下北サンデーズ
石田衣良
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目 次
前 説
第1章 ミニミニシアターの出会い
第2章 ステップアップ、駅横劇場
第3章 ザ・マンパイの苦悩
第4章 復活! サイタマ・スイマーズ
第5章 激闘! 下北ヌーベル演劇祭
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|前 説《まえせつ》
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舞台中央にフルフィギュアのスポットライト二灯が落ちている。
セクシー系のドレスを着た女とオーバーオール姿のひどく背の高い女の凸凹コンビ。ルージュを色濃くひいた唇でドレスはにっこり微笑《ほほえ》み、オーバーオールは不機嫌な顔のまま額に汗の粒を浮かべている。
前説スタート。
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千 恵 美「下北サンデーズの十周年記念公演にいらしてくださって、どうもありがとうございます。こんな嵐で、雨も風もひどくて、それでもこうして劇場まで足を運んでくださった。みなさまにお礼のキスを送ります」
キャンディ「みなさまっていっても、たった五人じゃないか。うちの劇団員だって八人はいるのに。こうなったら、客席に足をむけてやる。足の裏だって見せてやる。そらそら、これでもくらえ」
千 恵 美「キャンディちゃん、二十八センチのばっちい靴底を人にむけるのはおやめなさい」
キャンディ「また背がでかいから、人を差別した」
千 恵 美「いくらわたしのバストがFカップの八十八センチで、ウエストが五十センチ台をキープしていて、おまけに八頭身の小顔美人だからって、人を差別なんかしません。そんなことより、ここにお越しになったお客さまは芝居が大好きなの。まあ、わたしのことが大好きなのかもしれないけど」
キャンディ「それは確かにそうかもね。外は大雨洪水警報、ネコやイヌだけでなく、ちっちゃいやつなら風に飛ばされてるから。さっき井《い》の頭《かしら》線の電線に子どもが何人かひっかかってぶらぶらしてたもん。びしょ濡れのコンビニ袋みたい」
千 恵 美「みなさま、お芝居ってほんとうに素晴らしく贅沢《ぜいたく》なものです」
キャンディ「突っこめよ、人のボケにノーリアクションかよ」
千 恵 美「学校を卒業して普通の大企業にはいる人と、こうしてちいさな劇団でお芝居をしている人は生涯賃金で一億円以上の差がつくそうです。ですからこれからご覧になるお芝居にはたいへんな費用がかかっているんです。下北サンデーズの劇団員八人が棒に振った八億円以上のお金が、今日の舞台に注《つ》ぎこまれている。そう考えたら、ものすごく贅沢に感じませんか。こうしてなにもかもそろっている世のなかで、自分からすすんでなにもかも捨て、貧しい生活に耐える。自由で贅沢があたりまえのこの時代に、苦しみながらみんなでいっしょになにかをつくりあげる。女優ってなんて、美しくて、夢のある仕事なのかしら」
キャンディ「一生ほざいてろ。でも、今の話の半分はほんとです。わたしたちはものすごくビンボーだけど、夢はある。自分の一生をかけてもいいという仕事もある。ここまできいたら、これが偉そうなまえ振りだってわかるよね。今回のお芝居『スイート・スイサイド〜さらば、六本木ヒルズ』はヒルズの非常階段に住みこんだものすごく貧しい人たちの物語」
千 恵 美「さあ、そろそろ開演時間。携帯電話の電源はお切りになってくださいましたか。写真やビデオの撮影はダメですよ。うしろの席に座ってるお嬢さん、もう今夜はほかの人はきそうにないから、一番まえにいらっしゃい」
キャンディ「そうそう、おいでよ。とってくわないからさ。へえ、あなた、けっこうかわいい顔してるじゃない。どう、劇団で一生を棒に振ってみない? 一億円、蹴飛《けと》ばすのたのしいよー。ビンボーでいいと決めたら、もう怖いもんないから。世のなか、キラキラしちゃったりしてさ、すごくたのしいよー」
千 恵 美「悪魔の囁《ささや》きはおやめなさい。ほんとに美人さんね。明日からキャンディちゃんの代わりに前説やってもらおうかしら」
キャンディ「人をルックスで差別するな」
千 恵 美「あら、芝居の世界は差別につぐ差別、欲望と打算の華が咲く人外の魔境よ。では、最後まで下北サンデーズの十周年記念公演をおたのしみください」
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フォロースポットゆっくりとフェイドアウト。暗闇のなかバーコードリーダーの電子音が流れて、芝居が始まる。
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第1章 ミニミニシアターの出会い
1
がらがらとキャスターの転がる音があとをついてきた。
生ぬるい春風が全身を包むように吹きすぎていく。
里中《さとなか》ゆいかが引いているのは、空色の小型トランクである。
日曜日の下北沢は祭りのような混雑だった。道端には自分で書いた色紙を売る若い男が座り、新型携帯のキャンペーンガールはピンクのマイクロミニで声をからしている。猫の額のような駅前広場には、人待ち顔の男女が携帯の液晶画面をにらんで立っていた。みなよく似たセンスの古着ファッションだ。ゆいかはマクドナルドのガラスに映る自分の姿を見つめた。白いシャツブラウスに紺のタイトスカートのスーツ。足元は黒のパンプスで、就職活動にでもでかけるような格好だった。
(考えてみたら就職するようなものかもしれない)
ゆいかはプリントアウトを手に、久しぶりの下北沢を歩きだした。狭い路地の両側には、夜店のようにちいさなショップがならんでいる。なぜか一番多いのは靴屋だった。それも高価な革靴は一足もなく、赤札のついたスニーカーが店先の歩道にあふれている。つぎに多いのは居酒屋と古着屋だろうか。共通しているのは、がちゃがちゃと勢いがよくて、どれも値段が安いところである。
南口を離れて、茶沢《ちゃざわ》通りにむかった。多いのは店だけではなかった。電柱や建物の壁画は、演劇のポスターとグラフィティで埋まっている。よく見ると店先にだされたワゴンには、商品といっしょに小劇団のフライヤーが雑多におかれていた。ここは芝居の街なのだ。
あづま通りを折れて消防署にむかう一方通行の路地の右手に、その建物が見つかった。一階はワゴン車が一台しかとまっていない駐車場、二階と三階の窓は黒い布で目隠しされている。下駄をはいた四角い箱のような鉄筋コンクリートの安手なビルである。濁った春の空に張りだした看板には、スタジオDNとあった。ゆいかは横についた鉄製の階段を、両手にトランクをさげてあがった。防火扉が開いたままの入口から、音楽が漏れてくる。オリビア・ニュートン=ジョンの「フィジカル」。何十年まえのヒット曲だろうか。
ゆいかは雪駄《せった》とサンダルがきちんとそろえられた玄関で声をあげた。
「あの、こんにちは」
誰も返事をしなかった。スタジオにつうじる短い廊下の奥に、もう一枚のドアがあるようだ。スタジオの玄関を見まわした。ここにも無数のポスターとフライヤーが張ってある。
「あの、こんにちは。どなたかいませんか」
音楽がちいさくなるのを待って、今度は腹から声を張った。スチールの扉が開いて、頭に赤いタオルを巻いた女の顔が高い位置にのぞいた。
「なに、あんた。生命保険の勧誘なら、ほかにいきな」
なつかしくて声をあげそうになった。ノーメイクのおおきくて眠そうな顔。キャンディ吉田だ。
「いえ、違います。今日は劇団員募集の面接にきたんです。里中ゆいかといいます。よろしくお願いします」
勢いよく頭をさげて、手にしたプリントアウトをさしだした。座長のあくたがわ翼《つばさ》の横顔がシルエットになって浮かんでいる。下北サンデーズのサイトのトップページを印刷したものだ。キャンディが顔を崩して笑った。心からうれしそうな表情である。女優というのは、こんなふうに顔中の筋肉をつかって笑うんだ。
ゆいかが感心していると、キャンディのしたにもうひとつの顔が浮かんだ。頭ひとつ分くらい背が低いだろうか。今度は男である。馳背川《はせがわ》「サンボ」現《げん》は下北サンデーズで、不細工役を一手に引き受けるコミックリリーフだった。黒いセルフレームの小太り男は、不機嫌そうにいう。
「おい、吉田。うちに入団希望者がやってくるなんて、何年ぶりかな」
キャンディは真剣な顔で返事をした。
「二年ぶりくらいじゃありませんか。あのときは二週間で足抜けされた。くやしかったなあ」
「おまえ、今度は逃げられないように、ちゃんと面倒みろよ」
キャンディは満面の笑みで、ちいさくうなずいた。サンボに囁く。
「もちろんですだ、ご主人さま。おいらのしたにできる久しぶりの奴隷ですから。それはもううーんとかわいがってやりますだ」
白いアディダスのジャージを着たキャンディ吉田がドアを抜けてきた。にこにこと笑ってゆいかにいう。
「里中さん、もうすぐ座長がくるから、稽古場《けいこば》にあがって待っていてね」
ゆいかが両手でさげていたトランクを軽々とつかんで、キャンディが先に立った。稽古場は三十畳ほどあるだろうか。板張りの床は傷だらけである。下北サンデーズの劇団員がばらばらにストレッチをしていた。メガネをかけた紺のプーマのジャージは、最近よその劇団に脚本を書いている寺島玲子《てらしまれいこ》だった。ステージでは嫌味なインテリ女ばかり演じているが、意外に素顔は若々しくかわいかった。サンボ現は地味な紺のジャージで、相撲取りのように股割《またわり》をしている。女ころがしの軽薄な二枚目役を得意とするジョー大杉《おおすぎ》は、純白のフィラのジャージだった。髪はまぶしいほど明るい金髪である。
芝居の稽古場ではジャージがユニフォームのようで、しかも各人譲れない好みがあるようだった。残るひとり、内気な青年役でおとなしい女性ファンをつかんでいる八神誠一《やがみせいいち》は、無印良品のグレイ霜降りである。前後に百八十度開脚ができるなんてバレエダンサーみたいだ。ステージでは気づかなかったが、有名ではなくてもさすがに俳優である。劇団員の顔はみな個性豊かな特徴があって、うまくいえないけれど、顔に力があった。こういうのを顔力《がんりよく》とでもいうのだろう。
「さあ、ここに座って、ゆっくり見学して」
邪魔にならない稽古場の隅に、キャンディ吉田がパイプ椅子を広げてくれた。ゆいかは椅子には座らずに、紺のスカートで床に正座した。だらだらとストレッチは続いている。うしろにまわした腕を残る手で固定して、白いフレアパンツのジョー大杉がやってきた。
ゆいかのまえにしゃがみこむ。汗とムースのにおいがした。
「おー、ピュアな感じでかわいいなあ。だけどさ、どうしてうちみたいなところにはいりたいんだ。ルックスを生かすなら、もっと爽《さわ》やか系の劇団があるだろう。センチメンタル旅団とか有罪チョコレートとか。童貞と処女の高校生に大人気のさ。うちの座長の書く芝居って、おもしろいけど、ポップセンスがないっていうか、客受けがよくないというか」
キャンディがやってきて、ゆいかとジョーのあいだに立ちふさがった。背中が壁のように広く高い。
「はいはい。お話はそれくらいで。せっかくの入団希望者が、センチ団や有チョコにいったら、どうするんですか」
「いいじゃないか。ほんとうのことはいつかばれる。どこで芝居をするかは、彼女が自分の意思で選ぶんだから」
くぐもっているのに奇妙にやさしい声だった。キャンディのとなりに立っても、八神は負けないくらい背が高かった。八神の声をきいて、ゆいかは声にも力があるのだと思った。いい声は、顔よりも先に胸に届く。
「この下北サンデーズがいいんです。ツバサさんの書く脚本はおもしろいし、劇団の先輩もみんな素敵です。それになにより……」
正座しているゆいかのまえに五人の劇団員が顔をそろえていた。寺島玲子がいう。
「なにより、なんなの」
ゆいかは顔を赤くして、自分のスカートのしわを直した。
「お芝居のおもしろさを、生まれて初めて教えてくれた劇団だから」
ジョー大杉が手を打って笑った。なんだか舞台でも観ているようなリアクションである。
「なんだ、初恋の人が忘れられないってか」
じっとゆいかの顔を見つめていたキャンディが、不思議そうにいう。
「あなた、もしかして去年の夏にミニミニシアターにきてなかった。うちの劇団の十周年記念公演」
「覚えてくれていたんですか。『スイート・スイサイド』、すごくおもしろかった」
「そりゃあ、覚えてるに決まってるでしょ。あの日は台風のせいで大赤字だったし、あなたがわんわん……」
寺島玲子がうしろから伸びあがるようにして、キャンディ吉田の口をふさいだ。ゆいかはあの皮肉なコメディを観て、最前列でおお泣きしたのである。台風のせいで五人しかいない観客席でそんなことをすれば、誰だって忘れられないだろう。演者は観客席の様子を意外なほどよく見ている。寺島玲子はずれたメガネを直していった。
「あのとき、前説で千恵美さんとキャンディちゃんが、あなたのことをいじってたよね。美人だから、うちの劇団にはいらないかとか」
「嘘だろう」
三人の男たちの声がそろった。なぜか妙に会話のアンサンブルがいい。ゆいかは劇団員を相手に話しているだけでたのしかった。ジョー大杉があきれていった。
「ちょっと前説でいじられたくらいで、うちにきたのか、マジかよ」
「マジです。わたしはほんとに下北サンデーズに入団したいんです」
ホスト顔のジョー大杉がゆいかの黒髪をなでた。
「そうかー、こんなにかわいいのに、自分から最低の暮らしがしたいなんて、不憫《ふびん》な子だなあ」
サンボ現は無表情のままいう。
「おまえんちは、八神のところみたいに金もちなのか。そうじゃないときついぞ」
「いえ、普通の家です。両親は長野県で教職についています」
「ああ、学校の先生か。小学校? 中学校?」
「いえ、ふたりとも大学」
今度は五人の声がそろった。
「大学教授かあ」
サンボ現がジョー大杉を押しのけて、まえにでてきた。ジョーはうしろに倒れそうになるときれいな後転をして着地のポーズを決める。
「で、ゆいかちゃんはなにをしてる人なの」
「この春から東京で大学生になります。わたしの夢は東京の大学にいって、下北サンデーズにはいることだったんです」
寺島玲子の目がメガネのしたで鋭くなった。
「大学って、どこなの」
「うちはそんなにお金ないから、国立しかいけなくて」
玲子がちいさく息をのんだようだった。
「もったいぶらずにいいなさい」
「東京科学工科大の電子工学科です」
サンボ現が口笛を吹いた。
「偏差値78。あそこの工学部なら、東大にだって負けないし、就職だってよりどりみどりだろう。それで、よりによってうちの劇団かよ」
寺島玲子がひっつめ編みの頭を軽く横に振った。
「ごめんなさいね。現ちゃんは偏差値マニアで学歴コンプレックスなの」
サンボ現はすねたように叫んだ。
「どうせおれは高校中退の中卒ですよ。俳優とは名ばかりのNEETですとも」
そのとき廊下の奥から不機嫌な声が響いた。
「なにだらだらしゃべってんだ。ちゃんとストレッチとヴォイトレやったのかよ」
五人はゆいかのまえを離れて、さっとフロアに散らばった。キャンディ吉田が顔をゆがめていう。
「なんだよ、あの調子じゃあ、本はぜんぜんすすんでないな」
「おーい、今日はお客さんがきてないか」
ゆいかは稽古場の戸口に立つあくたがわ翼を見つめた。顔は昔ふうのハンサムだ。だが、全身のバランスがどこかおかしい。背は高くないのに、妙に頭がおおきいのだ。ひと昔まえの小学生を思わせる体型である。ゆいかに気づいた翼の目が輝いた。まっすぐに稽古場を横切り、ゆいかのまえであぐらをかいた。
「きみが里中ゆいかさんか。送ってくれた制服の写真、よかったよ。清楚《せいそ》で、純粋そうで、汚《けが》れなくて、無邪気で無垢《むく》で、それでいて飛び切り大胆なことをするようにも見えるし、恐ろしく芯が強そうな感じもある。処女と小悪魔、犠牲《いけにえ》の子羊と美しい殺人者の両方ができそうだ」
途中から座長の言葉が耳にはいらなくなった。視線をはずすとキャンディ吉田が声をださずに唇の形だけでゆいかにいっている。
(ホメゴロシ)
きっと脚本家だから、こんなふうに言葉が暴走することがあるのだろう。あくたがわ翼の背景が暗転した。急に目のまえが暗くなったように感じる。翼のうしろで黒いジャージの女が腕組みしていた。伊達《だて》千恵美だった。華やかな大人の美人役が得意な下北サンデーズの看板女優である。寺島玲子もキャンディ吉田も化粧はしていなかったが、伊達千恵美はしっかりと入念にナチュラルメイクを施している。
「なあに、その子」
前説のときの印象とは正反対だった。あのときはやわらかに笑っていたのに、今は稽古場の鋭いダウンライトのせいか、顔にきつい影ができている。翼が振りむいていった。
「入団希望者だよ。いい子だろう」
「なにいってるの、うちは芝居が売りでしょう。かわいいだけなら、おっぱいにシリコンいれてグラビアアイドルにでもなればいいのよ。あなた、ほんとに芝居やる気あるの」
ゆいかはきっぱりとうなずいた。
「はい。下北サンデーズのみなさんと座長の書く脚本が大好きなんです。わたし、伊達さんにあこがれてきました」
キャンディ吉田が伊達千恵美の耳元でなにか囁いていた。驚いた顔をして、千恵美はいう。
「あなたが嵐の公演のときのお嬢さん」
「はい。あのとき、キャンディさんと伊達さんの前説をきいて、劇団にはいろうと思ったんです。わたしはずっとほんとうに自分が好きなことがなにかわからなかった。簡単にできることだけして生きてきてしまった。あの嵐の夜、生まれて初めて自分の力の果てを試してみたくなったんです」
「そういう子はほかにもいっぱいいるけどね。うちは厳しいよ。半年間の仮入団があって、そのあいだは奴隷だから。先輩のいうことはなんでもきかなきゃいけない。その半年を耐えたあとで、ほんとうの入団試験がある。まあ試験まえに半分以上は辞めちゃうかな。舞台に立てるのは、うまくいって一年か二年以上先。それも演技の才能があればね」
あくたがわ翼はぶつぶつと口のなかでなにかつぶやいていたが、跳びあがるように立ち、ゆいかの手を強く引いた。
「ちょっと立って。その場でゆっくり一回転」
つま先に春先の稽古場の床が冷たかった。ゆいかは身体《からだ》が硬くなったが、七人の劇団員が注目するなか、ぎこちなくひとまわりした。
「里中くん、下北サンデーズの入団を許可する。今日からきみはうちの劇団員だ」
「ちょっと、なにいってるの翼。こんな素人に。そんな前例、これまでないでしょう」
あくたがわ翼は胸を張り、両手を広げた。劇団員の誰よりも芝居がかっている。
「前例がなければつくればいい。彼女は第一期の特待生だ。理由はふたつある。まず、この子はルックスが天才的だ。役者なんて、なにかひとつ飛び抜けたところがあれば、それでいいんだよ。ふたつ日に『サマータイム・ストレンジャー』には新しい役が必要だ。客演で考えていた役だけど、彼女にぴったりなんだ。里中くんはうちの劇団にはいないキャラクターだ。創作意欲がわいてきた」
「ちょっと、公演まで三週間しかないのよ。どうやって素人を舞台に立たせるの」
あくたがわ翼はにやりと笑っていった。
「絞りあげればいいさ。このルックスなら、下手な芝居でも味がでる。ロリコン好きの固定客がつくぞ」
腰に両手をあてていた伊達千恵美があきれていった。
「なにいってんだか。今度の舞台に立つなら、今日からちゃんとトレーニングよ。あなた、ジャージか、なにかもってるの」
ゆいかは勢いよく立ちあがり、千恵美に頭をさげた。
「ジャージはありませんけど、パジャマ代わりがありますから」
「キャンディちゃん、この子をロッカールームに案内してあげて」
2
十分後、ジョー大杉とあくたがわ翼が目を輝かせ叫んでいた。
「ゆいかちゃん、いいねえ。その格好」
セミロングの黒髪はリボンで縛られていた。白い半袖の体操着の胸には善光寺西高とプリントされ、下半身は紺の短パンである。ストッキングを脱いだ太ももが張りをもって光っている。ジョーがいった。
「その短パン写真つきで売ったら、ひと月は働かなくても暮らせるな」
「なにいってんの、バカじゃないの」
看板女優の突っこみは厳しかった。寺島玲子がやさしくいった。
「じゃあ、ストレッチからやってみようか。ゆいかちゃん、やりかたわかる?」
ゆいかは黙って太ももとふくらはぎのストレッチを開始した。股関節はやわらかいようだ。傷だらけの床で前後左右に百八十度を超えて、すんなりと筋肉質の足が開いた。寺島玲子が目を丸くしていった。
「わたし、股関節硬いんだよね。ゆいかちゃんはなにかスポーツやっていたの」
開脚したまま、べたりと身体を床につけてゆいかがこたえた。
「はい。中学高校と陸上部でした。ストレッチだけでなく、毎日五キロくらい走って、十五メートルダッシュを二十本とか。千五百メートルでは県の強化選手だったこともあります。ジュニア記録は全国で三番目でした」
「へー、かわいいだけじゃなく、意外と運動神経あるんだなあ」
サンボ現が腕を組んで眺めている。あくたがわ翼が手をたたいた。
「じゃあ、ブラウン運動やってみよう。今日は新いりがいるから、最初はゆっくりな。里中くん、早足でフロアをでたらめに動いてみろ。誰ともぶつからないように」
六人の劇団員とゆいかが稽古場をランダムに歩きまわった。朝日のさしこむ部屋に浮かぶほこりのようで、ブラウン運動は座長がつけたこのレッスンの名前である。誰がどんなふうに動くのか予想をつけて、おたがいの息を読みながら移動を続ける。初めてのゆいかにはとても不思議な経験だった。あくたがわ翼が手をたたいていった。
「スピードアップ、今度はフロアの半分の広さで」
十五畳ほどのスペースで小走りの七人が動きまわる。ゆいかは跳ねるように接触を避けたが、なぜか伊達千恵美とニアミスすることが多くなった。千恵美はゆいかの目を見ずに身体を寄せてくるのだ。そのたびに小魚が銀の腹を見せて急流のなか方向を変えるように、ゆいかは黒いジャージから跳び離れるのだった。
「つぎは同じスピードで、うしろむき」
さすがに小走りのうしろむきでは、稽古場のあちこちで衝突が始まった。ゆいかが観察していると、ぶつかった者同士は視線だけで軽く挨拶《あいさつ》すると、なにごともなかったようにでたらめな動きにもどるのだった。誰かのひじがあたったようだ。腰に鋭い痛みを感じて、ゆいかは振りむいた。伊達千恵美が微笑んで会釈した。ゆいかもうなずき返して、ブラウン運動に復帰した。
「はい。そこまで。里中くん、足さばきがシャープでなかなかいいよ。初めてで速いほうについてこられた女の子は、きみだけだ」
女優陣は腰を折って荒い息をつないでいたが、ゆいかの息は乱れていなかった。陸上で鍛えた心肺機能がものをいっているのだろう。伊達千恵美が顔をあげて座長にいった。
「ねえ、翼。里中さんは特待生で、うちの劇団に合格したのよね」
上機嫌であくたがわ翼はこたえた。
「そうだよ。うちの新しいヒロインだ」
「そうなの、わかった」
千恵美がロッカールームに消えると、サンボ現がいった。
「女の、とくに女優の嫉妬《しっと》は怖いね」
看板女優は手にちいさな紙片をもって、すぐに稽古場にもどってきた。ゆいかにさしだして、にっこりと笑顔を見せる。
「下北サンデーズ、入団おめでとう。これ、つぎの公演分のあなたのチケットノルマだから。三十枚で八万四千円。今度くるときまでに、よろしくね」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ」
あくたがわ翼がとめようとしたが、ゆいかは自分でも気づかぬうちに返事をしていた。気が強いことでは伊達千恵美にも負けていない。
「わかりました」
空色のトランクを探り、茶色の封筒をもってくる。なかから一万円札の薄い束を抜いた。
その場にいた全員の目がゆいかの手元に集中した。ライオンの檻《おり》のなかに生肉でも投げいれたようである。ゆいかはゆっくりと九枚の紙幣をかぞえながら、金を見る視線の鋭さに恐れに似たものを感じていた。
「はい、九万円です。おつりください」
キャンディ吉田が、ゆいかの肩をもんだ。猫なで声でいう。
「なによー、金もちなら、最初からそうだっていってくれればいいのに。ゆいかちゃん、なかよくしよう」
伊達千恵美は憤然と金を受けとり、ロッカールームにいってしまう。ジョー大杉が皮肉な調子でいう。
「ゆいかちゃん、なかなか見どころあるよ。度胸いいなあ」
もどってきた千恵美は、手にスポーツバッグをさげていた。千円札をゆいかにつき返すと、呆然《ぼうぜん》としている座長にむかっていった。
「まだ台本できてないのよね、翼。わたし、今夜はお店があるから、先に帰る」
「ヴォイストレーニングとエチュードどうするんだ」
伊達千恵美が笑って、ゆいかに顔をむけた。目は獲物を狙うような鋭さである。
「あら、そういうことは期待のホープの新人女優さんとどうぞ」
稽古場をでる女優の背中は見事に伸びていた。足さばきもすべるようになめらかである。きちんと背中のすみずみまで神経がいきわたっていて、ゆいかは理不尽な腹立ちをぶつけられた相手のうしろ姿に素直に感心していた。あくたがわ翼は千恵美のあとを追って、廊下にでていってしまう。キャンディ吉田がゆいかの耳元で囁いた。
「あのふたり同棲《どうせい》してるんだ。千恵美さんの店っていうのは、新宿のキャバクラね。いちおうあれで、ナンバーワンなんだって。男なんて、ちょろいから。まあ、座長と劇団の女優ができるっていうのは、よくあることだけどね」
ゆいかは不思議に思ってきいてみる。
「でも、どうして伊達さんは急に機嫌が悪くなったんですか」
寺島玲子が首を横に振っていった。
「ゆいかちゃん、ほんとにその理由わかんないの」
ゆいかがぼんやりしていると、ジョー大杉が両手をあげて叫んだ。
「やっぱりイノセントっていいねえ」
寺島玲子はメガネを直して、ゆいかを横目で見た。
「嫉妬に決まってるでしょ。女として女優として、両方の焼きもち」
ゆいかは善光寺西高のロゴのまえで祈るように両手を組んだ。
「でも、わたしはなにもできないし、まだ色気だってぜんぜんないし、とても伊達さんにはかないません」
サンボ現がぼそりといった。
「あんた、素質は十分だよ。初日から、こんな厳しい歓迎を受けるくらいだからな。劇団っていうのは、新しい血によって変わるんだ。革命が起きて、新しい女王が古い女王にとって代わる。ひょっとしたら、うちの劇団にもこれから波がくるかもな」
座長と看板女優は廊下の奥でなにか話しているようだった。あくたがわ翼はしばらくしてもどってきた。ショルダーバッグを肩にななめがけしている。
「悪いな。今日は帰って、テレビの台本を直さなくちゃいけない。里中くんには発声とエチュードの基礎を教えてやってくれ。これ、歓迎会のカンパ」
あくたがわ翼はポケットからしわくちゃの一万円札をだして、寺島玲子にわたした。足早に伊達千恵美を追って、エントランスをでていく。防火扉の閉まる音が鈍く響いた。
「イヤッホー、これで今夜は晩飯代が浮いた。おれの発泡酒ちゃん。いつも五千円なのに、今日はゆいかちゃんのおかげで一万円だ。リッチだな」
サンボ現が舞台のような道化た笑顔を初めて見せた。ゆいかがいった。
「あの発声練習って、どうするんですか。エチュードって、意味がわからないんですけど」
残された五人はすでにロッカールームにむかっていた。座長がいなくなったとたんにやる気をなくしたようである。八神誠一がやわらかな笑顔をむけてくる。
「エチュードは与えられた状況設定でふくらませる即興芝居のこと。発声練習は自分で本でも買って勉強してごらん。明日からちゃんと見てあげるから。台本ができてないなら、もう今日はやることないんだ。みんなでのみにいこう」
キャンディ吉田がゆいかの背中をたたいた。
「そうそう。芝居の練習もいいけど、演者同士のコミュニケーションとチームワークがないと、いい舞台はできない。エチュードで暇潰《ひまつぶ》しするの、わたし嫌なんだよね」
わからないことばかりだったが、ゆいかも着替えのためにロッカールームに移動した。それにしても、劇団というのはなんなのだろうか。先ほどの一万円札を見たときの劇団員の必死の目つき。殺気を感じるほどだった。でも、これでとりあえず下北サンデーズの一員にはなれたようである。
ゆいかは誇らしい気もちで、高校時代の運動着を脱いだ。
3
ジャージ姿の先輩五人のあとをついていく。日が沈んだばかりの日曜の下北沢は、夜祭りのようなにぎわいである。狭い路地で人波と人波がぶつかって、しばらく身動きがとれなくなったりする。ゆいかは大都会にきたのだと東京の人の多さに酔う気分だった。
一方通行の路地を高級車がゆっくりと抜けてきた。クラクションの音はきこえなかった。なめらかな流線型をした深緑のジャガーである。サイドウインドウには黒いフィルムが張られていた。サンボ現がいった。
「下北城主のおなりだよ」
六人のわきをとおろうとして、ジャガーは音もなく停止した。モーターがうなって、後部座席の窓がするするとおりていく。なかからのぞいたのは、きれいな白髪の老人の頭だった。目も口も鼻も、顔の造作のすべてがおおきく歌舞伎役者のようである。
「誠一くん、芝居はうまくいってるか。お父様は元気かな」
八神誠一は車中からいきなり声をかけられても、泰然としていた。
「はい、父は元気に会社をやってます。松多《まつだ》のおじさんも、お元気そうで」
「今度のミニミニシアターの芝居、期待していますよ。花を贈ります。たまにはうちのほうにも顔をだしなさい」
ぺこりと八神誠一が頭をさげると、最後の夕日を浴びた高級車は再び静かに走りだした。サンボ現があきれたようにいった。
「八神はさ、うちの劇団にいるよりも、松多さんのコネをつかって、どこか商業演劇の名門にでも押しこんでもらえばいいのに。おまえはルックスも毛並みもいいし、生まれつきサラブレッドなんだから、おれたちみたいな雑魚《ざこ》といっしょに苦労するタイプじゃないんだよ」
無印良品のジャージを着た二枚目は、はあはあとうなずきながら、人がよさそうに頭をかいている。
「いやあ、でも下北サンデーズも悪くないですよ。あくたがわさんの脚本はほんとにおもしろいし、劇団員のレベルだって高いと思います。なんで、お客がはいらないのかなあ。ぼくはいつも不思議なんだけど」
サンボ現は雪駄のつま先でアスファルトを蹴った。
「親からの仕送りでのんびり暮らせるおまえはいいよな。おれなんか、チケット売れなきゃ全部自分でかぶるしかないからな。本ができてないなら、稽古なんか休みにしてバイトにいかせてもらいたいよ」
ジョー大杉が肩をすくめて、親指で地下におりる暗い階段をさした。
「ここ、うちのホームグラウンドだから」
駅前広場に面したすすけたタイルのビルだった。わきに階段があり、路上には赤いネオン看板がだされている。ひまわり水産。きいたことのない店名だった。ゆいかはぞろぞろと暗がりに消えるジャージの背中についていった。壁には手書きのメニューがべたべたと張られている。冷奴八十円!! 枝豆百円!! 発泡酒百五十円!! どのメニューにもダブルの感嘆符が打たれている。
「は、いらっしや」
ガラスの扉を抜けると、にこりともせずに若い女がにらんできた。
「何人ね」
中国人のウエイトレスのようだ。サンボ現がいった。
「六人。座敷にしてくれよ」
「わかったよ。くるね」
レジの横を抜けると、一気に視界が開いた。ちょっとした公民館ほどある地下のフロアは、学生や若い会社員で八割がた埋まっていた。低い天井にわんわんと話し声が反響している。カツオの一本釣りが墨でなぐり描きされた衝立《ついたて》がいれこみを仕切っていた。残りすくない空席にとおされると、劇団員は慣れた様子で雪駄とサンダルを脱いだ。
「のみもの、なにする」
サンボ現がいった。
「里中、おまえ、洒のめるのか」
ゆいかは紺のスーツで正座したままこたえた。
「まだ十八歳なので、のめません」
「しょうがねえな。じゃあ、発泡酒五本とウーロン茶ひとつ」
ジョー大杉が座卓に身体をのりだすように声を張る。さして力をいれたようではないのに、俳優の声は店内の空騒ぎを抜けて明瞭《めいりょう》にきこえた。
「ドラッグストア奈落の話、きいたか」
サンボ現がこたえる。
「ああ、あのグロ系の劇団か。あそこはあちこちの劇場から、出入り禁止をくらってるよな」
「そうそう、ドラナラの公演って、赤字続きだろ。それで一昨日《おととい》のミニミニシアターの舞台が終わって、劇団員全員が夜逃げしたらしいよ」
寺島玲子の声が急に高くなった。
「どうして。わたし、あそこの芝居、けっこう好きだったのに。一昨日の舞台なら観てるよ」
ジョー大杉がいった。
「客のいりはどうだった」
「三分くらいかなあ。もうやり放題でむちゃくちゃだった。イチゴヨーグルトを舞台中にまき散らして、甘ったるいにおいになるし、あの赤いつぶつぶが気もち悪かったなあ。そこに柿の種とサキイカもまくし、胸丸だしの女の子もいたしね。そういうのやらなくても、あそこの本はけっこう出来がいいと思うんだけど」
八神誠一が冷静にいう。
「ああいうのは癖になるから。過激なことをやらないと芝居をした気にならないんじゃないかな。ぼくも噂はきいたことがある。ドラナラの役者はみんなサラ金から四百万ずつ借りてるんだって。劇団員同士でおたがいの保証人になってたらしい」
サンボ現がぼそりといった。
「夜逃げだって、人ごとじゃねえよ」
発泡酒のアルミ缶とウーロン茶が乱暴に届いた。中国人ウエイトレスがぶっきらぼうにいう。
「たべもの、なにする」
「いつものでいいだろ。冷奴、イカ納豆、冷やしトマト、ジャガバタ、スペインオムレツをみっつずつ。とりあえず、そんなところで」
ゆいかは恐るおそるきいた。
「どうして、劇団員がサラ金からお金を借りるんですか」
キャンディ吉田が発泡酒とグラスをまわしながらいった。
「そりゃあ、貧乏だからに決まってる」
「でも、どうして」
サンボ現が厳しい顔で、ゆいかをにらんだ。ジャージの首にタオルを巻いていると、日雇いの肉体労働者のようだった。
「里中、おまえ、すぐにスターにでもなれると思って、うちの劇団にきたのか。あのなあ、ほとんどの小劇団っていうのは、ぜんぜん金にならなくて、公演を打つたびに赤字になるんだよ。その赤を埋めるのは、座長と劇団員しかいないだろ。切符が売れないんだから」
寺島玲子がさばさばといった。
「先に乾杯しちゃいましょう。ゆいかちゃん、日本に残された最後の貧乏の楽園にようこそ。メニュー見ればわかると思うけど、ここが下北で一番安い居酒屋だから。ジョーさん、乾杯の音頭をとってよ。お手のものでしょ」
キャンディ吉田がゆいかの耳元で囁いた。
「ジョーさんのバイト先は渋谷のホストクラブね」
ゆいかも囁き返す。
「キャンディさんは?」
「わたしはこの身体を生かして、引っ越し屋。サンボさんはあちこちの建設労働者。八神さんはいいとこのぼんぼんだから親の仕送り。寺島さんはテレビの深夜番組やアダルトビデオの台本かな」
ジョー大杉が中腰になって叫んだ。
「おい、そこ、なにこそこそ話してんだ。じゃあ、いくぞ。下北の貧乏地獄に迷いこんだなにも知らない子羊の十八歳、一日でうちの看板女優、伊達千恵美からライバル視された天才的なルックスをもつわが下北サンデーズの救いの女神、里中ゆいかを歓迎して、伝統のエールを送る」
グラスを片手に塩ビのテーブルのうえに五人が手を重ねた。八神誠一がいう。
「ゆいかちゃんも手をのせて」
六人の視線が交互に結ばれて、ジョー大杉が叫んだ。
「ゴーゴー、下北ーサンデーズ、エス・ユー・エヌ・ディー・エ――・ワイ・エス」
アルファベットは歌のように節がつけられていた。ベイ・シティ・ローラーズの「サタデイ・ナイト」のぱくりだろうか。五人が腹から声をだして、復唱する。
「エス・ユー・エヌ・ディー・エー・ワイ・エス、下北サンデーズ、ファイト」
冷たいウーロン茶をかわいたのどに流しこんで、ゆいかは胸が熱くなった。ここには三十歳をすぎた大人もいる。それなのに一万円札を飢えたようににらんだり、今どきの高校生でも照れてやらないようなエールを送ったり、舞台に夢をかけたりしている。それまでの生活では見たことのない人間ばかりだった。ゆいかのまわりにいたのは、非現実的で、ちょっとセンスのいい流行の夢を口にする同世代ばかりだった。実際には夢に近づく努力などかけらもしていないし、ほんとうにかなえたいわけでもない。ファッションのように口先だけで夢を着替える人たちである。
乾杯を終えたゆいかは八神誠一にきいた。
「さっきのおじさんは誰なんですか」
正統派のハンサムは肩をすくめて黙りこんだ。寺島玲子が代わりに口を開く。
「あなた、下北にいて、松多|豊造《とよぞう》も知らないの。あの人が下北の街の三割をもってる松多グループの代表よ。でも、演劇の世界に限っていえば、下北の百パーセントはあのグループのものかな。小劇団を生かすも殺すも、この街じゃあ、松多グループにかかってるから」
ゆいかは意味がわからずに女教師メガネをかけた寺島玲子をきょとんと見つめていた。バッグからボールペンをとりだすと、玲子は紙ナプキンによっつの長方形を描いた。矢印が四角を結んで、しだいにうえにあがっていく。劇場の名前をなぐり書きしながらいう。
「あのね、下北にはよっつの劇場があるの。すべて松多グループのもちものね。一番ちいさいのが、南口の正面にあるミニミニシアター。客席数は八十くらいかな。あそこはゆいかちゃんもうちの公演で観て知ってるよね。同じビルのもう一階うえのフロア全部をつかって、定員百五十の駅横劇場がある。もう一段出世すると、南口からすこし離れたところに三百人のお客がはいるザ・マンパイね。それで最後にのぼりつめると下北にある劇場の頂点、松多劇場になる。北口のあそこは客席数六百の堂々たる商業演劇の劇場ね。松多を一週間満席するのが、下北で芝居をやってる小劇団共通の夢なんだ。小劇団の出世すごろくみたいなものかな。見て、ちゃんと客席数が倍々に増えていってるでしょう。さすがに松多さんが元俳優っていうこともあって、よくできた興行システムね」
キャンディ吉田がいった。
「駅のわきにちいさな鉄橋がある。金網でかこまれた狭い連絡通路みたいな陸橋なんだけど、あの橋をわたって北口の松多劇場の板を踏む。それがみんなのあこがれなんだよ。『あしたのジョー』の涙橋みたいなものかな」
サンボ現もジョー大杉も黙ってうなずいている。寺島玲子がいった。
「でも、たいていの劇団はしたから二番目の駅横劇場どまりかな。百五十人の劇場を一週間満員にするには、千人以上の観客を動員しなけりゃならない。スターもいない、座長も有名じゃない普通の劇団じゃあ、それはなかなかむずかしいの。うちなんか十年以上やって、まだミニミニシアターだから」
サンボ現がぼそりといった。
「松多劇場で、土日もマチネーやって二週間満席かあ。全九回の公演で、総計五千四百人。ひとり三千円として、売り上げがざっと千六百万円か。そうしたら、うちも芝居で給料もらえるようになるなあ」
ゆいかはびっくりしていった。
「あの、お芝居をしても、ぜんぜんお金はもらえないんですか。あんなに真剣にやってるのに」
キャンディ吉田が腹を抱えて笑った。どうもすこしずつおおげさな動作がつくのが、劇団員の癖らしい。
「あなた、芝居でお金がもらえると思ってるの。小劇団で給料がでてるところなんてないよ。みんなでお金をだしあって、なんとか芝居を続けるのが精いっぱい。名前をきいたことのない劇団もたくさんあるけど、そのうちのほとんどは自然消滅か解散だよ」
サンボ現の顔色はいくら発泡酒をのんでも暗いままだった。
「そうだな。うちだって、あと一、二年しかもたないんじゃないか。座長も学生時代はいい本書いて、脚本賞とかもらってたけど、このごろじゃテレビのバラエティ番組の構成台本ばかり書き散らしてる。肝心の脚本の内容が薄いんだよな」
ジョー大杉は両手をうしろについて、天井を見あげていた。
「うちの劇団は居心地いいから、辞めるやつはすくないんだけど、新人がぜんぜんこなくてさ。ゆいかちゃんはなぜうちを選んだんだ。もっと勢いのあるところが、下北だけでいくらもあるだろう」
ゆいかは水っぽい絹ごし豆腐をたべて、ウーロン茶を口にした。
「わたし、下北サンデーズしか、お芝居観たことないんです。下北のことも、ほかの劇団のこともぜんぜん知らなくて」
「それでうちかあ、なんだか選ばれた気がしないなあ」
ジョー大杉がサロンで焼きすぎたホスト顔をゆがめて、ため息をついた。
4
歓迎会はそのまま四時間半続いた。
演劇論、下北の街の裏側、あちこちの劇団の噂。なによりも多いのは、どこの劇団の座長や俳優と女優ができているかという、男女のゴシップである。黙ってきいているゆいかには、下北沢は巨大などバリーヒルズに思えた。『ビバリーヒルズ青春白書』のように限られた数の男女のなかで無数の組みあわせがつくられていくのだ。愛のメリーゴーラウンドである。
「さて、そろそろお開きにするか」
サンボ現が腕時計を見たのは、午後十一時近くである。ジャージの五人はふらふらと立ちあがり、リクルートスーツのゆいかも続いた。六人で腹いっぱい注文しても、ひまわり水産は驚異的に安かった。レジでは一万円札でおつりがきたのである。寺島玲子が下北サンデーズ名義で領収書をもらって、地上にでた。
明かりが半分になった駅前には、帰り道をいそぐ若者の姿がわずかに見えるだけだ。キャンディ吉田がゆいかにいった。
「あんたは、どこに帰るの」
ゆいかはじっと自分のつま先を見つめていた。ずっと口にできなかったことを、しぼりだすように漏らした。
「あの、帰るところないんです」
男優たちの声がそろった。
「なんだ、そりゃあ」
ゆいかは下北の路上でますますちいさくなった。駅のほうから路上ライブの歌声がきこえてきた。夢と恋をテーマにした、甘ったるい歌詞である。
「あの、さっき、伊達さんにわたしちゃったお金で、学生むけの安い旅館に泊まるつもりだったんです。そこにしばらくいて、部屋なんかを探そうかなって。でも、残りがちょっとになっちゃったし、劇団からお金がもらえないなら、ワンルームのマンションはやめて、もっと安いところ探さなくちゃダメですね。今夜はどうしよう」
ひとりきりの東京の夜が急に淋《さび》しくなって、ゆいかは涙がでそうになった。キャンディ吉田がもみ手をしながらいう。
「じゃあ、うちのアパートにきなよ。フロはなくて、トイレは共同だけど、とにかく安いよー。月に二万八千円。場所はここから歩いて七分」
サンボ現が叫び声をあげた。
「あのアパートは犯罪だぞ。キャンディ、大家になに頼まれたかいってみろよ」
キャンディ吉田はあごのしたで指先を組んで、にっこりと少女のように微笑んだ。『スイート・スイサイド』の浮浪児ヨシミのキャラクターである。
「地震がきたら、火をつけて逃げてくれって」
「アパートの解体費用もだせなくて、大家が火災保険で建て直そうと思ってるようなオンボロ物件なんだ。築四十年だっけ」
寺島玲子が平然といった。
「それがどうした。わたしとキャンディはそれでもちゃんと生きてるよ」
ゆいかが目を丸くしていう。
「そのアパートにふたりとも住んでるんですか。そこ、まだ空き部屋ありますか」
今度は女優の声がきれいにユニゾンでそろった。
「もちろんよ」
サンボ現は手をたたいてくやしがった。
「ゆいかちゃん、そこの女たちは大家に借り手を紹介するとひと月分の家賃がタダになるんだ。ちゃんとキックバックをもらえよ。なあ、八神、ジョー、おれたちはもう一軒いかないか」
八神誠一はしきりに腕時計を気にしていた。ロレックスの金のコンビのデイトジャストである。
「悪いけど、うちの子たちに餌《えさ》と水をやらなきゃいけないんだ」
「またかよ」
サンボ現が叫んだが、ゆいかは無視して八神誠一にたずねた。
「なにを飼ってるんですか」
八神はにこにこしながらこたえる。
「うさぎとハムスターとサボテン。うちの子はみんなかわいいから、今度ゆいかちゃんも見においで」
「はい」
「ゆいかちゃん、帰るよ」
寺島玲子とキャンディ吉田がふらつきながら、下北の路地を歩き始めた。ジャージの背中が妙に男っぽい。きっと女優というのは普段の生活では、あまり自分のなかの女性的な部分をおもてにださないのだろう。頼りになる兄貴分の印象である。
「待ってくださーい」
ゆいかはキャスターの音も高らかに、春の夜を駆けだした。
下北は駅から五分も歩けば静かな住宅街になる。そのアパートはひと目で、どこかがおかしいと予感させる建物だった。まず色がよくなかった。毒々しいペパーミントグリーンでべたりと塗りつけられている。木造モルタルの昭和の造りで、あちこちにゆがみやすきまができていた。すべてを塗り隠すつもりで、これほど強烈なペンキを選んだのだろうか。明るい東京の夜空に浮き立つようである。
「さあ、はいって。ここが第三下北荘。はきものは盗まれちゃうから、毎回自分の部屋にもっていくこと」
白熱電灯がひとつぶらさがるだけの、暗い玄関をあがった。右手には腐ったスニーカーでいっぱいの下駄箱と錆《さ》びた郵便受けが見える。ぎしぎしと踏み板を鳴らしながら、ゆいかは先輩に続いて二階にあがった。階段をのぼり切るとまっすぐに廊下が延びて、両側には木製の引き戸がずらりと並んでいる。住人はいるのかもしれないが、廃墟のように静かだった。
「キャンディさん、わたし、まっすぐに歩けないんですけど」
廊下を歩いているとなぜか身体が左の方向にむかってしまうのだ。キャンディ吉田は身体をななめに倒して歩いていく。
「ここの廊下、縁起がいいんだ。右肩あがりだから。身体を逆に倒して歩いて」
寺島玲子ががちゃがちゃと古い鍵を開けていた。背中越しにいう。
「わたし、酔っ払ったから先に寝る。キャンディちゃん、その子をお願いね」
「オッケー」
キャンディ吉田が部屋に案内してくれた。六畳ほどの広さがある。畳の部分は四畳半で、残り一畳半がビニールシートを張ったちいさな台所だった。壁にはおおきな湯沸かし器がむきだしでついていた。服や雑誌にコンビニ袋が雑多に散らばった部屋を足先でかたして、キャンディ吉田がスペースをつくってくれた。薄い布団を二組敷いて、キャンディは倒れこむように横になった。
「あのキャンディさん、シャワーとかないんですか。わたし、汗かいちゃって」
壁のほうをむいたままキャンディがこたえた。
「今夜はもう銭湯にいく元気ない。汗で気もち悪いなら、洗面器にお湯を張って、タオルで身体をふけば。頭くらいなら洗えるから。じゃあ、おやすみ」
キャンディ吉田は横になったまま、頭上の電灯から伸びるひもを引いた。豆電球だけで照らされたアパートの一室で、ゆいかはハンドタオルとドライヤーをとりだした。台所のシンクには空のインスタント麺《めん》の容器が重なっている。古い湯沸かし器のつかいかたがわからなかったが、寝息を立てるキャンディを起こすわけにはいかなかった。
夢にまで見た下北沢の初めての夜、ゆいかは冷たい水で頭を洗い、固くしぼったタオルで全身の汗をぬぐって眠りについた。
夢のなかでどかどかと部屋が揺れていた。目を覚まして、ゆいかは中央が垂れさがった染みだらけの天井を見あげた。
「なんだよ、うるさいな」
誰かがドアをたたいていた。腕時計を見るとまだ朝の五時半である。キャンディ吉田がぼさぼさの頭で鍵を開けると、赤い顔をしたジョー大杉とサンボ現が、キャンディを突き飛ばして玄関にはいってきた。
「おはよー、うちの劇団のプリンセス」
布団のうえからキャンディが叫んだ。
「なんだ、おまえら。ひと晩中のんでたのかよ」
酒のにおいをまき散らしながら、ジョー大杉が叫んだ。
「正解。それで今日が粗大ゴミの回収日だと気がついてさ、下北中自転車でリヤカー引いてきた。ゆいかちゃん、このアパートで暮らすんだろう。好きなもの選んでいいよ。残りはリサイクルショップに売り飛ばすから」
キャンディ吉田がよつんばいで木枠の窓にむかった。ゆいかもおおきな肩越しに路地を見おろす。リヤカーのうえには電化製品が山のように積まれていた。トースター、電子レンジ、ビデオ、CDラジカセ、春になって必要なくなったのだろうか、こたつや温風ヒーターもあった。ゆいかは紺の短パン姿で跳びあがるように頭をさげた。
「ありがとうございます。先輩」
サンボ現とジョー大杉の声がそろった。
「いい、やっぱりゆいかちゃんはいい」
サンボ現がよだれを垂らしそうな顔でつけくわえた。
「とくにそのブルマがいい。今度の初舞台、それでやればいいのに」
「一度死ね、サンボ。あの温風ヒーター、わたしのね」
キャンディ吉田が布団のうえで、あくびをしながらいった。
その日から、ゆいかの大学も前期の日程が始まっている。ゆいかは卒業に必要な最低限の講義を選んだ。出欠の確認の甘い、試験が厳しくない教授の講義ばかりである。気もちは大学にではなく、すっかり下北サンデーズに奪われている。
教室ではおかしな顔をされるのもかまわずに、芝居のチケットを売ろうとした。理系の大学なので、どの教室でも女子の比率は一割を切っている。ゆいかは必死だったが、初対面で二千八百円のチケットを買ってくれる学生などめったにいなかった。
あの倒壊しかけたアパートといい、チケット販売の困難さといい、劇団員の生活の厳しさがしだいに身に迫ってくるのだった。稽古場には講義の終わった夕方に駆けつけた。ストレッチと軽いランニングのあとで発声練習。そのあとはエチュードというのが日課である。
エチュードは興味深かった。エレベーターが故障して、なかに閉じこめられる。公園で犬の散歩仲間と出会う。死刑囚仲間のひとりが明日処刑される。宇宙人に地球の観光名所を売りこむ。とんでもない設定を与えられて、数分の打ちあわせのあとで、即興の芝居が始まるのだ。
あまりに設定がむずかしいと、とたんに誰もが自分のキャラクターに頼るようになるのもおもしろかった。伊達千恵美は肉体派の悪女、キャンディ吉田は一本ねじの抜けた大女、寺島玲子は神経質なインテリの処女、八神誠一はのんびりやの二枚目で、ジョー大杉は女たらし、サンボ現が皮肉屋のもてない不細工。そんなときあくたがわ翼の突っこみは厳しかった。
「自分のもちキャラに頼らずに、イメージを広げろ。おたがいにコミュニケーションをとりながら、キャラクターを交換しろ。いっしょに演技してるやつが驚くようなプレイをしなけりゃ、点はとれないんだよ」
ゆいかは自分のキャラクターがまるでわからなかったので、逆に自由奔放だった。エレベーターで閉じこめられたときには、おもらしをする女子高生、死刑囚のときには明日死ぬサンボ現のために澄んだ歌声でハッピーバースデイをうたった。
だが、愛犬家の集会では犬を連れている芝居ができずに、ナーバスになってすべてをぶち壊し、宇宙人のときにはあまりにいれこみすぎて空まわりしてしまった。そんなときゆいかは稽古のあとで、女子トイレにこもってひとりで泣いたのである。
5
「おはようございまーす」
本番まで二週間になったつぎの週末、ゆいかがスタジオDNに顔をだすと、いつもと違うメンバーがいた。背の高いやせた女性で、二十代後半だろうか。黒ずくめの格好をしている。稽古場でロングスカートを見たのは初めてだった。ゆいか自身も下北のスポーツショップで、アディダスの特売ジャージを色違いで二着買っていた。寺島玲子がゆいかを呼んだ。
「ゆいかちゃん、初対面だったよね。こちらが下北サンデーズの制作担当で、江本亜希子《えもとあきこ》さん」
「よろしくお願いします。あの、制作って、どんなことをするんですか」
江本亜希子は腕を組んで、ゆいかの全身をチェックした。
「お芝居の興行に関係するすべての雑用をこなすの。フライヤーをつくって、それをあちこちにおいてもらったり。チケットを売って、お金の管理をしたり。劇場のプロデューサーに劇団を売りこんだり、テレビやCFの仕事の窓口になったり。面倒でたいへんな裏方仕事全部が制作の仕事」
口調にはどこか苦さがあった。寺島玲子がとりなすようにいう。
「でもね、その劇団がうまく運営できるかどうかは、制作さんの力にかかっている」
江本亜希子は首を横に振っていった。
「そうなると、わたしはあんまり腕利きでもないわね。下北サンデーズはこの十年、浮かばれなかったから」
ゆいかのほうも見ずに、稽古場の隅におかれたパイプ椅子にいってしまった。キャンディ吉田が囁いた。
「亜希子さんは、座長の元彼女。あの人も昔は女優をやってたんだけど、事務能力があったから見切りをつけて制作になったの。このパターン多いから、ゆいかちゃんも座長には気をつけてね」
勢いよくドアの開く音が廊下の奥からきこえた。
「ようよう、ようよう、みんな元気ですかー。なあ、おれって、やっぱ天才だろ」
黒いジャージのあくたがわ翼がどかどかと稽古場に乱入してきた。そのうしろには笑顔の伊達千恵美が続いている。団員にダブルクリップで綴じた紙の束をわたしていく。
「『サマータイム・ストレンジャー』の台本できましたよー」
あくたがわ翼はゆいかのところにやってくると、両手で肩をつかんだ。揺さぶるようにしていう。
「里中くん、きみのおかげでいい本になった。きみの役もちゃんとあるから、初舞台がんばってくれ」
「はい、あなたの役、とても素敵よ」
伊達千恵美が初めての台本をくれた。薄いA4の冊子だが、ゆいかはひどく重く感じた。あくたがわ翼は手をたたいて叫んだ。
「今日からすぐに本読みを開始する。まあ、配ったばかりじゃなんだから、一時間後にここに集合しよう。各人、本を読んできてくれ。じゃあ、解散」
台本をもらったとたんにいつもふざけてばかりいる先輩たちの顔色が変わった。ゆいかは誰かを誘って、喫茶店にでもいこうかと思ったが、みな声をかけるすきさえない真剣な表情だった。広い稽古場に散らばって、思いおもいの格好で台本を開いている。居心地のいい四隅は早々にとられてしまった。ゆいかは目隠しされたサッシを開けて、バルコニーにでた。吹きこんでくる春風が冷たくて気もちがいい。足を投げだして、鉛筆片手に台本を読み始めた。
『サマータイム・ストレンジャー〜夏の迷子たち』は、タイムスリップものだった。舞台はストリップ劇場の楽屋である。主役は伊達千恵美が演じるベテランのストリッパーだった。女には暴力を振るうヤクザ者の情夫がいる。ジョー大杉にははまり役だろう。楽屋はほかの踊り子(寺島玲子)やお笑い芸人(サンボ現とキャンディ吉田)と共用だ。一週間の劇場公演のあいだ、なぜか高校時代の自分が何度かストリッパーのまえにあらわれる。なにかをとめようとしているのだが、それがなにかはわからないし、周囲にいる人間には若き日のストリッパーは見えないのだ。
クライマックスは千秋楽の出番直前にやってくる。暴力に耐えかねた女は羽根飾りのついたスパンコールの衣装のなかにナイフを隠している。男を刺し殺すつもりなのだ。そのとき少女がやってきて、殺人を思いとどまらせようとする。少女は自分が人を殺す夢を見て、その夢が現実になるのを防ぐために、夢にはいってきたという。
「あなたにはどこまで、その夢の先が見えているの」
「あなたとわたしがナイフで、あいつを刺すところまで」
もうすぐ出番ですと劇場の係員から声がかかる。ストリッパーは鏡のなかで、衣装を確かめて艶然《えんぜん》と胸を張る。
「わたしも夢を見た。逃げても逃げても、あいつが追ってくる。わたしの見た最悪の夢は生まれたばかりの赤ちゃんが、あいつになぐり殺される夢よ。あなたは知らないでしょうけれど、わたしのなかにはちいさな命が宿っているの」
女はやさしく自分の腹をなでる。顔をあげると戦いの目が光る。
「だから、いくら昔のかわいいわたしがとめても、わたしはやるよ。ねえ、高校生には刺激が強いかもしれないけど、最後の踊りを見ていって。今夜がわたしの最後のステージになるから」
袖《そで》で男が待つ舞台にむかって、女は楽屋をでていく。拍手と歓声が最高潮に達したところで、劇場は暗転してエンディング。
了の一字を読み終わって、ゆいかはおお泣きしていた。この芝居の一部になれるのだ。誇らしい気持ちでいっぱいである。自分の役は高校時代のストリッパーだった。セーラー服で舞台にでずっぱりだ。誰にも見られていないのをいいことに、いたずらをして楽屋で遊びまわったりもする。
うれしい反面、ゆいかは不安だった。自分には演技の技術はない。どんなふうに役をつくったらいいのかもわからない。第一、あの伊達千恵美が自分などを相手にしてくれるだろうか。
もう一度読み返そうかと思ったが、ゆいかは逆に台本を閉じた。二度目は今よりも冷静になってしまうだろう。第一印象が新鮮なうちに脚本兼演出のあくたがわ翼から、直接指導を受けたかった。座長はどうしようもない女たらしだけど、こんな本を書けるのだ。女の人が寄ってくるのもしかたないかもしれない。
床のうえに丸く広がって、本読みが始まった。もうひとり見知らぬ顔が増えているが、舞台美術のデザイナーだと紹介された。まだ若いやせた男性だった。あくたがわ翼がいった。
「この本の肝《きも》は時間の残酷さだ。未来と過去、破れた夢と最悪の現実、無垢な少女と汚れ切った大人の女」
座長はちらりと伊達千恵美のほうに目をやった。視線がからむ。
「だがな、この人殺しの女が最後の場面で光り輝く。すべてわかったうえで、自分がどうしても守りたいちいさな命のためにすべての悪を引き受けるんだ。千恵美、頼むぞ。客の心を全部さらってやれ」
「はい」
真剣なひと言が稽古場に響いた。
「じゃあ、シーン1、キャンディとサンボの最低の下ネタ漫才から始めよう。無理してリズムをつくらなくていい。ゆっくり流れを確認してくれ。このパートだけ悪目立ち、するなよ」
最初のゆいかの出番には、台詞《せりふ》はなかった。夢のなかからやってきた女子高生は、どうやって声をだしたらいいのかわからないのだ。安心していると、あくたがわ翼からダメだしされた。
「舞台では台詞がなくて、でもみんなの注目を浴びる役が一番きついぞ。本読みのあいだも、気もちだけつくっておけ。どうせ、おまえはへたっぴなんだからな」
いつもは里中くんとかゆいかちゃんと呼んでいるのに、演出が始まるとすぐにおまえ呼ばわりだった。ほんとうに劇団の一員になれた気がして、それがまたうれしい。伊達千恵美に負けずに気合のはいった返事をした。
「はい」
ポイントになる台詞のあちこちで、あくたがわ翼は登場人物の心の動きを説明してくれた。感情はストレートではなく必ず二重になっていて、人物の行動や物語の流れがどちらにむかっていくのか読めないように、きちんと計算されている。よくできた脚本だ。それはかけあい漫才のようなコミックリリーフのなかにも、伏線が張られていることで明らかだった。本読みの最後、伊達千恵美がやわらかな声でステージに去ると、感極まってゆいかは泣いてしまった。恥ずかしかったが、涙はとめられない。
「ごめんなさい」
伊達千恵美が笑っていう。
「いいのよ」
声のやさしさに驚いて看板女優を見ると、千恵美の目もかすかに赤くなっていた。あくたがわ翼が手をたたいていった。
「よし、今日のところはこれで終了。各自、台本を読みこんできてくれ。今回は公演まで時間がないから、明日から半立ち稽古にはいる。じゃ、よろしく」
ジョー大杉が立ちあがって、叫んだ。
「よっしゃあ、エールで締めるぞ」
あくたがわ翼と舞台美術家が打ちあわせを始めようとしたところで、劇団員が丸いサークルをつくって右手を重ねた。
「ゴーゴー、下北ーサンデーズ、エス・ユー・エヌ・ディー・エ――・ワイ・エス」
「エス・ユー・エヌ・ディー・エー・ワイ・エス、下北サンデーズ、ファイト」
6
翌日の午後に稽古場にいくと、広い床は白と黒のビニールテープで縦横無尽に仕切られていた。手前にはパイプ椅子が一定の間隔をおいて並べられている。ゆいかは初めて見る半立ち稽古の風景にとまどいを感じていた。キャンディ吉田にきいてみる。
「あの黒い四角はなんですか」
「ああ、あれはミニミニシアターの舞台のおおきさね。あれよりむこうにいくと、客席に落ちるから。まあ、たいした怪我《けが》はしないけど、ものすごい恥かくからね。こっちの白いのは、平台《ひらだい》の位置ね」
ゆいかは目を丸くした。
「平台ってなんですか」
「舞台を一段高くして、空間の質を変えるの。わかるかな、照明のあてかたを工夫したり、うしろにカーテンを垂らすだけで、あの台のうえの部分がストリップ劇場のステージになる」
「そうかー、じゃあ、あのパイプ椅子は楽屋の化粧台ですね」
「そうなんじゃない、よくわかんないけど」
顔のした半分にごま塩のひげをはやした中年男がやってきた。くたびれたジーンズの上下に、黒いTシャツを着ている。親しげにキャンディ吉田の肩をたたいていった。
「おう、久しぶり、キャンディ。そっちの子が期待の新人女優か」
ゆいかもこうした場面にはもう慣れていた。元気よく頭をさげて、挨拶する。
「里中ゆいかです、よろしくお願いしまーす」
「おう」
キャンディが紹介してくれた。
「で、こちらが舞台監督の大島哲《おおしまさとし》さん。うちでいつもお世話になってるブカンさんだから、せいぜいしごいてもらいなさい」
知らないことはなんでもその場できく。ゆいかは演劇の世界のイロハを学び始めている。
「あの、ブカンさんってなにをするんですか」
「ああ、あんたは芝居の裏側知らないんだな。あのね、舞台のうえっていうのは、ノウハウの固まりなんだよ。幕をあげる、大道具を建てこむ、照明に音響、人の出入りと細かなものの手配。演出家は芝居の中身に集中したいだろ。だから、一度劇場にはいったら、さまざまな指揮命令は全部、ブカンが引き受ける。演出家が作曲家で、ブカンは指揮者みたいなものかな」
ゆいかはなにも知らないだけ素直である。
「ヘー、偉いんですね」
「偉かねえよ、手柄は全部、本書きと役者のもんだ」
サンボ現から、集合の声がかかった。半立ち稽古のスタートである。まだ台詞も動きもぎこちなく、片手に台本をもってはいるが、座って読むのと立って台詞を口にするのは大違いだった。
半立ち稽古で、ゆいかはあくたがわ翼から徹底的にしごかれることになった。舞台のおおきさもわからないし、どれくらいの動きが必要なのかもわからない。台詞は棒読みになるか、余計な感情があふれるかのどちらかだった。
「学芸会じゃないんだ。客は小学生か。人をなめるな。説明しなくてもわかる」
「感動したときに、感動した顔をするバカがどこにいる。普通なら隠そうとするだろうが」
仮設の舞台の中央で、なにがなんだかわからなくなって停止してしまうと、こう怒鳴られる。
「おまえは頭悪いし、技術もないんだから、なにも考えずにやってみろ」
そういわれると、歩くことさえわからなくなった。右足のつぎにだすのは、左足だったっけ。あとで思いだしても、ゆいかはあの時間をどうやってのり切ったのか、自分でもわからないのだった。ただひたすら夢中で立ちむかい、稽古時間がすぎるのを待っていただけである。
数日後、稽古場にいくと、かんかんとなにかを打ちつける音がしていた。ベニヤ板を立てたり、幕を張ったりして、壁や扉が簡単につくられていた。男優陣が金づちを片手にセットをつくっているのだ。建設現場で働いているというサンボ現の手並みが、ひときわ鮮やかだった。釘を打ちこむときのリズムが違う。じっと見ていたゆいかにサンボがいった。
「やってみるか。おれのマイなぐり、貸してやるよ。舞台でよくつかう釘は、二寸、一寸二分、八分。こういう薄いベニヤ用には八分で十分」
金づちは意外に軽かった。木材がやわらかなせいか、おもしろいように釘がはいっていく。サンボ現が囁いた。
「なあ、苦労してるみたいだけど、あきらめないでな。みんな一度はそういう時期をとおって舞台に立ってる。ゆいかちゃんなら、きっとうちの劇団のスターになれる」
ゆいかは最後に思い切り釘をたたいて、頭をさげた。
「ありがとうございます」
寺島玲子が台本片手にやってきて、声をかけた。
「なんだか、いい雰囲気だったじゃない。芝居で迷ってるときの女優って、簡単に落ちるからね。現ちゃんも、十八の子なんて犯罪よ」
「うるせーんだよ、ババア」
サンボ現が稽古場のセットづくりにもどると、寺島玲子がいった。
「ゆいかちゃん、舞台の衣装どうするの」
「どうするって、あの、衣装係が準備してくれるんでしょう」
大笑いをした寺島玲子が、メガネを直しながらいった。
「そんな係どこにいるの。衣装は基本的に全部自分で調達するの。あなたはずっとセーラー服だったよね。もってる?」
ゆいかは首を横に振った。善光寺西高はチェックのブレザーだった。
「じゃあ、どこかで買ってこないとね」
「セーラー服なんて、どこで売ってるんですか」
「今日の稽古が終わったら、ストリップの衣装買いにいくからいっしょにいこう。お金もってるよね」
「はい」
半信半疑でゆいかはうなずいた。さすがに東京である。女性がストリッパーのドレスやセーラー服を買えるような店があるのだ。大都会は違う。
サンボ現のはげましのせいか、立ち稽古にはいるとゆいかの動きはスムーズになった。パネルや吊りもののおかげで、実際にステージの雰囲気がつかめるようになったのも、おおきいかもしれない。毎晩のように台詞の練習をしているので、まだ音量はものたりなかったけれど、言葉のなめらかさは格段に向上している。初舞台の練習全体をとおして、初めて座長にほめられたのも、立ち稽古のときだった。
ゆいかはありがとうございますと平然とこたえたが、このときもトイレにいって泣いたのである。
下北の駅前にキャンディ吉田と寺島玲子、それにゆいかが集合したのは夜の七時だった。
「どこにいくんですか。わたし、二万円しかもっていないんですけど。セーラー服って、すごく高いんですよね」
長野にいたときにテレビで東京のブルセラショップを見たことがあった。あそこではただのセーラー服を海外ブランドのスーツのような値段で売っていた。ゆいかが不安そうな顔をしていると、キャンディ吉田がにやりと笑う。
「いいから、ついてきなよ」
ジャージ姿の三人は井の頭線のなかでも目立っていた。劇団の先輩たちと同じように、ゆいかもどこにいくにもジャージがあたりまえになってしまっている。ラッシュアワーのような電車をおりたのは終点の渋谷駅だ。
センター街は、下北の路地を四倍に広げて、人の多さと店の猥雑《わいざつ》さも四倍にしたようだった。東急百貨店本店にむかう横断歩道をわたり、春先なのに無闇に肌を露出した女たちがむらがる店のまえに立った。キャンディ吉田がいう。
「ここがサンチョ・パンサね。なんでも売ってるディスカウントショップだけど、とくにコスプレ関係は充実してるんだ。下北の小劇団の御用達《ごようたし》だよ」
ジャングルのように商品がぶらさがる迷路を歩いて、二階にあがった。
「寺島さん、これなんですか」
カラフルなローションの小瓶と大小さまざまなローターが並んだ一角で、ゆいかが声をあげた。キャンディ吉田があきれていった。
「あんた、いい年して、ローターも知らないの。一個買ってあげようか」
「よしなさい。そこは未成年ははいっちゃダメなところ。さあ、こっちにきて」
ひとつ角を曲がっただけで、風景はまるで変わっていた。天井までさまざまな衣装がさがっている。セーラー服だけでなく、スチュワーデス、看護婦、巫女《みこ》、なかにはハニーの衣装や剣道着まである。全身スパンコールのドレスや網目のおおきさが違う網タイツも山のようにそろっていた。
「わあ、ほんとに貸衣装屋さんみたい」
「それほどまともなプレイ用じゃないけどね」
ゆいかは散々迷って、紺のスカーフのついたセーラー服と、それよりスカートの丈が短い赤いスカーフのものを購入した。合計でも二万円で五千円のおつりがくる。ゆいかはつぎの舞台衣装を探すときのために、しっかりと店の名前を記憶した。
翌日に初日を控えた立ち稽古の最終日。明日のことを考えたのだろうか。あくたがわ翼のダメだしはごく軽かった。ちいさな微調整だけして、あっさりと一回だけ芝居をさらって終了した。
稽古場のパネルには、女優陣がつくったてるてる坊主がたくさんさがっている。バルコニーのむこう、下北の狭い空を見あげて、ジョー大杉がいった。
「明日の天気予報どうだって」
キャンディ吉田がうんざりした顔でこたえた。
「春の低気圧が近づいていて、降水確率九十パーセント。てるてる坊主なんて、なんの役にも立たないよ」
不思議に思って、ゆいかがたずねた。
「どうして、そんなにお天気のこと気にするんですか」
「金だよ、金」
サンボ現が横から口をはさんだ。
「まえもって金を払ってくれるような上客ならいいけど、たいていは予約だけして、その場でチケットと交換だろ。天気が悪いとドタキャンが増えて、一気に赤字がふくらむんだよ。観てもいない芝居のチケット代を、あとから払ってくれっていえないだろ。芝居がどんなによくても、天気には勝てないんだよ」
そういえば、去年の夏もそうだった。台風で五人しかいなかったけれど、舞台は素晴らしかったのだ。明日は雨かもしれないけれど、精いっぱいがんばろう。ゆいかが自分に気合をいれていると、伊達千恵美が近づいてきた。
「ちょっと、里中さん、ロッカールームにきてくれない」
キャンディ吉田とサンボ現がやれやれという顔をした。ゆいかは覚悟を固めて、看板女優のあとに続いた。ロッカールームにはいると、伊達千恵美はベンチに腰かけた。むかいの席を指さした。
「そこにお座りなさい」
ゆいかは浅く腰かけた。つま先だけしか床につけないのは、身体がこの場を逃げだしたがっているからだろう。
「はっきりいっておくけれど、あなたのお芝居はまだまだだと思う。明日からの公演でわたしの足を引っ張らないようにね」
「はい」
「でも、確かにあなたの清楚な雰囲気はわたしにはないものだし、わたしたちのキャラクターの対照はとてもおもしろい。さすがに、翼は見るところは見てる。それでね……」
伊達千恵美がなにかいいにくそうにしているのが、不思議だった。
「それで、わたしがいいたいのはひとつ。明日からの舞台、いいものにしましょう。今までのことは水に流してね。もちろん、それはわたしがやさしいからだけじゃないの」
ふふっとふくみ笑いをして、女優はいった。
「誰でもいい。この劇団からスターがひとりでもでれば、みんなが引っ張られて階段をのぼっていくことができる。その誰かは、別に誰でもかまわないのよ。まあ、もちろんスターになるのはわたしだと思うけどね。よろしく」
伊達千恵美が右手をだした。ゆいかはしっかりとその手をにぎった。看板女優の手は、冷たいが、とてもやわらかだった。
7
『サマータイム・ストレンジャー』の初日、天気は荒れ模様だった。本ぶりの雨に駅前のビルは黒々とかすんでいる。セットの建てこみが終了して、午後には本番同然のゲネプロがおこなわれた。ミニミニシアターの楽屋は狭く、ふたつだけしかない。男女に分かれて、黙々と仕だし弁当をたべ、本番の時間を待った。
慣れている先輩の女優たちはリラックスしているようだが、ゆいかには耐え難い苦しさだった。楽屋でいらいらしていると、ぴしゃりと伊達千恵美がいった。
「さっきから、あなたうるさい。緊張してるのは、みんな同じなのよ」
「ごめんなさい」
ゆいかはジャージ姿のまま、劇場のエントランスにむかった。制作の江本亜希子がテーブルをだしてチケットを売っているのだ。誰も並んでいる客はいなかった。亜希子が声をおさえていった。
「今度のお芝居、かなりいいのに、お客はこのお天気もあって、ぜんぜんね」
「ここまでで何人くらいですか」
「まだ二十人いってないかな」
定員八十人の四分の一である。またがらがらのミニミニシアターを自分は見ることになるのだろうか。そのとき、男の声がした。
「チケット一枚くれよ」
視線をあげた江本亜希子の顔つきが変わった。胸に下北ミルクと刺繍《ししゅう》された灰色の作業着。足元は黒いゴム長である。中年男はなぜか左手にビンいりの牛乳をもっていた。しわくちゃの千円札を投げだすと、つりを受けとった。どうして、制作さんの手が震えているのだろうか。男はじっとゆいかを見つめていた。無表情に左手をさしだす。
「ほれ」
「この牛乳をくれるんですか」
「ああ、芝居は骨が基本だ。骨にいいのは牛乳だ。下北ミルクをよろしく」
わけがわからないまま、ゆいかは牛乳ビンを受けとった。江本亜希子は中年男に深々と頭をさげている。男がいってしまうと、ゆいかはたずねた。
「あの人誰なんですか」
「下北ミルクのおじさん。誰も名前は知らないけど、この街で芝居をやってる人間なら誰でも知ってる。その牛乳をもって、すぐに楽屋にいきなさい」
ゆいかはいわれたとおり楽屋にもどった。顔をつくっている伊達千恵美のまえに牛乳をさしだす。
「あの、ホールでこんなものもらったんですけど……」
「きゃー」
黄色い声に驚いたキャンディ吉田と寺島玲子が、牛乳を見て同じ叫び声をあげた。楽屋のドアが開いて、男優陣も顔をだした。声がそろった。
「その牛乳は、伝説の下北ミルク」
ゆいかひとりわけがわからなかった。最後にやってきたのは、あくたがわ翼である。猛毒いりのガラスビンでも見るように、ゆいかの手のなかの牛乳をにらみつける。静かだが、闘志に満ちた声でいった。
「あのおっさんが観にきてるなら、あとは客がゼロでも関係ない。ベストを尽くして、最高の舞台にするぞ。みんな、気合をいれてくれ」
おうと男たちが吠しえた。ゆいかは小声で寺島玲子にたずねた。
「下北ミルクのおじさんて、何者なんですか」
「下北の街に劇場ができたときから、ずっと芝居を観続けてる有名な見巧者《みごうしゃ》なの。あの人が見こんだ劇団は一年以内に必ず松多劇場まで駆けのぼる。松多豊造と幼なじみだっていう噂もあるんだ」
小劇団の福の神みたいなものだろうか。今日の初演の責任がさらに重くなった気がして、ゆいかは胃が痛くなった。自然に話したつもりなのに、悲鳴のような声になる。
「でも、あの人が気にいったかどうかなんて、わからないよ」
寺島玲子が表情を引き締めていう。
「明日になれば、わかる。あの人は気にいった劇団にはつぎの日牛乳をケースごとさしいれするから。それがこなければ、今回の芝居は失敗ね」
ゆいかは壁の時計を見た。生まれて初めての舞台の幕があがるまで、あと三十分。それはゆいかの短い人生のなかで、もっともスローな三十分だった。舞台の袖の暗闇のなか、開演のベルをきくまでに、ゆいかは自分の十八年の人生をすべて回想してしまった。
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第2章 ステップアップ、駅横劇場
1
『サマータイム・ストレンジャー』の初日は四割ほどの客いりだった。せっかくの金曜夜だが、あいにくの雨で客足は伸びなかった。三十人強の観客のうち、三割が劇団員の友人で、三割が下北沢の演劇関係者、そして残りが主演女優、伊達千恵美が勤める新宿のキャバクラ「スイカップ」の客だった。
普段は劇場に足を運ぶことのない男たちは、がらがらの客席で土足をまえの座席に伸ばしていた。千恵美が登場しない場面では居眠りしたりする。下北沢でも一番ちいさなミニミニシアターでは、座席に背もたれはなかった。いつでも片づけられる黒い木箱のうえに、黒いビニール製のクッションがのっているだけである。
だが半分以上は空席でも、最前列には下北ミルクの中年男が作業服で座っていた。下北サンデーズの劇団員も俄然《がぜん》やる気が違っている。いつだって初日には気合がはいるものだ。けれども相手はこの街で上演された舞台のすべてを、数十年間にわたり観てきたという伝説の見巧者である。この男のメガネにかなえば、下北沢の劇場出世すごろくを駆けあがって、一気にメジャーの人気劇団になれるかもしれないのだ。
ゆいかは初日を無我夢中でのり切った。自分が舞台に立っている、演技をしているという意識さえなかった。スポット、フット、ボーダー、ホリゾント、サスペンションと八方からライトのあたった舞台は、異常なほどの明るさである。暗い観客席にはおぼろげに人がいるのがわかるだけだった。緊張のあまり自分の視界が異常に狭くなっているのも気づかない。
初日が跳ねたあとで、演出のあくたがわ翼が出演者全員を集めた。ファンデーションを落としたサンボ現が、ちいさな声でいった。
「ったく、翼さんはいつも初日のあとが長いからな。明日、明後日《あさって》とマチネーがあるんだから、勘弁してほしいよ」
狭いミニミニシアターの舞台のうえ、固定された平台にあがり翼が手をたたいた。
「みんな、ご苦労さま。いつもは演技の手直しと微調整をするところだが、今回はやめておく」
舞台衣装を脱いでジャージ姿にもどった劇団員から驚きの声が漏れた。主演の伊達千恵美が不安そうにいった。
「でも翼、ほんとうに今日のままで満足なの」
脚本・演出を兼ねる座長は、ほのかに頬《ほお》を上気させていう。
「完全な舞台なんてできるはずがない。でも、今日はそいつに近かった。みんな、輝いていたぞ。ちょこちょこ手直しをして、この勢いをとめたくないんだ。今夜はこれで解散する。明日からが山場だ。あまりのみすぎないようにな」
その夜も下北サンデーズの全員はいつものひまわり水産で祝杯をあげた。稽古をしていた三週間とまるで変わらない。舞台があってもなくても、劇団員というのは夜になると酒をのむのだ。里中ゆいかはそう悟って、声をだしすぎて火照《ほて》ったのどに冷たいジャスミン茶を流しこんだ。
土曜日の朝早く、ゆいかは小田急線下北沢駅のまんまえにあるミニミニシアターにむかった。薄暗い階段をのぼっていく。ホールには立花とワインがならんでいた。親交のある劇団の座長やプロダクションの関係者、あくたがわ翼が仕事をしているテレビ局からの花もある。
制作の江本亜希子が涙をぬぐっていた。
「どうしたんですか、江本さん」
ゆいかは亜希子が元女優で、あくたがわ翼の元恋人だときいていた。大人だからいろいろと複雑なことがあるのかもしれない。亜希子はホールの入口におかれた青いプラスチックケースを指さしていった。
「見て。とうとううちの劇団にも運がめぐってきたかもしれない」
三段重ねになったケースの横には熨斗紙《のしがみ》がついている。
(祝『サマータイム・ストレンジャー』御公演 下北ミルク)
ゆいかは不思議そうにいった。
「これ、昨日の牛乳屋のおじさんが……」
背中でジョー大杉が叫んでいた。
「ぎゃひー、ついにきたきた。きましたよ、下北ミルク」
ジョー大杉がゆいかの肩をたたいた。うれしさのあまり力加減がわからなかったらしい。ゆいかは痛みを我慢していった。
「そんなにあのおじさん、すごい人なんですか」
「朝から、なに騒いでるの」
階段をのぼってきたのは、すっぴんの寺島玲子である。ガラスの牛乳ビンがはいったケースを見ると、玲子は腕を組んだ。
「これはひょっとすると、ひょっとするかもね。亜希子さん、スーパー中学生のブログ読んだ?」
下北ミルクの中年男といい、スーパー中学生といい、ゆいかにはわからないことばかりだった。自分は劇団にはいってから、誰かれなく質問ばかりしている。
「スーパー中学生って、なにがスーパーなんですか」
寺島玲子はフレームの端がつりあがった女教師メガネを、指先で直していった。
「ゆいかちゃんが知らないのは無理ないね。今、演劇関係者のあいだでは有名な評論家なんだ。まだ中学生だからもちろんアマチュアだけどね。自分のブログで演劇評を連載してるの」
亜希子が顔を輝かせた。
「あら、森谷《もりや》くんがうちの劇団について書いてくれたの。あの子、中学生のくせにセンスいいのよね」
玲子はジャージのポケットから一枚のプリントアウトをとりだした。もったいぶっていう。
「全員そろってからにしようと思ったけど、いいかな。読むよ。試験の成績が悪くて落ちこんでるぼくに『サマータイム・ストレンジャー』が、まえにむく力をくれました。今年前半に観た四十二本の舞台のなかで、ぼくのベスト1です。みなさんにおすすめします。どうよ、これ」
亜希子が胸のまえで祈るように両手を組んだ。
「やっぱり森谷くんは上品ねえ。女優と飯をくわせろとかほざく、どこかの演劇評論家に読ませてやりたい」
「なるほどね。ほんとに風むきが変わってきたみたいですね」
長身の二枚目役、八神誠一が階段の手すりにもたれて腕を組んでいた。サンボ現も一段したのステップから丸い顔をのぞかせている。
「そうなると、今日と明日の公演が勝負ですね。いい評判を積みあげていかなきゃ」
サンボ現がぼそりといった。
「二日目から守りにはいって、どうすんだよ。今の下北サンデーズには勢いがあるんだ。全力でぶちかましてやりやあ、それでいい」
自分だけでなく、その場にいた全員の胸のなかに火がついたのがゆいかにはわかった。誰かの気分がどんなふうに動いているか。劇団にはいってから、もっとも上達したのは人の気配を感じとる力かもしれない。ジョー大杉が発破をかけた。
「よし、ひとり一本ずつ下北ミルクのんで、今日のゲネプロぶっ飛ばそうぜ」
決戦にむかう戦士のようにその場にいた全員が胸を張って楽屋にむかった。
2
土曜日昼の公演は午後三時からだった。ロビーにはあの青い牛乳ケースが、立花とワインにかこまれて飾りつけられている。二度目の舞台は、七割ほどのいりだった。とくに増えているのが、口コミで集まった下北沢の演劇関係者である。この街はちいさかった。演劇のサークルは、さらに狭い。いいものでも、悪いものでも評価がはっきりとでるのが、小劇場のおもしろさだった。
幕がおりたあと、楽屋で伊達千恵美がいった。
「二日目で客が半分以上はいってるなんて、うちの劇団の創立以来初めてじゃない。劇団旅人の飯倉さんも、アニマルシンジケートの暮西さんも、脱皮族の川口さんもいた。このごろ調子のいい劇団の座長さんがせいぞろいだもの。客演さそってくれないかしら」
腹が減ったのだろう。同じビルの二階にはいっているファストフードのハンバーガーをたべながら、ジョー大杉がいった。
「だからって、あちこちの座長に色目をつかうのはやめろ。おまえのは座長狙い撃ちがみえみえなんだよ」
千恵美は鏡にむかって化粧を直しながらはき捨てた。
「あんたこそ、頭の悪そうなホストクラブの客の女たちをなんとかしてよ。香水がくさくて、やってらんないから」
これほど激しく突っこみあうのに、ぎすぎすした雰囲気にならないのが、ゆいかには不思議だった。大学の教室では、誰もがもっと控えめに相手に対している。なにか失礼なことがあれば、飛びあがるようにして謝るか、徹底して無視するか。下北では人間同士の距離感がきっと近いんだと、おかしなところに感心した。
『サマータイム・ストレンジャー』は順調に公演を重ねていった。毎朝三箱の牛乳ケースが届けられるのも変わらない。最初のうちはすべて劇団員でのんでいたが、途中から自然に観客にも配られるようになった。毎日三本ずつビンいりの牛乳をのむのは、やはりつらかったのである。
昼近くに集合して昼食、それからは待ち、ゲネプロ、待ち、本番、あとは反省会という名ののみ会というスケジュールが、日々繰り返されるのだった。引き延ばされた祭りの時間を生きているような感覚である。本番は夢中になっているせいもあって、一瞬ですぎてしまうが、芝居の世界は意外なほど待ち時間が長かった。身体と心を休めながら平静に待つことも、演技の一部なのだった。
木曜夕方の千秋楽には異変が起きた。制作の江本亜希子が楽屋に駆けこんできたのである。息を切らせて制作担当はいった。
「満席になりました」
あくたがわ翼が平然と返した。
「満席なら、この三日間ずっとだろ」
最初にすべての席がうまった火曜日には、翼も跳びあがってよろこんでいたのである。いいことには誰でもすぐに慣れてしまうものだ。
「劇場に椅子を借りたか」
「ええ、もう通路や階段までぎっしり。これから遅刻してきた人はたいへん」
定員八十人のミニミニシアターに黒い木箱の椅子を追加で運びこみ、超満員にしても九十六席にすぎなかった。亜希子は胸を張っていった。
「今夜ははいり切れないお客さんが、階段を巻いて行列をつくっていたの。何人だと思う」
サンボ現がいった。
「三十人」
「四十人」とあくたがわ翼。
「なかをとって三十五人。賞品はなに」
そうきいたのは、キャンディ吉田である。亜希子はいった。
「あたった人には東京テレビから届いたシャンパン、あげる」
ゆいかがなにげなくいった。
「百人かな」
興奮して制作はいった。
「ピンポーン。立ち見でなんとかもう四人、どうしても断れない関係者をいれたけど、残りの八十人には帰ってもらった。ねえ、わかる。ミニミニシアターの定員と同じだけのお客さんに帰ってもらったのよ」
ジョー大杉が叫んでいた。
「きたきたきたー、うちの劇団にもついに波がきた。だけど、どうして急に今夜だけ客が押し寄せたんだ」
制作の江本はいった。
「それが北川トオルが自分のホームページに書いてくれたみたいなの。今回の下北サンデーズはおもしろかったって」
北川トオルは大手芸能プロダクションに所属する若手俳優だった。ハンサムなのに演技派で、演劇やサブカルチャーが大好きで、実に詳しかった。女性ファンの数も小劇場レベルとは比較にならないほど多い。あくたがわ翼がいった。
「なんだ、そんなに急にうちのファンが増えるわけないよな。じゃあ外にならんだやつの半分以上は、楽日にまた北川トオルが観にくるかもしれないと思ってやってきた冷やかしだな」
「でも、いいじゃん。うちの劇団が客を帰すなんて、初体験なんだから」
不細工役の三枚目、サンボ現はそういうと、急に腹を押さえて中腰になった。
「やばい、最近牛乳をのみすぎたせいか、腹が痛くて」
ジョー大杉がリーゼントの前髪を直しながらいった。
「おまえは昨日の夜のみすぎただけだろうが」
「ごめん、ちょっと空けてくれ」
劇団歴の長いサンボ現は楽屋の入口から遠いところに席があった。衣装のハンガーラックをかき分けるように洗面所に駆けていく。寺島玲子が心配そうにいった。
「現ちゃん、だいじょうぶかな。もうすぐ本番なのに」
ゆいかは黙って、サンボ現の背中が消えた暗い楽屋口を見つめていた。
芝居が始まって八十分後、台本にして三分の二ほどすすんだところだった。ストリップ劇場の楽屋では、踊り子の伊達千恵美とタイムスリップした高校時代の踊り子役のゆいかがむきあっていた。ここでサンボ現が上手《かみて》から舞台にでてくるはずだった。踊り子の愛人で暴力男のジョー大杉が、また観客席に顔をだしたと伝える役だ。そこからはしばらく三人の会話になり、最終的なクライマックスにつながっていく重要な場面である。だが、いくら待ってもサンボ現の姿は見えなかった。キャンディ吉田が両手を開いて、時間を延ばすように必死でジェスチャーを繰り返している。
(サンボさん、お腹《なか》壊してるんだ)
ゆいかの頭のなかが真っ白になった。もう台詞はない。身体にぴたりとフィットしたスパンコールのドレスを着た千恵美の顔色が変わっていた。裸の肩が青く見えるほど血の気が失せている。一瞬満員の客席を見た目が不安げに泳いで、ゆいかのところにもどってきた。そのとき突然ゆいかのなかで覚悟が決まった。サンボ現がいないなら、もどってくるまでちゃんと舞台をつないでやろう。ざわめき始めた観客席を無視して、ゆいかはいった。
「キャシー姉さん、高校時代の夢を覚えてますか」
台本など関係なかった。ゆいかのアドリブである。ベテランストリッパー、キャシー佐々岡役の伊達千恵美が、かすかに驚きの表情を浮かべた。自然ないい反応である。さすがに主演女優だった。とっさに態勢を立て直し、アドリブにアドリブで返してきた。
「そんな昔のことは忘れちゃった」
ゆいかはすねたようにいった。
「ちぇっ、あんなに熱心だったくせに。わたしは一生演劇をやろうって、決めてるんです」
千恵美はよしよしというようにうなずいた。
「まあ、すくなくとも今のわたしだって舞台にはでているんだから、夢の半分はかなったんじゃないの。あんたみたいな薄っぺらな身体じゃあ、まさかストリップをやろうなんて思わないでしょうしね」
ゆいかは自然に相手の言葉に反応していた。セーラー服の胸に手をあてていう。
「自分の胸をけなすことないでしょ。ちょっとくらいでかくなったからって、えばることないじゃん。こっちはちいさいけど、形はいいの。そっちのは決定的に垂れてるくせに、おばさん」
伊達千恵美の目が釣りあがった。演技なのか本気なのか、共演しているゆいかにもわからなかった。
「なによ。扁平胸《へんペいむね》のガキ」
そこからは短いののしりの応酬になった。ジャブのような言葉が飛び交うたびに、客席が沸いていく。単純で意味のない掛けあいだが、笑いをとるには格好だった。舞台袖にはキャンディ吉田とジョー大杉、あくたがわ翼が顔をそろえていた。もっとやれというように三人が腕をまわしている。
ゆいかはそのとき初めて観客席の隅々にまで目が届いた。百人近い客の誰が、どのくらいこの芝居に集中しているか、手にとるようにわかるのだ。自分の身体を離れ、心だけサスペンションライトのあたりから劇場全体を見おろしているようだった。自分がこのステージで起きていることを、すべてコントロールしている。素晴らしい気分だった。まるで大空を自由に飛んでいるようだ。サンボ現がベルトを締めながら、足音を殺して駆けてきた。
「キャシー姉さん、たいへんだ」
そこからはまた芝居は台本にもどった。ゆいかは快調に自分の台詞をこなしながら、またアクシデントが起きないかなと心のなかで思っていた。その場面を終えて、舞台袖に引っこんだとき、キャンディ吉田が小声で叫んだ。
「最高だったよ、ゆいかちゃん」
ジョー大杉も目を丸くしている。
「おまえ、そんな才能どこに隠してたんだ」
座長のあくたがわ翼だけが冷静だった。
「化けたな、ゆいか」
「はい、ありがとうございます」
ぺこりと頭をさげて、ゆいかはつぎの出番のために小鹿のように舞台裏を駆けていった。
3
楽日の打ちあげも、当然ひまわり水産だった。乾杯のあとで制作の江本亜希子が全員にポチ袋を配った。ゆいかがなかを開けると、ぴかぴかの新五百円玉が転げでてくる。
「おれ、この五百円玉、絶対につかわない。神棚にあげて、お祈りするわ。うちの劇団がもっと売れますようにって」
サンボ現がそういうと、伊達千恵美が鼻で笑った。
「あんたの場合、あんまりお酒のみすぎなければいいんじゃないの。今日の舞台ではひどい目にあったから。おかげでゆいかちゃんの素質も開花したわけだけどね」
騒がしい居酒屋の隅であくたがわ翼がいった。
「そうだな。ゆいかのこと、ほかの劇団の座長もほめてたぞ。うちでも客演しないかってさ。そんなことより、ここで発表がある。亜希子、頼む」
劇団づきの制作がいった。
「二カ月後の次回公演は、駅横劇場になります。みなさん、おめでとうございます」
下北沢で一番安い居酒屋がどよめいた。腹の底から絞りだすような低い歓声が湧きあがる。なにがそれほどうれしいのかわからずに、ゆいかはきょとんと周囲を眺めていた。制作の江本亜希子がクールにいった。
「普通、劇場の予約は一年くらいまえからするものだけど、今夜の舞台とお客の集まり具合を見て、駅横劇場のプロデューサーが声をかけてくれたの。つぎはうちでやらないかって。七月の次回作はうえの劇場にあがれるわ」
「やったあー、おれたちは駅横へいくぞ」
サンボ現とジョー大杉、普段はおとなしい八神誠一までが声をあわせて叫んでいた。ゆいかの表情を見て、寺島玲子がいった。
「うちの劇団、設立十一年目なんだけど、ずっとミニミニシアターどまりだったんだ。劇場すごろくで一段でもうえにすすんだのは初めてなの。ほんの一階分だけ階段をあがるだけなんだけどね」
駅構劇場はミニミニシアターと同じビルで、一階うえのワンフロアすべてを占めている。どちらも下北沢の演劇界を支える松多グループのものだった。男たちの乾杯の声が響くなか、寺島玲子の目も赤くなっていた。キャンディ吉田がいった。
「劇団に運を連れてくるのは新人だって、ほんとうかもしれないね。ゆいかちゃん、あんたが下北サンデーズの幸運の女神なんだよ。さあ、乾杯しよう」
ゆいかはその夜、とても幸福だった。サイダーで乾杯に何度もつきあったので、お腹のなかはたぷたぷだったけれど、胸はさらにいっぱいである。三週間におよぶ稽古と本番の一週間を経験して、ようやく田舎で夢に見ていた劇団の一員になれた気がした。制作の江本亜希子が耳元で囁いた。
「ねえ、ゆいかちゃんならできるよ。つぎは主役を狙いなさい。うちの新しい女王は、きっとあなたになる」
ゆいかはそんなことは考えてもいなかった。地味な制作の目は、離れた席に座っている主演女優にむいている。伊達千恵美が気づいたようだった。
「ちょっとごめんなさいね」
ぴちぴちのジャージの胸をそらして、千恵美がゆいかのところにやってきた。となりに座るといった。
「ゆいかちゃん、今日のアドリブはよかったよ。あなた意外と度胸はあるのね。でも、いいこと。うちの劇団のヒロインはわたしだから。あなたは夢中でなんとかこなしてるだけで、基礎はぜんぜんできてないからね。かわいいだけじゃダメなのよ。もっと演技の勉強をしなさい」
いわれるまでもなく、ゆいかには自分の足りないところがよくわかっていた。声だってとおらないし、動きもぎくしゃくしている。台詞のおもしろさでなく、天然で間をはずして受けをとった場面もいくつかあった。ゆいかは正座したままいった。
「はい、先輩。がんばります」
「わかればいいの」
婿然《えんぜん》と笑ってゆいかの目を見た主演女優の視線は、氷柱《つらら》のように冷えこんで制作の江本亜希子に移動した。座長のあくたがわ翼をめぐる新旧恋人の無言の闘いだった。小劇団のなかの男女関係というのは、こんなにむずかしいものなのか。自分は同じ劇団の人とは絶対につきあうのはやめておこう。そう決心して、ゆいかは氷が溶けて薄くなったサイダーをのみほした。
下北サンデーズは、それから一カ月の休眠状態にはいった。伊達千恵美と八神誠一にはいくつか劇団から客演の誘いがあったけれど、ほかの役者たちは生活のためのアルバイトに追われていた。ゆいかも理系の学生生活にもどっている。この時期にまとめて実験と研究をすすめておかなければならないのだ。
電子工学科に籍をおくゆいかの研究テーマは、平面ディスプレイでの立体視である。二次元の画面でどうやって、奥行や高度を表現できるか。下北沢の劇場空間をどうしたら、ちいさなモニタのなかに映せるか。芝居のことを考えていないとき、新入生の頭はそんなことで占められていた。
男女比が十対一ほどだったので、ゆいかは大学でもマドンナ的な存在だった。けれど、同世代の男子学生には目もくれず研究に没頭した。あと一カ月すれば、また新作の稽古で大学から足が遠のくだろう。それまでに単位をとれるだけの実績を積んでおかなければならない。
公演の赤字と足りない生活費を補うためのアルバイトにも精をだす必要があった。ゆいかが選んだのは、下北沢にただ一軒だけ残っているデュークという名のジャズ喫茶だった。オープンしてから三十年以上になる古い喫茶店には、いつも針音のするアナログレコードがかかっていた。コルトレーン、モンク、ミンガス。恐竜のように偉大なジャズが鳴りわたるフロアで、無言の客のあいだを白いブラウスに紺のスカートのゆいかが、コーヒーを運ぶのだ。客はほとんどが中高年のむずかしい顔をした男たちだった。
大学とアルバイトに追われながら、ゆいかは自分なりに発声練習とトレーニングを欠かさなかった。演技の基礎は身体にある。夕暮れの茶沢通りや鎌倉通りをジャージで黙々と走ったのである。だが、なによりも勉強になったのは、下北沢という演劇の街に住んでいるということ自体だったのかもしれない。
ゆいかは毎日のように小劇団の舞台に足を運んだ。おもしろいものも、そうでないものもあった。自分の理解力が足りないのかもしれないが、十にひとつもあたりはなかった。それでもその一本にめぐり会うためには、毎回劇場にいかなければならないのだ。けれど、そういう傑作のなかには、文字どおり舞台が光り輝く瞬間がある。これほどの熱と力が、つぎの場面では消え失せて、そこにいるひとにぎりの観客の記憶以外にはどこにも残らない。それがすこし淋しくもあり、恐ろしいほど贅沢だとゆいかは思うのだった。
劇団活動を休んでいた一カ月のあいだに変わったことといえば、サンボ現のコマーシャル出演だろう。その夜、ひまわり水産には久々の顔ぶれがそろっていた。酔っ払ったサンボ現が叫んでいた。
「今度、CM決まったぞ」
映像関係のオーディションを受けるのは、下北サンデーズでは自由だった。劇団だけではくえないのだから当然だが、積極性を評価する空気がある。キャンディ吉田がイワシの一夜干しを丸かじりしながらいった。
「連戦連敗だったのに、めずらしいじゃん」
ジョー大杉が舌打ちしていった。
「あのオーディション、おれも受けてたんだけどな。イズミ製菓の新製品だろ」
余裕の表情でサンボ現がうなずいた。ゆいかは恐るおそるきいた。
「あの、コマーシャルってもうかるんですか」
すでに劇団員の貧乏生活に染まっているゆいかである。月末にはカップ麺と白いご飯だけの食事が何日も続くことがあるのだ。サンボ現は片手を開いた。ゆいかは大声をあげた。
「えー、五百万円」
あわてて周囲を見て、サンボ現がいった。
「バカ。名もない役者にそんなギャラ払うわけないだろうが。五十万だよ」
「あー、びっくりした」
ゆいかが胸をなでおろすと、全員が爆笑した。サンボ現はつまらなそうにいった。
「たった十五秒だぜ。別になにが変わるってわけでもないんだけどな」
「いいじゃないの。子どもむけの駄菓子のCMでも、うちの劇団に勢いをつけるって意味では悪くないもの。みんなで乾杯しょうよ」
脚本も書くインテリ派の寺島玲子がそういって、音頭をとった。一本百五十円の発泡酒のグラスをあわせる音が、下北一安いと評判の居酒屋に響いた。
ゆいかが最初にサンボ現のコマーシャルを見たのは、劇団の先輩からもらった真っ赤な十四インチテレビでのことだった。アルバイトにでかけようとしたとき、急に見慣れたサンボの不細工|面《づら》が画面いっぱいに映ったのである。商品はキャンディのようだった。プラスチックの小皿にはいったどろどろのキャンディを混ぜあわせると、青から紫、最後にピンクへと色が変わっていく。サンボ現は電車のなかでも、公園でも、ファミリーレストランのなかでも、始終ちいさな付属のスプーンでキャンディをこねている。とおりすがりの女子高生が声をそろえていった。
「あれ、きもくなーい?」
サンボ現は若い女たちをにらみ返して、断固とした決め台詞を吐くのだ。
「きもくない!」
コマーシャルはさして傑作とも思えなかったが、編集と台詞のテンポがとてもよかった。ゆいかは一度で商品を覚えてしまったし、サンボ現のただひとつの台詞も耳に染みついて離れなかった。きっとこれは個人的に出演者を知っているせいだ。そう思って、ゆいかはジャズ喫茶にむかうため、築四十年を迎えた第三下北荘のななめにかしいだ廊下を駆けていった。
なにがあたるかわからないというのは、演劇でもコマーシャルでも変わらなかった。オンエアから二週間ほどして、電車のなかや街のあちこちで、サンボ現の特徴あるイントネーションそっくりの「きもくない」がきこえるようになった。ちょっとした流行語になったのである。テレビのバラエティ番組でも、若いタレントたちが口にしている。ゆいかはたった十五秒のコマーシャルの感染力に驚くことになった。
つぎののみ会の誘いは、サンボ現からだった。コマーシャルのギャラがはいったので、ほかの劇団員におごりたいという。普段はあちこちの建設現場を転々としている男に、初めてのまとまった収入がはいったのである。それでも場所は下北沢のひまわり水産というのが、小劇団員らしいといえるのかもしれない。いつもの顔がそろうとサンボが胸を張って注文した。
「今日は発泡酒じゃなくて、生ビール」
ジョー大杉から、ため息が漏れた。
「おれ、この店でビールのむの初めてだ」
「わたしもそうかも」
キャンディ吉田も、にこにことうなずいている。
「今夜はおれのおごりだから、いくらのんでもいいから。ゆいかちゃんはのめないんだから、せいぜいうまいものでもくってくれ」
寺島玲子がサンボ現の顔色を読んでいった。
「なんか、おかしいな。コマーシャルだけじゃなくて、なにかほかにもいいことあったでしょう」
サンボ現は照れたように笑って毒づいた。
「なんだよ、おまえはよく人の心を読めるな」
「伊達《だて》に脚本書いてるわけじゃないからね。いいから、教えなさいよ」
じゃーんと自分でファンファーレをつけて、不細工な三枚目役はいった。
「おれ、連続ドラマの出演が決まったんだ。役名も台詞もちゃんとある重要な脇でさ」
「なんだよ、おまえばっかり」
ジョー大杉がぼやいたが、サンボ現にはきこえないようだった。
「演出家があのコマーシャル見ててさ。おれの存在感が探していたイメージにぴったりだったんだって。うちの劇団だけじゃなく、おれにも波がきてるみたいだ。今のうちにおれにのっとけば、そのうちいいことあるぞー」
運ばれてきたビールで乾杯した。ゆいかもひと口だけ、キャンディ吉田のジョッキからあわ立つ液体をのんでみた。苦くて、冷たい。成功ってこんな味がするものなのだろうか。それからの二時間は、いつもの劇団話であっという間にすぎていった。得意の座長と女優たちのちいさな交歓図である。
4
真夜中が近づいて、しだいにサンボ現の目つきが変わり始めた。からみ酒は暗いコメディアンの治らない習性だ。ゆいかはいきなり怒鳴られて、正座したまま五センチほど跳びあがってしまった。
「ゆいか、だいたい東科大にいってるくせに演劇やろうなんて、おまえなまいきなんだよ」
寺島玲子がまた始まったという顔をして、ゆいかにうなずいた。
「現ちゃんの学歴コンプレックス、許してあげてね」
サンボ現はつぎに八神誠一に文句をつけた。
「おまえは実家が金もちのくせして、演劇界の王道、早稲田の劇研出身だろ。そのうえ顔がよくて、背が高くて、声もよくて……」
自分でもけなしているのか、ほめているのかよくわからなくなったようである。
「……そんなんで、世のなかにもうしわけないと思わないのか」
めちゃくちゃな論理だったが、八神ははいはいとうなずいて頭をかいていた。この人は全部そろっているうえに性格までいいんだと、ゆいかは妙なところに感心した。
「ホストのジョーだって、性格ブスの千恵美だって六大学だろ。キャンディ、おまえだってお嬢さま女子大の出身じゃないか。高校中退の中卒は、ここにはおれしかいないじゃないか。よってたかって、おれのことバカにしやがって。高校中退をなめるな」
焼酎のロックを水のようにのみながら、サンボ現が荒れていた。真っ赤な目がすわっている。最後に寺島玲子のまえで手をついた。
「おれの気もちがわかるのは、偏差値38の青海大学芸術学部卒の玲子だけだ。おまえは美人じゃないけど、いいやつだ。きもくなーい」
寺島玲子は困った顔をした。サンボ現はコマーシャルの決め台詞を連発している。キャンディ吉田がゆいかの耳元で囁いた。
「こうなると、サンボさんは長いから、ゆいかちゃんは相手にしなくていいよ」
そのまま一時間が経過した。サンボ現はつぎつぎとからむ相手を替えては、自分のコンプレックスをぶちまけている。ほかの劇団員はサンボにからまれたときだけ神妙にうなずいて、あとは演劇の話をたのしげに続けていた。ガツンとジョッキを座卓にたたきつける音がして、ゆいかが目をやると寺島玲子の顔色が変わっていた。
「ちょっとサンボ、あんた、いったいなんなの。中退、中退って、いつまでそんなちいさなことでぐじぐじいってんのよ。せっかくチャンスをつかんだんだから、もっとまえむきになりなさい」
普段は冷静な知性派もかなり酔っているようだった。顔は青く冴えている。サンボが吠えた。
「うるせー、青海大のくせにえらそうなこというな。おまえに中卒で苦労したおれの気もちがわかるか」
続いて吠えたのは、寺島玲子だった。さすがに舞台で鍛えたのどである。女性でも、やかましい居酒屋を圧倒する野太い声がだせるのだ。
「なめるなよ、サンボ。じゃあ、教えてやる……」
なぜかキャンディ吉田が手を振って、必死に寺島玲子をとめようとした。玲子の目には、それがはいらないらしい。逆上して、腰を浮かせたままいった。
「ちょっと寺島さん」
「うるさい。どうせ、わたしはガリ勉で男にもてない東京大学法学部卒業だよ。こんな学歴は芝居の世界ではいいお荷物なんだよ。みんなに煙たがられてさ」
キャンディ吉田がつぶやいた。
「あーあ、とうとういっちゃった。ずっと隠してたのに」
サンボ現がゆっくりとジョッキをおいた。泣きだしそうな寺島玲子の顔を、驚きの表情で見つめている。
「おまえ、ほんとに東大卒なのか」
その場にいた全員の目が寺島玲子に集まっていた。背中を丸めていた玲子は、ちいさくうなずいていった。
「うん。ほんとのことをいうと、みんなドン引きするから、卒業大学は適当に嘘をいってた。わたしはサンボとは正反対だけど、やっぱり学歴で差別されてきたんだよ、ずっと。別に東大でたって、美人でもないし、芝居だってうまくならないし、いいことなんかぜんぜんなかった」
ゆいかはサンボ現が怒りだすかと思って、横目でそっと荒れる三枚目を見た。したをむいていたサンボは顔をあげると、中国人のウエイトレスに注文した。
「生ビール、あとみっつ。玲子、おまえっていいやつだったんだな。おれがいくら偏差値38っていっても気にしなかったし、中卒のおれのこともバカにしなかった」
下北択一安い居酒屋の隅の空気が、しんと静かになった。寺島玲子もいう。
「テレビの演出家が現ちゃんを買うのはあたりまえだよ。頭はよくないかもしれないけど、舞台をさらう力があるもの。なぜか、現ちゃんが舞台にでるとお客の視線が集まるんだよね。うちの劇団でそんなことができるのは、千恵美さんと現ちゃんくらいのものだよ……」
寺島玲子はそこでメガネの位置を直して、恥ずかしげにいった。
「……わたし、現ちゃんの芝居好きだよ」
おーっと男性陣から、腹に響くため息が漏れた。変にひねくれているくせに、驚くほど素直なところが役者にはあるようだった。ゆいかはまぶしいものでも見るように、座卓の中央で握手する中卒のサンボ現と東大出の寺島玲子を眺めていた。
真夜中をだいぶすぎて、その夜はお開きになった。人どおりの絶えた狭い下北沢の路地で、劇団員は解散した。サンボ現と寺島玲子はなぜかぴたりと寄り添うように、中古ソフト屋DORAMAのまえに立っている。ジョー大杉がゆいかとキャンディ吉田を呼んでちいさな声でいった。
「あのふたりが今夜できちまうほうに、おれは賭ける。一万だ。そっちのふたりは、五千円ずつのらないか」
五千円あれば一週間くいつなげるし、芝居なら前売りで二本観られる。ゆいかは首を横に振った。キャンディ吉田は猫背になって、自分より背の低いジョー大杉と視線をあわせている。
「いいね、わたしはのるよ。でも、どうやって確かめるの」
二枚目の八神誠一は電柱に立てかけてあったマウンテンバイクにまたがった。
「ぼくはうちの子の餌やりに帰ります。サンボさん、今夜はごちそうさまでした」
爽やかに初夏の夜風を分けて、自転車は駆けていく。ジョー大杉があきれたようにいった。
「なんかあいつ、欲望が薄いんだよな。あんな二枚目ならいくらでも悪さができるのに、いつもペットの世話で帰っちゃうだろ。ちょっと顔寄せろ」
ゆいかとキャンディ吉田が集まると、ジョーはいった。
「ここで解散して、三人でやつらのあとをつけよう。ラブホテルにでもはいったら、おれの勝ちだ」
「なに話してるの」
いい雰囲気でサンボ現と話していた寺島玲子が、声をかけてきた。ジョー大杉が日焼けサロンで焦がした顔を、営業用の笑いに変えた。
「いや、なんでもない。今夜はこれでお開きにしよう。サンボ、ごちそうさま」
「おう」
三人はばらばらに散ったが、サンボ現と寺島玲子はふたりでぶらぶらと歩きだした。いったん路地裏に消えてから、すこし距離をおいてあとをつけた。駅前の二十四時間営業のカフェにはいったふたりを、二十分ほどビルの非常口で待った。いけないことをしている気分で、ゆいかはたのしくてしかたなかった。
しばらくして店をでたふたりは、夜の道を肩がふれるかふれないかの距離で歩いていく。
「おかしいな」
ジョー大杉が囁いた。下北沢にも駅の近くに一軒だけ古いラブホテルがある。けれどふたりは反対の方向にむかっていく。狭い商店街の明かりが途切れると、サンボと玲子はどちらからともなく手をつないでいた。キャンディが悲鳴のような声をこぼした。
「やめろよ、サンボ。わたしの一万円が……」
深夜の住宅街を縫ってふたりがたどり着いたのは、第三下北荘だった。緑色のペンキで塗りたくられた木造モルタルのアパートは投げやりなオブジェのように、夜の街から浮きあがっている。狭い玄関には裸電球がひとつだけさがっていた。ふたりが階段をのぼっていくと、しばらくして寺島玲子の部屋の明かりがついた。
「もうこのへんでやめておきませんか。勝負はついたみたいだし」
ゆいかがそういったが、ふたりともききいれなかった。キャンディ吉田がいった。
「せっかくだから、最後まで確かめようよ。おもしろいじゃない。ゆいかちゃんの部屋、玲子さんのとなりなんだから。みんなでききにいこう」
胸にスニーカーを抱えて、三人は忍び足で木製の階段をのぼった。ゆいかの部屋にはいると明かりを消したまま壁際に集まる。キャンディ吉田がキッチンからコップをもってきた。
「これこれ、映画で観たんだよね」
壁にコップを押しあて、耳をつけている。笑い声を殺していった。
「ばっちりきこえるよ。サンボさん、あんな顔で甘いこといっちゃって」
ゆいかも手わたされたコップで薄い壁に張りついた。サンボ現の真剣な声がきこえた。
「……でも、急にいいのか」
いつもは理論派で、演技については厳しいチェックをいれる寺島玲子の声が、十代の女の子のようだった。
「いいの。わたし、こうなるのをずっと待っていたから」
「だけど、この部屋、シャワーも風呂もないよな」
「だから気にしなくていいんだってば。わたし、ラブホテルみたいなところは嫌なんだよね。ちょっと待ってて」
ゆいかとキャンディ吉田とジョー大杉、三人の劇団員はコップをもって、アパートの壁に身体を張りつけ、全身を耳にしてきいていた。となりの部屋のキッチンから、水道の音がきこえてくる。それは淋しいけれど、どこか豊かな水音だった。ゆいかがいった。
「玲子さん、タオルで身体をふいてる」
ジョー大杉がジャージのまえを開けて、ぽつりといった。
「今日はけっこう暑かったもんな」
寺島玲子がサンボのところにもどったようだった。かすれた声がきこえた。
「現ちゃん、最初にいっておくけど、わたし、今夜が初めてなんだ。やさしくしてね」
「えーっ」
キャンディ吉田とジョー大杉が口を押さえて、ちいさく叫んでいた。
「玲子姉さんって、いくつなんだよ」
ジョーの質問にキャンディが囁きでこたえた。
「三十一歳」
「その年まで守ってきたのか」
ゆいかはコップに強く耳を押しあてた。ききたいのはこちらではなく、となりの部屋の会話なのだ。理知的な声は玲子の特徴である。
「学生時代はずっと勉強ばかりしていた。男の子とつきあうひまはなかったし、劇団にはいってからはなぜか男の人と緑が遠かったんだ。いいなと思う人はいたけど、役者ってもてるしカッコいいけど、ろくでなしばかりだから」
ジョーが頭をかいていた。玲子がいった。
「わたしをこれからよろしくお願いします」
「いや、おれのほうこそ、よろしくお願いします」
声しかきこえないけれど、薄い布団のうえで正座してむかいあうふたりの姿が、ゆいかには見えるようだった。そっとコップを壁から離して、ゆいかはいった。
「もうここまでにしませんか」
キャンディ吉田とジョー大杉も、コップから耳を遠ざけた。
「そうだな。いいもん、きかせてもらったし」
ゆいかはひざ立ちで移動して、動かすのにちょっとしたコツのいる木枠のガラス窓を開けた。下北沢の屋根の波のうえに満月にはすこし足りない月がさがっている。自然に漏れてしまったのはゆいかの本心だった。
「いいなあ、玲子さん」
それをきいたキャンディとジョーの声がそろった。
「マジかよ」
キャンディ吉田があわててきいた。
「もしかしてゆいかちゃんも、まだヴァージンなの」
銀の月からキッと視線をもどして、ゆいかがいった。
「はい。ヴァージンではいけませんか」
「マジかよー」
キャンディ吉田が叫んだあとで、ジョー大杉が両手を胸で組んでいった。
「いい。やっぱりゆいかちゃんは、いい」
ゆいかは先輩劇団員を相手にせずに、月明かりに照らされた下北沢を見つめていた。いつか自分を変える人があらわれる日がくるのかもしれない。それまでは自分を磨いて、せいぜい演技の勉強をしておこう。恋も初体験も、もっと芝居が上手になってからでいい。そう心に決めると、つぎの下北サンデーズの公演が待ち遠しくてしかたなくなった。
5
初めての駅横劇場での公演まで一カ月を切った。稽古場はいつもと同じ、駅から歩いて五分のスタジオDNである。一日に数万円の貸スタジオの費用は、小劇団にとってバカにならない出費だった。区民会館や公会堂でもよさそうなものだが、下北サンデーズでは無理をして、きちんとした民間のスタジオを借りることにしていた。
稽古が始まってから最初の一週間は、劇団員の誰にも焦りはなかった。座長の脚本が遅いのはいつものことだったからである。ストレッチングと発声練習、あとはエチュードで実りのない時間を潰し、本の完成を待つ。役者は台本がなければ手も足もだせない。即興のエチュードを基に芝居をつくる劇団もあるというけれど、下北サンデーズでは脚本がすべての基礎なのだった。役も本ももらうものだ。役者の仕事はもらった球を打ち返すことなのだと、ゆいかは二度目の公演をまえに理解していた。
伊達千恵美とあくたがわ翼がスタジオに顔をだしたのは、本番まで二十日を切った週末である。翼の頬はこけて、目は落ちくぼんでいた。団員の顔を見るなり、座長は叫んだ。
「書けない。もう、ダメだ。おれの才能は、磨《す》り減っちまった。苦しくてたまらない」
黒いジャージの伊達千恵美がうんざりしたようにいった。
「今月になってから、ずっとそんな調子。もう、嫌になっちゃう」
「そうはいったって、書けないものは書けないんだから、しかたないだろうが。おまえらに、この生みの苦しみがわかるのか。ボンクラ役者どもが」
追いこまれると座長はめちゃくちゃになるようだ。ゆいかもさすがにこの時期になるとあくたがわ翼の性格がわかっているので、遠く離れたフロアの隅でストレッチを黙々とこなしていた。気分を変えてくるといって翼が稽古場をでていったのは、ほんの十五分後のことだった。サンボ現がぼそりといった。
「締切まえはいつだって、あれだ。今回は本番まで何日で仕あがるのかな、おれらの本」
伊達千恵美が鏡のまえで身体をほぐし始めた。
「なんだか、今回はたいへんみたい。こんなにプレッシャーで苦しむ翼を見たことないもの」
無印良品のジャージを高級品のように着こなした八神誠一がいった。
「やっぱりシアターフライトじゃないですか」
「なんですか、それ」
ゆいかが不思議そうにきくと、八神の代わりに寺島玲子がこたえた。
「英語では舞台であがることをステージフライトつていうでしょう。脚本家にも劇場が替わるたびに緊張することがあるの。八神くんはそれをシアターフライトつていったのよ。ミニミニシアターは定員八十人でしょ、でも駅横劇場は倍の百五十人もはいる。新しくキャパのおおきいところにあわせて台本書くのは、すごくしんどいから」
さすがに深夜番組やAVの脚本を書き慣れた玲子の言葉には重みがあった。ゆいかは肩のストレッチをしながらいった。
「なにか、わたしたちにできることはないんですか」
「ないね。自分で苦しむしかない時間だから」
寺島玲子はさばさばと返事をして、太ももの裏の筋肉を伸ばした。
うちの座長はいい加減なところもある人だけど、それほど苦しんで『サマータイム・ストレンジャー』のような傑作を書くのだ。自分にはなにもできないけれど、精いっぱい準備をして待つことにしよう。ゆいかのストレッチには自然に熱がこもっていった。
だが、余裕をもって待つことができたのは、最後の二週目までだった。劇団員の誰もが顔に焦りの色を浮かべていらいらしてくる。稽古場の空気が日増しに悪くなっていくのを、ゆいかは眺めているだけだった。
その夕方も、新しい舞台のためになにもできることがなくすぎていった。ジョー大杉はフィラのスポーツバッグに着替えを詰めこみながら、ぶつぶつと文句をいっていた。
「本が書けなくて、なにが座長だよ。ったく、ふざけんじゃねえよ。なあ、玲子、そろそろ準備しといたほうがいいんじゃないか」
「なにを、ですか」
ゆいかが振りむくと寺島玲子がむずかしい顔で腕を組んでいた。
「昔ね、やっぱり翼さんが着けなくなったときがあってね。わたしがピンチヒッターで、本を書いたの。今回もやばそうな感じはするから、ネタは仕こんであるんだけどね。それには翼さんから了解をとらないといけないから」
そのとき外階段を駆けあがってくる足音がした。勢いはそのままとまらずに、稽古場の廊下を抜けてくる。スチールの扉から顔をのぞかせたのは、髪を振り乱した伊達千恵美だった。ゆいかはあわてふためく主演女優を初めて見た。
「ちょっと、みんな手を貸して」
わらわらと劇団員が集まってきた。伊達千恵美が真っ黒な携帯電話をかかげている。キャンディ吉田がいった。
「黒いボディに銀の翼のデコレーション。それ、座長の携帯ですよね」
「そうなの。さっき、この電話に翼の田舎のおとうさんから、連絡がはいって。おかあさんが脳出血で倒れたんですって」
キャンディ吉田が口元を手で押さえていう。
「だいじょうぶなんですか」
伊達千恵美は首を横に振った。
「意識はもどらなくて、危篤状態のままらしいの」
サンボ現が叫んだ。
「座長はなにやってるんだ」
伊達千恵美の声は悲鳴のようである。
「あの人、書けなくなるとどこかに逃げちゃうのよ。連絡とられるのがプレッシャーで、自分の携帯までおいていく。でもね、度胸がないから、いつもあまり遠くにはいかないの。今回も下北のどこかの店でノートとペンをもって、ひとりでウンウンうなってると思う。みんなで手分けして探して」
その場にいた劇団員が、一斉に動きだした。靴脱ぎでスニーカーと雪駄をつっかけ、暗くなり始めた下北の街に駆けおりていく。サンボ現の声が外階段にこだました。
「玲子、脚本の準備しておいたほうがいいぞ。今回はマジでやばい」
七人の役者は下北沢の南口と北口に別れて、いきつけの店を片端から書けなくなった脚本家を探してまわった。下北沢にはカフェやレストラン、居酒屋などが百店単位であるが、よくつかうのは、せいぜいそのうちの十数軒である。十五分後には思いつく限りすべての店を確かめたが、無駄足に終わった。狭い駅前広場で伊達千恵美が泣きそうな声で叫んだ。
「もう、こんなときにどこにいってるの、翼」
八神誠一はノートを広げていた。探しにいった店名を書いて、鉛筆の傍線で潰していく。
「もうすこし綱を広げて、あたってみよう。今度はすこし駅から離れた店にも足を延ばそう。誰とも顔をあわせない店に翼さんがいってる可能性もある」
おうっと低く叫んで、男たちが走りだした。寺島玲子がいった。
「ほかの劇団の顔見知りにも頼んでみない。座長を見つけたら、こっちに連絡をいれるようにって」
客演をとおして顔の広い伊達千恵美と寺島玲子がつぎつぎと携帯電話をかけ始めた。ゆいかはなにもできないのがくやしくて、すこしだけ涙がでた。
「わたし、もう一度、お店見てきます」
ゆいかは夕暮れの迫る街を蹴り足に力をこめて走り始めた。
それからの一時間半は、熱いフライパンのなかで煎りつけられるような苦しい時間だった。下北サンデーズの役者たちは、たがいに携帯電話で連絡をとりあったが、あくたがわ翼のゆくえはまったくつかめなかった。電話が鳴るたびに発見情報かと期待したけれど、空振りばかりが続くのだ。ずっと走り詰めで、つま先とかかとが痛んだ。それでも危篤状態の座長の母親のことを考えると、探索をやめるわけにもいかない。
駅の反対側にわたろうと、ゆいかが金網で包まれた陸橋にあがったときのことである。男の影が錆びた金網に額を押しつけ、立ちつくしていた。背が低い割にはおおきな頭。気がつくと同時に、ゆいかは叫んでいた。
「翼さん!」
下北サンデーズの座長はゆっくりと顔をこちらにむけた。絶望の表情というのは、こういうものかもしれない。あくたがわ翼の顔は壁に開いた穴のように空っぽである。しぼりだすように脚本家がいった。
「おれはもうほんとうにダメだ。書けないよ。苦しくて頭が割れそうだ」
ゆいかは座長の胸元をつかんで叫んだ。
「新作はもういいです。それより連絡がはいりました。翼さんのおかあさんが倒れたそうです。脳出血で危篤状態らしいんです。すぐに帰ってあげてください」
ゆいかは泣きながらそう叫んで、自分の携帯電話を抜いた。寺島玲子の番号を選ぶ。
「見つかりました。今、陸橋にいます」
あくたがわ翼の背中がぐんぐん遠くなっていった。ゆいかは紺のジャージの背中を見送りながら、途方に暮れていた。駅横劇場の本番まで、あと十日。台本もないし、演出の翼も東京を離れてしまう。
劇場をワンステップアップするどころの騒ぎではなかった。このままでは、下北サンデーズがばらばらになってしまうかもしれない。夜にかかる橋のうえで、ゆいかはひとり震えていた。
あくたがわ翼はそのまま自宅にもどり、簡単な旅支度をすると羽田空港にむかった。翼の郷里は四国愛媛県の松山市である。伊達千恵美の携帯電話に母親が亡くなったという連絡がはいったのは翌日夜のことだった。
東京では、寺島玲子が翼の穴を埋めるための脚本に取りかかっていた。そちらのほうがあがるまで、松山でゆっくりしてくればいいと伊達千恵美はいったのだが、翼はいうことをきかなかった。通夜と葬儀をすませると、その日のうちに東京に帰ってくるといった。飛行機なら松山からは一時間半である。母親の葬式をだした日の夕方には、あくたがわ翼は下北沢に帰っていた。
下北サンデーズのメンバーは、稽古場を抜けて下北沢駅の南口で座長の帰りを待った。梅雨の晴れ間の空があかね色に燃えるころ、ちいさな旅行カバンをもった翼が、駅の階段をおりてきた。目はくぼみ、頬は落ちていた。ふたまわりほどしぼんだように見える。だが、翼は異様に張りのある声でいった。
「心配かけて悪いな。玲子、おまえ脚本全部書きあげてないよな」
寺島玲子はうなずいていった。
「まだ三分の一くらい」
「そうか。みんな、ちょっと顔貸してくれ」
あくたがわ翼は学生でにぎわう駅前を歩き始めた。ゆいかは男の背中を見ていた。まっすぐに伸びた強い背中だった。書けないといって、逃げていた数日まえとは別人のようである。翼は駅の横にある階段をのぼっていった。
そこはゆいかが座長を見つけた陸橋に続く階段である。フェンスにはスプレー缶で無数のグラフィティが描き散らしてあった。翼は狭く短い陸橋の中央で金網に手をかけて立ちどまった。劇団員は思いおもいの場所に散らばって、翼の言葉を待っている。
「迷惑ばかりかけて、すまなかった」
誰も返事をする者はいない。翼はかすかに笑っていう。
「劇場のキャパが倍になって、おれはちょっとしたパニックになっていた。百五十人もはいる小屋を埋められるほどの作品がおれに書けるのかな。まえの作品がたまたまのまぐれあたりじゃなかったのかな。自信がなくて、怖くてたまらなかったんだ。毎日、誰かの悪口を言っては、逃げてばかりいた」
「いいよ、翼がきついのはわかっていたから」
伊達千恵美が脚本家の肩に手をおいてやさしくいった。金網のむこうには線路と下北沢の街なみがどこまでも延びている。錆びた金網にも夕日があたって、陸橋のうえはオレンジの光りのなかに浮かんでいるようだった。自分の肩におかれた手を、翼はそっとはずした。
「ありがとうな。でも、きいてくれ。おれのおふくろは五十八歳だった」
若いカップルが、異様な雰囲気に足を速めてすぎていった。
「いつかおれが大成功するから、それまでは死ねない。それが最近の口癖だったそうだ。自分でも身体の変調を感じていたのかもしれないな。東京の大劇場で、おれの芝居がかかって、客席が満員になる。それを見るのがおふくろの夢だったんだ。おれは三十をすぎても、なにひとつこたえてやることはできなかった。たまに手紙を書くときなんて、金の催促ばかりだ。劇団員なんて、やくざなやつばかりだよ」
サンボ現とジョー大杉が洟《はな》をすすっていた。
「おれ、死んじまったおふくろの顔を見ながら、つくづく考えたよ。なにやってんだってさ。十一年も芝居をやって、初めて劇場を一段のぼれるのに、ぶるっちまって一歩も足を踏みだせない。なにが東京の大劇場を超満員だ。こんなちいさなおれのことを、おふくろは最後まで信じていたんだなって。悲しかったけど、おれは泣けなかった。自分に腹が立ってたまらなかったから」
あくたがわ翼がこちらを振りむいた。頬には彫りこんだような深い影ができている。この人はどこかで、数日まえとは別人になってしまった。その考えが冷たい水でものんだように、ゆいかの腹のなかに落ちてきた。
「いいか、駅横劇場がなんだ。いつか、おれたちはこの橋をわたる。ここをわたって、北口の松多劇場で芝居を打つ。東京中から客を呼んでみせるぞ。みんなでいっしょに、この橋をわたるんだ」
ゆいかの胸にも火がつくような言葉だった。寺島玲子がそっといった。
「でも、駅横まであと八日間しかない。新作の脚本はできているの」
あくたがわ翼は人さし指でこめかみをたたいた。
「ここのなかにすべてできてる。あとは書くだけだ。明日にはみんなにわたす」
「なにいってるの。あなた、看病と通夜でもう二日間寝てないよね」
切羽詰まった声をあげたのは、連絡係でもあった伊達千恵美である。
「そんなむちゃしたら、本番のまえに座長が倒れることになる」
翼はにこりと笑っていった。
「二日くらい寝ないから、なんなんだ。死ねば、いつまでだって眠れる。本屋が生きてる限り寝ないで本書くのはあたりまえだろ」
脚本家は自分の台詞に突っこみをいれた。照れたように、夕日に頬を染めていう。
「ちょっと今のはカッコよすぎたかな。でもな、今回田舎に帰って、おれデビューしたころのことを思いだしたんだ。昼はちいさな出版社でアルバイトして、夜は寝ないで台本を書く。土日には芝居の金をつくるためにバイトして、夜はバイト先の出版社にこもってまた台本を書く。会社のほうも事情をわかってくれて、パソコンもコピーもつかい放題だった。あのころにくらべたら、すくなくとも筆一本でくえるだけでも、おれはしあわせだ。目先のことだけ考えてちいさくなっていたんだと思うよ。じゃあ、明日」
座長はすたすたと陸橋を花道のように歩き去った。キャンディ吉田が感にたえたようにいった。
「なんか、今日の座長は男まえだったなあ。どうする、明日にそなえて、英気を養おうか」
「いいねえ」とサンボ現。
そこで下北サンデーズの劇団員はそろってひまわり水産に繰りだすことになった。台本ができてもできなくても、芝居があってもなくても、小劇場の役者のやることにはあまり変化はないようだった。
6
つぎの日の午後には、あくたがわ翼は新作の台本をもって、スタジオDNにあらわれた。コピーを全員に配ると、本読みを一時間と力なくいった。そのまま自分はロッカールームにあるベンチをベッド代わりに、仮眠をとってしまう。
ゆいかはまたも目隠しされたアルミサッシを開けて、バルコニーに足を伸ばした。できたての台本をゆっくりと読む。それはゆいかの十八年の人生のなかでも、あまり経験したことのない奇妙にくすぐったく幸福な時間である。自分が演じる役はどんな人物なのか。ストーリーや世界観はどうなっているのか。すべての鍵は脚本のなかにある。
新作はさすがにあくたがわ翼だった。母親の死を感じさせる台詞などひとつもなかった。皮肉でエロティックなコメディなのである。自分の母が倒れて死にそうなときに、こんなストーリーを考えられる翼が、ゆいかにはなんだか怪物のように思えた。
タイトルは『セックス・オン・サンデー〜日曜日に一回』と人をくったものである。一棟の超高層マンションに住むなかよしの夫婦三組の喜劇だ。サンボ現と寺島玲子は結婚して五年の三十代の夫婦。夫は中堅の印刷会社の営業職で、帰国子女の寺島玲子は住宅ローンの足しに近くの英会話塾で教師をしている。八神誠一と伊達千恵美は、自他ともに認めるマンションのベストカップルだ。テレビ局の編成部にいる浮気性の夫と元アナウンサーの組みあわせである。そして、最後にジョー大杉とゆいかの年の差カップルがいる。大学生のゆいかと老けメイクの資産家というふたりである。
二時間弱の上演時間に、三組の男女はすべての順列組みあわせを試すことになるのだった。
セックスレスと過剰な性生活、人工授精と避妊、収入格差と住む階数の相違。あらゆる皮肉な対比を鮮やかにつかって、翼は欲望にもみくちゃにされる男と女を描いていた。冷たく突き放すのではなく、愛によって傷つきながら、それでも他者を求めずにいられない人間という決定的になにかが欠けた生きものの弱さをすくいとる。その視線がこのコメディの中心に、ある種のあたたかな手ざわりを生んでいた。ゆいかは自分でもバカだと思った。前回の『サマータイム・ストレンジャー』に続いて、二度も脚本で泣かされてしまったからである。
ふらつく足で演出家があらわれたのは、一時間半後のことだった。約束の時間はすぎていたが、誰も起こしにいけなかったのである。だが、翼の声は元気だった。三日間寝ていない人間のものとは思えない若々しい張りと熱がある。
「さあて、いっちょう駅横劇場でぶちかますか。いいか、こいつで予定どおりちゃんと波がきたら、つぎはザ・マンパイだからな。今度は定員三百人の劇場にいくぞ。じゃあ、本読みいってみるか」
傷だらけのフローリングの床に輪になって、ゆっくりと本読みが開始された。あくたがわ翼はこの段階では、ほとんど役者に注文をつけることはなかった。読み間違いやアクセントのつけかたを軽く注意する程度である。また、役者からの質問にもあまり明確にこたえるタイプの演出家ではなかった。ゆいかは後年、さまざまな演出家と仕事をするようになるのだが、なかには恐ろしいほど明晰《めいせき》に役の人間性や心理状態を解説する者もいた。どちらがよい悪いではなく、きっと人間としての型が違うのだろう。
三時間後、初めての本読みが終了すると、あくたがわ翼がいった。
「今回はおれのせいで、あと一週間しか稽古の時間がない。明日から立ち稽古にはいるから、ひと晩で台詞をいれてきてくれ」
そこまでいうと、最後のエネルギーが切れたようだった。演出家はその場にへなへなとしゃがみこんでしまった。
翌日は稽古場の床に、ビニールテープが網の目のように走っていた。今回のセットの特徴は、それぞれの夫婦が住む三層に分かれたフラットである。駅横劇場はミニミニシアターよりもステージの天井高があるので、高さを有効につかいたい。それが舞台デザインのコンセプトだった。
劇中のある土曜日の夜に、それぞれ自分の配偶者とは異なる相手と一斉に抱きあう場面があった。高さですべての空間を分けることで、ひと眼で強烈な皮肉を見せられるのだ。人の生きるすべての要素を、数十平米の広さと二時間という時間に圧縮できる舞台とは実に不思議な空間である。
立ち稽古の二日目からは、いつも組んでいる舞台監督の大島哲と音響、照明の担当者がやってきた。大島はあくたがわ翼にいった。
「劇場一段あがりの初日だろ。どこの劇団の座長も、興味津々で観にくるぞ。これからはすり寄ってくるやつが増えるかもしれないな」
翼は肩をすくめていった。
「もうどうでもいいですよ。劇場がどうだとか、動員がいくらいったとか、おれ、どうでもよくなっちゃった」
ひげのブカンは翼の肩をたたいた。
「なんだよ、急に腹をすえたみたいだな。その調子なら、だいじょうぶそうだな」
大島は近くにいるゆいかにいった。
「おれはこれまでほぼ一年間でミニミニから松多劇場まで駆けあがった劇団をいくつか見てきた。ゆいか、ちゃんとおまえも目を開けて見とけよ。今の下北サンデーズには、勢いがあるし、そんな見ものは五年か十年に一度のことだからな」
小劇団が成功するって、どういうことなんだろう。新作を舞台にかけて、なんとか公演を打ち続けさえすれば、それで十分成功といえるのではないか。下北サンデーズしか劇団を知らないゆいかには、未来に描く成功の具体的なイメージがなかった。しかし、駅横劇場での記録的な興行以降、ちいさな劇団は急激すぎる成功と金が生むさまざまなきしみと矛盾に翻弄《ほんろう》されるようになる。
もっともこの段階では、ゆいかはなにも知ってはいなかった。立ち稽古で女子大生妻としての色気がまるで足りないと、あくたがわ翼から怒鳴り倒されるばかりである。
「おまえ、女子高生役は素直にやれたのに、なんで現役の大学生役ができないんだよ。いつまでもガキの振りをしてるんじゃない。もっと色気だせ。結婚して、やりまくって、ようやくセックスのよさがわかってきた新妻役なんだぞ。新鮮な色気がこぼれなきゃおかしいだろうが」
ゆいかが雷を落とされてへこんでいると、ジョー大杉がやってきて頭をなでてくれるのだった。
「処女にそんな色気だせなんて、鬼のような演出家だよな。ゆいかちゃんはそのままでいいから、もうちょっとセクシーにやってみよう」
ゆいかは頬をふくらませていった。
「その話、ほかの人にいったら絶交ですからね、ジョーさん」
出番のすくないキャンディ吉田がとりなすようにいう。
「まあ、ゆいかちゃんはいいじゃない。わたしなんか、不妊治療の女医の役だよ。現役ばりばりなのに、ベッドシーンもないんだもんなあ。わたしと役を交代しない」
ジョー大杉がキャンディ吉田を見あげるようにしていった。
「おまえのどこが、かわいい新妻なんだよ。どう考えても、MBAのルーキーだろうが」
「そう、期待のセンターなんだ、シカゴ・ブルズの……人にのり突っこみさせるんじゃないよ。若年寄りが」
キャンディのファーストミットのようなてのひらが、ジョー大杉の背中をたたいた。困ったら、台本にもどる。ゆいかはかわいい色気の表現方法を求めて、もう一度無数に開いたせいで二倍の厚さにふくらんだ台本を手にとった。
初日の朝は、前回とは打って変わった快晴だった。天気予報も晴れ続きで、女優陣がてるてる坊主をつくるまでもなかった。下北沢駅南口の駅前にある雑居ビルのなかに、駅横劇場はある。三階は下北劇場すごろくの第一歩であるミニミニシアターだった。ゆいかは初日の昼すぎに劇場のまえをとおった。前回自分たちが『サマータイム・ストレンジャー』を打った劇場では、きいたことのない劇団の旗揚げ公演が始まろうとしていた。時間が空いたら、観にきてみよう。
「あら、ゆいかちゃん、おはよう」
ミニミニシアターのエントランスから振りむくと、サンボ現と寺島玲子がジャージ姿で立っていた。あの居酒屋の夜以来、このふたりはつきあっているようだった。サンボ現は街を歩いていると、子どもたちにサインを求められるほどのプチ有名人になっている。自信がついたせいか、サンボの物腰にもだいぶゆとりがでてきたようだ。
「ゆいか、おまえ、ミニミニがなつかしいのか」
別段なつかしいわけではなかった。ただこの劇場で初めて下北サンデーズと出会い、その劇団とともに自分がひとつうえにあがれるのが、なぜかとても不思議な気もちがしたのである。ゆいかは黙って首を横に振った。玲子がそっとうながした。
「いきましょう。わたしたちの劇場に」
階段のステップはほんの十数段である。けれども、何十年となく演劇活動を続けても、この階段をあがれない劇団はいくらもあるのだ。下北サンデーズだって、実力はありながら、この十数段をのぼるのに十年以上の歳月を必要としている。
「ちゃんと踏みしめてあがれよ。おれたちは二度とここからしたにはおりないんだからな」
サンボ現の言葉には、芝居の最後の台詞のような重みがあった。
駅横劇場のエントランスは、ミニミニシアターにくらべ一気に劇場本来の華やかさが増していた。床もエンジ色のカーペット敷きで、折りたたみテーブルではなく、ちゃんと本格的なチケットカウンターがあったのである。
ロビーには立花があふれていた。翼が構成作家として仕事をするテレビ局、映像関係の制作プロダクション、ほかの劇団の座長たち。そこまでは前回と変わらなかったが、サンボ現がらみの立花も増えて、量は倍増していた。コマーシャルのスポンサーに、広告代理店、出演中の連続ドラマのスタッフや局の制作部。贈られたワインやビールの量も『サマータイム・ストレンジャー』のときの数倍になっていた。
「なんだかなあ。脚光を浴びるっていうけど、ほんとにこんなことがあるんだな」
他人事のようにいうサンボ現に、チケット売り場から若い女性の声がかかった。
「おはようございまーす、サンボさん、寺島さん、ゆいかさん」
カウンターのなかでは制作の江本亜希子が笑っていた。劇団に人気がでると、急に見知らぬ顔が劇場で増えていくものだ。亜希子の両脇を固めるようにお手伝いの入団希望者が、チケット要員として詰めている。
「もう二度目になると、感激も薄れてしまうものね」
江本亜希子がカウンターのしたからとりだしたのは、下北ミルクのビンいり牛乳である。ゆいかはビンを受けとりながらいった。
「あのおじさん、またきてくれたんだ」
「ええ、このまえはおもしろかった。今度も期待してるって」
サンボ現は牛乳を断っていう。
「謎のおっさんだよな、あの人」
江本亜希子は予約席の名前を書いたノートに目を落とした。うれしそうにいう。
「それよりも、今日の初日はがんばったほうがいいみたい」
寺島玲子がのぞきこむようにノートを見た。腕利きの制作は手で隠すようにしていう。
「今回の芝居は初日から満席だからね。劇評家の島崎真治もきてるし、演出家の飯田浩一郎もきてる」
「わたし、あの人がNHKでやった『夕日のなかの家族』大好きだったなあ」
寺島玲子がそういっても、サンボ現の顔色は変わらなかった。タカのような鋭い目をして、制作をにらんだ。
「ほかには」
「映画監督の尾瀬健介」
「ほかには」
「大手広告代理店も何社かきてるよ。キャスティング担当かな」
「それそれ。どこかで、おれをもう一度つかってくれないかな。今度のCFではギャラが跳ねあがるぞ。そうだろ、玲子」
階段のほうからあくたがわ翼の声がした。
「おいおい初日から、ギャラギャラっていうなよ。芝居はアンサンブルだろ。ひとりだけ悪目立ちするなよ、サンボ。それでなくても、おまえはコマーシャルで浮いてるんだから」
元恋人で現劇団づき制作の江本亜希子は、カウンターに名刺を何枚か滑らせた。
「現ちゃんだけでなく、翼あてにも来客があったよ。ほら、映像企画のプロダクションや映画会社から。よくわからないけど『サマータイム・ストレンジャー』の原作権を買いたいっていう話じゃないかと思うんだけど」
「ほんとかよー」
あくたがわ翼が叫んでいた。
「おれの脚本を買いにくる人間がいるんだ。そんなことになったら、初めてオリジナルの本が金になるな」
サンボ現がぼやいた。
「座長だって、金、金いってるじゃないですか」
「おれはいいんだよ。あーあ、この花だらけのロビーをおふくろに見せたかったな。さあ、ゲネプロいくか」
ジャージの四人は雪駄やサンダルを鳴らしながら、ぞろぞろと楽屋にむかった。この時点では、まだ駅横劇場の初日も明けていなかった。だが、のぼり坂の勢いというのはつねに予想をうわまわるものである。あくたがわ翼が逃げだしたくなるほどのプレッシャーと母親の死をのり越えて書きあげた新作は、下北サンデーズの誰もが予想できなかったほどの成功を収めることになるだろう。『セックス・オン・サンデー』はその年の戯曲賞の最終候補に翼の作品で初めてノミネートされるのだ。
けれども、成功と失敗というのは、ある意味で同じものだった。成功にも失敗にも、同じだけのよろこびと危険がふくまれているのだ。快調に劇場すごろくの二段目をあがった下北サンデーズをしっかりと捕らえて、成功の甘い罠《わな》が閉じ始めようとしていた。それは誰も逃れることのできない罠である。獲物が自分からすすんで、くいちぎられにいくのだ。名声とおおきな桁《けた》のマネー。苦闘の最中の劇団はなかなか沈まないが、成功の波に襲われるとこの小船は弱いのだった。
その意味では、人間と劇団にはよく似たところがあるのかもしれない。違いがあるとすれば、手にいれた金を劇団ではみなで分けあわなければならないということだろう。肉を分けるときは、どこでもトラブルが起こる。それが長年にわたって飢えた劇団員なら、なおさらのことだった。
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第3章 ザ・マンパイの苦悩
1
駅横劇場で燃えあがった熱気は、まだ続いていた。下北沢の狭い路地をふくらんだ夏風が抜けていく。下北劇場すごろくの二段目『セックス・オン・サンデー』は、満員御礼を連発して無事終了していた。演劇専門誌では、今年の橋田戯曲賞の有力候補として採りあげられてもいる。十年を超えるあくたがわ翼のキャリアのなかでも最高傑作と評判だった。だが、当の翼は冷静なものだった。あれは自分の力ではない。死んだ母親からの贈りものだという。
定員百五十人の劇場をマチネーの二回を加えて、一週間に九回満席にする。動員は初めての四桁、千五百人弱だった。下北サンデーズの団員たちは天下をとったつもりで、肩をそびやかして街を歩いていた。ミニミニシアターでの地をなめるような十年を経て、初めて人気の波がきていたのだから、それも無理はなかった。
劇場すごろくののぼり坂が先にいくほど厳しくなることに、まだ誰も気づいていなかったのである。
「はい、いらっしゃい」
交差点の角にある前場青果店で、ゆいかは声をかけられた。
「ゆいかちゃん、またモヤシかい」
すでに店主は、緑のカゴにはいったひと袋三十円のモヤシに手を伸ばしていた。ひとつ百五十円のブロッコリ、一個二百円のトマト、ひと束二百八十円のアスパラガス。光り輝くような高級野菜が、店先のライトを浴びていた。劇団にはいってから四カ月、ゆいかは三桁の価格の野菜を買ったことはなかった。
おかげでやけにモヤシ料理のレパートリーが増えてしまっている。普通のモヤシ炒《いた》めだけでなく、麺なしのモヤシだけラーメンとかモヤシ中華丼とか、モヤシピラフとか。白いご飯とモヤシがあれば、なんとか生きていけることがわかったのだ。
ゆいかはポリ袋を手にしたダンディな八百屋を見つめた。ヴィンテージジーンズにアロハシャツ。さすがに演劇の街下北沢である。ゆいかがアルバイトしているジャズ喫茶デュークの常連だった。ゆいかは古着ジーンズのヒップポケットに手をやった。三万八千円。それが生まれて初めて演劇でもらったギャラである。
「今日は、アスパラガスと半分のキャベツもお願いします」
「おう、お大尽になったなあ。あの芝居おもしろかったよ、セックスのやつな。じゃあおまけにこいつもつけてやる」
濡れたように光るトマトをひとつ、店主がポリ袋にいれてくれた。
「はい、合計四百四十円」
ゆいかはポケットから封筒をだして、新札の千円を抜いた。釣りをもらって、ゆいかは南口の商店街を歩きだす。狭い路地のうえにピンクのリボンのように夕焼けの空が伸びている。青果店のななめむかいに家具屋があった。店先にはベニヤやワイヤーフレームの廉価な家具が山積みになっていた。ゆいかの部屋には本棚がなかった。翼が書いた台本もすでに二冊になる。一カ月後にはもう一冊増えるのだ。以前から台本をいれるものがほしかったのだ。
ゆいかの目にとまったのは、白いサイコロのような正方形のカラーボックスだった。テープで張られたカードには、1260円と丸文字で手書きされていた。
(どうしよう、まだだいぶ残ってるけど)
一度に二千円近くの大金をつかうと考えると、胸がどきどきした。芝居のチケットなら三千円でも惜しくないのに、ものを買うのは勇気がいることだった。なにせ千円札が二枚あれば、三日は生きられるのだ。家具屋のまえで十分間ほど立ちどまって思案する。けれども、どうしても決断がつかなかった。
(部屋にもどって考え直して、それでもほしかったら買うことにしよう)
商店街のはずれの第三下北荘に帰ろうとしたところで、ショルダーバッグの携帯電話が鳴った。ゆいかは金のかかる着メロはつかっていない。初期設定の耳ざわりな電子音のままだった。
「はい、里中です」
「ゆいかちゃん、今どこにいるの」
サンデーズづきの制作、江本亜希子のはずんだ声だった。
「南口の商店街にいますけど」
「じゃあ、これからちょっと会えないかな。話があるんだけど。わたしはミニミニシアターのしたにあるファストフードの店にいる」
もう夕食の時間である。せっかくアスパラガスとモヤシのオイスターソース妙めをつくろうと思ったのに。
「晩ごはんなら、わたしがおごってあげる。とにかく三十分でいいから、時間をちょうだい」
さすがに元舞台女優は売れない役者の気もちがわかっていた。ゆいかはすぐに返事をしていた。
「はい、じゃあ、すぐにいきます」
ミニミニシアターは南口の正面にある雑居ビルの三階だった。四階はつい先月、下北サンデーズが公演を打ったばかりの駅横劇場である。ゆいかは階段をのぼって、フィフティーズ風の店内にはいった。ジュークボックスとピクチャーミラーが飾られ、C.C.R.の「雨を見たかい」がフルボリュームでかかっていた。駅前広場を見おろす窓際の席で、江本亜希子が手をあげた。黒い長袖シャツに黒のロングスカート。魔女のような格好である。
「こっちよ。買いものの途中だったの?」
モヤシだけでなくてよかった。ゆいかは内心思った。白いポリ袋にはアスパラガスの鮮やかな緑が透けている。この店の名物ハンドメイドのチーズバーガーを頼んだ。
「あの、お話ってなんでしょうか」
亜希子がじっとゆいかの顔を見ていった。
「ゆいかちゃんはプロのカメラマンに写真を撮られたことある?」
デビューして数カ月の新進舞台女優である。そんな経験などあるはずがなかった。あわてて首を横に振ると、制作はテーブルに身体をのりだしていった。
「実はね、知りあいの編集者に頼まれちゃったの。その雑誌で美少女コンテストみたいなことをやってるんだけど、いい子がいなくてね」
美少女コンテスト? ゆいかは目を丸くした。
「いいんですか、そんなところにわたしなんかで」
亜希子は軽く手を振った。
「いいの、いいの。そのコンテストで優勝するのは、大手のモデルプロダクションの女優の卵に決まってるのよ。でも、ほかの子のレベルがあまりに低いと、出来レースが見えみえでしょう。それで、編集部では二番手三番手を探しているの。それに……」
制作はゆいかがとなりの椅子のうえにおいたポリ袋を見た。よりによって、モヤシの文字が読めるのだった。
「わたしも舞台をやっていたころ、モヤシとキャベツばっかりたべていたことあるよ。なつかしいなあ。その撮影はね、ちゃんとギャラもでるから。確か一ならびで税引き後の手取り十万だったかな」
ひと月稽古をして、一週間舞台にでたギャラのおよそ三倍である。
「下北サンデーズでは、そういうアルバイトやってもいいんですか」
亜希子はにっこりして見せた。黒ずくめの魔女の笑いである。
「いいに決まってるでしょう。サンボさんだってCFにでてるし、あとは個人の才覚よ。どう、やってみない? スタジオを見学するのも、プロのカメラマンに撮ってもらうのも、今後のゆいかちゃんのために、いい経験になると思うんだけど」
「わかりました。がんばってみます」
お金はともかくやってみよう。そうと決まれば、帰り道であの白いカラーボックスを買うのもいいかもしれない。亜希子は財布から名刺をだして、テーブルのうえにすべらせた。
(週刊コミックビート グラビア担当 立石義明)
声をださずに読みあげる。会社は神田神保町だった。
「いちおう電話してあげて。撮影は来週の火曜日だから」
「お待たせしました」
大皿にもったフレンチフライとチーズバーガーが頭上からおりてきた。なんだか、自分にも運がまわってきたのかもしれない。さっそくゆいかは血のにじむハンバーガーにかぶりついた。ここのはチェーン店のものとは別格なのだ。亜希子は若い女優の食欲に目を細めていた。
「わたしはもうそういうのはたべられなくなったなあ。ねえ、ゆいかちゃん」
急に声が真剣になったので、目をあげて亜希子を見た。
「今、うちの劇団には十年に一回というチャンスがきていると思う。この波を逃すわけにはいかないの。将来のみんなの暮らしのことを考えると、このあたりで下北サンデーズを事務所にしてもいいんじゃないかなって、わたしは思ってる」
フレンチフライを口のなかにいれたまま、ゆいかはいった。
「事務所って、会社のことですか」
「そう、株式会社。ドラマや映画やCFなんか、劇団員の仕事をマネージメントして、翼の脚本の権利を守り、もっとおおきな仕事につなげていく。きちんとした演劇とタレントのプロダクションよ」
なんだか雲をつかむような話だった。ゆいかが知っている芸能プロダクションは、ジャニーズ事務所と渡辺プロくらいのものである。返事ができずにいると、亜希子がいった。
「あなたはうちの事務所のアイドル候補なの。一番の稼ぎ頭になるんだから、しっかりしてね」
よくわからないままゆいかはうなずいて、急に味のしなくなったチーズバーガーをかじった。
2
芝居を打っていないあいだも、下北サンデーズでは毎週のようにのみ会が開かれていた。売れない十年間を耐えて、劇団員同士のコミュニケーションは石垣のように密になっている。数日後、ゆいかは定番のひまわり水産にいた。畳敷きのいれこみには主演女優の伊達千恵美以外の演技陣が顔をそろえていた。発泡酒で酔ったキャンディ吉田がいう。
「なんだよ、そのカッコ。サンボらしくないな」
不細工キャラでテレビドラマの脇役として売りだし中のサンボ現が、白いレザージャケットの襟《えり》を立てた。
「ドルチェ&ガッバーナの新作だぞ。うるせーんだよ。おれは一般人とは違うんだから、こういうの着て、あたりまえなの」
玲子は冷たい目で、サンボを眺めていた。
「最近、サンボは人が変わったよね。連ドラの脇役のギャラなんて、たいしたことないのに、二十万もするジャケットなんか買って。それ全部ローンでしょ」
サンボが胸を張った。
「借金は倍にして返すから、いいんだよ。おれは今のりにのってるんだから、まかせとけ」
ジョー大杉がうわ目づかいでいう。
「そういえば、ドラマのエキストラの話、演出家にしてくれたか」
「いっておいた。今度ホストやちんぴらの役があったら、声をかけてくれるってさ。でも、こんなことはうちの劇団員以外には絶対にやってやらない。このごろ、ひどいんだよ」
口ぶりとは逆にサンボはにやにやしていた。玲子はそっぽをむいて、真っ赤なブラディマリーをのんでいる。
「昔は洟も引っかけなかったくせに、あちこちの座長が急に客演依頼にきたり、看板女優とのみ会をセットしてくれたりさ。あいつら誇りってものがないから、てのひら返しもいいとこだ」
二枚目役の八神誠一は穏やかに笑って、サンボを眺めていた。それに気づいたサンボがいう。
「八神はさ、ちゃんとオーディション受けろよ。おまえはどこにいっても主役が張れるくらい実力とルックスに恵まれてるんだからさ」
頭をかいて、八神はいった。
「はあ。ぼくはうちの劇団と翼さんの本が好きだから。ほかのはどうでもいいんです」
ジョー大杉が大皿に最後にひとつ残された焼きおにぎりをとった。半分に分けてゆいかにさしだす。
「八神は欲がないよなあ。まあ、そこがいいところなんだけどな。くうか」
ゆいかが首を横に振ると、ふたくちでおにぎりを片づけた。ジョーはうつむいたままいう。
「八神は八神でいいけど、おまえはもっと外にでて、サンボみたいに劇団を引っ張る役をやってくれ。華がまんなかで咲かないと、脇のおれたちも光らないんだ」
玲子がそのとき切りつけるように口をはさんだ。
「そうだよね。八神くんなら、急にもてるようになっても、勘違いしないもんね」
「なんだよ、その口のききかたは」
サンボ現が芝居で鍛えた大声をだした。広い地下の居酒屋も、さすがに一瞬静まり返った。玲子も負けていなかった。
「なによ。ほんとのことをいっただけでしょう。マゼンタ計画の清澤麻衣子に、とってもシンジケートの美穂マリに、テレビ局のADの克美。写メールを見たけど、全員サンボより背が高かったよね。全部ほんとうのことでしょうが」
メンバーはみな無口になった。つきあい始めたばかりで、高校中退の中卒と東大卒のカップルは重大な危機を迎えたようだ。サンボ現が玲子のほうを見ずにせせら笑った。
「誰かさんは人の携帯のメールをのぞいたからな」
「それが、なにか」
サンボはジョーのほうをむいていう。
「ホストクラブの客にもいるだろ。ホストの携帯ロックを、ひと晩中かかって全部打ちまくって解除する鬼みたいに執念深い女。想像すると恐ろしくなるよな。ああ、嫉妬は嫌だねえ。哀れだね」
「なめんな、サンボ」
玲子が叫んでブラディマリーを、サンボの白い革ジャケットにひっかけた。
「なにすんだよ」
あわててお手ふきでジャケットをぬぐうサンボに、玲子はいった。
「東大をなめんなよ。あんたの携帯ロックはずしごときに、ひと晩かかるわけないでしょう。誕生日、電話番号、バイト先の社員番号、銀行口座。全部いれてダメだったから、考えたんだ。すぐにわかったよ。ロックナンバーは『きもくない』に決まってるってさ。ちゃんと1699だった。間抜けの学歴コンプレックス野郎が」
「うるさい、ガリ勉女。三十すぎて、その……」
ゆいかはサンボが玲子のヴァージンを口にするのかと思いひやひやした。そのときは自分が発声練習で鍛えたのどでなにか叫んで、サンボの言葉をかき消すつもりだったのである。腹式呼吸を整えていると、玲子がぎらぎらした目でサンボをにらみつけた。
「あんた、それバラしたら、刺すからね」
その場にいた劇団員が凍りついた。
「じゃあ、みんなお先に」
東大卒の舞台女優は肩を怒らせて、居酒屋をでていった。のみ会はそのあと、低調になった。女性陣はサンボを責め、男優は口数がすくなくなった。ゆいかは重い気分のまま、その夜の食事を冷たいジャスミン茶で流しこんだ。
3
半蔵門線の神保町駅でおりたのは初めてのことだった。地下鉄の階段をのぼり、ネットで落とした地図を手に書店街を歩いていく。広い並木道の両側にびっしりと本屋ばかりならんでいた。音楽書、美術書、法律書、理工書、洋書。それに映画やテレビの台本だけを扱う古書店もあった。本にはこれほどたくさんの種類がある。下北沢といい、神保町といい、東京にはおもしろい街がいくらでもあるものだ。
数分後ゆいかが到着したのは、ガラス張りの真新しいビルである。章営舎は児童書とコミックでは定評のある大手出版社だった。高さ十メートルはある吹き抜けの奥には、宇宙船のコンソールのようなカウンターがあり、受付嬢がふたり座っていた。ゆいかには自分よりもずっと洗練されていて美人に見えた。ほんとうにわたしなんかで、いいのだろうか。思い切って声をかけた。
「里中ゆいかといいます。コミックビートの立石さんを、お願いします」
「アポイントメントはございますか」
うなずくと、スキのない化粧をした受付嬢がどこかに電話をかけた。ひそひそと話してから、ゆいかに目をあげていった。
「このバッジをつけて、七階の編集部にお運びください」
プラスチックのバッジをわたされて、ゆいかは途方に暮れた。
(どこにエレベーターがあるんだろう。編集部の場所もわからないし)
泣きそうになってしまったが、ゆいかのうしろには長い列ができている。受付はつぎの接客にかかっていた。しかたなくカウンターを離れて、下北沢の古着屋で八百円で購入したジージャンの胸にバッジをつけた。両手をうしろに組み、胸をそらして立っているガードマンにきいてみる。
「エレベーターはどこですか」
白い手袋で自動扉のむこうにあるホールを示された。まわりの人間はみなこのガラス張りの巨大な建物に慣れているようだった。自分だけがおどおどとしているのだ。ゆいかはこんな仕事を請けたことを早くも後悔し始めていたが、編集部では待っている人間がいる。勇気をだして、エレベーターにのりこんだ。
七階で扉が開くと、正面にはコミック誌のポスターが壁一面に張られていた。金属製のダブルドアはどちらも開け放したままになっている。ゆいかは恐るおそる室内をのぞきこんだ。なかはフロア全体がおおきなワンルームになっていた。机の島がいくつもできていて、天井から誌名がはいったプレートがさがっている。どの机のうえもこれ以上は積めないのではないかというくらいの書類が重なっていた。
天井を見あげながら、編集フロアを歩いていく。みな学生のようなカジュアルな格好をしていて、誰ひとりゆいかのことなど気にしなかった。コミックビートの編集部は、すぐに見つかった。デスクわきの壁にマンガ誌の表紙が数十枚もならんでいる。どれもグラビアアイドルや若手女優が水着姿でにっこりしているものだった。近くの机でネームを読んでいた若い編集者に声をかけた。
「すみません。グラビア担当の立石さん、お願いしたいんですが」
長髪にレゲエカラーのニットキャップをかぶった男が、めんどくさそうに目をあげた。
「あそこの山のむこうにいるから」
机の島の端にある本の壁を指さした。礼をいって近づいていくと、その山はすべてアイドルの写真集だった。バストのサイズを全部足したら何百メートルになるのだろうか。胸のおおきな子ばかりである。ポロシャツの襟を立てた男が、むこうをむいて携帯電話でなにか話していた。
「いや、だからさあ、児島奈津美はいいんだよ。うちとしても、ありがたいよ。でも、奈津美をのせるなら、山崎セイラもいっしょにっていわれても、そいつは無理なんだ。セイラはうちの読者のくいつき悪いんだからさ。勘弁してよ」
直立不動で立っているゆいかに気がついたようだった。電話で話しながら、頭のてっぺんからつま先まで、視線がさっと掃くように動いた。
「すみません、来客なので、そういうことでよろしく」
ジョー大杉に負けないくらい日焼けした男が、写真集の山をどかして、机のうえにスペースを空けた。
「そこに座って。これ書いて」
ゆいかは示されたパイプ椅子に座った。コピー用紙には罫線《けいせん》が引かれている。芸名・本名・年齢・所属プロダクション・特技・好きな男のタイプ、えーと、それにBWH? これはいったいなんだろう。まだ挨拶だってしていないのに。
「里中ゆいかです。よろしくお願いします」
「いいからさっさと書いてくれ。プロフィールくらい書いたことあるだろう。もうスタジオのほうは用意できてるから」
ゆいかがなんとか空欄を埋めるあいだに、立石はいった。
「おたくの制作の江本亜希子さんて、昔ファンだったんだよ、おれ。それでそこそこかわいい子がいるからっていわれてさ。ピンチヒッターだから、あんまり緊張せずに、気楽にやってくれ」
ゆいかはプロフィールから顔をあげた。うわ目づかいにきいてみる。
「あの、BWHって書かなきゃいけないんでしょうか」
グラビア担当はちらりと紙に視線を落とした。
「そりゃあ、あたりまえだろう。なんだったら、適当でもいいから、いちおう書いてくれ。あれ、きみは東科大の電子工学科なのか。へー、かわいいだけでなく、頭もいいんだな。女優の卵なんだって」
はいとうなずいて、しかたなくBWHを書いた。バストとヒップは実際の数字だったが、ついウエストだけ二センチさばを読んでしまう。それくらいの嘘を書くだけで、ゆいかは汗だくになってしまった。立石はプロフィールを確認もせずにいう。
「よし、じゃあ、ついてきてくれ」
書類やマンガが吹き溜《だ》まりになった編集フロアを、立石が先に立って歩いていく。ゆいかはどきどきと胸を騒がせながら、出版社のなかをついていった。
プロのメイクアップアーティストに化粧をしてもらうのは初めてだった。舞台用の化粧を下北サンデーズの先輩たちから習っただけなのである。鏡のなかで自分の顔が変わっていくのが、なんだかとてもおもしろかった。どこか幼いような目に仕あがるのは、ゆいかの顔がもともと童顔のせいだろうか。立石は腕を組んで、鏡越しにメイクを眺めていた。
「悪くないな」
「ありがとうございます」
ゆいかは先ほどから、誰に対しても同じ礼ばかり繰り返している。
「化粧がすんだら、こっちきてくれ」
地下二階の天井の高い廊下を案内された。とおされた部屋は畳敷きで、壁際のハンガーラックにはびっしりと衣装がさがっている。色味は紺と白しかなかった。
「好きなの着たら、でてきて。廊下のむかいがBスタジオだから」
ハンガーに手をかけて、ゆいかは衣装を確かめた。紺のセーラーカラーに白い身頃。高校生の夏服である。またも泣きそうな声で、ゆいかはいった。
「あの、セーラー服しかないんですけど」
「あたりまえだろ。制服美少女コンテストなんだから。きいてなかったのか。制服が終わったら、スクール水着の撮影もあるから早くしてくれよ」
えーっ、ゆいかは心のなかで叫んだが、なにもいい返せなかった。これがすべて女優としての将来に役に立つ経験なのだろうか。閉まってしまったドアにようやくつぶやく。
「なんなのよー、これ」
できるだけかわいい制服を選んで、スタジオにはいったのは五分後のことである。真っ白な巨大なサイコロのなかにでも迷いこんだようだった。距離感がつかめない。
「はい、おはよーございまーす。そっちの白いホリゾントのまえに立って。いいねえ。笑ってみようか」
三十代の妙に声だけやさしいカメラマンがそういった。ゆいかが白い床にガムテープで印をつけられた場所にむかう途中、バシバシと目に痛いフラッシュがたかれた。
「ちょっとウエスト部分がゆるいみたいよ」
声と同時に若い女性のアシスタントが飛んできて、ダブルクリップで夏服のうしろをつまんだ。ちょうど胸のしたで白い布が張りつめる。
「いいねえ、まえかがみになってみようか。ブラ見えないように自分で位置直してね」
ゆいかは覚悟を決めた。もう大学生なのに、セーラー服はダメだなどといっていられなかった。これも仕事なのだ。それに考えてみれば、つい数カ月まえには『サマータイム・ストレンジャー』でタイムスリップする女子高生役をやったばかりではないか。あのときの若きストリッパーをもう一度演じればいいのだ。撮影だって演技だ。そう思ったら、ゆいかの表情から硬さが抜けていった。
「きみ、なかなかいいよ。今度は切なそうに、カメラを見て。はい、十六歳で初デートの気分」
カメラマンはつぎつぎとゆいかに考える時間を与えず、注文をだしてくる。そのたびにポーズや気もちをつくるのが精いっぱいで、時間は飛びすぎていった。三十六枚撮りのフィルム七、八本を撮り切ったところで、オーケーがでた。立石が興奮したようにいった。
「ゆいかちゃんだっけ、きみ、ほんとにいいよ。指示されたとおり、ちゃんと表情をつくれる子なんて、駆けだしのグラビアアイドルにはほとんどいない。みんな、得意な笑顔と得意ポーズがひとつしかないんだ。じゃあ、水着いってみようか」
ゆいかは顔から血の気が抜けていったが、ここまできたらもう引き返せなかった。おおきなスタジオでプロに写真を撮られることがひどくたのしくもある。
「はい」
力強くうなずいたゆいかが、ドレッシングルームからでてきたのは十五分後のことだった。放っておいたムダ毛の処理にそれだけの時間が必要だったのである。
4
それからの二週間はなにごともなくすぎた。ゆいかは大学の実習と下北のジャズ喫茶でのアルバイトでいそがしかった。空いている時間を盗むように、演技のための体力づくりに励む。腹式呼吸にストレッチとランニング。夜は勉強しているか、小劇場でよその劇団の芝居を観ているかである。普通の学生生活を送りながら、なにかを本格的に学ぶのは、目がまわるようなせわしなさだった。それでもゆいかはこの生活に満足していた。自分の能力の限界まで力をつかい切る毎日だったからである。
その夜、下北サンデーズの女性陣が集合したのは、イタリアンレストランである。駅から離れた住宅街にある隠れ家的な店で、女子会のときによく利用していたのだ。赤と白のギンガムチェックのクロスが敷かれた大テーブルに、癖の強い五人が顔をそろえていた。テーブルの中央にはオリーブオイルのボトルと週刊コミックビートの最新号がおかれていた。表紙は七人のセーラー服アイドルの合成写真で、前列の右端にはまえかがみになったゆいかがいる。制作の江本亜希子がいった。
「いい場所ね。今度、連続ドラマで主演を張る生島よしののとなりじゃない。立石さんも一番表情が豊かだったのはゆいかちゃんだっていってたよ」
キャンディ吉田がコミック誌を手にとった。グラビアページをぱらぱらとめくり、ゆいかのところでとめた。セーラー服の右うえには両手をうしろに組んで、恥ずかしげにポーズをとるスクール水着の写真がレイアウトされていた。
「おー、ゆいかちゃん、意外と胸あるじゃん。ねえねえ、わたしにもグラビアの仕事紹介してよ」
亜希子は真顔で返した。
「バレーボール選手の特集があったらね。それより、この制服コンテスト、もう投票が始まってるらしいよ。ゆいかちゃん、なかなかのポイントだって」
「わたしだって負けてないよ」
急にキャンディ吉田が胸を張った。
「わたしさあ、ドラマのオーディション受けたんだ。チョイ役だけど、毎回台詞があるんだ。今、最終のふたりに残ってる。うちの劇団から連ドラデビューするの、サンボのつぎはわたしかもしれないよ」
「おめでとう」
亜希子とゆいかの声が重なった。けれど、残るふたりの女優、伊達千恵美と寺島玲子の反応は至って鈍かった。ゆいかはちいさくなってきいた。
「あの、玲子さん、サンボさんはあのままなんでしょうか」
玲子は忌々しげにうなずいて、辛口の白ワインを空けた。
「ええ。もてなかった男がなにかのきっかけで、急にもてるようになると始末におえないね。天下をとったつもりで、借金して遊びまわってる。このまえののみ会から二十日足らずで、新しくできちゃった女がふたり。つぎはもう一段劇場すごろくをのぼって、ザ・マンパイでしょう。今が大事なときなのに、情けなくなるよ」
伊達千恵美が手を伸ばして、玲子の頭をなでた。
「こっちも事情は同じ。翼があちこちの座長からちやほやされて、舞いあがってる。新作の本も書かずに、劇団蛇つかい座の石嶺カオルコと毎晩遊んでるの。亜希子さん、知ってた。翼はスマイル・プロジェクトの取締役と、このまえ六本木でのんだの」
亜希子の表情が曇った。その会社は多くの演劇人を抱える芸能プロダクションである。
「あそこだと、みんなには厳しいなあ。力のある人だけ一本釣りするから、スマイルが手をだした劇団はすぐに空中分解しちゃうんだよね。サンボさんにも、お笑い系の芸プロから誘いがあったみたいだし。うーん、どうするかなあ」
玲子は自分でワインを注ぎ、またひと息でのみ干してしまった。
「あんな男たち、どうでもいいよ。わたしたちだけで、なにかやらない」
ゆいかはその場にいる劇団員を順番に見わたした。寺島玲子は三十歳をすぎているけれど、脚本を書くことができる。キャンディ吉田には厳しいオーディションを勝ち抜くだけの個性と百八十五センチ近い長身がある。伊達千恵美は今も美しかったけれど、三十歳を越してすこし輝きが薄れてきた。制作の亜希子は事務処理能力が高いので、どこにいっても生きていくことはできるのだろう。自分は演技を始めて数カ月、下北サンデーズが解散でもしたら、もうほかにいき場はないだろう。一番厳しいのは、千恵美と自分なのかもしれない。暗く沈んだテーブルで、亜希子がいった。
「やっぱり、うちの劇団をちゃんと事務所にして株式会社化するか、どこか劇団を丸ごと面倒見てくれるプロダクションに全員でいれてもらうしかないなあ」
酔っ払った玲子がいう。
「まったく男っていうのは……それより、千恵美さん、つぎの台本すすんでいるんでしょう」
伊達千恵美も白ワインを空けてしまった。
「もう一本ボトルで頼もうか。ほんとに男って、ねえ。例によって本なんてぜんぜんできてないみたい。ネタもキャラも、ナッシングだよ。もう、どうしようもない」
その夜、下北サンデーズの女子会はひどく荒れた。空になったワインボトルが何本もテーブルにならぶ。劇団員というのは、男女の区別なくアルコールにはひどく強かった。俳優には肝臓の強靭《きょうじん》さも欠かせない適性なのかもしれない。
5
「サインしてください。ネットで一票いれました」
下北沢の街を歩いていると、ゆいかは若い男性にときどき声をかけられるようになった。二百万部の発行部数を誇る青年コミック誌の威力はすごかったのである。撮影からひと月後に発表された制服美少女コンテストの結果は、準グランプリだった。
優勝はお約束どおり大手プロダクションが全力で売りだし中の生島よしのだったが、ゆいかは僅差《きんさ》の第二位で、読者からの投票では新進アイドルをうわまわっていたのである。黒ずくめの制作は余裕の笑いを浮かべて、ゆいかに結果を知らせた。
「よしのちゃんのマネージャー、くやしそうだったよ。アイドル評論家だとか編集部の票がなければ、ぽっと出の新人にグランプリさらわれるところだったから」
耳打ちされたのは、いつもの稽古場スタジオDNである。秋の新作のための稽古の時期にはいっているのだが、いつものようにあくたがわ翼の台本は影も形も見えなかった。
「それでね、あちこちのモデルプロダクションがゆいかちゃんのことを、わたしに問いあわせてきてるの。どうする? どこかに面接にいってみる。ゆいかちゃんなら、すぐに事務所にはいれると思うんだけど」
ひと袋三十円のモヤシでくいつないでいる貧乏女子大生と、一流芸能プロダクション。落差がひどすぎて、とても自分のこととは思えなかった。
「亜希子さんはどうしたらいいと思いますか」
「わたしとしては、ゆいかちゃんにいつまでも下北サンデーズにいてもらいたいよ。もちろん芸プロに籍をおいても芝居は続けられるけど、やっぱり制約も多くなるし、今までみたいに全力で舞台にかけるというのはむずかしくなると思う。売りの戦略は先方の判断だからね、役柄によってはダメだしがあるかもしれない」
ゆいかは広い板張りのフロアに散った劇団員を見つめていた。舞台の大成功が連続しているのに、これまでになくまとまりがなかった。全員バラバラに散って、気だるそうにストレッチと筋トレをこなしている。会話はほとんどといっていいほどない。
「わかりました。じゃあ、わたしはしばらく様子を見ます。舞台はがんばりたいけど、別にグラビアアイドルになりたいわけじゃないですから」
亜希子が屈伸運動をするゆいかの頭をなでた。稽古場の対角線の遠くから、伊達千恵美が冷たい視線を送ってくる。制作がにっこりと笑って、看板女優に手を振った。座長をめぐる女同士の嫉妬が火花を散らしたようだ。ゆいかは首をすくめて、柔軟に集中した。亜希子は安心したようにいった。
「でも、よかった。プロダクションの話はにぎり潰すわけにもいかないし、ゆいかちゃんにサンデーズをでていかれたら、どうしようか心配してたんだ。今のうちの劇団の売りは翼の脚本と新ヒロインゆいかちゃんの存在、それにサンボさんのキャラだから。まあ、サンボさんはいつまでもつかわからないけどね。仮に事務所にするとしても、ゆいかちゃん抜きだと対マスコミ的には戦力は半減だから」
各自の準備運動が終わると、誰もやることがなくなってしまった。まだ公演までは四週間ほどある。稽古は始まったばかりだった。あくたがわ翼もいないし、脚本もできていない。
エチュードをやろうといいだす者もいなかった。
サンボ現は鏡のまえに寝そべって、携帯メールのやりとりに熱中していた。一度ナンバーロックを破られてから、三重に数字の鍵をかけているという。このまえまで、サンボとつきあっていた寺島玲子はパイプ椅子に座り、小説を読んでいた。最近はテレビの深夜帯やAVの台本だけでなく、書評も書いているらしい。
姿の見えない伊達千恵美はロッカールームの鏡のまえで、ネイルケアに熱中していたし、ジョー大杉はホストクラブの客との店外デートのため早々に帰っていた。オーディションに合格したキャンディ吉田は、ドラマのロケのため最初から稽古場に顔を見せてはいない。
そうなると残るのはゆいかと二枚目の八神誠一だけだった。八神はひとりだけ汗をかくほどのストレッチで、自分の身体をいじめていた。ゆいかは八神のそばにいき、ちいさく声をかけた。
「なんだかうちの劇団バラバラになったみたいですね」
八神は床にマットレスを敷き、ヨガの駱駝《らくだ》のポーズをとっていた。ゆっくりと腹式呼吸を続けながらいう。
「うん、どうしちゃったのかな。下北サンデーズは結成十一年になるけど、こんなに空気が悪くなったのは初めてかもしれない。売れなかったころは、もっとあったかな雰囲気だったんだけどね」
「わたしがはいってきたのが、いけなかったんでしょうか」
八神は上品に笑って、ゆいかを見た。無印良品のジャージが高級ブランドのデザイナーもののようだ。きっと身体のバランスがいいからだろう。
「そんなことは考えなくてもいいよ。みんないきなりやってきた成功にとまどっているんだ。今までのやりかたでいいのか、不安になってるのかもしれない」
どこかの劇団の女優にメールを打っているサンボ現を見ると、とても不安そうには見えなかった。それとも大人には、自分とは違う不安の表現方法があるのだろうか。
「わたしもミニミニでやってるころのほうが、たのしかったです」
八神は救われたような顔をした。
「ぼくもだよ。そういう意味では江本さんの事務所化路線、ぼくは反対なんだ。うちの劇団のアットホームな感じが、株式会社になっても同じままとは思えないから」
「じゃあ、八神さんはどうしたらいいと思いますか」
いい家に生まれたハンサムな青年は、屈託なく笑ってみせた。
「そうだなあ、もう一度自分たちが好きなようにお芝居をやったらいいと思う。売れる売れないとか、動員とか事務所とか関係なくね。だって、そこから下北サンデーズは始まったんだから」
劇団の仕事は、人の心を動かすいい芝居を打つことだけなのだ。ゆいかは自分が考えすぎていたのではないかと、すこし反省した。
「ねえ、ゆいかちゃん、雰囲気を変えるために、ぼくは手を打ってみるから、手伝ってもらえないかな。ちょっと耳を貸して」
ゆいかは八神の甘い声をうなずきながらきいた。
翌日稽古場にあらわれたゆいかの手には、東急ハンズのおおきなショッピングバッグがさがっていた。誰よりもはやく更衣室にいき、ロッカーのなかに紙袋を隠してしまう。わくわくしてたまらなかった。
八神と翼をのぞく全員が午後遅くには集合している。いつものストレッチと筋トレが始まった。その日八神がやってきたのは、定刻に一時間半遅れである。いつも時間どおりに顔をだす二枚目にしてはめずらしいことだった。
霜降りのジャージの胸におおきな白い箱を抱えて、八神は稽古場の中央でゆいかに目配せした。ゆいかはロッカーから紙袋をもってきて、中身を全員に配った。金箔銀箔の三角帽子とクラッカー、チョビヒゲや黒ぶち眼鏡などおなじみのパーティグッズである。みんながざわざわし始めると、八神がよくとおる声でいった。
「翼さんはいつくるのかわからないから、先に始めよう。えーと、先週はキャンディ吉田さんの二十代最後の誕生日でした、そして今日はジョー大杉さんの三十五回目の誕生日です。台本もまだできていないので、盛大にお祝いでもしましょう」
八神は床に白い箱をおいて、ふたを開けた。なかには三階建で、高さ四十センチはあるケーキがはいっていた。イチゴとキウイとパイナップル。純白のホイップクリームのうえには、カラフルにフルーツが散っている。ケーキを見て手をたたいたのは、ゆいかだけだった。
「八神さんて、お菓子づくりも上手なんですね」
自分でも台詞が浮いているのがわかった。周囲の反応が至って薄いのだ。ほとんどの劇団員はやれやれといった顔で、粗大ゴミでも眺めるように稽古場にいきなりあらわれたケーキを見ている。ゆいかは金の帽子をかぶって、紙皿にとり分けたケーキを配っていった。
みな、ぼそぼそと口数すくなくケーキをたべていた。伊達千恵美がいう。
「わたし、ダイエットで乳脂肪分は控えてるのよね。八神くんのケーキ、トッピングだけいただくわ」
肝心の主役のジョーが紙皿を床においた。
「ありがとうな、八神。おれ甘いのダメだから」
八神が劇団に一体感をとりもどすためにおこなったお誕生会作戦は見事に裏目にでてしまった。だいたい三十すぎの男の誕生日をケーキで祝うというのが、間違っていたのかもしれない。それでも八神はめげていなかった。
「今度から、月ごとにサプライズパーティをやろうよ。来月は玲子さんの誕生日もあるし」
玲子の顔に影がさした。手を振っていう。
「わたしのときはいいからね、八神くん。女は三十を超したら、誕生日なんてうれしくもないの。そっとひとりで十分」
冷戦状態のサンボ現がぼそりといった。
「玲子のいうとおり。そんなもの、めでたくなんてぜんぜんないんだよ」
キッとサンボをにらみつけたが、玲子はなにもいわなかった。ゆいかはピエロのような帽子をかぶり、うつむいてケーキを突いていた。八神がほとんど徹夜でつくったバースデイケーキである。それがこんなふうに冷たくあしらわれるなんて。涙を落とさないようにするのが精いっぱいだった。
だが、とうの八神はめげていないようだった。
「お代わりはいりませんか。みなさん、晩ごはんの代わりにテイクアウトできますよ」
にこにこして、自作のケーキを頬ばっていく。半分ほどは八神がたべたようなものだった。ゆいかも助太刀しようとしたのだが、とてもではないが気分が沈んで、ふた皿目のケーキをたべる元気がなかったのである。
「よう、待たせたな」
声を張りあげて、稽古場にはいってきたのは、あくたがわ翼だった。伊達千恵美が明るい表情を読んでいった。
「あら、翼、もう書けちゃったの」
「まだ。ここのなかにあるだけ。でも、もう書けたも同然だ」
脚本家というのは、こんなにも気分のハイとローの差が激しいものだろうか。ゆいかはびっくりして、やたらと元気な座長を眺めていた。すると翼がゆいかのまえにやってきて、しゃがみこんだ。右手をだす。
「握手」
「えっ? 握手?」
ゆいかはケーキののった紙皿をおいて、あくたがわ翼の手をにぎった。その手はやわらかくて熱かった。この人が橋田戯曲賞なんて、ほんとうなのだろうか。橋田賞は演劇界の芥川・直木賞である。この賞を獲《と》れば、新作の注文が殺到するのだ。翼はゆいかの頭をくしゃくしゃになでるといった。
「また、おまえのお手柄だ。おーい、みんな、集まってくれ」
座長の翼を中心に全員が輪になった。小柄な座長は箱馬に座って語りだす。
「まずいっておくが、今度のザ・マンパイの前売りはこれまでで最高だ。どうしたって、観客席は満杯になる。まあ、前回の駅横劇場での黒字があるから、金には困っていないんだ。みんなには二公演連続して、ギャラが払えることになるはずだ」
「ヤッホー、おれたちほんものの演劇人らしくなってきたじゃないか」
サンボ現が叫んだ。まあまあといって、翼が手で抑える。
「だが、いくらなんでも傑作を三本は続けられない。とくにこのまえの『セックス・オン・サンデー』は、自分でもなぜあんなのが書けたのか不思議なくらいいい出来だった。やっぱりおふくろが助けてくれたのかもしれない。だから、今度の芝居をどうしようか、おれはずいぶん悩んでいた」
それはそうだろう。今や下北サンデーズはジェットコースターのような勢いで、下北劇場すごろくを駆けあがる人気絶頂の劇団である。ヘルプや入団希望者を断るのがたいへんなほどだった。
「そんなある日、おれは寝そべって週刊コミックビートを読んでいた。おれ、あそこに連載してる『給食刑事』好きなんだよ。名探偵が栄養士ってギャグマンガな。すると、グラビアを開いたら……」
ゆいかはその場で消えてなくなりたくなった。座長もあのスクール水着を見たのだ。
「わが劇団のホープ、里中ゆいかがのっていた。しかも紺の競泳用スイムウエアで。そのうえだ、根まわしもなにもなく、制服美少女コンテストで準グランプリをとったという。山岸ミーナ、川井園香、曽根アイラ。あのコンテストは準のほうが売れるっていうジンクスがあるそうだ。みんな、拍手」
ぱらぱらと熱のない拍手が続いた。どういう話の展開なのか、誰も理解していないようだった。翼は自分のなかの世界に飛んでしまっている。こういうときには、黙ってきいているしかないのだった。
「そこで、おれは考えた。シリアスな台詞劇では『セックス』を超えられないだろう。だが、ザ・マンパイは舞台も広いし、キャパもでかい。文学性で勝負できなきゃ、芝居にはなにが残る? はい、玲子」
中学校の教師のように右手で寺島玲子を指してみせた。頭のよさでは劇団一の本も書ける女優である。
「そうですね、見世物としての力」
翼は芝居がかって手をたたいた。
「さすがにうちの脚本部長。いい芝居が書けないなら、いいショーを観せればいいんだ。そこで、おれたちはザ・マンパイの舞台にでかいプールをつくることになった。新作のタイトルは『サイタマ・スイマーズ』。埼玉にある市民スイミングクラブのお話だ。今回は全員に競泳水着を着てもらうぞ。全員でシンクロの場面もあるから、そこんとこ、よろしく」
ロックンローラーのような挨拶を翼が決めると、稽古場は騒然となった。伊達千恵美がダイエットしなきゃと叫び、サンボ現はそういうの大好きとわめき、寺島玲子は十年以上水着を着ていないと嘆いた。冷静だったのは、制作の江本亜希子である。さっそく手帳をとりだしてきいた。
「舞台につくるプールのサイズは」
うーんと首をひねって、翼はいった。
「そうだな、四メートル×八メートルくらいかな。深さは五十センチもあればいい。シンクロは足をついたままだから。あと雨のなかの練習シーンもつくりたいから、プールに雨降らせてくれ」
きゃー、カッコいいとキャンディ吉田が身もだえしていた。意外なことにスタイルがいいのがこの大型女優のセールスポイントなのだ。反対にゆいかの心境は複雑だった。悪のりして撮影したあのスクール水着の一枚が、こんな結果を生むなんて。今度は手を伸ばせば届きそうな小劇場のステージで、三百人の観客をまえにして、あの格好をしなければならないのだ。なんだか気が遠くなりそうだった。
いいたいだけいうとあくたがわ翼は箱馬から立ちあがった。
「じゃあ、おれは今日一日分は十分に働いたから。ちょっと遊びにいってくる」
なんだよ、それーと劇団員から声がかかったけれど、躁《そう》状態の座長をとめることはできなかった。ふらふらと廊下にでていき、重い防火扉を閉めてしまった。伊達千恵美がいった。
「きっと今夜も六本木のキャバクラよ。スマイル・プロジェクトのつけでいくらのんでもいいんだって、先週えばっていたから」
ゆいかは一本釣りで悪評の高いそのプロダクションを思いだした。自分は絶対にスマイルなんかにはいらない。心に固く誓って、ゆいかは途中だったストレッチングにもどった。
6
小劇団の世界は、芸能界とあまり変わらない。
ゆいかはだんだんとその事実に気づき始めていた。もちろんアートなのだから、芸術性は大切である。だが、それよりも人気と動員はもっと重要だ。観客がはいらなければ、つぎの公演が打てないのだから、あたりまえである。
見栄と欲望にまみれている点でも、芸能界をひとまわりコンパクトにしたようだった。みな見栄っ張りで、色事好きが多いのである。サンボ現とキャンディ吉田は、連続ドラマでアクセントをつける重要な脇役を張っていた。まださして収入は増えていないのに、ふたりとも高級ブランドを買いあさり、誰かれなく近づいてくる人間にはいくらでもご馳走《ちそう》するのだった。
ふたりが有名になると、劇団のなかでの力関係も変わっていった。シリアスな芝居をする美男美女、伊達千恵美と八神誠一のポジションがさがり、コミックリリーフの三枚目、サンボとキャンディが重くなったのである。
ゆいかはあい変わらずだったが、おたがいの空気を察するのに鋭敏な劇団員のあいだでは、ひそかに序列争いが起きているようだった。こうなっては、チームワークも相手との息もなかった。しかも、あくたがわ翼の台本は最初のアイディアをきいてから十日間まったく進展もなかったのである。
伊達千恵美によると、いいアイディアが浮かんだのをいいことに、気がゆるんで毎晩のみ歩いているらしい。それについては、ゆいかも同情しないわけではなかった。二、三カ月に一度、前回をうわまわる作品を仕あげなければいけない。しかも、回を追うごとに基準は切りあげられ、観客の目も厳しくなっていくのだ。考えただけでも、恐ろしいほどのプレッシャーがあることだろう。
台本が完成するまでは、稽古場の劇団員にできることはなかった。せいぜい体調を整えて待つばかりである。だが、ここでも下北サンデーズは危機に直面していた。ドラマの収録でいそがしいサンボとキャンディは休み勝《が》ちで、今回の主役はゆいかだと思っている伊達千恵美はやる気がないようだった。寺島玲子は失恋の痛手から立ち直っていないし、ジョー大杉はホストの仕事にばかり熱心だった。
ここでも残ったのは、八神誠一とゆいかである。一日に数万円も払って借りている広い稽古場に、ふたりきりの日もあったのだ。いつもの準備運動をすませると八神がいった。
「もうやることはなくなったね。リラックスの練習でもしようか」
床にマットレスを広げて寝転んだ。天井は無数のダウンライトで光りの穴が開いている。
八神の声はゆいかの頭上からきこえた。きっとゆいかと対称形になっているのだろう。
「これをやると眠くなるなあ」
全身の筋肉にひとつずつ意識を集中して、脱力させていくのだ。うまくできると身体を結びあわせている組織がすべてほぐれて、あたたかな羊水のなかで浮かんでいるような気分になる。ゆいかは左足の指先から、リラックスさせ始めた。
「ゆいかちゃん、きいてる?」
八神の声は迷子の子どものように不安そうだった。
「はい」
「このまえ、今のサンデーズは最低だっていったよね。でも、あれからさらにひどくなった気がする。最低よりももっと最低だ。もう、みんな自分のことしか考えなくなってしまった」
ゆいかは黙ってきいているしかなかった。劇団がバラバラになって、淋しいのはいっしょである。
「みんな、ぼくのことを欲がないっていうよね」
ゆいかがキリストを主役に映画を撮るなら、キリスト役はきっと八神にするだろう。自分でも欲はないほうだと思うけれど、八神の欲望はさらに薄かった。植物的というよりも、日陰の石についたコケのように淡白なのだ。
「ぼくの家は確かに裕福だった。代々お寺をやっていてね。うちの祖父も親父も決して、土地は手放さなかった。代田《だいた》、北沢、代沢《だいざわ》にかけて、今でもたくさんの地所をもっている。働かなくても、楽に遊んで暮らせるんだ」
東京の高級住宅街に、そんなに広い土地をもっているなら、天文学的な金もちなのだろう。
「でも、この話はないしょだよ。下北沢の劇場をすべてもっている松多グループの松多さんとうちの親父は、いくつか共同で事業を展開している。だから、子どものころからの顔なじみなんだ。でもね、働かずにバカみたいに巨額の金をもつと、人間って腐るんだ。うちの家庭はたいへんだった」
ゆいかは自分の両親のことを思いだしていた。大学教授の父は制服美少女コンテストにかんかんだったらしいが、同じく教授の母は応援してくれていた。それほど豊かではないが、あたたかな家庭だったと、東京に離れた今は思う。
「四人の愛人にそれぞれ子どもを生ませてね。ぼくはちいさなころ名前も知らない兄弟とよく遊ばされたんだ。みんなにいじわるされたよ。ぼくが本妻の長男だから。いじわるをしない子は、逆に歓心を買おうとすり寄ってきた。子ども心でも傷ついたよ。だって、こいつといれば得だって顔をした子と、仲のいい振りをして遊ばなきゃいけないんだよ」
ダウンライトがまぶしかった。目を閉じると、なぜか淋しげに微笑む誠一少年が浮かんでくる。ゆいかは小学生の男の子を抱き締めてやりたくなった。
「大学生のときに翼さんに出会って、この劇団にいれてもらった。すごくうれしかったなあ。だって、ここでは誰もぼくが誰であるかなんて気にしない。家族みたいに仲がいいし、おたがいに遠慮なんてしないんだ。みんな、すこしでも演技がうまくなりたくて必死なんだよ。誰もがお芝居の神様のほうをまっすぐに見あげているだけなんだ。あのころはそう思った」
どんなに見栄っ張りで、下半身がだらしなくても、劇団員が憎めないのは、そこのところなのだろうか。ゆいかは愛すべき先輩たちを思い浮かべた。誰もが自分のなかに信じているものをもっている。それは普通の大学生や会社員には、なかなか見つけられない清々《すがすが》しさだった。ゆいかは思い切っていった。
「そんな八神さんには、今の下北サンデーズはどうですか」
「つらくなったなあ。今のサンデーズは、まるで別ものになった。このまま成功して、ちょっとばかり有名になって、お金がはいってくれば、それでみんな満足なのかなあ」
かたりとロッカールームのほうから音がした。ジョー大杉が顔をのぞかせる。
「盗みぎきしようと思ったわけじゃないよ。なんだか、いい雰囲気だったから、じゃましないほうがいいかなと思ってな。でもさ、八神」
「うん、なに」
二枚目は首だけ起こして返事をした。宇宙飛行士のような銀色のジャージを着たジョー大杉が板張りのフロアを近づいてきて、あぐらをかいた。
「みんながおまえみたいに恵まれているわけじゃないんだ。おまえは親の金がいつかはいってくるから、そうやってのんびりしていられる。でも、サンボやおれは三十をすぎて、もう俳優以外の仕事はできなくなってる。まともな働き口なんてないんだよ」
ジョー大杉は金髪のリーゼントをぐしゃぐしゃにかき乱した。
「おれを見ろ。このまま中年ホストになるのが関の山だ。たいして売れるような手ごたえもないしな。確かに八神から見たら、バラバラかもしれない。でも、一回きりのいい夢なんだ。頼むから、もうすこしこの夢見させてくれよ。お願いだ……」
ジョー大杉がなにかいいにくそうにしていた。ゆいかもマットレスのうえに起きあがった。真剣な顔で新宿のホストはいう。
「八神、辞めるなよ、サンデーズ」
ゆいかは胸が痛くなった。誰ひとり欠けても、下北サンデーズに今かかっている魔法は解けてしまうだろう。芝居はアンサンブルで、芝居は空気だった。ほんのわずかな変化が致命的にものをつくる環境を壊してしまうことがいくらでもある。
「八神さん、辞めないでください」
二枚目は返事をしなかった。にこにこと微笑みながら立ちあがると、マットレスを片づける。
「うちの子にエサをやりに帰らなきゃ」
ゆいかはしびれた心のまま、稽古場をでていく八神の背中を見送った。
7
台本があがったのは『セックス・オン・サンデー』よりもだいぶ早かった。きっちり二週間まえである。今回はコミカルなシンクロ場面のために練習時間が必要だったので、翌日からやはり立ち稽古にはいっている。
だが、ここでもメンバー全員がそろうことはなかなかむずかしかった。キャンディとサンボはテレビ、ゆいかは大学でいそがしかったからである。たまに全員がそろっても、なぜか舞台直前の緊張感はなかった。
それには脚本のつくりが関係していたのかもしれない。今回はウエルメイドのコメディではなく、間と動きで笑わせるギャグが中心だった。それなら十年以上ともに舞台を踏んで、相手の動きも自分の受けも身体に染みついている劇団員には困難なことはなかった。まじめに練習したのは、専門のコーチを呼んで振りつけてもらったシンクロの場面くらいである。
稽古の最中でも、それぞれの斑員の都合でばらばらとメンバーが欠けていった。そういうときにはこれまでとは違って、すべての台詞を頭にいれたヘルプの俳優がいなくなった役を引き継ぐのだった。一円も収入にならないのに、すべての台詞を頭にいれて稽古場に控えるスタンドインがいくらでもいたのだ。下北サンデーズは、すでにこの街の人気劇団である。
『サイタマ・スイマーズ』の稽古はさして盛りあがりもせずに、淡々と進行した。いいギャグが決まれば、端に控えたヘルプがおおげさに手を打って笑ってくれた。和気あいあいとした雰囲気のなか、目に見えて暗くなっていったのは八神誠一だった。
稽古中に抜けてしまうのは劇団員だけでなく、座長のあくたがわ翼も同じだった。軽くダメだしだけすると、あとはテレビの打ちあわせや夜ののみ会にでていってしまう。何度目かの職場放棄に伊達千恵美が叫んだ。ちょうど初日まで一週間を切った夜である。
「もうやってられないよ。翼、そんなにスマイル・プロにいきたきゃ、わたしたちを捨てていけばいいじゃない。六本木の若い女と遊ぶくらいなら、ほかにやることあるでしょ。あなたが帰るなら、わたしも帰る」
座長と看板女優がにらみあっていた。ジョー大杉が頭に巻いたタオルを解いていった。
「それなら、おれも帰るわ。だいたいサンボもキャンディもいないうえに千恵美が抜けたんじゃ話にならない。もう今日は稽古する空気じゃないよ」
翼は手をたたいて叫んだ。
「今夜はキャバクラじゃない。演劇界で力のある人とののみ会だ。そういうのが狭い芝居の世界でどれくらい大切か、千恵美もわかってるだろ。冬の演劇祭の誘いを受けてるんだよ。わかった、今日はもう解散。ただし、明日からは本気で締めていくぞ。全員に必ず集合するように伝えといてくれ」
ゆいかは心配になって八神を見つめていた。翼と千恵美がいい争っている横で、八神の身体からなにか透明なものが流れだしていくようだった。ひとまわり背が縮んだように見える。ゆいかはかける言葉をなくして、帰り支度をする八神を目で追うだけだった。
翌日の昼すぎには、八神をのぞく全員がスタジオDNに集合していた。翼は気合のはいっているときに着るアディダスの黒いジャージに着替えていた。
「めずらしいな、誠一が遅刻するなんて。おい、亜希子、ちょっと電話してみてくれ」
制作は携帯電話をかけたが、通話を切っていう。
「おかしいな。呼びだしてるんだけど、八神くん、まったくでないんです」
「どうなってんだ。急に風邪でも引いて倒れたのかな。じゃあ、稽古始めよう。誰か、誠一の代役やってくれ。亜希子は三十分おきにあいつに電話をいれること。シンクロの振りAヴァージョンいくぞ」
床に張られた黒いビニールテープがプールの代わりだった。そこに七人全員がはいって、ひざ立ちでシンクロをするのだ。全部で三回あるシンクロの場面で、Aは息のあわないバラバラの動きで笑いを誘う回だった。『サイタマ・スイマーズ』はシンクロ版の『がんばれー・ベアーズ』なのだ。実際に水のはいったプールで練習ができるのは、初日のゲネプロが最初になるだろう。
この日の稽古は、久々に充実したものになった。三十分ごとに八神に電話をかけた亜希子だけがおかしな顔をするなか、稽古を終えたサンデーズはいつものように下北択一安い居酒屋、ひまわり水産に発泡酒の祝杯をあげにいっている。
店をでたのは、またも真夜中近くだった。みんなといっしょに騒いでいるときは忘れていた不安が、明かりの落ちた下北沢の路地でふくれあがった。亜希子にきいてみる。
「もうどれくらい八神さんに電話してますか」
亜希子はまた携帯を開いたところだった。ゆいかと同じように、どこか嫌な気分のようだ。
「えーっと、もう十二回もかけてるよ。八神くん、どうしたのかなあ」
道にでている赤いパイロンを蹴飛ばして、なにか叫んでいるサンボ現のところにいった。倒れたパイロンを立ててきいてみる。
「あの、八神さんの部屋って、どこにあるんですか」
「ようスクール水着クイーン。やっぱりあれが似あうの、ゆいかしかいないよな」
酒くさいサンボ現を避けて、ゆいかは路上に座りこんだジョー大杉にいった。
「ジョーさん、八神さんの部屋なんだけど」
さすがにホストクラブで毎晩鍛えた男である。まったく酔った素振りを見せずに立ちあがると、ジョーはジーンズの尻をはたいた。
「あいつのところは羽根木《はねぎ》公園の近くだから、東松原だな。歩いて二、三十分かかるぞ。いってみるか、ゆいか」
ゆいかは思い切りうなずいた。それをきいていた亜希子がいう。
「わたしも心配だから、いっしょにいく」
サンボ現が叫んだ。
「そんなら酔い醒ましに、おれもいっしょにいく。八神をたたき起こして、もう一軒のみにいこう。おれ、三宿《みしゅく》にタレントの卵がたくさんいるクラブ見つけちゃったんだよね」
玲子が冷たくいった。
「バカじゃないの。さあ、ゆいかちゃん、いこう」
先に帰った座長と千恵美をのぞく下北サンデーズの全員がぞろぞろと南口の商店街を歩き始めた。屋根のうえに突撃銃をもってGIが立っている古着屋。二十四時間営業の消費者金融の自動契約機。足元には小劇団のフライヤーが根雪《ねゆき》のようにたまっている。
ゆいかが空を見あげると胸が苦しくなるほど細い月が、かすれて空にさがっていた。妙に赤い月が気味悪かった。
エンジ色のタイル張りのマンションは築三十年はゆうに超えているようだった。細い通りをはさんで、フェンスのむこうには羽根木公園の緑が黒々と沈んでいる。サンボ現が叫んだ。
「おーい、八神、起きろー。タレントの卵で、ウハウハだぞー」
玲子は容赦なく後頭部を平手で張った。ジョー大杉がいう。
「確か二階の角部屋だったと思う」
下北サンデーズの六人は足音を殺して、外階段をあがった。このマンションにはオートロックもエレベーターもないのだ。ゆいかはこのまえの話で、さぞ八神が裕福な生活を送っているのだろうと想像していたので、すこし意外だった。
雨染みのついたコンクリートの廊下をいく。二階の角部屋の明かりは消えていた。亜希子が携帯電話を開いていった。
「ちょっと待って。いるかどうか、確かめてみるから」
八神の番号を呼びだす。確かに室内から、携帯の着信メロディが流れていた。気のやさしい八神らしい選曲である。ジョン・レノンの「イマジン」だ。こつこつとジョーが、金属の冷たい扉をノックした。
「おい、八神、いるのか。もう寝てるのか」
ジョーがドアノブをまわした。神経を逆なでする金属のきしみが響き、ドアはゆっくりと開いた。玄関のなかは真っ暗である。キャンディ吉田が震えていた。
「なんだか、おかしいよ」
ホストの声が急に真剣になる。
「あがるぞ、八神」
ジョーとサンボが先に部屋にはいった。続いてゆいかと玲子がスニーカーを脱ぐ。ちょうど奥の部屋で、誰かがスイッチをいれたところだった。ちかちかと蛍光灯が点滅して、床になにか白いものが伸びているのが見えた。
「八神」
サンボ現が叫んでいた。八神はワンルームマンションの壁際で、身体をくの字に曲げて横たわっていた。倒れた身体にすり寄るように二羽のうさぎが震えている。ゆいかは八神のきれいな手の先に破れた紙風船のようにしわくちゃになったクスリの袋を発見した。どこかの心療内科の名前が印刷されている。
サンボ現が八神に飛びついて、無印のジャージの胸を開いた。あわてて耳をあてる。
「まだ動いてる。死ぬなー、八神」
「八神くん、死んだらダメ」
キャンディ吉田も理性を失った声で叫んでいる。亜希子はすでに救急車を呼んでいた。サンボとジョーは倒れた八神のうえに馬のりになって、心臓マッサージを開始した。すべてが青い蛍光灯の光りのしたで、あからさまに見えてしまうのが、ゆいかには不思議でたまらなかった。
自分の涙がなぜ、頬を滑り落ちていくのか。それさえもわからなかった。ただ熱いものがいく筋か流れ落ちて、ジャージの胸を濡らしている。誰かが吐くような声を立てて、泣いていた。悲しくてたまらないようだ。それが自分の泣き声であると気づいたとき、遠くから救急車のサイレンが途切れがちに響いてきた。
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第4章 復活! サイタマ・スイマーズ
1
八神誠一の意識がもどったのは、明けがたのことだった。
その時点で、下北サンデーズの全員が顔をそろえていた。病院の救急治療室のまえに延びる狭い廊下である。劇団員の酔いはすっかり醒めて、青ざめた素顔にもどっている。
「誠一、誠一」
カーテンで仕切られたベッドのほうから、八神の母親の必死の声がきこえてきた。あくたがわ翼がベンチに座り、タイルの床に吐き捨てるようにいった。
「いくら劇団がばらばらだからって、なにも死ぬことはないじゃないか」
看板女優の伊達千恵美が翼から目をそらしていう。
「ばらばらの原因のひとつは自分でしょ。芝居の稽古も放りだし、先生きどりで毎晩遊び歩いて」
誰もが黙りこんでしまった。座長は公演を間近に控えても、芸能プロダクションのおごりで六本木に繰りだすことが多かった。寺島玲子も怒って口を開いた。
「サンボだって、サンデーズのことを忘れて、まるでタレント気どりだったよね」
CFの成功に続いて、連続ドラマの脇役であたりをとった三枚目、サンボ現が病院の白い壁をこぶしでなぐりつけた。
「それがどうした。うちの劇団にもプラスの効果はあったじゃないか。客も増えたし。誰かが先頭を切らなきゃならないんだ。それと八神のことは別だろう」
あくたがわ翼もぼそりという。
「おれだって、半分は仕事だ。この世界じゃ夜ののみ会で、大事なことが決まっていくのは、千恵美だってわかってるはずだ」
看板女優は刺すような目で同棲中の男を見た。
「それでいつも朝帰りというわけね。立派な仕事だこと。香水のにおいをぶんぶんさせちゃって」
座長が短く吠えた。
「なんだって」
ゆいかはその場にいたたまれなかった。怒りを押し殺していう。
「やめてください……」
普通ではない声の調子に、誰もがジャージ姿のゆいかを振りむいた。
「……八神さんがたいへんなときに、仲間割れなんてやめてください。八神さんにとって、うちの劇団は家族みたいなものだったんです。翼さんの脚本とお芝居が、生きる目的だった。それなのに、どうしてみんな、こんなふうになっちゃったんですか」
こたえる者はいなかった。病室のカーテンがふわりと動いて、やせ細った中年の女性がやってきた。厳しい顔で廊下の劇団員をにらみつける。
「あなたがたですか、下北サンデーズとかいうのは。うちの誠一を返してください。あの子は芝居なんかやるような浮ついた子じゃなかった。ちゃんと八神の家を継ぐはずだったのに」
怒りと自殺未遂のショックで、枯れ枝のような身体が震えていた。父親は影も形も見えなかった。どうやら連絡がつかなかったらしい。ゆいかは目を伏せながら、八神が話した複数の愛人のことを思いだしていた。母親は冷たい顔で横をむいた。
「誠一の目が覚めました。あなたがたのことを呼んでいます」
寒々とした空気が変わった。合図でもしたかのように、全員が同時に動きだす。こんなときの反応にも、長い劇団生活でのチームワークが生きているようだった。座長のあくたがわを先頭に、カーテンで仕切られたベッドがならぶ救急治療室に足早にはいっていく。
白いビニールのカーテンは世界を分けるシャツターのようだった。祭壇のようなベッドの中央には、シーツに負けないほど青ざめた八神誠一が首だけ起こしていた。左手には点滴のチューブがテープでとめられている。最初に口を開いたのは、自殺をはかった二枚目俳優だった。
「来週には新作なのに、すみません」
八神は力なく笑った。支えきれなくなったようだ。頭を枕にもどして、その場にいたメンバーを見わたした。
「サンデーズの全員がそろうなんて、まえの芝居のとき以来だなあ」
伊達千恵美が涙声でいった。
「なにいってるの。そんなことより、自分の身体のこと心配なさい。ちゃんと元気になって、下北サンデーズにもどってくるのよ」
八神は病室の天井をぼんやりと見あげている。
「ぼくのほうはだいじょうぶです。でも一日も早く元気になれというなら、絶対に『サイタマ・スイマーズ』、成功させてください」
この人にとっては劇団の芝居がなによりも大切なのだ。メジャーになることや俳優として成長することよりも、ずっと下北サンデーズのほうが大切なのだ。ゆいかは心を打たれたが、同時にそれほどまでにメンバーに献身を求める劇団の不思議を思った。翼が胸をたたいた。
「まかせとけ。明日からおまえの代役はおれがやる。久々の舞台だから、ちょっと緊張するけどな」
サンボがおどけていった。
「そうそう、この程度の事件じゃあ、芝居を休むわけにはいかないから。前売りのチケットはサンデーズの新記録だし。翼さんがいい演技をしたら、八神が帰ってくる場所なんかないかもしれないぞ」
何人かの笑い声が静かな救急治療室におずおずと響いた。ホスト顔のジョー大杉が純白のジャージの袖で涙をぬぐった。
「なにがあっても、芝居をとめるわけにはいかないもんな。役者はつらいな。ショー・マスト・ゴー・オンだ」
寺島玲子がベッドの足元でいった。
「わたし、今回のこと、いつか芝居に書くよ。そのときは八神くんが主役だから」
二枚目は青白い顔で二段重ねの枕のうえで笑っていた。
「それはストレートプレイですか、コメディですか」
脚本も書く女優はにこりともせずにサンボのほうを見ていう。
「半々かな。ギャグで受けをねらうようなやつじゃなくシリアスなコメディ」
力なくうなずくと、八神はゆいかに視線を移した。
「ゆいかちゃん、こんなことになってすまなかった。いっしょにがんばってくれたのに」
ゆいかは病室のベッドをかこむ下北サンデーズのメンバーを見わたした。その場にいる人物の空気を読むことは、演技を始めて最初に教えこまれた基礎である。明けがたの救急治療室に顔をそろえた八人は、期せずしてひとつになっていた。八神の緊急事態が一体感を生んでいたのだ。ゆいかは目のまえに未来が見えているかのようにいった。
「ううん。だいじょうぶ。きっと新作うまくいきます。それもこれもみんな八神さんのおかげですから」
自分でも気づかぬうちに涙がひとつ頬をこぼれた。舞台に立つようになってから、カミソリのように感受性が鋭くなっていた。なんだか自分が怖くなるほどである。制作の江本亜希子がいった。
「さあ、みんな、あまり長くなるといけないから、そろそろいきましょう」
「早く元気になって、サンデーズにもどってこい。稽古で思い切り、しごいてやる」
二枚目は天井をむいたまま、静かに涙を流していた。しゃくりあげる泣き声は、キャンデイ吉田のものである。
「……はい」
劇団員がカーテンを割って、病室をでていった。廊下のベンチには八神の母親が座っていた。急に呼びだされたはずなのに、シャネルスーツをぴしゃりと着こなしている。ゆいかたちに気づくと立ちあがり、ぎらぎらした目でにらみつけてきた。
「下北サンデーズって、あなたたちなの。遊びでお芝居なんかやってるから、いつまでたっても誠一は大人になれないの。あなたたちもちゃんと働いて、社会の役に立ってみなさい。いつまで遊び暮らしているつもりなの、ご両親が泣いてるわよ」
息子に似た整った顔立ちだが、怒りで目がつりあがっていた。この人に育てられるのは、きっとたいへんなことだろう。ゆいかは想像せずにはいられなかった。父親のいない家に、厳しい母とふたり残されるのだ。八神の内向的な一面はここから生まれたのではないか。あくたがわ翼が深々と頭をさげた。顔をあげるとまっすぐに母親を見ていった。
「今回のことはぼくの責任でもあります。もうしわけありませんでした。ですが、芝居は遊びではありませんし、誠一くんは才能のある役者です。世のなかにいる人がすべて役に立つ人間ばかりだったら、息がつまると思いませんか。芝居でも音楽でも小説でもいいけれど、一見無駄なものが人の暮らしを豊かにしている。役立たずで悪いけど、ここにいる劇団員は、その無駄に人生かけてるんです。失礼します」
座長のちいさな背中を見ながら、ゆいかは感激していた。さすがに脚本家の台詞は違う。普段は大酒をのんで、下ネタばかり口にしているくせに、ちゃんと決めるときには決めるのだ。編隊を組んだ飛行機のように八人のメンバーは、八神の母親のまえにくると一礼して、救急治療室の廊下を遠ざかっていった。
病院の外にでると、誰かれかまわずハイタッチを繰り返す。ジョー大杉が叫んだ。
「いやあ、翼さんの決め台詞カッコよかったよ。八神も死にそうにもないし、明けない夜がないっていうのは、ほんとだなあ」
夜明けの空気は冴えて、胸に痛いほど冷たかった。ビル街のうえの東の空は、透明なスクリーンになり、朝焼けを広げている。あくたがわ翼が制作の亜希子にいった。
「今日も稽古だよな。集合時間、何時だったっけ」
「お昼の十二時です」
翼は新しいスイス製の腕時計を見た。
「じゃあ、ここで解散だ。みんな、ちゃんと部屋にもどって眠るんだぞ。睡眠不足はのどによくないからな。昼からは、ばりばりしごくから、そこんとこよろしく」
伊達千恵美が腕組みをしていった。
「それより翼、八神くんの台詞、だいじょぶなの」
新作の舞台まで一週間を切っていた。ザ・マンパイは下北沢の劇場出世すごろくのうえから二番目だ。サンデーズには経験のないおおきさの箱である。翼は舌打ちしていった。
「台詞は自分で書いたからなんとかなると思う。それよりも久しぶりの舞台で、ちゃんと身体が動くかどうか心配だ。今回はシンクロの振りつけもあるからな」
「キャー、もっとウエスト絞らなくちゃ」
叫んだのはキャンディ吉田だった。今回の舞台では、ダイエットが女優陣全員の課題だった。まだ十八歳でたべ盛りのゆいかでさえ、炭水化物をいっさいとらない過酷なダイエットをしている。
「わかったから、じゃあ昼にな」
いっしょに暮らしている翼と千恵美が連れ立って帰ろうとしたところで、サンボ現が声を張った。
「ちょっと待った。今夜はほんとに長い夜だった。最後に八神の健康と新作の成功を祈って、久々にエールをやらないか」
ジョー大杉が即座にいった。
「いいねえ、いっちょうぶちかましますか」
八人の手が重ねられた。夜明けの街に響くのは、鍛えあげられた腹式呼吸の発声である。
「ゴーゴー、下北ーサンデーズ、エス・ユー・エヌ・ディー・エ――・ワイ・エス」
病院の駐車場を野良猫が飛んで逃げていった。新たな闘いを始めるために短い休息をとりに、劇団員はそれぞれの部屋に帰っていった。
2
下北サンデーズには、いい風が吹いているのだろうか。
ゆいかは不思議だった。正午から始まった稽古は、前日までとは見違えるように熱のはいったものになっていた。人気が過熱してメンバーのバラ売りが始まり、空中分解していく小劇団は下北沢だけでもいくらもあった。
サンデーズは八神の自殺未遂というショック療法で、結束力をとりもどしたのである。まさかそのために睡眠導入剤を大量にのんだというわけではないのだろう。だが思慮深い二枚目のすることが、ゆいかにはすべて理解できたとは思えなかった。
ビニールテープでスタジオDNの床に四角く枠取りされたのは、架空のスイミングプールである。そこにひざ立ちになって、劇団員はシンクロの振りつけを覚えた。『サイタマ・スイマーズ』は市営プールに設立されたシンクロナイズド・スイミングのクラブが、全国大会出場を果たすまでの集団劇である。
二十代なかばまで舞台に立っていたあくたがわ翼の動きには、意外なほどの切れがあった。八神のようにスタイルがいいわけではないから、勢いコミカルな味のある二枚目半の役どころに自然に変わっていく。同じ役と同じ台詞でも、演ずる人間によってこれほど印象が変わるのだ。身近に代役効果のおもしろさを見て、ゆいかはますます芝居が好きになった。
女優たちは最初のころこそ、稽古場の制服であるジャージ姿だったけれど、追いこみのとおし稽古にはいってからは誰がいいだしたわけではないが、身体の線がはっきりとわかるレオタードになった。舞台では市営プールのワッペンが胸に縫いつけられた競泳水着になるのだ。ザ・マンパイの観客席は三百以上ある。マチネーをふくめて一週間で九公演分のチケットは、わずかな関係者むけをのぞいて、すでに完売していた。三千人近い観客に水着姿をさらすのである。恥ずかしいなどという言葉は、新米のゆいかの頭のなかからさえ消えていた。
今回の舞台は音楽や振りつけといったショー的な要素と切れのある台詞の応酬がポイントだった。気もちだけが先行して、まだ技術の追いつかないゆいかには、これまででもっともチャレンジングな公演になった。ゆいか以外の下北サンデーズの劇団員はみな十年近く同じ釜のめしをくっている。おたがいのタイミングや芝居については、考えるまでもなく肉体が瞬間に対応するのだった。
だが、まだ加入して半年ほどのゆいかには、そこまでは望めなかった。ジョークたっぷりの台詞がぽんぽんと飛び交う場面で自分の台詞を放つのは、とおりすがりのジェットコースターに飛びのるようである。しかも、このコースターはコースだって定かではないのだ。サンボもジョーもキャンディも、ゆいかが困っているのを知っていて、わざと好き勝手なアドリブを投げつけてくる。
頭に記憶された書き言葉の台詞とその場で生まれる俳優の話し言葉。そのどちらにも対応できるように、反射神経を研ぎ澄ませておかなければならない。役者というのは頭が悪くてはとてもできない仕事だと、ゆいかはため息をついた。長時間にわたる稽古を終えて、なにが一番疲れるかといえば頭だったからである。脳がからからに乾いて、熱をもっている。それは受験勉強のときさえ経験のない過酷な頭脳労働だった。
ゆいかはひそかにダイエットの目標を設置していた。初日までに三キロの体重とウエスト三センチを削ること。炭水化物ダイエットは確かに効果的だが、これほど苦しいとは思わなかった。米、パスタ、パン、そば、うどん。すべてがダメなのだ。野菜やフルーツ、肉や魚はいくらたべてもいいと本には書いてあったが、どんなステーキや刺身よりも、たったひとつの塩むすびのほうが、強烈な吸引力をもつのだった。白いごはんの夢を見るというのは、戦時中の手記で読んだことはあるけれど、自分で体験したのは初めてだった。
初演を三日後に控えた午後、下北サンデーズのメンバーは、八神誠一が入院している病院に集合した。さすがに八神の実家は大金もちで、南むきの個室がおごられている。全員が病室にはいったのを確認して、ゆいかは赤いリボンのかかった箱を胸にかかげた。サンボ現がファンファーレの口真似をする。
「じゃじゃじゃじゃーん。八神、おまえの退院祝いをもってきたぞ。どうせ、まだしばらく酒はとめられてるんだろ。おまえの好きな手づくりケーキだ」
一体感をとりもどそうと八神が誕生日会を開いてから、まだ一カ月とたっていなかった。あのときは手づくりのケーキをほぼひとりでたべることになったのだが、今回は八人全員がベッドをかこんでいる。二枚目は頬を赤くしていった。
「大騒ぎになったのに、こんなことまでしてもらって、すみません。だけど、あのときはほんとにケーキ全部たべるの苦しかった」
ゆいかはサイドテーブルでケーキを紙皿にとりわけていた。伊達千恵美がいった。
「もうすぐ初日だから、ちょっとでいい」
「わたしも」
「わたしも」
寺島玲子とキャンディ吉田が続いた。みな、ダイエットに必死なのだ。ゆいかは薄く切ったせいで縦に立たないイチゴのショートケーキをまわした。久しぶりのケーキで、夢にまで見た小麦粉がたっぷりはいっているが、ゆいかも我慢した。やはり横倒しになった自分の分をとる。ジョー大杉がいった。
「おれ、甘いのダメだから、パスね」
八神がベッドで上半身を起こしていった。
「やっぱり、ぼくが半分以上はたべることになりそうですね。じゃあ、ひと口」
ケーキは同じぼろアパートに住む玲子とキャンディとゆいかがつくったものだった。甘さはだいぶ控えめにしてある。プラスチックのフォークで、ケーキをおおきく頬ばって、八神は笑った。
「うーん、正直ぼくがつくったやつのほうが出来がいいけど、これはこれでうまいな。でも、生クリームにヴァニラエキスいれてないでしょう。あと仕あげにフロストシュガーをさっと振るといいんですよ」
カフェやバーでのアルバイト歴が長い八神らしい台詞だった。あくたがわ翼が紙皿をもって立ったままいった。
「なあ、みんないい機会だから、きいてくれ。おれたちは確かに成功への階段をのぼりつつある」
「イエーイ」
口いっぱいにケーキを詰めて返事をしたのは、サンボ現である。
「だけど、未来はまだまだ遠い。おれたちはつぎの十年、二十年を考えて芝居をやっていかなければならない」
未来という言葉は、あれだけ演劇論の飛び交う下北沢でさえ禁句になっているも同然だった。小劇団では未来など誰にも予測はできなかったし、ほとんどの役者たちには華々しい活躍など期待されていなかった。誰もが視線をさげて、病室の空気が重くなった。翼はたべかけのケーキをおいて続けた。
「まあ、そんな立派なものは、おれにもよくわからないんだけどな。でも、すくなくともおれたちの成功はまだ最初の波がきただけだってことはわかる。業界全体が下北サンデーズを注目してるんだ。だから、今の時期がチャンスだ。おれと制作の亜希子で、いくつか芸能や演劇関係のプロダクションに水面下で接触している。今度の『サイタマ・スイマーズ』の公演が終わったら、真剣にみんなで考えてみてもらいたい」
伊達千恵美が厳しく翼をにらんだ。
「スマイル・プロとかの話でしょ。でも、ああいう芸プロって、一本釣りじゃない。本が書ける翼やCFにでたサンボはいいよ。あと、グラビアアイドルの候補生もね」
週刊コミックビートの制服美少女コンテストで準グランプリになってから、ゆいかにはちょこちょことグラビアの仕事がはいるようになっていた。マネージャー代わりに同行してくれるのは、座つき制作の江本亜希子である。横目でゆいかを見て、伊達千恵美はいった。
「でも、残りの大部分のメンバーはどうなるの。全員そろってのサンデーズでしょう。三人だけじゃ、芝居にならないと思うけど」
座長はちらりと亜希子のほうを見てうなずいた。
「スマイルは最初の段階で話があわなかった。うちの候補からは落ちてるさ」
「じゃあ、あんなに毎晩、誰とのみにいってたの」
女優といっても同棲相手の夜遊びには厳しいようである。
「だから、半分以上は仕事だっていってるだろう。おれと亜希子で探していたのは、一本釣りの事務所じゃなくて、うちの劇団をまるごと面倒見てくれるようなちゃんとした芸能プロダクションだ。まあその分、おれやサンボやゆいかの実いりは、すくなくなるかもしれないけどな」
ジョー大杉が声をあげた。
「えー、おれたちが俳優として、どこかの会社にマネージメントしてもらえるのか。ついにやったなあ」
苦節の十年をホストとして耐えてきたジョーの言葉には、しみじみとした感慨がこもっていた。うなずいて、座長がいった。
「今のところ、デライトと芸ユニが最終候補に残ってる」
サンボ現が口笛を吹いた。デライトは音楽と演劇を主軸にする芸能プロの大手である。配下には有名な歌手やモデルが多数いる。芸術演劇ユニオンは舞台のプロデュースでは長い歴史と実績を誇っていた。こちらの中心は、俳優と女優である。寺島玲子がいった。
「どっちも文句なしだな。ちゃんと芝居を続けていくなら芸ユニ、テレビや映画の展開も考えるならデライトかなあ。まあ、どっちにしても贅沢な悩みだけど」
「いいや、違う」
自信満々で断定したのは、あくたがわ翼である。
「今の下北サンデーズには、それだけの勢いがある。金にならないと踏んだら、むこうも声をかけてはこないさ。うちの劇団をより高く売るためにも、今度の新作がんばってくれ。あと、個人活動のほうも、思い切りぶっ飛ばしてもらってかまわない。千恵美のところにも客演依頼が山ほどきてるだろ。ばりばりやってみろよ」
「こうなると俄然やる気がでてくるな。そろそろ稽古にいくか」
サンボ現がおおげさに武者震いをして見せた。帰り支度を始めたところで、翼がにやりと意地悪そうに笑った。
「そうそう、ひとついい忘れていたことがある」
全員の動きがとまった。たっぷりと間をおいて、翼はいった。
「この冬の下北ヌーベル演劇祭にうちの劇団が出場することに内定した」
おーっと腹の底からの声が、狭い病室を満たした。ヌーベル演劇祭は小劇団の甲子園である。招待される劇団は八団体。日本中で演劇活動をしている小劇団のトップだけが出演を許され、トーナメント形式でその年のグランプリを決定する。主催は東京都と松多グループだった。賞金は一千万円という大金で、副賞として翌春の松多劇場の二週間分の公演権がついてくる。
「下北で十年以上やって、かすりもしなかったおれたちが、ヌーベル演劇祭だって」
サンボ現が感極まったように叫んで、八神が横になったベッドにダイブした。
「サンデーズが日本の劇団のベスト8だぞ」
ジョー大杉もベッドにダイブした。
「賞金一千万に、松多劇場だって」
キャンディ吉田がダイブすると、白いパイプフレームのベッドが悲鳴をあげた。制作の江本亜希子がゆいかにウインクした。
「ゆいかちゃんも、あれやりたいんでしょう。思い切り跳んじゃえば」
いうべきことはすべて先輩たちにいわれてしまった気がした。ゆいかはそのときに思ったことを叫んで、ジャージ姿でイモ洗い状態のベッドに身体を投げた。
「下北サンデーズにはいって、わたしほんとによかった。みんな、ありがとう」
3
ザ・マンパイは下北沢の駅から歩いて七分ほどの静かな住宅街にある。雑居ビルの二、三階を改装して、松多グループが劇場に仕立て直した中規模の芝居小屋だった。舞台のつかいかたによって、収容力は三百から三百五十席ほどに変化した。二階分の吹き抜けになった劇場なので、小劇場といっても天井の高さがかなりあった。
『サイタマ・スイマーズ』の初日は十月の第二木曜だった。飛躍的に増えたのは、よりよい席を確保しようという自由席の客と演劇関係者や放送局からの花のスタンドだった。『セックス・オン・サンデー』のときもすごいと思ったけれど、あれからの三カ月で立花の分量は三倍になっている。劇場まえと階段ののぼり口がすべて花で埋まって、ゆいかは甘いにおいにくらくらしそうだった。
増えたといえば、チケットカウンターにあずけられる名刺の量も前回とは比較にならなかった。これまではやはり演劇系の名刺が多かったけれど、今回は広告代理店や放送関係、そして出版社の社名がはいったものが、輪ゴムでくくられ束になった。翼の脚本が本になったこととゆいかのグラビアがおおきかったのだろう。制作の江本亜希子はさすがにやり手で、有力な筋には手書きで礼状を送ったという。
初日は上々の反応だった。なにより受けたのは、シンクロの猛特訓のシーンだった。サンボ現とキャンディ吉田、それに八神のスタンドインの翼とゆいか、ホスト顔のジョー大杉と美貌の伊達千恵美が男女六人で、慣れない水中ダンスにとり組む場面だ。コーチ役は知性派の寺島玲子である。
振りつけはデュエットの元全日本チャンピオンという女性だった。演出の翼と相談した振りつけ師は、全員のタイミングをわざとばらばらにずらし、コミカルなダンスをつくりだしていた。計算されたずれと呼吸が笑いを生む場面である。芝居の後半には、難易度の高い同じ振りつけを今度は完壁に演じるので、その落差も見せ場になるはずだった。
だが、ゆいかは初日からナチュラルにミスを犯した。身体能力と感受性、さらに知性と容姿に恵まれていても、リズム感だけはゆいかに与えられていなかった。いくら拍子を数えても、振りつけに夢中になっているうちに、小節が飛んでしまうのだ。ほかの五人は計算されたミスをタイミングよく繰りだすのだが、ゆいかはひとり天然だった。人工の五人と天然がひとり。ほかの五人はゆいかの引き立て役にまわってしまった。ゆいかのぎこちない動きが断然目立つからである。しかも、後半にあるシンクロの場面では、ゆいかはほぼ完璧に踊ることができた。
初日の舞台が跳ねたあと、楽屋で伊達千恵美に問い詰められたゆいかは、眉《まゆ》の両端をさげてあやまった。
「ごめんなさい。ぜんぜん狙ってるわけじゃないんですけど、あんなことになって、すみません」
伊達千恵美とキャンディ吉田は、ゆいかに冷ややかだった。だが、男性陣はやさしかった。
ジャージに着替えたサンボがいった。
「全部さらわれちゃったけど、芝居が受けたからいいや。それにしても、ゆいかは紺の競泳水着よく似あうよな」
伊達千恵美がサンボをにらんだ。
「そういう問題じゃないでしょう。前半ではあれだけ不器用そうな振りをしてるくせに、後半のダンスはちゃんとできるじゃないの。どういうつもりなの」
ゆいかは濡れた髪のままちいさくなった。つぶやくようにいった。
「すみません。でも、みんなとあわせるのは、なんとかできるんです。ああいうダンスって、わざと失敗してコミカルに見せるほうが、ずっとむずかしくて」
三枚目のサンボ現がゆいかの頭を荒っぽくなでた。
「そうそう、コメディアンはたいへんなんだ。二枚目なんかぼーっと立ってるだけで絵になるけど、こっちはほんとに頭つかわなくちゃいけないからな。それがわかっただけでも、ゆいかには見どころあるよ」
笑いながらサンボ現は楽屋をでていった。黙ってゆいかたちの話をきいていた翼が、ゆいかに声をかけた。
「ちょっと顔貸してくれ」
薄暗い廊下に呼びだされて、ゆいかはますますちいさくなった。きっと座長からもダメだしをくらうのだろう。スクール水着といい、シンクロの振りつけといい、今回の舞台はたいへんだった。意外にも翼はやさしい声でいう。
「演出家としてはどんな理由でも、客に受ければいいんだ。ゆいかはあまりうまくなっちゃダメだぞ。前半の振りつけはあれでいい。おまえは天然でずれまくりでいいんだ。でも後半はいっぱいいっぱいなのがわかるようじゃつまらない。みんなにあわせるほうだけ完璧にできるように、ちょっと練習しておけ。なんなら、あとでプールにつきあってやるから」
舞台に木枠とゴムシートでつくられたセットのプールは、実際になかにはいってみると細かなゴミだらけだった。水も濁って、生ぬるい。それでもゆいかはいった。
「はい、よろしくお願いします」
芸術派の演劇専門誌に肩すかしという劇評もあったけれど、おおむね『サイタマ・スイマーズ』は好評だった。観客動員は三千人近くを記録している。このあたりで一服して力をためておくのも、長い目で見れば正解なのかもしれなかった。二、三カ月に一本ずつ全力投球の力作を仕あげていたら、いくらあくたがわ翼に才能があるといっても、すぐにすり切れてしまうだろう。まだ芝居を始めて十年である。すくなくともあと二十年は書き続けなければならないのだ。
今は演技がたのしいし、大好きだからいい。でも、二十年後の未来を考えると、なんだかゆいかは恐ろしくなった。そのときゆいかは三十八歳になる。一生の仕事として、ほんとうに役者は可能なのだろうか。中年にさしかかった自分に仕事はあるだろうか。きっと結婚はしているとは思うけれど、もし独身だったりしたら、ひとりでどんなふうに生きているのだろう。あこがれの劇団にはいって半年だが、しだいに芝居を続けることの厳しさにもゆいかの目はむくようになっていた。
『サイタマ・スイマーズ』の出演料は七万二千円だった。前回の倍近い報酬だったけれど、金のためだけでは舞台は厳しいということが骨身にしみてわかるようにもなった。雑誌のグラビア撮影で二時間ほどにこにこしているだけで、はるかに実いりはおおきかったからである。芝居は一カ月みっしりと稽古をして、二週間の公演をおこなう。実質一カ月半の拘束時間で、この収入である。アルバイトをしている下北のジャズ喫茶より時給は低いのだ。
けれど、この時期のゆいかには時給がいくらだろうと問題ではなかった。なによりもたのしいのは昨日できなかったことが、今日できるようになることで、演技はどこまでいっても果てがないように思えた。長野の実家からの仕送りに、ジャズ喫茶のアルバイト、さらにときおりエキストラで飛びこんでくるグラビアの撮影で、同世代のOLよりもゆいかはずっと高収入になっていた。それでも金をつかう時間がなくて、ただ銀行口座の数字が増えていくだけだった。
4
夜明けまでのみ明かした打ちあげが終了して、爽やかな朝になった。下北沢の狭い路地にも乾いた秋の風が吹いている。打ちあげには八神誠一も元気に参加した。初日の舞台を観ながら、八神はずっと泣き続けだった。サンデーズの劇団員はみな、そんな八神の姿を暗い客席に見つけて、自分も涙をこらえるのに精いっぱいだったのである。
秋が深まり、演劇の街の様子も変わっていた。暑がりのゆいかでさえ、朝夕は半袖シャツでは涼しく感じるほどである。制作の江本亜希子から呼びだされたのは、アルバイトのない月曜日の夕方だった。
駅まえで待っていると、いつもと違うビルボードが目についた。以前は見慣れた渋谷のファッションビルのものだったけれど、今度は本の広告のようだ。白秋舎とはきいたことのない出版社だった。ゴチック体ででかでかとキャッチコピーが害かれている。
「100万人が泣いた! 愛と魂のベストセラー!」
あまり出来のよくないビルボードを見あげていると、ゆいかはぽんと肩をたたかれた。振りむくといつもの黒ずくめのファッションで、江本亜希子が立っていた。
「ゆいかちゃん、この小説知ってる」
ゆいかはとがったあごを左右に振った。声にだして書名を読みあげる。
「『そして、ぼくは愛を誓った』。この本、有名なんですか」
本のカバーは都会に沈んでいく鮮やかな夕日の写真だった。ぎざぎざのスカイラインが影絵のように黒く抜けている。制作は魔女のような謎めいた笑いを浮かべ、てのひらで駅まえの雑踏を示した。
「見てごらんなさい。若い女の子のほとんどが、あの本をもってるでしょう。愛チカは今一番のファッショントレンドだから。もうすぐ二百万部に届くって噂よ」
あらためてそういわれると、下北沢の駅まえをいく若い女性の多くが、小脇にオレンジ色の本をもっていた。
「映像化の権利が奪いあいになっているんだって」
「へー、そうなんですか」
調子をあわせたが、ゆいかは原作とか映像化の権利とか、細かなことはほとんど知らなかった。いったい誰と誰が、小説を奪いあったりするのだろうか。このごろは舞台の稽古と勉強のための観劇にいそがしくて、本を読む時間はほとんどとれなかった。大学で専攻している電子工学のテキストで手いっぱいである。
亜希子は駅まえにある雑居ビルを示した。ミニミニと駅横、ふたつの劇場にはなつかしさを覚える。いつか青年マンガ誌のグラビア話をもちかけられたハンバーガーショップにむかった。その店のハンドメイドのチーズバーガーは、下北沢でゆいかがおいしいと思うメニューのトップスリーを動かなかった。
窓際に席をとると、亜希子が慎重に口を開いた。
「病院で翼がした話、覚えてるかな」
溶けたチーズのにおいが店のキッチンから流れてくる。腹が鳴って、ゆいかは顔を赤くした。
「あのー、ヌーベル演劇祭のことですか」
亜希子は辛抱づよく笑った。
「ううん、そうじゃなくて、芸能プロダクションの話。スマイル・プロみたいな青田刈りの一本釣りじゃなくてね。うちの劇団をまるごと面倒見てくれる、信頼できるプロダクションを、翼とわたしで探していたの。それで公演も終わったし、そろそろ顔あわせをしてもいいかなって」
信頼という言葉を、江本亜希子は妙に強調した。不思議に思いたずねてみる。
「信頼できないところもあるんですか」
劇団づきの制作は困った顔をした。
「ほら、芸能の世界って、水商売のところがあるから、いいかげんなところも、裏のあぶない筋の人たちがかかわったプロダクションもたくさんあるの。古くからの興行のしきたりなんかも厳しくてね」
みんなにはわかっていても、自分にはまるで意味がわからないことが、演劇の世界にはたくさんあるようだった。裏のあぶない人といわれても、ゆいかにはテレビの刑事ドラマの悪役くらいしか思い浮かばない。
「わたしはどうすればいいんでしょうか」
亜希子はゆいかの素直さがまぶしいように目を細めた。
「ゆいかちゃんは、ゆいかちゃんのままでいいよ。でも、あなたはまだ未成年でしょう。だからプロダクションと契約することになったら、おうちの人の了解を得なければいけないかな。あとはあなた自身で決めることになる」
届けられたチーズバーガーが冷めていった。
「さあ、どんどんたべて。『サイタマ・スイマーズ』が終わったんだから、もうダイエットの必要はないでしょう」
ゆいかはつけあわせのフレンチフライを皿の端に押しやった。グラビアの仕事をいくつか請けて痛感したのだ。この世界には、かわいい女の子がいくらでもいる。そして、そのうちの大半は、自分よりもずっと細いのだ。ウエストも二の腕も太もももふくらはぎも。今日はチーズバーガーを半分にしておこう。江本亜希子はブラックコーヒーをすすっていう。
「月末にデライトと芸ユニの順番で、最終面接をやることになってるの。ほかの劇団員にはもうOKもらってるんだけど、八神くんとゆいかちゃんが最後でね、今夜翼は八神くんと下北のどこかで話をしてるはずなんだ」
そういうことだったのか。ゆいかは先ほどから、亜希子がなにかいいにくそうにしていた理由がようやくわかった。大学生でありながら、小劇団にはいる。それだけでもたいへんなのに、さらに芸能プロダクションとも契約を結ぶという。劇団は真剣な仕事だが、ビジネス的にはまだアマチュアだった。けれども大手の芸能プロは違う。きちんとビジネスとして結果をださなければならない。そうでなければ、会社に居場所などないだろう。自分に果たして、それほどの力があるのだろうか。ゆいかの最初の反応は不安と焦りだった。亜希子はゆいかの心を見透かしたかのようにいった。
「うちの劇団の一番の売りは、翼の脚本とゆいかちゃんの新鮮さなの。あなたがダメだというなら、この話はおおきく後退することになる」
せっかくの手づくりチーズバーガーから味がしなくなった。湿ったダンボールでもかんでいるような気がしてくる。
「みんなはどういってるんですか」
亜希子は軽くうなずいた。
「反応は上々ね。サンボさんとキャンディさん、それにジョーさんはもともとメジャー志向が強かったから。もちろん翼もね。翼はあんなふうにC調に見えるけど、劇団のみんなには責任を感じているの。自分のわがままにつきあわせて、一生を棒に振らせるのは嫌だって。だから、芸プロの話はちょっといい保険になってるのかもしれない。自分があぶなくなっても、芸能プロダクションのほうでいくらかは助けになってくれるだろうから」
社会人になっても、アルバイトで生活を立て、舞台に立ち続ける。サンデーズの先輩たちはその圧力に十年も耐えてきたのだ。ゆいかがここで立ちすくむことは許されなかった。チーズバーガーを皿にもどしていった。
「わかりました。わたしもみんなといっしょにプロダクション受けてみます。面接ではどんな試験があるんですか」
手を打って、江本亜希子が笑っていた。ゆいかはきょとんとして、制作を眺めている。
「ゆいかちゃん、試験はもう終わってるの。先方はここ三回のうちの舞台は観にきてるし、あなたのグラビアも見てる。制服美少女コンテストで、コネなしで準グランプリになったことも知ってるし、あなたの名前でネットの検索もすませてる。ヒット数は二十万を超えているそうよ。プロダクションのプロモーションも、コマーシャルの出演もなくて、この数字は立派なものなの。あなたとうちの劇団はもう合格していて、選択権があるのはうちのほうなんだ。どちらがいい条件をだしてくるか。競わせるために大手を二社残してるの」
なんだか雲をつかむような話だった。
「じゃあ、わたしたちはイエスというだけでいいんですか」
江本亜希子は胸を張った。
「そうだよ。わたしは下北沢にいったいいくつの劇団が本拠をおいているかわからない。何十となくあるでしょうけどね。そのなかでもこんなにいいオファーをもらってるのは、下北サンデーズくらいだと思う。芸能プロだけじゃなく、広告代理店からもCFの出演依頼がきてる。そちらのほうは、まだゆいかちゃんがどこにも所属していないから、ストップかけてるけどね」
実感がわかなかった。とりあえずよろこんでおけばいいのだろうか。ゆいかはひきつった笑いをなんとかつくった。制作はテーブルのうえにおいたゆいかの右手をとった。冷たい手で、力づよくにぎってくる。
「いつか誰かがいってたよね。劇団にいい運を連れてくるのは、新人だって。きっとゆいかちゃんが、うちの劇団の幸運の女神だったんだ。あなたには、これがどんなにすごいことかわかっていないと思うけど、今この瞬間にゆいかちゃんと代われるなら、どんなものを捨ててもいいと考える女優やアイドルの卵は、日本中に何千人もいるんだよ」
芸能プロダクションや代理店からのオファーは、それほど素晴らしいことなのだろうか。ゆいかがほんとうにやりたいのは、下北サンデーズの劇団員として、新作の舞台に立つことだけである。
「わかりました。芸能プロダクションの人たちと会ってみることにします。決めるのはわたしじゃなくて、みんなで話しあうんですよね」
「もちろん。話しあって、うちの劇団にベストの選択をする」
もう食欲はなくなっていた。ゆいかはチーズバーガーの皿を横に押しやっていった。
「あの、変な質問になるかもしれないけど、いいですか」
江本亜希子は上機嫌でうなずいた。
「わたしは劇団員のみんなの希望はだいたいわかるんです。ずっと翼さんの新作の舞台にでたい。それでうまくいって売れてしまったら、それもまたいいかなって。でも、江本さんは劇団づきの制作さんですよね。江本さんはうちの劇団がどんなふうになったら、幸せを感じるんですか」
いきなりの質問に亜希子は困ったようだった。窓の外は暗くなり始めている。待ちあわせの人間が多いのは、今夜もこの街のどこかで新作が打たれているからだろう。
「わたしが昔、舞台にでていたのは知ってるよね」
ゆいかは黙ってうなずいた。
「それじゃあ、昔、今の伊達さんのように翼と同棲していたのも知ってるね」
今度は黙っているだけでは失礼な気がした。
「はい、噂ではきいています」
かすかに笑って元舞台女優で翼の恋人はいった。
「あのね、そんなのだらしなくて、変だってゆいかちゃんは思うかもしれない。でも、劇団の座長っていうのは、それくらいの魅力がなくちゃ務まらないたいへんな仕事なの。仕事っていうのは違うかな。座長はある意味、天職だから。選ばれた人にしかできない役目なんだ」
いつも黒ずくめの江本亜希子が情熱的に話すところを、ゆいかは初めて目撃した。普段はどんな難局でも、涼しい顔をしてとり仕切ってしまうほど敏腕なのだ。
「十年まえの翼は、今とは比較にならないくらい鋭かった。ふれるものをみんな斬り捨てるような危うい魅力があった。わたしは自分に演技の才能がないってことに早くから気づいていたんだ。技術はあるけど、人の目をひきつけるような魅力はない。わたしよりも翼の才能のほうがずっと豊かで輝いてる。そう思った。だから、すっぱりと舞台を辞めて、翼が自分の才能を最大限に発揮できる状態をつくることを、生きる目標にした。あの人と別れてからも、その目標は変わらないんだ」
暗い窓の外にむけていた目を、ゆいかにもどして、劇団づきの制作はいった。
「見ていてごらんなさい。伊達さんは翼と別れたら、きっともうサンデーズにはいられなくなるでしょう。彼女はプライドが高いから。でも、わたしと翼の関係は、プライドも恋愛も超えているの。なにがあっても、翼のベストの舞台をプロデュースして、つくりあげる。もう恋人でも、演出家と女優でもないけれど、舞台で闘う同志という意味では、昔よりもっと緊密になっているかもしれない」
ゆいかにはちょっと大人すぎる話だった。十八歳でまだちゃんと男性とつきあった経験もないのだ。それでも、さすがに女優だった。想像力だけで、江本亜希子が十年の歳月をかけてたどりついた境地に心を寄せてしまう。結局のところ、恋愛や欲望がいきつく果てには、そんな不思議な絆《きずな》が残るだけなのかもしれない。
「なんだか、亜希子さんがうらやましいな。わたしはそこまで惚れこんだ人って、ぜんぜんいないですから」
きっと学校にかよいながらでは、ほんとうの恋愛をするのはむずかしいのかもしれない。恋愛はきちんと自立して、人生を自分で決められるくらいの成熟した力を前提にするものなのだろう。
「ゆいかちゃんは怖いくらい素直だね。みんながまいってしまうのが、よくわかるよ」
江本亜希子が微笑んでいった。
「じゃあ、来週の木、金と芸能プロダクションの顔あわせがあるから、夜は時間を空けておいてね。きっとすごいご馳走になるから、ちゃんとお腹をすかせておくように」
制作はちらりと窓の外を見た。そこには先ほどの小説のビルボードが、スポットライトを浴びて夜空に浮かんでいた。写真で見る夕焼けは、実物よりもずっと鮮やかだ。
「どうしよう、いっておこうかな。あのね、デライトのほうではうちのために専属の売りだしチームがつくられたんだって。すごい力のいれようだよ。広告代理店の電告社と映画会社の東京スクリーンと組んで、ゆいかちゃんのメジャーデビュー企画を練っている最中。その企画があれなんだ」
ゆいかは亜希子の細い指先を追った。オレンジ色のビルボードが目に飛びこんでくる。
「あれって、『そして、ぼくは愛を誓った』とかいうベストセラーですか。なんだか恥ずかしいタイトルだけど」
「そうね。わたしも読んだけど、それほどたいしたことはなかった。翼の台本のほうがずっとおもしろいかな。でも愛チカは映像化されてもきっと大ヒットすると思う。最高のデビュー作になる。もちろん、企画はゆいかちゃんだけじゃない。翼の『サマータイム・ストレンジャー』を東都テレビで連続ドラマ化しようっていうのが、同じチームで動いてるんだ。ねえ、そうなったら、どういうことになるか、わかる」
もちろんゆいかには、そんなことは想像もできなかった。いまだに下北のジャズ喫茶でウエイトレスのアルバイトを続けているのだ。
「来年はテレビも雑誌も映画も、うちの劇団一色に染まることになる。その中心にいるのは、ゆいかちゃんと翼。ほかのメンバーにも、いろいろと流れでいい役がまわってくることになる。下北サンデーズが、この演劇の街でトップになるだけでなく、日本中の話題になるんだよ。素敵なことだとは思わない」
ゆいかはあいまいにうなずくだけだった。それがどれほど素晴らしいか、どれだけの栄誉なのか、考えることも感じることもできなかったのである。ただ自分とは関係のないところで、おおきな機械が動いていて、その歯車をまわすために自分が新たなエネルギー源として選ばれたのだという気がしただけだった。
ゆいかは目をあげて、下北沢の見慣れた駅まえの風景を眺めた。そこには暗い夜空を背景に、血のように赤い夕焼けのビルボードが燃え立っていた。下北サンデーズと自分は、これからどこまでのぼっていくのだろうか。
劇場すごろくの先に待っているのは、いったいどんな風景なのか。東京の星のない夜空を見あげて、ゆいかは心のなかでそっとため息をついた。
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第5章 激闘! 下北ヌーベル演劇祭
1
薄曇りの文化の日だった。
十一月の冷たい北風が吹き抜ける鉄橋に、下北サンデーズのメンバーが集まっていた。私鉄の線路を越える歩道橋程度のちいさな橋は、転落防止のために金網で包まれている。フェンスに張られた芝居のフライヤーの切れ端が数十枚も風に揺れていた。かなわなかった夢の跡のように、乾いてかさかさに色あせている。一張羅の黒いグッチのタキシードジャケットを着たあくたがわ翼がいった。
「あとは誰だ」
制作の江本亜希子が劇団員をチェックした。
「サンボさんだけです。今日は連ドラの振りはないはずですけど」
寺島玲子が赤いフレームのメガネを直した。こちらもシックな黒いパンツスーツである。
「また、例によってどこかのタレントの卵と沈没してるんじゃない。まったく、記念すべき日なのに」
ゆいかはサンボ現がこないか、階段したをチェックしていた。芸能プロダクション、デライトと下北サンデーズが契約してから、劇団員の衣装は劇的に向上している。ゆいかもきいたことのないブランドの黒いシフォンのドレス姿だった。コートを着ているのでわからないが、肩と背中はこれでもかというくらい肌を露出している。
「すみませーん」
コンクリートの階段を駆けあがってきたのは、小太りのサンボ現である。ディオール・オムのパンツはウエストがはじけそうだった。ジョー大杉が叫んだ。
「遅いぞ、サンボ。せっかくこれから、全員でレッドカーペットのうえを歩くってのに」
そういうジョーはホスト丸だしの純白のタキシードである。
「どうせ、三宿のタレントの卵でしょ」
寺島玲子が冷ややかにいうと、サンボが怒鳴った。
「違うよ。連ドラのアフレコだよ。生の芝居ならいいけど、VTR見ながら声を重ねるのむずかしくて、テイク26まで録《と》ったんだ。こっちはふらふらなんだぞ」
「もういい、いくぞ」
座長のあくたがわ翼が声をかけて、劇団員は狭い陸橋を横幅いっぱいに広がって歩きだした。全員が白と黒のフォーマルウエアなので、妙な迫力がある。キャンディ吉田が裏返りそうな声でいった。
「ついにこの日がきたんだね。わたしたちがこの橋をわたって、下北の北口にいく。目的地はトップ・オブ・下北の松多劇場。もちろん主役は下北サンデーズ」
漆黒のシルクサテンのドレスを着こなした伊達千恵美は冷静だった。
「なにいってるの、ほかにもななつの劇団がきてるでしょう。おこさま企画に、演劇会議所に、たけのこホテルに、脱皮族に、QQQ……あとはなんだか忘れちゃったけど」
その日は下北ヌーベル演劇祭の抽選会だった。八劇団のトーナメント戦で、グランプリを決めるのだ。小劇団の甲子園である。どの劇団とあたるか、くじ運は芝居の出来と同じくらい重要だった。松多劇場は北口の商店街を歩いて五分ほどである。周囲には若者と演劇の街らしくカフェやブティックがひしめいているのだが、普通の街並みのなか突然立派な劇場が出現するのだ。
ジョー大杉がいう赤いカーペットは冗談ではなかった。劇場のエントランスにはアカデミー賞のようにレッドカーペットが敷かれ、階段をあがって、奥へとまっすぐ続いている。芸能の世界は派手なことが好きなのだ。劇場の周囲は立花で埋まっていた。寺島玲子が囁いた。
「なあに、あれ」
淡い初冬の日ざしを浴びた劇場まえの広場が、一段とまぶしく輝いていた。テレビ局のビデオカメラが二台、入場する劇団を撮影している。照明は光りの洪水のようだ。首に報道のカードをぶらさげた若い男が小走りでやってきた。いっしょについてくるのは、やはり正装した中年の女性である。最初に声をかけてきたのは、女のほうだった。
「翼さん、お久しぶりです」
軽く会釈すると、劇団員を見わたした。
「千恵美ちゃんも大人になったわねえ」
黒いドレスのボディラインを見つめている。ゆいかの知らない顔だった。あくたがわ翼がいった。
「こちら、おこさま企画のプロデューサーで、中林さん」
おこさま企画といえば、もう小劇団とはとてもいえない商業演劇のビッグネームだった。座長の田中ヤマダは舞台でヒット作を連発して、映画監督デビューも果たしている。団員の九問勘十郎《くもんかんじゅうろう》は若い世代に熱狂的なファンをもつカリスマ脚本家だった。今年のヌーベル演劇祭で一番のサプライズは、すでに下北沢を卒業したと思われていたおこさま企画の突然の参戦である。プロデューサーはにこやかにいう。
「サニーテレビが、うちの劇団に張りついてドキュメンタリーの特番をつくっているの。騒々しくて悪いんだけど、翼さん、下北サンデーズのみなさんにも協力してもらってもいいかしら」
こうしたときに目の色が変わるのが役者だった。サンボ現が一歩まえにでていった。
「うちの劇団のことなら、おれに取材してくださいよ。切れのいいギャグいれて、コメント短くまとめますから」
テレビ局のディレクターがサンボを無視していう。
「じゃあ、あくたがわさん、おこさま企画と座長の田中ヤマダさんについて、のちほどひとことお言葉を撮らせてください」
翼はこうしたことには慣れているようだった。
「わかりました」
それから視線を小林プロデューサーに移し、眼を光らせていった。
「おこさま企画と同じで、うちの下北サンデーズも、ヌーベル演劇祭初参加です。おたがいにがんばりましょう」
演劇の専門誌ではすでに下馬評がでまわっていた。グランプリの本命は、もちろん名実ともにそなわったおこさま企画である。対抗がイケメンの知性派グループ、QQQ(クワイエット・クエスチョン・カルテット)だった。下北サンデーズは、現代口語劇をかかげる演劇会議所とともに、どの雑誌でも三番手グループの穴あつかいである。
ゆいかはレッドカーペットに足をかけた。赤くペディキュアを塗られたつま先は、工芸品のようにかわいいエナメルのサンダルに収まっている。テレビカメラの照明がまぶしかった。
初めてサンデーズの稽古場に顔をだしてから七カ月。今では芸能プロダクションに所属しているのだ。なにかが起きるときには、すべて一気に起きるようだった。別な宇宙にでも投げだされたような驚きを、ゆいかは日々生きている。
通路の端、テープで仕切られた一角に演劇ファンが集まっていた。ゆいかがとおると、囁きがきこえてくる。
「白馬健康水の里中ゆいかだ。やっぱり実物はかわいいな」
プロダクションにはいった直後に撮影したCFだった。現在オンエア中である。撮影のとき、秋の白馬山系でむやみに渓流沿いの道や草原を走らされたのを覚えている。陸上部出身のランニングフォームは見事で、ゆいかの実物の汗と躍動感は話題を集めていた。CFが放送されてからは、繁華街をひとりで歩くのは困難なほどである。
「サンボー、きもくなーい」
男性ファンから、サンボ現に声が飛んだ。このコメディアンはキモイ系の俳優として、すでにあちこちのドラマやバラエティの常連になっていた。不細工男の希望の星である。サンボ現はひらひらと手を振って、混ぜると色の変わるキャンディをこねる手つきをした。こちらもおなじみのCFのポーズだ。
下北サンデーズ全員でレッドカーペットを踏み、松多劇場にはいる。夢がかなうというのは、こんなにあたりまえのことなのだろうか。ゆいかはふわふわした敷物を足元に頼りなく感じながら、劇場ホールにむかった。
ステージのうえには巨大な白いボードがつりさげられていた。うえにいくほど細くなる勝ち抜きトーナメントの表が黒枠で描かれている。上手の四枠がAグループ、下手《しもて》がBグループだった。挨拶は東京都副知事から、松多グループのオーナー松多豊造の順番で続いた。型どおりの言葉が頭上を流れると、つぎはいよいよメインイベントの抽選会である。
「おこさま企画、田中ヤマダ氏」
名前を呼ばれた座長がスポットライトを浴びて観客席で立ちあがった。ブラックスーツに着古したTシャツ。広い額に汚れた頬ひげは、やつれたジャン・レノを思わせる。やはり座長というのは、どの劇団でも魅力的だった
「演劇会議所、野部たかし氏」
白シャツにジーンズ。メガネは分厚いレンズの丸型フレームだった。地方の中学教師のように素朴な雰囲気である。徹底したリアリズムと現代口語の台詞で、演劇界に新風を吹きこんだ鬼才だ。
「下北サンデーズ、あくたがわ翼氏」
「ちょっといってくるわ」
小声でいって、翼が立ちあがった。劇団員は全力で拍手した。ゆいかには翼の背中が、緊張で硬くなっているように見えた。つぎつぎと座長の名前が呼ばれていく。ステージ上には、一癖ありそうな面々が一列にならんでいった。脱皮族の川口アンヌ、たけのこホテルの猫島ほたる、QQQの長澤貴博、アニマルシンジケートの葛西水澄まし、劇団R☆Rのグラム徳永。ゆいかはため息をついた。さすがに日本中の小劇団のベスト8である。すべての劇団の芝居で、一度はゆいかも心を揺さぶられていた。
どこかのテレビ局の演劇好きの女性アナウンサーが司会だった。年下の俳優と週刊誌に夜明けのデートを書き立てられたのは、まだ三カ月ほどまえのことである。
「では、田中ヤマダさんから、抽選をお願いします」
ドラムロールが鳴って、田中ヤマダがおおきなアクリル球のまえに立った。なかではカラフルな発泡スチロールのボールが機械の風に煽《あお》られて、目まぐるしく回転している。田中ヤマダがつかんだのは、ショッキングピンクのボールだった。マイクのまえに移動したヤマダがいった。
「Aの1番です」
どっと会場が沸いた。本命が右端を押さえたのである。ゆいかのとなりでサンボがいった。
「こうなるとAの2番が、死のボールだな。翼さん、B組を引いてくれよ」
続く演劇会議所の野部たかしは、B組4番だった。いよいよ下北サンデーズの番である。翼が引いたのは、鮮やかなイエローのボールだった。番号を見た座長の顔が引き締まるのが、前方の客席から見ていたゆいかにもわかった。緊張した顔で翼はマイクに近づいた。
「下北サンデーズは、Aの2番」
腹に響く歓声があがった。初めて一回戦のカードが決定したのだ。
「なんでだよー」
サンボ現とジョー大杉が頭をかきむしって叫んでいた。ステージのうえでは、田中ヤマダとあくたがわ翼ががっちりと握手して、耳元でなにか囁きあっている。テレビカメラがふたりの周囲をぐるぐるとまわるように撮影していた。アナウンサーが抽選を一時とめて、マイクをもってふたりのところに移動した。田中ヤマダにマイクを突きつける。
「どうですか、一回戦のお相手が下北サンデーズに決まりましたが」
田中ヤマダはどこを見ているのかわからない目をしていった。
「ヌーベル演劇祭では、どの劇団とあたってもしんどいのは同じですから。うちの芝居をやるだけです。下北サンデーズは設立の時期もほぼ同じですし、最近の何作かは素晴らしい舞台だった。手ごわい相手です」
アナウンサーがディレクターからの指示を目の隅で確認してから、話を振った。
「あくたがわさんは、いかがですか」
下北サンデーズの座長は不敵に笑ってみせた。
「大本命のおこさま企画と一回戦であたれるのは光栄です。うちは初めての松多劇場なので、胸を借りるつもりでがんばります。田中ヤマダさんとは十年まえ、下北の居酒屋でど突きあいをしたんですが、そのときはまわりの人間にとめられました。今回はあのときの決着をつけようと思います」
田中ヤマダとあくたがわ翼が笑顔で握手した。カメラはじっとふたりの姿を撮影している。寺島玲子がつぶやいた。
「いいのかな、あんなこといっちゃって。おこさまファンの反感、かなり買ってるよ。むこうは絶対数が多いからね」
サンボがぼやいた。
「あー、おれたちの初演劇祭も一回戦でおしまいか。いい夢見せてくれたなあ」
観客席で背を伸ばして座り、ひとり冷静なのは制作の江本亜希子である。
「どうかしら。最近、おこさま企画のいい話はきかないよ。団員のバラ売りがうちよりずっとすすんでいるし、ヤマダさんのスケジュールが厳しくて、稽古の時間が取れないらしい。来年の春には映画の第二弾も決まっているし、おこさま企画はうちよりずっと厳しい状況みたい」
伊達千恵美が皮肉に片頬で笑くぼをつくった。
「でも、鉄板の優勝候補に変わりはない。そういう相手を倒せたら、一気にうちが走れるかもしれない」
「そうですね。今のうちの勢いと翼さんの本があれば、なにが起きてもおかしくない」
八神誠一の声は静かな力に満ちている。キャンディ吉田がいった。
「そうだよ。まだ負けると決まったわけじゃない。売れなかった十年間の苦労なんて、おこさまのやつらは知らないんだよ。わたしは絶対にぶっ飛ばしてやる」
ゆいかはただ先輩たちの言葉をきいているだけだった。抽選の結果よりもこれまでとは格段に広い舞台や六百もある観客席に心を奪われていたのだ。照明のあたらない客席の隅は黒々と闇に沈んで、どこまでも広がっていくように見えた。下北サンデーズの芝居がこれほどおおきな劇場でもこれまでと同じように通用するのだろうか。
スポットライトのまばゆいステージを眺めながら、ゆいかはしびれるような不安に耐えていた。
2
「カンパーイ!」
まだ空席の目立つ下北最安値の居酒屋に、サンデーズの声が響いた。抽選会のあと、劇団員はいつものひまわり水産にむかった。このところ、各自の仕事がいそがしく、全員で顔をあわせるのは久しぶりだった。生ビールをひと息でのみほして、サンボがいった。
「おれらも出世したよな、もうためらわずに生ビールが注文できるんだから」
半年まえは酒はいつだって、発泡酒か安い焼酎だった。酒の肴も、フライドポテトやスペインオムレツといった安くて腹にたまるものばかりである。それが刺身の盛りあわせやサイコロステーキのような高価なものに代わっているのだ。
寺島玲子は松多劇場でも、ひまわり水産でも、サンボ現のほうを決して見なかった。ふたりの恋はほんの数カ月で終わりを告げてしまったのだろう。手をたたいて、あくたがわ翼が声を張った。
「おれの悪運のせいで、一回戦が本命のおこさま企画になっちまった。すまん」
座の空気が重いのは、やはり対戦相手のせいだった。返事をする者は誰もいない。
「ヌーベル演劇祭のスケジュールは知っているな」
一回戦の計八舞台が、十一月二十三〜二十六日の四日間で舞台にかけられる。それから二週ごとに準決勝、決勝と続くのだ。最終決戦はカレンダーの都合で、今年はクリスマスイブにあたっていた。決勝まで勝ち残れば、松多劇場で三回の芝居を打つことになる。
「まあ、この演劇祭にも戦いかたのセオリーはある。時間的な余裕を考えると、うまくできて新作が一本で、残り二本は旧作の再演になるだろう」
芝居の話になると伏し目がちだった劇団員の目が輝きだした。
「おれはこれまでどこに新作をもっていくかずっと考えていた。だが、今日の結果で心が決まった。一回戦のおこさま企画に新作をぶつけよう」
また新しいあくたがわ翼の脚本が読めるのだ。ゆいかはそれだけでも、この演劇祭にでてよかったと思った。伊達千恵美が冷たい声でいった。
「また『セックス・オン・サンデー』のときのようなことは嫌よ。翼、構想はもうできてるの」
稽古時間は最低でも二週間はほしかった。そうなると新作を書きあげるまでにもう一週間を切っているのだ。あくたがわ翼は看板女優のほうに目をやって、異様にやさしい声でいった。
「ああ、今度の新作はすべて頭のなかにはいってる。いいモデルがいてくれるからな」
このふたりにもなにかが起きているのだろうか。伊達千恵美は座長から目をそらせてしまった。ちいさな劇団のなかの恋愛というのは、むずかしいものだ。そのつらさがわかっていても、始まってしまうことがあるのだろう。恋は芝居よりもずっとコントロールがむずかしいのかもしれない。翼が声の調子を変えていった。
「再演の二本については、今のところ白紙でいいだろう」
酔っ払ったサンボ現が叫んだ。
「異議なし。そんな先のこと考えてもしょうがないよ。おこさま企画に負けたら、あとはないんだから」
ゆいかは右手をあげていった。
「はいっ、質問です」
「なんだ、いってみろ」
翼にさされて、ゆいかは背筋を伸ばした。なんだか中学の課外授業のようである。
「あの、お芝居の勝ち負けってどうやって決めるんですか」
演劇祭のトーナメント方式をきいてから、ゆいかにはずっと気になっていたことだった。芝居はサッカーや相撲とは違うのだ。誰の目にも明らかな勝敗などつけられるものだろうか。あくたがわ翼が制作の亜希子にいった。
「説明してやってくれないか」
何杯か生ビールを空けているのに、黒ずくめの制作は冷静だった。
「まず観客五百人がひとり二点ずつもって、自分がいいと思ったほうにいれる。それに演劇評論家や劇作家、松多グループのプロデューサーなんかの関係者が十人、選考委員として毎回評価をくだすの。こちらはひとり五十点もっている。素人と玄人が五百点ずつ投票して、千点満点で結果がでる。かなり公平なシステムね」
なるほどとゆいかは思った。知性派の寺島玲子がやはりサンボ現から目をそらせていった。
「そうはいっても、観客の票は人気のある劇団に流れるし、評論家はコネに弱いから、案外左右されやすい。芝居の結果に勝ち負けをつけるなんて、そううまくいくものじゃないの。もともとヌーベル演劇祭は客足がとまる真冬の二月対策に始まったの」
「へー、そうなんですか」
ゆいかは感心したが、ほかの劇団員は刺身の盛りあわせの山を崩しているだけだった。玲子は淡々という。
「だからグランプリの副賞が、二月の松多劇場の公演権なんだ。まあ、興行の世界にはいろいろと裏があるから」
「わかったか、ゆいか。まあ、そんなところだ。でも、どうせでるからには、醒《さ》めていたってしょうがない。思い切りうちの力を見せてやろう。おれは帰って、新作のプロットでもひねる」
あくたがわ翼がいれこみをおりて黒い革靴に足をいれたところだった。よくとおる声が響いた。
「ごぶさたしてます。翼さん」
ゆいかが顔をあげると、長身の二枚目が立っていた。ヨウジヤマモトの黒いスーツに黒のタートルネック。メガネのフレームも黒だった。やはり舞台で見るよりもずっと渋い。QQQの座長、長澤貴博である。翼が靴べらをつかいながらいった。
「最近、絶好調だな」
イケメン知性派劇団は下北サンデーズよりもひと足早く、松多劇場デビューを果たしている。長澤のうしろには芸能事務所やモデルクラブではなく、なぜ小劇団にいるのかというイケメン団員がふたり控えていた。下北サンデーズとは大違いである。これでは追っかけの若い女性が多いわけだった。
「それは翼さんのところも同じでしょう。うちは死のA組でなくてよかった。おこさま企画とも下北サンデーズとも、あたるとしたら決勝ですから」
どこまで本気なのか読めない表情で、長澤がそういった。芝居というのは座長の人柄を映すものである。シュールな設定のなか冗談か本音かわからない台詞が飛び交うのが、QQQの舞台の特徴である。
「おたがいに決勝で会えるといいな。だけど、長澤くんはなんの用なんだ。別に挨拶だけしにきたわけじゃないんだろう」
どうもうちの座長と長澤貴博はウマがあわないみたいだ。場の雰囲気を読むのがうまくなったゆいかはじっと成りゆきを見つめていた。長澤は一瞬笑うといった。
「やっぱりばれちゃいましたか。話があるのは、翼さんじゃなかったんです。寺島さん、ちょっといいかな」
ゆいかはサンボ現の正面に座っていた。嫌でもサンボの顔に暗い影がさすのが見えてしまう。寺島玲子はあわてた表情でこたえた。
「なに、長澤くん」
「このまえぼくのピンチヒッターを頼んだテレビの台本、直しの注文がはいった。時間がないんで、このあとで打ちあわせがしたいんだけど」
それならメールでもすむ話だった。キャンディ吉田がゆいかのわき腹を突いた。耳元でいう。
「サンボへの宣戦布告だよ。うちの知性派もなかなかやるなあ」
長澤はちらりとサンボ現の様子をうかがってから、優雅に玲子に手を振った。
「北口のイタリアンを予約してあるから、すぐにきてくれ」
劇団員を引き連れて、長澤はひまわり水産をでていった。翼はなにかいいたそうにしていたが、サンボと玲子の気まずい空気を読んで、黙っていってしまう。背中が見えなくなると、ジョー大杉がいった。
「なんだよ、嫌味な野郎だな。サンボ、あんなやつに好きにさせていいのかよ」
ジョーは二枚目と見ると敵意をむきだしにする癖があった。舞台だけでなく副業のホストクラブでも痛い目に遭っているのだろう。サンボは視線を落としたままいった。
「おれの問題じゃないよ。玲子が決めることだから」
「なんだよ、それ。おまえらしくないぞ。三枚目が二枚目みたいにいい人の振りして、どうすんだよ」
玲子が生ビールのジョッキを空けた。
「亜希子さん、座長が帰ったんなら、もう打ちあわせは終わりだよね」
「そうね」
ショルダーバッグをつかむと、さっと玲子が立ちあがった。残されたメンバーを無視して店の出口にむかった。ゆいかは心配になったが、なにもいうべき言葉が見つからなかった。サンデーズの二枚目、八神誠一と目があったが、八神は困ったように眉を八の字にさげて見つめ返してくるだけだった。
3
翼の新作が書きあがるまでの日々を、ゆいかは多忙にすごした。大学の授業と実験だけでも厳しかったのに、芸能事務所にはいって急に新たな課題が増えたのである。最初の顔あわせのあとで、歌は嫌いかときかれ、好きだといったゆいかはカラオケボックスに連れていかれた。何曲かもち歌をうたうと、本格的なヴォイストレーニングにかよわされることになったのだ。どうやらデライトでは、ゆいかの歌手デビューも計画にいれたらしい。グラビアの仕事と歌の練習、舞台のためのストレッチとトレーニング、ダイエットもエステも、すべてがゆいかの仕事になってしまった。
今や週に二日は取材のために、夜をつかわなければならなかった。一時間刻みで夕方から三、四件の雑誌やテレビの取材をこなすのである。ゆいかは特別に自分のキャラクターを立てようとは思わなかった。なるべく自然体で取材相手には応対していく。事務所は売りこみのためにあれこれと作戦を練っているようだが、ゆいか自身に変わりはなかった。スターになることよりも、下北サンデーズの舞台にでること。その目標は、今も変わらない。
その日は、昼間からコートの必要がないほどの小春日和だった。デライトのマネージャーといっしょに赤坂のイタリアンをでたのは夜になってからである。個室ではアイドル専門誌から、まったく想定外の質問を受けた。東科大の電子工学科ということで、ゆいかはなぜか理系アイドルという新ジャンルのパイオニアと評価されていたのである。なぜ、アイドル誌でコンデンサーや超伝導の話をしなければならないか理解に苦しむのだが、ずっと電気についての初歩的な講義をしたのだった。
一ツ木通りにでても、風はあたたかだった。時刻は夜の十一時近くで、酔った会社員が産卵するサケのように地下鉄の赤坂見附駅のほうに流れていた。女性マネージャーがいった。
「お疲れさま、明日のスケジュールはだいじょうぶね」
「はい」
大学の講義とレッスンと取材が二件。ほぼ平均的なスケジュールである。
マネージャーが一方通行の道をやってきたタクシーをとめようと手をあげた。細い路地からでてきたカップルの男が、同じように手をあげる。ゆいかはぼんやりと男女を眺めていた。女のほうはとてもスタイルがいい。裾をランダムにカットしたスカートから伸びるふくらはぎがきれいだった。どこかで見たことのある全身のバランスをしている。
「なによ、うちのほうが先でしょう」
マネージャーが叫んで、カップルのふたりが振りむいた。女は伊達千恵美だった。ゆいかに気づくと表情がこわばった。ちらりと男のほうを見る。ゆいかは見てはいけないと思ったが、千恵美の連れの男に目をやってしまった。ダークスーツに地味なタイ。背は高いが、腹がでている。髪は額から頭頂部まで薄くなっていた。
かつかつとハイヒールをタイルの歩道で鳴らして、下北サンデーズの看板女優がやってきた。マネージャーも驚いて、頭をさげている。千恵美は冷たい声でいった。
「いい? 今夜のことはみんなにはないしょよ。とくに翼にはね。今は新作の大事な時期だから。わかった、ゆいかさん」
ゆいかはただうなずくことしかできなかった。男はとまったタクシーにのりこむまえにこちらに会釈してよこした。まじめで人のよさそうな男だった。続いて千恵美も車のなかに消えてしまう。タクシーはゆいかの横をとおりすぎたが、千恵美は正面をむいてまったく表情を変えなかった。驚くほど冷たいが、とてもきれいな横顔だ。マネージャーがいった。
「なあに、あれ。千恵美さんのボーイフレンドかしら」
ゆいかは遠ざかるテールランプを見送った。寺島玲子と伊達千恵美。ふたりの女優の劇団内恋愛は、むずかしい時期にさしかかっているようだ。こんな調子で下北サンデーズはヌーベル演劇祭を戦い抜けるのだろうか。ゆいかは赤坂の狭い通りをいつまでも眺めていた。
翼の新作が仕あがったのは、抽選会からちょうど一週間後のことだった。下北沢の稽古場には、全員が顔をそろえている。A4のコピー紙の束を配ったのは、制作の亜希子だった。伊達千恵美は遅刻ぎりぎりまで、スタジオDNに顔をださなかった。傷だらけの床に丸く散らばった団員に座長がいう。
「今回の芝居はリアルさで勝負する」
ゆいかは手元の表紙を見た。題名は『さよならサンセット』。恋愛ものだろうか。
「おこさま企画はいつもどおりぶっとんだ設定の芝居になるだろう。お得意のSFやファンタジーだ。うちは対極をいくことにした。主役のふたり、千恵美と玲子はなるべくリアルな芝居を心がけてくれ」
ゆいかははっとして、名指しされたふたりを見た。ほかの劇団員もそっと様子をうかがうようにしている。表面上ふたりにはまったく変化はなかった。
「じゃあ、一時間後にまた集合だ」
本来なら何日かまえに届くはずの台本も、翼の遅筆のせいでいつも稽古日にわたされるのだった。本を読み、すぐに半立ちの稽古にはいる。このせわしない間がゆいかには心地よかった。時間があると、ついいらないことまで考えすぎてしまう。
ゆいかは定席《じょうせき》になったバルコニーで、新作を読んだ。三十代にさしかかったふたりの親友同士が主人公である。伊達千恵美はキー局のアナウンサー役。かつては花形だったが、今は若くかわいいだけの新人に押されて活躍の場を失っている。ニュース原稿をわざと間違えて読み、生放送で舌をだす計算高い新人は、当然ゆいかの役だった。
寺島玲子は結婚を約束した不実な男に振りまわされる設定だった。職業は銀行員で、これまでは男勝りの業績をあげている。冒頭からの三分の二は、コミカルな状況説明で芝居はリズムよく運ばれていた。ふたりの女の道が閉ざされ、恋がだんだんと酸っぱくなっていく過程を笑いとともにていねいに描くのだ。最後の三十分はオレンジの夕日のなかで、ふたりのヒロインだけしか登場しなかった。冬の公園のベンチである。台詞と感情表現だけで最後まで押し切るストレートな芝居だ。
まだ素人に近いゆいかでさえ、これは賭けだとわかった。初めての松多劇場で翼は芝居をおおきくするのではなく、これまでよりもさらにそぎ落としてきたのだ。うまくいけばいいが、あの広さをもたせられない可能性もある。
設定こそ変えてあるが、千恵美と玲子の感情はほぼノンフィクションだった。ゆいかは稽古場のフロアに翼を探した。自分の本を劇団員が読んでいるあいだは、いつもどこかに姿を隠してしまうのだ。きっとロッカールームか、近くのカフェにでもいっているのだろう。
今回はとくにこの場にはいづらかったかもしれない。この台本は読みかたによっては、伊達千恵美へ別れを告げる芝居だった。主役のふたりはそれまでの仕事と恋愛を断ち切って、新しい世界にむかうよう暗示されて終わる。芝居というのは不思議なものだった。いっしょに暮らしている女性に、何百人かの観客のまえでさよならをいうためにもつかえるのだから。
ゆいかはあらためて、あくたがわ翼の本の魅力に打たれていた。八神誠一が翼の本で芝居をするために役者を続けているのがうなずけるのだった。
一時間後にミーティングが再開された。床にあぐらをかいた翼がいった。
「今回の本は読んでのとおり、千恵美と玲子をモデルにさせてもらった。あれこれと余計なことが書いてあるが、気を悪くしないでほしい。ただな、おれは芝居のなかで一番人を動かすのは、やっぱりまごころだと思うんだ。いつもふざけた本ばかり書いてるが、きっとそうなんじゃないかな。芝居は嘘だが、嘘のなかにある真実ほど強いものはない」
ゆいかは主役ふたりの気配を探った。本を読むまえとあとでは、明らかに空気が変わっている。千恵美と玲子は冬の朝のようにきりりと澄んで冷たくなっていた。女の目から見ても、さっきまでとは別人のようにきれいだ。
「おこさま企画は日生劇場や帝劇でも芝居を打ったことがある。おおきな舞台に慣れてるし、柄のでかい話で勝負してくるだろう。うちにはそんなものをやる予算も力もない。だから目のまえにある一番新鮮な素材をつかった。この新作でダメなら、おれは納得してヌーベル演劇祭の幕を引ける。千恵美、玲子、頼んだぞ」
「はい」
静かな力のこもった返事がそろった。よりよい舞台のためには、自分の生きてきた経験や力のすべてを売り払うこと。ゆいかは演技の恐ろしさとすごみに、身体のなかが沸き立つのを感じていた。
翌日から稽古は連日十時間以上続けられた。
ゆいかは稽古場に詰めきりになって、翼の演出とふたりの演技を勉強した。千恵美も玲子も自分自身の気もちと重なる台詞では、どうしても感情があふれでてしまうようだった。前半のコミカルな場面と同じように動作がおおきくなり、感情表現がおおげさになっていく。
立ち稽古が一週間をすぎてから、翼の演技指導は感情を抑えることと演技をしないことに絞られていった。徹底したリアリズムを貫く演劇会議所のようである。サンボ現は声をひそめてゆいかにいった。
「うちの座長の演出を十年以上見てるけど、やっぱりこの一年で変わったな。人間って、成功すると変わるんだな。昔より自信がでてきたし、引きだしがずっと多くなってる」
ゆいかにはよくわからなかった。まだ劇団にはいって一年もたっていないのだ。演出の翼も、ほかの劇団員もすべて仰ぎ見るような存在である。千恵美と玲子の芝居を見て、心が切られてしまうような興奮に震え、まぜこぜになった嘘と真実に打たれるだけだった。
伊達千恵美が稽古のあとでゆいかを呼びだしたのは、ヌーベル演劇祭を三日後に控えた夜のことだった。翼によって細かな修正は加えられていたが、ほぼ芝居は練りあげられている。
千恵美に連れていかれたのは、下北沢の駅から離れた場所にある静かなバーだった。カウンターの端に座ると千恵美はいった。
「あなたは若いし、稽古のあとだから、お腹空いてるでしょう」
ゆいかは恐るおそるうなずいた。看板女優とふたりきりだと、いつも緊張する。
「このお店のローストビーフ・サンドイッチはおいしいよ。今日はわたしのおごりだから、好きなものたべて」
「ありがとうございます」
ゆいかはウェイターに冷たいウーロン茶とおすすめだというサンドイッチを注文した。千恵美はブラディマリーだけである。のみものが届くといった。
「今度の役は太っていたら、さまにならないでしょう。日が暮れてからはなにもたべないようにしたの」
ハッシュドポテトとクレソンのサラダが添えられたサンドイッチが届いた。微笑んで千恵美はいう。
「わたしもゆいかちゃんの年のころは、稽古が終わるのが待ち切れないくらいだった。お腹が空いて、貧血で倒れたことあるもの。さあ、どうぞ」
やわらかで肉汁の多い牛肉とばりばりに焼きあがったトーストの組みあわせが絶品だった。ひと切れたべて、ようやく空腹が収まる。
「あの、お話ってなんでしょうか。このまえの赤坂の夜のことなら、誰にもいってませんけど」
千恵美は首筋に腱を浮かせて、笑ってみせた。
「あの人はね、大学時代の同級生。頭が薄くなってるから、同じ年にはとても見えなかったでしょうけど。都市銀行に就職したの」
ゆいかはつぎのひと切れに手を伸ばした。黙ってきいているほかない話である。
「学生のころからずっと好きだっていわれていた。つきあってくれって」
無理やりのみこんで返事をする。
「そうだったんですか」
いきなり千恵美がいった。
「わたしね、翼と別れることにした。今度のお芝居が終わったら、同棲は解消する」
ゆいかは視線を落とした。となりに座る女優を見ることもできない。
「……はい」
ここにいて、きいているというつもりの返事である。
「あなたは若いし、無限に可能性が開けている。わたしがその年のころには、駆けだしの舞台女優は変わらないけれど、CFやグラビアにでたことも、芸能事務所からスカウトがきたこともなかった」
それは自分でも不思議なことだった。ゆいかは自分に力があるとは、まるで思えない。
「今ね、三十歳になって、初めてのチャンスを目のまえにしてる。このまま女優として年をとっていくか、それともわたしのことを愛してくれる人といっしょになって、女の幸せを選ぶか。翼はとても結婚相手にはならない人なの。遊んでいる分には、すごくたのしいけどね。赤坂の彼は奇跡みたいに十年近く待っていてくれたんだ」
ゆいかは十年後の自分を想像しようとした。まるでイメージがわいてこない。
「それで、わたしがゆいかちゃんに伝えておきたいのは、ひとつだけ。あなたはこれからもっと演技も上手になるでしょう。すごく人気がでて、スターになるかもしれない。でもね、どんなに売れてもわたしが今抱えている悩みからは自由になれない。仕事と女の幸福なんていうと、あまりに古典的で笑っちゃうかもしれないけど、やっぱりこの仕事を続けている限り、永遠のテーマなんだ」
遠い未来のことを不安に思うのは、やめるようにしよう。そのときがきたら、この先輩のように思い切り悩めばいい。
「千恵美さんは、あの人と結婚するんですか」
看板女優は驚いた顔をしてから、淋しそうに笑った。
「まだわからないな。プロポーズはされているけど。あの人は結婚しても、芝居を続けていいといってくれるし」
そうなったときに、下北サンデーズに千恵美の場所はあるのだろうか。千恵美自身が潔く身を引いてしまうのではないか。絶品のサンドイッチから急に味がしなくなった。ゆいかが口を開いたのと涙が落ちたのは、ほとんど同時である。
「千恵美さん、下北サンデーズ辞めないでください」
看板女優は黙ってうなずき、ゆいかの髪を細い指先でくしゃくしゃに乱した。
4
下北ヌーベル演劇祭の一回戦は、勤労感謝の日だった。午後二時と夕方五時からふたつの芝居を観て、観客と選考委員は投票するのだ。A組1番と2番のくじを引いたおこさま企画と下北サンデーズが順番どおりに公演する予定だった。
下北沢の街のあちこちにヌーベル演劇祭のポスターが張られていた。電柱からは四角いバナーが垂れている。ここでは街をあげて、演劇を応援する空気がある。
ゆいかが松多劇場に着いたのは、昼すぎのことだった。劇場に続く階段の左右には花が飾られていた。左手のほうが三倍ほどの分量があるだろうか。階段のステップを埋め尽くすほどの花のスタンドである。見なくても内容はわかっていたが、ゆいかは花についた札を読んだ。
祝「夢の島風雲録」再演 サニーテレビ。下北ヌーベル演劇祭 優勝祈願 ジミーズ企画。田中ヤマダ様江 電告社。すべての在京キー局と主だった芸能プロダクション、広告代理店から、立派なスタンドが届けられている。このところ急激に下北サンデーズも立花の量が増えてきたが、まだまだおこさま企画には遠く及ばなかった。ただし、伝説の下北ミルクのケースだけは、三段積みになってサンデーズの側におかれている。
通用口のまえで、制作の江本亜希子が待っていた。
「ゆいかちゃん、おはよう。やっぱりおこさまは『夢の島』できたね。あれは田中さんの代表作だから」
ゆいかもその舞台は観ていた。近未来の荒廃した日本では、戦争によって国際貿易が途絶し、まったく天然資源が輸入されなくなっている。そこでかつてはお荷物でしかなかった夢の島の資源をめぐって企業グループが死に物狂いの戦いを繰り広げる話である。
「あの舞台、おもしろかったですね」
亜希子はパンフレットに視線を落とした。
「キャストはがらりといれ替えてるみたい。ちゃんと偵察してくるから、ゆいかちゃんは新作のほうがんばって。今日は愛チカの監督も観にきてるからね」
『そして、ぼくは愛を誓った』はすでに二百万部を超えたという。予定どおりいけば、ゆいかの映画デビューになる作品だ。時間はまだあったので、おこさま企画の芝居も無理をすれば観られないことはなかったのだが、あくたがわ翼からは観劇禁止令がだされていた。相手に引きずられるのはよくないし、舞台の緊張はすぐに感染する。
「はい、がんばります」
そのときゆいかの頭にあったのは、伊達千恵美のことだった。あといくつ千恵美と同じ舞台を踏めるかわからない。吸収できるところはすべて、身体のなかにいれてしまいたかった。
ゆいかは戦いにいくために、薄暗い通路を歩いていった。
『さよならサンセット』の公演は順調にすすんだ。もちろん初演なので、細かなミスや計算違いはあった。それでも、全体の流れは悪くなかったし、なによりも後半の三分の一が素晴らしかった。
ゆいかは時間の許す限り下北沢で芝居を観ている。どれほどよくできた脚本でも、三分の二ほどすすんだ段階で厳しくなるのだった。芝居の流れが途切れて、これからどこにむかおうとするのか、芝居自体が悩んでいるように感じられる真空の時間帯である。
あくたがわ翼の新作にはそれがなかった。ほぼ奇跡的な展開である。それは脚本のせいではなかった。伊達千恵美と寺島玲子、ふたりの主役の演技がどんな芝居でも避けてとおれない難関をクリアしたのだ。オレンジ色の照明のなか、観客席にむかうベンチに座り、ふたりの女優は淡々と台詞を応酬した。三十歳をすぎてながかった恋の終わりを告げる、身を切るような台詞の数々である。
ゆいかは息を殺して、舞台袖からふたりの芝居を観ていた。全身が研ぎ澄まされて、台詞のひとつひとつが身体に痛いようだった。六百席がぎっしりと埋まった暗い観客席に目をやる。観客の集中の度合いは見るまでもなくわかった。その場にいるすべての人間の目は、夕日を浴びたベンチとふたりの女の嘘のなかの真実に集中している。
サンボ現がゆいかのとなりで囁いた。
「玲子も千恵美姉さんも完璧だな」
ひどくやさしい声である。ゆいかが目をやると、サンボは照れたようにいった。
「玲子ってあんなにきれいだったかな」
返事をする代わりにうなずいて、新人アナウンサーの格好をしたゆいかは、芝居の流れに心をもどした。
初演が終わってから三十分後、下北サンデーズは舞台に呼びだされた。楽屋での千恵美と玲子は座っているのさえ面倒そうなほど疲れ切った様子だった。あくたがわ翼が声を張った。
「みんな、よくやってくれた。負けたとしても、これだけの芝居を観せてくれれば、おれは十分満足だ。胸を張っていこう」
劇場の裏側はどこでもなぜこんなに暗いのだろう。ゆいかは不思議に思いながら、複雑に折れ曲がった通路を舞台にむかった。ざわざわと人のうごめく気配がするのは、今この瞬間にも採点がすすんでいるのだろう。
松多劇場の広いステージに抽選会のときのボードがおりていた。トーナメント表にはすでに劇団名がはいっている。上手下手の袖に控えた劇団を、女性アナウンサーが呼びだした。
「では、『夢の島風雲録』を再演されたおこさま企画のみなさん、ステージにどうぞ」
拍手と歓声は嵐のようだった。座長の田中ヤマダだけでなく、九間勘十郎に、新田旧作《あらたきゅうさく》とこちらにはひと癖ある人気俳優がそろっている。テレビカメラが二台、劇団員の表情をアップでつぎつぎと押さえていた。
「とても人ごととは思えない身につまされる舞台でした。『さよならサンセット』の下北サンデーズ、どうぞ」
フルに照明のついたまぶしいステージにゆいかは足を踏みだした。通常の芝居ではこうして終演後三十分もして、舞台にもどることなどない。まして、その場で採点して勝ち負けを決めるなどということは考えられなかった。力のある劇団でも、この方法が好ましくないといって演劇祭の誘いを辞退するところもある。
舞台の袖から走りこんできた若い男が、ちいさな紙切れをアナウンサーに手わたした。
「下北ヌーベル演劇祭、第一回戦初戦の結果がでました」
三十代の女性アナウンサーは、開いた紙片に目を落として、意外そうな顔をする。劇場が静まり返った。
「採点の結果は580対420で、勝者……」
ゆっくりと間をおき、アナウンサーは視線で会場をかきまぜた。
「……下北サンデーズ」
「やったあ」
サンボ現とジョー大杉が飛び跳ねた。つぎの瞬間、大歓声が波のようにステージを襲った。制作の亜希子がいった。
「おこさま企画、なんだかぎくしゃくして、芝居がちぐはぐだった。あれなら初演のほうがよかったとわたし思っていたんだ」
ゆいかは千恵美と玲子を見た。こちらはもうよろこぶ元気も残っていないようだった。力なくやつれた顔で笑うだけである。敗れたおこさま企画に目をやる。ひきつった表情で、役者たちはテレビカメラに対していた。いいときも悪いときも、すべてがあからさまになってしまう。役者という仕事のつらさを、ゆいかは思った。
最初にいつもの顔にもどったのは、田中ヤマダだった。翼に握手を求めていった。
「新作観せてもらった。おめでとう。うちに勝ったんだから、どうせなら優勝してくれ。今度のドキュメンタリーは演劇祭でうちが優勝して終わるはずだったんだ。どうしてくれる」
座長は笑っていた。翼も一層を抱いて、耳元でいう。
「お手柄はおれじゃなくて、あのふたりだ。女ってなにをやらかすかわからないな」
「ほんとだな」
そのあとアナウンサーがヤマダと翼にコメントを求めたのだが、ゆいかはまるできいていなかった。勝手に盛りあがったサンボとジョーが、下北サンデーズのエールを始めたからである。松多劇場の広いステージのまんなかでエールを叫ぶのは、とてもとても気もちよかった。
メイクを落とし、衣装をジャージに着替えて楽屋をでたのは、一時間後だった。目的地は当然ひまわり水産である。祝杯をあげるのだ。ゆいかは玲子といっしょだった。ショルダーバッグを肩に足どりも軽く劇場前の階段をおりていくと、声がかかった。
「寺島さん」
足をとめると手すりにもたれるように長身の男たちが何人か立っていた。中央にはQQQの代表、長澤貴博がいる。ゆいかを無視して長澤がいった。
「一回戦突破、おめでとう。どちらも観せてもらったけど、順当な勝利だった。もっと点差が開いてもおかしくなかったよ。おこさま企画は演劇祭とサンデーズをなめていたんだろうな」
寺島玲子はさっと笑ってみせた。
「ありがとう。そんなことをいうために、わたしのことを出待ちしていたの」
長澤は長い前髪をかきあげた。ファンならため息のでる仕草である。
「世のなかにはいろいろなフェチがいるよな。ロリコンだったり、巨乳だったり、くるぶしだったり。今日の芝居を観て、ぼくもよくわかった。ぼくは才能フェチなんだ。顔かたちや若さなんかよりも、才能のある女性がなにより魅力的に見える。この演劇祭が終わったら、つきあってくれないか」
この人はすごい自信家なのだとゆいかは思った。公然と告白して、自分が断られることなど、まったく考えもしないのだ。脚本も書く知性派女優がいった。
「考えておくわ。でも、決勝戦でQQQがうちとあたる可能性もあるんだからね」
イケメン座長はにこりと笑った。
「じゃあ、決勝でうちが勝ったら、その夜デートしてくれないか」
「別にいいけど」
ゆいかは気が気ではなかった。ほかの劇団員もここをとおるのである。話しているふたりから視線をはずして、階段のうえを見た。立花の陰にサンボ現のメガネが半分だけのぞいている。ゆいかが首を横に振ると、悲しげな顔をしたコメディアンは花のなかに消えてしまった。
5
「で、つぎの対戦だが……」
あくたがわ翼が腕組みをして語り始めたのは、中生のジョッキが三杯目にさしかかったころである。食い散らした肴は座卓にのり切らないほどだった。
「今度は準備期間が二週間しかない。当然、新作は無理だ。対戦相手をふくめて、あれこれ考えたんだが、『セックス・オン・サンデー』でいこうと思う」
静かなため息が劇団員のなかに流れた。母親が急死したあとで書かれた翼の代表作である。
八神誠一がいった。
「相手は明日のたけのこホテルと劇団R☆Rの勝者ということになりますね。都会派のコメディとオリジナルのロックミュージカルか。勝敗のゆくえがぜんぜん読めないな」
「そうだな。あまり相手のことを考えてもしかたない。うちにできるベストを尽くせばそれでいい」
江本亜希子が手帳を開いていう。
「おこさま企画は物量と豪華さで戦おうとした。うちの劇団に資金力とか、スケールとかないのはわかっていたからね。それで変に芝居が上滑りしたんだと思う。相手に応じて戦法を変えるのは、危険がおおきいのかもしれない」
「おれもそう思う。三日だけくれ。台詞を磨き直して、各自の配役を全部ずらすことにする。ここまできたんだから、決勝にいこう。おこさまを倒して、二回戦負けじゃあ、肩すかしもいいとこだからな」
そこからはいつもののみ会になった。伊達千恵美と寺島玲子は普段どおりだが、サンボ現とジョー大杉が妙に荒れていた。サンボのほうはゆいかにも原因がわかっていた。きっとQQQのイケメン座長の告白がショックだったのだろう。
打ちあげが始まってから三時間後、ゆいかは思い切っていった。
「ジョーさん、なにかあったんですか」
副業でホストをしている金髪のコメディ俳優が大笑いして叫んだ。
「みんな、おれを祝ってくれ。ねえさん、生ビール八つにアイスジャスミン茶ひとつ」
中国人のウエイトレスのぶっきらぼうな返事がもどってくる。言葉は威勢よかったが、ジョーの目には怯《おび》えが見えた。この人はなにを怖がっているのだろう。サンボ現が投げやりに突っこみをいれる。
「なにがめでたいんだ。ドラマでも決まったのか、ジョー」
「いや、そんなんじゃない」
テーブルに届いたジョッキを全員にまわすと、ジョーが乾杯を求めた。
「爆弾発言だ。おれは父親になることになった」
えーというざわめきがテーブルの周辺を包んで、ジョッキをもった手がとまった。キャンディ吉田がいった。
「相手はホストクラブの客なの」
「いいや、違う。普通のOL」
サンボ現がすかさず質問した。舞台を観ているようだ。
「どこで知りあった。年はいくつだ、いい女か」
「知りあったのは、ミニミニシアター。年はおれより十個した。まあまあ、かわいいよ」
サンボ現とキャンディ吉田が声をそろえた。
「なんだよ、ファンに手をだしたのか。年の差も、ほとんど犯罪だな」
座長の翼は落ち着いていた。
「で、ジョーはどうするんだ。結婚する気なのか」
ジョーは黙って、ジョッキを半分空けてしまった。せっかくの生ビールなのだが、ちっともうまそうに見えなかった。
「ええ、結婚しょうとは思ってるんですけど」
寺島玲子がいった。
「あら、おめでとう。うちの劇団って、もう十年以上もやってるのに、結婚式は初めてだね。よかったじゃない、ジョー」
ジョーは自分のひざを見つめていた。指を組んでなにか考えている。ぼそりといった。
「問題はむこうの親なんだ。おれが売れない役者をやることに反対してる。父親が三軒茶屋の駅まえで、ちいさな不動産屋をやっててな、おれがその気なら自分の会社にはいれっていうんだ。彼女ひとり娘だから」
伊達千恵美が鋭い日をしていった。
「肝心の彼女はなんていってるの」
「産休つかって子どもを生んで、会社を辞めるつもりはないそうだ。好きな舞台の仕事を思い切りがんばれってさ。でも、そういわれると逆に責任感じちゃってさ」
サンボ現がジョーの背中を思い切りたたいた。
「なんだよ。それなら悩むことないじゃん。うちの劇団は、おこさま企画に勝つほど、今はイケイケだ。ジョーがビッグになって、子どもをくわせてやれよ」
ジョーはサンボから視線をそらせていった。
「子どもが大学をでるまでは二十年以上もかかるんだぞ。そのときおれは五十五すぎだ。劇団で二十年もくえるのかな。ホストだって、いつまでもやれる仕事じゃないし」
今は確かに芸能事務所にはいっているかもしれない。だが、俳優は五年先どころか、来年の予測さえ立てられない職業だった。自分がいつか子どもをつくるとしたら、それはどんな状況のときなのだろう。ゆいかは考えるだけでめまいがしそうだった。
帰り道、ゆいかは玲子とキャンディ吉田に誘われた。久々に第三下北荘でのみ直さないかというのである。テレビCFにもでているゆいかは防犯上の理由もあって、オートロックつきの安全対策が厳重なマンションに引越しをすませていた。恵比寿駅の近くに事務所が見つけた高級マンションである。玲子とキャンディはまだあの傾いたアパートで暮らしているのだ。アルコールは一滴も口にしていなかったが、雰囲気に酔いやすいゆいかはよろこんでなつかしいアパートにむかった。
「わたし、最初にあそこに泊まった晩のこと、覚えています。お風呂屋さんにもいけなくて、キャンディさんの部屋の流し場で髪を洗ったんですよね」
キャンディは男のようにゆいかの肩を抱いていた。
「おう、そんなこともあったなあ」
玲子が笑いながらいった。
「でも、ゆいかちゃんは流れ星みたいだったから。ほんの半年でいいマンションに移っちゃうしね」
「ほんとはわたし、第三下北荘がよかったんだけど。事務所の人がダメだって」
キャンディはゆいかの肩をたたいた。
「わかってるって、ゆいかちゃんはいいの。でも、あんたがスターになっても、わたしたちは劇団の先輩だからね。そこんとこ、忘れないように」
そのとき路地裏の電柱の陰から、男がひとりあらわれた。サンボ現である。キャンディが叫んだ。
「なんだよ、サンボ。いきなり驚かすな」
玲子は冷たく声をかけた。
「今日はこれから女同士ののみ会だから、あなたはきてもムダよ」
先ほどまで元気だったサンボ現はうなだれてしまった。なにかを耐えているような表情で、街灯の光りの輪のなか立ち尽くしている。スポットライトでも浴びているようだった。
「玲子にひとつだけいっておこうと思って……」
ゆいかとキャンディの視線がサンボから、寺島玲子に移った。玲子の表情が真剣になった。
「わかった。きいてるよ」
サンボ現が顔をあげた。めずらしく二枚目の顔である。
「さっき、QQQの長澤の話、おれもきいてたんだ。あいつはくやしいけど、イケメンなだけでなく、いい芝居も書くし、演技もしっかりしてる。おれなんかよりもずっと玲子にはふさわしい男だと思う」
遠くでどこかの酔っ払いが叫んでいた。まもなく本格的な冬を迎える東京の夜空は濃紺のガラスのように澄んでいた。サンボの声はきいたことがないほどやさしかった。
「だからさ、もしおれに気がねなんかしてるなら、そんな必要ないから。おれは玲子とつきあってるのに、さんざんほかの女と悪さしたし、玲子が怒るのあたりまえだから」
ゆいかはサンボと玲子を交互に見つめていた。このふたりが結ばれた夜をゆいかは昨日のことのように覚えていた。サンボは玲子にとって初めての男性だったはずだ。それがほんの半年ほどで、こんなにむずかしい関係になってしまう。恋は芝居と同じようによくわからないものだった。玲子はきっぱりといった。
「そんなことをいいに、わたしを待っていたの。サンボ、もうわたしたちはずっとまえに終わっているし、あなたに気がねなんてしてないよ。長澤くんとつきあうかどうかは、サンボのこととは別な問題よ」
コメディアンはばつの悪そうな笑いを無理やり浮かべた。
「おれ、まだちょっといい気になっていたのかな。ごめん、じゃあいくわ。おやすみ、今日の芝居はすごくよかったよ」
「おやすみなさい」
返事をしたのはゆいかだけだった。サンボ現の背中が下北の裏通りをゆっくりと揺れながら遠ざかっていく。ゆいかはその背中になにかを叫びたかったが、なにをいえばいいかまるでわからなかった。
6
あくたがわ翼は約束どおり『セックス・オン・サンデー』の直しを、三日間であげてきた。それでも上演までは十日ほどしかない。下北沢のスタジオDNで、その日から立ち稽古が開始された。
小劇団の場合、どうしても再演では舞台のテンションが落ちることが多かった。それを翼は台詞を全面的に改めることで、のり越えようとしたのである。ゆいかの役は金もちの中年男と結婚した幼な妻だった。初演では無邪気さと無垢さが前面にでていたが、書き直された台詞を読んで、ゆいかは目をみはることになった。計算高く、男を自分から誘いこむ天性の悪女になっていたからである。
以前よりもますますやりがいのある役だった。グラビアの撮影などで、無理やり無邪気な笑顔ばかり要求されているゆいかは、もうカマトトの演技にはうんざりしていたのだ。実生活では経験がなくても、男をたらしこむ芝居に腕が鳴った。
稽古初日を終えて、汗に濡れたTシャツを着替えたあとだった。ゆいかは制作の江本亜希子に声をかけられた。
「ゆいかちゃん、このあと三十分だけいいかな」
夜は明日の稽古の予習しかやることはなかった。ほかの劇団員はみな、ひまわり水産に先に移動している。稽古中の夕食はすべて事務所がもってくれる。返事に迷っていると亜希子がいった。
「翼もいっしょなんだ。駅まえのいつもの店なんだけど」
「わかりました」
座長がいるということは、なにか真剣な話があるのだろう。黒ずくめの制作のあとをついて、ゆいかは錆びの浮いた外階段をおりていった。
窓際のテーブルのむこうに、亜希子と翼がならんでいた。窓の外にはあのベストセラー『そして、ぼくは愛を誓った』のビルボードが、毒々しいほど夕日の色をたたえている。最初に口を開いたのは劇団づきの制作だった。
「今日ね、デライトのほうから重要な連絡がはいったの」
なんのことだろうか。ゆいかのデビュー作戦は順調にすすんでいるときいていた。まだマスコミ発表は解禁されていないが、愛チカを原作にした劇場映画の主役はゆいかに決定している。なにか問題が起きて、自分がはずされたのだろうか。芸能の世界ではよくわからない力関係で仕事が変更になることが多かった。ゆいかは不安げにいった。
「あの、わたしがなにかしたんでしょうか」
黒ずくめの魔女は笑って、乾いた手を振る。
「いいえ、ゆいかちゃんの問題じゃないの。今日ね、愛チカの制作発表記者会見の日程が決まった。それが、残念なことにね…‥今年のクリスマスイブなの」
イブの日曜日といえば、下北ヌーベル演劇祭の決勝当日だった。亜希子は弁解するようにいった。
「最初はデライト側でも、サンデーズが演劇祭を勝ち抜くなんて思ってなくて、映画会社のほうに年末のゆいかちゃんのスケジュールは空いてるって伝えていたんだ。それでむこうサイドが張り切ってね。あの小説ではクリスマスイブが重要なポイントになってるでしょう」
すでに原作を読んだので、ゆいかにもわかっていた。死期の迫ったヒロインと恋人が初めて出会った渋谷の街角で、粉雪の空を見あげる場面である。その台詞ではゆいかも泣かされてしまったものだ。
「……そうだったんですか」
亜希子はゆいかの様子をうかがうように続けた。
「松多劇場の開演が午後四時。日比谷の帝国ホテルの記者会見のスタートが午後三時。どうがんばっても、間にあわない。ごめんね、ゆいかちゃん」
腕組みをしていたあくたがわ翼がいった。
「そういうわけで、つぎの『セックス・オン・サンデー』が、ゆいかの演劇祭最後の舞台になる。あとのことは考えなくていいから、思い切りがんばってくれ。まあ、つぎの勝負で負ければなんの問題もなくなるんだけどな」
ゆいかは複雑な気もちだった。それが顔にでたのだろう。翼がしみじみといった。
「おまえのメジャーデビューは一生に一度のことだ。ヌーベル演劇祭は来年も開かれる。どっちが大切かはいわなくても、わかるよな」
座長からそういわれたのでは、うなずくしかなかった。
「あの、決勝はどの芝居でいくんですか」
準決勝から決勝までは二週間である。新作は間にあわないのだ。翼は窓の外に目をやっていう。
「そうだな、まだ決定ではないけど、『サマータイム・ストレンジャー』かな」
ゆいかの胸がきりきりと刺すように痛んだ。ゆいかの初舞台になった芝居である。下北サンデーズの快進撃が始まったのも、あの春のステージからだった。空気が重くなったのを、制作の亜希子が読んだ。明るく声を張っていう。
「デライトでもなんとかゆいかちゃんの穴をカバーしようと必死なんだ。事務所の総力をあげて、サンデーズを応援してくれる。あの松本エリーまで貸しだしてくれるって」
松本エリーは女性誌のカリスマモデルで、七本のテレビコマーシャルに出演して新しいCFクイーンといわれていた。ネームバリューだけなら、ゆいかよりもずっとうえかもしれない。おまけに八頭身半の超絶的なスタイルをしていて、ゆいかよりも腕も足も首もずっと細いのだ。翼がいった。
「きれいなモデルでも、舞台は初めてらしい。ゆいかよりは厳しくなると思うけど、サンデーズはだいじょぶだ。おまえは愛チカの記者会見がんばってこい」
「……わかりました」
心のなかに重い塊を沈めたまま、ゆいかはそういってうなずいた。
十二月の初旬は静かにすぎていった。
朝一から大学では講義と実験を詰めこみ、午後早く稽古場に到着する。それから夜遅くまで、みっちりと再演の準備をするのだ。下北サンデーズの劇団員もそれぞれの曲がり角を迎えているようだった。
ゆいかは映画デビューを間近にし、伊達千恵美は翼との同棲の解消と、もしかしたら結婚を控え、寺島玲子はサンボ現とQQQの座長のあいだで揺れていた。キャンディ吉田はドラマで確かな存在感を示して、引越し屋のアルバイトを辞めたという。
サンボ現は玲子と別れてから、逆に女優陣に異様にやさしくなった。仕事のほうは順調だが、ひところの勢いはないようだ。ジョー大杉は不動産屋への就職と結婚で迷っているようだった。二枚目の八神誠一はまだ自殺未遂のショックから完全に立ち直ってはいなかった。劇団のなかではいつも控えめな行動をとっている。座長のあくたがわ翼は人生の収穫期を迎えていた。テレビの連続ドラマとみずから監督する映画の脚本書きに追われながら、稽古をつけている。あまりにいそがしいため、お得意の夜遊びにもしばらくでかけていないらしい。
ゆいかの頭からはヌーベル演劇祭決勝のことが離れなかった。とくにあの若き日のストリッパー役は、まさに自分のために書かれたものだ。別にいじわるな気もちはなかったが、松本エリーが代役をやるのだと思うだけで、気もちが暗くなってしまう。これまではただ目のまえの役に夢中なだけだったけれど、これからはきっと違うのだろう。ゆいかは自分のなかにある嫉妬心に驚くことになった。
憎んでいるとか、嫌いとまでは思わない。けれども、女傑はとにかく同じ女優が気になるものなのだ。
7
十二月の第二土曜日は、厳しく冷えこんだ曇り空だった。
ゆいかは街のあちこちにさがるヌーベル演劇祭のバナーを見ながら、ゆっくりと松多劇場にむかった。目深にニットキャップをかぶり、黒いセルフレームのメガネをかけていても、ときどき里中ゆいかだと指をさされることがあった。テレビCFにでてからは慣れてしまったが、自分が暮らしていた下北沢では妙に違和感を覚えるのだった。ここはゆいかが舞台女優としてのすべてを学んだ街で、華やかな芸能界とはまた別な世界なのである。
街角のポスターでは、準決勝の組みあわせが元気のいい筆文字で書かれていた。A組の対戦カードは下北サンデーズ対たけのこホテル、B組は演劇会議所とQQQである。ここまでで日本の劇団ベスト8の半数が消えてしまった。その一回戦で最大の番狂わせがおこさま企画の敗退だった。下北サンデーズは今や堂々たる優勝候補に駆けあがっている。
劇場の階段に飾られた花のスタンドも、今回は下北サンデーズの圧勝だった。札をチェックしていると、軽く肩をたたかれた。振りむくと寺島玲子が笑っている。
「たけのこホテルって、どういう劇団なんですか」
玲子はラインストーンのはいったジーンズに、どこかの海外ブランドのレザージャケット姿である。芸能事務所にはいってからは、裏のルートで格安でブランドものが手にはいるのだ。サンデーズの劇団員の普段着は、劇的におしゃれになっている。
「うーん、今回のななつのなかでは、一番うちの劇団に近いかな。座長の猫島ほたるはちょうどキャリアも翼さんと同じくらいだし、下北で売れなくてずっと下積みだったのもよく似てる。うちは今年の一年で松多までのぼったけど、たけホテは三年くらいかけて、じりじりと人気を集めてきたの」
「そうなんですか」
ゆいかは一回だけ観たたけのこホテルの芝居を思いだしていた。確かに役者が地味なところも、都会的なコメディセンスも下北サンデーズに似ているのかもしれなかった。ゆいかはボスターを読んで、質問した。
「この『下北以上 原宿未満』っていうお芝居、知ってますか」
玲子は首を横に振った。
「たけホテにとっては、幻の傑作らしいけど、わたしのまわりの演劇マニアでも誰も観た人がいないの。なんだか五年以上昔の作品らしい。でも、あんまり相手のことは関係ないからね」
トーナメントでは逆に相手にあわせようとするほうが不利なのだ。いい芝居をもっているなら、全力でその芝居を観客にぶつけたほうが結果はいい。今の下北サンデーズには一度の好結果から学べることが、無数にあるのだった。勝つたびに自信も深まっていく。
ゆいかはそこで話を変えた。以前から一度きいてみたかったことである。
「あの、余計なお世話かもしれないけど、玲子さんはサンボさんのこと、どう思ってるんですか。このまえのQQQの座長さんとはまだおつきあいしてないんですよね」
サンデーズ唯一の知性派女優は一瞬こたえに詰まってからいった。
「わたしもよくわからない。男なんてみんな面倒だから。でも、ゆいかちゃんにひとつだけいっておくことがある」
ゆいかは黙って、先輩女優のアドバイスを待った。
「同じ劇団の男だけはやめておきなさい」
これにはゆいかも苦笑いして賛成するしかなかった。
「はい、わかりました」
「そういう素直なところが、ゆいかちゃんはいいのよねえ。ここだけの話、松本エリーとかいうモデルじゃあ、つぎの決勝は絶対うまくいかないと思うんだ。だいたいうちは客演とか招いたことないんだから。よそからメインキャストを呼ぶようなお金なかったしね」
そういわれただけで、いくらか気もちが楽になった。
「さあ、いきましょう。男ともめようが、代役を立てられようが、目のまえの舞台に集中する。役者なんて、頭が悪くなきゃやってられない仕事よ。今日も一発かましてやりましょう」
行進でもするように階段をあがっていく玲子にゆいかは続いた。あこがれだった松多劇場も二回目である。もう観客席の広さにも、劇場の名前にも恐れを抱くことはなかった。下北サンデーズの芝居は器がおおきくなっても、そのままで通用するのだ。
ゆいかは素晴らしい劇団の一員であることに酔っていた。
準決勝の結果は思わぬ大差だった。
それぞれの芝居が終わったあとで、ステージでは恒例の採点と勝者の発表がおこなわれたのだ。下北サンデーズの得点は圧倒的な820点である。四倍以上の得点差がついたのだ。ゆいかはたけのこホテルの公演を観ていないので、結果についてはよくわからないところがあった。制作の亜希子によると、それほどの大差がつくとは思えないなかなかの出来だったらしい。『下北以上 原宿未満』は下北沢に住む貧しい男女の生活のダメっぶりをコミカルに描いた佳作だという。
「それでもこんなふうに点差が開くのは、うちの劇団に風が吹いてるんじゃないかな。実態以上に評価されちゃうというか。ショービジネスの世界では、実力も大切だけど、ときの勢いとか、人気というのがバカにならないから」
おかしなことに当のサンデーズの劇団員は、自分たちの人気というのがまったくわからないのだった。ゆいか自身でさえ、この時点でも映画デビューの話には半信半疑だったのである。
決勝進出を祝うステージでほかの役者たちと飛び跳ねながら、ゆいかの心は複雑だった。
自分ひとりだけもう演劇祭はお役ごめんなのだ。勝利のよろこびも半減してしまう。ゆいかは初めて劇団の仲間たちのまえで演技をした。寂しさを隠し、最高の笑顔を見せ続けたのである。
祝勝会と夕食は、いつものひまわり水産だった。
下北サンデーズが予約したいれこみには、先客の顔が見えた。デライトのマネージャーと座っているキリンのように背が高い松本エリーである。
翼の顔を見るとエリーは座敷で立ちあがった。百七十以上は楽にあるのではないだろうか。この背で伊達千恵美の高校生時代の役をできるのだろうか。ゆいかの目はつい厳しくなる。
「おめでとうございます。今日のお芝居も素晴らしかったです」
エリーは翼に抱きつきそうな勢いだった。深々と頭をさげた。
「松本エリーと申します。下北サンデーズさんの舞台は、春の『サマータイム・ストレンジャー』からずっと観ています。伊達さんもゆいかさんもすごくよかった。わたしはモデルよりもずっと演技がやりたかったんですけど、事務所の方針でなかなかやらせてもらえなくて、今回のお話はほんとうに泣いちゃうくらいうれしかったです」
目は顔の表面積の三分の一ほどあるのではないだろうか。薄暗い居酒屋できらきらと光りを撥《は》ねている。これほど背が高いのに、きっと体重はゆいかと変わらないはずだ。細い手足と薄い胴体なのに、胸だけは驚くような高さで前方に突きだしている。骨格からして、ゆいかとはまるで違うのだ。美人なだけでなく、性格も悪くはなさそうだ。
これまではゆいかをちやほやしていた男優陣がてのひらを返して、松本エリーをいじり始めた。サンボが鼻の穴をふくらませていう。
「エリーちゃん、身長はいくつなの」
小柄なサンボは背の高い女が好みである。玲子以外ではモデルやレースクイーンとばかり遊んでいたらしい。
「百七十三センチです。ショーモデルとしてはちいさいし、役者としてはちょっとおおきすぎるし、背の高いのがコンプレックスなんです」
翼が演出家の目で新人を見つめていた。ゆいかが下北沢の稽古場で最初に会ったときと同じである。そんなふうに自分以外の女優を見る座長が、なんだかひどく冷たく思えた。
「千恵美にヒールをはかせれば、背はなんとかなるかもしれない。高校生のころは身長にコンプレックスがあって、ずっと猫背だったという設定でいいかな」
制作がせっせとメモをとっていた。亜希子は制作だけでなく、演出の補助も務めている。
翼はちらりと千恵美を見て、視線をエリーにもどした。
「胸はちょっと押さえ気味にしてくれ」
伊達千恵美がうんざりした調子で、ゆいかに囁いた。
「女優の仕事を続ける限り、こういう目にずっと遭うのよね。こちらのほうが演技の技術はあっても、敵は若くてフレッシュ。観客がどちらをよろこぶかは、考えなくてもわかるでしょう」
ゆいかは自分が伊達千恵美と同じ目線で、新人を見ているのがわかった。最初にサンデーズにはいったとき、なぜあれほど千恵美が自分などを敵視するのか理解に苦しんだのだが、今では納得できる。舞台は女であることをより濃厚に示される場所なのだ。自分だけは違うといっても、通用はしない。
本格的なデビューまえに、そうしたことに気づくのがいいことなのかどうか、ゆいかには自分でもわからなかった。エリーはゆいかのまえにくると頭をさげていった。
「わたしはゆいかさんがはいってからの舞台はすべて観ています。舞台ではあこがれの先輩なので、よろしくお願いします」
ゆいかも相手に負けないくらい深く頭をさげた。エリーは裏のない素直な女の子のようだった。
「そうだ、わたしも愛チカに出演するんです。ゆいかさんの大学の友人役で、出番はほんのちょっとなんだけど」
「わかりました。こちらこそ、よろしくお願いします」
ゆいかは複雑な気もちのまま、型どおりの挨拶を返すだけだった。
8
翌日から始まった『サマータイム・ストレンジャー』の稽古に、ゆいかは休まずにかよった。決勝当日、自分の出番はない。それでも下北サンデーズの劇団員としては、芝居の稽古を休むわけにはいかなかった。
自分の役がないと、逆にいろいろと発見することも多かった。当事者ではなく、横からあくたがわ翼の演出を観察できたことも収穫のひとつである。ほとんど直感だけで演技指導しているように見える座長も、相手に応じてこまかに指導法を変えているのだった。松本エリーは熱心だが、過敏すぎるところがあった。翼のダメだしに極端に振られてしまうのである。それに気づいた翼は、ゆいかのときとは逆にほめて相手のよさを引きだそうとしていた。
劇団の成功にともなって、手伝いの俳優志望者も増えていた。台本をすべて頭にいれて、稽古場の隅に控えているのだ。欠席した役者の代わりに稽古場だけの相手役を務める。本番では決して舞台にあがることはなく、一日中待機しても自分が呼ばれるかどうかはわからなかった。しかも一円にもならないボランティアの仕事である。演劇の街、下北沢にはそういう若者がいくらでもいるのだ。すべての芝居は何者かになりたいと必死で願う者たちのでたらめな情熱によって支えられている。あらためてその事実に気づいたゆいかは胸を打たれたのだった。
クリスマスイブを翌週に控えた火曜日の夜である。
ゆいかは制作の亜希子といっしょに麻布十番にでかけた。一軒家のイタリアンを借り切って、記者会見まえに顔あわせの夕食会が開かれていた。主催は芸能事務所デライトである。かなりの年のはずなのに妙に若い格好をした原作の小説家も、作業着のような上下の脚本家も、赤い野球帽に金髪を押しこんだ映画監督もいた。映画会社、テレビ局、広告代理店、出版社、それぞれ別な企業からきた男たちは、一様にプロデューサーと刷られた名刺をさしだした。
ひととおりの挨拶がすむと、ゆいかの相手役がやってきた。ジミーズ企画の北川トオルである。白いバラの花束をきしだすとにこりと笑っていった。
「下北サンデーズの舞台、いつも拝見してます。今度の演劇祭も欠かさずにかよったよ。里中さんは舞台経験が一年以下だなんて、とても見えないね。すごく度胸がある」
ゆいかは花束を受けとった。バラの甘い香りがする。若手俳優のなかでは、人気実力ともにナンパー1といわれる北川トオルである。いい風が周囲に吹いているような爽やかさだった。これだけのスターでもサブカルチャーが大好きで、下北沢の演劇界だけでなく、秋葉原の電気街にも詳しいのだ。その点では電子工学科のゆいかと話があいそうだった。
「わたしも北川さんのブログ読んでます。あの劇評のおかげで、春の芝居が満員御礼になったんです。その節はどうもありがとうございました」
おいしい料理とワインがつぎつぎと流れていった。笑いの絶えない食事会だった。こういう形で映画というものは始まるのだ。ゆいかは小劇団の世界とはまったく違う展開にとまどいを感じていた。ここで開けられたボルドー一本で、ひまわり水産なら十人分の劇団員の夕食代がでることだろう。
ガスいりのミネラルウォーターをのみながら、ゆいかはおかしなところにばかり反応していた。
決戦まで三日になった木曜の午後である。
松本エリーはどうしても抜けられない雑誌の撮影があるため、稽古を欠席していた。ゆいかは自分の出番がなくても、すべての稽古に顔をだし、台本の台詞はすべて頭にはいっている。
エリーの代役を探していた翼がにやりと笑って、ゆいかにいった。
「どうだ、やってみるか」
「はいっ」
稽古場の広いフロアに響く返事をして、ゆいかは跳びあがった。また下北サンデーズの仲間といっしょに芝居をできるのがうれしくてしかたなかったのである。伊達千恵美が安心したようにいった。
「やっぱりこの役はゆいかちゃんじゃないとしっくりこないな。最初から翼があて書きした台詞だものね。だいたいエリーはゆいかちゃんと違って美人すぎるから」
ほめられたのか、けなされたのかわからない言葉だった。キャンディもいう。
「いや、ほんと。それにエリーはずっといい子のままだから、演技がつまんないんだよ。底が浅くてさ」
それは稽古を見ているだけだったゆいかも感じていたことだった。四歳からモデルとして活躍していたというエリーは、人に自分がどう見られるかが身体に染みついているようだった。どんな芝居をしていても、自分だけはよいイメージで見られたいと無意識のうちに守ってしまうのだ。生身の人間がぶつかりあう舞台で、ひとりだけ防弾チョッキでも身につけているように見える。翼が声を張った。
「鬼のいぬ間になんとかだ。ゆいかに手伝ってもらって、ほかの役者はちゃんと微調整をしてくれ。本番まであと三日だぞ」
年の瀬を控えても、稽古場には熱気があふれていた。ジャージの背中は誰もが汗だくである。ゆいかは久しぶりの芝居に全身の血が沸騰するのを感じていた。
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クリスマスイブの朝、ゆいかは目覚めると早速シャワーを浴びた。カレンダーを確認する。十二月二十四日の欄には、ヌーベル演劇祭決勝と愛チカ記者会見の二行が赤いボールペンで記されていた。制作兼マネージャーの江本亜希子が、恵比寿のマンションに迎えにきたのは午前十一時だった。
ふたりはガーデンプレイスのレストランで、パスタランチをとった。この寒さでも外国人はオープンテラスで食事をしている。きっと寒さに強いのだろう。
「今日は何時いりですか」
亜希子は手帳も見ずにこたえた。再開発地の空をむこう側が透けて見える冬の雲がひとつだけ流れている。
「記者会見の二時間まえには会場につくようにいわれてる」
ゆいかはすっぴんだった。メイクと着替えはホテルなのだ。
「今ごろ、みんなは松多劇場ですよね」
なにも考えてはいなかったのに、気づくと演劇祭のことを口にしていた。亜希子は辛抱強くいった。
「そうね。舞台の準備をしてるんじゃないかな」
長い待ちの時間である。本番まえの時間というのは、嫌になるくらい長く感じられるものだ。
「わたしたちもいきましょう」
ゆいかはひざのナプキンで唇をふいて立ちあがった。窓の外を見る。この晴天なら、観客の動員も悪くはないだろう。演劇祭の最終日なので、空席がでることなど考えられなかったが、ゆいかはすっかり劇団員の頭になっていた。
地下駐車場から亜希子が運転してきたのは、青いミニ・クーパーSである。それも事務所のもちものだった。芸能事務所では、生活のすべてが丸がかえになるのだ。ゆいかはちいさなボディにのりこむと、心のなかから松多劇場と下北サンデーズを締めだすことにした。もう考えてはいけない。
こちらにはこちらの闘いがあるのだ。
日比谷の帝国ホテルに到着したのは、午後一時だった。クリスマスイブである。ホテルのエントランスには青いLEDの電飾が瞬いていた。ドアマンがどこかにこやかに感じられるのは、イブのせいかもしれない。世界がもっとも暗くなる冬至のころに、貧しい馬小屋で救世主は生まれたのだ。ゆいかは礼をいって車をおりた。広いロビーを奥にむかう。表示板には筆書きで、劇場用映画『そして、ぼくは愛を誓った』制作発表会とあった。会場は二階のホールのようだ。
江本亜希子といっしょに階段をあがった。広い廊下をまっすぐにすすむと、映画会社の広報マンが待っていた。駆け寄るようにゆいかのそばにきて会釈した。
「里中さん、こちらの楽屋へどうぞ。ヘアメイクとスタイリストが待機しています」
ゆいかはファッションにはあまり興味がなかった。今も事務所からわたされたどこかのブランドの服を適当に着ているだけである。
「よろしくお願いします」
壁一面が鏡になった明るい部屋だった。着替えのまえにまずメイクアップである。ゆいかが席に着くと同時に、白い布が首を巻いて上半身をおおった。化粧と着替えには四十五分を要した。スタイリストがこの日のために用意したのは、原作のヒロインのイメージにあったワンピースである。白に淡いブルーの小花が散った清楚なシルクサテンのドレスだった。模様はすべて手描きである。きっと自分には想像もできないような値段なのだろう。
こうした贅沢なものにも、ゆいかはすぐに慣れてしまった。個人で買うならたいへんだと思うけれど、すべては仕事の経費なのだ。このドレスに至っては、今日ここで着たあとは返却するのである。ゆいかは動くマネキンのようなものだ。最新モードへのあこがれなど、いっぺんに冷めてしまう。
準備ができると、前室にとおされた。ひとりがけのソファがずらりと二十ほど、部屋の中央をむいてならんでいる。ゆいかのまわりでは、また名刺の交換会が始まった。こういうときの原作者や監督というのはたいへんだった。ゆいかは挨拶の人間がやってくるたびに立ちあがり、よろしくお願いしますと頭をさげた。
いつもならこの時間はほこりと汗にまみれたジャージで下北沢の稽古場にいるはずなのだ。傷だらけの板張りのフロアとふかふかのじゅうたんが敷きこまれたホテルのバンケットルーム。対照があまりに極端でめまいを起こしそうになる。
黒の細身のスーツを着た北川トオルがやってきた。
「会見場を見た? すごいカメラと報道陣だよ。やっぱり二百万部のベストセラーの威力ってすごいんだね」
ゆいかはまだその場所を見ていなかった。亜希子がうなずき返してくる。ふたりは連れ立って、ホテルの宴会場をこっそりとのぞきにいった。重いドアを開いて、体育館のように広い室内に顔をだす。
金屏風《きんびょうぶ》のまえには白い布のかかったテーブルが一列。そのうえには映画のタイトルがはいったパネルがさげられている。なによりもすごいのはカメラの三脚の数だった。いい位置を確保しようとして、熱帯のジャングルのように密集している。
「キー局すべてのテレビカメラと主だった新聞雑誌のスチルはきてるはずよ。報道関係だけでもう二百人は超してるんじゃないかな」
それほどのマスコミをまえにするのは、ゆいかはもちろん初めてだった。舞台にでるのと同じ緊張感が流れる。ここで女優としての第一歩を踏みだすのだ。誇らしい気もちでいっぱいになる。きっと今日のこの日を、わたしは一生忘れないだろう。誰でもデビューは一度しか経験できないのだ。
そのとき、バッグのなかで携帯電話が震えだした。会場に着いてからは、マナーモードに切り替えてあった。耳元にあて、会場から離れる。
「ああ、ゆいかちゃん」
キャンディ吉田ののんびりした声があふれだした。大柄なコメディエンヌはいう。
「そっちはどう? カメラはすごい? 北川トオルはきてる?」
返事のしようがない質問だが、キャンディ吉田の声をきいているだけで落ち着くのが不思議だった。
「すごいし、きてます。そちらはどうですか」
「こっちはさんざん。昨日の夜さあ、ゆいかちゃんが帰ってから、とうとう翼さんがエリーに切れちゃったんだよね。そんないい子の振りをするなって」
心配していたことがついに起きてしまった。翼はいつもの自分を抑えて、エリーをほめて育てようとしていた。ゆいかに比べれば大人だが、座長もまだ三十をいくつか越したばかりである。いけないとわかっていても、爆発してしまったのだろう。
「それで、どうなったんですか」
キャンディの声はこんなときでものんびりしていた。
「エリーは大泣きするし、完全に自信喪失。千恵美姉さんもぴりぴりだよ。待って、みんなと代わるから」
ゆいかは広い廊下の隅にあるソファにむかった。自分の心はやはり劇団とともにある。都心の豪華なホテルから奇妙なほど現実感が薄れていった。
「ゆいかちゃん、わたし」
今度はいつになくはじけた寺島玲子の声だった。
「どうしたんですか」
「わたし、結婚することにした」
ゆいかはびっくりして、携帯を落としそうになった。
「QQQの人とですか」
きざな二枚目を思いだした。そういえば決勝の相手は、そのQQQだったはずだ。むこうは圧倒的に女性客に人気がある。強敵だ。
「違うよ。サンボと。あれからわたしたち、話しあってね。それで、まあ、許してあげてもいいかなって」
ゆいかはただうれしかった。あの初夏の夜、玲子とサンボの話を盗みぎきして、心から感動したのである。
「よかった。おめでとうございます」
「ありがとな」
電話のむこうは玲子からサンボ現に代わっていた。
「おれはさ、ほんとに玲子の幸せだけを考えて、QQQのほうがいいと思ったんだ。あいつなら玲子のことを大切にしてくれそうだし、二枚目だし、座長だし、いい大学もでてるしさ。中卒で、不細工で、座長でもないおれとじゃ、話にならない。でも、それが逆に玲子にはよかったみたいなんだ。おれが自分を捨てて、まごころで玲子のことを考えたって」
ゆいかはあらためて、おめでとうといった。電話はまた代わっている。
「おれもまだしばらくは役者をやることに決めた」
ジョー大杉だった。声は金髪と同じで明るい。
「まだ不動産屋のオヤジになって引っこむには、若すぎるもんな。おれはあきらめが悪いから、なんとか下北サンデーズにしがみついて、ビッグになれるようにがんばってみるよ。だけど、悪いニュースもひとつある。代わるぞ」
「ゆいかちゃん、ぼくだ」
サンデーズ唯一の二枚目、八神誠一だった。制作の江本亜希子がゆいかの様子に気づいて、
こちらにやってきた。携帯電話に耳を寄せてくる。
「ぼくは今日の舞台を最後に、劇団を抜けることになった。また別なところで芝居は続けるつもりだけど、サンデーズとはさよならだ。芸能プロダクションにはいって、メジャー路線を目指す。そういうのもいいとは思うけれど、ぼくの望む方向ではないんだ。実は準決勝であたったたけのこホテルの座長と意気投合してね。つぎの公演から、むこうに移ることになった」
静かな男が興奮しているようだった。無理もない。十年いっしょにやってきた劇団を離れるのだ。不安も興奮もたいへんな量だろう。ばらばらになったサンデーズを盛りあげようとがんばった八神の姿を、ゆいかは思いだしていた。いつも困った表情をした誠実そうな顔が、同じ舞台で二度と見られなくなるのだ。ゆいかは泣きそうだった。
「待って、つぎに代わる」
間をおかずに、耳元で華やかな声がした。
「ゆいかちゃん、わたしよ」
看板女優の伊達千恵美だった。
「あのね、わたしも八神くんと同じになった。今日でサンデーズとさよならするの。翼と別れるのに、この劇団にはもういられない。わたしは亜希子さんみたいに強くないからね。このまえの人と結婚することになると思う。十年待たせたし、今度はお芝居じゃなく、ふたりの生活で主演女優賞を目指してみる。まあ、いつまで続くかわからないけどね」
「…………」
亜希子は黙って、同じ男を争った女の声をきいている。下北サンデーズのなにもかもが変わろうとしていた。やはりおおきな演劇祭というのは、劇団にとっても節目にあたるのだろう。下北サンデーズには、転機がきていた。八神と千恵美が抜けたら、二度と同じ舞台はつくれないだろう。サンデーズを特別にしていた空気が徹底的に変化してしまう。ゆいかの心は焦りでいっぱいになった。今日の決勝戦を逃したら、もう二度とあのキャストで芝居はできないのだ。
「千恵美さん、八神さん、辞めないでください」
自分が涙声になっているのが不思議だった。間もなく記者会見が始まろうとしている。
「わたしは下北サンデーズが大好きなんです。お金がなくて、お客がはいらなくても、サンデーズといっしょに下北で舞台に立てるだけで、ずっと幸せだった。みんな、辞めないでください」
ゆいかは誰にむかっていっているのか、自分でもわからなくなった。亜希子はそんなゆいかを腕組みをして冷静に眺めている。
「おれは辞めないよ、サンデーズ」
座長のあくたがわ翼だった。人の動きがあわただしくなった。会見場にたくさんの人間が流れこんでいく。
「まだまだやりたい芝居もたくさんあるしな。でも、千恵美と八神のはなむけに、今日はなんとしても勝ちたいんだ。エリーはもうダメだ。楽屋からでてこないし、壊れちまってる。なあ、ゆいか、そっちの会見って、なんとかならないのか」
そのひと言でゆいかの心臓が倍の速度ではずみだした。送話口を押さえて、亜希子にきく。
「ここから下北まではどれくらいかかりますか」
亜希子はこんなときでも冷静だった。
「日曜日の夕方ね。混んでるだろうけど、飛ばせば三十分でいけるかな」
「わたしが記者会見を抜けたら、事務所のほうはどうなりますか」
デライトでは、このデビューのためにたくさんの資金を投入しているはずだった。腕時計を見て、亜希子はいった。
「かんかんに怒るでしょうね。面子は丸潰れだし、ほかの出資者の手まえもあるしね」
ゆいかは都心のホテルの室内を見わたした。スーツのビジネスマンたち、白いジャケットの給仕たち、ジーンズのカメラマンたち。すべての調度品にはたっぷりと金のにおいが沁《し》みついていた。ここではすべてが清潔で、きちんとデザインされている。
反対に下北沢の劇場を思いだしてみる。小劇場のほこりだらけの舞台、椅子代わりの黒い木箱、どこか下水のにおいのする狭い楽屋、そしてひと癖ありそうな演劇好きの観客たち。
あそこにはネクタイとスーツの人間はひとりもいなかった。この八カ月間の思い出が、頭のなかを駆けめぐった。わたしは今ここで、なにをしているのだろう。しばらく目を閉じていたゆいかは、最後にいった。
「あとでどんなにしかられてもいい。わたしは松多劇場にいきたいです」
もうゆいかは涙を隠すことができなかった。自分のいっていることは無理な願いなのだろうか。本来属している場所に帰るのが、かなえられないほど高い望みだろうか。亜希子が冷たく笑っていう。
「やっぱりあなたは女優ね。こういうときに全部を投げだせる。そういう人間にだけ、神様が舞台の輝きをくれるものなの。さあ、いきましょう」
心に火がつくような言葉だった。
「ありがとうございます」
江本亜希子に先導されて、地下駐車場へ駆けおりた。車にのりこむと亜希子はいった。
「うしろの席にあなたのセーラー服を用意してある」
ゆいかは息をのんだ。ミニ・クーパーはコンクリートの急坂を地上へとのぼっていく。
「でも、どうして……」
急ハンドルを切りながら、亜希子はいった。
「女優の気もちがわからなくちゃ、マネージャーは務まらないでしょう。メイクはそのままでいいから、車内で着替えちゃいなさい。着いたら、すぐに舞台が始まるわよ」
ゆいかは借りもののドレスを脱ぎ捨てて、雑なつくりのセーラー服に袖をとおした。渋谷のディスカウントショップで買った思い出の品だ。腕時計を見ると、ちょうど記者会見が始まる時間だった。携帯電話の電源はふたりとも、すでに落としている。もう電波さえ追いつけないのだ。クリスマスイブの街なみが飛ぶように後方に流れていった。ゆいかの心は加速する自動車のなかでさえ全力疾走していた。
もうすぐあの街に帰るのだ。
そして、あこがれの舞台に立つ。まばゆい照明のなか、なつかしい仲間たちが待っていることだろう。
そこはゆいかの夢のすべてが始まった場所だった。
この作品は二〇〇六年七月小社より刊行されたものです。