角川文庫
新釈雨月物語
[#地から2字上げ]石川 淳
新釈雨月物語 目次
白 峯
菊花の約
浅茅が宿
夢応の鯉魚
仏法僧
吉備津の釜
蛇性の婬
青頭巾
貧福論
附 録
秋成私論
樊巾下の部分について
白 峯
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|讃岐《さぬき》の|白《しら》|峯《みね》にある|崇《す》|徳《とく》|院《いん》の墓に|詣《もう》で、涙を流していた西行の前に、院の|怨霊《おんりょう》が姿を現す。|聡《そう》|明《めい》と名高かった崇徳院の、魔道に堕ち、天下に大乱を起こそうと|企《たくら》むあさましさに、西行は正道にたちかえって成仏せよと懸命に説く。しかし院は、|凄《すさ》まじい魔王の姿へと|変《へん》|化《げ》し、あらためて|仇敵《きゅうてき》への|復讐《ふくしゅう》を誓うありさまだった。哀しみあまって西行が|詠《よ》んだ歌に、院は感じ入った様子で消えてゆく。だが、近頃の世の乱れも、のちに起こる平氏の滅亡も、院の言葉通りであった。
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|逢《おう》|坂《さか》の関を東へと越えてから、おりしも秋の山山、もみじの色を目にのこして、旅路いそがず、浜千鳥の跡しのばれる尾張の|鳴《なる》|海《み》|潟《がた》、|駿《する》|河《が》の富士に立つけむり、浮島が原、清見が関、大磯小磯の浦浦をすぎ行き、むらさきのひともとゆえにと古歌に|詠《よ》まれた武蔵野の草をあわれと見つつ、さらに北の方へとこころざし、みちのくの|塩《しお》|竈《がま》の朝なぎ、|象《きさ》|潟《がた》の|蜑《あま》が|苫《とま》|屋《や》、また南に下っては|上《こう》|野《ずけ》の佐野の舟橋、信濃に入っては|木《き》|曾《そ》の|桟《かけ》|橋《はし》、いずこも心ひかれぬかたとてはなかったが、なおこのたびは西国の歌の名どころを見たいものと、ときに|仁《にん》|安《あん》三年の秋、|葭《あし》がちる|難《なに》|波《わ》をへて、|須《す》|磨《ま》|明石《あかし》の浦風しみじみ身にしみながら、行くほどに四国にわたって、|讚岐《さぬき》の|真《み》|尾《お》|坂《さか》の林というところに、しばらく|杖《つえ》をとどめた。はるけくもめぐり来た長旅の、疲れをやすめようがためではなくて、これは念仏一途におもいをすますべき草の|菴《いおり》であった。
この里にちかい|白《しら》|峯《みね》というところには|崇《す》|徳《とく》|院《いん》の墓ありと聞いて、これはぜひ|詣《まい》らずばなるまいと、十月のはじめごろ、かの山にのぼった。山の奥にわけ入れば、|松柏《しょうはく》ふかく茂りあって、空みどりに晴れわたった日ですら、ここは露しとど、小雨のふりかかるに似た。|児《ちご》が|岳《たけ》というけわしい峯がうしろにそびえ、切りおろした谷の底から雲霧が|湧《わ》きのぼって、つい目のさきにさえ踏み出す足もともおぼつかない。木立のわずかにすいたところに、土を高く積んで、その上に石を三重にたたみあげたのが、うばら、かずらに埋もれてさびしく見えたのを、これが御墓かと、こころも|闇《やみ》にとざされて、さらに夢ともうつつともわかちがたい。まのあたりにありし世の故人に|見《まみ》えたむかしをおもえば、このひと、ときに|紫《し》|宸《しん》|殿《でん》清涼殿の玉座にのぼって、国のまつりごとを聞かせられ、百官百僚、さてもかしこき主上よと、仰せのままにつつしんで仕えた。また位を|近《この》|衛《え》院にゆずられたのちも、なお上皇の座を占めて、御所の威儀きらびやかにあおがれた。しかるに、おもいもかけず、鹿のかよう跡のみ見えて、かたわらに仕えるひともない山奥の、荒れはてた草むらのかげにむなしくなられたとは、何たることか。万乗の天子という身分であってさえ、|前《さき》の世の|業《ごう》というものはやっぱりおそろしくも附きまとって、罪をのがれることはできなかったのかと、はかなき世のすがたをおもいつづけて、こみあげる涙をとどめかねた。せめては夜もすがら|回《え》|向《こう》申しあげようと、墓のまえのたいらな石の上に座をかまえて、経文しずかに|誦《ず》しながらも、また歌一首よみあげて、これをささげた。
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松山の|浪《なみ》のけしきはかはらじをかたなく君はなりまさりけり
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松山に打ちよせる浪のけしきはもとのままながら、ひとは跡形もなくほろびたというこころを歌って、なおまことをこめて供養した。|袖《そで》は露にしめり、なみだにしめり、やがて日もしずめば、山奥の夜のさまはただならず、身を置くところは石の上、かぶるものは落ちかかる木の葉、寒さきびしく、こころは澄み骨は冷えて、何とはなしにすさまじい。月は出たが、木木ふかく茂って影をもらさないので、あやめも知らぬ闇にただよい、眠るともなくうとうとしかけたおりに、たちまち声あって、
「|円《えん》|位《い》、円位。」
たしかにわが名を呼ばれて、目をあいてすかして見れば、なにものか、|異形《いぎょう》のひとの、たけ高く|痩《や》せおとろえたのが、顔のかたち、|著《き》たものの色あやもおぼろげに、こちらに向いて立ったのを、もとより道心堅固の|西行《さいぎょう》、ちっともおそれず、
「そこに来たは、たれじゃ。」
かのひという。
「さきになんじの|詠《よ》んだ歌の、かえしを申し聞けようとて、ここにあらわれたのじゃ。」
そして、そのかえしの歌をよみあげていうには、
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松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけるかな
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松山の浪にながれ寄って来た船は、都にかえる路も絶たれて、ついにこの地に朽ちはてたというこころときこえた。
「よくぞ詣うでてくれたな。」
そう聞くより、さては|崇《す》|徳《とく》|院《いん》の霊かと、地にぬかずき涙をながしていうに、
「さりとては、なにを迷わせたまうか。|塵《ちり》の世をお捨てあそばされたことを、うらやましく存じあげればこそ、こよいここに回向して、仏縁にもあずかろうものをと念じたのに、かたちを見えさせたまうとは、ありがたくも悲しいおんこころかな。ひたすら生をへだて、俗界をわすれ、円満具足のみほとけとは成らせたまえ。」
こころをつくして|諌《いさ》めれば、崇徳院からからと笑って、
「なんじ知らぬな。ちかごろの世のみだれは、みなこのわしのなすわざじゃ。生きてあった日から、かねて魔道にこころざしをかたむけて、|平《へい》|治《じ》の乱をおこさせ、死んでもなお朝廷にたたりしてくれる。いまに見よ、やがて天下に大乱を生ぜしめようぞ。」
西行、そのことばに涙をとどめて、
「これはあさましい御心底をうけたまわるものかな。君はもとより|聡《そう》|明《めい》ときこえた御方なれば、王道の|理《ことわり》はさだめておわきまえあそばされよう。こころみにおたずね申しあげる。そもそもかの|保《ほう》|元《げん》の|御《ご》|謀《む》|叛《ほん》は、|天《あめ》の神の教えたまう道理にもそむかぬものとして、おぼしめし立たれたか。それとも、おん身の|慾《よく》|心《しん》よりくわだてられたか。くわしくおことば賜わりたい。」
そのとき、院のけしき変って、
「なんじ、よっく聞け。げにも王位は人間の極上じゃ。もしその上位にあるものより人たるの道をみだすときは、天の命に応じ、民の望にしたがって、まさにこれを|伐《う》つべきじゃ。そも|永《えい》|治《じ》のむかし、わが身に犯せる罪もないのに、父のみかど|鳥《と》|羽《ば》院の仰せをかしこみ、三歳の弟|体《とし》|仁《ひと》に王位をばゆずったぞ。このこころ、人慾ふかしとは申せまい。体仁(近衛院)はやく世を去ってのちは、わが子の|重《しげ》|仁《ひと》こそ王統をつぐべきものと、われもひとも望をかけておったに、体仁の母|美《び》|福《ふく》|門《もん》|院《いん》のねたみにさまたげられて、これも弟の|雅《まさ》|仁《ひと》に世をうばわれたは、遺恨ここにきわまった。重仁は国の王たるべき才あり。雅仁(後白河院)何のうつわぞ。その位にあるべきひとの徳と不徳とをえらばずして、天下のおおやけごとを後宮の婦女子とかたらいたまうは、父のみかどの罪であった。されど、父君の世におわせしあいだは、孝信の道をまもって、ゆめ色にも出さなんだが、かくれさせたまいしうえは、いつまで忍びがたきを忍ぼうぞと、勇猛のこころざしをおこしたのじゃ。臣として君を伐ってすら、天の命に応じ民の望にしたがえば、周の武王、かの|殷《いん》の|紂王《ちゅうおう》を伐って周八百年の大業のはじめともなったものを、まして然るべき位ある身にて、めんどりの時をつくる世を取って代ろうというに、道をうしなうと申せようか。なんじ家を出て仏におぼれ、未来に業苦をのがれんとねがう利慾のこころより、人道をもって仏道の因果に引き入れ、|尭舜《ぎょうしゅん》のおしえを仏法と一つにいいくるめて、小ざかしくもこのわしに説きつけようとするか。」
声あららかにいいつのるのを、西行いよいよおそれる色もなく、|膝《ひざ》をすすめて申すようは、
「君の仰せられるところは、人道の理を借りて、じつは塵の世の慾心をのがれたまわぬことじゃ。遠くもろこしのためしを引くまでもなく、和朝のむかし、|誉《ほん》|田《だ》の天皇(応神)は、王子あるが中に、兄の|大《おお》|鷦鷯《さざき》の|王《きみ》をさしおいて、|季《すえ》の|菟《う》|道《じ》の|王《きみ》をあとつぎの|太《み》|子《こ》とはなされた。天皇おかくれののち、兄弟たがいに譲りあって位におつきなされぬ。三年にわたっても、なおはてしがないのに、菟道の王ふかくうれいたまいて、いつまでも生きのびて天下のわずらいとなろうかと、あわれ、みずからおんいのちを断たせられた。されば、やむをえず、兄の王子、位につかせたもうた。すなわち、|仁《にん》|徳《とく》天皇におわす。これ天子の位をおもんじて、|孝《こう》|悌《てい》の徳をまもり、まことをつくして、人慾が無い。げに尭舜の道とはこのことか。本朝に儒の教をとうとんでもっぱら王道のたすけとすることは、菟道の王、|百済《くだら》の|王《わ》|仁《に》を召してまなばせられたがはじめなれば、この兄弟の王子のみこころこそ、やがてもろこしの聖賢のこころとも申そうか。また周のはじめ、武王ひとたび起って天下の民を安んじた。ひとのいいつたえに聞けば、|孟《もう》|子《し》という本にはこれをこう説いてあるそうな。すなわち、武王が紂王を伐ったのは、臣として君を|弑《しい》したということにあらず。およそ王たるものは仁義の徳を身にそなえるべきなのに、かの紂は仁をぬすみ義をぬすんで王位をけがしたものなれば、これを伐つは紂という一|匹《ひっ》|夫《ぷ》を|成《せい》|敗《ばい》したことじゃと申す。おもえば、もろこしの本は経書史書詩文に至るまで渡来せぬものとてはないのに、かの孟子の本ばかりはいまだこの国に来らず、この本を積んで来る船は、かならず暴風にあって沈むとやら。その|仔《し》|細《さい》を問えば、この国は|天照大神《あまてらすおおみかみ》のひらかれたむかしより、世嗣の王統の絶えることなき国がらなるに、かかる口がしこい説法をつたえたなら、末の世には神の血筋をうばって罪なしという敵も出ようかと、|八《や》|百《お》よろずの神のこれをにくんで、神風をおこして船をくつがえすと聞く。されば、かの国の聖賢の教といえども、ここの国土にふさわしからぬ儀もすくなからずじゃ。」
西行さらに声をはげまして、
「かつまた詩経にも、兄弟内にあらそうとも外のあなどりをふせげよとはいう。しかるに、骨肉の愛をわすれたまい、あまつさえ鳥羽院崩御、そのなきがらの肌もいまだ冷えぬうちに、いくさの旗をなびかせ、弓ふり立てて、王位をあらそいたまうは、不孝の罪これよりはなはだしきはなしと申そうぞ。まことに老子にいうごとく、天下は神器じゃ。人間が|私《し》|慾《よく》をもってこれをうばおうとしても、手に入れることは|叶《かな》わぬ道理じゃ。たとい|重《しげ》|仁《ひと》の|王《きみ》を立てることは万民の望むところではあっても、徳をしき和をほどこしたまわずして、道ならぬ手だてをもって世をみだしたまうときは、きのうまで君を慕ったものもきょうはたちまち|仇《あだ》がたきとなって、本意をもとげられず、いにしえより前例なき罪を負わせられて、かかる山間|僻《へき》|地《ち》の土とはならせたまうのじゃ。ただただむかしの遺恨をわすれて、みほとけの国にかえらせたまえ。ねがわくは、みこころを迷わせたまうな。」
はばかることなく説きたてれば、崇徳院、長いためいきついて、
「なんじ、事の正しきを説いて罪を問う。申すところ一理なしとはせぬ。されど、いかにせん、この島に流されて、松山の里なる|高《たか》|遠《とお》なにがしの屋形にとじこめられ、日に三たびの|糧《かて》をあてがわれるほかには、まぢかに仕えるものとてもおらぬ。ただ空とぶ|雁《かり》の声、|夜《よ》|半《わ》の|枕《まくら》をおとずれるのを聞けば、さだめて都に行くかとなつかしく、あかつきの千鳥の|洲《す》にむれさわぐのも、こころ痛めるたねとなる。からすの頭は白くなろうとも、都にはかえるべきときもなければ、|必定《ひつじょう》この海べの鬼となりはてる身か。今はひたすら後世のためにとて、五部の大乗経をうつしはしたが、このあたりに寺はなく、貝の音鐘の音もきこえぬ|荒《あら》|磯《いそ》にとどめおくことも、かなしきわざじゃ。せめては筆の跡のみなりと都のうちに入れさせたまえと、|仁《にん》|和《な》|寺《じ》の|門《もん》|跡《ぜき》、すなわちわが弟の|覚性法親王《かくしょうほうしんのう》のもとに、経にそえて詠んでおくった歌は、
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浜千鳥跡はみやこにかよへども身は松山に|音《ね》をのみぞ|鳴《なく》
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鳥の跡に似た筆の跡だけは京にのぼったが、わが身はこの松山に|宛《あて》もなき日を待ちくれて、ただ鳴くばかりというこころを、こうは詠んだのじゃ。
しかるに、少納言|信《しん》|西《ぜい》のはからいとして、もしや|呪《じゅ》|詛《そ》のこころかと奏しおったにより、そのままに返されたは、何とも無念の儀じゃ。いにしえより和漢ともに、国をあらそって兄弟たがいに仇がたきとなったためしはめずらしからずとはいえ、罪ふかきことかなとおもえばこそ、せめて悪心|懺《ざん》|悔《げ》のためにもとて、手ずからうつした経文ではあった。それを、いかに邪魔だてするものありとも、肉親はまた格別のはからいもあろうに、ひとの世の習にさからい、筆の跡すら入れたまわぬとは、主上のみこころ、これぞ今はひさしい|讐《あだ》じゃ。|所《しょ》|詮《せん》この経を魔道にささげて、恨をはらさんものと、一すじにおもいきって、指をやぶり血をもって願文をうつし、経もろともに|志《し》|度《と》の海に沈めてのちは、ひとにも逢わずに、ふかくとじこもって、ひとえに魔王となるべき大願をちかったが、さてこそ平治の乱はおこったぞ。
まず|藤原信頼《ふじわらののぶより》が高位をのぞむ|驕慢《きょうまん》のこころをそそのかして、|源義朝《みなもとのよしとも》を語らわしめた。この義朝こそ、にっくい敵じゃ。さんぬる保元の乱には、父の|為《ため》|義《よし》はじめ一族のもののふはみなこのわしのためにいのちを捨てたのに、こやつ一人、わしにむかって弓をひきおった。わが味方は|為《ため》|朝《とも》の勇猛、為義または|平忠正《たいらのただまさ》の軍配に依って、いくさは勝と見えたおりに、西南の風に敵の焼討をうけて、わしも白川の宮を|脱《ぬ》け出し、東山の|如《にょ》|意《い》が峰の|嶮《けわ》しきに足をやぶられ、あるいは|樵夫《しょうふ》の|椎《しい》|柴《しば》をかぶって雨露をしのぎ、ついに捕われてこの島に流されるに至るまで、みな義朝めがわるがしこい計略にくるしめられたためじゃ。これが返報には、こやつに|虎《こ》|狼《ろう》のこころを吹っこみ、信頼の陰謀に荷担させたれば、地の神にさからった罪として、武略にうとい平|清《きよ》|盛《もり》のためにかえって敗をとった。かつ父の為義を殺したむくい、おのが身にせまって、家臣のためにだまし討ちにされたのは、天の神の罰をこうむったものよ。また少納言信西めは、つねづねおのれひとり博士ぶりて、ひとを容れぬよこしまの性根なれば、こやつをそそのかして、信頼義朝の仇とはしてくれた。そのため、ついに家を捨てて、宇治の|木《こ》|幡《はた》|山《やま》に穴を掘ってかくれたのを、さがし出され、首をとられて、六条河原に|梟《か》けられた。これわが写経をかえした|讒《ざん》|言《げん》の罪をただしたのじゃ。その余勢をもって、|応《おう》|保《ほう》の夏には|美《び》|福《ふく》|門《もん》|院《いん》のいのちをうばい、|長寛《ちょうかん》の春には関白|忠《ただ》|通《みち》めにたたってくれたぞ。
その年の秋、わしもまた世を去ったが、うらみの火、いかりの炎、なお燃えさかって尽きざるままに、ついに大魔王となり、三百余類の|巨《きょ》|魁《かい》とはなった。わが|眷《けん》|族《ぞく》のなすところは、ひとのさいわいを見ては転じてわざわいとし、世のおさまるを見ては乱をおこさせるのじゃ。ただ清盛の果報いみじくして、その一門ことごとく高位高官につらなり、おもうがままの国政をとりおこなうといえど、その子|重《しげ》|盛《もり》賢人づらをもって|輔《ほ》|佐《さ》するがゆえに、いまだこれをほろぼす期がいたらぬ。なんじ見よ、平氏もまた久しくあるまい。雅仁(後白河院)われにつらくあたったほどは、やがて報いてくれようぞ。」
そのさけぶ声はますますおそろしくきこえた。西行いうには、
「君かくまで魔界の悪縁につながれて、みほとけの浄土には億万里をへだてたまううえは、なにをふたたび申そうか。」
ただ黙して、これにむかっていた。
ときに、峯も谷もゆらぎうごいて、風あらきこと林をたおすごとく、砂をも石をも空に巻きあげた。見る見る、陰火むらむらと、崇徳院の|膝《ひざ》もとより燃えあがって、ここに山、そこに谷、あかるく昼のごとく照らし出した。光の中につくづく院のありさまをうかがうに、おもてには朱をそそぎ、荒れすさんだ髪は|膝《ひざ》に垂れかかるまでにみだれ、白眼をつるしあげて、あつい息をくるしげについている。|著《き》たるころもは|柿《かき》|色《いろ》も|褪《あ》せすすけて、手足の|爪《つめ》はけもののごとく、長くとがり、生いのびて、さながらすさまじい魔王のかたち、ここにあからさまに現じた。院は空にむかって、
「|相模《さがみ》、|相模《さがみ》。」
あっと答えて、|鳶《とび》のごとき|化鳥《けちょう》、|翔《か》け来って、前に伏して命を待つ。これぞ|三《み》|井《い》|寺《でら》の僧、相模勝尊のなれのはてか。院、かの化鳥にむかって、
「なんじ、なにとてはやく重盛のいのちをうばって、雅仁清盛をくるしめぬか。」
化鳥こたえていう。
「上皇(後白河)の命運いまだ尽きず、重盛の忠信ちかづきがたし。今より|干《え》|支《と》一めぐり、十二年を待てば、重盛のいのち、もはや尽き申そう。かれ死せば、一族の運勢このときにはほろびましょうぞ。」
院、手をうって、よろこんで、
「うむ、かの仇がたきども、ことごとくこの目のまえの海にほろぼしてくれよう。」
その声、谷に峯にひびいて、すさまじさいうべくもない。魔道のあさましきすがたをまのあたりに見て、涙とどめあえず、西行ふたたび一首の歌をよんで、仏縁につながるべきこころをすすめつつ、
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よしや君昔の玉の床とてもかからんのちは何にかはせん
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身すでに死しては、|貴《き》|賤《せん》貧富の差別は無いものをと、こころあまって、たからかに歌いあげた。院、このことばを聞いて、感じ入ったけしきであったが、顔いろもやわらぎ、陰火もややうすく消えゆくほどに、ついにそのかたちも|掻《か》きけしたごとくに見えなくなれば、化鳥もどこに去ったか跡もなく、十日あまりの月は峯にかくれて、木の間の闇のくろぐろと、夢の中にたゆたうようであった。ほどなく夜もあけゆく空に、あかつきの鳥の声おもしろく鳴きわたれば、かさねて金剛経一巻を読みあげ、亡き魂にささげて、山をくだって|菴《いおり》にかえり、しずかに夜もすがらのことどもをおもいめぐらすに、平治の乱よりはじめて、ひとびとの消息、年月の相違もないと知って、ふかくつつしみ、これはひとには語らぬことであった。
そののち十三年をへて、|治承《じしょう》三年の秋、平重盛病あつくして世を去れば、清盛入道、後白河院をうらんで鳥羽の離宮に押しこめ、かさねて兵庫福原の|茅《かや》ぶきの小屋にうつしてこれをくるしめた。やがて|頼《より》|朝《とも》東国におこり、|義《よし》|仲《なか》北地より立つにおよんで、平氏の一門ことごとく西海にただよい、ついに|讚岐《さぬき》の海、志度|八《や》|島《しま》に落ちて、さしものつわものども多く魚腹に葬られ、|赤《あか》|間《ま》が関壇の浦にせまって、幼主|安《あん》|徳《とく》|院《いん》海に入れば、武将のこりなくほろびたことまで、かの夜のことばに露たがいなかったのは、おそろしくもあやしい語りぐさであった。のちに、この|廟《びょう》は玉をもって|雕《え》り、彩色をもってかざり、威徳をあがめることとはなった。かの国にかようひとは、かならず|幣《ぬさ》をささげてまいり詣でるべき神である。
|菊《きっ》|花《か》の|約《ちぎり》
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|播《はり》|磨《ま》の|加《か》|古《こ》の|丈《はせ》|部《べ》|左《さ》|門《もん》は、ある日、旅の途中で疫病に倒れた|出雲《いずも》の軍学者|赤《あか》|穴《な》|宗《そう》|右衛《え》|門《もん》に出会う。左門は献身的な看護につとめ、やがて赤穴と心が通じ合い、義兄弟の契りを結ぶ。快復した赤穴は、九月九日の再会を約して故郷へと|発《た》つ。だが、約束の日の夜遅く、左門の前に現れたのは幽魂となりはてた赤穴であった。出雲にて従弟に幽閉されてしまい、再会の約束を守るために自刃して果てたのだった。左門は出雲へ行き、この従弟を斬り殺すと行方をくらました。
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|播《はり》|磨《ま》の国加古の|駅《うまや》に、|丈《はせ》|部《べ》|左《さ》|門《もん》というものがいた。家ゆたかではなかったが、このひと左様なことはとんと気にとめないで、富貴をねがわず、|貧《ひん》|賤《せん》にめげず、つねづね|伴《はん》|侶《りょ》とする本のほかには、諸道具ごたごたならべ立てるというような小うるさいことは一切きらった。老母がいた。これがまた|孟《もう》|子《し》の母にもおとらず、|機《はた》を織り糸をつむぐことを仕事として、左門のこころざしを助けた。その妹がひとり、おなじ里の|佐《さ》|用《よ》氏にやしなわれていた。この佐用の家はすこぶる富みさかえていたが、丈部母子の尋常ならぬ風儀をしたって、かの|乙女《おとめ》を嫁にむかえて|親《しん》|戚《せき》となり、おりにふれ事によせてはしばしば物をおくって寄こしても、|口《こう》|腹《ふく》のためにひとの世話になろうかと、左門は堅くこれをことわった。
ある日、左門はちかくに住むなにがしの家をおとずれて、古今のものがたりして興じているおりしも、壁をへだてて、なにものか、くるしげにうめく声がいともあわれにきこえて来たのに、不審をうって、
「はて、あの声は……」
あるじが答えて、
「されば、ここより西の国のひとと見えたのが、つれに遅れたよしで、一夜の宿をもとめられた。どうやら立派なさむらい、いやしからぬ人品骨柄と見受けて、まずはお泊めした。ところが、その夜からにわかに大熱往来、たちのわるい疫病のようすで、おきふしもおもうにまかせぬ仕儀となり、おきのどくのあまり、つい三日五日と過ぎて来た。そういっても、どこの国のひとか、身もともはっきりせぬに、これはとんだことをしたと、じつは思案にくれ申した。」
左門、聞いて、
「さてさて、かなしいはなしを聞くものじゃ。あるじの御心痛さぞかしとは察し入るが、しるべもない旅の空に病みくるしむひとの身は、一しお胸ふさがるおもいでおわそう。どれ、容態をみてまいらせよう。」
あるじがとめて、
「疫病はひとにうつるものと聞くので、もしものことがあってはと、家のものたちにもかしこには近づかぬよう戒しめてある。うっかり立ちよって御身にあやまちしたまうな。」
左門、笑って、
「死生、|命《めい》ありじゃ。疫病とて、うつるときまったものでもあるまい。これをおそれるのは人情の常ながら、すでにひとの身のあやうきを見ては、われらよそに見捨ててはおかれぬ。」
戸を推してはいって、くだんのひとを見るに、あるじのはなしに|違《たが》わず、いかにもなみなみのひとではあるまじい人物、今は病あつきていで、おもては黄に、肌は黒く|痩《や》せて、|古《ふる》|蒲《ぶ》|団《とん》の上にもだえ|臥《ふ》した。そのひと、左門を見てなつかしげに、
「湯ひとつ、おめぐみ下さらぬか。」
左門、ちかよって、
「御心配あるな。かならず救いまいらせよう。」
あるじとも相談して、薬をえらみ、みずから処方を案じ、みずからこれを煮てあたえ、また|粥《かゆ》をもすすめて、そのねんごろな介抱は兄弟のごとく、まことに捨てがたいありさまと見えた。かの武士、左門のあわれみの厚いのに涙をながして、
「さすらいの身に、かくまでおめぐみを賜わる。死すとも、おこころざしに報いたてまつろう。」
左門、なぐさめて、
「こころぼそきことを仰せられるな。およそ|疫《えやみ》は日数にかぎりのあるもの。その|峠《とうげ》を越せば、いのちに別条はござらぬ。われら日日にまいって、おみとりつかまつる。」
そのことばのとおり、まめやかに手をつくして、療治に看護につとめたかいあって、病ようやくおこたり、こころもち次第にすずしくおぼえて、かの客、あるじにもふかく礼を述べ、左門の陰徳をありがたきものと感じ入って、これはいかなるひとかと、その家のようすをもたずね、またおのれの身の上をもうちあけてかたるには、
「われらはもと|出《いず》|雲《もの》|国《くに》|松《まつ》|江《え》の|郷《さと》にひととなって、|赤《あか》|穴《な》|宗《そう》|右衛《え》|門《もん》と申す。いささか兵書の旨に通じたに依って、|富《とみ》|田《た》の城主|塩《えん》|冶《や》|掃《かも》|部《んの》|介《すけ》、われらを師としてものを学ばせられた。しかるに、|近江《おうみ》の佐佐木|氏《うじ》|綱《つな》のもとに密使にえらばれて、かの地におもむき、かの屋形にとどまるあいだに、今は|足《あし》|利《かが》将軍の世も末か、|応《おう》|仁《にん》以後諸方みだれる習にもれず、国元にてはさきの城主|尼《あま》|子《こ》|経《つね》|久《ひさ》、山中党をかたらって、|大《おお》|晦日《みそか》の夜不意をついて城を乗取ったため、掃部どのもあえなく討死なされた。もとより|雲州《うんしゅう》は佐佐木の|持《もち》|国《ぐに》にて、塩冶は守護代なれば、|三《み》|沢《さわ》|三《み》|刀《と》|屋《や》のひとびとを助けて経久をほろぼしたまえと、氏綱に説きすすめたが、この氏綱はうわべ勇にしてうち|臆病《おくびょう》の愚将のこととて、すすめを聴かず、かえってわれらを近江に引きとめた。いわれ無きところに長居はなるまいと、ひそかに身ひとつのがれ出て、国にかえる路に、この病にかかり、おもいがけなく貴所のおこころづくしにあずかったのは、まことに身にあまる大恩。のこる半生のいのちをもって、かならずおめぐみに報いたてまつる。」
左門いう。
「見るにしのびざるものを見ぬふりせぬのは、ひとたるもののこころかと存ずる。御丁寧な|御《ご》|挨《あい》|拶《さつ》では、おそれいる。ゆるゆる|御逗留《ごとうりゅう》あって、なお御養生なさるよう。」
そのまことあることばを力にして、日数をかさねるうちに、ほとんど回復にちかづいた。この日ごろ、左門はよき友をえたものかなと、日夜したしくまじわって、ものがたりするに、|赤《あか》|穴《な》も諸子百家のことなにくれとなくかたり出て、つまびらかに問いあきらかに弁ずる器量よのつねならず、わけても兵法の|理《ことわり》はゆゆしくきこえて、たがいになにひとつこころの通わぬということなく、かつ感じ、かつよろこび、ついに兄弟の|盟《ちかい》をした。赤穴は五つ年上なので、兄としての礼をとった。ときに、赤穴がいうに、
「われらは父母に別れまいらせてすでに久しい。賢弟の母上はすなわちわが母なれば、ねがわくはあらためて拝したてまつりたい。母上あわれんで、このすぐなるこころをお受け下さろうか。」
左門、よろこびに堪えず、
「母はいつもわれらの孤独を案じております。厚いおこころざしを告げたなら、よわいも延び申そうに。」
つれだって家にかえれば、老母よろこび迎えて、
「わが子不才にて、学ぶところ時勢にあわず、出世のたよりとてもございませぬ。なにとぞお見捨てなく、兄としてのお教を賜わりますよう。」
赤穴、拝していう。
「ますらおは義を重しといたします。功名富貴はいうにたりませぬ。わたくし、ここに母上のいつくしみをこうむり、賢弟の礼を納めること、これに過ぎたる望はございませぬ。」
うれしく、むつまじく、またいく日かとどまった。きのうきょう咲いたと見えた|尾上《おのえ》の花もすっかり散って、すず風に寄る|浪《なみ》の、色にもしるき夏のはじめとはなった。赤穴、母子にむかって、
「われら近江をのがれ来たのも、雲州のようすを見ようがためなれば、ひとたび国元に下って、やがてかえり来て、いかなるしもべの労もいとわず、御恩がえしつかまつろう。しばしの別れをおゆるしねがいたい。」
左門いう。
「しからば、兄上、いつごろお帰りなされるか。」
赤穴いう。
「月日は|逝《ゆ》きやすい。おそくとも、この秋は過ごすまい。」
左門いう。
「秋は何日と定めてお待ち申そうか。お約束いただきたい。」
赤穴いう。
「|重陽《ちょうよう》の佳節をもって帰り来る日といたそう。」
左門いう。
「兄上、かならずこの日をたがえたまうな。一枝の菊花にうすき酒をそなえて、待ちたてまつる。」
たがいにまことをつくして、赤穴は西に帰った。
月日ははやくたって、下枝の|茱《ぐ》|萸《み》も色づき、垣根には菊のかおり高く、九月とはなった。九日はいつもよりはやく起きて、草の屋ながら席をきよめ、黄菊白菊よきほどにあしらって|小《こ》|瓶《がめ》にさし、とぼしきが中よりついえを惜しまず、酒飯の支度をととのえた。
老母いう。
「かの出雲という国は山陰のはてにあって、ここからは百里をへだてると聞けば、かならずきょうとも定めがたいに、かのひとのおいでを見てから支度しても、おそくはありますまい。」
左門いう。
「赤穴は信義あるもののふなれば、かならず|約《ちぎり》をたがえますまい。そのひとを見てあわただしいようすを示しては、何とおもわれましょうか、はずかしく存じます。」
よき酒を買い鮮魚を料理して|厨《くりや》に備えた。
この日、天晴れて、見わたすかぎり雲のうごきもなく、道には旅ゆくひとのむれむれ、あるきながらがやがやと、そのはなし声を聞けば、
「きょうはあの衆がよい都入をするものじゃ。この秋晴は今度のあきないにずいぶん徳とる吉兆と見えた。」
それの通りすぎたあとから、五十あまりの武士が、二十あまりのわかざむらいとおなじ旅につれだって、
「海はせっかく|凪《な》いでおったに、|明石《あかし》から船に乗ったなら、この朝だちには|牛《うし》|窓《まど》の港に向けて、波路おだやかに行けたところじゃ。わかいものはとかく物におびえて、|銭《ぜに》おおく使うことよ。」
わかいほうがなだめて、
「いつぞや殿の|御上洛《ごじょうらく》のとき、|小豆《あずき》|島《じま》より|室《むろ》|津《つ》へ船のわたりしたまうに、からき目におあいなされたと、御供にしたがったもののはなしに聞きました。それをおもえば、ここの船わたりにはおびえるが定じゃ。左様にお腹だちなさるな。魚が橋の|蕎《そ》|麦《ば》でもふるまい申そうに。」
またそのあとから、これは馬の口とる男が舌うちして、
「どう、畜生。このくたばりそこないが、目の玉もうごかぬか。」
|荷《に》|鞍《ぐら》おしなおして、追って行く。
日はいつか|午《ひる》をすぎて、すでにかたむきかけたが、待つひとは来ない。西に沈む日に、|泊《とまり》をいそぐひとびとの、足せわしげなのを見るにつけても、外のほうにばかり目をとられて、こころ酔えるがごとくであった。
老母、左門をよんで、
「ひとのこころは変りやすい秋ではなくても、菊の色の濃いのはきょうのみとはかぎりますまい。帰りくるまことさえあれば、空はしぐれに移って行こうと、なにを|怨《うら》むことがありましょう。奥に入って寝もして、またあすの日をお待ちなされ。」
そういわれると、いなみがたく、母をすかしてさきに寝かせて、もしやと戸の外に出て見れば、銀河の影きえぎえに、月光われのみを照らしてさびしく、軒をまもる犬の|吠《ほ》える声すみわたって、|浦《うら》|浪《なみ》の音のつい足もとに打ちよせるかとおぼえた。やがて、月も山の端にくらくなれば、今はこれまでと、戸をたてて入ろうとするに、ただ見る、かなたに薄墨の影ゆらゆら、その中にひとあって、風のまにまに来るをあやしと見さだめれば、赤穴宗右衛門であった。
飛び立つおもいで、
「兄上か。はやくよりつい今まで、ここにお待ちしましたぞ。|盟《ちかい》にたがわず、よくぞおいで下された。さあ、こちらへ。」
声をかけても、ただうなずくばかりで、ものもいわない。左門さきに立って、内に入り、南の窓のもとにむかえ、もうけの席につかしめて、
「兄上のおいでが遅かったのに、母も待ちわびて、またあすの日と申されて、寝所に入りました。どれ、お目をさましてまいらせよう。」
立ちかかるのを、赤穴またかしらを振ってとめながら、やっぱりものもいわない。
「すでに夜をついでおいでなされたに、さだめてこころも|倦《う》み足も疲れておわそう。まず一杯かたむけて、おやすみ下され。」
酒をあたため、|肴《さかな》をならべてすすめるに、赤穴は|袖《そで》をもって顔をおおい、そのにおいを|忌《い》みさけるに似た。
「ほんの手料理の酒さかな、もてなしというにも足りませぬが、われらの寸志なれば、むげにおしりぞけ下さるな。」
赤穴なお答えもせず、ためいきつきながら、しばらくしていうには、
「賢弟のまごころこめたおもてなしを、なにとてしりぞけるわけがあろう。あざむくにことば無ければ、実をもって告げ申す。あやしみたまうなよ。われは此世のひとにあらず、亡き魂のかりにかたちを見せたのじゃ。」
左門、大いにおどろいて、
「兄上、なにゆえにかかるあやしきことを仰せ出されるか。さらさら夢ともおもわれぬに。」
赤穴いう。
「賢弟とわかれて国元にくだったところ、国びとおおかた|経《つね》|久《ひさ》のいきおいにつきしたがって、|塩《えん》|冶《や》のめぐみをかえりみるものが無い。わが|従弟《いとこ》なる赤穴丹治、富田の城におったのをたずねると、しきりに利害を説いてわれらを経久に|見《まみ》えさせた。かりにそのことばを聞きおいて、つらつら経久のなすところを見るに、万夫不当の勇すぐれ、兵を用うることたくみとはいえ、智をはたらかすに|狐《こ》|疑《ぎ》のこころおおく、腹心|爪《そう》|牙《が》の郎党はおらぬ。ながく足をとめて益なしとおもい、賢弟と菊花の|約《ちぎり》あることを告げて去ろうとすれば、経久うらめる色あって、丹治に命じ、われらを城外にはなたしめず、ついにきょうに至った。この約にたがうものならば、賢弟このわれをなにものとかすると、ひたすらおもいわずらえど、のがれるすべは絶えた。いにしえのひとのいうことに、ひと一日に千里を行くことあたわず、魂よく一日に千里をも行くとか。この|理《ことわり》をおもい出て、みずから|刃《やいば》に伏し、こよい陰風に乗ってはるばる来り、菊花の約につく。このこころをあわれみたまえ。」
いいおわって、なみだ|湧《わ》き出るがごとく、
「今は永きわかれじゃ。ただ母上によくつかえたまえ。」
座を立つと見えたが、たちまちすがたはかき消えた。左門あわてて、引きとめようとすれば、陰風にまなこくらんで、その|行方《ゆくえ》をしらず、ものにつまずいてうつ伏しにたおれたまま、声をあげて大いになげいた。
老母、目ざめて、おどろき立って、左門はどこにと来て見れば、床の上に酒瓶とか魚を盛った皿なんぞのあまたならんだ中に|臥《ふ》したおれているのを、いそいで|扶《たす》けおこして、いかにと問うても、ただ声を|呑《の》んで泣くばかりにて、さらにことばも無かった。
老母いう。
「兄赤穴が約にたがうをうらむとならば、もしあすにも見えたときは、何と申すつもりぞ。そなたはこれほど聞きわけのない愚かものであったか。」
つよく責められて、左門ようやく答えていう。
「兄上はこよい菊花の約にわざわざおいでなされた。酒さかなをもって迎えるに、再三いなみたもうてのち、しかじかのことあって約に背くがゆえに、みずから刃に伏して亡き魂百里を来ると申されて、おすがたは見えずなられた。それゆえにこそ、母上の眠をもおどろかしたてまつる。ただただおゆるし下さるよう。」
さめざめと泣き入るのに、老母いう。
「|牢《ろう》|内《ない》につながれたひとは夢にも赦免を見るとか。また|渇《かわ》けるひとは夢に湯水をのむとやら。そなたもまたその|類《たぐい》であろうか。よくこころをお静めなされ。」
左門、かしらを振って、
「いや、いや、たわいもなき夢のはなしではございませぬ。たしかに、兄上はついここにおいでであったに。」
またも声をあげて泣きたおれた。老母も今はうたがわず、たがいに呼びつなげきつ、その夜は泣きあかした。
あくる日、左門、母を拝していうには、
「わたくし幼少より聖賢の書を身のたよりにいたすとはいえ、国に節義の聞えなく、家に孝信をつくすことをえませぬ。いたずらに天地のあいだに生れるのみと申しましょうか。兄赤穴は一生を信義のために|了《お》えられた。わたくし、きょうより出雲にくだり、せめては骨をひろって信をまっとうしたいと存じます。母上はおん身を大切にたもたれて、しばらくのお|暇《いとま》をたまわりたい。」
老母いう。
「そなたはかの地におもむくとも、はやく立ちもどって、この|老《おい》のこころを休めて下され。永くとどまって、きょうという日をかえらぬ日とはして下さるな。」
左門いう。
「ひとの生はうかめる泡のごとく、朝に夕に定めがたくとも、やがては立ちかえってまいりましょう。」
なみだをふるって家を出て、|佐《さ》|用《よ》氏のもとに行き老母のいたわり万端をねんごろに頼みおいて、出雲にくだる道道に、飢えて食をおもわず、寒いにも衣をわすれ、ねむれば夢にもなげきあかしつつ、十日をへて富田の城に至った。
まず赤穴丹治の宅におもむき、名をなのって案内をもとめれば、丹治そそくさと迎え請じて、
「はて、これは|面《めん》|妖《よう》な。翼あるものの告げたでもなくば、いかにして事のよしを聞き知られたか。何とも不審の儀じゃ。ど、どうしてここには見えられたな。」
うるさく問いかけるのを、耳にも入れず、左門いうことに、
「もののふたるものは富貴消息のことすべて論ずるにたらぬ。ただ信義をもって重しとする。兄宗右衛門、一旦の|約《ちぎり》をおもんじ、亡き魂よく百里を来ったこころざしに、せめてもの報いせんものとて、夜を日に継いでここにくだった。われら学ぶところについて、そこもとにおたずね申すべき一儀がある。しかと御返答うけたまわりたい。むかし|魏《ぎ》の|公叔座《こうしゅくざ》、やまいの床にふしたおりに、魏王みずからこれを見舞って、手をとって申されたには、もしなんじに万一のことあらばなにものに国務を託すべきか、わがために|教《おしえ》をのこせとあるに、叔座こたえて、|商鞅《しょうおう》年わかしといえど奇才あり、王もしこのひとを用いたまわずばこれを殺しても境を出すことなかれ、他の国に行かしめばかならず後日の|禍《わざわい》となるべしと、ねんごろに教えて、しかるのちに商鞅をひそかにまねき、われなんじをすすむれど、王許さざる色あれば、用いずばかえってなんじを害したまえと教えたり、これ君を先にし臣を後にするなり、なんじはやく他の国に去って害をのがるべしとは説かれた。このこと、そこもとと宗右衛門にたぐえてはいかに。何とおもわれるか。」
丹治、ただかしらを垂れて、ことばが無い。左門、座をすすんで、
「兄宗右衛門、塩冶のよしみをおもって尼子に仕えざるは義士じゃ。そこもとは旧主の塩冶を捨てて尼子にくだったはもののふの義が無い。兄は菊花の約をおもんじて、いのちを捨てて百里を来ったは、|信《まこと》あるかぎりじゃ。そこもとは今尼子に|媚《こ》びて骨肉のひとをくるしめ、この横死をなさしめたは、友として信が無い。経久しいてとどめたまうとも、ひさしき|交《まじわり》をおもえば、ひそかに商鞅叔座の信をつくすべきに、ただ利にのみ走ってもののふの|風《ふう》が無いのは、これ尼子の家風か。されば、兄上なにとてこの国に足をとどめようか。われ今信義をおもんじてわざわざここには来た。なんじはまた不義のために汚名をのこせ。」
いいもおわらず、抜打に斬りつける。ただ一刀にたおした。家のものども立ちさわぐひまに、さっとのがれ出て、跡なし。尼子経久、このよしをつたえ聞いて、兄弟信義のあつきに感じ、しいて左門の跡を追わせなかったという。
|浅《あさ》|茅《じ》が|宿《やど》
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|下《しも》|総《うさ》の|真《ま》|間《ま》に住む|勝《かつ》|四《し》|郎《ろう》は、妻|宮《みや》|木《ぎ》を残し京に商売をしに上る。しかし戦乱が|勃《ぼっ》|発《ぱつ》して関東は戦場となり、帰ろうとした勝四郎は途中で山賊に襲われた上、東の方では関所がもうけられて通行を許されないという話を聞く。勝四郎は、もはや妻も生きてはいまいと|諦《あきら》め、京にひき返そうとした途中で熱病をわずらい、結局|近江《おうみ》に身を寄せ、そこで七年間を過ごした。その後真間へと戻り、やつれはてた宮木と再会するが、翌朝、それが妻の亡霊であったと知り号泣する。
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|下《しも》|総《うさ》の国|葛飾《かつしかの》|郡真《こおりま》|間《ま》の里に、|勝《かつ》|四《し》|郎《ろう》という男がいた。祖父の代からひさしくこの土地に住んで、|田《でん》|畠《ぱた》おおくもって、ゆたかにくらしていたが、この男、生れつき物にこだわらないたちで、畠仕事はめんどう、はたらくのはいやと、のらりくらりしているうちに、家はいつかまずしくなった。あいつはだめじゃ。親類一同にあいそをつかされ、馬鹿にされる身の上となると、さてくやしい。おのれとおもって、どうにかして家を立て直したいものと、あれこれ思案した。
そのころ、|雀《ささ》|部《べ》の|曾《そう》|次《じ》というのが、|足《あし》|利《かが》|染《ぞめ》の絹の交易をするために、毎年京からくだって、この土地に身寄のものがあったのをいつもたずねて来ていたが、かねて懇意の仲なので、いっそ商人になって京にのぼろうと、相談をもちかけてみると、雀部いとやすく引受けて、今度はいつのぼると日どりを知らせてくれた。たのもしいひとかなと、よろこんで、残った田をも売りつくして金に代え、絹をたくさん買いこんで、京に行く日の支度をととのえた。
勝四郎の妻|宮《みや》|木《ぎ》というものは、ひとの目をひくほどのみめかたちで、心もおろかではなかった。今度勝四郎が商品を仕込んで京に行くというのを、なさけないことにおもい、ことばをつくして|諫《いさ》めたが、おもいつめた一念には手がつけられず、末はどうなることやら、こころぼそい中にも、万端かいがいしく気をくばって、旅のよそおい抜かりなく、その夜はつきぬ名残を惜しんで、
「こうなっては頼むあてもない女ごころの、|行方《ゆくえ》も知らず迷うばかり、かなしい身のはてでございます。朝に夕におわすれなく、はやくおかえり下さいませ。いのちさえつづくものならばとは思いましても、あすをもたのみがたい世の定めなれば、おつよい男ごころにもあわれとおぼしめせ。」
「いや、なに、|浮《うき》|木《ぎ》に乗るおもいして、知らぬ国に長居するものか。|葛《くず》のうら葉の、そう、かえるのはこの秋になるだろう。こころじょうぶに待っていてくれ。」
かたりあかして、夜もしらめば、それこそ鳥がなくあずまを立って、京の方へといそいだ。
このとし|享徳《きょうとく》四年の夏、鎌倉の御所足利|成《しげ》|氏《うじ》はさきに管領の上杉氏と仲たがえして乱におよんだために、京よりの追討を受け、屋形は兵火に跡なくほろび、成氏は総州の味方をたのんで|古《こ》|河《が》に落ちるありさまに、関東たちまちみだれて、めいめいおもいおもいの世の中となって、老いたるは山に逃げかくれ、若きは兵に狩り出され、きょうはここを焼きはらうぞ、あすは敵が寄せ来るぞと、女わらべは西に東に逃げまどい泣きかなしむ。勝四郎の妻も、いずこなりと逃げようものをとはおもったが、この秋を待てといった夫のことばをたのみにして、おだやかならぬ日日を指おりかぞえてはくらした。秋とはなったが、風のたよりもないので、世のさまとおなじくあてにならぬひとの心よと、恨みかなしみ、おもいしずんで、
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身のうさは人しも告げじあふ坂のゆふつけ鳥よ秋も暮れぬと
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せめては鳥の音に寄せても、むなしく秋をすごす身のつらさを知らせてやりたいものをと、こうは|詠《よ》んだが、遠く国国をへだてたこととて、いい送るすべも無い。世の中のさわがしいのにつれて、ひとのこころもおそろしくなった。たまにたずねて来るひとも、宮木の容色すぐれたのを見ては、さまざまにすかし、くどき、さそいの水をむけたが、宮木はむかしの貞女にもおとらぬ操をかたくまもって、にべもなく|刎《は》ねつけ、のちには戸を閉ざしてたれにも|逢《あ》わなかった。ひとりの|小女《こおんな》も出て行き、わずかの|貯《たくわ》えもみなになり、その年もくれた。年はあらたまっても、乱はおさまらない。あまつさえ去年の秋、京の将軍足利|義《よし》|政《まさ》の命とあって、|美《み》|濃《の》の国|郡上《ぐじょう》のあるじ、|東《とう》の|下野守常縁《しもつけのかみつねより》に征伐の旗をさずけられ、常縁すなわち下野の領地にくだり、一族の千葉の|実《さね》|胤《たね》とむすんで攻めつけたので、成氏の軍も守備をかたくしてたたかえば、このいくさ、いつはてるとも見えなかった。|野《の》|伏《ぶし》どもはあちこちに|塞《とりで》をかまえ、火を放ち財をうばう。関八州すべてやすらかなところもなく、あさましい世のむだごとであった。
さて、勝四郎は|雀《ささ》|部《べ》にしたがって京にのぼり、絹のこらず交易するに、このころ京は派手をこのむ時節のこととて、首尾よくもうけをふところに、東にかえる支度をしかけると、おりしも上杉の兵おこって、鎌倉の御所を攻めおとし、なおその跡を追ってはげしく迫れば、かの古里のあたりは|刀《とう》|刃《じん》みちみちて修羅の|巷《ちまた》とはなったと、|取《とり》|沙《ざ》|汰《た》しきりであった。つい目のまえのことでさえ、うそばっかりの世のうわさなのに、ましてなにともしら雲の八重をへだてた国のことなれば、こころせき立って、八月のはじめ京をあとに、いそぎ行く旅路のなかばに、木曾の|真《み》|坂《さか》を日ぐれに越えかかると、山賊どもわらわらと道をさえぎって、あわれ、|行《こう》|李《り》一つあまさずうばわれた。そのうえ、ひとのはなしにきけば、これより東の方はところどころに新関をもうけて、旅人の往来をすらゆるさぬという。さては、たよりつたえる手づるも無し、家もさだめて兵火にほろびたであろう。妻もこの世に生きてはいまい。それでは古里といっても鬼の|棲《す》むところじゃと、ここからまた京に引きかえす。その途中、|近江《おうみ》の国に入ると、にわかにきもちわるく、熱病をわずらった。|武《む》|佐《さ》というところに、|児《こ》|玉《だま》嘉兵衛という富貴のひとがある。これは雀部の妻の里であったので、|藁《わら》をもつかむおもいでたよって行くと、このひと、見捨てずにいたわってくれて、医者をよび、薬をととのえ、もっぱら療治につとめた。いくらか|容《よう》|態《だい》をもち直して、やれありがたいと、まず|挨《あい》|拶《さつ》の口がきけるぐらいにはなった。しかし、歩行はまだはかばかしくならないので、この年はおもいがけずここに春を迎えたが、いつとはなくこの土地にも友だちができて、もともと気だてのよい男の、すなおな生れつきを|賞《め》でられ、児玉はじめみなみなたのもしく附合った。その後は京に出て雀部をたずね、または近江にかえって児玉に身を寄せ、七年というもの、夢のようにすごした。
寛正二年、|畿《き》|内《ない》の|河内《かわち》の国に、畠山政長、おなじく|義《よし》|就《なり》、同族をもってあいあらそい、勝負はてしなく、京ぢかくまでさわがしいのに、さらに春のころから疫病はやり出して、|死《し》|骸《がい》は|巷《ちまた》にごろごろ、もはや世のおわりか、地上のいのち尽きるかと、ひとびと途方にくれてかなしんだ。
勝四郎つくづくおもうには、
「これほどにおちぶれて、する事とても無い身の、なにをたのみに遠国にとどまり、縁なきひとのめぐみを受けて、いつまで生きるいのちであろうか。古里に捨てて来たひとのたよりを知らずに、なにおもい草、わすれ草の、しげれる野辺にながながと年月をすごしたのは、ああ、まこと無きわがこころであった。かのひと、たとい身はほろびて、すでにこの世にあらずとも、その跡をさがして墓をもきずくべきじゃ。それよ、それよ。」
おもい立つと、矢も|楯《たて》もたまらず、存ずるむねをひとびとに告げて、さみだれの時間に手をわかちて、十日あまりをへて古里にかえりついた。
このとき、日はとうに西にしずんで、雨雲のおちかかるばかりに暗かったが、ひさしく住みなれた土地の、まさか迷うこともあるまいと、夏野をわけて行くと、名にしおうむかしの真間の|継《つぎ》|橋《はし》も川瀬に落ちてしまったので、げに古歌にいうごとく、かよう|駒《こま》の足音もしないのに、田畑は荒放題に荒れすさんで、もとの道もわからず、そこにあったはずの家も無い。たまたま、ここかしこに残る家にひとの住むらしく見えるのもあったが、むかしには似ても似つかない。わが住みなれた家はどこかと、足をとどめてながめわたせば、ここから二十歩ばかりかなたに、雷にぶち折られた松のそびえて立ったのが、雲間の星のひかりに見えたのに、あれよ、わが家の軒の目じるしが見えたぞと、まずはうれしく、あゆみ近づくと、家はもとにかわらずにある。ひとも住むとみえて、朽ちた戸の|隙《すき》|間《ま》から|灯《ほ》|影《かげ》ちらちらもれるのに、今は他人の住家か、それでもまだかのひとが住みなすかと、こころときめいて、門口に立ちよって咳をすれば、内にも、耳ざとく聞きとって、たれと、とがめた。ひどく年をとったようだが、まぎれもない妻の声と聞いて、これは夢かと、わきたつ胸をおさえて、
「わ、わたしじゃ。わたしこそ、かえって来たぞ。そなたもかわりなく、よくぞひとりこの|浅《あさ》|茅《じ》が原に住んでいてくれた。不思議とも何とも。」
そういう声を、それと知ったか、やがて戸があいて、あらわれたひとは、色もくろぐろと|垢《あか》にまみれ、目は落ちくぼんだよう、あげた髪も背に垂れかかって、もとのひとともおもわれなかった。それが夫を見て、ものをもいわず、さめざめと泣く。勝四郎も胸ふさがって、しばらくは口もきけなかったが、ようやくいうには、
「今までそなたがこうしているとおもったなら、なんで年月をすごそうぞ。かの年、京にあった日に、鎌倉に乱おこると聞き、御所のいくさ利をうしない、下総に落ちて防ぎたまうに、管領の上杉殿これを攻めること急じゃという。そのあくる日|雀《ささ》|部《べ》にわかれて、八月のはじめ京を立って、木曾路にさしかかるに、山賊おおぜいにとりかこまれ、衣服金銀のこらずうばわれて、いのちばかりやっと助かった。なお里人のはなしにきけば、東海東山の両道はすべて新関をもうけて、ひとの出入をとどめるとやら。またきのうは京方より征伐の軍をさしくだされ、上杉殿に味方して、下総の陣に向わせられて、この古里のあたりはいちめんの火の海、駆けめぐる馬の|蹄《ひづめ》に尺寸の余地も無いとやら。そう聞くより、|不《ふ》|憫《びん》や、そなたも灰とはなったか、海に沈みもしたかと、てっきりそれとおもいあきらめて、またも京にはのぼったぞ。その後は他人の家にかかりうどになって、この七年のあいだはすごした。このごろ、そぞろにむかしなつかしくなったので、せめては跡をも見たいものと、こうして帰って来たが、そなたが世にながらえていようとは夢にもおもわなかった。|楚《そ》の|襄王巫山《じょうおうふざん》の夢に美女と|逢《あ》い、漢の武帝宮裏に|李《り》夫人のまぼろしを見たとは、まさにこのことか。」
かたれば尽きぬおもいのたねに、妻はなみだをおさえて、
「ひとたび別れまいらせてのち、たのみにおもう秋よりもさきに、おそろしい世の中となって、土地のひとびとはみな家を捨てて海にうかみ山にかくれれば、たまたま残ったものとても、そのこころ根は|虎《とら》おおかみ、女ひとりとつけこんで、ことばたくみに、いやらしいことばっかり、玉とくだけても|瓦《かわら》の身にはなるまいものをと、いくたびかつらい目をしのびました。銀河は秋を告げても、あなたはおかえりなさいませぬ。冬を待ち春を迎えても、おたよりはございませぬ。このうえは京にのぼってたずねまいらせようとは存じましたれど、男さえ通さぬ関のかためを、どうして女の越える道があろうかと、軒端の松の、待つかいもない宿に、|狐《きつね》ふくろうを友として、きょうまではすごしてまいりました。今は長い恨みもはればれとして、こころにかげる|隈《くま》もございませぬ。逢うを待つ間に、こがれ死いたしましては、ひと知らぬ恨みでございましょうものを。」
またもよよと泣くのを、
「まあ、まあ、みじか夜のことじゃ。」
なぐさめて、ともに寝た。
窓の紙に松風が吹きしみて、夜どおし涼しいのに、長途の旅のつかれもあり、ぐっすり眠った。夜あけの空のしらむころ、前後不覚のうちにも襟もと寒く、|蒲《ふ》|団《とん》をかぶろうとさぐる手さきに、なにものかさやさやと音のしたのに目がさめた。顔につめたくもののこぼれるのを、雨が漏りでもしたかと見あげれば、屋根は風にまくられたままで、かなたに有明月がしらじらと残っていた。家は戸もあるかなきか。縁の|簀《すの》|子《こ》の朽ちくずれた隙間から、|荻《おぎ》すすき高く生え出て、朝露しとどにこぼれるのに、|袖《そで》はしぼるばかりに|濡《ぬ》れた。壁には|蔦葛《つたかずら》はいかかり、庭は|葎《むぐら》にうずもれて、秋にはあらずとも、すさまじい野中の宿であった。
さて、ともに寝た妻はどこに行ったか見えない。狐なんぞのしわざかとおもえば、かく荒れはててはいてもむかし住んだ家にちがいなく、広く造りなした奥のあたりから、端のほう、稲倉に至るまで、おのれの好みのままに建てたなりであった。あきれて、足の踏みどころさえわすれたようであったが、よくよくおもうに、妻はとうに死んでしまって、今は|狐《こ》|狸《り》の住みかわって、かかる野中の宿となりはてたので、あやしい鬼のかりに化けて、ありし世の妻のすがたを見せたのであろうか。またはもしや、われをしたう亡き魂のかえり来て、ここにちぎりをむすんだものか。かねておもっていたとおり、露たがわなかったと、さらになみださえ出ない。げにも古歌にいうごとく、わが身ひとつはもとの身にしてと、感ふかくあるきめぐるに、むかし|閨《ねや》であった場所の簀子をはらい、土を積んで墓とし、そこに雨露をふせぐもうけもしてある。昨夜の霊はここから出たのかと、おそろしくも、またなつかしい。|手《た》|向《むけ》のしなじな供えた中に、木の端をけずったのにひどく古びた|那《な》|須《す》|野《の》|紙《がみ》がつけてあって、しるされた文字も消えぎえ、ところどころ見さだめがたいのは、まさしく妻の筆の跡であった。戒名というものも年月もしるさずに、三十一字に|末期《いまわ》のこころをあわれにも述べた。
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さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か
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ここにはじめて妻の死んだことをさとって、あっとさけんで、たおれ伏した。そういっても、いずれの年、いずれの月日にみまかったのやら、それさえ知らぬとはあさましい。もしや知っているひともあろうかと、なみだをおさえて外に出れば、日は高くのぼった。
まず近くの家に行って、あるじを見るに、むかし見たひとではない。あべこべに、
「そなたはどこの国のひとだな。」
向うからとがめられた。勝四郎、|挨《あい》|拶《さつ》していうに、
「これはこのとなりの家のあるじであったものなれど、身すぎのために京に七年までとどまって、昨夜かえって来たところ、家はすでに荒れすさんで住むものもおりませぬ。妻もなくなったようすで、墓のしるしは見えたれど、いつの年のこととも判らず、なおさらあわれ深くおぼえました。ご存じならば、教えて下さらぬか。」
あるじの男いう。
「いや、おきのどくなはなしじゃ。こちらとても、この土地に住むのはまだ一年ばかりのことじゃて、それよりとうのむかしに|亡《う》せられたと見えて、お住みなされたひとの、ありし世のことどもは存じませぬ。すべてこの里の古いひとはいくさのはじめに逃げうせて、げんに住むひとはおおかたよそから移って来たものじゃ。ただひとり、老人がおわして、土地にひさしい御仁と見える。おりおりあの家に行って、なくなられたひとの|菩《ぼ》|提《だい》をとむらっておいでじゃ。この老人こそ月日をもご存じであろう。」
「して、その老人はどこにお住みなされるか。」
「ここから百歩ばかり浜のほうに、麻おおく植えた畠の主じゃ。そこに小屋をつくってお住みなされる。」
勝四郎、その家をたずねて見ると、七十ばかりの老人の、おそろしく腰のまがったのが、庭かまどのまえに丸い|藁《わら》|蒲《ぶ》|団《とん》を敷いて茶をすすっていた。老人も、勝四郎と見てとると、
「おぬし、なんで遅くかえって来た。」
これはこの里にひさしく住む|漆《うる》|間《ま》の|翁《おきな》というひとであった。勝四郎は挨拶もそこそこに、京にとどまったいきさつから昨夜のあやしい|出《で》|逢《あい》まで、くわしくかたって、なき跡をとむらってくれた老人のこころざしにあつく礼を述べながらも、ふり落ちるなみだをおさえかねた。
老人いう。
「おぬしが遠国に去ってのちは、夏のころから悪党どものいくさ|三《ざん》|昧《まい》がはじまって、土地のものはちりぢりに逃げ、若いものはひとごろしの手つだいに狩り出されて、田畠はたちまち狐うさぎのくさむらとなりはてたわい。ただ、かのけなげな女房どのひとり、おぬしが秋にはとちかったことばを守って、家を出なさらぬ。わしもまた足なえて百歩もむつかしいので、とじこもって外に出ぬ。一旦このあたりは|樹神《こだま》なんぞというおそろしい鬼の|栖《す》むところとなったのに、若女房の気丈におわしたさまは、わしがこれまでに見たものの中でも、とりわけあわれであったことじゃ。秋去り春来て、その年の八月十日というに、なくなられた。あまりの|不《ふ》|憫《びん》に、わしが手ずから土をはこび|柩《ひつぎ》をしつらえ、その|末期《いまわ》のきわに書きのこされた筆の跡を墓のしるしとして、こころばかりにとむらいの|真《ま》|似《ね》|事《ごと》はしたが、わしはもともと筆とるわざを知らぬので、その月日を書きつけることもできなんだ。寺が遠いので戒名をもとめるすべもなくて、五年はすごしたぞ。今のものがたりを聞くに、てっきり女房どのの亡き魂がかえって来て、長の恨みをのべられたのじゃて。ふたたびあの場に行って、跡ねんごろにとむらうがよかろう。」
|杖《つえ》をついてさきに立ち、ともどもに墓のまえに伏して、声をあげてなげきながら、その夜はそこに念仏してあかした。
寝られぬままに、老人のかたっていうことに、
「わしのじいさんの、そのまたじいさんすら生れぬさきの、はるか大むかしのことよ。この里に|真《ま》|間《ま》の|手《て》|児《こ》|奈《な》という世にもうつくしい|乙《おと》|女《め》がいたげな。家まずしければ、身には麻衣に|青《あお》|衿《えり》をつけて、髪をもけずらず、|履《くつ》をもはかずにいたが、顔は十五夜の月のよう、笑えば花のにおうがよう、かざらぬすがたは|綾錦《あやにしき》にくるまった京|女《じょ》|臈《ろう》にもまさったと、この里のものはいうにおよばず、京方につかえるさむらいども、国のとなりのひとまでも、したいより、いいよって、恋いこがれぬものはなかった。しかるに、手児奈、それを憂きことにおもいしずんで、恋がひとのまことなら、なにびとのまことに応えようか、おおくのひとのこころに報いるためには、せんすべなくて、ついこの入江の波に身を投げた。これをば世のあわれなためしとして、むかしのひとは歌にも|詠《よ》んでかたりつたえたのを、わしのおさなかったおりに、おふくろが節おもしろくかたってくれた。それをさえ、いともあわれなことじゃと聞いたが、この亡き女房どののこころは、むかしの手児奈の一筋のこころにもまさって、どれほどにかなしかったことであろ。」
かたるそばから、ほとほとなみだをとどめかねたのは、ものに堪えられぬ老人のならいであった。勝四郎のかなしみはいうべくもない。このものがたりを聞いて、おもうあまりを|田舎《いなか》びとの口ぶりたどたどしく、こうは詠んだ。
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いにしへの真間の手児奈をかくばかり恋てしあらん真間のてこなを
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おもうこころの片はしばかりをすらいいえないのは、よくいいうるひとの心底にもまさって、あわれといおうか。これはかの国におりおりかよう|商《あき》|人《んど》の聞きつたえて語ったことであった。
|夢《む》|応《おう》の|鯉《り》|魚《ぎょ》
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絵の才で知られた三井寺の僧|興《こう》|義《ぎ》が、最も好んで描いたのは泳ぎ遊ぶ魚の絵であった。興義が病いにかかり、夢ともうつつともつかない湖で水の神の使いと出会うと、|金《きん》|鯉《り》の服をさずけられる。それによって興義は鯉と化し、思うままに泳ぎ遊ぶ。ところが、|釣《つり》|餌《え》に食いついてしまい、釣り上げられて料理されかかった瞬間、目がさめて飛び起きる。なんと、息絶えて三日後に|蘇《よみがえ》ったのだった。興義は早速、自分を料理しかけていた一団を呼び出すと、その模様を逐一言いあてて皆を驚かせた。
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|延長《えんちょう》のころといえば、|醍《だい》|醐《ご》|院《いん》治世のむかし、仏法おこなわれ諸芸さかえたおりに、|三《み》|井《い》|寺《でら》に|興《こう》|義《ぎ》という僧がいた。絵にたくみなるをもって、その名は世に知られた。いつもえがくのは、仏像山水花鳥なんぞをもっぱらにせず、寺務にひまのあるときには湖に小舟をうかべて、網をひき釣をする漁師に銭をあたえ、とった魚をもとの江に放って、その魚のおよぎあそぶのを見てはえがく。かくするほどに、年をへて精妙に至った。またあるときは絵におもいを凝らして、うとうと|眠《ねむり》にさそわれれば、夢のうちに江に入って、大小の魚とともにあそぶ。めざめれば、その見たままをえがいて、これを壁にかかげて、みずから呼んで|夢《む》|応《おう》の|鯉《り》|魚《ぎょ》とは名づけた。
絵の評判が高くなるにつれて、ひとびと前後をあらそい押しよせて、ぜひ一筆と|乞《こ》えば、ただ花鳥山水は乞うにまかせてあたえたが、|鯉《こい》の絵となると、なかなか承知せず、興義はたわむれてこういった。
「これは法師のやしなう魚じゃ。生あるものを殺しなま魚をくらう凡俗の衆に、進ぜるわけにはまいらぬて。」
その絵と風狂と、ともに|天《あめ》が下にきこえた。
この興義、ふと病にかかって、床につくこと七日、熱にほてって、くるしさ堪えがたく、すずしい風にでも吹かれたらばすこしは熱もさめようかと、|杖《つえ》をちからに門を出ると、病もどうやら忘れたように、たとえば|籠《かご》から放たれた鳥の、かるがるとしたきもちになって、山となく里となく行くほどに、やがて江のほとりに達した。みずうみの水のみどりなのをまのあたりに見ると、ほっと息をついて、ここよ、ここに水を浴びてあそぼうものと、うかれごこちに、衣をぬぎ捨てて、身をおどらせて深みに飛びこみ、あちこちおよぎめぐるに、わかいときから水に|狎《な》れたというわけでもないが、おもうにまかせてたわむれた。
そういっても、水に浮かんでは、人間はとても魚のようにのびのびとはうごけない。しぜん心中につぶやくよう、
「魚の世界にあそぼうというには、やっぱり魚にはかなわぬかな。」
すると、どこからともなく、ひとつの大魚がそばに寄って来て、
「|和尚《おしょう》さまのお望みはいとやすいことじゃ。お待ちなされ。」
大魚は水の底はるかにもぐって行くと見えたが、しばらくすると、衣冠に威儀をただしたひとの、かの大魚にまたがって、あまたの魚どもを供に引きつれ、浮みあがって来て、さていうことには、
「水の神のみことのりじゃ。老僧かねて|放生《ほうじょう》の|功《く》|徳《どく》を積み、今江に入って魚のあそびをねがう。かりに|金《きん》|鯉《り》の服をさずけて魚の国のたのしみをさせようぞ。ただ|餌《えさ》のにおいに迷って、釣の糸にかかり、あったら身をばほろぼすなよ。」
そういいわたして、すがたは見えなくなった。不思議のことかなと、おのれの身をかえりみれば、いつのまにか金光ぴかぴかと|鱗《うろこ》を生じて、ひとつの鯉魚とは化していた。それをあやしくもおもわずに、尾をふり|鰭《ひれ》をうごかして、こころのままに湖水をめぐる。まず|長《なが》|良《ら》の山おろし、立つ|浪《なみ》に身をのせて、志賀の入江の|汀《みぎわ》にあそべば、かちで行きかうひとびとの、|裳《も》すそをぬらすけしきにびっくり。|比《ひ》|良《ら》の高山の影うつる水底ふかくもぐろうとすれど、|堅《かた》|田《だ》の|漁火《いさりび》のかくれなく、きらめく方にさそわれるのも魚ごころか。真夜中の水のおもてにやどる月は、鏡の山の峰に澄み、|湊湊《みなとみなと》にかげる|隈《くま》もなくてあざやか。沖の島山、|竹《ちく》|生《ぶ》|島《しま》、波にゆらぐ朱塗の垣には目もくらむ。|伊《い》|吹《ぶき》の山風吹きおちて、朝妻船も|漕《こ》ぎ出れば、|葦《あし》|間《ま》にねむる夢をさまされ、|矢《や》|橋《ばせ》の渡にかかっては、船頭の|棹《さお》おそるべく、瀬田の橋にちかづくと、そこの橋守にいくたびか追われた。
「やれやれ、魚の身になれば、とんだ苦労もするものだな。それでも、水のまにまに苦労をながして、この自在のあそびは捨てられぬ。」
日あたたかのときには浮び、風あらいときには水底にひそんであそぶ。そのうちに、たちまち飢えて|食《もの》ほしくなって来た。さて腹がへったぞ。なにかないか。あちこちにあさり求めたが、なにもえられず、およぎ狂って行くほどに、かなたに釣糸を垂れている男を見た。
「おう、文四。」
日ごろなじみの漁師であった、文四は水をにらんで一心不乱、その垂らした糸のさきに餌がにおった。はらわたにしみる香に、あわや一口とはおもったが、
「いや待てよ。水の神のいましめもある。それに、仏弟子としたことが、いかに飢えたればとて、魚の餌を食うとはあさましい。はずべし。つつしむべし。」
ひとまずそこを去ったが、ほかのどこに行っても、ついになにも見つからない。いよいよ飢えて、また舞いもどって来て、どうしよう、思案の末に、
「うーむ。もう我慢がならぬ。たとえこの餌を|呑《の》みこんだにしても、やすやす生捕られるということもあるまい。まして、文四はもとより懇意の男。遠慮は無用じゃ。」
目のまえにぶらさがった珍味、わっとそれに食いついたとたんに、すばやく糸を引かれて、身は宙釣に、ぎゅっと漁師の手につかまれた。
「やれ、待て、文四。わしじゃ、わしをどうするのじゃ。」
尾鰭の水をふるってさけんだが、文四はきこえぬ顔で、さっそく獲物のあごに縄をさしとおして、これを|籠《かご》の中に押しこんだ。
「いや、邪険なことをするやつじゃ。くるしい。放せ。」
文四は善根をほどこしたように上機嫌で、舟を|葦《あし》|間《ま》につなぎ、陸にあがって、|籠《かご》をかついですたすたあるき出した。籠の中の獲物が跳ねる音を、かえってたのしんでいるようにさえ見えた。
「あきれたやつじゃ。この文四、つねづね一徹者で、ひとのいうことはきかない男だが、まさかこれほどとはおもわなかった。わしもまた籠に入れられたら入れられたで、さのみ目のまえが暗くならないのは、どうやら魚の|性《しょう》になったのかな。しかし、これではどうも窮屈でかなわぬ。」
行くほどに、かなたにいかめしい家づくりの門が見えた。このあたりにきこえた|平《たいら》の助の|館《たち》であった。文四はその門をくぐった。
「ほう。この館ならばまず安心。平の助どのは|檀《だん》|家《か》の筆頭、家中のひとびとはいずれも|昵《じっ》|懇《こん》のあいだがらじゃ。これで、いのちに別条は無い。やれやれ。」
ときに平の助は南おもての間に席をもうけて、さかずきを手にしながら、弟の十郎と|碁《ご》をうってあそんでいた。家の子の|掃《か》|守《もり》、かたわらに控えた。そこに文四は庭さきからまかり入って、
「おあつらえの魚、もってまいりました。目の下三尺、ちかごろめずらしい獲物でございます。」
助はそれを見て、
「うむ、みごとな魚じゃ。掃守、文四にさかずきをやれ。」
かけつけ三杯、これは酒の好きな男であった。
「掃守、その|高《たか》|坏《つき》の桃を文四にやれ。さっきから、おまえひとりで食っておるな。」
「あれ、お目がはやい。」
ひとびと魚を見て、みごと、みごとと|褒《ほ》めそやして、
「これは|鱠《なます》にかぎる。」
すなわち、料理人、まないた|庖丁《ほうちょう》をもってあらわれた。そのとぎすました庖丁の光を見るより、興義、もはやたまらず、ばたばたと身もだえして、
「かたがたはこの興義をお見わすれか。ゆるさせたまえ。寺にかえさせたまえ。」
しきりにさけんだが、ひとびとただ手をうってよろこび笑う。料理人、容赦なく、左手の指にて魚の両眼をつよくとらえ、これをまないたに載せて、いざと、右手の庖丁をとり直したのに、
「仏弟子を殺すとはなにごとぞ。ゆるせ。助けよ。」
声をかぎりにわめいても、素知らぬ顔の、料理人、ぴたりと庖丁をあてた。
「わっ。」
大息ついて跳ねあがると、耳もとに、
「和尚さま、お気がつきましたか。」
見れば、弟子どもいくたりか、まわりをとり巻いて、きづかわしげな顔をあつめている。身をおこしたところは、七日のあいだ寝ついた病の床の上であった。興義、きょとんとして、
「はて、わしはどうやら死んでいたらしいな。」
「さようでございます。」
「気をうしなってから、どれほどになる。」
「三日まえに、たちまちおん眼閉ざし、おん息絶えて、むなしくおなりなされました。ただお胸のあたりがほんのりあたたかなので、もしやと存じ、われわれ一同、なげきの中にもまだ|一《いち》|縷《る》の望み、棺にも納めまいらせず、こうしてお|枕《まくら》もとに見守っておりました。しかるに、今にわかにおん手足がうごき出して、むっくりお起きになった御様子は、お顔の色も晴ればれとして、よみがえりとはこのことか。もうおん悩みはございませぬか。」
「されば、ずいぶん冷汗をかいたが、おかげで熱はすっかり引いた。これで病が本復して寿命が延びるというなら、人間たれでも一度は|亡《もう》|者《じゃ》になってみるものじゃて。」
「じつは、われわれ内内に相談いたし、きょうあたりはもはや見込なしと、お葬儀の支度までととのえておりました。すんでのことにお墓にしてしまうところを、よくまあ生きては下された。これでこそ、待つかいがあったというもの。何にしても、おめでたい。」
一同あわてたり、あきれたりしながらも、くちぐちによろこびをいう。興義うなずいて、
「たれか使者に立って、平の助どのの|館《たち》に行ってくれぬか。口上のおもむきは、法師こそ不思議にいのち拾いいたした。助どのには今令弟の十郎どの、家の子の|掃《か》|守《もり》なんぞとともに、とりたての魚を|鱠《なます》につくらせて、酒宴なかばとお見受するが、しばらくさかずきを伏せて寺にお越し下され。めずらしいものがたりをお聞かせいたそうと、こう申してくれ。かのひとびとのようすに目をつけて見よ。わしのいうことに露たがうまい。」
使者はあやしみつつ、助の館に行ってようすいかがとながめれば、なるほど師の言にたがわず、酒宴たけなわのけしきで、館のひとびとも口上のおもむきを聞くより、まことに異様のおもいして、
「よみがえりも不思議じゃが、この見とおしはなお奇妙じゃ。」
助はじめ十郎、掃守、さっそく宴をやめて、あいつれて寺に駆けつけて来た。
|挨《あい》|拶《さつ》もそこそこに、興義、助にむかって問うていうに、
「拙僧の申すこと、まずお聞き下され。助どのはかの漁師の文四に魚をおあつらえなされたな。」
助、おどろいて、
「いかにも、その儀はあったが、どうしてそれをご存じか。」
「かの文四、三尺あまりの魚を籠に入れて館にまいる。助どのは南おもての間にて、十郎どのと碁をうっておられる。掃守かたわらに控えて、桃の実の大いなるものを食いながら、碁の布石を見る。漁師が大魚をたずさえて来たのをよろこんで、|高《たか》|坏《つき》に盛った桃をあたえ、またさかずきをとらせて三杯かさねさせる。料理人、したり顔に魚をとって鱠をつくる。すべて右の次第、拙僧の申すとおり、相違ありますまいな。」
助のひとびと、これを聞いて、あっと顔を見あわせたが、助は感に堪えて、
「これは千里眼、順風耳にもおとらぬ神通じゃ。御坊と魚と、そもそも何の因縁があるのかな。」
「されば、その魚がすなわち拙僧じゃ。」
興義、事の|仔《し》|細《さい》をくわしくものがたれば、ひとびと、いよいよ奇異の感をふかくして、しばらくはことばも無かった。助は|膝《ひざ》をうって、
「そういえば、かの魚、いくたびか口をうごかすとは見たが、声には立たなかった。魚のことばは、人間の耳にはきこえぬものか。かかること、まのあたりに見たのは、何とも不思議じゃ。」
興義、|術《じゅつ》なげに首をふって、
「いや、人間の苦痛のさけびは、不思議にも他人の耳には入らぬものらしい。それどころか、住む世界を異にしては、おおきに酒のさかなともなる仕儀じゃ。」
助はただちに従者を館にはしらせて、残った鱠を湖に捨てさせた。興義、これより病いえて、はるかのちまで天寿をまっとうした。その臨終に、えがくところの鯉魚の図何枚かをとって、今は別れと、これを湖に散らせば、えがける魚、紙をはなれ絹をはなれて水にあそんだ。このゆえに、興義の絵は世につたわらない。その弟子に|成《なり》|光《みつ》というもの、師法の神妙をつたえて一時に名をあげた。この成光、閑院の殿の|襖《ふすま》に鶏をえがいたところ、生きた鶏がこの絵を見て|蹴《け》ったそうな。
|仏《ぶっ》|法《ほう》|僧《そう》
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伊勢|相《おう》|可《か》の里の|夢《む》|然《ぜん》は、息子の|作《さく》|之《の》|治《じ》とともに高野山に|詣《もう》で、そこで一夜を明かすことにする。そこへ、武士たちをひき連れた貴人がものものしく現れ、酒宴を始める。彼らは、高野山にて死んだ豊臣|秀《ひで》|次《つぐ》とその家臣たちの亡霊であった。やがて「修羅の時」となり、悪鬼と化した秀次らによって夢然たちも修羅界に連れて行かれそうになるが、からくも免れ、命からがら山を下りる。
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世は江戸の泰平となってひさしく、ひとびと日日のくらしをたのしむあまりに、春は花、秋はもみじ、しらぬいの|筑《つく》|紫《し》というところも知らずにはすまされまいと、舟路の|泊《とまり》もふぜいあり、また東には富士|筑《つく》|波《ば》の山山、これにも心ひかれるのは、旅へのいざないというものか。伊勢の|相《おう》|可《か》という里に、|拝《はや》|志《し》なにがし、家督をはやくせがれにゆずって、さっぱりとあたまを丸め、名をも|夢《む》|然《ぜん》とあらためて、もとより持病とても無い身の、おちこち諸国めぐりの旅を老後のたのしみとした。末の子の|作《さく》|之《の》|治《じ》というのが一徹の生れつきなのを苦にして、京の風俗でも見習わせようと、二条の別宅にとどまること一月あまり、それから吉野へ、おりしも三月の末、奥の花を見て、懇意の寺に七日ほど|逗留《とうりゅう》、ここまで来たついでに、まだ|高《こう》|野《や》の山を見ないので、とてものことにと、夏のはじめ、青葉の茂みをわけて、|天《てん》の川というところから越えて、かの霊山にたどりついた。
行く道のけわしいのにひまどって、いつか日もかたむいた。壇場、諸堂、|霊《みた》|廟《まや》と、のこらず参詣して、ここに宿をかりたいといっても、さらに答えるものも無い。そこを通りかかったひとに土地の|掟《おきて》をきくと、
「さあ、寺に手づるの無いひとは、|麓《ふもと》にくだって夜をあかすほかあるまい。この山、およそ旅人に宿をかすというためしはとんとござらぬ。」
どうしよう。さすがに老の身の、けわしい山路を越して来たうえに、このつれない返事をきかされて、どっと疲れが出た。
作之治がいうに、
「日もくれ、足もいたみ、どうして遠い道をくだりましょうぞ。若い身は草に|臥《ふ》すともいといませぬが、ただ父上の、もしや病にそまれてはと、それのみが気がかり。」
夢然、かぶりをふって、
「いや、いや、旅はかようなおもむきをこそ身にしみるとはいうのじゃ。こよい脚をきずつけ、疲れきって山をくだってみても、そこがおのれの古里というわけでもない。あすの道のほどはまたはかりがたい。このお山は本朝第一の霊場、開山弘法大師の広徳はことばにつくしがたく、わざわざにも来て通夜したてまつり、|後《ご》|世《せ》のことを頼みまいらせるべきはずじゃて。さいわいのおりなれば|霊《みた》|廟《まや》に夜もすがら祈念をこめたてまつろう。」
そういって、杉の下道の暗い中を行き行き、霊廟の前にある|灯《とう》|籠《ろう》堂の|簀《すの》|子《こ》の縁にのぼって、用意の雨具を敷き座をもうけて、しずかに念仏しながら、ふけゆく夜のわびしさに堪えた。
このあたり、四方五十町にひらいて、目をさまたげる林もちらつかず、小石さえも払って、まことに仏説にいう|福《ふく》|田《でん》とはこれか。そういっても、さすがにここは寺から遠く、|陀《だ》|羅《ら》|尼《に》を|誦《ず》する声、鈴の音、|錫《しゃく》の音もきこえない。木立は雲をしのいでこんもりと茂り、道にさかいして流れる水の音はほそぼそと澄みわたってものがなしい。寝られぬままに、夢然かたっていうことに、
「そもそも大師、神通をもって教化したまうところ、土石草木までも霊異をあらわして、八百年あまりの今日にいたり、高風いよいよあらたに、いよいよとうとい。遺徳のおよぶ跡、諸国にあまたある中にも、このお山こそは第一の道場じゃ。大師世におわしたむかし、遠く唐土にわたりたまい、かの国にて御感のことあって、この|三《さん》|鈷《こ》のとどまるところわが道を揚ぐる霊地なりとて、空にむかって投げさせられたのが、このお山にはとどまったぞ。壇場のおんまえにある三鈷の松こそ、このものの落ちとどまったところと聞く。すべて当山の草木泉石、霊異ならざるは無いそうな。こよい不思議にもここに一夜の宿をかりたてまつること、なみなみならぬ善縁じゃ。おまえも若いといって、ゆめゆめ信心をおこたるなよ。」
ささやかにかたるその声も澄みとおってこころぼそい。ときに、|御廟《ごびょう》のうしろの林の方にあたって、仏法仏法となく鳥の音、山彦にこたえてまぢかくきこえた。|夢《む》|然《ぜん》、目さめるここちして、
「や、めずらしい。あのなく鳥こそ、仏法僧というものか。かねてこのお山に|栖《す》むとはきいたが、たしかにその音をきいたというひとも無いのに、こよいのやどり、まことに罪を滅し善を生ずるしるしでもあろうか。かの鳥は清浄の地をえらんですむという。|上《こう》|野《ずけ》の国|迦《かし》|葉《よう》山、|下《しも》|野《つけ》の国|二《ふた》|荒《ら》山、山城の|醍《だい》|醐《ご》の峯、|河《かわ》|内《ち》の|杵《し》|長《なが》山、わけても当山にすむことは、大師の|詩《し》|偈《げ》があって、世のひとのよく知るところじゃ。
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寒林独坐、草堂ノ暁
三宝ノ声ヲ一鳥ニ聞ク
一鳥声アリ、人心アリ
性心雲水トモニ了了
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また古歌に、
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松の尾の峯静かなるあけぼのにあふぎて聞けば仏法僧なく
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むかし最福寺の|延《えん》|朗《ろう》法師は世にならびのない|法《ほっ》|華《け》の行者であったので、松の尾のおん神、この鳥をしてつねに延朗につかえしめたもうたとか。さるいい伝えあれば、かの神垣にもすむとはきこえた。こよいの不思議、すでに一鳥声ありじゃ。わしもここにあって、心なしでおられようか。」
つねのたのしみとする|俳《はい》|諧《かい》ぶりの十七|言《こと》を、しばらく案じて、こうくちずさんだ。
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鳥の音も秘密の山の茂みかな
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|旅硯《たびすずり》をとり出して、みあかしの光に書きつけて、せめてもう一声ききたいものと、耳をすましているところに、おもいもかけず遠く寺のほうから、下に、下にと、さきぶれの声のいかめしくきこえて、次第にちかく迫って来た。この夜ふけにどなたの御参詣かと、あやしく、おそろしく、親子顔を見あわせて息をつめ、そのほうをじっと見まもっていると、はやくも|前《ぜん》|駆《く》の若ざむらい、橋板あらく踏んでここに来た。おどろいて、堂の右手にひそみかくれるのを、武士、目ざとく見つけて、
「なにものなるぞ。殿下のおわたりじゃ。とくとく|下《お》りよ。」
きびしいけはいに、あわてて簀子をおりて、土にひれふしてうずくまった。
ほどなく、足音あまたきこえる中に、|沓《くつ》|音《おと》一きわ高くひびいて、|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》|直《のう》|衣《し》をきた貴人、堂にのぼれば、従者の武士四五人ばかり左右に座についた。かの貴人、ひとびとにむかって、たれたれはなぜ来ぬかと問うに、おっつけ参上いたしましょうと答える。またも一むれの足音して、威儀ある武士、あたま丸めた入道なんぞもまじって、礼うやうやしく堂にのぼった。
貴人、そこに来たばかりの武士にむかっていうに、
「|常陸《ひたち》、そちはなにとておそくまいったぞ。」
かの武士いう。
「|白《しら》|江《え》|熊《くま》|谷《がえ》の両人、君に|一《いっ》|献《こん》すすめたてまつろうとて、手をつくしておりましたれば、それがしも鮮魚一種ととのえまいらせようと、そのため遅参いたしました。」
さっそく|酒《しゅ》|肴《こう》をならべて、貴人のまえにすすめれば、
「万作、酌をせい。」
かしこまって、美男の若ざむらい、|膝《ひざ》をすり寄せて、|瓶《へい》|子《し》をささげる。たちまち、一座あちこちにめぐるさかずきの、興ありげなけしきとなった。
貴人またいう。
「しばらく|紹巴《しょうは》の物語をきかぬな。これに呼べ。」
それからそれと呼びつぐようであったが、親子のうずくまった背後のほうから、大柄の法師の、顔てらてらと目鼻だちあざやかなのが、衣かいつくろって、末座にまかり出た。貴人、故事あれこれと問いかければ、いちいち|仔《し》|細《さい》に答えるのに、おおきに感じ入って、
「かれに|褒《ほう》|美《び》をとらせい。」
ときに、ひとりの武士、かの法師に問うていう。
「当山は大徳の名僧のひらきたまうところにて、土石草木も霊異ならざるは無しとうけたまわる。しかるに、玉川の流には毒あって、ひとこれを飲むときは|斃《たお》る。それゆえ、大師のよませられた歌とて、
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わすれても|汲《くみ》やしつらん旅人の高野の奥の玉川の水
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ということを聞きつたえた。さしも大徳ともあろうのに、この毒ある流をば、なにとて|涸《か》らしつくしはなされぬぞ。いぶかしいことよ。この儀、そこもとには何とお考えか。」
法師、|笑《えみ》をふくんでいうよう、
「この歌は風雅集に|撰《えら》み入れられてありますな。その|端詞《はしことば》に、高野の奥の院へまいる道に、玉川という河の|水《みな》|上《かみ》に毒虫おおかりければ、|此流《このながれ》を飲むまじきよしをしめしおきて後よみ|侍《はべ》りけるとことわり書をしるされた。されば、いかにもそこもとのおぼえたまう如くじゃ。しかし、今のおうたがい、これもまちがえとは申されぬ。かの大師は神通自在にして、かくれ神を|役《えき》して道無きところに道をひらき、|巌《いわお》をきざむことは土をうがつよりもたやすく、おろちを封じ、|化鳥《けちょう》をしたがわしめたまうこと、世のひとのみな仰ぎたてまつるいさおしじゃ。それをおもうに、この歌のはしことばは、どうも|真《ま》には受けかねまするて。もとより、この玉川という川は諸国にあって、いずれを詠んだ歌もその流のきよきを|褒《ほ》めたのをおもえば、ここの玉川とても毒ある流ではありますまい。歌のこころも、かほど名におう川の当山にあることを、ここに参詣するひとはつい忘れながらも、流のきよきをよろこんで手に|掬《すく》いもしようと、詠まれたのでもありましょうか。しかるに、後世のひと、毒ありという俗説のまちがえから、このはしことばをば作りなしたものかともおもわれる。またふかく疑うときには、この歌のしらべ、今の京のはじめの口ぶりでもない。およそこの国の古語に、玉かずら玉だれ|珠《たま》ぎぬというたぐいは、かたちをほめ清きをほめることばなるゆえ、|清《し》|水《みず》をも玉水玉の井玉川なんぞとほめて申すのじゃ。毒ある流になにとて玉ということばをかぶせましょうぞ。ひたすら仏をあがめるひとの、歌のこころにくわしからぬ向きは、これほどの|誤《あやまり》はいくらもしでかすもの。そこもとは歌よむおひとでもないのに、よくぞこの歌のこころをあやしまれたのは、さてさて、おたしなみ奥ゆかしい。」
このものがたりに、貴人はじめ一座のひとびと、なるほどもっともと、ふかく感に堪えた。
おりしも、御堂のうしろの方に、仏法仏法となく声まぢかにきこえたのに、貴人さかずきをあげて、
「例の鳥絶えてなかずにおったに、今の一声はこよいの酒宴に花をそえたぞ。紹巴、即吟はどうじゃ。」
法師かしこまって、
「それがしの短句、君にはすでにお聞きふるしにておわしまそう。ここに旅人の通夜いたすもの、当世の俳諧ぶりを申しております。君にはめずらしくおぼしめされましょう。これに召してお聞きあそばしませ。」
「それ召せ。」
命に応じて、若ざむらい、夢然のほうにむかって、
「お召なるぞ。これにまいれ。」
夢か、うつつか、夢然おそろしさのままに座中に|這《は》い出た。法師、夢然にむかって、
「さきにくちずさんだことばを、君に申しあげい。」
夢然おそるおそる、
「なにを申しましたやら、さらにおぼえございませぬ。ただお|赦《ゆる》し下さいませ。」
法師かさねて、
「秘密の山とは申さなかったか。殿下のおたずねなるぞ。いそぎ申しあげい。」
夢然いよいよおそろしく、
「殿下とおおせられるは、どなたにてわたらせられるか。またいかなればこの深山に夜宴をもよおしたまうやら。とんと合点がまいりませぬ。」
法師答えて、
「殿下と申したてまつるは、すなわち関白|秀《ひで》|次《つぐ》公にてわたらせられるぞ。これなるひとびとは木村常陸介、|雀《ささ》|部《べ》淡路、白江|備《びん》|後《ご》、熊谷大膳、粟野|杢《もく》、日比野下野、山口少雲、|丸《まる》|毛《も》不心、|隆西《りゅうさい》入道、山本|主殿《とのも》、山田三十郎、不破万作、かくいうは紹巴|法橋《ほっきょう》じゃ。なんじら、不思議のお目見えつかまつったものかな。さきのことば、いそぎ申しあげい。」
そも関白秀次といえば、遠く文禄のむかし、悪行のかずかずのがれがたく、|豊《とよ》|臣《とみ》|太《たい》|閤《こう》より死を賜い、生害の地はこの高野山、その名は後の世の語りぐさにのみ聞くものを、いかにして今ここにと、夢然、あたまに髪あらば逆だつばかりにすさまじく、肝たましいも宙にかえるここちして、わなわなふるえる手に|頭陀袋《ずだぶくろ》から清き紙とり出して、筆もしどろに書きつけてさし出すのを、|主殿《とのも》、受けとって高く吟じあげた。
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鳥の音も秘密の山の茂みかな
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貴人きいて、
「口がしこくも申しおったな。たれにてもあれ、これに|脇《わき》を附けよ。」
山田三十郎、座をすすんで、
「それがし、つかまつりましょう。」
しばらく思案して、附けたのが、
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|芥《け》|子《し》たき|明《あか》すみじか夜の|牀《ゆか》
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これいかがと、紹巴に見せる。前句、一鳥の声たちまち山深くひびいたのに対して、これは密教の|修《しゅ》|法《ほう》きびしく、夜をこめて|護《ご》|摩《ま》を|焚《た》きつづける座のけしきである。秘密には芥子をもって|酬《むく》い、茂みには短夜をもって応える。脇句とくに奇をもとめず、前句のこころを受けて、おのずから山霊の気をうしなわない。紹巴うなずいて、
「よく附けられた。」
これを貴人のまえに披露すれば、
「いずれ劣らぬと見えるな。」
ひとしお興に乗って、またもさかずきをあげて一座にめぐらした。山中ときならぬ夜宴、風雅のおもむきを添えて、ひとびとなごやかに、酌みかわす酒の、いつ尽きるともおぼえなかった。
ときに、|雀《ささ》|部《べ》淡路ときこえたのが、|面色《めんしょく》にわかに変り、すっくと立ちあがって、だみ声あらあらしく、
「はや|修《しゅ》|羅《ら》の時か。阿修羅どもお迎えにきたるとおぼえた。とく立たせたまえ。」
一座のめんめん、たちまち|面《おもて》に朱をそそいで、
「いざ、石田|治部少《じぶしょう》の一党に、こよいも泡ふかせてくれよう。」
風雅の酒はどこへやら、酔と見えたは血しぶきにて、見るまに装束ひきかえて、おどしの糸のやぶれた|鎧《よろい》に、刃こぼれした|太《た》|刀《ち》を抜きそばめ、なおもいくさの血に飢えて、いさみたち、立ちさわぎ、吹きおこる風にあおられながら、一瞬にしてすさまじい悪鬼の本性をあらわした。
「出陣。」
さかずきを投げすてて、まっさきに立った秀次、左右にむかって、
「よしなきやつにわが姿を見せたぞ。それなる両人もろともに、修羅の|巷《ちまた》に引ったててまいれ。」
左右の老臣、かけへだてて、声をそろえ、
「かれらはいまだ此世の命数尽きざるもの。またしても例の悪行させたまうな。」
そういう声も、ひとびとのかたちも、黒雲にまぎれて、宙のかなたに、渦巻いて遠く|翔《か》けわたるかと見えた。
親子は息絶えて、しばらくは死に入っていたが、やがて東の空しらじらと、ふる露のひややかなのに、ほっと息を吹きかえしはしたものの、まだ夜のあけきらぬおそろしさ、こころぼそさ、身をちぢめて、南無大師南無大師とせわしく唱えつつ、ようやく日の出ると見るや、いそぎ山をくだり、いっさんに京にかえって、|鍼《はり》よ薬よと、当座ひたすら保養につとめた。
「やれやれ、諸国めぐりの旅のはてに、見つけたのは修羅の妄執であったか。風雅の中にも、いくさの鬼はかくれ|棲《す》むと見える。おかげで、こちらの身にまで、血しぶきを浴びせられたようじゃ。この血のわずらいに、附ける薬は無いものか。」
薬がきいたか、ほとぼりがさめたか、やまい次第にうすらぐうちに、いつか夏すぎて、京はもみじの秋、|日和《ひより》ほかほか、ひとびと野に山にあそびあるくころになると、夢然、じっとしていられず、ある日二条の家を出た。
男女たのしく行きかう巷の、いつもながらのにぎわいに、この世のどこに鬼が|棲《す》もうともおもわれず、
「やっぱり泰平の世の中じゃ。」
夢然もうかれごこちに、どこへ行くともなく、やみあがりの身を|杖《つえ》にまかせて、加茂の水のほとりにかかったとき、
「あ。」
いきなりみぞおちを突かれたように、身をかがめて立ちどまった。
「どうなされました。」
附きそって来た作之治が駆け寄るのを、手でおさえて、
「いや、何ともない。」
しかし、耳のまよいか、たったいまどこかに鳥のなく声の、するどくひびいたのを聞いたようにおもった。何の鳥か、不吉な声であった。ふりあおぐと、|雀《すずめ》一羽の影すら見えず、白昼の空まぶしいまでに澄みわたったのに、まなこくらめいて、
「ここはどこじゃ。」
「三条の橋でございます。」
かくれもない|殺生《せっしょう》関白の悪逆塚はこのあたりと、おもうより足すくんで、夢然、橋の欄干にもたれかかると、たちまち白日の光くもって、風すさまじく、加茂のながれは谷川のせせらぎときこえ、ここはいずこの山の奥、野の末か、行きかうひとびと、みな血にまみれ、髪ふりみだして、男女のわかちなく、たがいにののしり、つかみあい、飛ぶ矢音、打つ|太《た》|刀《ち》音の中に、他人の血をもとめてあらそう悪鬼のすがたをまざまざと現じた。
面色あおざめた夢然のそばに、作之治ひとりおろおろ、しきりに介抱につとめるのを、通りがかりのひとが見かねたのか、ちかづいて声をかけ、
「御老体、どこぞおわるいか。お手だすけいたそう。」
その親切そうなひとの顔まで、油断のならぬ鬼かとうたがわれた。
|吉《き》|備《び》|津《つ》の|釜《かま》
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|吉《き》|備《び》の井沢氏の|放《ほう》|蕩《とう》息子正太郎は、|吉《き》|備《び》|津《つ》神社の神主の娘、|磯《いそ》|良《ら》と結婚する。しかし正太郎は、貞淑で情の厚い磯良を手ひどく裏切って、|袖《そで》という遊女と出奔してしまう。磯良は恨みのあまり病いに伏す。出奔後、袖はもののけが|憑《つ》いたようになって死んでしまう。さらに、死して亡者と化した磯良に遭遇するに至り、正太郎は|陰《おん》|陽《よう》|師《じ》に助けを求める。四十二日間の|物《もの》|忌《いみ》を命じられ、それを堅く守り、いよいよ物忌が明けたと思い外へ出た途端、|怨霊《おんりょう》の手にかかり、もとどりと血のみを残して消えてしまう。
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|吉《き》|備《び》の国、吉備津の社に祈願をかけるひとは、かずかずの|祓物《はらいもの》をそなえて、御湯をたてまつって、事の吉凶をうらなう。|巫《み》|子《こ》の|祝詞《のりと》がおわって、湯の沸きあがるにおよんで、吉には釜の鳴る音牛の|吼《ほ》えるがごとく、凶には音が無い。これを吉備津の|御《みか》|釜《まば》|祓《らい》という。今せっかく支度をととのえて、婚儀のさいわいを祈るために、御湯をたてまつったところ、神意いかが、釜は秋の虫がくさむらにすだくほどの声すら立てないのに、神主|香《か》|央《さだ》|造《み》|酒《き》、これはと腕をこまぬいた。釜の音には娘の身の行末がかかっていた。|磯《いそ》|良《ら》十七歳、器量もよし、しつけもよし、歌もよみ、|箏《こと》もひく。香央の家は由緒ある筋目の門戸のこととて、ぜひこの娘をとのぞんでなこうどがもちこんで来た縁談の、相手は当国|賀夜郡《かやのこおり》|庭《にい》|妹《せ》の里にきこえた井沢家、当主庄太夫のむすこ正太郎、これが梅と柳の似合の見立というのはまんざらなこうど口ばかりでもない。庄太夫の祖父はもと|播《はり》|磨《ま》の赤松に仕えていたが、さんぬる|嘉《か》|吉《きつ》元年の乱に|足《あし》|利《かが》将軍の討手を受けて赤松|満《みつ》|祐《すけ》敗亡ののちは、さむらいを見かぎってこの地に移り住み、弓矢を捨てて取った|鋤《すき》|鍬《くわ》の、|揣《はか》らずも時の|宜《よろ》しきにかない、とんとんと身代を掘りおこして、ここに栄える三代の|家《いえ》|蔵《くら》と聞けば、この縁談、|香《か》|央《さだ》もずいぶん乗気のやさきに、おもいのほかの|釜《かま》|占《うら》の仕儀、しかし神慮にうらおもてあるべからず、疑うべきは人間のこころかと、思案にあまって、女房にはなすと、
「あなた、今さらなにをお考えあそばす。お釜に音が無かったのは、きっと巫子の身にけがれがあったからでございましょう。もう|結《ゆい》|納《のう》までとりかわした今になって、よしなきことを申しても、先方で御承知にはなりますまい。それに|婿《むこ》がねはやさしいお方と聞いて、娘も|祝言《しゅうげん》の日を待ちかねているようでございます。これほどの良縁をとりにがしては、あったら運にそむくとはお思いになりませぬか。」
どうやら娘よりも母親のほうが|惚《ほ》れこんだ縁談のようであった。見たくもない凶の|卦《け》は巫子のせいにしてしまって、げんに吉と出ている目前の運勢をつかんではなすまいという女房の論法に、香央もぐらつく腰を突きあげられて、
「そういえば、そうだ。」
疑っては損になりそうなことを、好んで疑うにもおよばない。神の示しのほうを疑うことにすれば、人間の計算はさまたげなくはこんで、吉事には招かずともあつまる両家のうからやから、万歳をうたって、婚儀めでたくととのった。
ところで、この花婿の正太郎というもの、もとより家の業をきらうあまりに、酒はのむ、色にはふける、ひとの意見なんぞを聴くやつでなく、浮気な|蝶《ちょう》のうまれつきの、うかうか日日をすごすうちに、このたびの|嫁《よめ》|取《とり》、こいつてっきり|放《ほう》|埒《らつ》の身をかためさせるためのおやじめが計略とは察したが、相手は年ごろの|生娘《きむすめ》とあれば、初物めずらしく、まあともかくと、祝の膳に|箸《はし》をつけた|料簡《りょうけん》と見えた。磯良は井沢の家に来ると、朝夕親にはまめやかに、夫にはねんごろ、家事万端とりしきってそつが無く、型のごとき貞女の道にいそしむ。そのかいがいしい女房ぶりに、正太郎もわるい気はせず、当座は炉辺にあごを|撫《な》でて、
「堅気も存外にくくないものだな。」
いつかこちらからも打ちこんで、|契《ちぎり》をかわしたやつが、ある日ぶらりと家を出て、外の風にあたると、ちかごろ身にしみたはずの女房のうつり香はどこやらに吹っとんで、たちまち元の|杢《もく》|阿《あ》|弥《み》、つい足を踏みこんだ|鞆《とも》の|津《つ》の、|袖《そで》という遊女になじんだ。なじみをかさねると、ずるずるに底なしの深間、ついに袖を請け出して、ちかきあたりに別宅をもうけて、そこに入りびたりの、日をへて家にかえらない。
「こうしてみると、やっぱりうちの貞女とは附合いきれない。肩がこった。」
それと知った磯良がうらんでも、|諫《いさ》めても、さっぱり手ごたえなく、正太郎いよいようつつを抜かして、かえらざること月余におよんだ。井沢庄太夫、|赫《かっ》として、
「またぞろ、例のやまいが出たか。ふといやつめ。」
正太郎、襟がみつかまれて、|座《ざ》|敷《しき》|牢《ろう》に押しこめられた。その当人よりも、これをかなしんだのは磯良で、夫の身のまわりの世話にはとくに念を入れ、かの袖のもとにも内証で物をおくりなんぞして、貞女の一念、芸こまかく、ここぞと本望を晴らした。
ある日、正太郎、父のいない留守をうかがって、磯良にむかっていうことに、
「おまえのまことある仕打を見るにつけて、なるほどわたしのしたことは罪であったと、よく合点がいった。あの袖を古里に送りかえしてのち、父上のおこころをもやわらげたいとおもう。あれは播磨の|印南《いなみ》|野《の》のものだが、親もなくてあさましい|境涯《きょうがい》にいたのを、|不《ふ》|憫《びん》におもって情をかけたのだ。わたしに捨てられたなら、またも|船泊《ふなどまり》のうかれ|女《め》になってしまうだろう。おなじあさましい境涯にしても、京はひとの情もあるとやら、あれを京に送ってやって、然るべきひとに仕えさせたいものだ。そういっても、わたしがこのとおりの身の上だから、あれもなにかと不自由しがちだろう。路用の金、身につけるものとても、たれが世話してやれるか。そこで、おまえに頼みだが、このことを|呑《の》みこんで、ひとつあれのめんどうを見てやってはくれまいか。」
おのれのことばに釣りこまれたのか、はらはらと、なみださえおとして、いつわりありとも見えなかった。磯良はうれしく、これでこそ貞女の面目、おわりよしと、
「わたくしがはからいます。おまかせ下さいませ。」
わが身の衣服調度をひそかに金に代え、里の母にもいいこしらえて金をつくり、そっくり正太郎にわたした。さて、この金をつかんで、正太郎、そっと家を|脱《ぬ》け出して、久しぶりに気ままの身になると、わーっとさけびたいほどに、もう無我夢中、とたんに袖と手に手をとって、京の方へと逃げのぼった。磯良は胸ふさがり、今はただくやしく、うらめしく、おもい|昂《こう》じて、どっと病に|臥《ふ》した。ひとびと、おどろきあわてて、|鍼《はり》よ薬よと介抱の手をつくしたが、|粥《かゆ》ものどに通らず、日日にたのみすくなく見えた。
ここに播磨の国|印南《いなみ》郡荒井の里に、彦六という男、袖とはちかい身内の縁があったので、|駆《かけ》|落《おち》のふたりはまずこれをたよって、しばらく足をとめた。すると、彦六がいうには、
「京といっても、ひとごとに頼みにしてあてになるというわけでもあるまい。なんと、この土地に住みつくつもりはないか。くらしのことなら、おたがいに助けあって、どうにかなりそうなものだ。」
そういわれてみると、いかにもと、そのことばを力にして、ここに住みつこうと|料簡《りょうけん》がきまった。彦六の家のとなりのあばら屋を借りて、壁一重のはかない友垣、ともかく雨露をふせぐに|堪《た》えた。ふり捨てて来た磯良がきらいというのでもないが、女房のひく|箏《こと》の音よりも、軒吹く風の向き次第にまかせたその日ぐらし、これも結句気散じと、やぶれ|蒲《ぶ》|団《とん》の上に袖を抱きよせれば、いまさらにいとおしく、正太郎、さだまらぬ腰をどうやらそこに据えた。
しかるに、この袖、|風《か》|邪《ぜ》ぎみといったのが、何となく悩み出して、もののけの|憑《つ》いたように狂おしげになった。ここに来てまだ日数もたたないのに、何の因果でこのわざわいかと、正太郎、こころぼそく、みずから食さえわすれて|看《み》とりにつとめたが、袖はただ泣くばかり、胸つまって堪えがたいようすで、さめれば常とかわることもない。これがイキスダマ、窮鬼なんぞというものか。古里に捨てたひとの、もしやそれかと、ひとりおもい苦しんでいると、彦六がなだめて、
「なんの、そんなことがあるものか。|疫《えやみ》というものがどれほど悩むか、いくらも見て来たことだ。胸の熱がすこしさめたら、けろりと忘れたようになるだろう。」
事もなげにいうのがせめてものたのみであったが、なに、|験《げん》の見えるどころか、手のつけようもなく、七日にしてむなしくなった。正太郎なげきかなしみ、ともに死のうとまで物狂おしくとりみだしたのを、いろいろになぐさめて、かくては|詮《せん》なしと、なきがらを野辺のけむりとして、骨をひろって墓を立て、あとねんごろにとむらった。
正太郎、今は|黄泉《よみじ》をしたっても亡き魂を招くすべなく、かえりみて古里をおもえば、これは地下よりもさらに遠いここちして、前後に道絶え、あの世この世の|堺《さかい》にただひとり、身の置きどころを知らず、昼はうとうと寝つづけて、夕ぐれになると、かかさず墓のほとりに詣でて見るに、草はやくもおいしげって、虫の声かなしく、この秋のわびしさ、まことにこれわが身ひとつの秋ぞと、生れてはじめてしみじみおもい知った。
すると、世の中にはよそにも似たような哀傷があって、袖の墓のとなりに、あたらしい墓が立った。そこに詣でる女の、世にもかなしげなふぜいで、花をたむけ水をそそぐのを見て、正太郎、おもわず声をかけて、
「ああ、おきのどくな。お若いあなたの、かほどにさびしい荒野をさまよいあるくとは、おいたわしい。」
女、ふりむいて、
「わたくしが夕ぐれごとにここにまいりますと、あなたさまはいつもさきにお|詣《まい》りになっていらっしゃいます。さだめし、ゆかり深い御方にお別れになったのでもございましょう。御心のうちいかばかりか、お察し申しあげます。」
そういって、さめざめと泣く。
「いかにも、十日ほどまえに、いとおしい妻をなくしたものですが、世に生きのこってたよりなく、せめてはここに詣ることをば、こころやりにしております。あなたもやっぱりそうなのでしょう。」
「こうしてお詣りいたしますのは、|頼《たの》うだ君の亡きあとをとむらうためでございます。さきごろここに葬りまいらせました。家に残らせたまう女君のおんなげき、あまりのことに、このごろはむつかしい病にそませられたので、その|御名代《ごみょうだい》として、かように|香《こう》|花《げ》をはこびまいらせます。」
「女君の病みたまうは、まことにごもっとも。そも亡き君はどなたにて、お宅はどちらにお住まいか。」
「|頼《たの》うだ君はこの国に由緒ある御方でございましたが、ひとの|讒《ざん》|言《げん》にあって領地をもうしない、今はこの野のはてにわびしく住まわせられます。女君は国のとなりにまできこえたおうつくしい方にて、この御方のためにこそ屋敷領地までもおうしないなされました。」
そう聞くうちにも、心のうつるとはなく、いつか物語の中に引きこまれて、正太郎はあやしき夢みごこちに、
「して、その女君のはかなくも住まわせられるのは、この近くでしょうか。おたずね申しあげて、おなじかなしみを語りあい、なぐさめなどしたいもの。ごいっしょにおつれ下さい。」
「家はあなたさまのおいでになる道の、すこし引っこんだ方でございます。たよりないお身の上のことゆえ、ときどきはおたずね下さいませ。さぞ待ちわびていらっしゃいましょう。」
女をさきに立てて、行くこと二丁あまり、ほそい|径《みち》あり、そこからまた一丁ほどあるいて、うす暗い林の中にはいると、そこに小さい|茅《かや》の家があった。竹の扉のわびしいのに、七日あまりの月があかるくさし入って、広くもない庭の荒れたのさえ見える。灯の光かすかに、窓の紙をもれてなおさびしい。
「ここにお待ち下さいませ。」
女は内にはいって行った。|苔《こけ》むした古井戸のもとに立って、内のようすをすかし見ると、唐紙のすこし開いた|隙《すき》|間《ま》から、|灯《ほ》|影《かげ》ちらちらゆらいで、|黒《くろ》|棚《だな》のきらめくのもゆかしくおもわれた。女が出て来て、
「おたずねのよしを申しあげますと、どうぞこちらへ、物をへだててお話しいたしましょうとて、端の方へいざってお出になりました。かしこにお入りなされませ。」
|前《せん》|栽《ざい》をめぐって奥のほうへ案内して行く。二間の客殿をひとのはいれるだけあけて、低い|屏風《びょうぶ》を立て、古蒲団のはしがのぞき出て、あるじはそこにいると見えた。正太郎、かなたに向って、
「はかなき世のならいに、病にさえそませられるとか。わたくしもいとおしい妻をうしないましたので、おなじかなしみを問いかわしまいらせたく、推して参上いたしました。」
あるじの女、屏風をすこし引きあけて、
「めずらしくもお目にかかりましたな。つらきむくいのほど、しらせまいらせよう。」
おどろいて見れば、古里に残した磯良の、面色|蒼《あお》ざめて、眼はどろりと、すさまじく、こなたを指した手の青く|痩《や》せほそったおそろしさに、あっとさけんで、その場にたおれて息絶えた。
しばらくして、息を吹きかえして、そっとほそ目をあけてあたりをうかがえば、家と見たのはもとの荒野の|三《さん》|昧《まい》|堂《どう》にて、ただ黒い仏が立っていた。遠くにきこえる犬の声に、かなたこそ人里と、わずかに力をえて、家にはしりかえって、彦六にしかじかと告げると、
「なんの、|狐《きつね》にでも化かされたのだろう。びくびくしているときには、ついあやかしなんぞにとっ|憑《つ》かれるものさ。おぬしのようなひよわな男が、こうふさぎこんでしまったのでは、神仏に祈って気をしずめるほかあるまい。|刀《と》|田《だ》の里に、あらたかな|陰《おん》|陽《よう》|師《じ》がいる。みそぎして護符をいただいたらどうだ。」
つれだって陰陽師のもとに行き、はじめよりの一部|仔什《しじゅう》くわしく話して、この占をもとめた。陰陽師、占い考えていうに、
「わざわいはすでに迫って、容易なことではない。さきに女のいのちをうばい、|怨《うらみ》なお尽きず、そなたのいのちもきょうあすを出まい。そなたという仁は、こころに鬼をもたぬゆえ、外から鬼につけねらわれることになる。この鬼、世を去ったのは七日まえなれば、きょうから四十二日のあいだ、戸をたてておもき|物《もの》|斎《いみ》せずばなるまい。わしの禁を守ったなら、九死に一生をうることもあろうか。一刻おくれてもたすかるまいぞ。」
かたく戒しめて、筆をとり、正太郎の背より手足に至るまで、|篆《てん》|字《じ》のような文字をいっぱいに書きつけ、なお朱符あまた紙にしるしあたえて、
「この護符をば戸ごとに|貼《は》りつけて、神仏を念ずるがよい。鬼のつけ入る|隙《すき》を見せるな。手ぬかりして、一つしかない身をほろぼすなよ。」
教をこうむって、おそれ、またよろこび、家にかえって、朱符を門にも貼り、窓にも貼り、おもき|物《もの》|斎《いみ》にこもった。その夜、しんしんと|更《ふ》けわたったころ、戸の外におそろしい声がして、
「にくや、ここにもとうとき|符《ふ》|文《もん》を貼りおったな。」
そうつぶやいて、声はひたとやんだ。物音ひとつたたぬ|闇《やみ》の中に、おそろしさのあまり、長き夜のなおさら長く、生きたここちは無かった。夜があけると、ようやくほっとして、いそぎ|堺《さかい》の壁をたたいて、彦六を呼びおこし、ゆうべはしかじかと話すと、彦六もはじめて感じ入って、
「ふうむ。陰陽師のいうことも奇妙なものだて。」
正太郎、さすがに骨身にこたえたと見えるふぜいで、
「これで、わたしもやっと覚悟がきまった。したっても、きらっても、人間のことばはあの世には通じない。|所《しょ》|詮《せん》あの世は鬼の国と合点がいった。」
「あの世なんぞというやつは、おれにはさっぱり合点がいかない。この世のほかに世の中は無い。」
「わたしの世の中は、もはやこの朽ちた屋根の下の、やぶれ畳一枚に切りつめられた。おかげで、どうやら生きようという料簡にもなって来た。これから四十二日の夜がいのちの瀬戸ぎわだ。」
「なるほど、そう聞けば、おれも壁一重のあいだがらだから、今夜は寝ずに、ようすを見とどけよう。」
夜に入って、ふけるにしたがい、松ふく風のふき荒れて、物をたおすようにひびき、雨さえふり出して、ただならぬけしきに、壁をへだてて声をかけあい、やがて深更におよんだ。ときに、裏手の窓の紙に、さっと赤い光がさして、
「にくや、ここにも貼ったな。」
その声、深夜にはなおさらすさまじく、髪の色もかわるまでに総毛立って、しばらくは死に入った。
かくて、明ければ夜のさまを語りあい、暮れれば明けるのを待ちかねて、この日数のいつはてるとも知れず、わずかに壁をへだてて呼びかわす声をたのみに、夜夜の長さに|堪《た》えた。かの鬼も夜ごとに空をめぐり、あるいは屋の棟にさけんで、そのたけり狂う声、夜ましにすさまじく、ついに四十二日というその夜に至った。
今はただ一夜、この一夜をこそと、とりわけ慎んで、油断なくかまえるうちに、いつか時刻うつって、やがて暁もまぢかい空の、しらじらと明けわたって来た。長い夢のさめたように、ほっとして、壁をたたいて彦六を呼べば、かなたに応えがあって、
「どうした。」
「いや、どうも、こうも。おもえば、ひどい目に逢った。おもき|物《もの》|斎《いみ》も、これにてもはや満願。うちたえて、そなたの顔を見ない。見たいは人間の顔。聞きたいは人間のことば。まことに、生きていのちあればこそ。なつかしさも、なつかし。またこの日ごろのつらさ、おそろしさを、おもう存分しゃべりまくって、胸のしこりをほごしたい。さ、さ、目をさまして下さい。わたしも外に出よう、風にもあたろう。」
せきこんでいうのに、彦六、用意なき男にて、
「うむ。今はもう案じることはない。さあこちらへ出て来なさい。」
うっかり立って戸をなかば引きあけたとたんに、となりの軒にあたって、わっとさけぶ声、耳をつらぬいて、おもわずそこにだっと|尻《しり》を突いた。これてっきり正太郎の身の大事と、|斧《おの》をひっさげて外にとび出て見れば、明けたとばかりおもったのに、夜はまだ暗く、月は中空にかかって、影ゆらゆら、風ひややかに|面《おもて》を吹きはらった。
さて正太郎はとうかがうに、戸はあけはなしになって、そのひとは見えず、もしや内に逃げこんだかと、|駈《か》け入って見まわしても、どこにかくれるというほどの住居でもなく、道ばたにでもたおれているかと、さがしもとめたが、そのあたりには物も無い。どこにどうなったのかと、あやしみつつ、またおそるおそる、ともしびをかかげて、ここかそこかと見めぐるに、あけはなしの戸の、ついわきの壁に、血、べっとりとなまなましく、そそぎながれて地につたわっていた。しかし、|死《し》|骸《がい》も、骨すら見えず、月あかりにあおげば、軒の端になにやら、ともしびをあげて照らして見ると、そこに男の髪の、もとどりだけかかって、ほかには露ほどのものも無かった。
|蛇《じゃ》|性《せい》の|婬《いん》
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紀伊の網元の次男の|豊《とよ》|雄《お》は、若き未亡人|真《ま》|女《な》|子《ご》と出会う。この女は、豊雄に盗品の太刀を与えて迷惑をかけたり、豊雄が紀伊を離れるとおいかけて来て妻の座におさまったりするが、神社仕えの老人に正体が蛇であると見破られて|逐《ちく》|電《てん》する。豊雄は紀伊に戻り結婚するが、真女子は新妻にのりうつる。立ち向かおうとした僧は殺され、もはや逃れられぬと、豊雄は我身を犠牲にする決意をする。だが、法海和尚の力を借り、ついにこの魔性の蛇を捕らえることができた。
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いつのころのことか、紀伊の国三輪が崎に|大《おお》|宅《や》の竹助というひとがいた。このひと網元の福をえて、漁師どもおおぜいやしない、大魚小魚これを捕らざるものなく、家ゆたかにくらした。男子ふたり、女子ひとりがあった。長男の太郎はもの堅いたちで、よく家の業につとめた。つぎは女で、これは|大和《やまと》のひとに望まれてかの地に嫁に行った。末の子に|豊《とよ》|雄《お》というものがいる。うまれつきやさしく、いつもみやびなことばかり好んで、身すぎ世わたりの|料簡《りょうけん》はとんと無かった。父これを苦労のたねにしておもうには、身代をわけてあたえてもいずれはひと手にわたすであろう。さりとて、他家に養子にやっても、いやなはなしを聞かされでもすることになってはつらい。ええい、当人のしたいままにほっておいて、ものの役にたたぬ学者とやらにもならばなれ、木のはしの坊主にもならばなれ、生きてあるかぎりは太郎の厄介者にさせておこうと、しいてやかましいこともいわなかった。
この豊雄は|新《しん》|宮《ぐう》の神官安部の|弓《ゆみ》|麿《まろ》をまなびの師としてつねづねそこにかよっていた。
九月の末、きょうはことに|隈《くま》もなく|凪《な》ぎわたった海の、にわかに東南の方に雲おこって、小雨がはらはらと落ちて来た。豊雄は師のもとにて傘を借りてかえる道に、|阿《あ》|須《す》|賀《か》神社の宝蔵が見えるあたりから、ふりもややひどくなって来たので、ちかくの漁師の家に立ちよった。
あるじの老人がはい出て、
「これは網元の御次男が、このむさくるしいところにお立ちよりとは、おそれいったことじゃ。まず、これなどお敷き下され。」
きたならしい敷物の|塵《ちり》をはらってすすめるのを、
「ほんの雨やどりに、なにをいとおう。かまってくれるな。」
かりに休んでいるところに、外のほうにうるわしい声がして、
「この軒、しばらくお貸し下さいませ。」
そういいながらはいって来たひとを、なにものかと見れば、年はまだはたちにもならぬ女の、顔かたち、肩に垂れた髪のようすなど、花のにおうばかり、遠山のけしきを|摺《すり》|出《だ》した色よき|衣裳《いしょう》きて、十四五の少女の小ざっぱりしたのになにやら包をもたせ、しっとり雨に|濡《ぬ》れてわびしげなのが、豊雄を見て、はずかしそうにさっと顔をあからめたのは、なおさらあでやかなふぜいであった。豊雄はそぞろに心うごいて、おもうには、このあたりにこれほどよろしいひとが住んでいたのなら今までうわさにも聞かぬことはあるまいに、これは都のひとが本宮、新宮、那智の熊野三山に参詣したついでに、海めずらしくここにあそぶのでもあろうか。それにしても、供の男らしいものもつれていないのは、かろがろしいことかなとおもいながら、すこし席をあけて、
「ここにおはいりなされ。雨もじきにあがりましょう。」
「では、おゆるし下さいませ。」
狭い小家のこととて、ぴったりならぶように寄り添ったのを、まぢかに見ればひとしお、この世のひとともおもわれぬほどうつくしいのに、心もここにあらず、女にむかい、
「御身分ある方とはお見あげいたしましたが、|三山詣《みつやまもうで》をあそばされるか。峰の湯にはおいでなされるか。このすさまじい|荒《あら》|磯《いそ》を、何の見どころあっておめぐりなされるのやら。ここぞ、いにしえのひとが万葉集に、
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くるしくもふりくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに
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と|詠《よ》んだのは、そっくりまのあたりのけしきにて、あわれふかくおぼえます。この家はいぶせき|伏《ふせ》|屋《や》ながら、わたくしの親どもが目をかける男なれば、お気がるに雨やみなさるよう。そもそも、どこを旅の御宿となされるか。お見送り申してはかえって失礼と存ずれば、せめてはこの傘をもってお立ちなされ。」
女、こたえて、
「おことば、うれしくうけたまわります。そのおこころざしをたよりに、雨を|乾《ほ》してまいりましょう。都のものでもございませぬ。この近いところに年ごろ住みなれておりますが、きょうはよき日とて那智にお|詣《まい》りいたしましたのに、にわか雨のおそろしく、あなたさまのおいでとも知らず、ぜひなくもここには立ちよりました。ここから遠くもございませねば、この小やみのあいだに出るといたしましょう。」
「いや、いや、ぜひこの傘をおもち下され。いつのおりにても、おかえしねがいましょう。雨はまだやんだというのでもありませぬに。さて、お住居はどのあたりか。こちらから使をさしあげましょう。」
「新宮のほとりにて、|県《あがた》の|真《ま》|女《な》|子《ご》の家はとおたずね下さりませ。やがて日もくれましょう。おめぐみのほどを、さし|戴《いただ》いてかえりましょう。」
傘とって出るのを見送ったあとで、豊雄はあるじの|蓑《みの》|笠《かさ》を借りて家にかえったが、女のおもかげ、つゆ忘れられず、うとうと|睡《ねむ》った明け方の夢に、かの真女子の家にたずねて行って見れば、門も家もみごとな大きいつくりで、|蔀《しとみ》をおろし|簾《すだれ》をたれて、おくゆかしげに住みなしている。真女子が出むかえて、お情わすれがたく待ちこがれておりました、さあこちらへと、奥のほうにさそい入れられて、酒くだものさまざまにもてなし厚く、うれしい酔ごこちに、ついに|枕《まくら》をともにしてかたるとおもえば、夜あけて夢さめた。
これがうつつであってくれたならと、おもうこころにせき立てられて、朝めしもわすれて、うかれ出た。新宮の里に来て、県の真女子の家はとたずねてみても、知ったひとはさらに無い。|正《ひ》|午《る》すぎるまでさがしあぐねているところに、かの少女が東のほうからあるいて来た。豊雄、それと見るよりおおいによろこんで、
「かのひとの家はどこか。傘をとりにたずねて来た。」
少女、わらって、
「よくぞお見え下さいました。こちらにおいでなされませ。」
さきに立って行くほどに、まもなく、
「ここでございます。」
見れば、門も高く、家も大きく造りなしている。蔀をおろし簾をたれたけしきまで、夢のうちに見たのとつゆちがわないのに、さても不思議とおもいながら、門にはいった。
少女、はしり入って、
「傘のぬしがおいでになりましたのを、御案内申しあげました。」
声に応じて、
「どこにおいでなされます。こちらにお迎えして。」
そういってあらわれたのは、真女子であった。
豊雄いうに、
「ここに安部の|大《う》|人《し》と申されるは、年ごろまなびの師にておわす。そのもとにまいるついでに、傘とってかえろうとて、推しておたずねいたしました。お住居を見ておきましたので、またのおりにうかがいましょう。」
|真《ま》|女《な》|子《ご》、しいてこれを止めて、
「まろや、ゆめお出し申しあげるな。」
名を呼ばれた少女が立ちふさがって、
「傘をぜひともとお恵み下さったではございませぬか。そのおかえしに、ぜひともお止めまいらせます。」
腰を押して、南おもての門にむかえ入れた。そこは板敷のゆかに畳の座をもうけて、|几帳《きちょう》、|厨《ず》|子《し》のかざり、|長押《なげし》から垂らした|綾《あや》|絹《ぎぬ》の絵なんぞも、すべて古代のよきものばかり、なみなみのひとの住居ではない。
真女子、そこに出て、
「|仔《し》|細《さい》あってひとなき家とはなりましたので、とても行きとどいたおもてなしは|叶《かな》いませぬ。ただうすい酒|一《ひと》|坏《つき》、おすすめ申しあげましょう。」
木の器の、かたちさまざまに清らかなのに、海のもの山のものを盛りならべて、|酒《さか》|瓶《がめ》にかわらけささげて、まろやが酌をする。豊雄はまた夢みるここちして、さめるのではないかとおもうのに、まさしくうつつなのがかえって不思議であった。客もあるじもともに酔のまわったとき、真女子、さかずきをあげて、水にうつろう桜いろのおもてに、春風をあしらったふぜいにて、|梢《こずえ》を縫ううぐいすの声うつくしく、豊雄にむかっていい出したのは、
「はずかしいことを口にはいわずに、ひと知れずあじきなく、おもいを秘めておりましては、どこやらのいじわるの神さまのせいと、あらぬ|濡《ぬれ》|衣《ぎぬ》をおきせすることにもなりましょう。ゆめ浮気なことばとお聞き下さいますな。もとは都のうまれではございますが、父にも母にもはやく別れまいらせて、乳母のもとにひととなりましたのを、この国の|守《かみ》の|下役県《したやくあがた》のなにがしに迎えられて、ともに当地にくだりましてから、もう三年はすごしました。夫は任まだはてぬこの春、かりそめのやまいに死にたまえば、たよりなき身とはなりました。都の乳母も尼になって、|行方《ゆくえ》さだめぬ修行に出たときけば、かなたもまた知らぬ国となりはてたのを、あわれとはおぼしめし下さいませ。きのうの雨やどりのおめぐみに、まことある御方かなとおもえばこそ、今よりのちは生涯お側に仕えたいとねがうのを、いやしきものにお見捨てなくば、この|一《ひと》|坏《つき》に千とせの|契《ちぎり》をはじめましょう。」
豊雄はもとよりこうもあれかしと、気もくるおしく恋うる女のことなれば、飛びたつばかりにおもったが、一本立でもないわが身のうえをかえりみれば、親兄のゆるしなきことをと、かつうれしく、かつおそれて、すぐには答えるべきことばも出かねるありさまを、真女子わびしげに見て、
「女の浅いこころから、はしたないことをいい出しまして、今さらとりかえす道なく、おはずかしゅう存じます。かほどにあさましい身を海にも沈めずに、みこころをなげかせ奉るのは、罪ふかきことでございました。今のことばにいつわりはございませぬが、ただ酔ごこちのざれごととお聞きながされて、ここの海にさらりとお捨て下さいませ。」
豊雄いう。
「はじめより都びとの、御身分ある方と察したのは、われながらよくぞお見あげしたものかな。鯨の寄る海辺にひととなった身の、かほどにうれしいことをいつの日にか聞きましょうぞ。すぐにお答えもせぬのは、親兄につかえる分際にて、おのれの物としては|爪《つめ》|髪《かみ》のほかには無い。なにを贈物にお迎えいたすべきたよりとてもなければ、身に徳分の欠けたことを悔いるばかり。なにごとをもおしのび下さるおつもりなら、いかにもいかにもお世話申しあげましょう。|孔《く》|子《じ》さえたおれる恋の山には、ままよ、孝をも身をもわすれ捨てて。」
真女子いう。
「そのうれしいお情のほどをうけたまわるうえは、まずしくはございますが、おりおりここにお住み下さいませ。ここに前の夫の二つなき宝としてめでられた|佩《はい》|刀《とう》がございます。これをば御身はなさず帯びさせられませ。」
そういって取り出したのは、金銀をちりばめた|太《た》|刀《ち》の、あやしきまでに鍛えた古代のものであった。吉事のはじめにいなといっては縁起よからずとて、これを納めた。
「今宵はここにお泊りなされませ。」
ぜひにと止めるのを、
「ゆるしなくして家をあけては、親どものとがめを受けましょう。あすの夜、なにかといいつくろって、出直してまいりましょう。」
別れて家にかえったが、その夜もおちおち寝つかれぬうちに明けて行った。
太郎は漁師をあつめて|網《あ》|引《びき》の支度しようとて、あけがたに起き出て、豊雄の|閨《ねや》の戸のすきまをふっとのぞくと、その寝ている|枕《まくら》もとに、消えのこったともしびのかげに、きらきらした太刀が置いてある。これはいかに、どこから手に入れて来たものかと、こころもとなく、戸を荒く引きあける音に、豊雄は目がさめた。ついそこに太郎が立っているのを見て、
「およびか。」
「きらきらしたものが枕もとに置いてあるのはなにか。値のたかいものは漁師の家にはふさわしからぬ。おやじ殿のお目にとまったなら、きっとおとがめがあろうぞ。」
「|財《たから》をついやして買ったものではありませぬ。きのうさるひとから贈られたのを、ここに置きました。」
「それほどの宝ものをくれるひとが、いかでこのあたりにおろうぞ。七めんどうな四角の字を書いたものを買いためることさえ、世のむだづかいじゃとはおもえど、おやじ殿がだまっておいでなされるゆえ、今までは何ともいわなんだ。その太刀を帯びて、新宮の祭の武者行列にでも練り出すつもりか。きちがい|沙《ざ》|汰《た》にもほどがあるぞ。」
ののしる声の高いのに、父が聞きつけて、
「いたずらものが何事をしでかしたのじゃ。ここにつれて来い、太郎。」
太郎、こたえて、
「どこで手に入れたか、武将なんぞの|佩《は》かせられるようなきらきらしたものを買いこんだのは、よからぬことじゃ。おそばによびつけて、|仔《し》|細《さい》をただされい。このひまにも、漁師どもがなまけてもいよう。わしは目がはなされぬ。」
そういいすてて、出て行った。
母は豊雄をよんで、
「左様な品をなにしようとて買いましたぞ。米も銭もみな太郎のもの。おまえの持物といってなにがあろう。日ごろは勝手にさせておいたれど、これで太郎ににくまれたなら、この世の中にどこに住むつもりか。かしこい事をもまなんだものが、なにとてこれほどの分別がつきませぬぞ。」
豊雄いう。
「まことに買ったものではございませぬ。さる仔細あってひとから贈られたのを、兄上が見とがめて、この仕儀とはなりました。」
父、しかって、
「何の手柄があって、それほどの宝をばひとがくれたぞ。さっぱり合点がゆかぬわい。たった今、仔細をいえ。」
豊雄いう。
「この儀、ただいまと仰せられては、はずかしく存じます。ひとづてにお耳に入れましょう。」
「なに、親兄にさえいわぬことを、たれにいうぞ。」
声が荒くなったのを、そばにいた太郎の嫁がとりなして、
「|不《ふつ》|束《つか》ながら、わたくしが聞くことにいたしましょう。まず奥にお入りなされませ。」
なだめられて、親たちはその場を立った。
豊雄は兄嫁にむかって、
「兄上に見とがめられずとも、姉上にはひそかにお|智《ち》|慧《え》を借りたいものと存じておりましたところ、はやくもさしせまった急場、のがれられませぬ。じつは、これこれの|素姓《すじょう》の女人の、たよりなき身にてあるのが、ふかくも契ろうとあって、贈られた太刀でござった。おのれの気ままにもならぬ身分の、おゆるしいただけぬときは、必定おもき|勘《かん》|当《どう》ともなりましょう。今さら悔いるばかりの仕儀を、姉上、よくよくお察しねがいたい。」
兄嫁、わらって、
「そなたのような若者のひとり寝しておいでなのを、かねて|不《ふ》|憫《びん》とはおもっておりました。それはまあよいおはなしじゃ。およばずながら、何とかとりなして進ぜましょう。」
さて、その夜、太郎にむかって、
「これこれの仔細なれば、いっそ仕合せとはおぼしめされませぬか。おやじさまの手前を、よきにおはからいなされては。」
太郎、|眉《まゆ》をひそめて、
「|面《めん》|妖《よう》な。この国の|守《かみ》の下役に|県《あがた》のなにがしというひとを聞かぬ。わが屋は庄屋のことなれば、左様な仁のなくなられたうわさを聞きおよばぬはずもあるまいに。まずその太刀をここにとって来て見せい。」
やがてはこばれた一物を、よくよく改めて見て、ためいきついていうには、
「ここにおそろしいことがある。ちかごろ都の|大臣《おおい》|殿《どの》、御願の儀が|叶《かな》わせられて、熊野権現にあまた宝ものを奉納あそばされた。しかるに、この神宝のもろもろ、宝蔵の中にてたちまちうせたとあって、大宮司より国の|守《かみ》に訴え出られた。守この賊をさぐり捕えんがため、|助《すけ》の|文《ふん》|屋《や》の|広《ひろ》|之《ゆき》どの、大宮司の|館《たち》におもむかれて、今もっぱら|詮《せん》|議《ぎ》中とはいうぞ。この太刀、いかにも下役なんぞの|佩《は》くべきものではない。おやじ殿にもお目にかけよう。」
すなわち、父のまえにこれを示して、
「このようなおそろしいことがあるからには、この儀いかにはからいましょうぞ。」
父、|面色《めんしょく》あおざめて、
「これはあさましいことになったものじゃ。日ごろは|塵《ちり》一本かすめたこともないに、何のむくいにて、こうよからぬ|料簡《りょうけん》をおこしたものか。ほかよりあらわれたなら、この家までも絶やされよう。先祖のため子孫のためには、不孝の子ひとり惜しくはない。あすは、つい訴えて出い。」
太郎、夜のあけるのを待って、大宮司の館に来て、しかじかのよしを申し出て、くだんの太刀を見せると、大宮司おどろいて、これこそ大臣殿の献上物というのに、助これを聞いて、なお失せたものを問いたださん、召捕れとあって、さむらい十人ばかり、太郎をさきに立てて行く。
豊雄はそうとも知らずに本を見ているところを、さむらいども押しかかって捕えた。これは何の罪かというのも聞き入れず、縛りあげた。父母、太郎夫婦、今はただあさましと、なげきまどうばかり。おかみのお召じゃ、とっととあゆめと、豊雄を中にとりかこんで、大宮司の館へと追い立てた。
助、豊雄をにらんで、
「なんじ、神宝を盗みとったはためしのない大罪じゃ。もろもろの財宝をばいずこにかくしたぞ。あきらかに申せ。」
豊雄、ようやく事の次第をさとり、涙をながして、
「わたくし、さらさら盗みははたらきませぬ。これこれの仔細にて、県のなにがしの女が前の夫の帯びたものと申して、さずけてくれたものでございます。今にもかの|女《もの》を召して、わたくしの身に罪なきことをおさとり下さいますよう。」
助、いよいよいかって、
「わが下役に県の姓を名のるものは無い。いつわりを申せば、罪ますます大じゃ。」
「かく捕われの身となって、いつまでいつわりを申しましょうぞ。ねがわくは、かの女を召してお問い下さるよう。」
助、さむらいどもにむかって、
「県の|真《ま》|女《な》|子《ご》の家はいずこぞ。そやつを引っとらえてまいれ。」
さむらいども、かしこまって、またも豊雄を押し立てて、かのところに行って見ると、いかめしくつくりなした門の柱も朽ちくさり、軒の|瓦《かわら》もおおかたは砕けおちて、しのぶ草おいさがり、ひとが住むとも見えない。豊雄はこれを見て、ただあきれにあきれた。さむらいども、|駈《か》けめぐって、ちかくに住むひとびとを呼びあつめる。木こりのじい、米つき男ら、おそれまよって地にうずくまる。さむらいども、かれらにむかって、
「この家はなにものが住んだぞ。県のなにがしの女がここにおるというはまことか。」
|鍛《か》|冶《じ》|屋《や》のじいがはい出て、
「そういうひとの名はとんとうけたまわりませぬ。この家は三年ばかりまえまでは、|村主《すぐり》のなにがしというひと、繁昌して住んでおりましたが、筑紫にあきないの品品を積んでくだったその船の|行方《ゆくえ》知れずになってのちは、家にのこったひともちりぢり、それより絶えてひとの住むこともありませなんだ。それを、この男がきのうここにはいって、しばらくしてかえったのは不思議じゃと、これなる|漆《ぬ》|師《し》屋のじいが申されました。」
「なにはともあれ、よく見きわめたうえのことじゃ。」
門を押しあけて、どっとはいった。家のうちは外よりもさらに荒れていた。なお奥のほうへと踏みこんで行く。|前《せん》|栽《ざい》広くつくりなしてある。池は水あせて水草もみな枯れ、|藪《やぶ》はかたむくまでにみだれた中に、松の大木の吹きたおれたのがすさまじい。宮殿の格子戸をひらけば、なまぐさい風がさっと吹きつけて来たのに、たじたじとして、ひとびとあとに引く。豊雄はただ声をのんでなげいていた。さむらいどもの中に、|巨《こ》|勢《せ》の|熊《くま》|梼《がし》ときこえたのが|胆《きも》ふとき男にて、おのおのわれにつづけと、板敷を荒く踏みならしてすすみ行く、|塵《ちり》つもって一寸ばかり|鼠《ねずみ》のくその散らばる中に古い|几帳《きちょう》を立てて、花のようなる女ひとり、そこにいた。
熊梼、女にむかって、
「国の守のお召ぞ。いそぎまいれ。」
それに答えようともしないでいるのを、まぢかにすすんで捕えようとすると、たちまち、|霹《へき》|靂《れき》地を裂いて鳴りひびき、ひとびと逃げるひまもなくその場にたおれた。さて、女はと見ると、どこへ行ったのかすがたは見えなかった。その床の上にきらきらしたものがある。おそるおそるちかより見れば、高麗渡来の|狛錦《こまにしき》、唐土渡来の|呉《くれ》の|綾《あや》、|倭文《しずり》、|堊《かとり》なんぞの織物、また|楯《たて》、|槍《やり》、|靱《ゆき》、|鍬《くわ》のたぐい、すべてこれうしなわれた神宝であった。さむらいども、これをとりおさめて、怪事のありさまをくわしく訴えた。助も大宮司も|妖《よう》|怪《かい》のなせるわざと知って、豊雄を責める手をゆるめた。しかし、まのあたりの罪科はまぬがれず、守の館にひきわたされて|牢《ろう》|内《ない》につながれた。|大《おお》|宅《や》父子、おおくのものを|賄《まいな》いして罪をあがなったので、百日ほどにして赦免されることをえた。
こうなっては、世間に顔を出すのもはずかしい。姉が|大和《やまと》にいるのをたずねて、しばらくかの地に住まうという。いかにもこういう憂目を見たあとではおもい病にかかりがちなもの、よその土地に行っていく月かをすごせとあって、ひとをつけて旅に出した。姉の家は|石《つ》|榴《ば》|市《いち》というところに|田《た》|辺《なべ》の|金《かね》|忠《ただ》という|商《あき》|人《んど》であった。豊雄がたずねて来たのをよろこび、かつはさきごろの災難を|不《ふ》|憫《びん》におもって、いついつまでもここに住めと、ねんごろにいたわった。
年かわって、二月になった。この石榴市というのは|泊《はつ》|瀬《せ》の寺にちかいところであった。みほとけの中にもこの|長《は》|谷《せ》寺の観世音こそ霊験あることは、唐土までもきこえたとて、都より|鄙《ひな》より参詣するひとの、春はことにおおかった。そのひとびとはかならずここに宿をとるので、軒をならべて旅人をとどめた。
田辺の家は|御明《みあかし》灯心のたぐいをあきなっていたので、せまいまでに出入しげき中に、都のひとのしのびの参詣と見えて、いともよろしい女ひとり、少女ひとり、|薫《たき》|物《もの》をもとめにここに立ちよった。その少女が豊雄を見て、あれ、かのおん方がここにおいでというのに、おどろいて見れば、これぞ|真《ま》|女《な》|子《ご》まろやであった。わっとふるえて、豊雄は内にかくれる。金忠夫婦、これはなにごとぞといえば、
「かの鬼、ここまで追いかけて来た。あれにちかよりたまうな。」
逃げまどうありさまに、ひとびと、鬼はどこにと立ちさわぐ。
真女子、入り来て、
「みなさま、あやしんで下さいますな。豊雄さまも、おそろしとおぼしめされますな。|不《ふつ》|束《つか》のわがこころから、罪におとしまいらせたのは、どれほどかなしゅうございましょう。おんありかをさがして、事のわけをもかたり、みこころを安らげまいらせようとて、お跡をたずねておりましたのに、そのかいあって、きょうお目にかかれたのは、どれほどうれしゅうございましょう。御当家の御主人も、よくお聞きわけ下さいませ。わが身もしあやしいものならば、このひと出にぎやかな町中でさえあるうえに、こうのどかな真昼をいかがいたしましょう。|化性《けしょう》のものでないしるしには、これこのとおり、きものに縫目あり、日にむかえば影がございます。この正しい道理をおわきまえになって、おうたがいをお晴らし下さいませ。」
豊雄、ようやくひとごこちがついて、
「なんじまさしく人間でないしるしには、わが身捕われて、さむらいどもとともに行って見れば、きのうにも似ずあさましく荒れはてて、げにも鬼の住まう宿にただひとりいたのを、ひとびと捕えようとすれば、たちまち青天に|霹《へき》|靂《れき》をふるって、すがた跡なく消えうせたのを、まのあたりに見とどけたぞ。それに、また追いかけて来て何とする。すみやかに退散せい。」
真女子、涙をながして、
「まことにそうおぼしめされるのは道理ながら、わたくしの申しあげることもしばらくお聞き下さいませ。あなたがおかみに召されたと聞いてより、かねてあわれみをかけておいた隣の年寄としめしあわせ、にわかに荒野の宿のさまをばこしらえました。わたくしを捕えようとしたまぎわに、いかずちの音をひびかせたのは、まろやのはかりごとでございました。その後船をもとめて|難波《なにわ》の方にはのがれましたが、ぜひ御消息を知りたく、ここの観世音に願掛しておりましたところ、年をへてまたもあいみんと古歌に|詠《よ》まれた二本杉の、ありがたいしるしあって、うれしい|逢《おう》|瀬《せ》にながれあうことは、ひとえに大慈大悲のおんめぐみをこうむったのでございましょう。いろいろの神宝は、なにとて女の手に盗み出せましょうぞ。これは前の夫の悪心のなせるわざでございました。よくよくお考えわけられて、これほどにおもうこころの露ばかりをもお受け下さいませ。」
さめざめと泣くのに、豊雄もあるいはうたがい、あるいはあわれみ、かさねていうべきことばも無い。
金忠夫婦は、真女子の|云《いい》|分《ぶん》に筋がとおっているうえに、この女らしい振舞を見て、ゆめうたがうこころもなく、
「豊雄のはなしでは、世にもおそろしいことよとおもっていたが、そういうことのあるべき世の中でもない。はるばるとたずね迷われたおこころ根がいとおしい。豊雄は承知せずとも、われら夫婦とどめまいらせよう。」
そういって、家の一間に迎え入れた。ここに一日二日をすごすうちに、金忠夫婦にとりいって、ひたすらなげきたのんだ。そのこころざしの|篤《あつ》きにうごかされて、豊雄にすすめてついに婚儀をむすぶ。豊雄も日に日にうちとけて、もとより女の容姿のよろしきをよろこび、千とせをかけて契るには、宵の雲、あかつきの雨、かたらいむつまじく、ただあい|逢《あ》うことのおそきを恨んだ。
三月にもなった。金忠、豊雄夫婦にむかって、
「都あたりには似ても似つくまいが、さすがに紀州路にはまさりもしよう。名にしおう吉野は春はよいところじゃ。|三《み》|船《ふね》の山、|菜《な》|摘《つみ》川、いつ見てもあかぬが、この季節にはいかにおもしろいであろうか。さあ、さあ、行こう。いで立とう。」
真女子、|笑《えみ》をふくんで、
「まことに古歌にあるとおり、よきひとのよしと見たまう吉野山は、都のひとも見ぬをうらみにすると聞きますのに、わたくしおさなきより、ひとのおおぜいいるところ、あるいは道の長手をあゆみますと、かならずのぼせてくるしむ病がございますので、くちおしけれど、お供には立てませぬ。おみやげ、お待ちいたします。」
「それはあゆめばこそ、病もくるしかろう。車こそもたぬが、どうにもして土はお踏ませしまい。留守にのこるとあっては、豊雄がどれほどこころぼそくおもうことか。」
金忠夫婦のすすめるにつれて、豊雄も、
「こうまでたのもしく仰せあるのを、道にたおれるとも、いかで辞退がなろうか。」
そういわれて気のすすまぬながらにいで立った。ひとびといずれも花と|著《き》かざって出たが、真女子のうつくしさには似るべくもなく見えた。
吉野のなにがしの院はかねて懇意のあいだがらなので、そこをおとずれた。あるじの僧がむかえて、
「この春はおいでがおくれましたな。花もなかばは散りすぎて、|老鶯《おいうぐいす》の声もややながれがちではあろうが、なおよろしい方に御案内いたそう。」
夕げきよらかに支度して食わせた。
あけゆく空は霞たちこめたが、晴れゆくままに見わたせば、この院は高いところにあって、ここにそこに僧坊どもあらわに見おろされる。山の鳥どもも声さまざまにさえずりあい、木の花草の花いろいろに咲きまじって、おなじ山里ながら目さめるけしきであった。
初詣には滝のある方こそ見どころはおおかろうと、かなたに案内のひとをたのんで立った。谷をめぐって下って行く。いにしえ離宮のあったところは、滝がむせびながれていて、水にさからう|小《こ》|鮎《あゆ》のすがたなど、目もあやにおもしろい。|檜《ひ》|割《わり》|子《ご》にぎやかにひらいて、弁当を食いながらあそぶ。
そこに、岩をつたわつて来るひとがある。髪は麻糸をたばねたようなれど、手足すこぶるたっしゃな老人であった。この滝の下にあるいて来る。ひとびとを見て、あやしげに目をとめているのに、真女子もまろやもこの老人を背にして見ぬふりをしていると、老人、かのふたりをじっと見つめて、
「奇怪な。この邪神、なにとてひとをまどわすぞ。わしの目のまえをはばからぬか。」
そうつぶやくのを聞くと、このふたり、たちまちおどり立って、滝に飛びこむと見えたが、水は空に|湧《わ》きあがってあたりを|掩《おお》い、墨をなす雲、|篠《しの》つく雨、もろともに吹きみだれた。老人はひとびとのあわてふためくのをしずめて人里にくだる。|賤《しず》の家の軒にかがまって、いずれも生きたここちもしないでいるのを、老人、豊雄にむかっていうには、
「つらつらそなたの面色を見るに、このかくれ神のためになやまされているにたがわぬ。わしが救わずば、ついには一命をもうしなおう。今後はよくつつしまれよ。」
豊雄、土にぬかずいて、事の次第をはじめからかたり出て、なお一命を救わせたまえと、うやうやしくねがった。|翁《おきな》いう。
「さればこそ、この邪神は年へたオロチじゃ。かれの性は|婬《いん》なるものにて、牛とつるんでは|麟《りん》をうみ、馬とあっては竜馬をうむという。こやつが化かしたのも、そなたの美男にたわむれたと見えた。かくまで執念ふかきやつなれば、つつしみをおこたっては、おそらくいのちに係るじゃろう。」
ひとびと、なおさらおそれおののいて、老人をあがめて|生《いき》|神《がみ》にこそとおがみあった。老人わらって、
「わしは神でもない。|大倭《おおやまと》の社につかえまつる|当《たぎ》|麻《ま》の|酒《き》|人《びと》というものじゃ。道のほどを見おくって進ぜよう。さあ、行こう。」
老人にみちびかれて、ひとびとあとについて帰った。
あすの日、大倭の里に行って、翁のめぐみを謝し、かつ|美《み》|濃《の》|絹《ぎぬ》六反、|筑《つく》|紫《し》|綿《わた》四斤をおくって、なおこの|妖《よう》|怪《かい》のわざわいを|祓《はら》うことをつつしんで|乞《こ》うた。老人、これを納めて、神官らにわかちあたえ、みずからは一反一斤をもとどめずに、豊雄をさとしていうに、
「かれ、なんじの美男にたわむれてつきまとう。なんじもまたかれの|仮《かり》のかたちにたぶらかされて、|丈《ます》|夫《らお》のこころがない。今より男の気力をふるってよくこころをしずめたなら、これらの邪神を|逐《お》いはらうに、この老人の力を借りるにもおよぶまい。ただただ、こころをしずめられよ。」
豊雄は夢のさめたここちして、礼のことばをかさねて、かえって来た。さて、金忠にむかっていうことには、
「この年月、かれのためにたぶらかされたのは、おのれのこころの正しからぬせいとはさとりました。親兄につかえるまことをも欠いて、御当家のかかりうどになっていようとは、よしなきことと存じます。おめぐみ、かたじけなけれど、またもまいりましょう。」
かくて、紀の国にかえった。父母、太郎夫婦、このおそろしいことどもを聞いて、いよいよ豊雄のあやまちではなかったことをあわれみ、かつは|妖《よう》|怪《かい》の執念ぶかいことをおそれた。
これというのも、豊雄をひとり身にしておけばこそと、妻をむかえさせようというはこびになった。|芝《しば》の里に芝の庄司というものがある。女子ひとりもっていたのを、宮中の|采《うね》|女《め》にまいらせてあったが、このたびいとまを乞うて、この豊雄を|聟《むこ》にと、なかだちをもって|大《おお》|宅《や》のもとにいい入れて来た。はなしがまとまって、やがて|約《ちぎり》をむすんだ。こうして都へも迎えのひとをのぼせたので、この采女|富《とみ》|子《こ》というもの、よろこんでかえって来た。年ごろの大宮仕えに|馴《な》れて来たこととて、行儀万端はいうにおよばず、すがたも花やかにみがきがかかった。豊雄はここにむかえられて見ると、この富子がかたちすぐれて万事こころに|叶《かな》ったのに、かのオロチに|懸《け》|想《そう》されたこともそぞろにおもい出されたようであった。はじめの夜は事なし。二日の夜、よきほどの酔ごこちに、
「この年ごろの宮中ぐらしに、|田舎《いなか》者はさだめてうるさくおぼしめそう。雲の上にては、なにがしの中将、|宰相《さいしょう》の君なんぞというのに|添《そい》ぶしなされてか。今さら、にくくおぼえますな。」
そのたわむれに、富子やがて顔をあげて、
「もとの契をおわすれなされて、このような取柄もないひとをちやほやあそばすとは、にくいと仰せられるこちらよりも、いっそにくく、おうらみ申しあげます。」
そういうのは、かたちこそかわっても、まさしく|真《ま》|女《な》|子《ご》の声であった。聞くさえあさましく、身の毛もよだっておそろしく、ただあきれはてているのを、女、|笑《えみ》をうかべて、
「殿、あやしくおぼしめされますな。海にちかい山にちかったことをはやくもおわすれなされようとも、朽ちせぬ御縁あれば、またも逢瀬はございましょうに、よしなき他人のいうことをまことらしくおぼしめして、しいて仲をへだてようとなら、かならず恨み報いましょうぞ。|紀《き》|路《じ》の山山いかに高くとも、君の血をもて峰より谷にそそぎ下して見しょう。あったら御身をむなしくなされますな。」
豊雄はふるえ、おののき、今やいのちとられるかと、ほとんど息絶えた。
|屏風《びょうぶ》のうしろから、
「殿、なにとておむずかりあそばします。かようにめでたいおん|契《ちぎり》ではございませぬか。」
出て来たのはまろやであった。見るよりまたも肝をけし、目をとじてうつむきにたおれ伏した。なだめつ、おどしつ、かわるがわるに声をかけて来ても、ただ死に入ったようにて夜があけた。
やがて、豊雄は|閨《ねや》をのがれ出て、庄司にむかい、こうこうのおそろしいことあり、これいかにして避けようか、御思案ねがうというにも、もしやうしろに聞かれるかと声をひそめてかたる。
庄司も妻も、|面色《めんしょく》かわって、なげきうろたえ、
「これはいかがいたそうか。ここに都の|鞍《くら》|馬《ま》寺の僧の、年年熊野に詣でるのが、きのうからこの向うの山の寺に泊っておる。いとも効験ある法師にて、およそ疫病怪異稲虫なんぞをもよく祈るとやら。この里のひとはみなとうとむところじゃ。この法師をむかえよう。」
いそいで呼びにやると、しばらくして来た。しかじかのよしを告げれば、この法師、鼻を高くして、
「これらの|変《へん》|化《げ》をとるは、なに、手間のかかることでもない。おさわぎあるな。」
事やすげにいうのに、ひとびと、気がしずまった。法師はまず|雄《ゆう》|黄《おう》をもとめて薬の水をととのえ、|小《こ》|瓶《がめ》にたたえて、かの閨にむかう。ひとびと、おじかくれるのを、法師あざわらって、
「お年寄も子供衆も、そこにおいでなされ。このオロチ、たった今とってお目にかけよう。」
すすみ寄って、閨の戸をあけるや、たちまちかのオロチ、|頭《かしら》を突き出して法師にむかう。この|頭《かしら》、どれほどのものか。この戸口にみちみちて、雪を積んだよりも白く、きらきらして、眼は鏡のよう、角は枯木のよう、三尺あまりの口をひらき、くれないの舌を吐いて、ただ|一《ひと》|呑《のみ》にのもういきおいをなした。
法師、あっとさけんで、手に据えた小瓶をもそこに投げすて、足も立たず、こけつまろびつ、からくものがれ来て、ひとびとにむかい、歯の根もあわずにいうは、
「おそろしや、|祟《たたり》めされる御神にてましますものを、なにとて法師らが祈りたてまつろう。この手足なくば、のがれるすべなく、ついその場にていのちをうしなったであろうよ。」
そういいつつ絶え入った。ひとびとこれを|扶《たす》けおこせど、すべて顔も肌も黒く赤く染めつけたごとく、あついことは|焚《たき》|火《び》に手をさし入れるに似た。毒気にあたったと見えて、あとはただ目ばかりうごかして、ものをいいたそうだが、声さえ出ないでいる。水をそそぎなどしたが、ついに死んだ。ひとびとこれを見て、いよいよたましい身に添わず、泣きまどう。
豊雄すこし心をおちつけて、これほどの法力ある法師ですら祈りえず、|執《しゅう》ねくわが身につきまとうからには、天地のあいだにあるかぎりのがれる道なし、おのがいのち一つのことにひとびとを苦しめるは誠ならず、今はひとをもたのむまい、お気づかいあるなとて、閨に行くのを、庄司のひとびと、これはものに狂うかといっても、耳にもかけぬようすで、かなたにはいった。そっと戸をあけてのぞけば、さわがしい音もなくて、ふたり向いあってそこにいた。
富子、豊雄にむかっていう。
「君、なにを恨みにわが身をとらえようとて、ひとをかたらいたまうぞ。この後も|仇《あだ》をもって報いたまわば、君の御身のみにはあらじ、この里のひとびとをもすべて|辛《から》き目みせてくれよう。ひたすらわが操をうれしくおぼしめして、浮気ごころをおこさせたまうな。」
色気たっぷりにそういうのが、いっそなさけなかった。
豊雄いう。
「世のことわざにも聞いたことがある。人かならず|虎《とら》を害するこころなけれど、虎かえって人を|傷《やぶ》るこころありとか。なんじ、人間ならぬこころより、わが身につきまとっていくたびか辛き目みせるさえあるに、かりそめのことばにしても、このおそろしい報いをなんぞというのは、気味わるい|沙《さ》|汰《た》じゃ。されど、このわれを慕うこころは世の人間にもかわらねば、ここにあってひとびとに|歎《なげ》きをかけるのがいたわしい。この富子のいのち一つをたすけよ。さて、このわが身はどこになりとつれて行け。」
そう聞いて、女はさもうれしげにうなずいた。
豊雄、また閨を出て、庄司にむかっていうことには、
「このように、あさましいものが身につきまとっておりますれば、ここにあって方方をくるしめまいらせるのは、|本《ほ》|意《い》ないことに存じます。ただいま、お別れをたまわらば、娘御のいのちもつつがなくおわそう。」
庄司いっかな聞き入れず、
「わしも武門のはしにつながる身でありながら、いいがいなき振舞見せては、大宅のひとびともなんとおぼすか、はずかしい。なお手だてもあろう。小松原の|道成寺《どうじょうじ》に、|法《ほう》|海《かい》|和《おし》|尚《よう》とてとうとき祈の師がおわす。今は年おいて|室《むろ》の外にも出られぬとは聞くが、わしのためにはいかにもしてお見すてにはなるまい。」
馬にていそいで出かけた。道はるかなので、深夜におよんで寺についた。
老和尚、|眠《めん》|蔵《ぞう》(寝室)をいざり出て、このものがたりを聞いて、
「それはあさましくおぼしめそう。今は老い朽ちて|験《げん》あるべしともおぼえねど、そこもとの家のわざわいを見すごしてもおられまい。まず、さきに行かれい。おっつけ、あとからまいろう。」
さて、|芥《け》|子《し》の香にしみた|袈《け》|裟《さ》をとり出して庄司にあたえ、まめやかにおしえていうには、
「かれめをすかしよせて、この袈裟をば|頭《かしら》にかぶせ、力を出して押し伏せたまえ。手よわくては、おそらく逃げ去ろう。よく念じてよくなされよ。」
庄司はよろこんで、馬をとばしてかえる。すぐに、豊雄をひそかによびよせて、この事しそんずるなとて、袈裟をあたえた。
豊雄はこれをふところにかくして、閨にはいって、
「庄司も今はいとまを下された。いざ、もろともにいで立とう。」
女がうれしそうにしているところを、袈裟とり出して手ばやくかぶせ、力をきわめて押し伏せれば、
「ああ、くるし。なんじ、なにとてこうは無情なるぞ。しばらくここはなせ。」
それにかまわず、力まかせに押し伏せた。
法海和尚の|輿《こし》、やがて入り来る。庄司のひとびとに|扶《たす》けられて、和尚この場に至り、口のうちにつぶつぶと|呪《じゅ》|文《もん》を念じながら、豊雄をしりぞけて、かの袈裟をとりのけて見れば、富子の正体なく伏したうえに、白い蛇の三尺あまりなのがわだかまって、うごきもせずにいた。老和尚これをとらえて、弟子のささげた鉄鉢の中に入れた。なお念ずれば、屏風のうしろから、一尺ばかりの小蛇がはい出したのを、これをもとって鉢に入れ、かの袈裟をもってよく封じて、そのまま輿に乗りうつれば、ひとびと|掌《て》をあわせ、涙をながしてうやまった。
寺にかえって、堂のまえを深く掘らせて、鉢のままに埋めさせ、|永《えい》|劫《ごう》のあいだ世に出ることを戒しめた。今なお蛇の塚ありという。庄司の娘はついに病みついてむなしくなった。豊雄はいのちつつがなしと、かたりつたえた。
|青《あお》|頭《ず》|巾《きん》
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|快《かい》|庵《あん》|禅《ぜん》|師《じ》という徳の高い|行《あん》|脚《ぎゃ》|僧《そう》が、|下《しも》|野《つけ》の|富《とん》|田《だ》の里に入ると、「鬼」と騒がれ怖れられた。訳をきくと、里の上の山に、美しい小姓の童子の死をいたむあまりその死体を|喰《く》らい、食人鬼となった僧がいるため、それとまちがえたという。快庵は山の寺に向かう。僧は快庵を喰わんとして果たせず、頭をたれて救いを求める。快庵は、|青《あお》|頭《ず》|巾《きん》と証道歌の二句を授けて去った。翌冬、快庵が再び寺を訪れると、影のように|痩《や》せて証道歌を繰り返している僧を見つける。快庵が|禅杖《ぜんじょう》で頭を打つと、僧は消え、あとには青頭巾と白骨だけが残った。
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むかし|快《かい》|庵《あん》|禅《ぜん》|師《じ》という大徳の僧があった。わかいときから|教外《きょうげ》|別《べつ》|伝《でん》といわれる|宗門《しゅうもん》の本義をあきらかにして、いつも身を雲水にまかせて行脚した。陰暦四月十六日から七月十五日までは|夏《げ》|安《あん》|居《ご》とて、屋外の土を踏まずに修行するならいなので、|美《み》|濃《の》の国の|竜泰寺《りょうたいじ》にてその期をみたし、秋は|奥《おう》|羽《う》のかたをめぐろうと旅に出た。
行くほどに|下《しも》|野《つけ》の国に入った。|富《とん》|田《だ》という里にかかると、日がとっぷりくれたので、大きい家の見るからに裕福らしいところに立ちよって、一夜の宿をもとめた。すると、|田《でん》|畑《ぱた》よりかえる男たちが、たそがれにこの僧の立ったのを見て、ぎょっとしたようすで、くちぐちにさけんだ。
「山の鬼が来たぞ。みんな出ろ。」
家の中でもさわぎたてて、女こどもは泣きさけび、あわてふためき、ここの隅、そこのかげにと逃げかくれた。あるじ、|天《てん》|秤《びん》|棒《ぼう》をとってはしり出て、外のほうを見れば、年のころ五十にちかい老僧の、かしらに|紺《あお》|染《ぞめ》の巾をかぶり、身に黒衣のやぶれたのをきて、わずかの包を背に負ったのが、|杖《つえ》をあげてまねいでいうに、
「あなたがたはなにとてかほどにきびしく用心なさるのか。これは諸国行脚の僧にて、こよい一夜の宿を借りたいものと、ここに案内を|乞《こ》うたのに、鬼のなんのとあやしまれようとは、まったくおもいもよらぬことじゃ。見らるるごとき|痩《やせ》法師の、押込強盗などはたらくはずはないものを。かまえてお気づかいなされるな。」
あるじ、天秤棒をすてて、手をうってわらい、
「がさつものの目がきかず、客僧をおどしまいらせた。この罪ほろぼしには、一夜のお宿なりといたしましょう。」
うやまって奥の一間に迎え入れて、食膳の支度などこころをこめてもてなした。
さて、あるじが語っていうには、
「さきに男どもが御僧を見て鬼が来たとおそれたのも、じつは|仔《し》|細《さい》ある儀でござった。ここにめずらしい物がたりがござる。あやしの|沙《さ》|汰《た》ながら、ひとにも語りぐさとなされませ。この里の上の山に、一宇の寺がござる。もとは豪族小山氏の|菩《ぼ》|提《だい》|所《しょ》にて、代代大徳がお住みなされた。今の|阿《あ》|闍《じゃ》|梨《り》はなにがし殿と申されるひとの|甥《おい》|御《ご》にて、学といい行といい、一きわほまれ高く、この国のひとびとみな香をささげ灯明をはこんでふかく|帰《き》|依《え》したものでござった。さきさまでも、これなるわが家にまでよくおいで下されて、したしくお附合をゆるされました。それが、去年の春のこと、|越《こし》|路《じ》の寺に|灌頂《かんじょう》の導師としてむかえられて、百日あまり|御逗留《ごとうりゅう》あったが、かの国より十二三歳の童子をつれておかえりなされ、これに起き|臥《ふ》しの世話をまかせられた。この童子のみめかたち、すぐれてうるわしいのを、ふかくもめでさせられて、年ごろつとめた学も行もいつのまにかおこたりがちの御様子と見えた。ところが、ことし四月のころ、かの童子、かりそめのやまいに臥したのが、日をへておもいなやみとなったのを、なげきかなしみやる方なく、国府の典薬の名あるひとまでも招かれたれど、そのしるしもなくて童子はついにむなしくなられた。ふところの|璧《たま》をうばわれ、かざしの花を|嵐《あらし》にさそわれたおもいして、泣くに涙なく、さけぶに声なく、悲歎のあまりに、なきがらを火に焼き土に葬ることもせずに、顔に顔をよせ、手に手をとりくんで日かずをすごされるうちに、さしもの阿闍梨、ついにこころみだれ、生前にたがわずたわむれながら、その肉の腐りただれるのを惜しんで、肉をすい骨をなめて、やがては食らいつくされた。寺中のひとびと、院主こそ鬼になられたぞと、あわてて逃げ去ったのちは、夜な夜な里におりてひとをおびやかし、あるいは墓をあばいてなまなましい|屍《かばね》をくらうありさま、まことに鬼というものはむかしの物語には聞きもしたれど、げんにかくなりはてられたのをこの目で見たことでござった。さりとて、これをばいかにして取って押さえることをえましょうぞ。ただ家ごとに、日のくれをかぎりに、堅く戸をとざす仕儀なれば、このごろは国中にもうわさひろまって、ひとの往来さえとだえました。その|仔《し》|細《さい》あればこそ、客僧を見まちがえ申したわけでござる。」
快庵、このものがたりを聞いて、
「さてさて、世には不可思議のこともあるものかな。およそ人間とうまれて、|仏《ぶつ》|菩《ぼ》|薩《さつ》の教の広大なることをも知らず、その性のおろかなるままに、またはねじけたままに世を終るものは、げに|業《ごう》のなすわざか、愛欲邪念の因縁にひかれて、あるいはもとの形をあらわして|怨《うらみ》をむくい、あるいは鬼となり|蟒《みずち》となってたたりをするためしは、むかしより今に至るまで数うるにつくしがたい。またひと生きながらにして鬼に化することもあるて。かの|楚《そ》|王《おう》の宮女は蛇となり、|王《おう》|含《がん》の母は|夜《や》|叉《しゃ》となり、|呉《ご》|生《せい》の妻は|蛾《が》となる。またむかし、ある僧、|賤《しず》の家に旅寝したおりに、その夜風雨はげしく、灯さえなくて、わびしさのあまり寝もやらずいるところに、夜ふけて羊の鳴く声がきこえたが、しばらくすると、僧のねむりをうかがって、しきりに|嗅《か》ぐものがあった。僧あやしと見て、|枕《まくら》もとにおいた|禅杖《ぜんじょう》をとってつよく打てば、大きくさけんでそこにたおれた。その音に、あるじの老婆が灯を照らして来たので、見れば若い女がたおれていたげな。老婆泣くなくいのちを|乞《こ》う。いかにせん。見すててその家を出たが、のちにまた道のついでにその里をすぎたところ、田の中にひと多くあつまってなにものかを見ておる。僧も立ちよってなにかときけば、里人のいうに、鬼に化したる女をとらえて今ぞ土にうずめるとは答えた。されど、これらはみな女子のことにて、男子たるものにかかるためしは聞かぬ。およそ女の|性《さが》のねじけたものは、さるあさましき鬼にも化するのじゃ。また男子にも、|隋《ずい》の|煬《よう》|帝《だい》の臣に|麻叔謀《ましゅくぼう》というもの、小児の肉をこのんで、ひそかに民家の小児をぬすみ、これを蒸してくらったとやら。されどこれはあさましき|夷《えびす》ごころにて、あるじの語られたところとは別の儀じゃ。それにしても、かの僧の鬼になったは、さだめて過去の因縁にてもあろうか。そもそも平常の行徳のすぐれたのは、仏につかうるにまごころをつくしたことなれば、もしかの童子をやしなうことさえせなんだなら、あわれ、よき法師なるべきものを。一たび愛欲の道にまよい入って、|煩《ぼん》|悩《のう》の火の燃えさかるままに鬼と化したというのも、|所《しょ》|詮《せん》はもとこれひたすらに|直《なお》くたくましき|性《さが》のなすところじゃ。心をゆるせば|妖《よう》|魔《ま》となり心を収めるときは仏果をうるとは、まことかな、この法師の身のうえであった。拙僧もしこの鬼を教化してもとの本心にかえらしめたなら、こよいのもてなしの恩報じともなろうか。」
禅師ここにとうときこころざしを発した。あるじあたまを畳にすりつけて、
「御僧もしこのことをなされたなら、この国のひとびとは浄土にうまれ出たるがごとくでございましょう。」
なみだをながしてよろこんだ。山里の宿とて、|法《ほ》|螺《ら》|貝《がい》の音、釣鐘の音もきこえず、|二十日《はつか》あまりの月おそく出て、古戸のすきに|洩《も》れたのに、夜のふけたのを知って、
「いざ、おやすみなされませ。」
あるじもおのれの寝所に入った。
山寺にとどまるひともなければ、楼門にはいばら生いかかり、経文の|庫《くら》もむなしく|苔《こけ》蒸した。立ちならぶ諸仏のあいだにはくもが網をかけわたし、つばめの|糞《ふん》は|護《ご》|摩《ま》|壇《だん》をうずめて、方丈、僧房、廊下に至るまですべてすさまじく荒れはてた。日影も夕ぐれにかたむくころ、快庵禅師、寺に入って、|錫杖《しゃくじょう》すずしく鳴らして、
「諸国遍歴の僧、こよいばかりの宿をおかし下さらぬか。」
いくたび呼んでも、さらに応えが無い。ときに、|眠《めん》|蔵《ぞう》(寝間)より|痩《や》せ枯れた僧ひとり、よろよろとあるき出て、しゃがれ声していうには、
「御僧はどこへ通るとてここには来たか。この寺はさる仔細あって、かくのごとく荒れはて、ひとも住まぬ野中となったので、一粒の食もなく、一夜の宿をかす手だても無い。はやく里に出られい。」
禅師いう。
「これは美濃国を出てみちのくへ行く旅の僧なるが、この|麓《ふもと》の里をすぎるに、山のかたち水のながれのおもしろさに、おもわずここには詣でた。日もななめにかたむけば、里に下ろうにも道遠い。まげて一夜の宿をおかりしたい。」
あるじの僧いう。
「かかる野中のところには、よからぬこともあるて。しいてはとどめがたい。またしいて行けともいわぬ。そなたのこころまかせじゃ。」
それきり、ふたたびものもいわない。こちらからも一言も問わずに、あるじのそばに座をしめた。見るみる、日は沈み落ちて、|宵《よい》|闇《やみ》の夜のくらいのに、灯をつけることをしないので、目のまえさえ見わけがたく、ただ谷川の水の音がちかくきこえる。あるじの僧もまた|眠《めん》|蔵《ぞう》にひきこもって、ぷっつりとも音がしない。夜ふけて、月の夜にあらたまった。光あきらかに照りとおって、いたらぬ|隈《くま》も無い。やがて、真夜中とおもうころ、あるじの僧、むっくり眠蔵を出て、あわただしくものをさがし、たずねあたらずして、大いにさけび、
「くそ坊主、どこにかくれおったか。たしかに、ここにこそいたはずじゃが。」
禅師のまえをいくたびもはしりすぎたが、さらに禅師を見ることをえない。堂のほうに駆けて行くかと見れば、庭をめぐっておどりくるい、ついに疲れたおれて、おきあがらなかった。
夜があけて、朝日がのぼると、かの僧、酒のさめたるがごとく、禅師がもとのところにいるのを見て、ただあきれたようすで、ものもいえず、柱にもたれ、ためいきついて黙していた。
禅師、まぢかにすすみよって、
「院主、なにをなげかれるか。もし飢えたとあらば、拙僧の肉をもって腹をみたされよ。」
あるじの僧いう。
「師は夜もすがらそこにおいでなされたか。」
禅師いう。
「ここにあって、眠りもせぬ。」
あるじの僧いう。
「おのれあさましくも人間の肉を好めど、いまだ仏身の肉のあじわいを存ぜぬ。師はまことに仏にておわす。鬼畜のくらきまなこをもって、|活《かつ》|仏《ぶつ》の|来《らい》|迎《ごう》を見ようとしても、見るべからざる道理かな。あな、とうと。」
こうべをたれて、口をとざした。
禅師いう。
「里人のはなしに聞けば、なんじひとたび愛欲にこころみだれしより、たちまち鬼畜に|堕《お》ちたるは、あさましいともかなしいとも、ためしさえまれなる悪因縁じゃ。夜な夜な里に出てひとをそこなうがゆえに、ほどちかい里人は安きこころも無い。わしはこれを聞いて見すてるにしのびず、わざわざここに来て教化し、もとの本心にかえらしめようとはおもったぞ。なんじ、わしのおしえを聞くかどうじゃ。」
あるじの僧いう。
「師はまことに仏にておわす。かくまであさましい身の因果をばったりわすれるべき道理あらば、ねがわくはおおしえ賜われかし。」
禅師いう。
「なんじ聞こうとならば、ここにまいれ。」
|簀《すの》|子《こ》の縁のまえの、たいらな石の上にすわらせて、禅師みずからいただいた紺染の巾をとって、僧のかしらにかぶらせつつ、唐の永嘉大師の|証道歌《しょうどうか》の、その二句をばさずけた。
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江月照らし松風吹く
永夜清宵何の所為ぞ
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「なんじこの場を去ることなく、しずかにこの句のこころをもとめよ。こころ解けたときは、おのずから本来の仏心に|逢《あ》おうぞ。」
ねんごろにおしえて、山を下った。こののちは、里人はおもいわざわいをのがれたとはいえ、なお僧の生死が知れないので、うたがいおそれて、ひとびと山にのぼることをいましめた。
一年は速くたって、あくる年の冬十月のはじめ、快庵大徳、奥州からのかえり道にまたここを過ぎたが、かの一宿のあるじの家に立ちよって、僧の消息をたずねた。あるじ、よろこび迎えていうには、
「御僧の大徳に依って、鬼はふたたび山を下りませぬので、ひとみな浄土にうまれ出たようでござる。されど、山に行くことはおそろしがって、たれ一人のぼるものはありませぬ。そのため消息は判りませぬが、なにとて今まで生きてはおりましょうぞ。こよいのお泊りに、かのものの|菩《ぼ》|提《だい》をおとむらい下さりませ。ねがわくは、われらも法縁にあやかりたいもの。」
禅師いう。
「かれ果報めでたく世を去ったとならば、道に|先《せん》|達《だつ》の師ともいおう。また生きてあるならば、わがためにひとりの弟子じゃ。いずれにせよ、消息を見とどけずばなるまい。」
ふたたび山にのぼるに、いかにもひとの往来絶えたと見えて、去年踏みわけた道ともおもわれない。寺にはいって見れば、|荻《おぎ》尾花のたけ、ひとよりも高くおいしげり、露は|時雨《しぐれ》さながらにふりこぼれて、どの道がどこにかようとも知れぬ中に、堂閣の戸は右に左にたおれ、方丈|庫《く》|裏《り》にめぐった廊下も|朽《くち》|目《め》に雨をふくんで|苔《こけ》|蒸《む》した。
さて、かの僧をすわらせておいた簀子のほとりをうかがうに、影のようなひとの、僧とも俗ともわからぬまでに、|髯《ひげ》|髪《かみ》みだれて、かたちゆらゆらとしたのが、|葎《むぐら》からまり尾花たおれ伏した中に|蚊《か》の鳴くばかりのほそい声して、なにをいうともきこえぬほどに、とぎれとぎれに唱えるのを聞けば、
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江月照らし松風吹く
永夜清宵何の所為ぞ
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禅師それと見て、やがて|禅杖《ぜんじょう》をとりなおし、そもさん何の所為ぞと、一喝してかれのこうべを打てば、たちまち氷の朝日にあうがごとく消えうせて、かの青頭巾と骨ばかりが草葉にとどまった。げにも久しい執念のここに消えつくしたのであろうか。とうとき道理あるところか。
されば、禅師の大徳、雲のうら海のそとにもきこえて、初祖|達《だる》|磨《ま》の血肉いまだほろびずと、世にたたえた。かくて、里人あつまって、寺をきよめ、修理をほどこし、禅師を推してここに住まわしめたので、もとの真言宗をあらためて|曹《そう》|洞《とう》の霊場をひらいた。今なお寺はさかえているという。
|貧《ひん》|福《ふく》|論《ろん》
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|陸《む》|奥《つ》の|蒲生《がもう》|氏《うじ》|郷《さと》の家中に岡左内という武士がいた。武士でありながら金銭を尊び、奇人と言いはやされていた。ある夜、黄金の精霊が|枕《まくら》もとに現れ、金銭について問答をする。金とは清らかなものなので、欲深い者の所ばかりに集まるはずがないと言う精霊に、左内は反論する。精霊は重ねて、金銭は神仏とは無縁であり、善悪にとらわれず、勤勉な人の所に集まる存在であると言う。話は戦国武将評に移り、豊臣の世はやがて徳川にとって変わるという予言めいた句を残して、精霊は去っていく。
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|陸《む》|奥《つ》の国|蒲生《がもう》|氏《うじ》|郷《さと》の家中に岡左内というつわものがいた。禄おもく、ほまれたかく、ますらおの名を東国にふるった。このひと、ひどく片寄ったところがあった。富をもとめるこころ根がよのつねの|武《ぶ》|辺《へん》には似ない。倹約を宗として家事をとりしきったので、年をへて富みさかえた。また兵法鍛練につとめるひまには、茶をたて香をきくなんぞというたのしみはしないで、一室にあまたの小判を|布《し》きならべて、これを眺めてなぐさみとすること、世のひとの月をめで花にあそぶにまさった。ひとみな左内の振舞をけしからぬことにおもって、あれこそ金にきたない俗物根性と、|爪《つま》はじきしてにくんだ。
この左内の家に年ひさしく仕える男のなかに、小判一枚かねて秘めおいたもののあることを聞きつけて、これをちかくに呼びよせていうことに、
「かの|崑《こん》|山《ざん》の珠玉といえど、乱世には|瓦《かわら》、石くれにひとしい。かかる世にうまれて弓矢とろうほどの身には、|棠《とう》|谿《けい》|墨《ぼく》|陽《よう》のつるぎとも申すべき名刀、さてはもちたいものは金銀じゃ。しかし、刀いかにするどくとも、千人の敵にはむかいがたい。|金《こがね》の徳は天下のひとをもしたがわしめようぞ。武士たるものはこれをみだりにあつかってはならぬ。かならず貯えおさむべきじゃ。なんじ、|下《げ》|賤《せん》の身の分にすぎたる宝をもちおるとは、あっぱれのこころがけじゃ。|褒《ほう》|美《び》をとらせずばなるまいて。」
すなわち、これに十両の小判をあたえて、帯刀をもゆるして召しつかった。
ひとびと、このよしをつたえ聞いて、さすがに左内、かれが|金《こがね》をあつめるのは、かのくちばし長き|慾《よく》|深《ふか》の、飽くことを知らぬたぐいにはあらず、まことに当世の一奇士かなといいはやした。
その夜のこと、左内の|枕《まくら》もとにひとの来たけはいがしたのに、目さめて見れば、灯のほとりに、いともちいさい|翁《おきな》が|笑《えみ》をふくんでそこにいた。左内、かしらをもたげて、
「そこに来たはなにものじゃ。このわしに|糧《かて》を借りようとならば、すこしは腕におぼえのある男どもが来そうなものじゃ。なんじのような老いぼれのざまで、わしの寝ごみをおそうとは、|狐《こ》|狸《り》なんぞのいたずらか。なにかおぼえた芸でもあるか。秋の夜のねむけざましに、ちとわざを見せい。」
ちっともさわぐけしきが無い。翁のいうには、
「これは化物でもなく、人間でもなく、そこもとのかしずかれる黄金の精霊でござる。年ごろ|篤《あつ》いおもてなしをこうむるうれしさに、夜ものがたりしようとて、かく|推《すい》|参《ざん》いたした。そこもとがきょう御家来に褒美をおやりなされたにつき、感じ入ったあまりに、このおやじの思うこころのほどを語りもしなぐさみもしようと、かりにすがたをあらわしたれど、十にひとつも益なきむだばなしながら、ものいわぬは腹ふくるることわりなれば、わざとお目どおりにまいって、お休みをさまたげた次第じゃ。」
翁、せきばらいして、
「さても、富みて|驕《おご》らぬはいにしえの聖人の道じゃ。しかるに、世上の口さがないいいならわしに、富めるものはかならずねじけもの、富めるものはおおかたおろかものなんぞと申す。それは|晋《しん》の|石《せき》|崇《そう》、唐の|王《おう》|元《げん》|宝《ほう》のごとき|虎《とら》おおかみのともがらのみをいったことばじゃ。いにしえの富めるひとは、天の時をはかり地の利をあきらかにして、おのずから富貴をえた。|太《たい》|公《こう》|望《ぼう》、|斉《せい》の国に封ぜられて、民になりわいの手だてを教えれば、海辺のひとびとまでも利を見てそこに|馳《は》せしたがった。|管仲《かんちゅう》、斉の|桓《かん》|公《こう》をたすけて、諸侯に号令し、みだれたる世を一統すれば、身は|陪《ばい》|臣《しん》ながら、富貴は列国のあるじにまさった。また|范《はん》|蠡《れい》、|子《し》|貢《こう》、|白《はっ》|圭《けい》のともがら、物産の業をおこして利をもとめ、巨万の富を積みあげた。これらのひとの|事《じ》|蹟《せき》をまとめて、史記に|貨殖伝《かしょくでん》が書かれたのを、その説くところをいやしとして、のちの学者が筆をそろえてそしっておるのは、ものの道理をふかくもさとらぬ|輩《やから》のさかしらじゃ。|恒《つね》のなりわいなきものは恒のこころなし。されば、農夫はつとめて五穀をつくり、|工匠《たくみ》はつとめてこれをたすけ、|商《あき》|人《んど》はつとめてこれをさばき、おのおの産をととのえ家を富まして、先祖を祭り子孫のためにはかるほかに、ひとたるものなにをかしようぞ。ことわざにもいう。千金の子は市にのたれ死はせず、富貴のひとは王者とたのしみをおなじくするとやら。まことに|淵《ふち》深ければ魚よくあそび、山長ければ獣よくそだつとは、天意にかなった道理じゃて。」
翁さらに説きつづけて、
「ただここにけしからぬ儀は、貧しくしてたのしむということばがあって、これが字をまなび|韻《いん》をさぐる文弱の徒の迷をおこすはしとはなる。弓矢とるますらおまでも、富こそ国の|基《もとい》なることをわすれ、敵をあざむく計略ばかりをこころがけて、物をそこない人をきずつけ、ついにはおのれの徳をうしなって子孫を絶つに至るのは、これ財を軽く見て名をおもしとするまどいのゆえじゃ。おもうに、名と財と、これをもとめるこころに二つあるわけが無い。文字というものにとらわれて、|金《こがね》の徳を軽くあしらい、みずから清廉潔白といいたて、気まま気散じに世をのがれたひとを賢人なんぞと呼ぶ。そのひとは賢ではあっても、その振舞は賢とは申せまい。そもそも、金は世にいう七つの宝の随一じゃ。たとい土中にうずもれようと、およそ金のひそむところ、おのずから霊泉をたたえ、不浄をはらい、つつめどもなお|妙《たえ》なる音にもれる。かほどに清らかなものが、滅相な、どうしてねじけた慾深の手もとにばかりあつまるはずがあろうか。こよいこそ、この|鬱《うっ》|憤《ぷん》を吐きちらして、年ごろの胸のつかえが一気におりたぞ。やれ、うれしや。」
そう聞くより、左内も興に乗って、|膝《ひざ》をすすめて、
「さてさて、おものがたり段段とうけたまわるに、富貴の道のかたきことはわれらが平常おもうところと露ちがわぬ。ときに、おろかな問のござるが、何と|仔《し》|細《さい》に説きあかしては下さらぬか。今ことをわけて説かれた儀は、世のひと理に暗く、もっぱら|金《こがね》の徳を軽く見て、富貴の大業なることを知らざるものをば罪とされたが、さりとてかのくされ学者どもの申すところもゆえなきではない。今の世に富めるものといえば、十人のうち八人までは、おおかた慾深のむごいやつらじゃて。おのれは禄ゆたかに飽きたりながら、兄弟一族をはじめ、父祖の代より久しく仕えるものの貧しきをも救おうとはせぬ。隣どうしにまじわったひとが家運かたむいて、たれの助けさえなくておちぶれたとなると、その田畑をも価やすく踏みたおして無法にわがものとし、げんにおのれは|村《むら》|長《おさ》とうやまわれる身でも、むかしひとに借りたものは返しもせぬ。礼儀のこころえあるひとが席をゆずれば、逆にそのひとをしもべのごとくに見くだし、たまたまむかしの友が暑さ寒さの見舞におとずれれば、さてはなにか借りにでも来たかとうたぐって、居留守をつかうたぐい、そのためしはあまた見て来たことじゃ。また君には忠節のかぎりをつくし、親には孝行のまことをささげ、とうとむべきをとうとみ、あわれむべきをあわれみ、見あげたこころがけはもちながら、寒中の冷えこみにも|古《ふる》|布《ぬの》|子《こ》わずか一枚のおきふし、暑中の炎天にもおなじく|著《き》たきり一枚の|帷《かた》|子《びら》を洗うひまなく、年は豊作でも朝に夕に一杯の|粥《かゆ》に飢をしのぐ御仁もある。左様なひとは、もとより頼むべき友も寄りつかず、かえって兄弟一族にも道を切られ、附合を絶たれて、しかもその|怨《うら》みのほどをうったえる方さえなく、一生あくせくしておわることになる。しからば、そのひと、なりわいの手だてにうといかと見れば、朝ははやく起き、夜はおそく寝て、根かぎり力かぎり、西に東にあたふたと駆けまわって、さらに休むひまとてはなく、その生れつきおろかというでもないに、才覚をはたらかせてねらう的にあたることはまれじゃ。このようなひとは、かの|顔《がん》|回《かい》が貧しくともこころ移らず、|一瓢《いっぴょう》の飲に道をたのしんだおもむきとは似ても似つかぬ。かくして一生はてるのを、仏門では前世の|業《ごう》といって説き、儒では天命じゃとおしえる。もしあの世というものがあるときは、たとい踏みつけにされようとも、この世に陰徳を積み善根をほどこしておけば、あの世にはかならず相応の善いむくいがあろうものをと、しばらく胸をさすって、まずまず|鬱《うっ》|憤《ぷん》をしずめることもできよう。されば、貧富のわかれ道については、仏説にのみその道理をつくして、儒のおしえるところは一向にたよりにならぬものか。翁もさだめて仏説の道理をこそたのみとはされるのじゃろう。しからずとならば、その仔細とくとうけたまわりたいものじゃ。」
翁いう。
「そこもとの問われたことは、いにしえよりこれを論じて、いまだ論じつくすに至らぬ儀じゃ。寺の説法なんぞのいうところを聞けば、富といい貧というもみな前世のおこないのよしあしに依るとやら。これはまずこうもありたしというほどの、大づかみの説教じゃ。前の世にあったとき、おのれの身をばよくつつしみ、慈悲のこころもっぱらに、他人をもなさけふかくいたわったひとの、せっかくその善報によって、今この世にて富貴の家にうまれ来たというに、このたびはおのれの財宝を力とたのんで、他人にむかって鼻息あらく、横に車の大口をたたき、あさましい|蛮《ばん》|夷《い》のこころ根をあらわそうとは、かの前世の善心、いかなればこうまで成りさがったか、これはいかなる応報のなせるわざというか。|仏《ぶつ》|菩《ぼ》|薩《さつ》は|名聞《みょうもん》をきらい利養をもとめずと聞くものを、なにとて貧福のことに係りあわれようぞ。しかるに、富貴は前世のおこないの善ければこそ、|貧《ひん》|賤《せん》はそれの悪ければこそと、因果応報、すべてむくいのほうにのみ説きおとすのは長屋のかかあ殿をとろかすなま仏法じゃよ。貧の福のといわず、ひたすら善を積もうひとは、福ただちにその身には来らずとも、子孫かならず余恵をこうむろう。|舜《しゅん》は大徳をもってその位をえ、その禄をえ、その名をえ、その寿をえた。すなわち天子の尊位にのぼって富は四海の内をたもつ。この福はまたしたがって祖先にはほまれとなり、子孫にはめぐみとなる。|中庸《ちゅうよう》に、|宗廟《そうびょう》これをうけて子孫これをたもつとしるされたのは、けだしこの道理の精妙なるものじゃ。おのれが善をなして、ついおのれの身にそのむくいが来るのを待とうとは、どうも|直《なお》きこころとは申せまい。また極悪のねじけものが富みさかえるばかりか、一代つつがなくめでたい往生をとげるというについては、このわれにいささかちがう理法がござるて。」
翁はますます舌なめらかに、
「まず聞かせられい。われ今かりにすがたをあらわして、ものがたりはすれども、神にあらず仏にあらず、もと非情のものゆえ、人間とはちがうこころがある。いにしえの富めるひとは、天の時にかない、地の利をあきらかにして、物産をおこし富貴とはなった。これ天意のままなるはかりごとなれば、富のここにあつまるのも天意のままなる道理じゃ。また慾深のねじけものは、金銀を見ては父母のごとくにしたしみ、食うものも食わず、|著《き》るものも著ず、二つと無いいのちまで惜しいともおもわぬけしきで、起きてはおもい寝てもわすれねばこそ、たからのここにあつまること、まさにてきめんの道理じゃ。われもと神にあらず仏にあらず、ただこれ非情のものじゃよ。非情のものとして、人間の善悪をただし、その法にしたがうべきいわれが無い。善をすすめ悪をとがめるのは、天じゃ、神じゃ、仏じゃ。この三つのものは道じゃ。われらふぜいのとても及ぶところではない。ただ人間なにものであろうと、そのつかえかしずくこと|鄭重《ていちょう》ならば、たからはそこにあつまると知られよ。これ|金《こがね》に霊はあっても、人間とはこころいきのちがうところじゃ。また富みて善根をほどこすにも、さあもって行けとわけもなくめぐんでやったり、相手の|肚《はら》の底をも見きわめずに貸しあたえたりするようでは、善根とはいえ、たからはついに散りうせよう。かくのごときは金の用は知っていても、金の徳はわきまえぬ。かろがろしくあつかうからじゃ。また身のおこないもよろしく、他人にもまことをつくしながら、世わたりに窮迫してくるしむひとは、天から賜わった禄すくなく生れついた定めなれば、いかにやきもきしても、いのちあるうちに富貴をうることはない。さればこそ、いにしえの賢人はもとめてかいあるものならばもとめ、かいなければもとめず、おのれのこのむままに世を山林にのがれて、しずかに一生を終る。その心中いかばかり清らかぞと、いっそうらやましい。そうはいうものの、富をいたすみちは所詮これ術じゃ。その術にたくみなるものはよくこれをあつめ、しからざるものは|瓦《かわら》の割れるよりもたやすくこれをうしなう。それに、われらの仲間と申すはひとのなりわいについてまわるが常にて、たのみとする|主《ぬし》もさだまらず、ここにあつまるかと見れば、その|主《ぬし》のおこないに依ってたちまちかなたにはしる。水のひくきにかたむくがごとくじゃ。夜も昼もゆきゆきて休むときが無い。むだびとのただぶらぶら、家の業というものもなくば、泰山もやがて食いつくそう、江海もついには飲みほそうぞ。いくたびも申す、不徳のひとよく富を積むとはいえ、道理をもってこれとあらそうがごときことは、君子はかまえて論じたまうな。ときをえたひとの、倹約を守り、むだをはぶいて、なりわいにつとめるほどには、おのずから家も富み、ひともまた附きしたがおう。われは仏説にいう前世の業も知らず、儒家のとなえる天命にもかかわらず、それらとはまた別の境地にあそぶのじゃ。」
左内いよいよ興ふかく、うなずいて、
「翁の高論きわめて妙じゃ。多年のうたがいもこよい一夜に消えつくした。ときに、かさねて問おう。今|豊《とよ》|臣《とみ》の威風天下をきりなびけて、日本全土ややしずかなるには似るが、ほろぼされた諸国の武士ども、あちこちにかくれひそみ、あるいは大国のあるじのもとに身を寄せて、おりあらばと世のみだれをうかがい、かねてのこころざしを遂げようとはかる。民もまた戦国の民なれば、|鋤《すき》をすてて|槍《やり》をとり、農事をこととはせぬ。武士たるもの、|枕《まくら》を高くして眠れぬて。今のありさまにては、政道いつまでも無事とは申せまい。天下を一統して民をやすきにおらしむべきものはたれぞ。また翁はたれにか味方したまうぞ。」
翁いう。
「これまた人間界のことなれば、わが知るかぎりではない。ただ富のみちをもって論ずれば、かの|信《しん》|玄《げん》のごとき、はかりごとは百発百中、|狙《ねら》いのはずれるということもないに、一生その威をふるうところはわずか|甲《か》|斐《い》、|信《しな》|濃《の》、それに|上《こう》|野《ずけ》の三国のみじゃ。しかも、名将のきこえは世こぞって賞するところじゃ。その信玄|末《まつ》|期《ご》のことばにいう。今、|信《のぶ》|長《なが》こそ果報めでたい大将じゃ。われ平常かれをあなどって、征伐をおこたり、この|疾《やまい》にかかる。わが子孫もやがてかれのために亡ぼされようと、申されたそうな。|謙《けん》|信《しん》は勇将じゃ。信玄死んで、天下に敵するものが無い。不幸にして早く世を去った。信長の器量ひとにすぐれたれど、信玄の智におよばず、謙信の勇におとった。しかも富貴をえて、天下はひとたびはこのひとの手に帰した。とはいえ、その将に任じたものに恥をあたえて、ためにいのちを落したところを見ると、文武を|兼《か》ねたと申すほどでもない。|秀《ひで》|吉《よし》のこころざし大なるも、はじめから天地に満つるというきわには至らぬ。柴田と|丹《に》|羽《わ》の富貴をうらやんで、羽柴という氏をもうけたことにても、そのほどが知れよう。今や竜と化して天にのぼったが、もとの池中をわすれたのではないか。秀吉竜とは化したれど、みずちのたぐいじゃ。みずちの竜と化したものは、寿命わずかに三年を過ぎずとやら。これもまたのちの代まではつづくまい。そもそも、|驕《おごり》をもって治めた世はむかしから長つづきはせぬものじゃ。ひとの守るべきものは倹約なれど、度をすごすと|吝嗇《りんしょく》におちる。されば、倹約と吝嗇とのさかい目をよくわきまえて、事にあたりたいものじゃ。今、豊臣の代は久しからずとするも、やがて万民にぎわって戸ごとに泰平を祝うべき日はちかきにある。そこもとのお望みにまかせて、ちと|諷《うた》をもってお示しいたそうか。」
そういって、翁はある句をうたった。そのことばにいう。
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瑞草、日にかがやき
諸人、家におさまる
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ものがたりの興もつきて、遠くの寺から、あかつきの鐘の音がきこえて来た。
「はて、もう夜あけじゃ。お別れ申そう。こよいの長談義、とんだお休みのさまたげをいたした。」
翁は立って行くかと見えたが、そのすがたはつい消えた。左内つらつら夜もすがらのことどもをおもい、かの句のこころを案ずるに、諸人家におさまるの一句、ふむ、さては天下は家康に帰すということかと、ほぼそのこころをさとって、ここにふかく信をおこした。まことに瑞草のめでたいしるしというべきか。
附 録
秋成私論
上田秋成は国学という学問をした人でもありますけれども、学問のことは別として、文学の仕事としては、まあ|怪《かい》|異《い》|譚《たん》という文学様式が秋成に於て日本では完成されたということになっております。怪異譚の系図は、日本の例でいえば「|今昔《こんじゃく》物語」とか「日本|霊異記《りょういき》」とか、ずっと下って「|伽婢子《おとぎぼうこ》」のたぐいに至るまで、古くからありますが、それとはまたちょっと系統が違い、この秋成の怪異譚というものは、中国の文学様式が日本に影響して来たそのはてに生れた、日本の発明と考えられます。唐山うつしのものは、江戸では|林羅山《はやしらざん》の怪談全書をはじめとして、それから秋成のすぐ近い先輩にあたる|近路行者《きんろぎょうじゃ》すなわち|都賀庭鐘《つがていしょう》の「|英草紙《はなぶさそうし》」とか「|繁野話《しげしげやわ》」とか、これは国文をおやりになった皆さんはご存じでしょうが、中国の怪異譚――「|剪《せん》|灯《とう》|新《しん》|話《わ》」とか、まあ国文の訳がだいぶ出ておりまして、近ごろでは「|聊斎志異《りょうさいしい》」のようなものの国訳もすでに普及しておりますが、そういう中国の怪異譚の翻訳――というよりも翻案です。この仕事を近路行者などが試みております。これは翻案としては非常にたくみなもので、たとえば「英草紙」のいちばんはじめにあります藤原藤房が後醍醐天皇をいさめる、三度いさめたが三度とも後醍醐天皇にしりぞけられるという、これは専門の学者がすでに考証している通り「警世通言」の中の|王《おう》|荊《けい》|公《こう》三難|蘇《そ》学士、すなわち|王《おう》|安《あん》|石《せき》と|蘇《そ》|東《とう》|坡《ば》のやりとり、それを日本のことにして、後醍醐天皇と藤原藤房でやっておりますが、この翻案はおそらく江戸から明治――いままでにかけての外国ものの翻案ということでは、とくにすぐれたものです。翻案ものは、原作があるということがわかってしまうと興味がさめておもしろくなくなるものですが、この近路行者の翻案は、原作がわかると、原作とくらべてみるとなおおもしろい、そういうおもしろさをもっておる。ただ近路行者の仕事では、やはり怪異譚という短篇様式が日本で成立したとは言えない。翻案のおもしろさということはあるし、手もきいてはいますけれども、やはり短篇として様式が成立したのは秋成の「雨月」に至ってそれがはっきりしたわけです。
秋成も「雨月物語」が有名ですが、これはやはり中国の小説に典拠があるにしても、秋成のは典拠と照り合せてのおもしろさ――典拠をとってしまうと値打ちがなくなるというものではない。ふまえているところは中国の怪異譚かも知れませんが、秋成の世界は日本独得の発明になっている。これは「今昔」とか「日本霊異記」とかいう系図のものとまた違います。「今昔」「日本霊異記」にあるのは仏教の世界、普通の実在の世界と違う世界、“あの世”といいますか、来世の観念が入っている。秋成の「雨月」などには来世はない。“あの世”というものではない。ただ次元からいうと実在の世界とほとんど相似のようなところに別天地がある、未知の世界がある。これは仏教の“あの世”とは違います。オバケが出て来ても、あの世へ行ったのがまたこの世へ戻って来てあの世へ行くという仕掛けではないのです。あの世へ行くという途中で出て来る。これは現世と非常に関係があって、現世からは向う側のことはわからない。まん中に|闇《やみ》があって、そこに向う側からときどき首を出して来る。そういう世界を設定したようにでき上っております。これは実在の世界と未知の世界という二つの配置があって、同時にその双方に関係する、つまり論語にいう「両端をたたく」。端が二つあって、それを同時にたたかなければならない、そうしなければ世界像は完全につかめない。そういう世界観です。オバケの世界でもあり、神仙の世界でもあり、女の化けたやつであるといっても、それを未知の世界からの信号として秋成が見ていたので、怪異を信ずるというよりも、秋成の世界観では、実在と非実在――非実在とは実在の側からそういうので、こちら側からは見えない未知の世界でも、向うの側では存在していてこちら側を見ているという人生認識ができあがる。そこでまあ以前の近路行者の仕事とは非常にはっきり違ったものが出てまいります。
「雨月物語」制作年代を言えば、これは明和五年――序文を信ずる限り、明和五年に書いたことになっている。序文にはそう書いてあって、実際に本になったのは安永五年ですが、この制作年代は序文を真に受けることはない。じつは明和何年か安永何年か判然としない。かりに、明和何年としておいても、その一年のあいだに、内容は九つですが、九つの短篇が全部完全にでき上ったとは考えられない。まあ年代ということになるとぐらつくでしょうけれども、とにかく明和五年の二、三年前に、秋成は「世間猿」というものを書いておりますが、これは八文字屋本の|尻《しっ》|尾《ぽ》にぶらさがったようなもので、これと「雨月」とは全く世界が違う。発展というものじゃなくて、刀でばっさり切ったように世界が違う。「世間猿」は明和三年です。「雨月」の、明和五年と書いてあるのをかりに信じて言えば、わずか二、三年の間にこれだけガラッとかわったということは、これは精神の切りかえとしてたいへんな事業であったと思います。
様式から言いましても、「雨月物語」九篇のうち、その並べ方の最初に「白峯」というのがある。この九つの話をどういう順序で書いたのか、いま本に残っている順序で書いたかどうかわかりませんが、「白峯」もしたがっていつ書いたかわかりませんが、これをはじめに置いている。これは能の五番仕立てで言えば、神男女狂鬼のはじめの神能に相当している。ですから「白峯」などは巻頭に置くつもりではなかったか。何番目に書いたかわかりませんが、はじめに置くつもりではなかったか。間のところは五番仕立てにあてはまるようになっていなくてごたごたしておりますけれども、最後の「貧福論」というのが鬼にあたるものと見られないことはありません。構成からいって、従来行われていた意匠を一応は守っているように見えながら、内容の新発明がいつか型をやぶってしまう。また怪異譚ということになっていますが、何も怪異ということに拘泥するには及ばない。日本において短篇の様式がこのときに確立したと、そう見た方が、怪異に拘泥しない方が、妥当な見方であり、文学史的に|肝《かん》|腎《じん》なところと思います。
秋成の上にさかのぼらないで、下の方へまいりますと、日本の短篇では、急に飛ぶようですけれども、江戸の|山東京伝《さんとうきょうでん》の|洒落《しゃれ》|本《ぼん》、これは日本の短篇様式を決定する上においてなかなかおもしろいものです。秋成は実在の世界と未知の世界という二つの世界を駆けめぐったと申しましたが、京伝の短篇でも遊里というものを非常に理想化して、おいらんに天上の位をあたえたような別世界が出現する。神仙の世界に相当するような遊里の世界という観念……いや、京伝にとっては、観念ではなくて、実在の|吉《よし》|原《わら》というところがあった。達人の目は吉原に於て精神のあそび場を発見したようです。京伝という人は書斎と吉原と半分ずつ飛行機でかけもちしたような運のいい達人ですが、その生活が遊里に於て理想の別天地を見つけ出して、これを洒落本という文学形式に打ち出した。後世は京伝の洒落本に依ってあらためて遊里の意味を納得させられることになります。
江戸の短篇の歴史から言うと、遠く|西《さい》|鶴《かく》のあとに、秋成の「雨月」、後の「|春《はる》|雨《さめ》物語」、それから京伝の洒落本という形ですすんで来たのですが、それがすぐに明治以後にいう近代小説というロマンの方に伸びて来なかった、すぐにそうならなかったというのは、やはり散文という概念がまだ確立するに至らなかったせいでしょう。二十世紀以降の今日になってようやくわれわれは散文概念というものをつかんで来るようになりましたけれども、江戸ではまだそこに至らなかったので、怪異譚とか洒落本とかいう形で短篇が旅をつづけて来る途中で、歴史的に言いますと|馬《ば》|琴《きん》のような何ともたどたどしいのろまなものが顔を出して、長いというだけが馬鹿の一つおぼえで、当時のジャーナリズムに幅をきかせるようになった。そのためにだいぶ日本の文学概念、のみならず実際に現われた作品がごたごたしておりますけれども、この怪異譚と洒落本という二つの様式の筋は、明治にまで――今日にまで、短篇の歴史、日本で発展した短篇の歴史としてたどれるものと思います。
秋成にもどって言いますと、「春雨物語」というのが晩年にあります。これは文庫本にも出ておりますから皆さんご存じのことと思いますが、そのなかに「|樊《はん》|巾《かい》」というのがある。「樊巾」というのは「雨月」などにくらべると|文《ぶん》|躰《たい》が非常にあっさり――簡浄と言いますか、修飾をこらさない、ぶっきら棒にいっているような文躰になっております。つまり秋成は、晩年になりまして「|胆《たん》|大《だい》小心録」というような随筆を書きまして、そのなかでは平談俗語をもって、文章語でなく普通の言葉でもって、友達のことでも何でもずけずけ言っておりますけれども、精神からいえば一脈それに通ずるような文章を「樊巾」において書いております。そして、文躰に応じて、内容もちがって来ている。どこまでも伸びて行き、遠くに駆け出して行くような性質をもった内容。またそれに適応した文躰。そういうものを、秋成は晩年に発見するに至ったといえるでしょう。これは今日から振り返ってみて、散文という方法を江戸で使った、おそらくめずらしい例ではないかと思います。ただその散文ということを秋成みずから意識はしなかったでしょうが、後世から見ると結果において作者がそれを意識したにひとしいような作品になっております。ただ「樊巾」は惜しいことに短い。もっと発展すべき性質のものでありながら、わざとらしいクギリをつけて、発展しておりません。その典拠が「|水《すい》|滸《こ》|伝《でん》」であるかどうかということは別として、「水滸伝」であってもなくてもいい、小説の方法は、散文というのは後世ではわかりきったことですが、それが江戸で書かれためずらしい例として見ることができる。
秋成は晩年は人ともあまりつきあわない。何か書いたものも井戸に沈めたといううわさもありますし、また旧作について人から言われることも好まない。これは秋成の|軼《いつ》|事《じ》として有名なはなしですが、江戸の|蜀山人《しょくさんじん》が「世間猿」を秋成の作かどうかをたしかめたいと思った。和訳太郎としてあって、秋成の名前は出ておりませんから。そこで秋成の作かどうかということを大坂の田宮由蔵という人に問い合せた、田宮は秋成を知っているので、当人にそのことを聞いてみたら、秋成は非常に怒って絶交を言い渡したという。これは自分で放棄した作品のことを言われたということで秋成は怒ったのでしょうが、この放棄ということ、捨てるということの芸術上の意味については、当時はまだはっきりした認識はできていなかったようです。芸術上の仕事で、重要なのは運動であって作品ではない、作品は運動の途中で作者が放棄したものだという、こういう考えが確立したのはずっと後世のことであります。つい近ごろの、ヴァレリーが出て来るまではそういう放棄の観念ははっきりしていなかったのです。しかし江戸の秋成は、後世の異邦人のヴァレリーに義理を立てる必要はなかった。おそらくヴァレリーの言ったようには自覚していなかったでしょうけれども、実際にやってのけたのは自分の作品を捨てるということであった。実際に旧作を捨ててかえりみない。そのことを問いあわせた人間まで捨てる。草稿は井戸にたたっこむ。どうも日本人はせっかちのようです。こうして、秋成は我流の放棄観念をもって作品を特攻隊的に捨てていくということをしましたが、晩年には自分のなかに自分を閉鎖してしまった、自分で自分の足どめをしてしまったような形になっている。これは今日から見ると、なにをしてるんだといって、その秋成が閉鎖したところから、手をとって引き出したいような気持がしますけれども、これはまあ当人の勝手です。後世の人が心配してもしょうがないのですが、江戸でこういうふうに作品を放棄するということを、それがいかなる考え方にしろ、またいかなる仕方にしろ、実際にやっている例は、ザラにはないと思います。一々の江戸の作者についてあたったわけではありませんが、秋成のような例はやはりめずらしい。
この秋成という作者は、「雨月」のような完成した作品、あるいは「春雨物語」のような、完成とはいえないが、その方向からいって後世の近代小説に通ずる……いったい完成とか未完成とかいっても、小説というものはなにもまとめる必要はないので、話はしり切れとんぼでどこで切っても差し支えないものです。どこで切ってもかまわない、すなわち、どこまで駆けつづけていくかわからない。そういう近代精神に通ずるような仕事を示している秋成という人は、晩年は自己閉鎖をしたような形にはなっておりますけれども、後世に発展するような問題のタネをいろいろ残した人です。そういう作者は江戸にはまれなものです。
そこで秋成の文章ということについて申します。そのすべての作品についてここで言っているひまはありませんが、秋成の名文といえば、だれでもすぐ例に引くのは、さきに申しました「白峯」の書き出しのくだりでしょう。「あふ坂の関守にゆるされてより」にはじまって、そこにあらわれた人物が諸国をめぐって、|讚岐《さぬき》の白峯というところに来て、夜の山の中で、一首の歌をよみあげる。このくだりがどうして名文か。文章がうまいから名文というのではありません。ここの文章はじつになにも描写していない。描写なんぞという馬鹿なひまつぶしをしていないのです。能のことにすれば、諸国一見の僧が橋がかりにあらわれて、すたすた舞台にあるき出て、脇座におさまる。そのあいだの時間、いや、運動を、ぴたりと表現している。そして、運動の作用として、しぜん状況がととのって来る。人物の座がさだまると、名まえを呼びかけられる。今のことばでいうと、タイミングがいい。なかなか、こういう気合にはなって来ないものです。
ところで、この文章は文語躰で書かれていて、一応は美文のおもむきをすら呈しています。一般に、美文というものはことばの調子に乗って、縁語のクサリにぶらさがって、ずるずる足をすべらせて行くもので、そのじつは内容空疎のものが多い。しかし、秋成の文章は、たとえば今の「白峯」の書き出しをとってみても、見かけに依らず、これが美文的構成になっていない。もしこれを口語躰に、すなわち今日のことばに移して、装飾的とおもわれる部分を取りはらって見直したとすれば、いや、その装飾的部分でさえ存外今日的にものをいい出して来て、美文とはちがう文章の性質がはっきりみとめられるでしょう。この文章は今でも生きてうごいている。これをうごかしているものは、調子だのクサリだのではなくて、まさにことばのエネルギーです。一行書くと、その一行の中に弾丸のようなものがひそんでいて、つぎの一行を発射する。そして、またつぎの一行。それからそれと、やがて月の世界までもとどくでしょう。ことばのはたらきとして、これは後世にいうところの散文の運動に近似するものです。すでに「雨月」の当時にあって、秋成の美文は散文の|萌《ほう》|芽《が》を内にひそめていたといっても、大していいすぎではないでしょう。
つぎに、おなじく「雨月物語」の「菊花の|約《ちぎり》」。このオバケの出て来るところなどは名文ということになっておりますが、たしかに名文にはちがいないが、あそこまでもって来て――この「菊花の約」の話はご存じでしょうからくわしい筋書は略しますけれども、|赤《あか》|穴《な》宗右衛門の亡霊が出て来るところは、自然に出て来ているので、文章は非常にうまいといっても、尋常の文章の妙というものではない。妙ではあるのですが、ことばの細工をしてこしらえたものではない。自然にあそこまで書けたものです。じつは、文章がうまいとかまずいとかいう話ではないのです。文章がうまいからオバケが出たのではない。オバケがそこに出て来たから、必然に正確な表現がある。オバケすなわち表現という一瞬の気合です。細工と言えば、「菊花の約」のはじめの方に、「青々たる春の柳」しかじかとあって、交りは軽薄の人と結んではいけない――あれはわたくしは要らないと思う。いまの人がああいうものを書く場合に、わたくしなどが書く場合にしても、あれは書きません。無用のものです。後世の人が「菊花の約」の書き出しを見ると「交は軽薄の人と結ぶことなかれ」ということを書いてある、それが頭にありますから、赤穴宗右衛門が出て来ると、|丈《はせ》|部《べ》左門と宗右衛門の二人のつきあいがどこかで非常に荒れそうな――そういうふうに思うのは間違いかも知れませんが、そういうふうな何か予感がするわけです。これはつまらぬこと。秋成がそれを意図したのか、秋成が意図しないのに後世の人がよけいなかんぐりをするのか、どちらにしてもむだな文句です。もっともいくつも細工を積みあげて行って一篇のはなしを作るということはあります。その場合には、はじめにむだな文句と見えたものがやがてものをいい出すこともあるでしょう。しかしそれは別のはなし。「菊花の約」はそういうジャンルの作品ではありません。またこの「青々たる春の柳、家園に……」という文句を前後に繰り返して置いてありますが、ああいう無駄なことは、文章の躰から言うと散文というのではなくて、一種の美文、――美文というのはもっと意味を広く言うと、雄弁、エローカンスというものです。散文の側にとっては、雄弁は無意味なものです。そういう雄弁的な表現が「雨月物語」のなかにはまだある。また秋成としては、それが得意だったかも知れません。しかるに「春雨物語」になると、まるっきり雄弁というものが引っ込んでいる。ほんとうに散文的なものが、せっかく「春雨」あたりからはじまると見られるのに、あれを後世が――後世というのは江戸の秋成よりあとにつづく時代のことですが、受け継いでもっと発展させて行ったとしたらば、日本でももっと早く散文を方法とした文章が現われて、明治以後に西洋が入って来たときにはそうびっくりしなかったかも知れない。しかしいまはそういうことを言ってもしょうがないのですが、秋成のしり切れとんぼになった仕事を今日われわれは散文の歴史の中に置いて、ふりかえって観測することに依って、その仕事の意味をさとることができるようです。
(昭和三十四年六月二十七日、上田秋成没後百五十年記念講演にて。速記ノママ)
樊巾下の部分について
上田秋成の春雨物語、|樊《はん》|巾《かい》下、北国にて蔵やぶりのくだり、蔵の屋根に千両箱を引きあげるところに、原文「(箱を)明けて見るに、二つに二千両納めたり。月夜も又一つ上げて……」とある。問題はこの「月夜も又一つ」というに係る。この文のかぎりでは、月夜が千両箱をもう一箱[#「もう一箱」に傍点]上げたものと読むほかない。すると、千両箱は三箱になってしまう。わたしはここを疑う。
まず金勘定をしてみる。「二つに二千両」というのはまさに二箱である。これは盗んだ金の総額の報告なのだから、「二つに二千両」というこの記載をわたしはおもく見る。もしあとからもう一箱ふえたとすれば、千両追加しなくてはならぬところだが、それは書いてない。千両のちがいは大きい。この重要な追加報告を省略するという法はない。すでに、月夜は綱で箱をしばるとき、「箱二つをよくからめて」いる。またそのまえに、小猿と月夜とが箱を階下から階上にかつぎあげるとき、「一箱二箱肩にかけて」いる。この「一箱二箱」はすなわち二箱である。一つ二つとかぞえて、二つである。一と二と合せて三という計算ではない。すなわち、階上に置かれた箱は二つであった。(かりに三箱そこにあったとすれば、月夜は三箱いっしょに綱にからげたであろう。「つるべに水汲むが如く」に引きあげる樊巾の怪力にとって、一箱ぐらいふえたのがなにか。はるかに力のおとる月夜をして、あとからかついであがらせる必要はなかったにちがいない。)それに、この二千両という数字はのちの分配のときと勘定が合っている。
金を分配するとき、樊巾のことばに、「(村雲は)百両はもとより、冷飯の値ともに千両とれ。二人の者は五百両とれ。我は五百両を得ん。」という。この「二人の者は五百両」とはめいめいにとは書いてないのだから、手下の小猿と月夜と二人で五百両と読める。すなわち、合計二千両である。すると、さきに「月夜も又一つ上げて」とあったのは、どういうことになるか。
この「又一つ」がもう一箱[#「もう一箱」に傍点]ということならば、ひとは右の分配のときの文を、その書きぶりを疑わなくてはならぬだろう。それもまた考の一つとして、わたしはかならずしもしりぞけない。ただ、わたしとしては、右の分配のときの書きぶりはそのままに明白と見る。そして、わたしの疑はさかのぼって「月夜も又一つ」のほうにかかる。
もし月夜がもう一箱[#「もう一箱」に傍点]あげたものとすれば、このあわれな小泥棒はいかなる重労働をくりかえさなくてはならなかったか。箱は階下にある。その階下におりるための|梯《はし》|子《ご》は、さきに月夜みずからこれを引きあげて、階上の壁にたてかけて、小猿が屋上に這いのぼるのに便宜をあたえている。月夜はふたたび梯子をかけ直して、階下におりて、おもい千両箱をかついでのぼりかえさなくてはならない。そして、さらに箱を屋上にはこび出すためには、かならずや樊巾の力をもとめたであろう。これだけの操作をあらわす文として、「月夜も又一つ上げて」とのみあるのは、どうも軽すぎる。月夜の肩にとって、千両箱はそれほど軽くはあるまい。文もっとも簡浄をとうとぶにしても、これでは簡略に過ぎて、意味が通じにくい。
「月夜も又一つ上げて……」ここになにかの誤記があるのではないか。わたしはそのように疑う。そして、私見をほしいままにすれば、このくだりは月夜もまたあとから樊巾小猿と一ところに、すなわち屋上にのぼって来たことを記すのが妥当ではないかとおもう。さきに小猿が屋上にのぼるとき、樊巾は「|錫杖《しゃくじょう》をさしのべて引き上げたり」とある。月夜がまたその錫杖にすがったとしても、おかしいことはない。「又一つ上げて」を「又一つに[#「に」に傍点]上げて」と読んだらばどうか。あげられたのは、千両箱ではなくて、月夜とはならないか。わたしはこのように解する。|妄《もう》|解《かい》あたれりやいなや。大方の高教をまつ。
|新釈雨月物語《しんしゃくうげつものがたり》
|石《いし》|川《かわ》 |淳《じゅん》
平成12年9月15日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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Jun ISHIKAWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『新釈雨月物語』平成6年4月25日初版刊行