TITLE : あこがれ 石川啄木詩集
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目 次
詩集『あこがれ』
沈める鐘《序詩》
杜に立ちて
白羽の鵠船
啄木鳥
隠 沼
人に捧ぐ
楽 声
荒 磯
森の追懐
いのちの舟
孤 境
鶴飼橋に立ちて
山 彦
塔 影
黄金幻境
ひとりゆかむ
偶感二首
我なりき
閑古鳥
マカロフ提督追悼の詩
アカシヤの蔭
鴎
光の門
秋風高歌
黄金向日葵
我が世界
黄の小花
君が花
波は消えつつ
柳
愛の路
落ちし木の実
秘密
あゆみ
枯 林
壁 画
心の声
電光
祭の夜
暁霧
落葉の煙
古瓶子
救済の綱
あさがほ
傘のぬし
落 櫛
泉
めしひの少女
『あこがれ』以後
古 苑
卯月の夜半
よみがへれ
琴を弾け
仏頭光
仏頭光
落日
東京
啄木鳥に
公孫樹
鹿角の国を憶ふ歌
水無月
蟹 に
馬車の中
燕
恋
雪の夜
白い鳥、血の海
火星の芝居
黒き箱
老 人
白 骨
おどろき
無 題(夏の日の遠き旅路に 、)
無 題(屋根又屋根 、)
夏の街
無 題(赤! 赤!)
白き顔
泣くよりも
嫂
心の姿の研究
夏の街の恐怖
起きるな
事ありげな春の夕暮
柳の葉
騎馬の巡査
詩六章
一、路傍の草花に
二、口笛
三、手紙
四、花かんざし
五、あゝほんとに
六、昨日も今日も
はてしなき議論の後
一
八
九
詩稿ノート『呼子と口笛』
はてしなき議論の後
ココアのひと匙
激論
書斎の午後
墓碑銘
古びたる鞄をあけて
家
飛行機
注釈
詩集 『あこがれ』
沈める鐘《序詩》
一
渾《こん》沌《どん》霧なす夢より、暗を地《つち》に、
光を天《あめ》にも劃《わか》ちしその曙、
五天の大《おほ》御《み》座《ざ》高うもかへらすとて、
七《しち》宝《ほう》花咲く紫雲の『時』の輦《くるま》
瓔《*えう》珞《らく》さゆらぐ軒より、生《せい》と法《のり》の
進みを宣《の》りたる無《む》間《げん》の巨《おほ》鐘《がね》をぞ、
永《と》遠《は》なる生命《いのち》の証《あかし》と、海に投げて、
蒼《あを》穹《ぞら》はるかに大《おほ》神《かみ》知ろし立ちぬ。
時《とき》世《よ》は流れて、八《や》百《ほ》千《ち》の春はめぐり、
栄光いく度さかえつ、また滅びつ、
さて猶老《おい》なく、理想の極まりなき
日と夜の大《おほ》地《ぢ》に不《ふ》断《だん》の声をあげて、
(何等の霊異ぞ)劫《ごふ》初《しよ》の海《うな》底《ぞこ》より
『秘密』の響きを沈める鐘ぞ告ぐる。
二
朝《あした》に、夕《ゆふべ》に、はた夜の深き息《いき》に、
白《ま》昼《ひる》の嵐に、擣《つ》く手もなきに鳴りて、
絶えざる巨鐘、――自然の胸の声か、
永《と》遠《は》なる『眠《ねむり》』か、無《む》窮《きう》の生《せい》の『覚醒《さめ》』か、――
幽《かす》かに、朗《ほが》らに、或は雲にどよむ
高《たか》潮《じほ》みなぎり、悲《ひ》恋《れん》の咽び誘ひ、
小《を》貝《がひ》の色にも、枯葉のさゝやきにも
ゆたかにこもれる無声の愛の響。
悵《*いた》める心に、渇《かは》ける霊の唇《くち》に、
滴《したゞ》り玉なす光の清《し》水《みづ》めぐみ、
香りの雲吹く聖《せい》土《ど》の青き花を
あこがれ恋ふ子《こ》に天《あめ》なる楽《がく》を伝ふ
救済《すくい》の主《あるじ》よ、沈める鐘の声よ。
ああ汝《なれ》、尊とき『秘密』の旨《むね》と鳴るか。
三
ひとたび汝《な》が声心に絃《いと》に添ふや、
地の人百《もゝ》たり人《じん》為《ゐ》の埒《らち》を超《こ》えて、
天《てん》馬《ば》のたかぶり、血を吐く愛の叫び、
自由の精気を、耀《かゞや》く霊の影を
あつめし瞳《ひとみ》に涯《はて》なき涯を望み、
黄《こ》金《がね》の光を歴史に染めて行ける。
彫《ゑ》る名はさびたれ、かしこに、ここの丘《をか》に、
墓《*はか》碣《いし》、――をしへのかたみを我は仰《あふ》ぐ。
暗這《は》ふ大《おほ》野《の》に裂《さ》けたる裙《すそ》を曳《ひ》きて、
ああ今聞くかな、天《てん》与《よ》の命《めい》を告ぐる
劫初の深淵《ふかみ》ゆたゞよふ光の声。――
光に溢れて我はた神に似るか。
大《おほ》空《ぞら》地と断《た》て、さらずば天《あめ》よ降《お》りて
この世に蓮《はし》充《み》つ詩人の王《わう》座《ざ》作《つく》れ。
杜に立ちて
秋去り、秋来る時《じ》劫《ごふ》の刻《きざ》みうけて
五《い》百《ほ》秋《あき》朽《く》ちたる老《おい》杉《すぎ》、その真《ま》洞《ほら》に
黄金《こがね》の鼓《つゝみ》のたばしる音伝へて、
今《け》日《ふ》また木の間を過ぐるか、こがらし姫。
運《うん》命《めい》せまくも悩みの黒《くろ》霧《ぎり》落ち
陰《ゐん》霊《りやう》いのちの痛みに唸《うめ》く如く、
梢《こずゑ》を揺《ゆ》りては遠《とほ》のき、また寄せくる
無《む》間《げん》の潮《うしほ》に漂ふ落葉の声。
ああ今、来りて抱けよ、恋知る人。
流《る》転《てん》の大《おほ》浪《なみ》すぎ行く虚《うつろ》の路、
そよげる木《こ》の葉《は》ぞ幽《かす》かに落ちてむせぶ。――
驕《けふ》楽《らく》かくこそ沈まめ。――見よ、緑《みどり》の
薫《くん》風《ぷう》いづこへ吹きしか。胸燃えたる
束《つか》の間《ま》、げにこれたふとき愛の栄光《さかえ》。
白羽の鵠船
かの空みなぎる光の淵《ふち》を、魂《たま》の
白《しら》羽《は》の鵠《*とり》船《ぶね》しづかに、その青《あを》渦《うづ》
夢なる櫂《かひ》にて深うも漕《こ》ぎ入らばや。――
と見れば、どよもす高《たか》潮《じほ》音匂ひて、
楽《がく》声《せい》さまよふうてなの靄《もや》の〓《きぬ》を
透《す》きてぞ浮きくる面影、(百《ゆ》合《り》姫《ひめ》なれ)
天《てん》華《げ》の生《いく》襞《ひだ》〓《さや》々《さや》あけぼの染《ぞめ》、
常《*じやう》楽《げふ》ここにと和《やは》らぐ愛の瞳《ひとみ》。
運命《さだめ》や、寂寥児《さびしご》遺《のこ》れる、されど夜々の
ゆめ路《ぢ》のくしびに、今知る、哀愁《かなしき》世《よ》の
終焉《をわり》 は霊《れい》光《くわう》 無限の生《せい》の門《かど》出《で》。
瑠《る》璃《り》水《すゐ》たたえよ、不滅の信《しん》の小《こ》壺《つぼ》。
さばこの地に照る日光《ひかり》は氷《こほ》るとても
高《かう》歓《くわん》久《く》遠《をん》の座《ざ》にこそ導《みちび》かるれ。
啄木鳥
いにしへ聖《せい》者《じや》が雅典《*アデン》の森に撞《つ》きし、
光ぞ絶えせぬ天《てん》生《せい》『愛』の火もて
鋳《ゐ》にたる巨《おほ》鐘《がね》、無窮のその声をぞ
染めなす『緑《みどり》』よ、げにこそ霊の住《すみ》家《か》。
聞け、今、巷《ちまた》に喘《あへ》げる塵《ちり》の疾風《はやち》。
よせ来て、若《わか》やぐ生命《いのち》の森の精《せい》の
聖《きよ》きを攻《せ》むやと、終日《ひねもす》、啄木《きつゝき》鳥《どり》、
巡《めぐ》りて警告《いましめ》夏《なつ》樹《ぎ》の髄《ずゐ》にきざむ。
往《ゆ》きしは三《み》千《ち》年《とせ》、永《えう》劫《ごう》猶すすみて
つきざる『時』の箭《や》 、無《む》象《しやう》の白《しら》羽《は》の跡《あと》
追《お》ひ行く不滅の教《をしへ》よ。――プラトー、汝《な》が
浄《きよ》きを高きを天《てん》路《ろ》の栄《はえ》と云ひし
霊をぞ守りて、この森不《ふ》断《だん》の糧《かて》、
奇《くし》かるつとめを小《ちい》さき鳥のすなる。
隠 沼
夕《ゆふ》影《かげ》しづかに番《つがひ》の白《しら》鷺《さぎ》下《お》り、
槙《まき》の葉枯れたる樹《こ》下《した》の隠《こもり》沼《ぬ》にて、
あこがれ歌ふよ。――『その昔《かみ》、よろこび、そは
朝《あさ》明《あけ》、光の揺《ゆり》籃《ご》に星と眠り、
悲しみ、汝《なれ》こそとこしへ此《こ》処《ゝ》に朽《く》ちて、
我が喰《は》み啣《ふく》める泥《ひ》土《づち》と融《と》け沈みぬ。』――
愛の羽《は》寄《よ》り添《そ》ひ、青《せい》瞳《どう》うるむ見れば、
築《つい》地《ぢ》の草《くさ》床《どこ》、涙を我も垂《た》れつ。
仰《あふ》げば、夕空さびしき星めざめて、
偲《しぬ》びの光の、彩《あや》なき夢の如く、
ほそ糸《いと》ほのかに水《み》底《ぞこ》に鎖《くさり》ひける。
哀《あい》歓《くわん》かたみの輪廻《めぐり》は猶も堪えめ、
泥《ひ》土《づち》に似《に》る身ぞ。ああさは我が隠《こもり》沼《ぬ》、
かなしみ喰《は》み去る鳥《とり》さへこそ来《こ》めや。
人に捧ぐ
君が瞳《め》ひとたび胸なる秘《ひめ》鏡《かゞみ》の
ねむれる曇《くも》りを射《ゐ》しより、醒《さ》め出でたる、
瑠《る》璃《り》羽《ば》や、我が魂《たま》、日を夜を羽《は》搏《う》ちやまで、
雲《くも》渦《うづ》ながるる天《てん》路《ろ》の光をこそ
導《ひ》きたる幻《まぼろし》眩《まばゆ》き愛の宮《みや》居《ゐ》。
あこがれ浄《きよ》きを花《はな》靄《もや》匂《にほ》ふと見て、
二《ふた》人《り》し抱《いだ》けば、地《ち》の事《こと》破《は》壊《ゑ》のあとも
追《お》ひ来《こ》し理想の影ぞとほゝゑまるる。
こし方、運命《さだめ》の氷《ひ》雨《さめ》を凌《しの》ぎかねて、
詩《しい》歌《か》の小《を》笠《がさ》に紅《あけ》の緒《を》むすびあへず、
愁《うれ》ひの谷《たに》をしたどりて足《あ》悩《なゆ》みつれ、
峻《こゞ》しき生命《いのち》の坂《さか》路《ぢ》も、君が愛の
炬《たい》火《まつ》心にたよれば、黯《くら》き空に
雲《くも》間《ま》も星行く如くぞ安らかなる。
楽 声
日《ひ》暮《く》れて、楽《がく》堂《だう》萎《しほ》れし瓶の花の
香りに酔《ゑ》ひては集《つど》へる人の前に、
こは何、波《なみ》渦《うづ》沈《しづ》める蒼《あを》き海《うみ》の
遠《とほ》音《ね》と浮き来て音《ね》色《いろ》ぞ流れわたる。――
霊の羽ゆたかに白鳩舞《ま》ひくだると
仰《あふ》げば、一《いち》絃《げん》、忽ちふかき淵《ふち》の
底《そこ》なる嘆《なげ》きをかすかに誘《さそ》ひ出でゝ、
虚《こ》空《くう》を遥《はる》かに哀《あい》調《てふ》あこがれ行く。
光と暗とを黄金《こがね》の鎖《くさり》にして、
いためる心を捲《ま》きては、遠《とほ》く遠く
見しらぬ他界《かのよ》の夢《む》幻《げん》に繋《つな》ぎよする
力《ちから》よ自《ま》由《ゝ》なる楽《がく》声《せい》、あゝ汝《なれ》こそ
天《あめ》なる快《け》楽《らく》の名残《なごり》を地《つち》につたへ、
魂《たま》をしきよめて、世に充《み》つ痛恨《いたみ》訴《うた》ふ。
荒 磯
行きかへり砂這《は》ふ波の
ほの白きけはひ追ひつゝ、
日は落ちて、暗湧き寄する
あら磯の枯《かれ》藻《も》を踏めば、
(あめつちの愁《うれ》ひか、あらぬ、)
雲の裾ながうなびきて、
老《おい》松《まつ》の古《ふる》葉《ば》音《ね》もなく、
仰《あふ》ぎ見る幹《みき》からびたり。
海原を鶻《*みさご》かすめて
その羽音波に砕けぬ。
うちまろび、大《おほ》地《ぢ》に呼べば、
小石なし、涙は凝《こ》りぬ。
大《おほ》水《みづ》に足を浸《ひた》して、
黝《くろ》ずめる空を望みて、
ささがにの小さき瞳《ひとみ》と
魂《たま》更に胸にすくむよ。
秋《あき》路《ぢ》行く雲の疾《と》影《かげ》の
日を掩《おほ》ひて地《ち》を射《ゐ》る如く、
ああ運命《さだめ》、下《を》りて鋭《と》斧《をの》と
胸《むね》の門《かど》割《わ》りし身なれば、
月負《お》ふに〓《や》せたるむくろ、
姿こそ浜《はま》芦《あし》に似て、
うちそよぐ愁ひを砂の
冷《つめ》たきに印《しる》し行くかな。
森の追懐
落ち行く夏の日緑の葉かげ洩《も》れて
森《もり》路《ぢ》に布《し》きたる村《*むら》濃《ご》の染《そめ》分《わけ》衣《ぎぬ》、
涼《すゞ》風《かぜ》わたれば夢ともゆらぐ波を
胸這《は》ふおもひの影かと眺め入りて、
静《しづか》夜《よ》光明《ひかり》 を恋ふ子が清歓《よろこび》をぞ、
身は今、木《こ》下《した》の百《ゆ》合《り》花《ばな》あまき息《いき》に
酔《ゑ》ひつつ、古《ふる》事《ごと》絵《ゑ》巻《まき》に慰みたる
一《ひと》日《ひ》のやはらぎ深きに思ひ知るよ。
遠《とほ》音《ね》の柴《しば》笛《ぶえ》ひびきは低《ひく》かるとも
鋤《すき》負ふまめ人《ひと》又なき快《け》楽《らく》と云ふ。
似たりな、追懐《おもひで》、小《ちい》さき姿ながら、
沈める心に白羽の光うかべ、
葉隠れひそみてささなく杜鵑の
春《はる》花《ばな》羅綾《うすもの》褪《あ》せたる袖を巻《ま》ける
胸《むな》毛《げ》のぬくみをあこがれ歌ふ如く、
よろこび幽かに無《む》間《げん》の調《しら》べ誘ふ。
野《や》梅《ばい》の葩《はなびら》溶《と》きたる清き彩《あや》の
罪なき望みに雀《こ》躍《おど》り、木の間縫《ぬ》ひて
摘《つ》む花多きを各自《かたみ》に誇《ほこ》りあひし
昔を思へば、十年《とゝせ》の今新たに
失敗《やぶれ》の跡《あと》なく、痛恨《いたみ》の深《ふか》創《きず》なく、
黒《くろ》金《がね》諸《もろ》輪《わ》の運命《さだめ》路《ぢ》遠くはなれ、
乳《ち》よりも甘かる幻透き浮き来て、
この森緑《みどり》の揺《ゆり》籃《ご》に甦《よみが》へりぬ。
胸なる小《を》甕《がめ》は『いのち』を盛《も》るにたえで、
つめたき悲哀の塚《つい》辺《べ》に欠《か》くるとても、
底なる滴《しづく》に尊とき香り残す
不滅の追懐《おもひで》まばゆく輝やきなば、
何の日霊魂《たましひ》終焉《をわり》 の朽《くち》あらむや。
啼け杜鵑よ、この世に春と霊の
きえざる心を君我れ歌ひ行かば、
嘆きにかへりて人をぞ 浄《きよ》 めうべし。
(癸卯十二月十四日稿。森は郷校のうしろ。この年の春まだ浅き頃、漂浪の子病を負ふて故山にかへり、薬餌漸く怠たれる夏の日、ひとり幾度か杖を曳きてその森にさまよひ、往時の追懐に寂寥の胸を慰めけむ。極月炬燵の楽寝、思ひ起しては惆悵に堪へず、乃ちこの歌あり。)
いのちの舟
大《おほ》海《わだ》中《なか》の詩《し》の真《しん》珠《じゆ》
浮《うき》藻《も》の底にさぐらむと、
風《ふう》信《しん》草《さう》の花かほる
吾《わぎ》家《へ》の岸をとめて漕ぐ
海《うみ》幸《さち》舟《ぶね》の真帆の如、
いのちの小《を》舟《ぶね》かろやかに、
愛の帆《ほ》章《じるし》額《ぬか》に彫《ゑ》り、
鳴る青《あを》潮《じほ》に乗り出でぬ。
遠《とほ》海《うな》面《づら》に陽炎《かげろふ》の
夕《ゆふ》彩《あや》はゆる夢の宮、
夏《なつ》花《ばな》雲《ぐも》と立つを見て、
そこに、秘《ひ》めたる天《あめ》の路《みち》
ひらきもやする門《かど》あると、
貢《みつぎ》する珠《たま》、歌《うた》の珠《たま》、
のせつつ行けば、波の穂と
よろこび深く胸を撼《ゆ》る。
悲哀《かなしみ》の世の黒《くろ》潮《じほ》に
はてなく浮ぶ椰《や》子《し》の実《み》の
むなしき殻《から》と人云《い》へど、
岸こそ知らね、死《し》の疾風《はやち》
い捲《ま》き起らぬうたの海、
光の窓に凭《よ》る神の
瑪《め》瑙《のう》の盞《さら》の覆《かへ》らざる
うまし小舟を我は漕ぐかな。
孤 境
老《おい》樫《かし》の枯《かれ》樹《き》によりて
墓《はか》碣《いし》の丘《をか》辺《べ》に立てば、
人の声遠くはなれて、
夕暗に我が世は浮ぶ。
想ひの羽《は》いとすこやかに
おほ天《あめ》の光を追へば、
新たなる生《いく》花《はな》被衣《かづき》
おのづから胸をつつみぬ。
苔《こけ》の下《した》やすけくねむる
故《ふる》人《びと》のやはらぎの如、
わが世こそ霊《たま》の聖《せい》なる
白《しら》靄《もや》の花のあけぼの。
いたみなき香りを吸《す》へば、
つぶら胸光と透《す》きぬ。
花びらに袖のふるれば、
愛の歌かすかに鳴りぬ。
ああ地《つち》に夜《よる》の荒《すさ》みて
黒《くろ》霧《ぎり》の世を這ふ時し、
わが息《いき》は天《あめ》に通《かよ》ひて、
幻の影に酔ふかな。
鶴飼橋に立ちて
(橋はわがふる里渋民の村、北上の流に架したる吊橋なり。岩手山の眺望を以て郷人賞し措かず。春暁夏暮いつをいつとも別ち難き趣あれど、我は殊更に月ある夜を好み、友を訪ふてのかへるさなど、幾度かこゝに低回微吟の興を 擅《ほしいまま》 にしけむ。)
比《*び》丘《く》尼《に》の黒裳《ころも》に襞《ひだ》そよそよ
薫《くん》ずる煙の絡《から》む如く、
川《かは》瀬《せ》をながるる暗の色に
淡《あは》夢《ゆめ》心《ごゝろ》の面《おも》〓《ぎぬ》して、
しづかに射《さ》しくる月の影の
愁ひにさゆらぐ夜の調《しらべ》 、
息《いき》なし深くも胸に吸《す》へば、
古《ふる》代《よ》の奇《くし》琴《ごと》音をそへて
蜻火《かげろひ》湧く如、瑠《る》璃《り》の靄《もや》の
遠《とほ》宮《みや》まぼろし鮮《さや》に透《す》くよ。
八《や》千《ち》歳《とせ》天《あめ》裂《さ》く高《たか》山《やま》をも、
夜《よ》の帳《ちやう》とぢたる地《つち》に眠る
わが児《こ》のひとりと瞰《み》下《おろ》しつゝ、
大《おほ》鳳《とり》生《いく》羽《は》の翼あげて
はてなき想像《おもひ》の空を行くや、
流れてつきざる『時』の川に
相《あひ》噛《か》みせめぎてわしる水の
大波浸《をか》さず、怨嗟《うらみ》きかず、
光と暗とを作る宮に
詩人ぞ聖なる霊の主《あるじ》
見よ、かの路なき天《あめ》の路を
雲《うん》車《しや》のまろがりいと静かに
(使《し》命《めい》や何なる)曙《あけ》の神の
跡追ひ駆《か》けらし、白《しろ》葩《はなびら》
桂の香降《ふ》らす月の少女《をとめ》、
(わが詩の驕《おご》りのまのあたりに
象徴《かたど》り成りぬる栄《はえ》のさまか。)
きよまり凝りては瞳の底
生《いく》火《ひ》の胸なし、愛の苑《その》に
石《せき》神《じん》立つごと、光添ひつ。
尊ときやはらぎ破らじとか
夜の水遠くも音沈みぬ。
そよぐは無限の生《せい》の吐息、
心臓《こゝろ》のひびきを欄《らん》につたへ、
月とし語れば、ここよ永久《とは》の
詩の領《りやう》朽《く》ちざる鶴《つる》飼《がひ》橋《ばし》。
よし身は下ゆく波の泡と
かへらぬ暗黒《くらみ》の淵《ふち》に入るも
わが魂《たま》封《ふう》じて詩の門《と》守る
いのちは月なる花に咲かむ。
山 彦
花《はな》草《ぐさ》啣《ふく》みて五月《さつき》の杜《もり》の木《こ》蔭《かげ》
囀《てん》ずる小鳥に和《あは》せて歌ひ居れば、
伴奏《ともない》仄《ほの》かに、夕野の陽炎《かげろふ》なし、
『夢なる谷』より山《やま》彦《ひこ》ただよひ来る。――
春《はる》日《び》の小《を》車《ぐるま》沈《しづ》めたる轍《わだち》の音《ね》か、
はた彼《か》の幼《えう》時《じ》の追憶《おもひで》声と添ふか。――
緑の柔《やは》息《いき》深くも胸に吸《す》ひて、
黙《もだ》せば、猶且つ無《む》声《せい》にひびき渡る。
ああ汝《なれ》、天《てん》部《ぶ》にどよみて、再《ま》た落ち来《こ》し
愛《あい》歌《か》の遺《ゐ》韻《いん》。さらずば地《つち》の心《しん》の
瑯《ろう》〓《かん》無《む》垢《く》なる虚洞《うつろ》のかへす声よ。
山彦! 今我れ清らに心明《あ》けて
ただよふ光の見えざる影によれば、
我歌却《かへ》りて汝《な》が響《ね》の名残《なごり》伝ふ。
塔 影
眠りの大《おほ》戸《ど》に秋の日暫し凭《よ》りて
見かへる此方《こなた》に、淋しき夕の光、
劫《ごふ》風《ふう》千《せん》古《こ》の文《ふみ》をぞ草に染めて
金《きん》字《じ》の塔《とふ》影《えい》丘《をか》辺《べ》に長う投げぬ。
紅《かう》爛《らん》朽ち果て、飛《ひ》竜《りゅう》を彫《ゑ》れる壁の
金《こん》泥《でい》跡なき荒癈《すさみ》の中に立ちて、
仰《あふ》げば、乱《らん》雲《うん》白《はく》蛇《じや》の怒り凄《すご》く
見入れば幽《ゆふ》影《えい》しじまのおごそかなる。
法《はふ》鐘《しやう》悲《ひ》音《おん》の教を八《や》十《そ》百《もゝ》秋《あき》
投げ出す影にと夕毎葬り来て、
乱《らん》壊《ゑ》に驕《をご》れる古《こ》塔《たふ》の深き胸を
照らすは銷《しやう》沈《ちん》臨終《いまは》の『秋《あき》』の瞳《ひとみ》。
(神《しん》秘《ぴ》よ躍《をど》れや、)ああ今、夜は下《くだ》り、
寂《じやく》滅《めつ》封《ふう》じて、万有《ものみな》影と死にぬ。
黄金幻境
生命《いのち》の源《みなもと》封《ふう》じて天《あめ》の緑
光と燃え立つ匂ひの霊の門《と》かも。──
霊の門《と》、げにそよ、ああこの若《わか》睛眸《まなざし》、
強き火、生《いく》火《ひ》に威力《ちから》の倦弛《ゆるみ》織《を》りて
八《や》千《ち》網《あみ》彩《あや》影《かげ》我をば捲《ま》きしめたる。──
立てるは愛の野、二人ふたりの野にしあれば、
汝《な》が瞳めを仰《あふ》ぎて、身は唯《たゞ》言葉もなく、
遍《へん》照《じやう》光《くわう》裡《り》の焔の夢に酔《ゑ》ひぬ。
見よ今、世の影慈《じ》光《くわう》の雲を帯びて
輾《まろが》り音なく熱《ねつ》野《や》の涯《はて》を走る。
わしりぬ、環《めぐ》りぬ、ああさて極まりなき
黄《わう》金《ごん》幻《げん》境《きやう》! かくこそ生《せい》の夢の
久《く》遠《をん》の瞬《またゝ》き進みて、二人すでに
匂ひの天《あめ》にと昇《しやう》華《げ》の翼《つばさ》振《ふ》るよ。
ひとりゆかむ
日はくれぬ。
(愁《うれ》ひのいのち)
幻想《おもひ》の森に、いざや
ひとりゆかむ。
万有《ものみな》音をひそめて、
(ああ我がいのち)おもひでの
妙《めう》楽《がく》の夜《よる》あまき森。
(夜のおもひ
いのちのおもひ)
恋成りぬ。
(夢見のいのち)
忘《われ》我《か》の森に、いざや
ひとりゆかむ。
花《はな》瞿《げ》粟《し》にほひゆるみて、
(ああ我がいのち)つく息《いき》の
みどりうす靄ゆらぐ森。
(夜のにほひ
恋のにほひ)
恋破《や》れぬ。
(なげきのいのち)
祈《いの》りの森に、いざや
ひとり行かむ。
面《おも》影《かげ》、いのるまにいのるまに
(ああ我がいのち)天《あめ》の生《せい》
あらたに馨《かほ》る愛の森。
(夜のいのり
いのちのいのり)
月照りぬ。
(あでなるいのち)
幻想《おもひ》の森に、いざや
ひとりゆかむ。
ほのぼの、月の光に
(ああ我がいのち故《ふる》郷《さと》の
黄金《こがね》花《はな》岸《ぎし》うかぶ森。
(夜のいのち
ああ我がいのち)
偶感二首
(甲辰五月二十日の暁近き頃、ふと目さめて、岩手ゆく春の夜風にうるほふ残燈の下、広き世の眠りに我のみぞさめて、筆を染めける。)
我なりき
ほのかに夜《よ》半《は》に漂ふ鐘《かね》の音《ね》の
いのちぞ深きまぼろし、──『我』なりき。
『我』こそげにや触《ふ》れても触れ難き
流るる幻。されば人よ云へ、
時より時に跡なき水〓《*みなわ》ぞと。
ああそよ、水〓《みなわ》ひと度うかびては
時あり、始《はじめ》あり、また終《をわり》あり。
瞬《またゝ》き消えぬ。──いづこに? そは知らず、
あとなき跡は流れて、人知らず。
瞬時《またゝき》、さなり瞬時、それ既に
永久《とは》なる鎖《くさり》かがやく一《ひと》閃《ひらめき》。
無《む》生《せい》よ、さなり無生よ、それやはた、
とはなる生《せい》の流《る》転《てん》の不現《みえざる》影《かげ》。──
或ひは人よ、汝《なれ》等《ら》が自《みづか》らを
みづから蔑《なみ》す沈淪《ほろび》の肉《にく》の声。
ああ人、さらばいのちの源泉《みなもと》の
見えざる『我』を『彼《かれ》』とぞ汝《なれ》呼べよ。
無《む》生《せい》の生《せい》に汝《なれ》等《ら》が還《かへ》る時、
有《う》生《せい》の生《せい》の円《ゑん》光《くわう》まばゆきに
『彼』とぞ我は遊ばむ、霊の国。
見えざる光、動かぬ夢の羽《はね》、
音なき音よ、久《く》遠《をん》の瞬《またゝ》きよ、
まぼろし、それよ、 『まことの我』なりき。
『彼』こそ霊《れい》の白《しら》〓《あわ》、──『我』なりき。──
ほのかに夜《よ》半《は》にただよふ鐘の音の
光を纒《まと》ふまぼろし、──『我』なりき。
閑古鳥
暁《あかつき》迫《せま》り、行く春夜はくだち、
燭《しよく》影《えい》淡くゆれたるわが窓に、
一《ひと》声《こゑ》、今我れききぬ、しののめの
呼《よぶ》笛《こ》か、夜《よる》の別れか、閑古鳥。
ひと声聞きぬ。ああ否、我はただ、
(悵《いた》める胸の叫びか、重《おも》息《いき》の
はるかに愁ひの洞《ほら》にどよみ来て
おのづとかへる響か、ああ知らず 。)
ただ知る、深きおもひの淵《ふち》の底、
見えざる底を破りて、何者か
わが胸つける刃《は》ありと覚ふのみ。
をさなき時も青野にこの声を
ききける日あり。今またここに聞く。
詩人の思ひとこしへ生くる如、
不滅のいのち持つらし、この声も。
永遠《とこしへ》! それよ不滅のしばたたき、
またたき! はたや、暫しのとこしなへ。
この生《せい》、この詩、(しばしのとこしなへ、)
或は消えめ、かの声消えし如、
消えても猶に(不滅のしばたたき 、)
たとへばこの世終滅《をはり》のあるとても、
ああ我生《い》きむ、かの声生くる如。
似たりな、まことこの詩とかの声と。──
これげに、弥生《やよひ》 鶯《うぐひす》春を讃《ほ》め、
世に充《み》つ芸《げい》の聖《せい》花《くわ》の盗《ぬす》み人《びと》、
光明《ひかり》の敵《かたき》、いのちの賊《ぞく》の子が
おもねり甘き酔《すゐ》歌《か》の類ならず。
健闘《たゝかひ》、つかれ、くるしみ、自矜《たかぶり》に
光のふる里しのぶ真心の
いのちの血汐もえ立つ胸の火に
染めなす驕《ほこ》り、不《ふ》断《だん》の霊の糧《かて》。
我ある限りわが世の光なる
みづから叫ぶ生《せい》の詩《し》、生《せい》の声。
さればよ、あはれ世界のとこしへに
いつかは一《ひと》夜《よ》、有《う》情《じやう》の(ありや、否)
勇士が胸にひびきて、寒古鳥
ひと声我によせたるおとなひを、
思ひに沈む心に送りえば、
わが生、わが詩、不滅のしるしぞと、
静かに我は、友《とも》なる鳥の如、
無限の生の進みに歌ひつづけむ。
マカロフ提督追悼の詩
(明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊大挙して旅順港口に迫るや、敵将マ《*》カロフ提督之を迎撃せむとし、愴惶令を下して其旗艦ペトロパフロスクを港外に進めしが、武運や拙なかりけむ、我が沈設水雷に触れて、巨艦一爆、提督も亦艦と運命を共にしぬ。)
嵐よ黙《もだ》せ、暗打つその翼、
夜の叫びも荒《あり》磯《そ》の黒《くろ》潮《しほ》も、
潮にみなぎる鬼《*き》哭《こく》の啾《しう》々《しう》も
暫し唸《うな》りを鎮《しづ》めよ。万軍の
敵も味方も汝《な》が矛《ほこ》地に伏せて、
今、大《おほ》水《みづ》の響に我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼を沈めて、千古の浪狂ふ、
弦《げん》月《げつ》遠きかなたの旅順口。
ものみな声を潜めて、極《こく》冬《たう》の
落日の威に無人の大砂漠
劫風絶ゆる不動の滅の如、
鳴りをしづめて、ああ今あめつちに
こもる無言の叫びを聞けよかし。
きけよ、──敗《はい》者《しや》の怨みか、暗濤の
世をくつがへす憤《ふん》怒《ぬ》か、ああ、あらず、──
血汐を呑みてむなしく敗艦と
共に没《かく》れし旅順の黒《*こく》〓《わう》裡《り》、
彼が最後の瞳にかがやける
偉霊のちから鋭どき生《せい》の歌。
ああ偉《おほ》いなる敗者よ、君が名は
マカロフなりき。非常の死の波に
最後のちからふるへる人の名は
マカロフなりき。胡《*》天の孤英雄、
君を憶《おも》へば、身はこれ敵国の
東海遠き日本の一詩人、
敵《かたき》乍らに、苦しき声あげて
高く叫ぶよ、 (鬼神も跼《ひざま》づけ、
敵も味方も汝《な》が矛地に伏せて、
マカロフが名に暫しは鎮まれよ 。)
ああ偉《おほ》いなる敗将、軍神の
撰びに入れる露西亜の孤英雄、
無情の風はまことに君が身に
まこと無情の翼をひろげき、と。
東亜の空にはびこる暗雲の
乱れそめては、黄海波荒く、
残艦哀れ旅順の水寒き
影もさびしき故国の運命に、
君は起《た》ちにき、み神の名を呼びて、──
亡びの暗の叫びの見かへりや、
我と我が威に輝やく落日の
雲《うん》路《ろ》しばしの勇みを負ふ如く。
壮なるかなや、故国の運命を
担《にな》ふて勇む胡天の君が意気。
君は立てたり、旅順の狂風に
檣頭高く日を射《さ》す提《てい》督《とく》旗《き》。──
その旗、かなし、波間に捲きこまれ、
見る見る君が故国の運命と、
世界を撫《な》づるちからも海底に
沈むものとは、ああ神、人知らず。
四月十有三日、日は照らず、
空はくもりて、乱雲すさまじく
故天にかへる辺土の朝の海、
(海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、
敵も味方も汝《な》が鋒地に伏せて、
マカロフが名に暫しは跼づけ 。)
万雷波に躍りて、大軸を
砕くとひびく刹那に、名にしおふ
黄海の王《わう》者《じや》、世界の大艦も
くづれ傾むく天地の黒《こく》〓《わう》裡《り》、
血汐を浴びて、腕《うで》をば拱《こまぬ》ぎて、
無限の憤《ふん》怒《ぬ》、怒濤のかちどきの
渦巻く海に瞳を凝らしつつ、
大提督は静かに沈みけり。
ああ運命の大海、とこしへの
憤怒の頭《かしら》擡《もた》ぐる死の波よ、
ひと日、旅順にすさみて、千秋の
うらみ遺《のこ》せる秘密の黒潮よ、
ああ汝《なれ》、かくてこの世の九億劫、
生と希望と意力《ちから》を呑み去りて
幽暗不知の界《さかひ》に閉ぢこめて、
如何に、如何なる証《あかし》を『永遠の
生の光』に理《ことはり》示《しめ》すぞや。
汝《な》が迫害にもろくも沈み行く
この世この生、まことに汝《なれ》が目に
映《うつ》るが如く値《あたひ》のなきものか。
ああ休《や》んぬかな。歴史の文《も》字《じ》は皆
すでに千古の涙にうるほひぬ。
うるほひけりな、今また、マカロフが
おほいなる名も我身の熱涙に。──
彼は沈みぬ、無間の海の底。
偉霊のちからこもれる其胸に
永劫たえぬ悲痛の傷《きず》うけて、
その重《おも》傷《きず》に世界を泣かしめて。
我はた惑ふ、地上の永滅は、
力《ちから》を仰《あふ》ぐ有《う》情《じやう》の涙にぞ、
仰ぐちからに不断の永生の
流《る》転《てん》現《げん》ずる尊ときひらめきか。
ああよしさらば、我が友マカロフよ、
詩人の涙あつきに、君が名の
叫びにこもる力《ちから》に、願くは
君が名、我が詩、不滅の信《まこと》とも
なぐさみて、我この世にたたかはむ。
水《み》無《な》月《づき》くらき夜《や》半《はん》の窓に凭り、
燭にそむきて、静かに君が名を
思へば、我や、音なき狂瀾裡、
したしく君が渦巻く死の波を
制す最後の姿を覩《み》るが如、
頭《かうべ》は垂《た》れて、熱涙せきあへず。
君はや逝《ゆ》きぬ。逝きても猶逝かぬ
その偉いなる心はとこしへに
偉霊を仰ぐ心に絶えざらむ。
ああ、夜の嵐、荒《あり》磯《そ》のくろ潮も、
敵も味方もその額《ぬか》地に伏せて
火焔《ほのほ》の声をあげてぞ我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼《かれ》を沈めて千古の浪狂ふ
弦月遠きかなたの旅順口。
アカシヤの蔭
たそがれ淡き揺曳《さまよひ》やはらかに、
収《をさ》まる光暫しの名残なる
透《すい》影《かげ》投げし碧《みどり》の淵《ふち》の上、
我ただひとり一《ひと》日《ひ》を漂へる
小《を》舟《ぶね》を寄せて、アカシヤ夏の香の
木《こ》蔭《かげ》に櫂《かひ》とどめて休《やす》らひぬ。
流れて涯《はて》も知らざる大《おほ》川《かは》の
暫しと淀《よど》む翠《みどり》江《え》夢の淵!
見えざる霊の海原花岸の
ふる郷《さと》とめて、生命《いのち》の大川に
ひねもす浮びただよふ夢の我!
夢こそ暫し宿れるこの岸に
ああ夢ならぬ香りのアカシヤや。
野《の》末《ずへ》に匂ふ薄《うす》月《づき》しづかなる
光を帯びて微風《そよかぜ》吹く毎に、
英《はな》房《ぶさ》ゆらぎ、真白の波湧けば、
みなぎる薫《かほ》りあまきに蜜の蜂
群《む》るる羽音は暮れゆく野の空に
猶去りがての呟《つぶ》やき、夕《ゆふ》の曲《きょく》。
纜《ともづな》結《ゆ》ひて忘《われ》我《か》の歩みもて、
我は上《のぼ》りぬ、アカシヤ咲く岸に。──
春の夜桜おぼろの月の窓
少女《をとめ》が歌にひかれて忍ぶ如。
ああ世の恋よ、まことに淀《よど》の上《へ》の
アカシヤ甘き匂ひに似たらずや。
いのちの川の夢なる青《あを》淵《ぶち》に
夢ならぬ香《か》の雫《しづく》をそそぎつつ、
幻過ぐるいのちの舟よせて、
流るる心に光の鎖《くさり》なす
にほひのつきぬ思出結《むす》ぶなる。
淀める水よ、音なき波の上に
没《*もつ》薬《やく》撒《ま》くとしただるアカシヤの
その香《か》、はてなく流るる汝《な》が旅に
消ゆる日ありと誰かは知りうるぞ。
ああ我が恋よ、心の奥ふかく、
汝《なれ》が投げたる光と香りとの
(たとへ、わが舟巌《いわほ》に覆《くつが》へり、
或は暗の嵐に迷ふとも 、)
沈む日ありと誰かは云ひうるぞ。
はた此の岸に溢るる平和《やはらぎ》の
見えざる光、不断の風の楽《がく》、
光と楽《がく》にさまよふ幻の
それよ、我が旅はてなむ古《ふる》郷《さと》の
黄金《こがね》の岸のとはなる栄《えい》光《くわう》と
異なるものと、誰かははかりえむ。
ああ汝《なれ》水よ、われらはふるさとの
何処なりしを知らざる旅なれば、
アカシヤの香に南の国おもひ、
恋の夢にし永遠《とは》なる世を知るも、
そは罪なりと誰かはさばきえむ。
ああ今、月は静かに万有《ものみな》を
ひろごり包み、また我心をも
光に融《と》かしつくして、我すでに
見えざる国の宮居に、アカシヤと
咲きぬるかともやはらぐ愛の岸、
無《む》垢《く》なる花の匂ひの幻に
神かの姿けだかき現《うつゝ》かな。
水も淀《よど》みぬ。アカシヤ香も増しぬ。
いざ我が長きいのちの大川に
我も宿らむ、暫しの夢の岸。──
暫しの夢のまたたき、それよげに、
とはなる脈《みやく》のひるまぬ進み搏《う》つ
まことの霊の住《すみ》家《か》の証《あかし》なれ。
鴎
藻の香に染みし白昼《まひる》の砂《すな》枕《まくら》、
ましろき鴎《かもめ》、ゆたかに、波の穂を
光の羽《はね》にわけつつ、砕け去る
汀の〓《あわ》にえものをあさりては、
わが足近く翼を休らへぬ。
諸《もろ》手《て》をのべて、高らに吟《ぎん》ずれど、
鳥驚かず、とび去らず、
ぬれたる砂にあゆみて、退《しぞ》しぞき、また
寄せくる波をむかへて、よろこびぬ。
つぶらにあきて、青海の
匂ひかがやく小瞳は、
真珠の光あつめし聖の壺《つぼ》。
はてなき海を家とし、歌として、
おのが翼を力《ちから》と遊べばか、
汝《な》が行くところ、瞳《ひとみ》の射る所、
狐疑《うたがひ》、怖れ、さげしみ、あなどりの
さもしき陰影《かげ》は隠れて、空蒼《あを》し。
ああ逍遥《さまよひ》よ、をきての網《あみ》の中
立ちつつまれてあたりをかへり見る
むなしき鎖解《と》きたる逍遥《さまよひ》よ、
それただ我ら自然の寵児《まなご》らが
高行く天《あめ》の世に似る路なれや。
来ても聞けかし、今この鳥の歌。──
さまよひなれば、自《ま》由《ゝ》なる恋の夢、
あけぼの開く白《しら》藻《も》の香に宿り、
起伏つきぬ五《い》百《ほ》重《へ》の浪の音に
光と暗はい湧きて、とこしへの
勇みの歌は、ひるまぬ生《せい》の楽《がく》。
ああ我が友よ、願ふは、暫しだに、
つかるる日なき光の白羽をぞ
翼なき子の胸にもゆるさずや。
汝《な》があるところ、平和《やはらぎ》、よろこびの
軟風《なよかぜ》かよひ、黄金《こがね》の日は照《て》れど、
人の世の国けがれの風長く、
自由の花は百《もゝ》年《とせ》地に委して
不《ふ》朽《きう》と詩との自然はほろびたり。
光の門
よすがら堪へぬなやみに気は沮《はゞ》み、
黒《くろ》蛇《へみ》ねむり、八《や》百《ほ》千《ち》の梟《ふくろふ》の
暗《やみ》声《ごゑ》あはす迷ひの森の中、
あゆみにつるる打《くち》葉《ば》の唸《うめ》きをも
罪にか誘ふ陰府《よみぢ》のあざけりと
心責めつつ、あてなくたどり来て、
何かも、どよむ響のあたらしく
胸にし入るに、驚き見まもれば、
今こそ立ちぬ、光の門かどに、我れ。
ああ我が長き悶《もだえ》の夜は退《しぞ》き、
香もあたらしき朝風吹きみちて、
吹き行く所、我が目に入るところ、
自由と愛にすべての暗は消え、
かなしき鳥の叫びも、森影も、
うしろに遥か谷《たに》間《ま》にかくれ去り、
立つは自然の揺《ゆり》床《どこ》、しろがねの
砂布《し》きのべし朝《あした》の磯の上。
不《ふ》朽《きう》の勇み漲る太《おほ》洋《わだ》の
張りたる胸は、はてなく、紫の
光をのせて、東に、曙《あけ》高き
白《しら》幟《はた》のぼる雲《くも》際《ぎは》どよもしぬ。
ああその光、──青《あを》渦《うづ》底もなき
海《うな》底《ぞこ》守る秘密の国よりか。
はた夜と暗と夢なき大《おほ》空《ぞら》の
紅《こう》玉《ぎよく》匂ふ玉《たま》階《はし》すべり来し
天《てん》華《げ》のなだれ。或は我が胸の
生《いく》火《ひ》の焔もえ立つひらめきか。──
蒼《あを》空《ぞら》かぎり、海《うな》路《ぢ》と天《あめ》の門《と》の
落ち合ふ所、日《にち》輪《りん》おごそかに
あたらしき世の希望に生れ出で、
海と陸《くが》とのとこしへ抱く所、
ものみな荒《すさ》む黒影《くろかげ》夜と共に
葬り了《を》へて、長《なが》夜《よ》の虚洞《うつろ》より、
わが路照らす日ぞとも、わが魂は
今こそ高き叫びに醒めにたれ。
明け立ちそめし曙《しよ》光《くわう》の逆《さか》もどり
東の宮にかへれる例《ためし》なく、
一《ひと》度《たび》醒《さ》めし心の初日影、
この世の極み、眠らむ時はなし。
ああ野も山も遠《とほ》鳴《な》る海原も
百《もゝ》千《ち》の鐘をあつめて、新らしき
光の門《かど》に、ひるまぬ進《しん》軍《ぐん》の
歓《くわん》呼《こ》の調の鬨《とき》をば作れかし。
よろこび躍り我が踏む足音に
驚き立ちて、高きに磯《いそ》雲雀《ひばり》
うたふや朝の迎《むか》への愛の曲。
その曲、浪に、砂《いさご》に、香《にほひ》藻《も》に
い渡る生《せい》の光の声撒《ま》けば
わが魂はやく、白羽の鳥の如、
さまよふ楽《がく》の八《や》重《へ》垣《がき》うつくしき
曙光の空に融け行き、翅《は》をのべて、
名だたる猛《も》者《さ》が弓《ゆん》弦《づる》鳴りひびき
射出す征《そ》矢《や》もとどかぬ蒼《あを》穹《ぞら》ゆ、
青海、巷《ちまた》、高《たか》山《やま》、深《ふか》森《もり》の
わかちもあらず、皆わがいとし児《ご》の
覚《さ》めたる朝の姿と臨《のぞ》むかな。
秋風高歌《雑詩十章甲辰初秋作》
黄金向日葵
我《わ》が恋は黄金《こがね》向日葵《ひぐるま》、
曙いだす鐘にさめ、
夕の風に眠るまで、
目を趁《お》ひ光あこがれ、まろらかに
眩《まば》ゆくめぐる豊《ほう》熱《ねつ》の
彩《あや》どり饒《おほ》きこがねの花なれや。
これ夢ならば、とこしへの
さめたる夢よ、こがねひぐるま。
これ影ならば、あたたかき
瑞《みづ》雲《ぐも》まとふ照《てる》日《ひ》の生《い》ける影。
円《まろ》らかなれば、天《てん》蓋《がい》の
遮《さへぎ》りもなき光の宮の如。
まばゆければぞ、王《わう》者《じゃ》にすなる如、
百《もゝ》花《はな》、見よや芝《しば》生《ふ》にぬかづくよ。
今はた、似たり、かなたの日《にち》輪《りん》も、
わが恋の日にあこがれて
ひねもすめぐるみ空の向日葵《ひぐるま》に。
我が世界
世界の眠り、我れただひとり覚《さ》め、
立つや、草這《は》ふ夜《や》暗《あん》の丘《をか》の上。
息をひそめて横たふ大《おほ》地《つち》は
わが命《めい》に行く車《くるま》にて、
星鏤《ちりば》めし夜《や》天《てん》の浩《*かう》蕩《たう》は
わが被《かづ》きたる笠の如。
ああこの世界、或は朝風の
光とともに、再びもとの如、
我が司《つかさ》配《どり》はなるる時あらむ。
されども人よ知れかし、我が胸の
思の世界、それこの世界なる
すべてを超ゑし不《ふ》動《どう》の国なれば、
我悲しまず、また失《うしな》はず、
よしこの世界、再びもとの如、
蠢《うごめ》く人の世界となるとても。
黄の小花
夕暮野《の》路《ぢ》を辿りて、黄に咲ける
小《を》花《ばな》を摘《つ》めば、涙はせきあへず。
ああ、ああこの身この花、小《ちい》さくも、
いのちあり、また仰《あふ》ぐに光あり。
この野に咲ける、この世に捨《す》てられし、
運命《さだめ》よ、いづれ、大《おほ》慈《じ》悲《ひ》の
かくれて見えぬ恵みの業《わざ》ならぬ。
よし我、黄なる花の如、
霜にたをるる時あるも、
再び、もらす事なき天《あめ》の手《て》に
還《かへ》るをうべき幸もてり。
ああこの花の心を解《と》くあらば
我が心また解《と》きうべし。
心の花しひらきなば、
またひらくべし、見えざる園の門《かど》。
君が花
君くれなゐの花《はな》薔《さう》薇《び》、
白《しら》絹《ぎぬ》かけてつつめども、
色はほのかに透《す》きにけり。
いかにやせむとまどひつつ、
墨染衣袖かへし
掩《おほ》へどもどもいや高く
花の香りは溢れけり。
ああ秘めがたき色なれば、
頬《ほゝ》にいのちの血ぞ熱《ほて》り、
つつみかねたる香りゆゑ
瞳《ひとみ》に星の香《か》も浮きて、
佯《いつ》はりがたき恋《こひ》心《ごゝろ》、
熄《き》えぬ火《ほ》盞《ざら》の火の息に
君が花をば染めにけれ。
波は消えつつ
波は消えつつ、砕けつつ
底なき海の底より湧き出でて、
朝より真《ま》昼《ひる》、昼《ひる》より夜に朝に
不《ふ》断《だん》の叫びあげつつ、帯《をび》の如、
この島《しま》根《ね》をば纒《まと》ふなり。
ああ詩《うた》人《びと》の興《きよう》来《らい》の
波も、消えつつ、砕けつつ。
はかり知られぬ『秘密』の胸《むな》戸《ど》より、
劫《ごふ》風《ふう》ともに千古の調にして、
不滅の教宣《の》りつつ、勇ましく
人の心の岸には寄するかな。
柳
ああ君こそは、青《あを》淵《ぶち》の
流《る》転《てん》の波に影浮けて
しなやかに立つ柳《やなぎ》なれ。
流《る》転《てん》よ、さなり流転よ、それ遂に
夢ならず、また影ならず、
照る世の生《いく》日《ひ》進み行く
生命《いのち》の流れなればか、春の風
燻《くん》じて波も香にをどり、
ひと雨《あめ》毎《ごと》に梳《くしけ》づる
愛の小《を》櫛《ぐし》の色にして、
見よ今、枝の新《にひ》装《よそひ》、
青淵波もたのしげに
世は皆恋の深《ふか》緑《みどり》。
愛の路
高きに登り、眺むれば、
乾《けん》坤《こん》愛の路通ふ
青海原のはてにして、
安らかに行く白帆影。──
波は休まず、撓《たゆ》まずに
相噛《か》みくだけ、動けども、
安らかに行く白帆影。
路のせまきに、せはしげに
蠢《うご》めく人よ、来て見よや、──
花を虐《しひた》げ、景《けい》を埋《う》め、
直《すぐ》なるみちをつくるとて、
狭き小暗き愁《しう》嘆《たん》の
牢獄《ひとや》に落ちし子よ、見よや、──
大海みちはなくして、縦《じう》横《わう》の
みちこそ開け、愛の路。
落ちし木の実
秋の日はやく母《おも》屋《や》の屋根に入り、
ものさびれたる夕をただひとり
紙《し》障《さう》をあけて、庭《には》面《も》にむかふ時、
庭は風なく、落葉の音もたえて、
いと静けきに、林《りん》檎《ご》の紅《あけ》の実《み》は
かすかに落ちぬ、波なき水《みづ》潦《たまり》。
夕のあはき光は箒《はゝき》目《め》の
ただしき地《つち》に隈《くま》なくさまよひて、
猶暮れのこるみ空の心のみ
一きは明《あか》くうつせる水《みづ》潦《たまり》、
今色紅《あけ》の木《こ》の実《み》の落ち来しに
にはかに波の小《さゝ》渦《うづ》立てたれど、
やがてはもとの安息《やすらぎ》うかべつつ、
再び空の心を宿しては、
その遠《とを》蒼《あを》き光に一《いち》粒《りふ》の
りんごのあたり縁《ふち》どりぬ。
ああこの小さき木の実よ、八《や》百《ほ》千《ち》歳《とせ》、
かくこそ汝《なれ》や静かに落ちにけむ。
またもも年《とせ》の昔に、西《にし》人《びと》が
想ひに耽る庭にとおとなひて、
尊とき神の力《ちから》の一《ひと》鎖《くさり》、
かくこそ落ちて、彼《かれ》には語りけめ。
我今人のこの世のはかなさに
つらさに泣きて、運命《さだめ》の遠き路、
いづこへ、若《わか》きかよはきこのむくろ
運《はこ》ぶものと秘《ひそ》かに惑《まど》へりき。
落ちぬる汝《なれ》を眺めて、我はまた、
辛《つら》からず、はたはかなき影ならぬ
たふとき神の力の世をば知る。
汝《なれ》何故にかくまで静けきぞ、──
人はみづから運命《さだめ》に足《た》りかねて、
さびしき広みはてなき暗の野の
躓《つまづ》き、にがき悲《ひ》哀《あい》の実《み》を喰《は》むに、
何故汝のかくまで安けきぞ、──
足《た》るある如く、落ちては動かずに
心に何か深くも信頼《たよ》る如。
夜の歩みは漸く迫《せま》り来て、
羽《は》弱《よわ》か、群《むれ》に後れし夕《ゆふ》鴉《がらす》
寂《さび》ある声に友呼ぶ高《たか》啼《な》きや、
水《みの》面《も》にうきしみ空の明《あか》るみも
消えては、せまきわが庭黝《くろず》みぬ。
ああこの暗の吐息のたゞ中《なか》よ、
灯《ひ》ともす事も、我をも忘《ぼう》じては、
よみがへりくる心の光もて
か黒き土《つち》のさまなる木の実をば
打眺めつつ、静かに跼《ひざま》づく。
秘 密
花《*はな》蝋《ろふ》もゆる御《み》簾《す》の影、
琴《*こと》柱《ぢ》をおいて少女《をとめ》子《ご》の
小《を》指《ゆび》やはらにしなやかに、
絃《いと》より絃に転《てん》ずれば、
さばしり出る幻の
人《ひと》酔《よ》はしめの楽《がく》の宮、
ああこの宮を秘《ひ》め置きて
とこあらたなる琴の胸、
秘密ならずと誰か云ふ。
八《や》千《ち》年《とせ》人の手《て》に染《そ》まぬ
神の世界の大胸に
深くするどくおごそかに
我が目うつれば、ちよろづの
詩《うた》は珠《たま》なし清《し》水《みづ》なし、
光の川と溢れくる。
ああこの水の美しく、
休《やす》む事なく湧き出《づ》るを
秘密なりとは誰か知る。
あゆみ
始めなく、また終りなき
時を刻むと、柱なる
時計の針はひびき行け。
せまく、短かく、過ぎやすき
いのち刻むと、わが足《あし》は
ひねもす路を歩むかも。
枯 林
うち重《かさ》む楢《なら》の朽《くち》葉《ば》の
厚《あつ》衣《ごろも》、地《つち》は声なく、
雪さへに樹《き》々《ゞ》の北《きた》蔭《かげ》
白《しろ》銀《がね》の楯《たて》に掩へる
冬枯の丘の林に、
日をひと日、吹き荒《すさ》みたる
凩《こがらし》のたたかひ果《は》てて、
肌《はだ》寒《ざむ》の背《そびら》に迫る
日《ひ》落《お》ち時《どき》、あはき名残《なごり》の
ほころびの空の光に
明《あか》に透く幹《みき》のあひだを
羽《はね》鳴らし移りとびつつ、
けおさるる冬の沈黙《しゞま》を
破るとか、いとせはしげに、
羽《はね》強《づよ》の胸《むな》毛《げ》赤《あか》鳥《どり》
山の鳥小さき啄木鳥《きつつき》
木を啄《つゝ》く音を流しぬ。
さびしみに胸を捲《ま》かれて、
うなだれて、黄《き》葉《ば》のいく片《ひら》
猶のこる楢《なら》の木《こ》下《した》に
佇めば、人の世は皆
遠のきて、終滅《をはり》に似たる
冬の晩《くれ》、この天地に、
落ちて行く日と、かの音と、
我とのみあるにも似たり。
枝を折り、幹を撓《たわ》めて
吹き過ぎし破《は》壊《ゑ》のこがらし
あともなく、いとおごそかに、
八《や》千《ち》とせの歴《れき》史《し》の如く、
また広き墓の如くに、
しじまれる楢の林を
わが領《りよう》と、寒さも怖《を》ぢず、
気《き》負《お》ひては、音よ坎《かん》々《かん》、
冬《ふゆ》木《き》立《だ》つ幹をつつきて
しばらくも絶《たえ》間《ま》あらせず。
いと深く、かつさびれたる
その響き遠くどよみて、
山彦は山彦呼びて、
今はしも、消えにし音と
まだ残る音の経《たて》緯《ぬき》
織《を》りかはす楽《がく》の夕《ゆふ》浪《なみ》、
かすかなるふるひを帯びて、
さびしみの潮《うしほ》路《ぢ》遠く、
林こえ、枯野をこえて、
夕《ゆふ》天《ぞら》に、また夕《ゆふ》地《つち》に
くまもなく溢れわたりぬ。
われはただ気も遠《とほ》々《どほ》に、
痩《やせ》肩《がた》を楢にならべて、
骨の如、動きもえせず、
目を瞑《と》ぢて、額《ぬか》をたるれば、
かの響き、今はた我の
さびしみの底なる胸を
何者か鋭《と》きくちはしに
つつきては、霊《たま》呼びさます
世の外《ほか》の声とも覚《おぼ》ゆ。
ああ我や、詩《うた》のさびし児《ご》、
若うては心よわくて、
うたがひに、はた悲哀《かなしみ》に
かく此《こ》処《ゝ》に立ちもこそすれ。
今聞けよ、小《ちひ》さき鳥に、──
いのちなき滅《めつ》の世界に
ただひとり命《めい》に勇みて、
ひびかすは心のあとよ、
生《せい》命《めい》の高ききほひよ。
強《つよ》ぶるふ羽のうなりは
勝ちほこる彼《かれ》の凱《がい》歌《か》か、
はた或は、我をあざける
矜《たかぶ》りの笑ひの声か。
かく思ひわが頤《おとがひ》は
いや更に胸に埋《うま》りぬ。
細《ほそ》腕《うで》は枯枝なして
ちからなく膝《ひざ》辺《べ》にたれぬ。
しづかにも心の絃《いと》に
祈《いの》りする歌も添ひきぬ。
日は既《すで》に山に沈みて
たそがれの薄《うす》影《かげ》重く、
せはしげに樹《き》々《ゞ》をめぐりし
啄木鳥《きつつき》は、こ度《たび》は近く、
わが凭《よ》れる楢の老《おい》樹《き》の
幹に来て、今《け》日《ふ》のをはりを
いと高く膸《ずゐ》に刻みぬ。
壁 画
破《は》壊《ゑ》が住みける堂の中、
讃《さん》者《じや》群れにしいにしへの
さかえの色を猶とめて
壁《かべ》画《ゑ》は壁に虫ばみぬ。
おもひでこそは我胸の
かべゑなるらし。熄《き》えぬ火の
炎のかほり伝へつつ、
沈黙《しゞま》に曳《ひ》ける恋の影。
古《ふ》りぬと壁画こぼちなば、
たえぬ信《まこと》のいのちしも
何によりてか記《しる》すべき。
虫ばみぬとて思出の
糸をし断たば、如何にして、
聖《きよ》きをつなぐ天の火の
光に、かたき恋の戸に、
心の城を守るべき。
心の声《七章》
電 光
暗をつんざく雷光《いなづま》の
花よ、光よ、またたきよ、
流れて消えてあと知らず、
暗の綻《ほころ》び跡とめず。
去りしを、遠く流れしを、
束《つか》の間《ま》、──ただ瞬きの閃《ひら》めきの
はかなき影と、さなりよ、ただ『影』と
見もせば、如何に我等の此《この》生《せい》の
味《あぢ》さへほこる値《あたひ》さへ、
たのみ難なき約束《かねごと》の
空《あだ》なる無《む》なる夢ならし。
立てば、秋くる丘の上、
暗いくたびかつんざかれ、
また縫《ぬ》ひあはされて、電光《いなづま》の
花や、光の尾《を》は長く、
疾《と》く冷やかに、縦《じう》横《わう》に
西に東にきらめきぬ。
見よ、鋼色《くろがね》の空深く
光孕《はら》むか、ああ暗は
光を生《う》むか、あらずあらず。
死《し》なし、生《せい》なし、この世界、
不《ふ》滅《めつ》ぞただに流るるよ。
ああ我が頭《かうべ》おのづと垂《た》るるかな。
かの束の間の光だに
『永《と》遠《は》』の鎖《くさり》よ、無限の大《おほ》海《うみ》の
岸なき波に泳《をよ》げる『瞬時《またたき》』よ。
影の上、また夢の上に
何か建《た》つべき。来《こ》ん世の栄《はえ》と云ふ
それさへ遂にあだなるかねごとか。
ただ今我等『今』こそは、
とはの、無限の、力なる、
影にしあらぬ光と思ほへば、
散りせぬ花も、落ち行く事のなき
日も、おのづから胸ふかく
にほひ耀《かゞや》き、笑み足りて、
跡なき跡を思ふにも
随《ずゐ》喜《き》の涙手にあまり、
足行き、眼むく所、
大いなる道はろばろと
我等の前にひらくかな。
祭の夜
踊《をど》りの群《むれ》の大《おほ》なだれ、
酒に、晴《はれ》着《ぎ》に、どよめきに、
市の祭《まつり》の夜の半ば、
我は愁ひに追はれつつ、
秋の霧《きり》野《の》をあてもなく
袂も重くさまよひぬ。
歩みにつれて、迫りくる
霧はますます深く閉《と》ぢ、
霧をわけくる市《いち》人《びと》の
祭のどよみ、漸《やう》々《やう》に
とだえもすべう遠のきぬ。
やがて名もなき丘の上、
我はとまりぬ、墓《はか》石《いし》と。──
寄せては寄する霧の波、
その波の穂《ほ》と音もなく
なびく尾《を》花《ばな》は前《まへ》後《しりへ》、
我をめぐりぬ、城の如。
すべての声は消え去りて、
ここに大《だい》なる声充《み》てり。
すべての人はえも知らぬ
ここに立ちたれ、神と我。
我ひざまづき、声あげて
祈りぬ、『あはれ我が神よ、
爾《なんぢ》を祭《まつ》る市《いち》人《びと》の
舞《ぶ》楽《がく》の庭に行きはせで、
などかは、弱きこの我を
さびしき丘に待ちはせし。
語れよ、語れ、何事も
きくべきものは我のみぞ。
我は爾《なんぢ》の僕《しもべ》よ、』と。
答ふる声か、犇《ひし》々《ひし》と
(力あるかな、)深《ふか》霧《ぎり》は
二《は》十《た》重《へ》に捲《ま》きぬ、我が胸を。
暁 霧
熟睡《うまい》の床をのがれ行く
夢のわかれに身も覚《さ》さめて、
起きてあしたの戸に凭《よ》れば、
市の住《すま》居《ゐ》の秋の庭
閉《と》ぢぬる霧の犇《ひし》々《ひし》と
迫りて、胸にい捲き寄る。
ああ清らなる夢の人、
溷《*にご》る巷《ちまた》の活《くわつ》動《どう》の
塵に立つべく、今暫し、
汝《な》が生《せい》命《めい》の浄《きよ》まりの
矜《ほこ》り思へと、霧こそは
寄せて魂《たま》をし包むかな。
落葉の煙
青《あを》桐《ぎり》、楓《かへで》、朴《ほう》の木の
落《おち》葉《ば》あつめて、朝の庭、
焚《た》けば、秋行くところまで、
けむり一《ひと》条《すぢ》蕭《しやう》条《でう》と
蒼《あを》小《さゝ》渦《うづ》の柱《はしら》して、
天《あめ》のもなかを指ざしぬ。
ああほほゑみの和《やは》風《かぜ》に
揺《ゆ》りおこされし春の日や、
またあこがれの夏の日の
日《ひ》熾《ざか》る庭に、生命の
きほひの色をもやしける
栄《さかえ》や、如何に。──消えうせぬ、
過ぎぬ、ほろびぬ、夢のあと。
今ただ冷ゆる灰《はい》のこし、
のぼる煙も、見よやがて、
地《つち》をはなれて、消えて行く。──
これよろこびのうたかたの
消ゆる嘆きか、悲しみか。
さあれど、然《さ》れど、人よ今
しばし涙を抑《をさ》へつつ、
思はずや、この一《ひと》条《すぢ》の
きゆる煙のあとの跡。
春ありき、また夏ありき。──
その新《にひ》心《ごゝ》地《ち》、深《ふか》緑《みどり》、
再び、永遠《とは》にここには訪ひ来《こ》ぬや。
よし来《こ》ずもあれ。さもあらば、
この葉を萠《も》やし、光を、生命を
あたへし力《ちから》、ああ其『力』、また、
今この消ゆる煙ともろともに
消えて、ほろびて、あとなきか。
見ゆるものこそ消えもすれ、
見えざる光、いづこにか
消ゆべき、いかに隠るべき。
さらば、ただこの枯葉さへ、
薄《うす》煙《けむり》さへ、消えさりて、
却《かへ》りて見えぬ、大いなる
高き力ともろともに、
渾《すべ》ての絶えぬ生命の
奥の光《くわう》被《ひ》に融《と》けて入る
不朽のいのち持たざるか。
人よ、にはかに『然《さ》なり』とは
答ふる勿れ。されどかく
思ふて、今し消えて行く
けむり見るだに、うす暗き
涙の谷《たに》に落とすべく、
われらのいのちあまりに尊ときを
値多きを感ぜずや。
古瓶子
うてば坎《かん》々《かん》音《*》さぶる
素《す》焼《やき》の、あはれ、煤《すゝ》びし古《ふる》瓶《へい》子《じ》、
注《つ》げや、滓《をり》まで、いざともに
冬の夜《よ》寒《ざむ》を笑はなむ。
今《こ》宵《よひ》雪降る。世の罪の
かさむが如く、暇《ひま》なく雪は降《ふ》る。
破《は》庵《あん》戸もなき我なれば、
妻なり、子なり、ああ汝《なんぢ》。
わらへよ、村《そん》酒《しゆ》一《いつ》酔《すゐ》は
寒さも貧《ひん》もをかさぬ我が宮ぞ。
去れ、去れ、涙、かなしみよ、
笑ふによろし古《ふる》瓶《へい》子《じ》。
世の罪つちに重《かさ》む如、
ふりぬ、つもりぬ、荒野の夜の雪。
雪は座《ざ》にまで舞《ま》ひ入りて
燭《しよく》台《だい》のともし尽《つ》きなんず。
酒早やなきか、それもよし、
灰となりぬる、寒《かん》炉《ろ》の薪《まき》も、早や。
よし、よし、さらば古瓶子、
汝《なれ》を枕に世《せ》外《ぐわい》の夢を見む。
救済の綱
わづらはしき世の暗の路に、
ああ我れ、久《く》遠《をん》の恋もえなく、
狂ふにあまりに小さき身ゆゑ、
ただ『死』の海にか、とこしへなる
安慰よ、真《ま》珠《たま》と光らむとて、
渦《うづ》巻《ま》く黒《くろ》潮《しほ》下《した》に見つつ、
飛《と》ばむの刹《せつ》那《な》を、犇《ひし》と許《ばか》り、
我をば搦《から》めて巌《いは》に据《す》ゑし
ああその力《ちから》よ、信《しん》のみ手の
救済《すくひ》の綱《つな》とは、今ぞ知りぬ。
あさがほ
ああ百《ひやく》年《ねん》の長《ちやう》命《めい》も
暗の牢舎《ひとや》に何かせむ。
醒《さ》めて光明《ひかり》に生《い》くるべく、
むしろ一《ひと》日《ひ》の栄《はえ》願《ねが》ふ。
寝《ね》がての夜のわづらひに
昏《ほ》耗《ほ》けて立てる朝の門《かど》、
(これも慈《じ》光《くわう》のほほゑみよ、)
朝顔を見て我は泣く。
傘のぬし
柳《やなぎ》の門《かど》にただずめば、
胸の奥より擣《つ》くに似る
鐘がさそひし細《ほそ》雨《あめ》に
ぬれて、淋《さび》しき秋の暮、
絹《きぬ》むらさきの深《ふか》張《ばり》の
小《を》傘《がさ》を斜《はす》に、君は来ぬ。
もとより夢のさまよひの
心やさしき君なれば、
あゆみはゆるき駒《こま》下《げ》駄《た》の、
その音に胸はきざまれて、
うつむきとづる眼には
仄《ほの》むらさきの靄《もや》わせぬ。
袖やふるると、をののぎの
もろ手を置ける胸の上、
言葉も落ちず、手もふれず、
歩みはゆるき駒下駄の
その音に知れば、君過ぎぬ。
ああ人もなき村《むら》路《みち》に
かへり見もせぬ傘《かさ》の主《ぬし》、
心いためて見送れば、
むらさきの靄やうやうに
あせて、新《にひ》月《づき》野にいづる
空のうるみも目に添ひつ、
柳の雫《しづく》ひややかに
冷えし我が頬に落ちにける。
落 櫛
磯《*いそ》回《は》の夕ゆふのさまよひに
砂に落ちたる牡《か》蠣《き》の殻《から》
拾《ひろ》うて聞けば、紅《くれなゐ》の
帆かけていにし曾《そ》保《ぼ》船《ふね》の
ふるき便《たより》もこもるとふ
青《あを》潮《うみ》遠きみむなみの
海の鳴る音もひびくとか。
古《ふる》城《き》の庭に松《まつ》笠《かさ》の
土をはらふて耳にせば、
もも年《とせ》過ぎしその昔《かみ》の
朱《あけ》の欄《おばしま》めぐらせる
殿の夜深き御《み》簾《す》の中、
千《ち》鳥《どり》縫《ぬ》ひたる匂ひ衣《ぎぬ》、
行燈《あんどう》の灯《ひ》にうちかけて、
胸の秘《ひめ》恋《ごひ》泣く姫が
七《しち》尺《しやく》落つる秋《あき》髪《がみ》の
慄《ふる》ひを吹きし松の風
かすけき声にわたるとか。
ああさは君が玉の胸、
青《あを》潮《じほ》遠き南《みむなみ》の
海にもあらず、ももとせの
古き夢にもあらなくに、
などかは、高き彼《かの》岸《きし》の
うかがひ難き園の如、
消《せう》息《そこ》もなきふた年《とせ》を
靄のかなたに秘めたるや。
君夕毎にさまよへる
ここの桜の下蔭に、
今宵おぼろ夜十六夜《いざよひ》の
月にひかれて来て見れば、
なよびやかなる弱《よわ》肩《がた》に
こぼれて匂ひ添へにけむ
落《おち》葩《はなびら》よ、地に布《し》きて、
夢の如くもほの白き
中にかがやく波の形《かた》、──
黄金の蒔《まき》絵《ゑ》あざやかに
ああこれ君が落《おち》櫛《ぐし》よ。
わななきごころ目を瞑《と》ぢて、
ひろうて耳にあてぬれど、
君が海なる花《はな》潮《じほ》の
響きもきかず、黒髪の
見せぬゆらぎに秘め玉ふ
み心さへもえも知れね。
まどひて胸にかき抱き
泣けば、百《もゝ》の歯《は》皆生《い》きて、
何をうらみの蛇《くちなは》や、
ああふたとせのわびしらに
なさけの火《ほ》盞《ざら》もえもえて
痩《や》せにし胸を捲《ま》きしむる、
泉
森の葉を蒸《む》す夏《なつ》照《で》りの
かがやく路のさまよひや、
つかれて入りし楡《にれ》の木の
下蔭に、ああ瑞《みづ》々《みづ》し、
百《もゝ》葉《は》を青《あを》の御《*み》統《すまる》と
垂《た》れて、浮けたる夢の波、
真清水透《とほ》る小泉よ。
いのちの水の一《ひと》掬《むすび》、
いざやと下《お》りて、深《ふか》山《やま》の
小《こ》〓《じか》の如く、勇みつつ、
もろ手をのべてうかがへば、
しら藻《も》は髪にかざさねど
水神《みづち》か、いかに、笑《ゑま》はしの
ゆたにたゆたにものの影、
紫《むらさき》三《*み》稜《く》草《り》花《はな》ちさき
水《みの》面《も》に匂ふ若《わか》眉《まゆ》や、
玉《たま》頬《ほ》や、瑠《る》璃《り》のまなざしや。
ああ一《ひと》雫《しづく》掬《すく》はねど、
口《くち》は無花果《いちじく》香もあまき
露にうるほひ、涼しさは
胸の奥まで吹きみちぬ。
夢と思ふに、夢ならぬ
さと云ふ音におどろきて
眼《まなこ》あぐれば、夢か、また、
木《こ》の間《ま》まぼろし鮮《あざ》やかに
垂《たり》葉《は》わけつつ駈《か》けて行く。──
さは黒髪のさゆらぎに
小《を》肩《がた》なよびの少女《をとめ》子《ご》よ。──
ああ常《とこ》夏《なつ》のまぼろしよ、
など足《あし》早《ばや》に過ぎ玉ふ。
にほふ緑の涼《すゞ》影《かげ》に
暫しの安《やす》寝《い》守らせて、
(しばしか、夢の永《えい》劫《ごふ》よ。)
われ夢《ゆめ》守《もり》とゆるせかし。
目さめて仄《ほの》に笑《ゑ》ます時、
もろ手は玉の〓《*ゆする》坏《つき》、
この真清水を御《み》〓水《ゆする》に
手《て》づから君にまゐらせむ。
ああをとめごよ、幻よ、
はららの袖や愛の旗《はた》、
などさは疾《はや》き足《あし》どりに、
天《あめ》の鳥《と》船《ぶね》のかくろひに、
緑《みどり》の中に消えたまふ。
めしひの少女
『日は照るや 。』声は青《あを》空《ぞら》
白《しら》鶴《つる》の遠きかが啼き、──
ひむがしの海をのぞめる
高《たか》殿《どの》の玉の階《きざはし》
白《しら》石《いし》の柱に凭《よ》りて、
かく問《と》ひぬ、盲目《めしひ》の少女《をとめ》。
答《こた》ふらく、白《しろ》銀《がね》づくり
うつくしき兜《かぶと》をぬぎて
ひざまづく若《わか》き武夫《もののふ》、
『さなり。日は今浪はなれ、
あざやかの光の蜒《うね》り、
丘を超《こ》え、夏の野をこえ、
今君よ、君が恁《よ》ります
白《しら》石《いし》の円《まろ》き柱の
上《うへ》半《なか》ば、なびくみ髪《ぐし》の
あたりまで黄金《こがね》に照りぬ。
やがて、その玉のみ面《おも》に
かゞやきの夏のくちづけ、
又やがて、薔《ば》薇《ら》の苑《その》生《ふ》の
石《いし》彫《ぼり》の姿に似たる
み腰《こし》にか、い照り絡《から》みて、
あまりぬる黄金の波は
我が面《おも》に名残《なごり》を寄せむ。』
手をあげて、めしひの少女、
円《まろ》柱《ばしら》そと撫《さす》りつつ、
さて云ひぬ、 『げに、あたたかや 。』
また云ひぬ、 『海に帆《ほ》ありや。
大《おほ》空《そら》に雲の浮ぶや。』
武夫《もののふ》はつと立ちあがり、
答ふらく、力《ちから》ある声、
『ああさなり。海に帆の影、──
いづれそも、遠く隔《へだ》てて、
君と我がなからひの如、
相思ふとつくに人《びと》の
文《ふみ》使《づかひ》乗《の》する船なれ、
紅《くれなゐ》の帆をばあげたり。──
大《おほ》空《ぞら》に雲はうかばず、
今日《けふ》もまた、熱《あつ》き一《いち》日《にち》。──
君とこそ薔《ば》薇《ら》の下《した》蔭《かげ》
いと甘き風に酔《ゑ》ふべき
天《あめ》地《つち》の幸福《さいはひ》者《もの》の
我にかも厚《あつ》き恵《めぐ》みや、
大《おほ》日《ひ》影《かげ》かくも照るらし。』
少女《をとめ》云ふ、 『ああさはあれど、
君はただ見ゆるこそ見め。
この胸の燃ゆる日《にち》輪《りん》、
いのちをも焼《や》きほろぼすと
ひた燃えに燃ゆる日輪、
み眼《め》あれば、見ゆるを見れば、
えこそ見め、この日《にち》輪《りん》を。』
武《もの》夫《のふ》はいらへもせずに、
寄り添ひて強《つよ》き呟《つぶ》やき、
『君もまた、えこそ見め、我が
双《さう》眸《ぼう》の中にかくるる
たましひの、君にと燃ゆる
みち足《た》らふ日のかがやきを。』
かく云ひて、少女を抱き、
たましひをそのたましひに、
唇《くちびる》をその唇《くちびる》に、
(生《いき》死《しに》のこの酔《ゑひ》心《ごゝ》地《ち》)
もえもゆる恋の口吻《くちづけ》。──
口吻《くちづけ》ぞ、ああげに二人《ふたり》、
この地《つち》に恋するものの、
胸ふかき見えぬ日《にち》輪《りん》
相見ては、心休むる
唯《たゞ》一《いち》の瞳《ひとみ》なりけれ。──
日はすでに高《たか》にのぼりて、
かき抱く二人、かゞやく
白《しろ》銀《がね》の兜《かぶと》、はたまた、
白《しら》石《いし》の円《まろ》き柱や、
また、白き玉の階《きざはし》、
おほまかに、なべての上に
黄金なす光さし添へ、
高《たか》殿《どの》も恋の高《たか》殿《どの》、
天《あめ》地《つち》も恋の天《あめ》地《つち》、
勝《か》ちほこる胸の歓《くわ》喜《んき》は
光なす凱歌《かちどき》なれば、
丘をこえ、青野をこえて、
ひむがしの海の上まで
まろらかに溢《あふ》れわたりぬ。
来し方よ、破《やれ》歌《うた》車《ぐるま》
綱《つな》かけて、息《いき》もたづたづ、
過ぎにしか、こごしき坂を
あたらしきいのちの花の
大苑の春を見むとて。
《この集のをはりに》
あこがれ 畢
『あこがれ』以後
古 苑
夜の風吹くよ、和《やは》らや、
この古《ふる》苑《ぞの》、
若葉の木の間に、沈み心地、
夜の手に曳かれて、われ今。
旅の身なにか知らむや、
ただあこがれ、
春行く方をぞたづねわびの
さまよひ、今宵はこの苑《その》。
荒れたり、これや、 (知らねど)
古きかたみ、
白《しら》石《いし》くづれし榻《*とこ》のかたへ、
半らは枯れたる桜《さくら》樹《ぎ》。
見よ、見よ、照るは三日月、
老さくらの──
残んのあはれや、──一《ひと》重《へ》花《ばな》に、
若《わか》眉《まゆ》さびしのほのめき。
白《しら》石《いし》小《を》榻《どこ》くづれて、
長《なが》ももとせ、
人こそ凭らざれ、おもひいでの
涙か、花散るけはひよ。
いでいで、夢よ、今こそ、
花降る夜半、
さめきてうたへや、ふるき歌を、──
ここにし逢ひけむ二人《ふたり》の。
(恋皆、花も、なべての
うるはしきは、
市にか葬《はふ》られ、春も去《い》にて、
古《ふる》苑《ぞの》、──月さへ沈みぬ。)
(あまき口《くち》吻《づけ》、清らの
あこがれ、はた
かくこそ荒《すさ》むや 。)──若き我は
涙もさめざめ。鐘鳴る。
夜の風ほのか。 (この身の
とはの栖家《すみか》
ありや 。)と思ふに、夢に啼くか、
いにしへなつかし、鶯。
旅の身、春を追ひ来て、
この古《ふる》苑《ぞの》、
若《わか》胸《むね》、おもわに、一《ひと》重《え》花《ばな》の
口《くち》吻《づけ》しげきをただ泣く。
卯月の夜半
眠れる人は覚めてこそ
まことの暗《やみ》を知るべけれ。
覚めたる人は眠にぞ
まことの光したしまむ。
卯月の夜半の花の窓、
夢の樹蔭に身は覚めて、
(ねむりか、あらず、永《えい》劫《ごふ》の
ゆめの中なる覚め心地 、)
天《あめ》地《つち》つつむ花の香の
うるほひ深き影の世や、
さめてさめざる一《いつ》瞬《しゆん》に
光と暗を忘れける。
よみがへれ
『よみがへれ、今、よみがへれ、
魂よ、悲《ひ》哀《あい》の甕《かめ》を破《わ》り、
脱《ぬ》けて、木の間幻《まぼろし》の
花の心によみがへれ 。」
声はさくらの苑《その》に充ち、
花《はな》光《びか》りする風の羽《は》の
照りのまにまにただよへり。
夢の虚《うつろ》の残《なき》骸《がら》に、
ささがに小さき哀《かな》しみの
瞳《め》にこそ似たる魂さめて、
(覚《さ》めよ、生命《いのち》の苦痛《くるしみ》の)
ほそき呻《うめ》きに嘆ずらく、
『ああ今日《けふ》もまた日は照るや、
また世に花は咲きぬるや、
かくて永《えい》劫《ごふ》、永劫の
輪《りん》廻《ね》の路の岩蔭に
落ちて朽ち行く破《やれ》甕《がめ》の
涙の滓《おり》に身を涵す
この苦しみのさいなみを
のがれむ暗の世はあらじ。
ああかくてまた永《えい》劫《ごふ》の
かはらぬ光照る日見て
わが哀しみは新たなり 。」
琴を弾け
沈《ぢん》の香《か》のそよろぎに
わが魂《たま》はあくがれぬ。
二人《ふたり》居《ゐ》の初《はつ》夏《なつ》や、
はしけやし、黒《くろ》髪《かみ》よ、
琴を弾《ひ》け、沈《ぢん》の香に。
たをやかにうつむくか、
沈の香はゆらぐなり。
手《て》ふれでは鳴るものか、
我が胸も君ふれて
鳴りにしを、──琴を弾け。
水《み》無《な》月《づき》の青《あを》日《ひ》射《ざし》、
庭の樹きのみづみづし。
青《あを》梅《うめ》は庭《にわ》石《いし》に、
君が手は夏の譜《ふ》に、──
花あやめかぎろひぬ。
歌ひくき爪《つま》弾《びき》や、
沈の香はそよろぎぬ。
はしけやし、黒髪も
そよろぎぬ。風ありて
一《いつ》室《しつ》は薫《くん》じたり。
仏頭光
仏頭光
ここは生命《いのち》の森か、さは
秀樹《ほつぎ》の枝の葉の色も
神の息《いき》をや染めぬらむ。
幾《いく》時《とき》や経《へ》し、幾《いく》日《ひ》経《へ》し、
幻《まぼろし》心《ごゝろ》放浪《さまよ》ひて、
ふとしもここに入りにたる。
見れば年《とし》古《ふ》る樹《き》々《ぎ》は、皆、
ふるき記《き》憶《おく》の底に居て
呼び出で難き名の如く、
なつかしくして、稚《をさ》なき日
過ぎしことある故《ふる》郷《さと》の
古《こ》道《だう》に似ても、目は走る。
鳥はいのちの葉の蔭に
妙《めう》音《おん》の譜《ふ》をかなでたり。
黒《くろ》ずむまでに光る葉は、
ホメロスが世の曙に
吹きしままなる光《ひかり》翅《ば》の
風に久《く》遠《をん》をはためきぬ。
森を横ぎる川ありて、
過ぎ行く我の影をのせ、
涯《はて》をもしらに流れ行く。
こは朝なりや、夕なりや、
はた二《に》の世《よ》にや。──我はただ、
我が足《あし》にこそ歩《あゆ》みたる。
勇み深《ふか》入《い》る足音に
くちなは、這《は》へる羽《は》根《ね》虫《むし》も
樹の根の穴《あな》に隠れたり。
ふとしも見れば『永《えい》劫《ごふ》の
わかれ』を刻む石《いし》碑《ぶみ》に、
ここは追《おい》分《わけ》──森の辻《つじ》。
一つの道は、黒《くろ》鉄《かね》の
舗《しき》板《いた》錆《さ》びて、憂《いう》愁《しう》の
足《あし》痕《あと》深く、灰《はひ》白《じろ》き
平《へい》和《わ》の郷《さと》の墓《はか》の戸に
導《みちび》き入れり。──人の性《さが》、
これに迷へる子もありや。
我は、ためらふこともなく
光《くわう》明《みやう》道《だう》をとりにしか。
垂《たり》枝《え》を見れば、るゐるゐと
愛の木《こ》の実《み》よ、かがやかに、
紅《あか》き林《りん》檎《ご》と香《か》も熟《う》みて、
枝に満ちぬる黄金《こがね》色《いろ》。
疲《つか》れを知らぬこの旅《たび》の
幾時や経し、幾日経し、
猶しも行けば、葉隠りに
ものの声あり、──覗《うかが》へば
神のやうなる幾《いく》人《たり》の
人の声して我招《まね》く。
光明道にいのち趁《お》ひ、
先《さき》立《だ》ちて来し人ならむ。
『黄金《こがね》木《こ》の実《み》の滴《したゞ》りの
これは不《ふ》老《らう》の泉ぞ』と
指《ゆび》ざす葉蔭ふと見れば、
常《とこ》春《はる》の香よ、波に鳴る。
諸《もろ》手《で》に掬《く》めば、水の面、
こはそもいかに、若《わか》がへり、
花がへりたる我が影の
瞳に星はかがやけり。
また指ざされ、手を翳《かざ》し、
ふりさげ見やる西の空。──
空の半《なか》ばを金《こん》色《じき》の
仏《ぶつ》頭《とう》光《くわう》ぞ、つつみたる。
眩《まば》ゆさ、──あはれ、光明の
海の返《へん》照《ぜう》、──尊《たふ》とさに、
これ荘《さう》厳《ごん》の随一と
帰《き》依《え》の掌《たな》底《ぞこ》あはせぬる。
落 日
爛々と火の如き日は海に落ちむとす。
大空はおしなべて黄《わう》金《ごん》の光なり、
海《うな》原《ばら》も黄《わう》金《ごん》の焔にぞ燬《や》かれたる。
巌《いはほ》噛《か》み、沙を呑み、戦ひの詩を刻む
荒《あら》磯《いそ》の沙《すな》丘《をか》に立ちつくし、涙垂《た》る。
落つる日は我を、また、我は日を凝視《みつめ》たり。
落つる日は何ぞまた明日《あす》の日の暁を
思はむや。ひたすらに、かくて見よ権《けん》威《ゐ》なり、
終《しゆ》焉《うえん》の悲《ひ》劇《げき》をば荘厳《おごそか》にくりかへす。
一《いち》日《にち》の短きも弛《ゆる》みなきかがやきに
永《えい》遠《ゑん》に動かざる一日と成れりけり。
落つる日は何ぞまた明日の日を思はむや。
劫《ごふ》初《しよ》より九億《おく》日《にち》『今《いま》』こそは権威なれ。
最後《いやはて》のひと時も、生《いき》々《いき》とかがやきて
落つる日の雄《を》力《ちから》は『永《えい》遠《ゑん》』を則《のつと》れり。
荒《あら》獅《じ》子《し》を射んとせば、稲《いな》光《びか》る目をぞ、先づ、
十《と》束《つか》矢《や》に貫《ぬ》けよかし。『今』こそは、永遠の
瞳《ひとみ》なれ。閃《せん》々《せん》と前に落ち後《あと》に去る。
いやはてのひと時も、かがやけば、空の涯《はて》、
海の底、黄《わう》金《ごん》に照り入れり。こを思《も》へば、
人間は小なりき。時にまた、大なりき。
涙のみいと熱《あつ》く垂《た》ると見て、目あぐれば、
日は既に落ち去《さ》んぬ。──我も亦人《ひと》なりき。──
日は暮れぬ、さはあれど、眠《ねむ》るべき暇《ひま》もなし。
東 京
かくやくの夏の日は、今
子《し》午《ご》線《せん》の上にかかれり。
煙《えん》突《とつ》の鉄《てつ》の林《はやし》や、けむり皆、煤《すゝ》黒《ぐろ》き手に、
何をかも握《つか》むとすらむ、ただ直《ひた》に天《あめ》をぞさせる。
百《もゝ》千《ち》網《あみ》巷《ちまた》々《ちまた》に、空《から》車《ぐるま》行く音だもなく、
今、見よ、都《みやこ》大《おほ》路《じ》に、大《おほ》真《ま》夏《なつ》光動かぬ
寂《じやく》寞《まく》よ、霜夜の如く、百《ひやく》万《まん》の心を圧《お》せり。
千よろづの甍《いらか》、今日《けふ》こそ、音《ね》を立てず打《うち》鎮《しづ》まりぬ。
紙《かみ》の片《きれ》白き千《ち》ひらを蒔《ま》きて行く通《とほり》魔《ま》ありと、
家《いへ》々《いえ》の門《かど》や、又〓《まど》、黒《くろ》布《ぬの》に皆閉《と》ざされぬ。
百《もゝ》千《ち》網《あみ》都大路に人の影、暁《あか》星《ぼし》の如、
三人《みたり》のみ。かくて、骨《ほね》泣《な》く寂《じやく》滅《めつ》の死《し》の都《みやこ》、見よ。
かくやくの夏の日は、今
子《し》午《ご》線《せん》の上にかかれり。
何方《いづかた》ゆ流れ来ぬるや、黒《くろ》星《ぼし》よ、真《ま》北《きた》の空に
飛ぶを見ぬ。やがて、大《おほ》路《ぢ》の北の涯《はて》、天《てん》路《ろ》にそそる
層《そう》楼《ろう》の屋根にとまれり。唖《あ》々《ゝ》として一《ひと》声《こゑ》、──これよ、
凶《まが》鳥《どり》の不《ふ》浄《じやう》の烏《からす》。──骨あさる鳥《とり》なり、はたや、
死の空にさまよひ叫ぶ怨《ゑん》恨《こん》の毒《どく》嘴《はし》の鳥《とり》。
鳥啼きぬ、二《ふた》度《たび》、──如何に、その声の猶をはらぬに、
何方《いづかた》ゆ現《あら》はれ来しや、幾《いく》丈《じやう》の白《しら》髪《が》かきたれ、
童《どう》顔《がん》の翁《をきな》なり。手に雪《ゆき》光《びか》り剣《つるぎ》を捧《ささ》げ、
黒《くろ》長《なが》裳《も》静かに曳《ひ》くや、寂《じやく》寞《まく》の戸《と》に反響《こだま》して
沓《くつ》の音《おと》全《ぜん》都《と》にひびき、ただ一人《ひとり》大《おほ》路《じ》を練《ね》れり。
有《あ》りとある磁《じ》石《しやく》の針《はり》は
子《し》午《ご》線《せん》の真《ま》中《なか》を指させり。
啄木鳥に
(ひと日珍らしく我が庭に来て、我の見てあるをも恐れず、十尺ともへだてぬ老梅の幹を啄きけるに 。)
鳥よ、などここには来しや。
囚人《めしうど》のいぶきにまみれ
光なき葉《は》萎《な》えの樹々に
巣くひぬる罪のけら虫。
いかに、汝《な》がつよきくちばし
終日《ひねもす》を啄《つゝ》き暮らすも、
喰《は》みつくすすべあるべしや。
斧《おの》入《い》らず、太古の民《たみ》の
足《あし》跡《あと》よ猶新《あら》たなる、
白《しら》雲《くも》と落日《いりひ》の山の
八《や》千《ち》歳《とせ》を天《あめ》のみ射《さ》せる
いのちの樹、その髄《ずゐ》にしも
汝《な》が糧《かて》はさはにあるらむ。
鳥よ、などここには来しや。
ここはこれ、秋の柱の
つめたきにうちぞ凭《よ》りつつ、
仄《ほの》に照る入《いり》相《あひ》の日の
温《あたゝ》みに泣くにたらへる
さびし児《ご》の愁ひの宿り、──
夢にのみ心の華《はな》の
まどかなる匂ひ吸ふなる
罪の郷《さと》──羨《うらや》まし汝《なれ》、
鳥よ、などここには来《こ》しや。
公孫樹
秋《あき》風《かぜ》死ぬる夕べの
入《いり》日《ひ》の映《はえ》のひと時《とき》、
ものみな息をひそめて、
さびしさ深く流るる。
心の潤《うる》み切《せち》なき
ひと時、あはれ、仰《あふ》ぐは
黄金《こがね》の秋の雲をし
まとへる丘の公孫樹《いてふじゆ》。
光栄《さかえ》の色よ、などさは
深くも黙《もだ》し立てるや。
さながら、遠き昔の
聖《ひじり》の墓とばかりに。
ましろき鴿《はと》のひと群《むれ》
天《あめ》の羽《は》羽《ば》矢《や》を降《お》り来《き》て、
黄金《こがね》の雲に入りぬる。──
これ、はた、何に似るらむ。
樹《こ》の下《もと》馬を曳《ひ》く子は
戯《たは》れに小《ち》さき足もて
幹をし踏みぬ。ああ、これ
はた、また、何とたとへむ。
ましろき鴿《はと》のひと群《むれ》
羽ばたき飛びぬ。黄金《こがね》の
雲の葉、あはれ、法《ほふ》恵《ゑ》の
雨とし散りぞみだるる。
今、日ぞ落つれ、夜《よ》は来れ。
真《ま》夜《よ》中《なか》時雨《しぐれ》また来め。──
公孫樹《いてふ》よ、明日《あす》の裸《はだか》身《み》、
我《われ》はた何に儔《たぐ》へむ。
鹿角の国を憶ふ歌
青《あを》垣《がき》山《やま》を繞《めぐ》らせる
天さかる鹿《か》角《づの》の国をしのぶれば、
涙し流る。──今も猶、錦《にしき》木《き》塚《づか》の
大《おほ》公孫樹《いてふ》、月良《よ》き夜《よる》は夜な夜なに、
夏も黄金《こがね》の葉と変り、代《よ》代《よ》に伝へて、
あたらしき恋の譚《はなし》の梭《をさ》の音《ね》の、
風吹きくれば吹きゆけば、枝ゆ静かに、
月の光の白《しら》糸《いと》の細《ほそ》布《ぬの》をこそ織ると聞け。
十《と》和《わ》田《だ》の嶽《たけ》の古《ふる》沢《さは》の
鬼栖《す》める峡《かひ》のふかみに、古《いにしへ》ゆ
こもれる雲の滴《したたり》の、足あとつかぬ
岩《いは》苔《ごけ》の緑を吸ひて流れ来《こ》し
渓《たに》川《かは》崖《がけ》路《ぢ》、さを鹿の妻《つま》恋《ご》ひ啼《な》くに、
人怖《お》ぢぬ鹿《か》角《づの》の国をしのぶれば、
涙し流る。──その昔、代《よ》代《よ》に朽《くち》せぬ
碑《いしふみ》や、はた白《しら》石《いし》の廻《わた》廊《どの》や、
玉《たま》垣《がき》、壁《かべ》画《ゑ》、銅《どう》の獅《し》子《し》、また物語、
のこさねど、日《にち》月《ぐわつ》星《せい》を生む如く、
人の国なるきらら星──芸術《たくみ》の燭《しよく》の
生《うみ》の親《おや》「愛」こそ、先《まづ》は、若《わく》児《ご》等《ら》の
相《さう》思《し》の花に映《て》り出でて、花の印《しるし》や、
錦木も色をぞ添へし真《ま》盛《さか》りに、
鹿笛《くだ》吹きならす猟《さつ》夫《を》らが弓の弦《つる》緒《を》の
鳴《なり》の音《ね》も、枝に列《なら》べる彩《あや》雉《き》子《じ》の
番《つがひ》と見れば、鳴らざりしその昔、
しのぶれば涙し流る。
神の使《つかひ》の羽《はね》かろき
蜻蛉《あきつ》子《こ》が告《つげ》の泉の寿《ことぶき》に
流《ながれ》はつきぬ米《よね》白《しろ》の水にうるほふ
高《たか》艸《くさ》の鹿《か》角《づの》の国をしのぶれば、
涙し流る。──その川に斎《いは》ひの心の
肌《はだ》浄《きよ》め、朝な夕なにみがかれて、
みめも清《すず》しく色白の鹿《か》角《づの》少女《をとめ》が、
夕づとめ、──肩に真《ま》白《しろ》き雲纒《まと》ふ
逆《さか》矛《ほこ》杉《すぎ》の神《かみ》寂《さ》びし根にむら繁る
大《たい》木《ぼく》の中《なか》は神住む古《ふる》御《み》堂《だう》、
壁の墨《すみ》絵《ゑ》の大《おほ》牛《うし》も浮きてし見ゆる
日暮れ時、樹《こ》がくれ沈む秋の日の
黄に曳《ひ》く摺《すり》裳《も》みだれ這《は》ふ石《いし》階《きだ》ふみて、
静《しづ》静《しづ》と御《み》供《く》の神《かむ》米《よね》ささげつつ、
伏目にのぼる麻《あさ》衣《ぎぬ》が、藁《わら》束《つかね》せし
黒髪に神《かみ》代《よ》の水の香《か》こそすれ。
かへしの足の小《こ》走《ばしり》に、杉の陰《かげ》路《ぢ》を
すたすたと、露にぬれたる真《ま》素《す》足《あし》に
行《ゆき》こそ通へ──はららかす袖に葉《は》洩《もれ》の
日を染めて神の使の蜻蛉《あきつ》が
いのちの水の源《みなもと》を告げに来《こ》し日を
さながらに、──青《あを》駒《ごま》飼《か》へる背《せ》が門《かど》へ。
その敬虔《つつまし》さ、美しさ、米《よね》白《しろ》川と
もろともに流《ながれ》たえせぬ風《ふう》流《りう》の
錦《にしき》木《ぎ》立てし若《わく》児《ご》等《ら》が色にも出づる
心《こころ》映《ばえ》──神代のままを目《ま》のあたり
見ると思へば涙し流る。
水無月
砂山は長くつづきて、水《み》無《な》月《づき》の
日は照りかへり、砂は蒸す。
海《かい》草《さう》の香はいと強く
流れぬ。あはれ。日に酔《ゑ》ひて
啼《な》くなる鳥の磯《いそ》雲雀《ひばり》、
歌はも高し。
大空に雲は浮ばず。大《おほ》牧《まき》の
青の広みの夏の草
日に臥《ふ》すさまや、浪《なみ》なげる
海のかなたに、白《はく》羊《やう》の
群《むれ》とし見ゆる心《うら》安《やす》の
帆《ほ》こそは遊べ。
ふみゆけば、蹠《あうら》に砂の心地よし。
身は飄泊《さすらひ》のただ一人《ひとり》、
渚《なぎさ》に寄せて花と咲き、
くだけてかへる浪の音に
思ひぬ、遠きふるさとの
母のなぎさ辺《べ》。
砂ひかる渡《を》島《しま》の国の離《はなれ》磯《そ》や、
我は小《を》貝《がひ》を、我が母は
若布《わかめ》ひろふとつれ立ちし
浜《はま》茄《な》子《す》かをる緑《りよく》叢《さう》に
朝風すなる若き日の
あはれ水《み》無《な》月《づき》。
蟹 に
潮《しほ》満ちくれば穴に入り、
潮《しほ》落ちゆけば這《は》ひいでて、
ひねもす横にあゆむなる
東の海の砂浜の
かしこき蟹《かに》よ、今此処を
運命《さだめ》の浪にさらはれて
心の龕《*づし》の燈《とう》明《みやう》の
汝《なれ》が眼《め》よりも小《ささ》やかに
滅《き》えみ明るみすなる子の、
行方《ゆくへ》も知らに、草臥《くたび》れて
辿《たど》りゆくとは、知るや、知らずや。
馬車の中
花咲かず、雨の降る日の
街《まち》をゆく馬車の中なる
年若き我は旅《たび》人《びと》。
わが泣くをとがめ給ふな。
函館の少女《をとめ》子《ご》ご達《たち》よ、
煙草《たばこ》吹く年寄達よ、
情《なさけ》ある乗《のり》合《あひ》人《びと》よ、
わが泣くをとがめ給ふな。
そそけたる髪に霜おき、
皺《しわ》ふかく面《おも》痩《や》せはてし
貧しげの媼《おうな》の君ぞ
わが側《そば》に座《すわ》りたまへる。
よく見れば、さにもあらねど、
その鼻よ、ああ、故《ふる》郷《さと》に
ただ一人《ひとり》居《ゐ》給《たま》ふ母に
いと似たり。縞《しま》目《め》もわかず
褪《あ》せし衣《きぬ》、そもまた似たり。
袖《そで》口《ぐち》のきれしも似たり。
など、かく、と、そは我知らず、
見れば、ただ涙し流る。
年若き我は旅《たび》人《びと》、
わが泣くをとがめ給ふな、
情けある乗《のり》合《あひ》人《びと》よ。
燕
しとしとと降る春《はる》雨《さめ》に、
しつぽり濡《ぬ》れた瑠《る》璃《り》色《いろ》の
春《はる》燕《つばくらめ》しよんがいな、
去年《こぞ》の古《ふる》巣《す》をたづね来て
此《こ》家《ち》の軒《のき》端《ば》に子を生んだ、
それも昨日《きのふ》と思ふたに、
今日《けふ》は初《はつ》秋《あき》雨《あめ》がふる、
つめたい雨に濡れ濡れて
秋《あき》燕《つばくらめ》、しよんがいな
親《おや》鳥《とり》子《こ》鳥《とり》むつましく
南の空へ飛んで去《い》ぬ
さびしいものだよ独身者《ひとりみ》は。
恋
板《いた》硝子《がらす》つめたき窓をうつ雨の
糸仄《ほの》白《じろ》く、灯《ひ》は淡く、夜《よ》ぞふけて行《ゆ》け。
病《やみ》心《ごゝろ》寝返りうてば、くろずめる
赭《そほ》土《に》の壁の床の間にああ芍《しやく》薬《やく》の
一《いち》輪《りん》よ、貴《あで》にうつむく。──凄《すさ》まじき
煙の海の色に似る壁の中《なか》より
抜《ぬけ》出《いで》し白《しら》斑《ふ》の淡紅《とき》ぞ仄《ほの》に燃ゆ。──
寝《ね》らえぬ心つぶ立ちて、君をこそ思へ。
凄《すさ》まじくか黒《くろ》き海の人の生《よ》の
前に立つなる我《わが》魂《たま》の労《つか》れたる目に
ふと浮きし君は芍《しやく》薬《やく》。──名も知らず
我《われ》こそ醒《さ》めて夢むなれ。──ああ花萎《しぼ》む。
明日《あす》は来《こ》め、君も行《ゆ》くらむ、かくてまた
古《こ》銅《どう》の瓶《かめ》に何の花咲《ゑ》むとするらむ。
雪の夜
音なくともる燈《ともし》火《び》の
光ほのかに筆凍《こほ》る
師走《しはす》なかばの夜《よ》はふけて
戸外《とのも》は雪のつもるらむ
あゝかゝる夜《よ》を故《ふる》郷《さと》の
愛《めぐ》し少女《をとめ》は榾《ほだ》焚《た》いて
〓《きぬた》の響きゆるやかに
旅ゆく人を思ふらむ
はた又《また》山《やま》路《ぢ》ゆきなやむ
札《ふだ》所《しよ》まはりの巡《じゆん》礼《れい》は
小《を》笠《がさ》につもる雪重み
面《おも》影《かげ》の子や忍《しの》ぶらむ
窓うち開《あ》けて眺《なが》むれば
巷《ちまた》々《ちまた》の路白《みちしろ》み
人《ひと》影《かげ》もなき大《おほ》逵《どほり》
軒《けん》燈《どう》の灯《ひ》ぞ幽《かす》かなる
此《こ》処《こ》にさまよふ犬の子の
姿ぞあはれ蹣《*まん》珊《さん》と
さながら似たりたよりなき
人の心のわびしさに
白い鳥、血の海
変《へん》な夢《ゆめ》を見《み》た。──
大《おほ》きい、大《おほ》きい、真《まつ》黒《くろ》な船《ふね》に、美《うつく》しい人《ひと》と唯《たゞ》二人《ふたり》乗《の》つて、太《たい》洋《やう》に出《で》た。
その人《ひと》は私《わたし》を見《み》ると始《し》終《じゆう》俯《うつむ》いて許《ばか》りゐて、一《ひと》言《こと》も口《くち》を利《き》かなかつたので、喜《よろこ》んでるのか、悲《かなし》んでるのか、私《わたし》には解《わか》らなかつた。夢《ゆめ》の中《なか》では、長《なが》い間《あひだ》思《おも》ひ合《あ》つてゐた人《ひと》に相《さう》違《ゐ》なかつたが、覚《さ》めてみると、誰《たれ》だか解《わか》らない。誰《たれ》やらに似《に》た横《よこ》顔《がほ》はまだ頭脳《あたま》の中《なか》に残《のこ》つてるやうだけれど、さて其《その》誰《たれ》やらが誰《たれ》だか薩《さつ》張《ぱり》当《あて》がつかない。
富《ふ》士《じ》山《さん》が見《み》えなくなつてから、随《ずゐ》分《ぶん》長《なが》いこと船《ふね》は太《たい》洋《やう》の上《うへ》を何処《どこ》かに向《むか》つてゐた。それが何《なん》日《にち》だか何《なん》十日《にち》だか矢《や》張《はり》解《わか》らない。或《あるい》は何《なん》百《びやく》日《にち》何《なん》千《ぜん》日《にち》の間《あひだ》だつたかも知《し》れない。
其《その》、誰《たれ》とも知《し》れぬ恋《こひ》人《びと》は、毎日《まいにち》々《まい》々《にち》、朝《あさ》から晩《ばん》まで、燃《も》ゆる様《やう》な紅《くれなゐ》の衣《ころも》を着《き》て、船《せん》首《しゆ》に立《た》つて船《ふね》の行《ゆく》手《て》を眺《なが》めてゐた。
それは其《その》人《ひと》が己《おのれ》の意志《いし》でやつた事《こと》か、私《わたし》が命《めい》令《れい》してやらした事《こと》か明瞭《はつきり》しない。
或《ある》日《ひ》のこと。
高《たか》い、高《たか》い、真《まつ》黒《くろ》な檣《ほばしら》の真《ま》上《うへ》に、金《きん》色《いろ》の太《たい》陽《やう》が照《て》つてゐて、海《うみ》──蒼《あを》い、蒼《あを》い海《うみ》は、見《み》ゆる限《かぎ》り、漣《さゞなみ》一《ひと》つ起《た》たず、油《あぶら》を流《なが》した様《やう》に静《しづ》かであつた。
船《ふね》の行《ゆく》手《て》に、拳《こぶし》程《ほど》の白《しろ》い雲《くも》が湧《わ》いたと思《おも》ふと、見《み》る間《ま》にそれが空《そら》一面《めん》に拡《ひろが》つて、金《きん》色《いろ》の太《たい》陽《やう》を掩《かく》して了《しま》つた。──よく見《み》ると、それは雲《くも》ぢやなかつた。
鳥《とり》である。白《しろ》い、白《しろ》い、幾《いく》億《おく》万《まん》羽《ば》と数《かず》知《し》れぬ鳥《とり》である。
海《うみ》には漣《さゞなみ》一《ひと》つ起《た》たぬのに、空《そら》には、幾《いく》億《おく》万《まん》羽《ば》の白《しろ》い鳥《とり》が一様《やう》に羽《は》搏《ゞたき》をするので、それが妙《めう》な凄《すさま》じい響《ひゞ》きになつて聞《きこ》える。
恋《こひ》人《びと》は平生《いつも》の如《ごと》く船首《せんしゆ》に立《た》つて紅《くれなゐ》の衣《ころも》を着《き》てゐたが、私は船尾《とも》にゐて恋《こひ》人《びと》の後《うしろ》姿《すがた》を瞶《みまも》つてゐた。
凄《すさま》じい羽《は》搏《ゞたき》の響《ひゞ》きが、急《きふ》に高《たか》くなつたと思ふと、空《そら》一《いち》面《めん》の鳥《とり》が、段《だん》々《だん》舞《まひ》下《さが》つて来《き》た。
高《たか》い、高《たか》い、真《まつ》黒《くろ》な檣《ほばしら》の上部《うへ》が、半《はん》分《ぶん》許《ばか》りも群《むら》がる鳥《とり》に隠《かく》れて見《み》えなくなつた。
と、其《その》鳥《とり》どもが、一羽《は》、一羽《は》、交《かは》る交るに下《お》りて来《き》て、恋《こひ》人《びと》の手の掌《ひら》に接《せつ》吻《ぷん》してゆく。肩《かた》の高《たか》さに伸《の》ばした其《その》手《て》には、燦《さん》爛《らん》として輝《かがや》くものが載《の》つてゐた。よく見《み》ると、それは私《わたし》が贈《おく》つた黄《わう》金《ごん》の指《ゆび》環《わ》である。
鳥《とり》は普《た》通《ゞ》の白《しろ》い鳥《とり》であるけれども、一度《ど》其《その》その指《ゆび》環《わ》に接吻《せっぷん》して行《い》つたのだけは、もう普《た》通《ゞ》の鳥《とり》ではなくて、白《しろ》い羽《はね》の生《は》えた人《ひと》の顔《かほ》になつてゐた。
程《ほど》なくして、空《そら》中《ぢゆう》の鳥《とり》が皆《みな》人《ひと》の顔《かほ》になつて了《しま》つた。と、最《さい》後《ご》に、やや大《おほ》きい鳥《とり》が舞《まひ》下《お》りて来《き》て恋《こひ》人《びと》の手《て》に近《ちかづ》いたと見《み》ると、紅《くれなゐ》の衣《ころも》を着《き》た恋《こひ》人《びと》が、一《ひと》声《こゑ》けたたましく叫《さけ》んで後《うしろ》に倒《たふ》れた。
黄《わう》金《ごん》の指《ゆび》環《わ》を啣《くは》えた鳥《とり》は、大《おほ》きい輪《わ》を描《ゑが》いて檣《ほばしら》の周匝《まはり》を飛《と》んだ。怎《どう》したのか、此《この》鳥《とり》だけは人《ひと》の顔《かほ》にならずに。
私《わたし》は、帆《ほ》綱《づな》に懸《か》けておいた弓《ゆみ》を取とるより早《はや》く、白《しろ》銀《がね》の鏑《かぶら》矢《や》を兵《ひやう》と許《ばか》りに射《い》た。
矢《や》は見《み》ン事《ごと》鳥《とり》を貫《つらぬ》いた。
鳥《とり》の腹《はら》は颯《さつ》と血《ち》に染《そ》まつた。
と、其《その》鳥《とり》は石《いし》の落《お》つる如《ごと》く、私《わたし》を目《め》がけて落《お》ちて来《き》た。私《わたし》はひらりと身《み》を翻《かは》して、剣《つるぎ》の束《つか》に手《て》をかけると、鳥《とり》は船尾《とも》の直《す》ぐ後《うしろ》の海《かい》中《ちゆう》に落《お》ちた。
白《しろ》銀《がね》の矢《や》に貫《つらぬ》かれた白《はく》鳥《てう》の屍《しかばね》! 其《その》周匝《あたり》の水《みづ》が血《ち》の色《いろ》に染《そ》まつたと見《み》ると、それが瞬《またゝ》くうちに大《おほ》きい輪《わ》になつて、涯《はて》なき太《たい》洋《やう》が忽《たちま》ちに一面《めん》の血《けつ》紅《こう》の海《うみ》!
唯《たゞ》一《いつ》点《てん》の白《はく》は痛《いた》ましげなる鳥《とり》の屍《しかばね》である。と思《おも》つた次《つぎ》の瞬《しゆん》間《かん》には、それは既《すで》に鳥《とり》の屍《しかばね》でなくて、燃《も》ゆる様《やう》な紅《くれなゐ》の衣《ころも》を海《うみ》一面《めん》に拡《ひろ》げた、恋《こひ》人《びと》の顔《かほ》であつた。
船《ふね》が駛《はし》る、駛《はし》る。矢《や》の如《ごと》く駛《はし》る。海《かい》中《ちゆう》の顔《かほ》は瞬《しゆん》一《いつ》瞬《しゆん》に後《あと》に遠《とほ》ざかる。……
空《そら》には数《かず》知《し》れぬ人《ひと》の顔《かほ》の、羽《は》搏《ゞたき》の響《ひゞ》きと、帛《きぬ》裂《さ》く如《ごと》く異《い》様《やう》な泣《なき》声《ごゑ》。……
火星の芝居
『何《なに》か面《おも》白《しろ》い事《こと》はないか?』
『俺《おれ》は昨夜《ゆうべ》火《くわ》星《せい》に行《い》つて来《き》た。』
『さうかえ。』
『真個《ほんと》に行《い》つて来《き》たよ。』
『面《おも》白《しろ》いものでもあつたか?』
『芝《しば》居《ゐ》を見《み》たんだ。』
『さうか。日《につ》本《ぽん》なら「冥《めい》途《ど》の飛《ひ》脚《きやく》」だが、火《くわ》星《せい》ぢや「天《てん》上《じやう》の飛《ひ》脚《きやく》」でも演《や》るんだらう?』
『其麼《そんな》ケチなもんぢやない。第《だい》一劇《げき》場《ぢやう》からして違《ちが》ふよ。』
『一里《り》四方《はう》もあるのか?』
『莫《ば》迦《か》な事《こと》を言《い》へ。先《ま》づ青《あを》空《ぞら》を十里《り》四方《はう》位《ぐらゐ》の大《おほき》さに截《き》つて、それを圧《あつ》搾《さく》して石《いし》にするんだ。石《いし》よりも堅《かた》くて青《あを》くて透《すき》徹《とほ》るよ。』
『それが何《なん》だい?』
『それを積《つみ》み重《かさ》ねて、高《たか》い、高《たか》い、無《む》際《さい》限《げん》に高《たか》い壁《かべ》を築《きづ》き上《あ》げたもんだ、然《しか》も二列《れつ》にだ、壁《かべ》と壁《かべ》との間《あひだ》が唯《たゞ》五間《けん》位《ぐらゐ》しかないが、無《む》際《さい》限《げん》に高《たか》いので、仰《あふ》ぐと空《そら》が一本《ぽん》の銀《ぎん》の糸《いと》の様《やう》に見《み》える。』
『五間《けん》の舞《ぶ》台《たい》で芝《しば》居《ゐ》がやれるのか?』
『マア聞《き》き給《たま》へ。其《その》青《あを》い壁《かべ》が何処《どこ》まで続《つゞ》いてゐるのか解《わか》らない。万《ばん》里《り》の長《ちやう》城《じやう》を二《ふた》重《へ》にして、青《あを》く塗《ぬ》つた様《やう》なもんだね。』
『何《ど》処《こ》で芝《しば》居《ゐ》を演《や》るんだ?』
『芝《しば》居《ゐ》はまだだよ。その壁《かべ》が詰《つま》り花《はな》道《みち》なんだ。』
『もう沢《たく》山《さん》だ。止《よ》せよ。』
『その花《はな》道《みち》を、俳優《やくしや》が先《ま》づ看《くわん》客《かく》を引《いん》率《そつ》して行《ゆ》くのだ。火《くわ》星《せい》ぢや君《きみ》、俳優《やくしや》が国《こく》王《わう》よりも権《けん》力《りよく》があつて、芝《しば》居《ゐ》が初《はじ》まると国《こく》民《みん》が一人《ひとり》残《のこ》らず見《けん》物《ぶつ》しなけやならん憲《けん》法《ぱふ》があるのだから、それはそれは非《ひ》常《じやう》な大《おほ》入《いり》だよ。其麼《そんな》大《おほ》仕《じ》懸《かけ》な芝《しば》居《ゐ》だから、準《じゆん》備《び》に許《ばか》りも十ケ月《げつ》はかかるさうだ。』
『お産《さん》をすると同《おんな》じだね。』
『其《その》俳優《やくしや》といふのが又《また》素《す》的《てき》だ。火《くわ》星《せい》せいの人《にん》間《げん》は、一《いつ》体《たい》僕《ぼく》等《ら》より足《あし》が小《ちひさ》くて胸《むね》が高《たか》くて、そして頭《あたま》が無《む》暗《やみ》に大《おほ》きいんだが、其《その》中《うち》でも最《もつと》も足《あし》が小《ちひさ》くて最《もつと》も胸《むね》が高《たか》くて、最《もつと》も頭《あたま》の大《おほ》きい奴《やつ》が第《だい》一流《りう》の俳優《やくしや》になる。だから君《きみ》、火《くわ》星《せい》のアアビングや団《だん》十《じふ》郎《らう》は、ニコライの会《くわい》堂《だう》の円《まる》天《てん》蓋《じやう》よりも大《おほ》きい位《くらゐ》な烏《ゑ》帽《ばう》子《し》を冠《かぶ》つてるよ。』
『驚《おどろ》いた。』
『驚《おどろ》くだらう?』
『君《きみ》の法《ほ》螺《ら》にさ。』
『法《ほ》螺《ら》ぢやない、真実《ほんと》の事《こと》だ。少《すくな》くとも夢《ゆめ》の中《なか》の事《じ》実《じつ》だ。それで君《きみ》、ニコライの会《くわい》堂《だう》の屋《や》根《ね》を冠《かぶ》つた俳優《やくしや》が、何《なん》十億《おく》の看《くわん》客《かく》を導《みちび》いて花《はな》道《みち》から案《あん》内《ない》して行《ゆ》くんだ。』
『花《はな》道《みち》から看《くわん》客《かく》を案《あん》内《ない》するのか?』
『さうだ。其《そ》処《こ》が地《ち》球《きう》と違《ちが》つてるね。』
『其《そ》処《こ》ばかりぢやない。』
『怎《どう》せ違《ちが》つてるさ。それでね、僕《ぼく》も看《くわん》客《かく》の一人《にん》になつて其《その》花《はな》道《みち》を行《い》つたとし給《たま》へ。そして、並《なら》んで歩《ある》いてる人《ひと》から望《ばう》遠《ゑん》鏡《きやう》を借《か》りて前《まへ》の方《はう》を見《み》たんだがね、二十里《り》も前《まへ》の方《はう》にニコライの屋《や》根《ね》の尖端《あたま》が三《み》つ許《ばか》り見《み》えたよ。』
『アッハハハ 。』
『行《い》つても、行《い》つても、青《あを》い壁《かべ》だ。行《い》つても、行《い》つても、青《あを》い壁《かべ》だ。何処《どこ》まで行《い》つても青《あを》い壁《かべ》だ。君《きみ》、何処《どこ》まで行《い》つたつて矢《やつ》張《ぱり》青《あを》い壁《かべ》だよ。』
『舞《ぶ》台《たい》を見《み》ないうちに夜《よ》が明《あ》けるだらう?』
『それどころぢやない、花《はな》道《みち》ばかりで何《なん》年《ねん》とか費《かゝ》るさうだ。』
『好《い》い加《か》減《げん》にして幕《まく》をあけ給《たま》へ。』
『だつて君《きみ》、何処《どこ》まで行《い》つても矢《や》張《はり》青《あを》い壁《かべ》なんだ。』
『戯言《じようだん》ぢやないぜ。』
『戯言《じようだん》だんぢやない。さ、そのうちに目《め》が覚《さ》めたから夢《ゆめ》も覚《さ》めて了《しま》つたんだ。ハッハハ。』
『酷《ひど》い男《をとこ》だ、君《きみ》は。』
『だつて然《さ》うぢやないか。さう何《なん》年《ねん》も続《つゞ》けて夢《ゆめ》を見《み》てゐた日《ひ》にや、火《くわ》星《せい》の芝《しば》居《ゐ》ゐが初《はじ》まらぬうちに、俺《おれ》の方《はう》が腹《はら》を減《へ》らして目《め》出《で》度《たく》大《だい》団《だん》円《ゑん》になるぢやないか、俺《おれ》だつて青《あを》い壁《かべ》の涯《はて》まで見《み》たかつたんだが、そのうちに目《め》が覚《さ》めたから夢《ゆめ》も覚《さ》さめたんだ。』
黒き箱
ふるさとの港を出でて
七日経ぬ。水や空なる
目《め》路《ぢ》の涯《はて》、ただひろびろと、
一すぢの煙だになし。
矢の如く船は走れり。
舷《ふなばた》の白き潮《しほ》〓《なわ》
その中に浮きつ沈みつ
ただよへる黒き箱見ゆ。
その中に何か入りたる。
唇《くち》紅《あか》く黒髪長き
生《なま》首《くび》か。読む人もなき
文《も》字《じ》書ける尊き経《きやう》か。
はた、空《むな》し虚《うつろ》か。知らず。
漂ひて、浮きつ沈みつ、
破れざるかの黒き箱。
おそろしきかの黒き箱。
老 人
ひえわたる小暗き隅に
開かざる小き房《へや》あり。
骨立ちて眼《まなこ》凹《くぼ》みし
老《おい》人《びと》ぞ一人坐《すわ》れる。
昏《こん》々《こん》と、あはれ、日も夜も
身《み》動《じろ》がず、半ば眠れり。
慵《ものう》きは、朝な夕なの
濁りたる低き咳《しは》嗽《ぶき》。
時ありて、何かつぶつぶ
呟やきつ、寒き笑ひを
頬にうかべ、かりり、かりりと
一《ひと》片《ひら》の骨を噛むなり。
あさましく、かりり、かりりと、
あはれ、そはすでに幾年
わが胸に死にて横ふ
初恋の人の白《され》骨《ぼね》。
時ありて、わななく指を
折りふせて何か数へぬ。
或時は我にそむける
友《とも》人《びと》を。また或時は、
温かき手とり別れし
なつかしき人の思出。
はた、一人のがれ出でにし
故《ふる》郷《さと》の遠き路《みち》程《のり》。
時ありて、我に言ふらく、
『何かある、大空を見よ 。』
われ答ふ、 『何ものもなし 。』
『げにさなり、虚《むな》し。』と笑ふ。
白 骨
はてもなき夏草の野を、
一すぢの白き埃《ほこり》の
幅ひろき路ぞ、西より
東へと直《ひた》に横ぎる。
路のべに、あはれ、立ちたる
一もとの名なき大《たい》木《ぼく》。
ひろげたる繁《しげ》葉《は》の枝は
さながらに青き傘《からかさ》。
とある年、とある夏の日、
遥《はる》かなる西の方より
辿り来し異《こと》国《くに》人《びと》の
旅の隊《たい》三百ばかり。
先《せん》達《だち》ぞ先づ杖すてて
大木の下に憩《いこ》へば、
老いたるも若きも共に、
少女子は髪かきあげて、
病ある馬上の人も、
みななべてここに憩ひぬ。
くわと照れる夏の日ざかり、
ここのみは繁れる葉より
雫《しづく》して、たゆることなき
涼《すず》風《かぜ》ぞ幹《みき》をめぐれる。
さればかの旅の人々
いつとなく深く眠りぬ。
あなあはれ、あなあはれ、
旅人は今も見るらむ、
はてもなき夏草の野の
大木の下《もと》に眠れる
三百の白き骨ども。
おどろき
『秋《あき》立《た》ちぬ。』かくいひて我《わ》が友《とも》は
たはけたる恋《こひ》がたりする口《くち》を
堅《かた》く噤《つぐ》みつ。
『秋《あき》立《た》ちぬ。』かくいひて我《わ》が妻《つま》は
今日《けふ》もまた忙《せは》しげに忠《まめ》だちて
衣《きぬ》を濯《すす》ぎぬ。
『秋《あき》立《た》ちぬ。』かくいひて我《わ》が子《こ》等《ら》は
勇《いさ》みつつ口《くち》笛《ぶえ》をふきつれて
学《まなび》舎《や》に行《ゆ》く
我《われ》一人《ひとり》野《の》に出《い》でつ。野《の》はひろし、
空《そら》高《たか》し。かなしきは秋《あき》なれや、
老《おい》のおどろき。
(無 題)
夏の日の遠き旅路に、
一列び石の小家のつづきたる駅路すぎて
路傍の名知らぬ広き草の根に
ふとも見出でし泉なる水を掬ひて、
わが頬には涙流れき
故里の石の古井を、
其処に咲く葵の花を。
はたや又そこに集へる少女らの若き言葉を
ゆくりなくげにゆくりなく思出で涙流れき。
そは昔。──あはれ今日また
我頬には涙流れつ、
悲しくも一人打凭る
入相の日の色寒き我が窓の
その前をものはかなげにうつむきて一人過ぎゆく
うら若き少女の眉をゆくりなく
ふと見てわれは
(無 題)
屋根又屋根、眼界のとゞく限りを
すき間もなく埋めた屋根!
円い屋根、高い屋根、おしつぶされたやうな屋根、
おしつぶされつして、或ものは地にしがみつき、
或は空にぬき出ようとしてゐる屋根!
その上に忠実な教師の目のやうに、
秋の光がほかほかと照りわたつてゐる。
とらへやうもない、
然し乍ら魂の礎石までゆるがすやうな
あゝ、あの都会のとゞろき……
初めてこの都会に来て此景色を眺め
この物音をきいた時、
弱い田舎者の心はおびえた──
広さ、にではない、高さ、にではない、又、
其処にいとなまるゝ文明の尊さにでもない、
あのはかりがたい物音の底の底の──
都会の底のふかさに。
今また此処に来て此景色を眺め
そしてこの物音をきいて、
よわい、新らしい都会の帰化人の心はおびえる──
獅子かひが獅子の眠りに見入つた時の心もて、──
あのとらへがたき物音の底の底の──
入れども入れどもはかりがたき
都会の底のふかさに。
すべての生徒の欲望をひとしなみにみる
忠実なる我が教師よ、
そなたはそなたの欲望と生徒の欲望をも
またひとしなみに見るか?
花は精液の香をはなちて散り、
人は精力の汗を流して死ぬ。
それらは花と人との欲望のすべてか。
教師よ、そなたの愛は、
雨とふり日とそゝぐそなたの愛は、
人の……
見よ、数へきれぬ煙突!
その下には死なうとする努力と死ぬまいとする欲望と……
あゝあの騒然たる物音!
人間は住居の上に屋根を作つた。
その上に日が照る。
屋根は人間の最上の智慧!!
又反抗、又運命である。
そして
その上に日が照る。
あゝ、我は帰らうか? はた帰るまいか?
あの屋根! 眼界のとゞく限りを
すき間もなく埋めたる屋根の下へ。
夏の街
焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌条の色
ゐねむる母の膝をすべりおりて
三つばかりの肥つた男の児が
チヨロチヨロと電車線路へあるいてゆく──
八百屋の店には萎えた野菜
病院の窓のまどかけは垂れて動かず、
とざゝれた幼稚園の鉄の門の下には、
耳長き白犬が寝そべり、
どことなく木の葉も罌粟もしをれゆき、
生木の棺に裂罅の入る夏の空気のなやましさ。
病身の氷屋の女房が岡持を持ち、
やぶれた蝙蝠傘をさしかけてかどを出れば、
横町の角の下宿の門をくりだせるせまい路次から声もなく
さびしげな脚《かつ》気《け》患者の葬りの列。
それをみて辻の巡査は出かゝつた欠伸《あくび》かみしめ、
白犬は思ふさまのびをする。
焼けつくやうな夏の日の下に、
おびえてぎらつく軌条の色。
ゐねむる母親の膝をすべりおりて、
三つばかりの肥つた男の児が
チヨコチヨコと電車線路へあるいてゆく。
(無 題)
○
赤! 赤!
赤といふ色のあるために
どれだけこの世が賑《にぎ》やかだらう。
花、女、旗、
それから、血!
沙漠に落つる日
海に浮ぶ戦さの跡の波、
○
「あゝ、こんなに悲しい事がまたとあらうか!」
何もせずにぼんやりしてゐた時、
ふとこんな事を言つてみた、
強い言葉で。
そして記憶の中の悲しい心地を
よび起して見ようとした
欠伸!
やゝあつてまた、 「死なうか」と
思つてみた。 「死ぬ外に途がない 。」と。
静けさ!
心々の隅々谷には
何の反響もない。
何か聞えさうなものだと
耳をすまして
心の状《さま》を窺つてゐると、ふと
あの女のことが浮ぶ。
「行かう。さうだ 、」と直ぐ身仕度をした。
「嘘のつきあひをしに 。」
○
物を言へといふのか?
笑へといふのか?
よし、よし、俺は知つてゐる──
恋は媚のとりやりだ
悲しい女!
少し待つてくれ、少し。
ほんの少しの間。
今一寸、一寸笑へなくなつた。
俺には悪いくせがある。
白き顔
雲灰いろにちぎれ飛び、
枝を鳴らしてごうと吹く十月末の西の風、
幾百本の桜《さくら》樹《ぎ》の葉は一《ひと》時《とき》に乱れ散る。
そは葉の雨の彼方《かなた》より
彼方《かなた》へ、──あはれ唯《ただ》一《ひと》目《め》
ちらと此方《こなた》に顔むけて、
いと足早に過ぎゆきし少女《をとめ》子《ご》ありき。
晩《おそ》秋《あき》の上野の森の四《よ》年《とせ》前、
人影もなき暮方の
落葉の雨の木《こ》隠《がく》れに、
ああ、唯《ただ》一《ひと》目《め》、白き顔。
泣くよりも
その人に、夢の中にて
いつの年、いつの夜としもわかなくに
我は逢ひにき。
今は早や死にてやあらむ。
したたかに黒き油の鬢《びん》にぬり、
病みて死ぬ白き兎の毛の如も
厚き白粉、
血の色の紅《べに》をふくみて、
その人は、少女に交り、みだらなる
歌の数数、晴れやかに三味かきならし、
火の如つよく舌をやく酒を呷《あふ》りぬ、
水の如。
居ならぶは二十歳《はたち》許《ばか》りの
酒のまぬ男らなりき。
『何故に、さは歌ふや 。』と我問ひぬ、
夢の中にて。
その人は答へにけらく、
酔ひしれし赤き笑ひに、
『泣くよりも 。』
嫂
いと長き旅より、我は
なつかしき故家《いへ》にかへりぬ。
その夕、わが嫂《あによめ》は
子《こ》らつどへ、頭《かしら》撫《な》でつつ、聞かせにき、
馬の話を。
さて曰《いは》く、『君何《なに》故《ゆゑ》に
八年の長き間をおのが家《や》に帰らざりしや。
何《なに》故《ゆゑ》に旅に行きしや。』
面《おも》染《そ》めて我は答へぬ、『その昔、
君はせざりき、馬の話を 。』
心の姿の研究(一)
夏の街の恐怖
焼けつくやうな夏の日の下《した》に
おびえてぎらつく軌条《れーる》の心。
母親の居《ゐ》睡《ねむ》りの膝《ひざ》から辷《すべ》り下《お》りて
肥《ふと》つた三歳《みつ》ばかりの男の児が
ちよこちよこと電車線路へ歩いて行《ゆ》く。
八《や》百《ほ》屋《や》の店には萎えた野菜。
病院の窓の窓掛は垂れて動かず。
閉された幼稚園の鉄の門の下《した》には
耳の長い白《しろ》犬《いぬ》が寝そべり、
すべて、限りもない明るさの中《なか》に
どこともなく、芥《け》子《し》の花が死《しに》落《お》ち
生《なま》木《き》の棺《くわん》に裂《ひ》罅《ゞ》の入《い》る夏の空気のなやましさ。
病身の氷屋の女房が岡《をか》持《もち》を持ち、
骨折れた蝙《かう》蝠《もり》傘《がさ》をさしかけて門《かど》を出《いづ》れば、
横町の下宿から出て進み来る、
夏の恐怖に物も言はぬ脚《かつ》気《け》患《くわん》者《じや》の葬りの列。
それを見て辻《つじ》の巡査は出かゝつた欠伸《あくび》噛みしめ、
白《しろ》犬《いぬ》は思ふさまのびをして
塵《ごみ》溜《ため》の蔭《かげ》に行《ゆ》く。
焼けつくやうな夏の日の下《した》に、
おびえてぎらつく軌条《れーる》の心。
母親の居《ゐ》睡《ねむ》りの膝から辷《すべ》り下《お》りて
肥《ふと》つた三《み》歳《つ》ばかりの男の児が
ちよこちよこと電車線路へ歩いて行《ゆ》ゆく。
心の姿の研究(二)
起きるな
西《にし》日《び》をうけて熱くなつた
埃《ほこり》だらけの窓の硝子《がらす》よりも
まだ味《あぢ》気《き》ない生命《いのち》がある。
正体もなく考へに疲れきつて、
汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる
まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
硝子《がらす》越《ご》しの夏の日が毛《け》脛《ずね》を照し、
その上に蚤《のみ》が這《は》ひあがる。
起きるな、起きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの来るまで。
何処《どこ》かで艶《なまめ》いた女の笑ひ声。
心の姿の研究(三)
事ありげな春の夕暮
遠い国には戦《いくさ》があり……
海には難破船の上の酒《さか》宴《もり》……
質屋の店には蒼《あを》ざめた女が立ち、
燈光《あかり》にそむいてはなをかむ。
其《そ》処《こ》を出て来れば、路《ろ》次《じ》の口に
情夫《まぶ》の背を打つ背低い女──
うす暗がりに財《さい》布《ふ》を出す。
何か事ありげな──
春の夕暮の町を圧する
重く淀《よど》んだ空気の不安。
仕事の手につかぬ一日が暮れて、
何に疲れたとも知れぬ疲《つかれ》がある。
遠い国には沢《たく》山《さん》の人が死に……
また政庁に推《おし》寄《よ》せる女《をんな》壮《さう》士《し》のさけび声……
海には信天翁《あはうどり》の疫《えき》病《びやう》……
あ、大《だい》工《く》の家《いへ》では洋燈《らんぷ》が落ち、
大《だい》工《く》の妻が跳《と》び上《あが》る
心の姿の研究(四)
柳の葉
電車の窓から入つて来て、
膝《ひざ》にとまつた柳《やなぎ》の葉──
此《こ》処《ゝ》にも凋《てう》落《らく》がある。
然《しか》り。この女も
定まつた路《みち》を歩いて来たのだ──
旅《たび》鞄《かばん》を膝《ひざ》に載せて、
やつれた、悲しげな、しかし艶《なまめ》かしい、
居《ゐ》睡《ねむり》を初める隣席《となり》の女。
お前はこれから如処《どこ》へ行《ゆ》く?
騎馬の巡査
絶《たえ》間《ま》なく動いてゐる須《す》田《だ》町《ちやう》の人《ひと》込《ごみ》の中《なか》に、
絶《たえ》間《ま》なく目《め》を配《くば》つて、立《た》つてゐる騎《き》馬《ば》の巡査──
見すぼらしい銅像のやうな──。
白《はく》痴《ち》の小《こ》僧《ぞう》は馬の腹をすばしこく潜《くぐ》りぬけ、
荷を積み重ねた赤い自動車が
その鼻先を行《ゆ》く。
数ある往《ゆき》来《き》の人の中《なか》には
子供の手を曳《ひ》いた巡査の妻もあり
実家《さと》へ金借りに行《い》つた帰り途《みち》、
ふと此《こ》の馬上の人を見上げて、
おのが夫《をつと》の勤労《つとめ》を思ふ。
あ、犬が電車に轢《ひ》かれた──
ぞろぞろと人が集る。
巡査も馬を進める……
詩六章
一、路傍の草花に
何といふ名か知らないが、
細い茎《くき》に粟《あは》粒《つぶ》のやうな花をもつた
黄いろい草花よ、
路《ろ》傍《ばう》の草花よ。
──何だか見覚えがある。
銀のやうな秋《あき》風《かぜ》が吹いて、
黄いろな花が散つてゐる。
あゝ、さうだつけ。──
中学校の片隅の
あの黒《くろ》壁《かべ》の図《と》書《しよ》庫《ぐら》の蔭に隠れて、
憎まれ者の私《わたし》が、
濡らした頬《ほゝ》もぬぐはずに
ぢつと見たのもお前だつたが──
長い長い前のことだ。
あの眇目《めつかち》の意《い》地《ぢ》悪《わる》は、
破れ靴《ぐつ》を穿《は》いた級長は、
しよつちゆう眼鏡を懸《か》けたり脱《はづ》したりし乍《なが》ら、
よく私《わたし》と喧《けん》嘩《くわ》した蒼《あを》白《じろ》い英語教師は、
今はみな何《ど》うなつてゐるやら。
銀のやうな秋《あき》風《かぜ》が吹いて、
粟《あは》粒《つぶ》のやうな黄いろい花が
ほろほろと散つてゐる。
二、口 笛
少年の口笛の気がるさよ、
なつかしさよ。
青《あを》塗《ぬり》の自動車の走《は》せ過ぎたあとの
石油のにほひに噎《む》せて、
とある町角に面《おもて》を背《そむ》けた時、
私《わたし》を振《ふり》回《かへ》つて行つた
金ボタンの外《ぐわい》套《たう》の
少年の口笛の気がるさよ、
なつかしさよ。
三、手 紙
「もう十年も逢《あ》はないが、
君はやつぱり昔どほり
元気が盛んだらう 。」と
その手紙に書いてあつた。──
湯にでも這《は》入《い》らうかと
それ一つを望みに、
ぐつたり疲れて帰つた時、
机の上に載つてゐた
昔の友の手紙に。
四、花かんざし
上野公園の前の広場の
花《はな》見《み》時《どき》の人ごみの中を──
華《はな》やかなパラソルの波の中を、
無《む》雑《ざう》作《さ》におし分けながら、
大きな青《あを》風《ぶ》呂《ろ》敷《しき》の包みを肩にして、
帽子もかぶらずに、
のそりのそりと歩いて行つた丈《せい》の高い男よ。
あの、人を莫《ば》迦《か》にしたやうな髯《ひげ》面《づら》が
今でも目に見える。──
擦《す》り切れた黒《くろ》羅《ら》紗《しや》の背広の
がんじやうな肩《かた》付《つき》も、
大きな青《あを》風《ぶ》呂《ろ》敷《しき》の包みも、
さうだ、それから、あの
(私《わたし》はそれが悲しいのだが)
左の胸の衣嚢《かくし》に挿《さ》した
紅《あか》い花かんざしも。
五、あゝほんとに
夜《よ》店《みせ》で買つて来た南天の鉢《はち》に、
水をやらずに置いたら、
間もなく枯れてしまつた。
棄てようと思つて、
鉢《はち》から抜いてみると、
根までからから乾《ほ》せてゐた。
「根まで乾《ほ》せるとは──」
その時思つたことが
妙に心に残つてゐる。──
あゝほんとに
根まで乾せるとは──
六、昨日も今日も
めらめらと、
またゝく間にめらめらと
焼けてしまふ紙の快《こゝろよ》いかな。
湿つた粘《ねん》土《ど》の塊のやうなものが
我が頭《あたま》にあり、
昨日《きのふ》も、今《け》日《ふ》も。
めらめらと、
またゝく間《ま》にめらめらと
焼けてしまふ紙の快いかな。
はてしなき議論の後
一
暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども──
あはれ、あはれ、
かの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。
我は知る、
その電に照らし出さるる
新しき世界の姿を。
其処にては、物みなそのところを得べし。
されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、
しかして、かの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。
暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども──
(一九一一・六・一五夜 )
八
げに、かの場末の縁日の夜の
活動写真の小屋の中に、
青臭きアセチリン瓦斯の漂へる中に、
鋭くも響きわたりし
秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。
ひよろろろと鳴りて消ゆれば、
あたり忽ち暗くなりて、
薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。
やがて、また、ひよろろと鳴れば、
声嗄れし説明者こそ、
西洋の幽霊の如き手つきして、
くどくどと何事をか語り出でけれ。
我はただ涙ぐまれき。
されど、そは三年も前の記憶なり。
はてしなき議論の後の
疲れたる心を抱き、
同志の中の誰彼の心弱さを憎みつつ、
ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
──ひよろろろと、
また、ひよろろろと──
我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心の餓ゑて空しきこと、
今も猶昔のごとし。
(一九一一・六・一七 )
九
我が友は、今日もまた、
マルクスの「資本論《キヤピタル》」の
難解になやみつつあるならむ。
わが身のまはりには、
黄色なる小さき花片が、ほろほろと、
何故とはなけれど、
ほろほろと散るごときけはひあり。
もう三十にもなるといふ、
身の丈三尺ばかりなる女の、
赤き扇をかざして踊るを、
見せ物にて見たることあり。
あれはいつのことなりけむ。
それはさうと、あの女は──
ただ一度我等の会合に出て、
それきり来なくなりし──
あの女は、
今はどうしてゐるらむ。
明るき午後のものとなき静心なさ。
詩稿ノート 『呼子と口笛』
はてしなき議論の後
一九一一・六・一五・TOKYO
われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘《*》V NARiD !' と叫び出づるものなし。
われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NARiD !' と叫び出づるものなし。
此処にあつまれるものは皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NARiD !' と叫び出づるものなし。
ああ蝋燭はすでに三度も取り代へられ、
飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NARiD !'と叫び出づるものなし。
ココアのひと匙
一九一一・六・一五・TOKYO
われは知る、テロリストの
かなしき心を──
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を──
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。
激 論
一九一一・六・一六・TOKYO
われはかの夜の激論を忘るること能はず、
新しき社会に於ける‘権力’の処置に就きて、
はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと
われとの間に惹き起されたる激論を、
かの五時間に亘れる激論を。
‘君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり 。’
かれは遂にかく言ひ放ちき。
その声はさながら咆ゆるごとくなりき。
若しその間に卓子のなかりせば、
かれの手は恐らくわが頭を撃ちたるならむ。
われはその浅黒き、大いなる顔の
男らしき怒りに漲れるを見たり。
五月の夜はすでに一時なりき。
或る一人の立ちて窓をあけたるとき、
Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、
雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。
さてわれは、また、かの夜の、
われらの会合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭の心を截るとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かの女は初めよりわが味方なりき。
書斎の午後
一九一一・六・一五・TOKYO
われはこの国の女を好まず。
読みさしの舶来の本の
手ざはりあらき紙の上に、
あやまちて零したる葡萄酒の
なかなかに浸みてゆかぬかなしみ。
われはこの国の女を好まず。
墓碑銘
一九一一・六・一六・TOKYO
われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶尊敬す──
かの郊外の墓地の栗の木の下に
かれを葬りて、すでにふた月を経たれど。
実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。
或る時、彼の語りけるは、
‘同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能はず、
されど、我には何時にても起つことを得る準備あり 。’
‘かれの眼は常に論者の怯懦を叱責す 。’
同志の一人はかくかれを評しき。
然り、われもまた度度しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。
かれは労働者──一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き、
暇あれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。
かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジ《*》ユラの山地のバ《*》クウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて病の床に横はりつつ、
なほよく死にいたるまで譫語を口にせざりき。
‘今日は五月一日なり、われらの日なり 。’
これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。
その日の朝、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕、かれは遂に永き眠りに入れり。
ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼つぶれば今も猶わが前にあり。
彼の遺骸は、一個の唯物論者として、
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、
‘われには何時にても起つことを得る準備あり 。’
古びたる鞄をあけて
一九一一・六・一六・TOKYO
わが友は、古びたる鞄をあけて、
ほの暗き蝋燭の火影の散らぼへる床に、
いろいろの本を取り出だしたり。
そは皆この国にて禁じられたるものなりき。
やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、
‘これなり’とわが手に置くや、
静かにまた窓に凭りて口笛を吹き出だしたり。
そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。
家
一九一一・六・二五・TOKYO
今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了へて帰り来て、
夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひよつと心に浮び来る──
はかなくもまたかなしくも。
場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさつぱりとしたひと構へ、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなくとても、
広き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅子も。
この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、
思ひし毎に少しづつ変へし間取りのさまなどを
心のうちに描きつつ、
ラムプの笠の真白きにそれとなく眼をあつむれば、
その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、
泣く児に添乳する妻のひと間の隅のあちら向き、
そを幸ひと口もとにはかなき笑みものぼり来る。
さて、その庭は広くして、草の繁るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の木の腰掛を根に置かむ──
雨降らぬ日は其処に出て、
かの煙濃く、かをりよき埃及煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本の頁を切りかけて、
食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……
はかなくも、またかなしくも、
いつとしもなく若き日にわかれ来りて、
月月のくらしのことに疲れゆく、
都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
はかなくも、またかなしくも、
なつかしくして、何時までも棄つるに惜しきこの思ひ、
そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
はじめより空しきことと知りながら、
なほ、若き日に人知れず恋せしときの眼付して、
妻にも告げず、真白なるラムプの笠を見つめつつ、
ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。
飛行機
一九一一・六・二七・TOKYO
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの独学をする眼の疲れ……
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
注 釈(本文に*を付した語句に注釈解を加えた)
瓔珞 珠玉や金属を紐で貫いた垂れ飾り。
悵める心 失意に嘆き悲しんでいる心。
墓碣 「碣」は円形の墓石の意。
鵠船 「鵠」は白鳥で、その姿を空飛ぶ船に見立てた。
常楽 永遠に変わらぬ歓喜の世界。
雅典 ギリシアのアテネ。
鶻 はと科の鳥、あるいは「はやぶさ」をさす。 「みさご」は、わしたか目の「とび」に似た鳥で、字は本来なら「鶚」と書く。作者の誤記か。
村濃 染め色に濃淡があり一様でないこと。
比丘尼 尼。 (梵語 )。
水〓 「〓」は「泡」に同じ。
マカロフ提督 一八四八─一九〇四。ロシアの海軍中将。日露戦争開始後、極東艦隊司令長官に任命され、艦隊の沈没と運命をともにする。
鬼哭の啾々 鬼神がうめき泣く声。
黒〓裡 「〓」は同前。
胡天 遠い蛮族の国。
没薬 聖書を典拠とする語。アラビア産の香料。
浩蕩 広々と大きいさま。大空の形容。
花蝋 軸に花紋を彩色で描いた蝋燭。
琴柱 琴の付属具。琴の胴に立てて弦を支え、張りを強くし調子をととのえる。
溷る みだれにごる。けがれにごる。
音さぶる わびしげな音をたてる。
磯回 磯辺が湾状にめぐるところ。
御統 勾玉・管玉を紐で貫いて輪にした古代の首・腕飾り。
三稜草 水辺に自生するがまに似た草で、夏に白い小さな花をつける。
〓坏 「〓」は髪を洗いくしけずる時に用いる水で、これを入れる容器が「〓坏 」。
榻 腰掛、長椅子。
龕 厨子。神仏を安置する小箱。仏壇。
蹣珊 よろめいて歩くさま。ちどりあし。
V NARiD ! 一八七〇年代のロシアで盛んだったナロードニキ運動のスローガン。「人民の中へ」 「民衆の中へ」の意。
ジユラの山地 スイスのジュラ山麓。無政府主義者の同盟組織があった。
バクウニン 一八一四─七六。ロシア貴族出身の無政府主義者。十九世紀後半のヨーロッパの代表的革命家の一人。
(原仁司)
本書は、石川啄木の詩集『あこがれ』を中心に、代表的詩篇をほぼ年代順に収めました。 『呼子と口笛』は、全編を収録しました。
主要参考文献
『石川啄木全集 第二巻』
(一九七九年 筑摩書房)
『日本の詩人2 石川啄木詩集』
(一九六八年 角川書店)
『日本近代文学大系23 石川啄木集』
(一九七九年 角川書店)
編集協力=原仁司、吉田司雄
あこがれ
石《いし》川《かわ》啄《たく》木《ぼく》詩《し》集《しゆう》
石《いし》川《かわ》 啄《たく》木《ぼく》
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平成13年8月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『あこがれ 石川啄木詩集』平成11年1月25日初版発行