新潮文庫
遭難者
[#地から2字上げ]石原慎太郎
目 次
遭難者
公  人
ある行為者の回想
パティという娼婦
きょうだい
遭難者
今年は暖冬といわれていましたがレース当日の朝は大気が急に冷え込み、クルーが泊まっていた釣り宿の布団の中でも明け方冷気が襟元を刺しました。
そして、船を舫ってある油壺のハーバーにいって見ると不思議な風景が広がっていました。入江一面に湯気のように水蒸気がたちこめて水面が見えず、舷の低い|小舟《テンダー》など姿も見えません。どの船もたちこめた低い靄の上に浮いていて、まるでなにかのバレエの舞台でも眺めるようでした。あんな光景を目にしたのは生まれて初めてのことです。
大気が急に冷却し、比べて水温の方が高くてその差があんな現象を生んだのでしょう。空は晴れ上がっているのに肝心の水の上だけが不透明で、なんとも非現実的な風景でした。
海水のつくる靄は入江の外に出れば出るほど濃くなって、曲りくねった狭い水路を出ていく時も水路を示すブイの姿が見えず、やっと水路を出てもレース水域にいく途中にいくつかある大きな大謀網が靄に隠れて見つからずに往生しました。
スタートの時間が近づいても靄はいっこうに晴れていかず、コミッティ・ボートは見えてもスタートラインを示す逆の側のリミット・マークも見えません。ラインの確認は線上を走っていってブイを見つけコミッティ・ボートのマストを振り返って角度を調べましたが、それにしても他のレース艇の走る様子はまるで雲の上をいく船を見るようで、ますます不思議な眺めでした。
レースのための風は北東から三〜四米ほど吹いているのに、濃い靄はたちこめたままゆるやかに海の上を流れていくだけでいっこうに晴れる様子はなかった。
「関東の海ではこんなことよくあるんかね、それにしても綺麗やなあ」
誰かがいい、艇長の大木さんが、
「俺たちのいる内海は大気が陸に囲まれてこもっているから、ここらみたいに急に天候が変わって気温と水温の大きなギャップが出来ることはあまりないんだな。それでも子供の頃の冬に近くの入江でこんなのを見たことあるけど、海一面じゃなかったな。まあなんにせよ、海じゃいろいろなことがあるよ」
たしかに広島のホーム・ポートを発って三崎までの回航でも、大阪湾を出て南下し紀伊半島をかわすと同じ日本でもなお海の様子は一変しました。
なんというのか、片側に陸を眺めながらも反対側はもうそのまま果てのない太平洋という、ヨット乗りとしての期待もありますが、同時に故もない喪失を予感させるような恐ろしいほどの水の連なりがまざまざと感じられました。
私たちの船は内海のレースのほとんどには参加してかなりの成績を挙げてきていたし、このレースに備えて、季節は穏やかな頃だったが沖縄への遠征も果たしていました。南西諸島から黒潮の横切る難所のトカラ列島を過ぎて豊後水道までの長旅で奇々怪々な南の島たちを眺めて北上する道すがら、伊豆の列島から小笠原諸島、硫黄島諸島、そして北マリアナの島々を経ていくグアムまでの道程について思い比べてみたものです。
いずれにせよ日本を発ってグアムまで南下する、行程およそ二千三百キロのレースは私たちにとっての夢だったし、それがかなえばやがてもっと大きな夢、太平洋を渡るトランスパック・レースをということでクラブ開設以来練習に専念してきていました。
昨年のNORC(日本外洋帆走協会)主催の一番賑やかな公式レース鳥羽レースでも、初出場ながら日頃の努力の甲斐あって参加百三十艇の中で総合四位、クラス3では優勝という成績も挙げていました。
ベテランたちはあんなレースは歩行者天国みたいなものだとはいいますが、最近ではコースも神津島を回ることとなり、昨年はあの太古の大噴火の爆発で頂上のふっ飛んだ不気味な山のそびえる神津島とその沖にある|恩《おん》|馳《ばせ》の大暗礁の間で突然変わった風向きに煽られて|破走《ブローチング》しながら、なんとか|袋帆《スピン・ネイカー》を取りこみトラブっている競争艇たちを一気に抜いて島をかわしましたが、あの驚くほど突然の風の変化にもなんとか対処出来、好成績を挙げたことで、内海では味わえぬ外海の怖さを悟らされながらも全員新しい自信を身につけてもいました。
いつか日本にきたバーミューダ・レースの覇者カールトン・ミッチェルが日本のようにくるくる猫の目みたいに気象の変わる危険な海は見たことがないといっていたそうですが、いつも穏やかな内海でセーリングしている私たちにとっては噂に聞く関東の荒海を垣間見させられる体験でした。だからなお今度のレースに臨んで、私たちには他の船たちにはないかもしれぬ多少の不安と、それにも勝る期待がありました。
それになんといってもレースは真冬の日本を発ってひたすら南下し、最後は常夏のグアムにフィニッシュするのです。私たちにとって最後の夢であるトランスパック・レースにも似ているし、さらにその行程は、ほとんど|最短航路《ラムライン》に沿って、大方は無人とはいえ、いくつもの島がほとんど等間隔で連なってあります。
そんなレースに、他人は煩わしい年末年始の行事にも追われているだろう暮れの二十六日に発って正月の松の内にはフィニッシュするというのは、途中で多少は吹かれて濡れることもあるだろうが、ヨットマンならでは味わえぬ洒落て贅沢な余暇に違いありません。
今回のレース・メンバーはいつものように全員、日頃会費を払ってクラブを維持している仲間ばかりで構成しました。船のオーナーで経験も一番長い艇長の大木さん、ナビゲイターで無線係の加納ドクター、クルーは島田、横地、新井、伊東、高野、小田島、秋山、ただ一人女性の松島、そして私、村上でした。
最年少の私は主に|前甲板員《フォアデッキマン》で、同じ最年少の松島さんはウオッチはいつもオフだが一番いそがしいコック。舵は大木、加納、島田、横地、伊東といった先輩たちが引いていました。
船はジャーマン・フレイズ設計の39フィートのワントン|級《クラス》で、中古ではあってもまだ船齢四年の、IORルールにのっとった本格的なレーサー「マリン・ブルー」です。艇名の通り|船体《ハ ル》はマリン・ブルーで一本黄色の線が走り、船底は真っ白の洒落た船でした。
ワントンの船に十一人のクルーは多すぎるとも思われるかも知れませんが、荒天の際を考えれば無駄にはなるまいと相談して決めました。実際にスタートした後の経過をみれば妥当な数だったと思います。
スタートがせまってくると海面の靄もだんだん薄れてきて、というより強まってきた北東風がたちこめていたものを吹き払っていったのでしょう、スタート時の風力はおよそ十六〜七ノット、秒速七〜八米はありました。
南に下るには恰好の風で、このまま|追《おっ》|手《て》を受けてのスピンランで一気に飛んでいけるのかと思っていたら、スタート三十分前になって、
「おいW旗が上がった、|風上《ウェザー》マークありだ」
加納さんがコミッティ・ボートを指していい、
「関東のレースはえげつないなあ」
大木さんが苦笑いしていいました。
多分何隻かいた観覧艇の観客とやってきた報道陣へのサービスだったのでしょう、コミッティはレース艇が追手であっという間に遠ざかってしまう代わりに、少しの間風上のマークに向かって集団でジグザグに競い合うレグをわざわざ設けていました。
ということでスタートと同時に全艇はそれぞれのタックでスタートラインから一マイルほど真上りの風上に打たれたウェザー・マークに向かって走り出しました。
私たちは確か十二隻中六番手でマークを回航しました。レース艇の中では|全船長《L O A》の小さい方の我が艇としてはいいスタート、いい回航でした。マーク回航後トラブル無しにスピンを上げ、|左舷側《ポートタック》のスピンランでいく内、三浦半島をかわして太平洋に出るとあっという間に風力が増して下手をするとブローチングしかかるほどの風になりました。
「これは東京湾からの吹きだしかね、それともこのままもっと強くなるのかな」
加納さんが首を傾げ、
「まあ、トラブルを起こすよりはセールは控え目にいった方がいいだろう。まだみんな舵の当りにも慣れていないし、最初から無理することはない。レイティング(ハンディキャップ)ではうちが有利なんだから」
大木さんがいい、みんなも頷きました。
一時間もすると風は少しずつ前にシフトしていき、追手の強風用スピンを|横風《アビーム》用に換え、|主帆《メインスル》は風を逃がし気味にして快調に走り続けました。
しかし房総半島をかわすとにわかにうねりが出てきて、なぜか波の角度も不揃いになってきて舵引きにとっては厄介な海になりました。
それでも日頃、「俺には波と風に対して動物的勘があるんだ」と豪語している伊東さんがいっていた通りうまい舵を引いて、他の船が前後でそれぞれ時折ブローチングしているのに我々の船は不揃いな波に叩かれたりつんのめったりしながらもトラブルなしに走り続け、みんなもだんだん自信を新たにして口にこそ出さぬが行く先にますます期待の持てそうな気分になっていました。
実際に全艇が色とりどりのスピンを上げまっしぐらに、はるか彼方とはいえ常夏の島を目指して走り出した様子には、これでいよいよ私たちには初めての国際レースが始まったのだという気持ちの昂ぶりを押さえられませんでした。
冬のレースですから当然寒くはあったが、大木さんがいっていたように、進めば進むほど暖かくなっていくというレースの仕組みを思うと、緊張や不安はあっても、スタートしたばかりなのに、とうとうこのレースに出られて良かったという満足ばかりがありました。
それでも二時間もすると各艇それぞれの思惑でコースを引いて散らばって互いの視認はむずかしくなり、我が艇もナビゲイターの決めたコースを死守して勝つべく、艇長の命令も待たずに全員|乗り出し《ハイクアウト》してこれから二千三百キロの道程に挑もうとしていました。
それにしても、レース艇中最大のLOAの|巨大《マキシ》ボート、60フィートの「天魔王」があっという間に他艇を引き離し消えていったのはショックでした。
「あいつら、いったい何日でフィニッシュしてしまうんですかね」
いった私に、
「気にしない気にしない。行く道には必ず上りもあるからな。そうなれば話はまた別のことになる」
大木さんは笑ってみせました。
実際その言葉の通り風はやがてとんでもない角度で吹きつけてきたのです。
午後の四時に定時の気象通報をとり天気図を作って出てきた加納さんに大木艇長が、
「どう、天気は」
「脅かしたくないが、あまりいいことないね。少なくとも風が落ちて難儀するということは絶対にないな」
「|時《し》|化《け》ですか」
聞いた新井に、
「時化と呼ぶか呼ばぬかは別にして、やがて前線が通過する。それも二本だ。その前線を引いた低気圧が、両方ともずいぶん発達してきている。冬の低気圧は怖いからな」
「僕ら何年か前の二月にうっかり玄界灘に出ていって、すっとんできた台湾坊主に巻き込まれ、酷い目にあったことありますよ」
ボースン格の島田さんがいいました。
「下手をすると台風なみになるからな。しかし今度のはそれほどじゃない、ただ悪い角度で近づいてくる」
「ここまできたら、もうじたばたしてもしょうがないよ」
大木さんがいいました。
いわれても私にはことの実感はありはしませんでした。こんなに晴れ上がっている空の下で海の上での厄介事を想像するにはまだ経験に乏しかったし、今まで味わった時化の際も、いったんデッキから中に入れば水密で嘘のように乾いたキャビンがありました。要はいつも言い合わせている通り、ライフラインを忘れずに一切横着はしないことしかないはずです。
レースの前に一応心配してくれた家族に安全を請け合いながら、心中では、いつか大木さんがいった、「村上くらいのところが一番海にたかをくくりやすいキャリアだろうな。それを過ぎるとなんとか一人前ということになるんだよ」という言葉を自分には改めて言い聞かせて出かけてきました。
レースのための回航に乗りこむ前のデイトで、女友達の奈津子からもいわれましたが、自分がだんだん本当に海が好きになってきたのがわかります。
「よく退屈しないわね、ここから三崎まで乗っていって、それでまた何日も走るんでしょ」
「退屈したら出来はしないよ、こんなこと」
「私なんか、いつか宮島まで乗っけてもらっただけで退屈しちゃったわ」
「あれとは全然違うよ」
「どう違うの」
「第一、あの時は機走じゃないか。ヨットは風で走るものだからな」
「風の方が早いの」
「ちょっと風が吹けば早いもんだよ。風で走る時の気分はヨット屋にしかわからない。あの時はずっと凪ぎだったもの」
「どうしてそんなに気持ちがいいの」
「第一に音がしないよ。そして適当に揺れてくれることかな」
「私は揺れたら弱いわ」
「それにも慣れるよ」
「慣れてどうなるの」
奈津子はからかうようにいいました。
「とにかく慣れるほどよくなるんだよ」
「あなたヨットに乗るようになってから、変わったでしょ」
「どうかな」
「私、そう思う。昔と違ったみたい」
「昔の俺をそんなに覚えているかい」
「覚えているわよ。だから」
「どう変わったんだ」
「なんとなくよ、そう思うわ」
「俺はこれをやりだして良かったと思ってるよ」
私たちは以前同じ町内に住む幼馴染みでしたが、高校の頃私は父親の転勤で一度町を出、五年ほどしてまた広島に戻ってきて他の町に住み出したのですが、仕事で出向いた先の会社に彼女が勤めていて、彼女の方から声をかけられての再会でした。
それからもう三年ほどのつき合いですが、私はその内彼女と結婚したいと思っていましたし、彼女もそう感じていたはずです。私がまだそれを言い出さずにいたのはあるいは私の性格のせいなのかも知れませんが、彼女もまだそれを咎めたことはありはしませんでした。
要するに気心の知れた仲ということなのでしょうが、そんな彼女が私のことを以前より変わった、それが船に乗るようになったせいだというなら、あるいはそうだったのかもしれません。彼女から退屈だろうになんで飽かずに船に乗るのだと聞かれれば答えようもないが、しかしとにかく私は変わったということなのでしょう。
退屈ではないが、つらいかといわれればいかにもつらい時もあるし、時折船の上でふと、なんでこんな時ここでこんなことをしていなきゃならないのだと思うこともありました。しかし結局止めずにここまできたし、ようやく一人前になりかけているといわれれば、自分でもそんな気もします。
私の家はごく平凡な家庭でしたが、家のせいで困った思いをしたことはないし、親には感謝もしています。ただ家の生活で今までなかったもの、というか、まったく知れずにいたものに船で出会えた、というより、自分には今まで何かが足りなかったということが分かってきたような気がします。
それが何かといわれれば正確にはいえませんが、なんというのだろう、苦労というものが実際には何なのか知らずにきたような気がします。船でしごかれるくらいのことがそれかといわれれば贅沢ともいえそうな話ですが、なんにせよ陸の上の暮らしには無かったもの、それ無しで過ごせているものが船にはあるのだな、本当はそれが必要なのだな、少なくとも私には必要だったんだなと思う、というよりそう感じることがあります。
あの時も奈津子に、
「じゃあ俺、どう変わった」
聞いたら、
「怒っちゃ駄目よ、私は気にしていなかったんだから。でもあなたこの頃、前ほど吃らなくなったみたい」
彼女はいいました。
いわれればそんな気がします。
「そうかな」
私はいい、
「そうよ」
彼女ははげますようにいってくれました。
そう聞いて怒りもしないし、どこかで納得出来るような気がしていました。
子供の頃からそれほどひどくはないが時折吃る癖がありました。仕事の際何かの場面で、自分ではさして緊張している気はしないのに、話しだしてみると急に吃ってむこうもこちらも当惑するようなことがよくあります。
船のおかげでそれが直ってきたといっても、レースという緊張の中で自分の持ち場持ち場での責任で仲間に何か告げたり尋ねたりする時、気負いこみ、あるいは急いだりしながら、自分がどんな話し方をしているのか実は自分でも知りません。
船では、たとえ吃ろうが吃るまいが、ヨットというのはフォアデッキで作業している限り一人私がへまをすれば私だけではなしに船が沈んだり、みんなが死にさえもする。私は十分それを知ってきたし、私に関しても皆そう心得ていてくれるはずです。
それも含めて、少なくとも私にとっては、陸の上には無い何かが船の上ではあるような気がするということなのです。そのためにこそ船に出かけるという気はことさらしませんが、なんでそんなに船と気が合うのかといわれれば、つまりそんな気がするのです。
しかしまあ私に限らず他の誰も、いちいちそんなことまで考えて船に乗りこむ者などいはしないでしょうが。
日暮れに近づくにつれ風はさらに前に回っていき、スピンをあきらめNO1|前帆《ジ ブ》に換えるとさらに風力が増して、上げたばかりのNO1を下ろして2に換えメインスルもワンポイント|縮帆《リーフ》しました。午後四時の気象通報では、西から近づいている低気圧はますます発達してきているようで船内の|気圧計《アネロイド》もすでに990を切りかけていました。
「こいつは下手すると低気圧本体に引っかけられそうだな。とにかく出来るだけ南に下がるしかない」
加納さんはいい、艇長も黙って頷いていました。
「引っかけられるというのはどういうことですか」
聞いた私に、
「発達しているから来る速度も早いだろうが、その分吹きこむ風が強くなる。低気圧は俺たちより北を通るが、となればこの風をみてもその内真ん前から吹きこむようになる」
指して示すように顎を風にむかってつき出しながら加納さんはいいました。
「真上りですか」
「かなりのな」
ナビゲイターのいった通り風はどんどん前に回っていき波高も大きくなって、加えて厄介なことに風の変化が早く波の角度が風向と揃わずに、さらに今まで近くの水域でどんな風が吹いていたのか、時折とんでもない方角から大きな波がやってきてぶち当たり船をよろめかせ、すぐ横で驚くほど巨きな三角波が立ち上がって砕けかかり、空は晴れているのにデッキにいる人間を頭から水びたしにしました。内海にも島と島の間の強い潮流と風のつくる厄介な波はありますが、この海の表情はまさしく外洋らしく、そこにいる人間をまったく無視したように|凶《まが》|々《まが》しいものでした。
同じことを感じだしたのか、並んで鼻歌を歌いながらハイクアウトしていた仲間たちもいつの間にかただ黙って|手摺ロープ《スタンション》にすがりながら海に見入っていました。
波が悪いのと、それに緊張と寒さが相乗しみんな船酔いぎみで、とくにキャビンの中で食事をセットする松島さんは時折|便所《ヘ ッ ド》に駆けこんではもどしながら作業していました。
第一夜は松島さんを除く二交替のウオッチで過ごしましたが、空は曇りかけていてもまだ星も見えて、かぶって濡れはしたが全員なんとか元気に過ごしました。私はウオッチのオフには、合羽から水もれして濡れた下着を換え寒さを凌ぐために合羽を着たまま、バースは先輩たちに譲って|船尾《スターン》の奥の物入れになっているクォーター・バース下に積まれたセールの上に寝ましたが、他のクルーの出入りに遮られることなく時間までぐっすり眠りました。
朝になっての交替ではいつもの要領ですぐに胃を動かして酔いを防ぐために、確認しておいたバナナを戸棚から勝手に取りだしてくわえデッキに上がりました。海は昨日よりも曇ってうそ寒く時化ていましたが、とにかく一晩過ごして体も慣れてきたという余裕でさきゆきの不安はまったくありませんでした。
セールは昨夜の内にツーポイント・リーフとNO3ジブに換えてい、波はますます不揃いに荒れていましたが、船の走りにはなんの心配もありませんでした。青い顔をしながら頑張っている松島さんを手伝って朝飯を作り、昼にはインスタントですが暖かい丼ものを作って出し、傾斜したヘッドの中でなんとか出すものも出すとすっきりして気分はますます落ち着いてきました。
それにしても|命綱《ハーネス》を掛け|確保《ジッヘル》した上で眺める海の様子は今までしたどのレースや航海で見たものとも違って空恐ろしいものでした。今では空も暗く曇って垂れこめ海も空も暗い灰色一色に渦まいて、前後左右どこを眺めても一つ一つ形相の違う巨きな波たちがちっぽけな船などに関わりもなく荒れ狂っている。
私たちはそこに迷いこんでしまった虫けらみたいに、弄ばれながらもただただなんとかじわじわでもここを抜け出そうとしてあがいている。
しかしとにかくこのまま時化を過ごせば、その後はだんだん気温も上がって亜熱帯に入っていくのだという期待をお守りみたいに懐にしまってみんなスタンションにしがみついていました。
午後二時過ぎ、風はさらに前に回り波高もいっそうましてきてジブをストームに換えラムラインをぎりぎりに保って上りつづけましたが、角度がさらに悪くなれば無理せず西がかりに落としてもどうせ低気圧の通過後はそれへの吹きこみで西風になるだろうからという判断で気は楽でした。
事故は三時四十分頃、あっけない形で起こりました。なにかのはずみでゆるんだ|風下《リーサイド》の|可動後索《ランニングバックステイ》が、遊びが大きくなってきて|船尾手摺《パルピット》の|右舷《スターボード》側につけた無線用のアンテナに引っかかり、島田さんが立ち上がってパルピットに掴まりながら手を延べて外しました。
次の瞬間予期しない角度から立ち上がった三角波が船尾に砕けて船をつんのめらせた。
弾みで島田さんは足元から浮き上がり前に倒れまいとしてうっかり目の前のアンテナのポールを掴んで身を支えた。しかしプラスティックのポールはあっけなく折れて、彼の体はそのまま右舷後ろの水にまっ逆さまに吸い込まれた。
一瞬の出来事でした。
「落水!」私はキャビンの中に向かって叫び、同じように舵を引いていた横地さんも叫んだ。
立ち上がった大木さんがパルピットにさしてあるだけの馬蹄形の救命ブイをつづけて二つ投げこみ、ブイについたランプが波間で起き上がって点灯しフラッシュするのが見えた。その時島田さんの姿はまだ波二つの向こうに目視出来ました。
加納さんはすぐさまキャビンに駆けこみ、船をたった今の位置に戻すためにGPS(グローバル・ポジショニング・システム)で船位を出して書きこんだ。みんなしっかり落ち着いていたと思います。
それでも島田さんの姿はどうしても見つからなかった。作業のためハーネスは外していたが、ライフジャケットはつけたままだったから、たとえ溺れていてもそのまま沈むということはなかったのに、強風と高波の中でこちらも流され彼もあっけなく流されたのか、その姿も彼のために投げこんだ点灯するブイ二つもまったく目に入ってこなかった。
辺りは直ぐに暗くなっていった。それでかえってブイの灯は目に入りやすいのではないかとも思った。それも彼があのブイにすがっていてのことですが、ブイの灯などまったく目には入りませんでした。たとえ彼から船の灯が見えたとしても、あの時化の中を自力で戻れるはずもなかった。
加納さんはすでに日没前に横浜の第三管区海上保安本部に落水事故を報せ、救急の依頼をしていました。折り返し、横須賀から巡視船「くりはま」が捜索救助に向かうとの連絡がありました。後で知りましたが、島田さんの遭難の地点は北緯32度21分、東経140度18分、八丈島南東約120マイルでした。
それですべてを「くりはま」にまかせるという訳にはいかず、しかしあの時化の中でどうやって落水者を探したらいいのか、結局|全員作業《オールハンズ・オンデッキ》で夜っぴてただ船を走らせる以外にありはしませんでした。
一晩中全員しぶきの中に目を凝らして見入りながら、GPSで出した事故当時の位置から風の方角を考えあわせ漂流の方角と距離を換算してそれらしき海域を走り回ったつもりですが、しながらそれがほとんど百パーセント徒労なことはわかってもいました。
しかしなお私たちはそこを逃れてどこへ何をしにいったらよかったのでしょう。失われつつある仲間のために私たちに出来たことは、彼の無事を祈りながらより確かな救急の手をその場で待つ以外にありはしませんでした。
あるいは島田さんがあの発光ブイにとりすがってい、さらにその光を我々が発見出来ればという期待で四方に凝らす目に、二度、時間をおいて右と左に過ぎていく本船の灯火が見えました。その度、フライアーを取り出して打ち上げましたが、密かに予想したとおりなんの反応もなかった。あんな海で、たかだか水面三十米足らずに上がる小さな灯火を本船が見つけるはずはないでしょう。
さらに不運なことに風は刻々方角を変え、懸念していた低気圧が私たちの間近を過ぎていくのを証していました。風のシフトが激しいだけ波はますます不揃いになり、ハーネスをつけてしがみついていても、メインスルを下ろしジブと機走に切り替えていっそう不安定になった船は、ロデオの荒馬の背にいるようでいつ体ごと振り落とされるかわからぬほどだった。
これがまだしもレースを続行して走っているのなら気持ちも救われたでしょうが、ほとんど失われた仲間のために、これとて多分無駄だろう救援の新手をただ待ってこんな海にはりついてとどまるというのは、惨めとか空しいとかいうよりも、まるで自分たちまでが失われていくような、身も心も白っちゃけたどうにでもなれという気分でした。
人間というのは勝手なもので、暗闇の中で怒濤にもみくちゃにされている内しまいに、ハーネスをつけずに立っていき脆いアンテナにすがって海に落ちた島田さんにまで腹がたってき、口にまで出して、「あの馬鹿が」と呟いたりしていました。
夜が明けるまでのあの黒々とした重く厚い時間の経過を何にたとえたらいいのでしょう。辺りが白んでくるまでの一夜中、手元の時計の夜光の文字盤を何十回となく覗いてはみたが、その度時間は僅かの五分もたってはいなかった。
夜が明け周りが見えてくると、誰しもが闇の中でいたよりももっと打ちひしがれ気落ちしていくのがわかりました。絶え間なく降りかかる波のしぶきと轟く風と波の音、船ごと突き上げられるショックに耐えぬいてきた者の目に夜っぴて自分たちを苛んでいたものの姿が今またようやく見えてきた時、みんなが同じように固唾を呑み同じようにため息をもらしていました。
それは昨夜日没の前に見とどけたものよりはるかに猛々しく、思わず目をつむりたくなるほど凶々しい、荒涼などという言葉もおよばぬ、なんといったらいいのだろう、これが私たちの生きている地上にあり得る風景なのかと疑いたくなるほど、もう目茶苦茶にかき混ぜられ乱れに乱れた、沸騰する巨大な|坩堝《る つ ぼ》のような光景でした。
ぎざぎざにきり立った波高十米に近い波たちが、吹き荒ぶ風とはまったく関わりなしに、一つ一つが狂った生き物のように異形に沸き上がりぶつかりあっては崩れ、風の咆哮と波たちの叫び声がみんなばらばらに競いあって目も耳も塞ぎたくなるような世界でした。
たがいに顔を見あわせなくても、一夜の内に全員が体力気力のほとんどを消耗し、自分自身が救出を待つ者のように漂う船の上にただ張りついているだけなのがわかりました。実際に、夜明けを確かめながら私たちは昨夜失った友人の救出を願うことなど忘れて、今待ちつくしているものが私たちのためにこそ向かっているような気持ちになっていました。
それでも加納さんが現在位置を取り直して無線で横浜の三管に報せ、相手は、時化で難航している「くりはま」は昼前には現地に到着の予定と教えました。我々の位置は昨日の遭難時よりも西に流されていましたが、落水した島田さんが生きているとして、やはり我々と同じ方角に流され、目にはとどかなくともこの近くを漂流しているという奇跡だけを願うしかありませんでした。
午前八時頃、船の西側の空を飛行機が北に向かって飛んでいった。
それがなんのよすがにもならぬとは知りながら、またフライアーを取り出し三本打ち上げて焚きました。あんな所を飛ぶ飛行機にはるか低い足元の空で上がる発煙が見える訳はないが、みんなたった一瞬でもいいから誰か確かな他人と繋がっていたかったのです。
「くりはま」が予想よりも早く午前十一時に姿を現した時私たちは声を上げながら蘇るものを感じ、信じてもいました。それは、失われた仲間より私たち自身の蘇生だったかも知れません。
無線の交信の後加納さんが、
「むこうは、この船の救急の要なしやといってるけど」
「それはどういうことよ」
「むこうから眺めれば、こちらも遭難しているように見えるだろうな」
加納ドクターは笑いもせずにいいました。確かにそれはみんなの密かな心中だったと思います。
「そうはいかない。この水温なら、あるいはまだ生きているかもしれない」
挑むように艇長にいわれて黙ってうなずき無線に戻りかける加納さんに、
「いや、出来たら松島さんだけはむこうに移したらいい。だいぶまいっている、吐いてるタオルを見たら胃液だけじゃなし血が出ていた」
ドクターもうなずきました。
幸いその頃になって風だけは少し落ちてきた気配でしたが、それでも松島さんの収容は高い波の中での危険な作業で、「くりはま」から下ろされた救急艇には五人のクルーが乗り込み、こちらもオールハンズ・オンデッキで待ち受けました。脱水症で痙攣のきている彼女は大木艇長からいわれてもはや抵抗もせず、合羽は脱ぎライフジャケットとハーネスをつけて甲板に上り、ハーネスのカラビナをヨットと救急艇の間に渡したロープにかけて体を確保し、接舷の際どい瞬間になんとか相手の手に渡しました。その間彼女は終始無言でしたが、その顔色は血を吐いたというだけに白いというより青黒かった。
彼女を収容してすぐ「くりはま」から、彼女を地上の病院に送るため本船は海域を離れ代わりにヘリコプターを搭載したもっと大きな「あかね」がやってくると連絡がありました。
彼女を収容した上で、小さなヨットよりははるかに機動力のある巡視船が参加しての捜索が行われるのかと思っていただけに、「くりはま」の帰投は意外でした。
「なんで帰ってしまうんだ」
思わずいった誰かに、
「いや、巡視船でもこの時化の中では無理だろう。『あかね』がヘリを飛ばしてくれるんだろう」
加納さんがいいました。彼等は彼等で時化の模様と松島さんの容体を見比べて優先の順位を決めたのでしょう。
しかし、全速にうつったのか激しく|船首《バウ》を叩き大きな飛沫を上げながら離れていく「くりはま」を眺め、体の中で張りつめていたものがあえなく断ち切られ体全体がにわかに萎えていくような気がしたのは誰しもだったと思います。
「くりはま」が姿を消してから風はさらに落ちていき、海はちょっとの間でしたが波だけが残った時化凪ぎのような様子になりました。せめてこれで、ヘリを積んださらに大きな巡視船がやってくるまでの間少しは気が抜けるかと思いましたが、海はそんなに甘くはなかった。
風がほとんど無くなりようやく凪ぎがくるのかと思って間もなく、周りで波だけが騒ぎたてている海面を突然殺気のような一陣の風が、頬を張るようにして過ぎると、気づいて眺めた西の空が突然幕を引くように明るく変わり、新しい波を立てる暇もなく、まだ激しい凹凸の残った海面を白い塩を撒くようにして西からの突風が襲いかかって船はあっという間にほとんど横倒しになり、次の瞬間辺りの海は一面真っ白に細かく泡だって形相を変えていました。
気象の変化というのがあんなにあからさまのものとは思ってもいなかった。怯える暇もなくただ呆然と眺めいっていました。
「これが、関東でいう大西というやつなんだな。低気圧が過ぎて、西高東低の気圧配置に吹きこむ西風だ、しかしいつかは止むさ」
いったが大木さんの顔もひきつっていました。
「くりはま」に代わって「あかね」がやってくるとのことでしたが、この狂ったような海の中で船から落ちた仲間を探すということそのものがもはや不可能、というよりあり得ぬことに思えました。口には出さなかったが、誰もが失った仲間のためにもう義理だて以上のことはしたと思っていました。
艇長も、「帰ろう」とはいわなかったが内心ではあきらめる決心をしていたはずです。いずれにせよクルーの二人を失った我々の向かう所はつい一昨日発ってきた所しかありませんでした。
ジブを収い荒天用の|小帆《スパンカー》を張り、それでももの凄い勢いで|横ながれ《リーウェイ》するのを少しでも食い止めようと、機走を兼ねるつもりでエンジンを始動して間もなく突然エンジンが止まりました。しかしもう誰も重なる不運にたじろぐ者はなかった。それぞれ落ち着いていて、声をかけるまでもなく一人がギアをニュートラルにセットしなおし、一人がセルを入れるとエンジンはまた始動し、ギアを入れるとまた止まってしまった。
「なにかのシートが、ペラに絡んだな」
大木さんがいいみんなが手分けしてデッキで確かめると、ジャイブの|防止索《プリベンター》のシートがスターボード側から水に落ち込んで張り詰めていて引いても戻らず、プロペラに絡んでいるのがわかりました。潜って切るには海は荒れすぎてい、帰投を助ける機関の使用は絶望的でした。
「これまでだなあ」
天を仰ぐようにして大木さんがいい、うなずいた加納ドクターが、
「三管になんといおうか。ただギブアップで帰投か、それとも」
「この風ではただ流されるだけだな。せめて八丈まででも曳航をたのもう」
ドクターが無線で三管を呼び状況を報告するとすぐに割りこむようにして「あかね」が呼んできました。
互いの船位を告げ合い「あかね」の到着は午後半ばとわかったが、そう知れただけで何かが体の内で解けて暖かく広がっていくような気がしました。これでようやく私たちの試練も業苦もなにもかもが終り、また前にいた当たり前の世界に戻っていけるのだという確信がやっとあり、いざそうとなればそれはいかにも当たり前のことにしか思われなかった。
しかしそれが自惚れというか不遜というか、海でのものごとはそんなにたやすくないということをみんなはじきに突きつけ知らされたのです。
それにしても今の時代というのは妙なもので、あれが文明の便利さというのでしょうか、島田さんの落水で私たちが緊急に保安庁を呼んで以来、その無線をあちこちで無線マニアが聞きつけいろいろなことをいってきました。中には一月ほど前に女一人で世界一周に出かけた九州の今里さんの「黎明」号のサポートグループの無線も遭難を聞きとって、当の今里さんまでがはるばる直接交信してくるありさまで、無線はほとんど鳴りっぱなしで係の加納ドクターは休む暇もなく疲労困憊してその内に様子がおかしくなり、代わった大木艇長がすべての相手に、これからはこちらからの発信に答える以外は二時間おきの呼びかけにしてもらいたいと頼んだほどでした。
それを横で聞きながら私たちが感じたことは、皮肉なことにことさらの隔絶感以外のなにものでもありませんでした。誰がどこから何をいってきてくれようと、所詮大方は揺るぎもしない陸の上からのことで、少なくとも今ここの海では狂ったような風が吹きまくり、見上げるような波に私たちだけが弄ばれ苛まれているのだという実感がいっそうのことありました。
それでも、無線を通じて自分たちが今どんな目にあっているかを他人たちに伝えることで、私たちも何かにすがった思いで少しは救われていたのかもしれません。
「あかね」の到着を待ちながらも船は強烈な大西に吹きつけられ、スパンカーも下ろしたベア・ポールのまま時速七ノットという速度で東に流されていきました。
これも後で聞かされたことですが、島田さんが落水する前八丈島の手前ですれ違った、メインスルを吹き破られて棄権した大型艇の「カスティジョ」が結局一番てこずったのは、あの大西が吹き荒ぶ油壺の湾口で重なって張られた大謀網をかわして入江に入港する時だったそうな。あの日関東以南の海域では久し振りに強烈な季節風が吹いたのです。
「あかね」は予定通り午後三時過ぎに姿を現してくれ、事前に無線で頼んでいたので直ぐに接舷してきて、見上げるように高い甲板から曳航用のロープに繋ぐリードロープを舫い銃で射ってきました。
舷の高さがかけ違っているので曳航は出来る限り長いロープで、何点かに分けて結ぶ用意をしていましたが、肝心のリードロープを手繰ろうとしたら後ろについたメインロープの重みと波の圧でかリードロープが簡単に途中で切れてしまった。
もう一度太目に換えて射ってくるかと思ったら、時間かけた末に今度はロープを繋いだブイを風上から落としてロープを延ばしてこちらに拾わせようとしたが、波と風が激しく何度やっても旨くいかない。
それでも何度目かにやっとブイを拾って、前に懲りているからロードのかからぬようにゆっくりリードロープを手繰っていたら、何を勘ちがいしたのか突然本船が動き出しロープに力がかかって細いロープはまたあっけなく切れてしまった。
みんなして口汚く相手を罵りはしましたが、相手も慣れた作業ではないことだろうが、こちらにしてみればどうにも詮ない気持ちでした。
その内に辺りは暗くなってきて、巡視船の方も焦って甲板に人がしきりに走り回っていましたが、三度目には灯火のついたブイにロープを縛って流したが、やっと拾ってみるとこれもいかにも細目の10〜12ミリのナイロンロープで、手繰りよせともかくもウィンチに巻きつけたが、細すぎて波の圧力でまた簡単に切れてしまった。私たちもだんだん焦ってきて、声はとどかぬが相手に向かって怒鳴りながら懸命の作業をしましたが結局ままならなかった。
しかし皮肉なことに、その時切れて残ったロープに私は後に救われたのです。
曳航の準備を諦めた後、大木さんが加納ドクターにこのまま全員船を離れて「あかね」に移れないかを質させました。返事は、夜間の移転は危険で見合わせたい。ただし本船は終夜近くでエスコートし、夜明けとともにもう一度曳航のための作業にかかるとのことだった。
期待した本船への移転は駄目でしたが、船の強度には自信があったし、このままもう一夜を明かしてもその後自力の航海をせずにはすむ心安さで、念のため|救命筏《ライフラフト》を表に出して据え、船の安定のために思い切り長いロープにカンバス・バケツまでつけてシーアンカーで流し、全員ライフジャケットとハーネスもつけたまま宵の口からキャビンに入って横になり、ともかくもひと眠りしました。
風がますます強くなったために波も揃ってきて、船はシーアンカーを引き摺ったまま前よりは不規則な揺れもみせず、大きくがぶりながらもステディな感じでした。
くたびれはてていたのと、なんといっても「あかね」が側にいてくれるという安心で、みんな昨日の落水事故以来短くはあっても深く眠れました。そしてみんな同じように十二時を回った頃に目を覚ましました。
ウィスキーを回し飲みした後、何か暖かいものをということで、私と小田島と高野が立って、バランスをとりながら湯を沸かしカップラーメンを作ってみんなに配りました。
「あああ、どうやらこれでなんとかなりそうだなあ」
加納さんがいい、
「しかし島田はもう駄目だろうな」
実は誰もが忘れかけていたことを大木さんが口にし、みんなあらためて天井を仰ぎました。
「あんたは艇長だからみんなとは立場も違うだろうが、あれはどうしようもない事故ですよ。みんなそれを覚悟できているんだから」
ドクターがいったが大木さんは意固地になったみたいに黙って堅く目を閉じたままでした。
「明日があるから、みんなまた寝ようぜ」
伊東がいった時、急に今までにない、どおんと鈍いが強い感触で船体が振動し、その後船がぐらっといかにも妙な揺れ方をして傾いだ。
「おっ、なんだこれは」
加納さんが両手を張るようにして体を支えながら天井を眺め渡し|後方出口《ドッグハウス》の方を振り返って見た。
「変だぞ、ひっくりかえるんじゃないか」
「シーアンカーでよじれたのか」
高野がいい、
「そんなことはない、変だな、傾いていくな」
何かを計るようにして加納さんがいった。
その瞬間、それを証すように傾いて上になった左舷の壁の棚から、収ってあった物がばらばらと横に飛ぶように頭の上に落ちてきました。
「駄目だ、ひっくりかえってる」
加納さんが叫んだとたん船室の明りが消えた。そして気がついたらもう足の下に海水が回ってきていた。
そしてさらに船が傾いていき完全に逆さになって止まるのがわかった。
誰かが懐中電灯の明りで室内を照らし、その明りの中で今まで踏んでいた床が頭上に天井となってあるのをちらと眺めた。それは完全に倒錯した、しかし妙に歴然とした光景だった。頭上の床だけではなしに、みんなが寝ていたバースやその前にあるチャート・テーブル、その上の無線の装置までが完全に逆さになって、しかし整然としてそこにあった。
そしてあの時私は今までのいつ以上に、自分が今こんなところにこんな具合にしている、というよりこの情景の一部として確かに在るのだということをなぜか強く感じていました。
そしてまた次の瞬間に明りが消え、暗闇の中で水が吹き上げるように膝から腰、腰から胸の下まで上がってくるのがわかった。
誰かが、
「前のハッチが開いた」
叫んでい、また誰かが、
「入り口はどこだ」
と叫び、
「下だよ、足の下」
声が返った。
そしてまた誰かの声が、
「バウの出口は駄目だっ」
叫んでいました。
そんな中でどこからか音もなく強い水圧で流れこみ、あっという間に船室を満たしてくる水の気配がはっきりと感じとられました。気づいた時水はすでにもう胸元まできていた。ありえぬことが今間違いなく起こったということだけがわかった。そして、このままいったら間もなく船は沈むと思った。
壁を手で探って方角を確かめ、スターンのドッグハウスに進もうとして水を飲みました。しかし手を延ばすとまだ天井までの間隙があったので、合羽と長靴のまま経験のある素潜りの要領で一度思い切って息を吸いこみ頭から水に潜って手でドッグハウスを探しました。
誰が開けたのか、水圧で開いてしまったのか、差し板は外れてはいなかったがハッチの上の部分が開いていました。そこまで確かめはしたが、頭から潜って出ようとした最初の目論見は旨くいかず、途中で息が切れかけて失敗しました。しかしもうぎりぎりの時間しかないということだけはわかっていました。
その時なぜか突然、私にダイビングを教えてくれた母の弟の若い叔父がいつかいっていたことを思い出した。どこかで素潜りをしていた時、浮上しようとして水中の網にひっかかり危うく溺れそうになったが、気づいて一度逆に下に向かって潜りなおして脱出出来たということでした。その時そのことを閃くようにして思い出しました。そうしたら自分が急に落ち着いてきたのがわかった。
今度はさらに十分に息を溜めてから、水中のドッグハウスの階段の手摺を探してつかみ足から降りるようにしてゆっくりと入り口から外に出て、必要以上の深さまで降りて狭い戸口をクリアし、手でコックピットの床を押し上げるようにして体を沈め、そのままさらに斜め下に向かって潜り船体の端を手で確かめてから浮上しました。
今に思うと、あの時私はずいぶん落ち着いていたと思います。勢いつけて船から出るのはいいが、はずみに船から離れて浮き上がればそのまま流されてしまうと判断し、浮き上がりながら手で船体をさぐって縁に沿って上がり、そのまま波を利用して船体にとりつきました。
その時手にしたものに夢中ですがって握りしめ、さらに這い上がって体ごとしがみつきましたが、それが船底のプロペラ・シャフトと知ってやっぱり船が完全に転覆しているのを知らされたのです。
そして間もなく足元で誰かの声を聞いたと思った。勘というか、暗闇ながらスターンの水の上に誰かが浮いているのを知りました。
闇の中で目を凝らして確かめると、足元からのびているシートに誰かがすがって五〜六米先の波の間に浮いているのがわかった。夢中でシートをたぐりよせ、からまるようにしてシートにすがっていた人間を引上げると加納ドクターだった。
ドクターは脱出の時に水を飲んだのか、吐きながら咳いてよくものもいえなかったが、その体を小突くようにして、
「他の連中は」
「わからない、誰か一人、僕の後に、続いて、きてたようだが」
ようやくいうと、私の膝にもたれたままもうものもいえない様子でした。
いわれて暗闇の中で周りの水面を確かめ、声もかけてみたが他に人の気配はなかった。多分、ハッチから出てもそのまま波にもっていかれたのでしょう。
手元の時計の夜光の針を確かめると午前四時半を回ったところだった。この時期、夜が明けるのは六時過ぎとすると後二時間はあります。顔を上げ前後左右眺めてみたが、宵の内見たまばゆく明りを点した巡視船の姿どころか、小さな灯り一つ見えなかった。いったいなんで夜間中、せめてサーチライトででも照らしつづけてくれなかったのだろうと思った。
もっとも相手にしたら、エスコートしているヨットがまさか夜中の内に転覆してしまうとは思ってもみなかったでしょう。
幸い船はシーアンカーが効いてか風軸にそい波に向かって立ってい、落水者を探して走り回った時の揺れ方より安定はしていました。それにしてもまた風向きが変わればどんな波に叩かれどうなるかわかりません。船は逆さになったままかろうじて水に浮いているだけで、時折大きな波が崩れかかると、水の上に逆立ちした二米近い舵板にすがって立っていても水は胸元まで攻めてきました。
加納ドクターは脱出の際にかなり水を飲んだようで疲労困憊していて、腕で支えても大きな波がやってくる度足元からすくわれてあっけなく転落しかけ、とても私の腕の力だけでは確保出来ない。
今の内に互いの体をこの船底に固定しなくてはと辺りを手さぐりで探したが、掴んでいるプロペラ・シャフトの先のペラに予想した通りプリベンターのシートが巻きついていましたが、ペラの回転で食いこんでしまってどうにも動きません。さっきドクターを引き上げた時彼がすがっていたシートがあるはずだと手や足の先で船体に近い水面を探していたら、水面に直立している舵板の後ろに一本細いシートが見つかりました。後でわかったが、曳航しようとして「あかね」から投げられ途中で切れたリードロープでした。
それを引き寄せ脇の下を通して舵板にくくりつけ、なお余ったロープで同じように加納さんの体も確保しましたが、ドクターはまったく元気がなく舵板に押しつけるようにして支えていないとすぐに崩れ落ち、波がかぶってくる度水を飲んでいました。
間近に顔を寄せて確かめると口からなにか白いものを吐いていて呼吸も苦しいようなので、習っていた人工呼吸を立ったまま二度三度やってはみたが、姿勢が無理なせいかあまり効果はなかった。
その内に気づいて舵板にかけたロープを緩めました。その方が波がきた時体を浮かせて逃れられ水を飲まずにすみます。しかしそれでも加納さんは波に向かって体を支えられず、ロープのたるみがかえって仇でそのまま水の中に落ちかけ、その度手を延べて支えましたが、その内うわ言みたいに、
「帰ったら、みんなに、よろしくな、な、女房にも、子供にも、いってくれ」
「なにをいうのよ、このまま朝まで頑張るんですよ」
回してあるロープをとらえ体を揺すぶるようにしていいましたが、それから二度三度大きな波が打ちこんできたら、
「俺はいい、俺は、もう、いいよ」
つぶやくようにいうと、その後とりわけ大きな波が襲った後、自分でしたのか、ロープがゆるんでしまったのか、輪の中から抜けて水に滑り落ちもう姿は見えませんでした。
午前五時二十五分のことでした。
加納さんの分のロープを足して自分の体に回したが、しおえた後突然、今ここで自分がとうとう一人きりになってしまったということを覚りなおしました。不安とか恐ろしいとかいうより、叫び出したいようなどうにも切ない気分だった。
そしてその時になって初めて、ひょっとしたら足元の船の中にまだ誰か、この浮力の元になっているどこかに溜まったままの空気を吸いながら生きている仲間がいるかも知れない、いやいるに違いないと、舵板にすがりながら何度も足踏みして船底を蹴りつけてみたが応えはなかった。なにかの気配があったら、シートをつけてまたもう一度船内に戻ったかもしれません。あの時ほど自分の側に誰でもいい、他人がいて欲しいと思ったことはなかった。
それと、加納さんがいなくなったらなぜかその途端に喉が渇いて来てどうにもたまらなくなった。この渇きをいやすためにも、他の仲間を探すついでになにか飲み物をとりにもう一度水に潜って船内に戻ってもいいと本気で思いました。
それをなんで思いとどまったのかはわかりません。代わりに、いつか何かで読んだ、よほど渇いた時にはわずかならば潮水を飲んでもかまわぬという記事を思いだし、それを言い訳にかまえるようにして少し海水をすくって口に含み、しかし怖くてまたそのまま吐き出した。しかしなぜかその口の中での感触が私を落ち着かせてくれました。
なんとか気を取り直すと、今度はまた突然、これから先何をどうしたらいいのか、というより何を考えたらいいのかがまったくわからなかった。そして、自分に今何かいい聞かせ、何かをさせなくてはならぬとしきりに思いながら、まったくなにも思いつけなかった。
しばらくして、後どれほどしたら周りが明るくなるかを考えてみました。六時過ぎとすると後一時間たらずはこうしていなくてはならない。その小一時間が勝負だと、勝手にいい聞かせていました。
しかし夜が明けたとしても、近くに巡視船がいる様子はなかった。船体がうねりに持ち上げられる時、ロープをたぐって体を持ち上げ、ずり落ちぬよう逆さになっている舵板にしがみつきながら何度も周りを見回してみたが、船の灯りは目に入りませんでした。
とすれば夜が明けてもさらにこのまま待たなくてはならない。問題は船がこのままずうっと浮いていてくれるのか、海がさらに悪くなって船からふり落とされることにはならないのか。暗闇の中で目と耳を澄ませて周りをうかがってはみたが、強風の下にさらに時折凄い|突風《ブロー》が吹き過ぎていくのはわかったが、シーアンカーで沈みかけたまま船がなんとか風にむかって立ってくれているので、水船のせいもあって浮いている時のような激しいピッチングはなくローリングもあまりなかった。
加納さんのロープをたぐりよせ体を二重にジッヘルしたので、船が浮いている限りたとえ死んでも体だけはこのまま船に繋ぎとめられてみつかるだろうと思ったら、妙なことにその瞬間だけ気が楽になった。
もう一度時計を確かめたらまだ十五分しかたっていなかった。そしてふと、自分と同じようなこんな目にあったヨットマンは他にいるだろうか。いたとしたら、どんな風に思いながらいたのだろうかと思った。
そしてまた、海でのことは知らないが、山ではこんな風に一人崖の途中にひっかかって遭難し、風や雨に晒されながら何日も救けを待っていた奴がいたはずだとも思った。しかしそれでどう気が楽になるものでもありませんでした。
やがて辺りが白みだし、巨きな波の姿、というよりその気配が形になって感じられだしました。はずみにふと上を仰ぐと、空の方は波間よりもとうに明るくなっていて空の青さが感じられました。
しかし完全に夜が明け周りの景色が見えてくると、いっそ夜のままでいた方が良かったと思うくらいのものでした。時折肩に感じる日の光なぞなんの支えにもならず、蘇った明りは私の今いるところが何なのかをまざまざと証しだしていました。
通り過ぎた強い低気圧にむかって強烈な、おそらく五十ノットを越す西風が吹きこんでい、海には波高十米を越す波が一面に沸きたち荒れ狂っていました。
うねりに持ち上げられ波の頂点に上がった時眺めわたす海は、低いなりにも船のデッキの上から見るのとはまったく違って、くつがえった船の底に縋りついている私などにまったく関わりなしに見渡すかぎり一面に真っ白に沸きたち流れていました。巨きな波の一つ一つがなにか異形でどでかい獣のように身をくねらせて押し寄せ大きく長いたて髪を振りたて吠えている。
その中では私の存在なんぞ彼等の目にもとまらぬちっぽけな、というよりもはや無いも同然のものでした。なにかの映画で見た、巨大な野牛かなにかが荒野一面に溢れ轟きながら過ぎていくのを、どこか岩陰か木の枝にすがって固唾を呑みながらただ眺めている、そんな気分でした。
高い波の谷間に落ちた時はまだ気持ちが支えられましたが、うねりに持ち上げられ波の頂上に立たされると、吹き荒ぶブローが地吹雪のように波の飛沫を撒き散らしながら襲いかかって顔を刺し顔が上げられない。
思わず後ろにそらして見る目に、突風はか黒い波の谷間にまでちりめんのような白い飛沫の網をひろげてかけ上がっていき、その波の背から頂上の彼方に飛沫の壁を立て、さらにその上に鮮やかな虹をつくっていました。
波の来る度に虹は立っては消え、消えてはまた鮮やかに獣の王冠のように輝きながらかかっていました。それは美しいがなんとも不条理な、今こうやっている私が眺めるにはまったく不似合いな光景でした。
突風に乗って顔を刺すしぶきの痛さと息苦しさに比べれば、間が悪く船に向かって崩れかかる波頭の方が、その度息を溜めてやりすごせばまだ我慢が出来ました。船は微妙なバランスでかろうじて浮いてい、そのせいで過ぎていく波に対してあまり抵抗にならぬのか、船全体にかぶさるようにして襲う波はなかった。つまり船もその上にとり縋った私も、もう浮遊している物体以前のものでした。
しかしなぜだったのでしょう、あの時ほど自分がここにこうしているんだな、俺はまだここにいるぞという気持ちはなかった。そして一方ではそれが嘘みたいな気がしてならなかった。
だからそれを確かめるように、懸命に目を閉じて足元の船腹を足踏みし踏みつけてみました。あんなに、どうにもならぬほど自分一人で、だからこそ自分が自分だった気分は陸の上では味わったことがありません。
シーアンカーのおかげで船は依然として波にむかって支える形で浮いてい、ほとんど沈んだなりに安定した形でいました。問題はこのまま後どれほどの間浮いているかということだった。
キャビンから脱け出して船底に這い上がり最初にとらえたものがプロペラ・シャフトだった時に悟ったことですが、本来ならそのむこうにある筈のキールが外れて落ちてひっくりかえった船は、どう眺めても死んでしまった物でした。私は仕とめられ腹を見せて浮いた大きな鯨かなにかの腹の上にまだとりついている小魚のようなものでした。
最初は明るくなって見え出した周りの海に気をとられていたが、気がつき見直してみると、この水船自体がいつ沈むかわからぬものとわかりました。
キールはなにかのはずみで、根元から引きちぎられたように外れて断片も見えなかった。キールがとりつけられていた船底には、キールの底の部分の面積を証すように幅十五センチ長さ一米六十センチほどの長方形の穴が空いていて、キールを止めていたボルトがむしりとられその穴と周りのファイバー・グラスがぎざぎざにささくれているのが見えました。
ぞっとしたのは、波をかぶる度その穴から海水が中にむかって流れこんでいて、穴の中に誰かの赤い合羽と寝袋が水に浮くようにして見えていたことでした。そしてその横にどういう訳か缶ビールが一本浮いて漂っていました。
ということは、船は見えているキールの穴とは違う他の部分に浮力を持って浮いているのであって、その浮力がこの穴から失われていけばやがては沈むということです。船がやや前に傾いた感じで浮いているのを見れば、あるいはスターンのクォーター・バースにしまってあった予備のライフラフトが自動的に開いてしまいそれがそのまま船を支えているのだろうかとも思ったが、いずれにせよ穴の空いたバケツが斜めに浮いているようなもので、私がとりすがっているものの浮力はいかにも頼りないものでした。
船が沈んでしまって海に放り出されれば、後は合羽の上につけたライフジャケットに頼るしかない。それでなんとか浮いてはいても、この波の中では顔くらい水から出ていてもろくな呼吸は出来ずに浮いたまま必ず溺れてしまう。浮力を増すために合羽を脱いで海に入るのか、しかしそれでどれほどの間体がもつのか、夢中で考えました。
脱出の時思い切って合羽のまま水に潜ったがそれは成功でした。水面すれすれの船底にしがみついていても合羽のお陰で保温がきき、フードを立てて襟元を塞ぐと濡れてしまった体もなんとか体温で暖められていて、丁度潜水用のウエット・スーツを着ているようで、この限りの海水の温度なら後一日やそこらはもつだろうとも思った。
とにかく海水が思った以上に暖かく感じられるのは救いでした。それに比べて、飛沫を載せて吹きつける風は刃物のように冷たかった。
とにかく船がこのまま沈まずにもって、時化がもう少しおさまり、やがて「あかね」が見つけてくれればとは思ったが周りを眺めれば巡視船にとっても難儀きわまりない海でした。
日が昇ってから一時間たらずの時、ふと目を上げると西側の海一マイルほどの所を船が、「あかね」だったのでしょう、あきらかに巡視船の姿の船が過ぎていきました。私が目にした時すでに船は十時の角度を北上してい、舵板にすがって夢中で手をふったがなんの反応もなかった。おそらく日が昇ったばかりの海で、私が彼等の東側にいたために逆光で視認出来なかったのでしょう。
「あかね」が波のむこうに消えていった時、私は妙な気分でいました。落胆と、その一方やはり自分は探してもらっているのだという安堵と期待、それを自分にむかってどう説いていいのかわからなかった。
顔の部分が急に暖かく感じられ、気づいたら涙が流れていたが、それがなんの涙だったのかいまだにわかりません。しかしだんだんに体中の力がぬけていって、波の合間にしゃがみかけ、なぜか手元の時計ばかりを眺めていました。
その内ふと気づいたら、目の前のキールの穴の中に浮いていた缶ビールが漂い出て海に転げ落ちた。思わず手を伸ばしてつかもうと思ったがちょっとの間合いで出来なかった。遭難の最中にビールかと思ったが、そう思ったらまたさっきの喉の渇きが戻ってきてたまらなくなった。
しかし突然気がつきました。穴の中で浮いていた缶ビールが外に流れ出したというのは中の水位が少し上がったのだろうか。とするとやはり船はだんだんに沈みつつあるのか。そう思ったら突然こらえようなくなにか叫んでいました。二度三度叫んで、そのためまともにしぶきを飲みこんでむせて咳きこみ、はずみに船からずり落ちかけ、ようやく体を元にもどして、一度目をつむってから舵板に顔をおしつけたまま、
「しっかりしろ、気が狂えば、そのまま死ぬぞ。助かっても、気が狂ってたんじゃな」
声を出して自分にいいました。
なんとか声はおさまったが、そのまま目を閉じ周りを見ないようにして波を背にし、足で挟むようにして舵板にすがりじっとしていました。しながらも船が間違いなく沈んでいくような気がしてきて、自分を振り切るようにまた目を開いて確かめてみたが、予感が正しいのかどうかはわからなかった。
ただ一つわかったのは、こうして水面すれすれに立ち上がり足元を波に洗われながら海や船を眺めなおしてみると、その恐ろしさ危うさが低いながらも浮いている船の甲板から眺めるよりも倍の倍にも感じられるということでした。そう知れるとまた舵板に顔をつけ目を閉じたままでいました。
飛行機を見たのは午前九時半頃だった。プロペラ機のYS11がわりに低い高度で東の上空を過ぎていき、体を起こして手をふったがそのまま南の方へ過ぎていった。と思ったら飛行機は間をおいて引き返してきました。頭上で大きく旋回するのをみて、これで発見はされたのかそれともまだなのか確信はなかった。後で聞くと、私の着ていた蛍光塗料の合羽がよく見えたそうです。
しかし一昨日からの体験で、この時化の中での実際の救急がはたして出来るのだろうかと思った。最低飛行機から救命筏を落としてもらえれば、いやそれでも筏までこの海ではとてもたどりつけまい、などとにわかに思った。
飛行機は二度旋回して飛び去り、それから一時間もせずに白波を蹴たてて「あかね」が姿を現しました。彼等が私を視認しているのかどうかはわからなかったが、この角度でくるならその内に見つけてくれるだろうとは思った。
船は風上二百米ほどのあたりで止まり、左舷から救急艇を下ろして近づきヨットの間近で丸いブイのついたロープを投げこみ、私はそれが流れてヨットの船体にぶつかるのを見すまし、舵板にジッヘルしていたロープをといて滑りおちるようにして水に入り、ブイをとらえすぐ頭から被って脇にかかえました。
水の中からボートに引き上げられる時、なにやら叫んでいる相手の息が物凄く暖かく顔にかかるのを感じて、ああこれで間違いなく助かったなと思った。
本船に向かう上がりの道のりで、小さな救急艇は強風にまともにさかのぼりながら仰向けにのけぞりそのままくつがえるのではないかと思うほどだった。ふり落とされまいと船底にあぐらをかいて坐りこみ両手で船の|縁《コーミング》を握りしめながら、ようやく、
「ありがとうございました」
いいながらなぜかいっている言葉の実感がなかった。
「こんな海で、人を助けるのはこっちも初めてだよ」
誰かがいい、
「あんた一人なのか、ほかはどうした」
「ほかは流されたのと、多分、まだ中に」
「中に」
息を呑むようにして班長らしい男がいい、
「いったい何がおきたんだ。夜中に急にヨットの灯りが消えたんだよ」
「キールが外れて、落ちたらしい」
「そんな、なぜ、なにかに当たったのか」
「いや、波のせいでしょう」
それきり誰もなにもいわなかった。
救急艇ごと引き上げられた船で何人かの人が押し包むようにして私を船内に運びこみ、剥ぐようにして着ていたものをとり去ると乾いたタオルで体中を拭いてくれ、医者らしい人が怪我の有無を確かめた後風呂に入れられました。
体が冷えきっていたせいか風呂はひどく熱く、熱いという私をつき添った乗員が押さえつけるようにして風呂桶に沈め、時間がたつにつれその熱さがなんとも心地いいものに感じられてきて、実は半ば痺れていた体の中に自分でも感じ取れる脈搏を連れてもう一度血が通いだすのがわかりました。そして自分が今ようやくこうして間違いなくあの海から救われ生きて還ったことを覚れました。
風呂の後熱い味噌汁が出され、むさぼるように三杯お代わりすると体の中にはっきりと蘇ってくるものがありました。それを見とどけたように乗員は私をブリッジに案内していき、そこで船長たちに船に何が起こったかを報告しました。
突然船にショックがあって転覆した時間と、彼等が見張っていたヨットの灯りを見失った時間は重なってい、その後サーチライトで照らしたがもう何も見えなかったそうです。
「あのヨットの中に、まだ誰かがいる可能性はありますか」
船長が質し、
「あると思います。私の他にもう一人中からは脱出しましたが、彼は途中で力がつきて水に落ちました。その他にもう一人彼の後からきていたといってはいましたが、確認は出来ていません。転覆した時は全員中にいましたから、他に少なくとも六人はいる筈です。私が真っ先に外に出ましたから後のことはわかりません」
「なるほど」
ブリッジから望遠鏡で左舷前方に見えるヨットを覗きながら船長はうなずき、
「フロッグマンにいって船内を確かめさせろ」
横にいるスタッフに告げ、作業のための本船の動きについて操舵手に命じました。
潜水用のタンクを背負ったフロッグマンを乗せた救急艇がふたたび水面に下ろされ、ヨットに接近した艇から二人のフロッグマンがくつがえったまま浮いているヨットの下に潜っていき、またすぐに浮上してきました。彼等は救急艇の仲間に何か告げ、艇から本船に無線電話で船尾近くのキャビンに二人の遺体を発見したとの報告がありました。
「二人見つかったそうだ」
船長がいい、
「いやまだ他にいるはずです、確かめてください」
私がいうと船長はうなずき、
「他の遺体もあるはずだ、すべて収容させろ」
いわれたスタッフは電話で救急艇にそう告げ、他の準備を命じにブリッジを出ていき、私もデッキにいって仲間を迎えようと左舷の下甲板に降りました。
本船はいったんヨットから離れた救急艇の前でゆるやかに旋回し、風上からさらにヨットに接近しようと回りこんでいきましたが、減速した時の距離をどう誤ったのか、あるいは速度を殺したために強い波と風に吹きよせられたのか、そのまま横に流れていき左舷のスターンのあたりがヨットに被さるようになって一瞬ヨットの姿が舷の下に隠れてしまった。
本船にはなんのショックもなかったが、船と船とが擦れ合うようにしてぶつかりまた離れた時、見下ろしたヨットの船体に大きい亀裂が走り、そこから波が激しく打ちこむ内、くつがえったヨットはキールの外れた跡の穴の後ろ三分の一ほどのあたりからゆっくり折れるようにして割れ、二つに千切れた瞬間あっという間に前半分は水の中に姿を消しました。
そしてあのヨットがひっくりかえったまま何時間か沈まずに漂っていた訳を証すように、なにかのせいで前半分よりも浮力のあった後半分は今ようやく搭載されたエンジンの重みに引きこまれてふたたびくつがえり、裂けた断面を本船に向かって晒すように体をひねりながらゆっくり波間に沈んでいきました。そしてそのはずみに出口を得た三人の遺体が突然波の下から浮き上がりばらばらに散らばって流れだしました。
水の中にとじこめられていた遺体はようやく自由を得たように、それぞれ黄色と赤と白の合羽の上に赤いライフジャケットをつけ、高い波と強い風の下でそれぞれまったく違う方角へ違った速度で流れていった。一人は仰向いたまま、二人はうつぶせに、みんな両腕を広げてまるで波の上をそうやってどこかに滑走していこうとでもいうように漂い流れていきました。
私はただ茫然と眺めていました。
たった今熱い風呂にはいり熱い味噌汁まで飲んでここにこうしている自分に比べ、吹き晒す突風のつくる地吹雪の渡る水面を、彼等はもうものもいわず手もふらずにただ仰向けにそしてまたうつぶせに流れていく。それは息がつまるほど無残で、有無いわせぬ光景だった。
思わずそばにいたスタッフの手の望遠鏡をひったくって覗いてみました。仰向けのまま流れていくのは私と同じフォアデッキをやっていた小田島だった。そしてうつぶせのままいくのは、被っている毛糸の帽子の色からして舵引きの伊東さん、もう一人は赤い合羽の色からして秋山だった。大木艇長の姿はどこにもなかった。後の三人あるいは四人はあのまま艇体ごと沈んだのでしょう。
救急艇は波間を走り回りなんとか三人の遺体を拾い上げて戻りました。
やがて艇ごと引き上げられ甲板に並べられた遺体は、望遠鏡で覗いたとおりの三人でした。みんなの顔の色は漂白されたように真っ白だった。何度眺めなおしてもなぜか誰にもなんの表情もありませんでした。
彼等がなにかの表情を浮かべていたなら、私は側に居並ぶ連中になにかいってやりたいことがあったような気がしたのに、三人の顔はそれがすでにもうまったくの無為だ、というより一昨日以来の出来事が実はありはしなかったのだとでもいうようにしか見えなかった。
船から広島の家族になにか電話で話すかといわれたが、なにを話していいのかわからなかった。もう一度なにか暖かいものを食べさせられた後、案内された部屋のベッドに横になりましたが、基地までの航海は巡視船にとってもかなりなもので、そんなことはあり得ぬと思いながらも大きなピッチで上下に揺れる船がまたいつひっくりかえるなりして沈むのではないかと、なまじの眠りはいっそうの不安をかきたて、船が本土に近づき海が静まってくるまで眠りはうつらうつら浅いものでしかなかった。そしてこれで眠れるかと思った時はもう基地の横須賀だった。
促されて起き上がり顔を洗ってタオルで拭きながら鏡を覗いた時思わずたじろぎのけぞりました。鏡の中にまったく見知らぬ人間がいました。なにかの小説で読んだように、私の髪の毛は知らぬ間に真っ白になっていました。
上陸して訪れた三管本部で遭難の模様を報告している時には、自分がいつになくまったく吃ることなくすべての事情について話すのを自分で聞いていました。いったいどうなったのかと思ったが、しかしもう何をどう驚くこともない気持ちだった。
三管での報告の後、NORCが広島のクラブの仲間を加えて八丈島にもうけた対策本部に近くの羽田からむかいました。
小型機での空からの捜索や凪ぎを待って島の漁船を雇っての探索がもはや何にもならぬことは、少なくともあの海にああしていた私にはわかりきったことですが、遺された者たちのためにそれだけは口には出さずにいました。
巡視船がぶつかり二つに割れてあえなく沈んでいったヨットと、そこから三人だけ放り出されて波の間を漂っていった仲間の姿を思えば、今さらの捜索などまったく詮ないことでした。それは失われた者たちへの、遺された者としてのただ礼儀のようなものだったでしょう。
それでも私はそのまま六日間島にいて、かけつけてきた遺族たちと一緒に捜索の飛行機や漁船にも乗りました。私が彼等と一緒にいることこそ、みんなが失われた者をあるいは取り戻せるかも知れぬと思う唯一のよすがであることは痛いようにわかっていました。
そして当の私一人だけが、彼等がもう絶対に還らぬものであることを知っているというのは、誰にとっても、皮肉というより、むごい話でした。しかしそう思うこともまた、生きて残った者の奢りといわれるかもしれません。
とっていた休みの切れる前の日に広島の家に帰りました。それまで島から一度だけ家と奈津子に電話していましたが、迎えた家族も彼女も、彼等には遅すぎたかもしれない再会を咎めはしませんでした。みんなも私の生還が、はしゃいで祝うには過ぎたものだということはわかっていたようです。まして、この頭の髪を見ればいっそう。
ただ驚いたのは、翌日会社に出かけていったら私の机のある部屋におおかた会社中の人間が待ち受けていて、いきなり拍手で迎えてくれたことでした。誰かにいわれてのつき合いなぞではなし、みんなが本気で拍手してくれているのがわかればわかるほど、戸惑うというより、その訳がわからずに暫くの間突っ立ったままでいました。
課長に何かいえといわれて、ただ、「ご心配かけました。ありがとうございました」とだけいった。そしてそういいながら、今突然、自分があの出来事以来初めて、何にむかってかとにかく本気でしみじみ感謝しているのがわかりました。気がついたら、親や彼女の前でも流さなかった涙が流れていました。
あの後よく周りから、あんな目にあってもまた海へ出かけていくのかと尋ねられます。母などは尋ねはしないが、それにむかって私が答えることを恐れているのがよくわかります。お互いに時間のいることだろうとは思いますが。
誰かから実際にそう聞かれても、曖昧に首をかしげるだけにしてきました。もっとも奈津子だけは、わかっているのか、そう聞きませんでしたが。
いい仲間と、いい船さえあれば、私はまた海へは出かけていくと思います。なんといっても、あんな海は陸からでは絶対に眺められはしないし、あんなことはとても海でしかありはしないでしょうから。
そして私だけは、あそこからこうして還ってきたのですから。
公  人
彼はその情景を一幅の絵のように一生に亘って記憶した。思うに靖胤にとって、それは、彼が美なるものを初めて意識した経験に違いない。その美しさにはある艶やかさがあった。少年ながら彼は顕らかにそれを感じとったし、それもまた生まれて初めてのことであった。
同年輩の少女が二人、花の木の下で手折った花を互いに髪に飾り合っている。しかし、片方の少女は印象にとまらず、その時彼が初めて眼にした方の少女だけが印象、というよりも靖胤の網膜に残った。
彼女がその下に立っていたのは桃の花だった。講堂を兼ねた教室の蔭の、雑多な植え込みの中に立つ威勢の悪い立木だったが、丁度花の盛りに、こんなところにこんな花があったのかと驚くほど花やいだ気配がそのひと隅だけにあった。そして新学期の式典に、今日だけは晴着で飾った少女たちの姿が、その花にいかにも似合って見えた。
建物の角を曲って彼が来かけた時、少女たちは小さな|悪戯《いたずら》を見つけられたような、かすかに後ろめたい表情でうかがうように彼を見つめ返した。その眼ざしの前で、彼はすぐに事態を判断した。彼にはすでにその小さな小学校の中で、ある選ばれたものとしての習性が出来かけていた。教室における子供たちの頭として、彼は今眼にしたものを何ら咎めるべきでないと判じ、微笑して見せた。しながら、眼の前にいる見知らぬ少女が、今日学期替わりの式典の後、教師からみんなに紹介されるだろう新入りの一人であること、それも、この高等小学校に通学の許された、この町の旧士族ともう一人中央からの官員の子弟の内の、後者であることを彼は覚った。
二人の少女は丁度髪に花を飾り終えた。一年年下の見知りの少女は靖胤に見られて、連れを促すようにしていきかけた。連れが促す|仕《し》|種《ぐさ》に見知らぬ少女もまた、この小学校における靖胤の立場のようなものを理解したように彼は感じた。促されながら、一瞬少女は確かめるようにもう一度花に触れると、その花を示すようにかすかに顔をそらせながら彼に向かって微笑みかけた。花とともに少女の小さなうなじが晒され、微笑みながら彼を見つめる少女の視線が斜めに流れた。
ある戦慄が体をつき上げ、手をとり合って走り去った少女の後ろ姿を見送りながら靖胤は立ちつくした。思いがけず、今、体の内にきざした甘美な何かを彼は憎み切れずにいた。少女たちが幾つか千切って残した花を踏みつける代りに拾い上げ、またすぐに捨てた。そしてそれだけの行為に彼は何に対してかわからぬがある後ろめたさを感じ、そしてそれを結局自分一人で隠しおおすことに満足のようなものがあった。
靖胤は本間美穂をそうやって知った。
美穂の父は、靖胤の想像とは少し違って、在市の師団に出入りのため東京から出向した御用商人だった。当時靖胤がいた清和小学校高等科は、県庁の置かれた市周辺の高級旧士族と新官僚の子弟だけに通学が許される別格学校だっただけに、特殊階級ともいえる生徒の家庭に、新旧の差はあっても、父兄生徒全体にある種の結束感があった。新しく時代の興りつつある頃だけに、父兄の移動に従って、新規の転入生も年毎にありはしたが、生徒たちは互いにすぐに馴染んだ。男女の席は別ではあったが、限られた数のことで、特に靖胤たち最上級生は全高等科の男女の生徒の消息に詳しかった。
本間美穂は、転入生ながら、すぐに他のすべての生徒の意識にとまる存在となった。何よりも彼女は美しかった。その美しさが、幼いながら生徒たちが憧憬する首都東京の何かを暗示し、感じさせた。靖胤たちの年頃の生徒の会話の中で、美穂の噂は容易に東京を連想させ、東京に関する話題はまた彼女を会話に登場させた。そんな折、いつも靖胤は彼女との最初の出逢いを想い出した。そして、彼だけの知るあの小さな出来事が、他の誰とも違って美穂と彼との間を、互いに語り確かめ合うことはなくとも、他とは違うある近しさといおうか、ある暗黙の意識で繋いでいることを彼は信じた。いや、ただ信じようとしたのかも知れない。しかし、学校で何かの折の触れ合いにも、靖胤は秘かに他と比べて見れば一層確かに、彼女のものいわぬながら自分を見つめる眼ざしの内に、あの初めての出逢いの想い出に誘なうようなものがあるのを感じるのだった。が、それを確かめたいとは思っても、彼にはまだそのための言葉を探す|術《すべ》がなかった。
靖胤にとってはただ、友人が背のびした口調で異る性について、そして結局最も美しい美穂について語る時、自分が他人の知らぬ意識でそれを聞いているという、その意識だけが秘かな奢りだった。
高等科を卒業し県立中学に入った後も、他から集った同級生たちが、どこから聞いたのか、彼のいた高等小学校にいるという東京から来た美少女を話題にする折も、靖胤はそれを秘かな意識に独り奢った少年の寛容さで聞いていた。
が、中学一年の秋、卒業してから殆ど見ることもなかったまま、美穂は突然また父の転勤に従って彼の町から去っていった。聞くところ、今度の任地は鹿児島ということだった。その土地は、少年の意識の中でははるかに遠すぎた。そして、あの想い出も、彼女が遠くに去って見ればすでに殆ど何の感傷も伴わぬ淡さで靖胤の頭から消えていった。それが消えていくことに、彼が僅かでも悩んだということはなかった。
本間美穂の記憶は、数年して、思いがけぬ人間によって靖胤に再びもたらされた。十八の歳に入った第一高等学校の同寮同室に鹿児島出身の男がいた。寮での生活が始まり、互いが馴染んでから尚しばらくして、ある日、何かのはずみに会話が地方の美人を話題にした。新潟出身の他の同室者が、東京の有名な芸妓の多くは彼の故郷から出ているのだといった。東京出の一人が、靖胤ともう一人同室の郷里を確かめ、美人に関してはたかの知れた土地だといった。抗うには自信もなく靖胤は黙っていたが、鹿児島出身の男が反論した。男は、第一高等学校に入る前、実は一年余通った郷里の高等学校の仏語の教官の細君は東京でも稀な美人だといった。自分が郷里を発って東京の高等学校を志したのも、一つは間近にそんな美人を見ることのつらさだったとも。
そんな美人がいたとしても、それが果して彼の故郷の産かどうかはわかるまい、と相手はいった。鹿児島産か他の産か顔ひとつ見ればわかる、といわれ、男は、他人には見せまいと心していたがと断りながら、彼女の写真を物入れの底から取り出して見せた。
何故か、手元に廻って来たその写真を見る前に、靖胤は予感していたような気がする。その友人が、憧憬する郷里の町の美女が高等学校の仏語の教官の細君と聞いた時、すでに彼はそれを知れたような気がしたのだ。
覗いた写真に美穂がいた。成長しはしたが、はっきりと少女の頃の|顔《かんば》せが感じられた。前列の真ん中に写真の持ち主と並んでいる痩せぎすの髪の長い男が夫だろう。彼女は前列の右端につつましく坐っている。写真に記された銘は、持ち主の男の鹿島発ちの祝宴とあった。所は、美穂の嫁いだ男の家の座敷のようだった。
夫と離れて坐っているせいもあってか、彼女が結婚したという実感はおよそなかった。見直した彼女の夫にも不思議に関心が湧かなかった。靖胤自身が日頃みずからの高等学校で見かけるいかにも高等学校の教官という風采で、それでか一層、美穂が今、こんな男に嫁いでいるということが、理解は出来てもただその域でしかなかった。あの頃から過ぎた年月と、今の自分を思い合わせれば、美穂は、全く自然に美穂らしく美しく大人びてそこにいた。
「どうだ、凄い美人だろう」
友人がいい、みんなは頷いた。
「しかし、この人は東京の生まれだよ。俺は知っているんだ」
靖胤がいった。
美穂が昨年の春嫁いだ男は病弱で、持病に良い温暖な土地を求めて、同じように東京から転地して来た学究だと友人は教えた。それでも病いがはかばかしくなく、季節によっては長い休講がよくあるという。いわれた通りの印象の男の顔を眺めながら、靖胤はふと、この男に嫁いだ美穂のこれからの一生を想ってみた。思ってはみたが、さして何も浮かばず、ただそれに連なってまた想い出したあの出逢いの時の印象が、結局は段々と、彼にとってだけではなく彼女にとっても遠いものになっているのだということだけはわかった。そして改めて写真を見直して見るほどに、嫁いで夫となった男のために、彼女と殆ど同い年の学生たちをもてなしている美穂が、間違いなく人の妻となり、そうなったということで、一つ年上だった自分を飛び越して、はっきりと遠く離れたところにいる人間になったという感慨があった。しかし、そのことを靖胤は、感傷というより、むしろただひとつの認識として自分に心得た。
嫁いですでに姓の変った本間美穂と写真で邂逅してから二年し、靖胤は第一高等学校を卒業し、東大法学部政治学科に入学した。四年後、日本は世界大戦に参戦し、さらに翌年、母親が死んだ。その年の秋に靖胤は体をこわし、友人のすすめで内房の南端に近い漁師町に休学転地して保養した。二年遅れて東大を卒業し、その年の高等文官の試験に首席で合格し大蔵省に就職した。
大蔵省に入っての翌春、靖胤は同省の先輩や仲間の反対を押し切って突然結婚した。相手は新村恭子といい、南房の彼のかつての保養地に近い町の素封家、といってもごく小さな造り酒屋の長女だった。恭子の父親は、靖胤に保養地を紹介した友人の父親の知己であり、その縁で無聊な靖胤は時折恭子の家に彼女の父と将棋をさしに出かけた。そうした折、自分にそそがれる彼女の憧憬をこめた眼ざしを靖胤は不愉快に感じなかった。彼を紹介した友人の家との関わりもあって、新村家の靖胤に対するもてなしは丁重なものだったが、一年近い月日はそれをさらに気のおけぬものに変えた。
靖胤が保養地を去る頃、将棋をさしながら何かの会話のはずみに恭子の父が、彼女がそろそろ婚期に遅れていることを独りごつようにこぼした時、靖胤は駒を進めに打ちかけた手を休めて、
「よろしければ、私が頂きましょうか」
といった。
父親は驚いて手を休め、彼を見直し、さぐるように、
「それは、あなたの一存ですか」
と問うた。
「勿論。母親もいませんし」
彼は頷いた。
「私は大変ありがたいが、それなら、お父上にも相談されなければならぬでしょう」
相手がいうと、
「それはそうですね」
靖胤は素直に頷いた後、休めていた手をのべ新しい駒を打った。恭子の父親は、そんな彼の居ずまいを何と判じていいかわからぬまま、彼の仕種にせかされて自分の駒を急ぎ動かした。
大蔵省に勤務しだして初めての夏にも、彼はかつての保養地にやって来て数日を過し、恭子の家を訪れ父親と将棋をさして帰った。
その翌年の正月、婚期がやや遅れた娘に恰好と思われる縁談が持ち込まれた折、二つ返事で受けようとした父親は三年前に靖胤と交した会話を思い出し、断りのつもりで手紙を書いた。返事には思いがけなく、靖胤は恭子と結婚する意思があり、自分の家族への打診は一任してもらいたく、新村家が許すならばこの春にも結婚するつもりであるとあった。
返事の思いがけなさに当惑した父親は娘に、他からもたらされた縁談と、靖胤と、恭子自身はいずれを希むかと質した。恭子ははっきりと、靖胤が希むならば彼をと答えた。
靖胤と恭子の婚約は急いで進められたが、反対は靖胤の職場の周囲から起こった。上司や同僚が、忠告という形で反対を唱えた。入省の折の成績からして靖胤の将来はすでに黙約されていた。この結婚は、靖胤に何の余得ももたらさぬだろうと、靖胤に新村家を紹介した|件《くだん》の友人さえいった。上司のあるものは、後二、三年置いて実は靖胤にすすめるつもりでいた幾つかの縁談を打ち明けて思いとどまらせようともした。
が、靖胤は、それらの忠告をすべて退けて自ら決めた予定通り、新村恭子と結婚した。彼にとって、上司や同僚の友情ある忠告の成り立つこの世界の常識は、彼自身には関わりないものに思われた。それが無くてもなお、自分がこの世界で立っていくことに彼は漠たる、しかし強い自信がすでにあった。この世界のそうした常識の規制よりも、一昨昨年の秋口、遅い海水浴からの帰り道、|黄昏《たそがれ》のなかで魔がさしたようにはずみで手をとってしまった恭子の指を握りながら、
「恭子さん、僕のお嫁にならないか」
と訊いた時、
「はい」
と、精一杯けなげに答えた恭子の全身から、手にした指を伝って感じられたその誠意を靖胤は絶対に裏切って省ぬことは出来ぬと思った。
新村家を紹介した件の友人に最後の決意を伝える時、
「彼女は、俺なしには生きてはいけない」
と靖胤はいった。
友人は、その年頃に似ずいかめしい風貌に、さらに似ずに発せられたその言葉の真意をとりかねて、何度も瞬きしながら彼を見直すだけだった。その友人にも上司にも自分の親族にもその旨を伝えながら、靖胤が信じていたのはまがいなく恭子に対する自らの愛であった。その証拠に、恭子を妻にしてから以後、靖胤は決して一度も自らの結婚を疑ったり悔いたりすることはなかった。そして、結婚の決心の背後にあった自信を証すように、危ぶまれ惜しまれた結婚をしてもなお、それ以後の靖胤の栄達は他に抜きん出ていた。
結婚して翌年、靖胤はニューヨーク財務官補を命じられ日本を発った。途中、太平洋を渡る船の中で、靖胤は自分への辞令を載せた官報を改めて眺め直した時、その一隅に載せられた他の辞令の内のある名前に気づいて眼をとめた。
それは、鹿児島の第七高等学校仏語科教官春名元夫の退官辞令だった。その名の人物が、あの本間美穂の嫁いだ夫であることを靖胤は忘れずにいた。むしろこの辞令は遅きに失したのかもしれない、と彼は思った。第一高等学校時代、美穂との写真での邂逅をとりもった友人は、彼女の夫は病いがちであるといっていた。休暇に郷里に戻って出直して来る友人から、靖胤はそれとなく美穂やその夫の消息を聞いていたが、聞く度に依然美穂の夫は病弱で、ある時は病気療養のために休職していた。
その辞令を眼にし、靖胤はあれから今日まで、その暮し向きのためにも苦労をこらえつづけて来た若い夫婦を想った。そして、この辞令が、美穂の夫の訃報でないことを彼女のために幸いとも思った。恐らく、彼女の夫は生計を整えて退官し、思い切った療養生活に入ったのであろう。靖胤はふと、かつて自分が過ごしたような海浜の保養地で、サンルームの籐椅子に寝たまま読書する夫にかしずきながら、その傍らで編物をする美穂を想像した。ようやく、ある安息が、長じてからはどうやら幸せだったとはいえそうにないあの美しい少女にも訪れたに違いない、と彼は美穂のために願った。
ニューヨークを基点に丸三年、欧州諸国を視察出張して帰国した靖胤は、新しい辞令を拝命し主計官として主計局に配属された。その辞令は、省内における靖胤の職務経歴がまぎれもなく選ばれたものであることを証していた。彼にあてられた仕事は、欧米における経験を基にした、当時の国際状勢の風潮からして各国で予算編成の折もっとも厄介な眼目のひとつとされていた軍事予算に関する主計業務であった。
三十歳でこの仕事に手を染め出し数年をまたずに靖胤はこの分野の仕事に精通しただけでなく、扱いにくい軍人を相手に辣腕の主計官として大蔵省内部だけではなく、陸軍省海軍省の内でもその名を知られるようになった。
大蔵省内のある上司は、軍人相手の厄介な交渉で、各個の問題について表向きは相手をたてながらも、結局脅したりすかしたりしながら主計官としての判定を果敢で且つ狡猾に押しつけていく靖胤の仕事ぶりを、その風貌から虎と仇名して呼んだが、その名は徒らな武勇を誇る軍人たちの好むところとならず、ある軍人は自らのいい分をねばり強くいつの間にかへし曲げられ押し切られる腹いせもあって、虎の代りに牛と呼んだ。が、いつの間にか靖胤の仇名はその二つを合わせた牛虎となった。
確かに、仕事にかまけ食事もとらずに平気で徹夜した当時の彼の写真を見ると、折衷されたその仇名はよく体を表わしている。骨太で胴長な大柄の体躯。軍部への表向きの恭順か、かすかに俯いた温和そうな顔の、しかしへの字に結ばれた大きな唇と、かすかに上目づかいの不遜な感じさえする大きな眼、眉はやや垂れてはいるが、大きく張った頬骨と顎は見るからに意志的で、その顔はまずまともに見合った限り、相手に、時かけても話し合う気持ちを阻喪させるように出来ていた。それは主計官というよりも軍人に必要な顔であったかも知れぬ。
三十七歳の年、将来国家の命運を左右するジュネーヴの海軍軍縮会議に靖胤は大蔵省側からの随員として出席した。
その旅の途上、無聊のままに、代表団のサロンにあてられた部屋に誰かが置いた官報の綴じを眺めていた時、靖胤は再度本間美穂に、邂逅したのだ。
官報の記すところによれば、病い癒えてか、あるいは病いのままに何かの都合あってか、彼女の夫、春名元夫は長野県の松本高等学校に、同じ仏語の教官として復職していた。そう知った時、靖胤は改めて自分が、美穂の夫である春名元夫という名前を未だ覚えていたことに驚いた。それを咎めるいわれのある筈はなかったが、それでも尚、今回の旅行の目的を思い合わせてみれば、その旅の途上にこんな邂逅のもたらされる偶然の意味を、彼はふと考えかけたが、止めた。
代わりにただ、少年の日以来、はるかに遠ざかったと思っていた美穂が、実は思っていた以上に間近に、とはいわぬが、ある関わりある範囲にいる人間であるということを彼は悟り直した。彼女の夫は、官立高等学校の教官であり、靖胤もまた官吏であった。ともにその公けの去就は官報という紙面が、無機的にではあるが、正確に伝え報らせるのだ。
“ならば美穂は、この俺の今までを、官報を通じて知っていただろうか”
ふと初めて靖胤は思った。
その想像は、突然彼をはにかませた。部屋に何かをとりに来てすぐまた出ていく他の随員の背を見送りながら、靖胤はさらに、自分のそのはにかみの訳を知ろうと思った。
確かに、彼女の夫に比べてはるかに数多く、靖胤の公けの去就は官報に記載されてきた筈だ。そして、ある種の関心なり知識をもった人間にとっては、官報が記してきた靖胤の軌跡は他と比べて瞠目すべきものであったに違いない。
しかし靖胤は自分でそれを打ち消した。同じ公職にあるとはいえ、美穂の夫と彼とではすべてが違っていた。この冷やかで何の情念をも誘わぬのっぺりした官誌も、靖胤にとってはさまざまな思惑をいざない得るものではあっても、気ままな若者たちに学問を教えるのびやかな職業にある人間にとって、この無機的な冊子は、相手がただ、この官誌が扱い得る範疇の域にある職というだけの関わりでしかあるまい。
しかしそう打ち消した後、彼はなお、ただ想像として、自分が再度偶然の上で美穂の消息を教えられた以上に、彼女が同じ官報をある意識を抱きながら読みつづけていることを想ってみた。その想像は想像として楽しかった。そしてその時初めて靖胤は、他と比べて選ばれたものとしての自分の経歴に満足を感じた。
更に三年して再度、靖胤はロンドンで行われた海軍軍縮会議にも派遣された。二度にわたるこの種の国際会議の経験は、自らを他国の事情と比較しながら、国際状勢下、わが国における軍事費と国家経済全体とのかね合いの限界点への一つの方法論を靖胤に目覚めさせた。その論旨は同省の他の上司をも納得せしめ、その種の問題に関する靖胤はいわばエキスパートと目される地位を得ていった。それを証す辞令がまだ四十の歳に下り、一九三○年靖胤は主計局司計課長に進み、更に四十二歳で予算課長、四十四歳で主計局長に抜擢されていった。
主計局長の新しい辞令とともに美穂との四度目の邂逅が官報を通じてあった。しかしそれは恐らく、その種の邂逅としては最後のものに思われた。ある日主計局長の椅子で眼にした官報に、靖胤は松本高等学校仏語教官春名元夫の訃報を見た。
その瞬間、彼の体の内に思いがけず、ある安らぎとあるうとましさが同時にあった。しばし瞑目した後、靖胤は秘書を呼ぶと、手元のメモに書き記した電報を打つように命じた。その電報が改めて何を繋ぐのか何を断つのかわからぬながら、自分でもわからぬ何かを彼はそれに託していたのだ。
軍閥の跳梁は激化し、大蔵省は軍からの予算請求に対し彼らを刺激し怒らせぬ限りでの予算折衝に腐心しつづけた。軍事予算にからんでの事態が悪化するにつれ、省内での靖胤の比重は増していき、一九三六年四十六歳で理財局長、翌年二月大蔵次官、次いで五月の内閣改造で、靖胤は請われて大蔵大臣となった。
すでに当時から靖胤は日本が遠からず戦争に突入し、そしてその戦さに敗れるだろうことを予測し、近しい仲間にそう語っていた。戦争抑止がきかぬならば、戦さを効果的に戦わせしめ効果的に敗れさすための努力をするだけである、そして、敗れた後の日本の財政に何と何だけは残し、経済の立ち直りの可能性を後に繋ぐ仕事しか今はあるまい、と彼はいった。戦さの終末への見透しは別にしても避け得ぬ戦さを効果的に行わしめるための靖胤の財政論は、部分的な不満はあっても結局軍閥を納得させ、軍人たちは、牛虎と呼んだ、財政的には戦争の結末に明確な悲観をしか持ち合わしていないこの蔵相を信頼せざるを得なかった。
太平洋戦争の開始間際、彼は軍の戦略に経済的な保障をあたえるために、戦時内閣で再度大蔵大臣に返り咲く前の二年間自ら支那開発株式会社の総裁となって、来るべき太平洋戦争下、中国における戦時経済体制の確立に努めた。
戦後、彼が戦争犯罪人としての容疑で最も指弾を浴びたのはこの努力によった。しかし法廷における靖胤のいい分は、ここまで来てしまった限り、誰かがやらなくてはならぬ仕事を、自分が職務として一番効果的に行なっただけでしかない、ということだった。そうした言葉が、特に法廷における釈明としては甚だ損であることを同僚は説いたが、靖胤は|肯《がえん》じなかった。多くの人々はそれを彼の傲岸さとも見たが、実は彼の自信に負うた謙譲でしかなかったのである。
太平洋戦争が始まった年、軍閥は結局靖胤の財政を戦争のために必要とし、彼は再度大蔵大臣となった。すでにその以前から在任中を通じて、彼が腐心したことは、敗れるとわかっている戦争のために、この国の財政をいかに円滑にいかに効果的に運行するかという、限られた目的のための所詮は徒労でしかなかった。そしてその仕事に彼は努力を尽した。戦さが終り、靖胤もまたA級の戦争犯罪人の容疑者として指名された時、かねがね戦争に批判的だった友人の一人が、靖胤がその職を退くことが遅きに過ぎたことを友情から咎めた時、
「私はただ与えられた公けの仕事を役人としてやっただけです。その限りで、私はいい公人であったと自分で思います。もし私の裁判が有罪になれば、敵もそれを認めたということになるでしょう」
破顔して靖胤はいった。
再度の大蔵大臣に就任してから二年目に、靖胤は思いがけぬ案内を受けた。差出人は、彼の記憶にかろうじてとまっている、かつての高等小学校の同級生であり、彼らが卒業した清和高等小学校が今年で創立満五十年となり、これを期に、その後他校と合併変身したまま、未整備だった由緒ある清和高等小学校の限られた卒業生同窓会を東京で結成したく、ついてはその発起人の一人に靖胤の名を借りたいのと、加えて、他の幹事役の間ですでに協議し、靖胤に同窓会長就任を仰ぎたいとの趣旨だった。更に末尾には靖胤がこの度賜った勲一等瑞宝章の栄は同窓生一同の誉れでもあり、同窓大会の折はその祝いも兼ねたいとあった。
靖胤は固辞したが、幹事有志の発意は変わらず、彼を訪れた幹事たちはすでに発送した案内にこれだけ数多くの出席の返事が戻っており、念のために質した同窓生のすべての内意が、靖胤の会長就任を強く希んでいるとのべた。
「こうして見ますと、亡くなった方も多いが、思いがけない人が思いがけぬところに元気にしておいでです」
幹事の一人は念のためにと、すでに返事の返った出席者の名前と現職現況を簡単に記した表を出して示した。
表を手にした時、靖胤の胸の内にある期待がきざした。それを覚られまいと、出席予定の卒業年度の先んじた卒業生たちの名を彼は一つ一つゆっくりと読んだ。頁がめくられ、彼の記憶にある同窓生たちの名が並んだ暫く後に、括弧で旧姓が記された、春名美穂の名があった。後は残して頁を閉じると、
「わかりました。お引き受けしましょう」
靖胤は頷いた。
同窓会の日、靖胤は朝から機嫌がよかった。彼はそんな自分を自ら知っていた。しかし、その訳が誰に知られる由もないということで、後ろめたさはなかった。その頃、体のすぐれなかった母親に代わって家で靖胤の身の周りの世話をしていた長女の治子が、朝チョッキを着せかけながら、
「お父さま、今日は馬鹿に御機嫌がいいのね」
といった。
「そうかな」
気どられる訳もなく、そういい返したが、その瞬間初めてかすかな後ろめたさがあった。出がけ、別の間の床の上に起きている妻の恭子にいつものように声をかけながら、靖胤の背後に立った娘の眼に向かって装うように、娘にいわれた通り彼はことさら快活にふるまった。しながら、今ようやく感じかけたある後ろめたさに、それでも全くいわれがないことを彼は自分にいい聞かせようとした。
が、彼の感じた後ろめたさに矢張り罪があってその罰か、その日の午後に緊急の閣僚会議が持たれた。過ぎていく時を気にしながら、靖胤はいつになく他の閣僚の報告に無頓着であり、意見を求められると辛辣になった。
秘書官が入れてきたメモでは、先方は靖胤の職務に気がねしながらもなお、彼の欠席のままに同窓大会の議事はすべてすまし、つづいての茶話会の開始を出来るだけ延ばして待つので是非出席してほしいとのことだった。
閣議を終え、逆に秘書官をせかせて靖胤は会場まで車を飛ばした。
靖胤が到着した時すでに式典は終って、会は彼を待って中断し、出席者は三三五五料亭の庭やかしこで時をつぶしていた。出迎えた幹事が挨拶と報告を終える間に、他の幹事が茶菓の用意された会場に皆んなを促した。
広間から準備の大方の完了が告げられ、立つ前、靖胤は案内に断って手洗いにたった。そして、控えの間からやや離れた化粧室の前の廊下で、美穂に出会った。何かで遅れ、急いで化粧を直した美穂は、直したばかりの髪をまだ片手で押えながら小走りに化粧室から出て来た。
顔が見会った時二人は立ち止り、相手を認め直すように見つめ合った。が、何といっていいかわからず、言葉の出ぬまま立ちつくした靖胤に向って、添えていた手でもう一度髪を押えると美穂は会釈し、会釈した後何か悪戯を見つけられたように顔を染め俯くと小走りに走り去った。
靖胤の体の内で時間が錯綜し、ある錯覚に捉われたように暫くの間彼は立ちつくしていた。何十年か前のあの初めての邂逅をわざわざ思い出して見るには、たった今見た美穂の印象はあの時のそれとどう変わってもいないように思えた。
会場に入り、皆に迎えられてみれば、顔見知りの殆どが過ぎた歳月に似ず変わってはいなかった。しかしそれでもなお、靖胤の斜め右手につつましく坐って微笑している美穂は、誰よりも一層、変わらずに見えた。あの頃と全く同じように、この仲間の内にあって彼女は依然、際だって美しく見えた。全くの他人が、今の彼女を美しいと思うか思わぬかは知らぬが、少なくとも靖胤にとって、いや、他の同席者にとっても、彼女はかつての頃と同じように際立った印象を今でもあたえていた。
時折、靖胤は自分に注がれる美穂の視線を意識した。周りに気を配りながら見返すと、彼女は他と同じ敬うような微笑で彼を見つめていた。しかし、靖胤にとっては日頃見馴れた、彼の周囲としてのそうした表情の中に、つい先刻の邂逅も含めて、彼女が自分との関わりについて、他の誰とも違ったものを心得、それを他人には気どられまいとして装っているのではないか、と彼は思おうとして見た。
靖胤の挨拶の後、庭での記念撮影を終え座が乱れたままの元の広間に戻る途中、何か思いつめたような緊張した表情で美穂は近づいて来ると、亡夫の逝去の折の靖胤からの弔電の礼を改めてのべた。その言葉を聞きながら、靖胤は彼女の緊張した表情が、自分に対してではなく、自分を囲む周囲の人間に対してであると思おうとした。
二人の会話に気をきかせ、戻った広間で、幹事は先刻に変わって美穂の席を靖胤の横にしつらえた。
間近で改めて眺めれば、かつてあれほど美しかった美穂の面にも、他の人間たちと同じ、過ぎていった歳月の影はあった。と同時に、靖胤はあの第一高等学校の寮舎の友人が語り、彼がとり出した写真で見た、少女から成長し一人前の女になった美穂の面影も、そしてその盛りの年を経、病いがちの夫をついに喪った労苦で凋んだ美穂の女としての推移も見とどけることが出来たが、それでもなお彼女は他の同窓生たちが互いに語り合っているように、要するにこの仲間の内にあって見る限り、昔とどう変わりもなかった。
「御主人の御逝去は、実は官報で知ったのです」
靖胤はいった。そして次の言葉も今となってはごく自然に口から出た。
「実は、あなたの消息は、御主人の退官任官の報せを官報で読むことで、よくわかっていました」
「あら」
小さく叫ぶようにいうと、一瞬、美穂は声になる笑いを押えるように手で口を覆い、悪びれず正面から靖胤を見直していった。
「私もでございますわ。竹内さんの御出世は、その度、主人にとどく官報で蔭ながら拝見しておりました」
「あなたがあんなものを」
「夫の元に送られて参りますから。初めは偶然に、でもそれからは注意して読みましたの。御出世の早さに、その度驚きながら、私ごとのように誇らしい気持ちでございました」
ある感動が靖胤の体を突き抜けていった。彼はそれをこらえて隠した。ヨーロッパへ向う途上の船中、官報を通じての何度目かの邂逅の折、彼が秘かにたくましくした想像が、現実にこの何十年間もの時かけて存在したのだということを、今自分に何と説いていいか彼は迷った。心持よい当惑と混乱から抜けるために、彼は努めて話題を変えた。
「御主人がお喪くなりになってから、いろいろ大変でしたでしょう」
美穂はつつましく素直に頷いたが、すぐに微笑していった。
「でもお蔭さまでこの春、一人娘が、いい方に嫁ぎまして、やっと落着かせて頂きました」
「息子さんはどちらの」
「いえ、家柄は別にございませんが、昨年任官いたしましたばかりの司法官でございます」
頷きながら靖胤はある暗合を信じた。
「では、あなたもその息子さんと御一緒に」
「はい、ですからただ今は千葉の方におります。何かでお目にとまりましたらよろしくお願いいたします」
「息子さんのお名前は」
「管野丈二と申します」
反芻しながら靖胤は努めてその名を記憶した。その男の名を官報に捜す限り、少なくとも美穂がどこにあるのかは知ることが出来る筈であった。
二人の会話は間もなく靖胤の崇拝者たちの饒舌でかき廻され中絶した。美穂は自らを知るように、それまでつづけた二人の間の個人的な会話に感謝するように丁寧に礼をして隣りの席を、母校の庭に靖胤の胸像を建てたいという有髭の幹事にゆずって退いた。
その夜、家の書斎の椅子で、靖胤は静かな興奮を噛みしめた。隣室に妻の気配を感じる時も、彼は最早、今朝方ほどの後ろめたさを感じなかった。何故なら、彼の想像が現実に在ったということを知れば知るほど、それは最早今さらどうなるものでもなく、彼もまた、それをとり返しのつかぬものとして悔いもしなかった。それは何んといおう、彼だけが味わい知れる、ようやく知り得た人間の不可知なるものへの懐かしさと安らぎだった。その限りで、昼間の美穂との会話を反芻しながら、靖胤は幸せであった。
敗戦の直前、靖胤は命じておいた通り、秘書官から若い司法官管野丈二の、東北への辞令を報らされたが、戦さの趨勢から見てその任地は美穂親子にとってむしろ安全であると考え何の差配もせずにおいた。
戦さは靖胤が予見した通り敗れて終り、靖胤は戦争犯罪人として十年の長きにわたって獄にあった。
世間は年月とともに竹内靖胤の名を忘れ、彼もそう信じ、それを良しとした。だが、何人か稀有な他人からの慰めの手紙が、どういう選択を経てか手元に届けられた。獄にあって丁度三年目に、思いがけず美穂からの慰問の手紙が舞い込んだ。司法官である息子に示唆され、検閲を気づかってか、文面はありきたりなものでしかなかったが、最後に彼女が最近ある信仰を持ったことと、出来れば靖胤もまた自分と同じ信仰にすがってほしいともあった。
思いがけなくはあったが、その手紙をどんな感傷で読む心もなかった。返事は出せず、彼女からの手紙もそれ一度で終った。
六十五の歳、敗戦以来十年ぶりで靖胤は獄を出た。在獄中に寄せられた好意にいちいち礼と挨拶を返したが、数年前に美穂からとどいた手紙の宛て先には本人がおらず礼状はそのまま戻って来た。
獄を出てから両三年を、靖胤は在獄中に過ぎた十年の月日が作り上げた現実と自分の頭脳との間にある誤差を埋める努力に費し、その誤差が修正されたと自ら信じられた時、その年に行われた総選挙に立候補し当選した。さまざまな反対がありはしたが、民主的選挙による当選という事実は、ようやく靖胤に、竹内靖胤の本質的な立ち直りの梃子となった。
が、その年の暮れ、妻の恭子が急逝した。彼が獄にあって不在中、彼女はその責任からも健康とならざるを得ず、殆ど息災であったが、選挙というもの馴れぬ激務と緊張で過労となってか、クリスマスの晩、狭心症で突然逝った。
妻の死を眺め、すでに竹内靖胤として立ち直った彼が、涙を流すのを見た人は誰もいなかったが、自分一人で通夜をするといって余人を寝かせた夜半、娘の治子や他の弟妹は、靖胤が寝かされた恭子の亡骸の全身を撫でさすりながら、亡妻に向かって独り飽かずに語りつづける声を聞いた。
衆議院議員として二度目の選挙を終えた後の内閣改造で、靖胤は戦後初めて閣僚として返り咲いた。彼の職務が、国務大臣国家公安委員長であることに世論の一部は反撥したが、当時外国との重要な条約をめぐって反対勢力の起した幾つかの事件に、公安委員長として靖胤がとった処置は結果として適切であり甚だ効果的であったとされた。人々はようやく再び、竹内靖胤という名が社会の指針を司る磁石の一つとして復活したことを認めた。
ある日ある要件で説明報告に来た中年の検事が、報告の後、思いがけなく、彼の義母の名が春名美穂であることを告げた。
「母がいろいろお世話になりましたそうで。私の最高上司に先生がおなりになられましたことを本当に喜んでおりました」
恐縮しながら彼はいった。
かつて美穂が口にし靖胤も努めて記憶に留めた、管野丈二という若い司法官の名が蘇った。
「お義母さんはお元気か」
靖胤は尋ね、
「は、元気ではおりましたが、この頃、大分弱くなりました。なにぶん、もう年ですので」
迂闊に悪びれずにいう相手を眺めながら、靖胤は突然また、初めのあの邂逅以来今日まで過ぎてしまった時の|量《かさ》を想った。
七十すぎた今、懐しさ、といった感傷よりも、また突然、こうやって美穂の存在に邂逅したことで、彼は人生の最後に、一つだけ忘れてし残していた小さな仕事を思い出したような安堵を感じた。
「君のお義母さんには、獄中、慰問の手紙を頂いた。世間へ出てから礼状を書いたが、宛て先が違っていて戻って来たが」
靖胤に請われて、大臣の机にかがんで現在の住所を書き記す、若いとはいえすでに中年の検事の横顔を眺めながら、感傷ではなく、ただ正確な事実として、まだ顔も見知らずまだもっと若かった頃のこの男の名を美穂から初めて聞いたのは一体いつだったろうか、と彼は思った。
美穂の|義息《むすこ》である検事はそれ以後、靖胤の前に姿を現すことはなかったが、住所が不明だった言い訳を添えて出した礼状には美穂からすぐに返事が届いた。
その返事にまた返事を書こうとしたが、何故か手紙となると、これ以上何を書いていいのかわからなかった。手紙は結局、ありきたりの時候の挨拶で始まる、ひどく月並なものにしかなりはしなかった。
それでも、そんな手紙の往復が三、四度つづいた。美穂からくる返事の度に、その末尾に、もう名だけいわれても思い出せぬ、かつて小学校時代の友人の訃音が記されてあった。その後、最後に靖胤が出した手紙に絶えて返事がなかった。それに気づいて見ると、にわかに気になった。
最後の手紙を出してから一月ほどし、決心して秘書官に管野検事の自宅の電話を調べさせた。自らダイヤルを廻して相手が出、その向うにまず甲高い子供の声が聞こえ、急いで何かたしなめながら女の声が出た。
名乗られた靖胤の名に驚き戸惑うかと思ったが、相手は微笑を含んだ声で平静に彼の名を受けた。娘の和代と名乗った声の表情には、彼女の母親とその旧知である靖胤の関わり合いをすでに承知したような気配があった。
「今度に限って御返事が無いので、念のためお電話をしてみたのですが」
どうつくろっていいかわからず、思いついたままを靖胤は話した。
二人の交信をとうに承知しているように、
「いつも、御丁寧な御手紙を頂きまして。今度もすぐ御返事を書きかけたのですが、丁度その夜に具合が悪くなりまして」
和代はいった。
「御病気ですか」
「はい」
「ずっとお宅で」
「いえ、最初はそうでしたが、どうもよくわかりませんので、先週から入院させました」
「病気は何です」
「それが」
口ごもるように和代は答えなかった。
「余りよろしくないのですね」
「はい、もう年ですので」
「どちらの病院です」
質した靖胤に、何かを斟酌するように一寸間を置き、その後決心したように、彼女は病院の名を告げた。
「いつか、出来たらお見舞いさせて頂きたいと思いますが」
「いいえそんな――」
いいかけたが、思い直したように微笑を含んだ声で、
「お忙しいお立場と存じますが、母も喜ぶことと思います」
和代はいった。
靖胤が病院を訪れた時、和代が玄関まで出迎えた。もう中年に近い美穂の娘の顔に、靖胤は昔、高等学校時代、友人の写真で見た、嫁いだ頃の美穂の面影を見た。
「あなたは、お母さまの昔の写真によく似ていられる」
いった靖胤を、その時初めて眼を上げ正面から何故か確かめるように見つめると、
「よくそういわれます」
和代はゆっくり微笑んで見せた。その微笑にある、何かを思いやるような表情を靖胤は気にしまいと思った。少なくとも、美穂の娘は、靖胤の見舞いを恐縮するだけでなく、母親のために喜んでいるように見えた。
「加減はいかがなのです」
質した靖胤にもう一度ふり返ると、辺りを確かめる身ぶりの後、
「お医者さまは、癌だと申しておられます。肝臓から、他所へも移っているようです」
悪びれぬ顔で、ゆっくりと何かに念を押すようにいった。
「癌、なのですか」
反芻してつぶやく靖胤を、和代はもう一度、先刻の、思いやるような微笑で見つめ直した。
美穂は睡っていた。薄く化粧した顔が、ふと死に顔というか塑像のように見えた。靖胤が枕元に坐って三、四分すると、気配に気づいてか美穂はゆっくり眼を覚まし、すぐに彼を認めて微笑んだ。その微笑は、先日娘の和代がいった言葉の通り、心から嬉しそうに見えた。その微笑を見た瞬間、靖胤は自分の内にある、小さないろいろな感情がすべて払拭され、彼女をこうして見舞いに訪れたことへの満足だけがあった。
「頂いたお手紙に、御返事も書けずに」
つぶやくようにいいながら、美穂は毛布の下から手をのべ枕元の小机の引き出しを開いて見せた。引き出しの中に、伽羅をたきこんだ紫の錦地の守り袋と、その横に四通、靖胤からの封書が重ねて置かれてあった。
靖胤の体の内にあるしめやかな戦慄と、かすかな羞恥が走った。それを察したように、和代がそっと部屋を出ていった。
和代の姿が消えた時、安息があった。その安息に、靖胤は感謝したいような気持ちだった。同じことを、美穂もまた感じているのが靖胤はわかるような気がした。
時がどこかに向かって遡行してやがて停ったように、二人は身を凝らしたままじっといつまでも見つめ合っていた。そして、彼が彼女の内に確かめたものを、彼女もまた彼の内に確かめ感じたように、美穂ははっきりと微笑して見せた。その微笑の内にある満足の影に、靖胤は激しく心を打たれた。それは、彼がかつての生涯に一度も感じたことのない、竹内靖胤にしてもなお律することの出来ぬ、大きく激しい何かだった。が、同時に彼は、今ようやく感ずることの出来たもののために備えられてあるべき時だけがとうに費されたことも知っていた。そして、美穂もまた今、それを知っていることを彼は感じたのだった。
美穂の微笑はゆるやかに、彼をいたわる笑顔に変っていった。そして、同じように自分が彼女に微笑みかけるのを彼は感じていた。
美穂に代わって、靖胤は小机の引き出しを閉じた。そして、いき所を喪ったままでいる彼女の手を、元に戻すようにして彼はとった。その手はかすかに抗いながらも彼の掌の内に留まろうとした。
なされるがままに、靖胤はその手を預った。老いて痩せたその手の内になお感じられるぬくもりと柔かさを、靖胤は懸命に確かめ感じとろうとした。今、自分に残された唯一のものを喪うことを彼は初めて怖れた。
が、和代が入って来た時、靖胤は丁度戻そうとして美穂の手をとったように、掌の内にあったものを持ち上げた毛布の下にさしこんだ。その小さな動作の内に、美穂の手はなお抗って元に留まろうとしていた。
見送って出た玄関で、廻される車を待つ間、
「母は、あのお手紙を、それは大切にしておりました」
和代はいった。
「そうですか。お聞きでしょうが、私たちは子供の頃からの――」
いいながら靖胤は、今この時、美穂の娘に向かってもっと他の何かについて伝えたいと思った。が、それをとうに承知したように、和代は包むような微笑で肯ずるように頷いて見せた。それでもなお、彼はこの相手だけに、はっきりとした言葉で伝えたいと思った。が、車が廻され、和代は促すように微笑し、秘書官が車の扉を開いた。
それから一月ほどの内に、靖胤は美穂を見舞う手紙を三通書いて送った。文面は結局、前と同じようにありきたりな見舞いの言葉にしかならなかった。そして、美穂からの返事もなかった。しかし彼女がその手紙を、一通毎に、あの枕元の引き出しの守り袋の横に、前と重ねて収いこむのを靖胤は知っていた。そして、届いた手紙を、娘の和代がどんな微笑でとりつぐかも。それを想うことには、羞恥の代わりに、安らぎがあった。二人の間に過ぎていた時の|量《かさ》が、彼女の娘である和代の視線を含めて、すべて彼と美穂との心のいき交いを許すだろうことを彼は感じ、時の与えるその寛容さに素直に甘えられる気がした。
三通目の手紙を書いてから十日ほどして、靖胤は私邸に和代の訪問を受けた。
「こんな厚かましい申し出は心苦しゅうございますが、母の容態がいよいよになりました。来週一杯はもつまいといわれましたが、もしお出来になりますならば、生前にもう一度お見舞いを頂きたいと思いましてお願いに上りました。睡っております間に、よく先生のお名前をうわごとに申します」
眼を伏せながら和代はいった。
「母も、体の弱い父に嫁いで以来、苦労のし通しでございました。私が結婚しましてから、なんとかようやくと思って参りましたが、結局余り大したこともして上げられずに参りました」
独りごつように和代はいった。
日曜日の午後、珍しく出かけるという靖胤に娘の治子が行き先を質した。病院に旧友を見舞うという彼に、
「男のお友だち、それとも女」
治子は聞いた。
「女だよ」
「へえ、おじいさまにしては珍しいのね」
どんなつもりか、治子は声をたてて笑ってみせた。
その日美穂の枕元の机の上に、小さく桃の花が生けてあった。問うように見返した靖胤へ、和代は何かを肯ずるように頷くと、
「お母さん、竹内先生ですよ」
睡っている母親に声をかけ、後のすべてをゆだねるように会釈すると部屋を出ていった。
夢うつつの境いをさ迷うように、美穂の眼は薄く開きかかってはまた閉じ、やがて何かの声に呼び醒まされたように突然はっきりと見開かれると、彼女は靖胤を見上げて認めた。
和代に頼んでしたのか、彼女は今日も薄く化粧していた。顕らかな死相の上にまぶされた化粧は、ふと老いてまさに身罷ろうとしている女と、かつての数十年前の彼女の|顔《かんば》せとの二つを重ねて感じさせた。
視線だけで部屋を見廻し、
「あなただけなのですね、靖胤さん」
確かめるように美穂は初めて彼の名を呼んだ。
頷いた後、もう一度思い切ったように、
「そうですよ」
靖胤はいった。
微笑みながら頷くと、美穂はゆっくり片手を毛布の下から引き出すと襟元に置いて眼をつむった。
その手をとった靖胤を、確かめるようにもう一度眼を開いて見つめると、美穂は促すようにまた眼を閉じた。
彼女に倣って、その手を握りながら靖胤も眼を閉じた。両手で包んだ彼女の殆ど枯れ切った手に、靖胤の手のぬくもりが段々に伝っていくのを感じながら、彼の体の内で次第にまた時が錯綜し、遡行していった。
どれほどしてだろう。突然、何かの感情が昂まり、思いつまったように、
「私は――」
低く小さく美穂はいった。そして、にわかに痙攣したように美穂は彼に預けていた手を引こうとした。
靖胤はその手を捉え、なお力を入れて握り直した。
「わかっていますよ」
自らにいい聞かすように靖胤はいった。
「はい」
小さく、しかし叫ぶように答えると、美穂が何度も頷く気配があった。初めは懸命に激しく、やがて安らいだようにゆっくりと、彼女は頷いていた。
それを感じとるだけで、この眼では見まいと靖胤は思った。今触れ合ったこの手の内で遡行した時間が壊れて元に戻るのを彼は怖れた。
やがてうかがうように小さなノックの後、和代が部屋に入って来た。その気配に初めて眼を開いて見た時、彼女が開いた扉の外にも部屋の内にも、思わぬ間に過ぎた時の気配があった。
彼のため部屋の灯りを点けようとする和代をとどめ、睡っている美穂の手をとって毛布で覆うと彼は立ち上がった。
「どうもありがとう」
靖胤がいった。その彼を、和代は何故かおびえたような眼で見つめていた。
翌々日、美穂の訃音を、電報で受けとった。発信人は和代で、文面には、生前の故人の受けた厚情に心から感謝するとあった。
美穂の葬儀の日、靖胤は秘書官に難儀を強いて他の予定を取り消し、途中から参列した。そして、午後に予定されていた緊急閣議までの間、和代に断って美穂の荼毘に同行した。極く内輪の葬式の、限られた親族しか立ち合わぬ告別にいかにかつての同窓生とはいえ、竹内靖胤の火葬場までの同伴は、親族にとって恐縮よりも奇異にも見えたに違いない。が靖胤は自分に強いるようにそれを敢えてした。すでに、彼と美穂との間の何かを理解した和代が、たとえそれを他にどう伝えていようと、他人がどんなに好奇の視線で自分を見つめようと、身罷った美穂と、彼自身のために、今、この席にこうして坐っているべきだと彼は思った。彼女の棺が火葬の炉の中に送りこまれる寸前の最後の告別に、棺の蓋の小窓が開けられ、花に埋もれた死者の顔を皆が覗いて眺めた時、靖胤も自ら進んで美穂の最後の顔を見とどけた。
棺が送りこまれ、火が点じられた後、控え室で待つ靖胤にようやく気づいて、美穂の幼い孫娘が彼を指さし、
「あのおじいちゃん誰」
和代に問うていた。
その声に、皆が改めて彼を意識し、しめやかに、しかし確かめるように見直すのを感じながら、靖胤は黙念と坐りつづけた。今となって、それらの視線に向かって、何のいい訳があったろう。たとえ、和代一人が彼と視線の出会う度、微笑みかけようと努めようとも、彼は充分そう知っていたし、そう知って坐りつづけることが、今告別した女と、自分自身への葬いであることを知っていた。
瞑目して坐りつづける一人の高名の老人のいかにも場違いな存在が、控え室の沈黙を支配していた。自分さえ現れなければ、今日この部屋の雰囲気がもっと違ったものになったろうことを彼は知っていた。それでもなお、彼は坐っていた。
親族の一人が時計を見上げ、荼毘の残された時間を隣りと囁き合った時、意を決した表情の靖胤の秘書官が入って来、彼の前にたたずむと、周囲に聞こえるように告げた。
「大臣、もう出ませんと、閣議に間に合いませんが」
その声に眼を開くと、秘書官を見上げ靖胤はあきらめたように小さく頷いた。杖をついて立ち上がり、何かを探すように周囲を見廻したが、出会った和代の眼にも何もいわず、ただ正面に向って深く一礼すると、靖胤はそのまま部屋を出ていった。
ある行為者の回想
私がなんであんなことをしてきたのかと聞かれれば、結局自分のためとしかいえません。もともと天邪鬼な人間だったせいか、目障りなものが許せなかったとしかいいようがない。大方の人はそれを見て見ぬふりして過ごすことが出来るのでしょうが。
しかし、目に障ったというより、私の内にあるものに障ったというのか、いや、それもなお不明瞭ないい訳と聞かれるかもしれない。
ですが十八年という月日の長さ短さは、あの中にいた人間にしかわかりはしないでしょう。私にとっていかにも長かったし、また短くもあったような気がしています。
最初の事件の直前に加世子が生まれました。あの子を何度抱いてやったのだろうか。とにかく生まれてすぐに私は家からいなくなった。それでも、初めての子供を抱いた感触はむこうにいってもよく覚えていました。
その後十二年間あそこにいて、出てきて二年たらずでまた次の事件を起こして六年、合わせて二十年という歳月あの子を見ずにきました。
千葉の刑務所から帰ってきてからおよそ二年の間も、努めてあの子に会わずに過ごしました。次に何をするという定かな計画などなかったが、十二年の間に世の中が変わり過ぎていて、自分がそれに追いつけぬ、というよりそれをどうにも許せぬような気がしていました。多分その予感のようなものが、あれから十二年たって、丁度感じやすい年頃になっていたあの子に親として会うことを思いとどまらせたのでしょう。
そして、その後さらに六年むこうにいて、戻ってきたら加世子はもう二十歳過ぎていました。すでに約束していた相手と結婚し、すぐに子供が生まれ、つまり私の孫ですが、その子を抱いた時その感触が二十一年前生まれたばかりの加世子を抱いた時とまったく同じで、その間に過ぎた時間の実感がまったくなかった。ならば、今この腕の中にいるこの子、この元のままの加世子を生んだお前さんはいったい誰なんだ、思わずそういったらあの子が怒りました。
それはそうだろう、そんな勝手な、ふざけたいい訳はありはしまい。私が、生きていながらあんなに長くあの子と別れたまま、自分の勝手であんな所にいたということを許すも許さぬも、あの子にとっては理解のはるか外のことだったに違いありません。
しかしまたなんのいい訳でもなしに、それがあの時の私の実感でした。
思ってみれば十八年という月日の、長短を含めてその意味というか味わいというか、所詮私以外の誰にわかるものでもない。わかってもらうつもりもない。
なんであんなことをしたのかとよく聞かれますが、結局自分自身のためにやったという以外にありはしない。そうとしかいいようない。
私はまさしくあれを私のためにしかやりはしなかった。今になればなるほど、ますますそう思う、というよりそう理解しています。私みたいなことをした奴が他にいるのかどうかは知らないが、いたとしたら同じことをいうに違いない。
そして、そういってもそれが質した相手にも他の人間たちにもほとんど通じていかないことに、焦るというより、時折投げ出したくなるような気がします。しかし、それも所詮は甘えでしょう。
私自身のため、というより私の体の内にあるもののためにやったというなら、誰が、何が私の内に何をどう作ってきたのか、今になって思い直すといろいろあります。
たとえその何かのためとはいっても、そのためにこの体を動かした動機というか、いったいなんで私だけがあんなことをする気になったのか、むこうにいても改めてそれを考えてみました。
私は、生まれつき天邪鬼な人間だったかもしれないが、それでもそんな気質をさらに培ったような、人生の中でのいろいろな巡り合わせがありました。
秋山克己というのは、母方の従兄でしたが、終戦の直前に特攻隊に志願して死にました。子供の頃、六つ年上の彼にだけは可愛がられた。私は、喧嘩ばかりする親ももてあまし気味の子供だったが、彼だけはいつも私を可愛がってくれました。戦争前から戦中にかけて親父の仕事の都合であちこち引っ越して、数えてみると合計四回も小学校を転校して歩いたがその度よくいじめられた。そして、それに反撥することで私の性格まで変わっていき、それが最後に落ち着いた横浜でも障りになった。しかし、近所に住んでいた克己だけはなにかの折々私をかばってくれました。
戦争中に住んでいた横浜の家にはなぜか囲炉裏が切ってあって、克己は家に来る度その前に坐って私を膝に抱きこみ親に代わって叱りながらも蜜柑を剥いてくれたりしていた。そんな時の彼の深い膝の感触を覚えています。六つも年上というと親に近いような気がして、親父のいうこともききはしたが、それ以上に克己の説教は膝の中でうなだれながらよく聞き取りました。
特攻のため、秘密に赴任していく直前に彼は横浜の家に突然帰ってきて、一晩彼の父親と私の家にやってきて親父たちと酒を飲んでいました。私の父は軍需関係の町工場をやっていて、そんな関係で戦争中でも酒とかいろいろ手に入りにくい品物が家にはありました。
次の日には、発ってそれきり帰ってこない相手と知っているせいか、子供の目から眺めても酒を飲みながらなのにいつになく陰気な様子だった。
その内に突然克己が、
「この戦争は負けるだろうな」
といった。親父たちの方が驚いて、たしなめるというより叱るようにいい返したが、
「だって、俺たちみたいないい若いものをこんな死なせかたするようじゃ、もう終りだよ」
さらっといった。
「じゃあ、なんで志願したんだ」
親父は相手の父親の気持ちを計るようにしていったと思います。
「だって、誰かがやらなくちゃならない仕事だものな」
「いや、この戦争は負けはせんよ、絶対にな」
「そう祈っているよ、向こうからな」
彼は言い、もう誰も何も言わなかった。
私はその側で大人たちの秘密をうかがうように、聞かぬふりをしながら、聞いていました。というより、その時の彼等の会話でなぜかそれだけを覚えています。
そして、克己はそれから一月ほどして第何次でしたかの特攻隊として出撃していき、沖縄の海で死にました。その時の新聞の切抜きを今でも持っています。その頃では、特攻も何度も繰り返されていて大方の日本人には珍しくもなくなってはいましたが、それでも私にとっては、あの克己が自分からすすみ出て死んでいったのだと思うと、子供なりになんともおさまらぬ気持ちでした。
戦争はそれからすぐに終ってしまい、子供の目で眺めても世の中はあっけないほど変わりはてました。私は、終戦の次の年に中学に入り、そこで戦後の教育なるものを受けました。校長以下実は教える当人たちもよくわかってはいなかったようだが、自由主義と民主主義はいかに違うのかなどという退屈な話を何度も聞かされたものです。子供たちにとっても世の中の変わりようは心外なほどにも思えたが、先生たちもその変わり方についてはいけていないんだなという気がしていました。
ならば、互いに黙っていればいいのに、ある時の授業で教師がもっともらしく戦争の批判をしてみせ、特攻隊で死んだ奴等はみんな無駄死にで馬鹿だと言った。
あの頃町の映画館のニュースでは、戦争中には知る事の出来なかったいろいろな出来事を映していました。ムッソリーニがパルチザンに殺され愛人と一緒に町の電柱に逆さに吊されているシーンだとかアウシュヴィッツとか、眺めて子供心にも白けたような気分にさせられたのを覚えています。あのニュースは長いこと、多分半年くらいも同じものをやっていたんじゃないですか。
そのニュースの最後にアメリカの軍艦から撮った特攻隊の場面があった。飛んでくるどの飛行機も弾幕にひっかかってみんな次々に射ち落とされてしまう。眺めていて胸が痛くなった。それでも、最後の一機がなんとか相手に命中する。それとて大した損害は与えはしないが、みんなはそれでどうにか救われたような気がしたものです。期せずして拍手も起こった。
学校でその話をしたら、映画の他に娯楽のなかった頃だし、たいていの者があのニュースは見ていましたが、ある奴が同じ映画館であれを見て拍手した客が、誰かがMPにいいつけて連れていかれたとも言っていた。なにしろ映画によっては、ある連中が映画館の中で赤旗をふりインターを歌いながら見ているような時代でしたから。
あの教師もそんな時代におもねっていったんでしょうが、私には克己のこともあってどうにも聞き捨てに出来なかった。だから手を挙げて、先生私の従兄も特攻隊で死にましたが、私は従兄が馬鹿な死に方をしたとは思いません。彼は誰かがやらなけりゃならない仕事だと言っていました。先生もそうは思いませんか、と言ったんです。
教師は嫌な顔をした。一寸の間教壇の上に棒立ちになっていたが、変な笑い方をすると思い直したように睨みなおして、
「お前はああいう突撃が無駄だったとは思わないか。今町の映画館でやっているニュースを見てこいよ。みんな途中で撃墜されてしまってるよ」
「俺も見ましたよ、でも最後に一機だけは当たったじゃないですか」
「あんなもので敵艦が沈むと思うか」
「思いませんよ、でも沈まなくてもいいんですよ」
「なぜだ」
教師はいびるような目で見返していいました。
「なぜだよ」
その時私の体の内のなにかが突然私にいわせたんです。いった後で私は自分で驚いていました。
「先生、あの最後にぶつかった飛行機に従兄が、克己兄が乗っていたんですよ」
「いい加減なことをいうな」
教師はいい、
「いい加減とはなんだよ」
私はいった。教師の顔にたじろぐような影がありました。それを見たらにわかに体の中がかあっとなって、
「あんた、俺の家にきて仏壇の克己兄の前でそういってみろよ」
いったら教師の顔がまた歪み、それを見てまたいっそう体がうずくようにかあっとなった。多分あの時に私のそれからの人生が決まってしまったのかもしれない。
言われて逆上した教師が私を廊下に立たせ、授業を終えても立たせたまま無視して出ていく教師に追いすがってその顔を殴りつけました。本当なら一方的に退校だったんだろうが、いきさつがいきさつだけに学校もはばかって次の学校を探してくれて強制転校になった。しかし、それで弾みがついたように、それから中学高校だけで五つ変わりました。親の仕事の都合でよく転校した小学校を加えると合わせて九つも転校したというのは滅多にない記録でしょう。
最後の高校を退学になるまで、学生のくせにあちこち流れ廻ったが、それで身につけたことも、子供なりの処世の要領といえた。
生まれつきの性格もあったのでしょうが、どの学校へいっても仲間内で問題を起こしてはよくいじめられました。しかしこっちも段々に慣れてきてそんな関わりでの要領をつかんだ。相手の中での一番を選んで闘う。苦痛を出来るだけ短くすますためにも臆せずに夢中で闘うことです。相手も人間だから殴り合えば痛いものは痛い。だから相手も本気で和解してくるし、周りも一目おくようになる。
刑務所にいってからがつがつと手当たり次第に本を読みましたが、中でも印象的だった柳生流の極意の書に、子供の頃の体験に照らしてみてもまったく同じことが書いてあった。一の橋、二の橋、猿の橋などなど剣の構えとその極意について記してあるが、しかしとどのつまり最後はすべて相討ちとあった。相手も強いこちらも強い、となればすべては相討ちという剣の極意、というか人生の原理でしょう。つまり、そう悟れば明日は不要、今この一瞬しかないということです。
あの頃もう一つ、ある意味で私の人生を決めた出来事がありました。私が夢中で愛し彼女も私を愛してくれた女の子が突然死んだのです。天野菊子という、肌のぬけるように白い、なぜか青みがかった目の澄んだ、私のような不良が見ているだけでこわれてしまいそうな気のする、それは綺麗な子でした。それよりもなによりも彼女はなぜだか本気で私のことを心配し、だからこそなのか、手のつけようのない私を愛してくれましたが、十六の年に結核で死にました。粟粒結核というのだそうですが、なにかで無理したために結核菌が体中に回ってしまい、突然高熱が出て意識を無くし、あっという間に死んでしまいました。
そんな予感があったのか、死ぬ少し前に彼女は私に体を許してくれました。私には女の経験はありましたが、彼女はまったくの初めてだった。彼女と体で結ばれた時、私は本気で神様がこの子を自分に与えてくれたんだと思った。しかしそうとすれば、いったいなんのために神様は私と彼女を行き会わせたんだろうかと今では思います。
彼女は意識を無くして運ばれた入院先で半日ももたずに死んだそうです。突然相手の親から電話で報され飛んでいったが、懐に金がまったく無くて伊勢佐木町の駅から中華街の裏の病院まで雨の中を夢中で走っていきました。
彼女の死に顔はそれは美しかった。親が化粧してやったせいで今までのいつよりも大人びて、物凄く綺麗だった。母親に触っていいかとたずね、そうしてやってくれといわれて両手で包むようにして触ってみたが、その顔がぞっとするほど冷たかった。それでもそのまま他の親戚がかけつけてくるまで一時間ほどの間手で包んでいたが、その肌は少しも暖かくなりはしませんでした。
一人娘だったし親からも頼まれて、短い葬式の後火葬場までついていきました。遺体が燃えている火の穴の中に入れられるのは覚悟して眺めていたが、戦争中焼けた死体も目にはしていたのに、二時間たって引き出された彼女がぼろぼろの骨になってしまったのを見てショックを受けました。眺めながら体が宙に浮いて漂っていくような、放心とも違う、変わりはてた彼女に重ねて自分が今どこにどうなっているのかまでがわからなくなってしまったような気分でした。
そんな自分をとりもどそうとして、目を凝らして眺めれば眺めるほど、目の前にあるものは無残というか不条理なというのか、信じられぬと思いながらもやっぱりこの通りのことなんだと、自分にいい聞かせてもいい聞かせても、一方の自分がどうにも頑なにそれをこばもうとしていました。あれが私にとって生まれて初めての、虚無なるものについての体験ということでしょうか。
私が当時の建設大臣川俣興三の新築したての豪邸を焼き払ったのも、しょせんあの男が目に障りすぎたからです。
後に金権で天下を奪った田中角栄なんぞあの男に比べれば慎ましいものでしかなかった。
あの男がいた県の主な市や町の首長たちはみんな彼の息がかりで、県下の公共事業は彼が指名から入札まですべて仕切ってその鞘をはね理不尽な金を作っていたし、それを快く思わなかった知事は老いぼれということで次ぎには強引に引きずり下ろされた。政治家だけじゃなしに祭りや盆暮れにとてつもなく賽銭の上がる大きな神社や寺の宮司や坊主の人事まであの男が一切仕切っていました。
とにかく選挙の折演説会で彼を野次ったりすると、必ずあの男の系列の暴力団が見舞いにやってきたそうです。
で、私は天邪鬼にそれを自分で試しにいった。ある市の市長選挙で川俣が自分の気にいらぬ市長を取り替えるために手下の県会議員を対立候補に立てて、噂じゃ血みどろの選挙をやっている現場の演説会で、手下の候補の応援にやってきた川俣を野次ってみた。すかさずそれとわかる男たちがやってきて私を引きずり出そうとしました。最初はもう声は出さないからとあやまってみせて、またもう一度、「嘘をつけ!」と叫んだら今度は五人がかりで引きずり出された。
そんな騒ぎを壇上から川俣がかすかな斜視の目で一瞥したきり、まったく問題にせぬように話を続けているのを眺めて、私はこの男をとてもこのまま無視は出来ない、いつか必ず自分だけはこの男にとって無視出来ない人間になってやろうと思いました。
身元の知れぬ私を建物の外まで引きずり出した後、男たちはどうしたらいいものか思案ぎみだった。兄貴株らしい男が他に連れのいそうにない私を眺めなおし、どこから来たと質し、私はただ当たり前の市民だと名乗り、川俣がいっていることが嘘だから嘘つきといったまでだというと、お前はこの町であの人に盾をついたらどうなるのかを知らないのかといった。
「どうなるんだ」と聞いたら、その瞬間囲んでいた奴らがいきなり横から蹴とばし後ろから殴りつけて逆らう暇もなく私を倒すと、手慣れたもので手を出した連中はそのまま車に乗り込んであっという間に会場から姿を消してしまった。
決してその遺恨なぞではなしに、しかしそれがきっかけになり本気になってあの男のことを調べてみると、驚くほどというより馬鹿馬鹿しいくらい他人を、要するに国民を無視して目茶苦茶なことをやっている。それが周知のことなのに不思議に周りの誰もなにもいおうとはしない。その頃はまだいた、やくざ者じゃなしにいわば本業の右翼の連中も、彼等も含めて世間の裏側にいる連中を金と暴力で束ねていた有名な男が川俣の息がかりということでどうにも動かない。
私だって自分の身は可愛いから、そんな事情を知ればことを斜めに眺めて過ごした方がましかと思いもしたが、最後にきてああこれは駄目だ、とても見過ごしには出来ないと思いました。
大胆というか恥を知らぬというか、あの男はいったい自分をなんと思っていたのでしょうか、相手もあろうに天皇陛下の財産をかすめとったんですからね。自分が農林大臣在任中にその職務権限を行使して那須の御用邸に隣接した広大な国有林を払い下げして、それが転々と転がされた挙げ句に、その内のおよそ十八万坪をある会社が購入した。その「寿商事」という会社の社長は女房の川俣明子というからくりだった。
そして川俣はその土地を自分の趣味の競馬馬を育てるための牧場にしてしまった。ところがこの川俣が取得した土地と天皇の御用邸とが地続きで、その境界線について「寿商事」と宮内庁との間で悶着がおこり、宮内庁側の主張と「寿商事」の言い分にはだいぶ隔りがあった。川俣はそれを聞いて、ことが裁判沙汰になる前に手を使い、自分が主張している境界線の内側の土地にガソリンを撒いて辺りを焼き払ってしまった。
なんでもその火が御用邸の林に燃え移りかなりの面積を焼いてしまって、林の中にあった、陛下が時折|野点《のだて》に使われていた天然の泉まで焼いて汚してしまったそうです。その後しばらくして避暑においでになった陛下が無残に焼け爛れた泉を御覧になって訳を質され、侍従がことの顛末をお話すると、陛下はかすかに眉をひそめられながらなにもいわずに立ち去られたといいます。
その噂が広まるや、さすがに右翼と自負していた連中が騒ぎだして川俣を批判する声が|澎《ほう》|湃《はい》として起こった。あのままいったら川俣を誅する者も出ただろうが、例の、世間の裏側を束ねていた男が川俣にいわれて乗り出してきて、東京のホテルで「川俣君を囲む会」という集会を開いてみせて、そこで右翼たちに伏流していた憤りを巧みに鎮静化してしまった。川俣を昭和の奸賊と呼んで弾劾していた新聞までが訂正記事を出すような始末でした。
あの頃からもうすでに日本の右翼は、川俣の息のかかった例の男が六○年安保騒動をきっかけに、日本のやくざを防共戦線に組みこむ画策をして以来、右翼とやくざ者がごちゃごちゃになってしまって実は大方は芯のないものになってしまっていたんです。
とにもかくにもあの頃の川俣の実力というのはその下に抱えた人間関係をフルに活用して、とてものこと誰にも太刀打ち出来るものではなかった。
ずっと後になってある縁で知り合った、今じゃ派閥の領袖にもなった有名な政治家から、今では時効ということで聞きましたが、彼がまだ県会議員で川俣の派閥から衆議院に出ようとしていた頃あの男が那須にやってくる度黒磯の駅まで迎えに出ていたそうだが、その度連れてくる女が違う。随行してくる記者たちに聞くと、みんな宝塚の有名な女優とかで、酒を飲まぬ川俣は羊羹食いながら若い女を口説いたそうだが、顔にも似ずたいしたものだといつも感心させられたそうな。ある時、その日はいつもと違って年配の女連れだったので、気をきかしたつもりで、そっと、
「大臣、この度の方は奥様であられますか」
聞いたら、
「馬鹿者、余計なことをいうな」
と一喝された。
そしてある時、地元の開発のために例の国有林の払い下げを陳情していた町長と同行して迎えに出て、町長が現場で候補地を指して示したら、川俣が競馬場で使う大きな双眼鏡を取り出して山を眺めわたし、
「うん、いい山だ。わかった、払い下げてやる。いいか、だからこの俺にあそこの木からこっちの木にかけての、あの辺りの山をよこせ」
いったが、目を白黒させる町長を不快気に見返り、
「おい、この男にちゃんといっておけ」
件の代議士候補にいったそうだ。
彼の方は川俣が本気と受け止めていたから、町長を脇に引っぱっていって大臣は本気でおっしゃっているのだと囁き、その場で了解いたしましたと返事しろと促したそうです。その町長も中央の政治家との話し合いとはそんなものなのかとようやく合点し、川俣に追いすがり、
「さきほどのお話、もし払い下げがいただけるなら、町としても結構でございます」
胸をはっていったら川俣は頷いたが返事もしなかったそうな。その間、随行の記者たちはただにやにや笑って眺めるだけ。事件が起こってもその時のことを思い起こして一行の記事を書いた記者もいなかったそうです。まあ、日本の新聞なんてそんな程度のものでしょう。とにかくあの頃の川俣には怖いものなどありはしなかったろう。
しかし私が川俣をこのままにしておいたら大変なことになる、これは誰かがなんとかしなくてはならぬと思いこんだのは、保守党の大物政治家の天皇を天皇とも思わぬ不忠のせいだけではなしに、あの男が彼の辣腕でまとめてしまった日ソ漁業交渉のなりゆきを眺めてのことでした。
とにかくある日突然、国民もあっという間もなくあの男は、ソヴィエトという箸にも棒にもかからぬ阿漕ぎな国を相手に北洋漁業の権利を一手に入れてしまったんです。この出来事のからくりについては、後になってむしろ左翼系の有名な推理作家が書き立てていましたが、不思議なことに普通の人間たちは問題にしなかったし、マスコミの多くは川俣の功績とこそすれその虚構についてはなんの疑義もさし挟まなかった。
あのしたたかなソヴィエトが漁業権の見返りになにを要求したのか、日本は、いや川俣はなんの権限でなにを約束したのかまったくわからない。川俣の言い分は、密約などはない、すべてソヴィエト側の好意で成立した条約だと繰り返すだけでした。しかし素人でも、あのソヴィエトがただであんな権利をくれる訳がないというのはわかるでしょう。
しかもあの協定に調印した時、川俣は今までの外交慣習にまったくあり得なかったことをやっている。その時だけは誰も随行員をつれずにたった一人でクレムリンにいき、さっさと署名してしまった。その面妖さについては、例の彼を糾弾する筈の東京のホテルでの集会でも疑義が表明されたが、川俣は、日本人の心意気を示したなどと訳のわからぬ説明をし、みんなもそれで結構納得させられたのですから他愛ないものだ。
これはあくまで推論でしかない、しかし私はそうと信じていますが、しばらくしての六○年安保の騒動で彼が閣僚を務めている内閣が身命かけて安保条約改正を強行突破した時、川俣はそのやり方が強引だといって内閣を批判し家に帰ってしまった。あの時の政治状況を見れば、首相は強引を承知で国家の将来を開くという信念でやったことでしょう。だからこそ直後に引退もしている。そしてその判断採択が正しかったということはすでに歴史が明かしている。
当時あれに反対したのは精神生理の未熟な跳ね上がりの学生たちと、条約の中身が何と知りもせぬえせインテリたち、そして表には出ずに後ろで糸引いていたのがコミンテルンの意を帯した左翼でした。
その中で川俣だけが閣僚ながら席から離れて同じ仲間を批判し内閣をゆさぶった。首相が身命賭けてあの挙に出たのは主要閣僚の川俣とは当然相談合議の上のことでしょう。それに背信したというのは、私は、あの漁業協定調印の折にすでに安保改正を見こしていたソヴィエトから、反米反安保の主要メンバーの楔として打ちこまれていたのだと思います。
あの時、よく訳もわからずに安保に反対した連中がこの今になってそれを恥じたり後悔しているかどうかは知らないが、私は自分があの頃の川俣の一連の去就を眺めながら抱いた疑義と不信は正しかったと思っています。
ということで、これはあの男をなんとかしなくてはならぬと思いました。といってもいきなり殺すという気まではなかった。そんなことをすればこちらの生死にも関わる話ですから、ただとてもこのまま見過ごしには出来ないと思った。しかし、ならばいったい何をしたらいいのかを考えている内に、場合によったら殺すことにもなるのかも知れぬと思うようにもなった。なにしろあの男の周りには例の裏の社会を束ねている男の目くばりがあったし、思いこんでもことはそう簡単なものではないともわかってきました。
あの男に世の中そう思いのままにはなりはしないぞと思い知らせるために、いったい何をしたらいいのか決めかねている間にも、場合によっては殺すということになるならそのための武器がいる。それを何にするか、それをどうやって手に入れるかをまず考えてみた。それが手に入れば方法も自ずと決まってくるかもしれないとも。
その頃私がなんとなく出入りしていた仲間に、ずっと年上ですが、戦争前あるクーデタに海軍士官として参加して閣僚を射ち殺した五堂拓という男がいました。無期懲役を食ったが戦争中に釈放され、今ではなにやら地味な商売をしていて夜になるとそれを離れ似たもの同士がたむろし世の中のことを論じるという、なんとはなしに出来上がったグループでしたが、私がなんでそんなところに出入りするようになったかは定かに覚えてはいません。その頃はまだただの不良少年の域を出ていなかったが、とにかく世の中からはみでたような人間たちが本能的に類を呼びあっていたのでしょう。
私が、その経歴からして五堂からことさらの影響を受けたということはありません。ただ彼が、結局最後になれば自分一人で革命をやるんだと覚悟して、士官時代に、それも上海に在任中に海軍の武器庫から拳銃や手榴弾をせっせと盗みだし、どんなつてでか日本本国に送っていたという話にはなにか感じるところがありました。
一人で革命をやるというのにそんなに武器を蓄えるというのは矛盾した話ですが、そういったら、いや本当の仲間がいるに越したことはないが、そんな仲間もこちらが武器を実際に備えることでしか集まりはしないといいました。そして、武器を集めにかかることそのものからしてが革命なのだと。
彼は陸軍の連中を信用せずに海軍士官が主体になってことを起こしたのですが、あるいは、彼が最初自分一人で武器を盗みだしたということがあの事件の発端になったのかもしれません。
今でも覚えていますが、彼はよく、「しょせん、天命も人為からしかなりはしないさ。誰が先になって道をつけるかなんだよ」といっていました。ですから私も、自分一人でやってみよう、そのためにもまず自分でそれをやるための道具を整えようと思った。あの男を殺すつもりはなかったが、何をやるにせよ、あの男の周りの様子を見れば相手をまずすくませる道具が、やはり拳銃ほどの武器が必要に思えました。
それをどうやって手にいれられるか考えている内に、遊び仲間の子分格の不良少年から、かつて彼を補導しその縁で今でもつき合いのある元警察官が、以前事件でやくざを捕えその時押収した拳銃を二つ記念に収って持っているという話を聞きました。あの頃は警察もかなりいい加減だったんでしょう。
なお調べてみたら、その人は今は私の父の仕事の取り引き先の会社の飼い殺しの嘱託のようなことをしていて縁がありそうだった。私の子分もその人にはそんな縁で可愛がられていて、両方の縁から相手に近づき努めたせいもあって、私はその仲間よりも可愛がられるようになりました。といったところで、ことを打ち明け拳銃を買い受けるまでにはいかないから、私の遊び仲間にアメリカの将校と親しくしている男がいて、その将校が近々国に帰るのだが、拳銃や鉄砲の収集マニアで日本製の鉄砲は何丁か手にいれたが拳銃はまだ手にしていない。日本製にかぎらず出来るだけ旧いものならかなりの金で買い取りたいといっているのだがどこかに出物はないだろうかともちかけました。
相手の家に長く患っている病人がいるのを知った上のことでしたが、そのまま信用されて、思い当たりがないでもないから金になるなら間にたって紹介しようということで、間もなく旧軍人所有のものだということで、彼がやくざの親分から押収しそのまま持っていた、南部式とかいう陸軍が使っていた拳銃を実弾四発添えて買い受けました。値段をはりこんだので相手はそのまま信用してくれたようです。
生まれて初めて手にした拳銃を、ある夜磯子の山の中までいって試しに一発だけ撃ってみました。引き金を引き絞った瞬間、長い銃身の先から思いがけぬほど大きな銃声が轟き弾が分厚い森を突き抜けて走るのが感じられました。これはこの一発で人を殺せるという強い実感があった。そして、あの男を殺す気はなかったが、あるいは下手をすると結果として相手を殺してしまいかねぬとも思った。あれは生まれて初めて味わった人生の予感とでもいうものでしょうか。同時に、自分がこの拳銃を手にしてあの男に向かって必ず何かをするだろうと信じていました。
しばらくして、川俣が自宅のある町の郊外の山の上にとてつもない豪邸を新規に建築しだしたという噂があった。なんでも一山買い切って、その頂上に城のような屋敷を作り、そこを本丸にこの国を牛耳るつもりらしいということだった。
それを聞いて現場を見にいきました。噂の通り町の郊外の小高い丘の上が切り開かれ、四方に一軒の家もない山の真ん中を木をなぎ倒して取りつけ道路が開かれ、その上で大掛かりな工事が行われているようでした。たわわな森を無慈悲に削り突っ切っていく急な勾配の幅広い道路が、あの男が天皇まで無視して那須の国有林でやったことを思い出させました。
丘の麓で作業している人間にさりげなく質すと、丘の上の屋敷は道路の工事が終ったら本格的にすすめられ、今年一杯近くかかって正月前には出来上がるだろうとのことだった。
屋敷が出来上がってすぐ、あの男があそこに住み着いたばかりの時に、あいつの目の前で屋敷を焼き払ってやろうと思った。思った途端になんとも気がせいせいしました。その代償に自分が何を払わなくてはならぬかなぞまったく考えもしなかった。
それからしばらくの間、焼き討ちをどうやって果たすかを夢中になって考えた。それは不思議なほど胸のときめく時間でした。子供の頃にもあんなに夢中になってものを考えたことはありはしません。
五堂の言葉ではないが本当は私一人でやるつもりだった。しかしどう考えても最低二人、いろいろ考え巡らして三人あれば十分やれるだろうと思った。内の一人は道具を運ぶ自動車をあそこまで運転していく役で、後はそのまま帰してもいい。それは当日探してもいいくらいだ。実際、あの時車を運転していった相原には仕事として頼んではいたが、何をしにいくかはその夜車の中で明かしました。あいつはそれを聞いて、いわれた通り飛んで帰らずにわずかに離れた所で丘の上を眺めことの結果を待っていたそうです。
丘の上の屋敷まで一緒にガソリン缶を運んでいく役には結局、拳銃の宛どころを教えてくれた崎山を選びました。年下の不良仲間でしたが私にはよくなついて、まだどこかうぶいところのある、そのせいか五堂たちの集まりにつれていってもいつも黙ったまま熱心に人の話を聞いていた。
「いやなら聞いてこのまま忘れてくれ。ならば俺一人でやるつもりなんだ。運ぶものを運んだら、そのまま姿を消してくれればいいんだ」
打ち明けていったら、
「そんな情けねえ話はないでしょ。なんで、ただいっしょにこいといってくれないんです。家を焼くなんてだけじゃなし、あんな野郎、ぶっ殺したっていいんだ」
「そこまではしなくていい」
「あんたと一緒なら、俺はどこまででもいきますよ」
いわれて私は思わず彼の手を握ってやったと思います。
ガソリン缶を二つ買い込み、その上で十二月の一日に家の様子を見にいきました。まだ家の周りには職人たちの出入りがあって、質すと引っ越しは月の半ばということだった。ならば決行は十五日の夜と決めて帰ってきたが、なぜかその夜から急に眠れなくなった。
身重の女房には、子供を生む前の体にさわりはしないかと思ったが、生まれてしまったらなおいいにくくなろうと、二月ほど前、その内に川俣の家を焼くつもりだと打ち明けてはいました。驚いた顔はしたがなにもいわなかった。後で聞いたら私がいつもそんな類いのことをいっていたからだそうです。
私にすれば初めての子供が生まれたということが心の励みにもなり、またさまたげにもなりました。これで何よりも確かなものをこの世に残せたという安堵と、生まれたばかりの子供への親として当然の愛着でしょう。しかし、生まれた赤ん坊を抱く度何かが体の内でふっ切れていくような気がしたんです。
しかし女房の方は実際に子供が生まれて、狭い家の中で赤ん坊の寝ている隣の部屋で夜中になにか気配がするのでお乳のついでに覗いてみれば、取り出した拳銃を布団の上に坐って磨いている亭主を見て、さすがに心配になって私の父親に打ち明けたそうです。
後から聞いた話ですが、父も今までの放埒とは大分違う話なのでさすがに心配して、仕事の関係で知己だった、父の会社のある地域を選挙区にしていた野村という川俣の子分の、派閥では長老格の代議士に打ち明け相談したそうだが、
「川俣のやり口はいかにも阿漕ぎだと私も思うよ。あれじゃ、心ある人間ならたいがい彼を殺したくもなるだろうが、結局は誰もやりはしないし、そんなこと出来るものじゃない。息子さんの気持ちは俺でもよくわかるが、大丈夫だよ、ほうっときなさい」
いわれた相手が弁護士上がりだっただけに親父はそれで安心して女房を逆に諭したそうです。
そのせいか、ある夜手にしたものを磨いている私を覗いて見た女房と目が合ってしまい、
「俺もまだ迷っているのさ。やれば十年近くは食らうだろうからな。もしそうなったら、お前は俺を待たずに別れて誰かいい人とまた結婚してくれてもいいぜ。いわなかったが、離婚届けは作って俺の判だけは押してあるからな」
いったら、
「私のことは心配しなくてもいいのよ。こうして子供も出来たし、私はいつまでも待てるわ。だから好きなようにして下さい。いわれて止めるあなたじゃないでしょ。それより、やろうとしたことをやらずにしまって、それで一生後悔するのを見るのはいやだわ」
「本当にそう思ってくれるか」
「本当よ」
彼女はいってくれました。しかし自分でそういった言葉について後で後悔したかもしれません。
焼き討ちに出かける直前にも私は女房に、玄関に崎山を待たせながらいったんです。
「俺はこれからいった通りのことをしに出かけるが、正直いって今でも迷っているよ。でもな、お前もいってくれた通り、今ここで止めても誰も俺を咎めはしまいが、後で俺が俺を咎め続けるだろうから、やっぱりいくことにする」
「わかっていますわ」
彼女はいいました。
十二月十五日の夜十時前あの男の家のある丘の麓に車を乗りつけました。雨を含んだ冷たい風が吹きさらす夜で、辺りには人影もなかった。二人を車に残して舗装の出来上がった道を上まで上ってみると、都合のいいことに高い塀からなにからすっかり出来上がっているのに、肝心の門だけが間に合わず薄いベニアの仮戸が門柱に立て掛けられていました。そして人の気配を証すように屋敷の窓から明りがもれていた。
車の音を低くしゆっくり上って門の前まで乗りつけ、相原は下へ追い返し、崎山と二人でガソリン缶を下げベニアの仮戸を押しのけて入り玄関のベルを押したんです。
女中らしい声が出て、
「急な使いで、先生への届けものをもってまいりました」
私はいった。
「先生は今日はおいでにはなりませんが」
女の声の様子にはつゆこちらを疑う様子はなかった。
「ならば奥様にお渡しください。裏へ回りましょうか」
「いえ、そこでお待ちください」
ということで玄関の内側に灯がつき、人影がして中から鍵が開いた。
外から見た通り内側も総檜づくりの、天井の梁も柱も太い見事な一本もので、玄関の正面には誰やらの太字で書いた大きな額がかかり、玄関座敷の正面にも黒い光沢のある分厚い一枚板のつい立てが据えられ、その前に大きな青磁の壺が置かれてあった。家の構えそのものが玄関からして他の家とは幅も高さも違って見えました。そして家中にたちこめた真新しい木の香が胸にまでしみるようだった。もっともその香りの印象は家の主のあの男にはまったく不似合いなものでしたが。
女中はガソリン缶を下げて立っている私たちを見ても、まだなにも疑わずにいたようです。しかしそのまま彼女の目の前に土足のまま靴ぬぎから畳敷きの式台に上がってくる二人を見てやっとただならぬことと気づいたようだった。
なにか叫びそうになった彼女に、私はこれからなにが起ころうとしているのかを説明してやるつもりで、ゆっくり胸元から拳銃をとり出して見せました。
「俺たちは誰に害をするつもりはないが、先生はどこだね」
最初に聞いた通り川俣は地方に出向いて不在で、奥さんだけが内にいるという。
「奥さんのところまで案内してくれ。いった通り絶対に害はしない、ただ逃げるという訳にはいかないよ」
幅広く長い廊下にもいかにも出来立てらしく玄関で嗅ぐよりも高く濃い木の香がたちこめていて、木づくりながら磨かれて光った廊下を踏んでいく自分の靴の固い音がいかにも不似合いなものに聞こえたのを覚えています。廊下の長さといい屋敷の内の深さといい、
「こいつは赤穂浪士の討ち入りした吉良の屋敷くらいのもんだな」
崎山に振り返っていったが、彼の方は緊張でか返事もなかった。
とにかく、今まで見たこともないような豪勢な家でした。その中を今現にはいた革靴のまま土足で歩いている自分がなぜだか急に夢の中のつくりもののような気がしてきて、私は自分を確かめるために通りすがりの部屋の襖を爪先で蹴りつけて穴をあけてみせ、女中はその気配にふりかえって怯えながらも咎めるように私を見詰めていました。
その目を見返しながら突然、今ここに誰でもいいもっと他の大勢のやつらがいればいいと熱く思った。
案内された小広い居間に半白の髪の川俣の細君が長火鉢を横に、前に据えた小机に向かって手紙を書きながら坐っていました。
さすがに驚いた顔で見上げる相手に、
「私たちはあなたにも川俣さんにも、直接害を加えるつもりで来た訳じゃありません。ただ、あの人にしっかりと反省してもらわなければならないと思っています。あんただって他人じゃないんだから、それだけいえばわかるでしょう。そのために、せっかく出来たばかりの家だがこれから焼き払いますから、怪我をしないように表に出ていただきたい。他に誰か人はいませんか、逃げ遅れると危ないので知らせておいた方がいい」
「書生がおります」
青ざめはしたがわりに落ち着いた声で細君がいい、私は女中に、
「すぐに呼んできてくれ。時間はないぞ」
促すと女中は慌ててもつれるような足取りで出ていきました。
間もなく女中と一緒に二十そこそこの若い男が部屋を覗き何か叫んだが、私が黙って手にした拳銃を向けてかまえるとすぐに黙った。
「お前は奥さんをかばって粗相のないようにしろ。これからこの家に火をつけるからな」
手にした物をかざしたままいい、崎山に促すと彼は坐ったままの奥さんの反対側の女中の足元に向かってガソリン缶の中身をぶちまけました。僅か一缶の中身があんなに量のあるものとは思わなかった。とたんにもの凄い匂いがあたりにたちこめ、崎山は顔をそらすようにして体ごとゆすって弾みをつけながら中身を撒き散らしていました。
「畳だけじゃなし、壁と襖にもかけろ」
いわれるまま崎山はあちこち向きを変えてぶちまけ、それが女中の裾にかかって、彼女が奥さんの方にむかって逃げようとして広がった燃料を踏んで滑って転び、私は崎山に促して彼女を助けて立たせ奥さんの後ろに回しました。一缶だけでも揮発の匂いはすさまじく|眩暈《めまい》がし息がつまりそうだった。
「雨戸を開けてみんな庭に出るんだ」
いうと、救われたように書生が走っていって雨戸を開けた。
その瞬間外に吹いていた風が思いがけぬほど激しく室内に吹き込んで、一瞬にしてたちこめていたものを吹き払った。私もそれで冷静さをとり戻し、手にしたもので彼等を庭へ促し、その後拳銃を収うと足元にあったもう一つのガソリン缶の中身を念おすように左右の襖や壁にぶちまけ残りを同じように次の間の四方にかけた。
崎山が外に出ているのを確かめ、持っていったライターに火を点して縁側の廊下の端から投げると、たったそれ一発でどーんという音をたてて部屋中にぶちまけたガソリンは一瞬にして燃え上がった。
あの瞬間の恍惚をなんといったらいいのだろう。私のこの手でまさしく世界が一瞬にして変わってしまったんです。うそ寒い暗黒が突然肌を焼く紅蓮の光彩で天を目指して燃え上がり、闇が隠していた最高の悦楽を、突如として天を摩す炎の塔の中に炙りだしていました。それでもなお、やがては消えて元の闇と灰に戻るだろうがゆえにいっそう狂おしいほどの美しい巨大な炎に向かって、実は我々が生まれながらに与えられ持っていながら、人前では露わに出来ず忘れようとさえしている|凶《まが》|々《まが》しい本能が体の内から湧き出し音をたてて吸い込まれていくのを、炎のほてりを前にしてもなお乾こうとはしない涙のままに感じていました。
今目の前の炎の中に、生と死、破壊と創造、虚無と実在、ありとあらゆる対なるものが映しだされているのが、突然の何かの覚りみたいに強く感じられました。燃え上がる炎の柱は、私がようやく行き会えた私自身の時の時のまとうた|瓔《よう》|珞《らく》のようにも感じられました。
それは本当に、眺めても眺めても見倦きることのない見ものだった。数奇をこらした豪壮な屋敷が風の下で自らも巨きな風を巻き起こし、轟く炎の柱を天に向かって支えながらますます太く激しく燃え上がっていました。戦争中の空襲の惨禍や他人の家の火事なんぞでは味わうことのなかった、ふるいつきたくなるようなものを私はあの手作りの豪勢な焚き火の前で感じつづけていました。
それにしてもなんで巨大な炎というやつは、人間が日頃隠している本能をさらけ出しつきつけてくれるのだろう。火の粉を浴びながら炎の間近で私が最後に感じとったものは、いわば自分の一種の本卦還りだったのかもしれません。私はあの時にこそ自分の誕生を信じていました。二度目ではあろうと、しかし自らそう覚れたからこそ、あれこそが私自身の誕生だったんです。だからこそそれは、眺めても眺めても倦きることのない見ものでした。
火の回りは想像していたよりもはるかに早く激しく、最初懸念していたように消防が飛んできて消してしまうなどという暇はまったくなかった。実際にサイレンを鳴らして消防自動車が丘の上の門前までやってきた時には、私が最初に火をつけた母屋の一番奥の棟は燃え上がって焼け尽くし崩れ落ちていきました。こんな事態を予測した者など誰もいるはずはなかったろうからあたりには家の水道のための水源しかなく、一度上までやってきた車がまた下まで下って消火の水源を探し注水の長いホースを繋いで繋いでようやく現場までたどりついても、火の手はすでに極みを超えていて、彼等とて今さらなにを守って残すあてもなくただおざなりに水をかけながら豪勢な焚き火に見いるだけでしかなかった。
「最近にない火事だなあ」
ホースをかまえながら誰かが仲間に感じいったようにいっていました。
私の方はこんな火事がざらにあってたまるかと思った。
風向きが少し変わって火の手のいきりがまともにかかりそうになり、私は立ったままでいた奥さんを促して奥の横手の庭石に坐らせました。彼女も場所を変えながらもなお、燃え上がるものから目をそらそうとはしなかった。
しばらくし傍らの私を顧みるようにして、
「なぜこんなことをしたの」
咎めるというより彼女も思わずのように質しました。
「その訳はご主人が誰より知っていますよ。誰かがやらなきゃならなかったことなんです」
私はいいました。彼女はかすかに頷いたと思う。
そして私はなぜかしみじみ、今夜ここにあの男がいなくてよかったとも思った。あんな馬鹿野郎に、こんなに綺麗なものを見せてやれるものかという気がしていました。
公判で私は自分がなぜあれをやったのかについてはほとんど喋らずにいました。それがかえって検察側を苛立たせたようです。実際に私は控訴もしなかった。ついてもらった弁護士が変わった、というか妙な信念のある人で、後に有名な冤罪事件を勝ち取った人ですが、私のいうことを逐一聞いた後で、
「君は今までただふわふわと大事な人生を過ごしてきたんだから、これをいい機会に中でじっくり座禅でも組んでよそでは出来ぬ勉強をやってきたらどうだね」
といってくれたんです。
やったこともその動機も明々白々ですから、検事たちはただことをけっして美化させまい、やった人間はただのちんぴらで浅薄な功名心にかられてのことという印象づくりに懸命になっていました。
こうした事件の後を絶って社会の安寧を計ろうということでしょうが、しかしその安寧なるものがいま在る国家あってのことということを、彼等はどれほど自覚していたのだろうか。ただ目先の安寧だけを守ろうとすることへの腐心が、下手すれば国家そのものを毀損しかねないだろうに。
私があんなことをやったのは、このままでは国家にとって一番基本の土台が蝕まれていくだろうことを見過ごしに出来なかったからです。そしてそのためには、彼等のいう安寧を犯すことでしか出来はしなかった。早い話、昔成功してこの国をここまでにした明治の維新だって、しょせん非合法なものだったじゃないですか。刑務所に入って読んだ毛沢東の「矛盾論」にも、目先の矛盾ばかりに気をとられかまけていると、その底の底の主要な矛盾が育つだけで世の中救われないとありました。
いずれにせよ彼等は安寧のためと称して従属した矛盾だけを阻むために、関わりある人間たちと私の間に亀裂をつくり、それを広げることで禍根を絶とうとしたんでしょう。その犠牲にされた人間も何人かいました。
実は、あれを実行する直前にごく限られた何人かの先輩にはことを打ち明けていました。しかしもう一つ本当をいえば、そう打ち明けられて私に思いとどまるよう諭した人は一人もいはしませんでした。
五堂たちの仲間内にその道では知られた、なぜか私にはことさら目をかけてくれていた男がいました。論の立つ人で議論の中では五堂も一目置くような相手でした。検察はその男に目をつけ、いわば彼を槍玉に上げて、今後ああした事件が起こらぬようにあの道の人間たちにしめしをつけるつもりだったようです。
ある日突然検事から、彼から聞き取ったという調書を見せられて驚いた。私について問われ、その関わりを否定して身をかばうために彼は私のことを、思想も節操もないただのちんぴら、今回の事件もただ売名のためで、そのいましめにもこっぴどく裁かれるべきだといっていました。
その調書を見せた上で、
「今度の事件にも顔があるが、その目鼻の一つがどうも欠けている。それがあの男だと思っていたが、これを見ると案外な気がしたがね。
しかしこんなくわせ者をこのまま偉そうにさせておけば、君が腐敗矛盾に義憤してあの事件を起こしたところで、連中はどう変わりもしないよ。あんな人物をこの際右翼から葬ることが必要じゃないのかな。
どうだ、泥をかぶってこいつを一緒に食らいこんでくれないか。おれは君よりもこんな奴の方が憎いんだ」
検事はいい、私は事前の調書には一切応じないが、彼と直接顔と顔を合わせての上ならやりましょうといってやりました。
検事は同僚と随分相談したようですが結局、私のいった通り、相手には知らせずいきなり私と対決させることになりました。その日、彼が尋問されている部屋に私が連れてこられると、なんとも情けないことに|件《くだん》の先輩は吸っていた煙草を指からとり落とし、立ち上がろうとしてよろけ床に膝ついておろおろ私を見上げる始末だった。
そこで検事がいきなり、彼の目の前に前回の調書を投げて置き、
「この調書は、彼に見てもらったからね」
いうと、なんとか坐り直した椅子からまたずり落ちて、声を出すどころか息もつけぬありさまだった。
それを見てどうにもたまらなくなり、
「大丈夫だよ、俺はまだ何もしゃべっちゃいませんよ。もう何もいわないから安心してて下さい。ただ、これはあんたを庇うためじゃないんだ、俺があんたから結局なんにも教わりはしなかったということだよ」
いったら検事が仰天して立ち上がり、「面会中止」と叫んだ。
その時なぜか私は、今までにない豊かな気分になったのを覚えています。あれはあるいは、私が人生で初めて他人を許したという体験だったかもしれない。
崎山もまた彼等の犠牲者の一人でした。車を運転していった相原は事前に何も知らされていなかったということで放免になりましたが、私は崎山も出来る限りことの責任から遠ざけておこうと思っていたのに、病気の母親を強引に連れてきて接見させ口説かせた検事の脅しすかしに乗せられて、あの男は事件に私が携帯していた拳銃の出所を喋ってしまい例の相手にひどい迷惑をかけてしまいました。私にはそれは絶対に許せぬことだった。それに彼は私に関して件の先輩と同じように、私が彼と同じ不良上がりで、だからこの事件も仲間内での売名のためでしかなかったのではないかと水を向けられ、肯定し署名していました。
公判の調書の朗読で初めてそう知らされましたが、逆に判事が崎山に、「人間の今現在の資格を、過去の経歴だけで計れると思うか」と質し、崎山は真っ青になって俯いたまま答えられずにいました。
それ以来崎山とは口をきくことなしにきました。もちろんそのおかげで彼の刑期は短いものにはなりました。
私も彼のいったことをそのまま認めていいと検事にいってやった。私について彼のいったことに反駁しても今さらどうなるものでもない。裁判などという場で他人を介して言い争っても、相手はどうかは知らぬがこちらの心にはいやなものが残るだけです。あの先輩にせよ崎山にせよ、人を裏切ると、ずうっとそれを背負って生きなくてはならないのじゃないでしょうか。私はそんな余計な荷物はまっぴらでした。
後から聞いたところでは、崎山の父親というのはある県会議員の有力な後援者で、川俣に関しては大層批判的で、息子のやったことについては、「よくもやった」といって憚らなかったそうなのに、母親を虜にとられて崎山は結局父親の心も失ったのかも知れません。
控訴はせずに、結局十二年刑務所にいました。
当たり前でしょうが、中では娑婆では出来ぬいろいろな経験をしました。願っていたように、許される時間の限り手当たり次第に本も読んだ。しかしなによりためになったのは、世間では会えぬ人間たちに会えたことです。いい奴、いやな奴、立派な奴、卑怯な奴、本当に頭の下がるただ偉いとしかいいようない奴、いずれにせよ彼等はみんなはみだし者ばかりです。しかし、社会の枠からはみだすということがなぜそんなに咎められるべきなのか。中にはそれが犯罪とされるということを承知でやることをやり、自分一人でその責任をとって暮らしている男たちがいました。
印象的だったのは、その世界じゃ有名な事件だったから名も知れてるでしょうが、ある全国的なやくざ組織同士の抗争で、自分の組のために相手の親分と幹部二人を自分一人で殺した若い男でした。
刑期は私よりも長く十五年ということだったが、その男が本当に悟り澄ましているんです。彼は彼で私がやってきたことに関心を持っていろいろ聞かれもしましたが、私が、その若さでなんでそんなに落ち着いていられるんだと聞いたら、「自分は捨て石です」とぽつりといいました。自分がやらなけりゃ他の誰かがしなくてはならぬことだから、一番若い、所帯も持たぬ自分がやりましたと。
人は馬鹿と呼ぶかもしれないが、私は感動しました。たかだかやくざの組織のごたごた、世間にすればはた迷惑な出来事でしかあるまいが、その中にいる人間として、仲間のため組織のために自分だけが捨て石になるというのは、なまじに出来るものじゃありませんよ。
それで彼の組織が息を吹き返し栄えたか栄えぬかは別のことで、いや彼のおかげで実際にそうなって、彼も中から出たらそのまま出世して年には似合わぬ大きな島をもった親分にはなっているが、そんなことの前に彼があの中で黙って過ごした十五年という歳月の意味というか、重さは彼だけにしかわかりゃしません。わかるとすれば、私のような立場であそこにいった人間くらいでしょう。
彼の話を聞いて私はそれまで以上に自分のやったことに自分で納得出来る気がしました。お前は自分をやくざになぞらえて満足し、やったことへの自負なり誇りはないのかといわれるかもしれないが、そんな上っ面のことじゃなしその下その底の底の、なんというのか、人間の世の中の仕組みに関わることなんです。それがはみ出しであり、大方の人間の人生には馴染まぬことであり、ひどい罰を食うことだろうと、世の中には誰かが他の誰かのためにやらなくてはならぬことがあるでしょう。またそれがなけりゃ、世の中平ったいようで実は不公平だし、誰も救われませんよ。
はみだす人間、はみだす出来事があるからこそ逆に、大方の人間が安心してこもっていられる社会の枠が保たれているのじゃありませんか。
あの五堂がいっていたように、天命などという大それた出来事だって、結局は誰か一人二人の人間がやることでまず水口が開くんじゃないですか。
その他にもあそこではいろいろ思いがけぬ人間たちに出会いました。そしていろいろ利口にさせてもらった。
株に関する大それた仕掛けがばれてぶち込まれてきた男からは、株の仕組みとその裏の裏のかき方について教わりました。娑婆に出てからその男からつけられた知恵が結構役にもたった。それと、これはまあ反面教師というのか、左翼運動の中の暴力行為で送られてきた連中とは真っ向から違う立場で議論もしてみたが、それはそれだけのことを信じてやった奴らだけに、ある意味で人は真っ直ぐで決して悪い人間たちではなかったが、どこか肝心のところでものがわかっておらず、結局頭が悪いとしかいいようない気がしましたね。
お前らなんのためにあんなことやったと聞くと、どいつも一つ覚えにプロレタリアートとか搾取されている人間たちのためにだとかいう。そんな他人なんぞのために手前の体かけて何が出来るものですか。しょせんは自分のための筈なのに、なんの見栄のせいでかそれがわかっちゃいない。
なるほどと感じいったのは、大野という顔中に凄い火傷のケロイドのある男の話で、いったいなんでそんな凄い怪我をしたのか聞いたら、当人は気の弱い真面目な男でしたが、ダンプの運転手をしている間に惚れ切っていた女房が男を作ってしまい、それに気づいてある時何日か家には帰られぬ仕事に出ると嘘をついて突然家に戻り、男と寝ている女房をつきとめ蚊帳の紐を切って落とした上で二人にガソリンをぶっかけ焼き殺した。その激しい炎の煽りで顔中に大火傷を負うたということだった。
そう聞いて、あの時川俣の細君たちを庭に逃れさせるために雨戸を開けさせ、風がたちこめていたガソリンのいきりを吹き飛ばしてくれなかったら、多分私もあの男と同じように見られた顔ではなくなっていただろうと思いました。
途中、入ってから五年もしてでしょうか、あの時運転していった相原が突然面会にやってきて、これから当分インドネシアに出稼ぎにいき、目鼻がつけば向こうに永住するつもりだと挨拶していきました。その時思い出したように、崎山は刑務所を出て今ではどこかの工場勤めをしているが、町でばったり会った時私には顔向けならぬことをしたと悔やんでいたと教えました。当然でしょうが、昔の仲間は誰も相手にはしていなかったようです。
「なんだか腑抜けみたいになっていてね、あいつをしゃんとさせてやれるのは、あなたしかいないような気がしますよ」
彼はいったが、
「そいつは土台無理な話だな。俺はこの先いつまでここにいるのかわかりゃしないよ」
いいはしたが今さら崎山の身の上話でもないだろうという気分だった。腑抜けになったのは自業自得でもう私には関わりないことです。
「でもね、あの時下で見ていたけど、俺もあんなに綺麗な火事を見たことなかったですよ」
相原は声を潜めていうと出ていきました。
それともう一つ、十年目の春に女房が突然姉とやってきて、彼女と結婚したいという男が現れ、人も真面目だし仕事も手堅い商売をしている、いろいろ考えたが自分のためにも、そしてなによりそろそろ中学にも上がる年頃になった加世子のためにも再婚した方がいいと思うのであの書類を使わせてもらいたいといいました。喋ったのは姉の方で彼女は終始黙って俯いたままだったが、最後に私が、「それがお前の気持ちなんだな」、聞いたら彼女は意を決したようにきっぱりと頷きました。それを見て私の決心もついた。もともとあれをやる前に、いってやった通り私の判を押して離婚届けは作ってあったのですから。
しかしあの時はいかにもつらかった。彼女が死んでくれた方がどれほど楽かとまで思いました。囚人が一番こたえるのは女に捨てられた時です。あの中にああしていても、自分にはたった一人だけはじっと待っていてくれる人間がいるということが、身勝手な話だが心の支えなんです。だからその支えが突然外れると、実は密かに恐れていたことだけに泣き叫ぶ奴、暴れて仲間を傷つける奴、ある者は告訴まで起こしていました。
私の場合女房だけではなく、もう一人、いわば幻の娘を幻のまま失うことになりましたから。姉の方から、もうここまで来ると加世子にこれ以上の嘘はつけなくなってきたといわれてしまった。もの心ついた加世子に周りは、私のことを大事な用事でずっとアメリカにいっていて不在なのだと教えていました。だからあれきり顔を見ないまま成長して字も書けるようになった彼女から中にいる私に来る手紙には、私のことをアメリカのパパと記してあったし、私もそのつもりで返事を書いていました。
しかし小学校でも高学年になると、父親が実際にアメリカにいっている仲間の子供の所へ来る手紙には見慣れぬ向こうの切手が貼ってあるのに、私からのはなぜか同じ日本の切手だというので、私の手紙を見せた加世子に友達が嘘だといったそうな。その時はどうつくろったか知らぬが、だんだん今のままではすまなくなるだろうということだった。それも私にはよくわかることでした。
しかし、となれば加世子は完全に私から遠ざかり、今まで育ってどんな顔かたちの娘になっているのか確かめも出来ぬ内に、彼女は私にとって幻のままに消えてしまう訳です。
しかし、その場で、
「長い間ほんとうにありがとう。まったく君らのいう通りだと思う。だからもう二度と俺のことをふり返らずにいけよ」
いってやりました。
しかしやっぱりあれが一番こたえた。中では話はすぐに伝わるし、日頃周りに偉そうなことをいってた手前急にしょぼくれた顔も出来ない。女房と娘について下手な俳句をいくつも作ってみたが、それでなかなかどうなりもしなかった。
実家の親父たちは加世子に執着して彼女だけは手元に置こうとしたようですが、幼いながら何を感じたのか、加世子が「アメリカのパパがもし帰ってこなかったら、私はどうすればいいの。おじいちゃん、おばあちゃんどうか私をママのところへいかせて」と哀願して両親も決心したと便りがありました。
娘のことは何度も同じ夢に見ました。会わぬまま育った彼女の顔立ちもなにも知りはしないのに、夢でまざまざと加世子を感じ取るんです。しかしその顔かたちを確かめる前に、声だけがはっきり私を呼んでいるのに目を凝らすとかえってその姿が霧の向こうにかすんでいく。私は懸命に叫んでいるのに自分の声が私自身にも聞こえない。目がさめるとうなされていたのかその度全身に汗をかいていました。
考えてみると彼女が生まれてすぐに別れているのだから、成長した彼女の実体について何を知ることもないはずです。私の中で月日への思いとともに育ってきた彼女の姿はただの幻影でしかないのに、その幻すらが遠のいて消えていこうとしていることに恐怖のようなものを覚えながら、それをどうしていいのかわからずにいました。
なにやかやいかにも長くもあったし、それでいて短くもあったような気がしますが、とにかく十二年という月日を刑務所で過ごして娑婆に戻りました。
しかし、中にいた月日が実はいかにも長かったと悟ったのは外に出てからのことです。世の中もいささかは変わっているだろうと覚悟も期待もしていたが、その変わりようは驚くというより味けないほどのものだった。
子供にも別れた女房にも出てきたとは知らさずにおきました。子供の顔は見たかったが、中学にも進む感じ易い年頃の娘にいまさら務所帰りの父親でもなかったろうし、親や親戚にも再婚してしまった女房や子供のためにも顔を見せぬ方がいいといわれました。私もこの自分に親娘二人の第二の人生を掻きまわす資格のないことは十分に知っていました。
それに世の中の変わり様を眺めながら私には自分がまたいつか前と同じような出来事を起こすだろうという、妙に確固とした予感があった。そのために自分が今何をしなくてはならぬのか、何をしてはならぬのかがわかるようでまだよくわかりはしなかったが、ただ、自分にとって大切な人間たちをまたそれに巻きこむことだけは避けねばとだけは思っていました。
獄を出てから二度目の事件まで二年足らずの月日を、十二年の間刑務所にいてじかに出会うことのなかった出来事をこの目で見、体で確かめてみるつもりで、仲間に招かれるまま日本中を駆け足で回りました。いつも周りには中にいる時に出来た仲間やその係累と、女と酒もあったが、私自身の気持ちはなぜかあの中にいた時よりも焦ったようなものだった。しばらくして、獄中にいる間に死んだ五堂が彼の精神的な師だともいっていた、彼の墓のある禅寺の住職に墓まいりにいって初めて会った時、九十を越しているよぼよぼの坊主が、私は五堂に報告するつもりで刑務所の中で得たと思う覚悟やこれからの意中について話したら、黙ってふんふんと聞いていたが最後に、
「まあ、獄舎で長いことかけて培ったと思っている精神と、娑婆へ出て酒を飲み女を抱いて過ごす時間の中での心の内とどれくらいずれがあるかを、いつも自覚しておくことだね」
いわれた時は殴られたような気がしました。その一言で、獄から出てきて以来の気持ちの昂ぶりのようなものが沈静していって、やっと周りがよく見られるような気分になったのを覚えています。
獄を出てからまた同じところへの間の二年たらずの時間でしたが、二つ心に刻まれた出来事がありました。
二つとも旅から旅の間のことですが、ある人の好意で招待されていった生まれて初めての外国のサイパンで、かつて多くの同胞の死んだ海の底にそっくりそのまま沈んでいるゼロ戦を眺めたのと、ある仲間の郷里の熊本の離島にいった時、船の出る水俣の町で目にした水俣病の患者たちの姿です。
ともに無残といえば無残な思い出の形見だが、サイパンのそれは今ではすっかり遠くなったあの戦争を、水俣のそれは戦争の後この国に訪れたものを、特にあの中にいる間に私には知れずに進んでいった変化を象徴しているように思えました。
水の中に三十数年前に突っ込んだきりそのまま眠っている小さな飛行機の残骸を眺めた時、大袈裟のようだが私は水の中で嗚咽していました。この飛行機にこそあの従兄の秋山が乗っていたのだということを私はしゃにむに信じていた。乗っていた彼の体はもうどこにも残ってはいないにせよ、あのまま今まで三十余年こんなところで一人っきりでいたのかという気持ちだった。それに比べれば俺なんぞと思った。周りの者たちには時代遅れの感傷にしか思われなかったろうが、今浦島の私にとってはあの克己が戦って死んだ戦争はまだそんなに遠いものではありはしなかった。
熊本では八代海の離島で代々医者をしている、仲間の本家の伯父さんの家に泊まったが、そこで初めて水俣病なるものについて知らされました。刑務所にいる間に起こった災害だけに詳しい話は知らずにいたが、聞かされてみると恐ろしい話ばかりだった。
その家に薬をもらいにきた年配の体中が引きつったような女の患者の様子が気の毒で、いったい何の病気かと伯父さんに質したら、医者が声を潜めて、あれは実は水銀中毒の水俣病だという。しかしこの島ではその病気の名前を口にするのは禁忌で、自分が彼女をそうと診断したらこの島にはいられなくなるといった。なんのことかわからずに聞くと、島の向かいの水俣の様子を見ればわかるだろう。実はこの島にまでも水銀の汚染が広がってきているのだが、そうとわかれば島の魚はまったくよそで売れなくなる。それでは島の暮らしはたっていけない。
なにしろ島にも水俣にも一度もきたことのない大阪のはも問屋の主人が、この辺りからとれる魚を一手に仕入れているが毎日それを少しずつつまんでいる内に水銀中毒になってしまったそうな。
だから医者どん、この島には水俣病なんぞなかよ、わかっておろうなと島の長たちからいわれれば、どうせ治らぬ患者ならそれを教えることもあるまいと自分も観念して黙っているのだという。島全体でかなりの数、明らかに水銀中毒症状の患者がいるそうだが、彼等自身も含めてそれを口にする者は誰もいない。患者として補償を求めて国の認定を受けたいならこの島には住めなくなるということでもあった。離島という閉鎖社会では在り得ることなんでしょう。
私にはまだよくわからぬ話だったが、島での体験の興味で船で水俣に戻った時、予定より一日長居して町の様子を見たり聞いたりしてみました。水俣の町については、信じられぬほどむごたらしいことばかりだった。
この国が今みたいに栄えるために、あの頃は国の花形の商売だった繊維を外国にまで売り出し国挙げて儲けようと、化学繊維を作るに欠かせぬなんとかいう薬物をあの水俣の日本窒素の工場がほとんど独占して作っていた。だからこそそれを、工場の責任で海が汚れ奇病が発生しているということでにわかに止める訳にはいかなかった。それで原因を他のものにすり替えて見せ、そのまま目をつむっての垂れ流しで災害はなおも際限なく広がっていった。
その間学者たちの調査研究会は、あくまで他の原因と想定して調査していくうち逆に、原因はやはり噂の通り工場の排水の有機水銀だとわかってきて、結局通産省はその報告を握り潰し焼いてしまったそうな。大袈裟ではなし、私たちが今こうやって贅沢三昧していられるのもあの町の人たちが被った犠牲のおかげということでしょう。
町で出会った人たちの様子は無残というか悲惨というか考えられぬものばかりだった。一家七人の内、祖父祖母、父親母親、兄弟二人、みんな食べた魚からの水銀で中毒し頭が狂って死んでいき何故かたった一人生き残ったという男にも会ったが、その男が一番過激な運動家だそうだが私にはとてもそうには見えなかった。私が彼なら窒素の工場にダイナマイトでもぶちこんでいたかもしれない。そんな目にあっても、ほとんどの人たちは国の救いの手を今でもなお辛抱強く待っていました。
国が重い腰を挙げ担当の厚生大臣がようやく町にやってきた時、体がひん曲り苦痛で起き上がれぬはずのある主婦の患者が、これでようやく救われるという期待と歓喜でベッドに起き上がり、大臣様がこられたというので君が代を歌い出したそうな。苦い笑顔でそう聞かされても、こちらはとても笑う気にはなれなかった。
あの時もまた私は、国家というものは自分たちにとっていったい何なんだろうかと改めて思いました。そしてそれに自分がどう関わったら納得出来るものだろうかと。
八代海の水は優しかったが、あの水を返すことの出来ぬほど汚したのは何なのか、なぜなのか。見ても目には見えぬことだけにいっそうむごくて許せぬことに思えてならなかった。
あの頃から|流行《は や》りになってきた公害問題というのは、結局我々にとって国家とか社会というのはいったい何なのだという、他でもない自分自身への問い直しでしょう。経済が膨れ上り人間たちは飽食して太り、その上で政治は退廃していく。それが進めば、あの川俣たちのやりくちが呼び水になって仲間内の混乱を呼び、結局それにつけこまれて左翼の知事や市長をあちこちに誕生させ、そいつらはそいつらで無能なままになにもせずにべつの混乱を招いて国民に迷惑をかけた。私は捨て石としてせめて僅かでもそれを防ぐつもりで十二年中にいってはいたが、出てきてみればまた別の病いがこの国を蝕み、新しい危険を招いているだけでしかない。
つのっていく社会の新しい不満や不安に左翼が大きく火をつけるのはいつだろうかと、私は私なりに考えるようになりました。
そしてそのきっかけは多分、連合赤軍の事件や彼等のもろもろの動きを眺めてみて、天皇御在位五十年の祝いに反対してだろうと思った。彼等はきっとどこか主要な場所なり大事な人物を占拠なり誘拐し、なにかとんでもない要求を政府に突きつけるのではないか。その時はこちらも自民党の本部なり経済界の主要拠点を占拠し、政府にみだりな譲歩をさせぬよう牽制しなくてはなるまいと仲間と話し合っていました。
私は今でも、日本の新左翼系の過激派はあの姑息な共産党とはまったく違った人間たちだと思っています。共産党の奴らはしょせんこの社会の寄生虫のようなもので、反対を唱えながら実は今ある枠の中で生き長らえていこうとしているだけです。しかし彼等は右とか左とかではなし、前にもいったようにどうにもはみ出してしまう血の流れの人間たちなんです。あの赤軍の女闘士の重松信子の父親は昔の「一人一殺」の血盟団の一員だったそうです。彼女が歴史で一番好きな人物は獄死した国学者平野国臣だそうな。わかるような気がする。
しかしなんだろうと彼等のやることはこちらも防がなくてはならない。その想定で私たちも準備を急ぎました。前回とは違って確かなメンバーも集まり、相当規模のことは出来そうだった。
ところが天皇御在位五十周年記念の折にはなぜか何も起こらずに、肩をすかされたような気持ちだった。かつて三島由紀夫が起こした事件の折も、前年の一○・二一には彼等が期待したように大規模な騒擾事件は起こらず自衛隊の出動もなかった。それに焦っての議論がずいぶん闘わされたようですが、評価はいろいろあろうが、結局あの市ヶ谷台事件が起こった。そして今度も、あの時の生き残りも仲間に含めて同じような議論がされました。
今現に敵側がことを起こしてはいなくとも、必ずそれを呼ぶ事態が到来する。現に社会の何を眺めてもものごとは良くなってはいない。相手がことを起こしてからの対抗よりも、それを防ぐための警世の行動を今起こすことは決して無駄ではない、という論だった。特に私が約束した通りに調達した武器を見せたら、それが行動派の本能を刺激してしまったのか論が激昂していき私にも彼等のエネルギーを抑えきれなくなりました。だから、この先のために十分余力を残しておくべく今度は出来るだけ少数でやろうと、私と後三人の若者がいったのです。
あの象徴的なビルを突然占拠し、彼等が今支えているこの国の進み方に異議のある人間たちもいるのだ、それを知らなければこの国はやがて取り返しのつかぬものになるかもしれぬということを彼等に警告し、沈黙している声を興そうということです。
檄文は私が書きました。書く時、あのサイパンと水俣で見たものを念頭に置きました。その脈絡で、経済の営利至上主義がもたらした薬品公害、環境破壊、人心の荒廃、教育の荒廃、そしてそれを顧みさせぬ、敗戦後この国を決定的に規制し呪縛してきた、日本を真の国家たらしめぬヤルタ・ポツダム宣言に拘束されるまま歪んで造成された戦後体制の打破。日本は私たちの心に繋がる真の国家であって欲しいと。書きたいことは他にも山ほどありはしたが――。
しかしあれからさらにまた随分の月日が流れましたが、はたしてこの国は我々の納得出来るような国家らしい国家になりおおせたのでしょうか。
あらかじめ建物の下見をし、手筈を整えました。ある意味でことはあの川俣邸を焼く時よりも容易に思えた。
ただ私の懸念は、もしその時あの建物の中に会長の土橋静磨がいたら、多分隊長の秋月は彼を殺して自分もその場で死ぬに違いないと密かに思っていました。私は個人的にあのひげ達磨みたいな土橋が好きだったし、彼に個人としての罪はなかったが、しかしなお彼が現在あの建物の主である、というよりこの国をこう変えてしまった勢力の代表であるということで仕方ないことでもあった。そして彼のような人が犠牲に供されることでこそ、我々の行為の無償ゆえの本当の目的が世の中に伝わる筈でもありました。つまり、見せしめということです。
相手にせよこちらにせよ、犠牲を払わずにする改革なんぞこの世の中にある訳はない。誰がなんのために誰を犠牲にし、自分もまた何を支払わされるかのとり合わせは、運でしかない。人間の歴史なんてみんなそうだ。だからこちらも、その運を信じていくしかない。
つまりそれは肉体言語とでもいうべきもの、いうべきことなんです。どんな理念だろうと、結局はこの体で現す以外にありはしない。行為のともなわぬ理想理念なんぞある訳もない。男と女の間の愛だってその極致は心中ですからね。
私自身はいつも若い仲間に、人はなるたけ殺すな、殺して刑期を長くするより何度でも同じことを繰り返すのだ。この世の中は金太郎飴みたいに何時どこを切っても同じ質の悪い現象しか現れてこないのだから、こちらも飽かずに繰り返すしかないのだとはいっていたが、いざとなれば彼等にはそれが通じないこともよくわかっていました。
土橋がその時あそこにいるかいないかも結局お互いの運ということでしかない。そしてその不可知さもまた、ああした行動に秘められた魅力の一つともいえました。
四時半に財界連合ビルの玄関に入りました。手筈通りまず大谷がエレベーターに乗り七階のボタンを押して待つ。その後に解体して鞄に入れたライフルを持って小野寺が続く。エレベーターの前にいるガードマンがその中身を質して手こずったら、その後ろから来る秋月が懐の拳銃を出して相手を威嚇しそのままエレベーターに連れ込んで七階まで上る。私は彼等のそばで遊軍として臨機応変に対処して事を運ぶ、ということだった。
番狂わせは大谷がエレベーターで待つ間他の客が続いて乗り込み、その後に来た小野寺が予想した通りガードマンに荷物の中身を質されている間に、手間取ると思ったのかその客がまた出ていき他のエレベーターに乗り移ってしまったことでした。ガードマンは小野寺にもう一度鞄の中身を質し、彼が上でする工事のための測量の機械だというと、ちょっと中を見せてほしいという。いやここで出すと中の仕組みが狂って困る云々、といっているのを見て秋月が懐に手を入れて近づこうとした時、なぜか|咄《とっ》|嗟《さ》に私が彼よりも先にエレベーターに乗りこんでしまった。あれは一種の勘というものだろうか。そしたらガードマンがなぜか私を見て目礼しました。私も目礼しなおし、「上の現場でお見せします」いったらガードマンはそのまま頷いてしまった。
中で顔を見合わせたが、それで気が緩んだか大谷に続いてさっきの相客が押したままの六階にまずエレベーターが止まり、みんな思わずそこで降りてしまった。降りて気づいたが、向かいの部屋のプレートを見たら同じ財界連合の事務所だったので、私が促し四人はまず横の洗面所に入った。そこでいいつけていた通り三十秒でライフルを組み立てる筈だったが、小野寺が緊張してしまって手こずり、その間に掃除婦が入ってきたので扉を開けて小野寺を押しこんで隠したりして、組み上がりまでに二分以上もかかった。
ともかく武器の準備が出来上がり、私も風呂敷に包んできた日本刀を取り出して鞘は払わずに手に下げて歩きだしたら、向こうからどこかで見覚えのあるかなり年配の男がやってきて私たちを怪訝そうに眺めながら歩みさった。すぐその後で気づいたが、前の会長の植芝健四郎でした。
前会長ではとそのままやり過ごし奥の総務部秘書課というプレートの扉を押して入りました。いきなり上の役員室へ押し入るより、ここの方が人質がとり易いと思ったからです。
中には二十人ほどの人間がいました。そこで小野寺がいきなり天井に向けてライフルを一発発射した。広いとはいえ閉ざされた部屋の中での銃声は驚くほど大きく、というより分厚く響きわたりました。そしてその銃弾がコンクリートの天井に当たって飛びさらに柱のどこかに当たってなおどこか机の上の事務機器に当たって、機械のプラスティックの覆いが無残にはじけて飛びちった。たった一発の弾の小広い部屋を一瞬の内に上下左右飛び廻っての軌跡のすさまじさが人質たちに固唾を呑ませるのがわかりました。それは日常彼等が仕事している建物の内に今起ころうとしているものごとの異常さについて直截に彼等を悟らせたに違いない。
わずか一発の銃声でその部屋に持続していたありきたりの時間が突然断ち切られ、彼等にとってはまったく未知の予想もつかぬ事態が理不尽に突きつけられたということを、誰もが瞬時にして悟り、それにどう向かいあっていいのかわからぬままみんなただまじまじと私たち一人一人を見比べ見つめていました。
そして私自身も、自分がまたこうして、今まで二年たらず久し振りに過ごしてきた世間から再度ある敷居を超えて並とは大方かたちも中身も違う人生を選んでしまったことの実感を噛みしめていました。
秋月が拳銃をかざしながら、
「皆さん、静かにして下さい。私たちはある目的のためにこれからこの建物を占拠しますが、人を傷つけるつもりはない。まず会長に会って話をしたいが、申し訳ないが皆さんにそのための人質になっていただく。全員上の会長室までいってもらいたい。ただし、抵抗する者はその場で射つ」
いったら、
「あの、会長は今日はもうおられませんよ。三時頃お出になりました」
誰かがいった。声に向かって秋月が険しい顔で振り返るのを見て、
「それでもいい、みんな上にいくんだ」
私がいいました。
土橋会長は声が告げた通り不在でした。それを確かめ僅かにほっとしました。これでいい、と思った。しかし土橋氏を死なさずにすんだのはいいが、それでかえってことの切りをどこでつけるかがむつかしいと思った。こういう行動はセクスと同じでだらだら長ければいいというものでもないし、短かすぎては悔いが残る。
人質たちを会長室に閉じ込め三十分ほどかかって机や椅子で内側にバリケイドを作りあげたが、それから間のもてぬ時間が二十分ほど過ぎてようやく、どこか他所から部屋に電話がかかり、秋月がそれをとった。
「いや、これは冗談でも芝居でもない。我々は国の将来を思って警告のためにここへきたのだ。いわんとすることは檄文にも記してある。警察が無用な挑発をせぬ限り、ここにいる人たちの生命は保証する」
いって彼は部屋中の人間たちを見回して頷き電話を置きました。
一時間もたたぬ内に向かいの産業開発公庫ビルの同じ階のテラスにヘルメットを被り手に銃を持った機動隊がひしめいていました。こちらの部屋の窓にはテラスがなかったので、通気窓を開けてその隙間から地上に向けて持参した檄文を私がばら撒き、やがては人が押し掛けるだろう外の廊下にも撒いた。
向かいの幅広いテラスに重装備してひしめく機動隊は、地上から私たちに向けた投光機の明りの反映で浮かび上がり、グロテスクなほどものものしく壮観だった。
それに見入りながらふと思い出していたのは、あの時、火を点したライターを投げ込むだけで轟音を立てて燃え上がっていった川俣の屋敷の光景でした。あの瞬間、私は居並んだ機動隊の向こうに、あの豪勢な火の手を重ねて見入っていたと思います。
そしてこの今になってみてわかるのは、あの時もその前の時も、私は結局あの一瞬を、ほとんど一瞬だけに、他のどんな時よりもはるかに濃く息もつけぬほど楽しんでもいました。捨て石とはいいながらも、やっている身にはそりゃあ面白かった、あんなに面白いことはなかった。だからその代償も大きくはあった。でも、生きるという実感は面白さの中にしかありはしませんよ。たぶんあの時私は矛盾した話だろうが、仲間も何もかも忘れてうっとりと目の前にあるものに見とれていたのだと思います。
「あまり窓に近づくと危ないぞ」
誰かが叫んでくれたが、人質もいるのに向こうからいきなり私一人を射つ訳はない。一歩さがって広い通り越しに、向かいの建物のテラスにひしめいている機動隊を眺めなおしてある感慨がありました。千葉の刑務所を出る時予感した通り、ああ、俺はやっぱりここにこうして戻ってきたな、と思った。後悔でも昂ぶりでもない、とにかくただそういう心境でした。
振り向いて部屋の中を眺めなおすと、人質は当然でしょうが仲間も誰も彼もみんな緊張し顔をこわばらせて、人質は息するのをはばかるように身動きせず、仲間は用もないのに小刻みにそこら中を歩き回っている。眺めながら、私は土橋会長の幸運な不在を聞いた時思ったことを本気で考え出しました。それがプロというか、彼等よりいささかの先輩の責任でもあった。
やがて相手は投降を呼びかけてくる。仲間は当然拒否する。しかし時間の経過とともに人質の中の女や年寄りは解放しなくてはなるまい。そしてその次のどこらで仲間を説得しにかかるか。
その間合いを計るためにもと部屋のテレビをつけさせたら、臨時ニュースがこのビルで起きていることを報道していました。檄文には名前を連ねてあったが、手間どったのか画面にはまだ私の顔写真しか出てはこなかった。そして、中に人質として囚われている職員の中にここの加賀美専務理事も含まれていると顔写真が出た。それを見て初めて、さっきからしきりに、自分はここにやってきて巻き添えをくったジャーナリストで、夜に大切な会議があるので是非ここから出して欲しいといっていた男がなんのことはないここの専務と知らされました。その男がここで土橋についで何番目の地位にあるのかは知らないが、土橋の代わりに彼を殺すつもりなんぞありはしなかった。だから私がわざと声を荒らげて、
「貴様、自分が誰と名のって、自分の代わりに女なり他の年寄りを出せというならわかるが、自分一人だけ出してくれとは情けない野郎だ」
怒鳴ってみせたら男は青ざめて俯き、
「いえ、それは私が申し上げたんです」
誰か若い職員の男が手を挙げていい、
「それでもなんでもだっ」
私が苦笑いでいうと、妙なものでなぜかそれで部屋の中の緊張しきった雰囲気が僅かながら緩んだ。
しばらくして地上の拡声器がまず人質の解放を呼び掛けてき、私は仲間に計って女と加賀美を除いた年寄りをバリケイドの隙間から廊下に出しました。隙間から覗いた外の廊下もすでに私服の刑事たちが一杯だった。その作業の最中にさっき加賀美をかばった男がまた手を挙げ、
「まだこの中にブラジルからいらしている外国のお客様がおられるので、その方たちも出して上げて下さい」
いうので質したら、顔は同じだがブラジルの日系商工会議所の会頭とスタッフ二人がまぎれこんでいました。連中にはなんと釈明していいか分からず黙って頷いて促すと、彼等も黙って頷いて出ていきました。
一番強硬だったのは秋月で、それに倣ったように小野寺も投降は嫌だと言い出した。ならばここで自分たちだけで死ぬのか、まさか人質を道連れにする訳にはいくまい、死ぬ気で来たのは俺も同じだが、この事態になれば今死ぬのはなんになりもしない。死ぬためにはもっと効果のある大事な機会が必ず来る。そう信じて、我々はその先駆けとして来た筈じゃなかったか。またここから出てこれからの機会のためにも仲間を育てることだ。獄中でも勉強しよう。世間は、特にマスコミはここでなにか血みどろの事態が起こるのを期待しているだろうが、俺たちはマスコミのためにやったのじゃない。時と場合によって、死んで出来る仕事も、生きてしなくてはならぬ仕事もある筈だ。今、我々は次のもっと大きな機会のために今は死ぬべきではないと、私はいいました。
外がようやく白んできた頃、最後にわざと突き放すように隊長格の秋月にいってやった。
「よし、ここらが切りだ。最後に君が決めろ。そして全員そろって堂々と出ていこう」
それでも秋月と小野寺は部屋の隅で長いこと話し合っていましたが、私の横にいた大谷は、
「私もこれでいいと思います」
頷いて見せました。そして、
「おい、いこう」
大谷のかけた声に、二人はようやく近づいてきて頷いた。
秋月が廊下で交渉した通り武士として投降するという私たちを、彼等も手渡した武器を受け取るだけで手錠をかけることなく階下に促しました。
朝まだきというのに玄関のホールにはエレベーターの前から正面玄関までびっしりカメラ班の脚立が立ち並び、その足元にも記者やカメラマンがひしめいていました。滑稽なのは、真っ直ぐに玄関口に向かおうとしている私たちに、彼等が四方から自分の構えたカメラに向いてくれるよう口々に名前を叫んで呼んで、それはあの場の雰囲気に似合わぬ妙に浅ましい光景だった。
表の通りまで出て、先頭にいた私は後ろの仲間を止めるように立ち止まってみせました。明け方の薄明に晒され出した広い通りは通行の車が遮断され、通りの向かい側に並べられた投光機の後ろにびっしりと重装備した警官隊が居並び、その左右には十台をこす特別車両がひしめき並べられていました。見上げた頭上のビルのテラスにも鈴生りのように武器を手にした機動隊の姿があった。
それは私たちがあの建物にたてこもり相手にして挑んだものの巨きさを表象するように、沈黙のまま黒々と分厚くひしめいていました。私たちはまさしくあいつらのすべてを、そしてその後ろの、目にはみえぬ有無いわさぬ形で在るものを相手に闘おうとしてきたんです。川俣の屋敷を焼いた時と違って、今度はその向こうに在るものについて自分自身で見届け、ひしと感じとれた気分でいました。
そして、彼等が今になっても奇妙なほど、一言も声をたてずに、私たちを取り囲みじっと見守っているのが実に印象的だった。あの印象こそ私と私が向かいあおうとしていたものの巨きな比重の呆気ないほどのへだたりだったのかもしれない。つまり、私たちは世界中を相手にして戦ったのだという感慨でもありました。
四人は一人一人離されて違うパトカーに乗り込まされました。私が身をかがめ車に乗り込もうとした時、正面の警官隊の後ろにいた誰かが、拾って手にしている檄文のちらしをふって私の名を呼び、「がんばれよっ」と大声で叫んだ。板前のような白い仕事着を着た見知らぬ中年の男だった。私は立ち止まりその相手に向かって黙って手をふってやりました。
私が予測していた通り公判の最中に赤軍によるダッカでのハイジャック事件が起こり、日本の政府はそれへの対応で世界中に恥を晒した。それ見たことかという気持ちだった。事件を起こして間もなくだっただけに、その時世間にいなかったことが悔やまれはしたが、また遠からず同じようなことが起こるだろうとも思った。
もう一つ公判中に、思いがけずあの崎山が首を吊って自殺したと親父から知らされました。私たちが財界連合ビルで事件を起こした後、父の家まできて自分が一緒にいけなかったことを詫びていったそうですが、こちらは今さらあの男を当てにするつもりもなかった。私がまだ娑婆にいる頃一度会いにきて近況を報告していましたが、仲間三人と|鍍金《メ ッ キ》の工場を始めたとかで、私とすれば、それはよかったなしっかりやれよという以上のことはなかった。
しかしそれが彼にはこたえていたのでしょう。今になれば可哀そうなことをしたと思います。あの男もあの時あの豪勢な火事に魅入られて、結局私たちと同じ血の流れを持った人間になってしまったのかも知れません。私が二度目の事件を起こしたのを聞いて、自分がああした生き方からはぐれてしまったことで、あいつは自分で自分を許せなかったということだったのでしょう。
論告ではそんなことはいわなかったが、ある検事が私に、結局お前が銃口を向けたのは経済界だけじゃなし、その向こうにいる政治家たちと、もう一つ、お前と同類呼ばわりしているが実はあいつらに飼いならされてしまった、いっぱし思想ありげにしてはいるがその実なにもない、なにも出来はしない連中にもだろうといってくれました。その通りです。
求刑は私が六年、秋月が四年、小野寺と大谷が三年。私以外はそれぞれ一年ずつ減刑という弁護側の読みでしたが、公判の最中、法廷での検事の論告で相手が、「被告たちはヤルタ・ポツダム体制の打破などと勝手な価値観をひけらかせながら、云々」と読んだ時、秋月が立ち上がり、「貴様、それでも日本人かっ」と一喝したために、結局彼も私と同じように減刑なしの四年を丸ごと食らいました。
事件の後、検事がいっていた手合いやマスコミは私たちがあそこで死ななかったことを皮肉ったり揶揄したりしていましたが、私にはまったくこたえはしなかった。三島由紀夫のように死ねなかったといわれても、三島由紀夫は立派な言葉を残しましたが私にはそんな才能もない。だから私はただ自分の生き様を繰り返し示していく以外にないと悟っていました。
千葉の刑務所にいた頃読んだ日本人物小辞典に、名も知らぬ「赤羽巌穴」という人物が載っていた。ただ一行、「アナキスト。千葉監獄にて獄死」とありました。それがなぜか印象的だった。千葉刑務所というのは私のような人間たちには因縁のある所で、あのアナキストの大杉栄もここに長くいた後外に出、その直後甘粕大尉に殺され、その甘粕もまたあの千葉に入れられたんです。まあなんだろうと、私はこれから何回でも同じことを繰り返し、その末に赤羽みたいにたった一行記されるだけでいい、いや、その一行もなくてもいい、と心に決めていました。
今では秋月も小野寺もそれぞれ故郷の田舎に帰って晴耕雨読しながら、集まってくる後輩を教えています。多分、あの時納得し合った、次の何かに備えながら。他人はそれをはみ出し者というかも知れないが、そんな人間たちがいなくては世間が立っていかないということを、知る者は知っています。世の中もだんだんそれに気づいてきているのじゃないですか。
考えてみると私たちみたいなはみ出し者がまったくいなくなった社会というものもあるにはあった。ヒットラー、ムッソリーニ、スターリンといった奴らが仕切った時代がそうだろうが、あれがいい時代とは誰も思いはしまい。
そんなことでまた六年獄の中にいましたが、今度もまた、前の半分とはいえ出てきてみれば長かったような短かったような気がします。今度の方が中にいる間に世間の有様は前よりも早く、私が予測していたよりも悪く変わっていっている。私の感じだけではなしに、何を見ても実際にそうじゃありませんか。
今度の六年の間にも中でいろいろなことがあったが、なんといっても別れた女房との再婚でした。入って四年目に突然彼女が面会にやってきて、今度の亭主とは別れました。二度目の結婚で男の子をもうけ、仕事でもずいぶんつくしたが、仕事がうまくいき出したら、いい気になって浮気しだし昂じて余所に子供までつくったので別れました、あなたが許してくれるならこのまままたあなたを待っていたい、ということだった。
私は思わず笑い出し、それならそれでいいじゃないかといってやった。その男との間に出来た男の子も連れてきたいというから、それはなおさら結構だといった。これであなたのことは、始めから何もかも加世子に打ち明けるつもりです、あの子ももう二十歳に近く、世間の出来事のからみでもあなたのことは必ず理解するでしょうとも。
あの時生まれて初めて、なぜかにぎやかな気分になれたのを覚えています。今突然思いがけなく、誰だろうと自分の女が待っていてくれるというのは嬉しい華やいだ気分だったし、ましてもう一人あの幻の娘が今度は現実に私の娘としていてくれるということは、それをことさら求めた訳ではないがどこかで救われたような気持ちでした。
ということで、その場で彼女の持ってきた書類に所長立ち会いで署名しました。所長も、いかにも珍しい獄中再婚を祝ってくれました。
六年たってまた娑婆に戻って眺めれば、世の中の悪い変わりようはいろいろな点でますます確かになっているのに、大方の人間たちがそれに気づこうともしないのが一層厄介だと思われた。昨年起こった、私も関わりあるとしきりにいわれた協立コンツェルンの関係企業への襲撃事件なんぞも、企業の居直り方やらなにやら、また事件への判決も含めて、私に関わる過去の出来事に比べ大分様子が変わってきたような気がします。
協立不動産の会長邸に押し入って占拠したり、同じ筋の銀行本店に押し入りコンピューターに拳銃を射ちこみオンラインを破壊したり、はては銀行にバキュームカーを持ち込んで糞尿をぶちまけたりした連中は、私とはまったくなんの連絡もとらず、ただ私が協立のやり口に怒っているからやったといったそうな。実際私はあれら顔見知りのある者ない者たちに何をしろなどとひとこともいったことはないが、あの|為体《ていたらく》を眺めて彼等が怒ることは無理ないと思っています。
彼等の裁判のある判決の場で裁判官がいったそうじゃないですか。お前たちの犯行が決して金銭のためではなかったということは強く注目されなくてはならぬと思う。その志は、そのためにとられた方法が正しかったとは決していえぬが、今後刑を終えて社会に復帰した後もそれぞれの心の内に持ち続けてもらいたい。そしてそれを表現する際には、あくまで法に触れぬ、法を犯さぬ形で行なってもらいたい、と。
あの裁判官は、その後さらに最近になって同じ系列の銀行や企業、そして他の同じ大手の、まさにこの国をここまで運んでくることに大いに功績あったとされている企業たちに役所がらみで起こったことがらを予感していたのじゃないのですか。国民の誰もが怒りまた不安に突き落とされた、ああした大それた出来事について。事件もああまでになるともはや誰が加害者誰が被害者というより、彼等は国とか社会の名をかざしながら実は国自体を大きく毀損させる罪を犯してきたとしかいいようがない。
そして、それに怒ってあれらをやった彼等もまた同じ国民の一人でしかありはしません。
まあ、今まで私なりにやってきたことを眺めてもらえば、ある種の人間たちが、私が怒っているのだからといい、それに彼等の怒りを重ねてああした行動に出る、その引き金になるくらいの資格は私にもあるのじゃないでしょうか。
しかし千葉の刑務所で会った、捨て石になって仲間を支えたあの男はそれなりに効もあったろうが、こっちも同じ捨て石のつもりで何度同じことを繰り返しても、肝心の社会の方はそれでものごとが大きく変わってくれるということはいっこうにありはしない。それにいらいらする奴は馬鹿、まして、なにかの役にたつつもりでことを起こす者はもっと愚かということなのかもしれませんが、しかしそういってみんなが投げ出してしまえば、後はもうなんの歯止めもきかず、何がどうなるものかわかりはしない。
確か三島由紀夫の書いたものに、テロルこそ健全な民主主義の必要要件だというようなことが記されていたが、物騒なようでもいかにも逆説的な真理じゃありませんか。
その限りでいえば、たとえ世の中がそれについてつべこべいっても、あの人があんなことをやった上で自ら死んでみせたということは、直接誰の非を鳴らしたということではなくとも、とにかく彼はこの世の在り方に向かって異を唱えその主張に殉じて自ら死んだんです。それは世の中の大方の人間たちにとっては、なによりも大それた行為に違いない。
人間の決める規範や価値やそれにのっとった目的なんぞに、土台絶対なんてものがある訳はない。ただ慣れれば大方がそれですましてしまうということでしかない。数少なくとも、それではすまぬという人間がいるのは、人間が人間である限り当たり前のことじゃありませんか。そんなことに体を張るのは虚しくないかといわれれば、それは虚しいですよ。しかし、虚しいがゆえの満足というものもあるんです。
そんな奴は異端だとか片端だとかいわれもするが、やることがただ違法ということだけで異端というのは自惚れというものだ。
私のような人間がいつの時代どこにもいたということは、それこそが人間の法則というか、つまり人間にとって必要なことだという証しといえるんじゃないですか。
ならば、お前はこれから何をやるのだ、何をしたいのだといわれるかもしれないが、私もこの頃やっと悟ったことがある。昨年新しい息子を連れて生まれて初めてエジプトからギリシャなんぞを旅した時感じたんです。俺は少し焦り過ぎたのではないかとね。
エジプトははるばるアスワンまでいきましたが、あの辺りそこら中にある神殿の巨大な王様たちの像は、どれもみんな左足を一歩引いてそれに体重をかけている。ところがギリシャになると初めて体重が前の足にかかる様式になってくる。その間、つまり一歩踏み出すだけにおよそ三千年はかかっているんですね。
みんながしている眼鏡にしても、ガラスが見つかったのがずいぶん昔だったから、それに近くから今にいたるまで長い間人間の道具としてはあったが、あの眼鏡に紐に代わって蔓がくっつくまでに三百年はかかったそうな。
でも、それにしてもなおその時代時代に私みたいな人間たちがいたからこそ、三千年はかかったがともかく一歩は前に踏み出たということに違いない。と私は思っています。
しかし、自分一代の内に何もかも方をつけようというのはいかにも焦った、あるいは不遜な魂胆というものかも知れない。ふとそんな気もしました。
でも、私がやがて死んでその後、もはや幻ではなくなった実の娘とその子供、私の実の孫、それに私の新しい息子たちの時代に何がどう変わっていくのかはもう十分予測のつくことのような気がします。
それに対してお前は今どうするつもりなのかといわれれば、そうですね、もうさんざん自分の生き様は見せてもきたのだから、今度は一度しかない私自身の死に様を、ということなのでしょうか。
(この作品は過去のいかなる実在の人物、いかなる事件とも関わりありません)
パティという娼婦
|集会《コンベンション》の客たちがバスを連ねてやって来ると、|宿《イン》の雰囲気は突然に今までとは変わってしまった。派手なストロウハットに自分のクラブの|小旗《ペナント》をたてた連中や、揃いのブレイザアコートにクラブのエンブレムをつけた男たちが玄関横の受付けで大声で名乗り、用意された名札をつけながら旧知を見つけては呼び合い、大袈裟な身ぶりで肩を叩き合っては手を握る。その横で同伴の細君たちが同じように見知りの誰かを見つけては頬をすり寄せ抱き合っている。
本部か地元の受け入れ側から出向いている受付けの事務局らしい若いスタッフに、誰かが声高に冗談をいい、横の誰かがそれをまたまぜっかえし、若い事務員の方も負けずに何かやり返しては大笑いとなり、その笑い声に気を引かれて手つづきを終え奥に進みかけていた連中までがまた戻って来て、玄関脇のホールはごった返していた。
どれもかなり年輩の夫婦ばかりで、何やらクラブの例年の集会だそうだが、というより、その名を借りてこのリゾートで羽根を伸ばそうという様子で、参加した人間はそれが参加のための義務のようにはしゃぎ廻っている。かなり広い地域からの集まりらしく、続々やって来るバスから降りたつ人間の着ているものがそれぞれ違う。細君たちの中には半袖のブラウスがいたかと思うと、毛皮の肩かけを手にしたものもいた。どの州のどこから来たのか知らぬが、もうメキシコに近いここ南カルフォルニアのリゾートの光と風は、まだ三月末とはいいながらさわやかな暖かさで、毛皮や厚いコートを身につけた客たちには心地いい気候の裏切りだろう。
しかしいずれにせよこの辺りのリゾートはまだまだシーズンから外れていて、数年前に有名な西部劇のスターも出資して出来たというこの大きなリゾートインには、昨日まで私たちの他僅か数組の客しかいなかった。
十何年ぶりかにやって来たが、以前の二度の訪れはシーズンの真っ盛りの七月で、私たちは半月ほどの間この町中に一軒家を借り、近くのドックヤードで船の整備を終えて太平洋をハワイまで渡るヨットの試合に出かけていった。世界中で最も甘美なヨットレースといわれるあの試合に、ようやく宿願叶って日本から初めて参加するということで、今から思うとみんな微笑ましいほど気持が昂ぶり、太平洋を越えた向う側から初めてやって来た私たちを迎えてくれた地元のヨットクラブや試合の主催者、その他町で出会うもろもろの人間たちを含めて町全体の雰囲気も、私たちが夢見憧れていた通り、明るく華やいで楽しかった。
あれから十年以上たった今、今度は試合ではなく、日本でのレースのシーズンに間に合わせるため、近くの造船所で新造した船を艤装し、シェイクダウンを兼ねて太平洋を渡して帰るつもりでいる。ひと昔前の私たちの技量や船の性能と今のそれを比べれば、今度の試みに何の懸念も昂ぶりもありはしなかった。それより何より、懐しさをかかえてやって来たこのニューポートビーチも、季節の違いだけではなく、雰囲気が以前とすっかり違ってしまっている。
私たちが泊まっているこの大きな|宿《イン》のようなものも新規に出来てはいるが、これも町から一寸離れて南へ通じるハイウェイを利用してのジャンクションになる辺りに建てられていて、どうやらこの十数年の間に、海を使っての歓楽の中心地はもう少し南に移ってしまったようだ。それかあらぬか、以前、私たちが胸ときめかしながら船の艤装を整えた、由緒あるドックヤードもつぶれてしまっていた。
久しぶりに眺めたニューポートビーチの町や港に感じられるうつろいゆくものの寂しさが、新しい建物ではありながらシーズンオフ故にかがらんとした|宿《イン》の雰囲気の内にもあるような気がしていた。ところへ、突然のこの混雑で、今日からの集会の予定がどうなっているか知らぬが、多分、夜のパーティまでの暇をつぶしに一旦荷物を解いた部屋から陽気に合わせて着替えて出て来た客たちがロビーに溢れ早やバーにも溢れ、明るい陽射しとはいいながらまだ季節外れのプールを囲んだ|内庭《パティオ》にも溢れ出している。
しかし昨日までとうって変わったこのざわめきも、外国人である私たちにとっては所詮うとましいものでしかなく、約束の日時に遅れがちの造船所の仕事ぶりへの苛立ちもあって、喧噪の中で私は十年前の同じ町での滞在と今度のそれとの違いの質のようなものを、以前同じ仲間の一人で来ていた高岡に改めて確かめた。
「日本だけじゃなしアメリカも変わってるんですね。ここも今じゃシーズン中でも、あのバルボアアイランドが若い連中で一杯になるようなことはないそうですよ。その代わりどうです、これ、いるのは爺さん婆さんばかりだ。何のクラブか知らないが、もっと若いメンバーはいないんですかね」
私たちが腰かけて話している|内庭《パティオ》のテーブルの前を、腕を組み合って通りすぎていく新手の年寄りのカップルを笑いながら顎で指して彼はいった。
眺め直した、亭主の腕をとり胸をそらして歩いていく六十すぎの小太りの女のブラウスの胸の辺りに、誰がしたのか、刺繍した漢字で「美人」とあるのに私も肩をすくめた。
「この前仕事でジョージアにいったついでにSORCレースを見物にマイアミまでいって見たんですがね、驚いたなあ、あすこにいるのは年寄りばかり、ゴーストタウンという感じだった。街でたまに若い女を見たりするともの珍しいくらいでね」
「その珍しいのが一人いるよ、向こうに」
客の数が急に殖えサービスの間に合わぬバーまで、飲みものの代わりを注文しにいって戻った清水が、プールの向こう側を指していった。
水をたたえた大きく不定型なプールの端の、煉瓦囲いの中に植えられた棕櫚の木の手前の、木車のついた寝椅子のマットの上にビキニに近い水着姿の若い女が横になって陽を浴びている。シーズン前に張り替えたばかりのカルフォルニアンブルーのマットに、彼女のつけたカーマインがかったピンクの水着が、水着姿が彼女一人のせいか鮮かなくらい強いコントラストで目に映った。
気温の割に陽射しは乾いていて強いが、それでも陽蔭や、一寸風がたったりすると肌寒くスウェーターがいるくらいで、この数日サンタアナの工場へ通ったり進水直後のマスト工事をする予定のドックヤードへ往復している内、結構陽焼けもしたが、とても泳いでやろうという気候ではなかった。
女も泳ぐ気配はなくただ肌を陽に晒しているだけだが、私たちと体温の違う外国人とは承知しながら、眺める方が肌寒い気がしないでもない。しかし周りにいる客がどれも年寄りばかりのせいで、いわれて眺め直した女の姿はひどく派手に目立った。
半ば口をつけた飲みものを横のテーブルに置いたまま、彼女は薄いサングラスをかけた顔を陽射しを追うように斜め左に傾け目をつむったままでいる。昨日も今日に似た陽気で、丁度今頃ドックヤードから戻り遅い昼食の後同じ|内庭《パティオ》で一服していた私たちの目にはつかなかった女客だ。|集会《コンベンション》の連中同様、今日新規にやって来た客らしいが、どうやら年寄りたち一行とは関わりなさそうだ。
手持無沙汰のまま好奇心で眺めて見たが、誰か他に連れがあるのかどうかまだわからない。
「どうせその内、野郎が現れますよ」
水をさすように高岡がいった。
無駄話をしながら小一時間ほどたったが、女の側に男の連れが現れる様子はなかった。その間にも|内庭《パティオ》に客はますます殖えて、どうやら今日明日あるという何やらの集会の出席者は集まりつくしたようだ。昨日まで私たちの他に数組いた泊まり客たちも、この気配を怖れてか姿を見せず、どれを見ても六十すぎた夫婦連れの他にこの|内庭《パティオ》にいる客といえば、私たちと、あの一人水着姿の女だけだった。同胞のよしみか知らぬが、女は周りに気おされる様子もなく一人で寝そべり肌を晒しつづけている。
彼女の前を過ぎた女房連れの半白の大柄な男が彼女に何か声をかけ、彼女はわざわざサングラスを外して男を見上げ、遠目にも愛想のいい笑顔で答えている。細君が亭主をたしなめるように何かいって小突くと三人は笑い合って別れた。
夜に新しい船のための|帆《セイル》を持ってサンディエゴからやってくるメイカーのスタッフに確認の電話をした帰りがけ、私は廻り道して例の女の横を通って見た。
先刻こちらのテーブルから眺めた時には気づかなかったが、女は右の脇腹に置いた読みかけのペーパーバックが落ちぬよう手を添えたまま仰向いている。本は、丁度その頃映画化されて大|流行《は や》りの有名なオカルト小説だった。セイルメイカーが都合で遅れてやって来ないなら、私たちは今夜近くのサンタアナの町まで、丁度かかっているその映画を見に出かけようかと話していた。
本の話をするつもりはなかったが、それを見て気が動き、私はたち止り、
「寒くはない」
声をかけて見た。
その声を待っていたようなタイミングで女はすぐに眼を開き、先刻したと同じように片手でサングラスを外し半ば身を起こして私を見上げた。見つめて微笑しかけながら、彼女の顔に声をかけられた相手が、思いがけぬ東洋人だったことへの躊躇とも困惑ともつかぬ表情が過ぎた。私の方はそれには馴れているつもりで笑って見せた。そして彼女も何かを納得したように微笑み直して見せた。黒に近い濃いブルネット、眉やまつ毛の色はもっと濃く、眼も東洋人並みに濃い褐色で、鼻と頬の輪郭だけは白人らしくはっきりした顔だちの、見ただけで西部海岸に多い、いろいろな国の血の混った女だった。そのせいか、彼女は何か雑誌か映画で見た誰かに似て見えた。それがどこの血を証すのか知らぬが、肌は陽に晒していながら風の中で冷えたように白く、横にのばした手肢の姿態は遠くから眺めたよりも太りじしで、年も、眺めて思ったよりも三つ四つ上の三十そこそこというところか。美人というより、肉感的な女だった。彼女の愛想の良さは、彼女が自分で、そう承知しているのを証しているようにも見える。
「風も出て来たけれど、寒くはない」
もう一度いった私に彼女は肩をすくめ、はずみに落ちかけた本を持ち直そうとした。私は何とはなし、題を確かめたばかりの本を見直したが、それに気づいたように彼女は何故か急いだ|仕《し》|種《ぐさ》で本に両手を添えた。慌てた動作のせいでかえって目論見が外れ、私は彼女の不自然な動作の訳を見とどけた。彼女が右手を添えて置いた本の下に、何で負うたのかわからぬが大きな傷痕が垣間見えた。彼女の手にしていた本が、水着になって晒されるその傷痕を隠すためだったのに私は気づいた。
私が持ちかけた関心をそらすように、
「あなた、日本人」
彼女は聞いた。
「ヴァケイションで」
「といえばいえるけど、新しいヨットを受け取りにやって来たんだが、造船所の仕事が遅れてここに足止めされているんです」
プールの向こうにいる仲間をふり返りながら私はいった。
「船はどこに置くの。私の友だちはマリナデルレイに大きな船を持っているわ。一度それでサンタカタリナまでいったけど、私は船に弱くて駄目」
「いや、僕らは日本まで乗って帰るんだ」
「日本のどこ、大阪」
何故か彼女は東京とは聞かず、大阪といった。
「いや、東京、というよりその近くのホーム・ポートへね」
「素晴しいわね、あなた方お金持ちなのね」
念を押すように彼女はいい、身をひねって傷痕を隠しながら起き上がると横に置いてあったガウンを羽織った。
「あなたは、今日来たこの連中と一緒」
聞いた私へ一寸口をゆがめて見せながら肩をすくめた。
「シャワーを浴びて来るわ」
それを口実に逃げ去るという様子ではなく、少し肌が冷えたか、愛想のいい笑顔で頷くと女は立ち上がった。
「じゃまた」
かけた声に、
「後でまた」
彼女もいった。
そんな会話の義理で、私は一寸の間立ち去る彼女の背を見送った。太りじしではあったが、立ち上がった全身の後ろ姿は外国女らしく背高い均整だった。そしてその歩く後ろ姿が、よく見ると、何故か不安定にかすかに右足を引きずるように思えた。
「話はつきましたかね」
からかうように清水がいった。
「男の連れはいなさそうだったがね」
「船の進水より早く片がつくかも知れないね」
高岡がいった。
「しかし、今頃こんな所に一人で、何ものなんだろう。この頃にとる休暇なら、気の利いた女ならメキシコシティぐらいにはいくだろうけど」
仕事柄東京とロスアンゼルスの支店と半々の、現地では訳知りの高岡は首を傾げて見せた。
夜、サンディエゴから出来上がった新しいセイルを運んでセイルメイカーの|調節屋《トリマー》二人がやって来た。二人ともそれぞれドラゴン級、スター級の米国選手権をとった男たちで、年上のブラムは今度の船に採用した|前帆《ジ ブ》を二枚張るダブルヘッドリグの権威ということだ。帆を運ぶだけなら他の人間でもこと足りようが、セイルスを兼ねている二人は、納品したセイルの効用を説くだけではなく、遅れている船の進水と見合わせて、その後彼らの手で開発された新型の|袋帆《スピン・ネイカー》を加えて発注するように私たちにすすめた。注文がとれれば、マリナデルレイで最後の仕込みをして太平洋を渡る私たちをロスまで見送りがてら、新しいセイルのトリムや、新式のスピンの新式のジャイブのテクニックを教えに同行してもいいという。彼らは結局新しい注文をとりつけた。
仕事の話が終れば、ダイニングルームからバーへ、同じヨット乗りとしてアメリカの海日本の海での体験談とレースの自慢話に花が咲いた。バーへ移ってから小一時間ほどして、先刻の若い女が入って来た。私が手を挙げ、彼女は相変わらず愛想よく応えて近づいて来たが、テーブルの上に何やら|海図《チャート》や設計図を拡げ新しい顔ぶれと話しているこちらに気兼ねしてか、私たちを通りこしスタンドの椅子に坐った。
話が一段落し、ブラムたちが時計を覗きあと一杯飲んで引き上げようといい出した頃、私はスタンドを見やり、彼女が同じ椅子に相変わらず一人だけで坐っているのを確かめた。隣りで時々彼女に話しかけているのは、反対側に細君を坐らせた例の連中の小柄な初老の男だった。バーはスタンドまで一杯だったが、どの客も私たちのように、彼女に関わりない饒舌に夢中で、彼女をエスコートする男は未だに現れそうになかった。
ブラムに彼女を目で指し、
「一人で泊まっているが、何ものだろう」
質して見た。
ふり返り、セイルのトリムを確かめるような目つきでしげしげ眺め直した後、ブラムは皮肉な微笑で肩をすくめて見せた。
「あれはプロだな」
「プロ」
「何なら俺が値段を当たろうか。あんたらだと足元を見るだろうからね。尤もそういう買いものは、こんなところでするより町にいった方が安く上がるよ」
「つまり、あの女はここで客を引いているということか」
そういわれれば半ば意外半ば納得した気持ちで私は聞いた。
「だろうね、なあ」
ブラムは連れの年下のジムにいった。
「この頃は、プロもアマも見分けがつかないからな」
若いジムはしたり顔にいった。
「何しろ、大きな|集会《コンベンション》があると、それを聞いてああいう女たちが泊まり客を引きにやって来るのさ」
「しかし彼女はあぶれているぜ」
ジムがいった。
「そりゃそうだ、何の|集会《コンベンション》か知らないが、どいつも女房連れの爺さんたちばかりと来てるからな。どんな種類の集まりか知りもせずにやって来たとすりゃ、まだ本もののプロまでいかぬかけ出しか。そこで、今夜最後の狙いはあんたらということになる訳だ」
「すると、今日の午後、プールの横で一人だけ裸で寝ていたのもデモという訳か」
清水がいった。
「多分ね。いや賭けてもいいよ、あいつはロスか或いはサンディエゴ辺りから車で仕事に乗りつけている筈だ。尤も、サンディエゴで見た顔じゃないがね」
ブラムはいった。
「そういえばね、俺の部屋はあのウイングの端にあるでしょ。夕方氷をとりに部屋を出て階段の踊り場から見たら、丁度裏にある駐車場の車の中から彼女が今の恰好で出て来たよ」
清水がいった。
「俺たちが帰った後、隣りに坐って聞いて見るんだな、君の部屋はどこかって。彼女はきっと宿無しで、あんたらの部屋に泊まるというよ」
グラスの残りをトスし、ジムを促しながらブラムはけしかけるようにウインクして立ち上がった。
ブラムたちが帰り、たてこんでいたバーの客たちがそろそろ引き上げかけた頃、丁度空いた彼女の隣りの席へ私は坐り直した。声をかけた私に彼女はさっきと同じ微笑で頷き返し、やって来たバーテンダーは全く何の感興も示さぬ顔で私の注文をとった。
グラスを置いたバーテンダーが立ち去った後、
「君の部屋は何号、よかったらさっき君がプールの側で読んでいた本を借りたいんだ。明日あたり、サンタアナへあの映画を見にいこうと思ってるんでね」
私はいった。
一寸体を開いて確かめるように見直し、口元だけで微笑し直し頷くと、
「私がとどけて上げるわ、あなたの部屋は」
彼女は聞き返した。
彼女が先に立ち上がり、彼女の勘定を私のチェックに廻させてから部屋に戻った。間を置かずノックがあり、例のペーパーバックを手にした彼女が立っていた。
「入っていい」
いいながら片手で丸めた本の頁をはじいて見せながら、
「私、こんな本夜読むのは怖しいわ」
肩をすくめて見せる。
「君はこの本を、車の中からとり出して来たんだろ」
意味がわからず聞き返そうとする顔の相手に、
「今夜この本の借り手がなかったら、車でどこまで帰るつもりだったんだ。ロスかい、それともサンディエゴか」
「ロスよ」
あっさりいった後正面から見つめ直すと、女はゆっくり微笑んで見せた。何故か、その表情は自然で、認めたことがらとは裏腹にういういしくさえ見えた。
「いや、どこでもいいし、どうでもいいんだ。さっきいた友だちが賭けるといったもんだからね。しかし君はとんだ|集会《コンベンション》を狙ったものだな。全部が六十以上の女房連れの爺いたちとはな」
いった私へ声をたてて笑うと、
「でもお蔭であなたに会えたわ。私の二度目の夫は日本人だったのよ」
彼女はいった。
「本当かね」
「本当よ。イマニシといって、二世の電気技師だったわ」
「別れたのか」
「死んだわ」
「どこで」
「日本の、大阪でよ」
彼女はいった。
「何で」
「癌だったのよ。自分でもうすうす感づいていたのね。でも私には黙って、戦争の後日本に帰っていたお母さんに会いにいくといって、そのまま大阪の病院で手術して死んだわ。私は、半年も後になって、彼の友だちから報らされたの」
「旦那はなんで君に知らせなかったんだろう」
「自分の国で死にたかったんでしょう、生まれたのはこっちでも。お母さんもいるし」
「でも何故女房の君には知らせない」
「私は外国人だから、矢っ張り」
「僕にはわからないな」
いったが、
「私にはわかるのよ」
努めたように微笑みながら彼女は頷いて見せた。その微笑の表情は、自分を置いて一人で帰ってしまった男を咎めるというより、大阪のどこかの病院で癌で死んだイマニシという日本人の夫をいたわるように見えた。
「それは何年前」
「三年前よ」
「君はそれからずっとこんなことしているの」
質すように見返し、女はゆっくりと首を横に振って見せた。
半年前、今までの仕事を止めて旅行社のエイジェントに変わってから、最初は会社の社長に得意客の相手を頼まれ、その後、同じ暮し方をしている先輩格の女に仕事の片手間、仕事に関わりあるこの種の商売を自分で探す方法を習った、と彼女はいった。
「どういうつもりでその気になったんだい」
「男はみんなそう聞くわ。でも簡単なことでしょ。私はもう結婚したくはないの。それで、一人で、出来るだけ楽に、楽しく生きていきたいというわけよ」
「楽しいかね」
「あなたは楽しくない、楽しくなりましょ」
|悪戯《いたずら》っぽく笑っていった。
女はパティといった。それまで何かとついていなかった彼女のために、二度目の日本人の夫がつけた名だそうな。
「それでも、私にはよかったけど、彼のためにはいい名じゃなかったみたいね」
パティは笑っていった。
部屋にあった酒をグラスに注ぎ分けて飲みながら間近で眺め直すと、彼女の眉の下と頬骨の下に、綺麗に整形されてはいるが白く細長い傷の痕があった。ベッドに入り、違う角度から間近に覗くと、耳の後ろと、顎と、そしてブラジャーを外すと溢れ出しそうな、もう少したるみがちだが巨きな乳房の右上と、さらに左の脇下に同じような傷痕がちりばめたようにあった。黙ってその一つ一つを指でたどりながら眼で尋ねた私に、八年前の自動車事故で、とパティはいった。
「君が本で隠していた傷もそうかい」
彼女は頷いたが、その傷を覗こうとする私を拒んで押しやった。
手をのべ毛布の下で触れ直して見た傷痕は大きく背中にかけて引きつって感じられた。彼女はすでに体中に散らばった傷痕の由来を明かしてい、私は手を引きそれ以上の詮索はやめにした。何故か、それ以上の詮索は、私に全く関わりないながら、こうして行き会った見知らぬ女の過去の、今まで聞き出した以上の何かを導き出すような気がした。
二十九歳といったが、彼女の体はそれ以上に年経て感じられた。彼女の体を行き過ぎていった何人もの男たちの足跡、というより彼女の体に強いられた、故の知れぬ何かの犠牲の大きさのようなものをふと感じさせる荒廃を、それが女の体だからこそようやくこらえて今に保っているという感じがした。そして何より彼女のセクスの巨きさには、されるがまま何か運命の手に引き裂かれたもののような無残さがあった。
私がそれを指にしながら、私自身を捉えている彼女の掌を空いた一方の掌で叩いて、日本にある男と女のセクスの大きさの比較の比喩を英語に訳して聞かせると、彼女は声を挙げて笑った。
「Still you made me wet!(それでもあなたは私を感じさせているわ)」
女は囁きながら私を逆に抱きしめた。その声と、私の手の内にあるもののゆるやかに変化していく感触と、押しつけられて来る彼女の肉体の量感の内に、私はふと、彼女自身が意識せずに女として負わされている何かを感じたような気がしてならなかった。
同じ互いの作業の中で暫くして、
「君は一体、今まで何人子供を産んだんだ」
私は聞いた。
「四人よ」
彼女はいった。
「まさか、その子供たちがお腹の中で満二歳になってから産んだ訳じゃないだろうな」
パティはまた声をたてて笑い、もう一度、
「Still you made me wet!」
いった。
「その子供たちは今どうしている」
私を抱きしめていた手の力が半ば失せ、その手をかすかに引き戻しながら斜め仰向けに体を返し、
「みんな死んだわ」
彼女はいった。
「この怪我をした車の事故でよ。夫と、四つと、三つと、二つと、そして生まれてたった三月目の赤ちゃんとみんなが。生き残ったのは、私だけだったわ」
私は身を起こし彼女の顔を覗き込んだ。閉じていた眼を間近で見開くと、彼女はゆっくり頷き、そして、私が彼女の部分から離しかけていた手をとどめるように捉えた。
夫の両親のいるネブラスカの田舎を車で訪れて、その日一日の行程でたどりつこうと彼らは朝明けやらぬ内に最後の宿を出た。まだ行き交う車もないハイウェイを最高速度で飛ばし、ある地点の急なカーブを廻り切ったところに、前夜の強い風で路肩から根こそぎ路上に倒れ込んだ木があった。車はけし飛び、扉が開いて車外に放り出された彼女をのぞいて夫と四人の子供が車の中でつぶされて死んだ。車外に放り出された彼女が落ちて叩きつけられたところは、道路脇の牧場を仕切る部厚い有刺鉄線の上だった。太い針金の刺は彼女の体中を引き裂き、鉄線をつないだ、とがった杭の一本が脇腹に突き刺さった。
事故の衝撃で失神したまま昏睡が続き、彼女が意識をとり戻したのは事故から一年二ヵ月もたってのことだったそうな。その間、彼女の体は病院を三度替えて移され、深い傷の手当てと、その後の整形手術までがすまされていた。
「目が醒めた時のこと今でも覚えているわ。ここはどこだろうと思いながら、すぐにさっきの事故のことを思い出したの。助手席にいて、私の方が夫より一瞬だけ早く倒れている木を見つけて叫んだのよ。覚えているのはそれまで。だから、覗き込んでる看護婦に、夫と子供たちがどうなったかを叫んで聞いたわ」
看護婦は困惑した表情で何も答えず、医者を呼びに走っていった。彼女にはつい先刻、今朝方の事故であっても、実はとうに一年余の時間が過ぎてい、転々移された末の病院で彼女を看とっていた人間たちは、その事故を記憶さえしていなかったろう。
「お医者さまが来て、夫も子供たちも大丈夫だといったわ。だから心配せずに養生しろって。意識は戻っても、私はそれからさらに一年近く、下半身が動かなかったのよ。でも、夫と子供にはひと目会わしてと頼んだわ。夫も子供も怪我をしているからすぐには会えないとお医者さまはいった。でもね、その内、周りの人の会話から、段々今が何時なのか、あれから実はどれだけ時間がたったのかがわかって来たの。そしたら、夢を見るようになった。いろんな夢を見て、不思議にその夢の中で、本当は夫も子供たちももうこの世にはいないんだって段々わかって来たのよ。夢の中でそう悟って、睡りながら知らぬ内に何度も何度も泣いて、その涙で目が醒めたのを覚えているわ」
彼女の予後があるきっかけを捉えて順調に進み出し、麻痺していた下半身の知覚が戻り、更に動けるめどがつき出した頃、医者はようやくすでに二年以上たった過去の事故の顛末について明かして教えたそうな。
「――私はとっくに夢でわかっていた。わかっているから、もう悲しくない、もう泣かないと思っていたけど、でも矢っ張り、声を出して泣いたわ――」
いいながら彼女が私に何かを預けようとするのを感じながら、私はただ黙って固唾を呑むだけでいた。
その気配をおし測るようにパティも黙ったままでいた。
ようやく、
「君は、そんな話を、誰にでもするのかね」
私は聞いた。
「あなたが、聞いたんじゃないの」
甘えながら抗うように彼女はいった。
「しかし、それでもこういうところで、僕のような相手に話すべきことじゃないんじゃないか」
「私は嘘をついてはいないわ」
「嘘でないから、尚さらだ」
「ならいいじゃないの、実際にあったことなんだから」
パティはいった。
彼女の体中の傷を見直さなくても、私には彼女の身に起こった出来事について信じられるような気がした。
思い直してから私はいった。
「――君は、その後そのことを思い出して泣いたことがあるかい」
一寸の間考えてから、
「無いわ」
「何故」
「いったでしょ。そう知らされる前に、夢の中でもう何度も泣いていたから」
「なるほど、でも今思い直して見ても、悲しいだろう」
「悲しいって」
「心が痛むだろう」
いいながら妙にもどかしいものを私は感じていた。
「でも、それで泣きはしないわ。泣いても仕方がないもの、実際にあったことなんだから」
「君は、お祈りすることはあるんだろう。死んだ人たちのために」
「私、祈らないわよ」
その時だけきっぱりと彼女はいった。
「祈ったって、悲しんだって、同じことよ。それよりも、私たちは間違いなく天国で会えるんだから、だから同じことなのよ」
「君は天国へいけるのかね」
半ば冗談でいったが、
「私は天国へいくわ」
はっきりとパティはいった。
後は何かを預けるように彼女は黙ったままだった。
しかし見知らぬこの女と、一つベッドで、裸で抱き合っている私には、その沈黙は引き受け切れぬものに感じられた。たった今聞かされたことがらは、今は一ヶ所を除いては肌の色も薄らぎ、裸の肌と肌を触れ合わせ指を伝わらせなければはっきりしない古い傷痕を体中に持つ、半人前の娼婦の身の上話としては、私には扱いかねるほど重すぎた。その印象を私は今までしかけていた肉体の動作の中でどう払拭も昇華することも出来そうになかった。また、それを私に話してしまった彼女のためにも、私は多分何もしてやれはしなかったに違いない。
パティは黙ったままでいる私に、黙って手をのべ触れ直して来た。私は同じように黙ったままその手を捉え包みながらその場に押しとどめた。彼女が間近で私を見つめ直すのを感じた。
その時、私は奇妙なことに、その頃日本のテレビのあるウィスキーのコマーシャルで見て覚えていた文句を思い出したのだ。日本列島と大陸の間を行き交う渡り鳥の雁に関するいい伝え、ということだが、私は最初それは多分、そのフィルムの中で、田舎の岸辺で漁師からそのいい伝えを聞かされる旅人に扮して登場している小説家が創り出したものだと思っていたが、後で聞くと事典にも載っているある地方の古い習慣だった。その男はテレビの中で、雁供養のたき火をかこみ、例のウィスキーを飲みながら鼻にかかった声で慨嘆していう。
「――哀れな話だなあ。日本人て不思議だなあ」
パティの手を押しとどめながら、その時私はひどく自然にその|台詞《せりふ》を口にしていた。
「――哀れな話だなあ、アメリカ人て不思議だなあ」
パティは身じろがず、それを聞いていた。多分、二度目の結婚の相手だったという日本人の夫が、時折彼女にはわからぬ日本語で何かを独りごちたりする時、妻として、今と同じように、わからぬながら聞き耳たてたに違いない。
私はもう一度ゆっくりくり返していった。
「――哀れな話だなあ、アメリカ人て不思議だなあ」
「それはどういう意味」
ようやく彼女は聞いた。
「英語でいっても、わかりにくいことなんだな」
「わからなくてもいいわ」
「直訳するとだね――」
しかし私は結局、日本の東北の日本海岸にある風習について語り、台詞の由来を説いて聞かせてやった。雁が海の向こうに還る頃、人々は浜べの木切れを集めて風呂をわかす。その木は雁が海を越えて渡って来る途中、海に浮かせてとまり翼を休めるためにくわえて来る。そしてまた春それをくわえて帰る。浜辺に残っている木切れは、日本で死んだ雁のもので、人々は供養のためにその木をたいて風呂をわかし湯あみをする。
「美しくて、悲しくて、いい話だわ。でも何故、私が不思議なの」
パティは微笑み直しながらいった。
「いや、俺にはなんとなく不思議なんだよ。つまり、君は、こんなことをしていても多分天国にいくだろう。そしてそこで、二人の夫と四人の子供たちに会う。ならば今こうして生きている時も、その再会へ繋がる道すがらじゃないのか」
「だから悲しめというの」
「いや、悲しめとはいわないが」
「繋がっているから、今は今なのよ。今は私しかいないんだから。それに、私はもう自分一人で沢山なのよ。一人で勝手に楽しくやるわ。その方が、死んで天国にいる子供や夫たちは喜んでいてくれると思うわ」
「わかったよ、そういうことにしよう。しかし、アメリカ人て不思議だなあ」
私はもう一度日本語でいって見せた。
パティは促すように手をのべ私にしっかりと触れ直して来た。
されるままに私は前よりもはっきりとあることを悟ったような気がしていた。それは何といおう、私の想像を超えた出来事ながら、矢張り同じ人間の、ただ形を変えた生きざま死にざまへの確信のようなものだった。
風土も習慣も、それに培われた情操も異なるこのアメリカという茫漠とした国の中に、矢張り同じ業の網の目の張り廻らされた同じ人間の人生があるのだな、ということだったろう。
暫くし、何かを自分の内に収い直したように身を寄せ直すと、私をゆっくり抱きしめながら、
「Why don't you make me wet again!」
唇を寄せパティは囁いていった。
きょうだい
兄貴は、辰雄は死にましたよ、知らなかったですか。殺されたんです、女にね。あいつらしいといえば、あいつらしい死に方だった。
あいつとは長い間一緒だったけど、思ってみるとあまりろくなことはなかったね。
あいつのことを思い出すと、不思議にいつも川とか海とか水に関わりがあるんです。あいつがあいつの親父と私の家にやってきた時も、大雨で近くの川があふれて、店の外から土間にまで水が入ってきていました。私が酒屋への使いからもどって店の戸を開けて入ると、あいつの親父の立川とおふくろが奥の上がり口の畳の上で話しこんでい、手前の木の椅子の上であいつが足元に溜まった水を戸口にむかって蹴散らかしていました。
その水が私の足にはねてかかっても、やつは知らぬ顔で同じことをしつづけていた。その|仕《し》|種《ぐさ》が子供のくせにひどく横柄で、まるで私の方が知らぬ家に初めてきたような気がしていました。
それに、奥で話している二人の様子が他の客とのそれとはどこか違って、おふくろは私を見てうなずいただけだったが、初めてみる相手の男が私に、大人のくせに妙に媚びたみたいな笑いかたをするのがなんとはなし不安で嫌な気がした。なぜか私にはこの男とおふくろが、今日が初対面ではないのがすぐにわかりました。
おふくろは私が買ってもどった酒を一升瓶のままコップに注いで男にさしだし、男がうなずきもせずにそれを飲むのを眺めて妙な予感に襲われたのを覚えています。
どんな言い訳をきかされたのか覚えていないが、二人の男はそのままわが家の住人になり、その夜から私は辰雄と一緒の二階の裏部屋に、おふくろと立川はもう一つしかない部屋に寝るようになりました。
辰雄はそのまま私の中学に転入して、皮肉なことに私と同じ級に入りました。級の仲間たちは同じ家から通っていながら姓の違う私たちのことをどんな目で見ていたんでしょうか。
級の中に町の小さな土建屋の倅で力が強くてたちの悪いいじめ屋がいて、そいつがある日の放課後に校庭の隅で何かで難癖つけて辰雄を殴り、相手の図体を見ても見劣りするのに彼が思いがけず真っ向から手向かって、それを見て相手の取り巻きたちが手を貸して袋叩きにされたことがあります。私は途中から来かかって様子もわからずに眺めていたが、激しく手向かいながら周りから殴られている辰雄が私を見て何か叫び、相手のやつらは私に向かっても身構えた。辰雄が私に向かって手を貸せと叫んだのはわかったが、自分が今なぜ彼のために何をすべきなのかが私にはよくわからなかった。
私が彼に荷担しないのを見すまして、相手はみんなで辰雄を囲んで押しつぶし砂まみれにして引き上げていった。他にも見物はいましたが、私もなんとはなくばつが悪く彼等と一緒に、辰雄をその場において引き上げました。
途中で仲間の一人が、辰雄の相手が彼に、おまえの親父は加納の、私のおふくろの男妾だといったと聞かされました。私には、初めて聞くその言葉の意味というより実感がよくわかるような気がしました。それは辰雄にとってだけではなくこの私にも、怒りとも屈辱ともつかぬなんとも気の滅入るような言葉でした。
鼻血を出した辰雄はそのまま家に帰り、私は仲間と暫く校庭で遊んで帰りましたが、家の前までくると中でおふくろと立川が高い声で言い争っているのが聞こえました。私が戸を開ける気配に振り返った立川の視線が、言い争いが私にも関わりあったのでしょう、まぎれもなく他人の目つきだったのを今でも覚えています。
私が靴を脱いで奥の階段を上がりかけるまで二人は黙ったままでいましたが、その後男はおふくろと私にまで面当てするように荒い音をたてて戸を開けどこかへ出ていきました。
二階の部屋で辰雄は鼻の穴に血をとめる綿をつめて寝転がってい、私を見るとゆっくり起き上がり、
「おまえ、きたねえじゃないか」
なじるようにいいました。
「なにが」
「なんで助けなかったんだよ」
「だってなんであんなことになってるのか、後からきてわかりゃしないよ」
「なんだっていいじゃねえか、兄弟じゃねえのか俺たちは」
私はその時たぶん生まれて初めていわれたことの意味がわかるようでわからず、飲みこめぬものを喉の奥にしたままのように彼を見返し突っ立っていました。
そしていきなり彼が私の頬を殴りつけ、私は横の柱に頭をぶつけて畳に倒れました。その私の上に胸倉をつかんで馬乗りになって次にまた殴りつけるのかと思ったら、鼻の両穴に綿をつめて呼吸が苦しいのか体で喘ぐように息しながら、なぜか辰雄は手を放し、
「ちぇっ、馬鹿野郎が」
その時だけひどく大人びた口調で言い放つと跨いでいた足を戻して背をむけました。
立川が私たちの前から姿を消したのはそれからおよそ半年ほどしてのことです。
それまではおふくろの横で店を手伝ったりどこぞで日雇いの仕事もしていましたが、時々店の金を勝手に持ち出して、多分何かの賭けごとだったんでしょう、それを使い果たしてはおふくろと口論していましたが、それでも彼なりに身がもたなくなったのでしょう。近くの三崎の町からまぐろ船に乗って稼ぎにいったとか、内航船に賄いとして乗りこんだとか店にくる客たちの噂で後から聞かされたが、結局それきり町にも店にも二度と戻ってはきませんでした。
立川が姿を消してからおふくろが|荒《すさ》んでいくのがよくわかりました。女だてらの趣味だった賭けごとに前よりもいれあげているのがはたから見ていてもわかった。もともと立川ともどこかの賭場で知りあった仲のようでした。店は休みがちになり、私も辰雄も子供心にこれでこの先いったいどうなるのかという気持ちでした。
そんな中で辰雄が、彼なりの居心地の悪さもあったのでしょう、子供のくせにおふくろにいなくなった自分の親父の詫びをいったりしたこともありました。そして一人で酒を飲んで酔っているおふくろがそんな彼に向かってからむのを、私はどう止めていいのかわからずに眺めていました。考えてみると、あんな時の私の立場というのも変なものだった。
私が彼に本当の人生の借りをつくったのは中学三年の時です。
近くの馬入川の上流に釣りにいっていた時、季節は梅雨時でしたが、上流のさらに上の山間で集中豪雨があったらしい。周りに人でもいれば天気の報せもはいったのでしょうが、そこは辰雄が見つけて自分で餌つけというんですか、いろいろ仕掛けをほどこしておいたという中洲で、いわば彼のとっておきの場所でした。しかし子供のくせに呑気に釣りをということではとてもなかった。ふたりしての親がやっている小料理屋の仕入れのための小魚釣りでした。誰が釣ろうが鮎は鮎、山女は山女で、どんなしけた店ででも正札張って出せる品物ですから。だからおふくろは私たちの遊びの成果を店の上がりの足しにしていたし、私たちにしても、とくに立川が姿をくらませてから立場が妙なものになった辰雄にしてみれば、嫌いではない釣りの遊びでの獲物が居候の身のわずかな保証にでもなればせめてものことだったにちがいありません。それに他に何といったろくな娯楽もなかったあの頃、私も釣りは嫌いではなかったし彼とはよく川や海に釣りにいきました。
辰雄は妙に手先が器用で、その頃出だした値も高い釣りの新しい道具を真似て自分でしつらえ、見た目は不細工でもそれが水の中でどんな効果があるのか、大人が感心するような獲物を上げたりもしていました。実際に彼が作った鮎のための仕掛けは、近くの釣り自慢の大人が何人か彼の道具を金をだしてまでゆずり受けるほどのものでした。
しかしそれとて二人の釣りは子供の遊び以上に、貧しい家のたつきの手助けという節がありました。第一、二人が海や川から手ぶらで帰った時のおふくろはとっつき悪いものでした。
あれは六月の半ば頃、いくつも迷走台風が本州に上陸してじぐざぐのコースを走り、風よりも雨の被害があちこちに出た年でした。
私たちがいたあたりでは雨はひっきりなしに降ってはいたが、見ている前で水嵩が見る間に増していくというほどではなかった。それに種類はまちまちだったが、辰雄がいろいろしつらえ並べて仕掛けてある竿におもしろいほどいろいろな魚がかかってきた。四十センチをこすほどの鯉とか大きい鰻が十匹近く、そして山女も大漁だった。まるで幼い私たち二人だけが何かから特別に祝福でも受けて川の中洲の小さな世界をまかされ仕切っているような興奮がありました。
気づいた時今まで二人で我がものにしていた五、六百坪ほどの中洲が半分まで川水に身をそがれ、あの大きな鯉や鰻を入れ泥に打ち込んだ杭につなぎで水につけてあった網の生簀はとっくに杭ごと流され跡もなかった。それに気づいて初めて、私たちは二人を取り囲んで流れる川の水の声の高さをさとらされたのです。それはもはや声というより、私たちの目からは見えぬはるか上流にかさみにかさんだもののうなり声のような轟きでした。
私たちにとって残された時間がもうわずかもないことを証すように突然、上流でつい今しがた折れて引き裂かれた太い木が音をたて二人が立ちすくむ中洲にぶつかってのし上り、増してくる水嵩のままに二人を追い落とそうとするようにじりじりと中洲の砂の上に這い上がって来るのでした。気がつくと雨足がまた強まりあたりは急に薄暗くなってきていました。
その時、私たちの対岸の土手に黄色い作業用の雨合羽を着込んだ何人かの男たちが姿を現し、私たちに向かって手をふり中洲からの退去を促しました。そういわれても、はじめ腰までつかって渡ってきた川を、急に増した水量と轟いて流れる水の速さでは、なまじなことで岸までもどるなど出来そうになかった。
その時なぜか向こう岸に集まった連中の一人が、私たちのいる中洲に向かって照明弾を打ち上げました。落下傘のついたフライアーは風に乗ってちょうど私たちのいる中洲を頭上から照らし出し、私は桃色がかったぎらつく明りの下で、自分たちが踏みしめている地面がすでに危うく、後もう三十センチも水嵩がませば水に覆われてしまうだろうことを覚りました。
それを証すように、さっき中洲の端に衝突し這い上がってきた折れ木が、今また水の勢いに押されて中洲の背の上をじりじりと動き出していました。
薄暗がりをすかして確かめたが、フライアーを上げた男たちの手元には人間を渡すための船の用意などある様子はありませんでした。彼等はまさかと思っていた川の中に人影をみつけて驚いたのでしょう。
私たちのいた中洲は彼等のいる岸より逆の側にむしろ近かった。岸の様子は定かではないが、この川に人間が這い上がるのをこばむほどの高い崖なぞある筈はない。
「道具をしまえよ」
辰雄はいったが、直ぐ足元を水に押されて動こうとしている流木の気配をみれば私たちにはもうそんな悠長な暇などありそうになかった。それでも彼は手元に置いてあった獲物のはいった冷凍箱をかかえ、束ねた竿を背中にくくりつけ、
「いいか、この木にすがって流されていこう。途中かならずどこかに水の流れのゆるくなるところがあるさ」
私には彼のいおうとしているところはわかったつもりですが、いったん水に入ってみると、ほとんどその瞬間に明りが薄れ身の周りで轟く真っ黒な水の流れの勢いからして、何にすがりついていようととてもどこかへ泳ぎつけるような気にはなれなかった。
私は不安なまま辰雄の名を呼び、辰雄はすぐに答えて手を伸べ肩口をとらえてくれたが、それに向かってさらにすがりなおそうと叫んだ時にしたたか水を飲みました。
黒い水は水とは思えぬほど何かの重しのように私の全身をしめつけ、あわててすがっている木の上に腹這いによじ登ろうとして、足がかりのないままもがいて滑り落ちまた水を飲んだ。
その内流されていた木が何かに強くぶつかる衝撃があり、私はそれを対岸のどこかと信じて思わず叫んで木から手を放しそれに向かってしがみつこうとしたが、相手は川の中に捨て置かれた旧い何やら大きな機械とそれに堆積した土砂の盛り上がりで、体はまた簡単に引き剥がされ流れの中に放りだされました。
泥の匂いのするねばりつくような水の渦の中で、辰雄はどうやってか私の襟口を後ろからとらえて引き上げ、抱えていた獲物用の箱にすがらせ、その手に箱の紐を巻きつけてくれました。
「いいか、あわてるな。あわてると、こんな川ででも死ぬぞ。見ろ、明りが見えてきた。これから川幅は広がっていく、流れは前よりもゆるくなる。流れに乗るつもりで、すこしずつ向きを変えて、どこか草の生えてるあたりをさがして上がるんだ」
いわれるままに、私は彼が腕に巻きつけてくれた獲物箱にすがり、彼がいった通り遠くに見えてきた人家の明りだけをみつめて流れにさからわず漂い流されていきました。
お陰で私たちはどうやら無事に生還を果たしました。ずぶぬれになり獲物一匹もさげずに戻った私たちにおふくろはまったく何もいいはしませんでした。そんな様子が逆に二人だけでした冒険の秘密の共有を感じさせてくれました。
風呂に入り、乾いたものに着替えた後、二人だけでにわかに腰が抜けたような気分で部屋の畳に坐りこんだ時、辰雄がほっと肩を落とした後なぜかにやっと笑って肩をすくめてみせた大人びた仕種を今でも覚えています。
翌日の新聞の片隅に、馬入川の中洲で孤立していた釣人二人を近くの消防団員がみつけたが、時刻が遅く距離もはなれて手を出せないまま、二人はどうやら自力で脱出したもよう、と出ていたのを、辰雄が黙って指して教えました。
その後、
「結構おもしろかったよなあ。お前は溺れそこなったから、もっとおもしろかったろう」
からかうようにいったがそれだけだった。
しかし私はあの時辰雄がそばにいなければ多分死んでいたでしょう。それまで何かで自分が死ぬかもしれぬという目にあったのは、あれが初めてのことです。しかしその後、彼との関わりで何度もそんな目に会う羽目にはなりましたが。
おふくろは、まったく突然死んでしまいました。
中学三年の終り頃、卒業記念に私たちは五日間の九州修学旅行をしました。それなりの物入りでしたが、おふくろは私だけでなく辰雄の分の金も出してくれました。旅行の印象はあまり覚えていません。最後の雲仙の宿で同行の教師が急に私と辰雄を呼び出し、とにかく急いで家へ帰るようにいいつけました。
帰って初めて知らされましたが家は突然の火事で丸焼けになってい、おふくろは火の中で死んでいました。逃げ遅れたのでしょうか、火事に気づいた周りの人達が外から声をかけても返事もなく、第一燃えている家の中におふくろがいたのかどうか火が消えた後の検証までわからなかったそうです。
事情を聞かされた後刑事に連れられて店のあった焼け跡にいきました。ちっぽけな空き地に、わずかな灰の山があった。その後また警察に戻って、家の中で焼けて死んだおふくろの死体に対面させられました。死体といっても顔も何もわからない焼けて爛れたのっぺらぼうの、それがおふくろということでした。その時も辰雄が一緒に側にいました。
「これで、またもう一度焼き場にもってって焼くのかな」
なぜかひどく親身な声で私にささやいたのを覚えています。
おふくろは多分自殺したのだと思います。後になってそんな噂を周りからも聞いたが、子供心にもそんな気がしていました。なんのために死んだんだということでしょうが、男とか金とか博打とかいろいろあったろうが、子供の目から眺めてもおふくろはもう飽きてくたびれ果てていたんじゃないでしょうか。
息子と辰雄の修学旅行の金まで調達してくれて、それはその頃なりにかなりの金でした。それが出来ずに旅行にいけなかった子も何人かいたくらいですから、それで親なりの義理をはたしたつもりで、私たちの留守に自分で店に火をつけて死んだんでしょう。たぶん酒を飲んでの上で。
あのことで辰雄が彼といっしょに残された私に、あるいは死んでしまったおふくろに何を感じていたかは知りません。幼いなりに気持ちの上での何かはあったでしょう。
修学旅行にまで出してやった息子のために保険をかけてあったのかどうかという噂もあったようですが、子供の出しゃばれる話ではないし、そういう器用な準備などしてはいなかったようで、旅行の後から私も辰雄ももろに困ったことになりました。
結局二人して高校へはいけずに、おふくろの姉の、近くで商売している口のうるさい伯母にいわれるまま、二人こみであちこちいろいろ仕事をして回りました。これはこれで結構いい仕事だなと思っていると、伯母がまた出てきてもっといい口があるからとせっかく慣れかけた仕事から移されたり、まあ食うに困るということはなくしてすみました。
しかしそれにしても今まで一応親がかりの分際から、弁当屋の詰め込み、配達、あるいは突貫工事でやる市中のビルの夜間の管理員、近くの港の倉庫の夜勤、金にはなりはしたがどこか食い足りない、どこか間の抜けたような仕事ばかりでした。比べて昔の身分が懐かしいなどと思ったこともないが、それでもその内どこかで俺たちだけのために供えられた何かにいきあたれるんじゃないか、そんな気がしていました。お互いに世間も知らぬ幼稚ということだったんです。
ならばいったい何を目指し、大それたことだろうと何を試みたらいいのか、いたずらな予感ばかりで実際にはまったく何の当てももたずただなんとなく不本意なだらだらした生活が流れていきました。
最初の頃、伯母がみつけてくれたアパートに二人して住んでいたが、その内あいつは自分で勝手に別の部屋をみつけて一人で移って住むようになりました。多分女でも出来たんでしょう。それでも女を紹介する訳でもなく、週に一度くらいは私の部屋に一人でやってきて上がり込み勝手に泊まっていったりしてもいました。
店が焼けてその必要もなくなり、二人しての釣りもあまりしなくなっていたが、あの頃辰雄は誰かに教えられて手品に凝っていました。夜小遣い稼ぎに手伝っているというスナックに来る客に、老人の施設まで出かけて娯楽のボランティアをよくするというほどの腕がいるそうで、彼に習ったかなり手のこんだ技を私の目の前でもいろいろ披露してみせました。もともと手先の器用な奴だったが、大きな指の股と股の間をくるくると自在に外国の金貨をひっくり返しながら回して渡す動作なんぞ、芸というより何かの練習のように部屋で酒を飲んだり煙草を吸っている間にもやっていました。
一度彼が手伝っているという店に寄ってみたら、日頃客相手に見せるのかいくつか手品の小道具が棚の端においてありました。私が感心したのは、客相手にやるダイス遊びで覚えた手練で、古い皮のケースに入れた五つのダイスを、指も添えずケースだけで一つも落とさずに|掬《すく》い取ったり、カウンターの台の上で伏せたまま何度か掻き回すと、ケースの中で五つのダイスが指で積んだように縦一列に重なって立っているんです。何度やっても見事なものでした。皮のケースの代わりにガラスのコップを使っても同じで、そのしなやかで素早い手つきは、今までもいろいろ器用だったとはいえ見慣れぬものでした。
「あんた、その内それで食えるようになるよ」
客の一人が感心していってたが、私だけに聞こえるように、
「もう少しこなせば、だいたい思った通りの|賽《さい》の目も出せるぜ」
辰雄はしかけている|悪戯《いたずら》を打ち明けるようにいったものでした。
結局、私はその相棒を務める羽目にまでなったんです。
それから暫くしてまた偶然に、二人前後して近くの大きな雑貨屋というか、小さなスーパーに勤めるようになったことがあります。店の責任者は社長の親戚という男で、金庫の開け閉めはその店長だけがやっていたが、近くに新しい住宅地が開けたりして店もなかなかの繁盛でした。店員の多くは時間給で働くパートで、奥の事務室に出入りする人間はごく限られていたが、ある時辰雄が、
「あの店長、店の金を他に回して何か別の商売してるんじゃないか」
いったことがあります。そんなことに気が回るのもあの男の才覚でした。いわれてみるとたしかに、金庫の開け閉めが大きな仕入れに関係ないような折にもあって、
「あの会計の金子と奴は出来てるな。俺は二度ほど二人が町で一緒に手を繋いでいるのを見た」
いった辰雄の言葉の通り、金庫に関しての店長の振る舞いを、|件《くだん》の女は見て見ぬ様子だった。
そしてある時、狭い事務室の中で店長だけがする金庫の開け閉めを、辰雄がさりげなく、しかし妙に注意深く眺めてい、その後何かを口の中で|諳《そらん》じるようにつぶやき手元の紙切れに何かを書き留めているのを眼にしたことがあります。
ある日の午後店長がまたさり気なく金庫を開けなにがしかの金を会社の封筒に入れ懐にしてでかけていった時、辰雄がその動作をひどく冷酷な目つきで眺めて過ごし、その後また素早く何かを手元の紙に書きつけるのを見ました。
事務所に出入りする従業員の数は知れていたが、それにしても金庫にそんな風な関心を持つ他の従業員なぞいはしなかった。
二人きりになった時、
「お前、あの金庫になにか興味があるのか」
咎めていったつもりではなかったが、辰雄は一瞬だけ険しい目つきで見返しましたが、思い直したような笑いを浮かべ、
「お前なら、この金庫開けられるか」
「どういうことだ」
「鍵の番号を知ってるのは店長だけのつもりだろうが、俺にはどうやらやれるぜ」
「それはどういうことだ」
「どうともいわねえさ。でもな、店長と会計の金子が出来てる限り、奴がこの中身をどうしてようと他の誰にもわからねえ。さっきもそうだが、店長がとり出していった金は私用だな。女もわかっていて黙っている」
「だから何なんだ」
「いや、お前だからいうが、こんな金庫、大仰だがよく眺めていると実はちょろいもんだぜ」
「どういうことだよ」
「今までさんざ奴がこれを開けるのを知らん顔して眺めてきたが、もう俺が開けてみせられるな」
「開けてどうする」
「いや、ただそれだけのことよ」
「それだけというなら、そんな余計なことをしてみせることはないだろう」
「ところがやってみたいんだよ、自分をためすためにもな」
いいながら彼はすでに諳じている幾つかの数の組み合わせに合わせて要領よく金庫の表のダイヤルを回してみせ、最後に私に向かって振り返ると、鍵の数字が合って金庫の深部の何かがかすかにかちっと響いて後を待つ気配に私をうながしました。
「しかし、鍵がいるだろう」
いった私をからかうように、
「後は鍵だけさ」
試すように私を見据え、ゆっくり笑ってみせました。
あの時彼が見せた、あのなんともいえぬ笑顔を今でもよく覚えています。それは悪戯っぽく、自分だけで楽しむことが惜しいあまり親しい他人までをその悪さにひきこみ、悪事のときめきを倍にして楽しみたいというような、誘うような促すような、したたかな悪人の媚びの表情でした。
正直いって私もその時、彼がいったように後鍵さえあれば目の前のいかつい金庫が多分手もなく開かれるだろうことを信じていました。それ以来私の立場はいつもあの時と同じで、共犯でもなし、なんというのだろう、彼にとって現場に欠かせぬ観戦者ということになったんです。
いったとおり、彼は数日して持ち込んだ蝋の固まりを使って金庫の鍵の型をとり、一週間後、残業の後私を呼び止めて、他に誰もいなくなった事務室の金庫を苦もなく開いてみせました。
「鍵なんぞは馬鹿にも出来るが、俺はあの店長が右左右左とダイヤルを回して最後に合わすあのタイミングを三度みただけでこれはいけると思ったんだよ」
開かれた金庫の中には、その日の売り上げもふくめてかなりの現金がしまわれていました。
その中から百円玉を一つだけつまむと辰雄は自分の上着のポケットにしまい、私に目を瞑ってみせました。
金庫の扉はそのまままた閉じられたが、私にはこの後彼がその金庫を勝手に開け閉めして、多分あの店長がしていると同じように金庫の中身を自在に使うだろうことがよくわかりました。そして店の金を、ことが大きく破綻し発覚するまでの間、店長とその女と、そして彼等があずかり知らぬ辰雄の三人が勝手に流用することで、やがて店そのものに挫折が来るだろうと思っていました。
三月もすると店長と会計の女の間に、事情を知る私だけにははっきりとうかがえる、おびえながらも互いにとげとげしたものが感じられるようになってきました。そしてやがて会計の女が店をやめていった。
「ここらが潮時だろうな」
辰雄はうそぶくように私にいいました。
「俺はこの次の仕入れの日っきりでこの店とは縁を切るが、お前はまだしばらく後を眺めていてくれよ。最後にまとまった金を都合させてもらって、それを元手に二人のために何かもっとましな商売を考えるからな。そっちが軌道に乗ったらお前を迎えにくるぜ」
「もっとましな商売ってのはなんのことなんだ」
「まだわかりゃしねえが、必ずあるさ。おふくろさんが焼けて死んだあの店をもう一度二人してやったっていいじゃねえか」
いいはしたが彼がそんなことを露考えていないことだけはわかっていました。しかしそれでもなお私は、辰雄がいつかこの私を何かで迎えにやってくるのを期待していたと思います。
店長と辰雄の二人が店の金をどれほど使いこんだかは知らないが、辰雄がやめて間もなく店長が首になりさらに半年したら店の持ち主も店の名も変わってしまいました。
その間辰雄がどこで何をしていたのか全く知りませんでした。もう町にはいない様子で、一度だけ彼の借りていた部屋を訪ねてもみたが知らぬ名前の名刺が戸口に張ってあった。
例の口うるさい伯母に町で出会った時、まさかとは思ったが聞いてみると、
「なんであんな男のことを気にするの、お金でもとられたのかい。あんな奴、いなくなって安心してたよ。あの丸元のスーパーだって内部の者の不始末で潰れたっていうが、誰だかわかったものじゃない、あいつだって噛んでいたかも知れないよ。澄子もあんなろくでもない親子にいつかれてからろくなことはなかったんだから」
いうだけいうと伯母は確かめるように私を見渡し、勝手に得心したようにうなずくと、厄介からのがれるように足早に立ち去っていきました。
それきり何年になるか、辰雄からの便りは絶えてなかった。その後二十歳を過ぎてから例の伯母にいわれ、母親が店を出していた土地の地権は伯母が管理してきていたが、私がその気になるなら、金の工面はなんとかしてやるから板前になる修業をしたらと諭されました。断る理由もなかったが、その時ふと何を期待した訳でもないが、今ここに辰雄がいたらなんというだろうかなと思いました。
それからしばらくして伯母の口ききで人づてに、熱海のある旅館の割烹の見習いに入りました。旅館の割烹といっても場所が場所だけに別に凝った料理という訳でもなし、それこそ中学生時代おふくろの店で見様見真似でやらされていたことが結構役にもたちました。
熱海で三年の修業、というよりまあまともに勤めただけの話ですが、私なりの腕を買われて来宮の奥のある小体ななにやら会員制の旅館の板場をまかされて住み込むようになりました。
その宿屋で何年ぶりだったでしょうか、辰雄に出会ったのです。
彼は年配の大切そうな客二人に同伴している様子でした。狭い宿のせいで、所用で玄関まで出てきていた私に彼の方から気づいて声をかけ、席がだいぶ進んで座敷から呼びがかかりました。
客は私をたてて宿の料理を褒めてくれましたが、私にはその客の素性とどんな関わりで辰雄がここにいるのかがまったくわかりませんでした。客の人品はなかなかの感じで、しかしどこか伝法な口のききようでもあり、辰雄がどんな関わりで一緒にいるのか想像つかなかった。
辰雄は私をたててか、客に向かって二人の昔の因縁について話したりしていましたが、あまり嬉しい話でもなく頃を見て座敷を離れ、女中にいいつけて座敷の終った後一寸でいいから辰雄に顔を貸してもらえないかと伝えました。祝儀の世辞かそれとも本気でか客たちがこの宿を気にいってくれ、また近い内に使わしてもらうといってたった後、何年ぶりのことだったろう辰雄と二人きりで奥の小座敷で話しました。
客と一緒にいる時はまあまあだったが、一人になって坐ると一見して居住まいは堅気には見えなかった。辰雄も彼なりの気負いがあるのか、隠そうともせずに、
「おまえここでもう何年やってるんだ」
「それよりおまえは今何やってる」
聞いたら、
「あはは、見た通りだよ。何やってると思う」
「わからないが、堅気じゃないな」
「そういうお前だって、おんなじようなもんだろうが」
いわれて黙った私に、
「お前の噂はきいてはいたんだ、やっぱり親の血だな。その内にかならず一軒持てよ。俺はお前に借りがあるからな」
「あの店の金庫のことか」
「ああ、あれはいい元手になったぜ」
「それで、今いったい何をしてるんだ」
気をもたせて笑うと、
「何に見える」
「だから、堅気じゃあるまい」
「その通りだ」
「なんだ」
「これさ」
右の手を上げ何かをつかんでかざすような仕種で、
「お前は知るまいが、最近この世界じゃ、若いがちょっとした名前になってるんだ」
「何なんだ」
「壺ふりよ。ダイスのな」
歯を見せ悪戯っぽく笑うと、
「どうだ、また俺に手を貸さないか。悪いようにはしないぜ」
あいつの方がとうに世間が広く、私が働いている宿屋の常客の誰と誰が実はどんな趣味を持ち、どんな気性の人間かまでよく知っていました。
彼にいわれるままの口舌でさりげなく、これという客に辰雄のいる世界の道楽に水を向けてみると、因果なことに結果はいつも感謝され、私自身の|贔《ひい》|屓《き》も増えていきました。その内に私も仕事の暇を見て贔屓の客の供をし、辰雄の坐っているあちこちの賭場に出入りするようになりましたが、最初の時、私はこの私も私の母親も、それに今どこに生きているのか死んでしまったのかわかりもしない辰雄の父親の立川も、それに誰よりもこの辰雄も、はたからは見てはわからぬが結局気のふれたとしかいいようない、濁った、まともとはいえぬ血を継いだ人間たちだということがよくわかりました。
辰雄の恐ろしいところは、あの頃から私の母親をどんな目で眺めていたのかしらないが、その子供の私の体の血筋のようなものを見澄まして、時をかけて私を彼の相棒にしたてたことです。今さらそうぼやいてもどうしようもない話ですが。
辰雄との再会がきっかけで、その後その道の趣味のある客について彼から紹介されあちこちの賭場にもいきましたが、眺めていて若いながら辰雄ほど手が切れ身振りのいい|中《なか》|盆《ぼん》はいませんでした。
賭場でする博打のほとんどははかのいく花札を使ってのバッタでしたが、賭場が大きくなると、客自身の自惚れ技の披露もかねた趣味の本引き、特に手本引きなんぞがよく行われて、そこでは相当な玄人でもたやすくは見破れぬ手際の辰雄の技が、いってみれば賭場に格をそえる余興としてもてはやされていました。
そんな場所に出入りして彼を眺めれば眺めるほど、私にはあのスーパーの金庫の鍵合わせを長い時間かけて見破った辰雄の、いやその以前、アルバイトをしていたスナックで素人の誰からか学んだ手品の数々を一つ一つこなしていった彼が、実はその先何を狙っていたのかが改めてわかるような気がしました。
そしてやがて当然、彼は私にある仕掛けを持ち掛けてきました。私には母親の血筋からしてもそれをこばむ理由はなかった。
つまり彼の指先三寸腕次第で開かれる前に結果の知れている勝負に、私が案内した客に合図して張らせて儲けさせる。その儲けの嵩は私が勘定しておいて後で折半ということです。
何組かの花札をかき混ぜてやるバッタにはその余裕はなかったが、客が他の余興を求めてやりだす手本引きなんぞはしかけの余裕がいくらでもありました。辰雄がそれに加われば、素人の客には彼が引いた札の見分けがほとんどつかず、それにどう張るかの判断に、彼からの合図を受けて伴をした客に私がそっと教えてやる。本引きは勝負に時間もかかったが、それなりにいかにも賭場らしい雰囲気が出て、場あたりの賭け金もかさみます。
こうした細工はそれに乗る客たちにとっても麻薬みたいなものらしく、一度いんちきのスリルを味わった客はより大胆になってもっと大きな冒険を求めます。手本引きは参加する客の数も知れているが、ことのついでに始まるサイコロ博打は、原理がバッタと同じ丁半だけに壺を振る人間の腕とそれが作っていく雰囲気次第で場数もどんどんかさみ、場も興奮していく。
辰雄はそのために生まれてきたような男でした。自分の腕、というより指の動きにそしらぬ顔をしながら全身を預けて、神経をこめるというより、何か分身の動物を操る醒めた動物使いみたいに、時折自分で自分の腕をはげまし促してやるような仕種で開いた手をかざし、指と指の股の間に何か隠してでもあるかのように小首を傾げ、辺りを見渡して見せたりして、客がその動作にまどわされながら賭けの結果にいつも以上に満足したりがっかりするのがわかりました。そして、彼からの合図はそんな大仰な仕種の後に、実にさりげなく出されてきた。
辰雄に誘われて賭場に出入りするようになって、私自身も小銭を張ったりしましたが、好きじゃあっても自分がいかにも小心なのがわかるくらい目をとり逃がして悔しい思いばかりしていました。しかし彼と組んでのいかさまで儲けを上げるようになると、なんというんでしょう、博打の好きだったおふくろやあの印象の良くなかった立川にひと泡ふかしてやっているような、博打で身を持ち崩したおふくろたちをこれで凌いでやったような痛快な思いがしてならなかった。
それにしても、まともな博打にしろいんちきにしろ|茣《ご》|蓙《ざ》の上で札がめくられ、壺が外されて賽の目が出る瞬間の、あの身を苛むような緊張感とそのどんでんに体が引き込まれるような虚脱感のいったりきたりの波に体をまかして漂う、あの気分はたまらぬものでした。
辰雄に誘われるままに、私は自分の体の中に流れている血がどんなものだったのかを改めて悟らされた思いでした。
そんな賭場の中で、私だけ他の誰とも全く違う立場で、気づかれぬように、しかし誰よりも気を張り目を凝らして辰雄を眺めながら思ったことですが、見事、というよりあれが本物の嘘つきということでしょう。場がどんなに興奮していっても、あくまで余興のように壺を振っているあの男だけは興奮の外にいました。そして折を見て、もう余興の壺なんぞ止めて札を使った博打に戻りませんかと客をたしなめる。客はそれでかえって、札よりも単純なサイコロに魅入られ、彼が仕組んだとおりの結果が延々と続くという具合だった。
その間、私は気の通じた贔屓の客に、辰雄と私にしか分からぬ合図のままに、サイコロの目の出方を教え、客は客で慣れてくると私と一緒にちゃちな芝居までして、せいぜい迷ったふりをしながらいわれた目に張りこみ儲けをかさませていきました。
妙なものでそれにつれて、板前としての私の人気も限られた界隈でしたが上がって、勤め先の旅館でも重宝してくれるようにもなりました。
つまり、私と辰雄との会遇は彼にとっても他の誰とも出来ない新しい仕事をもたらした訳で、私たちは同じ町の賭場での繰り返しを恐れ、信用出来そうな客をそそのかしては他の離れた賭場にまで出かけていき、同じ仕組みでのぼろい収穫をくりかえしたものです。
そんな悪さがあの世界で後で思うに随分長い間続けられたのは、結局辰雄の腕というか、あの指のさばきが時たつにつれてますます磨きがかかり、彼が若いだけにかえってはたの目に疑いを抱かせなかったのでしょう。
実際あの頃彼は自分の手練に自信満々だったし、私と二人だけでいる時も壺振りに使う細工して重さのバランスを変えた二つのサイコロを、私の目の前でまともなそれとくるくるととり換えて見せるのですが、私が目を凝らしていても全くわからぬほどだった。
しかし、そんな細工もある時ある所であっけなく見破られました。私たちはそれこそ腕を切り落とされる寸前に逃げ出し、それきり世間に顔をみせられなくなる羽目になりました。
九州の八代という町で、いつものいんちきの常連の客が見栄をはった里帰りということで辰雄がその筋を通して地方での賭場となった訳ですが、その場に見かけはよぼよぼの、目もろくに開いていないのじゃないかと思われるような爺いが一人いて、それが博打の一番の盛り上がりの時に、みかけによらぬ素早い手つきで辰雄が私に合図してすり替えた仕掛けしたサイコロを横からつかみ取り、いきなり、まだあるとは思えない歯で噛んで割って放り出したんです。
その晩、私も辰雄も町から裸足で一体何キロ走って逃れたか。一緒にいった客の手引きで阿蘇の山中のどこかの百姓家に着の身着のままで一週間身を隠し、なんとか関東へはもどったが、すでにその世界の隅々まで回状が回っていました。
見つかれば辰雄は間違いなく片端にされるだろうが、その片割れとしての私の名まで通っているということで、私への刑罰は何になるのかわからないが、何にせよ痛い思いをしないですむ話ではなさそうだった。
その時になってざっと勘定してみましたが、辰雄と組んで客を誘い彼の細工のままに賭けて勝った、私だけの取り分でもあの頃の金で優に千万は越してました。
相談に乗ってくれる仲間があって、とにかくほとぼりをさますために、日本の中をうろうろするよりも行ったきり最低二年は帰ってこないというまぐろ船に乗り込んで稼ぎながら奴らに忘れられろということで、その年の四月、焼津から前歴は問わないという船主の船に二人して乗り込んだ。なんでも新規の乗り込みのもう一人は、以前人を殺してあと二年で時効という男で、見た目はおとなしい、それに|時《し》|化《け》には弱くてあまり船じゃ役にもたたない奴でした。その男は噂の通り、年に一度大西洋の上で出会う本社からの補給船にも移らず、ただただ海の上で時間をかせいでいました。
一旦遠い海まで出てしまうと気楽なもので、博打の細工でしこんだ金のありどころを誰知る訳もなく、指をつめるという追っ手も酔狂に大西洋までやってきはしまい。六人部屋のかいこ棚のベッドの上下に寝ながら、他に人気のない時なぞ、
「隠れるにもまぐろ船とは気がきいてたぜ。これで後二、三年海だけ眺めて暮らして、娑婆にもどる頃にはもう誰も俺たちのことなんぞ覚えていやしねえだろう」
実際、辰雄は心底くつろいでいる様子でした。それにまぐろ船の作業は相手が勝手知らぬ海だけに慣れるには時間もかかったが、作業そのものは体力は要っても複雑なものではなし、要は時化の時にどれだけもちこたえられるかということで、一年もせぬ内に二人とも他人にひけはとらぬ漁師になっていました。
二年目には会社からの指図で、船は大西洋のカナリア諸島のラスパルマスを基地にして操業しました。居ついて二月もしない内に辰雄は町の部屋に女を囲うようになった。三十も半ば過ぎのルイザという日本船員の現地妻専用の女で、辰雄は間もなく日本に帰る別の会社の幹部船員から博打の|形《かた》に女を譲りうけたのだそうです。
元の素性が割れないように、船に乗っている限り博打だけは慎むという約束でしたが、陸にいて女に不自由することはないと、誓いを破って一度だけ相手をひっかけてやったとうそぶいていたが、例のサイコロを使ったのか使わなかったのか、いずれにせよ日本に帰る前に金も溜まって気の大きくなった素人の相手をたらしこむのは簡単だったでしょう。
ルイザは気のいい女で、誰が教えたのかとって帰った魚を日本風に煮たり焼いたり刺身にも下ろしたりで重宝なものでした。一度私がちょっと手の込んだ料理を教えてやると、飲み込み早く新しい手料理を覚えこみました。
辰雄が話したのか、彼女は私が日本で料理人をしていたのを知っていて、その後も私に何か別の料理を教えてくれという。そんなことで、船が港に戻ったある日の夕方、彼の部屋まで出向いて夜に集まる仲間のためにもちょっとした料理の手ほどきをしてやりました。
女も熱心で、いろいろ手真似口真似で要領を教えている内、女の弾みのある体がしきりに押しつけられてくる。こっちも長い間遠ざかっているものだから、日本でなら控えたろうが、相手は外国人、辰雄にとっても所詮つかの間の相手だろうし、つい手を出して女の腰を抱いたり胸に手を入れたり、作業は作業で続けはしたが料理が出来上がった頃その先どうしようかと迷っていたら、いつの間にかいっていたより早く戻ってきた辰雄が後ろでビールをすすりながらにやにや笑って私たちを眺めていました。
女よりこちらの方がばつが悪く、言い訳したところで眺めたままだし、
「早かったじゃないか」
「早すぎたかよ」
笑いながら、
「お前、要るならいつでもこいつを使ってもいいぜ」
真顔でいいました。
「そういわれても、そうもいくまいが」
私も突っ張っていったが、
「いくさ、第三豊栄丸の賄いが家族の病気で国へ帰るそうだ。お前の料理の腕を聞いて移っちゃくれまいかといってきてるそうだぜ。いってやれよ、互いに違う船でてれこに漁に出ていりゃ、俺の留守の間はこいつを使えばいい」
どこで聞いてきたのか第三豊栄の話は本当で、次の漁から私は辰雄と別れて船を換え、そして彼がいった通り彼が沖に出て陸にいない時はルイザを借りて寝ました。女も慣れたもので異存もないようだった。
そんな生活が八ヶ月ほど続いたでしょうか。相手が外国の女だから多少の猟奇ですみましたが、彼女が私や彼を呼ぶエルマノという言葉の意味が「兄弟」だと聞いて、彼がそう教えたのかどうか、女はそれでいっそうそんな関係を得心したのかもしれないが、私はずいぶん久し振りに昔辰雄が私に向かっていった言葉を思い出したものです。
その内に船団は基地をダカールに変え、二人ともラスパルマスを離れました。辰雄があの女をどう処理したかは知りません、女の方も覚悟のことではあったでしょうが。
ダカールでは二人して酷い目にあった。町のカジノで二人して持ち金全部をルーレットで巻き上げられた。あれは明らかに二人していんちきにひっかかったということでしょう。辰雄は博打の玄人としての意地があったのか、胴元の手捌きに文句をつけたりしての果ての意地の張り合いになり、手慣れてもいない外国式の博打のからくりに酷い目にあわされた。まあとんだ所で、日本でやってきたことの償いをさせられたということでしょう。
その挙げ句に、懐の具合をなんとかしようと倍の給料に釣られて、難儀の知れているダカールからこの間までいたラスパルマスへ修理の終えた作業船を回航する仕事に応募し、二人して四十フィートもないちっぽけな船に乗り込んで時化つづきの大西洋を渡る仕事を引き受けました。
同じサイズの四隻の船がおよそ千マイルの海をいくのですが、その年は季節の変りが早くすでに季節風が吹き出してい、途中の難儀は知れていてみんな敬遠した仕事だった。ちいさな船団を指揮したのは松下というしたたかな船長で、彼が出港前に皆を見渡し、この航海はへたすると死人が出るかもしれないから覚悟していけといった通り、ダカールを出て早くも二日目から潮とは逆の方角から強い季節風が吹きつけ海はたちまち大きな三角波がたって、それからの難行苦行はとても口でいえるものじゃあなかった。
もう船には馴れきった筈の辰雄も酔っ払いましたし、船長を除くほとんど全員が酔いました。とにかく波の高さが先へいけばいくほどとんでもなく高いものになって、四十フィートにもみたぬ船なんぞは木端みたいなものだった。キールの深いヨットなんていう乗り物なら安心もしていられるだろうが、底の浅い作業船は下手すると転覆してそれきりです。松下船長もいざという時のために船を散らさずに互いにいつも視界の中にいるように指揮していましたが、時化た夜がようやく明けた時なんぞ、思わずあたりに見える仲間の船をみんなして数えました。
私は妙に船には強くて、辰雄が気分が悪くふてくされて寝ているような時にも、小さな焜炉で飯だけは炊いて他の船にまで配ってやったものです。見渡す限り灰色の海と空の大西洋のど真ん中で、船を寄せて炊いた飯を船から船へ手渡しするのはなんともやりきれないものだった。本当にここが地の果ての海という感じでした。
寝たままの彼に梅干しと昆布を添えて握り飯を手渡す時には、|流石《さ す が》の辰雄も、
「お前がこんなやくざな仕事に向いてるとは思わなかったよ」
ぼやいてみせたものでした。
十と三日目にとんでもない時化にぶつかって、シーアンカーを流して船を支えながら過ごしましたが、その最中物を取りに外へ出た時大きな三角波がともから崩れ、ウォーターハンマーに叩きつけられあっという間もなく水の上に放り出されました。合羽を着ていなかったのが幸いで体はすぐに浮き上がったが、波の底から見上げた船がとんでもなく高いところにあるのを見て、もうとてもあそこまでは這い上がれないと思った。それにしても、海の水がひどく暖かかったのを覚えています。
その時辰雄が命綱を巻いて狙いすましたように私の直ぐ横に飛び込んでくれたのです。別の三角波が今度は逆の方角から崩れかかり、それに乗るようにして二人は船に叩きつけられながら這い上がった。
その弾みに辰雄は足を挫き私は鎖骨を折りましたが、舵をとりながら手を出す|術《すべ》もなく眺めていた松下船長が後で、
「あれは奇跡だよ。それにしてもお前らやっぱり兄弟だなあ」
いったものです。
濡れた体を拭く気力もなく船室に転がったままで、私は彼になんといっていいかわからず、
「俺が落ちたのがよくわかったな」
|他《ひ》|人《と》ごとのようにいい、
「わかったさ、でもなんとか間に合うと思ったよ」
辰雄も他人ごとのようにいいました。そしてそのまま二人とも泥のように眠りました。
三十日近くかかってまたラスパルマスにたどり着きましたが、どいつも体がダカールを出る前の半分に見えるほど痩せ細っていました。
「お前らこれで本物の船乗りになれたぞ」なんて松下はいってくれたが、国を出て丸三年たっていたし、二人ともこれで帰って何されるにせよ、もう海の上だけにはいたくない気分でした。
日本に帰るまでは一緒でしたが、故郷の土を踏んだその夜から彼は姿を消し、私は一人でまた元いた町へ戻りました。当分は辰雄が側にいてもいなくてもどうでもいい気持ちだった。
三年いない間に町もすっかり変わり、私は例の伯母がおふくろの店のあった土地の権利をうまく転がしてくれていたおかげで、近くの建物の二階に一軒小さな店をかまえることが出来ました。伯母は私が金のために船に乗り賄いの修業をしてきたという言葉をそのまま本気にしていたようです。
辰雄がまた私の前に姿を見せたのは日本に帰ってから二年もしてからだったでしょうか。
ある日の昼前仕入れから帰ってきたら、店のあるビルの前に止まっていた青い車が私を見てクラクションを鳴らしました。中から手を振る男を見たら辰雄だった。中にもう一人白い洋服を着た若い女が坐っていました。あの時も酷い降りだったが、雨の中でも見るからに新しい車とその中にいた女の白い洋服がまぶしげに見えたのを覚えています。
店に入ってひとあたり見回すと、
「いい店じゃないか、たいしたもんだ」
私にというより女にいい、女はあまり気がなさそうにうなずいていた。
「遅ればせだが乾杯しようじゃねえか。考えてみりゃあれ以来だものな」
いいはしたが、私には彼がまたなんのつもりで私の前に現れたのかわかりませんでした。
私が酒とグラスを出すのを女は慣れた手つきで手伝ってくれましたが、そんな動作の度にぴったりした洋服が女の様子のいい体の線をきわだたせて、洋服が包んでいる体が見た目以上に熟れてはち切れそうなのがわかった。女は自分がそんな目でみられるのにとっくに慣れているようで、男の視線を意識しながらの妙にきびきびした動作がその素性に興味を抱かせました。
カウンターに三人並んでグラスをかざした時、思い出したように、
「こいつは百合だよ」
辰雄はいい、女はなぜだか肩をすくめるようにして笑うと、
「あなたのこと聞いていたわ」
覗くような目つきでいった。
「どうだいこいつ、ルイザよりは若いぜ」
彼女がなにをどこまで聞いているのかわからず、ただ笑ってみせた私に、どんなつもりでか、
「こいつは博打の形に押さえたんだ」
女は手を挙げて辰雄を叩くふりはしたが、いわれてまんざらな様子でもなかった。
「するとあんたもこいつのいるところへ出入りしたりするのかね」
「いけません」
女は彼の前でしなをつくるようにしていいました。
「こいつもろくな血筋には生まれちゃいないよな」
辰雄がいうと、
「あんたが教えこんだんじゃないの」
「それじゃあんたはその道で食っているのかね」
私がいうと女はのけぞるようにして笑いだした。
「それあ失礼だぜ、こいつはこれでも少しは名の通ったダンサーだよ。客相手のホールなんぞじゃなし、舞台で踊るプロだ。今夜から一月熱海のホテルのステージで踊るんで送っていく途中に寄ったんだ」
話しながら辰雄は片方の手の指で彼女の空いた手の指へからますようにして触っていた。
そして私が眺めているのを知りながら、彼女は一度引くようにしながらもいっそう彼を促すようにしてその手を彼に向かって押しつけていました。
私が彼等のために新しい酒をとりに奥に入っている間、狭い店の中で聞こえるように、
「いい奴だろう、俺のいった通りだろうが」
押しつけがましい声で辰雄はいっていた。その言葉がなぜか体を熱くする訳を私は知らずにいました。
小一時間ほどの間辰雄は客みたいな顔で私に酒をつがせながら、私には通わぬ何やら女と二人だけの話をして笑ったりいい争ったりしたあげく、女が何か囁くと忘れ物でも思い出したようにまた急に帰っていきました。
その間、女は電話と手洗いとに何度か椅子から立ち上がっていましたが、そんな時の動作がその仕事を明かされてみるといかにもそれらしく、狭い店の中ではらはらするように目新しいものに見えてならなかった。
彼女が手洗いに立った時見送りながら、
「あいつはあれが手荒く旨いんだよ。この右の股の内側に小さな百合の入れ墨をしててな、やっている内にそいつがだんだん赤く色づいてくるんだ」
含み笑いでいいました。私はいきなりとんでもない秘密を見せつけられたように、どぎまぎしながら彼女の立っていった方をうかがっていました。
戻ってきた彼女が二人の視線に気づいたのか、肩をすくめ問い返すように見詰めなおした時、自分の顔がほてるのがわかった。
勝手にやってきて勝手に帰っていく二人を大事な客のように外まで出て見送りましたが、車が消えていった後故の知れぬいまいましさばかりがありました。そしてなぜかやっぱり辰雄がこれでいよいよ私とは関わり遠い世界へ戻っていってしまったという気持ちだった。気がつくと、雨の中で手にしていた傘を外したまま私は二人の乗った車を眺めていました。それに気づいた時の、なんとも腹だたしいともみじめともつかぬ気持ちを覚えています。
その夜店を終えて寝た時も、いつになく眠れぬまま辰雄というより彼の連れてきたあの女のことばかりを考えていました。それからもなおしばらく、まるで大人になりかかりの頃の何か生まれて初めての思い出みたいに、身のこなしのしなやかなあの白い洋服を着た女のことが思い出されてならなかった。
そんな気持ちが辰雄に知れたとしたら、彼がどんな顔をして笑うのかもわかっていました。あの女については彼も、ラスパルマスの時のようにはいかなかったと思います。
恥ずかしい話だが、そんな自分の気持ちの整理がつかぬままに、以前賄いとして勤めていた熱海の旅館にわざわざ用事にかまけて出かけていき、その後彼女が出ているというホテルまでいって舞台を眺めました。
彼女はショウの中でのいわばトリの踊り手で、他の半分裸の踊り手とは違って衣裳はすれすれに胸を隠してはいましたが、曲を変え衣裳を替えて出てくる度芸の格というのか、周りの女たちとは違ったちょっとした雰囲気を作っていました。最後に見せた、エジプト風の動きの激しい踊りなんぞ、手のこんだ踊りの中に息をのむような体のしなやかさがあって、大方の酔った客たちの中からも拍手が湧いていました。それを眺めながら私は、なぜか誇らしいような、またみじめなような妙な気分でした。
それからさらに一年ほどして、また突然辰雄は店に転がりこんできました。あの時も雨、というより台風が近づいて吹き降りの荒れ模様の夜で客も見えず、きりをつけて明りを消し店の表を閉めようとしていた所へ、戸口にいる私を突きのけるようにして彼が入ってきた。驚いて明りを戻そうとする私をなぜか険しい声でとめると、
「誰もいねえな」
念をおすように質して、手近な椅子に体をほうり出すようにして坐りこみ、
「悪いが、ちょっとの間隠してくれ、やばいことになった」
「博打でか」
私もその場でいきさつが感じとれた。
それ以上聞くなというようにうなずく相手に、
「まずいなあ、またか」
肩をすくめて見せる以外になく、
「飲むか」
その後は閉めた戸口の外に私の方が気を配りながら、彼をかばうように私が表に背を向けて向かい合い、何年ぶりかで二人だけの酒を飲みました。
彼等が店までやってきたのはそれから六日してのことだった。
真っ昼間、朝の十時前に店の戸を叩く音がするので戸をすかして見ると百合が立っていました。そしてその後ろに男が二人。
「辰雄さんは」
女がすがるように尋ね、後ろの男たちを質す目の私に、
「ここにいるのはわかってるんですよ。この子がきたと当人にいってやってください」
妙にもの静かに男の片方がいい女もうなずいた。私が後ろを窺う素振りに、そのわずかな隙にあっという間に男たちは女を梃子にして差し込むように、静かだったが有無いわさぬ勢いで店に押し入っていました。
「おい、辰雄、客が」
声に気づいて裏から逃げられればと叫んで振り向いたら、すぐ後ろに辰雄が青ざめた顔で立っていました。
「裏にももういるよ」
あきらめたような苦い笑顔でうなずくと、
「お前ら女なんぞに手を出しやがって」
ふてた声でいったが、
「ま、一緒にこいよ」
年上の角刈りの男が塞ぐように、しかしひどくおだやかな声でいうと、辰雄はたちまち気圧されたように黙って何かを飲みこむようにうなずいた。
二人の男が挟むようにして腕を捕え、思いがけなかったのは年上の男が素早く手錠を出して掛け、その一方を連れの若い男の手首に繋いだ。
「あんたら警察か」
思わずいった私に辰雄が諭すように首をふって見せ、その証拠に男たちはもう女には見向きもせずに店を出ていった。戸口まで出てみたが建物の前に止まった車の横にはもうとうに、店の後ろにいた連中なんでしょう別の二人が身構えるようにして立っていました。
彼ももう声を出さず、男たちも無言で、辰雄の拉致は周りの住人の誰も気づくことなしに終りました。私は何かの足しにと彼等の車の番号を見届け覚えようとしたが、店に戻って床に坐り込んでいる百合を見たらそれも忘れてしまった。
誰かが彼女のことを連中に教え、彼等は仙台の舞台からそのまま彼女を連れ去って痛めて脅し、彼が身を隠していそうな場所をいくつか聞き出して、最後に私の店にやってきたそうです。
辰雄は殺されるかも知れないと彼女はいい、私はともかくも警察に報告して頼んだが、面談した課長は、
「とんだ親戚をもってあんたも迷惑したもんだな。しかし殺されるということはないよ、悪い奴等の仲間内で悪いことをしたんだから、只じゃすむまいが、指でもつめられて帰ってくるよ。殺したりしたら、それでまた奴等も面倒をこしらえることになるからね」
心配の様子もなくいっただけでした。
辰雄が戻ってきたのはそれから一月ほどしてのことです。
警察のいった通り生きては帰されたが、博打の世界で二度と同じことの出来ぬように、そのための道具の右手は叩き潰されていました。石を刻むための太いノミを打ちこまれたそうで、右の掌の骨を砕いて抜けた穴は塞がっていましたが、腱が切れてしまって手の指三本が動かなくなっていた。制裁の後、死なぬ程度にろくな治療も与えぬまま放っておかれたのでしょう、傷は後から手のほどこしようないほど、眺めても無残なものだった。
私の所まできて気落ちしたのか、次の日から熱を出し、およそ一週間ほど熱に浮かされながら寝込んでいました。一度医者を呼びましたが、医者はもう固まってはいたがその掌の傷を見て、何を悟ったのかそれきりやってもこなかった。
熱が引いてから私の出す物を口にしながら、それでもようやく元気が出てきたのかなにかの折々、
「ちぇっ、まったくろくなことがねえな」
うそぶくようにいっていました。
それは聞くに懐かしい、昔一緒に暮らしていた頃の口ぐせでした。博打の世界に入ってからは最初のけちのつくまであまり聞いたことはなかったが、今またそれを口にする彼を眺めて、私には彼が昔に戻ってきたような気がしてならなかった。
熱が下がったと思ったら、たちまちある日またなんの書置きも残さずに姿は消えて、それきり便りもなかった。
半年ほどして突然、彼ではなく百合から電話がかかり、二人が結婚し横浜にスナックを出したと知らされました。
「あなたのところみたいにまともな店じゃないけど、でも結構若いお客がきてくれるわ」
「あいつは何をしているんだね。あの手じゃなんの手伝いも出来まい」
「それが結構いろいろ器用にやっているわよ」
「続けばいいがな」
余計なことと思ったが、
「続けるよりないでしょ」
彼女はいいました。
「で、舞台の方は」
「そうもしていられないわよ」
「あんたがあの時やつらをここに連れてきたということに何か感じてるなら、それは違うと思うよ」
「それはどういうこと」
「なにもかもあいつ自身のせいなんだからな。俺だって巻き添えで三年も海の上にいたんだ」
「お互いにね。でもあなたたちは兄弟じゃない」
いわれて何か言おうとしたが、黙っていました。
休みの日の夜に覗いてみると、辰雄はカウンターの中で百合と並んで客の相手をしていました。近くに最近新しく住宅地の開けた駅の前だけに、若い勤め人風の客で結構賑やかなものだった。潰された右の手の、それだけはなんとか動く親指と次の指の間に栓抜きを挟みこんでビールを抜いたり、皿を洗ったり拭いたり、相変わらず器用なものでした。それにしても隠すに隠せぬあの手の傷のいわれを客たちになんと説明していたんでしょうか。
そのままなんとなく互いに平穏な月日が過ぎて互いに三十を過ぎた頃、久し振りに彼等の店を覗いたら辰雄は客に呼ばれて他の店にいっているということで、駅の反対側の喫茶店の奥に、辰雄が若い娘と向かい合ってなにやらひどく真面目な顔つきで話しこんでいました。
娘の様子が、百合をふくめて彼が今まで関わりあった女とは全く違うので怪訝な感じだった。察したように照れた顔で、
「この子は百合の親戚でな、あいつの真似をしていこうと故郷を出てきたんだが、あいにくあいつはもう足を洗っちまったし」
彼女に代わって言い訳するようにいいました。
「故郷がどこか知らないが、まあ早く帰った方がいいよ」
辰雄の前だったせいか、したり顔でいった私に鼻で笑って、
「他人に説教出来た柄かよ」
彼女をかばうようにいいました。
それからまた半年ほどして百合から電話がかかり、辰雄の居所を知らぬかと聞いてきた。
この一月家を空けたきり連絡がないという。こちらにも当てなんぞなく、向こうもそれ以上事情もいわずに切ったが、あの手でまた博打に関われる筈もなかった。こちらの店も忙しくてそれきりにしておいたが、それから半月ほどして電話してみると店も出ず、気になるので次の休日に訪ねてみると、明りのついた店に百合とあの時見た彼女の親戚とかいう娘がいました。
辰雄は相変わらず行方知れずで、前後の事情を聞いても百合は肩をすくめるだけ、親戚の美奈子もそれをうかがうようにうつむいているだけで、最後に、
「あの人のことだもの、どこかでいい加減にやっているわよ」
百合がいった言葉で納得して帰る以外になかった。
さらに一月ほどしてまた突然百合から電話がかかり、あの美奈子を私の店で働かせてくれないかという。辰雄が戻ってきて手も余るしということで。辰雄の意向なのかと質したが、彼がどんな事情でどこから戻ったのかも告げぬまま、彼については話したくない様子だったし、気持ちもわからぬではないので申し出を受けてやりました。
礼をいった後、私の心中を察したように、
「その内にいつか事情を話すわよ。今はとてもそんな気になれないの、わかってね」
彼女はいいました。
翌日から美奈子は私の店にやってき、そのまますっかり慣れて居着きました。通いの若い見習いと私と男二人だけの店でしたが、彼女がきてから店にも潤いのような、地味でも色気が加わったことは確かです。
半年して私たちは婚約しました。私が申し込んだ時、彼女はそれがごく自然の成り行きなのをあらかじめ承知していたように素直にうなずきましたし、私にもこのことは彼女と初めて会った時以来わかっていたことのようにも思えました。
辰雄たちにその報告をしに横浜の店にいった時、遅いとはいえまだ午後の内なのに、辰雄はカウンターの前のテーブルで一人で酒を飲みもう酔っ払っていた。
私が告げると、
「それはよかったわね」
百合は促すように辰雄を見やり、それに抗うように、
「お前、後で後悔するなよ」
「どういう意味だ」
「あいつはとんでもねえくわせもんだよ。その内にわかるさ」
「あんた、よくそんなこと言えるわね」
塞ぐように百合がいい、鼻白んだように辰雄は口をつぐんだ。
「どういうことなんだ、それは」
辰雄の前に坐りなおして聞いた私へ、
「気にしないでおいて、お願いだから。前にもいったでしょ、その内に話す事情があるって。この人はあの子もふくめてそこら中にいろいろ迷惑かけているんだから」
封じるように百合はいいました。
一寸の間黙ったが、なお抗うように、
「なんであいつあ、お前と一緒にここへこないんだ」
ろれつの回らぬ口調で辰雄はいったが、
「あんたにも私にもそんな義理なぞないわよ、あの子には。胸に手をあてて考えてごらんなさいよ」
「胸に手をあててるよ」
いったがそれきり黙って酒を注ぎ直し、今度は媚びるように私だけを見上げると、
「おい、うまくやれよな」
まつわるような目つきで辰雄はいいました。
「気にしないで、酔ってるんだから。その内詳しく話すけど、この人前に、私の名前を使って美奈子の家までだましてお金を作ったりしたのよ」
百合はいって唇を噛んでみせた。
私にはそれでなんとなく大方がわかってきたような気がしました。
外まで送って出ると、何かを懸命にこらえているように眉をひそめ、彼に代わって言い訳するように、
「この頃ずっとあんななのよ。生まれつきなんでしょうが、彼には一か八かしか出来ないのよね。でも博打だって結局いかさま、まして、いくら|流行《はや》りといっても株だの土地だのは無理な話よ。焦る気持ちはわかるけど」
何故かそれだけで私はここまで来た甲斐があったような気になれ、彼女と別れて帰りました。
私たちの結婚は旨くいっていました。店の商売も順調でした。そんな訳で私たちには辰雄たちのことを心配する暇もなかった。あれきり百合から何もいってきませんでしたし、あの手で他に何が出来るものでもなし、結局あの店に収まるしか暮らしようもなかったはずです。
結婚してから一年ほどしてのある日、仕入れにいった河岸から戻ってきたら、店のあるビルの前で思いがけず辰雄の後ろ姿を見たような気がしました。歩いていく角度はたった今店から出ていったように見えました。その頃私たち夫婦は余所に一軒アパートを借りて移り店の裏には手伝いの板前を住まわせていたので、その男に尋ねると、確かについさっき片手の不自由な男が訪ねてき、不在と告げると用件はいわずにうなずいて帰ったという。遅れて店に出てきた美奈子に念のために教えると、彼女は不安そうな顔で私もしらぬ彼の用向きを尋ねました。
「あいつが現れてろくなことの起こる訳もないな」
おびえたようにうなずくと、
「私ももう会いたくないわ」
つぶやくようにいいました。
しかしそれから二月ほどしてのある夜、店が終って家に戻ってから美奈子は突然泣き出して、その日の朝私が河岸へいっている時間に、実は四度目に辰雄がやってきて、どうしてもいる金だといって頼みこみ、断りきれずに預金から五十万下ろして渡したとあやまりました。確かに彼の書いた借用書もあった。もうこれ以上私にも美奈子にも迷惑かけられぬのはわかっているが、この金が出来ぬとまたもう一度残った手まで駄目にされるかもしれぬといったそうです。嘘にはきまっているが、そうまでいわれれば美奈子に拒むことが出来なかったのはわかったし、いつまでも泣いている美奈子を叱るようにして許し得心させました。
それにしても辰雄の身の周りにまた何が起こっているのか、確かめてもしかたないことですが。念のために横浜の店に電話してみましたが、何度しても誰も出ない。休みの日出かけてみると、閉店の札は出ていたが店の奥に明りがついてい、人の気配があった。
戸を叩くと暫くして中から鍵が外れ、化粧もせず髪が乱れたままの百合が酔って据わりかけた目をして立っていました。
「あんたなの」
「辰雄はどこにいる」
「私がそれを聞きたいわよ」
彼が五日前私の家に来て、残った片手を守るためといって美奈子を騙し金を借りていったと話すと、
「馬鹿だねあの女」
なぜかのけぞって笑い、
「それよりあなたのところ、旨くいってるの」
「こっちのことはいいが、そっちはどうなんだね」
「私の方はなるようになってきただけよ」
「あいつはここには戻ってこないのか」
「そうみたいね。でもここは私の店だから、私はもうどこへいくところもないしね」
「あいつはどこら辺にいるのかね」
「噂じゃこの横浜ということらしいわよ、探す気もないけど」
「馬鹿な奴だな」
「どういうこと」
「あんたみたいな人がいながらだよ」
「私は大丈夫よ、もう慣れたわ」
店を見回す私に、
「よかったら入らない、それとも家に置いてきた美奈子が気になる」
据わった目でからかうようにいいました。
カウンターにはウィスキーの瓶とグラスと氷と水が置かれてい、私のためのグラスを取りに入ろうとして躓きよろける彼女に代わって私が中に入り、客のようにストールに坐った百合と顔つきあわせ向かい合って飲みました。
「それで、あの女あんたの貯金を引き出して渡しちまったんだって」
「そういう言い方はよくないよ」
「誰に」
「美奈子のためにもあんたの亭主のためにもな。奴は一応借用書を書いていったよ」
いうとまたのけぞるようにして高い声で笑い、
「あんた、彼に何か貸してやって返してもらったことがあるの、お互いにわかってることでしょ。でもそうやって女房を庇うところは偉いよ。けっこう、旨くいってるみたいじゃないの」
なぜか皮肉というかなじるようにいいました。相手は酔っているし、かわすつもりで、
「あんたの親戚じゃないか」
いうと、
「あんな女、従姉妹のまた従姉妹というだけよ。私には関係ないわ」
「でもあんたが俺たちの結婚を勧めてくれたような気がしたがね」
グラスを乱暴なほどの仕種で空けながら、
「気がしただけよ」
「それならそれで結構だが」
「今は俺たちだけで旨くいってる、けっこうねえ。でもあんた、なんで彼女と結婚する気になったのよ」
顔を寄せからむようにしていう彼女に、
「それはな、あんたが所帯持ちだったからだよ」
冗談にまぎれたようにしていいました。
百合はまたのけぞるようにして笑い、その後今聞き損じた言葉を思い出そうとするように首を傾げ片方の耳を差し出してみせた。
「いつかいおうと思っていたんだよ」
固唾を呑むような思いで私はいいました。その一瞬は美奈子のことなど頭にはなかった。
「やめてよ、それを聞いたらあいつがげらげら笑うだけよ」
「でもな、俺は君が初めて店へきた後、熱海まであんたのショウを見にいったんだ」
「へえほんと、嬉しいわね」
「ほんとだよ。昔のことだが」
「昔のことよね」
「一つだけ聞きたいことがある」
「なによ」
「あの時あいつがいったんだ、あんたの足のどこかに白い百合の入れ墨がしてあるって、それがその」
「それがなによ」
「いや、しかしほんとかね」
「さあね、ほんとかどうか見てみる」
「それはどういうことだ」
「そういうことだわよ」
顔を上げると正面から挑むように見据え、彼女はゆっくり笑って見せました。その時なぜか私は、あのラスパルマスの時のように、その最中にまたあの男が突然ここに戻ってくるのではないかというような気がしてならなかった。
「どうしたの」
彼女はなお挑むようにいい、また突然思いなおしたように、
「やめとこうよ。あんたはとても駄目だと思うわ、あいつはね、あっちの方じゃちょっとしたものだったのよ」
たしなめるようにいいました。
なぜか私は、腹をたてながらもほっとしたような気分でいた。
そのまま二人は夜中まで、新しい瓶まで空けてへべれけになるまで酔っ払って別れました。
「あいつを見つけたらぶっ殺してやる」
私がいうと、
「ほんとに殺しちまってよ。でも、その内に私が自分でやるわよ」
そんな会話を切りなく繰り返したのと、なぜかあの時もしあそこに辰雄が現れたなら私は本気で彼を殺せただろうと思っていたのを覚えています。
それからしばらくしてまた突然の夜中に百合から電話がかかりました。店を終えて帰り、風呂を浴びて寝ついて間もない、午前一時をまわった頃だった。
乾いて押し殺した声で、
「さっき辰雄が殺されたわ」
百合がいった。
「あんたがやったのか」
思わず聞いた私に、
「私じゃないけど、女よ。女の家で、女に刺されて死んだのよ」
妙に表情のない、刑事が事件について説明でもするような声でいいました。
「どこの女だ」
「この近くのマンションにいる女よ。私はずっと知ってはいたの、しかしこうなるとはね。全く、先にやられたという感じだわよ」
百合が静かにだが興奮しているのがわかった。しかし今どういってやったらいいのかわからなかった。なぜだかあり得ることが起きたという感じだった。
とりあえず明日いくといって電話は切ったが、隣に寝ている美奈子になんといったらいいかわかりませんでした。こんな話が妊娠して今六ヶ月の彼女の体にはよくないのはわかっていたが、話さぬ訳にもいかなかった。
もう何かが伝わったように、
「なんだったの」
おびえたような顔で美奈子が聞きました。どんな顔していいのかわからず、笑ってみせようとしたが、
「辰雄が死んだそうだ」
「いつ」
彼女は億劫な身をゆっくり起こし、下から覗くように見上げながら尋ねました。
「今晩のことらしい」
「なんで」
「殺されたとよ」
「誰に」
「女にだとさ、その女の家で」
一杯に目を見開き、
「嘘っ」
私にというより死んでどこかにいる彼に向かって口走るようにいうと、がっくりと首をうなだれ、
「馬鹿ね、馬鹿ね」
死んだのが自分の子供ででもあったように、慈しむような声でつぶやいた。私は妙に呆気にとられたような顔でそれを眺めていました。
そんな私に気づいたように顔を上げると、急に激しく首をふり、
「あの人らしいのよ、こういうことになるのは、みんなわかっていたのよ」
自分にいい聞かせこらえるようにいいました。
そんな様子の意味がわからず、
「これであいつの持っていった金はご破算ということだな」
私がいうとなぜか急に美奈子は泣き出しました。
「どうしたんだ、あのことでお前を咎めているんじゃないぞ。これで厄介ばらいしたみたいなもんだ」
しかし彼女はそのまま身をよじるようにして声をたてずに泣き続けていました。
「いったいどうしたというんだよ。これでよかったみたいなもんじゃないか、あの百合にしたってそうだろうよ」
体に手をかけていってやったのに、美奈子はいやいやするようにして泣き続けていた。私はしまいに腹だたしくなって、隣の部屋に戻って酒の瓶を取りだし飲みはじめたが、自分が今どんな気持ちになっていいのかがわかるようでわからなかった。
そして突然、彼女が今なぜそんな風に泣いているのかを考えるべきだということに気がついたんです。そしてそれを思いつくのが遅すぎたことも。
気づいてみると一度に何もかもが透けて見えてくるような気がした。
「そうか、そういうことだったんだな」
その言葉の意味が伝わったように、美奈子はいっそう声をたてて泣き出した。
「お前ら、そういうことだったんだな、やっぱり」
「違うわ」
「なにが違う、お前のことを、とんだくわせものだと奴はいっていたぞ。お前らふたりともがそうなんだ、いや百合の野郎もそうだ。あいつにもわかっててお前を俺におしつけたんだ」
「違うわ、それは昔のことよ、あの人のことは私の方が彼女より先に知っていたわ、お父さんが彼のお客だったのよ。でも彼女があの人を私からとったの」
「お前はやられて捨てられたんだろ。それでも忘れられずに奴を追っかけて出てきたんだ」
「それはあなたと会う前のことよ」
「俺は、おあつらえ向きのごみさらいということだ」
「そんな言い方はやめて、私あの人が怖かったの、なにをされるかわからない、百合姉さんだってめちゃめちゃにされてしまったわ。あの人を見てて、私あなたと結婚したいと思ったのよ」
「都合のいいことをいうな。その挙げ句また口説かれて金を渡し、ついでにやらせたという訳か。その腹の子も奴の種か」
「ひどいわ」
「この家に四度きたといってたが、それで何回やらせたんだ、その度にか。月の数もちょうど合うじゃないか」
「あなた、最低よ」
「じゃあ、手前ら最低以下だ」
「あなた生まれてきた子供の前でそんなこといえる」
「生まれてきた餓鬼の顔しだいだろうな」
突然美奈子は何か叫ぶと私に向かってむしゃぶりついてき、私は仕方なしにその顔を殴りつけ、倒れた彼女は畳に顔をつけたまま泣いていました。
私は立ち上がって流しで水を飲んだ後、コップを手にしたままこれから何をどうしていいかわからず、ただ我慢するように目の前の蛍光灯を眺めていました。
次の日百合と落ち合って二人して警察にいきました。遺体は無残なものだった。腹の傷は縫い合わせてはあったが、こんなに大きな傷では一つでもたまるまいと思ったが、それが腹に二つ、しかし女は最初に寝ている彼の背中を刺し、さらに向き直った相手の腹を刺した。
「腹の方は余計だったよ、背中のひと突きで心臓にとどいてたからな」
刑事はいった。
それでも、傷はむごたらしかったが辰雄の死に顔は妙に安らいで見えた。むしろ、見慣れてはいたが、白布の下からつき出ていた昔砕かれた右の手の方がこの結末に似合った印象だった。
辰雄を刺したのは、近くの豪勢なマンションに住む亭主と別れた三十すぎの女で、実家が金持ちでそのまま気ままな一人暮らしでいたそうな。女は辰雄の子供を宿していて彼と結婚するつもりだったという。それがなんで殺す気になったのか、私にはなんだかわかるような気もしました。
「この頃の女は怖いがね、しかしどうも、釣り合いのとれぬ仲だったような気もするな」
刑事はいっていた。
知らぬ間に辰雄が百合の籍を外していたそうで、私も彼女も籍の関わりはないが結局一番身近な他人ということで二人して遺体をひきとりました。考えてみても、二人の他に彼に関わりのある人間なぞどこにもいはしなかった。
通夜も、葬式も二人だけでやりました。
通夜の夜も翌日も、ひどい降りだった。
坊主のお経の後外に出ると、土砂降りの雨が建物の前のゆるい斜面を伝って、溢れた川のように排水口に向かって流れこんでい、私はまた突然昔川の中洲で遭難しそうになった時のことを思い出しました。それにふと、暗がりの中で見る雨の流れが、辰雄の傷から流れ出る血の川のような気がしてならなかった。
火葬場の前に小さな商店街があり、そこの飲み屋で飲んだが落ち着かずに結局百合の店に戻りました。表を閉めて二人だけで向かいあってみると、今さら何を話し合っていいのかわからなかった。そのまま二人ともだんだん酔っ払っていき、その内に突然百合が泣き出した。
「畜生、くやしいな」
「なにがだよ」
「なにがって、あんな女に殺されるならさ」
「俺は、あんたがいつかやるんじゃないかと思ってたよ」
「口じゃいっても、とてもそういう気にはなれなかったのよ、あの男は。でも、あの女はあいつの子供を生むつもりでいたんだよ、馬鹿にしてやがる。私があの女を殺しちまえばよかったんだ」
「馬鹿なことは考えないほうがいい」
「なにが馬鹿よ」
「どんな女にしろ、あいつの子供を生んだところで、先は知れているよ。あんたは、あの男に出会ったおかげでいいことがあったかね。あいつといると、めちゃめちゃにされると美奈子もいっていたよ」
「あんな子供にあの男のことなんぞわかりゃしないよ」
唇を歪め百合はいった。
「つまりあいつには、俺みたいな男がほどほどだということか」
私がいうと百合は顔をのけぞらせて笑い、
「あんた今になって何をいいたいのよ」
「俺にはやっといろいろわかってきたんだ。あんたも、美奈子と奴のことをわかってて俺に勧めたんじゃないか」
「私は勧めはしないよ、あんたがその気になったんじゃないか。それに辰雄だってその気だったんだよ。本気で、あんたら二人ならきっと旨くいくといってた、あいつは俺とは違うからってね」
「どう違うんだ、拝領妻を有り難がる、お人よしの阿呆か」
「そういう言い方はしない方がいいわよ、第一美奈子はあんたを愛してるんだから」
「そう聞いて涙が出るよ」
「信じてやりなさいよ」
「美奈子をか、おおきにお世話だ」
「いや辰雄をさ」
「なんであいつをだ」
「あんただってあの男が好きだったんだろ、第一、あんたら兄弟だったんじゃないの」
「それはあいつが勝手にそういっていただけだ」
「いや、あの人は本気でそういってたよ、俺たち二人しかいないって」
「有り難い御託宣だよな」
「でも、そうは思わない、あの人結局子供みたいなもんだった。幼稚でわがままで、でもそれだけなのよ」
「じゃあんたは許してやれる訳だ」
「あんただって許してやれるでしょ」
静かにたしなめるように彼女はいいました。
それきり二人は黙ってきりなく酒を飲んだ。明け方に近い三時頃、
「もう寝ようよ、明日も葬式だからこのままここへ泊まっていったら」
彼女がいった。
同じ床の中で最初背中合わせに寝ていたが、その内彼女がすすり泣いているのに気づいて、そのまま後ろから彼女を抱いてやり、そのまま口をつけ彼女も拒まずに、二人は声をひそめながらなにかの儀式でもするように抱き合いました。そして突然彼女は狂ったように激しく私をかき抱き、「辰ちゃん」と口走った。私はそれを聞きもらさなかったが、それがなんのさまたげにもなりはしなかった。
翌朝濁った目覚めの中で私がもう一度彼女を抱き寄せようとすると、
「駄目よあんたなんて、昨夜は昨夜よ」
いって押しのける彼女に、
「一度見せてくれよ、あんたの股の中にある百合の花の入れ墨というのを」
私がいうと声をたてて笑い、
「あれはあいつの勝手なつくりごとよ、第一私のほんとの名は百合なんかじゃなし、和恵よ。あれは芸名」
身をひるがえすようにして起き上がると、
「そんな話私も忘れてたわ」
いいました。
葬式も昨夜と同じように坊主と私たち二人だけだった。
灰になった辰雄を結局私が受けとって帰りました。
辰雄を殺した女の公判がはじまる前に、警察と先方の弁護士に頼んで許可を貰い彼女に会ったんです。金網に隔てられた狭い部屋の向うにいったいどんな女が現れてくるのか、待つ間息がつまるような気がしていました。
女は髪の長い彫りの深い顔だちのもの静かな、辰雄とのとり合わせがいかにも不釣り合いな印象だった。出来事のせいで頬はこけてはいたが、着ているものの上からも彼女のお腹が大きいのは感じられてわかりました。堅い椅子に坐る時、彼女が腹の中にあるものを気遣っているのがわかった。
「私は彼とは兄弟とはいうが、血はつながってはいないんです。あなたに罪があるかないかは裁判が決めるでしょうが、私はただ一度、あんたに会ってみたいと、それだけ思ってきたんですよ」
女は無言でうなずいただけだった。
「こういっちゃなんだが、あいつらしい、なるようになったものだという気がしてます。あんたにもそれなりの訳があったに違いないから」
女は前よりもうなだれたままで何もいわなかった。
立ち会った弁護士が促すように見やったが、私にはもう他に話すこともありませんでした。
「あんたもいろいろ大変だったんだろうね、子供まで出来ていたというけど」
いうと女は初めて静かに泣き出しました。そしてかすれた声で、
「私は、あの人のことを信じていたんです、愚かだったかもしれませんが」
つぶやくようにいいました。
「そうなんだろうね。でもあいつは結局、単純な人間だったんですがね、ただ子供みたいにわがままで」
「私も、今になってそう思います。でも」
なぜだか薄く笑って女はまた目を伏せました。
「たいへんだったね」
私はいい、女は深くうなずき、私もうなずき返して、それきりで出てきました。呆気ないような気分だったが、それでも何かが得心出来たような気がしないでもなかった。
部屋の外で弁護士が、
「公判の時においでねがってお話し願えませんでしょうか」
どんなつもりでかいったが、私には何もわかりはしないしわかりたくもないと断って別れた。
それからまた暫くして思いがけない電話がかかってきました。
昨夜、翌日の判決を前にして、あの女が拘置所の部屋の中で首をくくって死んだという報せでした。
そして臨月だったお腹の中の子供はそのショックで生まれてきて、母親は死んだが子供は元気でいるということだった。女の家は事件以来彼女を絶縁してい、兄弟という私に子供の処置について相談をということでした。
まずは見にきてくれということで、出かけていきました。赤ん坊は男で、自分の事情も知らずに元気なものだった。このまますればどこかの孤児院にいれてそこで育てた後、自分の身の上について一切知らず知らされずに、誰か篤志家の手の内に養子として引き取られるだろうということだった。
自分でも思いがけなかったが、私はその場でその赤ん坊を引き取る約束をしました。なぜかそれが自然のような気がしたんです。美奈子にも断らずに、お七夜の過ぎた赤ん坊を抱いていきなり家にもどりました。
臨月のお腹をかかえた美奈子は私が突然手にしてもどったもののいわれを聞かされてものもいえずにいましたが、
「同じことじゃないか、一人も二人も。お前もいっそ安心してその子供を生めばいい」
私がいうと彼女の面にある得心の影が浮かび、泣き出すのかと思った彼女はゆっくりと安らいだように微笑みました。
兄貴のことは、辰雄のことはつまりこれで終りということです。
まあしかし、形はちがっても私たちが兄弟だったということは違いないし、仕方なかったことのようです。
人間というのはつくづく妙なものです――。
(この作品は、ウイリアム・キトリッジの短編小説に想を得て書きました)
この作品は平成四年九月新潮社より刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
遭難者
発行  2001年5月4日
著者  石原 慎太郎
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861084-2 C0893
(C)Shintar Ishihara1992, Corded in Japan