライベートではあまり目立たないセルシオ。しかし出勤のときは濃紺のベンツを使っていた。シャチみたいに太った十二気筒のセダン。その筋ご用達。
出勤先は南池袋のサイコロみたいなコンクリート打ちっ放しの三階建ての要塞。窓には分厚いシャッターがおりて、入口のステンレス扉が厚さ五センチもあるつくり。建物の角ではリモコン式のビデオカメラがジージーいってる。看板は黒地に金の太い筆文字でこう読めた。
「京極会吉松組」
非営利のボランティア団体には見えなかった。
◆
おれはラジオに熊オヤジの顔写真をビデオプリンターで出力してもらった。磯貝のときと同じように、礼にいに身元照会を頼む。今度は簡単だった。翌日すぐに返事をもらう。今回はA4の封筒付き。
熊の名は吉松徹五十二歳。なんと吉松組の組長という。封筒のなかには何年かまえの事件の新聞記事のコピーがはいっていた。組員が起こした暴行事件で使用者責任を問われた組長の顔写真いり。使えそう。
とても十分とはいえなかったが、二週間の張り込みでためこんだ素材をラジオに編集してくれるように頼んだ。五分間の犯罪実話ストーリー。ケンジには映像にはさむテロップをつくってもらう。原稿はおれが書いた。怪しげなところを思いきりふくらませたアジ原稿。
嘘を書くのって、楽しいよな。
◆
六月の最後の週、パープルクルーの作戦はつぎの段階にはいった。得意の囁き戦法。GボーイズとRエンジェルスのガキどもをつかまえては、聞いてみる。
「なあ、梅雨が明けるまえにタカシと京一が一対一でケリをつけるって噂を聞いたけど本当なのか」
どっちの陣営でも最初の二、三人は聞いたことがないという。だが、ガキどもの顔には興奮の色がありあり。その日の夕方には、おれがなにもいわなくても通りで出くわすガキのほうからいいネタがあるといってくる。
「知ってますか、マコトさん。うちのヘッドがいよいよ動くそうです。やつらの頭を直接潰してやるって」
おれは驚いた顔をする。サンシャイン通り内戦が始まって以来の大ニュースだな。そこでおれは情報をそっと放してやる。おおきくなって帰ってこいよ。
「そうか、やっぱり場所はウエストゲートパークなんだろ」
「そうなんですか」
「いや、おれの聞いた噂じゃ、七月十日金曜の夜って話だったような気がする。違ってたらゴメン」
嘘をいうのも、けっこう楽しい。
◆
七月にはいるとGボーイズの王様タカシからPHSがあった。ロードノイズとFM放送のBGM。まだタカシは昼間は移動中らしい。
「マコトか? おまえ、なんかおかしな噂を流してるそうだな」
「ああ。聞いてくれたか」
「おれと京一のタイマンか」
「そうだ」
「おまえのことだから、なにか考えがあるのかもしれないな」
「もちろん。和平工作」
「成功する望みはあるのか」
「半々かな。それでもなにもしないで夏になるよりいいだろ。暑くなるとガキの頭のヒューズはすぐにぶっ飛んじゃうんだから。何人死人が出るかわかんない」
タカシは低い声で笑う。
「そうだな。おまえの計画がうまくいかなくても、そのときはほんとに京一とタイマンを張ればいいんだからな」
おれも鼻で笑って返す。
「そっちこそ勝算はあるのか」
「もちろん。おれはマコトとは違うからな。勝つ用意も、負ける用意もできてる」
PHSは切れた。いつになくタカシは真剣だ。おれは、なんとなく嫌な予感がした。
◆
そのころ、おれはすっかり地味な暮らしに戻っていた。西一番街のうちの果物屋の店番とラジオがつくったビデオクリップの手直しをするくらい。おれが店番をしていると、ほぼ毎日明日香が顔を見せる。あいかわらず妊婦とは思えないスリップドレスとストリングのショーツ。正直、明日香のあまりにストレートなセクシーさはおれの手にあまる。
他人のことならあんなにがんばれるのに、なぜおれは自分のことはからきしだめなんだろう。七月にはいり、おれはもう父親になる覚悟を固めていた。しかたない。今度の内戦が終わったら、ストリートライフからは足を洗おう。十代でガキをつくりまっとうな生活を送るモトヤンの若いオヤジみたいに。おれは自分をモトヤンだなんて考えたことはないけどな。
◆
サンシャイン通りの路地裏で、露店のバッタモン屋を見つけた。ラコステのスイングトップが一枚千九百円。鮮やかな紫がおれの目を打つ。パープルクルーにちょうどいい。たどたどしい日本語の女に声をかけた。五枚でいくらになる? そうね八千五百円ね。そこでちょっと考え直した。もう一枚増やしてもらう。あなたついてる、中国では紫は幸運の色。あいそ笑い。
おれは六枚一万で手を打った。
◆
それでも、ときどき街をうろついていると誰かの視線を感じることがあった。なぜかあまり暴力的な感じはしなかったけれど。おれのファンだろうか。そう熱心な追っかけがいるとは思えないが。そんなときは、やはり人通りの多い道を選んで帰った。もうすぐ内戦の山場がやってくる。ケガで寝こむわけにはいかない。
◆
七月の第一週はあっというまにすぎた。二週目、週末にGボーイズとRエンジェルスの決戦を控えて、ストリートの空気がだんだん熱くなってくるのがわかる。通りのあちこちで賭けが始まった。前評判ではタカシが六・四で優勢。タカシの稲妻のようなストレートと京一のカンガルーみたいなダンス。両方を間近に見たおれにはどちらともいえない。
蒸し暑い火曜日の深夜、部屋でCDを聞いていると礼にいからPHS。
「マコト、なんか街の様子がおかしい気がするんだが、噂を聞かないか」
「それ、少年課の誰かに聞いたの」
「いや、おれの感じ」
礼にいはだてに池袋を飲み歩いているわけじゃない。おれは特になにも聞いてないといって電話を切った。署長の立場なら、きっと金曜の決戦をなし崩しにしようとするだろう。だが、事態はもう完全に警察のコントロールを離れている。
最後のチャンスを安全第一で潰させるわけにはいかなかった。
◆
礼にいのあとにまたPHSのベルが鳴る。
「もしもし、おれ、京一」
久しぶりの声だった。タカシのクールさと京一の甘さ。実物はどこか通じる雰囲気があるのに声は対照的。
「どうした」
「おまえに頼みたいことがある」
「なに」
「金曜の夜のことは聞いてるな。おれもいいかげん疲れたから、タカシとじかにやりあってすっきりするのもいいと思う。それで、おまえに立会を頼みたい。おまえはGボーイズのメンバーじゃないし、肩いれもしてないんだろ」
「そうだ」
「じゃあ、最後まで見てくれるな」
「ああ、わかった」
「それじゃ……金曜ウエストゲートパークで夜九時に」
京一はなにかいいたそうだったが、自分から通話を切った。おれにだっていいたいことはあった。立会は望むところだ。でも、それはおまえとタカシを戦わせないために引き受ける。
死と暴力以外の道がきっとある。おれは京一にそういいたかった。
◆
金曜の朝は重い雲。空が低い。池袋の街を散歩したら頭がつかえそう。夕方から夜にかけて降水確率は五○パーセントという。おれの部屋には、午前中からあきれたボーイズ+1が集まっていた。みんなで磯貝と京極会のビデオクリップを繰り返し鑑賞し、夜の手順を確認する。そのあとラジオとケンジは機材の調整、シュンはイラスト、和範はなにもせずにぼんやり。
おれは全員に偽ラコステの紫のスイングトップを配った。みんな大喜び。全員でそろいのスイングトップなんかを着ると『ウエスト・サイド物語』みたいだ。あれほどカッコよくはないけどね。
昼すぎ、近くのラーメン屋に飯を食いにいこうと通りに出ると、駅のほうから明日香がやってくるのが見えた。面倒。おれはみんなを先にいかせた。おれの顔を見ると明日香は口をとがらせていう。
「マコちゃん、今夜の決闘にはいかないよね。学校でも街でも、その話で持ちきりだよ」
「いいや、悪いけど」
「まだシヴィルウォーに手を出してるの? シャツの色が気にくわないくらいで人を襲ったりして、あんなやつらクズじゃん」
明日香のいう通りだった。
「わかってる。でも今夜はいかなくちゃいけないんだ」
タカシと京一の世紀のファイトのレフリーがおれだとはいえなかった。それにおれがこの興行を打った張本人だとも。ドン・キング兼吉村道明。ちょっと古いか。
おれと明日香が西一番街の路上で立ち話をしていると、ガキがひとりビル陰から突然あらわれた。見たことないやつ。そいつの顔を見ると明日香の表情が一瞬で変わる。
ガキは胸をはだけた白いシャツ、黒のワイドパンツ、裸足に黒のグッチのローファー。よく焼けた胸に太いシルバーのティファニーのネックレス。きれい系のちょいとなよっとしたおしゃれな少年。おずおずと声をかけてくる。
「あの、マコトさんですよね」
おれが黙ってうなずくと、代わりに明日香がこたえる。
「いいから、あんたはあっちいきなよ」
凶暴な声。少年は目をふせる。なにか事情があるみたいだ。おれはいった。
「なんか用なの」
「マコトさん、明日香とつきあってるんですか? おれ、同じ高校の杉村義人っていうんですけど、春先まで明日香とつきあってました。それで、おれ五月に明日香に金を……」
少年がそこまでいったとき、明日香がかなきり声をあげた。
「もう、うるさい、黙んなって。ヨシト、むこういけよ」
わけがわからない。おれは少年にいう。
「話を続けてくれ」
「あんたのせいだから中絶の費用出してくれっていわれて」
明日香を見た。ふてくされた表情。
「出したのか」
「ええ、明日香はあちこちでその手を使ってるけど、悪いやつじゃないんです。だからカンベンしてやってください」
明日香はため息のあとでいう。
「ぶちこわしじゃん」
「おれ、マコトさんの噂を聞いて明日香がまただましいれたら、マコトさんになにされるかわかんないと思って」
思わずおれは笑った。おれについた尾行。あれは明日香を守るためか。
「ときどき、おれのあとをつけてたのおまえなのか」
「スミマセン。でも明日香を許してやってください」
「おまえ、金を取られても明日香が好きなのか」
少年はちいさくなってうなずく。
「待ってよ、マコちゃん。あたし、あんたから金を引っ張ろうなんて思ってないよ。ヨシトのかん違いだよ」
「妊娠してるってのはどうなんだ? ほんとのことをいってくれ。そうでなきゃおれは一生おまえのことを信じられなくなる」
みんな黙った。おれは明日香の目をまっすぐに見る。厳しい目線じゃなかったと思う。明日香にどう見えたかはわからないけれど。明日香はしばらくしていった。
「今はしてないよ。でも、これからつくればいいじゃん。だって、そうでもいわなきゃマコちゃんはあのオバサンに骨抜きにされてたでしょ。あたし、マコちゃんのことは、だましいれるつもりなんてなかったんだから。マジなんだよ」
「わかった。正直にいってくれてありがとう。でも、これからってのはちょっと考えさせてくれ」
ぼそぼそとなにかいいあう明日香と少年。おれはふたりを残してラーメン屋にむかった。手が届きそうなくらいの曇り空。おれも京一みたいにジャンプができたらいいのに。口笛を吹きたくなって、どの曲にするか考えた。やっぱり『エンジェル』。今度は加奈との初めての夜を好きなだけ思いだせる。
おれはラーメン屋でパープルクルー全員に昼飯をおごった。だって幸せは分けあわなくちゃ。
◆
ラーメン屋からの帰り道、おれはひとり別行動でウエストゲートパークにいった。ランチタイムの公園は近所のOLや学生がベンチで昼飯を広げなごやか。それでも、敷地のあちこちには赤と青のグラフィティが飛び散ってる。今夜、この広場にどのくらいのボーイズ&ガールズが集まるんだろうか。おれにやつらをうまくさばく力はあるんだろうか。急に不安になる。
おれはPHSを取りだして、久しぶりの短縮を押した。
「もしもし、おれ」
加奈が息をのんで、一拍の休止符。
「マコトくん、元気だった?」
はずみながら流れだす声。
「うん、カンペキ」
「どうしたの、突然。私の声を聞きたくなったってわけじゃないんでしょう」
「半分はそう。でも、加奈にとっておきの特ダネをあげようと思って」
「今夜の対決のことね」
「そう」
「立会人はマコトくんなんだってね」
「そう。おれは今夜、サンシャイン通り内戦の幕をひくつもりだ。だから、最後まで今度のネタを追いたかったら、今夜はおれのそばにいるといい。おれたちは午後六時から、ウエストゲートパークにいる。加奈もこいよ」
「わかった。いくわ」
「それから……」
「それから、なあに」
「明日香とのことは片がついた。妊娠は狂言だって」
「そう……パパになれなくて残念だったね」
おもしろくもない冗談。それでも加奈とおれは同時に笑った。どこか控えめで臆病な笑い。加奈はいう。
「私のほうからも連絡取ろうと思ってたの。私の知りあいにストリート系のファッション雑誌の編集がいるんだけど、街の様子に詳しいライターがいないかっていわれてたんだ。マコトくん、どう、やってみない? あなたならきっと書けるよ。第一ネタに困らないでしょ。その気があるならすぐに紹介するよ」
考えておくといった。最後にもうひと押しされた。
「私、マコトくんは今のままじゃもったいないと思うんだ。いつかいってたよね、本当にやりたいことが見つかるといいなって。いいきっかけになるかもしれないでしょう。やってみなよ」
PHSを切ったあと、西口ビル街をおおう曇り空を見あげた。底は墨を流したように黒くて、うえのほうは薄日がさしてぼんやり明るい雨雲。巨大なシュークリームがつぎつぎと連なって池袋の空を埋めつくしている。
帰り道。雨雲に頭を抑えられ、ポケットに手を突っこんで歩きながら、おれはひとりで笑っていた。理由はわからない。でも、笑いながら歩きたくなるときってあるよな。
◆
その午後、あきれたボーイズは思いおもいに時間を潰した。おれはヘッドフォンでバッハの『マタイ受難曲』を聴いた。いちかばちかの勝負を控えて心を澄ませるため。ラジオはいぜん機材の調整、ケンジはおれのマックをいじり、シュンはマンガ、和範はワイドショーで世界の定点観測。みんな黙って好き勝手をする。おれはこんな雰囲気が嫌いじゃない。
午後五時半、裏の駐車場にダットサンを取りにいった。うちの果物屋のまえに停める。おれたちは機材をパネルトラックに積みこんだ。五人で乗りこみ、歩いてほんの数分のウエストゲートパークにむかう。
世紀の対決の一日。空は夕方になってもなんとかもちこたえていた。
◆
ウエストゲートパークの円形広場に、ぽつぽつと集まり始めるガキども。おれたちは公園わきの小道にクルマを停め、機材をおろす。ダットサンは近くの有料駐車場へ。
六時すこしまえ、一面の雲に夕日がはえて空はバラ色に腫れあがった。湿った空気や緑の木々、公園の周囲にそびえるビル街もピンクにかすむ。おれたちは円形広場の中央に機材をセッティングした。距離を測り、ピントをあわせ、携帯電源の調子を確かめる。いいだろう。五人で機材のまわりに円を描いて待機にはいった。
午後六時、加奈がベータカムをかついでやってきた。初めて会ったときのグレイの霜降りトレーナーと色落ちしたジーンズ。おれはなにもいわずに、最後のスイングトップを渡す。
「これを着てくれ。おれたちのチームカラーだ。今夜、赤と青の対立を混ぜあわせ、ガキどもを紫一色にする。加奈はなにかあったときのために、すべてを撮っておいてくれ」
「わかった」
加奈も偽ラコステに袖を通した。これでパープルクルーは準備完了。
◆
午後八時。池袋に夜がきた。ウエストゲートパークの周囲のビルにネオンサインが灯る。GボーイズとRエンジェルスのチームが続々と到着。もう百人は越えているだろう。チームの数は見当がつかなかった。あちこちでガキどもはガンの飛ばしあいをしているが、世紀の決戦を控えて先に手をだすようなバカはいなかった。
◆
午後九時五分まえ。東武デパート口から先にあらわれたのは、Rエンジェルスのヘッド・尾崎京一。いつものブラックジーンズにスエードベスト。足は素足にサンダル。周囲を取りまく親衛隊のなかに磯貝の顔が見える。よし。京一はおれを見ると軽くうなずいた。
すでにあたりはガキどもでいっぱい。ざっと見たところで、エンジェルスが百五十人、Gボーイズが二百人弱。不良少年少女の大運動会みたい。
公園わきの道路に窓のないおおきなバスが停まった。横腹には在京キー局のロゴ。なかから若い男たちがおりてきて、道端で中継機材を広げ始める。まずい。テレビはおれたちの予定外だ。しかたない。計画通りに進めるしかない。なんなら、いくつかのチームの顔見知りに頼んで、やつらのカメラをいれさせなければいい。でたとこ勝負。
午後九時ちょうど、Gボーイズの王様・安藤崇が周囲に三重のボディガードをつけて東京芸術劇場のほうからあらわれた。ひときわ背の高いツインタワー1号・2号の頭が突きでているのが見える。タカシも遠くからおれにうなずく。ちょっと笑ったみたいだ。やつはストレッチ素材のスリムな黒のスーツ。足元はフィラの黒いトレーニングシューズ。
直径百メートル近い石畳の円形広場。その中央で、京一とタカシはむかいあった。距離は五メートル。中央におれ。ふたりを取りまき直径十メートルほどの輪ができて、びっしりと周囲にガキの顔が並んでいる。頭と肩の波が何重にも続く。あたりの湿った空気はガキどもの興奮で沸騰しそう。誰かが火をつけたら一瞬で暴動が起きる危険な気配。四百人近いガキが、かたずを飲んでおれたちを見ている。痛いほどの視線。暴力への渇き。
おれはゆっくりとあたりを見まわした。ガキどもの外側には、ちらほらと制服警官の姿が見え始めた。公園の外にはテレビクルーと中継車。そっちからときおりまぶしい光りが漏れて夜空をどこまでも貫く。
さあ、始めなきゃならない。これはおれが仕組んだシナリオだ。
◆
拡声器につながるマイクのスイッチをいれようとすると、おれのPHSが鳴った。こんなときに誰だ。まったく焦ってなどいない素振りで話しかける。
「もしもし」
「マコトか、おれだ。西口公園はいったいどうなってるんだ」
礼にいだった。尻に火がついた声。
「ガキどもが話しあいで決着をつけようとしてるんだ。警察は手をひいてくれ」
「だめだ。十時から始まるニュース番組がスクープを狙ってる。上からは強力な圧力がかかってる。夏休みをまえに少年たちの暴動を生で全国中継させるわけにはいかない。もう機動隊が池袋にむかってるんだ。今度は子どもの遊びじゃ済まないぞ」
「礼にい、いや、横山礼一郎警視正。おれたちはまだ違法なことなど、なにもしてないんだ。十時までには必ず片をつける。時間をくれ。あんた、まえにいったろ。強い力で抑えこめば解決するとは思っちゃいないって。今、無理に介入すれば内戦の火は消せないんだ。ガキどもに足りない頭で考えさせろ。自分たちの手で決めさせてくれ」
おれは悲鳴をあげそうだった。だが、ここで引きさがるわけにはいかない。京一とタカシは夜の木のように涼しげ。他のガキは不思議そうな顔でおれを見てる。こんなときに、なに長電話してんだ、あのバカ。池袋警察署長はいう。
「おれにだって、できることとできないことがあるんだ」
「そんなことわかってる。だから、一時間だけ時間をくれっていってる」
「無理だ」
「あんた、自分の言葉と上司の受けとどっちが大事なんだ。そんなに出世がしたいのかよ。現場の仕事がやりたいっていってたろ。今、礼にいが警察の動きをとめるのが、最高の現場の仕事なんだ。頼むよ」
「くそっ、マコト、おれが北海道に飛ばされたら毎年バーボンもって遊びにこいよ。三十分だけやる」
「五十分」
「だめだ、四十分」
「わかったよ。どんな高いバーボンだってもっていく。礼にい、ありがとう」
おれはPHSを叩き切り、代わりにマイクのスイッチをいれた。残り時間は四十分。おれは、おれたちの街をテレビのスクープなんかに絶対させない。このバカなガキどもを寝っ転がってテレビを見てる好奇心からきっと守ってみせる。
もう練習していたスピーチなど、どっかへ吹き飛んでいた。
◆
「用件は済んだか」
タカシは笑いを含んだ声でいう。おれはうなずいた。
「それじゃ始めるか」
「いいだろう。だが……」
おれは拡声器のマイクを口元に運んだ。
「この闘いのまえにおれから、Gボーイズとレッドエンジェルスのみんなに話がある。五分間だけ時間をくれ。そのあとで思う存分やってもらおう」
おれはラジオにむけて右手の指をはじいた。シュンと和範が百五十インチのビーズスクリーンを広場の中央に広げる。夜の公園に輝く白。おれはいった。
「これはおまえたちがどうしても見なきゃならない映像だ。スクリーンの裏のやつは反対側にまわれ」
割れるような大音量。拡声器のボリュームはいっぱいにあげてある。ぞろぞろと動きだすガキども。ラジオは液晶プロジェクターのスイッチをいれる。ケンジはプロジェクターにつないだ8ミリビデオで、京一の横に立つ磯貝を撮影した。最新型のシャープの液晶ビジョンの明るさは四千ルクス。ひとつ眼のレンズからあふれだす光りが、スクリーンで磯貝のフラットトップになった。池袋の夜空に浮かぶ巨大な顔。やつの表情はくるくると変わる。とまどいからいらだちへ、怒りからかすかな恐怖へ。
「こいつがレッドエンジェルスのサブヘッド・磯貝だ。みんな知ってるな」
再びラジオに指を鳴らす。生の映像から、用意したビデオクリップに瞬時に切り替わるスクリーン。少年院の記録。丸坊主の磯貝の顔写真の横にはやつの本名。
「だが、なぜか磯貝には、もうひとつの名前がある。そうだな、内海繁幸」
おれが拡声器を使って呼びかけるとやつがひるむのがわかった。その顔もケンジは録画しているはずだ。ビデオクリップは続く。センチュリーハイアットの雨の夕方。熊オヤジとのランデブー。ホテルの廊下でキスをする磯貝に、あたりのガキどもが息をのむのが聞こえた。
「おれは別に磯貝の性的な指向を問題にしてるわけじゃない。だが、このオヤジが誰であるかによっては話は別だ」
光り輝くスクリーンに、吉松の新聞記事が大映しになる。
「このオヤジは京極会吉松組の組長だ。やつらはレッドエンジェルスが勢力を伸ばす裏で、池袋の縄張を着々と広げている。エンジェルスが急に拡大したのは誰がきてからだ? 京極会とのパイプ役を自分から引き受けたのは誰だ? おれは殺された渡辺が磯貝の金庫番になって、急に羽振りがよくなったと聞いた。じゃあ、その金をどこかからもってきたのはいったい誰なんだ? なぜ、はたちそこそこのガキにそんな金が動かせる? そして、その金を使いこんだやつをリンチにかけて、Gボーイズのせいに見せかけ、公園に投げ捨てたのはいったい誰なんだ?」
最後のほうはたいした証拠などなかった。二週間で殺しの証拠まで見つかるはずもない。相手もプロだ。だが、悪い予想ではなかったようだ。磯貝の顔から血の気がうせている。
「忘れるなよ、自分たちの仲間に嘘の名前と嘘の人生を話すやつは、いったいどこの誰なんだ? おまえらはそんなやつを信じられるのか?」
四百人のガキどもが息をひそめる。やつらの迷いが手に取るように感じられた。おれは自分の言葉が隅々まで染みわたるのを待ってから、ラジオに最後のキューを出す。テレビニュースで流れた公園の青い海と赤い死体。裏通りで骸骨だけになってる焼け落ちたクルマ。歩道に広がるどこかのガキの血だまり。泣き声を連れて走りすぎるストレッチャー。
「おまえたちの抗争をあおって、陰で金を儲けてるのは誰だ? 出入りやケンカなんて別にたいしたことじゃない。だが、誰かに踊らされているとしたら、おまえたちは我慢できるのか? 誰かさんの金儲けのために、去年までいっしょに遊んでいた仲間を叩いたり、刺したり、火をつけたりする」
あたりのガキどもの顔を見まわす。ゆっくりと間をとっていった。
「おまえたち、友達を刺すのはどんな気分だ?」
おれはタカシを見た。やつも目を細めておれを見ている。京一は黙ったまま、磯貝をにらんでいた。消された表情。周囲には熱い暗がりで静まり返るガキども。だが、それは感じただけなんだ。おれの目には加奈の洪水みたいなハロゲンライトがあたって、夜のはしっこのほうは見えなくなってる。声を抑えて続けた。
「おれたちはみんな弱い。だから嘘をつくことがある。おれたちはみんな臆病だ。だから武器をもつこともある。おれたちはみんなバカだ。だから傷つけあうこともある。でも、おれたちは許すことができる。誰がついたどんな嘘だって、きっと許せるんだ」
最後の言葉は加奈にむけてだけいっていた。まっすぐにベータカムを見つめる。おれは涙ぐんでいたかもしれない。ファインダーに押しつけた加奈の右目から涙がつたうのが見えた。
「おれの言葉だけじゃ、一方的だ。磯貝にも弁解のチャンスをやろう」
再びケンジが顔のアップを狙った。そのとき磯貝は致命的なミスをした。やつは自分の言葉で闘おうとせずに、ケンジに飛びかかると8ミリビデオを叩き落とした。バカなやつ。冷静に反論すれば、おれたちの穴だらけのビデオクリップなど、いくらでもいい抜けられるのに。それともおれたちのほうに真実の力が、すこしばかりあったのか。
京一が手首を振る。親衛隊が暴れだした磯貝を石畳に抑えつけた。レッドエンジェルスの落書きに押しつけられる磯貝の顔。ケンジはすぐに予備の8ミリビデオをまわし始めた。磯貝はなにかわけのわからないことを吠えている。自分たちのチームにとり抑えられる磯貝の姿がスクリーンにクローズアップされた。よだれをたらすやつの顔が、対決で浮かれていたガキどもの熱気を冷ましていく。
つぎの瞬間、京一はなんの予備動作もなく跳躍した。ブラックジーンズのひざが目のあたりにくるほど高いジャンプ。磯貝のうえに着地する。三人がかりで地面に抑えこんだ磯貝のひざの裏。柔らかなものと硬いものが、いっしょに断ち切られ壊れていく、ごりごりという音。京一の顔には、感情と呼べるようなものはなにも浮かんでいない。そのまま、磯貝の身体のうえでダンスを始めようとする。でたらめなステップを踏むと、やつの顔に薄い笑いが戻ってくる。
「よせ、京一。おまえのダンスは、そんなやつを潰すためにあるんじゃない」
おれがそういうと、エンジェルスのメンバーがあちこちで同意の叫びをあげる。なかには黄色い声。ファンの多いやつ。おれの制止ではクールなままだったやつの顔に、ふりそそぐガキどもの声で表情が戻ってくる。最後にかかとをねじこむように踏みつけると、京一は磯貝の背中からおりた。腕を組み、まっすぐにおれとタカシを見る。うなずいた。おれはそのとき初めて休戦を確信した。
「さあ、もういいだろ。うちに帰ってひとりひとりが自分の頭で考えてくれ。おれたちのシヴィルウォーに正当な理由はあったのか」
そういってマイクのスイッチを切ろうとすると、かん高い叫び声があがった。
「まだ、よくない!」
◆
叫び声に続いて小学生くらいのちいさな女の子が、ガキの輪のなかからあらわれた。薫だった。池袋病院の待合室以来だ。あのときと同じ赤いベストとジーンズ。人形のような頭に今夜は赤いバンダナ。薫にはすこしおおきすぎるようだ。結び目の先が余ってスカーフのように夜風に揺れている。
「その人が悪いのはわかった。でも、エンジェルスのほうがいっぱいやられてるよ。私のおにいちゃんみたいな人がエンジェルスにはたくさんいる。私は、絶対許さない」
最後のほうは悲鳴に混ざってよく聞こえなかった。薫はベストの内側に手をいれる。再びあらわれた手にはナイフ。刃渡り二十センチのコンバットナイフ。薫がもつと刀のようだ。それは夜間の接近戦で光りを反射しないように全面にテフロン加工が施された真っ黒な野戦用ナイフだった。殺すための道具。中央に細い血抜きの溝が刻まれている。刃先だけがほんの一ミリ、両刃のシルエットを描いて夜のなか光った。
薫は悲鳴をあげながらタカシにむかって突っかかっていく。速くはなかった。いつものタカシなら昼飯を食ってお茶をしてから余裕でかわせるスピード。だが、タカシは薫を見てから、おれを見た。いつものようにおれに黙ってうなずく。薫にむかって腕を広げた。駆けてくる妹を抱きとめるように。
「ヤメロー!」
誰かが叫んでいた。しばらく、おれは自分の声だとは気づかなかった。
◆
タカシの身体とちいさな薫の身体がひとつになった。空気がねばるように重くなる。四百人のガキの沈黙。タカシはよくやったとほめるように薫の背中を軽く叩く。薫は泣き声をあげてその場にしゃがみこんでしまった。タカシの左ももの付け根から黒いナイフがはえている。
「誰か、救急車を呼んでくれ」
おれはそう叫び、タカシに駆けよった。やつの左足は血の柱。しぶとい笑顔をつくったまま、おれにいう。
「気が遠くなってきた。時間がないから、早くマイクよこせ」
おれは拡声器のマイクを渡してやった。無理はするな。またいわなくてもいいことをいった。タカシの声がメガホンから流れだす。苦痛などまるで感じさせないクールな声。
「このチビのいう通り、Gボーイズのほうが少々やりすぎていたとおれは思う。京一、それにレッドエンジェルスのみんな、すまなかったな。軽いものだが、おれのこの血で償わせてくれないか? おれはくだらない戦争はもうたくさんだ」
そこでタカシは声を張る。ナイフの傷から声にあわせて血が噴きでて、石畳に鮮烈な染みをつくる。
「Gボーイズのメンバーに命令する。今もっている得物をすべて捨ててくれ。今夜からシヴィルウォーは休戦だ」
それだけいうとタカシはその場にくずおれた。倒れたままマイクを京一にむける。おれはタカシから渡されたマイクを京一にパスしてやった。京一はマイクを握る。
「磯貝の件はおれたちが責任をもって調査する。おれは今の休戦の提案を支持する。レッドエンジェルスのメンバーに告げる。ナイフを捨てろ」
しばらくはなんの動きもなかった。もうだめかと思った。
その音は最初、夕立が降り始めるようだった。公園の石畳にぽつぽつとナイフが落ちる音。それはだんだんと勢いを増して、しまいには叩きつけるナイフの豪雨になる。おれはどんな音楽よりも甘いその音に耳を立てていた。
波にさらわれる砂山のように、ガキどもの姿はウエストゲートパークからすこしずつ消えていった。チームごとに出口から去っていく赤や青の背中。礼にいとの約束の五分まえ、パープルクルーを残して公園は普段の夜と変わらなくなった。
◆
救急車で運ばれる間際、タカシはストレッチャーに横になったままおれの手をつかむ。漂白された腕。握力はそれでも強い。見あげるうつろな目。
「もし、おれがだめだったら、マコト、おまえが、Gボーイズのヘッドに、なれ。面倒だ、なんて、いわせない。頼んだぞ」
しかたなくおれはうなずいた。それがあとでおれたちの冗談のネタになるタカシの遺言だ。でもよかった。タカシは三リットルばかり他人の血をいれて、しぶとく生き残った。ナイフは内股の大動脈に傷をつけていたが、切断はしていなかったそうだ。悪運の強いやつ。
おかげで代理GKにならずにすんだ。おれには王様は似合わない。
だって王様はいつだって裸だし、ひとりぼっち。家来はダチとはいえないだろ。
◆
だから、テレビのまえで『ニュースステーション』を見ていた人は残念でした。繰り返し流されたのは生中継じゃなく、暗がりでナイフの雨が降る遠景のとぼけたビデオだけ。おれもあとで見たけれどまるで緊張感のない絵だった。ぬるいコーラみたい。
それでも、翌日の池袋警察署の発表では、回収されたナイフは約三百本あったという。おおきなポリバケツ二杯分のコンバットナイフ、ボーイナイフ、フィールドナイフ、サバイバルナイフ、ツールナイフ、シースナイフ、フォールディングナイフ。ナイフはなにもバタフライだけじゃない。記者会見場の床を埋めるさまざまなナイフたち。でも、そんなものただの道具だろ。
警官と機動隊員がその道具を拾ったのはみんなが静かに帰っていったあとだ。加奈のベータカムは、西口公園で遺失物を回収する公務員の姿を、遠くから録画している。
パープルクルーはそれよりひと足早く撤収していた。おれがどれだけうちのクルーを誇りに思っているか、今でもうまく表現する言葉がない。
◆
残念だが薫だけは警察に連れていかれた。薫はまだ十二歳。薫の殺人未遂には刑事責任はない。だが、調査はされるし家庭裁判所での審判も保護処分もある。
タカシは池袋病院のベッドで薫の救済を訴える嘆願書を書いた。これでいいかと恥ずかしがりながらおれに差しだす。やつは普段文章なんて書かない。嘆願書もうまくなんてなかった。形式だってヘンテコ。言葉づかいも息もばらばら。でも、じつにいい文章だった。バカみたいだが、おれは読みながら涙ぐんだ。
だから、加奈が紹介してくれるといったストリートマガジンには、タカシと薫のことを名前を変えて書いて渡した。加奈がつけてくれたコラムの題名は「トーク・オブ・タウン〜街の噂」。意外なことにけっこうおれのコラムは評判がよかった。ネタが新鮮だからな。連載決定。それで、おれは今、へとへとになりながら自分の部屋でマックに文字を打ちこむ毎日。毎月の締め切りは矢のようにやってくる。いつか活字を読むのがたいへんだっていってたよな。でも、文字を書くのはそのさらに千倍くらいたいへんだ。頭の芯がへろへろになる。おれの知ってるものすごくすくない言葉で、なんとかしのがなきゃならないしな。
だけど、やめるわけにはいかない。だんだんとおもしろくなってきたし、やってみて初めてわかった。おれにしか書けないことがあるんだってことが。
◆
ある日、池袋病院に見舞いにいった。タカシの病室は薫の兄の病室の隣。ふたりは仲よくなったそうだ。無駄話をしているとやつはベッドのまわりを飛びまわる羽虫を左手でさっと捕らえる。おれのほうを見ると、どうだって顔をする。得意げな王様。かつては地平線の稲妻みたいだったストレートがF1くらいに遅くなっていた。
「今のがフルスピードか。おれ、タカシの手にそいつが卵生むかと思ったよ」
タカシはにやりと笑う。
「いいや。もう、おれにはこの速さで十分だ。こぶしの速さを競う時代は終わったんだ。それにおれはのろくさいやつにも、すこし優しくなったよ」
そういうとやつはこぶしをそっと開いた。指のあいだにはさまれていた緑の羽虫が窓のほうへふわふわと飛んでいく。いつかの夜のようにタカシはおれに黙ってうなずいた。
あきれた王様。
◆
Gボーイズとレッドエンジェルスの抗争は始まったときと同じように、急速にしぼんでいった。警察も遊んでいるわけじゃない。磯貝と京極会の下っ端が東池袋公園の殺人事件であげられた。東京中のペンキ屋をしらみ潰しにあたって青いペンキを大量に買いこんだやつを探したそうだ。おれは磯貝の件はそのまえに礼にいに報告済み。新署長は感謝状はいらないかといったが、おれは断った。週刊誌に載っていた犯人の顔写真を見ると、真夜中の駐車場でおれの尾※[#「骨+低のつくり」、unicode9ab6]骨にしつこくサッカーボールキックを決めたなつかしい顔があった。
今ではふたつのチームの集会は一度に同じ場所で開かれている。議長は交代で出しているそうだ。京一はエンジェルスから手をひいたという。
七月半ば、梅雨の晴れ間に京一はうちの店にふらりとあらわれた。いつもの格好で肩からばかでかいダッフルバッグをさげている。京一はおれを見ると照れて笑う。いい笑顔。今やつが新しいダンスを振りつけたらどうなるんだろう。すこしはこっちの生きてる世界に近くなるんだろうか。おれにはわからない。わかるのは京一が、西一番街にはあまり似合わないってこと。おれと違ってどことなく品があるからな。やつはいう。
「これから、あるモダンダンスグループのオーディションなんだ。おれ、山手線の反対側に両親が残してくれた家がある。あっちに住むことにしたよ。池袋にはたまに顔を出すだけになると思う。つぎにきたとき、マコトが忘れてなかったら、音楽の話でもしよう」
そういうと手を差しだす。しっかりと握り、がんばれといった。おれは京一のダンスを絶対にステージのうえで見たい。そういうとやつは顔を崩した。京一の笑顔は甘い。きっとたくさんの女性ファンができるだろう。
なにせ、やつのカリスマは池袋で証明済みだからね。
◆
そして、加奈とおれのこと。ふたりのあいだは、内戦が終わり、明日香の問題が片づいても、もう元には戻らなかった。あの魔法みたいなタッチとときめきはどこかに消えてしまった。なぜかはわからない。何度かデートもしたけれど、おれたちには楽しいだけのデートや激しいだけのセックスじゃ、なにか足りないみたいなんだ。気がつくとふたりでいても別々なことを考えてる。悲惨な現場に追いまくられる圧力や、お互いのちいさな嘘が、おれたちを燃えあがらせたんだろうか。どちらにしてもあの不思議な一カ月間が、おれの初恋であることに変わりはない。
内戦終結六日目、加奈は沖縄に飛んだ。新しい仕事。基地の街で生きる少年を夏いっぱい追いかけるという。おれは羽田まで見送りにいった。搭乗ゲートのまえで加奈はいう。まっすぐにおれを見る目。つながる視線。だが、内戦のころのように深くは届かない。
「帰ってきたら、また会おうね」
おれは黙ってうなずいた。嘘じゃない。ほんとに会いたい。空港の人ごみに消える広い背中。だけど、そのときおれはさびしさと同時に解放感を感じていたんだ。おれたちの恋に第二章があるかどうかは、わからない。空港からの帰り道、おれはたくさんのビルボードを見た気がする。でも、なにを考えていたのかはおぼえていない。
◆
七月十日の休戦集会から九日目の日曜日。太平洋高気圧がしっかりと腰をおろして、長い梅雨が明け、東京の空に夏がきた。
快晴。さらりと乾いて肌を滑る日ざし。気温三十三度。おれはウエストゲートパークにひとりででかけていった。池袋の高い夏空にむくむく湧きあがる入道雲。東武デパートのハーフミラーの壁面を、はぐれた雲がぎざぎざによぎる。肌の露出の限界に挑戦する勇気あるガールズ。孔雀みたいに女の気をひいてはナンパを繰り返すこりないボーイズ。いつものウエストゲートパークの夏の午後。
おれは熱い湯につかるようにベンチに座った。やっぱりここがおれの場所だ。手には加奈からの手紙。ゆっくりと開き、読み始める。
手紙にはこうあった。パープルクルーのみんなは元気? 私のために忘れずに席をひとつ残しておいてね。マコトくんが声をかけてくれたら、いつでも飛んでいくから。
ラジオもケンジもシュンも和範もサルも千秋も、この街でみんなそれぞれの形で元気だ。もちろん、おれもね。あんたが元気をなくして学校や会社が嫌でたまらなくなったら、池袋にきてみたらどうだ? 最初はちょっと勇気がいるかもしれないけれど、ネクタイや制服のえり元をゆるめて道端に座ってみる。そうしたら、今までに見たことのない世界がきっと見えてくると思うよ。
ストリートはすごくおもしろい舞台で厳しい学校だ。おれたちはそこでぶつかり、傷つき、学び、ちょっとだけ成長する(たぶんね)。街の物語には終わりがない。
だから、おれもさよならはいわない。いつか、どこかでまた会おう。それまでにおもしろいネタをたくさん仕込んでおくよ。見つからなかったら、でっちあげればいい。
おれの嘘がうまいのは、ここまで読んだあんたならよくわかってるだろ?
単行本
一九九八年九月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十三年七月十日刊