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石田衣良
反自殺クラブ 池袋ウエストゲートパークV
目 次
スカウトマンズ・ブルース
伝説の星
死に至る玩具
反自殺クラブ
[#改ページ]
スカウトマンズ・ブルース
女の子の値段は、今や日々刻々と変わっている。
そいつはもう株価や為替相場なんかといっしょなのだ。新宿ロリータ系前日比プラス3ポイント、池袋三十代主婦変わらず、五反田AF可能なM女ストップ高のプラス7ポイントなんてね。しかも市場はバブル崩壊以後も一貫して右肩上がり。だから、もしあんたか、あんたの彼女が手っ取り早く金もうけをしたいなら、ちゃんと相場を調べてから店にいったほうがいい。相場には上げ下げがつきものだからな。
例えば池袋のどこかの風俗店で、欠員がひとりできたとする。欲しいのは紺のハイソックスとセーラー服がよく似あう高校一年生に見える二十歳の女。あんたの手もちの女の条件がそいつにぴったりなら、店側はたっぷりと紹介料をはずんでくれるし、キックバックだって毎月振りこんでくれるだろう。
もちろん高く売れるのは、セーラー服が似あう女ばかりじゃない。日本の男たちの趣味は世界一多彩で細密だ。子どもをふたりばかり生んだ結婚十五年目のこなれた奥さんとか、体重百キロ、ウエスト百センチ以上のLLタイプとか、更年期をとうにすぎた人生の先輩方にも、ちゃんと仕事はある。要するに資源のない日本が最後に頼るのは、人的なリソースって話。
まあ、おれは別に女でくってるわけじゃないから、風俗マーケットの値動きなんて関係ないが、あんただって知っておいて損な話じゃないだろ。だっていつあんたの目のまえに飛び切りの美女があらわれるかわからないんだ。
女はいうだろう。あたしがうんとがんばって、あんたに贅沢させてあげる。そんな幸運にめぐりあったら、ロレックスのデイトナだろうが、BMWの新しい7シリーズだろうが、汐留のタワーマンションだろうが、望みのままだ。男なんていくらがんばったって、腹をくくった女にかなうはずがない。こいつは動かしがたい人生の哲理。恋愛でも金もうけでも、勝負の結果は見えている。
もっともそんな幸運が起きる確率は、池袋の駅まえを歩いていて、隕石に打たれて即死するくらいのもの。このおれやあんたみたいな甲斐性のない男の場合は、せいぜいその程度。だが、さすがに世のなかは広かった。おれがこの秋知りあったガキは池袋東口五差路の角で、毎月のようにでたらめに色っぽい隕石に打たれていたのだ。
銀行口座には風俗店からの振込で金がうなり、毎晩ベッドには別な若い女が眠っている。それでもやつはいう。なんだか、ぼくみたいな人間がこんな暮らしをしていて、いいのかな。やつには女はたくさんいるが、男のダチはひとりもいないという。
もちろんおれはよだれを垂らしながら、やつの友人1号になってやった。宇宙の神秘のかけらでも、おこぼれにあずかりたいからな。でも、やつの世界もおれたちのほうと変わりはしなかった。システム対個人の闘いは、二十世紀からもち越されたおれたちの普遍的なテーマなのだ。
あっ、そうそう忘れていた。男と女のくっつきかたなんてのも、やっぱり何世紀も解けない謎だよな。でもそっちのほうは、誰か別なやつの話をきいてくれ。おれは圏外。
◆
冷たい夏があっさりと秋に銀の座席を譲ったその日、おれはCDウォークマンをききながら、ベンチに座っていた。場所はウエストゲートパークではなかった。あっちには前日前々日と二日間かよったが、ぜんぜんいいアイディアが浮かばなかったのだ。おれはいつものようにコラムの締切まえで、嫌になるくらいネタに詰まっていた。
グリーン大通りの広い空をゆっくりとすぎていくひと筆書きの秋の雲を眺め、目のまえを歩いていく女たちのタトゥーをカウントする(池袋の場合若い女のタトゥー率はヤンキースの松井の打率をわずかにうわまわるくらい)。
ケヤキ並木は緑を濃くして大通りの遥か奥まで続いている。両側は高さのそろった端正なオフィスビルの壁だった。ちょっとした森の都という雰囲気で、おれは池袋駅東口の風景も嫌いじゃなかった。だが、いい風景を見ているだけじゃあ、ネタなんてできるはずもない。おれが書きたいのは、目のまえのストリートに転がってる、新鮮だけど雑魚《ざこ》みたいなネタだ。来週には古くてつかえないようなやつなら、もっといい。
信号が変わるたびに泡のように通行人が盛りあがる交差点をぼんやりと見ていた。きちんとした目的地があってまっすぐまえを見て移動していくやつと、おれみたいにそうではない無用の人間。おれの目はいつのまにか、自分と同じように五差路のあちこちで網を張っている深海魚に吸い寄せられていく。
サラ金やテレクラのティッシュ配り、妙にこぎれいな服を着たキャッチセールス、それにモデルだかAVだか風俗だかわからないスカウトマンの男たち。サンシャイン60階通りの起点になるこの交差点は、人どおりも多く、信号待ちの時間が長くて声がかけやすいスカウトのメッカなのだ。
その日もたくさんの男たちが若い女の肩越しに声をかけていた。どうやら左側の後方から声をかけるのが、一般的なテクニックらしい。立ちどまり、振りむかせたらこっちのもの。それでも実際に話しかけるときの流儀はさまざまだった。盛んに相手の女にふれようとするやつ、名刺をだして身分を懸命に説明するやつ、手帳にメモを取りながら口説くやつ。小一時間もスカウトマンの活躍を眺めていたおれの目に、ひとりのガキの姿が引っかかった。
◆
やつは小柄で、やせている。ひざの抜けたベルボトムジーンズに、もう一枚の肌のように薄くなったTシャツ(胸にはなぜかクイーンのロゴ、『オペラ座の夜』のイラストつきだ)、靴は一番オーソドックスな布製バスケットシューズ(コンバースのチャック・テイラーモデル)だった。パーマのゆるんだ長髪はみすぼらしい感じ。それなのに、なぜかやつが声をかけると、急ぎ足で目的地にむかう途中でさえ、女たちは立ちどまって話をきく姿勢になるのだ。なかには頬を赤くして、ロングブーツのつま先をもじもじさせる女までいる。
こいつにナンパのテクニックをききだせたら、いいコラムになるかもしれない。だっておれが書いてるストリートファッション誌の読者は、実際にはもてない男たちばかり。不発だった夏を嘆いて、つぎの季節こそ決めてやるなんて、身のほど知らずの野望を抱いているはずだった。その手の間抜けのひとりであるおれには、読者の気もちがよくわかるのだ。
おれはヘッドフォンを頭からはずすと、青信号のゼブラゾーンをゆっくりと交差点の対岸めざし歩いていった。
◆
近づいていくと、ガードレールに座っていたスカウトマンが腰を浮かせた。つまらなそうな表情だった顔が、急にくしゃくしゃの笑いでいっぱいになる。それは相手の警戒心をとろかせる魔法の笑顔だった。
「あれ、マコトさんですよね」
なぜ、おれの名を知っているんだろうか。驚きが顔にでたらしい。
「ぼくのところにいる女の子から、噂をききました。サンシャイン通り内戦とか西口レイヴの話。今日はこんなところでなにしてるんですか」
そんなカッコのいい噂なら当人のいないところじゃなく、直接おれに話してくれればいいのに。地元限定とはいえ、しだいにおれの顔も売れてきてしまったようだ。これじゃやばい店にますますはいりにくくなる。おれは小柄なスカウトマンにいった。
「名のる必要ないみたいだな。さっきから、そっちが女たちに声をかけるところを観察してたんだ。あんたがこの交差点じゃ一番の凄腕みたいだから、ちょっと話がきけないかなと思って。おれが雑誌にコラムを書いてるの知ってるだろ」
やつは真剣な表情できいていた。おれが話し終えると、また顔全体で笑ってみせる。
「ちょっと待って」
スカウトマンは信号待ちでたまった人波にさっと視線を飛ばした。ベアショルダーのチューブトップを着たグラマーがいる。肩には稲妻のタトゥーいり。顔はまあまあ。胸の谷間は電話帳でも楽にはさめるくらい深かった。おれのほうを見て、やつは肩をすくめた。
「あれはいいや。今はあんまり巨乳系は高く売れないんだよね。マコトさん、いきましょう」
おれがいけてると思った女をあっさり無視して、交差点の角にある喫茶店にむかう。やつの薄い背中にいった。
「池袋で高く売れるのって、どんな女なんだ」
やつは得意の笑顔で振りむくといった。
「ぼくが今注文受けてるのは、ヘルスとオナクラなんだ。ヘルスのほうはセーラー服の似あう微乳系、オナクラのほうは身長が百七十以上で強い目をした女王様タイプかな」
ちなみにオナクラは、オナニークラブの略。男がひとりでするところを店の女に見せるだけという、はやりの非接触系風俗だ。ふれあうことを嫌がる風俗が最先端なんて、どうかしてる。若い男がこんな調子なんだから、出生率も低下するはずだ。
スカウトマンはタイプ別に女の注文を受けているのだった。おれはびっくりして、やつのあとを追った。だってこんなネタを放ってはおけない。残暑の厳しいなか、三日間も街にでていたかいがあった。池袋の排ガスで濁った空のうえにいる誰かに感謝する。愚かなコラムニスト。
こうしておれはいつも自分からトラブルにはまっていく。それにしてもなぜトラブルの最初のひと口はあんなに甘いのだろうか。あとでどんなもめごとが待っているにせよ、誰だってそこでとめるわけにはいかない。あぶないけれど魅力的な女みたいなものだ。あんただって、そんな女に甘くささやかれたら絶対にくいつくだろ。
ふた口目を頬ばったところで、返しのついた鋭い針がうわあごに刺さる。だが、最後のその瞬間までは、甘い後味に酔っているのだ。おれたちが飢えた魚以上に進化した生きものだっていうやつをおれは信用しない。
◆
夏のあいだは締め切りだったおおきな窓を開放して、喫茶店はオープンカフェのような雰囲気だった。サンシャインシティにむかうおしゃれな人の流れと、きらきらとクロームのパーツを光らせてとおりすぎる新型の自動車。手を伸ばせばすぐのところに、街の動きが眺められる。秋の乾いた風がすこし冷たく流れこんできた。おれたちは半分ほど埋まった店のなか、交差点を見わたす角のテーブルに席を取った。腰をおろすまえに声をかけられた。
「いらっしゃいませ。今日は初めてだね、タイチくん」
氷水のグラスをおきながら、ウエイトレスはおれを無視してとろけるような視線でスカウトマンを見つめた。コケティッシュなタイプの短髪の女だった。笑うと目が三日月形になる。若いころのさとう珠緒みたい。ここの制服はスカートの裾からフリルがのぞくコスプレ風だ。フリルのしたはすべすべの生足。
「しのぶちゃん、アイスオーレふたつ」
名前を呼ばれただけで、子犬のようにウエイトレスはよろこんだ。やけにのろのろとカウンターにもどっていく。おれは感心していった。
「どうすれば、あんなふうな目で女に見られるんだ」
タイチは困った顔をする。
「みんなそういうけど、自分でもよくわからないよ。秘訣なんてないと思うけど。ぼくがやってることなんて、ふたつだけだもん」
ちょっと待ってといって、小型ノートと水性ボールペンを取りだした。おれは取材のときレコーダーはあまりつかわない。タイチはまたあの笑顔を見せた。なぜか男のおれまで、胸がきゅっとなる危険なキュートさ。
「ぼくがやってることなんて、ぜんぜんめずらしくないよ。まず、どんなにおかしなことでも、女の子の話はすべてきく」
おれはそのとおりにメモを取った。それくらいなら自分でもできそうな気がした。
「常識的な説教とか、偉そうな理屈とか、あとでやれそうなんて下心はなしでだよ。簡単そうに見えて、これが一番むずかしいんだ」
確かに男たちには自分を実際より立派で賢くセクシーに見せたがる悪い癖がある。タイチはこともなげにいった。
「あとはね、女の子って急に気もちが揺れるときがあるでしょう。理由もなくはしゃいだり、落ちこんでみたり。そういうときは黙ってそばにいてあげる。ただ手をにぎっていてあげるんだ。何時間でもね」
おれは気の弱そうなスカウトマンに目をあげた。誰に教えられなくても、そんなことが自然にできるのか。しかも、どう見てもこいつはおれより年したのようだった。やはり才能に年齢は関係ないのだろうか。
「あのさ、タイチっていくつ」
にっと笑ってやつはいった。
「二十一」
やっぱりおれより若かった。愕然とする。おれがストリートギャングのあいだで、色気のかけらもないもめごとに巻きこまれているあいだに、タイチは女たちに愛される技術をちゃんと磨いていたのだろう。久々に人生を誤った気分になった。
「スカウトマンってさ、どうやって稼いでいるんだ」
タイチはなぜかカフェのなかでも、つぎつぎと女たちを視線でチェックしていた。ぼんやりとした顔でつまらなそうにいう。
「ぼくは風俗のスカウトが専門だけど、お店に注文どおりの娘《こ》を連れていけば、紹介料がもらえるし、女の子の月々の売上からキックバックもはいる」
読者は金の話が大好きだった。とくに他人がどれだけもうけているかには、タンポポの綿毛みたいに敏感に反応する。
「どのくらいもどってくるんだ」
あっさりとタイチはいった。
「月の売上の一〇パーセント」
このガキと知りあってから驚かされることばかりだった。おれは取材ノートから顔をあげた。
「最初に店に紹介するだけで、ずっと女の子の売上の一割がはいるのか」
涼しい顔でカフェオレをすすって、タイチはいう。
「そう」
「で、タイチは何人くらい女の子を抱えてるんだ」
スカウトマンは悪びれずにいった。
「うーん、十八人くらいかな」
おれは他人の収入をきくのはあまり好きではないが、そのときだけは別だった。ボールペンの手を休めて、下品な質問をしてしまう。
「じゃあ、収入は月にいくらくらいになるんだ」
「波があるけど、百五十から二百くらい。でもさ、額は問題じゃないんだよ。大切なのは、こうやって毎日通りに立ち続けることなんだ。それで何回女の子に断られても、つぎの子に声をかけるのを怖がらないことが大事。お金は確かにほしいけど、あんまり問題じゃない。だってスカウトマンの世界では昔からいわれているもの」
そっちの世界のことは不案内だった。どうやらおれは完全に人生の選択を間違えたようである。
「気のきいた格言でもあるのか」
タイチはまた例の無条件降伏的笑顔を見せる。
「そんなんじゃないよ。でも、この世界にはいったとき、先輩にいわれたんだ。晴れても降っても、いくら女に無視されても、きちんと毎日通りに立てるなら、おまえの年がいくつだって、スカウトマンはちゃんとベンツにのれる仕事だ。あきらめないで街にでろってさ」
おれにはタイチのいうことがいくらかは理解できた。街のネタを探して、毎日汚れた通りをうろつくのが、おれの仕事の半分なのだ。実際に書くのは、残り半分の仕事でしかない。おれは手早くメモを取りながらいった。
「ふーん、でタイチはメルセデスにのってるんだ」
やつは細い首を横に振った。
「のらないよ。ベンツなんて、似あわないし、カッコ悪いもん」
だいたい金をもってるやつに限って、そんなことをいう。問題は収入の額じゃないとかな。だが、セロファン紙みたいに薄いTシャツを着たタイチがいうと、妙に説得力があるから、困ってしまう。
「なんか、コラムなんて書いてらんないな。二十一で年収二千万か」
やつはきゃしゃな肩をすくめてみせた。
「マコトさんだって、明日から通りに立てばそのくらいすぐに稼げるよ」
おれが絶対無理といおうとしたら、店の外から声が飛んだ。
「あー、いたいた。ねえ、タイチくん、きいてよー」
開いたサッシのむこうに極楽鳥みたいな女が立っていた。ピンクのラメいりトレーニングスーツに、縦ロールの茶髪、一週間の旅行くらい十分なおおきさのヴィトンのバッグ。女はちょっと待ってというと、入口のほうにまわった。
◆
極楽鳥はカフェにはいってくると、まっすぐにおれたちのテーブルにむかってきた。途中においてある椅子を蹴り飛ばす勢いだ。おれのほうをちらりと見て、挨拶もなしで同じテーブルに座る。タイチは困った顔で笑っている。
「マコトさん、すぐにすむから、話はまたあとでいい?」
商売の邪魔をするわけにはいかなかった。女は無言のまま正面をにらんでいる。おれが席を立とうとすると、さっきのウエイトレスがやってきて、荒っぽくグラスをおいた。どこかの風俗嬢がいった。
「すぐにいくから、なにもいらない」
ウエイトレスはきつい目で女をにらんでグラスをさげた。強烈な嫉妬の視線。ストリートギャングやヤクザににらまれても平気なおれだが、さすがにそのときは背筋に冷たいものが走った。女の目って怖いよな。
席を立ってから、先を歩くウエイトレスの背中にいってみる。
「タイチって、いつもここにくるのか」
フリルの裾をひるがえして、しのぶは振り返った。
「うん、毎日二、三度はきてくれる。うちを事務所代わりにつかってるみたい」
タイチといっしょに座っていただけで、すぐに友達みたいな口をきいてくれる。スカウトマンの神通力は偉大だった。おれは五差路の角にもどり、ガードレールに腰かけた。
ケヤキの葉のあいだから、日ざしが砂粒のようにこぼれていた。秋は外で座るには、いい季節だ。
◆
二十分ほどして、女とタイチが店をでてきた。周囲に誰もいなけりゃそのままやっちまうんじゃないかという濡れた視線を絡ませて三十秒。極楽鳥はサンシャイン60階通りに消えていく。揺れる尻を見送って、タイチはガードレールにやってきた。
「今日の問題はなんだったんだ」
タイチはおれの横に腰をのせた。
「終電で帰してくれる約束だったのに、お客が立てこむと夜中の一時二時になっちゃうのが嫌なんだって。タクシーよりも、電車のある時間に帰りたいってさ」
風俗店に労働基準法なんてあるわけがない。店への不満をなだめるのも、スカウトマンの仕事なのだろう。通りに立ち続けることといい、わがままな女たちのガス抜きといい、確かに楽な仕事ではなさそうだった。
「あんなことがしょっちゅうあるんだ」
タイチは照れて笑った。
「うん。でも、いいんだ。ぼくは自分が空っぽな人間だから、女の子の話をきくのがけっこう好きなんだ」
きっとそういうのを天職というのだろう。タイチの場合、無理せず楽しく仕事が要求する条件を満たすことができる。すでにネタ的には十分だったが、おれはコラムの締めになにか新しい情報がほしかった。
「最近、スカウトの世界で変わったことってないのかな」
木漏れ日でまだら模様のタイチの顔が、一瞬暗くなった。眉をひそめていう。
「やっぱり、事務所の問題かな」
「事務所ってなんの事務所」
タイチは通りをいく女たちを目で選別しながら、つまらなそうにいった。
「東京には何千店ていう風俗店があるよね。それぞれの店がばらばらにスカウトマンに注文をだすより、どこかにその情報を集めたほうが効率がいい。それで店がほしい情報を集めて、まとめてスカウトマンに流す中間業者ができたんだ。東京中で二、三十軒くらいあるかな。今、フリーのスカウトは減って、みんなどこかの事務所に所属するようになっている」
おれもスカウトマンになったつもりで、五差路をとおる女たちを採点していった。いざ商売ということになると、なかなか上玉はすくなかった。しかも、ただ声をかけるだけでなく、その女を納得させて風俗店に連れていかなければ、一円の収入にもならないのだ。とてもおれには無理な仕事だった。黙って目だけ動かしているスカウトマンにいった。
「タイチはフリーで、事務所にははいっていないんだろう」
「そう。でもおかげで、いろいろと嫌な目にあったりする。脅しとか、嫌がらせとか。事務所のバックにはたいてい組関係の人間がいたりするから」
むこうの世界の男たちは、腐った肉のにおいに狂うサメみたいに、おもてにだせない金の動きには敏感なのだ。それだけの額が動くなら、よだれを垂らしてうじゃうじゃと集まってくるはずだった。
「スカウトマンも楽じゃないんだな」
タイチは引きこまれるような笑顔で、明るくうなずいた。
「でも、仕事だから。ぼくは好きで得意なことを仕事にしてるから、きついけど楽しいよ」
自分の仕事に文句ばかりいってるフリーターのやつらに、爪のあかでも煎じてのませたかった。日本中で働いているやつが、みんなこのスカウトマンのようなら、不景気なんて三カ月で片がつく。また話をきかせてくれといって、おれはガードレールを立った。グリーン大通りを池袋駅にむかう。コラムの書きだしはすでに決まっていた。
この空のように抜け切ったタイチの笑顔から始めるのだ。きっと今回のコラムはうまくいくだろう。はじめよければ、すべてよし。というよりおれのコラムなんて、始めたとたんに終わっちまうようなものだから、とくにでだしが肝心なのだ。
おれは頭のなかでスカウトマンのスケッチを繰り返しながら、JRの線路をくぐった。
◆
それからの二日間、自分の部屋にこもって、原稿を書いた。いつものことながら、へとへとになる。なぜ文章を書くのってこんなに消耗するのだろうか。おかげでメールで送稿したあとは、でたらめにハイな気分になる。夜遊びにそなえてシャワーを浴びていると、おふくろが脱衣所で叫んだ。
「マコト、お客だよ」
シャンプーで泡まみれのまま、叫び返す。
「どいつだ」
「お友達のタイチくんだって。なかなかかわいい子じゃないか」
おれはあわてて身体を流すと、だぶだぶのジーンズとTシャツを身に着けて、階段を駆けおりた。まさかとは思うが、うちのおふくろが風俗にスカウトされたら、おれは一日中西一番街の果物屋で店番をやらなきゃならなくなる。
髪を濡らしたまま店先にでると、おふくろは息子のおれには見せない華やかな顔で笑っていた。
「死んじゃった父親も、マコトに似て案外おくてでねえ。するのか、しないのか、はっきりしてよって、あたしのほうから迫ったんだ」
なんでおれさえきいたことのないネタを、会ってから十五分しかたっていないスカウトマンに話してるんだ。タイチがおれに気づくといった。
「あっ、マコトさん、ちょっと話があるんだけど」
おれはタイチのきゃしゃな手首を引いて強引に歩きだした。このままあと十五分もいっしょにしておいたら、おふくろが大塚の熟女DCで働きだすといい始めるかもしれない。カタストロフは避けなきゃな。
◆
おれたちがはいったのは、うちから歩いて九十秒のロマンス通りにある喫茶店だった。誰か若手のコメディアンがギャグにしている池袋の薄汚れた裏通りだ。ロマンスなんてひとつもないロマンス通り。ストローをつかわずにアイスコーヒーをのんで、タイチはいった。
「交差点の角にあったカフェのウエイトレス、覚えてる」
うなずいた。しのぶだ。フリルがのぞく制服のスカートも忘れられなかった。
「あの子が、今トラブってるんだ。マコトさん、なんとか助けてあげて」
たったの二日でどんな騒動に巻きこまれるというのだ。おれには意味がぜんぜんわからなかった。
「なんのトラブルなんだ」
タイチはいいにくそうにいった。
「あの子はなんだか、ぼくが好きだったみたいなんだ。それでいつも風俗嬢とぼくが話をしているのを見て、自分も風俗の仕事をやったら、つきあえるんじゃないかと思ったらしい」
おれはあきれて目のまえのスカウトマンを見つめた。今回のTシャツはイーグルスのロゴと『呪われた夜』のイラストいり。『ホテル・カリフォルニア』じゃないところがしゃれている。それにしても、こいつはクラシックロックのTシャツを何枚もっているのだろうか。よく見ると髪形だって、昔のジェフ・ベックみたいだ。
「それで無事、風俗嬢になった。タイチのキックバックも増えるんだろう。どこが問題なんだ」
誰かが自分から風俗の仕事をするのは、別になんの犯罪でもなかった。池袋には何千人もそんな女たちがいる。いちいち相手にしていたらきりがない。タイチが目を伏せた。
「問題は事務所だよ。昨日ぼくは通りに立つのを休んでいたんだ。ちょっと風邪ぎみで。それで、しのぶは悪いくじを引いた」
彼女はウエイトレスの仕事が終わった夕方、東口の五差路にいったという。タイチの顔を探したが、あこがれのスカウトマンは見あたらない。そこで、近くにいた同業の男に声をかけた。タイチは淡々と話した。
「それが最低の事務所のスカウトマンだったんだ。事務所はリバティラインっていう元は学生サークルだったところなんだけど」
はめをはずした学生が起こすベンチャービジネスを想像した。パーティ券の押し売りだけじゃ金がたらずに、風俗の口入稼業でも始めたのだろうか。
「そのスカウトマンは、ぼくがリバティラインに所属しているといって、しのぶを事務所に連れていった。会わせてやるからって。あとはあそこの事務所のいつもの手口だ」
おれはスカウトマンの事務所でなにが起きているのか、知らなかった。
「何人かの男で取りかこんで、ほめあげる。女の子がいい気になったところで、見学だけだといって店に連れていく。店に着くとこわもての男がいて、無理やり客をつけさせられるんだ。逃げることはできない」
おれは笑うと三日月のようになるしのぶの目を思いだした。夕方までウエイトレスをしていたのに、夜には客のペニスをくわえている。女たちは落ちるときには、底なしの穴にはまるように一瞬で落ちる。ため息をついていった。
「そうか。その日のうちか」
タイチはうなずいた。
「考える時間を与えないのが、やつらには大事なんだ。ぼくが店に紹介するときは、相手が納得しなければ絶対にいっしょにはいかない。しのぶは閉店時間まで休みなく、男をつけられて、リバティラインの車で自宅のまえまで送っていかれた。車からおりるときにいわれたって」
落としていた目をあげて、タイチはまっすぐにおれを見つめた。
「おまえは今夜、八人の客をくわえこんだ。写真も撮ってあるし、実家の住所も電話番号もわかってる。明日から店にこないなら、店の制服を着た写真を池袋中にばらまいて、この家に火をつけてやる」
おれは声を殺していった。
「そいつがその事務所のいつものやりかたなのか」
タイチはうなずいた。もぞもぞと身体をひねって、尻ポケットからなにかだす。投げだすようにテーブルにおいた。一万円札の束が二枚組のCDケースくらいの高さに積みあがっている。
「今夜もしのぶは、店にでているんだ。マコトさんは名前の売れたトラブルシューターなんでしょう。これでなんとかあの子を助けてあげてほしい。たりなければ、またおろしてくるから」
金を見てから、タイチの目を見た。どうやら本気らしい。おれはいった。
「その風俗店の名前は」
「池袋一丁目の『射ガール』」
「しのぶは未成年じゃないよな」
「今、二十歳《はたち》」
おれはテーブルのうえの金をつき返した。
「そういう事情なら、今のところ金はかからないと思う。ちょっと待ってくれ」
おれは携帯を抜いて、や行の登録番号を選択した。久しぶりだが、あの刑事の頭にはまだ髪が残っているのだろうか。
◆
吉岡は池袋署生活安全課の刑事だ。以前少年課にいたころ、おれも二度ほど世話になったことがある。もっともこうして立派に更生した今では、おたがいにいいニュースソースだった。相手がでると、これ以上はない不機嫌な声が返ってくる。
「……はい」
「ああ、おれ、マコト」
「おまえか、切るぞ。今夜はちょっと勘弁してくれ」
この刑事と話すときはなぜか冗談をいうのがとまらなくなる悪い癖がおれにはあった。
「不倫デートとか。女子中学生に援交とか。悪いことやってんじゃないの、刑事さん」
吉岡は力なく笑った。
「おまえはいつかパクってやる。夏休み明けで落ち着いていたんだが、また街にガキがもどりだしてる。今夜からパトロールが強化されるんだ。マコトも気をつけろよ」
そこでおれは声の調子を変えて、しのぶの用件を話した。さすがに伊達《だて》でこの街の刑事を十年以上もやっているわけではなかった。吉岡はのみこみがいい。
「その女は、被害届をだすつもりはないんだな」
おれはタイチを見てうなずいた。
「ああ、家族には知られたくないらしい」
「ちぇ、届さえあれば、女を解放して、店の男も何人か引っ張れるのにな。まあ、いいだろう。電話してやるから、あとでマコトも顔貸せ」
吉岡と簡単な打ちあわせをして、電話を切った。心配そうなスカウトマンにいう。
「終わったよ。あとでしのぶを拾いにいこう」
タイチは札束をテーブルに投げだしたまま叫んだ。
「電話一本で」
そうだといった。日本の警察だって、融通がきくことがあるのだ。風俗店はしのぶをすぐに自由にするだろう。生活安全課ににらまれたら、池袋で店を経営するのは絶望的に困難になる。役人はみんな裏でつながってるから、警察だけでなく消防や衛生や税務からジョーズのような波状攻撃をくらうことになる。
売上ナンバーワンの姫でも、風俗店はさっさとさしだすだろう。平安時代の貴族が月の軍団にかなわなかったのと同じだ。売れっ子のかぐや姫よ、さらば。
下々の者は、おかみには逆らえないってこと。
◆
その夜八時すぎにおれは常盤通りの巣鴨信金のまえで、吉岡と待ちあわせした。刑事はいつもの紺のウインドブレーカーに、安っぽいポリエステルのスラックス。革靴だってどこかの店先の五千円の特売品だった。だが、身なりが安っぽくても、頭が薄くても、おれは吉岡のほんとうの値打ちは知っている。
「一年ぶりに会っても、また同じもの着てるのは吉岡さんだけだな。こいつがさっき話したスカウトマンのタイチ」
タイチはおれの背に隠れるようにして、頭をさげた。
「よう、マコト、おまえこそつまらないトラブルにばかり頭つっこみやがって。おふくろさんが、泣いてたぞ。おまえは女もいないし、孫の顔は当分見られそうもないってな」
吉岡に有効ポイント1。さすがにおれの弱点を知っている。おれは頭髪ネタでポイントを奪い返そうかと思ったがやめておいた。無理な頼みごとをしたのだ。今夜は気分よく帰らせてやろう。
おれたちは酔っ払いと客引きでにぎわう常盤通りを右に曲がった。十メートルほど先にピンクのリボルバーから得体の知れない液体を飛ばしている「射ガール」の路上看板が光っていた。看板のむこうにははっぴを着た若い男と、革のハーフコートを着たしのぶが立っている。
おれたちが歩いていくと、男が深々と頭をさげた。
「店長の丸山です。刑事さん、以後お見知りおきを」
店の名がはいった名刺をさしだした。吉岡は受け取ると、裏返してみせる。一万円札がちいさくたたまれて、テープで貼りつけてあった。
「すまないが、今度は目撃者のいないところでしてくれよ」
吉岡は万札をはがすと、店長のシャツの胸ポケットにいれてやった。しのぶを見ていう。
「つらかったなあ。どうする、正式にこの店、訴えるか。あんたがその気なら、こんな店すぐに潰してやるぞ」
誰か悪いやつの背が目のまえで十センチも縮んでいくのを見るのは、いい気分だった。しのぶはいやいやをするように首を横に振った。
「そうか。じゃあ、店長さん、この子は今から自由だな。この子の家族やこの子自身になにかあったら、あんたの店を徹底的に締めあげるから、覚悟しておけ。それとも、今夜ちょいとなかを見せてもらおうか。未成年の子どもなんか働かせてはいないよな」
吉岡はさすがに役者だった。地下におりる妙に明るい階段をのぞきこんで見せる。店長は必死に身体を張って、刑事の視線をブロックした。
◆
池袋署にもどるという吉岡とウエストゲートパークで別れて、おれたち三人はベンチに座った。夜になって野外将棋大会はますますヒートアップしているようだった。植えこみの丸い柵沿いにずらりと将棋台が並び、立ち見の見物客で人だかりしている。ステージの手まえの階段には、アコースティックギターを抱えたふたり組が座り、センチメンタルな歌をうたっている。歌詞は最悪だが、声は秋の夜空のように透きとおっていた。
こわばった表情のしのぶが、静かに泣きだしたのはしばらくしてからだ。タイチは黙って、しのぶの手をにぎっている。おれは邪魔者になった気がしたが、涼しい夜風に打たれて、なぜかベンチを動けずにいた。しのぶはうつむいていう。
「どうもありがとうございました。わたしが、やっぱりバカだった。風俗の仕事をしてタイチくんのそばにいこうなんて考えたから。動機が不純だったんです」
好きな男のそばにいたいという動機のどこが不純なのだろうか。金のためより、いくらましだかわからない。しのぶはただ運が悪くて、まずい場所でまずい男に声をかけてしまっただけだろう。おれはいった。
「だいじょうぶか。明日から、どうするんだ」
しのぶはおれのほうを見ずに、タイチの横顔を見つめていた。
「ちょっと休んでから、また喫茶店にもどります。わたしには風俗って無理みたい。タイチくんのためになにかしてあげられなくて、ごめんね」
おれは若いスカウトマンの魔法にあきれていた。普通謝るのは男のほうで、傷ついたしのぶではないだろう。風俗嬢になって毎月キックバックの振込ができないからと謝る女なんてどこにいるのだ。びっくりしていると、タイチはいいんだといって、あのくしゃくしゃの笑顔を見せた。それだけで、しのぶの瞳にハートマークが乱れ飛ぶ。
おれはばからしくなって、ベンチを立った。電線にとまる小鳥のように寄り添うふたりに声をかける。
「ごゆっくり。なにかあったら、連絡してくれ」
背を丸めて、トラブルシューターはひとり寝の家に帰るのだ。この夏だっていいことなんてなかったし、この分では秋もきっとだめだろう。いっそのこと、ひと月ばかりタイチに弟子いりして、通りに立とうかと思った。だって池袋のストリートなら、おれのホームグラウンドだからな。
女を口説き落とす自信なんてぜんぜんない。だが、ストリートに立ち続けることなら、おれの得意技だ。それだけで年収二千万なんて夢みたいな話じゃないか。
◆
その夜おれはヘッドフォンで音楽をきいた。四畳半の窓を開け、妙に黄色い月の光りを室内にいれてやる。CDはクイーンでもイーグルスでもなく、モーツァルト。『ドン・ジョヴァンニ』は稀代のプレイボーイが、石像の騎士に連れられて地獄に堕ちるまでを描いたオペラの傑作。これがどんなふうにきいても、自分の欲望に忠実な主人公の女たらしだけがまともで、まわりの登場人物はみんな間抜けに見えるのだ。まるでタイチとおれみたいだった。
モーツァルトにはめずらしく悲壮感いっぱいの序曲をききながら、おれは考えた。タイチは女といっしょにいて幸せを感じることがあるのだろうか。仕事も趣味もすべてが女がらみなのだ。十八人の風俗嬢のあがりでくってるくせに、まだ寝てもいない女が窮地に立つと、ぽんと百万も投げだしたりする。おれの知りあいの誰にも似ていないキャラクターだった。
おれは石像の呪いを思った。ドン・ジョヴァンニを冷たく包む地獄の炎。タイチがいつか地獄に堕ちるとしたら、きっと理由は女なのだろう。だが、やつを地獄にたたきこみたいと願う女は、最後にはきっと自分もいっしょに堕ちるのを選ぶだろう。タイチみたいな男にとっては、地獄だって勲章みたいなものだ。
おれが地獄に堕ちる理由を考えた。ギャングかヤクザがらみのもめごとだろうか。タカシやサル、あるいは吉岡の疲れた顔が浮かんでくる。あんな男たちと地獄で丸焼きにされるのかと思うと、気分がひどくダウンする。
おれは三枚組のCDの二枚目をきいたところで、月を見ながらふて寝した。おれたちの心がどれほどでこぼこでも、月は笑いながら真円を描き、夜空を駆けていく。
◆
翌日の午後、おれはタイチが気になって東口の五差路に顔をだした。だが、いくらガードレールでねばっても、天才スカウトマンの顔は見あたらない。しかたないので、ビックカメラでCDウォークマン用の単三電池を買って帰った。
角の喫茶店で話をきくと、しのぶも休んでいるという。どこかにふたりでしけこんでいるのだろうか。おれはうちに帰り、いつもの締切明けのように店番にもどった。今年の八月は秋みたいだったのに、九月にはいって急に夏へと逆転した。おかげで、冴えなかったスイカが売れ筋に復帰している。
おれはせっせと水菓子を売り、店に立ち続けた。コラム書きとなんでも屋と店番。実は一番自分らしいのは、店番をしているときだとおれは思う。退屈で退屈で、なにかが起きるのを全身のバネをためて待っている。おれは飢えたオオカミみたいな店番なのだ。
よくしたもので、トラブルはその夜店じまいをするころ、むこうからやってきた。
◆
シャッターの柱を立てて、鉄パイプの先のフックで引っかける。勢いよくシャッターがおりる音がおれは大好きだ。もっともうちはちいさな店だから、おろすシャッターは二枚しかない。一枚半を閉めたところで、うしろから声をかけられた。
「おまえだよな、トラブル解決屋のマコトって」
おれの知らない声だった。鉄パイプをもったまま振りむく。ジーンズに黒シャツの男が立っていた。第三ボタンまで開けて、日焼けした胸を見せている。チャームポイントなのだろう。胸の中央には太い銀のチェーンとペンダントトップの鐘が揺れていた。胸と同じように焼けた顔は丸く、とても精悍とはいえなかった。髪は銀のメッシュいりの昔ながらのサーファーカット。
「うちの事務所が口をきいた女を、店抜けさせてくれたんだってな。射ガールから、苦情がきた。ちょっと顔貸してくれ」
地方都市の太った美容師みたいな男は、精いっぱいいきがってそういった。うしろにとまっていたルノーのミニヴァンのガラスがなめらかにおりる。スモークガラスのむこうから、タイチが顔をのぞかせた。やつの左目は腫れて、紫色にふさがっている。
「マコトさん、逃げて。こいつらリバティラインだ」
残念だが、自分の家のまえから逃げるわけにはいかなかった。タイチも人質に取られているしな。おれはいった。
「おいおい、あんた店長からなにもきいてないのか」
やつはにやにやと笑っていた。身動きするとちいさな鐘の音がする。パトラッシュか、こいつ。
「もちろん、クライアントから話はきいてるさ。あの女や女の家族に手をだしたら、射ガールを潰すというんだろ。だけど、警察が風俗スカウトやおまえみたいなチンピラまで守るはずがない。いいから顔貸せ」
しかたないので、おれは一メートルほどの長さがある鉄パイプをもったまま、うちの裏手の駐車場に歩いていった。ルノーのなかに何人のっているかわからない。おれはアクション派ではないが、やるときはやらねばならない。金魚鉢のようにガラスエリアのおおきなモダンなミニヴァンは、じりじりとはうような速度でおれと黒シャツのあとをついてきた。
◆
黒シャツをふくめてリバティラインの男は全部で四人。まだ若いのに、遊び崩れた雰囲気のある男たちだった。夜のにおいが染みついてしまっている。日焼けサロンに毎週かよっているのだろう。全員炭のように焼けて、銀のアクセサリーを見さかいなくぶらさげていた。駐車場の隅の暗がりで、黒シャツはいった。
「おれはリバティラインの代表、大浦秀光だ」
じっとやつの顔を見ていた。怖がって腰を抜かしたほうがよかったのだろうか。黙っているとやつはいう。
「おまえとタイチのやったことは、営業妨害だぞ。わかってんのか」
おれはいった。
「無理やり女を風俗に連れてって、脅して客を取らせるのが、あんたたちの営業なのか」
黒シャツはなにもない足元をウエスタンブーツの先で蹴った。
「なにおままごとみたいなこといってる。そんなのどの事務所でも、やってることだろうが。おまえはあの女が、どこかのお嬢さまかなにかとかん違いしてるんじゃないか。そんなにおきれいな女じゃない。どうせ、なにもきいてないんだろう」
やつはまたにやにやと笑っていた。おれやタイチがきいていないこと。おれにはそいつがなんだか考える時間はなかった。大浦のうしろにいる三人の男たちを観察していたのだ。そのうちふたりは幼いといってもいい顔立ちをしている。まだ大学生なのだろう。こうしたもめごとに慣れていないようで、おれがもっている鉄パイプに腰がひけてしまっている。残るひとりはしゃれたアフロヘアで、いつでも飛びかかれるようにまえのめりになっていた。実質的には二対一というところか。黒シャツはいった。
「おまえ、マッポなんかに垂れこみやがって、覚悟できてんだろうな。尻もちはいるのか」
あっちの世界の業界用語をつかいたがるところが、素人丸だしだった。おれはケツモチなんて言葉を久しぶりにきいて、つい笑ってしまった。
「あんたのほうは誰がバックについてるんだ」
大浦は胸元の鐘を鳴らしていった。
「うちのは本職だ。紀流会の宇佐美さんだよ。おまえ、埋められたって知らねえぞ」
月々わずかな尻もち料を払っているからといって、ささいなトラブルでプロが素人を殺して埋めるはずがなかった。この男は費用対効果という言葉を知らないのだ。事務所の将来が不安になる。
「そうか、わかったよ。じゃあ、今日のところは謝るから、タイチをこっちに寄こしてくれ。事情はあとでやつからきいておく」
まえのめりになったアフロが叫んだ。
「なめた口きいてんじゃねえぞ」
おれは鉄パイプを振った。風を切る音がして、うしろのふたりの腰がさらにひける。
「やるならいいが、そっちもただじゃ終わらない。どうする」
リバティラインはナンパ系大学生のサークルから始まっているのだ。池袋のストリートギャングのように肝は据わっていないようだった。うちのおふくろの声が銃声のように響いた。
「あんたたち、そんなところでなにやってんだい」
タイチをアスファルトに突き飛ばすと、四人のガキはあわててルノーにのりこみ、タイヤを鳴らして夜の駐車場をでていった。
あんたにもわかるだろう。うちのおふくろのひと声は、パトカーのサイレンよりも威力があるってこと。
◆
家にもどると、おふくろはかいがいしくタイチの看護をした。ビニール袋に氷をいれて腫れた左目を冷やし、残りもののメロンで飛び切り新鮮なジュースをつくってくれる。おれはタイチのそばにいたがるおふくろを四畳半から追いだし、やつの話をきいた。
「どうして、こんなことになった」
タイチは壁にもたれて、目を冷やしている。疲れ切った表情でいった。
「リバティラインにはまえから、うちの事務所にはいれって脅されてたんだ。それで今回のしのぶの件でしょう。大浦さんが切れちゃって、五差路でいきなり車に押しこまれた。あとは事務所に連れてかれて、ぼこぼこだよ」
「やつらの事務所はどこにある」
「東池袋、したがファミリーマートになってる雑居ビルの六階」
おれは大浦がいっていたしのぶの秘密が気になっていた。
「タイチは彼女に連絡をいれたのか」
池袋のドン・ジョヴァンニは考える顔になった。
「彼女ってどの彼女」
忘れていた。こいつには二十人近い女がいるのだ。
「ウエイトレスのしのぶ」
タイチは首を振ると、悔しそうにいった。
「事務所についてすぐに携帯を取りあげられた。目のまえで大浦さんに踏み潰されたんだ。あれはなぐられるより、へこんだなあ。スカウトマンにとってはたったひとつの商売道具だからさ」
確かに女の電話番号が百本もはいった携帯なら、どれだけの値打ちがあるかわからなかった。おれは机の充電器から自分の携帯を取った。時間を確認する。まだ真夜中まえだ。やつにとっては、ちょうどいい時間だろう。本職の話をきくにはやはり本職がいい。おれは元いじめられっ子の羽沢組系氷高組本部長代行、斉藤富士男の番号を選択した。
◆
サルは吉岡と違って上機嫌だった。酔っ払った声でやつはいう。
「おお、マコトか。今、おれ接待されてるんだけど、おまえも顔ださないか。盛りあがってるぞ」
背景ノイズはやたらにかん高い女の笑い声だった。
「どこにいるんだ」
「池袋のクラブ。といってもタカシみたいなガキのいくクラブじゃなくて、美人がたくさんいるほうのクラブだけどな」
美人という言葉に反応して、誰かがいやーん、わたしのこと話してると叫んでいた。やってられない。用件だけすませて、早く切ろう。
「なあ、サル、おまえ、紀流会って知ってるか」
サルは陽気な笑い声をあげた。
「おまえってほんとタイミングいいよな。紀流会の渉外担当ならここでいっしょにのんでるさ」
「羽沢組とは、どういう関係なんだ」
サルは鼻で笑っていった。
「うちは関東賛和会の二次団体で、紀流会は三次団体だ。うちとは直系だから、親会社と子会社みたいなものかな。だから、こうして接待されてる」
おれ以外のやつはみんな大人になっていくようだった。おれはその手の高級クラブに、はいったこともない。
「わかった。じゃあ、紀流会の宇佐美ってどんなやつかわかるか」
「ちょっと待て」
送話口を押さえて、サルが電話のむこうでなにか話していた。しばらくすると、やつはもどってきた。
「おまえ、いつから組関係にそんなに詳しくなったんだ。うちにでも就職するか。マコトなら、絶対いい線いくぞ」
サルのしたで雑巾がけから始めるつもりなどかけらもなかった。
「やめとく。それより宇佐美は」
「ああ、四十すぎの万年若衆だそうだ。あまり頭は切れないし、腕も立たない。紀流会の窓際だと渉外がいってる。どうしたマコト、またなにかもめごとか」
さすがにサルは勘がよかった。おれの知る中卒の出世頭なのだ。
「そうだな、風俗の口入事務所とトラブって、そこの尻もちが紀流会の宇佐美だそうだ。ついさっき、おれをどこかに埋めてやるって脅されたよ」
サルは腹から楽しそうに笑った。
「池袋のマコトを埋めるのか。でも、おまえ一度埋められたほうがいいかもしれないな」
「どうして」
「ちょっとは減らず口がすくなくなるかもしれない」
おれはやつに負けないように笑っていった。
「サルもな」
「なぜだ」
「地中の栄養を吸って、すこしは背が伸びるかもしれない」
サルはひとしきり笑い声をあげてから、冷たい声でいった。
「もし、宇佐美ともめるようなら、おれの名をだせ。それでやつの動きはとめられる。全部片づいたら、そうだな、おれを接待でもしてくれ。おまえなら安い居酒屋かどこかでいい。また昔の話でもしような」
通話はいきなり切れた。貢いでくれる女が十八人もいなくても、こういうダチがひとりいてくれるだけで、おれはけっこう満足だった。おれの場合、幸福の基準が低いのだ。
サルからきいた宇佐美の話をして、タイチを外に送りにいった。やつらが張っているかもしれないと気になったからだ。
西一番街の路上でタクシーを待っているとき、タイチは急に真剣な表情でおれを見た。
「ねえ、マコトさん、ぼくは男の友達ってひとりもいないんだ。友達になってくれないかな」
おれは初めて告白された小学校六年生みたいにあわててしまった。普通男同士でそんなことをいうものだろうか。スカウトマンの素直さはまぶしいほどだった。おれは右手をあげて、車をとめた。
「友達なんて、おまえがそうだと思ったらそれでいいんだ。いちいち口でいうなよ。また明日な。しのぶのことはちゃんとフォローしてやれよ」
タクシーがいってしまうと、モーツァルトの続きをきくために、おれは部屋にもどった。だが、いい気分はひと晩しか続かなかった。
おれたちの知らないところで姫は追い詰められていたのだ。
◆
つぎの日の午後、店番をしているといきなりタイチがやってきた。手にコンビニの白い袋をさげている。
「おかあさん、こんにちは」
ジェネシスのTシャツを着たタイチはおれよりも先におふくろに挨拶した。胸のプリントはジェネシス『フォックストロット』。ピーター・ガブリエルがヴォーカルをやっていたころのアルバムだ。あいかわらずタイチは音楽の趣味がよかった。
「ちょっと、マコトさん」
おれを呼びつけて、コンビニ袋を開いて見せる。なかにはビデオテープとケースの割れた携帯電話がはいっていた。タイチはいった。
「今朝起きたらうちのマンションのドアの取っ手にこれがさがっていた。いっしょに見てくれないかな」
おれはおふくろにひと声かけて、タイチといっしょに部屋にあがった。
◆
おれの四畳半のテレビデオで、なにも書かれていないビデオテープを再生した。最初に映ったのは、おおきな布を垂らしたような白いホリゾントだ。そこに横から女がはいってくる。しのぶだった。ブーツカットのジーンズに白いタンクトップ。そのうえにシースルー素材のカーディガンを着ている。大浦の声がした。
「きみはなかなか、かわいいねえ。風俗にいくより、AVなんかのほうが稼げるかもしれないなあ」
周囲にいる男たちからも、盛んにかわいい、スタイルがいいと声が飛んだ。しのぶは頬を染めて、ビデオカメラをおどおどと見つめている。両手のおき場がないようで、うしろで組んだり自分の肩を抱いたりしていた。大浦は猫なで声でいった。
「きみなら、グラビアアイドルとか、テレビのバラエティ番組なんかにもでられるかもしれない。スターになっても、この事務所のこと忘れるなよ」
男たちのあいそ笑いが響いた。大浦は事務的にいった。
「じゃあ、せっかくここまできてくれたんだから、カメラテストをやっておこう。じゃあ、うえ脱いでくれる」
しのぶの表情が硬くなった。
「今ここでですか」
大浦の声は別人のように冷たくなる。
「あたりまえだろう。おれたちは仕事でやってるんだから。手間をかけさせないで、さっさと脱げよ」
しのぶの目は急に必死になった。部屋のあちこちに視線が泳ぐ。やわらかい部分を守りたいのだろうか。両手で腹を押さえる格好になった。ウエイトレスは叫んだ。
「じゃあ、タイチくんと話をしてからにします。タイチくんを呼んでください」
「ごちゃごちゃうるさい女だな」
大浦がそういうとフレームの横から男の腕が伸びて、しのぶの肩をつかんだ。そこでぷつりと画面はとぎれ、ブラウン管は砂の嵐になってしまう。おれはタイチにいった。
「こいつはどういうことなんだ」
タイチの顔色は青ざめていた。自分もさっきまでのしのぶと同じように腹を押さえている。
「これはたぶん最初にリバティラインにいった日の映像だと思う」
おれはじれったかった。知りたいのはいつかではなく、この続きがどうなるかなのだ。
「しのぶはどうなった」
タイチは歯をくいしばっていう。
「きっとやつらは味見をした」
なにもいえなかった。おれたちがファッションヘルスから助けだしたときには、客だけでなくやつらにも、しのぶはぼろぼろにされていたのだ。つぶやくようにスカウトマンはいった。
「リバティラインのやつらは、何人かでしのぶを襲ったんだ。女の子の心を折るために、あいつらはときどきそんな手をつかう。自分のことをあきらめさせて、店でつかいやすくするために、みんなで犯して映像をビデオで残す」
叫び声をあげそうになった。タイチの言葉の続きは、鈍いおれでもすぐにわかった。
「そして、映像を脅しの材料につかう。タイチ、すぐにしのぶの家に連絡をいれてくれ」
おれは自分の携帯を、タイチにトスした。やつはうなずき、番号を入力した。先方がでると、おれにうなずきかけた。タイチは礼儀正しくいった。
「しのぶさんの友人なんですが、彼女はだいじょうぶでしょうか」
親がでたのだろう。緊張していたタイチの顔が歪んだ。
「わかりました。これからすぐに病院にお見舞いにいきます」
タイチは携帯をつかんだまま、おれの部屋を飛びだしていく。おれはTシャツの背中に叫んだ。
「なにがあったんだ」
タイチはバスケットシューズに足をつっこむと、ひもがほどけたまま階段を駆けおりていった。したから声が響いてくる。
「しのぶが昨日の夜、手首を切った。病院は南長崎の豊島昭和病院だって」
階段を二段飛ばしでおりて、おれもタイチのあとを追った。
◆
その病院は西武池袋線東長崎駅近くの住宅街にあった。まだ新しい建物のようだ。窓ガラスが秋の日を浴びて、清潔に光っていた。おれたちはタクシーをおりると、入口を駆け抜け、受付でしのぶの病室をきいた。
エレベーターを待つのももどかしく、四階まで一気に階段を駆けあがる。興奮しているせいだろうか。足は異様に軽く動き、息さえ乱れなかった。病室にはいるまえに、おれはタイチと目をあわせた。たがいにうなずきかける。決闘の場にでもむかうように、そこからはゆっくりと大股ですすんだ。
カーテンもシーツも床も、ベッドのフレームまで、病室にあるものはすべてが白かった。六人部屋の半分は埋まっている。窓際の一番奥の左手がしのぶのベッドだ。重ねた枕で上半身を起こし、うとうとしているようだった。最後に別れた公園の夜よりも、ずっと顔色は青ざめている。手首に巻かれた包帯よりも白く、ほとんどロックアイスのような透明感だ。タイチに気づくと、目を閉じて唇を震わせた。
「あのビデオ見たの」
タイチは首を横に振った。
「見てない。ぼくのところに送られてきたのは、ほんの十分くらいしかなかったから。意味がぜんぜんわからないよ」
スカウトマンは嘘が上手だった。おれはしのぶの足元で立っていた。
「マコトさん、また迷惑かけちゃってごめんなさい」
目を閉じたまま、涙を落とす。涙はまぶたのまんなかから落ちるのだとおれは思った。いいんだといった。しのぶは感情の抜けた声でいった。
「わたしのところにテープが二本送られてきたのは、昨日の夜だった。一本はタイチくんの名前がはいっていて、もう一本はわたし宛だった。収録時間はタイチくんのが十分で、わたしのが一時間半。ついていた手紙には、長いほうをタイチくんやうちの親に見せたくなかったら、また事務所にこいって。今度はもっと稼げる本番の店で働けって。もうタイチくんには迷惑かけられないし、どうしたらいいかわからなくて、お風呂のなかで手首を切っちゃった。ごめんね、タイチくん」
いつも謝ってばかりいるしのぶにも、リバティラインのガキどもにも、おれはでたらめに腹が立ってきた。気がつくとまだ点滴をしている患者のまえで叫んでいた。
「おれは謝らないぞ、タイチ。元はといえば全部おまえから始まったんだ。おまえがどの女にも甘い顔をするからこんなことになる。リバティラインのやつらにそろそろケリをつけよう。しのぶ、あんたもここで腹をくくれよ。女は度胸じゃないのか。親に知られたくないなんていってないで、もっと胸を張ってくれ。被害者なんだから、今度はおれたちの番だろうが」
タイチは驚きの目でおれを見あげた。
「でも、むこうはたくさんいるし、ヤクザの尻もちもついてるし」
おれはじれったくなってきた。
「タイチ、このまえの百万またおろしてこいよ。リバティラインのやつらに、世のなかもっと恐ろしいものがあるって見せてやろう」
タイチはおろおろと女とおれのあいだで視線を動かした。黙って目を閉じていたしのぶが、目を開けた。昔のアニメだけでなく、ぎらぎらと炎が燃える目が実際あるのだ。しのぶの怒りはまっすぐだった。
「ほんとうにできるの、マコトさん。リバティラインを潰せるなら、わたしはどうなってもいいよ」
いい子だといって頭をなでてやりたかった。タイチは困り顔でいった。
「お金はいいけど、いったいどうやるの」
おれは真っ白な病室で携帯を抜いた。
「見てろ。池袋には学生サークルあがりの遊び人より、ずっとクールなやつがいるんだ。大浦の首からさがった鐘を、今夜がたがたに揺らしてやろう」
携帯の番号からGボーイズの王様を選んで、おれは通話ボタンを押そうとした。静かだったカーテンのむこうから、おばちゃんの声がかかる。
「病院内は携帯禁止だよ」
おれは携帯をポケットにもどし、病室をでた。
◆
病院の駐車場にでてからタカシを呼びだす。取りつぎがでて、おれの声をきくと、すぐ王様に代わった。高貴な声は南極から話しているようにクールだ。
「今日一日、Gボーイズの精鋭を貸してくれないか」
やつの声はさらに冷たくなった。楽しんでいるのだ。
「マコト、今度はなにをするんだ」
「事務所をひとつ空っぽにする。なかにいるやつらは、適当にやってくれてかまわない」
タカシは低く笑った。たぶん適当にという副詞が好きなのだろう。
「そいつは楽しそうだな。警察はどうなる」
「やつらは真っ黒だ。警察には頼れない」
王様はあたりまえの調子でいった。
「こいつは仕事の依頼だな。金はあるのか」
タイチが遅れて、病院のエントランスをでてきた。おれはスカウトマンの顔を見ながらいった。
「ああ、百万。人数は、そうだな、二十人くらい用意してくれ」
タカシは上機嫌でいった。
「了解。いいにおいの仕事じゃないか。昔から東京地検みたいなガサいれを、Gボーイズでやってみたかったんだ。段ボールいるよな」
おれはタイチにGボーイズのハンドサインをだしてやった。やつは不思議そうに見つめ返してくる。おれは池袋のガキの王にいった。
「そうだな。引越しができるくらいのトラックと段ボール箱を五十も用意してもらうかな」
なにをいっているのかわからないという顔をしたタイチの肩を抱いて、東長崎の駅まえにある都市銀行にむかって歩きだした。タカシとは打ちあわせの約束をして、通話を切る。
なあ、人の金でドンパチやるのって楽しいよな。おれはひと目みたときから、大浦のキザな黒シャツも、銀の鐘も大嫌いだった。そいつはあのビデオを見たときには、混ざり気のない憎しみに変わっている。
身ぐるみはがされたやつがどんな顔をするのか。そいつはその夜のちょっとした見ものだ。
◆
タカシに金をわたし、ミーティングをすませたのが三時まえ。いったん解散して、まだ空が明るい午後六時に、おれたちはグリーン大通りに集合した。ファミリーマートの手まえに四トン積みのパネルトラックが横づけされる。Gボーイズはどこからともなく集まって、ガードレールや植えこみの柵に腰をおろしていた。引越し屋のアルバイトのように、みなそろいのつなぎ姿だった。
タイチとおれ、タカシとGボーイズの武闘派五人が第一弾で、コンビニのわきにあるエレベーターをつかった。すでにリバティラインの事務所のある階の踊り場と非常階段には、メンバーを送りこんである。残りのGボーイズは階段や床などに傷がつかないように、段ボールをガムテープでぺたぺたと貼っている。
タイチが先頭になって短い廊下をすすんだ。ここは狭い敷地に建てられたペンシルビルで、ワンフロアにひとつの事務所がはいっているだけだった。自由の鐘のロゴがはいったプレートがスチールの防火扉に張ってあった。タカシと顔を見あわせる。ささやいた。
「いこう」
王は優雅にうなずいた。Gボーイズのひとりが、扉を引き抜く勢いで開いた。一気に六人が流れこんで、そのあとにおれとタイチが続いた。はいってすぐにファイルキャビネットが衝立《ついたて》のように並び、そのむこうがビニールのソファセットだった。机は壁際に四つ押しつけられているが、仕事をしている様子はない。その仕事部屋には誰もいなかった。
Gボーイズは足音を殺して、奥の扉を開いた。またタカシを頭になだれこむ。おれはそこで目撃した。口をふさがれて、手足を押さえつけられた裸の女。三脚にすえられたビデオカメラ。画面で見ると白かったが、現物のホリゾントは薄汚れて灰色だ。
大浦は最初に味見をすませていたようだ。まえたての開いた黒シャツをだらしなく着こんでいる。おれたちに気づくと、大声をだした。事務所の男たちは、みな凍りついたように動きをとめている。きこえるのは裸の女の泣き声だけだった。
「おまえら、誰だ。ここがどこだと思ってる」
タカシは大浦を無視していった。
「こいつが例の間抜けか」
おれはうなずくといった。
「大浦、なんなら警察でも、ヤクザの尻もちでも呼びだせよ。おれたちはこれから探しものをさせてもらう。しのぶがここにあまり自分では気にいってないカメラテストの映像を忘れていったそうだ。おれたちはそいつを取りもどすように頼まれた」
事務所の代表は携帯を耳にあてながら叫んだ。
「おまえら、なにやってるんだ。こいつらを放りだせ」
両腕を押さえていた男がひとり。女の足にはひとりずつ。あとはジーンズをおろして尻をだしている男がひとり。社員はそこには四人だけしかいなかった。駐車場でまえのめりになっていたアフロが、女の手首を放してそばにいたGボーイズに飛びかかった。タカシは助走をつけると、軽々と宙を跳んだ。後頭部にきれいにドロップキックがはいる。おれはプロレス中継でなく、素人があれほど高くあの技を決めたのを初めて見た。見事なものだ。アフロはそのまま壁につっこんで、動きをとめた。Gボーイズがうしろ手に重ねた両手首にプラスチックのコードをとおし、ぱちりととめた。
残る三人の男たちは、続く三十秒でストリートギャングの精鋭に鎮圧された。ひとりにつきふたりがかりで、床にうつぶせにして手首と足首をコードで縛っていく。もっとも闘う気力を見せたのは、最初のアフロだけだった。あとの男たちは戦意を失って、羊のように床に転がされた。女を襲っているところに踏みこまれて、なにがなんだかわからなかったのかもしれない。セックスは恋と同じように、人を盲目にする。
女は自分の服をかき集めると、急いで身につけ部屋をでていった。去り際に手にしたハイヒールのかかとで、アフロの頭を思い切りなぐっていく。ちりちりの髪のあいだから、すこしだけ血が流れたようだが誰も気にする者はいなかった。
大浦は震えて背中を壁に張りつけている。あのビデオとは大違いの声でいった。
「おまえら、なにもんだ。うちの尻もちが紀流会だとわかって、こんなことやってるのか。あとでみんなえらいことになるぞ」
タカシはにこりと笑って、まっすぐにやつのほうにむかった。虫でも払うような軽い手の動きだった。裏拳がたるんだ代表の頬にあたる。それだけでやつは壁際に二メートルほど飛ばされていった。おれはやつの手を離れた携帯を拾い、タイチにわたしてやった。
タイチは床に落とすと、バスケットシューズの底で最新型のカメラつき携帯を踏みつけた。
機械の壊れる音って、おれは大好きだ。
◆
それから段ボール箱にコピー用紙の束やコンピュータやビデオテープが詰めこまれていった。分業制でどんどん運びだされていく。ここの事務所ではペーパーワークなど、ほとんどしていなかったようだ。一番多いのは、ビデオテープだったのだから。Gボーイズは撮影用の機材やダビング機器も根こそぎさらっていった。
あらかたの資料が運ばれて、リバティラインの事務所が妙に広くなったころ、入口付近で男が叫んだ。
「なんじゃ、こりゃあ」
松田優作か、おまえ。声に遅れて、黒いスーツの中年男がガニ股ではいってくる。事故にでもあったのだろうか。おかしな角度で左の肩がさがっていた。ふて腐れて床に座りこんだ大浦が、男に叫んだ。
「宇佐美さん、こいつら、なんとかしてくださいよ」
万年若衆は誰にともなくすごんでみせる。
「おい、どいつが頭だ。この事務所が紀流会のシマだと、わかってるのか」
タカシは肩をすくめた。ちいさな声でおれにいった。
「めんどくさいから、やっちゃおか」
おれは笑って王様をとめた。尻もちにいう。
「すみませんが、紀流会の宇佐美さんですよね。今回は話がこじれてるんです。うちの尻もちと話をしてもらえませんか」
おれは携帯を抜いて、サルの番号を探した。中年ヤクザの目が不安げに揺れる。
「そっちの裏はどこのどいつだ」
「関東賛和会羽沢組系氷高組本部長代行、斉藤富士男。おれの中学のクラスメートだ」
宇佐美は頭をかいて、天井を見た。
「氷高組の斉藤さんか。じゃあ、あんたが果物屋のマコトか。おれ、ちょっと用、思いだしたわ。大浦、おまえ、あんまり無茶するんじゃないぞ」
ヤクザは精いっぱい背中で虚勢を張って、事務所をでていった。タカシとタイチ、残されたGボーイズで腹がよじれるほど笑った。大浦は毎月金を払ってるのにと、口のなかでぶつぶつつぶやいている。
最後の荷物が運びだされたのは、それから二十分後のことだった。
◆
その夜おれたちは手分けして、ビデオテープの中身を確認していった。うんざりするほどたくさんの裸の女たちを見た。そうではない男もいるのかもしれないが、おれの場合涙や恐怖にひきつる表情は、まるでセクシーには感じられず、テープを見るのは苦痛以外のなにものでもなかった。
長いほうのしのぶのテープを見つけたのはタイチで、おれたちは四畳半でリバティラインから運んできた機材をつかい、警察に送るためのダビングテープをつくった。もうしのぶに迷いはない。被害届とこのテープがあれば、即座に池袋署は動くだろう。
もうひとつ、動かしたいのはマスコミで、おれたちはダビングに苦労しながら、レイプされた女たちのテープをつなぎあわせていった。プロ用の編集機の便利なところは、いくらでもモザイクがいれられることで、おれたちは性器はそのままにして、顔にだけモザイクをかけたのである。いつものAVとは反対だ。吐き気のするようなハイライト集ができあがったのは明けがただった。
あとはマスコミ各社にリバティラインの会社案内とともに送るだけである。タイチといっしょに倒れるように眠りについた秋の朝、おれはしみじみと誓った。もうこれからは一生裏ビデオは見ない。あんなに憎らしかったモザイクが、ひどく恋しく思えたのだ。
人間隠しておいたほうが、いい部分はあるよな。
◆
リバティラインをめぐるそれからの大騒ぎについては、おれよりはみんなのほうがきっと詳しいと思う。事務所にでいりしていたメンバーのなかに有名大学に在学していた学生八名がいて、週刊誌では実名報道のスクープ合戦になった。全員除籍処分にされたそうだが、おれはまったく同情などしない。そいつらにも、そいつらの親にもね。なにせひと晩中、衝撃映像を見せられたのだ。おれはやつら全員のペニスを拝見したことになる。情状酌量の余地はなかった。
大浦は池袋署生活安全課によって逮捕された。強姦、傷害、恐喝、未成年者略取、いったいいくつの罪名があるのかは、どこかのスポーツ新聞にでもあたってほしい。おれの望みはなるべく長くやつが塀のなかにはいっていることだ。
あの代表に関しておれが一番ショックだったのは、やつの高校時代の写真がマスコミに流れた一件だった。おれが見たのは夕方のテレビニュース。いきなりチャンネルを替えたら、内気そうな少年がはにかんで飼い犬を抱く映像が映っていた。白いフォックステリア。少年はジーンズにハイネックの紺のセーターを着ている。誰だろうと思ってテロップを読むと、「リバティライン代表大浦秀光容疑者(26)の高校時代」とストレートに打たれていた。
まったくもてそうもない純朴な少年が、数年後には怪物みたいな代表になる。おれはときの流れの残酷さに、胸を衝かれた。もちろん、すべては大浦が自分で招いたことだ。だが、誰がこの少年から、こんな未来を想像できるだろうか。
◆
しのぶは正々堂々と法廷で、リバティラインの犯罪を証言した。まだ住まいは東長崎にあるようだが、バイト先は池袋から新宿に変わったという。こうした事件ではいつだって心ない傍観者がいて、すきを見せた被害者にも責めはあるなどと軽々しく口にするのだ。
しのぶは口の軽い店長を思い切りひっぱたいて、五差路の喫茶店をやめたらしい。今度の店は新宿駅南口の新しいカフェテリアで、しのぶの過去を知る人間はいないそうだ。結局、その後、しのぶとタイチがつきあうことはなかった。
おれはそれでよかったと思っている。タイチはしのぶのようなまじめな女の手に負える男ではないのだ。やつはおれといっしょにサンシャイン60階通りを歩いていても、いつだって五センチばかり宙を浮いているように見えた。
横に並んでいると女たちの視線がよくわかった。透明人間のようにおれをすどおりして、女たちの熱をおびた視線はすべてタイチに集まっていく。きっとこれが、このスカウトマンの栄光であり、呪いなのだろう。
タイチは今も、東口五差路に立っている。一番変わったのは、ファッションだ。クラシックロックのTシャツとジーンズの代わりに、やつは今落ち着いたダークスーツにネクタイをしている。おれに新しい名刺をわたすと、あのくしゃくしゃの笑顔を見せた。
「ぼくも事務所にはいったよ。もう風俗はやめた。ここの会社はちゃんとしたモデルクラブで、今度はスカウトした子をほんもののスターにするんだ。女の子にたべさせてもらうという点では、今までと変わらないけどさ。ぼくは女の子に声をかける以外にできることないから」
おれはなぜかしっくりと似あっているジャケットの肩をたたいた。
「原宿じゃなく池袋でスターの卵なんて見つかるのか」
タイチはガードレールに座ったまま、ケヤキ並木の空を見あげる。雲も、太陽も、空の遥か高みだった。風は冷たく澄んで、残暑の終わりを告げている。
「なんだ、マコトさん、知らないの。今、きれいな女の子はみんな池袋に集まってるんだよ。柴咲コウだって、優香だってスカウトされたのは、この街なんだ」
残念ながら、おれの目はきっと節穴なのだろう。池袋に二十年以上暮らして、そんな美人にはお目にかかったことがないのだから。おれたちはいつだって、探しているものだけしか見つけない。本格的な寒さがやってくるまえに、おれも本気でそう悪くない女の子でも探そうかと思った。
だって通りに立ち続けることなら、おれがスカウトマンに負けるわけがない。
きっとだいじょうぶ、いつかはおれの隕石が空を駆けてくる。
そうでも思わなきゃ、こんなバカな街で生きていけないよな。
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伝 説 の 星
あんたの知りあいにスターはいるかい?
昼のワイドショーなんかで、ありきたりなコメントを繰り返す芸能人じゃない。CMでおしゃれなライフスタイルを売ってる、本業がわからない薄っぺらなタレントでもない。ひとつの時代を自分の色に染めあげて、火の粉を吐きながら空の半分を横切る星。バカみたいに口を開けて見あげる地上の心に鮮やかな光りの軌跡だけ残すシューティングスターだ。そいつはでたらめに高熱で、でたらめにまぶしくて、燃え尽きるのもかまわず明日のない勢いで自分を削り、光りを放つ。
ことわざにもあるよな。輝くためには燃えなきゃならない(BURN TO SHINE、これ、ことわざじゃなかったっけ?)。そのための燃料は誰だって自分のなかから調達するしかないのだ。他人からの借りもので輝く銀紙の星なんて、メディアずれしたおれみたいな都市生活者には、すぐにネタばれしちまうからな。ただ問題なのは、ほんものの星はあまりにも短命だってこと。
おれがこの冬池袋の街で会ったのは、おれが生まれるまえに空を駆けたヒーローだった。二十五年たってとうに灰になっていたかと思ったら、やつは池袋大橋のわきの空き地でいきなりあたりの水分をすべて蒸気に変えるような熱と光りを放ったのだ。しぶといよな、あの世代のオヤジって。
おれがやつから学んだのは、いくつになっても無理してカッコをつけなきゃいけないってこと。そうでなきゃ客に夢は売れないし、カモをだますこともできない。それに最後の最後まで切り札をとっておく勝負のやりかたもだ。もっともおれの場合、二億円近い高い授業料はおれの知らないどこかの金融機関が払ってくれたのだけど。
新聞なんかを読むと、ちかごろのガキは善行でも悪行でも、あまりにストレートでふくみがなさすぎるよな。微妙な味わいとか、ちょっと皮肉なツイストに欠けるのだ。同じやばい橋をわたるなら、やつみたいなスタイルや意地の張りかたが、おおいに参考になるとおれは思う。原始的な車上荒らしやひったくりをいつまでもやってるようじゃ、悪ガキにだって未来がない。
やつは今も、二十五年まえのヒット曲をうたいながら、この地上のどこかを旅していることだろう。おれは南のリゾートから手紙を一通もらったが、その後のゆくえは知らない。知っていても人に教えることはないだろう。いつかほんとうに燃え尽きるそのときまで、やつがうまく逃げ切れるといいなと思うだけだ。
だって、流れ星に鉄格子は似あわないからな。
◆
東京からは四季がなくなって、三季になったというガキがいた。ヒートアイランドの街に冬はなくなったというのだ。今年の正月も池袋はコートのいらない陽気だった。西一番街の店先に並んだプラスチックのざるにリンゴやネーブルを積みながら、日ざしを背中に浴びる。小一時間もそうしていると身体が太陽電池にでもなったみたいで、すきま風の抜ける四畳半にあがっても暖房などまるでいらなかった。
元旦から西武が初売りをやってる以外、正月の街は静かなものだ。殺気だっているのは、福袋売り場くらい。ささやかな庶民の夢の争奪戦だ。事件もトラブルも、東京の冬空の雲のようにかけらを見つけるのさえむずかしかった。
うちの果物屋は二日から店を開けたのだが、例によってやる気のないのが見えみえだった。去年の暮れにしいれた商売ものをあいかわらず並べているだけなのだ。冬のフルーツは足の遅いものが主力で、イチゴがぶよぶよと白く傷んでいないか気をつけておけばいいくらい。ほこりをはたいて、越年ものを知らん顔で売り抜ける。気楽な商売。
だが、毎日店を開けてると、ときにはおかしなやつがやってくる。千客万来とはいえ、それが客商売のおもしろさで、苦痛でもある。
どんなにいかれたやつでも、断ることができないのだ。
◆
子ども用プールほどあるサンダーバードがゆっくりと西一番街へ曲がってきたとき、おれは店の奥から通りを見ていた。得意の哲学的省察というやつ。五〇年代アメ車特有の長い鼻先が顔をのぞかせてから、テールフィンがすっかりあらわれるまでに、オールディーズ一曲分くらいの時間がかかったような気がした。
ボディカラーはバターでも練りこんだような黄色がかった白。ぴかぴかに磨かれた豪勢なオープンカーだった。クロームのパーツには新品の輝きが伸びて、シートは赤の革張り。映画『グリース』のなかから抜けだしてきたようだった。周囲の空気から現実感を奪う不思議な力を感じさせるクルマだ。
そのTバードが、なぜかうちの店のまえでとまった。おれはホワイトサイドのタイヤなんて久々だったし、スポークホイールなんてほとんど初めての見物だった。口を開けて眺めていると、これまた非現実的な運転手がピンクのサングラス越しに声をかけてきた。
「この店に真島誠ってやつはいるかい」
おれの開いた口はふさがらなかった。ヘビ革のレザージャケットを着た中年男なんて池袋にはいない。それに初対面なのにどこかで見たことがあった気がしたからだ。男のとなりには、白い毛皮のコートにくるまれて、フィギュアみたいなスタイルの若い女がこちらを見つめている。ブリトニー・スピアーズのうしろで踊ってるダンサーみたい。ガムをくちゃくちゃ、目は半眼。そこから氷の柱のようなセクシービームを発射している。
「マコトはおれだけど、なんの用だ」
男が誰か思いだそうとしていると、店のわきについた階段からおふくろの叫び声がふってきた。
「神宮寺貴信じゃない……『涙のインターチェンジ』の」
どうりでどこかで見たことがあるはずだった。神宮寺貴信は七〇年代最後の年に一曲だけ百万枚を超えるヒットを飛ばし、それ以降はなんとか俳優として生き残っていた。役はたいていヤクザかヤクザみたいな刑事。あとはものまね番組で、お笑いタレントのうしろで歌の途中に階段をおりてくる本物さんの仕事だ。当然おれとはなんの接点もない。神宮寺はへらへらと笑って、おふくろにいった。
「おや、マコトくんのお姉さんですか。ちょっと話があるんですが、マコトくんをお借りしてよろしいでしょうか」
正月でババくさい和服姿のおふくろのどこがおれの姉なのだ。おふくろはさっさと階段をおりて、白いTバードの横に立った。
「もう神宮寺さんたら、マコトの母です。死んじまった父親もあたしも『涙のインター』は大好きで、ずいぶんお世話になりました」
なんの世話になったのかぜんぜんわからなかったが、おふくろはおれのほうを振りむいていう。
「店番はいいから、神宮寺さんのお力になってきな」
どう考えても、おれの仕事はおふくろから命じられてするようなものではなかったが、客のいない店先に縛られてるよりはずっとましだ。おれはうなずいて、通りにでた。神宮寺を見ると、やつはのれというようにあごの先を振った。
「2ドアだろ。どっちかがおりて、ドアを開けなきゃのれないよ」
白い毛皮の女は、まだガムをかみながらおれを見ていた。神宮寺はいった。
「おいおい、おまえ映画観たことないのか、こういうクルマのうしろにはサイドを飛び越えてのるもんだろうが。なんならボンネットでツイストを踊ってからでもいいぞ」
いかれてる。おれはボディに手をかけて、身体をななめに振ると、やわらかな赤い革のシートに着地した。相席はステッカーだらけの古いギターケースだ。おふくろが店先で声を張った。
「マコト、決まってるよ」
最悪だ。うちのおふくろは寄席で芸人に声をかけるのが得意なのだ。おれはシートをずるずると滑り落ち、Tバードのキャビンに隠れた。神宮寺にいう。
「頼むから、早くここを離脱してくれ」
コラムシフトのレバーを動かして、神宮寺はおふくろにいった。
「今度、池袋でうたうから見にきてよ、ベイビー」
サンダーバードはゆっくりと西一番街の敷石を転がりだした。ストライクゾーンの広い男。おれはロッド・スチュワートみたいにうしろ髪だけ長い神宮寺の後頭部をあきれて見つめていた。
◆
それにしても人目を集めるクルマだった。のってるだけでサルまわしのサルにでもなった気がしてくる。半世紀まえのTバードは常盤通りの風俗街を抜けて、JRの線路にかかる池袋大橋をわたった。清潔な冬空に清掃工場の白い六角形の煙突が、現代彫刻みたいに刺さってる。意味のない美しさだった。それともただ美しいというだけで、意味があるのだろうか。神宮寺は片腕をドアにかけて、骨董品をゆったりと流した。正面をむいたままやつはいう。
「池袋も変わったなあ。表面はどこもかしこも、新しくなってぴかぴかだ」
年寄りの素直な感想なのだろう。別に返事の必要はないようだった。
「おれのころは暴走族の走りでな、池袋エンペラーなんかがこの街を仕切っていた。どこもかしこもいたずら書きだらけだ。豊島区役所や警察署に書いたやつもいたなあ」
神宮寺はなつかしそうに線路の両脇にそびえるビルの渓谷を眺めている。おれのほうをちらりと振りむいた。
「なんでも最近はストリートギャングとかいうんだってな。今、この街のガキを動かせるのは、そいつらなんだろう」
ようやく話の流れが読めてきた。おれはこの街では王様へ近づくための数すくない代理人と思われている。つぎからは毎回賄賂をとってやろうかな。
「そうだ。今は池袋エンペラーじゃなくて、Gボーイズ」
神宮寺がうなずくと長いうしろ髪が揺れた。トウモロコシの穂のような黄色に近い金髪。
「Gボーイズか。名前は変わっても、やることはたいして変わらないんだろう」
おれは昔の暴走族のことは知らないが、きっとガキのやることなんて千年たっても変わらないのだろうと思った。クルマは陸橋の長いくだり坂をおりていた。後続車がこないことをミラーで確かめると、神宮寺は歩くほどの速度に落とす。
「あそこの空き地、見えるか」
おれは線路わきのビル街に落ちている日陰の土地を見た。コンクリートのかけらと雑草が少々。周囲は波型の金属パネルでかこまれている。かなりの広さがありそうだった。おれがうなずくと、やつはいった。
「二百坪近くある。おれはあそこにロックンロールの博物館をつくるつもりだ。カレーやラーメンにも博物館があるんだから、ロックの博物館があってもおかしくないよな。マコト、あんたも音楽は好きだろ」
いい音楽なら、ジャンルに関係なくおれは大好きだ。いつもの癖でつつましくこたえておいた。
「嫌いじゃない」
池袋大橋をおりるとTバードは右折して、先ほどの空き地にむかった。神宮寺は片手のてのひらで細いハンドルをまわしている。
「だけどこの日本じゃあ、音楽はすっかり子どものものになっちまった。十代のガキのありあまる性欲の代用品として、音楽みたいに素晴らしいものが消費されていく。見てみろ、テレビの歌番組は、大人にあやつられて人形のように動く子どもの天国だ。歌をうたうやつや歌をつくるやつより、プロデューサーのほうが幅をきかすなんて、いかれた話だ」
◆
白いオープンカーは空き地のまえでとまった。神宮寺がクルマをおりると、毛皮の女もあとに続いた。ひとつだけ歯抜けになったフェンスの切れ目からなかにはいっていく。おれも棒のようにまっすぐな足をした女についていった。
神宮寺はどこかの建設会社の名前がはいった資材ケースに腰をおろした。女はそのとなりに挑発的に胸をそらし立っている。手足は細いのに胸だけハンドボールくらいの丸さだった。おれはいった。
「あんたの名前は。どうせ、いつもいっしょにいるんだろ」
女はおれをにらみつけた。神宮寺はいう。
「まだ紹介してなかったかな。彼女はミレイ。おれのバックコーラスをやってくれている。ルックスだけじゃなく、すごい歌をうたうんだぞ」
ミレイはほんのすこしだけ笑い、すぐに元の女処刑人の顔にもどった。おれはフェンス沿いにぶらぶらと歩きながらいった。
「ここにロックミュージアムをつくるのはわかった。だけど、なぜそいつにGボーイズの手が必要なんだ」
神宮寺はミレイの腰に腕をまわした。コンクリートの破片の散らばる廃墟みたいな空き地に、盛りをすぎたロックンローラーと街娼のような格好をした女はぴたりとはまっていた。見あげると周囲のビルに三方を切り取られた空が、ポスターのように平板に広がっている。
「バブルからこっち、銀行もなかなか融資条件が厳しくてな。最近はきちんと利益があがる事業計画をださなきゃ、金を貸してはくれない。もちろんおれたちにはそれなりのプランはあるが、集客力があるってところをデモしておけば、金主にもつよく印象をつけられる。決して損にはならないんだ」
神宮寺は立ちあがると、足元の砂利を蹴った。先に金属のキャップがついたウエスタンブーツ。パンツはくすんだピンクのコーデュロイだ。
「この土地を深く掘りさげて、地下にはライヴハウスをつくる。一階はロックカフェで、二階はCDショップ、三階はスタジオだ。ガキには学割で最新の設備を貸してやるつもりだ。そのうえにはおれたちのインディーズレーベルの事務所をおいて、最上階はおれの住まいになる。ほんもののロックだけで、ビルを一本埋め尽くすんだ。腕がよくても時流をはずれたバンドを、どんどんステージにのせてやる。そうやって日本の音楽シーンをすこしずつでいいから変えていきたい」
おれは湿った空き地にそんな建物ができたところを想像してみた。陸橋わきに新名所が生まれるのだ。人の流れが変わることだろう。P'パルコのタワーレコードをのぞいてから、新しいロック博物館へ。池袋から音楽文化が発信されていく。
「そいつは悪くないかもしれないな」
「うまくいくなら、こんなにいい話はないさ。おれの最後の仕事だ。なんとしても成功させなきゃならない。もうこっちはたっぷり金をつぎこんでるからな」
おれはかなりの厚さに泥汚れがついたフェンスを見た。
「この土地はずいぶん昔から空き地のままだけど、あんたのものなのか」
神宮寺は肩をすくめた。ヘビ革のジャケットのいい点は、こんなジェスチャーが不自然に見えないところかもしれない。おれも三十万ばかり用意して、一着買ってみようかな。
「いいや。地主は別にいる。ちいさな不動産会社なんだが、今度の計画は、そことおれのジョイントベンチャーなんだ」
別にあやしいところはないようだった。
「それであんたのデモはいつやるんだ」
「つぎの土曜日」
おれは口笛を吹いた。それならあと三日しかない。
「何人くらい人を集める必要がある」
神宮寺も目で空き地の広さを測っているようだった。
「このスペースがさびしくならない程度でいいだろう。おれのほうでも五、六十人は声をかけておくが、Gボーイズは二百人も用意してもらえば十分だろう」
「警察に許可は取るのか」
神宮寺はにやりと笑った。ミレイはセクシービームを軽蔑モードに切り替えて、おれを掃射する。
「そんなもの取るわけがないだろう。二十分くらいで四、五曲決めて、あとはトンズラだぞ。ヒットエンドランみたいな即席ギグだ。もちろん銀行の関係者はきちんと招待しておくけどな」
なるほど、そういうことか。それならGボーイズにとっても負担のすくない仕事だろう。コンサート場面のエキストラみたいなものだ。
「じゃあ、あとはギャラの問題だけだな。あんたはいくらだせるんだ」
神宮寺はあっけらかんと笑った。
「今は金がきつくてな。あんたへの仲介料もこみで百万でどうだ」
いつものようにおれはいった。
「商売でやってるわけじゃない。おれには金はいらないよ。あんたに金がないなら、なるべく負けるように、Gボーイズのキングにはいっておく」
神宮寺はそこで初めておれをきちんと見たようだった。目と目があうと、感情の読めない表情でいった。
「金はいらないか……そういうやつがほんとは一番あぶないんだよな。でも恩に着るよ。マコトにはなにか別な礼を考えておく。ギグは土曜の正午からだ、よろしくな」
話はすんだようだった。おれたちは誰もいない空き地で携帯電話の番号を交換して、フェンスの切れ目から外にでた。
いきなり通行人が衝突を避けながらいきかう池袋の歩道になる。なんだか別世界に転移したようだった。フェンス一枚むこうは、まだ実現していないロックンロールのドリームランドだ。
◆
店まで送るという神宮寺の誘いを断って、おれは東口のネオン街を歩いた。正月の昼間だって、ヘルスやのぞき部屋やセリクラのネオンは点灯しっ放しだ。縁起をかつぐ風俗店のまえには立派な門松がでて、打ち水がしてあったりする。池袋の爽やかな正月の光景ってやつ。
おれはウイロードにむかってぶらぶら歩きながら携帯を抜いた。タカシの番号は指が覚えているので、画面を見ずに選択した。取りつぎがでると、マコトだといった。王様の声はあたたかな冬でさえ、氷柱《つらら》のようにとがっている。
「なんだ、マコト」
おれは精いっぱいのよろこびをこめていった。
「新年明けましておめでとうございます」
ひと言でガチャ切りされた。腹が立つ。即座にリダイアルした。タカシはまるで反省していない声でいう。
「用件だけ話せと、いつもいっている。今回はなんだ」
冗談のわからない王様。おれはため息をついていった。
「タカシ、おまえ、神宮寺貴信って歌手兼俳優、知ってるか。『涙のインターチェンジ』ってヒット曲があるんだけど」
「知らない」
おれは誰でも知ってるサビの部分をうたおうかと思ったが、またガチャ切りされたら傷つくからやめておいた。
「まあ、いいや。その男がつぎの土曜日、池袋大橋のわきの空き地でギグをやる。昼の十二時から二十分くらいだそうだ。神宮寺はその空き地にロックの博物館を建てるつもりらしい。金を借りる銀行の男たちに、集客力があるところを見せておきたいらしい」
Gボーイズの王様の声はつまらなそうだった。
「なんだ。また平和な話だな。去年の秋からこっち、なんの動きもないんだ。たまにはもっとスリルのある事件でももってこい。で、何人くらい用意すればいいんだ」
携帯を片手に歩いているおれに、ミニスカートの女が声をかけてきた。最近増えてきたコリアンかチャイニーズの店の呼びこみだ。
「マッサジどう、気もちいいマッサジ、あるよ」
片手を振って、女をむこうにやった。笑顔は鮮やかなほどの速度でひっこめられる。
「二百人」
「ギャラは」
おれは神宮寺のくえない面《つら》を思いだした。すくなくともロック博物館にかけるやつの気もちはまっとうなようだ。
「やつには金があまりないそうだ。八十万がぎりぎりだ」
さして関心もなさそうにタカシはいう。
「そうか」
「土曜日の午後に拘束三十分で、ひとりあたり四千円になる。そう悪くはない話だろう」
タカシはどうでもよさそうだった。確かにこいつは王様に判断をあおぐような重要案件ではないのかもしれない。
「わかった。ひまだから、おれも顔をだしてみる。じゃあな」
商談成立。つぎからは絶対、おれも仲介料をとることにしよう。なにせ世のなかはコネとアレンジがものをいう。プロデューサーの時代だからな。
◆
土曜日はいうまでもなく快晴だった。というより東京では十二月のなかばから雨はまったく降っていないのだ。おれが特別に天気のことを書かないときは、すべて晴れと思ってもらえば間違いない。
うちの果物屋は店番がいないので、開店を遅らせることになった。いつもは十一時くらいに開けるのだが、おれのおふくろも神宮寺のギグを見にいきたがったのだ。めかしこんだおふくろをおいてきぼりにして、おれは三十分まえに家をでて、歩いて東口の空き地にむかった。
前回きたときより、フェンスがおおきく開かれていた。空き地の奥には、鉄パイプと足場板で即席のステージが組まれている。すでに予定の半数以上のガキが集まっていた。腰ばきしたジーンズに、ゴリラが着るようなサイズのスエットシャツやフィールドジャケット。女はふたサイズはちいさなトレーニングスーツで、身体の凹凸を強調している。なかにはこの寒空のした上半身はパッドいりのブラだけなんてやつもいる。レゲエクラブとかん違いしているのだろうか。あちこちで親指を立てた握手をしているGボーイズ&Gガールズのなかに、アタッシェをもった紺のスーツの集団がちいさくなっていた。
おれはステージの裏手にまわった。腹のたるんだリーゼントの巨漢が立ちふさがる。むさくるしいから、男性には素肌にレザーはやめてほしかった。おれはボディガードの胸毛にむかっていった。
「真島マコトだ。神宮寺さんに話があるんだが」
「おう、マコト。よくきたな」
神宮寺はあのヘビ革のジャケット姿だった。肩から白木のフェンダー・テレキャスターをさげている。かなりの厚みのある封筒をおれのほうにさしだした。受け取ってジーンズのまえポケットに突っこむ。
「なかは新聞紙かもしれないぞ。中身を確かめないのか」
おれは黙ってうなずいた。人を信じるときには、信じるしかない。どれほど疑ったところで、人の心の底なんて読めるはずがないのだ。神宮寺はまぶしいものでも見るように、おれに目を細めた。
「おれも昔は、おまえみたいなところがあったよ。Gボーイズの王様にもよろしくな。今日のギグを楽しんでいってくれ」
神宮寺はプラグをつないでいないギターでコードを鳴らした。シャランと澄んだ風鈴のような音がする。ネックのつけ根のあたりがわき腹にかすっただけで、おおげさに顔をしかめた。
「イタタ……」
おれは不思議に思い、きいてみた。
「どうしたんだ。神宮寺さん、どこか痛むのか」
やつはわき腹を押さえて、顔をあげた。へへっと笑って見せる。さすがにチャーミングな笑顔だった。こいつであの若いバックシンガーを落としたのかもしれない。
「いや、別に。おれは三十年もうたっているが、いまだにステージのまえには緊張して腹が痛くなったりするんだ。じゃあな、おふくろさんにもよろしく」
◆
おれはステージのまんまえに場所を取った。椅子なんてないから、冬空のしたオールスタンディングのミニコンサートだ。右にはタカシ、左には最悪なことにおふくろがいた。おれのボマージャケットを羽織り、どこからひっぱりだしてきたのか、ぴちぴちにタイトなスリムジーンズをはいている。足元は赤いラメいりのサンダルだった。タカシはおれの耳元でいった。
「おまえのおふくろさん、エンペラーのレディースだったのか」
おれは王に負けない威厳をもってこたえた。
「今度、おふくろについてなにか感想をいったら、おまえでも殺すぞ、タカシ」
タカシは笑ってなにもこたえなかった。誰にだって秘密にしておきたい恥部はあるからな。そのときドラムセットとアンプだけがおかれたステージに男たちが駆けあがった。ギターが二本に、ベースとドラムのシンプルなカルテットだ。挨拶もなにもなく、ドラマーがスティックを打ちあわせてカウントを四つ刻み、いきなり『涙のインターチェンジ』のイントロが始まった。おふくろがおれの耳元で叫んでいる。
「タカさーん」
おれはうんざりして、周囲を見まわした。誰でもが知っているヒット曲には、特別な力があるものだ。静かだった客がうねるように動きだし、三百人近いガキがまえかがみになっていく。すぐに手拍子が始まった。
神宮寺はざらりと耳に残る声でうたい始めた。もう何千回となくうたっている歌なのだろう。だいぶゆとりがある。だが、それでも一生に一曲できるかどうかという音楽なのは十分に伝わってくる。なんというか、すべてがきちんとはまっているのだ。歌詞はこんな調子。
別れを決めたカップルがドライブをしている。思い出の高速道路は真夜中の空に続いていく。つぎのインターチェンジがきたら、高速をおりて街に帰ろう。そこで、さよならだ。そう決心したのに、男も女もなぜかレーンをはずれることができない。いつまでもクルマは夜を走り続け、ふたりはシフトレバーのうえで重ねた手を離せずにいる。そこでサビになる。涙のインターチェンジ。誰もおりられないインターチェンジ。
若いリードギタリストのソロが鮮やかに決まった。おれはとなりのおふくろを見た。涙ぐんですぐそばでうたう神宮寺に手を振っている。おれが生まれるまえにおやじとおふくろは、この曲でどんな思い出をつくったのだろうか。
音楽には時間と場所を瞬時に超える魔法の力がある。おれは半分あきれて、ステージのヘビ革ジャケットを眺めていた。
◆
『涙のインターチェンジ』が終わると、休む間もなくつぎの曲が始まった。今度は明るい感じのメジャーなポップロック。おれはエイトビートで身体を揺すりながら、即席コンサート会場を見わたした。
客の種類はふたつだ。黒人系のストリートファッションのGボーイズ&Gガールズと神宮寺が集めたフィフティーズファッションのロックンローラー。ステージのまえに固まっている集団を離れて、スーツ姿の男たちがいる。こちらは客というより、仕事の雰囲気だった。銀行員は妙におとなしい灰色や紺のふたつボタンのスーツですぐにわかった。
そのほかに黒いスーツに原色のシャツやネクタイをあわせた水っぽい団体がいる。神宮寺がいっていたこの空き地のもち主の不動産会社関係だろうか。だが、そこにいるのは、それだけではなかった。ステージの裏では、さっきのボディガードとにらみあうように数人の男たちが、音楽にはまったく心を動かされない様子で立っていた。
おれはタカシの耳元でいった。
「あそこのやつら、知ってるか」
タカシはステージから目を離さずに返事をする。
「見覚えがある。重田のチンピラじゃないか」
重田興業は池袋に百以上はある中小組織のひとつだ。東口の風俗街にいくつか利権をもっていて、この不景気でもなんとかもちこたえているようだった。最近はあっちの世界も不況のどん詰まりで、なんとかしのいでいくために構成員が空き巣や強盗なんかに手を染めるという。稼業違いもいいところ。
重田興業のしたっ端が、なぜ神宮寺のギグに顔をだしているのか。別にロックンロールなんて高尚な趣味があるようには見えなかった。三人の男たちは獲物を教えられた猟犬のように、ステージをいききする神宮寺の背中をにらみつけていたのだ。
◆
二曲目が終わるとようやくひと息ついて、神宮寺はマイクをにぎった。
「今日はこんなに集まってくれて、ありがとな。ここにロックミュージアムをつくるおれたちの計画は、順調に動いてる。おまえら、うしろを見てみろ」
ガキどもが振りむいた先には、どこかの銀行のスーツ男がかたまっていた。
「あそこにいるのが、建設資金を融資してくれる銀行の担当者。おまえたちと同じでロックが好きないかれた融資係だ。拍手」
こんなときにはどんなにお堅い銀行員でも、ほんのすこし頬を赤くするものだとおれにはわかった。神宮寺はギターを鳴らして、ステージに注意を集めた。
「つぎで最後だ。久々の新曲、きいてくれ。タイトルは『おれはいくよ』」
重いレゲエのバックビートが刻まれてその歌が始まった。内容はほとんどノンフィクションだった。とうにピークをすぎて、くだり坂をしのいでいく中年男が主人公だ。生きることのスリルが消えうせたあとの人生についての歌である。二十五年の不遇をなんとか生き延びて、それでもまだ見ぬ明日にむかって、おれはいくよと神宮寺はうたっていた。
なにもかも捨てて、おれはいくよ。空と海の境のないところに、おれはいくよ。液晶画面のないところに、おれはいくよ。子どもは子どもで、男は男で、女は女である場所に、おれはいくよ。
六〇年代フォークのようなレゲエバラードを、神宮寺は全力でうたっていた。それはきく者に自分自身の未来を考えさせずにはおかない歌だった。おれは横をむいて、タカシを見た。この池袋のギャングの王様の未来になにがあるんだろうか。果物屋の店番兼無名ライターのおれには、どんな将来が待っているんだろう。目があうと、タカシはゆっくりとおれにうなずき返した。
どちらにしても、神宮寺のようにまえにすすむ意思がある限り、そいつは決して悪くはないだろう。そう思わせてくれる歌だった。おれたちは変わらざるをえないし、嫌でも明日の夜明けはきてしまう。だが、どんな状況よりもそれを積極的に受けいれようとする人の心のほうが強いはずだ。
おれは百万枚を売ったという『涙のインターチェンジ』よりも、新曲のほうが断然気にいった。
◆
新曲に全精力を注いだ神宮寺は、アンコールでまた『涙のインターチェンジ』をやった。今度はアコースティックバージョンで、しっとりした歌と演奏だった。メインディッシュのあとの軽いデザートみたいな口あたり。最後にロックミュージアム万歳と叫んで、神宮寺はステージからきたときと同じ速度で駆けおりていった。
観客は散らばり始めている。タカシはおれを見ていった。
「なかなかのもんじゃないか。特に新曲」
おれは神宮寺からもらった封筒をタカシに手わたした。
「今日のギャラだ。確かにあれはいい曲だな」
タカシは中身も確かめずにタキシードジャケットの内ポケットに封筒を滑らせた。こいつがほんもののヘルムート・ラングならおれの月収より高いはずだ。
「ついでだから、このあとでGボーイズの集会をやる。マコト、おまえはどうする」
おれはステージ裏に消えた神宮寺をまだ視線で探していた。
「悪いけど、パスする。ちょっと気になることがあってな」
タカシはあの毛皮の女に負けないほど冷たい視線でおれを見た。
「あまり深いりするなよ。おまえが頼まれた仕事は、もう十分に果たした。なんにでも首をつっこむのは悪い癖だぞ、マコト」
王様はそういうと、近くに控えていた家臣団のほうへ歩いていった。だが、あの歌をきいたあとでは、おれは神宮寺を放ってはおけなくなっていたのだ。
何度新年を迎えても、おせっかいもいいところのおれ。それともこんな余計な心配が、実は生きてることのスリルなのだろうか。
◆
タカシと別れて、ステージの裏にむかった。いつの間にか重田興業の男たちは消えている。神宮寺は真っ赤なタオルで汗をぬぐいながらいった。
「おう、マコト、どうだった」
「よかったよ」
神宮寺は立ちあがると、おおきく伸びをした。
「ようやく身体があったまったところなんだが、警察のやつらがくると面倒だ。おれたちもさっさといこう」
ボディガードとバックコーラスの女が神宮寺の両わきを固めた。フェンスの切れ目にむかって、雑草の空き地を歩いていく。おれは神宮寺の疲れた背中にいった。
「どこにいくんだ」
やつは振りむかずにいう。
「今日の礼をおまえにもしなくちゃいかんだろう。ちょいとつきあえよ」
◆
おれたち四人がいったのは、歩いてほんの数分の池袋西武だった。土曜日でもまだ時間が早いから、デパートのなかはそれほどの混雑ではなかった。エスカレーターをのりついで、五階まであがる。冬のセールの最中なのだが、神宮寺はバーゲンには目もくれずに一番南の高級店ゾーンにむかった。
まえをとおりすぎたことしかないエルメネジルド・ゼニアのブティックにはいっていく。壁のハンガーを埋めるスーツを無視して、店の奥にある姿見のまえに立った。店員は神宮寺のことを知っているようだった。にこやかに挨拶している。
おれの格好は、例によってウエストが四インチおおきなだぶだぶのジーンズにコンバースのバスケットシューズ。ノンブランドの紺のTシャツに、ジーンズメイトのバーゲンで買ったダウンジャケットを重ねている。総額でも一万円に届くかどうかというデフレ上等のひとそろいだった。
ブティックの奥から神宮寺が叫んだ。
「おいマコト、採寸に時間がかかるんだ。早くこい」
おれはバッシュの底に泥がついていないか気にしながら、やわらかな絨毯を踏んで、初めての店にはいった。
◆
神宮寺のいうとおり採寸に三十分近くかかった。上着を脱いで、シャツ姿になった店員が、おれの身体をメジャーで測り、つぎつぎとクリップボードに記入していく。ネック、バスト、ウエスト、袖丈、股下。いざとなると人間の身体というのはいくらでも測る部位があるのだ。
神宮寺はそのあいだにやにや笑いながら、革のソファに座っていた。ときどき緊張で無表情になったおれに話しかけてくる。
「スーツをあつらえるのは初めてか」
おれがうなずくと、やつは鏡越しにいった。
「おれはおまえの書いたコラムも読んだ。池袋の裏の仕事の噂も、ずいぶん調べあげてる。おまえはなかなか書けるし、いつかもっとでかい仕事をするようになるだろう。きちんとしたスーツのひとつくらい用意しておいたほうがいい」
店員がおれの肩に生地のロールをあてている。カシミアかシルクみたいな手ざわりのイタリア製のスーツ地だ。
「そんなもんかな」
やつは紺地にグレイのチョークストライプがはいった生地に首を横に振った。
「ああ、そうだ。おまえはまだ世のなかをあまり知らないだろう。だがな、この世界にいる半分の人間はおまえの中身じゃなくて、おまえの外見しか見ない。そのくらいのスーツで神経質になることなんてないぞ。おまえの中身は、そんなスーツよりもっと価値があるんだからな」
店員が新たな生地を取りにいってしまうと、おれは声を低くして神宮寺にいった。
「ところで、この店でスーツをオーダーするといくらぐらいかかるんだ」
神宮寺はソファで足を組み替えて笑った。ミレイも穏やかにおれを見ている。素肌に黒いレザージャケットを着たボディガードは、ネクタイとかスーツが大嫌いなようで、怖い顔をして美術書のようにシャツが飾られた棚をにらんでいた。神宮寺は声のボリュームをさげることなくいった。
「どうせ、おれが払うんだから気にするな。生地のグレードとデザインにもよるが、まあ三十万くらいじゃないか」
しかたないから半分は自分でだそうと思っていたおれの気がくじけた。ただのスーツに月収をいれるわけにはいかない。おれの肩が落ちたのが、やつにもわかったらしい。
「おれはマコトの倍も生きてきたんだぞ。金のことなど気にするな。いいか、もしなにか借りができたと思うなら、おまえが年をとったとき、おれにじゃなく別な若いやつに返してやれ。いいな」
今度店員がうやうやしくささげもってきたのは、なんの変哲もないミッドナイトブルーの生地だった。スーパー150とかなんとかいっていたが、おれにはウールのよしあしを見る目なんてない。神宮寺はうなずいて店員にいった。
「それでいい」
意味のわからない言葉でスーツの細部を注文すると、神宮寺は金色のカードで代金を払った。おれは四週間後の日づけがはいった受取証をもらった。やつのいうとおりスーツをオーダーするのは、けっこうな重労働だった。おれはダットサンから三百キロ分のスイカをおろしたときよりぐったり疲れて、手ぶらで店をでた。
◆
西一番街にもどって、うちの果物屋を開けた。いつもならクラシックがかかっている店先のラジカセには、神宮寺がリーダーだったバンドのCDがエンドレスで流れた。その日の午後だけでも『涙のインターチェンジ』を百回はきいたと思う。
それより閉口したのが、うちのおふくろである。なんとその日はスリムジーンズに赤いサンダルで一日中店にでていたのだ。いいかげんおれのほうが恥ずかしくなる。
店番を交代すると、おれはCDを取り替えた。ひとりのときは選曲の権利はおれのものだ。その日二階の四畳半からもってきたのは、グスタフ・ホルストの『惑星』だった。昔日曜夜の映画劇場でエンディングテーマにつかわれていたから、組曲のひとつの木星ばかり有名だが、ほかにもけっこういい曲がある。翼のあるメッセンジャーという副題のついた水星とか、女声コーラスのはいった神秘的な海王星とか。
そのときおれがききたかったのは土星だった。サブタイトルは老年をもたらすもの。おれが神宮寺の年になったとき、どうなっていたいのか、真剣に考えたかったのだ。やつのいうようにおれはもっと「でかい仕事」をしているのだろうか。二十年たってもあいかわらず、つまらない池袋のもめごとをさばきながら、メロンを売ってるだけじゃないのか。
そんなことを考えながら、すぎていく一月の晴れた午後は、しびれるように長い。
◆
その夜は終電間際まで店を開けていた。正月はうちみたいな半分みやげもの屋に近い店にはいい商売になるのだ。真夜中すぎにおふくろのあとに風呂にはいろうとしていたら、携帯が鳴った。自然に不機嫌な声になる。
「こんな時間に誰だよ」
きき覚えのない女の声がした。
「わたし、ミレイ」
神宮寺のバックコーラスの女だった。瞬時に頭のなかに白い毛皮とマイクロミニから伸びる足が浮かぶ。急にていねいになるのだから、男ってだらしないよな。
「明日じゃすまない話なのかな」
「ごめんなさい。でも、時間がないの」
外の通りを救急車が近づいてくる音がした。ミレイの携帯からも同じサイレンがきこえる。
「今、どこにいるんだ」
「マコトくんのお店のまえ」
おれはあわてて四畳半の窓を開いた。したを見るとジーンズにひざまであるダウンコートを着たミレイが手を振っていた。おれは携帯を耳から離していった。
「すぐにおりるから、待っていてくれ」
◆
おれたちがいったのはロマンス通りにある二十四時間営業の喫茶店だった。この店のウエイターの仕事は、ものすごくまずいコーヒーを運ぶことと眠りこんだ客を起こしてまわること。それをひと晩中やるのだからたいへんだ。
タバコであちこち穴を空けられたビニール製のソファに座り、おれはちいさなテーブル越しにミレイにいった。
「神宮寺さんは、いったいどんなトラブルにはまってるんだ」
ステージ用の化粧を落としたミレイは、どちらかというと童顔だった。おれはパールブルーのアイシャドウより、素のままの女の目のほうが好きだ。
「どうして、わかるの」
筆洗いのバケツの水のようなコーヒーをひと口のんだ。口をつけずにさげられるのが、なんだか嫌だったのだ。
「話がうますぎる。それに今日のギグに池袋のちいさな暴力団のチンピラが顔をだしていた。ギターがふれただけで、わき腹を押さえていたしな。なにをきいても驚かないから、全部話してくれ。おれはやつらと違って、神宮寺さんのサイドにつくよ」
ミレイはじっとおれの目を見て、なにかを計っているようだった。おれの信用度はいつだって、女たちからはあまり高くない。何度か深呼吸して、ゆっくりと口を開いた。
「タカさんはもう追い詰められてるんだ。ロックスターの意地を張って、実像以上の生活を続けて、あちこちに借金を重ねていた。それを一本にまとめたのが重田興業だった。あの組織はずっとまえから、東口の空き地に目をつけていたみたい」
おれには意味がわからなかった。借金を肩代わりして、ロック博物館の事業計画の看板に据える。それだけならただの仕事だろう。そこで話のポイントに気がついた。
「あの土地は、ほんとうは誰のものなんだ」
ミレイはコーヒーをのむと顔をしかめた。
「誰のものでもない。バブルがはじけたあと、土地の権利はめちゃくちゃになって、宙ぶらりんのまま放りだされているの。マコトくん、地面師って知ってる」
知らないといった。風水で家を建てる方角でも見るのだろうか。玄関に黄色いものをおきなさい、金運がよくなります。アホらしい。
「土地バブルが終わって、あまりはやらなくなったから、もう最近はきかない言葉だよね。不動産詐欺師のことなんだ。他人の土地の名義を書き換えて、偽の登記簿謄本をつくる。それを銀行にもちこんで、不動産を担保に銀行からお金を借りる。あとはお金をもって、どこかに消えておしまい。もちろんほんとうの地主は、ぜんぜんそんな話は知らない」
おれは仮設ステージのうえでぎらぎらと光っていた神宮寺の顔を思いだした。あの陶酔した表情。
「でも、ロックミュージアムの話は、とても嘘にはきこえなかった」
ミレイは淋しそうにうなずいた。
「それはそうだよ。だってあれは、もう十年以上もあたためていたタカさんの夢だもの。酔っ払うといつもいっていたよ。日本のロックはつまらん。おれがシーンを変えるんだって」
重田興業は神宮寺の夢につけこんで、見事な事業計画をでっちあげたのだろう。銀行員もにこにことうなずいてステージを見ていた。
「時間がないって、どういう意味なんだ」
ミレイはそこでじっとしていられなくなったようだった。狭いボックス席で上半身を左右に揺らした。肩の動きに半テンポ遅れて、胸の先が動いた。
「休み明けの月曜日には、本契約なの。それがすんだら、タカさんも不動産詐欺の片棒をかついだことになってしまう。そんなことになったら、二度とステージでうたえなくなっちゃうよ」
ミレイは神宮寺を愛してるようだった。歌手同士の恋愛だから、相手が犯罪者になることより、うたう場を奪われることのほうが重大なのかもしれない。おれの手をつかんでいった。
「あんなにすごい歌をうたえる人が、ただの空き地のためにうたえなくなるんだよ。タカさんの才能は銀行が貸してくれるしみったれた金なんかじゃ計れない価値がある。マコトくん、どうしたらいいの。わたしにはあの人のうしろでうたうこと以外なにもしてあげられない」
最後のほうは悲鳴のようだった。薄暗い深夜喫茶でおれの心に火がついた。いいだろう、スーツを仕立ててもらった借りもある。おふくろだって、大ファンのようだ。そしてなによりおれ自身が、あのくえないオヤジのことが妙に気にいっていたのだ。ミレイの目を見ていった。
「わかった。できる限りのことはする。だけど、神宮寺さんの本心を確かめておきたい。明日おれと会うように伝えてくれるか。この街でなら、おれもあの人の助けになれると思う」
ミレイは涙目で何度もうなずいた。
「わたしはどうすればいいの」
おれは伝票を取ると立ちあがった。
「あんたはもう帰って寝てくれ。おれはこれから会っておきたいやつがいる」
ミレイは腕時計を見た。細かなダイヤの飾りがついたピンクダイヤルのオメガだ。これも神宮寺にプレゼントされたものだろうか。時刻はちょうど午前一時。
「こんな時間に会う人がいるんだ」
自分がいきなりうちの店にきたことも忘れてミレイはいった。夜中の一時ならまだやつの営業時間は二時間は残っているだろう。なにせ池袋一のワーカホリックだからな。
◆
池袋西口のタクシーのり場でミレイと別れて、深夜のウイロードをくぐった。トランクのふたを開けてバッタもののロレックスを売っている外国人カップル、おそろしくへぼい歌をうたってるシンガー、出口のわきにあるゲームセンターの階段に立ってバッハの無伴奏を弾いているバイオリニスト。夜の池袋は、昼の池袋よりずっとカラフルだった。
おれは三越まえで信号をわたり、携帯を開いた。やつの番号もおれは画面を見ずに選ぶことができる。
「マコトだ。今から仕事を頼みにいってもいいか」
ゼロワンはいつものガス漏れみたいな声でいう。
「今日はひまだったから、もう帰ろうと思ってた。おまえの仕事ならギャラは安そうだが、顔をだしてみろ。そういえば、ウエイトレス以外では、マコトが今日初めて口をきいた人間だな」
不思議そうにやつはいった。おれもときに変わり者といわれるが、池袋の正真正銘の変わり者といえば、北東京一のハッカー・ゼロワンだろう。やつが詳しいのは、コンピュータだけじゃない。ハッカーという人種は、詐欺や公文書偽造の専門家でもある。おれは地面師の仕事について、もうすこし詳しく知りたかった。
ゼロワンにすぐにいくといって、おれは三越裏のコンビニにはいった。なにかみやげをもっていったほうがいいと思ったのだ。やつはデニーズのメニューにないジャンクフードが大好物だ。
◆
さすがに土曜日の夜で、夜中の一時半近くでもファミレスのテーブルは半分以上埋まっていた。ゼロワンは電波状態のいい窓際のボックス席で、テーブルにモデムカードをさしたノートパソコンを二台開いて座っていた。窓のむこうで虫くいに明かりを残したサンシャイン60が、夜空の半分を豪華に埋めている。
ゼロワンはいつもの格好だった。黒いパーカにブラックジーンズ。スキンヘッドの頭には、チタンのインプラントが鋭角的にふた筋。修道僧のようなやせこけた顔が、ジャガバター味のポテトチップスを見ると、うれしそうに歪んだ。きっと笑っているのだろう。そうでなければ液晶画面の見すぎで、顔全体にチック症状がでたのかもしれない。おれはハッカーの痛ましい顔から視線をそらせていった。
「あんた、地面師って知ってるか」
コーヒーでポテチを流しこんでやつはいう。
「ああ。不動産詐欺だろ。なんだ今回の依頼は登記簿の書き換えか」
どうやらおれ以外には、全国的にポピュラーな知識のようだった。
「登記簿の書き換えって、どうやるんだ」
ゼロワンはパソコンを見てから、おれを見た。信じられないことをいう。
「おまえはバカか。そのためにきたんだろう」
違うといった。そこまでは考えていなかったのだ。
「土地の登記簿って、パソコンで簡単に書き換えられるのか」
ゼロワンはうなずいた。
「ああ、元のデータがデジタル化されてればな。東京じゃあ、ほとんどがデジタルになってる。昔みたいにバインダーから抜いて、和文タイプで偽造して、また元にもどすなんて面倒な手は必要なくなったんだ」
そういうと今度はうれしそうにゼロワンは笑った。きっとくいものより、コンピュータのほうが好きなのだろう。
「そのパソコンにはこのあたりの地図もはいってるよな」
ガラス球のような目でおれを見て、やつの右手がキーボードのうえを走った。左手はポテトチップをたべている。キーに油をつけたくないようだ。
「だしたよ」
液晶画面を半回転させる。新型パソコンはこんなときに便利だ。
「池袋大橋のわきにある空き地があるよな。あそこの正確な住所が知りたいんだが」
ゼロワンがハードディスクにいれているのは、宅配便のドライバーがつかうような詳細な地図だった。黒いフードをかぶって、やつが読みあげた。
「東池袋1─45─6」
「簡単に読めるなら、その土地の謄本を見たい」
ゼロワンは画面を自分のほうにもどした。
「法務局のコンピュータにはトラップが仕掛けてあるが、ここからは仕事になる。いいのか」
おれは黙ってうなずいた。あのスーツの代金くらいのギャラは覚悟していたのだ。
「わかった。書き換えでなく、呼びだすだけなら、安くしておく」
しばらくして十五インチの液晶画面になんでもない書類が浮かんだ。四角い表の左うえに先ほどの東池袋の住所が、右うえには全部事項証明書(土地)とある。ゼロワンがかじりかけのポテトチップの先で表の二段目をさしていった。
「この甲区の所有格に関する事項ってところを書き換えるわけだ。この証明書では、ミレニアム都市開発となってるな」
「そんなことをしてほんもののもち主にばれないのか」
ゼロワンはポテチを口に放りこんだ。
「ああ。だから地面師は長いあいだ放りっぱなしになってる土地や権利がめちゃくちゃになってる土地を探すのさ。融資の審査なんて、何カ月もかかるもんじゃないからな。地主が気づくころには、さっさとトンズラさ」
おれはじっと画面を見つめていた。さて、これからどうするか。どちらにしても、残り時間は月曜日の午後まで四十時間ほどしかない。
「そのデータをおれのマックにメールで送っておいてくれ」
不思議そうな顔でおれを見つめるゼロワンをおいて、おれは土曜深夜のファミレスをでた。
◆
その夜は結局明け方にうとうとしただけだった。『惑星』を何度もリピートしながら考えたのだ。どうすれば神宮寺だけを重田興業と地面師の一味から切り離せるか。不動産詐欺を池袋署か銀行に通報すれば一件落着だが、それだけでは神宮寺にも罪がおよぶ可能性があった。その場合、重田興業の残りの組員がどう動くのかも心配だった。それでなくてもあのロッカーは、重田のところに巨額の借金があるのだ。
真冬の遅い夜が明けたころ、おれは空き地でギグを見たときの格好のまま、布団に倒れこんだ。
◆
日曜日、眠い目をこすりながら店を開けていると、おれの携帯が鳴った。神宮寺だった。ざらつく声でやつはいった。
「話はミレイからきいた。おれは今、池袋の東口にいる。どうすればいい」
「十五分後に西口公園で会おう」
おれは二階のおふくろに声をかけて、店番を代わってもらい通りにでた。日曜昼のウエストゲートパークは、土曜の夜中のファミレスより空いていた。パイプ型のベンチはほとんどあいていて、同心円状の石畳を歩く影もすくない。砂色のハトが北風に吹き寄せられたように、日のあたる場所に集まっているだけだ。
神宮寺はステージの近くにあるベンチに座っていた。おれに気づくと、あごの先だけ沈めて挨拶する。おれはとなりに座ると、やつを見ずにいった。
「契約は明日だそうだな。なぜ、こんなことになっちまったんだ」
燃え尽きかけたロックスターは、誰もいないステージをぼんやり眺めていた。
「昨日うたった新曲、悪くなかっただろう。だけど、あれをだしてくれるレコード会社は、どこを探してもなかった。おれは二十歳年をとりすぎているし、顔もどえらい二枚目じゃない。ショーパブのダンサーみたいに踊れるわけでもない」
かすれた声が、あざけりの笑いになった。ちらりとおれを見ていう。
「音楽はほんとに子どもだけのものなのかな。おれは日本の男が情けないよ。誰だって高校生のころはなけなしのこづかいをためて、ものすごく高価だったLPを買ったもんだ。そいつらがもう音楽を忘れちまった。仕事と生活に追われて、時間も金もないという。音楽なんて、映画なんて、小説なんて。あんなものは、みんなただの贅沢だという。だが、そうやって何年か暮らしたら、誰だってやせ細ってがりがりの人間になっちまう。地面師の片棒をかついでるおれがいうのもなんだが、それじゃあこの国の文化はいつまでたってもガキのままだ」
おれも半分は神宮寺にうなずくところがあった。だが、それと不動産詐欺はまた別の話。
「あんたは昨日、わき腹を痛そうに押さえていたよな」
「ああ、重田のやつらにやられた。ギグをまえにブルッちまってな。もう嫌だといったら、おもてから見えないところをさんざんなぐられた」
そうかとおれはいった。ふたりとも黙ったままでいた。真冬でもしばらくあたっていると日ざしは身体を芯からあたためてくれる。
「もう神宮寺さんは、どこかにいったほうがいいと思う。あとはおれが、なんとかするから」
苦しそうにやつは首を横に振った。
「だめなんだ。こうしてひとりででているときは、ミレイがやつらの人質になってる。昨日の夜は、おれが監禁される番だった。この一週間、重田興業のチンピラが三人、いっしょに暮らしてるんだ。気づいちゃいないだろうが、最初にマコトの店にふたりでいったときには、クルマ二台の尾行がついていた。契約が終わるまでは、重田はおれたちを離しはしないさ」
ステージ裏にいたチンピラの顔を思いだした。あの猟犬の目。
「場所は」
「要町《かなめちよう》にある賃貸マンション」
「そこの間取りを詳しく教えてくれ」
おれはポケットからいつももち歩いている取材ノートをだした。細かな打ちあわせが終わるまで、それから二十分かかった。神宮寺は最後にいう。
「そんなにうまくいくもんかな」
おれはベンチを立ちあがるといった。
「まあ、見てろよ。ここはおれたちのホームタウンで、力を貸してくれるやつもいる。この街でならたいていのことはなんとかなる」
なんとかならなかったときのことは、黙っていた。ミレイのところにもどるという神宮寺の背中を見送って、おれは携帯を抜いた。まず最初はサルだ。
◆
「今年はおまえの年だな」
サルにそういうとやつがいった。
「みんなからそういわれてるが、ちっとも波がきてる感じがしねえ。なんの用なんだ」
おれは東京芸術劇場のほうへ歩きながらきいてみる。
「東口の重田興業って知ってるか」
サルは若いが、池袋でも一、二を争う羽沢組系氷高組の本部長代行だ。裏の世界の勢力バランスについては、おれがうまいミカンを見分けるより詳しかった。
「せいぜい七、八人でやってるちいさな組織だな。名目上は京極会の流れをくんでるらしいが、実際には上納金を召しあげられてるだけで、深いつながりはないらしい」
それなら、神宮寺についた三人を押さえれば、戦力は半減するはずだった。サルは笑いながらいった。
「今度はどんなトラブルなんだ。相手は重田か」
「悪いけど、ゆっくり説明してる時間が今回はないんだ。明日にはすべてがわかるから、楽しみにしていてくれ」
おれは通話を切って、つぎの番号を選択した。土曜日の夜はたいていオールで遊んでいる池袋の王様は、この時間に起きているのだろうか。
◆
タカシはやはりタカシだった。製氷機からでてきたばかりの氷のように、やつの声はしゃんとしていた。おれはウエストゲートパークの円形広場をぐるぐる周回しながら、神宮寺と重田興業のトラブルを話した。
何度か角度を変えて、人に説明していると、問題の中心点がだんだんと明らかになってくる。あんたも悩みごとがあるときには、試してみるといいよ。タカシは無関心にいった。
「仕事ならGボーイズを動かすのはかまわない。だが、その話は確かなのか。今度はエキストラじゃなく、実行部隊だからギャラも高くなるぞ」
おれはオーケーだといった。それについては神宮寺と話がついている。王はいう。
「何人必要だ」
「相手は三人。普通のマンションだから、静かに一瞬で制圧したい。三倍の九人でどうだ」
タカシが北風のような息を吐いた。笑ったのだろう。
「そうだな。それにおれをプラスして十人。明日の昼には待機しておく」
おれが通話を切ろうとしたら、タカシがいった。
「ようやくこれが今年初めての仕事だ。マコト、退屈だからもっとトラブルをもってこいよ。おまえなら毎回サービスしてやる」
危険なことが大好きな王様。このごろの池袋はそれだけ平和ということか。
◆
店にもどって、つぎの日の準備をした。神宮寺の手伝いだというと、おふくろはよろこんで店番を買ってでてくれた。おれはゼロワンに送ってもらった土地登記の証明書をプリントアウトして、A4の封筒にいれた。ちゃんと白手袋をしてな。書類からでも指紋は取れるのだ。
頭のなかでストーリーを組み立てながら、事件の内容をマックに打ちこんでいく。ミレニアム都市開発は、重田興業という暴力団であること。東池袋の土地のもち主は別に存在すること。ロック博物館の事業計画は、でっちあげであること。神宮寺は暴力団に脅されて嫌々協力する被害者役にしておいた。
おれのとぼしい作文能力では、原稿用紙二枚ほどの告発文を書くのに二時間以上もかかってしまった。すべての用意を終えて、おふくろと店番を代わったのは、もうビル街の冬空が熱をもたずに燃えている午後五時半だ。
おふくろはすぐに二階にあがると、テレビをつけた。おおげさな笑い声がきこえてくる。
おふくろは「笑点」の二十年来のファンなのだ。
◆
月曜日は東京の冬の定番の青空だった。青く塗った曇りガラスの空。晴れてはいるが、北風は強く体感温度は二度か三度しかない。店を開けて昼飯をすませ、封筒をもって街に飛びだした。マフラーと手袋とニットキャップ。寒がりのおれには欠かせない冬の装備だ。
タカシに携帯をいれると池袋大橋のたもとで、クルマ二台に分乗して待っているという。こんなときに七人のりのミニヴァンは便利だ。おれは早足で西口のビックカメラの角を曲がり、陸橋に続く道にはいった。そこには銀のメルセデスのRVに濃い灰色の新型オデッセイが、マフラーからささやくように白い湯気をこぼしていた。
RVのドアが開いて、タカシの声だけきこえた。
「のれ、出発するぞ」
おれが車内を見まわすと、黒ずくめのGボーイズの精鋭がうなずき返してくる。
「頼むぞ」
返事をしたのはタカシだけだった。
「あたりまえのことをいうな。こいつらには昼飯まえの仕事だ」
二台のクルマは滑るように動きだした。
◆
池袋駅西口の混雑を抜けて、要町通りにはいった。神宮寺が監禁状態にあるマンションは、要町一丁目の赤札堂の裏手にある白いタイル張りの建物だった。おれたちはすこし離れた道にクルマをとめて待った。約束の時間にミレイがおりてくる。コンビニに買いものにでもいくといって、おれたちを手引きするようにいってあるのだ。ミレイは霜降りのトレーニングスーツ姿だった。スタイルのいい女はなにを着ても似あうものだ。髪はひっつめで、緊張で頬骨が鋭くとがって見えた。
バックコーラスの女はおれたちのクルマに気づくと、ゆっくりとそ知らぬ顔で近づいてきた。スモークを張ったウインドウがおりていく。クルマの陰にはいるとミレイがいった。
「玄関ドアのところにひとり、廊下の奥のリビングにタカさんと残りのふたりがいる。みんなお昼ごはんのあとで、リラックスしてるよ」
おれは声を殺していった。
「よし、じゃあ、コンビニでなにか買ってもどってきてくれ。おれたちはマンションの入口で待機している」
◆
もどってきたミレイの手にはコンビニの白いポリ袋があった。ペットボトルの中身は流行のアミノ酸飲料のようだった。ミレイがオートロックの鍵を開けると、おれをふくめて十一人のガキがあとに続いた。半分の男たちが四階の部屋目指して、非常階段をやわらかなソールの靴で音もなく駆けあがっていく。おれとタカシはミレイといっしょにエレベーターをつかった。
404号室の外廊下に黒い服の男たちが十人整列した。合図でいっせいに黒い目だし帽をかぶる。異様な風景だった。ミレイはおれたちにうなずくと、ただいまといって玄関の鍵を開けた。つぎの瞬間、ドアは勢いよく全開にされて、Gボーイズが雪崩《なだ》れこんでいった。先頭のガキはスタンガンをつかったようだ。なにかの焦げるにおいがして、重田興業のチンピラはなにもいわずにその場にへたりこんだ。
マンションの狭い廊下に足音が響いた。いったい何人いるのかわからない乱れた靴音だ。おれがリビングに着いたときには、残るふたりのチンピラもうしろ手にコードでとめられ床に転がされていた。
ソファで凍りついていた神宮寺が、恐ろしいものでも見るようにおれを見た。おれはやつにウインクしてやった。もっとも黒の目だし帽越しだから、神宮寺にはおれが誰だかわからなかったかもしれない。
最初の突入から百五十秒後、半数のGボーイズをその場に残して、おれたちは404号室を離れた。
◆
走りだしたメルセデスのなかで、神宮寺はいった。
「ありがとな。それにしても鮮やかなもんだった。池袋エンペラーとGボーイズはだいぶ違うみたいだな」
タカシは氷のように冷たく笑ってこたえなかった。神宮寺はいう。
「それで、おれとミレイはこれからどうすればいい」
おれは目のまえを流れていく池袋西口の月曜日を見送っていった。
「あと三時間もすれば、すべて片がついてるはずだ。どこかに隠れていてくれ。そのあとは遠くにいって、しばらく池袋には顔をださないほうがいい」
メルセデスは池袋大橋にさしかかった。くだり坂の途中で、あの空き地がほんの一瞬だけ見えた。金属のフェンスでかこまれたあんな雑草だらけの土地に、それほどの価値があるなんておれには不思議だった。おれはGボーイの運転手にいった。
「グリーン大通りで、おろしてくれ」
クルマは首都高のしたをゆっくりと流した。神宮寺のほうをむいて最後にいった。
「もう会うことはないかもしれないな。でも、あんたの新曲はよかったよ。いつかヒットするといいな。謝礼はそこにいるタカシにわたしてやってくれ」
神宮寺は王様にうなずくと、おれを涙目で見た。
「マコト、また金はいらないのか」
「ああ、おれ、ほんとうはすごくリッチなんだ」
そいつは誰にでも簡単なことのはずだ。欲望のおおきさに金の額をあわせるのでなく、手もちの額に欲をあわせればいい。それに金のかからないお楽しみだって、この世界には嫌というほどたくさんあるしな。
神宮寺が手を伸ばしてきたので、しっかりとサムアップの握手をした。やつはもう片方の手でおれの肩を抱いていった。
「元気でな、マコト。おれたちは案外似てるのかもしれないな。おれには無理だったが、おまえはうんと遠くまでいって、おれには見えなかったものをたくさん見てくれ」
ミレイも狭いキャビンのなかで、泣きながらおれを必死に見つめていた。メルセデスはグリーン大通りの交差点でとまった。おれはクルマをおりて、走り去っていくテールランプを見送った。タカシはなにもいわずに開いたウインドウから、手を突きだしている。黒革の手袋のにぎりこぶし。まっすぐに立った親指は、サルの姫を見つけたときのように、池袋のまぶしい冬空をさしていた。
◆
おれはグリーン大通りのケヤキ並木のしたを歩いた。すっかり葉を落とした枝が、繊細なアンテナのように空にからみついている。緑色の看板を歩道に張りだした都市銀行の裏手にまわった。
ナンバーロックのついた従業員用の扉に、監視カメラの反対側から近づいていく。紙袋から封筒を抜きだした。おもてにはおおきく「東池袋一丁目不動産詐欺事件」と書いてある。手を伸ばし冷たい金属の端に両面テープでA4の封筒をドア張りした。
あとはぶらぶら歩きながら、西一番街にもどるだけだった。契約はホテル・メトロポリタンのスイートで午後三時から。ここまで上首尾に運んだ不動産詐欺を、重田興業がとりやめにするとは思えなかった。
仮に手をひいたところで、神宮寺はもう手の届かないところにいる。おれは重田がどう動くかには興味がなくなっていた。帰り道では西武の靴売り場で革靴でも見ようかと思ったくらいだ。なにせ四週間ばかりしたら、オーダーメイドのスーツができあがるのだ。
腐ったバスケットシューズじゃあ、イタリアの仕立て職人も泣くことだろう。
◆
その後の展開をおれは、サルから電話できいた。デジタル地面師は逃走したがったが、重田興業の男たちは脅しをかけて契約の場所に連れていったらしい。あわせて五人が、池袋署の生活安全課によって詐欺の現行犯で逮捕されている。
なんでもあの空き地は六重、七重に権利関係がいり組んで、バブル崩壊から十五年たっても、どうにも動かしようのない土地だったという。夢のロック博物館というよりは、土地転がしがたどりついた墓場なのだ。
罪には問われないだろうから警察に出頭するのも手だと、神宮寺にはいっておいたが、やつは池袋署には顔をださなかった。だから、つぎの週に新聞で神宮寺の名前を見つけたときには、おれは心底驚くことになった。
◆
記事は東池袋一丁目の再開発に関する不動産詐欺事件についてだった。タレントがかんでいたせいか、夕刊の社会面におれのてのひらよりおおきくのっていた。封筒を張ったのとは別な都市銀行が、架空の地主から融資話をもちかけられて、一億八千万円の大金をだましとられたという。地番はあの池袋大橋のわきだった。
契約の際に神宮寺貴信はしっかりと同席して、ロック博物館の事業計画をぶちあげたそうだ。日づけを確かめたが、Gボーイズが突入した翌日が契約日だった。信じられない気もちで新聞を読み直していると、おれの携帯が鳴った。タカシだった。
「読んだか」
ああといった。ほかになんといいようがあるのだ。
「今回はあのオヤジのほうが一枚うわ手だったようだな。おまえもおれもいっぱいくわされた。おまえと別れるときのあの涙目の台詞《せりふ》、なかなか見事だったな。全部芝居だったとは、さすがにプロの俳優は違うな」
おれは心配になってきいてみた。
「タカシはちゃんと報酬は受け取ったのか」
やつは王の冷淡さでいった。
「もちろん。銀行のキャッシュコーナーまでついていったからな。おれはおまえのように甘くはない」
「そうか」
「だが、神宮寺はたいしたもんじゃないか。やつは最後の大仕事に勝ったのさ。重田興業の借金をちゃらにして、裏ですすめていた別な融資話で一億八千万もふところにはいった。おまえのいうとおり二度と池袋に顔をだすことはないだろうな。あの新曲はなかなかだったが、あいつの歌をきく可能性もこれでなくなった」
そうかもしれないといった。驚いてはいたが、おれはなぜかぜんぜんくやしくはなかった。すべてはあの神宮寺という男の不思議なキャラクターのせいかもしれない。
◆
タイの消印がついたビキニ娘の絵はがきが届いたのは、それから二週間後のことだった。おれは店の奥から日のあたる通りにでて、細かな文字でびっしりと埋まった裏面を読んだ。
こっちはのんびり東南アジアツアーの最中だ。マコトがそんなことをするとは思わないが、明日にはバンコクを発つから通報なんてしてもムダだぞ。クルマのなかで最後にいったのは、おれの本心だ。おれには『涙のインターチェンジ』で精いっぱいだったんだろう。おまえは、おれよりもっと遠くにいってくれ。マコトのコラムはこっちでも探して読んでいる。もう会うことはないだろうが、元気で。おふくろさんと王様にも、よろしくな。
PS あのスーツは大事にしまいこんでおかないで、ばりばり着ること。おまえはおれほどじゃないが男まえだから、あんな程度のスーツに負けることはない。おれのためにも着倒して、せいぜいいい男になってくれ。
最後のサインは英語の大文字でJ。どこまでも憎めないペテン師だった。
◆
二月にはいって最初の土曜日、おれは受取証をもって西武の五階にいった。磨き抜かれた木製のカウンターに、木の葉にでも変わるんじゃないかと恐るおそる紙切れをだす。そんなことはなかった。試着なさいますかという店員に礼をいって、そのままうちにもって帰った。
神宮寺がオーダーしてくれたミッドナイトブルーのスーツは、おれの四畳半の鴨居に今もさがっている。底光りするような艶のある見事なスーツだ。スリムなおれの体型にぴったり。ちょっと本屋にいくときや、しゃれたヨーロッパ映画を観にいくときには、あのオヤジのいうとおり、ばりばりとおれはスーツを着倒している。
だからあたたかな冬の池袋で、えらく高級そうなジャケットに、穴開きジーンズと腐ったバスケットシューズをあわせたイケメンを見つけたら、気軽に声をかけてみるといい。とくにあんたがミレイみたいなスタイルの女だったらおれは大歓迎。
革靴はゼロワンに払ったギャラのせいで結局買うことはできなかった。でも、全身決めまくるより、どこかにすきがあったほうがいいよな。
自分のだらしないところを、最大の魅力にする。
そいつはこの正月、いにしえのロックスターからおれが学んだ教訓のひとつだ。
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死に至る玩具
人形の笑顔って怖いよな?
だって永遠に目を見開いたまま、やつらは笑っているんだ。唇は濡れた光りのピンクベージュ、頬にはモーヴのチークがはいり、ぱっちりと開いた二重のまぶたにはきらきらパールブルーのアイシャドウが大人びた影を落としてる。どれもこの春流行の勝負メイクで、選ばれたのは旬のカラーばかりだ。やわらかなポリスチレンでかたどりされた顔には、妙にセクシーな笑顔が感情のかけらもなく固定されている。
もちろん身体だって負けていない。スーパーモデルがため息をつくような九頭身半。手足はストローみたいにまっすぐで、ウエストは砂時計のようにくびれている。バストとヒップはライバルのバービー人形よりは、ずっとボリュームがある。こちらのほうはセクシーさが売りなのだ。
ファッションだって自由自在だ。贅沢をしたいなら、世界中のトップデザイナーの競作がよりどりみどり。専用の白い羊革のジャンプスーツなど、大人用が何枚も買える驚愕のプライスタグがついている。
人形の名は、ニッキー・Z。保証書の裏に書かれた経歴では、日本人の母親とアフリカ系アメリカ人の父親のあいだに、イーストロスアンゼルスのゲットーで生まれたことになっている。十五歳で自作のR&Bでデビューして、最初のシングルCDを世界で二千万枚売りあげた伝説のティーンアイドルなのだ。あんたは黒人の歌姫のことをなんて呼ぶか知っているだろうか。ソウルディーヴァ。
ニッキー・Zは東京発のソウルディーヴァ人形で、一千万個を最速で売った人形としてギネスブックにも認定されている。ここまでくれば、あんただって気づいただろう。ガールフレンドや娘にねだられて買ったあのカフェオレ色の肌をした人形がそいつだ。
今回は大人気の人形が何人もの女の命を奪ったという身も凍る物語。季節はずれの怪談なんかじゃないよ。あんたの家にあるニッキー・Zの笑顔には、最悪の状況のなか死んでいった紅小栄《ホンシヤオロン》の最期の息や魂さえ流れこんでいるのかもしれないのだ。
愛すべき資本主義の世界では、数百万という子どもや女たちが、ニューモデルの人形を求めて、デパートやおもちゃ屋で列をつくっている。だが、センスのいい箱におさめられたかわいい人形が、命がけの労働の成果だなんて誰も想像しない。
おれたちは洗練された客であることにのぼせあがり、商品棚から奥のことはこれっぽっちも考えない。誰がどこで商品をつくったかなんて、どうでもいいことなのだ。だからどうやってかわいい人形が、若い女たちの生き血をすすったか、おれの話をきいたらあんたも絶対仰天するはずだ。だって命の値段は、着せ替え人形ひとつよりずっと安いんだからな。
ジェット機でほんの四時間ばかり離れたアジアの昇竜の国ではね。
◆
春になったからといって、おれには別に新しいことなどなにもなかった。卒業も就職も転勤も、ほんの数日の出張さえない。地域密着型零細企業はつらいのだ。おれはときどき池袋の街の底で、一生足踏みをしてすごすんじゃないかと怖くなることがある。まあ、毎日目のまえで起きてることが、ばからしくなるほどカラフルだから、あまり退屈はしないんだけどね。
この春のおれのマイブームといえば、なんといっても俳句だった。中学の夏休みの宿題で無理やりつくらされてから、いい思い出などひとつもなかったのだが、本屋で手にした一冊の近代俳句集でガツンと後頭部をやられてしまったのだ。だいたい俳人の名が、みなGボーイズみたいでカッコいい。三鬼とか、亜浪とか、水巴とかね。男っぽいのでは、不死男、不器男、赤黄男なんて男のなかの男の三連発もいる。間違ってもマコトなんて間の抜けた名前ではないのだ。
おれが読んだ感じでは、どんな俳人でも文句なしの名句は十句あっても、二十はなかった。だが、その十句を得るために、さして見返りのない俳句の道に一生をかけなければいけない。おれのコラム書きといっしょだった。どこに読者がいるのかわからないし、たいした金にもならないのだ。
だが、俳人たちのなげやりだかまじめだかよくわからない真剣な軽さが、なんだかおれにはおもしろかった。イメージや表現は、十七文字に爆発的に圧縮されて、抜群の冴えを見せている。きっと来シーズンには、びしっとクールな近代俳句の技を、おれのコラムでパクってみせるから、数すくないおれのファンは期待していてくれ。
で、なんだっけ、ニッキー・Zの話だったよな。もちろん人形の話は、春の池袋の道のうえ、人形みたいな顔をした女から始まった。
◆
春風がぷるぷると白身魚の刺身のように肌をなでていく午後、おれはJR池袋駅の北口を歩いていた。別になにか用事があったわけではない。ただ散歩をしていただけ。おれは池袋のテリトリー内を、野良猫みたいに年四百回はパトロールしているのだ。
陸橋に続く交差点の角、おれが生まれるまえからある名門ソープを横目にぶらついていると、若い女がにっこりと微笑みかけてくる。パステルグリーンの短いトレンチコートに、白いミニスカート。足は透きとおるような白さで、ピンクの革靴のストラップに伸びている。これが噂の逆ナンだろうか。とうとうおれにも春がきたのかと頬をゆるめると、女はいった。
「こんにちは、チャイニーズ・マッサージ、いかがですか」
日本語の発音におかしなところはなかった。女の目と鼻は人形のように整っている。肌はまだ熱をもっているセルロイドみたいに血色がいい。絵のようでないのは、わずかに生意気そうにうわむきにとがった唇くらい。もち金のすくないおれは、女にいった。
「あんたが相手をしてくれるのか」
細い眉をあげて、女は笑ってみせる。
「残念でした。お店にいけば、ほかにいい娘《こ》がたくさん」
「じゃあ、いいや。それにおれ、金ぜんぜんもってないんだよね」
女はそれでも表情を変えずに人形のように笑っていた。おれにちいさなビラをさしだす。
「滿足……これマンゾクって読むんだよな」
淡い唇をかすかに開いて女はいった。
「マンチュッ、意味は日本語といっしょです」
おれがぼんやりと見つめている間に、とおりすがりのサラリーマンに声をかけにいってしまう。四十すぎのパンチパーマの会社員は、まんざらでもない顔で女の話をきき、あとをついて常盤通りのほうに歩いていく。
女は最後におれのほうを振りむくと、なぜかにこりと笑ってみせた。おれまでふらふらとあとをついていきそうになる。凄腕キャッチガールを一名発見。春の池袋は恐ろしい街だ。
◆
それからときどき女と街で顔をあわせるようになった。むこうもこちらが地元の人間だとわかったらしく、もう声をかけてくることはない。四月の間延びした一週間がだらだらと流れていくだけ。なぜ春になると時間の流れがゆるくなるのか、おれは不思議だ。いくら眠っても、まだまだ眠くてたまらないしな。春先のおれの睡眠時間は、ときに十時間を超えることもある。
だからあの女がうちの果物屋にやってきたときも、あくびでもしていたんじゃないだろうか。なにせ女が店の奥にきて、すぐ目のまえに立つまでの記憶がぜんぜんないのだ。口を開いた白い人形の顔は、緊張したようにこわばっていた。
「このお店に、真島誠さん、いますか」
おれは椅子代わりのビールケースから立ちあがった。
「マコトなら、おれだけど」
女はおれに気づいたようで、安心して顔を崩した。とがった唇が丸くふくらむ。
「あなただったのか。わたし、紅小桃《ホンシヤオタオ》。マコトさんに頼みたいことがあるんだけど」
中国語の発音がまったくききとれなかった。
「シャオタアー……」
女はスプリングコートのポケットからメモ帳をとりだした。ボールペンで自分の名を書いてみせる。
「発音むずかしいから、あんたはコモモでいいよな」
コモモはうなずいた。心配そうな表情でいう。
「マコトさんは困った人を助けてくれる。それもお金をぜんぜんとらないってきいたけど、ほんとうのことですか」
最近の女子高生よりこの中国人のほうが、よほどしっかりした話しかただった。おれはふざけていった。
「そんなデマ、誰にきいたんだ。おれのギャラは高いよ」
火にかざした人形のようにコモモはしぼんでいった。
「そうか、やっぱり高いか。わたしのお店で働いている日本人の女の子から、池袋にはマコトというボランティアみたいななんでも屋さんがいるときいた。あれは嘘か」
そのままくるりと振りむき、帰ってしまおうとする。おれはあわてていった。
「冗談だよ。金はいらない。でもなんで、チャイニーズ・ヘルスに日本人の女がいるんだ」
「ああ、うちの店はハンドサービスだけで、自分は脱がなくていいから。日本人なのに片言の日本語で、中国名をもってるなんて、おかしいね」
コモモはにこにこと笑ってみせた。この口には、ハンドサービスなんて一番似あわない言葉だ。
「それで、あんたのトラブルってなんなんだ」
コモモの顔色が、ぱっと花が咲くように明るくなった。現金な女。
「ここでは話しにくいから、わたしがお茶をごちそうします」
おれは店の横の階段にむかって声をかけた。二階で休んでいるおふくろを呼んだのだ。おふくろは店におりてくると、さっとコモモの全身に目を走らせた。まんざらでもなさそうな表情でおれにうなずく。
「話をきいてくる」
おれがそういうと、おふくろはいった。
「遅くなってもいいから、ちょっとがんばってきな。かわいい子じゃないか」
コモモは上品に笑って、間口一間の店をでていった。声を殺して、おれはいう。
「あいつ、北口のチャイニーズ・ヘルスのキャッチだぞ」
おふくろはぎらりと凄みのある笑顔になった。
「マコト、あんたも大人になったもんだねえ。中国娘とつきあうなんてさ。首尾はあとで報告しな、いいね」
おれは尻尾を巻いて、コモモのあとをついていった。日本でも中国でも、女の怖さには変わりないよな。
◆
コモモはおれを北口のドトールコーヒーまで連れていった。かれこれ五百メートル以上。途中には何軒も喫茶店があるのだが、見むきもしない。昼すぎでがらがらの店にはいると、胸を張っておれにいった。
「マコトさん、ブレンドコーヒーでいいですか」
おれがうなずくと注文カウンターにむかい、サービス券をだした。百八十円のコーヒーが百円になるチケットだ。ものすごくケチな女。おれがあきれて見ているとコモモが振りむいた。
「八十円は中国なら大金。週給の十分の一になる」
おれのような低額所得者だと日本の四、五千円くらいだろうか。意味がわからずにいう。
「ふーん、中国で働くってたいへんなんだな」
コモモはおれに抱きつくくらいの勢いで身体を寄せてきた。
「マコトさん、あなたは、それをわかってくれるのか」
見開いた目は恐ろしく真剣だった。意味がぜんぜんわからなかったが、ドトールのカウンターで、凄腕キャッチをこれ以上興奮させたくはなかった。
「ああ、早く禁煙席にいこう」
おれはガキのころから酒はのんだが、煙草は吸わなかった。まえに話したことがあっただろうか。悪いお友達のあいだでも煙草を吸うやつがカッコよくは見えなかったのだ。おかげでおれの肺と前歯は、池袋の空をいく雲のように今も十分クリーンだ。
おれたちは二階の禁煙席にむかって、角度の急な階段をあがった。白いマイクロミニのコモモの桃尻は、控えめにいって見事な眺めで、おれはドトールが七階建てじゃないことを残念に思ったくらいである。
◆
席につくとコモモはすぐに内ポケットから紙切れをとりだした。新聞の折込チラシの裏が白いやつがあるよな。あの透ける紙にびっしりと手書きの文字が並んでいる。けっこう達筆だった。
「これを読んでおかしなところはないか、直してください。マコトさんは日本の雑誌にも連載をもっている文筆家だそうですね」
おれが文筆家というのは、援助交際ものの裏DVDをエロティックな芸術映画というようなものだ。尻がかゆくてたまらなくなる。
「書いてるのは確かだけど、あんたが思ってるような立派なものじゃない」
コモモはまっすぐにおれの目を見つめてきた。
「謙遜は結構ですから、読んでみてください」
それでおれはコーヒーに口をつけることもなく、コモモの原稿に目を落とした。マジックで書かれた最初の一行が、黒々と目に飛びこんでくる。
[キッズファームは、人殺しに手を貸している]
おれはテーブルのむかいに座る女に目をあげた。キッズファームは急成長中の玩具メーカーだ。本社はここから歩いて十分ほど。グリーン大通りの先に建つ全身ハーフミラー張りのインテリジェントビルだ。主力のおもちゃは、いわずと知れたセクシーな着せ替えディーヴァ人形、ニッキー・Z。
「これ、ほんとうの話なのか」
おれは紙切れをテーブルの中央にもどして、きちんと話をきく体勢になった。コモモは怒った顔でうなずいている。
「もし事実がなくて、こんなものを書いてばらまいたら、日本では犯罪になるんだぞ。あんたは、それがわかっているのか」
おれが見ている間に女のまぶたと目のしたのふくらみが赤く染まった。泣きだすのか、このキャッチ。コモモの白い頬を涙の粒が転がり落ちていく。遠くのテーブルのおばさんが、おれを非難してにらみつけてきた。ため息をついて、おれはいった。
「わかったよ。話をきかせてくれ」
◆
「また残酷な五月がやってきます」
コモモは詩の一節のようなことをいった。当然、おれにはちんぷんかんぷん。ただうなずいてみせるだけ。
「毎年五月になると一斉に、中国のおもちゃ工場で求人が始まります。マコトさんは知っていますか。世界中のおもちゃの七、八割が中国南西部でつくられていること」
おれは首を横に振った。初めてきく話だった。おれには世界のおもちゃの八割という数字が想像できなかった。ものすごい額と量になるのだろうと思うだけだ。
「アメリカや日本のクリスマスにあわせて、工場で臨時雇いの仕事が発生するのです。求人が二千人もあると噂が流れれば、つぎの朝最寄り駅には五万人の若い女性が集まります」
おれは黄色い砂の舞うなか、突然出現する女だけの街を想像した。なんだかエキセントリックでいい景色だった。まぎれこんでみたいものだ。
「うまく採用されれば、そこから地獄の日々が始まります」
おれの空想は一瞬で暗転した。地獄の工場労働?
「だけど、中国は共産主義で、労働者みんなの国じゃなかったのか」
「そんなことは、わたしが生まれる遥か昔の話です。見てください」
コモモはすりきれた布製の財布から写真を一枚抜いて、テーブルにおいた。うえにはうえがいるものだ。写真のなかの女は目のまえにいるコモモより、ずっと美人だったのだから。コモモはわかっているという顔をした。
「姉の紅小栄です。河南省にあるわたしたちの村では美人で有名でした。ちいさなころから姉とくらべられるのが、わたしは嫌いでした」
おれは傷ついた女心を無視して、話をすすめた。
「ふーん、それで美人の姉さんはなにしてるんだ」
コモモは写真から目をあげた。つよい光りをたたえた闘いの目になっている。
「殺されました。|深※[#「土+川」、unicode5733]《シンセン》市にある高興有限公司で、走りながら死んだのです」
工場で走りながら死ぬ。またもおれの想像を超えた台詞だった。おれは口を開けたまま、凄腕キャッチを見つめた。
◆
コモモは一気にまくしたてた。テーブルのうえの手は、関節が白くなるほどの力でにぎり締められている。
「工場は日本のキッズファームの下請けです。世界中で売れているニッキー・Z人形の半分は、あそこでつくられたものです。体育館みたいに広い建物のなかには、冷房も暖房もありません。机が一直線に百メートルも並んで、そこに二百人の労働者が張りつき、細かな筆で人形に色をつけていきます。シフトは十四時間と十時間のふたつ。五月から十月までは二十四時間操業なのです。寝泊まりは工場敷地のなかにある寮でします。おおきな倉庫のなかに軍用のベッドがぎっしりと詰めこまれて、プライバシーはありません。姉の手紙ではみんなゴミ袋を天井からつるしてカーテン代わりにしていたそうです」
軍用ベッドで眠る二千人の女たちを考えた。野戦病院のような眺めだったことだろう。十四時間働いたあとでは、遊びにいく余裕などない。
「給料はどれくらいなんだ」
「日本円だと週に八百円から千円くらい。労働者には資本主義より厳しい共産主義の国なのです。福利厚生も、健康保険も、残業手当もありません」
おれの声は悲鳴のようになった。
「それで、もうかった金はどこにいくんだ」
「株主です。深※[#「土+川」、unicode5733]に昔から住んでいて、工場の敷地のもち主だった人たちと党の役人が株主になって、利益はほとんどその人たちの配当になるそうです」
救われない話になってきた。それでは一国二制度とか現代化とかいっても、実態はアフリカや中南米のぼったくり資本主義とまるで変わらない。資本の原始的蓄積段階だ。おれの声は低くなった。
「あんたの姉さんは、どうして死んだんだ」
コモモは涙を落とさないようにコーヒーチェーンの天井を見ていた。細い指先で目の端を押さえる。
「姉はやせていたし、中学で陸上部にいたので、最悪の仕事を任されてしまった。走り屋です」
またも意味不明の言葉。飛脚や伝令みたいな仕事なのだろうか。おれはバカみたいに繰り返す。
「走り屋?」
「はい。ニッキー・Zの頭部は彩色がすむと、箱に詰めこまれていきます。五十個いりの箱をふたつ重ねて百個。走り屋はそのプラスチックケースをもって、つぎの工程のあるテーブルまで、広い工場のなかを走りまわるのです。就業中は休むことなく」
「一日十四時間もか。遅番なら徹夜で走るのか」
コモモはあっさりとうなずいた。
「そうです」
そんな話はバカげていた。日本の工場や倉庫なら、どこにでもある簡単な設備をつかえばいいのだ。機械は疲れを知らない。
「ベルトコンベアとか、ないのか」
「ありません。中国では設備より、人件費のほうが安いのです。内陸部から新しい働き手がどんどん都市に流れこんでくる。買い手市場です」
おれは窓の外の通りを見おろした。春のあたたかな日ざしのなか、むかいのビルの窓には中文網※[#「口+巴」、unicode5427]と手書きのポスターが貼られていた。最近池袋でも増えてきた中国語のインターネットカフェだ。うえにあがる階段のまえでは、ちいさなテーブルをだして、なにをしているのかわからない中国人の男が座っていた。表情の消された顔。
「あんたの姉さんが死んだときの状況を詳しく話してほしい」
コモモは険しい顔でうなずいた。
「去年の七月終わりのことでした。明けがた、走り屋の仕事をしていた姉は、軽い心臓発作で倒れました。夏風邪をひいて、数日まえから体調を崩していたそうです。そのときはなんとか作業を続けることができたのですが、つぎの日が問題でした」
手をあげて、コモモをとめた。だっておかしな話だ。目まいや頭痛ならともかく、相手は心臓である。
「ちょっと待った。心臓発作を起こして、青い顔でぶっ倒れたら、病院にいくのが普通だし、つぎの日は休みにするだろう。命には代えられないんだ。仕事を辞めるって手もある」
コモモは鋭い視線でおれをにらんだ。自分たちのことなど、決して日本人にはわからないという距離感を思わせる視線だ。海峡をへだてた目。
「工場はすべてが、資本家と党が有利なように運営されているんです。休むというなら、たとえそれが病気でも、三日分の給料を罰としてさし引かれます」
おれはなにもいえずにうなった。コモモは淡々と続ける。
「途中で辞めると、また罰金があります。辞めさせないように、給料だってすぐには払わないのです。姉は五週間分の給料が未払いで、辞めたら一元ももらえなくなると恐れていました」
工場に殺されたという意味が、ようやくおれにものみこめてきた。五週間休みなく走った金がはいらなくなるなら、おれだってしんどくても仕事にでるだろう。だが、小栄の心臓はすでに限界だったのだ。コモモは涙を落とさないように、目に力をいれて耐えていた。
「姉が死んだのは、つぎの日の夜明けでした。微笑んだままのニッキー・Zの顔をばらまいて倒れ、その場で死んだのです。心臓麻痺などというやさしい病気ではありませんでした。医者からは心臓の筋肉が縦に裂けているとききました。姉の心臓は破裂したのです」
コモモはもうこらえ切れなくなったようだった。鮮やかなパステルグリーンのコートの胸をたたいて叫んだ。
「小栄は、胸が割れるまで走らされ、壊れた機械のように死んだ。姉の給料の半分は、うちの家族への仕送りです。わたしがかよっていた日本語学校の授業料もだしてくれました。小桃は頭がいいから、しっかり勉強して外国の企業にはいったほうがいい。間違ってもこんな工場で働いてはいけない。お金はいつか倍にして、わたしに返してね。姉は笑ってそういったのです。わたしは……」
コモモはポケットからハンカチをだし、しっかりと涙をふいた。深呼吸をして息を整える。
「……正義を求めたい。この世界のどこかに正義があると信じたい。姉のための復讐ではなく、納得のいく結果がほしいのです。中国ではそれがむずかしかったので、工場の発注元であるキッズファームに事情を訴えるため、こうして日本にきました。わたしの渡航費用は、姉への見舞金と同僚の労働者からの寄付でまかなったものです」
おれはもう返す言葉がなかった。正義なんて言葉をおれは生まれてから一度もつかったことはない。コモモの口からきくと、それはひどく新鮮な言葉だった。見知らぬ国にひとりでやってきて、正義を求めるという女。中国の南のどこかなら、あたりまえの話なのかもしれないが、この女の勇気に動かされない日本の男はいないだろう。お人よしでもかまわない。中国共産党にできないことを、おれがやってやるのだ。底辺の労働者よ、国境を越えて連帯せよ。コモモは涙のひいた目で、すっきりとおれを見た。
「マコトさん、わたしの文章におかしなところはあるでしょうか」
おれはチラシを折りたたんで、ジーンズの尻ポケットに押しこんだ。
「あとでしっかり読んでおく。あんたの正義が、この街で見つかるといいな」
コモモは勢いよくうなずいた。おれたちは冷めたコーヒーをのんで、店をでた。さっきまではゆるゆるだった春の身体は、新たなテーマを発見して深いところから引き締まるようだ。
池袋の通りを抜ける南風は生ぬるい。おれとコモモは嵐のような春風に逆らって、まえのめりでのどかな街をすすんでいった。
◆
最初に出会った池袋駅北口で、おれたちは立ちどまった。コモモは再びチャイニーズ・ヘルスのキャッチに、おれはしがない店番にもどるのだ。魔法が解ける時間。手を振ろうとしたら、コモモがいった。
「あれ、見て」
おれは女の指先を追って、右に視線を振った。JRの線路沿いに建つビルボードだった。三メートル×四メートルほどある巨大なもので、GWのハリウッド大作に混ざって、謎めいた看板がだされている。
全面が黒地で、そこに金色の太いリボンがかかっていた。豪華なイメージだが、コピーは短い英文だけである。
WHAT'S HAPPENING ON NIKKIE Z? 4.23
あとは隅っこにおなじみの木製の柵でできたキッズファームのロゴがはいっている。おれはいった。
「コモモ、あれなんだか知ってるか」
凄腕キャッチは首を横に振る。
「わからない。でも、ニッキー・Zになにかが起こるんですね、あと一週間で」
「おれが調べておくよ。あんたはまた明日にでも、うちの店に顔をだしてくれ」
おれたちはおしゃれなティーザー広告のまえで別れて、それぞれの仕事場に散った。
◆
西一番街の店にもどると、おふくろはいった。
「どうだった、あの小姐《シヤオチエ》は」
どこでそんな言葉を覚えてくるのだろうか。台湾パブなんていかないはずなのに。おれはクールに返事をする。
「いい年こいて、いつまでも恋だ愛だといってるんじゃねえよ」
おふくろはカチンときたようだった。店のわきの階段をあがるおれの背中をどやしつける。
「なにいってんだよ。いくつになっても、世のなか男と女じゃないのかい。女のひとりもいないくせに」
おれは素直だから、おふくろのいうことに一理あるのはわかっていた。ただ商店街全体に響きわたるような大声で、事実をいってほしくないだけだ。傷心のおれは黙って自分の四畳半にはいった。こうなったら、あと五年引きこもってやる。
◆
CDラックをざっと眺めて、BGMを探した。買って積んであっただけで、まだきいていないオペラがあったはずなのだ。譚盾《タンドウン》は中国湖南省生まれ。京劇の二胡奏者だったが、十九歳で西洋音楽にふれて、作曲家になることを決意したという(ちなみにそのときの曲はベートーヴェンの第五交響曲だったそうだ。そりゃあ初めてあれをきいたらぶっ飛ばされるわけである)。現在はニューヨーク在住で、世界各地の音楽祭から委嘱され、つぎつぎと新作を発表する人気作曲家だ(クラシックにも少数だが、そんなやつがいるのだ)。
『マルコ・ポーロ』は、東洋と西洋を結んだマルコの旅を一年間の四季に分けて、重層的に描いた作品だ。オーケストラだけでなく、お得意の中国琵琶とかタブラとかシタールとかが大活躍する。おれはCDラジカセで、「時空之書:春」を無限リピートさせながら、コモモの文章を読んだ。日本語のテニヲハですこし間違いがあるが、心情のこもったいい告発文だった。元の文章に熱があるなら、直しは最小限にしておいたほうが結果はいい。おれは自分のコラムに手をいれるときの原則に従って、赤字はほとんどいれなかった。
三度目の春をきいたあとで、ノートブックパソコンを立ちあげた。サーチエンジンに飛んで、キッズファームと入力する。ヒットしたサイトの数は天文学的な百四十万件。コモモの闘う相手の巨大さに目がくらみそうになった。
本社のホームページでは、四月二十三日になにかが起こるという予告広告ばかりだった。
そこでいくつかしたに並んだキッズファームの非公式サイトに飛んでみる。BBSをのぞいたら、すぐに人形になにが起こるのかわかった。
それはなんともバカらしい話。芸能人カップルの中継なんかでもそうだけど、おれたちはいつからこんなことで空騒ぎをするようになったのだろうか。日本の女たちも、小栄の十分の一でいいから、工場のなかを走ったほうがいいのではないだろうか。
◆
BBSでは議論が白熱していた。テーマはニッキー・Zの結婚について。お相手は才能あるラッパーにして、シアトル・スーパーソニックスの名ポイントガード、MCフライだ。MCフライはニッキーの幼なじみで、「音楽的にお互いを高めあう」良好な関係をハイスクールのころから築いてきたという。
どちらの人形の経歴も、いくらスクロールしても読み切れないほど詳細にでっちあげられていた。四月二十三日は人形同士の結婚式の日なのだ。とことんくだらない話。だが、その夜テレビをつけたおれは驚くことになった。
例の黒地に金のリボンのCFが集中豪雨的に、どのチャンネルからも流されていたのである。とんでもない量の出稿で、半端じゃない額の広告費を投入しているはずだった。キッズファームは本気なのだ。ニッキー・Zをもっている世界一千万のファンに、ソウルパートナーとしてMCフライを買わせようとしている。ウエディングイベントは、すべて周到なマーケティングによる販売作戦なのだった。
おれは敷きっ放しの布団に倒れこんで考えた。これほどの大キャンペーンを打つ国際優良企業と、コモモは紙切れ一枚で闘おうとしている。イラクとアメリカ、紅姉妹とキッズファーム。正義と物量の戦いでは、歴史上つねに物量が勝利を収めてきた。
おれは全力を尽くすつもりだったが、最後は祈ることしかできないのではないかと思った。春の池袋で、その他大勢の世界と同じ結果が起きませんように。
アラーもキリストもついでにブッダも信じないおれの祈りは、どこに届くのだろうか。
◆
翌日の午後、コモモはまたやってきた。おれがいい文章だったというと、はずかしげに笑って帰ろうとする。おれはスプリングコートの背中にいった。
「そのチラシをどうするつもりなんだ」
「今晩刷って、明日から街頭で配ります」
印刷するのだろうか。おれがおかしな顔をしたのがわかったようだ。
「こちらではガリ版というのですよね。あれは日本生まれの素晴らしい発明です。重かったけど、深※[#「土+川」、unicode5733]からもってきました。百円ショップのコピー用紙を山のように買いこみました。明日から街にでて、チラシをまきます」
おれは見事な日本語を話すキャッチガールを感心して見つめた。
「場所と時間は」
「午後一時から池袋駅の東口で、そのあとキッズファームの本社まえにいくつもりです。夕方からは仕事がいそがしくなるので、三、四時間しかできないけれど」
「そうか。じゃあ、おれも手伝うよ」
コモモは文字どおりその場でちいさく飛びあがった。ミニスカートからのぞくふとももがまぶしいくらいの丸さ。
「うれしい。ありがとうございます、マコトさん」
おれたちのほうを見ていたおふくろが、店の奥から片目をつぶってみせた。いい場面がぶちこわしだった。自分のおふくろにウインクされる気分を考えてもらいたい。
おれもうちの店のまえでDV反対のビラでもまこうかな。
◆
おれとコモモが初めて街に立ったのは日曜日だった。あいにくの曇り空で、すこし肌寒い午後だったが、人出は申し分がなかった。池袋駅の東口は人の足でほとんど歩道が見えないくらいの混雑だ。
おれたちはパルコのまえで、カットハウスやサラ金のチラシ配りといっしょにキッズファームへの告発文を手わたししていった。あんたもよくわかってると思うけれど、ビラを受け取ってくれるのは、せいぜい十人にひとりくらい。たいていのやつは、さしだした手を無視するか、振り払うようにする。
東京ではもう情報など誰もほしくはないのだ。どんなことが書かれていても、街で配られている情報などたくさんだ。自分のことでいそがしいし、押しつけられる情報なんてろくなもんじゃない。
それでもおれたちは二時間かけて、百五十枚ほどのビラをまいた。ここでもおれよりは凄腕キャッチのほうが優秀だった。おれの倍のペースでばらまいていく。腕時計を見た。コモモがいった。
「そろそろつぎにいきましょう」
おれの足は棒のようになっていたが、コモモの決意にはなんの変化もない。この女とつきあったら、男は苦労するだろうなと思った。それだけは中国人でも日本人でも変わりはないだろう。
◆
グリーン大通りはJR池袋駅からまっすぐに護国寺まで延びる東口のメインストリートである。両側にイチョウやケヤキの並木がそろい、端正なオフィスビルが妙な統一感をもって数百メートルも続いている。
空は湿った灰をまいたような曇り空だった。東京では抜けるように硬い青空は冬の印で、空が鈍く灰色がかったら春がきた証拠なのだ。楽に二台の車がすれ違えそうな広い遊歩道を歩きながら、おれはコモモにきいてみた。
「なんで日本の企業と話をつけようと思ったんだ」
コモモは残念そうにいう。
「中国で異議申し立てができればよかったのですが。どの工場でも同じ状態では、説得力がありません。警察も司法も新聞も、党の味方なのです。どこかに方法がないかと探しているときに、日本人の観光客を案内しました。わたしは地元ではガイドをやっているのです。ニッキー・Zと工場の話をしたら、日本にいくといいとその人が教えてくれた。日本では党ではなく、消費者が一番えらい。子どもたちの遊ぶ人形が、そんな環境でつくられているなら、みんな関心をもつだろう。資本主義の世界なのだから、お金の流れる上流から圧力をかけるほうがいいと」
どこにでも頭のいいやつがいるものだ。コモモの横顔を見ると、やわらかな笑みにとろけていた。なるほど。
「で、そいつとコモモは今でも、つきあっているのか」
コモモはあわてて手を振った。こういうときには若い女は世界のどこでも同じかもしれない。
「つきあっているなんて、とんでもない。彼は名古屋に住んでいるし、奥さんもいるし、月に一度くらい会って食事をしたりするくらいです」
顔を赤くして、コモモはいった。純情なのだろう。こんなふうに照れる若い女を久しぶりにおれは見た。ビラ配りなどやめて、このまま春の雑司ヶ谷霊園(葉桜が見事なのだ)でも散歩したくなる。歩道の先にたいへんな人だかりが見えてきた。コモモは表情を引き締めていう。
「到着しました。キッズファームです」
おれも目をあげて、鈍い曇り空を一段青く映すガラスのビルディングをにらんだ。
◆
キッズファームの本社屋は、ハーフミラーで包まれた九階建てのインテリジェントビルだった。正面の壁面には、一辺が十数メートルはある黒い布が張られてダブルベッドほどの幅の金のリボンがかけられていた。4・23、ニッキー・Zになにが起こる? ここでもウエディングキャンペーン一色だった。
一階の天井は五メートルほどの高さの吹き抜けになっていて、受付と自社製品のショールームを兼ねていた。人だかりはすべて、ニッキー・Z人形のブースに集中している。本社限定販売の特別モデルと有名デザイナーの衣装が売られているのだ。
小学生くらいの女の子と若い母親が、同じようなセクシーなへそだしのコスチュームで行列をつくっていた。誰もが手に人形をもっている。おれはひどく場違いなところにはいりこんだ気がした。コモモが声を抑えていった。
「いきましょう、マコトさん」
遊歩道の人波に突入すると、キッズファームと人形の製造工場への告発文を配り始めた。おれはやけになって、思い切り陽気に叫んだ。
「みなさーん、かわいいニッキー・Zの誰も知らない秘密を書いたチラシがありますよ。お友達にもあげてくださいねー」
小学生の女の子がおれのところに殺到する。NHKの体操のお兄さんにでもなった気がした。まあ、相手が子どもならおれの爽やかさがものをいう。コモモとおれはちいさな段ボール箱とキッズファームの玄関先を何度も往復し、ビラをまいた。
そのうちにショールームでも、おれたちの動きに気づいたようだった。最初にやってきたのは、ピンクと紫の六〇年代風のタイトなワンピースを着たコンパニオンだった。おれのまえに立つと困った顔でいう。
「あの、なにをなさっているんですか」
おれはとっておきの笑顔をつくり、つけまつげをした巻き髪のコンパニオンにビラを十枚ほどまとめてわたしてやった。
「こいつはニッキー人形の誕生の秘密だ。会社のえらいさんに見せてやってくれ。全部、真実だし、おれたちはこれから毎日ここに顔をだす。池袋の駅まえでもこのビラを配る。それが嫌なら……」
おれはコモモの必死の表情を見た。どんな言葉が適切なのだろうか。そこで思いだしていう。
「……どうすればいっしょにただしいことができるのか、おれたちと話しあってくれ」
女はなにをいっているのかわからないという顔で、ビラをもってガラスの巨大な自動ドアをくぐった。コモモとおれは声をあわせた。
「ニッキー・Zの誕生秘話が書いてあるよ。無料パンフレットです。どうぞ」
やはり広告理論のいうとおりだった。メッセージは絞りこまれたターゲットにピンポイントで送ったほうがより効果的なのだ。もみくちゃになりながら、ビラを配るコモモにいった。
「もう駅まえはしんどいからやめよう。明日からはこの本社まえだけでいいよ」
凄腕キャッチは闘いの顔のまま、おれにうなずき返した。
◆
反応はコンパニオンがもどって、五分後にあらわれた。濃いグレイのモード系のスーツを着た男が、両手をまえに組んでおれたちのまえに立った。アラン・ミクリの薄い四角のしゃれたメガネに、はらりと額に落ちたまえ髪。三十歳若ければ学園ドラマの嫌味な学級委員役が似あいそうな中年男だった。うしろには体格のいい男性社員がふたり、センスのかけらもない紺のブレザー姿でこちらをにらんでいる。中年男はていねいに頭をさげていった。
「どのような事情があるかは存じあげませんが、このような中傷文を配られては、当社としても困ります。来週にはニッキー・Zの結婚式も控えておりますので、今は大切な時期なのです。ここではなんですから、社内でお話をおきかせ願えますでしょうか」
こんな丁寧語をきいたのは何年ぶりだろうか。おれが目をやると、コモモはうなずき返してきた。おれも男に負けないようにいった。
「わかりました。おれたちもあなたがたの主力商品に傷をつけたくて、こんなチラシをまいているわけじゃない。望むところです」
コモモはおれに寄り添うように金のリボンがかかった自動ドアをとおり抜け、おしゃれでセンスのいいおもちゃ会社のなかにはいった。
◆
磨き抜かれた白い大理石の床。ヤシノキは高い天井に届きそうなほどのおおきさで、緑の影を淡く落としていた。数百種類のニッキー・Z関連商品が、高級ブランド店のようにガラスケースや手のこんだ木製の棚に並んでいた。なかには頭からすっぽりとかぶれるニッキー・Zマスクなんて、パーティグッズまである。
ちらりと横目で鍵のついたケースを見る。十八金ピンクゴールドの機械式クロノグラフ腕時計。メイド・イン・スイス。文字盤にはちいさなダイヤモンドが光り、ニッキーの顔が細かなレリーフで虹色に浮きあがっている。大人用が九十五万円、子供用が七十五万円。誰が買うんだ、こんなもの。
おれは週給八百円で走りながら死んでいった小栄を思いだし、ため息をついた。世界はとことん不平等で、非対称につくられている。こまかな格子に仕切られた幅十メートルもあるガラスケースのなかには、世界中のあらゆる民族衣装を着せられた人形が標本のように飾られていた。なかには絹のチャイナドレスや黒いサテンのチャドルで目だけだしたニッキー・Zもいる。これはなにかの皮肉なのだろうか。
おれが口を開けて見ていると、インテリ風の中年男がいった。
「お気にいりのものがあるようでしたら、お帰りの際にさしあげますよ。こちらへ、どうぞ」
◆
おれたちが案内されたのは白い廊下の奥にある窓のない部屋だった。壁も床も真っ白で、テーブルも椅子も白だった。おまけに天井の四隅についた監視カメラのカバーも白。白ずくめの監房である。クレーマーのようなしつこい客を一般の客から隔離して対応するための特別室なのだろう。おれたちと男はテーブルをはさんで対峙した。すぐに紅茶がポットにはいってでてくる。キザな男は立ちあがって、両手で名刺をさしだした。おれもあわてて席を立ち、受け取る。潟Lッズファーム広告部部長、中西高彦。メガネを直すと、微笑と困惑の中間の表情でいう。
「このチラシは拝読しました。確かに当社では深※[#「土+川」、unicode5733]市の高興有限公司に、ニッキー・Zを発注しています。ですが、あの会社はわたしどもの子会社ではありませんし、資本提携の関係にもありません。独立した企業なのです。得意先であるというだけの理由で、他国の独立企業の労働条件や福利厚生まで口をだすことは、残念ながら当社では不可能です。あなたがたのご期待にそうことはできません」
コモモは席を立ちそうにまえのめりになった。てのひらで机をたたく。
「でも、わたしの姉はニッキー・Zをつくるために死んだんです」
おれはコモモの手を押さえた。耳元でいう。
「ここで乱暴なことはしないほうがいい。すべて映像に残されるんだ。ティーカップを割るだけで、器物損壊の罪になるぞ」
おれはあらためて、部長に目をすえた。
「中西さん、あんたがいうことは確かに筋がとおっている。でも、あの工場の売上の九割近くがキッズファームの仕事ですよね。影響力がまったくないなんて信じられません。そちらが正論でくるだけで、この件についてなんの対応もしないなら、おれたちはこれから毎日このビラを本社まえで配ります。あそこは公道だから、抗議活動だって自由ですよね。なんなら順番に東京中のおもちゃの量販店のまえで、ビラを配ってまわってもいい」
中年男のメガネの奥で目が鋭くとがっていった。ようやく本性がでてきたようだ。それでもひるまずに灰色スーツの男はいう。
「では、こうしませんか。深※[#「土+川」、unicode5733]の医者が発行した正式なお姉さまの死亡診断書と、工場での在籍記録を見せてください。わたしどもとしては、このビラだけを根拠にうえに話をあげることはむずかしいのです。お待ちしていますから、正規の書類をそろえてください」
頭のいい男だった。そんな書類をそろえているうちに、4・23の世紀のイベントは終了してしまうだろう。コモモは困った顔をしていた。
「わかりました。そちらのほうも手配します。ですが、準備のあいだも抗議活動は休みませんよ。このチラシはマスコミ各社にも送付します」
広告部長の顔がいっそう険しくなった。だが、やつはひるまなかった。タフな交渉人だ。
上着の内ポケットに手をいれて、なにか取りだす。白いテーブルのうえを滑らせた。
「本日は有益なお話をきかせていただきました。お礼とここまでの交通費に、ぜひ」
おれはなにも書かれていない白い封筒を取りあげた。なかを確かめる。薄手の住所録ほどの折り目のない一万円札が、ぴしりと角をそろえていた。コモモと目を見あわせる。封筒を押し返していった。
「おれたちはこんなもののために動いているわけじゃない。いこう、コモモ」
なかにあるものをなにひとつ傷つけないように、おれたちは慎重に白い部屋をでた。
◆
キッズファームをでて、遊歩道からインテリジェントビルを振り返った。きれいに磨かれたガラスの壁面にはわずかな傷さえついていないようだった。
「医者の診断書とか工場の記録なんかは手にはいるのか」
気の抜けた顔でコモモは返事をした。
「親に頼んで手配をしてもらうことはできるけれど、いつになるのかわからない。それに工場は嫌がって書類をだしてくれないかもしれない」
「どっちにしても、もっとあんたの姉さんの情報が必要だな。写真とか同僚の証言とか。集められるものは全部こちらに送るようにいっといてくれ」
おれたちは疲れていたが、本社屋のなかにはいったことで妙に興奮してもいた。ショールームから歩道にかけて、限定版の人形を買おうという行列がカラフルに延びていた。おれはそのなかにGボーイズの集会で顔なじみの女を見つけた。
「よう、なに並んでるんだ」
くるくるカーリーヘアのGガールが、青いラメいりジャンプスーツのニッキー・Zを胸のまえにかかげた。ペアルックなのだろう。女も同じ刺繍のはいったスーツ姿だった。
「マコトさんもニッキー好きなんですか。今日は春の新作衣装の発売会なんですよね」
ちらちらとコモモに視線を走らせる。おれの肩をつついていった。
「彼女? なんだかきれいっぽいけど」
コモモは笑ってなにもいわなかった。
「新しい仕事仲間。それより4・23ってなにかおおきなイベントがあるんだろ」
Gガールはとんでもなくでかいリアクションを見せた。こんな女と話しているところをおふくろに見られなくてよかった。
「やばいですよ。このショールームに昼のワイドショーのテレビカメラがはいるらしいし、日本中ニッキーとMCフライの結婚で話題もちきりになるんじゃないですか」
平和な国の空騒ぎ。
「生中継か。なんだかいいにおいがしてきたな」
長引けばおれたちに不利だ。今回はなんとかして4・23に決着をつける必要がある。キャンペーンの山場、全国の注目が集まっているときこそ、攻撃のチャンスだった。短期決戦のヒット&ランでいこう。
駅への帰り道、ぶつぶつとひとりでなにかつぶやいているおれを、コモモは心配そうに見ていた。まあ、女からおかしな目で見られるのはいつものことなので、ぜんぜん気にはしなかったけどね。もてないのは慣れっこだ。
もてもてのMCフライ人形とこのおれ。ここにも絶望的な非対称。
◆
おれの予想は甘かった。キッズファームのような大企業が黙っているはずがなかったのだ。その日の夜、店を閉めているとおれの携帯が鳴った。
「マコトさん」
コモモのおびえた声だった。
「どうした」
「あれから通りに立てなくなった。今日はうちの店、ぜんぜんお客がはいらない」
なぜだろうか。おれにも事態がわからなかった。
「北口でなにか変わったことがあったのか」
「警察官がたくさん歩いている。立ちどまって男の人に声をかけようとすると、すぐにおまわりさんがくるから、お客をひとりも拾えなかった。わたし、歩合制だからこの調子じゃ暮らしていけなくなる」
「わかった。あとで折り返す」
おれは通話を切って、腕のGショックを見た。夜中の十二時まであとわずか。ちょっと遅いだろうかと心配になりながら、池袋署生活安全課の吉岡の番号を選択した。恐ろしく不機嫌な声がもどってくる。
「……はい」
おれはできるだけかわいい声でいった。
「おれ、マコトだけど、ちょっといいかな」
不機嫌な声がさらに不機嫌になった。がさがさと薄い頭をかきむしる音。
「すぐにすむから、そんなに髪を抜かないでくれ」
「こっちは裸で、これから風呂だ。寒いから早くしろ」
おれはタオル一本でまえを隠す吉岡を想像してしまった。イメージを簡単に削除できるデリートキーが人間にもあればいいのに。
「今日の夕方から北口で妙にキャッチの取締りが厳しくなったみたいだけど、なにかあったのかな」
「ああ、あれな。地元の住民から匿名でたくさん通報があってな。チャイニーズ・ヘルスのキャッチがしつこくてかなわない。なんとかしてくれ。警察ってのはな、住民から十本も苦情の電話を受けたら、動かざるをえないんだよ。こんなもんでいいのか」
おれは最後にきいてみた。
「その通報って、キッズファームから受けたわけじゃないよな」
「キッズファームってなんだ」
流行にはとことんうとい刑事。
「いや、別にいいんだ。ゆっくり汗でも流してくれ」
吉岡の電話を切って、終電間際の西一番街に目をやった。静かな春の夜で通行人はほとんどいなかった。ネオンや街灯が淋しい明るさで、街を照らしているだけ。チラシを手にしたキャッチは通りのあちこちに立っているが、西口のほうでは営業に支障はまったくないようだった。おれはコモモに電話して、事情を説明した。凄腕キャッチはため息をついていった。
「今月はなんとか暮らせるけど、来月にはいったら生活費があぶなくなります。なんとかしないと……身体を売るのは嫌だけど」
「やめとけ、そんなことのために日本にきたわけじゃないだろ。キッズファームのやつらが知ったら、またいいようにやられるぞ。それより二十三日までにケリをつけるんだ。おれに考えがある」
おれたちはつぎの日の午後一時に、東口のパルコまえで待ちあわせの約束をして通話を切った。つきあっているわけじゃなくても、美人におやすみといって一日を終えるのは悪くない気分だ。
◆
月曜日はまた春の鈍い青空。おれは店開きをすませてから、パルコにむかった。今年のカラーはさまざまなトーンのグリーンのようで、ショーウインドウのなかには緑の服を着たマネキンがたくさん突っ立っていた。背景は鮮やかな菜の花の鉢植え。洗練されている。おれはウインドウのへりに腰かけて、コモモを待った。
仕事にあぶれたキャッチガールはなかなかやってこなかった。電話しようかと携帯を抜いた十五分後、両手にピンクのハイヒールをさげて、裸足で池袋駅まえをふらふらと歩いてくる。片方の頬が薄く内出血していた。
「どうした、コモモ」
コモモはおれの顔を見て安心したようだった。たくさんの通行人がいきかうなかで、しゃがみこんでしまう。おれはひざをついて、震える肩に手をおいた。
「なにがあったんだ。話してみろ」
コモモは必死で涙を落とさないように耐えていた。打たれた頬はまえ髪を垂らして隠している。
「線路をくぐる地下道の手まえで、男たちに襲われた。ビラのはいった段ボール箱を取ろうとしたけど、わたしはつかんで離さなかった。そうしたら思い切り頬をたたかれて、突き飛ばされた。日本の黒社会のやつら。見て」
コモモはハイヒールをあげて見せる。片方のヒールが根元からはがれていた。
「そうか。キッズファームも必死だな。ここで待ってろ。瞬間接着剤、買ってきてやる」
おれは近くのコンビニにむかいながら考えた。きっと昨日の帰りに誰かが、コモモのあとをつけていたのだろう。住まいと仕事はすぐにばれて、やつらの嫌がらせが始まった。何億円ものキャンペーン費用をかけて一大イベントを盛りあげようというときに、怪しげな中国娘がでてきて告発文をファンに配り、マスコミに送るというのだ。やつらが理不尽と思うのは無理もなかった。
だが、押し潰せる障害なら、丸ごと粉砕して利益だけ極大化しようというキッズファームの体質には問題があるはずだった。利益率をあげるために、無理な発注をする。それがまわりまわって、中国の南西部でつぎの小栄を生むことになるのだ。
おれは見事なショーウインドウを横目に見ながら、複雑な気分だった。おれたちの社会では気ままな消費者でいることはもうできないのだ。安いから、かわいいから、便利だからというだけでは、十分ではない。自分でなにかを選んで代価を払うとき、その買いものが地球上の遥かに離れた場所で引き起こすバタフライ効果を予測しなければならないのだ。あんたの買いもので、どこかの国の子どもがひとり命を落とすなんて、嫌だろう。
ショッピングは優れて倫理的にして、哲学的な難題になりつつある。
おれはコンビニで、これを買うことで誰かを苦しめませんようにと祈りつつ、接着剤を購入した。
◆
それでも、コモモとおれはめげなかった。コモモのアパートは、風呂なしの四畳で、北口から歩いて十分。おれたちは湿った畳のうえで、新たに三百枚をガリ版で刷りあげて、街にでる。箱にではなくビニール袋にいれたビラを、おれはジーンズのウエストに押しこんだ。
宣戦布告の意味もこめて、グリーン大通りのキッズファームにいった。
「ニッキー・Zの秘密だよ」
日曜日の半分ほどの長さになった行列にビラを配る。広告部長はガラスのむこうから、感情の読めない視線でじっとこちらを見つめてきた。おれは瞬間接着剤をビラに塗ると、やつの目のまえに貼りつけてやった。
ガードマンが飛んでくるまえにコモモにいった。
「いこうぜ。ここはもういい。つぎは郵送だ」
空は今にも雨の降りそうな重苦しい銀色に変わっていた。おれたちはさっさと西一番街にもどった。コモモの腫れた頬を見て、おふくろは顔色を変えた。
「まさかあんたがやったんじゃないだろうね」
コモモは力なく首を横に振った。
「部屋で作業がある。うるさいから、顔ださないでくれよ」
おれの四畳半にあがり、マスコミの住所録をネットで調べた。思いつく限りのニュース番組の名前を書いた封筒に、あのビラと小栄の写真のコピーをいれていく。連絡先はおれとコモモの携帯にした。
こんな餌でやつらがくいついてくればいいのだが。一枚の紙切れと広告の大スポンサーでは、だいぶ分がわるいと思った。
◆
今回のケースはテーブルのしたで足を蹴りあうような泥仕合だった。おれがいつも相手をしているストリートのガキどもは、腕っ節はつよくてもさして頭がよくない。だが、キッズファームの対応は陰湿で、しつこかった。
コモモが真っ青な顔でうちの店先に立ったのは、その日の真夜中である。夜になって音もなくあたりをびしょびしょに濡らす春の雨が降っていた。コモモは中国製の破れたビニール傘をなげやりにさしている。シャッターをおろそうとして気づいたおふくろがいった。
「どうしたの、コモモちゃん」
コモモはもう涙を隠さなかった。
「おかあさん、マコトさん、わたしはキャッチの仕事、首になりました。もう来月から暮らしていけないです」
おふくろはコモモを二階にあげて、バスタオルで濡れた肩と髪をふいてやった。しゃくりあげるコモモの話を総合するとこんな調子。
警察への通報とコモモ襲撃に続いて、やつらがつかったのは一本の電話だった。本社まえでおれたちがビラまきをしているとき、コモモの働くチャイニーズ・ヘルスに垂れこみがあったのだ。おたくのキャッチガールが、地元の立派な大企業と問題を起こしている。おかげで北口の風俗はあがったりだ。いつまでもあんな女を雇っているなら、警察の調べがはいるぞ。匿名の電話は突然切れて、ブルッたオーナーはその日のうちにコモモの首を切った。風俗営業は警察ににらまれるわけにはいかない仕事だ。事情を知らないオーナーを責めることもできない。
コモモは最後にいった。
「もうあきらめます。わたしはどこか別な街にいって、アルバイトを探すことにします。もうすこし日本で生活したいから、姉のこともキッズファームもすべて忘れます」
おふくろは黙ってコモモの肩を抱いていた。おれの腹の底からなにかがぐらぐらと沸きあがってきた。ちいさな正義を求めて、女ひとり数千キロを旅してコモモは、この街にきた。その返事がこれなのだろうか。正当な怒りも、ささやかな償いも、わずかな状況の改善さえなく、すべてを忘れて日のあたらない場所で隠れて生きる。
日本という国は、何万人というコモモのような人間を、ただの労働力としてつかい捨てにするだけなのだろうか。それでは深※[#「土+川」、unicode5733]の工場とこの国と、まったく同じことになる。おれたちは誰ひとりただのベルトコンベアではないし、人形の頬を染めるスプレーマシンでもないはずだ。おれはコモモにいった。
「わかったよ。だけど尻尾を巻くのはいつでもできる。4・23までは姉さんのために闘ってやらないか。やつらだって、あんたの姉さんのことはよくないことだとわかってるんだ。そうでなきゃ、こんなに必死になってコモモを潰そうとはしない。いいな、やつらも怖がっているんだぞ」
おふくろが目をあげて、おれを見た。黙ってうなずく。コモモもまだ腫れの残る顔をあげた。
「わかりました。あとすこしだけ、がんばります」
おふくろが明るい声をだした。
「そうと決まったら、今夜からうちに泊まっていきな。コモモちゃんはあたしの部屋で寝ればいい。あんな飢えたオオカミには手をださせないから安心しな」
おかあさんといって、コモモは泣きながらおふくろに抱きついた。なぜか知らないが、おれのまわりにいる女たちはみな抱きつく相手を間違えるのだ。ここにひとりMCフライの何十倍もリアルでいい男がいるのに。見る目がないのは困ったことだ。
◆
その夜、おれは池袋のホットラインを使用した。ガキの王様にまっすぐつながる携帯の生命線だ。取りつぎから代わったタカシにいった。
「水曜の夜に定例の集会があるよな」
タカシの氷は四月の終盤になっても、すこしも角を丸めていなかった。
「マコトが集会の話をするなんて、めずらしいな。今度はなんだ」
「ちょっと顔をだして、おれに話をさせてもらいたいんだ」
やつがおもしろがっているのがわかった。電話のむこう側の空気が急に冷えこんだからである。おれはコモモとキッズファームの闘いを手短に話した。タカシはふんふんと鼻の先で返事をしている。
「今回、金はぜんぜんないんだ。でも、コモモをなんとかしてやりたいし、キッズファームのやり口にも我慢できない」
タカシはあっさりという。
「それがおれたちの世界の常識でもか」
おれは力をこめていった。
「どんな常識も、どんな会社も、結局は誰かが考えてつくったものだ。間違いが絶対にないとはいえないだろ」
タカシは低く笑っていった。
「水曜の夜はおまえのタフさを、Gボーイズのガキどもに見せてやれ。ミーティングは東池袋中央公園で、夜十時だ」
通話は突然切れて、春の静かな雨音が四畳半を満たした。濡れた指先で全身を探られるようで、おれは春の雨は嫌いではない。おれはもう一度『マルコ・ポーロ』をききながら、明後日のスピーチの草稿を練った。こうなったら、池袋の王様のスピーチライターにでもなろうかな。やつなら一本いくらのギャラをくれるのだろうか。
◆
曇り空はなんとかもちこたえて、集会の夜になった。二日間、おれとコモモは昼のあいだ十時間以上も池袋の街で、ビラまきを続けた。夜十時十分まえに公園に到着したときには、植栽の先にある噴水のまえには二百人を超えるGボーイズ&Gガールズが集合していた。女たちの半分近くはニッキー・Zをもっている。もともと黒人系のストリートファッションの影響が濃いGガールズには、ソウルディーヴァ人形はどんぴしゃの企画で、流行に最初に火がついたのもこの街からなのだ。
何年かまえに京一が奇跡のダンスを見せた噴水のへりに立って、タカシが声を張りあげた。白い軍パンに襟ぐりのたっぷり開いたシルクニットのセーター。首にさげたリングつきのネックレスはきらきらと街灯の光りを散らす。
「今日は最初にマコトから話があるそうだ」
おれはコモモの背中を押して、ひざほどの高さの石組みをあがった。コモモはぺこりと日本人のようにお辞儀をした。おれは抑えた声でいった。
「深※[#「土+川」、unicode5733]からきた紅小桃だ。こいつの姉貴は、おまえたちがもっているニッキー・Zをつくっている工場で、去年の夏に殺された。コモモ、話してやれ」
おれがどれほどの数の言葉をつかうよりも、実の姉をなくしたコモモのひと言のほうが効果がある。まして、今回口説き落としたいのは、Gボーイズではなくガールズなのだ。風のない日の水面のように静まり返ったギャングたちに、コモモは社会学的に世界の果てにある奴隷工場の話をした。見あげるとたっぷりと墨を吸った空に、まだらに光りを残したサンシャイン60が四角く刺さっている。まだ夜は始まったばかりだ。
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コモモの話が終わったときには、何人かのGガールズがニッキー人形を公園の路上においていた。誰かの血と汗の染みたおもちゃなど、いつまでも抱いていたくはないよな。おれはコモモのあとを受けていった。
「金曜日には、ニッキー・ZとMCフライのウエディングイベントが、そこのキッズファーム本社ショールームで開かれる。昼のワイドショーのカメラがはいるそうだ。そこでおれたちは、小栄の死を全国の主婦に知らせたい。今回、男たちはいいんだ。誇り高いGガールズにお願いしたい。金にはならないが、コモモと死んだ姉貴のためにひと肌脱いでくれないか」
そのときひとりのGガールが右手をまっすぐにあげた。日曜日にキッズファームで行列に並んでいたジャンプスーツの女だった。
「もちろんあたしはいくけど、いったいなにをすればいいの」
おれはにこりと必殺の笑顔を見せてやった。女たちの誰も倒れないのが不思議だ。
「みんなにはいつもより思い切り派手な格好で集まってもらいたい。池袋にGガールズありと、全国の女たちに示してほしいんだ。ともかく目立ってくれ」
いまだにヤマンバメイクの女が叫んだ。
「ほんとに思い切りやっちゃっていいの。すごく楽しそうなんだけど」
おれは寝ぼけたままの春の夜空に両手をあげた。新庄剛志にでもなった気分だ。
「思い切りやっちゃってくれよ」
Gガールズから自然に拍手が湧いた。タカシとハイタッチをしてから噴水をおりる。池袋の王様はおれに微笑んでいた。おれの耳元でささやく。
「おまえはあいかわらずアホをのせるのがうまいな」
おれは右手を胸にあて、腰を軽く折った。
「陛下の足元にもおよびません。ところでタカシ、スモークフィルムを張った車を一台貸してくれないか」
やつはうなずいて、その夜最初の議題に移った。
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木曜日はあたたかな日ざしがもどった。おれとコモモはビラまきを休んでいる。明日はいよいよ世紀のイベントなのだ。今日一日なにも動きがなければ、相手だって油断するかもしれなかった。
午後には衣装あわせをした。コモモはあのGガールから青いラメいりジャンプスーツを、おれはそいつのボーイフレンドから同じものを借りて着た。おれのほうはともかく、スタイルのいいコモモにはチャーリーズ・エンジェルのようによく似あっていた。おれは鏡のなかで頬を赤くする中国娘にいった。
「嫌かもしれないけど、こいつを抱いてみな」
同じデザインのスーツを着たニッキー・Zをわたしてやる。コモモはまんざらでもない顔で、人形を胸に抱え、鏡をうっとり見つめている。
「みんなが盛りあがるのがわかります。わたしも日本に生まれていたら、この人形が好きになっていたかもしれない」
おれは肩をすくめてなにもいわなかった。資本主義は確かに楽しい。毛沢東のいうとおり、走資派の毒は甘い毒である。
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歴史的な4・23は快晴で始まった。夏を思わせる日ざしが池袋の街に注ぎ、昼すぎには気温二十五度を超える夏日を記録した。二時のワイドショーにあわせて始まるイベントのために、おれたちは四時間もまえからキッズファームまえの遊歩道に場所を取った。
集まったGガールズは約五十名。かなり過激なクラブファッションで、肌の露出も抜群だった。肩やふとももにはトライバル系のタトゥーなんかもはいっている。迫力満点。
おれとコモモは何組かのカップルといっしょに、ニッキー・Zのフェイスマスクをかぶって、Gガールズに混ざっていた。夏日にゴムマスクなんてかぶるものじゃない。拷問のようだ。おれは顔から滝のように汗を流していた。
正午にテレビクルーが到着した。カメラが一台、レポーターと音声と照明、ディレクターにアシスタントディレクターがふたり。なぜテレビの中継って、あんなに人が必要なのだろうか。
同時にキッズファーム本社から、何人かのガードマンと広告部の人間が外にでてきた。テレビ局の男たちとおもちゃ会社の男たちは、ぐるぐるとまわって挨拶をしている。あのキザな広告部長は全員に名刺をまくのを忘れなかった。
三十代前半の若いディレクターが、おれたちのグループにちらりと視線を流した。おれはGボーイズのハンドサインをだした。女たちは急にその場で飛びあがって、チアリーダーのような息のあったダンスを始めた。原色のポンポンも用意してある。
「N・I・K・K・I・E・Z、ニッキー・Zが最高!」
空中で百八十度開脚をした元新体操部のGガールの足を、四人がかりで支えてフィニッシュを決める。ディレクターはうなずいて、声をかけてきた。
「きみたちは、どういうグループなのかな」
Gガールのひとりがいった。
「わたしたち、池袋の熱狂的なニッキー・Zファンクラブなんです。地元だし、イベント盛りあげようと思って集合しちゃいました」
イエーという元気な歓声が続いた。ディレクターはレポーターになにかひそひそと話している。やたらとポケットの数が多いハンティングジャケットを着たディレクターが、おれたちのところにきていった。
「番組のはいりのところで、うちのレポーターがみなさんを紹介するから、さっきのダンスをもう一度やってくれないかな」
イエー、五十人が声をそろえる。今回は心底からの歓声になった。
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本番の時間はすぐにやってきた。Gガールズはキッズファームのガラス扉のまえに並ばされた。レポーターはこの場でいかに人形が支持され、地元が盛りあがっているか紹介してから、本社のショールームにはいっていくのだ。
そこには金のリボンをかけられた黒い箱がおいてあり、なかには等身大のニッキー・ZとMCフライがはいっている。女の人形はダイヤモンドをちりばめた時価三千万円の白いウエディングドレス、男は白いタキシードだという。くだらない話。
社長のカウントダウンと同時に箱は開かれ、ウエディングパーティが始まるのだ。中途半端なタレントやCMにでているだけのモデルや女優が、すでにたくさん会場には集まっている。簡単なリハーサルが終わると、五分ほどで本番だった。女性レポーターの声は、半音高くなり、必死の調子になった。日ざしはもう夏だ。風も心地いい。絶好の生中継日和。
「池袋のキッズファームまえからライヴでお送りしています。今日はみなさん、なんの日かわかりますか」
おれたちのほうを振りむく。誰もニッキーのウエディングとこたえなかった。レポーターは真っ赤な顔になっていた。Gガールズはさっとふたてに分かれ、おれとコモモを守るような隊形を取る。ちいさな声でディレクターが叫んだ。
「どうしたんだ」
おれとコモモはニッキーのフェイスマスクを脱ぎ捨てた。コモモはカメラにむかって血まみれのニッキー・Z人形と引き伸ばした紅小栄の写真を突きだした。写真は二枚。ひとつはうつくしい笑顔、残りは誰が見ても死んでいるとわかる解剖台のうえの死体だった。コモモは口早に叫んだ。
「わたしの姉は中国にあるニッキーの工場で殺されました。ファンのみなさん、この人形は中国の女性たちの血で濡れています。工場の環境をよくするために、力を貸してください。キッズファームに今すぐ抗議の電話をしてください。もう人形のために人が死ぬことがないように」
生放送はパニックになった。現場では誰も状況を正確に把握しているものはいないようだ。ガードマンがGガールズに突入したが、テレビカメラのまえで女をなぐるわけにもいかない。もみあっているだけ。最初に事態収拾に動きだしたのは、あの広告部長である。灰色スーツの裾をなびかせ、青ざめたレポーターに近づき、マイクにむかっていった。
「このかたは中国から、現地工場のたいへんな状況を知らせにやってきてくれました。わたしどもの会社としましても、事態を深刻に受けとめ、きちんと調査をして、全国のファンのみなさまにご報告するつもりです。紅さん、今日はどうもありがとうございました」
カメラから顔をそむけると、刺さりそうな視線でおれとコモモをにらみつけた。おれはやつの目のまえで、つぎのハンドサインをだしてやった。五十人の声がまたそろう。
「ニッキーは人を殺さない。ニッキーは人を殺さない。ニッキーは人を殺さない。イエー」
そのあとでさらに七分間続いたお昼のワイドショーの内容については、おれはぜんぜん知らない。なにせ生中継の現場にいたからね。おれたちは中継が終わるまえにその場を撤収していた。逃げ足が速いのは、この街で生き残るための絶対条件なのだ。
タカシは通りの反対側にとめたシヴォレー・アストロから、おれたちのほうを眺めていた。スモークフィルムの張られたヴァンのなかには、いざというときのための戦闘要員も準備していたのだ。だが、今回その必要はなかった。仕事というのはいつも、こんなふうに血を見ずにスムーズにいきたいものだ。
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その日の夕方には、中西部長からコモモの携帯に電話がはいった。目白のフォーシーズンズホテルに部屋を取ったという。発注先の労働条件を審査する委員会を社内に設けたので、コモモに証人として発言を求めたいそうだ。
おれはとっさの機転であの場を救った広告部長を、実は見直していた。やつは社内の動揺をなだめ、半日のあいだに方針を転換させたのだ。見事な変わり身だった。将来の社長候補は間違いないところだろう。
その日の夜には、おれはダットサンでコモモを高級ホテルまで送ってやった。数人の男といっしょにキザな中年が暗いロビーで待っていた。にこやかに笑ってコモモを迎え、握手をする。おれには握手は求めないが、口の端でいった。
「きみには見事にやられたよ。今度わたしのしたで働いてみないか。きみならすぐにブロック長くらいになれると思うんだが」
なぜか、おれの実力をわかってくれるのは、この手の男ばかりだった。おれが笑って首を横に振ると広告部長はいった。
「あのときの封筒がまだ内ポケットにはいっているんだが、やはりいらないのか」
おれはやつにむかって手をさしだした。受け取るためではなく、握手のための手だ。つい数時間まえまでは敵同士だったおれたちは、しっかりと握手をした。これも資本主義の世の習い。個人の感情よりもビジネスが優先されるのだ。この男になら中国の会社だって申し開きはむずかしいことだろう。
「さっきのあんたの台詞、見事だった。でも人形はやっぱり誰かが倒れて死ぬような場所じゃなく、ゆとりのある工場でつくったほうがいいよ。そのほうが世界中のファンも納得すると思う。金はおれじゃなく、コモモにやってくれ。なにせ今、失業中だから」
社員の誰かがコモモのバッグをもってやっていた。昨日までの虫けらのような扱いとは正反対。ホテルマンがやってきて慇懃《いんぎん》に会釈する。
「お部屋にご案内します。こちらへ、どうぞ」
コモモはおれについてきてほしそうな顔をした。
「ここからはあんたがひとりで闘っていくんだ。なにかあったら、うちの店にこいよ。できることなら、また手伝ってやるからさ」
コモモはおれをじっと見つめて、朝日に花が開くようにスローモーションの笑顔をみせた。
「わたし、日本の男大嫌いだった。スケベでケチで、わたしの国のことバカにして。でも、マコトさんみたいな人もたまにはいるんだね。この話しあいが終わったら、わたしの部屋に遊びにきてね。いっしょに、おいしいものたべよう」
おれはしっかりとうなずいて、ホテルのロビーをでた。イタリア製の大理石とか金メッキとかマホガニーのカウンターに、致命的なアレルギーがあるのだ。高級ホテルなんて落ち着かない。
キーホルダーを振りまわしながら、スニーカーでうちの店のピックアップトラックにむかった。春の風はやわらかいだけでなく、つぎの季節の焼けつくような熱も予感させてくれる。ホテルの建物のむこうでは、日本庭園の緑が青く照明に浮きあがり、ドアマンは人形の兵士のように姿勢をただしたまま、おれに笑顔を見せた。
これもきっと労働者階級の連帯というやつなのだろう。春の終わりまでに、おれがコモモの部屋にいったかどうかは、日中の外交上の機密だ。だから一般論としてきいてほしいのだが、中国の女性はとてもとてもチャーミングである。
そいつを知らないあんたは不幸だ。
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反自殺クラブ
おれたちが生きているこの国では、毎日百人近い人間が音もなく消えていく。
そのうちのほとんどは報道されることもなく、身近な者以外には知られる機会もない。ただある日突然、そいつはこの世界から消えうせて、やつがいた場所に真空の傷を残していく。いっちまったやつは、まあいいだろう。だが、残された者はたまらない。
だってそこにあるのは、あらゆる疑問や感情を吸いこむ完璧な真空なのだ。なぜ、どうして、もっといっしょにいたかったのに。残された者が無数に投げる言葉は、ただ誰もいない空間にのまれていくだけだ。返事はない。解答もない。理解も、納得もない。永遠に続く一方通行の問いかけである。それは日々の暮らしのなかに口を開けた透明な深淵だ。永遠に閉じることのない傷口なのだ。
そいつはときとして、ガラスの牙をむき、残された者たちに襲いかかることがある。わかるだろうか。真空は伝染することがある。おれは日本中の父親にいっておきたい。あんたの子どもが十六歳以下だとすると、父親が自殺した場合、通常の何百倍もあんたの子どもの自殺性向は高まる。こいつは単なる統計的事実。あんたは、あんたの子どもまで自分と同じようになっても平気なのか。
いっておくが、おれは別に立派な人間なんかじゃない。説教するつもりはないし、自殺がいいことか、悪いことかといわれても、ほんとうはよくわからないところがあるんだ。ただおれの親しい誰かがそんなことをしたら、ひどく悲しくなるだろうと思うだけ。そりゃあ、きつかったのはわかるさ。おれたちはこのくだらない世界に生まれ、誰ひとり楽な人生を送るようには設計されていない。あんただって、すごくがんばってたもんな。でも、まわりのみんなに、こんなおみやげをおいていかなくたっていいじゃないか。
最初からしんみりした話になっちまった。だが、からからに乾いた梅雨からでたらめな猛暑の夏にかけて、おれがこの目で見た静かな死体の数をきいたら、あんただってきっと納得するはずだ。一酸化炭素中毒によるロウ人形のようにピンクに透きとおった死体の数々。この夏は思いだしたくもない集団自殺の夏だった。
おれはなんとか自分がむこう側に連れていかれなくてよかったと思うだけ。真空の力はそれほど圧倒的で、生きている人間を暗黒の宇宙空間に吸いだそうとする。そいつに対抗するには、おれたちは生きる力のすべてを集めて闘わなきゃならないのだ。
さあ、この夏の話を始めよう。今回はネットに巣をはる真空のスパイダーvs.反自殺クラブのネタ。スパイダーといってもハリウッドの特撮ものみたいに薄っぺらなマスクマンじゃないよ。やつはアニメのキャラではなく、自分自身も真空に傷つけられ、目を濡らしながら獲物を探していたんだから。
おれがどっちの手助けをしたかは、いわなくてもわかるよな。
もちろん魅力的な女性キャラがいるほう。真空に対抗するには、生きてることの甘い蜜が不可欠なのだ。あんたもこの話が終わったら、どこか怪しい街にでも遊びにいってくれ。女でも、酒でも、スイーツでもいい。
仕事だけでなく、日本の夏にはもっとドルチェ・ヴィータが必要なのだ。
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梅雨が終わるまえから気温が三十五度なんて、東京の夏はいよいよ壊れていくようだ。おれは西一番街の果物屋の奥にすわり、扇風機の熱風に吹かれていた。うちの店は流行のオープンカフェと同じスタイルなので、エアコンなんてつけてもまったくきかないのだ。カラータイルの歩道に水をまいても、はやまわしのフィルムのように見る間に乾いていく。残るのは摂氏五十度、湿度百パーセントの不快な空気の固まりだけだ。
スポーツ新聞を読めば、また東京のどこかで集団自殺のニュース。
記事はシンプルで、面積もわずか。このところ毎週のように集団自殺があるので、ニュースバリューがだんだん低下しているのだろう。江東区の埋立地で早朝に発見されたワゴン車のなかから、三人の遺体を発見。通報者は近所に住む住民で、犬の散歩中だったという。助手席の足元には練炭のはいった七輪。自殺はいまやレトロな手法がブームなのだろう。みんなが昔なつかしの練炭をつかいたがる。
おれは新聞から目をあげて、熱気にゆらめく池袋の駅まえを眺めた。この蜃気楼のむこうから絶世の美女でもあらわれてくれないものだろうか。ふたり空飛ぶじゅうたんにでものって、どこかの高原にいくのだ。そこでアダムとイブになり、禁断の木の実をくいまくる。なんか「禁断」という言葉ひとつだけでもいい気分だな。
「この店に真島誠というやつはいるか」
真昼の夢から目覚めて、顔をあげた。今度は現実の悪夢が目のまえに立っている。そいつは小山のようにでかい軍服男だった。
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したは米軍放出品のカーキのパンツに、黒い編みあげジャングルブーツ。汗の滴をびっしりと浮かべた上半身は、同じカーキのタンクトップ一枚。身長は百九十センチくらいあるだろうか。縦も横も規格外の男。長い金髪をたてがみのように垂らして、はるか上空からおれを見おろしてくる。装身具は左の耳にとよのかイチゴほどある大粒の銀のピアスがさがっているだけ。
「真島誠はいないのか」
おれがぼんやりしているとやつはもう一度そういった。ここはやっぱり他人の振りをしておくべきか。すると巨体のわきから、リスのように顔をのぞかせた女がいる。全盛期の小泉今日子みたいなとがったあごと明るい瞳。彼女も醒めた声でいう。
「真島誠さんが、この店にいるってきいたんだけど、知りませんか」
おれは暑さでぼけたアホ面に、精いっぱいの笑顔を浮かべ女にいった。
「マコトはおれだけど、なんの用」
女と男は高低差のある顔を見あわせた。(だいじょうぶなの、この人)。悲しいが、おれにも他人の表情くらい読む力はある。
それはおれに会ったやつが、いつも最初に浮かべる表情なのだ。池袋一繊細な店番であるおれは、心の奥で深く傷ついた。
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「池袋にすごく優秀なトラブルシューターがいるってきいてきたんだけど。街の裏とおもてにつうじていて、どんな人間も探しだせるし、難事件も解決できる。すこしおしゃべりだけど、頭脳明晰で……」
おれは目いっぱい鼻の穴をふくらませていった。
「頭脳明晰で、なに」
とがったあごの女は不思議そうにいう。
「けっこういい男だって」
おれはとんでもない自制心を発揮した。その場にひざまずいて、空のうえにいる誰かに感謝の祈りをささげるのはやめたのだ。金髪が上空でいった。
「いこう。噂は噂だ」
おれは立ちあがり、やつの目を見た。
「噂がほんとうかどうか確かめなくていいのか。どうせあんたもろくでもないトラブルをかかえてるんだろ」
つぎに冗談をいったらモンゴリアンチョップをくらわせられそうな目つきで、プロレスラーのような男がにらみ返してきた。女が小山のむこうからいった。
「話だけならいいでしょ、ヒデ、どいて」
うちの狭い店のなか、舞台を総とっかえするように男がひいて、代わりに女がまえにでた。黒いTシャツの胸には白いロゴ。ANTI−SUICIDE CLUB。ロゴは形のいい胸のせいで、ななめ前方に張りだしている。オープンカフェの白い日よけのようだ。小柄だが完璧なグラマー。
「わたしの名前は、西川瑞佳。うしろにいるのが、原田英比古。それに、お店の外にいるのが、島岡孝作。この三人がうちのクラブの主要メンバーなの」
おれは外の歩道を見た。小柄なガキがひとり、炎天下のガードレールに腰かけている。うなだれた首のうしろに日ざしが落ちていた。
「こっちに呼んだほうがいいぞ。あんなところにいると熱中症になる」
気温は日陰で三十六度。その日は殺人的な暑さだったのだ。女はガードレールでしおれた若い男を振り返るといった。
「それより、わたしたちの話を本気できく気があるの。あるなら場所を変えたいんだけど」
いくらひまでもうちの店にだって、たまには客がくる。そのときはめずらしく子ども連れの主婦が、四つ割りにした冷蔵スイカのケースを眺めていた。五歳ほどのガキが指でラップのうえから穴を開けようとする。おれは上品に注意した。
「そいつはおもちゃじゃなくて、くいものだぞ」
タイトなホワイトジーンズの主婦がおれをにらんで、子どもの手をひき店をでていった。
バッグはひとつ何十万もするエルメスなのに、三百円のスイカの切れ端を粗末にする。日本の教育はどうなっているんだろうか。この国の未来が心配だ。おれは黒Tの女にいった。
「それで、おれが話をきかなければ、どうなるんだ」
女は肩をすくめる。皮肉そうに唇の端をつりあげた。
「そうだな、またまとめて三人か四人死んじゃうだろうな。だからといって、それがあなたやうちのクラブのせいだってわけじゃないけど」
どうだっていいやという顔でそういった。おれは天邪鬼《あまのじやく》なので、逆にこういう態度のほうが興味をそそられる。要するにあんまり女のほうからモーションはかけないほうがいいってこと。
「わかった。話をきくよ」
おれは二階のおふくろにひと声かけて、返事を待たずに店をでた。待っていればまた小言のひとつも降ってくるだろう。うちの場合口が悪いのは、完全に遺伝なのだ。
まあ、すべてが遺伝するなんていったら、ヒデというプロレスラーもどきにその場で半殺しにされただろうが。
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おれとミズカが肩を並べ、そのうしろにヒデ、そのあとをすねた子どものようにコーサクがついてきて、おかしなフォーメーションはできあがった。むかうのはうちの店から歩いてほんの数分のウエストゲートパークだ。
もちろん今回は殺人的な紫外線の照りつける円形広場ではなく、芸術劇場のカフェのほう。
おれたち四人は店の隅のテーブルに席をとった。アイスカフェオレが届くと、おれはミズカの胸をじっと見た。ロゴってこんなときはありがたいよな。
「反自殺クラブって、なんなんだ」
ミズカはヒデとコーサクに目をやった。うなずいて口を開く。
「そのまえに最初にわたしたちが出会った場所をいわなくちゃいけないね」
ヒデは力強くうなずいたが、コーサクは椅子のうえで身体を縮めただけだった。
「わたしたちが出会ったのは、育英会の会場だった。そこには交通事故や自然災害や病気なんかで親をなくした子がたくさんいた。でも広い会場のなかでヒデとコーサクを見つけたとき、すぐにわたしはわかった」
ミズカは初めてやわらかに微笑んでみせた。残念ながらそれはおれにではなく、おれの両脇のふたりにむけられたものだったけれど。
「ああ、この人たちは、わたしと同じだ。親が自殺して遺された子どもだって」
高い天井ではゆっくりとファンがまわっていた。あたりが急に静かになる。
「交通事故や地震では、どれほど親の死を悲しんでも、自分を責めることはないよね。うちのとうさんが死んだ前日のことを、わたしは何千回も思いだして自分を責めたよ。中学二年の春だった。あのとき声をかけておけばよかったかな。いっしょに夕ごはんをたべたら、あんなことしなかったかな。肩をたたいてあげたり、話をきいてあげればよかったのかな。いっしょにテレビを見て、ちょっと甘えて、なにかを買ってってわがままをいえばよかったかな。あれをしたら、これをしたら、いつもそう考えているうちに朝になった。でも、何千回自分を責めても、時間は絶対元にもどらないし、あの日に起きたことはなにひとつ変わらないんだよね」
涙もろいおれはそれだけでぐっときているのに、ミズカの目は明るいままだ。数限りなく自分を責めて、悲しみは透明に結晶化したのだろう。遠く微笑んだままいう。
「それからはひどいものだった。うちの場合は生命保険のおかげで、なんとか暮らせたからヒデのところみたいにお金の苦労はなかったけどね」
ヒデは半眼の顔を静かに沈めてみせた。
「その代わり、うちのとうさんくらいの年で、なにかに困っている男の人がいると放っておけなくなった。助けられなかったとうさんの代わりだったのかなあ。一時期四十代後半の男とめちゃくちゃにやりまくったから」
ラッキーなオヤジたち。だが、おれだったらそんな理由でセックスができても、うれしくなんかない。
「もうやらないんだ」
ミズカは強靭に笑う。そいつは苦しんでなにかを受けいれたやつが見せる意志の笑いだ。この世界にいるのが楽しいから笑うんじゃない。わかるだろうか。このくだらない世界の片隅で、それでも自分にできることがあると発見したやつの笑顔なのだ。
「うん、もうやらない。わたしにはこのクラブがあるし、仲間もいる。わたしたちみたいになる子どもをひとりでもすくなくしたいんだ。それもただのカウンセリングや、相談ではなくね」
胸のまえで腕を組んで、ヒデがうなった。
「ときには強制的、物理的な手段をつかってもな」
ミズカは微笑んでいう。
「それがわたしたちの反自殺クラブの仕事だよ。協力してくれる人だっているしね。そう悪くない成果もあげている」
目的が立派なのはわかった。だが、その方法がわからなかった。ひっそりと死んでいく自殺者を、このいかれた、だが高貴な三人はどうやってとめるというのだろうか。おれのアホ面を見て、ヒデがいった。
「トラブルシューターなんて、やっぱりただの噂だったんじゃないか」
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おれは手をあげた。
「ちょっと待てよ。それよりどうやってとめるというんだ。自殺なんてみんなばらばらにやるもんだろ。第一おれはあんたたちの活動なんてきいたことがないけど」
小柄なコーサクが顔をあげた。坊ちゃん刈りに流行のピンクのTシャツ、太目のジーンズは七分丈だ。つぶやくようにいう。
「日本の自殺者は七年連続三万人を超えてる。自殺遺児だって毎年一万人ずつ増えてる。そのすべてをとめられるわけじゃないよ。でも、いくつかの動きなら追うことはできる。とくに集団でやるやつならね」
ようやくおれにも話が見えてきた。
「自殺系サイトか」
ミズカがヒデにうなずいてみせた。悪くなさそうじゃない、この人。おれの読心術もまんざらでもない。
「そう。わたしたちは常時悪質な二十から三十の自殺系サイトを監視してる。とくに注意してるのは集団自殺のメンバーを募集してる心中掲示板。なかでも、問題のサイトはこれ」
ミズカはショルダーバッグから折りたたんだ紙を取りだした。右手には分厚いリストバンドが巻いてある。ラコステのワニのマーク。だが、おれはリストバンドの端からのぞく白い古傷を見てしまった。あわてて目をそらせたが、女の勘は鋭い。おれのほうへプリントアウトを滑らせていった。
「子どものころの悪い癖。何度もリストカットはやったけど、今考えると一度も本気じゃなかったと思う。ファンデーションじゃごまかせなくてさ。それより、見て」
おれは黙ってうなずいた。冗談をいう気にもならない。バカげた話だが、昔は自殺遺伝子なんてのが研究されたこともあったらしい。今じゃそんなデタラメは誰も信じちゃいないけどね。おれは紙を開いた。
「一億二千万人の明るい自殺! スイ、スイ、スイサイド! なんだ。こりゃ」
◆
それはどこかの自殺系サイトのトップページをプリントアウトしたものだった。通常あの手の暗黒系サイトは地の色が真っ暗だったりするものだが、そいつは違っていた。白く輝く地紋には、空から降る花びらが透けている。淡いピンクのハスの花だ。明るくて、軽やかな印象。
「どう思う、マコトさん」
「おふざけじゃなければ、逆に薄気味悪いな」
ミズカはとがったあごでうなずいた。
「そう。そのスイ、スイ、スイサイド! が一番凶悪な自殺系サイトなんだ。集まるのはすべての悩みを吹っ切って、自殺に明るい希望をもっている人ばかり。最後の脱出口なんだって」
口を開けたまま、白い紙を読んでいく。並んでいる項目は頭の痛くなるものばかり。ラクチンに自殺する50の方法、日本の自殺名所トップ20、わたしはこれで逝きますベストの眠剤組みあわせ&OD法、最後の友達見つけよう! BBS。
「この最後の友達ってやつが、心中掲示板なのか」
ミズカはうなずいていった。
「そう。このひと月半くらいのあいだに東京近郊で起きた六件の集団自殺事件のうち、四件はスイ、スイ、スイサイド! 発なんだ。わたしたちがなにをしたいのか、マコトさんにもわかるよね」
「そこの自殺サイトをぶっ潰す」
でかいほうのヒデが肩をすくめた。
「サイトを潰しても同じだ。自殺系サイトなんて、何百もある。すぐにつぎのがくるさ。もうそこをまねたライト系の自殺サイトがいくつかできてるからな」
さすがのおれもわけがわからない。
「じゃあ、なにをやるんだよ」
ミズカはおれの目をまっすぐに見つめてきた。ヒデとコーサクも同じだ。異常に真剣な顔つき。
「その話をききたいなら、なにがあってもこの依頼を受けてもらわなきゃならないの。先に返事をちょうだい」
好みのタイプの女にそんなことをいわれたら、色よい返事をするしかない。おれはこう見えてもけっこうフェミニストなのだ。それにここまでの話で、ひどく好奇心を動かされてもいた。もともとはリアルな世界のほうが好きなのだが、明るい自殺サイトの話には強烈な吸引力がある。
「わかったよ。あんたたちの手伝いをする。うまくいくかどうかはわからないけど、おれも全力でがんばるよ」
コーサクがまた口のなかでいう。
「問題はいつもぼくたちの全力が、必要な力には届かないことだ」
ミズカはひとり沈んでいるコーサクを無視していった。
「わたしたちが追っているのは、一匹のクモ。あの心中掲示板に巣を張って、つぎつぎと集団自殺をプロデュースしてる名前のないクモ野郎なんだ」
明るい自殺サイトのスパイダーマン? うーん、弱った。おれはハリウッドのVFX大作が苦手なのだ。
◆
ミズカの声はこれまでになく硬かった。
「このスパイダーが男か女か、まだわかっていない。年齢も、外見も、どこに住んでどんな仕事をしているのかもわからない。ただ、これまでに何件もスイ、スイ、スイサイド! の心中掲示板で、自殺志願者を募っているのは確か」
おれにはまだ話がよくのみこめなかった。クモ男はまあいいだろう。だが、自殺|教唆《きようさ》を繰り返す変態なら、とっくに捕まっているはずではないだろうか。警察でさえ気づかないのなら、どうやって反自殺クラブの三人はその人物の存在を知ったのか。
「なぜ、クモがいるとわかるんだ」
コーサクがまた口のなかでつぶやいた。
「イソミタールとブロバリン」
「なんだ、それ」
おれがやつの目を見ると、コーサクは気弱に視線を伏せた。
「スパイダーが推奨する睡眠導入剤の組みあわせ。強力だから、ガスを吸い込んでも目を覚まさない。眠ったまま楽にあっちにいけるんだって」
「ちょっと待ってくれ。自殺したやつがどんな睡眠薬をのんでいたかなんて、どうしてあんたたちが知ってるんだ。警察のなかに協力者がいるのか」
首を横に振ったのはミズカだった。
「そんなのじゃない。だから、さっき返事を先にもらったでしょう。こっちも危ない橋をわたってる。わたしたちは集団自殺に失敗した人から、その情報をききだした」
そこでおれは反自殺クラブの仕事の暗い半面に、ようやく気づいたのだった。鈍い探偵。ヒデの言葉を思いだす。
「強制的、物理的な手段ってやつか」
アメリカ軍放出品を着たプロレスラーのようなガキが初めて笑ってみせた。
「そう、あんた、けっこう頭いいな。おれたちが間にあったときには、いくらか情報がしいれられる。間にあわないときには、まあ、いくつか死体を発見する」
ヒデは僧帽筋を盛りあがらせて肩をすくめた。おれは肩をすくめるだけで、スペクタクルになる身体を初めて見た。
「なんで、そんなに身体を鍛えたんだ」
ヒデは前歯をむきだして笑った。
「自分の身体は裏切らないからな。おれのおやじが首をつったのは、小学校三年のときだった。人には病気で死んだといえと母親にはいわれた。おやじの写真は全部燃やされて一枚も残っていない。親戚は誰もうちに遊びにはこなくなった。おれは身体がちいさかったし、おやじのせいでいじめられたから、身体を徹底的に鍛えこんだ」
おれはヒデから目をそらした。やつの視線には直接的な暴力を感じさせる圧力がある。いじめられなくなった代わりに、他人から恐れられるようになる。こういうのを立派な大人になったというのだろうか。
「わかった。おれは気が弱いから、おれのまえでボディビルのポーズはやめてくれ。怖くて失神する」
コーサクとミズカがほんのちょっとだけ笑った。初めてのポイント1。
◆
心中掲示板のスパイダーは、あれこれとハンドルネームを変えては、集団自殺の志願者を募集しているという。最初におかしいと気づいたのは、ミズカだったそうだ。
「わたしたちがスイ、スイ、スイサイド! を定期的にチェックしてるのは話したよね。あそこのBBSに書きこまれた募集者の文章を読んでいて、あることに気づいた。ハンドルネームはみんな違うし、文体も変えているみたいだけれど、つかわれている言葉に妙に共通点があったんだ」
おれの書くコラムみたいなものか。どれほどスタイルを変えても、知性とその体系は隠せない。ヒデがゆっくりと口を開いた。あごから首筋にかけての筋肉が連合して動く。人間の身体はおもしろいものだ。
「募集地も東京近郊ばかりだったし、眠剤と練炭にレンタカーというやり口もいっしょだった。それにおすすめのクスリのコンビもな。おれたちがクモ野郎に気づいたのはまだひと月ほどまえのことだ」
おれはヒデの身体をそれとなく観察していた。こっちにはリストカットの跡はない。全身の筋肉が鎧《よろい》のようなものなのだろう。傷ついた心を守り、自殺未遂者をぶっ飛ばすための。
「それであんたたちは自殺系サイトのスパイダーを探しだし、集団自殺の数を減らしたい。じゃあ、素直に知っていることをすべて警察に流せよ。これだけ事件が続いているんだ、やつらだって必死で動くさ」
コーサクがしたをむいていった。
「無理だよ。ぼくたちもあれこれやってるから、警察には追われてるんだ。とくにヒデがときどきやりすぎちゃうことがあって」
筋肉男は涼しい顔をしている。コーサクは困った顔をした。
「どうも自殺の現場にいくと冷静じゃいられなくなるみたいなんだ。自殺をとめるだけじゃなく、相手にケガをさせたりさ」
ヒデは両手を胸のまえで組んだ。平然という。
「なあマコト、あんたは戦争が起きると自殺率が劇的に低下するのを知ってるか。よその国の人間を殺そうとすると、みんな自殺はしなくなるものなんだ。だから、おれは自殺しようなんてやつは、ちょっと痛めつけておいてやる。それでこの世界が絶えざる戦争状態にあるんだって思いださせてやるのさ」
よりおおきな暴力のまえでは、ちいさな暴力は許されるのか。哲学的な難問だ。果物屋の店番のおれにそんな質問はしないでほしい。でも、一発くらいぶんなぐってやってもいいかな。だって死ぬよりは、青アザのほうがずっといいからね。
◆
「具体的にはどうしたらいい。あんたたちのことだ。もう動いているんだろう」
今回の依頼者は、困ったと泣きついてくる素人ではなかった。自分たちがなにをやりたいか、そのための方法はなにか、おれよりよく知っているチームなのだ。ミズカはにこりと笑っていった。
「今、コーサクが心中掲示板に何通か応募のメールを送ってる。コーサクは潜入役で、わたしは監視と作戦を担当してる。で、ヒデは……」
ミズカは黙っておれを見た。いわなくてもわかるでしょ。おれがうなずくとあとを続ける。
「集団自殺の数はたくさんすぎて手がまわらないし、遺児の目ではなく冷静に事態を把握できる人間も必要。できればあぶない世界のことも知っていて、人の手配ができるとなおいい。そうやってあちこちでつてをあたっていたら、マコトさんの名前があがった。条件をきくと、これがぴったり」
そこでミズカはおれの目をまっすぐに見ていった。
「お願い。うちのクラブに力を貸して。わたしたちの目的は簡単。あの日こうすればよかったって、ひと晩中悩むような子どもをひとりでも減らすことなの。ギャラはあんまりあげられないけど」
三人を順番に見て、しっかりとうなずいた。おれは甘くて間抜けな人間だが、それでもすこしはできることがある。三人組の異常なまじめさも気にいっていた。この夏の焼けつくような退屈を吹き飛ばすにも、スパイダー探しはうってつけだろう。
「わかった。おれはいつも金もらってないから」
「ありがとう、マコトさん」
ミズカは黒いTシャツの胸を揺らしてそういった。あと二百回くらい礼をいわれたい気分。首を振るのにあわせて胸が揺れるのだ。ヒデとコーサクはまんざらでもなさそうに、おれにうなずきかけた。
おれたちはお互いの携帯の番号を交換して、芸術劇場のカフェをでた。
◆
反自殺クラブの特別メンバーに任命されたおれは、自分の部屋に帰るとさっそくマックをネットにつないだ。検索エンジンで自殺系サイトといれると約七百件のヒット。メンタルヘルス&自殺でサーチすると一万近いホームページがでてくる。
確かにこれでは、自殺系サイトをひとつくらい潰しても意味がなかった。それから二時間休みなく、あちこちの暗黒サイトをチェックして歩く。強迫神経症、視線恐怖症、瀉血《しやけつ》依存症、洗浄強迫、演技性人格障害。あるサイトのBBSでは、飛び降りと首つりのどちらのほうの苦痛がすくないか、延々と半年にわたる議論が続いていた。そこでは死は最も親しい友人で、お手軽なおもちゃなのだ。
注射針をネットで購入した瀉血依存の男は、バケツいっぱいの血を抜いて、死にそうになったと書いていた。二日がかりで、一・二リットル。心臓の動悸がとまらず、貧血で倒れたそうだ。別な女はリストカットがやめられず、切った手首の傷跡をいじる癖がついたという。ぱくりと開いた白い脂肪に指を突っこんで白い腱を爪でむしる癖。傷口はなかなかふさがらなくなったそうだ。
おれは地獄めぐりの二時間で、すっかり生きる気力をなくしてしまった。
◆
風呂あがりに布団に倒れていると、おれの携帯が鳴った。
「マコトさん」
ミズカの声だった。酔っ払ったおれはさっそくセクハラ行為におよぶ。
「デートの誘いか」
ミズカはふふっと笑う。
「だったらいいけど、今夜またシューダンがありそうなの」
シューダン自殺? おれは布団から飛び起きた。目が覚める。
「どこだ」
「雑司ヶ谷霊園のなかを抜ける道らしい。今、コーサクとヒデが追ってる。わたしたちがなにをするか見てみたくない」
おれは足をもつれさせながら短パンを脱ぎ、ジーンズをはいた。
「ああ、すぐにいく」
「そうこなくっちゃ。じゃあ、三十分後にお店のまえに迎えにいくね」
◆
おれは十五分以上早く階段をおりて、店のまえのガードレールに腰かけた。
ぼんやりと夜に心を開いていたおれのまえにすべりこんできたのは、メタリックブラックのニッサン・マーチだった。黒いフィルムを張ったパワーウインドウが音もなくさがる。
「待った、マコトさん」
ミズカのスタイルは昼とは一変していた。銀のタンクトップにグレイのショートパンツ。ふとももの白さが、夜に鮮やかだった。髪はトウモロコシの穂のように黄色い縦ロールのエクステンション。いかした遊び人のソウルクイーンだ。
「これでも変装なの。この格好で目撃されても、昼のわたしだとは誰も思わないでしょ」
素敵な変装だと二枚目の調子で決めようとしたそのとき、頭のうえから声が降ってきた。
「マコト、悪くないじゃないか。しっかり遊んできなよ」
見あげると窓が開いて、おふくろが浴衣で顔をだしていた。デートなんかじゃなく、集団自殺をとめにいくんだ。池袋の中心で、おれはそうさけびそうになった。三百万人の心ある人がきいてくれるかもしれない。ミズカはマーチから顔をだして、明るくいった。
「おかあさーん、ちょっとマコトさんをお借りしますねー」
女たちが笑顔で協定を結ぶときにはろくなことがない。おれたちの敵は、つねに手ごわい。
◆
真夜中の池袋駅周辺はいつもの渋滞だった。マーチはなかなかまえにすすまない。おれがちらりとふとももを見たのに気づいたのだろう。ミズカがダッシュボードのしたからスプレー缶を投げてよこした。
「わたしはもう塗ったから、マコトさんもつかえば」
缶を見ると、虫除けと書いてある。おれは腕と首筋にスプレーをつかった。
「雑司ヶ谷霊園で張るのか。あそこ蚊が多いもんな」
ミズカは自動車三台分マーチをすすめて、にこりと笑う。
「でも、どうやって集団自殺が今夜だとわかったんだ」
「簡単だよ。だって、レンタカーのなかにはコーサクがのってるんだもん。コーサクの携帯はGPSで所在地を追えるように設定してあるし」
あんなに気が弱そうなやつなのに、とんでもない潜入工作員だった。
「でも、ひとり切りなんだろ。あぶなくないのか」
ミズカはぐんとアクセルを踏んだ。背中がバックシートに押しつけられる。
「そういうときもあるかもね。でも、あぶなくなったらすぐにヒデに緊急のコールがはいるから。ヒデは暗くなってからずっとバイクでレンタカーを追ってるんだ」
おれはハーレーダビッドソンにのるアーノルド・シュワルツェネッガーを想像した。あれは『ターミネーター』のパート2だったよな。ときの流れは速いものだ。殺人アンドロイドはいまや夢のカリフォルニア州知事なのだから。
「やっぱりハーレーにのってるのか」
ミズカは驚いた顔をする。
「どうしてわかるの。ヒデのご自慢は黒のダイナ・ワイドグライドだよ。さすがだね、マコトさん」
おれはただの思いつきだとばれないように、雑司ヶ谷までもう口をきかなかった。
◆
雑司ヶ谷霊園は、都心のまんなかにある巨大な墓所だ。広さは十一万平方メートルもある。なぜか作家の墓が多くて、夏目漱石、永井荷風、泉鏡花、小泉八雲なんかもあそこに眠っている。ぶらぶらと散歩をしてみるとけっこうおもしろい場所だ。宗派は関係ないので、十字架のついた墓石もある。
霊園を抜ける公道の端にミズカが黒いマーチをとめた。夏の夜でもセミの鳴き声は盛大で、墓石の遥かむこうに七色のライトをてっぺんに灯したサンシャイン60が、未来の超高層墓地みたいにそびえていた。
草を分ける音がして振りむくと、迷彩服のヒデが立っていた。
「こっちだ。すぐに突入する。きてくれ」
そこで、おれとミズカはヒデのあとをついて、夏草のにおいのする墓所を腰をおって歩いていった。広大な墓地のなかを突っ切って、反対側の道路にでる。斎場に近い幅の広い道路だ。ヒデがしゃがみこんで、墓石の陰からソメイヨシノの枝のしたにとまっているトヨタ・イプサムをのぞきこんだ。おれたちもやつの背後に腰を落とす。ヒデは山のような僧帽筋越しにいった。
「そろそろ決行の時間だ。もうすぐ夜中の二時になる。なんで、ネットをうろつくやつって、丑三《うしみ》つ時なんて言葉に弱いんだろうな」
おれはサクラの枝で半分隠れたワゴン車を見つめていた。パールホワイトの車体が、内側から白く輝くようだった。ミズカがいう。
「今回はもっとスパイダーの情報がほしい。ヒデ、やりすぎないでね」
「ああ、わかった」
押し殺すようにそういうやつの背中が震えていた。ヒデは軍パンの横についたポケットからなにかをゆっくりと抜きだした。先端には直径三センチほどの鋼球がついている。特殊警棒だ。静かに伸ばすとカチッと精密な音がして、警棒の長さは五十センチほどになった。この筋肉マンが思い切りこんなものを振りまわしたら、人の頭蓋骨などコーヒーカップの受皿のように簡単に砕けるだろう。
「いつもそんなのつかってるのか」
ヒデはこちらを振りむいた。
「ああ、いつもだ。なんなら、予備の一本を貸してやろうか」
おれが激しく首を横に振ると同時に、ヒデの携帯がうなりだした。やつは黙って立ちあがり、イプサムにむけて走りだす。背中が汗で光っていた。ミズカもおれのうしろから駆けていく。おれはあわてて、白く輝くワゴン車にむけて三十メートルほどの距離を詰めた。
◆
誰かの吠え声が真夜中の墓地に響いていた。ヒデが走りながら、吠えているのだ。やつは隠すことなく、特殊警棒を振りあげていた。イプサムから動きはない。おれがミズカを追い抜き、あと数歩でクルマに着くところで、ヒデの特殊警棒が運転席のウインドウにぶちあたった。
鋭い破裂音のあとで、水をまくようにガラスの破片がドアから飛び散った。グローブをしたヒデの右手が窓枠に伸びて、ドアロックを解除する。ヒデは爆発的にドアを開くと、なかに座った三十代のやせた男を外にひきずりだした。のろのろと反応のない男のわき腹を米軍のジャングルブーツで蹴りあげる。
ヒデはそのまま時計まわりにつぎつぎとサイドウインドウをたたき割っていった。女の悲鳴がきこえた。広大な霊園のなか、セミの鳴き声だけが返事をする。
「やめてー、やめてー」
後部座席に座る自殺志願者の女を見た。十代後半、顔色は月の光りのせいか青白いけれど、案外かわいい女の子だ。自殺の理由など想像もできない。ヒデはパニックになって叫び続ける彼女の口を押さえた。
「黙れ、おれは女をなぐりたくないが、黙らないならいつでもやるぞ」
ミズカがやってきて、もう片方の後部座席のドアを開けた。
「お疲れ、コーサク」
コーサクは震えながらうなずき、シートをおりてきた。近くの草むらまでふらふらと歩き、吐いている。口をふきながらもどってくるといった。
「イソミタールとブロバリンを、ウォッカで流しこんでる。話をきく時間はちょっとしかないよ」
おれはそのときなつかしいにおいをかいだ。枯葉の燃えるようなにおいだ。イプサムをのぞきこむ。助手席の足元には、まっ赤に炎をあげる練炭がはいった七輪が見えた。車内はかなりの熱気だった。黒い炭から透明な赤の火が噴きだしている。地獄の業火のひとすくいだ。
おれがぼんやりしていると、ヒデがおれの肩をたたいた。振りむくと汗だくの顔が笑っていた。
「今回はうまくいった。まあ、いつもこんなに快調なんてことはないんだけどな」
やつは軍パンの尻ポケットから携帯を抜いた。そこでようやく呼びだしのバイブを停止する。おれには一時間にも感じられたが、ヒデが走りだしてまだほんの二十秒足らずの時間しかたっていなかった。
◆
ミズカは女を、ヒデは男を引き立てて、イプサムを離れた。霊園のなかに連れこむ。睡眠導入剤とウォッカの最悪のコンビネーションは、こんなに危機的な状況でも強力だった。夏草に転がすころには、ふたりとも足元がふらついていた。男の頬を音を立てて平手打ちして、ヒデがいった。
「黒いシェルパってハンドルネームのやつに、おまえは会ってるのか」
返事をするまえに、逆の頬を打った。
「黒いシェルパ、やつはどんな人間だった」
また返事をするまえに打つ。コーサクがちいさな声でおれにいった。
「眠らせないためだよ。待っているより、こっちのほうが口を割るのが早いんだ」
幽霊みたいな顔色のコーサクにきいた。
「黒いなんとかって、今回のクモ男のハンドルネームなのか」
コーサクがうなずくときれいな坊ちゃん刈りが揺れた。顔色がさらにひどくなる。
「どうしたんだ。おまえも眠剤とアルコールのカクテルをやったのか」
あわてて首を横に振り、やつはいった。
「クスリはのむ振りをして捨てた。でもウォッカはそういうわけにもいかなくて、ひと口のんだんだ。ぼくはお酒がぜんぜんだめなんだけど。クモは今回自分が募集者にはならなかったんだ。そこにいる会社員の人、遠藤さんていうんだけど、その人が募集をかけていて、その人に集団自殺の方法を教えて、眠剤なんかをわたしてやったらしい。ぼくは最後までスパイダーには会えなかった」
ヒデはそのあいだも一定の強さで、遠藤をなぐり続けていた。あいの手のように黒いシェルパについて質問している。六発目か七発目で、生まじめそうなサラリーマンがいった。
「もう目は覚めた。お願いだから、たたかないでくれ」
ヒデは手を振りあげたままいった。
「黒いシェルパに会ったのか」
ノーネクタイでペンシルストライプのスーツを着た男が、うなずいて口を開いた。
◆
一度話し始めると、遠藤の言葉はとまらなくなった。眠剤には自己抑制を吹き飛ばす力があるのだろうか。それともこの異常な状況とヒデの暴力のせいか。どちらにしろ心中掲示板の呼びかけ人は、夏の夜のセミに負けないくらいのハイテンションだった。口からよだれを垂らしながら、しゃべり続ける。
「ぼくは東京の本社に栄転してから、おかしくなった。それまでは地方支社でいい成績をあげて、楽しくやっていた。支社じゃ出世頭だったんだ。それが東京にきたら、毎日毎日競争で仕事のノルマがきつくてきつくて、慣れない街で、友達もいなくて……それで、鬱病になって会社を二カ月休んだ。仕事も傍流に飛ばされた。もう、ぼくに未来はないし、うちのかあさんとうさんにもうしわけない。このまま会社で生き地獄が何十年も続くんだ。とても耐えていく自信がない。終わりにしたいんだ。最低の人生だ」
ヒデはまた一発頬を張った。無表情にいう。
「そんなに親が心配なら、最低の人生を生きろ。子どもに自殺された親は一生立ち直れないんだぞ。シェルパにどこで会った」
ぼんやりと焦点を失った遠藤の目がすこしだけクリアになったようだった。
「六本木ヒルズのカフェだった。とてもやさしくて、スムーズな人だったよ」
ミズカがサラリーマンの横にひざをついた。
「男だったの、女だったの」
夢見るように笑って集団自殺未遂者はいう。
「男だ。赤い目をした、きれいな男。きみたちとは正反対だった。ぼくのいうことを否定せずにすべてきいてくれた。悪いのはぼくじゃないといってくれた。死は誰にでもいつかは訪れるもの。地球や宇宙の目のくらむような歴史から見たら、人間の一生なんてむこう側の透けて見えるセミの羽ほどの厚さもない。自殺は生の否定ではなく、ただの消失で、このくだらない世界から卒業するだけのことだ。ただの出口にいいも悪いもない」
おれはヒデと顔を見あわせた。スパイダーは自殺を祝福する堕ちた天使なのだ。ミズカは怒りを押し殺していった。
「それで、あなたに眠剤をくれた」
「そうだ」
ヒデはまた力まかせに頬を張った。遠藤はこらえ切れずに涙を流す。
「そいつの特徴は」
「わかったから、たたかないでくれ。背は百八十くらい、とにかくやせてる。目はカラーコンタクトだ。髪は錆びて曇ったシルバーみたいな灰色。開いたシャツの胸にいくつか涙のタトゥーが見えた。点々といくつか」
「連絡先とかはないのか」
「専用の携帯をわたされたが、もう捨てた。あとをたどることのできない携帯だといっていた」
ヒデがいう。
「クソッ、自殺志願者をつぎつぎむこうに送りこむ変態野郎か。自分では手をくださずに、いい気なもんだ。快楽犯だな、それも連続大量殺人のな」
元エリートはいった。
「そんなんじゃない」
全員の注意が、また遠藤に集まった。
「サイコスリラーじゃないんだ。そんなやつだと思っているなら、きみたちは絶対、彼に近づけないだろう」
おれは緑の苔がついた墓石を見ていた。このしたにある骨は何十年まえに死んだのだろうか。確かにこの男が今死んでも、五十年後に死んでも変わりはないように思えた。おれはいった。
「どういう意味だ」
元エリートは夢見るように微笑んだ。
「彼はいっていた。自分も生きているのは苦しくてしかたない。だが、同じように道に迷っている者を放っておくわけにもいかない。だから、自分は道を示して、仲間を先にむこうの世界に送り届けてやる。これで十分だというくらい働いたら、迷わずにみんなのあとを追うつもりだ。こちらでやることがなくなったら、明日にでも自殺したいそうだ。嘘ではなかったと思う。ぼくは心中志願者に何人も会ったからわかる。彼は変態ではなくて、ただの良心的ボランティアだ。きみたちには一生理解できないだろう。いや、そこにいる彼ならわかるかもしれないな」
コーサクが遠藤からあわてて目をそらした。おれはミズカと目を見あわせた。黙って首を横に振る。遠藤のとなりの草むらでは、集団自殺のもうひとり、十代の女がキャンプ場にでもきたようにすやすやと眠っていた。ミズカが立ちあがった。丸いひざが草で青く汚れている。
「さあ、いこう。もう話は十分」
ミズカとヒデとコーサクとおれ。四人が夏草の墓地に立った。最後に自殺に失敗した男の顔をのぞきこむ。ほんの数十ミリグラムでも薬剤は強力だった。ついさっきまで口をきいていた元エリートは、よだれを垂らして熟睡していた。
◆
夏草とセミの鳴き声を分けて、マーチにもどった。池袋に帰る途中で、コーサクが救急に電話をいれる。集団自殺の車両を発見した、場所は雑司ヶ谷霊園といって、自分の名前も告げずに切ってしまう。照れたようにいった。
「なんだかうちのクラブ活動って、すごく原始的でしょ。あと十五分もすれば、救急車がレンタカーを見つけるから」
おれはうしろを振りむいた。明治通りの後方をヒデのハーレーがV型エンジン特有の心臓のような排気音をあげてついてくる。おれが手を振るとやつも左手の親指を立てた。おれはコーサクにいった。
「悪くなかったよ。あんたたち三人のチームワークは抜群だ。今夜だって、死にかけたふたりの人間を救った」
ミズカは運転席で前方を見つめたままいった。
「でも、自殺する人間は毎日百人もいる。わたしたちはなにをやってるのかな。砂漠で砂をすくうような仕事だって、ときどき思うよ」
おれは窓の外を見た。二十四時間営業の肉のハナマサの店内がまぶしかった。
「なんでも数にするなよ」
そうなのだ。すべてを統計に還元するのは、おれたち現代人の悪い癖だ。
「今夜は確かにふたりだけかもしれない。だけど、あいつらの親や友人の悲しみをなくしたのはあんたたちだし、あのふたりがいつかつくるかもしれない家族のことを考えたら、新しい命を何人も助けてるかもしれない。命ってひとつじゃないだろ」
それは無限に広がって、すべての命とつながる可能性だってある。だから命は尊いのだ。それはひとつで、すべてなのだ。ミズカが静かにいった。
「ありがと、マコトさん。なんだか話をするたびにちょっと元気になるよ。マコトさんはカウンセラーなんかにもむいていたかもしれないね」
コーサクはサイドウインドウに額を押しあてて、流れる街の灯を見ていた。しばらく無言になる。びっくりガードを左折して、黒いマーチは西口にむかう。ミズカが思いだしたようにいった。
「そうだ。明日、時間あるかな。ちょっとあわせたい人がいるんだけど」
おれはシートを深く倒して、夜の積乱雲を眺めていた。灰色に湧きあがる豪勢な夏の雲だ。
「誰」
「昼に話したわたしたちの協力者」
わかったといって、おれは目を閉じた。
◆
おふくろはこの数カ月おれが退屈そうにしていたのを知っているから、翌日の午後はあっさりと自由にしてくれた。どうも健康な青少年が店番だけしてくすぶっているのは、まずいと考えているようだ。
昼すぎにマーチが店のまえにとまると、ノースリーブの白シャツ姿のミズカが顔をだした。歩道に立つおれにではなく、おふくろにいう。
「こんにちは。昨日は遅くなってすみません。また、マコトさんをお借りします」
そのときおれは店の奥の暗がりで恐ろしいものを見た。おふくろがおれにむかってウインクしたのだ。
「こいつは奥手で、鈍感だけど、よろしく頼むね」
おれは黙って助手席にのりこんだ。恐怖でまだ全身が硬直している。
「すぐにクルマをだしてくれ」
ミズカは華やかに笑って、西一番街にマーチを転がした。
◆
黒い小型車が着いたのは、下落合の高級住宅街だった。フェンスと門と外車が二台とめられる駐車場のある屋敷が並ぶ静かな街だ。ときどき教会なんかもあったりする。おれにはまるで似あわない街。
駐車場にマーチをとめて、建物を見あげる。中くらいのヤシの木が四本前庭に植えられていた。そのむこうは開放的なリゾートホテルみたいなガラス張りの中層ビルだ。おれは木彫りのプレートを読んだ。
「白木クリニックか、ここはなんの病院。もしかすると美容整形クリニックか」
サングラスをかけたミズカが、首を横に振った。
「違う。すごく明るいけど、評判のいい心療内科のクリニック」
心療内科、昔なら精神科だ。なんでも言葉だけいれ替わっていくものだ。実態は変わらないのに、意味だけどんどんぼかされていく。おれたちはそのうちセックスのことを遺伝子|攪拌《かくはん》作業なんていうようになるのかもしれない。なあベイビー、今夜おれと攪拌しないかなんてね。
ミズカに続いて素焼きのタイルのロビーにはいった。おおきな葉ものの鉢植えが完璧に計算された位置におかれていた。あちこちに散らばったソファは、おかげで見事に互いの視線からシャットアウトされるのだ。患者同士が相手を見ることはない。
受付でミズカが院長の名前をだしてから十分後、窓越しに夏の日ざしが跳ねるソファに白いスーツの女がやってきた。三十代後半くらいか。だが、金のある女の年はわからないものだ。若く見える四十代なかばといわれても、驚かなかっただろう。
「白木先生、紹介します。こちらが池袋のフルーツ屋さんで真島マコトさん」
おれは、はじめましてと頭をさげた。シンプルなカットのジャケットのしたには、白いキャミソールだけだった。広い胸の肌がなめらかだ。かすかに微笑んだまま女医はいう。
「座りましょう。あなたね、ミズカさんがすごくカウンセリングマインドがあるといっていた人は」
カウンセリングマインド? おれには意味がわからなかった。おかしな顔をしたのだろう。べっぴんの院長はいった。
「無条件の共感、受容、自己一致の三条件を満たして、あとは相手のいうことに徹底して耳をかたむけること。知識は勉強できるけれど、このマインドは誰にでもあるものじゃないの。あなたがカウンセラーになったら、若い男の子や女の子が話をきいてもらいたくて殺到するんじゃないかしら」
左手でまえ髪をかきあげた。ピンクのクロコダイルベルトのフランク・ミュラーは、数百万もするジャンピングアワーだった。そんなにもうかるなら、おれもカウンセラーになろうかな。ミズカはいう。
「昨日からマコトさんにも、うちのクラブの手伝いをしてもらっているんです。今朝のニュースは見ましたか」
雑司ヶ谷の自殺未遂事件は、朝一のニュースから盛んに流れていた。扱いは集団自殺の成功事例よりはずっとちいさかった。マスコミではいつも悪いニュースが売れるニュースなのだ。白木院長は同じ微笑のままうなずいた。
「おめでとう。また、ボーナスをあげなくちゃね。ヒデくんとコーサクくんは元気」
うなずくとミズカは昨夜墓地でしいれた心中掲示板のクモ男について話し始めた。とくに最後に遠藤がいっていたネタをていねいに説明する。自分自身もいつか自殺する、それまでのボランティアってやつだ。黙ってきいていた院長はいう。
「それでは確かに愉快犯やいわゆる快楽殺人とは違うようね。わたしたちの相手はもしかすると善意の人なのかもしれない。スイサイドを耐えがたい心の痛みを終わらせるための手段と考えている。ならば、この人は取り乱して証拠を残したり、自分のよろこびに酔って失策する可能性はすくなくなる。理性的に行動できて、自分がやっていることをよくわかっているから」
美人の院長のいうとおりだった。クモの目に怒りや憎しみ、最低でも酩酊があるなら相手としてはまだ簡単なのだ。だが、そこにある種の善意があったとするととたんに人物像は複雑になる。理性的で善意の第三者には、プロファイリングなんてきかないのだ。普通の人間の統計など、CIAだってもっているはずがない。おれは気になっていたことを質問した。
「このクリニックは大成功しているみたいだし、お世辞ではなく院長は魅力的だと思います。どうして反自殺クラブに協力なんかするんですか。リスクがありすぎると思うけど」
また仮面のような微笑で、白木院長はいった。
「経済的な成功はすぐに慣れてしまうものよ。わたしがいなくなっても、このクリニックはちゃんと運営されていくでしょうしね。心療内科の医師にとって最悪の事態は、自分の患者にスイサイドされることなの。わたしも若いころから、何人ものクライアントにスイサイドされた。それは今でも心の傷になって残っている。いつか自分が成功して、人を助けられるくらいの余力ができたら、希死念慮をもつ人のために自分にできることをしよう。そう思っていたときに、ミズカさんと会った。わたしたちがひとつのチームになるまで、そう時間はかからなかった」
おれは医師の仕事のたいへんさを思った。おれがまずいスイカを売っても、せいぜい客が金返せと怒鳴りこんでくるくらいのものだ。だが、心療内科ではそうはいかないのだろう。
「知らなかった。おれ、医者って若いのにポルシェにのって、看護師と遊んでばかりいるボンボンの仕事だって思っていた」
白木院長の微笑がすこしだけおおきくなった。
「そうね。そういう人もいるわね。でも、医師には守秘義務があって、患者さんのことは話せないし、スイサイドをされてもそれをぶつける相手もいない。日本では正式な統計はだしていないけれど、欧米諸国では医師の自殺率は成功したビジネスマンなどより何倍も高いの」
そんなにきつい仕事なら、おれは看護師と遊ばなくてもいいやと思った。ちなみに自殺率は人口十万人中何人の自殺者がでたかという数字だ。日本ではこの数年、三十近くで高値安定している。
日ざしの明るさとエアコンの涼しさ。こんなに快適な場所で、集団自殺の話をしている自分がおかしかった。それに最初にこのクリニックにはいったときから気になっていたことが、おれにはあった。
「この香りはなんですか」
それはわずかに甘く、どこかゆったりとした香りだった。エレベーターのなかの香水のように強烈ではない。遠くから風にのり漂ってくる森の奥の香りだ。
「わたしは医師免許だけでなく、日本アロマテラピー協会のインストラクター資格ももっているの。これは情緒不安に効果があるといわれる四つの精油を混ぜたオリジナルブレンドよ。ラベンダーにマージョラムにイランイランにカモマイル。ブレンドの比率は秘密」
ミズカが窓の外の明るさに目を細めていった。
「これからどうしたらいいの。クモ男はまだ、自殺|幇助《ほうじよ》を続けるつもりなのかな」
院長はちらりと腕時計を見ていった。
「そうね。自分の正しさをその人は疑っていないでしょう。最終的な解放がスイサイドであるという自分なりの宗教的な行為なのかもしれない。よく徳を積むと僧侶がいうけれど、この人にとっては自殺をプロデュースすることが、自分の徳を積むことになっているのかもしれない。それでいつか十分に善行を重ねたら……」
おれは甘い香りをかぎながらいった。
「自分もむこうに旅立てる」
院長はうなずいて、白い手でさらに一段白い胸元を押さえた。
「あなたがたはこの人自身のスイサイドをとめるためにも、集団自殺事件を阻止しなければいけない。わたしはクライアントが待っているから、もういきます。いつでもいいから、事態が進展したら連絡をください。クラブのみんなによろしくね」
すっと白ユリのように立ちあがると、観葉植物のむこうに消えてしまった。おれは思わず口笛を吹きそうになった。今回は美人ばかりがでてくる素敵なトラブルだ。ミズカはおれの肩をつついていう。
「ねえ、素敵でしょう、白木先生。わたしたちみんなの自慢なんだよ」
明日からはおれもあの女医のことを自慢しよう。そう思ってオリジナルブレンドの香りを思い切り吸いこんだ。
◆
下落合から、六本木に移動した。元エリートがスパイダーと会ったという六本木ヒルズで、反自殺クラブの打ちあわせがあるのだ。地下の駐車場から長いエスカレーターをあがり、足元から五十四階建ての森タワーを見あげる。近すぎてぜんぜん最上階が見えなかった。フロアガイドを見ても、カフェやレストランだけで数十もある巨大な複合施設だ。
ヒデ、コーサクのふたりと一階のロビーで合流して、地下にある蛍光灯売り場のように明るいカフェにはいった。天井と壁全体が面発光して、光りの繭《まゆ》に包まれた気分。平日の午後なので、主婦ばかりの店のなか、おれたちは壁沿いのテーブルを取った。真横から青い光りを浴びて、宇宙船のカフェテリアのようだ。ミズカがいった。
「さっき、マコトさんを白木先生に紹介してきた。先生はスパイダーには個人的に達成したい自殺者数の目標があるかもしれないって。それを達成したら、きっとスパイダーも自殺しちゃうんじゃないかってさ」
ふーっと肩で息を吐いて、ヒデがいった。
「もうさっさとシューダンをやらせて、やつが自殺するのを待つほうが早いな。なんであんなやつが自殺するのを、おれたちが必死でとめなきゃならないんだ」
ミズカはアイスチャイをのんでいった。
「クラブの会則1を思いだして」
「そいつはなんだ」
コーサクがちいさな声でいう。
「その人を自殺者であるまえに、誇りある人だと考えよう」
おれは驚いていった。
「そんな会則をつくっているのか」
ミズカは静かにうなずいた。
「そう、全部で十則あるの。ほかにもあるよ。どんな方法で自殺を図っても、それはその人のせいでなく、自殺という病のためだと考えよう」
おれの裏探偵稼業なんかよりも、このクラブはずっと真剣だった。
「あんたたち、すごいな」
なんでもないという様子でミズカは首を振った。
「スパイダーがやっていることも、ものすごくスローなスイサイドなのかもしれない。あいつだってできたら助けてあげなくちゃいけない迷子のひとりだよ。ねえ、コーサク、つぎの募集者はどんな調子」
やつはまだひどく気分が悪そうだった。ぐったりと光る壁にもたれている。
「今も三件同時にメールのやり取りをしてるよ。まだ、そのなかにスパイダーがいるのかどうかはわからない」
おれはやつの顔色をのぞきこんだ。蛍光灯のせいばかりでなく、ひどく青い。
「あんたまだ酒が残ってるのか。だいじょぶか」
コーサクは壁に頭を押しあて、よどんだ視線だけこちらにむけた。
「集団自殺に潜入すると、いつもこんな調子になるんだ。やっぱり志願者たちのネガティブな考えかたやムードにすごくひきずられてしまう。立ち直るには時間がかかるよ。もうすぐ死ぬんだって決心した人といっしょに何時間もすごすんだからさ」
無理もなかった。ここにいる人間のなかで一番ハードな仕事をしているのは、実はコーサクなのかもしれない。やつはバカみたいにでかいスポーツバッグから、のろのろとノートブックパソコンを取りだした。起動して、メールソフトを立ちあげ、通信履歴を呼びだす。おれたちのほうにディスプレイをむけるといった。
「ハンドルネームは、ダウンダウンダウン、蓮歌、空の友達。このなかで一番、話の進展が速いのは空の友達かな。今週中に最初のオフ会を開くことになってる」
そのときメールの着信を知らせる電子音が、ちいさなスピーカーから響いた。コーサクがいった。
「きたよ。空の友達だ。オフ会のスケジュールと場所は……」
顔色をさらに青くしたコーサクは、メールを読むのを途中でやめてしまった。ミズカが中腰になって液晶をのぞきこんだ。
「なあに、オフ会は六本木ヒルズのカフェ・アウターだって」
おれは壁のあちこちに埋めこまれたプラズマディスプレイに目をやった。そこに銀色のロゴマークが浮かんでいる。OUTER。どうやらおれたちと心中掲示板のスパイダーの趣味はよく似ているらしい。コーサクが周囲を見まわしていう。
「そういえばなんだかこの店って、あの世とこの世の中間みたいだね」
天国との境界線にあるカフェ。それとも、そいつは地獄との境だろうか。
◆
手帳を開いて、ミズカはいう。
「オフ会に参加する人数は」
コーサクはパソコンの画面をスクロールさせた。メールを呼びだし、確認する。
「男はぼくと募集者の空の友達をいれて四人、女がふたり」
全部で六人か。ヒデが口笛を吹いた。
「そりゃあ、これまでの最多記録だな」
ミズカはきつい視線をヒデに送った。タンクトップの筋肉男は横をむいて笑ってみせる。
「じゃあ、その三人の男のなかにスパイダーがいるかもしれないんだ」
コーサクはまだ憂鬱そうだった。ぽつりという。
「いるかもしれないし、いないかもしれない。ぼくにはわからない」
ヒデはテーブルに上半身をのりだした。やつが動くと冷房の効いたカフェの温度が上昇するようだ。筋肉の太い束から熱気が放射される。
「明後日はどっちにしても、この店に張りこんでみるか」
ミズカとおれは勢いよくうなずいた。コーサクはやれやれという顔で、肩をすくめてみせる。遠藤がいった特徴を満たす男があらわれれば、すぐに今回のクモ男探しは終了になるだろう。事件というのは、簡単に解決するときには、ほとんど指一本動かす必要もないものだ。まだ、おれはなにもしていなかったが、それでもいい。
哀れなコーサク。だがそのときにはやつの羽はクモの巣にすでにからめ取られていたのかもしれない。
◆
なか一日おいて、おれたちは再び六本木に集合した。スイ、スイ、スイサイド! の心中掲示板のオフ会は、午後三時からスタートするという。十分まえにヒデがカフェにいき、三時にコーサクがはいり、五分後におれとミズカがカップルの振りをして続くことになった。
コーサクにはとくに盗聴機などはしかけなかった。これはまだ最初のオフ会なのだ。いくらでも席をはずして、携帯をつかうこともできるだろう。おれたちは全員で張っていた。そこに自然な緊張のゆるみがあったと、あとになればわかる。だが、そのときはちょっとつぎのシューダンのメンバーの顔つきでも確かめておこうという軽い気もちだったのだ。狩る側にいる者の油断だ。
おれとミズカは時間ちょうどに明るいカフェにはいった。白いTシャツのウエイトレスがいった。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
おれたちは頭の悪いカップルの振りをして、さんざんどの席にするか迷った。広い店のなかを二周する。コーサクは店の一番奥のソファ席を、ほかの自殺志願者とかこんでいた。
目の隅でチェックする。ひとりも銀色の頭をした男はいなかった。みな黒のままか、せいぜい茶髪なのである。男四人のなかには、太ったやつもいなかった。ヘビメタのバンドマンと同じで若くして自殺する男には、あまり太ったやつはいないのかもしれない。おれはミズカにいった。
「スパイダーらしき男はいないな」
ミズカも残念そうにうなずいた。
「いいよ。ソファ席が見えるテーブルにしよう」
それでおれたちはソファから数メートル離れた壁際に席を取った。レジのわきでは予定どおりヒデが巨体を縮めて、スポーツ新聞を読んでいる。ミズカはGジャンの胸ポケットにさしたICレコーダーのスイッチをいれた。ソファ席に視線を振って自分の胸につぶやく。
「男性は三人全員やせ型、身長はよくわからない。取り立てて大柄でも、小柄でもないように見える。銀のヘアカラーはなし。カラーコンタクトもわたしの見たところなし。マコトさん、カラコンの人はいたかな」
おれは首を横に振った。ミズカは冷静にその場をレポートする。
「男性三人は二十代後半から三十代初め。サラリーマン風がふたりに、フリーター風がひとり。紺のジャケットを着たリーマン風を紺ジャケ、ボタンダウンのブロックチェックの半そでシャツを着た男をブロック、ニルヴァーナのTシャツを着たフリーターを……」
そこでミズカはおれを見て、にやりと笑った。
「あの人のコードネームをカート・コバーンにするか、ニルヴァーナにするか、どっちがいい」
ニルヴァーナはシアトルのグランジ・ロックの雄。九〇年代初頭のスターバンドだ。ヴォーカルのカート・コバーンは、九四年四月に自分の頭をショットガンで吹き飛ばしている。おれはカートの名前をつかうのは嫌だった。
「ニルヴァーナにしてくれ」
涅槃《ねはん》か、おかしなバンド名。ミズカはうなずくとレポートを再開した。
「女のひとりは太った二十代初め、ファッションはちょっと無理のあるゴシック・ロリータ。もうひとりはジーンズにTシャツで、全部GAPかZARAみたい」
誰か頭の回転の早いやつが、あるシーンをすごいスピードで言葉にしていくのを横で見ているのはなかなか楽しいものだった。おれもミズカの胸のICレコーダーにむかっていった。
「集団見あいみたいな硬い雰囲気だ。誰かが先頭を切ってしゃべっているという感じじゃない。ニルヴァーナは店の人間や客が気になるようで、きょろきょろ周囲を見まわしている」
やつと目があった。おれは視線をあわててそらしたりしない。じっとやつの目を見つめてやった。先に視線をそらせたのは、やつのほうだ。人を尾行するときの初歩の手口である。まだ全員が集合してから十分足らずなのに、六人はソファ席から立ちあがった。のみものはほとんど手つかずで残っている。コーサクはちょっとといってソファを離れると、手洗いにいった。すぐにミズカの携帯がうなりだす。耳元にあてるといった。
「はい、ミズカ。そっちはどんな様子」
おれは彼女の右耳に顔を寄せた。携帯の音声はけっこうでかくて、静かな場所ならほとんど会話がきき取れるのだ。コーサクがのんびりした調子でいった。
「このまえ雑司ヶ谷で襲撃されたのが、自殺系サイトで話題になっているみたい。みんな、けっこう警戒しているよ。ここは明るすぎるから、つぎの場所に移動するんだ。きっと懺悔大会になるよ」
ミズカが関心なさそうにいった。
「そう。それじゃあ、時間かかるね」
「うん、今日はみんなはもういいんじゃないかな。終わったら、あとで電話する」
「わかった」
通話を切ろうとしたミズカにいった。
「誰が、空の友達かきいてくれ」
ミズカが繰り返すまえに、コーサクがこたえた。
「青と白のチェックのシャツを着た人」
ブロックだ。おれから数メートル離れたところで、テーブルからやつが伝票を取っていた。鋭い横顔の男。確かにひどくやせている。髪は黒でパーマがかかっていた。やつは振りむいて、おれたちのテーブルのわきをとおった。おれはミズカの携帯のメールを読む振りをして、彼女に身体を寄せた。なぜかはわからない。だが、ニルヴァーナのときとは違って、顔をちゃんと見られたくなかったのだ。こういうときには、いくら理由がなくても自分の勘を信じるしかない。
◆
集団自殺の志願者六人がカフェをでていくと、手はずどおりにヒデがのんびりと距離をおいてあとを追った。おれたちもすこし時間をおいて店をでた。ミズカは携帯をだして、液晶画面をGPSモードに変える。
画面には六本木周辺の詳細な地図が映しだされた。そこを赤い三角の矢印がゆっくりと動いている。コーサクの携帯がある場所だった。おれたちは矢印を追って、六本木交差点をわたり、裏通りにはいった。スクエアビルの近くのカラオケボックスのまえで、ヒデを見つけた。
「このなかにはいったよ」
おれはいった。
「懺悔大会って、なんなんだ」
ミズカが肩をすくめ、ヒデが代わりに返事をした。
「集団自殺の志願者が最初に顔をあわせると、お互いの自己紹介といっしょに、自殺への動機を披露しあうんだと、コーサクがいっていた。おれたちはそいつを懺悔大会と呼んでる。いかに自分が恵まれていないか、どれほど生きていることは苦痛か、この世界が繊細な自分にはいかに粗暴で冷酷か。くだらない自己憐憫が短くて三十分、長いと一時間以上も続くんだ。ああ、今すぐ警棒をもってなぐりこみたいな」
ひとり一時間なら、六時間だった。コーサクがメンバーを先に帰したがるわけだ。おれたちは、その場で解散した。
おれたちはつくづくスパイダーを甘く見ていたのだ。誰か優秀な導き手があるとき、六時間というのはひとつの集団に決定的な変化を生むことが可能な時間だ。
おれたちはつねに他者の危険については、これ以上ないほど鈍感である。ニューヨークでもホワイトハウスでも、イラクでも六本木でも、人間の鈍さに変わりはない。
◆
翌日、芸術劇場のカフェにまた全員で集まった。懺悔大会の報告をするコーサクの表情はひどく明るかった。この数日の落ちこみが嘘のようだ。
「あのゴスロリの子は視線恐怖と醜貌恐怖なんだって。あんなに目立つカッコしてるのに、おかしな話だよね」
おれはとんちんかんなことをいった。
「それくらいなら、顔のことなんて気にすんなってボーイフレンドがひと言いえば治るような気がするけどな」
ミズカは冷たい目でおれを見た。
「わたしはカウンセリングの勉強をしてるからわかるけど、そんなに簡単なものじゃないの。症状を分類するのはすぐできるけど、あらわれかたはぜんぜん違うしね。彼からそんなふうに励まされるのが、自殺のひき金になることもある。治療が必要なくらいの心の悩みは、ひと筋縄ではいかないよ」
そうかという代わりにうなずいておいた。ヒデがいった。
「男たちはどんな動機だった」
おれはどうやってヒデがこの筋肉を維持しているのか興味をもっていた。連日反自殺活動で動きまわっているのだ。
「なあ、話の途中で悪いけど、いったいいつトレーニングしてるんだ」
ヒデは右手で左腕の上腕三頭筋をつかんでいう。
「ジムの早朝コース。今日も二時間で、二十トンばかりあげてきたよ。あんたもやるか」
筋肉マン・マコト。絶対に数すくない女性ファンが離れていくだろう。
「やめとく」
コーサクが笑っていった。
「じゃあ、ぼくがやろうかな。なんだか今、すごくやる気があるんだよね。そうそう、昨日の男たちだけど、ニルヴァーナは対人恐怖、紺ジャケは燃え尽き症候群、空の友達は……」
坊ちゃん刈りのしたで、眉をひそめる。
「あの人ははっきりと症状を分類できないや。なんていうか生きてることの漠然とした不安かなあ」
おれは驚いていった。
「そんなのが自殺の理由になるのか」
コーサクは笑っている。おれはこいつの笑顔をちゃんと見るのは初めての気がした。小学校にあがるまえの子どものようなくしゃくしゃの笑いだ。
「それはなるよ。漠然と世界のすべてを覆う、でも強烈な不安。そんなのすごく苦しいだろうと思う」
ミズカが事務的にいう。
「じゃあ、決行日は決まったの」
コーサクは夢見るようにうなずいた。
「うん、今度の花金の夜。場所は六本木。全部で六人だから、三列シートの大型ワゴンにするっていっていた」
ヒデが座ったまま首のストレッチを開始した。戦闘準備なのだろう。
「方法は」
「いつもの」
眠剤のカクテルと練炭による一酸化炭素中毒か。ミズカが質問する。
「クスリは誰が手配するの」
コーサクはにこにこしていう。
「空の友達。自分がかよっている心療内科でもらったやつを、のまずにためておいたんだって。眠剤の組みあわせは、まだわからない。なんだか、今回はスパイダーじゃないみたいだね」
ヒデは首だけでなく、肩のストレッチも始めた。芸術劇場のカフェというより、ボディビルコンテストの控え室みたいだ。
◆
おれは週末までのあいだ、つけ焼刃の心理カウンセリングの勉強を始めた。今回のネタでは、いつものように誰がどんな動きをするか、単純なロジックで予想しても無駄なような気がしたのだ。
予測不能の心の動きを学んでおきたい。急に逆流したり、遥か昔に退行したり、混ざり気のない悲しみがでたらめなよろこびに急変したり、強さが弱さに瞬時にいれ替わる人の心の不思議。そいつにすこしでも慣れておく必要があると感じたのだ。
われながらいい勘だったが、いつだって予想というものは、それを一段うわまわる鮮やかさで現実に裏切られるのだ。リアルな世界をまえにすると、お勉強のいかに空しいことか。それでもおれは一日二冊ずつ心理学の入門書を片づけていた。
効かないエアコンしかない四畳半のおれの部屋で、そのあいだずっと流れていたのが、アルバン・ベルクのオペラ『ヴォツェック』だ。実話を基にしたストーリーは悲惨。貧しい兵士のヴォツェックが軍隊でいじめにあい、しだいに精神の平衡をうしなっていく。しまいには妻のマリーが軍楽隊の男とできていると思いこんで、マリーをナイフで刺殺して、自分も半分自殺のような形で汚い池で溺れ死ぬって話。ラストシーンは夫婦の幼い子どもが木馬で遊んでいるわきを、おまえのおふくろの死体を見にいくといって悪ガキが駆けていっておしまい。まったく救いがない。
だが、ヴォツェックの心が壊れていく過程を、西洋のクラシック音楽の歴史を最終的に破壊することになる十二音技法で描いた無調のオペラは、素材と技法がどんぴしゃではまってカミソリみたいな傑作になっている。なあ、チャイコフスキーの『弦楽セレナード』から始まったおれの音楽の旅もずいぶん遠くまできただろう。あんたも、いい音楽をたくさんきいてくれ。
心が豊かになるなんて、おれには偉そうでいえない。でも、話のネタくらいにはなるし、誰にもいえないほど悲しいことがあったとき、ひとり切りのあんたのそばで音楽はきっといっしょにいてくれる。
芸術はどれほど高貴だろうが、あんたの無聊《ぶりよう》をなぐさめるためにある。そうではないと偉そうにいうやつは、ただ蹴り飛ばせばいいのだ。
◆
決行日の前日、コーサクから電話があったのは午後五時すぎだった。おれはいつものように店先でゆっくりと腐っていく果物を眺めていた。こんな時間ではあまり客はいなかった。うちの店の場合、終電間際のサラリーマンがメインの客筋なのだ。スイカの段ボールを汗まみれでたたんでいると、携帯が鳴る。
「やあ、マコトさん。コーサクだけど、近くまできたから、ちょっと会えないかな」
やたらに明るい声だった。おれは店の奥にいるおふくろを見た。このところ店番を押しつけることが多かったから、ご機嫌ななめなのだ。
「いいよ。でも、あまり時間ないから、三十分な」
おれたちはウエストゲートパークで待ちあわせをして、電話を切った。ちょっとでてくるとおふくろにいったら、心配そうな顔をした。
「おまえ、最近だいじょうぶかい。いつも部屋からホラー映画みたいな曲が流れてくるし、積んである本は『自殺に至る人の深層心理』とか『鬱病治療の最前線』とかさ。なにか悩みがあるなら、ちゃんとあたしにいうんだよ」
おれは笑ってサングラスとキャップをつけた。これがないと公園までの数分間で、熱中症になる。最近の東京の夏は、すでに殺人的なのだ。
「だいじょぶ。おれが自殺なんてするように見えるか。今度のネタの勉強さ」
おふくろは深くためいきをついた。
「そのやる気が中学ででていればねえ。覚えてるかい、あんたは小学校の低学年のころは神童っていわれてたんだよ」
ぜんぜん覚えていなかった。おれはおおよろこびできいた。
「それで」
「教科書は一回読んだだけで全部覚えるし、自動車の名前も、テレビの番組表もすらすら暗記していた。それが大人になったら、こうだから」
自分のこめかみをさして、渦巻きをつくる。クルクルパー? おれは無言のまま心的外傷を抱え、ウエストゲートパークにむかった。
◆
油田のパイプラインのような太いベンチには、すでにコーサクが待っていた。これから始まる夜を控えて、都心の公園はにぎやかなお祭りさわぎ。
「よくきてくれたね、マコトさん」
夕日を浴びた明るい笑顔がそういった。おれはまだコーサクとそれほど親しくはなかった。だから、いきなりの呼びだしにはちょっと驚いていたのだ。
「めずらしいな、ひとりだけなんて。おれになんか用があるの」
コーサクはベンチのうえで、落ち着かないようだった。
「ううん、とくに用があるわけじゃないんだ。近くまできたから、ちょっと話でもしようかなって思って。そうだ、これ、あげる」
やつはそういうとタワーレコードの黄色い袋をさしだした。なかを確かめてみる。ベートーヴェンのピアノソナタ全集だった。ピアニストは、ウィルヘルム・ケンプ。田舎の音楽教師のような地味な演奏家だ。コーサクはいった。
「この全集、うちにあるやつは、父親の形見のレコードなんだ。一時期毎日朝から晩まで、そのレコードをきいていた時期があった。マコトさんもクラシックが好きなんだよね。これはそのレコードのCD再発版なんだけど、よかったらきいてみて」
照れくさそうに遠くのビルを見ている。おれは友人からベートーヴェンなんてもらったことがなかった。まわりのダチには基礎的な教養に欠けるやつが多いのだ。
「ありがとう。今度ゆっくりきかせてもらうよ。いいたくなければいいけど、コーサクのおとうさんて、どんな人だったんだ」
やつの顔が赤く輝いた。夕日となにか夕日に似たまぶしい思い出があるのだろう。
「うちのとうさんは、ぼくに似て気が弱くて、やさしい人だった。自殺したのは、ぼくが小学校五年生のときだけど、あの日まではいいことばっかりだったよ。あんまりお金はなくて、狭い社宅住まいだったけど。休みの日はいつも家にいて、遊んでくれるような人だった。ほんとうは人づきあいが苦手で、会社にいくのも苦しいみたいだったけど。日曜の夜にはため息をつきながら、最後のハ短調のソナタを音をちいさくして、よくきいていた」
おれはようやく届くくらいの声でいった。
「理由はなんだったのかな」
コーサクは微笑んでいう。
「わからない。ぼくと同じで暗い性格だったから、職場でいじめにあってはいたみたい。やっぱりそういうことをする多くの人と同じで、急性の鬱病になっちゃったんじゃないかな。方法が激しかったから」
おれはもうなにもいわなかった。その方法をききたくなかったのだ。遠くで誰かがギターをチューニングしていた。コーサクはなにか楽しいことを思いついたようにいう。
「関西のある街で、いきなり電車に飛びこんだんだ。遺体には対面できなかった。霊安室には白い布をかぶせられた山のような固まりがあったよ。ばらばらだったんだ。それが最後の思い出なんだ。でも、今はよかったと思う」
おれはコーサクがなにをいっているのかわからなかった。
「きっととうさんもさんざん苦しんだんだと思うんだ。生きていられないくらいの苦痛だって、この世界にはある。あのクラブのふたりには話せないけど、ぼくは自殺が絶対悪だなんて思ってはいないんだ。シューダンで集まる人たちは、みんな問題は抱えているけど、普通の人ばかりだよ。知ってる、マコトさん」
おれは白木院長にいわれたカウンセリングマインドってやつを思いだした。相手に対する共感、受容、自己一致。黙ってうなずいてやる。
「キリスト教がはいるまえの古代ローマでは、ある特殊な条件下では自殺は公認されていたんだよ。ある都市国家では申請者に無料で毒薬を与えていたところもある」
歴史というのは、どうせ奇想天外の連続なのだ。おれはコーサクに反対などしなかった。きっと毎日自殺志願者に会っているうちに、胸のなかにたまったものがたくさんあるのだろうと思った。
「おれは自殺の歴史についてなんか詳しくない。でも、あんまり自分を追い詰めるなよ。肩の力を抜いたほうがいいんじゃないか」
コーサクは軽くうなずいていった。
「ぼくはときどき、スパイダーもうちの反自殺クラブも同じだなって思うことがある。どっちも自殺しようとする人をつうじてじゃなくちゃ、世のなかとかかわれない関係不全の困ったちゃんなんだ。一方はむこうにわたしてやろうとして、残りはこちらに引きとめようとしている。方向性が変わるだけで、実際に扱うものは同じなんだよ。ぼくのやってることなんて最低だ。文字どおり命がけの真剣な志願者を、みんなだましているんだからさ」
おれの共感的理解もそこまでだった。ついいつもの説教モードにはいってしまう。
「最低でいいんじゃないか。おれはコーサクが最低でもぜんぜんかまわないよ。誰かがそばにいるとなにもしなくても雰囲気が変わるだろ。なにか立派なことをするから、生きる価値があるんじゃない。最低でも、くだらなくても、困ったちゃんでもいいんだ。そこにいるだけで、人間って風とか光りなんかを周囲にだしてるんだ。コーサクの最低を見てくれる人がいて、そいつを頼りにする人もいる。わかるか、おれたちはみんな最低でいいんだよ」
おれは自分の言葉に夢中になっていた。あやうく最後に、だからおまえも生きろとつけ加えそうになる。コーサクには別に応援も、激励も必要ではなかったはずだ。
「ありがとう。やっぱり、マコトさんはやさしいや。今日はいろいろ話ができて、すごく楽しかった」
コーサクは坊ちゃん刈りの頭をかきあげて、笑って見せた。おれが一番よく思いだすやつの顔は、やはりそのときの穏やかで満ち足りた笑顔だ。
心は逆流する。コーサクの心が生きることにさからって動きだすのを、おれはとめられなかった。ただただ残念だ。
◆
金曜日夜十一時の六本木というのは、真夜中のオリンピック開会式みたいだ。世界中の人間が集まって狭い歩道を回遊している。開催国の日本人のほうが数はすくないんじゃないだろうか。
空の友達が借りたのはアメリカ製のミニヴァンだった。大人が六人のっても、たっぷりとくつろげる全幅が二メートルを超えるような大陸サイズ。おれたちはそのヴァンが螺旋《らせん》を描いてのぼったパーキングビルのまえに、マーチをとめていた。ヒデは特殊警棒の先端を布で磨きながらいう。
「二十四時間営業の立体駐車場とは、よく考えたもんだな。これなら嫌でも明日には管理人が見つけてくれるだろう。遺体の腐敗の心配もない。都心だから、さしてドライブしなくてもいいしな。六本木の夜景を見ながら、人生にさよならだ」
ミズカは腕時計を確かめた。
「コーサクから連絡がはいったら、すぐに突入するよ。今回は男が三人いるから、なにかあったらマコトさんも動いてね」
おれがうなずくと、ヒデがいった。
「あんなやつらなら、おれひとりでも十分だけどな」
おれのほうに予備の特殊警棒をさしだした。にやりと笑って筋肉マンはいう。
「窓ガラスを砕くには、素手ってわけにもいかないだろう。なにもこいつでやつらの頭をたたいて、目を覚まそうというわけじゃない」
それもそうだった。一酸化炭素中毒は急性だ。新鮮な外気をいれるために一刻を争うとき、どんな得物をつかうかためらっている場合ではなかった。おれはずしりと重い特殊警棒のゴム巻きハンドルに、てのひらをなじませた。
クルマの外を外国人と外国人みたいになりたい日本人の女たちが、川のように流れていく。あとは待つだけだった。
◆
真夜中の十二時、十二時半、一時。いくら待っても、なかなかコーサクからの呼びだしはなかった。おれたちはくだらない深夜放送をきいて待った。最初に動いたのはヒデで、マーチのデジタル時計は、一時半になろうとしていた。
「おかしくないか。コーサクは決行は日づけの変わるときだといっていた。なぜ九十分も遅れているんだ」
おれも同じ気分だった。エアコンの効いたクルマのなかにいても、嫌な感じの汗がとまらないのだ。おれはミズカにいった。
「おれたちもこのパーキングにクルマをいれて、なかを偵察してみよう。遅すぎるし、ものすごく嫌な感じがする」
おれの言葉が終わらないうちに、ミズカが思い切りアクセルを踏んだ。タイヤを鳴らして発券所にマーチの鼻先をつっこんだ。BMWのオープンカーにのったどこかの金もちのガキが大声をあげたが、ヒデがにらみつけると黙ってしまった。
マーチはゆっくりと立体駐車場を流していった。二階三階はほとんど空車スペースはなかった。ヘッドライトに照らされて、墓石のように規則正しく自動車がとまっているだけだ。なかにはここをラブホテル代わりにつかっているやつもいるようだった。車体がゆらゆら揺れている。
四階にあがるとき、うえからおりてくるフォルクスワーゲンとすれ違った。メタリックブラックの新型ゴルフだ。違法の遮光フィルムをすべての窓に張っている。バンパーをこすりそうになり、ひやりとした。ゴルフの運転手はなにもいわず、スピードをゆるめもせずに坂道をおりていく。
マーチは苦しい息で急勾配をのぼった。四階五階。このあたりまでくると金曜日の夜でもかなりの空きが目立つようになった。だが、コーサクたちがのった銀色のシヴォレーはまだ見あたらなかった。ミズカに叫んだ。
「ここは何階まであるんだ」
「七階」
「じゃあ、屋上にいこう」
人間はおかしな生きものだ。これから死のうというときでさえ、ラッキーナンバーには弱かったりする。
◆
最上階に到着した。さすがにここにはクルマはほんの数台しかとめられていなかった。むきだしのコンクリートの柱が無数に並んでいるだけ。マーチはゆっくりと広いフロアを一周した。東の角、ちょうど遠くに六本木ヒルズの光りの塔を望む場所に銀のミニヴァンがひっそりととまっていた。
おれにはその映像がひどくシュールに歪んで見えた。なぜかはわからない。それは誰かが生きている世界ではなく、恐ろしいほどのテクニックで描かれたエアブラシの絵のように見えたのだ。銀のボディには街の灯が、これ以上はなく豪勢に映りこんでいる。ヒデが叫んだ。
「まずい。すぐとめろ」
まだ走っているうちに、おれとヒデはドアを開けて、外に転げでた。真夜中すぎでも熱気は昼のようだ。夏の海を泳ぐように、なかなかミニヴァンまでの距離が縮まらなかった。すべての動きがスローモーションに見える。なにかわからないことを叫びながら、おれたちはシヴォレーに駆け寄った。迷っているひまなどない。先に到着したおれは、特殊警棒で運転席の窓をたたき割った。
雑司ヶ谷のときより練炭のにおいはずっと強烈だった。おれは鼻を押さえて、つぎの窓を割った。そこに見つけた顔に叫ぶ。ピンクに澄んで、微笑む友人の顔。
「コーサク」
おれは練炭の熱でまだあたたかな首筋に手をあてた。頸動脈が見つからなかった。無理もない。もうコーサクの心臓は動いていなかったのだ。だが、やつは生きているときとまるで変わらないように見えた。
「コーサク、コーサク」
おれをはね飛ばすように、ヒデとミズカがやってきた。微笑んだままシートにもたれたやつを揺さぶっている。おれは車内をのぞきこんだ。助手席にニルヴァーナ。二列目にコーサクと紺ジャケ、三列目にゴスロリとノーメイクの女。みな人形のように静かだった。なにかが生きている感じが、そのヴァンのなかではまるでしないのだ。
だが、運転席だけが空っぽだった。空虚であることによって、逆に強烈に誰かの生の印象が残った。逃げたのはあのボタンダウンの男、ブロックだ。無駄だろうとは思ったが、おれはいった。
「すぐに救急車を呼んでくれ。おれたちもここを離れよう」
ミズカはぼろぼろ涙を落として、コーサクの頭をなでていた。つややかな黒髪。
「もううちのクラブはおしまい」
おれは運転席のヘッドレストをなぐりつけた。
「なにいってんだ。ここで終わりにしたら、スパイダーに逃げられたままになる。やつはまだほかにも獲物を狙ってるんだぞ。コーサクの仇《かたき》を討たなくていいのか」
ウオーと誰かが吠えていた。ヒデがシヴォレーのフロント部分を特殊警棒でめちゃくちゃになぐりつけていた。ヘッドライトを割り、グリルを蹴りあげ、バックミラーをもぎ取る。おれは悲しみに怒り狂うヒデにいった。
「証拠は残すな。おまえはクモ野郎に一発お見舞いしたいんだろ」
おれを殺しそうな目でにらんで、ヒデはうなずいた。ぼろぼろのおれたちは、クルマにもどった。仲間の死体をひとつ、その場に残して。最後におれが見たのは、ミニヴァンのむこうに広がる六本木の夜景だった。五十四階建ての夢の塔。おれはあの光りを今でも忘れられない。なぜ最悪のときのイメージばかり切れるように鮮やかなのだろうか。
◆
通報から十分後には、何台もの救急車とパトカーが立体駐車場をのぼってきた。ヘッドライトがときどき夜空をサーチライトのように刺し貫く。集団自殺の噂はすぐに遊び人たちに広まったようだった。続々とやじ馬がつめかけてくる。おれたちはすこし離れたところから、騒動を見ていた。事情をいくつか知っていても、なにも協力できなかったし、コーサクにしてやれることもなかった。
まだやつに出会って日が浅かったが、おれは自殺で遺された関係者の気もちがすこしだけわかった気がした。取り返しのつかない残念さと裏切られた気もち、それに後悔でいっぱいなのだ。ウエストゲートパークであのときコーサクをぶんなぐっていたら、やつはこんなことはしなかっただろうか。明るく笑ったやつの顔から、おれはこの結果を予測できなかったのだろうか。あのベートーヴェンが遺品だと、わからなかったのだろうか。おれは、バカで間抜けで、コーサクを見殺しにした。
ヒデはガードレールに腰かけ、淡々といった。
「シューダンは時間どおりに決行されたんだろうな。なぜ、コーサクはおれたちに合図を送らなかったんだろう」
ミズカが放心していった。
「覚悟していたんじゃないかな。わたしのところには二日まえにきたよ」
顔をあげておれはいった。
「みんな、プレゼントはなんだった」
ヒデが押し殺すようにいう。
「おれが昔いいなといったオークリーのサングラスだった。こいつだ」
タンクトップの胸にさげたサングラスを指先でふれる。
「わたしは新しいの買うからっていわれて、コーサクがつかってたアップルのiPod。マコトさんは」
おれは急に泣きたくなってしまった。涙がにじんだ。こぼさないようにいう。
「ベートーヴェンのピアノソナタ全集」
最後に重たいプレゼントをくれたものだ。これからおれはあのピアノソナタの一曲をどこかできくたびに、コーサクのことを思いだすことになるだろう。
「そういえば、おれたちはあのパーキングビルで、ずっと出入りの人間をチェックしていたよな。クルマだって調べていた。とすると、おれたちと四階のスロープですれ違った黒いゴルフにスパイダーのやつはのっていたはずだ。ほかのクルマはまだ残っているし、でていったクルマのドライバーは顔を確認してる」
ヒデが唇をかんでいった。
「そうか。あのときわかっていたら、おれがぶっ殺してやったのに」
おれはいった。
「あの時間までミニヴァンのそばにやつはいたんだ。全員が最後のときを迎えるまで、クモ男はじっくりと見送ったはずだ」
おれは真夜中の駐車場にひとり立ち、五人の人間が眠りながら生の世界からすべり落ちていくのを見ている男を想像した。やつの顔は暗くて見えない。そこにどんな目的や、考えがあるのだろうか。黄色い規制線を数人の警官がくぐってきた。
「ミズカ、泣くな。警官がくる。ここを離れよう。明日からクモ野郎を探すなら、ともかく今夜は休んでおくんだ」
三人になったおれたちは、どこかつぎのクラブにでもいく振りをして、ぶらぶらとクルマにもどった。おれには自分でもできもしないことを、気軽に人にいう癖があるみたいだ。
その夜はうちに帰っても一睡もできなかった。眠りにつこうとするたびに、コーサクの白い肌と六本木の夜景が浮かんできた。半覚醒状態で見る一瞬のイメージは、ひどく悲しく鮮やかで、安らかな眠りの世界におりていく細く頼りない糸を切断した。
不眠のクモの糸。スパイダーは今ごろ静かに眠っているのだろうか。それとも不休の努力でつぎの獲物を探しているのだろうか。だが、どちらにしても、おれがやつの糸にがんじがらめに縛られているのは確かだった。
そいつはおれが生きている限り、決して切れない糸なのかもしれない。
◆
つぎの日は一日中、三十二番のピアノソナタを店でかけていた。ひとり切り真夏日の葬式だ。第二楽章のアリエッタ。きらきらと光りの粉をまくようなトリルで何度も泣きそうになる。これ以上なく暗い顔をしているので、おふくろはおれになにもいわなかった。ミズカから電話があったのは、日の暮れるころだった。
「白木先生にアポが取れたから、ちょっとつきあってくれない」
彼女の声も沈んでいた。おれもこんな調子にきこえるんだろうか。
「わかった」
うちの店のまえで拾ってもらった。さすがのおふくろもおれたちの空気を読んで、くだらないひやかしはいわなかった。ミズカは泣き腫らした顔だったのだ。
夏空がようやく暮れ切ったころ、下落合の白木クリニックに到着する。おれたちは最後の患者といれ違いに、ロビーにはいった。ラベンダーとその他の香り。確かにリラックス効果はあるようだった。おれはリゾートホテルのような室内で、すこしだけ肩の荷がおりたような気がした。
このまえと同じソファで待つおれたちのところに、疲れた様子の院長がやってきた。ベージュのシンプルなカットのパンツスーツ。ジル・サンダーとかセオリーとか。よく似あっていたが、この女医は明るい色のスーツをいったい何着もっているのだろうか。
「コーサクくんのこと、ききました。残念だったね。でも、ミズカさん、自分を責めてはダメ。誰にも予想できなかったことだし、悲しいけれど決めたのはコーサクくん自身だから」
ミズカは院長の最後の言葉で泣きだしてしまった。
「コーサクが自殺するなんて思わなかった。わたしたちが潜入なんてむずかしくて、つらい役をやらせたせいかな。コーサクはもともとそれほど強いほうじゃなかったのに」
ぽろぽろと涙を落としたが、ミズカはしっかりと顔をあげている。
「もう動かしようがないことを考えるのはやめましょう。つらいけど、この状況を受けいれるしかない。自分を責めたり、なにかに怒りをぶつけないでね」
院長の顔にはまたあの微笑が浮かんでいた。この世から遠く離れた微笑だ。
「最後に会ったとき、コーサクはひどく明るかった。おれたち三人にプレゼントをくれたりするし、おれにはまったくやつが自殺するなんて想像できなかった」
やわらかなソファに座っていても白木院長の背はまっすぐに伸びていた。微笑をたやさずにいう。
「コーサクくんはどちらかというと、いつも抑鬱傾向だった。それが急に明るくなったとすると、それがサインだったのかもしれない。自殺をする人は直前に生活が規則正しくなったり、身のまわりを整頓したりするから。でも、それだって誰にも予測できることじゃない。わたしたちはいつも終わってから、それがどういう意味なのか考えるだけ」
おれにはそれでも納得のいかないことがあった。
「最初に今回の集団自殺のオフ会があった。そのときスパイダーと話をしてから、コーサクは変わったんだ。やつがなにか催眠術というか、抑鬱を悪化させるような逆カウンセリングみたいなことをした可能性はないかな」
美人の女医の顔で、微笑がほんのすこしふくらんだ。おれには心の扉がドアチェーン分くらい開いたようにしか見えなかった。ガードの固い医者。
「そうするとその人はマコトくんに似てるのかもしれない。初対面のコーサクくんから、心の奥にあることをたくさんききだし、彼のなかに眠っていた衝動を実現させた。でもね、やっぱり最終的には、決定したのはコーサクくん自身なの。催眠術の話はおもしろいけれど、そういう暗示では誰かを自殺させることなんて不可能です。わたしたちの生の本能は、催眠術くらいでは曲げられない」
ミズカがつぶやいた。
「生きる本能……じゃあ、コーサクは昔から心のどこかで死にたかったのかな」
おれはミズカの右手首を見た。ビニールのように光る白いリストカットの跡がたくさん。そのあとで院長の手首を見る。こちらには傷ひとつついていなかった。
「自殺をする人の決心が固いなんていうのも俗説のひとつ。自殺を試みる人でも、生きたい気もちと、もう苦しくて終わりにしたい気もちが、せめぎあっているものなの。また別な気もちのときなら、コーサクくんはまだ生きていたかもしれない。だってただヒデくんを携帯で呼びだすだけでよかったんだものね」
ガラスのむこうには、照明を浴びたヤシの木が浮き立つように夜空に映えていた。この明るい木を見るか、暗い夜空を見るか。おれたちが見ているものは、結局みな同じなのだ。ただ注意を集める場所が違うだけなのだろう。おれにはそのときあることがわかった。心理学的にはでたらめかもしれないが、スパイダーがコーサクにしたことがわかった気がしたのだ。
「じゃあ、スパイダーはコーサクを自由にしたんだな、きっと。それでやつはあんなに明るくなったんじゃないか」
ミズカはおれのほうを不思議そうな顔で見た。怒りが湧きあがってくる。
「スパイダーのやつは、自殺への罪悪感を消してやったんだ。大好きな父親を受けいれてあげよう。自殺はただの出口だ。いいも悪いもない。きみだっておとうさんのようにすれば、これ以上苦しまなくて済む。ゆっくりと眠りたくないか」
やさしく微笑んでコーサクに悪魔の言葉をささやくスパイダーが見えるような気がした。白木院長はおれのほうに顔をむけて、真剣な目つきをした。
「やっぱり、マコトくんには適性があると思う。ちゃんと心理学の勉強をしてみる気はない」
おれは首を横に振った。とてもじゃないが、そんな責任の重い仕事は務まらない。せいぜい半分に割ったスイカを売るか、ガキのトラブルを裁くくらいが、おれにはいいところ。
◆
帰りのクルマのなかはずっと沈黙だった。エアコンがいらないくらいの冷たい静けさ。びっくりガードの渋滞で、ミズカがフロントウインドウを見つめたままいきなりいった。
「わたし、すごくセックスしたくなっちゃった。マコトさん、このまま西口のホテル街にいって、朝までめちゃめちゃにHしない」
晩めしはイタリアンにしよう、それくらいの調子の軽い提案だった。ミズカは顔色ひとつ変えていない。普段のおれなら足元がぐらりと揺れる誘いだが、そのときは違っていた。
「やめろよ。おれはカッターじゃない」
ミズカは不思議な顔でおれを見る。
「おまえが苦しみを忘れるために自分自身を傷つける道具にはなりたくないんだ。リストカットも、好きでもない相手とのセックスも同じだろ。いつかミズカがコーサクのことをちゃんと受けいれられる日がきたら、また誘ってくれ。そうしたら、おれはどんな大事な用だって放りだして、ミズカに会いにいくさ」
まえの交差点は赤信号だった。ミズカは目を見開いておれを見つめた。サイドブレーキをあげる。彼女はおれの胸に抱きついて、それから三十秒思い切り声をあげて泣いた。
◆
週明けの月曜日、おれたちはまた芸術劇場のカフェに集合した。コーサクがいなくなって、三人になった反自殺クラブである。おれはヒデにいった。
「そっちはどうしてた」
ヒデはアイスコーヒーのグラスをあげるだけで、顔をしかめた。
「うちのおやじのときと同じだ。この二日間、朝から晩まで死ぬほどトレーニングした。計算はしてないが、あわせて百トンくらいあげたんじゃないか。おかげでひどい筋肉痛だ」
この男の場合、なにが起きてもトレーニングをするのだろう。筋肉の量が増えすぎて、窒息しないといいのだが。
「さて、これからどうする」
ミズカは腫れた目を隠すためサングラスをしていた。ヒデがコーサクにもらったのと色違いのオークリーだ。
「わたしはコーサクの仇を討ちたい。どんなことをしてもね」
ヒデとミズカを見た。まだふたりともショックから立ち直っていないようだ。おれはいった。
「また潜入作戦を復活させたほうがいいだろう。スパイダーのやつは、おれたち三人の顔を知らない。今度は絶対に逃がさない」
ミズカがさっとリストバンドをした右手をあげる。
「じゃあ、潜入役はわたしがやる。この手を見せたら、誰も疑わないでしょ」
確かにそのとおりだが、おれは反対した。
「だめだ。潜入役はおれがやる。ミズカは不安定すぎて危険だ。スパイダーのやつは、善意だか信念だか知らないが、人が自殺するのは当然の権利だといって、迷ってるやつを自殺に導く。ここにいる三人のなかで、一番安定してるのはおれだ」
ミイラ取りがミイラになる。コーサクに起きた結末はことわざどおりだった。生と死のあいだで綱引きをするなら、おれみたいに能天気な現世快楽主義者がいいに決まっている。めずらしくヒデも素直だった。
「あんたのいうとおりだな。力くらべならともかく、おれだってスパイダー相手じゃあぶない」
そこでおれはミズカとヒデから、心中掲示板への志願者の心得をたっぷりとリサーチすることになった。絶望のレッスンである。まあ、この世のなかにそんなレッスンがあったとしての話だが。
◆
自分の部屋に帰って、さっそくネットに飛んだ。スイ、スイ、スイサイド! は今日もハスの花びらを散らした明るいトップページだった。心中掲示板にジャンプする。先週の金曜日から新たに募集を呼びかけているのは、ふたりだけ。集団自殺の夏だって、そうそうそんなに募集者はいない。
最初のハンドルネームはダークプリンス。メッセージを読んでみる。
最後のお楽しみを思い切り満喫してから、みんなでむこう側にいきましょう。ラクに、きれいに、痛みなく。これがわたしたちのモットーです。
なるほど、なんにでもうまい売り文句があるようだった。集団自殺の呼びかけというより、ムダ毛の永久脱毛の広告のようだ。二番目のハンドルネームは、夏の朝。こっちは小学校の学級文集のタイトルみたい。
晴れた夏の朝のように爽やかな気分で、最後のときを迎えましょう。もうあなたは十分に生きたし、十分に苦しみました。自由と解放の夜明けは、間もなくです。一通のメールが、あなたの脱出への切符です。
こちらもなかなか見事なものだった。おれは液晶ディスプレイのまえでしばらく考えてから、同じ文面のメールをふたりの募集者に送った。恥ずかしい出来だが、こんなやつ。
おれは工業高校一年からずっと引きこもってる。中卒じゃ仕事はないし、外の世界が怖くてたまらない。もうこの世界にいることに飽きあきしてる。いっしょにいってくれる旅の仲間がいるとうれしいな。
しばらく迷ってハンドルネームをケンプに決めた。どうせ誰もわからないだろうし、コーサクの仇討ちの気もちもあったのだ。
◆
ダークプリンスからは翌日すぐに返事があった。歓迎するというのだが、なぜか顔写真を送れという。おれはしかたなく、デジカメで撮った写真を添付ファイルにして送った。意味がわからないが、好きなタイプの顔と死にたいのだろうか。
夏の朝からは翌々日にメールがきた。ていねいで紳士的な文章だ。こちらは何度かメールのやりとりをしてから、オフ会を開きたいという。こうしたことをするには、メンバー同士のコミュニケーションと相性が大事なのだそうだ。
おれはミズカとヒデに連絡を取りながら、新たに心中掲示板に書きこみがないか、毎日あちこちの自殺系サイトをまわった。こんな徒労の仕事はない。だってあっちの世界のBBSを日々大量に読むのは、それはたいへんなのだ。おれはコーサクを尊敬するようになったくらいだ。苦悩と憎しみと不適応を訴える液晶画面の数千行。
あんたも心理的な地獄めぐりをしたいなら、やってみるといいよ。それこそ、ほんとうに死にたくなるから。
◆
その週の水曜日には、ダークプリンスからオフ会の誘いがあった。土曜日に会わないかというのだ。場所はなぜか大井町のカラオケボックスだった。おれはいいといったのだが、ヒデとミズカも店のまえで張るといってきかない。コーサクの件で心配性になっているのだろう。
おれはめったに足を運ばないターミナルを横切った。大井町は東京のときの流れから十五年くらいおき去りにされたようなさびれた街だ。駅まえにあるカラオケボックスのチェーン店にはいる。フロントわきにおかれたソファに腰かけた。そこで午後四時に待ちあわせなのだ。
時間どおりにおれのまえに立ったのは、初代ガンダムのプリントTシャツを着たメガネのチビだった。
「あの、そっちも、どうせ目的はコレでしょう」
形の悪い小指を立ててみせる。うわ目づかいでおれに笑いかけてきた。
「今日はかわいい子だけ選んで、ふたり呼んであるから、共同戦線を張ろうよ。どうせ死んじゃうならHぐらいしちゃってもいいよね」
気の弱そうなガキだった。自殺サイトの心中掲示板を出会い系の代わりにつかう。アイディアはいいのかもしれないが、おれにはお呼びでなかった。
「ひとりでがんばれ。どんな子がくるのか知らないが、生きてるほうがずっと楽しいって目にあわせてやってくれ」
おれはショルダーバッグを肩にななめがけした小柄なダークプリンスをその場において、カラオケボックスをでた。
◆
大井町の駅にむかう途中で、ヒデとミズカが合流した。出会い系の話をする。ミズカがうっとうしそうにいった。
「今じゃどんな趣味のホームページにいっても、出会い系の男がうじゃうじゃしてる。あいつらもっとほかにやることないのかな」
おれは苦笑いしていった。
「筋トレとか」
ヒデはおおまじめにうなずいた。
「ほんとだな。みんなトレーニングすればいいんだ。そうすれば、自殺系も出会い系ももっとひまになる」
ヒデのいうとおりかもしれなかった。おれも明日からバーベルあげようかな。
◆
ついていない日には、埋めあわせがあるものだ。その日、自宅にもどると夏の朝からオフ会の誘いがきていた。次の土曜日の夜、場所は新宿三丁目にある個室バーだという。集まるメンバーはおれと主催者をいれて、全部で五人。おれはすぐにミズカに電話をいれた。
今度こそ、スパイダーでありますように。おれは自殺サイトのパトロールにほとほとうんざりしていたのだ。
◆
あれこれとオフ会用のキャラクターを考えたのだが、結局おれは当日も地のままでいくことにした。ひねくれと皮肉と間の抜けたギャグを連発する迷惑キャラである。それならおれの場合、普段のテンションをちょっとあげるくらいなので気が楽。
最近、東京では個室系が流行だという(なんにでも系をつけるのもそうだ)。なかにはソファベッドやシャワーのついている個室レストランもあるという。江戸時代の茶屋が現代に復活したのかもしれない。一軒で全部が済むなんて、便利なものだ。しかし、土曜日におれがいった個室バーは、それほど怪しくはなかった。白木の間仕切りで小分けされたテーブル席が、ずらりと壁沿いに並んでいるだけ。薄もののカーテンはしっかり透けているので、なんでもありというわけでもない。のみ屋ばかりはいったちいさな雑居ビルの八階にある店だった。ウエイターに予約のブースに案内されて、おれはカーテンを抜けた。
「やあ、きみがケンプくんか。やっぱり、あれはピアニストのケンプなのかな。それだとウィルヘルムとフレディのふたりがいるけど、どっち」
ウイスキーのソーダ割をまえにして、ひどくやせた男がにこやかに話しかけてくる。ベージュの麻ブルゾンに黒いシャツ。キザな男だ。髪は明るい茶色だが、それくらいではごまかせなかった。ボタンダウンシャツを着て六本木のカフェにいた男。死のガスが充満したミニヴァンからひとりだけ抜けだした男。そいつはネットの心中掲示板に巣を張るスパイダーだった。
「よく知ってますね。友達から最近CDをもらったんです。ウィルヘルムのほう」
そうかと、クモ男はおれを見て無邪気に笑った。どこにも害意のない存在に見える。おれはひねくれキャラを思いだした。
「メールで読んだけど、やっぱり眠剤と練炭が一番楽なんですか」
クモ男はやはり笑ったままいった。
「うーん、そうだな。この何年か、その方法がスタンダードになってるかな。実際問題、手間も費用もかからないし、苦痛もすくなくて楽だと思うよ」
あともうひと押しだった。おれは不服そうな顔をした。
「でもさ、一酸化炭素中毒になるまえに目を覚ましたら、頭痛とか吐き気とか錯乱状態になるんですよね。ゲロまみれで死ぬの嫌だなあ。絶対に目の覚めない眠剤の組みあわせってあるんですか」
クモ男は自信満々でうなずいた。
「ばっちりだよ。イソミタールとブロバリン」
ビンゴだった。そのとき別な応募者がカーテンを割ってはいってきた。三十代の割ときれいな女。それから死の志願者が続々と集合する。あんたも楽しんでくれ。二時間半の懺悔大会の始まりはじまり。
◆
そのときに志願者たちが話した内容を書くのはフェアじゃないだろう。なにせみんなまだ生きてるからな。おれが思ったのは、実にさまざまな、そして些細《ささい》な理由で人は死にたがるものだということだった。
新しく買った靴が足にあわなくて、靴ずれができた。それが痛くてたまらない。どうがんばってもその程度の理由にしかきこえないやつもいた。おれはあの美人院長を思いだし、必死に共感的理解と受容に努めた。そうでもしなけりゃ、腹が立ってたまらなかったのだ。
自分の番では、おれは苦悩について語らなかった。誰になにをきかれても絶対に話したくないといい切る。おれは自分の苦痛は突き放し、ただひたすら死の決意だけを訴えた。スパイダーは笑っていった。
「きみの決意の固さはおもしろいなあ。それにバランスがとてもいいと思う。なんだか今すぐ死ななくてもいいような感じだな」
おれはひやりとしたが、それはやつの冗談のようだった。スパイダーはいった。
「よかったら、みんなのスケジュールがあう最短の日に、レンタカーを借りようと思う。みんな、OKの日をそれぞれ何日かあげてくれないか」
夏休みの旅行の予定でも立てているようだった。なぜかその場にいる自殺志願者はみなハイになっている。我先にスケジュールを告げる男女を無視して、おれはいった。
「ちょっと、トイレ」
◆
男女共用の狭い個室にはいり、携帯を抜いた。最初にでたのはミズカだった。
「そっちの様子はどう。マコトさんは自殺したくなっていないよね」
トイレのなかは音を消すためかかなりの音量で軽めのジャズがかかっていた。おれは声を張った。
「だいじょうぶだ。まだミズカとなにもしてないのに、死ねないよ。そばにはスパイダーがいる。ヒデと代わってくれ」
筋トレ中毒のボディビルダーがでた。
「今、つぎの集団自殺のスケジュールを組んでる。ここだけじゃなく、ほかにも動かしているプランがあるのかもしれない。今夜片をつけよう。時間はかけられない」
ヒデの声になにか金属のこすれる音が重なった。お得意の特殊警棒だろうか。
「おれはどうすればいいんだ」
「このバーをでたところが勝負だ。おれがスパイダーに声をかけて、やつをほかの人間から切り離すから、そこで一気に制圧しよう」
ヒデの声が急に冷たくなった。
「やつを押さえてどうする」
それはおれも以前から考えていたことだった。
「自殺幇助という罪がある。証拠を集めて警察にでも送ってやればいいんじゃないか。できるなら、やつの住まいを見つけたい。不法な眠剤が見つかるはずだ」
ヒデはうなるようにいった。
「それもいいだろう。一発でいい。おれに素手で思い切りなぐらせてくれ」
スパイダーの頭蓋骨がもつだろうか。おれはいった。
「頭はやめて、腹にしとけよ」
◆
個室にもどるとすでに翌週のスケジュールが決まっていた。おれは早ければいつでもいいといって、スパイダーに同調した。ほかの三人は気分よくのんでいるようだが、スパイダーだけは違っていた。ひどく冷静に周囲の人間を観察している。もちろんそのあいだずっとにこやかに笑っているので、冷酷な印象はない。おれと目があうと、意味深に笑顔をおおきくした。こいつの好みが男だとは思えないが、ここは新宿三丁目だった。すぐとなりは日本最大のゲイタウンだ。
◆
夜十一時にバーをでた。来週に自殺をする予定なのに、終電に間にあわないとか、つぎに会うまで元気でねとか、別れの挨拶はサラリーマンののみ会とぜんぜん変わらなかった。会計をきっちり割り勘にして払うところなんかも、皮肉なユーモアだ。
安普請の雑居ビルなので、非常階段は外に面していて、ビールケースやつまみのはいった段ボールでいっぱいだった。もうひとりの男性志願者(胃の悪そうな四十代)がエレベーターの開ボタンを押して、いい調子で叫んでいた。
「さあさあ、帰って寝ましょう。今夜は久しぶりにクスリがなくてもぐっすり休めそうだ」
おれがタイミングを計っていると、スパイダーがいった。
「ケンプくん、話があるんだけど。みんなは悪いけど、先にいってくれないか」
残りのメンバーは先におりてしまった。おれは身がまえた。反自殺クラブの活動にこのやさしいクモ男は気づいているのだろうか。やつは非常階段を数段あがり、うえの階を背伸びして見た。その場でいう。
「ちょっとこっちにきてくれないか」
おれはいつでも動けるように重心をさげたままゆっくりと油の染みたコンクリートの階段をあがった。やつは踊り場の手すりにもたれ、新宿の夜景を眺めていた。池袋よりも何倍も明るい街だ。
「きみには感心したよ。若いのにすごく落ち着いているし、あの三人の同じところをまわる話にもきちんと対応していた。ケンプくん、きみのいつか死にたいという決心は尊重するけれど、それをすこしだけ先延ばしできないだろうか。わたしはきみにわたしの仕事を手伝ってもらいたいんだ」
おれがスパイダーにリクルートされる? 仕事の誘いがあったのは、池袋のヤクザくらいで、まんざらでもなかった。だが、おれの場合適職だといわれるのはなぜか裏稼業ばかりなのだ。自殺幇助とか暴力団とか。おれは心やさしい店番なのに。
◆
なにか気のきいた返事をしようとしたとき、うえから非常階段をおりてくる影があった。逆三角形の小山のような影。右手だけが特殊警棒のせいでひざにふれるくらい長かった。コーサクに最後にもらったサングラスを胸にさげてヒデはいった。
「おまえはこれまで何人の自殺志願者をむこうにやったんだ」
スパイダーはおれのほうを救いを求めるように見た。おれは黙って肩をすくめてやる。ヒデはいう。
「二週間まえ、六本木で死んだ島岡孝作というやつを覚えているか。マッシュルームカットにピンクのTシャツ」
スパイダーはにこりと笑っていった。
「覚えているよ。父親が自殺したことで、ひどく傷ついていた青年だな。今ごろはその父親と会っていることだろう。魂というものがあるならばね。それがどうした」
おれはなんとかやつの顔に浮かんだ笑いを崩してやりたかった。
「あんたが計画した集団自殺が何度か阻止されたことがあっただろ。コーサクはおれたちといっしょに、危機介入をしていたんだ。それがあんたに殺された」
クモ男は笑いながら、首を横に振った。
「違うちがう。あれは彼自身が納得して決めたことだ。問題などひとつもない。それより、これからわたしをどうするんだ」
ヒデにうなずくと、やつもうなずき返してきた。おれはいう。
「これからいっしょにきてもらう。あんたの部屋を探って、自殺幇助の証拠を見つけ、警察に突きだす」
スパイダーはおおきく笑った。まえ髪を熱帯夜の風が揺らす。
「こんなに急に幕切れがくるとはね。でも、まあいいか。自殺が大嫌いなきみたちの目のまえで自殺ができるんだからな」
やつはそういうと軽々と鉄棒で回転するように手すりから降っていった。
◆
おれは踊り場から二、三段下に立っていた。ヒデは同じくうえの段だ。やつの言葉が終わらないうちに、ヒデは巨体を投げだした。素晴らしい反応だった。さすがに伊達《だて》に毎日二十トンのウエイトをあげているわけではなかった。
ヒデはコンクリート打ち放しの手すりから上体をのりだして、片手でやつの上着の襟元をつかんでいた。やつは笑いながら、空中で上着を脱ごうとしている。おれは叫んだ。
「よせ!」
引っかかっていた上着から片腕が抜けると、あとは一瞬だった。スパイダーは黒シャツ一枚で、雑居ビルと雑居ビルのあいだの切り立った狭い暗闇に落ちていった。悲鳴もなく、かすかに笑ったまま。コンクリートに硬いものがあたる音は、クラクションにまぎれてよくきこえなかった。
スパイダーは願いどおりに自殺できたのだろうか。おれはやつが書いたエンディングが気にいらなかった。生き残る可能性はわずかでも、生きていてくれたほうがうれしかった。なんといっても、おれたちは反自殺クラブなのだ。
ヒデは呆然としていた。外に垂らしていた手をあげる。仕立てのいい麻のブルゾンだけがついてきた。ヒデは絡みついた布を捨てるように手を振ろうとした。
「待て。なかを確かめよう」
おれはブルゾンのポケットを探った。ハンカチでつまんで財布とキーホルダーを抜く。鍵はゴルフとどこかの部屋の鍵。財布のなかには運転免許証がはいっていた。スパイダーの名前は、三浦清司三十四歳。住まいは港区西麻布二丁目。六本木ヒルズの近くの高級住宅街である。おれはブルゾンを手すりの外に投げ捨て、ヒデにいった。
「ミズカは近くで待機してるな。いこう」
◆
エレベーターでおりる途中で、救急車を呼んだ。あとはスパイダーの運が強いことを祈るだけだ。本名がわかっても、なぜかその名前でやつを呼ぶ気にはなれなかった。この目で見て話もしたのに、とても実在の人間という感じではなかったのだ。だから、あれほど多くの志願者が、自分の命を委ねたのかもしれない。この世とむこうの世界の境界の住人なのだ。
黒いマーチは、新宿から西麻布にむかった。おれたちが交互にスパイダーの最期を話すと、蒼白な顔でうなずいている。夜だが工事渋滞していたので、三十分以上かかってしまった。
スパイダーのマンションは、緑の深い公園のような場所に建つ低層マンションだった。しっかりと車寄せのある高級物件だ。おれたちは最初に誰かいないか、オートロックの表示板で部屋番号をいれて確かめてみた。何度鳴らしても返事はない。鍵をつかって、なかにはいった。エレベーターの音をきかれるのが嫌だったので、三階まで階段をつかった。308号室は突きあたり一番奥の部屋だ。
ドアを開ける。自動的に明かりのついた広い玄関は、白い大理石張りだった。ヒデはいう。
「金もちだったんだな」
三人で靴を脱いであがった。長い廊下を奥にむかった。壁を探り、照明のスイッチをいれた。二十畳ほどあるリビングルームだった。左右の壁には宝石店にあるようなガラスのショーケースが並んでいた。銀のアクセサリーとたくさんのアニメのフィギュアが美術館のように整理され、展示してあった。だが、そんなものより遥かに強力なものがそこにはあった。最初に気づいたのは、ミズカである。
「この香り。わかる、マコトさん……まさか、まさか……」
それは白木クリニックのロビーに漂っていたアロマと同じにおいだった。四種類の精油をブレンドした院長オリジナルだ。部屋の隅に押しつけられたアンティークのライティングデスクの引きだしを探った。たくさんのビニールの袋に小分けされた白い錠剤がでてくる。こいつがイソミタールとブロバリンだろうか。古い名刺いれのなかからそいつを見つけたのも、ミズカだった。
明るいピンク色の診察券。白木クリニック。ちゃんとスパイダーの名前も印字されていた。おれはいった。
「今夜はまだ終わらないな。ミズカ、院長に電話をかけてくれ、緊急で話があると」
ミズカは動転しているようだった。携帯さえうまくかけられない。おれだって表面は平静を装っていたが、内心は同じだった。ヒデのひと言がすべてを表現していた。
「おれたちを支援してくれた人が、スパイダーとつうじてるなんて信じられない」
そいつを確かめるために、おれたちは西麻布から下落合にむかった。今度の三十分間は誰も口を開く者はいなかった。
おれは白木院長とスパイダーの関係について、必死で考え続けた。だが、いくら考えたところで、彼女は白にはならなかった。
◆
白木クリニックの奥に院長の個人住居もあるという。おれたちがヤシの木のまえに着いたのは、もう深夜の一時すぎだった。クリニックのロビーではなく、横の通用門を院長は開けてくれた。こちらにも間違えようのない香りが広がっていた。つい先ほど、スパイダーの部屋でかいだのと同じ鎮静効果のあるアロマだ。
風呂あがりなのだろうか、ひざ丈の室内着のワンピースで出迎えてくれた。顔にはあの動かしようのない微笑が固定されている。おれはビルのすきまの暗がりを落ちながら笑っていたスパイダーを思いだした。
「遅くまで、クラブ活動ごくろうさま。わたしの部屋は散らかっているから、ロビーに先にいっていて。お茶をいれるから」
おれたちは半分だけ明かりのついたロビーにむかった。夜の観葉植物はなぜか淋しかった。こちらにもラベンダーの香り。
白木院長はガラスのカップ&ソーサーにバラの花びらの浮いたハーブティーをいれてきてくれる。院長はおれの正面に座った。いいたくないことをおれはいつも先にいわなければならない。損な役まわりだ。
「今夜、自殺サイトのスパイダーが、自分で飛び降り自殺しました。おれたちの目のまえで。新宿三丁目の雑居ビルです」
白木院長の顔に浮かんでいた微笑はわずかに曇った。なにか雑用を思いだした、その程度である。
「スパイダーの所持品から、やつの住まいがわかりました。西麻布二丁目です。おれたち三人は今そこからきたところです」
美しい女医の表情は変わらなかった。木の面に彫りつけた悲しい微笑。ほかに表情がないから、しかたなく笑っている顔。
「スパイダーの部屋には、ここと同じ香りがした。白木さん自慢の四種類の精油のオリジナルブレンドです」
まだ、院長の顔色は変わらなかった。おれは取っておきを、センターテーブルに投げだした。ピンクの診察券とビニールの小袋にはいった睡眠導入剤だ。
「おれは最初から不思議でした。スパイダーはどうやって、あれほど大量のクスリを手にいれられたんだろう。医療従事者か、関係者に強いコネでももっていたんだろうか。でも、白木さんなら、クスリの組みあわせだって自殺志願者への対応だって、スパイダーに手を取って教えてやれる。仕組みはわかりました。でも、どうしてもわからないことがある」
そこでミズカとおれの声がそろった。
「なぜですか」
おれはたたみかけた。
「なぜ、一方の手でスパイダーにたくさんの自殺志願者を殺させ、もう一方では反自殺クラブなんかに集団自殺を阻止させたんですか。こいつは人の命をもてあそぶゲームかなにかだったんですか」
そこで初めて女医は人間らしい表情を見せた。スカートの裾を直しながら、困ったように笑って見せたのだ。
「わたしにもほんとうはよくわからない。自殺はいいことでも悪いことでもなく、雲や雨のようにただそこにあるだけかもしれない。わたしの患者さんも何人も自殺した。そのたびに立ち直れないくらいのショックで、自分の心の一部が死んでいくようだった。こんなにつらいならわたしも死んだほうがいいかな。でも、もうちょっとがんばってほかの患者さんを助けたいな。いつのころからか、わたしのなかにふたつの気もちがぶつかるようになった」
おれたち三人はリゾートホテルのような心療内科のロビーで、黙って院長の言葉をきいていた。
「三浦くんは最初から希死念慮がとても強い患者さんだった。遠からずこの人は自殺してしまうだろう。わたしは毎日悲鳴をあげそうだった。ある日、自殺をすこしでも先に延ばすとしたら、なにをしたいと質問すると、自分と同じように苦しむ人たちを安らかに苦痛なく、むこうの世界に送ってあげたい。それをしているあいだは、自殺を我慢できるといったの。それがすべての始まりだった」
そして、自殺サイトのスパイダーが生まれる。院長はまた強靭な微笑みにもどっていた。
「しかも悪いことに、ある自殺遺児の会で講演を頼まれて、ミズカさんやヒデくん、コーサクくんとも出会ってしまった。わたしの立場では、この三人から助けを求められたら断るのはむずかしかった。でも、不思議ね。三浦くんが集団自殺をプロデュースして、三人がそれを阻止する。そうやって矛盾する動きを手助けしているこのひと月半くらいが、わたしの精神は医師になってから一番安定していた」
心の奥深くにある対立が外の世界に具体的な表現の場を見つけたのだ。おれにはその安らぎは不思議じゃない。院長は涙目で微笑んでいった。
「でも、もうおしまいね。すべてが知られてしまったし、三浦くんもむこうにいった。そろそろわたしも終わりにするときがきたのね」
穏やかな光りをたたえた目で、おれたちを見る。あぶないと思った。この目はウエストゲートパークでコーサクが最後におれをみた目と同じだ。白木院長はグレイの室内着のパッチポケットに右手をいれた。再びあらわれた手には果物ナイフがにぎられていた。ハーブティーをいれにキッチンにいったのは、このためだったのだろう。白木院長は両手でナイフを振りあげた。おれが一歩も動けないうちに彼女は自分のふとももを突き刺していた。
ナイフをこじるようにさらに深く刺しこんでいく。おれは院長に飛びついて血まみれのナイフを取りあげた。ソファのうしろに投げる。傷の様子を確認するためにワンピースをまくりあげた。おれはそこに見た。縦横に走る白い切り傷の跡。それはミズカの手首と同じだった。生きていることの苦痛をすこしでも忘れるために、白木院長は誰にも見えないふとももを自分で切り裂いていたのだ。おれは手近なクッションをつかんで、血の噴きだす傷口に全体重をかけて押しつけた。ミズカに叫ぶ。
「救急車を呼んでくれ」
ヒデにも叫んだ。
「止血帯の代わりだ。おまえも力いっぱいクッションを押してくれ」
すでに半分血を吸ったクッションをふたりがかりで、傷に押しつけた。おれには死を覚悟した女医にかける言葉はなかった。心のなかでいうだけだ。どれほど苦しんでも、悩んでもいい。その最低の姿を見せてくれ。その姿に勇気づけられるやつがきっといる。おれたちはそうやってなんとか生き延びてきたんじゃないか。
救急車のサイレンがきこえるまでの七分間、おれは何度も同じ言葉を胸のなかで繰り返していた。その気もちは今も変わらない。おれは単純な人間なのだ。
◆
夏の朝がきて、すべてが終わった。
三浦清司は結局助からなかった。警察は酔っ払って足を滑らせたものと考えているらしい。あれほど自殺を望んでいたのに、皮肉なことにスパイダーの転落は、事故として統計上は処理されたのだ。
白木綾乃は二リットルの輸血の結果、一命を取りとめた。おれたちがなにもいわなかったので、スパイダーとの関係はまだ誰も知らない。おれはこのままでいいと思う。クリニックは部下にまかせ、しばらく静養するそうだ。おれは彼女自身が誰か共感的理解や受容のできるやつにカウンセリングを受けたほうがいいと思う。どれほど賢くても、人の心は客観的に自分を見ることはできない。おれたちにはつねに鏡が必要だ。
そして、最後にヒデとミズカのこと。ふたり切りになって、反自殺クラブは自然消滅した。ふたりとも死にこだわるのはやめて、自分自身の生を探すことにしたという。
ヒデにはあの身体がある。以前からかよっているスポーツクラブで、インストラクターをしないかと誘われていたそうだ。今ではやつは人にケガをしないウエイトのあげかたを教えている。
ミズカはまた学校にもどった。もう一度勉強し直して、カウンセラーの資格を取りたいといっている。いつか白木クリニックで働きたいのだそうだ。そうなったら、おれのこともちゃんとカウンセリングしてくれる約束になっている。
ミズカがいうには、これほど魅力的な女の子が誘ってもノーというんだから、おれには深刻な性的トラウマがあるに違いないそうだ。深い性的外傷をいつかミズカに癒してもらうこと。まあ、期待しておこう。
たくさんの死体を見たこの夏で、おれが得たのは簡単な真実ばかり。それは以下のとおり。(1)死んだ人間より、生きてる人間のほうが魅力的。(2)心はいつも外の世界で自己を実現しようとする。(3)おれたちはどれほど些細な理由でも自殺できるし、その反対にどれほどくだらない目的で生きていくこともできる。
ガラスの粉をまぶしたように涼しさを増した風のなか、ウエストゲートパークのベンチにしっかりと座る。空の遥か高みには、ブラシで描いたような薄い雲。懸命にミズカが授業を受けているそのあいだ、おれは知的向上などかけらもせずに、口を開けて池袋の空を見あげている。この瞬間の生の自由と快適さ。
これは確かに生きるよろこびのひとつだよな。
初出誌「オール讀物」
スカウトマンズ・ブルース 二〇〇三年十月号
伝説の星 二〇〇四年二月号
死に至る玩具 二〇〇四年四月号
反自殺クラブ 二〇〇四年八月号
単行本
二〇〇五年三月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十九年九月十日刊