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石田衣良
少年計数機 池袋ウエストゲートパーク U
目 次
妖 精 の 庭
少年計数機
銀 十 字
水のなかの目
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池袋ウエストゲートパーク〔主な登場人物〕
真島誠(マコト)[#「真島誠(マコト)」はゴシック体]……地元の工業高校を卒業後、池袋西一番街の母親が営む果物屋を手伝うかたわら、ストリートファッション誌で連載コラムを執筆している。
斉藤富士男(サル)[#「斉藤富士男(サル)」はゴシック体]……マコトの中学の同級生。池袋で勢力を張る暴力団羽沢組の若衆。
羽沢辰樹[#「羽沢辰樹」はゴシック体]……関東賛和会羽沢組組長。愛娘の捜索に、マコトは手を貸したことがある。
森永和範[#「森永和範」はゴシック体]……マコトの中学の同級生。引きこもりで高校中退。特技・張り込み。
波多野秀樹(ラジオ)[#「波多野秀樹(ラジオ)」はゴシック体]……電波マニア。特技・盗聴、盗撮。羽沢組組長の娘捜索の際、マコトに協力。
安藤崇(タカシ)[#「安藤崇(タカシ)」はゴシック体]……マコトの高校時代からの友人。池袋のチームを束ねるGボーイズの頭──王様。
ツインタワー1号、2号[#「ツインタワー1号、2号」はゴシック体]……タカシのボディガード。一卵性双生児。
吉岡[#「吉岡」はゴシック体]……マコトの知り合いの池袋署少年課の万年平刑事。
横山礼一郎(礼にい)[#「横山礼一郎(礼にい)」はゴシック体]……年の離れたマコトの幼なじみ。東大文1卒。警視正、池袋警察署署長。
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妖 精 の 庭
妖精を信じるかい?
バイトや仕事の残業を終えて、ようやく自分の部屋に帰り着いた真夜中。スイッチをひとついれるだけで、夜空を結ぶ電話線を駆けて、あんたの部屋にやってきてくれるデジタルの妖精を。
のびやかな太もも、やわらかだけど締まった二の腕、洗い髪を乾かすしぐさ、飾りけのない下着姿。彼女たちには二十四時間いつでもアクセス可能だ。液晶の鮮やかな原色の花が咲き乱れる、中世ヨーロッパ風の石の庭で妖精たちは待っている。
あんたはその庭園を訪れ、白大理石でできた十二のフレームからひとり選び、クリックする。それだけで自分好みの妖精をいくらでも見つめていられる。身体のラインを視線の刷毛でゆっくりとなでまわし、秘密の時間を分けあうこともできる。妖精たちはコンビニの弁当を食い、化粧しては何度も着替え、むだ毛の手いれをし、男たちを連れこみ、眠りにつくだろう。ディスプレイのなかで、普通の女の子がすることを、普通にするだけだ。
ただひとつ違っているのは、その庭では夜も絶対に明かりが消えないこと。
闇の魔法使いが恐ろしくてじゃない。だって、売りものを台なしにできないだろ。
インターネットって実に先進的だよな。完全にアンディ・ウォホールのうえをいってる。女たちの寝姿さえ、十秒いくらで金に換えられるんだから。
◆
池袋の街も九月になった。
暑いことはまだ暑いけど、芯のないどこか淋しい熱気が、死んだ魚みたいにアスファルトに残ってる。ゲーセンやカラオケボックスや通りの物陰から、クラゲみたいに湧いていたガキの姿が消えて、裸になった街は商売だけに熱心だ。
この一年、池袋の街をめぐるごたごたで、おれにもなにか始まるのかと思っかたけれど、別になにも始まりはしなかった。変化も進歩もなし。ただお決まりの毎日が続くだけ。変わったことといえば、もちこまれるやっかい事と携帯のメモリー(の何十人分か)が増えたこと。おれはあい変わらず、西一番街にあるうちの果物屋の店番と、ストリートファッション誌のコラム書きと、池袋の街の灰色ゾーンにでたりはいったりを繰り返していた。黙って目をでっかく開けたまま、心のメモリーにジャンク情報を詰めこみながら。
退屈と時間はたっぷりとあった。ひま潰しにいつも誰かとつるんでいるやつもいるけれど、おれは退屈すると人に会いたくなるなんてことはない。西一番街の灼けた敷石が夜になって空気をゆらめかせ、ゆっくりと冷めていくのを、酔っ払いの相手をしながら三時間も眺めていると、なにか叫んで通りを走ったり、そのまま陸橋のコンクリートに頭から突っこみたくなったり、むやみにテレビを目から流しこみたくなったりしたが、そんなの当然の反応だよな(もっともテレビを見るのって、ゆっくり自殺することなのかもしれない)。
だから、その夜ウエストゲートパークで男ではない男から、その仕事の依頼を受けたときは、単純にうれしかった。久々にいい匂いのする仕事。やっぱり街はうろついてみるもんだ。半日も歩いてくたくたになるころには、たいていの悩みは身体から抜け落ちてる。歩くのは足と目と心にいい。
無人の街を夜歩く。夜の猫みたいに池袋の路地から路地を足音をひそめてうろつく。もしかすると、おれはこの街のストーカーなのかもしれない。
◆
金曜日の夜の西口公園は、低気圧がくる一日まえの渚みたいだ。ガキどもの姿はそれほど多くない。サラリーマンやOLのグループが群れになって回遊しているが、あまり勢いはない。終電のかなりまえに消えてしまうからだ。噴水まえや芸術劇場の広場には、週末を控えて、嵐の空を埋めつくす羽虫の唸りのような興奮が満ちている。
おれは三時間も歩き続けて、鉄板のはいった背中と曲げるとそのまま折れそうな足を休めるため、円形広場のベンチに腰をおろした。公園はステージだった。女たちはベンチで男たちに声をかけられるのを待っている。男たちは底引網でもかけるように相手かまわずさらっていく。カラオケや風俗の客引きが、酔っ払いに片端からチラシを配り、お得な話を大安売りする。公園をぐるりと囲むネオンサインは、毒の色を明るい夜空に放って、月を豆電球にしてしまう。
水銀灯がつくるケヤキの青い樹影に、その夜の当番のGボーイズが腕組みをして立ち、おれにむかってうなずいた。やつは冷たい目をして目のまえの舞台を見つめている。無理もない。何年たっても変わらないサル芝居なんだから。変わるのは表面だけ。今年の女たちはパレオを巻いたハワイアン調のファッションで、つま先でも十二センチある厚底サンダルにのっている。そのうち竹馬がはやるかもしれない。そうしたら男たちは、女たちを見あげてくどくようになるのだろう。今と変わりはしない。
おれの座ったベンチから、ウエストゲートパークの東武デパート口が見えた。たくさんの客引きやナンパ師のなかに、ひとり異常に元気なチビの姿が目についた。つぎからつぎと花にくちばしを突っこむハチドリみたいなやつ。テレビで見たハワイのゴルフ場の空みたいに青いアロハシャツ、ぶかぶかの短パン。頭はボウズで、けっこうかわいい顔をしているようだ。暗くても女たちの反応でわかる。
しばらくやつを眺めていると、そいつもこちらに気がついたようで、チラリとおれのベンチを見た。粉をかけていた女に名刺を渡すと、夜の公園を渡っておれのほうに歩いてくる。手はポケット、視線は円形広場の石畳。やつはベンチの端に立つといった。
「いいかな、ここに座っても」
声を潰した演歌歌手みたいな声だった。しかも女の。おれは黙ってうなずいた。
「あんたのことを探していた。マコト……さんだろ」
やつはベンチに飛びのるように座ると、すね毛の薄い細い足を百五十度に開いた。靴は編みあげのごついワークブーツ。Tシャツの袖からのぞくおれの腕を見ていった。
「あんた、そんなに筋肉質だったっけ」
そんなことをいわれても、おれは目のまえのボウズを知らない。やつは自分の上腕二頭筋を握り、太さを確かめていた。
「おまえのことを知ってるはずなのか」
「半分はな」
やつは上目づかいでおれを鋭く見た。ガンを飛ばすプードル。
「悪いけど、わかんない」
「貝山祥子《かいやまさちこ》」
「サチ……」
このボウズがサチならおれにわかるはずがない。十年という歳月は人間を変える。なにせ女を男にするくらいだ。おれの驚いた顔を見て、やつはニッと前歯をむきだして笑った。人の懐にはいるのがうまいやつ。
◆
貝山祥子は小学校の低学年で同じクラスだった。女だてらにおれたちのクラスで最も戦闘的な男子グループの一員で、近くの別な小学校との出入りがあると、棒切れを引きずり必ず参加していた。デニムのミニスカートから伸びる泥つきゴボウのような細い足とボクサーショーツに似た灰色のパンツを覚えている。サチはパンツなんか見えてもぜんぜん気にしなかった。児童遊園のサクラやサルスベリに誰よりも速くのぼると、てっぺんの枝に座り、足の裏を打ちあわせる。ガキの誰かが、パンツーマルミエの全国共通ジェスチャーをすると、サチは下界にむかって叫んだ。
「ばーか、おれのパンツなんか見ておもしろいかよ」
そのサチが十年たって、チンピラの格好をしてベンチの隣に座っている。おれはなぜかアロハシャツの胸元を見てしまった。
「そんな不細工なもんとっくにねーよ。手術済」
不機嫌そうにいう。確かに胸は平らだった。トルコ石が点々と散ったきしめんみたいに潰れた銀のネックチェーンが鎖骨の形に沿ってうねるだけ。
「それから、おれのことはもうサチって呼ぶな。今はショーっていうんだ」
「で、おまえ今なにやってんの」
「そうだな。仕事の話もしなくちゃな」
そういうとさっき女たちに配っていた名刺をおれに差しだす。モデリング&インフォメーションサービス、妖精企画・スカウト部 貝山祥。裏を返すと全面ピンクで英語の社名とサクランボふたつのロゴマークが白く型抜きされていた。
「なんか、めちゃくちゃ怪しそうだな」
「ああ、おれがもってるのは名刺だけ。その会社は幽霊会社みたいなものなんだ。スカウトした女の子の面接はどっかの喫茶店でやる。まあだいたいの女は、おれがいただいちゃうから、いいなりなんだけどな。会社側がOKなら女の子の部屋にカメラを据えつけておしまい。サーバーは池袋のどっかのワンルームマンションにあるらしい。覗きが好きなアホ男が、女の部屋を見る。ダイヤルQ2と同じだ。料金はNTTが回収してくれる。よくできたシステムだ。知ってるだろ」
おれは黙ってうなずいた。インターネットの覗き部屋なら、噂は聞いてる。昼は学生やOLなんかをしている普通の女(おれたちはもう普通の女なんて文字をワープロソフトから削除するべきかもしれない)が、こづかい稼ぎにやるアルバイトのはずだ。
だが、ショーの話によると実際にはアルバイトなんて軽いものじゃないらしい。基本給は確かにOLと変わらないが、ヒット数に応じて歩合給がつくという。売れっ子になると片手間に月百万近くの収入が転がりこむ。本業をやめて、専業になる女も多いそうだ。
「この不景気によかったな。だけど、最先端のネット企業が、おれなんかに何の用があるんだ」
ショーは黙っておれの手から名刺をひったくると、サクランボのしたにボールペンでなにか書いた。受け取り、読んでみる。女の名は明日美。
「アスミはうちのナンバーワンだ。どこにでもバカがいる。ディスプレイのなかと現実の区別がつかないバカなやつだ。そいつがアスミをつけまわしている。やつは距離をおいてただ見ているだけだそうだ」
「なるほど。それじゃ警察は役に立たないな」
「組関係はうちの会社のうえのほうが嫌がって手をださない。残りは興信所だけど、そういうところってけっこう金がかかるだろ」
「それでおれの噂を思いだしたのか。ショー……なんかこの名前呼びにくいな……おまえおれの取り分からピンハネするつもりだろ」
「あたりまえだろ。うちの会社が伸びてんのはなんでも歩合制にしてるからだよ。個人の創造力と技術力。社長がビル・ゲイツのファンでね」
また前歯をむきだして笑った。夜の樹影でちいさな歯は、蛍光色の白にぼんやりと光った。粒の揃った薄手の女らしい前歯。これだけは手術でも直せないだろう。ポールの先端についた公園の丸時計は、もう真夜中に近づいている。ショーは潰れた声でいった。
「今夜一時にマコトのところから、うちのサイトに接続してくれ。アスミには話をしておく。おれはこれからひと仕事だ」
聞くと池袋のオナベバーでウエイターをやっているという。男性ホルモンを毎月打つだけでもけっこう金がかかるのだそうだ。なにせ保険がきかない。別に病気じゃないから、あたりまえの話。妙に肩を怒らせて歩くやつの背中は、JR池袋駅の交差点に消えた。秋の初めの夜風がケヤキを揺する涼しい音を、しばらく聞いてからうちに帰った。
生まれて初めて覗き部屋を訪れ、ナンバーワンの妖精に会うために。
◆
深夜一時すこしまえ、おれはマックのノートブックパソコンから、覗き部屋にアクセスした。もちろん、そのサイトは覗き部屋なんて下品な名前は使っていない。最初の画面にはツタの透かし彫りをいれた大理石のプレートに、例のピンクのサクランボマークとサイトの名前がはいっていた。
『Fairy Garden〜妖精の庭』
そのしたに四列三段のちいさなウインドーが開いている。フレームは白大理石風。なかには思いおもいの格好をした女の写真がはいってる。ネコ耳をつけて招き猫のポーズをする女。バナナをほおばる女。上半身裸で胸の先だけ人差し指と中指を重ねて隠す女。ストッキングをはいて組んだ足だけをだす女。それぞれの枠のしたには、妖精の名がしるされていた。チカ、涼子、マコ、千奈美、アイカ、夏帆、シオネ……誰もかれもどっかのAVギャルみたいな名前。
アスミは右下の一番はしっこだった。ボーイフレンドにでも撮られた感じのスナップ写真。セミロングの髪をかきあげて正面をむいた瞬間、ふたりだけにわかる冗談でもいわれたように、すこし恥ずかしげに笑っている。ナチュラルメイク。目のしたのふくらみと唇がやわらかそうだ。他の女たちのように見て! 見て! という熱気を発散してはいなかった。白いタンクトップは胸の頂点にむかう七合目くらいで画面から切れていたが、それでも豊かな丸みを想像させるには十分だった。
おれはアスミのフレームをクリックすると、画面が替わるのを待った。ひまなのでタイトルしたのヒット数を確かめてみる。
964002!
今年の元旦からその庭を訪れた男たちの人数だそうだ。笑いがとまらない訳だ。個人の創造力と技術力。
◆
ディスプレイの中央に、対角線の半分くらいのおおきさのウインドーがすぐにあらわれた。粒子が粗く、蛍光灯の光りのせいか、全体に青っぽい絵だった。ひとり暮らしの女の部屋のようだ。安っぽい合板のテーブル、ちいさな一面鏡、壁には『プリティ・ウーマン』のポスター。生活感があるのかないのかわからない、おかしな感じの部屋だった。
その部屋の中央の細かなギンガムチェックのカバーがかかったベッドのうえに、女がひとり体育座りしている。白のタンクトップはさっきと同じ、それにスポーツ選手用の白いショーツ姿。扉の写真で見るよりずっと健康的に見えた。手足は伸びやかで、身体のどこにもきゅうくつそうな感じがしない。バランスがすごくいいんだ。
アスミは手にした携帯の番号を、メモの切れ端を見ながら押している。なにをやってるんだろうか。無音のディスプレイを見つめていると、その音がおれの部屋でいきなり響いた。
PHSの電子音!
おれはあわてて脱ぎ捨てておいたカーゴパンツのサイドポケットから、ピッチを取りだした。
「もしもし、あの、マジママコトさんですか」
画面のコマ割の動きから一拍微妙に遅れて、アスミの声が耳元で聞こえた。映像よりリアルな声。おどおどしてはいるが、気は強そうだった。
「あの、わたし、ショーから番号を聞いて、今夜一時に電話するようにいわれたんですけど。はじめまして、アスミです」
アスミはカメラにむかってぺこりとお辞儀をした。あのあきれた(元)女。どうりで自分だけさっさとアルバイトにいってしまう訳だ。
「はじめまして、マコトです」
おれは下着姿の女にまともに挨拶した。ちょっと頭をさげたりもする。むこうからは見えるはずがないのに。妖精の笑顔。アスミの胸は控えめにいってデカい。
◆
それからおれたちは一時間ほど話した。アスミは五分おきくらいにディスプレイのなかでポーズを変えた。腕を組む。うつぶせになる。転がって足を壁にかける。カメラのまえを意味なく横切る。四つんばいになって尻をあげる。サービスショット。なぜそんなに動くのかときくとアスミはいった。
「今、この瞬間アスミを見てる人が、たくさんいるんだよ。飽きてチャンネルを替えられないように、ちゃんとやらないとね。視聴率は大事だから」
おれは思わず口を滑らせた。
「それなら脱いじゃったほうが早いんじゃないか」
アスミは明るく返してくる。なんというか屈折したところがまるでないんだ。テレビのなかのアイドルみたいだった。
「だめだよ。男の人は刺激にはすぐ飽きちゃう。毎晩裸でひとりHしたり、男を連れこんだりした子もいるけど、みんな一週間もすると視聴率ががたがたに落ちちゃった。私は別に脱いでもいいけどね」
そういうと左手を頭のうしろにやって脇を見せる。乳首の位置が上下にずれた。
「それでストーカーって、どんなやつ」
ちょっとだけ表情を曇らせる。眉を描くのをミスった、そんな感じ。
「気持ち悪いやつ。男でも女でも、たまにいるよね。自分のことだけで頭のなかがあふれてるやつが」
確かにいる。絶対に間違わず、絶対に揺れないやつ。自分と自分がつくる幻以外、世界には誰もいないと本気で信じてるやつ。もちろんおれやあんたのことじゃない(ことにしておく)。
◆
その男も最初は熱心なファンのひとりだったそうだ。視聴者たちは妖精に自分好みの格好をさせようと、いろいろな衣装を会社に送ってくる。女子高や看護婦や自衛官の制服。絹やゴムや紙や金属の下着。血のようなもので汚れた包帯に、焦げて穴の開いたどこかの国の旗。ここにも個人の創造力。
アスミも気にいったものは積極的に身につけて、CCDのまえに立っていたという。もちろん、その男(実名はわかっているが、めんどくさいからキャリバンにする。なぜ、その名かはシェイクスピアの『あらし』を読んでくれ)も、毎週ちょっとセンスのいい衣装を送ってきていたそうだ。だがそんなことが重なるにつれて、会社のほうが音をあげた。十二人の妖精に送られるプレゼントが、ばかにならない量だったからだ。
女たちは池袋郵便局に各自自分の私書箱をもつことになった。社員の誰かのどつぼのアイディア。宅配便に使うコストを節約できるが、同時にいかれた視聴者と妖精との接点もできる。キャリバンはこまめにプレゼントを繰り返し、郵便局まえでねばり強くアスミを張っていたらしい。
アスミに贈られたラブスターズデイ(七夕!)のプレゼントは、友達に借りたワゴンがいっぱいになるくらいだった。アスミはキャリバンから贈られた浴衣を着て、カメラのまえで七月七日の夜をすごした。無理もない。明け方の朝顔のつぼみみたいな控えめな青で、明日美の名を型抜きしたオリジナルの浴衣だったのだ。
それでアスミはつぎの朝、宛先が書かれていない手紙を受け取ることになる。
◆
「近所で買い物をした帰り、玄関の郵便受けにあれがささってるのを見たとき、最初はまた通販のカタログかなって思った。すごく分厚かったから。取りだしてみたら、切手も消印も宛先もないの。おおきな封筒にアスミの名前だけ。あっ誰かが自分でアスミの部屋まで届けにきたんだと思ったら、ぞっとしちゃった。急いで部屋に戻って鍵をかけて、封筒を開けると、最初は履歴書と大学の卒業証書と成績表のコピー。写真はそいつがアスミと同じ浴衣を着てどこかの写真館で撮ったやつ。引き伸ばしてあって変につるつるで気持ち悪いの。まあまあかわいい顔してるんだけど、そいつの肌がね、コンビニの手さげ袋みたいで、したが透けて見える感じでまた気持ち悪いんだ」
アスミはカメラのまえでにこにこ笑いながら震えてみせた。
「冗談だと思うでしょ、ほんとに気持ち悪いんだよ。見て、こんなに鳥肌立ってる」
そういうとやわらかそうな二の腕をつまんで、カメラのまえに突きだしてみせた。指を押し返す肌。多分本当に鳥肌は立っているのだろうが、インターネットの動画の解像度じゃ、そこまで見えるはずがない。
「それで封筒の中身の最後は百枚の手紙。便せんでぴったり百枚あったよ。子どものころどんな食べ物が好きだったか。初恋の相手の名前。家族構成。学校の成績や仕事の話。将来の夢と私とのあいだに欲しい子どもの数なんか。そいつね、アスミのファンで、大好きだっていってる癖に、百枚の便せんに自分のことだけしか書かないの。あんなやつ、ゴキブリだね」
アスミはまだ笑っている。この映像を見ている日本中の男たちは、この女がなにをしゃべっているか考えたことがあるのだろうか。
「マコトさんも、ゴキブリ叩き潰したことあるでしょ。内臓が横からはみだしてるのに、まだぴくぴく動いてるやつ。あの内臓と同じだったよ。あいつの手紙は白くてぬるぬるで、ものすごく気持ち悪かった。へんなツユを私の部屋につけんなって感じ」
笑った。アスミにヒット数をプラスワン。おもしろい女。
◆
翌日の昼すぎ、うちの店のパネルトラックで要町にでかけた。アスミとの待ちあわせは山手通りの、要町病院をすぎた最初の横断歩道だった。おれは冷房が苦手なので窓を全開にして池袋の街を走った。九月第二週、快晴。気温はまだ三十度をわずかに超えているが、夏の盛りにむかうときのような勢いは感じられない。池袋の風もだいぶ乾いて、軽くなっていた。
駐車場を出て七分後。街路樹の影で待つアスミを発見した。直線距離なら一キロもないんだから、歩くのよりちょっと速いくらい。この街は信号といかれた男が多すぎる。アスミはふたつまえの信号からも、堂々と目についた。白いTシャツとカットオフジーンズ姿。オタクが手のなかでこねまわしてつくるフィギュアみたいに、胸と尻だけ誇張された完璧なスタイル。ケツの南半球は丸だし。交通事故が多発しないのが不思議なくらいだ。
ダットサンをとめると、アスミがサングラスをずりさげて、上目づかいで近づいてきた。手にはなにももっていない。
「ふーん、予想通りね」
電話で話しただけなのに、初めての感じがしなかった。
「なにがだよ」
「顔。けっこういけてる」
あきれた。アスミはデジタル覗き部屋の癖が抜けないようだ。コンビニやもち帰り弁当屋が並ぶ、ごみごみした山手通りの路上でも自然にセクシーポーズをつけている。山咲千里か、おまえ。
「やつの資料、どうしたんだ」
百枚の手紙と履歴書を受け渡しする手はずになっていたのだ。
「おいてきた。マコトさん、私の部屋に取りにきなよ」
人に見られて興奮する趣味はないけどしかたない。アスミをのせて、ダットサンをだす。通り沿いのスズカケノキを見た。毎年はえ替わる葉は緑だが、幹は排ガスの煤で薄黒くなっている。東京の木はそんなものだ。
◆
アスミの部屋は要町二丁目の住宅街にあった。玄関先の駐車場にマークIIやブルーバードなんかがぴかぴかに磨かれておいてある街だ。平均的一戸建ての通りに、真っ白なコーポが二軒並んでいた。エントランスもオートロックもない。腰くらいの高さの白いゲートを抜けると、右手がママチャリで埋まる駐輪場、あとは真っすぐ一列に白い扉が続いている。キャリバンにとっては楽なターゲットだろう。
アスミは右側の棟の外階段を、おれの先にたってのぼった。丸い尻の左右交互にしわがあらわれ消える。ちょっと汗ばんでいる粘りつく肌の質感。やっぱりおれはヴァーチャルより、ただのリアルのほうがいいや。二階の一番奥、六つ目のドアを開けると、アスミは振りむき、どうぞといった。
玄関をあがると薄暗い廊下。右手がユニットバスの扉で、左手がクローゼットと洗濯機おき場。奥はダイニングキッチンとリビングの境をはずしてひと部屋にして使っていた。それぞれ五畳と六畳ほどの広さ。CCDカメラはキッチンの食器棚のうえと、リビングの天井の隅に、対角線を描くように設置されていた。可動式でアスミが部屋にはいると、ゆっくりと無音でアスミの動きを追っていた。ときおり赤いLEDが点滅している。
おれはディスプレイで見慣れた白いテーブルに座った。アスミはジャスミン茶をだしてくれる。おれのむかいに座るといった。
「今ごろ、きっと視聴率はうなぎのぼりだよ。私が男の人を連れてくるなんて、めったにないから」
「彼氏とかいないの」
「決まったのはいない。彼ができても、連れてくるのはちょっとね。部屋にカメラがあるのを説明するのが面倒くさいよ。別に悪いことをしてるわけじゃないけど。私ね、この仕事、テレビなんかでひもみたいな水着着て、胸の先だけ隠して縄跳びしてるグラビアアイドルと変わらないと思うんだ」
そういうとアスミは自然に自分の身体を抱き締める。ポーズなのかどうか、おれにはわからなかった。
「私は心を売ってるわけじゃない。もちろん身体も売ってない。裸にもならないし、Hだって見せない。ただ、私のイメージを見てもらっているだけなの。それが、インターネットでも、ビデオでも、本屋さんの写真集でもいっしょでしょ。でも、私の友達はみんなおかしな目で見るんだよね」
この世界にあふれている肉感的な女たちのイメージを考えた。波のようにとぎれることなくあらわれる若い女たち。ネットのなかのアスミと、確かに似たようなものだろう。だが、デジタル時代のモラルの問題はおれにはよくわからない。おれにわかるのは目のまえにいる女が、テレビや雑誌のグラビアに負けないくらい魅力的で、どうやらこの仕事をけっこう本気で気にいっているということだった。
アスミの目は正面に座るおれでなく、いつのまにか天井の隅のカメラにむいていた。きらきらした瞳で見あげている。欲望の光りだろうか。おれはCCDの奥にある数千か数万の男たちの目を想像した。薄い合板に白のクロスを貼っただけの壁が、一瞬うろこのようにびっしりと目玉で埋まって見えた。
無数に広がるネットワークを通じて、おれたちはいったいなにを分けあっているのだろうか。
電気的興奮信号?
◆
アスミからキャリバンの手紙を受け取った。履歴書も写真館の記念撮影も、百枚の手紙(というよりいかれた自伝)もアスミのいうとおりだった。ぺらぺらとなかをめくり、確かめながらきいてみる。
「ショーとは、なんで知りあったんだ」
アスミはテーブルに頬づえをついて、顔の左側をカメラにむけた。
「専門学校の帰り、西口でスカウトされたの。ショーくんは面倒みがいいよ。買いものとか部屋の模様替えとかも手伝ってくれる。ほかの男の子みたいに、すぐ私に手をだそうともしないしね」
意外だった。ほとんどの女はいただいていると自慢げにいっていたのに。抜け目のない会社のことだ。スカウトのやる気を引きだすために、妖精の売上から歩合制でキックバックしてるのかもしれない。ナンバーワンの金づるなら手をだすバカもないだろう。
「マコトさんこそ、なんでショーくんを知ってるの」
「おれはあいつが女だったころの知りあい」
「へえ、きっとかわいかったでしょう」
今だって十分かわいいといおうかと思ったが、ショーに殴られそうだからやめた。
「ねえ、マコトさん、それであのゴキブリどうするの」
アスミはまたポーズを変えた。右手で左肩をつかむ。腕に押されて胸の谷間が深くなった。身体のなかに交差する線をつくると、立体的に見えて美しいのだと美術の本で読んだ覚えがある。生きているポーズ集、アスミ。ため息をついてこたえた。
「おれがストーカーをストークする。自分がしつこく追われてみれば、やつの考えも変わるだろう」
勤め先については、手紙にも履歴書にも具体的に書かれていないが、普通のサラリーマンなら、きっとびびりまくるだろう。
おれはキャリバンを軽く見ていた。ちょうどいい退屈しのぎ。時代の病を甘く見ないほうがよかったのだ。おれのミス。
◆
キャリバンの定期訪問がある週末を控えて、おれは和範とラジオをうちに呼んだ。和範は引きこもりで高校を中退したあと、大検受験のために自宅で勉強を続けている。もともと頭のいいやつだから、おれは試験の心配なんてぜんぜんしていない。おふくろさんにも、おれの評判は上々だ。ラジオのほうはインチキ興信所でのアルバイトを再開していた。盗聴法案の審議が延びて、よろこんでいるらしい。
和範は百枚の手紙を斜め読みするとぼそりと細い声でいった。
「こいつ、突然暴力的になったりしないかな」
わからないといった。本当に追いつめられたときに、人がどんな反応をするのかなんて家族にだってわからない。燃え落ちる家のなかに突っこむやつだっているだろう。
だが、今回の件に関しては手をだす必要などないのだ。やばくなったら逃げればいい。おれたちはキャリバンにちょっとした揺さぶりをかけるだけなのだから。それはやつがアスミにやってることと変わらない。それでもおさまらなければ、またつぎの手を考えればいいだけの話。
「これじゃ、またバイトの仕事と同じだよ。もっと劇的な事件はないのかな」
劇的じゃない顔をマッシュルームカットで包んだラジオがそういった。
◆
土曜日も快晴だった。山手通りの奥の空に、入道雲の生き残りがまぶしいほど白く浮かんでいた。フラットな青い背景に立体的に盛りあがって見える3Dの雲だった。
朝八時、おれと和範とラジオの三人でダットサンにのって、要町にむかった。アスミのコーポがある路地の片方の端に、ハンディをもった和範。もう一方にはおれとラジオがクルマにのったまま待機している。ラジオは望遠レンズをつけた一眼レフ式のデジタルカメラを会社から借用していた。朝の涼しい風のなか、張り込みの退屈が始まった。
もっとも和範には、退屈もたいして苦痛にはならないかもしれない。なにせ、やつは三日でも四日でもなにもせずにただ待っていられるのだ。動かないことで時間を味方につけるなんて、植物みたいなやつ。おれとラジオはダットサンのなかで、だらだらと意味のない話を続けていた。
「知ってる、マコト? 今さ、報道カメラマンのあいだじゃ、モバイルパソコンとデジタルカメラが必需品なんだってさ。戦場の最前線やスポーツ大会のアリーナで撮った写真を、パソコンと携帯でずばっとリアルタイムで本社に送る。そのまま紙面で十分使える解像度の写真ができるんだ」
メガバイトとピクセルの話をしているときのラジオはいきいきしていた。何度も興奮して髪をかきあげる。ラジオの話を聞いていると、世界はますます入口と出口だけになっていくようだった。プロセスは余分なものとして限りなく削られていく。
はいってでる、はいってでる、その繰り返しが人生なのか。いつくるかわからないストーカーを待つのは、人を思索家にする(byマコト)。
*
キャリバンがあらわれたのは六時間後だった。午後四時、とろりと濃度を増してミカン色になった日ざしのなか、ショルダーバッグをさげたやつがあらわれた。ポロシャツにコットンパンツ。短い髪はきちんと整髪料でととのえられ、ゴルフの打ち放し帰りの会社員にみえた。普通のサラリーマンという言葉も、削除したほうがいいのかもしれない。やつは中肉中背で、問題の肌の質感もちょっとのっぺりしているくらいで普通だった。
キャリバンは住宅街をすたすたと歩き、コーポの白いゲートを抜けた。周囲を見まわしたりせず、自然に振るまっている。階段をのぼった。アスミにこの足音が聞こえるのだろうか。ちょっと嫌な気分だ。
外階段が見渡せるように、ダットサンの位置を変えた。ラジオはすでにデジカメのメモリーカードを一枚撮りきり、新しいものに差し替えている。キャリバンはショルダーバッグから、ごそごそとなにかかさばるものを取りだすと、廊下に立ったまま広げ、アスミのドアに粘着テープで貼りだした。
「おいおい、マジかよー」
ラジオがあきれていった。おれも自分の目を疑ってしまう。
模造紙いっぱいに描かれたあいあい傘!
キャリバンは履歴書では三十二歳のはずだった。あまりの幼さに軽いショックを受ける。アスミとやつの本名が太いマジックインキで描かれていた。やつはドアの幅いっぱいに貼られた力作を、突っ立ってしばらく眺め、ときどきにやりと笑みを浮かべる。十五分もしたころ、こんこんと二度ドアをノックすると、返事も待たずに廊下を歩き去った。
おれはやつと友達になりたくない。
◆
ダットサンをラジオにまかせ、おれと和範でキャリバンを追った。やつは焦る素振りも見せずに、歩いて五、六分の有楽町線要町駅にむかった。のぼりホームでぼんやりと電車を待っている。黄色いウエストラインがはいったアルミの地下鉄が滑りこんできた。おれたちはキャリバンの隣の車両にのった。
十三分後、やつは市ケ谷駅で電車をおりた。地上にでると靖国通りを九段方向に歩いていく。なぜかやつには人影のない休日のオフィス街がよく似あった。まったく揺れずに滑るように歩く背中。千代田区三番町、大妻女子大の並び、坂の途中にあるレンガ敷の幅広い門をはいっていく。四階建ての立派なビルだった。生命保険会社の表札が門柱にはまっている。社員寮らしい。
「案外まともだね」
ぽつりと和範がいった。確かにやつはゴキブリみたいなものかもしれない。気持ちは悪くても、基本的には無害みたいだ。
◆
有楽町線を引き返し、アスミのコーポのまえでラジオと落ちあった。
「写真は撮れてるか」
おれが聞くと、ラジオがデジカメの液晶ファインダーを使い、その場で見せてくれる。にやにや笑いながら外階段をのぼり、手描きのポスターを貼りつけ、ドアをノックするキャリバンの絵。はっきりとやつの表情が映っている。
「ついでにこれも見てみろよ」
ラジオはそういうとダットサンのボンネットに、キャリバンのポスターを広げた。巨大なあいあい傘。自分の名前のしたと四隅に、なにか赤いものがべたりとついている。楕円形の渦巻き?
「拇印かな」
和範がか細い声でいった。
おれはその跡をしばらく眺めていた。朱肉を使って押したものではないようだった。朱肉なら、乾いても黒くはならないだろう。和範にティッシュを借りて、指紋の尻に丸くこびりついている滴を押しつぶしてみた。表面は黒く粉のように固まり、なかは鮮やかに粘る赤だった。
「血みたいだろ」
ラジオはおもしろがっていた。前髪をかきあげる回数が多くなる。それにしても、キャリバンはさっきどこにも怪我をしていた様子がなかった。これはいったい誰の、あるいはなんの血なんだろうか。
◆
月曜日の朝七時から、おれと和範は大妻女子大のまえの交差点で張り込みを開始した。コンビニのパンとコーヒー牛乳を流しこんでようやく目が覚めたころ、半蔵門の駅のほうから、風俗嬢のような格好をした女子大生がぞろぞろと歩いてくる。プロとアマの差がない時代。
八時十五分、爽やかなライトグレイのスーツを着てキャリバンが社員寮の門をでてきた。そろそろ日ざしが本格的な熱気を落とす時間だが、背筋を伸ばし大股で歩くキャリバンは汗もかいていないようだった。やつはそのままこのまえの道を逆に戻り、市ケ谷駅にむかった。今度は有楽町線ではなく、都営新宿線の改札を抜ける。朝のラッシュアワーでもがらがらのくだり電車に座ると、日本経済新聞を広げた。ストレートチップの黒い革靴のつま先が、車内灯をうけてU字形に光っていた。
新聞を読んでいたのは五分間。小川町駅でおりると、地上への連絡通路をのぼりすぐ目のまえの建物にはいっていく。靖国通りと外堀通りの交差点に建つ真新しいオフィスビルだ。おれはやつに続いてロビーに侵入して、エレベーター脇の表示板を確かめてきた。やつの勤める生命保険会社の小川町支店が七階にある。腕時計を見た。八時三十分。理想的な職住近接。
◆
そのまま、昼休みまでおれと和範は張り込みを続けた。十時をすぎると靖国通りにやかましいくらいに建ち並ぶスポーツショップが店を開け始めた。通り沿いの街灯についたメガホンから、商店街的音楽が休みなく降って気を滅いらせてくれる。こういうクズみたいな音楽を全国の商店街に配信する謎の地下組織がどこかにあるのだろうか。
十二時になると昼飯を食う会社員が通りにあふれた。ガードレールに座り、ビルの出口から休みなく吐きだされるサラリーマンを見ていると、ウミガメの卵が一斉に孵化する場面を思いだした。キャリバンもシャツを袖まくりして、同僚や若いOL数人とビルの自動ドアをでてくる。好青年。控えめな笑顔。まばゆい白。
正午の太陽が真うえから照りつけて、地面に落ちる影が硬く締まった秋の午後。光りと影に完璧に塗り分けられた景色のなかで、保険会社のヤンエグ社員とあいあい傘に血判を押す男が、おれにはぜんぜんつながらなかった。
キャリバンの一行は靖国通り並びのそば屋にはいっていった。格子の引き戸の取っ手が長年の客の開け閉めで黒光りしている、ちょっとうまそうなそば屋だ。日本ではストーカーだってもちろんざるを食う。
おれたちはやつが店をでて、再び支店に戻るまで尾行を続けた。
◆
その日の夕方、おれはショーの携帯に電話をいれた。起きたばかりで眠そうな声。背後に女のねぼけ声が聞こえたような気がしたが、おれのかん違いかもしれない。ひと通りの経過を説明するとやつはいった。
「それで、これからどうすんだ」
「話しあい」
「マジで」
「そう。おれは明日、アスミといっしょにキャリバンに会ってくる。会社のそばにいきなりおれたちがあらわれたら、やつにはいいプレッシャーになるだろう」
それでおしまいになるはずだとおれはいった。キャリバンはすごすごとおとなしく洞窟に引っこみ、薪運びだか保険証書のチェックだかに専念することになるだろう。やつの頭がまともなら、間違いなくそうなるはずだった。
◆
火曜日の朝九時、おれは自分の部屋のベッドのなかからPHSで、生命保険会社の小川町支店に電話を入れた。猫なで声のOLが最初に取った。キャリバンの本名を告げて、呼びだしてもらう。
「失礼ですが、お名前さまをよろしいでしょうか」
お名前さま! おれはアスミと申しますといって、キャリバンを待った。
「はい、どちらのアスミさまでしょうか」
キャリバンはそれから黙りこんだ。警戒しているようだ。初めてきいたやつの声は金属質の響きののった硬い声だった。おれはしばらく黙っていた。オフィスの背景ノイズ。自分の勤める会社で見ず知らずの男から無言電話を受けるのはけっこうなプレッシャーだろう。やつの息は荒い。ゆっくり二十数えてからいった。
「おれはあんたがアスミになにをしてるか知ってる。話がある。今日の昼十二時に、小川町駅前、地下一階にある『ルノアール』にきてくれ。必ずな」
それだけいうと、PHSを切った。やつの返事が一音だけ耳に残った。
◆
十二時五分まえにアスミと『ルノアール』にはいった。テーブルはひまそうなサラリーマンですでに半分ほど埋まっている。そのうちさらに半分は堂々と昼寝をしていた。会社員の天国。おれたちは壁際のボックスに座った。腰をおろすとそのまま床まで沈みこみそうなやわらかなクッション。自然に背もたれにそってそっくり返ってしまう。
アスミは店中の男たちの視線を集めながら、おれの隣に座った。青のホットパンツに薄い青のストレッチ素材の半袖シャツ。胸元がきゅうくつそうで、ボタンとボタンのあいだが横に口を開け、素肌がのぞいていた。腕を胸で交差させ両肩を抱くポーズ。
「私、あまりやつに会いたくないな」
アイスコーヒーをストローでからからとかき混ぜ、アスミがそういった。
「おれだってそうだよ。だけど、おまえ自身がはっきりノーと伝えなくちゃいけない」
あの手のやつは自分が人から嫌われる可能性があるなんて考えないのだ。相手にとって疑いなく自分が最高だから。おれの説得だけじゃ信用しないかもしれない。
十二時五分すぎ、キャリバンが階段をおりてきた。店の入口がある壁は全面ガラス張りなので、つま先からだんだんとあらわれる全身を観察できた。やつは正面をむき、決して店内を見ようとしなかった。ロボットのような硬い動き。腕は木の棒でもいれたようにまっすぐに振られている。
自動ドアが開き、キャリバンは店のなかにはいった。ゆっくりとテーブル席を目で探る。灯台の明かりみたいに視線がまわってきた。アスミに気づいたようだ。その瞬間、シャッターが閉じるようにやつの目に薄い膜が張った。ぱしゃん、感情が消え去る。アスミがちいさく息をのんだ。キャリバンは薄笑いをしながら歩いてくると、おれたちのボックス席の横に立った。そのあいだやつはずっとアスミから目を離さなかった。
やつの目はアスミの部屋の可動式CCDによく似ている。
◆
「どうぞ」
おれがそういうと、やはりアスミを見つめたまま、おれたちのむかいに腰をおろした。ウエイトレスが氷水をもってくると、ブレンドとひとこと注文する。
「きみはいったい誰なんだ」
よかった、おれは透明人間ではないみたいだ。キャリバンは初めておれをちらりと見た。
「誰でもないよ。ただあのサイトの代表者から依頼を受けてきただけだ。人気ナンバーワンのコンパニオンが……」
おれはアスミを横目で見た。彼女は両ひじを抱きそっぽをむいている。セクシーではなく無視のポーズ。
「悪質な嫌がらせを受けて困っている。これは単純に業務上の問題だ。あんたは二度とアスミに近づかない。彼女に会いたければ、ネットのなかだけにするんだな」
ぴたりとグレイのサマーウールのスーツを着こなした好青年は、懇願するように眉を八の字にして、アスミを見る。ムースで固めたヘアスタイル。前髪の幾筋かが、計算通り額にきれいに落ちていた。
「アスミさん、本当にこの男のいう通りなんですか。特定の恋人ができると視聴率が落ちるから、会社がぼくと無理やり別れさせようとしてるんじゃないんですか」
アスミが腹に据えかねたのがわかった。怒りの波動が隣の席から放射された。
「うるさいよ。私はあんたなんかとつき合ったこともないし、あんたなんか好きでもない。迷惑なんだよ。それにね、ここにいる人は、ただ会社から頼まれただけじゃなく、私の彼だよ。ラブラブなんだからジャマしないでよ」
そういうとおれの手を取り、むきだしの太ももにのせた。冷房で冷えたやわらかな肉。キャリバンがおれにいった。
「君はどこの大学をでてるんだ」
高卒だといった。今どきまっとうな学歴至上主義者。珍獣だ。やつはまたアスミに視線を戻した。
「こんなやつには将来なんてないじゃないか。目を覚ましたほうがいい」
やつのいう通りかもしれないが、そんなことは余計なお世話。ウエイトレスがテーブルのあいだをすいすいと分けて、コーヒーを運んできた。おれは彼女がカップをおこうとしてかがみこんだ瞬間、テーブルのうえにデジカメのプリントアウトを放りだしてやった。
履歴書と浴衣姿の記念写真の複製。あいあい傘のアップ。にやにや笑いながらアスミのドアにポスターを貼る姿。テーブルを埋めつくすストーカー・キャリバンの顔と顔。ウエイトレスが息をのみ、給仕の手がとまってしまう。やつはあわてて、テーブルの写真をかき集めた。ウエイトレスはコーヒーをおくと、平静を装ってカウンターに戻っていった。
「なあ、あんた、自分がなにをしてるのか考えたことがあるのか。おれはすべてをあんたの上司や親に送ることもできる。そっちこそ目を覚ませよ」
キャリバンはプリントアウトを胸に抱えると、目に見えて震えだした。ブツブツと口元が動いている。アスミはおれの手を取ると、出口をむいていった。
「こんなやつ捨てて、もういこうよ」
そういうアスミの声も震えていた。おれはキャリバンの唇を必死になって読んだ。やつの目は焦点を失い自分の内側だけを見つめている。繰り返す言葉はたぶんこうだ。
妖精がいじめる。妖精がいじめる。妖精がいじめる。
◆
後味は苦かったが、それでおれの役目は終わった(と思っていた)。ショーに報告の電話をいれ、午後から西一番街のうちの果物屋の店番に戻った。豊水、巨峰、マスカット。九月になって秋の(値の張る)果実が揃っている。夕方おふくろと店番を代わると、自分の部屋にあがり、久しぶりにCDプレーヤーのスイッチをいれた。
ラックを探した。武満徹の『精霊の庭』はいつのまにか景色が替わる庭をゆっくり散歩するような音楽。たなびく霞のように、美しいけれどとらえようのない音の固まりが、目のまえでつねに形を変えながら流れていく。ライナーを読むと、ほんの五年まえにウエストゲートパークの東京芸術劇場で収録されていた。おれがまだ中坊のころだ。一生をかけて楽器を習得したプロの演奏家八十七人を使って、こんなに淡く淋しい音楽をやる。
おれはアスミの仕事について考えた。あっちではインターネットの最先端の動画転送技術を使い、覗き部屋をやっている。おれたちの最高の技術というのは、淋しい美しさを伝えるためにあるのだろうか。
おれは四畳半のまんなかでふて寝した。
◆
夜十時半、店じまいをしていると、PHSが鳴った。
「どうなってんだよ、マコト」
いきなりいらいらしたショーの声。
「なんだよ」
「あいつがインターネットのあっちこっちに火をつけてまわってる。『妖精の庭』のアスミはひどい淫乱だとか、シャブ漬けとか、うちの会社が暴力団だとか。いいたい放題だ」
「そうか」
絶対におとなしく負けを認めない人間がいる。自分の怪我がいくらおおきくなっても、相手と道連れをねらうやつ。キャリバン、心の根っこが腐った怪物。
「そうかじゃないだろ。どうすんだよ」
「明日の朝、やつの会社にいってくる」
そこまではやりたくなかったが、しかたない。ショーはまだなにかわめいていたが電話を切って、ラジオの短縮を押した。プリントアウトをもう一組用意するよう依頼する。
おれは巨峰の皿を積んだ段ボールを慎重に店の奥に運んだ。熟れた巨峰の実は落ちやすく、ちょっと揺らしただけですぐに房から離れてしまう。やつもこの温室育ちのブドウのように、申し訳程度に世界とつながっていただけなのだろうか。
◆
つぎの朝、ひとつしかない紺のスーツを着こんで、通い慣れた小川町にでかけた。始業時間にあわせたので、地下鉄はひどいラッシュだった。会社員ではないおれには、貴重な体験だ。
九時ちょうどに支店のドアを引いた。はいるとすぐにチラシが何種類も置かれたカウンターとつくりものみたいな観葉植物の鉢植えが見えた。おれはしばらくそこに突っ立ってあたりを観察した。広いフロアには五×二の机の列が三つ。奥の窓際にちょっとおおきな机が二つ。みんなおれには想像もつかない仕事をしているようだ。ざわざわと虫が紙をかじるような音がする。ぼーとしているおれに、近くの机のOLが声をかけてくれた。
「なにか」
軽く小首をかしげている。飛びこみのセールスマンにでも見えたのだろうか。おれは自分の名をいって、キャリバンの本名をだした。今日面会の約束があるのだが。
「少々お待ちください」
そういうと彼女は、窓際のおおきな机にむかっていく。何代かまえの首相のようにぴっちりと髪をなでつけた小柄な中年男とひそひそ話している。戻ってくると彼女はいった。
「こちらにどうぞ」
そういうと先に立って歩きだした。おれが通されたのは衝立で仕切られた来客コーナーで、黒いビニールのソファが中央におかれていた。二、三分待つと、さっきの中年男があらわれた。首から肩にかけての線が妙に硬い軍服のようなダークスーツ。おれのまえに腰をおろしたが、座ったままでもひどく姿勢がよかった。
「〇〇君の上司で、萩原といいます」
副支店長の名刺を受け取った。中年男はていねいにいう。
「どのようなご用件かお聞かせ願えませんか」
おれは名刺をもたないことを詫びてから、二十四時間営業のアダルトサイトの話をした。インターネットで若い女性の私生活を公開しているプログラムがあり、キャリバンがそのサイトの会員であること。コンパニオンにいれこんだ結果ストーカーまがいの行為を繰り返していること。
「こちらは一度当人に会って警告はしたのですが、敵対的な行動はとまりませんでした。これ以上ストーキングが激しくなって、警察に頼むまえに会社から注意をしてもらえませんか」
警察という言葉に副支店長はぴくりと反応した。おれは黙ったまま、プリントアウトをテーブルに滑らせた。キャリバンの写真につぎつぎと目を通す副支店長から、空気が抜けていくのがわかった。だんだんと背が丸くなっていく。
「そういうことですか。わかりました。こちらでも注意してみましょう。だが、今日彼は無断欠勤しています。独身寮のほうに問いあわせてみたのですが、私物をもって昨晩から姿を消しているようです。当社としては警察への届け出は、まだ見あわせてほしいのですが、どうしたものか……」
キャリバンが消えた。おれの胸がどきどきと弾みだす。尻ポケットでPHSが鳴った。取りだし耳を寄せる。アスミの声が震えていた。
「マコトさん、うちの玄関のまえに……鳥の羽がいっぱい……いっぱい落ちてる」
おれの頭のなかを真っ白な羽毛が渦を巻いた。ヴィジュアル系のバンドのプロモーションビデオなんかで使い古されたイメージだ。おれの場合は、雪嵐みたいな羽毛に千の目玉が混じって、アスミの部屋に乱れ飛んでいたけれど。
◆
キャリバンの会社をでると、まっすぐ要町にむかった。アスミのコーポの階段にはショーが仏頂面で座っている。おれはいった。
「やつの足取りは寮からも会社からも消えてる。やばいな」
ショーはこぶしで階段のステップを叩いた。鈍い音が建物全体に響く。ホルモン注射だけでなく、けっこう筋力トレーニングに励んでいるようだ。
「どうすんだよ。ったく、おまえなんかに頼むんじゃなかった。今からでも、警察いくか」
「好きなようにすればいい。だが、警察だって真剣にやつを追ってはくれない。話を聞いて報告書をまとめて、さよならだ」
あたりまえだった。やつがやったことはひどく気味が悪くても、ただの嫌がらせにすぎない。なにか事件が起きたら急行しますと警官はいってくれるだろうが、なにか事件が起きたときでは、たいていの場合もう遅いのだ。
「じゃあ、どうするんだよ」
すがりつくようなショーの目は女の子に戻っていた。
「ともかく、アスミの身を守るしかないだろ」
キャリバンが会社を首になる覚悟で姿をくらませたのなら、おれたちに打つ手はない。やつを探しだす方法がないのだ。待つことしかできない。おれはいった。
「会社の寮にやつが戻ったら、連絡をもらう手はずになっている。やつだってそういつまでも、あちこちを泊まり歩くこともできないはずだ。しばらくのあいだアスミをきちんとガードすればいいんじゃないか。それともてっとり早く引っ越しでもするか」
とたんにショーの顔色が曇った。
「だめだ。カメラとルーターとコンピュータを設置するだけで一式百万もかかるんだ。けちな会社はうんとはいわないだろう。引っ越しの費用だってアスミもちだしな。だいたい悪いことをしてるわけでもないアスミが、なぜ逃げなくちゃならないんだ」
その通りだった。ショーは階段の途中で立ちあがると、短パンの尻をはたいた。黙ったままのぼっていく。やつはちいさな背中でいった。
「アスミにちゃんと話してくれ。玄関はおまえが見るまで、そのままにしておいた」
アスミとは対照的な硬い尻。
◆
アスミの部屋の玄関先に散っているのは、灰色の羽だった。ひと目でわかる。鳩だ。きれいに羽先がそろった鳩の翼の羽は、精巧なつくりものみたいだった。だが、落ちているのはそれだけじゃない。首、胸毛、腹、尻尾。いろいろな場所の形が違う灰色の羽が、一羽分むしられて、玄関先に撒いてある。
「それにこっちもな」
ショーは浮かない顔で玄関のドアを指さした。白いスチールの扉に、それは瞬間接着剤でとめられていた。透きとおったとうもろこしの粒くらいの目玉がふたつと、ペンチかなにかでむしられたのだろうか、先の潰れた濃い灰色のくちばしがひとつ。悪い冗談のようにドアの覗き穴を鼻に見立ててくっつけてある。
これが悪質な嫌がらせ? 生きものの命をひとつ奪って器物損壊?
それまでおれはキャリバンを惨めなやつだとは思っていたが、心底腹を立てたことはなかった。だが、鳩の目玉から涙のように流れる水晶体を見たあとでは、話が別だ。
怪物も償いをしなければならない。
◆
おれたち三人はカメラの死角になる廊下で立ったまま話をした。おれはいった。
「一日二日ならともかく、住宅街で毎日張り込みはできない。悪いけど、この部屋に詰めさせてもらえないか」
アスミはとがったあごの先をつまんでいる。考えるポーズ。
「いいけど、誰がくるの」
「おれが」
そういうと、ショーが大声をだした。
「だめだ、だめだ。なんでマコトがこの部屋に泊まりこむんだよ。こんなやつなにするかわかんないんだぞ」
その通りだが、ショーの取り乱し方はちょっと異常だった。アスミは不思議な顔をしてショーを見ている。
「うーん、でも別にアスミはHしてもいいけどな。視聴率もあがるし」
そういうとアスミは両腕で胸を寄せた。古くさい「だっちゅーの」ポーズ。ショーは顔を真っ赤にしていう。
「ふざけんな。おまえを守るのは会社の仕事だ。おれが毎晩くるよ。それでいいだろ、アスミ」
アスミは別に関心なさそうにうなずいた。ショーはすこし照れておれを見る。おれも黙ってうなずいた。そういうことか。スカウトした女のほとんどに手をだして、いただいてしまうというショーが、アスミにだけはいいお友達でいる。この男女、性格だけでなく、恋愛パターンも歪んでいるようだ。おれは最後にいった。
「ショー、せいぜいいいとこ見せてくれよ」
「おう」
やつはひとことそう吠えると、アロハシャツの平らな胸を叩いた。
◆
それからの数日間は静かにすぎていった。おれは昼のあいだショーがアスミの部屋を離れるときは、和範と交代でコーポのまえを張り番した。ときどき部屋にもいれてもらう。アスミによると何日たってもショーは手をだしてこないそうだ。紳士のおなべ。
おれは毎日、生命保険会社の小川町支店に電話を入れた。しまいには声を聞いただけで、副支店長につながるようになった。しかし、依然キャリバンの足取りは九月なかばの明るい東京の街に消えたままだった。あの鳩の羽の贈りもの以来、やつのストーキング行為もおさまっている。そのままやつが田舎にでも帰って、アスミとショーの仲がうまくいくなら、なんの問題もなかった。だが、残念なことに怪物というのはずるずると洞窟の暗がりからあらわれるようにできている。
キャリバンはその週の日曜日に、得物をもってあらわれた。
◆
日曜日の夜、店を閉めたあと二階の住まいにあがり、おれはマックのキーボードを見つめていた。なにも浮かばない。そろそろコラムの締切が近づいていたが、インターネット覗き部屋のナンバーワンと元女の辣腕スカウトの純愛話は、まだ決着がついていないので使えなかった。ネタ切れのときはキーボードが、まるで砂利でも敷いたように荒涼としてみえる。ストリートファッション誌の人気コラムニストなんていっても、こんなもの。それでもおれは、ぽつぽつと文字を拾いだした。言葉が言葉を連れてくるように祈りつつ、ディスプレイにみすぼらしい文章を綴る。デジタル式の雨ごいだ。
深夜一時をすぎたころ、マックの横に置いたPHSが唸りをあげて震えだした。
「もしも……」
途中でショーの叫び声がかぶさってくる。
「マコト、やつがきた。玄関のノブをがちゃがちゃいじってる。どうすればいいんだ」
ショーの声は悲鳴のようだった。おれはすぐにマックをインターネットに接続し、『妖精の庭』にアクセスした。アスミのウインドーを選ぶ。
アスミはカメラに顔を押しつけるように立っていた。声が聞こえなくても、顔の表情だけで恐怖は十分に伝わった。画面の端からショーの坊主頭が割りこんで、携帯電話にむかってなにか叫んだ。ショーの叫びが一拍置いておれの耳元で爆発する。
「どうする? やつがドアの郵便受けに鉄の棒を突っこんで、めちゃめちゃにかき混ぜてる」
がしゃがしゃと金属のこすれあう音がPHSから流れた。
「鍵は大丈夫か。まだもちそうなのか」
ショーはちらりと玄関を見ると、あわてて首をたてに振った。
「ドアはまだだいじょぶだ」
「わかった。これからすぐにいくから、なんとかもちこたえろ」
片手でPHSをもち、スエットの上下のままの格好で、おれは店の横の階段を駆けおりた。ぎしぎしと踏み板の鳴る音がする。
「夜なんだから静かにしなよ、マコト」
おふくろの声が追ってくる。いつもながら怖い声。
◆
深夜の西一番街でおれは一瞬ためらった。駐車場にダットサンを取りにいくか、このまま走るか。距離は一キロもない。路上では酔っ払いと客引きが、にぎやかな攻防戦を繰り広げている。ガードレールにはロシア人のストリートガールが、原色のカラスのように群れてとまっていた。おれは山手通りの工事渋滞を思いだし、バスケットシューズの蹴り足に力をこめた。秋の真夜中の風が、髪とトレーナーのなかを冷たく抜けていった。
おれはつながったままのPHSにむかって叫んだ。
「今、そっちに走ってる。どうだ、だいじょぶか、ショー」
「わかんねーよ。やつがなにかぶつぶついってる。聞こえないか」
ショーは泣き声をだした。
「聞こえない。なんていってるんだ」
「妖精がいじめる。妖精がいじめる。妖精がいじめる。なんなんだ、あいつ、あんなまともそうな面をして、どうしてあんなにいかれてるんだ」
ショーは涙声だった。背景にはアスミの泣き叫ぶ声が部屋いっぱいに響いている。おれは歩道の横の手すりを飛び越え、赤信号を無視して西口五差路を突っ切った。だが、それでもまだ五分以上は到着までにかかるだろう。おれは走りながらいった。
「しかたない。警察に電話するか」
「そうするとどうなるんだ」
「うまくいけば、近くの派出所の警官がやつをつかまえてくれる」
「それで」
「おれたちとやつの話を聞き、明日の朝にはやつは解放されるだろう」
「なんでだよ。やつは壊れちまってるんだぞ」
「長い手紙を書いて、鳩を殺し、ドアに傷をつけたくらいじゃ、長いあいだやつをぶちこんでおくことなどできない。そんなの警察だって無理なんだ」
「だから、どうすんだよー。やつはドアのまえにいる。ここから何メートルも離れていないんだぞ。マコト、助けてくれよ」
食いしばった歯のあいだから、ショーがそう漏らした。荒い息が続き、涙をこらえしゃくりあげているのがわかった。バックではアスミの泣き声がいっそうおおきくなる。離れているおれには、なにもできないのか。ショーとアスミが、あんなやつにいたぶられているのに、なにもできないのか。こうして声をかけること以外、まったく無力なのか。池袋のビル街の空を、明るい半月がおれといっしょに走っていた。
おれのなかの誰かがいった。まだ、すべてをやってはいない。まだ言葉だって十分に使っていない。倒れかけたボクサーを立ち直らせるトレーナーの気合のように、ショーを目覚めさせる言葉がきっとどこかにあるはずだ。びびったやつの心に火を放つ言葉が。
おれは山手通りの渋滞を横目で見ながら、ガードレールを飛び越えた。
◆
おれは秋風と走りながらいった。
「ショー、おまえ、男だろ。好きな女も守れなくてどうすんだ」
アスファルトを蹴り、右足をだす。またアスファルトを蹴り、左足をだす。言葉は走りのリズムにあわせて、自然にあふれていった。
「思いだせよ。小学校でいくら男女といわれても、おまえは絶対に引かなかった。ケンカしたって絶対に泣かなかった。涙をこらえたおまえににらまれるのは、けっこう怖かったぞ」
PHSからショーの荒い息が聞こえた。おれは山手通りを渡り、住宅街を走りに走っている。無人の街におれの足音が響いた。電柱と自動販売機が飛びすぎていく。
「どうした、ショー。アスミにいいとこ見せんだろ。おまえ、なんのためにジム通って筋トレなんかやってんだ。おまえの筋肉は見せかけなのか。びしっとしろ」
「チクショー」
最初はちいさな声だった。ショーがピッチのむこうでつぶやいている。
「そうだ。男らしいところを見せてみろ。なんのためのホルモン注射だ。いいか、手術だって、薬だって、おまえを本当の男にはしてくれない。性別を決めるのは、おまえの遺伝子でも、世のなかでもない。今みたいなときに、おまえがどんな行動を取るかなんだ。おまえ、いつまでもオトコオンナとバカにされて我慢できるのか」
「チクショー、チクショー」
だんだんとショーの声がおおきくなった。
「おまえの勇気を見せてみろ。おまえの本当の姿を見せてみろ。すぐにおれがいくから、びしっと自分のもち場を固めて、好きな女をしっかり守るんだ」
「チクショー」
ショーが絶叫していた。泣いている。なぜかわからないが、おれまで涙ぐんでしまった。おれたちはみんな自分の場所にいることしかできない。他人になることもできない。与えられた場所で、全力でなにか大切なものを守る。それ以外になにができるというのだ。
「いいか、やつがもしドアを破ったら、おまえもなんでもいいから得物をもって戦え。やつは怪物じゃない、ただの会社員で、おれやおまえみたいなただの男なんだ」
「チクショー、マコト、おれは本当にただの男なのか」
「そうだ。世界中が違うといっても、おれが認めてやる」
ついさっきまでは、そんなことをショーにいうなんて想像さえしていなかった。それが今は、ショーをあおりにあおっている。火をつける言葉なんてなかったのだ。言葉そのものが火なんだから。ショーの異様に醒めた声が、PHSの雑音を貫いた。
「これからいってくる。全部済んだら、一杯やろうな」
おれがいくまで待てといおうとしたら、PHSはぷつりと切れた。
◆
それから三分間、おれは静まりかえった要町の住宅街を駆け続けた。焦りは深かったが、今度は一刻も早く現場にむかうことしかできなかった。明るい半月はこまかな屋根のうえ、まだおれといっしょに走っている。
張り込みで見慣れた路地を曲がると、白いコーポが二軒ぼんやりと光って、目に飛びこんできた。夏の結婚式に出席した双子の姉妹のようだ。おれは開いたままのゲートを抜けると、一段飛ばしで外階段を駆けのぼった。二階の廊下には誰もいなかった。
アスミの部屋のドアは、郵便受けの開口部の端が表面を削り取られ、ぴかぴかの金属の地肌をのぞかせている。おれはノブを思いきり引いた。
「ショー、だいじょぶか」
正面にショーの青ざめた顔が見えた。おれと目があうと黙って一度うなずいた。玄関に踏みこんだ右足が、なにかやわらかなものを踏む。あわてて飛びのいて、足元を見た。
キャリバン! やつはうつぶせで玄関のPタイルに横になっていた。両手は背中で電気コードで縛られている。右目のうえにそれとすぐわかるほどのたんこぶがあった。それでも唇はまだ動いていた。声は聞こえなくても、なんといっているのかわかる。
(妖精がいじめる。妖精がいじめる)
震える声でショーがいった。
「こいつもただの男だっていうのは本当だったよ。ありがとな、マコト」
首を横に振って、おれはなにもしていないといった。
◆
おれたちはキャリバンから目を離さずに、狭い廊下で話した。ショーは青ざめたままで、言葉すくなだった。アスミが代わりに説明してくれる。
「マコトさんとの電話の途中から、ショーがひどく興奮してきたの。電話を切ると、ぎらぎらした目で、クローゼットを探し始めた」
そういうとアスミは自分のうしろにあるルーバー調の扉を指さした。
「まえにファンのおじさんから、いつかゴルフにいきましょうってクラブをプレゼントされたことがあったの。ショーは、アイアンっていうの? を一本抜くと、わーって叫びながら玄関に走って、鍵をはずすと体あたりでドアを開けた。こいつね、いきなりドアが開いたらきょとんとして、ただ突っ立っていたよ。それで一発顔の横を叩いておしまい」
おれはショーの手を見た。アイアンではなく、先がかまぼこ状のパターをまだもっている。キャリバン、想像力がまるでない怪物。やつは自分がいたぶる相手が本気で攻撃してくるなんて考えたこともないのだろう。
「問題は、これからどうするかだな」
おれはぶつぶつとつぶやき続ける会社員を見ながらそういった。ショーが低い声でいった。
「警察に渡しても、こいつはたいした罰は受けないんだな」
おれはうなずいた。どう考えてもキャリバンが犯したのは軽犯罪がいいところだ。
「じゃあ、おれが教えてやる」
「えー、なにするの」
アスミが驚きの声をあげる。ショーはパターを壁に立てかけると、玄関に移動した。ちいさなげた箱のうえには、L字形の釘抜きがおいてある。まんなかで紺と赤に塗り分けられた、鉄製のおおきな釘抜きだった。ショーはそれを取りあげるといった。
「こいつがもってきた得物だ」
ショーはキャリバンの顔のそばにかがみこんだ。
◆
ショーは声を殺してキャリバンに語りかけた。
「おまえは鳩をおもしろがって解体した。目玉をえぐり、くちばしを力まかせに引き抜いた。おまえは自分が感じる痛み以外は、想像もできないんだろう。本当はアスミだって、ネットのなかの幻だと思ってたんじゃないのか」
キャリバンの唇の動きが目で追えないほど速くなった。呼吸も浅くなる。好きなように変形圧縮加工できるネットのデジタル情報体。やつにとってこの世のなかも、周囲にいる人間もすべてそんなふうに見えているのかもしれない。アスミがいった。
「マコトさん、ショーをとめて。なにするかわかんないよ」
おれはショーを見た。やつはしゃがんだままおれの目をまっすぐに見あげてくる。強い決意の光り。怒り狂ってはいない。おれは黙ってうなずいた。
「アスミ、大丈夫だ。おれだってショーなら同じことをする。こいつは痛みについて学ぶ必要があるんだ」
学校でも会社でも教えてくれないことを、キャリバンは身体で学ぶ必要がある。この世界には他者がいて、苦痛を与える存在でも、苦痛を和らげる存在でもあることを、骨身にしみて感じる必要がある。おれたちが毎日交換する痛みゆえに、他者は大切に扱うものだということ。幼稚園の遊戯室で学ぶことを、キャリバンは三十二歳で学ぶのだ。なんだって遅すぎることはない。
ショーはやつの背に馬のりになると、電気コードをほどいた。左手を顔の横、玄関のPタイルのうえに広げる。キャリバンは妙におとなしくなっていた。暴力を振るわれることに慣れていないのだろう。最後の瞬間まで獣のように暴れることもない。ハリウッド映画とは違う。こいつもざるそばを食う日本のストーカーなのだ。ショーは低い声でいった。
「おれを見ろ。痛みといっしょに覚えておけ。今度おまえがアスミのまえにあらわれたら、おれはおまえを潰してやる」
ショーは軽く釘抜きを振りあげた。一瞬静止した釘抜きは、ほとんど鉄の重さだけで振りおろされたように見えた。L字形の丸くなった角が、キャリバンの左手の小指のつけ根に落ちる。こつん、こちらの耳の底が痛い音。釣りあげられた魚のようにキャリバンの身体が、二度跳ねた。
「こいつはアスミの分だ。つぎはおまえが羽をむしった鳩の分」
今度はさっきより高く釘抜きがあがった。ごつん、親指のつけ根に鉄の角が落ちる。痛みの記憶がよみがえるのだろうか、おれの身体中の神経が縮みあがった。ショーはおれを見あげていった。
「これくらいでいいだろ」
おれは黙って、うなずいた。
◆
そのあと、おれとショーのふたりで両脇を固め、山手通りまでキャリバンを捨てにいった。タクシーをとめ、なかにやつを押しこむと、三番町と運転手に告げた。キャリバンはぐったりして、右手で左手の手首を押えている。親指と小指のつけ根にはゴルフボール大の青黒い腫れものができていた。しばらくはキーボードの操作に困るだろう。
それから、おれたちはアスミの部屋に戻った。その夜は廊下で、ショーと頭をつきあわせて寝た。小学校時代の思い出話をたくさんする。アスミはおれたちの話に聞き耳を立てながら、奥の部屋で得意のポーズを決めている。なんだかおかしな夜だった。
◆
数日後、副支店長に電話すると、キャリバンは田舎からでてきた両親に引き取られていったという。左手の怪我については、なにもいわなかったそうだ。ショーに電話で報告すると、やつは一段と潰れた声でいった。
「そうか。それじゃ、約束通り、一杯やらなくちゃな」
おれたちはその日の夜八時、ウエストゲートパークで待ちあわせした。
◆
八時五分まえ、おれはいつものように円形広場のベンチに座り、周囲にむかって心を開いた。女たちも、公園の木々も夏が終わってしまうのに、徹底的に抵抗しようとしているみたいだった。九月も終わりに近いのに、リゾートホテルをでて海にむかう途中のようなファッションをしている。なかにはもう海のなかなんて格好の女もいる。ブラ一枚にケツの四分の三がはみでてるホットパンツ。ケヤキもまだ青々と細かな葉を繁らせ、夏のころのように涼しい葉音を立てていた。ナンパも客引きもあい変わらずだ。おれは東武デパート口で、せっせと仕事に励むショーを目で追った。よくわからないが、やつはやつなりの法則で、声をかける女を選んでいるようだった。
午後八時ちょうど、やつはスカウトをやめて、おれのベンチにむかって歩いてくる。
「よう」
薄い前歯をむきだして笑った。アロハに短パン。だが、今度のアロハは南の島の遠浅の海みたいな碧だった。おれはいった。
「なあ、おまえ、どういう基準で女に声かけてるんだ」
「ナンパと同じだよ」
うんざりした顔でショーはいう。おれにはぜんぜんわからなかった。
「どういうこと」
「あのな、あたりをきょろきょろ見まわしている女はだいたい彼氏待ちなんだ。だから、読んでもいない雑誌をやたら早くめくったり、用もないのにつぎからつぎへと携帯をかけてる女が狙い目なのさ。ナンパ待ち。おまえそんなことも知らないの」
知らないといった。ショーはあきれた顔をする。遊び人の常識なのだそうだ。そのとき、ショーの表情が硬くなった。おれはやつの視線の先を追った。
噴水まえの広場を、アスミが大学生風の男と歩いていた。アスミは白いミニスカートから、伸びやかな太ももをさらし、猫科の大型獣のようにゆったりと歩く。男は外国製のカラフルな自転車を押して、その横をすすむ。背が高く、育ちもよさそうだった。顔まではわからないが、ふたりともとてもバランスのいい身体をしている。数十メートルも離れたところからでさえ、お似あいの健康的なカップルだった。アスミがおれたちに気づいて、笑って手を振った。男も軽く会釈する。おれもアスミに手を振りながらいった。
「なあ、ショー。おまえ、結局、アスミには告白しなかったのか」
ショーがぽつりといった。
「ああ、できなかった」
「そうか」
噴水のまえに座ったシンガーの連中が、アコースティックギターの調律を始めた。ビルに囲まれた公園の空へ澄んだ音が垂直にのぼっていく。ショーはしみじみといった。
「おれ今回男の気持ちが本当によくわかったよ」
好きな女を守って戦ったあの夜のことか、そう思ってちょっと感心して聞いているとやつはさらっという。
「ほんと、アスミの部屋に泊まった夜、何度も襲っちゃおかと思ったもんな。やっぱ、女もお友達なんていって、男を泊めたらダメだよな」
大笑いした。貝山祥子は芯から男なんだ。
「おれが女だったら、絶対おまえに惚れるんだけどな」
そういうと、ショーはにやりと笑って、横に座るおれを見る。
「おまえ、ホモか。気持ち悪いこといってんじゃねー。さあ、飲みにいこうぜ」
それで、おれたちはベンチから立ちあがった。池袋の九月の夜空は明るく晴れて、アクリル絵の具みたいな透き通った紺色だ。月はあの夜よりすこしやせて、夜空のまんなかにさがっている。おれはショーの坊主頭をくしゃくしゃになでてやった。やわらかな髪。
それから、涼しい風のなか駅の裏手の明るい街へ、やつといっしょに歩きだした。
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少年計数機
横断歩道の白線をかぞえたことがあるだろうか。
意味なんてまったくないし、そんなことをしてどうなるわけでもない。冬の日ざしに輝くちょっと盛りあがった白線を、通りのむこう岸めざしかぞえながら渡る。黒いアスファルトの谷底にころげ落ちないように、慎重に足を運ぶのだ。白線は十七本。すてきな素数。自分と一以外では割りきれない、友達のいない孤独ないい数字だとやつはいう。
やつは横断歩道どころか目につくものすべてをかぞえ続ける。それもいいかげんにじゃなく、真剣にできる限り正確にかぞえあげる。空をいく雲、雲にまぎれる鳥、鳥がとまる電線、電線でつながる池袋西一番街の雑居ビルの薄汚れたすべての窓。そうやって、世界を数に置き換えることで、やつは初めて安心するんだ。
自分が誰なのか確かめるため、一日中心臓の鼓動をかぞえたり、呼吸数をカウントしたりする日々。やつは自分は人間じゃないといっていた。自分はただの計数機で、人間なんかじゃない。そんなに不正確で、信用ならないアナログ的存在じゃない。
ウエストゲートパークでおれがやつに最初に会った日、やつはこのおかしな世界に生まれて三千八百六十九日目だったそうだ。おれはその月にはいってから出会った二十二人目の人間だともいった。
不正確でアナログな人間も大変だが、ただの計数機として生きるのも楽じゃない。
◆
西口公園の円形広場にそのガキの姿があらわれたのは、その冬最初の寒波がやってきたころだった。敷石のすき間に白く粉を打ったように初霜がおりて、涼しさに慣れた身体に北風が鞭をふるう十一月の終わり、そのガキはカチカチという計数機の音とともにやってきた。アルバイト学生が通りで通行人をかぞえるのに使うあの銀の計数機だ。カチカチ。
身長は百四十センチもないちび。やせているので体重だって三十キロくらいだろう。ほんとうならどこかの小学校で分数の計算でも習っているはずなのに、昼間から円形広場のベンチにひとりで座っている。いいや、「座っている」というのは正確じゃない。やつは太いステンレスパイプのベンチで、またがったり、のったり、もたれたり、寝そべったり、したをくぐったりする。要はひとときもじっとしていられないのだ。そうして絶えず落ち着きなく動きまわりながら、両手にもった計数機で冬の公園で目につくものを、やたらカチカチとかぞえている。
うちの店から歩いて数分、ウエストゲートパークは自分の部屋の広いバルコニーみたいなものだから、おれはなんとなくそのガキを毎日観察することになった。だいたい、ちょっと変わった人間が気になるたちなのだ(おれ自身があきれるほど健康だからかもしれない)。
やつの格好はいつも同じだった。ジーンズにハイカットのバスケットシューズ、うえはTシャツにダウンジャケット。なぜかひざとひじにスケートボードのハーフパイプの選手がするようなパッドをつけ、頭にはソフトなヘルメットをかぶっている。
ある午後、やつのいるベンチの隣に座ったことがある。やつはその場から見えるすべての人間を、右手で男、左手で女に分けて、カチカチとかぞえまくっていた。凍える池袋の街を、当然やつには無関心に早足で通りすぎるすべての都会人。猛烈な勢いで計数機のボタンを押しているやつの横顔を、おれはそっと盗み見た。あごの横にははずしたままのヘルメットのストラップが揺れている。
ひと重のちょっと吊ったおおきな目、丸くてちいさな鼻、厚い花びらのような唇。やつは超然と笑っていた。誰かとつながったり、誰かに笑いかける笑顔じゃない。自分が世界とは関係ないということを証明する笑いだ。この世界や人間たちになにが起きても、自分の笑顔ひとつ傷つけることはできない。そう宣言しているようだ。誰も足を踏みいれることのない森の奥の湖の冬空を一段と濃い青に映す水面のような澄んだ笑顔だった。
その笑顔を見て、ぐらりとおれのなかでなにかが動いた。十歳でそんな笑いかたを身につけるガキ。そんなやつを放ってはおけないだろ。それでおれは自分から、やつのトラブルに巻きこまれていったのだ。
ミス1。
◆
少年計数機と最初に言葉を交わしたのは雨の日。
十二月にはいり、池袋の街はクリスマス商戦がでたらめなにぎわいを見せていた。奥手のカップルが初めてのセックスに踏みきる口実にぴったりの神の子の誕生日。街には「ほら私ってかわいいでしょ!」って顔をした、女受けするものほしげなポスターがあふれている。この国の神様はかわいさと物欲とよりおおきな桁の数字だ。
その日はにぎやかな街のうえに、灰色の板のような曇り空が広がっていた。天井の低い部屋に押しこまれたみたいだ。きゅうくつなのに妙に快適。おれは出先からの帰り道、ビニール傘の柄をだぶだぶのジーンズの尻ポケットにひっかけ、頭が空にぶつからないように背を丸めて歩いていた。
東武デパート口から西口公園にはいると、みぞれ混じりの雨が周囲のビル街を急に白い幕で包んだ。石畳にみぞれが跳ね散って、ティンパニの皮のように地面が震えて見える。園内にいる人間は、みな屋根のある場所に吸い寄せられていった。
やつはひとりやけになったようなスピードで、ベンチに座ったまま計数機を叩いている。雨粒が落ちるまえに、すべてをかぞえきろうとでもしているみたいだ。おれはやつのまえに立った。傘をだす。
「これ、やるよ」
やつは話しかけられたことに心底びっくりしているようだった。笑顔が凍りついてしまう。黙ったまま、おれを見あげていた。カチカチカチ、それでも計数機だけはとまらない。
「使ってくれ。おれのうち、すぐそばなんだ。かぜひくぞ」
なにを思ったのか、やつはあわててダウンジャケットの内ポケットを探った。ひものついた赤いナイロンの財布を引っぱりだす。ばりばりと音を立ててマジックテープを開くと、小銭いれから硬貨をひとつおれに差しだした。ちいさな手のなかの五百円玉は、オリンピックの銀メダルみたいだ。おれは首を横に振った。
「いらない。金がほしいわけじゃないんだ。おまえ、ずーっとこの公園にいるだろ。まえから気になってたんだ」
やつは怪訝な表情で傘を受け取った。それからていねいにいう。
「どうもありがとうございます。お名前はなんというんですか」
親に仕こまれた科白《せりふ》のようだった。おれは自分の名をいった。マジママコト。やつの手のなかで計数機が六つ数を刻んだ。
「そっちの名は」
「多田広樹《ただひろき》」
今度は親指は動かなかった。落ち着いたようだ。またあの超然とした笑いが戻っている。ヒロキはもう話す気はないようだった。おれを無視して、猛然と計数機を打ち始める。雨が激しさを増して、おれもうちに帰った。革のボマージャケットは放りだしておけばいいが、濡れたジーンズはべたりとももに張りつき、はき替えなければならなかった。
変なガキ。
◆
翌日は快晴。前日の雨でスモッグはぬぐい去られ、磨いたばかりの鏡のような空が池袋の街にかぶさっている。おれが店番の空き時間に円形広場のベンチに座っていると、ヒロキが遠くのベンチからおれにむかって歩いてきた。直径五十メートルはある広場をやつはうつむいたまま小刻みに足を動かしやってくる。命がけの石蹴り遊びでもしているようだった。敷石のつなぎ目を絶対に踏まないように一歩進んでは、一歩横に動く。ときどきつぎに進む方向を考えこんで、足はまったくとまってしまう。
十分後おれのまえに立つと、ヒロキは自分が成功した難事業に目を輝かせていった。
「三百二十七歩。最短記録だよ」
なんといえばいいのかわからなかったので、初対面の女と同じように扱った。取りあえず、ほめとけ。
「すごいな、ヒロキ」
そういうとやつの両手の計数機が、オートバイのエンジンみたいに回転数をあげた。
「昨日は傘をおごってもらった。だから、今日マコトはぼくにおごられなくちゃいけないよ」
どうでもいいけどといいたげな、河のむこう岸にでも送る笑顔。ヒロキはまた財布を引っぱりだした。コインポケットをいっぱいに開いて見せる。
「お金ならあるんだ。心配しなくていいよ」
端がほつれたナイロンの財布は真新しい五百円玉でぱんぱんだった。おれはちょっと驚いた顔をしたらしい。
「お金ないの? ほしければあげるよ」
いいんだといった。このガキとコーヒーを飲むのもおもしろいかもしれない。おれたちは遥かな喫茶店めざし、石蹴り遊びを始めた。
◆
目標は西口公園をでて通りをへだてたプロントだった。一車線の車道と歩道の幅をあわせても公園からは五メートルくらいしか離れていない。一番近くの店にしてよかった。なにせ、ヒロキはあわない靴をはいたカタツムリくらいの速さ。よっぽど、肩に抱えて走ろうかと思ったが、やつの表情には手をだすのをためらわせるものがあった。どこかの小説家が「魂のことをする場所」なんていっていたが、ヒロキの歩きかたや数をかぞえるときの真剣さには、心の深いところから湧きでてくる透明な自発性がある。それは相手がいくつだろうと大切にしなければならないものだ。
二十分後、店にはいったときにはおれはくたくたに疲れていた。歩いてウエストゲートパークをでる、それがこんな大旅行だとは。こんなことを毎日やっているヒロキの生活のたいへんさが身にしみた。おれたちは人影のすくない冬の公園を見渡す窓際に席を取った。ヒロキはよじのぼるように腰高の椅子に座る。移動するときはあれほど慎重だったのに、席に着くと今度はじっとしていられなくなるようだった。カチカチと計数機を叩き、つねに姿勢を変えている。
「ねえ、やっぱりマコトもLDなの」
カフェオレとココア味のカップケーキをはさんで、ヒロキはそういった。口元には例の超然とした笑い。LDはラーニング・ディスアビリティ、知能には遅滞がみられないのに、特定あるいはすべての科目で学習障害があらわれる状態だ。学校ではお手あげ。原因はわからない。ヒロキは自分と同じように昼間から公園でぶらぶらしているので、おれもLDだと思ったらしい。
「そうかもしんない。成績悪かったから。でも、おれが学校にいってるころ、まだLDってなかったんだ」
びっくりした顔をする。ヒロキはなぜか椅子のうえで正座した。
「そうなんだ。うちのクラスには五人もいるのに、昔はいなかったんだ」
たぶん、昔だってたくさんいたのだろうとおれは思う。ただ、そういう子どもを切り捨てて忘れていただけだ。今はいろいろな子どもを分類していれておける便利なファイルの数が増えたのだろう。
「なあ、なんでヒロキはいつも数かぞえてんの」
超然とした笑いに得意な表情がプラスされた。カチカチ。
「それはね、数がほんとうで、残りのものはみんな見せかけだから」
「そんなもんかな」
「そう、なにもなくても生きられる人もいれば、生きていくのに数が必要な人もいる。世界を知るには、世界をかぞえなくちゃいけないんだ。この店のメニューは全部で二十六品目、全部頼むと七千八百六十円。さっきマコトは公園をでるまでに、ぼくより二百十三歩すくなくて済んでる。あの歩きかた、教えてほしいな」
確かに知能に遅滞はないようだった。恐ろしく数には鋭いガキ。そんな暗算はおれにはとても無理。
◆
それからおれたちは三十分ほど、あれこれと話をした。カップケーキを食い終わると、ヒロキはダウンジャケットのジッパーつきのポケットから、なにかちいさなものを取りだした。コンタクトレンズいれ? 半透明の白いケースのふたを開ける。なかは細かに仕切られ、きれいな色の錠剤がきちんと分けておさめられていた。
ヒロキは慣れた手つきで、三種類の薬を取りわけ、コップの水でのみこんでいく。おれはなんの薬か聞かなかった。それとなくヒロキから視線をはずしておく。
「これはね、頭のなかがどんどんスピードアップするのを防ぐ薬なんだ。のまないとぼくは一日中叫んでいたりする。こっちの楕円形のは薬じゃなくて、栄養食品……」
そういうとヒロキはピルケースの中身を見せる。おれのためらいや好奇心に敏感に反応する。でたらめに鋭い子どもだった。
「……頭がよくなるDHAだよ」
また遠い笑い。おれは精神安定剤と頭がよくなる栄養食品!をいっしょにのませる親の顔が見てみたかった。
「ねえ、マコト。携帯もってるんでしょ。番号教えてよ」
「ああ、PHSだけどな。ペンかなにかある?」
「ううん、口でいってくれればいいよ」
おれは不思議に思ったが、十二桁の番号を口にした。ヒロキの超然とした笑いがぴたりととまり、ひと重のおおきな目のなかで焦点がぼけていくのがわかった。やつは目の奥へどんどん後退していくようだった。パチン、スイッチがはいると、あの笑顔が戻ってくる。
「おまえ、ほんとに今ので覚えちゃったのか」
「うん。もう忘れないよ、絶対」
そういうとヒロキはおれの携帯の番号をすらすらといった。あたりまえの退屈そうな表情を浮かべている。
「なにか、数を覚えるこつでもあるのか」
超然とした笑いではなく、得意満面の子どもらしい笑顔になった。なにが子どもらしいかなんて、おれにはわからないけどな。
「マコトはいい人だから、特別に教えてあげる」
そういうとヒロキは、猛烈に早口のラップのような口調でいった。
「ケンタ・スカイラーク・ケンタ・デニーズ・デニーズ・ヨシノヤ・マック・スカイラーク・ミスド・ヨシノヤ・ガスト。これがマコトの番号だよ」
「なんだそれ」
「数字を数字のまま覚えるからだめなんだ。頭のなかで数を味におき換えるんだよ。それでね、できれば個々のおいしさじゃなくて、そのつながりを覚えるんだ。わかるかな」
カチカチカチ。ヒロキの計数機はとまらなかった。おれは正直にわからないといった。だってそんなことできるわけない。
「あのさ、ラーメンのあとでアイスクリームを食べると、なんかおかしな薬みたいな味がするでしょう。そういう味のつなぎめを覚えるんだ。吉[#底本では「土/口」]野家の紅しょうがとマックのダブルチーズバーガーなら、湿った段ボールをかんだような味になる。簡単でしょ」
また超然と笑う。おれもお手あげだった。今度会ったら、その方法をきちんともう一度教えてくれといって、喫茶店をでた。おれの書いてるコラムに使えるかもしれない。ヒロキのちいさな背中が地下鉄の階段に消えるまで、おれは冬の路上でやつを見送った。
十五メートルの歩道を地雷原のように前進する、十歳の少年の危機的な七分間。
◆
その夜、うちの店で染料でも使ったんじゃないかというくらいきれいなピンク色の富士(ひとつ五百円!)を売りつけていると、おれのPHSが鳴った。耳元にあてると、大人の女の声がした。初めての声。おれには親戚のおばちゃん以外、四十代からうえの女性の知りあいはいない。
「はじめまして。私、シャロン吉村と申します。吉村は今の主人と結婚するまえの芸名で、今は多田と申します。今日はうちのヒロキがご迷惑をおかけしました」
驚いた。ヒロキの母親は芸能人だったのだ。おれはよく知らないけれど、若いころは美人女優で売っていたらしい。今はときどき夜七時の悲惨な離婚相談ヴァラエティ(すごいコメディ)で見かけることがある。「こんな男だめね、別れちゃいなさい」なんて、ひと目見れば誰でもわかるコメントをしゃべってる品のよさそうな中年タレントだ。要するになにをして食ってるのかわからない芸能人のひとり。別に迷惑なんかじゃないとおれはいった。
「ヒロキはとてもうれしそうでした。西口公園で初めてお友達ができたって。それで、一度真島さんにお会いしてお礼をいいたいの。いいかしら」
当然自分には便宜をはかるものだといいたげな話しかただったが、別に会うのはかまわない。いつでもきてくれと店の場所をいった。
「あら、西一番街なの、昔よく遊んだわ」
意外だった。このあたりで遊ぶお嬢様はいない。用件だけ済むと、いつのまにか電話は切れた。店先で酔っ払いがおれを呼んでいる。
「おい、兄ちゃん、リンゴくれ、リンゴ」
ひとつ二千円にぼったくろうかなと、おれは思った。
◆
そのクルマが西一番街の狭い通りにはいってきたのは、つぎの日の昼まえだった。冬の淡い日ざしのなか、リンゴやメロンや一体成型でつくったように粒のそろったミカンなんかを並べていると、静かにクルマがとまる音がする。顔をあげると、ばかでかいメルセデスだった。うちの店の間口が楽に隠れてしまう黒いボディ。近所の店のやつらがあきれた顔をして、不動産みたいな値段のクルマを見つめていた。運転手がおりて、後席のドアを開ける。きどった白いパンプスのつま先が地上にふれた。
「真島誠さん、いらっしゃいますかしら」
顔の半分を隠すサングラス。真っ白なスーツに負けない白い肌。思ったより小柄だった。金で磨かれた女特有の匂いがする。おれはミカンをおいて立ちあがると、自分だといった。黒いレンズのしたで視線がおれをうえからしたまでなでている。シャロン吉村はうなずいた。
「さあ、のって。お昼をごちそうするわ」
おふくろは店先で、占領軍でも見るような厳しい視線を送っている。おれは金庫みたいなメルセデスにのりこんだ。それにしても、人におごるのが好きな親子。
◆
クルマのなかは静かだった。メルセデスにのる人間が、世のなかはいつもことはないと錯覚するのも無理はない。西口五差路を西池袋方面にゆっくりと曲がっていく。芸術劇場のむかい側、東方会館の駐車場にはいった。おれたちは駐車場に運転手を残し、自動ドアをくぐった。運転手がじっとおれを見つめる目が印象的だった。餌を待てといわれた猟犬のような目。かたぎっぽくない。
東方会館は池袋にはめずらしい高級そうな結婚式場で、チャペルや宴会場やレストランなんかがそろっている。いつもまえを通りすぎるだけで、なかにはいったのは初めてだった。シャロン吉村は常連のようだ。レストランに入るとボーイがすぐに寄ってきて、日本庭園の見える窓際の予約席におれたちを案内する。中古の革ジャンとジーンズ姿のおれは、その場の空気にまったくそぐわなかった。白いテーブルクロスのうえには脳腫瘍の手術ができそうな数のナイフとフォーク、グレープフルーツが丸々入るでかいワイングラスが並んでいた。食欲がなくなる。
「ワインはだいじょうぶね」
にこにこと笑ってそういうと、シャロン吉村(純粋な日本人なのにばかみたいな名前)は長々とカタカナでワインを注文する。
「真島さんは、なにをしているの」
シャロン吉村はサングラスを取った。ヒロキに似たおおきなひと重の目。美しさより、疲労感と激しさを感じさせる目だった。目のまわりの深いしわのせいかもしれない。
「うちの果物屋の店番と、ときどきファッション誌にコラムを書いてます」
わざとらしいほど感心した表情が返ってくる。テレビの癖かな。コラムニストなんていうと格好いいけど、新鮮なストリートのネタを放りだすように書いているだけ。文章だってぜんぜんだめ。おれは池袋のなんでもトラブル相談屋のことは話さなかった。
「ヒロキくんは学校にはいっていないんですか」
「ええ、カウンセラーには無理していかせるのはよくないっていわれているの。ときどきひどく心配になるけど」
おおきく息を吐いた。陣内孝則みたいなオーバーアクション。理解のある親の役か。
「でもヒロキくんには、どこか人を引きつけるところがありますよ。放っておけないというか」
それは年齢には関係ない力だった。あるやつは二歳か三歳であるし、ないやつは一生ない。あの不思議な魅力。シャロン吉村の表情が明るくなった。
「どうもありがとう。ねえ、ちょっと真島さんのことを聞かせてもらっていいかしら」
それからはおれの身上調査になった。
◆
ヒロキの母は、おれの経歴を根掘り葉掘りきいてくる。生まれは、家族は、学歴は、友達は、将来の夢は? 料理のメインコースが済んで、デザートのユズのシャーベットと紅茶のシフォンケーキがでるころには、履歴書が書けるくらいの情報をしぼり取られていた。話してみるとよくわかるが、経歴はその人間についてあまり核心を語らないことが多い。おれのようにどの場にいても、自然に流れをはずれているような場合は特に。
それでもシャロン吉村は、おれの話で安心したようだった。白いパンツのひざに広げたナプキンで唇を軽く押えると、椅子の背にかけたバーキンから御祝儀袋を取りだした。立派な金と銀の水引。筆文字でおれの名前が書いてある。
「気を悪くしないでもらいたいんだけど、真島さんにお願いしたいことがあるの」
そういって、おれのまえに中央が高くふくらんだ和紙の包みをおく。
「うちの人がつける人間にはヒロキは心を開かない。真島さんもお忙しいでしょうけれど、ときどきでいいからヒロキの様子を気にかけてあげてほしいの。食事に誘ったり、このまえみたいに雨になったら傘を渡したり。あの子はあとで熱をだすくせに、平気でずぶ濡れになるような子なの。私も仕事で手が離せないし、お願いします」
「ヒロキくんのお父さんはどういう人なんですか」
シャロン吉村の顔から表情が消えた。肌が何倍も厚くなり、ゴムの仮面でもかぶったように見える。
「主人は豊島開発の多田|三毅夫《みきお》といいます」
ため息がでる。西口の風俗街の半分をもっている会社だ。豊島開発は池袋の地元じゃ有名だった。勝新じゃないが『悪名』が轟いてる。サルのいる羽沢組とはいいライバル。
「やっぱり、無理なお願いかしら」
母親の顔になる。おれは世界の誰にも自分を傷つけさせないというヒロキの決然とした笑顔を思いだした。あの笑いを生んだ理由の一部はこの女にもあるのだろうが、つぎの瞬間おれはいっていた。
「わかりました。できる限りのことはしてみます」
別に金などもらわなくても、そうするつもりだったのだ。だって、誰にでもすぐ財布の中身を見せるようなガキを、池袋に放りだしてはおけないだろ。
◆
つぎの日からウエストゲートパークで、ヒロキと毎日言葉を交わすようになった。
まず最初にしたのは、やつを丸井スポーツ館に連れていくことだった。じりじりと絶壁をよじのぼるようなスピードで、西口公園内のバスターミナルのむかいにあるビルへとすすんでいく。スポーツ館まで直線距離なら百メートルくらいだが、今度は信号があるからちょっと楽だった。なぜかヒロキは横断歩道では、跳ねるように白線だけ踏んで渡るのだ。歩道より断然速い。
おれたちは建物にはいると、まっすぐにインラインスケート売り場にむかった。壁には色とりどりのスケート靴がさがっている。未来の靴屋って感じ。
「なあ、ヒロキ、これをはけば直接地面とふれることないから、きっと素早く動けるようになるぞ。このまえはコーヒーおごってもらったから、今日はおれのおごりだ。好きなの選んではいてみろよ」
どうせシャロン吉村の金なのだ。かまうことはない。おれは子ども用では一番高いやつに手を伸ばした。鮫のように光る黒いプラスチックのブーツの横に、銀のラインが三本走っている。靴底には一直線に四つの車輪。ヒロキに渡してやった。超然とした笑いに変化はないが、頬が赤くなっている。うれしいみたいだ。ヒロキがスケート靴をはこうとかがみこむと、遠くからポロシャツ姿の店員が飛んできた。サイズの確認だけして、おれはそいつを買った。片足だけで二万ちょい。ものを買うのってなぜ楽しいんだろう。たとえ人の金でも楽しさはぜんぜん変わらない。
その日は夕暮れまで、公園のなかでスケートの練習をした。絵日記みたいな一日。
◆
三日もするとヒロキはインラインスケートをマスターした。曲芸はできなくとも、まっすぐに走り、とまりたいところでとまり、段差をのり越えられるようになった。おれの文章力と同じくらいか。ヒロキの運動神経は上々だった。それでぐっと、おれたちの行動半径も広がった。
おれはヒロキを西一番街のうちの店に連れていった。おふくろも母親には冷たかったくせに、ヒロキには甘い顔をする。どこかおれのちいさなころを思いださせるところがあるのだそうだ。賢そうな表情!?かもしれない。ヒロキは芸能人の母親仕こみか、挨拶だけは異常にていねいだから、おふくろに一発で気にいられた。おれには腐りかけを食わせるくせに、ヒロキには市場から入荷したばかりの売りもののマスクメロンを切ってやる。不当な差別だ。
たまたまうちに顔をだした和範にもヒロキを紹介した。変わり者同士ふたりで意見があうかと思ったが、そう簡単にはいかなかった。お互いに同じ匂いをかいだのか、妙に緊張している。しかたないから、放っておいた。無理に誰かをなかよくさせることなんて、誰にもできない。
サンシャイン通りをおれがヒロキを連れて歩いていると、通りのあちこちにいるGボーイズの連中がハンドサインを送り挨拶してくる。最初はびびっていたが、すぐに慣れたようだ。ヒロキもサインを覚え、おれのまわりを円を描くようにインラインスケートで飛ばしながら、Gボーイズにハンドサインを返す。
手のなかの計数機は、歌うようにおれたちの街のひとつひとつをかぞえていた。
◆
夢のようにすぎた十二月の第三週のある日、おれたちは東池袋のデニーズまで足を延ばした。シャロン吉村の金も使いきり、おれはいつもの貧乏暮らし。ホットケーキをひとつ取り、あとはお代わり自由のコーヒーで時間を潰す。ヒロキはおれのやることをすべてまねているから、自分は例によって百枚近い五百円玉をもってるくせに、アイスクリームではなくあまり好きでもないコーヒーを頼んでいる。あいかわらず計数機は活躍していた。店にいる客をかぞえ終わると、用もないのにメニューをもらい、料理の値段を片端から合算していく。
窓越しに見えるサンシャインシティが、灰をまぶしたような東京の青空をふたつに割っていた。窓ガラスは天井近くまであるが、六十階建てのてっぺんまでははいらない。視線をおろすと、窓際の一番奥、この店の特等席とでもいえそうなボックスシートに、ゼロワンが座っていた。やつのことはみんなゼロワンと呼んでいる。表記は01が正しいのかもしれないが、おれにはよくわからない。
池袋の情報屋で、噂では北東京一のハッカーだという。おれはやつを使ったことはない。情報ならGボーイズやダチのネットワークで間にあうし、ハッキングが必要な仕事もこれまでなかった。それにだいたいおれの仕事は口先三寸と丈夫な足でなんとかなる。
ゼロワンは見たところごく普通の男だ。アクセサリーなし、化粧なし、ピアスなし、タトゥーなし。違っているのは二点だけ。やつのつるつるに剃りあげたスキンヘッドにはふた筋のラインが走っている。描いたものじゃない。その筋は生えぎわのあたりから後頭部にかけて、鋭角的に盛りあがっているんだ。噂じゃチタン合金のプレートを手術で皮膚のしたに埋めこんでいるそうだ。空気の整流効果があがって走ったら速そう。実際ツール・ド・フランスなんかで選手がかぶるヘルメットにはいった筋のようだった。正面から見ると角が生えかけた鬼にも見える。
それでもインプラントよりもっと印象的なのはやつの目だった。ものすごく淡い灰色ガラスを一メートルも積みあげたような目。どこまでも澄んでいて見るほうが不安になる湖みたいだ。第二次大戦中友軍の捕虜を救うため、収容所で身代わりになって死んだという牧師はきっとこんな目をしていたんじゃないだろうか。恐ろしく宗教的な情報屋。
ゼロワンはひどくやせた身体を、XLのスポーツウエアのなかで泳がせながら、いつもその店で座っている。指定席のテーブルがやつの仕事場なのだ。電波状態のいい窓際には携帯が五台並べられ、正面にはノートブックパソコンが二台、モデムカードでPHSにつながれている。そうして、やつは情報を求めて客がくるのを待つ。ゼロワンは聖なるパンを分けるように、迷える客に情報を与えてやるのだ。
ぼんやりと見ていると、携帯のひとつを取りあげ、やつは短縮番号を押した。おれのPHSが、一瞬遅れて鳴りだした。取るまえから、なぜかおれにはゼロワンだとわかった。
「マコトか」
そうだといった。ゼロワンの唇は話すときでも、ほとんど動かなかった。
「おれのテーブルにこないか」
「連れがいるんだ」
ゼロワンは広いフロアの反対側にいるおれを見つめたままいった。
「知ってる。多田三毅夫の息子だろ。いいから、ひとりでおれのところにこいよ」
ちょっと知りあいに挨拶してくるといって、おれはヒロキがなにかをカチカチとかぞえているテーブルを離れた。
◆
やつの仕事場にむかって歩いていくあいだ、ゼロワンはじっとおれを見ていた。ホルマリン標本にでもなった気がする。
「座れよ」
ガス漏れみたいな声。やつの正面のビニールシートに滑りこんだ。コンピュータの電源は壁のコンセントに延びている。
「店長に了解は取ってある。おれは上客だからな」
一日二十時間近くをこのファミレスですごし、切れ目なくなにか注文しているんだから当然かもしれない。やつの目を見た。
「おれはあんたとは初めてのはずだ。なにか用があるのか」
ゼロワンはにこりともしない。
「噂だけならずいぶんお互いのことを知ってるはずだ。いっしょに動いたことはなくても、そのうち必ず同じヤマを踏むだろう。だから、好意でひとつアドヴァイスをやる」
しばらく間をおき、おれの目をのぞきこむようにいう。
「多田の息子から離れてろ。もうあのガキには手をだすな」
そんなことを急にいわれても困る。母親からも頼まれているし、おれ自身ヒロキのことがけっこう気にいっているんだから。それともおれのそばにいるとヒロキが危険になるとでもいうのだろうか。
「理由は」
ゼロワンは黙って首を振った。またあの目でじっとおれを見る。
「未来の危険の可能性についていっているんだ。その原因がどれであるかなんて推測は不可能だ」
「それじゃ、素直には聞けないな」
やつは初めて笑顔をみせた。あごの横の筋が引っぱられて、スキンヘッドの頭皮がぴんと突っぱった。人間は頭蓋骨全体で笑う。チタン合金の角が鋭角的に浮きだした。思わずおれはきいた。
「ところでそのプレートにはなんの意味があるんだ」
おもしろくもなさそうな顔で、ゼロワンはいう。
「アンテナ」
訳がわからない。素直にそういった。
「あのな、世のなかになにかがあらわれるたびに、みんな新しいものを『魂のない技術』だなんていう。おれはそうは思わない。手書きの写本があたりまえだったころ、印刷機でつくった本が登場すると、そんなものには魂も知恵もこめられていないといわれたそうだ。今を見ろ。活字には魂があるが、ネットにはそんなものはないとやつらはいう」
ゼロワンの目の淵が澄んで、どんどん深くなっていった。小石を投げたら見えなくなるまで沈んでいきそうだ。
「おれはいつも波立っているデジタル情報の海のなかに、きっとおれだけにむけられた聖なるメッセージがあると信じてる。このアンテナはそいつを受けとめるためのものさ。その日がくるまで、おれはこのファミレスに座って、情報を整理してはあちこちに売りつける。デジタルの海の灯台みたいなもんだな」
ぼそぼそとかすれた声でそういうと、急におれには関心をなくしたようだった。目もあわせなくなる。
「もう、いっていいぞ。確かにアドヴァイスは渡したからな」
礼をいっておれは席を立った。ゼロワンの忠告は気にしないことにした。ミス2。
ファミレスのボックス席で、自分のためだけに送られた聖なるメッセージを待つ生活。想像もできなかったが、おれのための信号もその海にはあるのだろうか。ハロー、ハロー、こちら神様。
◆
その日の夕方ヒロキと池袋駅で別れると、ウエストゲートパークのベンチに座りPHSをかけた。久々のサル。地元の中学のいじめられっ子は今、羽沢組の元気のいい若衆だった。裏側の世界のおれの情報源のひとつ。やつは電話にでても黙ったままだ。
「おれ、マコト。二、三、話をきいていいか」
「ああ」
去年の秋の事件以来、すっかり貫禄がついた声が返ってくる。
「今、西口の風俗街はどうなってるんだ」
「三つどもえだな。うちと豊島開発と関西系の大手。こっちの業界もデフレっつうのか、景気の悪い話ばかりだ。内容をハードにして、値段はさげる。生き残りのためにどこも必死だ。特に関西系がきてからは、ヘルスも出張も裏ビデオもきつくなった。ビデオは昔一本一万だったのに、今じゃ三本一万のとこもある」
サルの話によると競争原理が働いて、サービスはどんどん過激になる一方だという。風俗店はしっかりと系列で固めているが、カタギの客には組織の威光なんて関係ない。日本の経済界で数すくない、顧客優先の市場主義がフルに機能している分野なのだ。お好きな人は、今のうちにどうぞ。
「豊島開発について悪い噂はないか」
しばらくサルは考えた。おれは円形広場を横切って池袋駅にむかう人波を見ていた。ヒロキの癖が移ったのか、自然にサラリーマンの数をかぞえている。
「うーん、別に聞かないな。あそこは組織はしっかりしてるし、今まで溜めこんだ銭もある。ちょっとやそっとじゃ、倒れんだろう。例によって関西ともめてるらしいが、それはうちも同じだしな」
「多田三毅夫については」
「女優のレコにでれでれだって話だが、商売はさすがにうまいもんだ。なんだ、マコト、多田ともめてんのか。いい度胸してんな」
おれは違うといった。ヒロキの超然とした笑顔を思いだす。どっちかといえば豊島開発の側なのだろう。最後にきいた。
「東池袋のファミレスにいる情報屋は知ってるだろう。あいつ、腕はどうなんだ」
「あの頭がいっちゃってるやつか」
インプラントのことか、デジタル新宗教のことかわからなかったが、そうだといった。
「ちょっと高いが、腕は文句なしだ。電話番号、住所、車のナンバー、銀行やクレジット口座の利用状況、金さえだしたらなんでも調べる技をもってる」
あの恐ろしく深い灰色の目。ゼロワンはなんでもお見通しという訳か。おれは礼をいって電話を切った。サルは今度フグをおごってくれるという。あっちの業界のやつも芸能人と同じだった。カタギのやつと遊ぶほうが楽しいのだ。
◆
その週末ヒロキはウエストゲートパークにはこなかった。日曜日は家族サービスをするらしく、いつもの通り。しかし、週明けの月曜日にもやってこない。おれは一時間ほどおいてはちょこちょこと円形広場をのぞいたが、ヒロキは結局その日も姿を見せなかった。
今年の残りも十一日。池袋の街は間近になったクリスマスと冬休みに舞いあがっている。おれは凍って尻に貼りつきそうな金属製のベンチに座り、ヒロキと同じ背格好のガキが通るとばかみたいに目を泳がせた。あの変なガキがいつからこんなに気になるようになったのだろう。裸になった公園のケヤキをビル風が揺すると、カチカチと計数機の音が聞こえるような気がした。
◆
火曜日、ヒロキの代わりにやってきたのはあの猟犬のような運転手だった。制服姿のOLが手をつないで散歩してる、昼休みの西口公園。いつものようにベンチに座るおれのまえに、よく知らないブランドのイニシャルがでかでかとはいった紺の革靴が二足分並ぶ。
目をあげると、運転手と運転手をひとまわり粗暴にしたような男が立っていた。今回はスーツではなく、ラテンの色使いの派手なブルゾン姿だった。運転手はドスをきかせたつくり声でいう。
「おまえ、真島だな。うちの坊ちゃんがどこにいるか、知らないか」
おれはとりあえずうしろを振りむいた。ベンチの後方にも岩のような顔をした男がひとり腕組みしている。細めた両目のすき間からこっちをじっと見た。おれはいった。
「ヒロキはどこかに消えたのか」
運転手はとなりの男と目をあわせた。あきれた顔をする。
「黙れ。きいてるのはおれだ。ちかごろのガキは、なにをするかわからんからな。月曜おまえはなにやってた。坊ちゃんを連れていってないだろうな」
ヒロキが多田の家からいなくなっている! ゼロワンの忠告を思いだした。危険なのはおれではなくヒロキで、おれはとばっちりを食うという警告だったのか。
「月曜日はヒロキには会っていない。連れているならやつはここにいるし、誘拐してるなら、こんなところに座っちゃいない。あんたたちでさえ、簡単に見つかるんだからな」
となりの男が泡を吹きながら、飛びかかってこようとした。猟犬がなだめる。ハウス。交番が目と鼻の先にあるまっ昼間の西口公園で、ドンパチやろうとする。どの業界でも人材は不足だ。
「いいか、坊ちゃんからなにか連絡がはいったら、すぐそこに電話しろ。そうしなけりゃ、こいつを夜中におまえの家にやる。いいな」
運転手は指先でカードを弾くように、豊島開発の名刺をおれの胸に投げた。
◆
その夜店番をしていると、シャロン吉村が西一番街の人波を分けて歩いてきた。海が割れるように酔っ払いが道をあける。スポットライトを浴びてるみたいに、彼女の周囲が明るく感じられた。元々やせている顔がさらにやつれ、厳しい表情は氷山のような美しさ。彼女はすがる目でおれを見ていった。
「収録が済んで化粧も落とさずにきちゃった。真島さん、話をできるところはある?」
おふくろを見た。おれと同様、シャロン吉村の様子に異常を感じとったようだ。おふくろは黙っておれにうなずいた。
「きてくれ」
おれは店の横にある木の扉を開けた。入るとすぐに狭い階段が二階の住まいに続いている。先に立って踏み板の鳴る階段をのぼった。シャロン吉村はおふくろに軽く一礼してついてくる。玄関と狭い台所(ダイニングキッチンて感じじゃないんだ)を抜けて、おれの四畳半に通した。ものが落ちていないところに適当に座らせる。
「ヒロキくんがいなくなったんですね」
「知っていたんですか」
おれは猟犬のような運転手がわざわざ知らせにきてくれたことを話した。シャロン吉村は困惑した顔をする。
「うちの人がやりそうなことね。ヒロキは月曜日の朝、西口公園にいくといって家をでたまま帰らないの。誘拐されました」
確かに心配そうではある。だが、「誘拐されました」はちょっと冷静すぎだ。なにか事情があるのだろうか。シャロン吉村は怒ったようにいう。
「うちの人はメンツもあって警察には届けていません。他の組関係の仕業かもしれないと疑っているようです。真島さんはこの街では有名なトラブル解決屋さんで、ストリートギャングにも顔がきくそうね。羽沢組のお嬢さんも探しだしたそうじゃないの」
調べはついているようだった。だが、姫を見つけたときすでに死人だったことまで知っているのだろうか。シャロン吉村は正座したまま、やわらかそうなオーストリッチのショルダーバッグから、なにか取りだした。ビニールケースにはいった通帳と黒革の印鑑いれだった。古畳を滑らせ、おれのまえにおく。スヌーピーの通帳を開いた。ヒロキが生まれてから、毎月欠かさず五万円振りこまれていた。百二十回を超える記帳の列が、びっしりと続いている。一行ずつ印字されている数の列に、おれはなにかすごい力を感じた。総額はすでに六百万を突破している。
「学費保険の代わりに私のギャラから、毎月積み立てたお金です。全部、差しあげますから、私の息子を助けてください」
そんなことをいわれても、おれには誘拐なんてどうにもできない。営利誘拐なんて守備外だし、他の組織が絡んでいたら手をだすだけで危険だった。もちろんおれのせいでヒロキが死んだりしたら、取り返しがつかない。
「残念だけど、いくらもらってもどうしようもないです。おれにはヒロキくんを助けられるかわからない」
「ヒロキだけじゃないの。もうひとりの息子も助けてほしいんです」
シャロン吉村は黒い涙を落としながらそういった。マスカラが溶けだし、ファウンデーションもぼろぼろでひどい顔。おれは意味がわからずに黙りこんだ。
「ヒロキを誘拐したのは、あの子の兄なんです」
◆
シャロン吉村はバッグから一枚の写真を取りだした。二十代後半の長髪の男とヒロキと彼女が、三人でどこかのレストランのテーブルを囲んでいる写真だった。淡くあたたかなキャンドルの光り。笑顔を浮かべたときの唇の端のしわがみなよく似ている。
「これが長男の吉村|秀人《エリト》です。まえの夫とのあいだにできた子で、離婚後は別々に暮らしていました。今は東急ハンズの裏でスポーツショップをやっているんだけど、それがうまくいかなくて借金取りに追われているの」
そういうと名刺を出す。店の名はフィジカル・エリートだった。
「以前も飲食店をやって潰していて、そのときの借金は私が肩代わりしました。今回もまた泣きついてきて……私が断るとこんなことになって」
どうなっているんだろうか、狂言誘拐なのか。毅然と正面に座るおれを見つめたまま、涙をこらえているシャロン吉村にきいた。
「連絡はあるんですか」
「ええ、私に心配をかけないように一度だけ電話がありました。ヒロキは無事で元気だ。多田にはこのことは黙っていてくれ。それでおしまい。こちらからかけても通じないの。お店も閉めたままだし、自宅にいっても誰もいない」
ヒロキの身に危険がおよばないのなら、なんとかなるかもしれない。考えこんだおれに、シャロン吉村はたたみかける。
「心配なのはヒロキよりエリトなの。あの子は多田が警察には届けないだろうし、仮に自分の仕業だとばれても、私の息子だからだいじょうぶとたかをくくっている。でも、多田はそんな甘い人間じゃない。エリトは一生残る傷を見せしめに受けるし、いっしょに動いている人は殺されるかもしれない。多田は切れたら人ではなくなるわ」
そんなやつを相手にどうすればいいんだ。おれの嫌いなヤクザの、さらに嫌いなお偉いさん。お近づきになりたくない。それにどう考えても、ヒロキの兄貴の自業自得だろう。だが、殺されるやつはかわいそうでは済まなかった。薄くなった涙が灰色の跡を残し、シャロン吉村の頬を滑り落ちる。
「警察にもいえない。あの人にも、あの人の部下にもいえない。芸能人のお友達は頼りにならない。昨日からひとりきりで考え続けて、おかしくなりそうだった。もう、あなたしかいないの。お願いします。エリトとヒロキを助けてください。お願いします」
テレビでは簡単に夫婦を別れさせているのに、自分の家庭のことはうまくいかないようだった。誰の人生だってそんなものだろう。泣いている母親を見ながら、おれは自分が追いつめられたことを知った。誰にもいえない言葉のバトンを渡される。そうしたら、あとは全力で走るしかない。レースの最中に地面にバトンをおいて立ち去れるだろうか。おれは渋々いった。
「わかりました。できる限りのことはやってみます」
ミス3。
◆
その夜、さらに一時間シャロン吉村の話を聞いた。彼女が帰ってから必死に考える。BGMはスティーヴ・ライヒの『十八人の音楽家のための音楽』。カチカチと鳴り続けるヒロキの計数機を思いだす。ライヒは今世紀のアメリカの作曲家。まだ生きてる。現代音楽なんていうとむずかしそうだが、ぜんぜんそんなことない。テレビのCFなんかでも、すごくパクられてる。ピアノやマリンバの単純なメロディを、ほんのわずかな時間ずらして延々と繰り返していく。すると音と音が干渉を起こし、厚いところと薄いところが縞模様のように浮きあがってくる。聴覚的モワレ現象。メロディではなく音のずれを聴く音楽だ。おれの話によく似ている。ストーリーではなくストーリーのずれと言葉の弾みで聞かせる話。
ヒロキ、エリト、シャロン吉村、多田三毅夫、ゼロワン……プレーヤーの名を紙に書き、何度も線を引いたり、潰したりする。おれの知っている情報をすべて一枚の紙に、細かな文字で書きこんでいく。鍋のなかにすべての材料をぶちこんで火にかけるようだった。頭のなかがしだいにどろどろに煮つまっていく。すぐにこたえなどでるわけがない。だが、いつだってこの過程を踏まないと、最初の一歩さえだせないのだった。苦しいけれど、苦しむしかない時間だ。
おれはその夜、『十八人の音楽家のための音楽』を七回繰り返し聴き、ただひたすら考え続けた。四百七十四分間。西一番街にカラスの鳴き声が響き、窓の外の夜が青くなるころ、倒れるように眠りについた。
◆
つぎの日は店開きだけ手伝うと、すぐに池袋の街に飛びだした。取りあえずエリトの店と自宅だけでも見ておこうと思ったのだ。
フィジカル・エリートはシャロン吉村のいう通り、東急ハンズの裏手の川越街道沿いにあった。一階がサイクルショップになった古びた雑居ビルの三階だ。かび臭いエレベーターでのぼると、鋼線いりのガラス扉にはCLOSEDの札がさがっていた。ドアの取っ手にはほこりが溜っている。店のなかをのぞきこんでみた。
スケートボード、BMX、フリスビー、競技用ヨーヨー。西海岸のカラフルなスポーツグッズが狭い店内にびっしりと並べられていた。あちこちにさげられた手描きのPOPで派手好きな店主の趣味がよくわかる。もちろん誰もいなかった。一階に戻り、キャノンデールのマウンテンバイクを組んでいる店の兄ちゃんにきいてみる。
「フィジカル・エリートっていつから閉まっちゃったのかな。おれあそこでBMXのサドル頼んでいたんだけど」
「もう金払ったの」
しゃがみこんだまま兄ちゃんがいった。おれは首を横に振った。
「ならいいじゃん。先月の終わりからずっと閉まってるよ。うちの店のまえにも借金取りがうろうろしてて、商売になんないよ」
エリトの自宅にもいった。東池袋の隣の文京区大塚。護国寺の東側の緑の多い街並みに建っている高級そうなマンションだった。おれはエントランスのまえでなかから住人がでてくるのを待った。しばらくすると、髪を淡い紫に染めた品のいい婆さんが、エレベーターホールを歩いてくる。おれはエントランスに飛びこんだ。
「こんにちは」
明るく挨拶して、オートロックのドアをすれ違う。むこうも笑っていた。おれの爽やかな笑顔の勝利。エレベーターで四階にあがった。406号室。焦茶色のドアのまえに立つ。なかには誰もいない。同じようなドアが並ぶマンションでも、なかに人のいるドアとそうでないドアはなぜかわかるものだ。
おれはさっとドアの周囲を見まわした。ドアのしたの右端には髪の毛が一本、細く裂いたメンディングテープで貼りつけてあった。誰かが開ければ髪が切れて、帰宅したことがわかる。エリトのことは豊島開発にはまだ知られていないから、取り立て屋がやったのだろう。
ヒロキの兄がかなり追いこまれているのは間違いないようだった。
◆
新大塚からの帰り、ウエストゲートパークを通り抜けると懐かしい顔がベンチに並んでいた。猟犬とその粗暴な相棒。クリスマス直前の池袋にはまるで似あわないふたりだった。やつらはおれの顔を見つけると、顔色を変えて早足でむかってくる。逃げようか迷ったが、そんなことをすれば怪しまれるだけ。それで円形広場のまんなかで話しあうはめになった。こんなやつらといっしょのところを、おれのファンが見たらきっと泣くだろう。
「おい、真島。うちのオヤジがおまえを呼んでる。ちょっと顔貸してくれ」
猟犬の運転手がいった。言葉つきは汚いが、ちょっと遠慮しているように聞こえた。不思議だ。
「それは命令、お願い、どっちなんだ」
相棒がまた泡を吹いた。猟犬が視線だけでやつをとめる。さすがに迫力があった。おれはこの猟犬に親しみを感じ始めていた。これも不思議。運転手はいいにくそうにいう。
「まあ、お願いなんだろうな。坊ちゃんをさらったやつらから、昨日の夜電話があった。なぜかわからんが、ヒロキ坊ちゃんはおまえの声を聞きたがっているんだそうだ。今日の三時にまた電話がある。きてくれるか」
もう二時半をすぎていた。さすがにこのふたりも焦るわけだ。ヒロキがそういうならいかないわけにはいかない。
「もちろんだ。案内してくれ」
運転手はうなずくと、はにかむような笑顔を見せた。笑う猟犬。
◆
またほんの数分だけ、メルセデスにのせられた。池袋本町の簡易裁判所近くにある豊島開発の本社ビル。ひっそりと静かで窓のちいさな中層の建物で、周囲の街並みに無理なく溶けこんでいる。通りすがりが見たら地元の建設会社にでもまちがえるだろう。
オフィスビルなのに入口はオートロックになっていた。曇りガラスの自動ドアは防弾仕様なのだろうか。おれは運転手のあとを黙ってついていった。エレベーターは最上階でとまる。ドアが開くと、明かりを抑えた廊下が続いていた。踏み心地のやわらかなカーペット。社長室とプレートの貼られた木目の扉は、運転手が叩くと金属の音がする。
「失礼します。お客人をお連れしました」
さっと一挙動でドアを引くと、室内を見ないように視線を落とし、頭をさげたままドアを押えている。
「どうぞ」
おれにむかってそういった。躾のいい猟犬。おれは室内にはいった。奥の窓際にダブルベッドくらいはありそうな大型デスク、手前にはソファセットがおかれている。八人掛けのソファに座った五人の視線がおれに集中した。知っている顔はシャロン吉村だけだった。残り四人はとてもかたぎとは思えない。視線の痛さが違う。
センターテーブルを見ると、中央に一台の携帯電話が放りだしてあった。コードが二本延びている。一瞬おれに集まった視線は、再び携帯に戻された。
◆
「うちの主人で、豊島開発社長の多田三毅夫です」
シャロン吉村はおれに会釈してそういった。上座のひとり掛けソファに座る多田は小柄な中年男だった。上着を脱ぎ、白いシャツを袖まくりしている。ちいさな頭に、こづくりの造作。靴も腕時計もベルトもちいさく見える。だが、全体の雰囲気は割れたばかりのガラス片のような鋭利な冷たさを感じさせた。この男の指示をミスしたくない、手下たちが必死に走りまわるのがよくわかった。なぜ、あっちの業界の人間は、普通なら抑えているはずの本性を、ああむきだしにできるのだろうか。多田は街のしらみでも見るような目でおれを見る。
「掛けなさい。君がヒロキのただひとりの友達だそうだな。あの子はときどきおかしなことをいう。君と話がしたいそうだ。私からの願いは、なるべく話を引き延ばし、むこうの情報を集めることだ。よろしく頼む」
多田は父親としてひとり息子の心配をしている素振りなど、かけらも見せなかった。それだけいうと、もうおれを無視した。ぼそぼそと小声で隣の年寄りとなにか話している。シャロン吉村はおれと目があうと、あやまるようにゆっくりと視線をさげた。
壁の時計は三時五分まえを指している。おれも黙って携帯電話の鑑賞会に参加した。
◆
三時ちょうど、暖房で汗ばむほど暑い室内に携帯電話の電子音が鳴り響いた。テーブルを囲む一番若い男がテープレコーダーのスイッチを飛びあがるように押し、年寄りが耳にイヤホンを差しこんだ。ふたりとも多田にむかってうなずく。多田はゆっくりと四度目の呼びだし音で携帯を取った。
「もしもし、私だ」
シャロン吉村は心配そうに多田を見つめている。おれたちには電話相手の声は聞こえなかった。商談でもすすめるように多田は冷静に受けこたえしている。金額は、場所は、ブツの状態は? ひどく長い時間がたったようだが、三、四分ではないだろうか。多田がおれを見ていった。
「ああ、そのガキならここにいる。そっちもヒロキと代わってくれ」
おれに携帯がまわされた。多田は年寄りからイヤホンを奪うと、すぐに右耳にはめこんだ。おれは携帯のしたに開いたシャープペンシルの刺し傷みたいな穴にむかっていった。
「ヒロキか。おれ、マコトだ。元気でやってるか」
「うん、だいじょうぶ」
雑音混じりのヒロキの声が聞こえた。バックにはカチカチという計数機の音がする。わずかな間をおいてヒロキは突然叫びだした。
「ワー、ワー、ワー。なんか薬が切れちゃって、ちょっとおかしいんだ」
「どうした?」
おれはあわてて叫んだ。
「ワー、ワー。なんかお腹すいちゃった。ねえ、マコト、これが済んだら食べにいこう」
興奮したヒロキはわけがわからないことを、ひどい早口でしゃべりだした。
「やっぱさ、小僧寿司でハマチ食べて、ピザーラでイタリアンバジル食べて、マクドナルドでフィレオフィッシュ食べて、ミスタードーナツでエンジェルショコラがいいな」
ひどい早口はそのまま、ヒロキは必死にしゃべっている。やつの言葉の途中でおれは稲妻に打たれたように思いだした。いつかヒロキが話していた数字の記憶法! やつはおかしな振りをして、なにかの数字をおれに伝えようとしている。おれだけにわかる数のメッセージだ。多田に気づかれないように、おれは目の色を隠す。焦った振りをしていった。
「おまえ、ほんとにだいじょうぶか」
「ワー・コゾウ・ピザーラ・マック・ミスド。ワー・コゾウ・ピザーラ・マック……」
会話の途中で、いきなりぷつりと携帯が切れてしまう。多田がイヤホンをはずすとあきれた顔でおれにいった。
「いったい、ありゃあなんなんだ」
おどおどとヒロキの父親から目をそらせ、おれはわけがわからないといった。ヒロキは薬が切れると、ときどきあんなふうにおかしくなると。シャロン吉村はソファに座ったまま手の甲が真っ白になるほどこぶしを握りしめている。
昨日の夜聞いた話を思いだした。ヒロキはお手伝いがつくる家庭料理が嫌いで、母親のでなければ、毎晩でも外へファストフードを食べにでていたという。その悲しい晩飯が、ヒロキオリジナルの記憶法の元になったのだ。なにが幸運でなにが不運なのか、おれたちにはほとんど判断などできない。
蜂の巣をつついたような騒ぎの社長室を、おれはぼんやりと見渡していた。部屋に戻ればコラムの取材用にヒロキの話を録音したテープがある。一刻も早くこの部屋をでたかったが、おれは凡庸に指示を待っていた。しばらくして多田がおれがまだ室内に残っていることに気づいた。礼もいわずに、あごの先を出口にしゃくる。
手下のひとりがおれをていねいにつまみだしてくれた。川越街道に戻ると、おれはすぐにタクシーを停めた。歩くのも電車にのるのも嫌だった。なるべく頭を揺らしたくなかったのだ。
ワー・コゾウ・ピザーラ・マック・ミスド。
おれの頭のなかを数の呪文が駆けまわっていた。
◆
西一番街の入口のちゃちなゲートでタクシーをおりると、早足でうちの店にむかった。店のまえにタクシーをのりつける勇気など、おれにはない。おふくろにいわせるとタクシーにのるのは二十年早いそうだ。
おれは店の横の階段を駆けのぼった。四畳半の机にむかい、ウォークマンと何本かたまった取材テープを引きだしからひっぱりだす。おれはヒロキのテープを何度か巻き戻し、数字とファストフードのチェーン店の対照表をつくった。
最初の「ワー」はわからない。だが、小僧寿司は5、ピザーラは4、マクドナルドは1、ミスタードーナツは6に対応していた。
わ5416!
紙に書いてみるとすぐにわかった。クルマのナンバープレートだ。ラッキーなことに「わ」で始まるのは、レンタカーの番号だった。おれは鍵をかけた一番うえの引きだしから、シャロン吉村の通帳を取った。部屋を飛びだし、また階段を駆けおりる。
うちの果物屋の店先で白いダウンジャケットを着たおふくろが、あきれておれを見送った。
◆
またタクシーをとめる。いき先は駅の反対側、東池袋のデニーズ。ゼロワンは今日もあそこに座り、聖なるメッセージを待っているはずだった。タクシーはJRの線路をまたぐ陸橋にむかってゆるやかな坂をのぼった。窓越しにソープランドと映画の看板が見える。陸橋のうえに広がるのは砕いた氷を敷きつめた冬空。陸橋を越えると川越街道に合流し、東口の五差路にでた。春日通りへ曲がったタクシーはNTTのまえでとまる。
おれは料金を払うと、通りのまんなかを突っきり、ファミレスの店内にはいっていった。窓際の一番奥、特等席のテーブルにゼロワンが座っている。おれを見るとかすかにほほえんだ。正面に座ると、やつはいった。
「待っていた。好きなものを頼むといい。仕事でくるやつにはおれのおごりだ」
すぐにウエイトレスがやってくる。真冬でも薄着。ホットココアを注文した。
「この番号のレンタカーを探している。なんでもいいから情報をくれ」
ノートの切れ端をゼロワンに渡した。やつは受けとりちらりと見る。
「金は?」
シャロン吉村の通帳をテーブルに叩きつけた。
「あとでいくらでもやる。急いでくれ」
それだけいって通帳をしまい、席を立とうとした。ゼロワンは首を横に振る。
「待ってろ」
「すぐにわかるのか」
驚いていった。レンタカー会社のコンピュータにもぐりこむには、時間がかかるのだろうと思っていた。ゼロワンはノートブックパソコンの片方のキーボードを叩きながら、例のガス漏れみたいな声でいう。ダース・ベイダーか、こいつ。
「おまえはコンピュータのことわかってないな。金になりそうな情報源にはまえもって侵入して、オペレーションシステムのマスターコードを手にいれておくのさ。なぜ、おれが年中こんなものをパチパチやってると思う。ハッキングは準備に時間がかかるんだ。結果がでるのはすぐだ」
おれはマックをワープロ代わりに使っているだけだった。ハッキングなんて考えたこともない。
「なぜ、ヒロキが誘拐されるとわかったんだ」
「危険の可能性があるといったんだ。サービスで教えてやるが、吉村秀人の調査を街金と商工ローンのやつらに連名で頼まれたのさ。ヒロキの兄は頭のてっぺんまで腐った金に埋まっている。思いきり手を伸ばしてようやく、泥のうえに手がだせるくらいのもんだ。手が届く金もちは、母親のシャロン吉村と……」
ゼロワンは灰色ガラスの目を退屈そうに半分閉じて、さらにキーボードを叩いた。
「……豊島開発の多田くらいのものだ。あいつはどうしようもないバカだから、いちかばちかの一発勝負をやるかもしれない。それで可能性があるといったのさ」
そういうとゼロワンはおれのほうに、まばゆい液晶画面をまわした。白いウインドウにびっしりと細かな表組が浮かんでいる。そのうちの一行だけがチカチカと白黒の反転を繰り返していた。城東レンタリース池袋東口店、ミツビシデリカ・スペースギア、平成十年製、パールホワイト、ナンバーは練馬27 わ54─16。先週の金曜日からレンタルにでていた。テーブルの紙ナプキンを一枚取りメモする。ゼロワンはいった。
「だから、すぐにわかるといったろう」
礼をいって店をでた。こんなに腕のいいやつが、探し続けてもなかなか見つからない。頭蓋骨にアンテナを立てるのも無理はなかった。魂のメッセージを受けとるのは、ハッキングなどよりずっとむずかしいみたいだ。
◆
サンシャイン六十階通りを戻りながら、池袋のGボーイズの王様・安藤崇にPHSをいれた。久しぶりだった。このところストリートに大事件はない。取次がでて、すぐに電話がまわされる。
「ああ、マコトか。今月号のコラム読んだぞ。おまえは汚いものを美しく書きすぎる癖があるな」
どうでもいいけれどといいたげなクールな声。
「タカシのこともな」
やつは鼻で笑った。サンシャイン通り内戦を書いたコラムで、池袋ではタカシの人気はカリスマ的になっていた。女性ファン急増。まあ美容師なんかと違ってやつは元々カリスマなんだが。おれはいった。
「頼みがある。すぐに会えないか」
「豊島開発絡みなのか」
そうだといった。なぜわかったんだろうか。
「この二日間くらい、豊島開発と関西系のやつらが、あちこちでもめ事を起こしてる。なんかあると、マコトはいつも顔だしてるな」
トラブルがおれを呼ぶのだといった。二十分後、ウエストゲートパークで待ちあわせを約束して、PHSを切った。なにげなく足下を見る。サンシャイン六十階通りの敷石にはチューインガムが無数に落ちて、灰色の水玉になっている。大勢の人間に踏みならされて、あとでついたというより、最初から計算されてプリントされた模様のようだった。通行人は誰も気にしていない。これはこれで、けっこうきれいだった。
汚いものを美しく書きすぎる癖か。いいんだ、どうせおれは甘いのだ。
◆
円形広場の金属ベンチでタカシを待っていると、PHSが鳴った。耳を寄せる。携帯の雑音は北風みたいだ。
「真島さん、お金の受け渡しが決まったわ」
シャロン吉村が息をひそめるようにいった。まだ、豊島開発の本社ビルにいるのだろうか。続けてくれといった。
「二十四日夕方の四時、西口のターミナルにお金を積んだクルマを待機させておくことになった。細かな場所の指定はそのときまた電話するって」
「ヒロキの兄貴から、なにか連絡は」
「ないわ。そちらはなにかわかったの」
「まあ、すこし……あの金は使わせてもらっていいかな」
どこから情報が漏れるかはわからない。レンタカーの一件は伏せておくことにした。
「ええ、ヒロキが無事に戻って、エリトが逃げられるなら、全部使ってください」
シャロン吉村の声は必死だった。おれは、ともかくやってみるといった。うまくいくかどうかは、ぜんぜんわからない。おれが多田より一歩有利なのは、ヒロキがあの数を教えてくれたからにすぎない。
クリスマスを直前に控えて華やいだ女たちが、あちこちのデパートにむかいさっさと通りすぎていく。おれの頭のなかには最悪の想像が広がっていた。豊島開発の猟犬たちがヒロキの目のまえで、兄と悪い仲間を殺していくのだ。ひとり、ふたり、さんにん……。
ヒロキの計数機は死体もカウントするだろうか。
◆
時間ちょうどに、ツインタワー1号・2号をボディガードに引きつれて、タカシが東武デパート口からやってきた。黒のダウンヴェストに黒のフリースの長袖、黒のストレッチジーンズに黒のトレーニングシューズ。深くかぶったキャップも黒。真冬の路上より一段と低温の空気が、しんと静まってタカシのまわりを取りまいている。お忍びで日本に遊びにきた中量級の世界チャンピオンのようだった。普通に歩いて広場を渡ってくるだけなのに、細い脚はでたらめなバネを感じさせる。
とろりと無色透明な液体が、つぎの瞬間いきなり爆発する。そんな絵を考えた。ニトログリセリンのようなストリートの王様・安藤崇。やつの一声で数千のGボーイズは、沈んでいく太陽さえ押しあげるだろう。おれのとなりに座ると、涼しい顔でタカシはいった。ツインタワーはベンチの両わきに、レインボーブリッジの橋脚のようにそびえている。
「マコトからの頼み事なんて、去年の夏以来だな。あまりひとりで抱えこまないほうがいいぞ」
タカシは笑顔を見せた。ヒロキのあの超然とした笑いによく似ている。おれはいった。
「四十八時間だけ、Gボーイズの力を貸してくれないか」
おもしろそうな顔をする。おれはヒロキの誘拐事件の顛末を、自分の頭を整理しながら話し始めた。注意深く耳をかたむけるタカシの空気が、どんどん冷えこんでいく。熱狂するとクールになるたちなのだ。
◆
冬の日の引き足は早い。最初はおずおずと気弱に光っていた池袋の街のネオンサインも、日が沈んで十分もすると夜空を圧して輝き始める。暗さに目が慣れると、昼間より明るく感じられるくらいだ。おれたちの話しあいには、小一時間かかった。
おれとタカシがだした結論はこうだ。池袋の街中のすべてのガキに情報を流す。エリトが借りたレンタカーには百万の懸賞をつける。クルマ二台分の行動部隊を用意し、発見情報がはいればすぐに動けるようにしておく。Gボーイズへの謝礼は、シャロン吉村の通帳の半分だ。
夜八時、西一番街の店に戻った。年の瀬のかきいれ時になにを遊んでるんだって顔をして、おふくろはおれを見た。マスクメロンがいかれるまえに、すべて売りきる。それ以外はすべて遊びなのだ。その通りかもしれない。おれは店にでたが、さっそくつり銭を間違えた。睡眠不足のうえにめずらしく頭を使ったので、くたくただったのだ。カリスマ店番への道は遠い。
◆
八時間寝て、つぎの朝復活した。二十三日は祝日。やることのなくなったおれは、そのあたたかな一日、PHSの呼びだし音にだけ耳を澄ませ、果物を売り続けた。店先のCDラジカセには『十八人の音楽家のための音楽』をいれておく。おふくろはおれがおかしくなったんじゃないかという顔をしていた。思いいれや感情を排した音楽は、裏ビデオ屋やファッションヘルスや怪しげなパブが並ぶこの街には、けっこうしっくりくると思うのだが。
その日、PHSが鳴ったのは二度。どちらもシャロン吉村からだった。おれは打てる手は打ったといって電話を切った。多田は組織の人間を総動員して池袋駅周辺に網を張るそうだ。Gボーイズと豊島開発、どっちに先に見つかるかで、ヒロキの兄貴の運命は決まる。どうしようもないバカだそうだから、今ごろは黄金の夢でも見ているのだろう。
その夜は服を着たまま眠った。おれは夢は見なかった。
◆
クリスマスイブ、空は一転して荒れ模様。朝から夕暮れのように暗い日だった。おれは開店直後の銀行にはいり、シャロン吉村の通帳を解約した。六百数十万の金を紙袋にいれて小脇に抱える。帰り道、心配していたほどには誰もおれに注意を払わなかった。ひじのすり切れたボマージャケットに中古のジーンズ。金などもっていそうには見えない若造なんだから、あたりまえ。
自分の部屋に戻り、金を分けていった。懸賞金、Gボーイズの取り分、ゼロワンへの支払い。それでも三分の一はあまる。残りをまた紙袋に戻した。もう眠ってはいられない。身の代金の受け渡し時間まで、七時間を切っている。おれのPHSはなかなか鳴らなかった。
◆
悲鳴をあげそうに焦りながら、いつものように十一時に店をだした。すぐに昼飯の時間になる。うちではおふくろと交代でうえの台所で飯を食う。もう見つからないかもしれない、半分諦めながら午後一時すぎ味のしない昼飯をつついていると、ちゃぶ台のうえのPHSが鳴りだした。すぐに取る。
「西池袋二丁目。自由学園と婦人之友社のあいだの通りを走ってる。上り屋敷の方向だ。すぐに来い。おれたちはクルマ二台で、スペースギアをはさんでる」
箸を放り投げて、階段を駆けおりた。例の紙袋とPHSは離さずにもっていく。店のまえに停めっぱなしにしておいたダットサンに飛びのると、おれはギアをローに叩きこんだ。通りの拡声器からは、シンセサイザーで下品にアレンジした『アヴェ・マリア』が降っている。
◆
自由学園は池袋警察署の先のどんづまりの道をはいってすぐだ。西一番街からは八百メートルほどしか離れていない。おれはどこかにいるパトカーや豊島開発のクルマの注意を引かない最大限のスピードで、池袋の街を駆けた。三分ちょうどで角に自由学園がある交差点に到着する。上り屋敷公園のほうへ右折。五十メートルほど走ると右手に公園の緑が見えてきた。
公園脇の通りには三台のクルマが鼻先をくっつけるようにとまっている。真んなかが昆虫のようなデザインの白いスペースギアだった。窓にはスモークフィルムが貼られ、内部は見えない。最後尾のシェビーヴァンのあとにダットサンをつけた。おれがクルマをとめるのとほとんど同時に、先頭のパジェロから女がひとりおりてくる。だぶだぶの軍用フィールドジャケットに黒革のパンツ。ひっつめにした茶髪。ちょっときついが整った顔立ちのGガールだった。彼女はにっこりと笑うと、スペースギアのフロントウインドーにスプレー缶をむけた。長い刀のようにペンキの霧が伸びて、みるみるウインドーを真っ白に塗りこめていく。
シェビーヴァンからは男がふたり滑りだし、スプレーの白い攻撃にあわせてナイフでスペースギアの後輪を切り裂いた。ぷつりと繊維が切れる音はおれの車内でも聞こえた。続いて爆発的に空気が漏れる音がする。スペースギアの車体はがくんとおおきく尻を落とし、一度だけバウンドした。
おれはドアを開け、通りにおりた。運転手をひとり残し、シェビーヴァンとパジェロからおりたGボーイズが、すでに八人がかりでスペースギアを囲んでいる。タカシがレンタカーの横に立っていう。
「おまえらはもう逃げられない。ドアを開けておりてこい。豊島開発でなく、おれたちの網にかかってよかったな。別におまえらをどうこうしようというわけじゃない」
タカシの話を聞こうと窓がすこし開いた。おれはタカシのとなりに立っていった。
「そこに吉村秀人という男がいるな。それに共犯の人間も。多田の組織はおまえらを殺すつもりだ。ヒロキを解放すれば、自由に逃がしてやる。急ぐんだ。もうすぐ、警察か多田の手下がやってくる。やつらは池袋中にびっしり網をかけているぞ」
スペースギアの横のスライドドアが開いて、遊び人風の男がふたり飛びだしてきた。殺すという言葉がきいたようだ。ようやく事態がのみこめたらしい。頭の悪そうな金髪のロングヘアと荒事の好きそうながっしりした坊主頭。Gボーイズがふたりを押えた。タカシがいう。
「いいんだ。いかせろ」
男たちは早足で公園のなかに消えていった。半開きのスライドドアから三台のマウンテンバイクが見えた。クルマを捨て自転車で逃げるつもりだったのだろうか。池袋の裏町なら悪いアイディアじゃない。
「本当に逃げてもいいのか」
薄く開いた窓から、エリトの細い声がした。タカシがクールにいう。
「ああ、どうせそのクルマはもう動かない。でてきて好きにしろよ」
おれは叫んだ。
「ヒロキ、そこにいるのか。だいじょぶか」
運転席のドアが開いた。なかからいつかの写真より、ぐっとやつれた男が出てくる。エリトは派手な色あいのウインドブレーカーにシャリパン姿だが、二十代後半より三十代後半に見えた。助手席には安全ベルトを斜めにかけたヒロキの顔がのぞいていた。カチカチと計数機を叩く懐かしい音がする。ヒロキは顔いっぱいに笑っていった。
「コゾウ・ピザーラ・マック・ミスド。マコトならきっとわかってくれると思った」
とんでもない学習障害児。胸がつまって、気のきいた科白がでてこなかった。ちょっとくやしい。おれは手にもった紙袋をエリトの胸に投げてやった。
「そこに二百万とすこしはいってる。おれのじゃなく、あんたの母親の金だ。シャロン吉村はあんたが、多田につかまって半殺しにされるのを心配していた。その金をもって、どこか好きなところに逃げるといい」
吉村秀人は背を丸めしわくちゃの紙袋を抱き締めた。反省しているようにも見えたが、あまり信用できない。おれなら絶対自分の金をこいつには貸さないだろう。
◆
周囲に人が集まり始めたので、おれたちはすぐにその場を離れた。現場には修理代がかさむデリカ・スペースギアだけが残っている。いつもながらGボーイズの鮮やかな手並みに感心した。タカシとはその夜、池袋のクラブで会う約束をした。Gボーイズのクルマ二台は交差点をすぎるたびに、一台ずつ消えていった。最後におれのダットサンだけになる。ヒロキはカチカチと計数機を叩きながら、となりの助手席に座り超然とした笑いを浮かべ、フロントウインドーを見つめている。
クリスマスイブの池袋を、豊島開発めざしてゆっくりと走った。どの通りにもやけになったように『ジングルベル』が鳴り響き、赤いリボンと金箔でつくった鐘がさがっている。池袋本町に着くと、多田の会社の本社ビルの裏手にダットサンをとめた。ヒロキがぽつりといった。
「ねえ、マコト……マコトはぼくを好きになっちゃいけないよ。いじめなくちゃだめだよ。ぼくが好きになる人は、みんなぼくにひどいことをする。ぼくはエリト兄ちゃんも、パパも大好きだったんだ。だから、ぼくは人を好きにならないし、人からも好かれちゃいけないんだ」
そういうとヒロキはためらうように力なく計数機を打った。
「マコトがぼくを好きになるのをやめなきゃ、ぼくはおかしくなるよ」
おれから目をそらし、正面に建つ防弾ガラスのはまった建物にむかって、ぼろぼろと涙を落とす。誰にも傷つけさせないというあの遠い笑いを浮かべたまま、ヒロキは声を殺して泣いていた。
おれはシートをずれて、十歳の少年を抱き締めた。薄いけれど熱い身体。ヒロキの両手から助手席のシートに計数機が転げ落ちた。いっしょにすこしだけ泣いた。それ以外になにができる。ヒロキはあの父親とそいつが支配するジャングルとともに生きていくしかないのだ。おれはいった。
「わかったよ、ヒロキ。おまえのことは好きにも嫌いにもならない。その代わり、ずっといっしょにいてやる。ずっといっしょに遊ぼうな」
ヒロキは泣きながらうなずいた。おれは計数機を拾い、ちいさな手に握らせてやった。ドアを開けるとヒロキは真冬の路上におりる。ヘルメットのストラップを揺らせたまま、自分のつま先を見つめていった。
「あとでマコトに電話してもいいかな」
うなずいて、きいてみる。
「番号覚えてるか」
ぱっとヒロキの表情が輝いた。でたらめな早口で歌うようにいう。
「ケンタ・スカイラーク・ケンタ・デニーズ・デニーズ・ヨシノヤ・マック・スカイラーク・ミスド・ヨシノヤ・ガスト。ぼくは一度覚えた数は一生忘れないよ」
おれはゆっくりとクルマをだした。百メートルほど離れてとめる。ヒロキは街路樹の陰からまだこっちを見ている。PHSを取りだし、シャロン吉村にかけた。ビルの裏にヒロキをおろした。エリトには金を渡して逃がした。それだけいって、すぐに切る。
シャロン吉村が通用口を駆けおりて、ぽつりと道のうえに立つヒロキを抱き締めるのを確認して、おれはその場を離れた。
◆
イブの夜、おれは改心したスクルージになったような気がした。なにせ手元の金がどんどん消えていく。夜十一時に店を閉めると、凍えるような寒さのなか東池袋のデニーズにいった。今度は徒歩でタクシーは使わない。ゼロワンにメリークリスマスといい、シャロン吉村の積立の八カ月分のギャラを渡した。やつはクリスマスの夜も、ひとりファミレスのテーブルで聖なるメッセージを待ち続けるそうだ。
それから真夜中すこしまえ、久々のラスタ・ラブに顔をだした。コンクリートの真っ暗な箱のなかは落書きがさらにひどくなっている。ブラックライトを受けて蛍が飛んだ跡のようにグラフィティが躍っていた。おれは奥のVIPルームでタカシに礼をいい、約束の金をテーブルにおいた。タカシが指を弾くと取り巻きのひとりが金をもってどこかに消える。ヒロキのことを話すと、タカシはニヤリと笑っていった。
「本社ビルにおいてきたのか。多田のオヤジも驚いたろうな。それにしても、マコト、あのヒロキってガキ、なにか変なこといってたろう。マックとかミスドとか、あれはいったいなんなんだ」
笑って秘密だといった。それは数の秘密だ。ヒロキやゼロワンのいう通り、世界の一部は、実際に数でできているのかもしれない。おれ自身はそんなに深く秘密を知りたいとは思わないけれど。
その夜はタカシとその他Gボーイズといっしょに朝まで飲んだ。こんなにいい男がふたりで飲んでいるんだから、逆ナンパなんてうるさいくらい。なぜかどの女もタカシのほうへいくのが不思議だが、おれはぜんぜんめげなかった。おれの魅力は理解するのに、ちょっとばかり時間がかかるのだ。
シャロン吉村とはまた一度食事をした。おれは学費積立をすべて使ってしまったことを謝った。ヒロキの母は笑って礼をいう。余裕。やっぱり金銭感覚がおれなんかとは違うのだろう。たまに店先のテレビを見ていると、例の離婚バラエティで若い夫婦を叱っている。自分の離婚経験を話すときなど、うっすらと涙ぐんだりするのだが、どこまでが演技なのかおれにはわからない。
ヒロキとはその年、結局会えなかった。電話ではちょくちょく話したが、多田は用心してヒロキを表にださなかったそうだ。ヒロキがウエストゲートパークにあらわれたのは、新年も十日をすぎたころだった。冬の日ざしであたたまったベンチでCDウォークマンを聞いていると、円形広場の反対側にいきなりやつがあらわれる。
ヘルメットにダウンジャケットとジーンズ、ひじとひざにはパッドつきの完全防備。その日はインラインスケートをはいていないから、薄く張った氷を渡るように小刻みに足を運び、ヒロキは広場を越えてくる。蜜蜂の羽ばたきくらいの速さで計数機を叩いているようだった。
穏やかに晴れた一月の空のした、誰かがゆっくりと、だが着実に自分のほうにむかってくるのを待つ十分間。そんな時間のすごしかたも悪くない。
[#改ページ]
銀 十 字
暗い夜道を歩いていると、いきなりうしろから一撃をくらう。
殴られたあとごていねいに突き飛ばされて、目のまえにぐんぐん迫ってくるのは、タバコの吸い殻や空き缶の転がる池袋の薄汚れたアスファルトだ。なにか叫ぼうと思っても、のどから漏れるのはヒーヒーと窒息しそうな音ばかり。早春の湿った道端へじかに手をついて路地の先を見あげると、バイクの赤いテールランプが角を曲がり消えていく。
気がつくと肩にさげていた海外旅行みやげのショルダーバッグも消えている。財布も家の鍵もはいったままだ。あんたはしばらく呆然として誰もいない夜道を見つめているだろう。昼間は五月のようにあたたかかったくせに、日が落ちて急に冷えこんで、マンションや建売住宅の並ぶ路地は、ぼんやりと白くかすみに沈んでいる。光りの繭をかぶった街灯が通りの両側に規則ただしく続き、かよい慣れた道が突然見知らぬ顔をむきだしにする。スプリングコートを通して尻からのぼった冷気が、背骨をじわじわ凍らせていく。
なぜ、どの家の玄関もこんなに無関心なのだろうか。
なぜ、自分がこんな目に遭わなくてはならなかったのか。
第一、犯人の顔も服装も、うしろ姿さえ見ていないのだ。聞こえたのは囁くように近づいてくるバイクのエンジン音だけ。感じたのは左肩にさげたストラップをつかむ誰かの手の荒々しい動きだけ。警察に話すことはなにもないし、いったい誰を憎めばいいのかさえわからない。
そうやってあんたは顔のない誰かの被害者になる。豊島区の中部から東部にかけて、年明けから連続する引ったくり事件の十数人目の被害者だ。それでも盗まれたのが金だけなら運が悪かったで済むだろう。
だが、それが金では買えないものだったらどうする?
大切な人の、金には代えられない大切ななにかなら。それなら、誰だって犯人を追いたくなる。手がかりのない、目撃者のいない、顔のない犯人をとっつかまえたくなるだろう。
◆
サクラはとうに散っているがまだ肌寒い四月のなかば、おれはいつものように午前十一時にのろのろと店を開けていた。池袋西一番街のちっぽけな果物屋だ。この季節、商いのメインは砂鉄のようにうぶ毛を立てた水蜜桃で、味も値段も利幅も文句なしだった。薄皮を指の腹で押してまわる悪ガキがいるけれど、そんなときは親の目を盗んでげんこつの角で頭をかするように殴ってやる。音はしないけどこれがものすごく痛いんだ。おふくろにやられて、おれはよく覚えている。
モモとイチゴとバナナを並べ、マスクメロンの網目にたまったほこりをはたきで通りへ飛ばしていると、店先の歩道にジジイがふたり立っているのが見えた。年は七十くらいか。裏ものを貸すので有名な個室ビデオの蛍光オレンジの看板を背景に、しょぼいふたり組は池袋の街から浮いていた。
年寄りのひとりはおれより背が高く、ひどく痩せていて、しわだらけの肌が骨に張りついたような顔をしている。薄く粘土をかぶせた復元途上の頭蓋骨みたいだ。若いころはけっこうハンサムで通っていたのではないだろうか。目元がクリント・イーストウッドにちょっと似ていた。編みあげのブーツにニッカーボッカー、うえはひび割れた時代ものの革ジャンだ。
もうひとりは蟹みたいに横につぶれた体格で、金歯の光る下品な笑いを浮かべ、襟にボアのついたナイロンジャンパーを着ていた。肉体労働者風。テニスボールでも押しこんだように両肩がふくらんで、みっしりと肉がつまっている。頭ひとつとなりのジジイより背が低く、横にポケットのついただぶだぶの作業ズボンをはいていても、たくましいO脚とがに股は隠せないようだった。おふくろの知りあいだろうか。おれには五十すぎの友人はいない。
でこぼこコンビは、商売ものを並べるおれの動きを、棒をのんだように突っ立ったまま目で追っていた。どうやらおふくろにではなく、おれに用があるらしい。焦ることなく三十分かけて店を開き、ひと息ついていると、背の高いジジイが店先にやってきた。
「あんた、真島誠さんかい?」
じっと探るような目は動かない。そうだといった。
「頼みがあるんだが、話を聞いてもらえないか」
姿勢に負けないほどジジイの声はしっかりしていた。
「知らない顔だけど、誰かに紹介でもされたの」
「そうだ。羽沢辰樹に聞いてきた」
去年の姫の事件を思いだす。羽沢辰樹は関東賛和会羽沢組の組長で、池袋の裏の世界のトップスリーの権力者のひとり。
「そっちの世界の話なら聞くつもりはないよ」
とてもヤクザには見えないジジイにそういった。あっちの世界も不景気だそうだから、年寄りの兵隊はこんなうらぶれた格好をしているのかもしれない。ジジイは顔を崩して笑った。もとから深いしわが骨まで届きそうに深くなる。
「心配せんでいい。羽沢とは士官学校の同期だ。わしらはヤクザなどとはなんの関係もない。話を聞いてもらえるかな」
背の高いジジイは感情の読めない目で見おろしてきた。哀願しようとも、気にいられようともしない目。長いあいだ川底で磨かれ、角を落とした小石をはめこんだような目だった。冷たく澄んで、一点の光りを秘めている。
「いいよ。ここじゃなんだから、西口公園にいこう」
おれはそのジジイのまっすぐな視線がなぜか気になった。池袋の街をうろつくガキどもの日なたの泥水のような目ばかり見ているせいかもしれない。
◆
春のウエストゲートパークはのどかなものだった。ソメイヨシノもケヤキも、握りしめたら手が濡れそうな若葉をつけて、公園の空に腕を広げている。昼休みにはすこし間があるから、サラリーマンやOLの姿はすくなかった。目にやかましいガングロ女部族や化粧したナンパ師の影もない。やつらは夜行性。おれたちは日ざしでやわになった金属製ベンチに腰をおろす。石畳の円形広場のむこうに、池袋副都心のビル街が垂直に伸びていた。陽気のせいか東武百貨店のハーフミラーの壁面さえ、ゼリーのようにたわんでなだれ落ちそうだ。背の高いジジイがぼそりという。
「わしの名は有賀喜代治《ありがきよじ》、こいつが宮下鉄太郎《みやしたてつたろう》」
とがったあごを横に座るジジイにしゃくった。一キロ先からでもわかる金歯を盛大に光らせて宮下というジジイが挨拶する。
「おう、よろしくな。にいちゃんなんか若いから、そのへんのねえちゃんと毎日ねちりんこしてんじゃろ。まあ、立ちのよさなら、おれもまだ負けんぞ」
あきれたエロジジイ。喜代治が無表情につけ加える。
「こいつのあだ名はシモの鉄という。なにを考えるのでも、一度下半身を通らないとつぎにすすめんようだ。気にせんでくれ」
どうやら新種の老人性痴呆症のようだった。鉄はむきだしたままの金歯が乾いたのか、にやにやと笑いながら舌の先で前歯を濡らした。
「自分だけいい格好をすな。喜代治も、まち子さんに惚れておるのはいっしょじゃろう。おまえもひとり抜け駆けして、ねちりんこしたいに決まっとる」
話がぜんぜんわからなかった。おれは先にすすむように、座っていても背が高いジジイに目で合図した。いまいましげに喜代治はいう。
「あんた、このあたりで起きてる連続引ったくり事件を知らんか」
知っているといった。おれのうちから歩いて五分足らずの西口公園までに、「暗い夜道と肩かけ注意!」と書かれた池袋警察署の立て看板が二枚、電信柱にとめてある。
それは年明けからの四カ月で十三件連続した強盗事件だった。女性がひとりきりで人通りのすくない夜の路地を歩いていると、ふたりのりのバイクが近づいてくる。追い越しざまにバイクのうしろに座った男が手を伸ばし、肩からさげたバッグを奪っていく。抵抗するようなら、顔面を殴ったり、腹を蹴りあげたりするという。獲物だけ奪うと、バイクはそのまま路地を逃走していく。
盗難バイクはたいてい翌日に数キロ離れた場所で見つかるそうだ。もちろん犯人は残っていない。通り魔的な犯行で、目撃証言はすくないという。池袋の街の噂じゃ、よほどのへまをやらかさなきゃ、そいつらは捕まらないんじゃないかということだ。
「わしらのホームに住んでる福田まち子さんが、引ったくりに遭ったのは今からひと月近くまえの三月なかばのことじゃった。巣鴨高岩寺参道の脇道で、まち子さんはうしろから突き飛ばされ、手にさげていた巾着を盗まれた。財布には一万円札が二枚はいっていた」
鉄も黙ってうなずいていた。春風がケヤキの梢を揺すると、砂を落とすようなさらさらと心地いい音が降ってくる。
「だが、金のことなぞどうでもいい。まち子さんは転んで手をつくとき、手首の骨を粉砕骨折しなすった。打ちつけた腰骨にもひびがはいっておる。もともと骨粗鬆症のけがあったようだ。年を取るとわずかなことが命取りになる。今、まち子さんは寝たきりになるか、ならんかの境でベッドにいる」
鉄が感に堪えぬようにいった。
「あのオッパイが寝たきりになるのは、もったいないのう」
おれがこの下ネタジジイと池袋の街を歩くはめになるのだろうか。目のまえが暗くなった。数すくないファンがさらに減りそうだ。喜代治の話は続いている。
◆
三人が暮らしているのは東武東上線北池袋駅前にある老人ホーム「白茅《ちがや》の里」だという。福田まち子というのは鉄の言葉通りなら、グラマーで巨乳のホームのマドンナ的存在らしい。その老人ホームの敷地内には、軽自動車がようやく通れるくらいの道を一本へだて、老人病院が建っているそうだ。
「わしらはその道を『三途の径《こみち》』と呼んどる。一度渡ったら、めったに帰れん道じゃ。まち子さんが再びホームに戻り、わしらと池袋の街を散歩できるようになるかはわからん。そこで、真島さん、あんたに頼みがある」
くぼんだ目に力をためて喜代治がひと息ついた。となりの鉄も口を引き結んで金歯を隠し、おれを見つめている。
「引ったくりの犯人を探すために力を貸してくれんか。警察はあてにならん」
ようやく息をしているだけの年寄りがふたり。犯人を見つけだして、いったいどうしようというのか。
「あんたは池袋の青少年には顔が広いと聞いておる。この鉄とは違って、目から鼻へ抜ける回転の速さもたいしたものだとな」
「ふーん」
思わず鼻息が漏れてしまう。あの鷲鼻の組長がそんなことをいうとはとても思えなかった。怪しい。
「そんなにおれをもちあげて、どうしようっていうんだ。なにか、変な狙いでもあるんじゃないの」
そういうと喜代治は恥ずかしそうに、ひざに置いた自分の手を見て笑った。もみくちゃにした油紙で包んだような染みと傷だらけの手。頭ではなく身体を使って生きてきた人間の手だった。視線をあげて、まっすぐにおれを見ていう。
「あんたのいう通りだ。正直にいわんといかんな。わしらには金がない。年金はわしも鉄も月に六万足らず。毎月赤字の垂れ流しだ。あんたに仕事を頼んでも、払う金がない。羽沢のようにぽんと札束を切りたいところだが、そんな芸当はできんのだ」
鉄が心配そうにつけ加えた。
「なあ、喜代治、月に三千円の二十四回払いというのはどうじゃろか。流行りの月賦という、あれじゃ」
働き続けてだか、ねちりんこし続けてかはわからないが、七十年の荒波を越えてきた年寄りが、小銭さえゆるがせにできず、目のまえで金をもたない自分を恥じている。ちいさくなったふたりを見て、なぜかおれは猛烈に腹がたってきた。五十年後の自分を見てしまったせいかもしれない。
「いいよ」
喜代治と鉄は驚いた顔をした。おれはそっぽをむいて、早口で続けた。
「金はいいんだ。今までだって、金のために動いてきたわけじゃない。だから、おれのまえで、みじめったらしい顔をするのはやめてくれ」
お人好しかもしれないが、それで結構。どうせ貧乏人は互いに盗みあい、助けあうものだ。別に変わりはしない。盗もうが助けようが、どっちにしても貧乏なままなのだから。金がからまないほうが、うまくいかなくてもいいから楽だとは黙っていた。鉄が愉快そうにいった。
「おう、済まん。娘がいたら嫁にやりたいくらいじゃ。あんた、きっぷがいいのう」
この金歯の娘なら、今ごろは五十近くだろう。とてもじゃないが、結婚は願いさげだった。喜代治がいう。
「金はやれんが、あんたには借りができた。それは忘れんでくれ。わしらはできる限りのことはする」
それからじっとおれを見た。犯人の臭いを覚える警察犬のような目だった。ありがとうといって、三十分話を聞いた。手がかりなどひとつもない、かすみのような話ばかりだった。おれは顔にはださなかったが、内心頭を抱えていた。年寄りふたり組はいうだけいうと気持ちが軽くなったのか、意気揚々と『夕刊フジ』でも削除されそうな下ネタを飛ばし帰っていく。
ウエストゲートパークの狭い空をヒバリが横切った。四月は残酷な月だ。
◆
その日の夕方、仕事が一段落すると、おれは店の二階の自分の四畳半からPHSをかけた。呼びだし音みっつで、脂ぎった声が返ってくる。
「……はい」
実際は「は」と「ほ」の中間のようなだるそうな発音なのだが、かまわずにおれはいった。
「ごぶさたしてます。マコトです」
「なんだ、おまえか。頼みごとはなんなんだ」
うんざりしたように吉岡がいった。やつは池袋署少年課の万年平刑事。おれとは十年近くの腐れ縁だ。
「どうしてわかったの」
「マコトがていねいに挨拶するなんて、それ以外に考えられん。で、用件は?」
背景に甘ったるいストリングスの音がした。ドリカムの『ラブ・ラブ・ラブ』。またどこかの喫茶店でさぼっているのだろうか。
「連続引ったくり事件を、いつもの雑誌に書くことになったんだ。今度はライターの仕事。資料を見せてもらえないかな。マスコミに公表できる分でいいんだ」
吉岡はおれが池袋のガキどものトラブルシューターをしていることを知っている。それで軽くフェイントをかけておいた。なんなら実際にコラムを書いてもいい。
「おまえ、あの事件がどれくらい続いているか知ってんのか」
「ああ、十三件」
「分厚いファイル三冊だぞ。読むだけでたいへんだ」
独特の警察方言と読みにくい手書き資料の山を想像した。工業高校を卒業してから読書が趣味になったおれでもゾッとしない(ちなみにおれのまわりでは半年に一冊雑誌やマンガではない本=『五体不満足』や|326《ミツル》の落書き集なんか=を読むやつは読書家でインテリだ)。
「あのさ、事件発生の場所と日時、それに被害状況をまとめた簡単なレジメみたいの、ないの」
おれがそういうと、吉岡はものすごく不機嫌な声をだした。がさがさとなにかをかきむしる音が聞こえる。
「くそっ、あるよ。おれが自分でまとめたやつだ。おまえ、ただのちんぴらのくせに、なんでそう要領がいいんだ。おれは怒るぞ」
それで音の原因がわかった。いまごろ不運なコーヒーテーブルのうえに、吉岡のぼたん雪のような脂性のフケが舞い降りているに違いない。環境汚染だ。電話でよかった。実物を見たら、晩飯が食えなくなる。
翌日の午後、西口公園でおちあう約束をしてPHSを切った。最後におれは心からありがとうといったが、かえってきたのは悪態だけだった。育ちの悪い刑事。
◆
つぎの日の朝七時まえ、市場へいこうと店の横の階段をおりて戸を開くと、いつもと違う池袋の風景が広がっていた。西一番街の路上はふだんなら、点火装置の壊れたゴミ焼却炉に似ている。もんじゃ焼きのような酔っ払いの落としもの、カラスに破られたゴミ袋、チューハイの空き缶に汁の残ったカップ麺の容器。そんなクズが雑多に散らばっているはずなのに、その朝はうちの果物屋のまえだけでなく、両隣の店のまえまできれいに掃除がいき届いて、水が打ってあった。なんというか、どこかのお寺の門前のようだ。
おれは瞬間的に喜代治の目を思いだした。金はやれないが、借りができたといっておれを見つめたあの目。おれは『マタイ受難曲』のアリア「わが心よ、おのれを潔《きよ》めよ」を口笛で吹きながら、春の朝のおだやかな光りのなか、街の虫食い跡のような駐車場にむかった。
◆
その日の午後一時、おれは吉岡を待ちながら西口公園のベンチに座っていた。何百万キロも暗黒の宇宙空間を渡ってきた太陽の光りが、おれのちいさな肩に到着してぽかぽかと熱を与えてくれる。不思議な話。PHSを取りだすと、Gボーイズの王様・安藤崇の短縮を押した。こわもての取次が最初にでて、すぐタカシに代わる。
「マコトか、なんの用だ?」
ゆっくりと凍らせたミネラルウォーターみたいな冷たく澄んだ声。若い王はあいかわらずクールだ。
「どうして用があるとわかるんだ」
吉岡と同じだった。なぜか最近、人の話を先まわりするやつが増えている。
「おまえはたいていのガキみたいに、なんの用もないのにだらだらと電話をかけてよこすことはしない」
確かに「今なにしてんの? マジー!」というような会話におれは耐えられない。携帯も無駄話には割増料金を設定すればいいのに。目をあげると東京芸術劇場の角を曲がって、吉岡のしわくちゃのステンカラーコートがあらわれた。脇に大判の封筒をはさみ、両手をポケットに突っこんでこちらに歩いてくる。おれはいった。
「新しいトラブルだ。連続引ったくり事件」
「続けろ」
「頼まれて犯人を追ってる。Gボーイズの情報網を動かして、年明けから急に羽振りがよくなったふたり組の情報は集められないか。たぶんまともな職にはついてなくて、アルバイトか、ぶらぶら遊んでるだけのやつだと思うんだが」
吉岡が円形広場のベンチに座るおれに気づいて手をあげた。おれも話しながら挨拶を返す。タカシの声はいっそう冷えこんだようだった。
「情報を集めることはできる。だが、それだけの条件じゃ何百件となく殺到するはずだ。この街で昼間からうろついている若いやつの半分は、そんなものだからな。それに被害者のほとんどは、金持ちのバアサンだろ。ボーイズを動かす理由がない。おれはあいつらに説明する義務がある」
確かにタカシのいう通りだった。ガキどもは誰も引ったくりに遭った小金持ちには同情していない。喜代治や鉄に直接あったわけでもないタカシには、おれがなぜそんなことに首を突っこむのか説明してもわからないだろう。第一、当のおれ自身がよくわかっていないのだ。
「わかった。もうちょっとこちらで動いてみる。悪かったな」
「いいや。なあ、マコト、もうちょっと集会に顔だせよ」
考えておくといってPHSを切った。集団行動は苦手だ。内心おれは焦っていた。Gボーイズがもっているストリートの情報ネットワークが使えなければ、おれは片腕をなくしたのと同じだ。
「どうしたマコト、不景気な面してんな」
おれのまえに吉岡が立ち、にやにやと笑って見おろしてくる。口元まででかかった頭髪関係の差別用語を、おれは必死でのみこんだ。
◆
A4サイズの豊島区の地図には、点々と赤い丸が打ってあった。おれが地図上のマークの分布を考えていると、ベンチのとなりで吉岡の声がした。
「駒込、巣鴨、大塚の東部地区で半数以上の七件が発生している。上池袋、東池袋で三件。それに南池袋、雑司が谷、目白で三件のあわせて十三件だ。おかしなことに東上線の線路をまたいだ豊島区西部では一件もない。どれも人通りのすくない路地で起きて、逃げるときも裏道ばかりだから、土地勘のあるやつの仕業だろう」
確かに地図の右半分に被害は集中していた。犯人はたぶん地元のやつなのだろう。吉岡はいった。
「それにしてもマコトももの好きだな。仕事でもないのにこんな事件に手をだして。まあ、おまえらガキの情報もバカにできないからな。このまえのストラングラーみたいに、犯人を見つけたら警察に渡してくれ。やりすぎなきゃお灸をすえてくれてもいいぞ」
吉岡は片目を閉じた。ウインク! 暗い気持ちがますます落ちこんでいく。
「今回はだめなんだ。Gボーイズは動いちゃくれない。金持ちの事件は警察にまかせるってさ」
そういうと吉岡の笑顔がさらに明るくなった。
「そうか。それじゃ、さすがのマコトもつらいな。こういう通り魔的な犯罪っていうのは、捜査がむずかしいんだ。少年課のおれが刑事課に腕貸しするくらいだからな。健闘を祈る、池袋の織田裕二さんよ」
吉岡はそれから楽しそうにおれの背中を平手でたたいた。『踊る大捜査線』なんて古すぎるし、第一おれは見てもいない。事件は警察署で起きてるんじゃない、ストリートで起きてるんだ! アホらしい。吉岡は立ちあがると尻をはたき、背伸びをした。あくびまじりの声が背中から聞こえる。
「最後にひとつネタをやる。マスコミには流れていない情報だ。目撃証言では、犯人の若い男ふたり組は、長髪を銀に染めているらしい。髪の色なんて簡単に変えられるから、あまりあてにはならないがな」
◆
吉岡が目と鼻の先にある池袋署に帰ってしまったあとも、おれはベンチに残り必死に地図を見ながら考えていた。ハッピーマンデイで三連休になった成人の日から、引ったくりは始まり、ほぼ一週間に一回のペースで犯行は繰り返されている。予定通りなら来週明けにも十四回目の通り魔が起こるはずだった。
そのまま三十分なけなしの頭をひねっていると、だんだんとめまいがしてきた。座りこんでなにかを考えているだけなんて、おれらしくない。檻のなかのクマのように円形広場をぐるぐると歩きまわりながら、諦めずにさらに考え続けた。二時になれば、喜代治と鉄がやってくる。それまでに打開策をひねりだしたかったが、まったくのお手あげだった。
ベンチに戻り、白く濁った池袋の春空を見あげていると、鉄の声がした。
「よう、にいちゃん、今日もおっ立ってるかい」
おれはうちに帰って眠りたかった。
◆
近くのコンビニで地図を二枚コピーして、喜代治と鉄に渡してから、おれたちはJR池袋駅前のバスターミナルにむかった。板橋方面いきの都バスにのる。ふたり組はシルバーパスで無料。久々のバスは二百円に値あがりしていた。
シルバーシートに座るふたりの横で、手すりにつかまりおれはいった。
「そのまち子さんだけど、頭のほうはしっかりしてるの」
喜代治は窓を通りすぎる駅前の繁華街に目をやったまま低くこたえる。
「ああ、だいじょうぶだ。あのあたりを歩いている小娘より、よほどしっかりしとる」
横断歩道で退屈そうに携帯をかけている山姥メイクの女をあごで指した。やつらの日本語の基本語彙はおよそ百。アルツハイマーだって最終段階まで進行しなけりゃ、あの女たちよりぼけるのはむずかしいだろう。鉄がいった。
「ねえちゃんたちも悪くないが、まだ色気っちゅうもんが足りないぞ。やはり女は五十の峠をすぎなきゃいかん」
鉄はシルバーシートに座ったまま、意味もなく作業ズボンのまえをつかんでいる。どういう女性観をしてるんだ、このジジイ。
バスはクジラのように池袋の街をゆったりと流し、五分たらずで東上線北池袋駅に到着した。
◆
おれが老人ホームを見たのは、そのときが初めてだった。それにあれほどたくさんの年寄りが集まっているのを見たのも。池袋の街には人生の残り三分の一にさしかかった人間はほとんどやってこない。考えてみれば、それも不思議な話だ。
「白茅の里」は、幼稚園や公民館など公営の施設の多くと同じように、なんの飾りもない、四階建ての四角いビルディングだった。アルミサッシの窓がたくさんとコンクリートに白い砂のような塗料を吹きつけたおなじみの外壁だ。二重になった入口の自動ドアを抜けると、日ざしのさしこむぽかぽかとあたたかなロビーになっていた。図書館のように新聞スタンドや雑誌のラックがならび、あちこちに点々と車椅子がとまっている。
居眠りするもの、盆栽や俳句の雑誌を腕をいっぱいに伸ばして読むもの、なにかわけのわからないことをぶつぶつとつぶやくもの。老人があちこちの壁際においてあるベンチをすきまなく埋めていた。壁の掲示板を見ると「市民に開かれたホームを目指しましょう」などと標語が貼ってある。
あたりにかまわずどんどん施設の奥にはいっていく喜代治と鉄にいった。
「部外者がはいってもいいのかな」
喜代治は振りむかずにこたえた。
「迷惑さえかけなきゃかまわん。わしや鉄にとっては、ここが我が家じゃ。客を呼ぶのにいちいち気を使う必要などない」
どこか怒ったような口ぶりだった。職員室や調理室のならぶ一階を通り抜けた。おれは建物の内部がなにかに似ていると思っていたが、しばらくしてようやく気がついた。その老人ホームはおれが通っていた小学校によく似ている。あの優しげだが、指導するものとされるものが二分された雰囲気。
「こっちじゃ」
喜代治が裏の通用門を示した。夕食を煮炊きする匂いと誰かの排泄物の臭いが混ざりあったむせるような屋内から、午後の日ざしが注ぐおもてにでると自然に深呼吸を繰り返してしまう。目のまえには春風をいっぱいにはらんだ帆のように白いシーツが干してある。喜代治はシーツのカーテンをまくるといった。
「わしらが立っておるここが、三途の径じゃ。いって戻って、簡単に帰ってこられるように思うだろうが、実際はホームからむこうに渡った人間のほとんどは、白木の箱にはいって病院の通用口からでていくだけだ」
シーツのすぐ先に老人ホームと同じように無表情な老人病院の裏口が見えた。ドアの脇に積みあげられたキャンバス製の洗濯袋には、シーツや枕カバーやタオルなどがぱんぱんに詰めこまれている。ガラスの扉にはほこりと誰かの手をなすった跡が浮いていた。
実際のあの世の入口も、この扉のように見慣れた灰色に見えるのかもしれない。
◆
病院内でも喜代治と鉄の我がもの顔は変わらなかった。子どもや若い人間のいない病院はひどく静かだった。ひんやりと冷たい階段を三階までのぼり、スライドドアが開けられたままの病室にはいっていった。女ばかりの四人部屋。奥の右手のベッドはナイロンのカーテンでぐるりと隠され、布のなかから傷ついた獣のようなうめき声が漏れている。
心なしか喜代治と鉄の背筋が伸びたようだった。残り三台のベッドに横たわる老女のなかから、おれでさえ福田まち子はすぐにあてられそうだ。奥の左手。天井近くに細長く開いた横長の窓から落ちる日ざしを斜めに浴びて、彼女は落ちる寸前の大輪の白ボタンのような笑顔をおれたちにむけた。
七十をすぎているなんてとても思えなかった。おおきく開いた寝巻きのレースの胸元から、豊かな乳房のかげりがのぞいている。どこかの熟女ヌードより断然みずみずしい肌をしていた。驚異的に色っぽい七十歳。
「樽本さん、お客さまがみえたから、静かにしてね」
福田まち子はベッドに半身を起こしたまま、閉じたカーテンのむこうに声をかけた。獣のうなりは、腹を空かせた子猫ほどにちいさくなる。
「こんにちは、横になったままでごめんなさいね」
ギプスをはめた右手には花柄のスカーフが巻かれていた。喜代治がいう。
「この人は、池袋の少年探偵で真島誠さんという。わしらが頼んで引ったくり事件を調べてもらっとる。まち子さんの話が聞きたいというから、今日はお邪魔にきたんじゃ」
喜代治がおれを紹介するあいだに、鉄が廊下からパイプ椅子を片手に三脚さげてあらわれた。下ネタばかり垂れ流していた口をぴたりと閉じて、いそいそと椅子をベッドの横にならべる。おれは型通りに事件のあった日の話を聞いた。三月十七日に巣鴨の路上で一瞬のうちに起きて、終わってしまった強盗の話。確かに福田まち子の頭は、しっかりとしていたが、これじゃぼけていても変わりはなかったろう。新しい情報はほとんどない。
おれはボールペンで手帳にメモを取りながらきいた。
「その後、警察からなにか連絡ははいりましたか」
福田まち子は熱心におれの手元を見つめていた。色を抜いているんだろうか、プラチナブロンドのように白い髪を軽く押えていった。
「被害届をだしたときに話を聞かれたくらいで、一度も連絡はありません。放りっぱなしね。こんなおばあちゃんでなくて、もっと大切な事件で忙しいのでしょう。思いだしたこともあるんですけれど」
「へえ、なんですか」
あまり気のりしない調子でこたえた。
「そのボールペンと同じよ。私に見えたのは犯人の左手だけだったけれど、手首にブレスレットが巻いてあったの。銀色のブレスレットは、それと同じ形の十字架をたくさんつなげた造りだった」
◆
三人の視線がおれの右手のボールペンに集中した。そのペンはおれがコラムを書いているストリートファッション誌の忘年会でもらったものだ。ビンゴゲームの賞品。純銀の固まりから削りだした軸はどっしりと重く、キャップの頭には縦と横の棒の長さがいっしょで、中央が黒い漆で丸く盛りあがった銀色の十字架がついている。「シルヴァークロス」という新ブランドのマークなのだそうだ。
おれはただのボールペンだと思っていたが、パーティ会場にきていた知りあいのスタイリストから値段を聞いてびっくりしたのを覚えている。一本七万円! 文章がうまくなる魔法がかかっているわけでもないのに、たかがボールペン一本にそんな金を払う。まともな神経じゃない。
その話をするあいだ、三人は黙っておれの右手を見ていた。鉄が手を伸ばし、おれの手からペンを取った。初めて望遠鏡を見る類人猿のように、銀のペンを目の高さにあげて、うえからしたから確かめている。
「こんなものがソープ三回分もするんか。わけのわからん世のなかじゃのう」
◆
老人ホームからの帰り道、おれはぶらぶらと東上線の線路沿いを歩くことにした。池袋駅までは一キロ半。春の湿った空気にふくらんだ夕日が、電線が切り取る狭い空に沈もうとしていた。ポケットからPHSをだして、編集部の短縮を押した。おれのコラムを担当する編集者は、嘉藤薫子《かとうかおるこ》といって当人はヴェリーショートといっているが、頭を五分刈りにした女だ。年は二十代のなかばくらいで、おれと同じペーペーだった。
「はい、ストビー編集部」
雑誌の名は『ストリートビート』。あまり宣伝したくないんだけどな。
「ああ、カトー。おれ、マコト。悪いけど今、時間ある?」
「いいよ」
「あのさ『シルヴァークロス』っていうブランドについて調べてるんだけど、知ってること教えてくれないかな」
活気のあるざわめきが電話の背景に聞こえる。ここの編集部がいそがしくなるのは、いつも夕方以降だ。
「いつかはくると思ってたよ」
「なんで」
「だって『シルヴァークロス』って、マコトにぴったりのブランドじゃん」
「どういうこと?」
◆
カトーによると「シルヴァークロス」はこの一年半ほどのあいだにのしてきたファッションブランドで、日本製にしてはめずらしく、すでにヨーロッパやアメリカでも評判を呼んでいるという。ロッカーや俳優なんかに人気があるらしい。創設者でチーフデザイナーをしているのは、池袋育ちの長谷部三沙男《はせべみさお》というちょっといかれた男。暴走族あがりで、デザインはまったくの独学だそうだ。
「シルヴァークロス」が扱うのは、銀と革。それもフォーナインやシックスナインという限りなく純粋に近い銀とスコットランドの職人がなめした最高の牛革だけ。このブランドはストリート発で若いやつを中心に人気を集めているくせに、値段がとびきり高いことでも有名だという。
「長谷部三沙男って、真夏でも自分のブランドの革パンはいて、ルックスもけっこういいから人気あるんだよね。だいたいデザイナーって当人はイマイチのことが多いじゃん」
編集者やもの書きだってそうだとはいわなかった。
「ふーん。つぎのコラムに書いてもいいかな」
「それで調べてるんじゃないの」
「いや、まあそんなとこ。編集部を通して取材の申し込みできないかな。おれ、そのデザイナーにあってみたいんだけど」
「わかった。取材嫌いで有名だけど、コンタクトしてみる。じゃあね」
PHSを切るころには東の空は夜の色。池袋駅前のネオンが、夜空の下半分に淡く溶けだして、オレンジや赤やピンクにかすんでいた。
◆
ついでだから、東口の西武百貨店に寄っていくことにした。カトーの話では「シルヴァークロス」の主力店は、青山や渋谷ではなく池袋にある。今はデパートのなかに出店をしているが、近いうちに駅はずれの古い洋館を改装して本店を造るのだという。
おれは猛烈な人波を越えて、西武の入口にたどりついた。東京で生まれ育っても、池袋駅前のフィーバー中のパチンコ玉みたいな人出にはけっこう疲れる。掲示板で確かめるとその店は七階にあった。パンツを見せながらエスカレーターに鈴なりに群れる女たちを避けて、おれはエレベーターでまっすぐのぼった。
「シルヴァークロス」池袋店はフロアの角に目立たずひっそりと店をだしていた。このごろはどのブランドも六〜七〇年代ブームとかで、サイケデリック調の派手な色使いとセクシーファッションで売っているところが多い。だが、その店は様子がすこし違っていた。妙にしんとした雰囲気なのだ。はいりにくい店。
入口には古い枕木のような傷だらけの敷居があり、店のなかは一面に灰色の砂が敷きつめてあった。壁は赤黒く錆びた鉄板が張りめぐらされている。砂漠のまんなかに建った自動車修理工場みたいだ。店員は男ばかりでみんな黒革のパンツをはき、銀の十字がはいったTシャツを着ていた。普通ショップの店員て、どこかゲイっぽい感じが匂うものだが、「シルヴァークロス」の男たちは腕っ節が強そうだった(まあ、ハードゲイなのかもしれないが)。
広々とした空間には博物館のようなガラスケースが二列。自慢の銀細工はたっぷりとあいだをおいて展示してある。おれはガラスに手をつかないように、なかをのぞいていった。例のブレスレットはすぐに見つかった。これなら誰だって一度見たら忘れられないだろう。
一辺が三センチほどある分厚い十字が、どのようにしてかはわからないがきれいにつながって、長さ三十センチ足らずの帯になっていた。つや消し仕上げの銀に塗られた黒い漆は、スポットライトを浴びて魚の卵のように光っている。値札はどこにもついていなかった。おれは近くの店員に声をかけた。
「このブレスレット、いくらするの」
ひげ面の男は、腕を組んだまま軽くうなずいてこたえる。
「二十五万」
あきれた。おれには一生縁がなさそうだ。鉄が格安ソープ十五回分といって嘆くだろう。やつならひと月でそれくらいは通いきるかもしれないが。
「パンフレットとかないの」
ひげ面の男の姿勢に変化はなかった。店員ではなく、警備員なのかもしれない。
「うちのブランドの二〇〇〇年春夏モデルの写真集ならある。一部千円」
完璧なタメ口。しかたなく陳列ケースの隅に積んであるカタログを手に取った。美術館の企画展で売っているような豪華で分厚い写真集だ。金を渡し、紙袋にでもいれるのかと思い、ボーと突っ立ったまま待った。ひげ面がじっとおれを見つめている。
「手さげとかにいれないの」
「この店にはそんな無駄なものはない」
そりゃあ、もっともだと思った。どうせうちに帰ればゴミ箱に捨てるだけなんだから。おれは写真集をもち、砂を踏んで店をでた。ちょっとした異文化体験。
うちの果物屋もこの調子でやろうかな。
◆
自分の部屋に戻ってから、ゆっくりと写真集を開いた。例の十字をモチーフにしたリング、ナイフ、ブレスレット、耳や舌や乳首にいれるピアス、それになんに使うかわからないごろりとした純銀の固まり。砂や石や草のうえに放りだすように高価なシルヴァーアクセサリーがおいてあった。カメラは小細工を使わず、それを正面から撮るだけなのだが、きっと腕のいいやつなのだろう。画面の隅々まで神経がいき届いて、あいまいさがまるでないクリアな写真に仕あがっている。ただおしゃれだったり、情報を伝えるだけの写真ではなかった。ぎりぎりまで突っこんで、ものを見ること自体を考えさせる写真になっている。
カタログの最後には、自分でデザインした革パン姿の長谷部三沙男がモデルとして登場していた。黒の革パンはずいぶんとはきこんで、いい感じにくたびれ、こまかな傷だらけだ。色は褪せて、鮫肌のような濃い灰色。確かにカッコいいパンツだが、値段は一本二十万円。おれのユニクロのジーンズは、セールで千九百円だったから百倍以上。カトーのやつどこがおれに似あいだというのだろうか。
それでも、商品の革パンより断然目だっていたのは、当のデザイナーだった。どこかの荒野に立ち、地平線を走る雲を背に、撮りたければどうぞという顔でレンズを見つめている。この三十年間、西海岸のヘルスエンジェルスのあいだで不変の流行を続ける長髪のソバージュ。がりがりにやせた身体は白いシャツのなかで泳ぎ、薄手のコットン越しに紺色の幾何学模様の洋風いれ墨が透けている。
そしてあの目というより目玉。長谷部三沙男は頭蓋骨の空洞に水晶玉をはめこんだような目をしている。驚いてるわけでもないのに真ん丸な目。サボテンや赤い砂、それに遥か彼方の積乱雲まで目玉のなかに吸いこまれていきそうだった。
やつが着ているのは黒の革パンだけじゃない。肉体でさえいつでも脱ぎ捨てられる衣装のように見えた。この世にふたつとない魂が、気まぐれに借着をしているだけのね。
◆
エロジジイがふたりに、色っぽいバアサンに、狂信者みたいなデザイナー。おまけに、遊び半分の引ったくり犯が二名。みんなこの池袋のジャングルにいる。わけがわからなくなったおれは、もっと深く自分の頭に潜るため、CDラックからBGMを選んだ。気休めみたいなものだが、音はないよりあったほうがぜんぜんいい。ものを考えるにはテンポとリズムが大事なんだ。曲はハイドンの『十字架上の七つの言葉』。はりつけになったキリストの科白を七つのソナタにした音楽だ。オーケストラ版、オラトリオ版、弦楽四重奏版とあるが、おれの好みはやはりカルテット。年なのかな、静かなほうが気持ちいいんだ。敷きっ放しの布団に横になり、あれこれと事件を考え続けた。実りのない思考。
それにしてもナザレの男は、自分の手足が鉄釘で打ちとめられた処刑用具が、二千年間もなにかのシンボルとして残るなんて想像しただろうか。長谷部三沙男のようなデザイナーにモチーフに使われ、引ったくり犯の手首を飾る愛と殉教と身代わりのシンボル。
死んだ当人にはいい迷惑かもしれない。
◆
つぎの日、おれは写真集をもってもう一度「白茅の里」を訪れた。福田まち子はサボテンの腕に無造作にひっかけられたブレスレットの写真を見て、これに間違いないといった。それにとてもきれいな細工だと。
ふたり組の感想も同じだった。価格は常軌を逸しているが、見事なものであるのは間違いない。ベッドサイドに立ったまま喜代治がいった。
「それで、これからどうするんかな」
どうにもできないとはいえなかった。
「今、ちょっと調べてるんだ。あんたたちは待機していてくれ」
どうにも打つ手がなくなると、数日まえから続いている朝の店先の清掃も、精神的な負担になった。うちのおふくろも気にいって、しっかりやれなんていうしね。だけどどうしろっていうんだ。四カ月かかって警察でさえ容疑者を絞れない事件なのだ。おれのような片手間探偵になにができる? 鉄はおれの尻をたたいていった。
「にいちゃん、たまっとるな。どこかのねえちゃんにでも頼んで、一発すっきりさせたほうがいいぞ。玉が重いと頭も動かんじゃろう」
福田まち子は重ねた枕にもたれ、品のいい笑顔を浮かべている。喜代治は完全に無視。おれはセクハラで金歯を訴えたかった。
◆
二日後、店先で酔っ払いに熟したメロンを売りつけていると、カトーから電話があった。果物の完熟具合は、女と同じで尻をさわればわかる。失礼、おれにも鉄の病気が感染したみたいだ。店の奥にはいり、PHSを耳にあてた。
「マコト? カトーだけど。あんた、ラッキーだね。取材のアポイントメントが取れたよ。あさっての朝十時に自宅にきてくれってさ」
「へー、そうなんだ」
どこがラッキーなのかよくわからなかった。
「長谷部三沙男はめったにマスコミの取材は受けないの。いい機会だからカメラマンもいっしょにっていったけど、断られちゃった。コラムなら写真はいらないだろうってさ」
カトーは長谷部三沙男の自宅兼事務所の地図を送るといって電話を切った。おれは二階にあがり、自分の部屋でFAXを確かめた。デザイナーの住所は目白三丁目。豊島区では数すくない高級住宅街だ。
◆
アポの日はあいにく朝から雨だった。激しくも強くもないが一定のペースで降り続け、肺のなかまで湿らせそうな春の雨。おれが長谷部三沙男にあいにいくといったら、喜代治と鉄もいっしょにいくといって聞かなかった。招待されているのはおれだけで、カメラマンさえだめなのだといってもまるで無駄。
しかたなく三人で目白のお屋敷町を歩いた。車道の両側に広いレンガの歩道があり、ガードレールの代わりに角を落とした金属の柱がならび、そのあいだを同じブロンズ色の鎖がゆるやかに結んでいる。出会う犬もアフガンハウンドやジャイアントプードルみたいな純血種の猟犬ばかり。同じ豊島区でも池袋とここじゃ天と地の差がある。喜代治と鉄はどこかのごみ箱から拾ってきたような汚れて半透明になったビニール傘をさして、おれのあとをついてくる。貧乏臭い格好だが、それでも背筋だけはすっきりと伸びていた。
おれは地図を見ながら、都市銀行の社員寮なんかが緑のなかに見え隠れする通りを歩いていった。長谷部三沙男のスタジオは、目白庭園の裏側に見つかった。一階は半地下の駐車場になっていて、古いムスタングやハーレー・ダビッドソンがずらりとむきをそろえてならんでいる。脇には素焼きのタイルをはめこんだ階段がうえに延びていた。赤い屋根と白い漆喰壁のリゾートホテルのような建物は、サンタフェスタイルとでもいうのだろうか。以前、宮沢りえの写真集で見たことがある造り。おれは喜代治と鉄にいった。
「悪いけど、ここで待っていてもらえるかな。時間はかからないと思う」
喜代治はスタジオを見あげ、冷ややかな調子でいう。
「よくわからんが、デザイナーというのはもうかる仕事のようだの」
鉄がつけ加えた。
「まったくだ。これほどかせぐんじゃ、なにか悪いことをしとるに違いない」
そうかもしれない。ボールペン一本七万円というのは、デザインの名を借りた霊感商法みたいなものかも。だけど、世のなかのブランドはみんなそうした錯覚を商売にしてる。プラダのナイロン袋が十万円なんて、実にアホくさいよな。
◆
階段をのぼりきると、広い板張りのバルコニーだった。玄関の代わりに一枚が横二メートルもある特注サイズのサッシが四枚ならび、分厚いガラスのむこうには打ちあわせ用のテーブルやドラフティングデスクがおいてある(なつかしの工業高校、製図の時間)。例の黒い革パンの男たちが四人、静かに働いていた。おれがガラスをノックすると、そのうちのひとりがサッシを引いてくれる。
「なんの用?」
迷いこんできたファンにでも見えたのだろうか。ぶっきら棒に革パンがいった。
「『ストビー』の取材で、長谷部さんと約束をしているんですが」
「どうぞ」
革パンに案内され、どんどん事務所の奥にはいっていった。何度目かの角を曲がると男は立ちどまり、明るい白木の扉をノックした。
「三沙男さん、約束の記者がきました」
革パンはおれに振りかえると、ドアの奥へあごをしゃくった。フレンドリーなのか、荒っぽいのか、よくわからない仕草。
「記者じゃない。コラムニストだ」
部屋のなかの声に導かれて、おれは敷居をまたいだ。
◆
室内はオフィスから一転して、リビングルームの造り。白い漆喰は吹き抜けになった丸天井まで延びている。階段と同じ素焼きタイルの床には、ぽつぽつとでかいサボテンの鉢植えとソファがおいてあった。ソファは売り物の革パンと同じ素材で、KONISHIKI用かと思えるサイズ。壁際のひとり掛けには長谷部三沙男が座っている。水晶玉の目。背もたれはおれの肩の高さまであるハイバックで、先端には一辺が七十センチほどある巨大なつや消しの銀十字がついていた。ローマ法王かなんかが座る玉座のようだ。
「はじめまして、真島誠といいます」
軽く会釈した。長谷部三沙男は座ったまま、水晶玉におれを映している。
「知ってる。おれはあんたの書いたコラムを毎月読んでる。あの雑誌のなかで、数すくない読むに値する文章だ。挨拶や世辞はいいから、座れ」
表情を変えずにゆっくりと長谷部三沙男はいった。傷だらけの革パンに白いシャツ。あの写真と同じ格好だった。おれはやつの正面に腰をおろした。
「それで、アポが取れたんですか」
「タメ口でいい、気を使うな。そうだな。おれは自分が興味ある人間としかあわない。あんたはどう思うかしれないが、おれとあんたはよく似てる。ストリートで育ち、学歴や資格ではなく、自分の頭と手とセンスだけで生き抜くところなんか。『サンシャイン通り内戦』のコラムはいい出来だった。ゾクがギャングボーイズになっても、やることは変わんないな」
どうやら、長谷部三沙男は自分のいいたいことだけいう男のようだった。黙っているとやつはまた口を開いた。目はとまっているのに、口だけ動いている。『サンダーバード』の人形を思いだす。
「あんたはおれをどう書こうと思っているんだ? 暴走族のヘッドが、苦労の末ファッションの世界で大成功なんて、お約束の文章じゃないよな。あんたなら、どうおれを料理するか楽しみで、今回の取材を受けた。なにか聞きたいことがあったらいってくれ。なんでも話すよ」
弱ってしまった。長谷部三沙男にも、流行のバイカーファッションにも、実はあまり興味はなかった。しかたない。おれはショルダーバッグからコピー紙を取りだすと、やつのまえにおいた。
「豊島区の連続引ったくり事件を知ってるかな」
長谷部三沙男の目がおもしろいものでも見るように光った。
◆
ストリートファッション誌にコラムを書くかたわら、潜りのトラブル解決屋のようなことをやっているとおれは正直にいった。長谷部三沙男はあたりまえのようにこたえる。
「知ってる。内戦の話がおもしろかったから、人に調べさせた。あのときあんたは裏で動いていたそうだな」
うなずいた。
「それで今度の件では、手がかりがひとつしか残っていない。引ったくり犯は左手に『シルヴァークロス』の腕輪をしていた。突き飛ばされて手首を折って、寝たきりになりそうな年寄りから聞いた証言だ。写真で確認もしてある」
長谷部三沙男はゆっくりと首を振る。
「そうかい。だが、客の動きまでは責任もてないからな。おれは別にモラルをデザインしてるわけじゃない」
「でも、あのブレスレットはとんでもなく高い。売れた本数や地域はわかるだろう」
「すぐに値段のことをいうのは貧乏人の悪い癖だ」
やつは苦笑いを浮かべ、鮫肌革パンの太ももをなでた。
「こいつを見ろよ。おれはこの五年間、毎日このパンツをはいている。丈夫で機能的であたたかく、ハーレーでこけても肌を保護してくれる。イギリス産の最高級の牛革で、ドイツやイタリアでは同じ革を使ったソファを一脚二百万で売っている。それが一本二十万なら、賢い買いものだろう?」
かけ値なしの一生ものか。確かに一理あるかもしれない。ユニクロのジーンズのことは黙っていたほうがよさそうだった。長谷部三沙男は背もたれによりかかり、丸天井を見あげた。その格好だとソバージュの頭から、銀の十字架がはえだしているように見える。
「しかし、おれのブレスをしたやつが、バアサンたちを襲ってまわっているのも気にいらんな……」
しばらく間があいた。おれは長谷部三沙男の気が変わらないように、ソファで身動きをせずに凍りついていた。
「いいだろう。うちの店のデータを見せてやろう」
「POSシステムのデータ?」
長谷部三沙男はにやりと笑った。
「それもあるが、もっと簡単なやつだ。うちの店で買いものをした客の九割以上は『シルヴァークロス』の会員カードにはいってる。つぎの回から、全商品テンパーセント・オフになるからな」
「ありがとう。助かるよ」
「ただし、客に気づかれないように慎重にやると約束してくれ」
うなずいた。長谷部三沙男の笑いがおおきくなった。
「それから、あんたにも仕事をしてもらいたい。うちで今、秋冬カタログの制作をすすめているんだが、そこに文章を書けよ。別に『シルヴァークロス』の商品をほめる必要なんてない。感じたままに書いてみろ。いいな」
宿題が増えた。街を歩いてネタを集めるより、おれには文字を書くほうが何倍もきつい。あの写真に文章をつけるのはしんどそうだが、やるしかないだろう。長谷部三沙男の好意にただのりするよりは、気分がいいしね。
◆
おれたちは手はずを決め、最後のおまけにコラムのために十五分ほど雑談した。なかにいたのは正味三十分ぐらいだろうか。おれが階段をおりていくと、喜代治と鉄は駐車場のシャッターのしたで雨を避けて立っていた。
「戦果はどうじゃった」
喜代治にこたえた。
「悪くない。まち子さんの証言がようやく生きてきそうだ」
「そうか」
やせた老人はそういって、雨に目をやった。鉄がいう。
「おぬしもまち子さんに惚れたらいかんぞ」
「案外、むこうも若い男のほうがいいかもよ」
鉄は自信まんまんに作業ズボンのまえをつかんだ。
「なにをいっておる。技でも回数でも、おぬしなんぞにまだまだ負けるわけがない」
喜代治は傘をさすと、目白駅にむかってさっさと歩きだした。おれもひさしの外にでる。頬にあたる雨がやわらかだった。
「障子破りでも、襖破りでも、勝負を受けるぞ」
鉄の声が追いかけてきたが、おれは無人の高級住宅街を歩きながら、別なことを考えていた。
◆
それは長谷部三沙男のような新しい時代のエリートと、街を歩く小脳だけで生きてるトカゲのようなガキどもの違いについてだ。おれは新聞の経済面もいちおう目を通している(恥ずかしいからここだけの秘密だ)。若年層の失業率は平均の倍くらいだというから、統計上二〇〇〇年の日本では十パーセントくらいだろう。だが、おれが身のまわりのガキを見ている限りではそんな甘いものじゃない。三人にひとりが仕事をしたくても職がなく、プーを続けている。それでやることもなくて、ああして一日じゅうサンシャイン六十階通りに座りこんでいるんだ。体感失業率は首位打者だってじゅうぶん狙える三割以上。
確かにあのデザイナーのいう通り、今の時代に学歴や資格なんて役に立たない。でかい銀行や自動車会社だってぐらぐら揺れてぶっ倒れそうだしね。表面上はものがあふれて、物欲がはちきれそうな世のなかで、長谷部三沙男みたいなセンスエリートは新しいはしごを駆けのぼり、残りの大多数はしたで待ってる汚物だめに音もなく落ちていく。
自由に成功できるって可能性は、たいていの人間には立ちあがれなくなるまで叩きのめされる自由を意味してる。問題は負けたやつの物語なんて誰もききたがらないことだ。通り魔に引ったくりだけじゃない。池袋のストリートの空気がどんどんよどんで腐っていくのを、おれは毎日肌で感じているんだ。携帯電話の通話料を絞りだすために、ガスや水道までとめられた若いトカゲたちが吐く息で。
日本の街がいつまでも安全だなんて思ったら、大間違いだ。
治安の悪化も犯罪も、当然グローバルスタンダードをめざす。
◆
つぎの日は雨もあがり、一段とあったかくなった。巨大な蒸し器で蒸しあげられたように、池袋の街も白い水蒸気に包まれている。喜代治と鉄は日課になった朝の清掃を終えるといったん老人ホームに戻り、昼すぎにまたうちの店にやってきた。
午後、おれはふたり組といっしょに西武百貨店の「シルヴァークロス」にでかけた。しゃれたブティックが並ぶフロアで、喜代治と鉄は断然異彩を放っていた。改装中の店の出稼ぎ工事関係者みたいだ。おれが例の枕木を越えて砂まみれの店内にはいっていくと、ふたりもあとをついてくる。前回と同じひげ面の店員に声をかけた。
「真島誠といいます。長谷部さんから、おれあてに用意されたものがあると思うんだけど」
ひげ面はガラスケースのむこうでうなずいた。レジを抜けて店の奥にはいっていくと、手に封筒をもって戻ってくる。
「これだ」
おれに銀の十字がはいった封筒をさしだした。
「ありがとう」
ひげ面は不思議そうな顔をした。
「あれはあんたの連れかい?」
喜代治と鉄は店の入口にあるケースに顔を近づけて、銀の腕輪を穴があくほど見つめていた。
「そう、おれの知りあい。ああ見えても年寄りだから小金をもってる。あのブレスレットを買おうか考えてるんじゃないかな」
ますますおかしな顔をするひげ面に、声をひそめていった。
「それから、ここだけの話、あのふたりはゲイでできてるんだ。とくにあのガニ股のほうがひどい焼きもちやきだから、背の高いほうと話すときは注意したほうがいいよ」
喜代治が顔をあげて、ひげ面に声をかけた。
「すまんが、この腕輪を見せてくれんか」
ふたり組のところにむかう革パンの腰がすこし引けているのがわかったのは、きっとおれだけだろう。
◆
ウエストゲートパークの円形広場に戻り、封筒を開いた。喜代治と鉄はおれの横に座り、手元をのぞきこんでくる。洗濯せずに日にさらしたジーンズのようなちょっとしょっぱい老人の臭いがする。封筒の中身はA4のプリントアウトが四枚。一枚に三十人分、あのブレスレットを買った客の名が、住所と電話番号といっしょに並んでいた。去年から今年の春にかけて、東京都内だけで百本以上もあんなに高価な腕輪が売れているのだ。この不景気にちょっと考えられない話。低所得者のひがみだろうか。
おれは黄色いラインマーカーで、豊島区在住の名前だけチェックしていった。百十二人中九人。さらにそのなかから、埼京線の東側だけを選んでいく。残りは四人。
「だいぶ網がしぼれてきたようじゃの」
喜代治の声がめずらしく興奮しているようだった。鉄が胸をたたいていった。
「よっしゃ、一発かましにいくか」
広場の石畳を渡ってきた風が、おれたち三人のあいだを抜けて、鉄の作業ズボンをはためかせた。おれはいった。
「これから、クルマもってくる。今日中にこの四件の下見だけでもすませておこう」
喜代治と鉄がうなずいた。おれはベンチから立ちあがり、西口公園を離れた。春は池袋のビル風さえやわらかだ。Tシャツのなかを抜ける風が、心地よく身体を冷ましてくれる。
ようやく犯人の尻尾をつかんだよろこびでおれはハイになっていた。だが、それは一日だけ遅すぎたのだ。
◆
「シルヴァークロス」の腕輪を購入した四人の住所は、高田、雑司が谷、東池袋、西巣鴨の四地区。ダットサンのパネルトラックに三人すし詰めになって、最初の高田三丁目にむかった。明治通りを流していると、喜代治がいった。
「のう、マコト、これで引ったくりが見つかったら、そこであんたの仕事は終わりでいいかな」
まえを走るRVの尻を見たままこたえる。
「どういうこと?」
「引ったくりの犯人の扱いは、わしらにまかせて手はださんということじゃ」
おれのとなりで鉄もうなずいている。
「まさか、ぶっ殺そうなんて思っちゃいないよな」
喜代治は鼻で笑った。
「そんなことは考えておらん。だが、相手の動きによるな」
こんな年寄りふたりでだいじょうぶなんだろうか。おれはちょっと不安になったが、とりあえず返事をしておいた。
「わかったよ。あんたたちふたりで、自由にやってくれ」
鉄が運転中のおれの肩をげんこつで殴った。けっこう痛い。
「心配せんでいい。わしらの経験を信じとけ。だてに三桁の女を泣かしとりゃせんぞ」
だから心配なんだよエロジジイといおうとして、ちらりと横を見ると鉄の目はいつになく真剣だった。ますます不安になったが、おれは口を閉じて運転に専念した。
◆
高田は新宿区と接した豊島区の南端。となりは高田馬場だ。神田川を渡り、新目白通りを右折した。右手に大正製薬のビルを望みながら、三個目の信号を右にはいる。しばらくすると金網越しにテニスコートが見えてきた。
「このあたりのはずなんだけど」
ハザードをつけたままダットサンをとめて、目的の住所を探した。周辺は緑の多い値段の高そうな土地。学校や会社など商業建築が半分、マンションなどの住宅が半分だろうか。喜代治が赤いタイル張りのずんぐりした建物を指さした。
「あれじゃ、なかろうか」
三人でエントランスにまわり、マンション名を確かめる。高田グランドハイツ。あたりだった。
「ここで待っていてくれ」
おれは自動ドアを抜けて、ずらりと並んだステンレスの郵便受けで部屋番号と名字を確認した。その先の扉はオートロックになっている。裏口にまわれば、うえへ簡単にのぼれるだろうが、やめておいた。
ガードレールにもたれてマンションを見あげるふたりのところに戻り報告する。喜代治はいった。
「どうも、犯人はここではなさそうだの」
鉄もうなずいている。
「そうじゃ、金持ちけんかせず」
いかれたやつも多いから、金持ちのバカ息子か娘かもしれないが、おれは黙っていた。
◆
続いて雑司が谷と東池袋をまわった。雑司が谷の住所は、ずいぶん昔に造成された一戸建ての建売住宅地だった。お目当ての番地には駐車場と三畳ほどの庭がついた一軒家が建っていた。ここでも表札で名前だけ確認する。
東池袋は東京造幣局の裏、都電荒川線沿いにある真新しい白いタイルのマンションだった。オートロックはなく、たいしておおきくはない三階建てに十五部屋もあるから、ワンルームなのだろう。三階までのぼり目的の番号のドアまで足を運んだ。泥棒よけのアルミ桟がはまった玄関脇の小窓のすきまに、造花のグリーンが見えた。どうやらバスルームのようだ。リストで確認すると、名前は女性のものだった。喜代治はいう。
「ここも空振りくさいの」
おれはため息をついた。残るは一件。すでに夕暮れが迫って、空の色が一段深くなっている。そこもシロのようなら、近隣の二十三区まで網を広げなければならないだろう。おれにはちょっとオーバーワーク。
◆
明治通りに戻り、北上を開始した。そろそろ夕方のラッシュアワーで、信号のたびにダットサンは引っかかり、三田線の西巣鴨駅がある白山通りの交差点まで、三十分近くかかってしまった。
駅の周辺は細かな住宅とマンションがびっしり建てこんでいる。ぐっと庶民的な雰囲気。交差点を右折して、最初の細い道を左にはいる。西巣鴨四丁目。ウドン屋、宅配ピザ屋、新聞販売店。自転車とミニバイクが通りのあちこちにとめてあった。しばらくいくと何軒か古びたラブホテルが、看板に空室の青いランプを灯している。鉄がうれしそうにいった。
「連れこみ旅館が並んでおる。いい匂いがしてきたのう」
鉄はサービスタイムの料金が書かれた看板に注意を吸い寄せられているようだ。電信柱の住所に目を凝らしていた喜代治がいう。
「四丁目二十番。このあたりのようじゃな」
クルマをとめて、リスト最後の住所を探した。細かな一方通行を歩いていくと、木造アパートの引き戸の玄関が生け垣のあいだに口を開けていた。壁はひび割れたモルタル塗り。あがり口には雑然と腐ったスニーカーが脱ぎ捨ててある。玄関の横手で薄暗い階段が二階に続く闇に消えていた。外はまだ明るいのに、点灯したままの裸電球がかえって淋しげな雰囲気だった。黒ずんだ表札には、第二高松荘の名。どうやらここが探していた場所らしい。
「犯人はここに住んでおる。間違いなかろう」
自信をもって喜代治は断定する。貧乏人は貧乏人を容赦しないということか。
「明日からここを張り込んでみよう」
収入差別かもしれないが、おれもその意見に賛成だった。
「さあ、今日はこれくらいで帰ろう」
風が吹けば倒れそうな木造二階建てを、目を光らせ見つめるふたりにおれはいった。老人ホームの晩飯は早い。そろそろ喜代治と鉄を「白茅の里」へ送り届ける時間だった。
◆
北池袋駅前でふたり組をおろし、店の裏の駐車場にダットサンをとめていると、おれのPHSが鳴った。後ろの荷台を半分駐車スペースにいれたまま電話にでる。
「マコトか?」
「ああ、なんだ」
めずらしい。タカシからだった。
「おまえの獲物が、またあらわれた」
おれはハンドルをたたいた。
「ほんの三十分まえだ。場所は南大塚。大塚駅から春日通り沿いに延びる商店街の路地裏だそうだ」
さすがに地元。Gボーイズの情報は早い。
「被害者は?」
「二十代後半の女だそうだ。ついてないな」
めずらしくタカシのクールな声が湿っていた。
「どうして」
「女は妊娠中だった。突き倒されたショックで、腹のなかのどこかが破れたらしい。すでに病院に運ばれているそうだ」
「くそっ!」
三十分まえなら、ちょうどおれたちが西巣鴨のアパート近辺をうろついていたころだ。ひと足違いだったのだろうか。礼をいって通話を切ると、荒っぽくダットサンを白線のなかに押しこみ、運転席に座ったまま短縮の番号を押した。
◆
一瞬の音の空白に続いて、気味悪いほどリアルに街のざわめきがPHSから流れだした。すぐに言葉が背景から立ちあがってくる。
「もしもし……」
池袋署・吉岡のがさつな声。心なしか緊張しているようだった。
「おれ、マコト」
舌打ちしてから、吉岡はいった。
「なんだ、このいそがしいときに」
「引ったくりがあらわれたときいたんだ。どんな状態なのか、教えてもらえないか」
「またガキのネットワークか。おまえら新聞やテレビより早いな。どうせまた、警官と泥棒ごっこでもやってんだろう。そっちは、ホシは絞れてんのか」
情報をもらうには、情報と取りかえるしかない。吉岡になら少々流してやってもいいだろう。おれは腹をくくっていった。
「ああ、何人かに絞りこんである。まだ確定というわけじゃないけど……」
それからおれは手短に「シルヴァークロス」の腕輪の話をした。犯人がしていたものに間違いないこと。ばかみたいに高価で、買った客は限られていること。豊島区東部の四人の住所を確認したこと。電話のむこうでは、吉岡が息をつめて耳を立てているのがわかった。やつは真剣な声でいう。
「だから、警察官になれっていってるだろうが。おまえにはむいてるんだ。もったいないぞ」
「それより、どうせ南大塚にいるんだろ。今度の事件でなにか新しいこと、わかってないのか。そっちの情報も教えてくれ」
今度は吉岡が腹をくくる番だった。ひと声うなると、やつは諦めたようにいう。
「しかたないな。そのかわり、あとで話はきかせろよ」
「わかってる」
「被害者は二十八歳の主婦。今回は現金の被害はなし。気の強い奥さんだったらしいな。ショルダーバッグのストラップをつかんだ犯人の手をかなり強くひっかいたらしい。爪のあいだに男の生皮が残っていた。目撃者の話ではヘルメットの後部から、銀色の長髪がのぞいていたそうだ」
「ということは、犯人は髪型に変化はなく、どちらかの手に傷が残ってるんだな」
「ああ、そうだ」
それにたぶん手もちの金もわずかになっているはずだった。近いうちにやつらは、また動きだすだろう。吉岡はいった。
「こっちでも、その腕輪の話を確認しておく。だがな……」
驚いたことに、やつは一転して優しげな声をだした。
「……マコト、あまりむちゃはするなよ」
照れてしまった。
「わかってる。あんたこそ、あまりストレスためると、最後の髪も抜けるぞ」
おもしろくもない冗談を鼻で笑って、おれたちは通話を切った。日本の警察官は二十二万人と少々。まあ、なかには話せるやつもいる。
◆
その日はおおきなニュースがないらしく、引ったくり事件が夜のテレビニュースの最初に流れた。豊島区発の全国トップニュース。今回の被害者が妊娠八カ月だったことも、ニュースバリューを高めているようだ。
おれは果物屋で店番をしながら、画面を見つめていた。女性アナウンサーはカメラに目をすえたまま、冷静な声で読みあげる。
「主婦は事件のショックで切迫早産を起こしましたが、すぐ病院に運ばれ、母子ともに生命に別状はないことが確認されています。警察は現場周辺の聞き込み調査に全力をあげ、逃走した犯人の行方を追跡中です」
とりあえず赤ん坊と母親が助かったのはよかった。犯人は今ごろどんな気持ちでこのニュースをきいているんだろうか。小金のために赤ん坊を死なせなくてよかったと、胸をなでおろしているのか。それとも、なんの関心もなく乱れるほどの心ももたないか。
淡々と商売ものの果物を売りさばきながら、おれが気になっていたのは、このニュースをきいた喜代治と鉄の反応だった。犯人を見つけるまでがおれの仕事で、そのあとはあのふたり組が自由にやるという。おれにはよくわからなかった。
七十すぎの年寄りがいう「自由」って、いったいどんなものだろう。
◆
つぎの朝はうららかな春の日。階段をおりると、うちの店先はきれいに掃き清められている。律儀だ。ドアの足元に茶封筒がおいてあるのが目にはいった。拾いあげ、なかを確かめる。俳句の添削にでも使うような和紙の一筆箋に、達者にくずした万年筆の文字が散っていた。
「真島誠殿 ひと足先に西巣鴨で張り込みを開始致します。後刻、合流願います。
[#地付き]K/T」
気が早いのか、朝が早くて退屈なのか、喜代治と鉄は午前六時から張り込みにでかけているらしい。犯行時間から考えて、まともな職についているとも思えない犯人を早朝から張る。ご苦労な話。若いやつならどう考えても、昼近くまでは寝てるだろう。長く寝られるだけのスタミナがあるからね。おれはいつも通り市場に買いだしにいくことにした。
◆
豊島青果市場から戻り、さっさと店を開け終えたのが十一時半。おれはおふくろにひとこと残して、店のまえにとめたダットサンに飛びのった。途中でシャケ弁当と缶の緑茶を三人分買っても、余裕で正午まえには西巣鴨に到着する。
四丁目の商店街をゆっくりとすすんでいくと、例の木造アパートに続く路地の角に喜代治がいた。どこからもってきたのだろうか、道端にパイプ椅子をおいて、ひなたぼっこでもするように堂々と座っている。張り込み中というより、近所の店の隠居したジイサンのようだ。おれはダットサンを横につけると、ウインドウをさげた。
「おはよう、調子どう」
「若いやつはなまけ者でいかんな。まだ、それらしい男は誰もでてこん」
ちっとも焦っていない調子で喜代治はいった。むしろ最初にあったときより、いきいきとしているくらいだ。シャケ弁とお茶を渡してやる。
「すまんな。いくらだ?」
「いいよ、そんなの」
喜代治は毅然という。
「いいや、だめだ。ただで仕事を頼んで、昼飯までおごられるわけにはいかん」
口がへの字に曲がった。しかたない。
「三百八十円」
財布を取りだし、たくさんの十円玉と百円玉で払ってくれた。喜代治にもらった小銭は体温であたたかくなっている。やっぱり金って無理やり引ったくるもんじゃないよな。
◆
商店街沿いの路上駐車場にクルマをとめて、路地の奥で座っている鉄にも昼飯をもっていった。鉄も喜代治と同じだった。あのころの日本人には、理由もなく飲食をふるまわれてはいけないというしつけがいき届いていたのだろうか。それとも、おれなんかと同じで他人に借りをつくりたがらない、貧乏人特有の潔癖性なのか。
それから二時間、おれはクルマの座席で、ふたりは路地の両端を固めて、張り込みが続いた。午後二時すこしまえ、パイプ椅子に座る喜代治が右腕を高く伸ばした。合図だ。
おれはクルマをおりて、早足に喜代治のもとへ移動した。一方通行の路地に目をやる。距離にして二十メートルくらいだろうか。まだ幼い顔つきのガキがふたり、だるそうにこちらにむかって歩いてくる。年は十六〜七というところ。髪はふたりとも長く、シルバーのメッシュいり。日焼けサロンにでも通っているのだろうか、ミルクチョコのような褐色の胸をはだけ、揃いのスエードシャツを着ている。ジーンズはあちこちがすり切れた古着のようだ。よく似た印象のふたりだったが、背の低いほうが左手にバンダナを巻いているのが目についた。うしろをのろのろと鉄がつけてくる。
喜代治はともかく、おれがじろじろ観察しているとかんづかれそうだった。正面の金物屋の店先に目をそらす。のこぎり、レンチ、プライヤー、金色のやかん。春の午後の丸い光りを浴びて、金属の表がさまざまな色を見せている。
喜代治がパイプ椅子から立ちあがり、とめる間もなくすたすたとガキに近づいていった。声がでそうになった。おれもあわててあとを追う。距離は三メートル。ふたりともまるで年寄りなど目にはいらない様子だ。喜代治が声をかけた。
「あんた、ヤグチ・マサルさんかい。その手はどうなさった?」
ヤグチ・マサルは「シルヴァークロス」のリストにのっていた名前だ。ガキのうしろには、鉄が腰を落とし、足を広げ立っていた。クレーンを支える台座のような安定感。声をかけられたガキの目がきょろきょろと泳いだ。おれに気づいたようだ。
ヤグチは傷を隠すように右手を左手に重ねた。そのときおれにもはっきりとそれが見えた。手の甲でゆるやかに優美な曲線を描くブレスレットの十字。つや消しの銀は鈍く光りを撥ね、黒い漆は日ざしを吸いこみ底光りしていた。
◆
「約束だ。手は出さんでくれ」
喜代治が背中越しにいった。ガキも事態にようやく気づいたようだ。腰をさげ戦闘体勢を取る。ヤグチは右手で尻ポケットを探り、じゃらじゃらと鍵がついたキーホルダーをだした。鍵に混ざって小振りのスイスアーミーナイフが見えた。栓抜きやドライバーやペンチなんかがついた多機能ナイフだ。震える手で小指ほどの長さの刃を開いた。もうひとりのガキはあわててうしろを振りむく。鉄は土俵いりする力士のように、狭い路地いっぱいに腕を広げていた。
「なんなんだよ、このクソジジイ」
目のまえに浮浪者のような格好をした謎の年寄りがふたり。わけがわからないのも無理はない。ヤグチは泣きそうな声を漏らした。喜代治はナイフを見ても、まったくひるまない。長身の背筋を伸ばし、挨拶でもするようにまっすぐ歩いていく。ヤグチの顔が恐怖にひきつった。閉じたまぶたまで焼けたガングロの顔をくしゃくしゃにして、目を閉じ右手を喜代治の腹に突きだした。赤いハンドルの先で、銀のナイフがむきだしに光る。
「キヨジー、あぶない!」
おれが駆け寄ろうとしたとき、目のまえでそれが起こった。
◆
喜代治は腹に突きこまれたガキの右手を両手でつまむように押え、左に身体を開くと軽々と半転した。ガキはふわりと浮きあがり、きれいに宙に円を描く。ヤグチは足先からアスファルトにたたきつけられた。息のあった見事な演武のようだった。投げが決まっても、喜代治は手首を内側に折ったまま離さない。ヤグチは驚いて声もでないようだ。
すべては一瞬のうちに片がついた。凍りついたように見つめていたもうひとりのガキが身体の硬直を解いたとき、鉄がうしろから羽交い締めにした。こちらは技もなにもない。頭をガキの背中に押しあて、ただひたすら締めあげる。鉄の重ねたてのひらに静脈が盛りあがった。ガキの腰から力が抜けて、どすんと路上に尻が落ちるまで、さして時間はかからなかった。うつぶせの背中に座りこんだ鉄は、ガキの頭をひざで地面に押しつける。喜代治がいった。
「どうだった、鉄。わしの左足の運びは、きちんと扇を開いておったか」
鉄は荒い息をついたまま、頭を横に振った。
「喜代治も老けたものよ。危なくて見ておられんかった。のう、にいちゃん、喜代治は、昔はそりゃあ凄かった。わしなんぞもぽんぽんと投げられたもんだ」
あきれた。おれには足の運びどころか、どうしてヤグチが倒れているのかさえわからなかった。喜代治は恥ずかしそうにいう。
「まったくだのう。若いころなら、あの程度の突きなぞ、かすらせもせなんだ」
すり切れた革ジャンのまえを見た。横腹のあたりにちいさなくさび形の穴が開いている。喜代治は吐くように笑った。
「誰でも年は取るもんじゃ」
◆
おれは目を丸めて、ふたり組の動きを見つめていた。喜代治と鉄は、ガキのふところから財布を取りだし、おれに投げてよこした。喜代治がいう。
「免許証を抜いてくれ」
中型自動二輪の免許を残し、財布を戻した。一枚は矢口勝、十六歳。もう一枚は岸秀和《キシヒデカズ》、十七歳。悪ぶってカメラをにらみつけた童顔の写真がふたつ。喜代治は手首を折ったまま、ガキを引き起こす。矢口はそれだけしかできないといったふて腐れた表情。かわいげのないガキだ。
「さあ、いこうかのう」
歩きだした喜代治におれはいった。
「警察に突きだすのか」
矢口の背中が警察のひとことにびくりと反応した。
「いいや、こいつらのアジトじゃ。話をきかなきゃならんからな」
鉄は岸というガキの腰ベルトを両手でつかむと、ひっくり返すように立たせてやった。軟骨までピアスがはまったガキの耳元に口を寄せていう。
「逃げても無駄ぞ。おまえらの身元は、このにいちゃんが押えとる」
道端に落ちてるスイスアーミーナイフを拾うと、おれはアパートにむかう四人のあとを追った。
◆
階段を鳴らして二階にあがり、板戸を引いた。畳の目が見えない六畳間。なかは西一番街の路上よりも散らかっていた。食い残しの弁当や袋菓子、どろりとした中身に緑のカビが浮いたPETボトルが部屋一面に堆積して、ゴミを踏んで歩くしかない。鉄と喜代治はやつらを座らせ、正面にむかいあって腰をおろした。座るところがなくなったおれは、曇りガラスの窓を開いて窓枠に尻をのせた。外の新鮮な空気を深呼吸する。
喜代治は矢口の目をまっすぐにのぞきこんだ。
「さあ、話してもらおうかの」
◆
矢口と岸の話は、めずらしくもない話。おれの周囲には掃いて捨てるほどある。高校を中退してぶらぶら遊んだ。遊びにあきると仕事を探した。中卒では身体が楽で、金がよく、格好のいい職はなかった。あたりまえだ。ふたりとも自分でなにか努力したことはない。こいつらも小脳だけで生きてるトカゲの種族だった。
話の続きは単純だ。親がうるさいから家をでた。たちまちこづかいは底をついた。月に二万の家賃も払えず、腹が減って死にそうになった。最初の引ったくりを起こした。うまくいった。あとはただ習慣で続けた。けがをした人にはすまないと思っている。
泣きながら自分の事情だけ話す矢口と岸には、まったく同情できなかった。おれはだんだんいらいらしてきた。
「なあ、こんなやつら、警察に渡して、少年院でもどこでも送っちまえばいいじゃん。口先で反省してるだけだ。放っておけば、またつぎの引ったくりをやる。ほかにできることが、なにもないんだからな」
目を細めて話を聞いていた喜代治が、静かにいった。
「そうかもしれんな。だが、警察ならいつでもいける。もう一度くらいはチャンスをやってもいいじゃろう。おまえたち、丈夫な赤ん坊に感謝しとけ」
鉄がおれに金歯を見せた。
「にいちゃん、喜代治のいうことをきいておけ。そんなにせっかちじゃ、ねえちゃんだって逃げだすぞ」
喜代治はうなだれて鼻水をたらしているガキに声をかけた。
「ところで、おまえたち、早起きは得意かな?」
◆
おれは運転免許証をもったまま、その場を離れた。だから、そのあとの話はすべて西口公園で春の終わりになって、喜代治からきいたものだ。
吉岡には引ったくりの犯人は結局見つからなかったと報告した。途中まではうまくいったが、やはりだめだった。そういうと逆にやつになぐさめられた。ガキの情報だけじゃ、うまくいかないこともある。それでもあの腕輪に目をつけたのはなかなかのものだ。やっぱり警察官にならないか。おれは礼をいって断った。だって警察署より街のほうが千倍いいからね。
うちの店のまえの清掃は、雨の日も欠かさずぴったり三カ月続いた。年寄りがみな義理堅いわけじゃないだろう。喜代治と鉄がそういう人間だったのだとおれは思う。うちのおふくろは二週間目になると、売れ残りの果物をふたりにもたせてやるようになった。
喜代治はあの引ったくりのガキふたりにも同じことをやらせた。ただし、掃除するのはうちの店ではなく、なんと長谷部三沙男のスタジオまえ。あの目白のお屋敷町の通りだ。こちらも一日も欠かさず、誰がやったかも明らかにせず、ひたすらていねいに掃き清めていくだけ。
二カ月がすぎた六月の早朝に、奇跡は起こった。長谷部三沙男当人が例の革パンをはいて、階段をおりてきたという。やつは掃除の最中の矢口と岸に声をかけ、そのまま事務所に連れてあがったそうだ。長谷部はその場でふたりを仮採用した。なんだかおとぎ話みたいな話。
おれはベンチのとなりに座る喜代治にきいた。
「始めからあのガキを、『シルヴァークロス』にいれようと思っていたの」
喜代治は顔中のしわを中央に寄せた。笑ったのか、渋い表情をつくったのかわからなかった。年寄りの顔は複雑だ。
「そういうわけではなかった。わしが知っとる金持ちは、あの長谷部という男しかおらんかったし、この不景気に新しい店までだすという。それなら、人手も足らんだろうし、試してみる価値はある。だめでも毎日早起きして街を掃除するのは、あの子らにはいい修業になったろう」
鉄はまち子さんの車椅子を押して、円形広場のむかい側の弧を散歩していた。間近に迫った夏にそなえて、ケヤキの葉は春先より厚みを増している。さらさらと耳に冷たい葉ずれの音が、シャワーのように降ってくる。ウエストゲートパークには梅雨の晴れ間の夏を思わせる日ざしが注いでいた。おれたちのベンチに戻ってくると鉄がいった。
「近ごろのねえちゃんは凄いのう。平気な顔でパンツを見せよる。こっちが照れるくらいじゃ」
まち子さんは鉄の下ネタも意に介さないようだった。にこにこと上品に笑っている。久々の外出がうれしいのかもしれない。
「残念でした。あれは下着じゃないよ。階段なんかで見られてもいいようにはいてるスパッツっていうの」
おれの言葉に、鉄は金歯の先をきらめかせ首を振った。
「にいちゃんは若いのう。下着だと信じれば、下着に見える。それだけで生きとることが楽しくなるじゃろうに」
女の下着も、人間も、ときには信じてみろということか。喜代治が鉄を無視していった。
「だがな、別になにが変わるわけでもない。あの子らの将来になにが起こるかは、誰にもわからん。わしがやったことがいいのか、悪かったのか、わしらが死ぬまでわからんかもしれん」
おれは段ボールのうえで昼寝するホームレスのかたわらを、急ぎ足で通りすぎる池袋の人々を眺めていた。春のホームレスは、サラリーマンより幸せに見える。突然、『十字架上の七つの言葉』のソナタIの題名を思いだした。たぶん、その言葉は引ったくりのガキだけじゃなく、喜代治や鉄、それにもちろんおれのことをいっているのだろう。
「父よ、かれらをおゆるしください。かれらはなにをしているかを知らないからです」
まったくその通り。おれたちはいつも自分がなにをしているのか知らない。だが、それでもその春におれがやった確かなことがひとつだけあった。それは断言できる。
金がなかろうが、下ネタが得意だろうが関係ない。そのおかしな春の一週間で、おれは合計百四十歳を超えるダチをふたり得た。ひとシーズンなら、十分な成果じゃないか。あとのことは池袋の空のうえにいる誰かにまかせておけば、それでいい。
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水のなかの目
水のなかで目をいっぱいに開き、世界を見あげたことがあるだろうか。
ゆらゆらと揺れる透明なスクリーン越しに、奇妙にまぶしい空や歪んだ景色が広がっている。別に小笠原やモルディブの旅行パンフみたいな青版百パーセントの海の話をしてるわけじゃない。そのへんの遊園地や学校にあるありふれた二十五メートルプールの話。
まだら模様のコンクリートの底に張りつき、息をつめて水の天井を見あげる。水面にきらきらと反射する八月の日ざし。ちいさな波頭で弾けては結ばれる光り。友達の誰かの手足が扇のように撒き散らす無数の空気の粒。夏休みの熱気もひんやりとカルキ臭い水中までは届かない。もしかしたらあの世から見ると、おれたちの生きてる世界はこんなふうに見えるんじゃないだろうかと、おれはよく考えたものだ。ものすごくきれいで、光りにあふれていて、すべてがちょっとずつ歪んだ魅惑の世界。
生と死を分けるのは、薄っぺらな水のおもてだけ。あの水の鏡一枚だ。波立つ鏡に手を浸す。おれたちは死ぬ。滴をたらして手をあげる。おれたちは息を吹き返す。その繰り返しですぎていく夏の午後。
子どものころばかりじゃない。おれは今年の夏だって、水のなかから世界を見あげた。池袋の星のない夜空が見えた。そのときは、ちょっとばかり自分の死を考えた。
それから水のなかの目を見た。海藻のように揺れる目に映る絶望。おれはあの目を死ぬまで忘れないだろう。やつはもう鏡のむこう側から決してあがってはこない。
やつが揺れ動くスクリーン越しに見た最後のイメージは、間違いなくこのおれだ。互いに見つめあったまま、ゆっくりとやつは沈んでいった。水面で屈折したおれの表情は、やつにはどんなふうに見えていたのだろうか。怒り、哀れみ、恐れ……もしかすると、愛しさ。
このつぎプールの底に潜ったら、聞いてみるのもいいかもしれない。
こたえはわからないけれど、どんな様子でやつがこたえるのかおれにはわかる。やつは誰よりも自分の魅力を知っていた。恥ずかしそうに笑いうつむき加減で、やつは控えめに甘い声をだすだろう。
「ねえ、ねえ、マコト……」
あの声が聞けないのは、今も残念だ。
◆
その年の八月、おれは初めて長いものを書こうとしていた。おれの実力からすればアロハシャツにサンダルばきでヒマラヤに無酸素登頂するようなもの。無謀もいいとこ。おれがストリートファッション誌に連載しているコラムは原稿用紙八枚。さっと斜め読みして、ちょっと危ない小ものが転がった小部屋に入り、すぐ読み切って忘れてしまうにはちょうどいい長さだが、だんだんとそれだけではもの足りなくなってきた。書くことのなかで、もっと登ってみたい、苦しんでみたいという気になったのだ。工業高校を卒業してから読書に目覚めた奥手のライターにしては、高望みのしすぎだろうか。
だが、長いものを書くといっても、なにを書いたらいいのか、さっぱりわからなかった。おれには波瀾万丈の物語は書けそうもない。これまでのネタもみんな池袋の街で出会いがしらに衝突したものばかり。鮮度はよくても、たいして代わりばえしないネタだ。シーラカンスの刺身みたいな、世のなかがあっと驚く一品はだせそうもない。そこでおれは考えた。みんなが知らないことを書けなければ、みんなが知っていることを書けばいい。
この池袋の街で発生し、おれと同じようなガキどもがかかわっていて、しかも全国的に名を知られた事件。そいつをきちんと調べあげ、おれなりに書くのだ。それだけの条件を満たすものといえば、思い浮かぶのはあの一件しかなかった。おれの住んでる西池袋の隣町で、三年まえに起きた事件だ。
町の名は東京都豊島区千早。これだけで思いだす人間もきっと多いだろう。
そう、あの悲惨な「千早女子高生監禁事件」。これなら、なんとか調べられるとおれは軽薄に判断をくだした。主犯の少年Aと従犯の少年B・Cは、好都合にもおれと同じ年。さらに下っ端のD・Eは年下なのだ。まあ、なんとかなりそうだ。
それが間違いの始まりだった。年がわかれば、その人間がわかるなんてまったくバカげた考えだよな。愚かなエイジズム。同世代だろうが、若かろうが、人間なんてみんなただの謎で、等身大のクエスチョンマークが服を着て歩いてるようなものだ。
なっ、あんただって自分のことなど、爪の先ほどもわからないだろ。
◆
事件は当時十七歳の都立高校二年生・牧野亜希が、アルバイト帰りに行方不明になったことから始まった。おれは制服姿の亜希の写真を見たことがある。しばらく見ていると目を閉じてもまぶたの裏が青く染まる夏空のような、透明感のあるきれいな女の子だった。その笑顔に起こった不幸を知っているせいで、なおさら切なく感じたのかもしれない。
その日は七月最後、快晴の土曜日で、亜希はグリーン通りにある喫茶店で一カ月分のバイト代四万足らずを受け取っているという。娘が翌日曜の深夜になっても戻らないので、両親は池袋警察署に失踪届をだした。小金をもった娘が夏休みの直前に家出するのはよくあることで、少年課では規則通りの手続きを踏んだが、格別の捜査態勢を敷いたわけではなかった。すべては夏のせいなのだ。男とけんかをするか、金を使い果たせば、娘は帰ってくる。
だが、亜希は一週間しても戻らなかった。堅い勤め人の両親はひどく心配したが、警察からの連絡はいくら待ってもやってこない。学校側でも友人関係やボーイフレンドなど、ひと通りの聞き取り調査はすすめたが、結果は空振りに終わった。そのままいけば亜希は池袋のジャングルに消えてしまう、年に何人かの未成年のひとりになるだろう。今どき神隠しなんて流行らないが、消える人間が実際にいる以上しかたない。
事件が急転回を見せたのは、二週間後の土曜日だった。山手通りを走っていたタクシー運転手が、路地を飛びだしてきた娘をひいた。時速は法定速度をわずかにうわまわる五十キロプラスα。娘はがりがりにやせ細り、すだれのように引き裂かれたTシャツ一枚を、全裸にかぶっただけの姿だったという。救急車で運びこまれた敬愛病院で、娘は自分の名と両親の連絡先を虫の息で漏らした。
娘の異常に気づいた医師が警察に通報し、事件はおもてざたになった。牧野亜希は全身を強打しており、警察からの連絡で両親が病院に駆けつけるまえに息を引き取った。最後の言葉は「すみません、なにか食べるものをください」。頭蓋骨が割れているのに、それでも腹が減ってたまらなかったのだろう。
交通事故による頭部挫傷という死因に疑問をもった池袋署では、牧野亜希の遺体を司法解剖にまわした。つぎの文章は担当医の供述だ。
◆
「解剖時の被害者の体重は、三十九キログラムである。四月に実施された都立高校での体重測定では四十七キログラムだったので、失踪後の二週間で体重の減少は二割近い八キログラムに達する。皮下脂肪の厚さは、通常この年齢の婦女子の場合一・五から二センチメートルくらいであるが、被害者の場合一センチメートルを切っており、たいへんな栄養失調状態にあったと考えられる。重度の運動障害を起こしていた可能性もある。どの程度食事をとっていなかったか、遺体から判断するのはむずかしいが、監禁をおこなった少年たちは、ほとんど食事をさせていなかったのではないかと考えられる。
また、交通事故による右体側面だけでなく、遺体の全身に殴打によるものとみられる浮腫が散在している。これによる外傷性ショックのみで、死に至る危険が存在したことは指摘しておかなければならない。腟および肛門には複数の裂傷が、両乳房および外性器には真皮層に達する火傷が認められる。陰毛の先端は加熱により丸まっていた。供述通り、少年たちは退屈すると、被害者の陰部に火を放っていたのではないか」
◆
おれなら供述はひとことですむ。「なぶり殺し」
◆
目撃者の証言により、娘が裸足で飛びだした家がその日のうちに判明した。千早一丁目。もう二十年もまえに分譲された建売住宅が並ぶ一角だ。自動車が一台通るのがやっとの路地のどん詰まりにその家が暗く建っている。ほこりっぽくすすけた黄土色のモルタルの、ちいさな二階建ての一軒家。
その二階の六畳がガキどものたまり場で、四畳半が牧野亜希の監禁部屋。おれはこの事件について調べるたびに、その部屋で三年まえの二週間におこなわれたことを想像して気分が悪くなった。理由は簡単だ。あんなに恐ろしいことなのに、おれにはやすやすとそこでおこなわれていたことが想像できたから。獣のようなガキなんて、自分とは別な種類の生きものだとすましてはいられなかった。
二階の闇は、誰の心のなかにもある。
◆
おれがのろのろと「千早女子高生監禁事件」を調べていた今年の七月、池袋の街でもいつものように事件が起こっていた。だが、こちらは全国的どころか、地元の警察署でさえ知られていない幻の、事件ではない事件だ。
ところで、あんたは「大人のパーティ」を知っているだろうか。
◆
下品な話で失礼。よい子は飛ばして読んでくれ。
「大人のパーティ」はきっちり本番まである裏風俗だ。もちろん違法だから、警察署や衛生局への届け出はしていない。東京中に散らばっているが、なんといってもメッカは巣鴨・大塚・池袋を擁する豊島区の一帯。正確には何軒あるかわからないが、夕刊紙をざっと眺めただけでも、この地域で二十軒以上は店を開けているのではないだろうか。
システムは簡単(なんで風俗関係者はこの言葉が好きなんだろう)。レジャー欄にぼうふらのように湧いている三行広告を見て、あんたは電話する。たぶんそこには「池袋大人のパーティ、新規開店! 女の子はすべて二十代!!」なんて書いてあるはずだ。
店の受付は最寄り駅からの道順を、録音テープのように繰り返すだろう。駅から歩いて五、六分であんたは新しくも古くもない、高級そうでも最低でもない中層マンションのまえに立つ。部屋番号はわかっているから、下心をかかえたまま平静を装い、エレベーターでまっすぐパーティの開かれている部屋にむかう。
チャイムを鳴らすと先ほどの受付の男か女が、覗き穴からあんたが私服の刑事かどうか確かめて、ドアを開けてくれる。金の受け渡しは玄関先だ。値段は可能な回数や時間によってまちまち。金を払うとすぐにシャワーに追いやられ、ラブホテルにおいてある寝巻きみたいな間の抜けた格好に着替える。
脇のしたを湿らせたまま、あんたはリビングルームへ移動するだろう。「大人のパーティ」へようこそ。テーブルというよりちゃぶ台には、乾きものや簡単な仕出しなどつまみが並び、そのまわりを何人かの男と女が囲んでいる。混浴サウナの待合室みたいだ。ざっと見たところ、女は二十代もいれば三十代もいそうだ(もちろん熟女が売りの店なら六十代も、ことによると七十代もいる)。
あんたは水割りだかウーロン茶だかをひと口すすると、男好きのする二十代後半のスウェットシャツを着た女(グラマーというよりちょっと太った鈍そうな女)に目くばせする。女はうなずいて立ちあがる。あんたは女といっしょに寝室に続くドアのまえに立つだろう。安普請のマンションの薄い扉を通して、なかから男と女のうめき声が聞こえてくる。アダルトビデオではなく生の音。寝室のなかはかげろうの羽のようなカーテンで仕切られ、布団が何組か敷かれているはずだ。
寝室でなにをするかは、そっちで想像してくれ。
◆
「大人のパーティ」は完全に非合法なので、組の直営店でもなければ、どこかの組織に必ずみかじめ料は払っている。客とのトラブルや騒動が起きても、裏風俗では警察を呼べないからだ。
男たちは比較的リーズナブルに本番ができる。女たちは見ず知らずの客とふたりきりで密室にいかなくてもいい金になる。経営者は当然儲かるし、そんなところで騒ぎを起こす客なんてめったにいないから、暴力団も楽な商売ができる。考えてみれば、うまくできたシステム! なのだが、その盲点を突くやつが、この夏池袋にあらわれた。
禁じられた商売の、あるはずのないあがりをさらっていく、四人組の強盗団。
パーティ潰しだ。
◆
七月二十一日、明日から夏休みにはいるという金曜日の夕方、店番をしているおれのPHSが鳴った。ジーンズの尻ポケットから取りだし、耳にあてる。
「マコトか、おれ、フジオ。今なにしてる?」
斉藤富士男のあだ名はサル。チビでいじめられっ子で、おれの中学の同級生。今は羽沢組若衆のホープだった。
「街を見てる」
おれはうちの果物屋の奥に突っ立ち、西一番街を通りすぎる通行人を眺めていた。酔っ払いのすくないこの時間、店はいつも暇なのだ。
「そうか。今夜、時間をつくってくれないか」
声の様子が真剣だった。サルにしてはめずらしい。
「いいけど」
「もう一年もまえになるが、うちのおやじと会った店を覚えているか」
覚えているといった。南池袋本立寺の脇に建つ高級クラブばかりはいったビルだ。もちろんあれから一度も足を運んではいない。
「あの店に夜十時にきてくれ。おまえのダチの安藤も、うちのおやじも待ってるはずだから、時間は正確にな」
タカシも顔を見せるという、それならGボーイズ絡みの話なのだろうか。なんの用だといおうとしたら、切れてしまった。気の短いサル。
◆
すぐにタカシにPHS。いつもとは別の取次がでて、おれの声を聞くとなにもいわずにまわしてくれる。
「タカシのとこ、取次が何人いるんだ」
池袋のギャングボーイズの王様・安藤崇は、鼻で笑ってこたえる。
「おまえのつきあった女の数よりは多いだろうな」
おれがどんなにもてるか知らないのだ。あさはかな王。
「ところで、今夜の羽沢組の用件はなんなんだ」
タカシの短い笑い声が聞こえた。
「おれにもおまえにも、あまり関係はない。パーティ潰しの噂は聞いてるだろう」
「ああ」
池袋のストリートで毎日しのいでいれば、嫌でも街の噂には詳しくなる。ヤクザさえ恐れないパーティ潰しの話は、ガキどものあいだで現在進行形の伝説になっていた。笑いをふくんだ声で、タカシは話す。
「昨日の夜、四件目が襲われた。北大塚のパーティだそうだ。そこは関西系の息がかかった店なんだが、これで羽沢組と豊島開発と関西系の池袋三大勢力の店が襲撃され、金を奪われた。やつらにすれば面目まる潰れだな」
タカシの声は愉快そうだった。
「Gボーイズはかかわってないんだろう」
「ああ。そんなことに手をだすやつがいるなら、やばい匂いくらいはする。うちはどのチームもクリーンなものだ。おれたちとやつらの組織じゃ同じ街で生きていても、テリトリーが違う」
実際そうなのだ。池袋の灰色ゾーンは、真っ黒ゾーンと同じくらい広大だ。たがいに相手と目をあわせることもなく、たくさんの組織が共存しているし、その気になれば隠れる場所だっていくらもある。
「わかった。やつらもパーティ潰しを必死に追ってる。それでも足りなくて、ガキどもの世界にも網をかけたいということか」
「ああ、Gボーイズにしてみれば、ただのビジネス話だ。十五分まえにクルマをやる。使ってくれ」
「サンキュ。じゃあ今夜」
◆
夜九時四十五分、おれは一日の店番でひざの抜けたジーンズと汗まみれのTシャツのうえからナイロンパーカをかぶり、Gボーイズのクルマにのりこんだ。真新しいベージュのマツダMPVだ。なぜ、ガキのくせにいつもこんなに金があるんだろうか。おれの財布はいつも軽いのに。
ミニヴァンが東口のグリーン通りを右折するとき、牧野亜希がアルバイトをしていたガラス張りの喫茶店が一瞬見えた。なぜか、客は女ばかりだった。本立寺のつきあたりでクルマはとまり、おれは礼をいってドアを開けた。真夏なのにラスタカラーのニットキャップをかぶったGボーイの運転手は、バックミラーでおれの視線を捕らえると、にこりともせずにただうなずく。
おれは路上におりるとコンクリート打ち放しのビルを見あげた。腕のカシオは十時五分まえを指している。いいだろう。鏡張りのエレベーターにのりこんだ。天井の四隅にはちいさなシャンデリアが、一年まえと同じように揺れていた。薄くほこりをかぶったガラスの涙が百滴ずつ。
扉が開くと、狭いエレベーターホールはヤクザものでごった返していた。誰もが暴力衝動をむきだしにして、たがいをねめまわしている。エサやりを忘れたサメの檻みたいだ。おれがドアのまえに立つと、なかの一匹が声をかけてきた。
「おまえ、何者だ」
「真島誠。羽沢辰樹さんと約束があってきた」
おれはサメ男の目は見なかった。頭の悪いのが移りそうだったので。
「通れ」
とがったあごをひと振りすると、やつはおれに関心をなくし、サメ同士のガンの飛ばしあいに戻っていった。中央部だけ鈍く光る真鍮の取っ手を引いて、店内にはいった。こちらも一年まえと変わらない。沈んだ赤のカーペットに、孤島のように離れて赤い円形のソファがぽつぽつと浮かんでいる。店の入口近くに三つの集団が固まっていた。左手のカウンターの両端と右手のボックス席。四、五人のグループが、距離をおいて相手を牽制しあっている。すこしだけ成長したサメの兄貴分たちだった。やわらかなカーペットを踏んでフロアをすすんでいくと、店の奥は急に人口密度がさがった。
円形ソファをふたつつなげて、一方にタカシが背を伸ばし、もう一方にはお偉いさんが顔を揃えていた。天井に埋めこまれたダウンライトがまっすぐに注ぎ、誰の顔にも彫りつけたような深い影が落ちている。お偉いさんは三人。関東賛和会羽沢組組長の羽沢辰樹の鷲の顔、豊島開発社長の多田三毅夫の小造りのきざな顔、それにおれが知らないもうひとりのでかい丸鼻とぎょろ目の男。たぶん関西系の誰かさんなのだろう。
光りの輪のなかにすすみでると、羽沢辰樹が唇を五度ほどつりあげ、おれにいった。
「喜代治が世話になったそうだな」
うなずく。負けずに多田三毅夫がいった。
「うちの息子の話も聞いた。あんたには借りができた」
ぎょろ目の男はさらに目玉を剥いておれを見あげた。何もんだ、このガキ。ほとんど真円に近い目になった。西川きよしか、あんた。羽沢辰樹が枯れた声を出す。
「真島誠さんは、池袋じゃ有名人だ。こちらが聖玉社の里見裕造さんだ」
ぎょろ目は黙っておれにうなずいた。タカシの隣に腰をおろす。多田三毅夫が咳払いをすると口を開いた。
「みなさん忙しいだろうから、さっそく本題にはいろう。パーティ潰しの一件は、ここにいる人間なら、みなわかっているはずだ。私たちは、やつらをなんとしても抑えたい。償いはさせなきゃならん」
お偉いさん三人の顔から表情が消えた。あたりの空気がシベリア寒気団のように冷えこむ。こいつらの財布に手を突っこむやつって、いったいどんな面をしているんだろう。
パーティクラッシャー、確かに伝説になるだけのことはある。
◆
「こいつは警察まかせにはできない。被害届をだせるような筋じゃないからな。そこで、真島さんと安藤さんのチームにも応援を頼みたい」
進行役は多田のようだった。羽沢と里見は黙ったまま、ときどきうなずいている。おれはいった。
「別にかまわないけど、なぜおれたちなんですか」
「パーティの受付が潰し屋の顔を見ている。まだ、ひどく若い男らしい。ガキといってもいいくらいだ。そっちはあんたたちの専門だろう」
非合法の風俗はガキの客でも千客万来というわけか。タカシはおれを見ると口を開いた。多田に負けない冷たい声だ。
「Gボーイズへの報酬は?」
お偉いさんは視線を交わしあった。
「三百でどうだ」
タカシはうなずいた。もともと金には淡泊なやつなのだ。三百万円の報酬に加えて、池袋の裏を仕切る三つの組に貸しをつくれるなら、まったく悪い話ではなかった。だが、どんなにお得でも、おれには関係のない話。
「待ってくれ。おれはGボーイズのメンバーでもないし、その金とも絡んでない。そいつを確認しておいてもらいたい」
多田が不思議そうな顔をした。
「あんたも別口の報酬が欲しいのか」
「いいや。おれは金はいらない。だから、自由に動かして欲しい。そちらの組織もGボーイズにもくっつかずに、おれはおれなりに動きたい」
背中がぞくぞくするような視線がおれに集まる。たいした貫禄だった。三匹のボスザメのいるプールに肉を抱いて飛びこんだみたいだ。タカシがフォローしてくれた。
「マコトはこういうひねくれものだが、Gボーイズの頭脳だ。こいつがおりるというなら、おれたちもこの話はなかったことにしてもらう。そちらでも、ストリートを嗅ぎまわるこいつの特殊なカンは、よくわかっているだろう」
そういいながら愉快そうにちらりとおれを見る。羽沢辰樹は鷲の鼻筋を振って、多田と里見に目で同意を求めた。顔を崩し、とりなすようにいう。
「どうだ。この若いのの器量を信じてみんか」
多田もうなずいた。銅像のように立派な顔をした里見が、初めて厚い唇を開いた。冷蔵庫の奥で忘れられたタラコのように乾いて赤黒い粘膜。
「ご両人がそうおっしゃるんなら、おまかせしましょう。ただ今回のパーティ潰しは、ひどく荒っぽいやつらだ。集団で動いているのも間違いない。真島さんが危険な目に遭わないように、ボディガードをひとりつけたいんだが、かまいませんか」
里見は丸い目玉をおれからまったく動かさずにそういった。どんどん視線の圧力が高まってくる。ふざけた口を利いたら、ひねり潰すぞ、ワレ、このクソガキ。
「かまいませんよ」
ボディガードのひとりくらい、池袋の街でならいくらでもまくことができる。おれのようなガキに、それほど切れものをつけるとも思えなかった。
「じゃあ、話はこれで終わりだ。よろしく頼む。私たちは続きの話がある」
多田はあっさりそういうと、おれとタカシを見て、店の出口を見た。やんごとなき玉座のまえから退出せよという洗練された合図だ。おれは軽く会釈して席を立った。タカシも焦る素振りなど見せずに続く。おれたちは岸壁を離れる客船のように、糸を引くヤクザものたちの視線を振りほどきながら、ゆっくりとクラブをでた。
おっかない。おれには水族館の飼育係はとても無理。
◆
エレベーターをおりると、水商売ビルのまえにメルセデスの4WDがとまっていた。おれたちが近づいていくと、さっきとは別のGボーイの運転手がおりてドアを引いてくれる。
「乗ってくれ、こちらもまだ話がある」
クラブのなかでは液体酸素のように冷たかったタカシの声に、微妙な熱を感じた。不吉だ。おれたちが後席にのりこむと、滑るようにメルセデスが発車した。磨きぬかれた窓のなかを本立寺境内の七月の木々が動く。夏の夜の鮮やかな緑がいつまでも目に残った。
「一昨日の話だ。マコトもキラーズーというチームは知ってるな」
殺し屋動物園か、いかにもGボーイズのチームらしい名前。去年の春のストラングラー騒動のときに、どこかのいかれた麻酔医を発見したガキは、確かキラーズーのメンバーだったはずだ。
「続けてくれ」
「キラーズーは池袋のGボーイズのなかでも、有数の武闘派だ。そいつらが襲われた」
タカシの話によると、WAVEのすこし先の明治通り沿いにとめてあったキラーズーのホンダSMXが、鉄パイプをもったやつらにいきなり襲撃されたという。水曜日夕方のラッシュアワーの人波のなか、SMXのなかにいた五人のメンバーはシートからひきずりだされ、路上でめった打ちにされた。クルマもサンドバッグのようにやられ、ゼブラ模様のボディはゴルフボールのディンプルみたいにくぼみだらけになった。
「ストラングラーで手柄を立てたあいつはどうした」
「ヨシカズか。両方の鎖骨を砕かれて病院送りだ。話を聞いてみると、襲ったやつらは四人組で、黒い目だし帽で顔を隠していたそうだ」
「なるほど」
メルセデスは雑司が谷霊園のまわりをゆっくりと右回りに周回していた。タカシが鼻で笑った。
「なにがなるほどだ。おまえがくるまえにおれは多田のおやじから、パーティ潰しの話をもうすこし聞いている。やつらの売春部屋を襲ったのも、黒い目だし帽で顔を隠した四人組だったそうだ」
おれは黙りこんだ。ひんやりと冷たそうな墓石の頭が、ときどきコンクリートの塀越しに見え隠れしている。
「組織の金づるに平気で手をだし、Gボーイズのチームを真っ昼間に襲う、そんな命知らずの四人組が、この池袋にそうそうたくさん転がっているか。どこのガキのあいだで黒い目だし帽が流行ってるんだ。パーティ潰しを追ってるのは、組関係だけじゃない。やつらはGボーイズの敵でもある」
タカシはそこで声を低めた。
「確かにおまえはGボーイズのメンバーじゃない。誰もおまえには強制することはできない。だから、今回おれは友人として頼みたい。ヤー公からの注文のやっつけ仕事じゃなく、このパーティ潰しの一件は本気でやってくれ」
驚いてタカシを見たが、やつは窓の外に目をやったままだった。Gボーイズの王様が誰かに頼みごとをする。真夏に雪が降ることもある。おれだけじゃない。運転手が息をのんでいるのが、シート越しに肩の線を見ただけでわかった。おれはようやくいった。
「いいよ。打てる手はすべて打ってみる。でも、おれもひとつ聞きたいことがある。Gボーイズはパーティ潰しを見つけたらどうするつもりなんだ」
正面をむいたままのタカシの顔に、ゆっくりと薄い笑いが戻ってきた。
「きついお灸をすえてやらなきゃならないだろうな。だがな、マコト、組のやつらはそんな甘いことを考えちゃいない。やつらが先にパーティ潰しを見つけたら、どこかの山のなかに墓石のない墓が四つ並ぶことになる。平和主義者のおまえには、とても耐えられない光景だろう。まあ、おれは別にどっちでもいいけどな」
そういうとタカシは霊園のほうにあごをしゃくり、にっこりと笑って見せた。池袋の女たちがキャーキャーと群がる甘い笑顔。視線の先に目をやった。確かに墓石は見えなかった。メルセデスの右手に延びる塀は、どこまでも続く灰色の帯だ。
いつなくしてもいいと開き直ったパーティ潰しの命を、なぜおれがしゃかりきになって守らなければいけないのだ。どこの誰かも知らないのに。メルセデスの滑らかなのり心地とエアコンの効いた静かなキャビンに、おれはだんだん腹が立ってきた。
「ウエストゲートパークにやってくれ」
むかついてそういうと、タカシがいった。
「気にするな。甘いのがマコトのいいとこだ」
そんなことをいわれても、ちっともうれしくない。
◆
おれは西口公園のベンチでしばらく頭を冷やした。自分の部屋に戻っても、とても眠れそうにない。午後十一時の円形広場では、夏休みが近づいたせいか、蛾のように着飾った男や女がまだぶんぶん飛びまわっていた。まあ、本当の蛾とは違って、やつらは街灯の光を避けてうろうろしてるんだが。おれはただ夜の街の空気を吸い、目のまえのバカげた夏景色に心を開いていた。この街で育ったおれには、これが一番のリラクゼーション法なのだ。大自然のなかじゃあ、ストレスで一時間ともたない。
十一時半、そろそろ帰ろうかと腰をあげたら、尻ポケットのPHSが鳴った。
「はい、マジマです」
おずおずと震える少年の声が返ってくる。
「あの、今日の昼間……留守電のメッセージ……あの、聞いたんですけど」
その日の午後おれは「千早女子高生監禁事件」で主犯のAに脅されて仲間に加わったという少年Eに連絡を取っていた。Eの名前は牧野温という。なんと驚いたことに、監禁されて事故死した被害者、牧野亜希の三歳違いの実弟だそうだ。調書ではアツシはたびたびAらに暴力を振るわれ、使い走りをやらされていたらしい。いい女だから、姉貴を呼びだせといわれ、また一時間殴る蹴るの暴行を受けるのが嫌で、弟は姉を地獄の四畳半に呼びだした。気の弱い、悲しい十四歳。犯人のなかでアツシだけが保護観察処分で済み、少年院に送られていない。
「こちらこそ、突然電話してすみません。おれは雑誌にコラムなんか書いてるセミプロのライターで、真島誠といいます」
アツシの荒い息が聞こえた。台風みたいだ。
「はい、あの、ぼくもマコトさんのことは知っています……『ストビー』のコラムも読んでるし、Gボーイズの集会で見かけたこともあるし……あの、マコトさんはあこがれの、あの……」
語尾は風切り音にまぎれて、消えてしまった。タカシと違い、おれには男性ファンのほうが多いらしい。
「ありがとう。今、本を書こうと思って、監禁事件のいろんな関係者に会って話を聞いてるんだ。そっちには不愉快な過去の話かもしれないけど、協力してもらえるかな」
「はい、はい……あの、ぼくでよかったら、よろこんで……」
つぎの日の午後、ウエストゲートパークで会う約束をしてPHSを切った。パーティ潰しと監禁事件、両方を一度に追うのはきつそうだが、なぜか忙しすぎるくらいのほうが、おれの場合仕事がはかどる。
重なる締切とか、年末進行とかね。根が貧乏性なのだ。
◆
つぎの朝、市場から戻り、ダットサンからスイカの段ボールをおろしていると、見かけない中年男が店のまえのガードレールにもたれていた。二十箱、合計四百キロ分の荷を店の奥に運び、ひと息ついていると男がやってきた。
「あんた、真島誠さんだろ」
汗をふいてうなずいた。背の高さはおれと同じくらい、腹はLLサイズのスイカをひとのみしたくらいつきだし、ポロシャツの肩と胸が鎧でも着こんだように丸々と厚かった。第一ボタンを開いた胸元で、きざな細い金のネックレスが胸毛と絡んでいた。生えぎわが後退した額のしたには困った表情を浮かべている。気の弱いポパイだ。
「そっちの名前は」
中年男はさらに困った顔をした。おれを通り越して西一番街のあちこちに視線を動かす。なにか見つけたようだ。男は声帯にも脂のついた太い声でいう。
「ミナガワ。聖玉社の里見さんに頼まれてきた。みんな肉屋と呼んでる。どっちでも好きなほうで呼んでくれ。今日からあんたといっしょに動く」
皆川書店はうちの筋むかいのエロ本/アダルトビデオ屋だ。道端にでかい看板をだしている。本名は名のりたくないらしい。中年男につっこむのはやめておいた。
「わかった。それでおれのボディガードをやってくれるんだ。あんたも組の人間なのかな」
ミナガワは首を横に振った。もみあげのなかを汗の玉が落ちていく。
「いや。聖玉社とは関係ない」
フリーランスのボディガードなどという仕事が、この日本で成り立つのだろうか。考えられるのは、組織の出入りに腕貸しする荒事師というところか。おれは店開きに戻った。ミナガワはなにもせずに待つことが苦にならないらしい。ガードレールに座り、ただなにもせずにいる。二十分後、おれはミナガワに声をかけた。
「さあ、いこう。今日の予定は、西口公園で人に会い、それから、最初に襲われた大人のパーティの聞き込みだ」
ウエストゲートパークに着くまで、ミナガワはおれのうしろ斜め左にぴたりと張りついて離れなかった。肩が凝る散歩。
◆
円形広場であたりのベンチを見まわした。昼休みのサラリーマンやOLに混じって、ひとりぽつんと座っているガキがいる。ぶかぶかの横縞長袖Tシャツにオリーブ色のチノパン。ひと目で牧野温だとわかった。亜希の写真にうりふたつだったからだ。
自分がいわれたことがないせいか、美少年なんて言葉は大嫌いだが、アツシはまぎれもない美少年だった。近づいていくと、やつは飛びあがるようにベンチから立ち、おれに頭をさげる。じゃらじゃらとチェーンの鳴る音がした。アツシは腰にキーホルダーや携帯電話やうさぎの尻尾なんか、がらくたを山のようにさげた鎖を巻いていた。先は長くひざのしたまでたれて、先にT字型の止め金がついている。
おれは自分にむけられた顔を至近距離で見てびっくりした。目玉が球体であることがはっきりとわかるふた重のおおきな目、まっすぐに通った細い鼻筋、こけた頬に上品にとがるあご。黒髪は風になびく自然なカールで、すっきりと伸びる首にかかっている。男女に関係なく、どのパーツにも文句をつけられない顔を、おれは生まれて初めて見た。だが、アツシはきれいな顔の表面に、居心地の悪さでも感じているらしい。電話のときと同じように、びくびくとしていった。
「あの、こんにちは、初めまして、マコトさん……あの、そちらの人は?」
おれのうしろに立つミナガワと、絶対に視線をあわせないようにしている。
「ああ、気にしないでくれ。といっても無理だよな。ミナガワさん、彼はパーティ潰しとは関係ないんだ。ちょっと話をするあいだ、隣のベンチにでもいっていてくれないか」
ミナガワは半眼でじっとアツシを見つめたまま、いわれた通りに移動した。油田のパイプラインみたいなステンレス製ベンチに腰をおろす。おれはパーカのフロントポケットから、ノートとシルヴァークロスのボールペンを取りだした。
「成瀬彰とは、どこで知りあったのかな」
アキラは監禁事件主犯の少年Aの名前。その名を聞くとアツシは、目に見えて震えだした。手のひらにのる臆病な座敷犬のようだ。
◆
アツシの話がおろおろとはじまった。あの、あのとか、それから、それからなんて間の抜けた言葉はカットしてあるから、適当にはさんで読んでくれ。
「アキラくんとは、同じ町内で育ったから、気がついたらいっしょに遊んでた。ちいさなころからガキ大将で乱暴はすごかった。八つのときに砂場でおもちゃの取りあいになって、年上の男の子の頭をうしろから金属バットで殴りつけたことがある。ぴゅーって噴水みたいに血がでて、その子は救急車にのせられてった。砂場は真っ黒になったよ」
おれは要点だけの簡単なメモをとり、あいづちをいれる。真夏の日ざしが石畳に落ちて、広場のむこう側にそびえるビルが熱気で揺らいでいた。
「子どものころってさ、ゲームとかマンガなんかで、人が死ぬとカッコいいなって思ったよね。ぼくたちの仲間のあいだでも、悪いことや残酷なことが、カッコいいことになっていた」
そういうとアツシは遠い目をする。どこか遥かな、この世とは別な世界でも見ているような目。まつげにマッチ棒が十本くらいのりそうだった。
「銃で人が撃たれるとカッコいい。その銃だって、できるだけおおきなやつがいい。ナイフで人が刺されたり、爆弾で手足が吹き飛んだりすると、どきどきする。普通そういうのって、小学校の高学年くらいになると、子どもっぽいって忘れちゃうんだけど、アキラくんたちは違ってた」
おれにもガキの気持ちはよくわかる。悪くて、クールで、タフでいたいのだ。世界中ででかい面をするアメリカ映画を見るといい。銃と爆薬を禁止にしたら、あれほど外貨を稼げるだろうか。
「アキラくんはよく話していた。おれたちは悪いことをすべてやってやろう。ドラッグをやり、盗みをやり、人を痛めつけて、男も女も子どもも殺してやろう。悪いことを全部やり、有名になって、誰よりもカッコよくなるんだって」
あの悲惨な監禁事件は、なかよしの幼なじみのあこがれから始まったのだろうか。救われない話。十七歳の女子高生に二週間、食べものも与えず、輪姦と殴打を繰り返していた。ただそれがカッコいいからなのか。
亜希が交通事故死したのは、ガキどもには幸運だった。カタをつけてくれたのがタクシーだったせいで、主犯の成瀬彰さえ未成年者略取と監禁致傷の罪だけで、少年院送致も三年で済んでいる。おれはメモから目をあげていった。
「アキラたちが亜希さんに、その、暴行を加えていたあいだ、なにをしていたのかな」
アツシは初めて伏せていた目をあげて、おれの目をまっすぐに見た。怒ったように、低い声でいう。
「隣の部屋にいたよ。隅っこで耳を押えて、目をつぶり、アーアーってずーっと声をだしていた。ぼくは勇気がなくて、とめることができなかった。みんなの目を盗んでコップ一杯の水をあげるのが精一杯だった」
だが、犯されているのは実の姉だ。それでもなにもできなかったというのだろうか。アツシはまた目を伏せる。たっぷりと厚い紅い唇が震えるように動いた。
「アキラくんは中学にはいるとぼくの口を使うようになった。ぼくは小学校五年生のとき、初めて精液を飲まされた。あの二週間のあいだにも、ヤリコンとかいってぼくと姉さんを交代で犯すことがあった。姉さんは見ないでと泣いていた。ぼくは姉さんから抜いたばかりのアキラくんのを、口できれいにさせられたことがある。アキラくんはくすぐったいって笑ってたよ」
アツシは顔をあげた。バラ色の頬、涙で濡れたまつげ、目の奥に揺れる絶望。
「ああいうのなんていうか知ってる?」
黙っておれは首を振った。無理に話す必要なんてないんだ。そういってやりたかった。おれはただの通りすがりのライターにすぎない。自分の心臓をぶっ刺して、血の言葉を漏らす理由なんてない。
「おそうじフェラっていうんだ……ぼくは姉さんより男のをなめるのがうまいんだってさ」
アツシはうつむくと肩を震わせて泣きだした。褪せたチノパンの太ももが、点々と深緑に染まる。
おれはそれから十五分、なにもいわずにアツシの隣に座っていた。七月終わりの昼休み、ケヤキの木陰でもとうに気温は三十度を超えている。汗はまったくかかなかった。アツシの話がおれの身体を芯まで冷ましていたからだ。
◆
また話を聞かせてもらう約束をして、アツシとウエストゲートパークで別れた。しばらく泣いたあとで顔をあげると、やつはまぶしいものでも見るようにおれを見る。晴れやかな表情。なぜか胸の鼓動がおおきくなった。おれは立ちあがり、隣のベンチでなにもせずにいるミナガワに声をかけた。
広場をでて、JR池袋駅にむかう。ビルのすきまの空に、入道雲のスライスが浮いていた。いき先は池袋二丁目のラブホテル街にあるマンション。そこは数ある大人のパーティでも、一風変わった趣向の店だという。
身障者専門店。
障害があるのは客のほうではなく、店の女のほうだそうだ。サルによると羽沢組の系列店でも、つねに売りあげはトップを競っているらしい。
十人億色。そういうことに関しちゃ、人の趣味はいろいろってこと。
◆
築十年くらいの新古マンションのもともと白かったタイルは、すすけてサンドベージュになっていた。一階にはまるで流行らない純喫茶がはいっている。エレベーターはしっかりとボタンを押しこむ旧式の操作盤。なかに敷かれたカーペットには地層のように染みが重なっていた。たくさんの男たちの欲望をのせすぎて、だいぶがたがきているようだ。遅いうえによく揺れるエレベーターだった。
ミナガワとおれは六階でおりると、Pタイル張りの内廊下をすすんだ。人影はなく妙に静かだ。603号室にはなんの表札もでていない。おれはインターフォンのチャイムを鳴らした。
「はい」
中年の商売人の声がした。
「羽沢組のほうから連絡はいってると思うけど、話を聞かせてもらいにきた」
話の途中でドアチェーンのはずれる音がする。
「どうぞ」
白いシャツに黒いサマーウールのパンツ姿の中年男がドアを開けてくれた。オールバックの小狡そうな顔だち。玄関にはいるとすぐに板張りの六畳ほどのダイニングキッチンだった。奥の部屋との境には安もののカーテンがさがっていて、客も女の姿も見えない。ビオレUかなにか、ボデイソープの匂いがした。男は食器棚の引きだしからノートを一冊取りだすと、カーテンに頭をつっこみ声をかけた。
「マドカちゃん、ちょっとでてくるから、電話番頼むわ」
「はーい」
マドカと呼ばれた女がでてきた。若い。古着のTシャツにカットオフジーンズ。毛先が外側に跳ねたレイヤードのショートカット。つきでた胸でボーリングのピンが弾けている。大人のパーティより、Pダッシュパルコにでもいるほうが似あいそうな女。マドカは軽くおれたちに会釈する。おれはうなずいて玄関をでた。そのまま、三人で一階の喫茶店にむかう。おれはエレベーターのなかで気になってしかたなかった。
マドカはいったいどこに障害があるのだろうか。
◆
アイスコーヒーを三つはさんで、店の男とむかいあった。おれたちは互いに自己紹介はしなかった。さっそく七月十二日の襲撃の話を聞いてみる。男は疲れた表情で、コクヨのノートを開いた。ぱらぱらと十日まえのページをめくる。そこには男たちの名前と入退室時間が一覧表になっていた。見開きで一ページ半以上ある鉛筆書きの欲望のノート。
「あの日はまあ、ぼちぼちのいりの日で、やつらがきた夜の十時すぎまでに、四十人ちょっとの客だな。あがりは九十万というところだ。全部やられた」
おれはノートの名前に目を吸いつけられていた。男は首を横に振る。
「これはみんな客が勝手に使ってる偽名だ。役には立たない」
「だが、最後の男も客の振りをしてきたんだろう。なんて名のっていたんだ」
男は表組の最後を見た。そこには入室時間は書かれていない。
「岡野」
「顔は」
男はアイスコーヒーをひと口飲んでいう。
「馬面だった。髪は茶色で、中途半端な伸ばしかけって感じだ。背が高くて、百八十以上あったんじゃないか。やつは夕刊紙を見たといって、池袋駅南口の公衆電話からかけてきた。まあ、自分ではそういっていた。こっちはいつも通り、このマンションまでの道順を教えた。五分後にやつがきた。覗き穴から見たが、マッポには見えない。それでドアの鍵を開けると、いきなりやつらがはいってきた」
岡野と名のる男に続いて突入してきたのは、目だし帽をかぶった三人組だったという。得物は両刃のファイティングナイフ、特殊警棒、それに改造スタンガンだったそうだ。やつらは土足のまま部屋にあがり、いきなり男に電撃を食らわせた。静かにするように客と女たちにいうと、腰から崩れ落ちた男に蹴りをいれ、手提げ金庫をもっていったそうだ。客の財布には手をつけていない。岡野がはいってでていくまでにかかった時間は二分ほど。
男はすぐに羽沢組に電話をいれたが、下っ端がくるまでに二十分以上かかった。もちろん四人組の姿は影も形もない。客に謝ってその日はすぐに店をたたんだ。もっとも営業時間は終電までなので、残り時間は一時間くらいだったのだが。男はぼやいた。
「こういっちゃなんだが、高いみかじめ料を払っても、ちっとも役に立たなかった。池袋もどうなってんだかなあ」
「岡野の年はどれくらいだった」
男はしばらくおれを見た。
「そうだな、あんたと同じくらいじゃないか」
◆
そのまま、おれたちは喫茶店に残った。男には、その日に出勤していた女の子がいたら、したによこしてくれといった。おれは隣で岩のように座るミナガワにいった。
「今の話、どう思う?」
ミナガワは薄い頭を振る。
「わからん。二分だけじゃ、組の連中には手も足もだせない。警察だって無理だな。まあ、考えるのはあんただ。おれは半月ばかり雇われてるだけで、犯人が見つからなかろうが関係ない」
なぜかミナガワは楽しそうだった。意外に話好きなやつなのかもしれない。ミナガワはテーブルのしたをさぐると、週刊誌を一冊取りぱらぱらとめくり始めた。何週間かまえの週刊誌は、古くも新しくもないだけ妙に淋しかった。
しばらくすると喫茶店の紺の色つきガラスの扉に若い女のシルエットが映った。レジの横を通って先ほどのマドカと三十代初めの女がはいってくる。もうひとりの女は身体にぴたりと張りつくストレッチ素材のワンピース姿だった。マイクロミニで豹柄。おまけにノーブラ。色っぽい。
女たちはおれたちのボックス席に滑りこんできた。マドカは緊張した表情で、もうひとりはにこにこと笑いかけてくる。マドカはどう見てもプロの女には見えなかった。
「あんたはマドカさんだよね。そっちの人はなんて名?」
その女ではなくマドカがこたえた。
「ルカ。ルカ姉さんは、耳が聞こえないの。聞きたいことがあるなら、私が手話で通訳するわ」
ルカという女はうなずいて笑った。引き締まった乳房に、中距離選手のような手足をしている。障害のことなど、知らされなければ、まったくわからないだろう。おれはいった。
「店のほうはどう?」
ルカはおれの唇を読んだみたいだ。手いれのいき届いた両手が、細かな傷だらけのテーブルのうえで舞った。強い風のなか飛ぶ蝶のように、明け方に開く花のように、古釘を打つ錆びたハンマーのように。マドカが訳してくれる。
「稼ぎもいいし、まえの店より、こっちのほうが、お客さんがみんな優しいって」
「へえ、そうなんだ。ほかにはどんな障害をもってる人がいるの」
マドカが皮肉そうに笑う。
「それ、うちにくるお客が必ず最初にきく質問なんだよね。目が見えない人も、足が不自由な人もいるよ」
考えてみれば、あたりまえの話だ。障害があっても恋をする、結婚もする、不倫もする。障害者だって、娼婦になる自由くらいあるに決まってる。
「マドカさんにも、不自由なところあるのかな」
「残念でした。私は大学の福祉科にいってるの。地方からでてきて、ひとり暮らしをしながら、学校にいくのたいへんなんだ。だから、時間のあるときはここで働いてる。ときどき店の子相手にボランティアをやりながらね」
マドカはいたずらっ子のように唇の端をあげた。そのあいだも手話の通訳はとまらない。
「それに、そんなに嫌いな仕事でもないし。エッチはけっこう得意だったから」
それで一日二十人の男と寝るわけか。仕事はなんでも大変だ。
「強盗があった日のことだけど、なにか覚えてることないかな」
マドカは天井を見あげた。
「何度も聞かれたからなあ。私は組の人に話したことくらいしか、覚えてない」
それならレポート用紙にまとまっていた。おれは三つの組からそれぞれ受け取っている。ルカがミナガワの組んだ腕を見つめていた。ミナガワのたくましい腕には、テーブルに負けないくらい古い傷跡がたくさん残っていた。ルカはマドカの肩を軽くたたいて、手で話し始めた。
「ルカさん、思いだしたことがあるって。最初にはいってきた覆面をしていなかった男の、左腕のひじの内側に……ちょっと待って」
そういうと女の薄い手のひらが四つ、めまぐるしい速さで情報を交換した。触手と羽をふれあわせる昆虫のようだ。きらきらと光りを放つ不思議な粉があたりに降りそうだった。ようやくマドカがいう。
「根性焼きっていうの、あのタバコの火を押しあてたような丸い跡が残っていたって。それもひとつじゃなく、五角形のかたちで五つ。なにかのマークのいれ墨みたいに」
おれはアクション映画で見たアメリカ国防省のペンタゴンを思いだした。そういうくだらないサインを身体に残すとなると、犯人はますますおれの守備範囲のガキどもの臭いがしてくる。おれは思いつきでいってみた。
「マドカさんて、今日何時にあがるの」
マドカは不思議な顔をする。ルカはひじでマドカをこづき、にやにや笑うと、手で冗談をいった。
「今、ルカさん、なんていったんだ」
マドカはすこしだけ、頬を赤くした。
「この人あんたをナンパしてるよ。それほど悪い男でもないじゃんだって」
おれはルカにむかって手と手をクロスさせ、バツをつくった。これなら通訳の必要はないだろう。
「残念でした。つぎに聞き込みにいく大人のパーティは金髪専門店なんだ。女の子はみんなコロンビア人ばかりなんだけど、大学生なら手話だけじゃなく、英語の通訳もできないかなと思って」
おれにもミナガワにも英語は手がでない。ルカはまたひらひらと手のひらを泳がせる。マドカが訳してくれた。
「おもしろそうじゃん。いってきなよだって。ルカ姉さんって横浜出身なんだよね。だから『じゃん』のところは、自分でつくったサインがあるの」
マドカはそういうと握ったシャープペンから芯をだすように、親指の関節を素早く二度折った。おれはルカの視線をとらえて、目をいっぱいに開き、口からよだれをたらすジェスチャーをした。親指を二度曲げる。
(ルカ姉さん、すげーカッコいいじゃん!)
そう伝えたつもりなのだが、わかってもらえたろうか。マドカは笑顔のまま、おれの気持ちを通訳してはくれなかった。
◆
マドカは一度店にあがると十分後に戻ってきた。客も昼間ですくないし、女の子の数も足りているから、聞き込みに協力してくれるという。おれたちは通りにでると、タクシーを拾った。襲撃先の二件目は隣駅の大塚だ。今度は豊島開発の系列店だった。こちらは身障者ではなく、金髪専門パーティ。おれは思うのだけど、そのうち動物占いのヒツジだけ集めたパーティとかもきっとできるよ。欲望の細分化には限りがない。
JR大塚駅南口でタクシーをおりた。駅前から先ほどと同じように電話をいれる。都電の線路沿いにゆるやかな坂をあがった。腕時計を確かめると今度は四分ほどで、恐ろしく古いマンションのまえに立つ。四階建てでエレベーターはなかった。取り壊しを待つだけの建物で、半分は空き部屋ではないだろうか。外階段の踊り場には、古雑誌やコンビニの袋が乾いた泥にまみれて落ちている。この店にくるのはよほどの常連に違いない。おれならこのマンションを見ただけで引き返すだろう。おれたち三人は汗をかいて、最上階まであがった。部屋番号など確かめる必要はなかった。そこだけペンキを塗り直したドアのベルを鳴らす。
ドアが開くと、若いサメが二匹立っていた。目つきがきつすぎる。組関係者。これでは常連だって帰るかもしれない。狭い廊下の奥をふさぐように立っている格うえのサメがいった。
「社長から話は聞いてる。だが、ここの店長はまだ病院だ。おれたちも、あの日にはここにいなかった。あんたに協力してやれることは、紙にかいて渡した」
あのレポートのことか。ついてない。この店の店長は右肩を特殊警棒でやられて、骨がいかれたという。玄関先で立ち話をしていると、おれたちのうしろに外国人風の男がやってきた。おれの頭越しになかの男に挨拶する。
「コンチハ。マリア・ルイス、すぐきますか」
振りむくと百九十センチ近くある大男だった。褐色の肌に濃いひげ、ウエスタン風の細かなフリンジがついたダンガリーシャツを着ている。色男。それほどたくましいというわけではないが、外国人特有の厚い上半身をしていた。おれは店の男にいった。
「襲撃のあった十五日、店にいた子がいたら、話を聞きたいんだけど」
「おまえジャマなんだよ。マリア・ルイス、早くきなさい」
うしろの男が腕時計を見ながらいらいらして叫ぶ。毛むくじゃらの手首には金のコンビのオメガ。その外側に、もう一段濃い黄金色のブレスレットを重ねている。大男はおれたちの話をあっさりと無視した。時刻はちょうど三時になったところで、たぶん娼婦をむかえにきたヒモなのだろう。
幅一・五メートルくらいのほこりっぽいマンションの外廊下に、おれとミナガワにマドカ、そしてヒモの大男がそろって大渋滞を起こしていた。おれはなるべくフレンドリーな笑顔をつくり、振りむいていった。
「悪いな、すこし静かにしてくれないか。今大切な話をしてるんだ。あんたのマリアは、騒がなくても時間になればでてくるよ」
なぜヒモが切れたのかわからなかった。なにかスペイン語で神を呪うようなことを吐いて、やつはおれに手を伸ばしてきた。近くで見ると目が血走ってすごい形相。そのとき、おれは自分の左手から熱い風が吹いてくるのを感じた。
◆
真夏の日盛りにどこかのでかいビルの角を曲がる。すると今までそよとも吹いていなかった熱風に吹き倒されそうになることがある。気まぐれなビル風だ。ちょうどあんな感じだった。ミナガワのごつい身体がわっと膨張したようだった。動きはビデオの四倍速のように素早い。喫茶店からパクってきた週刊誌をひと握りで丸め、両手で握ると、ミナガワはヒモの脇腹を思いきりつきあげた。ヒモのかかとが浮く強烈な一撃。くの字に身体を折ったヒモの後頭部に、筒状にした週刊誌の底をたたきつける。
ミナガワは焦ることなく、横むきに廊下に伸びたヒモのベルトをはずすと、後ろ手に縛りあげた。すべては一連の流れるような動きで、十秒とはかかっていない。ドアを押えていた豊島開発の若いサメが目を丸くしていた。
腕力自慢のヒモが、自分でもなにをされたかわからないうちに、意識不明で廊下の排水溝に舌とよだれをたらしている。プロの荒事師がなにをするか、おれにもよくわかった。ミナガワは週刊誌がナイフに代わっても、やらなければならないときは断固としてやるだろう。全力でやるか、さもなければ、なにもやらないかなのだ。おれはミナガワの動きのひとつひとつから、一瞬のうちに力を使い尽くそうという鋼の意志を感じた。
◆
階段の踊り場でコロンビア人の娼婦から話を聞いた。マドカの英語はカタコトだったが、相手も同じようなもので、特に不自由はないようだった。それになぜか、娼婦たちはマドカも自分と同じ職種と敏感に感じるらしく、聞き込みはスムーズにすすんだ。まあ、おれも入国管理官や警察官にはとても見えないしね。
追加情報のひとつは、髪が伸びて根元だけブルーネットになっている、でたらめにグラマーな女から得られた。黒のタンクトップにボクサーショーツのようなサテンの短パン。息をするだけで揺れる胸を見たのは初めてだ。
おれが五角形の火傷跡のことを聞くと、女はこたえる。シー、シー。
「襲われたまえの日にきた若い男の左腕にも、その印が残っていた。どうしたのと聞いたら、遊び遊びといっていた」
「その男の年格好と背の高さは」
「日本人の年はよくわからないけど、年はたぶん若い。頭はスキンヘッドだった。背はあんたくらい」
頭を金髪に染めた女は、おれではなくミナガワを指さした。百七十センチ台後半というところか。一件目の岡野とは、また別なガキのようだった。やはり店を襲うまえに、偵察を送りこんでいる。ただ無謀で命知らずなだけのガキではないようだった。計画はしっかりと立てているに違いない。
この池袋のジャングルで、まぐれが四回も続くはずがない。
◆
池袋駅に戻るタクシーのフロントウインドーに、夕日が沈んでいく。まぶしくて日の出通りの先を見ていられなかった。前方を走るクルマはみな道のどこかでオレンジ色の光りのなかに消滅していった。おれたち三人はすこし疲れて、口数がすくなかった。尻ポケットのPHSが鳴った。
「はい」
「マコトか、タカシだ。そっちの調子はどうだ」
ガキの王の冷たい声だった。心なしか、いつもよりさらに温度が低いようだ。おれは後席ドアのビニールにもたれてPHSを支えた。今回はタクシー移動が多い。報酬はなくても、経費は組織が清算してくれるので使い放題だ。こんなことなら、ハイヤーを一日借りきろうかな。
「手がかりがひとつ見つかった」
「話せ」
おれは左前腕の内側に五角形のかたちに根性焼きをいれたガキの話をした。パーティ潰しは鮮やかな手際で、周到に計画した犯行であること。事前にメンバーのひとりが店に偵察に訪れていること。襲撃に要する時間が二分ほどであること。あいづちを入れるだけのタカシの声が、冷たく冴えていく。最後におれはいった。
「そっちには、なにか変わったことはないのか」
タカシは鼻で笑う。不吉なサインだ。
「こっちにも一件ある。ラスタ・ラブが焼け落ちた。誰もいない昼間に、どこかのバカがドアのすきまからガソリンをゆっくりと流しこんで、火をつけたらしい。放火だ」
ラスタ・ラブはGボーイズが実質上、取りしきっているクラブだ。キラーズー襲撃のつぎは、火か。そのバカは池袋のガキども全体に宣戦布告をしているらしい。そいつらがパーティ潰しと同一犯なら、やつらには黒だけでなく池袋の灰色ゾーンでも、生きる余地はなくなるはずだ。どういうつもりなのだろう。ものすごいスピードで動きまわり、煮えたぎる暴力のかけらを飛ばしていく。大気圏につっこむ彗星のように、地面に着くまえに燃え尽きようとでもいうのだろうか。
おれには、四人組のでたらめな無謀さと用意周到さが、まるでちぐはぐに思えた。
◆
グリーン通りの駅にむかう人波のなか、解散しようとすると、マドカがいった。
「私、お腹すいちゃった。ねえ、マコトくん、聞き込みに協力したんだから、なにかおいしいものでもごちそうしてよ」
マドカの半分ケツをだしたホットパンツは、路上のサラリーマンの注目の的だった。急流を裂く岩のように、人の流れが分かれていく。
「店に戻らなくてもいいの」
「うん、いいや。今日はもうやる気なくしちゃった。ねえ、ミナガワさんもお腹すいたでしょう」
そういうとマドカはミナガワの傷だらけの腕にしがみついた。ごつい上腕二頭筋で、マドカの胸がへこむ。さっきのコロンビア人娼婦のあとなので、つつましく清楚なおっぱいに見えた。ミナガワがマドカを無視して、おれにいった。
「ひとりで食うのもつまらん。あんた、いっしょに晩飯にしないか」
謎のボディガードは久々に口を開く。
◆
三越の裏にある地元っ子しかはいらない汚い居酒屋にいった。ポリエステル化粧板のカウンターとテーブルがふたつだけ。ここのおやじの趣味は毎朝、築地で仕いれをすること。刺身の切り身はひとつひとつがピラミッドのようにそびえ、皿は慢性的な過積載状態だ。ミナガワの食欲はすごかった。かき寄せて、口に押しこむ。ミナガワにとって食べることもまた、別な意志の表現であるようだった。おれとマドカは生ビールを飲みながら、硬めにゆであげた枝つきのエダマメをつまんだ。浅緑の歯ざわり。夏だ。おれは聞かなくてもいいことを聞いた。
「マドカさんて、将来なにをやりたいの」
マドカは悪びれずにこたえる。
「福祉関係の仕事をやりたい。でも、ちょっと不安だな。今、あまり簡単にお金が稼げすぎるから」
毎日五万も十万もはいってくれば、それは金銭感覚がどうにかなるに決まってる。マドカは中ジョッキから、ひと口すすった。
「私ね、税金一円も払ってないでしょ。だから寄付をしてるんだ。収入の十パーセント。小学校に通えないベトナムの子たちのための教育基金なの。お金って不思議だよね。私の寄付だけで、ふたクラス分の子どもたちが、小学校に通えるようになるんだから」
金に印はついていない。大人のパーティでおやじたちが落としていく金が、まわりまわってベトナムで教材や給食になる。おかしな話だが、おかしいのはマドカではなく、それ以外の人間なのかもしれない。風俗に流れこむ無税の膨大な金は、みな地下に潜って、こっちの世界には戻ってこない。税務署も警察も見て見ぬ振りをしている。やつらにとって法律の外にある金は、金じゃないのだ。
黙って刺盛りの山を均していたミナガワが、ジョッキを空けると口を開いた。
「いいんじゃないか。おれは中学しかでてないから、けっこう苦労した」
おれは生ビールをふたつ追加すると、ミナガワに聞いた。
「なぜ、ミナガワさんは肉屋って呼ばれてるんだ」
ミナガワはおもしろくもなさそうにいう。
「学校をでて、最初に住みこみにはいった店が肉屋だったから」
「そうなんだ。いつもさっきみたいに、人間をバラしてるからじゃないんだ」
ミナガワは冷凍庫のような冷たい視線でおれを見つめ、それから急に笑顔をつくった。嵐の雲が切れて突然日がさしたような気がした。
「そのせいも、ある」
ミナガワの話が始まった。いっとくけど、おれはその話を聞いただけで、ぜんぜんつくっちゃいない。それくらい悲惨な話。
◆
ミナガワは海のそばの静かな町の生まれだという。
「うちのおやじはさえない漁師だった。貧乏人の子沢山というのはほんとの話で、おれには兄弟が七人いた。おれはうえから二番目なんだが、義務教育を終えたら、すぐに働きにだされた。隣町の肉屋だ。朝一番で店を開け、昼間は店番、夜は店を閉めた八時から、つぎの日店に並べる肉をさばく。牛のあばらの片身は百キロ近くあった。肉をフックに引っかけ、肋骨に身が残らないようにペティナイフで筋をいれていく。それからタコ糸をあばらと肉のあいだに通して、全身でこそげるように骨をはがしていく。ばりばりと音を立ててな」
そんな話をするあいだ、ルカ姉の手話みたいにミナガワの両手が空中で動いた。手が覚えている話か。
「肉屋もいろいろなんだろうが、その店の店主はとんでもなくひどいやつだった。ボーナスは年に一回なんだが、スズメの涙のような金を払うのが嫌で、小僧を徹底的にいじめ抜く。おれは商売ものに傷をつけるたびに、包丁の柄で頭をどやしつけられた。額が割れて血が肉に落ちると、肉を汚したと同じところをまたやられる。おれは二年近くそこでがまんしたが、二度目の年の瀬のボーナスのまえには、肉たたきで左手の小指を潰された。おれを辞めさせ、小金を倹約したかったんだろうな。だが、おれはしっかりボーナスもらったぜ。ほら、見ろ、小指は今でも曲がったまま動かねえけどな」
ミナガワは奇形のイモ虫のように丸まった小指をかかげる。
「でもな、おれが店を辞めたのは、指のせいじゃない。大晦日の夜だった。無事にひと月分のボーナスを受け取り、正月休みに実家に戻る支度をしていると、店のおやじが酒をくらって帰ってきた。大掃除がなっちゃいないと難癖をつけて、いつものようにおれを殴り始めた。ギャンブルも女もやらない、近所では評判の硬いおやじだが、それがやつの気晴らしだったのさ。おれはただ頭をかかえて耐えていたよ。その夜、家に帰り、雑煮を食ってひと眠りして、紅白歌合戦でも見ようと起きだすと、目のまえの右半分がぼうっとかすんで見えなくなってる。クック、クック、クックー、桜田淳子の振りが暗くて見えねえ。あわてて鏡のまえにいくと、白目は真っ赤で、黒い目玉だけ血のなかに浮かんでるみたいだった。右目を潰された。おれが親にもらったこの身体が、傷をつけられた。かっとしたよ。おれはその足で、隣町の肉屋に走った。頭んなかでは同じ言葉がぐるぐるまわってる」
マドカもおれも息をのんでいた。ミナガワの目は今、とろりと濁っている。じっとしていられないように、貧乏ゆすりを始めた。届いた生ビールをひと息で半分空けてしまうと、溶岩がふつふつと煮えたぎるように漏らした。
「野郎がおれの目を潰した。野郎がおれの目を潰したってな」
おれは昼間のアツシの話を思いだしていた。悪いことや暴力がカッコいいっていう、あれだ。バカらしい。だが、おれは聞かずにはいられなかった。
「それで、あんたはどうしたんだ」
「一杯かげんの肉屋をこたつからたたき起こし、店に連れていった。女房は泣き叫んだが、相手にしなかった。おれはやつを米袋のようにかつぎあげると、フックに吊してやった。フックはな、肉や骨にあてるようじゃだめなんだ。皮と脂だけ刺しときゃいい。おやじはエビのように跳ねたよ。ジャージはすぐに血だらけだ。おれはやつにおれがやられたのと同じことをしてやった。鶏ももを焼く串でやつの右目をまぶたのうえからえぐりだし、肉切り包丁で左の小指を落としてやった。肉をさばくのと変わらない。おれはそれから家に帰り、紅白歌合戦の続きを見た。おまわりがおれを補導したときには、正月になっていた。おれはまだ十七になっちゃいなかったよ」
乾杯でもするようにマドカがいった。
「いい気味。そいつはどうなったの」
ミナガワはちいさく首を横に振る。
「なにも変わりはしねえ。殺しとけばよかった。やつは片目になったが、やっぱり同じようにまた別の若いやつを店にいれては、殴りつけているらしい。今もな」
日本のどこかの海のそばの静かな町で起きた、よくある話。ミナガワは少年院から戻ると、どこかの組にはいった。そこで自分の適性と才能に目覚めたらしい。出入りがいくつか続き、いつのまにかあちこちの組織から、危ないことがあるたびに声をかけられるようになった。組織の縦のつながりも、いつしか切れてしまった。あっちの世界でも、ちょっと毛色の違うやつははねられていく。日本的組織なのだ。それで腕貸しを開業した。機嫌よく酔っ払ったミナガワはいう。
「よくな、手相で生命線っていうだろ。おれには街を歩く人間の胴体のまんなかに、一本の筋が見えるのさ。どこでもいい、その線を一本ぷつりと切ってやる。するとそいつは死んじまう。引っ越しの荷ほどきより簡単にな」
気が重くなった。それは昼間ミナガワがヒモを気絶させたときから気づいていたことだ。ぬるくなったビールで唇だけ湿らせ、おれはいった。
「わかっていたよ。あんたは、なにもおれを守るためにいっしょにいるんじゃない。おれはただの猟犬なんだろ、パーティ潰しを見つけだすための。おれが見つけ、あんたがしとめる」
ミナガワはそんなことどうでもいいという調子で、楽しそうにいう。
「そういうことになるのかな。ところで、このあとカラオケいかないか」
◆
ミナガワは昔のムード歌謡が得意だという。切ないマドロスもの。センチメンタルな肉屋。マドカものり気になって、おれたち三人は近くのカラオケボックスにはいった。店をでたのは午前三時。タクシーをつかまえ、そこで別れた。
おれはでたらめに疲れていた。早く一般市民に戻りたかった。
それには組織やミナガワに冷たい固まりにされるまえに、パーティ潰しを発見し、より安全な警察にでも引き渡さなければならない。被害届のだされていない、幻の凶悪事件の犯人として。だけど、そんなことがいったい可能なんだろうか。
おれは自分の部屋の窓から、久々に西一番街の夜明けを見た。夏の朝のカラスと生ゴミの王国。さわやかな光景だった。眠たかったが、頭が冴えて眠れなかった。音楽を聴こうと思ったが、なにを聴いたらいいのかわからなかった。おれにしたらめずらしい話。
◆
つぎの日、東京地方の正午の気温は摂氏三十三度。おれたちは西口公園に集合する予定になっていた。円形広場の石畳は海辺の砂のように熱をもって、簡単に目玉焼きがつくれそうだ。まあ、ウエストゲートパークの地べたでできたなんていったら、汚くて誰も食いはしないだろうが。
おれが木陰のベンチに座っていると、最初にマドカがやってきた。その日は、白いミニスカートにショッキングピンクのサマーニット。袖なしなのにタートルネックというおかしなデザイン。マドカは針金のような腕ではなく、おれ好みの健康的な二の腕をしている。聞き込みに必要なわけではなかったが、マドカはおもしろいからおれたちの調査にもうすこしつきあいたいといっていた。
「待った? マコトちゃん」
一日でちゃんづけになっている。美容師の手で美しく不揃いにカットされた前髪のしたでくるくると動く目。勝手にしろと思い、黙って首を横に振った。五分ほどして、つぎに芸術劇場のほうからあらわれたのは、なぜか牧野温だった。アツシはおれの座るベンチを見つけると、おおきく両手を振った。短パンに長袖Tシャツという、スケートボーダーのような格好。やつはにこにこしながら、チェーンの音を鳴らし、おれたちにむかって歩いてくる。
「あの、デートの最中に、お邪魔しちゃったですか」
アツシはベンチに近づいてくると、とたんにおどおどし始めた。おれはいった。
「そんなんじゃないよ。この人とは昨日知りあったばかりだ。それより、なんでおれがここにいるのがわかったんだ」
「うちは西一番街の果物屋さんだっていってたよね、マコトさんのおばさんに聞いてきた。これ渡してくれって」
そういうと白いポリエチレンの手提げを差しだす。受け取ると甘い匂いがした。カットしたパイナップルに割りばしをさしたうちの売れ筋商品だ。いつも氷のうえに並べて売っている水菓子。おふくろは気にいった誰かには、すぐに店のものをやる癖がある。さすが昭和前半生まれの女。おれはカットパインを配ると、アツシにいった。
「今日はいったいなんの用があるんだ」
「うーん、あの、ちょっと……」
アツシはパイナップルから滴をたらしながら、困ったようにもじもじしている。ひどく内気だが、あいかわらずきれいな顔をしていた。マドカが助け船をだす。
「そんなこといいじゃない。それよりマコトちゃん、紹介してよ」
女子大生の楢原マドカさん、無職の牧野温さんと互いを紹介した。マドカが大人のパーティの売れっ子娼婦で高額所得者であることも、アツシが監禁事件の犯人のひとりであることもいわなかった。みんなそれぞれの事情がある。空気がなごんで、マドカとアツシが冗談を交わすようになったころ、もうひとり事情のあるやつがやってきた。
歌のうまい、二日酔いの肉屋だ。
◆
ミナガワがそろったところで、もう一度全員を紹介するはめになった。アツシを除いた三人は朝方までバカ騒ぎをしていたので、すぐに動きだすパワーがでなかった。しばらくぼんやりして、西口公園の炎天下の広がりを眺めていた。暑さなどまるで気にしない中学生くらいのガキがふたり、フリスビーを飛ばして遊んでいる。
おれたち四人は狭いステンレスパイプのベンチにすきまなく座り、フリスビーがウエストゲートパークの空を横切るたびに左右に目線だけ動かしていた。ほとんど手首のスナップだけで投げられたフリスビーは、空中をなめらかに滑り、目に見えない風の境にぶつかると、ホップするように上昇したり、急にカーブを描いたりする。軌跡を追うのに慣れると、とまっているのは回転する青い円盤で、その背景を公園の緑やビルのガラスや明かりのついていない昼間のネオンが、飛びすぎていくように見える。流れる線のなかにすべての色が溶けだして、スピード感あふれる抽象画みたいだ。なんだか、うっとりするほどきれいだった。
おれはフリスビーを見ながら考えていた。普通ってなんだろう? 普通って、ここでいっしょに座ってる三人や、身障者パーティに通いつめる男たちや、そこで働く女たちのことじゃないんだろうか。ついでにいえば、これを読んでるあんたやおれのことじゃないんだろうか。おれたちはみんな、普通のありふれた世界に生きている。
それが実は叫びたくなるくらい異常なことだと知りながらね。
◆
結局、その日は四人で残り二件の大人のパーティをまわることになった。巣鴨の熟女専門店と大塚の人妻専門店だ。収穫はなし。どちらの店も、何人かインタビューをした感じでは看板に偽りはなさそうだった。こちらは、前日の店よりもサービス内容がずっとハードだった(生となかだしが売りなのだそうだ、店のボスはピルを格安で女たちに卸し、毎月の性病の定期検診は女たちの自分もちという)。そんなもんだとミナガワはいった。マドカは自分もその一員でありながら、売春世界の幅広さに軽いカルチャーショックを受けていた。アツシはいつも通り、なにを見てもびくびくしている。
夕方、タクシーで西口公園に戻り、解散した。熱をなくした西日のなか、おれはアツシにいった。
「ところで、今日おれにある用ってなんだったの」
「うーん、いいや。今度にする。それよりマドカさんて、かわいい人だね」
そういうとアツシは、東武デパート口から西口公園をでていく、マドカのうしろ姿を見送った。振り返ると、またおれをまぶしい目で見る。アツシは淋しそうに笑っていった。
「ぼくはマドカさんが、ちょっとうらやましいな。またね」
そのままアツシもいってしまった。聞いていない振りをしていたミナガワが、おれに声をかける。
「よう、色男。これからどうすんだ」
「今日はおしまいだ」
ひと通りの調べは終わったから、取りあえず自分の部屋で考えることにした。横になって音楽でも聴きながら。今度はおれがひとりで苦しむ番だった。
◆
あんたには、なにを聴いたらいいかわからないときに手が伸びるCDがあるだろうか。おれにはある。グレン・グールドがピアノで弾いたJ・S・バッハ(今年はバッハが死んで二百五十年だそうだが、それとはあまり関係ない)。これは聴いたあとで、聴くまえより必ずすこしだけ豊かな気持ちになって、この世界に帰ってこられる音楽だ。それにグールドのあのでたらめに早いテンポやおかしな拍子の取りかたが、おれがものを考えるリズムになぜかぴったりなのだ。
だが、せっかくの特効薬もその日は空振りだった。ペンタゴンの根性焼きをいれたガキ四人については、タカシにGボーイズのネットワークで探してもらっていたが、返事はまだなかった。依頼を受けて三日目だが、羽沢組からも豊島開発からも聖玉社からも連絡はない。
池袋のチーマーや大人のパーティを襲撃していないとき、例の四人組はなにをしているんだろう。おれにはこのガキどもがフリスビーで遊んでいる姿は想像できなかった。きっと襲撃していないときは、つぎの襲撃の準備をしているんだろう。どんどん回転数をあげて、しまいには自壊するモーターを考えた。暴力自体をエネルギー源として、よりおおきな暴力を生みだす暴力のモーターだ。まるで二十世紀世界の歴史みたいだったが、最近どこかでそんな話を聞いたことがあったような気がした。
『平均律クラーヴィア曲集』の一巻と二巻を聴き終えるころ、おれは敷きっぱなしの布団のうえで眠りに落ちた。
◆
真夜中、PHSの呼びだし音で目が覚めた。午前二時、いったい誰だ、こんな時間に。
「もしもし……」
男の声が耳元で響いた。目の荒い紙やすりで研いだような声。
「おまえ、マジママコトだな。最近、パーティ潰しを嗅ぎまわってるそうじゃないか」
「ああ、そっちは誰だ」
知らない声が低く笑った。
「名前なんかない誰かさんだよ。おまえの女を抑えているな」
女? おれには今、女なんていない。
「誰のことだ。なにいってんだ、おまえ」
「声を聞かせてやる」
ドアの開く音となにか布のこすれるような音がした。全身が耳になった。移動しているのだろうか。確かに遠くで女の泣き声がしている。
「……助けて、マコトちゃん……こいつら、みんなケダモノよ、私を無理やり……もうー、やめてよー……」
それから肉を殴る音が鈍く響いた。マドカの声だった。起きたばかりのおれの心臓が痛いくらいに打ち始める。気がついたら、布団に起きあがり叫んでいた。
「やめろ、なにやってんだ、おまえら」
楽しそうにさっきの紙やすりの声が戻ってきた。
「おまえの女は、なかなかタフだな。ひとり二回ずつやってんだが、まだぴんぴんしてる。もっと声を聞きたいか」
腹の底で熱いものがうねりだした。おれにだって暴力モーターはある。
「ふざけんな。おまえらパーティ潰しだろ。火傷の跡はばれてるぞ。池袋じゅうのヤー公とGボーイズがおまえらを追ってる。その女を離して、どっか遠くに逃げろ。そうじゃなきゃ……」
笑いを含んだ声で誰かがいう。
「そうじゃなきゃ、なんなんだよ」
マドカの泣き声とどこかを平手打ちする鞭のように鋭い音がした。うつろな胸のなかで、心臓が縮みあがる。おれの声も相手に負けないほど冷たくなっていた。ただ事実を伝えるだけだ。
「おまえたちは全員、殺されるだろう。やつらに見つかった瞬間に、生き延びるチャンスはゼロになる。あっちの世界の報復の殺しがどんなにむごいか、おまえも知ってるだろ。自分たちがなにをしてるか、わかってんのか」
やつは平然といった。
「ふん、わかってるよ、間抜け。死ぬのが怖くて、こんな街に帰ってこれるか。それより自分の女の心配でもするんだな。まだ、夜は長いぞ」
PHSが切れると、真夜中の静けさが圧倒的な重量でのしかかってきた。間抜けなおれには、朝までもう眠りが訪れることはなかった。
◆
つぎの朝、Gボーイズと羽沢組にPHSをいれた。なぜか、パーティ潰しがおれが追っていることにかんづいて、調べに協力してくれた店の子をさらった。くやしいが手がかりはまるでない。根性焼きの四人組を、手を尽くして探してくれ。
おれはミナガワといっしょにまた身障者パーティに顔をだしたが、店の男はマドカの住まいを知らなかった。知っているのは携帯の番号だけだ。ルカは手話だけでなく全身で心配そうな表情をつくったが、仕事場を離れてマドカと個人的なつきあいはないという。もちろん緊急時の連絡先など知るはずもない。しかたなかった。大人のパーティは手っ取り早く日銭を稼ぐところで、なかよし教室じゃない。
マドカの仕事のことを考えると、事情を話して警察に捜索届をだすわけにもいかなかった。そもそも始まりのパーティ潰しから説明しなけりゃならない。幻のパーティを襲う幻の襲撃者がいて、実は幻の女子大生娼婦をさらった。彼女が戻らなきゃ、ベトナムでクラスふたつ分の子どもが、教育の機会を奪われることになる。おとぎ話だ。
おれはそれから四十八時間、ほぼ眠らずに池袋じゅうを動きまわった。もう一度すべてのパーティをまわり、組事務所とかけあい、いくつかのチーマーのヘッドに話を聞き、女子大の学生課に問いあわせた。クズ情報が集まるだけで、マドカのゆくえはまるでわからなかった。ミナガワは二日間おれにつきあっていう。
「頭のいかれた犬に咬まれたからって、なにもおまえのせいじゃない。落ち着いて、やつらを探せ、あとはおれが借りを返してやる」
わかっている。だが、おれの耳から肉を打つ鈍い響きが消えることはなかった。
◆
マドカがウエストゲートパークに捨てられたのは、失踪二日後の雨の朝だった。
目隠しをされ下着姿で倒れているところを、新聞配達の男に発見され、西口交番に届け出がされた。マドカは偶然にも牧野亜希と同じ敬愛病院に救急車で運びこまれている。全身に殴打の跡が残り、ひどく衰弱していたが、命に別状はなかったという。マドカが病院のベッドで目を覚ましたとき、最初に欲しがったのは吉[#底本では「土/口」]野家の牛丼で、医者に頼んだのは早急な腟洗浄だった。おれはその日の午後、サルから電話をもらい、ミナガワといっしょに荒れ模様の空のした、敬愛病院に駆けつけた。もっともその病院は、千早と西池袋に接する長崎二丁目にある。タクシーならワンメーターの距離だ。
女ばかりの四人部屋、てまえの左側にある白いパイプフレームのベッドに、マドカは横になっていた。左目のまわりに黒いあざが残っている。頬がすこしこけたようだ。顔だちがいくぶん鋭くなっていた。マドカはおれたちを見ると酔っ払ったような口調でいう。
「あー、マコトちゃんとミナガワさんだ。私、今、鎮痛剤を使ってるから、ふわふわして気持ちいいんだ」
おれはベッドの横のパイプ椅子に座り、頭をさげた。
「おれのせいでひどい目に遭わせてすまなかった。身体は大丈夫なのか」
マドカの顔から漂白されたコピー用紙のように表情がなくなった。
「身体はだいじょぶだけど、心はぼろぼろだよ。私、あんなやつらがいるって考えたこともなかった。ライターで私に火をつけて、私が熱がると、それがおかしいって笑うんだ。遊んでるみたいに楽しそうに。セックスするならするでいいけど、グーで私のお腹を殴りながらする。あいつら、頭の芯からいかれてるよ」
ミナガワがおれのうしろでいった。
「腕に根性焼きはあったのか」
「うん、あった。星印の尖った先に押したみたいに五つ。全員に」
パーティ潰しに間違いないだろう。だが、マドカの監禁と暴行の様子から、おれはもうひとつ別の犯罪を思いだしていた。
「なあ、マドカ。リーダー格のガキのことを、みんなアキラくんて呼んでなかったか」
マドカは驚いた顔をした。目のまわりのあざに響いたのか、左目を軽く押える。
「なんでわかるの、マコトちゃん。他の三人は、エイジとスミオとシゲト。絶対に忘れちゃいけないって、私必死で覚えてきたのに。これじゃ、マコトちゃんの仕事には、ぜんぜん役に立たないね」
やっぱりおれは間抜けだった。そいつらの名前なら、パーティ潰しが始まる以前から知っていたのだ。千早監禁事件主犯の少年A・成瀬彰二十歳、従犯の少年B・間野英二二十歳、少年C・布施澄夫二十歳、少年D・塚本重人十九歳。年齢は現在のものだ。
四人組のパーティ潰しは、あの監禁事件と同一犯だった。マドカの話を聞きながら、おれは牧野亜希の解剖医の供述を思いだしていた。火傷跡に殴打による浮腫に腟の裂傷。やることがまるで進歩しない。PHSでやつは池袋に帰ってきたともいっている。あの紙やすりの声がきっとアキラだ。監禁事件から三年、アキラが少年院を出所して、すべてのガキがそろい、ベストメンバーでこの街に帰ってきたのだろう。燃え尽きるまえに、もうひと暴れするために。
バッドボーイズ・アー・バック・イン・タウン。
◆
おれは続けてマドカの話を聞いた。できる限り細かく周囲の状況を思いだしてくれ。マドカは鎮痛剤でくらくらの頭を必死に使ってくれた。おれはいった。
「二日間、やつらはなにを食ってたんだ」
「私、それは絶対に忘れない。食べものの恨みだもん。あいつら自分たちが食べても、私にはなにもくれなかったから。いつもローソンのお握りとか弁当とかカップヌードルを食べていたよ。すぐ近くにあったみたい。一度なんかシゲトっていうやつが、五、六分でジュース買って帰ってきたから」
「部屋はどんなだった?」
「きれいなワンルームだったと思う。窓の外から電車が通る音が聞こえた。それも山手線みたいに長いのじゃなくて、せいぜい一両か二両の電車」
東京のこのあたりにはそんな電車は都電しかないだろう。早稲田と三ノ輪を結ぶ都電荒川線だ。豊島区のほぼ中央を南北に走っている。おれは腕を組んで立つミナガワを見あげた。やつはにやりと笑うといった。
「だいぶ、バラけてきたな」
バラける。それはミナガワの口癖で興がのったり、夢中になったりするとよく口にする言葉だった。昔好きだった曲の前奏がカラオケでかかると、バラけてんな。水みたいにのど越しがすっきりした日本酒にも、こいつはバラけてんな。おれはマドカにいった。
「最後の日の朝だけど、そのアジトから西口公園まで、クルマでどのくらいかかったかな。だいたいでいいんだが」
マドカは目を閉じて考えた。あざだらけの顔は、そうするとまるでホラー映画の特殊メイクを施した死人に見える。肌のさまざまな深さでにじんでいる黒い傷、青い傷、黄色い傷。
「目隠しされていたから、正確にはわからないけど、十分から、長くても二十分のあいだだと思う」
「ありがとう、参考になるよ」
おれはうなずいて、タオルケットのうえにだされたマドカの手を握ろうとした。おれの手がふれるまえに、マドカはなにか病気でも移ってしまうように、サッと手を引っこめた。タオルケットのした、マドカの全身に恐怖の波が走る。
「あっ、ごめんなさい。ついあいつらのこと思いだして……」
いいんだとおれはいった。無神経に手を握ろうとしたおれが悪いのだ。だが、好奇心旺盛でむやみに明るかったマドカに、たった二日間でこんなふうに恐怖を植えつけたのはあの四人組だ。やつらを許しておくことはできなかった。
今度潰されるのは、パーティ潰しの番だ。
◆
おれとミナガワが病室をでると、廊下にアツシが立っていた。また長袖のTシャツを着ている。アツシはおれが近づいていくと、うなだれていた顔をあげる。きれいな顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。しゃくりあげながらいった。
「マドカさんが、こんなことになって、ぼくは、ぼくは……」
また声をあげて泣き始める。おれはアツシの左手首をつかんだ。きゃしゃで女の子のような手首だった。やつの腕をあげて、シャツの袖をひじまでまくる。アツシはぶるぶると震えだした。
「やっぱりそうか」
アツシの左腕のひじの裏側には、黒く色素沈着を起こした古い火傷の跡が残っていた。五角形の角々に押されたタバコの丸い跡は、たぶん兄弟分の印なのだろう。アツシも三年前は千早監禁事件のメンバーのひとりだったのだ。
互いに引いたこの腕の、流るる血汐を酌み交わし、兄弟分になりたい願い、か。ばからしい。いい気になった悪党やガキどもは、なぜかこんなものを自分の身体にいれたがる。江戸時代から変わらない肌に書いた消せないサインだ。ミナガワが目を細めていった。
「なんで、おれたちのまわりをうろうろしてんだ」
「すみません。ぼくは、あの、いつアキラくんたちに呼びだされるか、怖くて。あの四人はなにをするかわからないんだ。みんなといっしょなら、すこしは安全かなと思って。マコトさん、助けてください。ぼくはもう、あいつらのところに戻りたくないんです」
このまえ公園でおれに用があったのは、そのことだったのか。アツシはミナガワと目をあわせずに、病院の廊下でちいさくなっていた。おれは優しく聞いてみる。
「なあ、おまえはアキラたちの居場所を知らないのか」
アツシは大急ぎで首を横に振った。整った顔から、色が引いていく。
「わからないよ、ほんとうだよ」
ミナガワが皮肉な調子でおれにいう。
「知っていたとしても、ぶるっちまって教えられないだろうな。とんだ根性なしだ。マコト、こいつをおれに三十分預けて、どこかに用をたしにいかねえか、すぐに話がバラけてくるぜ」
そういいながら、肩と首の凝りをほぐすように、ミナガワは薄い頭をゆっくりとまわし始めた。アツシはさらにちいさくなり、目に見えて震えだす。
「よせよ、ミナガワさん。こいつを脅してもしょうがない。それより、アツシ、おれたちは人にあう用事があるから、マドカについていてやってくれ。彼女は東京に友達がいないんだ。それから、おまえのところにあの四人の写真はないか」
「うちに戻って探せばあるよ」
「じゃあ、あとで用意しといてくれ。人をやるから」
アツシは顔をあげずにうなずくと、背を丸め病室にはいっていった。ミナガワは残念そうだった。
「たたきゃあ、なにかしらでると思うんだがな。ところでつぎはどうすんだ」
おれはPHSを取りだして、Gボーイズの王様・安藤タカシの短縮を押した。
「ウエストゲートパークに戻ろう。今度はおれたちが攻める」
◆
二十分後には、ツインタワー1号・2号を従えたタカシと円形広場で作戦会議を開いていた。午前中の雨でぬぐわれて、池袋の空も磨いたばかりの窓のように澄んでいる。公園のケヤキもどこかうれしそうだ。雲の切れ間から梯子のように日ざしが注ぐと、ビル街の谷間はサウナみたいに蒸し暑くなった。おれがパーティ潰しのアジトの条件を説明すると、タカシはミラーグラスをかけたまま、涼しそうにいった。
「なるほどな、都電の線路沿いで、歩いて数分のところにローソンがあるワンルームマンションか。だけど、部屋を移っている可能性はないか」
「たぶん、大丈夫だろう。新しく部屋を借りるのは、金があっても二十歳のガキには大変だからな。やつらは一日に何度もコンビニで買いものをしている。沿線のローソンを調べあげ、すべての店にGボーイズの見張りをつけてくれ。人海戦術なら、お手のものだろ」
タカシのサングラスに池袋の空と雲が、実物よりまぶしく光っていた。
「ああ、そうだな。クルマで十分から二十分なら、目白や西巣鴨は圏外だろうが、念のためにボーイズをおいておこう。やつらの写真はいつ手にはいるんだ」
「今日の夕方には複写をすませて、全員の手に渡す」
タカシは今回の事件で初めて歯を見せて笑った。ちらりと隣のベンチに座るミナガワに目をやる。声をひそめていった。
「危なそうなのを連れてるな。仮にパーティ潰しの部屋が見つかったら、あいつはどうするんだ。ひとりでつっこませるか」
「いいや、そっちはGボーイズでやろう。ヤー公にまかせて、無駄な死者をだしたくない。それで、いいだろ」
タカシはゆっくりとミラーグラスをはずす。おれをまっすぐに見る目は笑っていた。
「それでいい。マコトやおれがケダモノの位置まで、落ちる必要はない」
おれたちはさらに手はずを細かく決めて、その場で別れた。おれはその日の深夜まで、ミナガワをあちこち引きまわすつもりだった。本来なら組織に流す情報を手元に抑えておけるのは、せいぜい半日くらいだろう。すでにパーティ潰しの身元は割れている。
おれたちは優しすぎたのかもしれない。獣だってやすやすと狩られるままでいるはずがなかったのだ。
◆
その日は夜まで千早町の町内にあるパーティ潰しの実家四軒をまわった。もちろん誰も家にはいなかった。友人だといって家を訪れると、どの親も迷惑そうな顔をした。そのあたりに住んでいるGボーイズのメンバーを集めて、成瀬アキラたちの話を聞いた。アキラはその町では有名な悪だった。ケンカ、カツアゲ、シンナー、自販機荒らし、器物損壊、強姦。それだけならどの町内にもよくいる悪ガキだったが、最後に女子高生監禁事件でハクがついた。
誰に聞いても、みなアキラのことを呼び捨てにするやつはいなかった。アツシと同じようにアキラくんと呼ぶ。あれから三年たっても、ガキどものあいだで恐れられる有名人というわけだ。
朝方の雨は昼にいったんあがったが、日が暮れるころまた空模様が怪しくなった。ころころと変わる夏の空。そんなときは間違いなく吹き降りの激しい雨がくる。七時すぎ、有楽町線の要町駅前で、おれはミナガワと別れた。やつは聖玉社の里見のところに顔をだしてくるという。おれはひと駅なので歩いて帰るつもりだった。
立教大五号館の裏の人けのない小道を歩いていると、急にあたりが暗くなり灰色の空からあふれるように雨が落ちてきた。家の屋根やビルの角が水煙で白くかすむくらいの大粒の雨だった。傘をもっていなかったおれは、取りあえず近くにある電話ボックスに避難した。雨水は滝のように四方のガラスを滑り落ち、狭いボックス内の空気もびしょ濡れで、おれはえら呼吸をしてるみたいな気分だった。肺のなかまでじっとり濡れる。雨足が弱まるのを待つあいだ、尻ポケットからPHSをだし、タカシの短縮を押した。
取次がすぐにまわしてくれる。夕立のなかで聞くタカシの声は、日に干した綿のシーツのようにさらっと乾いて、耳に心地よかった。
「マコトか。今、どこだ」
「西池袋、立教大学の裏。ついさっきミナガワと別れてきたところだ。そっちの張り込みの調子はどうだ」
タカシの声はいつものように冷静だった。
「コンビニ十二軒にGボーイズを三交代で張りつけた。この雨だから、なかなか苦労しているようだが、二、三有力な目撃情報があがっている。決着までに、そう時間はかからないだろう。やつらが見つかったときの、つぎの手はずだが……」
通りに背をむけて立つおれのうしろで、電話ボックスの扉が開く音がした。おれはタカシにいった。
「ちょっと待ってくれ、他に電話を使うやつがいるみたいだ」
振りむくと黒いフードをかぶった男が、ぬっとはいってくるところだった。濡れ光るウインドブレーカーとトレーニングパンツ。背はおれより高い。ディップで立てた短い茶色の前髪。馬面。目の色を見て、おれが誰なのかやつが知っているのがわかった。同時におれもやつがわかった。岡野と名のって、身障者パーティに最初にはいった男。パーティ潰しのひとり。本名は間野英二、監禁事件の少年Bだ。やつは狭い電話ボックスのなかで、黙って右のこぶしを振るった。指先を切り落とした手袋の角に金属の光りが見えた。ナイロンの布がこすれ、風を切る音がする。
おれの左こめかみのうえ、頭のてっぺん近くに熱い衝撃がきて、反対側に抜けていった。
◆
いきなり殴られると、人がなにをするかわかるだろうか。
見ず知らずのやつにいきなり殴られて、あんたならどうする? もちろん一撃で意識を失うほどのダメージが残らない場合だ。急所をかばう、走って逃げる、助けを呼ぶ、それとも即座に殴り返す。おれの場合はどれも違っていた。それにたいていの人間なら、おれと同じことをするだろう。
こたえは簡単。「考える」だ。わかるかな、いきなり殴られたら、誰だって必死になって考える。頭のなかのもうひとつの回路が目を覚まし、自分の肉体を守るために全速力で動きだす。殴られたら、考える。それが人間だ。つぎにどう殴られないようにするか、どうやったら自分を守り、こっちも殴り返せるか。
おれはぶったたかれた二秒後の鐘のように、じんじんと衝撃の余韻が残る頭で必死に考えた。背は高いが、岡野は細い。力ならおれのほうが強い。おれだってだてに週三回四百キロ分のスイカを、ダットサンから積みおろししてるわけじゃない。狭い電話ボックスのなかでは、やつは長い手足をもてあますだろう。左右のひじで頭を両側からくるむようにガードして、おれは上目づかいにやつを見つめ、でたらめな速さで考えていた。
岡野は左のこぶしを引いて、またおれにフックをいれようとした。やつの袖から滴が飛んで、電話ボックスの内側を濡らした。ひじが緑の公衆電話にあたり、鈍い音がする。頭にかすった二発目のフックは、手で押しただけのスピードのないパンチだった。それでもごつんと頭の骨が鳴る。おれは効いていると見せかけ、腰をしっかりおとした。ひざにバネをためる。両肩に力を入れ、ひじの角度を固定する。空気を押し潰すように、こぶしを握りこんだ。
それから、思いきり腹の底から叫び声をあげ、目のまえで黒いファスナーを閉じているやつの腹に、頭ごと突っこんでいった。
◆
重い頭蓋骨の両脇に、雄牛の角のようにひじを尖らせて、おれはやつの腹をぶち抜いた。みしりときしむような音がして、やつの背中のガラス一面が瞬時に白くひび割れる。左の目に血がはいったが、おれ自身の血のようだった。岡野はタイヤが裂けるように、爆発的に息を吐く。やつは焦ってこぶしの底でおれの背中をたたいたが、おれは相手にしなかった。腰を落としたまま身体をねじり、岡野の脇腹に体重をのせた左右のひじを打ちこみ続けた。何発目かでおれの右ひじに、肋骨の折れる感触が残る。
今度腰を落とすのは、岡野の番だった。
◆
電話ボックスの濡れた床に尻を落とした岡野の顔を、おれは掌底で殴った。やつの長いあごが左右に揺れ動く。別に格闘技が好きなわけではないが、ボクシングの心得のないおれがこぶしで殴れば、手を痛めるに決まってる。狭い空間のなかでごつごつと骨を打つ音が響いていた。四方八方から降り注ぐ打撃の雨音。おれは必死だった。さっきと立場は逆だが、岡野の頭のなかでも、おれを倒すための考えがうず巻いているかもしれない。ミナガワの動きを思いだす。やるときには徹底して制圧してしまわなければ、つぎにやられるのはこちらだ。
殴りながら、おれはだんだん怖くなってきた。腕を振るうたびに、身体の底から新しい力が湧いてくる。もっと殴れ、壊してやれ。同時に相手がダメージを負うごとに、逆に不死身で手むかってくるようにも感じる。殴りあっている最中の敵は、誰であれ底知れぬ恐怖だ。
おれは豪雨のなか、半分気を失った岡野を電話ボックスからひきずりだした。誰かが荒い息をしていると思ったら、おれだった。水たまりにシャリパンの足を伸ばしてやり、レッドウイングの九インチブーツで、やつの右ひざの裏を思いきり踏み抜いた。肉と骨と腱が壊れる音は、ごうごうと耳を打つ激しい雨足のなか異様に鮮やかに響く。それだけやって、ようやくおれは現場から離れることができた。それでも岡野が立ちあがり、またおれを追ってくるような気がして、怖くてしょうがなかった。
おれが潰したのはやつの右ひざだと思うが、ほんとうはどっちだったか、よく覚えていないんだ。
◆
おれは顔から血を流したまま、雨のなか足早に家に戻った。おふくろは客の相手をしながら、桜色に染まったTシャツを横目で見ると露骨に顔をしかめる。ふらつく足で店の脇の階段をあがった。ブーツのなかに水がはいり、間が抜けた音がする。台所の鏡で見ると髪のなかにできた傷口は血が固まり始めていた。さっきはなんでもないと思っていた背中が、熱をもって痛みだす。
熱いシャワーを浴び、濡れたジーンズを着替えた。冷蔵庫から一・五リットルいりのスポーツドリンクをだして、ひと息で三分の一ほど空けてしまう。舌がしびれるほど甘かった。自分の部屋に戻り、ミナガワにPHSをいれた。マドカとおれが狙われたのだ。残るはミナガワしかいない。ミナガワのプリペイド携帯は、呼びだし音が鳴っても、なんの反応もなかった。
おれの頭のなかでは、単純な算数が繰り返しあらわれては消えていた。四引く一は三。アキラとエイジとスミオとシゲト引くエイジは、パーティ潰しが三人。いくらミナガワが暴力のプロとはいえ、やつらが三人がかりでいきなり襲ってきても、なんとかなるのだろうか。おれはミナガワが泊まっているホテルが、どこにあるのかさえ知らない。
心配でたまらなかったが、身体は正直なものだ。もうすこし起きていようと深呼吸を繰り返したが、おれはいつの間にか布団のうえで眠りこけてしまった。丸くなり頭と腹をかばった格好のまま。
◆
夢のなかでうんざりするほどしつこく、PHSが鳴っていた。半分眠った心に、ミナガワの名前が浮かんで急激に目が覚める。おれは布団のうえに投げだされたPHSを手に取った。送話口にむかって叫ぶ。
「ミナガワさん、あんた、大丈夫か」
おれはなぜか相手がミナガワだと思いこんでいた。部屋の時計は夜十時をまわったところ。返ってきたのは、まるで別な男の太い声だった。
「ミナガワじゃない。こちらは聖玉社の里見だ。肉屋が医者にかつぎこまれた。あんたの名前をいってるそうだ。これから、足を運ぶ気があるか。あるなら、医者の住所を教えてやる」
「教えてくれ。傷は重いのか」
「だいぶひどいようだ。医者は打つ手がないといってる」
『兄弟船』をうなるミナガワのだらけた笑顔が浮かんだ。力の塊のようだった荒事師が、簡単に潰される。暴力モーターの争いに果てはない。ようやく返事をした。
「……パーティ潰しは逃げたのか」
里見は愉快そうにいう。
「ひとりをおいてな。そいつは重いなんてもんじゃねえ。すくなくとも最後にひとりはしとめたわけだ。相手が何人だったか知らないが、さすが肉屋だ」
ミナガワがもう死人になったつもりでいる。おれはもぐりの医者の住所を聞いて、PHSを切った。窓を開けて、外を見る。気まぐれな雨はあがって、灰色の雲が空を走っていた。おれはさっきよろよろとのぼった階段を、一段飛ばしで駆けおりて、西一番街の路上にでた。酔っ払いと呼びこみとビラ撒きの女たちが、ネオンサインのしたで海藻のように揺れている。水たまりに映るいつもの池袋の景色がひどくやわらかで、優雅に見えた。
◆
タクシーを飛ばしてJR駒込駅にむかった。北口の駅前通りはぎりぎり二車線の細い路地だが、両側にびっしりと食いもの屋や飲み屋などの小店が並んでいる。池袋に比べると、砂漠のような人出だった。おれは住所を確かめながら、裏の世界専用の診療所を探した。その番地にはどぎついパールピンクとシルバーのタイルを交互に配したマンションが建っていた。水商売の女用にでもつくったのだろうか。
おれはエレベーターで最上階の七階にあがった。寒々とした外廊下のつきあたりの、表札のないドアのベルを鳴らす。
「はい」
迷惑そうな声だった。なぜかやせた小男を想像した。
「聖玉社の里見さんから聞いてきた。ここに肉屋がきてるはずだが」
かちゃかちゃとドアチェーンと鍵をはずす音があわせて四回。ようやく金属の扉が開いた。首がだらしなく伸びたTシャツと汚れた白衣が目にはいった。男は想像していたより若干背が高い。やせこけた頬は想像通り。なにかの薬物中毒だろうか。肌の色はベースに緑を塗った灰色の花瓶の絵のようだ。年齢がわからない。
「容体は?」
闇医者はまったく表情を変えずにいう。
「腎臓が破裂して、全身に十数カ所の骨折がある。頭蓋骨陥没に脳挫傷もな。生きているのが不思議だ。連れていきたきゃ、したまで運んでからタクシーをつかまえてくれよ。もっとも大学病院だって、助けることはできないが」
おれは黙って玄関をあがった。闇医者ははいってすぐ左手の扉を開けると、廊下の先へ戻っていった。奥からはテレビゲームの電子音楽の単調なリズムが流れてくる。闇の病室は五畳ほどのフローリングの洋間だった。空間をほぼ占領する病院用の介護ベッドを、三十度ばかり起こしてミナガワが横になっていた。襲われたことを知らなければ、ミナガワだとはわからなかっただろう。顔の凹凸の形がまるで変わってしまっていたからだ。おれは点滴スタンドと心電モニターを避けてベッドサイドにひざまずき、そっと声をかけた。
「ミナガワさん、大丈夫か」
大丈夫なはずがないのに、ほかになんの言葉も浮かばなかった。
「……おお……だいぶ、バラけちまったがな……マコトは……どうだ……」
このオッサンも、おれと同じように自分が襲われたときに、相手のことを考えていたのだ。
「おれは大丈夫。こっちにはひとりしかこなかった。なんとかぶっ倒して、ひざを潰してやった」
「そうか……おまえにしちゃ……まあまあだな……おれのほうは、三人がかりだった……鉄パイプと特殊警棒……めった打ち……されちまった」
ミナガワの顔のした半分が動いた。笑ったのだろう。
「だがな、ひとりは……道連れに……してやった……一番でかいやつだ……闇医者がおれの……手を洗うまでは……野郎の脳味噌が……爪のあいだに、詰まっていたぜ」
ミナガワは息をきらしながら、興奮してしゃべった。打ちまくられてだめだと観念したとき、一番おおきなガキを選び、頭を両手でつかんだという。最後に一番でかい肉を食う。ミナガワらしい選択だった。
ミナガワは目玉の穴に両手の親指を根元まで突っこんで、ガキの頭蓋骨を内側から揺さぶってやったそうだ。やつはびくびくと魚のように痙攣し、うえにのるミナガワを残りふたりがでたらめに打ちまくる。雨のなかの地獄絵だ。襲われたのは聖玉社近くの駐車場で、組のチンピラが駆けつけたときには、パーティ潰しは逃げていた。死体をひとつとなりかけの死体をひとつ残して。
ミナガワの話を聞きながらおれは考えていた。岡野以外で背が高いやつはパーティ潰しにはひとりしかいない。少年Dの塚本重人十九歳。やつの背は百八十五センチあるとアツシに聞いていた。残るはふたり。少年AとCだけだった。やつらも今ごろ、恐怖を感じているのだろうか。それとも自壊する暴力モーターのうなりに酔っているのだろうか。
◆
ミナガワは苦しい息のした、淡々という。
「おれが死んだら……身体はどっかの山のなか……にでも、埋められちまうだろう……なあ、マコト……こいつを取ってくれ」
目線だけで、寝巻きの胸にさがっている金のネックレスを示した。
「ネックレスをはずすのか」
ミナガワはあごの先だけでうなずいた。おれはやつの鎖をはずしてやった。ネックレスの先には長方形の切手ほどのペンダントトップがついている。表は艶消しの金、裏返すとKとイニシャルが彫られていた。ミナガワがいった。
「そいつが……おれの本名だ……おれのほんとうの名前さえ……知らないマコトには悪いが……そいつを故郷の海に……投げてくれないか……町の名は……」
ミナガワはそれから太平洋岸の港町の名をいった。遠洋のマグロ漁で有名なところだった。ミナガワが生まれ、育ち、肉屋になった町だ。この稼業にはいってから、一度も戻ったことはないといっていた。それでも、最後はその町の、子どものころ遊んだ海に帰りたいというのだろうか。おれはいった。
「今度の一件が片づいたら、必ずいくよ」
真剣な目つきでミナガワはいう。
「代わりに……おれが今もってる金は……全部やる」
いらないといった。そんなものもらってもうれしくない。
「じゃあ……ベトナムのガキにでも……くれてやれ……ほっときゃ……組がもってく」
いうだけいうと気が済んだのか、ミナガワはつまらないバカ話を始めた。その夜が山場の重患にはとても見えなかった。昔寝た女の話やガキのころの悪さの話。信じられないかもしれないが、ミナガワは死ぬ間際に、モーニング娘や椎名林檎の話をするのだった。ニッポンの未来は〜イェイ、イェイ、イェイ、イェイ。心電波形の緑の線が、うねりをおおきく四つ刻んだ。
ミナガワは眠そうなのだが眠るのが嫌なようで、真夜中近くに酒が飲みたいといいだした。シューティングゲームに夢中の医者に聞くと、好きにさせてもいいという。おれは駒込駅前の居酒屋に走り、飛び切りの日本酒を買ってきてやった。ビール会社のロゴがはいったコップに半分注ぎ、手をそえて唇を濡らしてやる。ミナガワはのみこめもしないくせに、しきりにバラけてる、うまいといった。ありがとな、おまえはいいやつだと。
おれは涙で目のまえが見えなくなった。
◆
日本酒をなめてしばらくすると、ミナガワは眠りこんだ。おれはベッドの脇の床に横になり、しばらくうとうとしていた。ミナガワの容体が急変したのは明け方で、心電モニターの耳を刺す警告音で目を覚ますと、闇医者が部屋にはいってくるところだった。
やつはちらりと水平になったモニターの緑の線を見てから、ミナガワの首筋に手をおき呼気と心音を確かめ、ペンライトを胸ポケットから抜くと、ミナガワの目のまえで振った。手慣れた一連の動作だった。おれにむかってうなずく。
「残念だ。こんな医者でも患者が死ぬと、自分のせいだと思うんだ。聖玉社にはこちらから連絡をいれておけばいいのかな」
おれは黙ってうなずいた。立ちあがり、ごつい手を握った。ミナガワの身体は、死んでもまだあたたかかった。六十兆の細胞のほとんどは、まだ魂がいなくなったことに気づいていないのだ。死はおれたちの隣にいる親しい友達だと思った。オカルトでもカルトでもない。おれにはむこうの世界からこちらを見つめているミナガワの視線が感じられた。それは空が青く見えたり、自分の心臓の鼓動を聞いたりするのと同じように、絶対的な感覚だ。
その夜明け、狭い病室の天井の隅から、確かにやつは笑っておれを見ていた。
ありがとな、マコト。
◆
おれは明け方の本郷通りをぶらぶらと歩いた。眠くはなかった。昨日岡野に殴られた傷が鈍く痛んだが、ミナガワに比べれば蚊に刺されたようなものだ。よく晴れた日で、通りの隅々まで朝日がさしていた。光りは鋭く透明で、排ガス臭い空気さえ高原のようにさわやかだった。おれは意味もなく歩道橋のうえにのぼった。東京の薄青い空のした、通りの果てまで、ビルと自動車の列が続いていた。
ミナガワはあちらにいき、おれはこちらに残っている。たまたまそうなっただけで、逆でもおかしくなかった。生きているのも、死んでいるのも紙ひと重。たいした変わりはないんだと思った。強がりではない。一歩足を踏みだせば、歩道橋の手すりのむこうに、死んだおれが立っている。やつは生きてるおれを見て、哀れだと笑っているかもしれない。
しばらく東京の朝を見ていると、尻ポケットでPHSが鳴った。耳にあてる。タカシの声は朝日のように硬い。
「パーティ潰しのアジトが見つかった。朝イチで突入する、くるか」
もちろんだといった。いいだろう、死者について考えるのはいつでもできる。生きてる限り動きまわり、自己憐憫と自己嫌悪の材料をつくり続ければいい。どうせおれはただのガキで、バカな動物で、池袋の底に張りついてるゴミのような生きものだ。
◆
タカシの電話でむかった先は雑司が谷。いつかの夜見た灰色のコンクリート塀を思いだす。なんのことはない、あのときおれたちはやつらの話をしながら、アジトのまわりをぐるぐる周回していたのだ。パーティ潰しのマンションは、雑司が谷霊園に隣接する南池袋斎場と都電荒川線にはさまれた緑の多い住宅街にあるという。タクシーをおりたおれは、線路沿いの通りにとまっているメルセデスのRVにのりこんだ。フロントウインドウ越しに、まだ新しい白のタイル張りの清潔そうなマンションが見えた。六階建ての中層タイプで、ホテルの壁面のようにちいさな四角い窓が線路側にはびっしりと並んでいた。
おれがリアシートに滑りこむと、隣でタカシが楽しそうにいった。
「おまえが襲われたと聞いた。昨日は大変だったみたいだな」
タカシにいわれて初めて頭の傷を思いだした。前席のごついGボーイふたりは、黙ったまま視線を通りの斜めむかいに注いでいる。おれは不思議になって聞いた。
「ミナガワさん、いや、おれのボディガードの話は知ってるのか」
「いいや。こっちが里見から聞いたのはおまえのことだけだ。やつがどうかしたのか」
「そうか、ならいいんだ」
聖玉社の里見にしても、ミナガワと少年D・塚本重人の死は、できるだけ伏せておきたいところなのだろう。おれは白いマンションを指していった。
「今、あのなかにいるのは、成瀬彰と間野英二に布施澄夫の三人だけだ。エイジというやつは右ひざが壊れて動けないはずだ」
むずかしい顔をしていたタカシが唇を曲げた。笑いの破片が口元に散る。
「そうか。もう塚本というやつはいないのか。マコトが間野を、そのミナガワがいなくなった塚本をかたづけたというわけか。ふん、どこに消しちまったんだろうな」
タカシは愉快そうにおれの目を見て笑う。おれはいった。
「まあ、そんなとこだ」
そのためにミナガワがどんな代償を払ったのかはいわなかった。タカシも知りたくはないだろう。知らなくていいことは、知らないようにする。池袋の灰色ゾーンの基本ルールだ。タカシは淡々と状況を説明する。
「毎朝七時、ここからは見えないが、歩いて二分ほどのローソン雑司が谷店に、やつらは朝飯を買いにいく。少年院の癖が抜けなくて朝が早いんだ。いつもは塚本というガキだったが、今朝は布施というやつに変わるのかもしれない。マンションの裏口から、Gボーイを三人送りこんでいる。非常階段で今も待機してるはずだ」
マンションの潜入など簡単だった。オートロックなんてザルみたいなもの。どんな高級マンションでも裏は小学生でもはいれる程度。タカシの声は低く続いている。
「間もなくガキが買いものにでるだろう。そうしたら、おれたちも現場にでる。電子レンジでチンした弁当をもって、ガキがドアを開けた瞬間、おれたちは土石流みたいになだれこむ。部屋にひとり半しかいないなら、やつらにはノーチャンスだ」
そういうタカシの声がどんどん冷えこんでいく。言葉の端々が白く凍りついていくようだった。
キングは興奮している。
◆
七時五分まえ、前席に座るGボーイの携帯が鳴った。着メロは宇多田ヒカルの『オートマティック』。ちょっと古い。オレンジのつなぎ姿のガキが、すぐタカシに携帯を渡した。
「わかった」
真剣な目つきで報告を聞いて、タカシはひとこと漏らす。通話を切ると、おれたちにいった。
「やつがエレベーターでしたにおりた。いくぞ。キラーズーを忘れるな」
運転手ひとりを残し、おれたち三人は静かにメルセデスのRVから、路上におりた。金網フェンスのむこうを、一両編成の都電がのんびりと走っていく。この時間手すりにつかまり立っている乗客はわずかだった。線路端の砂利に黄色いタンポポが揺れている。おれが目の端で都電を見ていると、タカシがいった。
「マコトはおれといっしょに動け。ほかのGボーイは、頭のなかにマンションの造りがたたきこんである。足手まといになるなよ」
「ああ」
二車線の通りを足早に渡った。東京のこのあたりでは、まだ通勤通学する人影はすくなかった。朝練でもあるのだろうか、たまにスポーツバッグをさげた中学生が歩いているくらい。
「こっちだ」
おれは黙ってタカシのあとをついていった。
◆
白いマンションの裏にまわった。生け垣と駐輪場のあいだに、胸ほどの高さのタイル張りの塀があり、同じ高さのアルミ扉が見えた。オレンジつなぎが小走りで塀に駆けより、ひと息で体を引きあげるとむこう側におりた。エアクッションのハイテクシューズはこんなとき、ほとんど音がしない。便利だ。やつは非常口にまわり、おれたちのために内側から戸を開けてくれる。気がつくとおれのうしろに、さらに三人ついてきていた。もう一台のクルマで待機していたGボーイズなのだろう。黙っておれにうなずきかけてくる。
二本ある非常階段をふた手に別れ、足音を殺してあがった。四階と五階のあいだにある踊り場で、通りから見えないようにおれたちはしゃがみこんだ。こちらにはオレンジつなぎとタカシとおれの三人。むこうの非常階段にも、先ほどの三人。タカシはいった。
「パーティ潰しの部屋は四〇八号の角部屋だ。第一陣が帰ってきたガキを抑えたら、同時におれたちがつっこむ。これ以上はない簡単な話だ」
おれたちはしゃがんだまま、朝飯を買いこんだガキがローソンから戻るのを待った。線路沿いの立ち木から、小鳥のさえずりが聞こえた。あれはヒバリだろう。都電が居眠りしてる客をのせ、がたがたとしたを通っていく。のどかな夏の朝だった。
◆
また宇多田ヒカルが鳴った。オレンジつなぎの携帯はタカシの手にある。短いひとことの応酬で通話は切れて、おれの心臓がでたらめな鼓動を刻みだした。
「ガキが戻った」
息をひそめていると、建物の中央部にあるエレベーターの運転音が、端にある非常階段にも聞こえてくる。四階でとまり、扉が開く音がした。おれたち三人は、しゃがみこんだまま顔もだせず、音しか聞くことができなかった。おれは非常階段の手すりの妙になめらかなコンクリートの肌とそのむこうに広がる夏空を見ながら、耳を立てていた。B&Kの超高感度マイクロフォンにでもなった気がする。
鼻唄と近づいてくる足音は、まるで見えるように立体的に聞こえた。パンツにこすれでもするのだろう。コンビニのポリ袋がかさかさという。足音はほんの数メートルしたでとまり、ガキはポケットから鍵を取りだしているようだ。金属のこすれる音。鼻唄は続いていた。のりのいいTOKIOの新曲だ。
鍵穴に鍵を差す音に続いて、かちりとロックがはずれる音が響く。同時にいり乱れる複数の足音と誰かがもみあう音が、ジェット機の離陸音のようにおれの耳を撃った。
◆
おれが立ちあがろうとしたときには、オレンジつなぎとタカシは三段飛ばしで、非常階段を駆けおりていた。おれにはタカシの背中の残像しか見えなかった。すこし遅れて四階の外廊下に立つ。
四〇八号のスチール扉のまえで、ツインタワー1号がガキをうしろから羽交い締めにしていた。身長二メートルにCD一枚分くらい足りない1号にとって、しっかりと抱き締めるだけでじゅうぶんな必殺技だった。小柄なパーティ潰しの身体は、ヒトデに体液を吸われる小魚のようだ。写真で顔は確かめなくても、そいつが布施澄夫であることがわかった。身長が百六十センチ台で小太りなのは、四人のなかでスミオしかいない。
おれはツインタワー1号にうなずき、土足のまま玄関をあがった。短い廊下にも、奥の部屋にもGボーイズがあふれていた。なかは十畳ほどあるフローリングのワンルームで、右手の壁一面が造りつけのクローゼットだった。部屋の隅にはコンビニの袋や弁当の食い残しが散らばっている。うつぶせになり手足を縛られているガキはひとりしかいなかった。昨日の夜と同じ格好をした間野英二だ。エイジはさるぐつわをかまされ、馬面を横にむけ、ほこりっぽい床で荒い息を吐いている。カーテンのすきまから外をのぞいているタカシにいった。
「こいつだけなのか」
タカシは振りむかずにこたえる。
「そうだ」
主犯の少年A・成瀬アキラがいない。誰かが転がっているエイジを蹴飛ばしていた。エイジはさるぐつわを噛んでくぐもった叫び声をあげる。タカシがいった。
「やるなら、静かにやれ」
タカシは窓を離れ、エイジの顔の横にしゃがみこんだ。低い声で囁く。
「おれはおまえらと違って残酷ショーは、あまり好きじゃない。おまえらは殴りながら、女を犯すそうだな。おまえは自分がされるなら、どんなのが好みだ」
タカシはなか指を立てて、エイジの目のまえで振る。ファック・ユーのサインだろうか。指先を親指のつけ根に丸め、デコピンの形をつくった。エイジは硬く目を閉じている。ビシッ、鞭が鳴る音がして、タカシはまぶたのうえから、エイジの目玉を弾いた。エイジはさるぐつわの横からよだれをたらしながら、縛られた身体を弓なりにそらす。
タカシはおれを見あげて、笑った。
「おれ、ガキのころから、デコピン得意だったからな」
それなら、おれも覚えている。高校時代、タカシのデコピンは額に爪の形に青あざが残るので有名だった。タカシは床で震えているエイジに視線を戻すと、優しい声をだした。
「なあ、アキラはどこにいった」
閉じたまぶたから涙を流しながら、エイジは必死で首を横に振っている。
◆
縛りあげたエイジとスミオを尋問したが、無駄だった。ほかのことはなんでもぺらぺらと話すのだが、アキラのゆくえについては知らないと繰り返すばかり。目のまえでスタンガンや特殊警棒を振りまわすGボーイズより、アキラのほうがよほど恐ろしいのだろう。あるいはほんとうに知らないのかもしれない。
タカシがおれにいった。
「さて、このあとどうする」
おれはパーティ潰しから目をそらせていった。
「マドカの件で警察も動いている。いつでも、こいつらを引き渡すことはできる。今度は二十歳以上だから、成人用の刑務所だ。再犯で罪も重い」
「組織のほうはいいのか。あっさりとやつらにまかせたほうが、税金の節約になる気がするな。そうするとどうなる、1号」
ツインタワー1号がパーティ潰しのふたりに見えるように、フランクフルトのような親指でのどをかき切るポーズをする。タカシが愉快そうにいった。
「おまえたちに、自分の未来を選ばせてやる。アキラのいく先を話せば、刑務所。話さなけりゃ、組事務所。そっちならどこかの山に埋まることになる。おれはここにいるマコトと違って、正直どっちでもいい。選べ」
さるぐつわを取られたエイジとスミオの口から、壊れた便器のように見苦しい言葉があふれだした。
◆
ふたりによるとアキラはミナガワ襲撃が済んだ昨晩遅く、ちょっとでてくるといったまま戻らないそうだ。アキラは気まぐれで、ときどきそんなことがある。誰もいき先は知らない。お願いだから、組のやつらには渡さないでくれ。涙と鼻水。見ていられない。
タカシはちらりとおれに目をあげるといった。
「いいだろう。もう、黙れ。今日一日、この部屋でアキラを張ろう。夜になってやつがあらわれなければ、この部屋に暴行犯がいると池袋署に通報する。それでいいな、マコト」
おれはうなずいた。今度の事件では、すでに人が死にすぎている。おれはもうたくさんだった。もっと死人が見たければ、ハリウッドのアクション映画でも見るといいのだ。あれならさらさらと砂のような血を流す、痛みを知らない死者を十分間にひとりずつ楽しめる。ポップコーンの死だ。タカシにいった。
「おれはもう帰る。なにか事態に変化があったら、連絡してくれ」
こんなパーティはうんざりだった。そろそろまともな仕事に戻る時間だ。商売は待っちゃくれない。ミナガワが死に、パーティ潰しが潰されても、十一時には店を開ける。
そうやって世界はまわっているし、正直なところ、おれはスイカの詰まった段ボールが少々なつかしかった。
◆
二時間仮眠を取って、いつものように店を開けた。おれはその日一日静かに店番をしていた。病院のマドカのところには、刑事がきて調書をつくる予定だそうだ。岡野との短いアクションで、おれの身体は節々が痛み、がたがたになっていた。おれはアーノルド・シュワルツェネッガーじゃない。
百二十キロ分のスイカを売って、おふくろの機嫌が戻ったころには、とうに日が暮れていた。タカシからのPHSが鳴ったのは、夜八時すぎだ。
「アキラは戻らなかった。Gガールに頼んで、池袋署に通報をいれた。おれたちも、これからアジトを離れる」
西一番街の通りにでて、小声で話しているおれを、おふくろが汚いものでも見るように見た。案外正解かもしれない。街のゴミのおれはいった。
「なんていわせたんだ」
「千早女子高生監禁事件の犯人に、レイプされた。ほかにも、被害者がいる。おにいちゃんに頼んで、ぼこぼこにしてやった。あとは住所だ」
タカシが鼻で笑い、おれも笑った。
「そうか、タカシたちがおにいちゃんか」
「ああ、マコトもな。おまえは気がやさしいおにいちゃんだ」
PHSを切って、店に戻った。涼しい風が吹く夜だった。おれはその時点で、ほぼ事件は片がついたと思っていた。四人組のうち三人はもう池袋の街にはいない。取り逃がした残りひとりが、主犯のAなのが悔しかったが、まともな頭をしていれば、今ごろはどこかに高飛びしているはずだった。今度の事件は熱風のように激しかったが、燃焼期間は短い。八月になるまえに終楽章のコーダにむかっていると思った。
だが、おれの甘い予想は、夜九時の臨時ニュースで裏切られた。
◆
「豊島区東池袋でピストル強奪事件発生。巡回中の警官を襲った犯人は、ジーンズに白いTシャツ姿で、身長は百七十五センチ程度。犯行時は黒い目だし帽を着用」
おれが店の奥のテレビを見ていると、いきなりチャイムの音がしてブラウン管の上部に白いテロップが二行あらわれた。最初の一行で、犯人は少年A・成瀬アキラだと直感した。身長とパーティ潰し愛用の黒い目だし帽で、直感は確信に変わる。ニュースから一分もしないうちに、おれのPHSが鳴りだした。
「やつが動きだしたな」
予想通りタカシの声だった。おもしろがるようにいう。
「やつはGボーイズがかかわってるとは知らないだろう。だが、どうしてかわからないが、おまえが陰で動いてることは知っている。第一の標的はマコトだな」
人が嫌がることを、はっきりとクールにいう。タカシはおれと同じ癖をだした。
「ミナガワがいない今、そうかもしれない」
「どうするんだ。防弾ヴェストを着せたGボーイズで、盾でもつくってやろうか」
冗談じゃない。タカシならほんとうにやりかねなかった。
「いいや。そこまで迷惑はかけられない。ちょっと考えさせてくれ」
おれがそういうと、タカシは怒ったようにいう。
「どっちにしても、おれに遠慮はするな。やつはGボーイズの獲物でもあるんだ」
ありがとうといって、通話を切った。おれは店の棚や冷蔵ケースに飾ってある夏の果実に目をやった。スイカ、パイナップル、バナナ、ライチ、マンゴー。照明を浴びて、ひとつひとつが甘い匂いとしっとりと深みのある色を放っている。おれが毎日退屈を殺しながら店番しているこの店や顔なじみの客たち。ダチがたくさんいる池袋西一番街。酒とスケベと気安い食いもの屋の街。最後に、まともに日銭を稼いで暮らすおふくろのことを考えた。
なにがあっても、ここでアキラを待つわけにはいかない。
おれにはもう迷っている時間はなかった。PHSで久しぶりの短縮を押そうとしたら、ひと足先に呼びだし音が鳴り始めた。震える声が耳元で、悲鳴のように流れだす。
「あの、もしもし……あの、マコトさん」
死ぬほどおびえたアツシだった。
◆
アツシはおれが返事をするまえに、恐怖に壊れた機械のようにしゃべりだした。やつの息は耳元で突風になって吹き荒れる。
「まずいんです……あの、アキラくんは、ぼくが写真を渡したことを知っていて……あの、裏切り者だといって……あの、ぶっ殺してやるって……ぼくはどうしたらいいか、わからなくて」
忘れていた。おれのほかにもうひとり、やつの標的がいたのだ。昔の仲間を裏切り、売り渡した少年Eが。
「今、どこにいる」
「うちのそばのカラオケボックスで……あの、ぼくひとりで」
「わかった。そこを動くな。手を打ってから、あとで電話する」
アツシはおどおどといった。
「あの、どうするんですか」
「相手は銃をもってるんだ。警察を使うしかないだろ」
「でも、ぼくは……警察にはかかわりたく、ないです……前科だってあるし……あの、アキラくんたちとは仲間みたい……なものだったし」
おれには公的機関を恐れるガキの気持ちはよくわかった。ちょっとまえまで、おれだって警察官の姿を見ると、足が自然に道を曲がっていったものだ。
「わかった。アツシのことは伏せておくよ。それじゃ、あとで」
今度こそ目的の相手と話せる。おれは池袋警察署・横山礼一郎署長の短縮番号を押した。礼にいとは、夏になってからまだ一度も飲みにいっていなかった。
◆
呼びだし音ひとつで、礼にいの仕事用の声が聞こえた。緊急対策の会議でもしているんだろう。
「はい、横山です」
「ごぶさた、マコトだけど」
署長の声は気が抜けて、急にちいさくなる。
「ああ、マコトか。おまえも知ってるだろうけど、こっちは短銃強奪事件できりきり舞いなんだ。飲みの誘いなら、今度にしてくれ」
おれはちょっと、間をおいていってやった。
「その強奪事件の犯人を渡してやろうと思って電話したのに、傷つくな。電話するの新聞社にしようかな」
おれは笑った。PHSのむこう側で、礼にいがなにか叫んでいる。また、仕事用の声に戻っていた。
「ほんとだろうな。ガセだったら、ぶちこむぞ」
「ああ、おれが礼にいに嘘ついたことがあるかよ」
「あるよ。去年のサンシャイン通り内戦のとき、おまえは最後の対決をぎりぎりまでおれに隠していた」
さすが偏差値八十以上のキャリア組。これだから、もの覚えのよすぎるやつとは話しづらい。
「わかったよ。ホシは成瀬彰二十歳」
意味不明の声をあげて、秀才があわてだした。がさがさとメモを用意する音がする。
「なんだって。おまえ、なにいってんだ」
「やつは三年まえの千早女子高生監禁事件の主犯で、ひと月ちょっとまえに少年院から戻ったばかりだ」
「あー? それで」
「アキラはたぶん、おれを狙ってる」
「マコト、おまえ自分がなにいってるかわかってんのか」
「ああ、ぶん殴られたが、中身はまともだ。礼にい、いや、横山警視正、おれを餌にしてやつを釣りあげないか。ウエストゲートパークを、やつ専用のでっかい釣り堀にするんだ」
さらさらと鉛筆が紙のうえを走る音が聞こえるようだった。池袋の警察署長はすでに、ショックから立ち直りつつある。冷静さを取り戻して、礼にいはいった。
「マコト、おまえ今、どこにいる?」
「西一番街のうちの店」
「一歩も動くなよ。覆面をそっちにまわす。おふくろさんには、今夜は遅くなるといっといてくれ」
まだ、話のポイントをつかんでいないようだった。いきなりでは無理もない。かわいそうな署長。
「わかった。だけど、おれだって今夜うちの店に帰るつもりはないよ。いつ襲われるかわかんないんだから。礼にい、悪いけどホテル・メトロポリタン予約してくんない。なるべく高い階で、公園が見渡せる部屋がいいな。スイートじゃなくていいからさ」
「マコト、おまえ……」
礼にいは声を荒らげてなにかいいかけた。それほど重要な内容ではないだろうと思い、おれは通話を切った。うちの店は西池袋一丁目で、池袋署は二丁目だ。直線距離なら五百メートルもない。覆面パトカーがくるまえに、着替えの準備をしなければならなかった。
おれは葬式用のネクタイを一本しかもっていないが、ホテルで飯を食うときってネクタイがいるんだろうか。
◆
十分後には池袋署の車寄せの階段を、両側から私服の捜査員にはさまれてのぼっていた。おれが犯人みたいだ。駐車場の横に立つポールでは、日の丸が力なくたれさがっていた。池袋署一階の受付付近はマスコミ関係者で、ラッシュアワーのような混雑。エレベーターで七階まであがる。捜査員は折りたたみ式のテーブルとパイプ椅子が並ぶ、がらんとした会議室までおれを連れていくと、開いたままのドアの脇をノックした。
「情報提供者をお連れしました」
蛍光灯の光りで寒々しい部屋の奥から、署長の声がした。
「真島誠くんだったな。はいりなさい」
礼にいの声が緊張していた。二枚並んだホワイトボードを屏風に署長を中央にして、左右に三人ずつ男たちが座っている。右側はおれの知らない顔で、本庁の捜査一係だと紹介された。左側は所轄の池袋署の少年課と刑事課の捜査員だった。顔は見かけたことがある。みんな、どこから拾ってきたんだ、このガキって顔をしている。冗談は通じないと目で圧力をかけてから、署長がいった。
「すべて、話してもらおうか」
おれはパイプ椅子に座り、覆面パトのなかで何度も考えたストーリーを話し始めた。それにしても警察のパイプ椅子って、特別なしかけでもあるんだろうか。いつだって座り心地は最悪。
◆
パーティ潰しはきれいに無視して、おれはマドカの誘拐と暴行事件から話を始めた。黒い目だし帽をかぶったガキにさらわれて、友人が二日間監禁された。何度も繰り返し暴行を受けた。西口公園で解放されたのは、一昨日の早朝だ。警察に被害届もだしている。おれはマドカから監禁時の状況を聞き、Gボーイズを動かし誘拐犯を見つけた。今夜、ホシのふたりがあがっているはずだ。ちょっと待てと、署長はいった。
「本岡くん、その女性の被害届は受けつけているのか」
四十代後半の日焼けした捜査員は、うなずいていった。
「はい。楢原マドカ二十歳。確かに入院先の敬愛病院で、被害届を受理しております」
「そのふたり組、えー間野英二二十歳と布施澄夫二十歳の身柄は?」
「本日午後八時四十分、匿名通報により南池袋三丁目十番の雑司が谷スカイハイツで、確保しております」
「いいだろう。真島くん、先を続けてください。どうやって容疑者を特定したのかな」
礼にいは軽くおれにうなずきかける。目が真剣だった。おれは、都電の音とアジトから歩いて数分の距離にあるコンビニエンスストアの話をした。豊島区内を走る荒川線線路近くのすべてのローソンにGボーイズを張りつけ、三交代で二十四時間の監視態勢を敷いたことも。それを聞いて捜査員の顔色が変わった。たがいに耳打ちをしたり、うなずきあったり。無理もない。街で女が暴行されたくらいじゃ、警察は絶対にそんな捜査はしてくれない。凶悪事件は多いし、人手は慢性的に足りないのだ。本庁の刑事がいった。
「その……Gボーイズというのはなにかね」
「ギャングボーイズ。池袋の街のガキの集まりだ。おれみたいなガキの親睦団体というか、ちょっとした自警団というか」
池袋署少年課の刑事が露骨に嫌な顔をした。おれはそしらぬ顔で続けた。
「まあ、若いから問題を起こすこともあるけど、ときにはいいこともします」
礼にいは苦笑いを浮かべ、おれを見る。
「その成瀬彰についてわかっていることを教えてほしい」
おれはアツシから仕いれたやつの情報を繰り返した。
「アキラはやつらのリーダーで、身長は百七十五センチ、スキンヘッド。中学高校と柔道の選手で、都の大会でもいい線をいっていたらしい。声は紙やすりで研いだような、ざらざら声だ」
おれのまえに並んだ七人は、柔道という言葉に敏感に反応した。さざなみが走るように表情に微妙な光りがさす。おれは続けた。
「忘れてた。それからやつの左前腕の内側には、五角形の火傷跡が残っている。仲間同士でつけた兄弟分の印だそうだ」
文字通り捜査員の何人かが、安っぽいテーブルのうえに身をのりだした。礼にいがため息をついていった。
「間違いないようだ。口外はしないでもらいたいが、巡査はうしろから柔道の絞め技で決められ、意識を喪失している。首に巻きついた左腕に、おかしな火傷の跡を最後に一瞥しているそうだ。真島くん、今の話をもう一度、詳細に話してくれないか」
礼にいのいう通り、長い夜になりそうだった。
◆
おれはそれからの一時間で、同じ話をもう二度繰り返した。けっこうしんどい。最後に礼にいはいう。
「君はさっき、自分をおとりにして、成瀬彰をおびきだすといっていたが、なにか考えがあるのかね」
君なんて飲み屋のカウンターでは、絶対おれには使わない言葉だった。おれはいった。
「アキラは仲間を潰され、ひとりだけ残ってやけになってると思います。だけど、どうしても仕返ししてやりたい人間がいる。それでピストルを手にいれた。おれ自身、間野英二に襲われているし、アキラもおれがやつらを追いつめたことは知ってるはずです。誰か個人を狙うなら、第一目標はおれになるはずだ」
アツシのことは黙っていた。おれは続ける。
「だけど、いつもの生活と違うことをしたらかんづかれる。おれは普段ひまなときは、だいたい西口公園でぶらぶらしてます。そこで、あの円形広場でやつを罠にかける」
薄汚れたウインドブレーカーを着た少年課の刑事がいった。
「しかし、一般人をおとりにして、凶悪犯の逮捕など可能ですか。この真島くんも、今年二十歳になったばかりだ。仮に成功しても、この話がマスコミに流れたら、非難が集中します」
制服のようなダークスーツを揃いで着こんだ本庁組は、むずかしい顔をする。
「柳瀬くんのいう通りかもしれない。犯人が短銃を所持している以上、危険すぎる方法だ。現場ではつねに不慮の事故の可能性がある」
風むきが怪しくなってきた。おれはいった。
「本人がいいといってる。おれは早くこの事件の片をつけてもらいたいんだ。やつが頭を冷やして、どこかに飛んでしまってもいいのか。この池袋で奪われた拳銃が、日本のどこかで使われても、あんたたちは担当区域外ならかまわないのか。第一、ひと月後にいきなりうしろからズドンなんて、おれは嫌だよ。万が一ここで逃がして、やつが再びあらわれるまで、あんたたちはおれやおれの家族やうちの店を保護できる自信はあるのか」
捜査員も言葉につまっているようだった。礼にいはおれをじっと見つめてから、口を開いた。
「この街で奪われた短銃で、新たな犠牲者を生むことは、それがどの地域であれ、警察官たるもの断固阻止しなければならない。本庁でも、この容疑者を手を尽くして捜索する。その多面的な捜査のひとつとして、真島くんの考えは試してみる価値がある」
短銃強奪のような重要事件では、捜査の指揮を執るのは本庁の仕事。だが、現場で一番階級が上位にあるのは、池袋警察署長の横山礼一郎警視正だった。上級者の言葉は警察では重い。まあ、Gボーイズでも同じことだが。
それで、おれのおとり作戦がすすむことになった。そうと決まってから怖くなるなんて、おれの恐怖心には、とんでもないタイムラグがあるみたいだ。
◆
会議室をでようとすると、礼にいが手招きしておれを呼ぶ。だだっ広い部屋の薄暗い隅に連れていかれた。礼にいは真面目な顔でおれにいう。
「それにしても、面倒ごとがあると、マコトはいつも顔をだしてるな。だがな、今回のは特別だ。いいか、マコト、絶対にむちゃはするな……」
言葉を切って一拍ためてから、おれの肩に両手をおく。礼にいのつぶらな目が赤くなっていて、おれはちょっとびっくりした。
「……死ぬなよ。おまえが死ぬか重傷を負ったら、おれは即座に辞表をだす。おふくろさんにあわせる顔がないし、この街のガキどもにいいわけがきかないからな」
礼にいの背後に広がる窓に、西口歓楽街の明るいネオンサインがぼやけていた。おれはうなずいていった。
「わかった。無理はしない。絶対にやつをつかまえてくれ」
池袋警察署長は泣き笑いの表情を浮かべる。
「ホテル・メトロポリタンには、おまえの名前で部屋が取ってある。ルームサービスであまり贅沢はするなよ。国民の税金なんだからな。それから、おふくろさんには念のため、数日は家を空けるようにいっておいた。店のほうはちょっと早い夏休みということにでもしておけ」
おれはうなずいて、会議室をでた。目の玉が飛びでる値段のルームサービスで、なにを頼もうか考えながら。こういう機会でもなきゃ、税金の元は取れない。
まあ、そんなことでも考えないと、おれも泣きそうだったのは事実なんだが。
◆
池袋署からクルマでホテル・メトロポリタンに移動した。狭い裏通りを一本へだてて、すぐにホテルの入口だが、途中で危険があるといけないということで、ごていねいに覆面パトがまわされた。車中にいたのは十五秒ばかり。捜査員ふたりに囲まれて、チェックインしたときには、もう夜十一時をまわっていた。
結局、捜査員は十二階にあるおれの部屋のドアのまえまでついてきた。おれは足元に公園の緑を見おろす窓辺に立ち、PHSでアツシの短縮を押した。夏休みにはいりウエストゲートパークの人出は、真夜中のフリーマーケットみたい。売り手の女たちが元気なのも、マーケットによく似てる。すぐにアツシのおびえた声がした。
「もしもし」
「おれ、マコト。今、ホテル・メトロポリタンにいる。警察ですべてを話して、アキラをしたの公園で罠にかけることになった」
「あの……ぼくのことは、黙っていてくれたよね」
「ああ、大丈夫だ」
アツシは困ったようにいった。
「ぼくは今夜、どうすればいいかな。家にも帰れないし……あの、マコトさんの部屋にいっても、いいかな」
なぜか、アツシの女みたいな顔と紅く厚い下唇を思いだした。こんなときに、おれはなにを考えてるんだろう。
「やめたほうがいい。どうせ廊下で、刑事がこの部屋を張ってるはずだ」
「……そうなんだ」
声が沈む。おれはとりなすようにいった。
「アツシも小金くらいもってるんだろう。これから、二、三日はカプセルホテルかサウナにでも泊まれよ。そのあいだにきっと片をつけるから」
「うん、わかった……マコトさん、無理しないでね」
PHSが切れた。なんというか、むずかしいガールフレンドと話したあとみたいだ。
◆
その夜はシャワーを浴びてすぐに寝た。枕が変わったなんていってられない。だって前日の夜は駒込の闇医者の病室の床でうとうとしただけなのだ。睡魔は横になったおれの頭を、ハンマーみたいにたたいた。
カーテンを閉め忘れ、翌日は朝の光りで目を覚ます。ルームサービスで朝食を頼む。甘辛いいり卵でなく、バターとフレッシュクリームいっぱいのスクランブルエッグを食べた。ルームサービスのブレックファストなんて、生まれて初めてだった。コーヒーのうまさにも、なかがほんのりあったかいロールパンにも、ちょっと感激した。ついでに頼んでおいた朝刊の一面トップは、池袋の短銃強奪事件を伝えている。成瀬彰のことは、マスコミにはまったく漏れていないようだった。
朝九時、ドアを開けると昨日の夜の捜査員が黙っておれにうなずいた。また、お隣の池袋署まで護送される。VIPなのか囚人なのか、よくわからない気分だ。
◆
例の会議室で防弾ヴェストと防刃ヴェストを重ね着させられた。そのうえから、だぶだぶのナイロンパーカをかぶる。この暑さではきつそうだが、怖い顔をしておれを見ている礼にいの手前、冗談もいえなかった。
胸元にはちいさなマイクがとめられた。声を殺してつぶやくだけで、おれの声は近くにとめられた指揮車に届くことになる。ヘッドホンとポータブルCDも用意されていた。音楽好きのおれのためではなく、無線の受信機だという。ヘッドホンは片チャンネルがスピーカーで、残りは中身をはずし周囲の音が耳にはいるようになっていた。
準備完了。おれは覆面パトカーにのせられ、ウエストゲートパークのJR口近くまで連れていかれた。
◆
朝十時、夏の太陽はすでに盛りの位置までのぼっている。でたらめにまぶしい日ざしと歩道からの照り返し。おれはいつものように、小脇にマッキントッシュのノートブックパソコンをかかえて、ゆっくりと西口公園にはいった。あたりを歩く人間の姿が、スローモーションにでもなったようにはっきりと見える。信号の色が変わったり、そよ風でケヤキの枝先が揺れたりするのが、なぜか異様に鮮明に感じられた。
バームクーヘンみたいに円環状に水煙をあげる噴水の横を通り、左手に太陽とふくろうのブロンズ像を見ながら、円形広場に足を踏みいれた。ダーツの的のように白と灰色の石畳が巨大な同心円を描いている。どまんなかの最高点のところは、ぴかぴかに磨きあげられた黒い御影石張りだ。周囲を取り巻くのはケヤキやソメイヨシノの色濃い緑で、木々のうえには池袋西口のビル街が思いおもいに背を伸ばし、さらにそのうえは巨大な積乱雲を軽々と浮かべる東京の乾いた夏空だった。
池袋ウエストゲートパーク。やっと帰ってきた。ここがおれの場所だ。
◆
だが、ハイな気分は長くは続かなかった。木陰のベンチに座っていても、じりじりと汗の玉が防弾ヴェストのしたを流れていく。おとり作戦なんていって、いくら厳重にまわりを固めたところで、おとりがただの餌であることに変わりはない。ミミズ、ゴカイ、ミジンコの類。ときどき、無線で異常はないか確かめられたが、おれのまわりではなにも起こらなかった。
マックを閉じては開き、文章のかけらでも打とうと思ったが、さすがにキーボードに集中できるほど、おれの神経は太くなかった。一時間もすぎるころには、すっかり退屈してしまった。
暑さにしびれてぼんやりとした頭に、こたえがわかっている質問が何度も浮かぶ。
なんでおれは、こんなところに座っているんだろう。
◆
十二時すこしまえ、公園裏のもち帰り弁当の店で、でかいおにぎりが二個はいったパックと冷たい麦茶を買ってベンチに戻った。サラリーマンとホームレスが多いなと思ったら、みんな捜査員のようだった。おれはだんだん自分の計画に自信がなくなってきた。
逃げようと思えばアキラはいつでも逃げられた。それでも危険を冒して警官から銃を奪うくらいだから、絶対に池袋でやり残したことがあるはずだ。おれが自分にそういい聞かせながら、最初の紀州梅のおにぎりにかぶりつくと、芸術劇場のほうからやってくるおかしなカップルが目にはいった。
けんかでもしたのだろうか。厚底サンダルに外国の娼婦みたいな格好をした女は、男に無理やり手を引かれて歩いてくる。男は肌にぴたりとあった原色ペイズリー柄のサイケデリックなシャツとファクトリーウオッシュのベルボトムジーンズ。頭は流行りのカーリーヘアでメタルフレームのレイバンをかけていた。
広場の中央までやってくると、女の叫び声が聞こえた。
「もうー、痛い。離してよ、あれっぽっちの金じゃやってらんないよ」
男は女に足払いをかけると、乱暴に石畳につき倒した。女は倒れたまま立ちあがってこない。西口公園が液体にでもなったように、おれのまわりのすべてが流れるように動きだした。
◆
男は円形広場の中央から、こちらにむけて小走りに駆けてくる。四十メートルほどあった最初の距離はひと足ごとに縮まっていた。うしろの生け垣からふたりの男が飛びだし、おれのまえに鈍く光るジュラルミンの盾を重ねた。
「伏せろ、マコト」
ヘッドホンの耳元で礼にいが叫んでいた。おれは別な捜査員に頭を抑えられ、盾の陰に押しこまれる。広場の男はつばめの巣のような髪をつかむと、ウィッグを石畳に投げつけた。スキンヘッド。特徴のある尖った頭。サングラスを落とす。成瀬アキラだった。
円形広場の周辺から、盾をもった男たちがゆっくりとアキラに近づいていく。アキラはもう銃を隠してはいなかった。拡声器の歪んだ声がのどかな真昼の公園を圧して、頭の中心で鳴り響く。
「もう、君は逃げられない。短銃を渡して、自首しなさい」
昨日の会議室で聞き覚えのある声だった。本庁の捜査一係か。アキラは叫んだ。
「ふざけんな。真島、おまえ、ぶっ殺してやる。でてこい」
銃をもった右手を振りまわした。公園の緑を背景に人を殺すための道具が黒い残像を描いた。そのとき、やつの視線がなにかを見つけたように、おれからはずれ泳いでいった。おれは盾の陰で捜査員に潰されたまま、必死でやつの視線を追った。
◆
アキラの視線の先、おれの左隣のベンチの裏にはアツシが顔を青くして立っていた。いったいこんなところでなにをしているんだ。頭のうえにでかい黒雲でもかぶさったように、アキラの顔が急に暗く陰った。捜査員は四方八方から盾をじりじりと押しすすめ、アキラに圧力をかける。アキラはおれを見て、アツシを見た。それから、周囲を見まわし絶望したように叫ぶ。ざらざらと荒い紙やすりの声は、今は高くひび割れていた。
「くそー、おれはもう絶対、あの塀のなかにはいらねえ」
アキラは銃をもった右手を頭の高さまであげた。手首を内側に折る。ちいさな筒の暗闇で自分のこめかみを指した。
「バカなことはやめなさい」
拡声器といっしょにおれも同じ言葉を叫んでいた。アキラの右手にいた盾の陰からホームレスの格好をした捜査員が飛びだしていく。アキラの唇が音もなく、なにかひとこと囁いた。ホームレスがアキラの肩に手をかけるのと同時に、短く乾いた発砲音がウエストゲートパークの石畳のおもてを撃った。
◆
銃声があたりのビルに反射してこだまを起こす。破裂音が尾を引いて消えるまえに、アキラは糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。ミナガワの言葉を思いだす。人の身体の中心を通っている生命の線。アキラは確かにその糸を自分でぷつりと切ってしまったようだった。
芸術劇場の駐車場に待機していた救急車がサイレンを鳴らして飛んできて、アキラの横にとまった。だが、やつがストレッチャーで運ばれるところを、おれは見ていない。すでに捜査員にうながされ覆面パトカーに移動していたからだ。人波のなかで一瞬確認したアツシの姿も、騒動にまぎれて見えなくなっていた。銃声から五分後、おれは池袋署のなかにいた。
礼にいと直接話はできなかった。取調室のひとつで防弾ヴェストを脱いでいると、おれのPHSが鳴った。弾むように流れだすちょいと年うえのダチの声。
「よくやった、マコト。おれはおまえを誇りに思う。今回も感謝状はいらないのか」
おれは上半身裸のまま笑った。
「ああ、いらない。それより、アキラはどうなったんだ」
「心配するな。命に別状はないそうだ。うちの署の捜査員のお手柄だ。ホシは脳みそを吹き飛ばす代わりに、あごの骨を半分なくしただけだ」
うれしかった。なんにせよ、これで死者の数がひとりは減ったのだから。
「あいつ臭い飯をどうやって食うんだろうな」
礼にいも笑った。
「医療刑務所にだって流動食くらいある。じゃあな、静かになったら、飲みにいこう」
PHSは切れた。今度こそ事件は終わった。あとは面倒な警察の書類仕事につきあうだけだった。
◆
着替えのつまったダッフルバッグを部屋から引きあげて、ホテルをチェックアウトしたのは、午後五時すぎだった。礼にいはどうせなら、もう一泊していけといったが、やはりおれには贅沢なシティホテルより、四畳半のほうが似合いだ。
なつかしの西一番街に戻ったのは、その五分後。うちの店はシャッターがおりたままで、脇の階段をあがっていくと住まいには誰もいなかった。台所のテーブルにおふくろのおき手紙が残っている。いい機会だから、お友達と本場の宝塚を観てきます。三日後には戻るので、よろしく。あきれた。ひとり息子が命を張って、短銃強奪犯と闘っているのに。まあ、細かい話はぜんぜんしていないんだから、無理もないが。
自分の部屋に戻り、敷きっ放しの布団に倒れこんだ。おれのPHSが鳴りだす。
「はい、こちら、マコト」
鼻で笑い、タカシはいう。
「命拾いしたな。街じゃおまえの噂でもち切りだ。これで、すこしは女にもてるようになるかもな」
余計なお世話だった。タカシは続ける。
「そんなことより、テレビをつけてみろ」
寝そべったまま、リモコンを使う。おれの部屋にあるのは、十四インチのビデオ一体型だった。ブラウン管にはのっぺりと明るい西口公園が映っている。
「今どのチャンネルでも、アキラが短銃自殺を図ったシーンを繰り返し放送してる。どこかのおのぼりさんが、偶然撮影したそうだ」
確かにぐらぐらとよく揺れ動く、フレーミングの悪い映像だった。八ミリビデオが円形広場の中央近くに立つアキラをズームアップしていった。あのときは気づかなかったが、アキラのはだけた胸は、水をかぶったように汗で濡れていた。右手の銃をあげる。銃口をこめかみにあてる。間違いない。また、やつの唇が音もなく動いた。タオルを首に巻いたランニングシャツ姿の捜査員が飛びつく。銃身はしたにぶれて、アキラのがっしりとしたあごを指す。ホームビデオのマイクがくぐもった銃声を拾うのと、あごの反対側から血の固まりのようなものが噴きでるのは、ほぼ同時だった。タカシはいう。
「まあ、現場にいたマコトにとっちゃなんでもないだろうがな」
とんでもない。おれはあわてて空いてるビデオテープをブラウン管のしたに突っこみ、リモコンでチャンネルをザッピングした。録画ボタンを押す。三つ目の局で、同じ映像をゲットした。おれはいった。
「なあ、あのメルセデスのRVには、ビデオとモニター積んでたよな」
タカシが不思議そうにいった。
「それが、どうかしたのか」
「いいから、ちょっと貸してくれ」
「いつだ」
「今すぐ、うちの店まで届けてくれ」
タカシはまた、鼻で笑った。
「よくわからないが、おまえがいうんだから、なにか大事なことなんだろう。十分で届ける」
「ありがとう」
おれは録画したテープを巻き戻し、再生してみた。アキラの上半身はしっかりと映っている。いいだろう。おれはテープをもって、戸締まりをし、西一番街の路上に戻った。
◆
このまえのオレンジつなぎが運転手だった。やつはおれに軽くうなずいて、新しいメルセデスの鍵をてのひらに落としていく。おれはシートにのりこみ、ビデオテープをダッシュボードに投げた。シートベルトをするまえに、PHSを取りだし、古いメモの番号を押した。マドカがいた身障者専門の大人のパーティだ。呼びだし音ひとつで、いつかの商売人の声がする。おれはいった。
「悪いけど客じゃないんだ。羽沢組から頼まれて、パーティ潰しを調べてる。以前そっちに顔をだしたことがあるんだが」
うんざりしたように中年男はいった。
「ああ、覚えてる。だが、パーティ潰しはつかまったんだろう」
「そう。でも同じ件で今日はちょっと、そっちの女の子の手を借りたい」
「マドカちゃんなら、まだ病院のはずだ」
「いいや、違うんだ。今日はルカさん、店にでてるかな」
「ああ」
「それじゃ、五分後にそっちのマンションのしたにおりてくるように、伝えてくれ。用件はすぐに済む」
「しょうがねえなあ」
おれはイグニションキーをまわし、生まれて初めてのメルセデスを、そろそろと転がした。
◆
といっても実際は教習所のなかを運転するようなもの。うちの店のすぐ裏が、池袋二丁目のラブホテル街になる。おれはすすけた白いマンションの流行らない純喫茶のまえに、メルセデスをとめた。すぐにルカがエレベーターからおりてくる。今日はヒョウではなく、ゼブラ柄のスリップドレスだった。ノーブラは前回といっしょ。おれを見つけると、笑って手を振った。ドアを開けてやる。唇を意識して動かし、のってくれといった。
ルカがシートでマイクロミニの裾を伸ばすあいだに、おれはノートに書いた。
「見てもらいたいビデオがある。そいつの唇を読んでくれないか」
ルカは笑ってうなずく。おれは足元にあるビデオデッキにテープをいれた。コンソールの中央にあるカーナビ兼用の液晶モニターをルカのほうにむけてやった。画面にウエストゲートパークが映る。アキラのアップになった。銃があがる。おれは画面を指さし、ここだといった。アキラの唇が、声もなく囁いている。鋭い銃声は不自由な耳にも聞こえたようだった。助手席でびくんと、ルカのしなやかな全身が跳ねる。
ルカはおおきくうなずいている。おれはノートとサインペンを渡してやった。顔を寄せて、ルカが右手を動かす端から読んでいった。
「この人、なんであんなことしたかわからないけど、いってることはわかった。それはね、『のり代えやがって』だってさ。誰かに振られたのかな」
おれはルカにありがとうといった。アキラが自分を撃つまえ、最後にいった言葉。
「のり代えやがって」
アキラは誰にむかってそういったんだろうか。もっとも、あそこにはおれとアツシのほかに、やつの顔見知りはいないようだったが。
◆
ルカに礼をいって、おれはその足で雑司が谷スカイハイツにクルマを走らせた。パーティ潰しがアジトに使っていたあのマンションだ。たいていのワンルームマンションは人のいれ替わりが激しいから、いつも入居者の募集をしている。おれは夏の夕暮れの光りのなか、オートロックの正面入口にまわり、ここを管理している不動産会社の看板を探した。なかったら、面倒だが分厚い住宅情報誌を買わなければならない。ついていた。ガラスの自動扉のむこうにプラスチックの白いプレートが見える。
潟hリームエステート池袋、あとは電話番号。おれはそのプレートを見ながら、PHSを押した。あいそのいい若い男の声がする。
「はい、ありがとうございます。ドリームエステート池袋でございます」
社員教育がいき届いている会社なんだろう、きっと。おれは疲れた声をだした。
「ご苦労さまです。こちら池袋署刑事課の柳瀬と申しますが、おたくで暴行犯に貸していた雑司が谷スカイハイツ四〇八号室は、誰の名義で申しこまれているか、ちょっと調べてもらえませんか。折り返しでもけっこうなんですが、調書を今日中にあげる都合、すぐに教えてもらえると助かるんですが」
電話のむこうで、男があわてだした。
「はい、刑事さんですか、すぐに調べますので、しばらくお待ちください」
疑うことを知らない。日本の市民はとても協力的だった。三十秒ほどで男は息を切らせて電話口に戻ってくる。
「いいですか。賃貸を申しこまれた方の名は、牧野アツシ。アツシは温度のオンという字です。住所と電話番号は必要ですか」
「ご協力、感謝します。そちらのほうは、こちらですぐにわかりますので」
「そうですか、ほかになにかお手伝いできることはありませんか」
親切な社員だった。おれが部屋を借りるならこの男から借りたい。思いついて聞いてみる。
「確か牧野アツシさんは、まだ十七歳で無職のはずですが、なぜ賃貸契約を結べたんでしょうか」
「ああ、そういうことでしたら、うちの社長の遠縁にあたるということです」
礼をいってPHSを切った。アツシの無邪気な笑顔を思いだした。怪しい話だ。そう都合よく不動産会社社長の親戚などいるものだろうか。
アツシの短縮なら、メモリーにはいっている。おれはすぐに、番号を押した。圏外か、電源を切っているとのアナウンス。それから三日間、おれが何度かけても、そのアナウンスは変わらなかった。
◆
八月になった。事件の翌日は騒がしかったが、おれのまわりではすぐに熱は冷めていった。警察からの電話が一度あったきりで、おれにはもう用はなくなったみたいだった。マスコミにはおれのおとり作戦は流れていない。タカシのいうように女たちにもてるようにはならなかった。池袋のガキどもに遠くから指さされ、あいつあいつといわれるくらいのもの。PHSがつながらないあいだ、おれはずっとアツシのことを考えていた。
うつむいたときの長いまつげ、紅くやわらかそうな唇、美少女よりもきれいな顔、おどおどした態度。おれはすべてが演技だとは思えなかった。だが、人を動かすのに、なにもいつも強くある必要はない。人の心は弱さや、はかなさによっても、間違いなく動くのだ。
◆
八月最初の金曜日の午後、気温は記録破りの摂氏三十五度、エアコンのない店でへばっているおれのPHSが鳴った。アツシだった。
「久しぶり。なにしてたんだ」
ためらうようにアツシはいう。
「マコトさんのいう通り、あの、ちょっと東京を離れて……今回のことは、ほんとどうもありがとう……うちには、警察から連絡はなかったみたい」
「そうか。どこかの社長と遊びにでもいってたんじゃないんだ」
アツシはわけがわからないという様子でいう。
「社長って……なあに」
いいんだといった。するとアツシは急に明るい声をだした。
「せっかく池袋に戻ってきたんだから、いっしょに飲もうよ」
おれたちは夜八時に、ウエストゲートパークで落ちあう約束をして通話を切った。
◆
円形広場の夜八時。石畳はまだ昼間の熱で揺らめいて、夏休み中の広場の人出は毎日が夏祭りのようだった。ちょっと気温が高いというだけで、男も女もなぜこれほど底抜けに騒げるのだろうか。おれは沈んだ気分で、ベンチに座りアツシを待っていた。
いきなりやわらかな手がおれの両目を覆う。まだ少年の声が、耳元で囁いた。
「誰だ?」
「わかってるから、座れよ」
その日、アツシはおれのまえで初めて半袖を着ていた。顔から手をはずすとき、黒いかさぶたのように固まった五角形の火傷跡が見えた。期間をおいて何度もタバコの火を押しつけたのだろう。アツシはかすかに盛りあがった火傷跡を細い指でこすりながらいう。
「もう、マコトさんには隠さないでも、いいんだね」
天使のような笑顔を見せる。おれの気持ちは、心の奥深く萎えていった。
◆
それから安い居酒屋を二軒はしごした。いつかの夜、ミナガワといった店にはいかなかった。なんとなくミナガワの思い出が汚れるような気がしたのだ。おれはまだ、やつの金鎖をポケットにいれてもっていた。いいたいことを切りだせずにいるおれの臆病さを、ミナガワが見たら、なんというだろうかと思った。おれはバラけているのだろうか。だらだらと飲み続け、二軒目を出たときには、とっくに終電の時間をすぎていた。
おれたちはたくさんの酔っ払いに混ざり、生あたたかい池袋の路上をクラゲのように漂った。アツシはひとりでひどくハイになっていた。なにを見てもおかしいらしく、でたらめに街の細部を指さしては笑い続ける。やつはいった。
「ねえ、誰もこない、とっておきの場所があるんだ。冷たいビールでも買って、そこにいかない」
おれは黙ってうなずいた。するとアツシは短パンの腰にさげたチェーンを、じゃらじゃらと鳴らしながら、解き放たれた子犬のようにコンビニの明かりめがけて走っていく。風になびく髪と薄い背中を見ながら、おれは決心した。
今夜、すべてを明らかにしなければならない。死んだミナガワと犯されたマドカ、あごの半分をなくしたアキラに、どこかに埋まったシゲトのために。
◆
缶ビールの六本パックをさげて、アツシがおれを連れていったのは千早の住宅街だった。さすがに駅から一キロも離れると、池袋も静かなものだ。アツシはおれの先にたち、この児童遊園で遊んだ、この自動販売機から小銭をくすねたと昔語りをする。
ちいさな通りの先にコンクリートの塀と高い金網が見えた。濃紺の夜空に四階建ての校舎が、地面からはえだしたように黒いシルエットを描いている。誰もいない校庭の広がりが不気味だった。アツシは金網の破れ目に手をかけていった。
「ここ、ぼくが卒業した中学なんだ。鍵はかかってるけど、夜は誰もいないよ」
アツシはするりと境を越えた。おれも真夜中の学校に続いた。
◆
おれたちは無人の校舎を素通りして、校庭の隅にあるプールにむかった。倉庫のような両開きのスライドドアには鍵がかかっていたが、脇にある消毒用の通路には金網をのり越え、簡単にはいることができた。白いカルキの溶液がたまった水路の手まえで、アツシとおれはスニーカーとブーツを脱いだ。裸の足先を白い水に浸す。なつかしいプールの匂いが立ちあがった。長方形の水のおもてが帯のように波打つ。なぜか、ミナガワが死んだ朝を思いだした。やつもあの朝、こんな白い水を渡ったんだろうか。
消毒液を飛ばさぬように静かに足を運び、水を落としていないシャワーの水栓の列をくぐった。六段ほどのコンクリートの階段が正面に見える。アツシはいった。
「ぼくは、ここの階段が好きなんだ。マコトさん、あわてないでゆっくり、のぼってね」
黙ってうなずいた。おれはアツシにいわれた通り、一段ずつ踏み締めるように階段をあがった。視線がしだいに高くなると、二十五メートルプールの揺れる水面が形を変えながら、おれの目のまえで伸びやかに広がっていった。無人のプールのおもては、鮮やかな青から黒に近い濃紺まで、角度によって微妙な色をさしながら、ひとときも静止することなく、震えるように細かな波を立てている。
◆
おれたちはすっかり乾いたプールサイドに腰をおろした。滑り止めのタイルは、手をつくと軽石のような肌ざわりだ。アツシは缶ビールを一本取り、プルトップを開けてまわしてくれる。おれはやつの目を見ずに受け取った。すこしぬるくなったビールがのどに冷たい線を描いて落ちていった。おれはプールの縁ぎりぎりに座り、斜めうしろにはアツシのほてった身体がある。涼しい夜で、おれはほのかにアツシの体温を感じることができた。アツシはいった。
「ひと休みしたら、いっしょに泳ごうよ」
ビールを飲んだばかりなのに、おれののどはからからに乾いていた。下唇をかんでいった。
「そのまえに、アツシに話しておきたいことがある」
「なあに」
アツシの声が、Tシャツでも脱ぐ衣擦れの音といっしょに聞こえてきた。
「アキラの遺言だ」
おれは揺れる水面を見たままいった。アツシが息をとめるのがわかった。
「日本中で誰ひとり気づかなかったかもしれないが、やつは引金を引くまえにひとりごとをいっている。おれはそれがなんだったのか確かめた」
アツシはぽつりといった。
「アキラくんは、なんていったの」
「これが全部つくり話だったらと、おれも思うよ。やつは最後にこういった。のり代えやがって。やつははっきりといったんだ。のり代えやがってとな」
風が吹いて、水面の一方に細かなしわが寄った。アツシの声は聞き取れないほどちいさい。
「そう」
「そうだ。あのとき西口公園にアキラの知った顔は、おれとおまえしかいなかった。やつは確かに、おまえにむかってそういったんだ。おれはまえから、おかしいなとは思っていた。なぜ、パーティ潰しはおれとミナガワが、やつらを探すために動いているのをかんづいたのか。なぜ、すこしばかり手伝っただけのマドカをさらったのか。おれたちの細かな動きが筒抜けなのはなぜか」
「そうなんだ」
おれはアツシを振りむかなかった。正直どうにでもなれという気持ちだったのだ。
「マドカの誘拐、ミナガワとおれの襲撃。すべてはおれのまわりに、おまえがあらわれてから、起きたことだ。少年院をでたばかりじゃ部屋を借りるんだって簡単じゃない。あの雑司が谷のアジトも、おまえ名義で借りていたんだろ」
アツシはおどおどしていった。擬態じゃない。たぶん、これがやつの本来の姿なのだろう。びくびくと恐れながら相手に取りいり、甘い蜜を与え、内側から腐らせていく。
「よく調べたね……さすがに、マコトさんは違うな……アキラくんとは、比べものにならないや……でも、残念だな」
「どうして」
アツシの声が震えていた。
「一度くらいは、マコトさんと肌をあわせてみたかった……でも、ぼくのことがわかったら、マコトさんは絶対そんな気にならないでしょ」
おれだけじゃない。誰だって毒をもった食虫花になど、近づかないだろう。自分自身が殺し屋だと、アキラのように錯覚を起こしていなければ。
「なあ、アツシ。パーティ潰しの頭脳は、おまえだったんだろう。やつらは荒っぽいが、あんな緻密な計画を立てられるようなタイプじゃなかった。おれに間野英二をさしむけたのも、たぶんおまえだろう」
アツシはちょっと楽しそうにいった。
「うん。エイジくんは背は高いけど、四人のなかでは一番ケンカは弱かった。だから、マコトさん用にしたんだよ」
「おれがやられてたら、どうするつもりだったんだ」
アツシが首を横に振るのが気配でわかった。
「そんなに弱かったら、マコトさんにはアキラくんの代わりは務まらないよ」
おれは自然に微笑んでいた。
「そうか、アキラの代わりか」
「そうだよ。アキラくんたちは、少年院から戻って壊れてしまった。ただ荒っぽいことがやりたい。誰かを壊したい。暴れたい。ぼくは抑えるのがたいへんだったんだ。それで、大人のパーティ強盗を思いついた。怖いのは頭の悪いヤクザじゃなくて、警察だからね。でも、ヤクザのほうにも、マコトさんみたいな人がからんできてしまった」
おれのなかでちいさな怒りの火が灯った。アツシは酔ったようにいう。
「それで、途中でのり代えることにした。いつまでもアキラくんたちといっしょだと、ぼくまで沈んでしまう」
「そうか。そのためにおまえは、おれを利用した。おまえに疑いをもったミナガワは、あの三人に殺させた。おれはおまえの秘密を守ったうえで、アキラを片づけるために、おとりにまでなった。おまえはあの日、自分の計画がすべて順調にいくか確かめたかったんだろう。それで、ウエストゲートパークにやってきた」
アツシは悪びれずにいう。
「ごめんね。ミナガワさんは、悪いときに悪いところにいたんだ」
「なあ、アツシ。最後にひとつだけ聞いてもいいか」
「うん」
「おまえの姉さんの亜希さんのことだ。亜希さんをほしがったのは、実はアキラたちじゃなかったんじゃないか。実の姉さんをやつらの餌に与えたのは、ほんとうはおまえだったんだろう。やつらの歓心を買うためか、なにかで」
それはこの数日おれが考えていたことだった。アツシはもう隠さずに笑っていた。真夜中すぎの風は、八月でも鳥肌が立つほど冷たい。プールサイドからかすかに水音がした。
「そうだよ。自分がちょっと美人で、しかも女だからっていい気になって、亜希姉はほんとにやな女だった。だから、アキラくんたちに食べさせちゃったんだ。交通事故は偶然だけど、あんな女は死んだってしょうがない。みんな、ぼくのほうがいいっていってたよ」
おれは黙りこんで、夜空を映す水面を見ていた。アツシは心の底からねじれているが、ねじれそのものがアツシなのかもしれない。また、とまどうような甘い声をだした。
「マコトさん、あの……あの、ぼくを……どうするの」
どうにもできないといおうとしたら、耳元で夜の鳥のような叫び声が響いた。アツシがおれのすぐうしろで笑っていた。一瞬目のまえに金属のきらめきを見せて、おれの首に鎖が巻きついた。アツシはおれの背中にひざを押しあて、力をこめて鎖を引いている。振りほどけそうになかった。おれは息もできず、アツシを背中に背負ったまま、前方に広がる水のおもてに頭から落ちていった。
やつを連れて、ミナガワのところにいくのだと思いながら。
◆
生ぬるい水に浸かって、なぜか最初に思いだしたのは、ミナガワからあずかった金の鎖のことだった。おれはまだあのネックレスを、やつが育った町の海に投げていない。それなのに、アツシの鎖を首に巻かれたまま、このカルキ臭いプールのなかへ沈んでいこうとしている。水中で息をとめたまま、おれは猛烈に腹が立ってきた。まったく、おれはぜんぜんバラけてない。
そのとき、アツシの動きがおかしくなった。首を絞められていたおれと違い、急に水中に落ちたせいで、気管に水でもはいったのだろうか。ばたばたと水中で腕を振りまわす。首のステンレスチェーンがゆるんだ。おれは必死でプールの底を足先で探った。あわてなければ、つま先が防水塗料でつるつるの底に届くはずだ。水の深さは肩くらいしかないのだから。ようやくプールのなかで立ったおれは水面に顔をだし、空気をたっぷりと吸って、また水に潜った。
今度息をとめるのは、アツシの番だ。
◆
上半身裸のアツシの身体が、水中で横倒しになって、でたらめに手足を動かしていた。おれは体重をかけて、やつを水の底に押してやる。アツシの青い唇から、破裂するように空気の泡が漏れ、光りながら上昇していく。水のなかでアツシとおれの目があった。アツシは目をいっぱいに開いて哀願している。助けてくれ、空気をくれ。絶望、恐怖、憎悪、さまざまな名で呼ばれる黒い感情が、アツシの瞳の底で荒れ狂っていた。長い髪が海藻のように揺れて、美しい顔を隠した。おれはアツシを殺すつもりはなかった。最後にもうひと押し、やつを紺色のプールの底に押してから、反動で水面に顔をだす。頭上には池袋の星のない明るい夜空が広がっていた。
しびれるように甘い空気を肺いっぱいに吸いこむ。ちりちりと全身に酸素が運ばれていくのが感じられるようだった。おれは水面から顔だけだして、しばらく荒い息をつないでいた。ようやく呼吸を整え、顔の水をぬぐい、足元を見た。アツシはまだおれを見あげていたが、水のなかの目は焦点をなくし、ぼんやりと揺れているだけだった。開いた口のなかにも水がはいっている。なぜ、やつは浮かんでこないんだろう。誰も押えてなどいないのに。おれはもう一度息を吸い、暗い水のなかに潜っていった。
◆
アツシの身体は沈んだばかりの船のように、斜めに傾いて水中に漂っていた。手をおおきく広げ、水の動きに髪を揺らしながら。おれはプールの底を見た。おれたちがもみあっていた場所には、五十センチ四方くらいの排水溝が開き、二センチ角ほどの格子の鉄のふたがはまっていた。そこから、アツシの腰のチェーンが延びていた。身体が浮きあがろうとすると、チェーンはぴんと水中で張った。おれはプールの底に顔を押しつけ、様子を確かめた。鎖の先についたT字型の止め金が、格子のすきまにしっかりとはさまっているようだった。水面に戻ろうとしたとき、排水溝の横に金の鎖が落ちているのを見つけた。ミナガワのネックレスは暗い水底でも、鈍く輝いていた。いいだろう、おれはその光りを見て心を決めた。アツシはこのまま放っておこう。ミナガワは故郷の海に、アツシは中学校のプールに帰してやるのだ。
おれは金の鎖だけ拾い、鉄の鎖はそのままにして、プールの反対側まで泳ぎ、ぬるい水からあがった。
◆
さっき座っていた場所に戻り、自分が飲んだビールの空き缶を拾った。ブーツを手にして、乾いたシャワーエリアと消毒液の水路をひとりで戻った。水のなかでうつぶせで揺れているアツシの姿が頭を離れなかったが、おれは一度も振り返らなかった。
金網の破れ目をくぐるときは、誰にも見られないことと周囲にふれないように注意した。そんなことをしなくても、深夜一時すぎの住宅街には、人影はまるで見あたらなかったのだが。中学校をでてから、初めておれはブーツをはいた。歩いて家に戻ったのは、真夜中の二時だ。
熱いシャワーを浴びてから、布団にもぐりこんだのだが、おれの震えは朝方までとまらなかった。
◆
翌日、ブーツとTシャツとジーンズをまとめて、東京都の燃えるゴミの袋に押しこみ、集積場に捨てた。アツシの遺体は、部活の指導に訪れた体育教師によって、午前遅く発見されている。ちょっとした騒ぎになったらしいが、血中からアルコールが発見され、争った形跡も残っていないことから、警察の調べは酔ったうえでの事故死の線で落ち着いた。その中学では、たびたび卒業生が深夜のプールへ忍びこんでいたとの情報が、決め手になったらしい。アツシの死は、新聞の社会面の隅で三×四センチほどの面積で扱われただけだった。アキラの一面トップとはおお違いだ。
もっとも水に落ちるきっかけを先につくったのはアツシで、ミナガワの幽霊がやったのでなければ、排水溝の格子に鎖がからんだのも偶然だったのだから、おれは警察の考えは間違っていないと思う。救えたかもしれないが、おれはアツシを救わなかった。それだけだ。もう一度同じ目に遭ったら、おれはまた同じことをすると思う。
アツシは実の姉と同じように、最後は偶然のアクシデントで死んだ。そして、その偶然が起こるまでに、ふたりの姉弟には、死よりももっと悪いことが起こっていた。姉はパーティ潰しの手によって、アツシは自分自身の手で、生きながら破滅していたのだ。
おれにはどうすることもできなかった。どちらの事件も書くことさえできないのだから。
◆
八月の第二週、おれの心のなかで、ようやくすべての片がついた。夏休みも真っ盛り。今年も池袋の夏は、でたらめな日ざしと、でたらめに肌を露出した女たちでにぎわっている。
マドカは、ルカ姉といっしょにあい変わらず、大人のパーティで稼いでいるらしい。ときどき、うちの店にパーティのデザートを注文してくれる。いいお得意さまだ。売春で得た金を使い、ベトナムでふたクラス分の子どもたちを学校にいかせるマドカと、アホ面をさげて店番をしているおれ。どちらが立派かといわれたら、おれはマドカのほうだと正直思う。
タカシはそろそろGボーイズの王様から、引退を考えているそうだ。ちいさな店でも開き、二十歳で隠居する。まえまえから考えていたというが、おれは鼻で笑ってやった。スリルがなくなったぬるい人生に、タカシが耐えられるわけがない。
礼にいは、池袋警察署長の任期がまだ切れていない。今回の短銃強奪事件の迅速な解決で、また点を稼いだらしい。どんなトラブルがあっても、なぜかうまく自分に有利に運んでしまう運の強いやつが、世のなかにはいるらしい。なんでも好きな酒をおごってやるというから、ホテル・メトロポリタンのバーで一杯三千円のスコッチを、がんがんお代わりしてやった。実のところ、おれにはそんな高い酒の味はわからないんだが。
◆
店が休みの火曜日、おれは東京駅から久しぶりの東海道線にのった。薄曇りのまぶしい空が広がる一日だった。海側のボックス席に座り、二時間のあいだビルと家並みを見続けた。海は遠くでたまに光っているだけで、ぜんぜん電車からは見えなかった。ミナガワの生まれた町でおり、腹が減ったので駅まえの定食屋にはいった。マグロの刺身定食を注文する。切り身は池袋のあの居酒屋のように、短冊ではなく分厚い楔型だった。おれは金の鎖をテーブルのまえにおいて、ひとりで定食を食べた。
タクシーのり場に戻り、ミナガワと同じくらいの年のよく日焼けした運転手にいった。
「このあたりのガキが遊ぶ海岸にやってくれないか」
クルマは市街地を抜けると、海水浴客でごった返す濁った砂浜を横目に、山あいのいり江にむかった。海沿いの狭い道を何度か折り返して、運転手はタクシーをとめた。あたりに民家はなかった。両側に迫る磯にはさまれて、真っ白な砂の浜辺がほんの二十メートルほど続いている。ここで待っていてくれるよう、運転手にいい残し、おれはタクシーをおりた。
ガードレールを越えて、夏草の茂る踏み分け道をおりていった。青い草の匂いと潮の匂い。短い岩場の先は、砂浜になっていた。タバコの吸い殻や花火の燃えかすが落ちていない清潔な浜だった。歩くと砂の鳴く音がする。おれは海辺に立ち、背後を振りむいた。いり江を囲む山は険しく、夏の木々が深い。
海とむきあった。つねに揺れ動きながら、永遠に変わらない海。ジーンズのポケットに手をいれて、ミナガワの鎖をだす。軽く手首の返しだけで、白く泡立つ波のあいだに投げてやった。金色の輝きは、すぐに波にもまれて見えなくなった。おれは待たせていたタクシーに戻った。アツシのときと同じように、途中一度も振り返らなかったと思う。
◆
その日の夕方には、おれは池袋に帰っていた。ミナガワとの約束を果たせば、港町なんかに用はない。ウエストゲートパークの定位置のベンチに座り、なにもせずにビルのあいだに沈んでいく太陽を一時間半見ていた。ミナガワとアツシは、もうこんな夕日を見ることはないのだろう。それとも今この瞬間も、おれと同じ景色を見ているのだろうか。おれにはよくわからなかった。だが、どちらの死者も、確かにすぐ近くにいるように感じられた。ベンチの隣や、おれのうしろの生け垣で、ふたりとも笑っておれを見ている。
ミナガワとアツシのことを思いだし、涙ぐんだことがあったような気もするが、それは熱のない夕日のせいだったのかもしれない。空は冷たく燃え、街はバラ色に染まり、いき交う人は欲望に頬を紅くしている。見慣れた池袋の景色が、とても美しく見えた。
なんといっても、その日はすごくバラけた夏の夕暮れだったのだから。
初出誌「オール読物」
妖精の庭 一九九九年九月号
少年計数機 一九九九年十二月号
銀十字 二〇〇〇年四月号
水のなかの目 書き下ろし
単行本
二〇〇〇年六月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十四年五月十日刊